ひとつ火の粉の雪の中 秋田禎信 イラスト 若菜等+Ki 1992年8月25日 初版 * ルビが多過ぎるので、固有名詞や誤読し易いもの以外を排除。 * HTMLの aタグで各章の頭にアンカーを設定。 * HTMLの imgタグで挿絵を指定。 * 青空文庫のルビフォーマットはエスケープの概念が無いので底本とは違う文字をマップ("〈〈", "〉〉")してエスケープ。    目 次    序 章 鬼の子                    5    其の一 蜘蛛の里                    17    其の二 天竜鬼神《てんりゅうきしん》                    60    閑 話 修羅の話                    68    其の三 鬼の姿                    103    其の四 月の影                    146    其の五 出口                    173    其の六 天者地者《てんじゃちじゃ》                    229    其の七 苦痛多き世界                    240    終 章 海の声                    278    あとがき                    283    解 説     編集部                    287    序 章 鬼の子  風までもが血に飢えるということはなかろう。風は、ただ流れ往くだけだ——この地の上を、そして、ときには下を。  この[#「この」に傍点]風は焦げていた……血に焦げていたのだ。その臭いを嫌うかのように、天の高みへと逃げていく風……  風に取り残された大地には、同じく焼け焦げた肉片や骨片が散らばりういでに焼き払われた家の痕や、潰され埋められた井戸の残骸などが添えられている。さらに言うなら亡者の怨みが立ちこめ、みなまで言うならば——鬼の臭いが残っている。  今朝までは人の住む村だった。たった一刻だけで変わってしまう。妖《よう》が集い、鬼が立ち、入るだけで変わってしまう。  鬼の足跡。人の骸。焦げた大地。家の燃えかす。血と泥で汚れた粗末な着物。折れた鍬。血のりのついた手斧。百姓が戦場で拾ったものか、野太刀まで落ちている。片方だけになった鞋。もう片方の鞋と、それに足を乗せていたはずの人間は、今は鬼の腹の中だ。  焼き払われる死。突然の襲撃と恐怖の死。弱い者が死ぬ道理。  まさしく道の理《り》。  定められしもの——人と鬼。鬼と人、定めであったならば、この�死�は突然のものではないのかも知れない。人と鬼とは、永い付き合いだ。これからも続くだろう。永遠に、ずっと……  生と死。人と鬼との関係は、まさしくそれ[#「それ」に傍点]だった。拒絶し拒むのとは違う。二つの争いではなく——生と死は常に一つだ。  人の生の中に、彼らはやってくる。  内臓を引き裂かれて地面に倒れていた男が、うっすらと笑みを浮かべ、逃げていく風に向かって呟いた。 「奴らが、やってきた……」  血と光と炎。牙と爪と角。  男は、死体となりつつある声で続けた。 「奴らは……」  そして、その男も死んだ。  我は汝《なれ》の夢より来たり。  鬼に焼かれた村など、なにも珍しいというほどのものではない。  この村も、その一つだった。死んだ村の光景など、はかとたいして変わらない。細切れになった骸が転がり、大地が燻っている。何処から来たのか痩せ細った野良犬が、屍の腸《はらわた》に鼻先を突っ込んでいる。死んで肥やしか、犬の餌——鬼は、よくそう唄う。  風は死の澱みから逃げ出せるが、屍は動けない。空は黒煙に汚れ、鳥を呼び寄せる。  見るところ、すべてが死。それが鬼の力だ。鬼の足跡だ。住むところを失った鼠が、小さな声で鳴きながら地面を這う。たまに犬に捕まる。  人はいない。もういなかった。鬼どもは、決して人間には容赦しない。爪で裂き、牙で啜り、哄笑が炎を放ち、雄叫びが雷を呼ぶ。鬼には力がある。人を殺すがためだけに、天が与えた鬼の力——人は�鬼界�と呼んだ。  人のいない村。死した村。  そこに、一人の大男が足を踏み入れた。歳のころ四十前後の、身の丈七尺はあろうかという、とてつもない巨漢である。腰間《ようかん》にはその背丈ほどもある、これまたとんでもない長太刀を差し、その表情は、いかなる惨状を見ようとも微動だにしない。食い荒らされた百姓の屍と眼が合っても、眉一筋も動かそうとはしない。  その足が、炎の手に�祝福�された焦土を踏み締めた。大男は、ゆっくりとした様子で惨劇の村を見回した。  鉄の扉のように閉ぎされていた唇が、そっと動き、低いが圧倒されてしまう声を出した。 「鬼が集う……」  臭う、ということだ。  もしこの大男に感情があったとしても、今はその片鱗も見せない。男は、そのまま歩き始めた。その爪先は村の中心つまり破壊の傷跡の中心へと向かっている。 「稲妻の太刀筋」  地面に残された炎の痕を見ながら呟いた。その声にも感情はない。  低く冷たい声で、大男は続ける。 「雷を呼んだのか……」  天の乱神を呼び、応えさせる術。それほどの威力を持った力は、この地上には一つしかない——鬼界《きかい》だ。  男は迷わず進んでいった。鬼界を扱うもの、それはすなわち鬼だ。だが、どんな強大な力が待ち受けているのであろうと、この大男の歩みを鈍らせることはできない。  修羅は恐れない。  男が進んでいくと、まもなく破壊の中心にたどり着いた。間違いなく、ここから放射状に力が放たれている。鬼界の中でも、最も恐れられる稲妻である。  稲妻によって焼き払われた焦土の中心——そこにいたのは、鬼ではなかった。女の子が泣いている。五、六歳の、随分と幼い女の子だ。  大男は、その小柄な女の子のところへと近寄っていった。七尺の巨漢と並ぶと、その子は小犬か何かのように見える。血と泥と涙とで全身を汚し、その近くにとんでもない大男が現れたのにも気付かない様子で泣き続けている。  大男は、まばらに髭のはえた顎をさすって少女を見下ろした。一見、何処にでもいるような村の子のようだ。この男も、知識として知っていなかったら見過ごしてしまったに違いない。  大男は黙って立ち続けていた。そのまま数刻が過ぎる。やがて陽が暮れるころになって、少女は泣きやんだ。  夕陽によって、血に染められた大地がさらに紅く染まる。骸は動かない。刻が経っても、死人だけは微動だにしないものだ。  女の子は、恐る恐るといった感じで大男を見上げた。ぐしょ濡れの頼に、夕刻の弱々しい陽が照り返るようだ。  大男は、まったく顔の筋肉を動かさずに見返した。この子がういさっき、それよりももっと恐ろしい目に遭ったのでなけれは、恐怖に叫び出したことだろう。しかし、無表情な巨漢の流れ者よりも、もっと恐ろしいものがあることをすでに知っているのだ。  少女は蚊の鳴くような声で聞いた。 「おじさん……誰?」 「わしの名は、鳳《おおとり》」  大男は、無表情のまま、無表情な声で返した。 「おおとり?」  少女は聞き返す。大男は頷いて、 「そうだ」  答えた。  少女は、少し黙った。そして——この大男が何処にも行ってくれそうにないと悟って——  ——言った。 「なんで、そこに立ってるの?」 「お主を待っているのだ」 「待っている……?」  少女は首を傾げる。彼女には理解できない概念だったのかも知れない。  鳳と名乗った大男は、ぼそりと断定した。 「お主は、夜闇《よや》、だな」 「なんで、あたしの名前を知ってるの?」  不安げな声。男は、にこりともしない。 「この地上に、鬼の子はただ一人しかおらぬ」  それを聞いて、少女の顔に怯えの色が走った。  鳳は無視して——というより、気をまわすといったようなことを知らないのだろう——  繰り返した。 「お主は……夜闇であるな?」  夜闇は、こくんと頷いた。 「そうか……」  大男はそう呟くと、空を見上げた。その視線に何の意味があったのかは、幼い夜闇には分かるはずもない、そもそも感情を持たない——知らない——鳳にも分かってはいない。  しばらくの沈黙をはさんで、鳳は聞いた。 「この村、鬼に襲われたのだな?」  夜闇はまた同じように領いた。 「では、村を焼いたのも、鬼か?」  夜闇は、うつむいた。そのまま黙して動かない。怯えた眼差しが、震えながら焦土を見つめている。 「どうなのだ?」  鳳が聞く。とうとう、夜闇は答えた。 「違うよ」  声は震えていた。その眼には、彼女の知っている中で最も恐るべきものの姿が映っている。少なくとも少女にだけは見えるものが。  鳳は、うつむいたままの夜闇のかたわらに、ひざをついた。 「では、お主がやったのだな」  夜闇は頷いた。そして聞いた。 「おじさんは、鬼を斬るの?」  怯えた視線が太刀に触れる。鳳は答えた。 「わしは、鬼斬りだ」 「あたしも斬る?」  少女が怯えきった声を出す。鳳は、首を横に振った。 「お主は、斬らぬ」  そして、立ち上がり、 「一緒に来るのだ」  言った。  夜闇は、え? といった面持ちで大男を見返す。 「駄目だよ」 「何故だ」 「あたしは……ここで死ぬんだ」 「死ねない」 「どうして?」 「鬼と……闇に捕まる」  鳳は言うと、夜闇を小犬のように抱き上げた。そしてその眼を覗き込みながら続けた。 「逃げなければならぬ。正体を偽りながら、何処までも遠くへ逃げるのだ」  夕陽は、いつのまにか半分沈んでいた。うっすらとした影が、辺りを覆い始めている。夜闇は、また涙をこぼした。 「あたし、怖い」 「何を恐れる」 「こんなに——こんなになっちゃった……みんな……」 「しかたがないのだ。人と鬼とは——これはしかたない[#「しかたない」に傍点]のだ」  鳳は、にわかに厳しく言った。 「だって……」 「行こう、夜闇」  鳳は夜闇を地面に下ろした。彼女は迷うように大男を見上げている。  そして彼女は、しばらく待ってから口を開いた。  どこ 「何処へ行くの?」 「何処でも長い。遠くだ」 「あたしが行きたいところ?」 「それでも良い」 「じゃあ……」  夜闇は、しばらく迷ってから、 「海が見たい……」  鳳は、黙って頷いた。 「ねえ、ねえ」  歩き出してからしばらくして、夜闇が声をあげた。 「海って、何処にあるの?」 「遠いところだ」 「どのくらい?」 「地の果てだ」  鳳はそう言うと、彼女の小さな体をたくましい肩に担ぎあげた。無表情のままぽつりと言う。 「疲れたろう。少し寝ると良い」 「うん」  夜闇は無邪気に頷いた。  そのまま、彼女は朝まで眠りこけていた。翌朝目覚め、そしてまた眠りにつき——繰り返しながら、この鬼の話は続く……    其の一 蜘蛛の里  晴れ渡る。  信じられないほどに広がった青い空を、鳥たちが泳いでいる。鳥は風とともに滑っていく。その小さな翼で、人間には考えられないほどの遠くまで。 「鳥はいいね」  その少女は、まったく無邪気な様子で言った。その辺の村娘といった格好で、連れに言っているのか雲に言っているのか分からないような声音ではしゃいでいる。  少なくとも——と敢えて付け加えておくが——この少女には、とくに変わったところはない。人目につくようなものはなにもない、ただの女の子だ。歳は十二かそこら、髪を短く切り、何処かの戦場で拾ったのであろう薄い紅の着物を着ている。寸法が合わないので、裾を切り詰めた跡があった。元気そうな笑顔で、連れの五歩先を軽やかに歩いていた。  だが、その連れだ。 「鳥……?」  少女に聞き返す声には感情がない。しかもその巨漢ときたら、優に七尺はあろうかという化け物だ。その腰間にもまた七尺はある太刀を提げている。ぞっとする男で、まったく表情がない。四十ほどの歳に見えるが、その生き疲れたような眼差しは、軽く千年は生きてきたような鈍い輝きを覗かせている。気が抜けているのか異常に冷静なのか、はたまた別の理由があるのか、とにかく表情というものをまるっきり見せない。  大男は、にこにこしている少女とは対照的に無感動な声を出した。 「何故、鳥が良いのだ?」  少女はそのまま空を見上げながら答えた。 「だって、飛べるし」 「飛んだら、堕ちるしかないぞ」 「でも飛びたい」  少女は向き直って反論した。鳳の無感動な眼がそれに立ち向かうように、 「わしは飛びたくない」  答えた。さっきまで少女が見上げていたと同じはずの——だが決して両者の眼には同じようには映らない——空を見上げて、大男は続けた。 「高いところほど怖いものはない……」 「空が怖いの?」  信じられない、といった声。少女には、この男に恐れるものがあることなど信じられないのだ。 「そうだ」 「おおとり[#「おおとり」に傍点]のくせに?」  少女が首を傾げる。  大男は視線を落とした。 「一度、いったことがあるからだ」  表情は変わらない。ただ眼差しが陰っただけだ。 「そして……堕ちたのだ」  いつも通り[#「いつも通り」に傍点]少女には分からなかったので、ただ、ふうん、とだけ答えておいた。 「ねえ、いつになったら海に着くの? あたし、海の次には空に行きたいな」  無茶苦茶な、わがままだったが、慣れているのか大男は表情をぴくりとも変えない。  こう言うだけだ。 「海は遠いぞ。地の果てにあるのだから」 「いつ着くの?」  この六年間、同じ質問を繰り返してきた。  そして、そのたびに同じ答え。 「遠いところに着くのは、遠い日と決まっている」 「だからさ、それは、いつ?」 「遠い日は、ずっと先だ」  少女は、しかたなく引き下がった。これ以上聞いても無駄だ。彼女はまたすたすたと歩き出し、大男との差を五歩ばかりつけた。 「村はないかな。野宿には飽きちゃった」  六年前には、ここには村があった。六年前に——  鬼に焼かれたのだ。  鳳はそれを知っていたが、少女は何も知らなかった。彼女はいきなり駆け出すと、振り向いて嬉しげに言った。 「村があるよ! ほら、あそこ!」  背後を指差すその先に、確かにこぢんまりとした村があった。急げば夕暮れまでにたどり着ける距離だった。  少女のところまで行って、大男は言った。 「妖が見える」 「よう[#「よう」に傍点]?」 「まっとうな村ではない」  あっさりと言い切った。とはいえ、彼の眼や鼻の確かさは、少女だって何度も目にしている。 「鬼……?」  とたんに怯えた声になって、少女は聞いた。見る限り、その村は普通のものに見える。遠目に見える痩せた百姓の野良仕事にも、別に変なところはない。 「鬼ではない」  大男は首を振った。 「じゃあ……」 「蜘蛛だ」 「蜘蛛?」 「そうだ」  大男は村に向かって歩き出し、 「蜘蛛の里だ」  言った。  少女は一瞬ためらってから、大男の後に続いた。 「蜘蛛も、斬るの?」  さあっと、風が吹き抜けた。 「斬る」  大男は相変わらずの無感動な声で言い切った。  彼の太刀が、微かに興奮して震えていた。空は怖い。それ以外は、修羅は恐れない。  人が人として生き、鬼が鬼として蠢く。人は人として死に、鬼は鬼として裂く。  そんな光景がある。夜闇は幾度もそれを見た。そして通り抜けてきた。六年間の旅路で、僧が一生かかって埋めるよりも多くの屍に触ってきた。  つらい旅路だったはずだ。  もっとも、彼女は昨日の記憶さえ持ってはいないのであるが。然して今の——常に今の[#「常に今の」に傍点]——彼女は幸福そうだった。鳳から警告を受けていたことも忘れ、村へ続く細道をはしゃぎ回りながら歩いていく。何が楽しいのか嬉しげに笑い、後ろの鳳との差をさらに拡げていった。  鳳は、それを見ながら無表情についていく。 「普通の村みたいだよ」  夜闇が言った。鳳は、首を横に振った。 「まやかしだ」  少しむくれて、夜闇が言い返す。 「誰も死んでないよ」  と、村を指した。 「蜘蛛は、鬼とは違う。鬼は定めとして人を殺し、蜘蛛は喰うために人を捕らえる」 「牢屋なんてないよ」  村は貧しいようだが、平穏さを連ねている風情だ。 「蜘蛛の糸は、細くて見えぬ」  だが鳳は彼女の言うことなど、はなっから否定するべく構えているようだった。彼は続けた。 「人には見えぬのだ。蜘蛛は、人の弱さにつけこむ魔性なのだから」 「鳳には見えるじゃないか」  ぶつくさと夜闇が言った 「わしは、人ではない」 「あたしにも見えないよ」 「ならば、お主は人なのだ」 「だって……」 「人だ」  大男は低く断言した。苛立ちも見ぜない。六年間、夜闇は彼が声を荒らげるのを見たことはないし、唇の端を吊り上げることさえしなかったはずだ。 「でも……力は?」  彼女は、答えを期待するような声音で聞いた。確かに、こういうとき鳳は、期待通りの返事をしてくれる。つまり、 「お主は、人だ」  鳳は繰り返し、続けた。 「お主が信じぬことには始まらぬ」  自らが謀ろうとしなければ、まわりを騙すことなどできはしない。そういう意味もあったのだが、夜闇は自分の良いように解釈した。つまり、表面そのままに、である。  彼女はそれだけで満足し、機嫌を直した。にこにこと聞く。 「人か?」 「そうだ」  鳳には感情がない。だから子供をも騙すことができる。声に色がないのだから、見えるわけがないのだ。  もし彼に感情があったなら、虚しさのひとひらも感じただろうが。 「人かあ……」  夜闇は、陶酔の吐息のような声で納得している。だが、それはそれで良いのかも知れない。  春の陽は、妙に暖かかった。夜になったら、さぞ生暖かいことだろう。  古寺の堂の中は、暗闇に満ちていた。あるいは、光を拒みきっていた。  どちらにしても同じことであり、また違うことでもある。蜘蛛には暗闇を造り出すほどの力はないし、また、光を締め出す力もない。ただ暗闇に集うだけだ。その闇を造り出したのが誰かなどということは、蜘蛛の知ったことではない。 「蝶が来たか……?」 「いや、あれは、駄目じゃ」 「喰えん」「喰えん」 「肉は回そうじゃ」 「骨は不味そうじゃ」 「あの男、血の臭いがする」 「血の臭いの、何処が嫌なのじゃ?」 「あの血は、戦場の血じゃ」 「女は?」 「あれは、美味そうじや」 「女だけ、手に入れられんもんかのう」 「無理じゃ」「無理じゃ」 「男だけ殺して、女は喰おう」 「女は喰おう」 「どうやって、男を除ける?」 「捨ててしまえ」 「からめてしまえ」 「男は除けた」 「女は喰おう」  闇の中は、声に満ちていた。あるいは、静寂を拒みきっていた。  どちらにしても……  二人は、夕刻前に村に着いた。野良仕事をしている農夫が、気安そうに話しかけてくる。 「流れ[#「流れ」に傍点]なのかい? 泊まるところはあるかい?」 「ないよ」  夜闇もまた気安く答えた。彼女の後ろから、鳳が農夫をにらんでいる。  農夫は、まったく気にしていないようだ。鳳の巨体など目に入らないように…… 「それなら少し歩くことになるが、寺に行くといい。住職さんに頼めば、一晩くらい泊めてくれるだろう」 「へえ」  と、夜闇。彼女は続けた。 「寺は何処にあるの?」 「この先……村を越えて、少しばかり道なりに行けば着く」 「ありがとう」  鳳は鼻をぴくぴくとさせただけで、何も言わない。 「じゃあ、わしは……」  農夫はそう言って、二人から離れようとした。 「待て」  一言、鳳が呟く。  農夫は駆け出した。あっという間に、道の彼方へと消えてしまう。 「どうしたの?」  夜闇が鳳に聞いた。大男は、かぶりを振るだけだった。 「あれ? あの人……村から出てっちゃったけど」  農夫は止まることなく走り続けている。  突然姿が消えてなくなるまで、一呼吸もかからなかった。  呆けたように夜闇が呟く。 「消えちゃった」 「崩れたのだ」  鳳が、ぼそりと言う。道の向こうに人型の土の塊があるのは、夜闇には見えない。鳳にだって見えないが、眼に頼らずとも分かることだ。 「土くぐつ[#「土くぐつ」に傍点]だ」  彼は言った。夜闇は首を傾げている。 「寺には行かない方が良いだろう」 「うん……」  夜闇には何が何だか分からなかったが、そう同意するしかなかった。  二人は、近くの農家の納屋を借りた。 「感づかれた」 「まさか、人ごときに」 「術は完壁だったのに」 「人ごときに」 「感づかれた」 「次は、どうする?」 「どうする?」 「ねえ、なんで寺に行かなかったの?」  夜闇は不服そうだった。どう考えたって、納屋よりは寺の方がいい。  鳳は藁たばの上に腰かけている。そのまま見張りをするつもりらしかった。よく考えてみたら、夜闇は彼が眠るところを見たことがない。彼は、一言で答えた。 「寺に行けば喰われるだけだ」  え? と夜闇は顔をしかめた。 「喰われる?」  鳳は辛抱強く、 「蜘蛛に、だ」  答えた。夜闇は完全に記憶力というものを欠乏させている。 「……なんで寺に蜘蛛がいるの?」 「何処にいたって不思議はない」 「じゃあ、この納屋だって……」 「いないとは言わない」 「じゃあ、危ないじゃないか」 「だから見張るのだ」  鳳はそう言うと、めんどうくさくなったのか言い捨てるように呟いた。 「もう寝ろ」 「うん……」  彼女は、しぶしぶ藁の上に寝っ転がった。  風が生暖かい。気分悪いことこの上ないのだ。無理に眠ろうとして眠れるものではない。 「ねえ」 「なんだ」 「蜘蛛さ、出るかな」 「分からん」 「臭いとか、しないの?」 「わしは予見師《よみし》ではない」  当たり前のことを言う。 「蜘蛛の臭いって、どんなの?」 「お主には分からん」 「あたしには分からないの?」 「そうだ」 「鳳には分かるんだね」 「そうだ」  夜闇は、転がったままで器用に首を傾げた。 「なんで分かるの?」 「わしが人ではないからだ」 「人でないものには分かるの?」 「大抵は、そうだ」 「なんで?」 「力を持っているからだ」 「力なら、あたしも持ってるよ」  夜闇は少し怯えたように言った。 「お主は、力を持っているのではない」 「でも……」 「お主は、力を引きずっておるだけだ」  何処が違うの? そう聞く必要はなかった。鳳の言い方が違えば、それは違うのだ。それ以外の判断基準を持っていなかった。 「どうして鳳は人じゃない、の?」  彼がその質問に困ったように眼を陰らせたので、夜闇は慌てて言い直した。 「鳳はさ、だって人みたいにしか見えないよ」  恐らくそう思うのは、この地上でも彼女くらいなものだろうが。  鳳は表情を変えず——つまり眼を陰らせたま左手——答えた。 「わしは……人の姿をしておるだけだ。人ではない」 「人でないんなら、どうして人の格好をしてるのさ?」  彼女もいい加減しっこいが、鳳は不快な表情を見せない。 「わしが選んだのではない」  少し止めて、 「選べないこともある。免れ得ぬこともある。それを甘受することを、定めという」  普段からは考えられない、長い台詞だった。一つの質問に対して三言も発するなど、滅多にあることではない。 「定め」  夜闇は嫌そうに、唇を歪めた。 「そうだ」 「でもさあ……」  不服そうな声。その気持ちは、鳳にも分からないではなかった。 「なんだ?」 「定めって……」  夜闇はそのまま眠ってしまった。昼間歩き続けた疲れと——嫌なことを忘れたいと思ったせいで�術�が作動したのだ。  鳳は質問攻めから解放され、ようやく注意を納屋の外へと移した。彼は眠りを必要としない。もうずっと眠っていない。いつからだろう——彼は、すぐに考えるのをやめた。甘受すると誓ったではないか……  生暖かい風の流れと同じように、時の流れも動きが緩い。静かな夜だ。人に対しては眠気を誘う。下等な魔術だ——鳳は胸中で呟いた。  それだけだ。太刀に触れるでもない。  誘われているのが分かる。そこを出ていくのは、兵法ではない。  蜘蛛の魔術は、人の弱さにつけこむこと。恐怖。無知。そして眠り。  どうして村三をまるまる術の下におけるのだ? そういう疑問はあった。化け蜘蛛程度にそれほどの力があるとは思えない。人をくぐつ[#「くぐつ」に傍点]にするのは無思通《むしつう》の術だ。  鳳は、立ち上がった。 「何処だ……?」  神経を研ぎ澄まさせる。 「出てこい」「出てこい」 「お前の番じゃ」 「お前の番じゃ」 「男は不味そうじゃ」 「女は美味そうじゃ」 「お前の番じゃ」 「今夜がそうじゃ」「今夜がそうじゃ」  がりがりと、戸を引っ掻く音がする。どうやら蜘蛛たちは、彼らが納屋にいることを監視していたらしい。  遠見《とおみ》もまた、蜘蛛の力量ではない。  蜘蛛の声は続く。 「開けろ」「開けろ」 「女は美味そうじや」 「お前の番じゃ」 「開けろ……」  戸が開いた。  小さな納屋から大男が出てくるのを、月が照らしている。満月である。そこには蜘蛛の姿はなかったが、臭いははっきりとしていた。蜘蛛の臭いは闇と水の臭いだ。 「男じゃ」  蜘蛛の声。しかし、姿は見えないままだ。 「男は除けろ」 「除けろ」 「除けろ……」  鳳は、大きく息を吸い込んだ。 「喝一っ!」  大声で、それこそ大地を揺るがすような声で、大男が一喝する。  とたんに、蜘蛛の声が止む。気配も消えた。逃げたのだ。  鳳は、ふうと息をついた。ばたばたと音がして、納屋の主が小屋から寝ばけ眼で顔を出す。彼は、びっくりしたような寝ばけ続けているような複雑な顔を見せた。 「ど、どうなさったんで?」  鳳は、納屋に戻りながら言った。 「なんでもない。騒がせたな」  風は、まだ吹いていた。 「どしたの?」と言ったのは夜闇だった。眼をこすりながら、眠そうな声を出す。 「なにかが出たの?」  蜘蛛以外の何かが出てくるというのだろう。だが鳳はそれでも表情を変えず、当然の質問に対するかのように答えた。 「蜘蛛が出たのだ」 「蜘蛛お?」 「化け蜘蛛だ」  そう言うなり、干し草の上に座って太刀を確かめる。七尺もある大太刀だ。刃は六尺。普通の太刀であれば、刃渡り三尺程度が普通だろう。太刀は興奮して振動していた。 「妖《よう》を見て、興奮しておる」 「なにが?」 「太刀が、だ」  夜闇は怪訝そうに首を傾げたが、それ以上質問しなかった。好奇心よりも眠気が勝ったのだ。  ばたんと干し草の上に倒れた夜闇を見ながら、鳳は太刀に話しかけた。この男が自ら話しかけることなど、そうそうあることではないのだが。 「斬るか?」  太刀は、そのまま振動を続けた。そして答えた。 「斬るか……」  鳳が呟く。はたから見れば、ただ独りごちているようにしか見えない。  修羅は恐れない。孤独すらをも恐れないのだ。  暗闇が深まっている。そんなことはないはずなのだが——なんといっても、無明の闇がさらに深まることなどあるはずがないのだから。人の心と鬼の影を別にすれば、それ以上の闇などはない。 「男が邪魔をした」 「ひもじいよう」「ひもじいよう」 「餌をとるのを邪魔をした」 「ひもじいよう」 「何故邪魔をするのだろう」 「何故邪魔をしたのだろう」 「餌を喰わずにどうしろというのじゃ?」 「何故邪魔をするのだろう」 「何故邪魔をしたのだろう」 「ひもじいよう」「ひもじいよう」 「男が邪魔をした」 「男を除けよう」 「男は除けよう」 「邪魔をしたものは生かしておけぬ」 「男は除けよう」 「どうしてくれよう」「どうしてくれよう」 「男は除けよう」 「殺せ」 「殺せ」「殺せ殺せ殺せ」 「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ」 「殺してしまえ」  憎悪が深まっている。そんなことはないはずなのだが——なんといっても、妖の気がさらに深まることなどあるはずがないのだから。人の心と鬼の影を別にすれば、それ以上の、闇などはない…… 「お主は、ここで待っとれ」 「やだー」  夜闇は元気よく答えた。 「すぐ戻ってくる」 「や!」  鳳は黙り込んだ。感情を捨て去ってから、はや百年。かといって落胆せずにすませられるほどの二枚舌が手に入ったわけではない。 「蜘蛛を斬ったら、すぐに戻ってくる」 「や!」  夜闇は、ぷいと横を向いた。 「一緒に行く! 蜘蛛を見るんだ」  これを、ただ鳳を困らせるためだけに言っているのだから始末が悪い。 「蜘蛛は人を喰うのだぞ」  こんな脅しも、彼の言い方に起伏がないからたいした効果はない。 「鳳が守ってくれれば良い」  夜闇は、あっさりと言った。 「蜘蛛は数が多い」 「鳳は無敵なんだろう?」 「わしとて万能ではない」  彼は生真面目に答えた。 「鬼だって斬るじゃないか」 「鬼は、たいして群れぬ」 「蜘蛛なんて、たいしたことないよ!」 「喰われれば、死ぬのだぞ」 「喰われなけれは、死なないよ!」  そんなこんなで、結局夜闇は鳳についていくことになった。