[#表紙(表紙1.jpg)] 二十世紀(上) 橋本 治 [#改ページ]  総論 二十世紀とはなんだったのか[#「総論 二十世紀とはなんだったのか」はゴシック体]  一 「十九・九世紀」とか「十九・八世紀」という考え方[#「一 「十九・九世紀」とか「十九・八世紀」という考え方」はゴシック体]  ずーっと以前、「今は十九・八世紀」という発言をしたことがある。「今はまだ二十世紀ではない。二十世紀とは、十九世紀的な原則の上に二十世紀的な現実がのっかっているだけの時代で、二十世紀というのは十九世紀を脱却するための世紀だ」ということを言って、「二十世紀的な原則が確立されなければ二十世紀ではない。だから、一九八〇年代初めの今は、まだ十九・八世紀なのだ」と。  その頃はまだベルリンの壁も健在で、健在のまんま多くの人はそんなものの存在さえも忘れかかっていたようなものだけれども、それが一九八九年に崩壊してしまった。そうなって、やっと「東西冷戦構造の崩壊」ということも言われるようになった。ベルリンの壁は、冷戦構造の象徴となるようなもので、冷戦というのは、一九四五年に終わった第二次世界大戦の遺物でもある。そして、第二次世界大戦がどうして起こったのかと言えば、これは一九一四年に勃発した第一次世界大戦の後遺症で、その第一次世界大戦は十九世紀の遺産でしかない。別にそんなことは珍しい考え方でもないのだが、二十世紀というものが、第二次世界大戦終結までの四十五年間と、その遺物である冷戦の終結までの四十四年間だということを考えてみると、なんだか「うーん……」とうなりたいような話でもある。  十九世紀的な皇帝《ツアーリ》の独裁政治から、議会制度という民主的なプロセスをほとんど抜きにして一挙に社会主義革命にまで行ってしまったソ連という国の崩壊が一九九〇年だったりすると、「二十世紀はなにやってたんだ?」みたいな気にもなる。実際のところ、二十世紀とは、終わってしまった十九世紀の痕跡を、九十年もかけて消そうとしている世紀だったりもするのだから。  二十世紀が始まった一九〇一年に、イギリスのヴィクトリア女王が死ぬ。大英帝国の繁栄を象徴した、いたって十九世紀的なこの女王様の死によって二十世紀は始まるわけだけれども、「古い女王様の時代は終わった、これからは新しい世紀だ」という始まり方をしたはずの二十世紀は、相変わらず古い十九世紀的な原則の続く時代だった。  一九四五年に終わった第二次世界大戦の後に、冷戦の時代がやってくる。冷戦の時代は、戦争になりそうでならない時代だった。これは、核兵器というものが登場してしまったおかげで、「今度第三次世界大戦というものが勃発してしまったら、地球は滅びるだろう」という、�核の抑止力�という信仰があったからだったと思われている。「兵器は持っているが、その兵器はあまりにも過剰な兵器であるがために、実際には使えない。だから、それを使う全面戦争にはならない。その代わり、代理戦争のような局地戦(限定戦争)があって、相手に対する�脅し�の意味をこめた、核兵器開発と核兵器保有の競争がエンエンと繰り広げられた」と。  冷戦が�冷戦�のままで�戦争�にならなかったのは、核兵器の持つ�過剰さ�のためだというのは、一面の真実かもしれないが、もしかしたら、それは違う[#「違う」に傍点]かもしれない。「核兵器があろうとなかろうと、もう戦争は出来ない」という状況が、もしかしたら、第二次世界大戦以後の世界にはあったのかもしれなくて、それが冷戦状態を持続させていたのかもしれない——そう考えた方がいいような可能性だってないわけじゃない。「国家同士が戦争をする」ということ自体が十九世紀的なもので、その十九世紀的な発想が二十世紀になって四十五年もたってしまった後では、もう不可能になりかかっていた。だから、二十世紀的原則に踏み切れない十九世紀的原則による世界は、�冷戦�という中途半端な状態を持続させていた——ということなのかもしれない。そういう考え方が出来ないでいたということこそが、�十九世紀的原則に覆われていた二十世紀�なるものの持つ限界なのかもしれないのだから。  二 その昔は、戦争に「正しいやり方」なんてものがあった[#「二 その昔は、戦争に「正しいやり方」なんてものがあった」はゴシック体]  一九四一年の十二月七日(現地時間)、日本軍はハワイの真珠湾を攻撃した。アメリカとの太平洋戦争はそうやって始まるのだけれども、アメリカ人の中には、まだ「リメンバー・パールハーバー!」で、日本軍の卑劣なやり方を怒っている人がいる。なんで彼等は怒って、なんで日本軍のやり方が�卑劣�なのかというと、これが「宣戦布告なしの奇襲」だったからだ。「戦争というものは、�宣戦布告�によって開始されるものなのに、日本軍は宣戦布告をする前に攻撃を仕掛けてこちらにダメージを与えたから卑怯だ」ということである。(ところでしかし、第一次世界大戦の始まった一九一四年の八月二日に、ドイツ軍はフランス領内に侵入を開始していたが、ドイツがフランスに正式な宣戦布告をしたのは、八月の三日だった、という話もある。アメリカは、日本の真珠湾攻撃を事前に知っていたという話も)  もちろん、戦争にはルールがある。戦争放棄の憲法第九条を持つ日本人は、もう五十年以上も戦争から遠ざかっているので、「戦争にはルールがある」ということ自体が呑み込めなくなっているけれども、戦争にはルールがある。「戦争というメチャクチャなことに突入するんだったら、相手に先にダメージを与えた方が勝ちだ。こっちが攻撃を仕掛ければ、相手には�戦争が始まった�ということが自然に分かるだろう」なんていう考え方は、アンフエアな考え方だということである。  「戦争というものにはルールがある」と言われれば、多くの人は「ふーん……」とうなずくだろう。しかし、「戦争なんていう野蛮でメチャクチャなものに、どうして�ルール�なんていうものがありえるんだろうか?」という考え方だってある。二十世紀になってやっと登場する「反戦」という考え方はこっちで、「戦争にはルールがある」が、十九世紀的な考え方だ。十九世紀的原則は、戦争というものに「ルール」を設定して、戦争を美しく正しいものにもする。しかし、二十世紀というのは、「戦争という野蛮な行為にそんなモラルを持ち込むことの方がムチャだ」という発想が一般的になってくる時代なのだ。二十世紀には、�ルール通りの戦争�がかなりむずかしいものになりかかっていた。  第二次世界大戦の事実上の開始は、一九三九年のナチスドイツによるポーランド侵入で、別にドイツは、ポーランドに「宣戦布告」をしたわけではない。宣戦布告がないからこその�侵略�で、イギリスやフランスは、「そういう暴挙はすぐやめなさい、さもないと宣戦布告をするぞ」という最後|通牒《つうちよう》をドイツに対して出す。ドイツは「やだね」と答えて、第二次世界大戦は始まる。  既にラスト・エンペラー溥儀《ふぎ》を獲得した日本軍は、一九三二年に満州国を成立させてしまったが、その五年後の一九三七年七月七日、北京近郊の盧溝橋《ろこうきよう》に駐在する日本軍が夜間演習をやっていた。近くには当然これを警戒する中国軍もいた。演習の終わり近くに、どこからともなく十数発の実弾が日本軍の中に撃ち込まれて、大騒ぎになる。日中戦争の発端となる「盧溝橋事件」で、ここから日本軍は、宣戦布告なしで、中国への戦争=侵略を開始して行く。日中戦争は「宣戦布告なしの戦争」と言われて、だから日本は一方的に中国を侵略したことになる。  日中戦争に限らず、「侵略か、戦争か」という議論はある。今となっては、「侵略も戦争も似たようなもんじゃないか」としか思えないし、だからこそ「侵略戦争」という「侵略=戦争」を前提とする言葉もある。しかし、戦争というものを当たりの前の�外交手段�だと思っていた十九世紀以前の発想に従えば、「侵略」と「戦争」は違うのだ。  戦争とは正々堂々と戦う「フエアなもの」で、侵略というのは「卑怯なもの」だった。こういう書き方をするとなんとなくうなずけてしまうが、しかしよく考えてみると、これもまたとんでもなくへんなことである。「戦争とは正々堂々と戦うフエアなもの云々」とはまた、「侵略とは、それが失敗した時に限って使われる、大国の傷をさす言葉」でしかないからだ。  侵略というのは、当然、「大国が小国を侵略する」という形でしか起こらない。日本と中国は、国土は中国の方がずーっと広いが、近代化を遂げた日本の方がずーっと国力はあった。大国か小国かというのは、だから、国土の大きさではなかった。大国というのは、他に影響力を与えられるような�支配的な力�がある国のことで、小国というのはそういう力がないとされている国のことだった。日清戦争で、日本は当時�大国�とされていた中国に勝った。�大国�と思われていた中国に勝った日本は、そのことによって半分�大国�の仲間入りをしたけれども、日清戦争は、日本を大国と規定するような戦争ではなくて、アジア圏にあった中国を�衰弱した大国�と規定するような戦争だった。日本が�大国�として規定されるのは、ヨーロッパ圏の大国ロシアとの戦争に勝った日露戦争以後だろう。つまり、�大国�として登録されるということは、ヨーロッパにある上流社会の一員として仲間入りを許されるようなことでもあって、はっきり言ってしまえば、「大国であること」と「国力」の間には、あまり関係がなかった。オーストリアやロシアやトルコのような、皇帝によって支配されている国は、近代的な国力なんてものとは全然無関係な時代遅れの国であったとしても、やっぱり大国だったからだ。要は、ヨーロッパの何カ国かを核とする、「国による上流社会があった」というようなものなのだ。  二十世紀の始まった年にヴィクトリア女王は死んだけれども、彼女の孫は大国イギリスの国王だった。もう一人の彼女の孫は、大国ドイツの皇帝だった。もう一人の孫は、大国ロシアの皇帝の后だった。第一次世界大戦とは、そういう状況の中で起こった二十世紀の戦争だった。つまり、「大国」とは、そういう縁故関係にある階級社会の上部を形成する国々なのである。  そんな上流社会の一員であるような大国同士が、宣戦布告をして正々堂々と戦えば、これは�戦争�になる。だからこそ戦争にはルールがある。ということは、上流社会の貴族や金持ちの息子がカッとなって白手袋を相手の頬に投げつけて「決闘だ!」ということになれば、その決闘をする二人の間に殺人罪や傷害罪は成り立たないというようなことである。「決闘という美学」が存在する時代には、決闘で人を殺しても罪にはならず、英雄になれた。しかし、その決闘そのものが「時代遅れでバカげたもの」になってしまえば、前時代には�英雄�だったものが、�挑発に負けた愚かな犯罪者�になる。「正しいルールを持つ正々堂々とした戦争」が�バカげたもの�にしかならないのは、こういう時代の変化で、これが十九世紀から二十世紀へ移行する間に起こった。  決闘が�男の勇気と美しさ�を表わしていた時代に、もしもその決闘が「上流社会の貴族の息子」と「名もなく貧しい流れ者の青年」との間で行われて、貧しい青年が貴族の息子を倒していたら、その貧しい青年は、「決闘による英雄」にはなれないかもしれない。名家の貴族の息子を倒した貧しい青年は、「決闘に名を借りた卑劣な手段で、前途有望な青年を殺したならず者」になってしまう可能性がある。世の中というものは、事態をそういう方向に歪めてしまうものでもある。  戦争にルールを設定した十九世紀は、「警察がいないから、盗賊が侵入したら自分で殺しなさい」という時代でもある。「名誉を重んじる上流階級の男」にとって、決闘が「YES」であるなら、「暴走族の喧嘩もやり放題」という時代でもある。「警察」という市民生活の治安を維持するものの存在が常識になってしまえば、「たとえ名誉のためとはいえ、人を傷つければ有罪」になる。そういう時代に、「戦争に関する正しいルール」なんてものがある方がおかしい。