[#表紙(表紙2.jpg)] 二十世紀(下) 橋本 治 [#改ページ]       1 9 4 6  一九四六年は、第二次世界大戦が終わった翌年である。前年の正月には、まだ戦争をやっていた。ヒトラーもムッソリーニも生きていて、日本では、今にも空襲警報のサイレンが鳴るのではないかと神経を尖らせる人がいくらでもいた。しかし、一九四六年の正月に、もう戦争はなかった。「戦争が終わった」という事実が、やっと人の心に沁み渡るのがこの年である。とは言っても、一九四六年の世界に戦争がなかったわけではない。一九四六年の正月、インドネシアにはまだ戦争があった。  インドネシアは、一九四五年の八月まで日本軍に支配されていた。その日本が戦争に負けて、インドネシアは独立を宣言することになるのだが、そうなってインドネシアには独立戦争が始まる。一九四五年に始まってまだ継続中のこの戦争の相手は、当然日本ではない。「第二次世界大戦で日本に我が領土を侵略されていた」とする、オランダである。  日本軍の占領前、インドネシアはオランダの植民地だった。インドネシアの人間からすれば、「日本はオランダの支配からインドネシアを解放してくれた」ということにもなるのだろうが、オランダからすれば、「日本はオランダの領土を侵略した」である。日本は不法な軍事侵略をオランダ領に仕掛け、その日本がいなくなったのなら、インドネシアは旧に復して「オランダのもの」である——第二次世界大戦の終了に関しては、そういう理解の仕方もあった。だからこそ、独立を宣言したインドネシアは、改めてオランダとの戦争を始めなければならないのである。  主権国家に対して「植民」という手段で他国人が入り込み、やがてはその他国人が主権国家を属国状態にして、その国を自国の「植民地」と称してしまう異常事態が、第一次世界大戦前の世界には当たり前にあった。だからこそ、「それをやめよう」という「民族自決」の原則は、既に第一次世界大戦終了の段階で登場している。だがしかし、それで世界から「植民地」が消えたわけではない。「民族自決」の達成には、第二次世界大戦の終了を待たなければならない。そして、第二次世界大戦の終了が、そのまま「植民地の消滅」につながるわけでもない。他国に対して「植民地」という不思議な特権を変わらずに主張していたい国々にとって、第二次世界大戦の終了とは、「悪いファシズム国家の消滅」であり、その被害にあった自分達が持つ「植民地」という既得権の問題とは、まったく関係がなかったはず[#「まったく関係がなかったはず」に傍点]だからである。「自分達はファシズム国家じゃない。なんにも悪いことはしていない。自分達は被害者だ」と思ったら、そこで世界状況はまったく変わらない。だからこそ、一九四五年のインドネシアに、オランダとの独立戦争は勃発する。  インドネシアがオランダからの独立を達成するのは一九四九年。つまり、第二次世界大戦が終わっても、そこから四年の間、インドネシアでは、第一次世界大戦さえもがまだ終わっていなかった[#「第一次世界大戦さえもがまだ終わっていなかった」に傍点]ということになる。  一九四五年、アフリカのアルジェリアでも同じようなことが起こっていた。フランスはドイツの支配から自由になり、アルジェリアはそのフランスの「植民地」だった。アルジェリアの人間達も、当然のごとくフランスからの独立を主張した。そして、その主張が認められなかったからこそ、�蜂起�という武力行使が起こる。  一九四五年に勃発した、独立を目指すアルジェリアの民族蜂起は、その年の内に鎮圧されて、だからこそ一九四六年のアルジェリアに、�戦争�はなかった。アルジェリアにフランスからの独立戦争が起こるのは、第二次世界大戦終了から九年がたった一九五四年で、激しい闘争の末に[#「激しい闘争の末に」に傍点]アルジェリアの独立が達成されるのは、なんとそれからまだ八年先の一九六二年なのである。第二次世界大戦終了から十七年がたって、それでもなおフランスという国は、第一次世界大戦以前の原則[#「第一次世界大戦以前の原則」に傍点]を死守しようとしていた。第二次世界大戦でとんでもない大被害を出しても、世界はまだ変わろうとはしなかったのである。  一九四五年、同じフランスの「植民地」であったヴェトナムにも闘いが起こる。フランスの�不在中�にここを支配していた日本軍が、八月にはいなくなり、その間中国に亡命していたヴェトナム共産党の指導者ホー・チ・ミンが、故郷に戻る。一九四五年の九月にはヴェトナム民主共和国の独立が宣言され、しかしこれが認められなかった[#「認められなかった」に傍点]。大戦終結の少し前、第二次世界大戦後の世界のあり方を考えた連合国側は、ポツダム宣言によって、ヴェトナムにおけるフランスの権益を認めていたからである。フランスは、ヴェトナム民主共和国を攻める。イギリスもこれに協力する。ヴェトナム民主共和国が社会主義国であろうとなかろうと、それ以前に「ここは自分のもの」と思ったフランスは、その独立を認めなかった。イギリスもアメリカも、そしてソ連だって、これを否定しなかった。  ヴェトナム民主共和国成立の二十日後には、もうフランスが南部のサイゴンを占領して、後の「北ヴェトナム対南ヴェトナム」の原型が出来上がってしまう。一時的な停戦協定が成立して、一九四六年の正月には戦争がなかった。しかし、十二月になるとフランス対ヴェトナム民主共和国の戦争が始まる。第一次インドシナ戦争である。ヴェトナムの対戦相手は、やがてフランスからアメリカへと引き継がれ、「インドシナ戦争」は「ヴェトナム戦争」へと名を変え、「自由主義と社会主義の争い」のように思われたまま、一九七五年の南北統一まで続く。  ヴェトナム戦争とはすなわち、姿を変えて生き残った、第一次世界大戦以前から続く、愚かしい�十九世紀的原則�を処理するための苦悶だったのである。  第二次世界大戦は終わった。しかし、実際に終わったのは、「第二次世界大戦」だけだったのかもしれない。一九四六年の一月一日、「現人神《あらひとがみ》」として日本軍国主義のカリスマにされていた天皇は、神ではなく「人間」であることを宣言した。アメリカ占領軍の総司令部《ジエネラルヘツドクオーター》(GHQ)は、日本軍国主義に関与したと思われる人間達を公職から追放した。一方的な「大本営発表」をもっぱらに放送し続けたラジオからは『素人のど自慢』が流れ、実現した新しい選挙法下の衆議院選挙では、女性議員が三十九人も生まれた。日本を愚かな戦争に傾けたとされる戦犯達は、その年に開廷した極東軍事裁判にかけられ、新憲法は公布され、一九四六年の日本は、古い軍国主義からどんどん脱して行ったのだが、そこで不思議なのは、日本人の間に「なんだって我々はあんなバカげた戦争をしたのか?」という議論が起こりそれに関する結論を出すことをしなかったということである。だから私ごときが、「なぜ?」と、この二十世紀一年刻みのコラムの中で問わなければならない。  一九四六年の日本人は空腹で、「終わった……」という虚脱状態の中にあった。しかし、それが終わって重要なのは、「一体なにが終わったのか?」という問いかけなのである。 [#改ページ]       1 9 4 7  第二次世界大戦終結から二年。一九四七年は、「冷戦」が決定的になる年である。  この年の五月、ハリウッドにいたギリシア系の映画監督——『エデンの東』の名匠エリア・カザンは、非米活動調査委員会から呼び出しを受けた。「共産主義に同調する人間の名を密告せよ」というのである。それを問われれば、エリア・カザンもその一人である。非米活動調査委員会は、「吐けばお前を免責にしてやる」と持ちかけ、エリア・カザンに吐かせた。その密告をもとに、数十人の映画人へ召喚状を発送した。共産主義に共感を示す者を糾弾する思想統制「赤狩り」である。召喚状を受け取った人物のほとんどは、ハリウッドを追放されたり海外への逃亡を余儀なくされた。その一人のジュールス・ダッシンは、やがてギリシアへ渡り、ギリシアの映画監督のようになってしまう。エリア・カザンからジュールス・ダッシンへ——ここには、�ギリシア�が不思議にからんでいる。  非米活動調査委員会がエリア・カザンに接触する二カ月前の三月十二日、アメリカの大統領ハリー・トルーマンは「トルーマン宣言《ドクトリン》」として有名になる演説をした。「内外からの全体主義の圧迫に対抗して、自由、独立、人間の自由を保持しようとしている諸国民は、アメリカの優先的な援助を受けることになろう」と。なんだか一昔前の王様のお触れのような演説だが、ここで言う�全体主義�とは、社会主義のソ連であり、だからこそ�援助�を約束される�諸国民�は、�自由主義圏�に限られる。  この演説の同じ日、トルーマンはアメリカの公務員二百万人に対して、大統領への忠誠を試すテスト——つまり社会主義者のあぶり出しをし、それからギリシア[#「ギリシア」に傍点]とトルコに対して四億ドルの資金援助もした。トルコとギリシアは社会主義に境を接し、ギリシアには�内戦�があったからなのだが、かくしてトルーマンの「対ソ反共」は決定的になる。トルーマンがこんな宣言《ドクトリン》を明白にしてしまった翌月には、既に「冷たい戦争」という言葉を口にするアメリカの政治家も出て来る。「冷戦」は、このトルーマンの宣言で決定的になった——ということになれば、ここに�ギリシア�の意味は明白だろう。  話は、さらにその一年前にさかのぼる。一九四六年のやはり三月、アメリカを訪問中だったイギリスの元首相ウィンストン・チャーチルが、演説の中でこう言った——「バルチック海のシュテッティン(ドイツ・ポーランドの接点)からアドリア海のトリエステ(イタリア・ユーゴスラビアの接点)まで、一つの鉄のカーテンがヨーロッパ大陸を横切っている」と。ソ連の東欧支配を非難する「鉄のカーテン」なる言葉の初出だが、チャーチルがこんなことを言ったのは、これが初めてではない。第二次世界大戦中の一九四四年、トルーマンの前任者フランクリン・ルーズベルトにも似たような趣旨のことを言っている。  一九四四年は、ソ連にとって節目の年だった。一九四一年のナチス・ドイツの侵攻以来、包囲されたままになっていたレニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)がついに解放された。ナチス・ドイツを追うことに成功したソ連軍は、そこからポーランド、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリア、ユーゴスラビア、アルバニアへ向かう。後に東欧社会主義圏を形成するこれらの国は、この時ナチス・ドイツの支配下からソ連によって�解放�されたのである。しかしそうなって、当時のイギリス首相チャーチルは困った。アルバニアの南にはギリシアがある。ギリシアは、ヴィクトリア女王の一族が国王の座を確保する、イギリスの影響下にある国だった。  ここがドイツに占拠された。ドイツを追ったはいいが、今度はソ連が迫って来た。保守党の党首チャーチルは、当然ソ連が嫌いで、大英帝国の栄光を信じている。接近するソ連を追いたいチャーチルは、アメリカの大統領ルーズベルトに、ソ連の南下阻止を提案した。「鉄のカーテン」の基点の一つとなった「アドリア海のトリエステ」とは、この時に「ソ連を押し返す基点」とされた場所なのである。「鉄のカーテン」は、「この内側にソ連を入れないぞ」とする、チャーチルの腹の中で決定された「反共の境界線」でもあった。  ギリシアを守りたいチャーチルに対して、ルーズベルトの答はノーだった。指導者スターリンの�人柄�を信じていたルーズベルトは、容共主義者であると同時に、ソ連の国力を見くびってもいた。ルーズベルトに、チャーチルの心配は理解出来ない。焦ったチャーチルは単身モスクワへ飛び、スターリンと交渉した。「そっちの東欧への影響力は認めるから、こっちのギリシアへの影響力も認めろ」という交渉である。交渉は形にならなかったが、大戦後のギリシア・東欧情勢はその通りになった。ソ連の東欧支配は容認され、ソ連はギリシアに介入しなかった。  ギリシアに親英的な政府は出来て、しかし、ギリシア国民はこれを支持しなかった。反政府の共産ゲリラが蜂起し、内戦が起こる。「そこにスターリンが介入した」になれば話は単純だが、駆け引きの意味を知るスターリンは、ギリシアの共産勢力を支援しなかった[#「支援しなかった」に傍点]。事態は「ソ連の脅威」とは無関係に存在する、「ギリシア国内における革命の機運」でしかなかった。しかしチャーチルは、そんなギリシアを黙認しない。「ソ連がギリシアを狙っている」と曲げて、アメリカ国民に共産勢力の恐怖とその一掃を訴えた——それが一九四六年三月の「鉄のカーテン」発言なのである。  発言を聞いて、スターリンは怒った。「チャーチルは今や戦争屋に成り下がっている」と。もっともな話である。ナチス・ドイツに抵抗した英雄チャーチルは、今やイギリスの首相ではない。一九四五年の七月、「第二次世界大戦のその後」を決めるポツダム会談の最中に、イギリスでは総選挙があって、チャーチルの保守党は敗れた。「ナチスは負けた、チャーチルはもういい」と、イギリスの国民は決断した。首相の座を降りたチャーチルは、ただの「反動政治家」の一人としてアメリカへ来ていたのである。にもかかわらず、トルーマンはこれに乗った。  なぜか? トルーマンに人気がなかったからである。  ポッダム会談の三カ月前、大統領ルーズベルトは死んだ。後任は副大統領のトルーマンである。ソ連を敵視しなかったルーズベルトは、非常に人気のある大統領だったが、その反動もあって、トルーマンの不人気は目立った。反共の人トルーマンは、人気獲得のため、チャーチルのウソに乗ったのである。  「正義の使者」になりたいトルーマンは、スターリンのソ連を「敵役」にした。スターリンのソ連が善玉だったわけでもない。しかし、アメリカの大統領には�新たなる敵�が必要だった。かくしてソ連=社会主義は敵視され、世界は「冷戦」の緊張状態へ突入する。  一九四七年、問題はどうやら「思想」ではなく、「人間の中身」の方だった。 [#改ページ]       1 9 4 8  一九四八年は、私の生まれた年である。それで、二十世紀百年分の編年体コラムなどというものを書いている手前、「いっそこの年ばかりは自分のことで埋め尽くしてやるか」などと考えた。しかしそう考えて、残念なことに、私には自分の生まれた年に関する記憶がなかった。当たり前と言えば当たり前の話だが、「自分の生まれた年になにがあったんだろう?」と考えて、覚えのないことばかりなのである。  一九四八年には、ベルリン封鎖が起こった。朝鮮半島が大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の二つに分断されたのもこの年である。太宰治の入水自殺があり、十二歳の美空ひばりの歌手デビューがあり、旧制高校が新制高校になった。一月には、ガンジーが暗殺された。五月にはイスラエルが建国を宣言して、第一次中東戦争が勃発する。全学連や主婦連が結成され、一一〇番が設置されたのもこの年である。しかし、この私にはなんの記憶もない。関係もない。  世間には、「自分の生まれた日の新聞」というのが好きな人もいるらしいが、私にはそういう趣味がない。「自分とは関係のないことばかりの中に生まれたって、ちっともおもしろくないじゃないか」と思う。その後になれば、「懐かしい」という感情を作り出す基盤も徐々に形成されてはくるのだが、自分が生まれたばかりの頃には、「懐かしさ」の湧きようがない。人間とは、身にしみない中で生まれ、「懐かしい」ということがとても大きな比重を占める、記憶による生き物なのだなと、改めて思った。  「人間というものは、取り返しのつかない中で自分をスタートさせるものである」と言う気もないが、人間の歴史は、生まれた時から始まるものではない。「気がつくともう始まっていた……」という形で存在するのが、人間にとっての歴史なのである。  というわけで、私にとっての一九四八年とは、「自分とはまだ関係のない、自分の生まれた年」なのである。こんな勝手な結論を下していいものかとは思うのだが、しかし、こんな風に考える日本人は、きっと大勢いるだろう。なぜかと言えば、一九四八年は、やたらに子供が生まれた年だからである。  一九四七年から一九四八年にかけて誕生した子供達の数は、おそらく長い日本の歴史の中で一番多い。一九四六年に生まれた子供の数はそんなに多くないが、一九四七年から後は飛躍的に増加して、また一九四九年ぐらいからは徐々に減ってくる。一九四七年から後の数年に生まれた子供達はベビーブーム世代と呼ばれ、ビートルズ世代とか全共闘世代とかも呼ばれ、人口構成上その数があまりにも突出していることから、団塊の世代とも呼ばれる。アメリカでは、この時期に生まれた子供達を「ベビーブーマー」と呼ぶが、これは世界的な現象であろう。  「子供が生まれる」は、それが特別な子供でもない限り、そうそう大きなニュースにはならない。だから、一九四七〜八年をそういう観点で考える歴史学者はまずいないだろう。ましてや、である。一九四七年や一九四八年にやたらの数の子供達が生まれていたということは、一九四六年や一九四七年に、やたらの数の男女が「子供を作る行為」に励んでいたということである。一九四七年を「やたらの数の男女が性行為に没入していた年」とは言いづらいだろう。がしかし、一九四六年と一九四七年の夜は、想像を絶して濃密だった——それが後になって、「年齢別の人口構成」によって証明されるのである。  一九四六年と一九四七年の夜が特別に濃密だったのは、「戦争が終わったから」である。一九四五年まで、世界は戦争をしていた。子供を作る余裕がなかった。その戦争が終わって、人類は一斉に子作りを始めた。人は、やっと訪れた安らぎの中でセックスをする。戦場から男達が帰って来た。戦争の危機の下で保留にせざるをえなかった男女に、やっと結婚の時が訪れたということもあるだろう。やたらの数の男女が、この時期に結婚をした。子作りを中断していた既婚者も、やっぱり子作りに励んだ。だからこそ、この時期に末っ子[#「末っ子」に傍点]として生まれた子供もいる。ドラマの中では、「明日をも知れない戦火の中で激しく結ばれる男女」ばかりがもてはやされるが、現実はどうも違う。人は、「明日も平和だ」という状況になってこそ子供を作る。  人は、未来を託すべき子供達を、「明日不幸になるかもしれない」という状況の中で作ろうとはしない。「人類は、ある年一斉に戦争を始めた」ということだけは歴史に残るが、「人類はある年一斉に子供を作った」は、あまり歴史に残らない。そういう事実を直視しようとしなかったからこそ、それ以前の人間達は戦争なんかを始めたのかもしれない。「子供が生まれるということは、やっと訪れた安らぎの中においてこそ達成出来ることである」という事実を頭に置いて、人は殺し合いなど出来ない。  人は、「子供が生まれる」ということの意味を時々忘れてしまう——だから、戦争などという無意味な破壊を実践してしまうのだ。やがて子供達の産声が聞こえる朝に向けて、男と女がせっせと汗を流している濃密な夜というものは、なかなか感動的なものではある。  空襲で焼き払われた廃墟だらけの日本やその他の国の町には、ただやたらに暗く静かな夜が広がっていたはずだが、空襲の被害のなかったアメリカの町でも、どうやら同じようだった。「ああ、戦争は終わったのだ」と思う人々は、電気の光があろうとなかろうと、静かな夜の暗さを求めた。その結果、多くの子供達が続々と生まれた。そんな一九四八年の初めである——アメリカではある本がベストセラーになった。『キンゼー報告』という。  ヒトなるものの性行動に関して十年間に九千件の面接調査をした、インディアナ大学の動物学者キンゼー博士のレポートが、まず第一巻の「男性篇」だけ出版された。そして、その内容がショッキングだというので、アメリカでは大センセイションが起こった。レポートの中で、ヒトの男は、あまり「子供の誕生」に結びつかない性行動を平気で実演してしまうからである。  男の九割は、自慰という自己完結行為を平気で演じてしまう。男の三割は、男同士の性行為を経験してしまうし、嫡出子の誕生と結びつかない結婚外の性交も、三割から四割以上の男性が経験している。敬虔《けいけん》なる清教徒の国アメリカで、人々はびっくりした。「でたらめだ!」と言う者もあり、「ヒトの性行動にメスなんか入れてはいけない」という声も高まった。  『キンゼー報告』の面接調査の方法には若干の問題があって、この結果が一〇〇%正確だったとは言い切れない——今ではこれが常識になっている。しかし、今となっては、こんなレポート結果に驚く人もいないだろう。やるべきことをやって、しかしヒトというものは、それだけでは満足出来ない生き物らしいのだ。  やることをやった——その結果子供達は生まれて、「でもそれだけじゃなァ……」というつぶやきもまた、こっそりと生まれた。そんな�現代史の一起点�もあるのである。 [#改ページ]       1 9 4 9  一九四九年五月、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立した。それから五カ月後の十月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立した。同じ十月、東ドイツ成立の六日前には、天安門に立った毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言し、それから二カ月後の十二月、中国本土を追われた蒋介石の国民政府——中華民国は台湾の台北《たいぺい》を首都とする。二つのドイツと二つの中国の始まりである。この前年の一九四八年には、八月に大韓民国(韓国)、九月に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が成立しているし、その以前では一九四六年に南北両ヴェトナムが成立している。冷戦を象徴する、東西あるいは南北の分断国家の時代はここに確定してしまったようなものである。  東西ドイツ、南北朝鮮、南北ヴェトナム、あるいは二つの中国といった国家の分断は、自由主義と社会主義という国家体制の差——すなわち「思想対立」を前提とすることになっている。しかし、それは本当なんだろうか? 「分断国家の時代」は、果たして「思想対立の時代」であったのかどうか。  一九八五年、ゴルバチョフがソ連の書記長に就任してペレストロイカの大改革が始まると、東欧の社会主義国では大変動が起こる。ソ連の衛星国になっていたハンガリー、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキアで共産党の独裁政権が倒れ、東西ドイツが統合され、ユーゴスラビアでは連邦体制の崩壊が起こる。ドイツを含めた東ヨーロッパ諸国の変動は、当然のことながら、弱体化したソ連支配からの離脱である。「ソ連の支配力が弱まれば東ヨーロッパの社会主義が壊滅する」ということは、つまり、東ヨーロッパに「思想対立」なんかなかったということである。あったのは「ソ連の東欧支配」と、それに由来する「東西対立」だけだ。支配者ソ連が社会主義国だったから、ここに自由主義と社会主義の思想対立があったように見えた。ただそれだけである。そのことは、アジアの情勢と比べてみればよく分かる。  ソ連がどうなろうとも、「二つの中国」や「二つの朝鮮」は健在のままだった。互いの自己主張があって、二つの国家は一向に「統一」へと進まない。台湾では、「分離独立」の方向さえ出た。南北ヴェトナムの対立は、「北」であるヴェトナム民主共和国の独立をフランスが認めなかったことに由来するもので、ここで対立する�思想�は、「民族自決の原則を容認するかどうか」という、第一次世界大戦以前のものである。だからこそ、国民の支持を得ていた北ヴェトナムは勝った。アジアに社会主義は健在で、残るは、その社会主義をどう開くか[#「どう開くか」に傍点]だけなのである。  東欧の社会主義は「支配国ソ連による強制」だったが、アジアの社会主義は違う。にもかかわらず、冷戦の時代にはこの二つがごっちゃにされていた。一九五〇年、フランスに対する独立の戦いが続くヴェトナムへ、アメリカが介入した。「ホー・チ・ミンの北ヴェトナムを放置すれば、たちまちの内にアジアは共産化する」という、バカげたドミノ理論を信じての結果だが、果たしてそういう未来はありえたのか?  しかし、アメリカは「アジアの共産化」を恐れた。一九五〇年には、東欧支配を実現したソ連の指導者スターリンが、まだ生きていたからである。アメリカは、「スターリンの幻影」をアジアに見た。つまり、スターリン的な独裁者の存在する時代に、「思想対立」と「大国支配」は平気で混同されていたということである。  第二次世界大戦後、東欧諸国がソ連の「衛星国」になった経緯は、いたって簡単である。ナチス・ドイツという「悪者」のせいである。これらの国々は、一九四四年までナチス・ドイツの支配下にあった。そしてその年、レニングラードの攻防戦に勝ったソ連軍によって�解放�された。悪者ナチスを追ったソ連は、東欧で救世主同然の存在となり、東欧諸国はそのままソ連の支配下に組み込まれた。ナチス・ドイツからソ連へ——他国支配にあえぐ東欧諸国は、ソ連にペレストロイカが起こるまで、力の支配を当然とする十九世紀以前の状態へ逆戻りしていたのである。  一九四一年六月、ナチス・ドイツは、ナポレオンがロシア遠征に出発したのと同じ日を選んで、ソ連侵攻を開始した。ロシアを攻めたナポレオンは冬将軍に敗れたが、ナチス・ドイツは敗れなかった——また「敗れない」と思われていた。ナチス・ドイツがソ連に攻め込んだ二カ月後、アメリカの大統領ルーズベルトとイギリスの首相チャーチルは、ナチス打倒のための大西洋会談を開いた。アメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していなかったが、やがては「第二次世界大戦を終結に向けた三巨頭」の内の二人になるチャーチルとルーズベルトは、「第二次世界大戦後の世界のあり方」さえも話し合っていた。国際連盟のようなものは必要だろうが、その前にまず、アメリカとイギリスによる「国際警察」のようなものが必要だろうと。その席に三巨頭の残る一人、スターリンの姿はなかった。チャーチルとルーズベルトは、第二次世界大戦後の世界にソ連の力が必要とも思わなかった。「ナチス・ドイツに攻められたソ連は負けるだろう」と判断していたからである。�必要�以前にソ連は消える——事実、ソ連はナチスに反攻出来なかった。その情勢が、やがて変わるのである。  ソ連はナチスを押し戻した。スターリンは、ヒトラーという�新しいナポレオン�に勝った。ナチス・ドイツを押し戻した余勢を駆って、ソ連は東欧諸国を�解放�した。指導者スターリンの胸中はどうだろう。  ナチスの侵攻に対してソ連が反撃に出られなかったのは、スターリンがやたらの数の指揮官を�粛清�で殺してしまったからだとも言われている。革命後のゴタゴタもあって、ソ連の国力は落ちていた。だから、チャーチルもルーズベルトも「ソ連の負け」を疑わなかった。しかし、ソ連は勝った。「不屈のロシア魂」という言葉を使ってもいい。ソ連の兵士達の力によって、スターリンはナチスに勝った。それ以前に大虐殺をやってのけていた恐怖の指導者スターリンは、「ナチスを駆逐した」というその一点によって、彼の汚点を拭い去ることが出来たのである。  スターリンは得意だったろう。ナチスを追ったスターリンは、帝政ロシアのいかなる皇帝も及ばないほどの影響力を、東欧からドイツにまで届かせた。スターリンが、自分を「皇帝以上のもの」と規定しても不思議はない。かくして東欧は、社会主義という帝冠をいただいた�新皇帝�スターリンの支配下に入るのである。このどこに「思想対立」があるのかと、私は言いたい。  ロシアには一人の独裁者がいた。その後進性を、新興のアメリカは理解出来ずに見誤った。「冷戦の時代」とは、その結果でしかないのだ。アジアは�スターリン�を生まなかった——これはとても重要なことだと思う。 [#改ページ]       1 9 5 0  この年の六月二十五日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の軍隊が北緯三十八度の境界線を越え、大韓民国の領域内へ侵攻した。「米ソ対立の代理戦争」と言われる朝鮮戦争の勃発である。  五年前に成立したばかりの国際連合は、安全保障理事会を緊急召集。二日後には朝鮮半島への国連軍派遣が決まった。「国連軍」の主力はアメリカ軍で、戦闘は「北朝鮮軍対国連軍」である。「米ソ対立の代理戦争」のはずが、ソ連はどこにもいない。  朝鮮民主主義人民共和国は、ソ連の支援によって作られた国である。一九四五年の八月八日——広島に原爆が落ちた二日後、ソ連は日本に宣戦を布告した。その年の二月、日本の国力を過大に評価したアメリカは、日本を倒すために不可欠と思われたソ連を対日参戦に誘い、ソ連はかなりの�領土的な見返り�と引き換えに、「対ドイツ戦終結の三カ月後なら」と了承した。ソ連軍がやって来たのは、その約束の一日遅れである。  日本の領土だった朝鮮半島には、ソ連とアメリカが北と南から入り、北緯三十八度を境界線とする分割統治が始まる。南にはアメリカ系の大韓民国が、北にはソ連系の社会主義国・朝鮮民主主義人民共和国が成立して、後には「分断国家の統一」という厄介《やつかい》が残る。そんなバカなことをなぜしたのか? 分断国家の誕生は緊張の誕生であり、果たして、「統一」を掲げた戦闘が起こる。北の背後に「ソ連の力」はある。侵攻直後の安全保障理事会に、常任理事国ソ連は欠席した。そのことが「ソ連の影」を露骨に語って、しかし、ソ連欠席のまま国連軍の出動が決議されたことによって、表向き、「米ソ対立の代理戦争」にソ連は顔を出さないことになる——だからなんなのか?  朝鮮戦争が勃発するこの年は、それまで底流としてあった「赤狩り」が本格化して加速する年である。戦争勃発の四カ月前、アメリカの共和党上院議員ジョゼフ・マッカーシーが、「国務省というアメリカ合衆国の中枢にも、�危険な敵�に内通する分子がこんなに忍び込んでいる」と、有権者に向かって叫んだ。ここから「赤狩り」は「マッカーシイズム」の別名を持つマス・ヒステリアに変わって、その影響はイギリスやフランス、日本へも及んだ。朝鮮戦争勃発のほぼ二十日前には、米軍占領下の日本で、共産党関係者が公職から追放されている。  朝鮮戦争の時代、「赤狩り」というパニックを可能にしたものはなんだったのか?  それは「共産主義への恐怖」だったはずだが、同時に「スターリンの支配するソ連への恐怖」でもあった。世界には、左翼思想にインスパイアされた結果、「ソ連とはまったく無関係に�自分の考え�を持つ左翼的な人物」もいたはずなのだが、そういうものは、公式見解上、存在しなかった[#「存在しなかった」に傍点]。「赤」とは、「共産党員・共産主義者」のことであり、それは同時に「ソ連の手先」という意味でもあったからである。  ソ連の指導者スターリンは、「赤い皇帝」とも言うべき存在である。しかしスターリンは、皇帝より強かった。自分に反対する者、自分の気に入らない者を、「思想」の名において裁くことが出来たからである。それが可能になるような仕組になっていた。  ロシア革命の二年後で、まだレーニンの生きていた一九一九年、モスクワでコミンテルン(第三インターナショナル)が結成された。コミンテルンは、「世界全体でプロレタリア革命を推進する組織」と規定され、ここに加盟する政党のすべては、ソ連のあり方を見習って党名を「共産党」とし、ソ連への献身を誓わなければならなかった。当時まだ世界のどこにも、ソ連のような社会主義革命を達成した国はなかった。だからこそソ連は、「我々を見習え、我々に従え」と言えて、ソ連を頂点とする�社会主義の家元制度�が作れた。スターリンはこれを受け継いだ。「破門」ということが可能である点において、スターリンはローマ法王をも兼ねる皇帝に等しかった。  世界の共産党は、すべてソ連の支配下に入っている。すなわち、すべての共産主義者は、「ソ連=スターリンの手先」であり、またスターリンにとっても、そうであらなければならなかった[#「そうであらなければならなかった」に傍点]。ところがしかし、一九四九年になると、それが微妙に揺らいで来る。毛沢東の中国——中華人民共和国の出現である。  毛沢東の中国は、「ソ連の指導とはまったく無関係に起こった」というようなものである。中国共産党は、その誕生をコミンテルンの働きかけによりはしたものの、その成長は、「長征」という山の中の現地活動によった。毛沢東の共産主義は土着オリジナルなものになって、だからこそスターリンは、その中国が嫌いだった。「赤い皇帝兼法王」にとって、すべての社会主義は彼の指導の下に生まれなければならない。東欧しかり、北の朝鮮しかり。しかし中国は違う。だから、中華人民共和国の建国直後モスクワに飛んだ毛沢東は、スターリンから冷淡にされる。スターリンにすれば、「自分の指導下に登場したものでもない中国に対して、なんで援助なんかしなければならないのか」である。「毛沢東の中国」出現によって、家元絶対の社会主義には�ヴァリエーションの可能性�も生まれる。「共産主義者=ソ連の手先」の公式は、かくして崩れることになるのだが、しかし、人はこのことにあまりピンとこなかったらしい。  三十八度線を越えた北の軍隊は、たちまちの内に大韓民国の首都・ソウルを占領し、半島の南端近い釜山《プサン》に迫る。社会主義の勢力は、あっと言う間に朝鮮全土を制圧した。対する国連軍は、九月になって半島へ上陸。ただちにソウルを奪回して北へ攻め上るが、勝った国連軍は、「敵を三十八度線の向こうへ押し戻す」という当初の方針を、すぐに「朝鮮半島の統一」へと変更する。北の首都・平壌《ピヨンヤン》を占領し、国連軍は更に北上を続け、十月には中国との国境である鴨緑《ヤールー》江にまで迫った。そして、事態はそこで大きく変わる。国境間近まで攻め寄せられた中華人民共和国が、国連軍に戦いを挑んで来たのである。  そうなるまでは「米ソ対立の代理戦争」だった。敵である「北」の陰には、スターリンがいた。しかし、ここから先の相手は、「赤い皇帝兼法王」であるスターリンとは別の、「社会主義という思想そのもの」なのである。スターリンなら、「自分の支配地域を侵略した!」で怒るだろう。しかし人民中国の戦いは、「我等の存在基盤である社会主義を襲う者は倒せ!」なのである。朝鮮戦争の�困難�は、ここに生まれる。  「思想を操って権力をほしいままにする一人の人物」なら倒せるだろう。しかし、「国を成り立たせる思想」は倒せない。それをやるのなら、国民|諸共《もろとも》、国土のすべてを焼き払うしかない。そんなことが出来るのか? その不可能は、後のヴェトナム戦争が証明する。しかし、「スターリン=共産主義」という錯覚を「恐怖の根源」にして、アメリカ軍は、これに気づかなかった。それが朝鮮戦争である。 [#改ページ]       1 9 5 1  一九五一年——二年目に入って、朝鮮戦争はまだ続いている。毛沢東の中国から人民義勇軍十八万の支援を受けた北の軍勢は、前年十二月に平壌《ピヨンヤン》を奪回、「戦争屋のマッカーサーを海へ叩き落とし、朝鮮を解放する!」と豪語して、この年の一月にはソウルを再占領する。国連軍の最高司令官は、日本を占領するGHQの頂点にも立つ、合衆国極東軍最高司令官と連合国最高司令官を兼務するダグラス・マッカーサー。「戦争屋」と言われて怒ったかどうかは知らないが、反撃を開始した国連軍は三月にソウルを再奪回、三十八度線に迫って、「停戦」を呼びかけた。  どうやらこれは、「お慈悲」に近いものだったかもしれない。停戦を呼びかけたマッカーサーは、「これに応じなかったら、中国本土に攻め込むぞ」と脅したのである。そうなって慌てたのは、目の前の敵・中国ではなかった。太平洋の向こうにいたアメリカの大統領ハリー・トルーマンだった。トルーマンは反共の人で、マッカーサーも反共の人。朝鮮戦争の発端が北の社会主義勢力の侵攻にあって、これを撃退、あるいは朝鮮半島の統一をすることがこの戦争への目的なら、さっさと中国まで攻め込んで、共産勢力を根絶やしにしてしまえばいい——それが一番の解決であるはずで、世界で一番の国力を誇るアメリカが中国ごときに負けるはずはないと、マッカーサーは考えた。トルーマンもそれを支持すると思ったのだが、さすがにアメリカの大統領は、そんなとんでもない全面戦争を了解出来なかった。  トルーマンがさっさと国連軍=アメリカ軍を導入したのは、戦闘を停止するためである。停止してどうなるのか? 南と北に違う政治体制の国が二つ向き合っていれば、紛争の種はそのままになる。なるがしかし、「どうにもならないから仕方がない」ですませてしまうのが、軍人ならぬアメリカ大統領の現実性というものだろう。かくして、やたらと長い肩書を持っていたダグラス・マッカーサー将軍は、すべての任務を解かれた。つまり、日本占領軍のトップはクビになったのである。  この年の四月十六日、マッカーサーは帰国する。その日、日本人は大騒ぎでお見送りをした。その数、二十万。日本を去るマッカーサーを、「偉大なる改革者、偉大なる伝道者」と誉め称えた大新聞もあったという。なるほど、マッカーサーは、日本に根づいていた軍国主義を一掃し、それまで虐げられていた日本国民に平和と民主主義のあり方を教えてくれた人である——もちろん、赤狩《レツドパージ》りもやったが。  感謝の念でいっぱいの日本人達に見送られて、マッカーサーはアメリカに帰り、その後でとんでもないことを言った——「我々は四十五歳だが、日本人は十二歳の少年だ」と。  それを伝え聞いて、日本人は怒った。「なんでそんな悪口を言うんだろう、もっといい人だと思っていたのに」と、憤慨と興覚めの嵐が起こり、日本人のマッカーサー熱は下火になった。もちろんマッカーサーの言うことは、「我々はただの中年男だが、日本人は瑞々しい可能性に満ちた少年である」ではない。  この一九五一年は、日本がサンフランシスコ講和条約を結び、アメリカの支配を離れて主権を回復させることが可能になった年でもある(条約締結はこの年の九月、発効は翌年の四月)。その年には、ラジオで紅白歌合戦も始まった。まだテレビはなかったけれど、民放のラジオ局も開設され、『カルメン故郷に帰る』という初の国産カラー映画も公開された。黒澤明の『羅生門』は、ヴェネチア映画祭でグランプリを取った。「日本は敗戦の混乱の中で頑張って、一人前になろうとしているのに、なんてひどいことを言うのだろう」と、日本人は怒った——それがいかにも十二歳の小学六年生的な怒り方だとも思わずに。  日本占領軍の最高司令官がそんなことを言っていたというのを私が知るのは、二十歳を過ぎてからである。「へー、そんなことを言ってたのか」と、私はびっくりして感動した。「その後」も含めて、日本人のあり方をこれほど見事に言い当てた言葉もないと思った。  マッカーサーは、一九四五年から一九五一年まで、日本のトップにいた人である。軍国主義を捨てた日本人が、(アメリカ流の)民主主義へと転換して行く状況を最も冷静に見ていた。その人が、その間の日本人のあり方を「十二歳の少年=未熟」とジャッジしたのなら、敗戦後五年の日本と日本人のあり方を、これほど正確に言い当てた評語もないはずなのである。  しかし、それがどういうわけだか、忘れられた。今となっては、「日本がアメリカに占領されていた」という事実を知らないままの人も大勢いるだろうが、その最高司令官が「日本人は十二歳」と断定したということを知らないままでいる人達は、もっと多いだろう。  第二次世界大戦後の日本人は、まだ「十二歳の少年」で、敗戦の痛手から立ち上がることに必死だった。だからこそ日本人は、「十二歳」であることを忘れてしまった。それを忘れて、どうして�その後の成長�が可能になるだろう。その後の日本の歪みは、「日本人は所詮《しよせん》十二歳」という評語を謙虚に噛みしめなかった結果だろうと、私は思う。  第二次世界大戦後に、日本はアメリカ軍の占領を経験した。しかしこれは、同じ占領を受けたイタリアやドイツに比べ、かなり変わった占領だった。占領にやって来たのは、アメリカ軍だけで、よその国の軍隊は来なかった。占領軍の間に、分裂も混乱もなかった。そして日本は、空襲を受けはしたが、沖縄を除いて、その国土を戦場にしなかった。目の前に戦闘があり、味方が敗れ、勝った敵国の軍人にすべてを取り仕切られ支配されるということを、実は日本人は経験しなかった。日本の司法・立法・行政機構をすべて健在のままにして、GHQはいろいろと指示を出し、改変を迫ったが、日本の根本はそのままだった。軍国主義者の追放はあったが、占領軍が来るまで、彼等は安全だった。日本人は、占領軍の言うことを聞いたが、自分達の手で軍国主義者を追うことはしなかった。「占領軍がそれをやってくれた」と思う日本人は、それを自分達自身の手でやらなければいけないものとは思わなかった。だから日本人は、占領軍の�指導�を受け入れたし、その最高司令官を「伝道者」と思った。  日本人にとって、占領は�屈辱�であったはずだが、しかしその�屈辱�は、どこか安全なものだった。それはほとんど、「重大犯罪を犯しながら、まだ幼くて自分のしたことにピンと来ていない未成年が、少年法の適用を受けた」というのに似ている。「罪を認め、占領を受けた。だからもう自分には責任がない」——その後の日本人達の戦争責任に対する認識の薄さは、おそらくこのことに由来するのだろう。  この年日本人は十二歳。その後の日本人のアイドルともヒーローともなる、永遠に少年のままのロボット——手塚治虫の筆による鉄腕アトムがデビューするのもこの年である。 [#改ページ]       1 9 5 2  一九五二年五月一日——メーデーのその日、中央会場だった東京の神宮外苑を出発したデモ隊は、午後になって解散予定地の日比谷公園へ集まった。しかし「解散」の声は聞こえない。代わりに「人民広場へ!」の声が聞こえた。「人民広場」とは、皇居前広場に対する、当時の名称である。そこが「人民広場」の別名を持つような状態は一九五〇年まで続いていて、一九五二年もそこがメーデーの中央会場となるはずだった。しかし政府はその使用を禁止。労働側は裁判に訴え、勝訴を得た。しかし政府が控訴。裁判は継続して、その年のメーデー会場は神宮外苑へ移った。そのメーデーが終わりかけて、しかし参加者は、「人民広場」へと向かったのである。  日比谷公園を出てすぐの皇居前広場には、警察隊がいた。警官達は警棒を振るい、デモ隊は広場に侵入。やがて武装警官隊がやって来て、催涙弾が撃ち込まれ、拳銃が発射された。デモ隊に二人の死者が出て、二百五十九人が騒乱罪適用で逮捕された。「血のメーデー事件」である。だから、なんなのか?  日本に初の左翼政権が誕生したのは、一九四七年。五月三日に新憲法が施行される直前の四月、総選挙があった。社会党が第一党となり、党首の片山哲は、保守系と連立して内閣を組織した。左翼政権を歓迎するはずがない占領軍の最高司令官マッカーサーは、「日本史上初のキリスト教徒の内閣[#「キリスト教徒の内閣」に傍点]を歓迎する」と言った。トルーマン宣言《ドクトリン》が発表されるこの年は、「反共元年」と言ってもいい年だが、その年に社会党は勝ち、片山内閣誕生前には、ゼネストの予定さえあった。  第二次世界大戦終了の一九四五年末、日本には労働組合法が成立した。労働組合は認められ、下級公務員の労働運動が活発になった。その少し前の日本は、軍国主義を推進する軍人と国家主義的な高級官僚の天下である。彼等は公職から追われ、そこでこき使われていた下級官僚は目覚めた。日本の労働運動は官公庁関連から盛んになり、それが食糧不足の時期と重なった。一九四六年の五月には、皇居前広場で「飯・はん・米・まい・獲得人民大会」が開かれた。「米よこせ運動」であり、皇居前広場はこの時から「人民広場」になった。この運動のトップは共産党の党首・徳田球一——であればこそ、マッカーサーも介入した。「日本国民の一部[#「一部」に傍点]が自重出来ないのなら、私は相応の手段を取らざるをえない」と。  日本の民主化を目指す占領軍は、表向き労働運動を弾圧出来ない。しかし、背後にソ連のスターリンがいる共産党だけは別である。マッカーサーは警告し、そして労働側はめげなかった。  一九四六年の八月、労働組合の全国組織が、社会党系と共産党系の二つ出来た。労働争議のあり方を規定する労働関係調整法も、その段階で出来た。一九四六年の十一月、賃上げや最低賃金制度を求める下級公務員達は「全官公庁共闘」を結成。参加人員は全国で百五十六万人だった。しかし、二カ月後の一九四七年一月、高級官僚出身の内閣総理大臣・吉田茂は、この運動の指導者達を「不逞《ふてい》の輩《やから》」と罵った。怒った共闘側は「無期限ゼネスト突入」を宣言。もつれた事態に、マッカーサーは「ゼネスト中止」を命じた。一月三十一日にゼネストは中止。その代わりでもないだろうが、四月には労働者保護の労働基準法が制定された。片山内閣の誕生はその翌月である。しかし片山内閣は九カ月の短命だった。理由は、山積する難題に対して妥協を迫られた内閣に、党内左派がそっぽを向いたからである。その片山内閣以後、一九四九年まで、日本の労働運動は盛況で平穏だった。  二つのドイツや二つの中国が登場する一九四九年、日本では「下山《しもやま》・三鷹《みたか》・松川《まつかわ》」という、国鉄にからむ真相不明の怪事件が三つ連続して起きた。この年、政府とGHQは行政機関の整理——つまり公務員の解雇を考えた。その予定数は二十八万五千。労働運動は激しくなり、九万五千人の解雇が予定される国鉄は特に[#「特に」に傍点]だった。三つの怪事件の裏には、国鉄の労働運動を挫折させるための「アメリカ側の陰謀」も囁《ささや》かれている。�なにか�はあったはずなのだが、表向きにはなにもないまま、翌年の朝鮮戦争、さらに翌年のマッカーサー解任と続き、「血のメーデー」の年になる。  この一九五二年は、日本がアメリカ占領軍の支配を離れる年でもある。総論で日本の民主化を推進したアメリカ占領軍は、各論で社会主義化防止の手を打った。その規制の手段となっていた政令や法令が、GHQの消滅によって効力を失う。だから、前年の五月、帰国したマッカーサーの後任リッジウェイ中将は、日本の総理大臣・吉田茂を呼んで、占領解除後の日本のあり方を検討させた。つまり、日本もアメリカも、労働運動を盛んになんかしたくないのである。  独立後の日本に必要なものは、軍国主義の片棒をかついで公職を追放された者達の現場復帰——吉田茂は�気の毒な仲間達�の処遇を第一に考え、アメリカも了承した。次いで重要なのは、ゼネストの防止。そのために、労働関係の法律改正——労働運動の側からすれば�改悪�——が計画されていたところへ、とんでもない情報が入った。