群 ようこ 無印不倫物語 目 次  愛はかげろう  年上の女  人生いろいろ  知りすぎたのね  火の国の女  与 作  浪花節だよ人生は  愛の水中花  王 将  女のみち  花とおじさん  おやじの海  愛はかげろう  私が今、アルバイトをしている会社は、創立三年目である。社長は短大時代の友だち、ユミコちゃんのお父さんだ。短大に通っているとき、私はマスコミ研究会に入っていた。高校生のときから、就職するならマスコミしかない! と固く心に決めていたので、どういうものかよく知らずに入会してしまったのだ。マスコミ研究会というものは、現代の情報伝達のあり方、広告とは何ぞや、などと語り合い、文字どおり研究するものだと思っていた。が、実はうちの学校の研究会は、ほとんどのテレビ局や広告代理店とつるんでいて、女子大生、短大生が番組やイベントの色どりで欲しいときには、何とか期日までに頭数を集めるのが、活動内容になっていた。美人で強気の先輩は、私たちの意思を完璧《かんぺき》に無視して、テレビ局名や集合場所、集合時間を指示し、 「わかったわね!!」  と一方的に命令した。一度など、「女子大生、何でも告白。忘れられないテクニックの男」というテーマの深夜番組にまで行かされたりした。昼間の収録だったため、親にはバレなくて済んだが、放送を見ていた兄に、 「どうしたんだ、あれ」  と、こっそり聞かれて、兄妹ともども、気まずい思いをしたこともある。実は嫌だ嫌だといいながらも、 「こういうことをしているうちに、テレビ局や広告代理店の人の目にとまって、うまいこと就職できるかもしれない」  と期待している部分もあった。そのとおり、同じサークルのなかで、女子大生の番組にレギュラー出演したり、クイズ番組で正解した人のところに、花を置くマスコット・ガールに抜擢《ばつてき》された子もいた。しかし私は同じように出演していたにもかかわらず、声すらかけてもらえなかったのである。就職のときは、自分でマスコミ関係に合格しようとがんばった。マスコミ関係なら、テレビ局でも新聞社でも出版社でも何でもよかった。 「こうなったら、『当たって砕けろ』だわ!」  ところが片っぱしから当たってみたら、見事に私は砕け散って悶々《もんもん》とした日々を送ることになり、そこへユミコちゃんから、天の助けの電話がかかってきたのだった。  彼女のお父さんは、有名な広告会社に勤めていたのだが、このたび独立して広告関係の事務所を創ることになり、雑用、お茶くみ、電話担当の女の子が欲しいということになった。そこで相談された彼女が、私に真っ先に電話をかけてきてくれたのだ。 「あまり、バイト代も払えないみたいだけど」 「いいよ、いいよ。気にしないで」  最初は十万円足らずのバイト代でも、事務所にカメラマンや広告関係の人々が出入りするのを想像しただけで、胸がわくわくする。両親もユミコちゃんのお父さんのところという話を聞いて、反対しなかった。多少、当初の予定よりは縮小気味ではあるが、私の前途は明るく開けたような気がしたのである。  事務所は瀟洒《しようしや》なビルの一室だった。いかにもまじめな仕事をするセンスのいい会社が選びそうな建物である。ところが会社の人たちに紹介された私は、心底ガックリきてしまった。今までは、マスコミ関係の男の人のファッション・イメージは、ラフだけどさりげなくお洒落《しやれ》だったのだが、彼らの姿を見て考えをあらためなきゃならないことを知った。社長のユミコちゃんのお父さんは、それなりに渋かった。仕立てのいいスーツを着こなして、いかにも品のいい紳士である。 (この人の下なら働ける)  会社には他に三人の中年男性がいたが、こいつらが、どうでもいいおっさんたちなのだ。社長の説明によると、カメラマン、営業、コピーライター、だったが、そこいらへんのおやじと何ら変りがない。マスコミ関係の仕事にたずさわっている自覚が、もう少しあったっていいのに、三人はどうでもいいような格好をしていた。特に営業のおやじはとりあえずはスーツを着ているものの、どこにでも売っているような代物で、スーツが買えないのなら、ネクタイくらい今風のものにすればいいのに、これまたどうでもいいようなものを巻きつけていた。 (こんなセンスのない営業じゃ、大きな仕事は取ってこられないわね)  若い女のカンで、私はこの三人はダメだなと、見捨てた。 「あと一人、来るはずなんだけどね……」 「やはり、天才は堂々とのちほどからお出ましなんじゃないですか?」  営業おやじが横から口をはさんだ。さすが口だけは達者らしい。 「十時っていっといたんだけどねぇ」  社長は心配そうに時計を見た。そのとたん、バタンとドアが開き、紺色のかたまりが風のように入りこんできた。 「遅いぞ」 「あ……、すみません」  紺色のかたまりは、他の四人よりも若い男性だった。そして私は彼の姿を見たとたん、ものすごい勢いで舞い上がってしまったのである。 (『掃きだめに鶴《つる》』ってこのことだわ)  若いのに似合わず、ことわざを熟知しているといわれている私の頭に浮かんだのは、これだった。彼こそ絵に描いたような業界人だった。岩城滉一ばりの顔で、長髪を後ろでひとつにまとめている。おまけに着ている服がワイズ! 「ベルリン・天使の詩」の天使が、目の前に現れたかのようだった。これで業界人じゃなくて、何なのだ。左手の薬指には、当然のように指輪がはまっていたが、そんなことはどうでもいい。「おじさん改造講座」のカットそっくりなおじさんたちと、毎日、顔をつき合わせなきゃならないなんて、二十歳の私があまりにかわいそう。だけど、知的で哲学者のような雰囲気の彼さえいれば、私のこれからはバラ色になるような気がしたのである。 「彼はデザイナーのオクダ君。私が前の会社から引っぱってきたんだよ」  社長が紹介している間、彼は照れくさそうにうつむいていた。図々しくないところも、また素敵。 「ナカヤマ ミエコです。よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしくお願いします」  彼はていねいに頭を下げた。 (いいわぁ)  私みたいな二十歳そこそこの小娘に、こんなにていねいに挨拶《あいさつ》する男性と、初めて会った。テレビ局やイベント会社の奴らは、私たちのことを、 「よーよー、そこのねえちゃんたち」  と呼んだ。もちろんきちんとした挨拶もなければ、名前を呼ばれたこともなかった。名前で呼ばれるのは、彼らの好みのちょっとお尻の軽そうな、きれいな子ばっかりで、私みたいにとりたてて彼らの興味をそそらない、その他の女の子たちは、十把一からげにされて、適当にあしらわれていたのだ。それなのに彼らは、コメンテーターのじじいの評論家なんかがやってくると、 「ははーっ」  とひれ伏した。そりゃ、私たちは名もなく美人でもない一介の女子大生だが、あの豹変《ひようへん》ぶりはないだろうよ、と舌打ちした。どこに出向いても、相手によって態度をコロコロ変えるカメレオン野郎はいた。少しモタモタしていると、 「てめーら、とっととやらねえか」  と怒鳴られたこともある。そのたびに私は傷ついたのだ。ああ、あのカメレオン野郎に、オクダさんの爪の垢《あか》でも煎《せん》じて飲ませてやりたい。この人こそ知的な大人の男性だと、私は無条件で彼のファンになってしまったのである。  私のバイトの目的はただひとつ、オクダさんと会い、彼のためにお手伝いをすることだけだった。おやじたちは誰も許可していないのに、私のことを、ミーコなどと呼んだ。だけどオクダさんは、ナカヤマさんといった。逆だったらどんなにいいだろうと思いつめ、 「ミーコちゃん」  と声をかけられたとたん、「てめーらにそんなふうに呼ばれたかねーよ」といいそうになったこともある。 (お願い。私のこと、ミーコって呼んで……)  一所懸命に仕事をしている彼の背に、そう念じたこともある。しかし私にはそういう能力はないらしく、相変らずおやじたちに、ミーコ、ミーコと猫みたいに呼ばれていた。  お茶をいれて持っていくと、きちんと、 「ありがとう」  といってくれるオクダさん。おやじたちはどうでもいいことはぺらぺら喋《しやべ》るくせに、お茶くみをしても、 「当然だ」  といわんばかりにいばりくさっている。お礼をいってくれるのは社長とオクダさんだけだ。 「こういう人の家族って、幸せだろうな」  寝る前、ベッドのなかでふと考えた。ユミコちゃんが少しうらやましくなり、そして見知らぬオクダさんの奥さんに嫉妬《しつと》している自分に気がついた。いつも髪をぴちっとひっつめにして、ワイズで決めている、「天使」のような人である。奥さんも彼にふさわしく、コム・デ・ギャルソンをかっこよく着こなした素敵な人なんじゃないだろうか。家庭でも妻をいたわり、尊敬しているに違いない。想像をすればするほど、憎たらしくなってくるのに、私は想像せずにはいられなかった。  嫉妬は体中をかけめぐり、目はさえてきて眠れなくなった。そしてそのあげく、 「私も、彼にもっと優しくしてもらいたい!」  と、ベッドのなかで吠えてしまったのである。  それから私はどんどんのめりこんでいった。左手の指輪は単なるアクセサリーで、 「あんなもん、どうってことないわ」  と気にしなくなった。学生のころは、男の子を追っかけまわしたこともないし、学校に教えに来る若い講師の先生にも、胸ときめかせたことはなかった。みんなが、バレンタイン・デーに山のようにプレゼントをあげるのを、 「へえ、大胆ねぇ」  と感心して眺めていたのだ。それがオクダさんに関しては違った。我ながらびっくりするくらい、大胆になれそうだった。  バイトをはじめて半年ほどたつと、会社に行く目的はオクダさんだけになった。電話番とお茶くみ、おつかいくらいしかやらせてもらえないのでは、仕事に身が入るわけはない。とにかく、朝行って洗いたてのタオルで彼の机の上をていねいに拭いた。次に社長の机を拭いた。そしてタオルは洗わずに、適当におやじたちの机の上を撫《な》でておく。これが日課であった。お茶も彼だけにおいしいといってもらえればよいので、彼のはものすごくていねいにいれ、おやじたちのは手を抜いた。それでもおやじたちは、 「ミーコのいれてくれるお茶はおいしいねぇ」  と目を細めた。 「はぁ、どうも」  さりげなく彼のほうを見たら、こちらにむかってにっこりと笑ってくれた。それだけで私は世界一の幸せ者だ。キッチンの湯沸し器の前でお盆を胸に抱え、キャイン、キャインと尻尾をちぎれんばかりにふった。そこいらじゅうのものに、頬ずりをしたくなった。 (もしかして私、彼に好かれてるのかもしれない)  ますます彼めがけてまっしぐらになっていく私なのだった。  天才といわれた彼のおかげで、会社にもどんどん仕事がくるようになった。だけどそうなればなるほど、私と彼との接触は少なくなった。彼は辣腕《らつわん》のデザイナー。私はただのバイトの電話番。一緒に仕事をしているなら、彼が残業していても一緒にいられるが、私の立場ではずっと居残っているほうが不審に思われる。そうじゃなければ、おやじたちに誘われて、飲み屋でお尻を撫でられるのが関の山だ。 (もっと個人的なお話をしたい)  私は彼の帰る道筋を調べ上げ、途中の喫茶店で暇つぶしをしながら、彼がその道を通るのをじっと待った。そして姿が視界に入ったとたんに店をとび出し、さも偶然会ったかのようにふるまった。 「友だちとこの近所で会った帰りなんです」  初めてこのテを使ったときは、彼は何も感じなかったはずだ。しかし五回、六回と同じ手口でやられたら、どんな鈍感な男でも気がつくだろう。嫌だったら逃げるだろうし、そうじゃなかったら私のことを受け入れてくれる。嫌われたら、すぐ会社はやめてやろうと決めていた。そして彼は逃げなかった。お互いの心理のさぐり合いをしながら、何回か食事をしたあと、私たちはいわゆる不倫の関係へと突入したのであった。  あるとき私はシティ・ホテルのベッドのなかで、家族の写真を見せて欲しいといった。 「えーっ、こんなところでそんなことするの、気が乗らないなぁ」  渋る彼に食い下がって、私はパス・ケースのなかに入っていた写真を横取りした。きっと笑い顔がさわやかで、歳《とし》をとっていても少女のようにかわいらしくて、パンを焼くのがとても上手な人。奥さんがそういう人でも、それはそれでいい。だけど私は私なのだ。 (あ……)  写真を見て私は愕然《がくぜん》とした。満面に笑みを浮かべて、赤ん坊を抱いているのは、まるで相撲取りみたいな女の人だった。赤ん坊だって彼の血をひいたようには全然見えない、奥さんそっくりの妙に横にだだっ広い顔だ。目は小さいし、はっきりいって不細工な親子だった。私は、ベッドに二人して横たわり、写真を見て、 「奥さん、きれいな人ね。どうして私と寝たの」  などという、ロマンチックなシチュエーションを思い描いていた。しかしそれは写真を見たとたん、ぶっとんだ。 「この子、娘なんだ」 「…………」  何もいえない。奥さんは高校時代の同級生で、十年以上の交際を経て結婚したのだそうだ。 「その間、浮気したでしょ」 「まあね」  そうでなきゃおかしい。彼がこんな、悪いけど十人並み以下の女の人、ひと筋っていうわけがない。 (この人、ずるい)  私は写真を握りしめながら、足元からめらめらと嫉妬の炎が燃え上がってくるのを感じた。彼女は自分にふさわしい男性よりも何十倍もいい人を夫にしている。私は彼女に勝てると思った。美人じゃないけど彼女よりはずっとマシだ。おまけに若い。 「ねぇ、これから二人だけのサインを決めて、会わない」  ぐふんと甘えて提案すると、彼はすぐOKした。 (彼だってこんな奥さんと寝るより、私と寝るほうが、いいに決まってる)  嫉妬の炎がおさまると、体のなかには女としての自信がふつふつとわき上がってきたのであった。  それからの私は、彼の奥さんに張り合う気持ちだけで、彼とつき合ってきた。優しい彼は私の誕生日には欠かさずプレゼントをくれたし、旅行にも一緒に行った。会社の鈍感なおやじたちは、私たちの仲には気がつくはずもなく、 「ミーコ、たまには飲みに行こうよ」  としつこく私を誘った。 (誰があんたたちと一緒に行くもんですか。私が一緒に行くのは彼だけよ)  そうはいっても、しつこいおじさんの誘いはひどくなり、泣く泣く焼き鳥屋に連れていかれ、酔ったついでに手を握られたりした。そっと彼のほうを見ると、そ知らぬ顔をしてビールを飲んでいた。私とつき合いはじめてから少しシワもふえ、やや髪の毛も後退気味だが、キリッとした横顔の様子は変らなかった。笑ったときにできる目尻のシワでさえ、渋さをますます引きたてていたのである。だけど私と同じように奥さんにも笑いかけているのかと思うと、悔しくて彼の家にのりこんでいきたくなった。奥さんに冷たくしてくれればいいけど、彼は絶対にそんなことはしないだろう。そういう態度が私をいらだたせた。 「気づいたらしいんだ」  彼にそういわれたとき、私は動揺しなかった。すべてにおいて私は彼女に勝つ自信があったからだ。 「そう、何だって」 「『女の人がいるでしょ。仕事っていえば私のことがだませると思ってるの』っていうんだ」 「ふーん」  彼女は彼女、私は私だ。 「それでどうなの? 私と別れるの?」 「いや、そんな気はないけど、何だか監視されちゃってね。面倒なんだ」  嘘《うそ》がうまくつけない人だから、あの相撲取りみたいな体でにじり寄られて、ビビッてしまったのだろう。 「絶対に別れないからね」  耳元で低音でささやいてやると、彼はびくっと体をふるわせて、黙ってうなずいた。 「でも、奥さんとも別れないんでしょ」  これまた黙ってうなずいた。あんな女のどこがいいんだろう。見てくれだって悪いし、私の存在に気がついたからって、いい方が少し嫌味だ。 「あいつとはつき合いが永いからなあ。今までも迷惑かけちゃったし、子供もいるし」  子供だって奥さんだって、あの程度だ。どうして彼女たちのほうがいいのか、私には理解できない。 「まだ君にはわからないだろうけどね、年月って結構、大切なものなんだよ」  それなら早い者勝ちってことか。出会ったのが遅いからといって、どうして私が引き下がらなきゃならないんだ。 「私はあなたの才能や性格を尊敬してるわ。奥さんはあなたのどこがいいのかしら」 「さあ……。よくわからないな」  家庭のことになると、いまひとつ歯切れが悪くなるのは、いつもと同じだった。仕事ではてきぱきと、適確な判断を下すのに、私と奥さんのことになると、ぐずぐずしていた。そんな彼を見るのは嫌だった。すべてにおいて、かっこよくふるまって欲しいのに、優しさが裏目に出ていたのである。  私にはいわないけれど、彼は奥さんから相当、責めたてられているらしい。三年間、私と関係を続けているのだから、彼女が怒るのもわかるような気がしたが、私にとってはあんな女、どうでもよかった。 「オクダ君、近ごろ疲れてるんじゃない」  会社のおやじたちは彼が仕事をしていると、背後から手元をのぞきこんだりした。 「いや、そんなことはないんですけどね」  私は社長にいわれた住所録をワープロに打ちこみながら、横目で彼らのほうを見た。彼は三年前と変らず、ワイズしか身につけない。ヘア・スタイルは「天使」だが、悩みが多いためかひたいがどんどん後退していっている。このまま前のほうの毛が抜けていったら、間違いなく辮髪《べんぱつ》だ。「天使」の岩城滉一は素敵だけど、辮髪の岩城滉一は嫌だ。もしそうなったらどうしよう。私はワープロのキーボードに目を落として考えた。 (そのときは、さっさと別の会社に移って、新しい彼でも見つければいいんだ。どうせバイトだし、まだまだ私は若いんだもの)  ちょっぴり気が楽になって私は、キーボードを叩き続けたのだった。  年上の女  私の勤めているアクセサリー会社の企画部の直属の上司は、イイダさんという女性である。物腰はあくまでも柔らかく、品がいい。仕事もできる。結婚後も仕事を続けている中年の女性にありがちな、図々しい自分への過信も感じられない。センスだっていい。年齢が四十歳なんて信じられないくらい若い。五十嵐淳子とまではいかないが、それに近い雰囲気を持っている人なのである。私は入社して彼女の姿を見たとき、 「世の中にこんな女の人もいるのか」  と驚いた。とにかく俗世の垢《あか》にまみれていない、清らかな乙女のようだったからだ。私がそれまでに出会った、働いている女の人は、いまひとつ目標にしがたいタイプばかりだった。十人いたら、そのうち八人がひどかった。出会ったといっても、アルバイト先にいた、中年の社員とかパートのおばさんだったが。世の中に怖いもんなど、何もなく、東京大地震がきて上からつぶされたって、自力で瓦礫《がれき》の下からはいずり出してくるような、たくましい感じだった。彼女たちは年若いアルバイトの私たちに、「働くことは、こういうことだ」「人間関係を円滑《えんかつ》にさせるには、気くばりが大切である」と、休み時間に休憩室で能書きを垂れた。私たちは、内心、 (うるせえな)  と思っていたが、とりあえず、はいはいとおとなしく話を聞いていた。自分のやっていることは、世の中の女性の鑑《かがみ》だと思っているらしく、腹と境目がさだかでない胸を堂々と張っていたが、私たちに嫌われているなんて、これっぽっちも感じていないみたいだった。紫色とあずき色が混じったような、大きなフリルカラーのブラウスに、黒地に白の大きな水玉のギャザースカートを着てきては、 「これ、いいでしょ、いいでしょ」  としつこく迫ってきたりするのもいた。 (そんなくどい服、着てくるな)  といいたいけど、うるさいから、 「ホント、よく似合ってますよ」  といってやる。すると彼女は満面に笑みを浮かべて満足そうに去っていくのだ。スタイルに自信があり、センスがいいと思っているおばさんは、スーパー・マーケットのパートだというのに、ピンク色に金のブレードがついた、ニセのシャネル・スーツを着てきて、私たちのド胆を抜いた。ソバージュがお洒落《しやれ》だと、自分の顔面を冷静に分析しないでパーマをかけたらしく、まるでかつらをかぶっているように見えた。サンプルでももらったのか、サン・ローランの「PARIS」の匂いをプンプンさせながら、 「やっぱり、こういうスタイルには、軽い感じの髪型がいいわよね」  といいきった。しかし彼女は、それによって周囲の人間が、どどーっと暗くなっていることなど、想像すらしていないようだった。そろそろ五十に手が届くというのに、そんな悪あがきはやめたら、と忠告したくなったが、気のいい私たちアルバイトは、 「へへへ」  と曖昧《あいまい》に笑ってごまかしていた。ニセシャネルのおばさんは、 「今日は仕事のあと、主人と出かけるから特別なのよ」  といっていたが、私たちは帰り道、駅の前で彼女が値下げされたイワシ一山を買うのを目撃して、大喜びしたこともある。とにかく結婚して働いているおばさんたちは、ひとことでいうと、すべてにおいて「くどい奴」ばかりだったのだ。  だけどイイダさんは違う。おばさんたちが荒れ果てた土地にはびこる、肉厚の葉を持った根の太い雑草ならば、彼女は野原に咲く一輪のコスモスだった。特に私と同期のマスヤマ君は、 「わが社の宝物」  と、見目麗しいイイダさんを誉めちぎっていたのであった。同期のナオコちゃん、オオカワ君を混じえ、四人で飲んだときも、 「ああ、ユリコちゃーん」  と、イイダさんにのめりこんでしまった彼は、うっとりした目をして「つぼ八」で叫んだ。 「年の差が十八もあるんだよ。ヘタすりゃ、親子じゃない」  私とナオコちゃんが口をはさんでも、すでに瞳がハート形になっている彼には、そんなこと屁《へ》でもなかった。 「僕の母親と、五歳しか違わないんだぜ。うちのなんかもう、ボロボロだもんなあ。あー、ダンナがうらやましい!」  そういってビールを一気に飲んだ彼は、ますますテンションが上がっていった。 「あの人、養子をもらったんだってさ」  オオカワ君はイイダ情報をたくさん入手していて、私たちを喜ばせた。どうやら提供者は先輩の男性で、外回りをしているときに、彼に教えてくれたのだそうである。 「何? 養子?」  マスヤマ君は、彼女に関することなら、ひとことも聞きもらすまいと、空のお銚子《ちようし》がパタパタ倒れるのもかまわず身をのり出した。彼女は東京の代々続いた地主の家に生まれたが、一人っ子だったために、親が養子を見つけてきて、「ぜひ跡継ぎを」と望んだのだが、いつまでたっても子供ができず、両親も、それほどの年でもないのに亡くなってしまった。資産はあるので食べるのには困らないのだが、現在、養子は土地、マンションの管理をしながら不動産業を営んでいるとのことであった。 「それじゃ、別に働かなくたっていいじゃん」  ナオコちゃんは不思議そうにいった。 「家にいるのが嫌いなんじゃない」 「楽でいいじゃない。何もしなくても食べていけるなんてさ」  あの楚々《そそ》とした様子は、働くのが金目当てではないからかしらなどとも思った。 「でもな」  オオカワ君は声をひそめた。私たちもまた、お銚子をパタパタ倒しながら身をのり出した。 「ずいぶん前、あの人、社長の女だったらしいぞ」 「ひえーっ」  声を上げたのはマスヤマ君だった。私とナオコちゃんは、「やっぱりね」とお互い、目くばせをした。社長は別に変でも何でもない、ふつうの実直なおやじだが、突然、あんな女性が入ってきたら、というか、自分の好みで入れたのだろうが、手も足も出してしまうのは、当たり前のような気がした。 「きっと、だまされたんだ。セクハラじゃないか……」  落ちこんだ彼にナオコちゃんは、 「あーら、嫌だったら、とっくにやめてるわよ。きっと彼女にも都合がいいことがあったのよ」  と冷たくいい放った。 「ひ、ひどいなあ……」 「必死に働く必要なんかないんでしょ。やめりゃ、いいじゃん」  ナオコちゃんはどうも、アルコールが入ると、ズバズバ物をいう性格になってしまうらしい。 「今は違うんでしょ」 「ああ。だけど、いろいろとあるみたいだぜ、あの人」  オオカワ君はにやりと笑った。 「えーっ、なに、なにがあるの? ねえ、ねえ」  私とナオコちゃんがしつこく聞いても、彼はにやにや笑うだけで知らんぷりをしている。マスヤマ君は打ちひしがれて、座卓に突っ伏していた。 「ふっふっふっ」 「やな奴だなあ」 「ま、いずれ、君たちにもわかる日がくるさ」  そういってまたオオカワ君は不敵な笑みを浮かべたのだった。  そういわれてから、イイダさんを観察してみると、男性はともかく、女性には淡々とした態度をとられていた。親密な会話などほとんどなく、「お願いします」「わかりました」的なものばかりであった。彼女は私に対して意地悪はもちろんのこと、不愉快なことは何ひとつしなかった。ミスをすると怒られたけれど、それも私の立場を察して、恥をかかないようにしてくれた。嫌われるようなことなど、みんなにもするような人じゃないのに、いまひとつ女性陣の態度がよそよそしいのであった。  ある日、営業担当の課長に、彼女は、 「マスヤマさんとお話ししたいことがあるんですけど、今夜、いいでしょうか」  とたずねていた。その件について課長は前々から話を聞いていたようで、 「彼さえよければ、いいよ」  と返事をしていた。そういうやりとりを聞いて舞い上がったのが、当のマスヤマ君だった。とにかく「イイダユリコさん命」の彼である。彼女に名前を呼ばれただけで、全身の血液がどこかに集中してしまうくらいなのである。それが二人だけで話をするとなったら、貧血を起こしてぶっ倒れるかもしれない。私は彼が席を立ったあとを、そっとトイレに行くフリをして追いかけた。男子トイレから出てきた彼は、右手と右足を一緒に出していた。目もどこかうつろで、明らかにフヌケた顔になっていた。 「やったじゃん」  声をかけると彼は、 「ラッキー」  と、押し殺した声でいい、胸元で両手で小さくガッツ・ポーズをした。 「大丈夫かあ?」 「まかしとけよ」 「がんばってね」 「おおっ」  気合いは入っているようだったが、どことなく足元はふらついていた。席に戻っても、彼は何度も時計を眺め、でれーっと口元をゆるめたり、ため息をついたりして落ち着きがなかった。