清水俊二 映画字幕の作り方教えます 目 次  映画|字幕《スーパー》の作り方教えます  スーパー字幕という奇妙なものについて  卒爾ながらショパン殿では御座らぬか  スーパー字幕ゲームの楽しみ  洋画に首斬り浅右衛門登場  スーパー字幕史に名前を記しておきたい四人衆  難しいクロスワード・パズルを解いたときの気分  スーパー字幕製作日誌  ベバリーヒルズにこだわるわけ  原作と台本、台本と字幕の関係  スーパー字幕屋紳士録  スーパー字幕屋、大いにくやしがる  今は昔、よき時代の物語  メスオスってなァに? スーパー字幕屋隠語集  しゃれに骨折りくたびれもうけ  映画に色がつき、字幕屋ハリウッドヘ行く  寝台飛行機でハリウッドヘ飛んだ話  重役会議で字幕を検討の『ニューヨークの王様』  どうしてもうまくいかないときもある  野球とミュージカルはお任せください  スーパー字幕の文字の出し方教えます  常用漢字にない略字も使います  戦後初公開・謎のスーパー事件  ウォーナー・ブラザースにこだわらないわけ  高瀬鎮夫君を偲ぶ77人のスーパー侍  オペラ映画に朗々と響くはイタリー語  最新話題作で久々に字幕セミナーを……  猫《キヤツト》が帽子《ハツト》になっては困るのだ  英語の聞き間違えはあちらにもある  検閲台本はどこに消えたのだろう  半世紀を経て遂に�映画翻訳者協会�誕生  スーパー字幕屋がニヤリとする時  25年ぶりに『お熱いのがお好き』  小実昌くん「サンディエゴ」に行く  「君の瞳に乾杯!」でいいのかナ  スーパー字幕屋・法廷の楽しみ  スーパー第1号『モロッコ』の字幕  『ヴェラクルス』で久々の字幕セミナー  パイパーさんからの手紙  Mrs. Shicklgruber をごぞんじですか  イジワル批評家から Best Boy まで  スーパー字幕屋のひそかな楽しみ  ドキュメント昭和�トーキー誕生�から  初封切から55年目の『モロッコ』公開  謎のスーパー字幕  毎週1本・年間52本  サイレントの時代があった  『タバコ街道』で字幕を作ろう  字幕屋の雑学ノート  それは甲子園ホテルから始まった  映画会社とスーパー字幕の関係  字幕の話を、と頼まれるとき  『フォルスタッフ』に始まるシェイクスピアの旅  手紙を読んでいる場面の字幕づくり  『フルメタル・ジャケット』事件   あ と が き [#改ページ]   映画|字幕《スーパー》の作り方教えます  有楽町、渋谷、新宿あたりの外国映画上映館の観客のなかから若い人たちをつかまえて、一人一人あたってみると、スーパー字幕に関心を持っている人が少なからずいる。その中の何パーセントかがあれならおれにもつくれる、わたしにもできる、と思っている。その中のまた何パーセントかがじっさいにスーパー字幕をつくってみたくなる。  物語の中の人物が話をしている。しゃべっている言葉を日本語の話し言葉におき変える。これが私たちスーパー字幕屋の仕事である。しゃべられているせりふの内容しだいで、いく通りもの字幕につくり変えることができる。日本語の話し言葉はボキャブラリー——言葉の種類がじつに豊富だから、とり組んでみると、こんな楽しいゲームはない。  スーパー字幕をつくってみたいと思う人間があらわれるのは当然である。これから世間に出ようという若い人たちのあいだにとくに多い。1億総タレントといわれているいまの世の中。�出たがり屋�さんがどこにもいる。「日本版字幕 何のなにがし」というクレディット・タイトルがあらわれるのも魅力的に見えるのだろう。  そんなわけで、私のところに、映画のスーパー字幕をつくりたいのですが、どうしたらよろしいか教えてください、という手紙がくる。見も知らぬ字幕志願者から電話がかかることもある。近ごろは私のところにかかるのより戸田奈津子君のところにかかる方が多いだろう。  私はそんなとき、いつも、教えることはできない、とお断りする。簡単な仕事のように見えて、手がけてみるとなかなかめんどうなのである。外側から見ていたのではわからぬ微妙なコツがあるのだ。そのコツを教えるには、一対一で字幕の原稿を1枚ずつ検討してゆくほかない。なぜそうなるのかをわかってもらうだけでも容易ではない。  だから、いつもお断りする。  私がこんなことをいうと、戸田奈津子は先生のお弟子だというではありませんか、という人がかならず現れる。  そういわれてみると、奈津子君はたしかに私の弟子のようなかたちである。弟子にしたつもりはないのだが、私が考えているスーパー字幕学習法──字幕原稿を一対一で1枚ずつ検討してゆく学習法を忠実に実践したのだから、弟子ということになるかもしれぬ。  奈津子君は、私がスーパー字幕を毎月4、5本つくっていたころ、いつも私のそばにいて、私のスーパー字幕づくりの|だんどり《ヽヽヽヽ》を覚えこんだ。そんなとき、いまはなくなった第一映画社から、戸田君に1本、スーパーをお願いできませんか、と頼まれた。これがきっかけで、スーパー字幕の仕事をつづけることになった。私が頼まれて、私がOKしたのだから、責任がある。第1回目の『小さな約束』から5、6本目の映画まで、字幕原稿を1枚ずつ、一対一で話し合って、検討した。一本立ちになってからも、『地獄の黙示録』のときはヘラルド映画から頼まれて、一対一で字幕原稿を検討した。「日本版字幕 戸田奈津子 監修 清水俊二」というあまり見かけぬクレディットがあらわれたのを覚えているひとがいるかもしれない。奈津子君の字幕原稿を1枚ずつ読んでいって、私も大いに勉強になった。こんなことがタルコフスキー監督の『サクリファイス』の字幕をつくったときにもあった。このときは川喜多和子さんと一対一で字幕原稿を検討した。和子さんとは戸田奈津子君も『ストレンジャー・イン・パラダイス』や『グッド・モーニング・バビロン』でおなじ一対一方式を経験している。 『サクリファイス』『ストレンジャー・ザン・パラダイス』『グッド・モーニング・バビロン』の3本は3本とも、和子さんの会社・フランス映画社が輸入した映画である。自分が輸入した映画を大切にする和子さんの気持の現れだったわけだが、このような一対一方式はときどき行われてもよい。戸田奈津子君のあのリズム感のあるスーパー字幕は一対一方式が実を結んだ成果なのである。  私がくどいほど一対一方式にこだわるのは、スーパー字幕づくりはとかく|ひとりよがり《ヽヽヽヽヽヽ》になりがちな作業だからである。そのはっきりした実例をお話ししよう。こんどは私自身のことである。  私がスーパー字幕をつくり始めたのは昭和6年11月のことだ。MGM映画大阪支社宣伝部にいたのをパラマウント映画に引き抜かれ、スーパー字幕製作部員としてニューヨーク本社につれて行かれた。空からは行けない時代で、ニューヨークまで客船と鉄道で20日かかった。日本ではまだスーパー字幕をつくることができない時代だった。  スーパー字幕づくりは私にとって初めての仕事だったが、映画台本の翻訳などを手がけていたし、せりふを読み切れる長さの日本語字幕にすればいいのだろう、と簡単に考えていた。いまのスーパー字幕をつくってみたいと考えている諸君と五十歩百歩といってよかった。  私をMGMから引き抜いたのは日本語スーパー字幕の第1回作品『モロッコ』をつくった田村|幸彦《よしひこ》さんだった。パラマウント映画の日本語スーパー字幕は田村さんと私とでつくることになっていたのだが、田村さんのニューヨーク到着が遅れ、1月の中ごろ、やっと到着したときには、私は2本のパラマウント映画の字幕を仕上げていた。田村さんが着いてからも、さらに2本の映画のスーパー字幕をつくった。  そんなときのある日、昼休みの時間になって、田村さんが、 「清水君、昼飯を食わんかね」と、私を誘った。  田村さんはめったに部下を昼飯に誘ったりしない。私は何事かと思ったが、とくに気になることもなかったので、パラマウント・ビル地階の「チャイルド」へ、田村さんについて行った。  私は妙なことをよく覚えている|くせ《ヽヽ》があるのだが、このときに食べたニュー・イングランド産の牡蠣《かき》がすばらしかったことをいまでも忘れていない。あるいは、このときの昼飯が私の一生の仕事と大きな関わりのある昼飯だったからかもしれぬ。  ニュー・イングランド産の牡蠣は冬のニューヨークの味覚の名物の一つで、とくに生《な》ま牡蠣がうまい。大きな皿のまん中に、しょうが、レモン、ガーリック・ソースなどのグレイビーが入っている仕切りがあって、周囲の氷を敷きつめたところに大きな生ま牡蠣が殻《から》つきのままのっかっている。あの牡蠣はいま、どうなってるだろう。戦後、冬のニューヨークに行っていないので、いまのことは知らない。ニューヨークに行くのはたいてい5月か6月で、グランド・セントラル駅の名物「オイスター・バー」に立ち寄っても、Rなしの月の牡蠣は食べていない。  田村さんと私はテーブルに座らないで、カウンターに腰かけた。田村さんが、 「君にいわなきゃならんと思っていることがあるのだよ」と、口を切った。「君はいつも原稿ができ上がると、そのままタイトル・ライターに渡してるね。あれでいいと思ってるの?」  言葉はおだやかだが、いっていることはきびしい。私は一瞬、返事につまり、私がまちがっていたことに気がついた。正直にいって、この文句で観客にわかるかな、と不安だった字幕がいくつかあった。ちょっと手を加えるだけでずっとわかりやすくなる字幕もあったはずである。そんな不安をなくすには字幕原稿をしかるべき人に一対一で検討してもらうのが1番近道なのだ。田村さんはいまの私がスーパー字幕志願の連中にいいたいのと同じことを考えていたのである。  私はさっそく、いままで気がつかなかった思い上がりを詫びて、これからは字幕の原稿に目を通してください、とお願いした。そのときから昭和8年5月、スーパー字幕が日本でつくれることになって、私たちが帰国するまで、私がつくったスーパー字幕には田村さんの息がかかっているのが何枚もある。  ところで、この方式、字幕原稿を一対一で1枚ずつ検討してゆく方式がどんなふうに行われるのか、それをここで紹介しておきたい。私がみなさんと一対一で検討してゆくことにして、まずテキストに使うせりふをえらび、みなさんに字幕の原稿をつくってもらう。その原稿を私が1枚ずつとりあげる。これをじっさいに行えればよいのだが、そんなことはむりなので、字幕屋仲間の岡枝慎二君が「翻訳の世界」に連載しているスーパー字幕のセミナーの答案の原稿を使わせてもらうことにする。  テキストに使ったせりふはウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』のなかからとった。映画好きの人妻が映画スターに憧《あこが》れている。その映画スターが、映画館のスクリーンから抜け出して、人妻と親しくなり、恋を語るという、いかにもウディ・アレンの作品らしい物語。人妻セシリアは25、6歳。映画スターのトムは30歳前後。二人はこの場面で、踊りながら会話をかわしている。  Cecilia : I'm not too light on my feet.  Tom : You're a feather in my arms.  せりふをしゃべっている時間はどっちも2秒ほど。字幕は7字から9字ぐらいにまとめればよい。答案のなかには「ついていないわ」「僕といれば大丈夫」とか「恥ずかしいわ」「そんな」とか「私 軽くはないわ」「堕としてみせるさ」といったように原文の意味をまったくとりちがえているのもある。お気のどくだが、この程度の英文の意味をとりちがえるのでは、スーパー字幕に挑戦してみようと考える資格はない。このひとたちにはもういちど出直していただくほかなかろう。  一応合格点をつけてよい答案もある。そんな答案を拾ってみることにする。一対一方式でこまかく検討すると、それまで気がつかなかったさまざまの問題点が出てくる。 「うまく踊れないわ」「羽のようだよ」  よくできている。このままスーパー字幕に使ってもさしつかえなかろう。もともと、めんどうなことをいっているわけではないので、スーパー字幕をつくってみようと思い立つほどの気構えがあるなら、このくらいの字幕はつくれるはずである。  私たちは字幕の原稿ができ上がると、�読み合わせ�ということをする。もう一度映画を見ながら、原稿と照らし合わせて、訂正するところがあるかないかをチェックするのである。最初の試写のときは|せりふ《ヽヽヽ》台本を読みながら画面を見ているので、人物の服装、部屋の中の家具調度など、何から何まで全部見とどけているわけにいかない。メガネをかけていたかどうかさえ、はっきり覚えていないこともある。せりふでは�that door�といっているので、字幕に「あのドア」とすると、しゃべっている人物の手のわきにドアがあって、「このドア」と直さなければならなかったりする。  この字幕の場合も、�読み合わせ�てみて、字幕の会話の文句がなれなれしすぎると思ったら、「うまく踊れませんわ」「羽のようですよ」と語尾を変えなければならない。  このほか、字幕が出るところが晴れ上がった空、白壁、白夜などで、字幕が読みにくく、左側にうつすときなど、�読み合わせ�のときにチェックする。�読み合わせ�の効用はまだいくらもあるが、ここでは省略しておく。 「重いことない?」「とても軽やかだよ」  これも合格点をつけてよさそうだ。ただし、「軽やか」という表現が話し言葉として適切であるかどうかを考えてみてもいいだろう。スーパー字幕は読むもので、しゃべるのではないのだから、話し言葉をそのまま使わなければならないのではなく、言葉づかいに工夫があってかまわないのだが、「軽やか」ははたしてどうであろうか。 「重い?」「羽根のようさ」  スーパー字幕は電報の文句のように短くするべきものと考えているひとが多い。観客が読み切った後も字幕が画面に残っているのは工合がわるい。観客がせっかく映画の中に溶けこんでいたのに、ここで一瞬つっかえる。長すぎて読み切れない字幕はもちろん困るが、短かすぎるのも失格である。私は字幕をつくるとき、「羽」と書かないで、「羽根」と書く。意味はわかっていても、ハネとすぐ読めないと、なんとなくひっかかるのではなかろうかと思うからだ。取り越し苦労といわれても、一応頭に入れておいていいことである。 「ダンスは苦手よ」「そうは見えない」  この字幕で問題になるのは「見えない」だろう。話し言葉の場合、「見えない」ともいうけれど、「思えない」の方がよさそうだ。それから、「思えないよ」あるいは「思えないさ」とすると、一そうせりふらしくなる。語尾に気をつかうとせりふが生きてくる場合が多いことを覚えておくとよい。 「上手く踊れないわ」「そんな事ないさ」  これもこのままスーパー字幕に使えるが、一対一で検討したとすると、おそらくこのままではパスしないだろう。問題は男のせりふである。「あなたの踊りは羽根のように軽い」といっているのだから、「そんな事ないさ」だけですませてはそっけなさすぎて、気持が伝わってこないだろう。「とても上手いよ」とか「とても軽いよ」とかすれば、男の気持が生きるはずである。 「足が重いみたい」「翔んでるみたい」 「翔んでる」を思いついて「足が重い」という着想が生まれたのだろう。いつも頭がこんな工合に働くと、気のきいた字幕をつくれるようになる。「翔んでる」はひところ流行語のようになった。あのころならともかく、いまはルビをふらぬと読めないひとがいるかもしれない。語尾の「みたい」がダブるのは、ギャグに使われているのならともかく、この場合はまずいだろう。 「余り軽くないわ」「羽毛のようだよ」  このままで踊りのことをいっているのがわかるかどうか。くどいのはいけないが、まずわかりやすい字幕をという心構えが大切である。「余り」はいけない。当用漢字のほかはなるべく使わないようにしたい。外国の地名人名が出てきたら、新聞社がきめている用語例に従うのがよい。「羽毛」もよくない。「羽」か「羽根」を使うべきである。話し言葉の言葉づかいだけでなく、漢字の使い方に気をくばることも、スーパー字幕をつくるときに忘れてはならぬことである。 「重い足どりだわ」「体は軽いよ」 �On my feet�とあるので、足を生かしたかったのだろう。苦心のほどはよくわかるが、こんなとき、「足どり」とはおそらくいわない。「体」は「身体」とする方が|からだ《ヽヽヽ》と読みやすい。映画を見にくる観客は年齢、IQ、職業、環境など、千差万別である。スーパー字幕をつくるときに忘れてならぬことは、どの観客にもパッと見ただけでパッとわかる字幕をつくるということである。  以上、楊枝《ようじ》の先で重箱のすみをつっつくようなこまかいことを並べたてたが、初めてスーパー字幕と取り組むときからこのくらいのことは頭に入れてとりかかるといい。何度もいうようだが、とかく|ひとりよがり《ヽヽヽヽヽヽ》になりがちであることを忘れないでほしい。  そして、かならず一対一方式で字幕原稿を校閲してもらうこと。もちろん、プロのスーパー字幕屋に見てもらうのが一番よい。これはおいそれとはいかない。しかるべき先輩でも、手ぢかの友だちでもよい。映画が好きで、何を描いているのかを正しく理解できて、日本語の話し言葉とまでいかなくても、日本語に関心を持っている人物を見つけて、字幕原稿を見てもらうこと。ここに拾い上げた字幕原稿のなかにも、そのまま使えるのがある。よいセンスが隠されていて、手を加えれば気のきいた字幕になるのもある。一対一方式さえ忘れなければいいのだ。素質十分のスーパー字幕屋の卵が、みなさんの中にかならずいるはずである。  ここで、岡枝慎二君の字幕を紹介しておこう。 「私 下手でしょう」「羽のように軽いよ」(岡枝君は点〈 、〉の場合、字幕では半字分あけることにしている)  もし私がこのとおりの字幕をつくったとすれば、「下手」にルビをふり、「羽」に「羽根」を使ったろう。スーパー字幕屋は一人一人、それぞれ|くせ《ヽヽ》を持っている。  ここまで書いてきて、もし、戸田奈津子君がこの字幕をつくったら、どんな字幕をつくるかを聞いてみたくなった。さっそく、電話をかけると、折よく、在宅だった。場面を説明して、この会話をスーパー字幕につくってみてくれないか、と頼んだ。奈津子君は『カイロの紫のバラ』を見ている。  しばらくして、電話で返事がきた。 「重いパートナーでしょ?」「僕には羽の軽さだ」 「パートナー」「羽の軽さ」に奈津子君のつくる字幕らしいひらめきがある。  こうなったら私の字幕を出さないわけにいかない。誰がつくっても似たようになる簡単なせりふで、岡枝君、戸田君の字幕が出た後ではうまくないのだが、どんなに簡単なせりふでも、さまざまの工夫を加えることができるという妙味を味わっていただきたい。こんなところにもスーパー字幕づくりの楽しみがある。 「踊ってて重いでしょ」「羽根のように軽いさ」  ところで、話が突然変わる。みなさんは昭和62年度の全国映画館入場者数(これを映画人口といっている)が1億4393万5千人で、戦後最低だったことを知っているだろうか。映画人口は40年代の後半から年々減少しているのだが、前年61年の1億6075万8千人とくらべても10.5パーセントの減少なのである。  昭和62年度の外国映画の配給収入は330億9800万円。これも前年61年の364億5400万円から0.7パーセントとわずかだが減っている。  こんなふうにありがたくない数字ばかり目につくなかで、外国映画の封切本数は351本と61年度の289本から21.5パーセントもふえている。  映画人口が減少、外国映画の配給収入も減っているのに、外国映画の封切本数だけがなぜふえているのだろう。その理由はわかっている。いままで敬遠されていた芸術映画やあまり紹介されていなかった小国の映画を上映する小映画館がふえたこと、未公開だった問題作、話題作が輸入され始めたこと、名作・大作のリバイバルがさかんになったことなどがおもな理由である。  輸入される外国映画がふえれば、スーパー字幕屋が忙しくなる。私たち、映画翻訳家協会のメンバーだけでは足りなくなって、聞きなれない名前がスーパー字幕のクレディットに現われることになった。みなさんにも機会がめぐって来ないとはかぎらない。  私がこんなことをいうのにはわけがある。前に記した封切本数の数字は映画館で公開された外国映画だけにかぎられている。このほかにビデオ、テレビの深夜放送、ケーブル・テレビなどに使われる外国映画が激増している。ビデオのために輸入される外国映画だけでも年間300本といわれている。こうなると、21.5パーセント増どころではない。記録映画、学術映画でも、外国映画であるかぎり、スーパー字幕が必要なのである。そして、この状態は当分つづくだろうといわれている。  せっかく機会がめぐってきたのにつかまぬ手はない。スーパー字幕はつくってみたいが、手がかりがなくて、などといっているようでは字幕屋を志願する資格はない。スーパー字幕がどんな手順でつくられているのかはこの本を読めばわかる。どこをアタックすればよいのか、見当がつくはずである。大手の会社はたいてい誰に字幕を頼むかをきめているので無理としても、外国映画を輸入している会社はいくらもある。ビデオは新しい業界だから、アタックしてくる人材を待っているかもしれない。  私にできることは、スーパー字幕をつくるにはどんな心構えが大切かをみなさんに語ることだ。この本の中の文章はすべてそのつもりで書いた。スーパー字幕屋の心構えを身につけて、コツを覚えると、スーパー字幕づくりの楽しみもわかってくる。そこに行き着くまで、くれぐれも一対一方式を忘れないこと。それが私のお願いである。   スーパー字幕という奇妙なものについて 「スーパー字幕という奇妙なものについて」という短い文章を映画ペンクラブのパンフレットに書いたことがある。「諸君!」という雑誌に立花隆君が『地獄の黙示録』のスーパー字幕が誤訳であると書いたのに答えたものだ。  ウィラード大尉がカーツ大佐討伐に向かうとき、大佐がどういう人物であるかという説明をうける。その説明のなかに�His method is unsound.�という文句が出てくる。スーパー字幕ではこれが�行動が異常だ�となっている。立花君によるとこれは誤訳で、�方法が不健全だ�でなければならないという。  たしかに�方法が不健全だ�のほうが訳文としては正確だが、あの場合は�行動が異常だ�とするほうがはるかにわかりやすい。�方法�というのがどういうことか、すぐ頭に入ってこないし、�不健全�も話しことばとして適当でない。たとえ瞬間的にでも観客に意味を考えさせるようでは、字幕として落第である。次々に現れて消える字幕が抵抗なく頭の中を通りすぎていかないと、鑑賞が妨げられる。ポイントはことばの選択で、これは経験によって身につけるほかはない。  だが、ここでぜひ頭に入れておいていただきたいことがある。�方法が不健全だ�というようなあまり適当とはいえぬ字幕がいくつかあっても、字幕は次々に現れて消えるので、なんとなく読みすごしてしまうということだ。いいかえると、英語(あるいはフランス語、イタリー語、ドイツ語)がわかって、スーパー字幕の基本のルールを知っている人間なら、だれでも一応スーパー字幕をつくることができるということになる。そして、どんなに出来のわるい字幕がついていても、映画の出来がよい場合にはだれも問題にしないのである。  じっさいにそんな映画があった。100点満点として採点して、40点から45点ぐらいしかつけられない字幕がついていたが、だれも文句をいわなかった。文句がなかっただけでなく、その年のベストテンの上位に入選している。これはとくに目についた例だが、年々のベストテン作品のなかにも�欠陥字幕�といっていい映画がいくつか数えられる。  スーパー字幕を�奇妙なもの�というのはこのへんのことをいうので、したがって、外国語に自信のある人間がスーパー字幕の仕事をしてみたいと考えるのもむりはない。私のところに、将来、スーパー字幕の仕事につきたいが、どんな勉強をしておけばよいか、と質問状をよこす学生もいる。どうしても弟子にしてくれ、と談じこんでくる女子大生もいる。このひとたちに、外国語に自信があるだけでは合格点の字幕をつくれないことをわからせるのはたいへん難しい。  私はいつも、スーパー字幕をつくるには外国語がわかるほかに三つの条件が必要であるといっている。  その1は、映画を正しく理解して、それを観客に正確に伝えるという心がまえを失わぬこと。  その2は、日本語を大切にして、とくに話しことばに関心を持つこと。  その3は、雑学趣味といおうか、何でもひととおり知りたがる、|やじうま《ヽヽヽヽ》根性を持っていること。  この三つである。  だが、理屈をならべているだけでは納得がいきにくい。そこでひとつ、みなさんと一緒に字幕をつくってみよう。最近の映画のなかから『オーメン㈽ 最後の闘争』をえらんだ。 『オーメン』㈵と㈼に出ていた悪魔の申し子ダミアンは成長して、いまは青年外交官。英国大使としてロンドンに赴任している。次のせりふは大使館で行われた新任大使のレセプション・パーティでしゃべられている。  Dean : ㈰ Damian, I'd like you to meet Kate Reynolds. ㈪ Miss Reynolds works for British Television. ㈫ She has own weekly news-show. ㈬ It's called, eh, "The World in Vision"  Kate : ㈭"The Focus"  Dean : ㈮ Oh, excuse me."The World in Focus"  Kate : ㈯ Or out of focus as the case may be.  Damien : ㉀ How do you do, Miss Reynolds? ㈷ The Barbara Walters of British Television?  Kate : ㉂ On my salary? They don't call us British Broadcasting Charity for nothing.  Damien : ㉃ Well, that makes two of us. I'm a charity business as well.  ㈰〜㉃は字幕の番号。このせりふが11枚の字幕になるわけである。  せりふに番号をつけたら、一つ一つのせりふが何秒でしゃべられているかをはかる。ふつう、1秒のあいだに日本字は2字から4字読める。2秒なら5字から7字。一応、6秒20字を限度とする。1行10字として、画面に出すのは2行までで、3行にわたるといかにも字幕がのさばっているようでみっともない。もっとも、最初は1行13字であった。50年のあいだに1字ずつへらしていって、結局、10字におちついた。  ㈰から㉃までのせりふがしゃべられている秒数をかぞえ、それを字数に直すと、次のとおりになる。   ㈰ 14-17字 ㈪ 7-8字   ㈫ 10-13字 ㈬ 9-11字   ㈭ 3-5字 ㈮ 7-9字   ㈯ 7-9字 ㉀ 10-12字   ㈷ 7-9字 ㉂ 14-17字   ㉃ 9-11字  さて、字幕づくりにとりかかるわけだが、㈰を直訳すると�ダミアン、ケイト・レイノルズに会ってくれたまえ�となる。これでは21字なので、ちぢめなければならない。ディーンがダミアンに話しかけるので、呼びかけの�ダミアン�は抜かさないほうがいい。ケイトはこのとき初めて登場するので、�ケイト・レイノルズ�とフル・ネームを紹介しておきたい。なお、ディーンはダミアンの秘書だが、親しい友だちの仲で、ことばづかいは秘書が大使に対するていねいなことばでなく、友だち同士の会話にするべきである。こういうことは人間関係を観客にわからせるのに重要なことなので、よく注意しなければならない。  ㈪は7字か8字しか入らないので、�ミス・レイノルズ�を�彼女�としても、ちぢめるのに骨が折れる。�英国放送�とするべきか�英国テレビ�とするべきかというような小さなことも、一応は考えてみる。  字幕はこんな工合につくってゆくのである。『オーメン㈽』のこの場面は字幕をつくりやすい場面なので、みなさんもそれほど苦労しないで字幕をつくれるにちがいない。�In Focus�と�out of focus�のいいまわしのおもしろさなども、この程度のことならなんとか日本語に直すことができる。  ㈯は�焦点が合わないこともありますわ�とていねいにいわせたいところだが、7字から9字というのではとうていむりだ。  ㈷の直訳は�英国テレビジョンのバーバラ・ウォルタースですね�だが、ここで、宇幕づくりの三つの条件のうちの雑学趣味が必要になってくる。ごぞんじの方も多いと思うが、バーバラ・ウォルタースは政府の高官からテレビのキャスターになったアメリカのキャリア・ウーマンのナンバー・ワン。せりふ作者としては得意のせりふで、アメリカの観客に大いにうけるところだが、日本語の字幕にバーバラ・ウォルタースを使うわけにいかない。そして、これを7字から9字の日本語字幕にしなければならないのである。こんなところがスーパー字幕の難しさで、字幕づくりの楽しみの一つでもある。末尾に載せてある字幕のリストを見る前に頭をひねってみてください。 �On my salary?�というのもみごとな受け答えだ。このまま字幕にしたいところだが、�私の給料で?�で、給料が少ないという意味が伝わるかどうかが気になる。給料が少ないとずばりというほうが安全であろう。それに日本語だったら、�私の給料で?�といわないで、�私の月給で?�というのがふつうである。だが、この場合は週給のはずだし……と考え始めると、問題が次から次へと出てくる。 �They don't call us the British Broadcasting Charity for nothing.�しゃれた言いまわしである。この味をなんとか日本語にしようと苦労したが、うまくいかなかった。  次に私がつくった㈰から㉃までの字幕を記しておく。みなさんがつくった字幕とくらべてみられるとよろしい。  ㈰ ダミアン こちらはケイト・レイノルズです  ㈪ 英国放送の仕事を  ㈫ ニュース・ショウを持ってる  ㈬「世界のビジョン」というんだ  ㈭「焦点」です  ㈮ そうだ「世界の焦点」だ  ㈯ 焦点が合わないことも  ㉀ よろしく レイノルズさん  ㈷ スターなのですね  ㉂ 薄給ですわ�慈善放送�といわれています  ㉃ 私も慈善に関心がある  ㉃のせりふの意味は�大使も慈善事業ですよ�だが、意味が観客に通じないおそれがあるので、なんの変哲もない字幕になった。ダミアンが慈善に関心を持っていることは前に描かれているので、それをいただいたわけである。  とにかく、スーパー字幕はこのように�奇妙な�ものなのである。   卒爾ながらショパン殿では御座らぬか �卒爾ながらショパン殿では御座らぬか�  これがじっさいにあったスーパー字幕だといっても、ほんとうにしない読者がいるかもしれない。もちろん、戦争前のことで、そのころのスーパー字幕はいろいろの点でいまの字幕とちがっていた。今回はそういうことを話そうと思う。  この妙なスーパー字幕のことはいちどある雑誌に書いた。三國一朗君とテレビで対談をしたとき、「このごろは�卒爾ながらショパン殿では御座らぬか�というような字幕にお目にかからなくなって淋しいですね」と三國君が述懐したことから、昔のスーパー字幕の話に花が咲いた。 �卒爾ながら……�は『別れの曲』の字幕だったと思う。だったと思うなどとあいまいなことをいうのは私がつくった字幕ではなく、それに、昔はこんな字幕がすこしも珍しくなかったからである。 『別れの曲』だったとすると昭和10年に公開されたフランス映画だから、原文はおそらく�Excusez-moi, Monsieur. Est-ce que vous et es Monsieur Chopin, n'est-ce pas?�というようなフランス語だったろう。英語に直せば�Excuse me, sir. You are Mr. Chopin, aren't you?�となる。いまのスーパー字幕だったら、だれが字幕をつくっても�失礼ですがショパン様ではありませんか�となるであろう。 『別れの曲』のショパンはごぞんじの作曲家ショパンで、19世紀前半の人物だから、�卒爾ながら……�とか�御座らぬか�という文句が描かれている情景や風俗にぴったりあてはまる。三國一朗君のようにムードを楽しむ映画マニアはとくに嬉しく感じたにちがいない。いまそのころをふりかえってみると、字幕をつくる私たちも、現在とはくらべものにならないほどのんびりした気分で字幕づくりを楽しんでいたような気がする。描かれている時代や環境、人物の階級や身分に応じていろいろと工夫を凝らし、いまのスーパー字幕とは少々おもむきのちがう字幕をつくっていたのである。  いまのスーパー字幕はだれがつくっても、ひとくちにいって画一的になっている。そして、現代ニューヨークの物語でも、中世フランス王朝ものでも、古代ローマの歴史劇でも、だいたいにおいて私たちが日常使っている話しことばとおなじことばが使われる。いつごろからこんなことになったのか。戦後、アメリカ占領軍直属のセントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェインジ(CMPE)の手によってアメリカ映画の公開・上映が行われるようになってからのようだ。公開する映画の選択に日本国民に民主主義を教えるという主旨がふくまれていたのだから、スーパー字幕についても、とにかくわかりやすくということが徹底していたと思われる。ひとくちにいって、時の勢いであった。  文部省で日本語に大手術を加えて、漢字を大幅に減らしたり、歴史的カナづかいを廃止したりしたことも、戦前と戦後のスーパー字幕に大きなちがいがあることと無縁ではない。  だいいち、使える漢字が少なくなったことはスーパー字幕づくりにとって大きな痛手である。字数を制限されているのであるから、たとえば、動物や植物の名をカナで書かなければならぬことだけでもかなりのハンディキャップなのだ。�犬�はあって�猫�はないというような妙なこともあった。だから、この春、漢字制限の緩和が発表された日はなんとなく気分がよかった。読者は信じられぬだろうが、これがスーパー字幕をつくる人間のいつわらぬ心境である。 �卒爾ながら��御座らぬか�などということばはいまのスーパー字幕にはどう間違っても出てこない。�御座いません�はもちろん�ございません�である。読者のみなさんは、�ございません�を漢字で書こうなどとは考えもつかぬだろうが、昔は�御座いません�という字幕にだれも違和感を感じなかった。�ありがとう�は�有難う�だった。あなたは�貴方�で、女性の場合だと�貴女�だった。  ところで、ここまで書き続けてきて、つい先ごろメモしておいたことを思い出した。国電のお茶ノ水駅を明治大学側に降りると、かどに理髪店があって、�今年の貴郎のヘア・スタイル�という立て看板が出ているのである。  こんなところに�貴郎�が使われているところをみると、�貴方�も�貴女�もまだ生きているのであろうか。街を歩いていてもこんなことが気になって仕方がない。そして、スーパー字幕がすぐ頭にうかんでくるのである。  さて、ここで英文のダイアローグとスーパー字幕をかかげて、読者のみなさんの参考にしたい。映画は『エレファント・マン』をえらんだ。  まず、みなさんがスーパー字幕をつくってみて、それから、私のつくった字幕とくらべてごらんになるといい。スーパー字幕の要領がいくらかわかってくるだろう。  場面はトレブス医師がエレファント・マンの噂《うわさ》を聞いて、見世物小屋に訪ねてゆくところ。ダイアローグの次の(4−7)は4字から7字まで使うことができるという意味である。  Treves : ㈰ Are you the Proprietor?(4-7)  Bytes : ㈪ And who might you be, sir?(7-10)  Treves : ㈫ Just one of the curious. I'd like to see it.(8-11)  Bytes : ㈬ I don't think so. No sir. We're...(9-12)㈭ closed.(4-7)  Treves : ㈮ Now I'd pay handsomely for a private showing.(11-14)㈯ Are you the Proprietor?(4-7)  Bytes : ㉀ Handsomely? Who sent you?(7-10)  Treves : I beg your pardon?  Bytes : ㈷ Never mind.(4-7)㉂ I'm the...owner.(7-11)  テントの奥のエレファント・マンの見世物。  Bytes : ㉃ Life...(6-8)㈹ is full of surprises.(7-9)㈺ Consider the fate(7-9)㈱ of this creature's poor mother(9-11)㈾ struck down(4-7)㈴ in the fourth month of her maternal condision by an elephant-a wild elephant.(18-20)㈲ Struck down(5-8)㈻ on an unchartered African isle.(13-16)㈶ The result(4-6)㈳ is plain to see.(7-9)(21) Ladies and Gentlemen, (6-8)(22) Elephant...Man!(7-9)  ㈰ 君が座長か  ㈪ あなたはどなたで?  ㈫ 客だ 見せてもらいたい  ㈬ せっかくですがだめです  ㈭ 閉めたので  ㈮ 見せてくれれば金は十分払う  ㈯ 座長だろ  ㉀ どこからおいでで?  ㈷ いいでしょう  ㉂ 私が……持主です  ㉃ 人生は恐ろしい  ㈹ 驚く事ばかりです  ㈺ 何があるかわからない  ㈱ この哀れな男の母親は──  ㈾ 野生の象に──  ㈴ 妊娠四カ月のときに踏みつけられたんです  ㈲ 不意を襲われて  ㈻ 地図に載ってないアフリカの島で  ㈶ その結果  ㈳ 見られるとおりで  (21) 紳士淑女の方々《かたがた》  (22) エレファント・マン  ここで少々注釈を書き加えておこう。まず㉀である。原文をそのまま使うと�金を十分? だれがあんたをよこしなさった?�となるのだが、7字から10字しか使えないので handsomely を割愛したのである。これはスーパー字幕のつくり方の第1課。ストーリーをわからせるのに必要なせりふを残し、どのせりふを省くかがコツである。  次は㉃と㈹。この二つのせりふは一つのセンテンスだが、つづけてしゃべっていなくて、㉃と㈹のあいだに4秒半ほどの間《ま》がある。㉃を�人生は……�として㈹に続けると、耳で聞くのでなくて目で読むのだから、4秒半も間《ま》があくのは長すぎる�恐ろしい�をつけ加えて間《ま》を埋めた工夫を味わっていただきたい。  ㈺から㈻までが原文のとおりの訳文になっていないことも、スーパーづくりのテクニックの一つとして頭に入れておくとよい。�何があるかわからない�とか�不意を襲われて�とかいう文句は原文にはない。このような字幕のつくり方は私たちにとっては当り前のことなのだが、読者のみなさんはそんなことがあるのか、と思われるであろう。  だれにでも出来そうで、手がけてみると面倒なのがスーパー字幕である。   スーパー字幕ゲームの楽しみ  スーパー字幕をつくる作業には頭を使うゲームに知恵をしぼってとりくんでいるときのような楽しみがある。耳で聞くせりふを目で読む字幕におきかえると、もとのせりふの三分の一ぐらいしか意味を伝えられないことがしじゅうある。そんな制約のなかで人情・風俗・習慣・環境などの、すべてがちがう国のお話を、日本中の映画館の観客にわからせなければならないのだから、じっさいにスーパー字幕を手がけた人間でなければわからぬさまざまの障害がある。それを一つずつときほぐしてゆく作業は|しん《ヽヽ》がつかれて、骨の折れる仕事だが、そこにまた、ことばのゲームととりくんでいるような楽しみがあるわけだ。  この楽しみは外側から見ていても察しがつくらしい。スーパー字幕を手がけてみたいという志願者が跡を絶たないのもそのせいであろう。一昨年(昭和55年)、私が日本翻訳家養成センターに頼まれて、映画翻訳講座というのを半年つづけたときにも思いがけないほど多くの聴講生が集まった。だが、スーパー字幕というものは私がいつもいっているようにはなはだ奇妙な|しろもの《ヽヽヽヽ》で、半年ぐらい話を聞いただけでは実際にとりくんだときの苦労や楽しみがわかるはずはない。そこで、講座をひきうけたからにはすこしでも実際の苦労と楽しみをわかってもらおうと、映画会社にむりをいって、輸入したばかりでまだ字幕の入っていない新しい映画を聴講生諸君に見せてもらい、それぞれ自分たちの字幕をつくらせ、それをもとに話をすすめた。映画会社がむりな頼みを聞いてくれたからできたことだが、スーパー字幕がどんなものかを知って、字幕づくりの苦労と楽しみを味わうにはこの方法しかない。  こんな作業を半年のあいだに3本の映画についてすすめた。実際に3本の映画のスーパー字幕ととりくんだことで、スーパー字幕づくりの楽しみを改めて味わったのであろう。三十数人いた聴講生のなかの、とくにその楽しみにとりつかれた七人が私をかこむグループをつくって、ときどき集まっている。  つい先ごろ、私はこのグループとスーパー字幕づくりのゲームを行った。ゲームといっても、みんながつくった字幕を持ちよって話し合うのだが、字幕づくりの勉強にはこれがいちばんよい。  映画は『そして誰もいなくなった』。原作はアガサ・クリスチーの推理小説。ストーリーはすでに知っているひとが多いであろう。殺人を犯しながら罪を免れていた十人の人間が孤島に集められ、次々に殺されてゆくという物語。映画化は2回目で、こんどは孤島でなく、イランの砂漠の奥地のペレスポリスという古城のような大邸宅に変えてある。  ファースト・シーンはペレスポリスの前面にひろがっている砂漠。執事 Martino の妻 Elsa が、客たちがヘリコプターで到着するのを迎える。  いつものとおり㈰㈪㈫……は字幕の番号。カッコの中は字幕の字数。ABCはグループの中の三人がつくった字幕である。  Elsa : ㈰ Welcome to Persepolis.(3-5)  Blore : Thanks.  Elsa : ㈪ Come this way, please.(3-5)  ㈰のようなせりふはしじゅうお目にかかる。もっとも簡単な日常会話だが、字幕となると、三人が三人、それぞれちがっていた。  A─ようこそ  B─いらっしゃいませ  C─ペレスポリスヘようこそ  ふつうならAでよい、字数も問題ない。Bも意味は同じだが、長すぎる。ところが、この場合は場所がどこであるかを説明する必要があるから、Cがいちばんよい。字数が11字であるが、せりふが終った後まで字幕が写っている時間を延ばして、読みきれる長さにすればよい。私のは�ペレスポリスヘようこそ�  Thanks のようなわかりきったせりふは出来るだけはぶいて、㈪にうつる。  A─こちらへ  B─こちらです  C─こちらへ  三つとも及第。私のは�こちらヘ�。  客たちが邸の中に入ってくる。  Doctor : ㈫ Exotic sort of place.(5-8)  Martino : ㈬ My name is Martino.(4-7)㈭ May I offer you drinks, or take you up to your room?(10-12)  Doctor : ㈮ I think first of all we'd prefer to meet our host.(10-12)  Martino : ㈯ I'm sorry sir, Mr. Owen will be here for dinner.(11-13)  General : ㉀ Extraordinary!(2-5)  ㈫の Doctor は招かれた客の一人。  A─異国的だな 変ってる  B─変った所だな  C─豪壮な邸だ  Exotic はたしかに異国的と訳すのが正しいが、会話のなかで�異国的�とはあまりいわない。�変ってる�をあとにくっつけたのはそんなことが頭にあったからであろう。三つの中ではBをとりたいが、年配の医師だから�ですな�とするほうがいい。Cの�豪壮な邸だ�は飛躍しすぎている。私のは�変った所ですな�。  ㈬は執事の Martino。  A─マルチーノです  B─マルチノです  C—マルチノです  名前の読み方は発音のとおりにするのが理想だが、ここではマーティノ、マルチノ、マルチーノ、どれでもよい。ただし、ヴィヴィアンのようにヴが入っているときはヴを使わないで、ビビアンにする。私のは�マーティノです�。  次の㈭は少々むずかしい。  A─お飲物か お部屋になさいますか  B─お飲物でも それともお部屋へ  C─飲物でも それともお部屋へ?  三人とも、私が教えたスーパー字幕づくりのコツをよくとりいれている。BとCはこのまま字幕にしてもさしつかえない。ただ、執事のせりふだから�飲物�でなく�お飲物�とするべきだろう。�?�は使っても使わなくてもよい。Aは or が抜けているのが少々ひっかかる。私のは�お飲物か それともお部屋ヘ�。  ㈮はまた医師。  A─最初に主人に会いたい  B─まず主人に会わせてくれ  C─ご主人のオーエン氏は?  簡単なせりふだが、さまざまの字幕につくりかえられる。主語が I で、会いたいのは we で、we would prefer というような少々凝ったいい方をしているので、これが英文和訳の問題だったら�私もみんなもまずここのご主人にお目にかかりたいと思っているのだが�とでも訳すべきであろう。first of all は�最初に�でも�まず�でもよい。prefer to meet も�会いたい��会わせてくれ��お目にかかりたい�のほか、さまざまにいいかえられる。また、Cのようにまったくちがう組み立ての文章に変えてしまうことだってできる。 �ゲームの楽しさ�といったのはこういうことで、もっと複雑なことをしゃべっている場合には、20通りにも30通りにもいいかえられることが珍しくない。四苦八苦の末、きめられた字数のなかにぴったり入る文句を考えついたときの気持は、スーパー字幕づくりの経験がなければわからない。私のは�まずご主人にお目にかかりたい�。  ㈯は執事マーティノの返事。  A─オーエン氏は夕食まで見えません  B─オーエンさんは夕食の時にと  C─まだですが |晩さん《ヽヽヽ》までには  この三つは三つとも苦心の跡がうかがえる。  Aはきわめてはっきりしている返事だが、�まずお目にかかりたい�といっている客に�夕食まで見えません�と切り口上で答えるのは失礼である。執事が主人をオーエン氏と呼ぶのもおかしい。  Bは�夕食のときにと�のあとに�おっしゃいました�とつづくのを省略している。スーパー字幕をつくるときによく使われる手口だが、この字幕はどうも歯切れがわるい。また主人をオーエンさんと呼ぶのもおかしい。  Cは㈮を�ご主人のオーエン氏は?�と問いかける字幕にしたのを受けたわけで、㈮と㈯と一緒にして工夫した字幕である。このつくり方もときどき使われていて、字数がきゅうくつなときなどの助け舟になっているが、せっかくの工夫もここでは生さていない。�まだですが�と二つにわけたために�|晩さん《ヽヽヽ》までには�の次の動詞が入らなくなったのもひっかかる。また、執事は客にむかって�|晩さん《ヽヽヽ》�とはいわないだろう。私のは�オーエン様はご夕食の時に�。  ㉀は将軍。  A─驚きだな!  B─美事だ  C─変ったお方だ  Aは意味はわかるが、老将軍がこんなことばを使うだろうか。Bは㈯につづくせりふであることを忘れていたための思いちがいで、2回目のチェック試写のときに訂正すればよい。最初の試写のときには台本と読み合わせているので場面を見落としていることがあって、こんな思いちがいがときどきおこる。私のは�変っとる�。 『そして誰もいなくなった』のこの冒頭の部分のせりふはスーパー字幕づくりの課題にするテキストとしては少々簡単すぎたかもしれない。だが、スーパー字幕ゲームがどんなものかの輪郭だけでもわかっていただけたと思う。これからも機会があったら、グループの諸君とスーパー字幕ゲームを楽しんでみたいと思っている。そのときはまたリポートを書いて、ゲームの楽しさをお伝えしよう。   洋画に首斬り浅右衛門登場 �とんだ首斬り浅右衛門だ�  これがじっさいにあったスーパー字幕だといっても読者のみなさんのほとんどが信じてくれないであろう。戦前のことで、フレッド・アステア、ジンジャー・ロジャースのダンス映画で鳴らしていたRKOラジオ映画会社の西部劇にじっさいに使われていた字幕である。あいにく私は見ていないのだが、この字幕をその目で見て覚えている証人が何人もいて、スーパー字幕屋のあいだではいまでも一つ話になっている。  ところで、これがどんな英文のせりふにつけられた字幕かということになると、まず首斬り浅右衛門なる人物が何者かということから話を始めなければならない。浅右衛門を知っておられる方もいるであろうが、話の順序として記さねばならぬ。ごぞんじの方にはごかんべんを願っておく。  通称首斬り浅右衛門、姓は山田、徳川時代の末期、千住小塚原で罪人の首を斬っていた人物である。幕府の役人ではなかった。浪人者だったが腕が立ったので、だれでもいやがる首斬りの仕事にやとわれていた。初めはアルバイトであったのが、首をすぱっと見事に斬るところから、首斬り浅右衛門と呼ばれて江戸中に名を知られるようになり、初代から二代目、三代目とつづき、三代目浅右衛門は明治になってからも首斬り役をつとめていて、最後に手にかけたのが高橋お伝であったと伝えられている。話がスーパー字幕から横道にそれたついでに記しておくと、高橋お伝は講釈師のネタになっているほどの名の売れた女賊で、背中いっぱいに手のこんだ入れ墨をしていたことでも有名だった。この入れ墨の皮膚が東大の法医学教室に保存されていて、むかしは東大5月祭のときに一般に見せたものだったが、いまはどうなっているのであろう。  話をスーパー字幕にもどす。  この珍妙な字幕が使われていた映画が西部劇だったとすれば、この字幕に登場する浅右衛門はおそらく hangman で、絞首刑を行うときにヘマをやって、�you, lousy hangman!�とでも罵られたのにちがいない。ふつうに字幕をつくれば、�だらしのない絞首役人だな�とか�それでも縛り首の役人か�とかいう字幕がつけられるところである。  とにかく、いきなり首斬り浅右衛門が登場してきては観客がめんくらう。戦前のことだから浅右衛門を知っている人間はいまより大勢いたであろうが、たとえ浅右衛門を知っていてもすぐには意味がのみこめなかったにちがいない。スーパー字幕にはタブーになっている純日本的表現をいきなり使ったからである。  こんなことは私がいまさらいうまでもなく、スーパー字幕づくりのルールの一つで、いまスーパー字幕をつくっている私たちの仲間はみんなこのルールを守っている。昭和6年以来のスーパー字幕50年の歴史をふりかえってみても、このルールを無視してスーパー字幕をつくっていた人間はほかに一人もいない。したがって、この字幕をつくったひとはスーパー字幕の歴史を書き残しておくときにどうしてもふれておかなければならない人物である。  このひとは10年ほど前に亡くなっている。名は楢原茂二。読者の多くは初めて名を聞くであろうが、戦前から映画界に籍をおき、ユニバーサルからワーナー・ブラザース、RKOラジオとうつって、スーパー字幕をつくっていた。戦後は海外に輸出する日本映画に英文のスーパー字幕をつくる仕事を手がけていた。  私にとっては中学(東京府立一中、いまの都立日比谷高校)の先輩で、私が東大を出たが不況時代で仕事がなく、雑誌の原稿などを書いてぶらぶらしていたのをワーナー・ブラザースの宣伝部に拾い上げてくれた恩人でもあった。映画がサイレントからトーキーにうつったころで、外国映画の会社は内務省の検閲をうけるために、せりふを全部訳した翻訳台本を提出しなければならなかった。これがどういうわけか宣伝部の担当になっていて、私の仕事はその翻訳台本をつくることだった。  私が東大を出たのが昭和4年、ワーナー・ブラザースに入社したのがその年の10月、翌5年夏、MGMの宣伝部にうつり、6年の10月にスーパー字幕をつくるためにニューヨークに行くことになった。初めは楢原先輩が行くはずだったのだが、日本を離れることのできぬ事情があり、私におハチがまわってきたのだった。したがって、私の先輩で恩人であっただけでなく、わが国のスーパー字幕の歴史にひとかたならぬかかわりを持っている人物なのである。  楢原先輩はなぜルールを無視してスーパー字幕をつくっていたのか。簡単にいうと、楢原茂二という人物は何をするにもあくまで自分の信念をつらぬくひとで、観客にわからせるためにスーパー字幕をつくっていたのではなく、観客がいるということにこだわらず、自分の好きなスーパー字幕をつくっていたのである。もちろん、これはスーパー字幕の正しいつくりかたではない。世の中がのんびりしていた戦前だからまかりとおっていたので、いまはとうてい考えられぬことである。  首斬り浅右衛門だけではなかった。楢原先輩の字幕には太閤《たいこう》様も登場した。ふつうのことばでも�ありがとう�を�難有う�と書いた。�有難う�でなく�難有う�なのである。おそらく、こんなスーパー字幕は今後二度と現れることはないであろう。  ただし、日本的なことばをそうと気がつかないで、あるいはそれでさしつかえないと考えて使っているスーパー字幕がないわけではない。 �朝飯�がその一つ。外国人がしゃべっていても�朝飯�でさしつかえないと考えているひともいるかもしれないが、私は�朝食�としている。家庭の会話に breakfast が出てきたときに�朝食�では文章語のようでひっかかるという議論もなり立つが、スーパー字幕は話しことばそのものである必要はないはずである。だいいち、�めし�ということばがいまはあまり使われなくなっているのではないだろうか。  breakfast だけでなく、lunch, supper, dinner もおなじことで、字幕をつくっていて迷うことがしばしばある。とにかく、ヒルメシと昼食では全然ニュアンスがちがうのである。  もう一つ気になるのが�洋服�である。  suitが洋服で、tailor が洋服屋。こうして書き出してみると、なるほど�洋�はへんだな、と気がつくが、次々に現れて消えてゆく字幕に�洋服�や�洋服屋�が出てきても、なんとなく見すごしてしまうことが多い。日常の会話に使いなれているのでとくに抵抗を感じないのであろう。どんな場合でも�服�でわかるはずだし、�服屋�でさしつかえないはずである。もっとも、辞書にどんな訳語が記してあるだろうと、研究社の「英和大辞典」で tailor を引いてみたら�洋服屋�となっていた。  ついでに記しておくと、suit というときには coat, waistcoat, trousers のひとそろいをさしていうのである。  ここまで書いてきて、どうしても書き加えておかなければならないことがあるのに気がついた。首斬り浅右衛門ほど突拍子もない字幕ではないが、私もまったく日本的な表現をスーパー字幕に使ったことがある。  だいぶ古いことだ。ビリー・ワイルダー監督、マリリン・モンロー主演の『お熱いのがお好き』の中にどうしても日本語字幕にうまく直せないせりふが出てきた。  トニー・カーティスがマリリン・モンローを海辺に追って行く。二人が砂に腰をおろして話をする。マリリンは旅回りの踊り子だが、名家の生まれであると虚勢を張っているので、Bryn Mawr から Vassar を出たと嘘をいう。  意味をわからせるだけなら�名門校を出たのよ�でもわからないことはない。だが、それでは工夫がなさすぎる。ビリー・ワイルダー監督、マリリン・モンロー主演とあれば私のごひいき映画でもあるし、なんとかこのせりふを生かしたいと思った。Bryn Mawr も Vassar も名家の生まれでなければ入学できないアメリカ東部の名門校で、それがハーバードとかエールとかいうのならよいのだが、ブリン・モールもバサーも知っているひとは知っていても、一般的には知られていない。何かよい工夫はないものかと考えていて、ふと思いついた。  ちょうど、皇太子と美智子妃の結婚が世間の話題になっていたときだった。美智子妃の出身校聖心女子大学が日本中に知れわたっていた。そこで、Bryn Mawr を聖心にしようと考えつくと、Vassar は女子大か学習院がいい、とすぐ頭に浮かんだ。女子大より学習院のほうが字幕に出すときに字|づら《ヽヽ》がよい。そんなわけで、 �聖心から学習院を出たのよ�  というスーパー字幕ができあがった。聖心も学習院も日本の学校の名前で、本来なら使うべきではないが、聖心は Sacred Heart で the Sacred Heart of Jesus からきているのであるし、学習院は早稲田とか慶応とかいうのとちがい、日本の学校だけの固有の名ではないようなひびきがある、などという言い逃れを頭の中で考えていたのだが、その当時、このことがしばらく気になっていた。  もっとも、映画が公開されてからこの字幕が大いにうけて、ユナイト映画の営業部長に�あの字幕のおかげで興収が2割ふえますよ�とお世辞をいわれた。   スーパー字幕史に名前を記しておきたい四人衆  スーパー字幕の翻訳とはじかにかかわりはないが、スーパー字幕の歴史を語るときに忘れてはならない四人の|さむらい《ヽヽヽヽ》の話をしたい。|さむらい《ヽヽヽヽ》といったのは四人とも一くせも二くせもあって、どこででもお目にかかれるという人間ではないからである。  この四人は、私が昭和6年から8年にかけてニューヨークでスーパー字幕の仕事をしていたときに、パラマウント映画会社が採用したタイトル・ライターである。もちろん、日本人。このような仕事を専門にしていた人たちではなく、邦字新聞の募集広告に応募して採用された人たちである。不況のどん底の時代だったので、仕事を探していた日本人はいくらもいて、そのなかの字を書くことに自信のある人たちが応募してきたのだ。  この四人は早川、山本、大村、浜野の四君で、浜野君は昭和7年春に早川君が日本に帰った後に入った。つまり、いつも三人で月に4本から5本の映画の字幕を書いていたわけで、いまのタイトル・ライターが一人で月に5本から6本の字幕を書くのにくらべるとまさにお大名仕事だった。そして、週給が35ドル。ドラッグ・ストアで15セントで朝食が食えて、「ニューヨーク・タイムズ」のウィーク・デイの朝刊が2セントだった時代である。  四人のなかでは早川君が関西学院出身、満鉄嘱託という経歴から少々別格だった。満鉄といってもいまでは知らないひとたちが多いであろう。正確にいうと南満州鉄道株式会社。中国東北部の広大な地域の開発を名目とした国策会社で、海外でも大きな勢力を持っていて、ニューヨークにはダウンタウンの本社のほかに、5番街の目抜きのところにPRを目的としたしゃれたオフィスがあった。  この早川君が新聞の社会面に大きな活字でとりあげられた事件にまきこまれ、日本に帰らなければならぬことになった。満鉄にいた関係からつき合いがひろく、米国人たちのパーティに出る機会も多かったが、あるとき、早川君の友人の米国人女性にしつこくからんできた酔っ払いを投げとばした。柔道三段か四段で、ものの見事に投げとばしたらしい。この事件だけだったら社会面の話題になるだけですんだのだが、そのあと、思いがけないことが起こった。  その女性が早川君を頼もしく思い、二人のあいだに急速に恋が芽生えたまではよかったのだが、このことを新聞に投書したおせっかいがいて、早川君たちに脅迫状が舞いこむようになった。中国の雲行きが怪しく、日本人が悪役だった時代である。日本人のは大きいので忘れられないのだろうといった下劣なのから、殺してやるという怖いのまで舞いこんだ。殺してやるとなってはおだやかではない。ギャングが大きな顔をしていた物騒な時代である。パラマウントが大いに気にして、早川君たちをホテルにかくまい、ニューヨーク港から日本の貨物船に乗せて帰国させた。  この事件は日本の雑誌に挿画入りで掲載されたそうである。私は見ていないので、何という雑誌かは知らない。早川君たちはそれから3年ほど満州で暮らしていたが、うまくいかなくて別れたと聞いている。  山本君は四人のなかでいちばんうまい字を書いた。人間もいちばん異彩を放っていて、もう一歩踏みはずすと精神異常といわれそうなところがあった。  背が低く、150センチはなかったであろう。顔も、手も、足も小さく、目がつり上がって、小さな目がいつもうす笑いをしているように見えた。英語はやっと用がたりる程度であったが、金をためて映画をつくるのが夢で、白人女性のタイピストをやとい、シナリオを書いていた。私はその一部分を読ませてもらったことがある。家具が一つもないせまい部屋に全裸の白人女性が床が見えぬほどひしめいていて、山本君自身とおぼしき人物が、これも全裸でその部屋に入って行くという、ケン・ラッセルの映画に出てきそうな場面があった。  山本君はある夜、プルックリン橋で娼婦《しようふ》を買い、立ったまま|橋げた《ヽヽヽ》にもたれて目的をとげようとしたが、背が低いのでとどかず、やきもきしているうちに、財布を盗まれた。山本君自身が私に語った話である。  私にはひじょうに親切にしてくれて、私がまだニューヨークになれていないころ、清水さん、イタリー料理を食べましょう、と、私を47丁目の�カルーソー�に昼食につれて行った。有名な店だったが、いまはない。山本君は私にスパゲティの食べ方を教えてくれて、クラム・チャウダーをすすめ、ハマグリのおつゆですよ、といった。セントラル・パークの池でボートに乗ったとき、アイスクリーム屋のボートを呼びとめて、「ファイブ・セン・イズニ」といった。�Five cents, isn't it?�である。  大村君は四人のなかでは一応まともな人間であった。いちばん年かさで、当時40歳前後ではなかったかと思う。マンハッタン島の北の端に近く、Dyckman St. という中流の下ぐらいの住宅地があって、ここに日本人コロニーのようなものがあり、大村君はこのコロニーに若くて美しい夫人、まだ幼い女の子と三人で住んでいた。  大村君は日本にいたころの過去をあまり語りたがらなかった。俳優として上山草人一座にいたことがあるらしく、その後、宝塚の新芸座に古川利隆たちと出演したことがあり、これは何かの話のときに大村君自身がふと私にもらした。そんな話を聞くと、ちょびひげをたくわえ、細身のからだに濃いダブルの服を着こなした姿に、そのまま舞台に立たせてもおかしくない|りゅう《ヽヽヽ》としたところがあった。日本人仲間とはあまり親しくつき合っていなかったが、そのわずかの友人の一人から、アメリカに流されてきたのは美しい夫人のことで劇団の先輩とのあいだにいざこざがあったからだ、という話を聞いたことがある。  1932年(昭和7年)の35ドルという週給は大学出のサラリーマン、ニューヨークの警察官の初任給であると聞いたが、妻子をかかえていると生活は楽ではないらしく、大村君は義歯の技工士の内職をしていた。歯医者から注文をとって、小さな炉で義歯をつくるのだが、日本人は手先が器用なので、この内職をしている日本人がかなり多かった。そのころ、初めて会う日本人から名刺をもらうと、artist という肩書をつけている人が大勢いた。義歯の技工士も artist、タイトル・カードに字を書くのも artist なのである。  ついでに記しておくと、大村君のところで密造酒(禁酒法解禁は1933年春)をごちそうになって、夜おそく地下鉄で帰ると、マンハッタンの北部は高台なので、地下鉄の駅までエレベーターで降りなければならず、まだ自動などという気のきいたものはなく、黒人のエレベーター・ボーイと、狭いエレベーターの中で深夜二人きりになるのがうす気味わるかったことを、いまだに時々思い起こす。  1932年春、浜野君が入社するとすぐ without pay の休暇というのがあった。パラマウントはそのころ銀行管理をうけていて、社員はみな強制的に2週間の無給休暇をとらされた。  そのころのある日、私は急ぎの仕事があって、昼食に出かけずにサンドイッチをとりよせて仕事をしていた。浜野君はみんなと出ていったが、5分とたたないうちにもどってきて、カードを書きはじめた。ふしぎに思って聞いてみると without pay の休暇と知らず、休暇の直前にもらった給料(2週ごとにもらうので70ドル)を全部使ってしまい、金が一文もなく、automat で水を飲んでもどってきたというのである。