その年の十月、全国協議会を開いていた共産党が、「五一年テーゼ」と呼ばれる「軍事行動による武力闘争方針」を採用したのである。つまりは体制転覆の武力行使で、このテーゼの原文はスターリンが書いたという。  共産党の武装蜂起が現実となったら、ゼネストどころの騒ぎではない。共産党封じ込めのため、「暴力主義的破壊活動を行った団体に対して、その活動を制限、解散を指定出来る」という破壊活動防止法は、かくして登場する。  明けて一九五二年の三月、破壊活動防止法と労働法規改正案が国会に上程されて、大騒ぎとなる。四月には「破防法反対・労働法規改悪阻止」のゼネストが起こり、「血のメーデー事件」へと続く。  この時期の日本のど真ん中には、かつての軍国主義者を平然と復帰させる、一向に反省のない「現状維持の思想」があった。その陰には、日本を「社会主義からの防波堤」にしようとするアメリカの思惑があった。片山内閣を短命に終わらせた日本の労働運動には、まだ現実に対処するだけの力がない。ソ連の独裁者スターリンの影もある。日本国民の多くは「現状維持」の吉田内閣を支持し、そして欲求不満があった。だからこそ、メーデーのデモ隊は「人民広場」の幻想を見る。メーデー事件の逮捕者は、その後の二十年間を裁判に拘束される。  流血は起こり、その�危険�を口実にして、破壊活動防止法は成立する。敗戦からの立ち直りだけ[#「だけ」に傍点]を目指す日本人は、�中心�の現状維持をよしとして、追放された人間達を堂々と復帰させる。アメリカともスターリンのソ連とも、現状維持を第一とする日本のエスタブリッシュメント達(一般には�リベラル�と言われる)とも一線を画した、「この国のあり方」を考える思想は、日本のどこにもなかった。それが、独立を達成した日本である。 [#改ページ]       1 9 5 3  この年の三月五日、「赤い皇帝兼法王」であるソ連の独裁者スターリンが死んだ。「スターリンは本当に死んだのか?」という囁きが、ソ連のあちこちで起こった。うかつなことを言って秘密警察に聞きつけられたら、えらいことになる。シベリアかどっかの強制収容所へ送られて、野垂れ死にである。それくらい「スターリンへの恐怖」は大きかった——しかし、スターリンは死んだのだ。それは本当らしい。がしかし、ソ連の人間達はまだ安心出来なかった。「スターリンの後」がどうなるのかが、よく分からなかったのである。  スターリンには、政治局員マレンコフが後継者としていた。マレンコフが第二のスターリンにならないという保証はない。マレンコフには、ベリヤという警察のトップがライヴァルとしていた。マレンコフを追おうとして、ベリヤが第二のスターリンにならないという保証もない。誰が指導者の座についても、指導者を存在させる機構そのものがスターリンを許容していた以上、その機構の上に立つ指導者が第二のスターリンにならないという保証もない。もしかしたら、「指導者になる」ということ自体が、「新しいスターリンになる」ということなのかもしれない。疑心暗鬼があり、スターリン死後のソ連に「集団指導体制」が訪れ、権力闘争があって、ニキータ・フルシチョフが新しい指導者として確定された。  スターリンが死んで三年目の一九五六年二月、ソ連で第二十回共産党大会が開かれた。そこでフルシチョフは、スターリンを弾劾《だんがい》した。聴衆を限定した「秘密演説」では、スターリンの悪行を細かにあばき立てた。スターリンは「悪人」として確定された——つまり、その死から三年たって、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは、本当に死んだのである。  「スターリンの死」と「その後」が確定され、ソ連とその支配下の国々に「雪解け」が訪れる。一九五六年のポーランドとハンガリーには、ソ連支配から離れようとする暴動が起こる。日本とソ連が国交を回復したのもこの年である。フルシチョフ演説の前年、日本共産党は第六回全国協議会を開き、「武力闘争」を方針とする「五一年テーゼ」を否定した。一九五〇年に「|赤狩り旋風《マツカーシイズム》」を起こした共和党の上院議員ジョゼフ・マッカーシーは、その品性の下劣さがたたり、一九五四年に上院で「不品行非難決議」を可決され、一九五七年には死ぬ。スターリンの死は、あきらかに�時代の変化�を語るはずなのだが、しかし、そこで時代の�なに�が変わったのかはよく分からない。  ポーランドはソ連圏に留まったが、ソ連から逃れようとしたチェコには、ソ連の戦車が入った。「五一年テーゼ」を否定したといっても、日本共産党に対する警戒の目はなくならなかった。マッカーシー死後のアメリカから「反共」がなくなっていたら、ヴェトナム戦争は長期化なんかしなかっただろう。スターリンが死んで、「米ソの対立」がなくなったわけではないし、世界にはまだ「独裁者」がいくらでもいた。たとえば、スターリン死亡の前年に妻のエヴァ(エビータ)を亡くしたアルゼンチンの独裁者ペロンは、一九五五年に政権を追われてスペインへ亡命したが、そこはフランコ独裁の国だった。アルゼンチンにはその後も軍政が続き、ペロンは一九七三年に大統領として復帰する。「独裁者の時代」は終わらないのだ。なぜか?  スターリンは「病死」だった。ヒトラーやムッソリーニとは違い、倒されて死んだ[#「倒されて死んだ」に傍点]のではない。スターリンは恐怖されたが、寿命を全うして死んだ。スターリン以後の独裁者はみんなそうだ。第二次世界大戦後の独裁者達は、寿命を全うしない限り倒れない[#「倒れない」に傍点]。その意味で、彼等が高齢に達して死んで行く一九七〇年代の中頃が明確なる「時代の変わり目」になるのだが、しかしそうなって、「時代は変わった!」と言う人間はあまりなかった。高齢の独裁者達は、自分達の思想的営為をぼやかし、世界を曖昧にしたまま死んで行く。その傾向は、スターリンに始まる。  恐怖政治を実現させたスターリン最大の武器は、「思想」だった。「思想」を盾に取って、スターリンはその権力を万全にした。スターリンを倒すことは、「思想的な裏切り者」という非難を浴び、仲間から孤立することだった。だからスターリンは倒せない。「戦争の時代」は終わって、既に「思想の時代」になっていた。しかし、世界には思想を問う方法がない。だからスターリンは倒されない。方法は、武力対決だけだった。スターリンは、力で敵を倒す。「戦争にならない戦争」である冷戦の中で、軍拡競争は盛んだった。  「共産主義への恐怖」は、既に十九世紀からある。その恐怖は、「私有財産を否定する共産主義は、せっかく得た我々の財産を奪う」という恐怖である。しかし一方、共産主義は、「他人への痛み」を前提とする思想でもある。世の中には貧困に苦しむ人間がいる——それはなぜだろうと考えて、共産主義は多くの共感を得た。多くの金持ちの坊ちゃんが共産主義の影響を受けたのは、そのためである。一九四七年、非米活動委員会がハリウッドに手を伸ばしたのは、「ハリウッドは赤の巣だ」という声があったからだが、なぜそんな声は生まれたのか? ドラマというものが、「他人の痛みへの共感」を前提にしなければ成り立たないものだからである。であればこそ「赤を追放しろ!」と声高に叫んだマッカーシーは、その品性を問われた。共産主義が思想として画期的だったのは、そこに「他者」を発見していたからである。  「他者」をどう位置づけるか? あるいは、自分が「他者」として位置づけられたらどうするのか?——「他者」の存在を前提にして、新しい世界は開かれるはずだった。だからこそ、左翼思想の中から「女性運動」も生まれる。「男ばかりの世の中」に「女」としてある自分はどうなのか?——女性運動も「他者の位置づけ」なのである。だからこそ、これらの運動は反発を買う。多くの人間達にとって、「自分達の社会」は「自分達の社会」として一つであり、そこに「他者」などという異物が存在するはずはないからである。  もし、そこに「他者」というものが存在していたら、それはただ「敵」なのだ。自分を「搾取される貧者」と位置づけたら、「富める他者」は敵になる——「他者」を発見して、共産主義はたやすく「敵」を作った。「他者の発見」は、「愛の発見」であり、「不和の発見」であり、「敵の発見」でもあった。  それ以前、思想は孤独でもよかった。「他者」は、孤独で自由な思想者の妨害をする、不快な存在だった。リベラルの左翼嫌悪は、そのためだろう。孤独を前提にして自由だった思考は、「他者」と出会って戸惑っていた。しかし、「他者」は存在するのである。「他者」という不思議な要素の登場によって、その後の世界は、不思議な�対立�に覆われて行く。我々の現実は、ここから直接続くのである。 [#改ページ]       1 9 5 4  この年の三月、日本のマグロ漁船・第五福竜丸がビキニ環礁で操業中、アメリカの水爆実験に遭って被爆した。実験によって決められていた「危険区域」の外で操業していたにもかかわらず、である。  アメリカの核実験は、既に一九四六年から始まっている。それに遅れてソ連の核実験も始まった。第二次世界大戦後の世界で米ソの核実験は平然と続けられ、日本の広島で第一回原水爆禁止世界大会が開かれるのは、第五福竜丸が被爆した翌年の一九五五年だった。広島に原爆が投下されて十年がたたなければ、「世界から原水爆をなくそう」という声が明確にはならない。第二次世界大戦の終了から十年間、核実験の存在はあまり不思議がられず、野放しになっていたのである。  第二次世界大戦の終了直後にアメリカが核実験を始めた——つまりは、どこかの国相手に戦争をする気があった。そうでもなければ、「巨大な破壊力」以外に取り柄のない核爆弾を破裂させる実験をする必要なんかない。ということになれば、その仮想敵はもちろんソ連である——後の考えでいけば、こういう結論になる。しかし、アメリカが核実験を始めた一九四六年の段階で、「米ソの緊張」はそんなに表立っていなかった——チャーチルが�ソ連の脅威�を訴えたにしても。アメリカには、ソ連相手に戦争をする必然がなかった。やがて�緊張�が生まれ、「赤狩り」がマス・ヒステリアになっていた朝鮮戦争の段階においてでさえも、米ソ間には明確な全面戦争への意志がなかった。だからこそ、「戦争にはならない戦争」である冷戦は続いた。冷戦状態が進むにつれ、「あまりにも多すぎる核兵器が存在するから、うかつには戦争が出来ない」という状態が出現する。だからうっかりすると、「冷戦が核兵器や核開発競争を生んだ」ということになってしまうが、事態は逆である。「まず核実験があった、そして冷戦が来た」なのである。  第二次世界大戦後の核実験はなぜ始められたのか? 「それを使って世界征服を目指す独裁者がいた」というわけではない。一九四六年のアメリカに独裁者はいなかった。核実験は、独裁者的な侵略欲とは無関係に存在した。核実験を可能にするための第一要素は�豊かさ�で、核開発には莫大な金がかかる。だからこそ肥大した軍事予算は、一九八〇年代になって大国ソ連を凋落させる。問題は、「なんだってそんな意味不明なことに、莫大な金をつぎ込むことが出来たのか?」である。  第二次世界大戦の最終局面において、原子爆弾は登場した。日本に二発投下され、さしものしぶとい大日本帝国も、戦闘停止を決断した。ここから生まれるのが、「核の抑止力」という考え方である。今となっては死語でもあるこの言葉の根本にあるものは、「こんなすごいものを持っていれば相手はこわがるだろう」という論理である。「すさまじい破壊力のある爆弾を持っていれば、敵はこわがって戦争を仕掛けない。従って戦争に勝てる。戦争が起こる事態をも抑止出来る」である。しかし冷静に考えれば、こんなものがウソだというのはすぐ分かる。「こんなすごいものを持っているぞ」と脅されて、人間というものは、こわがりもする一方、「じゃこっちもなんとかして、もっとすごいものを持ってやる」と考える生き物だからである。だからこそ、米ソの核実験競争はエスカレートして、人類は地球を何度もブッ壊せるだけの核兵器を保有してしまう。  やがては「核の抑止力」という言葉も登場する第二次世界大戦後の世界で空しくなって行くのは、「武力侵略」という言葉である。「武力侵略」に価する事態があったとしても、「侵略」を非難される当事者は、「あれは�侵略�ではない」という種類の言い逃れをする。そんな言い逃れは以前にもあったが、第二次世界大戦後の特徴は、「言い逃れをしたら、もうそこで武力行為をストップさせなければならない」という新ルールが定着して行くことである。第二次世界大戦前の世界では、「侵略ではない、侵略ではない」と言いながら侵略がエスカレートすることは当たり前にあった。だからこそ、国家間の利害が衝突して全面戦争へと進んだのだが、第二次世界大戦後の世界では、さすがにそれがなくなった。つまりは、「武力侵略=NO」が常識として定着して行ったということである。  米ソが対立する第二次世界大戦後の世界に、「支配の構図」は確定されてしまった。そこに「侵略」は起こりえない。あるのは、「独立」に代表される、「支配からの離脱」である。もう「侵略」は重要事ではない。重要なのは、「侵略の抑止」であり、「既得権の確保」なのだ。「核の抑止力」という幻想は、そういう前提にのっとって存在し、であればこそ、「核実験」というデモンストレーションもありえた。つまり、第二次世界大戦後に登場した核兵器は、そもそもが「攻撃のための兵器」ではなく、「防御のため、侵略抑止のための脅しの兵器」だったということである。  既に世界は確定されている——だからこそ、ここで必要になるのは、「この秩序を乱してはならない」という「平和[#「平和」に傍点]原則の確立」である。ここから、「平和を守るための核」という、論理の逆立ちも生まれる。せっかく一九五五年に原水爆禁止世界大会が開かれて、しかしこの「原水禁大会」が、やがては「分裂」の代名詞のようにもなる。「核」という言葉と「平和」という言葉は、「どうしてそんな形で連動するの?」と思われるようなねじれ方をして、冷戦の時代をいたって難解なものに見せてしまうのだが、それはそもそも、第二次世界大戦後の核兵器が「防御のため」に生まれたものだからである。  第二次世界大戦後の世界では、論理が不思議なねじれ方をする。「平和を叫んで核を持つ」もその一つだが、なんだってそんなことになったのかと言ったら、答は一つである——つまりは、根本に居座った「被害者意識」のためである。だからこそ、第二次世界大戦後の世界は解読しにくい。  第二次世界大戦が終わって、それでもまだアメリカが核実験をしなければならなかった�理由�は、「ソ連あるいは社会主義の脅威をどうしよう?」だけである。「戦争をしたいから」ではない。「その脅威をどうしよう?」と考えて、核実験は始まった。被害者意識を持つ必要のない金持ち大国に被害者意識が生まれてしまった——根本の倒錯はこれなのである。冷戦以後の世界には�豊かさ�が溢れ、しかし、なんだか落ち着かなかった。その理由はなんだろう? その底に、不安な被害者意識が眠っていたからである。  第二次世界大戦後の世界では、被害者意識が加害者意識にとって代わった。「私は正しい。だから防御する」とだけ考えて、目の前の�相手�を直視しなかった。だからこそ不安は蔓延し、冷戦は続いた。その冷戦の時代、米ソは歴然と�豊か�だったのである。 [#改ページ]       1 9 5 5  第五福竜丸が被爆した一九五四年、日本には新しい�ヒーロー�が誕生した。ゴジラと、プロレスの力道山である。空襲の記憶がいまだ薄れず、核実験が当たり前のように行われていた時代、原水爆実験が呼び覚ましたゴジラは、「人間社会を破壊する恐怖」の象徴だったが、それと同時に、「既成のすべてをなぎ倒す力の象徴」でもあった。そういう時代があったことを、空手チョップで敵を倒す「勇者力道山」のブームは語っている。  同じ一九五四年、日本にはもう一つのブームがあった。NHKのラジオドラマを映画化したお子様向けのチャンバラ映画『笛吹童子』である。主役の中村錦之助はトップスターになり、製作会社の東映も大会社へと成長した。これをきっかけに、映画各社はチャンバラ映画のスターを続々と送り出すのだが、一九五四年の日本人を熱狂させるものに、「大人向け」と「子供向け」の区別はなかった。『ゴジラ』とてまた「お子様向け映画」であり、力道山は「よい子のヒーロー」でもあった。一九五四年の日本に、「大人と子供」の境を作るものはなかった。  翌一九五五年、二十二歳の学生・石原慎太郎が小説『太陽の季節』を書き、一九五六年には芥川賞を取る。�大胆な性描写�が物議をかもしてベストセラーになり、「戦後派《アプレゲール》——略してアプレ」としか呼ばれなかった若者達に、ようやく「太陽族」の日本語名が与えられ、その存在が明確になる。石原慎太郎の弟・裕次郎が「太陽族=若者」の中からスターとして登場し、「大人」と「子供」の間に、ようやく「若者」が生まれた。  海の向こうでは、もう少し早かった。十九歳のエルヴィス・プレスリーが歌手デビューを果たし、『悲しみよこんにちは』で十九歳のフランソワーズ・サガンが作家デビューしたのが一九五四年。同じ年、オードリー・ヘプバーンの映画『ローマの休日』も公開される。オードリー・ヘプバーンは二十五歳だったが、主人公のアン王女は十九歳だった。  「十代《テイーンエイジヤー》」が台頭して来るのは、第二次世界大戦中のアメリカである。二十歳を過ぎた若者達は戦場に行ったが、アメリカの十代と戦争は無関係だった。軍国主義はなかった。アメリカは既に豊かで、テレビ放送も始まっていた。うるさい大人達が戦争に気を取られているすきに、アメリカの少年少女達は自由で気ままな青春を謳歌し、戦後のティーンエイジャー文化の基礎を築いた。  やがて戦争が終わる。二十代の若者が社会に復帰し、世の中は本格的な活動を再開する。十代は再び「子供」の位置に戻され、しかしながら、彼等はもう「子供」ではなかった。大人でもなく子供でもない。十代最後の時は、『ローマの休日』のアン王女がそうだったように、「青春の終わりの時」でもあったはずだが、しかしそれが描かれた時、十九歳の若者達は、もうおとなしく「青春の終わりの時」を実演してはいなかった。  プレスリーは腰を振り、良識ある大人からすれば�下卑《げび》た�ロカビリーを歌い、そのまま「大人」にはならず、ビッグ・スターになった。フランソワーズ・サガンは、その以前から既に大人びている少女の持つ「大人への無感動」を書いた。十九歳は、「青春の終わりの時」ではない。それを証拠立てるように、十九歳の当事者達は、彼等自身の青春を表現していた。大人からすれば「青春の終わり」でもあるような時期——それは十代の若者達にとって、「やっと自分の思いが表現出来るようになった時」でもあった。  「大人と子供」の二分法しかなかったところに、「大人でも子供でもない十代」が登場する。一九五四年はそんな年で、その年にはもう一人の「十代」が出番を待っていた。ジェームズ・ディーンである。十九歳のプレスリーの歌声が流れ始めた頃、まだ無名のジェームズ・ディーンは二十三歳で、エリア・カザン監督のメガホンの下、映画『エデンの東』の撮影中だった。  一九五五年公開の『エデンの東』の中で、ジェームズ・ディーンの印象は古くならない。こんなに古くならない人は奇跡に近い。二十世紀が終わった後になっても、おそらく彼は「現代青年」のままだろう。ビートルズが登場した後、プレスリーの音楽は「一九五〇年代から六〇年代」という限定のついた音楽になったが、ジェームズ・ディーンと彼の演じたキャルは、そうならなかった。  エリア・カザンは、一九四七年の「赤狩り」の時、ハリウッドの仲間を売って生き残った監督である。一九九九年、彼は長年の功績を称えられ、アカデミー賞の特別表彰を受けたが、その会場にいたのは、彼を称える人間ばかりではなかった。スタンディング・オベイションがあって、しかし、座ったまま手を叩こうとしない者もあった。エリア・カザンだって、好きで仲間を売りたくはなかっただろう。しかし、彼には仲間を売ってでも撮りたかった映画があったのだろう。『エデンの東』はそんな一本と思える。  父親に愛されない息子がいる。なにをしても父親に誤解される。すねている、素直じゃないと言われ、「愛されたい」と思う彼の心は萎縮してしまう。そんな青年はどこにでもいる。別に十代の時期に限ったものではないし、一九五〇年代に限ったものでもない。なにしろ主人公キャルの青春は、「一九一七年当時」のものなのだ。第一次世界大戦中でロシア革命の起こった年——そんな時代に、彼の孤独を父親は理解しなかった。世界を狂わせたヒトラーだって、その頃にはまだ二十八歳の青年兵士だった。厳格な父の下に育ったヒトラーが、その当時にこの映画を見ていたらどう反応したか?  「愛されたい」と「愛されない」は、人間の永遠のテーマでもある。ジェームズ・ディーンのキャルが登場した頃、アメリカ人は冷戦に忙しかった。日本人は、貧乏からの脱出に忙しかった。そんな中に、親や周囲や社会とのギャップを感じ、ぼんやりとする以外のない若者がいた。「愛されたい、受け入れられたい」と思う者がいて、しかし、大人達は忙しかった。十代の少年少女の胸の内は、既成の価値観に従う大人達には理解されず、受け入れられもせず、彼や彼女は「孤独」を守るしかなかった。  そんな理解されない若者を演じて、一九五五年、ジェームズ・ディーンはスターになった。そしてその年の九月、未公開の二本の映画『理由なき反抗』と『ジャイアンツ』を残したまま、交通事故で世を去った。死んだジェームズ・ディーンの影響は、世界中の若者に及んだ。その後の男性スターの多くは、ジェームズ・ディーンの影響下にいる。彼は「永遠」なのである。彼の見せた「孤独」は、その後も古くならなかった——ということはすなわち、「若者を受け入れない父達の社会」も、まだまだ健在だったということである。  ジェームズ・ディーンが出て、そして、世代の対立も明白になる。 [#改ページ]       1 9 5 6  一九五六年は日本の昭和三十一年である。「もはや戦後ではない」という言葉が、この年の『経済白書』に登場する。「敗戦から十年が過ぎ、十一年目の日本はもう廃墟の中に低迷する�戦後�ではない。経済的に�復興�の段階は過ぎた、後は�成長�である」ということだろう。「もはや戦後ではない」はやがて流行語となるが、しかしこの表現は、経済企画庁の役人が考え出したものではない。英文学者で評論家の中野好夫が、この年の初めに出た雑誌『文藝春秋』に書いた原稿のタイトルの流用あるいは引用である。  中野好夫の書いた文章のタイトルは、『もはや�戦後�ではない』だった。「戦後」という言葉に特殊なくくりがしてある。中野好夫は、「昭和二十年の敗戦以後に起こった雑然たる現象をすべて�戦後�という言葉でくくり、なんでも�戦後だから�で特殊化するのはいい加減にやめよう」という趣旨のことを言っている。中野好夫は、「日本には�戦前�の状態をノーマルと見なし、�戦後�をそこからはずれた異常時期とする風潮が明らかにある」ということを前提とし、だからこそ、「現在を�戦後�として特殊化せず、この現実を前提とした未来を考えるべきだ」という結論に至る。中野好夫は、「戦後」を肯定的に見ているのである。その点で、「戦後」を「復興を必要とするただの通過期間」と見て「さっさと終わらせたい」と思う『経済白書』とは、立場が根本的に違うのである。  しかし、中野好夫的な考え方はすぐに消える。日本人の多くは、経済企画庁的に「戦後=特殊=貧乏」をさっさと終わらせたかったのだ。だから昭和三十一年という年は、『経済白書』を例に取り、「この年、�もはや戦後ではない�が流行語になった」と記述されることが多い。しかし、現実は政府の思惑通りになったのか? 「�もはや戦後ではない�が流行語になったのは、『経済白書』の記述から二年ほどたってから」という説もある。自分たちの現実が「復興途中」にあるのかどうかは、その当事者たる国民がよく知っている。国民が、慣れてしまった戦後の生活スタイルに対して、「いつまでも古臭くケチケチしてるのはいやだ」と思った時、「もはや戦後ではない」は流行語として定着する。  「�戦後�は終わった。しかし�戦後�の持つ意味は空洞化された」——それが一九五六年の日本でもあろう。「戦後」でしかなかった日本には、安定がやって来た。政治がまず安定した——であればこそ、「もはや戦後ではない」も登場するのだろう。  この前年、政治の世界では「保守合同」が成立した。自由党と日本民主党の二つに別れていた保守政党が合同し、その後の日本で�永遠の与党�として位置づけられる自由民主党が誕生した。与党としての自由民主党と、野党としての日本社会党——戦後政治の原型ともなる「五五年体制」の成立である。  一九四〇年、時の総理大臣・近衛文麿は、「戦争遂行のための新体制運動」を提唱し、その時から日本に政党はなくなった。あるのは、大政翼賛会の中の「なんとか派」だけである。だから、日本の政治を立て直すためには、政党を復活し、選挙法を改正し、総選挙をやらなければならない。一九四五年の終わりには政党が復活し、総選挙は一九四六年の四月と決定された。それまで内閣は、戦前の�指名方式�である。  一カ月と少しの間、皇族の東久邇宮《ひがしくにのみや》が首相を務め、やがて戦前の外交官・幣原喜重郎《しではらきじゆうろう》が首相になった。そして総選挙。保守系は、町田忠治《まちたちゆうじ》を総裁とする日本進歩党と、鳩山一郎を総裁とする日本自由党の二つ。日本進歩党は、幣原内閣の与党であり、後の日本民主党である。  総選挙の結果、鳩山一郎を総裁とする日本自由党が第一党になった。鳩山は日本の首相になるはずだったが、しかし、その彼が公職追放にあう。政界を追われる鳩山は、幣原内閣の外務大臣・吉田茂に後事を託して、政界を去った。吉田茂は日本自由党の総裁となり、首相となった。やがて吉田は、日本自由党に日本民主党の一部を加えて民主自由党とし、更には自由党へと変えて、政界に君臨し続けた。そして一九五一年、日本とアメリカがサンフランシスコ講和条約を調印する一カ月前、鳩山一郎の追放が解除になる。  政界に復帰する鳩山一郎は、当然のことながら、吉田茂に譲った与党総裁と首相の座を、「返せ」と要求する。吉田茂は、鳩山の病気を理由に「NO」と言う。二人は反目して、自由党内部に派閥争いの嵐が起こる。一九五五年の「保守合同」とは、要するに、この鳩山・吉田の�手打ち�だった。  「自由党と日本民主党の二つが一緒になる保守合同で、どうして自由党の派閥争いが問題になるのか?」というのは、日本の保守政治のあり方を理解しないものである。それを言うならば、そもそも鳩山一郎が日本自由党総裁の座を譲った相手は、日本民主党(日本進歩党)系の閣僚・吉田茂だったのである。日本の保守政党において、政党とは派閥の別名なのである。喧嘩がひどくなれば別れる。収まれば一つになる。ただそれだけのことである。自由党に戻った鳩山一郎は、やがて党を割って独立。いろんな人間が出たり入ったりして、一九五五年、すべてが一つにまとまる「保守合同」となる。保守系政党の合同によって自由民主党が成立し、一九五六年、鳩山一郎はその初代総裁となった。  しかしところで、一九四六年に公職追放にあった鳩山一郎とは、どんな政治家だったのか? 吉田茂より五歳年下の鳩山一郎は、政治家としてのキャリアは吉田茂より長かった。一九三〇年、政友会の議員として、政府が調印した海軍軍縮条約に反対した。その理由は、「国防計画とは天皇の統帥権《とうすいけん》に属するものなのだから、政府が軍縮などやってはいかん」ということである。とても政党政治家の発言とは思えない。一九三三年の「滝川事件」では、京都大学の刑法教授・滝川幸辰《たきがわゆきとき》の罷免を要求し、大学の自治を踏みにじった文部大臣が彼だった。そういう人だから、公職追放にあっても不思議はない。そして、そういう人が、もはや戦後ではない[#「もはや戦後ではない」に傍点]一九五六年に、安定多数を確保した与党の総裁になったのである。それを誰も不思議に思わなかったことが、私にはとっても不思議である。  鳩山一郎が不在の間、政局は吉田茂のものだった。アメリカ第一主義の吉田茂は、国会で平然と「バカヤロー」を叫ぶ、傲慢なワンマン総理だった。「悪役・吉田」のイメージが定着して、その反作用として鳩山一郎が「上品」に見えたのかもしれない。彼の後には、新たなる「悪役」岸信介《きしのぶすけ》も現れる。この自民党総裁は、戦争中の東条英機内閣で国務大臣を務め、A級戦犯としての追放を受けていた。日本には、他に人材がいなかったのか?  戦前をよしとして、「戦後よ早く去れ」と言う。この年、評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」と言ったが、「なるほどな」である。 [#改ページ]       1 9 5 7  一九五七年の十月、ソ連は人類初の人工衛星スプートニク一号の打ち上げに成功した。十一月には、ライカ犬を乗せたスプートニク二号も地球の周りを回った。その時、私は小学校の四年生だった。他の多くの男の子達と同じように、少年雑誌に連載中の『鉄腕アトム』やその他のマンガの熱心な読者だった。  人工衛星が空を飛んだ翌月、少年雑誌の発売日に本屋へ行ったら、店の天井から人工衛星が吊るしてあった。自分がいつも買っている『少年』という雑誌の発行元が、宣伝用にそういう飾りを作って、各地の本屋に配ったのだ。人工衛星の下には『少年』のノボリがくっついていて、それを見た小学四年生の私は、「いつも『少年』を買っていてよかった」と思った。自分と人工衛星がいたって近しい関係にあることが、誇らしかったのである。  人工衛星が飛んで、夕暮れの早まる冬の頃がやって来る。友達と遊んでいると暗くなり、誰かが空を見て「人工衛星!」と言った。金色の輝きが、確かに夕暮れの空を動いていた。なんだかすごいものを見たように思った。自分達の上には人工衛星が飛んでいて、自分達は本物の人工衛星の下にいるのだと思うと、「もうすぐ宇宙旅行だ」と思えた。思えたがしかし、誰も宇宙旅行のことなんか具体的に知らない。それで、ただ「すごい……」と、首が痛くなるまで空を見上げていた。飛行機が飛んでいてさえ、「あ、飛行機」と空を見上げ、いつまでもその後を目で追い続ける子供だらけの時代である。自分やその家族が飛行機に乗るなどということは、夢のまた夢。そんな時代の人工衛星は、ただ「すごい……」という判断停止しかもたらさない。  自分達は金色の夢の下に立っていると思う子供達は恍惚としたが、しかし、当時の大人達にとって、「人工衛星」とはなんだったのか?  当時の私が買っていた『少年』という雑誌には『鉄腕アトム』が連載されていて、そこではもう、人工衛星や宇宙ステーションが当たり前だった。「空想科学小説」という子供向きの読み物もあった。そういうものが好きな私にとって、「人工衛星が飛ぶ」ということは、「自分の知るおとぎ話の世界へ現実が一歩近づいた」ということである。子供は、そういうことを体感的に捉えて、「すごい!」と思う。しかし、大人はおとぎ話の外にいる。世間には、『鉄腕アトム』の科学省長官・お茶の水博士のような人はまずいない。世間のおじさんにとって、「人工衛星が飛んだ」は、ただの「へー……」である。科学技術庁という役所さえもまだなかった。だもんだから、「初の人工衛星」の新聞記事を見た子供の私は、「大人にとって、人工衛星《おとぎばなし》はどんな意味を持つのか?」と考えた。そして、「なんでソ連なの?」という余分なことさえも考えた。  戦後生まれの私は、アメリカの進駐軍文化の影響下で育った。世界で一番進んでいるのはアメリカで、だからこそ、世界初の人工衛星も、まずアメリカが打ち上げるもんだと思っていた——だから、「ソ連の人工衛星」と知った時、「なぜ?」と思った。ソ連の人工衛星は成功して、しかし、アメリカの人工衛星はなかなか空を飛ばなかった。ソ連製のスプートニク一号は、銀色の球体から三本か四本の細い脚が横に出ているものだった。私は、それをカッコいいと思って、やたらと紙の裏に描いた。粘土を丸めて棒を刺し、「人工衛星」を作った。しかし、ソ連に三カ月遅れたアメリカの人工衛星は、円錐形のカプセル状だった。それを見て私は、「なんかカッコよくない」と思った。そこには、「モタつくアメリカのカッコ悪さ」もあったのだろう。極東の島国の小学生でさえ、そんなことを考えていた。当のアメリカ人にとっては、これがとんでもなく深刻な事態だったのである。  人類初の人工衛星を打ち上げる二カ月前、ソ連は世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の実験成功を発表した。ソ連は、遠く離れたアメリカ本土にまで、直接ミサイルを打ち込むことが出来るようになった。アメリカは、まだその実験に成功していなかった。だから、アメリカの科学者達は嗤《わら》った——「ソ連にそんな科学力があるはずはない」と。その二カ月後が、「初の人工衛星成功」である。アメリカは本気でショックを受けた。「負けるもんか」と、アメリカが人工衛星の打ち上げを計画する内、ソ連はさっさと犬まで飛ばした。しかも、アメリカのロケットは打ち上げに失敗。ソ連の二カ月遅れのはずが、三カ月遅れになった。これに焦ったのは、アメリカの軍事関係者である。  アメリカの国防総省は、「こうなったら月に軍事基地を作るべきだ!」と主張した。ほとんどマンガだが、これを当時の大統領アイゼンハワーは呑んだ。だからこそ、翌一九五八年の七月に、アメリカ航空宇宙局(NASA)は発足するのである。その設立の目的は、「月に軍事基地を作ること」——それは、宇宙人の侵略から地球を守るためではなく、ソ連の大陸間弾道ミサイルの脅威からアメリカを守るためである。  子供の考える宇宙開発と、大人の考える宇宙開発はずいぶん違うが、よく考えれば、子供の方がまともである。「負けるもんか!」の勢いだけで生きている大人達は、時として、子供より愚かで、現実感覚を喪失している。  アメリカはNASAを作った。しかし、アメリカの宇宙開発は、ソ連よりずっと遅れた。NASAが出来て三年目の一九六一年四月、ソ連はガガーリン少佐を乗せた宇宙船ボストーク一号を打ち上げ、地球を一周させる。一カ月遅れで、アメリカも人間を宇宙に上げたが、シェパード中佐を乗せたフリーダム一号は、地球の周りを回れなかった[#「回れなかった」に傍点]。ガガーリン少佐は一時間以上宇宙にいたが、シェパード中佐は十五分——「上がってそのまま落ちる」という宇宙飛行だった。負けが歴然のアメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、「一九六〇年代末までに、人を月に着陸させる!」と宣言した。一九六九年七月における、アポロ十一号の月面着陸は、ガガーリン少佐の宇宙飛行から直接続くのだが、アメリカは失敗続きで、ソ連は着実にポイントを稼いだ。  一九六二年、二基の宇宙船がドッキング飛行。一九六三年、初の女性飛行士テレシコワ。そして、一九六六年の無人探査機ルナ九号の月面軟着陸へと続く。我々が「NASA」という名前を明確に知るのは、一九六九年のアポロ十一号以来だが、NASAはガガーリン少佐以前に存在して、ただ存在し続けていたのである。  一九六九年、人類は月へ行った。アメリカのメンツはどうやら立った。しかし、今度はソ連の経済状態があやしくなって来る。つまり「対ソ政策」で続いて来た宇宙開発は、その必然性をなくすのである。宇宙開発はどうなるのか? ヤケっぱちの大人は、「月に行く」だけを考えて、その先を考えていなかった。人類は月を越えない。月へ行く必然性さえ、あったのかどうか。一九五七年、子供は小さな金色の夢を見て、しかし大人は、どうやらそうじゃなかったのである。 [#改ページ]       1 9 5 8  一九五七年、大阪の私鉄駅前に一つの店がオープンした。「主婦の店ダイエー」——後に流通の雄となるスーパーマーケット、ダイエーの誕生である。その店がどうなるのかは、まだ分からなかった。しかし一年後の一九五八年十二月、「主婦の店ダイエー」の二号店は、神戸の三宮にオープンした。日本のスーパーマーケット=安売り時代の夜明けとなる、ダイエーのチェーン店化の開始である。  それまで、日本の商品流通の頂点に立っていたのは、高級百貨店と老舗だった。ここでは、必要な物を必要に応じて、しかるべき値段でしか売らない。売る側の敷居が高いから、買う側は、売る側の設定したレベルに達する努力をしなければならない。それが出来なければ、買う店のランクを下ろさなければならない。「安かろう、悪かろう」という言葉は、そんな時代の秩序をあらわす言葉でもあった。  復興の後、商品への需要は順調に伸び、それを背景として、商品の値上げラッシュも始まる。物の値段は上がる。しかし、売る側と買う側の関係はまだ一定だった——つまり、消費者は売る側の言いなりになっていたということである。  安い物はほしい。しかし「安かろう、悪かろう」への危惧もある。と同時に、そこにはまた、「安いということだけにつられて走るのは恥ずかしい」という、いたって日本的な美意識の存在もあった。  敗戦の焼け跡から「復興」を遂げた昭和の三十年代は、二十世紀の日本で最も穏やかに安定した時代だったはずだが、それでは、日本人の達成した「復興」とはどのようなものだったのか? アメリカの進駐軍がなにを考えようと、敗戦の焼け跡で日本人が思う「復興」とは一つ——「かつての生活レベルへの回帰」である。  戦争中の日本では、�なにか�が極端だった。それが戦争を招いた原因であるのなら、その�なにか�を除いて、自分達の知る生活へ回帰すればよい——戦後の日本人にとっての「復興」とは、それだった。中野好夫が「戦後」を肯定的に捉え、経済企画庁が「もはや戦後ではない」と言った昭和三十一年、その日本にあったものは、「軍国主義ではない戦前の日本」だったのである。そこにはまた、戦前以来の日本人の中流生活文化とモラルもあった。昭和三十年代の穏やかさの正体とはそれだろう。  「主婦の店ダイエー」が登場した頃、商店街と住宅街は共存していた。生活の安定し始めた日本で、住宅街の人口は増え、それと共に、住宅街のはずれにあった商店街の売上も伸びた。昭和の三十年代は、商店街の黄金時代でもあった。住宅街の中には、必ず「お屋敷」と呼ばれる中流以上の家庭があって、これを頂点とするような形で、生活文化の序列は出来上がっていた。「お屋敷の住人は、きちんとした値段でそれなりの物を買う」という評価基準が出来上がっている中で、「安売りに走るのは貧乏人」という、中流の美意識も確定される。この自己規制の文化の壁が、住宅街におけるスーパーマーケットの発達を妨げるのである。  しかし、その住宅街もやがて満杯になる。「住宅街=いい所」という評価によって、住宅街の地価も上がる。工業の発展と共に都市部の人口は増加し、結婚した男女の新家庭も増える。住まいを必要とする新住民のために、かつての「住宅街」とは離れたところで、団地という集合住宅の建設ラッシュが始まる——それもこの時期である。電車の線路を持つ電鉄会社は、宅地の造成を始め、近郊の農村地帯にも住宅建設は広がる。そこに土地はあり、電車の駅もある。通勤圏は広がるのだが、しかし、自給自足を前提とする農村地帯には、商店街の必要があまりない。そこに商店街が出来上がるスピードを越して、住宅地だけは出来上がって行く。その新住民達の生活は、なにによってまかなわれるのか? だからこそ、昭和の三十年代が進むにつれ、住宅以外になにもないような新開地に、スーパーマーケットは出現し、増殖して行くのである。  「駅前にスーパーがある」と「不便ながらも」を一対の条件のようにして、日本人の住宅エリアは広がって行く。戦後の新しい生活スタイルは、スーパーマーケットと共に、かつての生活習慣を保ったままの住宅街から離れたところで確立された。  スーパーマーケットにはなんでもある。値段が安い。ここに、安売りを忌避する住民はいない。安売り以外の選択肢もない。「スーパー」と短縮されるスーパーマーケットは、やがて食料品と生活雑貨の他に衣料品を扱うようになり、流通の王者となる。各地に存在するスーパーは、住民の需要に合わせた「手頃なデパート」のようになって、やがては百貨店を追い抜いて行く。スーパーは栄え、そしていつの間にか、「スーパーはそんなに安くない」という声も広がって行く。  大量仕入れによる大量販売で、商品のコストを下げたスーパーマーケットは、いつかそれ自体が中流化し、「安売り」から「商品の安定供給」へと目的を移してしまう。それはまた、スーパーの中途半端な高級化の始まりでもあった。  どこへ行ってもスーパーはある。どこへ行っても、商品はほぼ一定している。やがて、消費は娯楽の一種として位置づけられ、消費者は差異化を求める。「激安店」の登場であり、「高級ブランド志向」の一般化である。「バブルがはじけた」と言われる一九九〇年代には、その傾向が顕著になった。そしてその時はまた、ひたすらの成長を遂げて来たスーパーマーケット業界が、過剰投資のツケにあう時である。  イギリスに起こった産業革命によって、人類は「大量生産」を可能にした。必需品が大量に生産されれば、物の値段は安くなり、人の生活は便利になる。しかし、これは物事の一面である。少ししかない貴重品が大量に生産されれば、必需品ともなる。しかし、その必需品がなおもまだ大量に生産され続け、売られ続けたら、それは不用品になるだけである。不用品は捨てられて、ゴミの山となる。産業革命以来一直線に続いて来た人類の歴史は、二十世紀の後半になって、「ゴミ」という重大な障害にぶつかるのだが、これはまた、スーパーの歴史でもあろう。  必要なことは、生活必需品の安価にして安定した供給だった。しかし、日本人は、それで満足しなかった。物を買い続け、買わせ続けて、ついにはゴミの山となった。「それが達成された後に必要なのはなにか?」を、昭和三十年代の日本人に問うのは酷かもしれない。しかし、生活にモラルがあったのは、この時代までだった。生活必需品の安定供給が可能になった後の日本人は、浪費の道を歩むしかなかった。そのための防止措置が必要だったのは、「戦後=戦前」のレベルを達成したはずの、この時期だけだったのである。  まだ貧しく、だからこそ無限の消費成長が信じられた一九五八年、「スーパーの時代」はゆっくりと幕を開け、そしてそのまま、日本とスーパーは壁にぶつかるのである。 [#改ページ]       1 9 5 9  一九五九年四月十日の午後、小学校六年生になったばかりの私は、学校の授業が終わると、そのまま家へ飛んで帰った。家から学校までは道一本、たいした距離ではない。走って帰れば、皇太子殿下の御成婚記念パレードのテレビ中継に間に合う——それで走ったのである。私の家は、駅へ続く商店街と住宅街の境目にあった。午後の人通りは、普段でもそう多くない、しかし、「人っ子一人いない」という光景に出っくわしたのは、その日が初めてだった。本当に人の姿がなかった。  帰って、テレビの置いてある部屋に飛び込んで、少し意外だったのは、そこに誰もいなかったことである。私の家は商売をやっていたから、各人は自分の持ち場についている。昼間の日本人は働いているのが当たり前だから、昼間からテレビをつける習慣などない。そんなことをしているのがバレたら怒られる。私は別に皇室に関心があったわけでなく、ただ、お祭り騒ぎが好きなテレビっ子というだけだったろう。特別なその日には大っぴらにテレビをつけられるという、そのことに興奮していたのかもしれない。  普段の日の午後二時を過ぎたら、もうテレビはやっていない。私がテレビをつけ、「始まってるよー」と家族を呼びに行くと、近所の人もやって来た。「テレビを見せてください」である。何人もの人間がテレビの前に正座して——別にかしこまってのことではなく、それが当時の当たり前の作法だった——そうして「国民的行事」は始まった。  昭和三十四年——一九五九年の皇太子御成婚を機会にして、そのパレードの中継を見たいと思う人達がテレビを買い、それで日本中にテレビが普及したという話は、有名である。それを後に知って、「へー」と思った。東京の山の手にあった私の家に、まだ「テレビを見せてください」と言う近所の人は来ていたからである。  私の家には、割合早くからテレビがあったから、テレビでプロレスの中継がある時には、近所の人が「テレビを見せてください」と言ってやって来た。電気を消して暗くした部屋の中で、二十人ほどの人達が正座して肩を並べてプロレスを見るという、日本の戦後史に有名なシーンを自宅で経験していた。そして、その時の私にとって不思議だったのは、「人はプロレスにしか関心がないのだろうか?」ということだった。  CMの時間になると、私は「他に変えていい?」と言って、裏でやっているお笑い番組にチャンネルを合わせてしまうのだが、居合わせた人の誰もが、それに興味を示さない。カチャカチャとチャンネルを変えるのがあまり行儀のよくないことだと思う以前に、「他はなにやってるんだろう?」と思う私の好奇心は抑えられないのだが、他の人はどうもそうじゃない。プロレス以外にも「見せてください」という訪問者はあったのだが、どうもその番組は決まっている。「あるテレビ番組を見たい」というのはあっても、人はまだ「ダラダラとテレビを見続ける」という習慣を持っていなかった。  電気代のせいもあったかもしれない。  夕方までマンガを読んでいて、暗くなって来たので電気をつけると、「まだ明るい!」と怒られた。当時の日本人は、日没まで電気をつけなかった。  当時の日本人は、あまりテレビに関心がなかったのかもしれない。私の親や祖父母や同居の叔母には、夕食後いつまでもテレビを見続けているという習慣がなかった。そんなことよりなにより、「テレビを見る」ということをしてしまったら、他になにも出来ない。「電気代がもったいない」が当たり前の時代に、テレビをつけっぱなしにして他のなにかをしている——今の「ながら視聴」はありえない。働き者だった当時の日本人は、仕事の途中にラジオを聴いていた。  ラジオを聴きながら仕事をしていたのだから、「ながら視聴」がないわけではない。しかし、テレビとなると、仕事の手を止めなければならない。「テレビ鑑賞」という言葉さえも生まれる時代である。テレビとは、注意を集中して見るものであり、それをしていたら他のことがなにも出来ないものでもあった。勤勉な日本の大人達には、テレビを見続ける必然がなかったのである。テレビがまず子供達の間に浸透して行ったのは、当然のことかもしれない。  当時のテレビ一台の値段は、一家の年収ほどもあったはずだから、「金がないからテレビは買えない」という家庭は、当然あった。しかし同時に、金はあってもテレビを買わない家はいくらでもあった。「皇太子御成婚」のような特別の時にだけ、「ちょっと見せてください」と近所の家に行けばいい。テレビがなくても「豊か」と思える家はいくらでもあったし、その反対に、アパートの一室で暮らす一家がテレビを持っていたりもした。