[#表紙(表紙.jpg)] 人生の検証 秋山 駿 目 次  食  恋  友  身  性  金  家  夷  悪  美  心  死  あとがき [#改ページ]   人生の検証 [#改ページ] [#見出し]  食  食。これは私が黙殺してきたテーマだ。なぜ黙殺するのか。  食べなければ生きてゆかれぬ。生存の公理である。しかし、そう思う度毎に、この公理が私には不愉快だった。忌々《いまいま》しかった。全身を挙げて反抗したいと思う。が、すぐ自己矛盾に陥る。なぜなら、自分の生《せい》を生きようと思うからそう考えるのに、食べなければ生きられないのだから。  そこでこの問題は黙殺することにした。だから、食についての記憶というものがほとんどない。いや、ただそう言ったのでは嘘《うそ》になる。それは十五歳から四十歳にかけて、私の意思の方が自分の肉体より強かったその間のことだ。以後の記憶は僅《わずか》にある。何かを食べてこれは美味であるとか感ずるようになったからだ。そのことに私は自分の堕落を読む。  しかし、大切なのは、それ以前の方だろう。なぜ、食べなければ生きてゆかれぬという公理にそれほど反抗したかったのか。明らかに、その根は、私の内部の、父親なるものへの思い、母親なるものへの思い、というところに根差している。  父親とは何か、あるいは母親とは何か、と、いつか人は問うらしい。食への態度は、その問いと関《かかわ》っている。ただし私は、その起点が、父母とは何かと意識的に問う少年期に発しているのか、それとも無意識的に、というか本能的に問う幼年期に発しているのかを、いまはもう、自分の経験の流れの中に読むことはできない。おかしなものだ。私は自分の生の急所に無知なままに生きている。  二十年くらい前から、ときおり新聞紙上で、拒食児童また過食児童の記事を読むと、私はその紙面を取っておいた。関心があったからだ。可哀《かわい》そうに、と私は思った。彼等、拒食・過食の少年少女は、私がそっと触れただけで黙殺してしまった問題に、正面から頭をぶち当て、全身で体当たりしているのだ。そして私の思うところ、この問題は、解けはしないのである。というのも、問題の内容が錯綜《さくそう》しているからだ。  私は幼稚園に行くようになっても母親の乳房に縋《すが》っているような甘ったれで、親戚《しんせき》中の笑い者だった。そういうとき、食べることと自分との間には何の背反もない。まったく自然である。そしてそれは、母親と一緒にいる、ということとまったく同義だ。お母さん、と言えば、食べ物はそこにある。まったく無為のうちに食べて充《み》ち足りている。いかなる意識的な反省もない。甘美な記憶だ。人が思う幸福の原型はここに発するのではあるまいか。私は後に、考えるということは、この自然この幸福から人が引き剥《は》がされる、その距離の意識化のことだと考えようとしたことがある。  しかし、そこへ父親が登場する。父なるものは言う。それでは生きてゆかれぬ。食べなければ生きてゆかれぬ。食べるためには社会に出て有用な人間にならねばならぬ、と。  おっしゃるとおりです、お父さん、と、すぐ言う訳にはいかない。なぜか、と思う。私がそんな声を聴いたのはいつ頃《ごろ》だろう、三歳か、五歳か? 私が読んだ若干の犯行者・病者の言葉によれば、そんな年頃で聴いた意外な一つの言葉が、その後の彼の生の感触を決定するのに、大きく影響しているようだ。言葉は怖《おそ》ろしい。むろんその言葉は、自分に直接言われるのではなく、他人事《ひとごと》でいいのである。なにしろ幼児期は、自分が生きようとする現実世界のことを知ろうとして、月面に着陸した宇宙飛行士より、よほど高度に全身で緊張しているだろうから。  父の声は、食べるということを、ぜんぜん未知の、意味も解らぬ新しい二つの言葉に分けてしまう。「社会」とは何だろうか、「有用である」とはどういうことか。そして、この二つは、どういう方程式を描くのか。  ここで、混乱が生ずる。混乱は、父と共にいたいのか、母と共にいたいのか、という対立ではない。そんなことなら簡単だ。意思において決断すればよい。  混乱は、父の声も本当なら、母の声(声ではなく、乳房だが)も本当である、と思うところから生ずる。そこから困惑が始まる。  あんまり当たり前の話だ。人は空気を呼吸して生きると改めて言ってみるように、ばかばかしい話だ、と言われそうだ。  しかし私は、この、食べなければ生きてゆかれぬ、というところから、父なるものと母なるものの深い裂け目が生ずる、と思うのだ。どだいこの、食べなければ[#「なければ」に傍点]生きてゆかれぬ[#「ゆかれぬ」に傍点]という言葉は、われわれの生が最初に発見する「否定」の感触であろう。面白いことだ。生にもっとも近い原型的な行為とは、食べるということだろうが、そこにこそ、根本的な否定、死の感触が、最初に閃《ひらめ》くのだから。  母と自分との一体感の中に、父の声が割り込んできて引き剥がす。ゆえに父を憎む。それなら解《わか》り易《やす》い。が、そんな簡単な図に心はならない。  母と自分とが一体である、と改めて気が付くと、母の愛は、何か人間の普通離れしたたいへん有難いものだと思う。しかし、有難さの度が深くなればなるほど、逆に同時に、母のそれだけでは生きてゆけぬと思うことによって、(何と言えばよいのか)母を憎むようになる。  父の声が正しくて強そうだということは直ちに知られる。生きる道を示してくれるのだからこれも有難い。が、有難いのはいいが、なんだか生きるのは実に面倒臭そうだなという予感に早くも怯《おび》えて、父を憎むようになる。  この二つは、対立でもなく、背反でもなく、分裂でもない。ただし、裂け目が開く。そこを凝視すると穴はしだいに深くなる。  母を愛し・母を憎み、父を愛し・父を憎み、母のゆえに父を愛し・父を憎み、父のゆえに母を愛し・母を憎む……というような、幾重にも屈折し錯綜した感情の塊が、一挙に出現する。襲ってくる。  いったいどうしたらよいのか。自分というものが解らなくなってくる。ただ混乱があるばかり。  食べる、ということの根本には、母なるもの父なるものへの深い思いが、その根と捩《ねじ》れ合っている。  食についての日常的な記憶はまったく乏しい。  私は小学校に上がる前は病気ばかりしていたので、母親の過保護の下にあった。だから食べ物はほぼ自分の望み通りであった。今日の家庭内で料理の主導権を握っているという甘ったれの子供と同じだ。  しかし、奇妙なことに、いまでもただ一つ鮮明に想《おも》い起こせるのは、病院の食事だ。腎臓《じんぞう》を患《わずら》って何十日か入院したあげく、今日から小量の塩分を許すということで、御飯にただパラパラと塩をかけて食べたが、いやその美味だったこと!  後に、戦後二十七年かグアム島のジャングルに潜伏していた横井|軍曹《ぐんそう》が、発見されたとき、初めて人に訴えたのが「塩が欲しい、切れ物が欲しい」という声であった、というのを新聞で読んだとき、一種の感動が私の胸を走った。そうか、塩か。 [#ここから1字下げ] 「とにかく昔トロヤに出陣した英雄たちは、自分の体を鍛練するかのごとくに簡素節倹の食事に慣れ、食事に快楽を添えるいっさいのもの余分なものを去り、(略)その英雄たちにしてなお、塩なしでは肉を食べられなかった、ということはすなわち、塩こそただ一つ不可欠の調味料だということの証拠だろう」(プルタルコス『食卓歓談集』柳沼重剛《やぎぬましげたけ》編訳) [#ここで字下げ終わり]  もっとも、塩が印象的だったのは、私の場合こんな意味のものではあるまい。たぶん、病院の食事、塩の許しというそれが、母親から引き剥がされた後の父親的なもの、社会の感触の結晶として感ぜられたのだろう。  ひどい偏食だったので、親戚の家に行くと困った。食事のときは緊張を強《し》いられた。未知の物、意外な味は、あっと思って目をつむって呑《の》み込んでも、吐き気が不意に襲ってくるから。小学校四年の臨海学校のとき、皿の焼き魚を、隣の同級生がバリバリと頭から噛《か》んで食べるのを見て、私は驚嘆した。真似《まね》して一口噛んでみたが異様な感じがしたので、先生の目を盗んで捨ててしまった。よく覚えているところをみると、自分をひどく恥じたのに違いない。  その羞恥《しゆうち》はいまも揺曳《ようえい》していて消えない。何の羞恥か。食べられないのだから弱者であるにもかかわらず、そこが奇妙に転倒して、食べられない方が一見お坊ちゃん的に見える、という世間の田舎芝居的な見方がある。そんな見方が忌々しいし、そんな見方があると意識している自分も忌々しい、にもかかわらず、結局そんな振舞いに見られてしまう行為を犯したことへの羞恥。  いや、これは三文小説的解釈というものだ。本当はもっと違うことじゃないか。  食べるということには、何か深い羞恥がある。これは一種の原型的な感情だと思う。独りで食べる場合にも、ときにそれは感覚される。  大勢の仲間で、人前で食べる、つまり社会的形式で食べるとき、不意にその羞恥が鋭く露出する、と、そういうことではなかったか。  こんな私を叩《たた》き直してくれたのが、戦争である。  そう言うと、しばしばあなたは戦争肯定派ですかと訊《き》かれるので閉口するが、経験の話なので仕方がない。  偏食などと言ってはいられない。何でも食べた。庭を畠《はたけ》にしてのサツマ芋の葉と茎、カボチャの小さな実、乾燥バナナ、岩塩、コンクリートの破片のような海草の干し固めたもの(ひどく不味《まず》い)、ガソリン芋……。  軍需工場へ行っていたので、コーリャンの昼食がある。あれは中年者がよく噛まないで食べると、消化不良をおこして下痢《げり》になり、そのぶん栄養失調になるとか言われていたが、なに、こうなると私は現金な奴《やつ》で、さっと呑み込んで素早く食べ、また列に並んで二杯目を食べた。別に下痢もしなかった。  中学二年のとき、千葉から東京に寄宿していた同級生が、実家に遊びに来いと言う。行って、蛙《かえる》の皮を剥《む》いて川に入れると、ザリガニが面白いように採れる。一時間でバケツ一杯くらいになってしまう。ああ面白かったと帰ろうとすると、彼が、これは本当は食べられるのだよと言う。それじゃ、と持って帰って尻尾《しつぽ》の部分を母に茹《ゆ》でてもらうと、けっこう食べられた。  どだいその前にわれわれは、学校の生物の時間に、中国大陸へ行ったらこういうものも食べねばならぬのだからと、トンボやセミを生で食べさせられた。むろん、愛嬌《あいきよう》ある教師のお座興である。が、生きたバッタをパクッとやった勇気ある奴がいたのには驚いた。  しかし、その後の軍事教練で、もうその頃は元気な士官の姿はなく、負傷帰りの軍曹さんが、お腹《なか》に弾丸《たま》が当たるといかに苦しい死か、突撃では真っ先に行くなとか、戦争より銃や短剣でも失《な》くしてみろたいへんだぞとか、体験まじりに語ってくれると、トンボやセミやバッタが本当らしくなるのだ。  ちょっと脱線するが、軍事教練で一番閉口したのは、穴か何かに身を隠していて直進してくる戦車に向かって火炎瓶を投げるという練習。あれはどういう心算《つもり》だったのか? 正《まさ》しく戦車に向かう蟷螂《とうろう》の斧《おの》。一瞬ギョッとするほど白ける。人間に可能なことじゃない。なるほど、それほどに敗色濃いのか、と、決して戦意の高揚にはならぬ。  閑話休題。軍需工場へは井の頭の公園を通って行く。公園の池にはかなりの鯉《こい》がいた。ぞろぞろ通りながら、そのうち何時《いつ》かこの鯉を獲《と》って食べようとする人が出てくるぜ、と笑い合ったが、鯉の姿はなかなか消えなかった。そのうち飽きてしまって注意しなくなったが、昭和二十年の何月だったか、あれ、居ないぞと叫んだので覗《のぞ》くと、確かに一尾も見当たらなかった。二、三日の出来事だったと思う。へえ、本気に食べる人がいるのだろうか、が話題だった。  なぜこんなことを書くのか。私は、戦争・敗戦時を回想して多くの人が一様に「飢えた」と言うのを聞くと、耳を覆《おお》いたくなる。ときには、嘘を吐《つ》けと思う。  飢えには、飢えの思想があるはずではないか。そんなものは見たこともない。  飢えの独自の経験、独自の記憶、個性的でリアリスティックな細部があるはずではないか。そんなものは聴いたことがない。  どだい、私の経験でよければ、戦後四、五年は却《かえ》ってその声は聴かれなかったと思う。 「あの頃は飢えた」とみなが言うようになったのは、いつ頃だろう? 昭和二十年代末頃からではあるまいか。  つまり、敗戦を通過して、生活が安定して、ホッと一息ついたとき、自己満足のあげく「あの頃は飢えた」などと言ってみたのだ。  ことに、戦争・敗戦で大して傷付かなかった者こそ、却って声を大きく言ったのだ。  今日になるともっとひどい。今日の自分の生活に満足し切った中流意識の成功者こそが、おかしなことだが、得意満面に「あの頃は飢えた」と言うのだ。なぜ得意顔になるのだろうか。  本当に飢えた人は何も言わなかったのだ、と思う。確かに簡単に言えるようなことではない。  だから、簡単に飢えたと言うとき、われわれがその言葉の中身として盛り付けているのは、食糧確保の手柄話《てがらばなし》や、食物工夫の自慢であり、また、俺《おれ》は苦労して生きたんだぜという蛙の腹のごとく脹《ふく》れた自己満足である。  なるほど、敗戦当時しばらくは、駅の地下道や上野の山で死んでいく人達の記事が出ていた。飢え死《じに》したのだと言われた。たぶん彼等は戦災|罹災者《りさいしや》であろう。  あれを飢え死と言うのか。それなら、われわれの言う「飢え」とは何の連続もない。  あれを飢え死と言うのか。いや、誰も救う者がいなかったから、われわれの冷酷によって突き放され、見捨てられたから、死んでいったのだ。  戦災浮浪児こそ飢えの姿だ。彼等の唇《くちびる》の詩はこんなものか。(「乞食《こじき》」という言葉が輝くドラマなので、ここから採った) [#ここから1字下げ] 「食にことかき、履物もなく、荒れはてた森をさまよったこといくたびか、雨に、焼きつける日ざしに悩んだこといくたびか……」(ソポクレス『コロノスのオイディプス』高津春繁訳) [#ここで字下げ終わり]  いまは死んでしまったある戦災浮浪児出身の作家に、あなたはこれまで何を支えに生きてきたのか、と訊いたら、彼は言下に答えた——親類縁者への憎しみで生きてきた。  しかしことによったら、あの「あの頃は飢えた」の流行は、もっと全然違った意味のものかもしれない。  要するにわれわれは、戦争・敗戦を、極端に良く言うか、極端に悪く言うかのいずれかであって、自分の経験に添って、戦争・敗戦についてごく普通に語るということを、ほとんどしてこなかったのだ。言葉が貧困だった。だから、戦時中自分は生きいきしてよかったとか、敗戦時は面白い観物《みもの》だったというようなことを、あの「あの頃は飢えた」に代表させ、そこで、ニッコリ面白そうに話すそんな仕組みになるのかもしれない。  買出しもやってみた。最初は家の命令ではない。同級生があちこちで、やあお前も行ったのか、などと情報を交換しているので、どうやるの? と訊くと、「お願いします、少国民が来ました」と言って一軒ずつ回るのだという。仲間に入れてもらって、家からの資金を懐《ふところ》に一緒に回ってみたが、すべてけんもほろろとはこのことであった。  買出しには少年が有利だった。たまに警官に尋問されても、親が病気で困っているとか嘘を吐けば見逃がしてくれる。そこで暴力団が、少年を買出し部隊として組織するのは当然のことだった。それに中学三年ともなれば逃げ足だけは大人に負けない。  それでも、敗戦二年目、中学五年のとき、同級生の一人が、おい、俺はとうとう暴力団に入ったよ、と打ち明けたときには、ああよくやるよ、彼は親を助ける気だな、という軽い驚きがあった。たいして驚かなかったのは、先に書いたザリガニ採りの友人が一年も経たぬうちに空襲で死んでしまうとか、驚きの種にはこと欠かなかったからである。それに暴力団が今日のイメージのものではなかった。渋谷、新宿の盛り場で、アメリカ兵に散々に撲《なぐ》られている日本人の光景を傍観している警官より、暴力団の方が頼もしく感ぜられた。  この時期、戦争末期から敗戦二、三年目にかけて、われわれの親は大いに無力であった。軍人や官吏や会社員で明治生れの男は無器用だった。人に頭を下げてお願いして回るということができない。ことに食べ物を求めるときにできない。乞食の感触が閃《ひらめ》くのか。家の品物さえ売りに行くことができない。それらを少年が代行する。  そうそう、戦後的な下らぬ神話には異議を申し立てておこう。配給物だけで食べたある裁判官が飢え死したという。あれは嘘だろう。もし本当なら、これは滑稽《こつけい》な人だ。ドジョウやザリガニはまだ沢山いた。魚もいた。少年にも可能な手段を様々に工夫しなかった。たぶん彼は、彼自身だけの理由によって、明治男の無器用さによって死んで行ったのだろう。  むろん買出しは、戦争中より、敗戦しばらくしてからの方が難しかった。早くも自由競争の場になったからである。  私も親が話をつけておいた農家へ母親の着物持参で出向くようになった。しかし、さっさと交換してくれればよいのに、意地の悪い着物の批評にはじまって、お前達都会のゴミみたいな連中に売ってやるものなぞ本当はない……しかし、お情けでくれてやる、というようなお説教を長々と聞かされるのには、うんざりした。やれやれ、これじゃジープからチューインガムを抛《ほう》ってくれるアメリカ兵の方が、よほど良質な人間に見えてしまう。  そうそう、もう一つの下らぬ戦後神話にも異議を申し立てておこう。われわれは米を食べる。しかし、日本の米の値段は国際価格よりずっと高いそうだ。どういうことか? なぜわれわれは高価な米を食べねばならないのか。政府の失策ではないか。安い米を大量に輸入しなければおかしいではないか。外米は不味《まず》いという。余計なお世話だ。美味《うま》いか不味いかは一人ひとりが思うことだ。  輸入してくれと言うと、すぐ、一国の主食は一国内で充たさなければ、という極端に大袈裟《おおげさ》な話になってしまう。これはどういうからくりなのか? それこそ試行錯誤してみればいいじゃないか。一旦《いつたん》緩急あればの非常のために、この体制が必要なのだと言われる。嘘を吐け。われわれはすでに最大級の「非常時」を経験し、その日常的な細部をよく見てきたのではなかったか。私はそういうとき日本の農家が日本の都会の細民を助けてくれるのだとは信じない。私は経験からそう思う。これはわれわれより一世代上の第三の新人の作家達が戦争・敗戦についてよく言っていること、「見るべき程の事は見つ」の中の一光景ではあるまいか。  私は十五歳から四十歳くらいの間、食べ物について、これは美味い、それは不味い、と思うことを自分に禁止した。ハッと感覚してしまうことは制限できなかったが。そして、物の味を、辛い甘いの調味料の性質とか、野菜とか魚の材料の諸性質に還元して、感じかつ言おうとした。たまたま友人が、これは塩が利《き》き過ぎている、もう少し抑えた方が美味いなどと口走ると、そこに食ってかかった。お前が美味いと思うことに何の根拠があるのか、お前が一人で美味いと思うことに何の意味があるのか、と。無理矢理な論法である。  なぜそんな態度だったのだろう。そんなふうに始めた自分の心の暗部はもう覗けない。回復しない。ただし上《うわ》っ面《つら》は簡単なことだ。たぶん私はよほど社会的生活というものが嫌《きら》いなので、生きるということの原型的な行為の一つ食べることに、美味いとか不味いとか、いちいち自分の満足や快感を結び付けているのでは、とてもこれ以上生きてゆけない、と思ったのに違いない。  デカルトの人間機械説が一つの救いだった。なるほど、身体は一つの機械である。機械には機械の食べ物をやればよい。彼が晩年、胃袋は臼《うす》のようなものだから、ときに粗い材料を与えてやらないと怠けてしまう、ということで、医師達の忠告も聴かず、体調がわるいのに粗い材料のものを食べ、そのために病状を悪化させた、というエピソードを読んだときには思わず微笑した。人の一貫性とはこうでなければならぬ、と。  おそらく私はそんなことで、食べなければ生きてゆかれぬという公理への、身の処し方というかやり過ごし方というか、どんな態度をしたらいいかのレッスンをしていたのだ。この公理に対して発する、深い羞恥、嫌悪《けんお》、屈辱といった心の暗部に関わらぬようにするために。  そのためには戦後という時代がよかった。  あれは昭和二十六年頃か、ある日大学の同級生が、俺の処《ところ》に来い御馳走《ごちそう》してやるというので、彼の下宿先の屋根裏部屋に行ってみた。なに、御馳走というのは、うどん玉を二つ買って、十センチ四方の昆布《こんぶ》を敷いた鍋《なべ》で茹で、生醤油《きじようゆ》をかけて食べるものであった。これが御馳走かいとからかい気味に問うと、うん、昆布と醤油が、と真面目《まじめ》な顔をした。確かに塩をパラパラだけで食べることもしばしばだったらしい。もっとも誤解されたくないものだ。彼は気取った訳でもなければ貧乏だった訳でもない。ただすべての金銭と若い精力を酒と議論にだけ集中させるから、そんな暮らしの形態になったのである。  その屋根裏部屋には、小量の生活必需品の他には余計な物は何もなかった。布団が二枚、外套《がいとう》、机代わりのミカン箱、辞書と原稿用紙、電熱器、鍋一つと皿二枚、小さな醤油瓶と塩、洗面器と歯ブラシ、それくらいである。引っ越しはタクシー一台で足りた。  それは人が暮らして仕事をするためのもっとも簡素な部屋であった。文学上で見出《みいだ》した簡素な部屋のモデル、テスト氏の部屋でもなく、ゴッホの部屋でもなく、『白痴』のイッポリートの部屋でもなかった。もっと何もなく、もっと簡素だった。しばしば訪れる度に私はよく思ったものだ。そうか、これこそがわれわれの部屋なのだ。すべてはこの部屋の内部で考え抜かれ、また、すべてがこのような部屋から出発しなければならない、と。うどん玉に生醤油の食事は、この部屋によく似合った。  他方、こういう部屋を後に、外に出れば馬鹿《ばか》な真似ばかりすることになる。若者の馬鹿な真似とは、つまり「贅沢《ぜいたく》」の追求である。親が送ってきた新調の背広を着ないまま売り払ったり、現金を賭《か》けるゲームがあって十円が千円になったり、社長の息子が親父のカメラや高価なパイプを持ち出したりで、よく遊び、現在の私ではとても入れぬような銀座の高級店に行くこともできた。つまり、握り寿司《ずし》一人一個だけ、オールドパー一杯だけ、といった注文が可能だったからである。面白い時代だったので、いまでも贅沢というと、昭和二十年代半ばの大学生の気分を思い出す。  私は、自分が間違って生きてきたのではないかとしばしば思うが、その一つの発条《はつじよう》は、実はこの食というところにある。  なぜなら、食ということを簡単化すると、それは実際の料理のことでも、観念のことでも、感受性の意味でもいいが、簡単化を長く続けると、精神の世界が貧困になってくるのだ。  このことをうっかりしていた。やはりこれは美味いとかそれは不味いとかと日々言って、料理の微妙な味わいの差異を鋭敏に選び分ける感覚を精錬しておかなくてはならない。  生きようとするとき、現実的な細部を、まず抽象的な、基本的な簡単な形のものに還元して考えようとする私の性向は、大きな被害を私にもたらした。  言葉が減少、貧困化してくるのである。現在ここで書いている私の言葉の中の語彙《ごい》は、十五歳少年時の語彙の三分の一くらいになっているのではないか、と思う。  食ということを軽蔑したのが、その最大の原因ではあるまいか。なにしろ料理こそ、質というものの繊細な差異、色合いの微妙な区別、材料の独自さ、ということに意識を集中させるものだから、まさにフローベールの教訓「世に一つとして同じ樹《き》はない石はない」の場面であって、これに日々向き合っていれば、言葉が豊富になってくるはずである。  どだい私は、若い学生に、いいかい、「分かる」ということには次の段階がある、と説明している。  1 或るものを知識として理解する  2 それを使ってみる  3 それを作ってみる  4 それを食べてみる  5 それを生きてみる  ということで、食べる、ということをかくも上位に置いているのに。  もっといけないのは、私の新設の家庭はかなり料理の種類に富んでいたのに、心を遠くに置いていたことだ。というのも、女房は、戦争・敗戦時の少女のくせにどういう訳かずっとパン食で、ご飯を好まず(いまは直ったが)、最初はご飯の炊《た》き方もあまりよくは知らなかった。したがって当然、洋食和食の二種を作る。それに、和食はほとんど知らぬのだから、米の見分け方、ご飯の粒が立つとはどういうことかなどそもそもの初歩から始めて一つ一つを、信用できるお婆《ばあ》さんを探し出してきては、習わなくてはならない。困ったことに、いい教師というのはいい材料を教えるもので、いい材料の多くは高価である。しばしば私の月給は月半ばにして消えた。  ところが、それなのに私は料理の名前一つも覚えなかった。ごく簡単な野菜、魚の名前についても、もう数十回、いや百回以上訊き直しているのだろうが、すぐ忘れてしまう。週に一度は買いに行く八百屋や魚屋で、あまりにも平凡な物を、これ何? と聞いて失笑を買うことになる。  心とは奇怪なものだ。十年前くらいから私は料理の本などを読み、食べ物を表現する漢字の微妙さ、豊かさにうっとりし、いわば目でその料理の美味《おい》しさを味わっているのに、そんなことにお構いなく、心の内部では、十五歳から四十歳にかけての生の態度が、依然として進行しているらしい。  次のような文章に出会うと、私は自分が、食べることについてのまったく人間的な一領域を、欠いて生きてきたのではないかと思った。 [#ここから1字下げ] 「……今ここに並んでいる陸上の動物だがね、他の点はともかく、これらのものが我々と同じものを食い、我々と同じ空気を吸い、水浴びするのも飲むのも我々が使っている水とまあ同じというのは当然だろう。だからこの動物たちが悲しみの声をあげるのを聞きながら殺す、しかも大半の動物たちを伴侶《はんりよ》として生活を分かちあい、住居をともにしていながらやはり殺す、人間はそれを恥じたものさ。ところが海の動物の方は、我々とまったく別の種族であり、我々とは違うところに住んでいる。全然別の世界で生まれ、別の世界で生きている、と言ってもいい。目顔で殺してくれるなと言うわけでもなければ、声で哀願するわけでもない、人間に奉仕してくれたんだからと気兼ねしなくてもいい(我々と一緒に暮らしているわけでもない動物がこういう手段に訴えることなどできるものか)。彼らに愛情を抱くいわれはない。我々のこの世は彼らにとってはハデス、つまり黄泉国《よみのくに》なのだ。ここへ来るが早いか死ぬのだからね」(プルタルコス、同前) [#ここで字下げ終わり]  中庸を得て、鋭さも欠けぬいい言葉だ。こういう声に早く出会っていれば、食についての私の考えも、もう少し温和なものになっていただろう。  人はその心の性質に呼び合う言葉ばかりを求めるものらしい。私が求めたのは粗々しい言葉ばかりだった。  たとえば、今日《こんにち》はグルメブームだから、テレビにも料理番組が多く、美女達が料理を食べているところをよく見るが、すぐ思い浮かぶのは、ルソーのあまり上品ではない言葉、「アングロサクソンの女は、足がアスパラガスのようで、生肉を噛むから歯が白くて長い」(いずれも悪口だろう)というのだが、日本の若い女達もそれに似てきた、とか私は思ってしまう。 [#改ページ] [#見出し]  恋  恋愛。私のもっとも苦手なテーマだ。  いつの日か、こんなことを考えねばならぬ日が来るとは、私は夢にも思わなかった。人生は怖《おそ》ろしい。播《ま》いた種は刈らねばならぬ。なるほど、十五歳から二十歳《はたち》にかけての五年間に、私は三通りの恋愛をした。いや、私の考え方でよければ、ただ一つの恋愛、と言うべきだろう。  しかし、その恋愛を、私は心の内部で握り潰《つぶ》してしまった。いや、そんな劇的なことではなかった。時間をかけて心の内部で砂礫《されき》のように砕いてしまったのである。私は心の一部分を自分の手で殺してしまうことがどういうことか、その感触を知っている。たぶん私にはいくらか非人間的なところがあるのだろう。私が後に、あれらの理由なき殺人の犯行者に、なぜか知らぬが興味を抱くのは、そんなことに起因しているのだろう。  当時私は、二十歳の力でそれでも徹底して考えたつもりだった。恋愛とは、かなり無器用な心理的な詐欺《さぎ》である、と。私は恋愛の感情が苦痛の度に達する毎《ごと》に、自分の心を凝視した。心というものがいったいどういう存在なのか、疑わしかったからである。  なぜなら、私は自分が、自分の心というものを持った人間なのかどうか、疑っていたからである。心について考える。それは自分の心を考えるということだ。しかし、考えるというとき、言葉を使って考える。自分(だけ)の言葉などというものがあるだろうか。そんなものはない。言葉は私の発明ではない。言葉はすべて他人のものだ。したがって、私が心について考えるというとき、実は私は、心について書かれた他人の文章に沿って考えているのである。そんなものが私の心と呼べるものだろうか。私は疑った。そして私の心を監視した。  そこで明らかになったことは、私が恋愛しているというとき、その恋愛の頂点へと駈《か》け登ろうとする心の一つ一つの動向は、いっそう単純にして原型的な人間の諸性質へ、還元し得るということだった。判然と言えば、その一つ一つの性質は、正確であろうとすれば、他の名前で呼ぶべきものだと思ったのだ。  ——自己発見の要求、自己確認への欲望、自分とは何かという問いの派生物、自分が果たして本当に一人の人間の存在であるのかという疑問、混乱、自己顕示、権力の意識、献身とは何かということ、支配欲、しかし甘ったれた奴隷《どれい》にもなりたいといういっそう深い欲求、自分の向上、しかしいっそう深く堕落の底に到《いた》りたいという変な気分、自分の可能性の追求、しかしいっそう深く徹底して何もしないことへの傾斜、聖なるものへの憧《あこが》れ、しかし醜悪と卑劣への奇妙な愛着、無限への感受性、しかし、一瞬とは何か、一瞬毎に自殺し得るのだという意識、自己愛、つまり自分とこれについて考える私との協和、自己|嫌悪《けんお》、つまり自分を私が強く拒否するということ、女とは何か、それは人間として同じなのか、それとも徹底して異物の関係なのか、なぜ女について考えるとその内部から意識のくすぐったさのようなものが生じるのか、そのくすぐったさとは何か、それは女について考えるとき故知《ゆえし》れず生ずる後ろめたさの意味ではあるまいか、その後ろめたさとは何か、いや、お前は先刻知っている、それはすでに自分が恋愛の中にいるのに、改めて恋愛とは何かと問う振りをすることだ、そして恋愛しているということを自分に説得するために、いま感受している自分の心の内容を、恋愛と結びつけて考えようとする、その考えを持ち運ぶ心理が詐欺なのだ、……など(後は忘れてしまったが)もっと十も二十もの項目があった。思えば、ばかばかしい。  そのとき私は思った。恋愛の正体はこれだ、と——いわば、自分の生存とは何かと思い惑うところに生ずる、心の混乱に他ならぬ、と。  そこで私は、恋愛という言葉において、考えた心の部分を捨ててしまった。以後、この心の部分を振り返って見ることはなかった。そこは心の内部の墓場である。  いまになってその墓場を掘り起こすとは! なるほど、生きているというのは厄介《やつかい》なものだ。自分が持ち得た限りの人間的経験のことごとくは、すべて刻みつけられたものだ。消え去ることはない。死にはしない。生きてある限りはそれについて考えねばならぬ。何一つ完了しはしない。  それに、いつ頃《ごろ》からか私には分かることがあった。恋愛について、私が自分の考えの中で過失を犯し、私の生の態度が間違いであったということに。しかし、もう取り返しはつかない。  なぜなら私は、恋愛する自分の心を監視して、それは心理的な詐欺であると判決したが、いやしかし、詐欺はむしろ、そのときそう考える私の考えの内部にこそ在るのだ、ということに盲目だったからである。  世の中の、あるいは文学の、恋愛について書かれた文章が私を間違わせたのだ。  私の最初の評論集『内部の人間』の中に、「私は一つの石塊《いしくれ》を拾った……」という一篇がある。実はこれは、弱年の頃書いた文章を書き直したというか、ほぼ半分に千切って発表したものである。  最初のタイトルは「石塊にはひとつの物語がある」で、昭和二十七年初頭、大学三年のときに書き、一号で潰れた学生仲間の同人誌に載せたものだ。私は二十一歳、そしてこれは、恋愛というものを、心の内部で締め殺してしまったことについての一つの記念だった。  十数年経って、改めて自分の文章に面接したとき、私は激しい目眩《めまい》の感じに襲われた。軽く吐き気がした。なんという滑稽にして粗雑な言葉、したがって、なんという滑稽にして粗雑な心。私は自分を、文学の国に入ってはならぬ人間なのではないか、と痛く思った。  削除したのは、次のような箇処だ。 (なぜいま、こんな削除した文章を私は書き写すのか。心というものには、たいへん奇怪なところがあると思っているからだ。心の奇怪さは、自分にも訳の分からぬ、滑稽かつ奇妙な言葉の組み合わせを、次々に産み出しながら、その後を追って行く、というような動向にあると私は思う。  もう一度繰り返すが、あれら理由なき殺人の犯行者が動機について語る奇妙な言葉、あるいは病者の理解しがたい言葉、それらは本当の、裸の心の声、なのではないかと思う。犯行者・病者は、そのとき心が掴《つか》んだ奇妙な組み合わせの言葉を、そのまま純粋に裸体で演じているのではないか、と思う。  そして実は、恋愛こそ、心が産み出す奇妙な言葉の組み合わせの、その基本形になるものではないか……と、いまの私は思う) [#ここから1字下げ] 「その頃私は、年若なさまで可愛《かわい》くもない女を、愛してしまっていた。いろいろ馬鹿《ばか》な真似《まね》もしてみたが、つまりうまくゆかなかった。相手がまだ幼い頃から忍耐強くやってみて、さてそのあげく、その女が私に一番印象的なのは、私が全く何もできない凡庸な点でと、確めてうんざりした。お得意の作業で、任意のという一点にまでその女を還元してみたところが、どうにもならない。断っておくが、恋愛なぞ私は嘘《うそ》だと考えている。それは、密接に結ばれている物の間に挿入《そうにゆう》される歪《ゆが》んだもの(注1)、たとえば眼《め》と物との間に遠近法が介入して以来のものである。恰《あたか》も、その形という倫理物(注2)が視覚の理論へと換位したように、倶《とも》に大地を掘るという行為が(注3)心理へと移行したらしい。女が男の手ではなく、自分の心理に易々《やすやす》と浮かれているのは、私にはいまいましい事である。そいつがまずかったとは思う。いい機嫌《きげん》になっているその女を見ると、言う事もなかったが、うまく言えるはずもなかった。それに言葉を交わしたのは、さあ何度くらいだろう、とにかく年に数えるほどのものだ。とどのつまり言ってみた——女なぞ、あなた捨ててしまうんだね、と。その女は何のことやら、無邪気に笑っていた。これが破局である。その発端と結着とを、私だけが握っているが、もっともその女の知ったことではない。おかげで、いまでも私はその女と仲良しだ。  しかし、無邪気というこれには、めんくらった。粒の粗い素描で象《かたど》られる女にも、それがある。以後、ひとつの円を描いてもそれにその女の全容を見てしまうことは(注4)、しばしばだった。で、私というその形は(注5)、もしや損なわれているものではないか? と。思えば笑わせるが、ずいぶん屈託もしていたのである」 (注1)これらの滑稽な言葉は、当時の私のひび割れた頭が生み出したものだ。ことによったら、軽いノイローゼだったのだろう。後に、ミンコフスキー、セシュエー、ブランケングルの精神医学書に載っている病者の言葉が、当時の私の言葉にあまりにもよく似ているので、私は驚いた。その頃私はよく歩いていたが、その一歩毎に、つまり一瞬毎に、私が立っているところの全体——空、光り、雲、樹木、屋根、電柱、砂利道、道端の石ころ、そして私がいるその全体が、一つの存在の絵として完結している、という強い感覚に襲われた。その絵の中で、私の位置は決定され、私の行動は絵にとっては既知のものに過ぎない、と。私は自由ではない、この絵を逃れることはできない、と。  自分はいったいなぜ存在するのか、という奇異な感覚に私は全身を覆《おお》われていた。そういう者には、存在ということが、この完結した絵の全体のように思われた。すべては隙《す》き間《ま》なく密接し、共に在るという根柢《こんてい》において連続し、不可分である。この小石を完全に消滅してみよ、海の全体が揺らぐであろう(パスカル)というように。改変などということは考えられぬ。私は存在の絵に密封されているような気分で息苦しかった。呼吸する空気の感触は、ごつごつした翻訳文のスピノザの文章によく似ていた。「スピノーザのス[#「ス」に傍点]の字でも心がをどります」と書いた嘉村礒多《かむらいそた》は、きっとこんな気分で毎日暮らしていたのに違いない。  そしてもう一つ、この絵の全体は完結しているのだが、絵の中の私の位置のところから、奇妙な感触のものが発していた。それは、絵の全体は必然にして不可分なものだが、そこに置かれた私は、ポツンと切り離された任意の一点であり、なぜそんな一点が在るのかといえば、絵の全体に対する、一つの罪の因子として必要なのだ、という奇異な感覚である。  この奇異の感覚から、二種類の感情が同じく生ずる。  一つは、この存在の絵を、爪痕《つめあと》一つも傷つけぬために、自分を無化すること、すなわち、ほとんど何もしない、ということだ。私はこの行程を進んだが、これは社会とは出会いにくい道だった。  二つは、罪の因子である、というところを逆転して、この存在の絵を、犯すことだ。存在の絵を破ろうとすれば、それは必ず犯罪めいた凶行になるであろう、としばしば感じた。私は思う、あれらの理由なき殺人の犯行は、存在の絵を破ろうとして始められるものではあるまいか。  そして、恋愛は、この存在の絵を揺すぶろうとして動くこと、と考えられた。しかし、何を根拠に? しかも、それは、いま挙げた二つの感情と二つの行為の間の、中間者である。中間者であるというところに、私は心理的な詐欺を感覚した。 (注2)形というのは、存在の絵のことである。私はその絵を瞬間において感触したが、絵の中の人生にも、それなりの形があり、たぶんそれを運命と呼ぶのだろう。ただし私がそのとき感触していたのは違ったことだ。風景画のようなこの存在の絵の全体が、一種の倫理物[#「物」に傍点]として感ぜられたのであり、たぶんそれが、生きて在るということの意味である、と思われたのだ。 (注3)したがって、男と女が倶に居る、ということは、この形においてしか考えられなかった。それに私は敗戦時の少年だった。私の眼前で、焼け跡に立つ男と女は、まず第一にこの行為をしていた。生存に必要な行為がある。そのために男女が結び合う。この必要に比べれば、恋愛なぞ心理上の幻影に過ぎない、と私は思ったのだ。 (注4)その頃しばしば私は、三角形とか円というものを、不思議なものに思い、奇妙に悩んでいた。なぜなら、それは形だから。しかも存在の絵の中には見出《みいだ》せない形であるから。三角形とは、いかなる形のものであり、また、その形であるということに何の意味があるのか。三角形の内角の和は二直角であるというとき、私は、或るものがその定義の内部に完封されて出られず全身で緊張している、と感ぜられた。ときには、外に向けて自己を開くことができず泣いているとも。そんなふうに妄想《もうそう》的な観念をじっと凝視していると、それはしだいに人の姿に見えてくるものだ。この場合、三角形が私であり、円が女である。 (注5)だから私は、三角形にはその形があってそれを説明する言葉があるように、私というものにもその形があって、それを説明する言葉がなければならぬ、と思っていたらしい。私とは何か、ではなく、私という形とは何か、と。いわば、私における生の位置と生の定式といったものを明瞭化したかったのだ。  だが、そんな問題の解ける訳がない。けれども、答えのないことを知りつつ私はこの考えに執着した。この辺りがノイローゼだ。  そして、実はこれも心の詭計《きけい》の一つだが、こんな単純なことも考え通せぬようでは、もしかすると、この私は最初から毀《こわ》れた形のものとして在り、そういう滑稽として存在の絵の中に置かれているのではないか、という方へどんどん心を傾斜させていった。  私はただ不安だった。その不安を中断して恐怖が電流のように流れる。自分が何か根柢的にひどい間違いを犯して生きているのではないか、という恐怖があった。 [#ここで字下げ終わり]  以上が、恋愛についての、私の三通り目の経験、つまり最後のものだ。以後私は、恋愛を、心の内部から抹殺してしまった。  いま思ったのだが、きっとこのとき私は、恋愛とは何か、それはどんな形のものか、そこに何の意味があるのか、などと考えていたのに違いない。SF映画によく出てくる、眼鏡をかけて変に大人ぶった、そのくせ未熟さ丸出しの少年学者よろしく。阿呆《あほう》もいいところだ。  しかし、恋愛とは何か。それはついに不可解だった。  私は『ダフニスとクロエー』に始まって、『クレーヴの奥方』その他の小説を沢山読んだ。小説には必ず恋愛の光景がある。しかし、どの小説も、私が漠然《ばくぜん》と疑い、だからその正体を追究しようと思っている、恋愛のイメージからは遠かった。  スタンダールの『恋愛論』は、男女の恋愛交渉の細部を分析して、まことに明晰《めいせき》、犀利《さいり》、深刻なものであったが、なぜかそのとき私が抱いていた恋愛のイメージとは、一行も触れ合うところがなかった。  