それは、そもまず、「してはいけないもの」であるはずだからだ。  十九世紀に続く二十世紀の前半は、二つの世界大戦のある�戦争の時代�でもあったのだが、しかし時代は、「戦争というものが存在している方がおかしい」という方向へ確実に進んでいた。  国家が正々堂々と戦争をする——これはとってもへんだ。そうならないようにマトモな方向へ持って行くのが、国家なるものを動かしているエライ人であるはずなんだから、どうあったって、国家は正々堂々と戦争なんかしにくくなる。だから第二次世界大戦の終結以後、戦争というものはコソコソと行われるようなものになった。  かつて戦争というものは、明確なルールを持つ�外交手段の一つ�だった。だから、第一次世界大戦までの戦争は、「外交交渉が決裂したら正々堂々と戦争だ」という形で起こった。そして、よく考えれば分かるのだが、対外的に国を代表する役の外務大臣が、外国との交渉中にキレてしまったら困ったことになる。キレて、「よーし、戦争だ!」なんてことを簡単に叫び出すようなやつに、外務大臣なんかをやらしてはおけない。そんな外務大臣のいる政府は、国民にボロクソに叩かれるだろう。ところが、二十世紀前半の戦争の時代に、国家はすぐにキレたのだ。交渉が暗礁に乗り上げると、国同士はすぐにキレて、戦争に突入した。すぐにキレて戦争に突入するようなアブナい国家を、国民は平気で国家だと思っていた。つまり、「戦争に関する正しいルールのある時代」というのは、「それ以前の前提にかなり問題がある時代」なのだ。  キレたらおしまいなんだから、国家間の交渉には�妥協�というものが必要になる。しかし、「正しい戦争のやり方」の存在する時代に、妥協というものは屈辱的で女々しいことだった。「女々しい」が、今の女達を怒らせるような意味を持つ言葉であったのも、これまた十九世紀のことではある。妥協という、いたってまともな知恵が当たり前のものとして定着するようになるのは、�戦争にならない状態�を持続させる冷戦の時代になってのことだ。戦争に突入しなかった冷戦の時代を「核の抑止力によるもの」と考えるのは、キレることを当たり前の前提にして考える十九世紀的なものの考え方で、二十世紀的な考え方でいくのなら、「どうして国家間が戦争などという事態に平気で突入出来たのだろう?」と、�その以前�を考えるべきだろう。  「戦争をする」よりも、「戦争をしない」の方がマトモだ。だから、一九四五年までの戦争の時代よりも、それから後の冷戦の時代の方がマトモだ。マトモなのに、この時代にはまだ、「最終決着は戦争で」という、前時代の発想が残っていた。それで、国同士はイライラしていたんだろう。冷戦とはそういうものである。そして重要なことは、「なんで二十世紀後半に入ろうとするその段階になっても、�国同士がイライラする�などということがありえたのか?」ということである。  国同士——正確には�大国同士�は、イライラしていた。だからこそキレて、「決着は戦争だ!」という、最後通牒なんてものがあったし、そんな切り札を隠し持ったままの�冷戦�という事態もあった。  一体、大国同士はなんでイライラしていたのだろうか? そのことが実は、�現在の問題�へと続く——。  三 国家が平気でメチャクチャなことを考えていられた時代もあった[#「三 国家が平気でメチャクチャなことを考えていられた時代もあった」はゴシック体]  �戦争�は大国同士の�正々堂々�だが、�侵略�は大国による小国の侵略だ。相手を侵略するだけの力がなければ、「あの国を侵略してやろう」などという発想は起こらないし、実行も出来ない。そして、そういう国力を持っている大国が侵略を開始してしまえば、その暴挙はたいがい成功してしまう。冷戦の時代は、「戦争になりそうでならない時代」だったけれども、しかし、朝鮮戦争やヴェトナム戦争をはじめとして、いくつもの�戦争�があった。いくつもの�戦争�がありながら、しかし一方では、「戦争になりそうでならない平和な時代」でもあったのが冷戦の時代なのだけれども、地球のどこかに戦争があって、それでも一方では平気で�平和�が存在しうる矛盾は、どうして成り立っていたのか? それは、冷戦の時代には、「大国間の正々堂々たる戦争」は成り立たなくなっていたけれども、小国対大国の「�侵略�という戦争」はまだまだ起こりえて、�侵略�というもののメチャクチャさが、まだ一般にはピンとこないままであったからだ。  冷戦の時代に�侵略�はあって、その�侵略�が戦争だとは思われなかった——だからこそ冷戦の時代は、「戦争になりそうでならない時代」だったのだ。  冷戦の時代に起こった�戦争�は、表向き、「小国同士の局地的な戦争=紛争」という形を取っていたけれども、しかしその背後には、�小国への影響力�を発揮する、米ソという二つの大国が控えていた。一方の大国が他方の横暴を訴えれば、訴えられた方もやり返す。二つの大国の間にいる人間達は、「どっちの主張が正しいんだろう?」と、キョロキョロしていた。冷戦の時代はイデオロギーの時代で、「世界をリードする正しい理論」の存在がまだ信じられていた。そういうものがあると思われていたからこそ、人間達は、「どっちが正しい理論なんだ?」と、アッチを向いてはキョロキョロ、コッチを向いてはキョロキョロをしていた。がしかし、イデオロギーの時代だった冷戦の時代にあったのは、「我々の主張する理論こそが、世界をリードする正しい理論だ」という、大国の自己正当理論だけだった。  「大国が自らの正当性を主張する」は、別にイデオロギーの時代になって始まったことではない。�侵略�というのは、別に武力による侵略だけではなくて、「大国が小国に対して影響力を与える」は、長い世界史の時間全般にわたって続いて来たことだ。小国が大国の主張するイデオロギーに従わなければならないという状態は、長い世界史の状態の中で、ずっと当たり前のことになっていたから、二十世紀の半ばになって、「大国同士の戦争=NO」になった後になっても、まだまだ「大国が小国に対して影響力を発揮する」の方は、YESだった。だからこそ、「大国が小国を侵略するのはNOだが、大国が小国を保護[#「保護」に傍点]するのはYESである」という論理も成り立つ。�保護�と�侵略�は、�影響力�という軸を中心にして回る、竹トンボの両翼でしかないようなものだ。  大国は、力にものを言わせて、小国を侵略しようとする。そしてその暴挙が成功してしまえば、それは�侵略�ではなくして、「先進国の保護を受けるため、後進国が進んで先進国に吸収された」という状態になる。「侵略とは、それが失敗した時に限って使われる、大国の傷をさす言葉」だというのは、そういう意味で、だからこそ、�卑怯な戦争�というものはあっても、�卑怯な侵略�というものは存在しない。ある時期の地球は、こういうパラドックス——あるいは矛盾によって支配されていたのである。  十九世紀の終わりから二十世紀の初めにかけては「帝国主義の時代」で、小さな国は容易に大国に侵略され、吸収されていた。そして、吸収される以前に、小国というものは�大国の保護を受けるもの�ということになっていた。小国というものは、大国によって、「国としては一人前ではない」と規定されていた国のことで、だからこそ、「大国による小国の保護」という厄介な�愛情行動�も起こる。  大国と小国の差は、国土の広さの差でもなく、一流国と二流国の差でもなく、ただ単に、「インネンをつけるやくざの親分」と「インネンをつけられるおとなしい小市民」の差でしかなかった。「大国は小国を保護するもの」と大国が勝手に思い込んで、小国はその横暴な大国のモラルの前でビクビクしていたりもしたから、「あの国を無力にして、保護が必要な状態にしてしまおう。オレ達であの国を保護して、あの国をオレ達で勝手に利用してしまおう」という発想だって、大国には起こる。帝国主義の時代とは、そのような大国による小国支配——あるいは小国保護が、完全に地球全体を覆うようになっていた時代だったのである。  ことが大国同士なら、そうそう簡単に�侵略�なんてことは出来ない。それをするなら、宣戦布告つきの「戦争」になるしかない。しかし、ことが「大国と小国」なら、わざわざ戦争をする必要もなかったりする。なぜかと言えば、「武力侵略」の他にも�侵略�の手口はいくらでもあって、侵略を可能にするような前段階にあった「大国の庇護を求める小国」は、いたって当たり前に存在していたからである。  大国は、遅れた小国を指導教育してやるつもりで、その小国を保護国にしてしまう。そうすれば、その大国は「小国を侵略した」とは言われない。Aという大国がある小国を併合してしまえば、別のBという大国に、A国のやり口に対する不満が生まれる。その不満は、「あいつだけうまいことやりやがって」という種類のもので、�併合�という名の侵略行為そのものを否定するものではない。なぜかと言えば、Bという大国にだって、「機会がありさえすればどっかの小国を自分の支配下に置きたい——そうして自分の領土を広げたい」という野望はあったからだ。  十九世紀的原則のへんなところは、大国が自分の力によって領土を拡大して行くことを、「当然の美徳」のように信じていたところにある。国の中枢をなす人間達も信じていたし、ただの国民達も信じていた。「自分の国のすることは美しい」のだし、「自分の国が大きくなって行くのは当然のこと」だった。第一次世界大戦が始まった時、各国の社会主義者達は「反戦」を唱えて、二十世紀は、「すぐにキレるなんてバカだ」という反戦の声が登場した最初の時代ではあるのだけれども、結局その声は、「自分の国が負けるのはいやだ」というナショナリズム=国民の虚栄心の中に吸収されて行ってしまった。  「大国が自分の力によって領土を拡大して行く」は、別に十九世紀になって確立された原則なんかではない。それ以前の人類史を貫くような�十九世紀以前的[#「十九世紀以前的」に傍点]大原則�だったりもする。そういう、ある意味では「普遍的真実」でもあったような大原則を、突然「へんだ」と言っても、そうそう簡単には通らないだろう。しかし、二十世紀という時代は、その�十九世紀以前的大原則�が成り立たなくなって、もう通用しなくなって行く時代なのだ。�二十世紀的原則�とは、実のところ、「それ以前の常識や原則は、もしかしたら全部歪んで間違っているのかもしれない」という食い込み方をする、いたって厄介で膨大で複雑な大原則なのである。  「大国が小国を吸収する」——長い間世界史は、この前提をYESとしてやって来た。しかし、今の時代にこんな前提をYESにすることは出来ないだろう。  一つの国が、別のある独立国を併合吸収してしまう——今となっては、「なんでそんなことが起こりうるんだ?」としか考えられないけれども、二十世紀の前半まで、それは当たり前に起こった。日本は朝鮮半島にあった国を併合して、そこまでを「日本」にしてしまったし、イギリスはインドという国を「イギリス」にしてしまった。ソ連が解体して、その周辺諸国が連邦からの離脱独立を言い出した。旧ソ連の中枢であるロシアは当然「NO」と言うけれども、離脱独立を主張する国の多くは、その以前においては、「ソ連とは別の国」だったのだ。連邦内の諸国が離脱独立を宣言すれば、それに対して「NO」を言うロシアは、当然「時代遅れの大国の横暴」にしかならない——それが二十世紀だ。しかし、「ナイル川流域を支配した古代エジプトの大帝国」は、周辺部族を武力によって併合して出来たものなのである。  「古代エジプト文明の素晴らしさ」は言われても、「古代エジプトが周辺諸民族を制圧した残酷」は言われない。民族の興亡は当たり前のことで、大国が�統一�を果たすのも、当たり前の正義だった。「秦の始皇帝が中国を統一した」のも戦争によってだし、アレクサンダー大王の大帝国も、ナポレオンの欧州支配もおんなじだ。皇帝になったナポレオンと、第三帝国を作ったヒトラーを同じにしたら怒られるかもしれないが、「ある信念に基づいて武力侵略をした大国のリーダー」という点で、この二人は同じなのだ。