これで食事をして来たまえ、といくらかの金を渡してその場はすんだが、私はこのときから浜野君ととくに親しくなった。  浜野君は四人のなかでいちばん若く、がっしりした体躯、声が太く、豪放|磊落《らいらく》といった感じだった。伊勢烏羽の旧家の出身、家業は真珠で、父がかたわら金貸しをしていたのが気に入らず、早実を出るとすぐにアメリカに渡った。学校にも通ったが、西部から東部へと放浪生活をつづけ、百ではきかぬ職業に就いた。そのなかにはタバコ工場の女子工員の便所の清掃夫、売春宿の用心棒などもあり、いちばんつらかったのは大邸宅の天井の煤《すす》はらいで、いい金にはなったが1日でやめたそうである。  こんな人間だから、することなすこと、常識をはずれている。食事をする金もないようでは困る、このような時世にはいつ何が起こるかわからない、いくらかでも貯《た》めておくべきだ、といったら、35ドルの週給から30ドルを貯金にまわしはじめた。かならず30ドルとはいかなかったろうが、1933年4月にスーパー字幕の製作が日本にうつることになったとき、1000ドル近くの貯金を持っていて、日本に帰って、百種類以上知っているじゃがいも料理専門のレストランを東京で開くと張り切っていた。いざ、帰ってみると、家業をつぐことになり、鳥羽に永住、戦後も年賀状を交換していたが、一度訪ねたいと思いながら果たせぬうち、数年前から年賀状が来なくなった。残念でならない。  この四人の|さむらい《ヽヽヽヽ》のこと、いままでどこにも書いたことがなかった。これからもおそらく書くことはないだろう。だが、このまま忘れ去られてよい人たちではない。スーパー字幕はこのような人たちによって育てられてきたのだ。このことを一人でも多くの人に知ってもらいたいと思ってペンをとった。   難しいクロスワード・パズルを解いたときの気分  ジェイムズ・ケインの代表作『郵便配達は二度ベルを鳴らす』はいままでに3回映画化されていて、3本目のロリマー・プロ作品は昭和56年12月に日本で公開された。主役はジャック・ニコルスンとジェシカ・ラング。たまたま、私がこの映画の日本版スーパー字幕を手がけているので、この映画をサカナにしてスーパー字幕づくりについての話をしてみたい。 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、女に目がなく、ひとかけらのモラルも持ち合わせていない流れ者の男と、セックスの欲望をみたすためなら夫まで殺すという人妻の物語である。  映画ではこの二人が�Bonnie and Clyde�のようにえがかれていて、あちらのトレイラーのナレイションによると、男は A drifter...looking for something、女は A woman...ready for anything であるといっている。「プレイボーイ」が hotter than any uncurved passion since�Last Tango in Paris�と激賞しているともいっている。  映画はジャック・ニコルスンの drifter がヒッチハイクをしていて、ハイウェイで車をとめるところから始まる。役の名はフランク。翌朝、フランクはスナックのあるガソリン・スタンドで車を降りる。  この場面の会話。  Frank : You wanna get somethin' to eat?  Salesman : Na. I had somethin' last night ruined my appetite. Besides, I gotta get down the road.  Frank : Okay. Thanks for a ride. Come on, I'll buy you a cup of tea and a bromo.  ここで話題にしたいのは bromo である。英文台本には小文字になっているが、Bromo と書くべきで、正確にいうなら Bromo Seltzer である。ブロマイン(臭素)をふくむ炭酸飲料で、1930年代に大いに人気があり、月曜の朝など、ドラッグストアのカウンターによりかかってこれを飲んでいる勤め人が大勢いた。宿酔《ふつかよい》にきくのである。このセールスマンのように腹をこわして食欲がないときもこれを飲むと気分がさらっとする。  さて、このせりふの字幕だが、Come on から bromo まで5─8字しか使えない。時代色をあらわすためにも「ブロモだけでも」といったような字幕にしたかったが、ブロモが何であるかを知らぬひとのほうが多いので、この字幕は落第である。やむなく「お茶だけでも」とした。このように映画が製作された国ではわかっても日本ではわからないものが出てくる例はしじゅうある。  このスナックのあるガソリン・スタンドはニックというギリシア人が経営していて、その妻コーラがジェシカ・ラングの役。フランクはメカニックとしてこのスタンドにやとわれ、コーラといい仲になったころから物語が本筋に入る。  フランクとコーラの仲がだいぶ進んでからのある日の二人の会話。  Cora : I've got to have you, Frank. If it was just us...If it was just you and me.  Frank : What are you talking about?  Cora : I'm getting tired of what's right and wrong.  Frank : They hang people for that, Cora.  コーラがフランクにいっているせりふは�あなたと二人だけになりたい。何がよいことか、何がわるいことか、もうそんなことは考えていられない�という意味であるが、じつはニックを殺そうと誘いをかけているので、字幕づくりには、このような裏の意味が大切なせりふがいちばん難物である。とくに、字数に余裕がない場合には、せりふを苦心して書いたダイアローグ・ライターには気の毒だが、隠してある意味をずばりといってしまわなければならない場合もある。  もっとも、ここでは最後のフランクのせりふがあるのであまり苦労をしなかった。 「殺しは絞首刑だよ」  これが最後のフランクのせりふのスーパー字幕である。  フランクとコーラがニックを殺す場所は車がめったに通らないさびれた街道。フランクは車をとめて、ニックをなぐり殺し、車から降りて、ビールのびんを割り、コーラに渡していう。字幕番号でいうと785から788までである。  Frank :(785)Now, Cora, come on.  Frank :(786)Do it.  Frank :(787)Do it.  Frank : Come on, Cora.  Frank :(788)Do it!  これがスーパー字幕で  785 さあ、コーラ  786 やるんだ  787 やるんだ  788 やるんだ  となる。すこぶるかんたんな字幕である。フランクは割れたビールびんをコーラに渡して、顔に傷をつけてくれ、服を破いてくれ、といっているのである。コーラが割れたビールびんを持っているのがはっきり見えているので「やるんだ」でよくわかる。ところが、これがミディアムの場面であったり、くらいシーンであったり、あるいはほかにも人物がいて、情景がはっきりわからなかったりすると、「傷《きず》をつけてくれ」「なぐってくれ」という字幕にしなければならない場合がある。これは私たちにとってはいわば routine work で、スーパー字幕づくりの方程式の一つである。  二人は殺人容疑で起訴され、腕ききの弁護士のたくみな策略で殺人罪をまぬがれ、コーラだけが保護観察6カ月の判決をうける。このへんの|いきさつ《ヽヽヽヽ》はなかなか複雑で、ここで種明かしをしないことにするが、頭にきたのは地方検事で、法廷を出て行くフランクをつかまえて毒づく。  D. A. : You'll be back, my friend. I know your type.  Frank : Yeah?  D. A. : Spit on the sidewalk and you'll die in jail.  この検事の最後のせりふの字幕は「必ずぶちこんでやるぞ」でも「一生ぶちこんでやる」でもよろしいのだが、「往来で|つば《ヽヽ》を吐いてみろ」という部分を生かせないのは残念である。この物語はカリフォルニア州の話だが、米国では州によって、往来でつばを吐くとじっさいに罰金をとられたり、ぶちこまれたりするところがある。ニューヨークの地下鉄のプラットフォームで|つば《ヽヽ》を吐いたりタバコを吸ったりしているところを老婦人に見つかって駅員に申告されると罰金をとられる。私が戦前ニューヨークで暮らしていたころは罰金5ドルであった。  コーラはニックがあとに残したスナックの店をひろげて商売にはげむ。新聞が事件を大きく書き立てたことがPRになって、コーラを|ひと目《ヽヽヽ》見にやって来る客もいる。フランクはまるでコーラの|ひも《ヽヽ》になったように|でん《ヽヽ》とかまえて暮らしている。この対照がなかなか面白い。  コーラが店から出て、木かげにすわりこんで牛乳を|びん《ヽヽ》からラッパ飲みしているフランクのところにやって来る。  Cora : Will you use a glass. What are you, an animal?  直訳すると「グラスを使うのよ。あなたは何なの? 動物?」となるのだが、ここで話題にしたいのはanimalである。日常の会話の中で使われることばとして�動物�がいいか�けもの�がいいかを一応考えておかなければいけない。私は「サルなの?」とした。みなさんのなかには�動物�でも�けもの�でも�サル�でもたいして変りはなく、そんなことを気にする必要はなかろうというひとがいるだろう。あるいはそのとおりであるかもしれない。だが、スーパー字幕づくりという仕事は字幕のよしあしに対する批判はほとんどなく、ともすればひとりよがりになりがちな仕事なので、納得のゆくまで考えてみるのが|本すじ《ヽヽヽ》であると思う。  話がいささか横道にそれた。フランクとコーラの身の上にはその後もさまざまの事件が起こり、あるとき、コーラが故郷の母の病いが重いと知らされて見舞いに行く。数日後、もどってきたコーラをフランクが bus depot に迎えに行く。  Frank : I'm sorry about your mother.  Cora : She was old.  バスから降りてきたコーラとフランクの会話である。  この会話をここに抜き出したのは、�She was old.�を3─5字のスーパー字幕にするときの工夫について語るためである。  フランクのせりふは「お母さん 気の毒だった」で字数がぴったり合った。そこで、コーラのせりふをどんな字幕にしようかと頭をいためたあげく、「年は十分よ」という文句がうかんだ。5字だから十分読みきれる。自分でもうまい文句を考えついたなと思った。こんなときはクロスワード・パズルの難しい鍵が解けたときのような気持になる。  ジェイムズ・ケインの原作は男が死刑になって終るのだが、この3回目の映画化ではフランクが車の運転を誤って、コーラが道路に投げ出されて死ぬところで終る。  この映画のスーパー字幕は783枚。2時間2分の映画としてはきわめて少ない。ふつうなら、1000枚から1200枚ぐらいあるはずである。字幕が少なくなっている分だけ、ジャック・ニコルスンとジェシカ・ラングのセックスシーンがあるわけで、「プレイボーイ」が『ラスト・タンゴ・イン・パリ』をしのぐといっているゆえんである。   スーパー字幕製作日誌    昭和56年10月5日 月曜日  東宝東和映画の清水馨制作部長から電話。  ──お忙しいですか。1本お願いしたいシャシンがあるんですがね。  ──よろしいですけれど、シシャはいつですか。  ──8日の午前中をおさえてあるんです。まだトショケン前なので。  ──木曜ですね。あいていますよ。シャシンは何ですか。  ──シルビア・クリステルの『チャタレイ夫人の恋人』です。では、8日の午前10時15分ということで。  日本版スーパー字幕の仕事はたいていこんな工合に始まる。映画を見ながら dialogue script をチェックして、必要なせりふをえらび出すのがまず最初の仕事。だから、いつ最初のシシャをするかを決めて、その日がスタートになる。  シシャは試写 preview である。封切前に映写することを私たちはいつもシシャといっているが、正確には screening だからエイシャというべきであろう。映画の世界には使っているうちにいつの間にが定着してしまったことばがいくつもある。シャシンというのもその一つ。映画を�活動写真�と呼んでいた時代の名残りであろう。�活動写真�は motion picture あるいは moving picture の訳語である。  トショケン前というのは輸入貨物としての税関の検査がまだすんでいないという意味。トショは図書で、輸入される図書絵画を検閲するためにつくられた法律がそのまま映画に適用されているわけである。    10月6日 火曜日  東宝東和から�Lady Chatterley's Lover�の台本がとどく。シーンが順を追って書かれてあるだけで、全部で何巻になっているのか、巻の切れ目が書かれていない奇妙な台本である。何巻物の映画なのかがわからない台本を見たのは、スーパー字幕の仕事を50年していてこれが初めてである。  スーパー字幕をつくるにはせりふが全部載っている台本がまず必要である。めったにないことだが、台本が着いていないのに仕事を急がなければならなくて台本をつくることがある。せりふをテープにとり、テープを聞いて、台本をつくるのである。  台本にはさまざまの形式がある。製作会社によって違うのである。呼び方も違う。この台本は Dialogue List for�Lady Chatterley's Lover�となっている。この前テキストに使った『郵便配達は二度ベルを鳴らす』の台本には Combined Continuity on�The Postman Always Rings Twice�という表紙がついていた。『チャタレイ夫人の恋人』の台本がこまかい動きが書いてないぶっきらぼうな台本なのは最初から dialogue list とことわってあるのだから当然かもしれない。  第1ページをひらくと、   EXT HUNT  Clifford : Come on Anton, I'll race you back to the house. Get up, get up. Urge on the horse.  とあって、次のシーンは   EXT CHATTERLEY HALL  children : Look, they're coming, let's go and tell everyone.  その次のシーンは   EXT CHATTERLEY HALL  Connie : What was the bet this time?  Clifford : The honour of having the first dance with the new Lady Chatterley.  これで第1ページが終っている。  EXT は Exterior。原作の内容から考えて、HUNT はキツネ狩りであろう。  次のシーンはチャタレイ邸で、これも EXT であるから、子供たちが邸の前でキツネ狩りの一行がもどってくるのを見つけたところにちがいない。ただし、children と複数になっているのにせりふが一つしかないのはおかしい。男の子か女の子かがわからないのもこまる。日本語に直すと男の子のことばと女の子のことばが英語のようにおなじではないのである。  こんな不完全な台本でも、試写を見る前に一応読んでおく必要がある。大勢の人間がかわるがわるしゃべっている場面などはだれがどんなことをいっているのかが頭に入っていないと必要なせりふをえらび出すのにまごつくのである。    10月8日 木曜日  銀座2丁目の東宝東和本社9階の試写室で『チャタレイ夫人の恋人』の第1回試写を見る。午前10時15分にスタートして、終ったのが12時1分すぎ。映写時間1時間46分。台本には書いてなかったが5ロールの10巻物だった。  ハコガキをすませたが、トショケンがすんでいないので、プリントを作業所にうつすことができず、スパッティングにとりかかれない。日本版スーパー字幕の製作をトショケンが終了するまで中断することになる。 「スーパー字幕製作日誌」とうたいながら、ハコガキのところまでしか書けないことになって申し訳ない。最初、10月20日ごろには字幕の入った初号プリントができあがる予定だったので、この製作日誌を書くことに決めてあったのだが、スパッティングにとりかかれないのではどうにもやむをえない。もっとも、シルビア・クリステルの『チャタレイ夫人の恋人』とあればトショケンがすんなりと終らないのはわかりきったことで、10月20日ごろに初号を予定していたこっちの考え方があまかった。しかし、このままではおさまりがつかぬのでハコガキ以後のスーパー字幕製作のプロセスについて一応記しておくことにしよう。  まず、ハコガキ。台本のせりふから字幕に必要なものをえらび出す作業をハコガキといっているが、現在スーパー字幕の仕事をしているひとたちのなかにもこれをなぜハコガキというのかを知らぬひとがいるだろう。  ハコガキは書画の鑑定や、演劇の脚本や映画のシナリオをチェックするときに使うことばである。これをせりふをえらび出すことに使ったのはスーパー字幕が登場したころに必要なせりふを線でかこんでしるしをつけたからである。ハコを書いたのである。いまは線でかこむような手間のかかることはしない。記憶をたどると戦前はずっとハコでかこんでいたように思う。  ハコガキがすむと、台本とプリントを作業所にうつして、スパッティングにとりかかる。ハコガキされているせりふの長さをはかることをスパッティング spotting といっている。何秒でしゃべっているかをはかって、その何秒かのあいだに読みきれる日本語をつくるわけである。  ただし何秒という時間をはかるのではない。せりふはフィルムの端のサウンド・トラックに録音されているので、その長さをはかるのである。単位はフィート。メートルではない。なんとも古めかしいことだとお考えだろうが、せりふの長さをたずねるときに�シャクはいくら?�といっている人間がいくらもいるのだから、古めかしいなどとはいっていられない。  スパッティング・リストができあがると、せりふを字幕におきかえる仕事がいよいよ始まる。最初の試写のときには台本にハコガキをしなければならないので、いつもスクリーンを見ているわけにいかない。当然、見落としがある。そこで、できあがった原稿を読みながらもう一度試写を見て、こまかい点が間違っていないかどうかをチェックする。この中間試写を私たちはヨミアワセと呼んでいる。芝居では稽古にかかる前に本読みというのを行うが、私たちはスクリーンの俳優たちと読み合わせをするわけである。  読み合わせのときにはせりふのニュアンスがうまく字幕になっているかどうかをたしかめるほかに、スーパー字幕をつくる上で欠かすことのできぬ仕事がある。スクリーンに空がひろがっていたり、白いドレスの女性が立っていたりすると、字幕が読めないので、左がわに出すとか、画面の下部に出すとか、工夫をしなければならない。読めなくてはスーパー字幕の役目を果たさぬのである。  大勢の人間がしゃべっていて、男のせりふか女のせりふかよくわからぬことがある。それを聞きわけて確かめるのも、読み合わせのときの大切な仕事の一つである。読み合わせのときに聞きもらすと、字幕が入った初号の試写のときにまことにみっともないことになる。あらくれ男が字幕で「聞いてくださいな」といったり、かわいい娘さんが「そこをどけ」といったりする。  とたんにだれかが声をあげる。 「メスオスがちがってるよ」  はなはだ下品なことを申しあげて恐縮だが、考えようによってはこれほどはっきりしている表現はないであろう。  トショケンが手間どって予定をくつがえされ、ちぐはぐの原稿になった。メスオスなどという�スーパー業者スラング�が出たところでペンをおくことにしよう。   ベバリーヒルズにこだわるわけ  昭和8年3月のある日、私はニューヨーク市西70丁目120番地の下宿先でラジオを聞いていた。スピーカーからルーズベルト大統領の大統領就任式の実況放送が流れていた。まだテレビがない時代だった。  やがて、大統領が宣誓を行う声が聞こえてきた。  ……アイ フランクリン デラノー ローズヴェルト……  ここまで聞いて、私は、そうだった。これからはローズヴェルトと書かなければいけないのかな、と考えた。  ルーズヴェルトではなくローズヴェルトであることは大統領選挙戦の放送やニュース映画ですでに知っていたが、本人が大声で名乗るのをじかに開かされると、私の名前をまちがえないできちんと書いてくださいよ、と念を押されているような気がした。  私がニューヨークでスーパー字幕の仕事を始めたのは昭和6年の11月だった。すでに16カ月の月日がたっていた。スーパー字幕をつくるときのさまざまの心構えもようやくかたまりかけていた。地名人名のカナ書きをどうするかというのもその一つだった。正しい発音に従がうのが望ましいことはもちろんだが、たとえ発音がまちがっていても一般に通用している書き方ならそのとおりにするべきであろう、と考えていた。  Roosevelt の発音を「ミリアム・ウェブスター」でしらべてみると、〔ro-z-e-velt〕となっていて、むしろ〔ro-z-elt〕と読むべきである、と注がついている。先祖がオランダのローゼン・ヴェルト(バラの野の意)というところの出身で、地名から生まれた姓なのである。  このように|いわれ《ヽヽヽ》まではっきりしているのだからローズヴェルトと書くのがいちばんよいのだが、一般にはすでにルーズベルトでとおっていて、中学の教科書や新聞などもルーズベルトと書いている。スーパー字幕ではルーズベルトとしておくのが無難であると考え、ローズヴェルトとは書かぬことに決めた。  ただしスーパー字幕以外の原稿の場合にはその後ずっとローズヴェルトと書いている。出版社からとくに注文があったときはべつで、たとえばジョン・ガンサーの�Roosevelt in Retrospect�の翻訳を昭和25年に六興出版社から出したときは「回想のルーズベルト」という邦題で、本文にはルーズヴェルトと書いた。ローズヴェルトとしなかったのは邦題とならべてみてちがいが大きすぎると考えたからである。しかし、昭和43年に改訂を加えた新版を早川書房から出したときには「回想のローズヴェルト」という邦題を使い、本文でもローズヴェルトにした。  ロナルド・リーガンだったのが本人の注文でレーガンになり、いまではかつてリーガンと呼んでいたことを忘れてしまっている。歴史上の人物としても重要な一人のローズヴェルトが、いつまでもルーズベルトのままなのは考えてみればおかしな話である。  ついでにいえば、だれがいつきめたのか知らないが、ヴを使わぬことになっているのもおかしい。ヴァ、ヴィ、ヴ、ヴェ、ヴォを使うのと使わぬとでは書いたときの語感がいちじるしくちがってくる。ヴィヴィアン・リーとビビアン・リーではまるでべつの人間である。シボレーはまだ我慢できても、ボルボとなるともういけない。  なるほど、日本古来のカナにはヴの音《おん》はなく、日本語に|V《ヴイ》の音は使われていないが、日本人もVを発音することはできる。ローズヴェルトとカナで書いて、ヴェルトを原音のまま発音することができる。英語の発音をまったく教えられていない日本人はたとえいても、ほんのわずかであろう。Vをカナでヴと書くのを生かしてもよいと思うのだが、どうであろう。ことばづかいをうるさくいうNHKも、音楽番組の字幕にヴィヴァルディとは書いていない。せっかくVをヴと書くことを思いついた頭のよいひとがいたのに、いつまでもやせ我慢をしてビバルディとつっぱっている必要はなかろう。  外国の人名地名をスーパー字幕にカタカナで書く場合、だれが字幕をつくっても、おなじはずである。翻訳者がちがえば訳語や文章がちがってくるのは当然だが、外国の地名人名のカナ書きはだれが書いてもおなじでなければならないであろう。地名の場合はNHKや新聞社が出している用字用語例に外国地名の書き方、という項目があって、これが外国の地名の書き方の基準になっている。昔はこのような統一された書き方というようなものがなく、小学校、中学校の教科書に使われている書き方が一応きまった書き方とされていた。戦後、政府が日本語の整理に手をつけたとき、外国の地名についてもきまった書き方ができあがった。新聞などはこの書き方にしたがっているようだが、まだ世間一般にはゆきわたっていない。  どれほどゆきわたっていないかという例をここにかかげておく。次に記したのはある一流銀行の海外支店の所在地が載っている手帳から抜き出した例である。   ロスアンゼルス   ハンブルグ   デュッセルドルフ   マドリッド   バンコック   サンディエゴ  これがすべて、現在きめられている書き方とちがう。銀行や商社は外国とも取引きがあって、地名の書き方にはとくに神経を使わなければならぬはずなのに、このような間違った書き方をパンフレットや手帳に載せている。毎年このまま掲載されているのだから、だれも取りあげて注意をうながさないのであろう。正しい書き方は次のとおり。   ロサンゼルス   ハンブルク   ジュッセルドルフ   マドリード   バンコク   サンジエゴ  ロサンゼルスがロスアンゼルスになっていても通じないわけではないのだから、重箱のすみをほじくるようなことをいわないでもよかろうというひとがいるかもしれない。たしかにロスアンゼルスでわかるのだが、これがスーパー字幕だったらどうであろう。わかるわからぬの問題ではない。ロサンゼルスと書くのがもっとも一般的な書き方なら、ロサンゼルスと書くべきである。スーパー字幕とはそういうものである。字幕の文章の内容や表記については翻訳者の個性が出てさしつかえないが、外国地名のカナ書きのように基準があるものは基準にしたがうべきである。  ところで、この章の表題になっているベバリーヒルズだが、Beverly Hills がスーパー字幕に出てくると、私はベバリーヒルズと書く。スーパー字幕以外の原稿や翻訳書のときにはベヴァリー・ヒルズと書くこともある。  私のほかにスーパー字幕にベバリーヒルズと書くひとはほとんどいない。だれが書いても、ビバリーヒルズである。ビバリー・ヒルズと書くひともいる。戸田奈津子が『女ひとり』の字幕にベバリーヒルズを使っているが、奈津子君は私に義理を立てて、私の字幕づくりの考え方にしたがった字幕をつくっているからである。  Beverly Hills の発音を辞書でしらべてみると〔beve-rlihilz〕となっている。ビバリー・ヒルズと書くひとが多いのは Beverly の be- を between や believe や begin の be- とおなじように読むからで、いつのまにかビバリー・ヒルズがもっとも一般的な書き方として定着してしまった。私も昔はスーパー字幕にもそのほかの原稿にもビバリー・ヒルズと書いていた。  私がビバリーでなくベバリーと書くようになったのは『マイ・ウェイ』のスーパー字幕からだった。もっとも、このときのビバリーはビバリー・ヒルズのビバリーではなく、Beverly という女の役の名前だった。 『マイ・ウェイ』はコロムビアが公開したが、コロムビア映画ではない。当時のコロムビア映画日本代表のヤコブ・シャピロが日本のマーケットのために買いつけた南アフリカ連邦映画である。ある日、私のところにシャピロ君から電話がかかって、『マイ・ウェイ』を目玉商品にしたいのでスーパー字幕をもう一度検討したい、と申し入れてきた。結構なことなので、私はすぐ新橋のコロムビア映画日本支社にシャピロ君をたずねた。  ヤコブ・シャピロ君は亡命音楽家レオ・シャピロの息子で、日本語を話すことも読むこともできる。二人で字幕の検討をつづけていて、Beverly が出てきたとき、シャピロ君は  ──シミズさん、ビバリーではなく、ベバリーです。日本ではみんなビバリーといいますが、まちがいです。ビバリー・ヒルズというのもまちがいです。辞書を引いてみなさい──  といって、英和辞書をさし出した。  辞書で Beverly を引くと〔be-ve-rli〕となっていた。日ごろ、外国の地名人名のカナ書きには気を遣っていたつもりだったので、虚をつかれたといったかたちであった。今後 Beverly Hills をベバリーヒルズと書こうと思い立ったのはそのときからで、一つには自戒の意味もあった。  ベバリーヒルズは新聞社の用語用字例の外国地名の書き方に載っていない。一般的にはそれほど重要な地名ではないのである。ベバリーヒルズと正確に書いてもさほどの違和感はないはずである。ローズヴェルトの場合とは条件がちがっている。  後日談が一つある。昭和56年の8月、作家ウィリアム・サロイヤンが死んだときのAFP電の中に自叙伝「ベヴァリ・ヒルズの自転車乗り」と出ていた。カナ書きにはうるさいはずの新聞社がどういうつもりでベヴァリを使ったのであろう。   原作と台本、台本と字幕の関係  この前『チャタレイ夫人の恋人』を例にしてスーパー字幕屋がどんなぐあいに注文をうけて、どんなやり方で字幕をこしらえているのかという話をして、それが尻切れトンボになっている。ここでそのつづきをまとめておくこととしよう。 『チャタレイ夫人の恋人』の英文台本は85ページある。せりふだけしか載っていなくて、人物の動きなどはいっさい記してない台本なので、85ページあるというと、いかにもせりふがいっぱいつまっているように聞こえるが、場面が変わるごとにページが新しくなっていて、活字の組み方がパラパラなので、せりふの数はあまり多くない。スーパー字幕にして725枚である。上映時間が1時間43分の映画で、原作が文学作品である場合、少なくて1000枚、多いときは1500枚を超える字幕になるのがふつうである。それが725枚しかないというのは、もっぱらシルビア・クリステルを売り物にしようとした、製作者の意図のせいであろう。  つまり、ストーリーの枝葉はできるだけ摘みとって、せりふは筋を通すのに必要なものだけを残し、シルビア・クリステルのチャタレイ夫人をたっぷり楽しみたい、という観客の願望に応《こた》えたわけである。『エマニエル夫人』『O嬢の物語』のジュスト・ジャカンの作品とあればなるほどと納得がいく。  ところで、せりふをどんなふうに少なくしてあるのか、その例を一つお目にかけよう。  第一次大戦で負傷して性的不能になったクリフォード卿が、チャタレイ家を断絶させぬためにはほかの男性の子を産んでもよい、と夫人コニーにいうところである。原本ではここが次のようなせりふになっている。(よけいなことだがついでに記しておくと、私が持っている原本は戦争前に上海で印刷された海賊版の完全本である)。  Clifford : It would almost be a good thing if you had a child by another man. If we brought him up at Wragby, he would belong to us and to the place. I don't believe very intensely in fatherhood. If we had the child to rear, it would be our own, and it would carry on. Don't you think it's worth considering?  Connie : But what about the other man?  Clifford : Does it matter very much? Do these things really affect us very deeply? You had that lover in Germany. What is it now? Nohting almost.  場面が変わり、しばらくたって──  Connie : And wouldn't you mind what man's child I had?  Clifford : Why, Connie, I should trust your natural instinct and selection. You just wouldn't let the wrong sort of fellow touch you.  この二つの場面のせりふが映画では次のようになっている。  Clifford :(96)Connie, I must tell you this.(97)If ever there's another man(98)you absolutely want to make love to you, take him.(99)Have a lover if you want.  これを字幕にすると  96 君にいっておく  97 他に男がいて  98 その男を好きになったら  99 いつでも愛人にしてかまわない  ということになる。これだけではクリフフォードの跡つぎを欲しがっている気持が伝わっていない。コニーのドイツ人のボーイフレンドというのは映画の冒頭のダンス・パーティの場面で顔を見せているアントンだが、彼に関するせりふもはぶいている。いささか荒っぼい書き変えのように思えるが、もっぱらシルビア・クリステルに焦点をおく描き方にするには、このくらいの手術が必要だったのであろう。  二つ目の場面ではコニーに�What if I should have a child?�と質問させ、クリフォードに次のように答えさせている。  Clifford :(253)All right, my dear, breed.(254)It's nature's law.(255)I trust my son and heir will have a father worthy of a future baronet,(256)but I trust your taste of course.  253 よろしい、子をお産み  254 自然の法則だ  255 きっと私の跡つぎにふさわしい父親だろう  256 私は君の見識を信じる  原作の�I should trust your natural instinct and selection.�が映画では�I trust your taste of course.�と書き変えられている。そして、255と256の二つのせりふでクリフォード卿の気持をわからせているわけである。  ところで、スーパー字幕をつくるとき、原作が手近にある場合、原作をスーパー字幕をつくる参考にするのはむだなことではない。この『チャタレイ夫人の恋人』にしても、ジュスト・ジャカン作品では、20世紀初頭の英国の社会事情、階級制度、英国貴族社会の生活意識、コニーのクリフォードと結婚するまでの生活など、物語のさまざまな背景が省略されている。映画はそのような省略があってもさしつかえないようにつくられているのだが、原作をよく頭に入れておいて、原作が描いているものもふくめて観客によくわかる親切な字幕をつくるのがスーパー字幕屋のつとめであろう。  もっとも、映画になった『チャタレイ夫人の恋人』の場合、とくに難解なストーリーではなく、登場人物も少なく、スーパー字幕をつくるのにとくに苦心をしたというようなことはなかった。だが、スーパー字幕づくりの仕事には、どんなに簡単な字幕にも手がけた人間でなければわからぬ苦労がある。どんな苦労があるのか、前掲の8枚の字幕から拾い出してみよう。  96 君にいっておく  原文は�Connie, I must tell you this.�だから�コニー、私は君にこのことをいっておかねばならない�というのが正しい訳だ。クリフォードがゆっくりしゃべっていて、時間が十分あれば�コニー�と初めにつけたほうがよい。  この字幕でいちばん頭をいためるのは�you�の訳語をどうするかである。当時の英国の貴族である当主が夫人を�君�と呼んで不自然ではないかどうか、当時どう呼んでいたとしても字幕では現代語の呼び方にするべきかどうか、いつも頭をいためる問題である。  97 他に男がいて  この字幕では�他に�がどうもひっかかる。ほんとうは�ほかに�としたいのだが、字幕はすぐ消えてしまうのでひらがなではとっさに頭にはいりにくい。読むのでなく目で見ただけで頭にはいるように�他に�としたのだが、ルビをふるほうがいいかもしれない。  98 その男を好きになったら  話しことばの場合には�その男が�ということのほうが多いが、どっちでもわかるのなら、目的語をつなぐときの助詞�を�を使いたい。  原文の意味は�抱かれて寝てみたいほど好きな男�というのだが、日本語ではそこまでいわぬのがふつうであろう。�make love�はセックスを行うことで、英語の場合、日常の会話に使ってもいやらしく聞こえないニュアンスのあることばである。  99 いつでも愛人にしてかまわない �愛人�などという言い方をするより�男をつくっていいよ�とするほうが会話らしく聞こえる。みなさんはどちらをとるであろうか。�男をつくる�というと下世話に聞こえるが、それでも�愛人�よりましだ、というひとがいるにちがいない。  253 よろしい、子をお産み �産む�はふつう�生む�と書く。�産む�は出産という生理現象。�Breed�だから�生む�にするべきだったかもしれない。  254 自然の法則だ  だれが字幕をつくっても、これ以外の字幕はつくれない。こんな字幕がいくつもつづいていると、字幕屋はほっとする。  255 きっと私の跡つぎにふさわしい父親だろう  原文は�I trust my son and heir will have a father worthy of a future baronet,�この英文をみなさんに20字以内の話しことばにまとめてもらって、そのなかの三十人の答案をとりあげてみたとする。おそらく、三十通りのちがった文句になっているだろう。それがスーパー字幕づくりの難しさであり、字句を考えて字幕にまとめてゆく面白さなのである。 �跡つぎ�はいま�跡継ぎ�と書くようだが、字幕はこのページほどの小さい白いカードに小さな字で書いて焼きこむので、�継ぎ�より�つぎ�とひらがなを使うほうが書きやすい。  こんなわけで、みなさんとスーパー字幕屋の仕事のほんの一部をのぞいてみた。短いのは1秒、長いのでも4秒から5秒で消えてゆく字幕の1枚1枚に他人にはわからぬ苦労が隠されているのである。   スーパー字幕屋紳士録  昭和57年5年、高瀬鎮夫君が亡くなった。高瀬鎮夫君は、私のまわりに大勢いる英語を仕事にしている人間のなかで、ひときわ抜きんでた英語の達人である。  戦後、米軍の民間情報教育局が Central Motion Picture Exchange(CMPE)というのをつくってアメリカ映画の上映を始めたとき、スーパー字幕の仕事をする人間を募集した。高瀬君はそれに応募して CMPE に入った。審査に当ったのが田村幸彦さん。映画好きの読者ならご存じのことと思うが『モロッコ』のスーパー字幕を担当、私にとっては師匠にあたる人である。その田村さんが、高瀬君の答案の満点といってさしつかえないできばえに舌をまいたという。  昭和25年、CMPE が解散後、高瀬君は翻訳会社をつくって、アメリカ系映画会社のスーパー字幕をひきうけることになった。私をはじめ、戦前からのスーパー字幕屋は映画会社の社員であったり、雑誌に原稿を書くように1本ずつピースワークでひきうけたりしていたのだから、スーパー字幕業という看板をかかげて営業を始めたのは高瀬君が最初なのである。  私を例にとってみても、パラマウント映画会社翻訳部に籍があっただけでなく、雑文書きも忙しく、名前の下にカッコして肩書を書かれるときにはいつも�映画評論家�と書かれていた。  私のほかにどんなスーパー字幕屋がいたかというと、田村幸彦、秘田余四郎《ひめたよしお》、楢原茂二、内田岐三雄、林文三郎、柳沢保篤といった名前をあげることができる。みなさんにははじめて聞く名前が多いにちがいない。そこで、これらの戦前派のスーパー字幕屋の横顔をお伝えしたい。  まず、田村幸彦。田村さんが昭和5年の秋にパラマウント映画の日本代表トム・カクレンの依嘱で『モロッコ』のスーパー字幕をつくったことは映画史の1ページになっているが、当時、田村さんは「キネマ旬報」の主筆で、創立者の一人。出身が高等工業(いまの東京工大)の応用化学ということは知らないひとが多いであろう。ついでに記しておくと、お嬢さんの淑子は山本富士子がミス・ニッポンになったときの準ミス・ニッポンで、結婚衣裳を、エリザベス・テイラーのウェディング・ドレスをつくった店に注文してつくらせた、というのが田村さんのご自慢だった。  こんなことを私が知っているのは、ニューヨークのパラマウント本社でスーパー字幕をつくっていた2年間、田村さん一家といっしょだったからで、田村さんと私はパラマウント映画会社外国部の客員待遇の社員ということになっていた。  秘田余四郎は戦後の昭和40年ごろまで仕事をしていたから、名前を覚えているひとが多いであろう。本名姫田嘉男。外語のフランス語科出身。演劇青年だったころ、「解決」(おとしまえ)という戯曲を書き、新国劇で上演されている。 「おとしまえ」といっても何のことかを知らない人間が多かったころに、姫田君がいわゆる�やくざ�の世界を知っていたのは奥さんがさる由緒ある親分の娘だったからで、結婚におちつくまでには東映映画まがいの出入りがあったのだが、ここでそんなことにふれているとページがたりなくなる。  鎌倉に住み、文士とのつきあいも多く、毎晩のように銀座を飲み歩き、マージャンを打ち、みずから放蕩《ほうとう》無頼と称していた。健康を害して、視力が衰え、スーパー字幕の仕事も思うにまかせぬようになってからも銀座で飲んでいた。そのころのある晩、銀座でばったり会ったとき、ちかごろはシングルなんだよ、と水割りを傾けながら、もうだめだね、美女がはべっていても、宮本ムタチだよ、とさびしそうに笑ったのをいまだに忘れない。  それから1カ月とたたぬうちに、姫田嘉男は亡くなった。  柳沢保篤。この名前を聞いて、年配のひとたちはあの柳沢家の一門なのかな、と考えるであろう。まさに、そのとおり。老中柳沢吉保で知られている柳沢家の血をひいていて、当主は兄の柳沢保恵伯爵であった。  したがって、我らの柳沢保篤のあだ名は�殿様�だった。慶応出身、英国に留学、MGMの宣伝部長を勤めながら、同社映画のスーパー字幕をつくっていた。太りすぎとまでゆかぬ、ほどのよい肥満体をしぶい好みのスーツにつつんで、MGMのオフィスがあった内幸町の大阪商船ビルの地階のバーで悠々とビールのグラスを傾けている姿はいかにも�殿様�であった。パラマウントのオフィスも同じビルだったので、私もしばしば顔を合わせた。飲んでいるうちに興がわくと、「踊りに行こうよ」と私を誘い、赤坂のフロリダに行った。  フロリダに着くころはすでにほろ酔いで、フロアで踊るだけでなく、バンドのステイジに跳び上って、英語の歌をうたった。ホールでもとくにとがめなかった。柳沢伯爵の舎弟ということがものをいったらしい。そんな時代であった。  内田岐三雄さんとはニューヨークで3カ月いっしょだった。私が入社する前、パラマウントは日本語スーパー字幕版を数本つくっていて、内田さんはその仕事をするためにパリから呼ばれていたのだった。『市街』のゲーリー・クーパーの名せりふ�No hard feelings�を「悪く思うなよ」と訳して流行《はや》らせたのは内田さんである。  本業は「キネマ旬報」系の映画批評家。博覧強記、潔癖すぎると思われるほど自説を枉《ま》げないことで知られていた。天皇の動物学のお相手をしていた内田享博士は実兄。戦争中、鵠沼《くげぬま》に住んでいて、空襲に遭い、いったん防空壕に避難していながら、何か思い出したものをとりに家にもどったとき、機銃掃射をうけて亡くなった。  林文三郎さんがスーパー字幕の仕事を始めたのは私とほとんど同じころだったろう。東和映画の川喜多長政がヨーロッパ映画の輸入を始めたころ、たまたまベルリンにいて、そのころの東和の作品のほとんどを手がけている。  戦後は早大でドイツ語を教えていて、スーパー字幕はわずかしか手がけていないが、夜の銀座ではときどきいっしょになった。愛称�文ちゃん�。戦前派のスーパー字幕屋紳士録ということになれば、大きな身体をゆすって、せっかちな口調で話しかけてくる文ちゃんを抜かすわけにはいかない。  楢原茂二さんのことは前に書いた。戦前派の一人ながら、戦後も十数年前に亡くなるまで現役のスーパー字幕屋として仕事をしていた。私にとっては田村幸彦さんとおなじく師匠すじにあたっていて、大学を出たが仕事がなく、「映画評論」(第一次)の編集をしたり、雑誌に原稿を書いたりしてぶらぶらしていた私を映画界にひき入れたのは楢原さんだった。つとめた会社はワーナー・ブラザース、仕事は台本のせりふの全訳であった。  楢原さんとは、戦後になってから妙なことでかかわりを持った。  昭和30年代のことだ。ある日、まだ新富町にあった松竹本社に立ちよると、地階の試写室で�Moon is Blue�を映写しているという。始まったばかりだというので、急いで地下に降り、試写室に入ってみて、びっくりした。日本語のスーパー字幕が両がわに出ている。どういうことなのかと聞いてみると、最初、『月蒼くして』を日本で上演した菅原卓君に字幕をたのんだ。スーパー字幕がどういうものであるかを知らぬ営業部あたりからの注文でよくあるケースなのだが、うまくいくはずはない。菅原君の字幕が使えないというので、こんどは当時松竹の仕事をしていた楢原さんに改めて頼んだ。つまり、楢原さんがつくった字幕を、すでに右がわに字幕が入っているプリントの左がわに入れたわけである。  ところが、楢原さんの字幕も松竹は気に入らなかった。これにはもっともと思われるふしがある。だいたい、楢原さんは字幕を楽しんでつくる主義で、観客のことなどあまり念頭にない。「とんだ首斬り浅右衛門だ」という奇妙な字幕をつくって自分だけ楽しんでいる。「ありがとう」を「難有う」と書く。いわば加工作業にすぎぬスーパー字幕など、男子一生の仕事ではないと考えていたのである。  映画が『月蒼くして』だったこともまずかった。原作がブロードウェイでヒットした芝居だった。きわどいせりふが多く、楢原さんがひとりで楽しんで|ほくそ《ヽヽヽ》笑むにはもってこいの作品だった。アメリカの倫理規程がまだゆるやかになっていなくて、pregnant や virgin が禁句になっていた、いま考えると嘘のような時代に、オットー・プレミンジャーが倫理規程にふれるのを承知で pregnant や virgin を使ってつくった映画である。  松竹はまだ『月蒼くして』に未練があり、スーパー字幕をもういちどつくり直すことに決めて、私のところにお鉢がまわってきた。字幕をつくり直すのはとくに珍しいことではない。高瀬君は『フィラデルフィア物語』と『おかしな二人』の字幕をつくり直した話をしている。私も経験がある。だが、他人がつくった字幕をつくり直すとなると話はべつだ。私は菅原君には私から話をするが、楢原さんには松竹から挨拶をして、OKをとってくれるようにという条件をつけた。  話はこれだけで、師匠である楢原さんがつくったスーパー字幕をはからずも私がつくり直すことになったのだが、後日談を一つつけくわえると、ピカデリー劇場で封切られた『月蒼くして』が予想外のヒットとなり、私は松竹の外国映画担当の大野重役に築地の料亭でご馳走になり、お礼をもらった。世の中がまだ世智がらくない、よい時代だった。   スーパー字幕屋、大いにくやしがる  ちかごろ、『ブレード・ランナー』とか『E・T』とか、SFと呼んでいい映画が次々に登場するようになった。『スターウォーズ』『未知との遭遇』がヒットしてからのことだ。SF映画が毎年数本かならず現れている。1902年、ジョルジュ・メリエスの『月世界旅行』が映画の魅力をひろく認めさせた最初の作品なのだから、映画とSFの世界とは切っても切れない関係にあるといっていいのだろう。  私はSF映画──とくに宇宙人が現れる映画にぶつかるたびにいつもクラーク・ゲイブルとソフィア・ローレンが主演した喜劇『ナポリ湾』のある場面を思い出す。SFと『ナポリ湾』がどこで結びつくのか、頭をひねるひとが多いと思う。わけを話すと、次のようないきさつからである。 『ナポリ湾』は1960年の作品。20年以上も前の映画だ。ゲイブルがイタリアのカプリ島へ死んだ弟のことを調べに行く物語。ゲイブルがカプリ島に着くと、あらかじめ連絡してあった少年が舟着き場で待っている。ひとことふたこと、少年と話をするが、要領を得ない。そこで、ゲイブルがいう。 �Well, take me to your leader.�  このせりふが曲者なのだ。スーパー字幕はたしか「ではつれてってくれ」だったと思うが、字幕はそれでさしつかえない。試写室でいっしょに見ていたアメリカ人がこのせりふを聞いて、大声をあげて笑った。なぜ笑ったのだろう。�Take me to your leader.�がSF劇画から生まれた流行語だったからである。  1950年代、アメリカ各地の新聞に spaceman を扱った連載劇画が載った。spaceman が spaceship から降りてきて、人間に会うとまず�Take me to your leader.�という。だれがいちばん最初にいいはじめたのかは知らないが、いつのまにか、これが流行語になって、人間社会でもさまざまの場合に使われるようになった。  こんないきさつを知っていてこのせりふに出っくわすと、スーパー字幕屋は大いに口惜しがる。なぜアメリカ人が笑うのかがわからぬ場合はまだよろしいが、�Take me to your leader.�のようにネタがはっきりわかっていると、なんとかならないものかとチエをしぼる。いくらうなってみても、うまい文句がうかんでこない。そんなときのもどかしい気持はスーパー字幕屋でないとわからない。 �Take me to your leader.�はいろいろの場合に使うことができるせりふなので、このほかの映画でも何回か聞かされている。ジョン・ウェインの『ハタリ』にも使われていた。当時の私のメモによると、『地獄の罠《わな》』という英国映画にも出てきている。  スーパー字幕屋は雑学の知識がないととんでもない間違いをする、というのは私がいつもいっていることだが、このせりふにもそのことがあてはまる。Your leader というのは何だろうと考えこんでいたりすると、苦しまぎれにこじつけの誤訳をすることになるかもしれない。  私は学生のころから少々ネジがゆるんでいたのに、くだらないことをよく覚えていた。スーパー字幕屋という奇妙な稼業につくことになって、そのことがはからずも役に立っている。 『ナポリ湾』や『ハタリ』のころのアメリカ映画で、カンヌ映画祭に出品された『ヘンリー・オリエントの世界』というのがあった。日本では『やんちゃ日記』という題名で公開され、話題にもならないで忘れ去られた。このなかに女子中学生の母親がピアニストに会って「お名前は聞いておりますが、まだご演奏を聞いたことはありませんわ」というところがある。それをうけて、ピアニストがいう。 �Well, since I'm not Liberace, I would be surprised if you had.�(ぼくはリベラーチェではありませんから、あなたが聞いているはずはありません)  リベラーチェというのは女性に人気のあるジャズ・ピアニスト。ラスベガスなどにいつも顔を見せていて、フランク・シナトラやサミー・デイビス・ジュニアの仲間だった。こんなせりふに出っくわして、リベラーチェを知っていないと、いろいろ考えこんでむだな時間をついやすことになる。  もっとも生かそうとしても、それはむりな話。スーパー字幕は── 「お名前はうかがってますわ」 「いや、ほんの駆け出しで」  というようなことでお茶をにごしたと覚えている。  ついでに記しておくと、この映画のなかにこんな場面があった。  そのピアニストのファンの女の子がいて、ピアニストがレストランで食事をしているとき、ボーイに頼んで、ピアニストのタバコの吸い|がら《ヽヽ》を持ってきてもらう。女の子の友だちが目をまるくして、 �No filters!�  と大声をあげる。  ピアニストのファンの女の子がとっさに、 �He isn't afraid.�  といい返す。  とくに説明を加えないでもおわかりと思うが、ちょうど、タバコと肺ガンの関係がやかましくいわれはじめたころで、タバコはフィルターつきが多かった。これはアメリカ人でなければわからないというギャグではないから、このままスーパー字幕にして、 「フィルターなしだわ」 「怖がってないのよ」  で通じると思ったのだが、試写を見ていた十数人のうちの二、三人しか笑わなかった。いつも感じることだが、目で見る字幕はせりふを耳に聞くのとちがって、感情がすぐ伝わらないのである。  スーパー字幕屋の仕事はスクリーンでしゃべられていることを観客にとっさにわからせることで、読んでから考えなければわからない字幕は落第である。�とっさ�にわかることが重要なのである。  たとえば、私がスーパー字幕について話をするときによく使う例に�Go and get it!�というのがある。直訳そのままの�行って取って来い!�でさしつかえない場合が多い。ボールを投げて、犬に取って来いというときなどがそうだ。もっとも、この場合も�取って来い!�が正しく、日本語では�行って�をはぶくほうがわかりやすい。  スポーツ競技に出場する選手を送り出すときだったら、�入賞して来いよ!��メダルをねらえよ!�でもよく、�しっかりやれよ!�でもいい。試験をうけに行く学生を激励するのだったら�しっかりやれよ!�か�うまくやるんだぞ!�だろう。  シャーリー・マクレーンの『何という行き方』にも�Go and get it!�が出てきた。シャーリーが金持の青年とデートに出かけるとき、シャーリーの母親が、�Go and get it!�と肩をたたいて送り出すのである。�しっかりおやりよ!�がぴったりだが、�つかまえるんだよ!�でも�逃がしちゃだめだよ!�でもかまわない。  つまり�Go and get it!�というような簡単なせりふでも、どんな人間がどんなときに使っているかによって、スーパー字幕はさまざまに変わってくる。だれがどこで使うかによってニュアンスがちがってくるのだ。そこのところを正しく汲みとるのがスーパー字幕屋の仕事なのである。  戦争前のことで、どこかに書いたことがあるが、こんなことがあった。『翼の人々』というアメリカ空軍の訓練をえがいたパラマウント映画で、士官候補生の一人に気の小さい男がいて、何回飛行試験をうけても、なかなか合格しない。いよいよ最後の試験というときに、友だちが�Go and get 'em!�と激励して送り出す、私は当時、パラマウント映画のスーパー字幕を担当していて、このせりふに�しっかりやれよ�というスーパー字幕をつけた。ところが、このせりふが内務省の映画検閲にひっかかり、私が呼び出されることになった。  一応説明しておかないとわからないと思うが、戦争前は、内務省の検閲という制度があって、検閲を通過しない映画は上映することができなかった。キス・シーンはすべてカットされ、女性のヌードもきびしくチェックされた。戦争の気配が濃くなってからは思想的なことや皇室関係のこともうるさくなって、たとえ外国の宮廷でも、宮廷を扱った物語などは原型をとどめぬほどカットされた。  いったい�Go and get 'em!�のどこがいけないのだろう。検閲係のお役人のご託宣を聞いて、私はあいた口がふさがらなかった。 「君はアメリカに行っていたそうだが、こんなことがわからんのかね。あの候補生が空を指さして、ゴー・アンド・ゲット・ゼムといってるだろう。ゼムというのは�あいつら�だ。日本人のことをいってるんだよ。つまり、空軍の士官なら日本人をやっつけてこい、といってるんだ。このせりふをカットしてくれたまえ」  そんな時代が本当にあったのか、と呆れるひとがいると思うが、これは正真正銘の事実物語である。私もさすがに腹にすえかねて、その場面までのストーリーからいって、them が日本人であるとはどうしても考えられないこと、もし日本人をさしているのならはっきり Jap というはずであることなど、陳弁これつとめて、やっとカットを取り消してもらった。  いまのスーパー字幕屋のひとたちにはとうてい考えもつかぬことであろう。   今は昔、よき時代の物語  前の話のなかで、『月蒼くして』がスーパー字幕のおかげでヒットしたというので松竹の外国映画担当重役に築地の料亭でご馳走になり、お礼をもらったというよき時代のスーパー字幕物語をご披露した。  ここでもうひとつ、おなじようなよき時代の物語をお話ししたい。  昭和14年も押しつまった12月23日、パラマウント映画日本支社の翻訳部長だった私は、横浜税関の試写室にドロシー・ラムーア主演のパラマウント映画『ジャングルの恋』�Her Jungle Love�の税関試写を見に行くことになった。  翻訳部長といっても、翻訳部は二人だけ。私の仕事は日本語スーパー字幕をつくることだった。もう一人の宮本信一君は、映画といっしょに送られてくる dialogue sheets の全訳を担当していた。宮本君はパラマウント生え抜きの翻訳部員で、戦後も米軍占領時代の Central Motion Picture Exchange に籍をおき、その後はつい先ごろまで廿世紀フォックスで翻訳の仕事をしていた。  外国から送られてくる映画にはかならず dialogue sheets がついてくる。私たちはこれを�台本�と呼んでいる。つまり、せりふ台本である。会社がちがうと台本の形式もちがい、場面の説明、人物の動きがくわしく書いてあるのもあれば、dialogue だけがぶっきらぼうにならべてあるのもある。ひどいのになるとただせりふが書いてあるだけで、だれがしゃべっているのかを記してない。こんな dialogue sheets を送ってくるのは小さなプロダクションにきまっているが、よほど注意してチェックしないと、男のせりふと女のせりふをとりちがえることがある。この間違いは観客にすぐわかるので、はなはだみっともない。私たちの仲間ではこれを�メスオスの間違い�という。  いま、宮本君の仕事は dialogue sheets の全訳であると記した。ごぞんじであろうが、戦争前には映画検閲制度があって、全訳台本を映画といっしょに内務省に提出しなければならなかった。日本映画の場合もせりふを記した台本を提出した。サイレント映画のころは字幕を全部書きうつして提出した。つまり、すべての映画に検閲台本があり、外国映画にはかならず全訳台本があったのだから、もしこれがどこかに保存されていたらきわめて貴重な資料である。  私が映画界に踏みこむきっかけになったのも全訳台本であった。私が大学を出た昭和4年は外国映画がトーキーになった年で、外国映画会社はどの社も全訳台本をつくるのに苦労していた。私はそんなときにワーナー・ブラザースで全訳台本のアルバイトを始め、それがきっかけで映画界に入ったのだった。  その後、昭和6年にニューヨークでスーパー字幕の仕事を始めて、なんとなくずっとスーパー字幕をつくりつづけているうちに、いつのまにか半世紀たった。横浜税関行きもスーパー字幕に関連のある用件のためであった。  その日、東京から横浜税関に出向いたのは私のほかにパラマウントから日本代表ウィリアム・パイパー、総支配人田村幸彦の二人、東宝から洋画興行担当重役那波光正、洋画興行課長小田進康の二人、合計五人であった。このうち、田村、那波、小田の三人はすでに亡くなっている。  12月23日というせわしないときに五人が雁首《がんくび》をそろえて横浜まで出かけて行ったのにはそれだけのわけがあったからだった。  そのころ、パラマウントは東宝と提携していて、日比谷映画劇場が正月興行に『ジャングルの恋』を予定していた。ドロシー・ラムーアが前作『ジャングルの女王』で大当たりをとり、まだ若手ながらパラマウントのドル箱スターの一人にのし上がっていたので、正月興行に『ジャングルの恋』をぜひというのが東宝の要望であった。  外国映画が日本に送られてきてから映画劇場で公開されるまでのプロセスはむかしも今もたいして変わっていない。むかしは汽船で横浜に、今は航空便で成田に着く。税関の検査をうける。税関を通過して輸入手続きが終るとスーパー字幕をつける。ここまではほとんど変わっていないのだが、ここから先が少々ちがう。今は映倫の審査をうけて簡単に審査ずみのマークをもらえるが、むかしは内務省の検閲をうけなければならなかった。審査でなく、検閲である。なにも問題のない映画でも手続きがめんどうなので、どうしても時日を要する。 『ジャングルの恋』は12月22日に横浜に到着、無理をいって、23日午後に税関試写を組んでもらってあるのだが、それからスーパー字幕をつけて、内務省の検閲をうけて、正月興行に間に合うかどうか。役所のご用納めが28日とすると、どうしても27日に検閲をうけて、書類に判を押してもらわなければならない。だれにいわせても危ない綱渡りであることははっきりしている。  私たち五人は電車で午前11時ごろに桜木町に着き、タクシーを拾って、パイパー、那波、小田の三人はホテル・ニューグランドヘ、田村さんと私とが税関に向かった。  そもそも、私たちが危ない橋を渡ってまで『ジャングルの恋』の正月封切を決意したのは、税関の検閲課長にたしか高橋といったと記憶する外国映画ファンの温厚な人物がいて、かねがね私たちに便宜を計っていてくれたからだった。アメリカとのあいだに険悪な空気がただよっていたころだし、昭和14年といえばドイツがポーランドに進駐して、第二次世界大戦が始まった年なのだから、税関の役人がアメリカの映画会社に好意を寄せるというのはかなり思い切ったことなのだった。  田村さんと私は高橋課長を税関からつれ出して、ニューグランドで待っていた三人と合流、六人で昼食をすませ、税関にもどり、1時半ごろから『ジャングルの恋』の試写を始めた。  90分ほどの映画なので、試写は3時前に終った。問題になるシーンはドロシー・ラムーアのジャングルの娘とレイ・ミランドの白人の青年のキス・シーンだけで、その場面を削除すればあとは何も問題がなかった。当時、キス・シーンはすべてカットされた。  何も問題がなくても、書類がととのうまでにふつう2、3日はかかるのだが、あらかじめ高橋課長にお願いしてあったので、特別の計らいでその日のうちにプリントを渡してもらえることになった。  ここから、私が出る幕になる。  まずスーパー字幕をつくらなければならないのだが、当時はまだ黒白映画の時代で、パラマウントはスーパー字幕を焼きつける作業を京都|太秦《うずまさ》の極東現像所(現イマジカ)にやらせていた。ご用納めの前日の27日朝にプリントを持ちこめば、パラマウントの検閲担当の上平という男が映画検閲係仲間のボスのごとき存在だったので、なんとか27日中にOKになるのだが、それには26日の夕方までにプリントをつくって、東京行の夜行にのせなければならない。逆算すると3日しかない。はたして間に合うかどうか、下駄を預けられた私としてはとにかくやってみるほかはなかった。全訳台本は dialogue sheets をとくに先に送ってもらって、できあがっていた。  私は横浜税関で試写を見た23日の夜、字幕のカードを書くライターの出石章吾君を伴って京都に向かった。極東現像所の上田忠雄君が『ジャングルの恋』のプリントを持って同じ汽車に乗った。24日朝、京都駅に着くと、タクシーを太秦の極東現像所に走らせ、軽い朝食をすませて、さっそくスーパー字幕製作の作業にとりかかった。  まず第1巻を試写して、dialogue sheets をチェック、必要なせりふを選んで、番号をつける。これを箱書きという。ここまでが私の仕事。上田君があとを引きつぎ、箱書きにしたがってせりふの長さ、つまり、何秒でしゃべられているかを計り、spotting list をつくる。私がそのリストに合わせて字幕の原稿を書き、出石君にまわす。字幕のカードが書きあがると、私が校正して、上田君がカードを工場に持って行き、字幕のネガをつくる。字幕のネガを画と音のネガと合わせてプリントするとゼロ号ができあがる。ゼロ号を試写してOKとなれば、作業完了である。  さいわい、字幕が600枚ほどしかなく、作業は思いのほか早くはこび、その夜の11時にゼロ号の試写をすることができた。あとはこまかい調整をすませて、興行用プリントを焼くだけである。25日の夜行にプリントを積めるから、予定より1日早く、26日に検閲に持ちこめるわけである。  