そして時計が六時を指したとたん、彼の顔面に血がのぼり、頬を赤く染めて鞄《かばん》に書類を入れたりしていたのであった。 「ふふふ」  他の男の人たちは、用もないのに彼のそばを通り、肩に手をかけて意味ありげにふくみ笑いをしたり、彼の肩を揉《も》んだりした。 (みんなイイダさんが彼と会うから、気になってしょうがないんだわ)  自分たちだって結婚しているのに、それでもきれいな人が他の男と会うと知ると、うろちょろしてしまうのがおかしかった。  翌日、私は彼から昨晩の様子を聞きたかったのに、どういうわけだか休んでいた。 「なんだ、マスヤマは休みか」  営業課長がそういうと、これまたどういうわけだか、男の人たちはにやにやしていた。女の人たちは平然としていた。イイダさんが来る前まで、彼らはざわざわしていたが、彼女が、入ってきたとたん、しーんとなった。 (におうなあ)  すべてのカギはイイダさんが握っているが、何かあったんですか、なんて聞けない。真相究明のためには、とにかくマスヤマ君を尋問しなければいけない。私はナオコちゃんに、彼が出社してきたら、しかるべきところでいっちょ締め上げてやろうと提案した。すると彼女は、揉み手をしながら、 「奥さん、いいとこが、ありまんがな、ありまんがな」  と舌なめずりした。そこは料亭であるが、今はほとんどさびれていて客は少ないし、私らのような若いもんでも平気だというのであった。 「よし。オオカワ君も一緒だと心強いわよね」  私たちは早速、彼の承諾をとりつけ、次の日、うつろな目で出社してきたマスヤマ君を帰りがけにとっつかまえて、ナオコちゃんお勧めの料亭に拉致《らち》したのであった。  そこには仏頂面の仲居さんがいて、ビールや料理を運び終ったあとは、勝手にやれ、という感じで足音さえしなかった。 「な、何だよ」  マスヤマ君は座卓の前に正座して、緊張していた。 「いや、ま、飲め」  オオカワ君は、彼にどんどん酒を飲ませた。ビール、日本酒、水割りのチャンポン責めになった。彼が酔っ払うまでの時間、私とナオコちゃんは、目の前に並んだ料理を片っぱしからたいらげた。客足が遠のくのも無理はない味だった。 「もう、ダメだあ」  マスヤマ君はへろへろになった。オオカワ君は、彼がどの程度飲めば無抵抗になるか、よく知っているのだ。 「お前とおれは友だちだな」 「はい、そうれす」  二人は肩を組んだ。 「何でも話せる仲だよな」 「はい、えっと、まあ、そうれす」 「よーし」  オオカワ君はイイダさんの名前を出した。そのとたん、マスヤマ君はびくっとなり、 「それは、それは、いえましぇーん」  といいながら、お尻で床の間の掛軸のほうにあとずさりした。 「どうしていえないんだ? ん?」  私とナオコちゃんは、味があるんだかないんだかわからない、麩《ふ》の煮物を口に入れながら、事の成り行きを見守っていた。彼らはごそごそと小声で話していたが、急にオオカワ君がすっくと立ち上がった。 「よーし、口でいえないのなら、体で示せ」  そういって彼は上着を脱ぎ、がしっとマスヤマ君の体を抱いて、 「こんなこと、したんだろう」  とドスのきいた声で詰問しはじめたのだった。 (何、何じゃこれは……)  私たちの前で繰り広げられているのは、「さぶ」や「薔薇《ばら》族」の世界であった。 「そうか、ホテルに行ったんだな。そして、どうしたんだ? ん? ほーれ、うりうり」  オオカワ君は、もともとそういう素質があったのか、目はらんらんと輝き、タタミの上に引っくり返されたカメのような姿になっているマスヤマ君を、つんつんと人差し指で突っつきまわした。 「あっ、やめて、やめてくれえ」 「ほーれ、白状しないと痛い目にあうぞー」  これはイイダさんと彼に何があったかを聞き出すよりも、ほとんどオオカワ君の趣味の世界であった。私とナオコちゃんはギョッとしながらも、初めて見る光景だったので、いったいどうなるのかと胸をドキドキさせていた。 「ベッドに入って、何ていわれたんだ」 「かわいいわねって、いわれたんですぅ」 「ふふん。それで」 「ひえー、それから先は許して下さぁい」  まるで悪代官と農民である。 「隠されると知りたくなるんだなあ、これが」 「いえましぇん、いえましぇーん」 「そうか。じゃ、体でわからせてやろう」  オオカワ君はマスヤマ君の上にのしかかり、 「ほーれ、こういうこともしただろう」  と彼の耳元でささやいたりした。 「ね、あの人、本気じゃないの?」  ナオコちゃんは、妙に手慣れているオオカワ君のやり方を見ながら、小声でいった。たしかに、もしかしたら彼は「さぶ」ちゃんかもしれないとも思ったが、この期《ご》に及んだらそんなことどうでもよかった。とにかく目の前の光景が、めったやたらと面白かったからである。 「うわあん、しました。しました」 「ひひひ、そうか」 「僕じゃなくて、イイダさんが全部、やったんです。僕はただ寝てただけですぅ」 「いい思いをしたんだな!」 「しました。すみましぇーん」  私とナオコちゃんは大笑いした。 「よーし、それじゃ、罰をくれてやる」  オオカワ君は再びすっくと立ち上がり、マスヤマ君の両足を大きく開き、股間に自分の右足をあてがって、 「この急所攻撃を受けてみよー!!」  とわめきながら、ぶるぶると震動させた。 「わあ、やめて、やめて」  まるで「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」のような場面が展開されていた。あまりの騒ぎが聞こえたのか、仲居さんが顔を出した。ところがあまりのことに、 「ひえっ」  と小さな声を出したまま、へたりこんでしまった。現実に引き戻された私たちは、よれよれのマスヤマ君を引きずって、逃げるようにして料亭を出たのであった。  近所の公園で私たちは缶コーヒーを飲みながら、イイダさんとの情事について、マスヤマ君を深く追及した。観念し、すでに酔いもさめた彼は素直に私たちの質問に答えた。二人で会社を出たものの、仕事の話などほとんどなく、食事をしたあと、お酒を飲んでホテルに行ってしまった。あの楚々としたイイダさんが、 「年下の男の人を見るとね、私、かわいがってあげたくなっちゃうの」  といったというのには驚いた。そのうえ、コトが終ると、 「東京での一人暮らしは大変でしょう」  といって、お小遣いまでくれたというのだ。ラッキーと困ったのとうれしいのと気持ちいいのがごっちゃになったマスヤマ君は、放心状態でアパートに帰り、朝会社に電話だけいれて、こんこんと寝てしまったというのであった。 「あの人がねぇ……」 「いーや、ああいう虫も殺さないような顔をしたのが、怖いんだ。結婚して突如、目ざめたりするんだぜ」  オオカワ君は女のことはすべて知っているといいたげであった。そして彼は先輩から、自分もイイダさんにお世話になったことがあること。何年か前にイイダさんをめぐって社長を混じえた三角、四角関係になり、そのうちいちばん若い男性が、「だまされた」といって泣いて会社をやめていったこともあるといった。 「会社であの人と寝たことがないのって、おれと守衛のおじいさんくらいだと思うよ」  社内には彼女にお世話になった、「ユリちゃんブラザース」ができ上がっていたのだ。信じられないような気もしたし、やっぱりというような気もした。私が男であのような女性にモーションをかけられたら、相手が結婚してるとかなんて関係なく、キャンキャンと尻尾をふってついていくだろう。 「お前、初めてだったんだろ」  マスヤマ君はこっくりとうなずいた。 「よかったじゃないか、あの人で。おれなんかソープランドの熊みたいなおばさんだったんだぜ。おふくろよりも年とってやがんの」  二人は顔を見合わせて、はははと力なく笑った。 「ホントにあなたたちって、しょうがないわねえ。そんなふうになる前に、もうちょっと冷静に考えられないの?」  ナオコちゃんはあきれ返っていた。 「ああいうものは、突然やってくるんでね。そうはいかないんだよ」 「ふーん」  段取りを考えているのは、イイダさんのほうなのだ。彼女にしてみたら、新入社員の男の子と遊ぶのが、唯一《ゆいいつ》の楽しみになっているのだろう。それも自分のいいなりになりそうなマスヤマ君には声をかけ、オオカワ君は無視している。さすがに性格を見抜く目は持っているらしい。  仕事もできて、センスもいい素敵な男の人に、四方八方に女の人がいても、 「あの人ならしょうがない」  と認めてもらえることが多い。そこいらへんのどうでもいいおやじだと、愛人が一人でもいたりすると、 「よく、あんなのに相手がいるわよね」  と陰で笑われたりする。女性の場合も同じだ。例の「くどい」おばさんたちが、そんなことをしたらば、全人類の非難を浴びそうな気がするが、イイダさんは同じことをやっても許してもらえるタイプだ。女性社員の事務的な応対が、非難である。 「イイダさんも男の人たちも、お互い助かってるんだから、あれでいいのかもね」  私とナオコちゃんは、想像できない下半身を持った、イイダさんの野の花のような姿を思い浮かべた。そして会社では、公然の秘密である「ユリちゃんブラザース」の面々が、それなりに仲よくしているのであった。  人生いろいろ  どうして結婚何十年もたった夫婦の妻のほうは、あんなに太っているんだろうと不思議に思うことがある。うちの母もそうだし、友だちのエリちゃんのお母さんもそうだ。むかいのおばさんもそうだし、どういうわけだか奥さんのほうが、デブ度が顕著である。それに比べて夫のほうは、ものすごく情けない。会社と家と飲み屋を行ったり来たりする毎日を送っているだけで、特に趣味もない。「長い友だち」の髪の毛も、どんどん頭皮から去っていくばかり。日曜日、うちの母が父に、 「お父さん、たまには出かけましょうよ」  と声をかけても、 「疲れるからうちにいる」  と力なくいって、家から出ようとすらしない。そして母が一人で出かけると、 「あんな豚みたいな古女房と出かけたって、どこがいいんだ」  などと、ぶつぶついう。そしてテレビを見ている私に、 「どうして今さら、一緒に出かけたがるんだ、母さんは」  とゴロゴロ寝転がりながらたずねる始末である。 「いいじゃん。一緒に行けば」 「そんなことできるか。五十五にもなって」 「年なんか関係ないよ」 「もっと美人ならな、一緒に歩いてやってもいいけどな」  父は自分の情けなさを棚に上げて、母の悪口を嬉々《きき》としていいはじめた。二重|顎《あご》、足首というものがない。体型がトド。大食い。ゲッヘッヘと品のない笑い方をする。おしろいが顔のシワにめりこんでいる。メガネのフレームの下の部分がほっぺたにめりこんでいて、メガネをとると、ほっぺたに筋がつく。はいているパンツがでかい。給料が安いと文句ばかりいったくせに、実はしこたまヘソクリをしていて、指輪を買った。おかずが年を追うごとに手抜きになっている。あれこれ理由をつけて、よく出かけすぎる。よくぞいえるなと思うくらいの罵詈雑言《ばりぞうごん》であった。 「そんなに嫌なら、別れりゃいいじゃない。お姉ちゃんは結婚してるし、私だって来年、卒業なんだからさ」 「ふん。もう別れることすら、面倒くさいんだよ」  父はそういって、ぶっとおならをかました。キヨシローはCMで、家にいるときのパパがおならをしても、昼間のパパは光ってる、と歌っているが、うちのパパは頭は光っているが、昼間も今と同じようにダラダラと過ごしているのに違いない。窓際に追いやられて、特に中心となってやる仕事もなく、何度も何度も新聞各紙を読み直している、会社での父の姿を想像すると、ほとほと情けなくなってくるのであった。 「必要以上に、奥さんを邪険にする男の人って、会社で自分がいじめられてるんだってさ」  友だちのエリちゃんにそういう話を聞いてから、ますます父は会社で肩身が狭いのに違いないと思うようになった。会社でのうっぷんをすべて母にぶつけたのに、母はしょげるどころか、ぶくぶくと太ってたくましくなっていった。父はいっこうにこたえない母を見て、ますます憎たらしくなったのだろう。 「全くな。あーあ、結婚なんか、するんじゃなかったなあ」  寝転がりながら、父はまたぶつくさいった。やたらとグチっぽいのもうっとうしい。 (あーあ、こんな調子で会社の部下にも嫌われてんだろうなあ)  私だってこんなおやじが上司だったら嫌だ。父は母のことをボロクソにいうが、私は母のほうを、 「よくぞ、我慢した」  と誉めてやりたい気分だったのである。  ところが父は、帰ってきた母が買物をしてきたのを見て、 「いい年して、今さらお洒落《しやれ》をしたって、どうにもならないだろうに」  と悪態をついた。面とむかってではなく、横をむいて聞こえよがしにいうところが、これまた情けない。母は無言で紙袋をぶら下げて引っこんだ。 「お父さん、あんないい方、ないでしょ」 「何が」 「何がって、お母さんによ」 「ふん。ただお父さんはムダ遣いだといってるだけだ」  父は定年になったら、絶対に離婚されるタイプであった。話題にも乏しく、年をとるごとに、グチっぽくひねくれる。身だしなみに、ぜーんぜん気を遣わない。朝起きるとすぐ、がーっとうがいをして、ぺっと痰《たん》を吐く。五十代だというのに、しぐさはほとんどじじいなのだ。 「お母さん、よく我慢してるね」  私は、ぶっとい腹まわりにエプロンを張りつけて、台所で白菜を洗っている母に小声でいった。 「いちいち気にしてたらね、あんな人といられませんよ」  里芋が五つ並んだような指で、手際よく白菜の葉をはがしながら、母はいい放った。 「だんだん性格が悪くなるね」 「ホントにねえ。これからどうなっちゃうのかしら」  そうはいいながら、まるで他人事《ひとごと》のような口ぶりだ。私は別に楽しくも何ともない、いちおう形だけの家族|団欒《だんらん》を済ませ、父とは会話もかわさずに、部屋に籠《こも》った。  ある日、母はいつものような太い声で、 「あたし、カルチャー・センターに行くことにしたわ」  と私に宣言した。 「またあ?」  今まで彼女は、あらゆる習い事に手をつけた。洋裁、編物、料理。ここまではまだよかった。ところがだんだんエスカレートし、鎌倉彫、七宝《しつぽう》焼、アート・フラワー、墨絵、エアロビクス、太極拳、フラダンスまで習った。そのたびに家のなかには、鎌倉彫の皿や七宝焼のブローチ、コサージュ、だるまの絵などが、あふれ返ったのである。あんな夫と暮らしていたら、ストレス解消のために、習い事をするのはわかるが、永続きしたものはひとつもないのだ。 「『またあ?』なんていわないでよ」 「だって」 「何をやるか、当ててごらん」 「うーん、ダイエット?」 「違います!」  そういいながら、彼女はうちの最寄り駅から五つ先のターミナル駅にある、カルチャー・センターの講座一覧表を指さした。里芋の先にあったのは、何と「小説作法」であった。講師はそこそこ有名な、六十すぎの作家だ。 「えー? 本気?」  私は母が文章を書くなんて、信じられなかった。例の父が面倒くさいことは全部母にやらせていたため、母は事あるごとに礼状を書かされていた。そんなときでも、ハガキとペンを持って、 「お願い、ね、お母さんダメなのよ。たのむから書いて」  と、家じゅう、私や姉を追いかけまわしていたくらいなのだ。 「オオバさんと一緒に行くの。あの人、高校のとき文芸部だったのよ」  オオバさんというのは、母の親友の蚊トンボみたいなおばさんである。当時、バレー部にいた母と、お互いにないものを求め合ったのか、仲がよくなり、それが未だに続いているのだ。 「オオバさんはいいけどさ、ド素人が文章なんか書いちゃって、恥かかない?」 「でもね、話を聞いたら、ほとんどの人が素人なんだって。元手もいらないし。これからは知性を磨かなきゃ、ゲッヘッヘ」  お父さんにいうと、またうるさいから、絶対に内緒だと口止めされたものの、母にどういう心境の変化があったのか、私は考えあぐねていたのであった。  カルチャー・センターに通うようになった母は、早速、原稿用紙を買ってきた。父の前で書くとバレるので、いつも私の部屋の片隅に、ずりずりと小さな座卓を引っぱりこんでいた。受験勉強をしているおばさんといったふうである。 「ね、何を書いたらいいと思う?」  母の目はうつろである。 「題は決まってるの?」 「まだはじめだから、自分の好きなこと書けばいいんだって」 「じゃ、そうすれば?」 「それがわからないから、聞いてるんじゃないよ」  四百字詰の原稿用紙を広げ、母はため息をつきながら呆然《ぼうぜん》としている。私は小学生のときに、先生にいわれたことを思い出して、「最近、いちばん心に残ったこと、感動したことなどを書けといわれた」と話した。 「心に残ったことねえ……。あっ、あった」  彼女の口から出てくるのは、女性週刊誌ネタばかりであった。 「小説を書くんでしょ。週刊誌のライターになるわけじゃないんだから」  私がいえばいうほど、母は悩み続け、父の目を盗んでオオバさんに電話で相談したりしていた。うなり続けて、やっと母は原稿用紙五枚の文章を書いた。タイトルは「かぼちゃと私」であった。これから小説を書こうとする人が、「かぼちゃ」とは何だと思ったが、せっかくの母の第一作をけなしちゃ悪いので、黙って読んでみた。内容は、実家が農家の母は、子供のときに嫌になるくらい、かぼちゃを食べたはずなのに、大人になってもかぼちゃが大好きだ。そして現在、五十五歳になってふと鏡を見ると、私の体はかぼちゃにそっくりになっていた、という筋で、ほとんどトホホものだった。母がやっとの思いで書いたという文を、みっともないから提出するなといえず、私は、 「いいんじゃない」  とだけいって、放っておいたのだった。  ところが提出した翌週、母はカルチャー・センターから有頂天になって帰ってきた。あの「かぼちゃと私」が、先生に誉められたというではないか。彼は、 「そこはかとない牧歌的ユーモアが漂い、自然体であるのが誠によろしい」  といったのだそうだ。さすがプロは誉め方もうまい。 「さあ、やるぞお」  もともと単純な性格で、おだてに弱い母は、両手をぶるんぶるんとまわして、気合いを入れていた。彼女は私の部屋の片隅で背を丸め、毎日、必死に原稿用紙の桝目《ますめ》を埋めるようになったのである。第二弾、第三弾は「奥入瀬《おいらせ》と私」「温泉と私」であった。さすがにタイトルだけは、 「もう少し考えなさい」  と注意されたらしいが、文のほうは先生に誉められた。 「あたし、才能があるのかもしれない」  ますます彼女に気合いが入った。本を読みながら、ふむふむとうなずいたりしている。そういえば、カルチャー・センターに通う前よりも、不細工は不細工なりに、顔は生き生きしてきたようだ。着る物の色だって明るくなり、メガネのフレームも変り、我が母ながら華やかな感じになった。 (カルチャー・センターに行ったくらいで、あんなに変るもんかねえ)  私はいそいそと辞書や原稿用紙を、新調したバッグに入れている母の姿を見ながら、つぶやいたのである。  最初、私の部屋でこそこそとやっていた原稿書きも、食事が済んだあと、食卓でやるようになった。そんなところを父に見つかったら、絶対に嫌味をいわれるぞと心配していたら、案の定、彼は、 「今さらそんなことしたって、作家になんかなれっこないだろ」  と小馬鹿にした。それでも母は、ビヤ樽《だる》ポルカが聞こえてきそうな体をテーブルの上にかがめて、黙々とペンを動かしていた。 「ふん」  父は面白くなさそうに吐き捨てるようにいい、部屋のフスマをパタンと閉めた。きっと何をするわけでもなく、ただごろごろと寝転がって、ぶつくさいうだけなのだろう。母はそんな父の姿など、眼中にないといった様子で、原稿用紙をにらみつけていた。 「次のテーマは何なの」 「小説を書かなきゃならないのよ。ねえ、何を書いたらいいと思う?」  先生に誉められたわりには、はじめのころからあまり進歩していないようだ。私は「そんなこと、自分で考えなさい」と突っぱねた。しばらく彼女は悩んでいたが、ふと気がつくと、電話をかけている気配がした。 「あーら、先生でいらっしゃいますか。あたくしヤマオカでございます。夜分に大変申しわけございませんです……」  ふだん家で耳にする声よりも三オクターブくらい高い声だ。おまけに話しながら、「うっふん」と鼻声で笑ったりして、妙に甘えている。五、六分たって、母は上気した顔で戻ってきた。 「さあて、やるか。あんたはそろそろ寝なさいよ。お母さんはもうひとがんばりだ」  彼女はまた両手をぶるんぶるんとまわして気合いを入れた。  カルチャー・センターに通うようになってから二か月、文を書くことは母の生活のすべてになっていった。カルチャー・センターに行くのが唯一の楽しみになっているらしく、台所でお皿をふきながら、 「ラララー、あしたはカルチャー・センターだよーん」  などと、自作の妙な鼻歌を歌ったりしていた。親友のオオバさんは、先生に全然誉められないので、ふてくされてやめていったそうだ。教室の生徒さんたちとも仲がいいみたいで、私に食事を作るようにと命令し、自分は彼女たちと一緒に懐石料理を食べに行ったりしていた。 「やっぱり懐石料理には着物よね」  ひとりごとをいいながら、着物で出かけていくこともあった。私はかつてはタイツの上に白いソックスを重ねばきして、平気で外に出ていた姿から大変身した母を、首をかしげて見送った。 「先生がね、『あなたには才能がある。どんどん書きなさい』っていうの。どうしましょ。困っちゃうわ」  母はポッと頬を赤らめ、小声で私に告白した。女のカンで、もしかしたら彼女は、文才があるといわれたことよりも、先生に誉められたことのほうが、うれしいのではないかという気がした。しかし、そんなこと、娘の立場ではものすごくいいにくいので、ただ、 「そう、よかったじゃない。書けば」  とだけいっておいた。母の、 「あーら、先生……」  も頻繁に聞かれるようになり、当の先生からもうちに電話がかかってくるようになった。私はもし父がいたら、修羅場になってしまうと気を揉《も》んでいたが、うまい具合に父がまだ帰ってこない時間帯にかかってきてくれた。温厚そうな声の人だった。母に、 「先生から」  といって受話器を手渡すと、また頬を赤らめ、 「あら、何かしら」  といいながら、いそいそとやってくる。 「先生」と聞くと、ほっぺたが赤くなるのが条件反射になっているようだ。三オクターブ高い声で話している母の姿は、まるで恋人と話をしている高校生のようだった。話をしながら小首をかしげたり、コードを指でまさぐったりしている。いちばん驚いたのが、 「オッホッホ」  と笑うことだった。先生とはとっても楽しそうに話しているのに、「ゲッヘッヘ」は一度も聞いたことがなかった。母のやっていることには、いちおうひとこといわないと気の済まない父は、電話中に帰ってきたときも、聞こえよがしに、 「ふん、長電話か。図々しいおばさんの典型だな」  といった。彼は相手が女友だちだと疑いもしなかったのだろう。電話を切ったあとも、父は何もいわず、母も黙っていた。私には二人の姿がとても不気味な気がしたのである。 「オオバさんと一泊二日で伊豆の温泉に行くことにしたのよ。あの人、カルチャー・センターをやめちゃって、退屈してるみたいなの。ちょうど今度の水曜日は教室もお休みだし。たまにはいいでしょ」  母はにこにこして温泉行きの計画を話した。父は自分はどこにも母をつれていってやらないくせに、ぶつくさいうに決まっているが、私は「いいよ」といって、火曜日の夜、母を送り出した。ところが翌日、うちにかかってきたのは、オオバさんからの電話だった。 「お母さん、いらっしゃる?」  勝ち誇ったような、傲慢《ごうまん》な声だった。 「あ、あの、旅行中です、のはず、ですけど……」  頭の中がパニックになった私は、舌をもつらせた。 「あーら、そう。どなたと、どちらへ出かけられたのかしら。ご存じ?」 「お友だちと、伊豆です、けど……」 「そうなの。まあ、よろしいですわね。それでしたら結構ですわ」  電話はガチャッと気にさわる音をたてて切れた。 (いったい、何が、どうしたんだ)  私は電話機の前で、ぼーっとしていた。あのオオバさんの嫌味ったらしい思わせぶりな口調。あの人はすべてを知っていて、うちに電話をしてきたのだ。 (お母さん、どうしちゃったんだろう)  カルチャー・センターに行きはじめてからの、あの変貌ぶり。先生と電話で話すときの乙女のような態度。頭のなかでは先生と母が一直線でつながった。実線ではなく点線であるが。私がおととし、エリちゃんと行くことにして、当時つき合っていた彼氏と一泊旅行に行ったのと、同じことを母がしたのではないだろうか。 「お母さーん」  私は伊豆の方向にむかって、叫んだ。もしかしたら父と私を捨てて、かけ落ちしてしまうかもしれない。父は相変らず、母が嘘《うそ》をついて家を出たことなど、これっぽっちも疑いもせずに、ごろごろしていた。  置き去りにされたのではないかと不安になっていた私の目の前に、翌日の夕方、現れたのは、おみやげの包みをぶら下げ、妙にさっぱりした顔をした、母の姿であった。父にも母にも悟られないようにと、動揺を隠そうとしたけれど、ほっぺたがぴくぴくとひきつった。 「おかえりなさい」 「はい、どうも。楽しかったわよ。やっぱり女友だちとの旅はいいわねえ」 (…………)  父は苦虫をかみつぶしたような顔で、おかえりすらいわない。やっぱりこんな夫は嫌だ。 「このワカメ、ごはんに混ぜるとおいしいのよ」  はしゃぎながら母は、紙袋からきざみワカメの袋をとり出した。かすかに潮の香りがした。彼女は旅館のお膳に差しむかいで、誰とワカメ入りの朝ごはんを食べたのだろうか。 「オオバさんは、別に、何事もなく、元気だった?」  上目遣いに聞くと、母は顔色ひとつ変えず、 「うん、元気だったわよ」  と平静だった。 「へっ、亭主が働いてるのに、いいご身分だね」  父はそういって姿を消した。やっぱりこんな夫は嫌だ。母はいつものように黙って、おみやげのワカメやら干物を並べていた。私は肉がぼってりとついた体を見て、複雑な思いが体中をかけめぐっていた。父に邪険にされながら、じっと耐えていた母。ふつうの鈍《どん》くさい感じのおばさんだったのに、カルチャー・センターに通うようになってから、華やかになった。