ああそうか、外国の、そして社会のいわゆる恋愛とはこれなのだな、と思った。私はスタンダールの描く恋愛幾何学の精妙さに目を奪われ驚嘆した。しかし、説かれる恋愛のその内容については、異質感があって、まるで無縁のもののように聴いた。私は彼の幾何学に魅惑された。が、恋愛の中身については疑った。  それは仕方のないことだ。実はスタンダールも『恋愛論』の「序文」で言っていることだ。 [#ここから1字下げ] 「まづ大きな石盤上に描かれた可成《かなり》複雑な一つの幾何学の図形を想像してくれ給《たま》へ。よろしい、私はこの幾何学の図形を説明しよう。しかしたゞ一つ必要な条件がある。即ちそれが石盤上にすでに存在する[#「すでに存在する」に傍点]といふこと。私自身はそれを引くわけには行かないからである。この不可能こそ恋愛に関して小説ならざる一書を書くことをかくも困難たらしむるものである。この感情の哲学的検討[#「哲学的検討」に傍点]を興味をもつて辿《たど》るためには、読者の才智《さいち》以上の何ものかゞ必要である。読者がまづ恋愛を見た経験があることがどうしても必要だ。ところでどこに恋愛が見られるだらうか」 [#ここで字下げ終わり]  この本の中でもっとも光彩ある数行だ。うっかりするとそれは、この恋愛論が建てられているところの礎石自体を打ち壊しかねない。 「ところでどこに恋愛が見られるだらうか」 「私自身はそれを引くわけには行かないからである」  私自身は、この二行のところで足踏みをしている状態だ。私の気質なら、無限に足踏みをしているだろう。たぶん果てしのない思考の空回りを演ずるだろう。私はスタンダールに感嘆した。これこそ強靱《きようじん》にして健康な懐疑というものだ。デカルトの「私」もそうだが、この「恋愛」も、何か明瞭にして判然とした存在、社会人の、大人の、現実感覚に裏打ちされた、いわば形ある存在なのだ。ところが、私が彼等の一、二行の尻馬《しりうま》に乗って走り出すと、そこが訓練を受けたことのない散漫な思考のせいで、思考の波を操ることばかりに気を取られ、たちまちにして本当は追究すべき目的であったもの、恋愛とか私という実体を、見喪《みうしな》ってしまうのだ。というより、私が何かを考え始めると、考えるべき当の目的であり内容であったものが、その存在を少しずつ消してゆくのだ。たぶん私は、生《せい》の行程を、目をつむったまま後ろ向きに歩く人間のタイプなのだろう。いや、私のような種族はかなり多数にいるのだ。  しかし、どうだろう? あの二行、「どこに恋愛が見られるだらうか」「私自身はそれを引くわけには行かない」ということを発条に、そこを逆に歩いてみて、何かわるい訳があるだろうか。  先に私が自分の馬鹿気た文章を引用して粗笨《そほん》な解説を付けたのも、そんな一つの例題をお座興に、という意味でだ。  見られるとおり、これは、生のまったくの混乱である。  新しい生の場面の開拓という意思とともに、まったくの幼稚と未熟が同居している。現実のもっとも原型的なものを掴もうとしながら、そこからもっとも遊離した、空虚な像へと手を延べている。わざとのように、奇妙な考え方をしようとしている。言葉がちゃんと連繋《れんけい》していない。ときに短絡、ときに非連続。本来なら右手と左手とに分けて考えるべき、若い女という現実と、三角形というような抽象とが、まったくの等価値、まったくの等記号として、入り乱れている。思考の異なった水平面とか次元といった枠組みが無視黙殺され、すべて異質のものが強引に組み合わされている。いわば、〈あ−1=[#「=」はゴシック体]倫理〉というような定式の組み立てを求めて、あせりながらさ迷う、滑稽を演じているのだ。  しかし当の本人は、滑稽にではなく、ちょっと誇張すれば、必死の真剣さで行なっているのだ。いったいこれは何か。そして私は実は、どんな人間もその生の過程においては、必ずこの奇妙な一時期を経験する、見舞われるはずだ、と思っている。  いったいこれは何か。と考えて、どうか私の独断を許されたい。そこでの奇妙な考え方や言葉の混乱は、実は自分の時間というものを混乱させるべく生じた、と思うのだ。  幼稚さは、自分の過去の礎石、幼児性を招くことから生ずる。空疎《くうそ》さは、自分の未知の礎石、新しい未来を強引に招来せしめることから生ずる。つまり、ここにあるのは、自分の過去・現在・未来を、一望の下に見たい、という欲求である。あるいはこうも言える。自分の過去・現在・未来を、時間の順序に従って考えるのではなく、時間を無化して、過去・現在・未来を、まったく等しく倶に在るものとして迎え、その三者を攪拌《かくはん》すること、いわば、入り乱れさせ、交錯し合うものとすることだ。こうして文章に書いているとおかしな感じだが、なに、心理的現実としては、これは日常的にしばしば生ずることだ。  なぜそんなことが必要なのか。おそらく、と私は思う、それは人が、その内容を誰も教えてくれる者のない、一人の新しい「私」という人間として歩き出すために、必要なのだと。  正《まさ》しく生の混乱には違いないが、その混乱は、白紙状態の上に私という人間の素描を試みるためには、無ければならぬからだ。なぜなら、その素描は、あたかも小学生が白紙の上に初めて図画を書く感覚で、過去と未来を貫く、一本の線で描かれねばならぬからだ。過去と未来とが、あたかも物の現前のようにそこに在る、という感触で、線は引かれねばならない。  その混乱の中に、一瞬出現しては消えてゆくのは、人が私として生きるための全骨組み、といったものであろう。換言すれば、目もそむけるような自分の正体といったものが赤裸かにされるのだ。この上ない人間喜劇の一場面である。どうして小説家達が、もっとこの光景を主題にして描かないのだろうか。  奇妙な生の混乱がある。それは、人が新しく「私」という人間として歩き出すためには、絶対に必要なものだ。  ——ここで、私は判断する。この奇妙な生の混乱を呼び寄せる心の衝動こそ、「恋愛」の起因ではあるまいか、と。したがって、恋愛の中身とは、この生の混乱自体のことに他ならぬ、と。  そんなふうに考えると、スタンダールの規定した恋愛とは、まるで内容の異なったものになってしまう。  いや、スタンダールの言う恋愛は、まったく明晰で、確実な存在である。彼が間違う訳がない。  いかにもそうだ、間違ったのは私の方だ。私はこれまで、いわゆる大人の「恋愛」と、「初恋」とを、区別してこなかったからである。  実は私は、「初恋」といわゆる「恋愛」とを、截然《せつぜん》と区別している。初恋も、恋愛の一種には違いなかろうが、この二つは、ほとんど截然と異なった、まったく異質の存在といってもいいものだ。  果たしてそうなのか否《いな》か、私が経験した二通り目の恋愛の場面に移ろう。  それは十六、七歳のときだった。  私は学校へ通う途中、対向車線のプラットホームにいるたぶん同年齢の女子学生に、強い恋愛の感情を抱いた。毎日毎日その顔を眺《なが》めて、毎日毎日その感情を確かめた。  で、どうした? いや、それっきりのものだ。なるほど、小説に書こうとしても二、三枚にしかならない。何も起こらず、何も生じなかった。完全にそれだけである。 (一年くらい経《た》ってから、そのホームの同じ位置に、同じ姿で、私の一通り目の恋愛衝動の相手の女が立っているのを、偶然に見つけたとき、追っかけて行って、朝の通勤電車内で相手の腕を掴むという、変な痴漢じみた行為に及んだことがあったが、それはまた別のことだ。どだいそれは恋愛感情の行為ではなかった。まったく人間的には厭《いや》な行為であった。なぜならその行為は、二通り目の相手に対する恋愛感情が完了してしまった後、奇妙に堕落したいという心の傾斜から生じた、ある犯罪的な気分の行為である。よし、一匹の南京虫《ナンキンむし》になって生きてやるぞ、とか思っていたのだ。正確さを望むなら、その行為は、二通り目の相手に対する恋愛感情が完了してしまったのに、その後になって、何か未《いま》だ仕残したことがありはしなかったか、という妄想から出発する、人を置き換えての、架空の犯罪めいた行為だったのだ。この、人を置き換えての空虚な行為であるという点が、自分のことながら許しがたい)  しかし、二通り目のそのとき、私は充足していた。私は恋愛している、という意識に私の全身が輝いた。  つまり、そのとき私は、自分自身が、また、私が置かれているところの現実や、私を取り包んでいるところの世界が、まったく新しい未知の輝きを帯びて初めて眼の前で開けてゆく、というような感覚に撃たれていたのだ。  聖なるものへの生きた感触が生じた。むろん、言葉や観念は読んでいたが、そんなものは死んだ活字に過ぎない。  無限ということの感触を知った。  永遠ということの感触を知った。  以上の三点は、私の人生でもその後二度と出会わぬものだ。私は不思議に思う。なぜ生活するために生きる現実の密接な連鎖の中に、このような現実否定の感触が閃《ひらめ》くのであろうか。  恋愛の感情は、無限とか永遠というものに強く魅惑される場合の心の動きに、非常に酷似していると思う。  むろん、反対に、女の顔を眺めているとき、このまま時間が止まってしまえばいい、と感ずるのだから、瞬間のもう一つの異なった面を(早く過ぎ去れではなく)改めて感触することになる。  なおかつ、私自身に深い穴が穿《うが》たれる。  秘密ということが、日常的な意味とはまったく違った意味で現われる。何かを隠すのではない。秘密であるということそれ自身が、暗い引力を有し、その穴は私の生存の根に直結し、その周囲に生のもっとも微細で繊細な部分を形成している、と感じるのだ。心には秘密ということだけが守る柔かい部分があるのだ、と。  その秘密の穴は、鏡のような対極を持っている。  神秘というような感触を知る。  彼方《かなた》という言葉が、初めて謎《なぞ》めいた感触のものとして知られてくる。  美ということもそうだ。美しさが、これほど心を惑乱させるものだとは知らなかった。  ——以上のようなことは、いずれも、私の生が日常の現実生活と密着しているときには、生じなかったものだ。  つまり、恋愛の感情は、私を、日常や現実から切り離して、宙に浮く一個のものとして放り出したのである。いや、だから私は、そこを逆に言いたかったのだ。実はそういう発見に満ちた生の混乱が最初にあって、それが原型で、その混乱が人間的な衣装をまとったとき、そこから「初恋」の形の恋愛が出現してくるのだ、と。  とにかく、その恋愛感情の中で、あらゆる人間的諸感情が、ほとんど新しい感触で、次々に継起しては通り過ぎてゆくところを、私は眺めた。自分が新しい人間に、未知の人間に、生れ変わってゆくような気分だった。  むろん、それら一切のことの中心には、女の顔があった。  しかし、あえて一歩でも近付こうとはしなかった。何も語ろうとは思わなかった。そうしたいと思う度毎に、いっそう深い根柢からの声が、そうしてはならぬ、それをすれば奇怪なことが生ずる、という禁止を告げるのだ。私は奥からの声に従った。それでよかった。たぶんそうしなければ、無限とか永遠の感触が私の内部で熟することはなかったろう。  これが、「初恋」という形の「恋愛」のパラドックスだ。近付こうと思えば思うほど、いっそう強く近付いてはならぬという声に撃たれる。  自分が引き裂かれる、意識の二重性、などというのは無器用な言い方だ。一つのものは、常に、絶えず正反対の方向に走り出そうとするその緊張の形において在るのだ、ということが感受される。生の構造についての最初の暗示を感得する。  恋愛とは、そういうものではあるまいか。これは本当は奇怪な感情なのだ。現実を切断したり、時間よ止まれ、というような。単に女を好きになるということではない。  私は、女への愛情のことや性的なことを書いてこなかったが、生の混乱の凝縮点であるような女の顔=[#「=」はゴシック体]恋愛の顔に、それは結び付かないのである。  私は、世間のいわゆる「大人の恋愛」については、何も言ってこなかった。よく知られていることだと思ったから。しかし私は、その恋愛の背後には、やはり、高貴なものへの憧憬《しようけい》、献身への意思、あるいは反対に、破壊への衝動、残酷への傾斜といった、人間の基本的な性向が織り成すドラマがあって、そのドラマの水脈は遠く、この初恋の形の奇妙な生の混乱を、水源地にしていると思われるのだ。  恋愛の急所を一言で貫いているのは、やはり古代の人の言葉だ。よくよく考えてみたが、これ以上にリアリスティックな言葉もないものだ。  恋愛、それは神聖な狂気である、と。 [#改ページ] [#見出し]  友  友。これはもっとも語りにくいテーマだ。  いまになってそう思う。これは、本当は人生において、もっともありふれたテーマのはずである。私の生の現実の中に、文学の中に、材料は到《いた》る処《ところ》にごろごろと転がっているはずであった。しかし、いま改めて友について語ろうとすると、倚《よ》るべき言葉が寡《すくな》い。あるいは、言葉の頼るべき内容が乏しい。なぜだろうか。  これはおかしなことだ。われわれの抱くごく人間的な感覚・感受性・感情の多くは、そして精神の根柢《こんてい》の大部分は、たぶん幼稚園の頃《ころ》から始まった友との交際において、種子《たね》を播《ま》かれ、育ち、養われたものであるはずなのに。  しかしいま私は書き悩んでいる。そして自分に問う。  友は在るか、友は在る。しかし、「友」とは何か。  私はこの九年ばかり或《あ》る理科系大学で文学の教師をしている。レポートを書いてもらう。すると若い人達が読んだ彼等のいわゆる「純文学」の作品名が出てくる。それを見て私は一驚した。軽く不思議の国に迷い込んだ気がした。なんと! 私の若い日の読書とほとんどそのままだったからだ。漱石《そうせき》や志賀直哉《しがなおや》や明治・大正・昭和戦前の名作が並ぶ。それはいい。しかし私を鋭く刺戟《しげき》したのは、一つの不在である。つまり、「戦後」の不在。第一次戦後派から大江健三郎に至る流れがほとんど空白である。  その不在は、一つの疑問を私にもたらした。私が確かに生きてきたところのあの「戦後」とは、いったい何だったのか。  しかし、いまはそんな大問題を追究すべきときではない。後回しにしよう。  そのとき、一つのことが私の目を引いた。武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》『友情』が、かなりしばしば登場することだ。  私の若い日と同じである。これは、われわれ中学生の必読書といっていいものだった。若い生の悩みは友との背反から生ずる。ははあ、人間の生の行程にあまり変化はないものだな、と微笑したとき、ふと、小さな疑問が閃《ひらめ》いた。  それにしても、いわゆる戦後文学には、友情を主題にしたもの、あるいは、友の存在を輝かしく感ぜしめるものが、何かあったろうか? なるほど、『暗い絵』があると言われる。しかし、それから……? 怠惰な私は、ここで足踏みしたくない。いまは偏見と独断によって進みたい。私は自分に言ってみる——ほとんどまったく無いのだ、と。  では、戦後のもう一つのいわば現代文学的な流れ、第三の新人以降の文学はどうか? われわれの文学(小説)は、題材を常に日常に求めるゆえに、登場人物には絶えず友みたいな人間が登場してくる。ことに第三の新人達は、交友関係を題材にして描くのに長じていると言われた。しかし改めて考えてみると、友あるいは友情を主題とするものは、ほとんど無かったのではあるまいか?  この疑問の捨てられなくなった私は、頭をめぐらして、改めて、明治・大正・昭和戦前の文学を振返り見た。友情を主題としあるいは友を輝かしく感ぜしめる文学(作品)は、何処《どこ》に在るのか?  私の読書経験は、ほとんどまったく無い、と告げていた。  いったいこれはどういうことか?  なぜなら、怠惰な私は漠然《ばくぜん》とだが、日本の文化は中国文化に影響されることはなはだしく、ゆえに日本文学にも東洋文学の影響色濃いものがあると思っていたからだ。そして、まことに自分勝手な感想になるが、今日なおわれわれが面白く読んでいる『三国志』や『水滸伝《すいこでん》』にしても、あれは、歴史のドラマを背景に、「壮士(痛快男子)」と、彼等の「友情」物語を描いたもの、と私は思っていた。漢詩を眺《なが》めても、友あるいは友情について述べたものはかなり多い。東洋文学の特色は、恋愛ではなく、友情を描くところにあるのだ、とさえ思いたいくらいだ。  すると、どうだろう? 日本の近代文学(純文学)は、この東洋文学の特色についてどういう態度を取ったのか。私は冗談半分に断案したい。近代的人間の内容としての「恋愛」を描くことに熱中するあまり、伝統的な「友情」物語を描くことを忘れていたのだ、と。  いや、うっかりするところだった。時代小説ファンが唇《くちびる》をゆがめて嗤《わら》う。あなたは大衆文学を忘れてはいませんか? その通りだ。ここでは却《かえ》って名作なぞ挙げぬ方がいい。以前にあった貸本屋の棚《たな》に並ぶような大衆文学は(通俗小説は現代物)、常にはなはだ友情物語に富むものであった。読んだ人なら知っている。大衆文学ファンは知っている。  してみればこうなる。われわれの近代文学が、伝統文化から受け継いだのは、純文学が「歌」と「恋」であり、大衆文学が「剣」と「友情」である、と。  大衆文学は、純文学が無視した、日本の伝統文化の幾つかの価値を一心に守っているのだ。  と、こんなふうに感想が走ったところで、思わず私は足を止める。自分を疑う。ぜんぜん間違っているのではあるまいか?  それはこの「友情」のところだ。私はいまそれを伝統文化の一つとして挙げた。そのためには証拠がなければならない。では、近代化以前に、友を輝かし友情を主題とするような文学が、何処にあるのか。古典として何を挙げるべきか。  ここで私は困ってしまう。私は明治以前の日本文学に暗い。ことによったら今日の大学受験生より不案内である。それなのにこんなことを書いているのは、漠たるしかし強い疑惑が生ずるからだ。  ——われわれの日本文学には、「友情」を主題とした確乎《かつこ》たる作品が、たぶん見当たらぬのではないか、ということ。  こういう場合には、私は、薄手な生活をしているわれわれ現代人より、はるかに深くはるかに広く、数倍する心の領域を詠《よ》んだ西行《さいぎよう》の『山家《さんか》集』を覗《のぞ》くことにしている。次のような歌が認められる。   友になりて同じ湊《みなと》を出づるふねの行方もしらず漕《こ》ぎ分れぬる   我がそのの岡べに立てる一つ松をともと見つつも老にけるかな  なるほど、友は在る。しかし、この友は、なにか生の郷愁の凝縮点というようなものであって、友情というイメージと連続するものではない。  もっとも、一昨年に恋愛の記述を探すつもりで読んだ小島|憲之《のりゆき》編『王朝漢詩選』には、次のものがあった。藤原宇合《ふじわらのうまかい》の「在|常陸《ひたち》贈倭判官留在京」という詩の一節。   知己逢《ちきあ》ふこと難《かた》き 今《いま》に匪《あら》ざらく耳《のみ》、   忘言遇《ばうげんあ》ふこと罕《まれ》らなる 従来然《むかしよりしか》り。   為《ため》に期《ねが》ふ 風霜《ふうさう》の触《ふ》るることを怕《おそ》れず、   猶《なほ》し巌心《がんしん》の松柏《しようはく》の堅《かた》きに似《に》んことを。 (心を許す親友にあいがたいことは今のことのみではない、気のあった友にめったにめぐりあえぬことは昔より変りがない。  だからこそ願うわけなのだ、きびしい風や霜が身を犯すことなど恐れず、やはりわれら二人の常磐《ときわ》の如《ごと》き心が寒さの中の松と柏《かえ》さながらに堅い友情を保ちたいと)  という意味だそうだ。また、その数ページ前には、注に「かたくゆかしい朋友《ほうゆう》の交りをいう」とある「金蘭《きんらん》」という言葉を使った長屋王の詩もある。  では、友情は作品化されていたのか。しかし、これらの詩は、いかにも特殊な状況であり、社交の辞であり、その上漢詩の世界をなぞったもののように感ぜられる。  なにかもっと散文の世界で、あるいは物語の形で、友情という主題を描くリアリティある記述はないものだろうか。教えてくれれば私はそれを読みたい。  もう一度繰り返すが私は疑っているのだ。東洋文学の伝統に沿って古代の詩に表現された、この友情という主題は、日本文学の進行と深化とともに、背後に隠れ、消えてゆくのではあるまいか、と。  一転して、おそろしく卑近な処へ話を移そう。私は、『東海道中|膝栗毛《ひざくりげ》』を、ざっと二百年前の江戸期の庶民の生態を生き生きと描いたものとして、面白く読んでいるが、あの弥次郎兵衛《やじろうべえ》・喜多八《きたはち》の二人は、友であろうか。道中記の一半は、友情物語といっていいのであろうか。  物語の中の出来事を眺めれば、そうだとも見えるが、判然とそうだとは言い切れぬ。二人の行動は、友であり、友情でもあるのだが、二人とも、そういう意識・感受性・思考を、注意深く心の襞々《ひだひだ》の背後に隠してしまう。やっと言ってみても、「人|喰《く》ひ馬にも合口同士《あひくちどし》」(七編序)といった仲だ。  ふと、こんな滑稽《こつけい》な感想さえ浮かんでくる。私は、史実であり物語であり演劇であるところの、あの「忠臣蔵」があまり好きではない。どうしてあんな行動をしたのか、その人間の心の根が分からない。全体に得体の知れぬ感じがつきまとう。不気味の感覚がある。しかし、大衆に喝采《かつさい》され、その喝采は世々受け継がれて今日に至っている。なぜだろうか。江戸以降の町人が、あんな武士の行動や心理に共感し心酔したのだとは、とても思われぬ。もしかすると、と私は思うのだ、最初はともかくしだいに後になると、あの忠臣蔵が、一種の友情物語の代用物になってくるのではあるまいか、と。  友あるいは友情について、すっきり語っているのはモンテーニュだ。 [#ここから1字下げ] 「およそ和合《ソシエテ》くらい自然が我等に勧めたものはないであろう。だからアリストテレスは、『良き立法者たちは正義《ジユスチス》よりも友愛の方に心を用いた。』と言っている。ところで、和合《ソシエテ》の完成の極に達せるものがこの友愛である。まったく、一般に快楽や利得や公私の欲望などが醸《かも》し出すもろもろの和合は、それだけ美しくも気高くもないのである。それらは、友愛の中にそれ以外の原因や目的や成果を交えているだけ、それだけ友愛ではないのである。  かの古代の四種類、即ち、自然的和合、社交的和合、主客間の和合、性交より生ずる和合は、個々にしても一緒にしても、とうてい友愛には比ぶべくもない」(『随想録』関根秀雄訳) [#ここで字下げ終わり]  もっとも、彼は友愛について、上等下等の区別というか、ギリシアの少年愛がよく表現しているような友愛と、自分が見出《みいだ》しかつ経験した純粋な友愛とを、区別している。 [#ここから1字下げ] 「(少年愛的な友愛は)要するにアカデミイに対して最も有利にいえば、『それは友愛に終る恋愛であった』ということになるのである。これは、ストア学者の恋愛の定義≪恋愛トハ、ソノ人ノ美シサニヒカレテ、ソノ友愛ヲ願フ心ナリ。≫(キケロ)にかなわないではない。だがわたしは、これよりもっと公平無私なる愛の記述にもどろうと思う。≪人ハ年|長《た》ケ性格ガ完成セラレテ、始メテ友愛ノ意義ヲ悟ルコトヲ得ベシ。≫(キケロ)  要するに我等が普通に友とか友愛とか呼んでいるものは、何かの機縁ないし便宜のために結ばれた近接|親狎《しんこう》にすぎないので、ただこれらによって我等の霊魂は相つながっているにすぎないのである。ところがわたしの言う友愛においては、二つの霊魂は互に混和し渾然《こんぜん》として一つになっているから、両方がいかなる点で結ばれているかはもうわからないのである。いくら『何故|汝《なんじ》は彼を愛したのか。』と追求されたって、ただ『それは彼であったから。』『それは我であったから。』と答えるより他に、言いようがないと思う」(同前) [#ここで字下げ終わり]  あんまり純粋なものは観念的である。こんな友愛、果たして日常的に可能であろうか。  それはともかく、実は私が引用しようと思ったのは、この断案に至る前に展開された、ギリシアの少年愛的友愛についての批評の言葉だ。 [#ここから1字下げ] 「もしそれがもっと高邁《こうまい》な心の中に生ずると、その方法もまた自《おのずか》ら高尚《こうしよう》になった。即ち宗教を尊崇し・法律を遵守《じゆんしゆ》し・祖国の福祉のために死する・の道を教える哲学的教育、勇気・慎重・正義・の模範であった」 「その時には、愛せられる者の心の中に、精神的美の仲介で、精神というものを理解しようとする欲望が生れるのを常とした」 「(アキレスとパトロクルスの愛の或るかたち)……そこから公私両面に極めて有用なる果実が産れ出たとのことである。それはこの習慣を許容する国の力となり、また、公平と自由との主要なる擁護《まもり》ともなったとのことである」 「さればこそ彼等はこれを神聖なる愛と呼ぶのである。そして、彼等の説に従えば、これを排斥するのは暴戻《ぼうれい》なる君主と卑怯《ひきよう》なる人民ばかりなのである」(同前) [#ここで字下げ終わり]  ここが私に面白く思われた処《ところ》だ。友愛は、一方では公平・自由に結び付き、他方では暴戻なる君主・卑怯なる人民を拒絶するものだ。  では、われわれの国日本はどうか。これは友愛に富む国か?  かくして私は元の場処へと戻ってきた。  友は在るか、友は在る。しかし「友」とは何か。  そして、「友情」物語は何処《どこ》にあるのか。  日本の文学は、父子兄弟の情、夫婦の情、君臣の情を描くことに長じている。内容に富んでいる。しかしこれに反して、「友情」は、真に確立されては来なかったのではあるまいか。  他人と他人を結ぶものには「恋」があった。しかし「友」はどうであったか。  おそらく、と、私は性急に感想を走らせるのだが、われわれの近代文学創始に当たっては、新しい「恋愛」を描くことを要請されたが、その背後で、「友愛」を描くことも要請されていたのではないか、と思う。  われわれの文学が描き始めた「初恋」は、なんだか恋愛でもあるような友愛でもあるような、不思議な味わいのものであった。というより、われわれの恋愛は、友愛と対立して、比較されることがなかった。  では、「友情」はどうか。友情と言うとき、この言葉そのものが、また、その内容を説く言葉が、なぜか外国産でありかつ新規の情であるかのごとく、私の耳には聞こえる。  それだからか、友情を説く言葉は、現在の現実の上に展開されることを避けて、大衆文学の中へ逃げ込んでしまった。  それもこれも、すべては、「友」を起点とする生の網目が、われわれには非常に乏しいからではあるまいか。  ——ここで、私の感想は、滑稽を犯しながら途方もない処へ走ろうとする。  もし、「友」を起点とする生の網目が乏しかったら、それはどういう事態になるか。  二つのことのヒントに、福沢諭吉《ふくざわゆきち》の言葉を引用する。 [#ここから1字下げ] 「古来の因襲に国家と云《い》ふ文字あり。此家の字は人民の家を指すに非ず、執権者の家族又は家名と云ふ義ならん。故に国は即ち家なり、家は即ち国なり。甚《はなはだ》しきは政府を富ますを以《もつ》て御国益などゝ唱《となふ》るに至れり。斯《かく》の如きは則ち国は家の為に滅せられたる姿なり」(『文明論之概略』) 「アジヤ諸国においては国君のことを民の父母と言い、人民のことを臣子または赤子《せきし》と言い、政府の仕事を牧民の職と唱えて、シナには地方官のことを何州の牧《ぼく》と名づけたることあり。この牧の字は獣類を養うの義なれば、一州の人民を牛羊の如くに取扱う積りにて、その名目を公然と看板に掛けたるものなり。あまり失礼なる仕方には非ずや」(『学問のすゝめ』) [#ここで字下げ終わり]  福沢がここで口を酸《す》っぱくして言っているのは、一国の組織というか普通の社会にあっては、「かの実の父母が実の子供を養うが如き趣向」は成立しない、むろん、「聖明の君と賢良の士と柔順なる民」などというイメージは、極楽の有様を摸写したような夢物語である、ということだ。  なぜなら、社会のすべては、「実に他人の附合《つきあい》なり。他人と他人との附合には情実を用ゆべからず」だからだ。こんなことを書いているとなんだか小学三年の教科書でも写しているようで、手がむず痒《がゆ》くなる。しかし、こんな声がベストセラーになった明治を私は尊重する。  しかし、その後の現実の進行は、福沢の声を軽く乗り超えた。あるいは黙殺した。  たとえば「天皇」。文学的な証明は困難だが、日本人は天皇を国の「父」のように思ってきたという。昭和六十四年一月七日、天皇が亡くなられたとき、テレビの画面が街角を映し出して道|往《ゆ》く人に天皇への感想を問うたとき、いまの若者達さえ、天皇って国の父親みたいなものですか、と言っていたのが興味深かった。  さて、私の滑稽な感想の一つというのは、実はここの処だ。  なるほど、われわれ日本人が、天皇に或る種の親密な感情を抱いていることは事実らしい。否定しても始まらぬ。問題は、その親密さの中身だ。どういう心の根から発しているのか、ということだ。やはり天皇は国の「父」なのか。いや、私は疑う。そんなことは考えにくい。われわれは現実的にいつも親を乗り超えて生きている。その感覚に照らしてみれば、父子の情などである訳がない。  おそらく、と私は思うのだ。天皇への親密の感情の底にあるのは、判然と確立されないために出口を失った、日本人の「友愛」の発露、その代償行為といったものではあるまいか、と。  福沢が、社会はすべて「実に他人の附合なり」と口を酸っぱくして言ったとき、残念ながら、その他人の附合の中には「友愛」というものがあるはずだ、とは同時に説かなかった。惜しいことをした。友愛という生の網目がもっと強く張られれば、われわれと天皇の関係も別様になっていたかもしれない。  いや、これは愚かな感想だった。福沢には「友」についてなど語っている暇はなかった。彼は、友という以前の大問題について一心に説かねばならなかった。  ここで、もう一つの福沢の言葉に移る。それは前記引用の言葉を裏打ちするというか、逆照明するものだ。 [#ここから1字下げ] 「凡《およ》そ国民たる者は一人の身にして二箇条の勤めあり。その一の勤めは政府の下に立つ一人の民たるところにてこれを論ず、即ち客の積りなり。その二の勤めは国中の人民申し合せて一国と名づくる会社を結び社の法を立ててこれを施し行うことなり、即ち主人の積りなり。譬《たと》えばここに百人の町人ありて何とかいう商社を結び、社中相談の上にて社の法を立てこれを施し行うところを見れば、百人の人はその商社の主人なり。既にこの法を定めて、社中の人|何《いず》れもこれに従い違背せざるところを見れば、百人の人は商社の客なり。故に一国はなお商社の如く、人民はなお社中の人の如く、一人にて主客二様の職を勤むべき者なり」 「さて今一国といい一村といい、政府といい会社といい、すべて人間の交際と名づくるものは皆大人と大人との仲間なり、他人と他人との附合《つきあい》なり」(『学問のすゝめ』) [#ここで字下げ終わり]  やれやれ、と呆《あき》れる人もいるだろう。またまた小学教科書の転写か(「学問のすゝめは、もと民間の読本《とくほん》または小学の教授本に供えたるものなれば」)、もう百万遍も聞いて聞き飽きた。耳にたこが出来ている、と。  ごもっともです、あなた。私だって社会音痴の身の上だ。いまさら社会の話なんかしたくない。私は文学の話がしたいのだ。  以上の文章のキイワードが、「会社」というところにあることは、一目瞭然《いちもくりようぜん》だろう。  しかし、私の疑うのは、この頃《ころ》の日本人に、したがってまたそれ以前の日本人に、果たして「会社」というイメージがあったのか、ということだ。いや、無くても構わない。近代化のために新しい知識として学んだのだ、としてもよい。しかしそのとき、この「他人と他人との附合」であるところの「会社」の生き生きとしたイメージが、すぐさまわれわれに可能だったろうか。  日本の文学はとうとう「会社」の生き生きしたイメージは描写しなかった。なるほど、官吏=[#「=」はゴシック体]政府が主人である会社の生態は描いたが、「他人と他人との附合」から発する会社のイメージは描かなかった。  私の滑稽な感想のもう一つはここの処だ。つまり、「友」を起点とする生の網目のないところに、果たして「会社」のイメージがあり得るか、ということだ。  いや、こんどばかりは私は一つの傍証を持ち出すことができる。次は、明治四年から六年にかけて政府一行が欧米各国を視察したときの報告、『特命全権大使 米欧回覧実記』からの引用である。 [#ここから1字下げ] 「『ロヤル、エキステンチ』、『チェンバル、オフ、コンメルス』及ヒ『コルポレーション、ガルリー』此《この》三種ノ会所ハ、皆貿易ノ地ニ於《おい》テ、重要ナル設ケニテ、何レノ都府ニテモ之《これ》アルコト、已《すで》ニ是《これ》マテノ訳述中ニテモ知レタルヘシ、西洋各国ノ人ハ、固《もとよ》リ都府ノ常トシテ、深ク解説モナサヽレトモ、日本ニ於テハ、皆新奇ナル建設トス、今之ヲ簡易ニ訳語ヲ下サント、商人ノ集会所、商人ノ会議所、仲間ノ会合所ト解釈シタレトモ、東洋ニハ絶ヘテナキ会所ナレハ、其《それ》何等ノ目的ニテ設立シタルヤヲ了悉《れうしつ》シ能《あた》ハサルヘシ、噫此三ノ会所ノ日本ニ感覚ヲ有セサルハ[#「噫此三ノ会所ノ日本ニ感覚ヲ有セサルハ」に傍点]、其商工ヲ興シ[#「其商工ヲ興シ」に傍点]、貿易ヲ隆盛ニスルニ[#「貿易ヲ隆盛ニスルニ」に傍点]、甚タ迂濶ナルヲ証スルニ足ルナリ[#「甚タ迂濶ナルヲ証スルニ足ルナリ」に傍点]、……」 [#ここで字下げ終わり]  噫《ああ》! 東洋ニハ絶ヘテナキ会所ナレハ……やれやれ、日本も大変な処を乗り超えて来たのだな、と思う。そういえば福沢諭吉も自伝で、「銀行」とか、外国に普通にあるものほど、こちらにはよく解《わか》らぬのに、向こうの人がよく説明してくれないので困った、とか書いていた。  むろんのことだが、この「会社」が、いちばん解らなかったようだ。 [#ここから1字下げ] 「最後ノ仲間会合所ハ、私設ノモノニシテ、其種類ハ一ナラス、之ヲ大別シ、宗教上ノ仲間ト、民事上ノ仲間トノ二種トス、……」 「抑《そもそも》人間ノ万事ハ、ミナ会社ニテ成タルモノナリ、一家族ハ骨肉ノ会社ナリ、主人ト僕婢《ぼくひ》トノ会社ナリ、其会社ノ増長シテ、民事ノ会社起リ、更ニ商業ノ事為ヲ、敏捷《びんせふ》広大ニセンタメニ、商業ノ会社ヲ設ク、……」 「世ニ家族ト雇人トノ増大ニヨリテ[#「世ニ家族ト雇人トノ増大ニヨリテ」に傍点]、会社ノ法ハ起レリ[#「会社ノ法ハ起レリ」に傍点]、已ニ会社アリテ[#「已ニ会社アリテ」に傍点]、生業ヲ営ムトキハ[#「生業ヲ営ムトキハ」に傍点]、又自ラ仲間ヲ組ミテ[#「又自ラ仲間ヲ組ミテ」に傍点]、合体協力ノ事ヲ談合セサルヘカラス[#「合体協力ノ事ヲ談合セサルヘカラス」に傍点]、是『コルポレーション[#「コルポレーション」に傍点]』ノ因テ起ル所ナリ[#「ノ因テ起ル所ナリ」に傍点]、……」 [#ここで字下げ終わり]  私はちょっと引用を中断する。たいへん良い洞察《どうさつ》を含みながらも、「会社」のイメージが、「他人と他人との附合」のところではなく、「家族」を根柢《こんてい》に形成されてゆくのが見えてくるであろう。これが日本だった。  もっとも私は『米欧回覧実記』の文章にケチをつけるつもりは毛頭ない。その充実、その豊富は驚嘆すべきであり、細部が明確で、情理兼ね備わり、真率さが貫く、明治期における抜群の文章といってよろしい。文学の文章は、これに比べて三十年は遅れていた。この文章の誤解されぬために、もう二、三の引用をしておこう。 [#ここから1字下げ] 「貿易ノ地ハ、最モ会議ニテ政府ヲ建ルヲ肝要トス、是ヲ以テ、西洋ノ各都府ハ、自然ニ共和国ノ風ヲ帯フ、世界ニ貿易ノ盛ナル国ハ、英ニ越ルハナシ」 「英国ノ都鄙《とひ》ヲ観察スルニ、倫敦《ロンドン》『ウェストミニストル』諸区ニ於テハ、国君ノ威権《いけん》厳ニシテ、立君ノ光ヲミル、倫敦『シチー』、及ヒ各都府ヲ過レハ、会社ノ自由盛ンニテ、共和政治ノ態アリ」 「然則《しからばすなわち》国ノ盛衰ハ、政治ノ影響ニアラスシテ、国民ノ和協セル影響ヲ、政治ニ著スノミ、諺《ことわざ》ニ曰《いは》ク、政府ハ人民ノ影ナリト、旨哉《うまいかな》言ト謂《い》フベシ」(同前) [#ここで字下げ終わり]  よく見えているのだ。ではなぜ、この「会社」この「共和国ノ風」の背景に、「友」を起点とするところの生の網目を見なかったのか。書中、二、三の「友愛」の語を見出すが、それは米英の風俗、「共和国ノ国民ハ、人ニ接スル和《なごやか》ナレトモ」の意であって、日本人の生理のことではない。  友は在るか、友は在る。しかし「友」とは何か。  友とは、私のことを真率に否定してくれる人のことだ。否定と言うと、言葉がおかしいか。人間は自分には盲目のままに生きている。だから、友が私の盲目を打つその言葉によって自分を見るのでなければ、私は自分を見ることができない。ストア派の賢人はよく、自分の本当の姿が知りたければ敵の言葉に学べ、と言っているが、これは少々荒っぽい。やはり友に聴くのがよろしい。友を持つとは、自分の鏡を持つというようなことだ。  この、友と鏡の関係は、古代の人の方がよく意識していた。先の『王朝漢詩選』の中の一人、島田忠臣《しまだのただおみ》の「照鏡」という詩に、こんな一行がある。   交朋《かうほう》を覓《ま》ぐ毎《ごと》に 鏡《かがみ》を発《ひら》くこと頻《しき》る。 (朋友を求めるたびにしきりに鏡を開いて写る影を友とする)の意だそうだ。  いや、実はこの引用は、私の策略に過ぎたかもしれない。この一行に一目で見えるものは何か。友が「不在」なのである。そこで仕方がなく「鏡」に自分を写しているのだ。  私は自分の滑稽にかけて言ってみるのだが、こういう感じが、われわれの文学の伝統を貫いているのではあるまいか。私小説を見よ。いや、われわれの近代文学の主人公の在り様を見よ。自分を鏡に写すことには長じているが、対立者、あるいは自分を否定する友との、対話が乏しいのである。というより、友を描かなければ、友を通しての自分を描かなければ、そのときの文学は必然的にいつも、主人公=[#「=」はゴシック体]私の形のものでしか在り得ない。  さらに極端化してよければ、この「友の不在」ということが、われわれの生活や伝統の到る処に見出される。  どだい、明治以来の天皇の在り様がそうだろう。友がいない。自分を相対化する会話がない。だから深刻に孤立することになる。深刻な孤立は、和合を本旨とする社会にとっての異物となる。  いったい日本の国が、他のどこかの国を「友」と思ったことがあるのだろうか。私は聖徳太子の「日出処天子《ひいずるところのてんし》、致[#二]書日没処天子[#一]」を喜ばない。あれは他の国への「友」としての呼び掛けではない。ユーモアにはならぬ。  したがってわれわれは、戦争においても、「同盟国」という意味におろそかだったのではあるまいか。  今日、われわれは国際社会の波に洗われ、しばしば「不思議の国」と呼ばれ、しかもわれわれ自身はそう呼ばれることを奇妙に喜んでいる、とされるが、それもこれも、ただ簡単に、われわれの国には「友」がいないということではあるまいか。  まったく奇妙に聞こえるかもしれぬが、私には、実は織田信長こそ、たとえば秀吉の妻に与えた手紙などを見れば、友情を起点とした生の網目において天下を制しようとした人である、とも見えるのだ。  われわれは話し下手である。そして今日、かなり多数の処で、親子の間に、夫婦の間に、「言葉」が失《う》せているという。それはそうだろう。これは家庭の問題ではない。実は友の不在という問題なのだ。なぜなら、自由な会話は、友が在ると共に始まるのだから。 「友の不在(言葉の不在)」ということが、日本の文学、会社、家庭、天皇の独得な在り様を解く、一つの鍵《かぎ》になるものだ、と私は思うが、どうだろうか?     …………  私はものを考えるとき、なるべく自分の周囲の身近な材料から考えを始めるようにしている。そんな意味で「友」は都合のいいテーマのはずであった。現実に在る友達について語ればよいのだから。しかしそうはいかなかった。まったく反対になった。自分からは遠い材料ばかりで喋《しやべ》った。なぜだろうか。  ——「友」よ! 語ろうとして、これほど羞恥《しゆうち》深い存在はないのだ。 [#改ページ] [#見出し]  身  身。これは嫌悪《けんお》すべきテーマだ。  なぜなら私は、この身体が私にとっていったい何であるのか、いまもって深い疑惑の中にいる。ときに私は身体を敵にする。ときには身体が私を敵にする。いったい身体とは何だろうか。  三十代の七、八年間、私は月に一度理髪店に行くのがたいへん苦痛だった。椅子《いす》に坐《すわ》ったときから、長い、実に長い厭《いや》な時間が始まる。絶対の緊張があり、わるい夢の中でざらざらした無飾のコンクリートの穴を無限に落ちているような違和感が続く。やがて身体の奥から、いつも感覚する内部よりずっと奥から、不気味な嘔吐感《おうとかん》がやってくる。  何気ない振りをするために一日の大半のエネルギーを使い果たしてしまう。が、内部のほんの微《かす》かな意識の動き、外のほんのちょっとした物音が、この微妙な仮死の平衡を毀《こわ》してしまう。身体が裏切る。どっと冷汗が出てくる。ことに頭から顔にかけて水のように出る。主人が驚いて手を止める。「どうかしましたか」。こんな身体消えて無くなれ、と叫ぶのは、こういう屈辱の一瞬だ。  なるほど、と思うことがあった。月に一度だからいい。もし一日に一度ずつこの屈辱を味わい七日も連続すれば、たぶん自分は気が狂うであろう、と。  三年|経《た》った頃《ころ》、小さな救いがあった。新聞の世界のトピックスとかいう片隅《かたすみ》に、「米国で増える散髪恐怖症」という記事を見付けたからだ。