清水義範 家族の時代 目 次  三回忌  熟年離婚  四十九年  離婚届  財産分与  再婚希望  プロポーズ  とまどい  波 紋  きしみ  もくろみ  説 得  それぞれ  結婚式 [#改ページ]   三回忌 「ちょっとボケかかってるんじゃないの」  冷たい口調で断定的にそう言ったのが、粟田玲子《あわたれいこ》である。自分の夫の父親、つまり舅《しゆうと》に対してその断定はきついんじゃないかと思えるところだが、夫の健一郎《けんいちろう》はあっさりと同意した。 「もう、かなりボケてるぞ」  厄介な存在だと、あからさまに批難するような口調だった。 「二年ぐらい前から少しずつおかしくなってるだろう。何べんでも同じ話をしてるしなあ」 「もの忘れもひどくなってるみたいよ。うちの睦美《むつみ》が今年から高校生だってことがどうしても覚えられないみたいだもの」 「お前を見て、どなたでしたっけ、とか言ったりするのか」 「まさか。いくら何でもまだそこまではいってないわよ」  そうなのである。まだそういうふうにすべてを忘れてしまっているわけではない。だから、ボケていると決めつけるのはいささか乱暴なのだ。少し忘れっぽくなった、という程度のことにすぎない。  なのに身内というのは、平気でボケてきたなどと、老人が耳にすると心臓のあたりがヒヤリとする言葉を使うのである。  自分の親のことだと、平気でボケたとか、耄碌《もうろく》したとか、ありゃもうダメだね、なんて言うのだ。他人に対する時と違って、気安く残酷なのだ。 「それにしても、仕事のことで言ってくる意見がやたら古めかしくて、慎重でなあ」  四十八歳の息子は、七十七歳の父、草平《そうへい》についてそう言った。父が一代で興した会社を受け継いで、今現在はそこの社長である。ただし草平は一応会長ということになっていて、会社の運営方針などに口を出してくる。それがわずらわしいというのだ。 「昔とは時代が変ってるのに、お祖父《じい》ちゃんにはそれがわかんないのよ」  カマンベール・チーズを楊枝《ようじ》で口へ運んで食べながら玲子はそう言った。この夫婦は寝酒のブランデーを楽しんでいるのである。二人の娘は、それぞれ自分の部屋に引きこもっていた。 「そうなんだよ。いろいろ手を拡げていくってことにはとにかく反対なんだ。今まで通りが一番いいんだってな。それじゃあ将来性がないってのがわからないんだ」 「それは、いいのよ。あなたが社長なんだからあなたの考えでやっていけば」  玲子は何の迷いもなくそう言った。  そうだな、と健一郎はうなずき、グラスのブランデーをちびりとなめた。それから、ふとこう言った。 「それにしても、問題は今度の三回忌だよ」  玲子が舅の草平のことをお祖父ちゃんと呼ぶのは、自分の子供たちの位置に立って呼称が決まるという、日本的な方式によるものである。そして、その言い方でいけば、曾《ひい》祖母《ばあ》ちゃんということになる草平の母のことが、この一家では大《おお》祖母《ばあ》ちゃんと呼ばれていたのだが、二年前に九十三歳で大往生していた。  今年の二月が、その人の三回忌なのである。 「どうしてあんなに張り切っちゃって、みんなに号令かけるんだろうなあ。なんとしてでも都合をつけてこの三回忌には顔を出すようにって、みんなに言いまわってるだろ」 「子供たちはともかく、必ず夫婦|揃《そろ》って出席してくれって言われたわ」 「うん。もともとそのつもりだったけど、高圧的な言い方が妙だよな。何をそんなに力んでるんだろ」  健一郎はほんの少し苦い顔をした。 「それに限らず、この頃《ごろ》、なんか頑固に命令口調でしゃべるようになってるだろ。おれの言うことがきけんのか、という調子で」 「その辺が、やっぱり歳なのよ」  玲子は夫の顔を見ないで、突きはなすように言った。  健一郎の二度目の妻で、歳がちょっと離れていて四十一歳である。健一郎は最初の妻との間に子供を作らず別れているから、後妻だということで不自由なめにはあっていない。  比較的若くて、まだ色香も残している妻を健一郎は美しくて気位の高い鳥のように扱っていた。だいじにしている、ということである。第三者に言わせれば、尻《しり》に敷かれているということである。 「もともと、そんなワンマンな親父《おやじ》ではなかったんだがな」 「でも、儀式とかになると舞いあがっちゃうのよ。今は仕事のことだって、あなたにいろいろ言えないわけじゃない。引退した身なんだから。そういうところへ、法事なんかがあると、久しぶりに自分が主役で、興奮しちゃうのよ。だんだん忘れられかけてる人が、急にみんなの中心に出るわけでしょう。それでついつい張り切りすぎちゃうの」  テレビはついているが、二人ともそっちには注意を向けていない。新宿区内にある、築十二年の分譲マンションの七〇二号室。3LDKのうちのリビングルームで、二人は一週間先の法事について話しあっている。 「|しきる《ヽヽヽ》楽しみか。うん、男だからなあ」 「お年寄りにあんまり調子にのられても困っちゃうんだけどね。やっぱり、どこか見当違いのことを言ってたりすることが多くて」 「そうだよな」 「男の年寄りはその辺が面倒なのよね。どうしてもプライドみたいなものがからんでくるんだから」  健一郎の父、草平が興した会社は、粟田商事、といって、贈答品のあれこれを扱う問屋である。草創期には、冬はカレンダーを、夏は扇子を主に扱って業績をのばしてきた。会社などがお得意先にそういうものを配った時代なのだ。  健一郎の代になって、今そこは株式会社粟田ギフトという社名だが、贈答品問屋である点は同じだ。もっとも、カレンダーはともかく、近頃《ちかごろ》は扇子はギフト商品ではなくなっている。もっぱら扱っているのは、ドーナツを食べれば毎週毎週千名様にドコちゃん三段お弁当箱が当たる、なんていう、いわゆる販促サービス品の類《たぐい》である。従業員二十名ほどの小企業主なのだ。 「考えてみれば、大祖母ちゃんが亡くなったあたりから、親父も少しずつ変になってきたんだよな。葬式の時に、草加の叔父《おじ》さんと大|喧嘩《げんか》しただろう。それも、線香を一度に何本立てるべきかなんていうつまんないことで。あの辺からどうもわからず屋になってきてるんだ」 「あれ、会社から手を引いてすぐのことだったでしょう。その前から、実質的にはあなたがきりもりしてたんだけど、社長はお祖父ちゃんになってたんじゃない。それが、あの頃《ころ》に会長ってことになって、いよいよ引退したわけよ。だから、葬式なんかがあるとそのことに誇りがかかわってくるの。まだまだおれは中心人物なんだって、ムキになっちゃうんだと思うな」 「おかしかったもんなあ。骨壺《こつつぼ》を大理石にする必要なんかないんだ、という三十分ぐらいの演説を何回もきかされたぜ」 「それから、遺産のこと……」  玲子はちょっと声をひそめた。 「そうそう。大祖母ちゃんが遺《のこ》したのは、自宅のこの土地の半分だけなんだから、割って分配できるものではないって、有無を言わせぬ口調で叔母《おば》さんたちにハンコつかせちゃったもんな」 「叔母さんたちは、しっかりといい形見をもらっていったからそれでいいのよ」 「そうだけど、あの時の親父の張り切り方はちょっとすごかったよ」  粟田草平の自宅というのは、薄汚れた住宅街とは言うものの新宿区内の山手線の内側にあって、今ならそのあたりの土地はちょっと普通の人には手が出ないということになってしまっている。草平はその土地の半分を戦後すぐ亡くなった父から相続していたのだ。 「今度の三回忌には、また何かその辺のことでゴタゴタするんじゃないかって気がするんだよな。みんなを集めて、とんでもないことを言いだすんじゃないだろうか」  健一郎は疲れた声でそう言った。    夫が三杯目の焼酎《しようちゆう》のお湯割りを作るのを見て、加寿子《かずこ》は条件反射のように言った。 「飲みすぎると、明日つらいわよ」 「そんなに飲みゃしないよ」  大場義光《おおばよしみつ》は苦い顔をして答えた。それからしばらくスポーツ・ニュースを視ていたが、応援しているプロ野球チームのニュースが終ったところで、小冊子を読んでいる妻に声をかけた。 「毎日ちょっとずつの酒はかえって健康にいいんだぞ」  読んでいた小冊子は、新聞代を払うと集金人がくれる暮らしのメモのようなものだったのだが、それを膝《ひざ》に置いて加寿子は言った。 「そんなこと言っても、また|γ《ガンマ》GTPが高くなるんだから」 「γGTPのことなんか気にしなくていいんだよ。あれはちょっとのことですぐ、めちゃくちゃな数字にまで上がるんだから。働き盛りの男がγGTPのことなんかかまっていられるか」 「でも、お父さんもそろそろ体のこととか注意しなきゃいけない歳よ。いっぺん人間ドックとかに入ったほうがいいんだから」  ここで言うお父さんは、夫のことである。二人には、上が大学生の女の子、下が今年高校に入る男の子という、子供があるのだ。  その父親である大場義光は五十二歳である。妻加寿子は四十六歳。 「そんなヒマがないよ」 「ヒマは自分で作らなきゃ。せっかくの休みだとゴルフに行っちゃうんだから」 「そんなにゴルフばっかりしてるわけじゃないだろう。仕事が忙しくてヒマがないんだからな」  大場義光は人を十五人ほど使う小さな建築工務店を経営していた。一般住宅の基礎工事だけを専門に請け負うような会社である。板橋区内に半分倉庫のようになっている会社があり、その二階が自宅だった。 「仕事が忙しいんだから、よけい体のチェックはしておかなきゃいけないのよ」 「それはわかってるけどな」  加寿子は夫に対して姉のような口のきき方をするのだった。 「今度の日曜日にでも、いっぺん山田クリニックへ行ったらどう」 「ダメだろう。今度の日曜日は法事があるんじゃないか」 「あ、そうか。忘れてたわ」  大場加寿子は、粟田草平の長女であり、粟田健一郎の妹であった。大祖母ちゃんの三回忌の法要には、夫婦揃って顔を出すように父から言われているのだ。 「もう三回忌だよ。早いもんだ」  と大場義光は言った。 「そうか、二月だもんね。あのお葬式の日、寒かったもんねえ」 「葬式って、たいてい寒い日じゃないか。襖《ふすま》をとっぱらっちゃうから、ストーブがききゃしなくて、いつも震えてるような気がする」 「そんなことないわよ。ポカポカとあったかい日のお葬式だってあるでしょう」 「おれの体験ではいつも寒いんだよ。年寄りは寒さが厳しいと死ぬのかな」 「うん。それはあるかもね。それか、暑さが厳しすぎる時」  どうでもいい無責任な会話だった。だがそこで、夫が話を引き戻す。 「大祖母ちゃんって、亡くなった時に確か九十三歳だったな」 「そうよ。九十三まで生きれば大往生だってみんなで言ったんだもん」 「うん。まあそうだわな。だけど、五年ぐらい家で寝込んでただろ」 「もうちょっとかな。まるっきり寝たきりってわけじゃなかったけど、蒲団《ふとん》は敷きっぱなしで」 「家で寝てられたのは幸せだよな。普通だとあれ、老人専門の病院とかへ入れちゃうだろう」 「お祖父ちゃんのとこ、看護の人を雇えるぐらいの余裕はあったからできたのよ」 「いや、余裕はあっても、そこまでしない人のほうが多いぞ。あれはお義父《とう》さんも立派だったと思うな」  夫は焼酎をやり、飲めない妻はお茶でつきあっての会話である。 「大祖母ちゃんの旦那《だんな》さん、つまりお前のお祖父ちゃんという人は、いつ頃亡くなったんだっけ」 「それはずっと大昔よ。戦後すぐだもの」 「お前は会ってないのか」 「ないわよ。生まれる前だもの。お父さんが結婚するちょっと前に死んだそうだから」  ここで言うお父さんは、父のこと。 「じゃあ大祖母ちゃんは五十年近く後家でやってきたんだなあ」 「私が子供の頃には、近所の若い人を集めてお茶の先生をしてたの。どっちかと言うと、超然としてて、身勝手な人だったわ」 「あんまり可愛《かわい》がってくれなかったのかい」 「可愛がってはくれたけど、自分から孫にかまうような人ではなかったわね。大祖母ちゃんってちょっとした家のお嬢様で、ごく自然に自己中心的だったのよ」  粟田たけ、というのがその亡くなった人の名である。 「じゃあ、生涯思う通りに生きられたんだ。それはいいよな。お義父さんも最期までよく世話したし。ところがそれにくらべると、健一郎さんだよな、問題なのは」  加寿子は思いがけないところに兄の名を出されて好奇心で瞳《ひとみ》を輝かせた。 「お兄ちゃんのどこが問題なの」 「お義父さんとくらべて、あんなふうにちゃんと親の面倒を見るだろうか、だよ。まだお義父さんも元気だけど、この先だんだんと年を取っていくんだからな」 「そうよね」 「お義母《かあ》さんがいるとは言うものの、その人だって年取っていく」 「お祖母ちゃんはもともと体の弱い人だから、ひとの面倒見るのは無理だと思う」 「だろ。だったら結局、健一郎さんのとこが見なきゃしょうがないことになってくるじゃないか。ところが、今のところ親とは同居してないわけだよ」 「うん」 「そう遠くはないところにだけど、自分の家があってそっちに住んでる」 「同居は玲子さんがいやがってるんだと思うけど」 「だから、この先が問題だって言うんだよ。何かあった時に、長男がちゃんと親の世話をするのかどうかだよ。玲子さんだって、その時に知らんぷりしてるというのはいくら何でも間違ってるだろ」 「そうだけど、知らんぷりするような気がしちゃうなあ」 「それはいけないよな。長男で、親から会社を受け継いでるんじゃないか。自分の家まで持てて、社長でございって顔してられるのもみんな親のおかげだよ。その親が年取ってきたら、責任持って世話する。それが長男というものじゃないか」  実は大場義光も長男で、親から家業を受け継いでいるのだが、幸いなことに既に両親とも失っているのだった。根が人情家であるだけに、それもあって親を大切にすべきだ、という思いが強いのかもしれない。 「お兄ちゃんはともかく、問題は玲子さんだわね」  クラブでアルバイトをしていた時に知りあって兄と結婚したという嫂《あによめ》のことを、加寿子はついつい偏見の目で見がちなのである。そんなのもう大昔のことなのに。 「今度の三回忌の時に、その辺のことを健一郎さんにきいてみようかな。この先どうするつもりなのかって」 「よしなさいよ、そんなこと言うの。うちが巻きこまれちゃっても面倒なんだから」 「でも重要なことだぜ。お義父さんにきいてみるか。老後の生活方針のことを」 「うちは関係ないんだから」  加寿子はその問題については不干渉主義でいきたいらしい。しかし大場義光は、なんだかやる気を出しているのである。   「あなた、明日の法事に黒を着ていくの」  おかきをバリバリ食べながら美津子《みつこ》は夫に言った。小学六年生の洋介《ようすけ》が、ぼくも、と言って母の真似をする。 「どうだろう。その必要はないんじゃないか」  高田勤《たかだつとむ》は面倒臭そうに答えた。 「黒じゃなくていいの」 「三回忌だろう。背広に、ネクタイだけ黒でいいんじゃないか」 「そうだわよね」 「ただし、下着はあったかいほうのやつにしてくれ。あの、ケバのあるやつ」 「あの家寒いもんねえ」 「あした、お祖父《じい》ちゃんのとこへ行くの」  と洋介が言った。大人の話に口を出したくてしょうがない年頃なのである。 「そうよ。大《おお》祖母《ばあ》ちゃんの三回忌なんだから」 「ぼくも行きたい」 「もちろん行くのよ。ただし法事なんだから、おとなしくしてなきゃダメよ」 「勇太《ゆうた》は行きゃしないんだろう」 「あの子は明日バイトがあるんだって」  この夫婦が結婚して三か月後に生まれた長男の勇太は、もう二十歳で大学生である。親なんかと行動を共にしたがらない年齢で、現に今もバイトだとかで出かけている。  高田美津子は粟田草平の次女で、健一郎と加寿子の妹である。年齢は、夫婦が同い年で四十四歳。 「そうすると、明日は誰《だれ》が出席するんだ」  信用金庫に勤めるサラリーマンである勤がそう言った。 「兄妹三人の、それぞれの一家でしょう」 「うん」 「それから、叔母《おば》ちゃんたちも来るんじゃないかなあ。母親の三回忌なんだもの」 「草加の叔母さんと、町田の叔母さんのところだな。どっちも旦那といっしょだろうな」 「多分ね。年寄りは義理堅いから」 「暇だから、そういう行事があると顔を出したいんだよ」  この一家は、墨田《すみだ》区にある公団の賃貸アパートに住んでいた。一戸建てのマイホームを持ちたい、というのが美津子の悲願である。 「それから、瑞穂《みずほ》おばちゃんも当然顔を出すでしょう」 「ああそうか。あのおばちゃんは出席するよな」 「瑞穂おばちゃんって、小《ちい》ばあちゃんのこと?」  洋介が口をはさんだ。 「そうよ。よく知ってるでしょう」 「知ってるけど、よくわかんないよ。小ばあちゃんって、お母さんのどういう人なの」  ようやくそういうことに関心を持つ年頃である。洋介は素朴にそうきいた。 「小ばあちゃんは、お母さんの育ての親なのよ。お母さん、生まれてからしばらくは、あの小ばあちゃんに育ててもらったのよ。伯父《おじ》ちゃんや伯母《おば》ちゃんたちも」 「お祖母ちゃんがほんとの母親なんでしょ」 「そうだけど、お祖母ちゃんは体が弱くて、お母さんを産んですぐ病気で入院してたの。サナトリウムっていうとこへ」 「サナトリウムって何?」 「療養所みたいなとこ。ちょっと遠くにある病院よ」 「ふうん」 「そこに十二年も入院してたの。だから、お母さんなんかまだ赤ちゃんだし、伯父ちゃんや伯母ちゃんだって小ちゃいし、育ててくれる人が必要でしょう。それで、小ばあちゃんが母親代りに育ててくれたのよ。お母さんなんか最初は、小ばあちゃんがほんとのお母さんなのかと思ってたんだって」 「自分のお母さんをまちがえたの」 「だって赤ちゃんだったんだもん。もちろんそのうちお母さんのお見舞いにも行ったりして、ほんとのことがわかったんだけどね」  桜井《さくらい》瑞穂という、そういう恩人がいるのであった。その人は今六十八歳であり、元気に自立して生活している。 「あのおばちゃんは、お祖母ちゃんの親戚《しんせき》なんだよな。何か遠い関係の」  高田勤が確認するように言った。 「そう遠くないのよ。お祖母ちゃんのいとこだから。あの瑞穂おばちゃんは生い立ちが不幸な人で、小さい時に両親を亡くしているの。それで、お祖母ちゃんの家に引きとられて、姉妹みたいに育ったのね。お祖母ちゃんのほうが五つ年上で、静姉ちゃんと呼んでいたんだって」  病弱だったという母の名は、静江《しずえ》である。それでもなんとか生きながらえて、今七十三歳。 「ああ、そういう間柄なのか」 「戦後、瑞穂おばちゃんはうちに居候して働きに出てたんだけど、そういう時にお祖母ちゃんが小さい子供のある身で入院しちゃったから、自然に子供の世話をすることになっちゃったのよ」 「まだ若い頃だよな」 「いい年頃の娘時代よ。それが、ひとの子供を育ててるうちに三十半ばを過ぎちゃって、とうとうお嫁に行けないまま終っちゃったの」 「大恩人だよなあ」  と勤は言って、それから考えこむ。 「でも、つながりとしては、そう濃くないわけだ。あのおばちゃんに相続権はないよな。妻のいとこだろう。全然ない」  ちょっと安心したような声であった。 「相続権って何?」  と洋介がきく。 「子供はそんなこと知らなくていいの」 「お祖父ちゃんが遺書を作っておくなら別だけどなあ。そうでなきゃ、瑞穂おばちゃんには何も渡らんことになる」 「相続のことなんか考えるの、不謹慎じゃないの」  美津子はそう言ったが、目は好奇心の色に燃えていた。 「縁起でもないことを想像する点については見逃してもらうことにしてだな、それって重要なことだぞ」 「まあそうだけど」 「お祖父ちゃんも、結構持ってるからな。まずあの自宅があるだろ。家のほうは大したことないが、土地がおおごとだわな。あんなゴミゴミしたところでも、一応新宿区内だよ。そこに八十坪くらいあるんだろ」 「八十三坪」 「すごいよ。この頃少し下がったとは言うものの、坪五百万はするだろう。四億ちょっとあるんだぞ」 「売れやしないと思うけど」 「資産価値の問題だよ」  勤は電卓でも持ち出しそうな熱心さで、他人の資産を計算するのだった。 「それから、アパートが二つあるだろ。あれも新宿区内だ。土地だけでもすごいぞ」 「ひとつが七十五坪で、もうひとつが約五十坪よ」  美津子も実はその辺には詳しいのだ。 「ざっと六億ってところか。お祖父ちゃんも、仕事が好調な時に、そういうものに投資しておくところがしっかりしてるよな。昔だからわりに気楽に買えてるんで、今だったらとてもじゃないがそうはいかんぞ」 「合計で、約十億の資産か」 「そのほかにも、株や保険があるかもしれんけど、大きいのは土地だよな。それだけのものが相続されるんだから、真剣に考えざるをえないよ」 「相続税が大変よね。地代が上がりすぎてて相続税が払えなくて、物納にしたりする人が多いんでしょう」 「税金のことはひとまず別にしてだよ、まず相続そのものが大問題だよ。普通にいけば、それだけの遺産の半分がお祖母ちゃんのところへ行き、三人の兄妹が等分だ。全体の六分の一ずつになる」 「約一億六千万か。大変よね」  美津子の目は、どうしたってキラキラ輝いてしまうわけである。 「だから、瑞穂おばちゃんにはなしだよ。それ重大なことだからな」  高田勤はやけに力強くそう言うのだった。    粟田たけの三回忌の法要は、よく晴れた二月下旬の日曜日、まずまずの盛況のうちにとり行われた。粟田家の一族が、ほぼ全員、当主である粟田草平の家に顔を揃《そろ》える。  施主が粟田草平とその妻の静江。そして三人の子供がそれぞれ、配偶者と子供をつれて参加。高田勤の長男の勇太だけが、アルバイトがあるということで例外的に欠席。  それから草平の妹が二人、夫と共に出席。  それだけで施主を含めて十七人である。そこにもう一人、粟田家にとっては特別の意味を持つ静江のいとこの桜井瑞穂がつつましい態度で出席していた。  そして、親族たちは顔を合わせれば、気心の知れた身内ならではの親しい会話を交す。 「もう三回忌なんだなあ。早いもんだ」  と言っているのは草平の上の妹|操《みさお》の夫で、草加の叔父さんと呼ばれている人物である。 「丸二年だからね。一周忌の次が三回忌なんだからあっという間だよ」  草平はなんだか妙にキビキビと答えるのだった。まだ全然ボケてなんかいないと言うべきであろう。  それにくらべれば、下の妹|百合絵《ゆりえ》の夫で、町田の叔父さんと呼ばれている人物のほうがよほど耄碌《もうろく》しちゃっている。目が悪いので、歩くのに妻に手を引いてもらわなければならないのだ。 「この辺も、昔とすっかり変ったなあ」  二年前の葬式の時も、去年の一周忌の時にも言った同じことを、また言っている。 「どうもご苦労様です」  と健一郎が大場義光に挨拶《あいさつ》する。 「いやどうも、いろいろ大変でしょう」 「そうでもないんだけど」 「どう、景気のほうは」 「仕事のこと? それはもうさっぱりよ」 「そんなことないだろうけど」 「いや、ほんとに悪いよ。そろそろよくなってもらわんと、どうにもならないもの」  孫たちは、男は男、女は女でかたまってじゃれあっている。 「あっ、瑞穂おばちゃん。お茶なんか世話しなくてもいいのに、のんびりとすわっててよ」  高田美津子がそう言って、瑞穂を手伝ってみんなにお茶を配った。 「いいのよ。私はお客さんじゃないんだから」  じっとしているより動いたほうが気が楽だというような口調で瑞穂は言った。 「お客さんよ、おばちゃんは。こんなことしなくていいの」  美津子はそう言いながら、そういうことは玲子さんがやることよ、と思っているわけだ。  やがて坊主がやってきてお経が始まる。  三回忌ともなると、法要も多分に事務的なセレモニーである。みんな、もっともらしい顔をして正座しているものの、故人のことを偲《しの》んでいる者はほとんどいない。  お経のあと、仕出し屋からとった食事ということになっても、故人の話をするのは老人たちだけ。 「しっかりしたお祖母ちゃんだった」 「と言うより、自分のこと以外には関心がないみたいな、超然とした人だったね」  それ以外は雑多な話題に流れていて、高田勤が隣にすわった大場義光に酌をしたりしている。 「お義兄《にい》さん、まあ一杯」 「そう飲めんのだけど」 「どうして。車ですか」 「いや違うけど」 「じゃあいいじゃないですか」 「高田さんにも」 「あ、どうも」  高田は家では飲まないが仕事のつきあいでは飲む男であった。 「ねぇ。なんとなく、お祖父ちゃんの様子がおかしくない」  加寿子が、兄の健一郎に小さな声でそう言った。健一郎は、坊主と世間話をしている父親のほうをチラリと見た。 「別におかしくはないだろ。ボケてもいなくて、しっかりしてるじゃないか」 「なんか、張り切りすぎてると思わない。ちょっと元気すぎるでしょ」 「そう言えば、やけにはしゃいでるけど」 「変だわよ。最近あんなお祖父ちゃん見たことないもの。なんかあったのかな」 「何もないだろ。法事をやるってことに興奮してるだけなんじゃないか」  そう言って健一郎はもう一度父のほうを見た。  確かに、今日の草平ははしゃいでいた。坊主を相手にこんなことを言ったりしている。 「ここにいるのが、一族ですわ。子供から孫たちへと、うちが引き継がれていくわけですよね。こうやってどんどん広がっていくわけですわなあ」  草平の隣で、静江は静かにニコニコしている。みんなが平和ならそれだけで満足だ、というような人柄なのだ。 「もう子供たちも社会的に、立派な一人前ですよ。社会の中堅だ。もう私の出る幕もない。今年で喜寿ですからねえ、そんな歳にいつの間にかなってしまっていた。親の供養も一段落して、子供たちも一人前になって、もうこの先私も自由にしたいことをしてもいいでしょう。ねえ」  粟田草平は熱っぽくそう言うのだ。  食事をすませた坊主が帰っていって、粟田家の宴席はますますくつろいだものになった。  お酒の追加だとか、デザートがあるんだとか、女性陣がばたばたと立ち働く。そういう時真っ先に腰が浮いてフットワークがいいのが桜井瑞穂だった。今も、病院で掃除婦さんとして働いているその人は、歳を感じさせない動きを見せる。  静江はあまり動かず、ひとの世話になって、ありがとう、と言ってるだけである。だが、それはいい。体が弱くて、ずーっとそんなふうに生きてきた人だから許せるのだ。  許せないのは玲子さんだ、と加寿子と美津子は思っている。なによあの人は女主人みたいにすわりこんだまま何もせずに男相手にちゃらちゃらしちゃって。  そんな、ムカムカの暗雲がたちこめようかというその時、粟田草平が立ちあがってみんなに挨拶を始めた。 「みんな、どうも今日は、大祖母ちゃんの三回忌に集ってもらってご苦労様でした。一応ちゃんと法要をすることができて、おれも一安心というところだ」  全員が施主の話に耳を傾ける。 「三回忌までやれば、一段落ということだわな。この次というと七回忌で、それはおれにももうできんかもしれんわけだし」 「いやいや、そんなことはないですよ。まだまだしていただかなくちゃ」  と言ったのは高田勤である。大場義光も、その通り、というふうにうなずく。 「いやあ、そう言ってもらうのは嬉《うれ》しいが、やっぱり歳だからなあ。今年の一月に七十七歳になって、喜寿ってことになってしまった。あの時みんなにいろいろお祝いをしてもらったことには感謝しとる」 「おれは今年の十月で喜寿だわ」  と言ったのは草加の叔父《おじ》さん。草平はその言葉を無視して、厳しい表情で話を続けた。 「そういう歳になって、おれももう、自由に自分のために生きていこうかと思っとる。今まで不自由だったということじゃないが、子供のためとか、家族のためとか、考えた上でやってきとったわけだ。だけど、もういいわな。もう、みんな立派に大黒柱でやっていっておるわけだ。粟田家は何があってももうビクともするもんじゃない」  一体何を言いだすのだろうと、みんなが不審に思い始めた。 「だから、おれは自由に、したいことをさせてもらうことにした。ちょうどここに、家族全員が集っているんだから発表する。えーと、おれは考えるところがあって、おかあさんと離婚することにした」  静江は静かにニコニコしていた。 [#改ページ]   熟年離婚  すぐには誰も発言できなかった。  あまりにも突然で、意外で、とてつもない話なので、意味をのみこむのに数秒かかったのだ。そして、言葉の意味がじっくりとのみこめたところで、今度は草平の真意をはかりかねて黙ってしまう。  言葉の意味は全部わかっても、何を言ってるんだ、という疑問符が頭の中に三つ四つ浮かんでくるばかりなのである。  考えるところがあって離婚する、だって。  どういうことなんだ。  離婚って、あの離婚なのか。  なんで離婚なんかするのだ。  どうしてそれをこういう席で、こんなふうに言うわけなの。  お祖母ちゃんはニコニコしてるじゃないか。  どうなってんの。  しかし、草平が妙に硬い表情で、決然としているので問い直すことさえためらわれるのだった。  ようやく反応したのは草加の叔父さんである。 「義兄さん、離婚するってのかね」 「いろいろ考えて、そう決めたんだよ」 「それはちょっと、問題あるだろう。ここまでやってきて、今さら離婚もあるまい」 「いや、決めたことだから」  そこまできて、やっと長男の健一郎が言葉を発した。 「何を言い出すんだよ、お父さん。バカ言ってるんじゃないよ。離婚だなんて、冗談じゃないだろ。お母さんのこと考えたらそういうつまんないこと言えっこないだろう」 「考えて、そう決めたんだ。さっきも言ったように、おれもこの歳になって、少しは自由に行動させてもらうことにした」 「自由はいいけど、言ってることがおかしいよ」 「いや、これが一番いいやり方なんだ。おれの考えを信用してくれ」 「そんな、つまんないこと言い出さないでほしいわ」  と言ったのは次女の美津子。 「むちゃくちゃじゃないの」  長女の加寿子のほうは、母の静江のところへ行って、声をひそめるように言った。 「お父さんどうしちゃったの。何をすねてるのよ」  静江は心配かけてごめんね、というような顔をして、しかし妙に落ちついた声でこう答えるのであった。 「おとうさんには考えがあるんだよ。ちょっと非常識かもしれないけど、これが一番いいって考えてあるんだって。だから、おとうさんの気のすむようにしてもらえばいいんだよ。心配ないから」 「お母さん、離婚することに同意してるの?」  加寿子があきれ気味にちょっと大きな声を出し、みんなの注目がそっちに集った。 「私は、おとうさんの決めたことに従っていけばいいという考えだから」  うん、と草平は妻の顔を見てうなずいた。 「夫によく従うできた妻だけど……」  と大場義光は言いかけて、ふと首をひねる。 「この場合は変だよなあ。離婚すると言ってるんだから」 「兄さん。いい歳してバカなこと言うもんじゃないわよ」  ときつい口調で言ったのが、草加に住む妹の操である。 「ここまで夫婦円満にやってきて、今さらどうして離婚なんて言いだすのよ。バカバカしい。何があってつまんないいざこざを起こしてるのよ」 「別に、いざこざなんかありゃせんよ」  草平はけろりとしてそう言った。 「みんな、余計なことまで考えすぎんでもいいんだ。別におれは、おかあさんと喧嘩《けんか》したとか、別の女を好きになったとかいう理由で離婚するんじゃないんだから。七十七にもなって、そんな浮わついたことは言いやしないんだ。ただ、この先は自由に生きていくと決めただけなんだから」 「それが変なんだよ。言ってることがでたらめでしょうが」  健一郎もつい大声になる。 「お前、そんなにムキになるなよ」 「お父さんがバカなこと言うからムキになるんでしょうが」  この場に居あわせた五人の孫たちは、大人の話題だから当然発言をひかえているが、みんなちょっと目を丸くして話にきき耳を立てている。小学生の高田洋介にも、お祖父ちゃんが何を言いだしたのかは理解できた。そして、ドキドキした。  お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが離婚しちゃうと、ぼくたちはどうなっちゃうんだろう。  考えても、よくわからないわけである。  ただ、子供たちは全員、なんとなく感じ取っていた。  なんか、お祖父ちゃんすっげぇ迫力、と。 「いざこざがなくてどうして別れるなんて言うのよ。その歳で、別れたあとどうやって生活していけるのよ」  操は怒ったように言って、妹の百合絵と顔を見合わせた。 「だから、離婚するとは言っても、おかあさんに苦労かけるようなことはしやせんよ。これまで通りに家に住んでもらうんだから」  だめだこりゃ、という感じにみんなのため息がもれた。やっぱり相当ボケてるんだよ、このありさまでは。  草平はものわかりの悪い人間に説明しなければならないことに、ちょっとうんざりしたような顔をしたが、それでもしっかりした口調で言った。 「みんな、ちょっと冷静になりなさい。落ちついて考えなくちゃな」  あじゃ、逆だがな、と大場義光。 「離婚ってもんを、そう大袈裟《おおげさ》に考えることはないんだよ。別に珍しいことではないんだから。日本中で次から次へと離婚しとるんじゃないか」  私も一回したけれど、それとこれとは話が違う、と健一郎は鼻息を荒くする。 「そもそも結婚ってものがだな、役所に出す紙きれ一枚で成立しとるだけのもんだよ。その紙きれで、もともとは赤の他人の一組の男女が結びついとるんだ。まあ、もろいもんだわな」  みんな、この人はどこまで変になっちゃったのかと測るような顔をして、とりあえず無言で話をきく。  桜井瑞穂だけが、何事もなかったかのような態度で料理の間の空のビール瓶を集めて片づけている。 「そして、離婚も同じように紙きれ一枚で決まるんだよ。それさえ役所に出せば、夫婦というものが消滅するんだ。また、赤の他人だよ。変なもんじゃないか」 「お義父さん、離婚っていうことを、何か誤解なさってませんか」  と高田勤が言った。 「夫婦であるってことは単にひとつの家に住んでるってことじゃなくて、いろいろ法的に特別の権利を有するですね……」 「わかっとるよ。夫婦が何であるかについては教えてもらわんでもよく知っとる。おれはその夫婦関係をやめにして、あらためて独身に戻って、自由に生きることに決めたんだよ。そうしちゃいけないっていう理由はひとつもないんだよ」 「お母さんはそれでいいの」  と加寿子が言った。その問いを引き取るようにして草平が答える。 「おかあさんに迷惑かけるようなことはしやしないよ。いいかね。離婚すれば夫婦は赤の他人だよ。だけど、赤の他人には親切にしちゃいかんとか、仲よくしちゃいかんなんていう法律はどこにもないわな。そんなの、法律や役所が口を出すことじゃあるまい。だから、これまで通りおかあさんとは仲よくやっていくつもりだ。もちろん、これまで通り家に住んでもらうしな。ただ、二人が夫婦ではなくなるってことなんだよ」  やっぱりこわれちゃってる、とみんなの目が語る。でも草平は平気で、 「そう決めたんだよ。決心は変らん」    その日の夜、粟田健一郎は子供のいたずらにあきれるような声で疲れぎみに言うのであった。 「話がむちゃくちゃで、まともにきいていられないよな。あそこまでわけがわからなくなっちゃってるとはなあ」  玲子は興奮をおさえきれないというような顔をしている。 「ひとの意見をききゃしないもんね」 「そうだ。思いこんだらもう、それしか考えられないんだよ。反対されたりしたらカッとなって、ますます強引に押し通そうとするわけだ。あれがまさしく老人のボケの一種だよなあ」  高校一年の千晶《ちあき》と、まもなく卒業するがまだ中学三年の睦美という二人の娘が、いつもならそそくさと自分の部屋に入ってしまうのに、今日は所在なさげにリビングルームにいた。ソファにあぐらをかいて目だけはテレビのほうに向けているが、それとなく両親の話に耳を傾けている。子供たちにとってもその話題は興味津々というところなのだろう。 「あんなふうに、有無を言わさぬ形で宣言しちゃうんだよな。おれの考えは正しいんだから文句を言うな、という態度だよ。そんなところでやけに力んじゃうのが老化だ」 「それにしても離婚だなんてねぇ」  玲子はそう言われて、健一郎はちょっと複雑な顔をした。娘たちがそばにいるので、自分の過去にほっかぶりはできないわけである。 「あの歳になって言いだすことじゃないよなあ。そりゃ、世の中に離婚する夫婦はいるけどね。おれだってそれを一回体験しているんだから。だけどそういうことは、もっと若い時にするもんだろう。若気のいたりでつい、相手を間違えて結婚しちゃうわけだよ。その時は恋愛的気分でこの人がいい、なんて思えちゃって、結婚してしばらくすると、あれれ、と思うわけだ。いろんな点で、こんな相手だったのかと失望し、決定的なくいちがいが出てきたりして、これはやめたほうがいいかなという気がしてくる」  健一郎は要するに自分の過去の離婚を説明している。 「まだ若いから、我慢がないしな。家にいるのがつまらなくなってきて、外で遊んだりしてますますこじれてくる。それでとうとう離婚だ。そういうのはだね、二人とももう一度やり直せるからいいんだ。よくはないが傷は浅い」  ちょっとしどろもどろだったりして。 「ね。離婚なんてそういう若い時にするもんだよ。あの歳になって今さら言いだすことじゃないんだよ」 「ところが、そうでもないんだって」  と玲子が言った。 「最近、長年つれそった老夫婦の離婚がすごく多くなってるんですって。熟年離婚という言葉まで生まれているのよ」 「熟年離婚っていう言葉はきいたことがあるな。そうか。いい歳しての離婚ってわけだな。でも、本当にそれって多いのかな。やっぱり子供が小さい頃の離婚とか、夫が浮気盛りの頃の離婚のほうが多いんじゃないか」 「それはそうよ。数をくらべれば若い人の離婚のほうが多いの。でも、それとは別に、昔なら離婚なんてする例はほとんどなかった熟年夫婦が別れるようになってきてるの。年齢別に見てみると、そういう離婚が何年か前の数倍になっているんですって」  何年か前の数倍、というのはまことに不正確な情報だが、日常の会話ではこれで十分に言いたいことは伝わるのである。 「なるほど。比率の拡大だな」 「今、熟年夫婦が一日に四件ずつ離婚してるんだってテレビで言ってたわ」 「一日に四組が別れるのか。それはすごい数字だな。昔なら離婚なんて滅多にしなかった層が、その数字になってると思えば、確かに大きな社会問題だわな。老人夫婦がだろう」 「老人と言っても、今はみんな若いから、ヨボヨボじゃないわよ。夫が定年になるぐらいが多いそうだから、五十代後半とか、六十代前半ってところじゃない」 「そんな歳でなんで離婚したいんだ」 「結局、それまで我慢してたのよ。夫のほうは身勝手に何も考えないで生きてきたから何も思ってないんだけど、妻のほうは、ずーっと不満だったのよ。家族のことをかまってくれるわけでもない夫で、何年も前からもう全然愛してなかったりするわけよ。ただ、子供のためには両親が揃《そろ》ってなくちゃとか、生活のためとか、世間体とかで夫婦であり続けただけなの」 「六十近くにもなれば、愛情で結びついてるってのもなあ」 「それが、女にはつまらない人生なのよ。子供が独立していって、さてこの先は愛も何もない夫と二人で向きあって生きていくのかと思うと、うんざりしちゃうんだわ。私の人生は何だったのか、よ。このどうでもいい男の世話係を一生していかなきゃいけないんだろうか。それよりも、自分の力で自由に生きていこう、と思うのよ。昔と違って、今はそれが経済的にある程度可能になってるし、社会的にもそういう自立が認められてきてるから、最近になってどっと目立つんだと思う」 「なるほど。老人への入口で、もう一回自分の人生をやり直そうとする離婚だな」  健一郎はちょっぴり不安そうな顔をした。それって、うちには関係ない話だよな、と思いたいのだが自信が持てなかったりして。 「しかし、その熟年離婚のケースは、うちの親父にはあてはまらないだろ」  健一郎は考えてから、そう言った。 「どうして?」 「全然違うじゃないか。まずだね、親父は七十七歳だぜ。おふくろが七十三歳。定年の頃の、まだこの先人生に一花咲かせたいと思う年齢とはまるで違うじゃないか。もう何もかも終って、ゆったりと余生を送るという年齢だぞ」 「でも、今は寿命が長いんだから」  という意見を、玲子は困ったことのように言ってしまうわけで、困ったものである。 「なんにしろ、我慢の限界だという離婚ではありえないんだよ。あの歳まで無事にやってきたんだから。あれは熟年離婚じゃなくてボケ離婚」 「そうかもしれない」 「第一、おふくろが、もうこんな我がままな爺《じい》さんの面倒見るのはいやだ、とか言いだしてるんじゃないからな。ただ単に、親父がむちゃくちゃを言ってるんだ」 「お祖母ちゃんの考えてることがちょっとわからないのよね。どうして静かにニコニコしてるんだろう」 「どっちもボケてるんだよ。だいたいだねぇ、離婚はするけど、お母さんとはいっしょに住んで仲よくしていくだなんて、何を妙ちきりんなこと言ってるんだよ。そんな離婚がどこの世界にある」  そうよねえ、と言って玲子は考えこみ、それから夫の目をうかがうように見て、意を決したように言った。 「私、それって嘘《うそ》じゃないかと思うの」 「何が嘘だって」 「離婚はするけど、お祖母ちゃんとは仲よくしていくっていうお祖父ちゃんの話よ。そんなの、変すぎるでしょう」 「変だけど」 「お祖父ちゃん、きっとよそに好きな女性ができたのよ」  健一郎もこの発言には驚いたが、それより先に、ゲゲッ、と言ったのは娘の千晶だった。親の話をちゃんときいているのだ。 「そんなバカな」 「そういうことって、あるんだって。いくつになったって男は男だもん。老人会のお仲間とか、病院で知りあった未亡人とか、そういう誰かを好きになるってこと、ちっとも不思議じゃないでしょう。それで、歳で抑制がきかなくなってるから、どうしてもその人と結婚したいのよ。でもそう言って離婚すればみんなに反対されるから、ああいうこと言うの」  玲子はなんとなく意地悪な顔でそう言った。 「そんな離婚は絶対認められんぞ」  健一郎は力強く断言した。    板橋区の大場義光の家でも、当然のことながら草平の離婚宣言をめぐって激論が交されるのだった。 「健一郎さんがちゃんと説得してやめさせるしかないだろう。それが長男の役割ってもんだよ。親がボケてきちゃったと、手をこまねいて見ているだけではいかんのだからな。ちゃんと話をしてバカなことはやめさせなきゃ」  大場義光は迷いのない口調でそう言った。 「絶対やめさせなきゃいけないわよねえ」  加寿子は喪服を片づける手を止めて言った。 「もちろんだよ。いくら何でも言ってることに筋が通ってないんだからな。これがたとえば、夫婦双方がお互いにつくづく愛想がつきたとか、毎日喧嘩《けんか》ばっかりしているというんなら話が別だ。それからいっそ別れますか、という話にもなるだろう。ところがそうじゃないんだもんな。今後も仲よくしていくが、自由の身になるために別れると言うわけだろう。そんなことが認められるわけがないよ」  大場家の子供は、上が二十歳で女子短期大学生の真奈美《まなみ》で、下が十五歳、中学三年生の弘樹《ひろき》である。真奈美は母親に言いつかってキッチンで食器洗いをし、弘樹はコードレス電話を自室に持ちこんで友だちに電話をしている。 「しかしまあ、どうして離婚だなんて言いだしたんだろう。ものごとの判断ができなくなっちゃってるのかしら」 「そうとしか思えないよな」 「お母さんが、ずーっとお父さんには逆らわずに、何でもはいはいと従ってきてるから、お父さんも図にのっちゃってるんだよね。重要なことでも自分の考えだけで決めていっちゃって」 「そういうワンマンなやり方が、この先はだんだんと問題になってくるわなあ。言うことがおかしくなってくるんだから」  片づけを終えて真奈美がキッチンから出てきて、テレビのチャンネルを変えた。そのくせ、特に見たい番組があるわけでもないらしく、爪《つめ》の手入れなんかを始めたが、ふと手を止めて言った。 「お祖父ちゃんが自由になりたいって言うんだから、好きにさせてあげればいいじゃない」  何をバカな、という顔を親二人は揃ってする。 「そうはいくもんか」 「そんなことできっこないでしょう」  真奈美は納得がいかないなあ、という顔をして、口をとがらせた。どちらかというと男っぽい性格である。 「でも、そういうことって個人の自由じゃない。結婚したいとか離婚したいとかっていうのは、お祖父ちゃんが自分の意思で決めることでしょう。周りがガタガタ言うことじゃないんじゃないの」 「こういうところに個人の自由という言葉を持ち出すのは場違いってもんだよ」  大場義光は民主的でものわかりのいい親の態度をくずすことなく、穏やかに言った。 「まともな判断力で考えて、誰が見てもちょっとおかしい、変だよ、と思えるようなことを言ってるんだからさ。それは違う、と言うのが家族のつとめでしょう。自由なんだから何でもしなさい、と言っちゃうのは無責任ってもんだ」 「ボケちゃってバカなこと言ってるんだから」  真奈美は爪やすりで爪をこすりながら言う。 「お祖父ちゃん、そんなにボケてる様子じゃなかったじゃない。すごくエネルギッシュで、やる気まんまんみたいだったよ」 「でも、言いだすことがあれだ」 「それって、そんなに変なのかなあ」  加寿子はあきれたような顔をする。 「変に決まってるじゃない。めちゃくちゃよ」 「離婚したいって言ってるだけなのよ」 「どーしていまさらそんなこと言うのよ」 「自由になりたいからでしょう。お祖父ちゃんそう言ってたじゃない。お祖父ちゃんの言う通りだと思うなあ。離婚って別に悪いことでもなんでもないし、みんないっぱいしてることじゃない」 「そういう身勝手なことは通らないんだよ。年を取ってしまうとだんだん子供みたいになっちゃって、ひとのことも考えず、ただ自分のしたいようにするという我がままが出てくるんだ。だけど、家族をめちゃくちゃにしちゃうようなバカを言いだした時は、それはいけないと止めてやらなきゃな」  真奈美は爪やすりを置いた。 「離婚すると家族がめちゃめちゃになるというのは、普通はそうなんだけど、お祖父ちゃんの場合は心配しなくていいんじゃないの。ただ自由になりたいだけで、お祖母ちゃんとは仲よくしていくって言うんだもん」 「そんな理由で離婚するなんて、話がおかしいでしょう。仲がいいなら別れることないんだから」 「気分を変えたいとか……」  あーっほらしくて話にならん、という顔で義光は娘の顔を見た。一人前にみえるが、まだまだどうしようもなく子供ではないか、と思う。 「常識っていうものがあるんだよ。世間を渡っていく上での、まともさだよ。気分を変えるために五十年近くつれそってきた妻と離婚するというような、そんな非常識が許されるわけないだろう」 「わかんないなあ」 「何がわからないの」 「だってさ、ゆるすとかゆるさないとか、そんなこと誰が決めるの」 「それは子供たちだよ。特に長男がそういう時にはビシッと決断しなくちゃいけないんだよ」 「お祖父ちゃんの意思は尊重されないの。ほんとにボケちゃってるならしょうがないかもしれないけど、まだそんなでもないと思えるのに、お祖父ちゃんは子供たちに行動の自由を奪われちゃうわけなの」 「理屈だけじゃ世の中通らないのよ」  と加寿子が横から口を出した。 「私の言ってること、理屈かなあ。なんかお祖父ちゃんがかわいそうな気がするんだけど」 「判断力の問題だよ。お祖父ちゃんがまともな判断力でいろいろ言うなら、それはちゃんと尊重するんだから」 「でも、年寄りってそういう権利を奪われちゃってないかなあ。たとえばうちのケースとは違うけど、相手がもう死んじゃって、一人で生きてるお爺《じい》さんとか、お婆さんがいるとして、そういう人が恋人ができたから結婚したいとか言うと、子供たちが猛反対したりするじゃない。世間体が悪いからとか、そんな歳でバカなこと言うなとか。ああいうことって、ちょっとひどいなあと思うの。その人の人生なんだもん、その人の好きにさせてあげるべきだもん。うちのお祖父ちゃんのことも、そういうことと似てるような気がする」 「年寄りが結婚するなんて言いだすと、遺産のこととかがややこしくなるのよ」  と言ったのは加寿子。  大場義光はおもむろに首を横に振って、この際ちゃんと言っとこうじゃないか、という口調で言い始めた。 「遺産のことは、ちょっと別の話だ。それはとりあえず考えないでおこう。ね。