ナポレオンが英雄となり、ヒトラーが狂人になるのは、きっとその思想の差だけではないだろう。十九世紀初頭にはナポレオンの登場が必然で、だからこそ彼は大英雄になれた。しかし、二十世紀の前半には、もうそういうものは英雄になれなかった——そうなるように状況は変化していた。だからこそ、ヒトラーの頭の中もおかしくなってしまったのだろう。  「大国は小国を併合してもかまわない」——すべての戦争=侵略は、この歪んだ発想から生まれるのだが、これが「歪んだ発想」になってしまったのは、どうやら二十世紀になってからなのだ。そして、二十世紀を推し進めて行った人達は、このことがなかなか呑み込めないでいた。だからこそ、世界はややこしいものになっていたのである。  四 その昔には「植民地建設」というとんでもなくヘンテコリンな発想があった[#「四 その昔には「植民地建設」というとんでもなくヘンテコリンな発想があった」はゴシック体]  「植民地《コロニー》」という言葉がある。別に死語というわけでもないだろうが、しかし現在こういうものは成り立たない。植民地というのは、ある国の国民が集団で国外へ出て行って、そこにある�誰のものでもない土地�で勝手に集団生活を始めてしまった結果のものだからだ。  現在の地球上には、�誰のものでもない土地=どこの国にも属していない土地�というのは、人が住めない南極大陸にしか存在しない。すべての土地は、ほとんどどこかの国に属していて、「ここは誰の土地でもないから、オレ達が勝手に耕作を始めよう」ということは不可能なのだ。だから現在の地球には、�植民地�というものが成り立たない。しかし、第二次世界大戦の終結時まで、この地球の上に�植民地�というものは、当たり前にあった。半世紀ほど前までには、「ここは誰の土地でもないから、オレ達のものにしよう」が、アジアやアフリカのいたるところで可能だった。  十五世紀の大航海時代から、植民地というものは(ヨーロッパ以外の)地球上のいたるところに建設されたが、当然のことながら、ヨーロッパ人が植民地建設をめざす土地には�先住民�というものがちゃんと住んで暮らしていた。だから、植民地経営とは、「勝手に他人の土地に住みついて生活を始めてしまうこと」でしかないのだが、世界史の教科書は、「植民地」なるものをあまりそういうものだとは説明してくれない。  そこ[#「そこ」に傍点]は、既に先住民の住んでいる「他人の土地」なのだから、当然そこに住みついて生活を始めるヨーロッパ人達は�侵略者�にしかならないのだけれども、この侵略者達は逆に、その土地の先住民を殺したり追い払ったり、奴隷にしてしまった。そこを植民地とするためにやって来たヨーロッパ人達は、そこに住んでいる人間達を、「文明を持たない野蛮人=植民を妨げる悪魔」と規定してしまったからだ。つまり、「そこ[#「そこ」に傍点]に植民地を作ろう」と発想したヨーロッパの人間達にとっての�そこ�とは、�人間の住んでいない土地�で、そこに住んでいる人間達は�人間�ではなかったということである。  そういう発想があって、「植民地経営」というものは成り立つ。そこに住んでいる人間を「人間じゃない」と規定してしまえるのだから、当然のことながら、そこ[#「そこ」に傍点]に国があったとしても、そこにあるものを「国じゃないもの」と断定することは出来る。「未開の地に住む未開人」は、「人間じゃないもの」になる。だからこそ、遅れた後進国は、「国じゃないもの」になってしまう。そういう発想から�保護国�というものは生まれるし、�国の併合�ということだって起こる。  大帝国が周辺諸国を自分の属領にしてしまうことは、大昔からのことである。そして、どうしてそういうことが起こりえたのかと言えば、それが起こった時代には「武力がすべて」だったからだ。戦いがあって、勝った国に負けた国は従う。戦いに勝った国は、自国の影響力をその国に及ぼして、属領とか属国というものは出来上がる。武力がすべてだった時代にはそういう大前提があったのだけれども、その様子が大航海時代になってから、ちょっと変わってくる。  大航海時代のはじめ、スペインやポルトガルが世界に乗り出して行った頃、インドやアラビアは、まだ文化の先進地帯だった。そこが文化の先進地だと思えば、�異国�という尊重も起こる。そしてその頃、スペインやポルトガルが植民地にして行った中南米とは、�未開の土地�だった。そこは�未開の土地�であり、スペインやポルトガルは、キリスト教を信仰する�進んだ国�だった。自分達の�正しい神�を信じるノーマルなキリスト教徒にとって、�未開の民�は、「神に値しないものを信じる野蛮人」だった。こういうとんでもない自己中心主義は、北米にヨーロッパ系の移民達が渡って植民を始めた頃まで続く。インディオやマヤやアステカや北米インディアンの文化が、ヨーロッパ人達に比べてどれだけ�遅れている�だったのかは、知らないが、それを「遅れている」と決めつける根拠の中心に宗教があったことは間違いがない。スペインやポルトガルは、当時進行中だった宗教革命に危機感を感じていたカソリック教徒の国だった。北米大陸に移住したのは、先鋭的なプロテスタントの清教徒《ピユーリタン》だった。「武力を持った信仰」というのは厄介《やつかい》なもので、�虐殺�が「確信犯の思想行為」になってしまう。まァ、ここで世界史を展開する気もないのではしょってはしまうけれども、初めにあった、「進んだ(あるいは�正しい�)キリスト教」という優越感の根拠が、やがて、�進んだ我々の文明�というものに変わってしまうのが、世界史の厄介である。  「進んでいるから遅れたものを保護し、教育してやる」——このことに基本的な間違いはなくて、しかし、ここにはとんでもなく厄介な問題もひそんでいる。  「幕府か、朝廷か」で争っていた幕末の日本は、いつの間にかさっさとその内輪揉めをやめて、新しい統一政府を作ってしまう。日本が近代化に成功した最大の理由はこれだろう。国の外には、ヨーロッパの�列強�と言われる大国が複数でいる。この大国は日本に開国を迫って、この大国達はそれぞれの思惑を日本に対して持っている。ヨーロッパの大国にとって問題なのは、�日本のこと�ではなく、「日本と接触して優越的な特権を手に入れ、そのことによって経済競争で優位に立つかもしれない、自分のライヴァルであるヨーロッパの大国」なのだ。なにしろ、他人の住んでいる土地を勝手に「人が住んでいない土地」にしてしまい、ちゃんと存在している国を「遅れている、国にも値しない国」にしてしまうのが進んだ[#「進んだ」に傍点]ヨーロッパの大国なのだから、�日本という国のあり方�なんてものはどうでもいい。問題は、「日本からの利権を手に入れることによって、ヨーロッパのどの国が経済競争に勝つか」だけなのだ。  これでもしも、日本という国が内部で政権抗争などということをやっていたら、日本という国の利権を狙ったヨーロッパの大国は、「軍事援助」ということを口にしただろう。現に、徳川幕府はフランス海軍の指導を受けていたし、薩長はイギリスの軍隊の指導を受けていた。「日本は遅れている。近代的な武器も戦闘方法も知らない。だから、我々があなたにそれを教えます。それを教えられたあなた達は、必ず�あなたの敵�に勝てるでしょう」という囁きがあれば、もうその先は知れている。日本の内部は二つに割れて、それぞれがヨーロッパの大国の手先となる代理戦争を、知らない間に繰り返すことになる。  もしも、徳川幕府が日本における支配権の維持ばかりを考えて、進んだ[#「進んだ」に傍点]ヨーロッパの軍隊の助けによって反幕府勢力を蹴散らしてしまおうとすれば、それは可能だっただろう。幕府に軍事的援助を求められた国は、「日本の正当なる支配者である徳川幕府を助け保護するために、我々の軍隊を常駐させる」と宣言して、軍隊を日本に置くことが出来る。徳川幕府は、進んだヨーロッパの近代的装備によって守られ、日本にはその進んだ軍事力に勝つだけの力がない。つまり、徳川幕府の依頼によって日本に自国の軍隊を常駐させることが可能になった国は、そのことによって、日本を保護国として支配するための第一歩を記すことが可能になる。さらに、もしも徳川幕府がそんなことを考えなかった場合であっても、ヨーロッパの大国は、反幕府の勢力にこう囁きかけることが出来る——「このまま徳川氏に日本を任せていたら、日本は滅んでしまうでしょう。ぜひともあなたが立ち上がって、徳川幕府を倒すべきです。その力がないと言うのなら、私達がその援助をします」と。  そして日本は内戦状態に突入して、最後に勝つのは、進んだ近代的兵器を持つヨーロッパ某国ということになる。複数の王様《マハラジヤ》達によって統治されていたムガール帝国のインドは、こういう方式によって、イギリスの支配下に置かれてしまった。そうならないように新しい統一政府をさっさと作ってしまった日本は、その後になると、「内部混乱にまつわる軍事援助」という周知の方式を使って、韓国を併合してしまう。「進んでいる」とか「保護してやる」ということは、とても危険なことなのだ。  この時代に軍事力というものがあからさまに誇示されたのは事実で、最終的な解決が武力行使の戦争によったことも事実だけれども、十九世紀はまた、「いきなりの虐殺によって原住民を制圧する」というやり方が徐々に不可能になっていた時代だった。戦争や武力行使は最終手段で、「なろうことならそれを使わないで侵略をする」が、新しい国際ルールになりかかっていたのである。「戦いによってその国を制圧する」という、アレクサンダー大王や古代ローマ帝国流の領土拡大なんかはもうやれなくなっていて、だからこそ、�侵略�というものの質も変わっていた。侵略とは武力でやるものではなく、「頭を使って平和的にやるもの」になっていたからだ。  「そこは国である。�遅れた国�ではあっても�国�である。だから、虐殺や武力侵入なんかは出来ない。しかしその国は�国�と言っても我々とは違う�遅れた国�だから、そんなものの自主性を認める必要はない。さっさと我々のために利用してしまおう」が、十九世紀的なヨーロッパの侵略だった。ここでの�侵略�は、もう�武力侵略�ではない。相手をバカにして、そして「利用する」ということだけを考える�経済侵略�なのである。  それ以前の侵略が、武力による「領土の大きさ」だけを誇示していればすんだのとは違って、二十世紀に向かう十九世紀的な侵略は、「他国を支配下に置くことによって、自国民が豊かになる」という方向へ変わっていた。�豊かになる�のは支配国の国民で、そのために、大国の支配下に置かれてしまった国の国民は、「利用される」だけになる。「利用される」だけで、「虐殺される」は、原則としてない。だからこれは、「ちょっとだけ軍隊を動員するようなもの」ではあっても、原則としては、いたって平和的な、ちょっと見には文句をつけにくい�侵略�なのだ。  憲法第九条で「戦争の放棄」を明言してしまった日本人は、「戦争=侵略」だとばかり思っていて、「侵略=商売」という考え方をあまりしないが、既に十九世紀の時点で、侵略とは経済的侵略=商売になっていた。  その�商売�はムチャな商売だった。だからこそ、そのセールスマンの背後には軍隊がいた。そういうムチャな商売が続いていたからこそ、その後の二十世紀になって、世界大戦という武力衝突の時代がやって来ることになった。「戦争の背後に商人がいる」ということになると、武器を売って儲ける�死の商人�を連想してしまうが、十九世紀から二十世紀にかけての戦争の背後には、�商売�というものがあって、その�商売�こそが戦争=侵略を成り立たせるような危険なものだったということを、知っておく必要がある。二十世紀の国同士が、「テメーの顔が気に入らねーんだよ」などという単純な理由で戦争なんかをするはずはないのだ。  