「テレビがある」ということと、その家の経済状態とは、必ずしも一致しなかった。テレビがあることによって「貧しい」を感じさせる家だって、いくらでもあったのである。  年収分に相当するテレビを買う手段として、「月賦《げつぷ》」という分割払いもあった。当時の習慣として、「月賦で買う」ということは「貧しい」に属することだったから、「月賦までしてテレビを買いたいとは思わない」と言う豊かな人もいれば、月賦でさっさとテレビを買ってしまう貧しい人だっていたのである。  子供の頃の私は、いろんな家に勝手に上がり込んで、家の人に遊んでもらっていた。遊んでもらうということは、その家の人とつきあうことである。家の中で働きながら、勝手に遊びに来た子供とつきあってくれる大人はいくらでもいた。私の家は菓子屋で、テレビもあるから、「テレビ見るかい?」とか「お菓子食べるかい?」は、実のところあまり意味を持たない。勝手に他人の家に上がり込む私にとって、他人の存在そのものが娯楽であり、魅力とは、その人の持つ生き方の豊かさだった。  テレビがなくても生きていられる——その豊かさを持つ日本人はいくらでもいた。だから私は飽きなかった。だからこそ、「テレビがある」以外にはなにもない人の持つ�貧しさ�を、感じ取ってしまったのかもしれない。テレビを見ているだけの人は、テレビを見ているだけで、遊んではくれないのだ。  皇太子御成婚パレードを機会にしてテレビが普及したというのは、事実だろう。その翌年、私が中学生になった時には、「学校へ行って友達とテレビの話をする」という習慣が定着していた。しかし、今にして思えば、かの有名な「皇太子御成婚のパレード」を、たった一人の家の中で見ていた主婦も、かなりの数でいたということになる。「新婚の夫が無理して月賦でテレビを買った」という幸福があって、しかし、「近所の人間が一つのテレビの前に集まって息を凝らし、その�事件�を共有する」という習慣のあった時代に、それは寂しいことだったかもしれない。テレビの普及は、日本人の孤独と貧しさの始まりとも重なりうるのである。 [#改ページ]       1 9 6 0  一九六〇年は、日米安全保障条約の改訂、調印、批准《ひじゆん》の流れの中で、日本が「安保反対!」の声に大きく揺れた年である。  「安保改訂」を至上命令のごとく思う総理大臣・岸信介は、「反対!」を叫ぶ人の波が国会議事堂の周りを十重《とえ》二十重《はたえ》に取り囲む中で、強行突破の成立を図った。「反対!」を叫ぶ中心が左翼陣営にあるのは当然だが、この条約改訂を成功させ、しかし辞任せざるをえなくなった岸信介は、右翼[#「右翼」に傍点]の暴漢に脚を刺された。その時の彼の言葉は「医者を呼べ!」だったが、松の廊下で浅野《あさの》内匠頭《たくみのかみ》に切りつけられた吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》のような言葉を知って、多くの国民は嗤った。  戦前の通産官僚で、汚職の過去を持ち、A級戦犯として追放された後に復活したこの人の評判はよくない。なんでそんな人が総理大臣になっていたのかということも含めて、日米安全保障条約とそれをめぐる騒ぎは、日本人の上に大きくのしかかった「不可解」の最たるものであろう。  一九五一年九月、時の内閣総理大臣・吉田茂は、サンフランシスコで対日平和条約——つまり「講和条約」の調印をした。日米安全保障条約も、この時に締結された。  講和とは、戦争終結のための条件を決め、戦争状態の終結を確定することである。だから、それ以前の日本と諸外国は、形式上�戦争状態�にあった。アメリカの占領軍もそれでいたのだが、その状態が終わる。�独立�とはつまり、戦争状態の整理終結なのである。  この条約締結のための講和会議に、中華人民共和国政府と台湾政府——どちらの中国も招かれなかった。ソ連は、出席しても条約に調印しなかった。だから、この講和条約の調印後も、それらの国とは形式上の�戦争状態�は続いて、終止符を打つためには、別個の平和条約を結ばなければならなかった。太平洋戦争以前に戦争状態に突入していた中国との「戦争終結」はかくして後に持ち越されて、それが終わるのは、一九七二年の日中共同声明。ここでやっと日本と中国の�戦争状態�は終わるのだが、別に日本と中華人民共和国政府がそんなに長い�戦闘�を続けていたわけではない。ただ知らん顔をしていただけである。「知らん顔をしているだけでも戦争状態」——国際常識は、�戦争�とか�緊張�をそのようにも規定する。  サンフランシスコ講和会議にどちらの中国も招かれなかった理由は、アメリカが台湾政府を中国の代表と見なし、しかしイギリスが中華人民共和国政府を中国として承認したからである。「冷戦」とか「社会主義国との対立」はあっても、既にイギリスは、中華人民共和国という社会主義国家を認めていた——そういう事実もある。社会主義・中国が招かれない講和会議に欠席しなかった[#「欠席しなかった」に傍点]ソ連が、この条約の調印を拒否したのは、千島・樺太の領土問題をはじめとする�自国の不利益�を前提としてのことである。そういう事実もある。ソ連が�欲深�であったにしろ、アメリカの思う�緊張�が、世界の正確な姿であったかどうかは分からないのだ。  サンフランシスコ講和条約の締結前、既に日本には、「交戦権の放棄」を明記する新憲法が存在していた。憲法の規定によって軍隊を持たない日本は、その防衛のため、引き続きアメリカ軍の日本駐留を依頼する[#「依頼する」に傍点]——そういう形式を踏んで、日米安全保障条約は結ばれた。しかしおかしなことに、一九五一年のこの条約に、「アメリカには日本を防衛する義務がある」とは書かれていなかった。「アメリカは、日本に軍隊を配備する権利がある[#「権利がある」に傍点]」というだけである。アメリカ軍の基地を日本に置いて、日本にどんなメリットがあるのかということになったら、分からない。まるで江戸時代の不平等条約だが、一九六〇年に改訂・調印となる日米安保条約の目的は、「アメリカの義務」を明記することだった。  日本の議論の最大特徴は、私に言わせれば、「噛み合わない」である。噛み合わないまま単純な「二者択一」となって、結局は声の大きい方が勝つ——だからこそ、一九六〇年の国会に「強行採決」はあった。なぜ日本の議論が噛み合わないのかと言えば、議論をする日本人同士が、「なにを議論しているのか」を明確に把握しないからである。議論の破綻と混乱に疲れ、強引なる「二者択一」に持ち込まれてしまう。  一九六〇年の安保改訂は、「アメリカに日本防衛の義務を負わせる」だから、趣旨から言えば�改善�である。�改善�して、アメリカは日本のさらなる協力を求める。それに対して「反対」と言ったら、「日本はアメリカに基地を貸しっぱなしでいいのか」ということになる。しかし、「反対」の趣旨はそうではない。「アメリカに基地を貸し、その結果、冷戦構造の中でアメリカの片棒をかつぐのはいやだ」である。そしてそういうことになると、話は決定的にずれる。「冷戦構造でアメリカの片棒をかつがないお前は、ソ連や中国の片棒をかつぐのか?」である。そしてもう一つ、「アメリカに守ってもらわないで、どうして冷戦構造の脅威から日本を守るのか?」である。話はここから憲法論議に発展することになって、「日本には憲法第九条がある」が登場する。そうなると、話はまるで、「憲法の条文が日本を守ってくれる」とでもいうかのごとき観念論になって、普通なら出て来ていい、「憲法第九条を前提にして、外交努力をする」という話がまず出て来ない。なぜかと言えば、外務官僚を擁する与党にそういう発想がないからで、外交とは縁のない野党にとっては、「外交」もまた観念論でしかない。おかげで、日本の外交は進歩しないまま、再軍備待望論の方へと行く。  再軍備待望論の中心は、「独立した国家に軍隊がないのはおかしい」なのだが、しかしこれは、「日本が軍隊を持ってアメリカの基地=軍隊を追っ払う」というメチャクチャなところへは行かない。再軍備待望論は、「日本も軍隊を持って、アメリカと共に日本を守ろう」というへんなところへ行く。こうした議論のずれが起こる理由は、冷戦構造の一極を構成するアメリカの世界観を、日本が平気で自分の世界観の前提としてしまっているからである。  なんでそんなことになるのかと言えば、一九五一年における吉田茂の講和=独立が、「アメリカの指導」を前提としたものだからである。だからこそ、この安全保障条約には「アメリカの義務」がない。そして、なぜそんなことがまかり通ったのかと言えば、敗戦までの日本に、軍部ファシズムに対抗しうる有力な勢力が一つもなかったためである。「アメリカは、日本をファシズムから救ってくれた」——この前提を引き受けてしまうから、日本には�自我�がない。「アメリカとの協力」もいびつになる。  アメリカは日本の�矛盾した親�で、ファシズムを追うが、やがてはファシズムに加担した戦犯達をも救う。日本は独立したが、矛盾した親《アメリカ》からの�精神的自立�を理解しなかった。自立がないから、すべての議論は依存の中で空回りする。真相はこれだろう。 [#改ページ]       1 9 6 1  一九六一年は日本の昭和三十六年——前年末に総理大臣・池田勇人《いけだはやと》が言い出した「所得倍増計画」のスタートする年である。  日本の政策というものは、�始まり�だけあって�終わり�が曖昧になる——つまりは、�成果�というものが見えない。しかし、この「所得倍増計画」にそれははっきりしている。一九六一年の初めにスタートし、一九六四年の東京オリンピックまで続き、「その後の高度成長の時代の基礎を作る」である。�終わり�がはっきりしているのは、東京オリンピックの開幕一カ月前に入院した池田勇人が、その閉幕一カ月後に辞任するからである。  「所得倍増計画」は、達成されて終わったものではない。失敗して終わったわけでもない。これを受け継ぐ特別な政策があったわけでもない。中途半端なまま、東京オリンピックという国民的行事に出会い、そしてそのまま、日本が「高度成長」という昂揚状態になだれ込んだ結果、自動的な発展解消状態に至っただけである。かくも日本的な�政治のあり方�は、そうそうないだろう。  「所得倍増計画」スタートの二年前、「皇太子御成婚」があった。「御成婚」の前年に百万台だったテレビの受信契約数が、「御成婚」から三年たった一九六二年には、一千万台になった。驚異的な伸びの始まりが「皇太子御成婚」にあるのはもちろんだが、この一九五九年はまた、「週刊誌創刊ラッシュの年」でもあった。週刊誌は一挙に十七誌も増え、ジャンルは子供向けから女性・芸能週刊誌にまで広がった。しかもその多くは、「御成婚」の四月に創刊時期が設定されていた。日本中がそれほど「御成婚ブーム」に沸いていたということだろうが、しかし今になると、「皇太子の結婚」と「週刊誌の創刊」がなぜかくも一体化したのかがよく分からない。  ところで、昭和の年数と西暦の年数との間には、「二十五」の開きがある。昭和三十五年は一九六〇年だし、一九六五年は昭和四十年である。しかも、太平洋戦争の終結は昭和二十年——これを起点とする日本の新時代は、昭和と西暦という二つの基準を使い分ければ、五年目ごとに「新しい時代」を招来させることが出来たということである。  経済企画庁が「もはや戦後ではない」という言葉を流用したのは、戦争終結から十年が終わった昭和三十一年。日本経済が戦前レベルまで復興したのは確かだとしても、ここに「終戦から十年=一区切り」という発想があったことも確かだろう。それから三年がたって、「皇太子御成婚」の昭和三十四年がやってくる。この年は一九五九年——よく考えたら、翌年は一九六〇年なのである。  常に「戦後」と共に語られてきた、一九五〇年代がついに終わる。「皇太子御成婚」の年は、日本で長く続いてきた度量衡の単位・尺貫法が廃止され、世界でも珍しい「メートル法の国」へと変わる年だったりもする。尺貫法を廃止する日本人の多くは、「世界中がカタカナの計量単位を使う中で、日本だけが漢字の計量単位を使うのは恥ずかしい」くらいに思っていたのだろうが、ともかく「古いものは終わる」のである。  「皇太子御成婚」の昭和三十四年=一九五九年は、そんなきっかけの年でもあった。そう考えると、同じ年の週刊誌創刊ラッシュも理解出来るだろう。これは、「皇太子御成婚」という国民的行事をスプリング・ボードとする、新時代への飛躍なのだ。「新しい時代が始まる、それを我が社はリードする」——多くの出版社がこう考え、それを日本人は受け入れた。  この時期の日本人にとって、それはいたって自然な考え方だったろう。そんな日本人を祝福するように、「御成婚」の翌月には、一九六四年の東京オリンピック開催も決定される。戦争の失敗で打ちひしがれていた日本は、ついに「世界の中の日本」となるのである。「運が向いてきた」であろう。  翌一九六〇年は、日米安全保障条約の改訂に揺れた。岸内閣に代わって登場した池田内閣では、日本で初めての女性大臣も誕生した。「いかにも新しい時代にふさわしい」と、思う人は思っただろう。しかし「輝ける一九六〇年代」を目指す日本人が、その程度のもので満足するはずはない。その十一月、衆議院解散・総選挙となる直前、池田勇人は「所得倍増計画」を打ち上げた——「日本人の所得を倍にする」と。選挙後の十二月、成立した第二次池田内閣は、このえげつない名前の政策を正式に閣議決定した。かくして一九六一年早々、「所得倍増計画」はスタートする。  大蔵官僚から政界入りした池田は、「経済の池田」を自称し、「私はウソは申しません」と言った。数字をアレコレするのを仕事とする大蔵官僚出身だから、「所得倍増」を実現するための�数字的根拠�もあったのだろう。日本人は数字に弱い。数字を並べ立てられると、なんとなく「本当らしい」と思ってしまう。なにしろ、「新時代の始まり」である。「戦後」という貧乏を克服し、その後に訪れる「新しい時代」の素晴らしさを語ろうとする時、「月給が倍になる」は、いたって分かりやすい表現だった。人は、その分かりやすさに魅せられたのだ。  池田勇人が「数字の魔術」を使ったかどうかは知らない。しかし、その日本にはもう一つの「数字の魔術」があった。つまりは、昭和の年数と西暦との間にある、「五」という隔たりである。一九六一年の「所得倍増計画スタート」は、昭和三十一年の「もはや戦後ではない」から五年しかたっていない——にもかかわらず、これがもっと大きな隔たりのように思える。それが数字の魔力である。「昭和三十年代の始まり」と「一九六〇年代の始まり」という、二つの基準がゴッチャになってしまえば、「わずか五年の差」がより大きな隔たりに見える。  戦後の日本人はせわしなかった。それを加速させるように、「昭和」という基準と「西暦」という基準が入り交じって、五年目ごとに「新しい時代」を招来させていた。戦後の困窮を脱したはずの、昭和三十年代前半の日本人は、「やれやれほっとした」と思って、やっと獲得した�ささやかな豊かさ�を享受していた。しかしそれは、一九六〇年代に訪れられるまでの、わずか四、五年の間だけだった。「もはや戦後ではない」と言って、日本人は、「だから安心しろ」とは続けなかった。「だからもっと金儲けをしろ」と続けた。そのための目標として、一九六四年=昭和三十九年の東京オリンピックがあった。その先には、昭和四十年代という「新しい時代」が再び待っている。  その門口で、「所得倍増計画」を提唱した総理大臣は消えた。日本人はせっかちに前へ進んだ。昭和の四十年代が五年たてば、大阪に万国博がやって来る一九七〇年代である。五年周期の日本人は、飽くこともなくせかせかと働いた。その後の日本人に思考能力の低下が訪れても、しょうがないかもしれない。 [#改ページ]       1 9 6 2  一九六二年は、「世界を震撼させた」と言われるキューバ危機の年である。  この年の十月十四日、アメリカの偵察機が空からキューバの基地を撮影した。アメリカがそんなことをしたのは、ソ連製のミサイルがキューバに運び込まれていたからである。ソ連はそれを、「防御用の迎撃ミサイルだ」と言った。しかし、アメリカの偵察機が撮影したのは「攻撃用ミサイル」の写真だった。アメリカの上層部にパニックが起こった——「キューバとソ連の�赤�がアメリカを狙っている」と。それでどうなるのか?  十月二十二日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは、「私は軍に対し、あらゆる事態[#「あらゆる事態」に傍点]に備えることを命令した」と、テレビを通じて国民に伝えた。つまりは、「アメリカがソ連のミサイル攻撃を受ける可能性があり、ソ連との全面戦争勃発の可能性もあるから覚悟しろ」である。「世界を震撼させた七日間」は、この日から始まる。  二日後、アメリカ海軍はキューバを海上封鎖した。ソ連も臨戦態勢を整えた。ビルマ出身の国連事務総長ウ・タントが、両者の調停に入り、「ああだ」「こうだ」の押し問答が始まる。「ソ連のミサイル撤去が先だ」とアメリカが言えば、キューバとソ連は、「海上封鎖を解くのが先だ」と言い返す。押し問答の末にキューバからソ連製のミサイルが撤去されたのは、十月二十八日——それが「世界を震撼させた七日間」である。  今となっては、「なるほど冷戦の時代だからそんなことも起こったのだろう」で片付けられてしまいそうなエピソードである。「キューバ危機」がここに要約したようなものであるならば、それは、「キューバを従えた上にアメリカ侵略までも狙った、今はなき社会主義大国ソ連の野望が、世界に第三次世界大戦の危機をもたらした」にもなるだろう。ましてや、この危機を�回避した�とされるのは、伝説の�若きアメリカ大統領�ジョン・F・ケネディなのである。ということになれば、「阻止したアメリカ=善、仕掛けたソ連=悪」の図式は簡単に出来上がってしまう。しかし、�事実�は違う。冷戦の終わった今となって重要なのは、「キューバ危機」ではない。その�前段階�の方なのである。  一九五九年一月、キューバにはフィデル・カストロの指揮によるキューバ革命が起こった。それ以前のキューバは独裁者バティスタの支配するもので、カストロは「キューバ人のためのキューバ」を主張して、これを倒した。ということは、バティスタ支配のキューバが、「キューバ人のためのキューバ」ではなかったということである。  近代資本主義で武装した大国が、自身の国益を守るために小国の独裁者を支援するというのは、第二次世界大戦の後になっても、まだありふれたことだった——というよりも、「植民地」という他国侵略の手段が封じられてしまった第二次世界大戦後の世界では、いよいよありふれたことになった。一九五四年のヴェトナムでは、北緯十七度を暫定的な境界線とする南北二つのヴェトナムが成立した。かつての宗主国フランスは手を引き、南北二つのヴェトナムは、やがて統一のための選挙をやるはずだった。しかし、ヴェトナムがホー・チ・ミンの率いる社会主義国となることを嫌ったアメリカは、南のゴ・ジン・ジェム独裁政権を支援した。これが後に激化するヴェトナム戦争の原因だが、キューバだって似たようなものだった。バティスタ政権は、「アメリカ人のためのキューバ」を維持する独裁政権だったからである。  カストロは、その親米バティスタ政権を倒した——ということになれば、カストロが�アメリカの敵�となるのは、あまりにも見えすいた展開である。果たして一部のアメリカ人は、カストロを「赤」呼ばわりした。しかし、キューバ革命は社会主義革命ではなかった。カストロのキューバも、一九六一年までは社会主義国家を志向していなかった。問題は、「誰が社会主義国家への道をキューバに歩ませたか?」なのである。  革命によって、アメリカとキューバの仲は悪くなった。翌一九六〇年の二月、キューバはソ連に砂糖を輸出し、代わりにソ連製の原油を得た。原油の精製能力のないキューバは、この精製を国内にあるアメリカ系の石油会社に依頼して、拒絶される。だからキューバは、五月になってこのアメリカやイギリス系の石油会社の工場を国営化してしまう。  アメリカは七月に、キューバからの砂糖を輸入禁止にする。その禁輸対象はさらに拡大され、カストロ政権は�報復�として、十月に、キューバにあったアメリカの資産十億ドル相当を没収する。関係はますます悪化して、アメリカとその息のかかった国との貿易の途を絶たれたキューバは、ソ連や中国の社会主義圏と接近する。アメリカは怒り、一九六一年の一月には、キューバとの国交断絶を宣言、経済封鎖にかかる。しかもその上、革命によってキューバを追われた反カストロ派を、「正統なる政権担当者」と勝手に位置づけ、四月には彼等に武器を持たせてキューバへ上陸させる——「アメリカのキューバ侵攻」である。  このアメリカCIAに指揮されたヘナチョコ反革命軍は、たった七十二時間でキューバ政府に鎮圧されるが、キューバが社会主義国家建設への道を歩むことを宣言するのは、その一カ月後である。つまり、キューバを「憎むべき社会主義国家」にしてしまったのは、キューバの利権を我が物にしておく事を当然と思ったアメリカだったのである。  一九六二年二月、キューバをあきらめきれないアメリカは、キューバへの全面的禁輸措置と米州機構からの締め出しを宣言。つまりは、兵糧攻めである。これに対してキューバは、断固として社会主義革命を進めると宣言。両国の仲は完全に決裂してしまったのだから、この年の九月に、キューバとソ連との間で武器援助協定が結ばれても不思議ではない。その結果が、十月十四日になっての「アメリカ偵察機によるソ連製攻撃用ミサイルの発見」なのである。  「迎撃用ミサイル」ですむはずのところを、ソ連はわざわざ「攻撃用ミサイル」を運び込んだ——これが�冷戦の危機�を加速させたのは確かである。しかし、キューバが自国内にソ連製ミサイルを配置したのは、アメリカの中に、カストロ政権を倒そうとして軍事侵攻を企てる勢力が依然としてあったためである。「ああだ」「こうだ」の押し問答が続くキューバ危機のさなか、ソ連とキューバは、アメリカに対して「キューバ侵攻をしないと約束しろ」と言い続けていた。「キューバ危機」とは、冷戦構造の結果ではなく、アメリカのエゴの結果である。  バティスタ政権下のキューバは、「アメリカの植民地」ではなかった。しかし、似たようなものだった。キューバの�独立�を、アメリカはすんなり認めなかった。「キューバ危機」の原因は、そのエゴなのである。 [#改ページ]       1 9 6 3  この年の十一月二十二日、テキサス州のダラスでパレード中だったアメリカの大統領ジョン・F・ケネディが射殺された。享年は四十六歳。犯行は正午過ぎだが、日本時間では、これが午前三時過ぎである。この日はたまたま、通信衛星を使った日米初のテレビ中継の実験が行われる日だった。翌年に控えた東京オリンピックを宇宙中継するための準備である。実験放送では、ケネディの演説が流れるはずだった。しかし、放送開始の二時間前、ケネディは射殺された。「演説する大統領」に代わって、日米初の宇宙中継は「大統領の暗殺」を伝えた。  ケネディ暗殺事件の真相は、謎である。事件発生から一時間と少したって、二十四歳の青年リー・ハーベイ・オズワルドが容疑者として逮捕されたが、二日後、刑務所から移送される途中のオズワルド容疑者は、ジャック・ルビーなる人物に射殺された。逮捕後のオズワルド容疑者は犯行を否認していたし、事件がオズワルド容疑者の単独犯行かどうかも、実のところは分からない。ダラスでナイトクラブを経営していたジャック・ルビーなる人物が、なぜオズワルド容疑者を射殺したのかもよく分からない。逮捕されたジャック・ルビーなる人物のその後も、「病死した」ということになってはいるが、なんとなく曖昧かつ不明瞭のままである。  事件は、オズワルド容疑者の逮捕で解決したはずなのだが、彼が「射殺される」という�その後�があるからこそ、�事件の真相�はうんぬんされる。アメリカの内部に、反ケネディのグループがあったことは確かである。そのグループが「保守派」だったことも間違いない。だからこそ、それに対するケネディは「進歩派」となり、「保守派の陰謀」が噂されればされるほど、「進歩派ケネディの栄光」はいやまさることになっている。  しかし、一九六一年に起こったキューバ侵攻は、ケネディ政権下の出来事である。つまりケネディは、キューバ侵攻にゴーサインを出した張本人だということである。キューバ危機を回避したのもケネディだが、バティスタ独裁政権に寄生したキューバ人達を「正統なるキューバの政権担当者」と認め、�危機�を引き起こすような政策を進めていたのもまた、彼なのである。  ケネディ政権下の副大統領は、リンドン・ジョンソンだった。ケネディ暗殺後、ただちに大統領に就任した彼は、やがて「北爆」に手をつける。「宣戦布告なき戦争」と言われるヴェトナム戦争は、「一九六四年八月のアメリカ軍によるトンキン湾攻撃で始まった」ということになっていて、これがヴェトナム戦争の始まりであるならば、ケネディとヴェトナム戦争は直接に関係がないことになる。しかしアメリカは、一九五五年に南ヴェトナムの大統領となった独裁者ゴ・ジン・ジェムを支援し続けていた——つまり、北ヴェトナムとの間の戦争状態を肯定し続けていた。ケネディも、この路線を否定しなかった。ヴェトナム戦争まで後一歩の状態は、ケネディ政権が用意したものでもある。  ジョン・F・ケネディが大統領選挙に勝利したのは、一九六〇年の十一月。その時四十三歳の彼は、「アメリカ史上最年少の大統領」になった。彼の人気は、アメリカばかりでなく、日本でも高かった。中学生や高校生を対象とする「尊敬する人」のランキングでは、それまで不動の一位だったシュヴァイツァー博士を抜きもした。  ケネディが大統領に就任した一九六一年の一月は、池田内閣による所得倍増計画がスタートする時でもある。ケネディは、豊かで可能性に満ちた「一九六〇年代の始まり」を象徴する人物でもあった。それから三年、スター性に満ちた若い大統領は死ぬ。「一九六三年十一月以降のケネディ」はない。ジョン・F・ケネディは、豊かでそしてなおなお豊かな未来が信じられていた一九六〇年代の前半だけ[#「前半だけ」に傍点]を代表する人物なのである。不明瞭な霧を立ち上ぼらせる暗殺事件に終止符を打たれて、ジョン・F・ケネディは�伝説�となったが、しかし、彼は本当に若かった[#「若かった」に傍点]のか?  ジョン・F・ケネディが大統領になった時、私は中学一年生だった。だから私は、彼のことを「若い」とは思わなかった。私の父親はまだ三十代で、自分の父親より年上の人間が「若い」はずはなかった。「若いって言うけど、ケネディは年寄りじゃないか」と、中学一年生の私は思った。そんな子供の見方にどれほどの意味があるのか?  ジョン・F・ケネディは、第二次世界大戦終了時に二十八歳だった。彼は、そのエピソードが映画(『魚雷艇109』)にもなるような、第二次世界大戦の�英雄�でもある。この彼と�同世代�であるような日本の政治家は、どんな人物か? 田中角栄と中曽根康弘が、一歳年下の生まれである。中学一年生だった私は、この二人の日本の政治家の名前も知っていた。そして、この二人がケネディより年下だとは思わなかった。この二人の日本の政治家がいくつであろうと、中学一年生の私には、「若い」と思われなかった。  ケネディ死亡の九年後、一九七二年には五十四歳の田中角栄が自由民主党総裁となり、総理大臣になった。田中角栄もまた、自由民主党史上最年少の総裁である。ケネディとはタイプが違うが、田中角栄もまた「庶民派宰相」としてブームを巻き起こした人物である。田中角栄の十年後に総理大臣となる中曽根康弘も、長く「青年将校」の異名を取り続けた。どういうわけか、この世代は�若い�のである。若くてしかし、「戦後の若者」ではない。それが一九一〇年代の後半——日本で言うなら大正生まれのケネディ世代である。  戦後の若者は「戦後派《アプレゲール》」と言われた。略して「アプレ」である。なんだか「あぶれ者」のようでもあるが、それは、「戦後の若者」を見る「若くない者」の実感でもあったろう。古き佳き時代は終わり、荒廃した焼け跡の中で人となる若者達——太平洋戦争が終わった時、昭和生まれの第一陣は、十九歳から二十歳になりつつあった。太平洋戦争を実践した時代の中核は、明治生まれである。彼等にとっての「アプレ」は、荒廃と極端の別名でもあろう。しかし、大正生まれのケネディ世代は、昭和生まれの若者達ほどお行儀が悪くなかった。敗戦国の日本に「戦後派」は歴然だったろうが、それは戦勝国アメリカでも同じだった。アプレにはならず、戦前を引き継いで、しかも年寄りから見れば�若い�世代。  ケネディ暗殺の四年後、ニューヨークには「ラブ&ピース」を訴えるヒッピーが生まれる。「キューバ危機」の一九六二年の秋はまた、世界の音楽シーンを塗り替えるビートルズのデビュー時期でもある。ケネディは、一九六〇年代の�穏健�を�偽善�に変えてしまう、ビートルズやヒッピーの出現を好んだか? ケネディにとって「戦後派」とはなんだったのか。その答はないのである。 [#改ページ]       1 9 6 4  一九六四年は東京オリンピックの年である。十月十日の開会式に先立つ十月一日、東京・大阪間を四時間で結ぶ�夢の超特急�東海道新幹線は、その営業を開始した。  IOC総会で東京オリンピックの開催が決定したのは、皇太子御成婚のあった一九五九年。東海道新幹線の起工式も同じ年である。東海道新幹線の営業開始が東京オリンピックの開催と連動しているのは確かだが、しかし、東海道新幹線は東京オリンピック開催のために建設を計画されたのではない。東海道新幹線の起工式は、皇太子御成婚の十日後である四月二十日。東京オリンピックの開催決定は五月二十六日だから、東海道新幹線の決定と東京オリンピックは、無関係なのである。  東京オリンピック開催のために、東京の町は徹底的に改造された。市川崑監督による公式記録映画『東京オリンピック』は、巨大な鉄の玉が古い東京のビルの壁を次々とぶち壊して行くシーンから始まるが、これは「古いものを壊して新しいものが生まれる希望の序曲」というようなものではない。「こんなに壊しちゃっていいんだろうか……」という恐怖を感じさせるものである。なぜ�恐怖�なのか? それは、東京オリンピックというものが、戦後の廃墟から復興を遂げた東京の市街を、徹底的に破壊するところから始まったものだからである。  「もはや戦後ではない」が、一九五六年=昭和三十一年。その安穏の成果を祝福するのが、一九五九年=昭和三十四年の「皇太子御成婚」である。ここで日本人はゆっくりすればよかった。しかし、そこにオリンピックがやって来た。「もう一九六〇年代だ、ボヤボヤしてはいられない。次は国際水準の達成だ」というスローガンが、日本人の上——あるいはその首都に住まう人間達の上に落ちて来た。  既に自動車による道路の渋滞は起こっている。そこへ、高速道路の建設や道路の拡幅工事が行われる。「外人さんがいっぱい来るのにトイレが汲み取り式だと恥ずかしい」というので、下水道の工事も加わる。いたるところで道は掘り返され、車の渋滞は激しさを増し、排気ガスは空気を汚し、雨が降れば道路のまわりは一面の泥沼状態になる。オリンピックというものは、本来都市が開催するものだが、東京都という一自治体だけでこの巨大なプロジェクトの開催が可能かどうかが分からなくなり、政府は「オリンピック担当国務大臣」の任命さえもした。つまり日本人は、国家レベルの規模で、廃墟の中から立ち上がって達成したはずの�穏やかな暮らし�を、ぶち壊しにかかったのである。映画『東京オリンピック』の冒頭は、だからこそこわい[#「こわい」に傍点]——「なんで壊さなきゃいけないの?」というためらいが、まだ日本人の中に残っていたからである。  東京オリンピックとその�成功�は、後の日本人に慢性的なスクラップ&ビルドの習慣を定着させてしまう。「作って壊す、壊して作る——そうすれば繁栄は訪れる」という信仰の始まりが東京オリンピックにあるのは間違いがないのだが、しかし、それは別にオリンピックのせいではないのかもしれない。  オリンピックが巨大なプロジェクトであることは、今や世界の常識だが、それでは、オリンピックはいつから�巨大なもの�になってしまったのか? それは、東京オリンピックからなのである。  東京オリンピックの開催が決定したのは、「日本中にテレビが普及した」と言われる皇太子御成婚の後である。だから、その翌年開催されたローマ・オリンピックを、日本人達はテレビで見た。もちろん宇宙中継なんかではない。フィルムで編集された映像である。そして、その閉会式の電光掲示板に「TOKYO」の文字が映し出されたのを見て、驚喜した——「次が東京というのは本当だったのか……」と。つまり、日本人がオリンピックなるものを自分の家で見た[#「自分の家で見た」に傍点]のは、ローマ大会が初めてだったということである。  それまでの日本人は、「日本人選手の活躍」以外に、オリンピックのことなんか知らなかった。知らないけど、オリンピックはやって来る。「大切なお客さまがやって来るのに、粗相があっては大変だ」というパニックもやって来た。東京オリンピックが�史上最大規模�になってしまったのは、オリンピックのなんたるかを知らない日本人が、その競技施設や周辺設備を「一から作る」というとんでもないことをやってしまった結果で、「オリンピックのために立派な施設を作る」という変な常識を定着させてしまったのは、ろくな施設がないことに慌てた東京オリンピック以来なのである。  日本人は、そういう生き物である。やたらと�へんなもの�を作りたがる。口実は二の次である。だから、東京オリンピックとは関係なく、東海道新幹線という�夢の超特急�を作ろうとした。パリのエッフェル塔を抜いて「世界一の高さ」を誇る東京タワーが完成したのは、新幹線起工式の四カ月前——一九五八年の十二月だった。その前年の一九五七年には、東京の銀座から数寄屋橋がなくなった。映画『君の名は』で有名になったこの橋は、架かっていた皇居の外堀が埋め立てられるのに伴って消滅した。お堀の後には、「スキヤ橋ショッピングセンター」が建設され、その二階建ての屋根の上には、高速道路が走ることになっていた。どれも、東京オリンピックとは関係がない。しかし、日本人はそういうものを作りたがった。  黒澤明監督の映画『天国と地獄』は、東海道線の特急こだまを借り切って撮影したということでも有名になった。この映画を見て、「最新式の特急こだまでは電話がかけられる」ということを知った日本人も多かっただろう。「最新式の特急こだまでは、窓が開かなくて駅弁が買えない」ということを知っていた人は多かったろうが、その洗面所の窓が七センチだけ開くということを、この映画で知った人は多かっただろう。  黒澤明の名作『天国と地獄』は、当時最速の特急こだまを舞台にして、最新鋭の現代サスペンスを演出したのだが、この映画が公開されたのは、東京オリンピックの前年[#「前年」に傍点]だった。特急こだまは、東京タワーと同じ一九五八年の開通。東京オリンピックの前年、五年前に作られた特急こだまは、まだまだ�最新鋭の現代�だった。意外かもしれないが、『天国と地獄』と東海道新幹線の間に、�十年の隔たり�はないのである。  東京オリンピックの六年後——一九七〇年の大阪万博の時点において、東海道新幹線は、�夢の超特急�としての定着を果たす。この頃の日本で�夢�とか�最新鋭�というものは、まだ五年六年の時間をかけて定着していくものだった。だから私は、東海道新幹線の営業開始が一九七〇年[#「一九七〇年」に傍点]であってもよかったろうと思う。日本人は、へんなところでせっかちで、つまりはミエっ張りで、だからこそそれが、スクラップ&ビルドの嵐になる。 [#改ページ]       1 9 6 5  東京オリンピックの翌年は、終戦二十周年目である昭和四十年——一九六五年である。「終戦の夏は暑かった」と言う人は多いが、一九六五年の東京もまた、違った意味で暑かった。ジメジメとした梅雨の暑さの中、東京|江東《こうとう》区の住民は、突如として襲いかかってきたハエの大群に驚いた。東京湾のゴミ埋立地である夢の島で大量に発生したハエが、対岸の江東区民を襲ったのである。梅雨が去り、本格的な夏の暑さに訪れられたら、もう江東区民は窓を開けることが出来ない。夢の島には火炎放射器まで登場した。  一九六五年の日本人は、まだ「公害」という言葉の意味を理解していない。「環境汚染」という言葉もまだない。だから、いろいろなものが散発的に起こる。  一九六五年の一月には、日本で初の「スモッグ警報」が発令される。日本に初めて「スモッグ」が発生したのは、テレビの受信台数が一千万台を突破した一九六二年の冬で、その年のロンドンではスモッグによる死者が百人以上出ていた。「霧の都ロンドン」と言われていた�霧�の正体が、「産業革命以来燃やし続けた石炭の煤煙《ばいえん》」ということもあきらかになる。燃料の主役は石炭から石油へと移り、工場の煙突から出る煙に自動車の排気ガスも加わった。一九六二年、まだ皇居近くにあった都庁前で検出された亜硫酸ガスの濃度は、許容量の二十倍になった。これを知った東京都は「スモッグ発生」を伝えたのだが、この年の日本に、まだ「スモッグ警報[#「警報」に傍点]」はなかった。「発生しているのは体に有害なものである」ということだけが伝えられて、しかし「危険」を伝える声はなかった。  一九六三年と一九六四年の冬を、東京都民は、「霧の都」というロマンシズムと、「なんか、いやだなー……」という不快感の混合状態で過ごす。その間にもちろん、道路は拡幅され、オリンピックの成功に気をよくした日本人は、道路を渋滞させる自動車の数を増やして行く。そしてもちろん、一九六五年に「スモッグ警報」が発令されたからと言って、東京の冬からスモッグが消えたわけではない。それを防ぐための大気汚染防止法が登場するのは、一九六八年である。そして、大気汚染防止法が実施されたからといって、東京の空気がきれいになったわけではない。  大気汚染防止法から二年たった一九七〇年の夏七月、東京杉並区の高校のグラウンドで、生徒達が吐き気や目まいを訴えた。「光化学スモッグ」という、目に見えない敵の出現である。さすがに今度は早かった。その翌月には、もう「光化学スモッグ警報」が出た。だからといって、東京都から光化学スモッグが消えたわけではない。車の数が減ったわけでもない。東京オリンピックまでに完成しなかった、環状七号線という巨大なる幹線道路が出来上がり、その外側では環状八号線の建設も進められていた。車の数は増え続ける。  日本で光化学スモッグが発生した二カ月後、アメリカでは「マスキー法」と呼ばれる大気汚染防止法が成立する。「大気汚染の原因である自動車の排気ガスを規制せよ」という発想がやっと形になったのだが、これで日本の自動車業界は大騒ぎになった。自動車から出る排気ガスを減らさなければ、アメリカへ車の輸出が出来なくなる。アメリカ向けはともかく、国内向けはどうなるのか? アメリカのマスキー法に準じて、日本国内での自動車排気ガスの規制が形になるのは、一九七二年——翌年四月以降に生産される車は、新たな排気ガス排出基準を満足させねばならなくなる。東京に初のスモッグが発生してから十年、十一年後のことである。  既に「皇太子御成婚」の段階で、「消費は美徳」が流行語になっている。一九五九年にテレビを買った日本人達は、一九六四年の東京オリンピックの段階で、カラーテレビを買うことを要請された。「カラーで見よう東京オリンピック」のCMがテレビから流れる頃、かつては「宝物」のような存在だったテレビが、ゴミとして流出し始める。自動車の古タイヤも増える。この時期の日本に、まだ「ゴミの分別」などという発想はなかったが、廃品回収業者はまだまだ健在だった。しかし、それであっても夢の島に運び込まれるゴミの量は増え続けた。一九六五年にハエが大量発生し、その原因がなんであるかも分かっていながら、夢の島のハエに襲われずにすんでいる他の東京都民は、「大変だねー、いやだねー」の他人事ですませていた。「ゴミは夢の島、こっちは関係がない」である。  夢の島でハエが大量に発生したのは、一九六五年だけではない。一九六五年から[#「から」に傍点]、夢の島には大量のハエが発生し始める[#「発生し始める」に傍点]——そしてその八年後の一九七三年、東京都は杉並区に清掃工場の建設を計画し、文化の香り高い山の手の住民達は、「清掃工場が出来ると大量のゴミ運搬トラックが出入りして、子供にとって危険だ」として反対運動を起こす。これを聞いた江東区の住民は、「一体何様なんだ!」と激怒、「杉並区のゴミを江東区に入れるな!」という阻止行動を起こす。日本のゴミ処理業者が、日本国内で処理しきれないゴミをコンテナに積んでフィリピンにまで�輸出�してしまうという事態は、二十世紀最末葉の二〇〇〇年に発覚するが、そのハシリは、一九七三年の杉並区対江東区の「東京ゴミ戦争」である。江東区の住民がハエに苦しめられてから八年、杉並区の住民は「ゴミを押し付けられる者の悲惨」を理解しなかった。  一九六五年はまた、新潟の阿賀野川流域で「原因不明の水銀中毒患者」が発生した年でもある。「水銀中毒」であることははっきりしているから、これは「新潟|水俣《みなまた》病」と名づけられた。しかし、その水銀の出所は�不明�で、だからこその「原因不明」である。厚生省が、その出所を「昭和電工|鹿瀬《かのせ》工場の排水」と発表したのは、二年後の一九六七年。原因究明までの二年は、早いのか遅いのか。  熊本県の水俣市で、「原因不明の奇病」が発生したのは一九五三年。その原因が「有機水銀中毒」とされたのが一九五九年——同時に、「出所は新日本窒素の水俣工場の排水」という見解も浮上した。それで通産省は、新日本窒素水俣工場へ「水俣川への排水中止、浄化装置の完備」を指示した——にもかかわらず、「有機水銀」と「新日本窒素水俣工場の排水」は、直接に結びつけられなかった。しらばっくれても通ると思ったのである。熊本地裁が新日本窒素の責任を認めるのは、第一号患者発生から二十年後の一九七三年。  ある時期までの日本人は、「自分達と関係のないものは、放っとけば消える」という形で、すべてを処理しようとしていたらしい。一九六五年は、イギリスとフランスにミニスカートが発生する年であり、あの[#「あの」に傍点]ビートルズが来日する前年である。騒がしく露出的な時代風潮があり、日本人はなにかに邁進《まいしん》して忙しかった。ちなみに、そんな日本に「環境庁」が出現するのは、一九七一年のことである。 [#改ページ]       1 9 6 6  この年の六月、日本にビートルズがやって来る。ビートルズは前年、「外貨獲得の功績」によって、女王から勲章を与えられている。ミニスカートの発明者マリー・クワントも、やがては同じ趣旨の勲章をもらう。世界に先駆けて産業革命を達成したイギリスも、今では「サブカルチャーを最大の貿易品目」とする国になっていた。ビートルズが勲章をもらった時、「イギリスの先進性」を言う人より、「イギリスの酔狂《すいきよう》」を言う人の方が多かった。工業力で躍進しつつある日本の大人達は、この変化に関心がなかった。  ビートルズの影響は世界に及び、若い男達は髪の毛を伸ばし始めた。「ビートルズの真似」と言うよりも、「それをすれば、オヤジ臭い髪形をしないですむ」という力の方が大きかっただろう。若い男に長髪がはやり、その必然として床屋は不景気になった——それを文化や社会や産業構造の変化と結びつける人は、まずなかったろう。若い男の長髪は、�不潔の象徴�として日本に定着する。  来日したビートルズにあやかるような形で、日本には「グループサウンズ」のバンドブームがやって来る。不潔な頭をした若い男にミニスカートの若い女が群がり騒ぐ——「そこで許せるものは若い女のミニスカートだけだ」と思う体制派の男達は、各地の公共施設から、グループサウンズのコンサート締め出しを図った。ビートルズ来日公演の場所となった日本武道館は、二年前の東京オリンピックのために作られたもので、コンサートなどというのはこの時が初めてである。だから、「神聖なる武道の殿堂で何事!」という声もあった。いくら絶大な人気を集めても、グループサウンズの人気グループは、『紅白歌合戦』に出られなかった。そんな不潔な男達を出さなくても、日本には大勢の人気歌手がいた。「テレビに出ない大物ニューミュージック歌手」は、この締め出し以降定着する。発展する工業国日本で、「若者の文化」と既成の勢力は、まったく無縁に存在していた。  この一九六六年の初め、早稲田大学では全学ストという事態が起こった。建設された第二学生会館の運営をめぐって学生と大学側が対立していたところへ、「授業料値上げ」問題が加わっての結果である。解決までに五カ月の時間を要したこの騒ぎは、翌年、翌々年に拡大して行く学生運動の時代の幕開けともなるものだが、当時の人は、「なんだかへんなことが早稲田で起こっている」くらいの認識しか持たなかった。  「へんなこと」は、その年の五月、中国でも起こる。文化大革命のスタートである。  文化大革命は、毛沢東が死亡する一九七六年まで続く。日本と中国が国交を回復するのは一九七二年だが、これは、「日本の頭越しにアメリカと中国が手を結んでしまったから、日本も慌てて中国に接近した」である——私はそう思っている。国交回復以前、日本人は人民中国に関心なんかなかった。中国のことを知っていれば「変わり者」である。そこでの文化大革命に対する日本人の感想は、「国交のないヴェールに包まれた国で、自分達とは関係のない、なんだか分からないことが起こっている」にしかならない。既に中国は社会主義革命を達成しているのである。そこでなんでまた�革命�が必要か?——多くの日本人にとって、それは�謎�でしかなかった。  文化大革命は、一九五九年に国家主席を辞任した毛沢東の逆襲である。しかしそう言われても、やっぱり日本人には分からない。毛沢東は、人民中国を出現させた偉大なるリーダーであり思想家である。「国家主席を辞任したって、その人の偉大さは変わらないだろう。その人がなんだってまた、復讐や逆襲をしなければならないのか?」である。日本人の多くは、右も左も、社会主義・共産主義の思想的完成をなんとなく信じていたから、こんな風に考える。偉大なる思想的リーダーに�巻き返し�などが必要であるはずもない。だがしかし、毛沢東の作った中国は、まだまだ発展途上で、迷っていたのである。  一九六六年に権力奪取のための文化大革命を仕掛ける毛沢東は、一九五九年に国家主席を辞任していた。前年にスタートした「大躍進政策」と称される第二次五カ年計画の失敗に対して、責任を取らされたのである。  中国で第一次五カ年計画がスタートしたのは、一九五二年。その目的は、「近代化=工業化」だった。この時期の世界に、国の「近代化=工業化」の必要を否定する指導者なんかいなかっただろう。巨大なる農業国・中国も、やはり「近代化=工業化」を目指した。