だけど、それを別にしてもやっぱり老人の好き勝手にさせておけないこともあるんだよ。つまり、子供と同じなんだから。筋の通らないこと……、たとえば十五歳の子供が結婚したいと言いだすのと同じようなものだったりするわけだよ。それは認められんだろ。そういうことだ。だいたい、真奈美は個人の自由ってことを言うけどね、そりゃ自由は大切なものだけどさ、その前提に責任っていうものがあるわなあ。人それぞれの立場立場で、果たさなきゃいけない責任があるわけだよ。家長なら家長としての責任、長男なら長男としての責任。ね、そういう、家族の中での責任がある。それを捨てちゃって好きにすればいいというわけにはいかないんだ」 「つまり、平和な一家のお祖父ちゃんというものには離婚する自由がないの」 「ないだろう。何かわけがあるならともかく、気分を変えたいぐらいのことで、そんなのを認めるわけにはいかんさ。ただじわーっと老夫婦をやっていくのが老人の役割なんだから」  そう言って義光は、自分の言葉にうなずいた。    墨田区の公団アパートに住む高田家でも、騒動の余波と無関係ではいられなかった。 「いつもの�山久本舗�の和菓子だわ。おまんじゅうはここのでなきゃダメなのよ」  美津子は手土産を開けてまず歓声をあげる。お菓子はどこの、お茶はどこの、ティッシュペーパーはどこのと、こだわりがやけに強い性格なのだ。どこのならば一流よ、という意識と二人三脚で生きているようなところがある。 「お菓子ちょうだい」  太めの洋介が、ツバメのヒナのように食い気だけの顔をして手を出す。 「ダメよ。まだご飯食べたばっかりじゃない」  そんなところへ電話がかかってきて、美津子が出る。 「あっ、勇太。うん。うん。遅くなるの。どのくらい。それはわかるけど、うん。ちゃんとしなさいよ」  電話を終えてソファのところへ戻ってきて、パクリとくだんのまんじゅうを食べる。 「あっ、お母さんだって食べた。ぼくも」 「しょうがない子ねえ」  洋介にまんじゅうをやる。そこでようやく、新聞を見ていた高田勤がそれを下に置いて言った。 「勇太、何だって」 「友だちとお茶飲んでくるからちょっと遅くなるんだって」 「またか。あいつ近頃日曜日に家にいたことがないだろう」 「友だちといるのが楽しい年頃なのよ」  とまあ、ありふれた家族の会話をしているところへ、六年生の洋介がその話を切りだしたわけだ。 「ねえ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんが離婚するの」 「そんなことしっこないわよ」  と、美津子。 「あれにはびっくりしたよな」  と、勤。 「でも、もしかすると、ぼくたちはどうなっちゃうの」 「何がどうなるの」 「だって、お母さんのお父さんとお母さんでしょう。もし離婚しちゃったら、お母さんはどっちの子供ってことになるの」 「そんなこと関係ないじゃない。離婚したってどっちもお母さんの親でしょう。ただその二人が夫婦じゃないってことになるだけじゃない」 「じゃあ、今まで通りぼくのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんなの」 「そうに決まってるわよ」  そこへ、高田勤は考えこむような声で言った。 「それにしても、どういう考えからあんなこと言いだしたんだろうなあ」 「なんだか、すごい名案を思いついたんだというような、自信たっぷりの態度じゃなかった」  美津子は分析するような口調で言った。 「うん。ボケて判断力が鈍くなっているという感じではなかったよね。ちゃんと考えがあるんだ、という感じだった」 「どうせろくな考えじゃないんでしょうけど」 「でも、何かあるよ、あの態度は。ちゃんと考えがあってやることなんだから心配しなくてもいいんだというような顔をしてただろ」 「何を考えたっていうのよ」 「さあ、そこがわからない」  勤は眼鏡の奥の細い目をキラリと光らせた。 「何か得になることなのよね」 「得か。お義母さんと離婚してどういう得があるっていうんだろう。不自由になるだけだよな」 「でもいっしょに住むって言うんだから……」 「法的な形の上だけの離婚というわけか」 「ねえ。なんかそれって、お金のことがからんでいるような気がしない」  妻にそう言われて、信用金庫勤務の夫の背筋がいきなりシャッキリ、とのびた。 「お金か。離婚と金。うん、何かありそうだな」 「その辺で、何か変なこと思いついちゃったのよ」  夫婦というのは不思議なもので、もとは赤の他人で別々の個性を持っていたはずなのに、二十年もつれそっていると性格や興味が自然に似てくる。美津子のほうも、お金に関する話題だと目の色が違ってきたりするのだった。 「つまりあれか、税金対策とか」 「それよ。お祖父ちゃんが考えていることは、節税のための偽装離婚なんだわ。きっとそうよ」 「離婚して節税になるかなあ」 「相続税よ」  美津子はわかったぞよ、というような顔で言った。 「離婚してれば、お母さんには遺産を遺《のこ》さなくてもよくなるじゃない」 「なんだい、それ」 「そういうことよ。遺産がないなら相続税は払わなくてもいいってことになるでしょう」  約三秒間考えて、勤は首を横に振った。 「ダメだよ。離婚したら、財産分与ということをしなきゃいけないから。お義父さんの築いてきた財産は、五十年近くもつれそってきた妻の協力があってこそできたものだ、と考えるわけだ。だから離婚の時にはお義母さんに財産を分け与えなきゃいけない」 「そうか」 「財産の半分をその時お義母さんに分け与えたっていいぐらいなんだよ」  すると美津子は、目を輝かせてこう言った。 「ねえ。それいいじゃない。その方法で、お母さんに財産を半分やってしまうのよ。そういうのって、無税でしょう。所得があったというのじゃなくて、二人で築いたものを分けあっただけなんだから」 「まあ、そうだ」 「だったら得じゃない。そうやって生きてるうちに財産を分けておけば、相続じゃないんだから相続税を納めなくてもいいのよ。すっごい節税じゃない」  勤は一秒半で首を横に振った。 「それ、全然得になってないよ」 「どうして。税金なしなのよ」 「普通に相続したって、妻は遺産の半分までは相続税が控除になるんだもん。半分もらって税金タダなのは、どっちにしても同じだよ」 「あ、そうなの」 「そうだよ。どうせ無税なら、何も離婚まですることはないだろう」  くやしーい、という顔を美津子はした。せっかく名案だと思ったのにい、というところだ。 「どっちにしても無税なのか」  と言ったのが洋介で、さすがに美津子も、大人の話に口を出すんじゃない、と叱《しか》った。 「とにかく、離婚してもその辺で得するってことはないのね。そうしたら偽装離婚なんかしても意味ないわねえ」 「そうなるんだけど……。えーと離婚して二分の一が移って……、うん、同じだなあ」  ところがそこでいきなりアイデアがひらめく。 「待てよ。再婚しようか」 「誰と」 「お義母さんとだよ。それからお義父さんがなくなると、半分になってしまっている自分の財産のまた半分、つまり四分の一が無税でお義母さんに渡るなあ。そのやり方で四分の三が無税で渡るんだ。うん、いいぞ。いや違うか。わーっ」 「どうしたの」 「すごいこと考えついた。そうやって離婚と結婚を何回も繰り返すと、ほとんど全財産を相続税なしでお義母さんに遺せることになるじゃないか。えっえーっ。すごいぞ。税金タダだぞ」  しかし、世の中にそううまい話があるわけがない。 「とすると、約十億円が無税でお母さんに渡って、お母さんが死ねばそれが私たち子供のところへ……」 「あっ、そうか。それがあるか。その時、子供たちがドカッと相続税をとられるなあ。十億のかたまりだから……。ダメだ。その案はかえって損だな。その時の税金が高くなって、結局少しも得じゃないよ。ああダメだ。うまくいかないよ」 [#改ページ]   四十九年  老人の朝は早い。  きのうの法事で精神的には少しばかりくたびれた粟田草平だったが、それでも朝の六時には目が覚め、蒲団から起きだした。蒲団《ふとん》は敷いたままで、物音を立てないように台所へ行く。  隣の部屋で寝ている静江を起こさないようにという配慮である。十年前までは二人は同じ部屋で蒲団を並べて寝ていたのだが、草平のいびきがうるさいということで、別の部屋で寝るようになっていた。慣れてみると、その方が気が楽で熟睡できた。  おかあさんは体が弱いから、ということでずっとやってきた家である。十分に睡眠をとって休みなさい、という思いやりが、日常のことになっていた。口ではそんなことを言っても、おとうさんがごそごそやりだせばのん気に寝てなんかいられないわよ、という静江の側の言い分はもちろんあるわけだが、それでも世間一般の同年代の男よりは手のかからない夫だと言うべきであろう。  この夫婦は主にお互いを、おとうさん、おかあさんと呼びあっている。子供たちを基準にした呼び方である。だが、互いにとって相手は父でも、母でもなく、もちろん義父でも義母でもないのだから、この物語の中で、二人が互いのことを言うときは、おとうさん、おかあさんと平がなで書くことにする。  草平は台所で水を一杯飲んでから、トイレをすまし、洗面室で歯をみがき、顔を洗う。コップの中の洗浄液につけてあった入れ歯を洗い、口にはめる。入れ歯をしていないと口元がつぼまってやけに年寄り臭く見えるのだが、ちゃんとはめている限りにおいてはまだまだかくしゃくたる様子に見える。体つきも姿勢もまだくずれてはおらず、筋肉質タイプである。皮膚の若干のたるみと、顔と背中の染みのことには目をつぶろう。血圧がやや高い以外には、健康上の問題も特にはなかった。  草平はゴムのサンダルをはいて玄関を出ると、門柱の横の新聞受けから朝刊を取った。空を見上げ、今日の天気を占う。空は厚い雲におおわれており、おそらく一日中そんな具合だろうと思えた。まだ春の気配はほとんど感じられない。だが、雪が降るというほどのこともあるまい。  小さな庭に棚がこしらえられ、植木鉢がいくつか置かれている。盆栽というほどのものではなく、草花がやっとのことで咲いて目を楽しませてくれる程度のものだった。静江が花の色を楽しみにしているのだ。  その鉢たちに、近所の猫が糞《ふん》をしていないことを確認して、草平は家に戻った。  居間へ行き、一人がけのソファにすわり、テーブルの上のオニックスの喫煙セットのタバコ入れの中に立ててある、新聞を読む時用の眼鏡にかえて新聞に目を通す。十二年前にタバコをやめてから、喫煙セットは小物入れになっているのだ。次に、灰皿の中においてある電気カミソリを出し、新聞を読みながら髭《ひげ》をそる。  政局のニュースにもしっかりと目を通し、ふーむ、とうなったりする草平であった。  次に、リモコンでテレビのスイッチを入れた。  朝のニュースが終り、タウン情報の番組が始まったところで、草平はソファから立ちあがり、電話台の前でストレッチ体操を始めた。テレビで覚えた体操に太極拳《たいきよくけん》の動きをミックスしたような、我流の健康体操なのである。毎日、これを十五分はやって汗をかくというのが、草平の日課であった。動きはあまり激しくなく、跳びはねたりはしないのでうるさくはなかった。  三年くらい前には真向法をやっていたのだが、あれはやることがあまりに単調で、すぐあきてしまうのでやめたのだ。若い頃にまずまずのスポーツマンであった草平は、一日に少しずつでも体を動かすのが好きで、それによって自分の元気が保たれているのだと信じていた。  ストレッチ体操の次は、ジョウロに水をくんで、植木の水やり。ただし冬場の今は、その用は週に二度ほどしかない。  犬に散歩をさせる近所の桑田老人を塀ごしに見つけ、おはようございますと声をかける。まだまだ寒いですなあと、気候の話を交すが、すぐに桑田老人は犬に引っぱられて通りすぎてしまう。あの家には最近、息子一家がのりこんできて大変な賑《にぎ》やかさのはずだが、とちらりと思う。四十坪ほどの小さな土地をめぐって、いろんな思惑が入り乱れているということらしい。  いろいろあるわなあ、と草平は思った。日本人の平均寿命がのびて、昔ならとっくに隠居しているだろう年齢で、人生の中で一番厄介な問題をかかえるのだ。  狭い日本では土地の値段が外国とくらべてべらぼうに高く、だからこそそれは日本人にとって憧《あこが》れの宝物であり、ひたすらほしいものだと夢に描かれ、それが原因でますます値がつりあがっていく。そうするとごく普通の平凡な人間が、最後の最後に遺産問題なんてものに振りまわされてしまうのだ。土地がからむと日本人はつつましい平和な生活をおびやかされる。  自分の裁量できちんとおとしまえをつけておく義務があるってことだ、と草平は思った。この私がちゃんと手をうっておくように。そこまでちゃんとしてこそ、自分の人生の責任をまっとうしたということなのだ。  草平は振り返って、自分の家を見た。庭にいるのだから、上方をあおぎ見るような格好になる。  木造平屋建ての、なんでもない住宅。風格が感じられるほど古いわけでもなく、モダンな現代建築でもない。興した会社がどうにか軌道にのり、ようやく余裕が出てきた昭和四十一年に、やっと建てたそこそこの家である。草平が四十八歳の時で、振り返ってみればもう三十年近く昔のことになる。  この家が建った時には、自分が一人前の男に思えたものだった。一国一城の主《あるじ》になったような気さえした。  ところが三十年後に、その家や家の建っている土地が、厄介物となり始めたのである。  草平は家の中に戻り、新聞と新聞用の眼鏡を片づけてソファにすわった。さて、どうするか、と思う。  お湯をわかしてインスタント・コーヒーをいれようかとも思うのだが、コーヒーは食後のほうがいいか、とも思う。もうじき朝食になるのだ。  そこで草平はテレビをつけ、かといって番組を見るでもなく、きのうのことをぼんやりと考え始めた。  法事のあとの、自分の宣言が予想通りの騒ぎをおこしたのを思いだし、ついニヤニヤしてしまう。みんな、事態の意味がまるで理解できんというような顔をしておった。面倒なことを言いださないでくれ、というようなとまどったような顔をしていた。  もう老人なんだから自分の考えで行動するのはよして、若い者の言いなりになっていてくれなきゃ、とでも言いだしそうな顔だった。特に加寿子はあからさまに迷惑そうな顔をした。  そうはいくもんか。  何も考えずに若い者に従って、それで万事うまくいくのなら問題はない。だが、そうはいかないのだ。  みんな、何も考えてはおらんのだから。ただ、時がたてばそのうち何かいいことがあると、漫然と期待しているだけだ。何がベストなやり方か、なんて考えたこともないのだ。それでいて、ひとを年寄り扱いして、すべてを私たちにまかせなさい、という傲慢《ごうまん》な態度でいる。  そうはいくか。  私の人生の結着は、私が自分でつける。欲に目のくらんだ若者たちよりは、緻密《ちみつ》に考え抜いた知恵もあるのだ。それを見せて、一泡ふかせてやろうじゃないか。そうすれば私を見直すいいきっかけになるだろう。  そう考えて、草平は一人でニヤニヤした。  そんなところへ、静江が起きてきた。 「お天気はどうですか」  と言う。 「うっとうしい空模様だが、降りはせんだろう」  と草平は答えた。  静江は台所のほうへ行き、すぐにご飯にしますからと言った。自分のと、草平の分と、既に蒲団を畳んでいるのだ。  まずお茶を出してくれた。熱い渋茶を草平はすする。  静江は金魚に餌《えさ》をやるなんてことをした。いつからいるんだか、二人とも忘れてしまっている色の薄いたった三匹の金魚である。孫のうちの誰かが、何かの折に金魚すくいでとってきたものだろうか。  タイマーになっていた電気|釜《がま》でご飯が炊け、まず静江はそれを仏壇にそなえている。ついでに水も取りかえている。そのあと、こう言った。 「ご飯できましたよ」  草平は台所のテーブルのほうへ行った。  きのうの仕出しの残りと、熱い大根の味噌汁《みそしる》で、草平はご飯を二|膳《ぜん》食べる。食は少しも細くなっていないのだ。 「真奈美ちゃんが娘っぽくなってましたねえ」  と静江が言った。孫たちのうちで、最初に生まれた真奈美に一番なじみがあって、可愛《かわい》いのだ。 「もうそろそろ大学を卒業するんだろ」 「短大ですから、そうですよね」 「どうするんだろうな。どこかへ働きに行くのかな」 「それが今は普通じゃないですか。まだ結婚するには早いでしょう」 「それはまだ早過ぎるよ。ずーっと先のことだろう」 「ええ」  孫たちの様子なんかいつ見てたんだろうという気がするのだが、老人は案外あちこちに目配りをしているのである。 「それにしても加寿子は老けたなあ。もう、半分くらい婆さんだぞ。あいついくつだ」 「婆さんはかわいそうですよ。まだ四十六でしょう」 「四十六か。それにしちゃあ、老けてるぞ。立派なオバタリアンだ」 「飾り気のない子ですから」 「うん」 「玲子さんなんかとくらべたら、まるでかまわないから差が出るんですよ」 「玲子さんほど飾ることはないけどな」 「あの人はまだ若いもの」 「美津子は着てるものがなんか貧乏くさいしな。ちょうどいいというのがおらんな」 「無事にみんなやってるんだからいいじゃないですか。孫たちが大きくなってくるんだもの、少しは老けますよ」 「うん。健一郎の髪も薄くなったしな」 「薄いと言えば、大場さん」 「彼は昔から薄くなるタイプだったからな」  食事を終えて、草平は居間のソファのほうへ戻る。NHKの朝のテレビ小説を見て、まるでそこにも親戚《しんせき》がいるような気分になるわけだ。よく、自分の本当の孫と、|ひらり《ヽヽヽ》や|はらり《ヽヽヽ》といった架空の孫とを混同しないものである。  片づけをしたあと、静江はインスタント・コーヒーをいれて出してくれる。 「あの二人はいつも同じ感じだなあ」 「どの二人です」 「千晶と睦美だよ」 「ああ。テレビのことじゃないんですか」  なじみがあるのは真奈美でも、近くに住んでることもあって、ゆかりが深いのはその二人だった。 「なんか、こまっしゃくれた二人組でなあ」  静江はちょっとあたりをはばかるように言った。 「あの二人は母親に似ているんでしょう」  孫の千晶と睦美が、なんとなくませた印象だということへの短い論評である。つまりそこには、息子の嫁に対するある種の批評がこもっているわけで、草平もとりあえずは小さくうなずくにとどめた。  老人をあなどってはいけない、という教訓をこのあたりの会話から感じ取ってもいいだろう。老いて、ボケ始めて、もう何もわからないんだよ、なんてことを子供たちの世代は平気で口にするわけだが、なかなかどうして、老人たちも鋭いのである。孫たちの性格まで、なんとなく見抜いていたりする。息子や娘や、そのつれあいのことだってちゃんと見ている。大人だから不用意にはそれを口にしないだけのことなのだ。  健一郎も、尻《しり》に敷かれすぎでみっともないよなあ、とか。  大場くんは、親分気質できっぷはいいんだが、考え方がちょっと古すぎて頭の柔らかさがないよなあ、とか。  高田くんは、どうも細かい計算に気を奪われて、大局的な視野が持てないだろう。あれではあんまり出世しないぞ、とか。 「まあいいか。そう大きな問題を抱えている者はいないわけだ。みんな、それなりにまず安定してやってるんだし」 「ええ。それが一番ですよね」 「きのうも言ったが、みんな社会の一員として、ちゃんと一人前に暮しているわけだ。おれたちみたいな年寄りがうるさいことを言うこともない」 「嫌われないようにしなくちゃね、年寄りは」 「うん。そういうことだ」  と言って、草平はコーヒーの残りをうまそうに飲み干した。  それから、向かい側にすわっている静江の顔を見る。  真面目《まじめ》な顔になって、言った。 「ところが、ちょっとみんながガタガタ言いそうなことを決めて、きのう発表しちゃったわけだ。嫌われる年寄りになっちゃったかもしれんなあ」  静江は穏やかに首を横に振って、言った。 「それはまた別のことですよ。あれはおとうさんがいろいろ考えて、よいと決めたことですもの。そういうことでまで、子供に遠慮することはないですもん。私はおとうさんの決めた通りに従いますよ。きっといいことなんですから」  粟田草平は、嬉《うれ》しそうにうなずいた。  彼が今度の自分の方針に自信が持てるのは、あらゆる面にわたってよく考え抜いた、ということのほかに、妻である静江が気持よく同意してくれている、ということもあった。自分の考えで静江を悲しませているわけではない、というのは力強いあと押しだった。 「あの子たちにうるさいことを言って嫌われるというのと、今度のことは別ですもん。今度のことは、おとうさんが自分のものを、自分の考えでうまく使うということで、子供だってそんなことで不平を言っちゃいけないんですよ」 「うん。そう思ってくれると安心だ。お前のこともからんでくるんだから、お前がちゃんとわかっててくれんとうまくいかないんでな」 「私はよくわかってますよ。いい方法を思いついたもんだと、嬉しくなったくらいです」  草平はいい気分になり、コーヒーをもう一杯くれんか、と頼んだ。静江はその用意をするために台所に立った。  コーヒーを出したところへ、電話が鳴る。近くにいた静江が出た。 「ああ、きのうはご苦労さん」  きのう来たうちの誰だろう、と草平は耳をすます。 「そんなことはないよ。ちゃんとしているんだもん。だから、あの通りのことだよ」  しばらく意味不明のやりとりが続いて、静江はちょっと代るから、と言った。 「加寿子が、おとうさんと話したいんですって」 「ほいほい。いろいろあるだろうとは思っていたが、まず加寿子か」  草平は立って電話台の前へ来た。老人の家に、最新式のコードレス・ホンなどあるわけがないのだ。 「もしもし、おれだ」  ああ、お父さん。ちょっと早かったかしら。なんてことを加寿子は言った。 「早いことなんかあるもんか。年寄りはもうとっくに起きとるよ」  きのうは大勢でおしかけてどうも、なんてつまらないむだ口を加寿子はたたく。早く本題に入れ、とどやしつけたくなるところだ。 「それで、あれからうちでも大場といろいろ話したんだけど」 「うん」  早く言え。 「どう考えても、お父さんが何を考えているのかよくわからないのよ。お母さんと離婚するって、どういうことなの。どうしてそうするの。そこがわからないと、ちょっとそんな非常識なことには賛成できないと、大場も言ってるんですよ」 「そのことはきのう説明したじゃないか。せっかくみんなの集っているところできちんと言ったのに」 「急にあんなこと言われたって意味もわからないんだもの。要するにどうして離婚だなんて言いだしたの。何が気にいらないんですか」  受話器を持ったまま、草平はうんざりしたような顔をした。 「気にいらないんじゃなくて、自由にしたいんだ。気楽な身分になりたいだけだよ。ただし、誰にも迷惑はかけんと言っとるんだから。おかあさんにひどいことをするつもりはないし、苦労もかけやしない。おかあさんも賛成してくれているんだからな」 「そこが変なのよ」 「変なことあるもんか。よく話しあっているんだから。それで、別にお前たちに迷惑かける話でもない。そうだろう」 「迷惑とか、そういうことじゃないでしょう。社会的常識の問題だもの。そんな非常識なことが通るわけないんだから」 「えーとな、それ変じゃないか。非常識なことを言ってるのはそっちだと思うぞ。婚姻も、離婚も、個人の自由なんだよ。憲法にちゃんと書いてあるだろう。離婚の自由というのは書いてないかもしれんが、婚姻の自由が書いてあるということは、それの破棄も自由だということだ。つまりそれには誰も横から口出しできんということなんだよ」 「そんなめちゃくちゃな話はないのよ。こんなところへ憲法なんか持ちださないで」 「それはお前、暴論だなあ。改正したほうがいいのか、ひたすら守り通したほうがいいのかという議論があるというのは別として、とりあえずこの国の国民であるからには憲法を尊重していかんと」 「憲法のことはどっちでもよくて、問題はお父さんの離婚なのよ。七十七歳まで無事にやってきといて、今さらどうして理由もなく離婚しなくちゃいけないの。そんなのおかしいもの。理由がないじゃないですか。これは別に、うちだけが反対してるんじゃないですよ。親戚《しんせき》中がそんなの認められないと言ってるんだから」 「親戚中がか」 「家族だからでしょう。家族だから、おかしなことがあればほうっておけないのよ。このことについては、お兄ちゃんも同じ考えよ。そういう、みんなの総合意見なんだから」 「健一郎は一回離婚しとるじゃないか」 「それとこれとは話が別です。お兄ちゃんのほうからも、説得してもらいますから」 「何度言われても、おれの決心は変らんのだがなあ。みんな、何を騒いでるんだ」  草平はぬけぬけとそう言った。  加寿子との会話は結局ラチがあかないままに、むこうがじれて電話を切ってしまった。へっへっへ、と草平は満足そうに笑う。 「思った通り、騒いどるようだぞ。次は多分健一郎が何かを言ってくるんだろうな。あいつがためらっても玲子さんがたきつけるだろう」 「子供たちで集って相談するんでしょうかね」 「多分そういうことになるだろう。日頃はほとんどつきあいもせずに、正月とか法事の時にしか顔を合わせない連中が、つの突きあわせて相談するわけだよ」 「まだいろいろありそうですねえ」  と静江は言って、コーヒーカップを片づけた。 「それも、実は計算のうちなんだよな。この先、いつおれや、お前さんが死ぬかもしれんわけだ。そういう時になって初めて兄妹たちがまともに会話した、なんてことではまとまる話もまとまらんだろう。加寿子だって、口では家族だから心配するんだなんて言ってるが、日頃は粟田家全体のことなんか考えちゃおらんものなあ。子供たち三人のところがそれぞれ、自分の家のことしか考えてないわけで、つきあいもしてないんだよ。兄妹もくそもないよなあ」 「みんな、それぞれ子供のことで手いっぱいの時期ですから」 「でも、家族じゃないか。ところが、それを思いだすのは、親が死んだ時か、もしくは親が離婚すると言いだした時くらいなんだ」 「私たちが死んだ時の予行演習ってわけですね」  静江は楽しそうにそう言った。  草平は口をキリリと結んで力強くうなずいた。 「そうだよ。いっぺん予行演習をしとくんだ。ろくに相談したこともなくてだな、それぞれが、おれは長男だからたくさんもらえるはずだとか、うちは妹なんだから親の面倒を見なくていいはずだとか、身勝手なことを考えてるだけではどうしようもないんだからな。おれたちだって、ポックリいけるのならそれでいいが、寝たきりになって誰かに世話してもらわなきゃいけないかもしれんのだよ。そういうことについて、兄妹で話しあっとくべきだろう」 「でも、あの子たちみんな、何が何だかさっぱりわからないでしょうね」 「まだ今はな」 「おとうさんが、ちゃんと全部を説明しないから。離婚して、それからどうするつもりだってこと、わざとまだ言ってないでしょう。自由になりたいからだって、わざとあいまいなことを言って」 「わざとか」  草平はニヤニヤ笑った。 「そうでしょう」 「それも、考えがあってのことだよ。つまり、あいつらに、考えさせるためなんだよ。みんな、なんにも考えちゃいないんだからなあ」  そう言うと草平は、ソファの背にゆったりともたれかかって、首をグリグリと回した。 「去年、健一郎が言ってきたよなあ。カラオケ・ボックスのチェーン店をやりたいんで、うちの三か所の土地を資金ぐりの担保にできないかって。何をバカなことを言いだすのかと思った」 「おとうさん、カラオケは大反対でしたね。うちの仕事はギフトなんだから、それを守っていくのが本当だろうって」 「うん。カラオケなんか、地に足のついたビジネスじゃないよなあ。自分がこれまでやってきた仕事とまるで違う方向じゃないか。そんなのうまくいきっこないんだから」  草平はそこで、リモコンでテレビを消した。 「でも、考えたというのはそのことじゃないんだ。カラオケには反対だが、どうしてもやりたいと言うんなら、もうおれは引退した身だし、あいつの好きにさせるしかないと思ってるよ。ただ、その時に、親の持ってる土地を資金ぐりに使おうというのが甘いわな。親のものも自分のものも区別がつかんのか、だよ。やりたいことがあるなら自分の力でやるべきだろう」  静江はこういう時、そうですねえ、というふうにうなずいて夫の話をきく妻であった。 「なのに、親のものも自分のものも区別がついとらんのだよ。親が死ねば遺産として自分の手に入るんだと、ぼんやり考えてるだけだ。三人ともどうもそうだよな。いずれは自分のものになるんだって、土地の値段を計算して幸せな気分になっとるんだ。ひどいのは、もう税金の心配をしている」 「ほんとに」 「そりゃ、確かにおれたちが死ねば遺産は子供のところへ行くよ。おれも、それが面白くないから全部ユネスコに寄付しちゃう、というほどには善人じゃない。だけど、結局はそうなるとしても、もう少しいろいろ考えてほしいわけだ。親が死んで子に遺《のこ》す遺産ってどういうものなんだろうということを。それの、意味とか、重さとか、配分は本当にこれでいいんだろうかというようなことを、真面目《まじめ》に考えてもらいたい」  草平は強い意志のこもった顔つきをした。 「今度のことで、みんなにそういうことを考えてもらいたいんだよ。遺産があるってことは、誰がどういう苦労をしたかっていう、ひとつの家の歴史なんだからな。四十九年の歴史だ。おれが結婚してから四十九年、家族がどういう歴史をきざんできたかというのが、のこるものになっとるんだ。そういう考えも何もなしに、ただ嬉しいものがもうじき自分の手に入るとしか思えないのは間違っとるんだよ」  粟田草平と、静江が結婚したのは昭和二十一年である。太平洋戦争の敗戦直後で、本当に何もない時代だった。近所の神社でささやかに式をあげ、親戚だけの宴会を自宅でやった。  時代そのものもあわただしかったが、その頃、草平の人生もやけにあわただしかった。  二十年八月に戦争が終った時、草平は召集されて満州にいたが、後方に配備されていた部隊だったせいで好運にも、スムーズに復員でき、十月には日本の土を踏むことができた。弟で、まだ二十歳だった潔成《きよなり》が南方で戦死したのとは対照的であった。  復員して、東京新宿にある家に帰りついてみれば、そこで表具屋を営んでいた父、貫七《かんしち》は病の床についていた。長男の帰国を見て安心したのか、十一月にまだ五十三歳の若さで亡くなる。  二十七歳で粟田草平は一家の大黒柱ということになった。母と、まだ未婚だった妹たちを養っていかなければならないのだ。まずは戦前にも多少手伝っていた表具の仕事を継いでみるが、時代が不安定で注文がろくにない上に、技術もおぼつかなくてなかなか軌道にのらない。もっとも、その当時は日本人すべてが同様の苦労をしていたわけだが。  そんな生活の中で、世話をしてくれる人がいて、埼玉県川越で商人宿をしている家の娘との縁談がまとまる。それが静江で、おとなしそうな女性だ、というのが第一印象だった。  二十一年の一月二十七日に結婚式をあげた。そしてすぐ、静江はみごもった。日本全体が戦後のベビーブームに突入していこうかという時である。  妻のおなかがだんだんふくらんでくるのを見ながら、いよいよ仕事に行きづまった草平は転職を決意する。九月から彼は、従業員二十名ほどの運送会社で働くことになった。初めは荷積み荷おろしなどの力仕事を専らやらされたものだ。運転免許をとってトラック運転手になり、抜擢《ばつてき》されて事務のほうにまわり、少しずつ生活も安定してくる。  二十一年の十一月に長男の健一郎が生まれ、それから二年ごとに加寿子と美津子という女の子も生まれる。二人の妹も順に嫁いでいった。  運送会社に四年勤めたあと、誘ってくれる人があり、岩崎タイルという、タイルを製造販売する会社に変った。朝鮮戦争が起きて日本の景気が上向きかけ、どうにかこうにか食べていけるようにはなる。  三人の幼な子を持ち、仕事もまずは安定して、小さな幸せを掴《つか》みかけたかに思えたその時、静江が結核で倒れたのだった。うつるといけないので、赤ん坊もそばには寄せつけられないという状況になる。  結核は、薬や食事に金のかかる病気だった。妻をサナトリウムに入れ、草平の第二の苦労が始まる。  長男の健一郎が生まれた次の年から、粟田家には居候がいた。静江の母方のいとこで、その当時二十歳だった桜井瑞穂である。  瑞穂は二歳の時に父を、九歳の時に母を亡くして、天涯孤独という身の上であった。不憫《ふびん》に思った川越の静江の里が引き取って養育していたのである。五つ年上の静江を瑞穂は静姉ちゃんと慕って育った。小学校を卒業してからは、宿の手伝いをして、一人前の働き手となっていたのである。  その瑞穂が、東京で働きたいから下宿させてもらえないかと上京してきたのである。草平は、それを受け入れた。  瑞穂は多くを語らなかったが、事情があるらしかった。川越の里の、長男でありながら家業の宿を継がずに役場に入った静江の弟が、瑞穂に言い寄ったらしいのだ。意にそまぬ申し出であったし、正妻にするという話でもないらしいし、やむなく彼女はそこを出て自立するしかなかったのである。瑞穂はややふっくらとして、娘っぽい魅力の盛りの頃であった。そして堅実でよく働く女性であった。  必ずしも余裕があるわけでもない草平の家に、そういう食客があったのである。もっともその当時は、親戚《しんせき》を頼って下宿したり、居候としてやっかいになったりというのがごく普通に行われる時代だった。社会が不安定な分、血族のつながりが強かったのである。  瑞穂は美容院の見習いとして働き始め、食費を入れた。子供たちも瑞穂おばちゃんになついた。  ところが、二十六年に静江が発病し、サナトリウムに入ってしまう。草平の妹二人はもう嫁いでいて、女手といえば瑞穂しかいなかった。  瑞穂は美容院の勤めをやめ、子供たちを育てる役についてくれた。彼女が二十四歳の時からである。そしてそれが十二年間続いた。  草平は生活の向上をめざし、タイルの会社から、贈答品一般を扱う商事会社に変った。営業マンとして、小型オート三輪でかけずりまわってビジネスをした時代である。その会社の営業部長にまでなった。  そして、昭和三十三年に、独立して粟田商事を興した。カレンダーと扇子を主力商品とする贈答品問屋である。近所の主婦を内職に使って、扇子に紐《ひも》を通し、ビーズ玉をつけ、パラフィン紙の袋につめたあと、箱に入れるなんてことをさせた。夏場は来年のカレンダーに企業名を印刷して、一本一本丸めて包んだり。そういう仕事を瑞穂も手伝った。そうやって、少しずつ会社として軌道にのっていったのである。  静江が退院して家に戻ってきたのが昭和三十八年で、四十一歳になっての第二の人生であった。そしてその時瑞穂はもう三十六歳で、とうとう良縁を掴むことなくそこまできてしまっていた。 「結婚以来四十九年だよ。長いもんだ。いろんなことがあった」  と草平は言った。近頃そういうことをよく考えるのである。 「おとうさん、よく頑張りましたもの」 「いや、おればっかりが頑張ったわけではないんだ。なんと言うかな、時代全体が頑張っていたよ。日本がどんどん豊かになっていく中で、みんな大張り切りだったよな」  高度経済成長の波の中で、粟田商事も成長していったのだ。東京オリンピックの翌々年、草平は親から受け継いだ土地にこの家を建てた。  昭和四十三年には、近所の土地を買って、そこに二階建てのアパートを建てるにまで至っている。三年後にアパートはもうひとつ増えた。チャンスがあればそういう投資をしておくのが利口だというムードの時代だったのだ。そしてそれは実際うまいやり方だった。今となっては、新宿区で土地を買うなんてことは普通の人間にはまず不可能である。  静江が退院して母親代りの役目を終えた瑞穂は、小学校の給食のおばさん、という職を見つけてそこで働くようになっていた。草平夫妻にとっては恩人であり、なにかと助けあって暮してきている。最初のアパートが建った時から、その一室に申し訳程度の家賃で住んでもらっているのだった。  五十五歳で瑞穂は給食のおばさんをやめ、それ以後は病院の掃除の仕事をして今に至っている。生涯独身だったが、いつも明るい笑顔を絶やさない人柄であった。 「子供たちを順に結婚させて、ひとつずつ役目をはたしてきたよな」 「ええ」 「健一郎だけは、それを二度やらされたが、それはしょうがないとして」 「立派なものじゃないですか」 「四十九年だ」  そう言ってから、草平は静江のほうを見てちょっとすまなさそうな顔をした。 「それで、そういういろいろなことをみんなに考え直してもらいたくて、今度のことを決めたわけだ。こうするのが一番いいと判断してな」 「いいと私も思いますよ」 「うん。そう言ってくれるのはうれしいんだが、実はこのやり方に、ひとつだけ残念なところがあるんだよなあ」 「どういうことですか」 「ここでお前さんと離婚しちゃうわけだろう。そうすると、来年の金婚式ができんのだよなあ」  本当に残念そうな口調であった。 [#改ページ]   離婚届  やけにあわただしい春がやってこようとしていた。  粟田草平の孫たちのうち三人が、この三月に学校を卒業するのだ。健一郎のところの下の睦美が中学を卒業して、姉の千晶とは別の、だが似たようなレベルの私立女子高校に入ることになっている。  加寿子のところの下の弘樹も、中学を卒業する。四月からはかろうじて入れた都立高校へ通うのだ。  美津子のところの下の洋介は小学校を卒業して、家の近所の中学校へ行くようになる。太ってはいるが背が低いので、とても中学生には見えないのだが。  そんなわけで、何やかやごたごたしているうちに、一週間や二週間はすぐたってしまう。気がかりな問題があっても、それだけにかまけているわけにはいかないのだ。  しかし、何もしなければ事態がどんどん悪化するおそれもある。老人というのは思ったより気が短いものなのだから。  電話ではもどかしいから会って話そうということになり、大場加寿子は兄の健一郎の家を訪ねた。休日ではなかったが、健一郎は会社には出ずにマンションの自宅にいた。 「こんにちはー」  と言いながらリビングルームに足を進める。睦美がいて、黙って頭を下げた。 「睦美ちゃんもう学校はないの」 「はい」 「卒業式はまだでしょう」 「それは来週」 「そうなの。うちの弘樹なんかまだクラブ活動で毎日学校へ行ってるわよ」 「私、文化部だから」 「いらっしゃいませ」  と玲子が台所から出てきて頭を下げた。台所仕事をするのに、どうしてそんなにバッチリお化粧してるの、という考えを加寿子は言わずにのみこむ。 「お邪魔します」 「いいえ、わざわざご苦労様です」  ソファにすわっていた健一郎がテレビのスイッチを切る。 「これ、そこの果物屋のものだけど」 「ああ、どうもすみません」  メロンを渡してから加寿子は兄の前のソファにすわり、歩いてきたからくたびれちゃった、と言った。 「太ったからだろう」 「やめてよ。それは本人がいちばんよくわかってて気にしてるんだから」 「おれなんかもう、気にするのはやめたぞ。歳相応の貫禄《かんろく》がついてきたんだと思うことにした」  加寿子は、そうはいくか、という顔をする。  すぐに、玲子がお茶を出してくれるが、お菓子が安物のおかきだというのが気にいらない。せっかく今日が食べ頃っていうメロンを買ってきたのに、この人は出さないつもりかしら、なんてことを考えてしまう。 「歩いてくる途中に、木瓜《ぼけ》の花が咲いてる家があったわよ。もうそんな季節なのね」 「木瓜ってどんな花だっけ」 「いい歳してやめてよ。梅よりちょっと大きくて、桃色の、ちょっと肉厚の花びらじゃない。背が高くなくて、庭なんかにあるとちょっと和風でいい雰囲気よ」 「花の名前はわからんなあ」 「おとうさんの知ってる花は桜とチューリップくらいですもんね」  と玲子。  いつの間にか睦美は自分の部屋に退散したらしくいなくなっていた。姿を見せないということは、千晶のほうは学校にでも行っているのだろう。 「ヒヤシンスも知ってるぞ」 「変なものを知ってるのね」 「ただ、木瓜はわからんなあ」 「昔、うちの庭にもあったじゃない。ジョンの小屋の横のところに、竹垣にからませるみたいに」 「思い出せんなあ」 「なんにも見てないのねえ」  健一郎はお茶をすすり、加寿子の顔を見て、目尻《めじり》が皺《しわ》だらけになっちゃったなあ、と思った。 「花のことはどっちでもいいよ。それより、問題なのは人間のほうのボケだ」 「それよねえ」  すんなりと今日の中心話題に入った。最近ではそうたびたび会うというわけでもないのに、兄妹とは不思議なもので、いつでも、どこからでも、噛《か》みあった話ができるのである。互いに相手の根性の曲がり具合や、性格のゆがみ具合までわかっていて、それを気にせず会話できるのだ。 「親父が何を考えてるのかさっぱりわからないんだけど、とにかくあんな話を認めるわけにはいかんというのがおれの考えだよ」 「もちろんよ。いい歳をして離婚するだなんて、そんなこと通るはずがないもの」 「だけど、言ってわかるかどうかだよな。ボケかけて頑固になっちゃってるから、ひとの言うことをきかないかもしれん」 「子供たち三人で、きっちりと言いきかせるしかないんじゃないの。そんなことはダメなんですよって」 「うん。そうすべきだろうな。面倒だけど」 「うちのも、そういう非常識なことは認められないよって言ってるの」 「大場さんにもいっしょに言ってもらおうか」  健一郎にとって大場義光は義弟ということになるわけだが、歳がむこうのほうが上だというので、それなりに尊重する気持があった。 「うちのは、そういうこといやがらないわよ。家庭内がグラグラしてるのが一番よくないことで、ちゃんと筋を通さなくちゃ、という考え方の人だから」 「だから、早いうちにちゃんと機会を作ろう。電話とかでごちゃごちゃ言ってても、どうにもならんのだから。自分が何を言われているのかもよくわからんのだろう」 「そうなのよ。私、電話してみたんだけど、これは憲法の問題だとか、わけのわかんないことを言うだけだもの」 「なんだそれ。どうして憲法が出てくるんだ」 「だからおかしいのよ。離婚することが憲法にあってるんだって」 「うーん。かなりきちゃってるなあ」  健一郎は少しばかり深刻な顔をした。自分の子供が非行に走っていると知った時のような表情である。ここ数年、親を完全に自分より下のものと考える傾向が身についていた。 「昔はしっかりしたお父さんだったのにねえ」  加寿子も同様である。中年になるということは、親をみくびるということなのだろうか。 「だから、みんなでちゃんと言おうよ。美津子も顔を出して、子供たち全員、お父さんのむちゃは認められないからねと言い渡しておくんだ。ビシッと命令しとくわけだな」 「そうよね」 「できれば、大場さんにも同席してもらう。全員が同じ考えだとわかったほうがいいだろうからな。美津子のところは、高田さんが勤め人だから時間がとれないかもしれんけど」 「高田さんにもいてもらいましょうよ。あの人そういうこと好きそうだもの、きっと都合つけるわよ」 「まあ、それは彼の都合をきいて、ということにしよう。ただし、意見は確認しておいたほうがいいけど。おそらく、高田さんだって親父の言ってるむちゃな話には反対だろうからな」 「もちろんよ。誰だってあんなことには反対よ」  加寿子はおかきに手をのばし、バリバリと音をたてて食べながら、これじゃなくてメロンが食べたいのよう、と思っていた。 「そうやって、きっぱりとあきらめさせておかないと、勝手に何をしでかすかわからないからな。近いうちにそういう時間をとろう。わずらわしいけど、親がだんだんボケてくりゃ、これからもいろいろ面倒なことがあるかもしれんのだから」  一応この問題は終ったな、という顔で言った。 「でも、なんであんなこと言いだしたんでしょうね」  と加寿子は、茶碗《ちやわん》を茶托《ちやたく》に戻してから言った。 「それがわかれば苦労はしないよ」  ほんとに、という感じに深くうなずいてから、彼女は慎重に言い始めた。 「私、考えたんだけど、お父さん人生から降りたくなっちゃったんじゃないかしら」 「どういう意味だい」 「もう自分の役割は終ったと感じちゃって、ぜーんぶ投げ出したくなったんじゃないかと思うのよ」 「隠居するっていうことか。それだったらもうとっくにそうなってるだろう。会社のほうをおれにまかせた時から、事実上の隠居だからさ」 「そういうのじゃなくて、全部のことから切り離されたくなったんじゃないかなあ。地位も、責任も、家族の中の立場も捨てたいっていう」 「親父の言う、自由な身になるってやつだな。でも、そのためにどうしてお母さんと離婚しなきゃいけないんだろ。そこがおかしいだろう」 「だから、お父さんは仙人になりたいんじゃないのかしら」 「うっは。変なものが出てきたな」 「私、そんな気がするのよ。仙人みたいなものになって、すべてのことから切り離されたいと思ってるんじゃないかしら」 「世捨て人だな」 「どっちでもいいのよ。仙人でも、世捨て人でもいいけど、そういうものになって、家族を切り捨てたいんじゃないのかしら」 「家族をか」 「うん。だってそうじゃないんならお母さんと離婚する理由がないでしょう。そこまでやりたいっていうのは、これまで一生家族を背負って生きてきた、そのことを投げ出したいんだと思うのよ。そうやって仙人みたいなものになって、自由に放浪したり、酔っぱらったり、のたれ死にしたいと願ってるんじゃないかと思うの」 「家族を捨てちゃっての自由か。それで、離婚までしちゃうって」 「人生の疲れがたまっててついそんな気になったんじゃないのかな、よ」 「しかし、それはいかんよな」 「もちろんよ」 「許されんことだよな。人間には最後まで責任があって、仙人になられちゃ周りの者が迷惑だ」 「だから反対してるんだけど」 「うん。そういう我がままは通らんのだからな。ここまで生きてきて、今さらそれはないわけだ」  健一郎は断定的に言った。 「もちろんその通りなんだけどね。今さらお父さんに家族を捨てるなんて言われても、そんなの認められるわけないし、やめてもらうしかないんだけど、そういう一種の疲れなのかなあと思うのよ。そうだとしたらちょっとかわいそうな気もするわけ」 「それは違うと思うなあ」 「だったらどうしてあんなこと」 「あの法事の時、親父はなんか興奮気味だったじゃないか。おれは疲れたからリタイアする、なんていう感じじゃなくて、いいこと思いついたから決心した、だから誰にも文句は言わせんぞ、という様子だったろ」 「そうだったわよね」 「だからあれは、老化で自分のことしか考えられなくなっての我がままなんだよ。小さな子供と同じになっちゃってて、ほしいおもちゃがあればどうしても手に入れたいとダダをこねてるんだ」 「ほしいおもちゃって何?」  加寿子は何かを察知したのか、声のトーンを落した。 「おれもいろいろ考えてみてさ」  と健一郎も小声になる。 「離婚するってことは、やっぱりお母さんから自由になりたいっていうことだよな。お母さんとはこれまで通り仲よくしていくなんて言ってるけど、そんなことは変だろ。やっぱりそれは、男として自由の身になりたいってことなんだよ。そう言えばみんなに批難され、反対されるに決まってるから嘘《うそ》を言ってるだけさ」 「それ、どういうこと」 「つまり、親父は離婚したあと、誰かと再婚するつもりなんじゃないかな」 「そんなあ」 「要するに、好きな女性ができたんだよ」  もともとは玲子が言いだした仮説が、いつの間にか健一郎の考えだということになっていた。夫婦の間ではよくあることである。 「恋人か」  加寿子の声は更に小さくなり、秘密の香りにおののくような具合になった。 「どこかにそういう相手がいてだ、もう年を取っちゃってるから自制がきかず、なりふりかまわずそっちへ走りたくなっちゃってるんだよ」 「それ、もし本当だったら厄介よ」 「もう厄介だよ。そういうことに反対されると老人は怒りだすからな。お前たちとは縁を切る。何もやらん。すべてを新しい恋人にやる、とか言いだしかねんからな」 「大変じゃない」  加寿子の声が裏返った。 「そんなことになったら大問題よ。どうするの」  さて、仙人願望なのか女狂いなのか、である。    高田美津子はわざわざ上野の由緒ある洋菓子店に寄って、そこの名物のマドレーヌを四つだけ買った。これなら文句のつけようがない名の通った菓子だし、女性の一人暮らしのところへ四つ以上持っていってももてあますに決まっているのだから、これが最も利口なやり方なのである。  