なに、鋏《はさみ》や剃刀《かみそり》を恐《こわ》がる人が増えたというだけのことだ。だが大切に切り抜いた。そして冷汗の後で、いや剃刀が恐いのかしらとかボソボソと弁解しておいた。  真っ赤な嘘《うそ》とはこのことだ。私が味わっていたのは、苦痛でもなく、恐怖でもなく、不安でもなく、違和感でもなかった。感覚は明らかで紛れることはない。私が味わっていたのは正《まさ》しく、痛烈な嫌悪であった。  第一の理由は判然としている。鏡を見るのが厭なのだ。鏡には自分が映る。自分を見るのが厭なのだ。次に、この理髪店は、頭髪だけとはいえ、他人が私に一つの形を与える処《ところ》だ。なぜか。なぜそうなのか。なぜそうでなければならないか。嫌悪はそこからも生じた。私が心の中で、いったいどんな生の形を持ったらよいのか分からず、私がどんな顔の人間として生きればよいのか分からず、これほど焦慮しているのに。しかし、私の身体は、いつもこの焦慮を寸断した。  むろん私は、第二の理由も痛いほど知っていた。  なぜなら、その散髪恐怖症は、私が文章を書き始めた時期と一致していたからだ。どちらが先なのか、もう記憶がない。あの頃は毎日目をつむって歩いていたようなものだ。いや、これは嘘だ。私は知っている。文章が先だ。どうしたのだろう? 私は「群像」の懸賞評論に「小林秀雄」を書いたときから、長い間、自分の文章を読み返すことができない(いまはいくらか緩和された)。最初、やはり活字になったのが嬉《うれ》しかったので、いったい自分がどんなことを書いたのかと(スポーツ新聞社に勤めていたが、面当《つらあ》てみたいな理由から深夜の三、四時間ずつ一週間くらいで書き飛ばしたので)、冒頭数行を読み出したときの、あの異様な感触を、いまも忘れることができない。ゾッとした——まったくの異物[#「まったくの異物」に傍点]を見る思いがした。いったい何だこれは……これを私の手が? 惑乱がきた。思わず雑誌を閉じ、部屋のごちゃごちゃした本の堆積《たいせき》の中に隠し、以後開かずの玉手箱である。いまは何処《どこ》にあるのやら。  自分の文章が(というか、雑誌に載った活字が)、鏡になったのだ。三年後、再びまた改めての感じで、初めて注文された短文を「新潮」に書いたときにも、同じことが生じた。編集の人が、あなたの文章はと言ったとき、顔からどっと汗が噴き出てきた。同じ声を私の耳は聞いていた。「おや、どうかしましたか」  本を作るときもそうだった。校正刷りを見ることができない。『無用の告発』という本を作ってくれたのは川西政明君だが、先日も、面白そうに私のことを誰かに紹介していた。——この人はひどいよ、せっかくいい本を作ってやろうとしてゲラを渡したのに、一年近く戻さないんだから。ごもっともです。でも仕方がない。私は読むことができなかった。つまり、自分を見ることができなかった。  だから、鏡への嫌悪も二通りあるわけだ。  独りで見る鏡。これは自分の部屋の鏡だ。自分が意思して自分を見る場合だ。独りで鏡を見る。なぜ人はそんなことを欲するのか、なぜこんなものを発明したのか、なぜそうしなければならないか。おかしい。これが第一感だ。私は昔ちょっとこの問題を考えたことがあるが、考え続けると、何か見てはならぬ、自分の生存というものの縺《もつ》れた根に突き当たりそうで、慌《あわ》てて中断したことがある。この考えの道を辿《たど》れば、厭なものが出てきて自分は気違いになってしまう、と。その後私は鏡に実に合理的な態度を持っている。鏡からは、嫌悪が発する。だから自分の部屋に鏡はない。むろん、一年に一度くらいは鏡を見る。そんなときはまるで平気だ。私が自分を憎んでいるときだから。  もう一つの鏡、理髪店の鏡、これは異なったものだ。  理髪店に行けば、私は否応《いやおう》なく鏡に直面させられる。私の身体が映る。目をつむっているから見えないが、その存在は知っている。その鏡は、他者が見るところの鏡だ。そこに映っている自分は、他者が見るところの私であり、私の身体である。いわば、これは社会の鏡である。それがどんな嫌悪の対象であったかを前に記した。私はここで注意する。「社会」という言葉が出てきたことに。私の第二の嫌悪は、社会に、他者と自己との関係の中にあった。そこから発した。  だから、前に自分の文章への嫌悪を記したが、あれは半面のことしか言っていない。なぜなら、私はノートに自分の文章を書くのが好きだったし、一生この態度を維持したいと意思していた。同人雑誌に書いた文章なら、読み返すことができた。理由は判然としている。ノートの文章は独りの鏡である。嫌悪すれば、いくらでも破くことができる。むろん、しだいに破ることが多くなり、私は追いつめられていった。とうとう、ノートに書けなくなり、折り折りに有り合わせの紙片に記すようになっていったが、あの紙片いまは何処にあるのやら。同人雑誌の場合も簡単だった。大学四年の最初の同人雑誌のとき、構成員各自が、それぞれ出版社やしかるべき人に配送すべく数十部ずつ受け持ったが、私は一冊だけ残して、後は放棄してしまった。  後で聞いたら、もう一人の友達も同じだった。  書くということは、恋愛と同じく、精神と身体の合一する行為であって、当の本人には、名状しがたい羞恥《しゆうち》の塊なのである。  私の第二の嫌悪は、疑いもなく、自分の文章が文芸誌に載って他者に見られること、社会の鏡の面に映されることから、発していた。  なぜだろう? 無人島に一人でいるときにも、私は書くだろうか? 否《いな》。だからこの嫌悪は、狂った、あまりにも自分勝手な感情である。にもかかわらず、私にはどう仕様もない。それが、幼児期に歪《ゆが》んだ、私と私の身体との関係なのだ。  あの頃の七、八年、私は会社に通勤しているのに、夜の電車が苦痛であった。窓が私の身体を映し出すからである。窓が理髪店の鏡=[#「=」はゴシック体]社会の鏡になった。いくら注意をそらしていても、ふと自分の姿を見てしまうことがある。とたんに、こんなものは消えて無くなれ、と思う。こんな感情がショートし閃光《せんこう》を発すると、こんなものは誰にでも呉《く》れてやらあ、と無頼派になる。ここで私の感情は疲労する。毎日一日ずつ過ごすのが私には苦痛であった。  いや、いま私はお体裁のいいことを言っている。半分は正確でない。なぜなら、なぜ私が夜の電車の窓を嫌悪するのかという以前に、その前に、もっと恐れていたもののことを言ってないからだ。  それは人の目=[#「=」はゴシック体]他者の目のことだ。これこそが本当の、社会の鏡なのである。  やっと小さな真実の処へやってきた。真実といっても、社会の空気に触れる私の皮膚の表皮から、私が想像する[#「想像する」に傍点]自分の生存の根と思われるものとの間に、十段くらいの生の地層があると仮定して、その五段目くらいの処だろうが、やっとそこに達した。  人の目が、鏡なのだ。電車の中には、無数の目がある。無数の鏡がある。私には居場処がない。監禁された電車の内部ということが、人の目を理髪店の鏡にしてしまう。私は見られるものになってしまった。見られる……なんという嫌悪か。(人の目、あれは何か。あれは暗い穴だ。いや違った。あれは奥深い未知の領域からの潜望鏡だ。ここに、お互いに理解不可能な、コミュニケイションの考えられぬ、したがって異物の生き物がいる。この異物は何か。だから、見る、だから、見られる……この金縛りの状態が無限に続く。おや、冬なのに顔から汗が噴き出てくる)  しかし、なぜだろうか。なぜそんなことが生じるのか。明らかに以上の記述の中には、本当の他者は不在なのだ。私の心の奇妙なからくりがあるばかりだ。  なぜの嫌悪か。おかしいではないか。私の思考は一度もそれを認めたことはない。人の目、それは人の目に過ぎない、他者が(特に)私を見る、というのは、錯覚に過ぎない、心の馬鹿気《ばかげ》た自己演技に過ぎない、と。どだい私は少年時から注意して、もっとも平均的な一員であるべく努めてきた。まったく平凡であること、人目に立たないこと。誰も三秒もお前に注意する者はあるまい。それに、見られたっていいじゃないか! 別にどうということもあるまい。  にもかかわらず、私の身体=[#「=」はゴシック体]意識は、全身を挙げてその思考に抗議するのだ。いやいや、それでは困る、見られたくない、ここには居られない、逃げ出してくれ、と。  不合理であり、自己矛盾であり、かつ奇怪である。いったいこれは何か。  十年ばかり、電車に乗る度に毎日こんな葛藤《かつとう》を繰り返していたのだから、人の生は暇なものだ。他人のことは知らない。しかし、飽きもせずこんなぐるぐる回りをしている私の生存は、なんという滑稽《こつけい》か。  鏡恐怖症、赤面恐怖症、閉所恐怖症……精神医学の本を読むといろんな症状が出てくる。へえ、いろんな仲間がいるなと、病者の声に親近感を持った。だが、こんな本は読んだって無駄《むだ》だった。書かれていることは分かった。分かっても自分の場所に戻って、で、おれにどうしろというの? と問えば、それで終わりだ。何の解決にもならぬ。ことにフロイトには反感を抱いた。日常的な場面でのこの臨床医の処方は、若干の心因性の神経症にあっては、その心因性の起点というか、自分の心のからくりがその後隠してしまった最初の経験を、自覚する、再び見出《みいだ》すに至れば、回復への手掛りが掴《つか》めるだろうと言う。冗談じゃありませんよ、あなた、もっともらしい髯《ひげ》の医師|面《づら》の人、まったく正反対じゃないのか? われわれが苦しむのは、自分を知っているからであり、生の経験を覚えているからであり、それを隠した心のからくりの不自然さをよく承知しているからだ、と。自分について知れば知るほど、或《あ》る生の経験の起点に溯行《そこう》すればするほど、われわれの症状は重くなるのだ。自分が奇妙な人間になったとする。しかし、その奇妙になった心のからくりを、自分が知っている[#「自分が知っている」に傍点]ということが、耐え難いのだ。で、次の新しい奇妙な振舞いが生ずる。恥ずかしい滑稽のそんな劇はよく知っている、というのが、症状なのだ(病者に必要なのは、自分の経験について、心のからくりについて、他者=[#「=」はゴシック体]医師と語り合う[#「語り合う」に傍点]ということだったのだ)。ランボオの方がお前より、よほど心理学者だ。≪無疵《むきず》なこゝろが何処にある≫。その通りだ。人間は傷の生存である。そんな傷に衝《つ》き当たって、それから何処へと出発しろと言うのか。笑わせる。われわれ多くの弱い者は、傷なぞ改めて見たくはないのだ。逃れたいのだ。極端に短絡していえば、他人になりたいのだ。実際私は電車内の空想の中でしばしば、織田信長軍の足軽、一兵卒であることを夢みた。一つの命令を徹底して遂行して死んでいく、なんという幸福であろうか。敗軍の中で、「ここで私は空《むな》しく陣地を守って死んでいく。今日の戦闘に参加できなかったのが残念だ。だが命令は守った」(私の記憶の中の『プルターク英雄伝』の兵士の言葉)。なんという充実した生か。  やっとテーマの最初の処に戻ってきた。身=[#「=」はゴシック体]身体とは何であろうか。私の身体は、私のものであって私のものではない。半分は私のもので半分は他者のものだ。というより、その二つが入り組み、二重になる。いわば、私の身体は、他者との交通の場である。  しかし、これまでの話は単純に過ぎないか。私の思考は、すべてを単純に考えることを好んでいるが、身体を基いに考えると、すべてが複雑になってくる。  たとえば、私の、私への嫌悪はなぜ生ずるのか。嫌悪の前に、私の手がそれ(嫌悪の対象)を掴み、それを必要とし、それを味わってみる、という行為があるわけだ。  私の自分の文章への嫌悪は、私は書く、という私にとって絶対に必要な行為があるから、そこから生ずるのだ。むろんだから、私の私の身体への嫌悪にも、それに先立つ何かの行為があるわけだ。それを指差して何と言うのか。分かっている。どんなお手軽な心理学の解説書でも、嫌悪という項目の一つ前に置かれているものだ。「自己愛」と。  自己嫌悪の度が高くなればなるほど、それは自己愛の度の高さを示すものらしい。あるいは、自己嫌悪は、或《あ》る心のからくりによって、ほんの少し増幅された自己愛の裏返し、変形である、と。  ふうん! もっともらしい話だ。しかし下らぬ話だ。そんなふうに言ってみるのが何になる? そんなことは誰だって最初から知っている。五歳の児童だって知っている(言葉で説明できないだろうが、感覚は知っている)。にもかかわらず、ちゃんと「からくり」が生じ、「ほんの少し」が生じ、それらが、身体の内部に横たわって居坐ってしまう、ということが問題なのだ。だからこそ、こんな問題を日々レッスンしての電車内の苦労が始まるのだ。  どだい心理学というものが、私には気に入らない。人間を解析するときのデータが、十九世紀末の心理主義小説——一つ一つの言葉にリアルな感触があった時代を通り越し、言葉だけが過剰になって、なにか一つ一つの言葉を、|+《プラス》のもの−《マイナス》のものと置き代えたところに成立するような、雑な思考の方程式の下に展開された、言葉だけが先行して乱立する小説世界——そこでの小説的言葉がデータになっている、と見えるのだ。  加えて、思考の方法というか論理の展開も、詐欺師《さぎし》臭い。こんな手口だ。数字の2というのは、2=1+1(+x)であると同時に2=1+1(-x)でもある、というわけだ。そしてこの「x」のところに、任意の言葉を与えて、「+」と「−」を弄《もてあそ》んでみれば、もっともらしい学者面になるという次第。  だから、自己愛といわれると、この「愛」のところに私はこだわる。それは果たして「愛」という言葉の充《み》ちた意味であろうか、それとも、+−の言葉なのか、と。愛では、私は素直には受け入れにくい。嫌《きら》いの反対だから、好きではどうであろうか。いやもっと深い場面なのだといわれる。それもそうだ。だが深い場面になると却《かえ》ってすべては単純になる。では、その自己愛とは、単純化すれば、「生きたいという思い」とか、「生きるための必要」といったものにならないか……と、ここまで書いて私は納得した。なるほど、これらの言い方はイメージを出現させない。自己愛というのが、絵本的な図解の言葉としては便利である、と。 (私はいま、自己愛の、「自己」の方を問題にしなかった。厄介《やつかい》だからだ。本当は、これが急所なのだ。なぜなら、「自己」とは、私という人間の何処に在るのだろうか? こう問い出せば、私とは何か、という謎語《めいご》や、私は思うだから私は在る、というデカルトの定式を、通り越すわけにはいかない。なぜなら、病者は、その定式を、小さいが根柢《こんてい》的な真実であると、まったく是認しながらも、この定式を自分の指で変形し、定式に分裂を見出そうとするからだ。私は嫌うだから私は在る、と。むろん、思考としては間違っている。嫌うときにはすでに何かが存在しているから。にもかかわらず、病者は、私は嫌う、を、私は在る、に先立てるべく藻掻《もが》くのだ。私は嫌う、が絶対の一つの声であって、その声を発するとともに存在への最初の感覚が生じ、世界が開けるのだ、と) (余談だが、ここが、病者と犯罪者とを区別する一線だ。あれらの理由なき犯行者はたぶん、ここを通り越して、この定式の裏返し、+と|の置き換えで、私は思わないだから私はない[#「私は思わないだから私はない」に傍点]、というような思考を確立しようとするのだ。まったくの矛盾というか思考として成立せぬようなものだ。なぜなら、私は思わない、と思う、ということがナンセンスだから。にもかかわらず、犯行者はこうつぶやくのだ。この定式はもっともなものだ、だからその裏返しも意味深いのだ、と。しかし……しかし、この定式は、私の根拠を思考に置く習慣の人の考え方ではあるまいか。私は疑う。私の根拠を身体に置く習慣のわれわれにあっては、生の意思の発動として、「ない」という思考のこのような定式を成立させてみたいのだ、と)  よろしい、私は自己を嫌悪する、すると私は、嫌悪が薬味であるというほどにもっとはなはだしい「自己愛」に充ちた者、ということになる。しかし、それは何処から生じたのか。  私の生の最初の鮮烈な記憶は、手術台上のものだ。  幼稚園に行く前の五歳くらいのときで、ひどい中耳炎になって何度か手術した。最後の大手術のとき、頭の内部に異様な冷たい感覚が走るとともに、「ほら、ここが脳膜で」という声が聞こえた。異様にはっきり聞こえた。その前に耳を半分|剥《は》がして骨を削るので、鑿《のみ》と槌《つち》(本当はどんな道具か知らない)による大音響が凄《すご》かった。麻酔が効いているのだろう、痛くはなかった。そうか、もう一つあった。その前に吸わねばならぬ麻酔のガス。あれは子供心には、白衣の人がニッコリ笑いながら容赦なく死へ送り出す儀式のようで、あのみっともない吸入孔の付いた導管が不気味であった。  やはり強烈なのは、脳膜のところだ。自分も知らぬ私の身体の奥を、あ、見られている、他者が見ている、という感覚があった。その奥の処に冷たい異物の感触が走る(たぶん注射の針みたいなもの)。私が理解する他者とはこのようなものであり、私が感覚する異物とはこのようなものである。  しばしばこの記憶が鮮明に甦《よみがえ》るので、私は何度も考え直してみたが、そこには、裸の羞恥《しゆうち》もなく、愛憎もなく、善悪もなく、不安も希望もなく、ただ絶対的に直接する、自分・異物・他者の絵があった。後にこれが、私が生存とか存在ということを思う場合の三原色になった。なるほど、理髪店の鋏《はさみ》がこの絵を再現するのか。  表現しがたいのは、その絵が全体で発しているところの感覚・気分である。言い表わしがたいものがある。あの注射針みたいな言葉でないと受け付けない。私の自分への言葉はついにその針の感触に至らない。しかし、私が尊敬する若干の人の言葉には、その針の感触があった。いや、もっと身体の奥深くへ届いた。彼等は天才なのだ。私の言葉などはだらしのないものだ——そう、切開されるモルモットの気分さ。  ただ、嫌悪があった。絶対の嫌悪であり、自分・異物・他者のすべてが嫌悪だった。私はしばしば思った。こんなものが生存・存在ということの生地《きじ》なのだろうか、と。するとすぐもう一人の私の声が聞こえてくる。では、なぜ生きているのか、なぜ生きようと意思するのか。率直に言ってここの箇処が、私には分からない。現在もよくは判《わか》らぬ。嫌悪から発して生きているとしても、自殺するでもなく生きているのだから、その嫌悪は別の言葉で呼ばれなければならぬ。では、どう言うのか? それを自己愛と呼ぶのか。もしそれでよければ、愛とは、非常に面白い内容のものだ。ヨブ記が、不合理な書ではなくなる。  私は生まれたとき、四百八十|匁《もんめ》だったそうだ。千八百グラム。当然にも保育器育ちである。母親が難産で、母体を救うか子供かの二者択一を迫られたとき、すでに長男のいる父親が断を下し、母体を救うべく帝王切開して、私が誕生した。私は苦笑する、どうもよほど生に執着心のある子供だった。いや微笑もある。私はすべてにおいて怠け者だが、自分への弁解が楽だ。お前は母親の胎内でのんびりした眠りが足りなかったから仕方がないさ、と。  お前のお母さんはお前の病気の苦労で死んでいったのだよ、と、私は親類縁者によく言われた。なるほど、虚弱児童、登校拒否、低能は、私のお手のものだった。母は結核による脳膜炎で私が中学一年のときに死んだが、最期《さいご》の明瞭《めいりよう》な言葉は、「いま何時? 駿《すすむ》は学校へ行った?」であった。私の耳の記憶だ。  私の片方の聞こえぬ耳は、徐々に私の生のスタイルを決めていった。  小学一年の入学式の日、隣の子供が何か訊《き》いたらしいが聞こえなかったので、たちまち耳を掴んでの取っ組み合いになった。私の耳の後が深く抉《えぐ》れているので、たしか「お前の耳を取ってやる」とか言っていた。私も力一杯相手を叩《たた》いた。気分のいい記憶だ。子供は鮮烈に生きねばならぬ。その後も四年間に三度転校したので、いつも十数回の喧嘩《けんか》が仲間入りの儀式だった。耳のために反応が遅いからだ。うっかりしていると宿題を告げる教師の声が聞こえぬので、よく廊下に立たされた。中学に入ると軍事教練の教官がよく怒った。天皇陛下には、と言って直立不動の姿勢をさせるとき、私の首はどちらかに傾いているそうだ。幼時からあまりに長く耳鼻科に通院していたので、そんな癖になってしまったらしい。もっとも、こんなものはみな明るい回想だ。私の少年時には辛《つら》いことがなかった。後からの回想で誤魔化しているのかもしれないが、すべて何事も台上のモルモットよりはましなのだ。私は、一人の障害者の言葉を思い出す。毎日をどういう心で生きているのですか? 「立って動いている者への憎しみで生きている」。ああ、それに違いない。  ……と書いてきて、これは中断する。いくら書いても、私の鏡恐怖の原因には突き当たらない。  もっと違った話にしよう。  身=[#「=」はゴシック体]身体は、大きなものだ。いろんな信号を送ってくれる。私の精神はそれをすべて受け取ることはできない。  私は昔思っていたものだ。考えるのは私の思考であって、だから、私の身体について考えるのだ、と。なんという愚かしさ。いまはそこが逆転している。身体こそ一寸の休みもなしにさまざまに感受しているのであって、その中の少数のものが、生の必要によって思考になるのだ、と。下らぬ長い回り道をしたものだ。身体こそが思考の母胎なのである。あるいは、思考を泳がせ、溺《おぼ》れさせるところの広く深い海なのだ。  長い間身体を軽視したために私の文章は瘠《や》せた。それを喜んだりしたのだから始末がわるい。錯覚による過誤は取り返しがつかない。生の傷になる。これは私にかぎってのことかもしれぬが、精神の言葉は単純で貧相である。これに反して、身体の言葉は複雑で豊富である。これから学ばなければならない。  一つの身体は、一つのイメージを発する。そのイメージは、ときには思想の形になる。  腰を九十度ほどにも折って、杖《つえ》を突き、左手を曲がった腰の上にのせてゆっくりと歩む老婆《ろうば》。このイメージが、少年の日から私の脳裡《のうり》に焼き付いている。ああこれが日本的な生の姿だ、と。  私は文章を書き始めた頃「石塊《いしくれ》の思想」という一文を書いた。そこにこの老婆の姿をふと置いた。私は若い頃、自分の生存を道端の石ころになぞらえるべく努力していたが、そのとき一つの気掛りがあった。それはこの努力がその果てに、どういう日本の素朴《そぼく》な生活の絵に繋《つな》がるかということであった。書いている手が直ちにその老婆の像と連結した。そうだ、私もやがてあのようになるだろう、と。  しかるに、二十数年後の今日、そんな老婆の姿が都会では見出されない。戦後の食べ物と労働の変化が、そんな老婆の像を追放したのだ。思わず私は歯軋《はぎし》りをした。なんだ! あれは純粋に日本的な生存の姿、生活の絵ではなかったのか、と。こんなささやかなことで、人間の形が、人の姿が変わってしまうのか、と。  身体は、ごく楽々と、ほとんど人をからかうかのように、思想を乗り超える。  もっとも、そんなことは老婆ではなく若い女のかたちで、敗戦後の時代の変化としてゆっくり見てきたはずであるのに、頭が回らなかった。身体軽視の咎《とが》である。  八頭身といわれる美女が出現したとき、敗戦時の少年である私の思考は分裂した。やれやれここまで敗戦が徹底したのか、と思う一方で、いやそうではなく何か人間の基本的なことかな、と疑ったのである。  美が問題であった。欧米人のスタイルが女の美しさの典型にされていた。私は反撥《はんぱつ》を感じた。そこまで負けなくてもいいじゃないか。一民族には伝統が営々と培《つちか》った美の典型があるはずだ。谷崎潤一郎の言う、棒に着物を捲《ま》いたような女のかたち(『陰翳礼讃《いんえいらいさん》』)、あれでいいじゃないか、六頭身でいいじゃないか、と。後に私は、米国の黒人運動家紹介の本を読んだとき、彼が、留置場に貼《は》られてあったピンナップガールの写真を綺麗《きれい》だなと見ていたら、看守がこれはお前みたいな黒人が見るものではないと剥がして持ち去ったので、黒人は黒人をこそ美しいと思わねばならぬことに目覚めた、と言うのに共感した。そうでなければならぬ。  そうでなければならないか? 私は、白人女のスタイルなぞ綺麗と思ってやるものか、と目をレッスンし、半分くらいは成功しているが、しかし、欧米人のスタイルに近くなった日本の若い娘を見て綺麗になったな、と思うこともしばしばだ。私の目が私の思考を裏切る。  こんな思考は早く毀《こわ》さねばならない。なぜなら古いタイプの人間である私は、こういう身体的な変化につれて、ああ日本の純粋な生活の絵がなくなってしまう、などと思っていたからだ。ばかばかしい。もっと早く身体の言葉に耳を傾ければよかった。  身=[#「=」はゴシック体]身体とは何だろうか。それは複雑にして豊富なものだ。自己矛盾を平然とおこなう深いものだ。精神はその分裂混乱の跡をよく辿《たど》ることはできない。  十数年前の或る日、疲れて深夜というか早朝に帰ってくると、真冬だが床の上に気を失うように寝てしまった。ふと起きると凍えている。慌《あわ》てて風呂《ふろ》を沸かして入ったとき驚いた。右足は入れぬほど熱く感じているのに左足は水のような冷たさしか感じないのである。ああこんなことになったのかと思ったが放っておいた。身体を軽視していたから。まだ後遺症を引きずっている。だが、その後つまらぬことに感心するようになった。身体は、右足と左足とで正反対の感覚を受けるそれを、しごく平然と、自然に連続させているのである。  思わず私は、若い頃私の思考を圧倒した、デカルト『省察』の「水腫《すいしゆ》病」の例を反省してみた。あれは、水腫病だから水を飲むのが致命的なのに、その病気がまた咽喉《のど》に渇《かわ》いたような感覚を生ぜしむる、というようなものだった。彼はたしか、こういうとき「自然が狂っている」とか言っていた。  待てよ、とそのとき思った。それは自然が狂っているのではなく、身体とは、本来そういう仕組みのものではあるまいか、と。自己矛盾、分裂、それは平気なのだ、怖るべきことを望んでそちらへ盲目に走る。そこには意外で異常な深い告知があるのかもしれぬ。  実は、私の耳の大手術は、私の自傷から生じた。前の手術の後、耳に違和感があるので、顎《あご》をがくがくさせると、耳がむず痒《がゆ》くて気持ちがいい。母が止《や》めろというので、却《かえ》って執拗《しつよう》に二時間ばかりも夢中で繰り返していたら、大炎症になったのである。だからどんなに困っても何も言うことはない。  生とはなんと捩《ね》じくれたもので、なんと危険な演技をすることか。そのすべてを素直に表現しているのは、身体であって、精神ではない。  それに、身体は、卜占《ぼくせん》のようなものだ。いつも何事かを囁《ささや》いている。私はいま、ときに地下鉄の長いエスカレーターに乗ると、段の上に立って、身体が揺れるか揺れないか、手摺《てすり》に触れないで立っていられるかで、その日の前途の良し悪《あ》しを考える。  なぜなら、駆けたり叫ぶのではなく、台上の一点に立って凝《じ》っと身体を動かさないでいることが、人間の最後の力だと思うからだ。 [#改ページ] [#見出し]  性  性。これは迷路に充《み》ちたテーマである。  性という問題が、おぼろ気ながら私の前に姿を現わしたのは、七、八年前、私が五十歳に達した頃《ころ》である。以来、激しい自己否定が生じ、いまもってその混乱の中にいる。  以前はどうしていたのか。性ということなぞ、私は考えたことがなかった。性が問題と化す、といったことはまるでない。私は男であるから、性とは、女のことであった。女が、私の思考の項目となったことは一度もない。しばしば私は思ったものだ。一生は短かい、女のことなど考えている暇があるものか。しかしそれなら、いったい私は何をするつもりだったのか?  何をするつもりだったのか、という疑問の出現した日が、私の五十歳だった。私がするつもりだった何かは、幻のように消えていた。思わず私は自分に言っていた。この阿呆《あほう》、失敗したじゃないか。何か、何か、何か……と、あせって追い続けてきたはずなのに、いつの間にか、その何かの正体が、私には分からなくなってしまっていた。というより、その何かが、実は最初から空っぽだったのではないか、という疑問が私を襲った。ははあ、五十にして天命を知るとはこういうことだったのか、と私は嗤《わら》った。  虹《にじ》が消えてみると、歩いてきた後には、点々と惨《みじ》めな河原石が転がっているばかり。河原石の一つが私に告げていた、性の欠存、と。  いうまでもなく私は、敗戦期の少年時以来、「もっとも普通の人間のもっとも正常な感覚」は何か、と絶えず探し回っていた。自分は欠けている、というほとんど絶対的な感覚があったから。したがって私は、自分の欠けている処《ところ》を、普通の人の生《せい》の自然と対照して、計量してみる必要があった。これが行為としての私の生の動因である。しかし他方、それと同時に、——おれに欠けている処があるにしても、それでどうしろと言うのだ、もしおれが一本の捩《ね》じくれた線のような存在だったとしても、いま現に生きている以上、これこそ(この捩じくれこそ)一本の直線のような存在だ、と考えて、何が悪い? という声が生じた。一種の生の反抗であり、これが私の思考の動因だった。  むろん私は、こんなことはすべて隠した。隠さなければ生きてゆかれぬ。私は踏まれてひしゃげたマッチ箱のように脆《もろ》い存在だった。根柢《こんてい》が分裂していた。自分は欠けているのか、それとも、欠けている自分を、しかしそれゆえに一つの円の全容のように完全なものと思わなければならないか。  私は内心では不可抗力的にドストエフスキー『地下室の手記』の住人に牽《ひ》き付けられていった。自分のことばかり考えるなんてもっとも醜い惑溺《わくでき》であると痛く承知しているのに今日もそれを繰り返している奴《やつ》。そんなことばかり考えていて、何もしない、何もできない。これは生の疣《いぼ》みたいな存在だ。一匹の蠅《はえ》だって冬になれば、窓|硝子《ガラス》に突進して自殺するというのに、ここには出口がない。社会生活が不可能である。  それで私は日常生活においてはあらゆる面で、普通の人のもっとも平均的と見える他人の態度を模倣した。何から何まで模倣した。頭蓋《ずがい》の奥の秘密の一点を除けば、私は完全な模倣人間であった。模倣するということが、生活するということであった。すべてこんなふうに生きるためには、デカルトの言葉が便利であった。「もしいま私がたまたま窓から、街道を通つてゐる人間を眺《なが》めたならば、(略)私は人間そのものを見る、と言ふ。けれども私は帽子と着物とのほか何を見るのか、その下には自動機械が隠されてゐることもあり得るではないか」(『省察』三木清訳)。その通りである。実はこんな言葉を見出《みいだ》す前にも、敗戦後の街を一日中うろつきながら、私はしばしば、いまここに自動機械が歩いている、と思ったものだ。その頃私は家では厭《いや》がられ友人にとっては不愉快な人間であった。絶えず他人の行為を分析したから、人のことを悪く言う奴と思われたのである。若干の友人が戯《たわむ》れに私のことを心理学者と呼んだ。が、それはそうではなかった。私は、人の心というものも、その大部分は自動機械のように考えられたので、いったい心の自然とは何であろうかと、飽くことなく分析を繰り返していたのに過ぎない。私は疑っていた。人が笑いかつ泣くというとき、それは単純に自然なものではなく、ある理由に基づく誇張によって、演技するかのごとく笑いかつ泣くのではないか、と。  こういう私にあっては、人間の根柢は一つであった。人間的な行為の基本も一つであった。性の区別はなかった。性という問題は考えられなかった。なるほど、恋愛とか夫婦であるとき、(私は男であるから)そこに女がいた。だが私は、女とは考えなかった。単に一人の人間がいた。そう考えるのが私の生の綱領であった。やがて私は、一人の女と夫婦になり家庭を持つに至ったが、それは、生活するという形はこんなものかと世間に従ったまでで、その真の意味は分からなかった。私はしばしば思った。この家庭は、家庭とは何かという疑問の基礎の上に建てられている、と。  当然のごとく私は、家内にも私の生の綱領を押し付けた。男女の相違は認めなかった。女が私のごとく生きるようにと望んだ。このとき私は高慢の罪に陥っていた。普通の人より一段低い処で生きようとすること、そういう生の態度が却《かえ》って逆に、そのまま高慢に変じていた。明らかにこれは私の生の過失であった。そして、過失は、タレーランが政治について言明しているように、いちばん許されぬことであった。  ……私が意識しない長い準備期間を経てのことだろうが、或《あ》る日不意に、女が、私とはまったく別の生き物であるように思われた。何から何まで違っている、と。性という問題が現われた。私は初めて女について考えてみた。考えてみたが、何一つ分からなかった。女であるとは何か。私は不可解であった。急に私は、人間の根柢は一つであるという自分の生の綱領が、ひび割れるのを覚えた。これが私の五十歳だった。  性という問題が現われると、たちまち私はそれまで守ってきた自分の思考がすべて覆《くつがえ》るように感じた。なぜなら、私が、いくらこれが人間の自然だと見ているあらゆる面についても、異なった性は、もしかするとすべてにおいて異議申告をするかもしれぬから。私は自分が生きるために便利だったデカルトの言葉も、疑わしく思うようになった。彼は、女については何を言っているのか? エリザベート宛《あて》の書簡くらいしか見当たらない。彼は、心痛に悩むエリザベートに、「真剣に考えない」ようにする、また、何でもいいから気分を明るくする「よいことを考える」ように、勧めていた。青年期の私はこれを、人間機械の分析に基づくよい忠告であると感じていた。しかし、いまは違う。彼女にとっては、すべてを憂鬱《ゆううつ》に考えることが、その考えに浸って身心を弱らせることが、彼女にとっての日々の生の証《あか》しのようなものであった、とも思われるのだ。性が違えば、考える方法や考えの波長も違っているのかもしれぬ、と。  こんなふうに、性の違いによって、生き方がもっとも深い根柢から異なっているのかもしれない、と思ったとき、まことに奇妙な話だが、私は生れて初めて、自分が社会生活というものの波長と共鳴するように感じた。ああこれが、青年期にいくら眺めても分からなかった言葉、小林秀雄の言った「私の社会化」ということだったのか、と納得する思いがあった。「女は俺《おれ》の成熟する場所だつた」(「Xへの手紙」)と。彼は三十でこんな名言を吐いた。おぼろ気ながらこれに気が付いたとき私は五十になっていた。人生はこんな滑稽《こつけい》を織る。私の愚かしさを織る。  性という問題が現われると、すべてが複雑になる。何一つ明らかにはならぬ。  性は、すべてが縺《もつ》れる場処だ。それは男女のことであり、セックスのことでもあり、また、親子のことでもある。人間の縺れはすべてそこから発する。  性には、私の思う人間の自然を裏切るものが数々ある。いや、裏切るというより、逆の照明、もう一つの小さな真実を示すということか。次は二つの私的エピソード。  先日大岡昇平氏が亡《な》くなられたとき私は心に疼《うず》くものがあった。大岡さんに言われたのに果たさなかったことがあったからだ。起点を忘れてしまったが、大岡さんが私に、お前はモンテーニュが近親|相姦《そうかん》をよい(楽しい)ものだと言っていると書いているが、その言葉はどこに見られるのか、と訊《き》かれた。そのとき私は記憶で書いていたので、捜しておきますと答えた。しばらくして見出したが、自分より知識十倍の人にわざわざそんなことを伝えるのがためらわれて、中絶してしまったのである。もっともそれはモンテーニュ自身の言葉ではなかった。 [#ここから1字下げ] 「わたしは昔聖トーマの中で、なんでも近親結婚の非を説いているところであったが、その数々の理由の間に、『かかる婦人に対して注ぐ情愛は無節制に陥る危険がある。まったく、夫の愛があるべきとおりに完全無欠であり、その上にさらに近親の愛が加わるならば、この増加がこの種の夫を駆って理性の柵《さく》を突破せしむること疑いなし。』という理由が挙げてあったのを、よんだことがあったように思う」(『随想録』関根秀雄訳) [#ここで字下げ終わり]  性はまた別な側面で、親子|兄妹《きようだい》を結ぶ。こういうことには、キリスト教以前の古代の人が率直で、だからオウィディウスが詳しい。 [#ここから1字下げ] 「静かな眠りが訪れて、安らぎをえたあとは、いつも、恋しい人を夢に見る。自分が兄に抱かれているところさえ眼瞼《まぶた》に浮かんで、眠っていながらも、顔が赤くなる」 「……でも、人種によっては、  母親が息子と、娘が父親といっしょになり、  二重の愛によっていっそう情《じよう》が深まるとか」(『変身物語』中村善也訳) [#ここで字下げ終わり]  こういうことは、私の生の自然な感受性の中にはない。いくら想像してみても心に感覚がない。が、もっとも、本を読んでこんな処に目が留まるというのは、いつか十数年振りに初めて私の家を訪ねてきた母の違う妹が、結婚するよと言うので、思わず、へえ一人前になったなと、傍《かたわら》に投げ出している脚を撫《な》でたときの、ちらと非難するような視線を、その後もずっと意識していたことに由《よ》るのかもしれない。在りもしないもののことをなぜ私が意識するのか。ここがいぶかしい。この意識こそ、人間という機械のからくりかも知れぬ。それともそうではなく、近親相姦は、人間の生の生地に記された一つの原型的な傾斜であるのか。性という問題が現われると、こういう急所が逆に分からなくなってくる。  私は、日本の大衆時代小説の男女が、「お前を妹のように思う」「あなたを兄のように思う」という言葉を介して、恋人として結ばれてゆく場面に富むことを、たいへん興味深く観じている。日本的な心情かと思っていたら、ドストエフスキーの小説にもそれがあった。背中がむず痒《がゆ》くなってくるような、一種の気持ちのよさに充ちた光景なのだが、これはもしかすると、われわれの裡《うち》にある近親相姦的傾斜を昇華した光景ではあるまいか。人間は実に厄介《やつかい》な生き物だ。  余談だが、それにしてもキリスト教渡来後は、近親相姦的傾斜が、どうせ罪には違いないが一種の無邪気さで語られることがなくなってしまった。なぜだろうか。キリスト教は近親相姦的傾斜に、なにか人が人間以外のものになってしまう底無しの穴に堕《お》ちていくような色彩を加えた。逆にいうと、最高の犯罪であるような、醜がそのまま美に変じ、美がそのまま醜に変ずるような、不気味な、暗黒に輝く、嘔吐《おうと》すべき、いわば弁証法的な魅惑をそれに与えた。キリスト教も厄介な宗教だ。  たとえば、われわれの自然に反するような性の行為の一つ、サディスムも、キリスト教がなければ、それほど深刻かつ刺戟《しげき》的な光景を現出しなかったのではあるまいか。  私はあるとき遠藤周作氏に聞いてみた。キリスト教のない処にもサディスムはあるのだろうか? それはお前、あるよ、昔にも未開の地にも、マリノウスキーでも読んでみれば、ということだった。  なるほど、性的倒錯は、古代にも日本にもあったであろう。しかし、私はなぜかしら、サディスムは、身体より、「幻想」に根拠を持つもののように思い、その幻想の源泉にはキリスト教があると感じていた。すなわち、涜聖《とくせい》。ユイスマンスに共感するところがあった。 [#ここから1字下げ] 「このまことに奇妙な、まことに定義しにくいサディズムなる状態は、実際、無信仰者の魂においては起り得ない状態である」 「サディズムは何よりもまず、涜聖の実行、道徳的|叛逆《はんぎやく》、精神的|放蕩《ほうとう》、完全に観念的でキリスト教的な錯乱の裡《うち》にこそ存するのである」(『さかしま』澁澤龍彦訳) [#ここで字下げ終わり]  百年前の小説だから、単なる芸術家の空想に過ぎないかもしれぬ。が、サディスムに、驚くべき豪奢《ごうしや》な光彩を与え、神へも達する坑道を穿《うが》ったのは、キリスト教であろう。  マリノウスキーは、秀れた学者なのだろうか。 [#ここから1字下げ] 「……中国や日本のようにかなり高い文化国でさえ、接吻《せつぷん》が愛の技巧の振舞いとなっていないことを知っている。ヨーロッパ人はこのような文化的欠陥に身ぶるいする」(『未開人の性生活』泉靖一《いずみせいいち》・蒲生《がもう》正男《まさお》・島澄訳) [#ここで字下げ終わり]  というところで、読むのを止《や》めてしまった。相変わらずのヨーロッパ人の偏見、なんという凡庸なたわ言。想像力と感受性が欠けているのだ。  余談だが、マゾヒスムの小説的記述というものがあるのだろうか? 私はマゾヒスム文学と呼ばれるものを二、三冊読んでみたが、首を振った。これは違う。それは単に人物の位置や視点を逆にしてのサディスムに過ぎない。そんなものならフロイトが、マゾヒスムという難題に逢着《ほうちやく》する訳もなかった。サディスムは、彼の精神分析の幾何学、生の「経済原則」によって割り切れた。が、マゾヒスムは割り切れなかった。自分を傷付けてそして死に至ることもあるマゾヒスムの内部には、何か捩《ね》じくれた管状のものがあって、幾何学を受け付けなかった。何か代数的な思考が必要であった。そこで彼が見出したのは、死の記号だが、これでいいのだろうか。  私は、この箇処に、小説が面白い問題を提供できると思う。小説はよくマゾヒスムを描き得るだろうか?  小説には、読者の共感というか、リアリティが要る。サディスムの小説はそれを持つ。いわばポルノだ。それが読者の心理や感受性にどんな作用を与えるかは、社会の検察官がよく知っている。  では、マゾヒスムの小説に、そんなものがあるか、いや、マゾヒスムの小説なぞ何処《どこ》にあるのか。