しかし自力では達成出来ないから、盟邦ソ連の指導援助を仰いだ。そこまではよかった。しかし、急速な工業化の結果、人口は都市へと大量に流入し、農村は疲弊した。中国の第一次五カ年計画は、表向き「失敗」とは言われなかった。しかし、「農村がこのままでいいのか」という声は、一九五四年に国家主席となっていた毛沢東をうっすらと取り巻いた。しかも、中国の五カ年計画が失敗だか成功だかよく分からないでいるのに反して、先生役のソ連の五カ年計画は、成功を収めた。ソ連に対する毛沢東のライヴァル意識が持ち上がる。それで一九五八年、国家主席・毛沢東は、自身のメンツにかけて、農業と工業を同時に[#「同時に」に傍点]発達させる第二次五カ年計画をスタートさせるのだが、これが命取りになった。  人口流出で疲弊した農村に、苛酷なノルマが要求される。農民は疲れ、そこに天候不順が加わって、二千万人の餓死者が出た。一九五九年に毛沢東が失脚した理由はこれである。  偉大なる指導者・毛沢東は、「工業と近代化」が苦手な人だった。失脚した毛沢東の後に登場するのは、そっち方面に理解のある小平《とうしようへい》で、一九五九年以後の中国は、毛沢東にとって理解出来ない方向へ進む。窓際族となった毛沢東は、これが気に入らない。「その方向は間違っている、修正主義である」として、まだ子供と言ってもいい十代前半の若者達を紅衛兵《こうえいへい》に仕立て、ラジカリズムの攻撃を仕掛けた——それが、一九六六年からの文化大革命である。党総書記となっていた小平、国家主席の劉少奇《りゆうしようき》は、�自己批判�を要求され失脚する。中国は、毛沢東を思想上の�皇帝�とするラジカルな原始時代へ逆戻りするのである。  それから十年——毛沢東が死に、妻の江青《こうせい》とそれに従う�四人組�が逮捕され、文化大革命は終わる。改めて、小平の開放路線が始められることになる。  文化大革命の十年は、世界の現実を理解しない中国の混乱である——と同時に、近代化=工業化を達成した世界の方にだって、ちゃんと問題はあった。だから、若者達は騒がしくなる。「世界は間違った方向に進んでいる。だからこそ、これに対する若者の造反には意味がある」とする毛沢東の言葉「造反有理」は、当時の時代状況に関する最も深い認識であろう。しかし問題は、それを言う毛沢東が、やっぱりどこかでズレていたことなのだ。 [#改ページ]       1 9 6 7  一九六六年も終わろうとする十二月十五日、一人のアメリカ人が死んだ。世界中の子供に夢を与え続けたウォルト・ディズニーである。ディズニーの提供する夢で育って来た子供達は、もう子供ではなくなっていた。ディズニー・ランドは既にあったが、ディズニーのアニメには往時のような生色がなくなっていた。やがて世界が豊かになり、豊かな社会で育った子供達が「大人になる必要」をさして感じなくなった時、ディズニーの力は復活する。しかし、まだ時代はそこまで豊かではなかった。子供であることを終えた若者達は各自の混乱を実演し始め、それに連動するように、世界も不思議な平和と混沌を実演する。ウォルト・ディズニーに象徴される「美しい建前」がなくなるのが、一九六七年である。  ウォルト・ディズニーがいなくなった一九六七年、アメリカには「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれる映画が登場する。一つは、ウォーレン・ベイティとフェイ・ダナウエイの主演したアーサー・ペン監督の『俺たちに明日はない』。もう一つは、ダスティン・ホフマンの出世作となったマイク・ニコルズ監督の『卒業』である。フランスのヌーベル・ヴァーグは一九五〇年代の終わりに登場していたが、ハリウッドの映画は、フランスよりずっと厳しい検閲下にあった。不健康や不道徳はだめである。やたらとカットされる。そうしてハリウッドは、「美しい建前」を保って来た。しかしその時代は終わった。『俺たちに明日はない』は、男女の銀行強盗の話である。しかも、男の方は性的な不能者だった。『卒業』は、他人の結婚式をぶち壊しにして、女を連れて逃げてしまう男の話である。「カッコよくなければならない、美しくなければならない」という建前の時代は終わった。  一月には、ケープ・ケネディ基地のアポロ宇宙船に火災が発生して、宇宙飛行士が三人死んだ。二月になると、進行中のヴェトナム戦争で「枯れ葉剤」が使われ始める。アメリカ軍は、森林地帯に隠れ住むとされるヴェトコンを追い出すため、そこにダイオキシンをまいた。四月十五日には、ヴェトナム戦争に反対する三十万人が、ニューヨークで平和行進をした。ボサボサの髪をしたヒッピー達が登場してくる、「サマー・オブ・ラブ」の始まりである。  汚い髪にヘンな格好、音楽はロックで、ドラッグとフリー・セックスは当たり前。ニューヨークで平和行進が行われた当日の日本は四月十六日——東京都知事に選ばれた美濃部亮吉《みのべりようきち》の「革新都政」がスタートする日である。三年前に東京オリンピックを成功させた保守系の知事・東竜太郎《あずまりゆうたろう》は消えた。その四月は、ギリシアに軍事クーデターが起こり、独裁政権が成立する時でもある。  六月になると、イスラエルがエジプトに圧勝する第三次中東戦争の勃発である。これは六日間で終わるが、同じ月、日本の東京教育大学の評議会は、茨城県に建設中の筑波研究学園都市への移転を強行決定した。やがては学園闘争の火種ともなる、大学側の決定である。翌年になって燃え盛る大学闘争の火種は、複数の大学に存在してくすぶり始めていた。もちろん、既に日本製のテレビアニメが存在している日本の子供達にとって、ウォルト・ディズニーが生きていようが死んでいようが、関係のないことではある。  七月になると、欧州共同体ECが結成される。アメリカとヨーロッパの蜜月は、もう終わっている。第二次世界大戦の戦場となったヨーロッパで、戦いに勝った国も負けた国も、「もうヨーロッパの時代ではない」という実感をしていたから、一つになろうとした——「イギリスは入れない」とかいう喧嘩もあったが。  同じ七月、暑い夏のアメリカのデトロイトでは、史上最大の黒人暴動が起こった。アメリカの大統領リンカーンが奴隷解放を宣言したのは、南北戦争中の一八六三年。黒人奴隷を使っていた南部が負けた南北戦争の終了が、一八六五年。そしてしかし、アメリカにはその後百年間、「人種差別」を否定する規定がなかった。一九六三年、シドニー・ポワチエが黒人男優として初のアカデミー主演男優賞を取った。当時高校生だった私は、「なんでそんなことが今さら話題になるのだろう?」と不思議だったが、人種差別や職業上の性差別を否定する公民法がアメリカで成立するのは、ケネディ没後の一九六四年だった。  百年間も差別が放置されていて、急に「それはないことにしろ」と言われても無理だろう。文化大革命の中国なら、「古い悪習は捨てろ、自己批判しろ」と責め立てて、社会常識を急変させてしまう手もあるが、アメリカに文化大革命はない。百年でアメリカ社会に当たり前のように定着してしまっている人種差別や偏見を、どうしたら変えられるのか。穏健派と急進派が対立してしまうのも仕方がない。急進派のマルコムXが黒人によって射殺されたのは、一九六五年のこと、穏健派のキング牧師が白人によって射殺されるのは、一九六八年である。そういう不安定な状況の中では、「史上最大の暴動」が起こっても仕方がないだろう。  人種の差別はある——一九四五年まで、白人社会は、平気で有色人種の国を植民地にしていた。しかし、一九五五年には、その旧植民地の国々がインドネシアのバンドンに集まって、第一回アジア・アフリカ会議を開いた。一九六七年の八月には、東南アジア諸国連合(ASEAN)の結成である。しかし、工業国化して豊かになるのが、本当にいいことなのか。  九月の日本では、四日市の喘息《ぜんそく》患者が、石油コンビナートの会社を相手取って、日本初の「大気汚染に関する公害訴訟」を起こす。この年の四月には、富山県の神通《じんつう》川流域で発生していたイタイイタイ病の原因が「三井金属神岡鉱業所の排水」と、大学教授によって断定される。それと同じ見解を国が発表するのは、一年後である。「新潟水俣病の原因は昭和電工の工場排水にある」ということは、この前年に大学教授が断言したが、民間の一年遅れで国がそれを認めたのも、やはりこの年の四月だった。  一九六〇年の日米安全保障条約改訂以後、左翼陣営はひそかに分裂を始める。「三派系全学連」というものが登場し、「左翼の時代」は「新左翼の時代」へ移行を始める。一九六七年の十月八日、ヴェトナム戦争中の南ヴェトナムに、総理大臣・佐藤栄作が�訪問�しようとする。これを阻止しようとして、三派系全学連による「羽田闘争」が起こる。�角材�で武装した[#「武装した」に傍点]学生達が、警察の機動隊と戦う。�角材�で勝てるのか? しかし、時代の若者達は「まず行動する」という方向へ進み始めていた。  その十日後、羽田にはミニスカートの妖精——モデルのツィッギーがイギリスからやって来た。その二日後には、日本の戦後の枠組みを作った元総理大臣・吉田茂が死亡する。老人の作った「平和にして単純な建前」が消える年、それが一九六七年かもしれない。 [#改ページ]       1 9 6 8  一九六八年がどんな年だったかを、一言で言うのは難しい。そして、一九六八年とは、その説明の�ややこしさ�がとても重大な意味を持つ年なのである。  この年の持つ�ややこしさ�は、決して説明不能ではない。しかしこの年の�問題�は、それを説明するための膨大な言葉を必要とする。おまけに、その千万言の言葉が、事態を明快にしてはくれない。かえって逆に、その説明の膨大さによって、説明される側の頭の中が混乱する。「説明のための言葉が事態をかえってややこしくする」——一九六八年とは、そんな年なのである。  たとえば、日本の一九六八年とは、各地に「大学闘争」あるいは「大学紛争」が激化して行く年である。この年には、そういう�特徴的なもの�がある。ところが、その�特徴的なもの�がどんなものかを説明しようとするとなると困る。「一九六八年の大学闘争とはなんだったのか?」と言えば、その横から、「あれは�闘争�ではない。ただの�紛争�だ」という異議も出る。それ[#「それ」に傍点]を「大学闘争」と言うのか、あるいはまた「大学紛争」と言うのか——同じ事態が二つの違う言葉を持つから、それ[#「それ」に傍点]の説明が困難になる。事態の説明以前に、事態を規定する言葉の詮索が起こって、肝心の�説明�はどこかへ行ってしまう。一九六八年の厄介とは、これである。  一九六八年の日本に、なぜ大学闘争が多発したか? 理由は二つある。一つは、この年が日米安全保障条約が十年ぶりに改訂される一九七〇年(いわゆる「七〇年安保」)を間近にしていた年だったことである。既に前年の一九六七年には、「羽田闘争」と呼ばれる�事件�も起こり、いくつかの大学では「授業料値上げ反対」を叫ぶ学生達がストライキを実施して、大学当局を困らせていた。学生達がなぜそれをするのかと言えば、当然そこには「七〇年安保の闘争へ向けて」という伏線がある。しかし、一九六八年の大学闘争の多発は、実のところ、「七〇年安保の接近」とはあまり関係がない。そうであってもしかるべきところに、「様々な問題」が日本の大学には起こった——これが、一九六八年の日本に大学闘争が多発した最大の理由である。  一九六八年の一月、既に東京大学の医学部はストに突入していた。理由は、それまでの「インターン制度」を「登録医制度」に変えるという、言ってしまえば�医学部内部の問題�である。それが三月になって、突如全学的な広がりを見せる。そうなった理由は、医学部の問題で学生の何人かが教授に暴力をふるったとして処分され、その処分に事実誤認があったということである。  当日現場に居合わせるはずのない学生が、処分の対象になっていた。学生達は、大学側に事実誤認を認めて不当な処分を撤回することを要求した。しかし、大学当局はこれを認めない。「東大という大学の権威をカサにきて、大学当局は自分の過ちを認めない」——これが東大闘争を拡大させ、翌年の「安田講堂の攻防戦」にまで至った唯一の理由である。とんでもなく難解な言葉と理論が飛び交った東大闘争の根本にあったものは、いたって分かりやすく具体的なものなのである。  一九六八年の五月には、日本大学でデモが起こる。日大は、当時の日本で最高の学生数を誇るマンモス大学であり、高度成長の時代に突入し始めていた日本株式会社を支えるサラリーマン要員の大量生産を目指すマスプロ大学だった。それゆえにこそ日大は、「レベルの低い大学」と思われ、学生達は傷ついていた。しかもここでは、大学当局が体育会学生を私兵のように使って、学生運動を暴力で弾圧していた。そういう前時代的な大学当局と、それに唯々諾々《いいだくだく》と従う学生達によって出来上がっている日大は、「思想性皆無」であり、「学生運動が起こるはずのない大学」と思われていた。そこに�学生のデモ�は登場する。理由は、「大学に二十億円の使途不明金があった」ということである。  大学と学生を牛耳り、私腹を肥やしていたワンマン理事長の横暴に対して、学生達は立ち上がる。東大闘争と並んで一九六八年を代表する日大闘争は、「安保」というものとはまったく関係がない、ただの「大学当局の不正を正す学園の民主化要求」なのである。  両方の闘争に共通するものは、大学当局の�欺瞞�である。それ以上の理屈はない。だからこそこの闘争は、多くの学生達の支持を集める。この闘争に参加した学生達にとって、すべては明確[#「明確」に傍点]で分かりやすい[#「分かりやすい」に傍点]のだ。しかし、これを�外部の目�で見ると、�事態�はいささか違ったものになる。  「東大のエライ先生が、そんないい加減な処分をするのだろうか?」と、ある人間は思う。別のある人間は、「上の人間が悪いことをするのなんか当たり前で、いくら文句を言ったって、世の中は変わりゃしないさ」と言う。「そのどうにもならない�世の中の仕組み�にたてをついて、お前達はどうやって生きて行くんだ?」などという声もある。簡単なのは、文句を言う学生に「暴力学生」のレッテルを貼ることである。「暴力学生」のやることなのだから、それは「闘争」ではなく「紛争」である。そういう�外部�に規定されて、学生達は、「欺瞞は大学当局だけではない」という、それ以前から薄々感じ取っていたことを、さらに明確に知る。「闘争」は拡大し、事態は混迷し、「紛争か、闘争か」という言葉の議論も激化する。「紛争か、闘争か」という議論は、�問題�を発生させる土壌の矛盾をそのままにあらわす、いたって本質的な議論だからである。  日大闘争の起こった五月に、フランスのパリ大学ナンテール分校でも、学生達が立ち上がる。理由は、「男女別宿舎の相互訪問の自由」である。学生達はそれを求め、大学当局はそれを拒む。当局側の対応の悪さが事態を悪化させ、やがては「五月革命」と呼ばれるものになる。五月革命のパリにあったものは、日本の大学にあったものと同じものである。  南北ヴェトナムの対立に介入したアメリカは、連日「北爆」を続けている。人民中国では、それまでの革命の中途半端さを追求する文化大革命が進行中で、「造反有理」を叫ぶ若い紅衛兵達が暴れる。「すべての反抗には必然性がある」という毛沢東の言葉は、この時代の根本となるものであるが、しかし、だからと言ってそれだけでどうなるものでもない。八月になると、「社会主義からの自由」を求めるチェコに、宗主国ソ連の戦車が侵入して武力弾圧をする。ヴェトナムやチェコの人間にとって、それは「闘争」であろう。しかし、アメリカやソ連の当局者にとって、それはただの「紛争」なのである。  事態打開の手前で「紛争か、闘争か」の議論は起こり、この議論の存在が事態の打開を妨げる。一九六八年は、そういう「論争の年」で、多くの人がその後の世界に感じる「記述困難」は、この年のつまずきに由来するのである。 [#改ページ]       1 9 6 9  前年に引き続いて、一九六九年の世界は荒れていた。あるいは、騒がしかった。新しくアメリカの大統領に就任したリチャード・ニクソンは、こじれたヴェトナム戦争を打開するため、「北爆の強化」を打ち出した。「アメリカが勝てば、ヴェトナム戦争は終わる」——アメリカの単純な大統領はそう考えた。後になってはとても通用しない強引な�打開策�だが、この時代の社会を管理する者達にとって、困難な事態を打開する最大の方法は、「力による問題の排除」だった。  一九六九年一月十八日、東大の安田講堂を占拠していた学生達は、機動隊によって排除された。荒廃した東京大学は、「入試中止」というペナルティを政府によって受けた。日本中の大学で、校舎を占拠する学生達が機動隊によって追われた。一九六九年の日本は、学生運動が収束に向かって行く年でもあるのだが、根本を無視した「力による問題の排除」が�根本的な解決�となるわけはない。だからこそ、管理者側の力によって�問題�を排除された世界は、これから何年かの間、「豊かさ」という仮の収束へ向かいながら、騒がしい痙攣状態を見せることになる。  一九六九年に排除される学生達は、「ノンセクト・ラジカル」を旗印にした学生達で、彼等は各大学に「全学共闘会議」という形で結集していた。つまり「全共闘」である。全共闘が学生運動の中心勢力となった時、学生達は既成の左翼運動から決別したも同然だった。だから、一九六〇年代末期の日本には、へんなことが起こる。左翼思想によって生まれたはずの学生運動が、一九六〇年代の終わりには、既成の左翼を敵とし、心情的には右翼へと接近してしまうのだ。学生運動とヤクザ映画のブームは、そのようにして両立した。「ノンセクト・ラジカル」とは、いずれの既成のセクトにも属さず——つまりは、いずれの既成のセクトに対しても疑問を感じ、ただ「ラジカル」であることを求めるということである。「ラジカル」が「根源的」であるのか、ただ「過激」であるのかは、混沌の中で大きく揺らぐけれども、「ノンセクト・ラジカル」を掲げてしまった者に味方はない。結局のところ「ノンセクト・ラジカル」とは、�集団�とはなりえず、�個�として散開して行くしかないものだからである。  一九六九年の九月、大学の外に出ざるをえなかった「ノンセクト・ラジカル」の学生達は、東京で「全国全共闘連合」を結成した。「ノンセクト」であるはずのものが、一つの「セクト」を作る——それは矛盾で、だからこそ「全国全共闘連合」は、全共闘というセクトの始まりではなく、終わりにしかならない。「終わりにしかならない」という事実を認めにくい者達が、「終わらせてはならない」という願望の下で、一つに結集した。つまり「全国全共闘連合の結成」というのは、学生運動を戦った若者達にとっての、散開の式典だったということである。おそらく、当事者達にその自覚は薄かっただろうけれども。  その年の秋になれば、過激化した学生運動の中に「手製爆弾」も登場する。十一月には、大菩薩峠で「武闘訓練」をしていた赤軍派が逮捕される。一九七〇年代の前半に赤軍派はさまざまな騒ぎを起こすが、それとは無関係に、時代は豊かに、平和になって行った。騒ぎを生む「問題」と共に排除されて行った者達は、そのまま浮上しない。どうしてかと言えば、排除された「問題」の中に、再浮上に必要な「新しい思想」が宿らなかったからである。つまり、一九六九年とは、それ以前の時代を引っ張って来た「思想」が終焉を迎える年なのだ。だからこそ騒がしく、その後には空疎なる「豊かさ」しかもたらさない。  一九六九年、日本の学生達の多くは、既成の左翼思想に背を向けていた。社会主義国家の中国では、自己破壊的な文化大革命が続行中だったし、前年にチェコのプラハを戦車で制圧しなければならなかったソ連も、同盟国である東欧諸国に離反の機運を生んでいた。社会主義思想の主導権争いから、一九五九年の段階でもう決裂が歴然となっていた中国とソ連は、一九六九年になってウスリー河の中洲で武力衝突を起こした。左翼思想は壁にぶつかっている。第二次世界大戦以後の基本となっていたソ連対アメリカの冷戦構造はそのままだったが、しかし世界は、もう冷戦以後の「地域紛争の時代」へと突入し始めていた。  ヴェトナム戦争を「社会主義と自由主義の対決」と信じていたのは、アメリカ人のすべてではない。だからこそ、アメリカでは本格的な反戦運動が起こっている。一九六七年の四月、アメリカ各地から集まった三十万人がニューヨークへの平和行進をした。訴えるものは「反戦」であり「|愛と平和《ラブ・アンド・ピース》」である。ヴェトナムで無意味な戦いを続けることによって、アメリカの自由主義思想も壁にぶつかり、ここからヒッピーの文化が生まれる。しかし、一九六七年に生まれたヒッピーの思想さえも、ドラッグに足を取られ、一九六九年には壁にぶつかっている。改造バイクでアメリカ大陸を放浪する自由なヒッピーの若者二人が、保守的なアメリカの村人達に惨殺されてしまう映画『イージー・ライダー』は、この年に公開される。アメリカ犯罪史上に名を残す狂信者チャールズ・マンソンが、ヒッピーでもあるような信者の若者達と映画女優シャロン・テイトを惨殺してしまうのが、一九六九年の八月。同じ月には、四十万人の若者を集めたロックコンサート「ウッドストック」が開かれる。「平和と音楽の三日間」は�伝説�となった。しかし、その三十周年を記念して開かれた一九九九年の「ウッドストック」は、暴動の場だった。思想を欠落させたその後の時代に、かつての伝説はもう蘇らない。  一九六九年はまた、人類が月への第一歩を刻んだ年でもある。この年の七月二十日、アメリカの宇宙船アポロ十一号は月面に着陸した。一九五七年にソ連が世界初の人工衛星を打ち上げてから十二年、ソ連のガガーリン少佐が地球を一周した一九六一年の八年後だが、しかし月面に着陸した人類は、その後の二十世紀の三十年間、その先へ一歩も進めなかった。この時点で、誰がそんなことを考えただろう。月に第一歩を記した人類はやがて火星に至り、その後もどんどん宇宙への進出を果たして行くのだと思われていた。しかし人類は月で止まった。NASAの目的は「月まで」だった。進歩をうながす「科学」という思想さえも、ここで終わった。  一九六九年に、「思想」はその役割を終えた。「思想」は「豊かさ」を作り、その豊かさの中で「思想」は不必要になった。一九七〇年から始まるのは、「思想」を必要としない「大衆の時代」なのである。時代の中で生まれた「思想」は、まだ続く時間の中で古くなり、時代というものに追い越されて行った。それを自覚しない「思想」の信奉者は痙攣し、その責任と役割を「大衆」にバトンタッチした「思想」は、ゆっくりと終焉を迎えて行く。 [#改ページ]       1 9 7 0  一九七〇年は、大阪万博の年である。  一九六四年の東京オリンピックが終わると、「大阪に万国博の誘致を」の声が上がった。「万博を呼んで大阪にも東京並の経済復興を」である。一九六四年以前、「東京オリンピックを無事に開催出来るのか?」と多くの日本人はドキドキした。しかしそれが大成功に終わった後は、もう遠慮がない。高度成長の道を邁進する日本人は、呼べるものならなんでも外国から呼ぶようになる。  大阪万博のこの年には、ハリウッドのスター、チャールズ・ブロンソンを起用した男性化粧品「マンダム」のCMが大ヒットした。その後の日本のテレビでは、オードリー・ヘプバーンやカトリーヌ・ドヌーヴやアラン・ドロンがCMを実演する。大阪万博では、アポロ十一号の持ち帰った「月の石」が展示され、これを見るために日本人は長い列を作った。一九七二年には、札幌に冬季オリンピックが呼ばれる。一九七四年には、ルーヴル美術館からモナリザの絵が運ばれて、これを見るためだけに百五十万人の日本人が並んだ。一九八〇年代になれば日本各地に「地方博」は花盛りになるが、その下地はこの年に作られた。日本は遂に「繁栄の時代」へと突入したのである。  大阪万博がスタートした三月十四日から十七日目の三月三十一日には、よど号のハイジャック事件が起きる。犯人は赤軍派の学生達で、彼等は北朝鮮へ行った。十一月二十五日には、東京市ヶ谷の自衛隊駐屯地に作家の三島由紀夫が私設の軍隊「楯の会」の会員と共に侵入、自衛隊員に「決起」を呼びかけて自決した。「思想」が終焉した繁栄の日本から、極左の学生も極右の作家も去って行った。  終焉と言えば、よど号事件の十日後、ビートルズが『レット・イット・ビー』を最後に解散した。一九六二年にデビューした時、ジョン・レノンは二十一歳、解散時には二十九歳だった。二十代の若者に八年の時間が与えられたら、もう若者ではなくなる。しかし、ビートルズ解散の理由は、彼等が若くなくなったからでも、人気がなくなったからでもない。原因はメンバーの仲違い。解散しても、ビートルズのメンバーはそれぞれの活動を続け、その意味でビートルズは、変わらずに健在だった。  ビートルズにとって、あまり年齢は意味がない。ビートルズが登場するまで、若者は「大人」になるものだったが、ビートルズが登場してからの若者は、「大人」にならない。若者は、ただ「若者としての時期」を終え、それまでの「大人」とは違う、なにか別のものになる。  一九六二年にビートルズをデビューさせたイギリスは、一九六五年にマリー・クワントのミニスカートを生んだ。その時マリー・クワントは二十一歳。斜陽大国イギリスの一九六〇年代を支えた二大功績者は、マリー・クワントとビートルズである。ビートルズとマリー・クワントは、音楽とファッションをビッグ・ビジネスにした。二十世紀の世界に資本主義という繁栄の基軸をもたらした大英帝国は、そのビジネスの質をさっさと変えていたのだが、しかしそのミニスカートも、一九六九年を最後に終焉の時を迎える。一九七〇年以後のファッションは、マキシ丈のスカートであり、パンタロンであり、ホットパンツになった。しかし、ビートルズ解散後も音楽がビッグ・ビジネスであり続けたように、ミニスカートがはやらなくなった後でも、「若者ファッション」は健在だった。  しかし、ビッグ・ビジネスとなった音楽もファッションも、やがては保守化してしまう。ミニスカートという極端を生んだ若者ファッションは、やがて「ニュートラ」という穏健化をへて、ブランド志向の一九八〇年代へ至る。ビートルズが登場した時、大人達は「うるさい騒音」と言ったが、ビッグ・ビジネスとなった音楽は、もうそのような非難を浴びなかった。音楽もファッションも、企業社会を成り立たせる一要素となって、その時には、「思想」という違和感が排除されている。  ビートルズが解散した年の秋には、アメリカで二人のビッグ・スターが死ぬ。一九六〇年代末期のアメリカ若者文化を作ったロック・ミュージシャン、ジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリンである。ジミ・ヘンドリックスは「変死体」で発見された。ジャニス・ジョプリンはヘロインによるショック死である。サイケデリック時代のスターは、彼等にふさわしい死に方をした。過激なものは、その過激さに殉じて自ら消えて行った。  一九六〇年代の終わりに、終焉を迎えつつあった「思想」は、若者にその役割をゆだねようとした。若者達は「思想」を体現しようとして、しかし、その若者達も消えて行く。「思想」が終焉を迎える世界に浮上するものは、新しい�問題�である。一つは女性問題であり、もう一つは公害だった。  一九七〇年八月のアメリカでは、女性参政権獲得五十周年を記念する集会が各地で開かれた。前年の八月はウッドストック、この年のアメリカは女性解放のデモ行進である。女性運動を導く有力な著書もベストセラーになる。日本の十月二十一日は、初のウーマンリブの集会である。前年には手製爆弾も登場した国際反戦デーのこの日、日本のウーマンリブは産声を上げる。人類の半数を占める女性のあり方が「思想」にはならず�問題�のままであるというのはへんだが、「男の作る社会に女が問題を提起する」という形が崩れるまで、女性問題は「人類の思想」とはならない。その点で、「被害を国に認めさせる」という形で繰り広げられる公害闘争と、女性問題は同じなのである。  公害の登場は、一九七〇年以前である。一九六三年には、熊本県で発生した水俣病の原因が、新日本窒素水俣工場から排出された有機水銀であることが言われ始め、一九六七年には、三重県四日市の石油コンビナートからの大気汚染による四日市ぜんそくが、公害訴訟を起こしている。一九六九年には石牟礼道子の書いた『苦海浄土——わが水俣病』がベストセラーになり、社会の矛盾を体現するような公害への認識が広まった。一九七〇年は、「スモン病」と呼ばれた奇病が、実は整腸剤キノホルムによる薬害であることが報告された年であり、東京杉並区の住宅街に光化学スモッグという新手の公害が現れる年でもある。  公害のその初めは「企業害」であって、企業とその後ろ盾になる国は、因果関係を認めない。しかし公害は、企業と国家権力が「悪」であるというところから始まって、やがては、文明社会・市民社会のあり方そのものが大気汚染・水質汚染を生むというところへ進む。二十世紀後半の世界に住む人間が等しく被害者となり加害者になりうるというところで、公害問題は、人間のあり方を考え直させる女性問題と同じなのである。  「思想」は消え、そして、解決を求める「問題」が新たに浮上する——一九七〇年はそんな年である。 [#改ページ]       1 9 7 1  一九七一年は、繁栄の時代をになう大衆の年——「大衆元年」とも言うべき年である。  前年の八月、東京都知事・美濃部亮吉は休日の盛り場に乗り入れる車をストップさせ、車道を歩行者に開放する歩行者天国を始めた。一九七一年の七月、その中心地でもあった銀座に、ハンバーガーのマクドナルドが第一号店をオープンさせる。それまではお行儀が悪いとされていた立ち食いが当たり前になり、ファースト・フードの時代が日本にやって来る。九月には、日清食品がカップヌードルを発売する。鍋もどんぶりもいらない。お湯さえあれば、どこでもカップヌードルは食べられるのである。三月には、東京の多摩丘陵を削っていた工事が一段落、出来上がった多摩ニュータウンの入居が開始される。六月には、日本で最初の超高層ホテル、京王プラザホテルが新宿で営業を開始する。  銀座のマクドナルド、多摩のニュータウン、新宿の超高層ホテル——東京都といういたって小さな行政区域に登場したこの三つがどんな意味を持つことになるのか、一九七一年の段階ではまだよく分からなかっただろう。  日本マクドナルドが第一号店として選んだのは、銀座の三越だった。立ち食いのファースト・フードという、それまでの日本文化の常識を覆すものは、日本一の盛り場・銀座にある、日本で一番格式の高いデパート・三越の一角に登場した。それを決断した三越銀座店の店長は、後に三越の社長となり、一九八二年「古代ペルシア秘宝展」の贋作《がんさく》騒ぎで�愛人�とも噂された竹久みち共々逮捕され、「なぜだ!」の一言を残してクビを切られる岡田茂である。  一九六〇年代の終わり頃、既に銀座には盛り場としての地盤沈下が起こっていた。銀座の目抜き通りを占めるのは銀行の店舗で、銀行のシャッターは午後の三時になれば閉まってしまう。仕事帰りの人達が「銀ブラ」をする頃には、メインストリートが閉まっている。  一等地・銀座に店舗を求めて、日本の金融資本は、その町を変質させてしまった。しかも、都心に通う人達の住まいは郊外に移り、繁華街の中心は、新宿・渋谷・池袋というターミナル駅に移りつつある。ファッションの中心は若者である。たいした金を持っているはずのない若者達は、しかし刹那的かつ衝動的に金を使う。若者客をつかめない店は、流行からはずれた「古い店」になって行く。一九六〇年代末、日本のサブカルチャー・シーンの中心となったのは、「若者の町・新宿」だった。時代は、上等な顧客を対象とする老舗三越のやり方とはズレを見せて来たのである。  三越の本店は日本橋にあったが、その日本橋に昔日の輝きはない。一九九九年一月に三百三十七年の歴史を終える日本橋の白木屋は、一九六七年に「白木屋」の名を失い「東急デパート」となっている。日本橋に軒を並べて三越と白木屋が繁栄を競い合っていた時代は、終わりつつあった。東京の中心は西へ移りつつある。新宿にあった広大な淀橋浄水場が閉鎖され、その跡地には「副都心」なるものが建設される計画が進んでいた。その第一号となるものが、六月に開業した京王プラザホテル——であればこその、多摩ニュータウンである。多摩ニュータウンから伸びるのは、新宿へつながる小田急・京王の電車線路だった。  銀座の地盤沈下は、銀座三越の売上不振へとつながる。日本マクドナルドの第一号店がここに出来たのは、銀座に客を呼び戻そうとする、岡田茂の決断だった。「歩行者天国でハンバーガーを食う」——それが、一九七一年夏の日本に登場した最もファッショナブルな光景だった。  銀座三越はヤング路線を歩んで甦り、その成功で岡田茂は三越の社長になった。老舗三越は新しい時代に再生したように見えた。しかし、時代はもっと大きな勢いで変わっていた。マクドナルドのハンバーガーは、別に銀座の一等地にふさわしい食べ物ではなかったからだ。その手っ取り早さとお行儀の悪さは、名門銀座よりも新興新宿の方にふさわしい。マクドナルドの店舗が、三越の一角に限定されていなければならない理由はどこにもない。客が集まるとなれば、どこにでも進出して行く。マクドナルドと、それに追随するハンバーガー・チェーンは、日本中に広がって行く。若者にとって、別に老舗三越はどうでもいい。重要なことは、それが近くにあるか遠くにあるかというだけである。  若者を生み出す家庭は、都心の銀座とは遠いところに作られて行く。人は、都心から離れて作られた新しい住宅地に住み、その人口は新しい繁華街を生む。一九八二年に没落する三越社長にとっての最大の敵は、繁栄と共に生まれた都市の空洞化——スプロール現象だったのである。  東京の南西部にある多摩丘陵を切り拓いてニュータウンを造るという計画がスタートしたのは、一九六六年だった。多摩ニュータウンは、それ以前から続いていた団地の大規模発展形だった。日本の首都東京に企業は密集して、しかし狭い東京に、多くの就業人口を住まわせるだけの土地はない。まだ技術の進歩を信じていた日本人は、人工の町を造ることを考えた。  その場所が、なぜ猿が住むような多摩丘陵なのか。東京はまだ、「東京」であることにこだわっていた。  やがて東京は膨れ、千葉県も埼玉県も神奈川県も、東京の通勤圏となる。しかし一九六六年の段階で、東京はまだ「東京」の中に収束出来ると思われていた。「東京」の外から通うことは、「都落ち」のようにも思われていた。出来たばかりの多摩ニュータウンはまだまだ不便だったが、しかしそこには「新しい都市」という夢があり、そこは「東京」だった。夢の下に、家を求める家族達は移り住んだ。  多摩ニュータウンは広大な�新都市�だったが、増え続ける東京の人口すべてを吸収出来るものではない。東京に通う人達の住まいは、「首都圏」を構成する隣接県へと広がって行く。その広がりはまた、ハンバーガー・チェーンの広がりや、カップヌードルの販売量の増加と軌を一にするものでもあろう。  若い夫婦中心の新家庭に、伝統的な生活習慣はなじまない。近代日本に「市民生活の模範」を提供し続けて来た百貨店の時代はやがて転換し、スーパーマーケットの時代が来る。安価で均一で、どこにでも店舗がある。忽然と開かれた新興住宅地は、駅前の大型店舗を唯一の頼りとするしかない人工の町なのである。  昭和三十年代、休日の日本人はおしゃれをしてデパートに行った。日本各地の盛り場の中心にはデパートがあった。一九七〇年代に、人の生活の中心はスーパーマーケットに移り、一九八〇年代も後半になると、盛り場の中心に必須となるものは、「おしゃれなシティホテル」になる。日本人は、そのように成熟したのか? 成熟と共に年も取った。  ある時一斉に入居を開始された人工の都市は、いずれ「老人だらけの町」に変わってしまう。一九七一年、その未来はまだ見えなかった。 [#改ページ]       1 9 7 2  一九七二年一月、今や日本人専用の観光地と化した感もあるグアム島で、元日本兵・横井庄一が発見された。翌々年の三月には、フィリピンのルバング島で元陸軍少尉・小野田|寛郎《ひろお》が発見され、さらにその年末にはインドネシアのモロタイ島で、台湾出身の元日本兵・中村輝夫も発見される。三人とも、まだ太平洋戦争は終わっていないと思っていた。一九七二年は、「残された戦後処理」の一つである沖縄の日本復帰が果たされ、日中国交回復がなる年でもある。太平洋戦争の終結から二十七年がたって、しかしまだ情報化社会ではなかった。今となっては、「一九七〇年代初めの地球上には、まだ情報から隔絶された隠遁地となる場所が残されていた」と言いたくなるような、元日本軍兵士の発見である。  二月になると、追い詰められた学生運動の生き残り——逃亡中の連合赤軍のメンバー達が、群馬県でリンチ殺人、長野県であさま山荘銃撃戦を惹き起こす。別の赤軍のメンバー三人はイスラエルに渡り、五月にテル・アヴィブのロッド空港で銃乱射事件。二人は射殺、一人は逮捕である。太平洋戦争も�激動の一九六〇年代末�も、終わらない人の中では終わらないのだが、�激動の一九六〇年代末�の日本で最も評判の悪かった人物、佐藤栄作が、この年総理大臣を辞任する。遂に一つの時代は終わるのである。  佐藤栄作が総理大臣となったのは、東京オリンピックの終わったばかりの一九六四年十一月。それからの日本は「最長不倒距離」と言われたこの人の長期政権下にあった。「人事の佐藤」と言われたこの人がどのような功績を果たしたのか、私にはよく分からない。東京オリンピックから日本列島改造計画に至るまでの足掛け九年の時期——その激動の時代の日本を、おそらくは最も日本人的な日和見主義によって導いたのが、この人だろう。沖縄返還の問題では「売国奴」と言われた。政治献金の問題では「財界の男メカケ」と言われた。しかし彼は動じなかった。引退後の一九七四年にはノーベル平和賞を受賞したが、彼が世界平和にいかなる貢献をしたのか、私は知らない。  一九七二年六月、引退表明の記者会見では、堪忍袋の緒が切れたのだろう、彼の悪口を書き続けた新聞記者達を「嫌いだ」と言った。目の前に座る記者達を無視して、後ろに並ぶテレビカメラに「テレビは前に出なさい」と言った。怒った新聞記者達はゾロゾロと席を立ち、テレビカメラはその様子と、ガラ空きになった記者席の向こうに座る総理大臣の孤独を映し出した。一九七二年五月の沖縄返還はこの人の手によって行われ、復帰した沖縄には米軍基地もついて来た。沖縄復帰が悪評タラタラだったのは、この人によって行われたからかもしれない。  東大出の可もなく不可もない官僚上がりの優等生・佐藤栄作の後を受けて、一九七二年の七月に総理大臣となったのは、小学校しか出ていない田中角栄だった。下駄履きでダミ声、東京の目白に錦鯉のいる豪邸を構えた浪曲好きの田中角栄は、日本人の憧れる「立志伝中の人物」だった。後継総裁を目指した田中角栄は、佐藤栄作の引退表明直前に『日本列島改造論』を発表する。それまでの日本中の不満をすべて引き受けて佐藤栄作は退き、一九七二年の日本人は、大規模な土木工事と土地の値上がりがすべてであるような時代を、�明るい未来�と錯覚する。まだ表向きにはなんの�問題�も発生させていなかった田中角栄は、九月になると中国へ飛び、日中共同声明を発表する。日本と中国は国交を回復し、十一月には二頭のパンダがやって来る。不満だらけの沖縄復帰とは対照的な�明るい日中国交回復�は、もしかしたら、それが佐藤栄作の手によってなしとげられたものではなく、おまけのパンダがいたせいなのかもしれない。二頭のパンダと共に、日本はバブル経済の門口へ立つのだ。騒がしく揺れた一九六〇年代末期の日本は、一九七〇年の月の石とこの年のパンダによって、あっさりと「経済大国」へ変身し遂げたのかもしれない。  そんな一九七二年の日本で、一人の女性スターが退場し、別の女性スターが登場する。結婚して引退するヤクザ映画のヒロイン——「最後の映画スター」と言われた藤純子(現・富司純子)と、後のニューミュージックの女王、荒井由実こと松任谷由実の歌手デビューである。  一九六八年に公開された藤純子主演の『緋牡丹博徒』は、一九七二年初めの第八作『緋牡丹博徒仁義通します』で完結。引退記念映画『関東緋桜一家』を最後にして、彼女はスクリーンを去る。高度成長の時代は、まだまだ貧しい時代でもあった。経済成長の中で置き去りを食わされている日本人の欲求不満を代弁したのがヤクザ映画であり、そこに咲いた虚構中の虚構と言えるものが、藤純子の演じた清純なる女ヤクザ・緋牡丹お竜だった。彼女を失って、全盛を極めたヤクザ映画の時代も終わる。豊かさを求める悪い新興ヤクザと、仁義を重んじる旧派のヤクザとの戦いは、必ず旧派が負けた。負けることと引き換えに、善なるヤクザは美学を引き受けた。「緋牡丹お竜」の退場と共に、そのヤクザ映画の公式も崩れる。ヤクザ映画はヒロインの退場と共に�美学�を失い、猥雑な�実録路線�に移る。一九七三年から始まる『仁義なき戦い』のシリーズで、ヤクザ達は存分に猥雑で薄汚い。ロクでもない親分に翻弄される若いヤクザ達は、もう�正義�ではいられない。凄絶と悲惨にその�終わり�を賭けるだけになる。  ヤクザ映画の美学が終わる年、後のニューミュージックの女王は『返事はいらない』で歌手デビューする。一九七二年、大学に入った荒井——後の松任谷由実は、全共闘の時代の痕跡がまだ残るキャンパスの風景を、ただ「汚い」と見た。新しい時代のヒロインは、まだ残る古い男達の姿を、あっさり一蹴した。  若者の心情をストレートに表現する「日本語のフォークソング」は、関西系フォークシンガーの出現によって始まる。一九六七年にはフォーク・クルセダーズの『帰って来たヨッパライ』、一九六八年になって高石友也の『受験生ブルース』、岡林信康の『山谷ブルース』『友よ』等である。関西系フォークソングの特徴は、強いメッセージ性と笑いだった。一九七〇年代になると、そこに叙情性が加わり、メッセージ性は薄れる。一九七三年の大ヒット曲、「四畳半フォーク」などと言われた南こうせつとかぐや姫の『神田川』は、フォークソングからメッセージ性を切り離す里程標となるものだろう。  若者達はまだ貧しく、その心情を歌ってフォークソングは歌謡曲と接近し、やがて離れた。フォークソングは、「ニューミュージック」へと変わる。フォークソングからニューミュージックへの変化は、「貧乏からオシャレへの変化」である。ニューミュージックは「俗に冒されないオシャレ」を守って、歌謡曲との間に一線を引いた。ニューミュージックの女王は一九七二年に登場し、やがて「オシャレ」は、思想ともなり行くのである。 [#改ページ]       1 9 7 3  一九七三年は、オイルショックの年である。  十月六日、エジプトとシリアの軍隊はイスラエルに対する攻撃を開始した。第四次中東戦争の勃発である。一九六七年の第三次中東戦争で負けたアラブ側は、自分達が輸出する石油を武器として、イスラエルを支援する国の首を締め上げてやろうという作戦に出た。OPEC(石油輸出国機構)に属するペルシア湾岸のアラブ諸国は、イスラエル支持国向けの輸出量を削減し、原油価格を値上げする手段に出た。言ってみれば、世界の原油の大半を握るアラブ諸国のストライキである。  夜の町からネオンが消え、飛行機の便数が減り、自動車のスピードが落ち、そして暖房の温度が下がったのは、日本ばかりではなかった。いかに世界中が石油に依存していたのかということがバレてしまった。中でも、石油の九九%以上を輸入に頼っている日本は、とても困った。「アラブ以外からの輸入は出来ないか?」と叫び、「まだまだ石油の備蓄は十分にある!」と叫んで、しかしオイルショックは日本を襲った。中東戦争から一月もたたない内、トイレットペーパーや洗剤が日本中の店頭から姿を消したのである。  すべてはオイルショックのせいであるはずなのだが、いくらなんでも、そう簡単にトイレットペーパーや洗剤が姿を消してしまうはずはない。なぜまたそういうものだけが姿を消すのかも分からない。オイルショックに便乗したり過剰防衛に走った結果の、売り惜しみや買い占めが原因だと言われたが、実際、洗剤やトイレットペーパーは店頭にないのである。その頃まだ学生だった私は、別の用事で薬局に行った。そうしたら、レジにいたパートのおばさんが小声で囁いた——「あんた、洗剤とかトイレットペーパーあるの? ないんだったらあるわよ」と。私は、「あるからいいです」と断ったが、そのおばさんは、私に高く売りつけようとしたのではない。ヒイキで、「あんたなら売って上げるわよ」と言ったのである。「なるほど、そういう現実もあるか」と思って、私はいまだに「オイルショックなんてウソっぱちだ」と思っているのだが、パートのおばさんにヒイキしてもらえない多くの国民の怨嗟《えんさ》の声に囲まれた日本政府としては、そんなことも言っていられなかったのだろう。  これからますます暖房用の灯油が必要になる冬に向かって、日本政府はある決断をした。アラブ諸国に特使を送って、「日本に石油を売って下さい」とお願いをしたのである。特使として立ったのは、日本で二番目にエライ、時の自民党副総裁・三木武夫だった。日本人お得意の、「石油売ってくれたら金貸してあげる」という手も使った。「中東問題の複雑も理解せず、アラブ諸国と普段から友好関係を保つ努力もせず、困った時だけただ�石油売って下さい�と言う日本の思想性のなさはなんだ」と非難したのは、外国人ではなく、日本の知識階級だった。  ところで、オイルショックとはなんだったのか?——というのである。  石油を武器にして「イスラエルを支援するな」と脅したアラブ側——エジプトとシリアは戦闘に負けた。勝ったイスラエルも、必要以上に国力を消耗して疲弊した。だから、第四次中東戦争以降、彼の地ではイスラエル対アラブの�国同士の戦争�は起こらない。つまり、第四次中東戦争を戦った国同士にどういう利益があったのかは、よく分からないということである。その代わり、原油の値上げをしたペルシア湾岸の産油国は、一時的な大儲けをした。だがしかし、それですむほど二十世紀後半の現実は簡単なものではない。アラブ諸国は考えなかっただろうが、オイルショックに陥った�先進国�と言われるところは、「石油がなくなればどうなるか?」を経験してしまったのである。  電力の供給源であることを含めて、石油への過大な依存は危険だということに気づいてしまった。しかも、化石燃料の消費は地球の温暖化を招く。大気汚染の原因にもなる。さらにしかも、石油のストックは無限ではない。このまま地球上の石油を消費し続ければ、近い将来石油がなくなる日が来る。「そうなった時どうするか?」を考えた。そして、原子力発電への移行を考えたりもした。風が吹けば桶屋が儲かるではないが、その結果「反核運動の広がり」というところへ行ってしまったりもする。  オイルショックは、やがて収まった。