別に毎度のことではあるのだが、鳳の心配はなにも夜闇の生命にあるのではない。そもそも、大抵のことならば、彼女は自分で自分の面倒くらいは見られるのだ。鳳が真実気にかけているのは、彼女が力を使ったりはしないか[#「力を使ったりはしないか」に傍点]、ということなのである。  当の夜闇はまったく無邪気に、鳳にまとわりつくように走り回っている。何処かへ楽しいお遣いにでも行く体だ。少なくとも、寺まで妖怪退治に行く感じではない。 「ねえねえ、化け蜘蛛って、どんなの?」 「そういう妖だ」 「おっきい?」 「人を喰らう大きさだ」 「へええ」珍しいが安全な獣でも見にいくつもりなのだろうか、とにかくそんな声音だ。 「話、できる?」 「向こうに話す気があるのならな」 「ふうん」  完壁に、話ができるものだと解釈している。 「どんなことを言うかな。あいさつはできるの?」 「さあな」 「へええ」  楽しそうにしている。  何かがずれているのか、完全に何処かがおかしいのか、とにかく彼女には恐怖心というものがない。まったくない。なればこそ修羅を恐れず、蜘蛛を恐れない。 「寺は、まだ?」  村から出て百歩と歩いていない。 「まだだ」 「あと、どのくらい?」 「知らぬ」  当たり前である。 「鳳は、なんでも知ってるじゃないか」  夜闇が抗議した。 「わしとて万知ではない」  それだけを答える。  寺への道は遠い。だが、さして苦痛でもなかった。  寺に着いたのは、太陽が南に高く輝いたときであった。  古寺で、外観からして怪しげだ。少なくとも、村人が術によって思考力を奪われていなかったならば、怪しまれて然るべきである。  石畳の隙間から雑草が好き勝手に伸び、鐘撞き堂は完全に倒壊している。化け物の一匹くらいは住んでいて当たり前だといったところだ。 「わあ、ぼろい」  遠慮のかけらもなく、夜闇が大声で感想を述べる。 「こんなとこに泊まったら、隙間風がひどいんじゃないかな。もう春だからたいしたことはないけど」  化け蜘蛛がどうのこうのということは、もう頭にはないらしい。  鳳は、ずんと足音を立てて前に出た。その双除が、ぎろりと寺をにらみつける。 「妖が臭う」  ぼそりとした声——もっとも、いつもそうだが。 「寺の中からだ」  それらの台詞は、夜闇に「化け蜘蛛」という単語を思い浮かばせるためのものだった。確かに成功した。彼女は嬉々として寺の方に駆け出そうとし、鳳に襟首を掴まれて止められた。  鳳の不可解な[#「不可解な」に傍点]行動に、夜闇はびっくりして振り返った。 「なあに?」 「少し待て」  鳳はそう言うと、袂から一本のこよりを取り出した。納屋にあった藁を何本かよじって作ったものだ。二尺ほどのものだが、彼はその一方を夜闇の細い手首に結び付け、もう一方を手近な木の枝に結び付けた。  引っ張ればすぐに切れてしまうような戒めだが、鳳はそれが絶対に切られないようにする呪文を知っている。 「お主がこれを切ったら、わしもお主との緑を切る」  きっぱりと言う。  夜闇は、ぞっとしたように顔をひきつらせた。そして微かに震える声を出した。 「嘘だ」 「嘘ではない」  彼はそれだけ言うと、寺の方に向き直った。太刀の鞘を腰帯から外し、白刃を抜き放つ。真昼の陽光に、刃が輝いた。 「わしが帰ってくるまで、ここを動いてはならぬ」  夜闇は、慌てて領いた。こういうときの彼は本気である。つまり、太刀を抜いたときの、この男は。  本気の相手に、駄々は通用しない——彼女にも、そのくらいの判断力はあった。  鳳が寺に向かって一歩を蹄み出す。その巨大な後ろ姿を、夜闇は見送った。  大きすぎる鬼斬《おにぎ》りの背中。  それが、寺の入口の暗闇の中に消えた。その体躯は震えていた——血の流れぬ妖の体が、戦を迎えようと打ち震えていた。  暗闇が深まっている。そんなことはないはずなのだが−なんといっても、無明の闇がさらに深まることなどあるはずがないのだから。人の心と鬼の影を別にすれば、それ以上の闇などはない。  それとも、あるのだろうか? 人の混沌、鬼の足跡よりも恐ろしいものがあるのだろうか? 恐らくは、あるのだろう。鳳は空が怖い。  巨漢は抜き身の太刀を無造作に右手だけで提げながら、これまた無造作に古寺の中を進んでいった。暗闇など恐れるに足らない。高みにくらべれば、なんと気楽なものか。  闇を見通す眼で、古寺の中を見回す。蜘蛛の影すらない。あるのは、老若男女を問わない人骨の山、あちこちにかかっている蜘蛛の巣、そしてそれよりも明らかに太い化け蜘蛛の糸、降り積もった填、荒れ果てた仏壇から落ちたのであろう様々な品々。  鳳は構わず突き進んだ。最初考えていたよりも、蜘蛛の数は少ないらしい。転がっている人骨の量を見てそう思うのだが、だとしたらどうやって村全体を術の下におけるほどの力を得たのだろう。漠然と数の力を使っていたのではないかと思っていたが、どうやら鳳の見当はずれだったらしい。 「出てこい」  大男の静かな声が、古寺の暗闇に浮かんだ。 「天冥《てんめい》八百万条|雀虎龍亀《じゃくこりゅうきつ》の理、うぬら妖魅《ようみ》を減殺に参った」  なにも出てこない。  ただ、気配だけはする。鳳の鼻をかわす妖など、地上にはいない。  静まり返る闇。  闇の必然は静けさに帰る。  だから闇は答えない。  そのまま鳳も黙し、数刻が過ぎた。なにも出てこない。  ……動いた。  大男の背後で、ことり、と小さな音がした。常人には——人には聞こえないような、小さな音。  鳳は、ばっと振り返った。太刀を両手で振りかぶり、大地を断たんとばかりに振り下ろす。轟音とともに、剣先の触れた床が吹き飛びながら陥没した。地響きが古寺を揺るがす。凄まじい威力に、両断された蜘蛛は文句なく絶命した。粉々になった体が潰れて融ける。 「兄者ああ」  別の方向から声があがった。右の頭上の梁から、三尺ほどの巨大な化け蜘蛛が飛び降りてくる。  大男はまったく慌てず、打ち下ろした太刀を下段から振り上げた。闇を斬る太刀の刃がその蜘蛛に触れた瞬間、その蜘蛛も爆裂するように四散した。異常な威力である。 「なんたることじゃ!」  仰天した声。 「その太刀——き、貴様、まさか——」 「わしの名なぞ、どうでも良い」  鳳は容赦なく太刀を構えながら、新たな蜘蛛に向き直った。  そして、続ける。 「うぬらに、聞きたいことがある」  蜘蛛は後退りながら、 「な、なんじゃ」  呻いた。  巨大な蜘蛛だった。硬そうな短い毛が全身を覆っている。普通なら鎧にもなろうが、修羅の化け物を相手では分が悪い。  逆刺《さかとげ》のついた八本の脚が、かさかさと古びた木の床をこする音がした。その昔こそが人間の思考を奪う無思通の術であった。もっとも、妖が相手では効果もない。鳳がにらみつけると、蜘蛛は無駄な抵抗をやめた。 「うぬら、何処から力を手に入れた。不相応な力を持っておったようだが」  にじり寄りながら、鳳。 「い、いや、わしらは……」 「力の出所は何処だ?」 「わしらは……」  化け蜘蛛は、少しためらってから、恐る恐る聞いた。 「言ったら、見逃してくれるかの?」 「見逃さぬ」 「ひ、ひいいっ……」  化け蜘蛛は、慌てて一歩飛び退いた。背を向けると、粘着性の強い糸を噴き出す。糸は鳳を包み込むように広がった。  だが鳳は逃げもせず、左手で印を敷いた。 「赤火金剛《せきかこんごう》来たれ!」  叫ぶ。その瞬間、化け蜘蛛のいた辺りを赤い閃光と轟音が覆った。爆炎が一瞬で蜘蛛を消し炭にする。  燃え盛る炎の中で、化け蜘蛛は絶叫した。 「あああ——天者《てんじや》さま、地者《ちじや》さまあ——我が身は滅びまするうう……どうか、どうか……我が復讐を——我を滅ばした者に数多の苦しみと死を……天者さま地者さま——ああ……」 「天者地者?」  鳳は、滅んでいく化け蜘蛛を無視して呟いた。 「八百万が第三位、天者地者のことか?」  八百万とは、要するに神々のことだ。そして天者地者は獣魔を束ねる神である。 (天者地者が、この辺りに来たというのか……)  だからこそ、その配下である化け蜘蛛たちの力が増大していたのだろう。 (この蜘蛛どもは夜闇のことを知らなんだようだが、天者地者がこの地に来る目的があるとしたら——)  鳳は、しばし考え込んだ。  だがそんな時間はなかった。その直後、夜闇の悲鳴が響き渡ったからである。  夜闇は惨めな面持ちで木陰に立っていた。  鳳が今日のように、きつい言い方で彼女に警告することなどあまりない。実際のところ、はとんどないと言ってもいい(言っても無駄だからだ)。 (怒ってたのかな……)  夜闇は、大男の感情を示さない無表情を思い出しながら考えた。無愛想な男だが、それなりに彼女には優しいように思う。  そんなことを考えながら、少なくとも退屈はしないで待っている。立て続けに轟音が起こり、しばらくしてから寺の裏の方で火の手までがあがった。彼女は別に驚くでもなくそれを見ながら、のんきに鼻唄など唄っていた。昔聞いたことのある子守歌かなにかだが、彼女はそれ以外の唄など知らなかった。  鼻唄に誘われるように、蝶がひらひらと寄ってきた。夜闇はにっこりと笑うと、その蝶に手を伸ばしかけた——  ぽん、と音がして、蝶の羽が燃え上がった。 「…………?」  夜闇がびっくりして見ていると、灰になった蝶は彼女の足下に落ちた。そして……不意に彼女の周囲を白い糸が覆った。 「女は喰おう」  くぐもった声。いつの間にか化け蜘蛛の一匹が彼女の背後に寄っていた。彼女は悲鳴をあげた。 「男は除けた。女は喰おう」  化け蜘蛛はぶつぶつと唱えながら、糸を吐き出した。白い蜘蛛の糸が、幾重にも少女を取り巻いていく。 「なんで……なんで、あたしを喰うの?」  夜闇は言いながら、ぞっとして手首のこより[#「こより」に傍点]を見遣った。無事を確かめて、はっとする。安心すると彼女の声は急に明るくなった。 「どうして、あたしを喰うの?」 「腹が減ったから」 「本当に、あたしを喰うの?」 「腹が減ったから」  そうしていくうちに、蜘蛛の糸は増え続ける。糸はいつしか、白い幕のように夜闇を包み込もうとしていた。 「見えないよ……?」  夜闇は、ぼやいた。  その声は何処となく我を忘れた感があった。無我の遠き地より響いてくるような声音だ。少し、少しではあるが恐怖が混じっている。欠落した恐怖心が、少しずつ表面に浮かんでくるように…… 「見え……ないよ? なにも……見えないよう……」  化け蜘蛛の心は躍った。蜘蛛は人の弱さうまり恐怖を喰らう。  夜闇の耳に、虚ろな声がこだまする……  見えない——見えない—— 〈〈わしの名は——〉〉  彼女の心の奥から、何かが名乗りをあげている。だがその�名前�は彼女には分からず、聞き取ることもできなければ発音もできない。ただそれは、眼に見えてくる言霊だった。  見えない—— 「やだ!」  夜闇は、わがままな声で叫んだ。 「海を……見るんだ!」  蜘蛛は構わない。ただ恐怖を喰らい、血が騒ぐにまかせていた。  糸の壁で蜘蛛には見えないが——夜闇の眼の奥に、化性《けしょう》の気配が映し出されていた。その眼が……醜くつりあがり、欄々と焔気《ほむらい》の紅の色を宿し、鬼魂《きだま》を見る。  こめかみの辺りが、むずついた。鬼であったなら角のある位置だ。 「いやあーっ!」  彼女は泣き叫んだ。  娘の中に、鬼が隠《おぬ》。  夜闇《よやみ》の中に、鬼が隠《おぬ》……  そんな声が、聞こえてくる。 〈〈天を呼べ……〉〉  古寺の上空が、にわかに曇り出す。そのとき、鳳が寺から慌てて出てきた。彼は間に合わないことを悟り、地面に結界の陣のための円を描き、その中心に太刀を突き立てた。太刀の傍らに身を低くして寄る。 〈〈乱神、天を呼べ……〉〉  この声は、鳳にも化け蜘蛛にも聞こえない。夜闇にのみ、鬼の子にのみ——聞こえるだけだ。  天が曇る。雷雲。  天を呼ぶ術——鬼界の中でも最も恐れられる、いかづちの力……  天が光を放った。暗零が爆発するような輝きとともに、光の剣を大地に打ち下ろす。幾条もの雷電が、ところ構わず辺りを破壊していく。古寺にもいくつかが命中し、崩れかけた建物を粉々に打ち砕いた。爆発と破壊の渦。その中心に——夜闇の周りに、それこそ何条もの電光が打ち落とされた。化け蜘蛛はとうに黒焦げになって消え去り、夜闇を包んでいた糸も焼き切れた。  破壊は収まらない。続く。 「世の終わりか……?」  鳳が、そっと呟いた。その声にも感慨はない。彼の周り転も、いかづちの洗礼は続き、とりあえずの結界も潰される寸前だ。  彼の場所から、夜闇の姿を見ることはできる。だが彼は眼を伏せ、じっと握りしめた己の拳を見つめていた。力を込めすぎた拳は微かに震えている。  やがて、寺の敷地とその周囲をすべて破壊し尽くして、夜闇の鬼界は収まった。彼女は、泣きそうになりながら鳳の方を見ている。  彼女は、いかにも恐る恐るといったふうに右手を上げた。焼き切れたこより[#「こより」に傍点]が手首に残っている。 「切れちゃった」  夜闇は、ぐずぐずと泣き始めた。 「切れちゃった……」  鳳は、まず辺りを見回した。あとどれくらい化け蜘蛛がいたのかは知らないが、最強の鬼界が炸裂した後では、まさか生き残りもいないだろう。辺りは焦土と化し、ぶすぶすと燻っている。  彼は地面から太刀を引き抜いた。そのまま夜闇のところまで歩いていき、彼女の近くに捨ててあった鞘を拾った。ちらりと、夜闇を一瞥する。  彼女は泣き続けていた。ぐずぐずと鼻を鳴らし、右の手首を見遣っている。 「切れちゃった……」  また繰り返した彼女に、鳳はあっさりと言った。 「あれは、嘘だ」 「え……?」  夜闇が顔を上げた。  鳳は少女を抱き上げ、その小柄な体を彼の左肩に乗せた。 「海は遠い。山ほど歩かねば、着かぬぞ」  彼はそう言うと、そのまま歩き出した。  ついさっきまで泣いていた夜闇の顔が、ばあっと晴れる。 「ねえねえ、海は何処にあるの?」 「地の果てだ」 「それは、何処にあるの?」 「遠いところだ」 「いつ着くの?」 「遠いところに着くのは、遠い日に決まっている」 「それは、いつ?」 「遠い日は、ずっと先だ」  夜闇は、少し考え込んだ。 「ねえねえ、ちゃんと着くのかな」 「信じることをやめなければ、着く」 「なにを信じるの?」  鳳は、夜闇の顔を見上げた。 「己を信じるのだ」  彼女の涙の跡が乾いているのを見ながら、彼は言った。    其の二 天竜鬼神《てんりゆうきしん》  蝉が鳴き始めるころ。  彼は、ぶらぶらと獣道を歩いていた。小柄な男で、一振りの太刀——拾い物だろう——を腰に差している。  草笛をくわえながら、笑みを浮かべて歩いている。まだ若い。三十にとどくか、とどかないかといったところだろう。彼は考えごとをしていた。  彼の考えていることは、そんなに大層なことではない——と、言えなくもない……といったところか。この国——この世界、この時代には、国の名前というものがない——に隣国が攻め入ろうとしているという噂があるのだ。いつだって囁かれる噂だし、今さらどうということもない。  ただ少々興味をひくのは、その隣国というのが去年滅亡したはずの国だということだ。  〈ひらばら〉と呼ばれる西の地である。死に絶えた民が噂を流している。死に絶えた武士《もののふ》たちが死んだ馬をひいている。なんでこんな馬鹿げた噂が広まったのか、彼にはさっばり分からない。隣国の領地には生きた人間などいないと噂されているのだ。つまり、入る者は帰ってこない、出てくる者はいない、という状態だ。腕の立つ間者もすべて行方知れずという。  彼は、あくびをした。同時に足下に草笛が落ちる。それを拾って袂に入れながら、彼は思った一つまらない噂だ。死んだ国が攻めてくるはずがなかろう。一体何処から流れてきたものやら。  彼は、下りの道に差しかかったところから一気に駆け出した。明後日ごろには都に着くだろう。人間の都に。  鬼がまだ、ずっと北に隠《お》っとった時代。この〈ひむがし〉には来ていなかった時代。  そんな時代もあったのだよ。わしらは、この眼で見たのだ——確かにあのころは鬼がおらんかった。いや、遥か北の〈うしとら〉にはいたし、〈ひむがし〉にだって、まったくいなかったわけではなかったが——とにかく、都まで大挙して攻めてくるようなことはなかった。満足に……まあ、満足に生きていられたものだ。  わしらは、都にいた。都の外でばらばらに生まれたが、なんとなく集まったのだ。誰が集めたわけでなし、誰かが呼んだわけでなし、たまたま、わしらの爪先が一つところへと集まったというわけだ。  此れぞ、運命と云う。  わしらは、天竜と呼ばれた。天竜八部だ。その名がつけられたのは——そう、わしら八騎で千騎を打ち倒したときからだ。嘘ではない。千騎だ。  だがなあ……いつまでも、うまくはいかぬものだよ。  彼は、予定より早く、翌日には都に着いていた。地方とは違い、さすがに華やかなものだ。田舎者の彼の眼は、あちこちに釘付けになり、それだけでそれなりに楽しんでいた。ほとんど身動きもとれずに、彼は、にわか武士を気取っている。  騒ぐのは好きだった。そのときは——そうだった。  そうさなあ。  わしらが出会ったのは、徴兵が始まったときだ。軍役をかせられ、そのときに顔を合わせた。  まあ……その程度だよ。  彼は、初めて戦場というところに出た。  名もなき兵卒として、自前の野太刀と古びた長槍を手に持っている。御守り程度の半端な鎧を着け、馬に蹴られるか踏まれるかの平野へと駆け出す。  閧《ときのこえ》。剣戟《けんげき》。猛々しい騎馬の足音。砂煙。砂塵。血しぶき。悲鳴。怒号。断末魔。  そんなものに取り囲まれる。彼は、脂のせいで棒のようになってしまった太刀を振るった。槍は折れてしまった。そのなくなった穂先が敵将の頸に突き刺さっていたことなど、彼は知らなかった。ただ、生き延びようとするだけだった。  わしらの最後の——一応、最後ということになるのかな、とにかく最後の戦は、その十年以上も前から囁かれていた例の隣国とのものだった。滅んだ国とだ。  確かに、人の生きられない国だったよ。その国は、鬼が住み、鬼が支配する国だったのだ。 「鳳ィ!」  敗走。そういう道。  声は、再び響いた。 「鳳ィィ!」  彼は、その声に向かって弱々しい声で答えた。腹から背に貫通するような傷を負っている。立って歩いているだけでも異常だろう。 「鳳ィ!」  彼の仲間が叫んでいる。——いや、仲間たちが叫んでいる。彼らとて傷を負っているのには違いないし、鬼ども——彼らが一生で初めて目にし、そして敗北した化け物たち——も追撃してくる。声を出すなど危険極まりない。 「鳳よ!」  ようやく仲間の一人が、彼の小柄な姿を見つけた。太刀を杖代わりに、ふらふらと歩いている。半死半生としか言いようがない。  彼は、吐血ととも呼声をあげた——つもりだったが、音など出なかった。 「無事か」  七人の武者たちが、彼の傍らに近寄ってくる。彼らとて、かなりの傷を負っているらしかった。  天竜八部——彼らを除いて、味方は全滅だ。  鬼との戦だ。戦いはあまりにも呆気なかった。  稲妻が落ち、竜巻が起こり、火炎陣の武者たちが非力な人間に襲いかかる。人の力では鬼を倒すことはできない。人の用いる方法では、鬼に傷をつけることはできない。  人には……無理なのだ。  鬼とは死神のことだ。敵うはずがない、人間などが——神の力に。  例え、伝説の武勇を誇り、天竜八部とまで呼ばれた者たちであっても。  敗走。負け戦。  この日から、この〈ひむがし〉の地を鬼が蹂躙することとなったのだ……  わしらは、死んだよ。  鬼に見つかり、それだけだった——わしらは、奴らの将を見ることすらできなかったのだ……  彼らは、寄り添うように逃げ続けた。  彼は深手に堪えながら歩き続ける。仲間に手を貸してもらい、ひたすらに足を動かし続ける? (力……力があれば)  彼の思いは、ひたすらにそこに終始した。死の恐怖ではなく、諦めでもなく、そこに帰っていった。 (力があれば……仲間を守ることができる。力……奴らを一匹残らず斬り殺す力!)  恐らく、彼ら全員の思いは同じだったのだろう。誰も弱音を吐かなかった。負けを認めなかった。でなければ、もうとっくに力尽きていたはずだ。  だが、そうした執念——いや、怨念——でさえ、そんなに長くは味方でいてはくれないようだった。少しずつ……少しずつ、絶望が近寄ってくる。大きくなっていく——一歩ごとに。痛みに呻く一歩ごとに。  そして、その絶望が限りなく巨大になったとき、死が訪れるのだろう。彼はそう思った。  そのとき——とはいっても、はっきりとはしないが——鬼の姿が一つ、彼の眼に映った。視界が霞んではとんど何も見えないが、恐ろしく巨大な体躯だけは分かる。  この世で最強の力を持つ、人食いの半神《なかがみ》。  全身毛むくじゃらで、頭の天辺から爪先まで剛毛に覆われている。唸り声をあげながら、言葉だか何だか分からないことを口走っていた。体毛のせいで全身の輪郭もはっきりしないが、脳天から二本の角を生やし、わずかに覗く皮膚は岩のような光沢を持っている。乱神の名の通りに、ひたすらに何かを憎むような、凄まじい形相を現していた。溶岩のような眼光は赤く、狂気の輝きをたたえる。体格は小山のようにそびえ、下手をすれば八尺以上もあるかも知れない。  鬼の眼がきらめいた。人を殺すが奴らの定め。逃がしゃせぬ。  逃がしゃせぬ……聞こえる、鬼の唄。  鬼は嬉々として、傷ついた集団に近寄ってくる。二本の角。鋭い牙。刺々しい爪。凶々しい吐息。雷鳴が轟くと思うと、それは奴らの足音であった。  彼は、うなだれるように崩おれた。  終わり。  彼を除く七人が、無謀にも鬼に挑んでいく——結果は分かりきっている。  鬼が笑う。  その哄笑が彼を殺した。彼は心臓を止めた。  鬼が笑う……  直後に、稲妻が辺りを薙ぎ払った。八人の人間が消し炭となるのに、病人の一呼吸すらも必要としない。  鬼が笑う——鬼が笑う——  死した者たちの魂に、哄笑がまとわりつき、そして……ともに消えていった。  閑 話 修羅の話  〈うしとら〉は、鬼の住む土地。  その西〈ひらばら〉も、遥けき太古から鬼が人を喰っていた。人食いの神である鬼たちは、遥か近く[#「近く」に傍点]鬼界より来たりて稲妻の吐息をつく。そして人が死ぬ。  ここは、その〈ひらばら〉である。  山々は紅のベベ[#「ベベ」に傍点]をまとい、陽は短く弱く、畜生の歩みは鈍く、だが闇の畜生のみは眼を輝かせる。  伝説の土地〈ひらばら〉には、鬼がいる。  そして鬼斬りもいる。  叉車《さしゃ》山という。そして人知遠きところに、この女神《ひめかみ》山。  二つの山の鬼斬りどもは、鬼に屠る、鬼を屠る。  人の鬼斬りが叉車山鬼斬り。奴らは鬼を屠るほどの力を持っていない。  修羅の鬼斬りが、女神山鬼斬り。  女神の山は心淋《うらさび》しく、百年を秋に覆われている。葉は黒茶け、迷い込んだ猫も斬り捨てられ、人を阻む。  光覇の神、|女神《ひめかみ》。彼女は自分をあさましい人間界に討ち落とした鬼どもを決して許さない。それ故に、さらにあさましき畜生どもである�修羅�を「人の怒りの死」つまり修羅界より呼び寄せ、ことごとく鬼を減殺させる。それが、叉車山の人間たちには真似のできない破壊力となる。  女神山。  かの山を下山する者、それはすなわち人間ではない。戦場の畜生——神にすらそう呼ばれる。悟りすらも、血に飢えた彼らには慈悲を与えはしない。  鳳《おおとり》という大男も、奴ら妖の一匹であった。  鳳の体躯は、その魔道を隠そうともしない。七尺もある、とんでもない大男だ。表情には微塵の情けも見せず、冷淡な眼差しで光景を吸い込んでいく。  落ち武者といった風情で、ただ普通の二倍はあろうかという長太刀を携えていた。地上最強の妖術、妖刀�女神《ひめかみ》�である。  彼は女神山を下山した。彼の歩く獣道には何らの気配もない。狐狸とても、この修羅の吐く毒息に触れたいとは夢にも思うまい。妖の気配は妖にしか分からないものだが、鳳のそれには石ころだって気付かずにはいられぬ。修羅の持つ破壊の恐怖は、単純ではあるが荒野そのものが恐れをなすほどのものだ。  奴は下界に降《ふ》れ降《お》りようとしていた。  鬼と妖、闇魔《みま》と魔道らを討ち滅ばす、爪先触れたその戦場に、たちまち血の尿帳《ゆばりとばり》を降ろす——ただ、それがためだけに。  その鳳が下山して数十年と経ったころ。  死人の術をかけられた修羅は齢をとりもしない。数百の鬼を屠り、数百の妖を斬った鳳は、人の知らぬその世界では最強の存在として恐れられていた。もっとも、感情のない修羅はそれを悦びも嘆きもしないのだが。  彼は妖の気配を臭いで感じ、眼で見つけたならば、すなわち叩き斬った。修羅の斬撃斬戟はすべての物の怪を減殺する。その繰り返しが、鳳の旅路だった。  碑《いしぶみ》あるが如く、ただ鳳も在るというだけだ。戦場は絶えず、鬼はさらに絶えない。長い旅路だ。鳳に考えられるのは、そこまでだ。  無口な修羅は独りごちることもない。  今宵、夜に月の映える、この夜も。 「お侍さまは、どのような旅向きで?」  鳳が肘をついただけで倒壊するのではないかという、そんな農家の小屋の中で、異常に痩せこけた中年の男はそう聞いた。この男がこの家の主人である。  鳳は無視しても良かったのだが、一応礼儀から答えておいた。 「流れとるだけだ。つて[#「つて」に傍点]も目的もない」 「はあ……」  この後も男は何やら取り留めのないことを話していたようだが、鳳は聞き流していた。野良仕事で疲れきっているのだろう子供たちが、鼾《いびき》を立てて寝入っている。  辺りに転がっている椀のふちに、苔のようなものがこびりついているのが見えた。飢えをしのぐため、川の水をくんでそれを沸かして飲んでいるのだろう。  哀れよな、と機械的に考えはするが、同情はしない。死人である修羅は物を喰うこともなければ眠ることもせずに永劫を生き存《ながら》えるのだが、それを甘受することとどちらが苛酷なのか、鳳には分からない。 「お侍さまは……戦をしなさるんで?」  男のその問いに、鳳が視線を険しくすると、彼は慌てて言い直した。 「い、いいえ……つまり、当たり前でしたな。その……」  と、少し腰を浮かす。鳳に斬られるものだと思ったらしい。 「その……太刀ですがね」  彼は、ごくりと唾を飲み込んでから続けた。 「……並のものじゃあ、ございませんな」  鳳は答えない。 「あの、いいえ、お侍さまのような立派な方にとっては、なんということもないんでしょうけれども……その……  身振り手振りで、なんとか釈明しょうと努力して大男の顔色を窺っているが、彼が聞き流しているのには気付かないらしい。  いい加減うるさく思ったのか、あまり濃くないあご髭をなでながら鳳は口を開いた。 「この太刀は……戦のための太刀だ」  いきなり当たり前のことを言いながら、彼は太刀の柄をなでた。世にこれ以上の大業物はあるまい。 「はあ?」  慌てていたせいで聞き取れなかったのか、男は間の抜けた声を出した。  鳳はもう一度繰り返すと、こう続けた。 「戦場で槍と斬り合うための太刀だ。長い方が良いに決まっている」 「は、はあ……なるほど」  感心してみせる。  何か閃くものがあったのか、鳳は無用のことを口走った。 「戦場に根付くものを修羅と呼ぶ」 「しゅら……ですかい?」 「世の中には、いくつもの道があるものだ」  修羅の表情は変わらない。 「道は交わり……別れ……人間はそれを選ぶことができる。許される限りは」  男は気付かない。目の前の大男が修羅の鬼斬りだとは。 「だが修羅になるために……天に昇ってしまったものは、天に渡された綱の上を——ただ甘受して進むのみ」  鳳は陰気な声で言い終えた。もっとも、この他の声音なぞ持ち合わせてはいないが。 「綱渡りですかい?」  鳳の言っている真意が分からないこの男は、この大男は、この図体で軽業師なのだろうかくらいにしか考えていない。 「戦という名の……綱だ」  いつしか修羅は、自分に言い聞かせるような調子になっていた。 「綱渡りってのは、怖いもんですな」  意味が分からないので、とんちんかんなことも聞いてみる。 「年に一度っくらい、こんなところにも物乞い連中が来るんですがね……奴らの綱渡りってのを見ていますとね、落ちないまでも、いつ綱が切れるんじゃねえかと心配になりやしてね」 「……綱が切れたら?」  鳳は初めて、興ののったような声を出した。 「綱が、切れたら……」  戦という名の綱。  それが、なくなったら。  ふっと、鳳は呟いた。 