極東現像所は約束の日より1日早くパラマウントに完成プリントを渡せるので、大いに面目をほどこすことになった。このことをとくに喜んだのは極東現像所の指揮をとっていた長瀬商店の大番頭小倉寿三であった。  極東現像所は大阪の長瀬商店の経営だった。長瀬商店は化学薬品の輸入で名の聞こえている老舗。極東現像所を預かっていた小倉さんとしては大いに鼻が高かったのであろう。25日の9時半の夜行に乗る私たちを一席ねぎらおうということになった。  一席ねぎらうといっても、長瀬商店の大番頭が席を設けるので、少々|けた《ヽヽ》がちがう。宗右衛門町の富田《とんだ》屋だった。大阪の花柳界といえば北は曾根崎、南は宗右衛門町。そのなかでも富田屋は超一流。小倉さんの顔で名の売れた妓《ねえ》さんたちが来ていて、9時半の東京行の夜行に乗らなければならぬのが残念であった。  今は昔、スーパー字幕にまつわるよき時代の物語である。   メスオスってなァに? スーパー字幕屋隠語集  サツは警察、デカは刑事、ホシは犯人、ヤマは事件、ガセはうそ、ガサは家宅捜索、タレコミは密告。どなたもごぞんじ、警察・犯罪関係の隠語である。隠語といっても、どこでも使われているので、用語とでもいったほうが適切かもしれない。  どんな職業にもこんなふうな隠語・用語がある。スーパー字幕屋のあいだにもある。とくに注釈をつけないで意味がわかるのもあるが、たとえばシャク、デルマド、パチパチ、メスオスといったようなやくざ仲間のスラングではないかと間違われそうなのもある。同業しめて十数人、関連業者を加えても五十人ぐらいしか仲間がいないのだから、デルマドやメスオスの意味を知っている人間もすくない。「スーパー字幕製作日誌」の章でもちょっとふれたが、ここで、�スーパー字幕屋隠語集�という題目でまとめておきたい。  まず、新しいシャシンが到着する。映画をシャシンといっているのはスーパー字幕屋だけではない。映画の世界ならどこへ行ってもシャシンで通じる。そのむかし、映画を活動写真と呼んでいたころの名残りであろう。「ちかごろ、いいシャシン見たかい」などという。  ツーカンがすむとハコガキのためのシシャが行われる。ガイトーがあるときにはラボでボカシその他の作業を先にすませてからシシャをすることもある。  ツーカンは通関。税関の検査を通過すること。シシャは説明するまでもなく試写。ラボは laboratory で、現像所などの工場。こんなのはだれでもわかるが、ガイトーとボカシは少々説明を要する。  ガイトーは該当。カットするか、修正するか、処理をほどこさないと税関を通らない場面を�該当する場面�──略してガイトーといっている。ガイトー場面に手を加えて処理するのがボカシ。ベッド・シーンで男と女の動きがはげしくなると、突如、もやのごときものが現れて画面を覆う。あれがボカシである。  その次がハコガキ。  ふつう、書画・骨董《こつとう》などの箱に|にせ《ヽヽ》物ではないという保証を書き記すことをハコガキという。そのほかに、脚本を書くときにあらかじめ一つ一つの場面の要点をしるしておくこともハコガキという。スーパー字幕屋のハコガキはまったく違っていて、dialogue sheets のなかの字幕にするせりふをハコのなかに囲うことである。  実例をあげよう。  Mayor : Monsieur! Vous avez oublie votre carnet de marriage?  "I" : What's he saying?  Maxim : 341 He says we've forgotten the proof that we're married.  "I" : Good heavens.  日本で3度目の公開が行われたアルフレッド・ヒッチコックの『レベッカ』のなかのせりふである。ローレンス・オリビエのマキシムがジョーン・フォンテンの�私�とモンテカルロの近くの村でひそかに結婚する。場面はその村の広場。オリビエとフォンテンがカメラに向かって歩いてくると、後景の村役場の2階の窓から村長が顔を出してオリビエたちに呼びかけるところである。  私はこの場面でマキシムのせりふだけを字幕に使い、番号をつけた。この�せりふをえらぶこと�がハコガキである。いまはせりふに番号をふるだけだが、むかしはせりふの英文をハコのように線で囲ったのである。  ついでだが、なぜマキシムのせりふだけしか字幕にしないのかと疑問を抱く読者がいるであろう。その疑問に答えていると�スーパー字幕のつくり方�の講義になって、このスペースでは記しきれない。また、べつの機会に記したい。  ハコガキがすむとスパットにまわし、フィルムにデルマドをつけて、シャクをはかり、リストをつくる。  スパットは spotting の略称。スーパー字幕をフィルムのどこからどこまでいれるかをフィルムに|しるし《ヽヽヽ》をつけて指定する作業のことをいう。ハコガキのところでとりあげたマキシムのせりふの字幕を例にして説明すると、この字幕は3巻目の字幕341で、  341 828.13─833.1 4.4  となっている。  341 はせりふの番号。せりふの長さをはかるのはしゃべられている時間を何秒何分のいくつというようにはかるのではなく、フィルムの端のサウンド・トラックの長さではかる。341のせりふはサウンド・トラックの828フィート13コマのところから833フィート1コマのところまでで、4フィート4コマあるということだ。字数にして10字から43字の字幕になる。つくられた字幕は──「結婚証書を忘れたといってる」  フィルムには1巻ごとに最初に0というマークがついている。フィルムを movieola という器械にかけ、せりふを聞き、画を見ながら、0をスタートにしてはかってゆく。フィルム16コマで1フィート。せりふのしゃべり始めのところのコマにそのせりふの番号を記し、しゃべり終ったところのコマにもしるしをつける。これをデルマドという。  デルマド。なんとも珍妙なことばだが、わけを聞いてみるとなるほどとなっとくがゆく。Dermatograph pencil でフィルムにしるしをつけるのをデルマドと訛《なま》ったのである。この鉛筆はガラスやセルロイドにものを書くときに使う。  デルマドをつけ終ると、せりふの長さをはかる。これを�シャクをはかる�という。シャクとはいかにも古めかしいが、メートルでなく、フィートを使っているのだから、尺貫法が出てきても不思議けないかもしれない。  リストは spotting list。スパットされたせりふの長さを1巻ごとにわけて記したリストである。  ラボからリストがとどくと、いよいよ、字幕づくりにとりかかる。2、3日から4、5日で原稿ができあがる。そこで、第2回目の試写をして、せりふの意味や口調をとりちがえていないかどうかをチェックする。この試写をヨミアワセという。  ヨミアワセがすみ、訂正すべきところを訂正して、決定稿ができあがると、カキヤさんにまわされて、字幕のカードが書かれる。カードはヤキコミならクロガミに、パチパチならシロガミに書く。  カキヤさんは文字どおりの専門職で、現在、六、七名しかいない。スーパー字幕のカードは1000枚あろうと2000枚あろうと1枚ずつ手書きで書くので、それだけでも大へんな仕事だ。スクリーンに写って読みやすい書体でなければならないのだから、どうしても経験がものをいうことになる。字がうまければだれにでもできるというわけにはいかないのである。  ヤキコミというのはフィルムに字幕をやきこむこと、パチパチはフィルムに字幕を打ち抜くことである。ヤキコミの場合は画のネガと音のネガとタイトル・ネガを3枚重ねてやきつける。パチパチは字幕のカードをフィルムと同じ大きさの銅版(あるいはアルミ版)にとり、フィルムのエマルジョン(乳剤膜)を薬液で溶かして文字を打ち抜く。フィルムをパチパチと打ってゆくのでパチパチというわけだ。こういう隠語は愛敬があってよろしい。 (挿絵省略)  ヤキコミのカードは墨をまっくろに塗ってあるのでクロガミ。これに絵具のホワイトで字を書く。何枚も書いているうちに手が墨でまっくろになる。私たちがこのカードを校正するときもおなじで、スーパー字幕屋のありがたくない仕事の一つである。パチパチのカードはまっしろなアート紙なので、シロガミと呼んでいる。  カキヤさんがカードを書き終り、校正がすむと、クロガミは現像所に、シロガミは打ち抜きの工場に渡されて、急ぐときには1日か2日、ふつうは4、5日でショゴウができあがる。  ショゴウは初号。プリントの数はふつう10本から15、6本だが、全国一斉同時封切というようなことになると百本を超えることもある。何本になろうと初号のネガからやくのだから、もし初号に間違いがあって、訂正がまに合わぬと百本とも字幕が間違っていることになる。したがって、初号は完全なものでなければならぬという意味から、最初のプリントをショゴウといわずにゼロゴウと呼ぶこともある。  ヨミアワセのときに慎重にかまえれば、わざわざゼロ号などつくらずにすみそうなものだが、人間のすることだから、どこでどんな間違いを犯しているかわからない。どうしても最初から初号をというときには、ヨミアワセを2回行う。これなら、まず間違いはありえない。時日に余裕があるときには、私は会社に頼んで、ヨミアワセの試写を2回行ってもらうことにしている。  間違いにもいろいろある。�This is my brother's house.�といっているので、�私の弟の家です�という字幕にしておくと、後で brother が出てきて、ずっと年配のじいさんだったりする。The door はたいてい�あのドア�ではなく、�このドア�だ。いろいろある間違いのなかで、だれにもすぐわかる、スーパー字幕屋のアキレス腱《けん》とでもいうべき|たち《ヽヽ》のわるい間違いをメスオスという。  メスオス──読んで字のごとく、メスとオス、女と男の間違いである。ロバート・デニーロが字幕で�わかってますわ�などといったりする間違いである。読者はそんなことを間違えるはずはないとお思いだろうが、これが結構ある。劇場に出るまでに訂正されているので観客にはわからないだけである。  それにしても、だれがいいはじめたのか、メスオスとはまさに傑作ではないか。 「試写がすんだんだけど、1枚たのみたいんだ。メスオスがあるんでね」と、カキヤさんに電話で頼んでいる。  そばで聞いていても、なんのことかわからない。   しゃれに骨折りくたびれもうけ  古い clipping をひっぱり出して整理していたら、戦争前にスーパー字幕について書いた文章が見つかった。私はもともとスーパー字幕について書くことが好きじゃない。何か書けといわれても、できるだけお断りしてきた。スーパー字幕はどうあるべきかということについても、私の考え方だけが正しいとはいえない。ずいぶん自分勝手なスーパー字幕がついている映画があっても、文句をいうひとはあまりいない。映画会社も、批評家も、劇場も、お客も、おとなしくその映画を見ている。つまり、スーパー字幕はめくじらたててどうのこうのというものではないというムードが一般的になっている。そんなムードがあるのに|かたい《ヽヽヽ》ことをいってみたところで始まらない。この本に書いているような肩の凝らぬ話題をとりあげるものはべつとして、スーパー字幕と正面からとりくむ文章はあまり書きたくないのである。  そんなわけで、clipping のなかにもスーパー字幕について書いたものはきわめてすくない。戦争前はとくにすくない。ここでお目にかけるのは昭和10年に「映画と演芸」に書いたもので、「日本版の弁──スーパーインポーズ屋の手記」というタイトルがついている。  このときも、�自分の仕事の話をするのはいやなものである。自慢か愚痴になるのが落ちだからである�と前置きをしてから本文に入っている。  最初にとりあげられているのは、早口の俳優は日本版製作者にとってありがたくない、という話で、その例としてあげられている俳優がジャック・オーキーとリー・トレイシーである。どちらも、みなさんはごぞんじあるまい。名前だけは知っていても、スクリーンでごらんになった方はごくわずかしかいないだろう。私のいままでの経験からいうとブローデリック・クロフォードがもっとも早口であったように思う。  早口でしゃべられたせりふのスーパー字幕の例が一つあげられている。ジャック・オーキーが『カレッジ・リズム』のなかでしゃべったせりふである。『カレッジ・リズム』はパラマウントの軽い喜劇映画。そのころ盛んにつくられたカレッジものの一つである。  そのせりふは── �君のような紳士録から飛び出してきたような男が、僕が美しい婦人と話しているところへノックをしないで突然やってくるとはけしからん!�  というのである。原文の英語が記されていないのが残念だ。いまだったらかならず英語も記されるだろう。こんなところにも戦前戦後の時代のちがいがあらわれている。�婦人�はおそらく lady であろう。いまは�婦人�というような言い方をあまりしない。  ジャック・オーキーはこのせりふを5秒でしゃべっている。5秒だったら字幕を18字から23字ぐらいにまとめなければならない。そこで、できあがった字幕は── �婦人と二人で話してる所を邪魔する奴があるか!�  である。3行目に2字はみ出している。字幕の文句も上出来とはいえない。場面がよくわからないのではっきりとはいえないが、次のような字幕のほうが適切であるような気がする。 �紳士ならノックしてから入るものだ� �女性と話してる所へ無礼じゃないか� �ノックしないで入るなんてけしからん� �美しい女性�は観客に見えているはずだから�ノックしないのは無礼�にポイントをおいた字幕のほうがこのせりふのニュアンスをとらえていると思う。自分のつくった字幕にけちをつけるのはどういうつもりなのかというひとがいるだろう。スーパー字幕とはそういうものなのである。私のように2000本ちかくのスーパーを手がけていても、1本手がけるごとにスーパーのつくり方に何かがプラスされて、むかしつくったスーパー字幕が気に入らなくなるのである。  話が堅苦しくなった。もっとやわらかい話をしよう。|しゃれ《ヽヽヽ》の話である。  やはりこの原稿のなかに英語の語呂合わせのしゃれをうまく字幕にできたといって、ほくそ笑んでいるところがある。  映画はおなじ『カレッジ・リズム』。リダ・ロバーティとジョー・ペナーのせりふである。リダはエキゾチックな魅力のあった3枚目女優。ジョーは舌たらずのせりふを売り物にしていた舞台出身のコメディアン。リダがいくら言い寄っても、ジョーがいつも煮え切らぬので、声を張り上げて罵《ののし》る。 �I hate you! I hate you! I hate you!�  ジョー・ペナーがこれをうけて、 �Three hates makes twenty-four.�  という。  説明するまでもないが、hate と eight のあまりうまくないしゃれである。  このせりふがどんなスーパー字幕になったかというと、 �罰当り! 罰当り! 罰当り� �三罰二十四や�  というわけである。  ジョー・ペナーのせりふの字幕が関西弁になっているのはこの映画のジョー・ペナーのせりふの字幕を全部関西弁にしたからで、ペナーのワンテンポおくれているような身体の動きと、舌たらずのしゃべり方がスーパー字幕とうまく合ったように記憶する。  語呂合わせはうまくできた。いま字幕をつくれば�罰当り�でなく�バチ当り!�とするところだろうが、とにかく、語呂合わせになっている。だが、『カレッジ・リズム』が映画館にかかったとき、この字幕が観客を笑わせたとは思えない。笑った観客がいたとしてもほんの数人で、その数人のなかの何人かは hate と eight の英語の語呂合わせがわかったひとかもしれない。語呂合わせのおもしろさはことばがしゃべられるからで、字を読まされたのでは語呂合わせにならない。  大げさないい方をすると、これはスーパー字幕の宿命である。語呂合わせだけにかぎらない。警句でも、名文句でも、苦心|惨憺《さんたん》のすえ、やっとうまいことばを見つけて、これならうけるだろうと映画館に反響を見に行くと、何の反応も起こらない。スーパー字幕はあくまで映画鑑賞のための補助工作なのである。映画をできるだけきめこまかく鑑賞できるように補助工作をほどこすのがスーパー字幕屋のつとめである。  話がまた理屈になった。もっとやわらかい話をしよう。  しゃれや語呂合わせを字幕で生かすのは難しいとわかっていても、スーパー字幕屋は何とか生かそうと苦労する。骨折り損の|くたびれもうけ《ヽヽヽヽヽヽヽ》である。そうとわかっていて、スーパー字幕屋はたえず観客の反応を気にしている。だから、思いがけない反応があったときの嬉しさはまた格別である。  ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』の初号の試写のとき、こんなことがあった。  ストーリーはごぞんじであろう。ジャック・レモンとトニー・カーティスが女装して、マリリン・モンローたちの女性バンドのなかにまぎれこむ。女装のジャック・レモンがフロリダ行の汽車に乗ろうとしたとき、列車のステップで後から来た男がレモンのお尻に手をふれる。レモンがふりむいて、�Fresh!�という。  私はこのせりふに、 �エロね�  という字幕をつけた。とたんに、試写を見ていた田村幸彦さんが「名訳じゃね」といった。田村さんは『モロッコ』にスーパー字幕をつけた大先輩で、私たちはいまでも田村さんがきめた日本語スーパー字幕のつくり方にしたがって字幕をつくっている。私にとっては師匠でもあるわけだが、思ったことをずばりと口にするくせがあり、試写中に「誤訳じゃよ」などといって、立ち会っているスーパー字幕屋をくさらせることもある。その田村さんがほめたのだから、私はことのほか嬉しかった。  この�Fresh!�は�You get fresh with me!�というのをずばりと一言《ひとこと》でいったわけで、�図々しい��なれなれしい�という意味である。こんなせりふに出っくわすと、スーパー字幕屋は�よしてよ��いやな人ね��何すんのよ�など、いろんなことばが頭にうかんで、楽しみながら字幕をつくることができる。  もっとも、�エロね�はもう古いだろう。物語が1920年代のことでも、観客はそんなことを考えてはくれない。�エッチね�とするか、それとも、思いきって�チカン!�とするか、チカンでなく、痴漢にカナをふるべきであるか、どれがいちばんよいかなどと考える苦労はスーパー字幕屋でなければわからない。  なお、私はいままで、この話を書いたり話したりしたとき、いつもマリリン・モンローのシュガーのせりふと勘違いをしていた。いつも思っていることだが、人間の記憶はまことに頼りないものだ。  われながらうまいことばを考えついたなと思っている字幕はこのほかにもいくつかある。 『ポセイドン・アドベンチャー』のなかにシェリー・ウィンタースが大ぜいの仲間を救うために、ロープを持って水のなかをもぐって行くところがある。若いときに水泳選手だったのだが年齢《とし》には勝てず、心臓をやられて死ぬ。アーネスト・ボーグナインがシェリーを抱きかかえ、天を仰いで、叫ぶ。 �Oh! God!�  私はこのせりふに �神様 あんまりです!�  という字幕をつけた。これがせりふにぴったり合った。スーパー字幕をもう50年つくりつづけているが、ここにあげたような短いせりふにぴったり合うことばを思いついたときの嬉しさはスーパー字幕つくりの楽しみの一つである。そして、この楽しみはスーパー字幕屋でなければわからない楽しみなのである。   映画に色がつき、字幕屋ハリウッドヘ行く  昭和14年。日本が中国進出──ではなくて侵略の軍を大陸の奥まで進めた年である。ヨーロッパではヒトラーがポーランドに進駐、第二次世界大戦の火蓋《ひぶた》が切って落とされた年だ。  この年、私はパラマウント日本支社の翻訳部長をつとめていた。アメリカ映画は輸入本数を制限されていたので、暇をもてあましている日が多かった。  9月末のある日の朝、私はウィリアム・パイパー日本支社長に呼ばれた。何ごとであろうと支社長室に行ってみると、パイパー支社長がいった。 「シミズさん、撮影所まで行ってくれませんか」  パイパーさんは神戸育ちで、日本語がうまかった。  パラマウントはPCL撮影所(東宝の前身)を使ってロイドの『足が第一』の日本語吹き替え版をつくったことがある。またそんな用事でもできたのかと思い、 「いいですよ。いますぐですか」  と聞くと、 「ちがいます。ハリウッドです」  と、パイパーさんがいった。  映画がブラック・アンド・ホワイトからカラーにうつろうとしていたときで、各社とも、カラーのプリントに字幕を入れるのに苦労していた。パラマウントは『丘の一本松』�The Trail of a Lonesome Pine�(シルビア・シドニー、フレッド・マクマレー、ヘンリー・フォンダ)の日本版をつくるとき、日本で字幕のカードを書き、ハリウッドに送り、テクニカラーの工場で日本版をつくった。プリントができあがって送られてきたのを見ると、画面の右の端の字幕が出るスペイスを短冊《たんざく》のようにかこい、そのなかに字幕が焼きこまれてあった。字幕ははっきり読めたが、短冊が邪魔になって見苦しく、ほめられたできばえではなかった。  パラマウントは新年の大作『翼の人々』�Men with Wings�(フレッド・マクマレー、レイ・ミランド)を持っていた。これがカラーで、字幕をきれいに入れる方法をテクニカラー工場に研究させていたところ、新年の封切に間に合わせるには翻訳者をハリウッドによこし、カードをこちらで書かせなければならぬといってきた。そこで、私がハリウッドに派遣されることになったのだった。  まだ旅客機は太平洋の空を飛んでいなかった。船で太平洋を渡るだけで12日かかる。当時の日記を見ると、10月7日午後6時に日本郵船平安丸で横浜を出港、19日午後4時シアトル着、その夜11時半の列車に乗り、オークランド・ピアとサンノゼで乗り換えて、21日の夕方、ハリウッドに着いている。2週間かかっているわけだ。北太平洋を渡るシアトル航路でなく、南のサンフランシスコ─ロサンゼルス航路で行けば鉄道を用いないですむのだが、距離が長いので、サンフランシスコまで2週間かかる。どっちにしても、往復およそ1ヵ月。こんな時代があったのである。  ホテルはハリウッド・ブールバードの�クリスチー�だった。ハリウッドでは二流どころのホテルで、月ぎめで60ドル。いまなら1日60ドルだ。  翌22日、パラマウント撮影所に行き、宣伝部長ルイジ・ルラスキと仕事のスケデュールの打ち合わせ。撮影所には外国部がなく、ニューヨーク本社の外国部でスーパー字幕の仕事をしていたルラスキが経験を買われて窓口にえらばれたのだった。私とはとくに親しかった。いろいろと面倒なことの多い仕事なので、ルラスキが窓口になってくれたことは大いに好都合だった。  午前中に�Men With Wings�の試写を見て、せりふのハコガキをすませ、スパッティングをたのんだ。午後、ロサンゼルスのリトル・トウキョウに行き、羅府新報社をたずね、タイトル・ライター募集の広告を依頼した。  これで仕事の準備が整ったわけだ。おそらく、ルラスキの計らいだったと思うのだが、私はニューヨーク本社外国部の客員待遇ということになっていて、二部屋続きのオフィスが用意されていた。撮影所の特別試写に入場できるパスも渡された。このパスは月曜用と火曜用の2枚あって、月曜はパラマウント映画の新作、火曜は他の撮影所から話題になりそうな新作を借りてきて試写するのだった。このパスを持っている日本人はめったにいないから、ここでお目にかけておく。活字が小さいので読みにくいが、This admits bearer and ONE ONLY to each Monday(Tuesday)night showing in Studio Theatre.(8:30 p.m)と書いてある。Bearer and one だから、女の子をつれて行ってもよろしいわけだ。Permanent Pass と特にことわってあるのがこの種のパスとしてはいささか変わっている。  スーパー字幕の原稿は、毎日撮影所に出かけて、あてがわれたオフィスでつくった。ホテルに持って帰って仕事をしたこともあった。  ──部屋を暗くして、desk lamp だけで仕事をしていると、America に来ているような気がしない。  などと日記に書いてある。  羅府新報に申しこんだタイトル・ライター募集の広告は24日の新聞に載った。25日の朝から、応募者が撮影所に現れはじめた。ニューヨークでスーパー字幕をつくっていたときも邦字新聞に広告を出してライターを募集した。日本人の数が多いロサンゼルスだから、簡単にきめられるだろうと思っていたのだが、いざとなると一長一短でなかなかきめかねた。27日になって、やっと寺尾重雄という青年にきめた。広島商業出身。実兄がサンフランシスコで宣教師をしているということだった。  字幕の原稿は11月3日に全部できあがった。原稿ができてもカードを書くのに時間がかかるのだから、日本で仕事をしているのとちがい、仕事はなかなかはかどらない。全部のカードをテクニカラー工場に渡すまで私の仕事は終りにならないのだ。  寺尾君が書いたカードの1巻目を工場に渡したのは11月1日だった。最初のうちは何枚も書き直していたが、3日目あたりから書体がまとまって、その後はかなりスピードが出るようになり、11月10日に全部書きあがった。  そのころ、ブラック・アンド・ホワイトの映画だったら、書きあがったカードを工場に渡してから遅くとも3、4日後にスーパー字幕入りの初号ができあがっていた。テクニカラー工場はその点きわめて慎重で、いつ初号を見られるのかと尋ねても、はっきりした返事をくれなかった。  字幕が日本語であることがネックの一つだった。フランス語やイタリー語ならわかる人間がいるし、わからなくても見当がつく。日本語ではそうはいかない。テスト・プリントを焼いてみて、間違った字幕が入っていても、だれも間違いを指摘できない。技術的にOKだと、間違った字幕のままの初号ができあがる。  私は工場の責任者に会って|じか《ヽヽ》に説明しておきたい、とルラスキに申し出た。スパッティング・リストに字幕の日本語の最初の4、5字を書き添えてある。リストの日本語とフィルムに焼きつけられた日本語の最初の4、5字が合っていればよいわけだ。念のため、このことをじかに話しておきたい、と申し出たのである。 「とんでもない。テクニカラー工場にはぼくも入れないんだ。よく話しとくから、まかせといてくれたまえ」と、ルラスキはいった。  パラマウントの人間のうち、テクニカラーの工場に入れてもらえるのはほんの数人であるという。私が何を見ようと、テクニカラーの秘密を盗めるわけではない。なんとも融通のきかぬ話だが、来てくれては困るというのだから無理押しするわけにはいかぬ。  初号をいつ見られるのかわからないのに、いつまでも滞在しているわけにいかない。11月21日にロサンゼルスのサンペドロ港を出発する日本郵船浅間丸の船室を予約して、20日まで待っていたが、初号を見ることはできなかった。  浅間丸は、サンフランシスコとハワイに寄って、12月8日に横浜に着いた。  平安丸が横浜を出港したのが10月7日だから、たっぷり2カ月かかっている。航空機時代しか知らぬ諸君にはまったく夢のような話であろう。 �Men With Wings�の初号プリントは12月中旬に日本に着いた。期待の大作なので、試写室の空気はかなり緊張していた。私は不安のほうが強かった。まず、字幕の書体がどんなふうに写るかが気になった。そして、字幕がずれていないかがもっと気になった。  書体はまずまずで、一応及第だった。字幕のずれもなかった。いささかほっとして、最後の11巻目になった。最初の字幕が脱落していて、11巻目の字幕が全部1枚ずつずれていた。『翼の人々』は正月興行を|おろされ《ヽヽヽヽ》、ずっと後になって、訂正されたプリントが着いてから封切られた。   寝台飛行機でハリウッドヘ飛んだ話  昭和14年の秋に『翼の人々』のスーパー字幕をハリウッドまでつくりに出かけたのと同じような出来事がもう一度あった。  こんどは戦後のことだ。  昭和32年、ユナイテッド・アーティスツと松竹が『八十日間世界一周』を邦楽座で封切ることになった。最初のトッドAO方式の映画である。そのころ、大型映画(シネマスコープ、シネラマなど。トッドAOもその一つ)のスーパー字幕は日本ではつくれなくて、字幕カードをハリウッドに送って、向こうの現像所でつくっていた。ところが、『八十日間世界一周』は急に封切がきまって、試写用のプリントを待っていたのでは封切に間に合わなくなり、私がハリウッドまで試写を見に行って、字幕の原稿をつくることになった。  つまり、私は昭和6年、映画が音と声を持ったときにニューヨークに行き、昭和14年、色彩が加わったときにハリウッドに行き、昭和32年、こんどは映像が横に広がったのでまたハリウッドに行くことになった。映画の形式に変革が起こるたびのアメリカ行きだったわけだが、その後は大きな変革がなく、私の出稼ぎ仕事もやっとご用ずみになった。  このときのハリウッド行きは戦前の昭和14年のときとちがい、船ではなく、飛行機だったので、2カ月以上も日本を留守にしないですんだ。羽田(まだ成田ではなかった)を5月14日に出発、6月10日に帰国している。  昭和14年に『翼の人々』のスーパー字幕をつくりに行ったときはパラマウント社員だった。こんどはユナイテッド・アーティスツの依嘱で出かけたので、待遇がよかった。飛行機はファースト・クラスで、驚いたことに寝台がついていた。  おそらく、まさかというひとがいるだろう。そのころの日航のサンフランシスコ線には寝台がついていたのである。飛行機はダグラスDC─6B。いまの旅客機には頭上にコートやバッグを入れるところがある。あのハンガーを引き出すと寝台になっていて、寝るときはハシゴをかけてよじのぼるのである。  日航のパンフレットを見ると、次のように出ている。  Want a berth? JAL's "Courier" are equipped with several deluxe full berths. If you wish even more luxury, we'll take care of it for you for a slight additional charge.  近ごろ、フィリピン航空が Our unique, full-length beds というのを盛んに宣伝して、First in Asia と書いているが、これはうそである。  それにしても、大勢の乗客が見ているなかでハシゴをよじのぼるのはかなり度胸のいることだった。ハシゴの下で靴を脱ぎ、幅のせまいハシゴをおそるおそるのぼって、鎖でぶらさげられているベッドにもぐりこみ、きゅうくつな想いをして上着を脱ぎ、ネクタイをとる。ズボンまで脱ぐ気にはなれなかった。だいいち、日本人より外国人のほうが多い乗客のなかで寝台をとったのは私一人だったのである。  当然のことながら、いまのジェットよりはるかに時間がかかった。運航速度もおそかったが、ウェイク島とハワイのホノルルで給油、ウェイク島で1時間、ホノルルで3時間、合計4時間をすごしている。  ウェイク島で給油というのは初めて聞くひとが多いだろう。ウェイク島は戦前からの無電の中継基地で、車で40分もあれば1周できる小さな島だ。太平洋戦争のときに日本軍が占領、米軍が奪い返した。日本軍のタコツボの跡がいたるところに残っているだけでなく、輸送船に使われた日本郵船の箱根丸が座礁したまま�名所�として残されてあった。  日航はロサンゼルスまで飛んでいなかったので、サンフランシスコでユナイテッド航空に乗り換えた。ロサンゼルス空港に着いたのは夜の8時ごろだった。松竹の宝田ロサンゼルス支社長が迎えに来てくれて、サンセット・ブールバードの�ローズベルト・ホテル�におちついた。 �ローズベルト・ホテル�はいまは格が落ちたが、アカデミー賞の第1回セレモニーが行われた由緒あるホテルである。いまでも映画関係の宿泊者が多い。  翌日から『八十日間世界一周』のスーパー字幕の仕事が始まった。  まず、ユナイテッド・アーティスツのハリウッド・オフィスに行き、仕事の手順を聞いた。オフィスはゴールドウィン撮影所の中にあり、�ローズベルト・ホテル�から歩いて7、8分の距離だ。仕事はここでするのでなく、トッドAOの映画製作部でするのだった。  トッドAOの映画製作部はラブレア街にあって、ここもホテルから歩いてすぐだった。こぢんまりした建物で何の飾りもない鉄の門のわきの標札に�The TODO AO CORP. Motion Picture Prod. Division�と記してある。  私はここで仕事の打ち合わせをする前、コーヒーを飲みながら雑談をしていたとき、ここがもとチャールズ・チャプリンの撮影所だったと聞いて、とたんに嬉しくなった。これから何日間かここで『八十日間世界一周』のスーパー字幕の仕事をするわけだ。かつてチャプリンがプロットを考え、コンティニュイティをつくり、カメラをまわしたおなじ撮影所で仕事をするのだ。映画学徒だったころに味わったような感動が心のすみにわきあがった。中学・高校のころに培《つちか》われた映画への愛情はいつまでも消えぬものとみえる。  チャプリンの撮影所をマイケル・トッドが作戦本部にしていたのも興味のあることだった。チャプリンはいわば映画芸術の使徒であり、マイク・トッドはショウマン的映画プロデューサーの旗手だった。映画に対する情熱に変わりはなくとも、二人が歩んでいる道は大きくへだたっていた。  私が仕事をしていたあいだ、マイク・トッドは旅行中で、会う機会がなかった。部屋を見るかといわれて、主人のいない部屋を見せてもらった。ちょっとした美術骨董店の店先だった。世界各国の飾り戸棚、椅子、ランプ・スタンド、壁かけ、置き物などがすぐ目に入った。ひときわ異彩を放っていたのが日本の鎧《よろい》だった。 『八十日間世界一周』のスーパー字幕の仕事については、いままで何回も話しているスーパー字幕の仕事とおなじなので、とくに語ることはない。ただ、『翼の人々』のときとちがい、原稿を次々に日本に送り、日本で字幕カードを書いてハリウッドに送ってくるという手順だったので、新聞広告でカードのライターを捜すという手間をかけないですんだ。飛行機で太平洋を飛べるようになったおかげである。  トッドAOのプリントを映写するにはとくべつのレンズが必要で、試写を見るときはMGM撮影所まで出かけなければならなかった。最初の箱書のときと原稿の読み合わせが2回、結局、MGMへは3回かよった。  原稿は日本から持っていったスーパー用原稿用紙(スーパー字幕は1行10字だが、11字詰めになっている)を使って書いた。これがまずかった。航空便が高くつくと文句をいわれた。タイプライター用紙のようなうすい紙にぎっしりつめて書けばよかったのである。  こんなところは、日本もアメリカもおなじだ。映画1本に何億、何10億とかけながら、ときどき、このようなこまかいことをいう。これが映画稼業なのだ。 『八十日間世界一周』の初号プリントは『翼の人々』のときのような間違いがなく、気をもんでいたユナイテッド・アーティスツと松竹の関係者たちをほっとさせた。  ところが、邦楽座の初日が近づいたころ、思いがけないことが起こった。マイケル・トッドが飛行機事故で亡くなったのである。飛行機は自家用だったが、夫人のエリザベス・テイラーはいっしょではなかった。  私がトッドの事務所で仕事をして帰国したばかりだったのを聞き伝えて、朝日新聞社から取材の電話がかかってきた。私はトッドの事務所がチャプリンの撮影所だったことなどをまじえて、事務所のひとたちから聞いたさまざまのことを電話で話した。  マイケル・トッドは伝記作家を一人、いつもそばにおいて、暇があると生い立ちからのことを話していた。その作家は飛行機事故のときもいっしょだった。  朝日新聞の記事はふつうの死亡記事でなく、社会面の|かこい物《ヽヽヽヽ》で、型破りの人物マイケル・トッドらしく自分の伝記作家といっしょに死んだと書いてあった。それはよいのだが、�事故直前にトッドに会って、最近帰国したばかりの映画評論家清水俊二氏が語るところによると�と、よけいな前置きがついていた。   重役会議で字幕を検討の『ニューヨークの王様』 「先生、こんどの字幕、せいぜいエッチで頼んまっせ」  Bedroom farce ──�寝室喜劇�というレッテルをはられるような映画の仕事を頼まれると、ときどき、こんなことをいわれる。そんなときには、字幕づくりのルールにはずれないかぎり、できるだけご要望に添うようにつとめている。  いつもいっていることだが、スーパー字幕の仕事はフィルムに加工をほどこし、映画を商品として売れるように仕上げる過程の一つにすぎない。与えられた権限のなかで自分の持ち味を見せるのは結構なことで、また、見せるべきでもあるが、注文主のいうことには一応耳を傾けなければならぬ。私は50年間、そういう方針でスーパー字幕をつくってきた。  ここでは、その実例を一つお話ししたいと思う。といっても、エッチな字幕をつくった話をするのではない。字幕の注文主の要望にもいろいろあるが、ここに紹介するのは私のところに要望を伝えてくる前に重役会議を開いて、どういうことを注文するかをきめたという話である。  とにかく、50年にわたってスーパー字幕をつくっているのだから、ずいぶんむりな注文をつけられたこともある。苦心惨憺、もとの英語のせりふを三分の一から四分の一の長さに縮めて、なんとか意味の通じる字幕をやっとつくったのに、もとのせりふと違いすぎると文句をつけられる。字幕が長くなってとても読み切れないといってもわかってくれない。こんなときは絶対に妥協しない。長すぎて読み切れない字幕をつくってはスーパー字幕屋として失格である。  イタリー映画を専門に輸入していたイタリーフィルムという会社があった。そこの社長のストラミジョリ女史と「ここに字幕を入れてください」「いや、ここは入れないほうがいいのです」というような議論を延々とつづけたこともある。ストラミさん(と私たちは呼んでいた)は日本の大学で日本の中世文学を勉強していたので日本語が巧《うま》かった。  映画はビットリオ・デ・シーカの『終着駅』。議論になったのはローマの終着駅のプラットフォームや待合室で人々が「こんどの列車は何番プラットフォームから出るのですか」とか「彼はまだ来ていないのかしら」とかいっているのを字幕にするかしないかということだった。だれがしゃべっているのかはっきりわからず、耳をすまして聞かないと聞きとれないせりふである。ストラミさんはすべてのせりふを伝えるのが日本の観客に対しての親切であるという。私がデ・シーカの意図は雰囲気をつくろうとしただけで、聞こえる会話は音響と同じだといっても、|あと《ヽヽ》に引かない。ストーリーに直接、関連のないせりふは�雰囲気�として耳に入ってくるのならいいが、字幕にすると印象が強くなるので、観客によけいなことを考えさせ、鑑賞の邪魔になる。字幕を入れないほうがお客に親切なのですよ、とやっとストラミさんを納得させたが、私のとった処置はスーパー字幕屋として当然のことだった。  ところで、これからお話しするのはだれにもちょっと想像のつかぬめずらしい出来事で、こんなことは二度とあるまいと思う。  昭和34年のことだった。映画界が勢い盛んだったころで、とくに外国映画は輸入本数がいまよりはるかに多く、観客が毎年ふえつづけていた時代だった。そんなときに電鉄とデパートの東急が外国映画輸入に乗り出し、最初の大作としてチャールズ・チャプリンの新作『ニューヨークの王様』をえらんだ。  チャプリンがまだアメリカでは�好ましからざる人物�になっていた時代で、アメリカのメイジャー映画の各社は手を出さず、外国映画を輸入していた東和、NCC、松竹の各社は欲しいことは欲しいがお値段が高くてというところだったらしい。東急は外国映画市場に新しく乗りこむのだから、目玉商品がなくては押しがきかない。そこで、値段が高いのを承知で買いつけたというわけだ。 『ニューヨークの王様』は後年、東和が�チャプリン・フェスティバル�のなかの1本として再輸入しているから、見ているひとが多いと思う。ヨーロッパの小国の王様が革命さわぎで国を脱出、ニューヨークに亡命してくる話である。チャプリンがどの映画でも封建主義、独裁主義、資本主義に反対の立場をとっていることはごぞんじであろう。この映画にもそのことに関連したせりふが出てくる。  東急が映画の仕事を始めたとき、東宝にいた三橋哲生が入社して、興行、宣伝の指揮をとった。三橋君はそのころの東宝ではベテランの一人で、早大出身、映画を経営経済学の立場でとりあげた卒論を書いたという人物。私とは年輩が同じで、酒を飲みながら映画を語り合う仲だった。残念なことに、50代の働きざかりで世を去った。  昭和34年3月のある日、三橋君から至急会いたいという電話がかかった。さっそく、渋谷の東急文化会館の事務所に行ってみると、──まだ発表はできないが、チャプリンの『ニューヨークの王様』を輸入することになった。ついては、何もわからないので、日本版スーパー字幕の面倒をみてもらいたい。すべてまかせるから、内密で仕事をすすめて、初号プリントをつくってもらいたい。みんなで初号プリントを見て、それからどういう売り方をするか、作戦をたてる──という話だった。  東急としては一つの賭《か》けであった。チャプリンの映画はしばらく途切れていたし、『ニューヨークの王様』がどんな映画なのか、だれも見ていないのだから、見当がつかない。しかも、値段が高い。玄人が手を出しかねている作品を映画業界ではまだ一年生の東急が扱うのだから、三橋君が気をもむのもむりはない。私は三橋君のために一肌脱ごうと思い立ち、時間をたっぷりもらい、とくに念入りに仕事をした。いつも急がされる仕事ばかりしているので、時間をかけた仕事の初号ができあがるのが楽しみで、待ち遠しかった。そんなときに、三橋君からまた電話がかかった。困ったことになったので、会って話をしたい、というのだ。  何事が起こったのだろうと東急文化会館に出かけて行った。「チャプリンのニューヨークの王様 スーパー台本」という邦文タイプで58ページの印刷物ができていて、三橋君がいいにくそうに話を始めた。初号の試写を東急の重役たちと幹部社員だけで見て、スーパー台本を検討することになった。まことに申しわけないが、べつにあんたのための試写をするから了承してくれ、というのだ。東急が慎重にかまえているのはよくわかるので、私としても異存はなかった。  こんなわけで、『ニューヨークの王様』のスーパー字幕つきのプリントの第1回試写はスーパー字幕をつくった私が立ち会わずに、東急の役員や幹部社員など、ここ数年映画を1本も見ていないという連中をふくめて、およそ四十名ほどの�大試写会�になった。  スーパー初号を限られた人間だけで見るというのはとくに珍しいことではない。作品の内容が異色で、どういう方針で売るかを検討しなければならないときに�関係者以外入室お断り�の試写が行われる。『エレファント・マン』がそうだった。あの大ヒットになった映画も、�関係者�だけの試写で輸入がきまった段階では、観客がどこまでついてきてくれるか、だれも確信を持てなかったのだ。  とにかく、重役会議を開いてスーパー字幕を検討したのは後にも先にも『ニューヨークの王様』ただ1本である。スーパー字幕検討のために58ページにわたる�スーパー台本�を印刷したことも、私の50年にわたるスーパー字幕屋生活をふり返ってみて、ほかに例がない。  角川映画『人間の証明』『復活の日』の仕事をしたとき、みんなでスーパー字幕を検討するためにリストをつくったが、このときは字幕のカードをコピーして、大きな紙に順番にならべて貼った。字くばり、書体などがよくわかって、検討するにはこのほうが都合がよい。  ところで、重役たちがどんな意見を出したか、その一部を紹介しておく。まず槍玉にあがったのが�共産党��共産主義�という字句だった。すべて�アカ�としてもらいたいというのである。字幕をつくっているとき、数名の中学生に聞いてみたら�アカ�を知らぬのがいたので�共産党�としたのだが、要望のとおり�アカ�に直した。  次にどういうわけか、�米国�という字句が気になったらしい。非米活動調査委員会という実在の団体の�非米�を�反国家�としてくれといい、�米国政府の保安官です�という字幕の�米国�をとってほしいといってきた。これもそのとおりに直した。  いちばん物議をかもした字幕は、天才少年と王様が問答をするシーンに出てくる次の4枚であった。  企業はすべて独占されてます  トラストに対抗できますか  チェインストアに対抗できますか  独占は自由主義の敵です  東急はデパートを経営しているので、重役たちはびっくり仰天したらしい。だが、この程度のことで物議をかもすのはおかしい。ふだん映画を見ていないからだ。ここは私の意見を述べ、永年の経験を信頼してくれとたのんで�対抗�を�競争�に変えただけですませた。  半世紀もスーパー字幕をつくっていると、こんな珍妙なことにも出合うのである。   どうしてもうまくいかないときもある  このところ、太平洋を船で渡ったり、旅客機で飛んだりするスーパー字幕屋生活篇がつづいたから、今回は久しぶりにセミナーを開きたい。急に思い立ったので生徒さんたちに連絡しているひまがない。生徒さん抜きで、私の話だけを聞いていただく。  教材は廿世紀フォックス映画�Kiss Me Goodbye�。1983年2月発売のバリバリの新作で、日本題名はまだきまっていない。ロバート・マリガン監督。主演は『ノーマ・レイ』でアカデミー主演女優賞をとったサリー・フィールド。ジェイムズ・カーン(『愛と哀しみのボレロ』)、ジェフ・ブリッジス(『天国の門』)という強力な助演男優陣。『駅馬車』『キイ・ラーゴ』で場面をさらった名脇役女優クレア・トレバーが元気な姿を見せているのが嬉しい。  映画は女性雑誌のコピー・ライター、ケイ(S・フィールド)が3年間閉め切っておいた家に戻ってくるところから始まる。ケイはミュージカル俳優だった夫のジョリー(J・カーン)が急死したときに想い出の残る家を閉めたのだが、考古学を専攻しているルパート(J・ブリッジス)と結婚することになり、この家に住むつもりで戻ってきたのだ。ケイが家具のカバーをとり除いていると、ジョリーの幽霊が現れる。ジョリーの姿はケイだけに見えて、他の人々には見えないという趣向である。登場人物はこの三人のほかに女性雑誌の編集長エミリー、ケイの母親シャーロット、ルパートの友だちのもと神父だったケンドールなど。  実習に入ろう。まず、ケイの回想の場面。ジョリーがトニー賞のお祝いパーティで挨拶をするところである。  Jolly :(98)I'd like to start by thanking Hal Prince and Steve Sondheim for not producing a play this year.(20-22) 〔(98)は字幕の番号。(20-22)はスーパー字幕の字数〕  このせりふを直訳すると�私はまずハル・プリンスとスティーブ・ソンドハイムが今年は作品を出さなかったことに感謝したい�となる。これはアメリカでは大いにうけるせりふである。Harold Prince は『屋根の上のバイオリン弾き』『キャバレー』『パジャマ・ゲーム』のプロデューサーで、演出も手がける。現在、名実ともにアメリカのミュージカルの世界のナンバー・ワン的存在。 Steven Sondheim はミュージカルの作曲家。『ウエストサイド物語』『ジプシー』などの作品があるほか、『リトル・ナイト・ミュージック』�A Funny Thing Happens on the Way to Rome�でプリンスと組んでいる。つまり、プリンスとソンドハイムが組んで作品を出していたらトニー賞はこっちにまわってこなかっただろうという意味である。  さて、これをどんなスーパー字幕にするか。日本の観客でプリンスとソンドハイムを知っている人は限られている。だいいち、二人の名前だけで10字使ってしまう。原文を尊重していたのでは字幕をつくれない。そこで、ジョリーがミュージカル俳優であることを観客に徹底させる意味をふくめて、  98 私はまずこのミュージカルの作者に感謝したい  とした。原文とはまるで違うが、やむをえない。こんな場合もあるということを知っておいていただきたい。なお、この字幕は21字あるが、1行目をつめて2行に書いてもらった。  Kendall :(54)Ask me you're making a big mistake. Marriage is the pits.(9-12)  Rupert :(55)You were a priest. Is that what you told people?(11-14)  Kendall :(56)No, that's what they used to tell me.(5-7)  ルパートが結婚すると聞いて、友人のケンドールが「悪いことはいわない。やめたまえ」といっているところだ。ケンドールがもと神父だったという設定がここだけでなく、何回もギャグに使われている。Pitsは�おとし穴、地獄の底、奈落�という意味。(98)は難しかったが、この三つのせりふならみなさんもスーパー字幕につくることができる。  私がつくった字幕を見る前にひとつ頭をひねってごらんなさい。スーパー字幕つくりの|こつ《ヽヽ》がいくぶんでもわかると思う。  私がつくった字幕は次のとおり。  54 後悔するよ 結婚は墓場だ  55 神父だった君がいう言葉かい  56 実例を見てる �結婚は墓場�といういい回しがあることはごぞんじであろう。少々苦労したのは(56)で、(55)の字幕から神父が結婚式を執り行うことを連想していただかぬと生きてこない。「いや、向こうが私にいうんだ」という原文の面白さを伝えられないのが残念である。  Kendall :(135)It does exist. It's called by many different names.(136)They call it Satan, Lucifer.(137)They call it the Demon. El Diablo.  ルパートに「悪魔は実在するのか」とたずねられて、ケンドールはこう答える。ここで話題にしたいのは devil をさまざまの名で呼びかえていることである。映画にはこのような例がしばしば出てくる。こんなとき、日本語でもさまざまの呼び方があるものなら苦労はいらぬが、 devil とか angel とか西欧的発想のものの場合はすぐわかる日本語の呼び名をならべることができないので困る。悪魔の場合、むりをしても悪鬼、羅刹《らせつ》、夜叉《やしや》ぐらいしか頭にうかんでこない。このなかで使えるのは悪鬼だけであろう。  そこで、ここのスーパー字幕は次のようになっている。  135 実在する 多くの違った名で呼ばれてる  136 サタンとも 悪鬼ともいう  137 デモン ディアブロとも  こんな場合には呼び名を考えて頭をひねってもむだである。羅刹、夜叉など、ふだんお目にかからぬ文字をならべるくらいなら、デモン、ディアブロという呼び方もあるということを知っていただくほうがよほど気のきいた字幕のつくり方なのである。  気のきいた字幕のつくり方といったが、どう苦心しても気のきかない字幕しかつくれなくて情けない思いをすることもしじゅうある。前掲のハロルド・プリンスとスティーブン・ソンドハイムの場合もその1例だが、次のような場合もある。  Kay :(85)Thanks for coming. I know you're busy.(8-11)  Emily :(86)The Magazine can live without me for an afternoon.(8-11)  この二つのせりふの字幕は、  85 忙しいのに悪いわね  86 雑誌は潰れやしないわ  としてある。(85)についてはとくに記すこともないが、語尾に気をつかったところを買っていただきたい。問題は(86)にある。  原文がいかにも頭の切れる女性編集者らしいうまいせりふで、そのうえ、エミリーが『駅馬車』以来ごひいきすじの多いクレア・トレバーなので、なんとかみなさんに喜んでもらえる字幕にしたかったのだが、限られた字数では妙案がなく、ごらんのとおりのそっけない字幕になった。こんなせりふを字幕にするのはスーパー字幕屋の楽しみの一つでもあるのだが、この字幕のようにうまくいかないで歯がゆい思いをさせられることのほうが多い。  ところで、昭和57年2月5日、読売新聞の朝刊に、河竹登志夫早大教授が「吹き替えは映画を殺す」という文章を書いている。NHKが『望郷』『ブルク劇場』などをスーパー字幕つきで放映したのを見て、吹き替えが�外国人の話しことばのトーンや間《ま》や情感、つまりは外国映画にしかない味わい、ムード──といったもの�を犠牲にしていることを改めて痛感したというのである。  そして、昨年の歌舞伎のアメリカ公演がヘッドホンによる同時通訳で成功したことにふれ、歌舞伎通のパワーズさんの�せりふの意味内容を最小限に、簡潔に伝えたにすぎない�同時通訳が�映画における字幕と同じ効果をあげた�からだと説明している。  パワーズさんの同時通訳で歌舞伎がアメリカ人の観客にわかってもらえたという河竹教授説はよくわかる。だが、映画における字幕がこれと同じ効果を果たしているといっているのはあたっていない。スーパー字幕はナレーターの�同時通訳�とちがい、せりふを字幕におきかえたもので、しゃべっている俳優の人格がうつされていなければならないからである。外国語がわからない観客には俳優がスーパー字幕をしゃべっているのとおなじなのである。だから、ここにとりあげたような例にぶつかるたびに、スーパー字幕屋は制約に縛られて仕事をしていることを歯ぎしりして口惜しがるのである。   野球とミュージカルはお任せください  春になると野球のシーズンが始まる。  スーパーの話にいきなり野球の話がとび出しては怪冴《けげん》な顔をされる向きもあるだろう。ごもっともであるが、いままで春になって野球のシーズンが始まるときまって頭にうかんできた顔が今年はなくなった。亡くなった高瀬鎮夫君の顔だ。  高瀬君はいうまでもなくスーパー字幕の名手で、私が知っている英語の達人たちのなかのトップ・グループの一人だった。その高瀬君が野球英語に関してだけは私に頭が上がらなかった。何人か集って野球の話に花を咲かせているところに高瀬君がやってくると、 「清水さんがいるところで野球の話をしてはいかんですよ」  かならずこういった。私が野球──とくにアメリカの野球の話となるといささかうるさいことをからかっているわけだ。  私は1931年から33年にかけてのヤンキースの第2期黄金時代にニューヨークにいて、アメリカ野球の面白さにすっかりとり憑《つ》かれた。スポーツ誌をすみからすみまで読んだり、文献を調べたりしているうちにますます興味がわいてきて、1933年のシーズンが始まったばかりの5月に日本に帰らなければならなくなったのがほんとうに残念だった。  戦後の昭和24年、野球雑誌ブームがあったとき、友人たちと出版社をやっていたので、野球雑誌に手をつけた。雑誌の名は『野球日本』で2年ほどつづいた。このときは他の野球雑誌がまねのできないアメリカ野球の記事を載せて得意になっていた。  こんなわけで、野球英語に関してだけはさすがの英語の達人高瀬鎮夫君も私に一目《いちもく》おいていた。ちょうど高瀬君が『くたばれ!ヤンキース』�Damn Yankees�のスーパー字幕の仕事をしていたときだった。私の野球英語の知識が役に立つ事態が持ちあがった。 『くたばれ!ヤンキース』は昭和33年に公開されているから、30年ほどむかしの話になる。ブロードウェイのヒット・ミュージカルの映画化で、強いニューヨーク・ヤンキースが憎くてたまらぬ男が主役なので、野球用語がふんだんに出てくる。野球にあまり関心のない高瀬君にもふつうの野球用語なら辞書をひかないでもわかる。どうしてもわからぬのが一つだけあった。�Three for three�である。  これもアメリカ人にはふつうの野球用語といっていいだろう。�3打数3安打�ということだ。高瀬君が「これはどういうことでしょう」と私にたずね、私が野球とミュージカルのことならなんでも聞きなさい、と得意になって高瀬君に教えたのは後にも先にもこのとき1回きりである。  日本のプロ野球では1試合にヒットを3本打つと猛打賞というのをもらえる。ヒット3本が猛打賞の条件になっているわけだ。�Three for three�なら3回打席に立って3回ともヒットを打ったのだからまちがいなく猛打賞であるわけだが�three for three�がよく使われるのは three という数が口にのせたときにひびきがよく、それが二つ重なってリズム感が生まれるからだろう。3 Men on a Boat, 3 Musketees. 3 Blind Mice, 3 Bad Men など、 three を使った小説や物語の題名も多い。 �Three for three�を正確にいうと、�three hits for three times at bat�ということになる。  スーパー字幕屋に雑学的知識が必要であることはいつもいっている。野球はアメリカ市民の生活に深く浸透しているので、映画のなかの日常会話に野球用語が出てくることはめずらしくない。アメリカ人だったら�three for three�がわからぬ人はほとんどいないだろう。ところが、日本人の場合は高瀬君のような英語の達人にも思いがけぬ盲点がある。  私の仕事仲間に日本よりアメリカのテレビ業界で顔がきいている藤田和彦という人物がいる。毎年数回アメリカに行き、アメリカ人と対等に話し、アメリカ生活にもなれている。この藤田君に、�High and Inside, Complete Guide to Baseball Slang�という本を買ってきてもらおうと頼んだところ、こころよく引きうけてくれたのだが、 high and inside って何ですか、とたずねられた。藤田君は高瀬君同様、野球にほとんど興味を示さぬ人間だが、これはアメリカ人なら当然知っていることばなのである。 �High and inside�──読んで字のごとく、ホームプレートに立っている打者にとって内側の高い球、つまり、投手が打者を脅かそうとして投げる bean ball のことである。 『くたばれ!ヤンキース』よりさらに数年前に『ベーブ・ルース物語』�Babe Ruth Story�という映画があった。この映画のスーパー字幕に訳者が意味がわからぬまま訳しているのがあって、気になった。この映画の字幕は高瀬君ではない。ほかのことならよけいな口出しはしないのだが、野球のこととなるとつい黙っていられなくて、配給会社の松竹にその旨を申し入れた。松竹はさっそく訂正してくれたので、この間違いは観客の目にはふれなかった。 �I think they have a chance to make the first division this year.�というようなせりふだったと思う。�First division�がわからなくて、奇妙な字幕になっていたのだ。�今年はAクラスになれそうだよ�という意味なのである。  ベーブ・ルースのころのアメリカのプロ野球はナショナル・リーグもアメリカン・リーグも8チームずつで合計16チームだった。現在は両チーグとも東地区、西地区にわかれていて、合計26チームある。  8チームの1位から4位までが first division、5位から8位までが second division なのである。日本のAクラスBクラスという呼び方がこれにぴったりあてはまる。 First division, second division の意味がはっきりわかっていれば、AクラスBクラスという訳語がすぐ頭にうかぶはずだ。だれがいい始めたのか知らぬが、うまいことばをつくっておいてくれたものである。  だいたい、われわれ日本人はもっともらしい�日本製英語�をつくるのがうまい。野球用語でいえば�ナイター�がその代表的な例であろう。正しい英語は night game である。  私が、ニューヨークで Polo Ground (ニューヨーク・ジャイアンツのホーム・グラウンド)、Yankee Stadium(ニューヨーク・ヤンキース)、Ebett Field(ブルックリン・ドジャース)とゲームを追っかけて歩いていたころはまだナイト・ゲームがなかった。グラウンドの照明設備ができていなかったのである。  それでも、ナイト・ゲームがまったくないわけではなかった。大リーグでは行われていなかったが、セミ・プロのゲームではときどき行われていた。私はマンハッタンの北の端にあったやっと1000人ぐらいの観客が座れる木製スタンドだけのグラウンドで Black Giants(黒人チーム)と、 House of David(全選手がダビデのように頬《ほお》ひげと顎ひげを生《は》やしている)のナイト・ゲームを見たことがある。どっちも、セミ・プロでは名前の売れている人気チームだった。  ナイト・ゲームといっても、グラウンドに完全な照明設備があったわけでない。照明も現在のように明るくなく、サーチライトで照らしているようなものだった。だが、ナイト・ゲームであったことにちがいはない。  とにかく、スーパー字幕屋にとっては、ナイト・ゲームよりナイターのほうがありがたい。2字少ないということは字幕をつくるときに大きなプラスなのである。  ところが、スーパー字幕屋には大いに迷惑な日本製野球英語もある。�ネクスト・バッターズ・サークル�がその一つ。野球のルール・ブックによると、ゲームの進行をおくらせないために次打者は捕手の斜めうしろに描いてある円の中で待機していなければならない。野球放送を聞いていると、アナウンサーや解説者はこの円をネクスト・バッターズ・サークルという。手もとにルール・ブックがないのではっきりしたことはいえないが、あの円は�ウェイティング・サークル�というのだと思う。ウェイティング・サークルでも12字だ。ネクスト・バッターズ・サークルではとてもスーパー字幕に使えない。どうしても字幕に使わなければならぬことになったらどうしよう。そんなことを考えながら米軍放送の野球中継を聞いていたら、次打者がウェイティング・サークルで待機しているのをアナウンサーが── �He's on the deck.�  といった。  On the deck ──いかにもアメリカ英語らしい、味のある表現ではないか。高瀬鎮夫君に話をすれば、こういうのを使えると字幕づくりも楽しいのですがね、というにちがいない。   スーパー字幕の文字の出し方教えます  フレッド・ジンネマンの『真昼の決闘』は西部劇の名作の一つに数えられている。ゲェリー・クーパーがグレイス・ケリーを相手に見せた見事な名演技がいまだに語り伝えられている。30年前の作品だが、テレビでも放映されているはずだから、かなり多くの諸君が見ているだろう。松竹が扱ったユナイテッド・アーティスツ映画で、私がスーパー字幕を担当、こんなことは二度とあるまいと思われる珍妙なできごとがあった。 『真昼の決闘』の屋外シーンは西部の広野なので、画面の上部が空であるシーンが多く、その部分に字幕をスーパーインポーズすると、文字が白くぼやけて、はっきり読みとれない。そこで、そんな場面の字幕を3字か4字ずつ下げて、空の部分を避けて入れることにした。画面の右上部に明るい窓があるときなどにも採用する方法なので、しじゅう外国映画を見ている諸君はおなじみのはずである。  例をあげて説明すると、こういうことになる。空にかかる部分を3字下げるとする。  「汽車はまだ着か   ないのか」  「二時に着く」  「いま何時だ」  「一時だ」  「あと一時間か」  スーパー字幕はこのようになるはずである。  ところが、現像所からとどいた初号プリントを試写してみると、  「汽車はまだ着か      ないのか」    「二時に着く」    「いま何時だ」      「一時だ」   「あと一時間か」  となっている。字幕カードに�右下3字下げ�と書いておいたのだが、新しい現像所だったので意味がよくのみこめずに、下をそろえてしまったのだ。字幕がぴょこんぴょこんと上がったり下がったりするので、字幕を担当した私としては、せっかくの名作もおちついて見ていられなかった。もちろん、このプリントは劇場には出ていない。  なぜ30年前の映画を持ち出してこんな話をするのかとお考えの諸君もいるだろう。じつは3月17日の朝日新聞朝刊の�提案�というコラムに「洋画の字幕を見やすく」という見出しが目についたので、何が書いてあるのかと読んでみると、読みにくい字幕を読みやすくするために字幕を3字か4字下げて入れたり、位置を変えて左に入れたりする方法がとりあげられていて、『真昼の決闘』のデコボコの字幕が頭にうかんだのである。 �提案�というコラムは読者の投書にもとづいて�提案�取材班が問題を掘り下げる仕組みになっている。取材班はさっそく、東宝東和、CIC(シネマ・インターナショナル・コーポレーション)、スーパー字幕打ちこみ作業専門の日本シネアーツ社とまわって歩いて、スーパー字幕製作のじっさいを取材している。この投書家のように読みにくいスーパー字幕を気にしているひとは大勢いるはずなのだが、新聞や雑誌がこの事実をとりあげたことはほとんどなかった。スーパー字幕とはそういうもので、ときには読みにくいのがあってもやむをえないのだ、と思いこまれているようだ。これではいけないので、朝日新聞の�提案�がこの問題をとりあげてくれたことは私たちスーパー字幕屋にとって大いにありがたいことだった。  読みにくいスーパー字幕は西部劇の空にかかっている字幕だけではない。砂漠、波がきらきら光っている海、太陽の光線が漏れている木の葉の繁み、窓のブラインド、灯がついている電気スタンド、スタジアムの観客席、スーパーの缶詰売り場、病院の手術室など、字幕がはっきり出にくい背景は数をあげていたらきりがない。いくら探しても黒っぽいところがなくて頭をかかえることも珍しくない。  そんなときに読みにくい字幕を扱う方法はいろいろあるが、おもなものは次の三つである。 1 画面の黒っぽいところを探して、その部分に字幕を入れる。 2 画面を黒っぽく焼きこんで、文字を白く浮かび上がらせる。 3 画面に出る字幕の文字に工夫をほどこす。  この三つのうち、1は『真昼の決闘』で試みたような場合だが、字幕を何字か下げて入れるのでなく、画面の右側が白っぽいときに左側に入れることもある。とくに珍しいことではないから、諸君もしじゅう見ているにちがいない。  スーパー字幕誕生のころにはせっかくの字幕が読めなくてはなんにもならぬというので画面の真ん中に入れたこともあった。背景が白っぽいとどの程度まで読めるのか、はっきり見当がついていなかったので、気をつかいすぎたのだ。徳川夢声がからかって、「まさに神出鬼没、右かと思えば左に現れ、左かと思えば真ん中に」といった。  2はあらかじめネガを濃く焼きこんだポジにスーパー字幕を打ち抜く方法で、打ち抜き式のスーパー字幕の場合でないとこの方法は採用できない。  スーパー字幕を入れる方法は打ち抜き式と焼き込み式と二つある。打ち抜き式はポジに字幕を打ち抜く方法、焼き込み式は画のネガ、音のネガ、字幕のネガを重ねてポジを焼くのである。  アメリカのメイジャー映画会社(MGM、廿世紀フォックス、パラマウント、ワーナー・ブラザース、コロムビア、ユニバーサル、ユナイテッド・アーティスツ)は興行用プリントを全部ポジで送ってくることになっているので、2の方法をとるとすれば濃く焼き込む部分のネガを送ってもらうか、ポジからその部分のネガを起こすかしなければならない。どっちにしても画調が変わるわけだから、プロデューサー、監督、とくに撮影監督はいい顔をしないだろう。  東宝東和、日本ヘラルド、富士映画、フランス映画、ジョイパック、東映洋画部、ニュー・セレクトなどの各社はほとんどの場合ネガを輸入して、スーパー字幕入りの興行用プリントを日本でつくっているので、2の方法を採用するつもりならいつでもできるのだが、この方法はじっさいにはあまり使われていない。  3は字幕の文字そのものに工夫をほどこして読みやすくしようという考え方。いままでに3通りの方法が考えられている。  まず、打ち抜き式の場合。文字を打ち抜いたフィルムの膜面のわずかな|くぼみ《ヽヽヽ》に黒い液を流しこんで、背景が白っぽくても文字が浮き出るようにする方法。こまかい作業なので、手間がかかり、そのうえ、フィルム上の文字の大きさは1ミリにも満たぬので、何回も映写されているうちに黒い部分が脱落して文字が読みにくくなる。試みとしては一応うまくいったが、じっさいには用いられなかった。  次はネガからポジを起こす場合で、白っぽい背景のところの字幕カードの文字をあらかじめ黒く囲んでおくとか、文字の横に黒い影をつくっておくとかして、文字を読みやすくする。この方法は字幕のカードに少々手を加えるだけでよいのだから、あまり手間がかからない。ただ、ネガを輸入する場合でないと採用できないのが難点といえよう。  3番目は文字の部分のフィルムの膜面を完全に洗いとって真っ白にする方法。もちろん、打ち抜き式の場合に限るわけだが、映画業者のあいだで�薬洗式�と呼ばれ、かなり採用されている。『E・T』『アニー』『ガンジー』『トッツィー』などが、薬洗式スーパー字幕が入った作品である。  打ち抜き式のスーパー字幕をつくるには字幕のカードを1枚ずつ、フィルムひとコマの大きさの銅版(あるいはアルミ版)にとり、フィルムの膜面を薬液でやわらかくしておいて、文字を打ち抜いてゆく。カラー・フィルムの赤・青・黄の三つの層のいちばん下の黄色いところが薄く残って、字幕の文字がスクリーンにうつると少々黄色っぽく見える。 �薬洗式�だとフィルムの膜面を完全に洗いとるので、文字が真っ白に抜けて、西部の空やきらきら光る海に字幕が出ても間違いなく読みとれる。特殊の薬液を使うので�薬洗式�と呼ばれているが、薬液でフィルムの膜面を洗いとるという原理はふつうの打ち抜き式と変わっていない。いまのところ、スーパー字幕がはっきり読みとれる方式としてはこれがいちばんなので、とくに�薬洗式�ともったいぶって呼んでいるのである。 �薬洗式�がいちばんよろしいとわかっているのなら、外国映画のスーパー字幕はすべて�薬洗式�にすればよいではないか、と諸君はいうであろう。そのとおりなのだが、�薬洗式�にするとお値段がお高くなる。ひとむかし前のように外国映画が全盛を誇っていたころならともかく、ちかごろはヒット作品がぐっと少なくなり、外国映画会社が軒なみにしぶくなっているのである。  もっとも、そんな外国映画会社も、ときには私たちを嬉しがらせる手を打つこともある。どう考えても儲《もう》かる映画と思えない『熊座の淡き星影』のスーパー字幕が�薬洗式�だったのだ。いまは亡きルキノ・ビスコンティに敬意を表したのだろう。私たちはこの心意気を大いに買ってやらねばなるまい。   常用漢字にない略字も使います  まったく、気がつかなかった。  切り抜いておいたのをどこかにしまいこんだらしく、正確な日付がわからないが、だいぶ以前の読売新聞に次のような意味の投書が載ったことがある。  ──�※[#「車/山」]という略字を映画のスーパー字幕で覚えた。スーパー字幕を気をつけて見ていると、画《かく》の多い漢字を簡単に書く工夫がなされているのがわかる。�※[#「車/山」]のようなうまい略字をせいぜい考えて下さい。  私も�撃�を�※[#「車/山」]と書いている。スーパー字幕をつくるときだけでなく、雑誌の原稿を書くときにも�※[#「車/山」]を使っている。ずっと使っていながら、この略字が文部省の常用漢字表にも、新聞社やNHKの用字用語ハンドブックにも載っていないことをいままで知らなかった。漢字を使いこなさなければならない稼業をしているのだから、どんな略字があるかということにも十分注意しているつもりなのだが、いままでまったく気がつかなかった。  スーパー字幕に使う漢字はできるだけ常用漢字表にしたがうのが望ましいが、画の多い字で、常用漢字表に略字がない場合は、略字をつくることもやむをえない。�※[#「車/山」]はその一つだったわけだ。�※[#「車/山」]だけでなく、常用漢字表にない略字はまだほかにいくつも使われている。ちょうど、戸田奈津子君がスーパー字幕の仕事をした『プライベート・スクール』の試写を見たところなので、字幕のカードを見せてもらって、常用漢字表にないどんな略字が使われているかをしらべてみよう。  800枚近くある字幕カードの最初の300枚ほどを調べてみたら、常用漢字表に載っていない略字が7字あった。  卆 寐 ※ ※ ※ ※ ※  この7文字である(活字がないかもしれないな──思ったらやはりない。そこで本職のカード・ライターに書いてもらった)。2字目は�寢�の略字で、常用漢字表では�寝�となっている。そのほかの6字は�卒、職、門、間、師、喜�の略字で、常用漢字には略字が載っていない。この6字のうち、�職、師、喜�の略字はなかなかうまく工夫されている。読売新聞に投稿した投書子が『プライベート・スクール』を見たら、わが意を得たりと手をたたいて喜ぶであろう。  この略字は戸田奈津子君が工夫したわけではない。奈津子君にかぎらず、どのスーパー字幕屋も、字幕カードはカード・ライターにまかせているので、どんな略字を工夫するかはカード・ライターの領分になる。カード・ライターはいま七、八人いるので、ライターによってちがう略字を書く場合もないとはいえない。どんな略字が使われていたにせよ、スーパー字幕に読めない略字が使ってあったというクレイムはいままで聞いたことがない。カード・ライター諸君が頭をひねって考えた略字はりっぱに役目を果たしたわけである。  スーパー字幕の文字の話をしたので、字幕に使われている文字の話をもう少し続けよう。 『プライベート・スクール』の字幕カードを見ていたら、 「お推め品ですよ」  という字幕があった。推薦の�推�を使ったのだから、これでさしつかえないわけだが、常用漢字表の�すすめる�には�勧める�と�薦める�が載っている。�薦�は画が多すぎるし、�勧�はなんとなく感じが出ない。それで�推�を使ったのであろうが、�お推《すす》め品�とルビを振りたいところだ。 「放っといて」  スーパー字幕の仕事をしていて、�Leave me alone.�というせりふにぶつかると、私はいつも、�放っといて�にするか�ほっといて�にするかで迷う。�放っといて�は瞬間的に読みにくいような気がするのである。じっさいにはどうであろうか。 「小切手のほうは?」  この字幕の問題点は�ほう�である。漢字の�方�を使いたいところだが、�方角�や�片方�のようにだれが読んでも�ほう�である場合とちがい、�方�1字ではカタと読まれるおそれがある。そこで、�ほう�としたのである。小さなことにこだわりすぎるというひとがいるかもしれない。字幕を読む人間は何万人、ときに何十万人といて、IQも千差万別なのだから、どんなに小さなことにこだわっても、こだわりすぎることはないのである。  『プライベート・スクール』はヤングをねらった映画で、ソフト・ポルノまがいのつくり方(これはだれでもカタと読む)になっている。片かなまじりのスーパー字幕が多いのはそういった製作のねらいを意識したからであろう。  例をあげると、 「ハダカ馬に乗るってあのこと?」 「バカいうなよ」 「こっちがアタマに来ちゃう」 「ぼく コワい」 「おシャレはツメから」 「彼 イカスわよ」 「シケた|つら《ヽヽ》するなよ」 「ヤキモチやいてるの!」  といったぐあいである。  ハダカとか、アタマとか、ツメとか、ふつうなら�裸、頭、爪�とするべきところを片かなにして、映画のムードに合わせようとしている。週刊誌やヤング向けの雑誌にこういったスタイルの文章が多いのとおなじ意味である。  なお、漢字の話のついでにつけ加えておくと、常用漢字が1945字あるなかで、新聞社は新聞用語懇談会の独自の判断によって使わない漢字を11字きめている。 「謁、虞、且、箇、遵、但、脹、朕、附、又、濫」  この11字である。そして、 「亀、舷、痕、挫、嗅、狙」  の6字を使ってよい漢字に加えている。  スーパー字幕の場合はスーパー字幕屋がそれぞれ自主営業といったかたちで仕事をしていて、横の連絡はないといっていいのだから、新聞用語のように統一するのは難しいが、難しい字、読みにくい字は、できるだけ避けるというルールは守られていて、一方ではカード・ライターが絶えず書きやすく、読みやすい略字を工夫している。これからもどんな略字が字幕に登場するかわからない。こんなことも一応頭に入れておくと、映画を見る楽しみが一つふえるというものだ。  スーパー字幕の文字の話をしていると、どうしても一言《ひとこと》ふれておきたいことがある。こんどは�使う文字�の話でなく、�使うべきでない文字�の話である。  1昨年、ローレンス・オリビエの『嵐が丘』の3回目の公開がきまったとき、2回目の公開のときのスーパー字幕をそのまま使えるかどうかを検討することになった。さいわい、原稿が残っていたので、原稿を点検しながら試写をしてみると、20年前につくった原稿だが直さなければならないところはほとんどなかった。物語が現代の話ではないからであろう。20年もたっていると、どんな文字を使うかにも微妙なちがいが生まれているのがふつうである。  そのなかで一つだけ、どうしても書き直さなければならないことばがあった。オリビエがやっている仕事の stableman である。  Stableman を辞書で引くと、�馬丁�という訳がついている。これは差別用語なので、使ってはならない。辞書にも�馬丁�のほかに�馬取扱い人�とか�厩務員《きゆうむいん》�とかいう苦しい訳がつけ加えてある。私は2、3の新聞社がどういうことばを使っているかを調べて、�馬手�という訳を使った。舌ったらずで、耳なれない訳語だが、オリビエがどんな仕事をしているかは映画を見てわかるのだから、と無理に自分を納得させて、ご勘弁を願うことにした。  ワーナー・ブラザースの映画に『王子と乞食』というのがある。原作がこのとおりの題名で知られているのだから、この題名をそのまま使いたいわけだ。ところが、�乞食�が気になる。場合によっては使われていることもあるが、できるだけ使わないほうがいい。新聞に封切広告を載せると�王子�と�乞食�が大きな文字でならんで出る。そこでワーナー・ブラザースは新聞社に意見を問い合わせた。ほとんどの新聞社の意見は原作が有名なものであるし、差別の意味で使われているのではないからさしつかえなかろう、ということだったが、1社だけ、できることなら使わないほうがよいのではないか、という意見だったという。  映画を鑑賞する立場のみなさんにはあまり関係のないことかもしれないが、スーパー字幕をつくるにはこういうことにも気をくばる必要がある——というのが今日のおはなし。   戦後初公開・謎のスーパー事件 『ガンジー』のスーパー字幕を担当した野中重雄君とセントラル・モーション・ピクチュアのころの話をしていて、だれがスーパー字幕をつくったのかがはっきりしていないアメリカ映画が3本あることがわかった。  セントラル・モーション・ピクチュアというのは昭和21年、占領軍がアメリカ映画を日本で上映するためにつくった組織で、略称CMPE、私たちはただセントラルと呼んでいた。野中君はセントラル製作部でスーパー字幕の仕事をしていたので、そのころの日本版字幕のことをよく知っている(後にセントラルの宣伝部長になった)。CMPEに最初に送られてきたのがディアナ・ダービンの『春の序曲』、グリア・ガースンの『キューリー夫人』、ポール・ルカス、ベティ・デイヴィスの『ラインの監視』の3本。これを試写してみたところ、すでに日本語スーパー字幕が入っていたというのである。  最初の日本語のスーパー字幕つき映画『モロッコ』が公開されたのが昭和6年2月。それから現在までに日本語スーパー字幕が入った外国映画はざっと数えて1万5千本ぐらいあるだろうと思うのだが(資料をしらべれば正確な数字がわかる。大幅に間違っていたらごめんなさい)、そのスーパー字幕をだれがつくったかはほとんどすべてわかっている。戦前の映画のうち、年に2、3本しか輸入していない会社のものには、字幕製作者の名前がすぐ浮かんでこないのもあるが、手をまわして調べればわかるはずである。戦後の作品は記録がそろっているから、だれが字幕をつくったかがわからぬという映画はまずあるまい。  ところが、『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本のスーパー字幕がアメリカでつくられたとなると、いまとなってはだれがつくったかを調べるのはすこぶる難しい。  カリフォルニアには日系二世が大勢いるし、30年前のことだから、まだ日本語を忘れていない一世もかなりいたにちがいない。私の経験からいって、スクリーンに写しておかしくない日本文字を書くカード・ライターを見つけることもたいして難しくはない。アメリカ映画を占領下の日本で上映するプランができあがってから、字幕の原稿をつくる日本人とカード・ライターを探したのであろう。  当時、占領軍の映画政策を担当していたのは戦前にMGMやコロムビア映画の日本支社にいたことのあるマイケル・バーガーで、日本の事情にくわしい人間だった。セントラルの製作部長に就任していた田村幸彦さんとは熟知の間柄であったし、私もバーガーの名指しで字幕の仕事をしたことがある。プリントさえ送れば日本でスーパー字幕をつくれることがわかっていたはずなのに、なぜアメリカでスーパー字幕をつくらなければならなかったのだろう。あるいは、バーガーの一存ではいかぬ事情があったのかもしれぬ。戦災によって何もかもめちゃくちゃになった日本の実情を考えた上のことであったかもしれぬ。  アメリカ在住の一世、二世につくらせても日本でつくるのとたいして変わりはないと軽く考えていたかもしれぬ。バーガーほどの日本通にも日本語のほんとうの難しさはわかっていないのである。日本語がいかに難しいかということをここで述べたてているわけにはいかないが、私の経験を一つの例としてあげておきたい。  ニューヨークのパラマウント本社で日本版スーパー字幕の仕事をしていたとき、私はマンハッタン170丁目のジェラルディン・ビアズレーという英国婦人の家に下宿していた。オスカー・ワイルドの『サロメ』の挿画で知られている耽美派《たんびは》の画家オーブレー・ビアズレーの縁つづきの女性で、50を超えていたが、独身だった。  このミス・ビアズレーが、私が日本語字幕をつくりにニューヨークに来ていることを知ると、ニューヨークにはりっぱな学歴のある日本人が大勢いるし、日本語の文章ならだれでも書けるはずなのに、なぜあなたがはるばる東京から25日もかけてニューヨークまでやって来なければならないのか、となんとも腑《ふ》に落ちぬといった面持で私にたずねた。  私はどう答えればよいのか、とっさの返事につまり、日本語はきわめて難しい言語で、たとえば�I�ひとつにもおよそ100通りの訳し方がある、と思いつくままにいった。ミス・ビアズレーは納得せず、それでは�I�の訳語を100いってみなさい、と挑戦してきた。私はゆきががり上、応じないわけにはいかなくなり、�I�の訳語をならべはじめた。  わたし、わたくし、ぼく、おれ、われ、せっしゃ、おいら、わがはい、あたし、あたい、あたち、わたち、わっち、よ、ちん、みども、それがし……  字幕に使うのはせいぜい�私・僕・俺�ぐらいなのだが、のりかかった舟で、思いつくままにいわないわけにいかない。ミス・ビアズレーにわかるはずがないのは承知の上で�I�の訳語を次々にひねり出していると、30ぐらいまでいったところで、ミス・ビアズレーが、あなたが何をいおうとしているのか、よくわかりました、といった。  マイケル・バーガーは�I�の訳語が100とまではいわないが、30や40あることは知っていたであろう。だが、カリフォルニア在住の日本人がつくったスーパー字幕が日本で通用しないとは考えていなかったにちがいない。事実、『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本はそれぞれ3週間ずつ上映され、大入り満員をつづけたのだから、外国映画の観客がアメリカ映画に餓《う》えていたという条件があったにせよ、アメリカ製のスーパー字幕は障害にならなかったのである。  だいいち、私がこの3本のスーパー字幕がアメリカでつくられていたことに気がついていない。私は当時、友人たちと出版の仕事をしていて、セントラルには関係がなかった。したがって、純粋に観客の立場でこの3本を見ていたわけだ。まずいスーパーだな、ぐらいのことは頭にあったであろうが、アメリカでつくられたスーパー字幕だとは考えてもみなかった。他の観客たちとおなじように、久しぶりのアメリカ映画だったことに幻惑されて、夢中で見終ってしまったのであろう。  野中君の話によると、そんな映画が10本ぐらいあったような気がするということだったが、これは野中君の思いちがいだろう。10本もアメリカ製のスーパー字幕を見せられれば、一般の観客ならともかく、私がどうもおかしいな、と思わないはずがない。野中君とおなじようにセントラルでスーパー字幕の仕事をしていた金田文夫君に聞いてみたところ、そういわれてみると、そんな映画が2、3本ありましたよ、といった。アメリカ製日本語スーパー字幕があったことなど、まったく問題にしていないのである。  昭和21年6月の「キネマ旬報」にセントラル・モーション・ピクチュアについての記事があって、そのなかに『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本は日本語スーパー字幕の入ったプリントが送られてきたが、今後日本でスーパー字幕をつくることになり、田村幸彦が字幕製作を担当する、と記してある。この「キネマ旬報」は戦前の「キネマ旬報」(戦争中は、キネマが外国語であるというので「映画旬報」と改題させられていた)を同人の一人友田純一郎が踏襲して再刊したもので、いわば映画界のオフィシアル・ペイパーなのだから、昭和21年にアメリカで日本語版スーパー字幕をつくった映画は『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本ということに決めても間違いはなかろうと思う。  もっとも、日本語スーパー字幕のことはどんな場合にもあまり大きく扱われたことがない。たとえば田中純一郎の労作「日本映画発達史」のなかにもちょっとふれられているだけだ。映画界の人間もあまり関心を持っていないのである。ある映画のスーパー字幕がアメリカ在住の日本人によってつくられていようと、その日本人が何という名前で、どういう仕事をしている人間であろうと、どうでもよいことであるらしい。だが、スーパー字幕の歴史とともに生きてきた私が『モロッコ』以来50年のスーパー字幕の歴史の真ん中に、アメリカ製スーパー字幕の映画がポツンと3本はさまっているのを見逃しておくわけにはいかない。記録としてだけでも残しておきたい。だれが字幕をつくったのかを調べる手だてがないのが残念である。  ところで、『春の序曲』『キューリー夫人』『ラインの監視』の3本のスーパー字幕がアメリカ生まれだったとわかったことで、人間の記憶がいかにあやふやなものであるかということを改めて思い知らされた。記憶力だけでなく、判断力もいいかげんなものだ。字幕のことばづかいにとくに注意を払っているはずの私が字幕がアメリカでつくられたことを見抜けなかっただけでなく、そのほかに、だれでもすぐ気がつきそうなことを見逃していたのである。  野中重雄君はことばをつづけて、次のようにいったのだった。 「それに、字幕が横書きだったのです」   ウォーナー・ブラザースにこだわらないわけ 「洋画のスーパー字幕を作るのがこんなに大変で、かつ面白い仕事だなんて知らなかった」  これは私が昭和51年の秋に出した「ベバリーヒルズにこだわるわけ」の書評の一部である。女性就職情報誌「とらばーゆ」に載ったものだ。 「ベバリーヒルズにこだわるわけ」というのは私が「翻訳の世界」に連載している「スーパー劇場」の第8回のタイトルである。この題名からわかるように毎月の「スーパー劇場」を1冊にまとめたもので、第23回までがおさめられている。日本翻訳家養成センターから出版するのが本筋なのだけれど、前々からの約束があったので、日本翻訳家養成センターの了解を得た上で、TBSブリタニカから出版した。  私が「スーパー劇場」を書きつづけているのはスーパー字幕という奇妙なものの実態をすこしでも多くのひとびとにわかってもらいたいからだから、1冊の本にまとめられたということはまことに嬉しい。「翻訳の世界」の読者諸君、英語に関心を持っているひとたちだけでなく、ひろく世間一般のひとたちに読んでもらえるからである。  スーパー字幕について書かれた本が出版されたのはおそらくこれが初めてであろう。読んだひとたちはみんな「スーパー字幕を作るのがこんなに大変で、面白いものと知らなかった」らしい。映画雑誌だけでなく、ほとんどの新聞雑誌の書評欄にとり上げられ、『とらばーゆ』のような情報誌にまで登場することになった。  この本は「ベバリーヒルズにこだわるわけ」に、その後の連載10数篇を加えて1冊にしたものである。  スーパー字幕のカードは1000枚あろうと、1500枚あろうと、�書き屋�が1枚ずつ書くのだと聞かされれば、ほんとうですかと呆れるのが当り前である。観客がスクリーンの字を読む速度が1秒半から2秒で3字から5字、6秒でおよそ20字だといわれると、なるほどそんなものかとうなずくにちがいない。どの書評もとりあげているポイントはほとんどおなじで、しじゅうお目にかかっていながらよくわかっていないスーパー字幕の実態を、字幕歴50年の著者が苦労話やエピソードをまじえて語った一風変わった読み物であるという主旨だった。  私はスーパー字幕について話をするのがあまり好きではない。何を話しても�苦労話�といわれるのがいやなのだ。私自身はそれほど苦労をしているとは思っていない。結構仕事を楽しんでいる。そうでなければおなじことを半世紀もつづけていられるわけがない。  スーパー字幕づくりのエピソードの例として書評がとりあげたのは、いま考えるとうそのような戦前のスーパー字幕の話である。「スーパー劇場」を読んでいない読者のために記しておくと、もっとも多くとりあげられたのは、 「卒爾ながらショパン殿では御座らぬか」 「とんだ首斬り浅右衛門だ」 の2枚の字幕である。最初のはフランス映画『別れの曲』の字幕、次のはアメリカ映画の西部劇の字幕だが、題名はわかっていない。むかしは週刊誌の数がすくなく、情報誌などはほとんどつくられていなかったし、スポーツ紙もなく、テレビもないので、こんな字幕があらわれてもマスコミの話題になるというようなことはまったくなかった。まさに good old days、のんきな世の中だった。  こんなわけだから、書評がとびついたのはよくわかるが、読売新聞が10月30日の夕刊の文化欄でとりあげるという思いがけない出来事が起こった。「映画字幕の正誤論議」という見出しで、「清水俊二が立花隆に反論」と小見出しがついていた。〈眼〉という匿名原稿で、私の写真が載っていた。  この記事のネタは「スーパー劇場」の第1回「スーパー字幕という奇妙なものについて」の中で私が雑誌「諸君!」の昭和55年5月号に出た立花隆君の「『地獄の黙示録』研究」にふれた部分にある。立花君はカーツ大佐〈マーロン・ブランドの役〉の�行動が異常�であると字幕に出ているのは誤訳で、原文のとおりに�方法�(His method)が�不健全�(unsound)としなければならぬといっているのだ。たしかに�方法が不健全�の方が正確な訳だが、スーパー字幕としては�行動が異常�の方がはるかにわかりやすい。そのわけは「スーパー字幕という奇妙なものについて」の章に書いたので、ここでくり返さないが、私はあの文章を立花君に反論するつもりで書いたのではなかった。スーパー字幕とは半世紀にわたってつき合っても正体をつかみかねる奇妙なものだということをいいたかっただけである。  このことは雑誌「言語生活」の昭和51年12月号にも書き、せりふの原文を引用しておいたが、本書には原文を載せなかったので、読者諸君のためにここで原文をおぎなっておこう。�方法が不健全�がよいか�行動が異常�がよいか、考えてみていただきたい。  General : Walt Kurts was one of the most outstanding officer this country's ever produced. He was brilliant, he was outstanding in every way. And he was a good man too. Humanitarian man. Man of wit, and humour. He joined the special force and after that, his, ah...ideas...methods... became unsound...Unsound.  新聞や雑誌の書評のほかに、手紙やハガキでじかに読後のコメントを書き送ってくれた友人知人も大ぜいいた。  三國一朗君は「�卒爾ながらショパン殿では御座らぬか�というようなスーパー字幕が見られなくなってさびしいですな」といった張本人だが、ハガキをよこして、   ……先日もNHKラジオでショパンの生涯を遠山一行氏からうかがったとき、「きき手」の私が「卒爾ながら……」を持ち出し、大笑いになりました。ありがとうございました。  と書いてきた。  戸塚文子さんは映画ファンとしてもなかなかうるさいのだが、スーパー字幕はどうでもいいらしく、   ……なつかしい人々、なつかしい映画の話が登場して、学生時代に帰ったような若やいだ気分になっています。ますます御元気で、あの頃の記録を後世のために残しておいて下さい。私も現役でやってます。  と書いてきた。  未知の読者からの手紙やハガキもあった。レターペイパーに11枚ぎっしり書いてあったのもある。日本交通公社に30年つとめていたという経歴の持主。伊崎嵒というむずかしい名前だ。趣味が映画とアメリカのメイジャーの野球とミュージカルというのだから、私とそっくり。どんなことにでも興味を持つ|やじ《ヽヽ》馬根性も旺盛《おうせい》らしい。  手紙の内容はスーパー字幕と直接の関係がないことが多いが、「スーパー劇場」の中の私の間違いの指摘がふくまれているので、ここに書きうつしておこう。  一つは「どうしてもうまくいかない時もある」(前出)の中に出てくるアメリカのミュージカル�A Funny Thing Happens on the way to Rome�は�...to the Forum�の間違いという指摘。日本題名の『ローマで起った奇妙な出来事』が頭にあったための間違いだ。もう一つ、「スーパー字幕ゲームの楽しみ」(前出)の中でアガサ・クリスチーの「そして誰もいなくなった」が2回映画になっていると書いたのは3回の間違い。私がうっかりしていたための間違いである。  このほかに、伊崎さんにぜひお答えしておきたいことが一つある。わざわざ「Warner Bros. にこだわるわけ」という見出しがつけられて、次のようなことが書かれてある。   ……ワーナー・ブラザースという文字が度々出て来るのが大変気になりました。私が小学生か中学生のときに英語の先生に教わったことを忘れません。Wの後に来る ar、or は a と o の音を逆に発音すれば先ず間違いないということです。Warner も辞書に〔wc-ne-〕と出ていますし、トレイラーのナレイションでもウォーナー・ブラザースといっています。  ビバリーヒルズをベバリーヒルズといいたいとこだわっているのに、なぜウォーナー・ブラザースといわないのかというわけだ。ごもっともな話である。私もひところ、ウォーナーと書いたことがあったが、日本支社がワーナーなので、ワーナーと書くことにした。発音を気にしはじめると、カラムビア、RKOレジオと書きたくなってくる。私がベバリーヒルズにこだわるのは正確な発音がベバリーであるということのほかに、それまでうっかりビバリーといっていたのをコロムビア日本代表シャピロ君に虚をつかれたかたちで指摘されたからで、自戒の意味もふくまれている。だから、ビバリーヒルズと書いてあるのに出っくわしてもとくに気にはしていない。ウォーナー・ブラザースにこだわらないのも同じようなわけである。  人名地名の発音にこだわるのは大いに結構なことだが、こだわり始めるときりがない。古い話だが、シャルル・ボワイエはアメリカではチャールズ・ボイヤーでとおっていた。パラマウント日本支社長トム・カクレンはモーリス・シュバリエの名前を忘れて、咄嵯《とつさ》に口から出ず、 Mauris Chvafellow といった。  これで話が通じた。それでいいのである。   高瀬鎮夫君を偲ぶ77人のスーパー侍  高瀬鎮夫が亡くなって1年たった日の夜、私たちは高瀬君を偲《しの》んで──というよりサカナにしてといった方が適切かもしれないが、とにかく、高瀬君とかかわりのあった連中が銀座松屋8階の精養軒に集まって、一夕、高瀬君を語りあった。  集まったのが七十七人。その七十七人のほとんどがスーパー字幕に何らかのかかわりを持っている人間だった。スーパー字幕に関係がないのは高瀬君が外国映画審査員を勤めていた映倫の数名、雑誌「スクリーン」の編集長尾河照三、「読売新聞」の河原畑寧ぐらいであった。  スーパー字幕関係の人間ばかりがこんなに集まったことはいままでなかった。高瀬君は占領軍時代の Central Motion Picture Exchange のころからスーパー字幕の仕事をしていたので、そのころの古い人たちも来ていた。一人一人の顔を見ていると、戦後のスーパー字幕の歴史を見ているようで、感慨ひとしおというところだった。  打ち込み式スーパー字幕の会社が3社ある中の老舗「テトラ」の富永時夫が身体をこわしていて姿を見せていないのが残念だった。ご存じない方が多いだろうからひとこと紹介しておくと、富永時夫は早大野球部が昭和初年にアメリカを転戦したときの遊撃手。アメリカのプロが2万ドルで買いたいといったという名選手だった。半世紀早く生まれたのが運が悪かった。  同業のスーパー字幕屋は岡枝慎二、山崎剛太郎、野中重雄、金田文夫、戸田奈津子、進藤光太、菊地浩司、宍戸正、私、近ごろ仕事をしていない尾坂力、青田勝、塩沢誠二とほとんど顔をそろえていた。来ていないのは外出しないことにしている川名完次、間違いで連絡できなかった額田やえ子、スーパー字幕の草分けの一人なのにどういうわけか高瀬君とかかわりのなかった林文三郎の三人だけだった。  私は数日前に左手にけがをしていて、三角巾で腕をつって出席、みんなをびっくりさせた。私が主催した集まりなのだから、出席しないわけにいかない。 CMPE で高瀬君といっしょだった関光夫君が司会をして、私が挨拶の代りに、英語の達人はたいてい生まれつき英語が身についている印象をうけるが、高瀬君の英語はそうではなく、たたき上げて身につけたという印象が強く、私はその点に敬服している、というようなことをしゃべった。  だれでも経験があるはずだ。英語をしゃべるときしぜんに英語が口から出る人と英会話の時のようにしゃべる人とがいる。『モロッコ』の最初の日本語スーパー字幕をつくった私の師匠田村幸彦さんは生まれつき英語が身についている|くち《ヽヽ》で、日常の会話にもごく自然に英語がまじる。 Oh, boy! が口ぐせで、マージャンでチンイチを自模《つも》ったりすると、たちまち Oh, boy! である。  昭和7年から8年にかけて、私はニューヨークのパラマウント本社に田村さんといっしょにいた。そのころ、Ethiopia! という奇妙なスラングがニューヨークっ子のあいだで流行した。Ethiopia は Abyssinia ともいう。Abyssinia ──つまり I'll be seein' you! なのである。別れぎわにいまなら See you! というところを Ethiopia! というわけである。アメリカ人でも気のきいた人間は使わなかったスラングだが、田村さんは平気で使った。  昭和4年に私がワーナー・ブラザースに入社したとき、内海信二というヘッド・セールスマンがいた。落とした鉛筆を�Where's my pencil?�いいながら探すほど英語が身についていた人物で、ニューヨークの私にくれる手紙が英語なのである。たとえば、こんな書き出しだ。   It's not my line to write you something about the entomology or the astronomy. After all, I presume it's much safer to write you something myself.  外国映画会社につとめているというだけで、とくにむずかしい英語を使う必要のないセールスマンがこんな手紙を書くのだから、英語が生まれつき身についているとしか考えようがない。この手紙の署名は Baron S. Utsumi だった。  大学を出ても仕事の口がなかった私をワーナー・ブラザースにひっぱってくれた楢原茂二先輩も英語が生まれつき身についていた一人だった。先輩といったのは中学の先輩だからで、東京府立第一中学校、いまの日比谷高校である。田村さんも府立一中出身で、やはり私の先輩にあたる。  楢原茂二さんは長谷川修二というペンネームで「新青年」に「アメリカ放浪記」といったドキュメントふうの読み物をいくつか書いた。アメリカに行ったことがないのに、日本人の若者がカリフォルニアからネバダ、テキサスと渡り歩く放浪記なのである。その一つが「ゆうべっちゅう!」という題だった。�You bet you!�である。�まちがいねえよ!�とでも訳せばいいだろうか。ふつうは�You bet!�で �I think Lions have an edge on Giants this year.� �You bet!�  といったぐあいである。  田村さんは Oh, boy! が口ぐせだったが、楢原さんは Sez you! だった。�ほんとかい�というほどの意味である。市河先生の英和を引いてみたら、次のようなていねいな注釈が出ている。  Sez you〔sezju〕(皮肉に疑いの意をこめて)お言葉だがさあ〈どうかと思うね〉  話が脱線するけれど、1930年代のアメリカにジャック・パールというはなはだドロくさいコメディアンがいて、なかなか人気があり、この男のレッテルになっているせりふが、 �Was you dere, Charlie?�  であった。  これは Sez you とほぼおなじ意味である。正しい英語に直すと、 �Were you there, Charlie?�  となる。しゃべるときには Was を〈ウォズ〉と読まずに〈ウォス〉と読み、 Charlie は〈チャーリー〉でなく、〈シャーリー〉である。ジャック・パールはドイツ系で、ドイツ語なまりを売り物にしているのである。  スーパー字幕なら�ほんとかい�より�見てたのかい�の方がぴったりする。  たとえば、こんな工合である。  ナポレオンは計算をまちがえたんだよ、ロシアの寒さに負けたんだよ、となんでもごぞんじの|ものしり《ヽヽヽヽ》先生がもっともらしい顔つきでいう。ずんぐりしたからだつきで、風采《ふうさい》のあがらぬジャック・パールが身をのり出して、 「ウォス・ユー・デア・シャーリー?」  と、目玉をぎょろぎょろさせて、ドイツ語なまりを|むき《ヽヽ》出しにしていう。観客がどっとくる。  高瀬鎮夫君の話にもどそう。  高瀬君はこのようなスラングをみんな知っていた。Was you dere, Charlie? にしても、いわれは知らなくても、意味はわかったろう。知ってはいたが、口にしなかったのだ。なぜロにしなかったのかと聞けば、やまとことばにいくらでもよきボキャブラリーがあるのに、|はした《ヽヽヽ》ないスラングを使うことはござんせんよ、と答えたろう。  そんなわけだから英語をしゃべらなければならないときは格調正しき King's English をしゃべるのかと思うと、これがさにあらず、Rがつよくひびくアメリカ英語だった。97歳で亡くなった初代映倫管理委員長高橋誠一郎先生が高瀬君の英語を聞いて、「高瀬さんはずいふん|ぞんざい《ヽヽヽヽ》な英語を話してますねェ」とおっしゃったことがある。高橋先生は英国の大学に数年間いたのだから、英語を聞く耳はたしかだったはずである。  高橋先生のことではもう一つ思い出すことがある。  MGMであったか、廿世紀フォックスであったか忘れたが、新しいビルに建て替えられた旧フィルム・ビルで高橋先生、宮沢俊義先生たち映倫管理委員が試写を見たことがある。新着映画に問題点があるので先生がたに一度見ていただくということになった。だから、スーパー字幕がついていない。外人の代表が、字幕がなくてわかるだろうか、と高瀬君に聞いた。高瀬君は、 �Yes, they can. They are prominent professors.�  といった。  私はわきで聞いていて、prominent などというもっともらしいことばがすぐ頭に浮かぶものだな、と感心した。  また、こんな話もある。  どういうわけか、性転換の手術をうけることになった男性が登場するアメリカ映画が2、3本つづいてつくられたことがあった。そのころ、高瀬君と話をしていて、いきなり、清水さんも transvestite にぶつかったでしょ、といわれた。  私もぶつかっていた。日本語に訳せば�性転換者�だろうが、ふつうの英和辞書にはのっていない。そのときはべつになんとも思わなかったが、あとで気がついた。辞書に出ていない transvestite を高瀬君ははっきり発音して口にしたが、私だったら字はわかっていても、すぐ口に出てこなかったろう。こんな英語は頭に入れるだけでなく、口に出して覚えてなければならないのだ。  高瀬鎮夫君の英語はこのような何げないことの積み重ねでたたき上げられたものだった。   オペラ映画に朗々と響くはイタリー語  ひさしぶりにイタリー映画のスーパー字幕の仕事をたのまれた。フランコ・ゼッフィレルリの『トラヴィアータ』。オペラの「椿姫」である。オペラをこれほどあざやかにスクリーンにうつした作品は初めてだろう。まことに見事なできばえである。  イタリー語だから、日本語訳と英語のスーパー字幕を参考にして仕事をした。現在、フランス語とドイツ語は専門のスーパー字幕屋がいるが、イタリー語にはいない。そこで、私のところにも仕事がまわってくる。私だけでなく、ほかの字幕屋も自分の専門でない外国語のスーパー字幕をときどき手がけている。スーパー字幕屋の数がかぎられているので、こんなことがおこるのである。  私は戦後、イタリー映画がにわかに花を咲かせたころ、かなりの数のイタリー映画の字幕をつくった。『夏の嵐』『道』『カビリアの夜』『鉄道員』『甘い生活』『若者のすべて』『情事』『ウンベルトD』『夜』などがそうだ。イタリーフィルム社長のジュリアナ・ストラミジョリさんが私の仕事を気に入ってくれて、ほとんど専属のようなかたちで仕事をした。まず日本語訳にもとづいて字幕原稿をつくり、ストラミジョリさんと読み合わせをした。ストラミジョリさんは日本の中世文学を専攻していたほど日本語がよくできて、毎回、時間をかけて読み合わせをしたので、スーパー字幕のできばえについては自信がある。  |ひと《ヽヽ》v口に読み合わせというけれど、ふつうの翻訳文とちがい、せりふのニュアンスについて意見をいい合ったりしていると、思いのほか時間を食い、1日ではすまぬことが多かった。私がまるっきりイタリー語を知らぬからこんなことになるのだと一念発起、イタリー語の端《はし》っこだけでもかじっておこうと決心した。  一人では気が重いので、戸田奈津子君を誘い、日伊文化会館のイタリー語講座の夜学に行くことにした。初等科である。生徒は40人ほどで、ほとんど若い人たちだった。授業は毎週1回、2時間。1学期が3カ月だった。  毎週1回、2時間ぐらいならなんとかなると思ったのが間違いだった。スーパー字幕、映倫、試写室通い、原稿書き、芝居、コンサート、野球、パーティといった工合で、どうしても時間のやりくりがつかぬことがある。1学期はむりをして通ったが、あとが続かなかった。戸田奈津子君はがんばって、2学期も通った。  それでも、3カ月通ったことはむだではなかった。イタリー語の読み方を覚えて、せりふをえらんでハコガキするのが楽になった。人称代名詞や日常の会話に出てくる単語を覚えたことも大いに役に立った。  英語のほかの外国語はドイツ語が少々わかる。高校(旧制)のときの第二外国語だったからだ。ロシア語は東大で八杉先生の講義に3回だけ出席した。私は経済学部だが、総合大学だから、どの学部の講義も聴講できた。最初三十人ほどいた学生が2日目には十数人になり、3日目は二人になった。八杉先生が頻繁に|あてる《ヽヽヽ》のでおそれをなしたのだ。二人になったときのもう一人は大先輩飯島正さんだった。飯島さんだけが最後に残った。  後年、ソ連映画ショーロフの『静かなるドン』『人間の運命』の仕事をしたときに米川正夫さんと組み、トルストイの『戦争と平和』では中村白葉さんと組んだ。はからずもロシア文学翻訳家の巨匠二人と組んだことになる。  米川さんの訳文原稿の credit titles のところに�仕出し�とあったのが気になった。英語だったら bit players なのだろうが、字幕にそんな文字が出ることはない。主役、わき役につづき、�And...�とか�Also...�とかいう字幕が出て、端役の俳優の名がならぶだけである。原語のロシア語は何となっていたのか、メモをとっておけばよかった。  白葉さんのときは鶴見君というお弟子さんが私につききりで手伝ってくれたので助かった。難しい漢字、耳なれない単語は白葉さんにことわってわかりやすい言葉に変えた。どの言葉を変えるべきかは配給会社ヘラルド映画の短大出身の女子社員と話し合って決めたが、その女子社員が知らない言葉が一つあった。�輜重兵《しちようへい》�である。  みなさんのなかにも輜重兵を知らぬ人がいるであろうか。知らない人がいたら、この一文の最後を見ていただきたい。  私たちスーパー字幕屋がとり組まなければならない外国語は英語、フランス語、ドイツ語、イタリー語といった major language だけではない。映画は世界中のあらゆる国でつくられていて、私たちはその文字すら初めて見る言語のせりふを日本語字幕につくり直さなければならぬこともある。  私がスーパー字幕の仕事を始めてからぶつかった外国語をならべてみたら次のとおり16種類あった。  英語、フランス語、ドイツ語、イタリー語、ロシア語、デンマーク語、スウェーデン語、スペイン語、メキシコ語、アラビア語、ギリシャ語、ヒンズー語、オーストリア語、ルーマニア語、中国語、朝鮮語。  映画に登場する外国語はこのほかにもある。岩波ホールが上映した『エミタイ』のようなアフリカの土民の言葉が出てくる映画もある。フランス語、ドイツ語、イタリー語、ロシア語などならよくわかる人間が大ぜいいるからよろしいが、たとえばルーマニア語、ヒンズー語などになるとわかる人間がきわめてすくない。せりふの英訳がついて来ていない場合は大いに苦労する。スーパー字幕にとりかかる前にルーマニア語、ヒンズー語のせりふを日本語に訳してもらわなければならないからである。 『トラヴィアータ』はイタリー語だが、イタリー語講座初等科に1学期通っただけではとても歯がたたない。さいわい、英語のスーパー字幕のリストがついてきていたので、それをもとにスーパー字幕をつくり、数種類刊行されているオペラ台本の日本語訳を参考にした。この英語のスーパー字幕リストの表紙に List of Undertitles in English と記してあったのが珍しかった。スーパー字幕屋を始めて50年になるが、Undertitles という呼び方には初めてお目にかかった。  英語のスーパー字幕リストと日本語訳をもとに仕事をしたのだから、このスーパー字幕は100パーセント私の仕事とはいえない。英語のスーパー字幕と日本語訳がまちがっているかもしれぬ、という不安がある。この場合はイタリー語だから確かめることができるが、アラビア語、スワヒリ語などになるとおいそれと確かめることができない。結局、時間に追われて、不安が解消されないままになることがある。『トラヴィアータ』にはこんな例があった。  ヴィオレッタが夜会で初めてアルフレードに会うところ。英語のスーパー字幕リストは次のとおり。  Gaston Baron, a toast...for this happy occasion!  (男爵が辞退するので、こんどはアルフレードに)  Gaston It's up to you, then.  (一同、�Yes, Yes, a toast!�と叫ぶ)  Alfred I'm not inspired just now.  Gaston But you're good at it.  Alfred (to Violetta)Would it please you?  Violetta Yes.  Alfred Yes? Then I'm already in my heat.  私が参考にしたオペラ台本の訳は次のようになっている。  ガストーネ 男爵、この楽しきタベに詩でも歌いませんか。  (アルフレードに)それじゃ、君はどうだね。  一同 そうだ、乾杯の歌をひとつ。  アルフレード 興が乗らないんです。  ガストン 君は主客じゃないのかね。*  アルフレード (ヴィオレッタに)かまいませんか?  ヴィオレッタ もちろんですわ。  アルフレード よろしいので? 心にとめておきます。  英語のスーパー字幕と日本語訳をくらべると意味のちがうところがいくつかある。とくに目につくのが*部分で、スーパー字幕の英語が正しいとすれば、  A だが、君はうまいじゃないか。  というような訳になるはずである。アルフレードはこの日の夜会に初めて招かれたので、�主客�という訳はおかしい。だいいち、会話の中で�主客�とはめったにいわないだろう。そこで、イタリー語の原文をしらべてみたら、  E non sei tu maestro?  だった。イタリー語だから確かめられたわけだ。このくらいのイタリー語なら初等科1学期だけの生徒にもどうにかわかる。スーパー字幕の英語の方が正しいのである。  スーパー字幕屋を稼業にしている人間はみんなこのような経験をいくつか持っているはずである。 輜重兵──軍隊が必要とする兵器・糧食・被服などの運搬・監視にあたる兵科(岩波国語辞典)   最新話題作で久々に字幕セミナーを…  昭和51年の11月末、松竹富士映画から電話があって、大急ぎで1本、スーパーをお願いしたいといってきた。映画は『ザ・デイ・アフター』。アメリカABCテレビ製作、核兵器の恐怖を描いた話題作である。アメリカではテレビで放映されて、大きな反響をまき起こした。日本公開は1月に入ってからだが、大キャンペンを張りたいので12月初めにスーパー字幕つきの初号をつくりたいというのだった。  その日の夜、まったく偶然のことなのだが、NHKの「ニュース・センター9時」で『ザ・デイ・アフター』が紹介された。急ぎのスーパー字幕の仕事をするとなると、できるだけ予備知識をとりいれておく方がよい。さっそく、テレビの前にすわりこんだ。  アメリカの都市の風景がうつって、�カンザス州カンザス・シティ�というテロップが出た。カンザス・シティで起こる話なのだな、とわかる。ストーリーはベルリンで東独の軍隊とNATOの軍隊が衝突、米ソ両国が核弾頭つきミサイルを発射することになるというのだが、私は最初に出てきた�カンザス州カンザス・シティ�というテロップが気になっていた。スーパー字幕屋として気になったのである。まず、そのことから話を始めよう。  カンザス・シティといえば、私たちはたいていミズリ州カンザス・シティを考える。Kansas City, Mo. という文字がすぐ頭にうかぶのである。ところが、ミズリ州の西どなりのカンザス州にもおなじ名のカンザス・シティがあり、この二つのカンザス・シティが州境をはさんでつづいているので、話がややこしくなる。ミズリ州のカンザス・シティは人口およそ50万、カンザス州の方はおよそ15万、大きさをくらべるとミズリ州の方がだいぶ大きい。  私は戦前、サンタ・フェ鉄道の特急�チーフ�号でカンザス・シティを通り、汽車が2時間停車したので街をぶらついたことがある。ミズリ州のカンザス・シティだった。そんなことがあるので、カンザス・シティと聞けば、Missouri の略字 Mo. がすぐダブってくる。したがって、ただカンザス・シティとあるのに、その方が観客に親切であると考えて�ミズリ州カンザス・シティ�とスーパー字幕を入れたところ、じつはカンザス州だったというようなことがないとはいえない。いたずらに先入観を抱くなかれ。スーパー字幕屋が心得ておくべきことの一つである。  ところで、今回は久しぶりにスーパー字幕のセミナーを開きたい。テキストは『ザ・デイ・アフター』。この映画の主役はジェイスン・ロバーズのカンザス医科大学教授オークス博士。映画のねらいは核の恐ろしさだけでなく、核爆発の前と後の市民たちの姿をあわせて描くことにある。ここでは核爆発がある前のオークス博士と娘マリリンの父娘《おやこ》の対話をとりあげてみた。  場面はカンザス・シティの War Memorial の observation deck 。めったに娘と顔を合わせていないほど多忙のオークス博士が今日はめずらしく娘マリリンと散歩を楽しんでいる。  Marilyn :(102)Come on, I'm taking you someplace you work right next to(103)and I bet never been inside in fifteen years. Well, come on.  場面が Nelson Gallery に変わる。オークス博士と娘マリリンが中国の風景画の前に立っている。  Marilyn :(104)Sometimes it's hard to know how to experience a Chinese landscape.(105)Because the artist doesn't tell you where you're watching from...(106)like in a Turner or a Corot or something. You know why?(107)Because he wants you to be in the landscape, a part of it, not out here looking at it.  Oakes :(108)You mean a God's eye point of view.  M. : No.(109)Well. Yes. If by God you mean everywhere-and-inside sort of thing, yeah.  O.(110)You got that funny in-between look.  M.(111)In-between what?  O.(112)In-between knowing whether you should tell me something or not.  M.(113)Okay. Daddy. I'm moving to Boston.  O. Oh,(114)How come?  M.(115)See? That't why I didn't want to tell you right away.(116)I have to deal with your feelings and Mom's not just...  O.(117)Well, all I asked was why?  M.(118)Well, Pop...it's time for me to leave home.  O.(119)But you haven't been living at home for two years.  M.(120)An apartment twenty-six blocks away isn't exactly Independence, Missouri, you know.  カッコの中の数字は字幕の番号。全部で1066になった。上映時間2時間10分の14巻物としてはそれほど多い数ではない。  せりふはここに抜き出した部分でもわかるようにあまり難しくない。核兵器、放射能などに関する専門語が出てくるが、正確な訳語を知らなくても、映画がいおうとしていることはわかる。テキストのせりふにはそのような核に関連のある言葉は使われていない。一つ一つのせりふについて何字の字幕をつくるべきかをしるしておくから、まずみなさんの字幕をつくり、そのあとで私のスーパー字幕を見ていただきたい。スーパー字幕がどんなものかが幾分でもわかるのではないかと思う。  102〈11-14字〉103〈12-17字〉  スーパー字幕は二つに分けたが、マリリンはこの二つのせりふをつづけてしゃべっている。「お父さんはこの15年間に1回も中に入ったことがないと思うわ」といっているのは、この前に博士が授業と臨床で多忙な毎日を送っていることが話題になっているからである。  104〈11-14字〉  How to experience をうまく生かしたいが、字数を制限されているので難しい。私はうまく生かせなかった。  105〈11-14字〉106〈11-14字〉  Turner と Corot を前にもってきて、1枚の字幕を二つにわけるつもりで考えるとつくりやすい。  107〈7-8字〉107A〈13-14字〉  107は1枚の字幕にするのはむりで、字数も十分使えるのでAをつくり、2枚にした。字数のわけ方はこのとおりでなくてもよろしい。  108〈7-9字〉109〈17-20字〉110〈6-9字〉111〈3−5字〉112〈11-14字〉  このへんは少々めんどうである。様々の訳し方がある。英文のせりふを納得がゆくまで読み返して、意味をよくつかんでから、原文にこだわらずに自分のことばに変えて字幕につくるべきである。  113〈12-16字〉114〈3-5字〉115〈11-14字〉116〈12-17字〉  マリリンは116で言いわけをしようとする。オークスがそれを抑えて、  117〈7-10字〉  になり、  118〈8-10字〉119〈13-16字〉  の|やりとり《ヽヽヽヽ》があって、  120〈15-18字〉  で見事にしめくくっている。残念なことにこの見事なしめくくりをスーパー字幕に生かすことができない。Independence はカンザス・シティの近くにじっさいにある人口4万ほどの街なのである。  ここから先はみなさんが字幕をつくってから読んでいただきたい。誰がつくってもたいして変わりがないではないか、と思うひとがいるかもしれない。そのとおりなのである。たびたびお話ししているように、スーパー字幕は誰にもできそうで、手がけてみると奥行きがどこまでも深いという奇妙なものなのである。  102 パパの病院の隣りにつれてくわ  103 15年間に1度も入った事ないでしょ  104 中国の風景画を見るのは難しいわ  105 ターナーやコローと違って─  106 見ただけでは分からないのよ  107 画《え》の中に入って─  107A 画の一部にならないと分からないのよ  108 神の目で見るのか  109 神の目はすべてを見ているという意味なら……  110 何か隠してるね  111 どうして?  112 私に話そうかどうか考えてる  113 話すわ 明日ボストンに越すのよ  114 なぜだ  115 だから話す時を考えてたのよ  116 パパとママがどう思うかを考えて……  117 なぜだと聞いただけだ  118 もう家を出ていい頃よ  119 2年間、家で暮らしていないんだよ  120 家から10分の部屋は独立といえないわ   猫《キヤツト》が帽子《ハツト》になっては困るのだ  猫《キヤツト》がいつのまにか帽子《ハツト》になった。私がスーパー字幕をつくった映画の中であったことだ。  レイモンド・チャンドラーの長篇推理小説「長いお別れ」を映画化したユナイテッド・アーティスツの1973年作品だった。監督はいつもひとくせある映画をつくるロバート・アルトマン。エリオット・グールドがフィリップ・マーロウ探偵をしぶく演じていた。  レイモンド・チャンドラーは私の好きな作家の一人で、「長いお別れ」をふくめて長・短篇合わせて10篇ほど翻訳している。映画はロバート・アルトマン好みのお遊びの多い作品になっていて、原作とはだいぶちがう。マーロウ探偵が最後に犯人をつきとめるという大すじだけは変わっていなくて、最後にとんだ苦労をさせられたなといった表情のマーロウに、 「おかげで帽子をなくしたよ」  と、幕切れのせりふをいわせている。じつはそういっていないのだが、台本ではそうなっている。  英語台本が手もとにないので、せりふの全文をお伝えできないが、最後のせりふが�I lost my hat.�だったことはまちがいがない。  字幕に使うせりふをきめる�ハコガキ�の試写のときは気にとめなかった。字幕の原稿をつくっていて最後のせりふまできたとき、おかしな、と思った。「帽子をなくした」というのはどういうことなのか。マーロウは帽子などなくしていないのである。  スーパー原稿の読み合わせの試写をして、�I lost my hat.�ではなく、�my cat�であることがやっとわかった。  私たちスーパー字幕屋が仕事のための試写をするときには、字幕をしゃべっている人物がどんな人間でどんな態度でしゃべっているかを正確に頭に入れておかなければならない。場面が道路だったら何か標識が見えているか、室内だったらどんな家具があるかというようなことをよく見ておかなければならない。場面の右がわに空が見えていたり、白衣の看護婦が立っていたり、灯《あか》りのついたスタンドがあったりして、字幕が出にくいと思ったら、左がわに字幕を入れるように台本にしるしをつけておかなければならない。聖徳太子のようなことをやっているわけで、どうしても、せりふは聞きっ放しということになる。台本があるのだから、それでさしつかえがないわけである。  だが、 cat が hat になっていたのでは工合がわるい。タイプライターのキーの c と h は隣り合わせではないのだから、タイプの打ちちがいではない。何人かで手分けをし台本をつくり、後ろの方を受け持った人間が cat を hat と聞き間違えたのかもしれない。はっきり聞きそこなったが、たぶん帽子だろうと勝手にきめてしまったのかもしれない。  だが、なぜそんなバカなことが起こるのだろう。私は映画会社が台本製作をおろそかにしているからではないかと思う。もちろん、完璧な台本をつくっている会社もあるが、多くのメイジャー映画会社が台本を自分のところでつくらないで、下請けの�台本屋�につくらせている。台本の最後のページに次のようなクレディットが出ているのでわかる。  Combined continuity taken from composite color print by LAURA ROSSER'S FILM SERVICE.  外注だから手ちがいが起こるという理屈は成り立たないが、私たち字幕屋は『長いお別れ』の猫《キヤツト》と帽子《ハツト》のような間違いにしばしば出くわしているのである。 『長いお別れ』はエリオット・グールドのマーロウが夜おそく、飼い猫のフードを買いに行くところから始まる。この猫がマーロウが事件にまきこまれているうちにいなくなる。この話は原作にはない。チャンドラーがタキという黒猫をかわいがっていたのにひっかけて、�お遊び�の好きなアルトマンがつけくわえたのだ。「おかげで猫をなくしたよ」がオチになっているわけで、�帽子�ではかっこうがつかない。封切日がきまっていて、チェックの時間がないと、「帽子をなくしたよ」のままで劇場に出ることになる。2号プリントから訂正するにしても、初号を見たひとにはせっかくのオチが通じないのである。  したがって、この字幕は�欠陥字幕�ということになる。  私が「スーパー劇場」でこんな話を始めたのは欠陥翻訳をとり上げることで知られている「翻訳の世界」に、欠陥翻訳だけでなく、欠陥字幕をとり上げてほしいという読者の投書が載っていたからである。ひとくちに欠陥字幕といってもいろいろある。頭に残っているのを挙げてみると、cornflower を�トウモロコシの花�と訳したはっきりした誤訳から、Diner's Club がまだ日本で知られていなかったころに�食通クラブ�と苦しい訳をつけたのや、「待ってるひとが来ないんだ」というのを、I'm waiting for Godot. としゃれていったのを原文のまま「ゴドーを待ってるんだ」という字幕にしたのや、ここにあげた猫《キヤツト》が帽子《ハツト》になったのや、千差万別、ひとつひとつ挙げていたらきりがない。小説や芝居の翻訳の場合とはだいぶ様子がちがうのである。  Cornflower を�トウモロコシの花�と訳したのはじつは私である。映画の題名を忘れたが、このようなうっかりしていたための誤訳は罪がふかい。スーパー字幕屋は世間の翻訳を業としている諸君とちがい、さまざまの制約に縛られて仕事をしている。とくに時間に縛られることが多いのが悩みのたねで、頭が|から《ヽヽ》回りしたまま仕事を続けていることがよくあるが、こんなことはどんな稼業にもあることで言い訳にならない。  