一流にこだわるケチ、という珍しい性格の美津子は、いつもそんなふうに、ひととはちょっと違うやり方をするのだった。  新宿まで出て、そこからバスに乗る。ほどなく降りて、歩いてやって来たのは、木造モルタル二階建てという味わいも何もないアパートだった。その、粟田ハイムの一〇一号室を訪問する。日曜日の午後だった。  ドアホンを鳴らすとすぐその人が顔を出した。 「こんにちは」 「ああ、美っちゃん。どうしたの」 「おばちゃんの顔が見たくなったのよ」 「そりゃあ、ありがとう。入ってちょうだい」  桜井瑞穂は嬉《うれ》しそうに客を通した。狭苦しいすまいだが、小ざっぱりと片づいていて気持がいい。突然訪ねてこれなのだから大したものである。 「電話してから来ようかと思ったんだけど、おばちゃん日曜日のこの時間にはいつもいるから」 「どこへも行くとこなんかないもん」 「はいこれ、おみやげ」 「ああ、ありがとう」 「長命軒のマドレーヌよ」 「じゃあお茶いれるわね。あ、紅茶のほうがいいね」 「なに紅茶?」 「なにって、ふつうのティーバッグよ」 「ああ、それか。うん、まあいいか」  瑞穂は手早く紅茶をいれ、マドレーヌをそえて客に出す。 「おいしいのよ、このマドレーヌ」  美津子にしてみれば、生まれてすぐから育ててもらって、一時は母親かと間違えていたほどの人である。気がねなく甘えられる相手であった。 「元気でやってるの」 「なんとか、おかげさまで」 「腰の痛いのは治ったの」 「あれは治るようなものじゃないもの」  来客を、心から喜んでいる様子だった。 「高田さんにはお変りないの」 「うん。今日は接待ゴルフに行ってるけど」  マドレーヌを食べ、紅茶を飲んで、美津子もすっかりくつろいでいる。食べ終って手をはたいてから、昔のままの甘えたような声を出した。 「ところで、今日はおばちゃんに、お父さんのことをききに来たのよ。何か知ってる?」  桜井瑞穂は紅茶カップを皿の上に置いて、落ちついた声で言った。 「おとうさんがどうかしたの」 「どうもこうもないじゃない。おばちゃんも法事の時の話はきいてたでしょう。お母さんと離婚するなんて言いだしちゃって」 「ああ、あの話かね」  少しも興奮するところがなく、むしろ面白がるような顔を瑞穂はした。 「何を考えてるんだか見当もつかないわよね。おばちゃんはあの話、前もって知ってたの」 「知らなかったよ。だからびっくりしちゃった」 「ふうん。おばちゃんも知らなかったのか」  美津子はちょっとがっかりしたような顔をする。瑞穂ならば、老人同士ということもあって何かきいているのかと思っていたのだ。それを確かめるために今日やってきたのである。 「お母さんから何かきいてるとかいうこと、ないの。どうもお父さんがボケちゃって困ってるとか」 「そんな話はきいてないもの。それに、おとうさんはちっともボケてなんかいないじゃない。体も丈夫そうだし」 「でも頭が丈夫じゃないわよ。急にお母さんと離婚するなんて言いだしちゃって」 「頭が丈夫じゃないっていうのは、変ねえ」  瑞穂は顔をほころばせた。 「美っちゃんは小さい頃からよくそういう面白いことを言って」  別にユーモアのつもりで言ってるんじゃないんだけど、と美津子は思う。どうも老人との会話はテンポが合わなくてまだるっこしい。 「だって離婚なんてむちゃくちゃでしょう。そんなの七十を過ぎた人間の考えることじゃないもの」 「いくつになったって離婚しちゃいけないってことはないだろうけどさ」 「あっ。おばちゃん賛成なの。えーっ、どうして」 「そうじゃないよ。ちゃんと理由のある人なら離婚だろうが何だろうがしていいっていうこと。おとうさんのことを言ってるんじゃなくて」 「じゃあまず確認しておきましょうよ。おばちゃんは、お父さんが離婚したいって言いだしたことを、どう思うの。したいならすればいいっていう考えなの」 「私は、そこへ口をはさむ権利もないけどさ」 「でも、感想はあるでしょう」 「もちろん、離婚なんてしないですみゃそのほうがいいと思うよ。おとうさんとおかあさんは仲よくやっているんだから、別れちゃうことはないよねえ。戸籍が別々になっちゃうのは寂しいことだからね」  瑞穂は迷いのない口調で言った。 「でしょう。そうなのよ。離婚なんて許されないのよ。誰だってそう思うのよね」 「でもね、それでもそんなことを言いだしたおとうさんには、何か考えがあるんじゃないかと思うけど」 「どーいう考えがあるのよ。教えてもらいたいわ。そんな変な考えがどこから出てくるのか」  美津子の見幕に瑞穂はややたじろぐ。 「おばちゃん」 「はい」 「紅茶もう一杯ちょうだい。マドレーヌもうひとつ食べるわ」 「あんた、昔から興奮するとものを食べるんだもんねえ」  瑞穂は立ちあがって流し台の方へ行く。 「そりゃあまあ、親が離婚するってことには、子供は反対でしょうけど」 「そういうことじゃないのよ。私が知りたいのはそんなことをする理由よ。何を考えたらそんな非常識なことが言えるわけ」  いつもは一個のティーバッグで二杯の紅茶をいれるのだけど、それでは美津子の気にいるまいと瑞穂は新しいティーバッグを使った。それをテーブルの上に出してもう一度すわり直す。 「私にも、おとうさんの考えがわかっているわけじゃないんだけどさ。ただ、考えがないのにあんなことを言いだす人じゃないってのはわかってるの」  瑞穂が粟田草平のことをおとうさんと呼ぶのは美津子が話相手だからで、その子が小さい時にずっとそう呼んでいたなごりである。そうでない相手と話す時には、粟田さんと呼んでいるのだ。 「だから、ボケちゃってて……」 「ボケようが何しようが、おとうさんはおかあさんと離婚するなんてこと考えるような人じゃないの」  美津子はマドレーヌにかぶりついてふがふが言う。 「おろーさんがおはーさんをそんはにらいじにしてるかひら」  お父さんがお母さんをそんなに大事にしてるかしら、である。 「もちろんそうだわよ。おとうさんは、おかあさんのことずーっと大事にしてきたじゃない」 「喧嘩《けんか》もしたよ」 「そんなのは別よ。あんたが生まれてすぐ、おかあさんは入院しちゃったのよ。それから十二年間も、家にいなかったんだからね。それでもおとうさんはおかあさんに文句ひとつ言うわけじゃなく、週に一度は遠い病院まで見舞いに行って、早くよくなれよってはげましていたんだよ。そういうことって、本当に優しい人じゃないとできないことなんだから」  瑞穂はしみじみとした声でそう言った。 「確かに、病気のお母さんに優しくしたことは知ってるけど。でも、今はなんとかお母さんも元気でやってるわけだし」 「元気だから離婚してもいいって言うの。そんなバカな」  自分の娘をたしなめるような口調だった。 「自分の病気がわかって入院した時に、おかあさんは離縁して下さいっておとうさんに言ったんだよ。妻としての役をはたせないんだし、子供たちにも手がかかるでしょうから、離縁して誰か別の人といっしょになって下さいって」 「へえ。それは初めてきく」 「そうしたらおとうさんは、バカなこと言ってないで早く治るように努力しなさい、って言ったんだよ。夫婦としてうまくやってきたんじゃないか。お前は子供たちの母親なんじゃないか。あの子たちを継母に育てさせたいのかって」 「ふうん」 「それで、男盛りの人が十二年も横道にそれないで、おかあさんの病気が治るのを待ってたわけだよ。仕事一筋にうちこんでさ」 「ちょっとぐらいは遊んだかもしれないけどね」 「そんなことは私は知らないよ。とにかく、浮気とかをするんじゃなく、いつ治るかわからないおかあさんを守り通したんだもの。なかなかできることじゃないなって、おばちゃん思ってるの」 「うん」 「そういうおとうさんが、どうして今さらおかあさんと離婚したいなんて本気で思うかしら。そんな無責任な人とは違うんだよ」 「だからわかんないわけじゃない」 「おばちゃんも、何も知らないからこうだとは言えないんだけどね。でも、そういうおとうさんが言うからには、何か考えがあってのことに違いないと思うの。私は、おとうさんは信頼していい人だと思うから」 「だけどなあ」 「それに、おかあさんの様子を見てても、これはそんなに心配しなくていいことなんだなってわかるじゃない。おかあさんは満足そうにしてたでしょう」 「ひとの言ってることがわかってるのかしら、っていう感じだったよね」 「わかっているのよ、ちゃんと。年寄りを見くびっちゃいけないんだから。二人とも、ちゃんとした考えのもとに行動してるんだと思うな。だからそんなにやきもきしなくていいのよ」  それが、この件に対する瑞穂の考えであるらしかった。事情はわからないが、何かわけがあるのだろうと信頼する、というわけである。  美津子は口をとがらせて考えこんだ。    しかし、桜井瑞穂の考え方は少数意見であった。  そうは言われても、肝心の、何をどう考えているのかがわからないのだから、心配しないでいるわけにはいかないよ、ということになる。瑞穂おばちゃんは人がいいから、誰でもすぐ信用してしまうのであり、それはある面立派なことだけど、いつでも通る意見ではない、と健一郎は言った。  それに、万一おばちゃんの言う通り、お父さんにちゃんとした考えがあるのなら、それをきちんと言ってくれなきゃ困る。誰にも説明しないで、自分だけ何かを考えてるったって、その考えがわかんないんだから。  ちゃんと話合いをする機会を作るべきでしょうな、と大場義光が提案した。兄妹でお義父さんのところへ顔を出して、何か考えがあるのかときいてみる。なるほどとうなずけるような考えがあるんならいいが、そうでなければ、子供たちとしては離婚を認めるわけにはいかないと、きっぱりと伝える。  私には、お義父さんが何を考えているのか興味があるんですよ、と高田勤が言った。何かわけがあってああいうことを言ってるような雰囲気があったでしょう。何を考えているのかなあ。  どうせ、ろくでもない考えですよ、と健一郎が言った。何か名案を思いついたようなつもりでいて、よく考えれば肝心な点がスコンと抜けてるような。  それはありそうだなあ、と高田も認める。信金の客の中にも、老人で、妙なことを言ってくる人がいますからねえ。預金したお金に利息がつくことだけ知ってて、借りたお金にも利息がつくってことはすっかり忘れていたりとかね。自分に都合のいいことだけしか覚えていないんです。  うちも多分そんなことでしょう。とにかく話をしてみるべきですね。皆さんご都合は。  というようなやりとりの末、三月の最後の日曜日に、粟田家の一族は父の家に集合した。  三人の兄妹が、それぞれ配偶者を伴って六人顔を揃《そろ》える。子供たちはつれてきていなかった。  そして、今までさんざん論議しつくしたことを、七十七歳の父に言うわけだ。  離婚なんて非常識だ。  なぜそんなことを言いだすのか。  何か考えがあるのか。  あるならそれをちゃんと説明してもらいたい。  みんな、やけにヒステリックになっていて、大きな声で言いつのったのである。  粟田草平は子供たちの話を黙ってきいていたが、それが一段落したところで、六人の顔をぐるりと見まわした。そして、うんざりしたような顔をし、それから、きっぱりとこう言った。 「もちろん、考えはあるさ」  草平の意気込みに、みんな思わず姿勢を正してすわり直した。 「どういう考えなんです」  長男の責任だという考えから、健一郎が言った。 「そんなに、ムキになりなさんなよ」  はぐらかすように草平は言い、子供たちに余裕の笑顔を見せた。 「考えもなしに、おかあさんと別れるなんてことを言いだすわけがないだろう。この歳まで、無事にやってきたんだからなあ」  そう言って、かたわらにひかえる静江のほうを見る。静江は黙って夫にうなずき返した。 「だけど、別れたほうがいいと思いついたわけだ。ちょっと突飛《とつぴ》かもしれんが、名案があってな」 「どんな名案なのか教えてくれなきゃ、こっちとしても判断できないじゃないの」  と加寿子が言った。  そうではなかろう、というふうに草平は首を横に振る。 「そこがおかしいんだよ。なんでおれの行動をお前たちに判断されなきゃいけないんだ。おれは別に、お前たちに何かを押しつけようとしてるんじゃないよ。健一郎の仕事の方針に口を出すとか、加寿子や美津子におれたちの老後の世話を頼んでいるわけじゃないだろう。自分の人生の決断をしているだけだ。別に、お前たちの許可を得る必要はないだろう」 「許可を与えるというようなことじゃなくて、家族としての責任のことですよ」  大場義光ができるだけ穏やかな口調で言った。 「家族が責任をとらなきゃいけないのは、子育てとかについてじゃないかね。自分の子がどう成長していくかについては、責任持って口を出して当然だよね。だけど、親のすることにあれこれ指図してくれんでもいいわなあ。考えがあるならちゃんとわかるように言え、なんて、子供が登校拒否でもしてる時の親の言いぶんじゃないか」  草平はあえて子供たちに逆らい通す考えでも持っているかのように、強い口調でがんばるのだった。  見かねて、静江が横から口を出す。 「みんな、心配しなくて大丈夫だよ。おとうさんが考えていることは、とってもいい名案なんだから。私が大賛成しているんだもの、そんな、誰かが困るようなことじゃないってわかるでしょう」 「だったら教えてちょうだいよ」  と美津子がじれたような声を出した。 「お義父さんの考えがしっかりしていることはわかってますけど、何か重大な考え違いをしているかもしれないっていう可能性もなくはないでしょうし」  高田勤は遠慮がちにそう言った。 「みんな、もっと正直になろうじゃないか」  草平は狙《ねら》いすましたかのようにその言葉を発した。 「本心をさらけてくれていいんだぞ。そうしないでおいて、非常識な行動は認められんとか、どういう考えを持っているのか判定してやるから言ってみろとか、ひとを子供扱いするような言い方をするから、おれだってそれは変じゃないかとヘソを曲げたくなっちゃうんじゃないか。常識だとか世間体だとか、大の大人に対して言うことじゃないだろう」 「お父さん……」  健一郎も、父親の見幕にたじろぎ気味である。その横で妻の玲子は冷たい表情でいる。 「認められるか認められんかという話じゃあるまい。お前たちが気にしていることは、損になるんじゃないか、ということだろう」 「いや、お義父さん、そういうことではなくて……」  大場義光は顔を赤らめて言った。 「いや、そういうことだよ。そう考えるのは当然のことで、おれもちっとも悪いとは思わん。父親が年取ってボケちゃって、財産運営に有利なのか不利なのかも考えずに変なことをするんじゃないか、と心配するのはしごくもっともなことじゃないか。いつかもらえるものが減るんじゃないかと浮き足だつのはあたり前のことだよ。なのに、その本音は隠しておいて、ただ、老人が勝手なことをするんじゃないと命令しようっていうのは、冗談じゃないわなあ」 「お母さん、なんとかしてよ。お父さんたら意固地になっちゃってるみたいだもん」  美津子がそう言うと、静江はニコリと笑った。 「私はおとうさんの味方ですもん」 「いや、お義父さんの話をきこうよ。損になるのかどうかというのは、確かに重要なことです」  高田勤は計算機のような顔になってそう言った。  うん、というように、草平は高田にうなずく。 「そのことだが、心配しなくていいんだ。これは、我ながら名案で、誰も損をしないやり方なんだよ。それどころか少し得しちゃうくらいでね」 「具体的に教えて下さい」 「それは、今まだ、事情があって全部話すわけにはいかんのだよ。もうひとつふたつ解決しとかなきゃいけない点もあってね」 「お父さん、それじゃあ話にならんのですよ」  健一郎はついに声を荒げた。 「だから、今はともかく、誰の損にもならんのだ、ということだけ承知しといてくれ。いずれ、こういう考えなんだと全部説明するから」  そして、草平は爆弾発言をした。 「そういうわけで、反対しても無駄だ。実はもう、おととい、区役所に離婚届を出してしまったんだよ」 [#改ページ]   財産分与  セントラル通商の社長に会ってくる、と言って粟田健一郎は会社を出た。時期が悪いから、もう少し待ってくれるように話してみると。  セントラル通商はレジャー・ビルをいくつか持っている中堅企業で、健一郎にカラオケのチェーン店をやらないかとそそのかしているところである。そこの社長の溝口という男が大学の同期生なのだ。  それで、確かに健一郎は中野にあるその会社へ行った。親父が土地を提供してくれないので、資金ぐりがむずかしいんだという話をする。  こういう話は、早い者勝ちなんだけどな、とそこの社長は言った。思いきってやってみるかどうかに勝負がかかっているのであり、その決断がつかないというんじゃ話にならんよ、という口ぶりである。せっかく目の前にチャンスがころがっているのに、それを掴《つか》もうとしないのはバカだよ、とでもいうような。  もう少し親父と話をしてみるがね、と健一郎は言った。その場では、親父がむちゃなことを始めたので大いに困っているのだという話は出さなかった。  今のままでは話は進展しないよ、という結論が出るばかりで、それ以上相談しても無意味だった。健一郎は通りに出て、腕時計を見た。二時半だった。  公衆電話で社に連絡をいれ、電話口に出た玲子にこう言う。 「最近オープンした店が横浜にあるそうで、ちょっとそこへ行って見せてもらうことになったよ」  そうしておいて、中央線で新宿に戻り、京王線新宿駅から電車に乗った。約三十分で、多摩市にあるその駅まで来る。  駅の裏口へ出て、商店街を少しばかり歩く。七階建ての雑居ビルがあって、その二階に�ビストロ華�というこぢんまりしたレストランがあった。エレベーターで二階へ上がり、健一郎は準備中の看板が出ているそのレストランへ入った。  えんじ色の制服を着た女の子が、意外そうな顔で声をかけてきた。 「あの、オープンは五時からですが」 「いや、そうじゃなくって……」  と言って健一郎はちょっと困ったような顔をした。 「えーと、粟田というものですが。シェフ、と言うのも変だな。オーナーの園川《そのかわ》さんはいますか」 「はい」 「ちょっとお時間とれないかきいてもらえないかな。粟田健一郎という者だって」  女の子が奥へ消え、健一郎は店内を見まわした。テーブルが六つしかない小さな店である。調度品が素朴な古めかしさを出していて、フランスの田舎の家庭的料理店といったムードを出していた。  そこへ、大きな声と共に顔立ちのはっきりした中年女性が姿を見せた。 「あらあ、どうしたの健ちゃん、珍しい」  糊《のり》のきいた白いブラウスの上に、白い巨大なエプロンをつけていた。 「いや、ちょっと近くまで来たもんだから。どんな様子かなと思って」 「珍しいわねえ。三年ぶりぐらいじゃない」  はきはきした口調が、昔と少しも変っていなかった。こうだったんだと、あらためて思い出す。 「仕事の邪魔だったかな」 「そんなことないわよ。この時間ならね」 「だったら、ちょっと話せないかな」 「一時間ぐらいなら大丈夫よ。近所の喫茶店へでも行きましょう」  そう言ってエプロンをとった。  行動力があるところが昔と少しも変っていないな、と健一郎は思った。  その女性、園川知佐子《ちさこ》は彼が昔三年間だけ結婚していて、離婚した相手だった。健一郎と同い年である。それだけではなく、中学校、高校と同じところへ通い、何度か同級生になったという仲でもあった。 �ビストロ華�のあるビルの、むかいの喫茶店に入った。 「ほんと、久しぶりよねえ」  それには答えず、健一郎は言った。 「お店のほうは、調子どうなの」 「なんとかやってるわよ。この辺、若い人が多いでしょう。そんな人たちの中に、常連客もできてて」 「大したもんじゃないか。さすがだね」  知佐子は満足そうに笑った。なんとなく、一軒の店を持つオーナーの貫禄《かんろく》のようなものがある。  実際、大した女性だとは思っているのである。健一郎と別れたあとは、恋人がいるかどうかまでは知らないがとにかく独り身を通していて、勉強をして、いくつかの店でコックの見習いをして腕をあげ、おまけにフランスへ何度も行って腕にみがきをかけ、とうとう自分のレストランを持つほどになっているのだから。フランス家庭料理風レストランのオーナー・シェフである。  活動派の女性だった。女だから家庭を守っていればいいなんてふうに考えるのではなく、私だって何かやりたい、と夢見るタイプなのだ。何か目標を立て、自分の力で実現するのでなきゃ人生面白くないじゃないの、と発想する。 「健ちゃんのほうこそ、どうなの」  知佐子は結婚していた頃、健一郎のことを健ちゃんと呼んだ。そして、今さら粟田さんなんていうのも変だから、健ちゃんでいいでしょう、ということになっているのだ。 「変りなくやってるよ。バブル崩壊のあとちょっと厳しい時があったけど、それももう落ちついた」 「そう。ちょっと太ったんじゃない?」 「中年太りだ。そればっかりはどうしようもない」  もと夫婦であるだけではなく、もと同級生だ。構えずにごく自然に会話することができた。  この行動力のある女性が友だちである分には、何もかもすべて好都合なのである。ただし、その人を妻にしてみたところ、すぐに失敗だったと後悔したのだが。  自分で自分の人生を運営していきたい、と希望する女性を、家庭内にしばりつけておくことは拷問に近いのだ。欲求不満で顔つきまでトゲトゲしくなってくる。  まだ二十代だった健一郎は、妻には家庭の管理者であってほしいと思ってしまった。ぬくもりのあるソフトな存在で、おれの支援者であってくれと望む。夫が主で妻が従と、自然に期待していた。それがもとで衝突ばかりしたのである。  家の中に男が二人いるようなもので、その結婚はやっぱり破局を迎えたのだ。  離婚してからは、もちろん会うこともなく全く無縁に生活をした。風の便りをきくこともなかった。ほどなくして健一郎は再婚し、子供もできて平和にやっていたのだから当然のことである。  ところが、九年前に、知佐子が今のレストランをオープンする時、開店案内の手紙が来たのだ。これだけはなんとしてでも成功させたいという思いで、あらゆる知人にそういうものを出したのであろう。  玲子にはそのことを言わず、健一郎は開店祝いの花籠《はなかご》を送った。そしてひと月ほどたってから、店へ客として行ったのである。  二十九歳の時に離婚してから、十一年目の再会であった。何のこだわりもなく話ができ、もと夫婦であったことはけし飛んで、もと同級生として気楽に口がきけた。  ただし、それ以後しばしば会うというほどの仲にもならない。やはりそれは変だもの、という自制も働くのだ。  ちょっとした客をつれて食事に来たことが二、三度あるか、というだけの関係である。この前二人が多少なりとも会話を交したのは、知佐子が覚えていた通り三年前のことである。  なのに、健一郎は玲子に嘘《うそ》を言って、今日ふらりとその人のところへ来てしまった。  そして知佐子は、相手の顔つきから何かを感じ取ってしまうのだった。 「ところで、どうしたのよ」 「え?」 「近くへ来たなんて嘘でしょう。何か迷ってることでもあるの。そんな顔をしているわよ」 「そうだったな。あんたには何でも見抜かれるんだった。忘れてたよ」  あの頃、家の中が面白くなくて外でうさを晴らしてくるようなことがあれば、必ず知佐子はそれを見抜いてしまうのだった。 「お子さんのこと?」 「そうじゃないんだ。それだったら普通なんだけど、その反対で、親父のことだ」 「ああ、お義父さん」  知佐子は懐しそうな声を出した。一時期、自分の義父であった人のことをよく覚えているという口調であった。 「お体の具合でも悪いの?」 「いや、元気でやってるよ。頭の中のことはわからんけど、とりあえず体のほうは丈夫なもんだ」 「しっかりした人だものね。昔の長男的気質っていうのかな。責任感があって、甲斐性《かいしよう》があって」  健一郎は小首をかしげた。 「ところがその親父も七十七歳になって、だんだんわけのわからんことを言うようになってきちゃったんだよ。実はおかしなことを強引にされちゃって、弱ってるんだ」  今回の騒動のことを健一郎は説明した。  理由がないままに離婚すると言いだした。  誰にも損はかけんのだ、と言っている。  そしてついに離婚届を出してしまった。  それでいて、おふくろと今まで通り暮している。 「あきれちゃうだろう。手がつけられんのだよ」  知佐子は興味深げに話をきき、小さく二度三度とうなずいてから言った。 「それの、どこが問題なのかなあ」 「だって、理由もないのに離婚だぜ」 「理由はあるんでしょう。はっきり言わないだけで。あのお義父さんだもの、何か考えているのよ」 「しかし、常識ってものがあるんじゃないか」 「そんなこと気にしなくていいんじゃないの。それこそ、子供じゃなくて文句のつけようがない大人のやることだもの。何をしようが勝手よ」 「でも、一人で生きてるわけじゃないんだぜ。子供や孫や、そういう家族のしがらみの中で人間は生きてるんだからさ」  健一郎がつい力をこめてそう言うと、知佐子は疑うような目をして微笑した。 「そんなことじゃないのよ。健ちゃんはもっと根源的なところでうろたえちゃってるんだと思うなあ」 「根源的なところって」 「おとうさんとおかあさんが離婚しちゃうってことにショックをうけちゃってるのよ。小学生か中学生の子供みたいに」 「そんなことはないよ」  健一郎は少しばかりムキになって否定した。  しかし知佐子はすべてを見抜いたような顔で言う。 「でも、結局そういうことじゃないの。子供が小さいうちならね、離婚をするかどうかっていうのはむつかしい問題だわよね。そのことが子供にはものすごく重大なショックなんだもの。両親が仲よくしててくれて子供は心が安定しているんだから。だから親の都合だけでそんなことしていいんだろうか、という話にもなるのよ」  私たちには子供がなかったからすっぱり別れられたのよ、という意見がこの発言にはこもっている。 「ところが、子供がもう育ちあがっているなら、誰に遠慮することもないのよ。別れたくなりゃ別れればいいでしょう。なのに健ちゃん、やたらショックを受けちゃってるのよ。家族がバラバラになっちゃうような、そんな寂しいことはやめてくれよって。違う?」 「そういう要素もないことはないよ。要するに、あんまり幸せなことじゃないのは確かだろう。おいおい、やめてくれよ、という気がするわな。でも、それだけで反対しているわけではない」 「反対することはないじゃないの。大人のお義父さんには自分の人生のことを好きなように決める権利があるのよ」  明解な口ぶりであった。自分がちゃんとあって、意見がしっかりしているのだ。小気味がいいほどのものである。  健一郎が、知佐子の意見をきいてみたくなったのは、その人のキレのいい割り切りぶりを参考にしたいと思ったからだった。プライベートなことまで相談できる信頼できる友人としての意見を求めたいのだ。 「しかし、ボケちゃってるのかもしれんのだぜ。そうであってもおかしくはない歳なんだから」 「ボケてなんかいないって。ボケた人は離婚なんかしようと思わないもの。もしボケていたとしたら、お義母さんと別れるでもなく、好きになった女の人のところへ入りびたったりするものよ。何がいいことか悪いことかもわからなくなっちゃって、気持のままに行動するんだから。そうじゃなくて、正式に離婚しようなんて言いだすのはボケてない証拠。お義父さんには何か考えがあるんだと思うな」 「その考えを、ちゃんと言わないから困るんだよ。どういうバカなことを考えてるんだか判断がつかないんだから」 「きき方が悪いんだと思う」  知佐子は断定的に言った。 「兄妹が顔を揃《そろ》えて、いったい何を考えてるんですかっていう調子に問いつめたんでしょう。そんなきき方はよくないわよ」 「問いつめたくもなるぜ。言ってることがあんまりむちゃなんだから」 「でもよくないのよ。それこそ、お義父さんのプライドってものがあるじゃない。お年寄りだからこそ、それって大切なことよ。自分の考えは誰にも受け入れられないのかって、ムキになっちゃうんだから」 「そういうところは確かにある。この頃どんどんそういう傾向が出てきてるな」 「それなのに、子供たち三人が声を揃えてぎゃんぎゃん言ったら、意固地にもなるわよ。親を子供扱いしちゃ、失礼なのよ」 「なら、どうすればいいと思う?」 「健ちゃん一人で、一対一で話をしてみるべきじゃないの。男と男の腹を割った話をすれば、お義父さんだって考えをしゃべってくれるんじゃないかしら」 「一対一でか」 「父と息子の会話よ。ちゃんと相手の人間性を認めて話をするの」 「なるほどな。うん。長男としては、その責任があるかもしれんな」  健一郎はそう言って、うなずいた。 「そうすれば、ちゃんと話をしてくれるような気がするな。私にはなんとなくそんな予感がするんだけど、お義父さんの考えてることって、きっとそんなに間違ったことじゃないんじゃないかなあ」 「どうして」 「だって、そんなに身勝手な人じゃないもの。あのお義父さんって、ホットな人柄よ」 「そうかなあ」 「そうなんだって。私、お義父さんにはいい印象持っているの。ああいうお舅《しゆうと》さんだったのはよかったなあって」 「へえ」 「私と健ちゃんが別れる時に、お義父さんが私に言ったのよ。こうなったことは仕方がないと思う。だけどこの先何か困ったことがあったら相談に来ていいんだよって。義理の仲とはいえ、一度は親子ということになったわけなんだから、何かあればいつでも来なさいって。力になれることがあるかもしれないってね」  それは健一郎が初めてきく話だった。 「もちろん、あれから一度もお目にかかってないわよ。まあそうだわよね。でも、あの時にそう言ってくれたのは忘れられないわ。お義父さんって、そういうホットな人柄の人なのよ」    その夜、帰宅した健一郎を待っていたのは、興奮した玲子のカン高い声であった。 「お義父さんがどんどん勝手なことを進めてるんですって。あなた、どうにかしてよ」 「何を進めてるんだ」 「お義母さんとの、財産の分割よ」 「えっ、そこまで話がいってんのか」  ネクタイをはずしていた手が一瞬止まるほど健一郎は驚いた。 「美津子さんから電話があったの」 「うん」 「美津子さん、今日お義父さんのところへ行ってきたんですって」 「そうか」  カジュアルなシャツとズボンの姿になって、健一郎はリビングのソファにすわった。  夫の脱いだ服を片づけるでもなく、興奮気味の玲子はついて歩いて自分もソファに。 「そしたら、お義父さんが弁護士の田崎さんを呼んで相談していたらしいのよ」 「田崎の、息子のほうか父親のほうか」 「お爺《じい》さんのほうの」 「やっぱりそうか。あの親父のほうじゃ、もうダメなんだけどな。判断力が鈍ってて、何でも依頼人のいいなりだろう」 「だからこういう時には都合がいいんじゃないの。そういう人を公証人に立てて、お義母さんとの間で財産を分けてしまおうというのよ」 「どうやってだ」 「土地を譲るという方式にするみたいよ。美津子さんも細かいところまではわからなかったようだけど、今の家の建ってる土地をお義母さんに譲って、名義を書きかえるつもりらしいわ。それでまだ半分に足りない分は、家や、アパートの名義を譲るとかして調整しようということらしいんだって」 「まず家と、そこの土地だな。うん、それだけでは多分、半分にならんだろう。二つのアパートの土地の合計のほうが広いからな。それで、上物《うわもの》のアパートをつけるとかするわけか」 「そんなことって、できることなの」 「そりゃあ、できるだろうなあ。もう離婚しちゃってるんだからな。離婚して、夫婦が財産を分けるのはちっとも変なことじゃない。二人の間で話がつけば、財産の半分までは、それを築く上で妻の役割も大きかったということで、問題なく譲ることができるはずだ」 「問題なくってどういう意味?」 「つまり、それは当然の取り分であって、贈与ではないんだから贈与税がかからないということだよ。無税で財産を半分ずつにできるんだ」 「それって、得なことなの。それとも損になっちゃうことなの」  妻のあからさまな質問に、健一郎は少しばかり複雑な顔をした。 「得か、損か、か」 「だって、お義父さんが言いだしたことなのよ。これはみんなに損をかけるやり方じゃないんだって」 「そうだけどな。おれにも細かいことまではわからんのだが、原則的には損にはならんと思うがな」 「そう」  ほっとしたような顔をした。 「無税で財産を二つに分けるわけだ。それで、離婚しようが何しようが、二人がおれたち兄妹の親であることには変化はない。だからどちらも、死ねば法定相続人はおれたち三人しかいない。半分ずつになったものが、二度にわたって三分の一ずつ三人の子供に残されるわけで、結局、二人の親の財産は最終的には子供たちのところへ全部受け継がれるわけだよ」 「そうか。離婚しても結局、子供の取り分はいっしょなのね。じゃあ、相続税のほうはどうなの。それが多くなっちゃうようなことはないの」 「それは一度詳しく調べてみないと、よくわからんな。そういうことは、高田さんが詳しいだろうからきいてみようか」 「高田さんならよく知っていそうね。あの人、お金の計算に強そうだもの」 「信用金庫に勤めてるんだものな」 「そうじゃなくても、性格的にそういうこと好きそうじゃない」  なるほど、と妙な納得をする健一郎だった。 「しかし、やっぱりおかしいよな」  考えこむように健一郎は言う。 「お義父さんのやってることがでしょう」 「そうじゃなくて、この事態がだよ。親が離婚しちゃうというような大変な、いや、そう大変なことじゃないのかもしれんが、とにかく大きな変化だよな。そういう大きなことがあるというのに、子供であるおれたちがその理由を知らないんだよ」 「お義父さんが言わないんだもの」 「それが、おかしいと思うんだよ。子供として、どうもよくわからないではすまされないことだよな。それはやっぱり、きちんと考えをきかなきゃ変だよ」 「まあそうだわよね」  一対一で、親父と話をしてみよう、と健一郎は決意した。それが今一番大切なことだ。  とにかく、わけを知らなければならない。たとえばその結果、再婚したい相手がいるんだというようなショックな話が出てくるんだとしても、でもやっぱりその事実を知らなければならない。    高田勤はその計算をしてみた。 「すごく大ざっぱな計算なんだけどね。そもそもの、財産総額がよくわからないから。正しくは、路線価を調べて、きっちりと土地の評価額を出さなきゃいけないんだけど、そこは概算だ。家の土地が約四億円で、二つのアパートの土地が約六億とした」 「路線価って、実際に土地が売買される値段よりだいぶん安いんでしょう」  と美津子は言った。 「普通はそうだよ。バブルがはじけた直後は、地価がぐーんと下がって、路線価のほうが実勢価額より高いなんてこともあって、みんなが苦しんだ。つまり売る値段より高く見積りされて税金がかかるわけだから。でも、最近ではかなり修正されてきているんだ」 「じゃあ、ほんとの計算の時は合計十億まではいかないかもしれないわね」 「そうだけど、そのほかに家や、二つのアパートもあるわけだよ。預金や株や、保険金なんてものだってあるだろうしね。そういうのを合計して、そこから借金の分や、葬式費用なんかを引いたのが、課税対象額になるわけだ。家やアパートも馬鹿にはならないから、ここはざっと十億円が相続されるんだとして計算してみたよ」 「どうだったの」  好奇心まる出しの顔である。 「それが、驚いたことに、離婚したほうが税額が少ないんだよ」  えーっ、と顔がほころんじゃう。 「でもあなた、この前はかえって税金が高くなっちゃうって言ったじゃない」 「あれは、あの時思いついた架空のやり方について言ったんだよ。夫婦が何度も何度も離婚再婚を繰り返して、そのたびに財産を半分ずつ妻にやって、結局十億円すべてを妻に無税で渡しちゃったとしてさ、それは一見、すごい節税みたいだけど、よく考えたらその妻のほうが死んで子供に相続される時にドカッと相続税がかかるからかえって損だという話」 「ああ、そうか。そういうバカな話ね。そうじゃなくて、ただ別れただけなら得になるの? 結局同じことだって言ってなかった?」 「同じだろうと思ってたんだよ。えーとね、離婚しないでまず歳の順にお義父さんが亡くなったとして、普通に相続すれば、妻であるお義母さんが二分の一、三人の子供が残りの三分の一、つまり全体の六分の一ずつ分けるんだ」 「一人、約一億七千万円ね」  美津子もそういうことにはわかりが早い。 「うん。それで、三人の子供は相続税を取られるけど、妻は配偶者控除で無税だよ」  しかし、親が死んで結局いくら税金を取られるのかの計算を、喜々としてやっているこの夫婦もちょっと変ではある。変ではあるが、誰だってそれを考えないはずがないでしょう、というのも事実である。 「その何年か後に、今度はお義母さんが亡くなる」 「うん」 「その時に、使って減っちゃったということもあるだろうけど、全体が大きいからそれは考えないで、五億円が相続されるとしよう」 「年寄り一人の生活だもの、アパートの家賃で十分にやっていけるから、財産は減らないのよ」 「うん。そう考えよう。するとその時は、三人の子供が三分の一ずつ相続することになるだろ」 「五億円のね。そうか、その時また、約一億七千万円か」 「結局は、三人の子供が十億を三等分して、三・三億円ずつ分けることになるわけだ」 「当然よね」 「それが、何もしなかった場合だよ。ところが今、その夫婦は離婚をしちゃったんだ。そして、財産を五億ずつに分けてしまう。もちろん、これは贈与ではなくて、正当な財産分与だから無税だよ」 「どっちにしてもお母さんには五億円が無税で渡るのよね」 「そうだよ。だからこの前は、税額は同じかな、と思っちゃったんだ。さて、五億ずつ持っている両親が、順番に亡くなったとして、子供にはその都度三分の一ずつが相続される」   「さっきと同じよ。一億七千万円ずつ二回だわ。結局は三分の一が子供のところに来るのね」 「そうなんだけど、問題はその時の相続税だ」  そう言うと高田は、立って鞄《かばん》の置いてあるところへ行き、その中から何枚もの紙きれを出した。それを持ってテーブルのところに戻る。 「会社で計算してみたんだよ」  紙きれには、細かな数字がびっしり書きこまれていた。 「どうなの、どうなの、どうなるの」  上の子はアルバイトで外出中で、下の子はテレビに夢中になっているとは言うものの、親のこういう姿は必ず子供たちに何らかの影響を与えるのだけれど。 「まず離婚しない方式ね。えーと、この紙だ。その場合、まずお義父さんが亡くなると、子供たちには、一人当たり約五千五百七十万円の相続税がかかる。三人合わせて一億七千万円ほどだね。それで、もちろんお義母さんは無税」 「約一億七千万円もらって、五千六百万円弱の税金か。かなり取るのよね」  美津子はその数字にもう不満顔である。 「えーと、それでまた、その数年後にお義母さんが亡くなったとする」 「その時も一億七千万円ずつの相続ね」 「そうだけど、税額はちょっと違う。この時は兄妹一人あたりの税額が、約四千百万円ずつで、合計一億二千三百万円でいいんだよ」 「同じ額を受け継いで、どうして税額が違うの?」 「それはややこしい話なんだけど、計算の元になる金額が、一回目は十億円、二回目は五億円というふうに差があるからなんだ」 「でも、十億円のうち、お母さんの分の半分は無税なんでしょう」 「そうだよな。誰だってついそう考えちゃう。ところが相続税って、妙な計算のしかたをするんだよ。まず十億の相続総額に対しての仮税額っていうものを計算で出して、それからその仮税額を、実際に相続した人数に、もらった比率であん分するんだ」 「あん分って?」 「率に応じて分けること」 「だってお母さんは半分もらっても控除でしょう」 「とりあえずお義母さんの税額も計算で出して、それからその金額を控除だからというんでゼロにしてくれるんだ」 「うーん、ややこしいわねえ」  美津子はギブアップ寸前までいったのだが。 「わかりにくいんだよ。でも、そういう計算でいくと、まず十億に対する仮税額を出して、子供一人はその仮税額の六分の一を払えとくるわけだ。それに対して二回目は、五億に対する仮税額の、三分の一ずつということになる」 「あっ、なんとなくちょっとわかるような気がする。そういうのって、税率が違うから、もとが大きいほうが損なのよね」 「そういうこと。というわけで、二回目の時は一回目よりも、一人あたり千五百万円ぐらい、三人合計でなら四千五百万円ぐらい税金が安いの」 「なんとなくわかったような……」  高田はうん、とうなずいてから、三枚目の紙を取り出した。 「ところがだよ。お義父さんとお義母さんが離婚して、それぞれが五億円ずつの財産家になったわけだよね。そして、順番に亡くなるとする」 「わかった!」  美津子ははしたなく叫んだ。 「その時は、どっちの場合も計算の元が五億円だということになるわけでしょう」  高田はニッコリ笑ってうなずいた。 「そういうことだよ。ちょっとの差のようだけど、案外バカにならないんだ」 「結局、いくら得になるの」 「だから、離婚方式でいけば、どっちが亡くなった時も、何もしない方式の二回目の税額になるんだよ。一億七千万円もらうごとに、四千百万円の税額。それが二回あるわけだ」 「つまり、えーと、結局、一回目の分の差だけ得になるのよね。一人につき千五百万円で、兄妹三人合計では四千五百万円のもうけ」 「計算上ではそうなる」 「つまり、お父さんはそこを考えて離婚したわけなのかしら。税金が安くなるからって。そして実は二人が仲よくいっしょに暮していればいいじゃないかって」 「そうかもしれないね。自分で計算して、こんなに得なことならやらなきゃ損だと思っちゃったとか」 「サエてるじゃない、お父さんも」  だが、そこで高田は虚《むな》しく首を横に振ったのである。 「ところが、ダメなんだよ。そのやり方は通用しないと思うんだ」 「えっ、えっ、えーっ。どうしてよ。今計算して、得になるんだって言ったじゃないの」 「税務署はそんなやり方を見逃してくれるほど甘くないんだよなあ。ちゃんと決まりがあるんだ」 「どういうことよ」 「つまり、節税のための偽装離婚だろう」 「うん」 「こういう決まりがあるんだよ。これは、税金に詳しい袴田課長に教えてもらったんだけどね。えーとね、その離婚が、実は離婚を手段として贈与税や相続税を免れようとするものであると認められる場合においては、その離婚により取得した財産は、贈与により取得した財産として取り扱う」  ガクーッ、と美津子はうなだれた。 「ダメなの……」 「多分ね。いっしょに仲よく暮しているんだもの。どう見たって偽装離婚だろ」 「そうすると、あ、ちょっと待ってよ。それ、ひどいことになっちゃうんじゃないの。お母さんに分与したつもりの五億円に贈与税がかかってきちゃうんでしょう」 「その辺のことは、実際にどうなるのかよくわからないんだけど、やっぱりモメるだろうなあ。贈与とみなされてしまう可能性もある」 「そんなことになったら大変じゃない。贈与税の税率って高いんでしょう」 「うん」 「絶対にやめさせなきゃ。もう、お父さんの考えることなんてろくなもんじゃないわよ。いいアイデアかなあと思わせといて、実は穴だらけなんじゃない」  美津子はふくれっ面でそう言った。 [#改ページ]   再婚希望  大場義光は風呂《ふろ》からあがると居間へ来て、息子の弘樹が読んでいた新聞をひょいとひったくった。弘樹は父にきこえないように舌打ちをしたが、文句を言いはしない。  その新聞は夕刊であり、今日の夕刊にはまだ父が目を通していないのだから、子供たちに先に読む権利はないのである。先に読んでも叱《しか》られるわけではないが、父がそれを読みたい時には無条件にさし出さなければならないのだ。それが大場家のルールであった。  新聞にざっと目を通し、それからテレビ番組欄を見て、リモコンでチャンネルを変える。  見ていた番組をいきなりニュースに変えられた弘樹は、あきらめ顔で立ちあがった。自分の部屋にも小型テレビがあるので、それを見ようというわけである。  その弘樹に、大場は言った。 「冷蔵庫からビール持ってきてくれ」 「ビールだけでいいの」 「ビールと言われたら、コップと栓抜きをいっしょに持ってくるもんだろう」  しらけた顔で、でも一応言われた通りにする。  シャツとズボンとカーディガンという姿で、大場は新聞を団扇《うちわ》代りにパタパタとあおいだ。  来たビールの栓を抜き、コップに注ぐ。 「お前、ビール飲めるのか」  何気なく息子にきく。 「飲んじゃいけないんじゃん」 「でも、体験したことはあるんだろう」 「あるけど、うまいとは思わなかった」 「そうか。まだ飲めるかどうかはわからんな」  本当は、日本酒のほうがうまいな、と思っている弘樹であったが、それを親に言いはしない。 「とにかく、十八歳になるまではお父さんの見てる前では飲むな。十八になったら、親子で飲もう」 「酒飲んでいいのは二十歳になったらだよ」 「うちにはうちのルールがあっていいんだ。うちでは、十八歳で親子酒なんだから」  勝手な意見だなあと、弘樹は口をとがらす。  そこへ、台所にいた加寿子が顔を出した。 「今日、美っちゃんから電話があったのよ」 「へえ」 「お父さんのことで」 「何だって」  加寿子は夫の前に尻《しり》をおろす。その機会を利用して弘樹は自分の部屋へ退散した。 「お父さんが、財産を二つに分ける手続きをしているんですって」  大場は真剣な顔になり、そうか、と言った。 「やっぱり本気なんだな。もう後戻りはできんか。そこまでやるわけか」  詳しい話、といっても伝聞であり、第三者の推量が入っていたりするのでどこか肝心のところがぼんやりしているのだが、それを加寿子からきいて、大場は考えこむ顔つきをした。 「やっぱり本当に離婚したわけだ」 「ええ」 「最初からそう言ってたわけだけど、どこか本気じゃないような口ぶりで、深刻に受け止めなくていいのかな、という気がしたじゃないか。でも、やっぱりそうはいかんのだよ。財産まで分けるというのは、決定的な離別だわな」 「そうよねえ」 「理由はよくわからんが、もう引き返せないところまで来てしまったんだ」 「変な話よねえ」  大場は腕組みをして、うーんとうなった。考えごとをする時の彼の癖である。腕組みをして、一家の主人として、大人の男の思考をするのが癖なのだ。 「この先、いろいろ問題が出てくるだろうな」 「たとえばどんな」 「いろいろだ。それで、うちがお義母さんを引きとるってことも、考えておかなきゃいけない」  加寿子は大いに驚いた顔をした。 「どうしてなの」 「だって、年寄り夫婦が離婚しちゃったんだぞ。今は二人とも健康だからひとつの家に住んで最小限度かかわるだけでやっていけるけど、どっちかが寝こんだりすればいきなりどうしようもなくなるだろう」  そうか、と、思考の盲点をつかれたような顔で加寿子はうなずく。 「どっちかが、それとも両方が病気で倒れでもしたら、誰がその面倒を見るのか、だよ。長男の健一郎さんのところにもちろんまず責任がまわるだろうが、両方引きとるってのも変じゃないか」 「変かしら」 「世話する側から見れば父と母だけど、その二人は別れちゃってて他人なんだぞ。与える部屋だって別々にしなきゃ変だろう。健一郎さんのところだけに、それを全部押しつけるわけにはいかんのじゃないか」 「そうか。それだと、お兄ちゃんのところだけが全部面倒見るってことになるものね。玲子さんはやるって言うかもしれないけど、負担が片寄りすぎよね」  これを言う時、加寿子の頭の中にチラリと浮かんだのは相続のことであった。老後の、寝たきりになってからの面倒を見たところへ、遺言によって遺産が多く与えられる、というのはありがちなことだという気がしたのである。同じようなことを考えているのかどうか、大場は言った。 「だからうちだって何かしなくちゃいかんよ」 「それはそうかもね」  すべてのことを玲子さんの手柄にされてはたまらない、という思いで加寿子はそう言った。 「だろう。長男がその責任で寝こんだ父の面倒を見るのならば、長女としては母のほうの面倒を見るのが当然だろう。仮に寝こんでないとしても、一人では不便だろうし、心細いだろうし、同居させてあげるのが筋ってもんじゃないか」 「うちにとって気楽なことではないけれどもね」 「家が狭いとか、そういうことか」 「そういうことも含めてよ。子供たちが一人前になって独立していくのにはまだまだ間があるし」 「だけど、できんことではないだろう」  大場義光は熱っぽくそう言った。