五 商売というものは、けっこう危険で厄介なものだ[#「五 商売というものは、けっこう危険で厄介なものだ」はゴシック体]  どうして戦争の背後には�商売�があったのか? あるいは、どうしてその時代の商売は、�戦争�などというものを必須の要素として、強引に推し進められなければならなかったのか?——ということである。  国同士の商売が�貿易�で、必要なものがあれば輸入をするし、買い手が外にあれば輸出をする。輸出が増えれば黒字になるし、輸入が増えれば赤字になる。赤字になったら、その赤字を減らすために、輸入を控える。輸入を減らして輸出を増やすようにすれば、収支のアンバランスは改善される——貿易がこういうものであるならば、ここのどこにも武力とか軍隊などの登場する余地はないように見える。だから、「どうして戦争の背後に�商売�があるのか?」ということは、一見するとよく分からないのだが、しかしそんなことはない。なぜかと言えば、人間が買い物をするのは、なにも�必要�によってだけではないからだ。  貿易のはじめには、珍しい奢侈品《しやしひん》の貿易がある。わざわざ海を越えて遠い異郷の地から運ばれて来た物が安いはずはない。飛行機が運搬の手段として一般的になるのは二十世紀の半ばを過ぎてからのことで、それ以前の輸出入の手段は船だった。長い時間と莫大な運搬費をかけて運ばれるものが、そんなに安い物であるはずはない。高くても珍しいものなら買い手はある。つまり、人は欲望によって買い物をするのだ。人は欲望によって買い物をし、人は欲望によって金儲けをする。国同士の取引である貿易の背後には、�必要�と共に�欲望�もあって、この�欲望�というおだやかならざる要素は、野放しにすれば、必ず争いを招くことになっている。  「貿易が赤字になったら、その赤字を減らすように、輸入を減らして輸出を増やせばいい」というのはいたって簡単な真理で、しかしそれはなかなか思うようにならない。これが簡単に出来ることなら、一九八〇年代のアメリカ合衆国政府首脳の頭の中は、さっさとおだやかなものになっていただろう。当時のアメリカは膨大なる貿易赤字を抱えて、イライラしていた。その少し前までは、「アメリカがクシャミをすれば日本はカゼをひく」と言われていたのだから、アメリカ合衆国の経済的な落ち着きのなさは、当然のことながら日本にとんでもなく厄介な影響を与えた。日本のバブル経済の救いのなさと、アメリカの貿易赤字の多さとの間に関係があったのは、確かなことである。  貿易が赤字になった時、赤字を減らすように、輸入を減らすことは出来るか? その輸入品が、国内にない必需品だったら、そう簡単に輸入を減らすことは出来ないだろう。そういう輸入品の消費を減らすということは、ある意味で窮乏生活を覚悟することだからだ。そして、貿易が赤字になった時に、果たして輸出を増やすことは出来るか?  輸出するものがなかったら、輸出は出来ない。商売というのは、買い手の需要があって成り立つものなんだから、需要のないものは売れない。だから仕方がない、輸出は増やせないのだから、輸入を我慢して、耐乏生活をすればいい——理屈としてはこの通りで、浪費して貧乏になってしまった個人は支出を切り詰めることになるのだが、しかし国同士の現実は、どういうわけだか、そういうことにはならない。  日本はアメリカ合衆国に自動車を輸出して、アメリカはそのために貿易赤字が増えたりもした。アメリカは日本に「アメリカ製品を買え、買え」と迫って、でも日本人はそんなにアメリカ製品を必要とはしなかったので、アメリカからの輸入は増えなかった。アメリカは、日本に「輸入を増やせ」ばかりを言って、日本車の輸入を減らすことをあんまり考えなかった——八つ当たりで、日本車をハンマーでぶっ壊したりはしていたけれども。  そもそも自動車の大量生産が起こったのは、二十世紀初頭のアメリカで、自動車というものは、さまざまな部品を組み立てて作るものだ。大航海時代のコショウや香料のように、日本という特殊な風土に「自動車のなる木」が生えているわけではない。貿易の赤字で悩んでいるのなら、アメリカは日本からの自動車輸入を抑えて、自分のところで作ればよかったのだ。問題は、「どうしてそれが出来なかったのか? それをしなかったのか」ということである。  その理由は、「アメリカは人件費が高くて、日本は人件費が安いから、同じ自動車を作っても、アメリカの国内車を買うよりも、日本からの輸入車を買う方が安かったから」ということになっていたが、果たしてそうだろうか? もっと大きな理由は、「アメリカの自動車メーカーが、日本製の自動車のようなものを作らなかった」ということにある。「そういうものは作りたくない」であったのかどうかは知らないが、ともかくアメリカの自動車メーカーは、日本車のような自動車を作らなかった。だから、同じ�自動車�ではあっても、アメリカ市場での日本車には、競争相手がいない。つまり、アメリカにおける日本製の自動車とは、「自分の国でも作れるのに輸入に頼るしかない必需品」という不思議なものだったのだ。なんともヘンテコリンな話だが、欲望というものの中には、「アレが欲しい!」というプラスの欲望とは別に、「そういうことはしたくない!」というマイナスの欲望だってあるということだ。「私はそんなことで手を汚したくない」という欲望の存在は、けっこう大きい。  経済大国の日本は、とても不思議な形で経済大国になった。二十世紀のはじめから、日本の輸出品は安くて、安いわりには質がよかった。どうしてそれが可能だったのかというと、日本人が働き者で、貿易の競争相手であるヨーロッパやアメリカよりも人件費が安かったからだ。だから、日本製品は何度も「ダンピング」というレッテルを貼られて、マーケットから追放されかかった。「安かろう、悪かろう」と思われていたものを、何度も品質改良をして、輸出のマーケットを広げた。日本人は、努力していい物を作った。なにしろ、人件費が安くてすむくらいに、日本は欧米諸国よりも貧しかったのだ。だから、努力していい品を作り出すしか、道はなかった。自動車もそうだし、オーディオ製品もそうだ。「猿マネ」と言われたものが、努力によって品質改良をしてマーケットを広げた。そして、そういうことをやって輸出を成功させた国は、なんと、二十世紀の後半になるまで、日本しかなかったのだ。  十九世紀になって開国をした日本の輸出相手は、欧米という金持ちの国だった。金持ちに品物を買ってもらうためには、まず頭を下げなければならない。日本人はそれをした。努力をしなければ日本の製品が売れなかったのは、そのためだ。ところがそれ以前に大国になっていた欧米の国々は、そんなことをしなかった。ヨーロッパの大国は、「我々の製品はすぐれているのだから買いなさい」という形で、ヨーロッパ以外の�遅れた国々�に貿易を迫った。十九世紀の貿易はそもそもそういうもので、十九世紀一杯をかけて、欧米諸国が世界中を自分達の植民地や保護国にして分割してしまったのは、別に国土の大きさを誇るためではなく、工業製品を作るための原材料を安値で確保するためと、その原材料によって作られた�商品�を売るマーケットを確保するためだった。  突然話は十八世紀の産業革命になるが、イギリスの産業革命の最初は、綿織物の機械化だった。  イギリスは毛織物の国で、そもそも木綿というのは南方のものだから、イギリスをはじめとするヨーロッパにはなかった。それがポルトガル人の手によって、インドから輸入されて来た。はじめは高価な奢侈品だった。そして、スペインやポルトガルが世界の花形だった時代が終わり、イギリスが世界最強の艦隊を持つようになって、イギリス人は直接インドから大量の綿織物を輸入するようになる。はじめは高級品だったものが徐々に一般化して来て、これが伝統的な毛織物を圧迫するようになる。毛織物は輸入の綿織物に押されて、しかし綿織物そのものの需要はあるから、輸入品に対抗するために「国内産の綿織物を作る」という動きが出て来る。イギリスに木綿はないから、インドから原綿を輸入して、イギリス人が加工をする。しかし、木綿織物に関しては先進国であるインドは、手工業でありながらも、イギリスにまさって優勢だった。そこで、インドから相変わらず綿織物を輸入し続けなければならないイギリス人は、「なんとかしてこれに勝とう」と思った。機械化による綿織物の大量生産という事態は、そうして生まれるのである。イギリスの産業革命には、「対インド貿易の必要から生まれた」という側面もある。  イギリスは綿織物産業を機械化して、大量生産を開始する。植民地である西インド諸島やアメリカに、原材料である綿花の畑を作って、それを国内に運んで綿織物にする。インドからやって来る安い綿織物には高い関税をかけて、国内の綿織物産業を保護する。産業革命は、ワットの蒸気機関の登場によって、動力の面からも飛躍的に進み、イギリスの綿織物は大量に生産されるようになる。大量生産は�作り過ぎ�という事態を招いて、この過剰に生産された商品は、新たなるマーケットを求める。  イギリスの綿織物の新たなるマーケットがどこだったのかというと、なんとあきれたことに、インドだった。インドに行ったイギリスの綿織物業者は、なんと、インドの織物職人の腕を切るということまでしたんだそうだから、なにをか言わんやである。機械化に成功したイギリスの綿織物工業は、ライヴァルであるインドをそのマーケットにして、インドの綿織物を滅ぼしてしまった。イギリス人がインドで紅茶やアヘンを栽培させたのは、インド人に綿花を栽培させないようにしたためだというのだから、恐れ入る。  イギリスは、世界に冠たる綿織物の国になって、イギリス人はこの巨大化した産業のマーケットを、中国に求めた。中国人は、「そんな物いらない」と言う。自分の国が世界で一番エライと思っている中国のエライ人は、「別に貿易なんかしたくない」と、イギリス商人の誘いを断る。イギリス人は、中国にあるお茶がほしくて、お茶ばっかり輸入していた。「お茶ばっかり輸入しているとイギリスの貿易収支が赤字になる」という事態があって、その苦境を打開するために、イギリスは中国人になんとしても物を買わせようとした。そのためにイギリス人の開発した「なんとしてでも中国人がほしくなるような商品」は、アヘンだった。イギリス人は中国人を麻薬中毒にして、どうしても中国が貿易をせざるをえないようにした。結果起こるのが、そのことによって香港をイギリス領にする(九十九年間の租借契約だったのが延びっぱなしになって、やっと一九九七年に香港は中国へ返還された)アヘン戦争だった。  「国同士の商売は�貿易�で、必要なものがあれば輸入をするし、買い手があれば輸出をする。輸出が増えれば黒字になるし、輸入が増えれば赤字になる。赤字になったら、その赤字を減らすように、輸入を減らして輸出を増やせばいい。貿易というのはフエアなもので、ここのどこにも武力とか軍隊などの登場する余地はない」というのが、現在になってやっと獲得されるかもしれない筋論で、昔はそんなもんじゃなかったということは、この話からよく分かる。「貿易をしなさい、我々の商品を買いなさい。我々の商品を輸入する時に高い関税なんかかけちゃいけません。あんた達の国が輸出する商品はロクなもんじゃありませんから、我々はあんたのとこから輸入する品には高い関税をかけます」というのが、欧米諸国が�後進国�を相手に貿易をする時の原則だった。それは、二十世紀の後半を過ぎても、まだまだ続いていたのである。  植民地獲得競争は、原材料の確保競争でもあるし、輸出商品のマーケット獲得競争でもあった。貿易が重要なことだったから、その商品を運搬するための船の航路確保も重要で、停泊港になりそうなところは、原住民にことわりを入れて、�植民地�にしてしまった。その航路を通るのは自分達の国の船だけで、「よその船は通さない」ということにすれば、貿易を必要とする国は、奪い合いで航路の周辺地域を�自分のもの�にしようとする。  