自分を傷付けことによったら死に至るそんな行為と状態を描いて、読者を共感させる、ああ自分も同じようにしたいと思わせる小説が?  どんな小説的記述なら、自分で自分を傷付けたいという欲望を、読者に感覚せしめ得るだろうか。  小説的記述の一種の限界がそこにある、と私は思う。いや、小説というより、ものを眼《め》に見えるように描く言葉の記述、あるいは、二二が四でなければならぬ昼間の思考の流れといったものの。なぜなら、若干の詩句は、ときに私の内部に微《かす》かなマゾヒスムの感触を生ぜしめるからである。  私は、マゾヒスムの感触を捉《とら》えた小説の記述は、ルソー『告白』で、少年がお尻《しり》を叩《たた》かれるのを望むところと、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』で、少女が自分の指をドアに挟《はさ》んでぎゅっと締め付けるところとの、二箇処くらいしか見当たらないと考えるのだが、どうであろうか?  性について考えはじめると、すぐ迷路に入ってしまう。  性。またそれはセックス(便利な記号)のことでもある。  私がセックスによって感覚するのは、深い平安、何もしたくない、まったくの無為、時の停《と》まった状態、何処かへ戻るという感じ……などである。要するに、絶えず考慮しなければならぬ「社会」が消えて失《う》せてしまう。  仕事をする、生産する、ということとはまったく連続しない。むしろ正反対の傾斜が自分の内部に現われる。  私は、女に溺《おぼ》れた男が働かないで駄目《だめ》な奴になってしまうのを、もっともなことだと思う。それは自然なことであろう。せっせと働く方が奇妙だ。  もっとも、女はセックスによって受胎するだろう。してみれば生産の第一歩である。男はこれをどう考えればよいのか。生き物として正反対であると思うのか。  セックスの奥には、人間の徴《しる》しの途方もなく入り組んだ空間、生存の幾百とある根の縺れ、といったものが感ぜられる。おそらくセックスも、思考というほどに微妙な行為なのだ。その行為によってどんな言葉を見出すか、それは一人ずつ微妙に異なっているだろう。非常に鋭敏な人は、幾百とある根の一本ずつを感覚し分けるのかもしれぬ。人は或る一本を快楽と呼び、或る一本を苦痛と呼ぶ。私が衝《つ》き当たった一本は、無為であった。その無為は私が思考によって編んだ言葉とは異なった言葉をささやく。  奥へ、奥へ、もっと奥へ、深く暗い処へ、という声がする。身体は無為のままそこへ沈んでゆく。私は思う、われわれが抱く「闇《やみ》」の感覚の源泉はこれではあるまいか、と。明らかに思考の光りの世界とは異なったものだ。闇には、奥という感覚がある。奥とは何か。  奥とは何か。それは穿孔《せんこう》のようなものであって、一つの窮極の帰結へと導くものか、それとも、迷路に充ちたものであって、やがて迷路を辿《たど》ったあげく広い出口へと達するものか。 「光明」と「暗黒」の戦いを描く宗教は、こういうセックスの深い処を捉えて、よく象徴化していると思う。ことに異端の宗教がよろしい。「わけても、生殖、建造、播種《はしゆ》、収穫、家畜飼育などに携わってはならない。マニ教戒律には、極端に走る危険があったと言ってよい」(フェルナン・ニール『異端カタリ派』渡辺昌美訳)。私が感ずる「無為」の、おそるべき徹底がある。こうして思うと、私が興味を抱く若干の精神病者は、鋭敏な性的人間であり、おそらくオナニーなどによって無為に目覚めそれを追っている人達ではないか、と疑われる。こういう病者を解放するものは、現代の精神医学ではなく、古代の異端の宗教であろう。  奥へ、それはまた何処かへ戻るという感じのものだ。通俗心理学の解説によれば、それは母胎の幻想である。確かに男にはそんなところがある。そしてたぶん、女はこれとは正反対だろう。  突飛な連想に走るが、私は、日本の切腹が、いつ頃にどういう意味で始められたかを知りたいと思う。自殺するとき、なぜ頸《くび》ではなく苦痛の多そうな腹を切るのか、私はあれは屈折と二重性に富む、象徴的であると共に直接的な行為だと思う。腹を切る、つまり母胎との繋《つなが》りを断つと共に、比喩《ひゆ》的に母胎をも切る、そんな行為ではないかと思う。性的に考えれば、人間の一種の最高の行為である。  セックスについて、われわれは語らぬ。隠し、闇で覆《おお》う。理由のあることだ。それは「秘密」でなければならぬから。自分の奥のいちばん大切なものをわれわれは秘密にする。もし、秘密というものがなければ、それこそ人間機械といった存在にわれわれはなってしまうであろう。  その秘密は、もう一つの精神の秘密、頭蓋の片隅《かたすみ》に隠されている「私」というものと、深い処で、見えない糸によって結ばれ連続しているに違いない。  そういう秘密が、もっとも人間的な徴し、羞恥《しゆうち》の源泉であろう。或《あ》る女子の「お父様の前に出ると、羞《はず》かしいのです」という言葉を引用しながら、プルタルコスが、「恐怖なきところに羞恥なし」(『英雄伝』)と言っているが、たいへん意味深く見事な言葉だと思う。が、これは精神的な羞恥であろう。同じように、「秘密なきところに羞恥なし」と言ってもいいだろう。秘密を抱いているから羞恥が始まるのだ。これは性的な、身体的な意味のものであろう。長い間私はこれを反対に考えていた。恐怖が身体の意味であり、秘密が精神の意味である、と。ところが、そこが変わった。正反対に考えられるようになった。性という問題が現われればどうしてもこうなってしまう。  このプルタルコスの言葉も、女子と父親の関係であるから、性の面から見ればもっと余計な意味が汲《く》めそうだが、しかし私はそうしたくない。こういう見事な言葉は、すべてそのままそっとしておきたい。一段と低い水平面から切って分析して余計な意味を見出したところで何もならぬ。人間のすべては、このプルタルコスの水準で切って描くのが、いちばん含蓄があって、截《き》り出された鉱石のごとく輝く、と私は思う。最近は女性作家が多くなったので、女子と父親との微妙な関係を描く記述も多くなったが、分析しつつ描くそれらの言葉より、こういう、言うべき人間的な限度を心得た一句の方が、よほど意味深長な陰影をわれわれの胸に宿す。  しかし、こんなことを書いてきていまさら思うのだが、性という問題は、いわゆる男女の仲においてよりも、親子の間において、いっそう深くいっそう縺れているのかもしれぬ。  そんなことを、私が読んだ精神病者である若干の女主人公の言葉が告げている。いずれも、父に傷付けられるか、父を憐憫《れんびん》するか、あるいは、父が不在(現実には居るが)なのである。もっともこんな単純な構図なら誰も病者にはなるまい。自分と父との中間に、「母」の在ることが、父母と自分との単純な構図を、複雑で曲がりくねったトンネル状のものに、出口のない自己矛盾の迷路みたいなものに変えてしまう。  性とは(セックスの意味に近い)また、私のようなタイプの人間にとっては、言葉のことでもあった。言葉が性の感覚を生ぜしむる。どういう言葉に出逢《であ》って性の感覚を受けたか、ということは、人生にとってのかなり重要な局面であろう。  たぶん十九歳の頃《ころ》だったと思う。古本屋でヴァレリー『若きパルク』(菱山修三《ひしやましゆうぞう》訳)を見付け、冒頭の「其処《そこ》で誰が泣明してゐるのか、風でもないとすると、……」を読み始めると、変な感じを私は受けた。高価だったがむりやり購《か》って帰ると、果たして、詩の全体もそうだが、 [#ここから1字下げ] 「私の心臓は鼓動する! 私の心臓は鼓動する!……私の乳房は燃え上り、私を誘《いざな》ふ……  ああ! なんとこの乳房の、膨れ上り、溢《あふ》れ、張り詰めること、  私の空の網々に縛られたこの頑《かたくな》な、至極甘美な証人は……」 「また、やがて無双の地平線の輪の漂ふ、円《まど》かな囚虜の棲家《すみか》を……  瞶《みつ》めよ、至極純粋な一本の腕《かひな》が、裸形のまま、あらはれるのを。  私はまたしてもお前を見る、私の腕を……お前は夜明けを搬《はこ》んでゆく……」 [#ここで字下げ終わり]  という処や、数多くの詩句で、性的感触といっていいものが生じた。詩の意味なぞどうでもいいのである。だからヴァレリーではなく、漢字の並べ方の効果だったのだろうか。とにかく性的感触があり、そこにはマゾヒスムの甘美さが微妙に混ぜられていると感じた。  どういうのだろう、これは? イメージでもなく、幻想でもなく、単なる言葉の効果が、私の性的感覚を揺さぶるとは。ことによったら、性はいっそう奇怪なもので、非在の対象とも絡《から》み合おうとするところがあるのだろうか。しかし、非在のものへの想念は自分の内部から発するのだから、自分が自分と絡み合おうとするということになるのだろうか。いやそれとも、幼児期の絵本にあった外国の少女へのロマンティックな空想に始まって、小学時代の隣家の少女の白い皮膚にソバカスを浮かべた外国風の顔立ちを通して、ここへと到達したものなのか。  それにしても、なぜ外国の、過去の時代の少女のところから空想が始められるのか。私は以前、このことを、五歳の幼児が早くも自分を主人公にした物語を編み、それが幸福というものの原型になるのだ、と考えたが、それは半面の意味でしかなかったといまは思う。性的側面からみれば、そういう非在のものへの欲求は、近親・血縁への斥力として生ずるものではあるまいか。  性とはまた、私にとっては、女のことである。  しかし、女のことが私はどうにも語りにくい。女について注意してこなかったから。異なった性には、異なった生の感受性があり思考があるであろう、ということを黙殺してきた。いま思えば不思議になるくらい、相手の性の声によく聴き、従う、ということがなかった。これでは私の生は単調である。  女としての私の生の同行者は、むろん家内だが、私は徹底的に加害者であった。  そもそもの最初からそうだった。賃貸団地に当選したとき、私は彼女に一緒に行けと言い、彼女の父親に絶交の手紙を出し、私の家にはただ一言、ここを出て彼女と住むよと伝えただけなので、冗談事としか思われず、予告した日に実際に引っ越してしまったので両親も親類も呆《あき》れ果て、どこへも住所を知らせなかったために、まったく孤立した状態になった。  むろん、いまの私は、女にそんな生き方を強制するのはよくないと思っている。家族や親類に繋がる女の地下茎を切断するのはよろしくない。  そのときなぜ私はそれほど非常識だったのか。私のようなタイプの人間は、社会で生活するということに、ごく自然には心が向かないために、普通の人がごく普通に持つ生活の形が、ときには途方もない難題のように思われるので、だから女と一緒になって共同生活を始めるためには、言葉を誇張して、猛《たけ》り狂った心といったものを喚起するのに忙しかったからだ、と思う。  したがって、結婚の最初から、普通の夫婦らしい日々がなかった。私は何をしていたのか。会社勤めから帰ってくると机の前に坐《すわ》って目の前の壁を凝視し、ただ全身を緊張させていただけである。一月も二月も三月も。男女の会話というものはほとんどなかった。何を考えていたのか。この生活には目標がない、方途がない、したがって生活の形がない、ということであった。生活が不安である、前途が暗いということなら、まだよかった。それは人間的な、生活の実感だから。だが、方途がないということは私を困惑させた。愚かなことだった。こういう場面でこそ女という性に聴くべきであったのに。  つまるところ、生活の方途は、私の生の綱領の若干を採って軍律化したものになった——露営の気分でいること、私が倒れたらお前が進め、お前が倒れたら私が進む。といって、何処へと前進するのか、なぜ前進するのか、いったい何が前進なのか、ということについては、何の当てもなかった。何一つ分からなかった。いやはや、「とど、俺としたことが笑ひ出さずにやゐられない」(中原|中也《ちゆうや》「夏と非運」)とは、このことだ。  私は、帰宅してドアを開けると家内が玄関に倒れているのを見ても、ちゃんと自分で起《た》てと言ったし、私が病気のとき家内が看病するのをあまり喜ばなかった。そんなことより「前進せよ!」である。まるで軍国少年のままごとの光景だった。  こんなことを二十年も続けた後で、ようやく、これはなんだかおかしいぞ、と思うようになった。女はもっと別な生活の形を望んでいるのだ、と。  男の生は、根のない幹のようなもので、葉を繁《しげ》らせて日光に輝いていると威勢がいいが、風が吹けばあっけなく倒れてしまう。ところが、女の性は、地下に縦横に根を張りめぐらして、生の細部のあらゆるものに絡み付くようだ。闇《やみ》の深さと豊かさがある。  女の繊細さは、早くから、身内の暴力から身を守ろうとすることに発するのだ、とスタンダールが言っていて(『恋愛論』)、いかにも明晰《めいせき》な図解だと感じたことがあったが、それは男の視線というもので、いまになれば、こういう処にも、女性の一種の変換する力、暴力を孕《はら》んで繊細さを生むとでもいった、曲がりくねった生の回路を認めた方がいいのではないか、と思う。 [#改ページ] [#見出し]  金  金。お金のことだ。そしてこれは私のもっとも不得意なテーマである。  私は困惑している。いったい何を書けばいいのか。金銭というものに対応する自分の生の細部、お話になる個性的な経験、心の声といったものが、ほとんど見出《みいだ》されない。  いや、心の声ならあるのかもしれない。私の生における金銭の「不在」という声が。  私は本を読んでも、金銭という言葉に注意してこなかった。感覚が生じなかった。なぜだろうか。  私は、人にはなぜ、どうやって選択され決定されるのか、それは分からないが、基本的に好きな幾つかの言葉があるのだと思う。その言葉が見えない触手を伸ばして、もう一つの言葉を捉《とら》え、共鳴し、同調し、絡《から》み合う。そんなぐあいに或《あ》る人に固有の言葉の世界が出来上がる。その言葉の世界は、ほとんどその人の生の網目自身である、といってもいいと私は思う。われわれはそういう言葉とともに生きているのだ。もっとも、この「好きだ」は軽薄に見えるかもしれない。もっと明晰《めいせき》な分析的な記述が必要だろう。が、それは知的な人にお願いするとして、私は簡単に恋の一撃のようなものだと理解しておく。要するに、一つの言葉が私を招く。私の生が全体で直感する、それは何かの入り口である(と思うとき、「好き」になったという)。言葉の背後には五つも六つもの道が開ける。迷路である。どうしていいのか分からないから一番端の右の道を往《ゆ》く。と、同じ感じの言葉が現われ、背後に迷路が開き、また一番端の右の道を往く。そんなふうに言葉の世界が形成され、生の網目といったものになってゆく、と思う。後にいろんな本を読んでも、そんな言葉の部分を強調したり、照明したりしながら読んでいるのではないか。私は、「光り」「私」「傷」というような言葉が好きだった。これに反して、「金銭」という言葉にはまったく注意しなかった。何の感覚も有しなかったから。  なぜそうなのか。金銭とは何か、ということが分からないからだ。つまり、金銭という言葉を見るだけで、それを理解しようとはしなかったからだ。なぜそうなのか。金銭という言葉を見る心の目を、心の手が覆《おお》ってしまうからだ。なぜそうなのか。そこで私は、金銭を自分の生において不在にしたいと願う、私の心の傾向に行き当たる。  ごく私的な若干の例。  磯田光一《いそだこういち》と私は、同じ世代で、ほぼ同じ時期に批評の仕事を始めた。彼はしばしば私に、お前の原稿料はいくばくかと訊《き》いた。私は答えられなかった。彼の顔にみるみる失望と嗤《わら》いの表情が広がるのを私は見ていた。気持ちはよく分かる。われわれ日本人は、金銭の取得については、誰彼を問わず一様に偽善者である。まず隠す、徹底して隠す、決して数字で言わない。それはセックスより重大な秘密らしい。次に、あいまいな言葉で暈《ぼか》す。嘘《うそ》を吐《つ》く。数千万円の年収の人が、いやあ生活が困難でなどと楽しそうに言う。そのくせ、それじゃお前は貧乏人なのかと訊くと、問答の形式上仕方なく、そうですよと答えるが、カッと怒って私を睨《にら》む。文化的には豊かですよなどと付け加える。まるで日射病の猫《ねこ》でも相手にしているようだ。とにかく、この二十年来話が金銭に触れるとき思わず相手の財産を訊くと、異口同音に貧乏人らしく言っていた。仕方がないので、私はお金持ちですよ、と言うことにしている。たぶんわれわれは詐欺師《さぎし》の集団なので、いちばん詐欺の計略に富んだ者が政府を構成する。磯田の気持ちはそんなものだったろう。ブルータスよお前もか、と彼は私のことを思ったに違いない。  しかし、生の違った場面もあるのだ。彼が、これこれのときの原稿料は一枚いくばくか、などと正確に訊かなければ、私はちゃんと答えていたろう。なるほど、原稿料の明細は配達される。しかし、私はチラリと見たり、見なかったりだ。見ても、合計金額を原稿枚数で割って一枚いくばくかと勘定したことは、一度もない。それは私には、忘れた字を思い出すために漢和辞典を索《ひ》くほどにもおっくうなことだ。私は中学三年の頃絶頂に達した漢字の量を齢《とし》につれて減るままにまかせている。つまらぬ勘定をするくらいなら私は漢和辞典を索く。字の方が大切だ。つまりそれは、自分の心の裡《うち》において金銭が不在であるように、私が願っているからだろう。  あるとき、何の場合だったか忘れてしまったが、江藤淳《えとうじゆん》が私のことを「極楽トンボ」と言った。余所目《よそめ》には奇妙に見えたらしいが私は反撥《はんぱつ》を感ぜず、やれやれ見抜かれているのかなと思った。少年時から親類の叔母達がよく私のことを、この子は極楽トンボだからと、言っていたからである。  思い出す。私は原稿料に恨みがあった。  私は昭和四十五年に会社を辞めたが、そのとき、社会の一つの顎《あご》を逃れた思いがあった。顎というのは、月給、会社的な金銭の授受のことである。そのお金がなければ生きてゆかれぬはずなのに、なぜか私はこれが嫌《きら》いだった。なぜともしれぬ深い羞恥《しゆうち》を感じた。だからここでも原稿料の額を問われたときと同じことが生じた。仲間に金額を問われても私は答えることができない。額の数字を一度は見るのだがすぐ忘れてしまう。いや、忘れるというより、注意しない関知しないというように、頭が遮断《しやだん》してしまうのであろう。それが私の生の歩行を続けるために必要な心の行為である、と薄々は知っていた。辞めたとき、ロックアウト解除二、三ヵ月のときだったから退職金を全部組合に渡したので、蓄《たくわ》えもなかったが、私は失業保険を貰《もら》いに行かなかった。もう社会の顎というか、金銭授受の窓口に近寄りたくなかった。  実をいえば、辞めて一、二年後のことだったが、先日|亡《な》くなった篠田《しのだ》一士《はじめ》氏が、さる大学の就職口を世話してくれた。が、私はお断りしてしまった。勤めるということがもう厭《いや》だった。篠田さんは奇妙に思われたに違いない。そのとき私は他の大学で非常勤講師をしていたから。しかし私にしてみれば簡単な区別があった。非常勤講師は仲間との同人誌に文章を書くような行為だが、大学に勤めるとなるとそれが、社会の中の文芸誌に文章を書くというような行為に変ずる。私はもう余計なことを考えたくなかった。「身」の章にも書いたことだが、文芸誌に文章を書くということが私に複雑な問題をもたらした。さらにその上に、文芸誌に文章を書くということに支払われる報酬によって生活する、とは何か、という問題が加わるので、私の心は手一杯だった。私は、社会や生活に、なおそれ以上を考えろと強《し》いる権利を認めなかった。非常勤講師は私の遊びである。その報酬としての金銭を、私は生活のためには使わなかった。窓口の人にはお気の毒だったが、三、四ヵ月|毎《ごと》に、あるいは半歳後に、人とお酒を呑《の》みに行くときに受け取りに行った。  だから私は、文章を書いて、それに対して送られてくる現金封筒を机の引き出しに抛《ほう》り込んでは、少しずつ使って暮らしていた。  ところが、あれはいつ頃《ごろ》だったろう。昭和四十七、八年頃か、原稿料が小切手で送られてくるようになった。最初私はうろたえ、それから大いに困惑した。  銀行というものが出現した。いったいこれは何だ? 小切手を換金する場所? いや、そうじゃない。社会のもう一つの顎である。私はこれを嫌った。仕方がなく、千円出して初めて銀行の通帳を作ったが、内心はなはだ面白くなかった。ふうん! なんだこいつ、訳の分からぬ代物《しろもの》、こんな仕組みに縁があってたまるものか。あっかんべえと舌を出す。これがよろしくなかった。そのおかげで後に私は一千万円ほど損をする。  銀行の前に小さな滑稽《こつけい》があった。全共闘時代だったので学園祭のとき学生に呼ばれて話しに行く。すると三百五十円とか、五百円とかの小切手をくれる。なぜ小切手なのかと訊くと、金銭の出納にうるさいからだと言っていた。なるほど、と納得したが、それは親類の子供にやってしまった。その頃或る社から小切手をもらったがそのまま引き出しに抛り込んでおいた。半歳も過ぎたとき、これはもう駄目《だめ》になったろうなと思い、しかし紙屑《かみくず》として捨ててしまってもよくないのだろうなと考え、その旨《むね》を書いて返送した。するとこんどは現金が送られてきたので恐縮した。金銭そのものを会社の仕事として扱う銀行が、私は二重に嫌いだった。  これはついに人前で口にしたことはないが、カンボジヤの何とか政府が大量の市民を収容し、追放し、虐殺《ぎやくさつ》したという新聞記事を読んだとき、プルターク英雄伝中のどんな残酷の一節もこれには匹敵しない、こういうところに現代の刻印があるのだなと感じたが、続けて、この政府が、利子を否定し、銀行を否定し、貨幣に特別な態度を取った(よく分からぬ、一度知識人に問いかけたがなんだか具合がわるく、あわてて私は口を噤《つぐ》んだ)というのを読むに至って、覚えず私の心は高鳴った。そうか、やはりそんな考え方も現実に存在するのだ、と。  そんな厭な銀行へ、現在も一年に三回くらいは行かなければならぬ。お金を降ろして引き出しに抛り込んでおくためだ。ドアを入って記帳台の傍《そば》でうろうろしてから通帳を取り出すと、そちらも店内をうろうろしていた女性の案内係が、あ、小額の人は現金引き出し機でどうぞ、と言う。たいした眼力である。なるほど私が高額のはずはない。ふと私はドストエフスキー『白痴』の中の、イッポリート少年の�小振りの善根�という嗤いを思い出して苦笑する。まさしく私は小振りの男に違いない。むろん私だってキャッシュカードは持っている。だが銀行に勧められるままにあんまり冗談事に手続きしたので、一度も使わぬうちに暗証番号を忘れてしまったのだ。えーと、あの四|桁《けた》の数字は、フランス革命の年だったか、桶狭間合戦《おけはざまかつせん》の年だったか、それとも『方法序説』出版の年だったのか……。  そんな訳で私は、余計なお金があると、証券会社で国債を買うことにしていた。官吏の親父が国債ばかり買っているのを子供心に知っていたからである。だが、そのおかげで数年前に一千万円の損をした(もう一つの顎に堕《お》ちたのである)。そのとき思わず私は笑った。やれやれ親子はやはりよく似るものだ。親父の国債は敗戦で紙切れと化し、息子の国債は金余りの繁栄の中で零《ゼロ》どころかマイナスの負債と化した。息子よお前もか、とあの世で親父が大笑いしているに違いない。  余計なお金というのは、私の手が稼《かせ》いだものではないからだ。私は家内の両親とは絶交していたが、十数年後不意に母親が家内の名義で三百万円の国債を買ってくれたという。たぶん家内の妹が結婚したので、優しい母親らしさのおこぼれがあったのに違いない。  これだけなら別にどうということもない話だ。だが、損をする二年前くらいからしきりに、というより執拗《しつよう》に、証券会社の電話がくるようになった。お前の持っている「ろくろく国債」だか「ろくいち国債」だかは、いちばん条件が悪い、すぐ別の国債に買い換えよ、そうでなければお客の利益を計るわれわれの精神に悖《もと》る、担当者として恥ずかしい、というようなことだった。私は儲《もう》ける必要はないと言って断る。しかしいくら断っても電話が鳴る。つい或るとき、寝不足の浅薄な気分のままに、うるさいな、あっちに電話しろよと、家内の仕事場の電話を教えたのが、私の過失であった。(これは私の生の態度の弱点である。私は言葉のドアの扉《とびら》は決して閉ざしたくない。相手が無礼者でも、団地のドアに不意にやってくる不審な訪問者でも、三十遍四十遍と同じことが繰り返される宗教勧誘者、保険その他のセールスの人でも。とにかく会って短かい話は聴く。「声」はそれほどに大切なものではあるまいか)。過失が悪意よりひどい結果をもたらすということを私はここで学んだ。電話が家内のところへくるようになった。むろん家内も私の軍律を知っているから現状不変更であった。ところが金銭についての不注意・無関心は一種の咎《とが》である。私はうっかり国債には「満期」がくることを忘れていた。満期になったとき、すこし前から入れ替わっていた担当者が颯爽《さつそう》と現われ、じゃ満期になった国債をこれに買い換えましょう、必ず有利だから、と言われたのが「さきもの(先物)国債」だった。はいはいお願いします、と家内が承知してから一ヵ月も経《た》たぬうちに、それは一千万円の損(元の三百万を差し引いて七百万円の赤字)と化していた。  その損の少し前に社会を騒がせた「豊田商事事件」というのがあった。それは老人や女性に、いまは現物の黄金を買うのが有利だからといって、貯金を叩《はた》かせながら、黄金を渡さず、紙切れに過ぎぬ一枚の預り証だかを渡していたという事件である。つまり、単なる言葉のレトリックと共に、老人や女性の生活に大切な現金が失われたということだ。いや、実にそれには違いないのだが、金銭には、現金とは違ったもう一つの面、レトリックとしても使い得る単なる言葉としての面、数字とか記号とかの面があるのだということを、その事件は鋭く感じさせた。したがって、この事件の演出者は、豊田商事ではなく、金銭から現金という感覚を稀薄《きはく》にし、たとえば「利息」の増殖というような、抽象的な言葉としての面を強調し、それが日常的に浸透し心理化されるように仕組んだ、政府の施策であると私は思った。金銭の量によって上流下流の身分を区別するためには、金銭から、その人の生活的心理的実感というものを引き剥《は》がしておかねばならぬ。量とか数字の面を強調して、言葉のレトリックとして語られるようなものにしておかねばならぬ。  それはつまり社会全体を、金銭において、 [#ここから1字下げ] 「利息の前に利息あり、さらにもひとつの利息あり」(プルタルコス『饒舌《じようぜつ》について』柳沼重剛訳) [#ここで字下げ終わり]  というような状態に導くことにある、と思った。したがって私は、豊田商事事件は、時代の新しい波、一億総中流化の時代(金銭から現金的な実感の剥奪《はくだつ》される時代)の急所を射ていると思い、ちょっと文芸批評に使うつもりだったが、自分が「さきもの国債」に出会ったので、急に気持ちが萎《な》えてしまった。  なんのことはない。豊田商事事件は、それに関《かか》わった人間の悲劇であり社会の喜劇であったが、私の場合は、悲劇にも喜劇にもならぬ。滑稽《こつけい》にも、お笑いにもならぬ。ただただ、「国債」がそういうものとは知らなかった、その上に「先物」という字がくっ付くとは知らなかったという、あっけらかんとした馬鹿《ばか》ばかしさが残るだけである。  もっとも私は、その負債・赤字を埋めるために、ほんの一つでも苦しんだことはなかった。  私の生家の家を売ったお金を、同じ証券会社に預けていたからである。これも実は私の欲したことではなかった。右の人にも私は相続を放棄すると言い、左の人にも相続を放棄すると言っているうちに、ごちゃごちゃしてきて、結局、私も相応の配分を貰ったからである。  その後、もれ聞くところによると、裏切り者といった意味の悪い奴《やつ》というのが、親類中での私の評判だった。要らない、要らないと言いながら、結局は何もしないくせにお金を奪取していった奴! なるほど。それに違いない。だから、私の一千万損失の報を一年後くらいに知った彼等は、異口同音に大笑いしたという。それみよ、悪銭身につかず、とはこのことではないか!  やれやれ話題にしてくれて有難う、というのが私の心境だった。実のところ、この一千万円損失は、私の心の内部ではエピソードの値打ちもない。すべて他人向けのお笑い種《ぐさ》である。だが他人が私に返事の具合が悪そうな顔をするので、面白いことがあったぜ、という私の話も引っ込んでしまう。私の心の内部では、一千万円の損は、十年前古本屋の棚《たな》に、ウィトルーウィウスの建築論とかいう本を見付け、ああ読みたいなと思ったがそのときはお金がなく、一ヵ月後に尋ねるとその本はもう無かった、という口惜《くや》しさとは比べものにならないのである。人は一生に一度しか生きてはいない。かりにもし私が処刑場に曳《ひ》かれるとしてその道程に三日間あるならば、私が持参するのは一冊の本であろう。一千万円ではない。そんなものは何の足しにもならぬ。  もっとも、金銭についての感受性の面では、私は到《いた》る処《ところ》で間違っているのかもしれない。なにしろ私の生の序列を整える心の内部に、金銭というものが「不在」であるから。しかし、なぜ不在なのか。  金銭とは何だろうか。よく判《わか》らぬ。  どだい何も考えてこなかったのだから、判る訳もないが、なぜ考えてこようとしなかったのか。さっきからその壁に頭をぶつけている。まずそんな自分の心の傾斜が分からぬ。  金銭について考えようとすると、何とも故《ゆえ》知れぬためらいが生じて、私の思考を阻《はば》む。悪夢に脅《おび》える日々、これを読むとまた恐《こわ》い夢を見るからと、お化けの本を読みたくてたまらぬのに両手に堅く抱きしめながら決して開かぬ、幼い感覚が私の内部に生ずる。  私の頭が動きを止め、内部が暗くなり、不思議な禁止の鈴が鳴る。  金銭とともに、物の値段があり、われわれの仕事の値段がある。金銭は、この二つの値段を結ぶ、一つの言葉であり、或る方程式に過ぎない。なぜこんな簡単なものが考えられないのか。  金銭には奇妙な感触がある。私は弱年の頃、ヴァレリーの詩論で「数が最初の言葉だ」を見出したとき、あ、これは金銭のことだ、とたちまち思ってしまった。金銭は数であるから。で、ヴァレリーには申し訳ないが、そこを転倒させて、「最初の言葉は数である」にして、「最初の言葉」について考えたって仕方がないと、考えないための弁明にしたことがあった。  奇妙な感触とはこんなことだ。私が、自分の内部の「私」という存在とは何か、と一心に考えているとき、私は右手でデカルトの言葉に沿って歩き、なるほど、私とは、一瞬光っては消える光りのような存在である。両親とは関係ない、私の思考の発光とともに在るだけのものだ、と思いながらも、実は左手で、それを否定する壁に触れていたのである。  どうか笑わないでいただきたい。左手で触れていたのは、金銭の壁、「最初の言葉」という壁である。なぜなら、いくら私という存在が私の思考とともに在るものだとしても、その思考がまた言葉とともに在るのだ、ということも間違いのないことだろう。では、私という存在について考えるところの言葉も、必ず、見えない糸によって、その「最初の言葉」のところに連続しているであろう。  と思ったとき、私は一つには、この、私は思うだから私は在るという基点(生の困難に溺《おぼ》れた私が掴《つか》んだ一本の藁《わら》しべ)が、みるみる毀《こわ》れそうに感ぜられるとともに、他の一つには、言葉という壁の連続をたどって「最初の言葉」へと至る、私という存在にはもう一つの不気味な起源がある、とか感じたからである。たぶん私は、こちらの感じを禁止したのだ。  次は、つまらぬ冗談。私は、ヨハネ伝の「太初《はじめ》に言《ことば》あり」というのは、人間の生の一つの根柢《こんてい》に達した、いくら考えても汲《く》み尽せぬほどに意味深長な言葉である、と感じているのだが、たちまちもう一つのからかいの感じも浮かんでくるのだ。ふうん! その通りだ。だから、「社会の太初には、金銭という最初の言葉あり」じゃないか、と。  金銭は魔物だ、とよく言われるが、私は実は、その訳はいま述べた冗談にも関係があるのではないか、と疑っている。  金銭の魔物性が、いまは、物の値段のからくり、人の仕事の値段のからくり、という面ばかりが強調されて複雑に考えられているらしいが、私はそれは一面的に過ぎると思う。  奇妙な感触のところから思うと、金銭の魔物性はむしろ、金銭と、それに触れる手というか人の心との間に、あるのではなかろうか。そこにややこしいものがある。なるほど、経済的思考でも、人の心の欲望ということは、単純な根柢として考えられているようだが、あんなものではなく、もっと微細な、心理の襞々《ひだひだ》に食い入っているややこしさのことだ。  金銭に対する生の感触は、非常に微妙にだが、各自において深く相異なっているような気がする。その微妙さは、人がセックスについて感覚する微妙さとほぼ等しいのではないか、と私は思う。だから、われわれは金銭について公開的には語らないのだ。なぜとも知れぬ羞恥《しゆうち》がある。  おそらく、と私は断案する。金銭のもう一面は、勝《すぐ》れて心理的な存在である、と。それはわれわれの心理を映し出すもう一つの鏡である、と。先に「身」のテーマのところで、私は、社会の鏡を嫌悪《けんお》する、と言い、社会の鏡とは他人の目である、と言ったが、いま思えばそれは半面に過ぎなかった。その奥にもう一つの鏡があった。金銭という鏡が。私は一つのことに衝《つ》き当たる。そうだ、私が嫌悪したのは、この金銭という社会の鏡であった。  私がはっきり金銭について現実的な感覚を持ったのは、昭和三十四年、二十九歳で賃貸団地に引っ越したときからである。  なぜなら、そのとき初めて、私という一個の人間の生活が始まったからだ。一人の女と夫婦になって、つまり、もう一人の人間の運命というか生存の安危を、私が背負い込んだからだ。生活ということを、そういう形で私は考えた。自分がそれまで一心に確立しようと思った単独者の生なぞ、果たして生活と呼べるものか、と。  そして、生活の一歩一歩が金銭で刻まれる。  その賃貸団地は、たしか2DKで五千数百円の家賃であった。入居資格には、その五倍の月収が要る。家内もデザインの仕事をして共稼《ともかせ》ぎであったが、二人の月収を合算しても、その入居資格には足りなかった。二人で二万数千円ではなかったか。まあその頃はおおらかなもので、月々一万円くらいの扶助《ふじよ》が親からあると、真っ赤な嘘《うそ》を便箋《びんせん》に書いて出せばそれで通ってしまったのだ。  したがって、身の回りの物だけは最初からあったが、その他の生活に必要な品は、一つ一つ時間をかけて買うほかはなかった。たとえば、朝日が射《さ》すので目が覚めて困る窓を覆《おお》うカーテンを買うためには、次の月給を待たねばならなかった。金額は忘れてしまったが、そのためにかかった時間は一つの記憶と化している。  そんな生活のはずなのに、また私はそのとき初めて、女という生き物に一驚した。家内の生の感覚が分からない。ちょっとでもお金があると、私が食べたくもない高価な肉をせっせと買ってくるのだ。おかげで毎月、月の半分は贅沢《ぜいたく》生活だが、月の半分は素寒貧《すかんぴん》の生活だった。だから私は自分の洋服なぞほとんど買わなかった。親父の古い洋服ばかりを着ていた。  思わず私は家内に向かって、お前も女なんだから家計簿くらい記してみたらどうだ、と言っていた。空《むな》しい言葉だった。家内は今日に至るまでただの一度も家計簿を記したことがない。  打ち明けるが、そのために私が文芸時評で困ることがある。あの時代の物の値段と私の月給とがどういう関係を描いていたか、記録がないので、金銭についての生きいきとした感覚が甦《よみがえ》らない。それでは小説が描く生活を見るときの、私の感覚の一部があいまいになってしまう。  どうしてメモくらいの家計簿を記さないの? と家内に何度も質問したが、答えは得られなかった。隠すのではなく、理由が思い当たらぬようだった。長い時間をかけてやっと私は納得したことがある。そうか、彼女は金銭の数字を決して自分の手で記したくはないのだ、と。たちまち、もう一つの彼女の癖、ふざけているのではないかと私が立腹した癖、金銭の数字の加減乗除となると、とたんに小学一年でも可能な暗算がおろそかになり、桁《けた》数を混乱するということに、合点《がてん》がいった。  つまり彼女も、私とは微妙に違った仕方で、金銭を自分の心から不在にしているのである。なるほど、こんなタイプの人間が二人もそろえば、私の家庭が金銭について上手《うま》く考えられる訳もない。  こういう生の態度は、人間的にはともかく社会的には、率直にいって、一種の心身障害ではあるまいか。広く言って、一種の病的感覚になるのではあるまいか。  私の知っている若干の病的タイプの人間が、こういう生の態度の純粋な化身ではないかと思う。病者は、極端に金銭に厳しく当たる。つまり極度に潔癖か、あるいは極度に無頓着《むとんじやく》かのいずれかである。  病者はおそらくこう考えるのだ。金銭こそ社会の顔である、と。その顔は絶えず何を言っているのか。こうだ——「金銭は量る」。これは原型的なことだ。聖書のいうところ、神はわれわれの髪の毛一本ずつすら数えているそうだが、金銭も同じことをする、われわれの髪の毛一本ずつすら量るのだ。弱年の頃、農民絵のミレーについて書かれた文章で、創世記にあるのだという「土は詛《のろ》はる」という言葉を見出したとき、私はなんとなくこう思った。なるほど、人間的生存の生地《きじ》は「土は詛はる」かもしれぬが、社会的生活の生地は「金銭は量る」ではあるまいか、と。同じように原型的なことだ。  われわれの生存は、社会で生きている限り、絶えず金銭によって量られるものだ。絶えず量られているというこの感覚。それは私の生の最初の意識的な記憶、手術室の光景へと結びつく。  したがって、私のようなタイプの者には、金銭が、私が社会に投げ出すところの心の片端、というものになってしまうのだ。  私は思い出す。十五、六歳以降、友人から五百円借りて使ったとする。それを返すために手に入れた最初の五百円、これを右のポケットに入れておくと、どんなに困ってもそれが使えない。半歳も持ち歩いていると汗でぬれてくる。つまり、その金銭が、交換自由なものではなく、交換し得ぬ心理の一片と化してしまう。  日本人には私のようなタイプが多いのではあるまいか。『米欧回覧実記』の政府一行は、果たしてよく交換の記号としての「金銭の感触を与え得るか」と、始終心配していた。  以上の感想は、私の汚れた教育の結果である。  金銭のことがちゃんと考えられず、無関心を装うのは、育ちのわるい証拠である。  金銭についてちゃんと考えるのが、生の鷹揚《おうよう》な態度というものであって、この態度を早くから教えるのが立派な教育である。  われわれの世代の親父、明治生まれの俸給《ほうきゆう》取りは間違っている。子供に金銭の感覚を教えなかった。  武士は金銭のことを口にしない、などという態度を模倣したのだったら、ひどい間違いだ。なるほど、武士は金銭について語らなかったかもしれぬが、禄高《ろくだか》、五石十石の相違については非常に鋭敏だったはずだ。  ことに下《した》っ端《ぱ》の俸給取りがよろしくなかった。生活は苦しいくせに、金銭を無視すれば、ほのかに一滴の上品さが生活に宿ると思うこの錯覚。嘘吐《うそつ》きの心とはこういうものだ。こんなふうだからわれわれは、いつまで経《た》っても「政府の玩具」(福沢諭吉)にしか過ぎないのだ。  いや、金銭はもっと怖るべきものだ。それは、私の生の希望であり、また、現にいま職業にしているところの、文芸批評というものの根柢にも食い入っている。  私は、文芸批評の本質は、ある思考の方法、学問でもなくエッセイでもなく常識でもないところの、それ独自の思考の波長にあるのだと思っているのだが、その証明ができない。怠け者だから、そんな思考の波長の、古代からの一本道と漠然《ばくぜん》と感知するものを明らかにすることができない。  そして、社会が「批評」に要求するのは、相互に比較して量ること、いわば「金銭」の性質のものだ。だったら、金銭こそが、常に最大の批評家である。  私がちょっと金銭について考えたときは、そこを転倒して、金銭とは「批評」である、として考えようとしたが、たちまち頭が混乱してしまった。おかげで、比較して量る「批評」とは何か、ということさえ分からなくなってしまった。  ……そんなことはもうどうでもいい。私はいまになってようやく、考えようとしないおかげで、金銭に対して柔かな態度が取れるようになった。  弱年の頃読み飛ばして、ふん、気障《きざ》な科白《せりふ》だなと思った言葉が、いまはしみじみと味わわれるのである。  それはヴァレリーが、目立つように引用しているスタンダールの一句だ(『アンリ・ブリュラールの生涯』にある)。 「社会は自分の目に見える奉仕に対してしか金を払わぬ」 [#改ページ] [#見出し]  家  家。「家」とは、家族のことであり、家庭のことであり、また、家という住居のことだ。そしてこれは、私のもっとも書きたくないテーマである。  つまり、私の生が遮断《しやだん》したテーマであり、もっとも遠ざかろうとしたテーマである。  だから、これに触れる私の言葉はよろよろするだろう。切れ切れになるだろう。  家族、家庭、住居としての家。これは三つに分けて考えられる。考えるというより、私の生の局面が、あるいは生と共に歩む思考が、この三つの順番通りに動いた。