「落ちて死ぬるしかあるまいな」  やがて女も寝入って、夜も更けてきたころ。男は鳳に、こう言った。 「実はお侍さまに、頼みがあるんですが……」  でなければ、こんな狭い小屋に、鳳のような化け物じみた偉丈夫を招き入れたりはしないだろう。  それはともかく、男の話は、こういうことだった。  この村から半里ほど行ったところに、古寺がある。なんでも大昔、恐ろしい力を持った物の怪を封じた巨大な自然石の上に建立されたとかで、こんなところにあるわりには立派なものらしい。その寺の裏の墓場に…… 「出る[#「出る」に傍点]んでさあ」  男は、世にも恐ろしげな声を出した。  闇魔《みま》、だという。  無論、この男には、妖や闇魔や鬼ども、ついでに修羅などの区別はつかない。話から鳳が推測しただけだ。妖とは冥府魔道の魔性が生み出した物の怪、闇魔は人間や人間の持ち物が化性したもの、鬼は人を殺す神、修羅は修羅界に交わってしまった死者が、血を求める餓鬼と成り果てた存在である。  鳳の推測とは単純なものだ。墓場なら、闇魔だろう。 「夜な夜な、墓場に人影が出て……ぶつぶつと何かを呟いたり、何かを引き裂いたりする音がするとかで……寺の住職さんが人手を借りに、この村まで来なさったんですわ」  男は身震いしてから、 「最初は墓泥棒かと思ったんですがね……でもまあ、こんな村の百姓どもの墓を荒らしたところで何かあるってわけでもないでしょうから違うみたいですしね、有志を募って交替で見張ることにしたんですわ」  毎夜五人が一人ずつ交替で墓場を見回ることにしたらしい。そしてちょうど、この男の見張る晩、闇魔は現れた。  和尚の言う通り、みすぼらしい姿をした小男が、墓の影で何か呟いたり引き裂いたりしているのだ。小男が引き裂くたび、か細い悲鳴が響く。悲鳴を聞いて草は倒れ、月は霞み、虫は鳴き声を止める。恐ろしくなった彼は、物陰に隠れたまま近づかないでいたらしい。だが朝になって調べてみると、小男の足跡もなければ、引き裂かれていたもの——つまり、悲鳴をあげたはずの何か——の痕跡もない。  これは本物に違いないと、他の者に聞いたところ、彼らの当番の夜にはそんな奴は出てこなかったと言う。  そして五日して、また彼の番になると、この前と同じ小男が現れる。どうやら、五日ごとに出てくるらしいのだ。  彼は和尚にこのことを話し、退治しなければならないと言ったのだが、この和尚、最近破戒して魚を食ってしまったために経をすべて忘れてしまったという。先祖代々伝わった妖魅《ようみ》退治の武器も、年が経つにつれて、ひとつ朽ち、ひとつ錆びていってしまったらしい。今では寺のすべての出入り口に、唯一残っていた札を貼って、こもりきってしまっているのだ。馬鹿らしくなって、村人たちも見張りをやめてしまった。  鳳は別に、その和尚を責めるつもりにはならなかった。妖とくらべても闇魔たちは強大な力を持っており、一人前の鬼斬りですら敵わないことがある。その和尚、経を忘れたなどと言い訳するからには、行いの末に法力を持つに至った禁道僧なのだろう。  なればこそ、闇魔の恐ろしさを察して結界を敷いたのだ。 「まあ、和尚はそれでいいのかも知れやせんがね。ほら……あっしは、その幽霊の姿を見てるでやんしょ? なにか、たたりでもあるんじゃないかと不安でして。それに、あの幽霊、あっしの方を見て笑ったような気がしてならないんでさあ。気味が悪くって……」  と、男は深々と土下座した。 「どうか、お侍さまの腕で、なんとか化け物を追い払っちゃくれませんか」  彼は、何度もそれを繰り返した。鳳はただ一度だけ領くと、さっさと小屋を出ていった。  男の話では、今夜がその晩だという。彼は四日休んで次のときにしろと勧めたのだが、鳳は聞かなかった。  修羅の鞋《わらじ》は休息よりも戦場の方が馴染む。  ほうほうほう  主ゃあ一体、何《なあ》して死んだ  逃げて死んだか  牛食って死んだか  抜け[#「抜け」に傍点]で死んだか  哀れじゃろう  哀れじゃろう  ほうほうほう  主ゃあ一体、何《なあ》して死んだ  病んで死んだか  米食って死んだか  …………  薙いでも薙いでも。  秋の涼風は、力のない赤錆びた穂を揺らしていた。  泣いても泣いても。  その薄野《すすきの》の陣に囲まれて、墓場は怨霊に満ち満ちている。  怨。闇魔の持つ妖術だ。  墓の中は、男が言ったように異様な気配で沸騰している。人にも感じ取れるほどの怨だとすると、並大抵のものではない。  さらに鳳の耳には、人には聞こえない唄までもが聞こえてくる。 「ほうほうほう  主ゃあ一体、何《なあ》して死んだ……」  延々と続く。  鳳は腰帯から帝ごと太刀をはずすと、ずらり、と白刃を夜気に当てた。  月光に照り反《かえ》る。  七尺もあろうという大太刀を右手一本で無雑作に構え、左には鞘を提げている。その風格は、この修羅を地上最強の武者たらしめている。  戦場の畜生。と、鳳はふと考えた。誰が綱を切るというのだ。  凶あって妖が活きる……戦あって修羅が活きる……  修羅は怒りの化性《けしよう》。戦のためだけに在る。  風風風風《ふうふうふうふう》。  ふうふうふうふう。  闇魔の唄いは続く。  鳳は帝を捨て、ゆっくりと歩を進めた。  主ゃあ一体、何《なあ》して死んだ……  主のことだや、鬼斬りよ。  修羅に堕ちたか。地獄にすらも堕ちられなんだ?  鳳は聞こえていたが、答えない。 「病で死ぬれは狸となり、飢えで死ぬれば狐となろう。  色を呪わば百年鯰《ももとせなまず》、飢えて人|喰《は》みゃ餓鬼となる。  主ゃあ、何《なあ》して鬼斬りじや?」  それを聞き終わるころには、鳳も墓場に踏み入れていた。  思ったより広い。と言うより、闇魔の結界のせいだろう。閉ざされて広く[#「閉ざされて広く」に傍点]見えるほど、強力な結界である。  鳳は、ぼそりと答えた。 「戦で死ぬれば修羅となろう」 「呪われ殺され、鬼となろう」  くっくっと、闇魔の笑い声。闇魔は続けた。 「そして墓掘りゃ、闇となろうぞ!」  何かが凄まじい速さで飛び、鳳の頼をかすめた。皮膚がざっくりと深さ一寸もえぐられたはずだが、修羅は微動だにせず、血も流れない。 「鬼斬りの死人の術かい。それを成功させるは女神山の筆頭のみ……主やあ、鳳だな?」  妖術使いどもに知れ渡った名だ。別に闇魔に知られていようと、驚くほどのことでもない。  闇魔は、ゆっくりとした声で続けた。 「強いと聞いたがのう」 「貴様、何処に隠れている」 「結界を割れるなら、顔も触《わ》れようぞ——わしゃ、結界の外におる」  聞くなり、鳳は太刀を上段に構えた。  闇魔の笑い声が響き渡る。同時に、辺りの風景が融け始めた。幻術だ。 「止めとけ止めとけ。陣で力《はくりき》が使えるものか。おンしの力で! おンしの力で!」  鳳は構わず結界の虚空の一点に�狙い�を定めた。 「わしは鳳だッ!」  妖刀女神が、唸りをあげて結界を薙いだ。  大爆発が起こり、融けかかった結界が四散する。  次の瞬間には、そこはただの古寺の墓場であった。結界が爆裂した余波のせいか、墓石はあらかた吹き飛んで、空き地に成り果てている。  鳳は、何ら感傷を見せぬ眼差しで辺りを見遣った。  背後で莫大な�怨�がふくれあがった。  鳳は振り返った。小男の姿の闇魔が、ひきつった哄笑をあげながら、握っている右拳と、それを包む左手とを構えている。 「八極《はくりき》……!」  鳳が囁くような声で叫んだ。  八極とは、鬼斬り、それも女神山の最強の修羅たちにのみ伝承される術である。  闇魔の放った稲妻に、鳳は後ろに大きくのけ反ったものの、耐えた。  全身が、ばらばらになるような衝撃である。�四死《よつし》�の字の呪符を数枚重ねて埋め込んである皮膚は火傷もしないが、痛みを感じないことはない。 「ぬううっ!」  鳳は憤怒の声をあげて、妖刀を横に薙ぎ払った。妖術を破り魔性を減殺する陽陣の剣は確かに寸分の狂いもなく闇魔の頸を裂いたのだが、剣先の威力では闇魔には通用しない。  闇魔は、けらけらと笑った。 「おンし、強いのう。修羅の術を喰ろうて踏み止まるなぞ、鬼にもできんわ」 「貴様……何処で、その力……」  さすがの鳳も、胸板に手を当ててあえいでいる。  闇魔は再び八極の印を結びながら言った。 「強い強い」  太刀の威力を恐れ間合は詰めないまま、続ける。 「その強さあ……地獄の国まで持っていくかね?」  闇魔の言葉が途切れた瞬間、同じ閃光が鳳を撃った。大男が、今度は完全に吹き飛ばされる。もんどり打って倒れながら、激痛に苦悶の叫びをあげた。 「そこじゃ……」  と、闇魔は呟いた。 「…………?」  痛みにわななく体躯を静め、鳳は太刀を抱いて立ち上がった。 「ここ……だと?」 「そうじゃよ」  八極の印は結んだままで、闇魔は続ける。 「おンしが倒れた、その尻の下じゃよ……鬼斬りの屍が埋まっちょる」 「なに……?」 「大昔」  闇魔は、一歩また一歩と鳳に近寄ってくる。 「百年も前かのう。その鬼斬りは、一匹の妖を封じ、この寺を建てた」  鳳は太刀を構えようとした。二度までも八極印《はくりきいん》に遅れをとった以上、もはや余力など残っていない。次に食らえば、滅失するかも知れなかった。  闇魔は突然立ち止まり、印を解いた。そして、こう言った。 「その鬼斬りが、わしじゃ」  やはりな、と鳳は思った。闇魔の力が強大とはいえ、八極の妖術だけは修羅の鬼斬りにしか使えない。 「妖は名乗ったが、それは覚えておらぬ。確か�月�の一字がついておった……」 「わしは、竜大と呼ばれとった。  おンしと同じように、妖を殺し鬼を屠って、さすらっとった。  〈ひらばら〉には、鬼がおる……鬼が隠《お》っとった時代とは違う。わしは、ひたすらに鬼を斬った。斬りまくった。  いつしか、緑水は方円に従い、日は沈み夜は暗く……ただ首方《くびかた》と水方《みなかた》の遠吠えは、いつまでも遠く響き渡る。  あの日、わしは、この地にやってきた。  わしが兵法の者であるを知ると、村人たちは半年の寿命を断ち切る思いで、わしを歓待した。  わしに頼みがあったからじゃ」竜大なる闇魔は、怨に濡れた声で言った。 「″月″の字を斬ってくれと言う」 「頼みを、聞いたのか」 「おンしは、その妖——�月�の字のことは知らんじゃろう」  竜大の咽は、それを思い出してか、震えて揺れた。 「半日で百人を喰らう化け物よ。無視することはできんかった」  闇魔は、にやりと笑みを浮かべた。 「おンしにも分かろうが。修羅は、戦を避けることができぬ。その戦に流れ、地を濡らす血が濃ければ濃いほどに、のう……」 「�月�の字との戦は職烈を極めた——が、終わった戦なぞ、どうでも良い。  奴を白岩《しらいわ》に封じ込め、生娘を沈めた川底からすくいあげた土で埋め、その上に寺を建てた。  一年がかりの大戦《おおいくさ》じゃった。もはや妖を封じた以上、わしの役目は終わっとったんじゃが……妖の暴れた後で男手がおらぬと泣きつかれ、手伝うことにした」  虫の音が、思い出したように遠く聞こえた。  鳳は息をついた。 「まさか貴様は、人間と[#「人間と」に傍点]暮らしたのか」 「その通りよ」  竜大は節くれ立った拳を固めた。 「村から外れ、一人の娘と暮らしておった」 「娘だと?」  鳳の問いに、竜大は遅れもなく答えた。 「子を……産ませた」 「馬鹿な!」  断定の声は、竜大にとっては滑稽だったろうが。  小男は、笑った。  嘘ではない笑みだ。 「まさか……子は生き存《ながら》えたのか」 「女を娶《めと》り、十人の子を産ませた」  竜大は続ける。無論、この事実が鬼斬りに法度であることは分かっている。 「九人は死んだが、一人が子を産み、子がさらに産んだ」 「まだ生きておるのか」 「あの村におる」 「恐ろしいことを……」  鳳は、微かに震えてさえいた。 「浮世に暮らしてみただけじゃ」 「修羅に許されたことではない」  それを聞いた瞬間、竜大の表情から灯が消えた。  闇魔は低く——低く呟いた。 「そうじやよ。許されんかった……」 「忘れもせぬ。  寺が建ったとき、天が導きおったわ。旅の憎が、ちょうどこの村を訪れたのじゃよ」  竜大は突然屈むと、足下の草むらから鈴虫をつまんだ。この世ならぬ闇魔に触れられ、  あまりにも弱い虫は、ぼろぼろと赤茶けて崩れ落ちた。  その光景を見ていたのか、虫の声が消えた。 「僧は、わしの力を見抜きおった。わしを畜生と呼ばわり、仏法において減殺すると言いよった。村人たちは……」  竜大の眼が怒りで霞むのが、気配だけで分かった。 「僧の言葉を信じた。  僧の力は絶大じゃった。死人の術を破る法すら知っておった。  わしは、迷った。  僧を殺してしまえば、それで終わる。じゃが、仏法は人の法。そいつを足蹴にしたならぼ、それこそ村人たちは、わしを見限るじゃろう。わしだけならば良いが、妻子ほどうなる? 人間には村が必要じゃ。鬼斬りの旅路に連れるわけにはいかぬ。  わしは、決断した。  息子には、二代まで人に殺されぬ加護をかけた。そして、わしは……」  彼は、勝利の笑みを浮かべて言った。 「闇魔となり、僧が力を失うのを待つことにした」 「僧は、わしの死人の術を破るため、わしの肉を剃ぎ落とし、埋め込んだ呪符を三日の炭火で焼き払った。法杖で貫かれ、そして修羅と成り果ててこの方、初めて一滴の血を流したとき……わしは死んだ」  竜大は着物をはだけさせた。みぞおちに、それらしい傷がある。 「子はどうなった」 「生き延びた。僧は、わしの子までを殺そうとしたが、加護の力に手が出せなんだ」  鳳は、ようやくになって悟った。彼を迎えたあの男。闇魔は五日ごとに姿を現すのではない——あの男に流れるわずかな妖の血が、隠形の術を破ったのだ。 「やがて……すべてが、わしのことを忘れた」  竜大の囁きが月を霞ませる響きとなって、吐息に転じる。 「そして百年が経ったか」 「わしは、ずうっと待っちょった……僧が経を忘れ、妖を滅ぼす長物を失うときを……」 「怨んでおったか」 「怨んじょった」  竜大は肯定した。 「怨んじょったとも……わしは、戦なぞやめたかった。じゃが、奴は……それを許さんと言いよる」 「闇魔となり、無様をさらすことになろうとも、成仏できんほどにか」 「何が悪いか」  鳳は、太刀を構え直した。 「悪いとは言わぬ。だが……愚かしさ、というものだ」  まだ回復してはいないのだが、今度は相手の出るのを待つわけにはいかない。 「戦場を去ることが、愚かか」 「おンしのごとき若造に、何が分かるかっ! わしは二百の年、戦場を駆け抜けた!おンしに何が分かる」  鳳は居合いに踏み込んだ。  大男の咆哮は月を揺さぶり、踏み込みは焦土を崩し、一閃は空を切り裂いた。  空を切った。  竜大は鳳の太刀を素早くかわすと、大男の胸板に印を叩きつけた。  思いもよらぬ馬鹿力で殴りつけられ、踏み止まりながらも鳳の息が詰まる。その体勢のまま、竜大は振り絞った。 「わしゃあ、人間に戻りたかっただけじゃ」  振り切ってしまった妖刀を引き寄せようとしながら、鳳が答える。 「それは、修羅ではない——畜生だ!」 「何処が違うかっ!」  竜大の印が、力を示した。  至近距離から稲妻が炸裂し、鳳の巨体を貫いた。  全力を放った。この世のどんな化け物でも、この�八極�には耐えられないはずだ。  粉々になって、消える……  無常の理に従い、無に帰す。  が。  鳳は、耐えた。  いかづちの轟音が耳から消え、遠鳴りだけが残る。ふうう、と大きな鼻息が、竜大の頭上で聞こえた。  鳳と並ぶと、竜大の小柄は際立って小さく見える。身の丈にして、倍近くは違うのだ。  凍りついた。  時は止まったかのようだ。だが、動いている。  妖術に怯えたのか、風も震える。 「主ゃあ、強すぎるなあ……」  と、闇魔は呟いた。  ふらっと、鳳が後ろに退がる。がくがくと震える手が太刀を上段に構え直し、そして、震えが止まった。  竜大から見て、ちょうど、剣先が月に触れていた。  わずかに動き始めるのが、見える。  喝とともに、妖刀が竜大の闇魔を屠った。脳天から股間までを真っ二つに叩っ斬り、さらに勢い余って地面を二尺もえぐる。  竜大はその間、微動だにできなかった。  二つに斬りおろされた竜大は、しばらくそのままで各々[#「各々」に傍点]立ち尽くしながら、真っ二つにされた口で、繰り返した。 「主ゃあ、強すぎる……」  鳳は答えない。太刀を地面から抜くと、刃に血がついていないことを確かめ、近くに漂いきた鞘に収めた。 「じゃが……」  闇魔の、畏れに満ちたような声は続く。 「おンしの強さあ……こいつあ、�凶�じゃ……」 「知れたこと……凶あらばこそ、我らは生きる」  鳳は鞘を腰帯《こしおび》に戻しながら答えた。  竜大は、悲しく笑った。 「いずれ、分かる……」 「何をだ」 「この虚しさが、よ」  闇魔の声は、段々とかすれていく。 「わしら[#「わしら」に傍点]あ、恐ろしく似ちょる……おンしにも、分かるときが来る……」 「虚しさ?」  鳳は怪訝な声を返した。 「今に分かる……おンし、力を持って幾年になる?」 「……知らぬ。気にもならぬ」 「いずれ、どうしても気になって、しようのないようになるわさ……」  闇魔の末期は確信に満ちている。 「修羅に歳もあるものか」 「東へ行け……」 「東?」 「一歩もそれることなく、〈ひむがし〉へ進むが良い。二十九年目の初めの陽が昇るとき、  鬼の子と、まみえるであろう……」 「鬼?」  と、鳳はかすかに顔色を変えた。 「おンしには、斬れぬよ」  闇魔は予言しながら、消えていった。 「そして、わしの言ったことが分かるようにもなろう」 「鬼ならば斬る」 「斬れぬよ」 「何故、未来が分かる」 「本当は、わしが護るはずじゃった。最強の鬼斬りとして、女神に命じられ……」  闇魔は滅失した。 「鬼の子の名は、夜闇じゃ……」  秋風が静かに吹き抜けた。 「何故、わしに話した……」  鳳は、もはや消え去った闇魔に呟いた。 「鬼斬りにあのようなことを話せば、貴様の子らを斬るやも知れぬのに」  拳を握りしめ、そして……解く。 「疲れていたか、そこまで」  鳳の眼がいったのは、竜大の骸が埋められているという場所だ。  鬼斬りは、素手でそこを掘掛り返した。彼の予想通り、毎夜毎夜掘り返された土は、たやすく脇に退いた。  やがて、まったく腐った様子のない修羅の骸が現れる。だが、ずたずたに引き裂かれた痕があった。 「闇魔の骸は、腐りもせぬ」  鳳は珍しく、独りごちていた。 「貴様は、己の骸に何を投かったのだ?」  奴はこうやって、自分を慰めていたのだろう。人を愛したが故に人が斬れなくなった。こうまで己の骸を裂いて修羅の血を鎮めるか…… 「哀れよな」  鳳は、他人事のように呟いた。  虫が再び鳴き始めた。奴らは、悲しげには鳴かぬ。ただ静かであるだけだ。  鬼斬りは、顔を上げた。  そして、村の方へ向かった。  夜が明けないうちに、鳳は村に戻った。そして例の男の小屋を叩くと、彼を呼び出し、竜大のことをすべて話した。  男は仰天したようだが、なんとか納得し、そして聞き返した。 「で……どうしてまた、あっしに今さら、そんなことを?」  鳳は答えた。 「お主を、斬るためだ」  太刀を抜いた。小男の背たけを遥かに越える大太刀である。男は肝を潰し、恐怖に後退りさえもできず、泣き叫んだ。  鳳に懇願し、言い訳し、やがては地に伏せって土下座する。  五体投地したころに、夜が明けた。  恐る恐る顔を上げると、もう鳳はいない。  肌寒い風が吹く。やがて人間にはつらい冬が来るだろう。  そのころ鳳は村を出て北に向かっていた。  風の向かう方向へ……別に決まったことではないが、鳳は、よくそうして旅の向きを決めていた。  七尺の大男が、その身の丈ほどもあろうかという太刀を差し、旅をしている。修羅の脳裏には、いつまでも消えない闇魔の言葉があった。 「今に分かる……今に……」  分からぬ、と鳳は反発する。分かるものか…… 「修羅の墓泥棒」  鳳は呟いた。 「己は、何を盗もうと穴を掘っていたのだ」  武士《もののふ》に亡霊なし、と言う。  修羅は武士《もののふ》ではないが。 「お主は、鬼斬りでなくなってしもうたのだろうな」  自然、竜大の忘れ物——あの男の顔が思い起こされる。 「戦を拒んだ。修羅の血なぞ、三代ももたんのか」  今に分かる……  長い夜だったとは、修羅は思わない。闇は妖の時間であり、そこに鬼斬りがいたということは、すなわち戦場なのだから。  陽は東は昇る。  鳳は、唐突に歩を止めた。そして、くるりと向きを変え、東へと爪先を向けた。  無常があり、世界が生まれた。世界は八百万なるものを愛で、彼女らをして神とした。  八百万の神々は、世界と交わり自然を造った。  山。そこには獣がある。  海。そこには空がある。  そして失敗した。毒を注いでしまった。  それが人間だった。  人間は恐るべき毒だった。奴らは子を産む。  つまり、不滅。  獣たちも、人を見て、自らも子を産むことを覚えていく。  八百万には、それが脅威であった。神は、物を造ることはできる。だが、無から有に転ずることはできぬ。  人はそれをやる。無常とは、物が形を変えること。有が無に帰すこと。だが無から現れ出でることではない。  人は理をも裏切る。  だから、神は人を殺すために、人の�死�そのものから鬼を造り出した。  そして、鬼の王をして人間を減殺せしめんことを決意した。時は流れ……  鬼の王は八百万に服従することを嫌った。そして、鬼を使って自ら神となった。八百万が第一位、女神を地上に討ち落として。  女神の怒りは己を醜き人の武器にまで化性させ、さらには鬼を屠るための化け物をも造り出させた。  人の、死に対する�怒り�から。  修羅。  修羅界に交わり、修羅界の大気——すなわち、�結界�と�八極�を操る無敵の餓鬼を。結界とは内に向かって閉塞する力。八極とは文字通り、八方の極遠《きょくえん》へと爆発する力。  その二条を扱い、奴らはひたすらに血に飢え続け、飢餓を癒そうと鬼を斬る。  それがためだけの存在。  そして時代は変わり、  だが何ら変わりなく、  修羅までもが子を産み、  鬼の子が生まれ、  鬼斬りが鬼を斬れなくなろうとも、  鬼と人と修羅の永遠の絵図が続く。  誰にも止められず、  誰ともなく、鬼の話と呼んだ。    其の三 鬼の姿  太陽が今日も沈む。紅が天地を染め、世界を塗る。塗りたくる。時間が閉じ、夜が始まる色に。  彼は、じっとその陽を見つめていた。  どちらかというと、冴えない感じの男だ。四十手前というくらいだったが、その身のこなしは若者のようであったし、とばけたような表情にあって、眼の奥の——それこそ外からでは覗けないほど深奥の——光は炎の輝きを持っている。  それ以外には感情を見せない。ただ存在し、息をするのみ。火花ほどの熱気も外には出さず、紅蓮の焔を内に秘め、まさに——地面の下の溶岩の如し。  それは人の姿をとっていた。というより、人の眼には人にしか見えない、といったところか。然るべき者の眼には見えるはずだ——妖、が。  妖は、妖にしか見えない。妖の眼のみが、その妖しき正体を見破ることができる。あたかも、人の情が人どうしにしか見えないものであるように。人には見ることはできない。だが、人でない者には見ることができる。  彼にも見えた。  化け蜘蛛の断末魔と、鬼界が……  そんなことは素知らぬと、夜闇は陽気に歩いていた。いつものことだが、鳳の数歩先を気楽に歩いている。この世に気苦労という刃物があったとしても、彼女にはとどめをさせない。  そこは、ちょっとした渓谷だった。つり橋が揺れるのを妙に面白がって渡ってきたばかりだ。鳳の巨体に橋がきしんだことを除けば、おおむね平和なときである。 「海って、山にはないんでしょう?」  相変わらずの彼女の質問攻めがなければ、静かなときでもあったはずだ。 「なんでこんなとこ、通るの?」 「通らなければ着かないからだ」  返答も上の空に、彼は空を見上げた。敏感な彼の鼻が、さっきから妙な臭いを感じている。視線を受ける感覚もあった。 「妖……より、強いな」  ぽつりと呟く。はしゃいで先に行ってしまった夜闇には聞こえない。聞いたら、なお嬉しがるか、極端に怯えてしまうかだ。嬉しがってもらうのも困るが、怯えてもらうのはなお困る。  妖は、鳳よりも夜闇の方に興味があるようだった。  鳳は、ぶつぶつと独りごちた。 「鬼界に感づいたか。来るなら来るが良い」  彼はそう言うと、かぶりを振った。 「鳳、ねえ」  突然夜闇が、無邪気そのものといった声で言った。 「本当に、いつかは海に着くの?」 「いつかはな」  鳳は、虚空を見ながら答えた。  口をとがらせて、彼女が食い下がる。 「そればっかり——いつ着くの?」  虚空は動かない。 「遠い日だ」 「だから、いつ?」 「ずっと先だ」 「ん、もう」  夜闇は石を蹴った。小石は音もなく渓谷に吸い込まれていった。  鳳はそれを見ながら、静かに言った。 「遠い日は……あと一年だ」  声は相変わらず無感情だ。だが、彼が�遠い日″を明かしたのは初めてである。  夜闇はそれに驚きながらも、つい欲を出して言った。 「一年も?」 「たった、それだけだ」  鳳は、静かにそれを返した。  ふうん、と思いながら、夜闇。 「ねえねえ、鳳」 「なんだ」 「あの蜘蛛さあ、なんで人間なんて食べるのかな」  いかにも素朴な質問、といった声だ。  鳳はそれを聞いて、わずかにたじろいでいた。夜闇の質問などにではない。彼女が余計な記憶を残していることにである。  この場合、一昨日以前の、ということだ。 (術が、効力を失いかけている……)  が、彼はそんなことは外に出さず、答えだけを返した。 「蜘蛛は人を喰らう魔性だ」 「だからさ、なんで人なんて食べるの? もっと美味しいものがあると思うけど」 「魔性は、人間の裏をかくためにある」  鳳は、あっさりと言った。 「なんで?」 「人間が造り出したものだからだ」 「?」  夜闇には分からなかったが、分からないなりに納得した。ような気がした。  お主は、力を引きずっておるだけだ……  鳳は胸中でそれを繰り返していたが、夜闇に伝わったかどうかは分からない。  飢える思いで、伝わって欲しいと思った。  冥府魔道。  不滅の人間による、足跡がそれだ。影である。  影は、いつしか本体を羨むようになった。  そして、魔性が生まれた。奴らは神の使命——定め——ではなく、欲として人間を殺す。食らう。鳳もその一匹だ。  人がたやすく喰われてしまうのは、それが自らの影であるからだ。  夜闇の鬼界と同じ……己が存在する以上、決して免れることはできない。血の縁。夜闇は、いつか分からなければならない…… 「人の欲から、魔性——妖は造られた」 「欲?」 「飢餓。戦。病。色……そこから、欲は生える」 「でもさ……」 「昔のことだがな」  鳳は、そそくさと話を終えてしまった。  夜闇は小さく頷いた。その程度で我慢するしかない。  鳳は、 「魔性は真っ向から人と対峙する」  余計なことと知りつつも、付け加えた。 「そして、人の死——鬼を、何よりも恐れる」  夜闇の注意は、すでに他にいきかけていた。 「それ以外は、忘れろ」  鳳はそう言って会話を閉じた。 「それ以外は、忘れろ」  神は言った。 「死をも忘れろ。在るのは獣皮と魔性のみ」  暗闇。  まさに暗闇を造り出した神は、自らの結界——世界最大を自負する〈縛妖陣《ばくようじん》〉——にいた。光《くう》は空《くう》から、造られた。闇《み》は水《み》から造られた。  神は名を、天者地者《てんじやちじや》といった。獣の長として、地上に在るものの如何なる姿をもとることができる。今は、人間の姿をしていた。ただし、額にも余計に眼を一つ持っている。天者地者の力の源である、三つの魔眼だ。何を身にまとうこともなく、全裸のままである。  人間を嫌うはずの神が、何故人間の姿をとるのかといえば、ただ獣に命令するのに都合が良いというだけのことだった。  神は続けた。 「敵は斬妖大老《ざんようたいろう》・鳳」  闇の中、天者地者が話している相手の姿はない。ただ、深い黒塗りの夜に溶け込む魔性の気配が、一層黒々と臭うだけだ。  �黒いもの″——そう呼ばれていた。  黒いものは、畏怖するように繰り返した。 「鳳……!」 「なれはこそ、死をも忘れよ」 「鬼の子は……」 「その力を一度試せ。本物の……鬼界なのかどうかをな」  黒いものはしばらく答えずにいたが、やがて、言った。 「では……女神山鬼斬り——鳳。我が秘術にて屠ってみせましょう」  結界の中から、沈むように気配が消えた。黒いものは去ったのだ。