運送ということになれば、当然�陸路�も必要で、産業革命の結果生まれた鉄道は陸路の主役だ。欧米の大国は、�後進国地域�に、鉄道の建設を持ちかける——「私(の国)に鉄道を敷かせてください」と。今なら、「わざわざ後進国に経済援助を申し出て、鉄道を建設してあげるなんて、なんという親切なことだろう」と思われかねないことだが、当然これは、「外国資本が鉄道を経営して、その利益を全部吸い上げる」だし、「鉄道を利用して、その沿線の鉱物資源を全部いただく」でしかなかった。そんな申し出を受けた後進国の支配者が、「鉄道=便利なオモチャ=作ってくれるなら欲しい」としか考えていなかったら、鉄道によって生まれるその国の利益は、全部外国に持って行かれる結果になってしまう。  「私のところで独占的に——」という依頼を、先進国は後進国にした。�独占的に�なんだから、その依頼をする先進国には、ちゃんとしたライヴァルがいた。「我々の言うことを聞いて�正しい貿易�をやらないと、困ったことになるよ」という脅しを後進国にかけるためにも軍隊は必要だったけれども、「我が国の独占的権利を侵すな」と、ライヴァルである同じヨーロッパの大国に対して脅しをかけるためにも、軍隊は必要になった。地上げの暴力団が横行した一九八〇年代後半の日本のようなものである。なんともムチャで厄介《やつかい》な時代だったが、欧米の少数国によって世界中が植民地や保護国に分割されてしまった十九世紀末から二十世紀にかけての�貿易�とは、こういうものだったのである。  二つの世界大戦をへて、今では「戦争はいけない」が常識になってもいるけれども、しかしこの二十世紀になって起こった二つの世界大戦が、十九世紀から持ち越されて来た�貿易(金儲け)に関する戦争�だったということを忘れない方がいい。  欧米の大国は、軍隊を連れて、エラソーな顔をして、後進国相手の商売をした。しかし、金持ち国相手に頭を下げて商売をしなければならなかった日本人に、軍隊はいらない。だから、第二次世界大戦に負けて、植民地や軍隊を失ったその後でも、貧乏な日本は、世界の貿易戦争に勝つことが出来たのだ。  平和的に貿易戦争に勝てたことは、あるいは日本の誇りかもしれない。しかし、残念ながら、貿易と戦争=侵略は、切っても切れないものなのだ。だから、一九八〇年代のアメリカ人は、日本に対して怒っていた。「リメンバー・パールハーバー」ではなくて、アメリカが世界で一番の金持ちではなくなってしまったことに対して、怒っていた。  貿易戦争で「勝者」になるということは、十九世紀的原則に従えば、「世界一の侵略者になる」ということなのだ。貿易が、人間の�欲�という危険なものを前提にして成り立っている限り、「輸出で世界一になりたい」という意志は、これまた立派に「危険な野望」なのである。  十九世紀的な原則に従えば、「貿易で世界一になる」ということは、「弱者相手に大儲けをする、世界一の侵略者になる」ということでしかなく、十九世紀的な「世界の覇者」とは、「世界一の金持ち国であること」だったのである。  六 総論の結論[#「六 総論の結論」はゴシック体]  とりあえず、結論である。私がここで言わんとするのは、「二十世紀末に起こった日本の金融システムの危機は、十八世紀の産業革命に由来する必然の結果だ」というムチャクチャなものである。ムチャクチャはムチャクチャだが、実際そうなのだから仕方がないというものであろう。  産業革命は、人間に機械という便利なものを与えた。と同時に、石炭や石油を燃やして地球を温暖化することも許し、人間に�作り過ぎ�という事態も与えた。イギリス人は綿織物を作り過ぎて、その後に厄介な事態を招いたのである。世界史に名を残す産業革命は、人間に「作り過ぎたからいらない」という知恵を与えず、「作ったものは、全部、押しつけてでも売れ」という暴力を生んだ。この事態は今でも続いて、「多すぎるゴミの山」という結果を生み出している。  地球の上にいる�先進国�というごく限られた地域の住人は、地球の資源の圧倒的多数を平気で消費して、地球の広範な部分を占める�後進国�と言われる地域の住人を貧乏にしている。その状態を放置すると、「後進国」とされた国は、「先進国」とされている国のようにならなければならない。産業革命が起こって後の�近代化�とは、「多すぎるゴミの山」に代表されるようなゴールを持つ道を歩む——そうして豊かになる[#「豊かになる」に傍点]ということでしかないからである。それをするのが「先進国」、それを出来ないのが「後進国」という区別になっているのだから、今のところ「先進国」が「後進国」に教えられるのは、地球とそこに住む人間の心を荒廃させることだけなのである。  いい加減に「先進国」の住人達は、�いらないもの�を作るのをやめて、「金儲け競争」なんていうギスギスしたことをしなければいいのだ。イギリスの産業革命に由来する金儲け競争は、�便利�というものを地球の(一部の)人間にもたらしてはくれたけれども、それは結局、二十世紀になって戦争と冷戦を引き起こす結果になるだけのものでもあったのである。  産業革命は、機械を持つ事業主に�金儲け�というものをもたらした。そして、悲しい十九世紀的原則は、その儲けた金を、更なる金儲けにつぎこむことしか考えなかった。  儲けた金は、�投資�という形で、更なる商品の大量生産へと向かう。今世界には地球を何度もぶっ壊せるだけの大量の核兵器が保有されているというのだが、しかし、「バブルがはじけた」と言われた後の日本には、今後何十年間もの世界中の需要をまかなうことが出来るだけの工場設備が用意されていたのである。金余りのバブルの時期に、�設備投資�という形で、とんでもなく巨大な工場がいくつも作られた——その結果である。この巨大なる生産設備の運用は、一九九〇年代になって、「操業停止」とか「工場閉鎖」という形でしか行われなくなった。「もういらないよ」という声は、この設備投資群と、バブルの時期にやたらと作られたオフィスビルの方にも向けられてしかるべきものだろう。  一体、二十世紀末期の日本で特徴的になる�金余り�という事態は、どのようにして起こったか? それは、金儲けをしたのはいいけれども、その儲けた金を更に儲けさせる投資先が、もうそんなにもなくなっていたからである。  誰が決めたのかは知らないが、資本主義という十九世紀的な原則は、「儲けた金は、更に金儲けに使うべし」ということになっている。しかし、�豊作貧乏�という言葉がある通り、作り過ぎた製品は、「もういらない」という声に迎えられるだけなのである。  物は作られ過ぎて、「新たに物を作る」ということ自体が、もう不必要なことになっていた。だからこそ、�投資先�というものがなくなって、「新たなる金儲けのために使われるべき金」は行き場をなくした。バブルの金が、株だの不動産だのへと向けられたのは、そのためである。  投資先がなかったら、金融というものは商売として成り立たない。金融というものは「金貸し」のことで、金貸しが借り手をなくしたら、商売にならない。それで、「借りてくれるところならどこでもいい」になり、その結果が、回収出来ない投資による巨額の損失となる。一九九〇年代における日本の金融機関の破綻は、十八世紀産業革命に由来する、「作り過ぎ、儲け過ぎ」に対する無自覚の結果なのである。  産業革命の機械化によって大量生産を可能にしていた十九世紀のイギリスでは、儲ける人はもう十分に金を儲けていた。みんなが金を儲けてしまった結果、金を必要とする人——つまりは、儲けた金の投資先がなくなって行った。既に十九世紀後半のイギリスには�金余り�があって、その余った金を吸収するためにも、「新たなる植民地開発」や「植民地での新たなる事業」というものが起こった。そして、帝国主義と戦争の二十世紀を招く。単純な話、儲け過ぎたら、もう金はいらないのである。  二十世紀初めの日本は不景気だ。しかし、日本人の多くは、「物がない」ということで困ってはいない。「金がないわけではないけれど、もうほしいものはみんな持っているから、その金の使い道がない」というへんな形で、需要というものは停滞している。需要の停滞で言えば、そんなものは一九八〇年代の初めからあることで、だからこそ、円高不況の後にやって来たバブルへと続く好景気は、「いらない物を買う」という形で起こった。高級ブランド品というのは、本来なら�誰にでも必要なもの�ではないのだ。それを�必要なもの�に置き換えて、ブランド買い漁りの波が来て、そして今やもう、そういう「いらない物」さえもが「いらない」のだ。そして、そうでありながらも、どういうわけだか日本人は、まだ金儲けをしなければならないらしい。「物を作って売る」ということをしなければ、経済活動というものが停止してしまうからなのだが、しかし困ったことに、今となっては、日本人の賃金が高くなり過ぎて、生活必需品でさえも、国内で作るよりも輸入した方が安くなってしまっている。  日本人の上には、「もう生産なんかしない方がいい」というとんでもない条件さえもが下ってしまって、日本人には「今までの貯金を下ろして生活をする」ということしか当面の生きる道はなくなってしまっている。そういうことを続けていれば、生産の空洞化が起こって、貯金を使い果たしたその時には、もう誰にも「物を作る」ということが出来なくなるだろう。つまり日本は、大貿易赤字国になるしかないのである。  「日本では物を作らずに、人件費の安いアジアに投資して、アジアで物を作らせる」と言われてはいたが、しかし本当にそんなことが可能だったんだろうか? いつの間にか世界は、�貿易�というものを中心にして回るようになっていたけれども、どうして「いらない物」をわざわざ輸入までする必要があるのだろうか? 日本がヨーロッパやアメリカ相手に売りつくした物を、今改めてアジアの国々に作らせて、しかしその需要は、そんなにいつまでもあるんだろうか? その需要があることが、果たして本当にいいことなんだろうか?  植民地と貿易の十九世紀は、実は発明の世紀でもある。二十世紀になって発明された商品は、きっとテレビと電気釜と飛行機だけだろう。後それと、インスタントラーメンと。今の時代の不景気に、日本の実業家達は「ヒット商品がない」と言っているけれども、二十世紀は、十九世紀に発明されたものを飛躍的に普及させただけの時代で、あんまりたいした物を発明してはいない。コンピューターだって、その原理は十九世紀に発明されている。二十世紀は、�必要とされる物�を、大量生産によって作りまくり売りまくって、その普及がピークにまで達してしまった時代なのだ。「画期的なヒット商品」というものは、もう生まれないだろう。なぜかと言えば、それがもう必要ではない[#「もう必要ではない」に傍点]からだ。  そしてしかし、すべての普及した製品は、ただ「普及した」というだけで、製造を中止するわけにはいかない。テレビは壊れるし、シャツはすり切れる。工場による大量生産の供給に見合うだけの需要なんかはないけれども、しかし需要そのものがなくなったわけじゃない。これからの時代、物は、必要なだけ細々と作り続けられて行かなければならない。だから我々は、「大量生産によらない[#「よらない」に傍点]一定量の供給」という、むずかしい生産システムを確保しなければならない。工業化社会の到来によって、それまで自給自足が原則だった食料までもが平気で輸出入の対象になってしまったけれども、状況は逆転するだろう。食料や農業製品に限らず、工業製品に関しても、「輸出が必要になるくらいの量は作らない」という自制が必要になるはずだ。  別に珍しい話でもない。いるものはいるが、いらないものはいらない。わざわざ苦労してまで、「不必要な量」を作り出す必要はない。「不必要な量」を作り出すのに苦労があって、その苦労をなくしたことを「発明」と言うのなら、そんな発明はもうやめた方がいい。  産業革命は、それまで自給自足を原則とする農業しかないところに、新しく�工業�というものを出現させた。