Diner's Club が日本に進出してきたのはたしか昭和36年だったと思うが、アメリカ映画にスーパー字幕をつける仕事をしている人間ならおそらく、存在だけは知っていたであろう。字幕に�食通クラブ�とした字幕屋は�ダイナーズ・クラブ�としても観客にはわからないだろうと思ったからかもしれない。  昭和35年に公開されたダニー・ケイ主演のコロムビア映画『ダイナーズ・クラブから来た男』はダイナーズ・クラブが出資してつくらせたPR映画だが、日本題名にはわざわざ『現金お断り』という副題がつけてあった。ダイナーズ・クラブを知らなかったら、現金お断りといわれても何のことかわかるまい。  いまはちがう。キャベツ人形だろうが、ビタミン・コーナーだろうが、アメリカで話題になっていることはすぐ日本に伝わってくる。字幕にそのまま使ってもだれにでもわかる。むかしはそうはいかなかった。Nylon が初めてせりふの中に出てきたとき、私はどういうものなのかを知らなかった。戦争前のことである。Nylon stockings となっていたので字幕はなんとかつくったが、気になったので、新聞社の友人にしらべてもらったところ、1938年(昭和13年)にデュポン社が開発に成功、39年から売り出している合成繊維とわかった。  余談を一つ、つけ加えておく。Nylon という妙なことばの語源だが、昭和44年にタイム社から出た。�This Fabulous Century�の�1930—40年篇�に�Now You Lousy Old Nipponese�の頭文字をとったのだと出ている。�ざまァ見やがれ、こすっからい日本人め!�というわけだ。日本の生糸会社が|はば《ヽヽ》をきかしていたのが、よほど頭にきていたと見える。もっとも、この語源説、真偽のほどはわからない。  こんなふうに小説や翻訳とちがい、欠陥字幕にはいろいろのかたちのものがある。このほかにも間違った漢字が使われていたり、外国の地名の書き方が間違っていたりするのも欠陥字幕のなかにはいるだろう。小説や芝居の翻訳なら訳者の好みの漢字を使い、外国の地名を好きなように書いてさしつかえなかろう。スーパー字幕はそうはいかない。字幕屋が字幕の言い回しに個性を表わそうとするのはいいが、漢字は原則として常用漢字を使うべきであるし、地名の書き方は新聞社と同じように、マドリッドでなくマドリード、バンコックでなくバンコクときめられている書き方に従うべきであろう。  字数が多すぎて読みきれなかったり、バックが白っぽくて文字が読みづらかったりするのも欠陥字幕のなかにはいる。  アルフレッド・ヒッチコックの『ロープ』という映画がある。最初から最後までカットがわりがなく、カメラを動かしっぱなしで撮影していることで有名な作品だ。カレッジの同窓生たちが集まり、学校時代の教師を招いてパーティをひらくという設定。  教師はジェイムズ・ステュアートだった。日本だったら、教師と教え子だから学生たちはステュアートを�先生�と呼ぶ。アメリカではこのような場合、苗字でなく、名前で呼びかける。敬称はつけない。教え子の教師に対する親愛の気持が現われているわけだ。  スーパー字幕でもそうなっていた。この字幕のつくり方は正解である。だが、�先生�という敬称を使わなくても、教え子と教師の距離が字幕に現われていなければいけない。ここのところがはっきりしていないとドラマがもり上がらないので、この点に配慮がたりなかったように思えた。  私は欠陥字幕の話になるといつも『ロープ』を思いうかべる。Cornflowerやwaiting for Godot はすぐ気がつくが、『ロープ』のような場合はふつうには欠陥字幕といわぬので、見すごされることが多い。映画が語ろうとしていることを正しくつかんでいるかどうかが問題なので、スーパー字幕屋としてはいつも心にとめておかねばならぬことであろう。   英語の聞き間違えはあちらにもある  まず、次ページのリストを見ていただく。スーパー字幕屋が使う spotting list である。 (リスト省略)  英字が読みにくいかもしれぬので、活字で組んでおいてもらう。  Title No.  Beginning of Speech  End of Speech  Footage of Speech  End of Scene  Footage of Title  Remarks  というわけ。つまり、タイトル・ナンバーDのせりふは1巻目のフィルムの134フィート13コマのところから138フィート13コマのところまでのサウンド・トラックに録音されていて、せりふがしゃべられているサウンド・トラックの長さが4フィートあるということである。4フィートだったら10字から13字の字幕をつくればよい。  End of Scene というのはその場面が何フィート何コマのところで終わっているかということ。これがスーパー字幕をつくるときに重要な意味を持ってくる。たとえば、Dのせりふの意味を4フィートではどうしても伝えることができず、スーパー字幕が5フィートになるとする。場面が変わっても字幕が残っていてはみっともないし、鑑賞の妨げにもなる。その場面がどこで終わっていて、字幕をどこまでのばせるかを知っておかないと工合がわるいのである。このリストの End of Scene のところに何も記入がない場合は字幕を相当長くのばしても次の場面にかからない。なお、△はせりふが終わると同時に場面が変わるという意味。  このリストはソ連、英国の合作映画『アンナ・パブロワ』の1巻目。ヘラルド映画が公開する大作で、英語版を使うことにきまって、私がスーパー字幕を担当することになった。ソ連映画では『戦争と平和』『静かなるドン』など、中村白葉、米川正夫というロシア文学翻訳の巨匠の訳を使わせていただいて、ロシア語のせりふに字幕をつけたことがあるが、英語版の方が気がらくであることはいうまでもない。  ところで、このリストを見てヘンだなと首をかしげた方が何人いたであろうか。『アンナ・パブロワ』の1巻目のリストであるというのに字幕は1から始まっていなくて、アルファベットの D から始まっている。数字の番号はリストの終わりの方に大きな数字のが三つあるだけである。  なぜこんなリストができたのか。1から始まっているリストがほかにあって、このリストは補助リストなのである。  ヘラルド映画はこの『アンナ・パブロワ』を秋の大作として売りこもうとしていて、作業用プリントで(work print と呼んでいる)をとりよせてキャンペーンを始める仕事にとりかかった。内容はアンナ・パブロワの伝記で、ナレーションが全篇にわたって使われている。そのナレーションが、送られてきた dialogue sheets に載っていない。  ナレーションだけでなく、ふつうのせりふの部分にも全篇にわたって抜けているところがある。私がピックアップしてハコガキ(「スーパー字幕屋隠語集」参照)したせりふはおよそ840ほどだったが、テープをとって新しい dialogue sheets をつくり、ハコガキを作りなおしたら、1300ほどになった。リストをふた通りつくったため、DEF……から始まる珍奇なる spotting list ができたのである。  外国映画は年間130本から140本ほど輸入されていて、時にはせりふ台本が不完全なのもある。アメリカ映画にはほとんどないが、ヨーロッパ映画にはときどきある。だが、この『アンナ・パブロワ』のように二つ目のリストをつくったらせりふが400近く多くなったのは初めてである。  spotting list が工場からとどくと翻訳にとりかかるわけだが、リストをお目にかけたついでにナレーションの部分の英文をここに転載して、読者のみなさんにも久しぶりで腕試しをしていただくこととしよう。  (D)Ivy House, Hamstead, London.(E)June the 1st, 1931.(F)Anna is dead,(G)and I'm sitting here in this house which has been our home for 18 years(H)to try and tell the story of our life together.(I)In a few years I shall be gone and forgotten,(J)but Anna will live as long as dancing lasts.(K)And that means forever.(L)In 1882 Anna was born in St. Petersburg, which we now call Leningrad,(M)when the Russian Imperial Ballet was the personal property of Tsar.  私がつくったスーパー字幕を次に記しておくが、まずみなさんが字幕をつくって、それから私がつくった字幕をごらんになってほしい。スーパー字幕がどんなものであるかを知るには自分で字幕をつくってみるのがいちばんなのである。  字幕の字数は次のとおり。  D(10-12)E(7-9)F(4-7)G(13-17)H(9-11)I(10-12)J(12-14)K(5-7)L(18-20)M(18-20)  スーパー字幕の字数は2字や3字、殖えても減ってもたいして変わりがあるまいと思うかもしれぬが、そうではない。少なくなるのはともかく、字数をぎりぎりまで使った場合、たった1字殖えたために読み切れなくなることもありうる。字幕に|かな《ヽヽ》が多い場合などはとくに読みにくいことを頭に入れておくべきである。  私がつくったスーパー字幕は次のとおり。  D ロンドン�|つた《ヽヽ》の家�  E 1931年6月1日  F アンナは死んだ  G 私は今 私達が18年間     住んでいた家で─  H 私達の生涯を語ってい     る  I 私は死んで忘れられる     が─  J アンナはバレエが存続     する限り─  K 永遠に生きている  L 1882年 アンナは     セント・ペテルブルグ     で生れた  M 当時 ロシア・バレエ     は皇帝の私有物だった  DEFKはあと2字ぐらい余裕があるが、このままでもさしつかえない。映画が始まったばかりで、観客の目を字幕になれさせるためにも、最初のうちはフィート数をたっぷりとる方がよい。字幕のヌケがわるかったり、バックに白い壁があったりすると、目がなれるまでは字を読むのに想像以上に神経を使うのである。  Eの「1931年」。近ごろはどのスーパー字幕屋もこのような数字を横に書く。むかしは「一九三一年六月一日」と書いた。アラビア数字の方が読みやすいし、4|けた《ヽヽ》ともなると、縦書きだと4字、横書きにするのと3字もちがうのだから、いっそう|もの《ヽヽ》をいうことになる。ただし、何もかもアラビア数字で書くわけにはいかない。「一つ二つ」が「1つ2つ」では工合がわるい。どっちがよいかをそのたびに考えなければならない。  Hの「私達の生涯を語っている」。このナレーションをしゃべっているのはアンナ・パブロワの愛人で、後年マネジャーのような役をつとめたビクトル・ダンドルである。�|つた《ヽヽ》の家�で回想記をタイプライターで打っているのがナレーションになって聞こえてくるわけだ。しゃべっているわけではないので「語っている」とするのに少々抵抗を感じたが、私が気にするほどには観客は気にしていないようだ。スーパー字幕をつくっているとこんなこまかいことが気になってくる。因果な稼業である。  JとKには、だいぶ頭をひねった。�And that means forever.�がしゃれたいい方で、なんとか生かしたかったが、5字から7字しか使えないのではどうにもならなかった。みなさんはどんな字幕をつくったであろうか。  Lの�St. Petersburg�をナレーションでは�セント・ピーターズバーグ�と読んでいる。英語版だからあたりまえである。こんなとき、スーパー字幕はたいていその国の読み方に従うことになっている。�ローム�でなく�ローマ�なのである。なお、いまのレニングラードであることも伝えたかったが、セント・ペテルブルグだけで9字あるのではとうていできない相談である。なお、ロシア語のときはSがつかない。念のため。 『アンナ・パブロワ』は久しぶりの本格的バレエ映画であり、正統派の伝記映画のつくり方で、見ごたえがある。スーパー字幕屋としても仕事のしがいのある作品であった。また、作品とは直接の関係がないことだが、�Spottting list�を追加しなければならないほどお粗末な台本であったことも、スーパー字幕屋を永年やってきた私としては大いに興味があった。テープをとってせりふを聞いてみて、台本の英語の聞きちがいをいくつも見つけて、あちらにもいいかげんな仕事をする人間がいるのだな、と改めて考えさせられたからである。   検閲台本はどこに消えたのだろう  鳥取市の岩本彪さんという方から貴重な資料を送っていただいた。1932年(昭和7年)に製作されたパラマウント映画『ブロンド・ヴィナス』�Blonde Venus�の検閲台本のコピーである。  検閲台本といっても、どういうものなのか知らぬひとが多いだろう。戦争前、映画を映画館で上映するには内務省警保局の検閲をうけなければならなかった。そのときにプリントに添えて内務省に提出したのが検閲台本である。戦後になってからは映倫審査というのがあるが、これは検閲ではない。映画業者が国家権力による検閲を防ぐために行っている自主規制である。審査を行っているのは映画業者がつくった映倫審査委員会で、台本は提出しない。(日本映画の場合は撮影台本を提出する。)  戦争前の検閲台本はせりふを全部収録するだけでなく、街の雑音、ドアを開閉する音、銃声といったさまざまの音から笑い声、泣き声、叫び声など、およそ録音されている音声はことごとく記載しなければならなかった。西部劇の state fair の場面で大ぜいの人々ががやがやいっているなかに犬のなき声が聞こえると注意され、�一行追加�と註をつけて�犬のなき声�と書き加えたことがある。犬がないているのかどうか、よくわからないのだが、検閲官が、犬のなき声だよ、といえば、犬のなき声なのである。そういう世の中だった。  外国映画の検閲台本はせりふを原文と対訳にしてのせなければならなかった。スーパー字幕がつけられるようになってからはスーパー字幕を書き入れなければならなかった。私が�貴重な資料�といったのはこのことで、戦争前のスーパー字幕がどんなものだったかを知るには検閲台本のほかに資料がないのだ。戦後になると、8ミリ、16ミリにリプリントされているのもあり、ちかごろはこれにビデオ・ディスクが加わり、原稿がそのまま残っているのもあるといった工合で、スーパー字幕のうつり変わりを調べようと思えばなんとか資料を集められる。戦争前の映画の場合には検閲台本にたよるほかないのである。  ところが、この検閲台本なるもの、めったにお目にかかれない。なぜお目にかかれないのか、事情は後で記すとして、検閲台本がどんなものかを知っていただくために『ブロンド・ヴィナス』の検閲台本の最初の部分を紹介しておきたい。  判型は雑誌と同じ大きさ。左とじ。表紙をめくると「ブロンド・ヴィナス日本版 全10巻」と記した扉があり、次のページの左がわに原作・脚色・監督・撮影のスタッフ、右がわに配役が、どっちも英語と日本語でしるしてある。  次が3ページにわたってストーリー。「梗概」といういまはほとんど使われていない見出しになっている。  本文は左のページに英文、右のページの三分の二がせりふの全訳に使われ、三分の一がスーパー字幕に使われている。  まず、英文を紹介しよう。  1(Synchronized)  2(Confused voices─Laughter)  3(Synchronized)  4 Joe : Aw, hey, you guys, wait a minute. How far is it to the next town?  5 Charlie : Only ten miles.  6 Joe : Oh, then it's no use, boys. I'm through. Just cover me with leaves and tell my mother I died with her name on my lips.  7 Charlie : Time out while we watch Joe die.  8 Joe : Is anyone around here human enough to give me a cigarette?  9 Boy : Here you are.  10 Joe : And you're the guy who said this was going to be a pleasure trip.  11 Second : It's part of your education.  12 Joe : Oh, yeah?  13 Ned : You can't leave Germany without taking a walking trip.  14 Joe : Why can't I? Oh, look! What's that?  15 Ned : As I live and breathe, taxicab in the middle of the Black Forest?  16(Synchronized) 『ブロンド・ヴィナス』はジョセフ・フォン・スタンバーグ監督とマレーネ・ディートリッヒのコンビの作品のなかでは出来のわるいものといわれている。『モロッコ』『間諜X27』につづく作品なのでいっそう見劣りがしたのだろう。病身の科学者の妻が夫の療養費をつくるためにキャバレーの歌手になり、金持の青年とのあいだに愛が生まれるという三角関係の物語。スタンバーグと医師の夫がいたディートリッヒとの恋愛が取り沙汰されていたときに製作され、さまざまのスキャンダルを生んだ映画だった。科学者がハーバート・マーシャル、金持の青年が売り出し中のケイリー・グラントという配役。  最初の場面はドイツ。ハーバート・マーシャルの科学者ネッドが友人たちと徒歩旅行をしているところである。  日本語訳は省略して、スーパー字幕を紹介しておく。カッコの中の数字は英文のせりふの番号である。  1(4)あと何哩だ?  2(5)十哩さ  3(6)お袋の名を呼び乍ら死んだと伝へてくれ  4(8)誰か煙草をくれない  5(10)貴様だ 遊山旅行だと云つたのは!  6(13)独逸へ来たら遠足はつきものだ  7(15)あれァ確かにタキシーだ!  スーパー字幕と英文のせりふを引き合わせて、味わってみていただきたい。私がニューヨークに行ってスーパー字幕の仕事を始める前にパラマウント映画のスーパー字幕をつくっていた内田岐三雄の作品である。このころはスーパー字幕の数をできるだけ少なく、字幕の字数をできるだけ少なくというのがスーパー字幕づくりの鉄則だった。いまつくれば字幕の数が3枚はふえているであろう。 �哩《マイル》��乍《なが》ら��煙草��独逸《ドイツ》�などという漢字が使われているのを見ると当時のことがなつかしく思い出される。  検閲台本がどういうものであるかがこれでわかったわけだが、ここで前ページの台本の表紙を見ていただきたい。「トーキー台本は部数が極く僅かですから必ず御返却下さい」と記してある。岩本さんは内務省に提出する書類だったらこんな文句を記すはずがない、と推理して、内務省に提出する台本と社内で営業・宣伝に使うのと2種類つくられたのではないか、といっている。  答えを先に記すと2種類つくられてはいなかった。私はパラマウント映画会社にいて、検閲の事務にもかかわりがあったので、事実を知っている。検閲台本と社内で営業・宣伝に使う台本をとくに区別してはいなかった。営業・宣伝に使う台本が大部分だったので「必ず御返却下さい」とお願いしてあったのである。表紙にこんなことが書いてあって役所から文句が出なかったのかとお思いだろうが、誰も気にとめなかった。内務省の映画検閲室には私もたびたび行ったことがある。検閲担当の事務官と映画会社の検閲係り(受験人と呼ばれていた)の応対を聞いていると役人と商社員が話しているとは思えない。妙になれなれしく、おたがいの立場を暗黙のうちに認め合っている。検閲の内容だけはべつとして、こまかいことにはこだわらぬ|しきたり《ヽヽヽヽ》になっていたようだ。  検閲台本は最初3部提出していた。検閲が終了すると、検閲ずみの印を押したのを1部返してくれる。これを正本といっていた。この正本のほかに内務省保存用が1部、検閲官用が1部の計3部だった。その後、文部省に1部、中国との戦争が始まったころから内閣情報局にも1部提出することになって計5部になった。  映画会社はこの台本をプリントの本数に応じて1作品20部から3、40部つくっている。そのころは全国一斉同時封切というようなことがなく、大都市の封切館から順ぐりに2番館、3番館と落としていったから、たとえばパラマウントのセシル・B・デミル作品とかマレーネ・ディートリッヒ主演映画のような特別扱いのものでもプリント数が数10本になるというようなことはなかった。したがって、台本の部数も3、40部どまりだった。宣伝などに使われるのがべつにいくらかあったが、マスコミの媒体がほんのわずかしかなかったころだから、とりたてていうほどの部数ではなかった。  こうして数えてみると、いわゆる検閲台本なるものは1本の映画につき20部から3、40部つくられていたことになる。戦争前のスーパー字幕のことを調べるにはまたとない資料なので、いくらかでも残っているとありがたいのだが、これがほとんど残っていない。私が知っているかぎりでは東和映画がかなりの数の検閲台本を保存しているだけである。  検閲台本はどこに消えてしまったのだろう。  内務省に保存されていたのが残っていればいちばんよかったのだが、これは敗戦のときにすでに散逸していたようだ。映画会社にあったのも同様で、アメリカの映画会社は店をたたんでしまったし、日本の映画会社も統合されたりして細々と生き永らえていた状態だったので、検閲台本の保存というようなことまで手がまわらなかったらしい。  このように考えると、いま残っているのがあるとすれば「必ず御返却下さい」という断り書きを無視して「御返却」しなかったものだけということになる。岩本さんが持っている『ブロンド・ヴィナス』もその一つであるにちがいない。私は岩本さんが送ってくださったコピーを手にして、『ブロンド・ヴィナス』が52年ぶりに石見国から姿を現したのだから、日本全国を捜してみれば「御返却」しなかった台本がまだまだ眠っているにちがいない、と考えたのだった。   半世紀を経て遂に�映画翻訳者協会�誕生  ことし(昭和59年)の夏は滅法暑い。眠れぬ夜がつづく。こんな夜を�熱帯夜�というのだそうだ。初めて聞くことばである。新しいことばを覚えると字幕にいちど使ってみたくなるのだが、こう暑くては字幕の文句を考えるのも苦行である。肩のこらぬ話をすることにしたい。  まず、みなさんに報告しておかなければならぬことがある。こんど�映画翻訳者協会�というのが誕生した。こんなことをいうと、なんだ、まだ�協会�ができていなかったのか、と呆れるひとがいるだろう。もっともである。1931年(昭和6年)にスーパー字幕翻訳監修という職業が生まれてからすでに半世紀をこえる月日がたっている。呆れるのが当り前である。  だいたい、スーパー字幕屋という稼業は注文主の映画会社とのあいだにツーといえばカーと応じる阿吽《あうん》の呼吸がなければつとまらぬ職人仕事である。�協会�が介入する余地はなかった。スーパー字幕屋が横の連絡をとって話し合うのはそろそろ稿料を上げてもらおうではないかと相談するときだけだった。  戦前はともかく、戦後のおよそ30年間、そんなときには私と高瀬鎮夫が顔をそろえて映画会社にかけ合いに行くことになっていた。いつもそれでなんとかなった。秘田余四郎《ひめたよしお》、高瀬鎮夫、私の三人がスーパー字幕屋を代表していた時代だった。字幕屋はほかにもいたが、それぞれ映画会社の社員だったり、専属だったりしていたので、べつにさしつかえなかった。  いまはそうはいかない。秘田、高瀬があいついで亡くなり、私もひところほど仕事をしていないので、仕事が分散、字幕屋の人数がふえた。おたがいに連絡がとりにくく、稿料が6年近く据えおかれたままになっている。私と高瀬が映画会社にかけ合っていたころには2、3年ごとにたとえわずかでも上げてもらっていたのだ。そこで、みんなが話し合って、このさい�映画翻訳者協会�をつくってもらえまいか、と私のところにいってきた。協会の名で映画会社にかけ合い、稿料を上げてもらおうというのだった。  名目《めいもく》はなんでもいい。�協会�をつくらなければならぬときが来ている。ビデオやディスクに私たちの原稿が使われるという問題も起こっている。世界一優秀な日本のスーパー字幕の水準を維持するためにも�協会�があった方がいい。私たちのこれからのつとめはせっかく生まれた�映画翻訳者協会�をどんなふうに活用してゆくかということである。  ところで、私たちのスーパー字幕の稿料だが、これがはなはだ奇妙な計算になっている。基準は1巻につきいくら。10巻ものなら10倍、12巻ものなら12倍というわけだ。雑誌の原稿料を1枚いくらと計算するのとおなじわけである。ただし、原稿用紙は400字詰めか200字詰めときまっているのに、映画の場合は1巻の長さが一定していない。ふつうは900フィートから1000フィートなのだが、1000フィートでもおなじように一巻に数えるのだから、一巻いくらという基準はいいかげんなものといわなければならぬ。  こんなわけで、おなじ12巻ものの映画が12000フィートあったり、10000フィートにならなかったりする。字幕の数もちがってくる。それでも、稿料はおなじなのである。長さがちがうだけではない。たとえばポール・ニューマンの『評決』のようにせりふがいっぱいつまっている映画は字幕の枚数も多くなる。『評決』のスーパー字幕を担当した戸田奈津子君に聞いてみたら、およそ1000枚ほどだったという。おなじポール・ニューマンの『明日に向って撃て』の字幕は1000枚ほどだった。巻数はおなじくらいだったと思う。つまり、字幕の原稿を、1300枚つくっても、1000枚つくっても、稿料はおなじなのである。  1巻いくらという基準が適切でないからこんな間の抜けたことがおこる。1300枚と1000枚がおなじ稿料というのはまだよい方だ。ローレンス・オリビエとマイケル・ケーンが虚々実々のせりふのやりとりを展開した『探偵』は字幕が1800枚をこえていた。映画2本分の枚数だが、廿世紀フォックスは稿料に色をつけましょうとはいわなかった。  もっとも、廿世紀フォックスの映画では大いに得をさせてもらったこともある。エリザベス・テイラーの『クレオパトラ』である。 『クレオパトラ』は製作費がたりなくなったり、プロデューサーが変わったりして、完成までにさまざまの紆余《うよ》曲折があった。公開された作品には最後の編集のときにカットされたと思われるところが全篇にわたってあった。編集の段階で大幅なカットがあると、巻数をへらしてまとめるのがふつうなのだが『クレオパトラ』の場合にはどういうわけかもとのままの32巻になっていた。1巻が500フィートしかないといった短い巻がいくつもあった。おかげで20巻分ほどの字幕だったのに32巻分の稿料をもらうことになった。  稿料の話をしているのだから、私たちがもらっている稿料が1巻いくらであるかをこのへんで明らかにしておくべきかもしれないが、さしさわりがあるといけないので金額は伏せさせていただく。映画界の人間はだいたいの金額を知っている。みなさんはどのくらいの金額を考えているだろう。映画界に縁のない友人と顔を合わせるとだれでも、 「スーパー字幕って、金になるんだろう」  と聞いてくる。そして、 「1本いくらになる? 70万ぐらいかい」  とたたみかけてくる。映画の世界をよほど金まわりがよいところと考えているらしい。 「とんでもない。その半分にもいかないよ」  と、私が答える。事実、半分にもいかないのである。友人は、 「そんなに少ないのか。それじゃ食えないじゃないか」  といって、信じられない、といった表情を見せる。友人は私たちが1本の映画のスーパー字幕を仕上げるのに要する日数を2週間から3週間ぐらいと考えているのだ。私がスーパー字幕は映画会社の映画という商品の最後の仕上げなので、特別の作品でないかぎり、5日から1週間でまとめないと仕事にならない、と私たちの立場を説明すると、そこでまた、とても信じられない、といった顔つきで私を見つめる。  この友人だけでなく、スーパー字幕屋を割のいい稼業と考えている人間は多いようだ。  戦後、高瀬鎮夫たち、セントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジで給料をもらっていたスーパー字幕屋はべつとして、東宝、松竹、東和、英国映画協会その他のスーパー字幕の仕事をしていた私や秘田余四郎は1巻3千円ずつもらっていた。昭和25年ごろのことである。1本の映画はたいてい10巻から12巻なので、1本仕事をすると3万円から3万6千円になる。公務員の初任給が5千円から6千円、バスが15円、コーヒーが30円という時代である。1巻3千円というのはかなり破格の稿料だった。おそらく、セントラルの高瀬たちの給料との|かね《ヽヽ》合いがあったのだろう。  いま私たちがもらっている給料は公務員の初任給やバス、コーヒーの値段が上がっている倍率にとうてい追いついていない。それでも、スーパー字幕屋をエリート稼業と考えているひとがかなりいるらしい。昭和59年5月ごろ、TBSで「風物語」という昼の連続ドラマが放映された。作者は森瑤子。この中にスーパー字幕を職業にしている服部|惟《ゆい》というエリート女性が登場する。  私は昼の連続ドラマというのをめったに見たことがない。「風物語」が放映されると聞いたとき、スーパー字幕屋がどんなふうに描かれているかを知りたくて、2、3回スイッチを入れてみたが、服部惟が登場している場面にめぐり会えなかった。  作者がスーパー字幕についてどの程度の知識を持っているのか知らないが、�洋画のスーパー翻訳�をしている服部惟は代官山のマンションに住んでいて、午前中を仕事の時間にあてている。いまスーパー字幕を仕事にしている女性といえば戸田奈津子と額田やえ子、そのほか二、三名だ。 「刑事コロンボ」の額田やえ子は吹き替えの仕事を主にしていて、スーパー字幕は年に2本か3本しか手がけていない。したがって、スーパー字幕を仕事にしている女性というのは戸田奈津子を頭において書いているのだろう。  小説だからどうでもいいようなものだが、「風物語」の服部惟は�お酒と男の二つがなかったら、何のために生きているのかわからない�といっていて、�飲めば飲むほど寂しくなり、一人寝なんかできなくなる�女性なのである。お酒か男かどっちか一つにしなさい、といわれて、メイク・ラブするのに、とてもじゃないけど素面《しらふ》でなんて考えられないと答えている。  戸田奈津子君は忙しいからだだから、TBSの「風物語」を見ていないのだろう。森瑤子の原作を読んでいるかどうか、いちど聞いてみようと思っていて、まだ聞いていない。�熱帯夜�がまだつづいている。肩のこらぬ話と思っていたら、とんだ話になった。このへんで筆を擱《お》くとしよう。   スーパー字幕屋がニヤリとする時  スティーブン・スピルバーグの『インディ・ジョーンズ・魔宮の伝説』のなかにハリスン・フォードのインディアナ・ジョーンズがベトナム人の少年子役キー・フォイ・クアンと魔宮・バンコット宮殿の地下道を逃げまわるところがある。スピルバーグお得意の見せ場である。  このとき、ハリスン・フォードが追いつめられたクアン少年に  �Amscray!�  とどなる。戸田奈津子君のスーパー字幕をはっきり覚えていないのだが、たしか 「逃げろ!」  というような字幕だったと思う。  私は試写を見ていて、この場面にきたとき、とたんに嬉しくなった。 Amscray は私が昭和6年にニューヨークのパラマウント本社にスーパー字幕づくりに出かけたときにまっさきに教えられたスラングの一つだったからだ。  スピルバーグは『魔宮の伝説』が1930年代の物語なので、そのころさかんに使われていた amscray を使ったのである。開巻早々、上海のキャバレーの場面でバスビー・パークレー・スタイルのショウを見せたのもおなじ意図からだ。バスビー・バークレーは当時のハリウッド・ミュージカルの振付監督で、日本にもファンが大ぜいいた。スピルバーグが amscray を使った神経のこまかさがとくに印象に残ったわけだ。  おそらく amscray にはじめて出っくわした読者もいるであろう。ためしに、もっとも新しい英和辞典、研究社から出た「リーダーズ英和辞典」をひいてみた。ちゃんと出ている。  ams-cray〔ae-mskrei〕i-vi.≪俗≫去る,ずらかる(scram).〔pig Latin〕  ついでに、いくつかの英和辞典をひいてみた。スラング辞典はべつとして、ふつうの英和には出ていないのが多い。Webster や Random House にも出ていない。昭和6年に私が教えられたころにはさかんに使われていたのだが、その後あまり使われなくなったのだろう。『リーダーズ英和辞典』に pig Latin と注釈がついているようにこどもたちの遊びことばで、scram を scra と m にわけ、m を先にもってきて、scra を後につけたのだ。そのままでは発音しにくいので、m の前に母音の a をつけたし、語尾を ei と発音させたのである。  つまり、  a + m + scra + y  というわけだ。この方式の pig Latin は amscray のほかにも例がいくつもあり、頭にくる母音も a に限られているわけではない。  amscray   scram  ellybay belly  ixnay nix  oybay  bay  unkjay junk  といったぐあいである。  amscray のことはだいぶ前に戸田奈津子君に話したことがあった。私に amscray を教えてくれたのはパラマウントのニューヨーク本社外国部のルイジ・ルラスキというイタリー人で、ルラスキはいま、パラマウントの親会社ガルフ・エンド・ウェスタンの社長補佐をつとめている。ガルフのコンベンションが香港であったときにルラスキが社長について日本に来て、奈津子君が通訳をつとめた。私はニューヨークにいたとき、ルラスキととくに親しくつき合い、公私とも、たいへん世話になった。イタリーに生まれ、スイスの大学に行き、アメリカでつとめて、英・仏・独・伊・ユダヤ語を読んで、話した。私とおなじように何にでも首をつっこみたがる雑学趣味旺盛の人間で、amscray のほかにもさまざまのスラングも教えてくれた。  ルラスキは女性の好みがなかなかうるさかった。いわゆるグラマーはきらいで、教養を感じさせない女性には低い点数しかつけなかった。いっしょに食事に行き、気に入った女性を見つけると、私に目くばせして �Mildness and Character!�  といった。どんな女性なのかは説明を加えないでもおわかりだろう。この文句はたばこのラッキー・ストライクの広告のキャッチ・フレイズで、このほかに�Cream of the Crop.��Nature in the Raw is seldom Mild.�など、いろいろあった。ラッキー・ストライクは�It's toasted�を売り物にしていたので、どれも toast してあることを売りこむ文句だった。  ルラスキはこのようなキャッチ・フレイズを会話のあいだにはさむのが好きで、バーレスクを見に行って、身体のひきしまったヌードの娘《こ》があらわれたりすると、私の耳に口をよせて�Nature in the Raw !�とささやいた。  ところで、映画の題名を覚えていないのが残念なのだが、いちど、Nature in the Raw が会話のなかに出てきたことがあった。1930年代の物語だった。私は Nature in the Raw の出どころを知っていたので、ひとりでにやにやしていたのだが、たとえ出どころがわかっていてもスーパー字幕に生かすわけにはいかなかった。  宣伝広告のキャッチ・フレイズが会話に使われていて、これがスーパー字幕にうまく生かされると、字幕屋としてはこんな気持のよいことはない。そんなことはめったにない。たったいちど、スーパー字幕が会話にぴったりはまったことがあった。  申しわけないのだが、この映画も題名を思い出せない。ビリー・ワイルダーの映画だったはずで、あるいは読者のみなさんのなかに覚えているひとがいるかもしれない。そのスーパー字幕はこんな文句だった。  「冷たい物を飲みたいわ」  「何を?」  「あの…」  「さっとさわやか?」  「もう一つのよ」  「ペプシだね」  文句はこのとおりではなかったかもしれぬが、じっさいにあった字幕である。  1930年代に話をもどそう。『インディ・ジョーンズ・魔宮の伝説』の試写で�Amscray!�を久しぶりに聞かせてもらって嬉しがっていたころのことだ。西武タイムという出版社から「タイム-ライフ」社発行の�Fabulous Years�8冊を翻訳出版する件について相談をうけた。  西武タイムは西武グループが「タイム-ライフ」と組んでつくった出版社。�Fabulous Years�は1900年代から1970年代までのアメリカを8冊にわけて写真と記事でまとめた「タイム-ライフ」らしい豪華本。この翻訳は数年前「タイム-ライフ」社が出版を計画、私はそのときに4冊目の�1930〜1940�の仕事を頼まれて仕上げたが、出版延期になった。それがこんど西武タイム社版になって世に出るわけだが、体裁、組版など、原本のとおりということで、原稿はすっかり書き改められているようだ。  内容は�Hard Times��Cop and Robbers��Radio��Cafe-y Society��Labor��F. D. R.��The Movies��Dream Factory��Left, Right and Center��Main Street��Swing��The Big Fair�の12の項目にわかれている。このなかの�F. D. R.�に1936年の「ニュー・ヨーカー」に載ったピーター・アルノの漫画が転載されている。上流階級らしい年配の男女がおなじような年配の男女を誘っているところで、 �Come along. We're going to the Trans-Lux to hiss Roosevelt�  というキャプションがついている。「いらっしゃいよ。ニュース映画館に行って、ローズベルトに|いや《ヽヽ》味をいってやりましょうよ」という意味である。 Hiss は cheer の反対で、日本人はあまりやらないが、アメリカ人は映画館や劇場に行っても気に入らないと口をふくらませて音を立てる。これが hiss である。  Trans-Lux がニュース映画専門館であることは知らないひとの方が多いだろう。ブロードウェイの48目あたりにあって、定員百名ほど、1回の興行がおよそ1時間、各社のニュース映画を編集したものと記録映画、トラベローグなどを上映していた。  ちかごろ、1930年代から60年代あたりを扱った映画が目につく。スーパー字幕の仕事をしていると、このピーター・アルノ漫画のキャプションのようなせりふにぶつかることがときどきある。そんなときには1930年代の初めにニューヨークで暮らしていたことが役に立つ。  そんなことを考えていたら、�Philadelphia Experiment�(『フィラデルフィア・エクスペリメント』)という映画でこんな会語にぶつかった。  David : What if we get all the way to Los Angels and there's nobody alive out there that I know? My father isn't a yong man.  Alison : Well, let's call and find out.  David : He doesn't have a hone.  Alison : David, everyone has a phone. Let's try.  デイビッドは1943年、第二次大戦中にフィラデルフィア海軍|工廠《こうしよう》のレイダーの機能を破壊する作戦に参加してタイム・トンネルに落ちこみ、1983年にネバダの砂漠に投げ出された男だ。  アリスンがいっているようにいまは電話のない家がほとんどないが、昭和18年には電話のない方が多かった。4、50年前の記憶がもうはっきりしなくなっているのである。   25年ぶりに『お熱いのがお好き』  まず、次の会話を読んでいただこう。  Sugar : I'll bet, while we were talking, you made like a hundred thousand dollars?  Joe : Could be. Ah...you play the market?  Sugar : No. The ukulele. And I sing, too.  Joe : For your own amusement?  Sugar : A bunch of girls are appearing at the hotel. Sweet Sue and Her Society Syncopators.  Joe : Oh, you're society girls.  Sugar : Oh, yes. Quite. You know, Bryn Maur, Vassar. We're just doing this for a lark.  ビリー・ワイルダーの名作『お熱いのがお好き』の記憶に残っている数多くの会話の一つである。シュガーがマリリン・モンロー。ジョーがトニー・カーティス。シュガーはせりふの中にあるように女ばかりのバンド歌手。ウクレレを弾いている。ジョーは殺人現場を見たためにマフィアに追われ、女装して女のバンドに逃げこんでいるサキソフォーン吹き。場面はマイアミの海岸。ジョーがシュガーとデートをしようと男の服装にもどって話しかけているところである。  ここに出てくる Bryn Maur, Vassar は、どっちもアメリカ東部の名門女子校。シュガーは自分を素姓のよい娘と思わせたいためにとっさに頭にうかんだ名門校の名前を挙げたのである。 『お熱いのがお好き』は1959年のユナイテッド・アーティスツ映画。昭和34年という年は皇太子妃がきまって、ミッチー・ブームが1年中の重要なできごとの上位を占めた年だ。私はこのシュガーのせりふにぶつかって、窮余の1策、ミッチー・ブームにあやかって、聖心女子大学の名前を拝借、これに学習院をつけたして、�Oh, yes. Quite. You know, Bryn Maur, Vassar.�を 「聖心から学習院を出たのよ」  というスーパー字幕をつくった。原文は複数の女の子のことで�Bryn Maur や Vassar を出た女の子たちよ�という意味だが、シュガーが自分のことをいっているように変えた。この方がシュガーの胸のうちが観客にはっきり伝わると考えたからである。  私はさまざまのスーパー字幕づくりの一つの例としてこの字幕の話をたびたびしている。そして、スーパー字幕に日本的表現はつとめて避けなければいけないのだが、この場合は�聖心�が Sacred Heart of Jesus で西欧的な匂いがあるし、�学習院�は固有名詞でなく、�格式の高い高校�という意味にもとれるので大目に見てもらえるだろう、とつけ加えている。  ところで、『お熱いのがお好き』をなぜいまごろ持ち出したのかと首をかしげる読者がいるだろう。こんど25年ぶりでリバイバルされることになり、私がスーパー字幕をつくり直したからである。私は半世紀前の1931年からスーパー字幕をおそらく2000本は手がけているが、もう一度字幕をつくり直してみたいなと思う映画はそう多くはない。『お熱いのがお好き』はその数少ない映画の一つで、こんな機会は滅多《めつた》に訪れるものではない。もう一度|逢《あ》いたいがそんな機会はあるまいと思っていた女性に思いがけなく出っくわしたようなものである。  こんなわけだから、近ごろでの楽しい仕事だったのだが、Bryn Maur と Vassar には参った。25年前には�聖心から学習院�として、ユナイテッド・アーティスツの福沢寿支配人に、おかげで配給収入が10パーセント殖えるよ、とお世辞をいわれたが、もう�聖心�に神通力はなくなっている。何かよい知恵はないかと頭をひねったが、名案が浮かばず、結局、  「ホテルに出てるわ。�スィート・スー社交ガールズ�よ」  「社交界出身?」  「バザー女子大を出たのよ」  というようなことになった。これでは配収10パーセント増というわけにはいかない。  ビリー・ワイルダーの映画は会話の面白さが抜群で、字数を制限されているスーパー字幕になりにくいせりふがいくらもある。2行20字になかなかおさまらないのだ。25年前にどんな字幕をつくったかを覚えていると助かるのだが、ほとんど記憶にないのである。  たとえば、こんなせりふがある。これを2行20字におさめなければならないのである。  Joe : I wanted them to fly some orchids from our green house, but unfortunately, all of Long Island is fogged in.  トニー・カーティスのジョーがマリリン・モンローのシュガーに花を贈るときのせりふである。英文和訳の問題のつもりで翻訳すると、僕は|うち《ヽヽ》の温室の|らん《ヽヽ》を飛行機で送らせようと思ったのですが、あいにくロング・アイランドぜんたいが霧で覆われてるのです、ということになる。字数を数えると55字ある。  55字を20字にちぢめなければならないのだから大仕事である。スーパー字幕屋50年の私にとっても楽な仕事ではない。このせりふの重要なポイントは三つある。  一.|うち《ヽヽ》の温室の|らん《ヽヽ》  二.飛行機で送らせようと思った  三.霧のために飛行機が飛べなかった  ロング・アイランドという地名はできることなら取り入れたい。ニューヨーク近郊の高級住宅地なのである。だが、これだけで8字あってはどうにもならない。|らん《ヽヽ》はできるなら蘭を使いたくない。蘭は画《かく》が多く、タイトル・ライターが書きにくいし、常用漢字にも入っていない。何回も書き直してやっとまとめ上げた字幕はこうだった。  「|うち《ヽヽ》の温室の蘭の空輸   が濃霧でだめになった」  この字幕の自慢は�空輪�と�濃霧�を思いついたことである。�|うち《ヽヽ》の温室�も字幕になってみればなんということもないが、|ひとひねり《ヽヽヽヽヽ》しないと考えつかない文句である。それにしても、25年前はどんな文句の字幕をつくっていたのであろう。  ジョージ・ラワトのマフィアの親分�スパッツ�が小銭を投げ上げるのが|くせ《ヽヽ》のチンピラをたしなめて、  Spats : Where did you pick up that cheap trik?  ときめつけるところがある。ジョージ・ラフトは1932年のハワード・ホークスの名作『暗黒街の顔役』で小銭を投げ上げるのが|くせ《ヽヽ》のチンピラを演じ、これが出世役になった。それ以来、小銭を投げ上げるのがジョージ・ラフトのトレイド・マークになっていた。ビリー・ワイルダーはこのトレイド・マークをギャグに使ったわけで、私のスーパー字幕は——  「誰の|まね《ヽヽ》をしてるんだ」  となっている。古いファンなら|にやり《ヽヽヽ》としてくれるはずだ。『お熱いのがお好き』がつくられた1959年から30年、『暗黒街の顔役』からは57年もたっているのだから、誰の|まね《ヽヽ》をしている、といわれても新しいファンには何のことかわからず、ギャグが通じないかもしれぬ。スーパー字幕としては、おかしな|まね《ヽヽ》をするな、ぐらいが正解であるかもしれない。  こんなふうに話をしているといつまでも|たね《ヽヽ》がつきない。とにもかくにも、つくり直してみたいと思っていた『お熱いのがお好き』の字幕をつくり直して、思いがけなく永年の念願がかなったことを報告しておきたかったのである。   小実昌くん「サンディエゴ」に行く 「スーパー劇場」の出し物の外題《げだい》としてはいささか変わっていると思われるだろう。サンディエゴをわざわざカッコでかこってあるところにご注目ねがいたい。  正月も20日をすぎると、毎年、いただいた年賀ハガキを整理する。女の子が逆立ちしているのをネコが立ち上がってささえている絵を淡い緑色で描いたのがあった。その横に、あけましておめでとうございます、と朱色で刷りこんであって、ペンで──  あかるいしずかなお正月です。1月なかばにサンディエゴにいきます。  と書き加えてある。田中小実昌くんの年賀状だ。  コミさんはこのところ、毎年、正月になるとサンディエゴに行く。ことしも行くのだナ、と思いながら、次のハガキにうつろうとして、サンディエゴでなく、いまはサンジエゴと書くのがふつうであることに気がついた。  コミさんが年賀ハガキにサンディエゴを使おうと、小説の中にサンディエゴと書こうと、いっこうにさしつかえない。自由である。だが、私たち字幕屋がこのカリフォルニア州のアメリカ海軍基地の名を字幕にとり入れるときにはふつうサンジエゴと書く。  外国の地名の書き方は誰でもそのひとの書き方を持っている。ベネチアと書くひともいるし、ヴェネチアと書くひともいる。なかにはヴェニスにこだわっているひともいる。スーパー字幕の場合、ことばの選択やいいまわしの工夫に字幕屋それぞれの個性があらわれるのはかまわないが、外国の地名・人名の書き方は一応きまっている書き方に従いたい。中学・高校や新聞社で採用している書き方である。  このことは「スーパー劇場」で一度とり上げたことがある。書き方がせっかくきまったのに、これに従っているのは中学・高校、新聞社、NHKといったところぐらいで、一般にはほとんど関心を持たれていない。そのことを、ある一流銀行の海外支店の呼び方を例にして書いた。海外支店の呼び方が、きめられた外国地名の書き方に従っていなかったのは次の六つだった。→の次がきめられた書き方。  ロスアンゼルス→ロサンゼルス  ハンブルグ→ハンブルク  デュッセルドルフ→ジュッセルドルフ  マドリッド→マドリード  バンコック→バンコク  サンディェゴ→サンジェゴ 「スーパー劇場」でとり上げたとき、銀行の名を書かなかった。この銀行は東京銀行である。横浜正金銀行と呼ばれていたむかしから外国との接触がもっとも多い銀行であるのに、外国地名の書き方には無関心であるらしい。念のためにことしの東京銀行の手帳をしらべてみたら、この六つの地名はもとのままになっていた。  東京銀行が外国地名の書き方にまったく関心がないことがわかった。他の銀行はどうなのだろう。調べてみたくなって、三井、住友、第一勧銀、大和、三和の「店舗一覧」というのを集めてみた。  海外支店の所在地の地名の表記が、きめられた書き方に従っていないのがいくつもある。バンコックがある。ロスアンゼルスがある。サンディエゴがある。とくにロサンゼルスはほとんどの銀行がロスアンゼルスになっていた。  東京銀行のときは六つの都市だった。こんどは新しい都市の名が出てきた。  バハレーン→バーレーン  クアランプール→クアラルンプール  の二つである。  銀行や商社は官公庁とのあいだに文書の往来があるのだから、こういうことにはとくに神経を使うだろうと思っていた。そうではなかった。外国地名の書き方など、どこでもあまり気にしていないらしい。あるいは、書き方を改めるとパンフレットからレターヘッドまで新しく印刷しなければならず、その費用がバカにならないのかもしれぬ。さらに勘ぐると、きめられた社名がそれぞれの土地で登録されているので、変更するとなると手続きがめんどうなのかもしれぬ。  いずれにせよ、外国地名のきめられた書き方に対する世間の関心がうすいことはまぎれのない事実である。だからといって、スーパー字幕屋も右にならって、思いのままの書き方にするわけにはいかないだろう。じっさいには、新聞社が出している「用語の手引き」といったような虎の巻をみんながそろえていて、きめられた書き方に従っているようである。それでも、ときどき、サンディエゴ、マドリッドなどにでっくわすことがある。うっかりしていたのか、何かわけがあってそう書いているのか、こんど、映画翻訳者協会の集まりがあったときに話し合ってみたいと思っている。  ところで、ちかごろ、外国映画祭がしじゅう催される。イタリア映画祭、スペイン映画祭、アフリカ映画祭、フランス映画祭、韓国映画祭。おかげでスーパー字幕屋は仕事に追われ、3軒ある打ち込み式字幕加工工場は休日返上のフル回転という忙しさだった。  ある年、スペイン映画祭を手伝って、マヌエル・グティエレス・アラコン監督の『庭の悪魔』とカルロス・サウラ監督の『血の婚礼』のスーパー字幕をこしらえた。『血の婚礼』はアントニオ・ガデスが『カルメン』の前につくったフラメンコを見せる映画で、フェデリコ・ガルシア・ロルカの有名な芝居にもとづいた歌詞を楽しみながら字幕をこしらえた。 『庭の悪魔』は1940年代のスペインの話。地方都市の中流家庭に残る古い体質をとり上げたホームドラマ。せりふの中には Madrid が何回も出てくる。スーパー字幕をマドリードとしたのはいうまでもないが、せりふをよく聞いていると、�リ�をひっぱってマドリードとはっきり書かねばならぬほど�リー�とは聞こえないのである。  ためしに辞書を引いてみた。発音記号は medrid となっている。スペイン語の発音は madri-id だそうである。むしろマドリッドに近い。バンコックでなくバンコク、フィリッピンでなくフィリピンと、一般的に使われていた発音が明らかにまちがっているのを改めるのなら誰でも納得《なつとく》がいく。マドリードの場合には異論が出てきてもやむを得まい。地名だけでなく、人名の場合もおなじこと、ちかごろのように外国語をカタカナで書くことがますます多くなると、外国語の発音をカタカナにうつすことのむずかしさが身に沁みてわかってくる。  戦前には外国地名を漢字で書くという手があって、どう発音するかはお読みになる方のご随意にと逃げることができた。ニューヨークは紐育、サンフランシスコは桑港、ロサンゼルスは羅府と書けばよかった。このような漢字表記はいまは用いないが、この三つの都市ぐらいはいまの若い人たちも読めるだろう。沙市、費府となるともう読めないひとの方が多い。シアトルとフィラデルフィアである。そういわれてみると、なるほどと思う。誰が考えたのか、うまく考えたものである。  私は昭和15年に友人たちと出版社をこしらえたとき、最初の仕事にジュール・ロマンの�Seven Mysteries of Europe�を翻訳して出版した。「サタデイ・イブニング・ポスト」に連載された英訳をテキストに使い、書名を「欧羅巴の七つの謎」とつけた。ヨーロッパでも、ユーロープでも、オイロープでも、お好きなように読んでくださいというわけである。おなじ翻訳が読売新聞社からも出版され、こっちは「欧州の七不思議」という書名だった。  外国地名を漢字で書く慣わしがあったことはスーパー字幕屋にとってまことにありがたかった。フィラデルフィア、サンフランシスコはどっちも8字だが、費府、桑港ならわずか2字ですんてしまう。ちかごろは地名人名だけでなく、外来日本語と化している外国語も多く(その数、2万5千から3万といわれている)、カタカナの氾濫《はんらん》で、字数がどうしても多くなり、スーパー字幕屋は頭がいたくなるばかりである。  私は外国地名をカタカナでどう書くかという話をするとき、いつも、ベバリーヒルズにひとことふれる。ふつうはビバリーヒルズだが、私は発音どおり正確にベバリーヒルズと書く。なぜふつうの書き方に逆らって正確に書くかといういきさつは先に述べた。ベバリーヒルズは新聞社の「用語の手引き」の外国地名のところに載っていないのだから、つむじまがりが一人ぐらい現れてもいいだろう。  日航ツーリストのアメリカ西海岸ツアーのパンフレットには発音どおりベバリーヒルズと書いてある。  ところが思いがけなく、困ったことが持ち上がった。  パラマウントが�Beverly Hills Cop�という映画をつくったのである。日本題名は原題のままの『ビバリーヒルズ・コップ』。題名が『ビバリーヒルズ・コップ』でスーパー字幕がベバリーヒルズになっていてはどうにも工合がわるい。ベバリーヒルズはまだ当分のあいだ、ビバリーヒルズから抜け出さぬようである。   「君の瞳に乾杯!」でいいのかナ  どうも妙な工合なのである。こんなことが起ころうとは夢にも考えていなかった。  事の起こりはヘラルド映画から『カサブランカ』のスーパー字幕のつくり直しを頼まれたときだ。昭和56年の秋、日比谷映画劇場とピカデリー劇場が閉館するときに�さよなら興行�というのを催した。『風と共に去りぬ』『イースター・パレード』『レベッカ』『ショウ・ボート』『アラビアのロレンス』といった名作・話題作をつづけて上映、これが大いに好評を博して、リバイバル・ブームにつながった。『噂の二人』『お熱いのがお好き』『クオ・ヴァディス』『裸足の伯爵夫人』『死刑台のエレベーター』など、映画ファンならだれでもとびつく作品が次々に公開されることになった。『カサブランカ』はそのなかの1本なのである。  さっそく仕事にとりかかった。ところが、渡された台本がスーパー字幕用のせりふをピックアップしたリストで、オリジナルの Dialogue Sheets ではない。すでに�箱がき�ができ上がっているわけだ。たびたびいっているようにスーパー字幕のつくり方は世界各国のうちで日本がいちばんていねいで、いちばんすぐれている。�箱がき�一つとってみても、向うのははなはだ杜撰《ずさん》なのだ。『カサブランカ』は映画の中の名せりふをえらぶときにまっさきに取り上げられる映画なので、いいかげんな台本は使いたくない。だいいち、この台本には脱落が3ページあった。ヘラルド映画に問い合わせたら、きちんとした台本を送ってくることになっているという。台本が到着したら直すべきところを直すことにして、スーパー字幕の原稿をこしらえた。  こんなわけで、ふつうなら仕事を始めてから10日か2週間で初号試写を見られるはずなのに、この原稿を書いている2月25日現在、初号がまだでき上がっていない。新しい台本が到着したのが2月の中ごろで、着いてみたら、これが前からあるのとおなじ台本で、しかも、おなじページが3ページ抜けていた。バカにしてやがる、何を考えてるのだ。腹を立ててみたところで、埓《らち》があくわけではない。抜けているページのヒアリングをして、原稿をまとめ、字幕カードを書かせることにした。第1回試写を見てから1カ月たってまだ初号ができていないのはこんな理由があったからである。  ところで、この原稿を2月25日に書いているといま記した。2月25日は月曜。24日は2月の最後の日曜で、NHKテレビの第3チャンネルでスーパー字幕による外国映画の放映がある日だ。この映画がなんと『カサブランカ』だった。急に『カサブランカ』になったわけではなく、昨年からきまっていたのである。ヘラルド映画の『カサブランカ』の初号が延び延びになったためにテレビ放映が先になってしまったのである。こんなことは私だけでなく、スーパー字幕屋のだれにとっても初めてのことであろう。おそらく、これからも起こるまい。なんとも妙な工合なのである。  NHKのスーパー字幕による外国映画の放映はできるだけ見ることにしている。いつも岡喜一というスーパー字幕のクレディットが出るが、どういうひとであるのかは知らない。外国ダネのNHK特集などのナレーション原稿なども手がけていて、スーパー字幕専門というのではないらしい。字幕のつくりかたは意味をわかりやすく伝えることに重点をおいているようで、しゃべっている人間の性格やせりふのニュアンスにはあまり関心がない。  たとえばこんな工合である。第二次大戦のとき、ドイツ軍がパリに進駐してきたころ、ハンフリー・ボガートのリックがイングリッド・バーグマンのイルザと出会って、愛し合うようになる。そのときの会話。  Rick : Where were you 10 years ago?  Ilsa : I had a brace on my teeth. Where were you?  Rick : I was looking for a job.  私がこしらえた字幕は次のとおり。  リック 10年前は何をしてた?  イルザ 歯にブリッジをしてたわ あなたは?  リック 職を探してた  このイルザのせりふがNHKの字幕では「歯を直してたわ」になっていた。このせりふは歯に brace をつけていたということでイルザがきちんとした家の娘で、リックとはかなりの年齢のちがいがあることを観客に伝える目的で書かれている。ブレイスはブリッジとはちがうので、ほんとうはブレイスを使いたいところだ。日本ではまだ少女時代にブレイスをつけることが一般的になっていない。「ブリッジをしてたわ」ではどういうことなのかわからぬかもしれぬという不安はある。  それでも「歯を直してたわ」よりははるかにましだろう。ブレイスをつけるのも歯を直すことの一つにはちがいないが、「歯を直す」という文字からの連想はだれにいわせてもあの歯医者の椅子とドリルで歯をけずられる感触だろう。もとのせりふの持つ考え抜かれた味わいがほんのひとかけらも伝わってこない。このへんの工夫はスーパー字幕をこしらえるときの心得の一つとして忘れてはならないことだ。  和田誠君が書いた「お楽しみはこれからだ」という映画の中の名せりふを丹念《たんねん》に拾い集めた楽しい本がある。映画の中の名せりふということになると『カサブランカ』がかならず登場する。和田君も『カサブランカ』から名せりふを四つえらんでいて、その一つがこのイルザのせりふなのだが、このせりふのロマンチックな感触をほめたたえた後で、英和対訳本とずっと前にテレビで放映されたときの珍妙(?)な日本語訳を紹介している。 『カサブランカ』の英和対訳が出版されていることは知らなかった。邦訳はともかく、英語の原文は貴重な資料である。せりふの訳は「歯列矯正をしてたわ」となっているそうだ。�had a brace on my teeth�という英語に�歯列矯正�などという漢語はふくまれていない。  前にテレビで放映されたときの字幕は「親知らずが痛かったわ」だったという。これもあまりいただけない。親知らずを持ち出したのは考えた末のことなのだろう。あの場面でいきなり�親知らず�などという文字を読まされる観客(この場合は視聴者)は気の毒だ。スーパー字幕は映画を鑑賞している観客の意識の流れをたとえ一瞬といえどもつまずかせてはならないのである。 『カサブランカ』の話となるとどうしてもとりあげなければならぬせりふがある。リツクがワインのグラスを手に持って、イルザに──  Rick : Here's lookin' at you, kid!  という。映画の名せりふの話のときにかならず出てくるせりふである。私は映画の名せりふをあげよといわれると、アル・ジョルスンの�You ain't seen nothing yet.�(お楽しみはこれからだ。『ジャズ・シンガー』)とゲェリー・クーパーの�No hard feelings, buddy.�(悪く思うなよ。『市街』)とハンフリー・ボガートのこのせりふの三つをあげることにしている。  このせりふは映画の中でパロディふうにとり上げられることも多い。サミー・デイビス・ジュニアがハンフリー・ボガートの物真似をするとかならずこのせりふをしゃべる。日本でも映画ジャーナリスト、映画業界の人間、映画好きのひとたちのなかには知っているひとが多い。日本語訳も定訳ができ上がっている。  リック 君の瞳に乾杯!  というのである。隅田たけ子訳の『カサブランカ』物語も「ほんやく」に連載された矢田尚・松村信次の「外国映画のシナリオから」もこの日本語訳を使っていた。  私もこの日本語訳を字幕につかわせてもらった。ちがう文句にして、ここで「君の瞳に乾杯!」という字幕が出るのだナと期待している映画ファンを失望させては申しわけない。字数もちょうどよろしい。あとで同じせりふが2度出てくるので、頭に残りやすい字|づら《ヽヽ》でないと効果がうすい。つまり、この日本語は申し分ないのだが、遠慮なくいわせてもらうと、なんとなくひっかかるものがある。  英語の原文のかろやかなムードが失われているからだ。