しかし母がそのように変身しても、父は誉めることもせず、相変らず、つまんないことをぶつくさいうだけ。とても対等の人間扱いしているとは思えない。私は母に、「誰と旅行に行ったの?」ということばが、喉《のど》まで出かかったが、それをもごもごと呑《の》み下した。 「さあ、晩ごはんにしましょうね」  ふだんと全く変らない様子で、彼女は腹にエプロンを張りつけて、流しの前に立った。私は母が許せるような気もしたし、許せないような気もした。そして、頭のなかにふっと浮かんできた、先生と母が腕を組んで旅館に入っていく姿を、あわてて頭をふってかき消したのだった。  知りすぎたのね  私と同じように不倫している友だちのなかには、 「どうして好きになった人に、家庭があったのかしら」  と、つぶやいて涙する子がいる。相手に家庭がなければ、絶対に結婚したいといって泣いたりすることもある。そして、そんなタイプの子が、 「奥さんと別れて」  と迫り続けて、気がついたら彼に逃げられていた、なんて話は山ほど聞いた。 「独身の男の人とだって、結婚にこぎつけるまでは、山あり谷ありで大変なのに、それが妻子持ちだったら、簡単にいくわけないじゃん」  そういうと彼女たちは、 「ずいぶん冷静ね」  と半分うらやましそうな、半分|軽蔑《けいべつ》したような口調でいうのだ。  彼女たちは、「好きになった人に、たまたま家庭があっただけ」というけれど、私の場合は、「家庭のある人じゃないと、恋愛対象にはならない」といってもいいくらい、妻子持ちが条件なのである。 「よくそんな不毛な恋愛に足を突っこむわね」  そういわれたこともある。そういう人は、結婚、妻の座を求めているからだ。だけど私は妻の座も何も求めていない。ただ彼と一緒にいることが楽しいので、それが不倫でも全くかまわない。というよりも、相手に妻がいると思えば思うほど、 「私のほうに振りむかせてやるわ」  と、意欲がわいてくるのだ。  彼は私と同じ会社に勤めていて、七歳年上。奥さんは私より三歳年上である。私が入社したときは、奥さんはすでに会社をやめていたが、先輩の女性社員から、話を聞いていた。 「女の人のなかで、いちばん目立たなくて、地味な人だったんだけど、さっさと結婚しちゃったのよ」  社内結婚をすると、居残り組の女性社員によって、のちのちの後輩にまで、情報が提供されるわけである。そのときは私は彼とはつき合っていなかったので、ただ、 「ふーん」  と思っただけだった。しかし、だんだん親密になっていくにつれ、「いちばん地味だけど、さっさと結婚してしまった人」のことが、少し気になるようになったのだ。私たちのことは社内では秘密で、私は誰にも彼とのことはいっていなかった。不倫は秘密|裡《り》に事を運ぶからこそ、喜びがある。ところが、そんなある日、社内旅行があった。よせばいいのに、「アット・ホームな会社」を目指している、うちの社長は、結婚している人々に、 「家族をつれてくるように」  と宣言した。しかしこれは一部の人々の間では、誠に不評だった。旅行にかこつけて、旅先でよからぬことをしようとしていたおじさんたちは、 「会社に家族は関係ありません」  と抵抗した。しかし社長に、 「家族が来ちゃ、まずいことでもあるのかね」  と嫌味をいわれて、すごすごと引き下がらざるをえなくなった。家族が来るとまずいおじさんたちは、休み時間になると部屋の隅に固まって、 「何とかせにゃ、いけませんな」  などと話し合っていた。それに感づいた社長は秘書に社員名簿を持ってこさせ、各家庭に社長の名前で「社員家族旅行のお知らせ」を送るようにと命令したのであった。 「社長はいいよな、自慢できる奥さんだもんな」  とにかく家族とだけは旅行に行くのを避けたいおじさんたちは、ぶつくさぶつくさ文句をいっていた。社長は三番目の二十歳年下の女性と結婚したばかりで、うれしくてたまらないのだ。おじさんたちは、社員のことを思っての旅行というよりも、自分の女房を自慢したいから、あんなことをいったに違いないと、やっかんでいた。独身の女性社員たちは、 「楽しみねぇ」  と胸をわくわくさせていた。どんな男の人にどんな家族がくっついてくるのか、想像するだけでも笑える。家庭での彼らの生活が垣間《かいま》見られるだけでも、旅行の楽しみがふえるというものだ。 「ね、あなたも楽しみよね」  同僚にそういわれて、いちおうはうなずいたものの、私は彼の家族を見たいような気もしたし、見たくないような気もした。絶対来て欲しくないとも、来て欲しいとも思わなかった。 「来たきゃ来い。嫌なら来るな」  こういう心境だった。私と彼との関係は、家族がいてもいなくても、大して変りがないような気がしていたから、彼の家族は私にとっては、どっちみち見えない人々だったのである。  彼に、旅行に家族が来ると聞いたときも、 「あっそ」  と答えただけだった。 「女房が、『久しぶりに会社の人に会いたいわ』なんていってさ、とっても楽しみにしてるんだ」 「ふーん」  結婚してまで、かつての会社の人たちに会いたいなんて変な女。よほど友だちがいないんだろうな、などと、ビールを飲みながら考えていた。 「子供がいると、ふだんも動けないし、待ってましたっていう感じなんだよな。まいっちゃうよ」  彼は少し後ろめたいのか、弁解がましいことをいい出した。 「息子が三歳で、結構、大変なんだよ。ちょろちょろ走りまわって、目が離せないんだ。だけど今度はみんなと一緒だし、安心だっていうんだ」 (顔見知りに、子供の面倒を見てもらって、楽をしようっていうわけね)  私は口には出さず、お腹のなかで毒づいた。 「やっぱり、嫌だよな」 「何が?」 「何って、女房たちが来るとさ」 「別に」 「平気か?」 「まあね」  彼はホッとした顔をした。複雑な女心など、ちっともわかっていないようだ。 「そうか、それならいいんだ」  彼は自分が面倒なことに巻きこまれる可能性が少なくなったものだから、ふうっと大きく息を吐いた。そんな姿を見たら、私は急に憎たらしくなり、煙草を吸いながら耳元でささやいた。 「だけど私がひとことバラしたら、一発でおしまいよん」ん」  彼の顔色がさっと変った。 「そ、それだけは……。お、お願いだから」  弱気なすがるような目つきになった彼を見ながら、私は、 「ふふん」  とだけいって、プレッシャーをかけてやったのだった。  旅行の当日、彼はきょときょとと、落ち着かない目つきをしていた。そして私の姿を見るやいなや、小走りにかけ寄ってきて、 「たのむ、な、お願いだ。埋め合わせは必ずするから」  と小声でいって、またあわてて去っていった。集合場所には、わらわらと社員の家族が集まっていた。年老いた両親をつれてきた、心なごむ社員の姿もあったが、ほとんどが女房や子供をつれてきた、幸せを絵に描いたような社員ばっかりだった。ぶつぶつ文句をいっていたおじさんたちは、茶色い布のボストンバッグを持った妻であるおばさんをほったらかしにして、おじさん同士でつるんでいた。 「全く、こんなことになっちゃって」  と、当日の今日になってもぶつくさいっているに違いない。社長は家族の参加が多かったものだから、上機嫌だった。 「これが私の女房だ。どははは」  たのみもしないのに、クラブのちいママみたいな奥さんを、社員に紹介して歩いていた。特に大美人の奥さんもおらず、のちの宮沢りえちゃんになりそうな、かわいい子供もいない。ただの並の人間の集まりは、バスに便乗して、近県の温泉旅館へとむかったのだった。  同僚の女の子たちは、 「マツダさんの奥さんて、意地悪そうね」 「高校から大学まで、ずっとアメリカに居たんだって。だからあそこの家の子供は英語でしつけたらしいわよ。さっき話をしてるのを聞いたらさ、英語と日本語が混じってんの」 「へぇー、嫌なガキ。あとでいじめたろ」  などと、人の家族の噂《うわさ》話で盛り上がっていた。そーっと彼のほうを見ると、視線に気づいた彼は、周囲をきょろきょろと見渡し、他の人が誰も見てないのを確かめてから、口パクでごめん、ごめんとあやまった。 (ふん。そんなにあやまるくらいなら、つれてくんな) 「どうしたの」  隣の席に座っている子が聞いた。 「えっ、みんなよく家族をつれてこれるなって思ってさ」 「ん?」  彼女も腰を浮かせて、ぐるりと車内を見まわした。 「本当だねぇ。人前に出せないようなのが、いっぱいいるわ」  母親に抱かれているのに、のけぞって泣きわめき続けている子供。かつての同僚だった人と再会し、子供そっちのけで喋《しやべ》り続けている若妻。お弁当を食べ終ったあと、奥歯にはさまったカスを、人差し指を突っこんで取ろうとしているおばさん。おじさんたちが家族旅行に反対したのが、わかるような気がした。ここでは彼らのいるところすべてが茶の間になってしまう。茶の間なんかない、一人暮らしの私や、独身のOLにとっては、いまひとつ居心地が悪いのである。  彼の奥さんは、先輩から聞いていたとおりの地味な人だった。地味すぎて私と三歳しか違わないのに、十歳くらい年上に見える。化粧気がない顔に茶色いセーターに黒いパンツ。それも流行遅れのデザインだ。人と話しながら、クセなのか、やたらとぺこぺこと頭を下げるのも、どことなく自信がなさそうな感じをうけた。子供も特別はしゃいだりする様子もなく、彼女の膝《ひざ》の上でおとなしくしている。通りすがりに子供にむかって、 「ボク、おとなしいね」  と声をかけた人がいたが、ビックリして泣いてしまい、母親の胸に顔を埋めてしまった。 「すみません、すみません。人見知りするものですから……」  彼女は話をしているときよりも、もっと深くぺこぺことお辞儀をし続けた。 (あーあ)  何だかうっとうしい人たちだ。彼は明るくさっぱりとした性格だから、自分にないものを求めたのかもしれない。突っ走るタイプの彼には、ああいう地味で地道なタイプの人が伴侶《はんりよ》としてはふさわしいのかもしれない。悪い人ではないのは十分にわかるが、仲よくなれそうになかった。 (彼が不倫するのは当たり前ね)  私は妙に自信がわいてきたのだった。  旅館について一段落すると、ガキどもが大騒ぎしはじめた。長い廊下をキャーキャーいいながら、走りまわって大騒ぎだ。 「まあ、かわいい」  そんなガキどもを見て、わざとらしく声を上げる同僚を横目で見ながら、私と仲のいいグループの子たちは、 「お前ら、そんなことばっかりやってると、ぶっとばすぞ」  と小声でののしってやった。 「あー、うるさい、うるさい」  そういいながら私たちは温泉に入り、家族たちの品定めをし、美人妻ベスト1。根性悪ナンバー1。クソガキナンバー1。かかあ天下ナンバー1。亭主関白ナンバー1などを選んで楽しんだ。宴会は宴会でガキどもも混じってとんでもない騒ぎになった。突然食事中に立ち上がり、自分の父親の上司の刺身を、えいっと踏んづけてしまったガキ。おもらしする子。食べながら寝てしまう子。ちょろちょろとやってきて横に立ち、自分の好物をじっと見つめるガキ。私のところにもやってきて、皿の上を凝視していたが、無視してやった。彼は子供を膝の上にのせて、ゆで卵や肉を食べさせてやっていた。隣に座っている、髪の毛をひっつめにした奥さんも、 「よかったわねぇ」  などといいながら、子供の顔をのぞきこんでいる。 (けっ) 「ビール、ちょうだい」  私は一気にビールをあおった。私は彼に家庭があっても、そんなことは関係ないと思っているけれど、やっぱりあんな姿を見せられたら頭にくる。 (何さ。いい父親ヅラしちゃってさ)  彼と二人でいるときに、不愉快な思いをさせられたことはほとんどないけれど、やっぱり面白くない。ああいうことを彼にやらせて、うっとりとしている奥さんも憎たらしい。 「だいたいね、結婚して妻の座におさまれば、女として立派だと思っているのがいるから、困るんだよね」  唐突にいったもんだから、隣で茶碗蒸しを食べていた女の子が、口のまわりに卵色のかけらをくっつけたまま、きょとんとしていた。 「ねっ、そうだよね!」 「ま、まあね」  わけがわからないまま、彼女は相槌《あいづち》を打っているようだった。もう一度、そーっと彼のほうに目をやった。みんなべろべろ状態なので、私のそんな動作を不審に思う人なんかいないだろう。彼は寝てしまった子供を抱っこしながら、ビールを飲んでいた。そして奥さんは、子供の寝顔を眺めながら、おでこを撫《な》でてやったりしている。 (キーッ)  またまた私はビールをあおった。親子三人のところだけ、他の者が立ち入れない何かが漂っていた。 (いったい私は、何だっていうのよ!) 「ね、一泊だけなんだからさぁ、もうやめといたら。明日、帰るんだしさぁ」  隣の子にたしなめられて、私はコップを置いた。こんな旅行に来るんじゃなかった。風邪をひいたっていって、やめればよかった。深い後悔がぐるぐると体じゅうをかけめぐっていた。  寝る前にトイレに行こうと廊下を歩いていたら、彼ら三人と出くわしてしまった。一瞬、彼はギョッとしたが、何くわぬ顔で、奥さんに私を紹介した。 「いつもお世話様になっております」  ていねいに私が頭を下げると、奥さんは、ビックリして、 「あ、あの、あの、こちら、こちらこそ、どうも、どうも、すみません」  としどろもどろになった。 (この人、いい歳《とし》をしてろくに挨拶《あいさつ》もできないのね)  ちょっと気分がよくなった。しかし彼が子供を抱きかかえて離さない姿が、頭のなかに焼きついて離れなかった。家にいたら、ああやって子供を宝物みたいに扱っているのだろう。 (あー、来るんじゃなかった)  再び、三たび私は深く後悔したのだった。  今までは休みの日も会うことができたのに、彼が、 「休みの日はまずいんだ」  というようになってから、私たちが会うのは平日の夜だけになった。それも残業があったりして、お互いのスケジュールが合わないから、週に一回会えばいいほうだ。 「子供が大きくなってくるとな、いろいろあって」  きっと子供の手をひいて、動物園や遊園地に行ったりしているのだろう。あの年齢よりも老けた奥さんも、いそいそとお弁当を作るのだ。 「このごろ、機嫌が悪いな。どうしたんだ。旅行のことか。あれは仕方ないじゃないか」  私は黙って答えなかった。 「ん? 何を買って欲しいんだ、埋め合わせに。ブラウスか、イヤリングか、指輪か? 二万円までなら、何でもどーんと買ってやるぞ!」 「ふざけんじゃないわよ!」  彼はギョッとして私を見つめた。 「二十七の女が、二万円くらいのものをもらって、喜ぶと思ってんの!」 「ひえーっ」  彼はおびえていた。 「何が、いったい何が欲しいんだ。今まではそれくらいのものだって、うれしいっていってたじゃないか」 「ふん。あなた、プレゼントしておけば、私がくっついてくると思ってんじゃないの」 「バカ、何いってんだよ」  強気を装いながら、彼の手はふるえていた。私は昼間、彼が会社で同僚に見せびらかしていた、安売り店で買った新型の8ミリヴィデオにもむかついていた。あれは私ではなく、子供の姿を撮るためだ。それを私の目がある社内で見せびらかすなんて、何てデリカシーのない奴なんだ。 「いいじゃない、幸せそうでさぁ」 「な、何だよ、皮肉なんかいうなよ」  突っこむとあわてふためく彼を見ているうちに、どうして私はこの人と不倫するようになったんだろうと思いはじめた。最初はこんなふうじゃなかったような気がする。だけど子供が大きくなるにつれて、どんどん家庭のほうに引きずりこまれていくようになった。そしてその埋め合わせが、二万円のプレゼントなんて、いったいどういうことなんだ。 「ま、いいわ」  そういい残して、私は席を立った。  それから私は、用事があるフリをして、彼の自宅に電話をしてやった。彼が家にいないのを知っていながらだ。奥さんは電話口で、 「すみません、すみません」  を繰り返した。奥さんには罪はないけれど、どことなくいじめてやりたい雰囲気を持っていた。あまりに何度も電話をかけたものだから、さすがの彼女も感づいたらしい。 「いいかげんにやめてくれよ」  彼は心から迷惑そうにしていた。別に彼と結婚することなんて考えていない。だけど見えない人々だった家族が、はっきり見えてしまった今では、同じように彼女たちには見えなかった私を、見せてやろうと思っただけだ。私の存在を知ったら、あの地味な奥さんはどうするだろう。泣くのだろうか、わめくのだろうか。私はまた彼の家の電話番号をプッシュし、奥さんに会って話したいことがあると告げた。  彼女は髪をほつれさせたままで、子供を抱えてやってきた。 「あなたですか……」  彼女はため息をついた。 「うち、子供がいるんですよ。私だけだったら、まだいいですけど、子供がいるんです。子供のために別れるなんて、できないんです」  こんな地味な人のどこにそんな力があるのかとビックリするくらい、彼女は必死になっていた。母親の態度にビックリしたのか、子供がギャーギャー泣き出した。本当にうるさい。 「子供がいますから、困るんです」  彼女は子供、子供とそればっかり、繰り返した。それがますます、私の神経を逆撫でした。 「ほら、子供が怖がって泣いてますから、お願いします」  子供が何だ、いったい何だっていうんだ。子供をダシにしないで、あなたと私の女対女の勝負にしようじゃないの。私は黙ったまま、腹のなかで彼女にむかってことばを吐いていた。かわいそうに彼女は夫をつなぎとめておく手だてが、このこうるさい子供しかいないのだ。だけど、こういう対決って、ちょっとわくわくするなぁと、私はもうちょっと、彼の家族を、いじめてあげようと思いはじめたのだった。  火の国の女 「おばちゃーん」  聞き覚えのある子供の声がした。しばらくして背後からどーんと、柔らかいかたまりがぶつかってきた。あーあとため息をつきながら腰のあたりに目をやると、私の顔を見上げてにこにこ笑っている子供の姿があった。 「おばちゃーん」 「あ……、こんちは」  きっとこの子は、私が彼の顔を見て、どんなに、がくっときたかわからないに違いない。まずい、と思った瞬間、悪魔のような声が聞こえてきた。 「太郎ちゃん、太郎ちゃん。どこにいるの? おかあさまはここよー」  周囲の人々がビックリしているのも、プッと吹き出しているのもかまわず、ド派手なプリントのワンピースを着た女が、大声でわめきながらやってきた。 「おかあさまぁ」  悲しいかな、子供はそんな母でも、喜んでとびついていった。私は「おかあさま」に会いたくないので、このままこそこそっと立ち去ろうとしたが、太郎がこちらを指さして「おかあさま」に私の存在を教えてしまったため、逃げられなくなった。 「あら、久しぶりじゃない。元気?」 「ま、まあね」 「まだ一人なの?」 「そう」 「へえ、気楽でいいご身分だわねぇ。私なんか来年この子が小学校の受験で、大変なのよ。予備校っていうか、塾にも通わせてるし」  彼女は大変だといいながら、とっても得意そうだった。小学校の受験というところに力をいれて強調したのを、私は聞き逃さなかった。 「なんだかんだで、すぐ日がたっちゃってねぇ。何やってんだかよくわからないんだけど、おかげさまで、太郎ちゃんの出来がよくってねぇ、慶応の幼稚舎も大丈夫そうなのよ。おっほっほ」  私は、おっほっほという笑い声が、全然、似合わない顔面をした彼女を眺めながら、 (ちっとも変ってない、この人)  とお腹のなかでつぶやいた。  彼女と私は高校、大学と女子校で同じクラスだった。私は高校を受験して入ったが彼女は小学校からその私立の学校に通っている、いわゆるお嬢さまであったが、見てくれもそうだし、口から出ることばを聞いても、とてもじゃないけどお嬢さまとは思えない人なのだ。当時から彼女はみんなの鼻つまみ者だった。高慢ちきで見栄っぱりで、成績だって中の下のくせに、いうことだけは百人分くらいいい、人の意見には全く耳を貸さない、どーしようもない女の子だった。クラス会も、みんなは、 「テルコが来ると嫌だから、内緒にしておこう」  といい、案内状も出さなかった。ところがどういうわけだか、クラス会があることを聞きつけて、ものすごく着飾ってぶりぶり怒りながら登場する。そんなときもご自慢の太郎くんをつれてくる。そして、みんなのこめかみから、汗がたらーっと流れるのを後目《しりめ》に、 「どうしてあたしのことを呼んでくんないのよ! どーせ、あたしがギャーギャー、うるさいからでしょ、いいわよ、そうなんでしょ」  と、三十分も怒り続ける。怒るくらいなら来なきゃいいのに、出席者の誰よりもお洒落《しやれ》をして、そして怒ったあとは、うに寿司を食べまくり、 (早く帰れ)  というみんなの視線にもめげずに、自分に関するあらゆる自慢話をわめき散らしながら最後まで居座るのである。要領のいい人は、さっとその場を離れ、知らんぷりしているのに、トロいというか鈍くさい私はいつも彼女につかまって、文句や自慢話を延々と聞かされた。テンションが上がり、頭の配線が切れんばかりになっている彼女は、私が困っていることなど察知してくれない。というよりも、わかっていても人のことなど完璧《かんぺき》に無視するタイプなのだ。彼女につかまった私に対して、みんなは同情のまなざしをむけてくれる。「こっちにおいで」と、こっそり会場の隅から手招きしてくれたり、「ちょっと用事があるから……」と適当にウソをついて、救出しに来てくれる人もいる。しかし彼女はめげない。 「何よ、あんた。あたし、この人と話してるんだからさ。あっちに行きなさいよ」  せっかく私を助けに来てくれた人も、追っ払う始末だった。 (あーあ)  こんな私だから、学生のときも別に友だちでも何でもないのに、彼女の家に遊びに行くというか、行かされるハメになったのだ。彼女のお父さんは手広く不動産業を営んでいて、ものすごーく大きい、信じられないくらい広い家に住んでいた。両親と一人娘の彼女と家族は三人だったが、お手伝いさんや運転手さんたちのほうが人数が多かった。彼女はその広い部屋の隅から隅まで私に見せびらかし、便所のドアのノブやトイレット・ペーパーのホルダーまで、 「イタリア製よ」  と自慢した。両親にも会わされたが、こんな娘が生まれるのは、当たり前といいたくなるくらいの人たちだった。あくどいことをして儲《もう》けたことが、一目瞭然のしし鼻のお父さん。高慢ちきを化粧で塗り固めた顔のお母さん。両方の欠点を見事に一人娘が受け継いでしまったのだ。お手伝いさんを、「あんた」よばわりし、わがまま放題にふるまっている。親も彼女がわがままをいい出すと手におえないので、札束を口に突っこんで黙らせる手を使った。だから彼女は中学生のとき、すでにロレックスをして登校していたくらいなのだ。それも黙ってさりげなくしていればいいのに、みんなに見せびらかしてまわった。これでまた彼女の成金ぶりが、暴露されたのである。  彼女が見合い結婚したとき、誰もが驚いた。あんな女を妻にする男はよほどの大バカもんか、財産目当てとしか考えられなかったからだ。当時、まだ未婚だった人たちは、 「どうしてあの人が先に結婚して、私たちがあとなのよ!」  と怒りまくっていた。そのうえ、彼女が披露宴には自分よりも不細工な人ばかり呼んだので、また大騒動になった。彼女よりも不細工な人なんて、とても数が少ないから、新婦の友人の出席者は異様に少数だったらしい。おまけに招待状をもらったのは、彼女と親しくしている人ではなかった。その話を聞いて、またまた私たちは怒り、彼女に、 「信じられない嫌な女」  というレッテルをべったりと貼りつけてやったのだ。誰もが彼女と会いたくないと思っていた。それなのに私は、どういうわけだか半年に一度のわりで、彼女とバッタリ会ってしまう。やっぱり鈍くさいらしい。彼女が一人で歩いていれば、逃げることもできるが、子供につかまると、そう簡単にはいかない。それから彼女の家につれていかれ、三時間は自慢話を聞かされるのである。 「久しぶりなんだからさ、お茶でも飲んでいきなさいよ」  私が「待ち合わせをしてるから」とウソをついて断わろうとすると、 「誰、それ。どこで待ち合わせてんの。あたし、その人に電話して断わってあげるわ。はやく、どこで待ち合わせてるかいってよ。呼び出すからさぁ」  と早口でまくしたてた。そういわれると何もいえない私は、またずるずると彼女の家に拉致《らち》されてしまったのだった。行くたびにインテリアが違っている。 「すぐ飽きちゃうのよ、あたし。同じものにかこまれてると、うんざりしちゃってさ」  不細工な顔に精一杯の化粧を施した彼女は、ソファの上で脚を組んだ。 「太郎ちゃん、おかあさまの前で英語でお話ししてごらんなさい」  私の部屋よりも広い個室をあてがわれている子供が、おもちゃの自動車を持ってやってきた。 (ふん、何が、おかあさまだ)  こんなに「おかあさま」が似合わない女はいない。幸い「おかあさま」に顔が似なかった子供は、 「グッド・モーニング、マミー」  と、昼間なのにいいはじめた。 「グッド・モーニング、太郎ちゃん」  頭のてっぺんから声を出す彼女を見て、私は吹き出しそうになるのをこらえていた。ずっと英会話は続くのかと思っていたら、たったそれだけで、途切れてしまった。 「そ、そうね、太郎ちゃん。次は一週間の曜日を英語でいってみましょう」 「サンデー、マンデー、えーと、えーと、サタデー……」 「太郎ちゃんっ!! 違うでしょっ!!」  ヒステリックに彼女は叫んだ。この顔が怒ると本当に怖い。 「この間、フランキー先生に習ったばかりでしょ。さあ、もう一度いってごらんなさい」  私は、英語で一週間の曜日がいえるまでを、ずーっと聞かされていた。十回目にして、やっといえたとき、彼女は満面に笑みを浮かべ、 「この子、優秀なんですって」  といって、おっほっほと笑った。十回もいい直すなんて、よっぽど英語のセンスがないんじゃないかと思ったが、きっとフランキーとやらが、ギャラをたんまりはずんでもらって、お世辞のひとつもいったのだろう。 「はい、次は十二か月よ。一月は何だったかしらね」  私は熱心に聞くふりをして、家のなかを目玉だけを動かして観察した。ソファの横に置いてある小さなテーブルには、家族のポートレイトが、装飾過多の写真立てに入れられて並べられている。