人間として、男として、長男としての責任、なんてことにはつい力が入ってしまう人柄なのである。 「本当は、おれも長男で、大場家ってものを背負って立たなきゃいけない立場にあるんだ。親の面倒を見て当然なんだよ。ところがたまたま、両親とも早くに亡くなってて、のん気にしていられるわけだ」 「それはわかってますよ」 「だから、実の親の世話をする代りに、粟田家の親の一人ぐらいは引き受けてもいいじゃないかと思うんだ。そのためにちょっと増築するくらいはなんでもないことだし」  仕事が建築関係だから、その辺のことは気楽なものである。 「あなたには負担をかけて悪いけど」 「粟田家の問題だからか。そんなふうには考えなくていいよ。お前の親のことじゃないか。責任を分担するのが当然だよ。おれは、そういう責任はちゃんとはたしたいと考える人間だ」 「はい」 「もし健一郎さんのところがいやだと言うんなら、両方引きとってもいいぐらいなんだけど、その二人が離婚してるというのがややこしいわな。やっぱり、別々のところが世話するほうがまともだろうなあ」  今回の事態について、大場義光が導きだした結論がそれであった。  義父母の離婚→いずれは別々に面倒見なきゃいけない→片方をうちが引きとろう。  それについて加寿子は、なるほど夫の言う通りだと思いつつ、そうすれば何もしない美津子のところよりは遺産が多くまわってくるかもしれないということを、考えないと言えば嘘《うそ》になった。  どっちかを世話するということならば、おとなしいお母さんのほうが楽かな、とも思う。 「ただいま」  と、娘の真奈美が帰宅した。  真奈美は居間をチラリとのぞいて、マズいな、というような顔をした。遅く帰って、両親が顔を揃《そろ》えているところへぶつかってしまった運の悪さを、ツイてないなあ、と思うわけである。  すぐさま退散しよう、と思ったが、加寿子が声をかけてきた。 「遅かったねえ」 「外でご飯食べてくることは電話で言ったでしょ」 「そうだけど、誰と遊んでたの」  それをちゃんと知っておくのが親の義務だ、という顔で加寿子は尋ねる。その通りだ、という顔で大場義光は黙っている。 「高校の時同級だった香織《かおり》と会ってたの。久しぶりだったからいろんな話をして」 「香織って、今、ファッション・スクールの?」 「そう。その香織」  そう答えて真奈美はとりあえず自分の部屋に引きこもる。隣の弘樹の部屋からは、かすかにテレビゲームをしているらしい音がもれている。  ジーンズとトレーナーという姿に着替えて、鏡で自分の顔を見る。老けちゃったよなあ、と思う。  それから、ベッドの端にすわって考えた。  ちょうど、両親が揃っていて、邪魔くさい弘樹は自分の部屋にひっこんでいるのだ。いいチャンスかもしれない。  香織との話で、そういうのって、どこかでちゃんとケリをつけておかなきゃ面倒だよ、という結論が出たのだ。あとまわしにしとくほど話がややこしくなるんだからと、相談して決めたのだ。  今がその時かもしれない。  真奈美は唾《つば》をごくんとのみこんで、ベッドから立ちあがった。  居間へ行く。両親が揃ってテレビを見ていた。 「ねえ、ちょっと話があるんだけど」  どちらに言うともなく言った。 「どうしたの」  と答えたのは母だった。 「お父さんにもきいてもらいたいんだけど……」 「何だ」  と大場は警戒するような声を出した。  まずいなあ、なるべくさりげなく、するりん、と言いたいんだけどなあ。 「今度、都合のいい時に、会ってもらいたい人がいるのよ」 「誰に会うの」  真奈美は腹を決めて一気に言った。 「あのね、結婚したい人がいるのよ。その人に一度会ってくれない」 「なに!」と大場は大声を出した。    離婚の手続きを正式にしてしまった後も、草平と静江はひとつ家に仲よく住んでいた。二人分の食事を静江が用意し、それを二人で食べる。テレビを見ながら何やかや話もはずむ。全自動洗濯機だから楽なのだが、二人分の洗濯をしているのは静江だ。  二人の生活に、以前と変ったところはひとつもなかった。  桜の木がもうすっかり青葉になり、もうじきツツジの咲く季節であった。離婚以来ひと月近くたっていた。  草平は自分用の小さな机の上にノートを開いて、鉛筆で何か文字を書きつづっていた。窓から陽のさす居間の一角である。  静江がゆったりと歩いてきて、籐《とう》椅子《いす》の座布団の上にすわった。 「テレビをつけていいですか」 「いいさ」  リモコンでテレビをつけ、静江はNHKの、型染めの技術の入門編を見る。そういう趣味をもっているわけではないのだが、木を削って写真立てを作ったり、紐《ひも》を編んでバスケットを作ったりの、素人向け教室の映像を見るのが好きなのだ。実際には彼女は、洋裁も編み物も袋作りもしない人間である。  草平はただ黙々とノートに何か書いている。鉛筆の芯《しん》が丸くなると、手動式の鉛筆削り器でガリガリと削る。字を間違えると、使いこんで黒ずんでいる消しゴムで消す。鉛筆削りのほうはその昔加寿子が、消しゴムは美津子が使っていたものだ。  趣味の染め物の番組が終って、静江はテレビを消した。すわったままで草平に言う。 「今日は何を書いてるんですか」 「やってることの記録だよ」  と草平は答え、鉛筆を持つ手の動きを止めた。その答ではわかりにくいと思って、言葉を足す。 「今度の、離婚のことや、その後の手続きのことや、子供たちがいつ何を言ってきたなんてことを、全部記録しとこうと思ってるんだ。ちゃんと書いとかんと忘れちゃうからな」 「ええ」 「細かいことを忘れちゃうのは、まあしょうがないとしても、事務的なことだけは手ぬかりなくきちんとやらなきゃいかんからな。それで、今後の段取りなんかもちゃんと書いておくんだよ」 「そうすれば間違えませんものね」  と言って静江は笑った。 「冗談じゃなく、この頃大きなことをポカッと忘れてたりするからなあ」 「おとうさんはいいですよ。そうやってノートをつけたりして、自分で自分を監理しているから」  心から信頼する口調であった。  お茶をいれましょうか、と静江が言い、コーヒーのほうがいいなあ、と草平が答えた。コーヒーといっても、老人世帯にコーヒー・メーカーなどあるわけもなく、インスタント・コーヒーとクリープにお湯を注いだものである。それに砂糖とビスケットを添えて静江は出した。  一口飲んで、草平はうまそうにうなずく。それから、思い出したようにこう言った。 「ところで、どんな気分だね」 「何がですか」 「離婚してみてだよ。今は形式的には、おれとあんたは夫婦ではないんだからね。どんな気がするかね。寂しいかい」 「なんにも変りませんよ」  静江は落ちついた口調で答えた。 「離婚したって、今までとまったく同じ生活なんですから。生活には何の関係もないことでしょう」 「そうなんだけど、気分的に寂しいんじゃないかなと思ってさ。そうだとしたら、悪いことをしたのかなあと思うわけだ」 「おとうさんが言ったじゃないですか」 「何をだい」 「四十九年間の仲だって。四十九年もいっしょに生きてきたんですよ。私が入院していた時もあるんですけど、それでもとにかく四十九年です。もう、この生活が人生そのものですよ。お役所の書類の上でどうなっていようとも、そんなことは少しも気になりませんよ。これが幸せな生活なんだから」  そうか、というように草平はうなずき、満足そうに笑った。 「ずーっとこういう生活をしていければ、それが一番幸せなんですけどねえ」  静江は窓の外の庭に目をやって、つぶやいた。 「どういうことだ」 「こうして、二人で暮していければ一番いいじゃないですか。それ以外には何も望まないですよ」 「おれは、もちろんその気でおるんだぞ」  草平はちょっとあわて気味に言った。 「形式的に離婚しようが、この先何をしようが、二人でこの家に住んでいくことには変化はないんだ」 「そのことじゃありませんよ」  静江は夫の勘違いに気づいて、手を否定の形に振った。 「今度の離婚作戦のことを言ってるんじゃないんですってば。そうじゃなくて、私たちもこの先、病気で寝こんだりするかもしれないじゃないですか。縁起でもないことを言っていけませんけど、そういうことも考えておかなきゃいけないでしょう。おとうさんだって歳だし、私は弱いし」 「病気のことか」  草平は力なくそう言った。 「そういうことも、ないとは断言できんけどな」 「一応考えておくべきでしょう。もしおとうさんが寝たきりになったら、私が世話するつもりですよ。ですけど私も丈夫なほうじゃないから、共倒れになっちゃうかもしれないじゃないですか」 「うん」 「それどころか、私のほうが先に寝たきりになるかもしれませんよ。その時、おとうさん一人に見てもらうわけにはいかないでしょう」 「場合によっていろいろだわな」 「そんなふうにならないのが一番いいんだけど、考えておく必要がありますよね。子供の世話になるしかないのか、それとも養護施設のようなところへ入るのがいいのか」 「それもあることはある」 「子供の世話になるにしても、健一郎のところなのか、それとも加寿子や美津子のところがいいのか、ややこしい問題ですよ」 「うん。もちろんそういうことだ」  草平は顔の皺《しわ》を深くして、慎重に言った。 「だけど、そのことをあんまり考えつめてもどうにもならんのだよ」 「そうですか」 「うん。前もって心配しすぎても、意味がないんだ。確かにな、だんだん歳を取っていくんだから、どうなるかわからんよ。ボケちゃって何もわからなくなるかもしれんし、寝たきりになるかもしれん。二人の力だけではどうしようもなくて、誰かに世話になるしかないという場合もあるかもしれん」 「ええ」 「だけど、ずーっと元気でいて、ある日ポックリいけるかもしれんのだよ。誰の世話にもならんで」 「それが一番いいんですけどね」 「うん。でもまあ、そればっかりは運だわな。意志の力でどうこうできるわけじゃないんだ。だとしたら、あんまり悩んで考えてもしょうがないじゃないか」 「はい」 「そうなってしまった時に、その状況に応じて手をうつしかないんだからな。看護婦を頼むぐらいのことでうまくいくのかもしれん。いっそ二人とも病院に入ってしまうとかな。それとも、健一郎のところに世話になるのか、健一郎じゃなくてほかの子のところか。その時にはもう自分では決められんのだよ。悲しいが、それが老いってものだ。その時は運命に流されていこう。だから考えてもしょうがない」 「そうですねえ」  二人は顔を合わせて小さくうなずきあった。  元気の出るような話をしなければいかん、とでもいうように、草平はあらためて力強く言った。 「だから先のことは別にして、今やってることを進めていこうよ。せっかく名案を思いついたんだから」 「それはわかってますよ」 「我ながらうまいことを思いついたもんだと思っとるんだ。もちろん、あんたが賛成してくれなきゃできることじゃないんだけどね」 「私も、いい考えだと思いましたから」 「うん。子供たちは何も知らんでガタガタ言っとるが、ちゃんちゃらおかしいわなあ」  草平はコーヒーをうまそうに飲み干した。  静江はニッコリ笑ったあと、事務的な口調で言った。 「ですから、そろそろ次の手をうたなきゃいけないでしょう」  うーむ、といきなり草平は苦悩の顔になる。 「うん」 「ちゃんと相手に話をしなきゃあ」 「そうなんだよ。そのことはよくわかっとるんだ」  静江は夫の顔をのぞきこみ、冷やかすように言った。 「言いにくいんですか」 「うーん、実は、ちょっとな」  あらまあ、と静江は笑った。 「意味は違うんだけどな。利口な計画を実行するためにそういうことをするんであって、普通の意味ではないんだ。それはよくわかっとることだ」 「ええ」 「だけど、急にそういうことを言われたらびっくりするわな。何を考えてるんだろう、と思うよな。それがどうも、気まずくて」 「でも、その話をちゃんとつけないと、どうにもなりませんよ」 「それはわかっとる」 「私たち、もう離婚しちゃったんですからね」 「うん」  いかにも困った様子であった。静江は楽しそうに助け船を出した。 「私が言ってあげましょうか」 「言ってくれるか」 「いいですよ。だって、きまりが悪くて言えないんでしょう。変なふうに誤解されるのがこわくて」 「そういうことなんだ」 「じゃあ私が話しますよ。そこがうまくいかないと、離婚のし損ですから」 「うん」 「でも、本当はそんなのおかしいんですけどね。離婚した人間がそんなことをひとに言うってのは、変ですよねえ」  静江は頭をかく草平を見てニコニコして言った。    健一郎が父の家へやってきたのはその日の夜のことであった。九時頃、珍しく一人で来た。 「何かあったのか」  と草平は息子に言った。 「何かって、何が」 「仕事上のトラブルとか」 「いや、そんなものはないよ。別にそういうことで来たんじゃないんだ」 「そうか」  草平はホッとすると同時に、落胆した。  その種の困ったことが起こっても、おれに相談に来ることはないわけだ、と思う。親の知恵を借りたいとは、誰も思っていないのだ。金なら借りたいかもしれないが。  こっちからカラオケ・チェーン店の話は出さないようにしようと草平は自分に言いきかせた。 「話をしたいなと思って来たんだよ」 「何の話をだ」 「いろんなことだよ。ちゃんと話をする必要があると思うから」 「そうかね」  草平はとぼけた。静江はもう自分の部屋にひっこんでいて、多分寝ている。 「だって、おれは長男なんだからさ」 「そりゃそうだ」 「長男として、ちゃんと親の考えをきいとく責任があると思うんだよ」 「うん。ご苦労なことだ」 「お母さんとの間で、財産分与の手続きを進めているんだって?」 「うん。当然それをしなくちゃいかんわな。それも、ちゃんと誰の目にもよくわかるように、正しい形式をふまえてやらなきゃいかん。口約束みたいなあいまいなものじゃなくて、正しい書類が残るようにやることが肝心だ」 「つまり、話はどんどん進んでいるわけだ」 「うん」 「それで、結局はどうしようと思ってるの」 「結局か」 「それを、ききたいと思ってさ。離婚はもうしちゃったんだからしょうがないよ。それで、財産を二つに分けるのも、まあ当然のことだよね。お父さんとお母さんが持ちものを半分ずつ分けることに文句はないよねえ」 「うん」 「だけど、どうしてそんなことをしたのかだよ。以前に父さん、そのことに考えがあるって言ったじゃないの。その考えをきかせてもらいたいんだ。とりあえずおれは粟田家の長男だからね」 「もちろんお前は粟田家の長男だ」  草平は穏やかな口調で言った。そしてふと、こいつとこんなふうに一対一で話しあうのは何年ぶりだろうと思った。 「でしょう。だったら全部話してくれなきゃ変でしょうが。つまり、粟田家のことには、おれにも責任があるんだから」  一対一で、ちゃんとした話をしたことなどないか、という気になる。そんなことはないほうが普通なのかもしれない。  子供の頃、将来の進路について父と息子が意見を交しあう。そんな場面はない。  勉強してんのか。やってるよ。せいぜいその言葉のやりとりぐらいのものだ。  就職について。父さんぼくはこういう仕事がしたいんですが。そうか、まずそこにすわれ。そうやってじっくり話をする親子なんていない。そんなのはテレビのホームドラマの中だけにある場面だ。  あいつ、うちの仕事を手伝う気になってるのか、と妻を通じてきかされるのが現実だ。  結婚だって、こういう人と結婚するんだ、と報告を受けるだけのことだ。父さんの意見はいかがでしょうかと、対話になることはない。 「調子はどうだ」 「なんとかやってるよ」 「仕事のほうは」 「心配ないから」  そんなところが、普通の父と息子の対話である。  それが当然のことだった。父と息子とは本質的に、対立関係にこそあれ、仲間同士の関係ではないのだから。  一面では、父親にとって息子とは、自分の複製品である。驚くほど単純に世の父親は、息子を自分と同じ人間に育てたがっている。時には、自分の人生の好条件のもとでのやり直しを期待する場合もある。  しかし、当然ながら子供は成長して一個の人格を持つわけで、その時、父親のおしつけるワクを破る闘いをしなければならない。人生最初の、人格的対立である。  好運なケースでは、子は親を乗り越える。サル山のボスが、老いて若いオスにとってかわられるように、子に乗り越えられるのが親の幸せなのである。  個々の親子関係は千差万別ひとつとして同じものはないのであるけれど。  健一郎は真面目《まじめ》な口調で言った。 「実は、この前園川知佐子さんに会ったんだよ。久しぶりにね」 「えっ」 「覚えているだろう。あの知佐子さんだ」 「もちろん覚えてるよ。そんな人とどうして会ったんだ」  驚いて健一郎の顔を見て、久しぶりに草平は中年太りをしている貫禄《かんろく》のある相手に、子供を感じた。 「考えをきかせてもらいたくなって、相談をしに行ったんだよ。そういう時に話をきいてもらいたくなるタイプの人なんだ」 「うん。頭のいい子だった」 「子ってことはないよ。おれと同い年なんだから。堂々たるおばさんだ」 「今、どこで何をしているんだ」  その人がオーナー・シェフとしてレストランを経営していることを、健一郎は説明した。 「そうか。懐しい人だわなあ」 「むこうも父さんのことを懐しがっていたよ。おれとの仲はまあ、ああいうことになっちゃったわけだけど、父さんのことはいい印象の思い出になっているんだそうだ。よくしてもらったと言ってた」 「そうか」  草平は嬉《うれ》しそうに顔を崩してから、ふと気になったように言った。 「お前、知佐子さんとよく会うのか」 「いや、全然。そのレストランが開店した時に案内をもらって一度行って以来、九年ぶりに会ったんだよ」  間で二度ほど接待にそのレストランを使ったことは省略した。余計な誤解をされてもつまらないからである。 「そうか」 「つまり、相談にのってもらいたいタイプの友だちとして会ったわけだよ。どうしたもんかな、と迷ってるような時に思い出す相手なんだな」 「うん。そうかもしれんな。それは別にいいわさ」 「つきあいが古いから、お互いのことをよく知ってるしね」 「で、玲子さんはそのことを知ってるのか。そういう人と会ったということ」  一瞬ためらって、健一郎は本当のことを言った。 「何も言ってない。あえて言うこともないと思うからさ。一度相談にのってもらえば、もうそれで用はないんだから。また会うっていう予定もないし」 「うん。そうだわな」  草平は考えて、確認するかのようにうなずいた。しばらくして、自然に言葉が出た。 「知佐子さんがそうやって幸せにやっとるのか」 「大した女性だよ。あれは、主婦業なんかにとじこめちゃいけない人だな」 「うん」 「で、その大した女性から叱《しか》られちゃったよ」  健一郎はさっぱりした顔で言った。 「何を叱られたんだ」 「親とちゃんと話をしてないことをだよ。つまり、相談に行ったのは今度のお父さんとお母さんの離婚のことについてだからね。どうしてそんな非常識なことをするんだかわからなくて困ってると、そのことを言って考えをきいたんだよ」 「困らんでもいいんだが」 「そうしたら彼女が言うには、おとうさんは無茶なことをするような人じゃないから、きっと何か考えがあるはずだって」 「ほう」  思わず満足そうな顔をしてしまう草平だった。 「おれがとまどっているのは、親に離婚されてしまった小学生のような気分じゃないか、なんてことまで言われたよ。大人なんだからもううろたえることはないでしょう、という意味だろうね」 「やっぱり、しっかりした人だなあ」 「それで、とにかくお父さんとちゃんと話をしてみるべきだと言われたよ。兄妹がつれあいまで伴ってがん首|揃《そろ》えて、どうしてそんなことをするんだ、とつるしあげるようなきき方をするのがよくないって。親のプライドってものを考えなさい、だと」  ヘッヘッヘッ、と草平は笑った。 「言われて、おれも少し反省したよ」 「本当か」 「確かに、きいた瞬間から、そんなバカなことはやめなさい、っていう調子になっちゃったよな。あまりにも意外なことだったからだけど」 「うん」 「落ちついてわけもきかず、そんなことは許せないよって、命令的になってたのは間違ってたかもしれない。彼女に言われてそう思った」 「そうか」 「だから、考えてることを話してくれよ。どうせもう離婚はしちゃったんだし、反対だって言っても意味ないんだからさ。反対はしないから、どういうつもりなのか教えてくれよ」  最後まで落ちついて健一郎はしゃべった。草平はあごの下をなぜて、うーむ、とうなった。 「とりあえずは、説明しないで計画通りに進めちゃうかと考えてたんだがな」 「なぜだよ」 「一見、ひどく突飛なことなんで、みんなに理解してもらえんだろうという気がしたんだよ。でも、こうなったら言おう。おかあさんとは仲が悪くなったわけじゃないのに離婚したな。そして財産を分けた」 「うん」 「それで、このあと、おれは再婚するんだよ。もちろんおかあさんとは別の人とだぞ」 [#改ページ]   プロポーズ  朝からなんとなく落ちつきのなかった草平が、お昼を食べるとそそくさと出かけるしたくをした。 「それじゃあ、おれは出かけるから」 「どこへ行く予定なんですか」  静江はちょっと笑いを含んだ顔で言った。 「デパートの、印象派絵画展に行ってくるよ」 「おとうさん、絵なんかに興味ありましたっけ」 「あんまりわからんのだが、新聞販売店が入場券をくれたからな。見れば何か感じるだろう」 「日曜日だから混《こ》んでますよ」 「そんなことは構わんよ。それに、いつか行った正倉院展ほど混んでるわけじゃないだろう。印象派だからな。正倉院には負ける」  なんだか言ってることが変である。 「それで、ついでに地下の食料品売り場で、|さわら《ヽヽヽ》の西京漬けを買ってくるよ。今日のおかずはそれにしよう」 「いいですねえ」 「ほかに何か、買ってきてほしいものはあるかい」 「めんどくさいでしょう」 「それぐらいのこと、できるわさ」 「だったら正木屋の、|ひのな《ヽヽヽ》の漬物を買ってきて下さい」 「よし。ひのなだな」 「倉持屋のじゃなくて、正木屋のほうですよ。ビニールの袋に入っているのじゃないほう」 「わかっとるよ。うまいほうのやつだ」 「じゃあ、すみませんけど、それをお願いします」  うん、と答えてもまだ出かけず、草平はもぞもぞと立ちつくし、静江のほうを見た。 「それで、あのことはうまくやっといてくれ」 「はい、わかってますよ」 「今日だったよな」 「そうですよ。ゆうべ電話して、明日って約束したんですから」 「勘違いのないように、事情というか、こっちの考えをよく説明して……」 「わかっていますから」  それでも心残りな顔をして、草平は立ったままでいたが、ついに出かける気になったようだ。 「じゃあ、頼む」  怒ったような顔をして出ていった。  静江はやれやれという顔をして、老眼鏡をかけて新聞を読み始める。  その家に客が来たのは二時をちょっとまわった時だった。 「こんにちは」  と言って、桜井瑞穂が自分の家に帰宅したのと変らぬ気安さで入ってきた。 「いらっしゃい」  客を迎える静江のほうも、姉妹のような心やすい調子で自然に応対した。  ほとんど姉妹と変らないとも言える仲であった。幼くして身寄りをなくした五歳下の瑞穂は、静江の両親の家に引きとられ、少女期をいっしょに過ごしたのだ。  静江が嫁いでからも、そこを頼って上京して居候をしていたのだし、静江が結核で倒れてからは、その人に代って子供たちの面倒を十二年間も見たのだ。  静姉ちゃんと瑞《みず》ちゃんで、共に婆さんになるまで長いつきあいの歴史を重ねてきているのである。 「今日はあったかいわねえ」  と、瑞穂が言った。 「そーお」 「そーお、って、外に出てないの」 「出かける用事がないんだもの」 「少しは散歩ぐらいしたほうが体にいいんだけど」 「車がビュンビュン走るから、通りがこわいのよ」  まあいいか、という顔になって、瑞穂は手にしていた布袋の中からタッパを取り出した。 「これ、たけのこを煮たから、少し持ってきたわ」 「あら、ありがとう」 「冷蔵庫に入れてくるわね」  つい、と立って瑞穂はその働きをする。まだ老人と呼ぶのがためらわれるほどのフットワークのよさである。 「おとうさんが喜ぶわ」 「出かけているの?」 「デパートへ絵を見に行ったの」 「絵なんか買うつもりなの」 「違うわよ。展覧会を見に行ったのよ」 「あらまあ、そういうことか」  瑞穂は座敷の、陽のさすところにすわった。 「おとうさん、瑞ちゃんの料理の味つけが好きだから喜ぶのよ」 「そんなこともないでしょうけど」 「そうなんだから。私の味つけではあんまり気にいらないのよ。まあ、この頃じゃあ文句も言わなくなっているけど」 「夫婦って、長年つれそっているうちに好みの味まで似てくるものでしょう」 「そうかもしれないけど、もう私たち、一応、夫婦じゃなくなっちゃったんだもの」  おどけるように静江はそう言った。 「実は、それについてちょっと瑞ちゃんにお願いしたいことがあるのよ。それでわざわざ来てもらっちゃったんだけど」  瑞穂はやや表情を引きしめた。 「私にできることなら何でもするけど」  桜井瑞穂のほうには、恩着せがましい気持がひとつもないというのが事実であった。むしろ瑞穂は粟田家に対して感謝の念を持っているぐらいだった。  まず基本的に、静江の実家は、身寄りのない幼い自分を引き取って育ててくれた恩人である。そして静江は妹のように可愛《かわい》がってくれた。  その静江の嫁ぎ先の粟田家は、娘の頃の自分を居候に置いてくれた家である。身寄りのない身にそれはどんなにありがたかったか。  静江が病気で入院してしまって、まだ赤ん坊や、よちよち歩きの子供の世話をする役がまわってきたのは当然のなりゆきである。これまでの恩に少しでも報いられると、喜んでその役をした。  そのことによって、娘時代の一時期を奪われ、婚期を逸したなんてふうには考えていなかった。それはまた別のことなんだから。縁というものがなかっただけのことで。  むしろ、小さな子供たちを、全責任持って育てていくことは、大変ではあったけど、つらいんじゃなくて楽しいことであった。ある種の幸せを十分に味わわせてもらったと思っているくらいなのだ。  そして、今もこうして親戚《しんせき》づきあいをして、アパートへほんの形ばかりの家賃で住まわせてもらっていて、粟田家のほうには足を向けて寝られない、ぐらいの気持でいるのである。 「お願いなんて言わないで、命令してちょうだい」  そう言われて、静江はむしろ困ったような顔をした。 「ちょっと変な話にきこえるかもしれないけど、これにはちゃんと考えがあるんだから、どうか納得してもらいたいんだけど」 「はい」 「知っての通り、おとうさんと私と、離婚をしてしまったでしょう」 「そうだわよね」 「でもまあ、そんなのはお役所での紙の上だけのことで、実際には今までとなんにも変らない夫婦としてやっていけるわけですよ」 「そうですとも」 「家や土地を二人で半分ずつに分けたけれども、それも名義上のことだけでどうってことないし」 「だから、そのことには何か考えがあるんだろうなあと思っていたわ」 「そうなのよ。その考えのことなんだけど」  と言ったところで、静江はどう言ったものかと悩むような顔をした。 「おとうさんが、自分じゃどうも言いにくいって言うから私が言うんだけれど、ほんとうは変なの。私がこんなこと言うなんて、あのね、瑞ちゃんに、おとうさんと結婚してもらいたいのよ」  瑞穂はのけぞって驚きの声をあげた。 「なーによ、それ」 「だから、それが考えたことなのよ。私もそれが一番いいって賛成しているの」 「だけど、そんなのめちゃくちゃじゃないの。どーして私とおとうさんがそんな……、やめてちょうだいよ、もう」  瑞穂は上気して顔が少し赤くなっていた。七十近いとはいうものの、生涯独身できた女性の、その種の話題に対する初心《うぶ》さということであろうか。 「きいてちょうだいよ。別に、今さら夫だとか妻だとか、どうのこうのという話じゃないんだから。私とおとうさんが形の上では離婚してても、こうやって今まで通りに生活しているのといっしょのことなのよ。形の上で結婚してもらうだけで、別に何がどう変るっていうことはないんだから」 「どういうことなの」 「だから、お役所にはちゃんと婚姻届けを出してもらうんだけど、いっしょに住むとか、そういうことはしなくていいの。えーとさ、ここんとこがおとうさんとしても、誤解されたくないなと思ってるとこなんだけど、別に惚《ほ》れたはれたでこういうこと言ってるんじゃないのよ」 「形の上だけのことだっていうのね」 「そうなの。だから変なふうに考えないでもらいたいわけ。おとうさんと私が離婚したのも、そのあとで、瑞ちゃんとおとうさんとの婚姻届けを出そうというところまで考えた作戦なんだから」 「作戦って、そんな……」 「それで私も、おとうさんからその考えをきかされた時に、それはいい考えだって大賛成しているの」 「いったい何をどんなふうに考えているの」  やや落ちつきを取り戻して瑞穂はそう言った。 「だから要するに、生活はひとつも変らないの。これまでと全く同じに、私とおとうさんがここに住んで、瑞ちゃんにはアパートに住んでもらって、助けあってやっていくのよ。ただ、戸籍の上でだけ、粟田草平の再婚した妻、瑞穂、ということにするのよ」 「そうすると、何かいいことがあるの?」  とうとう瑞穂も、ためらいや驚きよりも好奇心のほうが大きくなってしまった。 「そうなのよ。こんなことを言うと、瑞ちゃんって人は必ず、そんなことはないって否定すると思うんだけど、私も心から思ってることなんだからきいてちょうだい。ほんとうに、私もおとうさんも、瑞ちゃんには感謝しているのよ。私が病気していた間、子供たちをちゃんと育ててくれて、それだけじゃないわ、会社を始めたばかりのおとうさんの仕事も手伝ってもらって、どれだけ助かったか測れないぐらいのものよ」  静江は心から出る言葉を淡々と話すという様子だった。 「もし瑞ちゃんがいてくれなかったら、子供たちだってどうなっていたかわからないし、おとうさんの仕事も、それどころか私とおとうさんとの仲まで、とっくに壊れていたかもしれないと思うの」 「そんなことはないわよ。私はただ、家の用を手伝っていただけで……」 「そんなもんじゃないわよ。十二年間もだもの。そりゃあ、今ならお手伝いさんを頼むとかしてどうにかできるかもしれないけど、あの頃はそんな余裕があるわけじゃなし、治る見込みのない病人とは別れて、ほかに誰か来てくれる人はいないかとさがすようなことになったかもしれないのよ。そうならなかったのは瑞ちゃんのおかげなの」 「助けあうのはお互い様のことだもの」 「ええ。まあそれは、そういうことだわよね。だから今までのことは、これでよかったと思ってるの。だけど考えなきゃいけないのはこれから先のことよ。おとうさんが考えたのはそのこと」 「これから先って」 「もうすっかりお爺《じい》さんお婆さんになっちゃって、私たちもそろそろ、そういう先のことを考えとかなきゃいけないのよ。いつまでも元気ならそりゃいいけど、そればっかりは、どうなるかわからないんだもの。そういう、誰かの世話にならなきゃいけない時がくるかもしれないでしょう」 「そんな時のことを考えたの」 「考えないわけにはいかないでしょう。うちの子供たち三人は、瑞ちゃんに母親代りになってもらって育ててもらって、そりゃあ情《じよう》の上では大事な人だと感じてるでしょうけど、いざという時に頼りになるかどうかはそれとはまた別の話で、どうなるかわからないと思うのよ。それぞれ、他人のつれあいがついちゃってるわけだし、よく考えたら遠い縁の人じゃないかなんて言いだしかねないと思うの」 「それで、戸籍上の母にしてしまうの」 「そうじゃないの。おとうさんが言うにはね、そういう状況になった時に、一番心強いのは、ある程度のものを持ってるということなんですって。お金とか、土地とかをその人が持ってるとなれば、情けない話だけれど親切にしてくれる人間が寄ってくるもんだって。それで、おれたちは当然瑞ちゃんにその程度のものは遺《のこ》したいじゃないかって」 「そんなこと……」 「それは私たち二人がもう決めたことなの。それでね、つまらない税金をとられないで、うまーく瑞ちゃんにそれを遺せる方法が、結婚しちゃうことなのよ」  つまり、やっぱり税金対策だったのだ。    その日曜日、大場義光は休みである会社のほうの、自分の机の椅子《いす》にぽつんとすわって、浮かない顔つきで黙って何か考えこんでいた。  会社、といっても、自宅の下、一階部分がそれである。家のほうの様子も、そこにいてなんとなく感じ取ることができた。  高校一年の弘樹のほうは家にいるが、真奈美のほうは出かけている。どこへ行ったのかは知らない、朝のうちに、親の目をかすめるように出かけてしまった。  妻の加寿子は洗濯をしている。今日起きてから、食事中も含めて、妻と一言も言葉を交していない大場であった。それどころか、家族の誰とも話をしていない。  彼は加寿子に対して腹を立てていた。その人間のミスで、自分にとんだ災難がふりかかってきた、ようなふうに思えてしまうのである。  子供のことは、あんたにまかせてあるんじゃないか、という気がするのだ。特に女の子のことは、あんたが注意して、おかしくならないように見守っててくれなければどうしようもないではないか。  それなのに、決定的な間違いをしたのだ。そして、子供に言われるまでそれに気づきもしなかったのだ。  無意識のうちにののしりの声をあげてしまいそうなほど、大場は腹を立てていた。おれの家で、おれの子が、どうしてそんな間違いをしでかしたのかと、考えていくうちに拳《こぶし》で机を叩《たた》きたいほどの気分になる。  おれたちの、何が間違っていたのだ。何が原因でそんな恥知らずな事態が生じてしまったのだ。おれの子がもともとそういう、できそこないだったと言うのか。そんなはずはないではないか。  大場は重苦しく同じことを考え続けていた。  そこへ、足音をしのばせるようにして、加寿子がやってきた。加寿子も、重い表情であった。  静かな声で加寿子は言った。 「この間のこと、どうするつもりですか」  大場はピクンと体を硬直させた。 「どのことだ」 「真奈美のことですよ。会ってほしい人がいるって言ったじゃないですか」 「そんなものには会わんぞ」 「そんなこと言ったって……」  加寿子はふくれっ面をした。大場は、怒鳴りだしてしまいそうな自分を、かろうじておさえた。 「あの子、妊娠していますよ」  加寿子が言ったのはその言葉だった。  内心で一番おそれていた必殺のパンチが、ものの見事にきまった、という感じだった。大場はギクリとしたように顔をあげて妻の顔を見て、二秒間ほど呼吸を止めた。それから、押し殺した低い声でやっとこう言う。 「本当か……」 「様子がおかしいんで、きいてみたんですよ。そうしたら、もう四か月に入っているんだって……」  うなり声をあげたいほどに不快だった。てのひらに汗をかいた。  様子がおかしいなんて、今になって気がついてもどうしようもないではないか。なぜもっと早く、そういう事実になる前に娘の変化に気がついていないのだ。バカなことはしないでくれよと、前もって注意しておかないのだ。  だが、何を言ってももう手遅れだった。 「もし、なんとかするなら、今すぐでないと間にあわないですよ」 「何をするんだ」  と言いつつ、実はその答はわかっていた。大場は天を呪《のろ》いたいような気分になった。  くそっ。なんということだ。おれの子が、どうしてそんなことをしでかしてしまうのだ。 「だから……、なかったことにするならずるずるとほうっておくわけにいかないところで……」  どう答えればいいのか、言葉が出てこなかった。  とにかく腹が立ち、裏切られたような気がつのるばかりなのだ。二人でこんな会話をしていること自体が気に入らない。 「堕《お》ろすのか」 「普通だったらそう考えるんじゃないですか」  そんな普通にはかかわりたくなかった。  加寿子は、ここまできた以上、母のほうが主導権をとるんですとでもいうように、事務的な口調だった。 「でも、真奈美はそうじゃなくて、産もうと考えているんです」 「まだ学生じゃないか」 「そうだけど、女としては一人前の大人なんだから」  それが大場には面白くないのだ。  一般論としては、その通りだとわかっている。二十歳の娘ならば、文句の出ようもなく大人の女性である。近頃の社会風潮からいっても、二十歳の女性ならば完全に大人で、恋愛もするだろうし、セックスから隔離されているわけにはいかないし、結婚する例ですらいくらだってあるだろう。それは知っている。  だが、一般論と、自分の娘とは別である。  やめてほしかった。とにかくその辺のことについて自分の娘だけは、特殊例であってほしかった。  それは理屈の通らない願望なのだが。 「おとうさんが面白くないのはわかるけど」  と加寿子は言った。 「私が、その辺のことにまで目をちゃんと配っていなかったのは間違っていたとも思いますよ。反省してます。でも、こうなっちゃった以上、産む方向に行けるんならそれもいいって思うんですよ」 「あわてるなよ。すぐに答を出さんでもいいんだ」 「あわててるんじゃなくて、その事実を認めた上で考えましょうってことよ」  大場は両手で顔を押しつぶすようにしてうなった。 「できたものを堕ろすっていうのは、体を傷つけることですから、なるべくならしないほうがいいんですもん」 「だから……」 「だから前もってそういうことのないように注意してなきゃいけなかったんですけど、それはもう言ってもしょうがないことでしょう」  ムカッとしたが、加寿子の言う通りであった。 「真奈美一人が、やけになって産みたいと言ってるんだったら、ちょっと問題ですよ。そんなふうに子持ちになるのは、いくらなんでも人生がめちゃくちゃですから。ところがそうじゃなくて、相手の男もちゃんと本気で、結婚してやっていこうとプロポーズしてくれているというんだから、そう言ってはおとうさんの気に入らないかもしれないけど、不幸中のさいわいじゃないですか」 「相手も学生なんだろう」 「そうみたいですね。でも、どんな人かは会ってみなけりゃわからないじゃないですか」  会わなくたって、そういうふしまつをするような奴はろくでもないに決まっている、と思ったが、もうそれを口にする気もおきなかった。 「いきなりだったから驚いたんですけど、そんなにとんでもない話じゃないわけでしょう」  加寿子は腹を決めた母の力強さを感じさせる口調で言った。 「お前は認めてるのか」 「それはまだ何とも言えないけど、ただ驚いてるだけじゃあダメでしょう。思ったより二、三年早いかもしれないけど、それだけのことで、どうせいつかは出てくることなんじゃないの。少くとも当人たちが結婚することを望んでいる以上、親が反対する理由はないじゃないですか」 「学生で、しかもいきなり子供の親ということになってしまうんだぞ。それしか方法はないのか」 「でも、そういう人だっているでしょう。大事なのは当人たちがそれで幸せなのかどうかですよ」  ゆるぎのない口調であった。大場は、不機嫌に黙りこんでしまう以外に、どうすることもできなかった。    そのまた同じ日曜日に、高田勤一家が住む公団アパートには来客があった。高田の母で、七十八歳になる澄《すみ》が、午後一番に遊びにきたのである。  高田の父親は、七年前に亡くなっていた。兄弟としては、十二歳年上の兄がいて、高田家を継いでいる。ほかに姉が二人。つまり高田勤は末っ子で、これまではあまり高田家のことにかかわらず自由にやってきた。自分が幼い頃にもう大人の風格さえ漂わせていた年の離れた兄がいたせいで、家のことに口をはさむ余地がない感じだったのである。その高田家は、福島県いわき市にあった。  そこから、珍しく母の澄が遊びに来たのである。一週間前に連絡を受けて、もちろん、どうぞいらっしゃい、しばらく泊って下さいと答えたわけだが、何があってそんな気になったんだろうといぶかしく思っていたのだ。  かなり老いて足どりもおぼつかなくなっていたが、それでも澄は上野駅から一人で墨田区の息子の家まで地下鉄と東武伊勢崎線を乗り継いでやってきた。なかなか元気で、頭のほうもしっかりしていると言っていいだろう。  その日、珍しく家に長男の勇太がいた。アルバイトのない日曜日だってたまにはあるというわけか。  中学一年生の洋介を含めて、家族全員で東北|訛《なま》りのある祖母を歓待するという光景になった。心あたたまる光景というところだ。 「東京はいいねえ。私は東京が大好きだからさ」  澄はそんなことを言った。高田は、おや、と思った。  確かこの前、えーと考えてみると二年前のことになるが、ここへ遊びに来た時は違う意見を言っていたのではなかったか。 「東京は、ごちゃごちゃしすぎていて、なんだかせきたてられるみたいな気がして落ちつかないよ」と。  どうして急に東京びいきになってしまったのだろう。 「洋介ちゃん。ほら、これお小遣いだ」  と子供に小遣いをくれるのは、老後の生活に困ってはいないことのあかしだから目出たい限りである。もっとも、大学生の勇太にまで小遣いをくれることはないのに、と思えるのだが。 「お礼に、お祖母ちゃんをどこかへ案内してやろうか。浅草とかさ」  近頃親とろくに会話を交さない勇太が珍しくそんな優しいことを言った。髪の一部分を金色に染めているバカ息子とは思えない発言である。 「ありがとう。でも、その言葉だけでばあちゃんは十分うれしいよ」 「お祖母ちゃん、ゲーム見せてやるよ」  洋介のほうも、それなりになついている。たまの客ではしゃいでいるという面もあるのだろう。  高田勇太は、私立大学の二年生である。この春で二年生になったというのは、一年浪人しているからであった。大学で、学業のほうは当然ながら徹底的におろそかにして、モトクロス同好会なんてところに入って遊び呆《ほう》けている。アルバイトをしてせっせとお金を稼ぐのは、親からの援助を少しでも受けないようにするため、ではまるでなくて、大学に置いてあるオートバイにつぎこむためであった。妙な髪型をして、その一部分を金色に染めて、自分だけは格好いいと思っているという、おマヌケちゃんだった。  しかしまあ、今の大学生なんてそんなものか、と思っているから高田も美津子も息子に苦情を言いはしない。とりあえず大学に入ってくれて、そこを卒業してくれれば標準には達しているわけだからそれでいいのである。オートバイに夢中なのは、リカちゃん人形に夢中であるよりはマシだと思っている。  そんなにむちゃをする度胸のある子ではないから、やがて平凡なサラリーマンになってくれるだろうと想像している。今の時期はそうなる前の、人生上の執行猶予期間のようなものなのだ。  うちの子たちには問題はない、と高田と美津子は思っていた。まあ、まともに育っている。  むしろ問題があるとすれば、親のほうか、と高田は思っていた。  粟田のお義父さんが原因不明の離婚をしてしまったり。  そして、いわきの母が、ずーっとひとつの爆弾を抱えているし。  案の定、その爆弾は澄が来て一時間もするとぶすぶすとくすぶり始めた。 「お義兄さんの御一家はお変りないですか」  と美津子がきいたのが、火だねをつついたことになってしまった。 「みんな元気でやっているよ。なーんの変りもねえ」  そう言って澄はため息をついた。 「勝《まさる》が組合の副理事になって、前よりもっとひんぱんに遅くまで飲んでくるようになったわ」 「大変ですよねえ」 「大変てことはねえよ。まあ、遊んどるようなことだから。それで、旦那《だんな》がおらん分だけよけいに克美《かつみ》さんが家ん中でのさばっているわね」  高田の兄の名が勝で、その妻が克美である。 「なーんでも自分の思う通りにして、それでなきゃ気がすまねえ情の強い人だからよ」  澄と克美との間の折り合いが悪いのは、今さら始まったことではなく、三十年来のはてしなき泥合戦なのであった。同居している長男の嫁が、とにもかくにもあらゆる点で気にいらないのである。口を開けばその人の悪口が出てきてしまうのである。  高田は用心深くしていた。母と嫂《あによめ》の戦争を、いたずらにあおることも、巻きこまれることも、避けたかった。  母の愚痴に同意するでもなく、否定するでもなく、なるべくきき流した。そりゃあひどいな、なんて一言でも言ってしまったら、愚痴はとどまるところなしという具合になり、それだけならまだしも、こっちへ思いがけないとばっちりがかかるおそれがあるのである。  爆弾を踏んでしまうことだけは避けたい。  ところが、澄のほうも、いつもほど悪口を言い続けるというふうではなかった。ひどい嫁で、勝がかわいそうだよ、というのがいつもの論理展開なのだが、それをあまり口にしなかった。  それよりも、自分の不運をしみじみとなげくのである。 「私ももう、若い頃のように働きで対抗できる歳じゃないからさ、文句があってもじーっと我慢しとるしかないんだよ」  爆弾の質が、弱気型じめじめタイプに変質しているのだった。それはそれで、なんとか避けて通りたいおそろしい爆弾である。 「この先、寝こむようなことにでもなったら、どんなしうちを受けるかとそれが不安だよ。老人病院へでもさっさと厄介払いで入れられちゃうんじゃないだろうかと思えてよ」 「そんな心配はまだしなくていいですよ」  と、美津子も及び腰で答えるのがやっとだ。  澄は時々弱々しくため息をもらした。  そして、夕食の席で、ついにその弱気爆弾はおそるべき爆発をしたのである。 「ほんとに、東京はいいよな。田舎みてえに、じめじめしてなくて、さっぱりしているよ。自由っていうもんがあるわな」 「そうでしょうかねえ」 「ほんとだよ。田舎は立場の弱い者には、暮しにくいところだからよ。みんなの目を気にして、のびのびと息をすることもできねえんだ」  東京がいい、というのは、この家がいいということだった。それがわかっているから、高田も美津子もその話が耳に届いてないような顔をするしかない。  澄は、狙《ねら》いすましたかのように、でも表面上は何気なく言った。 「できることなら、この家に住まわせてもらいたいものだけどよ」  ヒヤリとする。逃げろー、というところだ。  高田勤も、美津子も、その言葉はきこえなかったことにした。何の返事もしない。知らんぷりして食事に集中する。  ところが、そこに思いがけないことがおきた。  ろくに家にいやしなくて、大学生なのに遊び呆けている、バカ息子の、勇太が力強く言ったのである。 「それだったら、お祖母ちゃん、この家に住めばいいじゃないか」  バババ、バカア。なんてことを言っちゃうんだ。  言ってしまえば、とりかえしのつかないことになってしまうんだぞ。  高田と美津子は顔面を蒼白《そうはく》にして、ピタリと固まってしまっていた。  しかし、話がそっちへ流れだしてしまえば、どんどん進んでいってしまう。 「お祖母ちゃんがいっしょに住むの。だったらどの部屋に寝るの」  と洋介が無邪気に言う。お前ももう中学生なのにその無邪気さはないだろう、くそっ。 「そんなのはどうにでもなるよ。おれと洋介が同じ部屋ってことにして、今の洋介の部屋を使ってもらってもいいしさ」  と、勇太。  お前はそんなに心の優しい子だったっけ。勝手なことばかりしといて、どうしてこういう時だけお祖母ちゃん思いになっちゃうんだ。 「本当かよ。ここに置いてもらえるんか」  澄は嬉《うれ》しそうな声を出した。 「そんな、短絡的な考えではいけないよ」  と高田は言った。とにかく、話の流れをくい止めなければならないのだ。 「うちだけで決めていいようなことじゃないから」 「そうよねえ」  と美津子も弱々しく加勢した。 「なんでだよ」  勇太は正義に燃えるような顔になっている。 「いわきの伯父さんのところのことも考えなきゃいけないだろう。あっちには、長男で、本家を構えているっていうメンツだってあるんだぞ」 「だけど……」 「そりゃあ、おばあちゃんがちょっとうちに遊びに来るぐらいならいいよ。だけど、あっちを出てここに住んじゃうというのは、伯父《おじ》さんとこの家の格式というものが許さんのだ。少しごたごたがあったくらいのことで、長男が親を見捨てたような形になるわけにはいかんだろう。むこうは田舎だから、世間の目というものをひどく気にするんだよ」  だが勇太は引きさがらなかった。 「でも、お祖母ちゃんが、いわきに住むのはつらくって、こっちに住みたいと思ってるんだぜ。家の格式だか何だか知らねえけど、現にお祖母ちゃんが、悲しいなあとか、いやだなあとか思ってるんじゃん。