獣は何も考えずに命令を聞く。  例えば、「何故、鬼界が欲しいのです?」などと聞き返したりはしない。  もっとも、そう聞かれたら答えるだけだ。天者地者は、なにもその練習というわけではないだろうが、独りごちた。 「必要なのだ。だから手に入れるのだ」  渓谷は、ただ眼下に広がる〈ひむがし〉の地を見せつけてぐれる。  雄大な、と言えば言えなくもないが、鬼の跳梁する地だ。三歩ごとに口を開けてぽかんと見惚れる夜闇ほどには、鳳は景色を堪能する気にはなれない。  彼の脳裏に浮かぶのは、女神山の光景だった。最も美しいはずの、一千年の秋の結界。初めてそれを見たとき——彼は圧倒的な悲しみに襲われた。それが、彼が味わった最後の感情であった。  焼いた刃物で皮と肉を切り刻まれ、呪文とともに呪符を縫い込まれる。死人の法が完成した瞬間、一匹の妖は無敵の鬼斬りと化性《けしょう》した。化性とは本性が化けること。かつて人間であった餓鬼は、笑うことを忘れ、無論泣くことも忘れ、喜びもなく、もう女も抱けないことを悟った。代わりに、力を得た。老いることもなく、ただ鬼を斬るための力を得た。  すでに鳳は感情を失っていたため、それが自分にとって何を意味するかも判断できなかった。嬉しくも悲しくもないことを、一体どう判断したらいいのだろう。彼には分からなかった。結果、彼は黙って甘受することにした。これこそ呪いなのだとは、ずっと後で悟った。  こんなことを思い出したのは、これからしなければならないことを考えたからだ。ひょっとしたら、また何かを失うことになるかも知れないから。 「夜闇」  呼びかける。  少女は聞いていなかったらしく、振り返りもしなかった。 「夜闇」  夜闇は、ようやく辺りを見回した。そして——大分迷ってから——鳳に向き直り、聞いた。 「今の、鳳?」 「そうだ」  眼を皿のように見開いて、彼女は訝った。驚きが去ると、自然と眉根が寄っていく。まさか、この男から呼びかけることがあったとは、とんでもない新発見である。少なくとも、彼女はそう思った。 「なあに?」  何か、呼びかけられるほど[#「呼びかけられるほど」に傍点]悪いことをしただろうかと、夜闇は考えていた。もしこの大男が怒ったら、どんな説教が始まるのだろう。  無論のことだが、別に鳳は夜闇を叱ろうと呼び止めたわけではない。尻込みするような格好で不安そうに彼の顔色を窺う夜闇に、大男は言った。 「わしの娘は、名を……」  と、考え込むように空を見上げる。 「?」  おもむろに怪訝な表情で、夜闇は腕組みしている。  思い出して、鳳は続けた。 「名を、雪といった」 「……それがどうかしたの? もう死んじゃったんでしょ?」 「そうだ」  彼の言っていることが分からずに、夜闇は首を傾げている。構わずに鳳は続けた——自分が妖となる以前のことをだ。 「息子は、みんな名をつける前に死んだ」 「ねえ、鳳……」 「産声をあげる前に死んだのもいた」 「それはいいけど……」 「育ったのは、お雪だけだった。そのお雪も——」 「さっぱり分かんないんだけど」 「雪も、十五のときに死んだ」  鳥が鳴いているのが聞こえる。それを聞きながら夜闇が考えたのは、今の話は何だったんだろうというととだ。ひょっとしたら、何かとんでもなく重要な話だったのに、夜闇には聞き取れなかったのかも知れない。  しばらく検索を続け、彼女は言い切った。 「意味が分かんない」 「意味などない」  ますます怪訝の度を深めながら、夜闇は顔をしかめた。この男が言う以上、ただの�おしゃべり�などということはあり得ない。あるはずがない。 「鳳。ねえ」 「なんだ」  と、鳳の方はすでに、いつもと同じに戻っている。 「鳳はさ、今、病気なの?」 「病気ではない」 「……なら、いいや」  死を悟った人間は妙なことを口走るものだとは、いつとなく身につけた彼女の経験である。  夜闇はそのまま、納得してしまった。  その日の日没には、小さな村に着いた。  日没は、ほどなく夜へと化性した。  ずきずきと痛む頭をこすりながら、夜闇は目を覚ました。由の刻。納屋の中は真っ暗である。  この頭痛は、別に気にするほどのことではない。要するに、毎晩のことだからだ。何やら悪夢を見ているらしいのだが、内容は覚えていない。  実際、夜闇はまったく[#「まったく」に傍点]気にしてなかった。  夜闇は、大きくあくびした。そのまま眠そうな眼差しで、ふらふらと納屋の外へ出ていこうとする。 「何処へ行く」  鳳が聞いた。 「外だよ」 「外の、何処だ」 「んんとね、そこら辺」  別に悪気があるわけではない。夜闇に言わせれば、彼女の返事を理解できない鳳の方がいけないのである。 「そこら辺の、何処だ」  鳳は慣れているから、落ち着いて聞いた。大抵、この辺りでまともな答えが返ってくる。 「かわや」  鳳が戸を開けて、まったく正反対に進もうとしていた夜闇の背中に風を招いた。外は月明かりのおかげでけっこう明るい。  夜闇は眼も虚ろに出ていった。眠いのだろう。しばらくしたら鳳も出ていそ草むらで寝こけている彼女を捜しにいかなければならない。  出ていった夜闇は、うろうろと適当な草むらか何かを探していた。夜だからその辺でもいいのだが、どうせ鳳が捜しにくるのなら、分かりにくいところの方が面白かろうと思ってのことだ。  やがて、そうやって歩いているうちに、民家からは少し離れた林の中にまで入ってしまった。渓谷の林だから足場も悪い。いきなり段差につまずき、鼻の頭から地面に叩きつけられた。 「痛て……」  地面に顔をつけたまま、そう呟く。はとんど機械的なもので、本当に痛いのでもないらしい。そもそも転んだくらいで怪我をするほど、やわな鬼の子でもない。  そのとき……  眠りかけた夜闇に、話しかけるものがいた。 「火は好きか……?」  夜闇は、少し考えてから答えた。うつ伏せのままだ。 「あんまり好きじゃないよ」  声は続ける。 「水はどうだ……?」  声の正体を訝るには、夜闇の正気[#「正気」に傍点]は足りなかったようだ。 「水はねえ……まあ、そんなに嫌いでもないかな」  夜闇は、ようやく身を起こした。  声は続けた…… 「ならば、ゆるりと水に入《い》れ」 「まだ寒いよ」 「寒くはないぞ……死は、冷たいのだ!」  夜闇は、はっと目を覚ました。 「誰だ!」  だが——遅かった。何かが夜闇の鼻と口の中を満たす。水だ、とすぐに気付いた。  ぶくぶくと音はするが、声が出せない。そのときになってようやく、彼女は自分が水の中にいることを悟った。よほど水面《みなも》から遠いのか、真っ暗だ。 (死んじゃう……!)  夜闇は、もがきながら必死で叫んだ。 (鳳……!)  助けが必要だ。死——死——死——死の洪水が、文字通り彼女を溺れさせる。 (死んじゃうよ、鳳!)  やがて、水の重さに腕が上がらなくなってくる。息もできない状態だから、ここまで弱るのに時間がかかったわけではない。ものの十秒ほどだろう。 〈〈黙れ……〉〉  声が聞こえる……  聞いたことがある……ずっとずっと昔から……すぐに忘れちゃうけど…… 〈〈もう二度と忘れないだろう〉〉  あんた、誰? 〈〈我が名は——〉〉  そこで彼女が聞いた名には、意味がなかった。分かるのは——そして、意味があるのは——それが、肉親[#「肉親」に傍点]の声だったということだ。  そしてもう一つ意味があるとしたら、夜闇はすでに溺れかけていた。  助けてよ、鳳…… 〈〈鬼斬りには助けられぬ〉〉  なんでさ。鳳は何でもできるんだよ…… 〈〈覚えておくが良い……鬼斬りは、飽くまで鬼を斬るためにあるのだ!〉〉  鳳は、あたしを斬らないよ! 〈〈いずれ斬られる!〉〉  嘘だ! 〈〈嘘ではない……お前は、己を自ら護らねばならない〉〉  どうやって……?  夜闇は、息も絶え絶えに問うた。 〈〈そのために力がある……さあ、天を呼べ……〉〉  死……  呪文のように、鬼の声は響いていく。 〈〈乱神、天を呼べ……〉〉  ………………  稲妻が落ちた。  轟音が渓谷に響き渡り、林に火の手があがる。村人たちが驚いて表に出ると、そこには……死が立っていた。  火炎を身にまとった亡霊の武者たちが、辺り構わず火を放っていく。その数は数人のようであり、数千のようでもあった。分かるのは、それが絶大な破壊力を持った軍団であるということだ。  おお……  おおおおおお……  おおおお……  虚ろな呻きのような声で、武者たちは鳴いた。それとも泣いているのかも知れなかったが、焔の鐙に隠れた亡霊の姿からは、涙の跡など見せてはもらえない。  人間は逃げ惑い、  泣き叫び、  立ち向かい、  あるいは、そのすべてをした。だが、そうした人間たちの抵抗にしろ撤退にしろ、無駄なのは明らかだった。亡霊武者からは逃げられない。怨念は千里をたやすく駆け抜けるからだ。立ち向かうのは——ましてや、言うまでもない。  もっとも、彼らは村人を襲う気配を見せてはいなかった。ただ徘徊し、何かを捜すように眼を光らせ、そして呻くだけだ。  やがて村から、村人たちの姿が消えた。闇の中を逃げ出したらしい。まあ、朝になれは帰ってくるだろうが……彼らには他に行く場所などないのだから。  ぽつんと炎に照らされて、夜闇は村の外れに立っていた。周りの地面が、雨でも降ったようにびしょ濡れになっている。彼女の鬼界の威力に、水の結界が崩壊したのだ。  その結果に夜闇を閉じ込めたものの姿は、何処にもないようだった。さっさと逃げ出したらしい。呼び出した火炎陣の武者たちに捜させているのだが、どうも見つかりそうになかった。 「ふうん……」  夜闇は、きょときょとと辺りを見回し、そして嘆息した。 「困ったなあ。この人たち、どうやって……おいとま[#「おいとま」に傍点]してもらえばいいんだろ?」  やっぱ、土産くらいは渡した方がいいんだろうなあと思っていると、夜闇の頭の中に、再び声が響いた。 〈〈何故……人間を殺させぬ〉〉  え? と彼女は眉根を寄せた。 「だって……」 〈〈我らの力は、人間を滅ばすためのものぞ! 他のことには使えぬ……〉〉 「だって……」  夜闇は、困ったように答えた。 「そんなことしたら、鳳は、きっと怒るよ? 怒ったとこ見たことないけど、多分」 〈〈貴様あああ……〉〉  声は突然、恨みのこもった響きをあげた。夜闇は、ぎょっとしたが、声はそのまま消えていってしまった。  同時に、亡霊の武者たちも崩れ落ち、消えていく。  しばらく茫然としていると、村の方から鳳がやってきた。なにもかも分かっているかのように、落ち着いた足取りで。  あたし、別に怒られるようなことしてないよね。と、彼女は自問した。誰も怪我はしてないはずだし、そりや確かに村のあちこちが火事みたいだけど、まあ、嫌われるほどのことじゃないよね、今さら。  彼女は勝手に安心すると、やってくる鳳に言った。 「ねえねえ、鳳。多分ほっとくと、まずいと思うからさ、この火を消してよ」  彼女の背後の林は、稲妻が直撃した辺りから、完全な山火事になり始めていた。  黒いものは、命からがらに村を逃げ出した。  天者地者軍門の最強の獣魔たる彼は、自分の術に完壁な自信を持っていた。鬼斬りが扱うのを見よう見まねで覚えた——簡単に言うようだが、独学で習得するのには百年近くかかっている——、七星陣の結界である。無論本物の鬼斬りが用いるものにくらべれは格段に威力は劣るものの、それでも十分に鬼を屠ることができる。それほど強力な術だった。  燃え盛る林の中を走り抜け、黒いものは恐怖に震えた。黒いものは逃げた。ただひたすらに逃げた。あの小娘は……小娘は……ただの鬼ではない!  黒いものは走り続けた。  そして燃える林を抜け、暗闇の中へと紛れ込んでいった。  男は、再び鬼界が近くで発動したことに気付いた。  真夜中である。月を見上げながら、嘆息した。彼はここへ、この地へ、いかなる病をも治すという特別な薬草を——そんなものは伝説の中にあるだけで、現実には存在しないと知りつつ——捜しにやってきたのだった。 「どうやら、もっと大きい拾い物をすることになるようだ……」  男は呟いた。  そして——しばらく戸惑ってから——にやりと笑った。  逃げるように村を後にして、鳳と夜闇は渓谷を急いだ。たまに野犬に襲われる以外は、別段何も起こらない。夜闇は退屈に思い、鳳は不安に思った。  気配だけが、彼らの後をつけてくるのだ。ともに人の気配ではない。妖と——もう一つ、もっと強い力が。  恐ろしく強大な力だ、と鳳は判断し持彼自身に匹敵するか、それ以上の。  夜闇を襲ったという妖は、さしたる脅威だとは思っていなかった。そもそも臭いで分かる——奴はただ見張っているだけだ。攻撃臭を感じたならば、鳳も馬鹿ではない。夜闇を安全な結界の中に放り込み、こちらから討って出たことだろう。人間相手の戦ならともかく、妖術魔術を扱う相手に対して出方を見るのは馬鹿げている。相手は一瞬でこちらを灰にするかもしれないのだから。  とにかく鳳は、妖の方は無視していた。  もっとも、気は抜いていない。もう一方の気配は、耳が千切れるかというほどの凶気を放っていたからだ。 (何者かは知らぬが、来るとしたら……)  鳳は太刀の鯉口を弄びながら、胸中に呟いた。 (夜だな)  林の中に結界が出来上がっていく。  高原の針葉樹は、見ていても風景が暗い。  薄暗くなっていく夕刻に、鳳はなにやらごそごそと地面に図形を描いていた。さっきから夜闇がうるさく質問の雨を投げかけてくるのだが、彼は珍しく無視して作業を続けている。  秘術を尽くした結界である。変に気を紛らわせて失敗すれば、何が起こるか分からない。必殺の八極陣《はくりきじん》に七星陣を重ね、辺りには闇を落とさないために、鬼火をあちこちに呼び出している。  夜闇は大喜びだったが、鳳にしてみれば気が気ではなかった。恐らく敵の力は彼と五分か、それ以上と見ている。どんな術を使う相手なのか分からず、それに加えて夜闇が鬼火にちょっかいを出して火傷したりしないよう気を遣わなければならない。 「赤火金剛《せきかこんごう》来たれ……」  彼の呪文に応え、修羅界から焔星《えんせい》が現れる。宙に浮く溶岩塊である。ただし、岩の真ん中に一つ眼を持ち、凄まじい炎を操る、れっきとした妖であるが。  七星の強大な術を使っている最中の鳳に、夜闇が聞く。 「ねえねえ、この鬼火って、水かけたら消えるの? 試してもいい?」 「緑水長虫《りよくすいながむし》来たれ……」  現れた緑色の蛇を棒でつっつく夜闇を横目に、鳳は結界の触媒となる妖どもを呼び出し続けた。  炎《ほむらい》、水《しみず》、風《おおとり》、土《いわ》、天《あま》、冥《つち》、命《たま》の七星だ。この七結界星と妖刀女神こそが、鳳の持つ妖術のすべてであった。ともに、一撃で鬼を滅ぼす威力を持っている。 「虚空跳狐《とびぎつね》来たれ……」  呼び出された妖が結界に触れると、結界陣はそれを呑み込み、力を増す。結界の内にいる夜闇に手を出そうとすれば、結界に使われた七星の妖どもが一斉に襲いかかり、侵入者を跡形もなく破壊するはずだ。  やがて、結界は完成した。  鳳は試しに、自ら結界の円の中に妖刀の剣先を触れさせた。かっ、と光が辺りを照らす。妖刀の力と、結界の妖魅とが争っているのだ。やり過ぎて結界の効力をなくしてしまう前に、鳳は太刀を退いた。  術は完壁のようだった。鳳は満足し、光景に唖然としている夜闇に言った。 「夜が明けるまで、ここを出ては駄目だ」 「かわや[#「かわや」に傍点]は?」  と、夜闇が聞く。鳳は、さも当然というふうに答えた。 「我慢しろ」  辺りが闇に閉じる…… 〈〈夜闇……〉〉  ……なんだよお。眠いのに。 〈〈夜闇……出しておくれよ……〉〉  何を? 〈〈わしを……出しておくれよ……〉〉  あんた、誰さ。 〈〈わしは——〉〉  ここで聞いた名前には意味はなかった。ただ分かるのは、これが肉親の声だということだけだ……  何処から出すの? あんた、牢屋にいるの? 〈〈そうだ……暗い……寒い……牢獄だ……〉〉  悪いことをしたから閉じ込められたんじゃないの? 〈〈わしは悪くない……悪くないよう……〉〉  ……どうやったら、出られるのさ? 〈〈わしの名を呼んでおくれ……呼んでおくれ……〉〉  なんて名前? 〈〈さっき言った……〉〉  んん……でも、覚えてないんだ。 〈〈何故……〉〉  いっつも忘れちゃうの。だから多分、今夜もだよ。 〈〈何故……何政……出せ……出しておくれよ……思い出しておくれよ〉〉  あんたは出してあげた方が嬉しいんだよね。 〈〈出しておくれよ……〉〉  でも、あんたを閉じ込めた人は、やっぱり、あんたには出てきて欲しくないんだろうね。 〈〈思い出しておくれよ……〉〉  じゃあさ、あたしは、あんたを出してあげると楽しいのかな。 〈〈もちろん……楽しい……楽しいわな……〉〉  声は、こだまして、ぐるぐると彼女の頭の中を駆けめぐった。 〈〈楽しいわな……どうしようもなくどうしようもなく……楽しいわな……楽しいわな……〉〉  また辺りが闇に閉じる……  夜闇がうなされている……  毎晩のこととはいえ、鳳は不安になる。夜闇とて、いつまでも鬼の誘惑から逃げ続けることはできないだろう。何処までも何処までも、鬼は追いかけてくる。  当たり前だ……鬼は、夜闇の内にいるのだから。  鳳は夜空を見上げた。  枝葉の隙間から、吸い込まれるような空の闇だ。  星が瞬く。夜空は変わりなく見える。星と月だけが転じるが……夜空の色は変わらぬ。  満月。  鳳は、ぼりぼりと頭をかいた。ついと、独りでに口が開く。 「わしも同じよ……いつまでも謀れはせぬ……」  いや、独り言ではない。彼は続ける。 「分からぬわ……分からぬ……」  そよそよと、葉が動いた。  ふと、鳳の耳に忍び込む音。 「火は……好きか……?」  鳳は驚いた様子もない。身じろぎもせず、 「火は良い……」  答えた。  鳳の眼にもそれがあるように、爛々と燃え盛る——戦だ! 「火は良い……なにもかもを焼き滅ばす」  鳳は言いながら太刀を引き抜いた。 「神ですらをも焼き尽くすであろう——出るが良い! わしは鳳だ!」  彼の予想通り、炎が巻き起こった。灼熱の業火が修羅を滅死させんと踊り狂う。そこは……炎の世界であった。  七星陣。  鳳は皮膚が焼け焦げ融けるのも気にせず、落ち着いた声で呼ばわった。 「水星門《すいせいもん》、海より来たれ!」  呪文とともに、炎が消える。正確には、鳳が炎の結界から抜け出したのである。鳳の大声で目を覚ました夜闇にしてみれば、大男は突然消え去り、ほんの一呼吸後に姿を現したのであった。  もっとも、鳳の�鬼斬り�に慣れた夜闇は、今さら驚きもしなかった。彼はあちらこちらで喧嘩[#「喧嘩」に傍点]を買いまくっているのだ。  無論、その原因が夜闇にあることなど、彼女自身は考えもしない。  とにかく、鳳はここでも意気揚々と戦しているわけである。 「何処だ……?」  鳳は辺りを見遣った。そして相手が隠形しているのだと悟ると、迷わず唱えた。 「白天真眼《はくてんしんがん》来たれ!」  鳳の背後に、三尺ほどもある巨大な目玉の妖魅が浮かぶ。鳳はこの天眼を通して、大抵の隠形を破ることができる。  普段なら、鳳はこんな立て続けに術を使ったりはしない。兵法としてならば、常に一撃で決めるのが鉄則だからだ。相手の術の程度が分かった以上、ここはじっと待って、相手が再び出たときに返り討ちにする。  だが、今は違った。  今、襲いかかってきたのは、一度夜闇を襲った妖であろう。とうとう攻撃に出たわけである。鳳にして見れば、ただの雑魚だった。  いや、前座だった。まだ次に正体の分からない敵がいるはずだ。だとしたら、当然漁夫の利を狙ってくる。  むざむざ思い通りにさせるつもりはなかった。一刻も早く目の前の妖を討ち、態勢を立て直す。  他にない。  鳳の�眼″が……辺りの闇をなめる。  木々の間に尻尾はないか、枝の先に爪は覗かないか、ひたすらに見る……  そして、見切った。 「ふッ!」  気管に血がにじまんばかりの気合を吐き、大男は振り返りざまに背後を薙いだ。そこには松の幹があったが、大男の必殺の太刀は藁でも斬るように、すっと抜けた。  松の、根本だ。  悲鳴があがる。 「ああああああ……っ!」  松の木が、根本から倒れた。  隠形が破れた。太刀を構える鳳の前に、黒いものが姿を現す。  漆黒の……黒いものを見て、鳳は息を呑んだ。奴は獣魔——ちっぽけな鼠の獣魔だった。獣魔は胴を両断され、黒々とした血を流している。 「ああああっ!」  黒いものが叫んだ。 「天地者十二獣王、一の�悟海�! ただでは眠れぬぞ……主ゃあっ! 鳳ィ……イイイイッ!」  びりびりと、辺りの空気が震えた。 (この気配は……)  鳳は、悟った。 (降魔呪《こうまじゅ》!)  七星陣降魔呪。修羅界の門を解放し、人間界の住人にとっては破滅的な修羅界の大気を呼び込む、大破壊呪だ。鳳は耐えられるかも知れないが———— (夜闇は死ぬ!)  術を完成させるわけにはいかない。  夜闇の周りに張り巡らせてあるのは、七星陣だ。修羅界の�大気�に対しては、まったく無意味である。  鳳は、太刀を振りかぶった。  負けるわけにはいかぬ……  破壊の大気が唸る。  そのとき、夜闇の頭の中に声が弾ける…… 〈〈力あ……これが力あ……〉〉 「黙れえっ!」  夜闇が絶叫した。  瞬間、びくりとした鳳の、それが隙だった。  太刀が止まった。金縛りのように、体の動きが止められたのだ。 「動けぬ……!」  鳳がもがくも、呪縛は解けない。  修羅界の門が……音を立てて開こうとする……  鳳の脳裏に過去の戦場の光景が浮かんだ。死……鬼の哄笑……稲妻の閃光……自分の心臓が止まる音[#「止まる音」に傍点]……  刹那——  突然、獣魔の破壊呪が途切れた。門が閉じ、轟きが消える。  そして、闇が黒いものを切り裂いた。  比喩ではない。  何処からか滑るように伸びてきた闇は、それ自体が鋭い刃物であるかのように、獣魔の体を微塵に切り裂いた。獣の魔性の黒い血が地面を濡らし、土を焦がした。あっという間に、黒いものは細切れになって滅んでいた。  鳳の金縛りは解けない。つまり、これは獣魔が使った術ではないということだ。  ついに出た……奴[#「奴」に傍点]だ。  鳳は、ふうっと息をついた。負けるわけにはいかぬ…… 「愚か者が」  その声は、吹き抜けるように殺気なく、いたずらをした子供を叱るように優しく響いていた。 「何も考えずに破壊呪なぞ使いおって……鬼の子までも滅ぼすつもりか」  だが、鳳は気付いていた。殺気がないなどとんでもない。 「しょせんは女神の使い魔か、鬼斬りよ。あの程度の手合いに、小娘一人護れぬとはな」 「何者だ」  鳳は、こんなときでさえ落ち着いた声で聞いた。  辺りは静まり返った。  固化した空気が融解するまで、どれほどの時間が経ったのだろう。吐息すらが竜巻のように荒れているのに、周りの空気は崩れようとしない。  息ができないよ、と夜闇がぼんやりと考えるころ、鳳は再び声に出した。 「何者だ」  鳳は、瞬時にこの相手がどれほど危険な相手であるか察した。彼に匹敵する……いや、まず間違いなく凌駕する……力の持ち主。 「答えい。何者だ」  三度聞く。  声は、鬼火の浮かぶ薄暗闇に染み通り、溶けていく。  鳳と夜闇、二人しかいない舞台に、第三の声が響いた。 「我が名は、真影《まかげ》」 「名など良い。何物[#「物」に傍点]か」  鳳は落ち着いて言い返す。 「我は汝《なれ》と同じ——修羅よ」  答えは鳳を戦慄させた。 「貴様は、鳳だな? 知っておるぞ——と言うより、この名を知らぬものも、いないがな。女神が僕、地上最強の鬼斬りとな。我——大陸より来たりし導士、真影が相手しょうぞ」 「姿を見せい」  声は笑った。 「わしは、太刀持つ者ではないわ。わしは影を操る——光は我が素顔に触れること能わず、影に隠れ、影に引きずり込み、影にて屠るが我が業よ」  わしの�眼�にも見えぬとは——鳳は、ゆっくりと周囲を見回した。臭いから、近くにいることは分かる。それなのにまったく姿が見えないのだ。 「お、鳳……」  七星陣の中から、夜闇が言う。 「なんだ」 「なんで……構えないの?」  夜闇の声は震えていた。鳳は、当たり前に答えた。 「これを見ろ」  鬼火に照らされた彼の影が、彼自身にからみついている。金縛りの正体だ。振り解こうにも、鳳は微動だにできなかった。影は凄苦い怪力で絞めつけてくる——影の主人と対等する力で。 「それ、立ち尽していても、しかたがないぞ」  声が続ける。 「影縛りの結界——これだけですむと思うな」  鳳は、呻いた。からみつかれた両の手がしびれてくる。なんとか太刀は放さずにいたが、少しずつ握力も失せてきた……時間の問題だ。 「いつまで堪えられるかな?」 「鳳!」  夜闇が叫ぶ。  鳳の顔色が——平素から良い顔色とは言えなかったが——段々とどす黒くなっていく。ここまで強力な相手はいない。なんといっても、自分自身を相手にしているのだ。 「鳳よ——貴様の神話もここで終わりだ」 「こんな術で、わしが討てるものか」 「身動きもできない状態で、よく唄うものだな——まあ良い。貴様が認めずとも、体は朽ち果て、筋は千切れるであろう。否定したくはするが良い」  声は嘲笑していた。 「わしは、死なぬ」 「修羅とて討てる——修羅なればこそ、修羅を討てる」 「畜生が吠えるでないわ」  鳳はそう言うと、渾身の力を込めて影を引き千切ろうとした。しかし、ぴくりとも動けない。 「無駄だ。影が千切れれば、己も千切れるのだぞ……」  鳳には打つ手がなかった。これは影を用いた結界[#「結界」に傍点]だ。結界の中では術も使えない。すべて自分に跳ね返ってくるだけだ。  この結界を破る手立てがあるとしたら……  鳳は、肩越しに夜闇の方を見遣った。結界の中から出ることもできず、おろおろとこちらを見ている。姿のない妖術士を捜しているようにも見えた。  鳳は決心した。  彼は、太刀を手放した。  剛刀の剣先が地面に触れる。どさっと、浅く突き立った。  ゆっくりと……倒れていく。そしてやがて、地面に伏せた。  妖刀の柄が結界に触れる。  結界が反応した。侵入者に対し、七星の妖どもが荒れ狂う。妖刀女神の絶大な力に、結界は最大限の抵抗をした。爆発と言ってもいい。あたりを爆風が薙ぎ払い、炎と雷電とが林を撫で滞るように剃いでいく。一瞬で辺りは焦土と化した。  爆炎と破壊の中、鳳はその威力で影の結界が弱ったのを察した。今度こそ誓の力を振り絞り、影の縛りを引き千切る。影が千切れたと同じ体の部分に激痛が走るが、構ってはいられなかった。彼は地面から太刀を拾いあげ、油断なく構えた。  結界の暴走が止まった。  結界の効力はなくなり、もうもうと立つ煙の中、咳き込みながら夜闇が茫然としている。  鳳は虚空をにらんだ。  相手の術は破ったが、どちらにしても相手の姿が見えなければしかたがない。  それを見透かして声がする。 「無駄だ。見えないものを斬ることはできまい」  だが、鳳は勝利を見た。煙が充満する申、人の形に——煙の入り込めない結界の輪郭[#「輪郭」に傍点]が見える。  大男は一瞬に居合いに踏み込み、その空間を薙ぎ払った。悲鳴が響く。  空間から、いや空間の傷口から、だらだらと血が流れ出る。傷口のある空間が、かすかに揺れた。傷はふらふらと後退り、鳳たちから離れていった。 「斬られてなお術を解かぬとは、たいしたものだな」  鳳が呟く。彼も、ふらふらと地面に両膝をついた。力を使い果たしていた。 「わ、わしは、死なぬぞ。死なぬ……」  声は、息を荒らげた。 「わしは、あきらめぬぞ——あきらめぬ——この決着、再び——再び——」  声は、失せた。 「妖の気配が、消えた」  鳳が言う。  夜闇は、へなへなと座り込んだ。  そして、言った。 「鳳……いくら強いったって、もう喧嘩なんて買ってたら駄目なんだからね。ちょっとは思い知ったでしょ?」  鳳は立ち上がり、太刀を鞘に収めながら答えた。 「ああ」  あの男、死ぬまいな——と、鳳は思った。また必ず来るだろう。そして今度は、どちらかが滅びることになる。  奴も、こちらの力量を知った。次こそは本気だろう。  負けるわけにはいかぬ——この戦だけは。 「まったく……」  と、ぶつぶつ文句を言っている夜闇の耳に、妙な音が滑り込んだ。 「夜闇」  鳳の声だ。  またか、と思いながら、夜闇は返事した。 「なあに?」 「わしの娘の名を……覚えているか。教えてくれ」  夜闇は、呆れたように答えた。 「雪、でしょ。ちゃんと名前を覚えて、たまには手を合わせてあげないと、その娘も成仏できないよ。