大量生産を原則とする工業は�流通�を必須として、自給自足の原則を、古くて閉鎖的なものとして葬り去ってしまったけれども、しかし果たして、本当に、工業というのは�自給自足�と相容れないものなんだろうか?「いらない物は作らないが、いる物は作る」という工業は、�自給自足�を前提とする工業だ。「産業革命=大量生産」という命題は、平気で「工業≠自給自足」にしてしまったけれども、「自給自足を前提とする工業」という発想がなかったことの方が、本当はおかしいのだ。  「必要な物は作る、必要じゃないものは作らない」——こういう原則を確立しないと、このイライラとした落ち着きのない世界は、平静にならない。手っ取り早く言ってしまえば、私は、産業革命以前の「工場制手工業」の段階に戻るべきだと思う。  「工場に人間がいなくて、機械だけがあって、それで生産が可能になっている——だから金儲けだけは出来る」という形の�合理化�は、非常に不自然なものである。人間から�働くこと�を奪ったら、ロクなことにはならないのだ。そういうことを示すのが、二十世紀末期における人間達のあり方だろう。日本におけるこの時期の犯罪の多発は、「働くことしか能のなかった日本人が�働く�を奪われたらどうなるのか?」ということでしかないと思う。  機械を減らして、そのかわりに人間の労働力を採用する。今まで「金を使って暇な時間を遊んで過ごす」をやっていた人間達は、その持て余した時間を、効率の悪い労働[#「効率の悪い労働」に傍点]によって埋める。どっちにしろ、貿易黒字という�貯金�を使い果たす覚悟はしなくちゃならないのだから、安い物をどんどん輸入して物価を下げる——そのことによって、高賃金である必要をなくし[#「高賃金である必要をなくし」に傍点]、人件費を下げる。そうして、安くなった労働力を使って、産業革命以前の工場制手工業の時代に戻る。十九世紀から後は、うっかり作ってしまった機械のおかげで、「作り過ぎ」という厄介な事態が生まれ、戦争だの貧富の差だの資本の支配だのということになってしまったんだから、このややこしいゴタゴタを解消する方法は、「それ以前に戻ってやり直す」しかないと思う。  工場制手工業はいいと思うよ。労働の場に人間関係が生まれるから。労働というものを抜きにして人間関係を作ったり維持したりするのが、いかに厄介でむずかしいことかは、もうみんな分かっているはずなんだが。  遊びだけで生きて行くのは、とてもつらい。そのことは、十九世紀的原則を無自覚に引き継いだ二十世紀的現実がちゃんと語っていることだろう。 [#改ページ]       1 9 0 0  一体、二十世紀というものは、何年に始まり何年に終わるものだったのか? 二十世紀の終わる年は、我々が「さようなら二十世紀! こんにちは二十一世紀!」というドンチャン騒ぎをやる年である。しかし、それはいつ[#「いつ」に傍点]だったのか? 一九九九年の大晦日か? それとも二〇〇〇年の大晦日か? どうでもいいような、でも重要な問題とは、これである。  十九世紀ヨーロッパの人達は、おおむね一九〇〇年を「二十世紀の最初の年」と思っていたか、あるいはそうしたがっていた[#「そうしたがっていた」に傍点]らしい。それで、時のドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は勅令を出した——「一九〇〇年を二十世紀の最初の年にする!」と。一九〇〇年が「二十世紀最初の年」になれば、一九九九年は「二十世紀最後の年」になる。「二十一世紀の最初の年は二〇〇〇年」という考え方はここから生まれるのだが、しかしそうなると、いろいろ困ったことが生まれる。  一九〇〇年が「二十世紀最初の年」になると、十九世紀は「一八〇〇年から一八九九年まで」、二十世紀は「一九〇〇年から一九九九年まで」になる。二十世紀のくせに二〇〇〇はないし、十九世紀のくせに一九〇〇もない。「世紀」というものを、「〇一の年で始まり〇〇の年で終わる百年」ということにすれば、「十九世紀のゴールとしての一九〇〇年、二十世紀のゴールとしての二〇〇〇年」になるのだが、「〇〇の年から始めて九九の年で終わる百年」だと、そうはならない。しかもその上に、もう一つ重大なミスが発生する。「世紀」を「〇〇の年から始めて九九の年で終わる百年」にすると、その最初の紀元一世紀が、「九十九年間しかない一世紀」になってしまうからである。なにしろ西暦には、「紀元〇年」というものがない。「世紀」という単位の起点は、「〇一の年」以外にありえなくて、それを起点にした百年のゴールは、「〇〇の年」以外ありえないのである。  「世紀」という考え方を成り立たせる西暦の根本にあるものは、「イエス・キリストの誕生年を紀元一年とする」である。これは、紀元六世紀になってディオニシウス・エクシグスというキリスト教の神学者が言い出したことである。現在では、「イエス・キリストの誕生年は紀元前七年」ということになっているから、この西暦の算定基準はもうずれているのだが、かつての人々は、「イエス・キリストの誕生年であるあの年[#「あの年」に傍点]を紀元一年とする」という前提に従っていた。だがしかし、これもよく考えてみるとおかしい——というのは、今の我々が、「生まれた年=一歳」という年齢の数え方をしないからである。今の我々は、「満年齢」方式を採用して、「人は生まれて一年目の誕生日を迎えた時に一歳としてカウントされる」という数え方をする。「イエス・キリストの誕生年を紀元一年とする」という西暦は、「人は、生まれたその時点で一歳となり、新年を迎える度に、全員が揃って一歳ずつ年を取っていく」という「数え年」方式と同じで、古い方式なのである。  「イエス・キリストの誕生年を紀元一年とする」という西暦の考え方は、「数え年」方式によるもので、この考え方に従えば「紀元一世紀が九十九年しかなくてもかまわない」ということになる。「生まれてから九十九年しかたっていない人間でも、百歳としてカウントする」は、「数え年」方式では当然のことだからだ。ということになると、ドイツ皇帝のヴィルヘルム二世は、「数え年感覚で生きていた古臭いジーさん」になってしまうが、問題はそういうことではない。実は、一九〇一年の一月一日、日本の慶応義塾では、正しく「二十世紀の到来」を祝う祝典をやっていたのである。問題は、日本人は間違えなかったのに、どうして本場のヨーロッパ人は平気で間違えたのかというところにある。  「世紀」という考え方は、当然古くからある。しかし、この考え方が一般的になるのは、ヨーロッパでも十八世紀頃で、「新世紀の到来を祝う」などという発想が生まれるのは、なんと、十九世紀になってからなのである。だからこそ、「世紀末」は十九世紀になって初めて訪れ、「世紀の初めの年は一の年か〇の年か」という論争もその時に起こる。「人は十九世紀の最初をどう考えていたんだろう?」と考えてもむだである。一八〇〇年や一八〇一年の頃には、「新しい世紀を祝う」という発想自体がなかった。「新世紀を祝う」は、二十世紀を迎えることによって初めて獲得された「新しいお祭り」なのである。  洋の東西を問わず、人間は「百年単位の記念」というのが好きである。「新しい世紀の到来を祝う」も、そんな景気づけの一つで、景気のいい時代のヨーロッパに、この祭典は生まれた。十九世紀のヨーロッパは、十分に景気がよかったのである。なにしろ「帝国主義の時代」である。イギリスは「太陽の沈まぬ帝国」となり、その他の国も、東洋の各地を植民地として侵略することを当然として、「ヨーロッパの栄光」は成り立っていた。ヨーロッパにとって、十九世紀は「勝利の時代」で、そこに「新しい二十世紀」がやって来る。「新世紀の到来」とは、「ヨーロッパ栄光達成百年記念」のようなものであり、「十九世紀の終わりになってから�新世紀�という発想がヨーロッパには定着した」という事実は、「その時ヨーロッパは十分豊かになっていた」という事実と重なるものであろう。  ヨーロッパは十九世紀に「勝者」となる。しかし、それ以前のヨーロッパはどうだったか? ヨーロッパは、東洋に比べて劣弱だった。インドも中国もイスラムも、さらには大草原を駆けめぐった蒙古の大帝国も、弱小ヨーロッパを脅かす力を持った強大なる�敵�だった。東洋の大帝国に比べれば、ヨーロッパは単なる「小国」であり「文化の後進国」でしかなかった。東洋は、ヨーロッパのコンプレックスを掻き立てるところであり、その形勢が、十八世紀末ヨーロッパの産業革命によって変わるのだ。東洋の大国に圧倒されていたヨーロッパは、もう「東洋を支配する力のある先進大国」である。勝利を得たヨーロッパに「ヨーロッパ栄光百年記念祝典」が発想されても不思議はあるまい。「二十世紀の到来」とは、それなのである。  東洋への劣等感に震えていたヨーロッパは、十九世紀になって勝利を得た。その豊かさの上に、「新世紀」という節目がやって来る。素晴らしい繁栄はさらに続き、勝利を得たヨーロッパはますます栄える——それを疑う人間などいなかったろう。二十世紀はそうしてやって来た。「一九〇〇年を二十世紀の最初の年とする!」は、紛れもない喜びの声で、それは「ヨーロッパ栄光一千九百年記念」でもあり、「いいことは一年でも早く来い!」なのだ。「繁栄は続く。それはもっともっと続く」——二十世紀とは、そういう思い込みによって始められた時代であり、だからこそ、二十世紀はその思い込みの中にいた。「なるほどなー」としか言いようのない事実である。 [#改ページ]       1 9 0 1  一九〇一年——二十世紀最初の年の一月二十二日、一人の女性が死んだ。十九世紀ヨーロッパの繁栄そのものを象徴するような、大英帝国の元首ヴィクトリア女王である。ヴィクトリア女王が死んで、ヨーロッパの二十世紀は始まる。ヴィクトリア女王の死から三カ月と少したった四月二十九日、日本では一人の男児が生まれる。後の昭和天皇である。二十世紀最初の年、後に在位最長記録を作る天皇となるような皇太子が、日本に生まれる。  ヴィクトリア女王の在位は六十四年間——六十四年目の一月に死んだ。偶然の一致だが、これは日本の昭和天皇と同じである。昭和天皇も、在位六十四年目の一月に死んだ。  昭和天皇|崩御《ほうぎよ》の年となった一九八九年は、�大変動時代�の幕開けともなるような大事件連発の年であった。「象徴天皇制」と言われ、実際にはなんの権力も持たなかったはずの昭和天皇が死んで、日本はガタガタになった。昭和天皇崩御の年はバブルの絶頂期で、ほどなくこれが壊滅して、以後の日本は、「一体どうしちゃったんだ?」と言いたくなるぐらいの末期症状を呈する。ところが、十九世紀帝国主義の象徴であるようなヴィクトリア女王が死んで、イギリスもヨーロッパも平穏無事だった。彼女の死とは無関係に、ヨーロッパは新しい世紀に足を進め、しばらくは順調に繁栄を続けていった。  ヴィクトリア女王が死んでも、イギリスやヨーロッパの繁栄を支える体制は揺るがなかった。別に彼女は、アレクサンダー大王でもナポレオンでも秦の始皇帝でもなく、大英帝国は、「彼女の指揮の下に空前の繁栄を見た」というわけでもなかった。彼女は繁栄する大英帝国の�象徴�だったのだ。だからこそ、彼女の死とは無関係に[#「彼女の死とは無関係に」に傍点]、ヨーロッパの繁栄を支えた体制はゆっくりと崩れていく[#「ゆっくりと崩れていく」に傍点]。  一九一四年に勃発した第一次世界大戦は、まだ�王様がいる戦争�だった。この当時のイギリス国王ジョージ五世は、ヴィクトリア女王の孫だった。イギリスと戦ったドイツの皇帝——あの「一九〇〇年を二十世紀の最初の年とする」と宣言したヴィルヘルム二世も、ヴィクトリア女王の孫だった。ロシアの皇帝ニコライ二世の妃も、ヴィクトリア女王の孫だった。ニコライ二世とジョージ五世は、デンマーク王室からやって来た姉妹を母に持つ、従兄弟同士でもあった。  