瞳と乾杯がかなり字画の多い漢字なのがかたい感じを与える。瞳ということばは日常会話ではあまり使わない。ぜんたいに|よそゆき《ヽヽヽヽ》の感じがつよく、もっと|ふだん《ヽヽヽ》着の文句でありたい。原文をよむと、here's と lookin'at がすばらしく生かされていて、それに最後の kid が|くせもの《ヽヽヽヽ》である。どう訳せばもっとも適切か、みなさんも考えていただきたい。  NHKのテレビ放映では「わが命に」となっていた。この訳のことはともかく、映画を愛するひとびとのためにわざわざスーパー字幕を使うとうたっているNHKが、なぜ「君の瞳に乾杯!」を使わないのだろう。  なお、ヘラルド映画から渡された台本がスーパー字幕用のリストであると記したが、このリストはせりふの原文をちがう文句に書き替えてある。字幕屋の語学力では原文を理解できぬだろうという�配慮�らしい。そして�Here's lookin' at you, kid!�を──  Rick : I wish you good luck!  と変えてあった。NHK以上に言語道断である。   スーパー宇幕屋・法廷の楽しみ 〈スーパー字幕屋・法廷の楽しみ〉ということについて話をしたい。妙なことをいう男だナ、と思われるだろう。これはスーパー字幕づくりを手がけたことのある人間でないとわからない。法廷の場面のせりふは検事が被告を追いつめるせりふも、弁護人が検事の論告を反駁《はんばく》してゆくせりふも理づめに組みたてられているわけだから、スーパー字幕につくるときにいろいろと苦労をさせられるが、苦労があるだけに限られた字数にぴったりはまって、なんとか満足のいく字幕ができ上がると、むずかしいクロスワード・パズルが解けたときのような快感をおぼえる。これを〈スーパー字幕屋・法廷の楽しみ〉と呼んだのである。私だけでなく、スーパー字幕屋はみんな経験していることにちがいない。  ところで、こんど、その法廷場面に久しぶりにめぐり合った。デイビッド・リーンの『インドヘの道』がその映画である。この原稿を書いているのは3月25日だから、まだはっきりきまったわけではないが、オスカーをいくつか獲《と》ることは確実という名作である。2時間37分という長編。そのなかから法廷の場面のせりふがどんな日本語字幕になっているかを紹介したいのだが、その前に法廷にたどりつくまでのシーンのせりふを2カ所とりあげておこう。『インドヘの道』は第一次世界大戦後、インドが英国領であったころの物語。ロンドンの PENINSULAR & ORIENTAL STEAMSHIP Co. にアデラ・ケステッドがインド航路の汽船の乗船券をうけとりに行くところから始まる。  この場面のせりふの一部。  Manager : ㈰ First time in India, Miss Quested?  Adela : ㈪ First time out of England.  Manager : ㈫ I envy you. New horizons.  (アデラ、Marabar Cavesの額を眺める)  Manager : ㈬ Those are the Marabar Caves, about twenty miles from you at Chandrapore.  Adela : I see.  Manager : ㈭ Mrs. Moore returns on the�Rawalpindi�on May the twelfth, and your return is open. That is correct?  Adela : ㈮ Er, I'll be staying on, probably.  Manager : ㈯ If you decide to return with Mrs. Moore, then let us know as soon as possible.  Adela : I will.   〈スーパー字幕〉  ㈰ インドは初めてで?  ㈪ 外国は初めてです  ㈫ お羨しい 新しい世界です  ㈬ マラバー洞窟です 見に行けますよ  ㈭ モア夫人だけが5月12日に帰国なさるので?  ㈮ 私は滞在する予定です  ㈯ 夫人と帰国の時は早目にご通知を  アデラ・ケステッドとモア夫人がインドのチャンドラポアに行くことがこの場面でわかる。行先がチャンドラポアであることを観客に知らせておく必要があるのだが、残念ながら字数が多すぎて字幕に入らない。  そのチャンドラポアが出てくる㈬のほかの字幕についてはとくに記すことはない。原文の英語とひき合わせていただくと、字幕づくりの|こつ《ヽヽ》がいくらかでもわかるはずである。とくに、㈭㈮㈯を17—20字、9—11字、3—15字という字数の制限を頭において味わっていただきたい。  問題は㈬である。この字幕は13字からせいぜい16字までにおさめなければならないので、ぜひ必要と思われるチャンドラポアとマラバー洞窟のどちらかをあきらめなければならない。物語の中心になっている事件が起こるのがマラバー洞窟なので、こっちをとった。こんなせりふにぶつかると、10分、20分と考えて、結局どうにもならなくて、時間をむだにする。スーパー字幕屋の泣きどころである。  モア夫人の息子ロニーがチャンドラポアの英国政庁の役人で、アデラはロニーと結婚することになっている。チャンドラポアのインド人の若い医者アジズがモア夫人とアデラをマラバー洞窟見物に招待する。アデラが洞窟に一人で入りこみ、|こだま《ヽヽヽ》が不気味にひびくのに脅やかされて半狂乱となり、アジズに暴行をうけたと錯覚する。この事件の伏線となる次のような会話が洞窟に行く途中、アデラとアジズのあいだで交わされる。  Adela : ㈰ Doctor Aziz, May I ask you something rathre personal?  ㈪ You were married, weren't you?  Aziz : ㈫ Yes, indeed.  Adela : ㈬ Did you love your wife when you were married her?  Aziz : ㈭ We never set eyes on each other until the day we were married.  Adela : Oh.  Aziz : ㈮ It was all arranged by our families. I only saw her face in a photograph.  Adela : ㈯ What about love?  Aziz : ㉀ We were a man and a woman. And we were young.   〈スーパー字幕〉  ㈰|ぶしつけ《ヽヽヽヽ》な事を伺《うかが》ってかまいませんか  ㈪結婚の経験が?  ㈫あります  ㈬恋愛結婚でしたの?  ㈭婚礼の日まで会ってません  ㈮親が決めた事で 私は写真を見ただけです  ㈯セックスは?  ㉀私たちは男と女で 若かったのです  ㈰の字幕で|ぶしつけ《ヽヽヽヽ》と圏点をつけたり、伺《うかが》うなどという漢字を使ったりして処理をしているのはあまりほめられない。㈬と㈭はうまいことばが見つかったと思う。㈭を�結婚�でなく�婚礼�としたところなど、小さなことのようで、字幕をつくるときには大切な心得だ。英語の love が日本語の恋愛、愛情とちがっていることが㈯アデラのせりふでよくわかる。  このあと、アデラが洞窟のなかで妄想に囚《とらわ》われて、アジズに暴行された、と訴える。英国人の若い娘がインド人の医師を訴えたのだから、当然、インド人と英国人が対立、険悪な空気がうまれる。法廷の空気も緊張、検事の論告にも力がはいる。スーパー字幕屋が頭をひねって Dialogue Sheets と睨《にら》めっこをするところである。  なお、ついでに記しておくと、英国映画のせりふ台本はよくできているのが多い。『インドヘの道』の台本も Post-Production Release Scripts と表紙に記してあるほどで、申し分のない、完全なものであった。  次に検事の訊問の一部を紹介する。McBryde は検事、Das は裁判長。この部分は法廷のせりふでも、それほど緊迫感はない。検事が被告を追いこんでゆく部分をとり上げようと思ったのだが、せりふの英文から字幕をこしらえてみようとする読者がいるだろうと考えて、だれでも一応は字幕につくれるせりふをとりあげてみた。スーパー字幕の日本語のところを見ないで、次の字数を頭において字幕をつくってみられるとよい。  ㈰ 14—17字 ㈪ 4—5字 ㈫ 3—4字 ㈬ 5—6字 ㈭10—12字 ㈮ 11—13字 ㈯ 4—5字㉀ 9—11字 ㈷ 8—10字 ㉂ 5—6字 ㉃ 15—17字 ㈹ 10—12字  McBryde : ㈰ Miss Quested, you and the prisoner continued up to the cave.  Adela : Yes.  McBryde : ㈪ Where was the guide?  Adela : ㈫ He'd gone on ahead.  McBryde : ㈬ Sent on ahead.  Aela : ㈭ No, he was waiting for us further along the ledge.  McBryde : ㈮ But when you arrived at the caves, prisoner left you and went to speak to the guide?  Adela : ㈯I don't know if he spoke to him or not.  McBryde : ㉀ But he left you and went off in his direction.  Adela : Yes.  McBryde : ㈷ And what did you do?  Adela : ㉂ I waited.  Das : ㉃ You said just now,�I think it may have been partly my fault.�Why?  Adela : ㈹ I had asked him about love.  Das : ㈺ And had thereby introduced a feeling of intimacy?  Adela : ㈱ That is what I meant.  Das : Thank you.   〈スーパー字幕〉  ㈰あなたは被告と二人で洞窟に向った  ㈪ガイドは?  ㈫先に  ㈬ずっと先に?  ㈭いいえ 私達を待ってました  ㈮被告は彼に何か話しましたね  ㈯知りません  ㉀彼の方に行ったでしょう  ㈷あなたはどうしました  ㉂待ってました  ㉃�私も悪かった�といいましたね なぜですか  ㈹セックスの事を聞いたので  ㈺彼に親近感を抱かせたと?  ㈱そうです   スーパー第1号『モロッコ』の字幕  鳥取市の岩本彪さんから『モロッコ』の検閲用台本のコピーがとどいた。この原本は、もしスーパー字幕ライブラリーというようなものがあれば、所蔵品目第1号に記録されるべき貴重なものである。  岩本さんのことはごぞんじの方もあろう。すでに2回、「スーパー劇場」に登場していただいている。外国映画の対訳の出版物について調べておられて、「英和対訳映画シナリオ書誌」というパンフレットを出版されている。私のところに戦前のパラマウント映画『ブロンド・ヴィナス』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、マレーネ・ディートリッヒ主演)の検閲台本のコピーを送ってくださった。この台本の内容といわれについては「スーパー劇場」でくわしく紹介した。 『モロッコ』の検閲台本となると、おなじスタンバーグ・ディートリッヒ・コンビの作品の検閲台本でも、その値打ちをくらべると『ブロンド・ヴィナス』は『モロッコ』の足もとにも及ばない。とにかく、『モロッコ』は初めて日本語スーパー字幕がついた外国映画で、スーパー字幕屋という新しい職業の産みの親、映画説明者(活動写真弁士、略して活弁)という人気稼業を消滅させた張本人なのである。 『モロッコ』の封切は昭和6年2月11日。大ヒットだった。スーパー字幕のおかげであったかどうかはわからない。当時、ディートリッヒは観客吸引力《ドローイング・パワー》ナンバー・ワンの女優だったし、相手役ゲェリー・クーパーの人気、スタンバーグの名声も計算に入れておかなければならない。映画のできばえもわるくなかった。「キネマ旬報」昭和6年のベストテンの第1位にえらばれている。スーパー字幕がついていなくても、ヒットの要素は十分そなえていたのである。  ところで、この原稿を書くについて当時のことを調べていたら、奇妙なことにぶつかった。前記ベストテンにえらばれている作品の顔ぶれである。まず、作品をご一覧ねがいたい。   1*モロッコ   2 巴里の屋根の下   3*市街   4 ル・ミリオン   5*間諜X27   6 全線   7 悪魔スヴェンガリ   8 最後の中隊   9*陽気な中尉さん   10*アメリカの悲劇  *印がついているのがスーパー字幕つきの作品で、全部パラマウント映画。この年スーパー字幕をつけていたのはまだパラマウントだけだった。パラマウント映画のほかにえらばれているアメリカ映画はワーナー・ブラザースの『悪魔スヴェンガリ』(アーサー・メイヨ監督、ジョン・バリモア主演)1本、あとの4本はヨーロッパ映画である。アメリカの他の会社の映画はどうだったのだろうという疑問がわく。昭和6年の封切記録をざっとあたってみると、ウィリアム・ワイラーの『嵐』、ラアウル・ウォルシュの『ビッグ・トレイル』、ジョージ・ヒルの『ビッグ・ハウス』、キング・ビドアの『ビリー・ザ・キッド』、フランク・ボザージの『リリアム』、エルンスト・ルビッチの『モンテ・カルロ』といった名作が目につく。これらの映画は字幕がついていなかった。勘ぐって考えると5本のパラマウント映画はスーパー字幕がついていたのでよくわかったのかもしれぬなどと映画批評家のみなさんに失礼な推理も浮かんでくる。日本代表トム・D・カクレンのたくみな根まわしでパラマウント映画が絶大な人気を得ていたことは事実だが、ベストテンにパラマウント作品が5本ならぶというのはどう考えても尋常ではない。『モロッコ』の功績を改めて考え直さなければならないかもしれない。  その『モロッコ』だが、検閲台本に掲載されているスーパー字幕をいま改めて調べてみると、とくに目につくことが二つある。第一にスーパー字幕の数が少なすぎること、第二に一つの字幕の字数が多すぎることである。 『モロッコ』のスーパー字幕は297枚。外人部隊物でせりふのないシーンが多いにしても、12巻で232枚は少なすぎる。当時の字幕つくりの考え方で字幕はできるだけ少なくということだったのである。私がいま『モロッコ』に字幕を入れるとして、1巻ごとの字幕の数をもとの字幕の数とくらべてみると次のようになる。Tは田村幸彦さんのもとの字幕の数。Sは私がいま字幕をつくればおよそこのくらいになるという数。私が、あの当時につくっていたら、田村さんの字幕の数とあまり変わらなかったろう。 (表省略)  このうえに2巻目と4巻目でディートリッヒがうたう歌のスーパー字幕をつけ加えたい。とくに4巻目の歌は──   What am I bid for my apple,   The fruit that made Adam so wise?   On the historic night,   When he took a bite,   They discovered a new Paradise.  といううたい出しの有名な「リンゴの歌」で、ぜひ字幕をつけておきたい。あの当時は歌に字幕をつけないことがしばしばあった。この2巻目と4巻目の歌の字幕が14枚。合計506枚。12巻物で字幕の数が500枚そこそこという映画はほとんどない。  長すぎる字幕の例をあげると──   儂の名をヨーロッパで聞いた   事があるかも知らんが儂の店   の客種はモロッコが第一だ [#この行2字下げ](Now, you may have heard of me in Europe or not. My house is patronized by the finest society in Morocco.)   儂の記憶が正しければ此所の   客は親切を表現するのに殺風   景な迎へ方をしたね [#この行2字下げ](If I remember correctly, Adjutant, this audience shows its usual discriminating kindness by receiving its newcomers rather unpleasantly.)  といった工合。2枚目は字幕の文句が少々ぎこちない。2枚か3枚にわければ文句を工夫しやすいのだが、せりふを分割するのは観客に不親切になる、というのが田村さんの考え方だったらしい。誰もやっていないことに手をつけた苦労がよくわかる。  ここにあげた2枚の字幕はスクリーンの右側の何分の一かを占領する。それが何枚もつづく。いまの観客には想像がつくまい。そのころは1行10字でなく、13字だった。いまだったら4行になるわけだ。 『モロッコ』の字幕が全部、この2枚のように読みにくいわけではない。いまつくってもほとんど同じだろうと思われるのもいくらもある。外人部隊の兵士ゲェリー・クーパーが酒場の女マレーネ・ディートリッヒに「十年前に会いたかった」という|さわり《ヽヽヽ》の場面の字幕の一部を採録しておこう。  Tom : What in the name of ten thousand corporals did you come to a country like this for, anyway?  Amy : I understand that men are never asked why they enter the Foreign Legion.  Tom : That's right. They never asked me and if they had I wouldn't have told. When I crashed the Legion, I ditched the past.  Amy : There's a Foreign Legion of women, too. But we have no uniforms, no flags, and no medals when we are brave.  Amy : No would stripes when we are hurt.  Amy : You'd better go now. I'm ── beginning to like you.  Tom : I've told women about everything a man can say. I'm going to tell you something I've never told a woman before. I wish I'd met you ten years ago.   何だつてこんな所へ来たんだ?   外人部隊に志願する時理由を   訊かれる?   訊かれたつて云やしない   入隊と同時に過去を忘れたよ   女にも外人部隊があるのよ   ただ妾達には軍服もないし旗   もないわ   勲章もないの   勇敢な事をしても   怪我をした時繃帯もないの   帰つて頂戴   妾、あんたが好きに成りさう   だから   儂ァ今迄女に嘘ばかりついた   だが、これから云ふ事は嘘ぢ   やねえ   十年前に逢ひたかつた  いまつくられている字幕とあまり変わりがない。�訊く��成る��迄�などという見なれない漢字が使われているのと�逢ひたかつた�というように仮名づかいがちがっているだけだ。  いま使われていない漢字を『モロッコ』の字幕からひろってみると�林檎��綺麗��宜しい��厭��成る��儂��塩梅��暇乞��怪我�などがある。みなさんに読めない字があるだろうか。   『ヴェラクルス』で久々の字幕セミナー  ひさしぶりでセミナーを開きたい。  しばらく開いていないから初めての読者もいるだろう。スーパー字幕はこんなふうにつくるものというノウハウを実例をあげてお話しするわけだ。古くからの読者のみなさんにはおさらいのつもりで読んでいただく。  テキストは私がスーパー字幕の仕事を終えたばかりのリバイバル映画『ヴェラクルス』を使う。1954年製作。バート・ランカスターが飛ぶ鳥落とす勢いだったころの作品で、大先輩ゲェリー・クーパーに花を持たせながら、ほんとうの旨《うま》い汁は自分がいただくという仕組みになっているのがにくい。  公開の予定が8月末から9月にかけてということだから、ここにかかげた dialogue をランカスターとクーパーの口から聞く機会があるかもしれない。  まず英文の dialogue をかかげる。㈰というのはスーパー字幕の番号。次の数字はこれだけの字数を使ってよろしいという意味。字幕をこの字数のなかにおさめれば、せりふがしゃべられているあいだに観客が字幕を読みきれるのである。  ファースト・シーンは荒野の一本道をさまざまの服装の男たちが三々五々、馬でやってくるところ。この場面に字幕がかぶさり、ロール・アップしてゆく。  Title : ㈰ 75−85 As the American Civil War ended, another war was just beginning. The Mexican people were struggling to rid themselves of their foreign Emperor...Maximilian. Into this fight rode a handful of Americans...exsoldiers, adventurers, criminals...all bent on gain. They drifted south in small groups.   (場面が変わって、南軍士官の服装の男が一人でやってくる。ゲェリー・クーパーの Ben Trane である)  Title : ㈪ 10−14 And some came alone...   (ベンの馬が前脚にけがをしている。ベンが馬を降り、手綱をひいて、一軒の家があるところまで歩いてくる。馬が二頭つないである。ベンがその馬を見くらべていると、家の中から西部男があらわれる。バート・ランカスターの Joe Erin である)  Trane : ㈫ 8−12 Howdy? You an American?  Erin : ㈬ 5−8 You interested in me or horses?  Trane : ㈭ 5−8 Would one of them for sale?  Erin : ㈮ 3−6 One would.  Trane : ㈯ 4−7 Which one?  Erin : ㉀ 3−6 Guess.   (ベンが一頭の馬を見つめながらいう)  Trane : ㈷ 4−7 How much?  Erin : ㉂ 6−9 One hundred dollars...gold.  Trane : ㉃ 5−8 That's mighty hard.  Erin : ㈹ 5−8 So's walkin'.  (ベンがいきなり拳銃を抜く。ジョーがすぐ拳銃を抜いて身がまえる。ベンが場面の外の自分の馬を撃つ)  Trane : ㈺ 5−8 His leg was broken.  Erin : ㈱ 7−10 A three-legged horse'd bring a price down here.  Trane : ㈾ 5−8 He was sufferin'.  Erin : ㈴ 6−9 Soft spot, huh?  Trane : ㈲ 5−8 Only horses.  Erin : ㈻ 11−14 Next time you draw near me better say what you're aimin' to shoot at.  Trane : ㈶ 7−10 If I have the time I will.   (ベンがジョーから買った馬に乗って立ち去る。遠くから騎馬の将兵の一隊がやってくる。ジョーが馬に乗って、ベンを追う)  Erin : ㈳ 8−12 Government troop. Shall we run it or fight it out?  Trane : (21) 7−11 I got no quarrel with them.   (騎馬の士官の一人がべンを撃つ。ベンが撃ち返す。士官が馬から落ちる)  Erin : (22) 10−14 Pretty fancy shooting for a man without a quarrel.  Trane : (23) 7−11 That feather-head tried to kill me.  Erin : (24) 10−14 Why not? That's his horse you're riding.  第1巻がここで終わる。字幕が(24)まで。㈰を6枚にわけたから29枚ということになる。字幕が1巻で29枚というのはきわめて少ない。100枚以上というのがふつうである。  次に私がつくった字幕を載せて、1枚ずつ註釈をつける。みなさんも自分で字幕をつくってみてから読みつづけると、字幕をつくる|こつ《ヽヽ》がいくらかわかってくると思う。㈰は私は6枚にわけたが、何枚にわけてもかまわない。  ㈰「米国で南北戦争が終ると─」  A「メキシコで内乱が始まった」  B「外国人のマキシミリアン皇帝に対し─」  C「国民が退位を迫って立ち上った」  D「米国から元軍人 無法者 前科者が─」  E「一獲千金を夢みて参戦した」  このような長文の narrative title は何枚にわけるかを決めるのがやっかいである。5枚にわけたかったのだが、うまくいかなかった。�内乱��退位を迫る��一獲干金を夢見る�などが苦労をしてひねり出した文句。�終る��立ち上る�は�終わる��上がる�と書くのがほんとうなのだが、私たちは1字でも字数を少なくという考え方から�終る��上る�と書くことが多い。どちらかに決めなければいけないのかもしれない。  ㈪「1人でやって来た者もいた」 �一人�でなく�1人�と書くのは�三六五日�などをアラビア数字で�365日�と横書きにすると2字節約になるからで、亡くなった高瀬鎮夫が使い始めたのがいつのまにかあたりまえのことになった。�1人�を�ひとり�と読ませるのはむりと思われるのだが……。  ㈫「米国人かね 用事がある」  ㈫から㈹までのベンがジョーから馬を買うときの会話は、字幕づくりに慣れていないとなかなかうまくこなせない。ベンもジョーも必要最小限のことばしかしゃべらないのだからなおさらである。㈫の英文に�用事がある�という文句はないが、こうしないと㈬の字幕をつくれないのである。  ㈬「俺にか 馬にか」  ㈫の字幕にむりをしたので、㈬がぴったり生きた。こんなのが字幕づくりの楽しさの一つ。  ㈭「馬を買いたい」  ㈮「売るよ」  ㈯「どっちを?」  ㉀「当てな」  ㈷「いくらだ」  このへんの字幕は㈫と㈬がうまく解決するとしぜんに頭にうかんでくる。みなさんはどんな字幕をつくったであろうか。手をつけてみて、なるほどと納得がいくにちがいない。  ㉂「100ドル 金貨でだ」 �金貨でだ�を英語のせりふのとおりに後につけることがたいせつ。ランカスターが gold というのがはっきり聞こえて、これが字幕とぴったり合う。スーパー字幕の役目は意味を伝えるだけではないのである。  ㉃「|きつい《ヽヽヽ》値だ」 �きつい�という形容詞を考えついてほっとした。  ㈹「歩くのもな」  値段が高いのと歩くのが辛いのとどっちにも通じる形容詞はあまりない。英語には hard などと、都合のよいことばがある。  ㈺「脚を折った」  このシーンの会話はどのせりふもきわめて簡略になっている。せりふがこんなふうに書いてあるとき、うまいことばが見つかると字幕があざやかに生きてくる。  ㈱「3本足でも売れた」 �3本脚�がなんとなくへんなので�足�を使った。�脚�とするか、㈺ に�足�を使うべきだった。  ㈾「苦しんでた」  ㈴「情《じよう》にもろいな」  あまりうまい字幕ではない。�Soft spot�があとで何回も出てくるのでいろいろ考えたのだが、妙案がうかばなかった。  ㈲「馬にだけだ」  ㈻「抜く時は何を撃つか言いな」 �俺のそばで�をはぶいたのは字数がたりないからだ。14字あれば読めるだろうと考える字幕屋もいる。  ㈶「時間があればな」  ㈳「政府軍だ どうする」  (21)「何も恨みはない」  この字幕も考えつくまでにだいぶ時間がかかった。(22)の字幕につながるので、ひとことでぴったりする文句でないと観客が抵抗なくついてゆけない。第1巻目はベンとジョーがどんな人間であるかを観客の頭に植えつける重要な導入部なので、せりふの書き方にも苦心の跡が見えている。私たち字幕屋は dialogue writer のそういった苦心をできるだけ生かすようにつとめなければならない。  (22)「恨みはないといったよ」  (23)「彼が先に撃った」  (24)「当り前だ あいつの馬だ」  ジョーはこのせりふをベンが乗っている馬を見つめながらいう。この場合、�that's�がない方が日本語としては生きる。このへんのニュアンスは字幕を口に出して読んでみるとわかる。  さて、これで第1巻を終わった。みなさんがつくった字幕とくらべてみて、なるほど、スーパー字幕とはこんなものかということがすこしでもわかっていただけたとしたら幸いである。   パイパーさんからの手紙  8月のなかば、米国ニューヨーク州ラーチモントのJ・W・パイパーさんから手紙をいただいた。ラーチモントはニューヨーク市から車でイースト川を渡って40分ほどのところ。高級住宅地である。  パイパーさんは戦争前の昭和13年から14年にかけてパラマウント映画会社日本代表だった。戦後はパラマウントのニューヨーク本社外国部の要職にあって、17、8年前に現役を退いている。神戸に生まれて、日本人の血がいくらか混じっている。日本語で、しかも関西弁で話をすることができる。淀川長治君がこのことを「淀川長治自伝」の中に書いている。日本の映画界に知人が多く、私もその一人ということになる。  パイパーさんの手紙は私の近況を伝えた書信に対する返書で、そのなかに次のような文句があった。  I have sometimes wondered about translating some of the horrible, rough language that is heard in films today(as compared with the clean straight-forward language of pre-war films), but I am sure you have more than adequate means of handling any situation that may be a problem.  みなさんはおそらく、アメリカ映画業界の人間がこんなことをいうのを奇異に感じるであろう。だが、じっさいにあたってみると、ちかごろの映画のせりふを horrible, rough と苦々《にがにが》しく思っているひとがかなりいる。では、どの程度までを horrible, rough というのか。パイパーさんあたりは、たとえば make love などもふくめていっているらしい。  ちかごろは make love など、ごく当り前のことばになっている。せりふにも頻繁《ひんぱん》に使われている。スーパー字幕屋にとってはあまりありがたいことではない。日本語になおすと英語の make love が持っているかるい、さわやかといってもいい語感がなくなって、あざとく、生まなましく、いかにも four-letter word らしく聞こえる。スーパー字幕屋泣かせのことばである。  私は映倫に籍をおいているので知っているのだが、15年ほど前まで、この日本語訳のことばは字幕に出さないことになっていた。そのころの外国映画のスーパー字幕はほとんど高瀬鎮夫、秘田余四郎、私の三人がつくっていた。高瀬君も映倫に籍があったので、高瀬君と私がつくった字幕にはこのことばは出てこなかった。秘田君はこまかいことに頓着せぬ男で、このことばがもっとも適切であると思えば躊躇《ちゆうちよ》なく字幕に使った。  シモーヌ・シニョーレの『雪は汚れていた』のなかにシニョーレの娼婦が男に「しないの?」というせりふの字幕が出てきて、ほかのことばに替えてもらったことがある。そんなバカなことがあったのかとみなさんは目をまるくするだろう。ついでだが、『雪は汚れていた』はシムノン原作、武智鉄二の『黒い雪』のネタである。  いま思い出してみると、むかしのアメリカ映画のせりふはたしかに clean であった。パイパーさんは pre-war films といっているが、戦後になってからしばらくのあいだ、clean 時代がつづいていた。  ビビアン・リーがアカデミー主演女優賞(1951年)をうけた『欲望という名の電車』のせりふを原作戯曲のせりふとくらべてみたことがある。ほんのわずかではあるが書き替えてあった。メモが見つからぬので、どこをどう書き替えてあるのかというこまかいことは次の機会にゆずるが、字幕の仕事をしながら、なるほどと思ったのをいまでも覚えている。1950年ごろはまだ clean の時代だったのである。  このころ、つむじまがりのオットー・プレミンジャーが『月蒼くして』のなかにMPAA(アメリカ映画協会)の通達で禁句になっていた virgin や pregnant を使い、clean に挑戦した。1953年のことである。  virgin や pregnant が禁句であったというと、当時のことを知らぬひとは耳を疑うだろう。MPAAはプレミンジャーに改訂を求めたが、プレミンジャーはどこまでも頑ばって、『月蒼くして』はとうとうMPAAの審査承認のマークがないまま公開された。  パイパーさんが手紙のなかでなぜスーパー字幕のことにふれたのかというと、私が「映画字幕五十年」(早川文庫)を書き、そのなかにパイパーさんが登場すると書き送ったからだ。 「映画字幕五十年」は思いがけないほど話題になった。書名に�映画字幕�と出ているので、どんなことが書いてあるのだろうと手にとってみるひとが多かったらしい。スーパー字幕をいちども見たことがないというひとはめったにいない。ところが、スーパー字幕がどんなふうにつくられているのかということになると、ほとんどのひとがなにも知らない。いつごろからあるもので、どういう人間がつくっているのかということにも興味を抱いたひとがいたにちがいない。  ふだん見なれているのだが、こまかいことを聞かれるとはっきり答えられないものはいくらもある。テレビのコマーシャルなどもその一つだろう。どうして撮って、どんなふうに処理したのかがわからないのがいくつもある。スーパー字幕もそういうもののなかにはいる。くわしく聞かされて、そんなふうにつくられているとは考えてもいなかったということがいろいろとあったらしい。  みんながいちばん意外に思ったのは字幕のカードを1枚ずつ手書きで書くことだった。私たちスーパー字幕屋はスーパー字幕第1号の『モロッコ』から昭和60年8月現在公開されている外国映画までのすべての字幕カードが手書きであることを知っている。いまさらこんなことがと思うのだが、スーパー字幕がどんな手順でつくられているかを初めて聞くひとが字幕カードが手書きであると知って目をまるくするのは当然かもしれない。  私は昭和46年、NHKの昼間の番組「女性手帖」で4日にわたってスーパー字幕の話をしたことがある。話がすすんで、字幕カードを見せながら、このカードを1枚ずつ書くのです、といった。広瀬修子アナが信じられないといった口調でいった。 「あの字幕、1枚ずつ、手で書くのですか」  和文タイプのように1字ずつ打ってゆくのだと考えていたらしい。  広瀬修子アナだけがそう考えていたのではない。「映画字幕五十年」はほとんどの新聞、週刊誌などが書評欄にとりあげているのだが、そのいくつかがこのことにふれている。そのなかから「文藝春秋」昭和60年9月号の丸谷才一、木村尚三郎、山崎正和の�鼎談《ていだん》�の丸谷さんの発言を引用させていただく。  丸谷 ニューヨークでのスーパー草創期の話が面白い。字幕というのは、昭和6年の「モロッコ」以来、手書きなのです。スクリーンに拡大されると字並びに間延びするところができるのを、手書きによって何とか処理するという理由が一つ。そして当時、ニューヨークの邦字新聞社には、日本文字の活字が充分になかったせいもあるというのですね。  字幕カードのことは前にもとりあげたことがある。写真植字を使って試している映画会社もあるが、手書きからの転換ということはどうやらむずかしいらしい。テレビやビデオが写植を採用しているのは画面が小さいからで、字と字のあいだの間延びなど、たとえいくらかはあったとしても、気になるほどではない。  もっとも、昭和6年以来54年間、字幕カードに関するかぎり、手書きをふくめて、目につくような手直しは一つも行われていない。字幕カードの形状や紙質がいくらか変わった程度である。このことは字幕カードにかぎったことではない。スーパー字幕の仕事はわきから見ているときわめて近代的なはなやかな仕事に見えるが、仕事の仕組みははなはだ前時代的で、進歩改良などということは当分縁がなさそうだ。ビデオやディスクがもっといきおいづいてくると、その方面から火の手があがることがあるいはあるかもしれない。  ところで、スペースを少々借りて、川名完次さんが亡くなったことを記録しておきたい。数少ないスーパー字幕屋の一人である。10年ほど前に現役を退いているので、訃報がのらない新聞もあった。東京新聞は�スーパー翻訳家�という肩書きだった。�スーパー�だけで東京新聞の読者のぜんぶにわかったのだろうか。  川名完次さんはことし82歳。東洋大学出身。戦争前、ワーナー・ブラザースの営業部にいたというのだが、そのころのことは知らない。東宝東和の前身の東和商事にうつって、文化映画の仕事をしていた。太平洋戦争が始まってから報道班員として徴用され、ジャワに行き、戦後帰国、昭和30年ごろからMGMでスーパー字幕の仕事を始めた。|しん《ヽヽ》のしっかりした、ひとくせある人間で、私は親しくつきあっていたが、顔がひろい方ではなかった。  戦争前、「サンデー毎日」の大衆文芸の懸賞募集に応募して当選。ペンネームは高円寺文雄。南條範夫をめぐるグループに入っていて、書くものは時代ものの推理小説で、女賊ものときまっていた。謹直といった感じの当人と女賊とがどうしてもつながらなかった。  スーパー字幕は、凝った文句が多かった。   Mrs. Shicklgruber をごぞんじですか  読者のみなさんのなかに Mrs. Shicklgruber という名前の人物を知っているひとがおられるだろうか。おられるだろうか、などとは失礼な、知っているよ、という御仁《ごじん》がおいでだったらごめんなさい。私は知らなかった。  ここでいきなり Mrs. Shicklgruber などという人物を持ち出したのは東宝東和が輸入した�Lassiter�(日本未公開)という英国映画の字幕の仕事をしていて、せりふの中にこの名前が出てきたからである。  私はいつも、映画のせりふの中でしゃべられていることは映画館の観客のすべてに理解できることでなければならないと考えている。世界中でつくられているおびただしい数の映画のなかにはプロデューサーや監督だけがわかっているといっていいつくり方の映画もあるが、だれにもわかるということが映画をつくるときの大前提であることにまちがいはない。  多くの映画のなかにはその映画がつくられた国の観客でなければよくわからないという映画もないわけではない。最初から世界のマーケットを頭に入れないでつくられているからである。手ぢかの日本映画をとりあげて考えてみればすぐわかる。 �assiter�は香港の腕利きプロデューサーのレイモンド・チョウが英国でつくった�英国映画�なので、もちろん世界のマーケットのためにつくられている。英国人の観客を頭においてつくられているところもあるが、商売上手のレイモンド・チョウが世界のマーケットに売れない映画をつくるはずはない。つまり、 Mrs. Shicklgruber を知らなくても�Lassiter�を楽しんでいただけるという対策ができているわけだ。 �Lassiter�はひとくちにいうと007まがいのラシターという怪盗の物語である。ヒトラーが擡頭《たいとう》してきたころのロンドンが舞台になっている。政府の高官らしい人物が、友人が催したパーティからもどってきて夫人と話をしているところから始まる。  その場面のせりふ。  Roger : ㈰Don't know how he got his knighthood. ㈪Inherited every farthing. Runs with that Cambridge crowd. ㈫Likes Malenkov, Belinsky. ㈬What't his name? Pro-Stalin. ㈭Pro-boloody-Bolshevik. ㈮Pro-bloody-Shicklgruber. ㈯Pro-everything, except England.  友人が knighthood の称号をもらっているのは財産があって家柄がよいからだ、と条件がそろわぬと|さき《ヽヽ》が見えている官吏らしい|くり言《ヽヽごと》をいっているわけだ。この友人がマレンコフ・ベリンスキーが好きで、スターリンを認めているという。マレンコフ、ベリンスキーは当時のソ連の要人。ここまではわかる。Pro-boloody-Bolshevik もわかる。ところが、次の Shicklgruber がわからない。こんなときは人名辞典のご厄介になるのだが、この台本はくわしい註釈つきなので、人名辞典をひっぱり出すまでもなかった。どんな註釈なのか、ここに引用してお目にかける。  Malenkov─Soviet political figure.  Belinsky─Soviet political figure.  Stalin─Joseph Stalin : Russian statesman and secretary general of the Communist Party from 1922 to 1952.  Shicklgruber─Referring to Hitler.�Skicklgruber�was Hitler's mother's maiden name.  Shicklgruber はヒトラーの母方の苗字だったわけで、こんなところになにげなくとび出してくるところを見ると、英国国民一般の常識から考えると知っていてふしぎではない名前なのかもしれない。私はつね日頃、スーパー字幕屋をめざす資格として、㈰映画を正しく理解できること ㈪日本語をきちんと書けること ㈫何でも知りたがる雑学根性が旺盛であることの三つをあげている。ひょっとすると、Shicklgruber という姓を知らないことは英国では㈫の資格が欠けていることになるのかもしれない。  ところで、スーパー字幕屋の立場でいうと、このくだりのせりふはかなりめんどうな仕事に属する。私がつくった字幕を次に記しておく。字幕づくりに興味をお持ちの方なら、なるほどと思うところがあるはずである。長さはどの字幕もぎりぎりまで使っている。  ㈰ あれで騎士なんだ  ㈪ 遺産で食ってて 家柄を鼻にかけてる  ㈫ マレンコフがひいきで  ㈬ スターリンをほめてる  ㈭ 共産党のシンパで  ㈮ ヒトラーにも心酔  ㈯ 愛国心などない  ついでに記しておくと、このせりふの後に──  Roger : Peace in our time. Huh! He's given them Austria...given them Czechoslovakia.  という文句がつづく。さて、この�Peace in our time.�がまた藪《やぶ》から棒である。�彼がオーストリアを彼らに与えた�とつづいているから、当時の英国首相ネビル・チェンバレンがいったことばなのだろうと想像がつく。註釈には──  Peace in our time─Implying that this is what Chamberlain says.  Them─the Nazis.  となっている。  それにしても、せりふの中にチェンバレンの名前が出ていない。英国の観客にはこれだけのせりふでわかるのだろう。そして、外国のお客さまはスーパー字幕をごらんください、というのだろう。そのために�Them─the Nazis.�などとていねいすぎる註釈がついているのかもしれないが、この場面のせりふは説明不足のところが多く、スーパー字幕屋はこんなところで他人がわからぬ苦労をするのである。  私たちのあいだにヒトラーの母方の姓を知っている人間はそう大ぜいはいないだろう。これがニクソン大統領のミドル・ネームだったらどうだろう。知っている人間がかなりいるのではあるまいか。  米国大統領のミドル・ネームですぐ頭にうかぶのはフランクリン・ローズベルトの Delano、ジョン・ケネディの Fitzgerald ぐらいのもので、ロナルド・レーガンの Wilson も初めて聞くというひとが多いかもしれない。ニクソンのミドル・ネームは Milhaus。これがせりふのなかに突如とび出してきたのである。 『シンデレラ・リバティ』という廿世紀フォックス映画。ジェイムズ・カーンとマーシャ・メイスンの主演で、25年ほど前の作品。上陸休暇をニューヨークですごす水兵の話だった。  カーンの水兵が台所でゴキブリを追いまわす場面があって、何を持っていたのか忘れたが、長い柄のついたものをふり上げて�God 'em Milhaus!�とどなりながらゴキブリを追いまわすのである。廿世紀フォックスの台本は懇切丁|ねい《ヽヽ》をきわめていて、Milhaus はニクソン大統領のミドル・ネームと註釈がついている。おかげで「このニクソンめ!」という字幕をつくることができて、字幕屋としての仕事はぶじにすんだわけだが、なぜこんなせりふをカーンの水兵にいわせたのだろうと疑問が起きた。ニクソンぎらい、共和党ぎらいということを強調したかったのだろうが、それがどういう意味を持つのかがわからない。スーパー字幕屋の仕事は観客に映画をわからせることだが、字数を限られた字幕ではせりふの意味を伝えきれないことがしじゅうある。  実在の人物の名前でなく、文学作品などの人物の名がせりふに出てくることがある。ハムレット、スカーレット・オハラ、ドラキュラなど、数えあげていたらきりがないが、次にあげるようなのはいささか珍しい。  ドイツ映画の英語吹き替え版だった。街かどのカフェのテラスで、男が一人、約束した女が来るのを待っている。男の友人があらわれ、�What are you doing here?�という。男がそれに答えて──  Man : I'm waiting for Godot.  という。約束したのに来そうもないのでいらいらしていたのだ。字幕は「ゴドーを待ってるんだ」となっていた。同名の芝居は知らなくても、この映画にゴドーという名の人物は登場しないのだから、へんだなと思わなかったのがおかしい。  このドイツ映画は20年ほど前のポルノ映画だから、見ているひとはいないだろう。おそらく、ポルノ映画の英語吹き替えを頼まれた人間がしゃれっ気《け》を出して道楽半分の仕事をしたのだろう。そうでなければ、ポルノ映画に�ゴドー�が出てくるはずはない。  そんな映画をどうして見ているのか、とふしぎに思うひとがいるだろう。私は映倫の審査員の一人でもあるので、みなさんがおそらく一生見ないだろうと思うような映画もしじゅう見ている。そして、このような映画にもスーパー字幕がついている。いつか折があったら、ポルノ映画の字幕の話もとりあげなければなるまい。   イジワル批評家から Best Boy まで  映画雑誌「ロードショウ」に「イジワル批評家エンマ帳」という連載コラムがある。筆者は私たちの戦争前からの仲間、�クロさん�こと大黒東洋士。この3月号が94回目、戸田奈津子君が書いている「イキイキ English 教室」とともに「ロードショウ」の名物コラムになっている。  クロさんはこのコラムで�イジワル批評家�の肩書のとおり、映画の世界のあらゆることについて、みんながあまりいいたがらぬことをずばりといってのけている。私はいつも、「ロードショウ」が送られてくると、このコラムをまっ先に読む。  ところで、クロさんはあるとき、このコラムに「翻訳者の苦労は認めるがファースト・シーンを汚すな!」という文章を書いて、私たちスーパー字幕屋を叱っている。クロさんが書いていることを要約すると、映画のファースト・シーンは人生のスタートに当たる大事な場面で、ファースト・シーンから息をつめて作品にのめり込んでいくのが本当の映画愛好者なのだから、大事なファースト・シーンに臆面もなく翻訳者の名前を入れるのはよそさまの玄関の式台に土足で踏み込むようなもので、映画を本当に大事に思っていたらそんなことはできないはずだ、ということになる。  まさにクロさんのいうとおりである。私たちもファースト・シーンにスーパー字幕屋の名前が出るのはいいことと思ってはいない。当人の字幕屋としても、�臆面もなく�出しているわけではない。できることなら東和やヘラルドがやっているように日本題名の字幕をべつにこしらえて、そこに名前を入れてもらいたいのである。だが、字幕屋がそう考えても、日本題名の字幕など無用であるという会社が多く、字幕屋の思うとおりにはならない。  クロさんはだいぶ前にもこのコラムにおなじことを書いている。私はそのとき、なんとかしなければいけないナ、と思いながら、まだ映画翻訳者協会ができていないときだったし、私たち字幕屋は顔を合わせる機会がなく、ついそのままになっていた。こんどはさいわい、3月の初めに協会の例会があるので、そのときにみんなと話し合って、結論を出し、クロさんに報告したいと思っている。  じつはこの「エンマ帳」を読んだすぐ後、UIPの試写室で『ザ・リバー』の試写を見ていたら、戸田奈津子の名前がとくべつに大きな文字で出てきて、びっくりした。そして、クロさんに早く返事をしなければいけないナ、と思いついた。もっとも、このときの�日本版字幕 戸田奈津子�の字幕はファースト・シーンに出たのではなく、マーク・ライデル監督のクレディットの前に出ていた。字が大きかったのはカード・ライターが大きな字を書いたからで、戸田奈津子君は関係ない。  だいたい、私たちの仲間ではいつのころからか、字幕担当者の名前は監督のクレディット字幕に打ちこむ(または焼きこむ)ことにきまっていた。たとえば、    Directed  by Mark Rydell  と2行に出る。2行目の Mark Rydell の下に横書きで私たちのクレディットを入れるのだが、むかしはこのスペイスがあいていないということはめったになかった。  監督の名前の下に入れなければいけないという理屈がとくにあるわけではない。監督の名前がクレディット・タイトルの最後に出て、そこで製作スタッフの連名が終わる。そこで、私たち字幕屋も末席に加わらせてもらおうというほどの意味合いだ。秘田余四郎と高瀬鎮夫と私の三人で外国映画のスーパー字幕のほとんどをひきうけていたころはこのやり方でとくに問題はおこらなかった。『八十日間世界一周』の字幕をつくったソウル・バースという凝り屋の字幕デザイナーが現れてから、クレディット・タイトルにさまざまの工夫を凝らすようになり、監督の名前がとんでもないところに現われたりして、私たちの名前を入れにくくなったことがしばしばあった。字幕デザイナーのせっかくの苦心を傷つけたくないからである。  ファースト・シーンに字幕屋の名が現れるようになったのは、こんなことからだが、戦争前のことを思い出してみると、昭和初年、私がスーパー字幕を担当していたパラマウントでは字幕屋の名前はファースト・シーンに入れることにきまっていた。その字幕もいまのように�すみませんがここのところを拝借しますよ�と遠慮がちに名前を出しているのでなく、ここはわれわれ字幕屋の領分だとばかりに堂々と名前を出していた。それでも、文句をいった人間は一人もいなかった。映画の世界もそれだけのんびりしていたのであろう。  ファースト・シーンにスーパー字幕屋の名前を入れることを始めたのは私の師匠、スーパー字幕つき外国映画第一号『モロッコ』の字幕をつくった田村幸彦さんである。もっとも、『モロッコ』には田村さんのクレディット・タイトルは入っていなかった。田村さんのクレディット・タイトルがファースト・シーンに入るようになったのは昭和7年に入ってからである。  そのころ、田村さんと私はニューヨークでパラマウント映画のスーパー字幕をつくっていた。日本にはまだスーパー字幕をつくる設備ができていなかった。当時のパラマウント映画を覚えているひとがまだかなりいるにちがいない。おなじみの山の上に星が半円形にならんでいるマークが消えると、題名のあとに原作、脚色、撮影、監督などのクレディット・タイトル。そして、ファースト・シーン。画面いっぱいに──    Japanese Adaptation         by     YOSHIHICO TAMURA  と出る。私はまだルーキー同様の身分だったので、名前を入れないでいたところ、君もクレディットを入れたほうがいいよ、といわれて、私の名も     SHUNJI SHIMIZU  と出ることになった。パラマウントはコロムビア映画の日本配給も引きうけていたから、Japanese Adaptation by というクレディット・タイトルが出る映画は80本から90本はあったはずである。  この Japanese Adaptation by は昭和8年5月、私たちがニューヨークから帰国、日本でスーパー字幕をつくるようになってから�日本版字幕�と変わった。ニューヨークで字幕をつくると Japanese Adaptation′日本でつくると�日本版字幕�。もっとものようでもあるし、おかしな話でもある。だが、だれもふしぎに思わなかった。ファースト・シーンに�日本版字幕 清水俊二�と大きな字で出るのだから、英文で出るのとはちがって、目ざわりであるにきまっている。だが、だれも目ざわりだといわなかった。そんな時代もあったのだ。  ここでもう一つ、クレディット・タイトルの話のつづきとしてつけ加えておきたいことがある。1950年代のころまでの映画のクレディット・タイトルは数も少なく、とくに工夫を凝らしたものもほとんどなかった。したがって、画面いっぱいの字幕が5、6枚あらわれて、その次のファースト・シーンにスーパー字幕のクレディットが出ても、それほどの違和感はなかった。クレディット・タイトルというものの考え方がいまとちがっていたのである。  いまは巻頭のクレディット・タイトルがむかしの映画とまったくちがっているだけでなく、たぶん1960年代のころからではなかったかと思うのだが、映画の終りに製作に関与していて巻頭に名前が出なかった人たちの名前が延々と出てくるようになった。ほとんどの映画がローリング・タイトルを採用していて、字幕が画面の下から上ヘローリングしていく。ラスト・シーンにエンド・マークが出ないで、画面の下からクレディット・タイトルが|せり《ヽヽ》上がってくるのがエンド・マークの代りになっている。ラスト・シーンのしめくくりをどうするのだろうと、期待を交じえながら見ていると、突如、クレディット・タイトルがせり上がってきて、一杯くわされたような気持になることもある。  この映画の終りのクレディット・タイトルのところにスーパー字幕のクレディットが入っていたのを見たことがある。だが、ローリング・タイトルだと工合がわるいし、そうでなくても字と字が重なって読みにくい。映画の初めでなく、終りに入れる、ということにもいろいろと問題がある。一応、三月の例会で話し合ってみたい。  ところで、この映画の終りのクレディット・タイトル、一度ここでとりあげてみたいと思っていた。とにかく、大へんな数なのである。私がいまスーパー字幕の仕事をしている�The Clan of the Cave Bear�(日本未公開)のを数えてみたら、項目が95、人間の数が148、会社、団体、施設が25あった。どんな項目が出てくるのか、95項目の全部を書きうつしておきたいところだが、それだけでページがうずまってしまう�Cave Bear�の場合はまず──  Narrated by Salome Jane  から始まる。原人時代の物語で、ナレイションが入っているのである。  このあと──  Production Manager  First Assistant Director  Key 2nd Assistant Director  Additional 2nd Assistant Director  Co-Head of Make-up Department  Special Make-ups created and Designed by  といった工合につづいていく。  Animal Prosthetics  Animal Trainers  Bird Trainer  Bear Fight  Bear Stant  などというのもある。  Key Grip  2nd Grip  Dolly Grip  Grips  などというのは雑用係。だいぶ古い話だが、『トコリの橋』のロケ隊がやってきたとき、ロケ・マネのような仕事をしていた Charlie Woolsteinhume という好人物のじいさんと親しくなった。このじいさんの肩書が Head Grip で、Grip が映画用語でもあることを初めて覚えた。最後の延々とつづくクレディット・タイトルがまだなかったころである。  U. S. Gaffer  Canada Gaffer  Best Boy  というのは電気屋さんのことで、Gaffer が電気係、Best Boy はその助手。Best Boy がなぜ電気係の助手なのか、何人かに聞いてみたがわからない。ごぞんじの方がいたらお教え願いたい。  それにしても、95もある項目のなかに  Sub-titles by  というのがない。原始人が彼らのことばで何かいっているのが英文字幕で出てくる。この字幕の原稿を書いた人間の名があっていいわけなのである。字幕屋はいつ、どこででも、忘れられがちの稼業なのであろうか。   スーパー字幕屋のひそかな楽しみ  ニューヨーク。夜。ウォール街にオフィスを持っている若いビジネスマン、ジョンのアパート。日本流にいうならマンション。ジョンはチャイナタウンで知り合ったエリザベスという女と食事をしている。エリザベスはソーホーの画廊につとめているキャリヤー・ウーマン。  二人は食事をしながら話してる。  Elizabeth : ㈰ I'm going to a party tomorrow night with Molly. ㈪ Will you come? ㈫ Come on, John.  John : Mmm─mmm.  E : ㈬ Why not? I want you to meet my...  J : Mmm─mmm, No.  E : ...㈭ I want you to meet my friends. Don't you want to meet friends?  J : ㈮I don't want to meet anybody. I really─ ㈯ don't want to meet anybody. I just want to be with you.  これがスーパー字幕では次のように出てくる。  ㈰ 明日、パーティがある    の  ㈪ 一緒に  ㈫ いいでしょ?  ㈬ 友達に紹介するわ  ㈭ 友達に会わせたいの  ㈮ 誰にも会いたくない  ㈯ 君と一緒にいるだけで    いい  スーパー字幕をつくったのは戸田奈津子。映画は『ナイン・ハーフ』。ソーホー、チャイナタウン、ノミの市、アルゴンクィン・ホテル、ブルーミンデール・デパートなど、ニューヨークを丹念に見せてくれるのがうれしい。  ところで、戸田君がつくったスーパー字幕を1枚ずつ、念を入れて見ていただきたい。どの1枚にも工夫が凝《こ》らされている。たとえば、最初の㈰㈪㈫。この3枚を──  ㈰ 明日、パーティに行く    のよ  ㈪ 一緒に来る?  ㈫ 来なさいよ  という字幕にとりかえても意味は伝わる。むしろ、こっちの方がもとの英文に近い。だが、スーパー字幕は原文に近いのがよい字幕であるとはかぎらない。場面のムード、せりふのリズムにぴったりで、すぐ頭に入る字幕なら、どのような工夫があってもかまわない。  戸田君の㈰㈪㈫を見ると㈫の「いいでしょ」がポイントだ。㈫を「いいでしょ」としようと思いついたので㈪の「一緒に」が頭にうかんできた。このへんがつまり、せりふのリズムなのである。字幕づくりを楽しんでいるのである。㈰の�going to a party�が「パーティがあるの」となったのは好みからだったろうが、�tomorrow night�を「明日」としたのは�tomorrow night�を日本語の会話でいうときには「アシタノバン」か「アスノヨル」がふつうで、「ミョウバン」とはあまりいわないようだし、字数の関係もあって「明日」にしたのだろう。  わずか3枚の短い字幕だが、でき上がるまでの過程を推理してみるとこんなふうないきさつが考えられる。このことはじっさいにスーパー字幕をつくったことのある人間──すくなくとも50本ぐらいは手がけた人間でないとわからない。そして、このような工夫が身についてくると、これがスーパー字幕づくりのひそかな楽しみになってくるのだ。  この場面の会話は、なお次のようにつづく。  E : ㉀ I'll start the dishes.  J : ㈷ No, you won't. ㉂ You don't ever have to do dishes. ㉃ I'll do the dishes. ㈹ And I'll buy the groceries. ㈺ And I'll cook the food. ㈱ And I'll feed you. ㈾ And I'll dress you in the morning. ㈴ And I'll undress you at night. ㈲ And I'll bath you. ㈻ And I'll take care of you. ㈶ And you can see your friends in the daytime. I just want the night-time. ㈳ And from now on to be ours.  これがスーパー字幕では──  ㉀ 片づけを  ㈷ よせ  ㉂ 君はするな  ㉃ 皿洗いはぼくがするか    らいい  ㈹ ぼくが買い物をして  ㈺ 食事を作り  ㈱ 君に食べさせ  ㈾ 朝は君に服を着せ  ㈴ 夜は服をぬがせる  ㈲ ふろに入れ  ㈻ 君の世話をする  ㈶ 友達に会いたければ    昼間会えばいい  ㈳ 夜はぼくらだけの時間    だ  となっている。  ㉀から㉃までのスーパー字幕で目につくのは㉀の�start the dishes�を「片づけを」としたことであろう。㉀では「片づけを」としておいて㉃の�do the dishes�では「皿洗い」としている。「ぼくが片づけるからいい」とはしていない。こうしておけば�do the dishes�といういかにもアメリカ英語らしい言い方を、近ごろ大いにふえているせりふの英語を聞きとろうとつとめているヤングたちに覚えてもらえるかもしれない。  ㉀から㉃までのせりふのみごとなリズムがスーパー字幕に生かされていることも注目しておくべきだろう。ジョンのせりふはこの後も㈳までつづき、ジョン役のミッキー・ロークとしても聞かせどころの一つになっている。こういうところは字幕屋も字幕づくりを楽しめるのでらくに仕事ができる。しいてとり上げるなら㈲の「ふろに入れ」でつっかえたかどうか。これは戸田君に聞いてみなければわからない。「ふろ」が日本的表現すぎるのではないかということである。私が字幕をつくっても「ふろに入れ」におさまるほかなかったろうが、そこにゆきつくまでに抵抗があったはずである。 『ナイン・ハーフ』はスーパー字幕屋にとって取り組みがいのある映画だ。せりふがうまく書けているということだろう。もう一カ所、�アルゴンクィン・ホテル�の場面のせりふをとりあげてみよう。  