だったら何かして、幸せになってもらいたいじゃん」  正論であった。 [#改ページ]   とまどい  気がかりではあるのだが、それがあからさまであってもみっともない、とでもいうように、草平は帰ってきてもすぐにはその話題をきりださなかった。印象派もなかなかのものだが、正倉院にはやっぱり負けるなあなんて、妙なことを口走ったりした。  着替えて、座卓の前にどっこいしょとすわって、ようやく、思い出したかの如くさりげなく言う。 「瑞ちゃんは来たのか」 「ええ、来ましたよ」 「それで、どうだった。ちゃんと話してくれたんだろう」 「話したけど、そう簡単にはうまくいきませんねえ」  草平はギョッとしたように静江の顔を見て、苦しげな声を出した。 「どういうことだ。いやだってか」 「いやというより、その前のところで話がつっかえちゃうんですよ。私に遺産を分けてくれるなんてとんでもないことだ、って」 「そんなことを言うのか」 「そのことは、瑞ちゃんの人柄から予想できてたんですけどね。それでも、なんべんも言えば納得してくれるだろうと思ってたんですけど、まるでダメ」 「どう言うんだ」 「とんでもないことだ、の一点張りですよ。今、安くアパートへ入れてもらっているだけでもありがたくて涙がこぼれるくらいのものなのに、その上そんなものまでもらったらバチがあたるって」 「こっちこそ、ありがたくて一生頭があがらんぐらいお世話になったんじゃないか」  草平の声はついつい大きくなった。 「私はわかっていますよ。瑞ちゃんが遠慮するんじゃないですか」 「うん。そりゃそうだ。つまりその、絶対いらんと言うわけか」 「絶対いらんなんて、そんな言い方はしませんよ。今までにもう十分のことをしてもらっているから、これ以上私に何かを遺《のこ》すなんて考えてくれなくていいんです、ということを言うわけでしょう」 「うん。まあ、瑞ちゃんらしい欲のなさだわな」  と言って草平は手を頭へやった。困りきった顔になっている。 「しかし、こっちの気持としては、それでは気がすまんのだよ」 「はい」 「して当然のことをしようと思っとるだけだ。誰から見たって文句は出ないようなことだよ」 「私も同じ気持ですよ」 「そうだよな。それなのに、とことん遠慮されちゃっては困るわなあ」  草平は白髪《しらが》頭をかきむしった。  それから、その手をピタリと止め、おそるおそるきいた。 「全部話したんだな」 「はい」 「つまり、そのために考えた作戦のことだが」 「籍に入ってもらいたいということでしょう。もちろんそのことも言いましたよ」 「それについては、どうだって」  複雑な表情を、草平はした。子供が次のクリスマスにプレゼントしてもらいたいものを言うように。その品がちょっと高いので、無理かなあとも思いながらとりあえず言ってみるような感じに。 「そこへ話がいく前に、これ以上何かをしてもらっちゃ悪いということになっちゃうんだから、どうもこうもないわけですよ」  うーむ、と草平はうなった。困惑しきった顔である。 「そこのところを納得してもらわんと、こっちも困っちゃうよなあ」 「ええ」 「もう離婚しちゃったんだから」 「私もそのことは言いましたよ」 「言っても了解してもらえないのか」 「それ以前につっかえちゃうんですもの」  思わず草平は舌打ちをしてしまう。とりなすように静江は言った。 「そういう、欲のない人だから」  うん、と草平はうなずく。 「それはわかってるよ。考えてみれば、美しい態度だわな。立派なもんだ。だけど、こっちとしては困っちゃうわけだ」  そこまで言って、急に声を小さくし、草平はおうかがいをたてた。 「で、感じはどうだった?」 「感じって、どういうことですか」 「つまりその、感情ってもんがわかるだろう。一応その、形の上だけのこととはいえ、重大なことを提案しているわけだよ。籍に入ってくれないか、という話だからな」 「結婚してくれと言ってるんですものねえ」 「ままま、まあそういうことだ。そんなことを急に言われれば、感情に何か出るだろう。とんでもない、とか、ゾッとするわ、とか、そんなふうなイヤな感じはなかったかい」 「そのことの意味は瑞ちゃんもよくわかってるようでしたよ。形式的にそうしたほうが利口なやり方なんだなって、細かいことはわからなくても、全体の作戦の意味はわかってくれてました。だから、結婚がいいとか、いやだとかいうのはなしですよ」  草平はほっとしたような顔をした。 「そうか。それならよかった。そこで変な誤解をされてしまうと、いやだからな。なんだか気まずいことになってしまうだろ」 「そういうことが理解できないような頭の悪い人ではないですよ。気心だってわかりあってる仲だし」 「うん。そうだな」  それについては一安心だな、と思う一方で、しかし作戦に賛同してくれないのは困ったな、と草平は首をひねった。相手が遠慮することを予想しないではなかったが、静江が間に入って話をしてくれれば多分納得してもらえるだろうと思っていたのである。 「どういう方法をとるかは別としても、こちらとしてはきちんとお礼をしたいんだ、ということは言ったのか。それが当然だと考えているって」 「そういうようなことは言いましたよ」 「そこはわかってくれなくちゃなあ。苦労を分かちあってきて、それがいよいよ年取ってきて、お互いがさいごのことを心配しあうのは当然のことだよ」 「それも言ったんだけど」  まいったなあ、という顔で草平はまた頭をかく。 「なんとか承知してもらわないとなあ」 「ええ」 「たとえばだな、おれが遺言状を作って、それによって瑞ちゃんにある程度のものを遺すとする。おれの分の土地やなんかを半分相続してもらうとする」 「そう決めたんですよね。私たち二人の財産の、四分の一は瑞ちゃんに受けとってもらおうと」 「そうだよ。遠慮したって、遺言状でそうしちゃうんだ。ところがそれをすると、たくさんの相続税を払わなきゃいけないんだよ。妻への相続なら無税だが、世話になった親戚《しんせき》というんじゃ、がっちり税金を取られる。しかも、瑞ちゃんは法定相続人じゃないから、そういう人に遺言で相続してもらうと、税額が二割加算修正されちゃうんだ。そういうことは説明したのか」 「そんなむつかしいことは私には説明できませんよ」 「そこが大切なポイントなんだがなあ。それで、たとえばもらったものが土地とか、アパートだったりとかしても、払う税金は現金なんだよ。物納という方法もあることはあるが、普通は現金で納めなくちゃいけない。だとすると、相続していきなりお金に困っちゃうじゃないか。老後の安心のために、と思ってゆずった土地をすぐ売らなきゃいけないことになる。それじゃあ何の助けにもならんよな」 「そうですね」 「だから納得してほしいんだがなあ。二億五千万円ぐらいのものを瑞ちゃんに遺したいんだ。ところが遺言状でそれをすると、一億円ぐらいの相続税を納めなくちゃいけないんだから」 「なのに、妻だったらそれがタダですむんですものねえ」  静江は素直にその言葉を口にした。自分はその名案に賛成しているんだ、ということを表明しているのである。 「うん。だから入籍しようというわけだよ。それで、ひとはこのやり方をうまい税金のがれの方法だと言うかもしれん。悪質な節税法で、脱税に近いくらいだと思うかもしれん。だけど、おれはそうは思わんのだ」  草平は胸を張ってそう言った。 「そもそも、どうして配偶者への相続は、半分までは無税ということになっとるのか、だよ。それはつまり、相続ではなくて正当な取り分だから、という考え方からだ。財産を築く上で、妻だって協力して、二人で築いてきたわけだ、と考えてるわけだよ。だから半分はその妻のものである。自分の正当な取り分を取るんだから、相続税なんかなしだ。そういう考え方だよ」 「ええ」 「ところが、おれたちにとって瑞ちゃんというのは、その、言い方はおかしいが、もう一人の妻のような人じゃないか」 「そうですとも」 「事業を始めた時に、全面的に協力してもらっている。その働きを、十二年もしてもらっているんだ」 「その上、妻に代って子供を育ててくれているわけですよ。もう、奥さんの役目そのものじゃないですか」 「そうだよな。だから、四分の一くらいは当然の取り分なんだよ。もう一人の配偶者ってことで、税金が控除になってしかるべきなんだ。なのに、そうはいかんわけだ。それどころか法定相続人じゃないから税額を二割加算するというんだ。それだったら形の上だけでも配偶者ってことにしてしまえ、というのがおれたちの考えた作戦だ」 「はい」 「だからこれは悪質な節税なんかじゃないと、おれは信念を持っているんだよ。そういうことを、瑞ちゃんにわかってほしいんだがなあ」 「その辺のことは、私ではうまく言えなかったですよ。ややこしいですから」 「瑞ちゃんに当然のものを受け取ってもらって、税金が一億円だというんだからな。相続税でその金額だ。これが相続ではなくて、ごく普通に、これだけもらってくれ、と渡したら贈与ってことになってしまう。贈与税だともっと高くて、七割近くも税金で持っていかれてしまうんだぞ。当然あげるべき人にあげて、一億六千万円以上取られちゃうんだ。それでは、もらったものをすぐ売って、ただ税金にほとんど取られるだけだよ」 「そのことを、やっぱりおとうさんが言わなきゃ」  静江にそう言われて、草平はぐっと言葉につまった。 「うん……」 「そういう詳しい話をちゃんとしなきゃ、瑞ちゃんだって事情がよくわからないでしょう」  静江はこの機会を狙《ねら》っていたかのように、落ちついた口調で言う。 「こっちとしてはこういうことをしたい。そうするつもりでいる。だけど、やり方がへただと無駄なお金を取られてしまうんだ。だからこういう方法を考えたんだ。そういうことを説明して下さいよ」 「うん」 「私ではうまく説明できないんですから。その話をきけば瑞ちゃんだって考えをわかってくれますよ。頭のいい人なんだから」 「そうか」  草平はまだ及び腰である。 「変なふうに誤解されるといやだっていうのは、私が最初にきりだしたんだから、もう心配しなくていいじゃないですか。妻の私が、あら、もう妻じゃないですけど、まあ妻ですよ実質は。その私が頼んでるんですよ。変な話ですよこれって。私の夫とどうか結婚してちょうだいって、別の女性に言ってるんだから」 「そうだわなあ」 「だからわかるじゃないですか。色恋の話じゃなくて、何か考えがあってのことだなって。瑞ちゃんもそこまでは感じとってくれてるんです。だからテレてないで、やっぱりおとうさんが説明する時ですよ」 「別に、テレているわけじゃないんだが……」  草平は小さな声でそう言った。  それから、腕組みをして深くうなずいた。 「おれがちゃんと言うしかないか」 「そうですよ」 「わかってくれるわな」 「と思いますよ」 「しかし、どうも落ちつかんのだよな。形の上だけのこととはいえ、結婚してくれということを、その、言うわけだからなあ」 「それがおかしいのよ、おとうさん。どうしてそんなに意識しちゃうんですか」 「どうしてってお前、おれも、ひとに結婚してくれってのは、生涯に一回しか言ったことがないんだぞ。慣れてるはずがないだろ」  あははは、と静江は声をたてて笑った。草平もついニヤニヤしてしまう。 「そんなに意識しちゃったら、瑞ちゃんだって、うんとは言えなくなっちゃうでしょう。事務的なことだと思わなきゃ」 「そうだわなあ」  と言って草平は小さく何度もうなずいた。    夜がふけていく。  客である澄を洋介の部屋に泊めて、洋介は兄の勇太の部屋に寝ることになり、アパート住まいの高田家は静かになっていった。  居間に、高田勤と美津子が顔をつきあわせて、ぼそぼそと相談していた。ボリュームはしぼってあるがテレビはつけられていて、スポーツニュースを流している。だが二人とも、テレビのことはまったく意識していない。それは、自分たちの会話を目立たなくするためのにぎわいとしてつけられているのだ。 「なんか、そういう予感がしたんだよ」  高田はわざとぶっきらぼうにそう言った。 「予感って、どういうこと?」 「遊びに行きたいっていう電話があった時から、なんでかな、という気がしてたんだ。なんかややこしい話を持ち出すんじゃないかな、と思った」 「へえ。そういうものなの。やっぱり実の母親のこととなると、何か通じるものなのね。私はなんにも感じなかったわ。気候もよくなってきたからだわ、なんて思ってた」 「実の母親か」  高田はそう言って、うかがうように妻の顔を見た。口をとがらせて、言いたいことはいろいろあるという風情を見せ、でも言うのはやめようという顔つきになって、ぽつりと言った。 「そうには違いないよね。実の親だ」 「もともと、お義姉《ねえ》さんとは合わなかったんだもんね。それはわかっていたけど」 「克美さんだから合わないというわけでもないんだろうな。要するに、息子の嫁なんてものは姑《しゆうとめ》にとって面白くない存在なんだよ。どんな嫁だって気に入らないんだ。克美さんだからうまくいかないというわけじゃなくてね」 「そうよね、私がお義兄さんの嫁だとしたら、それはそれで今頃ドンパチやってるんだ」 「まあ、そういうことだ」  そこで二人はしばらく沈黙した。互いに心中にいろいろな思いがあり、どこからきりだせばいいのか迷っているというふうだった。 「しかしまあ、厄介なことになったな」  高田は観念したように、そう言った。 「こっちへ出てきたいと言われちゃったんだものね。同居させてほしいってことでしょう」 「それは無理だからね」  高田はとりあえず全否定をした。 「ねえ……」  と、美津子は夫の言葉にすがる。 「そんなことはできっこないよ。兄貴の立場になって考えたって不可能なことだ」  高田は自分の都合よりも、まず先に兄の都合を口にした。 「ああいう田舎じゃあ、長男の比重ってものがすごく重いんだよ。一家を支えていく柱が長男で、責任も大きいけどその分尊敬もされるということになってるんだ。歳が一周りも離れた末っ子なんて、長男の前では頭もあげられないくらいだよ」 「そうなのよね」 「だから、兄貴としても、とても認められない話だよ。母親が末息子のところで世話になるなんてのは。そんなみっともないことができるかってところだ。自分の妻と母親の折りあいが悪くて母が逃げだしたなんてことがひとに知られれば、みんなの笑いものだよ」 「だから長男のところへお嫁に行くのはみんな考えちゃうんだものね」  美津子はやや見当外れのことを言ったが、考えてみれば論理はかろうじてつながっている。 「そういうことがあるから、おふくろがここへ来ちゃうというのは無理だよね」  そう言いつつ、高田は心からすっきりできないような顔である。  こうして夫婦で話しあっている今、老いた母はひとつ屋根の下、アパートなんだからその言い方はおかしいかもしれなくて、ひとつ天井の下、と言うべきかもしれないが、そこに寝ているのだ。そしてその母は、悲しそうにすがるような顔をして、ここに置いてくれないかねえ、と言ったのだ。そうしてくれればどんなに幸せだろうと。  情において、その願いをふみにじるのは、もちろんしのびないのである。かわいそうだな、という気持は嘘《うそ》ではなくわきおこってくる。  だが、親子の情だけで流されるわけにはいかない。ここには、高田勤の家があるのである。その家には、妻もいて子供もいて、自分の情だけに流されてそれらのメンバーの都合を無視するというわけにはいかないのである。  子供たちは、まだ考えが浅いからその場の気分を口にしている。勇太は軽薄にも、お祖母ちゃんもここへ住みゃいいじゃん、なんてことを言い、太っちょの洋介はあまりにも幼く、それも楽しそうだな、なんて顔をしている。  しかし、美津子の身になってみればそれはとんでもない話である。そうは言っていないが、そういう感想に違いない。  長男のところへお嫁に行くのは、お姑さんがついてるから問題なのよね、ということを言っているのだ。裏返せば、だから私は長男ではなく末っ子と結婚したのに、どうしてお姑さんと同居しなくちゃいけないの、ということではないか。 「どう考えたってここに住んでもらうわけにはいかんだろうね」  高田は力なくそう言った。 「一戸建てならともかく、公団アパートだものねえ」  美津子は思いがけない角度から攻めてきた。 「うん。狭いよね」 「すっごーく狭いわよ。とてもじゃないけど家族が一人増えるのは無理よ」  マイホーム願望のことと、この問題とは別なんだがなと、高田はたじろぐ。そういう、もうひとつの面倒な問題をまぜこぜにはしたくないわけだ。  だが美津子はその問題にこだわった。 「おばあちゃんがいっしょに住むようになるって、ただ一部屋使ってもらえばいいっていうことじゃないでしょう。勇太はのん気に、洋介と同じ部屋でいいなんて言ってるけど、そんなの我慢できるはずがないんだから。すぐに、自分のプライバシーがほしいって言いだすに決まってるのよ」  話の筋がよれよれである。  勇太の我慢が続くはずがない、という話と。  一部屋あげればいいってことじゃない、という話。  二つの話に接点がない。 「たとえ勇太がよ、それで我慢したとしても、じゃあうまくいくの。無理でしょう。おばあちゃんだって、小さな部屋にとじこもって、肩身の狭い思いで居候をしたくはないと思うわ。同居するっていうことは、そこに自分の生活を持ちたいということじゃない。自分用の小さな冷蔵庫ぐらいは置きたいでしょうし、シンプルなものでいいから専用のキッチンもほしいはずよ。女性なんだもの。自分の台所がないなんて、そんな生活はできないのよ」  よれよれの話が、手品のようにひとつのテーマにつながってくる。高田は口をはさむことができなかった。 「要するにおばあちゃんを同居させるっていうことは、二世帯で住むっていうことなのよ。それには、こんなアパートでは不可能よ。まあ、玄関は共有で使えばいいとしても、別々にキッチンがあって、おばあちゃん用の部屋と、おばあちゃんのお客さん用のもう一間くらいがあって、テレビも別で、という生活にならなきゃいけないのよ。それはここに住んでちゃできないことでしょう」  高田は妻の強引な論理展開に驚いた。なんだか騙《だま》し討ちにあったような気がする。  母親と同居するかどうかという話が、いつの間にか一戸建ての二世帯住宅を持たなきゃダメだ、という話になってしまったのである。  そして、それは一応納得できてしまう話であった。  つまり、言い方を変えれば、マイホームを持てるならば母と同居してもいいということである。 「私はね、できることならおばあちゃんと同居したっていいと思うのよ」  美津子はヘンに優しい口調でそう言った。 「つまり、条件が揃《そろ》って可能な状況になるならね。人間関係のほうには問題ないのよ。そりゃあ、いつも顔をつきあわせていればムカッとする時なんかが、ないとは言えないけど、そんなことは我慢できることじゃない。場合によっては、みんななんとかやってることでしょう。それはいくらだって我慢するわよ」 「うん。要するに、住環境のほうにこそ問題解決の鍵《かぎ》があるってわけだな」  高田はそう言った。そう言ってから、美津子と顔を見合わせた。  二人の目と目の間に、バチバチッと何かがスパークしたように見えたのは錯覚か。  本質的なところで、よく似た一面がある二人の間にある意向が通じあったのだ。 「まあ、そういうことも考えなきゃな」  そういうこととは、何か。 「つまり、おふくろをこっちで世話するってことは、長男でもない立場にもかかわらず、ある種の負担を受け入れるということだ。そうだとすれば、それによって何がしかの、当然の権利というものが生じるよ」 「そうよねえ」 「つまり、本来それは戦後民法の精神から外れているんだけど、いわきのような田舎ではまだ昔ながらの風習が残っていて、長子相続のようなことが行われがちなんだ。長男には責任がある代りに、家全体を受け継いでいくというようなね」 「うん」 「だけど、長男がその責任をはたしていないならば、そんなのは通らんよね。こっちでおふくろを見るなら、おふくろの持ってる分がこっちにもまわってきてしかるべきだ」  計算高い高田が思い至ったのはそういうことだった。  母と同居したい。  家が狭い。  母から何がしかを受け継ぐ。  マイホームが手に入って同居が可能。 「結局、こういうことは条件次第なのよ」  美津子も同じ考えであるらしい。  二人は顔を見合わせ、うなずきあった。  なんという欲の深い夫婦だろう。と思ってはいけない。夫婦だからこそ気を許しあって、すぐ本音をさらけ出しているだけであって、この二人が考えたことは決して特殊ではない。  誰だって、そういうことを考えないはずはないのである。だからといって親子の愛情による結びつきが否定されるわけではないのだから。 「そういう方向も、考えられるか」  高田はもう一度そう言った。話しあっているうちに、当初の考えが少し修正されてきたのである。  美津子が絶対にいやがることだと思っていたのだ。夫の母親と同居するなんて。  だが、そうではないというのならば、もう一度ゼロから考え直してもいいのだ。 「そうよ。みんながいいようにいろいろ考えてみなくちゃ」  美津子の言葉にうなずいてから、高田は言った。 「しかし、とりあえずは、そこから話をきりだすわけにはいかないよ。まずは誠意あるところを見せて、実績を作らなくちゃ」  マイホーム獲得に援助してくれるんなら同居させてあげる、とは言えんぜ、という意味である。 「それはそうよ。私がさっき言ったのは、長期的に考えればっていうことよ。とりあえずは、おばあちゃんの希望にそうようにしてあげましょうよ。半年や一年は、少しぐらい不便があっても我慢していけるもの」  母を引きとる。  しかし、このアパートでは狭いので、いろいろ不都合なことも出てくる。  そのあとで、なんかいい方法はないか、という話になる。  実績が積んであるので、誰からも文句の出ない形でじゃあ二世帯住宅を、というプランが出てくる。  という段取りである。 「そうだよな。まずは、望むようにしてやるか。もう毎日の生活に我慢できないというんだから、できることがあればしてやらなきゃな」 「子供たちも、そのためには多少の犠牲を払うと言っているんだもの」  それだよ、とでもいうように高田はうなずいた。 「勇太がしかし、ああいうことを言うとは驚いたよね。家のこととか、他人のことなんて、気にもしていない年頃かと思っていたよ。おばあちゃんがかわいそうだから希望をかなえてあげようなんて、あいつが言うとはなあ」 「いきなり言いだされて、あなたもとまどっていたでしょう」 「そうさ。話が面倒になるんだからお前は口を出すなよ、という気がしたよ」  そう言って高田は微笑した。 「でも、考えてみれば、優しい発言だよね。迷わずああ言えるってことは、いいことなのかもしれない。口を出すな、と思った自分が恥かしいぐらいのものさ」 「いいとこあるのよ、あの子も」 「うん。ちょっと見直した」  二人とも、落ちついたいい顔になっていた。    桜井瑞穂は難病にかかった若者がそれでも力強く生きていこうとする二時間スペシャル・ドラマを見終えて、テレビを消した。鼻の両脇《りようわき》を手でぬぐって、涙をふく。それから、ふっ、と笑った。  立って、小さな台所へ行く。夕食の後の食器はとっくに洗ってある。瑞穂がしたことは、明朝のためのご飯を炊く用意であった。米を研いで、水の量を加減し、電気|釜《がま》のタイマーをセットする。  それがすんで、居間に蒲団《ふとん》を敷く。  だが、なんだかまだ眠る気になれなかった。蒲団の横にすわりこんで、小さくため息をつく。  それから思いたって、部屋の隅にある小さな仏壇の前にすわった。ミカン箱を立ててあるのかというぐらいの、小さな仏壇が、デコラ張りのテーブルの上に置いてあるのだ。  線香に火をつけて、香炉に立てた。気持の休まる匂《にお》いがゆっくりと広がってくる。  仏壇の中には小さな位牌《いはい》がひとつだけあり、そこに二つの戒名が並んで書いてある。  瑞穂が四十五歳の時に、仏具屋で買って戒名を書いてもらったものだった。二つの戒名は、彼女の実の父と母のものである。父のほうは、二つの時に亡くなっていて顔も覚えていない。母の顔は記憶している。それは夢の思い出のようにはかなく、おぼろだったが、おぼろなまま一生忘れないでいられる懐しい顔であった。  ほんの形ばかり手を合わせて、瑞穂は小さな声で言った。 「びっくりしちゃいましたよ」  そう言って、自分の声にうなずく。  それから瑞穂はしばらく仏壇の前にぺたんとすわっていた。  とりわけ信心深いというわけではない。墓参りだって、もう何年していないだろう、というほどだ。  位牌を作ったのはその当時に、ジンマシンでひどく苦しんでおり、そこへ、それはせめて自分の実の両親ぐらいはちゃんと位牌を作ってまつらなければ治らないわよ、という人がいたせいだった。病気を治したいという気もないことはなかったが、そうか位牌か、と盲点をつかれたような気になって、形だけでもそういうものを作ったのだ。  そして、心が落ちつかない時などに、その仏壇に線香をあげるとなんとなくほっとする、という習慣になっているのだった。  アパートの木製のドアのところで小さな、カリカリという音がした。瑞穂は、おや、という顔をした。  ニャア、と鳴き声がした。  柱時計を見て瑞穂は、今日もちゃんと来たんだわ、と思った。  ドアのところへ行き、それを開けると、足元に黒い猫がいて、物欲しげに顔をあげていた。 「へえ。ちゃんと顔を出すんだねえ」  と瑞穂が言うと、猫はニャアと鳴いた。 「どうしたの。何かほしいの」  ニャア。 「ちょっと待ってね。何かあるか見てみるから」  ドアを閉じると、猫はコンクリートのたたきのところでじっとしている。床まであがってくることはしない。  冷蔵庫を開け、中をのぞいた瑞穂は、ちくわを見つけた。近寄って、ちぎってさし出してやると迷ったような様子ながら食べる。 「ちゃんとごはんはもらってるんでしょう。これは夜食なのかね」  ついつい、猫に語りかけてしまう。 「夜になるとほっつき歩いて、あんたは不良だねえ」  いやあどうも、と猫が頭をかいたりするわけはなく、どうでもいいような顔をしてちくわを食べるだけである。 「あんた、どこの子なの」  それも知らないのであった。  一週間ほど前、夜のこの時間にあんまりニャアニャアいうので出てみて、それが初対面である。ものおじをせず、なつくようなそぶりをするので、おなかがへっているのかしらと思い、ミルクをやった。そうしたら嬉《うれ》しそうにピチャピチャなめて、その様子がかわいくなったのである。それ以来、ほとんど毎日のように夜この時間に顔を出す。  何か食べるものをもらい、はしゃぎもしないで食べて、食べ終えるとまたふいといなくなってしまう猫である。そう痩《や》せてはいないから、どこか近所の飼い猫であろうとは思うのだが。 「あのねえ、今日は大変なことがあったのよ」  瑞穂は猫に話しかけた。黒猫はちくわに集中しているのだが。 「とんでもない話なんだよ。まあ、びっくりしちゃったんだから」  猫がきいていようがいまいが、瑞穂は自分を納得させるかの如く、話した。 「この私に、結婚してくれという人がいたんだよ」  その声は、どことなく弾んでいた。  猫の頭をなぜる。ビクンと身を縮めたが、すぐに猫も安心だと悟って、またちくわを食べる。 「結婚なんだよ。こんなおばあさんに、プロポーズしてくれる人がいたんだから。ねえ。驚いちゃうでしょう」  優しい印象を見る人に与える目尻《めじり》の皺《しわ》が、ほほえんだようにいつもより深くなっていた。 [#改ページ]   波 紋  自宅から歩いて十五分、というところにある株式会社粟田ギフトは、四階建てビルの一階を倉庫用に、二階を事務所に借りているという規模である。新宿区内にあるとはいうものの、高層ビル群の谷間とか、交通量の多い表通りに面している、という立地ではなく、四、五階建ての灰色のビルがごちゃごちゃと集った、中小企業の吹きだまりのような一角にあるのだ。  二階のオフィスには、男女半々の比率で十人ほどの従業員が働いている。ほかに、商品の納入に行っている者や、営業で出かけている者もいて、全部で二十名ほどの社員がいた。  そのオフィスの一番奥を、仕切りパネルで囲って、社長室と呼ぶには貧弱だが、まあそういう社長専用ブースにしていた。そこに粟田健一郎は自分のデスクを置いている。そして、それよりは小さな、専務ということになっている妻の玲子の机もあった。  午後一時半、二人ともその部屋の中にいて、事務仕事をしていた。そこへ、玲子の机の上の電話が呼び出し音を鳴らした。 「はい。粟田ギフトでございます。ああ、いつもお世話になっております。はい、どうも。いえこちらこそ。はい、おります。ちょっとお待ち下さい」  そう言って玲子は電話機の保留ボタンを押し、オルゴール音を流した。 「セントラル通商の溝口さんから……」  と、健一郎に告げる。  ほい、と言って健一郎は自分の机の上の、電話の子機をとった。 「はい、粟田ですが。あ、どうも。はい、いやあいろいろお気づかいさせてすみません。ええ。ええ。そうなんだよね」  礼儀正しいようでもあり、かと思えばぐっとくだけた調子になってみたり、対応が一定しない話し方を健一郎はした。同級生で気安い仲の相手だということと、おいしい話をもちかけられた先方だということとが、微妙に影響しているのだ。  そして、健一郎の口調はどことなく、申しわけない、というニュアンスを帯びて歯切れが悪かった。 「それはもう、よーくわかっているんだけどね。いや、はっきりしなくて悪いと思ってるんですけど」  会話は、テンポ悪くもたもたと続いた。  そして、結局はこう落ちついた。 「ですから、もうちょっと考えさせて下さい。おっしゃることはよくわかってますので、ええ、こっちも前向きに考えて、なるべく早く結論を出します」  電話を置いて、頭へ手をやって考えてから、健一郎はこう言った。 「カラオケの件は、ちょっと見送るしかないかもしれんなあ」  電話の様子をそれとなくうかがっていた玲子は、ちょっと残念そうに言った。 「そうなの。むこうが何か言ってるの」 「いや、溝口はさかんにやれとすすめてるんだよ。だけど、一方で、このところ競争が激しくなってるから、ただやりさえすればいいというものでもなくなってると言うわけだ。立地条件のいいところでないと、やっぱりむずかしいらしい」  大学時代の友人が持ちこんだ、カラオケ・チェーン店をやらないかという話に、この半年ばかり健一郎は心を動かされてきた。そういう多角経営にうって出るのも、いいかもしれんという気がしたのである。  カラオケの人気は大変なものだからなあ。千晶や睦美までが、と彼は二人の娘のことを考え、少し不服顔になりながら、思考を進める。あんな高校生までが、クラスの仲間とカラオケ・ボックスへ行くという時代だ。カラオケはもう中年男だけの楽しみではない。  そういう業界へ進出してみる。贈答品や販促サービス品の商社からの転進だ。事業拡大のチャンスなのだから……。  健一郎はここらでひとつ、自分の勝負をしたいという夢を持った。親から受け継いだ会社を無事に運営していくだけではなくて、自分の裁量でチャンスに賭《か》けてみるのだ。  しかし、そのためには資金がいる。それをどうひねり出すかだ。  この件について、名目上だけとは言うものの会社の相談役になっている、父の草平は反対しているのだ。カラオケなんていう、はやり物に手を出すのは、ギャンブルに金をつぎこむようなものだ、と草平は言う。そんなものにまどわされることなく、家業を真面目《まじめ》にやるべきではないか、という意見なのだ。  父親は引退した身で、今の社長は自分なのだから、自分の考えで好きなようにしていいと健一郎は思っていた。草平の反対は押し切ればいい。  ただし、資金の面で、草平の協力を得たいという事情があるのだ。草平の持っている不動産を担保にすれば、資金ぐりが楽になるのだから。  健一郎はそのあたりについて、このところ悩んでいた。 「実は、この前親父のところへ行って、いろいろ話をしたんだよ」  と、健一郎は力なく言った。 「いつのこと?」 「先週だよ。どういう考えがあって離婚なんかしちゃったのか、ということをきっちりきいてみたんだ。それをきくのは長男の責任でもあると思ってね」 「そんなこと話してくれなかったじゃない」  玲子は少し心外だという顔をした。 「だから今、こうして話しているんじゃないか」  健一郎は即座にそう答えてから、むずかしい顔で考えこみ、あらためて、なるべく優しい声で言った。 「あんまり妙な話だったんで、自分の頭の中が整理つくまで言いだせなかったんだよ。親父がなかなか自分の考えを説明しなかったのも、なるほどと納得できるような突拍子もない話なんだよ」 「どういうことなの」 「つまり親父はさ、お母さんと離婚して、財産を二つに分けて、さてこのあと、別の女性と結婚しようと思っているんだとさ」 「あっ」  と驚きの声をあげ、玲子は、やっぱりそうか、という顔をした。 「言ってた通りじゃないの。そういう相手がちゃんといたのよ」 「違うんだよ。そういうことじゃないんだ。それよりもっと変な話なんだ」 「どういう話なのよ。もっと変ってどういうこと」  玲子は思わず椅子《いす》から立ちあがり、健一郎の机の正面に歩み出た。 「瑞穂おばちゃんと結婚するつもりなんだと」 「ぎえーっ」 「言っとくけど、バカなこと考えるなよ。つまり、そういうやり方で瑞穂おばちゃんにお礼をするんだそうだ」 「ど、どういうこと?」 「すごく恩を受けてるわけだよ。お母さんがサナトリウムに入っている間、子供を育てる役目をしてくれたんだから。事業も手伝ってくれたわけだしな。そういう恩人に、ちゃんとお礼をしたいということなんだよ。でも、普通に言えば、自分の妻のいとこになんか相続権はないだろ。そこを無理に財産を分けてあげれば、とんでもない贈与税をとられちゃうしな。だから、形式的に結婚しちゃうんだってさ。そうすれば、今半分になってる財産の、そのまた半分が相続税免除で遺《のこ》せるという、そういうとんでもない作戦だよ」  健一郎は、父のその作戦を詳しく説明した。  玲子は目を輝かせて話にきき入った。  ひどくこみいった話なのだが、ついついひとを夢中にさせてしまう、大胆不敵で、ある面痛快な作戦である。敵の盲点を見事につく、という気さえする。  敵というのは税務署であり、つまり国家なのであって、国民としては面白がってはいかんのだけれど。 「ちょ、ちょっと待って。考えがついていけないわ。待ってね。えーと、お茶をいれてくるわ」  興奮した玲子は社長室を出て、お茶をいれに行ってしまった。  この話をきけば誰だって興奮するよなあ、と思い、健一郎はズボンのベルトをゆるめてほっと息を吐いた。  しばらくして、お盆の上にお茶を持って現れた玲子は、夫の前に茶碗《ちやわん》を出したあと、やや落ちつきを取り戻した口調で言った。 「お義父さんの考えたことはわかったわ」 「うん。もうボケ始めてるんじゃないかと思った人にしては、一応考えとしてまとまっているだろう」  玲子は健一郎の顔を見て、小さく首を横に振った。 「そうなんだけど、その考えって、やっぱりちょっと変だと思うの。なんとなくそういう気がするのよ」 「そんな人に財産の一部をやっちゃうってことがだろう。そういう意見も当然あるだろうな」 「そういうことじゃなくて……」  と玲子は言いかけたのだが、健一郎は始めた話を構わず続けた。 「おれも、瑞穂おばちゃんに全財産の四分の一をやっちゃうのか、と一瞬思ったよ。確かに恩人だし、おれたち兄妹の育ての親でもある人だけど、億からの値がつくものをほいとあげちゃうものかなあと、なあ、思わんでもないだろ。老人にそんなには必要ないんじゃないかなあと、思っても強欲じゃないだろう」 「それもあるけど」 「おれとしては、ちょっとそんな気もしたんだ。それが顔に出たかもしれん。そしたら親父が言うんだよ。最終的には、どうせ同じことなんだからってね。瑞穂おばちゃんがそういう財産を持って、心強く老後を生きていけて、それでいずれは亡くなるわけだよ。そういうことは言っちゃいけないけど、まあ、ものの順序としてそうなるよな。そしたらその時、どこにも身寄りのないおばちゃんが、その財産を誰に遺すんだ。老人のささやかな生活で、億以上もする不動産を使いつくすわけもないだろうって、これ、親父が言ったんだよ。それでさ、瑞穂おばちゃんという人は、法定相続人のない人だよ。配偶者も子も、親も兄弟もいないわけだから。だから遺言を残しとかないと、国が財産を持っていっちゃうよね。それはバカバカしいから、遺言によって相続人を決めておくことになるだろう。そうしたら、そこで財産をわたす相手は、自分で育てて愛情もうつってる三人の子供になるじゃないかって。つまり、結局は、間にワンクッションはさまるだけで、最終的にはおれたち兄妹が親のものを受け継ぐことには変りないんだとさ。やや全体での税額が高くなるけど、おばちゃんに渡る時に無税だから、そんなに大幅に損になるわけじゃないんだと」 「お義父さん、そこまで考えてるの」 「うん。おれもちょっと驚いた。あの離婚は、そこまで考えた上で、このやり方がいちばんいいと踏みきったものなんだそうだ」  健一郎は重々しい声でそう言った。  玲子は小首をかしげている。  粟田草平の離婚作戦の全容を、とりあえず長男の健一郎とその妻の玲子は知った。  だが、知ってすぐには、うん、それがいいと賛成できる話でもなかった。この作戦には、様々な人間の思いというものがからんでくるのだ。家族の意志、なんてものを、もう一度考え直さなければならないような、複雑なプランなのだ。 「そのことはわかったわ。でも、私がその話をきいてちょっと変だなあと思うのは、そういうことについてじゃないの。結局誰が得をして、税金をいくらとられるかということは、あとでよく考えればいいのよ。その前に、それとは別にちょっと気になることがあるのよ」 「何が言いたいんだ」 「心のことよ。それでほんとうにみんな満足できるのかしら」 「よくわからないな」 「お義母さんのことよ。お義母さんはほんとにそれでいいと思ってるの」 「それは、思ってるんじゃないか。自分でも何度もそう言ってるだろ。私はおとうさんの考えたことに賛成で、納得した上で離婚するんだから心配してくれなくてもいいんだって言ってただろ。それ、真相を知ってみればうなずける話なんだよ。お母さんにしてみても、瑞穂おばちゃんに対してはものすごく感謝してると思うもんなあ。何かの形で恩返ししたいと思ってるだろうもの。だからこのやり方に賛成してるんだ」 「恩返ししたい気持はあるかもしれないわ。うん。お義母さんって、ひとに強く逆らったりしない人だから、それでいいと思ってるのかもしれない。この考え方に反対なんかしたら、とんでもなく悪いことだと思っちゃってるのかもしれない」  玲子は非常にクールに、キビキビとしゃべった。 「でも、ほんとうの気持を考えてあげなきゃ。ほんとうに、そのために離婚しちゃって、夫が別の人と結婚しちゃって、喜んでると思う?」 「それは、形式的なことだけなんだよ」 「だとしてもよ。年寄りだから、もう形式上のことなんか、どうでもいいと思っているわけ。お役所の書類の中で、夫婦だろうが他人だろうが、実際上で仲よくやっていれば文句はないと思う?」 「そこまでは考えてなかったな」  と言って、健一郎は初めて複雑な顔をした。母はこのプランに本当に賛成しているのだろうか。 「私、そういうものじゃないと思うわ。お義母さんはおとなしくて、自分の気持をちゃんと言ったりしない人だから、おとうさんの考えに従いますよ、と言っちゃってるのよ。でも、それで心から納得できているのかしら。要するに正式に離婚されて、夫はほかの人といっしょになるのよ。いくら年寄りだってそんなのはいやじゃないの」 「お母さんの気持か……」  健一郎としては、その角度でこの件を考えてみたことがなかった。素直に、お母さんも賛成している、と思っていたのだ。  だが、玲子に言われてみれば、人の心はそんなに単純なものだろうかという気もしてくる。  あの歳で、形式上のことにすぎないとはいうものの、つれあいを失ってひとりぼっちになってしまうのだ。  それどころか、夫の再婚を応援しているのだ。 「それも、もっとちゃんと考えてみるべきことかもしれないな」  と健一郎は、つぶやくように言った。 「お義母さんだって、女なのよ」  玲子は断定的にそう言った。健一郎は老いた母を女だと言われて、砂粒を口に含んだような気がした。 「それも考えよう。ちゃんと、お母さんの気持をきいてみるべきかもしれん。だけど、とりあえずそのことはおいといて、おれとしては、カラオケ・チェーンのことは今回は見送るしかないかなと思っているんだ。親父が考えのもとに不動産を分割したり、動かしたりしてるこの時期に、担保に貸してくれとも言えやしないだろ」 「そのことは、わかりました。それは別に、今どうしてもということじゃないんだから」 「うん。こんなややこしい事態になってしまっているのに、その上親子で事業方針についてバタバタやりあうわけにもいかないよ」  健一郎がそう言った時だった。電話が呼び出し音を鳴らした。  玲子は一呼吸置いてから、受話器をとった。 「はい、粟田ギフトでございます」  健一郎はぼんやりと別のことを考えていた。 「はい。ええ、おりますが、あの、失礼ですがどちら様でしょうか」  玲子の声がふと、不審げなものになった。 「はい。あ、そうですか。それでは、今代りますのですこしお待ち下さい」  保留ボタンを押して、オルゴール音を流す。  玲子は振り返って、妙にこわばった声で言った。 「園川さんという女性から電話よ。社長さんはいらっしゃいますでしょうかって」  健一郎は、あっ、と声をもらしそうになった。  なんとか冷静さを装って、事務的に電話の子機をとった。 「はい。お電話代りました。粟田ですが」 「ビストロ華の園川ですけど……」 「ああ、どうも。いやあ、ご無沙汰《ぶさた》してます。お元気ですか」  つい先日会ったばかりなのに、お元気ですか、ときくのだから、相手も何かを感じ取る。 「お電話してまずかったかしら。今出たの、奥様なのね」 「ええ、まあそうですけど、それは別に構わないんですが」 「ご免なさい。会社にだったら電話かけても問題ないかな、と思ったの。ちょっとお耳に入れておくといいかなということがあったものだから」 「ええ。別に、いいですよ」  玲子が話にきき耳を立てているのは痛いほど伝わってくる。健一郎は、額に汗をふき出させ、必死に考えをまとめようとした。  この電話をごまかしきることはできない。名前が知られているんだから。では、どこまでを明らかにするか。ヘンに隠すと、むしろ面倒なことになるぞ。なんでもないような顔で、サラリと認めてしまうか。 「えーと、用件を簡単に言いますわ。この間の、おとう様の離婚とか、それに伴う相続のこととかについて、お役に立てるかもしれない人のことを思い出したの」 「はい。なるほど」 「うちの常連客の一人で、気安くしてもらっている弁護士さんがいるのよ。その人なら、私の紹介だと言えば気さくに知恵を貸してくれると思うんです。そういうフランクなつきあいだから」 「よくわかります」 「だから、何かの時にはと思って。えーと、連絡法をお教えしておくわ」  その弁護士の名前と、事務所の電話番号を教えてくれる。健一郎はそれをメモした。 「必要がなければ、忘れて下さればいいんだけど」 「いや、そうですね、どうなるかわからないけど、場合によってはお力を借りるかもしれません。どうもありがとう」 「それだけです。じゃあ、そういうことで。余計な口出しだったかもしれないけど」 「いや、とんでもない。助かります。わざわざアドバイスいただいて、感謝してます」  少々ぎこちなく、その通話は終った。  健一郎はなるべくさりげなくしようと思いつつ、つい、様子をうかがうようなふうに、玲子を見た。  玲子は自分の椅子《いす》にすわり、ふと顔をあげて、不思議そうに言った。 「園川さんって、あの園川さん?」  隠す必要もないことである。知られなきゃ、言う必要もないことなんだが。 「うん。園川知佐子さんだ。知ってるだろ。えーと、会ったことはないんだよな」 「その人が何ですって」 「弁護士の知りあいがいるからって、連絡先を教えてくれたんだ。親切心、だよな」  と言ってから、健一郎は何もかも正直に言うしかないと決意した。そうするしかないのだから。 「いや、この前偶然に会ったんだよ。そのときに、親父の離婚騒動の話が出たんだ。えーと、むこうも親父のことを多少は知ってるからさ」 「どこで会ったの」  まずいな、と健一郎は思う。つまらんことに気を使わなきゃいかんのだな、とも思う。 「えーとさ、彼女がやってるレストランへ行ったんだよ。だから、偶然というのでもないな。近くを通ったから寄ってみたんだ。十年くらい前に、その店のオープンの案内をもらって場所は知ってたから」 「それ、いつのこと」  慎重にいこう。すぐバレるような嘘《うそ》ならつかないほうがいい。 「いつだったかな。ほら、溝口と、横浜のほうのカラオケの店へ行った時だよ。あいつの車で、近くを通ったんで、めしで接待しようかと思ったんだよ」 「あの日か」 「そうしたらレストランは準備中で、食事はできなかったんだ。だからまあ、久しぶりですねえと、ちょっとお茶を飲んで話したんだ」 「溝口さんもいっしょに?」 「いや、あいつは先に帰ったんだ。なんか、知ってる店へ行くとかで。それでまあ、軽く雑談して、その時に親父のことが話題に出たんだよ。むちゃなことをされてまいってるんだ、ということだわな。そのことが頭に残ってたんだろうね。知りあいの弁護士を紹介してくれたんだよ。でもまあ、弁護士に相談する話でもなくなっちゃったよな。親父の考えてることはだいたいわかったんだから」  筋の通った話ではないか、と健一郎は思った。おかしなところはない。人生にはそういうこともあるさ。  強いてさがせば、ひとつだけ変かもしれないが。 「そのこと、私には話してくれなかったわね」  それが、ちょっとだけ変ではある。 「忘れてたんだよ。すっかり忘れてた。ここんとこ、なんか面倒なことばっかりあったからな」  玲子は無言で、実に複雑な表情をして、健一郎の顔を見つめていた。  マズいなあ、この雰囲気は。    我が人生で、最もいやな気分の日が今日だったのかもしれない、と大場義光は思った。  面白くない。ふりかかった災難の不快さに、ついつい眉間《みけん》に皺《しわ》が寄ってしまう。呼吸をするのも面倒な気がして、無意識のうちにため息が出てしまう。  だが、男として、うちのめされたような顔をするわけにはいかない。もちろん、こんなことで敗けるわけにはいかないのだ。  怒りを含んだ、不機嫌な顔で黙りこくるしかなかった。何もかも気にくわなかったのだが。  その日は土曜日だった。大場はその日の会社を休みにした。いつもは週休二日制を取り入れてはいないのだが。  午後三時に、その男が来た。  東郷大学経済学部四年とやらの、笹原衛《ささはらまもる》、という若造である。  思った通りの、見るからにつまらない、クズのような人間である。目鼻立ちが妙にくっきりしているのは頭が悪いせいであろう。髪は思ったよりさっぱりしていたが、一部おっ立っている部分がある。そこをドライヤーなどで懸命におっ立てているということで、つまり馬鹿である。  そして、一応神妙な態度であった。 「ご両親に心配かけることになってしまい、反省してます」  と、そいつは正座したまま言った。  ご心配をおかけするようなことをしでかしてしまい、申し訳なく思っております、だろうが。言葉もちゃんとしゃべれんのか。  義光と加寿子が並んですわり、向きあう形でそいつと真奈美がすわっていた。その、位置関係がまた義光をいら立たせる。 「ですけど、不真面目な気持でしたことじゃないのは、わかってもらいたいんです。ぼくは、真奈美さんのことを、本気で考えています。だから、どうか許して下さい」  真奈美さんのこと、であり、真奈美のこと、ではなかったのは上出来である。いきなり出現した男が、真奈美のこと、なんて言ったら親は逆上するのだ。 「許せとはどういうことだね」  義光は冷たくそう言った。真奈美が、心配そうに顔をうかがってきた。 「二人の仲を、正式に認めてもらいたいんです。真奈美さんと結婚させて下さい」  笹原衛はそう言うと、畳に手をついて頭を下げた。  義光は、戦意を失っていた。  いつの日にか、とおそれていた事態が、現実になったのだ。人生で最もいやな日だ。そして、父親というのはこの不快を受け入れるしかないのだ。  ガタガタ言おうと思えば、言いたいことはいくらだってある。  