すなわち私は、まず自分の家族を拒否し、やがて自分の家庭を作り、しかし自分の家は建てなかった。そしていまは、私にとって果たして「家」とはどういう意味のものであったかを、考えるところに達している。  面白いことには、私の生きている時代も、時代としてそのように三つの順番で展開したのではないか、と思われることだ。  敗戦が起点だ。戦前的な家族を拒否し、戦後的な新設の家庭を作り、一戸建ての住居を求めて土地を高騰《こうとう》させた。そして平成元年の今日、左手に家庭の糸筋を、右手に家族の糸筋を持って、この二つの糸筋に違和を感覚したり、無理やり一致させたりしながら、「家」とはいったい何であったろうか、そこにどういう意味が自分の生よりも深く秘められているのか、と問い、懐疑し、意味を索《もと》めているように、私には感覚される。  そういう時代の展開は、戦後文学史を書けば文学的には証明できるはずだ、と私は予感している。昭和二十年代、三十年代、四十年代、五十年代に書かれた小説の主たる内容を抽出すれば、そんなことがくっきりとプリズムのように浮かび上がるはずである、と。  ただし、この戦後文学史は、文学を絶えず新聞の一面、社会面と対照しながら考えねばならないから、ほとんど一個人の手には合わぬ。大学の一学科くらいの組織にかけて為《な》すべきだと思う。小説を中心にして見れば戦後の文学の流れは、文学精神の実験と試行というより、むしろ日本人の生の様式の変化を描くということに、力点があったから。文学の変容ということより社会の変容ということに力点があったから。実は私は、松原新一、磯田光一との共著『戦後日本文学史』で数章を担当したが、まず私を襲ったのは不可能性の気分であった。徒《いたずら》にそれまで決して読もうとしなかった社会学や経済学の本を読んで(ほとんど理解できず)時間を空費した。磯田は戦後文学史を書き昭和文学史を書くことに自分の批評の成熟を賭《か》けていたようだが、私は反対だった。こんな時代の文学史を描くには、哲学、詩、社会・経済学、新聞記事(現象、流行、犯罪)の綜合《そうごう》が必要であろう、一個人の手には負えぬ、と感じていた。  むろん、この家族、家庭、住居としての家は、ただ一つの根柢《こんてい》から発しており、そのただ一つのものを「家」と呼ぶ。「家」とは何か。それがなければ私が在り得ぬもの、私の出自の場所である。  私が両親の家を飛び出したときはすでに二十九歳であったから、「家」について考えるところはあった。考えるために読んだ若干の言葉は深く私の胸を刺した。私が愛読したプルタークの兵士達も、常に生の原点として思い浮かべるものは、 「人が住んでいるために温かい家」  であった。クーランジュの『古代都市』は、科学的ではなく文学的記述に堕しているそうだが、却《かえ》ってそのために私の胸を打った。都市が聖火を基に建設されるように、「家」の中心には「竈《かまど》の火」があった。 [#ここから1字下げ] 「竈の火は一家の守護神であつた」 「ギリシア人は常に囲墻《いしやう》のうちに竈を設け、外部の人々の接触は勿論《もちろん》、視線からさへこれを保護した。ローマ人は竈を家屋のなかに隠した。竈神、守護神、生霊などのすべての神々は『隠された神』、『家内の神』などと呼ばれた。この宗教の行事はみな秘密を要し、キケロも『隠密の祭事』と言つてゐる」 「想像を逞《たくまし》うしてこれら古代人の時代に深く分入つて見るならば、各々の家に祭壇があつて、その周囲に家族を見出《みいだ》すであらう。竈の周囲に、毎朝家族は朝の祈を上げるために集り、また毎夕、夕の祈を上げるために集る」 「古代ギリシア語は家族を示すのに極めて意味深長な言葉を以《もつ》てした。(略)これは文字通りに訳せば『竈の傍なるもの』の意である。家族とは、同じ竈神に祈り同じ祖先に神饌《しんせん》を献《ささ》げることを、宗教から許可された人々の一団を意味する」 「(結婚の)儀式は神殿で行はれるのではなく、各自の家で挙行せられ、これを主宰するものは家の神であつた」 「元来人は自分一個のものではなく、一聯《いちれん》の家族の一員であつて、家系が彼に於《おい》て終るべきではなかつた。彼は偶然に出生したのではなく、祭祀《さいし》を継続するためにこの世に生を与へられたのである」 「我々は更に家屋に対する愛着をも古代人の美徳の一に数へようとするものであるが……(と言って、キケロの中の次の言葉を記す)『ここに我が宗教があり、一族があり、祖先の形見がある。いかなる魅力がここにあるか知らぬが、我が胸に入り心に滲《し》みる』」 「我々現代人にとつては、家屋は単に雨露を凌《しの》ぐ場所でしかない。(略)しかし、古代にあつては、事情は全く異つてゐた。彼等の主要な神、すなはち守護神は、家のなかにのみあつて、彼等を個人的に守護し、その祈りを聴き、願ひを叶《かな》へたのであつた。家の外に於ては、彼等は最早や神を意識することが出来ず、隣家の神は敵意をもつ神であつた。それ故に、当時の人々は、我々が教会を愛するやうに家を愛したのであつた」(田辺貞之助訳) [#ここで字下げ終わり]  これらの言葉を胸に刻みながら、私は家を去って行った。そして私が営んだのは、すべてこれとは反対の、現代の新設の家庭であった。  これらの家を語る言葉は、途方もない古代のそして異国のものであるが、われわれの世代の両親の家を考えるときには、よく感覚できるものであった。  一日の行事は、口すすいだ後で父が、父が出張中のときには祖母が、神棚《かみだな》や仏壇にお燈明《とうみよう》をともすことから始まった。  また、祖母の口にかかると、私が顔も知らぬ遠い縁戚《えんせき》の者まで入れて、今日は誰それの命日であるとか、子供の祝いであるとかがやたらと多く、さらに、今日は何処《どこ》そこの神社やお寺の縁日であり市《いち》であるという日もやたらと多く、その上に、節句あるいはお盆や月見などの季節の行事が加えられると、三日に一日は、必ず意味のある日のようであった。人生における日々の、なんという意味の重量。こういうものが家の母胎であった。  朝夕の雲の姿とか、風の強さと向き、雨のさまざまの名称、やれ虹《にじ》がどうだとか、月が暈《かさ》をかぶったとか、今日は北の方角が吉凶の何かだとか、仏滅だとか、草木の何の芽が出るだとか……一日というものに意味の密度があり過ぎて、私は閉口した。しかし、思ってみれば、家の内部を充《み》たす一日ずつの、日というものの密度であった。  私は、婆《ばあ》さんは迷信家である、どう仕様もない昔の遺物であると思ったために、すべて聞き流し何一つ覚えていないが、いまはちょっと失敗したと思っている。婆さんの存在が表現していたのは、おそらく、いま私は初めてこの語を書くのだが、「封建的」と呼ばれる生のスタイルが持つ、一日というものの充実であり、密度であった。  すべての思考の中心に、家があり、家はそこに生きる者に、確かな生のかたちを与えた。 [#ここから1字下げ] 「先《まず》士法と申は朝夕手足をも洗ひ湯風呂《ゆぶろ》に入て其身を潔《きよ》く持なし毎日早朝に髪をゆひ節々|月額《さかやき》をも致し時節に応じたる礼服を着し刀|脇指《わきざし》等の義は不及申《まうすにおよばず》たとひ寒中たり共腰に扇子を絶《たや》さず客対に及ぶ時は先の人の尊卑に随て相当の礼義を尽し無益の言語をつゝしみたとひ一椀《いちわん》の飯を食し一服の茶をすゝるに付ても其さま拙《つたな》からざるやうにと油断なく是を嗜《たしな》み其身奉公人ならば非番休息の透々《すきすき》には只居《ただい》を致さず書をも読《よみ》習ひ物をも書覚へ其外武家の古実古法に至る迄《まで》是を心にかけ行住|坐臥《ざが》の行義作法共に流石《さすが》武士かなとみゆるごとく身を持なす義|也《なり》」(大道寺友山『武道初心集』) [#ここで字下げ終わり]  私の新設の家庭には、こういうものは一切ない。私は羨望を感覚する。  私は弱年でこの本を読んだとき、この人には剣を手にしての精神の明晰《めいせき》さがない、なんだ月給取り根性じゃないかと軽蔑《けいべつ》したが、いまはそうは思わぬ。彼は、平和な日常には形があり、その形のなかで生きる人には形に即応した作法がある、と言っていただけだ。家の外と内を一つにしての、生のスタイルの確実さがあった。  敗戦後われわれがさっぱりと捨ててしまったのは、このような「家」の密度であり、このような生の形である。デュルケームが『自殺論』で、家族の密度の「稀薄化《きはくか》」が自殺者を増大させた、と言っているが、人ばかりではなく時代そのものにも、そんな変化と作用が見出されるのではあるまいか。「家」というものの密度の稀薄化と、生の形の失墜とが、未《いま》だよくは命名されぬ新種の心理、行動、生活意識を派生させているのではあるまいか、と。ここ十年来の文芸誌小説が、非常に稀薄になった「家」を背景に、新たな親子関係夫婦関係を描いているが、九十年前のこの本を抜くような鋭い観察、新しい照明があるとは、あまり感ぜられぬ。 [#ここから1字下げ] 「家——牢檻《ろうかん》。陰鬱《いんうつ》とサディスム。私は二十歳。反抗、監禁」 [#ここで字下げ終わり]  私は二十《はたち》の頃《ころ》、こんな意味の言葉をノートや紙切れにやたらと記していたはずである。ちょっと証拠に引用しようと思って、塵芥《ごみ》の山でも引っくり返すように長年手を触れぬ引き出しを覗《のぞ》いてみたが、見当たらなかった。埃《ほこり》がひどかった。埃とともに私の昔の言葉が腐っていた。埃に顔をそむけてそっと抜き出した二十枚ばかりの紙片の中に、こんな二葉があった。 [#ここから1字下げ] 「せがれ、人に警戒を怠るな、眼《め》をあけて眠れ! と古い日の父親は教へた。私はこの猛々《たけだけ》しい規則を愛用してくりかへす——自己に心をゆるすな、眠りながら眼をひらけ! と」 「私が小さな手帖《てちやう》に——四月X日、私は自殺する、つまり、自分の咽喉《のど》をこの自分自身の腕で絞めあげながら、といふ私の方法において、私自身を完了しよう——と書いてから、これでちやうど二ヶ年になる。  私はあのとき、暗い教室の真ん中で、ただ退屈のあまり、なにげなくそれを書いてみたのだ。なにげなく?  ……ほんたうをいへば、私は、自分がただ気まぐれにしてみせたにすぎぬと思つてゐるこの掌《てのひら》から、あまりに真実らしい自分の運命の予定暦がでてくるのをみて、それをやめてしまつた」 [#ここで字下げ終わり]  教室などというのだから、手帖の件は大学生のときであろう。やれやれ、なんという感傷性。こういう言葉の背後には、思いきって醜い自己への、否《いな》、というより自分が掴《つか》んだ観念への惑溺《わくでき》があるのだ。  その頃私は、思いきって自分の力の及ぶかぎり、「家」あるいは家族というものを、拒否しようとしていた。なぜそうなのか。  そうだ。それがこの文章の一つのテーマだ。二十のとき、私はなぜそれほど強く家あるいは家族を拒否しようとしたのか。  私は、私の父や母を、また祖母や兄弟を、憎んだり嫌悪《けんお》したりした訳ではなかった。なるほど旧制中学四、五年から大学一、二年にかけての五年間くらい徹底して父と対立したが、私は父を憎みはしなかった。志賀直哉の描くような父子対立ではなかった。父は敗戦によって権威を失っていた。最初は毎晩、次に三日に一度、週に一度、やがて月に一度くらいになったが、夜八時頃から始めて夜中の十二時まで激論した。翌朝寝不足のまま出勤する父の姿を見ると微《かす》かに私の心は疼《うず》いた。私は若かった、私には疲労がなかった。おそらく、四十八、九歳で敗戦に出遭い、自分の信じてきた国家や人生の処方が心の内部で没落している父にとっては、私が、つまり息子が、その敗戦が生み出した一つの異物のように見えたに違いない。対立の後半、父が思わず「お前のような息子を持ったのが私の不覚だったということになるのか」と言ったが、その言葉は痛く私の胸に響いた。父の手が老いて見えた。それはよく分かった、どんな親もこんな息子を生み出したくはないだろう、と私自身が感じていた。こんな回想の仕方は誇張を招いてしまうのだろうが、父と私との対立が、絶えずざらざらした空気で家を充たすために、父の身を弱らせ(私が家を出た後だが、「息子さんが家に来ないように」、私に会うと父の身体《からだ》の具合が悪くなる、というのが近処の医者の忠告)、父と義母の夫婦仲にひびを入れ、一年の三分の一くらいは義母とその娘つまり義妹が病臥《びようが》することの原因であり、もしかすると、兄がまるで居候《いそうろう》のように家に寄り付かず、祖母がそわそわと行動したために足を折って寝たきりになったことの原因でもあったのではないか、と、いまの私は思う。  むろん、その当時も私はそんなことは漠然《ばくぜん》とだが感じていた。私が存在するからそれらのことが生じる。しかし、どう仕様もない。私は自分を変えることはできない。私が存在することから発して、それらのことが歯車の正確な回転のように生ずるのだ、と私は思っていた。  十年ほど前、家庭内暴力ということが社会現象として顕《あら》われたとき、あっと思い、たちまち私は理解した。私の家にあっては、私こそが家庭内暴力であった、と。そしてこうも思った。敗戦時に十五歳くらいのわれわれの世代は、時代的に、何処《どこ》の家庭においてもまずその家を拒否する戦後最初の家庭内暴力の世代ではなかったか、と。  対立といっても、それは生活上の意見の対立ではなかった。生の感覚の相違であった。父が私に問うのは、「お前は生活ということを考えているのか、どうやって生活するのか」ということだったが、あいにく私はそのとき、「生活」ということが徹底して嫌《きら》いだった。家や、日常や、新しく生きよと甲高く叫んでいるような時代が、その「生活」の象徴のように見え、私はこれを憎んだ。このあたりの光景に達すると、私はいつも自分が生きてきたのに、生の過程というものが分からなくなる。父の給料と母の家事によって私が生活し、その生活の上に載って私の思考があるのに、なぜその私の思考が「生活」をかくも嫌悪するのか。これが父子対立における、正《まさ》しく私の急所であった。この矛盾を私は解くことができない。こんな不条理な滑稽《こつけい》を前にして父親が苛立《いらだ》つのは当然であろう。  たとえば私は、そんなことを思いあぐねて、一ヵ月も二ヵ月も掃除しないために天井に蜘蛛《くも》の巣が二つか三つある部屋に棲《す》んでいた。義母からそんな話を聞いた父がたまには掃除せよと言う。私は猛然と反抗する。そのとき私は蜘蛛の巣と天井の染《し》みを見ながら、ここにこうして俺《おれ》がいるそれは何か、と考えているところであった。考え続けるためには、蜘蛛の巣はおろか埃の一つさえ大切であった。私は断乎《だんこ》拒否する。そういう私が父には不可解であった。それはそうだろう。いまの私にも、こういう私の生の行為を合理的に説明することはできないのだから。  要するに私はそのとき全身を挙げて、父に、「私に触れるな」と言っていたのだ。いまの私は年|長《た》けてこう思う。これは、人間のなかの非道な、もっともむごい声である。それは冷たい刃《やいば》のごとく人の仲を切り裂く。こういう声が最高の家庭内暴力であろう。  ここで私は不思議な生の一地帯というか領域を通り過ぎる。この光景に達するとき、私は自分で生きてきたのに、生の過程というものがまったく分からなくなる。  父と対立し、家を拒否しようとしているとき、これこそ生の真実の音調というものだ、と私が耳を傾けていたのは、次の四つの言葉のようなものであった。それは私の見出したものではない。私の読んだ本から発していた。  第一のものはドストエフスキー。 [#ここから1字下げ] 「本当のところ、僕はもう十八の子供じゃありませんよ。僕は長いこと枕《まくら》の上に寝つづけて、長い間その窓を眺《なが》めて、長いあいだ考えました……もう……ありとあらゆることを……死人には年がないってことを、あなた御存じですか。僕はつい先週、夜中にふいと目が醒《さ》めた時、このことを考えたんです……(略)/ああ、ここにこういう人達がいるが、この人達もすぐにみんな亡《な》くなってしまうのだ。永久に! と不意にこんなことを考えました。そして、この木立もなくなってしまい——残るのはただ煉瓦《れんが》の壁ばかり……僕の窓の真向いにあるマイエルの家の赤い壁ばかり……」 「そうだ、あのマイエルの家の壁は、様々な事実を諸君に伝えることが出来る! 余はあの壁の上にいろんなことを書き付けた。あの汚い壁の上に、余の暗記していない斑点《はんてん》は一つもない。おお、呪《のろ》われたる壁よ!」(『白痴』米川正夫訳) 第二のものはランボー。 「俺《おれ》は十二の時、閉ぢこめられた屋根裏の部屋で、世間を知つた、人間喜劇を図解した」 「懊悩《あうなう》の時の来る毎に、この身を、青玉《サフアイヤ》の珠《たま》、金属の珠と想《おも》ひなす。俺は沈黙の主人。円天井の片隅《かたすみ》に、見た処《ところ》換気孔の様な一つの姿が、蒼《あお》ざめるのは何故か」(『地獄の季節』「飾画」小林秀雄訳) [#ここで字下げ終わり]  この二つは同じパターンを示している。「ありとあらゆること(を考えました)」の背後にあるのが「マイエルの家の煉瓦壁」なら、「人間喜劇を図解」の芯《しん》にあるのは、「換気孔の様な一つの姿」である。生の声が一つの奇妙な物「煉瓦壁」や「換気孔」と結び付いて、まことに自分勝手な生の音調を発している。私は弱年の頃読んで、ランボーの言葉を、イッポリート少年(『白痴』)が心理的に解説しているように思われた。むろん、このイッポリート少年の言葉は、だらしのないもので、真の文学的記述ではない。「呪われたる壁よ」などはお笑いで、壁を割ってみればその中身が発しているであろう言葉、「換気孔の様な一つの姿が、蒼ざめるのは何故か」を引摺《ひきず》り出してこなければ、何の根柢《こんてい》に達した記述にもならぬ。リアリティがない。  それはともかく、この四つの言葉が重なって描き出す或《あ》るイメージ、一種の抽象的な感触が、私が自分の内部に感覚する、私の生の音調というものであった。しかし、いま或るイメージといったが、それは未だ形もなく、色もなく、言葉もなく、未知のものである。したがって、そのイメージを探求するためには、すでに予感しつつ在るもの、この生の音調を維持しなければならぬ。と思うとき、私の生の綱領が生じた。  そこから後は、言う言葉もないほどの馬鹿《ばか》ばかしさの連続である。私の生の綱領の中心部にあるのは、人生いかに生くべきか、ではなかった。この「煉瓦壁」や「換気孔」であった。いったいそれは何か、と問われると、当の本人である私が説明に困惑した。私のこういう生の音調に長い間付き合ってくれたのは、私の父だけだ。この生の音調はいくらどう考えても、「家」や「生活」に連続しなかった。私は父との対立を通して、いかに自分が調子外れの存在であるかを思い、やがてそれを隠すようになった。  ——しかし、以上は、私が自分の生を飾るために作った文学的修飾なのであろうか。  ここに私のよく分からないものがある。生の不思議がある。あらゆる人に私は聴いてみたい。どんな人も一度はこんな生の地帯を通過するのではなかろうか。  単純だがおかしな言葉、意味不明の言葉、他人の言葉が、私の生の直覚の中心を撃ち、そこから私の生の音調が発し、その自分の音調と他人の言葉とを連続させようとするところに、私の生の網目が編まれ、そのような網目を指して、これが「自分」である、「生の形」であると、言うのではあるまいか。  してみれば、生と、生が何の理由もなく好んで掴んだ或る二つか三つの基本的な言葉との、その出遭いこそが人生の基礎になるのではあるまいか。  生と若干の言葉との出遭い、連結こそ、もっとも深刻な人間・人生のドラマを創《つく》り出すものだ、その基礎である、と思うのだが、誰か暇な作家あるいは心理学者が、この辺のことを精細に追究してくれないものだろうか。  戦後五、六年の頃だったろうか、祖母が学校帰りの私を呼び止めた。話しておきたいことがある、と。 「この頃お前の父が信ぜられない、わたしは心配だよ」  敗戦と、新たに迎えた義母が、家の習慣を毀《こわ》すと感じていたからだろう。  そして、秋山家について諳《そら》んじているもののように語り出した。婆さんの祖父のことなどから話したらしい。相蔵正光(?)とか、直心影流とかいう言葉が散らばった。私はまるで明治の化物というか、講談の世界というか、前世紀の遺物でも見るようで、すべて馬鹿ばかしく、すべて聞き流し忘れてしまった。  十年ほど前、法事の席で出会った兄に、秋山家のこと何か知っているかい? と聞いたら、さすが長男らしく、ちょっと調べようとしたが空襲で寺も焼け市役所も焼けたのでもうよく分からない、ということだった。  私は子供の頃、箱根や熱海に行くときの道すがら小田原辺りになると、しばしば婆さんが、お前の何とかが切腹したのはここだよ、と言うのを耳にした。あるとき、へえ、切腹なんて痛いだろうな、と言ったら兄が、バカ、逃げて斬《き》られたに決まってるじゃないか、と嗤《わら》った。  婆さんは自分の一族を飾って彰義隊《しようぎたい》に関係付けたかったらしいが、それは嘘《うそ》であろう(しかし私は、人の嘘はすべてそっとしておきたい)。つまらぬ御家人だったのではないか、と思う。婆さんの市井《しせい》の行事についての由来の知識は、すべて「公方様《くぼうさま》」に発していた。明治三年か七年の生まれであるのに、明治天皇の話は一度も出てこなかった。  私はいま、婆さんの生年を覚えていないことに気が付いたが、そのままにしておく。「家」というテーマだから、仕方なく思い出しているので、私は本来まったくこういう家の図柄《ずがら》に関心がない。人の一生などは、それぞれ道端に転がっている石ころの一つずつに等しいものだ。  おかしなことに私は、祖母の夫の名を耳にしたことがない。してみれば私の父は、身許《みもと》不明の人間である。なんでも御一新のあと、商売に手を出しては失敗、麹町《こうじまち》、神田、赤坂へと落ちてきて、赤坂で震災に遭い、すべてを失って借金だけが残ったそうだ。大きな鉄火鉢《てつひばち》が震災後に一つだけ残ったそうだが、私の父はこの鉄火鉢のようなものだと私は思っていた。父は私の小学生時分もその借金を返済していたらしい。  父というと、すぐ思い出すのは、いつも朝の六時頃から厳然と威儀を正すといったふうに食卓の前に坐《ざ》している姿である。私の家ではいちばん姿勢がよく、体格もよく、寡黙《かもく》で、寒さに強かった。寒中に煖《だん》を求めるのを見たことがない。私の家ではどんなに寒くても、遠い鉄火鉢の炭火しかなかった。炬燵《こたつ》はなかった。私はいつも震えていた。ことに正月に雪でも降ったりすると、朝六時頃から障子を開け放ち硝子戸《ガラスど》を開け放って、降る雪を見ながら小酌《しようしやく》するので、私は寒くて閉口した。  青年時に、海軍主催の東京湾横断遠泳の催しがあり、一般人として参加したのに何番かで泳ぎ切ったというのが自慢であった。  父は、家が駄目《だめ》になっていたときの子であったために、たしか高等小学校しか出ていないはずである。そしてごく若いうちに鉄道省に勤めた。精励ということが父のすべてである。電気計算機とかを入れるときに夜を徹して働き、そのおかげで後に鉄道総局長官となったH氏に目をかけられ、私が小学三年で名古屋に転校したときには、課長くらいになっていたのではないかと思う。そこの官舎は一つの団地くらいの大きさで、一本の道、あるいは家の形によって、親の身分がよく判《わか》った。  あるとき、しばしば私の団地にやってきた村上一郎が、父のことを問うた。私が答えると、ああ、本省の課長さんならいいじゃありませんか、と言った。変なことに関心のある人だった。  よくはなかった。戦争中に内部監査の課長であった父は、マッカーサーの号令によって組合が生じたとき、ただちに組合によって鉄道省から追い出された、という。  むろん、父は、自分事については何一つ語らなかった。その沈黙は見事である。私なぞ遠く及ばない。だから以上はすべて伝聞である。  私が、あ、これが本当のことかな、と思ったのは、敗戦直後、買い出しに行った先のかつての父の同僚の言葉である。 「あんたのお父さんは、ヒーローなんだよ。われわれ(身分の者)の希望の星だったんだよ」  そんな父と、私は敵対していた。私が文学に耽《ふけ》ることを父が許す訳もなかった。私が辰野隆《たつのゆたか》の本を読んでいると、それは何者であるかと問うので私が答えると、ああ、その父親は東京駅の設計者なので私も尊敬している、が、息子は駄目な奴《やつ》というのが鉄道省での評判だ、と私に告げた。  この関係は最後まで続いた。私がスポーツ新聞を辞めて東京新聞の文芸時評を始めたとき、父が初めて私の団地にきて、家内に頭を下げた。——会社を辞めるなんて、まことに不心得な奴で申し訳ない。文芸時評というのを初めて読んだ、江藤淳という人の文章はわしにも判ったが、息子の書いたものはさっぱり訳が分からなかった。愚かな奴で行末が心許ない、と。私は大いに笑った。この父親の眼は曇ってはいない。  私の母がこの父と、どこでどう結ばれて結婚していったのか、私は知らない。大学を出た母が鉄道省に務めたからだと私は想像している。しかしこんなに異質な二人の間に何があったのだろう?  母は戦争中に私が中学一年のとき結核で、たぶん三十九歳で死んだ。たぶん、と書きながら、私は自分を親不孝者だと思う。  私は家を出るとき、母の本を三、四冊持ってきたが、うちの一冊、西条八十《さいじようやそ》『海辺の墓』の後の扉《とびら》に、「自分は始めて詩集を買つてみた。そして始めて沁々《しみじみ》と手にふれて見た。ふれた瞬間は本当に嬉《うれ》しかつた」とあり、一九二二(大正十一年)の日付とともに、日本女子大国文一年、と記されている。  それで私は沢山だ。その詩集を手にすれば母の面影《おもかげ》が甦《よみがえ》る。いかにも大正の後半に青春を持った女のようであった。  信州のお寺の出身で、六人姉弟の三女だからか、自分は嫁入り道具は要らないその代わりに勉強させよ、とか言って、強引に大学に行ってしまったのだとか、親類の噂話《うわさばなし》のなかで薄すらと聞いた。母も何も語らなかった。  数年前、兄が死ぬと、母の卒業論文と一冊の日記が送られてきた。そんなものがあったとは五十になるまで私は知らなかった。論文は「法然《ほうねん》論」であった。思わず私は頬笑《ほほえ》む。なるほど、お寺の子はお寺の子であった。  この母は、ローレライなどを歌いながらよく働いた。そして劣等児の私に優しかった。溌溂《はつらつ》と明るい印象だけが残っている。母の持っていたレコード、壁掛けなどが、少年の私に外国|憧憬《しようけい》、異国への思慕を生ぜしめた。この母がいるとき、私は甘ったれで頭はわるいがいい子であった。母が死に、次いで敗戦がやってきて、私の内部で一切の根柢が覆《くつがえ》った。  いま私の営んでいるのは、私が生い育った「家」とは、ことごとくの面において反対のものだ。  この新設の家庭には、先祖の記憶がない。つまり竈《かまど》の火の継承がない。神棚も仏壇もない。そして祖母、父、母、家内の親類とも、ぷつりと切れてしまった。  子供を作らぬから、私が新たな一代目になるということもない。死んだ兄の息子や、義母の娘がいるから、これは歪曲《わいきよく》だろうが、私の思いの内部では、秋山家は私のところで断絶、というふうに思っている。果敢《はか》ない一族であった。  住居も、賃貸団地2DKであるから、素直に「私の家」とは呼べぬ。いつも口籠《くちごも》る。  それにしても、私は現にいまここで生き、生活している。では、火はあるのだ。その「火」を何と呼べばよいのか? [#改ページ] [#見出し]  夷  夷。えびす。これは私に混乱をもたらすテーマであった。私にそぐわないものであった。なぜなら、夷と漢字で見るときと、えびすと国訓で読むときとでは、意味とイメージが全然違うからである。  夷とは、文字を知り始めた少年の私にとっては、夷狄《いてき》の夷であり、攘夷《じようい》の夷であった。すなわち外国のことであり、大いに外敵の意味であった。いまさらながら、焼夷弾[#「焼夷弾」に傍点]という言葉の発明に驚いている。  これに反して、えびすとは、荒々しい武士のことであり、東国の野蛮な住民のことであった。少年時の私は、ははあ、自分はつまり、えびすの裔《すえ》だなと思っていた。  この二つは昔から今に至るまで、私の内部で決して一つになってはいない。連続する径《みち》が見当たらぬ。ほとんど絶縁といっていい関係にある。  にもかかわらず、思い返してみれば私は、夷という一語を見るとき、漢字を見て外敵という一つの言葉を思い、また、えびすと読んで自分の出自を遥《はる》かに見る一つの言葉を思い、この二つを平然と混在させ同居させていたのであった。  それも、ごく自然に、いかなる反省もなく、いつも二重の意味において見ていたのであった。  外敵と自分とが、どうして一つの言葉でくくられる?  しかしながら、少年時の私はそのことにいかなる不思議も抱かなかった。いや青年時に至るまでそうであった。  愚かな生であった。私はたとえば夷という一語に、このように明瞭《めいりよう》な分裂と矛盾を見ながら、それを問うことなしに、いつも二重の意味をあたかも一つであるかのごとく思いなして、生きたのであった。この一つの例は百の例に連なる。私はことによったら幼時から、一語について二つの言葉を、一つの言葉について二つの意味を、つまりいつも、その核心を問われたことのない、あるいは核心を問うて答えのない、二重のものを生きてきたのではあるまいか。  私は青年時のあるとき、人と言葉を交わすことができなくなった。慄然《りつぜん》たる思いが私を襲った。日本語とは常に到《いた》る処《ところ》でこういう奇怪な二重の発条を抱いた言葉ではあるまいか。いや、二重の発条などというときその根柢《こんてい》は一つである。そうではなく、二つの根柢がばらばらに在りながら、一つの像を結ぶべくうながされた言葉ではあるまいか、と。像が仮初《かりそめ》に成ったとき、それを「姿」と呼ぶのではあるまいか。  私は青年時のあるとき妄想《もうそう》の中で生きた。こういう言葉の二重性こそが、われわれの思考の二重性である。そしてわれわれは、いつもそんなばらばらの二重性を生きているのではないか、と。そんな妄想の中では、古事記に出てくる最初の意味深長な声、「吾《あ》が身は、成り成りて成り合はざる処一処《ところひとところ》あり」が、未《いま》だ言葉と文字の分裂を知らぬ時代のものとはいえ、なにかそのような機微を暗示しているもののごとく思われるのであった。  夷の方が先である。私の少年時にあっては。それは外敵と戦争のイメージであった。  小学六年かで買った、塩谷温《しおのやおん》の『新字鑑』にはこんな序文が付いていた。 [#ここから1字下げ] 「殊《こと》に日支満三国を合せて一大文化世界を成さんとする今日に於《おい》て……」(井上哲次郎) 「加之《これにくはふるに》今や支那《しな》事変を契機として、東亜の形勢は一変せり。日支満の関係はもはや唇歯輔車《しんしほしや》の旧態に非《あら》ず、三国は打つて一丸となり、一体に帰す。全く建直しの時なり。宜《よろ》しく島国根性を捨てゝ、八紘一宇《はつくわういちう》の大精神に則《のつと》るべし」(塩谷温) [#ここで字下げ終わり]  そして、「内閣総理大臣|近衛公爵《このゑこうしやく》、及び中華民国臨時政府湯教育総長、満洲《まんしう》帝国大使館附武官|溥傑上尉《ふけつじやうゐ》」の「墨宝」を辱《かたじけの》うし、とある。  こんなことが記憶に残っているのは、どこかでこの「臨時政府」に不審を感覚したからであるらしい。いったい相手の国と戦っているのかそれとも仲が良いのか。  支那事変は、私が小学一年の夏に勃発《ぼつぱつ》した。最初は蘆溝橋《ろこうきよう》事件とか北支事変と言われていたと思う。  が、ほとんど何も覚えてはいない。(もっとも思い出そうとする努力も乏しい。この点私は小説家の資質ではない。社会的な出来事というのはいつも、幼児から現在に至るまで、私の心のほんの一角を掠《かす》めただけで通り過ぎてしまう)。少年の身にはそれは大したことではなかったのではないか、と思う。戦争が始まった、とは知ったが、それは新聞やラジオのニュースのことであった。大人の世界のことであった。  慰問の葉書をよく書かされた。「今日も学校へ行って楽しく勉強出来るのは、兵隊さんのおかげです」。いかなる疑問もなかった。しかしこんな葉書が本当に戦地に届くのかどうか不審であった。それほど戦争は遠くに在った。  私は池袋は立教大学の傍《そば》で生れた。その借家の辺を軍用道路が通ることになったので、鶴見《つるみ》へ引っ越した。いかなる疑問もなかった。引っ越した先が、どこかの小金持ちが別荘に造った家らしく、浴場など、飾った岩から湯が出るように仕組まれ、まるで小粋な旅館の浴場であった。庭には葡萄《ぶどう》その他の果樹、花々が溢《あふ》れ、童画のような少年時の光景となる。いかなる戦争の影もなかった。昭和十八年か、中学生になって初めて古本屋に入り、アルス社版の白秋詩集を購《か》ったが、読んでたちまち想《おも》い出したのは、絵のような芝生の庭先にいろんな果樹が影を落とす、明るい日の午後のうっとりするような倦怠《けんたい》であった。まことに奇妙な人間の心の働きだが、七、八歳で味わう、生への郷愁の感覚の一つを、私はこの庭先で得た。  南京《ナンキン》陥落とか、勝利を祝っての提灯《ちようちん》行列に二、三度駆り出されたが、胸ざわめく祭りの印象しか残っていない。父に横浜の夜の街に連れて行ってもらう、それと同じ気分だった。  同級生の中には、軍艦の名称と形に詳しい連中もいたが、私はあまり関心がなかった。むしろ子供っぽい奴《やつ》だなと思った。そんなものより、同級生の家に放り出されていた女性誌や、菊池寛や吉屋信子の恋愛小説の方が面白かった。いったいどういうのだろう?  紀元二千六百年祭は、名古屋に転校しての二年目、小学四年のときである。  壮麗な山車《だし》が市中を走り、その頂上が市電の電線に引っ掛かると、市役所の人みたいな人が、長鋏《ながばさみ》みたいなものでその電線を切った。へえ、大したことをするなあ、と私は感心していた。華やかな祭りであった。戦争は遠かった。その頃《ころ》の私には、平和という言葉はいかなる感触もないただの文字に過ぎなかったはずだが、いま思えば、私の知っている「平和」の感触の一つがこれであった。  皇紀二千六百年、ということには、いかなる感想もない。なるほど、昭和十五年のその頃には、しきりに学校で古事記その他の引用によって、皇国の事蹟《じせき》が顕彰《けんしよう》されたが、私にはそれはすべて他人事《ひとごと》であった。 (私はいま、面倒なので、ただ「私」の感じた処として書いているが、戦争に触れるところは、私一個人の感受性ではない。その折り折りに同級生と話し合った内容——つまり、この時期の或《あ》る少年の感受性、と考えていただきたい)  私の世代は、敗戦後は軍国少年の世代といわれるが、実はこの世代の少年の直覚と感受性というものが、あまり素直には語られていない。  私はいま努めて、少年の日の直覚と感受性を純化してみる。  いくら古事記が尊くても、神武《じんむ》東征の条《くだり》を読めば、天から一軍隊が降ってきて九州の高千穂に着き、そこから東征したとしか読めない。すると、その頃楽しんで読んでいた少年漫画「冒険ダン吉」(いま思う、これは常に一人の白人が主人公であるところの、欧米的なお伽噺《とぎばなし》、大衆文化の応用であった)に照らして、少年はこう思うのである。  第一の疑問。私という者は、この征服する種族である軍隊の裔《すえ》であるのか、それとも征服された側、東夷の裔であるのか。いくら少年でも多少の生活感覚はある。誰も征服者の側に身を置く者はいない。「どうせ兵隊になるんだから」。つまり、この「兵隊さん」には、すでに相反する二重の意味がある。被征服者の裔であるということと、やがて征服に出掛けねばならぬ人夫としての意味が。  第二の疑問、なぜ東征の途次にある一軍隊が、「大和は国のまほろば」などと言うのであろうか。この「まほろば」の語義、やはり小学六年かで買った、昭和十四年刊の『辭苑《じえん》』によると、単に「まほらま(古語)」となっていて、意味が分からぬ。ただ学校の先生によると、それは、国の秀《すぐ》れた処、粋を集めた処、中心、といったものであった。したがって、大和、まほろば、と繰り返されると、なんだかこの一軍隊が、大和という日本の中心から自発したもののごとく印象されるのであった。したがって、この東征と、大和はまほろばとが、相反するイメージでありながら、二つを一つに感じねばならぬもののようであった。二重性である。  もっとも少年の心は寛《ひろ》い。そんな疑問は、いつか大人になったら判明するであろう、と、心の片隅《かたすみ》に放《ほう》ってしまう。  ではこの辺り、天皇については何を思っていたのか。いかなる感想もない。なるほど学校では奉安殿の前を通る度にお辞儀をしたが、それは単に約束事であって、別にどうということもない。天皇について思ったことはない。天皇は、戦争より遠くに在った。  天皇について判然と思ったのは、中学三年、昭和二十年の六月、七月である。東京は焼け、漠然《ばくぜん》と敗戦ということが予感された。「なあお前、日本が負けたら天皇はどうなる?」「決まってるじゃないか、あれは冒険ダン吉に出てくる酋長《しゆうちよう》のようなものだろう、死ぬのだろう、そうでなければ殺される」。少年の論理の帰結である。にもかかわらず、他方で、もし天皇が殺されたら日本が亡《ほろ》びるであろう、とも感じていた。二重性である。  敗戦の日の八月十五日、私あるいはわれわれは、陽気に快活に生きていた。敗戦も、お笑い話であった。一週間|経《た》っても二週間経ってもそうであった。一ヵ月経っても二ヵ月経ってもそうであった。なんだ、何でもないじゃないか! 天皇は死なず、殺されず、日本は亡びるも嘘《うそ》であった。  私はそれまでの自分の生が馬鹿《ばか》ばかしくなった。  また東京へ転校してきた小学五、六年、校庭で流行《はや》ったのは、「水雷、轟沈《ごうちん》」というような遊びであった。それは日露戦争を思わせる戦争ごっこで、面白く、まだ平和の気分であった。  私は、宮本武蔵のようになりたいと思って、木刀を振り回し、鏡を睨《にら》んで目を三白眼にしようとし、兄が中学から持ち帰った弓で近所の飼い猫を射、また、講談の忍術の修業を嘲笑《ちようしよう》しながらも、万一ひょっとしてと思って、毎日庭先で伸びる葉鶏頭の上を跳んでいた。  同級生の一部は、ノートに中国の略図を書き、占領した都市に次々に旗を記していったが、私はあまり関心がなかった。  なるほど、戦争で勝つのは嬉《うれ》しかったが、この戦争がよくは実感されなかった。  奇妙な戦争だった。  戦っている相手は中国だが、なぜ中国人と戦わなければならないか、戦意|昂揚《こうよう》の日々の中にいる軍国少年にも理解しかねた。  なぜなら、戦意昂揚のために引例される言葉は、ほとんどが中国の史書からの例であった。苦難に耐えて戦え、ということで、神武天皇の「みつみつし 久米《くめ》の子等《こら》が 垣下《かきもと》に 植ゑし椒《はじかみ》 口ひひく 吾《われ》は忘れじ 撃ちてし止《や》まむ」をよく聞いたが、すぐそれに続くものは、越王|勾践《こうせん》の例であった。忠義といっても、楠木正成《くすのきまさしげ》の例に続くものは、『三国志』の孔明の出師《すいし》の表であった。やたらと漢文調が流行した。これじゃ中国の方が偉いのじゃないかと思ってしまう。皇紀二千六百年は中国の歴史と並立するようで結構だが、それじゃなぜあちらは独力で漢字を発明し、こちらはなぜ一千年も文字を知らなかったのか、知能足りなかったのかと疑われてしまう。これも二重性である。  現代戦争だから、中国人を軽蔑《けいべつ》する言葉が一杯ばら撒《ま》かれていたのだろうが、私はほとんど記憶にない。  なるほど、チャンコロなどという言葉はあったが、あいにくと私の姓名の秋山駿は、そのまま音読みにすると、シュウ・サン・シュンとなるので、やーいお前チャンコロということで、私はよく喧嘩《けんか》をした。小学四、五年の私は、かなり喧嘩に忍耐強く、右眼《みぎめ》失明すれすれの傷を負ったこともあったが、別にどうということもない。学校でも家庭でもあまり問題にされなかった。むろん私もこういうものが「生活」なのだと感じていた。その生活のはるか彼方《かなた》に、大人になってのもっと本当の生活、誰もが一度はくぐらねばならぬ戦地の生活ということが微《かす》かに予感された。  その頃、私の母の弟、東大生のときよく家に泊まりにきたので遊んでもらった若い叔父が、中国で戦死した。陸軍少尉かであった。中国人憎しとも思わず、戦争もまだ遠かった。母の実家の寺の爺《じい》さんが、備前|長船《おさふね》を軍刀に持たせたとか言っていたがそれは真っ赤な嘘であろう、と従兄弟《いとこ》仲間と話し合ったことしか覚えていない。無神経のようだが、私のような少年はそうであった。戦争は常に到る処に在り、それが現実とか世界というものの自然な進行である、と感じていた。思ってみれば戦争と平和の区別をよくは知らなかった。  七、八年前、福沢諭吉の「東洋の政略果して如何《いかん》せん」を読んで、私は思わず次の数行に感心した。 [#ここから1字下げ] 「……多年来、外国兵と戦《たたかつ》て常例の如《ごと》くに敗走したる支那人が、千歳一遇、苟《いやしく》も日本人に打勝《うちかち》たりとあれば、其|惨刻無情《ざんこくむじよう》、想《おも》ひ見る可《べ》し。文明の戦法、固《もと》より彼等の知る所に非ず、掠奪《りやくだつ》に私有官有の別ある可《べか》らず、婦女を辱《はづ》かしめ、錦帛銭財《きんぱくせんざい》を奪ひ、老幼を殺し、家屋を焼き、凡《およ》そ人類想像の及ぶ限りは、禍悪《くわあく》至らざる所なかる可し」 [#ここで字下げ終わり]  こんな声を、私は戦争中に聞いたことはない。