アラブの産油国はより金持ちになり、日本の石油関係者もきちんと儲けて、世界の石油消費国のネオンもまた元のように輝いたが、「省エネ、省資源」という発想は消えなかった。輸入国は微妙に石油からの距離を置き、やがて石油の価格はジリジリと下がり始める。石油で儲けたアラブの産油国にも貧富の差が生まれ、一九九一年には産油国のイラクが同じ産油国のクウェートを襲う事態になり、湾岸戦争が勃発する。つまり、「オイルショックとはなんだったのか?」ということの答には、「戦争を口実に使った産油国側の値上げ戦略もあった」ということである。  第四次中東戦争を戦ったアラブ側の国、エジプトもシリアも産油国ではない。ということになると、「中東問題の複雑」も理解せず、ただ石油ほしさでアラブまで出掛けて行った日本のやり方は、そうそう間違いではなかったということになる。戦争をすることの利害なんかは、戦争をする当事者にしか分からない。よその国がそれに介入するのは、介入する国なりの思惑があってのことで、それであれば、介入しない国には「介入しない国なりの思惑」があったっていいのである。  日本というのは不思議な国で、国際情勢なんかはよく分からないくせに、分からないことをやたらと恥じる。それは、知らない人間ばかりのパーティーに出掛けて、「誰かと口きかなきゃ、口きかなきゃ、でも恥ずかしいね」と、一緒に行った仲間同士がコソコソと話をしているのに似ている。日本の外交はそういうもので、しかし日本の商売は全然違う。照れ屋で恥ずかしがりになった「外交」という都会育ちの息子がオドオドしているのを横目に見て、田舎から出て来た「商売」というオヤジは、いきなり「ハロー」と言って適当に話をまとめてしまう。日本はそういう国なのだ。  オイルショックがあって、それで日本がどうなったのかは分からない。その二年前、ドルショックで円を切り上げ、オイルショックの八カ月前、一九七三年の二月には、円が変動相場制に移行した。しかし、円は強かった。いかなる「国際情勢」とも無関係に、日本は世界最強の経済大国になった。日本は自力で勝ったのである。日本はあらかじめ、それ[#「それ」に傍点]を知っておくべきだった。そうすれば、日本は国際社会の「強い紳士」になれただろう。  知って勝てば紳士だが、知らないで勝つのは成り上がり者——国際社会とは、どうもそういうルールで出来上がっているらしい。しかし日本は、そのことだけを知らない。それで日本は、いつもオドオドしているのだ。 [#改ページ]       1 9 7 4  一九七四年は、立花隆の『田中角栄研究——その金脈と人脈』という文章によって、田中角栄が総理大臣を辞任した年である。アメリカでは、ウォーターゲイト事件によって、リチャード・ニクソン大統領が辞任に追い込まれている。アメリカと日本の両方で「政府の代表」が辞任に追い込まれてしまうという、非常に珍しい年である。  ワシントンにある「ウォーターゲイト」という名のビルの中には、民主党の全国本部があった。大統領選挙のある一九七二年の六月、そこに盗聴器を持った五人の男が侵入しようとして逮捕された。逮捕された男達の背後をたどって行くと、元FBIの要員やら元CIAの要員というのが出て来た。彼等は、民主党のマクガバン候補に対して共和党の現職ニクソン大統領を勝たせるために、選挙妨害を計画していたのだった。「大統領の陰謀」はすぐに囁かれたが、それから五カ月後の大統領選挙で、ニクソンは再選。ワシントンポストの二人の記者カール・バーンスタインとボブ・ウッドワード達が調査を開始、上院にも調査委員会が設置された。  ウォーターゲイト・ビルで最初の逮捕者が出て十カ月後の一九七三年四月には、司法長官と大統領補佐官が辞任したが、品性下劣な大統領はシラを切り通した。事件発覚から二年二カ月たった一九七四年の八月、「私は逃げ出す男ではないが云々」と言って、ニクソンは大統領を辞任する。  悪の容疑を問われるえらい人は、どうしても「私がやりました」とは言わない。それを言う代わりに�辞任�ということをする。辞任の前には、さんざっぱらロクでもない�事実�が暴かれていたりもするのだが、当人はその事実認否に関しては、ウンでもスンでもない。ただ辞める。どうも、「ギリギリのところまで事実を認めなければ、当人の面目だけは立つ」という論理があるらしい。一九九八年に明らかになった、ホワイトハウスでのクリントン大統領の不倫揉み消し疑惑——モニカ・ルインスキーという女性とホワイトハウスの中でセックスをしたのかしなかったのかという、かなりバカげた訴追《そつい》騒ぎも、「十回ばかり彼女に性器を舐めさせるという不適切な関係はあったが、性交渉の事実はなかった」という�否認�で終わった。えらい人の事実認識とは、「認めはしないが辞任はする」か、「事実はないから辞任もしない」のどちらからしい。一九七四年の田中角栄も同じだった。  立花隆の『田中角栄研究——その金脈と人脈』という文章が月刊誌『文藝春秋』に掲載され、これが発売されたのは十月十日。この文章に注目して騒ぎ始めたのは、日本駐在の外国人ジャーナリストだった。日本の政治部記者は、�部外者�でもある立花隆の詳細なレポートを読んで、「あんなこと誰でも知ってるよ」と言うだけだったが、政治部記者以外の日本人は騒ぎ始めた。立花隆のレポートは、田中角栄の資産形成に関する疑問点を、ただ事実関係を中心にして淡々としかも詳細に述べただけのもので、悲憤慷慨《ひふんこうがい》を前提とするような糾弾《きゆうだん》の文章ではなかった。あまりにも淡々として続く事実の羅列ばかりだから、多くの日本人は、「ほんと?」と思った。その点で『田中角栄研究——』は、非常に大きな訴求《そきゆう》力を持ったのである。  多くの人が、半ば遠巻きにするような形で、「事実関係はどうなんだ、釈明をしろ」と言い始めた。田中総理は、「釈明する、釈明する」と言って、当然ロクな釈明をしない。多くの日本人は、それで「結局これもまたウヤムヤになるのだろうな」と思っていたところ、『田中角栄研究——』が世に出てから二カ月もたたない十一月二十六日、田中角栄は突然総理大臣を辞任してしまった。二年二カ月続いたウォーターゲイト事件は、「やった、勝利だ!」になるが、四十七日間の「田中金脈問題」は、「え?」という拍子抜けである。辞任することによって、田中角栄は、立花隆が遠回しに書いた文章中の�疑惑�を、すべて「言い逃れしようのない事実である」と認めてしまったに等しい。  日本の政治家の�悪事�に関しては、これ以前にも色々なことが囁かれていた。日本の政治家が公明正大な人物であるわけはないということは、もう日本人の常識ですらある。だから、「田中金脈問題」が明らかになった時、日本の政治記者達は騒がなかったのである。「仲間内では珍しくもない話ではあるし、それが取り上げられたとしても、別に大した騒ぎにはなるまい」と。  日本の政治記者と政治家は、それまで�仲間内�同然のようなものだったから、政治記者達には、政治家の不明朗を国民という�外部�に伝える気がなかったのかもしれない。そしてまた、立花隆のレポートも、「政治家の資産形成の不明朗」という、それまで�常識�として見逃されて来たことを詳細に伝えてしまったという点において、前例がないようなものだった。「その常識は、もしかしたら�悪�かもしれないぞ」という追求は、なかなか人に理解されにくいものではあるけれど、一度理解されてしまうと、動きようのない力を発揮するものでもある。田中角栄は、その�歴然たる不明朗�を衝かれ、言葉を失ったのである。そしてそれから二年後、今度は「ロッキード事件」というのがアメリカからやって来る。  一九七六年の二月、アメリカ上院の多国籍企業小委員会で、ロッキード社のコーチャン副会長が「外国との商売の仕方」に関して証言をした。要するに、「外国の政府高官にワイロを贈る」ということなのだが、そこに日本の例も出てしまった。エアバスを導入する全日空に対して、ロッキード社が売り込みを図り、ロッキード社の日本代理店である丸紅を通じてワイロをばらまいた。それには、日本の右翼の大物である児玉誉士夫や、田中角栄の�刎頸《ふんけい》の友�でもある国際興業社主・小佐野賢治もからんでいるというのである。アメリカ発のこの暴露証言は、日本にとんでもない騒ぎをもたらした。  事の発端は、一九七二年夏のハワイ会談で、ニクソン大統領が田中総理大臣に「ロッキード社の飛行機を買ってくれ」と話したことにあるという。田中角栄は総理大臣の職務権限を使い、各方面に働きかけたという。全日空と丸紅と自民党の議員と、その他様々な人物が登場して疑惑を問われ、シラを切り、自殺者まで出た。そして、前の総理大臣田中角栄は、コーチャン証言から五カ月後の七月、受託収賄罪と外国為替法違反の容疑で逮捕されたのである。  この時も日本国民は、まさか日本の前総理大臣が逮捕されるとは思わなかった。日本人というものは、どうやらとことん、政治家を信用していないのである。「悪いことをしても決して逮捕されないほどに悪い」——それが日本国民の思う政治家なのである。しかし、田中角栄は逮捕された。二年前に辞任した前総理大臣は、もう辞任のしようがない。それで、逮捕された田中角栄は逮捕容疑を認めず、徹底して争うことになる。 [#改ページ]       1 9 7 5  一九七五年は、昭和五十年である。昭和元年は七日しかなかったので、昭和天皇の在位五十周年が祝われるのは翌年のことになるが、この頃から不思議と、昭和天皇の存在感がクローズアップされて来る。この年は、イギリスのエリザベス女王が来日した。迎えるのは日本の皇室メンバーである。秋十月になると、天皇・皇后は初の訪米を経験。「天皇制というのはなんなんだ?」の議論とはまったく別なところで、昭和天皇は「不思議に存在感のある魅力的なおじいさん」というものになっていた。昭和天皇が「日本の象徴」であるなら、日本は平和だったということである。昭和五十年の日本は、「不景気」ということになっているが、実は戦後稀に見る「なにもない年」なのである。この年の日本は、「紅茶キノコのブーム」でしかない。  紅茶の液の中に、正体不明の菌類のようなものの�種�を入れると、それが培養された結果、紅茶が「体にいい飲み物」に変わるのだという。「紅茶キノコとはなんなのか?」という詮索はなされぬまま、「誰か譲ってくれませんか?」という口コミが広がって行った。なにしろ紅茶キノコというものは、「体にいい健康食品」ということ以外不明で、そうである以上、表立って売るわけにもいかないもの——つまり、どこにも売っていないものなのである。正体不明で健康食品で口コミで、しかも「売る」がないから儲けにはつながらない。ただ「善意」によって「健康」が日本中に伝えられるという、不思議な現象がしばらく続いて、パッタリはやらなくなった。「紅茶キノコの害」というのも伝えられた形跡がないから、「一体あれはなんだった?」と言うしかないものがブームになった。それが日本の一九七五年なのである。  日本は平和でなにもなかった。世界も似たようなものだった。世界のあちこちでテロ活動が続けられたが、世界が平穏で動かずにあればこそのテロである。世界は不思議に穏やかながら、そのあり方を少しずつ変えていた。  一九七五年、ヴェトナムでは南北統一が達成された。決して「平和裡に」ではない。戦闘があった。一九七三年の一月に、パリでヴェトナム和平協定が調印され、アメリカ軍はヴェトナムから撤退した。撤退後もアメリカ政府は、南ヴェトナムの傀儡政権に援助を続けていたが、一九七五年にその手を引いた。アメリカに財政赤字が訪れて、余分な金を使っているわけにはいかなくなったのである。アメリカをそういう形で窮地に陥れるのは、当然躍進する経済大国日本ではあるけれども、日本人は、自分達の存在がそんな風に世界情勢を動かしているとは思わなかった。  北ヴェトナムの軍隊は、アメリカの援助を失った南ヴェトナムへ攻め込んだ。一九七五年の四月、サイゴンは陥落。一九六四年から続いたヴェトナム戦争は、完全に終結した。それはつまり、アメリカが「世界の共産化に歯止めをかけてやる」と思っていた時代が終わったということである。アメリカは時代の潮流に負けた。しかも、その負け方は、思った以上にロクでもないものだった。  ヴェトナムで北爆を続けていたニクソン大統領は、その隣のカンボジアもこっそりと攻撃していた。共産化を防ぐためのこの爆撃は、逆にカンボジアの人間達を共産主義に走らせた。一九七五年、ポル・ポトの率いるクメール・ルージュは、プノンペンを制圧する。そして、カンボジアには、暗黒の時代が訪れる。宗主国フランスで教育を受けたカンボジアの社会主義者達は、やがて追い詰められた新興宗教の指導者のようになって、国民の虐殺を始めるからである。自由主義と社会主義とを問わず、既に世の中には指導原理がない——「指導原理がある」とすること自体が間違いなのだということを、ヴェトナムから手を引いたアメリカと、カンボジアを支配したクメール・ルージュは告げるのである。  カンボジアの社会主義者達を過激に走らせることに影響があったのは、中国の毛沢東である。晩年の毛沢東はおかしかった。妻の江青を野放しにして、中国に文化大革命の混乱を惹き起こした。ほとんど「皇后の専横を許した病める皇帝」である。その毛沢東が、一九七六年には八十二歳で死ぬ。毛沢東の死の八カ月前、毛沢東の片腕でもあったはずの周恩来が七十七歳で死ぬ。死ぬで言えば、一九七五年のこの年には、台湾国民政府の総統・蒋介石も八十七歳で死ぬ。日本帝国主義に対して戦った中国の偉大なる指導者達が、立て続けに死んで行くのである。  結局のところ、人は時代によって育てられる。だからこそ、ある時代を率いた人間達は、あるところで同時に死んだりもする。別に世襲制度の下にはなくても、時代というものは、ある時になって「指導者」という影響力をこっそりとなくし、そのことによって変わって行ったりもするのである。  蒋介石が死んだ一九七五年には、東京オリンピック以後の日本を率いて来た佐藤栄作も死ぬ。佐藤栄作以後の総理大臣・田中角栄も、翌年には逮捕される。日本の指導者は、どうもあまり「偉大な人物」ではない。だから、一人が死んでもまた似たようなのがその後に出て来て、ドロドロと止めどなく似たような時代が続くが、「偉大な人物」に指導されてしまう国では様相が違う。  一九七五年にはスペインの独裁者、フランシスコ・フランコ将軍が八十二歳で死ぬ。死の前にフランコ将軍は、国家元首の座をファン・カルロス皇太子に譲っていたので、この三十七歳の皇太子が即位して国王になると、スペインでは王政が復活する。軍事独裁政権は王政に移行するのだが、三十七歳の国王の望んだものは、「王の権力」なんかではなかった。一九七五年に即位する国王の望むものは、「民主化」だった。こうして、一九三六年に勃発して「第二次世界大戦の前哨戦」と言われたスペイン内乱は、三十九年ぶりに解決を見る。「独裁はもう古い」——スペインの新国王の告げるところは、ただそれだけなのである。  実際、一九七五年の前後は、世界各地で独裁政権が消えて行く時代でもある。一九七四年には、一九三三年から続いていたポルトガルの独裁政権が倒れた。ギリシアの軍事独裁政権も同じ年に倒れた。エチオピアでは八十二歳の皇帝、ハイレ・セラシエ一世が帝位からひきずり下ろされる。なんと、エチオピアの王室は三千年も続いた世界最古の王室だった。それが終わったのである。ポルトガル、ギリシア、エチオピア、スペイン、そして一九七六年には毛沢東が死に、アルゼンチンでも政変が起こる。王政から軍政というパターンもあれば、軍政から王政というパターンもある。しかし共通していることは、「第二次世界大戦の時代から続いていた権力者の時代が終わる」ということである。  かつての権力者達は年老いた。年老いた彼等は死に、その彼等の思想も古くなった。だからこそ、彼等が作っていた時代も終わる。世界は、結構へんな風に変わって行くものなのである。 [#改ページ]       1 9 7 6  一九七六年の日本は、昭和五十一年である。この年、「戦後生まれ」が日本の総人口の過半数に達した。一九四五年の敗戦から三十一年、若かったはずの「昭和」も五十歳を越え、時代は老いた。しかし、人口の過半数が三十一歳以下の日本は、若かった[#「若かった」に傍点]。この年はまた、ロッキード事件が発覚して元総理大臣・田中角栄が逮捕される年でもある。若い日本には、「元総理の逮捕」という前代未聞さえ起こる。なんだか日本の社会には世代交替が進んでいたようにも思えるが、本当だろうか?  田中角栄逮捕の一カ月前、与党・自由民主党の議員六人が離党を表明して、新自由クラブを結成した。一九五五年の保守合同によって自由民主党が発足して以来、初めての保守系新政党の誕生である。  自由民主党の内部は、前々年の「田中金脈問題」以来ゴタついていた。党と政治と政治家のあり方に批判が集中して、これに対する方策が持てなかったからである。自民党の当事者達は、得意の戦法である「うやむや」によって、事態の収拾を図ろうとした。六人の離党は、これへの反対表明である。  保守合同で誕生した自由民主党は、ヌエのような政党だった。ここには、右から左まで、すべての政治信条の持ち主が集まっていると言われた。だからこそ自民党の側は、「我々はいたって許容度の高い自由主義政党である」という自負心を持つことも出来た。しかし、これは裏を返せば、「なによりも大切なのは組織としての一体感であり、各人の信条なんかはどうでもいい」ということでもある。自民党内には「党内党」とも言うべき派閥がいくつもあり、自民党議員は、そこでどのような派閥活動や派閥対立をしてもいいし、なにを言ってもよかった。しかし、「党を割る」ということだけはしてはならない——これが、最も日本的な政党のあり方だった。  重要なのは「一つであること」。この基本姿勢が保たれていさえすれば、党を率いる長老達が、すべてを�よい方向�に導いてくれる。党員達は、何人かいるその派閥ボスの下に属し、世間知らずのわがまま息子のような待遇を受けていた。長老の下にいさえすれば、いつかは自分も�長老�の一人として遇されるようになる(かもしれない)。あるいは、新たなる長老候補の�補佐役�として、組織に重きをなすことが出来るかもしれない。そうなれば、自分の将来は�安泰�以上のものになる——そのように思い込んでいた。これはまた、年功序列を基本原理とする、会社社会日本のあり方でもある。日本人の多くは、「社会」がそのようなものであることを信じ、疑わなかった。であればこそ、自由民主党という政党は、「良かれ悪しかれ」の評語付きで、「日本を代表する政党」としてあり続けた。  年功序列の制度は、終身雇用を前提とする。「余生」以前の人生をそこで過ごす構成員達は、その制度を維持するため、年の順にきちんと居並ぶ。つまり、年功序列制度とは、未来を信じる順番待ちの行列なのである。そしてしかも、この行列は一本しかない。順番待ちの列はそこにしかない——となれば、構成員達もその列を守るしかない。これを「秩序」と呼ぶようになった時から、この制度への批判は消える。起こりうる最大の批判は「列を乱すな」だけで、それ以上の突っ込んだ批判は生まれない。批判は、順番待ちの列を作って待ち続けることへの無意味さに及び、やがては、順番待ち制度の崩壊を招くからである。だからこそ、「この順番待ちがいやで批判をするような人間は、この列から出て行け」という恫喝も生まれる。自信のないやつは、黙ってその行列に従う、「自信がある」と自惚れるやつは、行列の外で野垂れ死ぬ——そんな二者択一しかない。ここには、「行列制度を変える」という選択肢はないのである。  「日本の与党が永遠に調和的な�一つ�であらねばならない」というのは、独裁への待望ではない。それ以外の選択肢を持ちえないでいた、日本人の貧しさの結果である。だから、日本人が「豊かさ」への道を歩き始めた一九七〇年代になると、新しい動きが生まれる——「脱サラ」である。  順調な発展を遂げた日本経済の中に、「年功序列で一生を終わるのはいやだ」という�贅沢なつぶやき�が生まれ、形になった。それはまた、日本を動乱させた学生運動の影響でもあろう。体制の打倒がかなわなければ、体制からの脱出——つまりは、ドロップ・アウトである。その若者の思想が現実社会の男達に及んで、「脱サラ」となった。「脱サラ」は、流行語となり、「ブーム」と言われるようなものになり、羨望の対象ともなり、「そんなにうまく行くわきゃねーよ」という「揶揄」の対象にもなった。  一九七六年における新自由クラブの誕生は、この「脱サラブーム」の反映である。だから当然、この動きは野党にも飛び火する。会社を辞める時、その人間は同時に労働組合も辞めるからである。  翌一九七七年には、野党第一党たる社会党の七十歳になる前副委員長・江田三郎が、離党して社会市民連合を作ると発表した。もっとも、それを発表した二カ月後に彼は死に、遺志は三十六歳になる息子の江田|五月《さつき》へと引き継がれる。社会市民連合は、一九七八年に社会民主連合(社民連)と名を変え、一九九四年五月に消滅する。消滅した時、社民連のメンバーは、江田五月一人だった。  一時的なブームを起こした新自由クラブの消滅は、もっと早い。三年後の一九七九年七月には創設メンバーの四人が離党、一九八六年七月の総選挙に敗北した結果は、解党である。新自由クラブは、自民党へ戻った。それはまるで、「世間知らずの息子の一時的な家出」のようなものだった。  「脱サラ」をした人間には、必ずしも新しい会社を作る必要などない。「自分の生き方」を生きればいい。しかし、新しい政党には、「新しい社会を作る」という義務がある。それをしなければ政党ではない。そこが「脱サラ」とは違う。しかし、その新しい政党を生む日本の社会は、「秩序に従わない変わり者を排除する年功序列の社会」なのだ。排除された変わり者に、その社会を動かすだけの力は宿るのか? 「脱サラ」を可能にする日本社会の豊かさは、その一方で、終身雇用の豊かさを目指して進む多くの子供達をも育てた。会社社会と学校は、家庭というものを接点として、一つになった。もう子供達は、「未来」を疑わない。順番待ちの列に並べば、「確実な未来」が約束されるのである。それを「よい」と思えばこそ、親達は子供の画一化を容認した。進学のシステムは確固として、より多くの社会順応型人間が生まれた。  黙って列の後に並べばいい。列はゆっくりと進む。「古い人」は定年で消える。いつの間にか日本人は、その行列の進行をこそ「世代交替」と錯覚した。「豊かさ」という名の停滞が始まるのは、この頃からである。 [#改ページ]       1 9 7 7  一九七七年は、「文化の分岐点」ともなる時期である。  一九七六年、アメリカの西海岸で小さな会社が設立された。やがては時代を大きく変えることになる個人用コンピューター——パソコンのアップルコンピュータの誕生である。一九七五年の日本では、「家庭用ビデオ」という新製品も発売された。パソコンとビデオの二つは、やがて「個人の机の上で文化を作り出す」ということを可能にする——それが信じられるようになるのはもう少し先だが、一九七七年のアメリカには、この二つを接近させる�触媒�となるものが登場した。映画『スター・ウォーズ』の公開である。  アメリカ人にとっては「少年向けのおとぎ話」でしかなかったようなSF活劇——スペース・オペラが、堂々たる産業として成立することを、この作品は証明した。既に現実にはたいした物語がない。エキサイティングな物語を成り立たせるためには、架空の世界が必要になる——それを緻密に作り上げることに成功して、『スター・ウォーズ』はヴァーチャル・リアリティーへの道を産業に開いた。  『スター・ウォーズ』を制作監督したジョージ・ルーカスは、「少年の心を持った大人」である。そういう人間達は、彼以前にいくらでもいた。しかし「少年の心」が世界をリードする産業となりうるような時代は、彼と『スター・ウォーズ』以前にはなかった。「少年の心」を刺激するようなものはチープな娯楽であり、であればこそ「下位文化《サブカルチヤー》」と呼ばれた。子供や若者は、まだ経済の中心にいなかった。しかし世界は、豊かになるところでは豊かになった。『スター・ウォーズ』の成功は、文化の中核にあるものの変化を教える。この先、豊かになった世界では、少年達が大人になる必要がなくなる。そして、そんな彼等が消費者の中核になる。  『スター・ウォーズ』は、冒険による少年の成長を描いた。そんな物語はこれ以前にいくらでもあった。「架空の冒険」を経験した観客達は、現実世界の中で改めて、大人になる修業を開始することになっていた。しかし、『スター・ウォーズ』が成功した一九七七年以来、豊かな世界では、大人になるための経験を必要とする現実がなくなって行く。現実世界の中で生きることに魅力がなくなったからこそ、架空現実《ヴアーチヤル・リアリテイー》が力を持つ。それを作り出すことが産業となる。子供が娯楽を求めることを、大人達は「豊かさの指標」とも思った。子供は娯楽を求めて禁じられず、現実の中からは、「オモチャを捨てて大人になる」という選択肢が失われて行く。少年は、少年の心を持ったまま、大人にはならないのである。  一九七七年の日本では、前年末にデビューした二人組の女性デュエット、ピンク・レディーが大ブームを巻き起こしていた。今までの歌謡曲の概念からすれば子供っぽすぎるようなものが、子供を巻き込んでの大ヒットとなった。時代の雰囲気は、一挙に子供っぽくなる。翌一九七八年、『スター・ウォーズ』が日本で公開され、ピンク・レディーの『UFO』はレコード大賞を取った。人気絶頂の二人は、NHKの『紅白歌合戦』をボイコットさえする。歌謡界の女王・美空ひばりを排除する力を持っていた国民的人気番組は、日本中の子供達に「ユッフォ」と言わせ腰を振らせた小娘二人に、拒絶されるのである。やがて日本は、「重厚長大から軽薄短小へ」と言われるような変化を遂げることになる。  ピンク・レディーがレコード大賞を取る前年の一九七七年、この年のレコード大賞受賞曲は、沢田研二の『勝手にしやがれ』だった。その前年は、都はるみの『北の宿から』。さらにその前年は、布施明の『シクラメンのかほり』。その前年は森進一の『襟裳岬』、その前年は五木ひろしの『夜空』、さらに前年はちあきなおみの『喝采』だった。一九七二年のちあきなおみから一九七七年の沢田研二まで、この六人のレコード大賞受賞歌手には共通点がある。彼等は、一九四七年から一九四八年にかけて生まれた団塊の世代だった。  一九七二年は、大学闘争をにない「若者の時代」を作ったと思われる団塊の世代が、大学を卒業し、社会人としての定着を遂げつつある頃である。一九七七年には、彼等が三十歳になる。団塊の世代が三十歳を越えた一九七八年になると、もうピンク・レディーの時代である。しかしそうなるまでの六年間、歌謡界にいた団塊の世代は、天下を取っていた。あまり知られていない事実だろう。  大学を出た団塊の世代はどうなったか? 団塊の世代は、大挙して大学へ行った。そして、大学に象徴される既成の価値観と衝突した。それが大学闘争である。大学闘争の結果がどうなったかは、誰も知らない。だから、「あれはなんだったんだろう?」という声ばかりが低く残る。団塊の世代が大学にたどり着いた段階で、既に大学にはかつての意味がなかった。「大学」という幻想だけがあって、だからこそ、意味がないところに行った団塊の世代は、「|意味がない《ナンセンス》!」と叫んだ。意味のないところへ行って、社会の変革を叫んで、社会はその声に応えず、意味のないところで四年間を過ごした団塊の世代は、社会を変革する力を育てられなかった。  大学闘争を経過して、大学の価値は若干低まった。しかしその後も大学は大衆化して、健在だった。その後の若者達は、意味のないところへ行って、しかし「意味がない!」とは叫ばず、そこが社会人となるためのパスポート発行機関であることを十分認識していた。だから、団塊の世代が大学を卒業して以来、「社会変革」の声が社会から消える。社会とはもう、抵抗し変革するための場所でも対象でもないのである。  しかし、一九七二年から一九七七年までの間にレコード大賞受賞歌手となった六人は、大学に行かなかった。この六人は、全員が苦労人である。十代で歌手デビュー——つまり、社会人になった。彼等が入って行った社会は、そんなに親切なところではなかった。売れないまま、廃業を決意させられかかった歌手もいる。森進一や都はるみのような独特の歌唱法に対して、「ゲテモノ」のレッテルを貼る人もあった。グループサウンズのタイガースでデビューした沢田研二は、長髪嫌悪の社会によって、歌手としての評価を抹殺されていた。幾人もの先輩歌手がいる年功序列の世界で、彼等に出来ることは、ただ頑張るだけだった。しかもその頃の歌謡曲は、大衆相手の「くだらないもの」だった。その質を高めようとして発足したレコード大賞は、「ヒットした曲に大賞を与えない」というジンクスまで作った、気難しい�権威�だった。高卒や中卒の歌手六人は、実力と苦闘によって、自分達の生きる時代と状況を変えたのである。  歌謡曲というメディアは、まだ「日本中」を相手にしていた。だから国民番組もあり、�権威�もあった。その時代にはまだ努力の意味があって、それもやがては終わる。一九七七年は、そんな文化の分岐点である。 [#改ページ]       1 9 7 8  一九七八年の十一月、南米のガイアナでアメリカの新興宗教団体——というか、カルト集団である「人民寺院」の信者九百人が、集団自殺をした、あるいはさせられた[#「させられた」に傍点]。世紀末へ向けて「カルトの時代」が始まったようなものだが、しかしこれは、�始まり�ではない。�終わりの結果�である。  一九六七年の四月、ヴェトナム戦争に反対する三十万人のアメリカ人が、ニューヨークで平和行進をした。ここから「|愛と平和《ラブ・アンド・ピース》」のヒッピー文化も生まれるが、十一年後の人民寺院はその�末裔�なのである。  アメリカ社会のあり方に異を唱えて、若者を中心とする多くの人達が、彼等なりに独自の生き方を選択した。「ドロップ・アウト」をして、「コミューン」と言われる集団をあちこちに形成した。社会のあり方に異を唱える集団があって、これが武力衝突とか革命を選択せずにすんでいたのだから、コミューンを生んで放置した社会は豊か[#「豊か」に傍点]だったのである。しかし、既存の社会のあり方に異を唱えた者達が、自分達のあり方とは相容れない社会の中で、どうやって生きて行くのか? 社会生活を営む上で不可欠な経済活動をどう成り立たせるのか? だからこそ、コミューンの解体も起こる。  コミューンから�元の社会�へ戻って行った者もいる。戻って行けずコミューンに留まった者もいる。そして、彼等に異を唱えられた社会は、さして変わらぬままにあるのだから、新たにコミューンへ入り込む者だって出て来る。しかし、既成社会の中で「閉ざされた小集団」となってしまったものは、それをオープンにする方法——新たなる思想展開を持たない限り、自滅するしかないものである。人民寺院はこれだった。日本でもそのことは、既に一九七二年の連合赤軍事件で明らかになっている。一九九五年のオウム真理教事件では、より明白になる。人民寺院の事件は、社会に異を唱え、そのまま閉鎖され停止してしまった者達の末路を伝えるものなのである。  それを「特殊な人間の大量発生」ととらえれば、「カルトの時代の始まり」になるかもしれない。しかし、「なぜ特殊な人間が大量発生したか?」を考えたら、「カルトの時代の始まり」とはまた、「自分達に向けられた異議を拾い上げられないでいた、硬直した社会のあり方の終わり」を告げるものにもなるだろう。問題の核は、「硬直した社会が、自分達の社会のどこに硬直があるのかを理解出来ないでいること」になるはずだ。だからこそ、「同じ根っこを持った事件」が、「まったく関係ない国際情勢」のようにも見える。人民寺院の集団自殺が起こる十一カ月前——一九七八年一月のイランには、翌年のイスラム原理主義革命へと続く反政府暴動が起こっていた。「人民寺院の集団自殺」と「イスラム原理主義革命」——まったく無関係に見えるこの二つのものだが、実はこの二つは、同じ根によってつながっているのである。  第二次世界大戦後のイランは、そこから産出される石油を軸として、親米→親ソ→親米と、その姿勢を三度変えた。親米は、国王《シヤー》派である。親米派のパーレビ(あるいはパフラヴィー)国王は、国内改革を達成して、欧米並先進国への脱却を図ろうとした。この近代化路線の邪魔となる最大の敵は、イスラム教という前近代勢力だった。イスラム教シーア派の指導者ハイラム・ホメイニは、一九六四年に国外追放にあっていた。しかし一九七八年の一月になって、国王の進める近代化政策とイスラム教は真っ向から対立して、パーレビ国王への異議が国民の間で公然となるのである。  宗教がからむと、話は�難解�にも響く。しかし、一九七八年のイランに生まれたものは、一九五九年に起こったキューバ革命と同じパターンのものである。親米の独裁者と、それにつながる支配階級がいる。搾取される国民の間に不満が生まれる。国民は、搾取からの脱出を目指して独裁者を追う。古代ペルシアから二千五百年続く王家の歴史を誇ったイランの国王《シヤー》も、カストロによって追われたキューバの独裁者と同じだったのである。  一九七八年に起こったイランの反政府暴動は収束せず、一九七九年の一月になって、パーレビ国王は国外へ脱出する。大虐殺を行ったカンボジアのクメール・ルージュ——その指導者のポル・ポトがタイ国境付近へ逃亡するのも、同じ一月である。二月には、パリからホメイニ師が帰国。王政は倒れて、イラン・イスラム共和国が成立する。  パーレビ国王はアメリカに入り、イラン革命勢力は、アメリカに国王《シヤー》の引き渡しを要求する。数百万規模の反米デモが起こり、テヘランのアメリカ大使館が占拠される。ここまで反米感情が強くなった理由は、単にアメリカ政府が国王の引き渡しに応じなかったことだけではないだろう。逐われたイラン国王は、国民に対して、アメリカが典型的に体現しているライフ・スタイルの押し付けを図った——それをイラン国民が拒否したからこそ、「反米」は起こる。キューバ革命とイラン革命の違いは、社会主義とイスラム教という「指導原理の違い」ではない。キューバ革命から二十年、イランの国民は、「アメリカ的近代」を拒んで「イスラム的前近代」を選択した。違いはここにあるのである。  一九七八年から七九年のイランでは「反米行動」が起こった。しかしその「反米行動」は、実のところ、一九六七年四月のアメリカ——ニューヨークで起こったものとそんなに変わらない。ヴェトナム戦争を続行する合衆国政府に対して、アメリカ国民はアンチを唱えた——イランの「反米」は、これと同質のものである。欧米的豊かさを追求してアメリカに依存する国王に対し、イラン国民は異議を唱えた。一九六七年に大規模な抗議行動を起こしたヴェトム戦争は、アメリカが南ヴェトムの独裁政権を支持したことに由来する。一九六七年に異議を唱えたアメリカ人の一部は、その後生きる方向を見失ってカルト集団となったが、一九七九年のイラン人は、本来的な自分達の生活指針——イスラム教へと戻った。人民寺院とイスラム原理主義の並ぶ一九七八年から七九年にかけて、クローズ・アップされるべきものは、「宗教」ではない。拾い上げられるべきは、「アメリカ的豊かさへの異議」であり、「生き方をめぐる思想の対立」なのだ。  二十世紀の後半、アメリカは世界の豊かさのモデルだった。アメリカ以外の国の支配者達は、「アメリカ的豊かさ」を求めた。アメリカの上層部も、「アメリカ的豊かさ」を最上として、他国の独裁者を支援した。異議は、そこに起こったのだが、アメリカはそんな風に考えない。人民寺院の信者も、イスラム原理主義の信者も、「まともなアメリカ人とは違う異質な人間達」なのだ。  その時、なぜアメリカには「アメリカ的豊かさ」に対する懐疑が生まれなかったのか? 一九七〇年代後半、アメリカは傾きつつあった。その豊かさが、日本へ移っていたからである。 [#改ページ]       1 9 7 9  一九七九年——昭和五十四年の日本人は、知らない内に時代の角を曲がっていた。  来年は一九八〇年。それまでの日本的常識でいけば、「一九八〇年代」という新しい時代を迎えるはずなのだが、一九七九年の日本人は、一九六〇年代や一九七〇年代を迎えた時のような大騒ぎをしなくなっていた。それまでの日本人にとって、「新しい時代を迎える」ということは、「その波に乗って自分達も豊かになる」ということだった。しかし一九七九年の日本人は、ある程度以上の豊かさを確保していた。もう「新しい時代を迎える」という騒ぎ方をする必要がなくなっていた——日本人はそのように変わったのである。  「一ドル=三百六十円」の円が変動相場制へ移行したのは、一九七三年。円は基本的に上り調子で、強かった。しかし「円高」という言葉は、「輸出産業が打撃を受ける」という意味でしか使われていなかった。「円高」は危惧されるべきことで、それが「外国でいくらでも贅沢な買い物が出来る」という意味に変わるのは、一九八〇年代初めの「円高不況」を乗り越えた後——一九八〇年代の中頃を過ぎてのことである。日本人は豊かになって、しかしまだ自分達の�強さ�を自覚出来ないでいた。  輸出に頼る日本人は、せっせと仕事に励み、「円高」におびえ、その不思議な態度をヨーロッパやアメリカから非難されていた——「働きすぎである」とか、「輸出ばかりで輸入をしない」とか。そんな日本人に対して、「小さなウサギ小屋に住む仕事中毒患者」というヨーロッパ人のレポートが飛び込んで来たのは、一九七九年のことである。  それを聞いて、日本人は怒る前に唖然とした。それがあまりにも適切な表現だったから、あきれたのである。それまでの日本人は、ただひたすら働き続けることを、誰かから評価されたがっていた。一九七〇年代を経過して、「モーレツ社員」という言葉は日本人の間に深く定着していた。「貧しさからの脱出」とは、そのまま「豊かさへの一直線」になるはずで、日本人は、あるはずのゴールを目指してひた走りに走っていた。ところがしかし、そのゴールがいつの間にかなくなっていた。一生懸命働くことが「ほめられる」には通じず、「ウサギ小屋に住む仕事中毒患者」という揶揄にしかならなかった。言われれば、なるほどその通りである。人にほめられることばかりを期待して働き続けた日本人は、この時初めて�客観表現�というものに出合い、そして感心してしまったのである。  「ウサギ小屋に住む仕事中毒患者」は、そんな貶《おとし》められ方をするのと引き換えに、結構な預金を手にしていた。しかし日本人は、そんな自分達の�豊かさ�が身にしみないでいた。自分達の預金額が、たいしたものだとは思えなかった。「まだ足りない」と思い続けて、それが「日本人だけが世界の金を貯め込んでいる」という非難に結びつくことになるとは思わなかった。一九八〇年代は、勤勉に金を貯め込むしかなかった日本人が、金を吐き出し始める時代である。しかし一九七九年の日本人は、まだその決断が出来ないでいた。  もう貧しくはないはずだが、まだ豊かではない——そう思う日本人は、来るべき時代を「心の時代」という言葉で捉えようとした。  一九八〇年代が「新しい時代」になるのだとしたら、そのために必要なのは、「自分自身の捉え直し」である。それまでの日本人は、「豊かさへのひた走り」というガツガツした思考で来たが、これは見直されなければならないと思った。既に「家庭内暴力」という事態は出現していた。受験戦争に駆り立てられ、仲間を蹴落とさざるをえない子供達のあり方を象徴的に描いたテレビアニメ『機動戦士ガンダム』が登場するのも、この一九七九年である。「疲れていることだけは分かっている、しかしどうにもならない」という現状認識が、「心の時代」を選択させた。  しかし、「心の時代」という言葉は、社会構造の変革をあらわすものではなかった。既存の社会秩序はそのままに温存して、「そこから少しだけ逃げ出したい」という願望を肯定する程度のものだった。「もう豊かだからいい」ではない。「まだ豊かではないが、それはそれとして、疲れた」という臆病な認識が、高度成長のガムシャラ態勢を温存させたのである。既成の秩序はそのままで、しかし、人間だけが疲れている——だから、末梢的なものがブームになる。「空疎にして豊かで、各人はバラバラ、金だけがその空洞を埋める」というその後の日本のあり方は、この一九七九年の臆病さから始まる。  京都に日本で最初のノーパン喫茶がオープンしたのも、この年である。ウエイトレスの穿くミニスカートの下はノーパンで、彼女達が体を屈めた時、「見えた……!」という興奮が店内に起こる。「ビニ本」と呼ばれる疑似ポルノグラフィーも、自動販売機という販路を獲得してブームになった。  一九六〇年代の後半、「ポルノグラフィーの解禁」という動きが西欧世界を中心にして起こって、日本ではそれがなかった。肝心の中心部は禁断状態で、周辺部だけに糜爛《びらん》が広がって行く——そんな日本特有の性状況は、いつの間にか確立されていた。さっさと解禁して、性というものを「人間の一部」と位置づけてしまえばいいものを、それをしないから、性に余分な意味づけが起こり、開かれない性状況の中で、青少年の孤独は拡大する。「フーゾク」が産業となり、「オタク」と言われるものが出現するのも、この風土のためである。  住宅街の自販機の前で黙って疑似ポルノを買う青少年というのは、かなりへんなものである。一人掛けの席にずらっと男の客が並んで、その前をミニスカートにノーパンの娘が歩いて行くのを黙って凝視しているのも、かなりへんてこりんなものである。しかし、日本人はオープンに孤独だった。それを不思議とは思わなかった。だからこの年には、その孤独状況をさらにスケール・アップさせるものが登場する。インベーダー・ゲームと、ソニーのヘッドホン・ステレオ「ウォークマン」である。  若者達は社会の一角で、�社会との無縁�を公然と演じ始めた。「ピキューン、ピキューン」という電子音が喫茶店の中にひしめき、電車の中では、たった一人で聴くヘッドフォンから、「シャカ、シャカ」というリズム音がもれる。それは、関係のない人間には関係のないもので、日本における「個人の自由」は、そのような形で確立されたのである。  インベーダー・ゲームとウォークマンは、やがてコンピューター・ゲームと携帯電話という、二十世紀末日本の最大産業へと発展する。社会の中で、人は公然と自分自身の孤立を表明して、しかし悩まない。悩む理由がない。悩む必要が分からない。社会は、その基本構造を変えないままにあって、人の孤立は、もう�当たり前�になっていた。その「社会の中の逃避」は、一九七九年に始まる。 [#改ページ]       1 9 8 0  日本人にとっての一九八〇年は、「山口百恵引退の年」である。三月に俳優・三浦友和との婚約を発表した歌手・山口百恵は、同時に芸能界引退をも表明、秋の引退コンサートへ向けて、日本のメディアは「山口百恵一色」になった。一人の女性歌手の婚約・引退が、なぜそれほどの大事となったのか? それは、彼女の引退が、「近代日本人にとっての理想の達成と終焉」を告げるものだからである。  彼女が生まれたのは一九五九年——皇太子御成婚の年であり、日本人の家庭にテレビの普及が起こり始める年である。もはや「戦後」ではない。しかし日本には、貧しい家庭がまだいくらでもあった。山口百恵の生まれた家も貧しかった。父親は娘の存在を認知していたが、家には存在していなかった。「シングル・マザー」という言葉が定着する以前、そういう女性達には「日陰の女」というレッテルが貼られた。そんな彼女達に、「働く」ということは容易なことではなかった。ましてや「幸福」など。「不幸」を当然とされた女達は、社会を構成する男達のエゴが野放しになっている限り、「限界」の中に閉じ込められる。山口百恵も、そんな母親が主宰する貧しい家庭に生まれた。中学一年生の時、ほしいギターを手に入れるため、新聞配達のアルバイトをした。歌が好きだった彼女は、テレビのオーディション番組に応募して優勝、中学三年生で歌手になり、一家を支えた。まるで、一九六〇年代以前の古い日本映画に登場する「貧しくて健気な少女」である。  山口百恵は、作り物じみた「可愛いアイドル歌手」ではなかった。「忘れられかかった日本の少女の生々しさを保持し続けている歌手」だった。彼女の人気を決定的にしたのは、デビュー翌年の千家和也《せんけかずや》作詞による『ひと夏の経験』である。「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」と歌う彼女の表情は、生々しかった。まだその存在を公然とされていなかった「少女の性欲」が、仮面をつけることを知らない山口百恵によって、率直に表明された。揺るがぬ人気を得た彼女は、映画『伊豆の踊子』に主演、後の結婚相手となる三浦友和をその共演者として得る。  既に山口百恵は、「生々しい存在感」を示すことによって、他のアイドル歌手とは異質な存在だった。その彼女が、デビュー三年目の一九七六年、作詞家の阿木耀子《あぎようこ》と出会って変わる。「これっきり、これっきり、もう、これっきりですか」と歌う『横須賀ストーリー』の山口百恵は、恋愛相手になった男のエゴに対して、異議申し立てをする女だった。  男にとっての一九七六年は、「脱サラ」のちらつく時代だが、女にとっての一九七六年は、「女性誌の時代」が始まらんとする時である。それ以前の女達は、「結婚」という枠の中に収まることを当然の前提としていた。ところがこの時期から、女達はその枠を抜け出そうとする。「仕事」というものを手にして、「自立」を目指そうとする。「結婚か、仕事か」の二者択一が大問題となり、「男に依存しない」が一大スローガンとなる。女達の願望はあり、アメリカ経由の「自立ファッション」と「自立の思想」は最新の流行となる。しかし、日本の現実はまだ遠い。だからこそ、その観念の実験場としての「女性誌」も必要になる。女達の主張は、既存の社会に生きる男達の価値観と衝突するようなもので、だからこそ女達は、臆病にもなる。「自立」を目指し、しかし女達の多くは、自分の主張によって男達との関係が断たれることを恐れた。男に拒絶されないための折衷案として、「いい女」というのも登場した。「ふてぶてしい」とも言いたいような表情で、恋愛の中に垣間見える男達のあり方に異議申し立てをする山口百恵は、そこにいたのである。  山口百恵は、殊更の発言をしない。しかし彼女は、「男達への異議申し立て」を歌う。「自分の職業」を持ち、「女が性欲の存在を公然とさせることはいかがわしいことではない」という事実を、デビューから三年の間で表明した。そのことを踏まえて、「男によって作られた、男に奉仕する女」であるということに対してさえも、異議の申し立てをした。そして、男達が安住する建前に異議申し立てをした山口百恵は、恋をしていたのである。  彼女にとって、その恋愛のゴールに当たる結婚は、職業《キヤリア》の終焉となるようなものだった。