エリザベスがジョンに指定されたホテルの部屋のキーをまわす。部屋に入ると、テーブルにメモが灰皿でおさえてある。灰皿の上のマッチで�アルゴンクィン・ホテル�であることがわかる。�アルゴンクィン・ホテル�は作家、ジャーナリスト、芸能関係の人々が食事をしたり、宿泊したりする由緒のあるホテルだ。  メモの文句──  �Open them. Get dressed. Meet me in the lobby at eight.�(字幕──箱の服を着て 8時にロビーヘ)  ベッドの上の箱をあけると男の服が入っている。ホテルのロビー。8時。ジョンが待っている。男装のエリザベスが降りてくる。二人はホテルのレストランの窓ぎわの席につく。ここでジョンの長いせりふがある。このせりふとスーパー字幕を次にかかげる。  J : ㈰ I'll tell you, my darling, it's a helluya life. ㈪ You work and you work and you work. ㈫ And you meet with people that you don't like;that you don't even know. ㈬ That you don't even want to know. ㈭ And they try to sell you things;you try to sell them things. ㈮ Then you go home at night, listen to the wife nag;the kids bitch. ㈯ You turn up the TV, you tune everything out ㉀ and then you get up the next day and you start all over again. ㈷ I'll tell ya...㉂ I'll tell ya the only thing that keeps me going㉃ is this chick. I got this chick. ㈹ I got this unbelievale chick on the side, see. ㈺ I mean, she's so hot㈱ I can hardly believe it. I mean...㈾ she's got one of those heartshaped asses. ㈴ You heard about the heartshaped ass? ㈲ I mean, did you ever have a chick with a heartshaped ass?  ㈰ どんな暮らしか教えよ    う  ㈪ 仕事に明け暮れて  ㈫ 会いたくも知りたくも    ない人間と  ㈬ 仕方なくつき合う  ㈭ たがいに何かを売りつ    けあって  ㈮ 家へ帰れば女房のグチ    と うるさい子供  ㈯ 気晴らしにテレビを見    て  ㉀ 翌日も同じ事のくり返    し  ㈷ だが──  ㉂ ぼくはそれに耐えてる  ㉃ 彼女がいてくれるから    だ  ㈹ すばらしいぼくの女だ  ㈺ すごくホットな女だ  ㈱ じつにいい女だ  ㈾ ハート型の尻をしてる  ㈴ ハート型の尻だぜ  ㈲ 君はそういう女と寝た    ことがあるか?  この1枚1枚の字幕についても書いておきたいことがいくらもある。だが、スペースがなくなった。ポイントだけをあげておく。英文のせりふとひきくらべて考えてみていただきたい。スーパー字幕づくりの難しさとひそかな楽しみがわかるはずである。  ポイントは──㈪の「明け暮れて」㈬の「仕方なく」㈮の「グチ」と「うるさい」㈯の「気晴らし」㈷から㉃までの字幕のつくり方㈾の「をしてる」。   ドキュメント昭和�トーキー誕生�から  まず、次のリストを見ていただく。みなさんが題名さえ聞いたことのない映画ばかりにちがいない。主演スターにもおなじみがおるまい。この13本はみんな私が翻訳の仕事をした映画なのである。  『彼と女優』�Careless Age�ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ロレッタ・ヤング。  『特種記事』�The Headlines�グラント・ウィザース。  『踊子をめぐりて』�Skin Deep�モント・ブルー、ベティ・コンプスン。  『ラグビー時代』�The Forward Pass�ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ロレッタ・ヤング。  『高速度尖端娘』�The Girl from Woolworth's�アリス・ホワイト。  『激流恋をのせて』�Tiger Rose�ルーペ・ヴェレス。  『大和魂』�The Man Who Laughs Last�早川雪州。  『流行の寵児』�Is Everybody Happy?�テッド・ルイス。  『尖端一目惚れ』�Loose Ankles�ダグラス・フェアバンクス・ジュニア、ロレッタ・ヤング。  『恋の大分水嶺』�The Great Divide�ドロシー・マッケイル。  『エロエロ行進曲』�On With the Show�レビュー映画。  『暁の偵察』�The Dawn Patrol�リチャード・バーセルメス、ダグラス・フェアバンクス・ジュニア。  『久遠の人生』�The Other Tomorrow�ビリー・ダブ。  私が翻訳の仕事をしたといったが、スーパー字幕をつくったのではない。昭和4年から5年にかけて7カ月ほど、ワーナー・ブラザース映画会社の宣伝部にいて、検閲台本のためのせりふの翻訳をしていたのである。  ワーナー・ブラザースにはそのころ、『ノアの箱船』、アル・ジョルスンの『ジャズ・シンガー』、『シンギング・フール』、コリーン・ムアの『恋の走馬灯』、ジョン・バリモアの『ドン・ファン』などの大作があったが、これらの大作の検閲台本の翻訳は楢原茂二宣伝部長が手がけていた。私は大学を出て、映画雑誌の編集などをしていたときに楢原さんにひっぱられて、神戸にあったワーナーの本社に入社したばかり、もっぱらプログラム・ピクチュアだけを引き受けていた。この13本のなかにはどんな映画だったかを思い出せないのが何本もある。  検閲台本のことはこの本にたびたび書いた。戦前は映画を劇場で上映するときに内務省の検閲をうけることになっていて、そのときに提出するのが検閲台本。せりふを全部、原文と対訳で翻訳するのだから、|らく《ヽヽ》な仕事ではない。  私は13本のワーナー・ブラザース映画の検閲台本の翻訳をしたことをいままでどこにも書いたことがない。頭になかったのである。13本の映画の題名だけでも記録に残しておかなければなるまいと気がついたのはつい先ごろのことである。昭和4年と5年の外国映画封切記録をしらべ、50年前の記憶をたどって、ここに記した13本をやっと拾い出したのだが、なぜこの13本を記録に残しておかねばならぬと気がついたのか──ことの起こりはNHKの特別番組「ドキュメント昭和」シリーズの平賀徹男ディレクターからの電話だった。 「ドキュメント昭和」は昭和61年春から始まったシリーズで、第1回が「ベルサイユの日章旗」で、第2回が「上海共同租界」。「ベルサイユの日章旗」はベルサイユ条約によって世界から孤立することになった日本の姿を描いたもの。「上海共同租界」は日中戦争直前の国際都市上海をとりあげたもの。どっちもNHKの特別番組らしくリサーチがゆきとどいていて、見ごたえがあった。第3回は「フォード上陸」というテーマで、ジェネラル・モーターズの日本への売込み作戦がとりあげられるのだという。  平賀ディレクターからの電話はこの秋、「ドキュメント昭和」シリーズで「トーキー誕生」をとりあげることになっているので、お目にかかってお話をうかがいたいというのだった。私はこのような依頼をうけたとき、できるかぎり申し出にしたがうことにしている。昭和初めのころのことは私だけしか知らぬことが多く、正確な記録を残すにはどうしても私が話をしなければならないからだ。  平賀君とは3回会った。第1回は銀座の映倫事務所で会い、2回目は私が代々木のNHKに出向き、3回目は平賀君に世田谷の私の家まで来てもらった。私の手もとにある昭和初めの文献や切り抜き、スーパー字幕つき外国映画第1号『モロッコ』の検閲台本のコピーなどを見ておいてもらった方がよいと思ったからである。 『モロッコ』の検閲台本のコピーのことは前にもくわしく記した。鳥取市の岩本彪さんのご好意でコピーしていただいたもので、スーパー字幕に関する文献としてはもっとも貴重なものの一つ。平賀君にもぜひ見ておいてもらいたかった。 「ドキュメント昭和」の「トーキー誕生」はおそらく『マダムと女房』その他の日本映画のトーキー誕生が中心になるのであろうが、外国映画もとりあげられるとすれば『モロッコ』に的がしぼられることはまちがいない。その『モロッコ』の検閲台本を手にとって、 「この中のせりふの全訳も田村さんが訳したのですか」  と、平賀君がたずねた。 『モロッコ』の検閲台本は全部で147ページ。左側のページに英文のせりふとラッパのひびき、行進の足音などのサウンドが記してあり、右側のページにせりふの全訳とスーパー字幕の 文句が記してある。スーパー字幕は全部で297。せりふの少ない映画だが、いまスーパー字幕をつくれば、おそらく500枚を越えるであろう。 「全訳は田村さんではありません」と、私は答えた。「たしかめたことはないのですが、高田さんという人が訳したのだと思います」  私はスーパー字幕をつくるためにパラマウント映画会社にやとわれたとき、ニューヨーク本社の外国部にじかにやとわれたので、日本のパラマウントのことはほとんど知らなかった。宣伝部に高田勝というひとがいて、私がワーナー・ブラザースでやっていたような台本の翻訳をやっていたことを後になって知った。私がニューヨークに2年近くいて東京にもどってきたとき、高田勝はもうパラマウントにいなかった。  その当時、アメリカの映画会社の日本支社に翻訳部というものがなかった。翻訳は宣伝部の仕事になっていて、検閲台本をつくるのも宣伝部の仕事だった。映画がトーキーになる前は字幕で出てくるせりふを翻訳した検閲台本がつくられていた。映画がトーキーになる前から、翻訳を仕事にしている人間がどの映画会社にもいたのである。  私は平賀君とそんな話をしながら、そうだった、私も検閲台本のために何本かの映画の全訳をしたのだった、と気がついた。50年もたってから気がつくとはまことに迂闊《うかつ》な話だが、どんな映画の仕事をしたのか、せめて題名だけでも記録に残しておこうと思い立った。いかにも戦前の匂《にお》いのする懐しい題名の映画が13本ならんだのにはこんなわけがあったからである。 「ドキュメント昭和」の「トーキー誕生」はどんなかたちのものになるのか、まだはっきりきまっていないようである。凝りはじめると|きり《ヽヽ》がないNHKのことだから、どこからどんなものを掘り出してくるかわからない。楽しみにして待っていることとしよう。  余白をかりてひとこと記しておきたいことがある。  大黒東洋士さんが映画雑誌「ロードショウ」に私たちのクレディット・タイトルについて書いているのを前にとりあげた。映画をつくる人間は�出だし�を大切にしているのだから、ファースト・シーンをクレディット・タイトルでよごさないで欲しい、と大黒さんはいうのだ。  もっとものこととさまざまのひとの意見を聞いてみたところ、あまり気にしているひとがいない。字幕屋仲間の集まりで持ち出してみたが、手ごたえがなかった。大黒さんに一応返事をしなければならぬので、いまのところ、まだはっきりした意見が出てこない、とだけお答えしておく。東宝東和やヘラルドのように字幕を1枚つくるのがいちばんよいことはわかっているのだが、アメリカのメイジャーはよけいな出費を|びた《ヽヽ》一文使いたがらないのだから、話にならない。  とにかく、どこかにクレディット・タイトルを入れるということで意見があったら、どんな意見でもうけたまわりたい。お願いしておく。   初封切から55年目の『モロッコ』公開 『モロッコ』が公開される。  昭和61年7月5日から18日まで、東京日本橋の三越ロイヤル・シアターで公開される。「ノスタルジーの中の女たち」という特集で、『裏町』のマーガレット・サラヴァン、『誰がために鐘は鳴る』のイングリッド・バーグマンといっしょにマレーネ・ディートリッヒを追懐しようというのである。  三越ロイヤル・シアターのこの催しは固定ファンがついていて、いつも、かなりの観客を集めているのだが、こんどの『モロッコ』上映にはとくべつの意義がある。読者のみなさんはとっくにごぞんじのことだ。『モロッコ』は日本語スーパー字幕がついた外国映画の第1号で、映画劇場で2週間も公開されるのは昭和6年2月11日に封切されてからじつに55年ぶりのことなのである。  もっとも、16ミリ版はフィルム・インクという会社が持っていて、ときどき、映画研究の集まりなどで公開されていた。フィルム・インクが持っている16ミリ映画のなかではとくに人気のある作品ではないので、あまり大ぜいのひとびとの目にはふれていない。  こんど、35ミリ版が公開されるについて、この古典的作品が当時のままのプリントであるのかどうかが気になった。50年も前の作品の場合、ネガの保存が悪かったり、編集し直されていたりして、原型とちがうことがしばしばあるのだ。  まず、せりふ台本をとりよせて、調べてみた。どういうわけか、台本の表紙に UNIVERSAL STUDIOS と大きな文字で記してある。『モロッコ』がパラマウント映画であることはいうまでもない。おそらく、十数年前、版権会社MCA(Music Corporation of America)がパラマウントやユニバーサルの在庫映画の版権を買いあさったことがあったので、そのときにユニバーサルに権利がうつったのであろう。私たちは日本語スーパー字幕がとりいれられたのが当時のパラマウント日本代表トム・D・カクレンの英断によるものであることを知っているので、『モロッコ』の台本にユニバーサルと大きな文字で記されていると、そんなバカなことが、といいたくなるのだ。  台本の内容は変わっていない。『モロッコ』の封切当時の検閲台本が奇蹟的に残っているので、これとくらべてみたのだが、まったく変わっていなかった。  台本の日づけは November 7, 1930 となっている。製作されたときの日づけである。内容がまったく変わっていない証拠といえよう。  こんどの『モロッコ』のスーパー字幕は菊地浩司君が新しくつくった。フィルム・インクの16ミリ版のときに菊地君が字幕の仕事をしていて、こんどの35ミリ版はフィルム・インクの親会社の日本ヘラルド映画が扱っているので、16ミリ版の字幕製作者をそのまま使ったというわけである。 『モロッコ』オリジナル版のスーパー字幕は田村幸彦さんがつくった。そのことは私もたびたび書いているが、世間にはまだ日本語スーパー字幕誕生の事情を知らないひとが大ぜいいる。ヘラルドがつくった『モロッコ』のチラシに次のようなことが書いてある。  『モロッコ』は映画界にとって歴史に残る作品でもある。ちょうど、サイレント時代からトーキー時代に移り変わる時期で、語学の壁を乗り越える方策が望まれていた。そして、この壁を見事に乗り越えたのがこの本邦初の字幕スーパー映画であった。今では万人が当然の事とうけとっているが、当時はかなりの苦心を要したと思われる。 「語学の壁を乗り越える」は少々おおげさだが、田村さんの苦労は大へんなもので、「かなりの苦心」どころではなかった。英語からスペイン語へ、あるいはイタリー語へというような親類同士のことばにうつすのとちがい、日本語はまったく異質のことばなので、|はた《ヽヽ》からは想像のつかぬ苦労があった。その苦労を田村さんが書きつづった文章がある。「キネマ旬報」の昭和6年2月1日号(『モロッコ』封切公開の10日前)に掲載されたものだ。当時の事情を知っておいていただきたいと思うので、少々長くなるけれどその一部を引用しておく。 [#ここから1字下げ]  まず最大の問題は美術的日本文字を書き得るタイトル・ライターを捜すことである。邦字新聞に募集広告を出した所、約15、六人の応募者の大部分が失業者だった。単に仕事が欲しい為に来た人達で、日本から持参した見本を見せて、試験して見ると、お話にならない出来栄えである。最初の3日間には一人も見つからなかった。日本から連れて来るんだったと思ったが、時既に遅く如何《いかん》とも致し方がない。窮余の一策として邦字新聞社に出かけて、活字を組んで貰って試験した所、4号以上の活字が揃わず、これまた実用にならない。幸いにしてその後、山本、早川と云う両君が見つかったが、全然無経験の人達であるから最初は大目に見て頂きたい。  次の問題は口で喋《しやべ》る言葉を日本文字に翻訳した際、どうしても翻訳の方が長くなることである。忠実に訳して画面に焼きつけると、人物が喋り終って、シーンが次のカットヘ移っても、まだ文字が出て居ると云うような醜態を演じなくてはならない。喋る時間と文字の出て居る時間とを出来るだけ同一にしなくては甚《はなは》だ不自然な作品が出来上る。この問題を解決する為、撮影所で種々の実験を行い、どうやら自信のある点まで漕《こ》ぎつける事が出来たが、時間と費用の関係もあって、完璧という点までにはまだ仲々距離がある。  次はどの程度まで台詞を翻訳するかと云う問題である。全部翻訳したのでは、観客は読むのに気を取られて、画面の方への注意が行き届くまい。余り少くては、今度は意味が通じない惧《おそ》れがある。少くともサイレント映画の字幕と同じ位の数は必要だと思う。スペイン語やポルトガル語の字幕は随分多量に入れていて、1本400以上の字幕を使用しているが、日本の観客は映画に対する感じが鋭敏だから、1巻につき30以上は不必要と信じ、「モロッコ」12巻に対して、僕は234枚しか作らなかった。まだプリントが出来て来ないので何とも云えないが、僕はこれでも多過ぎるような気がして成らない。 [#ここで字下げ終わり]  タイトル・ライターのこと、世間でいういわゆる翻訳とちがうこと、字幕に使う字数のことなど、どれもたびたびとり上げている。田村さんの文章を初めて読むひともその苦労のほどは想像がつくはずである。スーパー字幕づくりの苦労は55年前もいまも変わりがないのである。  ただ一つ、田村さんが書いていることのなかに、おそらくみなさんが首をかしげられたであろうと思われることがある。『モロッコ』12巻に234枚の字幕は多すぎる、と田村さんが考えていたことである。  これにはわけがある。おそらく、「キネマ旬報」の読者の大部分が田村さんの考え方に不満を抱かなかったであろう。当時、サイレント映画こそ映画のほんとうの姿で、せりふに頼るのは邪道であると信じられていたからだ。トーキー理論が確立されていなかったのだからむりもない。字幕が多すぎるのはいけないね、という考え方が誰の頭の中にも漠然と存在していたのである。  初号プリントができ上がった。田村さんは試写を見て、234枚の字幕ではたりないことに気づき、297枚にふやしている。「キネマ旬報」の原稿を日本に送った後だったことを悔やんだろう。初めて日本語スーパー字幕を世に問うのだ。試行錯誤があってもふしぎはないのだ。  もし私がいま『モロッコ』のスーパー字幕をつくると字幕は何枚になるか。台本から字幕にする台詞を拾い上げて数えてみたら492枚になった。こんど、菊地浩司君がつくったスーパー字幕の原稿を見せてもらって、字幕を何枚入れているだろうと数えてみたら、なんと491枚だった。私とわずか1枚のちがいである。とくに変わったつくり方の映画でなかったら、プロの字幕屋がつくる字幕の枚数は誰がつくってもほとんどおなじなのである。  ところで、『モロッコ』が55年ぶりに再公開されるのを機会に菊地浩司君が新しくつくったスーパー字幕と田村さんの55年前の字幕とがどうちがうかをくらべてみよう。田村さんの字幕は13字詰、菊地君のは10字詰である。  英語の台詞 [#この行2字下げ]Tom : What in the name of ten thousand corporals did you come to a country like this for, anyway?  田村さんの字幕   何だつてこんな所へ来たん   だ?  菊地君の字幕   なぜこんな地の果てに   来たんだい?  英語の台詞 [#この行2字下げ]Amy : I understand that men are never asked why they rnter the Foreign Legion.  田村さん   外人部隊に志願する時理由を   訊かれる?  菊地君   外人部隊に入る理由を   聞く人はいて?  英語の台詞 [#この行2字下げ]Tom : That's right. They never sked me and if they had I wouldn't have told. When I crashed the Legion I ditched the past.  田村さん   訊かれたつて云いやしない   入隊と同時に過去を忘れたよ  菊地君   そうだな 聞かれても   答えんさ   部隊に入る時過去は捨   てた  英語の台詞 [#この行2字下げ]Amy : There'a Foreign Legion of women, too. But we have no uniforms, no flags and no medals when we are brave. No wound stripes——when we are hurt.  田村さん   女にも外人部隊があるのよ   ただ妾達には軍服もないし旗   もないわ   勲章もないの   勇敢なことをしても   怪我をした時繃帯もないの  菊地君   私は女の外人部隊よ   ただ軍服も旗もない   けどね   勲章も…   勇敢でもね   階級が上がらない 傷   を負っても  英語の台詞 [#この行2字下げ]Amy : You've better go now. I'm——beginning to like you.  田村さん   帰つて頂戴   妾、あんたが好きになりそう   だから  菊地君   もう行って   好きに成りそうよ  英語の台詞 [#この行2字下げ]Tom : I've told women about everything a man can say. I'm going to tell you something I've never told a woman before. I wish I'd met you ten years ago.  田村さん   俺ア今名で女に嘘ばかりついた   だが、これから云ふ事は嘘ぢ   やねえ   十年前に逢いたかった  菊地君   女には色々いったが   これだけは初めて言う   ずっと前に会いたかっ   た  最後の字幕の菊地君の「ずっと前に」は「十年前」にしてもらいたかった。こんなせりふは自分が使う立場になったことを考えて字幕をつくらなければいけない。   謎のスーパー字幕  東京新聞の夕刊の芸能ページに「からむニスト」という私のごひいきのコラムがある。 �からむ�とうたっているように、腹のなかにたまって|のど《ヽヽ》につっかえていることをずばりといってのけるコラムで、私は東京新聞の夕刊を手にとるといつもまっ先に芸能ページをひろげて、このコラムを読む。  昭和61年9月20日土曜の「からむニスト」は「なにを言いたい?」という見出しで、この「スーパー劇場」でもとり上げたNHKの特集番組「ドキュメント昭和」に|からんで《ヽヽヽヽ》いた。9月1日に放映された「ドキュメント昭和」の第4回は「トーキーは世界をめざす」というタイトルで、映画がトーキーによって文化的弾丸として国策に利用されることが多くなったというテーマ。「からむニスト」はこの第4回の内容に文句をつけて、なにを言いたいのかわからない、と咬《か》みついている。 「からむニスト」がいっていることを要約すると、アル・ジョルスンが映画の中で初めて歌って、せりふをしゃべるトーキー「ジャズ・シンガー」の大ヒットがトーキーの威力を実証、ヒトラーがこれに目をつけて、『意志の勝利』『民族の祭典』を製作してナチ政権のPRに使い、日独合作の『新しき土』をつくってドイツの国力を誇示した……と「昭和ドキュメント」はいっているが、そんなことは新事実といえず、日本政府が『新しき土』の製作を認めたのは日本のPRになると考えたからであり、日独の敵だった英米は映画を国策に利用していなかったのか、と食ってかかっているのである。�新事実といえず�というのがどういう意味なのかよくわからないが、要するになぜ英米もとりあげないのかといいたかったのだろう。  9月1日の放映を見ているひとは覚えているはずである。ヒトラーが映画をうまく国策に利用していたいきさつが明快にえがかれていた。NHKお得意の|執念深い《ヽヽヽヽ》資料あさりが功を奏して、当時をまったく知らぬ視聴者もヒトラーのやり方をよく理解できたにちがいない。 �ドイツ篇�はうまくでき上がったが、�アメリカ篇�がその|あおり《ヽヽヽ》を食うことになった。�ドイツ篇�のために集めた資料に捨て去るには惜しいものが多かったため、時間を食いすぎ、そのしわよせが�アメリカ篇�に来て、ほんの申しわけにふれられただけになった。「からむニスト」の不満はここから生まれたらしい。  私の意見をいわせてもらうと、「ドキュメント昭和」の第4回「国策としての映画・トーキーは世界をめざす」はよくまとまったドキュメンタリーだったと思う。焦点を�ドイツ篇�にしぼり、手に入れた資料に十分にものをいわせているのがよかった。ただし、ドキュメンタリーでなく、エッセイと考えると、「からむニスト」がいっているとおり、片手落ちのものたりなさが残る。だからといって、アメリカも、日本も、英国もと欲ばっていたら、それこそ�なにを言いたい�のかわからぬ番組になる。あらかじめ時間をきめられているテレビ番組の弱味であろう。  ところで、私はこの番組に関して気になっていたことがあった。ことしの春、NHK報道局の平賀徹男君が私のところに取材にきたのがきっかけで、その後、資料集めについて何回も話し合った。映画が声と音を得たことによって国策のための強力な武器になったことを描きたいのだという。サイレント時代の昔から�アメリカ映画のあとからアメリカ国旗が進む�などというスローガンがハリウッドにあったのだから、映画を国策のための武器と考えることに異をとなえるつもりはない。私が気になっていたのは「スーパー劇場」で紹介したことのある私の友人ルイジ・ルラスキがアメリカ映画の世界戦略の騎士として登場するかもしれぬとわかったからである。  ルイジ・ルラスキは昭和6年のスーパー字幕誕生のときにパラマウント映画会社外国部の渉外主任として私たちのめんどうを見てくれた人物である。トーキーが映画による世界戦略の有力な武器であっても、スーパー字幕をつけなければ�武器�として通用しない。その�武器�を仕上げる仕事をルラスキがやっていたわけで、彼の受持ちはスーパー字幕製作の技術的なことだけだった。そのルラスキが�武器�を世界に送り出す仕事にまで手をつけていたように描かれるかもしれぬとわかったのである。  テレビのドキュメンタリー番組をつくる側としてはルラスキを�トーキーによる世界戦略の騎士�として登場させたいにちがいない。NHKがドキュメンタリー番組にしじゅう使っているつくり方だ。ルラスキがじっさいに画面にあらわれて、当時の話をする。こっちからうまく持ちかければ、�アメリカ映画の世界戦略�について話をするだろう。平賀君がルラスキに会うためにロンドンヘ行っているので、ルラスキがどんなことをしゃべるだろうか、と、そのことが気になっていたのである。  私が気にしていたことは�ドイツ篇�に貴重な資料が集まったおかげで杞憂《きゆう》におわった。テレビ放映の分はそれでよいのだが、この番組はそのまま単行本になって角川書店から出版される。放映と同時出版ということになっているので、放映されたものと内容がそっくり同じというわけにはいかない。まだ取材の段階のときに原稿をまとめなければならない。私はその原稿のゲラ刷りを見せてもらった。ルラスキがアメリカ映画の�世界戦略の騎士�になるのではないかと気になり出したのはそのときで、せめて活字の方だけでもと、ゲラ刷りに朱を入れさせてもらった。事実の間違いがだいぶあって、もっと手を入れたいところがあったのだが、そこまで手を入れると書き直すことになるので、目をつぶることにした。この文章、私たちがニューヨークでスーパー字幕を始めたころの事情がいろいろとわかるので、興味がおありの方は一読されることをおすすめする。  この角川書店版「トーキーは世界をめざす」の中でルイジ・ルラスキが語っていることでみなさんにも伝えておきたいと思うことが一つある。トーキーが始まったころ、さまざまの試行錯誤のなかからスーパー字幕が生まれた、という1節である。ルラスキが語っていることはテレビでは放映されていないので、ここで大意を紹介しておこう。  「第一の方法はサイレント映画のやり方をまねたものだ。台詞が始まるとそこに字幕を入れ、台詞が終わるとまたもとの画面にもどす。〈カット・イン・タイトル〉と呼んでいた。俳優の表情のいちばんいいところが全部映画から消えてしまうわけだ。   そこで第二の方法にたどりつく。表情も言葉も観客に伝えたいのなら、台詞に文字をダブらせればよい。�発見�といえるほど大げさなものじゃない。」  まさに、そのとおり。スーパー字幕は生まれるべくして、自然に生まれたといってよいのであろう。ルラスキが語っているのは昭和4、5年のころの事情。私は昭和4年にワーナー・ブラザースに入社したが、�カット・イン・タイトル�方式はワーナーでも採用していて、�Xバージョン�と呼んでいた。各社それぞれ、試行錯誤をくりかえしていたのだろう。  角川書店版「トーキーは世界をめざす」には「字幕スーパーの誕生」という1章があり、みなさん先刻ごぞんじの『モロッコ』に日本語スーパー字幕がつけられた事情が述べられている。そのなかにスーパー字幕がついた『モロッコ』のスチルが掲載されている。  最初、角川書店編集部の鈴木序夫君から、スーパー字幕の入った『モロッコ』の写真を使いたいのだがなんとかならないかと相談された。そんなものがあるはずはないよ、と答えたら、三越劇場でやってるじゃありませんか、という。あれは新しく字幕を入れたもので、昭和6年に公開された『モロッコ』の字幕とは違うといっても、同じ映画なのにどうして字幕が違うのか、そのへんの事情がどうにものみこめないらしい。読者のみなさんに話をするようにはいかないのである。  そのうちに、角川書店版「トーキーは世界をめざす」が送られてきたので、さっそく開いてみると、「字幕スーパーの誕生」というところにスーパー字幕の入った『モロッコ』のスチルが掲載されている。  このスチルは見覚えがある。スーパー字幕の話となるといつも使われているが、いうまでもなくニセものである。スーパー字幕が入っているスチルを使おうと思ったら、フィルムからコマどりしなければならぬ。『モロッコ』が公開されたころはコマどりなどということは行われていなかった。どうしてもひとコマ欲しいということになるとコマをきりとって、つないでおいたものだった。このスチルは宣伝用スチルにスーパー字幕を書き入れたものである。  どうせニセものをつくるなら、もっといろいろと調べてつくってもらいたかった。『モロッコ』のころは1行10字ではない。13字だった。�やうだわね�と昔のかなづかいを使ってごまかしたつもりでいるが、この字幕を『モロッコ』の検閲台本にあたってみると「あんたは女を尊敬しないの?」となっている。検閲台本には台詞の全訳が載っていて、そっちは「あんたはあまり女を尊敬しないやうね」となっている。なぜ全訳を拝借したのかわからないが、�あまり�を�余り�などと戦後になってからはそれこそ|あまり《ヽヽヽ》使われていない漢字を使ったりして苦心していることはわかる。とにかく、これは後でつくったものと注をつけて、もとの字幕をそのまま使うぐらいの配慮がほしかった。ついでに記しておくと、昭和53年に毎日新聞社から出た「別冊一億人の昭和史・昭和外国映画史」にもこのスチルが載っていて、しかも、私の「スーパー字幕・いまむかし」という原稿の中なので、いっそう始末がわるい。 『モロッコ』のスーパー字幕入りスチルのニセモノはもう一つある。ほかにもあるかもしれないが、私の知っているのはこの二つだ。  もう一つのスチルは昭和53年発行の「もう一つの映画史・活弁の時代」に載っていて、このスチルにはさまざまの謎がある。「スーパー登場」という章のなかで、字幕は——   判ってるよ   君を幸福にして上げたの   君は感謝したいんだろ?  という文句。左側に入っている。  この字幕も原文と違っていて、原文は「判ってる 君は感謝したいのだ」と「幸福に成った事を」の2枚である。  なぜ2枚を1枚にしたのか。なぜ12字詰めなのか。右に入れても読めるのになぜ左に入れてあるのか。  このスーパー字幕の謎はいつかゆっくり考えてみたいと思っている。   毎週1本・年間52本 「君の字幕、見てるよ。あいかわらずさかんじゃないか」  永いあいだ会っていない友だちに街でばったり出っくわすと、しばらくだね、元気かい、といったきまり文句の挨拶のあと、ほとんどの友だちがこんなことをいう。  映画をときどき見るだけの人間が私のスーパー字幕にそんなにぶつかっているはずはない。私はこの数年、スーパー字幕の仕事をひところほどしていない。この友だちの頭には私の名前のクレディット字幕がどこの映画館へ行っても目についたころのことがこびりついているのである。だいたい、スーパー字幕をだれがつくったかということなど、一部の映画好きのひとびとをのぞき、ほとんどすべての観客にとってどうでもいいことであるらしい。  私の友だちが私の名前がクレディットに出たのを覚えているのも私という人間を知っていたからである。私がスーパー字幕の仕事にいちばん時間を割《さ》いていた昭和40年代から50年代の初めにかけてのころ、1年間にスーパー字幕を手がける映画の本数は高瀬鎮夫君の方が私よりはるかに多かった。それでも、スーパー字幕の話となると、新聞でも雑誌でも、テレビでもラジオでも、いつも私がひっぱり出されていた。私がスーパー字幕のほかの仕事で世間に名前が売れていたからだろう。このことはいまでもスーパー字幕屋につきまとっている宿命であるようだ。  私がこんな話をすると、あなたはいったい、スーパー字幕の仕事にうちこんでいたころ、月に何本ぐらいの仕事をしていたのかと質問される。だれでも聞いてみたくなるらしい。おなじ質問をいままでに何回されているかわからない。私はいつも、この質問にはっきり答えていない。私の手もとにある記録が「キネマ旬報」その他の文献から拾って後からつくったものだからだが、今回はひとつ、その記録の一部を公開して、私がどんな仕事をしてきたかをふりかえってみたい。後からこしらえた記録とはいえ、大きな間違いはないはずである。  まず、私がスーパー字幕の仕事にもっとも時間を割いていた昭和30年代の後半から40年代にかけて、毎年のスーパー字幕の仕事の本数を見ていただく。   本  数 36 33 34 38 41 44 52 45 51 46 29 52 36 35 31   昭和(年)36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50  平均すると年に41本ということになる。いちばん多い年が52本、いちばん少ない年が年に29本。多い年と少ない年とで倍に近いちがいがあるのは、私がスーパー字幕のほかのさまざまの仕事に時間をとられていたからである。映倫の審査員をつとめ、文化庁の芸術祭にも関係していて、旅行にもたびたび出かけていた。いま考えてみて、スーパー字幕をどんなふうにこなしていたのか、まるで見当がつかない。  最高の52本が昭和42年と47年。どんな映画の字幕をつくっていたのか。47年に字幕の仕事をした映画の題名を拾ってみよう。  アメリカ映画(25本) [#この行2字下げ]『真夜中のパーティ』、『ボーイフレンド』、『フレンチ・コネクション』、『知りすぎた17才』、『アントニーとクレオパトラ』、『恋人たちの曲』、『黒いジャガー』、『わらの犬』、『ドク・ホリディ』、『哀愁のシェリー』、『コッチおじさん』、『大自然の闘争』、『ホット・ロック』、『チャトズ・ランド』、『ブラック・エース』、『オリンポスの詩』、『栄光のライダー』、『猿の惑星・征服篇』、『悪魔のワルツ』、『キャバレー』、『スヌーピーとチャーリー』、『荒野の七人・真昼の決闘』、『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』、『ザルツブルグ・コネクション』、『シャフト旋風』  イタリー映画(11本) [#この行2字下げ]『ヤコペッティの残酷大陸』、『黄金の七人・エロチカ大作戦』、『ガンマン大連合』、『死刑台のメロディ』、『デカメロン』、『西部決闘史』、『さらば美しき人』、『バラキ』、『ふたりだけの恋の島』、『ラ・マンチャの男』、『ザ・ビッグ・マン』  英国映画(7本) [#この行2字下げ]『ドリアン・グレイ 美しき肖像』、『ハメルンの笛吹き』、『美しき冒険旅行』、『黒馬物語』、『おませなツインキー』、『二人だけの白い雪』、『暗殺者のメロディ』  ソ連映画(5本) [#この行2字下げ]『リア王』、『戦争と平和・総集編』、『小さな英雄の詩』、『フランツ・リスト 愛の夢』、『ベルリン大攻防戦』  ソ連・東欧合作映画(1本)   『情熱の生涯・ゴヤ』  デンマーク映画(1本)   『クリシーの静かな日々』  スウェーデン映画(1本)   『続・私は好奇心の強い女』  こうして題名を書きうつしてみて、どんな映画だったのかがまったく頭にうかばない作品が多いのに驚く。なかには題名さえ頭に残っていないのもある。みなさんはこのうちの何本を覚えているであろうか。昭和47年といえば16年前のことである。いま中年にさしかかっている映画好きの人間なら、じっさいに映画を見ていなくても、封切広告などで題名だけは目にしているはずである。読者のみなさんのなかにも中年にさしかかった映画好きの方が大ぜいいるであろう。51本のうちの何本を覚えているか、拾ってみられるとよい。  もちろん、題名を聞いただけで映画がすぐ頭にうかんでくるのも少なくない。そのなかから映画としてすぐれているものと、特に話題になったものを次にあげてみよう。  『真夜中のパーティ』、『フレンチ・コネクション』、『アントニーとクレオパトラ』、『わらの犬』、『コッチおじさん』、『猿の惑星・征服篇』、『キャバレー』、『死刑台のメロディ』、『デカメロン』、『ラ・マンチャの男』、『暗殺者のメロディ』、『リア王』、『戦争と平和・総集篇』、『続・私は好奇心の強い女』  全部で14本ある。51本のなかの14本だから、確率としては悪くない。スーパー字幕についても、この14本にはそれぞれに思い出がある。  たとえば『真夜中のパーティ』。ホモセクシュアルが登場しても、いまではもうめずらしくない。昭和47年のころには登場する人物がすべてホモセクシュアルというだけで画期的なことだった。スーパー字幕屋の立場からいうと、会話を男言葉にするか、女言葉にするかが大きな問題になる。シチュエイションを考え、しゃべっている人物を頭に入れて、男言葉と女言葉を使いわけたのがうまくもとのせりふにマッチして、初号試写のときにほっとしたのを覚えている。とくに苦心をしたのが語尾だった。 『フレンチ・コネクション』は1971年のアカデミー作品・監督・脚本・主演男優賞にえらばれた映画。�コネクション�という新語を生んだ作品で、ここにかかげたリストにもあるように、おなじ年にすでに『ザルツブルグ・コネクション』という作品があらわれている。  小学館の「最新英語情報辞典」で Connection を引いたら「麻薬などの密輸経由地。麻薬の売人の意味から派生。米国の小説家 Robin Moore の著作に基づいた映画 The French Connection により広く知られるようになった」としてある。  長い追っかけのシーンが呼びものになり、そのころ、アクション映画には長い追っかけのシーンが必ずとり入れられるようになった。そのあいだ、字幕にしなければならぬせりふがないわけだから、スーパー字幕屋にとってはありがたい流行をつくってくれた作品といえる。  こんなことを書きならべていたら|きり《ヽヽ》がない。もう1本『戦争と平和』をとりあげて、しめくくりとしたい。 『戦争と平和』の字幕では中村白葉さんの翻訳を使わせていただいた。白葉さんはものしずかな、気のおけない人物で、ロシア語のこまかいニュアンスについて、きわめて初歩的な質問をしても、いつもていねいに教えてくださった。いかにも大正から昭和へと歩いてきたロシア文学者という印象で、私はいまでも、その印象を頭のすみに大事にしまってある。  ロシア文学者では白葉さんとならぶ存在だった米川正夫さんとも、私はスーパー字幕を通じて、わずかのあいだだがつきあっていただいた。ソ連映画『静かなるドン』と『人間の運命』のスーパー字幕の仕事をしたときで、400字詰原稿用紙に楷書《かいしよ》のような文字のペン字できれいに書かれていた翻訳原稿をいまだにはっきり覚えている。   サイレントの時代があった  ヘラルド・エンタプライズから頼まれてチャールズ・チャプリンの映画3本の字幕をこしらえた。ヘラルド・エンタプライズはヘラルド・コンツェルンのなかの会社の一つで、おもにビデオをあつかっている。  チャールズ・チャプリンの映画は永いあいだ東宝東和が上映権を持っていたが、昭和61年末で契約が切れて、当分見られないことになっていた。それを、新しくヘラルド・エンタプライズが契約し直したわけである。もっとも、こんどの契約はビデオだけだから、劇場ではまだ当分のあいだ見られない。  ただし、1月なかばに朝日ホールで淀川長治君の会があり、その会で上映するために『巴里の女性』の劇場用35ミリ・プリントを1本だけつくることになった。1回上映するのに日本語字幕つきのプリントを1本つくるというのはきわめて異例のことだ。だいいち、日本語字幕つきの35ミリ・プリントをつくることを向こうがよく許可してくれたものだと思う。いまチャプリン映画の権利を握っているエージェントはこまかいことにいろいろと注文をつける|うるさ《ヽヽヽ》型の人物であると聞いている。そのうるさい人間が許可してくれたのである。チャプリンを神様のように思っている淀川長治君はさぞ喜んだことであろう。  ヘラルド・エンタプライズがこんど契約したチャプリン映画はキーストン、エッサネイ、ミューチュアル時代の作品とユニバーサルが権利を持っている『伯爵夫人』をのぞく17本である。私がとりあえず字幕をこしらえたのはそのなかの『巴里の女性』、『サニーサイド』、『1日の行楽』の3本。『巴里の女性』が1923年、『サニーサイド』、『1日の行楽』が1919年の作品だから、いうまでもなく、3本ともサイレント映画である。(サイレントといっても、せりふが入っていないだけで、後年つけくわえた音楽とサウンドは入っている)  サイレント映画に日本語字幕をつける話はこの「スーパー劇場」で今までしたことがなかった。�画面に字幕をのせる�のではないから、�スーパーインポーズ�とはいえない。英文字幕が出ているところへ日本語字幕を入れるわけで、|たて《ヽヽ》書きでなく、英文の下に左からの横書きで入れる。もっとも、ビデオのスーパー字幕はとくべつの場合でないかぎり、ほとんど横書きということになっている。  みなさんのなかにはサイレント映画を見たことがないというひともいるかもしれない。俳優がせりふをしゃべっているところはそのシーンの一部をカットして、そこへせりふの字幕を入れて、観客にせりふを読ませる。字幕の長さだけ、画面が減るのだから、|のべつ《ヽヽヽ》に字幕を入れるわけにはいかない。�Yes�とか�No�とか�Good morning�とか�Thank you�とか、場面を見れば見当がつくせりふには字幕を入れない。このへんの要領はスーパー字幕をつくるときとおなじである。  |くどくど《ヽヽヽヽ》と説明しているより実物を見ていただくのがいちばんわかりやすい。『サニーサイド』の英文字幕をここでお目にかけよう。ストーリーは田舎のホテルで雑役夫といったような仕事をして働いているチャプリンの1日の物語。このホテルの主人は酒場や雑貸店を経営していて、人使いが荒い。チャプリンは主人の目をごまかし、恋人のきげんをとろうとする。そのたびに邪魔がはいる。おなじみのチャプリン喜劇のルーティンである。このことを頭に入れておいて、つぎの英文字幕を見ていただくと、どんな場面の字幕か、およその見当がつくであろう。数字は字幕の長さ。6−11とあれば6フィート11コマ。スーパー字幕屋はメートルでなく、いまだにフィートを使っている。(1フィートは16コマ) Sub Titles for�SUNNYSIDE� ㈰ The Village of Sunnyside,(Sunday morning) 6−11 ㈪ Charlie the farm hand, etc, etc, etc. 6−7 ㈫�That boy not up yet, and the whole forenoon gone.� 9−0 ㈬ The Hotel Evergreen, etc, etc, etc. 5−7 ㈭�Hurry up� 3−0 ㈮�Sugar's to sweeten—not to thicken.� 5−14 ㈯ Morning Service. 2−13 ㉀ Father and son. 2−15 ㈷ The unwilling sinner. 4−0 ㉂ His church, the sky—His Alter, the landscape. 8−10 ㉃ And now, the�romance� 3−10 ㈹ Her brother, Willie. 3−4 ㈺ Two's company. 3−7 ㈱�Let's play Blind man's Buff.� 5−4 ㈾ A flat note. 3−6 ㈴ Late again. 3−1 ㈲�Get busy!� 2−13 ㈻ Enter the City chap!!! 4−7 ㈶ The village doctor. 3−9 ㈳�Will that be all sir?� 5−13 (21)�Do you need any change Sir?� 6−2 (22) Lounge Lizards. 3−4 (23)�Move Over!� 3−1 (24) City chap fully recovered. 4−15 (25)�What would you like?� 5−14 (26)�Er - er - er -- I've forgotten.� 5−6 (27) Oh, cruel fate. 4−2 (28) His last hope. 3−11 (29) Love's labour lost. 4−11 (30)�Sleepy-head, go get this gentleman's baggage.� 7−10  日本語字幕はこの英文の下に左から横書きで入れる。   1 サニーサイドの村        (日曜日の朝)   2 チャーリー さまざまの雑役に        こき使われている   3�あいつ まだ知らないのか        もう正午《ひる》になるぞ�  といった工合である。  いつも説明しているように、日本語字幕は2フィートで4−6字、5フィートで13−17字といったところが標準だから、フィート数は10分にある。字幕の文章を短くするための苦労はいらない。どのサイレント映画もそうであるというのではなく、たとえば、おなじチャプリン作品でも『巴里の女性』にはずいぶんフィート数の短い字幕があった。せりふがしゃべられている場面にスーパー字幕をかぶせるのと違い、日本語字幕は英文字幕の長さを越えるわけにいかないのだから、フィート数がたりなくて苦労した字幕がいくつかあった。  この英文字幕のうち、quotation mark(引用符)がついているのがせりふ、何もついていないのは場所、人物、日時などを示している字幕である。私たちは前のを spoken title : 後のを sub-title と呼んでいる。このような字幕の呼び方をここで一括して記しておこう。  1 Head title  2 Credid title  3 Sub-title  4 Spoken title  5 Insert  6 End mark  head title を題名、credit title を原作、脚色、撮影、監督などに関する字幕と考えているひともいるし、このすべてを head title と呼んでいるひともいる。ちかごろは credit title が映画の終わりに延々とつづいて出るので、credit が映画の初めと終わりにダブって出ることになった。  sub-title と spoken title については前に記した。insert は道路標識、商店の看板、手紙、名刺といったようなもので、とくにサイレント映画だけに使われているのでなく、insert が一つもないという映画はめったにない。出てくるたびにいつも頭が痛くなるのが道路標識のインサートである。  例を一つ挙げよう。車がスピードウェイを走っている。�New York 50�という道路標識が見えてくる。いうまでもなく�ニューヨークまで50マイル�という意味である。ところが、スーパー字幕には�ニューヨークまで80キロ�書かなければならない。道路標識にははっきり50と出ているのに、スーパー字幕には80と出る。なんとも工合がわるいのである。せりふだと英語を聞きとれない観客の方が多いはずなので、それほど気にならない。字幕はだれにもはっきり見えるので始末がわるい。  その代り——というのではないが、字幕だからできるサービス? もある。29の字幕�Love's labour lost.�はシェイクスピアの戯曲の題名で�恋の骨折り損�と訳すことになっている。日本語字幕をそのとおり�恋の骨折り損�として(シェイクスピア)とつけくわえておいた。ふつうなら、原文にないことをカッコしてつけくわえたりするのは邪道であるが、アメリカ映画のクラシックの一つ『サニーサイド』でチャプリンがこんないたずらをしているということをみなさんにお知らせするという意味でとくに許していただけると思う。  さいごにもう一つ、サイレント映画に字幕を使ったギャグがあったことをお話ししよう。  大正の中ごろの話である。中学生であった私はドロシー・ギッシュのファンだった。リリアン・ギッシュの妹で、姉のリリアンの方がよく知られているが、ドロシーがエルマー・クリフトン監督とコンビでつくっている何本かの喜劇はそれぞれ見ごたえがあった。  そのころ、人物紹介の字幕に俳優の名前を入れる|しきたり《ヽヽヽヽ》があった。「サニーサイド」だったら、字幕2が──  Charlie, the farm hand        ……Charles Chaplin  となる。この字幕がうつると、観客がいっせいに拍手をする。拍手の多い少ないが人気のバロメーターになっているわけで、ごひいきの俳優の名前が出るときには誰よりも早く拍子をして、得意になっていたりする。  ドロシー・ギッシュの「名物女」�Battling Jane�という映画のときだ。  Jane, everybody knows her.        ……Dorothy Gish  という字幕が出る。観客席のあちらこちらから拍手がおこる。だが、私は拍手をしない。拍手をしないわけがある。  字幕が消えると、ふとった|ばあさん《ヽヽヽヽ》が画面いっぱいに観客の方に向かって歩いてくる。拍手をした観客はいっぱい食ったかたちで、|あっけ《ヽヽヽ》にとられている。そのうちに|ばあさん《ヽヽヽヽ》が画面から切れ、ドロシー・ギッシュのジェーンがあらわれる。ここで私が得意になって拍手をする。  私はこのころ、好きな映画は2回も3回も見ていたので字幕がギャグに使われていることをちゃんと知っていたのである。   『タバコ街道』で字幕を作ろう  久しぶりに�テキストを使ったスーパー字幕のつくり方�をとりあげてみたい。毎年、3月から4月にかけて、卒業、入学の季節にあたっているせいか、スーパー字幕をやってみたいのだが、と相談を持ちかけてくる若い人たちがふえる。そんな諸君が読んでくれれば、案外めんどうなものだな、とわかってもらえるかもしれない。  テキストはジョン・フォードが1941年につくった『タバコ街道』�Tobacco Road�を使う。原作はアメリカ南部の貧しい農民一家をえがいたアースキン・コールドウェルのベストセラー小説。ジャック・カークランドが脚色して上演、1933年から41年まで3182回続演された。これがブロードウェイ劇壇の長期続演記録のナンバー・スリー。その3本は次のとおりである。  1 『屋根の上のバイオリンひき』 3242回  2 『ライフ・ウィズ・ファーザー』3224回  3 『タバコ街道』        3182回  タバコ街道は南部の農園の綿とタバコを運び出すための街道。1900年代の中ごろからさびれ始めて、街道ぞいの農家はみな、貧困のどん底に落ちていった。ジーター・レスターの一家もその一つ。1年分の地代100ドルを払わないと立ち退《の》かなければならぬところまで追いつめられていた。思案に余ったジーターは窮余の一策、息子の一人と結婚しているベシーが亡くなった前夫の遺産で買った自動車に目をつけて、金を工面しようとする。計画を実行にうつそうとする前夜、ジーターは神様に話しかける。英語のせりふは次に掲げる。  JEETER ㈰ Now look, Lord, this time I ain't fooling. ㈪ I'm in a powerful bad fix. ㈫ You know they're—they're figuring on taking Ada and me to the poor farm. ㈬ Now you know what a powerful sinner I've been. ㈭ You know there ain't been no bigger sinner than me between here and Savannah. ㈮ And You know there's nobody's been any sorrier for their sins than I have, ㈯ once they was done—but what I'm here to tell You is ㉀ that You'd better watch out pretty close for me the next couple of days 'cause ㈷ I want to do what I got to do without committing any real big sin, ㉂ because I—I—I know how You—I know how You feel about stealing. ㉃ You know I like—I like Sister Bessie about as well as the next one ㈹ or I wouldn't give her new automobile a thought, ㈺ but I'm here to tell You, Lord, ㈱ You'd better step in and help me out pretty quick ㈾ or I'm afraid I'll have to take matters in my own hands.  ㈰ 神様 こんどは冗談    じゃないんです  こんなせりふの字幕はだれがつくってもすんなりでき上がるだろう。�Now look�を生かして�ねえ 神様�としてもよろしい。ジーターは子供たちが手紙をよこしても字が読めないという男だからに�冗談じゃねえんですぜ�といったような字幕をつくってもいいのだが、字幕は目で読むもので、声を出してしゃべるわけではない。舞台でしゃべられるせりふとは違う。言葉づかいにこだわりすぎると、字数の制限もあって、どうにも動きがとれなくなることがある。せりふが持っている意味を正確にとらえることがもっとも大切なことである。  ㈪ 俺とエイダが  ㈫ 救貧農場につれてかれ    てしまうんです  ㈪と㈫のせりふをしゃべっている時間は㈪が2秒そこそこ、㈫が4秒とちょっとで、字幕にすると㈪がせいぜい6字、㈫が13字から16字ぐらいということになる。最初、  ㈪ 大弱りなんで  ㈫ 俺とエイダが救貧農場    に入れられるんです  というのを考えた。これでは㈫が3、4字多すぎる。�俺とエイダが�を�俺達が�とすれば16字でおさまるが、ジーターが�かみさんのエイダと二人�を強調しているのが伝わらない。そこで、㈪を�俺とエイダが—�としたのである。  俺にするか、私とするか、|わし《ヽヽ》にするかでだいぶ迷った。ジーターには俺がいちばんふさわしいのだが、この場面にかぎり、話している相手が Lord なので、私を使ってもよかった。ただ、スーパー字幕の場合、一人称代名詞は全篇を通じて統一するのが望ましいという不文律のようなものが昔からある。この場面は私を使う方が適切であったかもしれない。 �救貧農場�は聞きなれないことばで、おそらく初めて聞く人が多いだろう。できれば使いたくないのだが、ほかに適当な訳語がない。辞書をひくと�貧民救済のため公費で維持される農場�と註釈がついている。  ㈬ 俺は罪を犯してます  もとのせりふは�いままで多くの罪を犯してきた�といっているのだが、powerful は次の字幕㈭のなかにふくめることにした。  ㈭ 俺ほどの大罪人はこの    へんにいないでしょう  Savannah はジョージア州のサバンナ川の河口にある港町。ここまで綿とタバコを運んで行く街道がタバコ街道である。だれでもスーパー字幕につくれるようなせりふで、こんなせりふが続いていると字幕屋は大いにありがたい。せりふの英語を見ただけですぐ日本語字幕の文句が頭に浮かんでくる。原稿用紙に�俺ほどの大罪人……�と書き始めると、とたんに2行でおさまるな、とわかる。カンでわかるのである。そして、このカンはかならず当たる。私は字幕をつくりながら、|なれ《ヽヽ》というものはこわいものだな、といつも思っている。  ㈮ 俺ほど罪を悔いている    人間もいないんです  このせりふも㈭とおなじように日本語字幕につくりやすい。だいたい、ジーターがむずかしいことをいうはずはないのだが、私がつくった字幕を読む前に英語のせりふから日本語字幕をつくってみなさい。おそらく、たいして頭をひねらないで字幕をつくれるにちがいない。  ㈯ そこで申しあげておき    たい事があるんです  英語のせりふは前半と後半にわかれている。スーパー字幕には後半だけを使うことにした。その方がわかりやすい。切り捨てるべきところを切り捨てるのは簡単なようだが、なかなか手をつけにくい。せりふに忠実に日本語字幕にうつそうとして、かえって舌たらずになる場合がしばしばある。  ㉀ この2日間 俺をよく    見ていて下さい  最初�この2日間�を�今明日�を使おうかと思った。しかし、すぐコンミョウニチとは読めない。�今日明日�もキョウアスあるいはキョウアシタとすぐには読めない。しかし、�この2日間�が最善であるかどうかは意見のわかれるところであろう。  ㈷ 俺がやる事は大きな罪    にならないはずです  英語のせりふを聞いていると、'Cause の前にポーズがありそうなものなのに 'Cause の後で切れている。せりふのしゃべり方はいろいろあるわけで、スパッティングをするときに十分注意して聞いておくべきである。なお、このせりふの意味は�私はどうしてもしなければならない事を大きな罪を犯さないでやりたい�というので、このままでは2行20字のなかにおさまる日本語になりにくい。この場合のように主語をとりかえるとうまく片がつくことがあるのを覚えておくといい。  ㉂ あなたはよくわかって    ると思うんです �わかっている�を�分かっている�と書くこともある。ときには�分っている�とも書く。これは一般にも使われているが間違いで、1字に苦労するスーパー字幕屋にとってもつらいところである。�向う�や�終る�とおなじケース。正確に書くと�向こう��終わる�で1字多くなる。  ㉃ 俺はシスター・ベシーが    大好きです  ベシーは村の女の一人。亡くなった夫の保険金で自動車を買っている。いつも讃美歌をうたっていて、相手を呼ぶときにかならず男ならブラザーを、女ならシスターをつける。そこで、ジーターもシスター・ベシーと呼んでいる。字幕はただベシーでもさしつかえないわけだが、何回も出てくるし、観客にはっきり聞こえるはずなので、字数に余裕があるならシスターをつけておく方がよい。  ㈹ そうでなきゃあの自動車    の事なんか考えません  この字幕は21字である。10字詰2行では1字はみ出ることになる。20字におさまる字幕を考えればよいのだが、(2行)と註をつけておいて、字幕カード・ライターに2行におさめてもらう方法もある。3行目に1字だけはみ出ているのは感心しない。  ㈺ よく聞いておいてくだ    さい �ここでお話しときますがね�というのが最初に頭にうかんだ文句だった。どっちを使ってもよろしい。  ㈱ 早いとこ俺に手を貸し    て助けて下さらんと─  英語のせりふとほとんどおなじ文句になった。次の㈾に or でつづいているので、ダッシュ(─)をつけておきたい。ダッシュをいれてちょうど20字になるので工合がいい。何10年もスーパー字幕をつくっていると、このせりふの pretty quick に�早いとこ�がぴったりであることなど、とくに考えもしないで、すぐ頭にうかんでくる。  ㈴ 俺の手で片をつけな    きゃならんのです  1行目が9字しかないのは�なきゃ�の�きゃ�が2行にまたがるので、2行目に送ったからである。2行目がそのために11字になるなら、㈹の字幕のようにカード・ライターに頼んで、�なきゃ�を1行目に入れてカードを書いてもらう。  ここに記したようなこと、わざわざ取り上げて書くほどのことではあるまいという人がいるかもしれない。字幕の原稿をつくるだけなら、たしかにそのとおりだが、スーパー字幕屋の仕事は外国語を日本語にうつしただけで終わるのではない。原稿がカードに書かれ、字幕がフィルムに焼きつけられ(あるいは打ち抜かれ)、映画館で観客に読まれるまでを考えておかなければならない。スーパー字幕屋は少々できの悪い字幕でもなんとかついてゆける批評家や試写室族のためにスーパー字幕をつくっているのではないのである。   字幕屋の雑学ノート  スーパー字幕屋になるにはどんな条件が必要なのでしょうか、としじゅう質問される。私はいつも、一つ、映画を正確に理解できること、二つ、日本語の話しことばをきちんと書けること、三つ、何事にも興味を持つ雑学趣味を身につけていることの三つです、と答えている。このことはいままでに何回も書いた。外国語がどんなによくできても、この三つのうちの一つでも欠けているとスーパー字幕屋としては失格だ。日本語の字幕を読み切れる長さにするために、もとのせりふの意味を二分の一から三分の一、ときにはもっと要約しなければならない──と、スーパー字幕の話になるとかならずいわれることなど、この三つが身にそなわっていてからのことである。  ところで、今回はこの三つのうちの雑学趣味のことをとりあげてみたい。 �雑学趣味�と気どってみたところで、要するになんでも知りたがるヤジウマ根性である。私の人生経験からいわせてもらうと、なんでも知りたがるヤジウマ根性を持っていると、スーパー字幕づくりに役に立つだけでなく、思いがけないときに思いがけない得をすることがある。私の場合、読んだり聞いたりしたことでこれはと思うことがあると、ノートにメモしておく。新聞・雑誌などから切り抜いておくこともある。スーパー字幕づくりに役に立つからというだけではない。おもしろいな、と思ったことはなんでもノートにメモしておくのである。このノートを、私は〃雑学ノート〃と名づけている。  その�雑学ノート�がいま、私の目の前にある。第1ページをめくってみよう。新聞か雑誌の|かこいもの《ヽヽヽヽ》のコラムが切り抜いて貼《は》ってある。「蜂の巣」というコラムだ。年月日はわからない。「洋画日本版の翻訳ミスは作品の興味を半減する」という題がついている。