可哀相でしょ」  なおも続く夜闇の説教は、大男の耳には入っていなかった。ただ耳鳴りのような稲妻の音、そして百年前に彼を殺した鬼の姿が、永遠の残像のように彼の眼前をちらついていた。  夜闇は、記憶を残している[#「記憶を残している」に傍点]。 (術がもう、ほとんど解けかけている……!)  鳳は、もはや驚きなどという感情を持たないはずの胸中で、虚ろに響く自分の言葉に愕然としていた。  旅は終わる……  終わる……    其の四 月の影  呪うとしよか、それとも喰おか。  捕らえて裂こうか、逃して喰おか。  殺して泣こうか、生かして喰おか。  焼いて唄おか、喰らって笑おか。  ——鬼が唄う。星が合唱し、月が唱和する。  契って泣こうか、楽して喰おか。  落として唄おか、つるして喰おか。  摺って裂こうか、流して喰おか。  呪うとしよか、それとも喰おか。  ——鬼が唄う。人が嘆き、神が見つめる。  切って砕こか、おろして喰おか。  噛んで笑おか、含んで喰おか。  呑んで泣こうか、唄って喰おか。  呪って唄ぶか、笑って喰おか。  裂いて覗こか、つるして喰おか。  摺って笑おか、月見て喰おか。  丸めて呑もうか、砕いて喰おか。  呪って殺そか、愛して喰おか。  ——呪い。呪い。呪い。  悪夢。悪夢。悪夢。  正夢。逆夢《さかゆめ》。正夢。  呪い。呪い。叫び声。  呼び声……  鋭く短い、短刀のような。  悲鳴。呼び声。悲鳴。  短く鋭い、草の葉のような。風に揺れ震える、伝説で人を斬った草の葉のような。  あるいは、さらに鋭い氷のような悲鳴。  呼ぶ……声。  ——呼び声……! 「ぎゃああああっ!」  その鋭さだけで人を殺せる悲鳴が、月を刺した。  夜闇は走り、叫び続けた。 「いやああっ!」  泣き声に変わる。  彼女は暴れ回り、逃げ惑う人間たちを薙ぎ払った。彼らは指さした。 〈〈鬼じゃ〉〉〈〈鬼じゃ〉〉 〈〈恐ろしや。鬼じゃ〉〉 〈〈にらみおった。鬼じゃ。鬼じゃ〉〉 〈〈にらみおった。恐ろしや。鬼じゃ〉〉 〈〈わしらを殺した鬼じゃ〉〉〈〈まだ殺す気じゃ〉〉 〈〈恐ろしや〉〉 〈〈恐ろしや〉〉 〈〈恐ろしや……〉〉 〈〈わしは、鬼斬りだ〉〉 〈〈お主を待っているのだ〉〉 〈〈死を待っているのだ……〉〉 「いやああっ!」  夜闇が泣き叫ぶたびに、稲妻が、炎が、妖魔たちが人間を襲う。巨大な鬼斬りの幻影が砕け散る。  嵐。破壊と死。  悪魔。鬼。  炎。暗闇。  暗闇。  暗闇…… 「いやだああっ!」  爆発が巻き起こり、化け蜘蛛を焼きつくした。  そして、こよりが切れた。  暗闇。稲妻。  光。その奥に、眼。 〈〈楽しいわな……楽しいわな……〉〉 〈〈どうしようもなくどうしようもなく……楽しいわな……楽しいわな……〉〉  夜闇は、目を覚ました。  静かな月明かり。星の瞬きが彼女を覗いていた。  涼しげな風。頼が、はてっている。草が揺れる音。月は欠けている。  悪夢の余韻が、夜闇の頭をなでていった。いや、もうその記憶はない。ただ夜中に目が覚めただけ。珍しいことではない——同じ夢を見て目を覚まし、忘れ、何かの徒労感を覚える。毎晩のことだ。 「どうした、夜闇」  眠らない修羅の声。夜闇は、首を横に振った。 「なんでもない」 「そうか」  鳳はそれだけ言って、再び見張りに戻った。彼は知っていた。  夜闇は、そのまま寝っころがった。人のいない社の中だ。天井に大穴が開いており、そこから月明かりが射し込んでくる。  狼の遠吠えが聞こえた。 「ねえ、鳳は、なんで寝ないで平気なの?」  夜闇は、ぽつりと聞いた。  月明かりが静かに降りそそぐ。彼女は銀の光に浮かび上がっているように見えた。 「わしは、人ではない」  鳳は一言で答えた。  夜闇は簡単には退きさがらない。 「人じゃないから、ずっと起きていられるの?」 「眠りは、弱さだ」 「……ふうん」  珍しく、それだけで納得する。  月明かり。  星の瞬き。  涼しげな風の音。 「あと……一年だね」 「なにがだ」 「海だよ」 「……ああ」 「本当に着くの?」 「何故、疑う?」 「なんとなく」  暗闇。 「何も……見えないの」  彼女は、妙にしんみりとした声を出した。 「海は大きい。見えないことはなかろう」 「ふうん……」 「信じることだ」  鳳は言い切った。 「うん……」  彼女はそのまま寝息を立て始めた。何を信じたら良いのか、聞かないままに……  翌日も、相変わらずの上天気だった。  相変わらずなのは夜闇も同じだ。何が楽しいのか、気楽にはしゃいで歩いている。道なりに行けばいいものを、あっちにいったりこっちにいったり、まったく忙しない。もっとも、それがなかったら、後ろからゆっくりと歩いてくる鳳との差が開いてしようがないだろうが。  気楽な旅ではある。少なくともそのはずではある。ただ、さけようのないものがある——それだけだ。  もう六年になる。鳳は知っていたが、あと何十年かかっても海には着かない。  ここは海から隔絶された土地だ。鬼の蹂躙する地は、海には続かない。  檻、とも言える。  母なるものから隔離され、そして滅ぶべし——鬼は定めとして人を殺す。神に命じられて、ということだ。  海は、考えられないほど遠い。それこそ一生の隔たりがある。  だが。  あと一年。旅は終わる。  鳳は知ってしまった。確実に、一年を待たずして旅は終わるだろう。  彼の視界に、はしゃぎまわっている夜闇が見える。  旅は終わるのだ。  風が涼しい。鳳がもし人間だったなら、肌寒さを感じたかも知れない。  天気は良い。燕が飛んでいる。高く上がり、宙返りをうった。 「高み、か……」  鳳は独りごちた。  後ろからつけてきているものがいるが、さして気にしなかった。  そのうちに向こうから、あいさつしてくることだろう。 「ぎゃああああっ!」  その鋭さだけで人を殺せる悲鳴が、月を刺した。 〈〈鬼じゃ〉〉〈〈鬼じゃ〉〉 〈〈恐ろしや。鬼じゃ〉〉 〈〈恐ろしや。にらみおった。鬼じゃ〉〉 〈〈楽しいわな……楽しいわな……〉〉  夜闇は、目を覚ました……  遠く、野犬が吠えている。  欠けた月が彼女を覗いている。今夜の月は夜空の中にある。泊まれるような屋根が見つからなかったのだ。  星が、ちらついて見える。  夜闇は、どうもそれを落ち着かない気持ちで眺めていた。  何かの……夢を見ていた。内容は覚えていないが、楽しい夢だったようであり、悪夢のようでもあった。思い出せない。思い出せないのだ。  思い出したくない。  そんなふうに片付ける。いつものようにまた寝なおせば、今度は朝までぐっすりと眠れるはずだ。眠らない鳳も見張りをしている。彼のような力強い味方のいるときに、一体誰が彼女の安眠を妨害できるだろう。  夜闇は気をとりなおし、眼を閉じた。  鳳は、ただ暗闇を見つめていた。考えごとは昼間と同じだ。旅の終わり。  それは恐らく、どうしようもないことだ。何がどうなろうと、旅は終わる。旅が終わりを告げるのは、最初から定められたことだった。  定め[#「定め」に傍点]。  恐ろしいほどの力——あるいは死に勝る。  人は生きる。子を産み、育てる。いかな辛苦の中でも、それをする。  鬼であれば、それを屠る。  魔性であれは、それをからめる。  修羅であれば、それに火をかける。  神は、それを見ている。  何が糸を引くのだろう。何が糸を紡ぐのだろう。そして、何が糸を断つのだろう。  修羅は恐れない。より強い修羅は、笑いすらしない。  情を持つこともしない。  なればこそ孤独にも堪える。なればこそカを持つ。  鳳は、夜闇の寝顔を見遣った。恐ろしげな大男に、無条件になついている。  何故? 「そういえば……」  鳳は、小さく声に出した。  彼女には、人間の父親がいない。  鬼と、まぐわった狂女から生まれた娘。鬼の血をひき、鬼の力を持つ人間。その力にて、自らの母親をも屠ってしまった娘。  鳳は暗闇を見つめた。見つめ続けた。  その向こうに答えを読み取ろうとするが如く。  なんということもなく、数日が過ぎた。何も変わらない。まだ旅も終わらない。終わりに近づいただけだ。  春の下草を踏みながら、夜闇が小走りしている。いつもの笑みを浮かべながら、いつものようにしているだけだ。  いつかは海に着く。鳳がそう言ったから、それを疑ったりはしない。  海に着いてからは、どうする? その先は、夜闇は考えていない。望み通り、次は空でも飛ぶつもりなのだろう。鳳がなんとかしてくれるはずだ。  そうして、そんなことを考えながら彼女は、ばたばたと走っでいた。  考えごとをしている人間など、これ以上に無防備なものはない。  彼らをつけているものがいる。  何かが二人をつけているのだ。誰だってつけられている——自らの、影だ。 「ぎゃああああっ!」  その鋭さだけで人を殺せる悲鳴が、月を刺した。 〈〈鬼じゃ〉〉〈〈鬼じゃ〉〉 〈〈恐ろしや。鬼じゃ〉〉 〈〈恐ろしや。にらみおった。鬼じゃ〉〉 〈〈楽しいわな……楽しいわな……〉〉  夜闇は、目を覚ました……  月が、なかった。  鳳もいない。  夜闇は独りだった。  ——独り。完壁なまでに。  鳳はいない。  夜闇には見えない。分からない。  見えるのは、新月のみ。いや、見えないと言うべきか。  鳳はいない。死んだ。  彼女に見えるのは、影だけだった——この霧に囲まれた館の、幻のみ……  あの夜も、鳳は眠らなかった。寝たふりをしながら彼女が見たのは、ずっと闇の虚空を覗き続ける、動じない修羅の眼だ。  小山のように動じない修羅。  この大男が平素から何を考えているのか、夜闇には分からない。ただ分かるのは、その眼が——たまに戦を忘れたような平和な時間では——さびしげに沈んでいるように見える、ということだ。  月はかなり欠けてきている。明かりが少ない。ふと、雲が月を隠した……  闇。  この闇はなんか[#「なんか」に傍点]違うな、と夜闇は思った。なんとなく、落ち着かない気がする。ついでに少々、生臭いようだ。 「抜かった」  鳳が、突然立ち上がった。彼は太刀を抜き、虚空に向かって構えた。  夜闇も起き上がり、きょとんとしながらそれを見ていた。鳳は、ずっと虚空を覗いている。これまた唐突に、彼は口を開いた。 「また来たか」  大男の低い声は、すっと夜に吸い込まれていった。何も返ってはこない。  鳳は動かずに構え続けた。  そしてようやく……夜闇にも分かった。月を隠したこの闇は、自然のものではない。闇を扱うものが来ている。  月はもはや完全に隠れ、辺りの闇は蠢き出していた。 「闇の春蟲《はるむし》」  鳳が呟くのが聞こえる。 「愚か者が……蟲は我らを喰ったあと、貴様を狙うぞ」  闇の胎動は、どんどん活性化していく。夜闇は、びっくりして辺りを見回した。彼女たちの上に、昆虫の影のようなものが落ちている。一つの野原を覆う、巨大な六本脚の甲虫の影だ。彼女らは、その影の中心にいる。 「いいや、鳳よ。鬼の子ならば、鬼門を通じて逃げることもできようぞ。だが貴様は……この結界から逃れることはかなわぬ。例え、天下に知られた鬼斬りといえどな」  その声は、紛れもなく真影とかいう妖術士のものだった。 「そう、この結界は闇の春蟲。先師より伝えられし、必殺の結界の一つ——逃れることはかなわぬ」  夜闇は、ぎょっとして鳳の方を見遣った。冷静な修羅は表情も変えていなかったが、その眼で分かる。これは絶対的な窮地なのだ。  鳳は無言で太刀を構え直した。だが、声が釘を刺す。 「結界の中で力を使わば、ただごとではすまなかろうぞ——分かっているだろうがな」  しかたなく、鳳は太刀を下げた。 「鳳……どうするの?」  夜闇の、か細い声。  大男は答えない。  声が嘲笑した。 「愚か者めが! 何に気をとられていたか、こんなにもあっさりと我が術中にはまりおって! 先の屈辱、今こそ、はらそうぞ!」  闇の春蟲が動いた。  刹那、鳳の背後から影の魔手が飛びかかる。甲虫の影から起き上がった、影で出来た触手である。鋭い闇の手刀《てがたな》が、鳳の頼をかすめた。鳳も巨体に似合わぬ素早さでよけるが、彼の側頭が、ざっくりと裂けた。  また背後から、今度は三本の魔手が飛びかかってきた。三方向からの攻撃に、修羅の本能が素早く対応する。鳳は太刀で払った。魔手は三本とも失せたが、太刀で払った空間から火花が散り、電光のような白い帯が鳳の巨体を包んだ。彼は、もんどり打って倒れた。 「鳳!」  夜闇が叫ぶ。  彼女は、この修羅が大地に伏すのを初めて見た。ぞっとするような感覚が体中を走る。  まさか、この男が負けるはずはない。死ぬはずはない。  鳳は、呻きながら立ち上がった。その顔には疲労が見える。  暗闇に声が響き渡った。これでもかと言わんはかりの嘲笑が降りそそぐ。 「結界の中では力は使えぬと言っておろうが! その災い己にかかるべし——我が秘術の強大さ、思い知ったか!」  鳳の息は荒くなっていた。今のがかなりの深手だったことは間違いない。確かに強大な相手だ。強大な力だ。だが。 「神の身ならぬ術だ。何処かにか抜け道はあるはず」  鳳は呟いて、妖刀を振り上げた。  そして、唱え始めた。 「いざ、女神よや、我に幻を討つカ——」  言っている途中で、彼の背後に影の手刀が突き刺さった。人間なら心臓に当たるところだ。鳳が呻き声をあげる。そうしているうちにも、手刀は鳳の巨体の深くに突き刺さっていく。やがて、この世のものではない鳳の苦悶の声と同時に、手刀が厚い胸板を貫いた。影の魔手。致命傷のはずだ。 「方水《ほうすい》の影も微塵——」  鳳の呪文は、震えながらも続く。 「若水《じゃくすい》の映りも微塵——」  歯を食いしばり、怨念のような声が咽からもれる。 「あさまし幻影を打ち払う力を——我に——」  鳳は、影の中心に太刀を打ち下ろした。凄まじいまでの電光が辺りを照らす。  いや違う。と夜闇は気付いた。電光ではない——光だ。まばゆい真夏の陽光だ。  光・覇。女神光覇呪《ひめかみこうはじゆ》。  光が影を阻む。  影が光を隠す。  力がぶつかり合う。ともに強い力だ。  鳳の体を、次々と影の魔手が貫いていく。一本一本が致命傷であるのに、鳳は力尽きることなく力を揮う。妖刀の発する光が強まる。  光覇の神、女神。その化身たる力だ。  鳳は、憤怒の雄叫びをあげた。そして妖刀から突然に力が失せ、彼は再び地面に伏した。  影は消えない。 「無駄だ! 愚かな鬼斬りよ。我が術は破れぬ!」  真影があざ笑った。  鳳は、全身をぼろぼろにしている。ぴくりとも動かない。 「鳳!」  夜闇が叫んだ。こんな馬鹿なことが。鳳が死ぬわけないのに……  彼女は鳳に駆け寄った。もともとこの男の巨体は驚くほど体温が冷たい。鼓動はするのだが、それも弱い。  だから今、彼女にはこの大男が死につつあるのか、それとも日常の茶飯事なのかは、判断できない。だが、ぞっとするほどの不安が彼女の背中を走っていた。 「ほら、鳳! 起きてよ!」  夜闇は鳳を揺さぶった。 「このままじゃ死んじゃうよ! 起きてよ!」  鳳は動かない。  真影が大声で笑った。 「女神が僕、斬妖大老・鳳を、我、真影が討ち取ったあ! 不死の栄えよ、我にあれ!」  哄笑が続く。  恐らく、この哄笑がなければ、夜闇もそう不安にはならなかったかも知れない。  だが鳳は動かない。  夜闇の中に、焦りが浮かんだ。焦りは不安を呼び、不安が焦りを呼ぶ。そして、妖術士の哄笑が、それに火を点けようとする。 (鳳が死ぬ……)  彼女の中に——恐怖が浮かんだ。今度は滲んでくるどころではない。奔流となり洪水となった冷たい恐怖が押し寄せてくる。  鳳が死ぬ……死んだら……  ——彼女は一人になる他ない——  孤独は怖い。  彼女の唯一の、よりどころが消える。  鳳の鼓動が弱まっていく。  夜闇の中から聞こえてくる。何かが呼びかけてくる。  呼ぶべし——乱神、力を呼ぶべし。  鬼が唄う……笑う…… 〈〈鬼だから何という……殺してでも生き延びよ……喰らってでも生き延びよ……〉〉 〈〈呼ぶべし……〉〉  大気が、にごった。いや震えた。  彼女の中から何かが失せる。何かが出る。  呼ぶべし。  何でも呼び出すことができる。死を。破壊を。  大地が鳴動を始めた。地の振動は徐々に強くなっていき、やがて自らを断ち割る動きとなった。大地の嵐だ。  大地が動く。地が割れる。  鳴動が拡がっていく。  力が、大地震が、辺りの大地を破壊する。遠くの山の頂上が崩れ落ちる。破壊—— 〈〈すべてを……壊しゃ……楽しいわな……楽しいわな……〉〉  真影は、自分の予想を完全に超越する力に愕然としていた。  鬼界だ。  強大である。それは分かっていたが…… 「この力は……」  呻きにも似た呟き。彼は唾を呑み込んだ。 「馬鹿な……これは……鬼界どころではない!」  伝説……  鬼王の〈覇者界〉! それにすら匹敵する力だ。人間でありながら、破壊神の王と対等する力を持っているというのか!  空に浮かび上がりながら、胸が騒ぐにまかせた。この力があれば十分だ。彼の——なんであれ——目的を達するためには。  大地が形を変えていく。海から閉ざされし〈ひむがし〉の地。鬼の呪いで海への道を封じられた……檻。  だが、その結界までもが——まったく為す術もなく破れるほどの力!  真影の敷いた闇の春蟲など、なんということもなく破界していた。だが、そんなことはどうでもいいことだ。鳳を屠った以上、鬼の子など簡単に手に入れられるだろう。  真影は、隠形の術を解いた。四十歳くらいの男の姿が現れる。  彼は、はやる心を抑えながら、地震の収まりつつある地表へと下り始めた。  月が見えた。はとんどすべて欠けてしまった月が見えた。妖術の暗雲が消えたせいだろう。彼女を捕らえていた結界も消え失せてしまっていた。  脱力感があった。  失われた。  辺りには、もう誰もいない。影の結界も失せ、鳳も消えてしまった。  いつの間にか、独りぼっち。  彼女は泣くのを忘れていた。よく考えたら、この六年間、本気で泣いたりはしなかったようだ。本当に怖くて泣いたのは……あれが最後だった。今と同じように、なにもかも、いなくなってしまったとき。  彼女の力が、みんな持っていってしまうのだ。全部……なにもかも……みんな、すべて。  必要なものを選んで持っていってしまう。  地面に座り込んだまま、彼女は微動だにしなくなった。このまま動かなければ死んでしまうだろう。六年前もそう思った。  死ねない。  鬼と闇に捕まる。  ——鳳はあのとき、そう言った。  鬼は分かる。では、闇とは何だろう。  夜闇には分からなかった。 「お前が、鬼の子か」  妖術士は、いつの間にか夜闇の背後に降り立っていた。  夜闇は振り返った。 「まかげ……」  かろうじて覚えていた名前を呟く。眼前の妖術士は、笑みを浮かべて領いた。  真影は笑みを崩さないまま、爪先を地面に落とした。 「鬼の子か……名は?」 「夜闇」  彼女は冷たい声で名乗った。  では、この男が鳳を殺したのだ。いやな笑みを浮かべた、こんな男が。  そんな夜闇の胸中を読みとってか、真影は言った。 「そう。鳳は死んだ」  楽しげに続ける。 「我が必殺の陣にはまり、さらに鬼の子、お前が結界内で鬼界なぞ使ったために——あの男め、死体すら残らんかった。鬼斬りで知られた修羅も、これでお終いよ」  からからと笑う。そして、さっきまで結界が敷かれていた地面を見遣った。肉片すらも残っていない。 「お前も死んじゃえ」  激怒と怨念がこもった声で夜闇がそう言うと、月夜がにわかに曇り出した。雷雲だ。  真影は、また笑った。 「落ち着くのだな、鬼の子よ」 「あたしは鬼じゃない」 「どうでも良い。だが、考えるのだな。わしならば……鳳を蘇らせることができる」  暗雲が切れた。また月が出て、辺りを照らす。  真影は続けた。 「お前が……来るのならば、奴を蘇らせてもいい。もっとも、お前と二度と会うことはなかろうがな」  こいつは嘘を言っている。  夜闇には分かっていた。だが、ある一方でこういう声が聞こえる——それがどうしたと言うのだ? 今さら失うものなどあるのか? 「来るな? 鬼の子」  真影が言った。  夜闇は、頷いた。    其の五 出 口  闇と暗闇——寒気。  移ろいと変動——烈《はげ》しさ。  とこしえの……呪縛。  もう抜けられない——抜け出せない。  一年《ひととし》信じて二年《ふたとし》待ち、  二年《ふたとし》|戸惑《とまど》い三年《みつとし》待って、  三年《みつとし》疑い四年《よつとし》待ち、  四年《よつとし》考え五年《いつとし》待って、  五年《いつとし》泣いても六年《むつとし》待って、  六年《むつとし》怒れば七年《なつ》|怨《うら》め。  ——あとは死となれ鬼となれ…… 〈縛妖陣〉——妖を捕らえ、封じる妖術。  暗闇……  光……  変動……  封印……  その四条にて縛妖と為す。術の符陣によって造られた結界に封じる方法もあれは、符陣そのものが妖を封印してしまうこともある。  だが少なくとも……これほどの強大な�結界″が、自然に出来上がるようなことはあり得ない。そして偶然に踏み込めるほどの容易な威力でもない。  まあ、どうにせよ、結界の中ほど……寒いところはない。  寒くて冷たい……  暗闇——  間は人を狂わせる。  光——  光は人を晦《くら》ませる。  変動——  動きは人を惑わせる。  封印——  妖は逃げ出すことができない。  それが縛妖陣だ。鳳は夢の中にあって、その冷たさに、ぞっとしていた……わしは、どうして、ここにいる?  鳳には分からなかった。彼は確かに妖術に破れ、滅びたのだ[#「滅びたのだ」に傍点]。  だが、彼は——まだ在った[#「在った」に傍点]。まだ存在している。  しかし……ここが本当に縛妖陣だとしたら、彼は二度と抜け出すことはできないだろう。  これから永遠に、この闇の中だ。  闇……夢の中にあってさえ、恐ろしく深い闇だ。  しかし、彼は絶望はしない。修羅はそれだけはしないのだ。 (まだ……戦える……)  在る限り、戦い続ける。戦うしかない。  鳳は、重い、まぶたを開いた。だがあまり意味はなかった。そこは無明の闇の中だった。  まだ動くことはできない。体を動かせるようになるまで、あと何日かかかるだろう。修羅は死せずとも万能ではない。  縛妖の四条を破るのは……定めの四条。  生、死、呪縛、解答[#「解答」に傍点]。  正しい答えさえ返せば、縛妖陣の結界とて解くことはできるはずだ。妖に——できればの話だが。 (出口は何処だ……)  鳳の意識が辺りを探る。  遠くから、あるいは近くから、歌声が聞こえてくる……  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口隠して、鼻すら見えぬ。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口離して、眼《まなこ》じゃ見えぬ。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口隠して、遠くは見えぬ。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口離して、近くも見えぬ。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口隠して、焔《ほむら》の如く。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口離して、雲間に見えて。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口際して、時間は止まる。  出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口離して、吐息も止まる。  出口は何処ぞや。  出口は何処ぞや。  出口は何処ぞや。  出口は何処ぞや……  鳳は闇の中に沈んでいった。  漆黒——  漆黒——  暗黒——  暗闇——  薄闇——  陽炎——  白露《はくろ》——  蛍灯《けいとう》——  希望——  陽光——  そしてまた漆黒……  何かが浸透してくる……  何かが抜け出ていく……  流転《るてん》流転の風風《ふうふう》や。  土から金が——   斧は振り上げ打ち下ろし、  金から水が——   水は一気に吹き出るや、  水から木が——   柳は左右左右《そうそう》、揺れ泣いて、  木から火が——   焔《ほむら》がさっぱり燃えるなら、  火から土が——   土にすべてを埋めようか。  かつては生きていたのよな。  もはや生きてはおらぬのか。  ならば死ぬ目もあるまいさ……  目覚めるときは、大抵、眠った後だ。  もう百年も眠ったことがなかった。眠らない身——  それは、修羅だ。  化け物だ。  眠りとは一時的な死である。  死に最も近く、最も遠い——化け物。  血に飢えた餓鬼。  戦場でのみ活きる妖。  神に造られし……斬妖大老。  魔性であり、魔性を討つこともある。  だが何の意味もない——化け物。  生きる意味も持たぬ故——生きることなく、そして無論、死なぬ。  意味などない……本当にないのだろうか?  分からぬ。  が、  信じるだけ……  例えば——答えを信じるのではなく、  ——何処かに答えが在るはずだということを……  それからどれくらいの時間を経て鳳が目覚めたのか——少なくとも鳳には分からなかった。 「出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口隠して鼻すら見えぬ。  出口は何処ぞや……」  歌が聞こえる。鳳は、その声を聞きながら身を起こした。  辺りには、何もない。真の漆黒。暗闇だった。  鳳は、じっと眼を凝らした。通常の闇であれば、見通すことができる。  暗闇は、何も見えなかった。 (結界の闇だ……)  鳳は確認して、再び疑問を抱き直した。錯覚ではなかった。ここは結界で——しかも最強の威力を持った〈縛妖陣〉で——ついでに鳳は滅びていない。 (何故……わしは、こんなところに?)  だが、考えたところでしかたがない。何も見えず、何も分からない。歌声が聞こえるのみで、その歌声も、ありとあらゆるところから聞こえてくる。  鳳は太刀を抜いた。妖刀の刀身が、ほのかに光る。  暗闇の広がりは、どうやら無限のようだ。闇の深さが尋常ではない。  鳳は、向いている方向に歩き出した。偶然に頼らなければならないらしい。不本意だったが、他にしようがない。  鳳が歩いているのは地面の上ではなかった。床もなかったが、とにかく歩けた。とりあえず歓迎する——気味は悪いが、全然歩けないのよりは、ましだ。 「出口は何処ぞや、わしには見えぬ。  入口隠して、鼻すら見えぬ。  出口は何処ぞや……」  歌声。ありとあらゆる方向から、ありとあらゆる声で唄う。  黒い空気に声が震えている。  暗闇。  何も見えない……声だけが聞こえる。 「……眼《まなこ》じゃ見えぬ……」  歌声。  眼では見えない? 「答えは�安定″だ」  鳳の声に、辺りの闇が歪んだような気がした。  眩い光が、そこにある。と言うより、光の中に、鳳はいる。  かがよい。  同じく、歌声が聞こえる。 「……遠くは見えぬ……近くも見えぬ……」  光。  輝くもの……光輝……栄光……  光の中では、何も見えない。何も見なくてすむのだ。 「答えは�無知″だ」  ——二つの答えは? 声がする。 「暗闇と光。安定と無知。人の混沌なりし。こころ[#「こころ」に傍点]の一部。無常の世において、黒の混沌たる悲劇の安定。美しかれど何も見えぬ無知」  淡々と述べる。 「善、だ」  激しい音が、ただひたすらに駆け抜けていく。  目標に向かい、あるいは目標などなく。理由などいらない。ただ、赴くままに。  ただ響き渡り、傷つける。  何を?  自らをだ。 「答えは�衝動″だ」  蜘蛛の巣がある。  蝶が捕らわれ、弱々しく羽を動かす。  弱さ。ただもがくのみ。  病なるかな、この定め…… 「答えは�自縛《じばく》″だ」  ——二つの答えは? 「変動と封印。衝動と自縛。自らを燃やし、自らを縛る。人の一面。燃えることができる。ただし、己をむしばむ」  言い切る。 「悪、だ」  ——では、四つの答えは? 「人」  意味……?  ふと気が付くと、鳳は何もないところにいた。いや、闇はあった。  最初にいたところとは違う。それはすぐに直感した。この暗闇もまた結界の闇だが、出口に続く気配があった。  結界から抜け出したのだ。