何度かこの写真を見たが、いつ見ても彼女だけが邪魔だった。大バカモン、財産目当てと噂《うわさ》した彼女の御主人は、見るからにおとなしく善人としか思えないタイプだった。彼女の一族が、彼のことをうまく丸めこんだのだろう。 (かわいそうに……)  心から彼が気の毒になった。医者という話だから、きっと広い心の持ち主で彼女の傲慢《ごうまん》な態度も許しているのだろう。 「ほーら、ね、すごいでしょ」  はっとして声のするほうを見ると、彼女は子供を抱っこしながら得意げに笑った。 「本当にえらいわね。お利口なのね」 「おーっほっほ」  誉めれば誉めるほど彼女はつけ上がった。私は高校一年になっても、ろくに十二か月の英語のスペルが書けなかった彼女の姿をふと思い出した。 「今は小学校に上がる前に、英語の基本くらいは知ってないとねぇ。そこいらへんの妙な子供と違うんだから、太郎ちゃんは」  彼女は子供に頬ずりをした。私だったら瞬間的に身を引きたくなるが、悲しいかな、子供は喜んでいる。 (ああ、夫も子供も不幸だわぁ)  実の母とはいえ、こんな女になついてしまう子供が不憫《ふびん》でならなかった。 「そうだ、晩御飯を食べていってよ。主人も今日は帰らないと思うし」  私は、うーんと返事をのばしながら、また皿の一枚、フォークやナイフの自慢話を聞かされる自分の姿を想像しては、うんざりした。しかし私がどう思っていようが、彼女が思いついたことは絶対だった。万一、私の親が突然亡くなったとしても、晩御飯を食べていかないと許さないはずだ。それが証拠に、私の返事を聞かないまま、彼女は食事の準備をはじめていた。手伝うふりをしてキッチンをのぞいたら、冷凍庫から一箱二千円の高級レトルト食品を出して、電子レンジに入れていた。 「いろんなことに時間をとられちゃってねぇ、時間が足りないのよ。太郎ちゃん、ほら、トゥインクル、トゥインクル、リトル・スターのお歌、おばちゃんに歌ってあげなさい」 「はあい」  しばらく私はソファにはりつき、子供のわけのわからない歌を聞かされることになった。  そのときドアのチャイムが鳴った。 「はあい、だあれ?」  彼女の嫌味ないい方と同時に、写真で見た男性が入ってきた。 「太郎ちゃん、おとうさまよ」  おとうさまは写真よりもずっと素敵な人だった。 「どうも、いらっしゃい」  きちんと一礼したとたん、彼女は、 「ねぇ、ねぇ」  とべったりとすり寄り、太郎ちゃんがフランキー先生に誉められたと報告していた。 「そうか、そうか」  彼はとても鷹揚《おうよう》だった。こんな女と暮らしていくには、「そうか、そうか」がいちばん無難な方法なのだろう。私たちは、彼女の尽きることのない自慢話を耳に入れながら、夕食をとった。いいかげんに黙ったらどうだと、彼が怒るのを楽しみにしていたが、相変らず「そうか、そうか」とうなずいているだけだった。  デザートを出すからソファに座れと彼女に命令され、私は彼とむかい合って座った。見れば見るほどおだやかで素敵な人だ。あんな女には本当にもったいない。アイスクリームとフルーツを運んできた彼女は、腰をくねらせながら、 「ねー、あたし、欲しいものがあるの」  と彼に甘えた。 「うむ」  彼がひとこといって黙っていると、彼女は雑誌を持ってきて、 「これ、これ」  と指さした。完璧に私は無視されていた。そっとのぞきこむと、そこには有名宝飾店のイヤリングとネックレスのセットの広告が載っていた。 「ほお」  彼はひとことしかいわない。 「いいでしょ、あなた、今度、パーティがあるっていったじゃない。そのときにしたいの」 「ふむ」 「いつも会う人って同じだから、同じ宝石をするわけにいかないじゃない」 「だがなぁ……」 「いいじゃない、三百五十万円くらい。あたし、一所懸命、家事をやってるんだから、ごほうびで、ねっねっね」 (ひえーっ)  こんな女にそんなもの、買ってやることはありませんよ、といいたくなったが、私はラム・レーズンのアイスクリームを口に押しこんで黙っていた。 「ちょっと高いな」 「どうしてー、ねぇ、どうしてー」 「三百五十万だぞ、これ」 「いいじゃない、ねぇ、ねぇ」  彼女はずりずりと彼の膝《ひざ》の上に移動していった。 「うーん」 「もう! 買ってくれなきゃ、ここでおしっこもらしちゃう!」  ビックリした瞬間、もっと驚くべきことが起こった。あまりの発言に頭のなかが真っ白くなった私の耳と鼻を襲ったのは、じょーっという音とアンモニアの臭《にお》いだった。 「わあっ」  とびのいた彼のズボンはべったりと濡れていた。まさか本当に膝の上でおしっこをしちゃうとは思わなかった。 「わかった、わかった」  そんなことをされても、激怒するどころか彼は苦笑して、三百五十万円の宝石を買う約束をした。 「もっと早く買うっていったら、こんなふうにならなかったのよ。あなたが悪いのよ」  彼女はタオルを彼にむかって投げながら、傲慢にいい放った。 「大丈夫ですか」  おそるおそる彼にたずねると、彼はズボンの股間を拭きながら、 「はあ、いつものことですから」  と事もなげにいった。子供はどういうわけだか大喜びで、そこいらじゅうを走りまわっている。私はあっけにとられたまま、呆然《ぼうぜん》とソファに座っていた。 「あー、スッキリした」  彼女はちゃっかり服を着替えて、雑誌の広告ページをビリッと破き、本をゴミ箱に投げ捨てた。この彼という人は、いったい、どんな人なのだろう。妻にこんなことまでされて、苦笑いしているだけなんて、信じられない。おしっこをしたくらいで、三百五十万円の宝石を買ってもらえるなら、私だってもらしたい。だけど大人としての理性が邪魔をして、 「どうぞ」  といわれても絶対にできない。彼女みたいに理性がなければ平気だろうけれど。 「ねぇ、あなた、いいかげんで帰ったら?」  不愉快そうな顔をして、彼女は私にいった。 「あっ、そ、そうね。気がつかなかったわ」  まるで私が勝手に押しかけてきたといわんばかりの態度だ。 「それじゃ、失礼します」  と立ち上がった私の背中に投げつけられたのは、 「そうそう、あなた、急いで出さなきゃならない手紙があったでしょ。ついでに彼女に出してもらえばいいわよ」 「でも……」 「平気、平気。この人、そんなこと気にするような性格じゃないから」  かまいませんとしか答えようがない私は、玄関で彼が郵便物を持ってくるのを待っていた。 「じゃあね」  彼女は私が帰るのを待たず、さっさと引っこんでしまった。 「すみません。よろしくお願いします」  彼は一通の手紙と、二つに折りたたんだメモ用紙を持ってきた。 「これは……」 「メモは外で見て下さい」  彼は小声でささやき、 「それじゃ、失礼します」  と大声でいって、私をドアの外に押し出した。  家のなかからは、太郎ちゃんの「トゥインクル、トゥインクル、リトル・スター」の歌声が聞こえてきた。 「はい、お上手よー、太郎ちゃーん」  親馬鹿丸出しの彼女の声も聞こえる。きっと彼女は近所の人々に、 「ざまあみろ」  と一発かまし続けているのだろう。街灯の下でメモを見たら、「もう一度、お会いしたいので、電話を下さい」というきちんとした字と、病院の名前と電話番号が書いてあった。 (なかなかやるじゃん)  もしかしたら、看護婦さんともうまくやっているのかもしれない。あんな女と暮らしていて、フラストレーションがたまらないほうがおかしい。 「いや、あのようなまじめそうな人だから、結婚後、初めて気に入ったのが私に違いないわ」  私は膝の上でおしっこももらさないし、おねだりもしない。あの女よりはずーっと大人だ。 「電話しちゃお」  私はそうつぶやいて、メモ用紙をハンドバッグのなかに、折れ曲がらないように大切に入れた。  与 作  私の夫は作家である。結婚して十二年、やっと最近になって世の中に知られるようになった。大学の同級生からつき合いがはじまり、ずるずると今まできてしまったような気がする。とにかく彼は学生時代から小説を書くことしか興味がなく、デートをしていても、 「いつか僕は、やってやるぞ」  と、そればっかりいっていた。「やってやる」というのは、本を出して世の中に自分の名前を認めてもらうことだ。ふつうの男の人と、ちょっと違う雰囲気にひかれていた私は、 「そうね、あなただったらできるわよ」  と力づけたりもした。各文芸誌の新人賞に応募したりしていたが、全部の雑誌に嫌われて、最終選考に残ったことなど一度もなかった。それでも彼はめげなかった。あまりに連続して落ちるので、だんだん不安が不憫《ふびん》になり、親兄弟に反対されて彼と結婚したのも、同情心からだったように思う。 「ちゃんと会社に勤めていない男なんか、ろくなもんじゃないぞ」  父は激怒し、私はほとんど勘当同然で結婚したのである。生活をささえているのは、就職した私で、彼は時折、アルバイトをしつつ、残りの時間はすべて原稿執筆に費やしていたのだった。アパートのドアを開けると、彼が台所に立ってキャベツをきざんでいた。働いている私の負担を少しでも軽くしようとする彼の心遣いである。部屋のなかに入ると、テーブルの上には、たくさんの原稿用紙が散乱していた。 (いつになったら、これがお金に変るやら)  と思っても、私はそんなことばは、死んでも口にできなかった。彼のほうの両親も、私にはとても気を遣ってくれていたが、彼に対しては冷たかった。 「女房を働かせて、自分は何の役にも立たないものを書いて、どういうつもりなんだ」  と、お義父《とう》さんが私の目の前で彼を叱ったこともある。しかし彼が、 「僕たち二人のことは、放っておいてくれ」  といい放ったために、話し合いは決裂したのである。  その後、彼の友だちの友だちが出版社に勤めているというので、原稿を書かせてもらうことになった。 「金のためだ、しょうがない」  彼はいいわけがましく、私の前でぶつぶついうだけで具体的な話は何もしなかった。しかし資料として送られてきた本の山を見て、私はビックリ仰天した。エロ本、ビニ本の類がダンボール一箱、届いたからである。 「月末までに六十枚書かなきゃならないんだ」  彼はエロ本の山を前に、ボリボリと頭を掻《か》いた。たのまれたのはエロ雑誌の原稿だった。主人公をセーラー服の純粋|無垢《むく》な乙女に、相手はヒヒじじいで、という編集者からの指定があったのだそうだ。 「ワン・パターンだけど、ワン・パターンのなかに変化をつけるのが、難しいなあ」  とにかく書くのが好きな彼は、多少、当惑しながらも、熱心に原稿を書いていた。私は口では何もいわなかったが、心のなかでは、 (もしもこういう仕事しか来なくて、彼がエロ作家になったらどうしよう)  と気を揉《も》んだのも事実である。作品が載った雑誌は表紙に口を半開きにした厚化粧の女性が描かれ、ピンクや赤の文字が並んでいた。 「ほーら、やっと彼の原稿が載ったのよ」  と親兄弟に自慢することもできず、私はその雑誌を本棚の隅っこに並べた。それから彼は、二十個ものペンネームを使って、いろんな雑誌に原稿を書くようになったのだった。暮らしは少しは楽になったが、本来、彼が求めている仕事とは違っていた。ところがひょんなことで、大出版社の編集者が彼に声をかけてくれて、彼が書きたい小説を書かせてくれた。それがきっかけになって、現在の作家である彼が誕生したのである。  今は、かつて台所でキャベツをきざんでいたのがウソみたいに、彼は執筆で忙しくなった。私は会社をやめ、彼の秘書的な仕事をしている。仕事場兼住居の五LDKのマンションにも住めるようになった。子供はいないので、毎日、彼の仕事に合わせて、私は過ごしているという感じである。彼が大きな出版社から本を出したとたん、あれだけ冷たかった双方の両親の態度はころっと変った。うちの親は、 「今から思えば、ちょっと見はたよりないが、何か大きなことをやりそうな気配があった」  といって、出た本を手にして近所の人に、 「この本を書いたのは、うちの婿《むこ》なんですよ」  と吹聴してまわった。お義父さんは、 「あいつは本当にガンコだが、黙々とひとつのことをやりとげる性格なんだ」  と私に自慢した。連絡が途絶えていた、遠い親類からも電話がかかってきて、サイン本をくれとせがまれたりした。原稿を書きとばしているときには、意地悪な編集者に「お前」よばわりされていた彼も、今では、 「先生」  と呼ばれている。私は「先生の奥様」である。もともと彼は、あまり人の悪口をいわないが、以前、 「あんたの原稿なんか、載せるスペースはないよ」  といった編集者が、彼の本が売れるようになるとコロッと態度を変えて、 「先生のお原稿をぜひ」  といってきたときは、さすがに怒っていた。世の中に名前が出ると、こんなにいろいろな人が集まってくるのかとビックリさせられたのだった。  先生というのは編集者だけではない。若いファンの人たちも先生といってくる。毎日、ファンレターがたくさん届く。その封を切って中身を読むのは私の役目で、返事の必要のあるものだけ、彼に見せることになっている。だいたいは「先生、がんばって下さい」で、かわいらしく終っているが、なかには、 「私を勝手に主人公にしないで」  とか、 「あなたが私にそれほど関心を持っているなんて、気がつきませんでした。二人は出会うべくして出会うのですね」  などと、怖いものもたくさんくる。私は、別にかっこよくも何ともない彼に、どうして小説ではなく彼個人のファンがいるのかと首をかしげていたのである。  ある日、ドアのチャイムが鳴った。ドアスコープをのぞくと、きれいな若い女性が立っている。用件をたずねると、 「先生のファンなので、ぜひお会いしたいのです」  と、ていねいな口調で答えた。姿は良家の子女風、ことば遣いもていねいで、ちゃんとしつけられた様子がうかがえた。私は警戒心をといてドアを開け、仕事部屋の彼に取り次ぎにいった。 「お客さまだけど」 「えっ、仕事中だよ。約束してないだろ」  彼は私に背中をむけたまま、ワープロのキーボードを叩き続けていた。 「ファンの人よ」 「寝てるとか、うまいこといって、追い返してよ。やっと調子に乗ってきたんだから」 「すっごい美人だけど」  美人ということばを聞いたとたんに彼はキーボードを打つのをやめ、 「はい、はい」  と返事をしながら、玄関にむかって早足に歩いていってしまった。 「あっ……どうも」  彼は頭を掻きながら、彼女にぺこぺことおじぎをしている。 「私、先生の御本、全部、読ませていただいているんです。ぜひ個人的にお話をうかがいたいと思いまして、図々しくお邪魔してしまいました」  彼女はすがるような目つきで彼に話しかけた。後ろから見える彼の両耳は真っ赤になっていた。 「あっ、そうですか、どうぞ、どうぞ。ちょうどひと休みしようと思ってたので」  彼はでれーっとした顔をしながら、彼女を応接間に案内した。 (なに、あれ)  台所でお茶をいれながら、よくもあんなきれいな子が、彼に会いに来ようと思いついたものだ、とあきれ返った。彼女はソファに座っていても、きちっと膝《ひざ》をそろえて、両手をその上にのせていた。私が彼の隣に座ろうとしたとき、ちょっと彼が嫌な顔をしたが、無視してやった。私がいようがいまいがそんなこと、彼女には関係なかった。うっとりと彼を見つめながら、 「大学に通っているのですが、ぜひ、作家になりたいんです。どうしたら、先生のようになれるのでしょうか」  とささやくようにいった。 「はあ……」  彼はほとんどのぼせ上がっていた。顔もにやついていてしまりがない。 「やっぱり、たくさん書くことじゃないかなあ。それと何をさておいても、たくさんの人と会うことだね。人間を見つめるって、いうか……」  彼は興奮したときの癖で、めったやたらとしゃべりはじめた。 (けっ、えらそうに……)  仕事がないときに、友だちから飲み会の電話がかかってきても、お金がないので欠席したことを私は知っている。彼はどちらかといえばつき合いのいいタイプではないはずなのだ。 「書き方のテクニックではなく、何を書くかが大切なんだなあ」  彼はソファの上で、だんだんそっくり返っていった。 (かっこつけちゃって)  しかし彼女のほうは、彼のいうことば、ひとつひとつに深くうなずき、ひとことも聞きもらすまいとしているようだった。 「私でも作家になれるでしょうか」  彼女はうっとりと彼を見つめながら、つぶやいた。 「な、なれますよ。自分がそうなろうと思っているのなら」 (あーあ)  私はため息をついた。あの目に見つめられて、ついついそんなふうに答えたのに違いない。そのうえ私があきれ返っている間に彼は、 「もしよければ、僕があなたの作品を読んで批評してあげましょう」  などと約束していた。現在、山ほどの連載を抱え、そしてどれも締め切りギリギリで渡しているのをわかっているのだろうか。スケジュールの調整をしている私は、締め切りに遅れるたびに、 「申し訳ありません」  と編集者にあやまらなければならない。 (そんな安請け合いなんか、しないでよ)  彼の横顔をにらみつけたが、私のことなど全然、気にかけていないようだった。  彼女は彼が作品を読んであげると約束したものだから、大喜びで帰っていった。おみやげに彼は、もらいもののゴディバのチョコレートをあげていた。 「あんなこといって、どうするの? 彼女、真剣よ」  彼はまだ興奮状態なのか、ぼーっとしていた。 「わかってるの? 大変よ、約束を守れるの」 「平気だよ、平気。あの子だって、ああいっても本気で作家になりたいって思っていないさ。ちょっと興味があるから、話を聞いてみたいだけだったんだよ」 「そうかしら」 「そうだよ。だから僕はあの子に、やめたほうがいいなんていわなかっただろ。夢は持たせてやったほうがいいんだよ」  彼女の顔を見て、彼はやめなさいといえなかったんだろうと私は確信した。とにかく彼女の喜びそうなことばかりをいいたかったに違いないのだ。 「でもあの子、本当に書いてくるわよ」 「まさか」  そういって彼は笑った。しかし二週間後、私の予想どおり、彼女は、 「できました」  といって原稿用紙の束を抱えて、再び家にやってきたのだった。  彼はまたまたでれーっとして、彼女を待たせたまま、熱心に原稿を読んでいた。その間も、原稿の催促の電話がひっきりなしにかかり、そのたびに私は、電話口でぺこぺことあやまらねばならなかった。 「先生に読んでいただけるなんて、幸せですわ」  彼女は相変らず、彼に会ってうっとりしている。そしてその視線を感じて、彼はでれーっとしているのがミエミエだった。 「ここは、こういうふうにしたほうがいいね」  彼女は素直にうなずきながら、熱心に話を聞いている。すでに二人は初対面から一歩すすんだ関係になっているのだった。 「大丈夫? あんなことして」  彼女が帰ると、私はついついグチっぽくなった。 「アドヴァイスをしただけじゃないか」 「だって、原稿が遅れるもの」 「うるさいな。僕だって素人の原稿を読んで勉強になることがあるんだ」  私は何もいえなかった。彼女はそれから二度、三度とやってきては、彼に原稿を見てもらっていた。最初は緊張してコチコチになっていた彼女も、近ごろは彼とも打ちとけてきて、 「センセ、センセ」  と呼んでいる。そういわれるとますます彼は顔の下半分をでれーっと伸ばして、うれしそうにしているのだった。三十分おきにお茶をいれかえに行くときに、二人の様子をドアのすき間から盗み見ると、原稿用紙を間に置いて、顔をよせ合うようにしていることもある。彼が得意げに話す文学論とやらを、彼女が目を輝かせて聞いていたこともある。私は彼女とはムダな話は一切せず、事務的に失礼にならない程度の会話だけをかわすことにした。  出歩くのが嫌いな彼が、夜、よく出かけるようになり、日中も気ばらしの散歩といって外に出るようになる。私の第六感はピーンと反応した。 (舞い上がっちゃって、何さ)  私が電話をとると、ぷつんと切れることが多くなったし、意味ありげに二回コールしていったん切れて、また二回コールして切れることもあった。そしてそういう電話がかかってきたあと、必ず彼が、 「えっと……そろそろ、散歩でも行ってこようかな」  と家を出ていくのだ。服装にも無頓着だったのに、編集者につれていってもらってブランド物なんかを買ったりするようにもなった。見苦しいよりは、身ぎれいなほうがいいけれど、動機が不純ではないか。台所でキャベツをきざんでいた彼が、ホテルのバーで若い女性と気取ってお酒を飲んでいたり、もっといろんなことをしたりしている光景を想像すると、再び、 (舞い上がっちゃって)  と毒づきたくなった。  あんなきれいな子に慕われれば、心が動くのもわからないではないが、限度がある。ある夜、私は何となく石けんの香りを漂わせて帰ってきた彼に、 「有名にしてやるからって、若い女の子の肉体を弄《もてあそ》んだりしてないでしょうね」  とドスのきいた声でいってやった。 「な、なにをいってるんだ。バカだな。下らないことをいうな」  当然の如く反論してきたが、ほっぺたがひくひくしているのを見逃さなかった。 「いちおう世の中に名前を知られてるんですからね。気をつけて下さいよ」 「ふん。わかってるよ」  彼ははき捨てるようにいって、仕事場に入っていった。書かなければならない原稿が山のようにたまっているのだ。そのなかでいちばん彼が力を入れている作品があった。編集者が、ぜひ彼に、これを受賞すれば怖いものはないといわれている、アカデミー文学賞をとらせようとしている力作である。彼は書くことに対しては欲を丸出しにした。いちいち気にすることなんかないじゃない、といっても、 「賞が欲しい、賞が欲しい」  といい続けていた。候補にはいつもなるものの、未だに彼は何のごほうびももらっていなかった。 「別にいいじゃない」 「そんなことはない!」  賞をもらうために、彼が原稿を書くのを、私は快く思っていなかったが、それを口に出すとますます事態は悪化しそうだったので、私はただ傍観しているしかなかった。 「あのお嬢さん、来なくなったわね」  嫌味でも何でもなくそういうと、彼は、 「ああ、もう用がなくなったんじゃないか、僕には」  と、苦々しそうな口ぶりで答えた。 「ちゃんと作家になれるのかしら」 「さあ、どうだかね」  彼は妙に冷たくなっていた。連続してアカデミー文学賞を逃しているので、この件に関する話をすると、いらつくらしいのだ。 「あーあ」  椅子《いす》から彼は立ち上がり、送られてきた文芸雑誌を手にとって、パラパラとめくりはじめた。 「あーっ!!」  彼はページを開いたまま、目をまん丸くしている。ビックリして手元をのぞきこむと、そこには、うちに作家になりたいといってやってきていた、あの女の子の写真が載っていた。その横には「大型女流新人登場」の文字が躍っている。 「あらー」  思わず見入っていると、彼は活字に目を走らせながら、これは僕に見せた原稿だ、とぶつぶついっていた。 「すごいわねえ」  彼は何も答えなかった。この文芸雑誌に彼の原稿が載るまでに、苦節十年である。それなのに、彼女がうちに来たのは、つい半年ほど前だ。 「うーむ」  彼は再び椅子に座り直し、キーボードを叩き出した。こっそり雑誌を持ち出して、台所で読んでみたら、こういっちゃなんだが、彼の小説より、ずーっと面白かった。 「彼女、才能があったのね」  美貌も才能もあるなんて、うらやましい。夕食のときに、 「あなたも、あんな女性に慕われて、幸せね」  といっても、彼は黙っている。 「アドヴァイスの効果があって、よかったじゃない」  彼は静かに怒っているようだった。二人の間に、私に知られたくない出来事があったのは、女のカンで感じとっていた。しかし今は二人の仲が終ったことも、わかってしまった。 「彼女も夢がかなってよかったわ。この雑誌に載るのだって大変なことよね」  かつての憎しみがふつふつとわき上がってきて、私はちくりちくりといびりたくなった。 「読んでみたら、なかなか面白かったわよ。きっとこれから活躍すると思うわ」  彼はずっと黙っていたが、突然、すっくと立ち上がり、 「そんなこと、わかるもんか!」  と怒鳴って仕事部屋に籠《こも》ってしまった。  私は書く能力はないが、何が面白いかを判断する能力はある。これから活躍すると予想したとおり、彼女はだんだん売れっ子になり、美貌と共に文才も賞賛の的になった。 「彼女もがんばっているんだから、あなたもアカデミー文学賞がとれるようにがんばってね」  彼は私が彼女の話をするたびに、むっとした。そういう顔を見たさに、私はしつこくしつこく、激励しつつ彼をいびってやった。やっとアカデミー文学賞をとるための、彼の渾身《こんしん》の小説ができ上がった。担当の編集者も、 「受賞間違いなしですよ」  と太鼓判を押してくれた。二か月ほどたって、候補作が発表された。彼の作品も挙がっていたが、何と例の彼女も候補になっていた。異例の早さで候補になったものだから、賞の話題はすべて彼女に集中し、これでまた彼の機嫌は悪くなり、 「あの子は、すぐのぼせ上がるようなタイプなんだ」  といったりもした。あんなに面倒を見てあげたのに、かわいそうじゃないのといいながら、私は溜飲《りゆういん》を下げていた。絶対に賞をとらなければ、彼の機嫌は直らないといった感じだったが、結果は最悪だった。身もだえするくらいに賞を欲しがっていた彼の後ろから、風のようにやってきた例の女性が、アカデミー文学賞をとったのだ。落選の電話をもらったあと、彼は今までとはうって変って、おしゃべりになった。ショックを私に悟られまいと、必死に隠しているようだ。 「先は永いんだから、のんびりやればいいじゃない」 「何をいってるんだ。あせってなんかいないよ。ぜーんぜん、あせってなんかいないんだ」  そういいながら、彼の目に、うっすらと涙がにじんでいるのに、私は気がついていた。  浪花節だよ人生は  私の母が父と知り合った当時、彼は演歌歌手だった。たまたまデパートの屋上でデビュー曲のキャンペーンをしていた父に、母が一目惚れし、追いかけまわしたあげく、ほとんど体落としをくらった状態で結婚したのだと、父が私に話してくれたことがあった。  人前に出る職業だったこともあって、当時の父は身ぎれいで、それなりにかっこよかった。