引退せず、結婚後も歌手として働き続ける選択肢はあった。しかし、恋愛の成就をビジネスにとっての大ダメージと捉える彼女の周囲は、その結婚を歓迎しなかった。彼女の歌う異議申し立ては、結婚相手の男へ向けられるものではなく、一人の女性の結婚を歓迎しない男達の世界へ向けられるものになっていた。  しかし山口百恵は、「結婚」というゴールを勝ち取った。「仕事よりも結婚」を選択し、「結婚しても仕事を続ける」という選択をしなかった。不幸な家庭に育った彼女は、幸福な結婚を望んだ。「スター」という栄光の座も、「愛の幸福」に比べればなんの意味もない。不幸な境遇に生い立ち、周囲の反対をよそに愛を勝ち取る——それこそが幸福であるとする点において、彼女はあきれるほど、古くからの日本映画が描き続けてきた�ひたむきなる愛のヒロイン�だった。  「新しい女の時代」に、山口百恵は少しも新しくなかった。山口百恵の新しさは、新しさが主流になろうとする時代に、平気で�古さ�を掲げたことだった。彼女が「結婚」を選択した一九八〇年は、日本で最初の女性のための就職情報誌『とらばーゆ』が創刊される年である。その時代に、彼女は「仕事」を選択しなかった。それでも彼女は、「女性の時代」のシンボル的存在になっていた。  山口百恵とはなんだったのか? 彼女は、「貧しさから抜け出すことと、愛を得て幸福になることはイコールである」という、それ以前の日本人の常識——あるいは幻想、または理想を、公然と達成してしまった最初の人物である。  その「公然」は、テレビというメディアが可能にしたのだが、山口百恵はまた、その「公然」を得ることによって、「日本人の幻想を達成した最後の人物」にもなってしまった。山口百恵以後、山口百恵と同じことをしても、「山口百恵の二番煎じ」にしかならないからである。  山口百恵が達成した「日本人の理想」は、日本近代の始まりから持ち越されて来たような古いものである。そして、「達成された理想」は、ただの「当たり前」にしかならない。だから山口百恵以後、日本人は新しい選択肢を持たされる。つまりは、「ただの当たり前」を目指すか、「日本近代に前例のないあり方」を模索するかのどちらかである。  もしもその「理想」が正しかったのなら、その後の「当たり前の日本人」は、みんな幸福になる。しかし、そうでなかったら?——山口百恵以後、「貧しさから抜け出し、愛を得て幸福になる」という信仰は正しかったのかを、日本人は改めて問われるのである。 [#改ページ]       1 9 8 1  一九八一年は、「結婚の年」かもしれない。前年に芸能界を引退した山口百恵の結婚式が、日本の話題になった。そして、それ以上のビッグ・イベントもイギリスにはあった。チャールズ皇太子とスペンサー伯爵の令嬢ダイアナとのロイヤル・ウエディングである。伯爵家の令嬢は、この時代にふさわしい「働く女」で、結婚前は保母として働いていた。結婚した山口百恵は、「社会的には存在しない女」のようになってメディアから姿を消したが、プリンセス・ダイアナは、結婚によって「世界一有名な女性」の一人となった。  プリンセス・ダイアナは、「仕事」を捨てて「結婚」を選んだ。とりあえずは「保守的な女」である。しかしプリンセス・ダイアナは、「夫に隷属して家に閉じ込められる主婦」ではなかった。彼女には、「社交」という名の仕事があった。王家の社交は「国際親善」である。彼女のために予算も組まれる。プリンセス・ダイアナは、経済的に独立した主婦であり、彼女は、自分のために計上された予算によって色々な服を着た——それが彼女を時代の勝者とした。  初めの内は保守的な服装をしていたプリンセス・ダイアナも、やがてはその選択の幅を広げた。「ただの主婦」には着られないような、「自立した女にもふさわしい服」を着るようになった。保守的な服装の女はバカにされる。彼女の生活基盤が保守性を要求していることが、丸見えになるからである。しかし、「ダイアナ・ファッション」と呼ばれるようになったプリンセス・ダイアナは、自分の意志で服を選んだ。しかもプリンセス・ダイアナは、凡百の女が及びもつかない、ローブ・デコルテを必須とする世界の女だった。女の生き方は服があらわし、プリンセス・ダイアナは、もう「保守的な女」ではなかった。  しかしプリンセス・ダイアナには、なにか�問題�が隠されていた。それは結局のところ、「今の時代の意志を持った女が、ただの結婚に堪えられるのか?」という猜疑に由来するようなものでもある。プリンセス・ダイアナは、「ダイエットのしすぎ」を報じられ、「拒食症の疑い」と言われ、「愛人がいる」という不倫報道にまで発展した。二人の皇子の母となり、しかしプリンセス・ダイアナには平安が訪れない。彼女の不倫はやがて公然となり、�隠されていた問題�も浮上する。夫のチャールズ皇太子には、結婚前から愛情関係にあるカミラ・パーカーボウルズという既婚女性が存在していたのである。  問題は一挙に大きくなった。それは、「果たしてプリンセス・ダイアナには結婚する必然があったのか?」という問題へまで拡大した。「彼女を犠牲にしてまでその維持と安泰を図ったイギリス王室には、存在理由があるのか?」というところへまで行った。プリンセス・ダイアナは、「プリンセス」の称号を保持したまま一九九六年に離婚。翌年、新たなる婚約者と共に交通事故死した。  プリンセス・ダイアナは、二十世紀末のほぼ二十年間、世界の女性に影響を与え続けたはずだが、しかし世界は、「特権的な立場に立つ一人の女性の一方的な影響力」を可能にするほど、穏やかではなかった。プリンセス・ダイアナは、時代が掘り起こす「女の問題」を、自身にも蒙《こうむ》らなければならなかった。  「女の問題」は、一人の女の問題ではない。既存の社会が基本単位としている「家」なるもののあり方と、大きくからんでいる。かつては国家と等しくもあった王室だとて、「家」なのである。「家」が犠牲を迫るのは、女ばかりではない。�不決断�を責められたチャールズ皇太子とてまた、「家」なるものの犠牲者である。問題は広がって、しかし、それは大した問題にならない。「家に縛られているやつは古い」と言ってしまえばいいのである。「私は、古い�家�に縛られない新しい家庭を作る」と言えばいい。それはまた「私は家庭に縛られたくない」という言葉にも発展する。つまりは、「家」を基本単位とする既存の社会の拘束力が落ちたということである。そんな側面を代表する女性が、一九八一年の日本には登場する。松田聖子である。  山口百恵の引退発表の翌月、松田聖子は歌手デビューした。「ポスト百恵」と騒がれ、一九八〇年度の主だった新人賞を獲得し、その場で「感動のあまり泣く」ということをし損ねた。顔は懸命に泣いているが、涙はない——それがテレビに映って、「ウソつき聖子」「ブリッ子聖子」は定着した。しかし、それは彼女のダメージにならない。拘束力の落ちた社会には、人にダメージを与える力がない。かわされてしまえば、もうそれまでである。  松田聖子は、彼女のデビュー以前にビッグ・アイドルだった郷ひろみと、結婚寸前にまで漕ぎつけた。そんな彼女が郷ひろみに「抱っこしてくれなくちゃいやーん」と言った盗聴テープ(とされるもの)が流出して、しかし彼女はダメージを受けなかった。「知らないこと」にしてしまう度胸がありさえすればいい。郷ひろみとの結婚は破れ、果たして松田聖子がなんと言うのかを芸能マスコミは期待したが、彼女はなにも言わなかった。その代わり、「新しい婚約相手」を連れて来た。一九八五年に結婚して、やがて松田聖子は「わがまま聖子」の名をほしいままにする。彼女はマスコミから攻撃され、そのことによって、ある種の支持さえも集めた。  二十世紀は、「人間の欲望肯定」を一つの大原則とする時代である。「奔放な欲望充足がなぜいけない」と開き直られたら、もう反論のしようはない。「女のわがまま」は肯定されるべきであり、松田聖子は、「それを攻撃するのは古い硬直した社会だ」という前提に立った。そして、既成の社会が拘束力を失っていることを暴露してしまった。  松田聖子が示したものは、「欲望の肯定」に似て違う。それは、欲望の一つである「上昇志向」の、無限定な選択だった。「憧れの王子さまと結婚したい」と思ったらする。それが破れたら「普通の幸福な結婚」をする。それに飽きたら、浮気をする。子供を作る。離婚もする。「したい結婚」は何度でもする。そして、「人気ナンバーワンの座」は手放さない。憧れのアメリカにも、行きたいから行く。白人の国アメリカで、「王子さま」のような若い男と、相手から「セクハラ」と訴えられるような形になっても、したいことだけはする。松田聖子のしたことは、「自分にとって価値観が高いと思えるものを、いたって恣意的に選び取る」だった。  社会の価値観が、一人の女の恣意的な選択に左右される——そんなことが起こり始めていた。それも道理。松田聖子は、二十世紀初頭の世界に君臨した大英帝国の根源——王室が揺らぐ時代の女なのだ。二十世紀末の二十年間、許された大衆の欲望は、無限定な上昇志向となり、社会を変容させて行く。しかし、この年にはまた、「人間の欲望とはなんなのか?」を問いかけるものも生まれていた。 [#改ページ]       1 9 8 2  一九八一年にはある奇病が生まれていた。それがこの一九八二年になって名前を与えられる。後天性免疫不全症候群——|AIDS《エイズ》である。それは初めアメリカに、「男の同性愛者の奇病」として登場した。  エイズは、それ以前の人間の常識を覆すような病気である。人間には、異物の体内侵入を防ぐ「免疫」という防衛機能がある。免疫機能は、体内に侵入した細菌やウィルスと戦って倒し、病気の感染を防ぐ。ところがこのエイズ・ウィルスは、人間の免疫機能を無効にする病気なのである。不審なものを見れば、人間の免疫機能は戦いを挑む。しかしエイズ・ウィルスという敵は、たとえて言えば、防衛のために戦う兵士に「不審な者ではない」と説いて、武装解除をさせる侵入者なのである。エイズ最大の感染経路は性交渉にあって、それがまず男同士で起こった。「僕を愛してくれよ」と囁く不気味な男がいて、その言葉にうっかり乗ったら、もう体の中からは一切の抵抗力が失せ、地獄へ堕ちる——登場したばかりのエイズは、そこに「同性愛への恐怖」さえをも重ね合わせた。  エイズが、その感染経路を「男同士の性交渉」に限定すると思われていたのは、「男の肛門の粘膜が女の膣の粘膜に比べて弱い」という理由である。しかしやがては、「エイズは異性間の性交渉でも感染する」ことが明らかになる。女もまたエイズにかかる。そして、エイズへの決定的な治療法はない。出来るのは、感染した者の発病を遅らせることだけである。エイズ対策に登場した有力な武器は、男性器を覆うコンドームだった。エイズの流行は、「コンドームの使用」を人に呼びかける。大人だけではない。性交の可能性のある人間すべてに「コンドームの使用」は訴えられた。そうでなければ、エイズは防止出来ない。そしてそうなって、初めて性交渉というものがオープンに語られるようになったのである。  長い間、人間の根源的欲望の一つである性欲は、公然と語られなかった。「セックスをしたい」という欲望はあって、それが公然とは認められなかった。それをするのなら、こっそりやるしかなかった。一九六〇年代後半になって、「フリー・セックス」という形で性の解放が進められた。それが果たして「性の解放」であったかどうかは分からないが、そこではひそかに性病も蔓延したらしい。エイズ・ウィルスに感染したとしても、それがただちに発病に結びつくとは限らないが、感染した患者が他の性病に感染していれば、その発病率が飛躍的に高くなる。潜在的な性病がエイズ発症の引き金となって、それは「一九六〇年代のフリー・セックスのツケだ」ということも言われるようになる。  それがフリーであったにしろ、陽の当たらない場所で行われた行為は、「潜在的な性病の蔓延」も可能にしていた。エイズによる男の同性愛者の死が、大っぴらには存在しないはずの「男の同性愛」を公然と浮かび上がらせたのと同様に、エイズは、「語られなかった性行為」という事実をも浮かび上がらせた。  「語られなかった性行為」——問題はそれだけか? エイズで真に重要なことは、それが、規制されず語られぬままに来た「男の欲望」のあり方を問うものだということである。  男と男の性交渉でエイズの感染は起こる。男と女の間でもエイズの感染は起こる。それなら、女と女の間ではどうなのか? コンドームで防げるエイズは、コンドームを必然としない女同士で、その存在を希薄にする。女の同性愛行為で、エイズの感染率はぐんと低くなる。つまり、「コンドームの必然」を浮かび上がらせるエイズは、「コンドームを装着するものの特異」をも語る。エイズとは、「男の欲望にまつわる病気」なのだ。  一九七〇年代の女性解放運動の中で、「鈍感な膣よりもクリトリスでの快感を」という声が、女達の間から生まれた。女のクリトリスと男のペニスは、その由来を同じくする器官なのだから、「クリトリスでの快感を」とは、「女も男性的なペニスの快感を」ということである。女達の間でも、出産の産道となる膣は「鈍感な部分」と思われていた。だからこそ、その初めにおいて、「異性間の性交渉でエイズは感染しない」と思われもした。それは、膣への差別であり、膣を持つ女への根源的な差別とも重なる。しかしエイズは、その人体構造の根本における男女差別を撤廃した。その中から、「男の欲望の特異」を浮かび上がらせもした。  男性器ペニスへの信仰は、人類の歴史の中でも古い。それは、豊饒を可能にするものへの信仰である。「産めよ増やせよ地に満てよ」という聖書の言葉は、それを可能にする男性器への賛歌でもあろう。しかし、男性器はまた、侵入するものでもある。人類の歴史はまた侵略の歴史でもあって、その間一度も、男性器の優越に関する疑義は出されたことがない。それは、「男性優位」の根源なのだ。しかし、それはまた「侵略するもの」でもある。自分の必然を越えて、誰彼なしに性交を持つことは、男にとって勲章のようなものだったが、エイズは、「本当にそれでいいの?」を問うものなのである。  「フリー・セックス」なるものの到来によって、「誰とでも性交渉をしていい」が、可能になる者には可能になった。妊娠は、それに参加した女個人の責任ともなしうる。それをしようと思えば、一切の責任を回避して、快楽追求に没頭することも出来た。しかしエイズは、「男性器を挿入されて感染する病気」ではない。挿入する男もまた感染する。相手の体内に侵入すると、そこから、「なにも他者を排除する必要はないでしょう?」と囁くものがやって来る——それがエイズである。  「誰とでもやれる」は、その昔、男の特権だった。しかし、それをして男は、「自我」というものを希薄にする。誰の上にでも性器をもって君臨出来るのなら、その時、「自と他」の区別は曖昧になる。女が男より一段下のものであるのなら、その「自と他の区別」は揺るがないだろう。しかし、「女もまた男と同様の人間だ」ということになったら? あるいは、同じ男同士の中で、「自と他の区別」が曖昧になるような関係を持ち続けたら? エイズは、「自分を防衛することにどれほどの意味がある?」と、侵入者が囁く病である。  私はあまりにもエイズを比喩で語りすぎるのかもしれない。しかしエイズは、「警鐘として存在してしまった比喩」である。  エイズは快楽と共に訪れた。無差別をよしとし、そこに「人間関係」という必然を欠落させたままの性交渉に現れた——そして、自己防衛の無意味を衝いた。それが「免疫機能の不全」である。  エイズ・ウィルスは、自己防衛をせざるをえない男や女に、それをする者の「孤独」を説いた。孤独を衝かれて、人はなす術を失う。無限定な他者への欲望は、それを抱く者の深い孤独を照らし出す——エイズが登場した一九八二年の人類史的意味はこれだろう。 [#改ページ]       1 9 8 3  一九八三年の四月、日本のあり方を象徴する二つのものが現れた。一つは、NHK朝の連続テレビ小説『おしん』。もう一つは、千葉県浦安市に登場した東京ディズニーランドである。一方の『おしん』は、古い日本の貧しさを描くもの。一方の東京ディズニーランドは、豊かなアメリカの遊園地である。「過去の日本の貧しさを見るか、アメリカ人のようになって遊ぶか」という選択肢があって、結局日本人は後者を選んだ。  一九八三年の日本は、既に豊かである。だからこそ、一九八五年になって、アメリカ・日本・イギリス・フランス・ドイツ五カ国の蔵相会議が開かれ、「円高」を是認するプラザ合意へと至る。円の力は強い、その強い円が「不当に弱く評価されている」と日本が主張して、その歪みを改めた——というのでは、ない。日本以外の国が円の強さ——すなわち日本の豊かさを認めて、日本だけがそれを認めたくなかった。円が安ければ、輸出製品の価格が安くなり、貿易という商売がしやすいから、日本人は円高に反対し、拒んでこれを「災難」と位置づけていた。  日本人は、自分達が既に強くて金持ちであるということを、認めたくなかった。それをすればダメージが出ると思った。「必死に商売に励む貧乏人」のままでいたかったのに、一九八五年にはそれが通用しなくなる。「あなたは豊かなんだから、そんなにガツガツと金儲けばかりに精を出すな」と、自分の妻からではなく、友人や取引先に言われたのと同じである。なぜここにそんな卑近《ドメステイツク》な比喩を登場させるのかと言えば、「円高になって商売に影響が出たらどうしよう」と怯えていたのは、商売に命を賭ける日本の男だけで、その男の率いる家庭の妻や子供達は、自分達の�安定�を既に実感し、さらなる豊かさを求めていたからである。だから、プラザ合意の二年前、東京ディズニーランドは登場する。  それまでの日本製のチマチマした遊園地を古くする、アメリカ製の東京ディズニーランドが語るものは、「もう日本は貧しくない」である。その風潮があればこそ、「もう一度日本が貧しかった時代の生き方を見つめてみよう」という『おしん』も登場する。  NHK朝の連続テレビ小説は、「出勤前の時計代わり」と言われながらも、高視聴率を保つ番組だった。一年を通して女の一代記を描くのが基本のようになっていたその番組は、日本の主婦達にとって、「平均的な自分のあり方」を確認するようなものだった。しかし、時代が豊かさへと進むにつれ、ズレが生まれた。既に安定した生活を確保している日本の主婦達は、NHKの設定する「女の平均像」にピンとこなくなった。「またか……」と思う視聴者が増え、そのため『おしん』は、思いっきり貧しい時代の日本へ舞台を移した。視聴者の想定する「平均値」を極端なものへと下げ、困難な状況の中で苦闘する女のドラマにした。  『おしん』は、やがて「高度成長以前の日本」のような状況にあるアジアの国々で、爆発的な人気を獲得する。まだ貧しいアジアの国々で、主人公・おしんの生き方は人生のテキストとなるのだが、しかし日本では違う。「高度成長以後」の豊かな日本で、『おしん』は、古い時代を知る人々のノスタルジーを喚起するドラマでしかなかった。  『おしん』の時代を生きた人達は、「余生」と言われる段階に入っていた。『おしん』は高視聴率番組になったが、それを見る多くの日本人にとって、『おしん』の貧乏は、過去のものだった。それは、現代に適用されるものではない。古い世代は『おしん』に熱中し、しかしその影響力は、東京ディズニーランドへ行けば払拭出来る。日本政府が「円高」を公式に是認する二年前、日本人は「貧乏」を自分達の前提にしたがらなくなっていたのだ。  もう貧しくない日本人はどうすればいいのか? その答が簡単に出るくらいなら、日本政府は、さっさと「円の強さ=日本の豊かさ」を認めていただろう。一九八〇年代の日本人にとって、「豊かさをどう扱うか」は、最大の問題となっていた。  どうすればいいのか? その一つの答が、この前年に出ていた。一九八二年、東北新幹線と上越新幹線が開通したのである。在来線に代えて新幹線を作る——それをすれば、地方の主要都市と首都東京が直結されて便利になり、地方が豊かに潤う。そのように一九七〇年代に信じられていたものが、一九八〇年代の初めになって完成した。東京と新潟を結ぶ上越新幹線の開通は、既にロッキード事件で逮捕されていた田中角栄元総理大臣が、自分の選挙区である地元・新潟県への利益誘導を図った結果である。  新幹線を開通させる表向き第一の目標は、「便利」だった。「豊かさの到来」はその次に来て、「土建業界を潤す」という目的はぼかされた。既に在来線はある。しかし、そこに膨大な金をつぎ込めば、「より便利で高級なもの」が出現する。日本人は、一九七〇年代の段階で、既にそれをやっていた。「いるか、いらないか」ではない。「より便利か、否か」なのである。新しい二本の新幹線が開通して、それを非難する声は生まれなかった。「次はこっちにも新幹線がほしい」という声が高まった。それは、金があれば可能になるのである。だから、「豊かさ」を前提とすることになった日本人は、この途を選ぶ——つまりは、モデル・チェンジである。一九六〇年代から続くスクラップ&ビルドの波は、既に必要なところを一巡して、しかし日本にはまだ金があった。  その金は、どう使われるべきなのか? 一九八〇年代の日本人は、スクラップ&ビルドに、「モデル・チェンジ」という名を与えた。  上越新幹線開通の一カ月前、日本の家電メーカー九社は、一斉に「CDプレイヤー」なる新製品の発売を開始した。それ以前のレコードに比べて格段に音質のよいコンパクト・ディスク(CD)が、それによって聴ける——ということになると、それが発売された一九八〇年代の初めは、レコードが売れに売れていた時代だったとも思われる。しかし、実情は逆だった。その時、既にレコードは売れなくなっていた。音楽産業を盛んにしたかつての若者達は、社会人となって音楽から離れていた。レコード屋の店頭では、商品の空きが目立った。売れる物は既に売って、もう音楽業界には、売るべき物がなかった。CDはそこに登場する。それは、「今まで持っているレコードを買い替えた方がいいよ」という、モデル・チェンジへの喚起である。「音質向上」を可能にした科学の進歩は、「モデル・チェンジ」による金の浪費をも可能にした。  より便利、高級化——しかしそれにどういう意味があるのか? 新しいスクラップ&ビルドは、それを考えず、ただ「豊かさを選択した人間のするべきこと」と信じて進んだ。そして一九九〇年代、日本は、不景気と始末しきれないゴミの山に出合うのである。 [#改ページ]       1 9 8 4  一九四九年、イギリスでジョージ・オーウェルの『一九八四年』という小説が出版された。ナチス・ドイツを連想させる、救いのない管理社会が存在する近未来を描く小説である。その未来は、なぜ「一九八四年」と設定されたのか? ジョージ・オーウェルは、執筆する�現在�である一九四八年の下二桁の数字を入れ替えた——ということはつまり、ジョージ・オーウェルにとっての「救いのない未来」は、「いつ来ても不思議のない未来」だったということでもある。その認識は、多くの読者にも共有された。一九四九年からしばらくの間、「強い国家による強圧的な管理社会の出現」は、「いつ登場しても不思議のない未来の一つのあり方」だったのである。  第二次世界大戦は終わり、ファシズム国家は倒れ、しかし「国家」なるものの力は依然として強かった。「鉄のカーテン」と言われた国家社会主義のソ連は、鉄のような抑圧を自国民へ向けた。アメリカにも、マッカーシイズムの赤狩りは起こった。冷戦の時代はまた、多くの独裁国家が誕生し存在する時代でもあった。日本においても、一九六〇年代末の学生運動に対する国家権力の取り締まりの強さは、『一九八四年』的未来の到来を感じさせた。中国の文化大革命は、歴然たる『一九八四年』的社会の到来であろう。一九六〇年代の終わりには、国家の力による弾圧が世界の至るところにあった。だからこそ、「自分は自由ではない」という感情は、たやすく「強圧的な国家によって管理される恐怖」へと結びついた。「国家は個人の上に立つ強大なる権力構造である」という認識は、人類の文明の歴史と同じくらいに古い。だから、「自分は自由ではない」とある個人が思った時、その�主犯�は、たやすく「国家権力」というものになりえたのだが、しかし、一九八四年の日本で、それはもう通用しなくなっていた。  日本は豊かで、国家に頼るまでもなく、民間の力は旺盛だった。やがては、「民間の力を活用したい」と思う総理大臣が、「民活」という言葉を口にする。日本の輸出超過額は史上最高、アメリカの経常赤字も史上最高——日米貿易戦争に日本は勝ち、日本は豊かさの上り坂にいた。「自分は自由ではない」という感情が、「強圧的な国家によって管理される恐怖」と結びつくためには、「豊かではない」という条件を必要とする。「いつかどこかから忍び寄って来る貧しさが、人間に対して不自由を強いる」という考えがあればこそ、「貧しさでままならなくなった国家が、自己の存続のため国民を抑圧する」ということにもなる。『一九八四年』が書かれ読まれた時代には、その条件が必須のものとして存在していた。ところがしかし、一九八〇年代の世界には、「強圧的な管理社会を必然とするような国家」が——少なくとも西側にはなかった。だからこそ、その豊かさに包囲された東欧やソ連の社会主義国家は、崩壊へと至るようになるのである。  一九八四年の初め、アフリカの二十四カ国で一億五千万人が飢餓に苦しんでいるとの報告があった。翌年の七月には、「ライブ・エイド」と題する飢餓救援の慈善コンサートが開かれ、五千万ドルの資金がたちどころに集まった。世界にはそれだけの豊かさと善意があって、それでもアフリカの飢餓は救えなかった。その時まで、飢餓で二千万人が死んでいた。飢餓の原因は、長期間の旱魃と急激な人口増加によるものである。貧しいアフリカには、「強大な管理社会を作って国民を統制する国家」さえ存在しえなかった。  一九八四年、アメリカのロサンゼルスで開かれたオリンピックは、民間スポンサーの協力で、二億ドルの黒字を出した。毎年巨大になるオリンピックを開催するために必要な力は、もう国家のものではなかった。日本企業も金を出したが、経常赤字が史上最高であるアメリカ企業もまた金を出した。豊かな企業を持つ社会は強く、ジョージ・オーウェルの書いた「暗い一九八四年」は来なかった。かつて「人を抑圧する力」を持っていた「国家」が、もうその力を失っていたのである。  たとえば、一九七九年公開の映画『エイリアン』である。広大な宇宙空間を進む宇宙船には、「地球外生命体《エイリアン》を発見して持ち帰れ」という指令が隠されていた。目的は、「危険なエイリアンを生物兵器として利用するため」である。秘密指令の結果、乗組員達は次々とエイリアンに惨殺されて行く。しかしその指令は「国家」のものではなく、「会社」の業務命令だった。「国家は兵器を必要とする」という前提があれば、「国家に新兵器を売り込んで利潤を得る」という「会社」の繁栄もある。一九七九年の認識は、「国家」の存在を希薄にして、「会社」を人間抑圧の主犯の座に据えていた。  会社は利潤の追求を図り、たやすく社員を見殺しにする。国家は、放置すれば無制限の膨張を図りたがる権力機構だったが、会社は、その存在を「利潤の追求」に限定されたものである。限定された欲望で生きる会社は、国家ほどには表立った抑圧を強制しない。国家に比べて、会社はより気弱な抑圧者である——そのような表情を取りうる。その国に生まれる国民には、「国家選択の自由」がまずない。しかし、国境を越えて存在しうる会社には、「そこの社員になる[#「なる」に傍点]」という選択肢がある。「国家権力」という名を冠せられた国家は、一方的な加害者となりうるが、個々人の選択に従う会社では、そうはならない。選択によって「社員」となったその時から、各人は自動的に「会社の一員」だからである。  「国家選択の自由」がない国家では、「国家の一員」という自覚は恣意的なものだった。だからこそ、国家主義という思想宣伝が必要になる。しかし、「辞める」という選択肢を社員に用意する会社の場合、「愛社精神」などというものとは無関係に、誰もが「会社の一員」なのである。だからこそ、ある社員が「会社」の被害者になった時、残る社員達は加害者となる——なぜならば、残りの社員達は全員、「会社の一員」だからである。「会社」とは、そういう構造を持つものなのだ。  国家公務員には、「国家公務員のあり方」を規定する法があり、それに反すれば、刑事罰の適用も受ける。しかし、「民間会社の一員」にはそれがない。あるのはただ、個々人のモラルだけだ。「一九六九年」の回で、私は、「それ以前の時代を引っ張って来た�思想�が、この年に終焉を迎える」と書いた。その終わってしまった「思想」は、認識の基盤を「国家」と「貧しさ」に置くものである。  二つの基盤は、豊かさの中に溶けた。国家という大きな対立因子を失って、「思想」というものは力を欠いた。その後の時代が必要とするのは、「モラル」という名の、各人の調整能力である。それがなければ、「会社社会」は破綻する。しかし、一九八〇年代の日本に、そんな認識はなかった。日本はただ騒がしく豊かで、モラルは宙ぶらりんのままだった。 [#改ページ]       1 9 8 5  一九八五年の九月、プラザ合意によって、日本政府は「円高」を容認した。ついに日本は「金持ち」という前提に立った。時の総理大臣・中曽根康弘が「輸入促進のため、国民一人当たり千ドル相当の外国製品購入を」と呼びかけたのは、その五カ月前である。  プラザ合意後、円は当然値上がりして、約五年ぶりに「一ドル=二百円」の大台を割った。当時の日本人に、「一ドル=百円前後」などというのは恐怖すべき数字だったのだが、ということはつまり、中曽根総理の口にした「千ドル相当」は、「二十万円以上」だったということである。当時の日本国民に「一人二十万円出せ」は、メチャクチャな話である。当時のメンタリティは、「二十万円以上の浪費」をたやすく容認しない。「外国製品」と言われても、国産品で十分間に合っている。外国のブランドに関しても詳しくはない、格別にほしいものもない。「くれる」と言うのならともかく、自分で二十万円もするルイ・ヴィトンの鞄を買うのは大事《おおごと》である。しかもルイ・ヴィトンはフランス製で、アメリカ人はサクランボやジャガイモやケチャップを売りたがる。なんだってそんなものを二十万円も買わなければならないのか? しかしどうやら、「一人二十万円」の国家的要請は本気だった。それで仕方がない、一九八五年の日本人は「どうやって外国のために二十万円を使うのか?」と考えることになる。  外国のことをロクに知らない日本人は、ヘンテコリンな苦しみ方の末、ある打開策を見つけた。外国旅行である。旅行費用だけで二十万円は消える。なにも分からなくても、そこへ行けば「外国だ……」という感動は味わえる。それで日本人は、やたらと外国へ行くようになった。旅行先の免税品店で、「これを買っておけば大丈夫」という、外国のブランド品とも「お手頃価格」で出合えた。輸入すれば高いものが、外国だと安い。それを持つと、「金持ち」のようにも見える。外国旅行とブランド品のおかげで、日本人は念願の「金持ち」になった。  話は変わるが、二十世紀百年分のコラムを担当する私にとって、最も書きにくい時期は、この一九八〇年代中頃である。膨大な量の風俗的ディテールが登場して、そこに新しいものが一つもない。そういうものは、一九八〇年代の初頭までにすべて出尽くしている。文化の質の変化である「重厚長大から軽薄短小へ」を代表する「昭和軽薄体の文章」は、一九七〇年代の末に登場している。一九八〇年のマンザイ・ブームをきっかけにして、テレビはお笑いの時代に入った。「おもしろCM」と言われるものが、日本人の硬直した思考を揺さぶり、テレビに『笑っていいとも!』が登場した一九八二年からは、プロとアマとの境を消した「シロートの時代」になる。変革は既に終わり、一九八〇年代の中頃は、単なるモデル・チェンジの繰り返しである。  ルイ・ヴィトンもシャネルも、昔からある。それがこの時期大量に出回り始めても、大した意味を持たない。「みんながルイ・ヴィトンを持った」とは、「ルイ・ヴィトンがどうってことないものになった」だけである。しかも始末の悪いことに、その文化的な変化は、�既成の基準�を素通りして達成された。それ以前の文化や社会を作っていた人間達にとって、一九七〇年代末から一九八〇年代の初頭にかけて起こった変化は、「なんだか分からないもの」でしかなかったということである。その典型例となるのは、「少女マンガの変化」だろう。  一九七〇年代の前半から少女マンガの変貌は起こり、一九七〇年代末には、もう革命的な変化を遂げていた。そして、にもかかわらず、少女マンガは「少女マンガ」のままだった。一九七〇年代末に突然[#「突然」に傍点]起こったかのように見える�変化�は、「下らない」という表層の色を捨てない。少女マンガを「下らない」と思う人達にとって、「少女マンガの変化」などというものは、あってもなくても同じものである。一九七〇年代末の変化は、一九六〇年代末の下位文化《サブカルチヤー》の勃興と同質のもので、しかもそれはアメリカ製ではなく、純然たる日本製の下位文化だった。どうあっても�高級�には見えない。「下らないうえにも下らない」と見えるもの達は、その表層を保ったまま、内部に隠し持つ変革の重要性を突きつけた。つまりは�無意味�のままだった。  「戦後生まれ」が日本の総人口の過半数を越えたのは、一九七六年である。そうなっても日本には、世代交替が起こらなかった。だから、「脱サラ」という逸脱が起こった。起こらない世代交替は、新しい時代の要素を黙々とストックさせるだけになった。それが、一九七〇年代末になって溢れ出すのである。それは「既成の文化」というダムを決壊させず[#「決壊させず」に傍点]、逸脱のまま下流へと走った。一九七〇年代末の新しい文化は「既成」を素通りして、であればこそそれは、世代の交替も文化的な変革も実現させなかった[#「実現させなかった」に傍点]。その奇妙な逸脱の流れは、�上位文化�を形成する人達に理解されず、大量消費を必要とする企業に取り込まれる。日本社会で必要なのは、消費する大衆の消費欲を刺激することだけだったのだ。  かくして世の中は変わった。既成の文化は、�権威�という年金をもらうだけの定年状態となり、知性を欠落させた「大衆の時代」が定着する。新しいものはなにもない——と同時に、鳴らされるべき警鐘もどこにもない。世紀末行きのジェットコースターは、動き出していた。日本国民が「一人千ドルの外国製品購入」を呼びかけられた四月、文部省は初の『いじめ白書』を発表した。子供達の中に、「いじめ」という事態が深刻化していたからである。  その教育の危機にどう対処すればいいのか? 答はない。その危機は、既に一九七〇年代にあった。その警鐘を見逃し、見過ごしたからこそ、「いじめの時代」は訪れた。  一九六〇年代末の日本の大学闘争は、その時期大学に入った人間達が表明してしまった、戦後教育と日本社会に対する異議である。それは却下され、社会は平穏になった。大学を通過しない限り、豊かで平穏な日本社会の一員になれないことがはっきりしたからである。戦後のベビーブームを頂点として、子供の数は減り続け、しかし、その子供達が実践する進学競争は、質的な苛酷さを増す。大学に行くことは「人並」になり、その人並から脱落することが、子供にとっては「社会的な恥」となった。そのジレンマが、子供に家庭内暴力を実現させたのである。危機はもうあった。  総理が「一人千ドル使え」と号令を下す——そんな社会を目指して、教育は変質を遂げた。その教育路線を放置することが、「一人千ドルの外国製品購入」を可能にすることである以上、日本社会は抜本的な教育改革に取り組めない。一九八五年の警鐘は既に遅く、警鐘は、日本が急降下する一九九〇年代にならなければ意味を持たない。一九八〇年代の中頃に、言うべきことはなにもないのである。 [#改ページ]       1 9 8 6  一九八六年の四月二十六日、ソ連のチェルノブイリ原子力発電所が爆発事故を起こした。  翌日になって、スウェーデンをはじめとする北欧諸国で、「異常に高い大気中の放射能レベル」が観測される。ソ連の原子力発電所が事故を起こしたのではないかと推測されて、しかしソ連側の発表はなかった。ソ連のテレビ局が「チェルノブイリ原子力発電所で事故」という簡単なニュースを流したのは、そのさらに翌日の二十八日。ソ連が原発事故の存在を認めたのは意外だった。しかし、それを事実とするのなら、その報道の仕方はあまりにもそっけがなかった。それがどのように凄まじいものであったかが明らかになるのは、もう少し先。事故発生と同時にあってしかるべき住民への避難措置も、なおざりだった。  後にソ連邦の初代大統領となるミハイル・ゴルバチョフが、ソ連の最高指導者たる共産党書記長になったのは、この前年——一九八五年の三月だった。それ以来、ゴルバチョフはソ連の立て直しに乗り出していた。中距離核ミサイルの凍結や、五カ月間に限っての核実験の停止を発表した。改革派の盟友シェワルナゼを外務大臣に起用して、情報公開(グラスノスチ)も施策に掲げた。ゴルバチョフはソ連を変えたがった。しかし西側の人間は、それを真に受けなかった。多くの人が「ソ連は変わらない」と信じていた。チェルノブイリ原発事故は、それを裏書きするようなものだった。ソ連は、自分に都合の悪いことを公表しない——このことは、ソ連がロシアに変わった後の二〇〇〇年、百十八人の乗組員全員が死亡した原子力潜水艦クルスクの沈没事故においても変わらなかった。  自分達のメンツを第一に考える人間が中枢にいれば、それは�体質�となる。ゴルバチョフが最高指導者になっても、ソ連の中枢には、メンツ第一の人間がいくらでもいた。一九八五年でも、一九八六年でも、ソ連はまだ世界中の社会主義国の盟主だった。メンツという名の誇りは、ソ連の中枢に厳然としてある。五年後のソ連邦消滅を頭に入れれば信じられないことだが、一九八六年に、「冷戦」はまだあったのである。  ゴルバチョフが核実験の停止を発表した二カ月後の一九八五年十月、ソ連は新大陸間弾道弾の配備を開始した。一方のアメリカも、軍事衛星を打ち上げてソ連のミサイル攻撃を遮断するためのシールドを作るという、とんでもないスターウォーズ計画——戦略防衛構想(SDI)を発表していた。ソ連が新大陸間弾道弾を配備した翌月には、ジュネーブで六年半ぶりの米ソ首脳会談が開かれ、ゴルバチョフはSDIをやめてほしいと申し入れたが、アメリカは「NO」と言った。米ソ首脳会談は、戦略核の五〇%削減等で合意したが、その翌月、イギリスはSDIへの参加を表明した。冷戦の時代によくあったつまらない駆け引きがまだ生きていて、軍拡競争も健在のまま、チェルノブイリの原発事故へと至る。  ゴルバチョフがソ連の最高指導者となった時、ソ連の経済は停滞していた——あるいは、崩壊後のロシアの状況を見れば、「もうソ連経済は崩壊に瀕していた」と言うべきかもしれない。その原因が、大きすぎる軍事予算にあることは明らかだった。だからゴルバチョフは、軍事予算削減につながる軍縮の方向へ進んだ。しかしアメリカは信じなかった。ソ連の内部には、ゴルバチョフの方向性に反対する保守派がいくらでもいたからである。  「冷戦」がありさえすれば、ソ連は「世界中の社会主義国の盟主」という地位を保っていられる。保守派はそのソ連の頂点に立つ。ゴルバチョフが「ソ連の最高指導者」になっても、保守派にとってのゴルバチョフは、自分達の特権を保持するための単なる「事務処理代行人」である。その保守派が存在すれば、当然のことながら、冷戦は継続される。冷戦の継続は軍事予算の拡大と経済の破綻につながることだが、「自分達は正しい、ソ連は勝つ」と信じている保守派にとって、そんなことはどうでもよかった。問題は「自分達の安泰」で、それがある以上、ソ連にはいかなる破綻もない。経済が破綻していない以上、経済の立て直しなど必要ではない。メンツというものは、そんなにも下らない手続きによって成り立つものだが、その保守派がソ連に健在である以上、アメリカもまた「冷戦の継続」を選ぶしかなかった。  「冷戦の継続」は、アメリカにとっても必要なことだった。アメリカは、日米貿易戦争の敗者となっている。「勝者としてのアメリカ」を成り立たせるためには、そのパートナー——「保守派のいるソ連」が必要となる。アメリカには、「強いアメリカ」を実現させるため、タカ派の大統領ロナルド・レーガンがいた。  世界はどこかで空回りしている。だからへんだ。その空回りの元凶は、どこにあるのか? それがつまりは、日本なのである。  一九八〇年代、世界の中心は日本にあった。輸出に成功した日本は、世界一の金持ち国になった。その理由はなにか? 「日本の技術が優秀だった」というのは、おそらく第二の理由である。軍隊を放棄した日本で、軍事予算は少なかった。アメリカとソ連と、そしてヨーロッパ諸国に冷戦を担当させて、日本はただ「世界一の金持ち国になる道」を歩んでいればよかった。その日本のあり方を手本としたのはアジアの国々だけで、アメリカやヨーロッパは、日本をバッシングするだけだった。  日本の独り勝ちを阻止したかったら、さっさとつまらない軍事競争をやめればよかったのである。日本と並ぶ経済戦争の勝者・西ドイツの存在は、その傍証ともなるだろう。西ドイツに軍隊はあって、しかし、ここの海外派兵は禁じられていた。強大な軍事力の復活を恐れられた西ドイツは、軍事介入などという余分なことをする必要がなかった。  「日本の繁栄」は、「冷戦の終わり」より先にやって来た。そのことは、当然「軍事の無駄」を示していたはずだが、「自分達の正しさ」を信じる世界の�先進国�達は、そんな気づき方をしなかった。日本は黙って商売をして、そんな重要なことを教えなかった。世界に空回りを生んだ原因は、なんにも知らない勝者・日本の沈黙なのである。  二十世紀最大のどんでん返しは、その初めに「進むべき正しい道」と信じられていた社会主義が、「進歩を阻む保守派」となってしまったことである。一九九一年十二月にソ連邦を消滅させてしまう直接の原因は、その夏に保守派のクーデターが起こって失敗したことで、保守派が消えればソ連の改革は現実のものとなる。ソ連の保守派とは、「共産党の指導者達」だったのだ。冷戦の一方が保守反動の権化となった時、その他方が「歩みを妨げる時代遅れ」にならない理由もない。チェルノブイリの原発事故は、その深刻さゆえに、保守派の介入を一時的に抑えた。ゴルバチョフはペレストロイカ(再建)を公然と推し進め、そして�終わり�もやって来るのである。 [#改ページ]       1 9 8 7  一九八七年は昭和六十二年——昭和の終わりまで一年と一週間を残すだけになった。いよいよ「バブル」の登場である。  この年の一月、東京証券取引所の平均株価は、二万円の大台に達した。一万円の大台に達したのは、その三年前の一九八四年一月である。戦後の廃墟からスタートした日本は、三十九年かけて平均株価を一万円台に乗せ、次の一万円は三年でクリアした。二月の初めには、NTTとして民営化された電々公社の株が上場され、買い手が殺到して値がつかなかった。同じ月の後半には、公定歩合が二・五%に引き下げられる。低金利時代の幕開け——後に言う「バブルの始まり」である。  日銀の公定歩合が引き下げられ、市中銀行に資金が出回る——これはなぜ起こったのか? 一般には、「日本の貿易黒字が増え、円高となり、日本経済が輸出中心から、内需中心への転換を迫られたから」ということになっていた。しかしこれは、あまりにも不十分な説明である。日本経済が「輸出中心から、内需への転換を迫られた」だけなら、低金利にして金を国内にだぶつかせる必要はない。それが成り立つためには、「輸出に頼っていた日本経済が円高で大いなるダメージを受け、だぶついた商品を国内で売りさばく必要が出て来た。しかも、そのダメージは大きく、国民は購買力を失っていたので、政府が資金調達の融資をしなければならなかった」という条件が必要になる。そうでもなければ、「内需への転換」と「低金利時代の到来」は結びつかない。そしてもちろん、日本にはそんな事実がなかった。だからこそ、公定歩合の引き下げ以前に、株価は十分高かった。  日本が輸出から国内需要の拡大へと転換しなければならなくなったのは、「日本だけが儲けすぎているのはいけない、もっと輸入をしろ」という、国外からの要請があったからである。つまり、地球の一部である�先進国�と言われる部分から、「富の再分配」を求める声が出たのである。だからこそ、一九八〇年代の日本は、やたらと「貿易の自由化」を要求された。しかし「一九八五年」の回で書いたように、日本には、格別アメリカやヨーロッパからの輸入を増やさなければならない理由がなかった。問題が「日本の儲けすぎ」にあるのなら、それを言う国は、日本製品を買わなければいい——そういう解決法だってあったのである。  日本製品は良質で安い——だから、日本製品の輸入を野放しにすると、欧米の国内産業に打撃が出る。これを回避する方法が一つだけあった。それは、貿易の支払いを円建てにすることである。  一九八〇年代以前から「円高」は言われ、日本企業はそれに怯えていた。なぜ怯えるのかと言えば、輸出が少なくなるからではない。円高になれば、支払いで入って来る額が減るからである。貿易の決済がドル建てであれば、どうしたってそうなる。  一ドル=二百円の時、日本が「二百円」の商品を輸出すれば、外国から「一ドル」の代金が入って来る。円高になって一ドル=百円になっても、日本が同じ商品の値上げをせずにいたら、受け取る代金は「一ドル」のままである。ところが、その「一ドル」を円に換算したら、「百円」なのである。入る額は半分になる。これがドル建ての決済で、つまりは日本の損である。しかし、これを円建てにしたら話は変わる。一ドル=二百円の時に「二百円」だった商品の値段は、一ドル=百円の時には「二ドル」になる。二百円の商品を日本から輸入する国の支払いは、「二ドル」に増える。それが円建ての決済である。  日本の取り分は変わらず、相手国の支払いだけが増える。「良質で安い」と言われた日本製品は、「良質だから高い」に変わる。そうなれば当然、相手側は、「日本製品を買うか、買わないか」の判断を迫られる。日本の輸出量が減るのだとしたら、それは、自分達の文化程度と懐具合を考えた、相手国の判断次第である。ところが輸出超過の日本は、そう考えなかった。貿易の決済はドル建てが基本のままで、輸入する側はなにも考えず、輸出する日本だけが円高の損をかぶることになっていた。日本が円高を「メリット」とする道は、「いるのかいらないのかよく分からない外国製品の輸入」だけだった。  歪みはここにある。それが放置されて、日本は「内需への転換」を要求された。つまりは、「輸出過剰のペナルティを輸入で償え」である。なぜこんなことが起こるのか? 一つは、欧米先進国が�欧米先進国�の立場を失いたくなかったためである。