ニコライ二世の妻は、ドイツへ嫁に行ったヴィクトリア女王の娘から生まれた。彼女はヴィクトリア女王に非常に愛されて、ドイツの家の生活もイギリス風だった。ロシア皇帝の妃は英語を話して、ほとんどイギリス人のような人だった。ニコライ二世と妻は、英語で会話をした。妻は夫を「ニッキー」と呼んだ。ところでしかし、ヨーロッパ社交界の標準語はフランス語だった。ロシアの王室でも、デンマークから来た皇太后はフランス語を話した。当然皇太后は、敵国ドイツから来て息子と英語で話す嫁を憎んだ。あきれたことに、ロシア革命を引き起こしたロマノフ王朝の一族は、ロシアの言葉とはいたって遠いところにいた人達なのである。民衆の怒りが爆発して革命になってもしかたがないだろう。  今や誰もそんなことは言わないけれども、第一次世界大戦は、ヴィクトリア女王の孫同士が争った�身内の大喧嘩�だったりもするのである。  第一次世界大戦をきっかけとして、�王様�が政治の表舞台に出てくることは、少なくともヨーロッパでは、ほとんどなくなった。ロシアでは皇帝が処刑され、社会主義国家が生まれる。第二次世界大戦の後の世界を牛耳ったのは、�王様�のいない二大国、アメリカとソ連だった。二十世紀の歴史家は、�王様�によって歴史を語ろうとはしなくなる。二十世紀の現実と�王様�の存在とは、ほとんど関係がないと言ってもいい。しかしこの二十世紀は、「王様が消えて行く世紀」ではあっても、「はじめから王様がいなかった世紀」ではないのだ。  十九世紀はイギリスの時代だった。ヴィクトリア女王治世下のイギリスは世界中に版図《はんと》を広げて、「太陽が没することのない帝国」と言われた。だから、十九世紀のヨーロッパ各国は、その�イギリス式繁栄�を目指して、植民地競争と産業革命に狂奔した。しかし、大英帝国の象徴ヴィクトリア女王の死によって始まる二十世紀とは、イギリスとヨーロッパが段階を追って没落して行く時間でもあった。  第一次世界大戦があり、第二次世界大戦があり、この二つの大戦を通してヨーロッパの国力は削がれ、二十世紀後半の世界はアメリカ・ソ連の二大国のものとなる。しかし一九八〇年代になるとこの二大国も傾いて、世界は「日本の時代」になる。  昭和天皇を�象徴�としていただいていた日本は、やがて空前絶後の繁栄を誇るようになり、そしてその日本は、昭和の終焉と共にガタガタになる。なぜなんだろう?  我々は、二十世紀に関して大きなカン違いをしている。確かに、二十世紀は�新しい世紀�だった。しかしそれは、「今までとはまったく無関係に新しい世紀」ではなかった。二十世紀は、まだまだ十九世紀的な古さを引きずっていた——�王様�のいた十九世紀的な古さを。しかし新しさに溺れた二十世紀は、その終わってしまった十九世紀を、「関係ない」として、あまりにも無頓着にほうり出してしまった——私にはそうだとしか思えない。だからこそ、二十世紀末葉の日本人は「時代の変動」にビクビクしていなければならなくなった。その国の�象徴�ともなる人の死と共にガタガタになってしまったのが日本という国である以上、そうとしか考えられない。つまり日本は、いたって十九世紀的な国だったということである。  ヴィクトリア女王の死は、せっかちには何事も語らない。しかし、この十九世紀ヨーロッパの繁栄をつかさどる女王の死は、やがて訪れるヨーロッパの衰退を、いたって遠回しに、象徴的に語る——そう思ってもいいのだ。なにしろ我々は、それから八十八年目の年の初めに�象徴�の死に遭遇し、そこからすぐにガタガタになってしまった国の存在を知っているからだ。  二十世紀の最初の年、ヴィクトリア女王が死んで昭和天皇が生まれた——このことはなにも語っていないのかもしれない。在位年数が同じというのも、偶然の一致かもしれない。しかし、二十世紀の最初の年にヴィクトリア女王が死んで、その後ヨーロッパがゆるやかに衰退していったのは事実だ。  医学の発達した二十世紀末の昭和天皇は、ヴィクトリア女王よりも長命だった。しかし、十九世紀から遠い二十世紀の末には、繁栄を作る十九世紀的なシステムはもう機能しなかった。イギリスの没落が�徐々に�で、日本の没落が�急速に�である差は、それだけかもしれない。  ともかく、二十世紀の最初の年、ヴィクトリア女王は死に、昭和天皇は生まれた。これは、まぎれもない�事実�なのである。 [#改ページ]       1 9 0 2  一九〇二年がどういう年かというと、日本史的には「日英同盟が締結された年」です。イギリスが�光栄ある孤立�を捨てて、初めて外国と同盟を結んだ——つまり、「太陽が没することのない帝国」にも、もうそうそう安閑としていられなくなる時代がやって来ていたということですね。大英帝国の繁栄を象徴したヴィクトリア女王が死んだ約一年後のことです。  まァ、それはそれとして、他にこの年にどんなことがあったかを見回すと、「これこそが一九〇二年だ!」と言えるような特徴的なものがありません。世界中にいろいろな事件はあったとしても——です。それで、今回はいたって個人的なことを書くことにします。それは、私の家がいつからガスで風呂を焚くようになったかということです。  一九〇二年の二月、既に存在していた東京瓦斯会社——つまり「東京ガス」です——が、「ガス炊飯かまど」の専売特許を取得している。「ガス炊飯器」ではなくて、「ガスのかまど」です。若い人は「かまど」なんてものを知らないかもしれないけど、要は、「ガスこんろが登場した」というようなことです。同じ年の七月には、当時の日本の先進地域であった横浜の料理店や牛鍋屋で、「ガス七輪《しちりん》」の使用が始まったと伝えられています。「七輪」というのも「かまど」と同じように忘れられつつあるものですが、要するに、「すき焼きがガスこんろの上でグツグツ煮られるようになった」ということです。それが一九〇二年——日本の年号では明治三十五年、その頃になってやっと日本では、ガス灯の�照明用�だったガスが、�燃料用�に使われるようになったということですね。「二十世紀の初めの日本に登場したもっとも特徴的なものを挙げろ」と言われたら、「ガスこんろ」と言えばいいということです。  「ガス灯の初め」は教科書に出てくるように思います。でも、「ガスこんろの初め」はあまり出てこないように思います。なぜでしょう? それは、やがてガス灯がはやらなくなって、電球の時代がやってくるからでしょう。今じゃ、ガス灯なんて明治村にでも行かなきゃ見られません。でも、ガスこんろは今でもあります。あまりにも自然にありすぎて、その初めなんか誰も気にしないってことじゃないでしょうか。  ガスこんろは、やがて日本中に普及します。でも、いつ頃それが画期的に普及した[#「画期的に普及した」に傍点]のかということになると、よく分からない——分かってもあんまり意味がないような気がします。日本で白黒テレビが画期的に普及したのは、昭和三十四年の「皇太子御成婚」の時でした。カラーテレビが普及したのは、昭和三十九年の東京オリンピックの時でした。ものには、�エポックメーキングな普及�もありますが、�なんとなくいつの間にか�という普及もあるんです。日本人の生活と切っても切れないガスこんろも、その一つでしょう。  ガスかまど・ガス七輪がガスこんろになり、ガスレンジになった。形は少しだけオシャレになって、それがガスこんろであることは終始一貫変わらない。ガスこんろは、二十世紀の初めから、ジワリジワリと日本人の生活を変えてきたのでしょう。日本人の生活も、ガスこんろの普及のように、ジワリジワリと変わってきたのだと思います。  ところで、私の家にガスこんろが登場したのは、昭和二十九年のことでした。最初のガスこんろから五十三年後のことです。それまでは、「カマド」にマキを焚いて炊事をしていました。日本でガスこんろが一般家庭[#「一般家庭」に傍点]に普及するまで、二分の一世紀がたっていたのです。私の家は、別にガスのない山奥ではなくて、東京ガスのある、東京の杉並区でした。その年に家の改築をして、台所でガスが使えるようになったのです。私が小学校に入った年でした。近所の家の陰にあった「ガスメーター」というものを、私はやっと自分の家の陰に見ることが出来たのです。ところで、新しくやって来たガスこんろを見た私は、�文明の訪れ�に目を剥いたでしょうか?  その頃、既にアメリカのグラビア雑誌を見て「アメリカの台所」というものを知っていた生意気な私は、鋳物製のガスこんろを見て、「へんなの」と思いました。「貧乏ったらしい」とも思いました。朝ご飯のおかずの海苔をあぶるのにガスこんろの火を使おうとした私は、おじいちゃんに「ガスはいけない」と言われました。海苔のような高級なものは、火鉢の炭火であぶらなければいけないというのです。それで私は、「そうか」と思いました。「ガスは二流の火だから、あまり使い途はないのだ」とさえ思いました。  おモチは火鉢で焼きました。スルメも火鉢であぶりました。食事前には、よくお鍋が火鉢の上にのっていました。料理の仕上げには、火鉢の火のようなデリケートな火でなければいけないのだと思っていました。そればかりではありません。なんと、ガスこんろが一つしかない——普通の家でこれはごく当たり前のことでしたが——私の家では、ごはんをまだマキで炊いていたのです。  ブリキの一斗缶の横っ腹に焚き口となるような穴を開けて、そこにマキを突っ込んで、上にお釜をのせてご飯を炊くのが、私の家の日常でした。ガスがやって来たおかげで「カマド」がなくなってしまったため、そういうことをしたのです。  当然、そのブリキ缶製の「簡易カマド」は、家の中には置けません。それで、ご飯は�外�で炊いていました。雨が降っても同じです。雨に濡れながら、ウチのお母さんやおばあちゃんは、�外�でご飯を炊いていたのです。江戸時代の長屋のようです。サンマも外で焼いていました。台所に、まだ換気扇などというものがなかったからですが、私はその光景を、いたって自然なことだと思っていました。  我が家にガス炊飯器というのが登場したのは、ガスこんろがやって来た五年後のことです。我が家に住み込みで働く人の数が増えて、今までのお釜では小さくなったので、それで大きなガス釜を買ったのです。しばらくして、ガスこんろが二つセットされているガスレンジというのも買いました。我が家の台所が完全にガス化されたのは、日本にガスこんろが登場してから約六十年後のことでした。  ところでそうなっても、我が家のお風呂はマキでした。家は商売をやっていて、廃材がやたら出たもので、それをムダにしないように、お風呂はマキで焚いていたのです。マサカリかついでマキ割りをしていたのは、私でした。ビートルズの歌が流れる東京の�山の手�と言われるようなところでした。我が家のお風呂が手間のいらないガスになったのは、一九七〇年代に入ってからのことです。日本でガスが�燃料�として使用されるようになってから、七十年がたっていました。  �政治�や�流行�が介入しないと、二十世紀はけっこうゆっくり進むものらしいです。 [#改ページ]       1 9 0 3  この年、ライト兄弟が空を飛んだ。「飛行機」なるものの誕生である。飛行機は二十世紀の発明で、「最初に飛行機を飛ばすことに成功した人」はライト兄弟である。しかし彼等がやったことは、「最初にガソリンエンジン付き[#「ガソリンエンジン付き」に傍点]の飛行機を飛ばした」だった。エンジンの付いてない飛行機なら、その五十年前の一八五三年に、イギリスでグライダーが四百五十メートルばかり空を飛んでいる(ライト兄弟の「飛行機」は、高度三メートルで十二秒間、三百六十メートルしか飛ばなかった)。こんなに空を飛んだ機械を作ったのは、ジョージ・ケイリー卿という八十歳の老貴族で、「空を飛ぶ」などという恐ろしいことを経験させられたのは、彼の使用人だった。ジョージ・ケイリー卿という人は、どうも「空飛ぶ機械」のことばかりを考え続けていた人らしいのだが、しかしこの人は、その「空飛ぶ機械」にエンジンを付けなかった。