アルバムのページをめくると、斜め前方を見ている、妙にライティングが不自然なブロマイド。キャンペーンのときのスナップ写真。雑誌、週刊誌のスクラップ記事が、山のようにある。集まっているのは、ほとんど若い女性で、その中央で若い父が、にやけていた。スキを見せたら、すぐに女の人に手をつけそうなナンパな顔は、娘として、 「うーむ」  とうなりたくなるようなものだった。もしも私が、父がデビューしたときに母と同年輩だったら、遠くから眺めてはいるが、絶対に近づかなかったと思う。こんな父を追いかけまわした母は、相当のあばずれだったのではないだろうか。しかし彼女は彼女で、 「あーら、たまたまデパートの屋上に遊びに行ったら、そこでキャンペーンに来てたお父さんに見初《みそ》められたのよ」  と嫌そうにいった。父のマネージャーがやってきて、あとで控え室に遊びに来て欲しいといわれ、しぶしぶついていったら、結婚することになってしまったという。父のいい分は、母が地方へもどこへでも追いかけてきて、しまいにはホテルの窓にまたがり、カーテンを握りしめながら、 「結婚してくれないのなら、ここから飛び下りてやる」  と叫んだのだと嫌そうにいった。これからというときに、スキャンダルに巻きこまれるのは最悪なので、仕方なく首をたてに振ったという話だった。 「女なんてたくさん寄ってきたからなあ。別にあれがいちばんよかったわけじゃないんだ」  父は結婚への顛末《てんまつ》を語るたびに、いつも憎々しげな顔をした。母はひとつのことを、しつこくしつこく考えたり、したりするタイプだから、好きになった人のことも、しつこく思い続けていたはずだ。だから私は、じとーっと周囲にまとわりついてきた母に根負けして、父が結婚したのが真相だとふんでいたのである。  歌手の妻になりたがった女と、ほとんどあきらめて結婚した男の結婚生活は、それでも当初はスムーズにいっていた。ヒット曲が一発出て、お金がどーんと儲かって、二十代の若さで家まで建てたからだ。きっと母も有頂天だったはずだ。しかし父も同じように有頂天になり、女遊びが目立って激しくなった。プロの人はもちろん、ファンの女性も、年増以外だったら来る者は拒まなかった。  湯水のようにお金を遣い、母も宝石や服を買いまくり、外車にも乗っていた。その時の写真を見ると、容姿の平凡さを、派手な髪型と身につけているものでごまかしている母の姿が、そこここにある。ジャガーの前でモデルのようにポーズをとっているスナップまである。どれもこれも隣に父の姿はなく、お手伝いさんが撮ってくれたとのことだった。  父のヒット曲の題名は、「御天道《おてんと》様も笑っているぜ」だ。芸名はジョージ・春日である。私は記念にとってあるシングル盤を見て、あまりのダサさにため息をついた。タイトルが、「ナントカのブルース」とか「別れの波止場」とかいうのなら、まだ救われるが、「御天道様も笑っているぜ」じゃ、娘は困ってしまうのであった。  ヒット曲が一発出たものの、その後、父は無視され続けた。しかし演歌は、一発ヒット曲が出ればあとは永い、といわれるとおり、テレビには出ないけれど、キャバレーまわりをして稼いでいた。テレビに出る有名人の妻になりたいという夢を持って結婚した母との仲は、ますます悪くなっていった。  日本各地に夫の子供がいるにもかかわらず、自分に子供ができないのも、彼女を悩ませた。そして私は、父のキャバレーまわりの仕事が少なくなってきたころ、ポコッと生まれた。他にすることがないから、できてしまったようなものなのだ。父が三十七歳、母が三十五歳のときであった。  子供のころ、場末のキャバレーの前を通ったら、バカでかい看板にでかでかと、 「『御天道様も笑っているぜ』の、あのジョージ・春日|来《きた》る!」  と書いてあったことがある。その横には、写真に人工着色したような、ほっぺたがてかてか光った父の似顔絵も描いてあった。 「あ、お父さん……」  そういって指さすと母は、汚いものでも見たように顔をそむけ、私の手をぐいぐいと引っぱって、その場をいそいで去ろうとした。小学校では、 「お前の父ちゃん、売れない演歌歌手なんだってな」  といじめられたり、 「お母さんが、サインをもらってきてっていってたから」  とたのまれたりした。かつての有名人の妻というプライドを捨てきれない母は、父の話が出るたびに、目をつり上げたり下げたりしていたが、私はそんななかで、ぼーっとしていた。いいときを知っている母は、何かといえば、 「お父さんはだらしがない」  とぶつぶついったが、私が生まれたときから父は売れていないので、私には比較するものが何もなかった。父もふだんは家にいなかったし、母子家庭のような生活を送っていたのである。しかし売れないといっても、私はちゃんと学校に行かせてもらっていたし、生まれて二十三年間、広い家に住んでいる。自分は稼がない家事手伝いでも許される身である。だけど母は、 「私の赤いジャガーも宝石も手放した」  と、文句ばかりいうのだった。 「あの人はね、仕事だっていいながら、あっちこっちにいる子供の家をまわってるのよ。ほんとにあんたはかわいそうね」  二人きりの晩御飯のとき、よく母はそういったものだった。腹違いの子供たちがいなければ、その分、私たちはもっといい暮らしができるのだと、ずーっといい続ける。こんな性格の妻から逃げ出したくなる、父の気持ちもわかるような気がした。  ある日、突然、一年ぶりに父が帰ってきた。絶対にやめてほしい、幅広の派手なプリントのネクタイと、腕のぶっとい金鎖、後生大事にはめているダイヤ入り腕時計は健在だったが、髪の毛が少なくなったのがうら淋しい感じだった。 「おおっ、大きくなったなあ」  ジョージ・春日はそういって、二十三歳の私の頭を撫《な》でた。 「ふん」  母は父の姿を見て、そっぽをむいた。  これから二人の間で火花が散るのはわかりきったことだった。私は二階の自分の部屋に籠《こも》ったふりをして、ドアをうす目に開けて、階下の話し声を聞いていた。相変らず彼女は、私が生まれてから耳にしている同じグチをいい続けた。きっと父が何十年も聞かされている文句だ。しばらくごそごそと揉《も》めていたが、父はとどめの一発、といった口調で、 「歌手はやめるぞ!」  といい放った。 「えーっ」  母の絶叫の次に聞こえてきたのは、私の名前をヒステリックに呼ぶ声だった。 「お父さんたら、こんなこというのよ」  母は単に歌手の妻ではなくなるのが、嫌だったみたいだ。 「やめてどうするの」  とたずねた私に、父が、 「カラオケ道場をやるんだよ」  と答えたとたん、母は、 「わーん」  と泣き出した。私はジョージ・春日の娘といわれているだけで、すでにどん底に落ちている心境だったので、どんな仕事をしても、どうでもよかった。現在の生活が続けられれば、何だってよかったのである。母が泣いているのを完全に無視して、父は、 「明日から工事に来るから、荷物をどけておけよ」  と母にいい渡した。ジョージ・春日の全盛期に建てたこの家には、母だけが使うお召し替え用の十二畳ほどの広さの部屋があった。そこをつぶしてレッスン室にするという話を聞いて、母はますます大きな声で、 「わーん」  と泣いた。バックにはレコード会社がついていて、道場で目ぼしい人材をピック・アップして、いずれはレコードデビューができるシステムにすれば、生徒がわんさか集まるはずだと、ジョージ・春日は自慢した。デビュー当時の、いつも、 「どこかにいい女はいないか」  と捜しているようなナンパの目つきと、 「何か儲かる仕事はないか」  と捜している今の目つきと、対象は違えど目が物語っているものは同じだった。  翌日、大工さんがやってきて、母の自慢のお召し替え部屋をとりこわしにかかった。山のようにある服は、仏間行きになった。 「ジョージ・春日っていえば、昔は泣く子も黙るっていうくらいの大人気だったからなあ。ビルを借りてもいいんだが、生徒はジョージ・春日の家でレッスンが受けられるっていうのが、また魅力なんだ」  父は勝ち誇ったように笑った。そんなもんかいなと思っているうちに、防音設備がほどこされたレッスン室はでき上がっていった。応接間からグランド・ピアノを移動し、レコード会社からもらってきた、五線譜が書いてある黒板が運びこまれた。それを見て、母はもう泣きはしなかったが、やっぱり怒っていた。たった一発のヒットだけが過去の栄光で、今はそのおこぼれで暮らしている。父はいばっていたが、私は、 (あんなこといったって、生徒なんか来ないんじゃないの)  と内心、父のことばを疑っていた。有名な作曲家、ヒット曲をたくさんとばした有名な歌手ならともかく、父が巷《ちまた》の人にそれだけの影響力があるとは、とてもじゃないけど、私には信じられなかったのだ。家の塀にとりつけられた、 「ジョージ・春日、カラオケ道場」  と大きく書かれた音譜の形の看板は、私をガックリさせた。そしてそれ以上に私をガックリさせたのが、父の姿だった。 「おい、どーだ」  背後から父の声がしたので、ふり返ったとたん、私は口をあんぐりと開けたまま、そこに立ちつくした。 「どーだ、まいったか」 「…………」  きのうまで、ススキの野原みたいにわびしかった父の髪が、不自然にふっさふさになっている。 「おい、どーだ、どーだ。何とかいえよ」  私はただただびっくりしていた。 「第二の人生の出発だからな」  たしかに昔の父の姿には近づいた。しかし、そんなことまでする必要はあるのだろうか。 「でも……かつらなんて……」  やっとの思いで口を開くと、父は、 「これはかつらじゃない! 毛の帽子!」  と怒った。  みんな、ジョージ・春日の昔の姿が目に焼きついているのだから、夢をこわさないようにするのが役目なのだ、ともいった。父は「毛の帽子」をこれからもかぶり続けるつもりらしかった。私はただただ、ジョージ・春日のやることを眺めているだけだった。  ところが驚いたことに、カラオケ道場の申しこみ者は殺到した。そのほとんどが、おじさん、おばさんばっかりだったが、次々と家に押しかけて申しこんだついでに、興味津々《しんしん》で家のなかをのぞいていた。父はカラオケ道場の入会希望者が来るたびに、毛の帽子をかぶった姿で、 「やー、どーも、どーも」  と十年前から友だちみたいな顔をして、出迎えた。 「んまあ、あのジョージ・春日さんに、お会いできるなんて、まるで夢のようだわ」  そういいながら、両手を胸の前で組んでうっとりしている、牛みたいなおばさんもいた。 「そうですか。そりゃ、うれしいなあ」 「昔と全然、お変りないわ」 「いやー、まいったなあ。はっはっは」  父は今までみせたことがない笑顔で、 「ぜひカラオケをやりましょう」  と勧めていた。若い女性が来ると特に重点的に誘った。 「ふんっ」  母はそんな父を横目でにらみつけ、二階に上がってしまったが、そんな彼女の怒りをよそに、父はへらへらと愛想をふりまいていた。  母はウサ晴らしに、毎日、買物に出かけるものだから、デパートの紙袋があちらこちらに散らばっていた。今までは私と母の二人だけで、しーんとしていた家のなかは、おじさん、おばさんの出入りで騒然としはじめた。なかにはカラオケは口実で、ジョージ・春日のお宅拝見が第一目的のおばさんもいて、勝手に風呂場をのぞいたり、冷蔵庫を開けて中身を点検したりしていた。そのたびに私は、丁重に注意して彼女たちに出ていってもらい、ふとどきな連中が、また忍びこんでこないように、見張っていなければならなかった。  父は有頂天だった。続々と生徒はやってきたし、毛の帽子のおかげで、みんなに「若い」と誉められるし、スキップせんばかりの喜びようだった。喜びついでに若い女もつれてきた。 「仕事を手伝ってくれる、ルミちゃんだ」  そう父はいったが、どう見てもカラオケ道場のためにつれてきたとは思えない。 「よろしくお願いしまーす」  髪の毛が長く、やせてはいるが出るところは出て、脚がものすごくきれいだ。ちょっと見は清楚《せいそ》だが、よーく見ると目の奥には、自分の都合のいい男に食らいついたら放さない、といった雰囲気の光がピカッと光っていた。 「はあ、どうも」  私が挨拶しているというのに、父は、 「ささっ、ルミちゃん、お仕事、お仕事」  といいながら彼女の肩を抱き、レッスン室に入っていってしまった。おじさんたちはルミちゃんの登場で、ますますやる気が出たのか、防音設備をものともしない大声で、「函館の女」をがなりたてていた。  生徒さんにお茶を出すからといって、ルミちゃんは台所にも出入りするようになった。彼女の姿を見て、自分の罪ほろぼしにお手伝いさんを雇ってくれたのかと喜んだ母も、違うとわかって、ますます機嫌が悪くなった。 「何よ、あの女」  近ごろ母の人相も悪くなってきた。 「�あの女�なんて、やめなさいよ」 「ふん。勝手に台所を使うなんて、許せないわ」  何よりも炊事が嫌いだったはずなのに、ルミちゃんが台所を使うと、嫌味ったらしく塩を撒《ま》いたりした。 「お父さんのアシスタントでしょ」 「ふざけるんじゃないわよ。あの人の性格からいって、絶対、それだけじゃないに決まってるわよ。私は昔っから、苦労させられてきたんだから」  日本各地にいる私の異母兄弟、姉妹の話をはじめ、熱海の芸者さんとのことや、私が小さいころに、しばらく、愛人が同居していたこともあるのだと、彼女は一気にまくしたてた。 「信用しちゃだめ! あの人は。単なる金銭運搬人と思わなきゃ。わかった、父親だと思うとむなしくなるからね」  毛の帽子をかぶったのを見ても、無反応だった母の本心がわかったような気がした。彼女にとっては、父がどうしようと、自分の生活がおびやかされない限り、もうどうでもいいのだ。だけどやはり若い女の人が出入りするのは、女のプライドが許さないらしく、ちくりちくりといじめていた。 「あなた、そんな短いスカートを、仕事のときにはいてきて、大丈夫?」  などと、猫撫で声で嫌味ったらしく聞いたりした。しかしルミちゃんも、ただ者ではなく、 「ええ、もたもたしないし、はきやすいですよ。ジョージ先生もとっても似合うっていってくれます」  と切り返した。そしてますます二人の仲は険悪になっていった。 「あの、あばずれが……」  母は憎々しげにいったが、私は黙っていた。幸い家が広いので、顔を合わさずに済まそうと思えばできるので、それをいいことに、私と母は部屋に籠るようになっていった。時折、階下のドアからもれてくるカラオケ道場の音が、母の神経を逆撫でした。 「へったくそねえ。よくカラオケなんか習おうと思うわね」 「へただから習うんじゃないの」 「基本がなってなきゃ、何をやったってダメよ」  私たちの耳には、おばさんが身をよじって歌っている「花街の母」が、こびりついた。 「どうも、お疲れさまでしたぁ」  明るいルミちゃんの声や、ドアがバタンと閉まる音も聞こえる。おじさん、おばさんの笑い声もする。私と母だけが、のけ者にされていた。  仏頂面の母をひとり部屋に残して、私は不審な侵入者がいないか、チェックをはじめた。この間など、三人で私の部屋をのぞいているおばさんがいたりして、ちっとも気が抜けないのだ。私の部屋、母の部屋、風呂場、トイレ。どこにも侵入者はいなかった。父の部屋のドアを開けた。椅子の上にルミちゃんのピンクのジャケットがかけてあるのが、エッチな感じがする。  棚には、過去のジョージ・春日の栄光の品々が飾られていた。歌唱賞のトロフィーもいくつかある。かつては、金色に輝いていたプレートには、「御天道様も笑っているぜ」と彫ってある。授賞式の大きなパネルも、べこべこになって変色している。まだ毛の帽子をかぶらなくてもよかったころの父が、にやけた顔でおさまっていた。父の後ろで拍手をしている、受賞できなかった歌手のなかには、今では大御所として君臨している人もいた。  一発屋だった父は、それっきり御天道様に見放されてしまった。けれど、また新たな人生に意気ごんでいる。毛の帽子で自信をつけて、ルミちゃんみたいな若い女の子を口説いているのだろう。机の上に置いてある、天狗《てんぐ》の絵のついた得体の知れない薬が気になりながら、私はドアを閉めた。  部屋に戻ると、電子レンジでチンしただけのフランス料理がテーブルの上に並べてあった。台所はルミちゃんが使うので、そこでは食事をしたくないと母がいいはるので、私たちはその日の気分で、流浪の民みたいに家のなかを移動するのだ。いただきますもいわずに、レトルトの晩御飯を食べはじめた。仔牛のシチューを食べているというのに、階下から町内のおやじが歌う「兄弟仁義」が、これでもかこれでもかと鳴り響いてきて、いつものように私たちをドツボに陥《おとしい》れてくれたのだった。  愛の水中花  私の両親は、平凡すぎるくらい平凡な夫婦である。小さな工場でずっと働いてきた父は、冗談もいわず、生真面目《きまじめ》が服を着て歩いているような人だった。母は、 「お父さんが、もうちょっと要領がよきゃあねぇ」  といいながら、パートに出ていたりしたが、特別、生活には不満はないように見えた。いわゆるごくごくふつうの、おばさんであった。そのふつうのおじさんとふつうのおばさんは、若いころ何となく知り合って、結婚し、そして一人娘の私が生まれた。私が、学校を卒業し、東京で就職し、結婚したあとも、彼らは郷里の小さな家で、夫婦二人でむかい合って御飯を食べ続けていたのである。二人と老犬のポチだけの家は淋しかろうと、様子をうかがいに電話しても、父は、 「あー」とか「うん」しかいわない。 「体の具合はどう」  と聞いても、 「あー、まあまあだ」  という。 「風邪はどう?」 「あー、ひいてるかもしれない」 「平気?」 「まあ……、大丈夫だろう」  てんで活気がないのだ。一方、母のほうは、パート先のお弁当屋さんの仲間と、夜はスナックに行ってお酒を飲んだりして、子供から解放された第二の人生を楽しんでいた。だから夜間の割引きを利用して電話をかけると、出るのは父ばかりだった。それも十何回かコールしてやっと、 「はい、はい」  と面倒くさそうな声がする。父がいつも座っている座布団の位置から、電話は手を伸ばせばすぐのところにあるのに、切れるギリギリまで受話器をとらない。呼び出し音が止まったら、そのまま居留守を決めこむつもりなのである。 「なかなか出ないと、死んじゃってるかと思うじゃない」 「あー、そうかもしれんなぁ」 「やめてよ、そんなこというの」 「ポチとお父さんと、どっちが長生きするかなぁ……」 「やだな、もう」  父と話していても、明るい話題になることはない。酒も飲まず、特に趣味もない。ただ工場と家との間を往復し続けて何十年。活気があるほうがおかしいかもしれないが、それにしても、いまひとつ辛気くさい人なのだった。それでもいちおう母とは会話をしているらしく、私たちが寝ようとすると、彼女から電話がかかってくる。 「ちょっと、どうしたの? ちゃんとやってんの?」  いつものように耳にギンギン響く声でがなりたてる。 「うるさいなぁ、寝るところだったのに」  父と母を一緒にこねくりまわして、二つに分けたら、ちょうどいい人間ができる。 「だって、お父さんが、『何か用があったみたいだぞ』っていうから」  私はただ二人に変りはないかと聞いただけだ。そういうこともちゃんといえないなんて、今どきの小学生よりも使えないではないか。そのたびに私と母は、 「お父さんはああいう人だからねぇ……」  とため息をつくのだった。  自分から絶対といっていいくらい、アクションを起こさない父から、久々に電話があった。 「もしもし」 「あー、クミコか」 「……はい、えっ、お父さん」 「あー」 「ど、どうしたの」 「それがなぁ」 「どうしたの、何よ、何があったの?」 「それがなぁ」  私の心臓が不安でドキドキしているというのに、彼はぼーっと、「それがなぁ」を繰り返していた。 「ああっ、じれったいわね。さっさといってよ、さっさと!」  大声を上げたものだから、ビールを飲みながら新聞を読んでいた夫が、心配してやってきた。 「あー、あのなぁ」 「『あのなぁ』は、もういいわよ!」 「うーむ」 「はやく!」 「あのなぁ……、お母さんがいなくなった……」 「えーっ!!」  隣で聞き耳をたてていた夫が、ビックリしてのけぞった。 「ど、どこへいったの?」 「わからん。おかしいなと思ってたら、一週間たってしもうた」 「警察は?」 「いや何も届けてない。ま、そのうちに帰ってくるだろうけどなぁ」 「…………」  この期《ご》に及んで、まだのんびりしている父に腹が立ってきた。自分の妻が、突然、姿を消したのだ。もうちょっとあせったっていいはずなのに、このざまだ。 「とにかく、明日、そっちに行くからね!」  私は受話器を置いて、眠れないまま、ずっと悶々《もんもん》としていた。うちは資産家じゃないから、誘拐したとしても身代金が払えないのはわかりきったことだ。金じゃないとしたら恨みである。母みたいなふつうのおばさんは、それと気づかずに無邪気に人を傷つけている場合がある。 「あーら、やーね」  と冗談を受け流してくれる人はいいが、まじめに受け取って、 (あの人は、私のことをバカにした)  と陰々滅々と恨んでいる人もいるだろう。そんな人はうっぷんが山のようにたまり、それを一気にぶつける可能性だってある。 「ホントにもう、どこにいっちゃったのよ」  夫はなすすべもなく、私の周囲を所在なげにうろうろしながら、 「大変なことになったねぇ」  と何度もつぶやいた。 「とにかく、ちょっと行ってくるわ」  私と夫は暗い目つきをして、一夜を明かしたのだった。  朝一番の列車でかけつけた実家には、父と、母の兄である伯父がいた。 「クミちゃん、えらいことになった」  伯父は心から心配しているように見えたが、父は相変らず、ぬぼーっとしていた。私はそんな鈍くさい父を、ぶん殴ってやりたくなった。 「心当たりはないの? おじさん」 「それがなぁ、わしらにはわからないことばかりで」  私たちは父を無視して話しこんだ。ふと庭のほうに目をやると、生垣《いけがき》のすき間から、家のなかをのぞいている人々の顔があった。 (もう、近所の人にバレている)  私が帰ったのをすばやく察知して、興味|津々《しんしん》で様子を見にやってきたに違いない。そんな彼らに、ちぎれんばかりに尻尾をふっているポチにも腹が立った。不安と怒りでテンションが上がった私は、意味もなく家のなかを歩きまわった。 「なくなっているものはないの?」 「それがわからんのだ」  私の質問に答えるのは、母の兄である伯父だった。父は彼の背後で、おどおどしているだけである。 「何年、夫婦をやってんのよ。女房が何を持ってるかくらい、知らないの?」  母が怒ったときのキンキン声と、私の声はよく似ていた。またそれが不安をつのらせた。 「警察に早く連絡しなきゃ」 「それが……」  伯父は歯切れが悪かった。もごもごと口ごもり、目つきもきょときょとと、落ち着きがない。私はだらしのない男二人を前に、隠してることがあるのなら、全部いえ、と怒った。 「こんなこと、クミちゃんの耳に入れたくなかったんだがな」  相変らず近所の人たちは、好奇心いっぱいの視線を私たちにむけていた。  茶の間で私は背中を丸めながら、伯父の話を聞いた。ぽつりぽつりと彼の口から発せられることばを聞いて、私は頭のなかが真っ白になってしまった。 「お母さんな、一人でいなくなったんじゃないんだ。男と一緒らしい」  あの母が、あの見事にふつうのおばさんが。いくらやめろといっても、 「寒いんだよ」  といって地厚のズロースを脱がなかったあの人が。太ったといってスカートのウエストを、全部、伸縮自在のゴムにしてしまった人が。パーマをかけ直すとお金がかかると、髪の毛を黒ゴムでひとくくりにしている人が。宮田トミ子、五十歳が。私は愕然《がくぜん》として半分腰を抜かしていた。こんな状況になっているのに、激怒も消沈もしない、あまりに反応のない父の姿を見ていると、憎しみさえつのってきたのである。 「こんなんじゃ、警察にもいえん。近所の人もみんな知っとる」 「相手は誰」  いちばん聞きたくないが、聞かねばならないことだった。 「それが……」  伯父はちらりと父のほうを見たが、父は背中を丸めたまま、宙に目をやっていた。 「相手は二十七だ。パート先で知り合ったらしい」  頭のなかが真っ白になったうえに、キーンと耳鳴りまでしてきた。二十七歳なんて、私よりひとつ上じゃないか。いったい、何を考えているんだろう。自分の息子みたいな若い男と逃げるなんて。私は母親みたいな年齢のおばさんと恋に落ちる、男の姿も想像できなかった。彼はお弁当の配達担当で、働き者の好青年という評判だったようだ。 「お父さんがね、そんなふうに、ぼーっとしているからこんなことになるのよ。いつも生きてんだか死んでんだか、わからないじゃない。シャキッとしてないから、お母さんに逃げられるんでしょ!」  ヒステリックに声を上げた私を、伯父はあわててとりなした。はっとして庭のほうに目をやると、背のびしてこちらの様子をうかがっている人々の姿があった。 「お父さんも困っているんだから、そんなふうにいうな」  伯父は押し殺した声でいった。 「あーあ」  とにかく私たちは、母の帰りを待っているしかなかった。相手がいるとわかって、驚きはしたものの、命に別条はなさそうなことがわかったのは救いだった。とはいえ、いつまでも私はここで、いつ戻るかわからない、もしかしたら一生、戻ってこないかもしれない母を待っているわけにもいかず、二泊しただけで東京に帰ることにした。  荷物を持って一歩、外に出ると、顔見知りのおばさんたちが、 「大変だったね、おばさんも驚いたよ」  と口々にいいながら、わらわらと集まってきた。 「はあ」 「誰にも愛想がよかったからね、トミ子さんは。一緒に逃げた男の人のこと、『近ごろ珍しい、働き者だ』って、誉めてたんだよ。それがこんなことになってねぇ」 「はあ」 「どこにいっちゃったんだろうね」  そんなこと私が聞きたいくらいだ。 「あまり思いつめないようにね。落ちこんじゃだめだよ」  おばさんたちにそういわれれば、そういわれるほど、私は落ちこむのに、そんなことには、全然、気がついていないみたいだった。