まだ二十歳のひとの娘を妊娠させておいて、許せもくそもあるか。許せん。  そもそも、まだ社会的に半人前な、学生の身ではないか。人生の方針は立っているのか。  結婚してちゃんとやっていけるのか。そういう厳しい責任がとれる分際なのか。  せめたてて、コテンパンにつるしあげる手もある。  だが、そうする気力が、義光にはわいてこなかった。真奈美がむこうサイドにすわっているのである。そして、どんなに不快であろうとも、認めないわけにはいかないことなのである。  義光はこう言った。 「真奈美が妊娠したので、責任をとらなきゃいけないと思っているんじゃないかね。そうだとしたら、無理に責任をとらなくてもいいんだが。責任があると思いこんで、心にないことを背負いこむのは、かえってみんなの不幸につながるんだ」 「いえ、違います。責任とるとかいうんじゃなくて、真剣に、真奈美さんと結婚したいんです」  その時点で、義光は反対する気力を喪失した。  もう、どうにもならんのだ。  真奈美が熱っぽく言った。 「お父さん。二人とも真剣なの。だからわかって下さい」  もう知らん、である。黙ってこの不快を受け入れるしかないのだ。 「うん」  と、義光はかすかな声で言った。  そのあと、加寿子が話に加わった。学業のほうはどうなっているのか。ご両親はどこで、何をやっている人なのか。このことを承知しているのか。あなたの就職はどうするつもりなのか。  笹原衛は、就職活動とか始めていますし、最悪の場合は、一年間研究室に残る手とかもありますし、などと、|とか《ヽヽ》を連発して、少くとも何らかの方法で生活の基盤を作り出すつもりですという内容のことを言った。  話しあいは、三十分で終った。  そのあと、真奈美はそいつを近所まで送っていった。  義光は、無口になった。  加寿子が、そう悪い人ではなさそうですよ、と言った時はムカッとしたが、怒鳴りだしはしなかった。 「なんか、へなへなしてないか」 「若いんだもの、あれが精いっぱいよ。それにしてはちゃんとしてたほうだわよ」  勝手にせい、と思うしかない。  真奈美が夜になるまで戻らなかったら許し難かったところだが、一時間ぐらいで戻ってきた。  家庭の団欒《だんらん》とは何なのか。一家|揃《そろ》って、幸せに夕食をとるのがそれか。  弘樹も学校から帰ってきて、みんなで夕食をとった。一家四人の勢揃いである。だが、全員なんとなく口が重く、気づまりな沈黙が続いた。  食事を終えると真奈美はさっさと自分の部屋に引きこもってしまった。義光は居間へ行ってテレビをつけた。ちぐはぐな一家団欒である。  ダイニングにまだいる弘樹が、その時母にぽつりと言った言葉が義光の耳に届いた。 「これって、目出たいことだよね」  加寿子の返事はきこえなかった。  義光はカッとして、弘樹を呼んでゲンコツをくらわせてやろうかと思った。大人の話に口を出すんじゃない、というところだ。  だが、もちろんそんなことはしなかった。  よく考えてみれば、弘樹の言う通りなのだ。  これは目出たいことなのである。まだ学生じゃないか、理性が足らんぞ、とか、先に妊娠でそれから結婚というのは順番が違うぞ、とか、全体にやり方に思慮が欠けていてそこが気に入らんのだ、とか文句をつけたいことは山のようにあるが、それでもこれは目出たいことなのである。  しかし、目出たいことが、必ずしも幸せなことであるとは限らない。真奈美の気持は知らないが、おれにとってこれは嬉《うれ》しいことではない。  父親が一家の柱、というのが義光の考え方だった。結婚して、子供が生まれて、つまり自分の家族というものを持って、ずっとその考えでやってきた。  父さんは一家の大黒柱で、全力をあげてお前たちを守っていく。それが、家族の幸福というものなのだから。よその家のことは知らないが、うちはお父さんの考えでやっていくんだから。みんな、お父さんに従いなさい。  そういう家族から、私は抜ける、という者が出たのだ。ひとつにまとまっていたものが、壊れた。  義光にはそんな気がするのだった。なんだか自分の家族観を否定されたような気がした。  大場家が、義光の思っているようにひとつにまとまっていたというのは、本当だろうか、という疑問は一方に確かにあるのだが、彼はそれを信じてここまで生きてきたのだ。  家族が縮小してしまった。そして、それは家族の成立の原理にのっとった、正当な縮小なのだ。  文句をつけるわけにもいかない。  これは目出たいことなのだ、と思ってみる。  でも、早すぎる、段取りが愚かだ、おれが自分の娘に望むやり方ではない、あんな二流の男に……、という思いが次々にわきおこってくるのだった。  夜もふけてから、加寿子が家事を終えて居間にやってきた。弘樹も、なんとなく父親の不機嫌を感じとったのか、自分の部屋に引っこんでいる。  様子をうかがうような態度で、加寿子は静かに言った。 「こうなったら、なるべく早いほうがいいですよ」  義光はかろうじて冷静さを保った。 「どうしてだ」 「あんまりおなかが目立たないうちのほうがいいでしょう。臨月のウエディング・ドレスとかいうの、みっともないでしょう」  義光は、こらえた。 「だから、どんどん話を進めて、七月か八月には式をあげたいじゃない。八月は暑すぎて、呼ばれた人が迷惑なんだからなんとか七月に」  お前はこういう時に、そんな計算をするのか。みっともないもくそも、既に誰の目にもみっともないではないか。 「お仲人を誰に頼むのがいいかしら」  その話を今日するのはよせ、と思わず義光が言おうとした時に、電話がどこかからかかってきた。  加寿子は立っていって、電話に出る。 「もしもし。ああ、お兄ちゃん」  義光は大声を出さずにすんだことにほっとして、その電話には注意を払わなかった。ただぼんやりとテレビのバラエティ番組を見ている。ただしその内容はひとつも頭に入ってこない。 「えーっ、何よそれ。どういうこと」  なんだか電話のほうでは話が複雑になっている様子である。加寿子は急に大きな声を出したり、かと思うと急に声をひそめたりした。 「そんなこと、非常識じゃない」  通話は二十分ぐらい続いた。さすがに義光も、いったい何を騒いでいるんだという気になってくる。  やっと電話を切って、加寿子は興奮のおももちで近寄ってきた。 「お父さんが、瑞穂おばちゃんと再婚するんだって。お兄ちゃんが、お父さんからきいた話なんだそうなのよ」  なんだそれは。 「むちゃくちゃでしょう。瑞穂おばちゃんには大いに世話になったから、財産を分けてあげたいからなんだって。それが何か、得なやり方らしいのよ。でも、そんなのおかしいわよねえ。そんな理由で結婚するなんて、不自然だわよね」 「ちょっと待て」  と大場義光は言った。そして、この不快な日の、唯一心の底からの発言をした。 「今、おれにとってそんなことはどうでもいい」 [#改ページ]   きしみ  母と娘は、新宿にあるデパートの中を、一時間ほど買い物して歩いた。特に何を買うという目的があるのではなく、ショッピング自体をたのしむわけである。誘い出したのは娘の加寿子のほうだった。  夏物のブラウスを買い、静江にもサマーセーターを買ってやり、一段落したところでデパートの中にあるティー・コーナーへ入った。  禁煙席にすわり、ケーキと紅茶のセットを注文する。平日で、店内はそんなに混《こ》んではいなくて、ゆったりとくつろぐことができた。 「実はね、真奈美が片づきそうなの」  と加寿子は紅茶を一口飲んでから切りだした。 「片づくって?」 「結婚させることになったのよ」 「あらあ。それはお目出たいじゃないの。へーえ、真奈美ちゃんはまだそんな歳じゃないと思っていたけどねえ」 「お目出たいのかどうか、よくわからないのよ。これは、もちろん正式にはお父さんに言わなきゃいけない話だけど、前もってお母さんに知っといてもらおうと思って」 「何か面倒なことでもあるの」 「面倒ってことはないんだけど、あの子、妊娠しているのよ」  静江ぐらいの歳になると、そんなことにいちいち驚いたりはしない。あらまあ、そのケースかいな、という顔をするだけである。 「みっともない話だけれど、好きあった二人がそういうことになって、ぜひ結婚したいと言ってるんだからまあいいかと思うの。そうじゃなくて遊びでそういうことになっちゃったんだったら問題だけど」 「そうだよ。きっかけはちょっと変でも、本人たちが望んでるふうになるんならそれでいいんだもの」 「あ、お母さんもそう思ってくれる?」 「いい話じゃないの。そりゃまあ、相手次第だけど」 「相手はまあ、そう悪くもなさそうな男の子よ。そうか、お母さんは賛成してくれるのね。あと、問題はお父さんか。お父さんがなんと言うか」 「おとうさんも別に文句つけやしないと思うよ。だって、美津子の時だって同じだったけど、怒ったりはしなかったじゃない」  あ、そうか、と加寿子は思った。忘れていたが、美津子もおなかのふくらんだ結婚式をあげたのだ。結婚して三か月めに長男の勇太が生まれた。 「そういう前例があったわねえ」  言いながら、加寿子は納得した。  今度の真奈美のことで、自分がいたずらにオロオロせず、できたら結婚するのが一番いいんだが、と考えられたのは、昔の妹のケースが頭にあったからなのだ。 「だから、私やおとうさんには異存のあるはずがないよ。幸せになってくれるならお目出たいことだもの。でも、大場さんはどうなの」 「すごーく面白くなさそうよ。男親ってああいうものなのかしらね。プリプリしちゃって、声もかけにくいぐらいだもの」  静江はおかしそうに笑った。 「妊娠のことも気に入らないらしいんだけど、それだけじゃなくて全部面白くないのね。まだ二十歳でその話は早すぎるとか、つれてきた相手がまだ学生で頼りなくて気に入らないとか、とにかくもう、裏切られたような気がしているらしいのよ」 「最初の子だからねえ」  と静江は言った。 「どういうこと?」 「親って、最初の子には変に期待しちゃうじゃない。自分の望む通りに育ってほしいとかってさ。おとうさんだって、健一郎や、あんたの結婚の時には、いろいろ細かい心配して気をもんでいたもんよ。ところが、末っ子の美津子の時は、本人がそれでいいなら文句は言わない、っていうふうなの。何をしたって認めてやる、みたいな感じだよ。私も、いままでと様子が違うなあと不思議だったくらい」 「美津子は可愛《かわい》がってもらってたわよね。なんでも、小さくて可愛いんだから許してもらえるみたいなところがあったじゃない。子供なりに私、ムカムカしたこと覚えているもの。どうせ下のほうが可愛くて、わがままが許してもらえるんだからって」 「どうしても、末っ子は甘やかされるんだよ。でも、期待は最初の子にしているんだよね。末っ子は、みそっかすだし、ただもう愛くるしいだけで、ぜーんぶ許しちゃうんだろうね。だから結婚するって時には、ろくに心配もしないで、したいならしなさいってことになっちゃうの。あれ、不思議なもんだよね」  兄弟姉妹の関係か、と加寿子は思った。考えてみればそれも、微妙でおかしな関係である。人生最初のライバルであり、それでいて切っても切れないくされ縁は一生続いていくのだ。 「最初の子がひとのものになっちゃうんで、それでおとうさん面白くないのか」 「父親って娘に対しては、みんなそういう心理のものらしいね」 「でも、腹を決めてもらわなきゃあね。面白くなくたって、そろそろむこうの親ごさんとも会わなきゃいけないし、式の日取りだって決めていかなきゃあ」 「早いほうがいいものね」 「そうよ。なるべくならまだあんまり目立たないうちに式をあげたいでしょう。七月中にはなんとかできないかと思っているの」  とりあえず真奈美のことを母に報告して、加寿子は一安心してケーキを食べた。夫のうろたえぶりを思い出して、ふと愉快な気持になったりする。家族の和を大切にし、父親は一家の大黒柱、という考えで生きてきている人も、子の巣立ちという現象の前には、手も足も出ないのだ。  家族の和。それは実体のない幻想なのだろうか。  加寿子はなにげなく話題を変えた。 「ところで、お父さんが瑞穂おばちゃんと結婚するんですって」  そのことを母の口からきこうというのが、デパートヘ誘いだした理由なのだ。草平のいないところで、母の真意をきき出しておこうと思ったのである。  それについて、お母さんがどう思っているのかがよくわからんのだよ。  と、電話で健一郎は言った。少し不安そうな口調であった。なるほど、そこにこの話のポイントがあるんだわと、加寿子も思ったのだ。 「変な話だと思うだろう」  静江は叱《しか》られる小学生のように首をすくめてそう言った。 「変っていうか、びっくりしちゃうような話だわよ」 「でも、よく考えてみると名案なのよ。私もさ、なんとかしてあげたいと思ってたの、瑞ちゃんには。自分たちだけ老後は安定していて、あの人には何もしてやらないというんじゃあ、バチが当たるでしょう」 「その気持はわかるけど」 「だからちょっとぐらい変でも、そうするのが一番いいと思っているのよ」 「うーん」  加寿子は考えこむ顔つきでうなった。 「あんたは反対なの」 「反対っていうか、それでいいのかなって思うのよ。あのね、私も、瑞穂おばちゃんにちゃんと何かしてあげたいっていう、そこのところには反対じゃないのよ。それ、とてもいいことだと思う」 「だろう」 「それで、お父さんの考えたことも、確かに名案だとは思うの。結婚しちゃえば、あげたいものがまるまる渡せられるんだものね」 「そうなんだって」 「だけど、それって、お母さんとしてはどうなの。やじゃないの」 「そんなことないよ。だって、生活はこれまで通りで、何も変るわけじゃないんだからさ」    「そうだとしてもよ。そんなの形式上の結婚だけで、本当はこれまで通り夫婦仲よくやっていくんだとしても、やっぱりどこか気持の上で寂しくないの。お母さんひとり身になっちゃうのよ」 「ひとり身なんて、思わなきゃいいのよ。現実に、そんなことになるわけじゃないんだもの」  静江はやや弱々しい口調でそう言った。 「私はさ、おとうさんがいいと思うことなら、そうしなくちゃと思っているの。それから、瑞ちゃんのためになることなら、できる限りのことはしたいのよ。だって、それが当然だもの。私が弱くてさ、みんなに苦労をかけてきているんだから。普通だったらよ、おとうさんが我慢してくれなくて、瑞ちゃんが助けてくれてなかったら、とっくに離縁されていてもおかしくないんだもの。それがこうして幸せにやってこれたのはその人たちのおかげでしょう。その人たちにしてあげられることがあるなら、しなくちゃ」 「それはわかってるのよ」 「でも、今のところ瑞ちゃんはそんなことできないって遠慮してるんだけどね。それはなんとか説得しなきゃね。でないと離婚が無駄になっちゃうもの」  加寿子は母の顔をじっと見つめ、その中の本心を探ろうとした。だが、何も見えてこなかった。  ふいに、病弱な母が哀れに思えてきた。 「お母さんの言ってることはとてもよくわかるわ。お母さんって、今までお父さんの言う通りにして、逆らったことなんかなく生きてきたんだものね。ひとのためになることなら、自分が不平を言って話をこわしちゃいけないと考えちゃうんでしょう」 「不平なんかないから……」 「でもさ、こういうことも考えないといけないと思うの。お父さんだって、いつまでも昔の一家の大黒柱のお父さんじゃないのよ。自分が名案を思いついたと思っちゃえば、それに夢中になっちゃって、そのことでひとがどういう気持になるか、というところまで考えられなくなってるのよ。ボケてるとまでは言わないけど、そういうところが、ひとりよがりで、頑固になっちゃってるの。年を取ったというのはそういうところに出てくるんじゃないかしら」 「頑固だろうかね」 「独断的になってくるのよ、どうしても。お母さんの気持っていうものが、考えられてないと思うの。お母さんもそのことは考えないようにしてるみたいだし」 「私は別に……」 「本当はそんなの、絶対にいい気持じゃないと思うわ。自分は離婚されて、瑞穂おばちゃんがお父さんの妻っていうことになっちゃうのよ。戸籍をとると、独身になっているのよ。いっくらみんなのためだって、そんなの寂しいじゃない。その寂しさをお母さんが我慢してるんだとしたら、幸せなことじゃないでしょう。そういうことが考えてないんだとしたら、お父さんの考えたことは名案でもなんでもないと思うの」  静江はなんとも言えない困った顔をした。    不穏な空気がたちこめていた。何かいやな、面倒なことが起きそうな、濃厚な気配がひたひたと迫ってくるのだ。  健一郎の妻の玲子が、異様に無口になってしまったのである。疑惑のまなざしで、じっと夫を観察するような雰囲気すらあった。とりあえず黙ってはいるが、腹の中では何が煮えくりかえっているかと思うと、おそろしいほどであった。  夫が、離婚した以前の妻とコンタクトをとったというその事実が、彼女をいつもの様子ではなくしているのだ。  重苦しい雰囲気であった。  だから健一郎としては、そういう日が三日続いたあとの深夜、二人の娘が自分の部屋へ引きこもったあと、ついに玲子が爆発してくれて、むしろホッとしたぐらいであった。何も言わないよりは、文句を言ってくれたほうがまだマシだった。  爆発は、まず弱々しい導火線の発火から始まった。 「園川さんって、今独身なの」 「よくは知らないが、そうらしいな。レストランのオーナーとして、仕事一筋に生きてるんだろう」 「お料理も自分でしているの」 「うん。オーナー・シェフというわけだよ。昔から、そういうことがやりたかったらしいんだ。それで、十年くらい前にようやく夢がかなって店を持てたということだ」  健一郎は地雷原をおそるおそる歩いているような気分であった。 「キャリア志向なんだ」 「うーん、まあね。昔から、家庭にとじこもるんじゃあつまらないと考えるタイプの人だった。だからうまく結婚生活ができなかったんだけどね」 「そこが合わなかっただけなのか」  危険きわまりない発言である。うかつにのってしまってはいけない。 「そうでもないけど」 「でも、どうしてそんな人に家庭内のことを相談したのよ」 「え?」 「だって、もう関係ないでしょう」  慎重に答えなければならない。 「偶然だよ。偶然というか、話の流れがそうなっただけだよな。むこうとしてみればだよ、おれに対しては恨みやつらみもあるかもしれないけど、親父のことはわりに好印象で覚えているわけだ。おとう様にはよくしてもらったわ、というやつだ。それで、お元気なのときくわけだ。だからつい、いやあもうボケちゃって、実はこんなことをしでかしてくれて困ってるんだと、ね、ごく自然にそんな話が出たのさ」  玲子はブランデーをなめて、不審げに首をひねった。 「そうだとしても、そのことに興味持っちゃって、弁護士まで紹介してくれるのはお節介のしすぎよね。二十年も前に離婚した相手に対してなのよ」 「まあそうかもしれないけど、親切でしてくれたことだろう。親父のことだったから、自然に何かできることはないかと思えたんじゃないかな」 「でも、変でしょう」 「変というか……」 「あなた、そのことを変だと思わないの」  答え方が非常にむずかしい。ここをどう切り抜けられるかだ。  健一郎は自分のグラスにブランデーを注ぎ足した。  落ちついて、おっとりと構えなければいけない。 「ただ電話を一本くれただけじゃないか。こういう知人がいることを思い出したから、何か困った時には相談してはどうかってね。それだけのことだよ」 「それが私はいやなの。うちの家庭の問題を、そういう関係ない人が、あれこれ考えてたわけでしょう。それとも関係ない人じゃないの」 「関係ない人だよ、もちろん。なんの関係もない」 「でしょう。そんな人に、家庭内のことを相談するのがそもそも変でしょう。昔は夫婦だったけれど、今は赤の他人よ」 「昔夫婦だったことはこのことには関係ないよ。つまり、要するに、親父のことを知ってる人だったというだけだよ。そういう人に会ったら、たまたま話がそう流れただけのことだ」 「話したいと思って、話したんでしょう。話したくないんなら、そんなこと言わないもの」 「そりゃ、まあそうだ。お元気ですか、ときかれて、ふと、どういう感想を持つかなあと……、話したんだからな。でもまあ、それってそう特別なことじゃないだろう。話の流れというものだよ」 「そうは思えない。すごく特別なことよ」 「どうしてさ」 「別れた相手なのよ。普通の知人じゃないのよ。そんな人に、家庭内のゴタゴタの話をするかしら。そういう相手になら、家庭内のことは絶対話さないのが普通じゃないかしら」 「そうかもしれないけど、たまたまそうなっちゃったんだよ。でもまあ、もう終ったことだからいいじゃないか。別に弁護士に相談したいとは思ってないんだから、お世話になることもないよ。これ以上何か関係が生じることもない」 「私が言ってるのは、どうしてそんな人に相談したのかということよ。それはうちで、私とあなたが考えることでしょう。ひとの意見をきくことじゃなくて。そもそも、どうしてその人と会ったのよ」  それについては、あくまで偶然を装う方針であった。|そっち《ヽヽヽ》方面へ行ったので、何気なく寄ってみただけだと。そういう話にするために、一種のアリバイ工作もしてある。あの日、セントラル通商へ行ったあと、これからそこの社長の溝口と横浜にあるカラオケ店を見てくると、玲子に電話を一本入れている。それがアリバイ工作だ。  別れた妻の知佐子と会うことは秘密にしておきたかったのだ。無用の波風を立たせたくはないからである。  知佐子に未練があるわけではない。遠い別の世界で幸せにやっててくれればいいが、と思うだけの相手である。理由がなければ、このまま一生会うことなく終ったっていい。  ただ、父の問題で、その人の意見をきいてみたいな、と思ったのである。クールで、しっかりした意見を持った人だという信頼はしているから。  妻の玲子や、妹たちは問題の当事者でありすぎて、客観的な意見を求めるのが無理だ。その点知佐子ならば、父のことも、粟田家のこともよく知っていて、それでいて第三者の立場で意見が言える。だからアドバイスを求めた。  それだけである。そのことは誰にも言わなければいいと思っていた。  なのに、思いがけなく知佐子が電話をかけてきて、それを玲子がとってしまい、ややこしいことになってしまった。 「どうして会ったのかは説明したじゃないか。近くへ行ったんでレストランとして利用しようかなと、寄ってみたんだよ。ところが準備中だったから、話だけして帰ってきた」 「セントラル通商の溝口さんとね」 「うん、彼は用があるとかですぐ退席したんだけど」  そういう嘘《うそ》をつくのは家庭の平和のためだと健一郎は思っていた。家庭内のことを第三者に、それも別れた妻に相談されたのでは、現在の妻としては立場があるまい、と思うのだ。 「そのレストランへは何回も行ってるんでしょう」  とんでもない、という顔を健一郎はした。 「その時が初めてだよ。十年前に開店する時、案内状を一通もらっただけだもの。あっちのほうか、とぼんやり記憶してただけだ」  本当は接待で二、三度使っているのだが、それも伏せておこう。家庭の平和が何より大切だ。 「本当のことを言ってくれないと、あなたがわからなくなってきちゃうわ」  玲子は狙《ねら》いすましたように冷たい声で言った。 「本当のことしか言ってないだろう」 「そうじゃないじゃない。そこへ溝口さんと行ったなんて嘘でしょう」  ヒヤリ、とした。  直観的に、何かマズい事態が襲いかかってくるに違いないとわかった。ものすごく面倒なことになるだろう。そう思うと頭にカッと血が昇る。  だが、あくまで冷静を装わなければならない。 「嘘なんかじゃないだろう。どこからそんな妙な考えを持ち出すんだ。あの日、ちゃんと電話しただろう。忘れているのかよ。これから溝口と、横浜ヘ行くんだって」 「その電話も、私に嘘をつくためだったのよ」 「なんでそんな嘘をつかなくちゃいけないんだよ。理由がないだろう」 「それは私があなたにききたいことよ」  玲子はドライアイスのように冷たく、硬く、乾いた声を出した。何かを確信している力強さが感じられて、たじろぎそうになる。 「何が気に入らないんだよ」 「私、溝口さんに確かめたのよ。そうしたら、あなたと横浜のカラオケ店なんかへ行ってないって……」  予想もしなかった展開であった。あっと思い、健一郎は思わず言葉につまる。 「なんだよ、それ。そんなこと、あいつにいちいち電話してきいたのか」 「子供みたいなバカなきき方はしてないから、そっちの心配はしないでいいわよ。うちの主人は本当にあなたとどこそこへ行ったんでしょうかなんて、そんなみっともないきき方はしてないから。日頃のお礼を言って、話のついでにさりげなくきいたの」 「どんなふうに」 「横浜のほうにもいいお店があるらしいんですけど、どうも決心がつかなくてすみません、だわよ。そうしたらむこうから、あの件は店を見てもらう前にお流れになったんだからかえって申しわけなかった、ですって」  ごまかしようのない、決定的な証拠を握られたのである。健一郎は沈黙した。 「だから、知佐子さんのお店には一人で行ったわけでしょう。私に、嘘の電話までかけて」 「嘘っていうわけじゃないよ。そう言っとくほうがわかりやすいと思ったんだ」 「とにかく、私には知佐子さんのところへ顔を出したことを知られたくなかったわけでしょう。知佐子さんがあの電話をかけてこなかったら、何も言わないですまそうと思ってたのよ」  そうである。しかし、理由は家庭の平和のためなのだ。なのに話はどんどんそれとは逆の方向に進んでいく。 「私はあなたの妻なのよ。なのに、どうしてそんなふうにないがしろにされなきゃいけないの」    高田勤は眼鏡の奥で瞳《ひとみ》を輝かせて言った。 「いろいろ計算してみると、お義父さんの離婚作戦は節税策としてあきれるほどの名案だよ」  それが、茶の間の会話、というのだから珍しい家である。中学一年の洋介は塾へ行っているのが救いか。勇太のほうは珍しく家にいるが自分の部屋にこもっている。 「会社で、時間があったからいろんなケースについて計算してみたんだよ。そうしてみると、どの場合よりもこの離婚作戦が一番うまい節税になってるんだ」  美津子はいぶかしげな顔をした。 「それ、違うんじゃないの。お父さんは節税のための作戦として離婚したんじゃなくて、瑞穂おばちゃんにうまく財産を遺《のこ》してあげるために、離婚、そして瑞穂おばちゃんとの再婚、というプランを考えたんでしょう」 「それも事実だろうけど、同時にこのプランは節税策にもなってるんだよ。ややこしかったけど、すべてのケースについて仮計算してみたんだよ」  高田は鞄《かばん》の中から、細々と計算が書きつけられた紙の束を取り出した。 「どういうことよ」  と美津子はすわりこみ、紙をのぞく。 「順番に説明する。まずだね、ここでは一応、お義父さんに十億円の財産があるとした」 「そのくらいはあるわよ」 「そして、相続の時に特にモメることもなく、みんなが法定相続分をもらう。それから、仮に人は年齢順に亡くなるとする。さてそこで、離婚をしなかった場合がこれだ。まずお義父さんが亡くなって、お義母さんが半分を相続し、子供たちが六分の一ずつ」 「妻の相続税は控除よね」 「うん。この計算は前にもやったね。三人の子供が一億七千万ずつ相続して、税額は一人五千六百万弱で合計約一億七千万円になる。そして、その後お義母さんが亡くなる。相続額は同じだけど、もとの数字が小さいから税額がちょっと減って、一人四千百万円ほど。合計約一億二千万円とられる。この二つの分を加えて、つまり何もしなければ、トータルで二億九千万円ほどが税金にとられていた」 「でも、離婚して財産をお母さんと五億ずつに分けちゃったのね」 「うん。そして、瑞穂おばちゃんと結婚するというわけだ。この場合、財産が三人の子供のところへ来るのに、三つの段階を踏まなきゃいけない。まずお義父さんが亡くなって、瑞穂さんに五億の半分、子供たちに残りの三分の一ずつ渡る。次にお義母さんが亡くなって、これはまるまる五億の三分の一ずつが三人の子に相続される」 「それで終りじゃないの」 「いや、瑞穂さんがその次に亡くなる。ここでは仮に、瑞穂さんは老人のことで財産を大して使っていないことにしよう。地価の上昇もあるからむしろ増えてるぐらいかもしれないけどそれは考えない。それで、その財産を瑞穂さんが遺言によって、草平さんの三人の子に遺すとする」 「そうか。結局は三人の兄妹に三億三千万円ずつ渡るのね」 「そうだけど、税額が違う。まずお義父さんが亡くなった時に、妻の瑞穂さんに二億五千万円渡るけど、税は控除だ。子には、八千三百万円ずつ渡って、税額は一人千九百万円、合計約五千七百万円となる」 「その時は、もらえる分が少ないものね」 「うん。でもって次に、お義母さんが亡くなる。これはさっきの離婚しないで亡くなった時と同じ金額で、三人の合計税額は一億二千万円。最後に瑞穗さんが遺言して亡くなると、子一人の税額が、えーと、これだ、二千六百万円で、三人合計約七千八百万円になる」 「お父さんの時と同じ額を相続するのに、税金はちょっと高いのね」 「それは、法定相続人の数がゼロで基礎控除が少ないのと、そういう相続の場合、税額が二割加算されることになっているからだよ。この辺のことをちゃんと調べるのは大変だったんだ」 「そうなのか。でも、どっちにしても、時間がたてば財産は三人の子供に渡るんだ」 「そういうこと。それでさ、その三回の税額を総計してみるとだよ、えーと、ほら、二億五千七百万円ほどになるんだよ。さっきの、何もしない場合が二億九千万円だよ。それより、三千三百万円ぐらい安くなっているんだ。お世話になった瑞穂おばちゃんの老後を心強くさせてあげて、しかもなお、三千三百万円の得」 「どうしてなの。すごーくお利口じゃない」 「つまり、二回にわたって無税で財産を分割して、小口に分けて三度相続するようにしているからだよ。これが実にうまいやり方なんだなあ。お義父さんはそこまで考えていたんだろうかと不思議になっちゃうよ。そうだとしたら希代の策士だぜ」 「それはきっと偶然なのよ。ただお父さんは、瑞穂おばちゃんに何かをしてやりたかったんだと思うわ。ずい分世話になったんだもの」 「うん」 「そのために考えた作戦なのよ。普通に、遺言とかでおばちゃんに財産を遺すと税金が大変だから、それをまぬがれるいい方法はないかと、思いついたのがこのやり方なのよ。それが節税になるとは考えていなかったんじゃないかな」  美津子は断定的にそう言った。 「そっちも念のために計算してみたんだよ」  と高田は言った。 「そっちって?」 「この作戦をとらないで、瑞穂おばちゃんに遺言で財産を遺したらどうなっていたか、というケースだよ。そうしたらこれが、ひどく損でね」 「どうなるの」 「それが、この計算だよ。ほら、お義父さんが亡くなった時に、遺言があって二億五千万円がそっちに相続されるとする。半分の五億がお義母さんで、子供たちが八千三百万ずつね。するとこの時、瑞穂さんは二割加算修正なんかもあって、約一億円の税を納めなきゃいけない。子供たちが一人二千八百万円で、合計一億八千万円の相続税になる」 「おばちゃん、一億円もとられちゃうのか。土地を売るしかないね」 「次にお義母さんが亡くなった時は、これまでと同じ。三人で一億二千万円の税金。そして最後に瑞穂さんが亡くなって、遺言で三人に渡るとして、ただし注意しなきゃいけないのは、瑞穂さんは二億五千万円もらったけど一億円の税金を払っているから、この時は一億五千万円しかない、ということね。それが三人に渡って、合計税額が約三千万円。ぜーんぶ足すと、三億三千五百万円になるんだ。子供たちには十億じゃなくて、九億の三分の一ずつしか渡ってこなくて、税金は三億三千五百万だよ」 「すごーく損じゃない」 「その通り。でも、もっとひどいのはお義父さんが生前に二億五千万円を瑞穂さんに贈与するケースだよ。それだとその時に、贈与税が一億六千万円になる。瑞穂さんは二億五千万円もらって手元に九千万円しか残らないんだ。で、残る七億五千万の財産を持ってたお義父さんが亡くなる。この時の税金が三人合計で約一億一千万円。次にお義母さんが亡くなって七千万円。最後に瑞穂さんが亡くなって遺言したとしても、忘れちゃいけないのは、瑞穂さんは贈与税をとられているから九千万円しか持ってないということ。この時の税額が約一千万円。すべてを総計するとだね、なんと三億五千五百万円とられている」 「さっきよりまだ多いのね」 「それだけじゃなくて、子供たちには結局八億四千万円の三分の一ずつしかまわってきていないんだよ。だから、お義父さんの作戦の見事さがわかるじゃないか。天才的な計画なんだよ」  高田勤はうなり声を発して首をひねった。 「でも、この前言っていたあのことはどうなるの。偽装離婚とかはいけないんでしょう。偽装結婚も同じよね。節税のために、そういうインチキしたとバレれば問題になるんでしょう」 「そこは確かに慎重にやらなきゃいけないけどね。でも、いろんな人の意見をきくと、税務署もその辺には何も言えないんじゃないか、という考え方もあるんだ。離婚とか結婚とかいうのは、個人の精神面の問題だからね。節税策じゃないんですか、と言われたって、いや、離婚したいんだ、と答えればそれに文句なんか言えないだろ。離婚した相手と同居し、結婚した相手と同居してないのは変だ、とは言われるかもしれないけど、その時は瑞穂おばちゃんとも同居してしまえばいいんじゃないかな」 「二人妻じゃない」 「別れた妻だけど、追い出すのはしのびないから置いててあげるんだ、と言えば、誰に文句が言えるかい。そんなことで、なんとか通るような気がするんだよね、その問題は」 「そうか。離婚した相手とは仲良くしちゃいけないなんて、誰にも言えないものね」 「結婚した相手とは仲良くしなくちゃ、だって、他人がとやかく言うことじゃないぜ。仲人ならそう言うだろうけどね」  そうか、すべてうまくいくんだ、と美津子は思った。  瑞穂おばちゃんにもよくて、しかも税金が安くなって、まるまる子供たちのところへ財産が入ってくる名案なのだ。 「お父さん、よく考えたわよねえ」  夫婦は満足そうにうなずきあった。  とそこへ、のっそりと息子の勇太が顔を出した。 「ちょっといい?」 「どうしたの」  と美津子はたずねる。 「ちょっと、相談したいことがあって……」 「何だ」  と高田。  勇太は困ったような顔をしてすわりこんだ。 「あのさあ。おれ、独立したいんだけど」 「なんだって」 「つまり、一人暮らしだよ。どこかにアパート借りてさ、一人で生活してみたいんだよ。それって、大学生なら当然のことだろ」 「どうして家があるのに一人で住むんだよ」 「そういう自由な暮らしがしたいんだよ。学生ん時にそういう体験しとくのって、自立心がついていいじゃんか」 「しかし……」 「それに、この家にいわきのお祖母ちゃんを引きとることになりそうなんだろ。だとしたら、それっておれが独立するいいきっかけじゃない」  そういうことか、と美津子は思った。その考えから、この子お祖母ちゃんを引きとることに賛成したんだ。 [#改ページ]   もくろみ  名の通った果物屋で買ったという、形のいい枇杷《びわ》を美津子は目を細めて食べた。そして、やっぱり果物は兼吉屋ね、と一流店好みのうんちくを傾ける。  おいしいね、と言って桜井瑞穂は枇杷を食べ、大きな種をティッシュペーパーの上に捨てる。そういう手土産を持って美津子が遊びに来たのだ。粟田家の兄妹三人の中で、瑞穂と一番深く結びついているのは、赤ん坊の時から母親代りに育ててもらった美津子なのである。 「でも、子供なんて身勝手なものよね。親のことなんかまるで考えてなくて、自分の都合ばっかり考えているんだから」  美津子は枇杷を食べる前のところへ話を戻した。 「初めはいわきのお祖母ちゃんのことを思ってそういうこと言うのかと思ったの。この子も優しいところがあるじゃない、って。ところが、実は自分が独立するための作戦だったのよ」  粟田家一族の間では、最近、作戦という言葉が流行しているのだ。 「お祖母ちゃんがいっしょに住むようになれば、家が狭くなって自分がどこかのアパートへ移る理由ができるということだったのよ」 「独立して生活したいなんて思うんだね」 「自由にしたいんでしょう。もっと言えば、公団アパート住まいでは好きなオートバイも置いておけないから、一人で住んで、それで遊びたいのよ」  瑞穂は柔らかく笑った。 「でも、男の子だもの。そういう経験をするのもいいんじゃない」 「おばちゃんは賛成なの」 「反対する理由はないと思うわよ。ずーっと親といっしょにしか暮したことがない男の子じゃ、自立心がつかないから。男の子は社会に飛び出してみるのがいいのよ」 「勇太のは、自立心というより身勝手にしたいってことだと思うんだけど」 「それだっていいじゃない。あの子いくつになってるんだっけ」 「二十歳よ」 「じゃあ自由にさせてやりなさいよ。どうせ子供なんて、遅かれ早かれ親の手から離れていくのよ」  美津子は不安そうな顔をする。一般論としてはそうかもしれないけど、うちのはダメ息子だから、と思うのだ。子供は親の手から離れていく、という原理がまだ実感できなくて、できることならそうならないでほしい、と願ってしまう甘い母親であった。 「そのことはまたうちの人と相談してみるわ。それより、今日はおばちゃんのことで話をしに来たの。お父さんとの結婚のこと、どうなってるの」  瑞穂は当惑したように黙ってしまう。 「最初、お父さんが離婚すると言いだした時はびっくりしたけど、あとで考えがわかってみて、私、いい考えだと思ったの。おばちゃんに、そういうお礼をするのって当然なんだし」  税金が安くなるのもいい、ということは美津子も口にしなかった。それも大きいのだが。 「だからお父さんの計画通りにしなさいよ」 「そんなの変だわよ」  と瑞穂は言った。 「これまでに、さんざんよくしてもらっているからね。それ以上何かをしてもらう理由はないよ」 「そんなことないって。老後の生活のことも考えなきゃいけないでしょう」 「年金だってあるから、どうにかやっていけるわよ。それに、まだまだ元気で働けるんだし」 「今は元気だけど、十年二十年たってもずーっと元気とは限らないじゃない。そういうことを考えなきゃいけないでしょう」 「そんな先のことは運命にまかせるしかないのよ」 「それじゃあいけないって」  いいや、というふうに瑞穂は首を横に振った。 「それでいいの。人間、誰だって最終的には運命に身をゆだねるしかないんだからね。自分の知恵でぜーんぶ思い通りに生きてみせるなんて思っても、どんなことがあって計画がつぶれるかもしれないのよ。すべてを思い通りにしようというのは、思いあがった考え方なの」 「でも……」 「私はさ、それより、どうしても気になって、なんとかしたいなと思うことがあるの。困っちゃっているのよ」 「どのこと?」 「おとうさんと、おかあさんが別れちゃったことよ。初めは、何か考えがあってのことだろうと思って黙って見てたんだけど、私のことが原因だとわかって、それはよくないわ、と思うの。そんなことで夫婦が別れるものじゃないのよ。おかあさんの気持になって考えてみなさいよ。悲しいことでしょう」 「お母さんは納得してるのよ」 「そんなのダメ。反対しづらくて、我慢してるだけに決まっているじゃない。夫婦の絆《きずな》っていうものは、もっと大事なものなのよ。こうしたほうが得だとか損だとかいう理由で、もてあそんでいいようなものじゃないの。なんとか、もう一度もとのさやに納まってもらわなくちゃいけないと、そればっかり考えてるの」 「でも、お父さんの善意の計画のこともわかってあげなきゃ」  美津子は口をとがらせてそう言った。 「みんなが幸せになれる名案だと思うの。ちょっとお父さんのこと見直しちゃったぐらいだもの。おばちゃんは粟田家にとって、いっしょに幸せになってもらいたい人なのよ。関係ないなんて誰も思ってないの」 「私は今のままで十分に幸せだよ。ここに安く住まわせてもらっているし」 「そうじゃなくて、問題はこれから先のことよ。あのね、こうなったら私、普通は言いにくいことを言うわよ。おばちゃんと私の仲なんだから許してね」 「何を言うの?」 「その前に、枇杷をもうひとつ食べさせて」 「あんたは昔から、興奮するとものを食べるんだったわねえ」  美津子は爪《つめ》で枇杷の皮をむきながら話を続けた。 「将来のことよ。将来、おばちゃんが弱って、寝込んじゃうようなことだって、考えとかなきゃいけないでしょう。あのね、その時には私、おばちゃんを引きとって面倒見るわよ」 「それは、ありがたい話だけど」 「それがあたり前でしょう。私にとっておばちゃんはもう一人の母よ。おばちゃんに抱かれて育ったのよ」  カプッ、と枇杷にかぶりつく。 「だからおばちゃんの老後はみたいの。でも、私も結婚しているし、高田の気持っていうものもあるでしょう」 「そうだよ」 「あの人にしてみれば、血のつながった身内でもない人間を、そうまでして世話するのか、ということになるじゃない。そんなこと言う人じゃないけど、私としてはなんとなく、そういう遠慮をしちゃうじゃない」 「それが当然だわよ。だから私のことは心配してくれなくていいの」 「そうじゃなくて私は世話したいの。だから、おばちゃんが形式上だけでもお父さんの後妻ってことならいいのよ。もっとはっきり言っちゃうと、おばちゃんが何がしかのものを持っていれば、世話することに高田も反対しないわけでしょう。もっとしてあげなさい、と思うのよ。あの人、そういうことに関して、どっちかというと、計算高い人だから」  かなり露骨な発言である。財産持っている人間ならば世話をする気にもなる、と言っているのだから。  しかし、瑞穂は美津子の性格を知り抜いている。美津子が計算高いことは承知の上で、可愛《かわい》いところもある、と思っているのだ。だから感情を害されたりはしない。 「高田さんの考えはもっともだと思うよ」 「だから、お父さんの計画通りにしてちょうだいよ。それでみんなが幸せになれるんだから」  そう言って、美津子は枇杷の種をプッと吐き出した。    ランチタイムにはやや遅い時間だったので、そのレストランに客の数は少なかった。  ビストロ華、である。  粟田玲子はどうしようかとちょっと迷った結果、そこのランチを注文し、食べた。あまり味わっている心境ではないのだが、悪い味でないことはわかった。ヨーロッパの田舎風料理、というところか。  セットになっているコーヒーを一口飲んでから、意を決してウエイトレスを呼んだ。店内にほかの客は一組しかいない。 「お呼びですか」  と、えんじ色の制服をきちっと身につけたウエイトレスが寄ってきた。 「ちょっとお尋ねするけど、このお店のオーナーは園川さんとおっしゃるのよね」  これは闘いなのよ、と玲子は思った。だからこそ、完璧《かんぺき》に化粧をして、シャネル・スーツを着てきたのだ。 「はい、そうです」 「園川知佐子さんね」 「はい」 「実はね、私、園川さんをちょっと存じあげているの。今、おみえになるのかしら」 「はい。おります」 「では、こう伝えて下さらない。粟田健一郎の妻の玲子ですけど、お時間とっていただければ、ちょっとお目にかかりたいって」 「わかりました。粟田……」 「健一郎の妻で玲子」 「はい。伝えてまいりますので少々お待ちください」  そう言ってウエイトレスは店の奥に消えた。玲子は心を落ちつかせるために、コーヒーを飲んだ。  だが、胸の中に風が吹き荒れているようで、落ちつくどころではなかった。ほほの筋肉がピクピクとひきつりそうだった。  その女と対決しなければ気がおさまらなかったのだ。対決し、事実をはっきりさせてやる。そして、みっともない泥棒猫のようなやり方はやめろと、きっぱり言い渡してやる。 「よし、わかった。本当のことを言う」  と、健一郎は言ったのだ。溝口とその店へ行ったというのが嘘《うそ》だとバレた時にである。 「実はな、相談にのってほしいことがあると、電話をもらったんだよ」  玲子にはそれも嘘っぽくきこえた。 「変なふうに勘ぐるような、そういう話じゃないんだよ。つまらんことなんだ」  健一郎は腹をすえたように、やけに悠々とした態度でそう言った。 「ほぼ二十年ぶりに、突然そういう電話をもらったわけだ。困っていることがあるので相談にのってほしいんだとね。それで、面倒だな、と思ったよ。もう縁の切れてる相手だからな。でも、困っていると言われて、知らないとは言いにくいだろ。だから、会ってみることにしたんだ」 「私には内緒でね」 「うん。そうするほうがいいと思ったんだよ。そんな、別れた妻とまた会っているなんてこと、きみには知られないほうがいいと思ったから。つまらないことを勘ぐられてもやじゃないか。だから、ちょっとした嘘をついて、一人でその店へ行ったんだよ」 「相談って、どんなことだったの」 「店の経営が苦しいというような話さ。バブルがはじけて以来、景気が悪いんだそうだ。でも、資金ぐりを助けてくれというような話ではないぜ。そういう援助を求めるんじゃなく、愚痴をきいてほしいっていうふうだったな。女一人でそういう店を経営していくとなれば、人を使ったり、業者とトラブったり、いろいろ面倒なことがあるわけだよ。そういう話を、ただきいてくれる人間がほしかったんだと思う」 「そんな、二十年も前に別れた人に、いきなり?」 「だから、精神的によほど追いつめられていたんだろう。女性経営者ってことでナメられてはいけないから、ずっと気を張ってるわけだよ。弱気を見抜かれないようにね。だから、話をきいてもらう相手はむしろ縁の薄い相手のほうがよかったのかもしれない」  健一郎はやけに堂々と、胸を張って話すのだった。そこが玲子には、むしろ怪しく思えた。 「お義父さんのことを、どうして話したのよ」 「それは、むこうの愚痴がひととおり終ってからの雑談で出た話題だよ。ところで、おとうさまはお元気、ときかれたから、あのことをついしゃべっちゃったわけだ。まさか、あとで弁護士を紹介する電話をかけてくるとは思わなかった」 「変な話ね」 「でも、事情はわかっただろう。要するにそれだけのことなんだよ」 「よく会っていたわけではないのね」 「まったく会ってない。だって、そういう電話でもなきゃ、会う理由がないだろう」  なんかおかしい、と玲子は思った。夫婦の仲なのだ、それは直観的にわかる。  まだ嘘をついている。ということはつまり、その昔の女との間に何かがあるということなのだ。  玲子は、確かめないではいられなかった。確かめるというよりは、有無を言わせぬ明白な証拠を握りたいのだ。  かつて別れた妻が相手、というのが、ほかの何より許せなかった。それほど私がバカにされた話があるだろうかという気がする。  そんな女と、私の目を盗んで会っているのだ。そしてそのことがバレると、白々しい嘘をついて言いのがれようとする。  妻だから、健一郎の性格は知り抜いている。こういう事情なんだ、このことのどこが悪いとひらき直るその態度が、まだ嘘をついていることをくっきりと物語っていた。  玲子はその相手に直接会ってみることにした。横浜方面にある、ビストロ華というレストランを捜したのだ。捜すのにちょっと手間取ったのは、その店らしきものが思いがけず神奈川県ではなく、都下の多摩市にあったせいだ。横浜とは方向が少し違うが、距離的には同じくらいの遠さである。ここに違いないと玲子は直観した。  電話をかけて確かめてみる。おたくのオーナーは園川さんとおっしゃるのかしら、ときくだけで知りたい情報は得られた。そこで、当りだったのだ。  そして、一人でのりこんだ。もちろんそのことを健一郎は知らない。  どんな女が顔を出すのか、と思う。その泥棒猫はどんな顔をしているのか。  店の奥のほうで、シャッとカーテンが引かれるような音がした。玲子は音のほうを見た。  女がいた。白いブラウスの上に、白い巨大なエプロンをつけている。やや大柄で、顔立ちがくっきりとしている。  この女に間違いない、と玲子は思った。そして同時にこうも思った。完全に、おばさんじゃないか。  女、園川知佐子は玲子を見つけると、親しみをこめた表情で近寄ってきた。エプロンをはずしながらテーブルの脇《わき》まで来る。 「粟田さんでいらっしゃいますね」 「はい」 「どうもよく来て下さいました。お噂《うわさ》は健ちゃ……、いえ、粟田さんからうかがっております。申し遅れました、私、園川知佐子です」  知佐子の声はやけにハキハキしていて大きかった。 「粟田玲子です。いつも主人がお世話になっております」 「お世話だなんて、とんでもない。まあ、それにしても粟田さんが幸せそうなのも当然の、お美しい奥様で。