日本が輸出品に対して円建ての決済を迫るということは、「こっちは高級品を売ってるんだ、買いたきゃ分際を考えて買え」と言うことに等しい。こんな屈辱を�先進国�が呑めるわけはない。そして、それに関連してもう一つ、日本にそれを言うだけの度胸と頭がなかったからである。  日本は努力して、輸出に耐える優秀な製品を売り出した。それを「優秀」と思うなら、日本に学べばいいのである。自国品を「優秀」と思うのなら、日本は胸を張って、その製品を作り出すに至るまでのプロセス——苦闘の歴史を教えてやればよかったのである。  しかし日本は、そんなことをしなかった。日本人を異人種と思う「国際ルール」に従って、�先進国�の言いなりになった。それが「内需への転換」である。  それでは、「内需への転換」が、なぜ「低金利時代」へと直結するのか? 輸出を減らし、それまでの輸出で蓄えた金を国内で使えばいいだけなのに、なぜ余分な金を国内に溢れさせたのか? それをしなければ、金が日本の国内だけで循環して、世界貿易の総額が減ってしまうからである。そうなれば、「輸出で儲けよう」と思う欧米先進国の取り分が減る。だから、日本は「輸出大国」の現状を維持しながら、余分な金を使う——低金利で金を溢れさせる必要はこうして生まれる。  なんだか不思議な論理だが、これが不思議なのは、ウソだからである。「内需の拡大」を要求される日本に、その必要はなかった。もう十分に物はある。内需拡大のしようはない。だからこそ、「いるとも思えない外国製品をなぜ買うのだ?」という疑問も生まれた。  既に日本には金があった。かつては銀行の融資に頼っていた企業が、自前の金を持つようになっていた。その現実によって、「金貸し」である銀行は、存在理由を薄れさせていた。金貸しが金を貸せなくなったら、金貸しの失業である。だからこそ金貸しは、低金利のバーゲンセールをやってでも、自分の仕事を増やしたかった。そのため、日銀の金は、金貸し業務を本来とする市中銀行へ流れ込み、さらにろくでもない方向へと貸し付けられた——すなわち「バブルの誕生」である。  それは、限界に達した世界経済と、既に役目を終えた銀行救済のために生まれた。「バブル」とは、破綻の先送りだったのである。 [#改ページ]       1 9 8 8  一九八八年、日本では昭和天皇が病に倒れ、昭和終了のカウント・ダウンが始まる。中東の地では、一九八〇年から八年間続いて百万人の犠牲者を出したイラン・イラク戦争が、ようやく停戦となった。イラン・イラク戦争は、一九七八年の反政府暴動に始まるイランのイスラム原理主義革命を起点とし、一九九一年のイラク軍対多国籍軍による湾岸戦争へと続く流れの、中間に位置するものである。  一九七八年、イランでは親米路線による近代化を目指すパーレビ(あるいはパフラヴィー)国王の独裁が破綻を迎える。翌一九七九年に国王《シヤー》は国外へ逃亡、イスラム教シーア派の指導者ハイラム・ホメイニ師によるイスラム原理主義革命が起こって、イランは「イラン・イスラム共和国」になる。「革命=社会主義」と信じ込んでいた二十世紀人の目には�奇異�にも映るこの革命を達成したイランは、アメリカとの対立を強める。テヘランの「アメリカ大使館人質事件」はその典型だが、イラン・イラク戦争の勃発は、その翌年の一九八〇年。イランの西の隣国イラクは、国境紛争を口実としてイランに侵入した。  イランとイラクは一字違いで、「どっちも同じ中東のイスラムの国」と思う日本人にとっては、なんだかよく分からない事件の始まりだが、これはそんなに難しいことでもない。  イランの原理主義革命を指揮したホメイニ師は、イスラム教のシーア派に属する。しかもイランは、アラブ人の国ではない。ペルシア人の国である。一方、イランに攻め込んだイラクは、ティグリス・ユーフラテス川の流れる、アラビア半島のつけ根にあるアラブ人の国である。イスラム圏であることだけがイランと同じイラクの内部は、支配階級に属する少数のイスラム・スンニー派と、被支配階級に属する多数のイスラム・シーア派とに分かれていた。イランにシーア派の原理主義革命が起こったら、それはイラク国内の多数シーア派にも波及する。そうなれば、スンニー派の支配が危うくなる。それを恐れて、イラクはイランを攻めたのである。それはつまり、「スラブ民族の国ロシアに社会主義革命が起こったら、多数の労働者を抱えるゲルマン民族の国ドイツに革命の危機が生まれる」という、かつての理屈と同じである。イスラムの地に起こった原理主義革命は、それを�奇異�と見る人が多くあったにしても、れっきとした「二十世紀の革命の一つ」だった。  アメリカとイランの対立は、過去の「宗主国対植民地」の対立に近い。パーレビ国王を支援するアメリカは、イランを植民地などとは思わない。しかしパーレビ国王の支配を嫌うイラン国民にとって、アメリカは「植民地支配を企む宗主国」のようなものである。だからここには、宗教的対立がない[#「ない」に傍点]。「アメリカがキリスト教圏で、イランはイスラム圏だから、ここには宗教的対立がある」とするのは、「アメリカのイラン支配」を考えない人の考えで、イランとアメリカの間にあるものは、あるのだとしたら、「イスラム教はキリスト教ではないからへんだ」という、単なる宗教的偏見[#「宗教的偏見」に傍点]である。ところがしかし、イランとイラクは、同じイスラムの国である。フランス革命が起こった時のオーストリアの緊張や、ロシアに革命が起こった時のヨーロッパの緊張と同じものが、同じイスラム圏であるがゆえに、イランの隣国には起こったのだ。  イランに革命が起こった一九七九年、隣のイラクでは、サダム・フセインが大統領になった。イラン・イラク戦争の仕掛け人は、彼であり、後のクウェート侵攻の仕掛け人も彼である。このサダム・フセインが登場して、話はよりややこしく、より分かりやすくなる。  第二次世界大戦後の「中東問題」と言えば、まず「アラブとイスラエルの対立」である。ここには、「イスラム教とユダヤ教の宗教対立」と「アラブ人とユダヤ人の民族対立」という要素が二つ重なっている。どっちも日本人には難しく、だからこそ「永遠に解決がつかないような難しい問題」と決めつけるむきも多いが、問題の解決を困難にするのは、その単純な決めつけである。  たとえば、イスラムの国でありペルシア人の国であるイランは、「アラブとイスラエルの対立」に関わらない。パーレビ国王の時代に、イランはさっさとイスラエルを承認している。ここには、「イスラム教とユダヤ教の対立」もないし、「ペルシア人とユダヤ人の民族対立」もない。イランとイスラエルの間には、イラクがあり、シリアがありヨルダンがある。「その距離[#「距離」に傍点]が宗教や民族の対立を回避している」というのなら、問題はそこ[#「そこ」に傍点]にある——つまり問題は、宗教や民族の対立ではなく、「近所の利害関係」だということである。揉めた近所同士が�難しいこと�を言い合っていても、その根本にあるものは、ただ「近所ゆえの利害関係」でしかないのだ。  第二次世界大戦後、アラブ諸国はユダヤ人の国イスラエルと対立している。イスラエルのバックにはアメリカがいたし、アラブの背後にはソ連がいた——それが冷戦時代の構図だった。アラブ=イスラムとユダヤ=イスラエルの対立には、米ソ対立の代理戦争という面もあった。ところで、一九七九年にイラク大統領となったサダム・フセインは、社会主義が嫌いだった。初めは親ソだったイラクが、サダム・フセインの時代からは反ソになった。サダム・フセインは社会主義者ではない。彼にとって重要なのは、支配者としての自分の地位を守ることであり、近隣アラブ諸国の中における自国の優位を達成することだった。自分の支配体制を危うくするようなシーア派原理主義も、社会主義も、彼には必要がない。彼に必要なものは、自分=自国の優位を飾る「民族主義」という言葉だけなのだ。ここで事態は、一挙に古臭くなる。サダム・フセインは、「中東世界で一番になりたい田舎のオヤジ」でしかないからである。  そういう男が、一九八〇年、イランへ戦争を仕掛けた。イランとイラクとどっちが悪いのかははっきりしている。しかし、イスラム系の周辺諸国やアメリカをはじめとする国際世論は、フセインのイラクを支持した。イスラム原理主義の浸透を�危険�と思うのは、イラクばかりではなかったのだ。  かくして、イランの原理主義は負ける。それも仕方がない。イスラム原理主義のイランにあった武器は、近代兵器ではなくて、「若い兵士」だけだった。二十世紀のあり方に逆行したイランの原理主義は「人海戦術」を取り、若い兵士がイラクの近代兵器の盾となった。イラン・イラク戦争で出た犠牲者百万人の多くは、原理主義を信じるイランの若者なのである。  一九八八年にイランは負け、翌年ホメイニ師は死ぬ。支持されて勝ったフセインは、一九九〇年にクウェートへと侵攻し、翌年の湾岸戦争へと至る。イランの原理主義は分かりにくく、フセインのやることは分かりやすい。世界は分かりやすいことばかりを支持して、簡単にその道を間違うのである。 [#改ページ]       1 9 8 9  一九八九年一月七日、昭和天皇は世を去った。六十四年の長さを持つ「昭和」という時代も終わった。前年の九月から「ご重体」を報じられていた昭和天皇は、その時既に八十七歳だった。人がいつかは死ぬものである以上、昭和天皇の崩御と昭和の終わりも、「いつか来て当然のもの」だった。しかし、後に「バブルの絶頂期」と言われるようなこの年の初め、日本の空気は重かった。「ただ�昭和が終わった�だけですむのだろうか?」という、不思議な危惧に似た雰囲気が、どこかにあった。そして事実、昭和天皇の死は�終わりの始まり�でしかなかった。  二月になると、「マンガの神様」と言われた手塚治虫が死んだ。四月には、松下電器産業の創設者であり「経営の神様」と言われた松下幸之助が死んだ。六月に死ぬのは、「歌謡界の女王」と言われた美空ひばりである。「人が死ぬ」ということと、「一つの時代の終わり」が、こんなにも直接的に重ねられ語られた年は、そうそうないだろう。昭和天皇が死んで昭和は終わり、手塚治虫が死んでマンガが終わり、松下幸之助が死んで日本的経営が終わって、美空ひばりの死によって歌謡曲も終わった——そのように言われた。  ところでしかし、この二十世紀一年刻みのコラムで「一九一九年」の原稿を書こうとしていた一九九八年の私は、あることを発見した。一九一九年を「冥王星の発見」として語ろうとして、私は山内雅夫氏の『占星術の世界』(中公文庫)という本を読んでいたのだが、「一九八三年八月発行」の奥付を持つこの本には、こんな一節があった——「一九七九年、海王星の内側に入った楕円軌道の冥王星は、今、地球に向って降下しており、一九八九年には死の象徴が、最も地球に近づく」  占星術における冥王星は、著者によれば、「絶滅の星」だそうである。つまりは、「当たり」である。「人の死」は、一九八九年の中心にあった。だがしかし、一九八九年の日本で、「今年は冥王星のせいで死者が多い」などと言う声を、私は聞かなかった。そんなことは、話題にならなかった。そんな暇もないくらい、一九八九年は忙しい年だった。  昭和天皇の「ご重体」と並行して、一九八八年の日本には「リクルート疑惑」という戦後最大級の政治スキャンダルが持ち上がっていた。それが持ち越された一九八九年三月、竹下内閣は九%というとんでもない支持率を示す。四月には、「反対!」の大合唱の中で消費税が実施され、政治不信の広がりは竹下内閣を総辞職させる。隣の中国では、民主化を要求する学生達の動きから、戒厳令発令という騒ぎになり、香港や北京でそれぞれ百万人のデモ隊が抗議活動をし、天安門広場には戦車が出動して、数百人の死者を出す。竹下内閣の後継となった宇野宗佑《うのそうすけ》を首班とする内閣では、総理の女性問題に関するスキャンダルが発覚。七月の参議院選挙では、党首・土井たか子率いる社会党が「女性の党」へと変貌して、与野党逆転の勝利を占める。宇野内閣は二カ月ももたずに消滅するのだが、日本の政治がこれだけ揺れるという珍しい状況の中で、別の衝撃も生まれた。  七月に強制猥褻容疑で逮捕された二十六歳の青年・宮崎勤《みやざきつとむ》が、二月の事件発生以来不明のままだった「幼女連続誘拐殺人事件の犯人」として再逮捕される——これが八月。参院選の七月には「女」が主役だった、それが一転、八月には「サブカルチャー漬けのおたく青年」が、社会の好奇の目を浴びる。「お前も似たようなもんじゃないのか?」と言われそうで怯えた現代青年は多かった。その間に忘れられて気の毒なのは、七月に死んだ「クラシック音楽の帝王」カラヤンである。  一九八九年という大変動の年の特色は、それがあまりにも多様な方面にわたるということである。それはまるで、「すべての人間はなんらかの形でこの大変動に関係している」と、世界が言っているかのごとくである。だから当然、この大変動は日本ばかりに留まらない。後半になって、この大変動は、中心を東欧へと移す。ゴルバチョフのペレストロイカ政策以来、東欧に対するソ連の支配力は急速に弱まっていたが、その結果として、東欧の共産党政権が立て続けに崩壊する。  十月には、まずハンガリー、そして東ドイツで、政権の崩壊が起こる。アメリカでは、サンフランシスコの大地震である。十一月にはベルリンの壁が崩壊し、ブルガリアでの政変。日本では、「死ぬのは年寄りばかりではない」とでも言いたげに、若きカリスマ俳優・松田優作に死が訪れる。十二月には、ポーランドとチェコスロバキアで共産党政権が崩壊し、ルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領夫妻は処刑されるが、日本では、平均株価が三万円の大台突破である。やたらの大変動が起こる中、「変わるまい!」という強気の姿勢を保っていたのは、日本のバブル景気だけだったようだが、一九八九年が終わった三カ月後には、「円と株と債権のトリプル安」という事態が日本を襲う。やがてはバブルもはじけるのである。  これだけ忙しい日本であり、世界である。どこの誰が「冥王星の大接近」などということに耳を傾けるだろう。冥王星が「絶滅の星」であろうとなかろうと、忙しい人間にとって、そんなことは「関係ない」のである。  五島勉《ごとうべん》の著作による、あの「一九九九年の七の月、空から恐怖の大王が降りて来る」で有名な『ノストラダムスの大予言』がベストセラーになったのは、一九七四年。この年はまた、小松左京のSF小説を映画化した『日本沈没』が大ヒットした年でもある。その下地となる「終末ブーム」は、もう一九七〇年代の初めにあった。「世紀末」は、私が学生だった一九六〇年代末に、既にありふれた囁かれ方をしていた——「十九世紀の」ではなく、「二十世紀の世紀末」である。どうしてそんな時期に、「二十世紀の終わり」や「終末」を実感する人達がいたのだろう? それはつまり、「どう生きて行ったらいいのかよく分からない」という意識の反映なのである。  一九六〇年代末の段階で、既に二十世紀は行き詰まりを見せていた。だからこそ、その後の日本や世界には、「惑星のグランドクロス」とか「惑星直列」というような、「大異変の兆し」を求める人達が増える。一九七八年の南米ガイアナでは、「世界の終わり」を信じて、人民寺院の信者九百人が死んだ。一九九五年の日本で起こったオウム真理教事件も、その流れの中に位置するものである。二十世紀後半の何十年もの間、人は「終末」を思っていた。その最後に位置するのが、「恐怖の大王」であろう。一九九九年の七月がやって来て、何事もなかった[#「何事もなかった」に傍点]。それだけである。  人はどうやら、のんきで平和な時に「終末」を待望する。だからこそ、実際の大変動の中で、人はオカルトに走らない。一九八九年に大事件は連発して、しかし、人はオカルトなんかに見向きもしなかった。当然だろう。 [#改ページ]       1 9 9 0  一九九〇年の日本は、平成二年である。日本人にとってのこの年は、「何事もない年」だった。海の向こうでは、前年の大変動に引き続くさまざまな�激動�があった。しかし日本人にとっての一九九〇年とは、「やっと大変動が終わった」と思ってホッとしていられた、虚脱状態に近い「何事もない年」だったのである。  一年という区切りの単位は、不思議なものである。一年の最後に、「この年は終わった」ということにしてしまえば、災厄続きの年にもピリオドが打てる。ピリオドが打てれば、もう「平穏」は訪れる。どうも、二十世紀最末葉の十年間を迎える日本人の態度は、そのようなものだった。「もう�終わりの年�ではない。それは終わって、新しい�始まりの年�となった」——一九九〇年を迎えた日本人は、そのように考えていたらしい。  昭和天皇の死で始まる一九八九年は、「終わりの年」である。八十七歳の昭和天皇は、前年の九月から「ご重体」を報じられて、一九八九年には、既に「終わりの予兆」があった。国旗も掲げられぬまま一九八九年は始まり、新年になっても「新年になった」とは言いがたい緊張感があった。「昭和天皇の死」を迎えようとする日本人の中に緊張があったのは、「昭和天皇の死と共になにか[#「なにか」に傍点]が起こるかもしれない」という、漠然とした不安によるものである。それはたとえば、「右翼の殉死」というようなものだが、しかし、それはないに等しかった。一九八九年の一月にあったものは「昭和天皇の死」だけで、だからこそ、一九八九年の一月は穏やかだった。  私がなぜこんな不思議なことを言うのかといえば、二十世紀も終わり近くになった日本人の多くが、天皇の死をただ「天皇の死」とだけ解釈して、それを「一つの時代の終わり」と結びつけることを忘れていたからである。  元号というものが天皇のあり方とシンクロする以上、昭和天皇の死は、そのまま「昭和という時代の終わり」になる——だからこそ一九八九年一月七日の翌日は、そのまま「平成」という新しい時代に変わる。しかし、一九八九年一月の日本人の多くは、そのことの意味を理解しなかった。ただ「元号が変わった」とだけ、思い込もうとした。だからこそ、その後の�衝撃�がやって来る。昭和天皇の御大葬が近づく二月になって、「マンガの神様」である手塚治虫が死ぬ——それ以後は、激動と死者の列である。それらの死と変化は、昭和天皇が死ぬことによって訪れた、「ある一つの時代の終わり」を物語るものである。  一九八九年は、事実「大激動の年」だった。しかし、日本人が一九八九年を「大激動の年」にしてしまったのには、また別の理由だってある。それは、日本人の多くが、訪れてしかるべき「時代の転換」あるいは「一つの時代の終焉」というものを、まったく予期せずにいたということである。  昭和天皇が死んだ時、マスコミ業界は不思議な虚脱状態に襲われていた。ご高齢の昭和天皇に「ご重体」が報じられた時、マスコミ各社は、ひそかに「昭和天皇を追悼する記事」の作成にとりかかった。そのあらかたは、既に出来てさえいた。昭和は五十年を越え、六十年を越えていた。その節目節目の時、「昭和を総括する記事」というものもまた、同時進行で作られていた。既に昭和はノスタルジーの中にあって、それが「終わる」ということは、「たいしたことではない」と思われていた。  しかしその時、昭和はまだ終わってはいなかった。「終わる」ということがどういうことなのかを、実際には理解出来ていなかった。昭和五十年である一九七五年、既に日本は転換期に来ていた。昭和六十年である一九八五年には、既に飽和状態に達していた。「円高」が容認され、あとはバブルが到来するばかりになっていた。それはどういうことなのか? 日本人は、さっさと自分の手で古い時代にピリオドを打ち、新しい時代を切り拓く努力をするべきだったということである。  しかし、日本人はそれをしなかった。ズルズルといつまでも、「終わっていてもいいはずの時代」を放置していた。新しい時代を拓くためには、自身の手で「終わらせる」ということをしなければならない。それが「終わった」としても、その「終わったもの」の中に踏み込んで、「終わってしかるべきもの」と、「まだ続いていてしかるべきもの」との選別をしなければならない。それをしてこその、「新しい時代の始まり」である。しかし、日本人はそれをしなかった。しないまま、時代のパッケージだけを「昭和」から「平成」に変えた——それが一九八九年だった。  一九八九年の日本人は、「終わる」ということがどういうことなのかを、目《ま》の当りに見た。「一体、なにがどうなっているのだろう?」と、不安に思い始めた。そのピークは、宮崎勤という「幼女連続誘拐殺人事件の犯人」が登場した八月だろう。「こんなとんでもないことになって、日本はどうなるのだろう? 一体今年の日本はどうなっているのだろう?」と多くの日本人が不安に陥れられた夏が過ぎ、激動の中心は東欧へ移った。「終わりを告げる事態」は、いつの間にか終わっていた[#「終わっていた」に傍点]のである。日本は再び、「何事もない」という方向へ動き始めた。「幼女連続誘拐殺人犯」が登場した八月は、東京証券取引所の平均株価が三万五千円台になった時でもある。  昭和が終わり大変動が起こったにしろ、日本の「好景気」は変わらなかった。その「好景気」に「バブル」というルビを振ろうという動きは、まだ一般的ではなかった。東欧諸国で政権の崩壊は起こり、ベルリンの壁は崩れても、日本の「好景気」は変わらなかった。十一月にベルリンの壁は崩れ、十二月にルーマニアの独裁者が処刑されて、しかし日本の株価は、四万円にも迫ろうという、三万八千九百円を超えた。大激動の一九八九年は、こと日本に関しては、「史上最高値の株式」という事態で終わりえたのである。「激震は去った」——人がそう思っても無理はない。日本人にとって、「大激動の一九八九年」はそのようにして終わり、「新しい時代」であるはずの一九九〇年がやって来る。  もう日本に「激震」はない。日本で終わるものは、みんな終わってしまっている。しかしその三月、公定歩合が四・二五%から五・二五%へと引き上げられた。株価の三万円割れが起こり、円と株式と債券のトリプル安が起こるのは、その二日後である。しかし日本人は、「好景気の終わり」を信じなかった。そんな考え方をする必要はない。なぜならば、「終わるべきもの」は、もう終わっている[#「もう終わっている」に傍点]からである。「終わり」の検証を拒否した人達は、そのように考えた。彼等にすれば、日本の好景気が終わるはずはないのである。  かくして、一九九〇年に「バブルの終わり」は訪れて、それを直視しないままの日本人は、「バブルの傷」を深くして行く。 [#改ページ]       1 9 9 1 「好景気」という幻想——端的には「上がり続ける地価」という幻想に取り憑かれた日本人にとって、「大変動」とは、一九八九年に限ってのことだった。「昭和は終わった」であり、そこで一段落をつけてしまった日本人は、「その後の変化」と一九八九年に現れた「終わり」とを、関連づけて考えることが出来なくなった。だから、後の一九九〇年代に起こる「いやなこと」や「とんでもないこと」の原因が、分からないままなのである。  日本人は、一九九〇年代における異常事の多発を、まるで一過性の天変地異の多発のように考えもするが、日本を取り囲む一九九〇年代の国際情勢は、そのような楽観を許さないものでもあった。一九九〇年代の世界は、確実にある方向性をもって流れ、それは、その以前の出来事と明確に連続していた。  たとえば、この一九九一年一月に起こる湾岸戦争は、一九七八年一月のイランに起こった反政府暴動から続く流れの中にあるものである。反政府暴動のイランには、一九七九年になってイスラム原理主義革命が起こり、その波及を恐れた隣国イラクは、一九八〇年にイランへと侵攻する。そのイラン・イラク戦争は、一九八八年まで続く。この戦争に�敗戦国�となったイランは、一九八九年にイスラム原理主義の指導者ハイラム・ホメイニを失う。死んだホメイニ師は八十九歳だった。同じ戦争で�正当性�を獲得したと思う�戦勝国�イラクの大統領サダム・フセインは、一九九〇年の八月に、イランとは反対側の隣国——小さいながらも産油国としてはイラク以上の金持ち国であるクウェートへと攻め込む。四カ月後の湾岸戦争は、この帰結である。日本とは遠いイスラムの世界で、�なにか�が起こっていた。日本人がそれを知るのは、一九九一年一月になってイラクを攻撃する、多国籍軍の側から見たテレビ中継によってである。日本人にとっての湾岸戦争の衝撃は、「戦争がテレビで中継される」ということに尽きるだろう。しかし、そこに至るまでの経緯は、結局のところ、そのテレビ中継をした国——世界の動向を大きく左右する力を持った大国アメリカの、�判断ミス�なのである。  イランのイスラム原理主義革命は、親米の国王を逐うことから始まる。嫌われたアメリカは、イランを敵視するサダム・フセインのイラクを大目に見て、湾岸戦争へと至る。湾岸戦争は、ただ「湾岸戦争」のまま終結してしまうが、ここに隠されて意味を持つ大きな問題は、「サダム・フセインのイラク」ではなく、「イランに起こったイスラム原理主義のその後」なのである——私はそのように思う。  一体、二十世紀において「革命」とはどのような意味を持つものだったのか——この答がまだ出ないのは、イスラム原理主義革命のその後が見えて来ないからである。その革命が「巨大なる国家の支配」にしかならなかったソ連の社会主義革命が潰《つい》えて、「革命」という言葉は色褪せたように見えた。しかし、「革命の二十世紀」は、まだイスラムの世界に生きているのである。そう考えてもいいし、そう考えるべきではないかと思うのは、もちろん、この「湾岸戦争の一九九一年」が、同時に「ソ連崩壊の年」であり、「社会主義終焉の年」と言われるような年だからである。  一九八九年の十月、エーリッヒ・ホーネッカーは、東ドイツの支配政党のトップであることを辞める。社会体制をそのままにして、しかし東ドイツの国民は国を見捨て始めた。国外旅行の規制が緩和され、国民は西ドイツへと流れ、ドイツの東西分断を象徴するベルリンの壁は無意味になった。東ドイツのトップが辞任した翌月が、ベルリンの壁崩壊である。翌年の三月には、東ドイツで初の「自由選挙」が実施され、国民は「西ドイツへの編入」を望んだ。かくして一九九〇年十月、東西分断から四十五年目にして、ドイツの東西統一は達成された。普仏《ふふつ》戦争が終了してドイツ帝国が成立した一八七一年以来、ドイツは、ヨーロッパにおいて「落ち着かない戦争の火種を提供し続ける国」でもあったが、それから百二十年目にして、ようやく「平和なドイツ」は現れたのである。  東西ドイツの統合は、もちろん、東ドイツをその支配下に置くソ連の弱体化によるものである。一九八六年のチェルノブイリ原発事故を契機として勢いを得たミハイル・ゴルバチョフの改革——ペレストロイカは、結局のところ、ソ連の弱体化を推進するものだった。そして、指導者ゴルバチョフは、それでかまわないと思っていた。ソ連が東欧諸国を掌握し続けるということは、膨大なる軍事支出を必須とし、世界的な緊張を持続させることにしかならないからである。「逃げたければ逃げればよい」——ゴルバチョフの声にならない声はこうつぶやいていたはずである。かくして一九八九年の東欧諸国に政変は起こり、やがてはソ連邦内部の変動へとつながって行く。  一九九〇年、連邦内部のアゼルバイジャンに住むアルメニア人は、ソ連からの分離独立の動きを起こした。バルト海の沿岸では、リトアニアがソ連からの独立を宣言した。ゴルバチョフには、これを認める以外の途はなかったはずだが、しかし、彼を代表として選出したソ連内部の支配者達——すなわち「保守派」たる共産党員は、これを許さなかった。歴史の皮肉とは、二十世紀の初めに革命を率いた�前衛�であった共産党員が、「保守派」に堕ちてしまったことである。ソ連に強大なる国家主義を作り上げてしまった共産党員達は「保守派」となり、自分達の強大さを維持することしか考えられなくなっていた。そして、ゴルバチョフにはまだ保守派を抑えるだけの力がなかった。かくしてゴルバチョフは、アゼルバイジャンにもリトアニアにも、戦車を出動させなければならなくなった。  それをしてゴルバチョフは、ソ連邦最初の大統領となった。大統領となったゴルバチョフのなすべきことは、保守派を一掃することだけだった。ゴルバチョフに戦車を出動させた保守派の人間のなすべきことも、ゴルバチョフを逐うことだけだった。かくして、一九九一年の八月、保守派はゴルバチョフ追放のクーデターを起こす。大統領ゴルバチョフは監禁され、しかし保守派の出動させた戦車は、もうモスクワ市民を黙らせることが出来なかった。「ソ連の首都」であったモスクワは、�進歩派�エリツィンを大統領として選出する「ロシア共和国の首都」となっていたからである。クーデターは頓挫し、保守派である共産党員を逐ったゴルバチョフは、ソ連共産党の解散を指示する。  「解散せよ」の一言で消滅してしまう、かつての革命の主体。共産党を失ったソ連には、もう「ソヴィエト社会主義共和国連邦」であり続ける必然がなかった。ゴルバチョフはソ連邦内部にあった共和国の独立を認め、一九九一年十二月二十五日、ソ連の最初にして最後の大統領の地位を辞任する。ソ連が自らの「消滅」を宣言するのは、その翌日である。 [#改ページ]       1 9 9 2  一九九二年である。一九八九年の「大変動」は、実はそれ以前から始まっていた世界史の流れの中に位置するものであり、「二十世紀の決着」を模索するものである。世界の情勢は、このことを明らかにしようとしていた。しかしその中で、日本は「相変わらず」の状態を続けていた。  一九九二年は、「バブルがはじけた」と言われることになる年である。三月には平均株価が二万円を切った。八月にはこれが、一万五千円を割る。三月に発表された全国の公示地価は、十七年ぶり[#「十七年ぶり」に傍点]に「下落」という文字を記した。この十七年前——つまり一九七五年の地価下落とは、一九七三年のオイルショックに由来する不況ゆえの出来事である。  一九七四年から一九七五年の日本は、「戦後初」の文字が冠せられるマイナス成長や地価下落の起こった、ある意味では�特殊な時期�だった——ということはつまり、それ以外の時期、日本経済は変わらずに上向きの成長を続けてきたということである。  一九七〇年代の中頃にほんのちょっとのケガをしただけで、日本経済は不死鳥のごとく上向きの成長を続けて来た——それは事実でもあった。だから、日本経済とそれを包む世界経済のあり方がそのようなものであり続ける[#「そのようなものであり続ける」に傍点]と信じ込んでいた多くの人達にとって、「バブルがはじけた」は、あまり意味のない言葉だった。株価が下がろうと地価が下がろうと、それは一時的なもの[#「一時的なもの」に傍点]であって、やがてはまた従来通りの経済成長と好景気が訪れる——そう思う人達は、日本に多かった。バブルの絶頂期を過ぎたにもかかわらず、へんな不動産投資に手を出した——その経営破綻が一九九〇年代の後半になって多く現れるということからでも、このことは知れるだろう。  私に言わせれば、昭和が終わると同時に、バブルははじける運命にあった[#「はじける運命にあった」に傍点]。しかし、そう思う人達は少なかったらしい。だから、一九九二年の段階になっても、まだ「バブルがはじけた」という言葉の持つ意味にピンと来ない人達は多かった。「バブル経済」と言われた数年の間に、日本人の心はすっかり荒廃して、その点で「バブル経済」は、もう経済用語の範囲を大きく逸脱していた。つまり、バブル経済なるものは、はじけなければならなかった[#「はじけなければならなかった」に傍点]のである。日本の社会のあり方を考えたら、そのような結論にしかならない。しかし、経済と人間のあり方を関連づけて考えない人達にとって、このような考え方は縁遠いものだった。「経済は経済」とだけ思う人達、「金儲けのどこが悪い」と思う人達は、「日本を襲ったバブル経済」という言葉の意味を、「運がよすぎた好景気」程度のものとしか理解していなかった。「右肩上がりの成長」以外の経済パターンを理解しない人達は、ただ「世間は少し不景気になった、一時的に不景気が訪れた、以前の好景気はちょっとばかり度が過ぎていたかもしれない」くらいの考え方で、すべてを回避しようとした。  経済人や政治家と言われる人達の頭の中は、多くそのようなものだった。そして、さらに多くの平均的日本人は、「そもそも自分はバブル経済なんかとは関係がなかったんだ。自分は、バブルなどという下品なものとは無関係に、自分の豊かさを確保したのだ」と思うようにもなった。そうして、「バブルがはじけた」という言葉の意味が自分達の上にのしかかって来ることを、回避しようとした。だからこそ、一九九〇年代の日本の惨状はあり、一九九二年の日本の「相変わらずさ」もあるのである。  一九九二年の一月、警視庁は「佐川急便事件」の捜査に着手した。この事件は、「不正な金」によって政界を揺るがした大スキャンダルである。十一月には、竹下登元総理が、国会に証人として喚問された。この人の名が政治スキャンダルに関連して登場するのは、一九八八年のリクルート事件以来、二度目である。一九八九年には、リクルート事件によって政治不信を招いたことの責任を取って、総理の職を辞任さえしている。辞任して、しかし、それまでだった。竹下登は、二〇〇〇年になって死ぬまで、自民党最大派閥の「隠れた長」として、影響力を保持し続けていた。  佐川急便事件は、自民党の最大派閥であった竹下派に、「分裂」という事態さえ招いた。さらには、翌年の「自民党分裂」から、「自民党の野党転落」という急変さえも引き起こす。がしかし、そうでありながらも、自民党は健在のままだった。一九九四年に、自民党は政権党への復帰を果たす。その自民党の中で、竹下登の影響力もまた、健在のまま二〇〇〇年の死を迎える。  リクルート事件と佐川急便事件で、「不正な金を得た」という疑惑に関連して名前の挙がった自民党の有力政治家は、竹下登の他に、中曽根康弘、宮沢喜一、金丸信、小沢一郎、森喜朗がいる。一九七四年の「田中金脈問題」で総理大臣を辞任した田中角栄は、ロッキード事件で逮捕され、その後も「闇将軍」などと言われて、「自民党最大派閥の隠れた長」であり続けた。竹下登は、そのあり方を継承した。竹下登が総理大臣になる前、「国民一人当たり千ドルの外国製品購入」を呼びかけた総理大臣・中曽根康弘も、�不明朗な政治家�だった。二〇〇〇年に総理大臣となった森喜朗もまた、�不明朗な政治家�だった。�その以前�は別として、一九七二年に総理大臣に就任した田中角栄以来、この日本にまともな総理大臣は、何人いたのだろうか? 彼等が日本経済をバブルへと導き、その破綻の以後もまた、政権を掌握し続けるのである。  この「相変わらずさ」に対して、日本人は、ただうんざりするだけだった。もちろん、うんざりする人間以上に、「それでかまわない」と、政治のあり方を肯定する人間達が多いから、日本の政治は「相変わらず」のままなのである。一体、日本に言論というものはあるのだろうか? あったのだろうか? 古い体制は終わり、二十一世紀へと続くはずの新しい流れへ向かって世界は進み始めていたはずなのに、「バブル経済の破綻」という大試練の中にあって、日本は「相変わらず」のままだったのである。  一九九二年、政治を「相変わらず」のままにしていた日本人達は、なにをしていたのか? なんとなく、日本人は元気がなかった——その秋までは。その頃、佐川急便事件でさっさと�有罪�を認めてしまう「古いタイプの政治家」金丸信は、議員を辞職する。しかし別に、日本人は金丸信の退場に喜んだわけではない。日本人が元気を取り戻したのは、一九八〇年に読売巨人軍の監督を解任された「国民的英雄」長嶋茂雄が、巨人軍の監督に復帰することが発表されたからだ。  偉大なる四番打者・長嶋茂雄は、決して有能な監督ではなかった。それは、多くの人が知っていた。しかしその彼は、国民的な歓喜の中で監督に復帰した。日本人は、「相変わらず」がお好きなのであろう。 [#改ページ]       1 9 9 3  一九九三年は、中東和平の年である。  パレスチナ解放機構(PLO)のヤセル・アラファト議長と、イスラエルのイツァーク・ラビン首相が、両者間の戦闘停止に合意する平和条約を結んだ。一九四八年のイスラエル建国から四十五年間続いた戦闘状態に、ようやく一つのピリオドが打たれた。この功績によって、アラファト議長とラビン首相の二人は、翌年のノーベル平和賞を受賞する。もちろん、これでパレスチナ地域に平和が訪れたわけではない。中東和平の主役となった二人がノーベル平和賞を受賞した時、パレスチナではテロの嵐が吹き荒れていた。受賞の翌年、イスラエルのラビン首相は、和平に反対する極右のユダヤ人に暗殺される。しかし、ここで�なにか�が終わったことだけは確かなのである。  「中東和平への貢献によるノーベル平和賞」は、一九九三年が初めてではない。一九七八年には、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相が、やはり「中東和平の実現」によってノーベル平和賞を受賞した。サダト大統領もまた、受賞後にイスラム過激派によって暗殺された。中東和平が一挙に片づくようなものでないことは、このことによっても明らかだが、しかし、一九九三年の中東和平が一九七八年のものより進歩していることもまた明らかである。なぜかと言えば、一九七八年の中東和平が「エジプトとイスラエル」だったのに対して、一九九三年のそれは、問題の根本にある「パレスチナ人組織とイスラエル政府の和解」だからである。  中東戦争の歴史は、一九四八年のイスラエル建国から始まる。その前年の十一月、当時はイギリスの委任統治領であったパレスチナを分割して、半分以上をユダヤ人国家、残りをアラブ人国家にするという「パレスチナ分割案」が国連で可決された。一九四八年の五月になって、イスラエルの建国が宣言され、それと同時に、建国されたイスラエルの地域に住んでいたアラブ系のパレスチナ人(二百万と言われる)が、土地を追われた。だからこそ、パレスチナ人の側に立つアラブとイスラエルとの間で、第一次中東戦争は勃発する。  つまり、イスラエルという国が存在する中東地域に平和が訪れるということは、「その地域に住んでいたパレスチナ人をどのように位置づけるか」ということなのだ。だからこそ、パレスチナ人の組織であるPLOとイスラエルの首相がある種の合意を持ったということには、とても大きな意味があるのである。  中東和平ということになると、「民族対立」とか「宗教対立」と言われる。こういうことになると、「日本人には分からないもの」になる。しかし、それは本当なのか? 「宗教対立だからよく分からない、民族対立だからよく分からない」ということにして、我々は、分かるべき問題を難しく棚上げしてしまっているのではないか?——そんな考え方だってあってもいいのだと思う。  中東地域において、「民族対立」と「宗教対立」は、ほぼ同じものである。イスラエルは、ユダヤ教の国でありユダヤ人の国であり、その国を、アラブ人の国でありイスラム教徒の国である複数の国が取り巻いている。「イスラエル=ユダヤ教=ユダヤ人」と「アラブ諸国=イスラム教=アラブ人」の対立、これが和平を必要とする中東の構図である。もちろんこれは間違ってはいない。しかし、一九九三年の中東和平は、「イスラエルという国」と「まだ国家にはなっていないパレスチナ人の組織」との間の和解である。あえて言ってしまえば、これは、一九九〇年代の東欧でポピュラーになる、「民族の独立問題」に近い。  大きな勢力が小さな勢力を弾圧あるいは吸収する。その小さな勢力は、大きな勢力からの自由と独立を求めるようになる——一九九〇年代に東欧で起こる「民族の独立問題」は、これである。「アラブの地域の中でのイスラエル」だと、その兵力の質は別として、大きな勢力は「アラブ=イスラム」であり、小さな勢力は「ユダヤ=イスラエル」である。しかし、「イスラエルという国家と、その占領地域に居住する不安定なパレスチナ人組織」になってしまったら、大きな勢力は「国家=イスラエル」であり、小さな勢力は「国家になれない組織=PLO=アラブ」である。この二つは、「逐ったイスラエルvs逐われたパレスチナ居住民」という形で対立する。つまりは、一九九〇年代の東欧における「民族問題」と同質のものではないのか?  中東問題の�発端�は、とんでもなく古い。しかし、とりあえずは一九四五年である。第二次世界大戦の最終段階で、ドイツ地域に進軍した連合軍は、とんでもないものを発見した。ナチス・ドイツが作った、ユダヤ人の強制収容所である。ナチス・ドイツがユダヤ人を大量に虐殺していたという事実が明るみに出て、そして、ここからある動きが一挙に加速する。それはつまり、自分達の国家建設を目指すユダヤ人のシオニズム運動である。  ヨーロッパに住むユダヤ人は、自分達の国家を持っていなかった。持ちたいと思うようになった。それも当然、ヨーロッパ地域に住むユダヤ人は、長い間差別と排除の対象だった。欧米を信仰圏とするキリスト教の盟主、ローマ法王のヨハネ・パウロ二世は、二〇〇〇年になって、それまでの歴史の中でキリスト教徒が犯した「罪」を公式に謝罪した。その中には、十字軍によるアラブへの侵略と、ヨーロッパ地域におけるユダヤ人差別もあった。ユダヤ人への差別は、歴然とあったのである。それは、ナチス・ドイツに始まるものではない。差別に苦しむユダヤ人が、自分達だけの国を持ちたいと思うのは当然のことで、そのシオニズム運動は、十九世紀の終わり[#「十九世紀の終わり」に傍点]から勢いを持ち始める。つまり、その頃に[#「その頃に」に傍点]「ユダヤ人差別」は強かったのである。  シオニズム運動は、ユダヤ人問題に理解があると思われたイギリスに働きかけた。パレスチナは、聖書の中で「ユダヤ人の土地」で、一九四五年当時、それは「イギリスの委任統治領」だった。だからこそ、「ユダヤ人問題」の舞台はパレスチナに移る。しかし問題は、そう簡単にユダヤ人問題の舞台をパレスチナに移してしまったことにあるのではないか?  イギリスがパレスチナを「委任統治領」にしていたのは、十九世紀ヨーロッパの帝国主義が、アラブ人の住む中東地域を支配下に置いていたからである。そして、その頃[#「その頃」に傍点]のヨーロッパ=キリスト教社会は、ユダヤ人を追い立てていた。つまり、その後のパレスチナに起こった「宗教対立」は、本来ヨーロッパで処理されるべきものではなかったのかということである。  一九四〇年代の欧米キリスト教徒にとって、ユダヤ人とは、「出てってくれりゃ嬉しい」というような存在だった。だからこそ、それを持ち越した中東問題は�難解�なのである。それをしたヨーロッパに、ユダヤへの差別はないのか? アラブへの差別は? 貧しい人達への差別は?——中東和平とは、その問題を二十一世紀に問うようなものなのだと、私は思う。 [#改ページ]       1 9 9 4  一九九四年の日本を一言で言ってしまえば、「一体あれはなんだったんだ?」である。  一九五五年、「保守合同」によって自由民主党は成立した。自民党を与党とし、日本社会党を野党第一党とする、政権交代のない二大政党制[#「政権交代のない二大政党制」に傍点]——それが「五五年体制」と言われるものである。自民党が「永遠の与党」なら、社会党は「永遠の野党」であり、この二つの政党は、永遠に交わらないものと思われてきた。しかし、一九九四年の六月、この二党は突然の「連立」を発表してしまうのである。  連立内閣の首班は、社会党の委員長・村山|富市《とみいち》。「こんなことが起こるのなら、一体今までの日本の政治はなんだったんだ?」と、人があきれるのも無理はない。  この二つの政党は、正反対の政策を掲げていたはずだった。永遠の野党・社会党を評する言葉は、「なんでも反対の社会党」だった。永遠の与党に対して「なんでも反対」の野党がある。この二つが、なんでまた「連立」などということを実現させてしまえるのか。それを尋ねると、一九九二年の終わりから続く日本のありようは、「一体あれはなんだったんだ?」という言葉に凝縮される。  一九九二年の冬——長嶋茂雄の巨人軍監督復帰が発表される以前の日本は、パッとしなかった。話題となるものは、「佐川急便事件」と「バブルがはじけた」だけだった。「こんなはずではないのに」と思いながら、日本人の意気は揚がらなかった。日本男子の心の支えであったプロ野球も、なんとなくパッとしない。「プロ野球人気の落ち目」が囁かれる日本では、いつの間にか「サッカーの時代」が訪れていた。  一九六八年、東京オリンピックの後に開かれたメキシコ・オリンピックで、日本のサッカーチームは銅メダルを取った。既にテレビがあり、オリンピックの宇宙中継もある日本の家庭で、これを見た人間は多かった。「すげェ、カッコいい」と思う少年達の間で、サッカーは人気スポーツになった。それから二十五年、サッカーが好きで野球の話をしない男の子達が、大人になっていたのである。  一九九三年の五月に開幕するJリーグは、日本経済を低迷から立ち直らせるものとなるはずだった。パッとしない一九九二年のプロ野球日本シリーズが終わって後の話題は、Jリーグだった。テレビのコマーシャルには、やたらとサッカー選手が登場するようになった。長嶋茂雄の巨人軍監督復帰は、そのプロ野球の人気挽回策でもあった。Jリーグのスタートと長嶋茂雄の復活——日本はお祭り騒ぎとなり、そこに、人気絶頂だった女優宮沢りえと、当時はまだ関脇貴花田だった後の横綱貴乃花の婚約が発表された。  日本の皇太子は三十歳を過ぎて、まだ皇太子妃が見つからない。そこへ、宮沢りえと貴花田の婚約である。日本中は大騒ぎになった。貴花田と宮沢りえと、そして発足以前からスターになっていたサッカーの三浦知良とが、「パーティー中の部屋の窓から外に手を振る」という写真が、スポーツ新聞の一面を大きく飾りもした。まるで、日本に新しい貴族階級が出現したかのごとくだったが、その雲行きが怪しくなって終わるのが一九九二年である。  一九九三年の日本は、「皇太子妃決定」のニュースで始まる。貴花田は大関に昇進して、貴乃花になり、突然宮沢りえとの婚約を解消する。「あれはなんだったんだ?」と、日本中が首をかしげる。二月になれば、不景気を打開するために、公定歩合がバブル期と同じ二・五%まで引き下げられる。九月には、それが更に下がって、バブル期の「超低金利時代」という言葉を嘲笑うがごとき、一%台にまで落ちる。そして、一向に景気は上向かない。かつての超低金利時代にあった「好景気」とは、一体なんだったんだろう?  佐川急便事件の不透明は一九九三年になっても、もちろん続いていた。三月には、自民党副総裁を辞め、議員さえも辞職していた金丸信が逮捕され、「誰」とは言われぬまま、「それ以上の大物逮捕があるのではないか?」と囁かれていた。ところがしかし、佐川急便はとんでもない方向へ進む。