結局、彼女たちは、あーだ、こーだといいながら、駅まで私にまとわりついてきた。 「元気、出すんだよー」  改札口でおばさんたちは手をふった。 (ふん。元気なんか出るか)  私は怒りと困惑と恥ずかしさが、ごっちゃになりながら、東京に帰ったのだった。  それから一か月たっても、父からは何の連絡もなかった。ああいう性格だから、今の状況を判断し、てきぱきと身内に連絡することなんかできないのだ。こっちから電話をかけても、 「お父さんは大丈夫だ。気にしないでくれ」  などとトンチンカンなことをいう。私は母の行方が第一で、父は二の次なのだ。それなのに、ぬぼーっとそんなふうにいわれると、ますます怒りがこみ上げてくる。あんな父にまかせておいたら、見つかるものも見つからなくなる。このままうやむやにするなんて、とてもじゃないけどできない。私はのらくらしている父の態度に業《ごう》を煮やして、父には電話せずに、恥をしのんでまた実家に行ってみた。 「お父さん、いるの」  玄関を開けてふと目を落としたところに、一足のスニーカーが脱いである。絶対に父がはかない、若者むきのものだ。奥からは、おいしそうなにおいが漂っている。 「お父さん、お父さん」  首をかしげながら、茶の間に入っていった私は、目の前の光景にクラクラした。父は上機嫌でいつもの自分の座布団に座っていた。そして父の相手をしているのが、ピンク色のエプロンをした、若い男の子なのだ。 「ちょっと、あんた誰?」  突然の娘の出現で、なごやかな団欒《だんらん》を乱された二人は、ただ驚いて呆然《ぼうぜん》としていた。 「誰なの?」 「誰って……うーん」  大学生風のその優しげな男の子は、不安そうな目で父のほうを見た。 「誰って……お父さんのお友だち!」  父がそう答えたので安心したのか、彼は、 「こんばんは」  と私にていねいに挨拶《あいさつ》をした。  茶の間のテーブルの上には、豚肉のしょうが焼き、野菜サラダ、肉じゃが、みそ汁、漬け物が並んでいた。 「どうしたの、これ」 「僕が作りました」  男の子は、「うふっ」と笑った。いったい、何なのだこれは。父は当惑はしているものの、私がほとんど見たことがない、幸せそうな顔をしている。男の子は男の子で、今まで母がでんと座っていた場所に座り、電気炊飯器を横に置いて、恥ずかしそうにもじもじしていた。 「あー、クミコもどうだ、一緒に」 「どうぞ、どうぞ」  父の声をうけて、男の子は座布団のホコリを払い、私に勧めた。 「お腹すいてないから、いい」  腹の虫が鳴いているのを悟られまいと、私は大きな声を出した。 「そうか……。じゃ、先にいただくとするか」  父と男の子は、お互いの目を見ながら、遠慮がちに箸《はし》をとり、御飯を食べはじめた。いつまでも茶の間に突っ立っているわけにもいかず、私はかつての自分の部屋のふすまを開けた。そこには大きなボストン・バッグがあり、カーテン・レールに引っかけてある小物干しには男物の下着が干してあった。あわててふすまを閉めた私は、台所の流しの前で、脚立《きやたつ》に腰をかけているしかなかった。あの幸せそうな父の顔。まめまめしくおさんどんをする、性格のよさそうな若い男の子。まさかあの、ぼーっとしたあの人が。工場と家とを、まるで伝書バトみたいに往復するだけだった人が。髪型がすでにバーコード化しているあの人が。かっこよくもお金もないあの人が。宮田権造、五十一歳が。 「はー」  私は流しのふちに、だらりと両手をのせ、吐けるだけの息を吐いた。うちの両親って、どうなっちゃってるんだ。けがらわしいというよりも、わけのわからない感情が、ぐるぐると体じゅうをかけめぐった。それはいくらため息をついても、体の外に出ていくことはなかったのだった。  食後、私は男の子に席をはずしてもらうようにたのんだ。 「はい。僕は跡片づけをしてますから」  彼はお盆の上に汚れた食器をのせて、流しに運んでいった。近所にみっともない、どういうつもりだ、と父をなじっても、彼はひとこともいわなかった。 「私の立場はどうなるのよぉ」  そういったとたん、ぶわっと涙が出てきた。 「すまん。うまくいえないが、つまりは見てのとおりだ」  父も母も若い男に手を出すなんて、娘の面目は丸つぶれだ。夫にだってこんなことは話せやしない。 「お母さんも、このことが原因だったんじゃないの」 「うーん」 「もう知らないから!」  私はそういい捨てて、バッグをつかみ、家をとび出した。 「あっ、クミコさあん」  背後から台所で洗い物をしていた男の子の声がした。無我夢中で駅まで走った。男の子に慰められたりしたら、それこそ私の立場がないではないか。  駅には誰も追ってこなかった。そのほうがよかった。私は列車に揺られながら、これからは、親はいないと思うことにしようと決めた。あの人たちは、あの人たちなのだ。もう何があっても、関係ない。泊まる予定で行ったのに、その日のうちに帰ってきた私に、夫は、 「どうしたの」  と不思議そうな顔をした。 「うん、お父さん、元気だったし、むこうにいてもやることがないみたいだったから」 「そうか、大変だなぁ」  私が実家で見た光景なんか、口が裂けたっていえない。だってあんな姿を見せられたら、私が生まれたのさえ疑問だ。 「しばらく放っておいたほうがいいのよ。何とかなるわよ」 「そうかなぁ」  いまひとつ不可解な顔をしている夫に背をむけて、私は布団のなかにもぐりこんだのだった。  それから二週間、私は実家に電話もしなかったし、ただ忘れようとつとめていた。このまま疎遠になって、親子関係が切れてしまったほうがよかった。そうすれば私は夫だけを身内と思って生きていけばいい。だけどそんなことを考えているのは、いつまでたっても両親を忘れられないことでもあったのだ。そんなある日、電話のベルが鳴った。 「クミコ? お母さんよ」  母だった。私はただ、あわあわとあせるだけで、何もいえない。 「今、うちなの。もうどこにもいかないから、安心してね。じゃあね」  一方的に電話は切れた。私はあわてて夫に実家に行く旨の置手紙をして、列車にとび乗った。まさか、あの男の子と同居するんじゃ……。お父さんのほうはどうしたんだろう。私は恥をかくためだけにあるような、駅から実家までの道を走った。ガラッと玄関の戸を開けると、宮田トミ子が立っていた。出ていったときと全然、変らない。 「あー、クミコか」  あとからぬぼーっと宮田権造も姿を現した。 「さあさ、久しぶりに三人でお茶でも飲みましょう」  私はその場に突っ立ったまま、あっけにとられていた。そこには私が実家に住んでいた時と同じ、家族の団欒の雰囲気が漂っていた。茶の間で渋茶をすすり、羊羹《ようかん》を食べている両親の姿は、まるで何事もなかったかのようであった。 「お茶、もう一杯」 「はい、はい」  父も母も全く事件前と変らない。 (まさか、あれは悪夢だったのでは)  淡々とした二人を横目で見ながら、事件をむし返す勇気は、私にはなかった。  一晩泊まって帰るときも、母は、 「たまには夫婦で遊びに来なさいよ」  といっただけだった。 「うん」  列車に乗ってもう一度よく考えても、何かに化かされたとしか思えない。 「よかったなぁ」  心底、よかったよかったと喜んでくれている夫のことばにも、 「まあね」  と気の抜けた返事をするしかなかった。そういったとたん、目の前には、キツネとタヌキが、茶の間で渋茶をすすっている光景が浮かんできたのだった。  王 将  うちの会社のホンダという名前のおやじは、女の子全員に嫌われている。 「あいつさえいなければ、どんなに会社の空気がすがすがしくなることか」  と、みんなで話し合っているのだが、残念ながらやめる気配は全くない。男性五人、女性三人の小さな職場だから、彼がやってくると逃げ場がないのだ。そのうえ、他の人はとっても忙しいが、ホンダはたいてい暇だから、ヘタをすると女性三人の中に彼一人という状況に陥ることがある。そうなると私たちは、ホンダのペースに巻きこまれて、ドッと疲れてしまうのだった。  彼は四十九歳、独身。外見は子供が五人くらいいそうな立派なおやじである。身長は一八〇センチと高いのであるが、顔がでかくてものすごく短足だから、上半身だけが拡大されているように見える。頭髪はあるが、べったりと整髪料で固めている。 「やっぱり人に会う仕事が多いから、身だしなみはきちんとしておかないとな」  というのだが、お辞儀したときに彼の頭に目をやると、たくさんのフケやワタぼこりが髪にこびりついていた。 「ほれほれ、このスーツ、新しいんだぞ」  といいながら、上着の裾《すそ》をぴらぴらとめくるものだから、 「へえ、どこのメーカーですか?」  と仕方なく聞いてやる。すると彼は、 「紳士服のコナカだぞ、松平健が宣伝してたやつだぞ」  と自慢するのだった。目はギョロッとしていて、わし鼻。くちびるはぶ厚くていつもかさかさしていて、前歯にすき間がある。おしゃべりなうえに吐く息が臭い。いくら新しいズボンを買っても、どういうわけだか、すぐジッパーの部分が黄色くしみになっていた。中年だというのに、首にニキビができているのも不気味である。そんな人が遠くにいるだけで、まわり道をしたくなるのに、 「ねえねえ」  とすり寄ってこられたら、私たち三人が逃げたくなるのも、当然だと思う。 「ねえ、彼氏いるの?」  にたにた笑いをしながら、何度このことばを聞かされたことか。私と一年先輩の二人は、適当にあしらっていたのだが、二年後輩の女の子は、ホンダの取り扱いに慣れていないものだから、ついつい、 「はい」  と答えてしまった。するとその声を聞いたとたんホンダの目はらんらんと輝き、彼女と彼のすべてを知らなきゃ、もう生きていけない、といった調子で、彼女のあとをくっついて歩いて質問責めにした。 「ねえ、つき合ってどのくらい?」 「……まだ一年くらいです」 「へぇ、一年ねぇ……。へへへ、どの程度までおつき合いしてんの?」 「…………」 「今の若い人は、すぐパパッとくっついて、パパッと別れちゃうんでしょ。一年も続いてたら、もう、いくところまでいっちゃったよねぇ」 「…………」 「やっぱし、ホテルとか行ったりするの? ねぇねぇ、どうなの」  ホンダは、腰をくねらせながら、彼女に迫っていった。彼女が口を真一文字に結び、上目遣いににらみつけて、やっと彼は、会社から出ていった。 「本当に頭にくるわよね」 「そうよ。他の男の人がいないと、いつもああなんだから」 「あなたもホンダのこと、無視したほうがいいよ。嫌らしいことばっかり聞こうとするからさ」  私たちが口々に文句をいっていると、平社員Aが帰ってきた。うちは社長、ホンダ、平社員A、B、C、そして私たち三人の構成である。 「ずいぶん怒ってるね」  平社員Aは既婚の三十歳で、いい人である。私たちはホンダの行いについて、Aさんにぶちまけた。 「全くなぁ。誰かいい人いないかなぁ。ね、君たちのなかでとはいわないから、友だちで、あの人と結婚してくれる人、いないかな」 「げーっ」  私たちはそんなことを口にするAさんが許せなくなって、 「この人でなし」  とののしると、彼は目をまん丸くして、ごめんごめんとあやまりながら、あとずさりしていった。  私たちは入社以来、恥知らずのホンダに、 「俺とつき合わない」  としつこく口説かれていた。最初はふざけているのかと思っていたが、日に日に目つきが真剣になってくるので、恐ろしくなったこともある。私にしつこくいい寄って無視されると、すぐ、隣の席の先輩のところに移動して、 「あんたももう二十八でしょ。男を選ぶ歳《とし》じゃないよ。いいじゃない、俺とつき合ったってさぁ」  と肩を抱かんばかりにする。あきれ返って私たちが顔を見合わせていると、 「そうかそうか。よし。二人一緒でもいいぞ。そのくらいの甲斐性《かいしよう》はある」  と勘違いして喜んでいた。 「バーカ」  小声でいっても全然気がつかない。それからしばらくは、食事に行こう、映画を見ようとまとわりついていたが、そのうちにあきらめたようだった。しかし何かと私たちと接触したがるのは相変らずで、そのたびにうんざりしていたのである。  ホンダが出ていって、社内にきれいな空気が漂ったのも束《つか》の間《ま》、 「へっへっへ」  という嫌らしい笑い声と共に、彼が紙袋を提げて帰ってきた。 「ほれ、こんなの買っちゃった」  うれしそうにAさんに紙袋の中身を見せたその手元をのぞきこむと、なかにはアダルトもののレーザー・ディスクが入っていた。レンタル・ヴィデオを借りるのならわかるが、レーザー・ディスクでわざわざ購入するなんて、どういう神経をしているんだろう。 「また、ホンダさんも好きですねぇ」 「ひっひっひ」  ホンダはAさんにそういわれて、ぶ厚いくちびるを舌でべろべろとなめながら、ディスクのジャケットを眺めていた。 「あー、会社の空気が、腐る、腐る」  先輩は心底嫌そうに、私の隣でつぶやいた。 「汚らしい!」  今にも吐きそうな素振りだ。 「あの人、女に飢えてる、なんていうもんじゃないわよ。変よ」  あまりにいうので、よく話を聞いてみたら、彼女が顧客のリストをコンピュータにインプットしていたら、横からデータをのぞきこんで、 「三万円あげるから、このなかで独身の女の人のデータだけ抜き出して、ボクに教えてくんない?」  と、ねとっとした目つきでたのんできたという。ビックリして突っぱねると、ちぇっと舌打ちし、 「そんな、小生意気だから嫁のもらい手がないんだ」  と自分のことは棚に上げて、毒づいたということであった。そしてそんなことなどコロッと忘れて、しつこく、 「俺とつき合わない」  とつきまとってくる。彼には人間としての恥じらいとか、遠慮などが一切なかった。ただ本能のおもむくままに生きている人なのだった。自分の分をわきまえて、つつましく生きていればいいのに、楊子《ようじ》をくわえながら、男性むき雑誌のグラビアを眺め、 「いいねぇ、この、中嶋朋子チャンっていうのは色っぽくていいねぇ」  と聞こえよがしにいった。 「松坂慶子も結婚する前はよかったんだけどなぁ。そうそう、叶和貴子は独り者になったな。あーあ、うちの会社も、ちょっと色っぽいのが入ってこないかなぁ」  私たち三人は、当然、中嶋朋子にも松坂慶子にも叶和貴子にも似ていない。 (お前にそんなこといわれたくないよ)  思わずムッとした。特に久本雅美に似てるといわれている先輩は、無言で目をつり上げていた。 「美人がいなきゃ、働く気にもならないよ」  これが彼の、日ごろの私たちに対する復讐態度だった。それがわかっているから、ますます頭にきた。 「それじゃ、ちょっと挨拶《あいさつ》まわりでもしてくるか」  彼は薄笑いを浮かべ、週刊誌を趣味の悪い鞄《かばん》に入れて、横目でこちらの様子をうかがいながら出ていった。 「キーッ」  先輩は力まかせに、キーボードをぶっ叩いた。おっとりしている後輩も、さすがにムッとしていた。しばらく力まかせにキーボードを叩きまくったあと、先輩は、 「あいつ、男の人に好かれているのかしら」  と真顔でいった。私の目の前には、平社員A、B、Cが仕事をしていた。 「嫌われてるんじゃないですか。話しかけられるとみんな顔がこわばってますよ」 「あっ、そう」  ちょっと先輩の表情が明るくなった。 「そうよ、そうよね。そうじゃなくちゃ」  この会社は珍しく善人揃いである。ホンダをのぞいて。彼さえいなければ、心おだやかに勤務できるのに、あいつが一人いるだけで雰囲気はぶちこわしだ。社長がいると、さも自分は部下にてきぱきと仕事の指示をしているフリをするが、社長がいなくなったとたんに、 「このなかでは俺がいちばん上だ」  と平社員A、B、Cにいばり散らし、私たちにいい寄る始末なのだった。  そんなある日、昼の休みが終って午後の仕事がはじまった直後、ホンダが一人の女の人と共に会社に戻ってきた。そしてカツ丼を食べていた社長に何事か耳打ちしたあと、 「お願いします」  と気合いの入った低い声を出した。 「あ……、みんな、ちょっと」  社長の声で私たちは手をとめた。 「ホンダくんが結婚することになった」 (どっひゃー)  一同、口には出さねど、腰を抜かさんばかりに驚いた。結婚する相手がいるんだったら、私たちにしつこくからみついてこなくてもよかったのに、と、思い出してまた腹が立ってきた。私は彼の三歩後ろに立っている、背の高い猫背の女の人の顔を見ようと必死になった。社長にうながされて、その人は私たちにむかって、ぺこんとおじぎをした。 (あっ!)  彼女は近所のラーメン屋さんで働いている人だった。お運びをしたり洗い物をしたりしていたが、いつもそこの御主人に怒鳴られていた。そのせいで猫背になってしまったのではないかと思わせるような感じがあった。彼女はひとことも喋《しやべ》らず、ぼーっと立っているだけで、よくよく見ると、どことなくカッパに似ていた。よくもあんな男と結婚する気になったな、という思いと、ま、しょうがないか、という思いが、ぐるぐると頭のなかを渦巻いた。ホンダは何事か挨拶していたが、右の耳の穴から入って左の耳の穴に抜けていった。 「じゃ、そういうことで」  社長のことばが終ると、その女の人はぺこんとおじぎをして、出ていった。 「やったじゃないですか」  平社員Bがホンダの肩を叩きながらいった。 「フン、あんな女」  平社員Bも含め、一同、その場に凍りついた。 「しつこくてさぁ、仕方なくだよ。誰が好きになるかよぉ。だまされたんだ、俺は」  男性はしーんとなり、私たち三人はまたまた目がつり上がった。 (ひどいっ!)  たしかに彼女は叶和貴子にほど遠いかもしれないが、いちおう伴侶《はんりよ》と決めた相手にそんな暴言を吐かれるなんて、いくらカッパに似ててもかわいそうだ。しきたりとしてお祝いを贈る話にも、私は抵抗した。あんな奴のために大事なお金を手放すなんて、本当に嫌だった。しかし先輩は、 「これであのしつこさから解放されると思えばいいよ。私も嫌だけどさ。私たちだけ払わないわけにいかないもん」  と大人の考えを示した。そういわれてしぶしぶ財布のなかから一万円札を出し、冠婚葬祭のときに活躍する平社員Cに渡した。それだけでも十分なのに、ホンダが結婚式をしないというので、社長がお祝いの会を開くといい出した。私は社長って何もわかっていないんだな、とガックリした。幹事のCに、 「お願いだから、やめさせるようにいって」  と懇願したが、会は開かれてしまった。新婦に気を遣って、私が話しかけても、しとやかなのか、ぼーっとしているのかわからないほど、反応が鈍かった。だからおのずと会話も途切れがちになり、辛気くさいお祝いの会になったのだった。  ホンダも妻をめとり、あのしつこさから逃れられるとホッとしていたのに、彼の性根は全く変っていなかった。二、三か月はおとなしかったが、それをすぎるとまたしつこく、 「ねぇ、ねぇ、俺とつき合わない」  とつきまとってきた。 「どうしてですか! 結婚したばかりなのにふざけないで下さいよ」  と怒っても、気にもかけていない。 「けっ、女房なんて……」  そういいながら、煙草に火をつけた。 「結婚したって、こういうことは関係ないんだよ。今まで誘いを断わっていたのは、俺と結婚するのが嫌だからだろ。もう、結婚する必要はなくなったんだからさ、いいじゃん。お互いに楽しめば」  あっけにとられている私たち三人の前で、彼はわけのわからない理屈をいい、 「ねー、いいじゃない、一回ぐらいさぁ」  と三人の間をうろちょろしていた。 「うるさいなぁ、あっちに行って下さいよ」  先輩がキーボードを叩きながら怒った。そこをすかさず、気のいい平社員Aが、 「ホンダさん、ここ、どうすればいいですか」  と声をかけた。 「おおっ、何でも教えてやるぞ」  仕事ができないくせに、みんなにいばりたがる彼は、大喜びして私たちから離れていった。 「ありゃ、死んでも治らないわ」  先輩はうんざりした顔でいった。ホンダは社長がいないときは、机の上に両足をのせてふんぞり返り、 「これから、思いっきり遊んでやるぞ。結婚したからには、不倫のひとつやふたつもしなきゃ、損だからな」  まじめな平社員A、B、Cが黙っていると、ホンダはいい気になって、べらべらと喋りはじめた。 「俺が何で永いこと独身だったか教えてやろうか。いろいろと女がうるさくってさぁ、そいつらがみんな結婚してくれっていうんだよ。ヘタに寝て、くっついてこられちゃたまんないからさ、適当にあしらってたわけよ。ところが、あいつとはどういうわけだか一緒になることになっちゃってさ。こうなりゃ、結婚してくれっていわれることもなくなるから、割り切って遊べるさ。どはは」  A、B、Cは力なく、 「ははは」  と愛想笑いを返して、すぐさま仕事に戻った。ホンダだけがべらべら喋って、他の六人はまじめに仕事をしていた。あいつの分の給料は、年若い私たちが払ってやっているようなものだ。そのうえ、 「俺と不倫しない」  と舌なめずりをして、すり寄ってこられちゃたまらない。多数決で、会社の嫌な奴をやめさせる法律ができたら、どんなにいいかと、私たち三人は話し合った。  ホンダは結婚しても、ほとんど外見が変らなかった。ズボンの前の部分にも、相変らず黄色いしみがついているままだった。 「奥さん、よく我慢してるね」  破《わ》れ鍋《なべ》に綴《と》じ蓋《ぶた》で、当人同士はうまくいっていると思っていたのだが、平社員Bの話によると、奥さんは実家に帰ったらしいとのことであった。珍しくホンダがA、B、Cを飲みに誘ったので、ついていくと、やたら速いピッチで酒を飲む。彼らもあまりホンダのことはかまいたくないので、ほったらかしにしていたら、突然、隣のテーブルに座っていた若い女の子の膝《ひざ》に突っ伏して腰にしがみつき、どんなにみんなが引きはがそうとしても、女の子の腰から離れようとしなかったというのだ。大騒動のあげく、もとの席に戻し、女の子にも十分にA、B、Cがあやまると、ホンダは今度は床にあおむけになり、 「女とつき合いたいー!!」  とわめき散らした。 「ホンダさん、新婚じゃないですか」  みんながなだめると、彼は、 「三回しかしてないのに、逃げられたぁ」  と、手足をばたばたさせて、あばれ出した。ただでさえ一八〇センチと背が高く顔がでかいのに、そんな男があばれ出したら店内がパニックになるのは当たり前で、一同は店から叩き出された。すると今度は道路に寝転び、 「俺は絶対に別れないぞ。不倫するために、絶対に別れないからなぁ」  と、わめきながら、ぐるぐるまわっていたという話であった。 「大変だったわねぇ」  私たちは善人のA、B、Cにねぎらいのことばをかけた。男の人たちにも迷惑をかけているホンダに、心底、腹が立ってきた。 「不倫するために別れないって、どういうことなのかしらね」  先輩が首をかしげると、Cが、 「不倫と思うだけで、興奮するらしいですよ」  とポツリといった。 「くっだらなーい!!」  女性三人が声を揃えたものだから、A、B、Cはつつっと一歩下がった。 「Aさんもそうなんですか」  後輩は声を荒らげた。人のいいAさんに憧れているので、こういう話題になるとAが気になってしょうがないのだ。 「いや、僕は、そ、そんなことはありませんよ。妻ひとすじです」  A、B、Cと私たち三人は、会社の隅っこに固まって、ああだ、こうだとホンダ批判をしていた。善人の男性たちは遠慮をして、事実のみを公表したにとどまったが、女性三人は、「けがらわしい男のクズ」「奥さんがかわいそう」「通勤電車で、絶対に痴漢をしているに違いない」などと、腹のなかにたまったものを、全部吐き出してやった。そのあげく、 「どうせ男の人は、多かれ少なかれ、ホンダみたいなことを考えてるのよね」  といい放って、男性陣をビビらせた。そのとき、ドアが開いて、のそっとホンダが入ってきた。私たちは、 「さて、と、仕事しようかな」  とつぶやきつつ、それぞれの机に戻った。 「ねー、ねー」  昨夜、A、B、Cに迷惑をかけたというのに、ひとこともあやまらず、私たちのほうにすり寄ってきた。無視していると、 「ねぇ、本当に、俺とつき合わない?」  と舌なめずりしながら、顔を近づけてきた。 「嫌だから嫌っていってるでしょ!!」 「私も嫌!」 「しつこいわねぇ、もう」  誘われないうちに、先輩も後輩も声を揃えて拒絶した。 「ま、嫌よ、嫌よも好きのうちっていうからな」  おめでたいホンダは、自分に都合のいいように解釈し、自分の机のほうに歩いていった。 「あっ、しまった」  彼は机の下をのぞきこんだ。 「ついつい買っちゃうもんだから、こんなにたまっちゃったよ」  そういいながら彼は、アダルトもののレーザー・ディスクを机の上に積みあげた。そして、 「これが、なかなかいいんだ」  とか何とかいいながら、一枚ずつジャケットを眺め、うれしそうに舌をぺろぺろしていた。 「あー、こんなかわいい子が会社にいたらなぁ。いくらでも誘っちゃうんだけどなぁ」  ホンダは何十枚もあるレーザー・ディスクのジャケットに、頬ずりをしていた。私たちは視野にあいつの姿が入らないように、体の向きを調整しながら、無表情で仕事に精を出すことにしたのだった。  女のみち  私はデパートに勤めている、俗にいう「デパガ」である。客で来ているときは、華やかな品物に囲まれて、何だか楽しそうだなぁと思っていたのだが、いざ就職してみると、デパートはまるで大奥みたいな場所だった。そこにはとんでもない女の嫉妬《しつと》が渦巻いていたのであった。入社早々、四十歳すぎの先輩に、 「どーせ、適当な男を捜して、さっさと結婚したいと思ってんでしょ。本気で仕事をやる気がないんだったら、就職して欲しくないわよね」  と嫌味をいわれた。今だったらこっちだって嫌味のひとつも返してやるけれど、当時はまだ純情だった私は、ただびっくりして呆然《ぼうぜん》とするしかなかったのである。そんなに気合いの入った人ばっかりかと、恐れをなしていたのだが、私に毒づいた先輩は男性の上司の姿が見えると、 「あーら、今日のネクタイ、素敵ですねぇ。この間入ったイタリアものでしょ。いいわ、ほーんとに」  といって歯をむき出して笑ったりした。反面、気に入らない同期入社の男の子に対しては、 「何、ボンクラ、ボンクラやってんのよ! そんなトンマでよく試験に合格したわねぇ」  と、みんなが食事をしている社員食堂で怒った。 