ここへすわってよろしいかしら」  知佐子はよどみなくすらすらとそう言った。  なんですか、うちの中のゴタゴタのことでご心配かけてしまい、弁護士さんまで紹介していただいて、申しわけありませんでした。  ということを、まずは玲子が言うわけだ。  それに対して知佐子はこんなふうに答える。  いいえ、なにもしていませんわ。弁護士のことは、さしでがましいかと思ったんですけど、とても気さくで親切な人なので、もし何かご相談ごとでもあるならばお役に立てるかなと思い、おしらせだけしておくことにしたんですの。  会話は表面上穏やかに進んだ。双方が、ややぎこちないだけである。 「弁護士さんには相談しないでいいだろう、ということになってきてまして」 「そうですか。もちろん、大袈裟《おおげさ》にならないですむならそのほうがよろしいですものね」 「お祖父ちゃんの考えていることがわかってきたものですから」 「やっぱり、何かお考えがあってのことだったんですか」  というわけで、玲子は草平の計画について詳しく説明することになった。そういうことだったんですか、と知佐子は大いにうなずいてきく。 「あのお義父様のことですもの、何か考えがあってのことだろうと思っていたんですけど」 「はあ」 「いえ、懐しい人のことですから、ちょっと気になっていましたの」  話しているうちに、玲子はなんとなく気が治まってきた。相手が、頼りがいのある姐御肌《あねごはだ》のおばさんに思えてきたのである。口調がハキハキしていて、相談にのってもらうと元気が出るような相手である。  そして、シェフとして仕事中だったのだから、化粧も最低限で、髪も機能的にひっつめてあり、およそ色っぽくないわけである。女としてのライバル、という気がしなくて、頼れる先輩、のように思えた。 「桜井瑞穂さんのことは、私もよく知ってますわ。ひとのためによく働く、優しい人ですよね。あの人によくしてあげるための離婚なのか」 「この先、どうなるかはまだわからないんですけど」 「ええ。それはそうでしょうね。どうしたってもう、一家の中心は健一郎さんなんですもの、お義父様の考えをきいてあげた上で、みんながいいように決めていってあげないと」 「こんな話でお心をわずらわせてしまって、本当に申しわけありませんでした」  玲子はもう一度礼を言った。そして、その日一番ききたかったことを口にした。 「どうしてご相談したんでしょうねえ」  知佐子は何の邪念もない顔で、どういうことかしら、と首をかしげる。 「そんなことを、突然相談するっていうのも変ですよね。おまけに私にはそのことを内緒にしているんですもの」 「そうでしたの」 「私には言いにくかったのかもしれませんけど。でも、何を考えているのかしらと思ってしまいますわ」  玲子の声は緊張に少し震えた。  すると、知佐子はふと目を細めて微笑した。 「それは、奥様が大事にされているからじゃないかしら」 「そうでしょうか」 「自分の父親のことでしょう。そのことについて、妻に弱いところを見せたくないという、遠慮があるんじゃないでしょうか」 「弱いところですか」 「親の問題で妻をわずらわせたくない、なんて思っているんですよ、きっと。親も大切だけど、妻も困らせたくない、という板ばさみなんですわ。だから私みたいな他人に相談したくなったんでしょう」 「遠慮しなくていいからですか」 「そういうことでしょうね。私もお義父様を知っているし、離れているから客観的にものが見られるから」 「ええ」 「それから、私に対しては健一郎さん、同級生の感覚を持っているんだと思う」 「同級生ですか」 「ええ。宿題見せてくれ、って言えるような同級生の感覚ですわ。実を言うと、二人の間にあるのはその気分だけだとわかって、私たちの縁は切れたんですね。だってそれは夫婦の関係とはちょっと違うから」  知佐子は他人事のようにそう言った。 「友だち関係ということ?」 「でしょうね。ところが、奥様に対しては、遠慮もするし、気も使うのよ。大切にしているから。私はその点、うるさいお姉ちゃんみたいなもので」  夫はこの人の、姐御肌の部分に甘えたのだ、という気が玲子にはした。困りはてて、同級生に甘えて相談したというわけだ。  それなのに、まだ格好をつけている。自分が甘えたことを隠して、経営が苦しいそうで、相談に乗ってやったんだなんて嘘《うそ》を言っている。  つまり、そういう嘘を言ったその理由は、自分が女性にアドバイスを求めたことを取りつくろうためだ。見栄《みえ》を張っているのだ。 「ですから、私に相談したってことをあまり責めないであげて下さいな。男の人も複雑なんですよ」  知佐子は笑ってそう言った。    あくびをしているような家だった。  高田勤は、近頃そこへ来るたびにそういう感想を抱く。自分が生まれ、高校を卒業するまで住んだ家なのだが、今では心情的に遠い家に思えた。もうそこは彼の親の家ではなく、兄の家なのだ。  無意味に広い。緊張感なく広いくせに、あちこちに無用のガラクタが置かれていて、有効面積はそう広くない。格調が感じられる古さはなくて、ただうすらぼんやりと古びている。そのくせワイド画面のテレビなどがあって調和がまったくとれていない。  高田の兄の勝は漁船を何|艘《そう》か持っている小さな港の網元であった。一応、有限会社社長ということになっている。そして、漁業組合の副理事でもある。  そういう兄が、高田には父親の代替品のように思えた。まだ五十六歳なのに短い髪は真っ白で、それとは対照的に肌は浅黒い。見るからに親父のイメージである。  幼い時から、なんとなく近寄り難かった兄である。歳の差が十二もあって、こっちが物心ついた時にはもう大人だったのだ。しかも、高田の家の長男様である。すべてにおいて、扱いが違っていた。 「東京もいいところだな、なんて言うんだよ。自由があって、しかも遊べるところが多いと思うらしい。母ちゃんも、そういう遊び心がわいてきたらしいな」 「あの歳で、遊び心かよ」 「そうだよ。それって、よくあることなんだよ。父ちゃんが死んで七年だろ。それで、まだ七十八歳で、動きがとれなくなったわけではない。そうすると、それまでの人生で我慢してた分だけ、遊びたくなるんだよね。そういう婆さんたちが、友だちと誘いあったり、老人会の企画とかで、日本中旅行してまわっているんだよ。どこへ行っても婆さんの団体だらけだよ」 「自由になったというわけか」 「人生の中で一番の自由かもしれないよ。日本中どころか、海外へも行く。つれあい亡くした婆さんが、パリへ行ってもローマヘ行っても行列作ってゾロゾロ歩いているんだから」 「あきれた話だな」  勝は面白くなさそうにそう言った。 「でも、そんな時期があってもいいと思うんだよね。昔の主婦は、そんな自由もなくてただ夫や子供につくして生きてきてるんだから。老後の観光やお参りがそんなに楽しいなら、やらせてやるベきだろう」 「母ちゃん、そういうことがしたいってか」 「そうは言わないけどね。ただ、うちへ遊びに来てても以前より活動的で、自分から楽しみをさがすような感じになってるね。まだまだやる気十分だよ」  高田勤はそう言って、チラリと兄の顔を見た。なんとしてでもこっちの提案を通さなければ、と思う。 「よれよれの婆ちゃんなのによう」  勝は笑うようにそう言った。その笑いに、軽くのってみる調子で高田勤は言った。 「まあ、腰がまっすぐのびないとか、足が痛くて動けんというようなことになるまでは、自由に楽しませてやろうよ。そういう一時期なんだから」 「遊びざかりかよ」 「まあ、そういうことかもしれない。だからさ、一時的におれのところに同居させてやってもいいかなと思うんだよね」  それが、いわきまでやって来た高田勤の話の眼目であった。母を同居させたいと、家長である兄に提案しているのである。 「東京のお前のところにか」 「うん。東京は楽しいところだって言ってるんだから、住ませてやろうかと思ってさ」 「お前んとこじゃ狭いだろう」 「確かに狭いけど、住めないことはないよ。子供たちも、お祖母ちゃんに来てほしいと言っているんだ。よくなついててね。だからみんな、家が狭いことは我慢するんだよ。そのことよりも、ここらでちょっとは親の喜ぶことをしてやりたくてさ」 「お前んとこに同居か」 「一時的にだよ。この先ずーっとっていうことじゃあない」  まずその既成事実を作ってしまおうというプランであった。その上で、狭いアパートの問題は、二世帯住宅計画になだれこんでいく。  ぜひともそうしなければ、と高田はもくろんでいた。既に事はそっちの方向にころがり始めているのだ。  勇太がアパートに独立するという話が一歩前へ進みだしていて、バカ息子は今あちこちのアパートを見て歩いているのである。自由にオートバイ遊びができることに憧《あこが》れているんだということは見抜けているのだが、この際それを認めるか、と思っているのだ。  母を同居させる計画のほうへ、話が前進するからである。そしてその話は更に未来の希望につながっていく。 「一時的にと言ってもなあ。年寄りだから、いつ倒れたりするかもしれんぞ」 「まだまだ元気なものじゃない」 「いや、昔にくらべれば、弱くなってるよ」  勝は断定的にそう言った。その強い口調には、母のことはおれのほうがよくわかっているのだ、というような思いがこもっている気がした。 「母ちゃんが、遊びに出かけたいんならそうすればいい。だけど、それはお前んとこへ行かなくたって、ここに住んでてできることだわな」  厳しい表情でそう言った。 「そうだけど、母ちゃんに自由な気分を味わわせてやりたいじゃない」  高田はすがる思いでそう言ってみた。しかし、勝はゆっくりと首を横に振った。 「母ちゃんがいいなと思ってる自由ってのは、要するに克美のいないところで暮したいってことだわさ」 「いや……」 「わかってるんだよ。要するに、嫁さんの顔見ないですみゃ太平楽だということだ。だけど、それは結局老人の我がままだわな。もし本当に一人で暮していかなきゃなんねえとしたら、そのほうが不幸なんだ。そりゃ、苦しいもんだって。それにくらべりゃ、嫁さんが気にくわねえなんてことは、贅沢《ぜいたく》だ。それは我慢しなきゃいけないんだよ」 「しかし、ちょっと別のところに移って気分を変えてみるのもいいかもしれないよ」 「それは同じだって。お前んとこに住みゃ、それはそれですぐそっちの嫁さんと衝突するんだ。東京の人は言葉がきつくて、オロオロしちゃうよなんて、言いそうなことまで想像がつくな。そういうもんなんだから。別に、お前んとこの美津子さんが悪いってわけじゃなくて、年寄りは必ずそういうことを言うってことだ」 「しかし、試してみるぐらいは……」 「いや、そうなるに決まってるよ。狭いお前んとこに迷惑かけて、そのあげくに東京はやだって言うんだから」 「でもさあ、母ちゃんのことはずーっといわきにまかせっきりできたわけじゃない。おれだって息子なんだから、親を見る義務はあると思うんだよね。だから、一時的にでも交代しようと思うんだよ。ちょっとの間だけだとしても、その間克美さんだってホッとできるわけだしさ」  必死の言葉だったが、勝は即座にこう答えた。 「そうはいかんよ。おれは長男で、ここが高田の本家なんだから。克美だって、そういうところへ嫁に来たってことはわかってる。面白くなくても、長男の家に来た以上はこらえなくちゃいかん」  長男の家、という話が出てきてしまった。それを持ち出してしまえば、すべてのことに、かくあらねばならぬというルールがついてまわるのだ。 「母ちゃんも、旅行に行きたきゃ行けばいい。遊びまわってくれても結構だ。だけど、道理に外れた自由は手に入らんよ。ちゃんとした本家があるのに、あっちのほうが気楽そうだというような理由で末っ子のところに住もうなんて、理屈が通らんことはあっちゃいかんのだ」  本家の論理が出てきてしまえば、勝が折れることはまずあり得なかった。高田勤のプランは挫折したのだ。息子は家を出ていってしまうというのに。    静江が仏壇にむかってお経をあげていて、草平はその日が母のたけの月命日であると気がついた。三回忌から、丸四か月たったのだ。  昼食の時に、そのことが話題に出た。 「月命日には、いつもお経をあげてるのか」 「ええ。お祖母ちゃんのと、あなたのお父さんの命日にはちゃんと」 「そうか」  その辺のことは、まかせておけばちゃんと考えてしてくれているわけだ、と草平は思う。 「それだけはちゃんとしなければと思いますから」 「うん」 「まあ、お祖母ちゃんにしてみれば、私はとんだ外れの嫁でしたけどねえ」 「そんなことはないだろう。そう衝突したわけじゃないだろ」 「頭のいい人でしたから、愚痴のようなことは言いませんでしたよ。だけど、体が弱くて自分の産んだ子の世話もできないんじゃあ、どうしようもない嫁ですからね。困ったものだと思ってたでしょうねえ。昔は、私はそんなお祖母ちゃんがこわくて、きついなあなんて思ってたんですけど、今になると、お祖母ちゃんの思いのほうが当然だったなあなんて気がして」 「ほう。昔はこわかったのか」 「叱《しか》られるわけじゃないけど、なんとなくキリリとして、他人を寄せつけないようなところがあったもの」 「大昔のお嬢様育ちだからな」 「それだけじゃなくて、物事をキッパリ割り切って考えられる、頭のいい人でしたよ。最期の頃はさすがにすっかり弱っていたけど」  ぶつかり、闘い、やがて世話をして、看《み》取っていくわけだ。そういうことが繰り返され、家族の歴史が刻まれていく。 「若い頃はその人がこわくって、病気ばっかりなのも気がひけたものですよ。なんだか、私がこの人の息子の嫁というんじゃあ、不満だろうなあ、という気がするんです。そんなこと言いはしませんけど、きっとそう思ってるだろうと思うと身の置きどころがなくて」  静江の口調は、昔を懐しむ穏やかなものだった。だが、そんなことを言うのを草平は初めてきいた。 「それが今では、そのお祖母ちゃんがなんだか懐しくって」  そういう人間ドラマもあったのだ。  自分勝手にキリリと生きる姑《しゆうとめ》と、遠慮がちな病弱な嫁の仲。  そういう関係が、二年ちょっと前にようやく終止符をうった。静江としても、肩の荷をおろしたようにホッとしたに違いない。  そういう妻を、今、離別してしまったのだ。 [#改ページ]   説 得  職を持たない人間にとっては、週日も日曜日も、テレビ番組がちょっと違う以外は同じことだが、日曜日であった。  その日草平は、静江に小さな嘘《うそ》をついた。  デパートでやっている写真展を見てくると言って家を出たのだ。写真展だから、正倉院展には負けるがな、と言って。  そして、自分が大家であるアパートへ行った。桜井瑞穂が住んでいるアパートである。  あの話を、きっちりとつけよう、というつもりであった。自分の口で、便宜上結婚してもらいたいのだということを説得するのだ。まだ自分では直接説明してないのだから。  だが、なぜそのことを静江に正直に言わなかったのかは、草平自身にもよくわからなかった。なんとなく、それは黙っていたほうがいいような気がしたのだ。  便宜上のこととはいえ、ひとにプロポーズをしに行くというのが照れくさかったのかもしれない。それを静江に報告するというのが、気配りのないことに思えたのかも。  静江は、自分で直接言わなきゃいけませんよと、言ってくれているのだが。  日曜日だから瑞穂の病院の掃除の仕事は休みのはずである。だから家にいるだろうと思ったのだ。  だが、その部屋には鍵《かぎ》がかかっており、留守の様子であった。なんだか約束をすっぽかされたような気がした。  やむなく、紫陽花《あじさい》の咲いている脇《わき》を通って道に出る。どうやって時間をつぶそうかと考えながら、来た道をたどり始めた。  ところが、百メートルも歩かないところで、ショッピング・カートを引いている瑞穂とはちあわせをした。  あらまあ、と瑞穂ははずんだ声を出した。 「どうしたんですか」 「あんたのところへ行ったんだよ。ちょっと話があって」 「そうだったんですか。買い物に行ってたんですよ」 「うん」 「じゃあ、いっしょに戻りましょう」  ごく自然に、二人は並んで歩いた。特に意識せずに会話ができる長いつきあいである。 「今年はどうもカラ梅雨ですねえ」 「まだわからんよ。七月になってから長雨が続いてうんざりするようなこともあるから」 「そういうのもスッキリしなくていやですけど」 「うん」 「でも、今のところ雨が少ないから紫陽花の色が悪くて」  二人は瑞穂の部屋まで戻ってきた。  瑞穂はすぐにお茶を出そうとした。 「何もいらんよ。くつろぎに来たんじゃないから」 「でも」 「出がけにコーヒーを飲んできたから」  それで、瑞穂は台所から離れ、草平の前にすわった。  草平はすぐさま用件を切りだした。 「えーとね、私の口から直接頼みに来たんだよ。静江からきいとると思うけど、みんなのために、ひとつ形式上だけ籍を入れてもらえないか、ということなんだ。いろいろ考えてそれが一番いいと思ったんでね」  瑞穂は声にはならなかったが口を、あっ、というように開き、困った顔をした。 「あんたが承知してくれないと、せっかく考えたことがムダになってしまうんだよ。静江とはもう離婚してしまったんだしね」 「そのことですけど、私はよくないことのような気がしているんです。五十年も連れそってきて、どんな理由であれ別れてしまうなんて」 「あくまで役所の書類の上だけのことだよ。実質的にはなんにも変らないんだ」 「そうですけど、それでも離婚なんて悲しいじゃないですか。私は、お二人がもと通りに夫婦になるのがいいと思っているんです。私の籍を入れるなんてことはせっかくのお話ですけど、できませんよ」  草平は苦しげな表情をした。 「そう言われちゃうと困るんだよなあ」  本当に当惑顔であった。 「私の考えは、わかっているんだね。静江と離婚したのは便宜上のことで、もちろん仲たがいをしたからじゃないんだよ。それから、あんたに籍を入れてくれというのも、惚《ほ》れたはれたの話ではないんだ。そうすればみんなに都合よくなるから言ってるんでね。その私の考えは静江も承知していて、このやり方に賛成しているんだよ」 「お考えはききました。私のことを心配して下さって、ありえないぐらい親切なことをおっしゃっていただいているんだというのはわかってます。そのことにはすごく感謝をしているんですよ。本当です」 「いや、親切というんじゃなくて、当然のことだと思っているんだよ。そうしてあたり前の 恩を受けているんだから。そのことは静江も、子供たちだって同じ気持なんだ。初めは私の離婚に反対してた子供たちも、私の考えを知ってからは反対しなくなったんだから」 「恩だなんて、とんでもない。身内の縁で助けあってきただけですし、そのことについては、これまでの生活の中で十分によくしてもらって、もうすんでいることですよ。これ以上何かをしてもらってはバチがあたるぐらいです」  瑞穂は硬い口調でそう言った。 「あんたは遠慮深いからそう言うんだが、それではこっちの気持がおさまらんのだよ。えーとだ、こういう際だから普通はあんまり口に出して言わんことを言ってしまうけど、私もここまで、ある程度恵まれた人生を送ってきて、死ねば何がしかのものを遺《のこ》せることになっているわけだよ。しかしそれについては、あんたの助けがあってのことだと思ってる。静江も妻として協力してくれたが、あんたにも大いに力を借りた。それなのに、私の遺すものがうまくあんたに渡らないんではおかしいと思うんだ」 「もう十分によくしてもらっていますって」 「まあそう言わんと、こっちの気持もわかってよ。あんたには血のつながった縁者もいないんだよ。老後の生活の支えとして、少々のものを持っていれば心強いと思うんだ。それが私と静江の願いなんだよ」 「ありがたいお気持だとは思いますけど……」 「それで、いろいろ考えてあんたに何がしかのものを渡す一番いい方法がこれなんだよ。これは遠慮しないで受けてほしいんだ」  私と結婚してもらいたい、というプロポーズの言葉がこれなのであり、考えてみるとなんだかヘンテコであった。 「お気持には感謝しているんですよ」  瑞穂は落ちついた口調でそう言った。 「そんなふうに気にかけてもらうだけでも幸せなことだと思いますし、静姉ちゃんにも、そんな決心をしてもらったのかと思うと涙が出るほどありがたいことだと思います」 「あれが病気中に、あんたが子供たちを育ててくれたんだから当然だよ」 「とんでもないことですよ。もともと、身寄りのない私を家に置いてもらっていたんですから、先に恩を受けているのは私なんですよ」  そう言って瑞穂は言葉を切り、背中をのばして正座して、前に両手をついて頭を下げた。 「ですから、お心は十分に承知して、そのお心だけを受け取らせていただきますけど、やっぱり私は、お二人にもう一度籍を入れ直していただかなきゃ悲しくてやりきれません。税金のこととか、遺産相続のこととか、むずかしいことは私にはわかりませんけど、そんな理由で夫婦が別れるなんてよくないと思うんです」  草平は困りはてた顔で頭に手をやった。 「形式的なことだけと、双方が了解していてもかね」 「その形式が、夫婦の結びつきじゃないんでしょうか。男と女の結びつきというんなら、どこにでもいっぱいあるんですもの。それが、ちゃんと形式を踏んでいて初めて、夫婦という仲になるんじゃないでしょうか。その形式が消えてしまえば、お互い他人同士の男と女ということですよ」  生涯を独身で通してきた瑞穂の、その言葉は重かった。夫婦とはもともと、形式的なものである、というのだ。だからこそその形式が重要なのだと。  草平は頭をかきむしって、うなり声を出した。 「だからそこのところを、自分の都合でいじくっちゃいけないんですよ。税金のことで都合がいいなんて、人生の中ではどうでもいいようなことじゃないでしょうか」  瑞穂はそう言って、膝《ひざ》をくずした。それから、ふといたずらな顔つきをした。 「それに、私がこれまでひとりで生きてきたことの価値も考えて下さいよ。花の独身女性なんですよ。ということはまだこの先、幸せな出会いがあって結婚するかもしれないじゃないですか」 「え?」 「ハンサムでお金持ちな人と結婚するかもしれないでしょう」  言って、自分の言葉に自分で苦笑する。 「あはは。それはまあ冗談ですけどね。だけど、ここまでひとりでやってきたっていうことは、未来に希望を抱いて生きてきたってことですよ。その希望はずーっと持ったままでお婆さんになっていきたいじゃありませんか」  草平は黙って考えこんだ。血圧が上昇したのか、赤らんだ顔をしてる。 「たとえばだね……」  いきなり顔をあげてそう言った。瑞穂の顔を正面から見つめる。 「話を一度ゼロに戻して、たとえばこういうふうに考えるんだとしたらどうだろう。相続のこととか、税金のことは本当はどうでもよくて、私があんたと結婚したいんだとしたら」 「よしましょうよ」 「いや、たとえばだよ。私があんたと結婚したいんだとしてね、もう先も長くないこの歳になって、最後のちょっとでいいからあんたと夫婦になりたいんだとしたら、その願いはかなえられないかね」 「何を言ってるんですか」 「そういうことだって、ないとは限らんのじゃないかね。別に、静江が気に入らんとかいう話ではなくて、ただ、この人とも縁さえあれば結ばれたかったのだがなあと、思いがわいてきて……」 「それは、ダメですよ」  瑞穂はきっぱりとそう言った。 「それはダメというのが、夫婦という約束事なんですからね。それは、冗談にも、たとえばにも、口に出しちゃいけないことですよ。そんな話を、以前にしたことがあるじゃないですか。十五夜の晩でしたねえ」  草平は頭を殴られたような顔をした。  何年前のことになるだろう。  確か静江がサナトリウムに入って、二年目の秋であった。だから、昭和二十八年。  草平がまだ三十代半ばで、タイルを扱う会社から、贈答品の会社に転職し、営業マンとしてかけずりまわっていた頃である。新しい職場にまだ慣れず、日々の疲れがたまっていた。  仕事の面だけではなく、人生的に疲れていた。静江が家からいなくなって、がむしゃらに頑張ってはきたが、その生活がもう二年も続いていたのだ。ふと、体から力が抜けていくような、そんな時期だった。  瑞穂は三人の子供の世話をし、よく助けてくれていた。まだ二十六歳という若さで、溌剌《はつらつ》と、輝いていた。この人が助けてくれていなければ、家庭がガタガタになっていたところだ、と実感していた。  ぽっちゃりとして、よく笑う、明るい娘だった。そして骨おしみをせずよく動く。子供たちは三人とも瑞穂になついていた。  秋の、十五夜の晩だった。  瑞穂は縁側にすすきを活《い》けた。そのことをくっきりと覚えている。団子をおそなえしたのかどうか、それは覚えていないが、すすきの記憶は克明である。  縁側にぺったりと腰をおろした、その腰の丸みが今も思い浮かべられる。赤い、ネルのスカートをはいていたのではないか。その上に、編み直した灰色のセーターだった。 「ほら、お月見らしい気分が出るでしょう」  と瑞穂は振り返って言った。  草平は、ああ、と気のない返事をした。 「うーさぎうさぎ、なにみてはねる」  瑞穂は小声で歌った。子供たちは三人とももう寝ていた。確かそんなことだった。 「じゅうごやおつきさん、みてはねる」  草平は縁側に出て、空を見上げた。満月が、思いがけなく寒そうに高い空にあった。  草平は瑞穂のすぐ横にしゃがみこんだ。  そして、相手の顔を見つめて言った。 「瑞ちゃんに、話したいことがあるんだ」 「はい」 「真剣にきいてほしい話なんだ」  ふと、瑞穂の瞳《ひとみ》が心配で曇った。 「静姉ちゃんの病気のことですか」 「いや、そのことじゃない。病気のほうは、先週見舞いに行った時も、相変らずだったよ。よくなっていることもないし、悪くなっているわけでもない」 「はい」 「でも、静江の病気が関係ない話でもない。つまり、あの病気はおいそれとよくなるようなものではないんだよ。まだまだ長くかかる」  二人は縁側にしゃがんで見つめあっていた。 「と言うより、治る見込みが立たない病気というのが本当のところだろうな。不憫《ふびん》だけれど、こればっかりはどうしようもない」 「そんな……」 「いや、事実をそのままに言っているんだよ。それで、だからこそ瑞ちゃんには感謝している。どんなに感謝しても足りないほどだ」  瑞穂はいやいやをするように首を横に振った。 「私のことはいいんです。ここに置いてもらっているんですもの。お手伝いするのがあたり前です」 「いや、そうじゃない。瑞ちゃんがいなければ、どうやって子供たちを育てていけるか、困りはてているところだよ。瑞ちゃんが、静江にできなくなったことを代ってしてくれているんだ」 「静姉ちゃんは私の恩人ですもの」  草平は言葉につまり、顔を上気させた。  満月の白光が、瑞穂の顔を半分照らし出していた。 「そこで、どうだろう。こういうことを考えてみてはくれないか」 「はい?」 「いっそのこと、静江の代りになってほしいんだよ」  はっとしたように瑞穂は顔をあげた。 「それ……」 「子供たちの正式な母になってはくれないかということだよ。つまり、私の妻だ」 「そんなこと、できっこありません」 「いやだからかい。それとも、静江に遠慮してかい。もしそうだとしたら、その遠慮は不必要だと思うんだ。可哀《かわい》そうだけれど、静江は今のままでは、母の役も妻の役もできないんだからね。瑞ちゃんがそれに代ったとして、むしろ喜んでくれこそすれ、恨むことはあり得ないと思う」 「でも、そんな静姉ちゃんを見捨てるようなことはできません。どうか考え直して下さい」 「決して静江を見捨てたりはしないよ。私はこれからも入院中の静江を守っていく。男として、その責任は必ずはたすつもりだ。しかし、病気の静江に妻であることを求めるのは無理なんだから」 「違います。そうじゃありません」 「瑞ちゃんに、代りをしてもらいたいんだ。子供たちだって幸いなついている。あの子たちの母に、なってくれないかね。そして、私の妻に」 「できません……」 「私が嫌いだからかい。そうだとしたらやむを得ないけれど、そうでないのなら受け入れてほしい。私は、瑞ちゃんを妻にしたいと思っているんだ」  草平は右手をのばし、瑞穂の手をとった。もう離さないというように、その手を固く握りしめた。  瑞穂は草平の手から逃れようと、もがいた。だが草平は離さなかった。 「離して下さい」 「いや。離したくない」  瑞穂は首をあげ、草平の顔を見た。草平は口づけをしようとし、瑞穂の目の中に光る涙を見つけ、思いとどまった。 「苦しめないで下さい」  と、瑞穂は今にも泣きだしそうな声で言った。  はっとして、草平は握りしめていた瑞穂の手を離した。 「瑞ちゃんを苦しめる気はないんだ」 「だったら、言わないで下さい。みんなが苦しみ、傷つくだけのお話はやめて下さい」 「私は本気で言ってるんだよ。決して、その場限りの不真面目《ふまじめ》な気持で言うんじゃない」  草平は姿勢を正し、縁側に正座した。瑞穂も正座して、上体を逃れるようにひねって、うつむいている。 「瑞ちゃんが毎日子供たちの世話をしてくれているのを見て、その優しさに心ひかれたんだ。この人を妻にできたらどんなに幸せだろうと、だんだんそう思うようになってきた」  いけません、と言うように瑞穂は首を横に振った。 「もちろん、私には静江という妻がいる。それはよくわかっているさ。妻がありながらほかの女性に心ひかれるのは不実だと言われるかもしれない。だけど、静江を不憫だとは思っているけど、もうあれには人妻の役をすることができないんだよ」 「違います」  瑞穂はようやくのことでしぼり出したような弱い声を発した。 「そんなこと、言うものじゃありません」 「静江はきっと許してくれる」 「そんなこと、間違っています。粟田さんのおっしゃることは、できることではありません」  草平は膝《ひざ》の上に拳《こぶし》を置いてうなだれた。 「私と粟田さんが夫婦になるだなんて、なんていう人の恨みをかった仲でしょう。それは、ある人の悲しみの上に成り立つ仲なんですのよ」  瑞穂の声からようやく震えが薄れてきた。 「どうか静姉ちゃんの気持を察してあげて下さい。静姉ちゃんが病気になって、粟田さんができる限りの手をつくしていらっしゃることは知っています。いい病院へ入れて、この物のない時代に必要な注射をすべてうたせてあげて、ちゃんと力づけに顔を出してあげて、さぞ大変だろうと思います。でも、静姉ちゃんはその粟田さんよりもっと、苦しくて、悲しい気持でいると思うんです」  風に、すすきの穂がふわりと揺れた。  瑞穂は目に涙をためて言った。 「くやしいだろうと思うんです。可愛《かわい》い子供たちを産んで、生まれたばかりの赤ちゃんにお乳を飲ませてやりたいに決まっているじゃありませんか。子供たちをだっこしてやりたいという、母の願いが、病気がうつるかもしれないせいで、かなえられないんです。妻として、旦那《だんな》様につくしたいといくら思っても、それもできないんです。つらくて、くやしくて、自分ばかりを責めているに違いないんです」  草平は、うなだれたまま顔をあげなかった。 「その静姉ちゃんを、思ってあげて下さい。守ってあげて下さい。今静姉ちゃんがすがって力を得られるものは、粟田さんの思いだけだと思うんです」  すすきが、小さく風になびいた。 「私は、静姉ちゃんに可愛がられて育ってきた人間です。ほんとうの姉妹のようによくしてもらって……。だからというわけじゃないけど、静姉ちゃんが幸せになってくれなくちゃやです。病気なんか、乗りこえてもらわなくちゃ」 「うん。そうだね」  草平はようやくそう言った。 「静姉ちゃんの病気がよくなるように、祈っているんです。それまでの間、少しでも心配なことがへるように、わずかですけどお手伝いをしているんです。その祈りと、反対のことができるでしょうか。そんな、ひとの悲しみの上にある幸せを手に入れようだなんて、許されるでしょうか」  草平は、顔をあげて瑞穂の姿を見ると、黙って小さくうなずいた。顔が、びっくりするほど青ざめていた。  ふいに、立ちあがる。そして、反対を向いて上を見ると、視界に満月があった。 「瑞ちゃんの言う通りだよ」  まずそう言った。瑞穂はほっとしたように体から力を抜いた。 「まったくその通りだ。今、一番苦しんでいるのは静江なんだよね。そしてその苦しみと闘っているのだった。それがわからない人間ではないつもりだったが、私も、疲れてふと、自分だけのことを考えてしまったようだ」  草平は拳骨《げんこつ》を側頭部にあててゴリゴリ押した。 「変なことを言いだして、悪かった。なんという男だろうと、軽蔑《けいべつ》されてしまうだろうな」 「いえ、そんなことはありません」  瑞穂はきっぱりとそう言った。 「そうか。ありがとう。それで、もう二度とあんなことは言わないと約束する。だから、勝手な言い草だけれど、このことは忘れてくれないか。なかったことにしてもらいたい」  瑞穂はうなずいて、はい、と言った。  四十年以上昔のことであった。  その夜のことは、二人とも胸に秘めたまま二度と口に出さなかった。瑞穂は子供たちの母親代りを苦情ひとつ言うことなく務め、それどころか、やがて自分の会社を作った草平の事業の手伝いまでした。草平は、がむしゃらに働き、その働きによって静江の病気治療の費用を都合した。機会あるごとにサナトリウムへ見舞いに行き、病人を力づけた。  そういう期間が、それからなお十年続いたのである。  そして、瑞穂がすっかりオールドミスの三十六歳になってしまった頃、ようやく静江が病を完治させて退院したのだ。  そういう、一家の歴史があった。 「すすきを飾った晩だったなあ」  と草平は言った。 「ええ。満月がくっきりと美しく見えてました」 「あの晩、もう話しあったことなのか」  瑞穂は小さくうなずいた。 「そうなんですよ。もうちゃんと話しあっているじゃないですか。それで、わかっていたことでしょう」  草平はふっとため息をついた。おもちゃが買ってもらえないとわかった子供のようである。 「本人が何と言おうと、人生の最後で離縁されてしまうなんて、妻として嬉《うれ》しいことであるはずはないんですから。それを思いやってあげなきゃいけませんよ」  草平は言いわけ気味に言う。 「静江には、税金対策の離婚作戦だとしか言っとらんよ」 「そんなのどっちでも同じことですよ。別れるなんてよくないんです」 「そういうことか」 「ひとつの幸せのために、別の幸せを犠牲にすることはできないんですよ。それを無理して押し通して何かを得ても、それは幸せじゃありません。自分のせいで悲しんでいる人がいると知ってて、幸せになんかなれるわけがありませんよ」  瑞穂は天気の話でもするような口調でそう言った。  草平はポリポリと、白髪混《しらがま》じりの頭をかく。 「うん。そうなのかもしれん。また、あんたの言う通りだ」  瑞穂はふと笑ってこう言う。 「私も、強情な女ですよねえ」 「いや、そうじゃないわな。あんたが強情だというんじゃなくて、こっちが忘れてたのがいけない。話してるうちに思い出したよ」 「何をです」 「あの時、もう二度と同じことは言わんと約束したんだ。その約束を破ってしまった。だから悪いのはこっちだよ」  草平はなんだか元気を失ってしまっていた。いい考えだ、とひとに自慢したいほどの気分だったのが、足もとから崩れ落ちてしまったのである。結局のところは、老人のひとりよがりだったのか、という気がしてきて、それはかなりきついダメージであった。  名案だなんていい気でいて、やっぱり最後のツメのところにぬかりがあったのか。最後まできっちりと考え抜いてないところが、老化による思考力の衰えなのだろうか。これでは、ひとにボケかかっていると言われても反論できないではないか。  みっともないことだった、と思う。  ひとりよがりも恥かしいが、いい歳をして、女性に思いをうちあけて、やんわりとたしなめられたのも恥かしい。同じ人に二度フラれたというのでは、バカではないかという気がしてきて、情ない。  草平はうなだれて、意味なくせきばらいをした。  すると瑞穂が、まあまあ、と言った。どういう意味だかよくわからない、まあまあ、である。ただなんとなく、明るい印象の声であった。 「悪いだなんて、思わなくたっていいですよ」 「そうかね」 「ええ、だってこの話って、結局は運命ってものに人は動かされているっていう話ですもの」  意味がわからず、草平は顔をあげた。 「人と人の出会いって、運命でしょう。たとえば私とですよ、粟田さん、あらこの言い方って久しぶり、なんか妙ですね。私と粟田さんとが、静姉ちゃんより先に知りあっていたら、好きあって夫婦になっていたかもしれませんよ」 「そうか……」 「私もおばあさんになっちゃって、そのぐらいのことは平気で言っちゃえるんですよ。だけど、そうじゃなくて、まず静姉ちゃんの旦那様として知ったというのが、ね、運命ですよ」 「なるほど。出会いの順だね」 「そういう運だったんですよ。それには、人間の力ではさからえないじゃないですか。それを無理してさからおうとすれば、まわりに悲しみをまき散らしてしまうことになるんです」 「運命……か」  草平はやや明るい声を取り戻してそう言った。  運命によっては、夫婦になってた二人じゃないですか、ということを言われたのが、むしょうに嬉しかった。 「人の力ではどうにもできないこともあるんですよ。それを忘れて、人生を共にしてきた妻と離婚してしまうだなんて、間違ってますよ」 「うん。わかった」  草平はきっぱりとそう言った。  瑞穂はホッとしたように、柔かく笑った。 「ああ、よかった。それをなんとか納得してもらいたくて、ずーっと気にかけていたんですよ。このままじゃあ私まで悲しいと、そんな気がして」 「心配かけて、すまなかった。あんたには、たびたび世話になってしまうなあ」 「何を言ってるんです。お互い様じゃないですか」 「いや、そうじゃない。恩を受けてるよ」  そう言うと、草平は正面から瑞穂の顔を見た。そして、ゆるぎない口調で言った。 「だから、どうか恩返しをさせてもらいたい。それをことわられると困るんだ」 「その話は終ったんじゃないですか」 「いや、そうじゃなくてだよ。結婚してくれという話は、反省して取り下げたよ。そうじゃなく、別の方法で、もちろん静江にもいい方法で、ちゃんと恩返しをさせてもらう。それはぜひとも受けてもらいたい」 「まだ言ってるんですか」  瑞穂は困りはてたような顔をした。 「それに反対する人間なんておらんよ。うちの家族、そうだな、特に優秀なのもおらん、ありふれた連中ばっかりだが、でも、そのことに反対する者はいないだろう。欲の深いのもいるけど、そこまで業つくばりでもない」 「お金のことを言ってるんですか。ダメですよそんな。離婚作戦はやめてしまうんでしょう。それで私なんかにお金を遺《のこ》したら、税金でひどく損なんだって言ったじゃないですか」  それをきいて、草平はニヤリと笑った。 「どうしたほうが税金が安いとか、都合がいいなんてことは、人生の中でどうでもいいことじゃないか、と言ったのはあんただよ」  言って、カカカ、と笑った。 「言ったけど……」  瑞穂は言葉につまってしまう。 「もう変なことはせんから、心配しなくていいよ。ただ、私や静江の気持がすっきりするような、何らかのことはさせてもらう。どうすればいいのかはこれからもういっペんよく考えてみるがね。どうかそうさせてくれ」  そう言うと、いきなり草平は立ちあがった。 「じゃあ、今日は帰るわ」 「ああ、お茶も出さずじまいで」 「お茶を飲みに来たんじゃないよ。いろいろ、つまらんことまで言ってしまい、体裁が悪いからとにかく今日は帰る。また、どうせ会う」  草平はなんだかあわててそのアパートを出た。  アパートの前の紫陽花《あじさい》を見て、ふとテレたように笑い、頭に手をやった。    その日の夜、いつもの時間に、いつもの黒い猫が現れた。鳴き声をきいて、ドアを開けてやる。 「どうしたの。きのうは顔を出さなかったじゃない」  瑞穂は優しい声でそう言った。  ニャア。 「あら、あんた鼻のところどうしたの」  そこに、傷があったのである。手でさわろうとすると、いやそうにニャアと鳴いた。 「ああ、ごめん。痛いのかね。どこかで喧嘩《けんか》でもしたんだね」  ドアを閉じ、台所へ行き、袋入りのキャットフードを皿に出して持ってくる。近頃はそういうものを買って用意してやっているのだ。黒猫はその間たたきのところでじっと待っている。 「食べなさい」  またこれか、というような顔をチラリとして、それから猫はもそもそと食べ始めた。 「傷が痛くて食欲がないのかね。そうでもなさそうだねえ」  瑞穂は猫の頭をなぜる。猫は平気でキャットフードを食べ続けた。 「どこの家で飼われてるんだかわかりゃしないし、夜になるとほっつき歩いてるし、喧嘩して鼻に傷までこさえて、あんたはやくざな猫だねえ」  生まれついての極道者でござんす、とでも答えれば面白いのだが、そうは言わず、食べるあいまにニャとだけ答えた。  瑞穂はこの黒猫に、ついついいろんなことを語りかけてしまう。何も返事をしないところが、かえってあれこれ話しかけてしまう理由だった。 「今日はねえ、とうとう本人からプロポーズされちゃったんだよ」  要するにそれは、ひとり言だった。長くひとりで生きてきているが、ひとり言を言う習慣はなかった。なのにこの猫のせいで、その癖がつきかけていた。 「それで、お断りしたんだよ。そのお申し出をお受けすることはできません、って。世の中には、受けられないプロポーズもあるんだからね」  穏やかに、優しく語りかける。  瑞穂は、少女のような顔つきになっていた。 「結婚を申し込まれて、それはできませんって、答えたの」  ふと、寂しくほほえむ。 「ずーっと誰にもないしょで思っていた人に、プロポーズされたっていうのにねえ。だけど、そうするしかないんだものねえ」  猫がふと不安げに顔をあげて、耳をピクンと立て、ニャアと鳴いた。 「でもいいの。それでよかったの」 [#改ページ]   それぞれ  どうしようかと迷ったあげく、結局粟田玲子はその日のうちに自分のしたことを夫に話すことにした。  黙っていて、なんぞの折に武器として利用するという手もなくはないのだが、この場合はそれよりも、私がその気になれば何でも調べられるのよ、という威圧に使うほうが効果的だと思えたのだ。 「園川さんに会ってきたわ」  健一郎は飲んでいたブランデーにむせ返り、さんざんゲホゲホやってから、目のふちに涙をためて言った。 「何だって」 「園川知佐子さんと会ったのよ」 「ど、どうして」 「うちのことでいろいろ心配してもらったんだもの。妻の私からもお礼を言っておくのが当然じゃない」 「住んでるところを知らないだろう」 「名前がわかっていて、経営してるレストランの名もわかっているんだもの。ちょっと調べればすぐわかるわよ」  玲子は余裕たっぷりにそう言った。健一郎は妻の顔色をそっとうかがう。 「ビストロ華っていうレストランヘ行ってきたのよ。落ちつけるいいお店ね」 「そこまですることはなかったのに」 「そうはいかないわよ。弁護士まで紹介してもらって、うちのことでお世話をかけたんだもの。ほうっておくわけにはいかないわ」 「それで……、どんな、いや、何だって」 「相談した話は結局こういうことになって、とりあえず弁護士の世話になる必要はなさそうですって、その後の事情をお話しといたわ」 「うん」 「それはよかったですわねって」 「そうか」  話はそれだけなのか、と細かいことが知りたくてたまらないような顔を健一郎はしている。  そういうことなのだ、と玲子はあらためて納得した。夫が別れた妻に会ったのは、ほんとにアドバイスを求めるためだったのだ。どう考えればいいのかわからなくなって、つい、頼りになる人のことを思い出してしまったのだ。  そして、そんな人にアドバイスを求めたことを少々恥かしく思い、かつ、家庭内に波風を立てないように、妻には内緒にした。バレると見栄《みえ》を張って自分に都合のいい嘘《うそ》をついた。  それに間違いない。だから、その人に会ってきたわよと言われてうろたえているのだ。  妻として、面白くない点がないわけではない。どうして私と相談するだけでは不十分なのだ、と思う。  だが、今回は許してやるか、と玲子は考えた。 「園川さんって、想像してた人とだいぶんイメージが違ってたわ」  健一郎はそう言われてピクンと頭をもたげた。かつて妻だった人のことを今の妻に語られるというのは、どうも落ちつかないものなのだ。 「もっと華やかな人かと思ってたの。その言い方は悪いかな。華やかじゃないって言ってることになるものね。もっと女性的で、グラマラスな人のような気がしてたのよ。女王蜂《じよおうばち》みたいな」 「そんないいイメージをどこから持ってきた」 「なんとなくよ。離婚してフランスへ行っちゃうなんてところからの想像だったの。でも、そういう派手な感じの人じゃなくて、地に足のついたしっかりした印象の人なのね」 「うん。女っぽいというのはないわな。むしろ男まさりのしっかり者だ」 「そうなのよね。だから自分のレストランを持ったりとかするんだ」 「女は家庭を守って、とかいうのじゃ満足できない人なんだ。まあ、近頃は女性全般にそういう社会性を求める傾向が出てきているけど、そういうのの|はしり《ヽヽヽ》だな。自分の人生なんだから自分の勝負をしなきゃ面白くないとか考える人だよ」 「女の子の中にたまにそういう人っているのよね。学校でも、クラスに一人ぐらいはいたわ。頼もしくて、なんとなくみんなのリーダーになっちゃうタイプ。その人自身は身勝手にしてるだけなんだけど、ついみんなに頼られちゃうのよ」 「リーダーというより、姉さんタイプだろうな。まあ、そんな感じだ」  健一郎はもうここでは素直にほんとの思いを語ることにした。どうせすべて見抜かれてしまったのだ。 「それが美点なんだけど、あんまり可愛《かわい》くはないわけだ。男って、どちらかというと頼られて、たててもらっているほうが好きだからな。しかも、その妻が家庭を運営してるだけじゃ生きがいが得られない、と不足を言いだすと、手の打ちようがないよね」 「組み合わせが悪かったのよ」  玲子はこだわりのない口調で言った。 「そういうことなんだ」  健一郎は、こうなれば少々のお愛想は言ってもいいぞ、と決心した。玲子の機嫌をとっておく義務が生じていると思うのだ。家庭内の平和のために。  ただしもちろんまっとうな日本人男性なのだからして、妻に、愛しているよ、なんてことは言わない。  だからお前と結婚してよかったよ、とぐらいは言おうかな、と思うのだ。一度目は失敗で、二度目にお前と家庭を持ったのが正解だったのだと、ここはひとつ少々くすぐったいが言っておこう。  健一郎が妻のほうを見て口を開きかけた時、そのリビングルームに若々しいざわめきが入ってきた。 「あんたにはまだ早いよ」 「バカにしないでよ。千晶よりは私のほうがセンスいいんだから」 「うっわ。あんたのどこにセンスがあるの。まだキティちゃんのバッグ持ってるガキんちょが」  千晶と睦美の姉妹である。高校二年と一年生。花の女子高生というには、成長のバランスが少々狂ってむくむくと太っている。  二人はテレビをつけ、トレンディ・ドラマとやらを熱心に視始めた。  娘たちがそこにいては、妻への機嫌取りの言葉を口にするわけにはいかない。健一郎は黙ってブランデーをちびりちびり飲んだ。  そして、心のなかで考えた。  なんにしてもこれで、一段落したか。  知佐子と会ったのがバレてしまった件も、とりあえず落着したと考えていいだろう。この件から得られる教訓は、ヘタに妻に隠しごとをするとかえって厄介である、ということか。  それから、親父のことも、あれでまあうまくいくだろう。突然離婚すると言いだした時は、ついにボケたのか、と思い、そのせいで損失をこうむってはいかんぞ、と警戒したが、あれはそんなに悪いアイデアではなかった。損失はなさそうだし、みんなが納得しているんだから、特に異をとなえる必要はない。  親父もおふくろも、まだしばらくは自分たちの力で生活していけるだろう。いずれは、世話が大変な時というのが来るかもしれないが、それはその時のことだ。多分なんとかやっていけるだろう。  健一郎はじゃれあってテレビを視ている二人の娘の背中をみた。  この子たちが我が家から出ていってしまうまでにはまだ間がある。どっちかは、この家に残って婿さんを取ってもいいんだしな。  その辺のことも、いずれ考えよう。今はまだ、いいから。  空になったブランデー・グラスを彼はテーブルの上に置いた。そこへ、電話がかかってきた。