縛妖陣を抜け出した妖など—— 「恐らく、うぬ[#「うぬ」に傍点]が初めてであろう」  声が聞こえた。  鳳は冷静に答えた。ではつまり……この声の主が、この縛妖陣を造った術者だ。 「妖には破れぬはずだ。答えが�人″なのだからな」 「うぬは、妖ではない、と?」 「わしは修羅だ」 「斬妖大老・鳳か。我とて……知らぬわけではないぞ」  声は続けた。 「うぬは……まったき修羅では、ないな?」 「何を根拠に言うか」  鳳の声は変わらない。  もう一つの声は、ようやく姿を見せた。暗闇の中から、すうっと背の高い人影が浮かび上がってくる。 「縛妖の結界を、妖が破れるはずがなかろう」  と、輪郭が現れた。細身の、体躯には何もまとっていない。  そして……その頭部から、三つの眼光が覗いていた。 「うぬは、完全な修羅ではない」  鳳は答えない。ただ黙して、妖刀の柄に手をかける。  鳳の仕草を見ても、声は動じなかった。 「女神が僕、鳳よ……うぬは、人の宿《しゅく》を捨てきっていない」  獣魔の神、天者地者その神は、ゆっくりとそう言った。  月が、なかった。  鳳もいない。  夜闇は、独りだった。  ——独り。完壁なまでに。  鳳はいない。  夜闇には見えない。分からない。  見えるのは、新月のみ。いや、見えないと言うべきか。  鳳はいない。死んだ。  彼女に見えるのは、影だけだった——この霧に囲まれた館の、幻のみ……  どのぐらいの日々が経ったのだろう。  夜闇は、もう数えていなかった。三日までは数えていた。以後は、知らない。また何日か経ったようではあるが。  霧館《きりやかた》。  そういう名前の館らしい。少なくとも、真影はそう呼んだ。多分、嘘ではないだろう。  この館の周りには、迷い影の陣が敷かれている——真影はそう言って、彼女に釘を刺した。「絶対に抜け出すことはできない」と。  多分、嘘はないだろうし、夜闇は疑わなかった。確かに、疑いようがない。この妖術士の実力は本物らしかった。  溜め息。  独り——こんなにも堪えるものとは。予想はしていたが、知らなかった。知ってはいたが、考えてなかった。  この霧館の生活は、特に不便なことはなかった。実際のところ、快適ですらあったかも知れない。食事は日に三度、不味くはない物がきちんと与えられたし、部屋も清潔ではある。野宿していたことを考えると、まあ、快適ではあった。  とはいえ、こんな部屋に何日も閉じ込められれば退屈極まりない。妖術士は顔を出すこともなく、彼女の食事はと言えば妙な姿をした妖魔の出来損ないのようなものが運んでくる。どうやら喋ることすらできないらしく、夜闇に向かって唸り声を上げることで食事を持ってきた旨を告げようとする。  どちらにせよ、暇潰しの相手にすらなってくれない。食事を手渡すと、そそくさと出ていってしまう。どうやら夜闇を恐れているらしい。  最初の二、三日は、鳳が死んだ直後であったせいか、この部屋の内装など気にもならなかった。しかし、しばらく経って落ち着いてくると、この部屋の奇妙さは興味をひいた。  立派そうな屋敷であるくせに、畳も敷いていない。代わりに分厚い布のようなものが敷いてある。彼女は、その畳にすら触ったこともなかったのだが、少し立派な屋敷には、そういう物があると聞いていた。  何やら背の高い卓祇台がある。床に座ると彼女の頭より高いところにあるほどだ。その机をどう使ったら良いものか迷っていたら、少しは話のできる霧のような妖魔が現れて、低く小さい机を渡してくれたので、それを使って食事をしていた。四本足の——前に座ると向かい合う�顔�のついた机だ。彼女はさっそく�顔机�と名付けることにした。  とにかく、この化け物屋敷は彼女の興味を惹き始めていた。この数日は部屋の中のものを見聞するので満足していたが、そのうち、それにも飽きてきた。窓に垂れ下がっているヒラヒラしたものを引っ張ったり、それが外れて大慌てしたり、とにかくやれる事はなんでもやった。外が見えるくせに出ることのできない窓に感心して、これは確かに凄い妖術だと考えた。  部屋の中の物に飽き始めれば、当然次に興味を持ち始めるのは部屋の外だ。入口からこの部屋までの廊下にも、面白そうな物がたくさんあったはずだ。  考え始めると止まらない。こうなったら意地でも部屋を出てやろうと扉に付いている妙な出っ張りを挑む。一心に開けようとするが開かない。この扉が押して開けるものだということくらいは知っている。その把手を回さなければならないことを知らないだけだ。  精一杯、扉と格闘してしばらく、とうとう夜闇も頭にきた。�顔机�を掴むや振り上げて、力の限り叩きつけ始めたのである。こっそり出ようという計画は、もうこの時点で崩壊していた。そもそもそんな計画があったことも忘れている。  何度も何度も殴りつけているうちに、扉と�顔机�は同時にばらばらになった。家具にとっては災難だ。自室の鏡で様子を窺っていた真影は、彼女の部屋には二度と鍵をかけないことに決めた。  扉が壊れると、夜闇は嬉々として廊下に出た。かなり大きい屋敷だ。大層な探険ができるだろう。彼女の頭の中では、いつの間にか彼女はこの館の招待客ということになっている。  夜闇の部屋には、壊れた椅子が残る。  外を見ることはできるが出ることのできない窓から、霧に遮られた弱々しい陽光が入ってきた。大体、正午くらいだろうか。 「オ、オ館サマ、ア、アノ娘、ガ、部屋ヲ、出テ、シ、シマイマシタガ、イカガ、イカガガガ、イタシマス、カ?」  霧のような姿をした妖が、何とか言い終えた。一見普通の人間だが、輪郭が異常にぼやけている。真影が造り出した手下だった。 「まあ、捨て置け」  溜め息をつきながら、真影が答える。 「どうせ屋敷の周りには、迷い影の陣を敷いてある。この館を離れることはできん」 「ソ、ソウデ、スカ」  鏡に夜闇の姿が映っている。彼女は廊下にあるものを片っ端から見物するか、あるいは破壊するかしていた。彼女にとってはどちらの行為も同じことなのだろう。破壊神の血をひく。〈覇者界〉の威力が、真影の脳裏に浮かんだ。  彼は微笑した。 「鬼の子か」  鬼の子は、興味津々といった体で天井のランプをもぎ取った。 「十六夜《いざよい》と大して変わらぬ歳ではないか」  鏡の中の鬼の子が、近寄ってきた妖の一匹を蹴飛ばした。部屋に連れ戻されると思ったのだろう。  真影は急に向き直ると、妖に言った。 「では、私は、選択しなければならないというわけだな?」  問いではなく、断定だった。 「ハイ」  妖は同意して、 「鬼、鬼ノ、子トイエド、イ、命、ハ、ヒトツダケ……鬼ノ子ヲ、イケニエ、ニ、デキル、ノモ、一度ダケ……」 「ふむ……」  真影は考え込んだ様子で、再び妖に背を向けた。 「イ、十六夜、サマ、ノ、命ヲ、救ウナラバ、鬼ノ子ノ、命、ト、取り換エル、ホカ、アリマスマイ……デ、デデ、デスガ、ソウスル、ト、オ館サマ、ガ、鬼界ヲ、テ、テテテ手ニ、入レルコト、ハ、デキナクナリ、マス」 「ふむ……」  真影は、さらに深く吐息をついた。  そして、この選択に没頭していったため、夜闇の監視を忘れていた。その際に鏡の中の夜闇は、入っていってはならない場所へと入り込んでしまっていた。  一つ、火の粉の雪の中  二つ、二人の血の泉  三つ、みそぎも血の中で  四つ、黄泉路《よみじ》の花畑 「ん?」  夜闇は立ち止まった。声がしたのだ。  声は、独りで歌っている響きがあった。彼女には分かる——彼女自身もよく、そうしていたから。  歌声だった。  数え歌をたどると、どうやら向こうの部屋から聞こえてくるらしい。女のも若い女の歌声だ。 「誰かいるの?」  夜闇は、声の主に向かって言った。  答えはない。聞こえなかったらしい。  夜闇は首を傾げた。何かの妖かも知れない。  歌は、独りの響きとともに、か細く続いている。 「罠かな?」  夜闇は呑気な声を出した。  罠だとしたら、どうなるだろう。興味はある。しかし、捕まって部屋に戻されたら、また退屈することになる。扉を壊したから、今度は何処かの座敷牢にでも入れられてしまうかも知れない。それは何処かの地下にあって、陽の当たらない薄暗いところなのだろう。  もっとも、この霧に囲まれた館にあっては、何処の部屋だって日当たりは悪いのだが。  座敷牢などあるかどうかは分からないが、夜闇はあると決め込んでしまった。こうなると、今にもあちこちから妖が出て来で彼女を捕らえてしまうような気になってくる。彼女は、着物の中に隠しておいた短刀を取り出した。真影は身体検査などしなかったのである。  刃物を構えてみたが、肝腎の[#「肝腎の」に傍点]妖が出てこない。追ってきてもいないのだから当たり前だが、彼女は罠に違いないと決めつけた。  あの角で待ち伏せをしているのだ。それとも、もう罠にかかってしまっているのだろうか。この廊下自体が罠で、これから毒でも歩くと落とし穴が開くに違いなかった。次に、吊り天井も作動するはずだ。落とし穴と吊り天井が一緒に動いたところで意味はないと気付き、それでは落とし穴だけだと決定した。そのうち、彼女の頭の中に、次々と忍者屋敷の設計図が完成していく。  まったく油断ならないところだ——勝手に人の館を忍者屋敷だか、お化け屋敷だかにして、彼女は文句を言っていた。動くに動けず——動くに動けないということに決めて、彼女は思案した。  この窮地をどうしたら良いものか。右に一歩ずれたら落とし穴が開いて水が流れ込み、壁から矢が放たれて彼女をひどい目にあわせるだろう。  何と不親切な屋敷なのだろうと憤慨し、彼女は怒りに任せて、ずんずんと大股に進んだ。自然と歌声のする方に向かっている。  やがて、待ち伏せのあるはずの曲がり角を過ぎて、歌声の主の部屋にたどり着いたとき、夜闇は感動した。何事も誠意が伝われば上手くいくのだ。  感動しているうちに、歌声も止まる。  見なさい! 彼女は架空の相棒に向かって誇らしげ誓った。この歌声の罠も止まったよ。  感無量といった体で、夜闇は扉の把手を掴んだ。もちろん、この部屋の主に、彼女は招かれたのだ。  彼女は把手を引いた。  どうして、この部屋の主は、自分を招いておきながら扉を開かなくしておくの怒ろう。そう考えながら、彼女は力一杯把手を引いてみた。  さっきと同じだ。開かない。  がたがたと扉が鳴るが、それだけだ。この偏屈者の部屋の入口は、一向に口を開けようとしない。意地が悪いことだ。  やっぱり罠なのかしらん——夜闇は、ゆっくりと二、三歩退いた。廊下の幅は結構ある。子供が助走をつけるのには十分だ。  次の瞬間には、夜闇は駆け出していた。とんでもなく大きな音を立て、彼女の小柄な体が木の扉にぶち当たった。びくともしない。  なんてしぶとい! 人を締め出しておいて、何とも図々しい——夜闇は、容赦なく二度目の体当たりを敢行した。  扉は相当頑丈であるようだ。女の子が二、三度殴りつけたところで開きそうにない。痛む肩をさすりながら、夜闇は途方に暮れた。  この扉は何故、開かないのだろう。  開かない扉など、屋根のない屋敷と同じような物だ。開かない扉を作るくらいなら、最初から壁にするが良い。まったく、奇妙な屋敷だった。  夜闇は溜め息をついて、短刀を扉の隙間に差し込んだ。挺子のように傾けてみるが、こじあけられるはずもない。扉が軋んだ音を立てた。  夜闇は構わず力を入れ続けた。顔が紅潮してくる。全身の体重をかけているのだが、いかんせん、軽い。  しばらくそれを続けて、いい加減息が切れると、彼女は短刀を引き抜いた。どうも開きそうにない。 「仕方がないなあ」  彼女は、曲がり角まで戻った。そこには、夜闇の背丈の半分ほどの大きさの棚のような物がある。廊下にこんな物を置いて、何を置くんだろうと疑問に思いながら、彼女はそれを持ち上げた。よろよろと、さっきの部屋の前まで持っていく。 「えい!」  小さな掛け声とともに、棚が扉に叩きつけられた。さらにまた二度三度と叩きつけられるうちに、扉に亀裂が入ってくる。棚もまた、壊れ始めて破片を散らせた。 「だ——誰?」  部屋の中から、女の声が聞こえてくる。怯えきった声だ。  夜闇は、棚を振り上げながら答えた。 「え? よく聞こえないよ——待ってて、今、入るから」  扉の亀裂が広がっていも 「は、入るって……あなた誰なの? 何かあったの?」 「扉が開いてくれないの」  言っているうちにも破壊は続く。 「か、鍵は開いてるわ」  声は震えているようだ。無理もないが。  夜闇は、『鍵』とは何だろうと思いながら破壊を続けた。 「うん。今、入るよ」  一際大きな音。棚が粉々になったのだ。 「あれえ。壊れちゃった」 「な、何が?」 「うん……」  夜闇は、手に残った小さな木切れと扉の亀裂を見比べながら、どうしたものかと思案した。 「ううん……」  夜闇が迷っていると、部屋の中の声は、どんどん悪い予感を膨らませている、といった様子で言った。 「どうしたの? 何が起こってるの?」  声の様子からいって、お化けじゃないみたい——夜闇は、やっぱり誠意が通じたのだと嬉々としながら、壊れかけた扉に狙いを定めた。 「今、行くよ」  彼女は無邪気な声を出すと、一呼吸の間もおかずに駆け出した。  死にかけた扉に体当たりし、とどめの一撃とばかりに突き破る。彼女は、そのまま部屋の中に転がり込んでいった。 「きゃあっ!」  短い悲鳴。  夜闇は(死ぬほど肩が痛かったが)顔を上げた。をして……変なところに来ちゃったな、と思った。  どうも夜闇が見たところ、この部屋は牢屋のように見えた。  と言うのも、あまりに暗すぎるからだ。実際のところ、はとんどまったくの暗闇と言っていい。窓はないか、あったとしても閉められているようだ。開け放たれた扉の隙間から入る、ぎざぎざの光——つまり亀裂から入る光で、ぼんやりと内装が浮かび上がっている。  豪華そうだが、どうも本当に幽霊でも出そうな感じだ。  やっぱり、お化け屋敷だったのかな——勝ち誇った夜闇の、そのくせ不安な胸中の声。では、さっきの声や悲鳴も、お化けのものなのかな。  薄暗闇。部屋の中には、夜闇の部屋にあったものはすべてある。同じような部屋だ。木枠にはめられた巨大な布団もある。背の高い卓祇台《ちやぶだい》。手の付けられていない食事(夜闇と同じ物だった)が載っている。岩のようにやたらとでかくて、ふわふわしている座布団はきちんと並べられている。使われていないのかも知れない。それはそうだ。幽霊が立ちんぼして疲れたという話は聞かない。  随分と片付けられた部屋だ。人が生活しているという感じではない。夜闇は背筋に悪寒を感じた。鬼やら妖やら色々会ったが、まだ幽霊という奴には逢ったことがない。  人魂が浮かんだ。  今度は夜闇が悲鳴をあげると、その人魂は彼女の方に揺らめいた。ゆらゆらとしている。橙の光が彼女の方を向く。  橙? 人魂は青白いって聞いたけど。  その人魂は、炎のようにも見えた。 「あなたは……誰?」  人魂の向こうから、幽霊のような女の子が言った。  夜闇が震えていると、彼女が繰り返した。 「あなたは誰?」  彼女は、薄衣をまとっている。まるで死に装束のようだった。着物の白さは薄闇の中では、あまりに不気味だ。さらに白いのが肌だ。病的な白さ。唇さえも白い。長い髪が肩、背中、腰までかかっている。  彼女は、蝋燭の炎の向こうから、もう一度言った。 「あなたは誰?」  ようやく目が慣れてきた夜闇は、まじまじと彼女を見遣った。一番最初に目がいったのは足だが、ちゃんとついている。歳は、夜闇と同じか少し年上といったところだろう。この歳でかなり美しい。一見して病人と分かる感じだが。  元気を取り戻した夜闇は、にっこりと笑った(それに病気だったら、あたしに噛みつくようなこともないだろうしね)。 「あたしは、夜闇」 「私の名は、十六夜……」  命を吸い込まれそうな声で、彼女は続けた。 「何かあったの? 私の部屋に客人が来られるなんて、これが初めて……」 「そ、そうなの? ええと……あたし、ちょっと散歩をしてて……」 「そう」  十六夜がにっこりと笑う。ただし、病人の笑みだ。寛容と忍耐が見える。  夜闇が暗闇に戸惑っていたのを思い出したのか、十六夜は窓に掛かっているカーテンを開いた。弱い光が入ってくる。しかし、さっきよりは遥かに明るくなった。 「わあ……」  夜闇が声を上げた。純粋に感嘆する声で、 「きれい……」  と言った。  何がそうなのか分からない十六夜は、曖昧に微笑するのみである。  十六夜が蝋燭の灯を吹き消すと、夜闇が聞いた。 「何で、あんなに暗くしていたの?」  きょとんとする十六夜。 「何で?」  と無邪気に聞く夜闇に、彼女は優しく答えた。 「明るいと、眠れないからよ」 「何で昼間から寝てるの?」  実に素朴な疑問の眼差しだった。  苦笑しながら、 「起きていると、苦しくなるの」  完全に幼児でも相手にするような声色であった。まあ、無理のないことではある。  夜闇は、そんなことは気にしない。 「起きてると苦しいの? どうして?」 「病気なの」 「何の病気?」 「ええと……色々」 「色々?」  十六夜は、溜め息をついた。 「小さいころから、ずっと、色々な病気にね」  胸の辺りを押さえてみせる。 「あたし、薬持ってるよ」  近づいてきて、夜闇が言う。正体不明の雑草であるが、まあ、薬草と言えば何だって薬草だろう。 「ありがとう。でもね」  彼女は微笑んで、夜闇の頭をなでた。 「私は大丈夫。お父様が、薬を作ってくれるから」 「おとうさま[#「おとうさま」に傍点]?」  夜闇には分からない単語だった。 「ええ」  彼女は微笑んだ。  この屋敷に人間なんていたかな?——夜闇は首を傾げながら、十六夜を見た。 「あんたは、人でしょう?」  遠慮のかけらもない、いつもの調子で、夜闇は聞いた。 「そうよ」 「この屋敷に、他に人間なんて……」 「あなただって、そうじゃない」  夜闇は慌てた。 「あ、あたしは、あんたのお父さんじゃないよ」 「まあ、そうだけど」  くすくすと笑いながら、彼女は続けた。 「確かにお化けがたくさんいるけど、人だって暮らしているのよ」 「へえ」  素直に感心し、 「……何処にいるの?」  聞く。十六夜は曖昧に肩をすくめた。 「さあ」 「さあって……」 「私は、この部屋から外にほとんど出ないから……自分の住んでいる屋敷の間取りも知らないの」  と、彼女は微笑した。 「へええ、すごい」  何も凄くはないんじゃないかしら? と言いかけて、やめる。十六夜にも分かったが、要するに、夜闇にとってはそんなことはたいした意味はないのだ。 「あなたは、いつからここにいるの? この屋敷に客人なんて、滅多にないのよ」 「うん。そうだろうね」  と、夜闇は同意した。この霧では、なかなかたどり着けないだろう。 「あたしはね……その……何日か前からいるんだ」  命を狙われたことやら何やらを『……その……』だけで省略し、夜闇は答えた。 「じゃあ、私ったら、今まで客人がいらしていることも知らなかったのね。とは言っても、この体では挨拶もできないけれども」 「さっきしたじゃない」  十六夜はまた、くすくすと笑って、 「あなたから来てくれるとは思わなかったもの……私の方からは出向くことができないから」 「へえ」 「それにしても、お父様も意地が悪いわ。お客様がいることくらい言ってくれれば良いのに」  夜闇は、ふうん、と言って部屋を見回した。何かに見られているような気配を感じたのである。  気のせいかな、と処理して、十六夜に向き直る。 「ねえねえ、お父さんて、どんなの?」 「?……どんなって……」 「どんな人?」  十六夜の妙に澄んだ眼が陰った。 「あまり、話をしたことがないの」 「何で」 「……顔を合わせないし、それに……お父様は、私のことが嫌いみたいなの」  キライ? 「何で嫌われてるの?」  ほがらかに、むごい言い方をする。  少々面食らったようだが、彼女はそれでも微笑して答えた。話し相手が欲しかったのかも知れない。 「私、体が丈夫じゃあないから……」  悲しげな声に、夜闇も少々気の毒を感じていた。 「怖い人なの?」 「そうでもないのよ」 「じゃあ、嫌な奴なんだ」 「それも、ちょっと……」 「それじゃあ……変な奴なんだね?」  ますます歪んでいくようである。 「変ってこともないけど。冷たいわけでもないし。ただ、私のことをあまり気に入っていない……」 「人形みたいだねえ」  特に他意はない——そもそも何も考えてはいないのだから——のだろうが、夜闇がまた妙なことを言った。  どっちのことを言っでるのかしらー十六夜は少し戸惑いながら、父親の顔を思い浮かべた。何処か疲れ切っている。何処か燃えたぎっている。何かに囚われている。  人形のように——人形は無機に捕らわれる。彼は、他の何かに囚われている。彼女が病魔に囚われているように。 「どうしたの?」  夜闇が彼女の袂をひっぱった。  十六夜は、はっと我に帰った。 「え? いえ、何でもないのよ」  本当に、なんでもないのだ——なんでもなかった。このときには……  一つ、火の粉の雪の中  二つ、二人の血の泉  三つ、みそぎも血の中で  四つ、黄泉路の花畑  それから、昼と夜が十回入れ代わった。  夜闇は、たびたび十六夜の部屋に遊びに行き、日に二枚、合計二十枚の扉を破壊した。  彼女が帰るたびに妖がやってきて扉を直すのだが、どんなに頑丈なものにしても、結局はぶち破られることとなった。  とにかく、扉係の妖が忙しかったこと以外は何事もなく過ぎていった。  十六夜は夜闇が来るのを楽しみにしていたし、特に何も起こるはずはない。館の結界は完全だし、女の子が一人暴れたところで崩壊するような小屋というわけでもない。何事も起こるはずはない。  時は静かに過ぎていく……  満月が霧を浮かび上がらせる。  洋館は霧の中で、ぼんやりとそびえている。  不気味な、しかし神秘的な。  あるいは、同じことだ。  十六夜は、いつになくぐっすりと眠っていた。ここのところ加減が良い。信じられないほどに気分が良かった。この分では薬も必要がない——父親は顔を見せず、薬も持ってこなかった。娘の加減をなにもかも理解しているらしい。  嫌な悪夢を見ることもない。ひどいときは一晩中うなされたものだが、最近は実によく眠れる。  満月の光が部屋を照らす。夜闇に言われてから、カーテンを閉じるのを止めたのだ。彼女の部屋のカーテンはやたらと厚いので、閉じると本当に暗闇となる。  彼女の部屋の扉が開いた。  微かに軋む音——夜闇ではないと、夢現に十六夜は思った。夜闇がこんなに静か入ってくるはずがない。 「誰……?」  半分寝惚けた声で、彼女が聞いた。  入ってきた人影が低く答える。 「私だ」 「お父様?」 「そうだ」  十六夜は、ゆっくりと起き上がった。 「どうなさったのですか? こんな夜中に……」  その彼女の肩を、そっと手で押しながら、父親は言った。 「いや、起きなくても良い。寝たままで構わないよ。一応良くなったようだが、まだ調子に乗ってはいかん」  十六夜は、さして抵抗せずに頭を枕に戻した。 「どうなさったのですか? お父様」  月明かりの中の父の影を見ながら、彼女が繰り返す。 「うむ……少し、話がしたくてな」  声は、少し照れたように言った。 「お前が大きくなってからは私では相談に乗れん事もあろうと思って、世話を〈影妖〉にまかせておったが、それを誤解しておるのではと思ってな」 「お父様?」  月明かりの中、彼はベッドの横に椅子を引っ張った。 「影妖が言っておったのだ——お前が寂しがってるらしいとな。客人と仲良くなったそうだな?」  十六夜は、瞳と声を潤ませながら答えた。 「はい、お父様」  父親——月明かりの人影——影の妖術士——真影は微笑んで娘の頭をなでた。 「それで加減が良くなったのかも知れんな」 「え、ええ」  病魔その人に頭をなでられながら、彼女は答える言葉も思いつかずにいた。胸がつかえていたときに、言葉が喉を通るはずもない。 「うむ」  真影は、手を引っ込めた。 「こんな夜更けにすまなかったな。もう寝なさい——せっかく加減が良くなったものを、わざわざ再発させることもなかろう」 「はい、お父様」  元気よく答えてから、彼女は突然強い睡魔が忍び寄ってくるのを感じた。普通の眠気とは違う。もっと、何か強いもの。  自然の睡魔とは違う。もっと——何か強いもの……  魔性?  そんな事を思い浮かべたときには、もう彼女は眠りに落ちていた。その寝顔は、安らぎと安堵に満ちている。満足、というものだろう。  真影は、娘の寝顔を見ながら溜め息をついた。  病魔。  修羅の子が育つわけがない。育ってはならないのだ。  同じ夜——満月が館を浮かべる夜。  慣れないベッドでもようやく熟睡できるようになった夜闇が、気持ち良さそうに寝息を立てていた。  彼女の好奇心の犠牲となったカーテンが部屋の隅に丸められている。妖たちが彼女を恐れて入ってこないので、部屋を片付けるものもなく、ひたすらに荒れ放題だった。この見事な洋館の中で、彼女の支配する一角だけが廃墟となっていく。  気楽な寝息。  それに合わせるように、半壊した扉が音を立てて開いた。  夜闇が目覚めたのは、月の下ではなかった。  光はない。  ただ——ただ明かりがぼんやりと浮かぶのみ。  光はない。  薄闇に浮かぶものたちが、泳ぐ。  揺らめく灯。蝋燭の影。古びた木の床。壁に掛けられた、複雑な装飾の布。けばけばしい風景がある。派手で、そして不気味な。魔性の色。  祭壇。  黄金と鉛で縁どられた祭壇の中から、魔性の色が彼女を睨んでいる。  影と闇との契約を繋ぐ、冥界祭壇。  夜闇は、そんな名前は知らない。ただ、妙に背筋に悪寒が走るだけだ。総毛立つ、そんな感じだ。  ここには魔性がある。  祭壇。妖術を繋ぎ止める祭壇。  その祭壇の傍らに、一人の男が立っている。彼は夜闇を見つめていた。深遠からの眼差し。  魔性の眼差し。  妖術士、真影。彼が天地を統べるときがきたのだ。  彼は笑った。凄まじい嘲笑が祭壇を揺らす。最初、夜闇は彼が何を始めたのか分からなかった。体中を白いしめ縄でがんじがらめにされた彼女の眼に映ったのは、祭壇を破壊する妖術士の姿だった。  彼は、笑いながら鉄の槌《つち》を振るっている。数々の神像が砕けていく。奇妙な光景に思えた……  夜闇は、聞いた。 「……何をしてるの?」  妖術士は、ふと祭壇の破壊を中止し、鬼の子を見遣った。  彼の眼に映るのは夜闇の姿ではない。  鬼——破壊神の姿だった。 「わしはついに見つけたのだ」  真影は、答えた。 「何を?」 「復讐をだ」  夜闇は体を起こせないまま、やたらと疲弊したように見える修羅の妖術士を見上げている。 「何を……怨んでるの?」  真影は、答えた…… 「誰でも良いのだ。こいつらが[#「こいつらが」に傍点]、悪いのだ」  そして、彼は再び祭壇を破壊し始めた。  ふと、夜闇の中で何かが弾けた。何かが閃いた。何かが分かったのだ。  彼は、自らを守護するものを裏切ろうとしているのだ。何かに……負けて。  発狂したように嘆笑しながら、妖術士が祭壇を破壊していく。  夜闇はそれを見ていた。そして……別のものを見た。  夜闇の視線の先には、満足しきった表情で安らかに眠る十六夜の表情があった。  十六夜の首があった。  白い微笑。あまりにも美しく、それ以上に——哀しい。  体と首を——永遠に——別れさせた傷からは、もう血は流れていない。彼女は幸福に笑ったまま眠っている。 「…………?」  生まれてから数百以上の�死″を見てきた夜闇にさえ、それが死体であることは一瞬分からなかった。それほど……安らかな死に顔だった。  夜闇は真影の姿を見た。  もはやこの男は、妖術士ではない。力の源である祭壇を壊してしまった以上、ただの……発狂した男だ。  夜闇には、この男が発狂した理由など分からない。例えば、娘の延命よりも自分が鬼界を手に入れることを選ぼうとし、そして——その一歩を踏み出してから過ちを悟ったことなど、分からない。  夜闇の意識は、ただ、十六夜の死に顔へと帰っていった。 「なんで……死んだんだよ?」  夜闇は呆然と呟いた。 「いやだよ……なんで死んじゃうんだよ? みんな……」  彼女は再び、真影の姿を見遣った。  そして、怨念にぬれた声で叫んだ。 「貴様ああっ!」  鬼の子は——ついに自分の意志で——弾けた。  一つ、火の粉の雪の中  二つ、二人の血の泉  三つ、みそぎも血の中で  四つ、黄泉路の花畑……  霧館が、微かに震え出した。  最愛の娘を殺し、狂気に触れ身を躍らせる妖術士か、怒る鬼の子の唇か。  