「そんなヤワじゃ、うちのデパートじゃ、やっていけないわよ。とっととやめたらどうなのさ」  自分がデパートの社長みたいにふるまっていたが、恐ろしいのはそんな女が一人だけではなく、各売場に棲息《せいそく》していたことだった。 「お早うございます」  きちんと挨拶《あいさつ》をしろといわれたから、そのとおりちゃんと挨拶をしても、ツンと横をむいて無視されたのも一度や二度ではない。その他、何をたずねても無言でとりあってくれなかったり、通勤にはいてきた靴のなかに、べったりと糊《のり》をなすりつけられたこともあった。私には全く思い当たるフシがないのにである。同僚の女の子はロッカーに下げてあったスーツのボタンを全部ちぎられていた。それだけでなく靴の片方がなくなっていたり、ブラウスにサインペンでしみがつけられていたりという事件も重なって、 「ひどい人がいるわね」  と私はまるで我がことのように怒っていた。どうして、こんなふうになるのかと、彼女によくよく話を聞いてみると、どうやら社内の三角関係が原因のようだった。デパートはやたらと女だらけの職場である。右を見ても左を見ても、若いのから中年まで、女が山のようにいる。そしてその陰に隠れるように男がうごめいている。だから女がすべてを牛耳っているかのように見えるが、いろいろなテクニックを持った男たちに、私たちがうまく動かされているような気がするのだ。  私は勤めて三年の間、山のようにある男女の噂《うわさ》を聞いてきた。男のほうからすれば、もともと女がたくさんいるうえに、毎年、若い人が入ってくる。自分の好みの女の子を選び放題のおいしい職場なのだ。一目惚れ、目移りなど日常茶飯事。一か月前にはA子の彼だったのが、ふと気がついたらB子の彼になっていたり、妊娠したとたんに捨てられて、怒った女の子に、仕事中後ろから墨汁をぶっかけられた男がいたりと、毎日、必ず何かが起こっていた。男遊びをするんだったら、社外ですればいいのに、社内の男に片っぱしから手を出す女の子がいて、無理やり私をつかまえては、 「あのねー、あたしねー、〇〇さんと寝たの。それでねー」  と聞きたくもない夜の品評会の話を聞かされたりした。私だってそれほどまじめに仕事をしようと思っているわけじゃないが、暇さえあれば、下半身の話ばかりしている連中には、ほとんどあきれ返っていたのである。  しかしそういいつつも、私もある男につかまってしまった。こんな職場だから、日々ストレスがたまる。お客さんに文句をいわれ、先輩には冷たい目つきでにらまれ、ガックリして、 (もうこんな仕事はやめてしまおう)  と思ったときに、食事に誘われて、三年先輩の彼にくっついていったのがはじまりだった。彼は私がガックリした出来事について慰めてくれて、私と一緒になって、お客さんと冷たい目つきをした先輩の悪口をいってくれた。お客さんとのトラブルはともかく、女同士の揉《も》め事に関しては、男の人たちは無関心を装っていた。相談しても、 「どこにいっても、そういうことはあるからさぁ、気にしないほうがいいよ」  といわれた。気にするなといわれて、はいそうですかといえるほど、簡単なものではない。はらわたが煮えくり返って、相手の髪の毛をひっつかんで、ぐるんぐるんふりまわしてやりたいくらいのときもある。それなのに彼らは、無難な発言をして逃げていた。女たちの面倒くさいもろもろの問題に、巻きこまれたくないと、彼らの顔にありありと浮かんでいたのだ。しかし彼は違った。他の男たちのように逃げるのではなく、心底私のことを心配して、真剣にアドヴァイスしてくれた。これで私はころっといってしまった。心のすき間にうまいこと、入りこまれたというわけなのだった。  四方八方から社内の人の目を感じなきゃならないこの職場では、私たちの仲をオープンにはできなかった。それがわかったら、まず私がいじめられるのは間違いなかったからだ。私が最初に糊を靴のなかになすりつけられたときだって、ある男性が私を好きだとある人に喋《しやべ》ったのが発端だった。そしてその人は、彼に片想いをしていた女の子にその話を告げ、嫉妬した彼女が糊をなすりつけたのだ。ところが私は男性に好意を持たれていることも知らず、わけがわからないうちに、いじめられていたのである。  それをあとから知った私は、事の原因となった彼はふってしまったが、まだつき合ってもいないうちから、私には恋愛感情がないというのにこれだけの嫌がらせをされたのだから、もしも社内の交際をオープンにしたら、誰にどんな仕打ちをうけるかわからない。私がスーツのボタンを何者かに引きちぎられる番にならないとも限らない。幸い、私は婦人下着売場にいるので、彼とは仕事中は接点がないため、その点では助かった。何でもない仲なのに、ただ立ち話をしているだけで、 「あの二人はあやしい」  という噂が社内を走り、それぞれつき合っている人がいた二人は、噂をとり消すのに大変だった。とにかく神経質なくらい、人の目を気にしないと、こういう職場にはいられないのだった。  ある日、社員食堂でランチを食べていると、隣にハンカチ・靴下売場のチエちゃんがやってきた。 「ねえ、ねえ、知ってる?」  彼女は周囲をきょろきょろ見まわしながら、私の耳元でささやいた。 「えっ? 何が?」 「ふふっ、ほら、紳士服売場の、タナカさんっているじゃない」  タナカという名前を聞いたとたん、呑《の》みこもうとした口のなかでハンバーグが、ノドにつまった。内緒でつき合っている彼の名前をいわれて、心臓が突然ドキドキしはじめた。 「うん、それがどうかしたの……」 「どーも、こーもないのよ。ホラ、例のヤスダさんと、どうにかなっちゃってるらしいわよ」 「うそーっ」 「私もびっくりしちゃったんだけどさ、本当らしいよ」  ヤスダさんというのは、既婚者ではあるが、未だに当デパートの三美人のうちの一人といわれている三十歳の人である。彼女の結婚が決まったときには、秘《ひそ》かに恋心を抱いていた同僚だけでなく、会長、社長まで悔し泣きをしたという逸話の持ち主なのだ。 「だって、子供を産んで職場に復帰したばかりだし、第一さぁ、第一、だんなさんも子供もいるんだよ」  私は心臓が口からとび出しそうになるのを、無理やり咀嚼《そしやく》したハンバーグで押し戻した。 「ふふん、甘いわね」  チエちゃんは薄笑いを浮かべて、持っていたお箸《はし》で私のことを突っつこうとした。 「今どき、結婚してるとか、してないとかなんて、ぜーんぜん関係ないよ。うちのデパートだって見てりゃわかるじゃん」 「そりゃ、そうだけどさ……」 「もう、何でもありの世の中なんですよ」  チエちゃんはものすごくうれしそうに、彼と人妻のヤスダさんの噂を小声で話した。チエちゃんと同じハンカチ・靴下売場の女の人が、学生時代の友だちとたまたま入ったレストランのいちばん奥に、ヤスダさんがいるのを見つけた。とにかくどこにいても目立つ美人だから、薄暗い店内でもすぐわかったんだそうである。あら、まあ、こんなところでとつぶやきつつ、彼女は一緒に食事をしているのが、ヤスダ氏だとばかり思っていた。 「ところがさぁ、そこにいたのは、あのぬぼーっとしたタナカさんってわけよ」  私はむかつくやらビックリするやらで、ただ目を白黒させるだけだった。 「もうびっくりして、ずーっと観察してたら、どうもただの友だちっていう感じじゃないんだって。そりゃそうよね。売場も歳《とし》も違うんだからさ、二人っきりっていうのがまずあやしいわよ」  彼と話をしていて、ヤスダさんの話が出てきたことなど一度もなかった。 「それでさぁ、お互いのお皿から料理をつまんだりしてるんだって。こりゃあ並の仲じゃないわ」 (私としてるのと同じことをヤスダさんともしてる。それじゃ、あんなことも、こんなこともやってるに違いないわ!)  わなわなと両手がふるえてきた。 「どうしてあの二人がくっついたのかしらねぇ。そりゃ、ヤスダさんはわかるわよ。あれだけの美貌《びぼう》なんだからさ。寄ってくる男だって山ほどいるわよ。だけど、よりによって相手がぼんくらのタナカじゃねぇ、ハッハッハ」  チエちゃんは心から楽しそうに笑った。 「タ、タナカさんって、ぼんくらなの?」 「あーら、知らなかったのぉ」  彼女はパクパクと大口を開けて、八宝菜を食べた。そしてそれをごくっと呑みこんだあと、またうれしそうに喋り出した。 「あの人、ぜーんぜん使えないんだって。仕事の段取りは悪いし、ぼーっとしてお客には叱られるし、とにかく足手まといらしいよ。お坊っちゃん育ちで愛想のいいだけが取り得っつーわけ」 (トホホ)  ふんだりけったりとはこのことだ。おいしそうに八宝菜ランチをパクついているチエちゃんの隣で、私は彼と同じ、ぼんくら状態になっていた。まだ噂の段階だがあのヤスダさんとの親密なデート発覚。おまけに社内ではぼんくらと呼ばれていたという、おまけつき。 「ねっ、ねっ、これからどうなっちゃうんだろうね。相手は人妻だしさ、恋心が燃え上がっちゃうのはわかるけど。あんなぼんくらじゃふられるのは時間の問題だけどね。ヘッヘッヘ」  チエちゃんは満面に笑みを浮かべて、私の耳元でささやいた。 「ちょっと、それ本当の話だろうね」  押し殺した私の声に彼女はビクッと肩をひくつかせ、 「本当だよ、きっと。嘘《うそ》だったらあまりにできすぎてるもん」 「…………」  無言のまま席を立ち、ふと気がついたら私は更衣室にいた。そこではお客さんの前では見せることのない、だらけた女の姿があった。くわえ煙草をしながら髪をブラッシングする人、すね毛をカミソリで剃《そ》っている人、股《また》を開いて前屈運動をしている人、伝染したストッキングを、パンツを丸出しにしてはき替えている人。ふだんは慣れてしまって、何とも感じない光景も、今日はどっと疲れが倍増する原因になった。  その日はどこをどうやって帰ってきたかもよく覚えていない。午後から脳が全く働いていなかった。あのぼんくらは、本気でヤスダさんとつき合っているのだろうか。私とは単に遊びなんだろうか。仕事がトロいチエちゃんにまでぼんくらといわれ、彼と結婚してもいいと思っていた私は、目の前が真っ暗になった。そして真っ暗になったまま、受話器をとって彼の電話番号をまわした。 「はぁい、タナカです」  いつもは聞くとホッとする声も、今夜は腹が立つばかりだ。 「はぁい、なんて、ずいぶん明るいじゃない」 「そうか? きょうはパチスロで儲《もう》かっちゃったからなぁ」  のんびりした物いいに、私の頭はとうとう火を噴いた。あんたはヤスダさんと親密にデートしてたらしいわね、そんなこと私にひとこともいわなかったね、やましいことがあるのかね、と、うまいこといい逃れができないように、一気にまくしたててやった。 「あれっ、どうしてわかっちゃったのかな」  彼はひとりごとをつぶやいた。 「わかっちゃったじゃないわよ! どういうつもりなのよ」 「どういうつもりって、誘われたからついていっただけだよ」  ヤスダさんが、「あなたっておっとりしてて、そのうえ口が堅そうね」といって、食事に誘ってくれて、交互にお皿の料理を食べっこしたのも、そのあとホテルに行ったのも、彼女が「そうしましょ」といったから、そうしただけだと少しムキになった。 「あんた、子供みたいに、よくそんなこといえるわね!」  もう一度頭のてっぺんから火を噴き出したら、彼も、 「ふざけんじゃねぇよ。いいじゃないか、一回ぐらい」  と反撃してきた。必死にあーだ、こーだといってくる彼の声を聞きながら、私は冷静に、 (ああ、この人は林家こぶ平に似ている)  と分析していた。ふだんはおっとりとして温厚だが、ひとつ突っこまれるとムキになるタイプ。ひとこともいわずに、私はただ彼の声を聞いているだけにした。 「ごめんね、悪かったよ……。結婚するのは君だけだと思ってるんだからさぁ、許してくれよ」  耳にとびこんできた結婚ということばに私は敏感に反応し、ちょっと許してもいいかな、という気になってきた。 「ごめんよ。もう彼女とは何もしないからさぁ。でも、あの人はどっちみち人妻で僕とあの人とは結婚できないんだから、許してくれるよね」  彼はわかったようなわからないような理屈をこねて、すがってきた。 「ね、本当に反省してるから。結婚するのは君だけだと思ってるからね」  私は受話器を持ったまま、こっくりとうなずいた。ものすごく頭にきたのはたしかだが、一度だけは許してやろうと思った。そしてその次に頭にきたのは、彼をぼんくらといったチエちゃんと、その他の人々である。 「よくも、人の彼のことをぼんくらなんて……」  でも社内の人にヤスダさんとのデートを目撃されるなんて、やっぱりぼんくらなのかもしれない。しかし結婚の二文字に執着がある私は、これくらいのトラブルでは、 「はい、さようなら」  とはいえないのだった。  同僚の目が気になるデパート勤務も、うまく利用すると、私専用のスパイが何人もいるのと同じということがわかってきた。食堂で、おしゃべりの女子をつかまえて、 「ね、タナカさんとヤスダさんって、その後どうなのかなぁ?」  とカマをかけると、「別れたらしいよ」とか「前は噂を聞いたけど、今は何でもないよ」などと、彼らの動向を教えてくれた。情報にふりまわされず、こういう情報源を上手に使うのが得策なのである。約束どおり、ヤスダさんとは別れたのねと安心し、二人でこっそり愛の時間を楽しんでいた。しかし時折、「タナカはぼんくら」ということばが浮かんできた。よほど、 「あなた、ぼんくらっていわれてるよ」  といってやろうかと思ったが、これがきっかけになって、ぼんくらなりに警戒心でも持たれたとしたら、スパイからの情報収集も困難になるので、この件は胸のなかにしまっておいた。もし私たちの仲が事前に知れ渡っていたら、いったいどんな騒ぎになったか想像するだに恐ろしい。私はデパートをやめているかもしれないのだ。幸いまだ私たちのことは誰にも知られておらず、それだけが救いだった。  噂が一度生まれると、それがガセネタだったとしても、噂に巻きこまれた人はマークされる。あの人はその後、どうなったのかしらと、ついついアンテナを伸ばすものだから、とんでもない事実が発覚したりする。二人に安らかな日々が戻ってきた矢先、またまた食堂でチエちゃんと出くわした。 「ねー、知ってる?」 「ん? 何が」 「新しい噂よ、う、わ、さ」 「へえー、誰の?」 「ほら、あのぼんくらのタナカよ」 「えっ……」  一気に顔面が熱くなってきた。 「あの人、あんな顔してやることはちゃんとやってんのよねー」  チエちゃんはうきうきして喋りまくった。次の相手はアクセサリー売場の派遣店員の女の子だった。某デザイナー・ブランドのアクセサリー販売のためにやってきている、化粧は濃いけど人当たりのいい子である。その彼女にタナカがうつつを抜かし、暇さえあればスキを狙ってまとわりついているというのだ。 「アクセサリー売場の人はみんな知ってるよ」  チエちゃんは、にかっと笑って、冷し中華を掻《か》きこんだ。これまでどれだけ社内の男と派遣店員との噂を聞いたことだろう。社内の女の子に手を出すと、何か問題が起こるとたいていは女の子がやめていく。たまに双方いたたまれなくなって、大モメにもめる場合もあるのだが、相手が派遣店員だと、必ず何か月かあとにはやめていくから、あとくされがなく、既婚、未婚を問わず、お遊び上手の男たちの、格好の餌食《えじき》となっているのだ。 「タナカってさ、何か勘違いしてるよね。ああいうのに限って、親の勧める見合いで、いいとこの清純なお嬢さんなんかと結婚したりするんだよ」  私はいいとこのお嬢さんでも何でもない。彼は私と結婚するといったけれど、いつ捨てられるかわからない。私はもうなりふりかまっていられなかった。こうなったらみんなに公言して、じわじわとデパートじゅうの噂責めにして、結婚に到達するまでがんじがらめにしてやろうかとも思ったりした。  夕方、私は裏の出口で、彼がやってくるのを待っていた。派遣店員の女の子はそこにはいなかった。 「ちょっと、どういうつもりなのよ。また噂になってるじゃないの!」 「へえ、そう」  私にとっては重大な問題なのに、彼は全然そうは感じてないのが腹が立つ。 「どういうつもりなのよ!」 「うーん……」  噂はやっぱり事実だった。私というものがありながら、と考えると、涙がどっとあふれてきた。 「だからさぁ、結婚するのは君だっていったじゃないか」  彼は、もそーっとした口調で弁解した。それならどうしてよそ見をするんだ、となじったら、彼は目をまん丸くしてこういった。 「だって、結婚したらよそ見なんかできないじゃない。奥さんがいるんだから。今は僕たちは結婚してないんだし、大目に見てよ」  それじゃ、私も浮気してやるといったら、 「それはダメ。男と女は違う!」  と彼はこぶ平状態になった。 「どうして私ばっかり、嫌な思いをしなきゃなんないの?」 「僕は結婚したら不倫はしない。だから今は許して」  とにかくうるさい職場だから、自分もそれくらいのことは考えている。ヘタに本命の女の子が公になると、いったい何が起こるかわからない。二人が好きでも別れなきゃならなくなるかもしれない。だけど今のようなやり方だったら、君さえがまんしてくれれば、万事がうまくいくのだ、と、ぼんくらといわれているわりには、屁《へ》理屈ながらきちっと自分の考えを示した。 「女の人たちって、あれこれうるさいんでしょ。嫌がらせなんかしてさ。でも、僕がつき合った二人は、あとくされがないんだ。ねっ、絶対に結婚してもあとに引かないから、今だけ、ねっ、許してちょうだい!」  私はもう何といっていいかわからなかった。こんな奴とは結婚なんかしたくないと思う反面、結婚を前提としてそんなに私のことを考えてくれているのかとも思った。 「ねっ、派遣店員のあの子とも、あと二か月だから、ねっねっ。そしたら、すぐ婚約しよう。結婚しても不倫は絶対にしないから。結婚前にちょっとだけ遊ばせて」  私は彼を信じていいんだろうか。必死に目の前でハエのように手をすり合わせる彼の姿を見ながら、真剣に考えようと思っても、頭のなかはだんだん真っ白になるばかりだった。  花とおじさん 「来週の日曜日に、生徒たちが遊びに来たいっていうんだ。いいだろ」  夫は家に帰ってくるなりいった。彼は公立中学校の保健体育の教師である。体ばっかりごつくて、顔つきは猿みたいだが、どういうわけだか生徒には好かれているみたいなのだ。 「ふーん、ま、いいけど」  私は妊娠五か月の、そろそろ目立ちはじめたお腹に手をやりながら、返事をした。 「何か、お菓子や果物でも出せばいいんじゃないか」  いつものように夫はまず風呂場に直行し、わけのわからない鼻歌を歌いながら、豪快にシャワーを浴びていた。 (あーあ、またか)  私は晩御飯のおかず作りに、再びとりかかりながら、ため息をついた。  夫は子供が好きだが、私は嫌いである。それならば、どうして妊娠しているのかといわれたら、ちょっと困っちゃうが、子供の好き嫌いと妊娠は別問題なのだ。彼とは学生時代からのつき合いで、まさか、結婚するとは思っていなかった。高校時代はずっとラグビーをやっていて、典型的な体育会系のノリの人だった。私の友だちからは、 「彼って体ばっかり大きくて、頭をゆすると、カサカサッてかわいた音がしそうね」  といわれたこともある。彼女の場合は、哲学的な問題を抱えた、陰のあるハンサムが好きだったから、もうもうと砂ぼこりがたつなかで、どどどーっと走りまわっている彼なんかは、まるでアホみたいに思えたのに違いない。たしかに彼は知性からほど遠いタイプだった。デートをしても、定食屋でカツ丼の大盛りをむさぼり食う彼の前で、私はうつむいて魚フライ定食を食べていた。そのうえデザートに、彼はラーメンを注文するくらい、大飯食らいなのだ。私が悩みを相談しても、 「おー、そうか、そうか」  という無関心なのが丸見えの相槌《あいづち》で話を聞き流し、 「親身になってくれないのね」  と文句をいうと、 「どうにかなるよ。あまり真剣に悩むこたあないさ」  と、ハッハッハと笑った。そんな姿を見て、何度、 (何ておめでたい体育野郎なんだ)  と呆《あき》れたか知れない。そのたびに頭のなかには、知性的で優しくてスマートな彼と肩を並べて歩いている、何年後かの私の姿が浮かんできた。 (どうせ、この人とは卒業するまでよ)  と高《たか》を括《くく》っていたのだが、どういうわけだか卒業後もつき合うことになってしまった。私は国文科、彼は体だけしか取り得がないので、体育大学に補欠で引っかかった。高校生のときみたいに、毎日、会わないことをいいことに、このまま徐々に疎遠にしていって、逃げてやろうとしたのだが、思いのほか彼は私に執着していた。きっと新体操かなんかをやっている、プロポーションのいい女の子に目を奪われて、そっちに関心がいってくれたらいいな、とも思っていたのだが、彼はそんな彼女たちには目もくれなかったのだ(というよりも、相手にされなかったことが、結婚後、判明した)。 「ボクには、さっちゃんだけさ」  鼻の穴をせいいっぱいおっぴろげて、真剣な顔でクドいてくる彼の顔を見ると、私はいつも笑いそうになった。 「ふーん、そう、ありがとね」  つっけんどんにいうと、彼は困ったような顔で、タックルしていた私の体から手を離し、 「うーむ」  と腕組みをして考えこんでいる。そしてぶつぶつ小声でいっているものだから、気になって耳をそばだててみると、 「おかしいなあ。うまくいくはずなんだがなあ……」  と何度も繰り返していた。どうやら、どこからか仕入れてきた「女のクドき方」のとおりやったのが、うまくいかないので、あっけにとられているらしかった。 (この単純な体育野郎!)  素朴といえば素朴だが、私はもっとスマートなタイプとお近づきになりたかったのである。  もっと他の人が、もっと他の人がと思いつつ、私は彼と結婚してしまった。基本的にいい人なのだが、結婚式の直後、 「よーし、これからは思いっきりできるぞ」  といいながら、紋付きに羽織袴《はおりはかま》という姿で、両手をぐるんぐるんまわしたり、股割りをするのをみて、私は白塗りの顔のまま、 「しまった」  と後悔した。しかし時すでに遅しで、待ってましたとばかりに、彼の欲望(彼は愛情といったが)の餌食《えじき》になった私は、あっという間に妊娠し、新妻としての新婚生活はどこへやら。妊娠した母の生活になってしまったのだった。 「子供たちが、どうしても遊びに来るっていうんだ」  晩御飯を食べながら、彼はうれしそうにいった。 「ふーん」 「結構そういうのって、自慢になるんだぜ」 「ふーん」 「生徒に嫌われてたら、絶対にそんなこといわれないもん」 「そう」 「ぼくって人気あるんだ。ふっふっふ」  彼は満面に笑みを浮かべて、空になった御飯茶碗を差し出した。 「かわいいんだよな、奴らは」  御飯をよそうのも待ちきれないのか、彼は大根の漬物を次から次へと口に入れた。 「おやつは前と同じでいいでしょ」  私のいい方は全く感情が籠《こも》っていないものになっていた。つい三か月前も、生徒たちがやってきた。クラスのうちの何人かが遊びに行ったと知ると、対抗意識を燃やして他の子たちがグループを作って押しかけてくるらしい。そのときは妊娠二か月で気分がすぐれないうえに、汗くさい、こうるさいのがギャーギャーわめき散らして、本当にうんざりした。彼はそんな生徒たちに囲まれて、大喜びしていたが、私はそ知らぬ顔をして彼らの輪の中に入るのを避けていたのである。その後、生徒たちのお母さん方から、御礼が届いた。わくわくしながら包みを開けたのに、私の大嫌いなしいたけのつくだ煮だったので、ますます不愉快になったのだった。 「そうだ。今度来る奴らは、みんな食欲旺盛だから、おやつだけじゃなくて食い物も用意しておいたほうがいいかもしれないな」  彼はタケモトはコロッケが好き、ヤマダはハンバーグだったら五個は食べると、うれしそうに話していたが、私にとってはどうでもよかった。しかしどうでもいいとはいっても、冷静に考えると食事を作るのは私だ。こんな体でしんどいし、いっそ冷凍食品を買ってきて、片っぱしから電子レンジでチンして出してやろうかとも思ったが、 「先生の奥さんの料理はまずい」  などといわれたら、立場がない。 「あーあ」  私の当惑をよそに、彼は、六畳間で寝そべって、牛になっていた。 (気楽でいいわね)  もう一度ため息をつき、私は気乗りのしない皿洗いをやることにした。  日曜日、 「こんにちは」  という大声と共に、八人の生徒たちがやってきた。男の子五人、女の子三人である。 「よく来たな、まあ、上がれ」  横じまのポロシャツに紺のズボンという、まるで佐川急便のお兄ちゃんみたいな格好をした彼は、かつてのテレビドラマの熱血教師の口調でいった。 「はあい」  どやどやと彼らは部屋のなかに上がると、興味|津々《しんしん》といった様子で、部屋の中を眺めまわした。二DKのマンションの六畳にテーブルを置き、みんなに座ってもらった。 「先生、このマンション、畳が小さいですね。六畳っていっても、四畳半くらいしかないんじゃないですか」  中学生なんだから、素直に先生の家に来たのを喜べばいいのに、余計なことをいう奴がいる。そのうえ、 「天井が低いから、狭く感じますよね」  などという奴もいた。 (うるさいんだよ、あんたたちは)  腹のなかでぶつくさいいながらも、先生の奥さんである私は、にっこり笑いながら、りんごジュースを出した。 「あっ、これ、果汁一〇〇パーセントじゃないみたい」  一人の女の子がボソッといった。私は彼女の敏感な舌に驚きながらも、もう一度、 (うるさいんだよ)  とつぶやいた。 「まあ、多少のことは我慢してくれ」  彼がそういうと、みんなは、 「はあい」  とよい子のお返事をした。 「先生、赤ちゃん、いつ生まれるんですか」  一人の男の子が聞いた。 「十二月の初めだよ」  そう答えると、彼らはくすくすと笑いながら、お互いの体を突っつきはじめた。 「どうした」 「いえ、何でもありませーん」 「何だ、いえよ。変な奴だなあ」 「ホント、ホントに何でもありませーん」  私には彼らがこそこそ話しているのが聞こえてしまった。 