立って、自分で出る。 「はい。粟田です」 「あ、木下ですが。えーと、大学での……」  思いがけない人物からの電話であった。  大学時代の同窓生で、特に親しいというわけでもなかったのだが顔と名前ぐらいは記憶している、という相手であった。確か、一部上場の製菓会社に勤めているのではなかったか。そいつから電話をもらうなんてことは、記憶している限りでは初めてであった。  やあ、久しぶりだなあ、と応対する。変りなくやっているのかい。  だが、相手はそういう挨拶《あいさつ》部分を手短かに切りあげた。  溝口のことを知っているか、と言う。うん、と答えると、今度のことを知っているか、と問う。 「どのことだろう。よくわからんが」 「あいつの会社が、どうも倒産したみたいなんだが、それについて詳しいことを知らないだろうか」 「なんだって」  健一郎は大声を出した。妻と子が、健一郎のほうを見る。  セントラル通商が倒産したらしい、と木下は言った。倒産し、溝口は夜逃げをしたような気配である。おれは溝口の景気のよさそうな話にのって、一千万円近く出資しているのだ。それなのに、会社の電話は不通になっており、溝口の自宅へ電話しても誰も出ない。 「きみなら溝口とも親しかったから、何かを知っているんじゃないかと思って電話したんだ。最近溝口に会ってはいないかね。あいつの様子に変ったところはなかったかい」  何も知らない、と答えるしかなかった。最近も会うには会ったが、何も変った様子ではなかったぜ。  言いながら、健一郎は考えていた。ありえない話ではないぞ、と。  溝口はなんだかやけに景気のいいことを言い、強引にカラオケ・ボックスの事業に誘った。やらない奴はバカだよ、とでもいう感じだった。  あの強引さは、傾きかけた船の中での必死の努力だったのかもしれない。相手は誰でも構わなくて、ただ出資者を必要としていたということなのだ。  バブル景気が終焉《しゆうえん》した今の時勢に、あいつはまだバブル的経営をしていたのだ。そしてついにそれが破綻《はたん》した。  調べて、わかったことはきみにもしらせる、と健一郎は言った。木下は、弱りきった口調で、よろしく頼むと言い、通話を終えた。  受話器を置き、立ったまま玲子のほうを見た。玲子は何があったの、と問う顔つきをしている。 「溝口のセントラル通商が倒産したらしい。そいでもって溝口は夜逃げしている」  そこまで言って、苦々しげに舌打ちし、健一郎は正直なことを言った。 「おれもあいつの会社に四百万円出資しているんだ」    大場義光にとって面白くない日が続いていた。  真奈美の結婚式は七月に日どりも決まり、式場の予約もできて着々と進行している。先方の両親とも対面したし、略式ながら結納もすませた。  そして、もう関係者への披露宴招待状も発送してある。あとひと月あまりで、彼の娘はよそへ嫁いでいくのだ。  真奈美と加寿子とがちょっとした躁《そう》状態になって、家具や着物や電器製品を買いまくっているのを見ながら、大場はその騒ぎに巻きこまれるのが億劫《おつくう》だった。  娘の結婚に、父親の出る幕はないのであった。そこまで育てあげるのに、苦労もしたし喜びもあった。とにかく、一家の中心はお父さん、ということでやってきた。なのに、その娘が家を出ていくに関しては、父親の出番はないのであった。お金だけは出さされるのだが。  結婚式は女性のためのセレモニーである。近頃は若い男性がどうしたわけか軟弱になって、結婚式に感動して、ぼくの人生の最大の節目です、なんて口走ったりするのだが、もちろんそれはアホである。結婚式は女性のための儀式なのだ。父親といえども、その進行にタッチすることはできないのだ。  つまらないことである。どうせこうなるとわかっていて、なぜ可愛いがってしまったんだろうと後悔するぐらいのものだが、自分でもその考えがおかしいことはわかっている。とにかく、娘は出ていくのだ。  ある日突然、結婚したい、既に子供もできている、と宣言され、三か月後にはその娘は大場家のテリトリーから出ていってしまう。それを阻止することはできないのだ。  大場の白髪《しらが》はめっきり増えた。その分、口数が少くなり、酒量は増え、笑い顔が減った。  六月も残すところあと数日、という日曜日の夜、テレビを視ていた大場のところへ、珍しく真奈美がやってきた。危険度を探るように、おずおずと近づいてくる。トレーナーとジーンズという格好だった。 「あの……」  と真奈美は言った。 「ん?」  と大場は答えた。 「あの、新婚旅行の予約申しこみをしてきた……」 「そうか」  新婚旅行でオーストラリアへ行くのだと言っている。まだおなかは目立たないわよ、一生の思い出なんだもの行ってきなさい、と加寿子が主張したのだ。大場もそれに反対ではなかった。 「お父さん、ありがとう」  真奈美はぽつんとそう言った。大場はあっ、と思い、やめてくれ、と願った。 「新婚旅行ぐらい、行かせてやれるよ。どうせ卒業旅行とやらにやらなきゃならんだろうと思っていたんだから」  大場はぶっきらぼうにそう言った。  真奈美は短大を中退することになっていた。せっかくだから、時間をかけても卒業したい、という意向もあったのだが、すぐ出産で、赤ん坊を育てていかなければならなくなるということを考えると、復学はむずかしかった。 「そのことだけじゃなくて……」  と、真奈美は言った。それから、父のほうをきっちりと向いて正座した。 「なんだよ」  つい不機嫌な声を出してしまうが、不機嫌なのではなかった。胸にジーンとくるシーン、とやらを回避したかったのだ。そんなことはご免だった。 「一度、ちゃんと許してもらっとかないと、私、悲しいの」  と真奈美は言った。 「何を許すんだ。お父さん別に怒ってはいないじゃないか」 「でも、面白くないと思うの。私、それについてちゃんと、話をしてほしいの。そうじゃないと、心残りなまんま、行っちゃうことになるでしょう」  大場は娘から目をそらせた。しゃべりかけ、言うことがなくて口をつぐむ。  真奈美はうつむき加減のまま、慎重に言葉を選んで言った。 「怒ってないって言うけど、本当は怒ってると思うの。それが当然だもの。娘がいきなり結婚するって言いだして、それだけじゃなくてもう妊娠していて、それって親が怒ってあたり前のことだとわかってます」 「それはもう……」 「もうあきらめたのかもしれないけど、お父さんにそういう失望をさせちゃったのは、悪いことだったと思うの。自分の娘がそんなことになって、親として面白いわけないもの」 「それはもういいんだ」  大場は真奈美を見て、力強く言った。 「大事なことだからきちんと言うぞ。そのことは、あきらめたんじゃないよ。最初はもちろんショックだった。いやなことが起こったように感じた。でも、よく考えてみれば、そう悪いことではないんだよ。そういう気がしてきて、あきらめたのではなくて、認めたんだ。ショックは実はそのことに対してあったんじゃなくて、自分の娘が巣立っていくということへの寂しさだったんだ」 「怒ってないの」 「怒ってなんかいない。幸せになってほしいだけだ」  自分でそう言ってみて、なんだか急に気持の整理がついた。要するに今思うことはそれだけだよな、と大場は力なく納得した。 「だからお父さん別に、失望なんかしてやしないよ。ただ、父親ってみんなそうだと思うけど、我が子が嫁に行っちゃうかと思えば、なんとなく寂しいような気もするわな」  正直に言うと、それとは別にもうひとつの思いがなくはない。娘が結婚してしまうのも男親として面白くはないが、それと同時に、娘の相手への不満がどうしても心の中にくすぶるのだ。  なんであんな男なんだ、という腹立たしさである。  私の娘だぞ。その貴重で、この上なく大切なものの相手が、あんなレベルの男だというのが、やけに気に入らないのだ。もう少し上等な、これなら我が娘をとられてもやむを得ないなあ、と思えるような相手であってほしかった。  しかし、その気持を真奈美に言うわけにはいかない。  親子といえども言ってはいけないことが、ここから先にはあるのだ。寂しいというのは、実はそういうことに対してである。 「だけど、基本的にはもちろん、お父さんだって祝福しているんだ。幸せが、ずーっと続いてくれることを願っているよ」  真奈美は表情を輝かせて父の顔を見つめた。  や、やめなさい。そういう、ハートにズシンとくる顔つきは勘弁してくれ。 「お父さんにそう思ってもらえてるなら、私、嬉《うれ》しい。ありがとう」 「お礼を言うことじゃないだろう。それで、あの、えーとね、ちょっときくけど」 「はい」 「よその結婚披露宴で見たことがあるんだけど、ああいうのは予定してるのか。両親への花束贈呈ってやつだ。かあさんが手袋あんでくれた歌かなんか流しちゃって、やけに気恥かしいことをやるんだよ」 「うん。ちゃんと予定に入ってるよ」 「やるのか、やっぱり。あれはどうも、趣味がよくないと思うけどなあ」 「でも、私たちとしては、ちゃんと両親にも感謝をあらわしたいの。あれって、そのためにある大切なことだと思うの」 「やりたいのか」 「いいでしょう」 「まあ、好きにすればいいんだけどさ」  おれはそういう場面で、絶対に涙を見せるような男ではないぞ、と大場は思う。男がそういうシーンでおろおろ泣いたりするのはみっともないから。おれは泣かんぞ。できたらやめてほしいんだが…。 「それからね、お父さんに言っとかなきゃいけないことがあるの」  真奈美は口調を変えて言った。 「なんだ」 「彼の就職がね、なんとか決まりそうなの」 「ほう」 「東鉄観光っていう会社で、内定をもらったんだって。彼のお父さんが、そっちのほうにコネがあるから、その線で案外早く決まったの」 「えーと、私鉄の東鉄だな」 「その本体じゃなくて、子会社の東鉄観光よ」 「旅行代理店なのか」 「そうじゃなくて遊園地」 「なに?」 「東鉄ジョイフルランドってあるじゃない」 「ああ。お前をつれていったこともあるあれか。ジェットコースターにのって吐いた」 「あそこよ。とりあえずあの遊園地勤務だって」 「ふうん」  決して一流企業ではないな、と思う。しかし、そういい加減な会社でもなさそうだと思う。遊園地なら、まあ真面目で、楽しそうで、いいか。 「彼ね、すごく必死だったの」 「何が」 「就職について。そこをちゃんとさせる責任があるんだからって、今、あんまり就職状況のよくない時代なんだけど、がむしゃらに頑張ったのよ。一日に何社も訪問したりして」 「そう、なのか」 「なんとか結婚式までには就職を決めておかなきゃ、きみの両親だって心配だよ、って言ってくれたのよ。万一、結婚式までに決まらなかったとしても、少くとも、赤ちゃんが生まれるまでには絶対なんとかするからなって。そういう責任があるってことだからって」 「そうか。その考え方は、しっかりしてるな」 「でしょう。私、ちょっと見直しちゃったもん」  しかし本当にしっかりしているなら、いきなり二十歳の恋人を妊娠させたりはしないわな、とも思うのだが、それは言わないでおく。 「うん。前途に見通しが立って、いい話だ」 「お父さんもそのことは心配してるだろうなって、私も気にしてたから、ホッとしたの」 「そうだね。とりあえず就職が決まっていれば安心だ。あとは二人で力を合わせて、少々きついことがあっても乗り越えていくしかない」 「はい」  真奈美は幸せそうに微笑した。  この子がホッとしているのはいいことだ。まあ、なんとかうまくやっていってくれ。それだけだ。    いわきのお義母さんがかわいそうだ、という意見を美津子は大いに口にした。子供じゃないんだから、どう生活するかは自由でなきゃねえ、と。  お義兄さんも、長男のメンツが大切なのはわかるけど、ひとの希望を踏みにじっちゃうのは横暴じゃないかしら。母が次男のところに同居するぐらいのこと、認めればいいじゃないの。  高田勤は、その通りであると、大いにうなずくのだが、兄の意向を無視してしたいようにしよう、とは言わなかった。そういうところが田舎の人間の考え方なんだよなあと、責任を田舎になすりつける。  いずれにしても二人の、母と同居して、二世帯住宅獲得にもちこもう、という計画は頓挫《とんざ》したのである。会話をしていても、ついため息まじりになってしまうのであった。  そのために具体的な手まで打ったのになあ、というところだ。息子の勇太を、六畳一間のアパートに独立させたのである。その部屋代もかかるというのに、希望のプランのほうはつぶれて、二重に損をしたような気がする。バカ息子だけが、好きなだけオートバイで遊ぶ自由を得ただけである。 「とりあえずは、こっちの考えたようにはならないと思うしかない。兄貴も頑固だからな。長男の責任、というのを言いだしたら、もう考えを曲げないんだ」 「こっちだってお義母さんの子なのにねえ」  一家|団欒《だんらん》の場でののどかな会話である。この家ではこういうのが日常的な、ほのぼのとした会話なのである。  中一の洋介はテレビのお笑い番組を一応視てはいるが、時には両親の話を興味深げにきいて、うなずいたりしている。成長期に入りかけているのに背はあまり伸びず、横にばかり太っていく子であった。  美津子は紅茶カップを皿の上に戻して、鼻から失望の空気を吐いた。 「まあ、おふくろがいりゃいたでいろいろと厄介ではあるんだけどな」 「そんなことは我慢できるわよ。私、子が親の世話をするのは当然のことだと思うの」 「そりゃまあ、我慢しなきゃいけないことだけどさ」  美津子は不服そうに口をとがらせ、それから、瞳《ひとみ》をキラリと輝かせて別のことを言った。 「だから私、瑞おばちゃんのことはほうっておかないつもりよ」 「うん。そういう人もいるんだ」 「この前おばちゃんにあって、そんな話もしたの。おばちゃんが寝こんじゃったりしたら、私が必ず面倒みますからねって。それじゃあ悪いよ、と言ってたけど、やっぱり嬉しそうだったわよ」  うん、そこにも希望がある、と高田はうなずく。 「私にとって瑞おばちゃんは母親と同じなんだもん。一番なついていた私が、老後の面倒を見るのは当然のことでしょう」 「それは、その通りだ」 「そろそろおばちゃんだって、病院の掃除の仕事もきつくなってきてると思うのね。もうそんな苦労をしないで、楽にしてもらいたいじゃない」 「だから、もうじきそういう仕事もしなくてよくなるんだろう。お義父さんの計画が進めば、おばちゃんのところにはかなりのものが渡るんだから」 「そうなのよ。だからこそ、私たちがなんとかしてあげなくちゃ。物質的なものはそれで手に入るとしても、それだけじゃ老後の心配はなくならないから。倒れたような時に誰がそばにいてくれるのかよ」 「それは、うちじゃなくちゃいけないよね」  夫婦は顔を見合わせて、ニカッと笑った。 「そうしとけば、おばちゃんの遺産がうちに沢山くるかもしれないもんね」  洋介が大人の話に口をはさんだ。 「遺産のことなんかあんたが言わなくていいの」 「そういうことを子供が言うもんじゃないよ」 「でも、そうだもん」 「あんたは黙ってらっしゃい」  はしたない子供を叱《しか》りつけて、二人はその話を続ける。 「ざっとみつもって、二億五千万円分のものがおばちゃんのところへ行くわけだ」 「現金はそんなにないわよね。モノで渡るってことになるでしょう」 「そうだろうな。おそらく、二つあるアパートのうちのどちらかを譲る、というようなことになるだろう。その、土地の権利だけとか、上物もつけるとか、そんなことで額は調整するわけだ」 「だとすると、現金収入にはならないわけか」 「それはどうにでもなるだろう。アパートの大家としての権利が譲られれば家賃収入があるよ」 「そうか」 「でなきゃ、もらった土地を売っちゃってもいい。自分のものなんだからどう使おうが自由だろ」 「土地は売らないほうがいいと思うな。とりあえず持っとかなくちゃ」 「土地は値段が上がるもんね」 「あんたは口をはさまないの」 「確かに、土地を売って税金取られるのはバカバカしいな。有効に利用しなくちゃ損だ」 「有効な利用法って何かあるの」 「たとえば、古いアパートを壊しちゃってマンションに建て替えるのはどうだろう」  高田は仕事の顔つきになってそう言った。 「マンションはいいわよ。それ、名案よ」  美津子は金塊でも掘りあてたような顔をした。 「そうだろ。場所がいいからね。裏通りとはいえ新宿区内だもの。ワンルーム・マンションとかにしても、かなりの家賃で借り手はつくよ。あそこ、何階建てまで認められているのかな」 「五、六階までいいんじゃない。近くにそういうビルあるもの」 「よし。それでいけるとしよう。でもって、そのマンションの最上階に、大家であるおばちゃんの部屋を作るんだ。そういうやり方をする人も多いよ」 「おばちゃんの一人暮らしじゃあこれから先いろいろと不安よ」 「だからそれは、うちがお世話することにして、その同じ階に住んであげればいい」 「そうしましょう!」 「マンションの最上階だけど、二世帯住宅のようなものがそこにできると考えればいいよね」  美津子は大いに賛同してしきりにうなずいた。洋介まで、それはいいな、という顔をしている。 「資金はどうするの」 「あの土地があれば銀行が貸すよ」 「そうよね」 「そういう手続きや手配はうちがしてあげればいいんだから。おばちゃん一人じゃあ不安だろうけど、面倒なことはみんなうちにまかせればいいんだ」 「それ、いいと思うわ」 「ね。みんなにいいプランだろう」  そこでふと美津子は心配そうな顔をする。 「どこかから反対の声が出るかしら。お兄ちゃんのとことか、お姉ちゃんのところから、なんでお前のところが全部取っちゃうんだ、とか」 「全部取るわけじゃないもの。そのマンションはおばちゃんの持ち物で、うちは最上階にちょっと権利をもらうだけだよ。それでさ、今のあの古いアパートのまんまより、おばちゃんの持ってるものの価値は上がるんだよ。反対する理由がないだろ」 「そうよね。せっかくの土地を有利に活用しましょうっていうことだものね」 「そういうこと。それで、いずれそれをおばちゃんが遺《のこ》してくれるわけだよ。その時の分け方のことは、その時に考えればいいことだよ。それはずっと先のことで、今はおばちゃんの老後の生活のことを中心に考えてるんだ」 「そうよ、そうよ。別にうちがおばちゃんのものを取っちゃうというんじゃないのよね」  興奮して、美津子は鼻の穴をひろげた。 「みんなにいいプランなんだよ」  高田は自慢げにそう言った。  そのプランを瑞おばちゃんに説明しなくちゃ、と美津子は言った。ぜひとも賛同してもらわなくちゃね、と、明日にでもその人を訪ねそうな勢いで言う。 「まだ具体的に話を進めないほうがいいよ。もう少し様子を見なくちゃ」 「どうして」 「お義父さんの計画が、まだ終ってないだろう。おばちゃんとお義父さんが正式に結婚してからだよ、いずれにしても」 「そうか。そうよね」  それまでは秘密にしておこう、と美津子は決意した。  そこへ、電話がかかってきた。洋介が出ようとするのを止めて、美津子は受話器をとった。 「はい、高田でございます」 「高田勤さんのお宅ですね」  と、男の声がした。記憶にない声である。 「はい、そうですが」 「こちら、ナントカカントカの者ですが」  その、ナントカカントカの部分は、どう言ったのかきき取れなかったのだ。やけに事務的な、ハキハキした口調の相手である。 「え?」 「えーと、お宅に高田勇太さんという息子さんがいらっしゃいますよね」  なんだか胸がドキンとした。勇太の名前が出てくるとはまるで予想していなかったのだ。 「はい。おりますが」  と答えてから、今ここにはおりません、と言うべきなのか、と迷う。最近一人で暮らすようになりまして、普段ここにはおりませんが、と言うべきなのか。 「その勇太さんが交通事故を起こしまして、怪我《けが》をされたんです」  えっ、と思うと同時に、さっききき取れなかったナントカカントカの部分の、後半のところがわかった。  ナントカ警察署の者ですが、とその相手は言ったのだ。 「勇太が、怪我ですか」  思わず悲鳴のような声が出た。えっ、と言って高田も息をのむ。 「まずご安心できることから言います。多分骨折していて、一応重傷ですが命にかかわるような怪我ではありません」  全身から力が抜けていくような気がした。 「原因はまだ調査中ですが、オートバイに乗っていた勇太さんが乗用車と接触して、転倒して歩道の電柱に衝突したという事故です。怪我をしたのは勇太さんひとり。それで、今運びこまれている病院名をお伝えします。メモをご用意下さい」  美津子は手がブルブル震えていることに気がついた。 [#改ページ]   結婚式  七月に入って日柄のよい土曜日に、笹原家大場家両家の結婚式及びその披露宴が都内のホテルでとりおこなわれた。  当然のことながら、七月の結婚式は参列者には評判が悪い。夏物の留袖《とめそで》なんて持っている人は少なく、着る物を都合するのが大変なのだ。パーティー・ドレスにする、という若い女性だって、夏物のドレスはあまり持っていないのが普通だ。  おまけに、むし暑い。そして更にその日は、カラ梅雨だった心残りを晴らすかのようによく雨の降る一日だった。  ごく近い身内ともなれば、小声で文句のひとつも出てしまうところである。 「大変な季節の結婚式よねえ」 「秋までのばせない事情があるわけだからさ」  わいわいやっていると、親族控え室で、両家の親族の紹介ということが始まる。  新郎笹原衛の親族の紹介は、新郎の父という人がやった。  新郎の父でございます。どうぞよろしく。  狭い控え室の中で頭を下げまくる。  新郎の父方の伯父《おじ》です。新郎の父方のいとこです。新郎の母方のいとこの娘です。新郎の姉の夫の妹です。  一度では到底覚えきれない親戚《しんせき》たちがいる。  そのように、人にはいっぱいの親族があるのだ。つながりあういくつもの家族である。  笹原家のほうの紹介が終り、大場義光が立ちあがった。 「えー、新婦真奈美の父で、大場義光と申します。それからこれが、新婦の母、つまり私の家内の加寿子でございます。どうぞよろしくお願いいたします」  そしてまず、大場家の親族の紹介。  新婦の父方の叔父《おじ》とその妻です。新婦の父方のいとこです。そのあたりのえーと、誰かです。  対社会的には、中堅サラリーマンであったり、商店主であったり、学生であったり、とんだバカ娘だったりするそれらの人々が、この場では、親戚の〇〇ちゃんや、横浜の叔父さんや、所沢のほらあの人、だったりするのである。  たとえばサラリーマンであれば、仕事中のその人には仕事上の顔しかない。ものの見事に自分の立場の中でだけ生きているように見える。専務派で、ハッタリ屋で、秘書課のOLと不倫中であったり。  ところがその人が、親戚の集まりの中にいれば、ちゃんとそこにも立場があるのである。高校入試の時に名前を書き忘れて第一志望に落ちた長友物産の離婚しかかっているどこか頼りない千葉の松戸よ、という具合に。人は家族の外にはなかなか抜けられない。 「次にえーと、新婦の母方のほうのご紹介に移りますが、まず、新婦の母方の祖父の粟田草平と、祖母の静江です」  大場義光はそう紹介し、草平と静江が立って頭を下げた。  大場のその紹介は、実はなかなか工夫をこらしたものであった。祖父とその妻です、とは言っていない。その二人は離婚してしまっているからである。静江の姓を省略しているのも、ほかの場合もそうしているものの、ここではその省略に意味があった。静江は今、粟田姓ではないからである。 「次に、新婦の母方の伯父の粟田健一郎と、その妻の玲子……」  こういうつながりの中に、大場家があり、そこの当主としておれがいるのだ、と大場は思う。親戚が集まってその顔ぶれに囲まれていると、特にその思いが強くするのである。  親戚が一堂に会することが多いわけではないのだが。全メンバーが揃《そろ》うというのは、こういう結婚式の場合か、もしくは葬式だけである。 「そして、えーと、瑞おばちゃんね。えーと、新婦の、大|叔母《おば》ではないな。何だっけ」  大場の親族紹介は最後のところでつっかえて、その場の人々の顔をほころばせた。 「祖母のいとこよ」  加寿子が助け船を出す。 「ああそうか。母方の祖母のいとこの桜井瑞穂です。この人はえーと、私の家内が幼い頃、育ての親というような形でお世話になっておりまして、いわば、新婦のもうひとりのお祖母ちゃんというような人です」  桜井瑞穂は借り物の夏の留袖の姿で立ちあがり、深々と頭を下げた。どうぞよろしく、の気持と、おめでとうございます、の気持がこもったおじぎであった。それだけではなく、私はお客のつもりではないのだから、何か手伝うことがあれば命令して下さい、という気持までこもっている。 「以上ですね。どうぞよろしくお願いします」  大場はそうしめくくってすわり、ポケットからハンカチを出して額の汗をぬぐった。  粟田草平は大場のほうを見て柔和にうなずいた。それから、瑞穂のほうをぼんやりとながめる。表情は落ちついていた。 「孫たちの最初の結婚式ですよねえ」  と、隣にいる静江が言った。 「うん。そうだな」 「この先、いくつか続きますよ」 「まあそうだ。それに、もうじきひ孫ってものまでできてしまう。ひい祖父さんってわけだ」  そう言って草平は微《かす》かに笑った。  その結婚式には粟田家の孫たちも全員顔を出していた。そしてその中で、今日の最大のスターは高田勇太である。勇太はギプスで固めた左腕を、三角巾《さんかくきん》でつっているのだ。その上まだ、少し足をひきずって歩く。  新婦の弟の弘樹が、事故のことをしきりにたずね、いとこを尊敬したような顔をしている。 「バイクが倒れていくのがすごくゆっくりと確認できるんだよ。それで、ものすごくいろんなことが考えれんのな」 「どういうこと」 「ヘルメットかぶってるから頭は大丈夫だよな、とか、どこにぶちあたるんだろ、そん時、バイクと壁の間とかにはさまれたらやばいぞ、とか、全部考えてんだよ。バイクもだけど、自分の体も歩道のほうへ飛ばされながらだよ。アスファルトの上流れていきながら、上手にぶつかろう、なんて思ってるわけだよ」 「こわくないの」 「こわいって感じとは違うんだよ。乗用車が急カーブきって大きな音がして、バンとはじかれた瞬間だけはあっ、と思ったよ。やられた、と思って正直なところ、心臓が縮みあがったな。でも、こわいっていうのとは違うんだよ。うまくぶつからなきゃやばいぞ、とか思って、必死で考えてる感じだったなあ」 「冷静なんだね」 「誰でもそういう時って、ああいうふうじゃないのかなあ。とにかく、時間の感じ方がちょっと変になってるんだよね。はね飛ばされた瞬間は、そうやってゆっくり時間が流れてるみたいに感じたんだけどさ、パトカーが来たのはあっという間のように思えたもんな。ほんとは十分くらいたってるはずなんだけど、全然そんな気がしないの」 「十分も倒れてたの」 「そうだけど、それがあっという間に思えるんだよ。乗用車の運転手が、いろいろしゃべりかけてきて、名前答えたりしたんだけど、それも一分ぐらいのことみたいに思えてさ」 「その人がパトカーや救急車を呼んだんだね」 「だと思う。痛いかね、とかきかれて、ちょっとだけ、なんて答えてた。ところがあとできくと、ちょっとした水たまりになるぐらい血が出てたんだって」 「わあ」 「それなのにこっちは、自分のことよりバイクのことを心配しててさ。このバイクはおしゃかだよなあ、新しいの買ってもらえるだろうか、なんて考えてんの。そういうのは、よく考えてみると、頭が正常じゃなくなってるんだろうね」  高田勇太は、その程度のことで事故をくぐり抜けたのであった。まだ入院中だったが、外出許可をもらっていとこの結婚式には出られるという程度である。  高田勤と粟田健一郎とが、結婚の儀式が無事に終って、披露宴が始まるまでの短い時間に、ロビーのソファにすわって話をした。 「今年はいろいろありますね」  とまず高田が言う。 「この結婚式は急だったよね。まだ真奈美ちゃんがお嫁に行くとは思っていなかった」 「うちの勇太といっしょですからね。まあ、女の子のほうが一般に早いけれど」 「でも二十歳というのは早いねえ。見たところ、全然目立ってないから気がつかない人が多いと思うけど」  健一郎は新婦の妊娠問題に平気で触れる。 「まあ、何であれ目出たいことだからいいんじゃないですか」  自分も身重の新婦をもらったことのある高田はその件は軽く流す。 「でも、大場さんがひどく老けたよね。もともと私より四つも上だけど、なんだか急に老けこんだように見えるじゃない」 「女の子を嫁に出しちゃうんでガックリきちゃってるんでしょうかね。父親というのは、娘に対して特別な思いがあるらしいから」 「そうか。高田さんのところは女の子がないんだ」 「ええ。だから娘を出す悲しみは体験しないですみますよ。その点、健一郎さんのところは大変だ。千晶ちゃんと、睦美ちゃんと、二人とも女の子だもの」 「うちはまだそんなの、ずーっと先のことよ。まだまるで子供だから。十年以上先の話だもの」 「案外早かったりして」 「そんなことは、ダメだから」  苦笑しつつだが、健一郎はついムキになってしまう。 「でも、粟田家にもいろいろありますよ。春にはお義父さんが突然離婚しちゃうし」 「びっくりしたねえ」 「事情を知ってみれば、いい計画ではあったんですけどね」 「まあ、そうかなあ」 「そうですよ。瑞おばちゃんにちゃんと何かを遺《のこ》したいという考えもいいけど、そのやり方で相続税が安くなるというのが素晴しい。うまく考えたものです」 「普通に考えれば非常識なんだけどねえ」 「常識なんか気にすることはないんですよ。節税のためには相当非常識なことだってみんなやっているんですから。そういうのにくらべれば、これは恩人に恩を返したいという考えからのプランで、文句をつける理由がないです」 「親父も、人を驚かしてくれるよね」  健一郎はそう言って笑った。高田は眼鏡の奥の細い目を光らせた。    千晶と睦美が、真奈美おねえちゃんきれい、とため息をもらしたが、本当に真奈美の打ちかけ姿や、ウエディング・ドレス姿は美しかった。  二十歳の、若い花嫁である。濃い化粧が邪魔に思えるほどに、肌だって輝いている。いい年頃になって、ほとんど新品のままの晴れ姿なのだ。  そして、実は妊娠していてそれが安定期に入っているというその時期、ホルモンの分泌がどうにかなるのか、内側からしっとりと潤いが感じられて、真奈美は美しかった。  媒酌人がありきたりの新郎新婦の紹介ということをする。  この二人が出会いまして、あろうことかすぐできてしまい、あっと思った時には真奈美さんのおなかがせりだしてくるという、まことに困ったことになったのでございます。  なんてことには触れず、ただ、優秀な青年と美しい才媛《さいえん》が出会って今日のよき日に至ったという、面白味のない紹介である。  主賓の祝辞もある。大場家側の主賓は中規模建設業組合の理事長という男で、この建設不況の中で建設業者はいかに経営努力をしているか、という誰も真面目《まじめ》にきく気のしないスピーチをした。  友人たちのスピーチもある。これが、実にまあ下らなくてどうしようもなかった。新郎新婦が若いから、その友人たちも当然若くて、げんなりするほどバカなのである。新郎新婦に人前で、それも親や親戚《しんせき》が居並ぶこの場でキスさせたいという、それしか考えつかない愚かしさなのだ。  結婚式とは、親には面白くない儀式だ。  お色直しをする。最近はそれをするのが普通だそうだから、まあ普通のことはさせてやりたいと思ってやらせる。だが、娘の早変りを見ていて楽しいということはない。  キャンドル・サービスとやらもある。なんだか子供のセンスではしゃいでいるだけだなあ、という気がする。ろうそくに火をつけてまわって、それのどこが愛のセレモニーなのか。  ウエディング・ケーキに入刀というのも、そんなことが二人の夫婦として初の共同作業であってどうするのだ。ケーキ屋を開店するわけじゃあるまいし。  しかし、宴会とはもともとバカ騒ぎである。親だからといって、その目出たいバカ騒ぎを止めるわけにはいかない。  大場は、ただ穏やかな表情ですわってその宴をやりすごそうとしていた。真奈美の美しさを、複雑な思いで見つめていた。  そしてセレモニーは進んでいき、ついに両親への感謝の花束贈呈というやつにさしかかった。  両家の両親である都合四人が、壁の前に立たされた。そして、新郎新婦が、花束を手にして歩み寄ってくる。  やめてほしかったあの歌が流される。  かあさんがよなべしててぶくろあんでくれた……。  今どきそんな母親はどこにもおらんぞ!  大場は懸命に耐えた。  下らない、センチメンタルな式次第にすぎないのだ。  親に感謝なんてしているんだかどうだか。もし感謝しているんだとしても、こんな表し方は、ムードに流されているだけのことだ。  とってつけたように花束なんかもらっても、感激なんかしないぞと、大場は心に決めていた。  ところが、そのセレモニーはただ花束をくれるだけではなかったのである。その前に、新郎新婦が順に、感謝の作文を読みあげたのだ。  新郎が、何かつまらないことを言っている。知ったことではない。  しかし次に新婦の真奈美が、ふるえる声で作文を読み始めて、これはきいた。 「お父さん、お母さん。今日私は、新しい人生に向けて旅立ちます。今日まで私を育ててくれたお父さん、お母さんのことを思うと、感謝の気持でいっぱいで、どう言葉にしていいかわからないくらいです」  やめてくれよ、そんな……。 「私はお父さんお母さんにとって、いい子供だったのだろうかと考えると、自信が持てません。時には親に反抗したり、いいつけを守らなかったり、自分のことばかり考えて親の心を知ろうとしなかったり、今思い出すと反省することがいっぱいあります」  瞳《ひとみ》の奥にジーンときた。くそっ、と思い大場は奥歯をくいしめて耐えた。 「でも、そんな私だったのに、お父さんお母さんは私にとって、いい両親であり続けてくれました。そんなこと、何も感じてない時期もありましたけど、今は、そのことがわかるようになりました。私はお父さんお母さんの愛情で、ここまで育ってきたんです」  目の中に涙がゆらゆらして、大場はたまらず天井を見つめた。 「これから先私は、もうひとつの別の愛をはぐくんで生きていきます。でも、お父さんお母さんから受けた愛を忘れることはありません。それがここで終ることもないと思います。私が幸せになるのを見ていてくれる、それも親の愛だからです。その愛がわかり、愛を返していけるような、そういう一組の夫婦になっていこうと決心しています。でも、ひとまずこれまでの愛にお礼を言います。お父さん、お母さん、ありがとうございました」  上を見ていても、涙がポロポロこぼれ落ちて、大場はこぶしで顔をぬぐい、花束を受け取った。    披露宴はつつがなくおひらきとなり、参列者たちは引出物を手に下げて帰っていった。当の新郎新婦は、若い友だち中心の二次会をやるのだとかで、車でその会場へ出かけていった。今日は都内の別のホテルに宿泊し、明日、オーストラリアへの新婚旅行に出発する予定なのだ。しかしもうここから先には、親の出る幕はない。  粟田家の一族はさてどうしたものかとでもいうように、ひとかたまりになっていた。 「おばちゃん、疲れたんじゃないの。大丈夫? 手を引いてあげようか」  美津子はやけに桜井瑞穂にベタベタするのであった。疲れたでしょうといたわってやるのは、体質的に弱い母の静江であるべきなのに、そっちは無視して瑞穂にかまうのだ。  母は当然子供に持っているものを遺してくれるし、三人の子に平等であろう。しかし瑞穂ならその配分に片寄りがあってもいいわけだ、というところからの親切である。 「おばちゃんの荷物、私が持ちましょう」  と、高田も妻に同調する。  そんな様子をそれとなく見ていた粟田玲子は、ソファにすわっている夫の隣へ行き、ほかの人間にきかれないように小声でこう言った。 「ちょっと露骨よね」 「何が?」  健一郎はぼんやりと答える。 「美津子さんのところの、瑞おばちゃんに対するやり方がよ。とってつけたように親切にしているのよ」 「どうしてだ」 「おばちゃんがお義父さんと結婚すれば、大変な資産があるってことになるじゃない。それをいずれはほかより多くもらおうというところでしょう」 「そんなことはいかんよ」  ようやく健一郎は明瞭《めいりよう》な反応を見せた。 「でも、それを期待してるんでしょう」 「そういう、その、抜け駆けはいけないよ。兄妹はみんな平等でなきゃいかん」 「本当はそうよね。うちだって、生活に余裕はないんだもの」 「それは別の話としてだよ」  健一郎は苦しげにそう言った。自分が悪友を信用して、いわば騙《だま》された形で四百万円という金額を失ったことを糾弾されているように感じたのである。失敗だったな、と反省しているから、そこへの刺激に敏感なのである。 「みんなに平等でなくちゃ、親父の意志に反することになるんだよ」  小さな声でだが確実に健一郎はそう言った。 「子供に入院なんかされたら、親としては大変よ」  と美津子が大きな声で言っている。大変だったねえと、瑞穂が労をねぎらうと、こう言った。 「世話も大変だけど、費用がかかるんだもの。うちは貧乏だからそれが苦しいわけよ」  その言葉が耳に入ってきて玲子が目尻《めじり》をピクンとつり上げる。貧乏なのはこっちだわ、四百万円も損しちゃったのよ、というところであろう。健一郎が、そのことはみっともないから親戚には言うなと口止めしていることがはがゆい。 「こんなところでたむろしていてもしょうがないだろう。どこかで、すわってお茶でも飲もうよ」  と草平が言った。 「お茶を飲むところなんかありますかね」  と静江が言う。 「あるわさ。ホテルなんだぞ。コーヒー・ラウンジとかへ行こう」  そう言ってから、草平は一族全員のほうを確認するように見た。  自分たち夫婦と瑞穂を加えて、大人が九人。子供が五人。 「実はな、せっかくみんな顔を揃《そろ》えているんだから、おれからちょっとみんなに話したいことがあるんだ」  大人たちはみな、あっ、というような顔をした。 「そうだよね。全員顔を合わせる機会というのはそうないんだから」  健一郎がそう言った。 「ぼく、アイスクリームでもいい?」  と洋介が言った。 「好きなものにすればいいのよ」  と静江が言った。  年頃の子供たちは、はしゃぎもせずに、この場は従うよ、という顔をしている。 「でも、大場さんのところは、何かあるんじゃないの。式場の人との打ち合わせとか」  と美津子が言った。 「もうそんなの終ったわよ。だからいいわよ」  と加寿子が答えた。 「大場さんのほうの親戚《しんせき》の相手とかしなきゃいけないんじゃないの」 「もう帰っちゃったわよ。あっちはさっぱりしたつきあい方の家なの。ねえ、いいでしょう」  と加寿子は夫に語りかける。  うつろな表情の大場義光は、うん、とうなずいた。 「それならちょうどいい。じゃあみんなでコーヒー・ラウンジへ行こう。どうせなら、いっペんにみんなに話しておいたほうがいいことなんだ。誤解されてもいかんから、ちゃんと言っときたい」  草平はホッとしたようにそう言った。  わいわいとコーヒー・ラウンジに場を移して、しばらくはめいめい勝手にしゃべっている。 「おばちゃんはここへいらっしゃい。おばちゃんは私の隣」  と美津子がとりしきって、玲子がキッとなったりした。  それにしても、真奈美ちゃんきれいだったよねえ、で盛りあがっているところもある。  ギプスの下ってかゆいんじゃないの、で話に花が咲いているところもある。  やがて注文したコーヒーやらアイスクリームやらが来て、ようやく場にまとまりが出てくる。  そこで、草平がしゃきっと背すじをのばして切りだした。みんな、真剣に耳を傾けている。 「えーとね、みんなに知っておいてもらいたいことがあるんだ。前に話した、おれの遺産の分け方についての計画なんだがね」  静江も当事者顔をして背すじをのばしている。瑞穂は、私がここにいていいのかしらというような風情でうつむいている。 「話が進んでるんですか」  と高田勤が言った。 「うーん、どこから言おうかな。結論から、あっさり言うしかないか。えーと実は、おれはもう一回おかあさんと結婚することにした」  まず何気なくきき流し、それから一同が、一体何を言ってるんだ、という顔をした。 「違うでしょう。もう一回結婚するのは知ってるけど、その相手がお母さんのはずないじゃないの。違う人と結婚するんでしょう」  健一郎のその口調には、ダメだこりゃ、本当にボケかかってるよ、という気分がこもっていた。 「いずれにしても、形式上だけのことなんですから、生活が変るわけじゃないですけどねえ」  と玲子。 「相手は瑞おばちゃんでしょう」  と美津子は言って瑞穂の腕をとった。  草平は、困ったような顔をして、首を横に振った。 「いや、そうじゃなくて、おかあさんと再婚するんだよ。つまりその、みんなに以前言ってたのとは、違う話になったんだよ」  大丈夫なのか、と一同は草平の顔を見つめる。健一郎が諭すように言った。 「何を言ってるの。違う話になるわけないでしょう。瑞おばちゃんに恩返しをするために、わざわざお母さんと離婚したんだよ。もちろんそれが単なる戸籍の上だけのことなのは承知してるし、みんなも賛成してるんじゃないか」 「いや、その話はやめにしたんだよ」 「それ、本気で言ってるの」  健一郎は心配そうな声を出した。 「お母さんと離婚して、どうしてまたお母さんと再婚するのよ」  と、美津子が言った。 「ちゃんと説明するよ。確かにおれはおかあさんと離婚した。それで、財産を二つに分けてしまった。それというのは、健一郎の言ったように、瑞穂さんと再婚して、その人に財産の一部を分けるための方便のつもりだったわけだ」 「それはよく承知してますよ」  と加寿子が言った。 「うん。いい考えだと思ったんだよ。ところがなあ、実際におかあさんと離婚してみると、どうも妙な気分なんだよなあ、これが。生活は今までとどこも変ってはおらんのだけど、なんかおかしいんだよ。この人と正式には夫婦ではないんだなあ、なんて気がして」  草平は飾りのない口調で淡々と話した。ちゃんと説明する義務を感じているのだ。 「うまく説明できないが、要するに落ちつかんのだ。相手は目の前にいるのに、急に一人きりになったような寂しさを感じてしまうんだよ」  その時、大場義光が無言のまま、こくんとうなずいた。 「それで、おかあさんも同じような気持なのかなあ、と思ったんだよ。おかあさんはおれの方針に賛成してくれてて、それで文句はないと言っててくれるんだけど、本心は寂しいんじゃないだろうか、という気がしてきたんだ」  静江は感じ入るように頭を少し前に倒した。 「それで、そんな気持も少しする中で、瑞穂さんと話をしたんだ。形だけの再婚相手になってもらいたいと頼んだわけだ。恩返しのつもりなんだから受けてくれとな。ところが、そこで瑞穂さんに叱《しか》られてしまった。そんな理由で離婚する人がありますかって」  草平が静江にした説明も、それと同じであった。草平と瑞穂との、生涯の中で二度にわたってのニアミスのことは、そのように二人以外の誰にも秘密にしたまま、葬り去られたのである。 「夫婦っていうのはそういうものじゃないんだと、瑞穂さんは言うんだ。戸籍がどうなってようが、実際上仲よくしてれば夫婦と同じだという考え方は、間違ってるんだとね。戸籍上で夫婦だからこそ、一組の男女が生涯お互いをかけがえのない伴侶《はんりよ》と思って暮していけるんだと。そこを切ってしまえば、夫婦っていう単位は消えちゃうんだと。言われて、そうかもしれんという気がしたよ。自分も何か落ちつかんなあと思ってたところだったから。それで、おかあさんはもっと寂しいのかもしれんという気がしてきた」  瑞穂は何も言わず、ただ、すべてを承知した顔つきでうつむいていた。 「それから、瑞穂さんにはこういうことも言われた。税金を安くできるからとか、払わんでもいいというような理由で、夫婦の仲を勝手にいじったりしてはいけないんだとな。その仲というのは、お金が得か損かというようなことで、その、もてあそんでいいものじゃないんだと。そういう言い方はしなかったけど要するに、ちょっとのお金をケチって、もっと大事な、家族のつながりを切っちゃう人がありますか、ということだわな。言われて、そうかもしれん、と思ったんだ」  五人の子供たちも、この話には真剣に耳を傾けていた。それは大人の話ではあるけれど、本能的に、子供にも敏感に理解できる話だったのだ。 「それで、おかあさんにきいてみたよ。なんか寂しくはないかとな。おかあさんのことだからそんなことはないって言うんだけど、やっぱりそういう気持なんだって、おれにはわかった」  草平はそう言って、照れたように頭へ手をやった。 「それで、おれは計画を中止することにした。おかあさんともう一度、ちゃんとその婚姻届を出して再婚する。女性の再婚禁止期間の六か月がたったらそうするつもりだ」  加寿子がなんだか力強くうなずいた。 「というわけで、自分の思い込みからとんだバカな失敗をしてしまって、大恥だったなあと思っているが、とにかく元に戻ることにした。ただしえーと、半分ずつに分けた財産は、別にもう一度ひとつにまとめておれのものということにする必要もないし、第一うまくそうはできんので、二人で分けて持っているということになった。違った点はそこだけだ」  そう言って、草平は口をつぐんだ。 「そうか。うん、わかった」  と健一郎は言った。なんとなくホッとしたような口調であった。  美津子が、紙ナプキンに鉛筆で字を書いて、それを目立たないように夫に手わたした。  そこには、「財産を分けてる夫婦になって、税金は得なの、ソンなの」と書いてあった。  チラリとその文章を読み、紙をまるめてポケットにしまい、高田は考えこむ顔つきをした。  その状態で草平が死ぬと、半分持ってるうちの半分が無税で静江に渡り、えーと、ところがその静江が死んだ時には……。  しばらくして、高田は妻の耳元でこっそりささやいた。 「ややこしくて、急には答が出ないよ」 「それでよかったのかもしれないな」  健一郎がポツンとそう言った。  草平が、もうひとつ、という顔で切り出した。 「それで、ここでみんなに承知しといてもらいたいことがあるんだ。そういうわけで、おれは離婚作戦は取りやめた。だけど、恩を受けてる瑞穂さんに何かをしたいという気持は変らんのだ。つまりまあ、瑞穂さんが老後の生活に困らんぐらいのことはしたい」  瑞穂は頭をあげ、それはもう、と言った。草平はそれにかぶせるように言った。 「いや、少しのことなんだからさせてもらうよ。つまり、前のプランよりは小規模にだけれど、年寄りが生きていく上で心強いぐらいの現金を、ちゃんと遺言状を書いて瑞穂さんに遺《のこ》そうと思っているんだ。もちろん、相続税は取られる。身内が遺産をもらう時よりは多額になるんだが、それはもういいじゃないかという気がしている。税金を払った上で、そこそこ心強い程度のものを、遺すのが当然だと思うんだ。どうだ。みんなも納得してくれるかね。ぜひわかってもらいたいんだが」  一瞬の沈黙のあと、長男の役目だと思ったのか、健一郎が言った。 「それは、わかったよ。誰もそんなことで文句を言いはしないからさ」  そして、それに異議をとなえる者はいなかった。  草平は嬉しそうに笑って肩の力を抜いた。 「じゃあ、そういうことで、なんだかみんなをさんざん悩ませてしまって、悪かったと思っているんだが、この話は一件落着ということにしてもらえるかな。親父もボケちゃったなあと、笑われるのは覚悟しているから。確かに考えが甘かったんだから言われちゃって当然なんだしなあ」  草平がそう言うと、大場義光はゆっくりと首を横に振り、どっしりと重い声を出した。 「いや、そんなことないですよ。お義父さんの考え方はすごくしっかりしてると思います」 「そうでもないわなあ」 「いや、そうですよ。それで、そんなことよりも何よりも、とにかく、ご結婚お目出とうございます」  あら、やめてよ、と静江が言った。 「いや、目出たいですよ。いや、なんだか私もいろんなことを教わった気がするんです。夫婦って何なのか、ということを。家族って何なのか、ということを。それから、結婚がなぜお目出たいのか、ということもわかったような気がします」  大場の顔つきは久しぶりに晴れ晴れとしていた。 「でもって、とにかくお目出とうございます」 「今日、お目出とうと言われるのはそっちだろう。年寄りをからかっちゃいかんよ」  草平は苦笑気味にそう言った。そして、その顔も肩の荷をおろしたように晴れ晴れとしていた。