五つ、いつしか山の下  六つ、骸の丘の上  七つ、涙も火を吐いて  八つ、社を焔《ひ》が舐める  九つ、今宵に彼が来て……  霧が動いた。  風が微かに吹き始めていた。  十で、遠くへ逃げま・しょ・か……、 「うあああっ?」  夜闇は鬼の姿を見ていた。  体が……信じられないほど、ほてっている。炎に包まれているかのようだ。彼女は自分がとんでもない過ちを犯したのだと悟った。具体的にどうという感覚ではないが、とにかく——この怒りが、怨念が、力が、自分をも呑み込もうとしているのに気付いた。  すべてを焼きつくす感情が、憎悪が、彼女を圧倒する。 〈〈夜闇……夜闇……〉〉 「ああああっ?」  彼女は悲鳴をあげた。彼女に語りかけてくる……声。鬼の声。 「鬼だ! 鬼……あっちへ行け! 助けて、鳳……!」  夜闇は支離滅裂に叫んだ。だが彼女自身の力——鬼界は収まろうとはせず、霧館を燃やし、破壊していく。祭壇が砕け、真影は塵となり……消える。 「助けて……鳳!」  夜闇が絶叫する。だが鬼斬りはここにはいない。彼女のとなりにいるのは—— 〈〈夜闇……名を呼んでおくれよ……出しておくれよ……〉〉  お前の名前なんて……知らないよ!  彼女は激痛の走る頭を抱え、のたうちまわった。苦痛は耐えがたい。その頭の中に……  鬼の名前が、ぐるぐると回る。  夜闇の中の鬼は、出口を捜してぐるぐると回る…… 「どっか……行っちゃええっ!」  夜闇は悲鳴をあげた。痛みの中で……彼女は今まで自分をごまかしていた術が解けたことを——本能的に——悟った。  何も覚えてはならぬ何も考えてはならぬ何も恐れてはならぬ。  そして、何も怨んではならぬ。  夜闇の中の鬼を封じるため、鳳がかけた。  それがとうとう完壁に解けた。 〈〈夜闇……思い出しておくれよ……〉〉  そして鬼神は解き放たれた。  真影は嘲笑していた。彼を焼きつくそうとしている炎をすら嘲笑していた。すべて準備はそろっていた……時——満月の光。いけにえ——十六夜。そして、鬼界。  彼は破壊の中、苦しむ鬼の子を見ながら——あるいは何も見てはいないのか——叫び続けた。 「苦痛多き世界よ——我はもう去ろう! それが復讐となろう——世界よ! 我はもう汝を見限った——我は力を得られぬではないか?——娘は蘇らぬではないか?——どうして一つを選ばねはならぬ——どうして両方を手に入れることができぬ? おお神よ」  真影は自分の体を舐める炎を抱き締めた。 「八百万よ。我はもう汝を見限った——我は汝を恨もう——汝を憎もう——この力を見よ——鬼の怒りを! 鬼神の憎悪を! 我はもう行こう——娘よ」  真影は融け落ちる自分の肉をかき集めながら、娘の屍の方へと歩こうとした。だが、下半身を失った彼は動くこともできない。 「おお、娘よ。お前の首筋は柔らかすぎて、銀の刃は、すり抜けるようにお前を殺した。  私の手をお前の血が彩り、私はその——紅の——中に——」  真影は炎の中に倒れた。もう声は出なかった。狂った嘲笑も止まった。だが……声[#「声」に傍点]は続いた。  その紅の中に——我は——未来を見た——娘よ——この〈〈苦痛多き世界〉〉を——遠くから——見ようではないか——  おお〈〈苦痛多き世界〉〉よ——我は——汝を——愛していた——おお、我が愛は——汝を——護るはずだった——  だが世界よ。  ——我は——もう——汝を見限るであろう——汝は我を祝福せず——  汝は我を呪った——  我が名を呼ぶことなく——  我を呪った——  汝の子らである、すべてを——呪うのか——ならば汝は誰がために在るのか————おお——〈〈苦痛多き世界〉〉よ—— その声も、夜闇は聞いていた。そして泣いていた。悲しみでも、怒りでもなく、ただ慟哭した。 〈〈夜闇……夜闇……〉〉  おお——世界よ—— 〈〈思い出しておくれよ……〉〉  おお——誰《た》がために在る——  夜闇はその中で、その二つの声が同じことを言っている[#「言っている」に傍点]のだと悟った。その瞬間、彼女の苦痛が去った。暴走する鬼界の威力の中で、夜闇は、はっと顔を上げた。  霧館の祭壇の室は、もはやもとの姿をたもってはいなかった。ただ崩壊し、なんであれ形あるものは消えていく。炎と稲妻、風と地震、嵐と雨とが、この霧館そのものを破壊していく。  夜闇は、すっと涙をこぼした。悲しみでも——苦痛でもなく——それは……慈悲の涙[#「慈悲の涙」に傍点]だった。 〈〈苦痛多き世界〉〉  そうか、と夜闇は、足下の床をなでた。  こんな世界では、誰もあんた[#「あんた」に傍点]を好きになってはくれないんだよね。だから、あんたは、寂しかったはずなんだ……  夜闇が言っているのは真影のことでも鬼のことでもなかった。それは八百万を産み出したもの、このすべての鬼と人と神の宿縁を造り出した——世界[#「世界」に傍点]のことだった。  地鳴りが響く。響き続ける。  あたしは、あんたの子供なんだね。夜闇は床に——なんであれ、地面に近いものに——  頬を寄せた。涙が床をぬらす。燃えつきた真影が、十六夜が、向こうにいる。 〈〈夜闇……〉〉 〈〈夜闇……〉〉  鬼が呼ぶ。  鬼が呼ぶ。  夜闇はうつ伏せのまま頷くと、やがて立ち上がった。館は、もうじき崩壊する。彼女は身をひるがえして部屋を出ていくと、館の出口を捜した。  霧館が大爆発を起こした。  爆音とともに四散する。  見事な琥珀色の洋館が、死ぬ。  霧の結界も消えていく。  大爆発の中、炎に包まれる霧館の中で、夜闇は短い夢を見た。  ほんの‥‥‥短い夢だ。  その夢の中で、彼女は逃げ延びた。  彼女はいつの間にか、小さな村の見える丘の上に立っていた。  夜闇は涙をぬぐいながら、その小さな干からびた村を見つめていた。  夜闇の小さな瞳の中には、世界の姿が映っていたようだ。遠く——遠く——海の姿までもが、彼女の脳裏には青々と見ることができた。  その遠くから……数え歌が聞こえてくるような気がした。十六夜の、か細い声で。  夜闇はそれを聞きながら、そっと呟いた。 「おかしいね」  あたしは、死んだのに。  ——死んではおらぬ。  死にたかったのに——  死んではならぬよ、夜闇。 「なんで?」  満月が辺りを照らす。 「なんで、終わっちゃいけないの?」  死んで何になる。 「分からない——分からないよ。ただ……もう、いやなんだよ。こんな……思いは……」  月が銀の雫をこぼしながら、それを眺めている。  数え歌は、もう聞こえてはこなかった。    其の六 天者地者《てんじやちじや》 「八百万が第一位、女神が化身——妖刀�女神�——しかし、忘れるでないぞ。ここは、未だ縛妖陣の中だ。結界内で力を用いたらどうなるか、お主は身を以て知ったはずだな?」  暗闇の中。  天者地者が言った。 「女神に見込まれたほどの修羅なれば、地上で死すことはなかろう。が、ここは、まっとうな世界ではない——わしの創った結界の中だ。いわば、わしの支配する世界……」  三眼で鳳をにらむ。  三つの魔眼——伝説では、右の茶眼《ちゃがん》で大地の獣魔を、左の緑眼《りょくがん》で海の獣魔を、額の白眼《はくがん》で空の獣魔を支配する。 「そう。うぬが考えている通り、この縛妖陣は、わしが敷いたものだ——鬼の子と貴様を引き離すためにな」  神は嫌な笑みを浮かべた。 「そうなれば、もう恐れるものはない。わしは知っておるのだよ——あの娘の鬼界は、ただの鬼界ではない。鬼の王者、八百万が第二位、鬼王《きおう》・鬼羅《きら》の覇者界に匹敵する力だ。なればこそ、鬼どもや妖たちが挙《こぞ》って娘を狙う——この世で唯一の�鬼の子″、文字通り世界を意味する力を持つ娘。女神は、その力を恐れた」  彼は鳳を指さした。 「そして、封印として、貴様を使った」  鳳は、無言で聞いていた。ここが結界内である以上、力を用いることはできない。自らに反射するだけのことだ。  天者地者は続けた。 「鬼羅は、それこそ血眼で娘を捜しておる。修羅の鬼斬りとともに、自らと対等の力を持つ娘が放浪している——これ以上の恐怖はなかろう」  沈黙。  鳳は涼しく構えていた。豆にされて鬼の口に放り込まれたとて、これほどの窮地ではないだろうが、弱さを見せるわけにはいかない。いざとなれば、両者ともに滅びるだけのことだ。奥の手として、鳳は胸の底にとどめておいた。  鳳は、静かに言った。 「お主が望むものは与えられない」  この言葉は、少しばかり神の興味をひいたらしかった。 「どういう意味だ? 与えられない、とな? 誰がわしに与えるというのだ?」  神は今にも笑い声をあげそうだった。 「わしは、自ら手に入れるのみだ」  鳳は、ただ静かにかぶりを振った。  神の癇に触ったらしい。 「うぬが読めぬな。自分が如何なる状況にあるか、分かっておるのか?」 「……忠告する」 「面白い男よな」  再び、沈黙。  暗闇の中の静寂は、あまりに頑丈だ。囚われれば逃れ難い。触れれば離し難い。 「夜闇は何処にいる」  鳳が聞いた。 「何処ぞの妖術士がつれ去ったが……気にすることもない。どうせ、神ならぬ身には過ぎた力だ」  神は額の眼をぎょろつかせ、 「手を触れることもできなかろうさ」  そう続けた。鳳は、あっさりと返した。 「他人事ではなかろう」 「……どういう意味だ」 「自分で考えるのだな」  鳳がにらみ返す。  天者地者は微笑した。 「良かろう」  辺りは静まり返っている。結界の中なのだから当たり前だが、何処かに出口があったはずだ。天者地者が閉じてしまったのだろう。もし開ける気がないのなら、面倒なことになる。 「うぬが何と言おうと、わしは鬼界を手に入れ——そして、すべてを手に入れる」 「無理だ」 「何故だ? うぬが邪魔をするからか?——たかだか妖術に破れた貴様が、このわしを?」 「その通りだ」 「面白い男よな、お前は」 「わしは、面白いとは思わぬ」  天者地者の魔眼が、ぴくりと動いた。その眼で、世界中の獣魔を率いることもできる。 「……百年前、人間どもの間で天竜の名を持った八人の武者がいた」  天者地者は、ゆっくりと言い始めた。 「その者たちは、八騎で千騎を迎え討ったという。勇名留まることを知らず、人の中、〈ひむがし〉にて生ける軍神とまで呼ばれた。天竜鬼神[#「天竜鬼神」に傍点]」  鳳は涼しげな表情をぴくりともさせなかった。 「そして、その勇名も、あるときに滅びた。鬼と戦したのだったな」 「死ぬこととなった」 「そして、蘇った。天竜八部たちは独りの修羅として天下に降り立った。女神によって蘇った、地上最強なりし修羅。鬼斬りを宿《しゅく》とする……」  天者地者は鳳を指さし、笑みを浮かべた。 「うぬだ。そして今、わしと戦わんとする意志を見せる。面白い男よ」 「面白くはないと言っておろう」  神は無視した。 「鬼の子を守護する、うぬのために、どれだけの鬼や妖が斬られたことか」  にやり、と付け加える。 「だが、いつまでも続くとは思わぬことだ。いつかは貴様を超える力が現れる。わしや……鬼王だ」 「いつかは、敗れるのかも知れぬ」  鳳は、静かに答えた。言い返した。 「それも、長くは続かぬのかも知れぬな。しかし、続けねばならぬ——確かに、もう長くは続かぬがな」  言葉の裏には、何かが潜んでいる。  天者地者は、鳳の言った真意を見た。 「……もう、長くはないのか」  鳳は頷いてみせた。 「鬼の子は、本来生まれるものではない。大抵は、婦《ふ》の腹の中で死んでしまう。生まれたとて、育ちはしない。鬼界に耐えられず、滅びるだけだ。その封印が解けかけている」  淡々と言い切る。 「あと一度でも鬼界に交われば、封印は解ける。そうなれば……人間の体では耐えられぬ」  そして、旅は終わる。  天者地者が素っ気なく言う。 「それでも、長く生きたものだ」 「たったの十二だ」 「鬼の子が十二まで生きた? これが長くないというのか」 「人としても、鬼としても長くはない」  鳳は言った。 「あとわずかで、夜闇の寿命も尽きるだろう。鬼界を封印するために、臓物結界《ぞうもつけっかい》によって鬼界の発動の引き金となる�恐怖�を封印し、精神の成長も止めてきた。それでも、免れ得ぬもの——血、自らの血統に苦しんでいるし、必死に救われようとしている。貴様などに手出しはさせぬ」  鳳は、一歩踏み出た。 「あと一年の命ならば、せめてその一年を生かしてやるのだ」  修羅は恐れない。  本物の修羅は、笑いすらしない。  修羅は、怒るのみだ。 「貴様らには分かるまい。命《たま》とは何ぞや。人とは何ぞや。わしには[#「わしには」に傍点]分かる!」  彼は太刀を引き抜いた。 「出口を開けろ。さもなくば、貴様とともに滅びるのみ」  怒り。  妖刀の刃が光った。 「結界から出すわけにはいかぬ」  天者地者は、そう答えた。 「退け」  鳳が半眼で命じる。その形相は、まさしく修羅——炎の鬼神だった。  神は、脇に退いた。  だがその背後には、二匹の獣魔が立っていた。巨大な雄牛と……背の高い猿の獣魔。  鳳に外に出てもらうわけにはいかない。でなければ、わざわざ自分の結界の中に放り込んでまで、鳳を真影の術から守ってやるような義理はない。鳳には……少し彼のために働いてもらう必要がある。  天者地者は言った。 「出ていかせるわけには、いかぬ」 「ならば、神ですら滅びの宿命があることを思い知るが良い」  鳳はそう言って、ずいと天者地者の方へと進んだ。  ふっ……と、天者地者が笑う。二匹の獣魔が、鳳に合わせて前に出た。雄牛の獣魔が口を開く。 「我は天地者軍門十二獣王——�悟泉《ごせん》″」  続いて、背の高い人間のような猿の獣魔。 「我は�悟空《ごくう》″」  鳳は無視して、神に向かって進もうとした。だが次の瞬間、獣魔たちに行く手をさえぎられる。  そして、天者地者が言った。 「どの道、鬼の子もここ[#「ここ」に傍点]に来ることになる……そのときまで、我が子らと遊んでいてもらおうか——鬼斬り!」  鳳が、はっと身構えたときは遅かった。彼は無限の広さを持つ縛妖陣の、別の牢獄[#「別の牢獄」に傍点]へと獣魔たちとともに吹き飛ばされていた。  鳳も、誰もいなくなり、天者地者は考え深げに吐息をついた。  あの修羅は、縛妖陣を抜け出した。縛妖陣を破った妖など、これが初めてだ。  破れるはずがない[#「破れるはずがない」に傍点]のだから。  あるいは、必然なのか? 残った神は、そんなことを考えていた。  そして、はっと気付いた。 「化け物が……」  そもそも、真影ごとき[#「ごとき」に傍点]に鳳が倒されるはずはなかった。つまり、鳳が今も地上最強の修羅であったならば。 「あ奴、人の身に化性《けしょう》しつつあるというのか」  そして、震える声で続けた。 「人の身で鬼を屠ったというのか!」  闇も震える。そして、天者地者は嘆息した。魔の三眼が疲れたように瞬きする。 「まさかな……」  そんなことは、認めるわけにはいかない。 「これは、何かの意味を持つのか? 奴は、わしらにとって何かの意味を持つのか?」  神の独り言は、自らの結界の闇の中、奥の漆黒へと——吸い込まれ、消えていった。    其の七 苦痛多き世界  光に満ちて。  人の世は、天の下にある。だからこそ、明かりの下で暮らすことができる。  同じ地上でも、違うものがある。例えば、地獄の上だ。影に引きずり込まれる。  気楽に歩く少女がいた。  天の下にあり、地獄の上を歩く。  彼女は口笛など吹きながら、丘の下に見える小さな村へと向かっていた。  もう、夜は終わった。  またすぐに、そして幾度も永遠に夜が来る。必ず来る。  夜闇は、気にしなかった。ひょっとしたら、もう来ないかも知れないから。  その村は、本当に小さい、貧しい村だった。  はっきりと言えば、木の枝を組んで布を染めればこの村人が作れる——そんな人々が暮らしている。骨すら痩せている人々だ。  雑草も生えていない畦道——土と石ころ以外の何もかもが飢えた村人の食料となったのだろう。今は春。秋までもつとは、とても思えない。  第一、秋になったからどうだというのだろう——田畑は荒れ、鋤の跡もない。畦道がなかったら、その辺の荒野と変ねらない。  半死半生の体だが、この村はまだ、かろうじて生きているらしかった。  殺してくれ。  そう言っているように聞こえる。風が語っている。  殺してくれ。  だが、死にたくない……  夜闇は、妙に後ろ暗い気分で村に入っていった。  虫すらいないのか、燕が軒下で干からびていた。  飛べるのに、どうして?——夜闇は、ぴくりとも動かない翼を見つめた。逃げることもしなかった。何かが縛っていた。  答えは軒の上にあった。もはや干からびた死体しか残っていない燕の巣が、あまりにも静かに運命を語っていた。  夜闇は、溜め息をついた。手で地面を掘って、燕の死体を埋めてから、彼女はそこから離れた。死の臭いが嫌だった。死は、また別の死を招き寄せようとする。  あたしは、何で死なないのかな。胸中で、ぽつりと出た。  みんなが、あたしを殺そうとするのに。  みんな死んでいく。あたしだけが、残されて。  夜闇は、村を抜けた。誰にも会わないうちに。  放浪。  足が重い。それとも、軽いのだろうか——歩いている感触がなかった。あるいは、もう歩いていなかったのかも知れない。  疲労と痛みと空腹。  夜闇は、揺らぐ視界の中を歩き続けた。  足に枝が生えたように、互いの足が絡みつく。つらかった。  とりわけ、孤独が堪える。六年の間には、このようなことも何度かあった。しかし、そのたびに疲れを知らない同行者が背負ってくれたものだった。  同行者——名前は何だったっけ。  意識がぼやけていく。  ——力強く、頼もしく、優しかった。  陽炎の雨が降ったように、視界が閉ざされていく。  ——そうだ……おお……とり……  地面が起き上がってきた。  地面は彼女の類をはたき、少女を気絶させようとした。痛み。いや、何も感じない。  砂を掴む小さな手。  この手で地面を掘った。  いつ?  ——いつだろう。  夜闇は立ち上がった。頭がくらくらとする。疲労は耐えがたいし、空腹も言うまでもない。こういう苦痛があるから、人は泣くのだ。こういう苦痛があるから、人は死ぬのだ。  あるいは、こういう苦痛があるからこそ、人は生きてきた。ずっと……ずうっと……永いときを。  鬼の子はもつれる足を引きずりながら辺りを見回した。何も見えない。何も見えなくなっていた。真っ黒に視界が閉じている……  何で突然夜になっちゃったのがな——夜闇は、溜め息をついた。みんな夜がいけないのだ。  太陽がひたすらに照りつける。この世のすべてを憎んでいるような陽光が大地を焼く。みんな死んでしまう。きっとそうだ。みんな死ぬのだ。  鬼の焔も太陽も変わりはしない。  殺す。憎む。  きっとそうだ——夜闇は唾を吐いた。白い固体のようなものが地面に落ちる。彼女には見えない。  きっと……太陽は人間が嫌なのだろう。きっとそうだ。  疲女だけに訪れた闇の中、ただひたすらに進んでいく。まっすぐは歩けない。ただ、さすらうだけ。  まっすぐには歩けない——あたしが鬼だから?  あるいは、人だから?  ひょっとしたら、両方だからかも知れない。どちらにしても彼女は歩かねはならない。このままでは死ぬ。干からびた哀れな燕だ。何かに縛られている。あとは喰われるのみ。  生きるのならば。  声——遠い昔に聞いた。  ——生きるのならば、逃げるのだ。正体を偽り、隠し、何処までも、いつまでも逃げるのだ。  彼は、そう言った。なんで?  答えは分かっていた。  鬼だからだ。  あたしが、鬼だから。  幻、光、現の中へ。  鬼は歩くか、血を喰うか。  憎むか、殺すか、血を喰うか。  あとは死となれ、鬼となれ……  残酷な幻聴が夜闇を震わせた。そして、よろめかせた。  ぽろりと頼を雫がなでる。死は怖い。鬼は恐ろしい。そして、何よりも自分の体が嫌いだった。鬼の体が……  みんな死んじゃうじゃないか!  咽が震える。胸がひっくりかえる。体中が裏返ってしまうような、そんな思い。  みんな死んじゃう……  独り。  何も見えない。何で突然夜になっちゃったんだろう——  と、いきなり彼女の眼が開いた。さんさんと輝く陽光が彼女を突き刺している。彼女はいつの間にか、立ち止まっていたらしい。  夜闇は嘆息した。  そしてその瞬間、彼女の顔の真ん中をめがけて、何かが飛んできた。バッタだ。  突然のことに、夜闇は悲鳴をあげて尻餅をついた。  そして……とっさに稲妻を呼んだ。  辺りに、凄まじい轟音とともに、いくつもの電光が落ちる。乾いた大地を炎が舐めて、熱風を吹き上げた。  この鬼界は、まったく彼女の意思によるものだった。もはや鬼は、閉じ込められてはいないのだ。鬼は夜闇であり……だから夜闇は鬼だった。  だが、夜闇の人間の体は鬼界には耐えられない。彼女は、体中に鈍い痛みが走るのを感じた。骨が砕け、内臓が破裂し、気管に血が詰まる。 (熱いっ……死ぬ……!)  自らの鬼界に押し潰され、吹き飛んで、彼女はついに死と対面した。あんなにも待ち望んでいた……死だ。  結局、彼女はそれを喜ぶことも恐れることもできなかった。その時間がなかった——あっという間に、彼女は意識を失っていた。  暗闇に落ち込んでいき……  遠い虚ろな音を聞き……  闇の冷たさを、吸った空気で感じ……  彼女は、地面に倒れていった。  意識がかすみ、そして……消える。  地面に近づいていく夜闇の体を、何処からか現れた黒い手が——闇のような手が——捕まえる。  それに抗うほどの力は、鬼の子の死体には残っていなかった。 「ぬぐあっ!」  鬼の子とは別の、深淵の暗闇の中……  跳びかかっていた黒炭の猪の獣魔を絞め殺すと、鳳は素早く向き直った。鬼斬りの前には、まだ無傷の獣魔——どれも天者地者の配下で最強の強者たち——が三匹、じっと彼を見つめている。  もちろん彼らは傍観者などではなく、処刑執行人たちだった。首切りの輩というわけだ。  鳳はすでに八匹の獣魔を素手で殺し、満身創痍だ。黒炭の体の猪、金の羽の鳥獣《とり》、骨の虎、といった獣魔の死体が鬼斬りを囲むように転がっている。傷だらけの鬼斬りの体は、殺した獣魔たちの返り血で、べっとりと汚れている。  獣の中で唯一、鉄杖を持つことを許された猿の獣魔、悟空は、毛だらけの顔面に笑みを浮かべ、言った。 「さすがは大老、といったところか……結界の中では術が使えぬからといって、まさか獣を素手で殺すとはな」  鳳は答えない。ただぼろぼろの体を引きずるように、残りの獣魔たちに対峙する。  十二獣王の名は伊達ではないようだった。一匹一匹が恐ろしい強さを持っている。しかも、この天者地者の縛妖陣の中では鳳は妖術をまったく使えないのに、獣魔たちは使えるらしい。  鳳は太刀も抜かず、空手で悟空をにらみつけた。恐らく、この悟空というのが獣魔の頭領のようだ。悟空の左右に、悟泉と名乗った巨大な雄牛と、白い毛の狼がひかえている。  と、狼が飛び出した。  ぴうっ、と小さな音だけを残し、目にも止まらないような素早さで鳳の、のど笛に食い付いた。鳳がただの鬼斬りであったなら、この時点で死んでいたであろう。だが大男の死人の法によって魔性となった体は血を流すこともなく、しかも死んだ時点ですでに急所のすべてを失っていた。鳳は平気な顔で自分の咽から狼を引き剥がすと、雑巾でもねじるように獣魔を握り潰した。  獣魔の黒い血が間欠泉のように噴き出し、闇に溶け、死んた。 「�悟明《ごめい》″までも殺すか……」  鉄杖を弄びながら、悟空が呟く。同時に雄牛が蹄を轟かせて駆け出した。鳳に正面から体当たりする。  鳳は退かず、ぐっと身構えた。  雷鳴のような音が響き、鳳は雄牛の角を掴んで受け止めた。これまでにないような力で押され、鳳も後ろに倒れかけるが、ぎりぎりどうにか踏み止まっている。両者はともに渾身の力を振り絞りながら、そこで微動だにできなくなった。  鳳の体はもはや汗も流れないが、形相は苦痛に歪んでいる。  それを見ながら、悟空は、ふらっと歩き出した。もちろん、鳳が動けないうちにとどめをさそうというのだろう。  悟空は言った。 「別に殺しはせぬ……天地者さまは、まだ貴様には利用価値があるとおっしゃった……」  鳳は雄牛の突撃を防ぐためにふんばりながら、顔だけを悟空に向けた。 「なん……だと?」  はりつめた息の隙間から、ぎりぎりの問いを囁く。  悟空は無視して近寄ってくる。 「貴様は、なんとも面白い——最も剛なる修羅が、最もそれらしくないものだ」  鳳が答えないでいると、悟空は続けた。 「まるで、人が轟くようだ」 「何が……悪いか」  呻くように、鳳。悟空は、あっさりと答えた。 「弱い。それだけだ」 「だから、貴様らには理解できんのだ」  悟空の歩みが、ぴたりと止まる。獣魔は繰り返した。 「弱いのだ——例えば、死だ」 「だが生きておる。悲しくも生きておる。そして……子を産み、育てることができる」 「すぐに死んでしまう。もろすぎる」  鳳の眼が、かっと炎の色に染まった。 「そういうのを、幼稚というのだ!」  鳳が……吠える。 「貴様らは何者じゃ! 鬼界を手に入れる、ただそれだけのことで、何をしくさるか[#「しくさるか」に傍点]!」 「人を殺すのは鬼よ。我々が殺すのではない」 「なれば、わしは鬼を斬る。貴様らは何を斬るか」 「我々は、いずれ天を斬るのだ」 「世を斬るか。この世界を。そして、どうする」 「我らが王が天地を統べる」 「人はどうなる」 「滅ぶのみ!」 「させぬわ!」  鳳が叫ぶ。そして、雷鳴のように響き続ける……  そのこだまにも臆することなく、悟空は言った。 「貴様は死人の妖だそうだが……死人の法を破る術は、広く伝えられている」  そして悟空は鉄杖を構えて、 「分かるか? 貴様はもはや、かつて言われていたほどの脅威ではないのだ……斬妖大老よ」  言った。だが鳳は、不敵に言い返した。 「それは……どうかな? 貴様は、至ってはならぬ場所に触れた……貴様は見たことはあるまい——修羅の怒りを!」  なに? と悟空が聞き返すまもなく、鳳の唱える呪印が空間に満ちた。 「閉じ込められていたのだ……  閉じ込められていたのだ……」  鳳の低い声が、あふれかえる洪水のような力をともない、辺りを震わせる。  悟空は仰天した声をあげた。 「ば、馬鹿な……! 結界の中で術を使うつもりか?」 「鶏《とり》の卵の殻のように……  土の下の骸のように……  閉じ込められていたのだ……  閉じ込められていたのだ……」  鳳の冷静な眼差しは、圧倒するような気を以て悟空を見据えていた。その眼は正気だった。正気で——鳳は、この術で以て自分もろとも[#「もろとも」に傍点]悟空と悟泉とを減殺しようとしている。 (それに、この呪は——)  悟空は畏れとともに悟る。 (——降魔呪!)  しかも�黒いもの�のような獣魔ではなく、修羅界の大気を扱うことに熟達した最強の鬼斬りによる術だ。  神ならぬ身である悟空には、まさか防ぎようもない。斬妖大老・鳳の最大の秘術だ。 「きいイッ!」  悟空は叫ぶと、妖の気を込めた鉄杖で鳳の頭部を打った。鬼斬りの額が砕け、潰れる。  だが下半分だけ残った頭で、鳳は秘呪を唱え続ける。 「百の頭 千の頭 万の頭 億の頭  一の足 二の腕 三の髪 四の指  閉じ込められていたのだ……」  悟空は息を呑んだ。辺りに修羅界の戦の大気があふれる……鳳の背後に修羅の門が開き、闇の結界の中に焔が覗く。  閑《とき》の声が響き渡った。それを聞いて悟空は思い出したように鳳を打とうとしたが、もう遅かった。鳳は戦の気を受けて、もはやあり得ないほどに力に満ちている。鬼斬りの腕に力がこもり、爪が、ひび割れるほどに肉が盛り上がる。  悟空の鉄杖が鳳に触れるや、悟空の体に雷電が落ちた。修羅の戦には手を出してはならない。悟空は悲鳴をあげ、飛び退いた。鉄杖は飴のように融け、獣魔の腕もひどい火傷を負っている。  悟空は負けを悟った……顔が潰れた鬼斬りの、しかし悪鬼の如き形相が見えるようだ。動くこともできなくなった悟空の目の前で、悟泉の体が砕け散った。そして同時に、鳳の体も崩れ始める。  降魔呪の威力が、周囲の縛妖陣に跳ね返されているのだ。だが、この二つの術の衝突の余波は、間違いなく悟空をも巻き込むだろう。いや下手をすれば、この縛妖陣の一部が壊れるかも知れない。 「閉じ込められていたのだ……  閉じ込められていたのだ……」  鳳の呪が、どんどん大きくなっていく。  と、いきなり辺りが真っ白になった。修羅の門が完全に開き、修羅界の白炎《びゃくえん》が侵入してきたのだ。その光は凄まじく、一時とはいえ天者地者の結界の闇すらも凌駕した。  修羅の怒り……  悟空は、胸中で繰り返した。