スーパー字幕屋に関する切り抜きが第1ページにあるのは、�雑学ノート�を始めたとき、字幕づくりに役立てようという下心があったからだ。  さっそく、このコラムを読んでみる。こんなことが書いてある。 �不特定多数の観客がパッと出てパッと消える文字を読むでもなく見るでもなく感じとって先へ進むわけだから、字幕は流れるように意識のなかを通りすぎて行くことが望ましい�  そのとおりである。スーパー字幕の性格をよく心得ているとり上げ方だ。そして、流れるように意識のなかを通りすぎない字幕の例としてシシー・スペーシクの『歌えロレッタ愛のために』の字幕を挙げてある。 「車があるのに歩く手はない」  という字幕である。�|歩く《ヽヽ》という文字が反射的に足《ヽ》を連想させ、|手はない《ヽヽヽヽ》という言葉が一瞬奇異に惑じられてとまどった�というのだ。そして、 「……歩くテはない」  とするべきである、と結んでいる。もっともな意見である。このような具体的なスーパー字幕談義はもっともっとあっていい。  スーパー字幕についての意見では、次のようなユニークな感想も切り抜いてある。昭和56年8月号の「翻訳の世界」に掲載されたものだ。表題は�「字幕」について�。筆者はカートン・リサ(Windsor 34歳)となっている。 �日本で『影武者』を観た時、台詞の「馬を狙え」という声が耳に入ったんだろうが、頭のどこかで薄れてしまい、妙に馬が倒れていく場面に流れていた音楽だけが耳に残った。……ところがこちらへ戻って英語の字幕スーパーで観た時は、�Aim at the horses�という字幕がハッキリと目から頭へと意識を伝え、同じ旋律で繰り返すあの音楽でさえも効果的なものとして響いた。/「字幕」の強みはそこにあると思う。母国語だからこそ簡単に聞き流す。重要な箇所は「字幕」で読む方が意味の取り違えなどないんではなかろうか�  せりふが音楽や雑音と重なって聞きにくく、スーパー字幕だけが意味を伝えているというケースはしばしばある。母国語だからといって、観客のすべてが意味を正しく理解しているとはかぎらない。母国語のせりふが聞きとれぬ場合もありうる。  こんなことがあった。  ニューヨークのパラマウント本社でスーパー字幕をこしらえていたころのことである。急ぎの仕事で、昼の休みに試写を見ながら台本をチェックしていた。女子社員が二人、試写を見せてください、といって入ってきた。やがてその一人が、いま何といったのか、と私に質問した。私は台本を見ているのだから、どんなに聞きとりにくいせりふでもわかっている。母国語だからかならずわかるとはいいきれない。字幕を読んでいる方が映画がよくわかる場合だってありうるのだ。  もっとも、それだからといって、このことをスーパー字幕の効用に数えるわけにはいくまい。  私の雑学の知識の足りないところを補っていただいたケースもいくつか記してある。 『エレファント・マン』の字幕をつくっていたときだった。エレファント・マンをひそかに連れ出そうとしている夜警のこんなせりふがあった。  Night Porter : Right now he's in the attic. But tomorrow they're gonna move him to Bedford Square right into my lap.  この夜警はエレファント・マンが収容されている病院(ロンドンの実在の病院)の分院につとめていて、その分院が Bedford Square にあるのだった。このことを知らなくても字幕はつくれるが、知っているのにこしたことはない。「雑学ノート」にこのことを書きとめるときのなんともいえぬ満足感は雑学趣味にのめりこんでいる人間でないとわからない。  ブルック・シールズの『エンドレス・ラブ』にこんなせりふがあった。  Brook Shields : You know what comes between me and Calvin? Nothing!  この時はダイアログ・シーツに註釈がついていたので助かった。Calvin Kline Jeans というジーンズがあるのだった。身につけるものにはさまざまのブランド名があるし、新しいファッションが次々に生まれるから、スーパー字幕屋はしじゅう身構えて、聞き耳を立てていなければならぬことになる。 「雑学ノート」だから、スーパー字幕にすぐ役に立たなくても、いつか役に立つかもしれぬことも一応メモしておく。1979年の「ニューズウィーク」に載った�LEGAL LIMITS�という記事もその一つ。アメリカで未成年者の飲酒が問題になったときのことである。  アメリカでは50の州がそれぞれ未成年者の飲酒について、その州だけのリミットを定めている。満18歳から酒を飲むことを認めている州から21歳になってやっと認めてもらえる州まで、4通りにわかれている。  18歳からの州はフロリダ、ハワイ、ニューヨーク、テキサスなど。  19歳からの州はアラスカ、アリゾナ、ミネソタなど。  20歳からの州はデラウェア、メイン、マサチュセッツの3州。  21歳からの州はいちばん多く、カリフォルニア、ケンタッキー、ミシシッピ、ワシントンなどと、コロンビア区(首都ワシントン)。  いささか変わった題目では�What it means to be a sovereign�というのが切り抜いてある。これも『ニューズウィーク』に載っていたものだ。ヨーロッパの各王室の王室費、与えられている特権などが記されている。  ベルギー 王室費200万ドルと国王の体重と同じ重さの|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》。王宮維持費および旅費60万ドル。免税。  英国 王室費360万ドルと牛乳1000リットル、ポリッジ(オートミールのような食べ物)1トン。王宮維持費630万ドル。王室専用機5機、専用列車、専用ヨット。郵便物 無料。  デンマーク 王室費280万ドル、|にしん《ヽヽヽ》18トン。王宮維持費は政府予算。免税。  オランダ 王室費280万ドル。王宮維持費をふくむ。免税、ただし女王の分のみ有税。  ノルウェー 150万ドル。王宮維持費190万ドル。海外旅行費は国家予算。  スペイン 220万ドル。  スウェーデン 130万ドル。王宮維持費120万ドル。免税。  王室費のほかに国王の体重と同じ重さの|じゃがいも《ヽヽヽヽヽ》とか、ポリッジを1トンとか、|にしん《ヽヽヽ》を18トンとかいったものがつけ加えられているのは、歴史の古いヨーロッパの王室らしい趣があっておもしろい。  王室の話が出たから、こんどはぐっと下世話《げせわ》にくだけた話をしよう。 (挿絵省略)  上ページの四つのシンボル・マークのような絵を見ていただきたい。ドイツ語で�娼家��レスビアン��ホモ��性倒錯男性�とキャプションがついている。ドイツの都市ベルリン、ミュンヘン、ハンブルク、フランクフルトなどで売っている男性旅行者用地図に記されているシンボル・マークだそうで、この地図さえもっていれば、ホテルのボーイさんやタクシーの運転手に覚束ないドイツ語で聞きにくいことを聞かないですむというわけである。  おなじような仕組みがどこの国の都市にもある。ニューヨークの街を歩いていてもらったチラシをお目にかけよう。うすいピンク色の紙だ。 �会議室�と書いてあるのに、�あらゆる国籍の女性�がいて、ベッドに|しかけ《ヽヽヽ》がしてあるというのだから理屈に合わない。45丁目の5番街とアメリカ街(6番街)の中間といえばニューヨークのまんなか、東京でいえば銀座をちょっとはずれたあたりである。  それにしても、�The Conference Room�というのが気に入った。スーパー字幕にすれば�ご商談に�といったところだろう。   それは甲子園ホテルから始まった  先日、読者から手紙をいただいた。私がどんなきっかけでスーパー字幕の仕事をすることになったのか、スーパー字幕が登場したころのことをいちど話して欲しいという文面だった。  なるほど、私がスーパー字幕屋になったいきさつはまだ話していない。「スーパー字幕屋紳士録」でスーパー字幕つき外国映画第1号『モロッコ』の字幕をつくった田村幸彦さんが私の師匠にあたることにふれているくらいのものだ。スーパー字幕屋稼業草分けの私がいちどは話しておかなければならぬことだろう。  そこで、今回はその話をとり上げたいと思うのだが、まず次の写真を見ていただきたい。 (挿絵省略)  この写真は兵庫県西宮市の武庫川右岸にある武庫川学院第三学舎である。この建物を見て、どこかで見たような建物だナ、と首をかしげる人がかならずいるだろう。東京に住んだことのある年配の人間なら覚えているはずの東京名物だった建物とそっくりなのである。おわかりだろう。建てかえられる前の旧帝国ホテルである。  武庫川学院第三学舎はもと甲子園ホテルというホテルだった。旧帝国ホテルを設計した世界的建築家リチャード・ライトの高弟遠藤新が設計したもので、昭和5年に建てられている。遠藤は恩師ライトの旧帝国ホテルの優雅な美しさをとりいれて設計、戦後、武庫川学院の手にうつって改修が行われたときも旧帝国ホテルを思わせる外観がそのまま残された。旧帝国ホテルに似ていてふしぎはない。  ところで、この写真をなぜ読者諸君に見ていただいたかというと、私がスーパー字幕屋の第一歩を踏み出したのがこの甲子園ホテルだったからである。私はそのころ、MGM大阪支社の宣伝部長をしていた。田村幸彦さんが東京からやって来て、私を甲子園ホテルに呼び出し、パラマウントが全作品にスーパー字幕をいれることになったのだが、ニューヨークに行って字幕の仕事をする気はないか、と誘ったのだった。昭和6年10月3日のことである。  いまだったら、ニューヨークに出かけて行って仕事をするのはすこしもめずらしいことではない。そのころはニューヨークまで行くのがまず大仕事だった。船で太平洋を渡り、汽車でアメリカ大陸を横断するのだから4週間近くかかる。旅券や査証も簡単にはもらえない。外国に行くことを�洋行�といい、�洋行帰り�が肩書の一つに数えられていた時代だった。  昭和6年ごろのパラマウントとMGMは商売がたきだった。東宝がまだ生まれていなくて、松竹が外国映画興行の実権を握っていた。パラマウントは松竹と組んで、日本全国のめぼしい外国映画上映館と特約を結んでいたので、MGMにとってはパラマウントは憎んでもあまりある敵だった。私が田村さんの誘いを承諾してパラマウントに行けばMGMを裏切ることになるわけだが、そんなことを気にしている余裕はなかった。ニューヨークに行かせてもらえるということだけで頭がいっぱいだった。一も二もなく、行かせてください、と返事をした。スーパー字幕をどんな手順でつくるのかを聞いてもみないで、行かせてください、と返事をしたのだから、乱暴な話である。これがきっかけで私がスーパー字幕屋の代表のような存在になろうなどとは考えてもいなかった。  ところで、私が田村さんからニューヨーク行きを誘われたことにはちょっとした|いきさつ《ヽヽヽヽ》がある。田村さんは私に口をかけるために関西にやってきたのではなかった。最初に白羽の矢を立てられたのはワーナー・ブラザース映画会社宣伝部長楢原茂二さんだった。それがどういうわけで私にお鉢《はち》がまわってくることになったのか、まず楢原さんと私のつながりから話さなければならない。  楢原さんは当時、慶應を出て、雑誌の編集をしたり、翻訳をしたりしていたが、ちょうどサイレント映画がトーキーになって映画会社の翻訳の仕事が忙しくなったときで、ユニバーサルの宣伝部に入社した。そのころ、どの映画会社でも翻訳は宣伝部の仕事になっていた。入社してすぐ、東京の本社から大阪支社の宣伝部にまわり、数カ月後、ワーナー・ブラザースにうつって、宣伝部長になった。  英語は大学のころから得意で、私が半世紀にわたって英語の仕事をしていたあいだに知った英語の達人の一人に数えられる。当時の若者に人気のあった雑誌「新青年」に「メリケン・ジャップ放浪物語」というのをときどき書いていた。日本人二世の青年がカリフォルニア、ネバダ、テキサスと放浪して歩く物語で、アメリカのスラングが|ふんだん《ヽヽヽヽ》に使われていた。アメリカに行ったことがなくてこんなアメリカ放浪記を書くのだからたいした才能である。田村さんが楢原さんに白羽の矢を立てたのはもっとものことだった。  私は楢原さんに引っぱられて映画界に入った。私の姉が女性雑誌の編集をしていて、楢原さんと知り合い、楢原さんが映画界に入ってからもずっとつき合っていた。私が大学を出たけれど仕事がなく、映画雑誌の編集をしたり、原稿を書いたりしていたとき、楢原さんから姉を通じて、ワーナー・ブラザースに来てトーキー台本の翻訳を手伝ってくれないか、という話があった。小津安二郎が『大学は出たけれど』をつくった時代で、東大を出てもうまい伝手《つて》がないとおいそれと就職できないのだった。  アルバイトのつもりで神戸に行ったのが、そのまま仕事をつづけることになり、ワーナー・ブラザースに正式に入社した。昭和4年秋のことである。それから半世紀を越える年月を映画界ですごしているわけだ。  MGMにうつったのは昭和5年の夏だった。MGM大阪支社の宣伝部長がやめたので、楢原さんが顔をきかせて私を売りこんだのだ。MGMの方が給料がよく、社内にごたごたがあったワーナー・ブラザースにいてもロクなことはないからというのだった。引き抜きというのはよくあることだが、こんなかたちの売りこみはめったにあるまい。楢原さんが私のことをこれほどに考えてくれていたのは、いまふりかえってみると、私の姉のことが頭にあったからだったようだ。  楢原さんが田村さんからのニューヨーク行きの話を断って、私を推|せん《ヽヽ》したのにはそれなりのわけがあった。当時、松竹系の第一劇団の女優に楢原さんの愛人がいて、松竹の演劇部にもこの女優に熱を上げている男がいた。ライバルが松竹の人間では立場が不利で、ひとりでニューヨークまで出かけて行く気にならなかった。この女優は築地小劇場出身の若宮美子。後の楢原夫人である。  こんなわけで、楢原さんは私を推せんしたのだ。ワーナー・ブラザースからMGMにうつるのとちがい、まったく新しい仕事をすることになるのだから、いいかげんのことはいえないはずである。私のトーキー台本翻訳の仕事が及第点だったとしても、私に対する大きな好意だったことは間違いがない。  楢原さんの好意はわかるのだが、いまもってよくわからないのは田村さんが私のニューヨーク行きをその場で決めたことである。おそらく、パラマウント映画日本代表トム・カクレンから人選について全権をまかされていたのだろう。至急仕事を始めなければならぬ事情があったのかもしれない。だが、どんな事情があったにせよ、田村さんは私の仕事について何も知らないのである。楢原さんの推|せん《ヽヽ》だけで間違いはないと信じていたのであろうか。  考えられることが一つある。私がこんなことをいうと、そんなバカなことがといわれるにきまっているが、田村さんが私をニューヨークに行かせることにきめた大きな理由は私が東京府立一中(いまの日比谷高校)の出身で、田村さんの後輩だったことではないかと思う。  府立一中はそのころ、府立四中、私立の麻布、開成とならんできわめつきの優秀校ということになっていた。田村さんはまっ正直な人間だから、府立一中出身なら英語をしっかり身につけていると信じていたのである。田村さんにじかに聞いたわけではないので、断言することはできないが、ニューヨークと東京のパラマウンド映画のオフィスで田村さんと10年間机をならべていて、田村さんがしじゅう府立一中の話をするのを聞いていたので、私の推理はおそらく間違っていないだろう。  とにかく、こんなわけで私はスーパー字幕屋になった。田村さんが楢原さんの英語の力を認めていて、私が府立一中出身だったおかげだった。大げさにいえば、私が歩く人生の道がそのときにきまったのである。  1昨年の秋、宝塚まで行ったとき、思い立って、甲子園ホテルの跡はどうなっているであろうと西宮市の武庫川べりに行ってみた。思いがけなく、昔の甲子園ホテルのままの建物が残っているではないか。まわりの松林もそのままになっている。あいにく、カメラを持っていなかったので、武庫川学園に頼んで数枚の写真を送ってもらった。ここにお目にかけたのがその1枚である。旧帝国ホテルを思わせる甲子園ホテルの優雅な美しさは私の頭から消えることがない。   映画会社とスーパー字幕の関係  日本で初めてスーパー字幕つきのプリントをつくった東洋現像所の話をしたとき、日本語吹き替え版パラマウント映画『生命の雑踏』�4 Hours to kill�にふれておいた。  その『生命の雑踏』がつくられることになったいきさつをここで記しておきたい。  私はかつて、新聞の映画の広告に�日本版字幕 清水俊二�と出されたことがある。20数年前のことで、東和の映画だった。大作、話題作だけで、3、4本あったと思う。いま、コロムビア映画のプレスにはスーパー字幕担当者の名前がのっている。  スーパー字幕屋がこんな扱いをうけるのは珍しい。むかしも、いまも、映画会社はスーパー字幕にたいして関心を持っていないのである。  外国映画会社代表でスーパー字幕に関心を持っていたのは私が知っているかぎり二人しかいない。イタリーフィルムのジュリアナ・ストラミジョリ女史とコロムビア映画のマイク・シャピロである。  ストラミジョリ女史はスーパー字幕の原稿ができ上がるとかならず読み合わせをする。私はイタリーフィルムの仕事を数年つづけたので、女史との読み合わせの回数は私がいちぼん多い。英訳あるいは邦訳から字幕原稿をつくるのだから、読み合わせは当然必要だが、ことばの言いまわしや字句の選択についても女史はいろいろと注文をつける。デ・シーカの『終着駅』に駅の待合室で旅客たちがおしゃべりをしている場面がある。女史はこのおしゃべりをぜひ入れてくれという。私がデ・シーカは効果音として使っているのだし、観客がかえって混乱するから不要だと主張、どちらもゆずらず、スーパー字幕論にまで発展したことはスーパー字幕屋仲間の語り草の一つになっている。  シャピロとは『マイ・ウェイ』でいちどだけつき合った。シャピロはいま、廿世紀フォックスの極東代表になっている。コロムビア代表のころ、これはと思う作品についてはスーパー字幕を担当していた太田国夫、野中重雄とかならず読み合わせをしていた。日本語ができて、漢字が読める。日本語のニュアンスをよく心得た意見をのべるのにはおそれ入った。  日本の映画会社の場合はどうか。私の経験でいうと、『ニューヨークの王様』事件がきわめて異色だ。  東急が外国映画業界にのり出し、チャプリンの『ニューヨークの王様』を輸入した。お目見得作品というので、字幕つき初号を重役たちが総見、共産党員がスーパーやデパートを攻撃するのにびっくりした。共産党をアカとすることで|けり《ヽヽ》がついたが、つい最近「赤旗」のコラムでこの事件がとり上げられていた。  東和の川喜多長政社長と『二つの世界の男』の字幕を検討したことがあった。ベルリンが東と西に分かれている事情がよくわかっていないころで、川喜多社長の助言が字幕づくりに大いに役に立った。川喜多社長はスーパー字幕に関心を持っていたようだが、すすんで口を出すことはめったになかった。  松竹の城戸四郎社長は外国映画部を統括していたころ、すべての字幕原稿に目を通すことに決めていた。忙しい身体なので、社長のデスクに2、3日おかれたままでもどってくることもあった。だが、その後、松竹、東宝、大映、東映を問わず、社長みずからスーパー字幕に関心を持っていたという話を聞かないので城戸社長が字幕原稿に目を通していたことは記録に残しておいていい。  東宝に秦豊吉という社長がいた。三菱から東宝に引き抜かれた人物で、ドイツ語が得意、レマルクの『西部戦線異状なし』を訳している。丸木砂土(Marquis de Sade)というペンネームで好色物語を書いていることでも知られている。  このひとが専務のころの話である。日比谷映画劇場が開場、日劇を手に入れて、東宝は外国映画業界に進出していた。秦専務は外国映画市場がアメリカ映画にかきまわされているのが癪《しやく》にさわってたまらない。ヨーロッパ映画でも吹き替え版ならわかりやすいからスーパー字幕のアメリカ映画に対抗できるだろう、と考えた。まったく違う世界から映画界にとびこんでいきなりトップに座った人物が考えそうなことだ。みずからヨーロッパに出かけて、ドイツ映画『ウィリアム・テル』以下合計11本のヨーロッパ映画を買いつけてきた。  さっそく、『ウィリアム・テル』の日本語吹き替え版が東宝系列の撮影所でつくられたが、外国映画の観客は秦専務が考えたほどあまくなかった。興行はさんざんの成績で、吹き替え版がつくられたのは『ウィリアム・テル』1本だけ、あとの10本はスーパー字幕で公開された。このスーパー字幕の原稿を誰がつくったのかがわかっていないが、おそらく、秦専務みずから手がけたのであろう。  前おきが長くなった。『生命の雑踏』の吹き替え版がつくられたのは秦専務がパラマウントに働きかけたからであることをいっておきたかったからである。そして、考え方はそれぞれ違っていても、秦豊吉、川喜多長政、城戸四郎というスーパー字幕に関心を抱いていた映画会社首脳がいたこともいっておきたかったのである。  パラマウントは秦専務に吹き替え版をつくってみないかといわれると、東宝はだいじな得意先なので|むげ《ヽヽ》に断るわけにいかない。たいした興行成績を期待できぬ『生命の雑踏』をえらんで、秦専務の要請に応じることに決めたのだった。  日本語吹き替え版は昭和7年の悪名高き『再生の港』が観客の失笑を買ってからずっとつくられていなかった。『再生の港』はチャールズ・ファレル、ジャネット・ゲイナーという当時のドル箱コンビが主演した大作だったが、ハリウッドでつくられ、しゃべられているせりふに広島地方の訛《なまり》がつきまとい、興行は大失敗だった。 『生命の雑踏』の吹き替え版がつくられたのは昭和10年夏。その前年、千鳥興業が『空飛ぶ悪魔』というのをつくっていたが、話題にもなっていない。パラマウントは『生命の雑踏』のほかにロイドの『足が第一』と『人生は四十二から』の吹き替え版をつくっている。『人生は四十二から』は「キネマ旬報」ベストテン9位の作品で、すでにスーパー字幕版ができ上がっていたが、内容がしぶく、セールスマンが頭をひねっていて、日本語に吹き替えてテストしてみようということになったのだった。とにかく、このあと、戦前戦後を通じて現在まで、ディズニー作品をのぞくとほんのわずかの吹き替え版(『ニュールンベルグ裁判』など)しかつくられていない。映画劇場で上映する映画はスーパー字幕ときまってしまった。 『生命の雑踏』、『人生は四十二から』ロイドの『足が第一』はPCLの俳優を起用、東洋現像所横浜工場で作業が行われた。パラマウントと東宝との関係からPCLらの俳優が起用されたのは当然として、製作演出を益田|甫《はじめ》が担当した。益田甫という人物を知らないひとが多いと思うので一応紹介しておきたい。  日本映画の歴史に関心を持っているひとは『足に触《さわ》った女』という日活映画の名作をごぞんじだろう。阿部豊監督、梅村蓉子、岡田時彦主演。「キネマ旬報」のベストテンで第1位になった。この映画の脚色が益田甫だった。  益田甫はパリに永くいた経験を生かした軽い味の作品を書く大衆作家で戯曲も書いている。昭和の初めにつくられた日活の企画研究会金曜会のメンバーで、金曜会の中心人物が森岩雄だったところから、東宝系のPCLにいた森が益田をパラマウントの翻訳部長田村幸彦に紹介したのだった。  私はパラマウントの翻訳部にいたが、吹き替え版は田村部長の担当だったので、くわしいことは知らない。PCL専属の堤真佐子、藤原|釜足《かまたり》、大川平八郎その他が声優として起用された。  東洋現像所横浜工場でつくられたパラマウントのスーパー字幕版第1回作品は「名を失へる男」�Men Without Names�というB級作品だった。工場が京都|太秦《うずまさ》から横浜にうつって、私たちもたびたび工場に出むくようになり、スーパー字幕版製作の作業をじっさいに見聞する機会にめぐまれた。京都太秦の工場がスーパー字幕に手をつけたときからこの仕事にたずさわっていた上田忠雄が、横浜工場にうつってきていたことも幸いだった。  上田忠雄はスパッティングからネガ合わせまで、スーパー字幕製作のノウハウを技術部長の石岡に教えられた。石岡はアメリカの高校を出ていて、イーストマン・コダックから駐日技術部長として派遣されていたR・M・コルビンの教えをうけていた。上田忠雄の語るところによると、石岡とコルビンは時間を忘れ、ときには徹夜で上田たちを教え、この二人がいなかったら、日本のスーパー字幕製作の作業は少なくとも半年はおくれていたであろうという。  上田忠雄の功績も大きい。大阪外語出身だから技術屋ではないが、パラマウントを初め、アメリカ映画会社との交渉を営業面から技術面まで一手に引きうけていた。まじめの上に�糞《くそ》�のつく男で、私とはまるで反対の性格だったが、仕事でつき合っているうちに親しくなった。上田が結婚したとき、私たち仲間のならわしだった、新婚の二人をサカナに酒を飲む�サカナ会�に出るのがどうしてもいやだというので、渋谷・代官山の私の家に新婚の二人を招《よ》んで、私だけで祝ったのを覚えている。  上田忠雄と親しくなってから横浜工場に行くことが多くなり、録音、現像、焼きつけなどのひととおりの知識を得たことは大きなプラスだった。  この横浜工場でどうしても忘れられぬ経験をしたことがある。  あるとき、横浜の税関からパラマウント本社にでなく、東洋現像所横浜工場にプリントを運んで、最初の試写をした。映画が何であったかを忘れたが、やがて、せりふがなく、音楽もない場面になった。こんなとき、映画館でも、試写室でも、音が完全に聞こえないということはない。何の音かわからぬが耳に入ってくる。ところが、この試写室では完全に無音なのである。かえって耳の中がじいんとしてきたような錯覚さえ覚えた。  なんとなくぞっとしたのをいまでも忘れていない。二度目からはそれほど感じなかったけれど、みなさんはこのような完全に音のない世界を経験したことがあるだろうか。   字幕の話を、と頼まれるとき 「うえの」というタウン誌がある。ときどき手にとったことがあるが、タウン誌につきまとう臭味が少なく、好感の持てる編集ぶりが頭に残っていた。  この「うえの」から原稿を書いて欲しいと頼まれた。  上野は知らない街ではない。私の好きな街の一つだ。動物園や博物館があるだけでなく、谷中《やなか》に|うち《ヽヽ》の墓地があったので、少年時代にはよくつれていかれた。広小路にあった勧工場《かんこうば》など、いまでは知っているひとがすくないだろう。勧工場はデパートの前身のようなもので、上野広小路のほかに銀座にもあった。いまの博品館のところにあって、博品館というのは勧工場の名前だった。  東大生だったころ、しじゅう池の端《はた》の蓮玉《れんぎよく》庵までそばを食べに行った思い出も忘れられない。  上野は私にとってそんな街なので、二つ返事で引きうけたところ、向こうさんの註文はスーパー字幕についてということだった。  こんな経験は毎年何回もある。タウン誌、PR誌、業界誌などのほか、ファッション、料理、園芸などの専門誌からもおなじような註文がくる。スーパー字幕屋という稼業が世間一般のひとたちには|もの《ヽヽ》珍しく、おもしろい裏ばなしがあるにちがいないと考えるのだろう。  こんなわけで、私はいままでにスーパー字幕とはどういうものかという文章を何回書かされているかわからない。原稿用紙4、5枚のごく短いものから20枚、30枚になる長いものまで、よほどの事情がないかぎり、原稿依頼を断ったことがない。半世紀前の誕生のとき以来、スーパー字幕とずっとつき合っているのは私ひとりであるし、映画翻訳家協会というのができて、その代表をつとめているからには、スーパー字幕とはどんなものかということを世間一般のひとびとに知ってもらうのは私の務めであろう。  ラジオやテレビでスーパー字幕について話をしてくれといわれたときもできるだけ断らぬように心がけてきた。スーパー字幕のつくり方といったようなことはたいていのひとが初めて聞くので、字で書くより口でていねいに話す方がずっとわかりやすい。テレビだと実物を見せることができるので、いっそうわかりやすいわけだ。  ラジオでスーパー字幕の話をしたことは何回になるだろうか。古くからのことなので、よく覚えていない。たいてい生《なま》放送ではないので、録音をとった場所を思い出してみると、NHKでは内幸町にあった本館と飛行館の中にあった録音室、四谷の文化放送、日比谷のニッポン放送などのほか、赤坂の共同通信社の録音室で話をしたこともある。神田の錦町へんにあったビルの録音室につれて行かれたこともある。こういうのはどこに流されていたのか、わかっていない。もちろん教えられていたのだろうが、気にもとめていなかったのだろう。  野沢那智君のラジオの番組で、野沢君と二人、二十人ほどの若いひとたちにかこまれてスーパー字幕の話をしたことがある。若いひとたちからさまざまの率直な意見が出て、気持のいいセミナーになった。12チャンネルのスタジオを使ったような気がするが、どのラジオ局の番組だったのだろう。  テレビで初めてスーパー字幕の話をしたのは昭和43年だった。もう20年近くむかしのことになる。三國一朗君が持っていた12チャンネルの「私の昭和史」という番組で、これも三國君がうまく話を引き出してくれたので内容のゆたかな番組になった。  三國一朗君は戦前から映画に惚《ほ》れこんでいたひとで、スーパー字幕についても独自の意見を持っている。戦前のフランス映画『別れの曲』のなかの「卒爾ながらショパン殿では御座らぬか」というような字幕にお目にかかれなくなって淋《さび》しいですネ、と三國君が嘆いたのはこのときで、このことは前にも書いた。  それから3年たって、昭和46年5月、こんどはNHKでスーパー字幕の話をした。月曜から金曜までの昼番組「女性手帳」だった。NHKではその前にも、英語講座にときどきゲストで出てスーパー字幕の話をしたことがあるが、こんどは毎日30分ずつ、月曜から木曜までの4回つづきなので、プランを10分|練《ね》って、自分でも納得のいく内容にすることができた。杉沢、広瀬の両アナウンサーが打ち合わせのときに私の話を聞いて、大いに興味をそそられ、私のプランをうまく生かしてくれたこともプラスになった。  このときの放送のタイトルは「ことばとわたし・タテヨコ談義」。  もっと新しいところでは昭和60年の春、日本テレビの「現代の顔」シリーズに出たときにスーパー字幕の話をとり上げた。2回、90分という時間がたっぷりある番組だったので、対談の相手の田山力哉君と打ち合わせておいて、スーパー字幕とはどういうものなのかをかなりの時間をさいて話した。  日本テレビではこのほか、久米宏君の「おしゃれ」に出たときにもスーパー字幕の話をした。短い番組だが、久米君の話の引き出しかたが巧《うま》く、短いなりにきちんとまとまった内容になった。  英語の研修会のようなところでスーパー字幕の話をしたことは一度だけある。  トミー植松君の語学センターが毎年開催している English Galaxy という研修会だった。サイマル・インターナショナルの村松増美社長のような、いわば英語学習ではプロのひとたちばかりが講師の研修会だ。私たちはたとえていえば�現場の職人�である。私たちスーパー字幕屋が顔を出すところではなかったかもしれない。何ごともスーパー字幕とはどういうものかを正しく知ってもらうためと思って、研修会が催された御殿場まで出かけて行った。  参加していた聴講生は百名を越えていた。私の受持ち時間は1時間45分。スーパー字幕を正しくわかってもらうように話すには大ぜいのひとたちを相手にする講演会のようなかたちは適当ではない。結局、スーパー字幕づくりの裏ばなしといったようなかたちになり、私が考えていたスーパー字幕のほんとうの姿を知ってもらおうという意図はうまく伝わらなかったようだった。  もっとも、研修会側は最初からかたいことを考えていなかったようで、私の受け持ちは「字幕翻訳裏話」となっていた。  私が日本翻訳家養成センターのセミナーでスーパー字幕の話をしたのは昭和55年の10月から56年の4月までで、毎週1回1時間20分ずつ、時間はたっぷりあった。  私の話を聞こうと集まったのはほとんどが女性だった。最初、三十五名ぐらいいたように思う。最後まで残っていたのは二十数名だった。  スーパー字幕とはどういうものかということについて私が書いた文章を読んだり、ラジオ、テレビ、講演会などで私の話を聞いたりしたひとはいままでにおびただしい数に上っているであろう。そのおびただしい数のひとたちのなかで、日本翻訳家養成センターの私のセミナーに最後まで残っていた二十数名のひとたちはたとえ二十数名にすぎなくても、スーパー字幕とはどんなものであるかを正しく知っているはずである。正しく知っているだけでなく、じっさいにスーパー字幕をつくることができるはずである。現在スーパーの仕事をしているプロたちの仲間にすぐ加わることができなくても、仲間に入れてもらえるだけの下地《したじ》が十分にできているはずである。  スーパー字幕づくりのノウハウを身につけるにはじっさいに字幕をつくってみて、どこがうまくないかを指摘してもらうのがいちばん近道だ。私は日本翻訳家養成センターのセミナーでこの方法を採用した。私だけでなく、スーパー字幕のつくり方を教えるにはこの方法がいちばんよいことはだれでもわかっているのだが、じっさいにはなかなか採用しにくい。まず、スーパー字幕がついていないオリジナルのプリントを見て、ダイヤローグをピックアップする。ダイヤローグの長さを計ってもらって、字幕の原稿をつくる──このような作業を行うには字幕がついていないプリントを見なければならない。まず第一にここでひっかかる。  私はさいわい、映画界に顔が古く、なんとか|わたり《ヽヽヽ》をつけて、オリジナル・プリントの試写をしてもらうことができた。この方法がもっとも適切であることは聴講生諸君もよくわかったようで、セミナーが終ってからも、数名の有志が集まって、私をかこむグループができあがった。そのグループのひとたちの名前を記しておくと、高瀬由美子、橘高弓枝、西村美知子、岩上みゆき、坂本真美、片岡しのぶ、小股由子の諸君である。  私はいま、この原稿を書きながら、ここに名前を記した諸君と、久しぶりにスーパー字幕ゲームをやってみようかナ、と考えている。みんなで字幕のついていない映画を見て、みんながそれぞれの字幕の原稿をつくる。その原稿をみんなで検討し合う。ゲームをしながら勉強しようというわけだ。  スーパー字幕のつくり方を学ぶにはこの方法がもっともよい。   『フォルスタッフ』に始まるシェイクスピアの旅  今回はシェイクスピアにかかわりのある話をあれこれと一席うかがわせていただく。  スーパー字幕のことでテレビやラジオや雑誌のインタビューをうけているときにかならずとび出してくる質問がある。先生はいままでに2千本近くのスーパー字幕をおつくりになったそうですが、そのなかでいちばん気に入っている字幕の映画は何ですか──という質問である。  この質問にはいつも当惑する。2、3百本の映画のなかからえらび出すのならともかく、千数百本にもなる映画のなかからえらぶのだから、すくなく見つもっても20本ぐらいの映画の題名が頭のなかでこんがらかって、収拾がつかなくなる。  そこで、いつごろからだったか、答えを一つにきめた。いつ、どこで、どんな相手に質問されてもおなじように答えることに決めたのだ。せりふの|めりはり《ヽヽヽヽ》を字幕にうつそうと特別に時間をかけたローレンス・オリビエの『オセロ』、字幕づくりを楽しみながら仕事をした『お熱いのがお好き』──この2本を気に入った字幕ができた映画としてあげることに決めたのだ。  ところで、私が手がけた千数百本の映画のなかで、字幕づくりに苦労をしたことでは5本の指のなかにはいる映画に『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』がある。すでにご承知であろうが、シェイクスピアの「ヘンリー四世」、「リチャード3世」、「ヘンリー五世」、「ウィンザーの陽気な女房たち」の四つの戯曲のなかからシェイクスピア戯曲の人気者フォルスタッフが登場する場面だけを抜き出して、つなぎ合わせ、一つのストーリーにまとめた映画である。オーソン・ウェルズらしい才気があふれている作品で、この映画をつくっていたときのウェルズはおそらく毎日が楽しくてたまらなかったにちがいない。  私の仕事はこの映画に字幕をつけることで、この方は楽しみながらというわけにいかなかった。字幕の数も1500ほどで、けたはずれに多かったし、そのうえ、どのせりふが四つの戯曲のどれのどの場面のせりふであるかを一つ一つのせりふについてしらべなければならない。このめんどうな仕事をシェイクスピア学者の小田島雄志東大教授がひきうけてくれた。私が調べていたら、何日かかったかわからない。小田島君はシェイクスピアの全戯曲37篇を翻訳しているし、シェイクスピアには完璧な引用辞典がつくられているから、私が調べるほどには手間をかけないで調べがつくはずだった。  もう一つ頭に入れておかなければならぬことがあった。シェイクスピアの戯曲には坪内博士のものを初め、すでにいくつもの翻訳がある。翻訳があることがわかっていると、どうしても一応|あたって《ヽヽヽヽ》みたくなる。小田島君とちがって、私にはシェイクスピアについてほとんど勉強していないという弱味がある。|こだわり《ヽヽヽヽ》が生まれるのは当然だろう。  たとえば、「オセロ」の第3幕第3場「城内の庭園の場」にイアーゴの次のようなせりふがある。  Iago O, beware, my lord, of jealousy; It is the green-eyed monster which doth mock   The meat it feeds on.  このせりふを坪内博士は次のように訳している。  イアゴ おゝ、閣下、決して邪推《じやすい》をなすっちゃいけませんよ。   邪推は人の心を玩《もてあそ》んで餌食にする   緑《あを》目玉の怪物《ばけもの》です。  これが木下順二さんの手にかかると、まずオセローがオセロウ、イアゴがイアーゴウになり、せりふは次のような日本語になる。  イアーゴウ 閣下、嫉妬は恐ろしゅうございますよ。   こいつはいやな色の眼をした怪物で、人の心を食い物にして、   しかも食う前にさんざん楽しむというやつです。  また、これが小田島君の仕事になると、次のような文句になる。  イアーゴー お気をつけなさい、将軍、嫉妬というやつに。   こいつは緑色の目をした怪物で、人の心を餌食とし、   それをもてあそぶのです。  私が『オセロ』のスーパー字幕をつくったとき、このせりふをどんなスーパー字幕につくったかは忘れたが、シェイクスピアものの映画の仕事をしていると、いつもこんなふうにいくつかの翻訳をくらべてみたりしていて、仕事がなかなかはかどらない。『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』の場合は最初から小田島君の翻訳を使うことにきまっていたので、その点は気がらくだった。「小田島雄志翻訳・清水俊二字幕監修」というクレディットがついているゆえんである。  こんなわけで、『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』の封切広告を見ながら、新宿歌舞伎町の喫茶店「スカラ座」の二階で小田島君と映画の輸入元、フランス映画社の川喜多和子さんと私の三人でスーパー字幕の最後の検討を行ったことなどを思い出していたとき、ヘラルド映画から電話がかかって、『キス・ミー・ケイト』の字幕をお願いしたいのだが、といってきた。 『キス・ミー・ケイト』は1953年のMGM映画。シェイクスピアの「じゃじゃ馬ならし」をとりいれたブロードウェイ・ミュージカルの映画化である。ブロードウェイの初日は1948年の12月30日だった。  MGMがミュージカル映画をさかんにつくっていたころの作品で、できばえもよろしいのだが、日本ではまだ公開されていなかった。MGMミュージカルといえば、日本の観客はフレッド・アステア、ジーン・ケリー、ジュディ・ガーランドがお目当てで、『キス・ミー・ケイト』のハワード・キールとカスリン・グレイスンは実力十分でありながら、あまり人気がなかった。そんなことが輸入を見送らせていた理由であろう。 『オーソン・ウェルズのフォルスタッフ』も『キス・ミー・ケイト』もシェイクスピアにかかわりはあるが、シェイクスピアの戯曲の映画化ではない。私がスーパー字幕の仕事をしたシェイクスピア戯曲の映画化作品はいったい何本あるだろう。ここでふり返ってみよう。  戦前の私の仕事はほとんどアメリカ映画だけで、それもほんの数本をのぞいて、全部パラマウント映画だったが、パラマウントには私が仕事をしていたときにシェイクスピア作品は1本もなかった。他社を見まわしても、レスリー・ハワードとノーマ・シアラーの『ロミオとジュリエット』(MGM)、マックス・ラインハルト総指揮の『真夏の夜の夢』(WB)が頭にうかぶくらいである。シェイクスピア作品の字幕の仕事が多くなったのは戦後になってからで、英国映画をはじめ、ヨーロッパ映画の輸入がふえたからである。どんな作品があるか、製作年代を追って記してみよう。 ㈰『ヘンリー五世』 英 1945 [#この行2字下げ]戦後すぐ、朝日新聞社のホール(当時、朝日講堂といった)で無字幕で上映され、徳川夢声が弁士をつとめた。私がスーパー字幕をつくったのはずっと後のことである。 ㈪『ハムレット』 英 1948 ㈫『ジュリアス・シーザー』 米 1953 ㈬『リチャード3世』 英 1955 [#この行2字下げ]ローレンス・オリビエの傑作の一つ。人物関係が入りくんでいるので、新聞半ぺージほどの大きさの紙にくわしい系図を書き、それと睨めっこをしながら仕事をした。 ㈭『ロミオとジュリエット物語』 ソ連 1955 バレエ映画 ㈮『ハムレット』 ソ連 1964 [#この行2字下げ]イモケント・スモクトルフスキーのハムレットがすばらしかった。ロシア語の発音では�ハムレット�が�ガムレット�となる。 ㈯『オセロ』 英 1966 [#この行2字下げ]私がいつもいっているオリビエの『オセロ』。 ㉀『ロミオとジュリエット』 英 1968 [#この行2字下げ]僧院の回廊にならべられた鉢植えのゼラニュームの鮮かな色彩がいまだに目に残っている。 ㈷『リア王』 ソ連 1970 ㉂『アントニーとクレオパトラ』 米 1971 『じゃじゃ馬ならし』はエリザベス・テイラーとリチャード・バートンの作品があり、ずっと古くなるとメェリー・ピックフォードとダグラス・フェアバンクスの作品がある。『キス・ミー・ケイト』では、カスリン・グレイスンとハワード・キールが劇中劇で|さわり《ヽヽヽ》の場面を見せている。シェイクスピアはミュージカルを書いたわけではないので、シェイクスピアが書いたせりふを|もじった《ヽヽヽヽ》歌詞がつくられている。たとえば、こんな工合に。  ペトルチオ(ハワード・キール)が�じゃじゃ馬�のキャタリーナ(カスリン・グレイスン)と結婚しようとパデュアの街にやってくる。そのときのペトルチオのせりふをまず小田島雄志訳で引用する。  その女がソクラテスの妻クサンティッペ  のようなじゃじゃ馬だろうと  おれはびくついたりしないぞ  その女が荒れ狂うアドリア海のように  荒々しい気性でもな  おれは金持ちの女房を見つけに  パデュアに来たのだ  このせりふが『キス・ミー・ケイト』では「妻を娶《めと》りにパデュアにやって来た」という歌になっている。  Do I mind if she fret and fuss,   If she fume Vesuvius.  If she roar like a winter breeze   On the rough Adriatic sea.  If she fight like a raging boar,   I have oft not a bore before.  I've come to wive it in Padua.  スーパー字幕は次のとおり。歌の場合は字数を十分に使えるので字幕をつくりやすい。  1 ベスビアスのように       火を噴こうと  2 冬のアドリア海の       ように吠えようと  3 怒れる猪のように       暴れようと構わぬ  4 私は金持の娘を娶《めと》る       パデュアで  ここまで書いて、東京新聞のタ刊(10月22日)をひらいてみたら── 「じゃじゃ馬ならし」プラス「人形の家」  という見出しが目についた。名前もそのものずばりの「シェイクスピア」という劇団が渋谷の�ジャン・ジャン�で「じゃじゃ馬は馴らせるか」という芝居を上演、その内容が「じゃじゃ馬ならし」プラス「人形の家」なのだという。  シェイクスピアが|やたら《ヽヽヽ》に目につく今日このごろである。   手紙を読んでいる場面の字幕づくり  3月なかばのある土曜日の夕方、渋谷から池袋のサンシャイン・シティ行きのバスに乗り、新宿の伊勢丹前で降りて、厚生年金会館まで歩いた。ゆっくり歩くと10分近くかかる。  厚生年金会館で「バレエ・テアトル・フランセ・ド・ナンシー」の公演がある。モーリス・ベジャールがヌレーエフのために振りつけたマーラーの「さすらう若者の歌」をパトリック・デュポンが踊る。これをどうしても見たかった。ベジャールの名前は昨年の「ザ・カブキ」以来、私の頭から離れない。「ザ・カブキ」のバレエとしての評価は私にはよくわからないが、ショウとしての楽しさは抜群だった。ベジャールの仕事ではルルーシュの『愛と哀しみのボレロ』のボレロも強烈な印象を残している。  幕があくまで、そんなことを思い出しながら、バレエやコンサートの公演のときにきまって入口で渡される一束《ひとたば》のチラシをぱらぱらめくっていると、リンゼイ・ケンプ・バレエの公演のチラシが目に入った。7月に来日して、日本では初演の「フラワーズ」を見せるという。  待てよ、ごく最近、どこかでリンゼイ・ケンプの名前を見たな。そうだ、ケン・ラッセルの『狂えるメサイア』に出演していたのだ。スーパー字幕をつくったばかりなので、リンゼイ・ケンプの名前が頭に残っていたのだった。 『狂えるメサイヤ』は1972年のMGM映画。輸入した会社は日本ヘラルド映画。そういえば『愛と哀しみのボレロ』もヘラルドが輸入した映画だ。今夜はヘラルド映画に縁があるらしい。ついでに今回は『狂えるメサイア』をとり上げるとしよう。 『狂えるメサイア』は第一次世界大戦直前のパリの物語。絵画と彫刻に打ちこんでいる18歳のフランス青年と38歳の作家志望のポーランド女性の風変わりなロマンスだ。ケン・ラッセルのいつもの粘っこいタッチがふしぎな雰囲気をつくっている。第一次大戦が始まり、青年が出征、戦地から手紙をよこす。その手紙を画商のコーキーが仲間たちに読んで聞かせる。  コーキーは手紙の文面を読んでいるので、せりふをしゃべっているのではないから、字幕につくりやすい。手紙の文面は口でしゃべるせりふとちがい、一応、文章として組み立てられているので、字幕になりにくいようなケースにはめったにぶつからない。みなさんもスーパー字幕をつくってみてはどうだろう。字幕に使える字数を次に書いておくから、まず字幕をつくり、それから私がつくったスーパー字幕を見るといい。 ㈰"I'm not at all bored in the trenches." ㈪"I'm doing some little pieces of sculpture." ㈫"A few days ago I did a small maternity statue..." ㈬"...out of the butt end of a German rifle." ㈭"It's walnut, and I managed to cut it quite successfully." ㈮"We were only 50 yards off..." ㈯"...and I got a bugle to blow false alarms. Then I insulted them..." ㉀"...and went out of the trench with a French newspaper." ㈷"A German came out to meet me." ㉂"He gave me a German newspaper in exchange." ㉃"It was very amusing." ㈹"I profited by the excursion to discover an outpost..." ㈺"...on which I directed our artillery." ㈱"At 3 p. m. , four big shells fell on it..." ㈾"...and 20 chaps in it went up to heaven." ㈴"I like the war." ㈲"I'm in lost of action." ㈻"Each night we go out and kill Germans." ㈶"I have killed at least four myself." ㈳"When the shells go off..." (21)"...it reminds me of thunder." (22)"And I look up and say"Father"..."  字幕に使える数字は次のとおり。 ㈰10−13 ㈪9−12 ㈫12−15 ㈬9−11 ㈭17−21 ㈮12−15 ㈯17−22 ㉀17−22 ㈷9−11 ㉂11−15 ㉃4−6 ㈹11−15 ㈺4−7 ㈱10−14 ㈾9−12 ㈴7−10 ㈲6−9 ㈻9−12 ㈶6−9 ㈳6−10 (21)6−10 (22)9−12  私がつくったスーパー字幕を次にかかげる。みなさんがつくった字幕とどこがどう違っているか、調べてみると、字幕づくりの|こつ《ヽヽ》がいくぶんでもわかるはずである。  ㈰ 塹壕にいて退屈してい    ない  ㈪ 小さな作品を刻《きざ》んでい    る  ㈫ 数旦前 小さな母の像    を彫《ほ》った  ㈬ ドイツ兵の銃の銃床で  ㈭ |くるみ《ヽヽヽ》だ、何とか気に    入った作品ができた  ㈮ 敵との距離は僅か50メ    ートルだ  ㈯ ある日、ラッパで|にせ《ヽヽ》    の警報を吹き鳴らし  ㉀ フランスの新聞を|かざ《ヽヽ》    |して《ヽヽ》塹壕をとび出した  ㈷ ドイツ兵が一人出て来    て  ㉂ ドイツの新聞と交換し    てくれた  ㉃ 楽しかった  ㈹ その時 ドイツ軍の前    進基地を発見  ㈺ 砲撃を加えた  ㈱ 午後3時 砲弾が4発    命中  ㈾ 20名の将校が昇天した  ㈴ 僕は戦争が好きだ  ㈲ 攻撃にも参加した  ㈻ 毎晩 我々は独兵を殺    す  ㈶ 僕も4人殺した  ㈳ 砲弾が炸裂《さくれつ》すると─  (21) 雷鳴を思い起こし─  (22) 天を仰いで、�主よ�と    叫ぶ  ㈰と㈪についてはとくに記すことはない。�作品�は彫刻�でもよいが、�刻《きざ》む�と重なるのを避けた。  ㈫の maternity statue は�産婦像�とするべきかもしれない。�産婦�という文字をいきなりぶつけて、どういうことだろうと考えさせてはいけないと思った。思いすごしだったかもしれない。�数日前�と�小さな�のあいだを1字あけることを忘れずに。  ㈫㈬㈭は3枚つづく字幕。managed を�何とか�として、㈭の文句をわかりやすくした配慮を味わっていただきたい。  ㈮のヤードをメートルに変えたのはいつもいっているように当然の処置。㈯と㉀では�新聞を|かざして《ヽヽヽヽ》�という文句をやっと思いついたことと�|にせ《ヽヽ》の警報を吹き鳴らし�にもかなりの時間がかかったことも合わせて記しておく。  ㈷㉂㉃は日本語にうつしやすい文句。みなさんにとっては腕の見せどころといえよう。  ㈹㈺もおなじで、どのようにも字幕のつくりようがあるが、㈺にあまり字数を使えないのが痛い。�directed�のところ、�砲撃を誘導�としても意味をとりかねるひとがいるかもしれない。�outpost�を辞書でひくと�前哨基地�と出ている。耳なれないことばである。�前進基地�は間違いといわれるかもしれない。  ㈱㈾では�went up to heaven�を文字のとおり�昇天した�としたところにご注目ねがいたい。  ㈳の�炸裂�にはルビをふった。ことばは知っていても漢字で書くと読めないというケースはいくらもある。炸はもちろん制限漢字である。  さて、みなさんがつくった字幕はどうだったろう。字幕につくりやすいせりふだから、頭をひねって苦労をしたひとはあまりいなかったのではなかろうか。そこで、もう一つ、どうしても頭をひねらなければならぬせりふをつけくわえよう。  作家を夢見ている20歳年上のポーランド女性は、彫刻家志願の青年がいつも芸術は大衆のためのものといきまき、世俗を超越しているような文句を口にしながら、個展を開くことに夢中になっているのが気に入らない。女が青年のそんな態度をとがめるせりふ。  Sophie : A parasite who feeds off a parasite can always say he is working to kill his heat.  字数は27字から32字ぐらい使える。字幕1枚では字数が多すぎるので、2枚にわける。さて、どんな字幕をつくればよいだろう。  私がつくった字幕は次のようである。思いきってわかりやすい文句にしてみた。どんなふうにでも字幕をつくれるせりふである。  あんたは世間のおかげで  生きてながら──  世間を軽べつしている  のよ   『フルメタル・ジャケット』事件  昭和6年、外国映画のせりふが日本語スーパー字幕になって、画面にあらわれるようになってから57年、スーパー字幕の世界で初めてという事件が起こった。事件そのものはきわめて特殊なものだけれど、とにかく、スーパー字幕の世界で初めての事件なのだから、一応、記録しておかなければなるまい。いったんでき上がった字幕を監督が気に入らなくて、すっかり作り直すことになったのである。映画はワーナー・ブラザースのベトナム戦争映画『フルメタル・ジャケット』。監督はスタンリー・キューブリック。  同じような事件はいままでにまったくなかったわけではない。30年ほど前、オットー・プレミンジャー監督の『月蒼くして』を配給会社の松竹の営業部がいままでとちがう売り方をすることになった。おそらく、城戸四郎社長が映画に惚れこんで、指示をしたものにちがいない。まず、スーパー字幕を『月蒼くして』の原作戯曲を日本で上演した演出家菅原卓さんに頼んだ。出来上がって見ると、これが使いものにならない。初めてスーパー字幕を手がけるのだから当り前である。それではというので、こんどは楢原茂二さんに頼んだ。楢原さんは「新青年」などの作家でもあったからだろう。ところが、楢原さんは映画にすっかり惚れこんで、楢原さん一流の洒落のめした字幕をつくった。松竹はこれでは映画のお客にわかりにくかろうというので、こんどは、そのころ松竹配給の外国映画のほとんどの字幕をつくっていた私のところにお鉢がまわってきた。似たようなケースではあるが、こちらは配給会社の営業政策から起こったことなので、まったく次元が違うことといわねばなるまい。 『フルメタル・ジャケット』はオリバー・ストーンの『プラトーン』以来作られ始めたベトナム戦争を新しい目で見直そうという映画である。監督のスタンリー・キューブリックは『博士の異常な愛情』『時計じかけのオレンジ』『二〇〇一年宇宙の旅』などの特異な映画をつくることで知られている。スーパー字幕の第1稿を作ったのが戸田奈津子君。Aクラスのスーパー字幕屋が作った字幕が監督のお気に召さず、すっかり作り直さなければならなかったというところに問題がある。いうまでもなく、Aクラスといわれている字幕屋が作ったスーパー字幕が監督の�芸術的良心�によって拒否されたということはかつて1回もなかった。私もそんな経験はない。 映画は海兵隊に入隊した新兵の苛酷といってよい訓練から始まり、その若者たちが一人前の海兵隊員になってから、ベトナムに送られ、惨めな戦いを経験するという内容。問題は全篇にわたって使われている、映画のせりふには使われたことのないような卑猥な表現で、アメリカの映倫でもご法度になっているはずの four-letter word がふんだんに飛び出してくる。four-letter word というのは、たとえば、cunt とか、fuck とかいう言葉で、damn もそのなかに入る。fuck や damn はほんの稀に使われていることがあるが、めったにない。映画のせりふだけでなく、文学作品や新聞雑誌の文章にもほとんど使われていない。日本でも同様である。Damn は宗教上の理由から�4文字語�になっているのだからともかく、cunt の日本語がそのまま使われているケースはほとんど見たことがない。 『フルメタル・ジャケット』の戸田奈津子君のスーパー字幕第1稿はおよそ1200枚だったという。ワーナー・ブラザースでは、キューブリック監督の指示にしたがい、これをさらに英訳して、キューブリック監督に送った。  この奇妙な仕事を引き受けたのは、せりふ台本が不完全な場合とか、スーパー字幕を急いで作らなければならないのに、せりふ台本が到着していない場合などにヒアリングを引き受けているスーパー字幕屋仲間では馴染みの外人である。「こんな仕事は二度とやりたくないよ」とつぶやいていたそうである。  キューブリック監督がこの英訳を受けとってからのチェックがこれまた念がいっている。スーパー字幕をつくるために、こんな作業が行われたことは映画が始まって以来、いままで聞いたことがない。  キューブリック監督はまず戸田奈津子君の第1稿を全部ローマ字に書き直させ、国会図書館の日本人館員に来てもらって、日本から送られてきた英訳とくらべて、1枚ずつ、英文のせりふがどう訳されているか、せりふがまったく変えられているが日本語のニュアンスはどうなのかなどを検討した。とにかく、1200枚検討するのだから、気の遠くなるような作業である。  みなさんごぞんじのとおり、日本語スーパー字幕はもとの英語のせりふの二分の一から三分の一の長さであるのが普通であるから、原文のせりふの1節が抜けている場合もある。ときには原文とまったく違う表現の日本語で原文の意味を伝えている場合もある。このへんはスーパー字幕屋の腕の見せどころなのだ。キューブリック監督はこれがお気に召さなかった。「原文にもっと忠実に、せりふの英文のとおりに翻訳して欲しい」と申し送ってきた。戸田君は「そんな字幕をつくったら、お客が読み切れないのが4、5百枚はある。こんどはお客から文句が出る」といっている。そのとおりである。  キューブリック監督がもっとも頭にきたのは�4文字語�が全部、そのままの日本語になっていないことだった。  たとえば、こんなせりふである。 「ケツの穴でミルクを飲むまでシゴキ倒す!」 「汐吹き女王・メアリーを指で昇天させた……」 「セイウチのケツに頭つっこんでおっ死《ち》んじまえ!」  とにかく、ワーナー・ブラザース日本支社はキューブリック監督から日本語字幕を原文にもっと忠実に、全部作り直せ、と指示されたのでは、何とかしなければ映画を公開できない。予定されていた昨年秋の公開予定を延期して、日本語スーパー字幕の第2稿を作成することになった。  ここで当惑したのがワーナー・ブラザースの小川政弘制作総支配人である。戸田奈津子君には、どうか御容赦願いたい、と頭を下げて、納得してもらったが、こんどは第2稿を誰に頼むかという難問が待ちかまえている。いろいろと考えあぐんだ揚句、ふと頭に浮かんだのが原田真人君の名前だった。  原田真人君は35歳。日本生まれだが、ロサンゼルス在住10余年。アメリカ人の若者たちに友人・知人が多く、ハリウッドで映画の勉強もしている。日本に戻ってから、映画についての著書を出版している。昭和54年、『さらば映画の友よ インディアン・サマー』を製作・脚本・演出。ワーナー・ブラザースのSF映画『インナー・スペース』の日本版監修、『スターウォーズ』の日本語吹替え版(テレビ用)の監修の仕事なども引き受けている。とにかく、条件はそろっている。小川制作総支配人は早速、原田君に連絡して、事情を話した。  原田君は、畏敬する大監督の仕事というので、1も2もなく承諾した。こんなわけで、キューブリック監督から原田君にじかに国際電話をかけて、どういう字幕をつくって欲しいかを詳しく説明することから仕事が始まることになった。  その電話が原田君の自宅にかかったのが12月20日の夜。原田君はキューブリック監督の「アイ・アム・キューブリック」という、まったく|おごり《ヽヽヽ》のない声を聞いたとき、神の声を聞いたような気がして、思わず足がふるえたという。 『フルメタル・ジャケット』の日本語スーパー字幕の仕事が始まったのが夏だったから、すでに5カ月の月日がたっている。  とにかく、こうして日本語スーパー字幕第2稿の仕事が始まった。原田君はアメリカの若者たちの間の新しいアメリカ語に強い。�4文字語�を含む dirty words のせりふの字幕1枚1枚について、キューブリック監督に電話で指示を仰ぎ、こっちの意見を述べた。その国際電話が正月をはさんで延べ17時間にもなった。  こうして、『フルメタル・ジャケット』の原田真人訳の日本語スーパー字幕版がようやく出来上がったのが1月21日夜。私はこのプリントを22日の朝、映倫外国映画審査員として、他の審査員と一緒にワーナー・ブラザースの試写室で見た。ここに例を挙げたような英文のせりふをほとんどそのまま、日本語スーパー字幕に置き換えてある。  試写を見た映画関係者の一人はこう言っている。 「原田さんの字幕のほうが言葉が豊富で、雰囲気が伝わるのはたしかです。でも、スーパー字幕の日本語になっていない。この点は戸田さんの字幕の方がすんなりとわかりやすいと思います」  また、おなじように試写を見たある映画批評家は、 「原田君のスーパー字幕は原文に忠実で、我々のようなスーパー字幕を読むことに馴れている者にはありがたいが、一般のお客の中にはついていけない人がいるのではあるまいか」  と言っている。  原田君はおそらく、スーパー字幕のつくり方を勉強したことがないものと思う。もちろん、字幕を1枚1枚、スーパー字幕のコツを知っている人と検討し合ってはいないだろう。一般のお客がついて行けない字幕があってもやむを得ない。 『フルメタル・ジャケット』事件はこんな事件だった。映画界全体から見れば、ほんの片隅で起こった小さな事件といっていいだろう。とくに記録しておく必要はないかもしれない。だが、私たちスーパー字幕屋としてはこのまま無視してしまうわけにはいかない。Aクラスのスーパー字幕ライターの仕事が一監督の�芸術的良心�によって拒否されたのである。この事を伝え聞いて、いつまた、プロデューサーや監督が同じような事を言ってくるかもしれない。私たちスーパー字幕屋はこの事をきちんと頭に入れておく必要がある。  なお、一言申し添えておく。  映倫には�性器の形状、呼称、状況の表現を避ける、云々�という規定がある。『フルメタル・ジャケット』の場合は、テーマの表現に重点をおいたためだったと見て、描かれている特殊の状況も考慮、とくに�超法規�扱いとし、一般用映画ということになった。  このことは、澤村浩事務局長を始め、日本映画審査員諸君全員も試写を見て、みんなで話し合って、決めた。私も映倫外国映画審査員の一人として、この映倫の措置に賛成した一人である。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   あ と が き [#地付き]清 水 俊 二  この文春文庫は「翻訳の世界」に連載中(昭和63年8月号現在74回)の「スーパー劇場」のうちの24篇をまとめたTBSブリタニカ版「ベバリー・ヒルズにこだわるわけ」に、さらに10篇を足し、全篇にわたって筆を加え、新しく1篇を書き足してでき上った。 「映画|字幕《スーパー》の作り方教えます」というタイトルはいかにも|あざとく《ヽヽヽヽ》、物欲しげに聞こえるので気が引けるのだが、この本を読めば、スーパー字幕という奇妙なものの正体がつかめて、とくにスーパー字幕を作ってみようと思わないでも、スーパー字幕作りの知的ゲームを思わせる楽しさが納得できるはずである。  なお、ここで紙面を借りて、いろいろとお世話になった「翻訳の世界」の海保なをみ、TBSブリタニカの編集局長だった小玉武(現サントリー広報部長)、和田有規子、文藝春秋出版部長阿部達児のみなさんに心からお礼を申し上げたい。 [#地付き](昭和63年5月) 〈底 本〉文春文庫 昭和六十三年八月十日刊