「十二月の初めに生まれるっていうことは、やったのは二月だぞ」  こんな中学生に、私たちの夜の生活のことまでいわれたくない。しかし私は、はらわたは煮えくり返りながらも、先生の奥さんとして、とりあえずはにこにこしていたのだった。  ひよこみたいにピーピーうるさい彼らは、興奮しているのか、落ち着きがなかった。ある者はふっと立ち上がって、ガラス戸つきの本棚のなかをのぞいたり、ベランダに立って周囲の景色を眺めたりしていた。一方、女の子のほうは、カーテンの柄がかわいいだの、飾ってある花びんは家にもあるだの、このコースターは、駅前のスーパー・マーケットが大安売りをしていたのと同じだの、こまかいことをチェックしていた。そのなかで、妙に落ち着いている女の子が一人いた。育ちがいいのか、根がおとなしいのかわからないが、みんながキャーキャー、ワーワー騒いでいるのに、一人静かに、にこにこしている。背もみんなより頭ひとつ高く、顔立ちも大人びている。他の子は、まだ尻の青いガキという感じだったが、彼女はすでに女として成長している雰囲気を持っていたのだった。  私が無口になっているのを見た生徒たちは、 「りんごジュース、おいしいです」  と口々にいった。気を遣ってくれているのはわかるが、大人の機嫌をとるそのこざかしさがまた私をムッとさせた。 (どうせ、果汁三〇パーセントだわよ)  そう、じゃ、よかったわと口ではいいつつ、腹のなかで毒づきながら、私はお愛想笑いをしていた。しかし、単純な彼は、 「おー、そうか、そうか。それじゃ、もう一杯飲め」  と能天気に喜んでいた。ジュース一杯で、ああだ、こうだといわれるんだから、カレーを出したらどんなにいろんなことをいわれるかとかまえていたら、案の定、 「フォンド・ボー・ディナーカレーじゃない」  などといわれてしまった。人の家で飯を食わせてもらって、文句をいうな。とっとと帰ってくれないかしらと、そればかりを考えていた。 「どうだ、みんなかわいいだろう」  彼は生徒たちが帰ったあと、満足しきった顔でいった。私はそれには答えず、 「子供っぽい子と、ずいぶん大人っぽい子がいるのね」  とだけいった。 「大人っぽい……ああ、そうだね」  彼はひとりごとのようにつぶやいた。ここで私が鋭く気がついていれば、とんでもないことにはならなかったのだ。  だんだんお腹が大きくなるにつれて、私の体調はあまりよくなくなった。お医者さんは、神経質にならないようにといったけれど、もともと妊娠をしてもうれしくなかったのが、出産が現実として迫ってくると、気が滅入《めい》ってくる。私がそんな陰々滅々とした日を送っているというのに、彼はこうるさい生徒たちを家につれてきた。そのなかに必ず、女の雰囲気を漂わせているあの子がいた。名前はユカちゃんといい、成績もよく、みんなからも好かれているようだった。私はしんどいから、柱を背にへたりこんで肩で息をしていたのだが、彼女は私の代わりにかいがいしくみんなの世話をやいていた。彼がふっと目をやった方向にとんでいって、棚の上に置いてあるアルバムをすばやく取ってきたり、テーブルの上を台ふきでこまめに拭いたり、明らかにそこいらへんのガキとは違っていた。 「おー、よく気がきくなあ」  彼はユカちゃんのすることに目を細めて、頭を撫《な》でてやったりしていた。そのとき、一緒に来ていた生徒たちの顔がさっと変り、しらーっとした空気が流れた。そして、見てはいけないものを見てしまったという感じで、居心地が悪そうにそわそわしはじめたのだった。  私は彼らが帰ってから、むやみに女子生徒の体に触らないほうがいいんじゃないのと注意すると、彼は、わっはっはと豪快に笑い、 「バカいうなよ。相手は子供じゃないか」  と、とりあわなかった。しかし私の頭からは、生徒たちの妙な感じが消えることがなかったのだ。妊娠八か月に入ったある日の夕方、大きくなってきたお腹を抱え、私がふうふう息を吐きながら買物に行くと、近所の奥さんが立ち話をしていた。 「みっともないわよねえ。これは問題よ。教育委員会に連絡して処分してもらわなきゃ」  近づいていくと、二人の立ち話はぴたりとやみ、 「あーら、こんにちは」  と、とりつくろったような笑顔で、挨拶《あいさつ》をした。そして通りすぎようとした私の下腹に目をやったかと思うと、背後から、 「奥さんがあの体だからねえ」  ということばが聞こえてきたのだった。顔見知りの奥さんたちに会うと、みんな一様にハッとした顔をし、 「体の具合はどう?」  といたわってくれた。 「はい、順調です」  と答えても、彼女たちは心配そうな顔をし続けていた。首をかしげながら家に帰ると、ドアの鍵《かぎ》が開いていた。ドアを開けると部屋には熱気が籠っていた。彼の声もしない。 「帰ってるの?」  そういいながら、六畳間に入っていった私は、あまりの現実に頭がクラクラしてしまった。そこにはまるで亀みたいに、ひとつの布団から顔を出している彼とユカちゃんの姿があった。 「あ、ああ、お帰り」  彼はしどろもどろになって、布団のなかでごそごそやっていた。 「こんにちは、お邪魔してまーす」  ユカちゃんも布団から顔だけ出した姿で、うろたえつつも挨拶だけはきちんとした。その布団は、気分がすぐれない私が、すぐ横になれるようにと、敷きっぱなしにしていたものだった。 「何やってんの、いったい!」 「いや、いやあ、勉強だよ、勉強。な?」  彼はユカちゃんに同意を求めた。 「はい。『スポーツ・体操の特性とおこない方』について、先生に聞きにきました」  たしかにそれは嘘《うそ》ではなさそうだった。テーブルの上には、ノート、鉛筆、保健体育の教科書が置いてあった。しかし、それをひとつの布団のなかで教えてもらう必要があるのか! 「ちょっと、早く出てきなさい」  私はユカちゃんの手を引っぱって、布団の中から引きずり出した。どういうわけだか、パンツが膝《ひざ》のところまで下がっていた。 「何よ、これは!」 「いま、引きずり出されたから、ずり下がったんです」  ユカちゃんは必死に弁解した。 「ほら、あなたもよ!」  布団を引きはがすと、彼はパッと伏せた。 「どうしたのよ!」  無理やりあおむけにすると、彼のズボンのジッパーはぱっくりと開いていた。 「何、それ!!」  私は激怒して、ぱっくり開いた股間を指さした。 「あれっ、うーん、どうしてこうなっちゃったのかなぁ……」  彼は、部屋をきょろきょろ見渡しながら、しらを切ろうとする。 「説明して!!」 「いやー、だから、勉強を教えていたんだよ。そうして、ふと気がついたら、布団のなかに入ってたんだ」 「私、小テストに出る問題が、よくわからなかったから」  びっくりして泣くかと思ったが、ユカちゃんは中学生のくせに堂々としている。彼女の大人びた雰囲気と共に、その態度はちょっと私をびびらせた。とにかく彼女を家に帰し、私は股間がぱっくり開いたままの彼と、真正面からむき合った。 「うーん」 「話によっては別れるから」  自分でもビックリするくらい、冷淡な声だった。私がそういっても、彼はあやまりたおしてへばりついてくるだろうとふんでいたのだが、何もいわなかった。 「それなら仕方がないな」  やっと小さな声でそういって、うつむいた。内心、私はあせった。あれだけ追っぱらってもくっついてきた彼が、私と別れてもいいと思っている。それは少なからずショックだった。 「いつからなのよ!」  五か月前からだと彼は白状した。先生、先生と彼女が慕ってくるので、かわいがっているうちに、性生活から遠ざかっていることもあって、不覚にもこんなことになってしまったと暗い声を出した。学校の体育用具置き場が一回目で、今日が二回目だともいった。近所の人たちにはそんな噂《うわさ》が耳に入っていたのだ。そのうえ、 「ユカちゃんは女として好きだ。卒業したら結婚してもいいと思ってる」  などというではないか。 (どひゃー)  今まで優勢だった私の立場は突如、逆転した。大人の私が、まだキャラクター柄のパンツをはいている中学生に、妻の座をゆずらなきゃならないなんて、信じられない。 「こんなに人を好きになったことはない」  彼の目はキラキラと輝いていた。 「だって、あの子はまだ子供じゃないの」 「だから卒業してからっていってるだろ。今はどうしたって無理なんだ」 「許しません! 絶対に別れません」  これは女と女の闘いだった。 「そんなことは許されないの!!」  そういいきったとたん、下腹部に痛みが走った。私はそのときあらためて、自分が妊娠してるのを思い出した。 「ああ、大変だ、救急車、救急車」  彼は相変らず股間をぱっくり開けたまま、電話にとびついた。 「うー、痛いよー」  思わず畳の上に転がった。これでこの件はうやむやになってしまう。 (クソッ、こんなときに陣痛なんて!)  私は我が身の不運を嘆き、目にじわっと涙がにじんできたのだった。  おやじの海  私の父は産婦人科医である。家には父の母である祖母、両親、私、それに年子の妹の五人で暮らしている。患者さんも女性、看護婦さんも女性、おまけに家族も女性ばかりという環境のなかに父はいる。ふつうなら、女の面倒くささとか、うっとうしさ、わずらわしさのほうが目について、女性に対してクールになるのではないかと思うのだが、情けないことに、父はものすごい女好きなのであった。  私は、小学生のときから、何か変だなという場面をたびたび目撃した。うさんくさいと思うと必ず、子供をシャット・アウトしたなかで、祖母と両親の話し合いが、長時間もたれていた。気になって、ちょっとでものぞこうとするものなら、母が目をつり上げて、 「あっちへ行っていなさい!」  と怒鳴った。祖母はしゅん、としょげ返り、父は関係ないのにたまたまそこに居合わせたような顔をしていた。そして話し合いが終ると、母はばたばた身じたくを整えて出かけていき、祖母は仏間で仏様をおがみ、父は、 「あーあ」  と伸びをしながら診察室に入っていった。  外出から帰ってきた母は不思議そうな顔をしている私に、 「気にすることはないのよ。あなたはお部屋にいて、お勉強しなさい」  と静かに、そして厳しくいった。私と妹は母が卒業した、幼稚園から大学までエスカレーター式のお嬢さん学校に通っていた。やはり医者の娘だった母は、卒業してすぐ父と見合い結婚し、勤めた経験がなかったことも影響してか、どことなくのんびりしていた。何か事が起きても、 「あー、そうなの」  とおっとりしていたが、三者会談が開かれたときは違った。まるで、このときのためにふだんの感情は押し殺しているようにみえたのだった。  母に少し性格が似ている私は、変だなと感じていても、それ以上、深く追及しなかった。しかし高校生になっても、同じようなことが繰り返されると、いくら鈍感な人間でも気がつくものだ。ただ、あれこれ考えているだけの私と違い、妹はちゃっかり看護婦さんたちにリサーチして、 「お姉さん、すごいニュースよ」  と満面に笑みを浮かべて私の部屋に入ってきた。 「この間まで、病院にいたオオシマさんっていう看護婦さんがいたでしょ」 「ああ、目がパッチリしたきれいな人ね」 「そうそう、あの人やめたでしょう」 「そういえば、いないわね」 「子供ができたんだって」 「えっ……、だって独身だったんじゃ……」 「そうよ。で、相手は誰だと思う?」 「わからないわよ、そんなこと」 「それがね」  妹は私の耳元でささやいた。私は胸をドキドキさせながら、彼女のことばを待った。 「相手は、お父さんらしいのよ」 「えっ……」  最初、聞いたとき、お父さんって、どこのお父さんかと思った。後藤さんの聞き違いかと思った。 「お父さんよ、うちの!」 「えーっ!!」  私は目の前がぐらぐらと動き、体じゅうがかーっと熱くなってきた。 「そんなこと、誰がいったのよ」 「タケダさん」  妹は看護婦さんの名前をいった。真相が知りたかった妹が、しつこく彼女に教えてくれといい寄ったのだが、さすがにそう簡単には口を割らない。そこで妹は、彼女の好きなミュージシャンが所属するレコード会社の社長が、同級生の父親なのを利用して、コンサートのS席二枚組で彼女を買収したのだった。 「全く、あきれ返るわ。リエちゃんのお父さんならわかるけど」  リエちゃんというのは妹の同級生である。父親は中年だがハンサムで有名な俳優で、週刊誌に若い歌手との浮気が暴露されたばかりだった。 「うちのお父さんなんか、どこにでもいる、ちんちくりんのおやじじゃない。そりゃ、医者だけどさ。男として魅力ないわよ」  しつけが厳しくて有名な学校の先生が聞いたら絶句しそうなことば遣いで、妹はまくしたてた。 「本当にもう……」  私はただただうろたえるだけだった。テレビのドラマでは山のようにある話だが、それがまさか父に起こっているとは想像すらしなかった。 「恥ずかしいっていうか、みっともないっていうか」  妹は部屋の隅に置いてある、革ばりのソファの上に、どっかと腰を降ろした。 「今まで何度もそんなことがあったわけね」  ため息まじりにそういうと、妹も深くうなずいた。  私が覚えているだけでも五回以上あった。ということは、腹違いの兄弟姉妹が最低五人はいるということではないか。そういえば勤めていた看護婦さんがやめたすぐあとに、三者会談が開かれていた。そういう行いを何とも思わずに、父は繰り返していたのである。情けないのとみっともないのと悲しいのとで、私の目にはじわっと涙があふれてきた。ティッシュ・ペーパーを当てても、次から次へと涙が出てきた。そんな私の姿を、妹は冷静に眺めていた。 「よく平気でいられるわね」  涙声の私に、彼女は、 「しょうがないわよ。あれだけ同じ過ちを繰り返すのは女好きっていう病気なのよ」 「そんなふうにいったって、他の女の人に子供まで産ませてるのよ」 「うん」  妹は信じられないくらい、淡々としていた。 「かっこ悪いよね。時代劇なんかで、よくやってるじゃない。廻船問屋のヒヒじじいが下働きの女の人の帯を無理やり解こうとして、女の人が『あーれー』っていいながら、クルクルまわったりするの。あんなことしたんだわ」  こんなに冷静だなんて、もしかしてこの子も腹違いじゃないかと疑ってしまった。自分の実の父が、世間の女の人に対して、みっともないことをしでかしていたなんて、娘だったら死ぬほど恥ずかしいはずなのに、妹は父の恥も楽しんでいるかのようだった。彼女は、 「気にしてもしょうがないわよ。死ななきゃ治らないんだから」  とつぶやいた。 「それじゃ、これからもこんな思いをしなきゃならないのね」  私の目にはまた涙がじわっと出てきたのだった。  そういえば父と母の間には、事務的な会話しかなかった。食事をするときも父がいるのはまれで、女四人がテーブルに固まって黙々と食べていた。私たちの話題は、当たりさわりのない、庭の木々が育っただの、母のお茶会の話だの、天候の話だの、そんなものばかりだった。そんな会話のなかで、妹はただ一人、うんざりした顔で気乗りのしない相槌《あいづち》を打っていた。父親の恥を娘に知られまいと、母や祖母はひた隠しにしていたが、私と妹は口の軽いタケダさんのおかげで、事実を知った。しかし私たちは同じようにそれをひた隠しにしていた。女四人は父をはさんで二派に分かれて何年もそ知らぬフリをしていたのである。  事実を知ってから六年がすぎても、相変らず父の病気は治らず、若い看護婦さんがいなくなったと思うと、母が紫色の風呂敷包みを抱えて出かけていった。私は家事手伝いという立場で家にいたので、その様子を観察していたが、見て見ぬフリをしていた。そして就職した妹が会社から帰ってくると、待ってましたとばかりに、逐一、報告した。 「よくあの歳《とし》でそんな気になるわよね。もうすぐ六十だっていうのに」  妹はスーツの上着を脱ぎながら、呆《あき》れ顔でいった。 「でも、女の人のほうも、相手をちゃんと選んでるんじゃないかって思うこともあるわよ。だって、お父さんだったらお金を持ってるし、働かなくたって生活していける分くらいは、お手当てでやっていけるでしょ。あんなおやじに愛情なんか持てる? お金で割り切ってるところもあるはずよ」  妹は就職してから、ますます大胆な発言をするようになった。 「お母さんもどうしてあんなお父さんの仕打ちに我慢してるのかしら」 「あーら、決まってるじゃない」 「何が」 「離婚したらいったいどうなるか、お母さんがいちばんよく知ってるわよ。だいたい、生活力だってないし、女は結婚するのがいちばんいいって信じてる人だからさ。殺されない限りお父さんと一緒にいるわよ」 「私、結婚相手には、絶対、不倫しない人を選ぶわ」  そういったとたん、妹は、きゃははと大笑いした。 「お母さんによく似てるわね。お姉さん、結婚に夢を持ちすぎよ。そんな男、いるわけないじゃない」  私はムキになって、そうじゃない人も絶対にいるといい張ったが、 「甘い、甘い」  と再び笑われてしまった。そして、「私たちがこうやって、この家にいるのも、贅沢《ぜいたく》な暮らしができるからじゃないの。私たちはお父さんのこと嫌いだけど、お金のために我慢してるっていうか、無視してるっていうところはあるよ」  そういわれると私は何も反論できなかった。こういう関係の話になると、妙にいきいきする妹のことばにうなずかざるをえない私なのであった。  二十五歳までに結婚してもらいたいという母の必死の願いのせいで、私はほとんど毎週、お見合いに行かされた。 「ご苦労さん」  妹が出がけに声をかけると、母は目をつり上げて、 「ユキちゃん、ご苦労さんとは何事です。本当に就職なんかさせるんじゃなかったわ」  と怒った。相手の男性のなかには、気に入った人も何人かいたが、ていねいに断わられた。 「断わるなんて、お母さん、許せません!」  母はそのたびに、ハンカチを噛《か》みちぎらんばかりにして頭のてっぺんから火を噴き出した。 「仕方ないじゃないか」  父が傍らから声をかけたとたん、 「何が仕方ないですか! お父さんのせいですよ!!」  という母のヒステリーの極みの絶叫が響いた。 「えっ……、ど、どうして……」  父は目をきょときょとさせながら、新聞を手にうろたえた。 「娘の前でそんなこといわさないで下さいよ。きっと、お父さんのことは全部、ご存じなんですよ。それじゃなければ、非の打ちどころのないこの子が、断わられるわけがありません!」  母はわーんと泣いた。 「ユキは就職してからスレちゃって、ことば遣いは悪いし。門限も守らないし。お父さんは自分勝手だし。お母さんはどうしていいかわかりません」  父も私もなすすべもなく、ぼーっと母の姿を眺めていた。そこへ祖母がやってきて、 「サダコさん、許してくださいねぇ。私がこんな子に育てたばっかりに……」  と母と共においおいと泣いた。もしここに妹がいたら、泣いて済むことじゃないでしょう、というに決まっているが、幸い彼女は不在であった。  その夜、妹は夜一時すぎに帰ってきた。ふだんは「しょうがない子ねぇ」とぶつぶついうだけの母も、私の見合い話がこわれてテンションが上がっていたものだから、妹に対しても頭から火を噴いた。 「女の子がお酒を飲んで夜遅く帰るなんて、どういうつもりなの!」  しかし妹は、へへんと鼻でせせら笑って、へらへらしていた。 「誰と一緒だったの、いいなさい。さあ、誰と飲んでいたの」  そんなことを聞いたってしょうがないのに、母はしつこく詰め寄った。 「うるさいわねぇ、男の人よ」 「んまあ、誰、誰なの。どういう人なの。お母さんにいえないような人なの?」  母はすっぽんみたいにしつこく喰い下がっていたが、へらへらしている妹にうまいことまかれて無視されていた。  翌日の土曜日は朝から険悪な雰囲気が家に漂っていた。珍しく全員で朝食をとったあと、母は、 「ユキちゃん、お父さんからお話がありますからいらっしゃい」  とドスのきいた声でいった。今まで聞いたことがない母の声だった。しかし妹はそんなものは屁《へ》とも感じず、 「あれだけ嫌な思いをしたくせに、いざとなると、お父さん、お父さんっていうのね」  と私の耳元でささやいた。父は母に引きずられるようにして、応接間に入っていった。私がそっとのぞくと父と母は並んでソファに座り、妹を真ん前に座らせて、キッと彼女をにらみつけていた。 「近ごろ、門限を守らないそうだな」  父は母の鋭い目つきに押されたらしく、これまたドスのきいた声を出した。 「うん」 「『うん』じゃない。『はい』だろう」 「へえ」 「ふざけるのはやめなさい!」  また母が頭のてっぺんから火を噴いた。 「で、相手は誰だ」 「会社の人」 「ふむ。どんな人だ」 「ヤマザキヒロシ、二十九歳。営業部係長、妻子あり!」  妹はまるで教科書を読むように、すらすらと述べた。 「えっ? 何だ? 最後に何ていった」 「妻子、あ、り」  嫌味ったらしく妹は、大きく口を開けてはっきり発音した。あまりにはっきりいわれたものだから、両親はしばらくあっけにとられていたが、事の重大さに気がついたのか、顔を上気させて、声を上ずらせた。 「そ、その男とは、どういうつき合いだ」 「えーっ、そうねぇ、いわゆる不倫っていうやつかしら」  今度は両親の顔は青くなった。そんなことをしていいと思ってるのか。結婚前だというのに、そんな男にだまされてはいけない。すぐさま会社をやめてしまえ。二人は口々に妹にまくしたてた。しばらく彼女はうつむいて黙っていたが、ゆっくりと顔を上げ、口を開いた。 「お父さん」 「な、なんだ」 「私にそんなことをいえる立場なのかしら。私だってお姉さんだって、お父さんの女グセの悪さをみーんな知ってるのよ」 「げげっ!!」  父は急にうろたえたが、ここでひるんでは父親の威厳がなくなると思ったらしく、 「な、なにをいってるんだ、バカな」  といい捨てた。でも手足がわなわなしていた。母はソファの上で固まっていた。妹はここぞとばかりに、いかに娘としてプライドが傷つけられ、そして悩んだかを、大げさに話した。一転して苦境に立たされた父は、 「いったい誰に大きくしてもらったと思ってるんだ」  苦しまぎれに怒鳴ったものの、 「そんなお父さんに大きくしてもらって、恥ずかしいわ」  といい返されて、しゅんとなってしまった。 「お父さんだけじゃなくて、ユキまでも……」  母はおいおいと泣いた。廊下の隅で心配そうに聞き耳をたてていた祖母は、よろよろとよろめいて仏間に入っていった。きっとまた仏様をおがんでいるに違いない。 「うーむ」  父は腕組みをして考えこんだが、考えているふりをして、この場からうまいこと逃げようとしているのが、ありありとわかった。 「どうしてあんなことしたのよ。私たちの腹違いの兄弟って、何人いるの」  ぐいぐいと責める妹に対して、父は顔面|蒼白《そうはく》になり、小さな声で、 「八人」  と答えた。母はそれを聞いてひときわ大きい声で泣いた。父は何かいいたげに、しばらく口をもぐもぐさせていたが、息を吐きながら一気に、 「お父さんはいいんだ!」  といい捨てた。 「ちっともよくないわよ」  妹に再び反撃されて、一瞬口をへの字に曲げたが、「お父さんは悪くない、悪くないんだ」とぶつぶついいはじめた。 「うるさい。お父さんは親だから、いいんだ。お前はまだ嫁入り前なんだから不倫なんかダメ!」  わけのわからない理屈で父は妹を丸めこもうとした。彼は自分は悪くないと何度もつぶやいた。 「看護婦のなかには、白衣の下に何も着てないのもいるんだ。それで体を押しつけてくるんだぞ。お父さんだけが悪いわけじゃない」  そういってふんぞり返った父を母は涙目でにらみつけた。 「どうして何も着てないってわかるのよ。それからどうして子供作りにすぐつながっちゃうわけ?」 「えっ、それはその……」  沈黙が流れた。 「もう、やめてちょうだい、二人とも」  母は顔をぐずぐずにして叫んだ。そして、お父さんのことはしょうがないけれど、お願いだからユキは彼と別れてくれとたのみこんだが、即座に妹は断わった。 「どうしてお父さんはよくて、私はいけないの?」  私はまるでテレビドラマのスタジオに見学に来ているような気がした。 「子供のことはいうな。ちゃんと責任は取っているぞ」  それに続けて、おまえなんかどうせ自分一人では、跡始末はできまいといったために、 「お父さんだって、お母さんに跡始末をさせたじゃない」  と突っこまれた。小言をいうはずが、ヤブをつついてヘビを出してしまった父は、ほとんど放心状態で無表情になっている。妹は私と話しているときは、どちらかというと父に対して、あきらめ半分で好意的なような気がしていたが、今日はしつこくくらいついていた。  こんな親子が話し合ったって、結論など出るわけがない。妙な沈黙が流れるなかで、妹は、 「じゃ、これで」  と席を立った。ドアの陰からのぞいていた私にむかって彼女は、 「あー、すっきりした」  といって笑った。 「お父さんもユキも、いったいどうしたんです。こんなところが似てるなんて」  母はいつまでもヒステリックにわめいていた。 「うーむ」  今の立場では、うーむしかいうことばが許されないような父は、小難しい顔で、うーむを連発した。  母は私の姿を見ていった。 「お父さんみたいな人と結婚しちゃいけませんよ」  すると父は、 「よくそんなことがいえるな。好き勝手にお茶だの芝居だの旅行だのと遊びほうけていたのは誰だ! みーんな私の稼ぎのおかげじゃないか。外に子供を作って、お前にひもじい思いをさせたか? えっ? いってみろ」  娘には弱いが妻には強い彼は、猛反撃に出た。新たな展開を聞きつけて、仏間から祖母がよろけるように出てきて、二人の間に割って入った。 「サダコさん、こらえておくれ。私がこんな子に育てたばっかりに、辛《つら》い思いをさせてしまって。本当に済まないと思っているよ」  そのことばを聞いた母は泣き、いった祖母も泣いていた。隣で父は、飼主に叱られたのに、しらばっくれている犬にそっくりな表情をしていた。父の女好きと妹の不倫と、親子のダブル不倫を抱えて、これからどうなっていくのだろうか。私の背後では祖母と母がわざとらしくひしと抱き合い、父の前でいつまでもこれ見よがしにおいおいと泣いていた。 角川文庫『無印不倫物語』平成7年2月25日初版刊行             平成10年10月25日10版刊行