降って湧いたかのような「政治改革論争」が、自民党内に起こるからである。  リクルート事件から延々と続く「政治不信」を解消するために、「政治改革が必要だ」と言われた。そんなことは当たり前で、時の内閣総理大臣・宮沢喜一も、当然のように「政治改革をするんです」と強調した。ところが「へんてこりん」と言うのは、「する」と強調した宮沢内閣には不信任案が提出され、これが可決されてしまうことである。「しない」ではなく、「する」と言った総理大臣の首が飛んだ。中でなに[#「なに」に傍点]があったのかは知らないが、自民党の内部で分裂騒ぎが起こり、佐川急便事件はどこかへ行ってしまうのである。そして、なにが起こっても分裂だけはしないはずの自民党は分裂。総選挙では過半数を割って、自民党は与党の座からすべり落ちる。  自民党から派生した新生党と新党さきがけと、新たに登場した日本新党、それに「歴史的な大敗」を喫した社会党、さらに公明党、民社党、社民連の既存政党と、民主改革連合なる一会派とによって、連立政権が誕生した。首班の総理大臣は、かつて自民党に籍を置いていた日本新党の党首・細川|護熙《もりひろ》である。そして、ここから「新しい日本の政治」は始まらない[#「始まらない」に傍点]。始まるものは、めまぐるしく変わって覚えきれないほどの、自民党以外の政党の離合集散と改編なのである。  国民の期待を集めたはずの細川護熙は、一九九四年に経済スキャンダルが明るみに出て、あっさりと総理大臣の職を投げ出し、議員まで辞めてしまった。連立与党は分裂状態となり、細川内閣の後には、少数与党となってしまった連立側が、羽田|孜《つとむ》を首班として立てた。やがて、社会党がその連立を離脱。六月における、自民党との連立政権へ至る。  結局それはなんだったのか? 「五五年体制」と言われたものは、喧嘩ばかりし続けた仲の悪い夫婦のようなものだった。争いながら、この夫婦は「二大政党制」という夫婦関係を演じていた。その愚かしい蜜月を「五五年体制」と言うのである。仲の悪い両親の家庭に育った子供達は、暴君である父親=自民党に愛想をつかした。理屈の多い悪妻=社会党も、子供達と一緒に家を出た。しかし、ろくな家庭に育たなかった子供達は未熟だった。世間知らずのまま年老いた妻は、時代と子供達の新しさについて行けなかった。「五五年体制」の老夫婦は、偕老同穴《かいろうどうけつ》のような元のサヤに収まり、そしてやっぱり、妻はわがままな夫から離れて行った。妻も子供もボロボロになり、しかし、家長の座にしがみついた老父=自民党だけが変わらなかった。  自民党が野党であったのは、たった一年。その後も自民党は、二十世紀の続く間、与党であり続けた。「あれは一体なんだったんだ?」とは、そこまでを含めての日本である。 [#改ページ]       1 9 9 5  一九九五年の日本を語るものは、阪神淡路大震災とオウム真理教事件である。一月十七日、淡路島を震源とする大地震が起こり、その被害は瀬戸内の対岸である神戸周辺にまで及んだ。建物の倒壊と火災とによって、�瞬時�とも言える間に五千人が死者となり、避難所には三十万人以上の被災者が溢れた。大都市・神戸を直撃してしまった阪神淡路大震災の傷痕は、そう簡単には癒えない。仮設住宅の建設もままならず、多くの人達が不便な避難生活を続けている三月の二十日になって、今度は東京でとんでもない事件が起こる。  朝のラッシュ時の地下鉄日比谷線構内で、猛毒のサリンガスが撒かれ、数千人の被害者と複数の死者が出る。人為によらなければ自然界に存在するはずもない毒ガスが、なぜ地下鉄の構内や車内で発生しなければならないのか? そんなものを発生させる必要のある人間がどこかにいるのか? その不安で東京にはパニックが起こり、「サリン」の文字が、前年六月に長野県松本市で発生した「謎の有毒ガスによる死亡事故」を思い出させる。  発生時の一九九四年六月には、有毒ガスの正体が分からなかった。発生から一週間たった七月、「謎の有毒ガス」はサリンと断定された。事件の発生した現場では、「宇宙服のようなものを着た謎の人物を見た」という不可解な目撃証言も現れる。あまりにも突飛で意味不明な一九九四年の事件は、「不可解」のまま人の記憶から遠のき、阪神淡路大震災が発生する前の一九九五年一月一日、読売新聞が「松本サリン事件とオウム真理教の関連」をスクープした時も、それほど大きな話題にはならなかった。根本にある、「なぜそんなことをしなければならないのか?」という理由が解明されていない以上、すべては意味不明で終わるしかないのである。  そして三月。地下鉄サリン事件で、人は改めて「なぜ?」と思う。それに答えるように、地下鉄サリン事件の翌日、警視庁は各地に散在するオウム真理教の施設二十五カ所へ、強制捜査のメスを入れた。山梨県の上九一色《かみくいしき》村にある「サティアン」と呼ばれる教団施設へ向かう夥しい数の機動隊員の先頭には、籠に入れられたカナリアがいた。捜査容疑は「ある人物の拉致監禁」であるにもかかわらず、そこにはサリン事件との関連を濃厚に示して、毒ガスに反応する検体としてのカナリアがいた。果たして、捜査された「サティアン」なる建物群の内に、化学工場のような巨大施設が存在することが判明する。武器製造を思わせる工場が各地に存在することも。地下鉄サリン事件は、警視庁の捜査が近いことを察知した教団側が、捜査を攪乱するためにやったのだということも、やがては明らかにされる。  オウム真理教は、それ以前にも数々の�騒ぎ�を起こしていた。ヒステリックに、しかも冷静に叫び立てる信者の顔は、人に不快感を感じさせたが、それと「サリンによる大量殺人」は結びつかない。オウム真理教の惹き起こす�騒ぎ�を、「ワイドショーや週刊誌が騒ぎ立てるだけの、よくある新興宗教の騒動」とばかり思い込んでいた人達には、「なぜそんなことをするのか?」という疑問ばかりが残される。そして、オウム真理教なる奇怪なものの実態が明らかにされて行く。  一九八〇年代には、宗教ビジネスとしての順調な発展を遂げ、それがバブル経済の終焉と共に壁にぶつかり、自身の手で「破滅への道」をひそかに選択していたということ。サリン製造や武器の密造は、「世界は滅んでも自分達は生き残る——そのことを実証するために、強引にでも世界を滅ぼす」という、無茶苦茶な構想の中から登場して来たものだということが、人にようやく理解される。  がしかし、その構図が分かっても、「なぜそんなバカげたことを?」の根本は分からない。分からないのをいいことにして、オウム真理教側は強引なる自説を述べ立てる。強制捜査から二カ月がたとうとする五月になって、潜伏を続けていた教祖の麻原彰晃こと松本智津夫がやっと逮捕される——それまでの間、日本中は「オウム一色」の騒ぎだった。  オウム真理教の関連した犯罪容疑は、大量殺人を目的としたサリンの製造と散布に始まり、拉致監禁、殺人、麻薬や銃の密造以下、数えきれないものである。強引に信者を勧誘し、脱退を望めば拉致監禁——それを告発する人々に対しては、脅迫からテロまでちらつかせ、一部では確実に実行された。しかも、その犯罪行為に従事する多数の信者は、向けられたテレビカメラに対して、敵意剥き出しの表情で沈黙を守る。マスコミの取材に応じる教団側の代表的人物は、その容疑をことごとく否認し、「それらはでっち上げであり、オウム真理教を潰そうとする陰謀だ」と、さらに意味不明のことを整然と述べ立てる。あまりにも強硬でわけの分からない相手の出現に驚いたテレビ局は、特別番組を連日放送するが、その番組に出演する教団関係者達は、一種の倒錯した�ヒーロー�のようにもなる。  教祖の逮捕によって事件が収束へ向かう以前、日本人は、かつて存在しなかった公然たる愚者の群れを、目の辺りにするのである。「なぜそんな意味不明のことをする?」という謎は、「なぜこんな奇怪で愚かな集団が日本に生まれたか?」という問いに変わった。  オウム真理教の事件は、日本における「思想の死」を語るものであり、一九六〇年代初めの「所得倍増計画」からスタートしてバブル経済の破綻に至るまでの間、経済優先の高度成長の日本に「なに」が進行していたかを語るものだろう。  一九六〇年代末の「大学闘争」を経過して、大学は平静になった。豊かさへ向かう「日本株式会社」の一員となるためのパスポート発行所となった大学に、もう�思想�はなかった。それまでの日本の大学にあった�思想�は、社会主義への幻滅が広がると共に力を失ってしまうものだということが、ひそやかに暴露された。大学生は「バカ」と言われるようなものとなり、そこで「生きる」ということを考えようとする者に残されていたのは、新興宗教だけだった。「生きる」ということを考えること自体が、「新興宗教的」と言われるような事態がやって来る。  一九七〇年代はまた、子供の家庭内暴力から、不登校、いじめという教育の不毛状況を生み出す時代である。問題は一向に解決されぬまま、一九八〇年代の大学生の前には、新興宗教が口を開けて待っていた。事件が発生した時、「オウム信者の大半は三十代の人間で、高学歴を誇る優秀な人間達だ」と言われた。それはつまり、一九八〇年代に大学生であった人間達の不幸を語るものでもある。  彼等は、時代の被害者でもあった。そして、被害者であることを前提にして、彼等は不穏な加害者となった。そうであることを自覚出来ないまま、破綻は訪れた。オウム真理教の事件は、実のところ、不幸な時代に生きた若者達の「悲劇の序章」でしかなかったのである。 [#改ページ]       1 9 9 6  この年の一月、自民党と連立していた社会党の委員長・村山富市は、総理大臣の辞任を表明。自民党の橋本龍太郎が新たなる総理大臣となって、再び「自民党の時」が訪れた。  前総理の村山富市は、ある時期までそんなに評判が悪くなかった。つまりは、「いいおじいさん」だと思われていた。「いいおじいさん」が歓迎されていたのは、日本人が政治になにものをも期待しなくなっていたからである。  政治が�なにか�を始めると、ろくなことにはならない。だったらなにもしないまま「いいおじいさん」でいてくれた方がいい——そう思っていたればこその好評価である。  しかし、一九九五年の日本は、ただの「いいおじいさん」をトップに据えておいていいようなものではなくなっていた。阪神淡路大震災からオウム真理教事件というとんでもない時期の日本で、村山内閣は「なんにもしない内閣」となり、「なんにも出来ない内閣」になった。だからこそ、自民党の橋本内閣は、「なにかをしよう」という意欲に燃えて出発をするのだが、しかし、日本の政治がなにかをし始めても、もうろくなことにはならない。日本の政治担当者の状況認識が、根本のところで間違っているからである。  日本の政治が救済するものは、政界・財界・官界と言われるものと、その周辺にたむろする人達だけで、「それをすれば、結果的に[#「結果的に」に傍点]日本中が救われるようになる」と思われていた時代は、とうの昔に終わっていた。それを、復活した自民党の政権は理解しなかった。バブル経済が破綻した後の日本で、かつての方策はなんの意味も持たない——そこに「今まで通り」を望む人達が�なにか�をしようとしても、自縄自縛に陥るだけである。それが、一九九六年以降の日本なのだ。  就任早々、橋本内閣の新厚生大臣・菅直人は、その以前から問題になっていた薬害エイズの問題に取り組んだ。一九八〇年代の初め、それ以前に血友病の治療薬としてアメリカから輸入されていた血液製剤の中に、エイズ・ウィルスが忍び込んでいることが明らかになった。エイズ・ウィルスを排除するためには、材料となる血液に加熱処理が必要となり、その処置が施されていない非加熱血液製剤を使えば、エイズ・ウィルスに感染する危険が生まれるのである。しかし、日本の厚生省と製薬会社は、その事実を知りながら、日本の血友病患者に非加熱血液製剤を与え続けて来た。その結果、日本の血友病患者の千八百人がエイズ・ウィルスに感染し、四百人が死んだ。患者側が国と製薬会社を訴える薬害エイズ訴訟は一九八九年に始まり、被告側の国と製薬会社は、これを一貫して否認し続けた。「被告側は、非加熱血液製剤にエイズ・ウィルス感染の危険性があることを承知していたかどうか」が争われ、厚生省はそれに関連する資料を「見つからない」として提出しなかった。それが、新厚生大臣の下で次々と見つかった[#「見つかった」に傍点]のである。つまり厚生省は、自分達の不利になる証拠を隠蔽していたというわけである。  それまでの厚生大臣は、「資料を隠蔽するな」とは言わなかった。だから、国=厚生省は事実を隠蔽したまま、いたずらに裁判を長引かせた。新厚生大臣は、それを「隠蔽するな」と言ったのである。特別のことではない。行政の長として、いたって当たり前のことをしただけである。しかし、それをした菅直人は�英雄�になった。いかにそれまでの日本政治が、国民のためになることをして来なかったかを証明するような出来事である。  証拠書類発見の結果、国と製薬会社は加害責任を認め、薬害エイズ裁判はこの年の三月に�和解�へと至る。八月には、血友病治療の�第一人者�として君臨していた医学ボス・安部英《あべたけし》が逮捕され、九月には製薬会社ミドリ十字の歴代社長三人も逮捕された。  日本の政治が国民のために必要な�なにか�をするのであれば、まず第一に必要なことは、過去の過ちを認めることである——新しい厚生大臣・菅直人が示したのは、このことだった。果たして、日本の政治担当者、そして政治と連動した財界・官界の人間達にこのことが出来るのか? 一九九六年以降の日本では、このことが突きつけられる。  四月、五月には、住宅金融専門会社(住専)から不明瞭な融資を受けていた会社の社長が逮捕される。六月には住専の最大手へ捜査のメスが入り、住専七社が解散させられた。住専に回収不能な不良債権が六兆円以上あると大蔵省が発表したのは、前年の九月である。「これを放置すれば、住専に出資していた農協をはじめとする大口の融資者に損害が出る——結果、国民に多大な影響を与えることになるから、税金でこの損失を補填《ほてん》する」というとんでもない論理が登場して、住専とそこから不明瞭な融資を受けていた会社は消された。この処置がどこかへんだと言うのは、根底に「金を貸しそこねた金貸しに金を貸していた人間を救うのに税金を使う」という、へんな論理があるからである。  バブルの時代、へんな風に踊った人間はいくらでもいたが、切り捨てられるのはその末端だけで、踊り踊らされた根本の歪みは免罪のままである。そのいい加減さを「いい加減」とはしないのが日本政治なのだから、その後に不祥事が続々と露見しても不思議ではない。  十月には、関西の石油卸商・泉井《いずい》某が、政界・官界の人間に対して不明朗な接待を行い、そこにへんてこりんな金が動いていたことが明らかになる。菅直人が厚生大臣を去った後の十一月には、埼玉県の特別養護老人ホームから多額の利益供与を受けていた厚生省の事務次官・岡光某が逮捕される。逮捕された彼は、厚生省から免職されたのではなく、厚生省を辞任[#「辞任」に傍点]したのである。「逮捕されなければ黙認する。逮捕されても、役所は積極的な排除へ動かない」という、日本官僚社会の体質が明らかにされて、その後は一気呵成と言いたいくらいの不祥事続出である。  一九九七年の三月には、野村証券が総会屋の親族企業に対して特別の利益供与を計っていたことが発覚し、社長が辞任する。しかしこれは、氷山の一角だった。五月には、小池某という総会屋が逮捕され、辞任した野村証券社長も逮捕される。事件は、第一勧業銀行へ及び、そこから大蔵官僚への過剰接待が顕《あら》われ、山一証券に飛び火して、日興証券、大和証券に及ぶ大金融スキャンダルになる。商法が改正されて、総会屋なるものへの利益供与が禁じられたのは、一九八〇年代の初めである。にもかかわらず、この改正された商法は、十年以上もの間、あまり大きな意味を持たなかった。「商法違反容疑」が大きな文字でメディアの上に躍るのは、一九九七年になってからなのである。その間、日本の支配者達は「不明朗な事態」を放置し続けて来た。一九九六年の十一月、橋本総理大臣は「金融ビッグバン」というわけの分からないことを言い出したが、だからなんなんだということになったら、それは誰にも分からないことだろう。 [#改ページ]       1 9 9 7  一九九七年七月一日、一八四二年の阿片戦争以来イギリスのものとなっていた香港が、中国に返還された。香港返還は祝福されることでもあろうが、これはまた、社会主義の中国にとっては、資本主義という毒を呑み込むことでもある。そんな変化があって、しかし、その香港返還とはおそらく無関係に、翌八月にはタイの通貨バーツが暴落する。  十月になれば、香港の株式市場にも大暴落が起こり、それはニューヨークの株式市場にも飛び火する。日本で山一証券が自主廃業を決定する十一月になれば、韓国の通貨ウォンの大暴落である。「香港を手に入れれば、世界経済で優位な位置を獲得出来るだろう」と、おそらくは思っていたであろう中国の思惑に反して、それまで高成長を続けて来たアジアの経済に、�なにか�が起こった。それはアジアだけではない。世界経済そのものがなんだかへんになっている——と思っていたところへ、「ヘッジファンド」という言葉が聞こえて来た。  世界中の超大口投資家の有する余った金が、「ヘッジファンド」という形で結集し、ノーベル賞級の経済学者の頭脳と、NASAで複雑なコンピューターを操っていた人間の駆使する高度な計算の下で、世界経済を動かしているというのである。小国の国家予算の規模を簡単に越える額の金が、「あっちの通貨を売り、こっちの通貨を買い、さらにまた別の国の通貨を買う」という形でグルグルと回っている。もちろんその金は、株式市場というところへも行く。一九九七年秋のアジアの通貨危機や経済変動は、その結果だというのである。「ヘッジファンド」の金が動けば、それだけで世界経済は揺らぐ——既にそういうことになっているのだという。それを聞いて、私は「なーんだ」と思った。  一九八〇年代になると、「国際通貨市場」などという、聞き慣れない言葉が当たり前に登場する。「�よその国の通貨を買ってああしてこうして�というようなことになんの意味があるのだろう? 市場があって売買があるというのなら、誰かが売ったり買ったりしているはずだが、それは為替業者と違うものなんだろうか?」などと、私なんかは思っていたのだが、「ヘッジファンド」という言葉を聞いた途端、その疑問も氷解してしまった。「なーんだ」の後に続く私の感想は、「世の中には可哀想な人もいるもんだな」である。  資産家というのは、自分の持っている財産を減らさないようにして生きている人達である。基本となる自分の財産は減らさず、そこから贅沢な生活を続けるための経費を稼ぎ出すために、自分の持っている資金を他人に貸付ける——つまりは投資である。働く必要はなく、人生はただ遊びのためだけにあり、自分の財産を減らさないように、資金をあちこちさせる——そのために、世界中の出来事に神経を尖らせている。仕事好きの私は、「そんなに悲しい人生もあるのか」とは思うのだが、そういう人達もいるのである。  世界には資金の需要があって、そこに貸した金は必ず大きな利潤を得て戻って来る——それが帝国主義の十九世紀から二十世紀まで続いた世界経済である。そうして、世界は豊かになった。資産家達の資産を目減りさせず、ついでに、その他の「働く人間達」の生活も豊かにさせて、そしてしかし、二十世紀の最後になって、もう投資の先はなくなってしまった。だからこそ、あまりにも巨額な資金が、「損だけはしないように」という計算式に基づいて、世界中をうろつき回り、経済そのものを混乱させるのである。それが、一九九〇年代に歴然としてしまった経済の形なら、もう我々には、「経済」というものを考える必要がないのだ。そこで考えられるべきことはただ一つ。「まじめに働いている人間の生活を脅かす経済不安を作り出すような、ヘッジファンドを取り締まれ」だけである。  二十世紀最末葉の世界には、まだ当然「資金を必要とする人達」はいる。貧困がなくなったわけでもない。貧富の差は、地球の両端で大きく開いている。しかし、「ヘッジファンド」なるものの多額の資金は、困っている人達に役立てるためのものではない。あくまでも、「その資金を減らさず、資金の持ち主達に利潤を与えるためのもの」である。  二十世紀最末葉の地球上には、「金貸し」と「金を借りる必要のない人」と「金がなくて困っている人」の三種類がいて、しかも「金がなくて困っている人達」は、金を借りたくても返すあてがないから、借りることが出来ない。そうなったらどうなるのか? つまりは、金貸しの失業である。一九九〇年代の日本に頻発する金融機関の倒産は、「多額の不良債権」という理由の他に、「金貸し経済の行き詰まり」という事態をもあらわすものである。  金を借りる能力のある人間達は、もうその限度を越えるほどの金を借りてしまった——「未来」を担保にして、借りられる限度額を越えてしまったら、そこにあるのは、貸した側にとっての「不良債権」、借りた側にとっての「苦痛」だけである。そのような形で、十九世紀帝国主義由来の世界経済を引っ張って来た最後の旗手、日本経済は破綻してしまった。借りる能力のある人間は、もうそんなにいない。しかし貸す側には、莫大な資金がある。その資金はどこから来たのか? それは、十九世紀帝国主義から続く、二十世紀資本主義の�遺産�なのである。  資産家に資金を遺した「世界経済」という親は、まだ生きている。だから、その遺産は、�生前贈与�という形で与えられたものだろう。だがしかし、そうして遺された巨額の資金は、もう「投資」という手段によって膨れ上がる機会を持てないのである。それを直視しまいとして、目減りを禁じられ封印されたままの巨額な金が、世界中をうろつき回る——十八世紀産業革命に由来する、帝国主義の西側世界に繁栄をもたらした「二十世紀経済」はそのようにして、終息へ向かうのである。であるならば、我々は、「それとは別の進む道」を考え出さなければならない。それをしないと困ったことになるというのは、実のところ、ずーっと前から明らかだった。  一九九七年七月一日の日本人は、「香港返還」よりもずっと大きな問題を抱えることになる。  二年前大震災に襲われた神戸——その被害を免れた須磨区の中学校の正門前に、殺害された男の子の首が放置されていたのが五月の終わり。六月の初めには、「酒鬼薔薇聖斗《さかきばらせいと》」を名乗る犯人からの挑戦的なメッセージも出現した。日本にも遂に「快楽殺人犯」などというおぞましいものが登場してしまったのかという、不気味さである。「バブルの時代、現実を逃避してサブカルチャー漬けになっていた若い男が多かったから、こんなとんでもないことになった」という憶測が主流だった中で、犯人が逮捕されたのは、香港返還の三日前だった。  そして、日本には改めて衝撃が走る。その犯人が、まだ十四歳の中学三年生の少年だったからである。 [#改ページ]       1 9 9 8  一九九八年は、「これぞ」という特徴のない年である。世界が平穏だったというわけではない。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のミサイル=テポドンが日本の上空を飛んだ。インドとパキスタンが競うように核実験をやった。アメリカのクリントン大統領が、ホワイトハウスの中で女性にへんなことをしていた事実をへんな風に釈明した。インドネシアに政変が起こった。冬には長野で冬季オリンピックがあり、夏にはフランスでサッカーのワールドカップがあった。そんな中での日本の話題は、私の独断に任せてもらえば、大蔵省の官僚がノーパンしゃぶしゃぶで過剰接待を受けていたのが明らかになったことと、和歌山県の町で、夏祭に用意されたカレーに毒物が混入されて死亡者が出る事件のあったことである。だからと言って一九九八年の日本を、「日本人が食べ物を粗末にするようになっていた年」と言っても仕方がないが。  日本の一九九八年は、掘り出せば重要なことが発見出来る年だが、そのままにすれば、「いろんなことがあった」で終わってしまう、雑然たる年である。  その一九九八年、不良債権の処理に苦しむ銀行への公的資金投入——すなわち税金による穴埋めが決定した。大蔵省が銀行全体の不良債権額を七十六兆七千億円と発表したのが一九九八年の一月。その二週間後、大蔵省金融検査部の検査官が過剰接待を受けていたことが判明した。もはや「潰《つぶ》した方がいい」であるかもしれない銀行の側が、お目付役の大蔵省に鼻薬を嗅がせていたのである。この事件は拡大した。四月になって、大蔵省は百十二人の処分者を発表、「官僚の頂点に立つ」と言われた事務次官も更迭《こうてつ》されていた。「ノーパンしゃぶしゃぶによる過剰接待」は、この流れの中に登場する。  「とんでもない額の不良債権が存在していた時、銀行と大蔵省はなにをやっていたのか?」——国民の非難は大きくなり、しかし、銀行救済のための税金投入は実施された。  一九九〇年代の日本は、二つに割れていた。政・財・官と言われる日本の�上層部�は、破綻したバブル経済の取り繕いに必死になる。一九八七年の十月、ニューヨークの株式市場で「ブラックマンデー」と呼ばれる株の大暴落があった。これは日本にもすぐに波及したが、バブル経済の日本には、これを撥ねつけるだけの力があった。それが「好ましい力」であったのか、「好ましからざる力」であったのかは、絶頂だった株価がじりじりと値を下げて行く一九九〇年になって明らかになる。一九八七年のその時、日本の証券会社は大口の投資家に対して、株価の値下がりによる損失を補填していたのである。  値上がりもすれば値下がりもする——その株を取引する人間達が損をするのは当たり前のことだが、日本の証券会社は、その自然の法則を否定した。株というものは値上がりを続けるものであり、そこに参加する大口の投資家を逃がしてはならないと思う証券会社は、あって当然の損失を補填したのである。この態度は、「日本の景気が悪くなるということはありえない」という信仰に基づいている。それが�信仰�だからこそ、日本社会の�上層部�は、「バブルがはじけた」という事実を認めない。それを認めることは、自分達が今までやって来たことの否定となり、新たなる方向転換を考えることだからである。が、日本の�上層部�には、それを考える頭がない。だからこそ一九九〇年代の日本政治は、既存勢力の安定だけを願って進み、�不祥事�は連続する。かつてあったものがほじくり出され、新たなる不祥事の辻褄合わせとして、さらなる不祥事が生み出される。「不景気」とは、その政・財・官の�上層部�と国民の間とをつなぐ、唯一の接点である。  その一方、バブル経済へと向かう一九七〇年代から一九八〇年代の日本では、由々しいことが起こっていた。それは、人間社会を成り立たせる人間関係が、すべて金によって処理されてしまうという風潮である。人間関係というものは、「成り立たせる努力」によって初めて成り立つ。それは、時間のかかる面倒な努力である。しかし、経済効率を第一にしてしまった日本は、その「面倒な努力」のすべてを、「金に置き換える」ということでやりすごしてしまった。「それはへんだ」という直感は、まだ社会に入る前の子供達から起こる。だから、一九七〇年代から一九八〇年代には、家庭内暴力に端を発する「子供達の問題」がクローズアップされて来る。しかし、この問題さえも、「金による解決」に任された。「子供の間は面倒なことをグズグズと言っているが、社会人になったらそんなことはどうでもよくなる」という式の解決である。「社会人になる」ということは「豊かな日本人になる」ということで、だからこそ、その「豊かさ」が崩れてしまったらどうなるのか? 金に置き換えられていた人間関係の未熟さが一挙に噴き出るだけである。  オウム真理教事件のあった一九九五年の翌一九九六年、TBSはワイドショーの制作放映を中止した。ワイドショーのスタッフが、オウム真理教に屈して放映内容を改変していた事実が明らかにされたからである。テレビからワイドショーが一つ減った。しかし、その辺りからワイドショーは忙しくなって行った。家庭内の不和や男女間のもつれによる�小さな殺人事件�が連発するようになるからである。  「この事件が一つあればワイドショーは一週間もつ」と思われるような事件が、一日に二つも三つも起こる。つまりは、バブル経済の破綻による、人間関係の破綻である。一九九七年の「酒鬼薔薇聖斗」事件は、そうした流れの中で起こる。  十四歳の少年が快楽殺人に走ったことによる衝撃は日本中に生まれるが、しかし、おかしくなっていたのは少年だけでない。日本中が、バブルに向かう中でおかしくなっていた。そして、方向転換ということが出来なくなっていた。だから、バブルがはじける一九九〇年代になって、その不自然さが一挙に露呈する。オウム真理教の事件は、その一方の典型であり、もう一方の典型となるものが、一九九八年の和歌山県に起こった、毒物カレーの事件である。  「カレーに毒物を混入した」とされる事件から浮かび上がって来たのは、保険金詐欺を常習とする和歌山県在住の夫婦の存在である。アカの他人を生命保険に加入させ、その生命を奪う——このことが愚劣にして卑怯残忍であるということが理解されなくなった。だから、この年の和歌山県の夫婦を頂点として、各地で「保険金殺人」が現れる。  その退廃を非難出来る日本人がどれだけいるのか? 愚劣な事件が連発するまでの間、日本人は「東大の法学部を出て大蔵官僚になる」ということを第一位とする競争社会を肯定し続けて来たのである。一九九八年、その成れの果ては、下着をつけない若い女から、嬉々としてしゃぶしゃぶを食べさせてもらっていた。ここに凝縮されるものは、日本人の哀れである。 [#改ページ]       1 9 9 9  結局、ノストラダムスの大予言には反して、「恐怖の大王が降りて来た」とは言いがたい結果に終わった一九九九年の日本は、「ミッチー・サッチー騒動の年」だった。  女剣劇の浅香光代《ミツチー》が、「ワイドショー世界に君臨する女王」のようになっていた有名人——プロ野球監督夫人である野村沙知代《サツチー》を、「あんなにいやなやつはいない」と痛罵して、数々の「問題点」を挙げた。「女王様」を攻撃されて、ワイドショーは束の間うろたえた。しかしワイドショー側の思惑に反して、「そうだ、そうだ」と浅香光代に和する声が、日本中に湧き起こってしまった。ワイドショーは、「反論」を期待して野村沙知代を取り巻き、彼女が沈黙を守る中で、「野村沙知代の疑惑」が暴き立てられた。この騒ぎは、ワイドショーの中で半年以上も続いたが、これがなにに由来するものかと言えば、「コメンテーターの人材を欠くようになってしまったテレビ局が、視聴者に不快感を与えるような人間を平気でチヤホヤしていた」というところにしか行き着かない。  バブル経済は破綻して、しかし日本中の人間は、バブル経済の贅沢に慣れたまま、根本を改めようとはしない——少なくとも、視聴率第一のテレビ局は、「日本人」をそのようなものと想定していた。バブルの時代の贅沢感覚をその後も保ち、不景気の中で不快感に悩まされている日本人に快感を与えるような�毒舌�を放つ人物として、テレビ局に重宝されていたのが野村沙知代で、しかし、そんな彼女に不快感を感じる日本人も多くなっていた。浅香光代は、その声を代弁した。「ミッチー・サッチー騒動」というのは、日本では珍しい、「視聴者がテレビ局のあり方に批判をぶつけた事件」なのである。  反野村沙知代の立場に立った視聴者は、その根底で、「なんであんな女をテレビに出す」と思っていた。それに対してテレビ局は、これを従来のスキャンダルと同種のものと解釈して、「あんな女」と言われてしまう野村沙知代の�疑惑�を解明しようとする。結局それは、解明されずに終わってしまうようなものだが、果たして彼女の�疑惑�は、解明されなければならないような重大なものだったのか?  この問題は、「なんで我々は、彼女のようなパーソナリティーにかくまで寄りかかったのか」と、テレビ局が反省してしまえば、それですむようなことである。彼女をチヤホヤしたテレビ局のあり方を不問に付されて、その代わり、野村沙知代一人がコテンパンに叩かれた。そんな一九九九年には、テレビがもう曲がり角に来ていた。だからこそ二〇〇〇年に向かって、テレビ局員の不祥事も連発するし、「やらせ問題」で打ち切りになるテレビ番組も登場する。  その一九九九年はまた、「民族問題の年」でもある。ユーゴスラビアのコソボ自治州では、セルビア人によるアルバニア系住民の虐殺が行われていると伝えられていて、一九九九年には「NATO空軍による爆撃」という事態になった。  一九九一年、ソ連邦消滅の半年前にクロアチアとスロベニアがユーゴスラビア連邦を脱退して以来、この地には「民族紛争」が続いていた。それはなんなのか? 煎じ詰めれば、過去にこの地にあった大国支配に由来する、歴史のトラウマである。  十八世紀には、オスマン・トルコ帝国とオーストリア帝国が争った。二十世紀の初頭には、ロシア帝国とオーストリア帝国が争って第一次世界大戦へと至り、戦後はファシズムのナチス・ドイツと社会主義のソ連が争い、そこに居住するさまざまな民族は、いっしょくたにされて「東欧社会主義圏のユーゴスラビア」となった。その呪縛が取れて、各民族の独立散在が可能になったのが、一九九〇年代の初めである。つまり、「東欧の民族問題」とは、その長い歴史を克服するための作業だったのである。  一九九九年に起こったもう一つの「民族紛争」は、インドネシアからの東ティモールの独立である。東ティモールがポルトガルから独立したのは、なんと、ヴェトナム戦争が終わった一九七五年である。独立した東ティモールは、既に一九四九年にオランダから独立していたインドネシアによって、吸収されてしまう。それを「いやだ」と思っていた東ティモールに改めて独立運動が起こったのは、腐敗したスハルト政権が倒された翌年のこの年である。西欧帝国主義の力による支配は、第二次世界大戦後、各地の支配者=独裁者に継承された。その呪縛が、やっと一九九九年になって払拭され始めるのである。  二十世紀は、十九世紀以来の帝国主義の影を曳いていた。帝国主義はまた、それ以前の長い人類の歴史から生み出された歪みだった。それを克服するために、「二十世紀一杯」という時間が必要だった——それを教えるのが、東ティモールとユーゴスラビアの「民族問題」でもあろう。その問題が起こる[#「起こる」に傍点]ということは、「長い間の歪みが、やっと解決の方向へ進み始める」ということでもあるのだ。既に「解決済み」と思われていた問題を、改めて「正式なる解決」へ導くには、やはり血が流されなければならないのかもしれない。  二〇〇〇年におけるセルビアの独裁者ミロシェヴィッチの退場によって、どうやらユーゴの民族問題にも一つの終止符が打たれようとしている。世界は、そんな風にして二十世紀を終わらせようとしていたのであるが、一方、日本はどうだったのか? ミッチー・サッチー騒動以後の日本にあるのは、「ミレニアム・カウントダウン」の騒ぎである。  既にアメリカ人は、「二〇〇〇年を二十一世紀最初の年とする」と決めていたらしい。二十世紀の終わりに、アメリカは世界一の経済大国となり、「バブル」という言葉を一部で囁かれながら、「空前の好景気」を謳歌していた。「一九〇〇年を二十世紀最初の年とする!」と宣言したドイツの皇帝がどうなったかは、「一九〇〇年」の回に書いたが、二十一世紀のアメリカが「二十世紀のドイツ帝国」にならないことを願うばかりである。  「二〇〇〇年を迎えるミレニアム・カウントダウン」の騒ぎは、日本にも波及した。不景気の日本では、「経済効果」という言葉が呪文のようにして使われ、「お祭り騒ぎ」に特別の意味が見出だされていた。「ミレニアム記念」を冠した商品がやたらと出回り、関連イヴェントも数多く行われたのだが、その一方で日本人は、「二十一世紀の始まりは二〇〇一年から」と冷静に認識もしていた。「二十一世紀はまだ来ないが、二〇〇〇年のミレニアム・カウントダウンはある」という珍妙な状態に日本人がいたのは、「恐怖の大王は来なかったし、お祭り騒ぎをすれば不景気はどこかに行ってしまう」という信仰があったればこそだろうが、その日本の一九九九年の夏から目立ち始めるのは、二〇〇〇年日本の�主役�ともなる、若者達の�凶行�である。二十世紀日本の最後にも、やはり血の色は訪れるのだ。 [#改ページ]       2 0 0 0  二十世紀最後の年——二〇〇〇年の日本を語るものは、「少年達の犯罪」だろう。  五月、愛知県で十七歳の高校生が、「人を殺す経験をしてみたかった」という理由で、近所の主婦を殺した。するとすぐに、今度は佐賀県に住む十七歳の少年が、バスジャックで人を殺した。岡山県の十七歳の高校生が、金属バットでクラブの後輩を殴り、その後に自分の母親を撲殺して逃亡したのは、翌六月である。一九九七年の神戸で「酒鬼薔薇聖斗」を名乗った少年は、この年十七歳になる。だから、この年十七歳になる一九八三年生まれの少年達がなにか重要な問題を隠し持ってでもいるかのような錯覚が生まれて、「十七歳」は流行語にもなるが、この年凶悪な犯罪事件を惹き起こした少年達のすべてが、十七歳だったというわけではない。八月に大分県で近所の一家六人を殺傷した少年は、十五歳の高校生だった。四月の名古屋には「五千万円」という額のとんでもない恐喝事件が起こるが、これは中学生の少年グループによるものだった。二〇〇〇年には少年法の改定も起こってしまうが、しかし、二〇〇〇年の日本を揺すったのは、未成年者だけではない。  二〇〇〇年の一月末、新潟県の柏崎市では、三十七歳になる男が小学生だった女の子を九年間も監禁し続けていたという、ショッキングな事件が発覚した。事件そのものの衝撃はあるが、そのショッキング性は、�ある流れ�の中で増幅される。少女監禁事件が発覚する直前、ある男の自殺死が報じられていた。前年の十月に埼玉県桶川市の駅前で起こった「ストーカー殺人」の主犯と目される男である。一人の女子大生を狙って�殺害させた�とされる二十七歳の男が、逃亡先の北海道で自殺していたのを発見される。そこへ「少女監禁事件」が発覚して、すぐにまたもう一つのニュースが追いかけて来る。前年の十二月、京都府の小学校の校庭で男子生徒を殺害したまま逃走していた�犯人�である可能性の高い二十一歳の男が、警察に同行を求められる途中で逃げ出し、自殺してしまったというのである。この事件の犯人は、「私を識別する記号はてるくはのる」という意味不明のメッセージを残していた。事件を目撃した子供達は、「小柄なお兄さん」と言っていた。そうしてこの事件は、一九九七年に起きた「酒鬼薔薇聖斗」の事件を、記憶の中から甦らせることになる。「ストーカー殺人」と「少女監禁」と「小学生惨殺」の三つの事件の顛末が一つの時期に重なり、そこに「酒鬼薔薇聖斗」のイメージさえもちらついた。それだけ一九九七年の事件の衝撃が深かったということである。  五月になって「十七歳の少年の凶行」が連続する以前、大阪では二十三歳の男が、「私は神」と称する�声明文�を用意して通り魔殺人をやった。逮捕された男は、自殺した「てるくはのる」の�容疑者�への共感を取り調べで語ったというが、「声明文を残す」は、「酒鬼薔薇聖斗」の明らかなる影響だろう。一九九七年の事件はまだ濃厚なる影を落として、�凶行の五月�へと続く。問題は、「未成年」でもなく、「十七歳」でもなく、「二〇〇〇年」という年でもないということである。  一九九七年に�なにか�が明らかになり、その病巣に徹底したメスが入れられぬままだったからこそ、悪弊は再発したというところだろう。新潟県柏崎市の事件が九年間も放置されたままだったということを考えれば、一九九七年に明らかになった�なにか�の根っこは、その以前——昭和が終わりバブル経済がはじけた時期にまで溯ることが出来る。その時既に、「若い男の上には未来がない」ということが明らかになり、しかもその重大事が誰からも関心を持たれぬままに放置されていたということである。一九九五年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教の変質も、「昭和が終わりバブル経済がはじけた時期」なのだ。二〇〇〇年日本の「未成年の凶行」は、それ以前の総決算と言ってもいいだろう。  日本の教育に歴然たる暗雲が垂れ込めたのは、「いじめ問題」がクローズアップされた一九八〇年代である。しかしそれは、�教育の問題�ではない。日本の社会が子供達に明確なる未来を教えられなくなっていたという、日本の退廃と重ねられてしかるべきものである。既に社会人となっていた男達は、自分達の欲望の対象である�若い女�ばかりをチヤホヤした。その結果、若い男の存在は忘れられた。�豊かな日本�では、なにも考えなくても生きて行けるはずだったのだ。その日本が傾いた時、�傾く現在�の上にいる大人達には、もう子供や若者達へ�未来�が語れなくなっている。だからこそ、「真面目でおとなしい」と言われる少年達は、いともあっさり凶行へと走る。社会が設定した�自分の進路�に従順であって、しかしその進路は、どこへも続いていないからだ。  日本の社会を動かしている人間達は、自分達のなすべきことで手一杯になっていた。そこに�未来�への展望はない。いつの間にかゴールを欠いて、しかし少年達を乗せたベルトコンベアは動き続けていた。動いていればこそ、そのベルトコンベアは�破綻�を示さない。しかし、そのベルトコンベアの先には、なにもないのだ。それが、二十世紀最末年の日本である。  二十世紀がどのようにしてやって来たかを、もう一度考えてみてもいい。輝ける新世紀——二十世紀は、帝国主義の繁栄を謳歌する十九世紀ヨーロッパの妄想から生まれた。現実にやって来た二十世紀は、その妄想の土台である十九世紀帝国主義の衰退しか示さない。その現実を直視しない限り、二十世紀は「傾き行く百年」でしかないのだ。なんと見事にそのことを示す、二〇〇〇年の日本だろう。  二十世紀は、欧米帝国主義に「新たなる繁栄」を予感させた。ヨーロッパ圏以外でそのレースに参加したのは、日本だけだった。ヨーロッパが脱落し、アメリカもソ連も脱落した二十世紀レースに、一九八〇年代の日本は勝者となり、そしてつまずいた。つまずいてもまだ、日本は「二十世紀のあり方」を信じていた。二十一世紀は、その二十世紀の上に続くものだと思っていた。傾いた二十世紀は、その上に載る二十一世紀を、たやすく崩すだろう。それを先取りして、二十一世紀を作るはずの若者達は、二十世紀的原則の中で混乱している。  二〇〇〇年の日本では、現職の総理大臣・小渕恵三《おぶちけいぞう》が死んだ。その後継者・森喜朗は、密室の中で選ばれた。選ぶ側は、それを不思議とも思わなかった。「実力者が話し合いで総理大臣を選ぶ」というのは、日本近代の最初から続く風習[#「風習」に傍点]だったからだ。「二十一世紀になってもそれでいいのか?」ということは、そうして選び出された新総理大臣の暗愚が歴然と示す。自分の�愛弟子�小渕恵三を総理大臣にしていた�陰の支配者�竹下登も、愛弟子の死と共に世を去った。それは、とんでもなく卑小化してしまった二十世紀的原則の終焉を暗示するものだろう。それは、終わった方がよいものなのだ。  かくして、二十世紀は終わる。 [#改ページ]  あとがき[#「あとがき」はゴシック体]  この本は、私がこれまでに書いた本の中で、最も個人的な本です。どう個人的かと言えば、子供の頃の私が、「自分の生きている社会はどっかがへんだ」と思っていて、「どんないきさつで�こんな時代�になったのだろう」ということを、最も強く知りたがっていたからです。「一九五七年」の回で、「子供は小さな金色の夢を見て、しかし大人は、どうやらそうじゃなかった」と書いているのは、そのまま本当のことです。私の二十世紀論はそこからしかスタートせず、そこに戻って行くだけのものです。もし自分の一生で本が一冊だけ書けるのなら、そのことを書きたいとだけ思っていた——ということが、この仕事を引き受けた時に分かりました。  この本の「総論」となる部分は、雑誌『広告批評』一九九六年四月号に『もういいかげんに二十世紀をはじめたい』というタイトルで掲載されました。本体となる各論部分は、一九九八年十月に刊行を開始された毎日新聞社のムック『シリーズ二十世紀の記憶』に、各年の「年頭言」として掲載されたものです。『シリーズ二十世紀の記憶』の編集に携わる毎日クロニクル編集部から、「二十世紀百年分のコラム」という依頼を受けたのは、一九九五年のことですが、その話を聞いた時、「自分にそんなだいそれたことが出来るんだろうか?」などとは思わず、「本当にそんなことをやらせてもらえるんだろうか?」と思いました。それは、「そんなに個人的なことをやってもいいんだろうか?」という思いでもあります。  二十世紀が終わった時、私は五十二歳です。十分二十世紀を生きて来たはずの私ですが、しかし、この本に「二十世紀の中にいた橋本治」というものはほとんど登場しません。社会人となったこの人が二十世紀の中でなにをしていたのかはさっぱり分からず、その代わりに登場するのは、「子供の時の橋本治」ばかりです。それはつまり、私の「なんかへんだ」という思いが、子供の頃に一番強くあったということです。「なんかへんだ」と思い、どうやって自分と時代との間で折り合いをつけようかと思い、結局は、「独自の道」と言われるような方向にしか行かなかった。「行くんならそっち[#「そっち」に傍点]じゃないの?」と言うのは、私の中に健在の子供の声で、大人になった私は、いつも「二十世紀」とは一線を画して、と同時に、それでいいのか悪いのかを検証し続けていました。私にとっての二十世紀はそういう時間で、二十世紀が終わった時、「やっぱりあの疑問は正しかったんだ」と言えるようでありたいと思っていました。その結果がこの本です。私にとって、この本はそのように�個人的な本�なのです。  書き終わった今、「もう安心して二十一世紀を生きていけるな」と思います。それが、二十世紀を終えた私の一言です。これを読んだ読者の方がどのように思うかは知りません。なくてもよいのが、この「あとがき」でしょう。私としては、こんな仕事を私に与えてくれた、毎日クロニクル編集部の追分日出子さんに深い感謝の意を表するばかりです。どうもありがとう。 橋本治(はしもと・おさむ) 一九四八年三月東京生まれ。東京大学文学部国文科卒業。七七年『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作。以後、小説・評論・古典の現代語訳・エッセイなど、精力的に執筆活動中。著書に『桃尻語訳枕草子』『絵本徒然草』『窯変源氏物語』。ちくま文庫収録作に『これも男の生きる道』『宗教なんかこわくない!』『これで古典がよくわかる』など。 本作品は二〇〇一年一月、毎日新聞社より刊行され、二〇〇四年十月、二分冊の二冊目として、ちくま文庫に収録された。