畏敬《いけい》すべき福沢先生の言葉だが、これは大人のおびえである。この頃の日本人は外国との戦争には素人《しろうと》であった。  対米英戦争の開始は、小学五年のときである。新しい戦争が始まって、ようやく戦争ということが意識されるようになったが、たいして特別の感想は持っていない。  というのも、私のような少年は戦争について、これが世の中というものだ、これが毎日の日常であると感じているので、改めて反省してみる、意識化してみるということが乏しかった。戦争は勝たねばならぬ、そんなことしか考えなかった。  小学六年のとき、担任の先生が海軍の水兵さんで出征した。その直前、あ、これは言ってはいけないのだな、と言いながら語ってくれたのは、自分が乗り組むことになった、新兵器としての途方もなく巨大な戦艦の話であった。陽気で快活なものを感じた。むろん先生は戦死した。  中学に入ると状況は一変した。軍事教練があって戦争が身近になった。友人が一緒に幼年学校に行こうと勧め(中将かの息子であった)、私が断ると、でも数年後には二人共どうせ戦地へ行くのだぜ、すると俺《おれ》がお前に突撃せよと命令することになるよ、と不思議そうな顔をされたのには閉口した。  こんなことをだらだら続けるのは止《よ》そう。  私の戦争についてのもっとも強い印象は、そしていまでも不思議なのは、あの頃の少年の心理である。米英との戦いをはっきり意識し、戦おうと思い、鬼畜米英と耳にたこが出来るほど聞いていたにもかかわらず、こっそり秘密に手渡されるキネマ旬報のアメリカの女優の写真に、果てしなき憧憬《しようけい》を感ずるのであった。どういうことか自分事ながらよく判《わか》らない。これも二重性である。  ロベール・ギランが、「七千五百万の日本人は、最後の一人まで死ぬはずだった」のに、降服後三日もすると、掌《てのひら》を返すように、まるで戦争などなかったかのように、外国人にお愛想笑いする日本人の性格を、かなり深く『日本人の微笑』というエッセイで解いてみせたが、これはそれほど深く考える必要のないものだったのかもしれない。われわれは米国とは戦ったが、アメリカ人が嫌《きら》いではなかったのだ。だから敗戦後すぐ日本の若い女性は、占領軍兵士を格好のいい男性として迎えたのだ。これも二重性である。  私は戦争中の言論についてはほとんど記憶がない。もっとも言葉など要らなかったのだ。昭和十八年、中学生になると、軍事教練、農家への勤労奉仕、三鷹《みたか》の日本無線という軍需工場への動員など、新しい具体的な世界が次々に襲ってくるので、それを学ぶことに忙しかった。  具体的な物にはうかうかしていられない。工場の旋盤に配属された同級生の一人は、一週間くらいで早くも指先を落としていた。具体的な世界を知るのに急で、そして具体的な世界は少年にも可能なそれなりの判断と言葉をもたらし、その言葉は、いわゆる言論とは無縁であるほどに遠かった。  教練の銃剣術では、敵兵を刺す練習をする。これが馬鹿ばかしかった。まさか戦争がこんなお遊戯ではあるまい?  農家の勤労奉仕では、人間の愚劣さを知った。少年の感情のままに記しておくが、人の卑《いや》しさを知った。戦争をしている人間の態度ではなかった。  工場では、仕事に慣れてくると管理者のお愛想もあるだろうが、月間の生産グラフなどを示しながら、一般工員より能率がいい、不良品率が寡《すくな》い、などと言われた。お愛想とも感じなかった。昭和二十年の印象だが、なんだかだらけた気分が漲《みなぎ》っていた。だらけた気分の中心に少年が直覚するのは、この戦争には中心がない、目標がないということであった。  それに、その頃はもう軍人が堕落していたのだろう。厭《いや》な人間ばかりであった。まるで軍隊が囚人隊であるかのごとく思われた。  それに軍に連なる工場の中級管理職ときたら、おいおいもしかするとあいつはスパイじゃないか、とわれわれが嗤《わら》うほどに、卑小であり狡猾《こうかつ》であった。 「これじゃ戦争に勝てる訳はないよなあ」というのが、少年の結論だった。こういう視点から見ると、世上の言論があまりにも言葉、言葉、言葉……に過ぎないので、聞く耳を持たなかったのではないかと思う。  私は、日本のあの戦争について、人の言論を求めなかった。かくのごとく見て、かくのごとく感じて、かくのごとく生きた、とそれで足りていると思ったからだ。  たとえば、西田|幾多郎《きたろう》の『日本文化の問題』(昭和十五年刊)なども、たまたま手にしたのは戦後二十年も経《た》ってからだ。読んで呆然《ぼうぜん》とした。 [#ここから1字下げ] 「我々は我々の歴史的発展の底に、矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出《みいだ》すことによつて、世界に貢献せなければならない。それが皇道の発揮《はつき》と云《い》ふことであり、八紘一宇の真の意義でなければならない」 「日本精神の真髄は、物に於て、事に於て一となると云ふことでなければならない。元来そこには我も人もなかつた所に於て一となると云ふことである。それが矛盾的自己同一として皇室中心と云ふことであらう」 [#ここで字下げ終わり]  思考の一片のかけらもない。ただ空《むな》しい言葉の回転があるばかり。が、私は非難するのではない。ただもう、噫《ああ》、戦争中の日本! と思うばかりだ。こんな言葉を抱いて特攻機に乗った戦士もいるのかもしれぬ。  ときおり話題になる、知的協力会議『近代の超克』(昭和十八年刊)を読んだのは、戦後十数年してからだ。小林秀雄論を書くために仕方なく読んだ。  小林は「座談会」の発言だけであるが、彼が戦後に展開する主要なテーマ——ドストエフスキー、ゴッホ(「ロマンローランがミレーの絵のことを書いた本」)、ベルクソン、考へるヒント(「機械は精神が造つたけれども、精神は精神だ」)、本居宣長《もとおりのりなが》(「古典に通ずる途《みち》は近代性の涯《はて》と信ずる処まで歩いて拓《ひら》けた」)と、このときすでに一丸として持っており、そのことだけしか語っていない、ということに驚いた。  この本の前半の論文を読むと、戦争中のいわゆる言論が耳に甦《よみがえ》ってくる。  思想戦、百年戦争、闘う文化。 [#ここから1字下げ] 「文明の毒素への戦ひ——これは百年などといふ短い歳月では不可能なことだ」 「戦争よりも恐ろしいのは平和である」(亀井勝一郎) ポンド・ドル体制の打破、アメリカニズムを撃つ、東亜文化圏。 「大東亜戦はポンドもドルも東亜から駆逐した」 「我々の闘はねばならぬものはアメリカニズムであるといふことになる。その人間生活の人工化と機械文明の魔力に対してであります」(津村秀夫) [#ここで字下げ終わり]  いやはや。そして戦後四十数年の今日どうなったか。なるほど、平和も恐るべきものであり、平和の顔をした戦争もあるのかもしれない。  日本の円が、ポンドやドルの仲間入りをした。  しかし、反面、アメリカニズムはわれわれの生活の内面にまで浸透した。  さて、これは余談だが、戦争中の少年が回想してみると、少年は戦争に素人であった。ことによったらそのときの日本も素人であった。とても明治期の戦争には及ばぬ。  とにかく戦争下の教育がなってなかった。少年が読むべきものは、戦争についての教科書は、宣長でもなく古事記でもなく西田幾多郎でもなく、陸奥宗光《むつむねみつ》『蹇蹇録《けんけんろく》』であるべきであった。事実の稠密《ちゆうみつ》と把握《はあく》、判断の鋭利と深刻、思考の柔軟と運動、そして人情の機微さえ穿《うが》つことにおいて、第一級といっていい見事な文章である。 [#ここから1字下げ] 「……窃《ひそ》かに結局の勝敗を苦慮したる国民が、今は早将来の勝利に対し一点の疑いだも容れず、余す所は我が旭日《きよくじつ》軍旗が何時を以て北京《ペキン》城門に進入すべきやとの問題のみ。ここにおいて乎《か》、一般の気象は壮心快意に狂躍し驕肆《きようし》高慢に流れ、国民到る処|喊声凱歌《かんせいがいか》の場裡《じようり》に乱酔したる如く、将来の欲望日々に増長し、全国民衆を挙げ、(略)唯《ただ》これ進戦せよという声の外は何人《なんぴと》の耳にも入らず。この間もし深慮遠謀の人あり、妥当中庸の説を唱《とな》うれば、あたかも卑怯《ひきよう》未練、毫《ごう》も愛国心なき徒と目せられ、殆《ほとん》ど社会に歯《よわい》せられず、空しく声を飲んで蟄息《ちつそく》閉居するの外なきの勢いをなせり」 [#ここで字下げ終わり]  昭和十七年、マニラ占領、シンガポール攻略の頃の光景と思ってもよろしい。  山下|奉文《ともゆき》中将が敵将パーシバルに、あんまり乱暴に無条件降伏か否《いな》かを迫まり、その光景を繰り返しニュース映画で観《み》せられたから、こちらがやったことは相手からやり返される、すなわちポツダム宣言受諾のとき、これは無条件降伏だからひどいことになるぞ、と少年は考えたのである。八月十五日、陽気にふざけ合いながらの会話。「おれもお前も奴隷《どれい》にされるんだよ、でも、お前と違っておれは上手《うま》くやるぜ」。  八月十五日は中学三年のとき。十五歳。  おかしなことに、敗戦になってからの方が、戦争ということが強く感ぜられた。戦争が在り、そして負けたのだ、と。  しかし、それに続く日々は、日々新しく、そして訳の分からぬことだらけであった。それを平和と呼ぶなら、わたくし達少年は、戦争より、むしろ「平和」と衝突したのだと言っていい。  あるいは、戦争から平和への一瞬の切り替え、これに頭をぶつけたのだと言っていい。  いまさらながら、戦争は分かり易《やす》かった。原理がある。勝たねばならぬ。これに反して、平和は分かり難かった。何が原理なのか判然としない。  聖戦から外国的な民主主義へ、皇国教育からアメリカ礼讃《らいさん》へ。そんなことは表面に過ぎず、小さなことだった。  これはまったく分かり易い。戦争の論理である。教師が昨日と違ったことを言い、教科書に墨を塗るなどは、あんまり当たり前過ぎて問題にもならぬ。戦争に負けたら、勝者の言うことに、腹の裡《うち》で否! としながら、首だけは頷《うなず》いておくのが、負け犬の作法である。  しかし一方、これと同時に生じた、負けてよかったのだと言う平和の論理は、たいへん分かり辛《づら》いものだった。  少年は移り変わる光景を見るために、しょっちゅう街の上にいる。二、三週間もすると銀座に着飾った女性が出現する。ああ、お洒落《しやれ》! たちまち菊池寛の小説を思い出す。しかし一方、戦争とは何だったのか、いったいわれわれは何を戦ったのか、と奇怪の思いもするのであった。  日系二世が教室にやってくる。私は奇妙な人間を見るように感ずる。おそらく日本人の顔なのに外国風、という感覚を誇張したのだろうが、薄っぺらで、モラルなき人間に見えた。私は英語なぞ絶対に口にすまいと思い、英語上達のために彼にお世辞を言う日本人の一部が嫌《きら》いになった。  渋谷や新宿の大通りで、よく日本人が占領軍兵士に撲《なぐ》られていた。私も銀座街頭で黒人兵に川に投げ込まれそうになったことがある(白人兵が止めた)。夜のすいた電車で、黒人兵がサンドバッグ替わりに車中の人を撲っていた。私は黒人が嫌いになる。仕方がない。  東京裁判、マッカーサー憲法(そう思った)制定の国会論議のラジオなどを聞いていると、まことに滑稽《こつけい》なことだが、頭蓋《ずがい》の片隅の一パーセントで、私のような少年が小さな報復主義者になるのであった。いまに見ていろ、必ずもう一度戦ってこんどは勝ってやる。  しかし、以上は戦争の論理に沿った心情である。別に大したことではない。  奇怪に感じたのは、平和の論理であった。「戦争に負けてよかった」「アメリカはいい」とされる。それじゃいったい何のための戦争であったのか、なぜ戦争したのか、一つも分からなくなる。ここが戦後最大の二重性である。  おかしなことに、この平和の論理が深まるにつれて、私の内部に、敗戦の屈辱ということが、木に竹を接《つ》いだように生ずるのであった。  私は改めて、戦争中に不思議にも憧憬したもの、アメリカの女優がシンボルするものを、一歩一歩心の内部から消していこうと思った。  そして、この「戦争に負けてよかった」を、毒か薬か分からぬ未知の苦い薬として、二十年ばかり口に含んでいた。吐き出すか、それとも呑《の》み込むかを、判断しかねて。  したがって私は、戦後に展開される平和の光景とは、逆行しようと思っていた。  よかったな。やっと私は、夷のもう一つの語義、「えびす」—東国の野蛮な、未開の住民、のところに辿《たど》り着いた。  あまり誇張になってもよろしくないが、戦後の時代や社会の新しい展開に対して、しだいに深く、無数にある砂粒のうちの一粒の砂のごとく、もっとも微小な夷であると、私は自分のことを思うようになっていった。  この戦後の展開とは、次の外国人の観測が正確に示すものだ。 [#ここから1字下げ] 「おそらく、歴史上自国の敗戦を『よかった』と考える人はほとんどいないだろう。ところが、きわめて稀《まれ》なそういう例が、ほかでもない第二次大戦の敗戦国日本である。  普通、自分の祖国の敗戦を喜ぶとすれば、国と民族を裏切る反逆行為となろう。だが、第二次大戦後の日本ではそうではなかった。もちろん、他民族による敗戦に対して屈辱感がないわけがないし、国粋主義者をはじめとする少なからぬ人びとが、その屈辱感を胸のなかに抱きつづけている。  しかし、大多数の日本人は、敗戦を『よかった』と考えるばかりでなく、実際にそう言う例が多い。それは、社会の指導的な立場にある良識層ばかりでなく、一般国民のあいだでも同じである」(朝鮮日報編『韓国人が見た日本』一九八四年刊) [#ここで字下げ終わり]  まことにその通りである。この、事実「まことにその通り」が、戦後二十年経っても口中で溶けなかった。またそれから二十年経ったいまはどうか。さながら下剤でも呑み込むように嚥下《えんか》したところだ。  また誇張になるかもしれぬが、この日本の新時代に対して、自分が夷狄《いてき》になってゆくのかもしれぬという予感が、私の文学の方向に作用した。初めてヴァレリーを読んだとき、 [#ここから1字下げ] 「しかし、この私は、哲学の中に入るとアテネに入つた夷狄の思ひがする」(「デカルトの一面」) [#ここで字下げ終わり]  という一行を見出して喜んだ。そうかそうか、これから歩む生の現実の中に、自分は微小な夷狄として入って行くであろう、という予感に胸が高鳴った。 [#改ページ] [#見出し]  悪  悪。悪とは何だろうか? 善悪の悪、悪徳の悪。しかし、こんな言葉を並べてみても無駄《むだ》なあがきだ。私の心の内部のいかなる声もこの言葉に呼応しない。どういうのだろう? これはもしかすると私にとっては未知のテーマではあるまいか。白紙を前に私は空《むな》しく焦慮している。  昨日電車の中で、困惑のあまり手帖《てちよう》のページを破って書いてみた。  正義——不正義(戦争)  法——犯罪(社会)  罪——罰(宗教)  善——悪(日常)  しかしいかなる感想も生じない。どだい罪——罰のところで躓《つまず》いた。これは反対語になっていない。一、二分思案したが何も思い浮かばないのでこのままにしておく。考えてみれば罪の反対語を私は知らないのだ。  ふと奇妙な想念がやってくる。私は「悪」について何も知らぬのではあるまいか、何一つ考えてこなかったのではあるまいか。  私は二十の頃《ころ》、正義と不正義(プラトン『国家』)、法と犯罪(ルソー『社会契約論』)、罪と罰(ドストエフスキー『罪と罰』)については、些少《さしよう》のイメージを持っていた。が、善と悪というテーマについては、どんなイメージを抱いていたのか、私は少しも思い出さぬ。  むろん、私は君子人でもなければ無邪気な者でもない。一人の普通の人間でありたいと思っている者だ。してみれば、私の半身は悪の中にいるはずである。しかし、その悪が、明らかなイメージとしては感覚されない。ピリっとした痛覚で私の感受性を刺さない。私は半生を省みて、良いことをして生きてきたなどとは露さえ思わないが、また、悪いことをして生きてきたという反省も稀薄《きはく》である。どういうことか。  私は少年時から沢山の小説を読んできた。考えてみればそれらはすべて善と悪との物語とも見えるものだ。しかし、それにもかかわらず、悪のイメージは私の内部で花開かなかった。なぜだろうか。  普通の人間、というところが一つのヒントだ。私は、自分には欠けた処《ところ》があり、だから一人の普通の人間でありたいと思っている者だった。普通の人間は私がこれから成るべきモデルだった。そこで、普通の人間の悪の領域の意識化ということまで、頭が回らなかったのではないかと思う。自分の半身がすでにどっぷり悪の中にいることは棚《たな》に上げて。  二つ目のヒントは、私が日本人だったからではないかと思う。これはいまの急場しのぎの私的回想で、何の証明にもならないが、私は日本の近代文学の中で、「悪」の感触を受けたことはない。「悪の光景」を見たことはなかったと思う。  なるほど、悪い奴《やつ》は描かれていた。しかし、悪い奴の上に私が思うのは、恥、卑怯《ひきよう》、狡猾《こうかつ》、醜悪というような言葉であり、悪ではなかった。  悪ではなく、その作用だけを考えるなら、「害」と呼ぶべきものであった。それは私が他人から被《こうむ》るのを怖《おそ》れ、自分が他人に与えるのを畏《おそ》れるものであった。私がいつも注意するのは、自分には欠けたところがあるゆえに、その、ない[#「ない」に傍点]ということが一つの発条になって、それが他人を、普通の人を傷付けてしまうことであった。変な話かもしれぬが、私は他人の幼児の眼《め》は見ない。見ると、人間という生き物への好奇の解析の視線になってしまう。それは幼児の心を傷付けるのではないかと私は慎む。間違っているのかもしれないが。  なるほど、私は欧米の文学を読んで、悪のイメージは見た。学んだ。出発点は十七、八歳かで手にしたボードレール。しかしそのイメージは、私の日常的な生の感受性において甦《よみがえ》ることはなかった。連続しなかった。何か見えない磁場のようなものが作用してきて、ぷつりと断たれてしまう。  私は二十の頃から、おのずと文学を二分して考えていたらしい。西欧の文学と日本の近代文学とに。西欧の文学には、悪の光景があった。私にしてみれば、悪の光景を描くことが、芸術というものであった。したがって悪は、換言すれば、美のことであった。  これに反して、日本の近代文学は、日常や社会の上で生きる人の姿を探究するものであった。いわば、人間いかに生きるべきかの解説書であり、人生の真相鏡にかけて見るがごとしの報告書であった。  それはそれでよかった。私は日本近代文学のこの努力を尊敬する。この努力は一つの理想に奉仕していた。あれでもなくこれでもなく、今日ただいま現実に生きている日本人の生の感受性の中に、ただそれだけを材料に、一つのモラル(ああ、カタカナ語!)を発見すること。一民族の真剣な試みといってよろしい。……しかし、そこには悪の光景がなかった。  私はここで、あらゆる生の行為がその上にスケッチされるべき、一つの石盤に突き当たる。  石盤とは、普通の人間の生のことだ。われわれが日本人として持っているこの石盤の上には、いかなるモラルが描かれているのか。なるほど、忠孝・義理・人情、いろんな描線が描かれている。しかし、その絡《から》まり合う描線の奥にあって、核心であるような、そしてごく自然に日常の中で感受されるモラルとは何か。  ——恙無《つつがな》く日々を生きつつ長生きすること。  こういうものではないかと思っている。私もずいぶん長く生きてきて折り折りに考えてみたが、どうもこれ以上のものが見当たらぬ。これがわれわれの抱く原基としてのモラルではあるまいか、と私は思う。  しかし、もしそうだとすれば、これは厄介《やつかい》なことになる。なぜなら、ここには悪の感覚がないからだ。  善と悪というとき、善の方は分かり易《やす》い。良い人間であろうとするときの、良い行為、良い生き方、それは分かり易い。それらは、自分が現に生きていること、自分がここに存在すること、から出発するからである。現実と存在が、善の根柢《こんてい》だ。そこから発して考えられる二二が四のようなものだ。  現実と存在から発して現実と存在の中の道を歩く。人の生はすべてそれで足りているはずである。  しかし、すると悪はどうなるのか。悪はすべてこれとは反対でなければならぬ。悪とは何か。そして悪は何処《どこ》にあるのか。  すると、私はたった一つの入り口しか見当たらない。  ——悪とは、此処《ここ》から(現実と存在から)離れようとする意思である、と。  いわば、石盤の無視と否定である。私は哲学の言葉が嫌《きら》いだ。上手《うま》くも使えぬ。しかしいまはちょっと借りよう。つまりこうしてわれわれの内部に「在らぬもの」が出現するのではあるまいか。  在らぬものを思う、そして、在らぬものへの思いによって自分の現実や存在を変形する。これが悪の光景ではあるまいか。  人間の存在の独得さは、在らぬものが(存在と等しく)生存のもう一つの発条になっていることだ。在らぬものへの意思があるから、われわれは頭を高く掲げて歩くのだ。  善は存在に満ち足りている。それは存在から存在への道を行く。しかし、われわれは贅沢《ぜいたく》なもので、まあなんというのか、存在に飽き足りてしまうことがある。そういうときわれわれの内部に、在らぬものへの意思が生じ、此処から、存在から、一歩離れようとする。これが悪の出発だ。  したがって、悪は、われわれの生の根本の動因の一つである。  したがって、悪は、在らぬものへの意思によって出発するのであるから、美でなければならぬ。  むろん、この悪と美の関係は論理的なものではない。私は上手く説明できない。ごく簡単な理解のために、ボードレールのこんな言い方を引用しておく。 [#ここから1字下げ] 「簡素さが美しさを美しくする[#「簡素さが美しさを美しくする」に傍点]——ということは結局、次の真理[#「真理」に傍点]とひとしくなるが、これは、まったく思いもかけぬ種類の真理ではある——ない物[#「ない物」に傍点]が存在するものを美しくする」(「現代生活の画家」阿部良雄訳) [#ここで字下げ終わり]  この、「ない物[#「ない物」に傍点]が存在するものを美しくする」というのが、悪の光景である。  こういう「ない物」への思考を、われわれは確かに持っているのか。ない物が在る物と複雑に入り組むところを、精密に描く論理、文章法をわれわれは確かに持っているか。(仏教的な「無」の話は止《や》めてもらいたい。あれはカードの言葉に過ぎない)  そして、悪は美であるということを、われわれは確かに感覚しているか。  私は疑わしい。私は日本の近代文学の中に、悪の光景を見たことはない。悪が美であるという論理を、私は読んだことがない。日本の感受性を基礎にしたそういう論理を、われわれは未《いま》だ作っていないのではあるまいか。  さらに極端化すれば、私はこう思う。近代日本には、悪の光景が欠けているのではあるまいか。悪への感受性の豊かな語りが見られないのではあるまいか。  その一端を、犯罪において証明することができるのではないか、と私は思う。われわれが日常において直接的に感覚する悪は、犯罪である。しかし、犯罪が、悪の深い光景において語られたことはかつて無かった、と私は思う。近代日本の犯罪は、ことごとく貧相である。悪の豊かさがない。これは何を意味するか。われわれの行なう犯罪が本質的に貧相なのか、それとも犯罪についての語りが貧相なのか。  するとたちまち私はこんな疑惑に突き当たる。日本人としてのわれわれが抱く、悪の原型、また悪の光景とはいかなるものであろうか、と。たとえば『古事記』は、われわれの民族の神話として尊重すべきものではあるが、あそこには神話の豊かさとして必要な、悪の光景が見られない、と私は思う。  いったい日本人と悪とは、どんな関係にあるものか。  ここで私は自分の滑稽《こつけい》の一つを記しておきたい。それは前記のボードレールの言葉のことだ。あの引用は実は下心あってのものだ。あの「ない物[#「ない物」に傍点]が存在するものを美しくする」という引用の言葉の結論は、こうなるのだ。 [#ここから1字下げ] 「悪は努力なしに、自然に[#「自然に」に傍点]、宿命によって、おこなわれる。善はつねにひとつの技巧artの産物だ」(同前) [#ここで字下げ終わり]  ところが、滑稽なことに、何度ここを読み直してみても、私はごく自然に、ボードレールとは反対に考えてしまうのである。私はこう変更する。  「悪こそつねにひとつの技巧artの産物だ」  たぶん私が生れながらに持っている言葉の系列が、ボードレールを受けつけず、こんなふうに改変してしまうのだろう。  そう考えるとき、私の生の系列の言葉には、次のような声が欠けていたのではないかと思う。 [#ここから1字下げ] 「……悪《あ》しき意志が先行しなかったら、かれらは悪しきわざへと至らなかったであろうからである。『すべての罪のはじめは高慢である』。ところで、高慢とは転倒した高揚を求めることでなくてなんであろうか。そして、転倒した高揚とは、精神がかたくよりすがるべきところのものを見捨てて、みずからの根源にたいして、ある意味でみずからが根源になることなのである。  このことは、精神がはなはだしく自己自身に満足するときに起こるのである。精神が自己自身において満足を見出すよりもむしろそれにおいて満たされるべきかの不変の善に背《そむ》くときに、このように自己自身に満足するのである。この背反は自由な意志にもとづいたものであった」(アウグスティヌス『神の国』服部英次郎訳) [#ここで字下げ終わり]  見られるとおり、悪は、「みずからが根源になる」こと、および、「自由な意志にもとづいた」もの、なのである。こういう声、日本の中に在ったのか否《いな》か。  悪は、人生を自分の手で飾るための豪奢《ごうしや》な色彩である。悪への発条が強くなければ、「彼方《かなた》」「夢」「秘密」……此処から離れて在らぬものの方へと身を伸ばす、精神のあらゆる輝きが失われてしまう。それらは悪の子供達だからだ。  悪の光景、悪の魅力について私の眼を開いてくれたのは、十七、八歳の頃に読んだボードレール『悪の華』だ。 [#ここから2字下げ] 強姦《がうかん》、毒薬、匕首《あひくち》、放火、 この小気味のよい構図を以《もつ》て 憐《あは》れなわれらの運命の陳腐な画布《カンヴアス》を飾らぬとは、 ああ、そはわれらの魂がさまで大胆でないからだ。(「読者に」村上菊一郎訳)  [#ここで字下げ終わり]  面白い、しかし詩人の逆説である、と弱年の私は思ってしまった。これはよろしくなかった。小賢《こざか》しく解釈などしないで、そっくりそのままあたうるかぎり率直に感ずべきものであった。そうすれば私の内部にも悪の世界が開けたであろう。 『悪の華』一巻。これはさながら悪の教科書だ。豪奢からもっとも繊細なものに至るまで、すべての悪が完封されている。私は現在でもこれ以上の書物を見出さぬ。まことにニーチェの讃辞《さんじ》のとおりだ。 [#ここから1字下げ] 「シャルル・ボオドレエル、最初にドラクロワを理解した男、芸術家の一種族全体が一身のうちに姿を宿してゐたあの典型的なデカダンであつた」(『此の人を見よ』阿部六郎訳) [#ここで字下げ終わり]  芸術家の一種族全体が一身に宿る。これは、彼の生において心狂える者の状態であって、これがデカダンということなら、デカダンとは、悪の世界の渉猟者ということだ。ニーチェの解説も聞いておこう。 [#ここから1字下げ] 「これでもまだ、私がデカダンスの諸問題にかけては身に覚えがある[#「身に覚えがある」に傍点]ことを、ことはる必要があるだらうか? この語は頭からも尻からも一字一字読みつくしたのだ。凡《およ》そ把握《はあく》したり綜括《そうくわつ》したりするあの金銀線細工《フイリグラン》の技術とか、あのニュアンスを感ずる指とか、あの『角の蔭《かげ》まで見ぬく』心理とか、その他私特有のものは、その頃はじめて体得したのであつて、私のもとであらゆるものが、すべての観察器官も観察そのものも、みな精妙になつたあの時期独特の贈物である。病者の光学からもつと健康[#「健康」に傍点]な概念と価値を見、それから逆転して豊富な[#「豊富な」に傍点]生命の充溢《じゆういつ》と自信の上に立つてデカダンス本能のひそかな作業を見おろすこと——これは私の極めて長い修錬、私の骨身に徹した経験であつて、もし私が何かの道の達人となつたとすれば、それはこの道である」(同前) [#ここで字下げ終わり]  この「病者の光学」によって開けるのが、悪の光景であろう。私は日本の犯罪が、ただの一度も病者の光学によって照らし出されたことがないのではないか、と疑っている。  もっとも、これは余談だが、私はニーチェ『ツァラトゥストラ』を読んだときの失望を忘れることができない。犯罪について、さだめし深刻な言葉があるだろうと期待していたのに、見出《みいだ》したのはこんなものだ。 [#ここから1字下げ] 「君たちはその犯罪者を、『敵』というべきであって、『悪人』というべきではない。『病人』というべきであって、『卑劣漢』というべきではなく、『愚者』というべきであって、『罪びと』というべきではない」(手塚富雄訳) [#ここで字下げ終わり]  これじゃ、まるでカルチャーセンターの主婦式のヒューマニズムに溢《あふ》れる言葉であって、犯罪が悪の光景にはならぬ。いや、悪からはもっとも遠いものになってしまう。  日本でいちばん深くボードレールに影響されたのは小林秀雄ではあるまいか、と私は思う。なにしろボードレールを読んで、自己とは何かという難題を見出し、そこから批評へ入って行った、と言っているくらいだから。私は、彼の『考へるヒント』の最初の方で、「人間の最下等」という言葉に出会い、はてな、小林にそんな言葉を使うに至る思考の系列があったのかを疑い、長らく疑問に思っていたが、一年ばかり前にボードレール『巴里《パリ》の憂鬱《ゆううつ》』を読んで、納得するところがあった。「人間の最下等」という言葉があった。あれはここから由来したものであろう。  いや、実は私が言いたいのはこんなことだ。そんな小林秀雄が、なぜもっと悪の世界、悪の魅力について語らなかったのだろう? たいへん不思議なことだ。彼はスタヴローギンに触れて、「精神の邪悪な傾向性」という言葉を発しているが、どうもこの言葉は彼の思考の内部で落着きがわるい。何かの理由があって、彼は悪の光景の豊饒《ほうじよう》さを手で覆《おお》ってしまうからだ。  もっとも、それこそが、われわれが日本人として抱いている、生の石盤の問題かもしれぬ。私は現実の犯行者、小松川女高生殺しの少年や、連続射殺事件の永山則夫《ながやまのりお》の手記も読んでみたが、おかしな言い方になるが、その犯行には「悪」がない。感覚されぬ。あるいは欠けている。  悪はどこにあるのか。それは想像力の中にある。  先に引用した、悪の基本的な発条、「みずからが根源になること」から完全に出発するのは、想像力である。  私はこれまで、想像力とは、見えないものを掴《つか》む力のことだ、としばしば言ってきたが、それは在らぬものを掴む力だ、と言い換えてもよろしい。  そして、想像力のもう一端にあるのは、自己だ。想像の世界では必ず自己が主役=[#「=」はゴシック体]主人公である。これが悪の世界への入り口であると私は考えたのだった。  では、われわれはその生の過程において、いつ、どこで、悪の世界に触れるのだろうか。  私は、まったくの幼児が絵本を見、お伽噺《とぎばなし》を読んで空想する、この空想がそれだと思う。  私は先にこの幼児の空想の場面を捉《とら》えて、人は面白い生き物だ、幼児にして早くも自分の原型的な「幸福」を編んでいる、つまり、自分が主人公であるところの物語を作っている、と言ってみたが、実はこれだけでは足りぬものがあった。  ——いったいなぜそんなことが幼児に必要なのか?  という問いが欠けていたからだ。なるほど、幼児が童話を聴きかつ読むのは、自然にして素朴《そぼく》な光景である。しかし、いったいなぜ、幼児に童話が必要なのか?  親はその幼児に、一歩ずつ、注意深く慎重にかつ忍耐強く、この現実の中で生きる手段と知恵を教えていきたいはずである。童話がなぜ必要なのか。それは幼児を現実から遠ざける。  そして、現実から遠ざけることが必要なのだ。何のために? 想像力を知り、働かすためだ。在らぬものとの接触。つまりこれが、しっかり走ったり、ちゃんと食事をしたりすることを習得するのと等しく、大切なのだ。いや、ことによったらもっと急務なのだ。  その想像の中で、自分に原型的な幸福の夢を描き、自分が主人公であるところの物語を作る。想像力の根拠は、自分をいい気分にするところにあるからだ。できれば私は、自分を主人公にした物語の中で、幼児がどんな役柄《やくがら》を選んでいるかを知りたいと思う。支配者としての主人公か、それとも一見従者としての主人公か。どちらを選ぶかによって、その後の人生にずいぶん異なった影響があると思う。むろん、一見従者型の主人公の方が、心の詭計《きけい》=[#「=」はゴシック体]芸術が深いと思う。  で、それがどうした? と言われる。そんなものは悪と関係がないじゃないか、と。  いやいや、やはり、童話を読んで幼児が空想する、これがわれわれの悪の世界への端緒であって、この一本のヴェクトルの上に、存在や現実の尊重とは反対のもの、「否定」「反抗」「孤独」「疎外」「不在」「死」「無」などの果実が稔《みの》るのではないかと思う。  ちょっと余談になるが、いま私は一つのヴェクトルの生の項目を順に並べてみたので、だからここの「疎外」は、社会の中で自分が疎外されているとか、他者を疎外する、という意味のものではない。そうではなく、十年も親しんでいる自分の部屋、窓と柱、机と椅子《いす》、壁、机の上のコップ、灰皿、インク瓶《びん》などの全体的な存在の密度の中で、自分こそがこの部屋にとっての他者である、たった一つの異物である、というような疎外感のことだ。分かり易《やす》くいえば、ボードレールの「赤裸の心」や、サルトル『嘔吐《おうと》』の冒頭に見るような疎外感だ。  この、自分こそ此処《ここ》(自分の部屋)における他者であり、正しく一つの(一人のではない)異物である、というような意識と感覚が開かなければ、悪の世界が拓《ひら》けぬ。この意識と感覚が、日本の近代文学には乏しい。そして、日本の犯罪、また犯罪を語る言葉に乏しい。  次は、ドストエフスキー『罪と罰』に登場する端役《はやく》の中年紳士の言葉。 [#ここから1字下げ] 「もう長いあひだ、五六年この方、彼は結婚といふ事を楽しい空想にしながら、それでも絶えず金をちびちび蓄《た》めて、時節到来を待つてゐたのである。彼は希望に充《み》ちた気持で、心の深い深い奥の方で、品行がよくて貧乏な(どうしても貧乏でなくてはならない)、若くて縹緻《きりやう》のいい、素性も正しければ教育もあり、しかも浮世の苦労をなめ尽して臆病《おくびやう》になつた娘——あくまで従順な(彼ひとりだけに)、生涯《しやうがい》自分を恩人として敬《うやま》ひ崇《あが》め、頭も上げないやうな娘を夢想してゐた。彼が仕事のひまひまに静かなところで、この魅惑に富んだ楽しい題目《テーマ》についてどんな甘い挿話《エピソード》や情景を空想の中に描いたか分らない!」(米川正夫訳) [#ここで字下げ終わり]  どうだろう、これはまことによく幼児の空想の特徴を表わしているものではあるまいか? これは大人の場面だが、こういう男は幼児のときから、何かこれ式のことを考えていたに違いない。そして、これはそろそろ悪の光景の一歩ではあるまいか。  ミシェル・フーコー編『ピエール・リヴィエールの犯罪』(岸田|秀《しゆう》、久米博訳)を読むと、これは一八三五年にフランスの片田舎で生じた若者による尊属殺しの犯罪をテーマにしたものだが、犯行者の手記が非凡であり、そこに少年時の回想としてこんな箇処がある。 [#ここから1字下げ] 「しかし私はいつも自分の優秀性に執着しており(註、彼は愚鈍なピエールと言われていた)、ひとりで歩いているとき、私は自分が主役になっている物語[#「自分が主役になっている物語」に傍点]をつくったりし、またいつも自分が想像したとおりの人間であると思いこんでいました」(傍点引用者) [#ここで字下げ終わり]  この「自分が主役になっている物語」が、犯行の源泉である。理由なき殺人のように異常な犯罪の場合には、小松川女高生殺しの少年もそうだったが、犯行の背後に何か必ずこういう「物語」があるのだ。つまり想像力を根拠とする犯罪なのだ(これは戦争の現実的な想像力、壁の内部の見えない金庫をありありと思い描く銀行|泥棒《どろぼう》の想像力ではない)。だから必ず、此処離れ、在らぬものへの意思といった断片が、物語の周辺に散らばっているはずである。  そろそろ私は自己矛盾に陥ってきたようだ。なぜなら、私は日本の近代文学や日本の犯罪には、悪の光景が欠けているなどと言いながら、童話から発する幼児の空想や想像力を源泉とする犯罪に、悪への意思というか設計を見出しているからである。  しかし、私がいま言っているのは、簡略なスケッチに過ぎない。悪への入り口のデッサンなのだ。  このデッサンの上に色を塗らなければ、それは悪の光景とはならぬ。  現実を掴む想像力には、材料としての現実の色がすでにあるが、在らぬものを掴む想像においては、自分で色を塗らなければならぬ。先の『罪と罰』からの引用の処《ところ》でいえば、(貧乏でなくてはならない)や(彼ひとりだけに)という処が、自分で塗るべき色の部分だ。  だから、悪の魅力を描くためには、想像力が、創造力へと変わってこなければならない。もっとも、これは私の同義反覆かもしれない。なぜなら、在らぬものへの想像とは、すでに一つの創作であろうから。  したがって、私はこう思う(ここでも引用したアウグスティヌスの結論とは反対になってしまうのだが)——悪は創造する、と。  実際、悪は多くのものをつくる。  悪は、秘密をつくる。  生の流れにおいて、幼児の空想が悪の第一歩だとすれば、少年時の共通の経験、布団《ふとん》をすっぽり被《かぶ》って頭を隠し、暗闇《くらやみ》の中で眼《め》を見開き、これが俺《おれ》の秘密の城なのだ、と独語する場面、これが悪の第二歩だ。少年は自分が欲望する在らぬもののすべてで、この城を飾る。  これが第二歩だというのは、ここで関係が複雑になるからだ。つまり、少年は暗闇の中で、自分の秘密をつくり、秘密の城を抱くと共に、暗闇の中に隠れているのだから、自分が外に対して秘密そのものになってしまっている、というもう一つの秘密の感覚を味わうのである。  自分が隠し、また、自分が隠される。悪の世界の根柢《こんてい》には、いつもこんな二重性がある。この二重性が、悪の世界に豊富さと複雑さとをもたらし、悪の魅力を描き出す。  悪は、倦怠《けんたい》をつくる。無関心をつくる。  つまり、現実に飽きあきするからだ。  つまり、此処離れのためだ。  こういうときの想像力は、高慢な心と軽蔑《けいべつ》の視線において行なわれる。いわば、支配者型の想像になる。  悪は、瞬間をつくる。刹那《せつな》の快楽をつくる。  価値を転倒するためだ。生活の中で千篇一律の声、安全・確実・長持ちということを嫌悪《けんお》する。  あのモラル、「恙無《つつがな》く日々を生きつつ長生きをする」という形を破壊するために。  悪は、孤独をつくる。反抗をつくる。  自分を一つのオリジナルなものへと化すためだ。群れていては、空気の粒子さえ判明するような赤裸の感覚が持てない。遠方を透視することができない。  反抗というのは、孤独になった彼は、任意の一本の針の存在だからだ。自分を一本の針と化すことによって、途方もなく広大な全体を刺そうとする。まことに狂った自尊心。しかし革命の夢はしばしばここから発生する。  悪は、幻想をつくる。  これは、創造者の模倣というか、創造の身振りである。あるいは、自分が何ものかによって生み出されたということへの復讐《ふくしゆう》。  したがって、現実や存在の反世界、在らぬものによる一帝国を建設してみなければならぬ。  悪は、美をつくる。  美は本質的に深淵《しんえん》だからだ。定義しがたいものだ。不可解なものだ。絶えず新しい美が創造される。美は創造的なものだ。  そして、美は根柢的に二重性である。美は万人に美しさを強制するが、しかしその基礎は、それは決して二つとない、ただ一つのものであることによって美しいのだ。この関係をレトリックでなく論理的に説明するのは不可能であろう。  では、ただ一つのものは、すべてそれゆえに美しいのか。いや、それは醜でもある。  美と醜とは、根柢において溶け合っている。二重性である。どんな美も、われわれが逆立ちして見れば、それは醜であろう。  悪は、美のなかに苦痛をつくる。  なぜなら、「美の探究は一つの決闘」(ボードレール)であって、自分の傷にかけて美を発見するからだ。  悪は、探究をつくる。  自分の秘密をつくった者は、すべての秘密を果てまで探究しようと希《ねが》うからだ。  悪は、冒険をつくる。危険をつくる。  とにかく透視した「彼方」へと歩いて往《ゆ》かねばならぬ。  悪は、生のなかに無限という感触をつくる。永遠という感触をつくる。  それこそ、此処にある生の石盤とは違った、すべて在らぬもののための石盤だからである。  悪は、死の感触をつくる。  つまり、常に深刻顔な生を、束《つか》の間《ま》の遊戯の戯《たわむ》れみたいなものとして感ずるために。  悪は、神経の世界をつくる。  現実を、嫌悪すべきものとして感ずるために。  悪の魅力は、盆の上のヨハネの首を前に踊るサロメの舞踏である。舞いつつ彼女は、在らぬものと未知が穿《うが》つ、底知れぬ坑道の奥へと堕《お》ちてゆく。 [#改ページ] [#見出し]  美  美。これは過ぎてしまったテーマだ。もう取り戻すことはできない。この三日ばかり真剣に考えてみたが、美についてのいかなる言葉も、私は心の内部に記してはいなかった。空白である。空白しかない。  十七歳から二十三歳にかけて、私はただただ美の追求ということで心を一杯にしていたのだろうか。そうかもしれない。あの頃《ころ》私は、何も要らなかった。学校へも行かず、日常の規則を無視し、生活にみなぎる声を黙殺した。政治つまり社会を嫌悪《けんお》し、知性つまり学問を拒否していた。私は何もしたくなかった。当然就職もできない。生活の手段なぞ一つもなかった。しかし、考えたくもなかった。むろん私は気違いではない。こんなことでは生きてゆかれぬ、と一日に一度は思うのだが、その思いに私の心は無覚だった。いかなる意思も生じない。私は一週間に一度ずつ、追いつめられたときには、三日に一度ずつ、と日を区切って生きた。何かもうそれ以上は生きられぬように思って。三日というのは、水を飲めばそれくらいは生きているのであろうと思って。  私は猛烈に渇《かわ》いていた。ただ一滴のものが欲しかった。それを美というのか。私はあせりながらさ迷った。  ——その生《せい》の状態を今の私は喪《うしな》ってしまった。私という平凡な人間のなかで、これはよほど異様な一時期だったのだろう。後の生の行程といかなる意味でも連続しない。それゆえに回復されぬ。後に残ったのは、何のために奉仕したのか分からぬ心の強行によって荒らされた残土のみである。それと共に、当時の心を占めていた沢山の言葉も去ってしまった。もうほとんど記憶がない。  若い人に、それも文章なぞ書こうとはしないあらゆる人に私は告げたい。十七歳から二十三歳にかけて、そこに感覚の絶頂があり、思考の絶頂があるのだから、それをメモしておくように、と。過ぎれば、二度と還《かえ》ってこない。というより、喪われ、空白になってしまう。なぜメモするのか。生の徹底性ということがそこに賭《か》けられているからだ。私は思う、あらゆる人がメモを書くようになれば、あの、われわれ総体としての生の改変など、ごく容易なことではあるまいか、と。  美について語れぬ、もう一つの理由もあるのだ。私はその頃、自分に大切な本のほとんどすべてを友人から借りて読んだ。私自身は所持していないのである。私は懸賞評論の出発から現在に至るまで、しばしばドストエフスキー『白痴』(米川正夫訳)のイッポリートの言葉を引用したが、実はこの本、いまに至るまで所持していないのだ、といえば、人は怒るだろうか?(それは、四十年前私がメモしておいたものだ)。そのとき私に絶対必要なのに所持できなかった本。そういう経験、自分にはこれが欠けているという思いの方が、後になって本を入手するより、私には大切なことだった。  したがって、私が本屋から購《か》ってくるのは、友人の部屋にある本を基礎にして、すべてその余のものであった。その余のものとは、全集や選集の雑纂《ざつさん》であり別巻であり、あるいは市場価値から見捨てられたものであった。その多くは、作家や芸術家のノート、日記、書簡、雑文であった。  そこに、美についての考察・感想が沢山あった。しかしあまり沢山あり過ぎたためか、そしてそれらが相互に否定し合うためか、私は何一つ明らかに覚えてはいない(それに二度、そんな世界から脱《ぬ》け出そうと試み、それらの本の多くを捨ててしまった)。もう甦《よみがえ》らぬ。  微《かす》かに記憶が残っている。  いったい私は、「美」とはどういうものだと思っていたのか。次は、骨折って購ったためについに手放さなかった『レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論』(杉田益太郎訳)から。 [#ここから1字下げ]  最初の絵画は、太陽によつて壁の上に投ぜられた人影の周囲にひかれた一本の簡単な線であつた。 [#ここで字下げ終わり]  美しい言葉である。これは、本当のことではあるまい。真実でもなく、現実的でもなく、自然でもなく、正確でもあるまい。しかし、これは私の精神の深部を打つ。太陽、壁、人影、一本の簡単な線、という明らかで単純なものが緊密に組み合わされて、何かを告げている。その何かは遠方にある。したがって、起《た》て、遠方に向けて歩き出せと秘密の告知をしている。このようなものを何と言うのか。これは美しい、あるいは、美しい言葉だ、とでもいうほかはないではないか。  これは余談だが、レオナルドはここで「影」についての探究を多くしている。なるほど、絵描《えか》きには実際的なことだろうが、非凡な研究と見える。影とは! それは光りの色でもなく物の色でもなく、両者が出会うところに生ずる奇妙なもの、絶えず微妙に変化するところの何か、と思われてくる。だから、こんなことにはまったくの無知だが、ニュートンの『光学』が絵描きには大きなショックだったということが、たとえば小林秀雄『近代絵画』の「モネ」の章で説かれることが、私には疑わしく思われてくるのである。 [#ここから1字下げ] 「影は光の減少であると同時に闇《やみ》の減少でもある。それは闇と光の中間に存在してゐる。(二行略)  影の始と終は光と闇の間にあり、無限に減少し得ると共に無限に増大することが出来る。  影は物体がそれによつてその形を示顕する手段である」(同前) [#ここで字下げ終わり]  たいした言葉ではないかもしれぬが、十九歳かの私には小さな発見があった。それまで私は「影が闇の減少である」とは考えていなかったから。それはゲーテ『色彩論』の冒頭にある、「汚点《しみ》はすべて一種の染色である」と同じ小さな発見だった。私はそんなこと考えてもいなかったから。何によらず、私の不意を打って小さな発見をさせてくれるもの、それを美しい、と私は言う。  分かってもらえるだろうか? これらの「壁」や「汚点」の断片は、その当時、私が一つの生の音調を見出《みいだ》していた、イッポリートの「壁」や「汚点」と連続するから、いまも覚えているのだ。  すこし後に購った『レオナルド・ダ・ヴィンチの手帖《てちよう》』(足立重《あだちしげる》訳)には、こんな一行があった。   地球はその上に憩《いこ》ふ小鳥の重さによつてもその位置から動かされる。  これも美しい言葉だと思う。もっとも(大天才へのたわ言だが)前の引用に比べると、この一行は真の充実に達していない、何かが欠けている、思考の一端が、等式の右半分が隠れているのではないか、と思う。精神の深部へのリアルな感触を欠く。  むろん、私の間違いかもしれない。この本の次の一行はこうだ。 [#ここから1字下げ] 「水の世界の全表面はその上に落ちた小さな一滴の水によつても動かされる」 [#ここで字下げ終わり]  誰だって、この、水の世界と一滴の水との関係を、海と投ぜられた小石との関係にした、パスカル『パンセ』の一行を想起するだろう。してみれば、独立と充実感に富む、完結した一行といっていいのかもしれぬ。しかし、「小鳥」の一句の方が、美しいと私は思う。  ついでに、この本から二例引用する。 [#ここから1字下げ]  それ故《ゆえ》に、無の終りと線のはじめは互ひに接触してゐるが、それらは結合してはゐない。そして、かゝる接触に於《おい》て、無と線の継続を分つ点《ポイント》がある。(同前)  それ故に、軽さ[#「軽さ」に傍点]は重さ[#「重さ」に傍点]より生れ、重さ[#「重さ」に傍点]は軽さ[#「軽さ」に傍点]より生れる、そしてそれらはその存在の恩恵に報いて同時に互を生みあふ、そして同時に、それらの死の復讐者として互を破壊しあふ。(同前) [#ここで字下げ終わり]  前者は、「無」についての感触の一つを私に与えてくれた。後者は、パルメニデスの「すなわち彼ら死すべき者は 二つの形態[#「二つの形態」に傍点]に名を与えようと心にきめた」「すべては同時に 光と暗い夜によって充《み》たされている」(藤沢令夫《ふじさわのりお》訳)という、深淵《しんえん》にも達しているように思われた。  このような言葉を、私は美しいと思ったのだった。だから、もっとも現代的なもの、都市のビルについても、ちょうど銀座に新しいビル街(いまとは違う)の装いなった昭和三十年代前半で、まだ高層ビルはなかったが、「ニウヨークの摩天楼は、私がデカルト的摩天楼と呼ぶ理性的な摩天楼を傷つけてしまった」というような、ル・コルビュジエの言葉(『伽藍《がらん》が白かったとき』生田勉《いくたつとむ》・樋口清《ひぐちきよし》訳)を面白く聴くと同時に、次のような言葉に共感するのであった。 [#ここから1字下げ] 「|+《プラス》というこの形、すなわち直線と直線が切り結んで四つの直角を作る形、人間の意識の身振りそのもののこのしるし、人間が本能的に描くこのしるし、人間精神の図形的象徴、言いかえれば秩序立てるもの」(「直角、精神のしるし」) [#ここで字下げ終わり]  実は私は、建築のみならず絵画も、単に物の姿を写すのではなく、美を目指す絵画は、一本の直線、を発明するような意思において始められたものではないかと思う。一本の直線。それはいまそこに存在する。しかしこれは何か。なぜ在るのか。このような思考の限界に手を触れ、かつ、その思考の可能性を追求する意思。私には、幾何学と絵画が、同根のものだと思われて仕方がない。一方は知へ、そして一方は美へ。私は、レオナルドやセザンヌが、絵画の制作を「角錐《かくすい》」や「円錐形」で説明するのを、もっともなことだと思う。  このコルビュジエの言葉は、一見デカルト的だ。なるほど、私はデカルトの文章を、哲学者のものとして読んだ訳ではなかった。『省察』の冒頭の一行から最終の一行に至るまで、これはもっとも美しいものだ、と私は感じたのであった。私はデカルト説の真偽なぞ知らぬ。この一冊が表現しているのは、もっとも深く、もっとも美しい一つの精神の音楽のようなものだ。この美しさを誰も損なうことはできぬ、と私は感ずる。  デカルトの言葉の背後には、何か異様な暗黒、深淵、狂気や犯罪を含むところの人間の奇怪さ、というものが感覚される。無あるいは死の上に立つ人間の姿がある。それゆえに美しい。  これに反して、コルビュジエの言葉は、美しいとはいえぬ。つまり、言葉に「影」の部分がないのだ。彼のいうデカルト的摩天楼とは「機械文明時代の都市計画の奇跡」だそうで、これは新宿の高層ビルに実現されていると思うが、おかしいではないか、なぜ彼はその思考の一端で、「デカルト的地下室」というものを思い描いて、われわれの想像力を刺戟《しげき》しなかったのか。  耳の記憶が微《かす》かに残っている。  私は学生の頃、友人に指摘されたのだが、 「削って、削ること」 「もっと単調なものでなければならぬ」  というような言葉を繰り返していたそうだ。それより後のことだが、ある女性から、「殺すこと」という言葉が多過ぎる、と注意された。  よく分かる、という気がする。その頃私はヴァレリーの「テスト氏との一夜」(小林秀雄訳)に魅せられていた。テスト氏が一つの人間のモデルに見えた。 [#ここから1字下げ]  つまり、操り人形なぞ殺して了《しま》つてゐた[#「操り人形なぞ殺して了《しま》つてゐた」はゴシック体]。につこりともしない、今日は、も、今晩は、も言はない。  生ま身を削るのが僕の仕事さ、……僕は欲しいと思ふものを抑へる。だがそれはまだまだ易しい事だ。明日欲しいと思ふだらうといふものを抑へる、これが容易ぢやない[#「明日欲しいと思ふだらうといふものを抑へる、これが容易ぢやない」はゴシック体]。……言はば機械的な篩《ふるい》を探して来たのさ…… [#ここで字下げ終わり] 「殺して了つてゐた」「削る」「機械的な篩」といったものを、際立《きわだ》つ音符のようなものとして、私が自分の生の音調の中に取り込んだらしい。引用のちょっと先に、この男「かつて笑つた事もない」とある。これを読んだのが先か私の生の状態が先か、忘れてしまったが、私も一年くらい笑わないことがあった。スタンダールの何かで「決して笑わなかった男ロベスピエール」とあるのを読み、私は感心、しばらくロベスピエールの名が見えれば何でも読んでいたことがあった。  確かノートにも、私の格率は「殺して、殺して、殺すことだ」とか書いたはずだ。  むろん、殺す相手はこの私だ。「明日欲しいと思ふだらう」ところの私を、殺すこと。  私は何もしないために、毎日ただ理由もなく外を歩いていた。猛烈に渇いて、一滴の美のようなものを追求して、と先に言ってみたが、これは苦しい口実だった。実際にはそれとは反対の粗ら粗らしい行為をしていた。人間の形、動作、女、衣裳《いしよう》、建築、都市の飾り……私の眼を捉《とら》える美しいものを見ては、その美しさを否定する、心の内部で握り潰《つぶ》そうと努力していたのである。何のための努力? 無意味な努力。いったいなぜそんなことに心を使役していたのか、私は自分のことだが訳が分からない。  美しいものを見ると、猛烈な反抗心が生ずるのであった。否定したい、破壊したい、美などいう仮面を剥《は》いでしまいたい、と思うのであった。  もしかすると、美とは、そんなふうに心を刺すものなのか。  なぜそうなのか。美は人が一致して美しいと認める。目立つ。それゆえに、美は傲慢《ごうまん》である、と私が思ったのか。  私は、見捨てられたところ、無意味な物、道端の雑草のように、偶然に在るもの、仕方なく在るもの、余計な物として在るもの、不必要な物として在るものの中に、美を見出そうとして、あせりながらさ迷った。  実はその頃、小林秀雄が『ゴッホの手紙』を書く動機となった、ゴッホ展を私も見たが、私はそのときゴッホが嫌《きら》いだった。有名過ぎるし、仰々しく行列に並んで観《み》なければならない。並んでいる自分が滑稽《こつけい》だった。入っても立派な絵などは見なかった。少年時の習作があった。思ったとおり、貧相で、単調なものであった。そしてそれがよかった。それから晩年のいくつかの麦畑の絵が印象に残った。  それは美しくなかった。ひどく生ま生ましかった。ちょうど人から皮膚を剥ぐように、絵から絵画らしさを一枚剥いだような感触があった。なるほど、気違いの絵だ、と私は納得した。私は幼児のときの頭部の手術の感触を思い出していた。この絵描きは、そんな手術の感触で描いている、と。私は思う、或《あ》る人にとって生とは、絶えざる手術の感覚のようなものかもしれない。これは辛《つら》いだろう。  その手術のような感覚は、ゴッホの次の言葉に露骨に表れている。 [#ここから1字下げ]  あゝ、湿つた、融《と》けかゝつた雪が降つてゐたのだよ。僕は夜中に起き上り、田舎の景色を眺《なが》めた。自然がこんなに心を緊《し》めつける様な感情に満ちて見えた事は、決して決してなかつた事であつた。こゝの人達が絵に関して抱いてゐる一種の迷信は、時々、どう言つていゝか解《わか》らぬ程、僕の気持ちを滅入《めい》らせる。何故《なぜ》かといふと、画家といふものは、眼で見るものにあんまり心を奪はれ、その他の生活がどうやら合点できぬ人間だ、といふ事は、根本のところ全く真理なのだからね。(小林秀雄『ゴッホの手紙』) [#ここで字下げ終わり]  後になって、小林秀雄『ゴッホの手紙』を読み、ゴッホへの考えが改まった。私の眼を開いてくれた。そういう意味で、これは小林氏の傑作である。こんなに素直に彼の本を読んだことはなかった。また、小林氏がこんなに素直になったこともなかった。  果たしてゴッホは到《いた》る処《ところ》で次のようなことを言っていた。これは病院の監守人の妻について。 [#ここから1字下げ]  顔色の悪い、不幸な女で、何の取得もない、諦《あきら》め切つた様な様子をしてゐる、あんまり無意味な姿をしてゐるので、あの埃《ほこり》をかぶつた雑草の葉が描きたいといふ様な強い欲望を起させる。(同前) [#ここで字下げ終わり]  見捨てられたところ、無意味なもの。そういうところへ眼が魅《ひ》きつけられる。どうしようもなく入って行ってしまう。微細なものへの関心、踏まれるものへの愛か。いや、ぜんぜん違う。まるで反対のことだ。眼が物の中に入っていって問うのだ。ここにこういう物が在る、これは何か、なぜ在るのか。しかしなぜそうするのか。自分をその物を照らす光りに等しい一つの声と化すために。  他方、私はヴァレリーの画論の中で、あるときパリの一群の絵描き達に、町をただ訳もなく歩き回っては、ふと行き当たった壁や煙突の「汚点」などを描くことが流行した、とあるのを読んで、おやおや、なんだ流行なのか、とがっかりしたことがあったが、ゴッホの行為は、それとは別のものだろう。  もっとも、その壁の「汚点」趣味は、大いに私が自分を嘲笑《ちようしよう》するための役に立った。社会も強いのだ。到る処の先に、すでに社会が居る。  そしてゴッホは美を捉えたのか。捉えた。創造した。「ドービニイの庭」について書かれた言葉は、もっとも美しいものだ。 [#ここから1字下げ]  ドービニイの庭、前景は緑と薔薇色《ばらいろ》の芝生。左手は、緑と淡紫《うすむらさき》の灌木《かんぼく》と白つぽい葉をつけた立木。中央に薔薇の花壇、右手は、木戸と壁、壁の上には、菫色《すみれいろ》の葉をした榛《はん》の樹《き》。それから、ライラックの生垣《いけがき》と円く刈り込んだ菩提樹《ぼだいじゆ》の列、背景の家は桃色、青みがかつた瓦《かはら》を乗せてゐる。ベンチが一つ、椅子《いす》が三脚、黄色い帽子を被《かぶ》つた黒衣の人物。前景には黒猫《くろねこ》が一匹。空は淡緑。(同前) [#ここで字下げ終わり]  これは美しい。絵を見てしまったからそう思うのか。いや、そんなこともあるまい。単純に、この記述だけで美しい。  私は実は、言葉だけで引用するのなら、「サン・レミイ療養院の庭」について語ったエミール・ベルナール宛《あて》書簡の一節、まるでドストエフスキーの小説の描写のようなそれの方が、分かり易《やす》く、深さの印象を与えるのではないか、と迷ったが、やはりドービニイの庭の方にしておいた。  こちらの方が、明るく、平明で、澄んでいる、と思う。つまり、もう「深さ」などというものが要らなくなっているのだ。  精神の空、に当たるものが表現されている。どうすれば人はこんな地点に達するのだろうか。  そしてこんどは絵を見ていただきたい。描かれた物の形と共に、その形において、何かもう一つの見えないものが在る、と感覚されるであろう。静かな、名状しがたい「単調なもの」が、ここに在る、と感触されるであろう。その感触は、換言すればこんなふうに言っていいものだと思う。  ——これが、いわば「永遠」といったものの感触なのだ、この絵は永遠といったものに一つの形を与えている、と。  そして、『ファン・ゴッホ書簡全集』やレオナルドの『絵画論』は、私に一つの謎《なぞ》を与えた。それは、色や形の方が、言葉よりも、微細なものや豊富なものをよく表現しているのか、と思うと共に、言葉をかくも多量に使った小説という表現行為の中に、これらの「書簡」や「画論」が示す、極めてリアリスティックな記述が乏しい、それはなぜか、という疑いであった。  まことに奇妙な話になるが、弱年の頃、科学の知識なぞ一つもないのに、強引にニュートンの『光学』(阿部良夫・堀伸夫訳)を読み飛ばしたのは、処々の記述が美しく感ぜられたからである。次は第二篇第一章、シャボン玉観測のところ。 [#ここから1字下げ]  観測十七[#「観測十七」はゴシック体] 最初|石鹸《せつけん》を溶かしてねばり強くした水を吹いて泡《あわ》を作るならば暫時《ざんじ》の後多様の色彩を現出することは普通によく知られたところである。この泡を外気によつて動揺せしめない様にするために(動揺すると泡の色が互に不規則に運動して正確な観測をなすことが出来ない)、私は泡を吹くや否《いな》や直ちにそれを曇りのない硝子《ガラス》で蔽《おほ》つた、この方法によつて色は非常に規則的な順序に、即ち泡の頂上を取り囲む同じ数だけの同心環の様な形に現れた。さうして水が次第に底に沈下して泡が薄くなるに従つて、これ等の環《わ》は徐々に拡大して泡の全面に拡がり順々に泡の底に降つてゆき次々とそこで消え去つた。その間に、総《すべ》ての色が頂上に現れた後、環の中央に第一観測に於ける様な小い円い黒点が発生し、それが次第に膨脹して時には泡が破裂しない間に10乃至《ないし》30吋《インチ》以上の幅に達することがあつた。最初私は、この場所では水から反射する光はないのであると考へた、けれども子細に観測した結果私はその内部に他の部分より遥《はる》かに黒く暗い数箇の小円い点を見出した、……(以下略)  観測十八[#「観測十八」はゴシック体] (中略)第六の赤は最初は非常に綺麗《きれい》な生々した緋《ひ》で、その直ぐ後は更に明るい色で非常に純粋な生き生きとした、総ての赤のうちで最も純正なものであつた。次に生々した橙《だいだい》の後に強い明るい多量の黄が続いた、これもやはり総ての黄のうちで最も純正な黄であつた。これは先《ま》づ緑がゝつた黄に、次に緑がゝつた青に変化した。しかし黄と青の間の緑は非常に僅《わず》かで稀薄《きはく》であつて、寧《むし》ろ緑と云《い》ふより緑がゝつた白の様に見えた。これに続く青は非常に純正で明るい空色であつたが前の青には幾分劣る、又|菫《すみれ》は強く深くてその中に僅かしか、或《あるい》は全く赤色を含んで居なかつた。さうして青よりも量が少なかつた。(以下略) [#ここで字下げ終わり]  どうだろう? この「遥かに黒く暗い数箇の小円い点」のところを通り越して、この「総ての赤のうちで最も純正なもの」にまで達すると、ここが、美しいものと感覚される。そして、なんだか見えないドラマの階段を下ってまた上がったような気分になる。まさかまさか巧妙に仕組んだフィクションではないんでしょうね、と冗談が言いたくなる。  というのも、このニュートンの記述、一方では思いも寄らぬ現実的な細部、小説的な細部といっていいものを登場させるからだ。次は第一篇第二章の実験十五。「私は画家の用ひる粉絵具を混ぜ合して白色を複合しようと試みた」の一節。 [#ここから1字下げ] 「……得られるものは光と闇或は白と黒の混合から発生する様な黒ずんだ鈍い白色である。即ち人の爪《つめ》、二十日鼠《はつかねずみ》、灰、普通の石、漆喰《しつくひ》、街道の塵埃泥土《ぢんあいでいど》等に見る様な灰色、暗褐《あんかつ》乃至小豆色の類《たぐひ》である」 [#ここで字下げ終わり]  この「人の爪」に出会ったとき、不意に現実の爪に突き当たるような気がして、私はびっくりした。微《かす》かに不愉快な感触とともに。  とにかく、色と光りの記述なら、現代小説の俊英ル・クレジオより、こちらのニュートンの方が優れているのではないかと思う。リアリスティックな感触がある。  私の世代の者は、戦後、サルトルを読まなければならなかった。彼の『文学とは何か』(加藤周一・白井健三郎訳)は、必読の書のようなものだった。彼はその中でこう言う。 [#ここから1字下げ] 「……われわれが書こうと夢想できる唯一《ゆいいつ》の小説は内的な話者も全知の証人もない状況[#「状況」に傍点]の小説だけだったのである。(略)小説の技巧をニュートン力学から一般相対性原理へ移させねばならなかった」(「一九四七年における作家の状況」) [#ここで字下げ終わり]  大いに迷惑な話だった。仕方がないからアインシュタインを読む。ほんの入り口だけ分かっても、奥の方は分からない。これは好悪の問題だが、私はアインシュタインの文章に馴染《なじ》めなかった。美しいと感ずるところがなかった。ヴァレリーは「アインスタインによる宇宙表象の本質的な性質は、一つの形式的相称である。相称といふものは美を生ずる」と言っているが、そんなことは私には分からない。  もっとも、サルトルは他方でこうも言う。 [#ここから1字下げ] 「私は思うのだが、われわれが美を定義するのはもはや形式によってでも素材によってでさえもなく、存在することの密度によってであろう」(同前) [#ここで字下げ終わり]  それならニュートンの文章式でもいいのであろう、と私は思う。彼の『嘔吐《おうと》』は、ニュートンの文章式に描かれたものであり、そして、それには密度があった。  もっとも、彼がこの「相対性への移行」ということで、次のような記述をもう一度強調しようとしたのなら、私は共感してもいい。それはランボオの「ああ 季節よ、城よ、/無疵《むきず》なこころが何処にある」(小林秀雄訳)を引用しながら、こう言っている処だ。 [#ここから1字下げ] 「誰も問われず、誰も問わない。詩人は不在である。そして質問は答を許さない。或いはむしろ質問がそれ自身の答である」 「彼は絶対的質問をしたのであり、魂という美しい言葉に疑問形の存在を与えたのである。それこそ、ティントレットの苦悩が黄色い空となったように、もの[#「もの」に傍点]となった疑問である」(「書くとはどういうことか」) [#ここで字下げ終わり]  ——私は、「美」とはこういうものだと思う。つまり、「絶対的質問」ということなのだ。ゴッホはドービニイの庭を描いて、絶対的質問をしたのである。  つまらぬ余談だが、私はこのサルトルの「絶対的質問」の二つの言葉に感嘆したのに、ついに今日に至るまで、私の文章中に引用することがなかった。というのも、この見事な言葉に、すぐ続けて、「もはやそれは意味ではなく、実体である」以下の、知識人めいたつまらぬ文章を展開するからである。これじゃ何を言ったことになるのか。これは厄介《やつかい》な人物だ。そして、これがいわば「現代的知性」というものなのか。処々にたいへん見事な言葉があるのに、そこに突き当たるためには、数多《あまた》の砂粒のような言葉を掻《か》き分けねばならぬ。  もう一つ余談。私は未開の野蛮人のような人間だから、日本の繊細な美などというものは一つも分からぬ。たとえば、俳句。あの一句というか一行というか、短い言葉の配列のなかに、どこに美が宿っているのか一つも分からぬ。なるほど、優れた鑑賞者の説明を読むと、微妙な美の影がたゆたっているとも思われるが、我に還《かえ》ってたちまち元の野蛮人に戻ると、一行が自身でその美を証明していない、とも思われるのだった。  ……ところが、これが年をとるということなのか、私の生の生地《きじ》が紛れもなく日本のものであるということなのか、或る日突然、いかなる準備もいかなる予告もなしに、そこらの雑誌にあったグラビアの、古今だか新古今だかの歌を書いた平安朝時代の「かな文字」を見て、なんというのか、正しく心の爛《ただ》れるような美しさを感じたのである。これはどうしたことか? と惑ううちに、これも不意に、俳句のところへ連想が走った。小学生以来これは俳聖|芭蕉《ばしよう》の悟りの句だとか耳にたこができるほど聞いた、「古池や蛙《かはづ》とびこむ水の音」のところへ。——なるほど、とそのとき思った。これは一つの完全である。人間はそこにいない。これを見る者は、他者として拒否されている。では、これが日本における「誰も問われず、誰も問わない。詩人は不在である」の表現であろうか。これが芭蕉における「絶対的質問」というものだろうか、と。  だが、これは疑問形のままにしておこう。  いまは現在に戻ろう。これは現代小説というジャンルの上でだが、「美」について二つの方向、つまり対立があるように見える。この対立を、端的に要約した一九四七年の日付を持つアントナン・アルトーの言葉(『ヴァン・ゴッホ』粟津則雄《あわづのりお》訳)があるから、これを引用しておく。 [#ここから1字下げ]  私は思うのだが、ゴーギャンは、芸術家というものは、象徴や神話を探究し、生の事物を神話にまで拡大しなければならぬ、と考えていたのだ。  一方、ヴァン・ゴッホは、生におけるもっとも卑俗な事物から神話を導き出すことができなければならぬ、と考えていたのだ。  私には、この点で、ゴッホはとてつもなく正しかったと思われる。  なぜなら、現実とは、いっさいの歴史、いっさいの物語、いっさいの神性、いっさいの超現実性をおそろしいほど上まわっているからである。 [#ここで字下げ終わり]  私もそう思う。意味によって深く輝くのは前者かもしれぬが、美しいものを掴《つか》むのは後者だ。美しいものは、眼の前に在るがらくたの中から、素手で掴まれねばならぬ。 [#改ページ] [#見出し]  心  心。これは困難過ぎるテーマだ。このテーマを追うと、私は自分が何人もの人間になってしまうような気がする。  本当なら、そんなものは知らぬ、といってテーマを返上したいところだ。しかし、そうはいかない。とにかく毎日、一日に一度はこいつに出会っているわけだから。まるで双生児だ。いや、隠された自分なのか。そして、こいつはこれまで一生のあいだ私を悩ませた。  私は心を視ようとする。するといつも、二日酔いの果ての嘔吐感が襲う。コップだとか椅子《いす》だとか、普通のものが見当たらないからだ。暗闇《くらやみ》と鋭い苦痛、光りと烈《はげ》しい渇きが交替する。  私は心を聴こうとする。するといつも、眼《め》と耳の中間の奥に、微《かす》かな錯乱の旋律が生ずるのを知る。それはしだいに強く、速くなってくる。透明な裂け目、深沈たる水面、他界、思いきって滑稽《こつけい》ながらくたの山といったものが、眼に見えるイメージではなく、音調として感ぜられる。  私は心に触れようとする。するといつも、手が火傷《やけど》か凍傷に罹《かか》る。どちらだか解《わか》らぬところが気味が悪い。いくつかの発条みたいなものがおぼろ気に感覚せられる。永遠に泣いているような発条とか、一瞬がすべてだと笑っている発条とか、単調な無限回転のレコードの発条とか。でも、それは幻かもしれぬ。しかし一つだけ確かな手触りの発条がある。それをもう少し強く押せば、自分がいまここに居て現にこうしている、ということの何かが毀《こわ》れ、ばらばらになり、私が発狂するのではないかと思う。  弱年の頃《ころ》私は、こんな私の心なぞさっさと犬に食われてしまえ、と思っていた。無意味であり、無用である。そして、飼っているというよりは囚《とら》われの犬、高貴な血統だが生れて百五十日くらいで病気のために腰抜けになってしまった秋田犬が、不意に起《た》って勁《つよ》い声で叫ぶと共にぱったり倒れて死んでいったそのとき、食われてしまったはずではないか。そのせいだろう、母が死んでも父が死んでも私は泣きはしなかったが、十数年前この犬の死をふと思い浮かべたとき、なぜか涙が出てきた。  いやいや、こんなものは二十歳《はたち》のたわ言だ。もう止《よ》そう。しかし自分の心に向き合うと、私はなぜこんなに意地悪くなるのか。私と私の心の間にはよほどひねくれた関係がある。それを解きほぐすことはもう出来ない。  私は弱年の頃、いつも理由もなく外を歩いていた。舗石の道をあせりながらさ迷った。一つの声が私の心を占めていた。こんなものは何処《どこ》にでも棄《す》ててやる、こんなものは誰にでも呉《く》れてやる。こんなものというのは、私の心だ。そんなふうに思わなければ、生きている気がしなかった。今日が明日へと連続しなかった。このような行為には、なにか思いきって犯行者的な心の誇張がある。たぶん私は自分の心というものが信ぜられなかったのだ。それは何か、本当に確かに在るものか。たぶん私は自分の心を燃やすことによって、誰かの掌《てのひら》を、一つの貧しい掌を温めてみたかったのだ。なんという打ちひしがれた心、そして逆になんという思い上がったその存在の証明法。さらにそのために死んでいくという甘美な幻想が附録に付く。なんだ、これは?  これは奇怪なものだ。これは滑稽なことだ。まるで病気の少女の歪《ゆが》んだ空想だ。あるいは、もっとも粗雑な童話の絵のようなものだ。こういう奇怪さが人間の徴《しる》しだろうか。しかし、こんな心を弱年の私は許すことができない。  むろん、いくら歩き回ってみても、何も答えるものが在りはしない。空《むな》しく歩き回ったあげく、歩行の切れ切れの印象をノートに記す。   ぽけつとに手を突込んで   路次を抜け、波止場に出《い》でて   今日の日の魂に合ふ   布切屑《きれくづ》をでも探して来よう。(中原中也「秋の一日」)   いや、これは引用の間違いだ。そうではない。  私は自分の心が正銘の襤褸布《ぼろぬの》であることを希《ねが》っていた。奇怪な幻想の塊であるよりはましである。私は、私の心という襤褸布の正体を索《もと》めて探し歩いた。その切れ切れの感想をノートに記した。 (厭《いや》になってしまう。以上の一節は、完全に矛盾|撞着《どうちやく》している。冒頭では「心を棄てよう」としているのに、結末では「心を索めよう」になっている。  だから、「心」についての記述は厭なのだ。心について考えたくないのだ。これは私だけの癖かもしれぬが、心について考えると、いつもそうなる。どう仕様もなくそうなってしまう。つまり、同時に矛盾したことを行なう。洒落《しやれ》ていえば、両極が一致している。  なるほど、この一節を数倍して言えば、この矛盾を、一つの直線のように説明することはできよう。直線のような時間的展開として説明することは可能だ。しかし、そうすると、説明の文章になってしまって、「心」という印象が失せてしまう、と思う。私は粗雑な心の持ち主らしいが、心というものは、一度動き出すや、つまり考え出すや、同時に等しく矛盾する方向、正反対の方向にも、動いているように感ぜられる。いや、もっと横の方や斜めの方へも。これが、心というものの奇怪さだ。そして記述の厄介《やつかい》さだ。だから、われわれが「精神」というのは、意志によって心の一方向のみを凝視しようとする行為のことであろう。  心の記述の厄介さは、同一の言葉を繰り返しながら、それが二重にも三重にも違った意味で現われねばならぬ、しかもごく自然に、というところにある。たとえば、幼児的なスケッチで恐縮だが、「私が〈心〉を棄てようとして歩く」ことが、「私が〈心を棄てようとして歩く〉ということを棄てようとして歩く」へと、瞬時に移り・変わり・動くように。いや、この言い方もおかしい。その二つは、最初から共に在るものだ。同時であり共存である。  というより、これが「心」の二重性なのだ。私より複雑な心の持ち主なら、それは三重性であり、四重性……である、ということになるであろう)  しかし(あるいは、だから)、私のノートは破船した。書き続けるうちに、しだいにノートは、「日常の中の」私、「私の中の」私、「現実の」私、という、三つのノートに分裂せざるを得なかった。その三つを、同一の平面つまり同一の白紙・ノートに書くのは、許しがたい嘘《うそ》である、と感ぜられた。  私が、分裂する。冒頭で、心について書こうとすると「私が何人もの人間になってしまう」と言ったのは、ここの処《ところ》だ。 (閑話休題。だから私は「小説」という記述の形式を尊敬している。これは誰のどういう発明なのか? 社会や生活考察ではないところの小説の一半、主人公の自己を追求しようとするところの一半は、たとえば、心というものを追えば分裂せざるを得ぬ私の三つのノートの、綜合《そうごう》の形式なのだ。つまり小説は、心というものの動きを、生の香を保ったままにその二重性・三重性において捉《とら》えようとするところの、優れた形式なのである。したがって、いわゆる「心理主義小説」は、その二重性・三重性の心の動きを、同時に矛盾を内包しない学問的な説明、分かり易《やす》さを好む知性的な説明によって、あたかも歯車の噛《か》み合う機械的な心理の光景として描くことによって、小説の堕落であった。  それでは現在はどうか。私は心配している。なるほど今日では、心理学あるいは精神医学によって、心の多様な動きが、多数の蝶《ちよう》を収めた標本箱のように説明されている。しかし、それは「空間的」な説明であり、屍体《したい》の説明である。その説明は「動き」を描くことができない。だから、小説的記述が今日そんな言葉に同調するようなら、それは小説の堕落である。非常によく考えられた訳でもない言葉にお辞儀しているほどの馬鹿者《ばかもの》に過ぎない。  そうではなく、小説は本来、「動き」も捉えることのできる記述なのだ。あえて言えば、「時間」の動きも共に加えて、すべてのものを追究できる形式なのだ。もっと乱暴に極端化すれば、単なる学問的な記述よりは、よほど上等な知性の形式・敢行の試みでもあるのだ)  いまはもう私は恥知らずになって言うことができる。私が何の理由もなくノートを書き始めたとき、もしかするとそれは、私という心の襤褸布の正体を索めるべく、心の動きの切れ切れの断片を捉えようとしたのだ。  しかし、ノートが三つにも分裂するに至って、私は破船した。いま現にここにいるところの私、「私」として意識されるところの一点は、この三つのノートの何処に在るべきか。しかも、これが私だとか、「私は……」と言うのみでは捉えられぬ、心の広がり、他の方向へ流れ出ようとする心の動きを、方向とか次元を区別しながら、余の二つのノートにどう記述すべきか。  三つのノートを並行して記述しようとするや否《いな》や、私はすぐさま疲労した。二十歳ながら疲労する。そして、錯乱めいたものが襲う。私は破船した。しかし、精力ある人間なら、この行為を続けられるであろう。そういう行為の果てに、一つの「文学」が出現するはずだ、と思うのが、二十歳の私の夢だった。だが、私には精力がなかった。ほんの数ヵ月の試みで、この行為をもう少し続ければ、私が狂ってしまうであろう、と感覚した。先に、ここをもう少し強く押せば自分が発狂するかもしれぬ、といった心の発条に触れた覚えがある、と言ったのは、こんな意味のものだ。  私が歩き、そしてノートを書くことによって証《あか》ししたかったのは、心という襤褸布の正体を索めようとする、その動機の存在の証明、ということであった。その動機の一般性を示すために、下らぬがらくたの自分の声より、ちゃんとした人の他人の文章を借りておく。 [#ここから1字下げ]  私の容《い》れうるかぎりの情熱と、邪悪な明晰《めいせき》さをもって、私は、私の中で、生が裸に剥《む》かれることを[#「生が裸に剥《む》かれることを」はゴシック体]望んだ。戦争状態になってこの方、私はずっとこの本を書いている。ほかのことは私にはむなしくて仕方がない。私はもう生きることしか希っていない。アルコールと、恍惚《こうこつ》と、裸の女のように裸の生存、しかも不安に波だった生活だ。(G・バタイユ『有罪者』出口裕弘訳) [#ここで字下げ終わり]  引用文中の「戦争状態」の語に軽く注意したい。「生が裸に」などと考えるのは、戦争のときなのだ。いつの時代でも、何処の世界でも、そうではなかろうか。むろん、平和のときは、生の「お化粧」である。生の音調が違う。 [#ここから1字下げ]  たとえ人間が一箇の偶発物であるとしても、偶発するものは、問いへの答えではない。それは偶発するところのひとつの問いなのだ。人間は問いを発し、しかも、「私は誰なのだ? 私は何なのだ?」という希望のない問いかけが自分の中に開く傷口を、閉じることができない。  私は、人間は—在《あ》るものの、どんな地点にであれ在るものの、疑問への投入、限度を知らぬ疑問への投入、あるいは、おのれ自身の疑問への投入と化した存在である。(同前) [#ここで字下げ終わり]  こういうものが、ノートを書く動機であろう。だが、これは動機に過ぎない。では、このような動機から発して、心という襤褸布の正体のどんな一片を掴《つか》むのか。この人の玉石|混淆《こんこう》、雑多な言葉の中から、次のようなものがよい見本である。 [#ここから1字下げ]  苦痛が私の性格を形づくった。苦痛、小学校の女教師。そして子供の指は霜焼けだ。  ——苦痛がなければおまえは無価値だ!  私は涙を流す——人間の屑《くず》だと思って! 私は呻《うめ》く。祈る用意がある。あきらめることはできない。(同前) [#ここで字下げ終わり]  心という襤褸布の正体の千分の一片が、確かにここにある。つまり、それによって小説を形成するための言葉の生地がここにある。  私のノートは、ついにこの水準に達しなかった。 (ここで、しばらく、沈黙)  何日か、何百日か、何年かが過ぎた。  私は、ノートに破船し、心なぞ犬に食わせてしまったはずだったが、しかし、心というものは再生する。実にゆっくりとだが。  弱年時の野性の状態、強い調子の心とは違って、こんどは、実にか弱い心が生じた。そして、このか弱い心を抱いて生活の中へ、社会の中へ入って行くことになり、そこに一つの人生の音調(生の音調ではない)が生じることになった。  ノートを中絶する直前、ほとんど生きる意欲を失って、屍体のごとく感ぜられる自分を見ながら、たぶんこんな文句を記したはずである。 [#ここから1字下げ] 「見ろ、真昼の舗石の上を私の亡霊が行く——おそれず、あなどらず、いつわらず、まどわず、自然に」 [#ここで字下げ終わり]  この上生きているなら、何かこのような調子のもので私の心は在りたい、と思ったらしい(このとき、いったい何を私は予感していたのだろうか)。私は自分の内部で、一つの生のドラマが完了・中絶した、と思い、破船して溺《おぼ》れる者がすがる一本の藁《わら》しべのようなものとして、この「おそれず……」以下の言葉を記した。  ——人生の茶番とは、正しくこういう光景だ。そして、人の思い上がりには底がないのだ。いくら自己否定しても思い上がっている。あるいは、自己否定そのものが思い上がりの開花に過ぎない。私は、その「おそれず……」の言葉を書いたとき、いくら普通・平凡の言葉であるにしても、それは、私という個人に独得のものであり、生のドラマの失敗の結果であり、そのように内的な秘密の傷の上に立って再生することが、もっとも現代的な生の行動であると思うゆえに、何か新しい病気を患《わずら》っている者の満足感を自分にもたらしたのである。  ところがそうではなかった。私はただ「心」というものの一般性にようやく出会っただけなのだ。そのことに私の眼を開けてくれたのは、自分でもおかしく感ずるが、宮本武蔵である。私のノートの言葉と、次の彼の言葉とを比べていただきたい。 [#ここから1字下げ] 一 心持の事 心の持様は、めらず、からず、たくまず、おそれず、直《すぐ》に広くして、意のこゝろかろく、心のこゝろおもく、心を水にして、折にふれ、事に応ずる心|也《なり》。水にへきたんの色あり。一滴もあり、滄海《そうかい》も在り。能々《よくよく》吟味あるべし。(渡辺一郎校注『五輪書』「兵法三十五箇条」) [#ここで字下げ終わり]  私の言葉は、この引用文の三分の一にも達していない。思えば昔の人の方が、心の動きを直接に掴み、また、その掴んだところを直接に表現しようとして、優れているのかもしれぬ。  この『五輪書』は、弱年のときにも読み、なんだ剣の極意なぞ書いてないじゃないか、と失望したものだったが、これは私が浅薄だった。  武蔵が「太刀」と言って書いているところは、すべて、心の動きの直接の表現であった。太刀とは、心という襤褸布の正体のことであった。こんなふうに言うと、よくある剣法の通俗的な解説、太刀を取って決闘に直面する場合の、人間の意志や精神や心理の観念的な説明のように見えるかもしれぬが、それはそうではなかった。太刀は、直接にそのまま心であり、太刀の動きの記述は、素手で掴まれた、そのまま直接な、明らかな、物の動きを見るに等しい、烈《はげ》しい、心の動きの表現なのであった。  こういうことは、柳生《やぎゆう》宗矩《むねのり》の『兵法家伝書』(渡辺一郎校注)と比較してみるとよろしい。こちらの太刀についての記述は、なんというか、太刀と、それを持つ人間の心理との関係を、しかも生き生きとした関係を、描いたものだと印象される。いわば、武蔵が芸術家なら、宗矩は学者である。  私は最初にこの書を一読したとき、宗矩が、兵法の「親切《しんせつ》の所」がここに在ると言って、西行の歌にこたえた江口の遊女の短歌を引用し、「此《この》歌の下《しも》の句をふかく吟味《ぎんみ》して、しからんか」としているので、この剣法によって仕えるサラリーマン部長みたいな男が、なにを気障《きざ》なことを吐《ぬ》かすのかと、嘲笑《ちようしよう》したものだったが、これも私の浅薄だった。いまはその歌、しみじみと心に滲《し》みる。   家を出る人としきけばかりの宿《やど》に心とむなとおもふばかりぞ  ことによったら昔の短歌は、心の動きの基本的な一つ一つを、直接に、鋭く掴んで表現するための、日本人が心を砕いてやっと発見した形式だったのかもしれない。  この遊女の歌に、私は感心する。兵法の極意か何かは知らぬが、心というものの奇妙な性質を、ずばりと衝《つ》いている。そのことには後で触れよう。  ただし、私はことごとく、この歌の心とは反対に生きた。私の生の態度は——「私は一日の大部分を居心地悪く坐《すわ》って、テーブルの上に落ちたコーヒーの雫《しずく》を見つめていました。/(略)私は時計が十時、十一時、十一時半、と打つのを聞き、……」(セシュエー『分裂病の少女の手記』)というのに近いものだった。  私はもうじき六十歳になる。年齢に応じての生の成熟を示した、孔子の言葉によれば、それは「耳順」の年であるそうだ。小林秀雄が以前どこかで、孔子は音楽を好んだからと言って、何かむつかしい意味のものに考えていたが、私はもっとごく簡単に考えていいのだろうと思っている。それは人々の言葉を聴くということだ。もはや自分の意見を主張して人を説得しようとはしないことだ。人々の言葉を聴き、それに沿って自分の心を自由に展開する、そんな生の態度を言ったものであろう。  もしそんなふうに生きられるのなら、それは見事なことだ。人々のあらゆる言葉に、耳が随《つ》いていくように、心をのびやかにしていること。むろん、心の内部のあらゆる声にも耳傾けるのであろう。  私がこの年齢になって感じているのは、それとは反対のものだ。いわば「心の凝《こ》り」といったものだ。むろん身体の凝りと同じである。眼を向けていても、確かに視ているのではない。耳を向けていても、よく聴いている訳ではない。手で触れていても、触れているという新しい感触を感じない。つまり、不自由になってくる。困ったものだ。心の内に盲目の部分が広がる。  しかし、そんな経験が私に或ることを告げていた。もしかすると私は、最初から心にいくつかの盲目を持って生きてきたのではあるまいか? その或るものは、生れながらに抱く黒点のようなものであり、他の或るものは、幼い頃の激しい恐怖とか不安によって眼を鎖《とざ》してしまったがゆえの盲目である、と。  そして、逆に考えれば、こういう盲目こそが、われわれの個性の源泉でもあり、人生という織物の重要なポイントでもあるのだ。心の盲目こそ、その人に独得のものだからだ。どだいそれは、心という奇怪な怪物がわれわれをからかうために発案したものなのだ。たぶん、われわれに生を面白がらせるために。なぜなら、無力と疲労のために、もはや自分しか、自分の過去しか相手に出来なくなってしまった者にも、ふと或る日、盲目の中に一つの眼が見開くのを見て、発見した! という喜びが与えられるだろうから。その発見が実は、百人の中の九十九人がまったく普通平凡に知っていることであるにもせよ。  いい機会だ。私の盲目の周囲を散歩してみよう。  六十にも近くなって、自分が現にまったく無知であり、何一つ確実には生きてこなかったと振り返り、もはや回復する力もないのだと自分を感ずるとき、耐え難いような日々がやってくる。そんな或る日、自分を貨物のように感じて乗った電車の中で、不意にこんな声が閃《ひらめ》いた。  ——ああ、見付けた! これが「秘密」だったのか。  どんな不幸の中にいても、この電車の三十分の中で、「いま私は幸福なのだ」と思うことは可能なのだ。どんな考えも私に強制されていはしない。幸福と考えようと、不幸と考えようと、私の思考は自由なのだ。これこそ、私は思うだから私は在る、という根拠から発する一つの生の声なのだ。  現実が圧迫する。何一つ自由ではないと感ずる。そういうときには眼を閉ざせ。  私は私を視《み》る。静かになる。そこから新たに起《た》ち上がる。これが「自由」というものか。  あれらの精神病者達、彼等も現実に対して眼を閉ざした人達ではなかったか。では発狂も、彼における自由の一つの行使であり、またその表現なのだ。この点において私は彼等と同類だ。  心の内部のもっとも奇怪な声は、神についてのものだ。  私は正直なところ、人間がすべて私と同じような者だとすれば、なぜ「神」というような存在(この場合「新約聖書」を当てにしている)に思い到《いた》ったのか、訳が分からない。私には不可解だ。かりにもしわれわれには神の観念が無かったとしよう。そしていま急に、何かそのような観念が必要になったとして、沢山の学者を集めてみたら、神の観念が創作されるであろうか。私は疑う。  明らかに、神の存在に思い到ったことは、人間におけるもっとも驚嘆すべき力であり、人間の貴重な部分、崇高な部分は、すべてそこから流れ出している。  神は死んだとか、自分は無神論者だとか、そんなことはつまらぬことだ。軽薄なことだ。  神を幻視することの方が、それより千倍も困難な行為だ。そんなことは誰もが知っている。そして、神の幻視こそ、今日においてもっとも必要な行為だ、急務である、と私は思う。なぜなら現在は、現実の力があまりにも圧倒的だからだ。これを拒否する必要がある。  幻視の力は、心の盲目の部分のすぐ傍《そば》に、ほとんど共存するようについ隣にあるはずなのだが、その発条が見当たらぬ。  私は信仰者でもなければ、不信者でもない。それ以外の者だ。何でもない者だ。  しかし、ただ一度だけ、弱年のとき神を呼んだことがある。  ——あなた、私の神よ! あなたが本当に存在するのなら、どうか私を殺してくれ、三秒待つ。  むろん、こんなことは目もそむけたいような、弱年の粗雑な心が描いた文学的誇張である。こんないい気な戯《たわむ》れは、それこそ罰に価《あた》いするであろう。  しかし、この呼び掛けの滑稽《こつけい》から、漠然《ばくぜん》たる空想の一つか二つが生じた。  もしかすると、最初に神に祈った人間は、助けてくれ、ではなくて、殺してくれ、と祈ったのではあるまいか?  もしかすると、自然の神でもなく家の神でもなく、私の神、と呼んだとき、ただ一つの神、のイメージが生じ、私とは何かと問うところの私、のイメージが生じたのではあるまいか?  神は存在するか。存在する、と言うときには、新約聖書にかぎって言えば、奇蹟《きせき》の存在も等しく信ぜられねばならぬ。これは不可分だ。この存在は、単なる常識上の合理的存在などというものではない。  この存在、それは心という存在と向き合っている。そして心は二重性三重性……において在るものであり、存在するということの意味がそれに応じて違ってくる。幻視においてでなければ、見えぬものがある。頭上の天空を仰いでも、空や星を見るのと、永遠や無限を見るのとは、まったく違うことだ。したがって、心の何重性もの底に到れば到るほど、存在ということが別様に感ぜられてきて、或る非凡な存在を見るに到るのだ、ということを、私は否定することができない。それについて思うことが深くなればなるほど少しずつ存在性が増す(存在が顕《あら》われる)存在、そんなものがあるのかも知れぬ。  そうだとすれば、奇蹟の存在も文字通りに見られねばならぬ。比喩《ひゆ》ではなかろう。解釈など要らぬ。あれは人の心を験《ため》しているのかも知れぬ。いかなる段階の心の視力によって見ているのかを。  私はただ一行だけ分かったような気になった。「貧しき者は幸いなり」のところ。文字通りである。「幸福」とはそういうものだ、と言っているのだ——幸福の真形とはこれだ、と。そうではなく、われわれの日常的なあいまいな幸福感というものを基礎に置いて、そこから解釈を始め、だからこれは「心の貧しき者は」という意味なので、などというのは、まことに下らない。「貧しき者」の意味や形を変えてはならない。それは正しく現実に見る通りのものであり、それが「幸福」ということの正体であり、真形である。現実を撃ってそう視よ、と言っているのだろう。  しかし私は、この視法を私の生に適用することができなかった。  いつも隣にいてくれる神。  か弱い心が思い描くイメージはいつもこんなものだ。自分を病者のところに置いて、誰か隣に来て助けてくれと希《ねが》う。誰も見当たらぬときには、神を呼ぶ。  この点で私は間違った。長いあいだ誤謬《ごびゆう》の中にいた。これは病的な空想であり、芋虫が考えればいいようなものだった。  人の真の心の発動は、自分の愛するか弱い者が危難に陥っているとき、その人の隣に私が行かねばならぬ、と思うときにあるのだ。救いに、あるいは身代わりに。  このような心が、神を思い描いたのだ。見出《みいだ》したのだ。つまり、人の隣に行く者が、心の強い者がだ。隣に来てくれと希う者が、心の弱い者が見出したのではない。  しかし、心とはどういう存在か。次のようなデカルトの言葉。 [#ここから1字下げ] ……私の生涯《しようがい》の全時間は、そのいづれの箇々の部分も余の部分にまつたく依繋《いけい》しないところの無数の部分に分たれ得る故に、私が少し前に存したといふことから私がいま存しなくてはならぬといふことは、この瞬間に或る原因がいはばもう一度私を創造する、言ひ換へると私を保存する、のでない限りは、帰結しないからである。すなはち、時間の本性に注意する者にとつては、何等かのものがその持続する箇々の瞬間において保存せられるためには、そのものが未《いま》だ存在しなかつたとした場合、それを新たに創造するために必要であつたのとまつたく同じだけの力と働きとが必要であることは、明白である。してみれば保存はただ考へ方によつてのみ創造と異なるといふことはまた、自然的な光によつて明瞭《めいれう》であることがらの一つであらう。(『省察』三木清訳) [#ここで字下げ終わり]  私の心に盲目があるのであろう。何度読んでも、この文中の「時間の本性」という処が分からない。私は「時間」が苦手なのだ。よく考えることができない。  そこで私は自分勝手に、「心の本性」によって心の状態を描いたもの、と読み換えている。  そうして明らかになるのは、心は常に新しく創造する、必要ならばあらゆる瞬間に、そのすべてを再創造する、ということであった。  そう思うことが私には救いであった。いまこの瞬間に一切を新しく創造する。そして、それは過去を切って棄《す》てるのではなく、それまでの生の持続の保存とも同義であるということ。私は、生は知らぬ。しかし確かに心は、そんな性質の、そんな状態のものではないかと思われる。先に触れた江口の遊女の歌も、そんな意味のことを言っているのであろう。常に新たな心の動きを産め、と。  逆の真実。  しかし、心というものは、人間の中の深淵《しんえん》だ。不用意に覗《のぞ》き込むのは危険なことだ。 [#改ページ] [#見出し]  死  死。死とは何だろうか。これは不思議なテーマだ。よく知っているようでもあれば、まったく何一つ知らないようでもある。常に視《み》ているはずであるのに、あえて見ようとはしないものである。このテーマに向き合うと、私は自分の生の怠慢を知らされる。死の意味、その深さを、私は探求してこなかった。死について考えようとすると、いつも一つの声が囁《ささや》いた。いまは止《や》めよ、もう少し生が成熟してからにせよ。それは賢明な声のように聞こえたが、ことによったら偽りの声だったかもしれぬ。こんなふうに、死に眼《め》を向けると、私の内部ですべてのものが不可解になる。  死について、ほんの二、三十分ずつ、切れ切れに、いくらか考えたことはあった。未熟かつ粗雑なものであったが、考えたその折り折りには、それは生の一つの秘薬に見えた。  死は、生の操縦者である。あるときこう思った。  自分の生を改変しようと思えば、どうしても死という発条に触れねばならぬ。死という発条に触れるからこそ、自分の生を一新しようとする意思が生ずる。生から生へと連続する言葉のなかに、こういう発条はない、と私は思う。いや、私の思いというよりは、私の経験なのか。私は反省する。非常によく考えたという訳ではなかった。  なぜよく考えなかったのか。私は自分のことながら分からない。こういうことが、そもそもの生のからくりなのか。したがって、生において私の生きる程度が浅かったのか。それとも、死を視るのを避けたためか。  私の経験は告げている。少年のとき、えーい、(駄目《だめ》だったら)死んでしまえ! と思って新しい地平に向かって一歩を踏み出す、そういう機会が何度かあった。  私はまったくの弱虫で小心者であったから、人よりそんな機会が多かったのかもしれない。ごく普通の人の行為を真似《まね》して生きることが、つまり生活への道が、ときには途方もなく困難に見え、不可能なことに思われた。たとえば小学校へ行くとか、学芸会へ出るとか、友達の家を訪問するということが。えーい、勝手にしろ、と大決心をしなければ、その一つ一つを済ますことができなかった。  いまになってようやく解《わか》ったが、どういう訳か、それが心の黒点であり盲目ということなのか、子供のとき私の心の内部には「社会」というものがなかった。人と人とが組み合わさって行うものつまり社会は、ざらざらした異物であり、ときに敵であった。したがって、「社交」のすべてが、私には困難であった。その一つの波がくるごとに、私はえーいという掛け声を発した。  その頂点は、私が大学を卒業してからスポーツ新聞社に就職するまでの、無為の三年間にあった。私はどうしても社会人になって生活するのが厭《いや》だった。社会人として新たに出発するためには、どうしても、文学を棄て、自分を死んだ者のように思う、ということが必要だった。それには三年かかった。  これらのことすべてに、生の命令、として私は服した。しかし命令に従うためには、命令の背後にある、死の発条に触れてみなければならなかった。  生の基底には死が在る。あるときこう思った。  なぜなら、たとえば私の生の最初の記憶とは何であろうか。もっとも鮮烈なのは何度かの手術の記憶であり、その前後の、川で溺《おぼ》れかかった経験や、家のすぐ傍《そば》の寺が深夜火事になったときの、火を視る恐怖と美の意識である(美は恐怖の変形である)。  こういうものが生の最初の記憶であるとすれば、それは同時に、生における死についての最初の意識の記憶、といってもいいのではあるまいか。  生の鮮烈な記憶はすべてそんなものだ。そこにあるのは、生の演奏だが、これを縁取りして輪郭を与える、つまり内容に形を与えるのは、死なのだ。  死と生とは同根である。共に生じ、共に育つ。生の流れの裏側というか、その内容の半分は、常に死の流れである。生がなければ死はないし、死がなければ生の記憶(持続する意識)といったものが無意味と化し、成立しない。こんなことは、改めて書くのが馬鹿気《ばかげ》ているほどに当たり前のことだが、なぜか私は、こちらの死の流れについては、あまり注意してこなかった。  私はこの頃《ごろ》昔の人が、哲学とは死を学ぶことだ、と言っていたのを興味深く思い出す。以前私は、徳や運命を考察するためにそうするのだと思っていた。しかし間違っていたのではあるまいか。私はこの頃思う。それは生における死の流れを絶えず見守り、深く考察せよ、という意味ではあるまいか。なるほど、存在、あるいは無について、深く考えるためには死の視線が必要ではなかろうか。昔の哲学者は、ディオゲネスがその奇矯《ききよう》な典型であろうが、月給を貰《もら》う、つまり働いて社会生活をするということはしなかったようだ。社会から身を剥《は》がした。この二つは連環しているに違いない。彼等は自分の死を、その流れの一つの到達、一つの成就《じようじゆ》として考えるのだろうか。  死に眼を向けると、すべてのことが、これまでとは違ったように見えてくる。  私は本を読むことを尊んだ。ことに昔の人の言葉を。それは生の充実と完成のためには絶対の必要である、と。私は、人間は、昔の人の言葉を聴きながらそれを自分の生において験《たし》かめてみる、現在の生において験かめてみる存在だ、と考えた。  しかし私には、一人の文盲《もんもう》の叔母がいた。むろん文字が読めないのだから本なぞ知らない。しかしこの叔母の生に、欠けたものはなかった。私の生が彼女の生を超える、ということはなかった。むしろ少年時から大学生の頃まで私は、自分はこの叔母ほどにもよく生きられないのではないか、生活する力がないのではないか、と疑い、思い悩んだ。生はそれ自身で満ち足りているものだ。本なぞ要らぬ。むしろ本なぞ読むから自分は駄目な奴《やつ》になるのだ、とか思って、二度本を捨てた。  それでいいのだ、と長い間私は思っていた。その死に際《ぎわ》の姿によって感動させた私の犬、ああ、どうか起《た》って、歩きながら倒れたいものだという、一つの生のモデルを提出した犬、私の尊敬する犬は、本なぞ読まなかった。  しかし、いまになってふと思うのだが、ここでもやはり私は間違っていたのかもしれぬ。  生はそれ自身で満ち足りている、それはそうだが、私のように愚かでか弱い者には、生の声のなかに、どうしても他人の言葉で聴かねばならぬものがあった。死を視る言葉だ。死のことは人に聴かねばならぬ。本はずっと昔の死を運んでくる。  雨に濡《ぬ》れた歩道の上に光りが射《さ》してきて一つの小石が輝く。生の貴重さのイメージとはそんなものではあるまいか。小石が星になる。そしてこの光りとは、死のことなのだ。  生の貴重さの源泉には、死がある。死がなければ生が輝かぬ。もし、頭のおかしくなった帝王が望んだように、われわれの生が不老不死であるとすれば、われわれの生はすべて、いかにも無意味いかにも平凡な、無数の砂粒の中の一つと化してしまうであろう。しかも一粒という形さえ明らかならぬものになってしまうであろう。  ここに在るものが、ただ一つのかけがえのないものである、と思うとき生の内部に生ずるのが、「私」である。私とは、生が死の発条に触れるとき発する火花のようなものだ。こう言ってもよい。私とは、人間の内部で死の光りによって輝くものだ。この空間この時間において、私というものはただ一点である、と思うためには、死の座標軸が要る。  私は弱年の頃、自分の生を、敗戦時の泥道《どろみち》に無数に転がっている石ころに比そうとして、あせりながら歩いていた。自分の生と石ころとは、まったく同じものだ、存在として等しいものでなければならぬ、と。生の基底はそうでなければならぬ。そして私は、自分の生の方が、そこに無数に転がるどの石ころの一つよりも、無用にして不確実な存在ではないか、と思うことに悩んだ。  私はそのとき、自分の生の流れに沿って考え、簡単に解決した。道端に無数に転がるどの石ころも、ただ一つの小石としてそれは独創的な存在である、と。だから私は、自分の生を石化しようとし、また、石ころも声を発しなければならぬ、と考えた。  そこで私は、先に引用したレオナルドやパスカルの言葉、もしこの一つの小石を完全に消滅したとせよ、その小石の分量だけ地球が傾くであろう、という意味に飛びついた。  しかし、そのとき私は、あまりにも生の側に立って考えたために、その言葉の意味を半分しか掬《く》まなかった。あるいは、深く味わうことを欠いた。なくなる、ということをもっと注視すべきだった。なくなる、ということにおいて、存在の一つ一つが独創的なものになるのだ。したがって逆に見ればこうなる。生とは、存在の頂点の形である、と。なぜなら、生ほどに、存在がなくなるということを明らかに証《あか》すものはないからだ。  単なる存在に死はないが、生には死があった。そして人間の死は、犬の死ではなかった。昔の人の死の言葉を聴きつつ死に往《ゆ》くものであった。死の連続があった。人間の死とは、死を連続させるもののことであった。  弱年時に軽率にどこかで聞き流したコントの言葉はそういう意味であったか。われわれは死者を祀《まつ》るために社会をつくったのだ、と。なるほど、社会は墓の上に建てられているのかもしれぬ。  余談だが、なくなる、存在はなくなる、ということを、もっとも強烈に輝かした日本人は織田信長であろう。フロイスの伝えるところによれば、彼は、死後はまったくの無である、と言っていたという。キリシタンの坊主《ぼうず》は、そこに悪魔の声を聴き、禅宗の教えを見たようだが、そういうものではあるまい。信長は、そのとき死の視力によって自分の存在を輝かしていたのであろう。信長は、石ころを御神体にして、お前達はみなこれに礼拝せよ、と宣言したという。まことに面白い話だ。キリシタンの坊主は、これを、悪魔的な高慢として捉《とら》えたようだが、私は違うと思う。そしてさらに思う。信長こそ、あの石ころの発する声を明らかに聴いた人ではあるまいか。その声において、自分の生を、生のもっとも単純にして基本的な形——何処《いずこ》からともなく発して果てしもなく往くもの、あるいは、何処より発してやがて無くなるもの、無くなるということにおいて輝くもの、つまり、流星のようなものへと石化した人ではあるまいか。生れたときから死をよく凝視した人なのだ。彼の生の音調はそんなふうに聴こえる。  生が熟するように死も熟する。あるときこう思った。  生が熟する、これは分かり易《やす》い。それは言葉とともにやってくる。言葉という字の葉のところから。それまでまったく関心がなかったのに、あるとき『風土記』を読んで驚嘆したり——まるで物と化した生のいろんな形がここに在ると感覚されたり、ふいにただただ漢字の懐《ふところ》にすがりたくなって、渇く者のように寒山や王維を読んだり、また突然に仮名文字の書にこころ爛《ただ》れるような美しさを覚えるなどは、そういう例であろう。言葉が、私の生の意思の背後で黄葉してくるのだ。  おそらく死も、それとともにその裏側で、熟してくるはずなのだが、私は不敏にしてよく見ることをしなかった。  死こそもっと不思議な熟し方をするのではなかろうか。死も、一つの意味、一つの形のものではあるまい。生の成長の段階と深浅の度合につれて、顔を変えてゆくものであろう。  たとえば、死のイメージ。それは幼年・少年・青年・壮年・老年において、まったく違うものだ。  私は二十歳から二十五歳にかけて、いちばん死の近くにいた。これは面白いことだ。おそらくこのとき、私は自分の生の絶頂にいた。生の絶頂は、また死の絶頂を呼ぶのだ。  我《われ》いへり わが齢《よは》ひの全盛《まさかり》のとき陰府《よみ》の門《もん》にいりわが余年《のこりのとし》をうしなはんと [#地付き](『旧約聖書』イザヤ書第三八章)  [#ここで字下げ終わり]  これは本当のことだと思う。人は生の全盛のときもっとも死に近づく、と。二十《はたち》の頃読み、強烈な印象で頭に刻まれた。いまでも鮮明に覚えている。おかしなものだ。その当時読んだいかなる生の言葉より、この言葉の方が勝《まさ》った。死の言葉は、生の言葉より強いのだ。  自殺ということがしばしば考えられた。甘美な幻想が生ずる。  しかしその頃から私は、言葉の上を綱渡りしては生きていたようで、はてな、陰府の門に至るとどういうことになるのかな、と思ってしまう。すると、次のような言葉に出会い、これはわが眼を撃った。甘美な幻想は砕かれた。 [#ここから1字下げ] ……我《わ》がいのちは陰府《よみ》にちかづけり われは穴《あな》にいるものとともにかぞへられ依仗《よるべ》なき人《ひと》のごとくなれり われ墓《はか》のうちなる殺《ころ》されしもののごとく死者《しねるもの》のうちにすてらる汝《なんぢ》かれらを再《ふたゝ》びこゝろに記《とめ》たまはず かれらは御手《みて》より断滅《たちほろぼ》されしものなり なんぢ我《われ》をいとふかき穴《あな》 くらき処《ところ》 ふかき淵《ふち》におきたまひき(『旧約聖書』詩篇第八八篇)  [#ここで字下げ終わり]  どうもこれでは困るな、と思いながらも、二十の頃は決断に速く自己演技に富む。三秒ばかり、真剣に、どうか神様私を殺して下さい、と祈ってみる。しかし何も生じない。そこで一つの実験が済んだつもりになって、新しい一歩を踏み出す。この一歩、それが問題だ。ドストエフスキーの小説では、しばしば、殺人犯が相手を抱いて祈っておいてから首をかき切る。これも小説的エピソードではなく、本当のことだろう。人が本気になって祈るのはそんな瞬間だ。  私の一歩はどうなったか。自殺ということがあれほどにも尊敬されているので、『プルターク英雄伝』をよく読み、また、エピクテートスなど、「それは恰《あたか》も人間性が其の胎内から此《こ》の驚嘆すべき学派を生みだすために今まで努力して来たやうに思はれた」(モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』大岩誠訳)という、ストア派の人の言葉に親近するようになった。  日常的だが讃嘆《さんたん》すべき死の数々がある。  男らしい生き方の粋としての自殺がある。 (もっとも、私がいちばん興味深かったのは、いかにも世紀末的な、クレオパトラとアントニーウスが催したとかいう「真似のできない生活者」の会の話であった。そこには洒落《しやれ》た自殺|倶楽部《クラブ》もあったという。愉《たの》しんで自殺と戯《たわむ》れたのだという気がする。昔の方が死についての人の態度や言葉が豊かであった)  そんな自殺の記述を読むうちに、私の自殺への意思は薄らいでいった。私が読んだのは、すべて見事な死、死として充《み》ち足りているところの自殺であった。そこで私は、任意の理由(理由ともいえぬ理由)から発する自殺には、一定の「資格」が要ると思ったのだ。私はその資格に充ち足りてはいなかった。なぜなら、いま私が自殺するならそれは、或《あ》る日ドブ鼠《ねずみ》が溝の中でくたばった……ということに過ぎない、と思われた。それは一つの滑稽《こつけい》である。いや、滑稽という人間的な言葉なぞ被《かぶ》せられぬ、もっと無意味な、路上の煙草《たばこ》の灰が風に散るような、無記号の死である。待てよ、と私は思う。これは自殺ということの定義矛盾ではあるまいか。私は意思して死ぬ。私は私を殺す。自殺ということは、何をどう考えても、結局は「私」が、主格であり主語である。しかし私は、自分が、生においてあまりにも無意味・無用であると思うゆえに、死のうと思ったのではないか。すると、ここに奇妙なパラドックスが生ずる。生における私が無意味ならば、どうして死における私に意味が生ずるであろうか。私が生きるというときの私が無意味ならば、まったく等しく、私が死ぬというときの私も無意味なはずである。この私からあの私への、新しい一歩などというものは生じない。どだいこの「私」は、主語であり主格である資格を失っているゆえに、自殺を思ったのだ。そこが矛盾であり、不条理である。唯一《ゆいいつ》の論理的帰結は、現状不変更ということしかない……などと考えていくと、決して自殺はできない。不可能である。  私は「資格」のない人間だった。  あるとき黒井千次が、彼は私と同じ中学の同窓生だが、こんなものがあったよと一葉のコピーをくれた。見て思い出した。それはガリ版の学校新聞で、片隅《かたすみ》に同級生の自殺への私のコメントがあった。旧制中学五年のとき、午前の教室で、仲間五、六人でわいわいやっていると、一人が風邪薬の紙包みのようなものをポケットから出して、これは青酸加里だよという。横にいた一人が、へえ、笑わせるなよ、本当なら飲んでみろ、と言ったら、目の前で飲んで死んでしまった。あの中学ではたぶんわれわれの世代が戦後最初の新聞を製作したので、ちょっと事件らしくていいじゃないかということで、この自殺へのコメントを、新聞、演劇などジャンルの違う部員の一人が書くことになり、私は文芸部員として書いた。「……死の自由を得るためには自殺せねばならぬ。ただ自殺するときは美しく死んでもらい度《た》い」。もし、あなたの周囲にこんな若者がいたら一つ思いきり頬《ほお》を叩《たた》いてやってほしい。お前は本当には生きていない、お前は本の言葉通りに生きようとしているんだよ、とよく友人から指摘されたが、その特徴が露骨である。ただしこんな十七歳の頃から、自殺の観念と戯れ、その資格(美しく死ぬ)についてあれこれと思っていたらしいのが、いまは懐《なつか》しい。  そこで私は、自分をひび割れた石ころのように思い、生を石化する方へと向かった。  十年の日々が、ただ一日の複製であるかのごとく単調に生きること。これが私の選んだ生活の音調だった。 [#ここから1字下げ] (目下の僕は、一人の人間が、毎日働き廻《まは》つてゐる狭隘《けふあい》な空間に残す足跡に就いて思案してゐる)(ヴァレリー「テスト氏との一夜」小林秀雄訳)  [#ここで字下げ終わり]  この「足跡」というところが大切だった。生活の営みとか、生の行動ではない。私のイメージの中に、人間はいない。十年一日、一定空間内の一定運動をしたときに残る足跡。それは何か、どういう意味のものか、また何を証《あか》ししているのか? 私は足跡を監視した。そのことに徹底しようと思った。もし足跡が何事かを告げるならば、それは石ころの声の代用物であり、私の生にも何かの意味があるということになるのだ。二十代後半から三十代にかけてのことだが、私は十四年半スポーツ新聞社に務めた。もっとも単調な日々であった。ほとんど毎日同じことを繰り返した。しかし、足跡は何も語らなかった。  毎日同じことの繰り返し。単調な日々。  なんのことはない。私は特殊な生活をしている訳ではなかった。これがもっとも普通にして一般的な、いわゆる「現代生活」の特性というものであった。そう思ったから、その後もずっとそんな生活が続く。  そして、それが人生ということなのだろうか、この単調な日々の中で、やがて生の色合が変わり、それにつれて死の色合も変わった。そこをちょっと紹介しよう。  この単調、無味乾燥な現代生活を人間化するためには、ストア派の言葉が必要だった。私は自分の生の態度をそこに決めた。 [#ここから1字下げ] 人生は軍務のようなものであるのを諸君は知らないか。或る者は歩哨《ほしよう》をやらねばならないし、また或る者は戦うために出て行かねばならない。 各人の生活は戦役、しかも長い複雑な戦役のようなものである。君は軍人の本分を守らねばならない、そして将軍の目くばせですべてをやらねばならない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](エピクテートス『人生談義』鹿野治助《かのじすけ》訳)   私はもう、心に攻撃力というものを持っていない人間になっていたので、歩哨の役を選んだ。あるいはエピクテートスのいう「人生という市」の見物人の役割——「つまり人生の市を研究してそれから去るのだ。そうするとどういうことになるか、彼らは多くの人々に笑われるのである」  すると、それにつれて死の色合も変わる。  まずはカミュヘの嘲笑《ちようしよう》。彼は、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ」などと言っているので読んだのだが、日常的な自殺への発条をこんなところに求めている。 [#ここから1字下げ]  ふと、舞台装置が崩壊することがある。起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れてゆく月火水木金土、——こういう道を、たいていのときはすらすらと辿《たど》っている。ところがある日、≪なぜ≫という問いが頭をもたげる、すると、驚きの色に染められたこの倦怠《けんたい》のなかですべてがはじまる。≪はじまる≫これが重大なのだ。(『シーシュポスの神話』清水徹訳)  [#ここで字下げ終わり]  現代生活の特性としての単調な日々、というものの翻訳なのだが、この視線がなってない。まったく観念的で、リアリティがない。違いますよ、文字通りにやってみれば分かるじゃありませんか。この「はじまる」は、自殺の発条への最初の微《かす》かなタッチなのだろうが、そこが違う。なるほど、単調な日々の倦怠と疲労はやってくる。なるほど、そこで自殺の発条に触れる。するとどうなるか? 元気が出てくるのですよ、もう一度、月火水木金土と繰り返してみようという元気が。それに、この自殺という発条はそれを凝視しても、論理的に自殺という行為が出てこないのだ(と私は思う)。  したがって、この生活の時期は、死を視《み》ること、あるいは自殺の発条に触れることが、生の豊かな一つの源泉になるのだ。そして私の怠慢もそこにあった。本当には、私はこのとき死の顔をよく視て、豊かな死のイメージを稔《みの》らせるべきであった。  人には死に至る努力というものがなければならなかった。死は生の破綻《はたん》ではない。死に至る道を豊かにしながら、そのことによって生の道を豊かにし、この二つの豊かさを両手に持って、道の果てへと往《ゆ》くべきものであった。そう思わぬ私は愚かだった。  しかし、もう一つの別な死のことも言っておこう。その死を描いたのもカミュであり、こちらは賞讃《しようさん》に価《あた》いする。その違いは簡単なことなのだ。前記引用のところでは、彼は、月火水木金土としか言わなかった。何が欠けていたのか? 「日曜日」である。ところが彼は、『異邦人』でその日曜日を描いた。この小説、太陽のせいでの殺人などは、まるで通俗小説でお笑いだが、主人公のムルソーがアパートの露台から一日中ただ表の通りを眺《なが》めて過ごす日曜日、いわば「空っぽの日曜日」を描くことによって、真に現代における現実生活の音調に達している。 [#ここから1字下げ] ……自分で料理をし、立ったままで食べた。また窓のところで煙草をくゆらしたいと思ったが、空気が冷えていて、私はすこし寒かった。窓ガラスをしめて、戻って来ると、机の端が鏡のなかに映っているのを見た。その上にはアルコール・ランプがパン切《きれ》と並んでいた。相も変わらぬ日曜日もやっと終わった。ママンはもう埋められてしまった。また私は勤めにかえるだろう、結局、何も変わったことはなかったのだ、と私は考えた。(『異邦人』窪田啓作《くぼたけいさく》訳)  [#ここで字下げ終わり]  これはまあ、生活には生活であるが、単調な日々の中の、一種の死の音調である。そして私は、現代生活というものは、基底のところがこの音調で構成されている、と思っている。戦争と病気の多い昔の人より、惨《みじ》めな生の形を持ち、惨めな生の意識において生活しているのではないか、と思う。死も、単調になってしまうからだ。  で、この単調な生と死を清新なものにするためには、やはり本物の死の発条に手を置くのが、賢明なことであると思う。たとえばエピクテートスの声のように。この人もおかしな人だ。生活の場面を語る言葉は厳しいのに、死を言う言葉は、急に晴れやかなものになるのだ。こんなふうに言う(次の言葉は引用ではない。確かこんなことを言っていたと思って、『人生談義』を引っ繰り返してみたが見当たらない。そこで私の要約である)。 [#ここから1字下げ] なんだ、君はこの部屋にいるのが厭《いや》なのか。それでぶつぶつ不平をこぼしているのか。しっかりしろ。出て行くためのドアはいつでも開いている。 [#ここで字下げ終わり]  晴れやかなものだ。そして、私はようやく六十に達するところにきて、人生という織物の小さな一片、しかし確かな一片を手中にしたと思う。——どれほどつまらぬ日々のなかにいても、生を思う明るさが死を晴れやかなものにし、死を思っての明るさが生を晴れやかなものにする、と。  さらに転調する。そんなふうに暮らしていても、やはりそのなかで、生の色合が微妙に変わり、それにつれて、死の色合も微妙に変わる。  その変わりを、私の言葉で描いても、誰も聞く耳を持たぬであろう。信ずる者はなかろう。そこで偉い人の言葉を借りて順に並べておく。その人はセザンヌ。 [#ここから1字下げ] ——君もやがて平常の調子で仕事ができるようになればよいがと望んでいる。いろんな波があるものだが、やはり自分に対する本当の満足を発見できる唯一の安全地帯は、この通常の調子だと僕は思う。(ジョン・リウォルド編『セザンヌの手紙』池上忠治《いけがみちゆうじ》訳) [#ここで字下げ終わり]  別に絵画の仕事でなくてもよろしい。単調な日々を繰り返すこと、正にそのことがたった一つの仕事であるような、生の仕事の場面だと思ってもらっていい。  しかし、通常の調子を保っていても、老いの呆《ぼ》けがやってくる。死の、影の方がやってくる。 [#ここから1字下げ]  ところで、七十歳に近いほどの高齢になると、光明をもたらすはずの彩《いろど》られた感覚が逆に呆然《ぼうぜん》自失の状態をひき起こし、画布を絵具で覆《おお》うことを許さず、物の接触点が細かくて見定めがたい時には物の境界線をたどることもできません。私の絵が完成されない原因はここにあるのです。(同前) [#ここで字下げ終わり]  いったいどうするのか? あのストア派の賢人の言葉、私が自分の生の態度をそれに近づけようとした言葉が、嘘《うそ》になってしまうのか。いやいや、そうではなかった。続けて次のような言葉が出てくるから、一つの人生の見本として、私は彼をモデルにしたのだ。 [#ここから1字下げ] 今日は遅く、五時すぎに起きた。いつも喜んで仕事をしているのだが、時として実に光がきたなくて、自然が醜く見えるほどだ。だから光や物を選んで描かないといけない。(同前) [#ここで字下げ終わり] 「光がきたなくて」——これは一つの真実に達している。だから「光を選んで描かないといけない」。これは驚くべき言葉だ。なぜなら、この光りは、死の光りでもあろうから。  そこで、死を照らす光りを選ばなければならない。  私はこの頃、いや誰だってそうなのだろうが、死が、恐怖や不安の対象ではなくなっていることに気がつく。ときに、慕わしいものというか、懐しいものとしても感ぜられるのである。  とても、あっちに往ったら幾多の賢人に会えるじゃないか、というソクラテスの堂々たる主張(プラトン『パイドン』)にはならないが、ごくごく平凡に日本的に、「ああ、あっちに往ったら、お母さんに会えるのだ」とか、思うのだ。  私は母と若くして別れた。だから——、ねえお母さん、その後私はこんなふうに生きてきましたよ、と告げたく思う。  私はこれから、死の影を見ないようにする。死の光りを視ながら、ゆっくりと一歩一歩、生の階段を降りていこうと思う。いや、昇って行こうと思う。 [#改ページ] [#見出し]  あとがき  人生とは何であろうか。或《あ》る日小鳥がそんな問いを私の許《もと》へと運んできた。そこで私はしみじみと考えてみた。いったい私は良く生きたのだろうか、それとも悪く生きたのだろうか……。  そこで私は、食、恋、金、家……など生きるために必要な十二の項目を立てて、自分の生きた跡を振り返って見ようと思った。人生の対照表を作ってみるつもりだった。  ところが、考えているうちに、人生というものの相貌《そうぼう》が変わっていった。それは良く生きたのか悪く生きたのかなどという問い掛けには、沈黙しているものであった。私は或るときは良く生き、また或るときは悪く生きたのであろう、しかしそんなことには関《かか》わりなく、その全《すべ》てを含んで、私にとって掛け替えのない一つの人生が在った。無考えにでたらめなことばかりしてきたのに、そこに一つの人生が存在する、ということに私は不思議の感を味わった。  私は生きる上での即興派だった。何の計画もなく生きてきた。にもかかわらず、それらが自《おのずか》ら統一されて一つの音調のようなものを形成していた。これが人生だ。まことに不思議の感に堪えない。  そこで私はこう思うようになった。私の人生、という言い方は、何か間違っているのではなかろうか。人生は私の所有ではなかった。何か人生という不思議な力が、私にも働きかけ、そのおかげで私は私の人生を持つに至った、と、そんなふうに感ぜられるのである。私は、自分の生きた跡にではないが、私にも一つの人生が在ったということに感謝を捧《ささ》げる。 [#地付き](平成二年二月)   この作品は平成二年三月新潮社より刊行され、 平成八年八月新潮文庫版が刊行された。