修羅の怒り……  その轟きは海鳴りの如く——  その威力は、いかづちの如く——  その恐怖は鬼の如し! 「我とともに来たれ!」  鳳が呪を叫んだ。 「——我とともに滅ぶべし!」  悟空は悲鳴をあげた。そしてその瞬間、すべてなにもかもを光が覆い、舐め尽くし、押し流した。  光の中に炎の熱さは微塵もなく、炎の中に死の激痛は微塵もなく、だが死はそのまま、そこにあった。悟空と——そして鳳は、一瞬に消え去った。降魔呪の威力が縛妖陣の符陣を粉々に砕く。  この広大な縛妖陣すべてを破壊するほどではないにしろ、その一部を崩壊させる程度の威力はある。  破壊——破壊——鳳の怒号の呪がすべてを薙ぎ払い……焼き払い……そして、消し去って……やがて……収まる。  光が消える。  すべての光と破壊が終わったあとには、砕けた結界の隙間から、木漏れ日のように降り注ぐ陽の光と——そして、火に燃えることのない鬼斬りの体の四散した肉片が、はらはらに散らばっていた。獣魔の死体は跡形も残っていない。鬼斬りの妖刀は無傷で、自らの使い手の死体を見下ろすように、鞘ごと地に突き立っている。  しん……とした時が、流れる……ほんの一呼吸、二呼吸……静寂。  だが、鳳は滅びてはいなかった。粉々になった体は、しかしわずかに残った力——それはただ単に、いまだに燻り続ける�怒り�であるが——によって、蠢き、呻き、一つにまとまっていく。  光があるところへと、鳳の肉片は轟く。光に恋い焦がれてではない。鳳の求めているのは光ではなく——炎だった。彼の怒りを具現し、すべてを焼き滅ぼす炎だった。敵を滅ぼす……炎だった。  炎だった。  やがて肉片は集まり、鳳の体は再生した。体中が痛む。ここまで完全に破壊された場合本来なら、まともに動けるようになるまで二、三年はかかるはずだ。しかし鳳には休む時間はなかった。降魔呪によって破壊された結界を天者地者が直す前に、奴を討たなけれはならない。でなければ……夜闇を護り切ることなどできないだろう。そもそも、夜闇はあと二、三年も生きられるわけではない。  鳳は太刀を取った。結界が崩れた今ならば、彼も術を使うことができるはずだ。天者地者を……討つ。この世を統べる八百万の神の——第三位。いや失墜した女神を除けば、鬼王に続く第二位だ。天者地者。  鳳は立ち上がろうとし、そして体を突き抜ける激痛に呻いた。だがその痛みが通り過ぎるのを待たずして、無理やり立ち上がる。苦痛に震える声で、鳳は呟いた。 「ついに……この日が来たるか……八百万よ! いざ戦がときぞ!」  震える手で妖刀を抜き放ち、 「わしの怒りに触れるでないわ……わしこそ[#「わしこそ」に傍点]が怒りの化性なのだから!」  言う。  鳳は足をひきずるように、ゆっくりと歩き出した。彼の鼻が告げる——天者地者のもとへと。  その引きずる足音は……まるで死者の呻きのように、崩れかけた縛妖陣の闇にこだましていく。  死者の音を引き連れる……  出陣には、ちょうどよかろう……死者の足音が、戦死人を地獄へと案内してくれるだろうから。  鳳は胸中で呟いた。もちろん戦死人とは、自分のことである。 「定め、か  神ですら、滅びの宿命があると知れ……  あの男は、そう言ったのだ。  だから、わしは待っておるのだ。  鬼の子よ……わしはな、なんとも愉快なのだよ。  だから、待つのだ……」  鳳は、闇の中で立ち止まった。あちこちに穴が開き、壊れかけた結界の中。吐く息も白く……歩む手足も凍える、不敗一千年を誇る天地者の縛妖陣。  そこは、その中心だった。鳳の目の前には天者地者が立っている。神は結界が破られたことにも動じたような気配はなく……鳳を、じっと待っていた。  そして、神の腕には夜闇の死体が抱き抱えられていた。  鳳は、吐息をついた。そして、静かに呟いた。まるで……鳥が嘆息するように。 「では……夜闇は死んだのだな」  鳳の呟きに、神は答えなかった。だが神の腕の中の夜闇は動かず、それが静かな答えとなった。  確かに、静かな答えだ。  鳳は抜き身の太刀を両手に構えながら、声に出さずに呻いた。なんと静かな答えなのだ……だが、なんと大きく響くのだ——この虚ろなる返答は。  鳳が太刀を構えるのを見て、天者地者は初めて動いた……夜闇をかたわらに下ろしたのだ。  そして、言った。 「うぬならば、生き返らせることができよう……最強の鬼斬りだけに伝わる秘中の秘書�死人の法�によってな」  鳳の動きが、はんの一瞬だけ、ぴたりと止まった。だが……鳳は皮肉な微笑を浮かべると、また妖刀の剣先を構えた。修羅が百年ぶりに見せた表情。感情。  皮肉。それを滲ませながら、鳳は言った。 「つまり、それが、わしを縛妖陣にまで引き込んだ……理由か」 「そうだ。まさか〈覇者界〉を持つ鬼の子を、生きたまま捕らえようと考えるほど無謀ではない」  天者地者はそう答え、鬼斬りを見据えた。そして鳳の表情からその返答を察すると、神は聞いた。 「わしに……この天者地者に逆らうつもりか?」  鳳は答えた。 「無論だ。夜闇を餓鬼にするために……この六年もの行脚を続けてきたわけではない」 「だが結局、鬼の子は鬼となったようだがな」 「それは夜闇が決めることだ。貴様が言うことではないわ!」  鳳は言うと、一歩踏み込んで太刀を薙いだ。刃は天者地者の首に当たり——そして、跳ね返った。  天者地者は、にやりと笑みを浮かべ、鬼斬りに言った。 「たかが餓鬼に、神が斬れるか」  挑発するような声だった。  鳳は——肩に走った激痛は無視しながら——飛び退き、神に向かって言った。 「人が怖いのか」 「なに?」 「人が怖いのかと聞いておる!」  鳳は怒鳴り声をあげた。蘇生しきっていない体に喝を入れながら、剣先を神の魔限に向けた。  天者地者は動くこともせず、その剣先の鈍い輝きを見つめていた。そして答えた。 「人か……確かに、恐れているのかも知れぬ。地上に鬼を放ち、永き時が過ぎた……が、一向に人の数は減らぬ」 「命が……死に劣らぬ強き力であることを悟れなかった貴様らが愚かなのよ」  鳳は言いながら、天者地者の隙を窺っている。 「そうだ——今までは、そうだった。だが、もう違う……」 「夜闇の鬼界を手に入れられるからか? 鬼までもが子を生すようになったことには、危惧を抱かぬのだな」  鳳の言葉に、天者地者は口をつぐんだ。鳳は続ける。 「夜闇は生きた……短い月日だったが、夜闇は生きた[#「生きた」に傍点]。死より生まれ出《いず》るはずの鬼が、生きたのだ」  鳳の声には、さっきまでの怨念というよりは、諭しの気配[#「気配」に傍点]があった。  神は叫ぶように鳳をさえぎった。 「我らには必要なのだ! この鬼界が——」 「鬼王に対抗するためにか? 今や八百万を支配せんとする鬼王・鬼羅の覇者界を封じるために?」 「それだけではない! もはや鬼を以てしても人間が滅ぼせぬのなら、この覇者界で我々が[#「我々が」に傍点]人間を統治し、統制する! これは定めだ!——我らは、支配しなければ支配されてしまう[#「支配しなければ支配されてしまう」に傍点]。数の増えすぎた人間に! うぬには分かろうが——この世界にいる限り、何らかの定めを甘受せねばならぬ——」  おお——苦痛多き世界よ。  何処からか声が聞こえてきたような気がして、鳳は夜闇の死体を一瞥した。空耳だったようだ。死体は——動くはずがない。思うに、それが死体の定めなのだろうか。  鳳は、神に視線を戻した。 「鬼に力を与えたのは、貴様らであろう。その鬼に支配されるのも、貴様らの犯した過ちに過ぎぬだろうが!——夜闇を巻き込むことはなかった」 「綺麗事をぬかすな!」  神は叫んだ。三つの眼を怒りにたぎらせ、鋭い視線を鬼斬りに突き刺す。 「鬼斬りが——うぬとて、しょせんは鬼の子の力を恐れ、封印したのではないか!」 「夜闇を生かすためには必要だった」 「ああ、そうなのであろうな——だが何故だ」  天者地者は、はっと夜闇の方を示した。その手につられて夜闇の方を見た鳳は、ぎょっとした——夜闇の死体が、微かに動いていたのだ。開いていた手が、握りしめられている。  天者地者は気付いていないようだった。夜闇に気をとられていた鳳は、危うく神の台詞を聞き流すところだった。  天者地者は鳳をにらみつけ、 「何故、これ[#「これ」に傍点]を生かし続けてきたのだ? これは鬼だ。女神が命じたのは、まさか鬼の守護ではあるまい——うぬの使命は、この鬼の子の永遠の封印だったはずだ。ならば、殺すのが最も簡単だったろうが! 鬼斬りならば造作もないことであろうに、それをわざわざ、何故、生かし続けてきたのだ?」  鳳が聞き取ったのは、最後の一言だけだった。とにかく、天者地者に夜闇のことを気付かせてはいけない。いざとなれば自滅してでも、夜闇だけは逃がさなけれは。  鳳は、気色《けしき》ばむ神に向かって答えた。 「見て欲しかったのだ」 「なに?」  拍子抜けしたような表情を、神は見せた。 「理解して……欲しかったのだ」 「理解だと?」  天者地者には分からなかった。鳳は続ける——夜闇の手が再び開き、そしてまた握りしめられるのを見ながら。 「どうせ幼くして死ぬのならば……より多くのものを見て欲しかった。この世界を。この——〈〈苦痛多き世界〉〉を」  空耳に——いや、夜闇の寝言だったのだろうが——聞こえた言葉を、鳳はそのまま口にした。 「夜闇には——この世で最も面倒な定めを背負った鬼の子には、分かって欲しかったのだ。この世の……美しさを」  鳳は、修羅らしからぬことを言った。 「定め——」  鬼斬りは、そこで一瞬、言葉に詰まった。だが、やがて決心したように口火を切ると、言葉は堰をきったように流れ出た。 「わしらは、わしらのように[#「わしらのように」に傍点]自分を為している——つまり、己が宿命を受け入れ、従い、そして、殉ずる。わしも、そうやって……終わっていくはずだった……」  鳳は、妖刀の柄を握る手に力を込めた。 「だが、違うのだ」  鳳の声は震えていた。押し込めていた感情に突き動かされるように……震えていた。 「わしらが定めだと思っとったものは……違うのだ。わしらは、貴様らが——あるいは、この世界そのものが——邪悪であり、わしら弱きもの[#「弱きもの」に傍点]に定めを強いとるんだと、思っとった。だが、違うのだ」  鳳が一歩進む。神に一太刀浴びせようと、大きく上段に振りかぶる。 「百年……戦場《いくさば》を駆けた。貴様らにとっては夢見のうたかた[#「うたかた」に傍点]に過ぎぬだろうが、わしらにとっては……永き時間だ。その歳月を戦にて過ごし……そして、わしには見えたのだ」 「何がだ」  天者地者は鳳の形相を——奇妙な形相を——見ながら、聞き返した。  鳳は答えた。 「貴様らもまた、しょせんは定めに虐げられとる」  鬼斬りの太刀は、きらりと闇を引き付けながら、力を失わずに輝いている。 「貴様ら八百万までが……だから、わしは思ったのだ。この世界そのものが毒に満ちておるのだと。そして、わしはこの世界を呪った……」  鳳の視界の隅で、夜闇の眼が……瞬きをした。 「覇者界があれば……有効に使えは、世界を変えることもできるはずだ」  天者地者が口をはさむ。だが、鳳は、かぶりを振った。 「違うのだ……それすらも、違うのだ。定めと呼んで、世を恨むのは簡単だ……だが、違うのだ……」 「何が違うというのだ」 「結局、世界と、その世界の住人とは……一番《ひとつがい》の男女のようなものなのだ——善を為す者に善を以て報い、不善を為す者には不善を以て。愛し合えば……その悦びを分かつこともできよう」  鳳は——あろうことか——涙を流した。 「だが憎しみ合えば、大いなる災いとなろう。この世界を造ったのは、誰でもない——このわしら[#「わしら」に傍点]ではないか。本当の鬼を造ったのは、永遠に戦を続ける——このわしら[#「わしら」に傍点]ではないか!」  それだけ叫ぶと、鳳は駆け出した。怒りと力を以て、神に打ち込む———蘇生しきっていないこの体では、天者地者ほどの力ある神を討つことはできまい。だが……  鳳は叫んだ。 「逃げろ、夜闇!」  馬鹿げたことではあると、自覚はしていた。彼が犠牲になったところで、夜闇が一人で縛妖陣を抜け出せるはずはない。よしんば抜け出せたとしても、それから先……一人で身を守りながら生きていくこともできないだろう。  だが——もし夜闇が生きているのなら、これしか方法はなかった。せめて天者地者に一撃与えられれば、一瞬の足止めはできるかも知れない。その間に夜闇が——立ち上がり、逃げてくれれば——  だが神は無情に手を振り上げた。  天者地者の強大な妖術の光が、鳳の体を撃ち抜いた。まだ蘇生していない鬼斬りの体は、あっけなく吹き飛び、粉々に砕け散る。骨の一片までが砕け、砂と化し、結界に四散する。  太刀は、悲鳴のような甲高い音を立てて天者地者の足下に落ちた。  天者地者は、ふっと笑った。 「愚かな男よな」  妖刀が唸りをあげる。耳障りな音で震え、天者地者に呪いの声を張り上げる。  天者地者は嘲るように笑った。足下には鳳の四散した肉片が散らばる。この肉片を調べれば、死人の法を見つけることもできるだろう。鳳に直接協力させた方が早かったのだが、しかたない。  天者地者は妖刀に呟いた。 「女神か。妖刀などに身を転じたものが、どうすると言う? わしは、もうじき、万能になるというのに……」  だがそのとき、闇の中に唄が浮かんだ。  一つ、火の粉の雪の中…… 「なに?」  天者地者は、慌てて辺りを見回した。そして仰天した……夜闇がいなくなっていたのだ。  二つ、二人の血の泉…… 「どういうことだ……鬼の子は? まさか生きていたのか?」  天者地者は必死で辺りを探りながら呟いた。だが、そんなはずはない……人の身で、人の�死�そのものである鬼界を使ったのだ。絶対に[#「絶対に」に傍点]生きているはずはなかった。  では、何処に行ったのだ? 鳳の体を破壊した余波で、鬼の子まで消してしまったのか? いや、馬鹿な……鬼の子の死体には、細心の注意をはらっていた。  だとしたら……死体が動いたというのか……  三つ、みそぎも血の中で……  地に転がった鳳の目玉は、天者地者の背後に立つ夜闇の姿を映していた。だがその少女の体は実体ではなく……ただの魂だった。夜闇の魂は静かに数え歌を唄いながら、鳳に微笑みかけていた。その笑みはやけに大人びていて、まるで……知らなければならないことを知ってしまったような顔だった。  鳳は、だから、なんとなく納得した——夜闇の魂が醜い鬼の姿となり、しかしなお微笑んで唄を唄うのを。  四つ、黄泉路の花畑……  そして、鬼の姿となった夜闇が、鬼界を発動させた。  五つ、いつしか山の下……  闇の縛妖陣の中に、爆発するように光が満ちた。 「な——!」  天者地者はその光に焼かれながら、悲鳴をあげた。 「馬鹿な!」  だが叫びを無視し、夜闇の鬼界は光と化して神を焼いた。 「覇者界——わしの……わしの力!」  光となり放たれた鬼界は、神の結界を破壊し、すべてを浄化するように拡がった。人の死より出《いで》し—— 「世界を制する力が! どうしてだ。何故——?」  ——世界最大の力。  それは炸裂し、爆発した。  六つ、骸の丘の上……  鬼界の光覇呪が、思いを……そのまま像にする。まはろば[#「まはろば」に傍点]は、鳳の目の前で——文字通り目玉の前で——少女の姿をとった。  光の中に、夜闇が立っている。彼女は静かに鳳を見つめていた……まるで別れを告げるように。  向こうで、天者地者が絶望の悲鳴をあげる。鬼界がすべてを破壊し、奪っていく。夜闇の意志による……鬼の力……  七つ、涙も火を吐いて……  ねえ、鳳、鳥は良いよね。  八つ、社を焔《ひ》が舐める……  だって、飛べるし。  九つ、今宵に彼が来て……  それにさ、空は、広いし、素敵だよ。  十で、遠くに逃げま・しょ・か……  あたしね、やっぱり、死んじゃったみたいだよ。でも鳳が声をかけてくれたから、話せるんだよ……  鳳はさ、死んじゃ駄目だよ。鳳が死んじゃったらつまんないもの。  だからさ、  また、生きてよ。あたし、やっぱり海が見たかったな……  縛妖陣が、崩れ去った。  鬼界が、すべてまっさらに破壊していく。  すべて……  夜闇…… 「なあに?」  修羅の目玉に映る少女の残像は、にっこりと笑った。  わしの……娘の名を覚えておるか…… 「……雪でしょ?」  違う……それは天竜八部の娘よ……わしに娘は[#「わしに娘は」に傍点]……一人しかおらぬ…… 「うん……」  奴の名は……呼ばなかったのだな? 「奴?」  そう……奴だ…… 「うん……呼ばなかった。呼ばなかったよ」  ならば……お主は勝ったのだ。夜闇…… 「勝った……なんのために?」  鳳は、しばらく黙っていた。そして、目玉をぬらすと、こう答えた。  ——海を見るためにだ、夜闇……  天者地者は、稲妻に打たれた。悲鳴をあげ、よろめいたところに、彩《いろど》りの長虫たちが襲いかかる。肘をついた。その神を上から——空から——叩きつけるように、毒の血が降り注ぐ。雨が鉄の味に化けた。  鬼の子の力は、まさに最期を見せつけるかのように容赦なく炸裂した。 「鬼ごとき……妖ごとき……」  天者地者は死力を振り絞り、結界を張り直そうとした。鬼界の爆裂によって内部から破壊された縛妖陣は、もはや効力を失っている。 「我は天……我は地……天地者とは我のことぞ! 力を統べるのだ……それに屠られてなるものか!」  神の叫びを、焔《ほのお》の柱がさえぎった。皮膚が融ける。魔眼が腐っていく。 「世界よ!わしが憎いか! わしが間違っているか! わしが滅びれば——わしが——わし……」  炎が躍り、身を焼く。  破壊する。  すべてを、無に帰す。  消えてゆく。  そして……この鬼の話も、その光の中に消えていった。    終 章 海の声  鬼の子が眠っても、天地が変わることはない。構わずに、ずっと鬼の話は続く。  鬼の子が目覚めなくとも、何も変わることなく——あるいは少しずつ変わりながら——続くのだ。  その大男は、七尺はある偉丈夫だった。  表情というものが、かけらも見られない。そんな男だ。腰間《ようかん》には、これまた七尺はあろうかという太刀を帯につるしている。彼は、そっと呟いた。 「さらばだ」  川岸だった。  木漏れ日が白い川岸をちらちらと見せる。微風が水面をたなびかせ、優しく囁く。臆病な川虫が水底《みなぞこ》の石の下に逃げ隠れる。  遠くから、もっと優しい響きが聞こえてくる。  誰の声か、などは知らない。見守るものの声だ。あるいは、母の声かも知れぬ。  光が、  光と風が、彼の周りでたたずんでいた。焔《ほのお》はない。ここは、何処よりも静かなところ。  まるで冬の湖のようなところ。  冷たく、美しい。静かで、物悲しい。例えば、何かを悼む鏡のように。  彼は、白い布をかぶせた何かを乗せた小船を、そっと押し出した。流れはそんなに速くない。それでも、この大男には小船が恐ろしく速く去っていくように見えた。  小船の上の白い布。その下に眠るものに、彼はしばし黙祷した。彼を助けてくれた——そして救ってくれた——ものだし、惜しむ別れでもある。  永遠の別れだ。  小船が去っていくのせ見送りながら、大男は呟いた。 「これなら、一人でもたどり着けるだろう」  彼は、川に背を向けた。風が囁く——お別れだよ。お別れだよ。  そうだな。 「鬼王よ。貴様の娘は、貴様の名を呼ばなんだよ——夜闇は貴様に勝ったのだ」  もう鳳は、必要ないのだ。  彼は、小さく溜め息をついた。そして悲しげに微笑した。ともに、昔の彼にはなかったことだ。これが終わったら、再び封印し直さなければならない。 「鳳!」  と、彼の背後で、いきなり呼び止める声が聞こえた。  鳳は、ふっと振り向いた。そこには夜闇が立っていた。 「鳳! ねえ、鳳——あたし、空にも行けるのか、分からなくって……それで、怖くって……」  夜闇は鳳の驚く顔も無視して、甘えるような声を出した。  鳳は、茫然と聞いた。 「お主……何故……生きておるのだ?」  もちろん鳳は、どうして生き返ったのだという意味で聞いたのだ。  だが夜闇は、明らかに意味を履き違えて返事した。 「え……なんで生きてるのかって……ええっとその……別に……理由なんてないけど……でも……」  夜闇はしばらく迷ってから、ウン[#「ウン」に傍点]と大きく頷いて、 「面白いからだよ」  答えた。その答えに鳳は、きょとんとしていたが、やがて、天を仰いで大笑いを始めた。  夜闇は、え? といった顔でそれを見ている。鳳はようやく笑いを堪えると、腹を押さえながら——夜闇を見た。そして、納得した。少女の体は、かすかに透き通っていたのだ。  夜闇は、また繰り返して聞いた。 「ねえ鳳、あたし、空へ行けるかな……」 「ああ、行けるとも」  鳳が保証すると、夜闇は、にっこりと笑みを浮かべた。 「そだね。行けるよね」 「ああ」  夜闇の体が、いきなり浮いた。そして、すうっと……薄くなっていく。  消えながら、夜闇は言った。 「じゃあね、鳳……あたし、海に行くよ……鳳は、何処へ行くの……?」  声までもが薄くなっていくようだ。鳳は迷わず答えた。 「また、鬼の子を捜す」 「……斬るの?」  不安げになった夜闇の声に、鳳は苦笑して顎をさすり、 「まさか」  答えた。  そして、多分この答えに満足したのだろう。夜闇の姿は完全に消えてしまった。  ちょうど、下流へと遠ざかる小船が、視界の陰に霞んでいくところだった。鳳はそれを見送りながら、そっと言った。 「海の次は、空に行きたい、か」  鬼の子の魂は、天に昇らぬ。 「なんとしても行くが良い。趣くままに……」  この〈〈苦痛多き世界〉〉で笑うことができる、お主は……幸せであったのだと思いたいよ。  鳳は胸中で呟きながら、今度こそ川に背を向けた。    あとがき  まず忘れないうちに。  (注) この設定では神道は神の世界、仏教は人の世界ということで区別されながら、融合してもいます。  ——てな注意書きが、閑話の章あたりに入っていたんですが、さすがにヤボだろうということで削除してあります。この設定で不審を持った方、ま、そーゆーことですんで。  なお、見慣れない単語があちこちにありますが、たいがいすべてが適当な造語ですんで、悩みすぎて十二指腸を溶かさないよーに。  てなわけでして、冒頭からいきなり陰気なこの話を最後まで読んでくれた貴方、あふれかえる薔薇の花束のような感謝をいたします。とりあえず本屋でこのあとがきを立ち読みしている貴方、いずれは読んでくださるものと鬼瓦のようにかたぁく信じております。  さてさて。 「もう編集部に見捨てられたんじゃねーか」  とかいう善き友人たちの噂を後ろ耳に聞きながら、改稿を重ねること丸一年間。二回の改稿のうちに、応募当時(二年前ですね。そのころ僕は十七歳。うわあ)のままの部分は、ほとんど消滅してしまいました。「なんだかよく分からない」と編集さまが評したこの話、文庫化にあたっての変更点を具体的に言うと、  ● 序章、其の一は一部改稿。  ● 其の二はほぼ応募原稿のまま。  ● 閑話は、まったくの書き下ろし(つまり、応募当時にはこのエピソードは存在していなかったわけです)。  ● 其の三においては、すでにあったエピソードを削除して代わりのエピソードを代入。  ● 其の四、五、六はそれぞれ一部改稿。  ● 其の七に関しては……応募原稿の其の七、八、九の三章をほぼ削除しての書き直し。  ● 終章も半分書き直し——そのため、エンディングの印象はまるで変わってます。  ● さらにはタイトルさえ変わってます。応募原稿は「鬼の話」でした。こういう印象の弱いタイトルは減点対象になるみたいですよ。多分。  てなもんでして……  これからファンタジア長編大賞に応募しょうとして、その参考のためにこの本を買うのは無駄かも知れません。でもこの改稿にあたっては編集さまの御意見を参考にしたわけで、そういう意味で「編集部の噂好」みたいなものを予想する手掛かりにはなるかも知れませんよ。いえいえ、宣伝のためじゃなくて。  あ、そうそう。こういう大々的な改稿をやったせいで、伏線をはっておきながら、それを解決することをスッパリ忘れていた部分というのが、この原稿にはあります。それを見つけたという方、その伏線部分と、できれば貴方のオリジナルの解決法を書いてファンタジア編集部まで送りませんか? おもしろいモノにはなんかあげます。いえいえ、反響を編集部にアピールするための作戦じゃなくて。  ま、それはそれとして。  現在、いろいろと新ネタを編集部へと持ち込むことをやっとるわけですが、これがまあかなり難しくて。なんとも読者さんの思っているほどには——つまりはつい最近まで僕が思っていたほどには——この「商品にできる話」を書くというのは簡単ではないのですよ。まったく。以上はグチ。  なにしろこの作者、まだ選挙権もないという若輩者でして。各方面の方々に御迷惑をおかけしております。編集さまにはこの長い長い改稿につきあっていただき、造語となんの脈絡のないルビの嵐は校正者さまと印刷所さまを困惑させ、まるっきり描写がない[#「ない」に傍点]というこの特殊な話にイラストレーショソをしてくださった若菜先生も、きっと怒ってらっしゃるだろうし、泥酔して書いたイヤガラセの手紙は中学時代の同級生を憤慨させ、登場人物は次々と死んでます。改稿してる間にソ連はなくなっちゃうし。なんだかよく分かりません。  とにかく、どーもスイマセン。  ではいずれ、次回作でお会いしましょう。言っときますが、本気です!                             秋田 禎信  解 説    富士見ファンタジア文庫編集部  いかがでしたでしょうか?  鬼を斬るためだけに修羅として生きる鳳と、鬼の血をひくがゆえに多くの重荷を背負って生きなければならなかった夜闇——二人の旅は終わりましたが、鳳の旅は終わりません。またどこかをさすらっていることでしょう。  作者のあとがきにもあるように、本書は富士見書房「月刊ドラゴンマガジン」主催の第三回ファンタジア長編小説大賞において、準入選となった『鬼の話』という作品を改稿のうえ、改題したものです。  読んでいただけれはおわかりになると思いますが、この作品は文章に独特のリズムを持っています。語呂合わせと押韻、繰り返しと省略。この心地よい言葉のリズムが、幻想的な雰囲気を醸し出しているのです。  また、自らの存在の意味を真剣に問い、苦悩しながら生きるキャラクターたちがリアルに描き出されていることも魅力のひとつでした。  以上のような理由から編集部ではこの作品を大賞候補作の一本として最終選考会に推薦しました。しかし、長所も過ぎればウイーク・ポイソトともなります。「具体的な描写の不足」「過剰な繰り返し」「わかりづらいストーリー」といった点です。  とはいえ、この作品の持つ魅力は高く評価され、みごと準入選となったわけです。  文庫化にあたり、作者に若干の手直しをお願いしましたが、数日後、受け取った原稿に目を通して驚きました。元の話と全然違う! いえ、もちろん基本的なストーリー展開、全体の持つ雰囲気などはそのままなのですが、いくつものエピソードが惜しげもなく切り捨てられていたり、細かい言い回しが全面的に書き直されていたりして、ぐっと読み易く東成された作品に変身していたのです。これは嬉しい誤算でした。  正直な話、この作品を最終選考に残すことは不安でした。なにしろ、応募当時、作者は十七歳——高校三年生——だったのです。「たしかにいいセンスを持ってはいるが、この作品以外のものを彼は書けるのか?」といったことが頭をよぎったのでした。しかし、これはどうやら杷憂だったようです。彼はひとつの題材からいくつもの話を創り出すことができ、豊富なアイデアを持ち、そのうえ常に進歩しているのです。  作者の秋田禎信は現在(一九九二年)、専門学校に通うかたわら、着々と次作の企画を進めています。ファンタジア文庫に新作を発表する日も近いことでしょう。楽しみにしていてください。「秋田禎信」という名前を本屋で見かける機会がありましたら、すぐその本を手に取ってレジへと向かうことをお勧めします。絶対に損はさせません。  若い作家を育てるのは、読者の声援です。今すぐアンケート葉書を出してください。そして、作者に励ましのお便りを!  なお、作品の感想・作者へのファンレターなどは次のあてさきまでお送りください。   〒一〇二  束京都千代田区富士見一書十二−十四    富士見書房 ファンタジア文庫編集部 気付     秋田禎信 (様)