どうしてかというと、一八五三年の時点では、まだガソリンエンジンというものが発明されていなかったからだ。  最初の内燃機関は、石油ではなく石炭ガスを使ったものだが、これが完成したのは一八六〇年だった。その後、一八八三年にドイツ人のダイムラーがガソリンを使ったエンジンを発明する。一八八五年には、ベンツというドイツ人が、世界で最初のガソリンエンジン付きの四輪車を走らせている。これが自動車の始まりだが、しかしこの頃の自動車には、まだゴムタイヤがなかった。ゴムのタイヤは、一八八八年にイギリス人の獣医ドクター・ダンロップによって発明されるのだが、これは子供の三輪車用の発明だった。三輪車用が自転車用になり、自動車にゴムタイヤが取り付けられるのは、一八九二年のフランスでのこと——ということはどういうことかと言うと、自動車が今の我々の知る「自動車」となったのは、ガソリンエンジンを載せた飛行機が空を飛ぶ、わずか十一年前のことだということである。「自動車の発明」と「飛行機の発明」ということになると、我々はどうしても「自動車が先、飛行機はそのずっと後」と考えたくなるけれども、自動車の登場と飛行機の登場は、かなり接近しているのだ。  一八九二年にゴムタイヤの付いた自動車は、自動車らしくなった。しかしその自動車も、一八九五年のアメリカでは、わずか四台しか作られなかった。ライト兄弟のエンジン付き機械がアメリカの空を飛んだ一九〇三年には、ヘンリー・フォードというアメリカ人が自動車会社を設立する。しかしフォード社が自動車の大量生産を開始するのは、その十年後である。  一九〇三年のライト兄弟の作った機械はろくに空を飛べなかったけれども、一九〇九年になると、もう飛行機はドーヴァー海峡を横断して、一九一四年に勃発した第一次世界大戦では、空中戦を演じられるようになっていた。これは、フォード社が自動車の大量生産を開始した時期と重なる。自動車の歴史と飛行機の歴史は、かなり接近している。「飛行機と自動車はどちらが日常的に必要か?」になったら、答は「自動車」で、だからこそ自動車の大量生産がまず必要とされたのだろう。「飛行機の歴史より自動車の歴史の方が先だ」と思うのは、「飛行機が身近なものになるのにはかなりの時間がかかった」というだけの話で、距離を別にすれば、飛行機の基本料金はタクシーのそれよりもずっと高いのだ。  二十世紀は、「自動車の時代」とも「飛行機の時代」とも言われる。エンジン付きの飛行機が最初に空を飛んだのは一九〇三年だから、飛行機は二十世紀の発明品である。しかし自動車だって、その完成は十九世紀の終わりだ。問題は、「飛行機か、自動車か」ということではなく、それを可能にしたモーター・エンジンが十九世紀の終わりにならなければ完成しなかったということなのだ。それがなければ、自動車もないし飛行機もない——というところで、「人類は二十世紀になって�なに�を発明したのだろうか?」である。  二十世紀になって発明されたものはいくつもあると思うかもしれないが、どっこい、二十世紀になって発明されたものは、そんなにもない。飛行機とラジオとテレビと原子爆弾ぐらいで、あらかたのものがもう十九世紀に発明され、想像され、完成してしまっているのである。  一八八六年——この年にコカコーラは発売されるのだが、アメリカの国勢調査局に勤めていたハーマン・ホレリスは、データ処理の仕事を効率的にするため、「情報が記録されているカードに穴を開ける」ということをした。そのカードを電動式の機械にかけるのである。つまり、パンチカードシステムによるコンピューターの誕生である。この世界最初のコンピューターが誕生した年は、エジソンが白熱電球を完成させた一八七九年のたった七年後で、しかも驚くべきことに、電気が一般家庭に送電されるようになったのは一八八五年なのだ。電気生活の始まりとコンピューターの最初は一年しか違わなくて、最初のコカコーラと最初のコンピューターは、同年の十九世紀生まれなのだ。  リュミエール兄弟が世界初の映画を上映したのは一八九五年。世界初のラジオ放送は一九一六年だが、エジソンは、その三十三年前の一八八三年にラジオ用真空管の特許を取っている。発明王エジソンの主な発明は十九世紀に集中していて、二十世紀のエジソンはたいしたことをしていない。天気予報は一八六一年に始まり、卓上扇風機は一八八二年に作られ、「原子には核があって電子がそのまわりを回っている」ということは、一八九七年に確認されている。一八五一年にはドーヴァー海峡の海底に電信ケーブルが埋められ、ロイター通信社も創設されているのだが、この世界に情報を送るロイター通信社は、海底ケーブルと一緒に「伝書鳩」も使う。それが商業通信用に使われた伝書鳩の最初だが、必要なら海底電線も伝書鳩も一緒に登場させるというのが、いたって実用的な十九世紀である。  十九世紀は、とんでもなくいろんなものが空想され、必要とされ、利用され、その結果、様々な発明発見がなされた時代なのだが、この十九世紀の目覚ましさに比べれば、二十世紀はろくな発明発見をしていない。  現代生活の基礎となるもののほとんどは、十九世紀に登場する。二十世紀のしたことは、この前世紀の成果を利用して、ただ普及させるだけだった——その典型が、十九世紀の末に完成され二十世紀に大量生産される、自動車なのである。二十世紀は、「普及の時代」だった。つまり、「自分ではなんにも発明しないで他人の発明品を改良して売るだけの猿マネ日本人」には、とても似つかわしい時代だったということである。  一九七〇年代、日本車はアメリカを征服した。しかし、そのアメリカだって、ヨーロッパ由来の発明品・自動車を大量に生産しただけだった。二十世紀は、とても日本的な世紀だったということである。 [#改ページ]       1 9 0 4  この年は日露戦争の年である。しかたがないので、日露戦争にいたるまでの、東アジアの国際情勢を述べることにする。  十九世紀の後半は、ヨーロッパが急膨張して、アフリカやアジアを呑み込もうとする時代である。インドのムガール帝国がイギリスの保護国となるのが一八〇四年、その結果中国がイギリスに香港を渡すことになるアヘン戦争が起こるのが一八四〇年。鎖国をしていた中国が、ほんのちょっとだけ西洋に門戸を開放するのはこの戦争に負けてからだが、そうなって中国には西洋が入り込む。洪秀全《こうしゆうぜん》という一人の中国人がたまたまキリスト教の伝道書を手に入れて読んで、「何年か前、自分が病気の時に見た夢は、このことを告げていたのか……」と愕然とする。彼が見た夢というのは、「気品のある金髪の老人の住んでいる立派な宮殿に洪秀全が招かれ、�全世界の人類は私が生んだのに、誰も私の言うことを聞かないで、悪魔を崇拝している。お前だけはそうならずに悪魔を滅ぼしてくれ�と頼まれ、剣を渡される」というものである。「そうだったのか……」と気がついた洪秀全が引き起こすのが、太平天国の乱である。  太平天国の乱は一八五〇年から始まり、黒船に乗ったペリーが日本の浦賀にやって来たのは、この太平天国が南京を占領して、中国が大揺れになっている時だった。黒船の襲来に驚いた日本は、開国だ攘夷《じようい》だと大|揉《も》めになったが、結局日本は開国をしてしまった。そして、徳川幕府は潰れ、近代化を目指して一八六八年には明治維新となる。なんのへんてつもない話かもしれないが、日本が明治維新に向かって進んで行くしかなかったのは、結局のところ、当時のアジア情勢が「そうしろ」と言っていたからなのである。  中国では太平天国の乱が続いていた。太平天国の乱が終わるのは、一八六四年である。インドでは、イギリス人に対するセポイの反乱が一八五七年に起こるが、ムガール帝国は滅亡する。インドはイギリスの直轄地になる。アヘン戦争の結果に味をしめたイギリスは、一八五六年、さらにアロー戦争を中国に仕掛ける。この時には、フランスもイギリスに相乗りして中国を狙う。「ボヤボヤしてたらインドや中国の二の舞いになるぞ」とまともな日本人達は考えて、近代化への道を選んだのである。  近代化への道を選んだ日本は、その後西洋のマネばかりするようになる。なんでそんなことをしなければならなかったのかと言えば、その最大の理由は、「それをしなければ西洋に侵略されるから」である。十九世紀後半の日本の前にあった選択肢は、「西洋のようになって他国を侵略するか、他国のように西洋から侵略されるか」のどっちかしかなかった。  「侵略されたくなかったら侵略者になれ」というのはとんでもない選択肢だと思うかもしれないが、世の中というのは存外そんなものだ。「受験競争の脱落者になりたくなかったら、いい大学に入れ」というのは、実のところ、「侵略されたくなかったら侵略者になれ」のヴァリエーションなのである。力というものがすべてを決める十九世紀というのは、そういうとんでもない選択肢しかない時代だったのだ。  それで日本は、西洋並の�侵略者への道�を歩む——これが十九世紀後半における「開国して近代化する」の実相だったのである。なにしろ、当時の近代化された先進国は、みんな他国の吸収合併を目指し、自国の領土と勢力を広げることだけを考えていた侵略者なのだから、「近代化して先進国並になる」といったら、「他国並の侵略者になる」でしかなかったのである。  十九世紀の後半のアジアは、急膨張する西洋に呑み込まれようとする時代だった。これはどういうことかというと、「イナカに都市化の波が押し寄せて、ついこないだまでは農村地帯だったところが、都市生活者のための住宅地に変わってしまう」というようなことである。それまで進学競争とは無縁だったイナカの子供達が、新設された受験校に吸収合併されてしまったようなものなのである。  「地元の大地主の子供」が、たとえて言えば、中国である。その子の子分になっている分家の小規模地主の子供が、朝鮮である。日本は、貧乏な自営農の子だった。そういうイナカの子供達が、都会から来た子供達と一緒の教室で勉強するようになった——これが十九世紀後半の東アジアなのである。  貧乏な自営農の子だった日本は、「さっさと都会の子みたいになろう」と思った。「今まで地主の一族の子達とつきあってたけど、よく考えたら、ウチは地主と親戚じゃないしな」などと考えた。都会の子みたいなファッションを着て、都会の子と一緒に受験勉強に精を出しはじめたら、あんまり勉強をしない地元の子が、なんだか貧乏ったらしいように見えて、侮《あなど》る気持ちが出てきた。「大地主の子とはちょっとケンカしづらいけど、あの分家の子ならボーッとしてて、オレの子分になるかもしれない」などと、悪いことを考えはじめた。なんでそんなことを考えたのかというと、都会から来た子供達は、みんな�自分の子分�というのを持っていたからである。「お前のこと仲間に入れてやってもいいけど、お前には�子分�ているのかよ?」と、カッコいい都会の子が言ってるような気がした。都会の子は都会の子で、「ケンカが強くないやつは仲間に入れてやらない」と言っているのである。  それで、都会に憧れた貧しい自営農の子は、「ぼくも分家の地主の子をケンカでやっつけて子分にして、一人前の都会の子になろう」と考えたのである。これが、日本の朝鮮侵略のはじめなのである。  「きみだってさ、いつまでも本家の子の言うこと聞いてることないよ。きみはきみなんだからさ」と、日本は分家の地主の子に迫ったのである。しかし分家の地主の子は、「ぼくは今まで通りでいい」と言った。それで日本は、さらに「どうして? きみって遅れてるな。あ、分かった、きみって、都会の子とつきあう方法知らないんだ。それでビクビクしてるんだ。だったらぼくが教えてやるよ。ぼくと友達になんない? ぼくの言うこと聞いたら、なんでも教えてやるからさ」と言った——日本の朝鮮侵略とはこういうものだった。  分家の地主の子にちょっかいを出した日本は、その結果、分家の子を子分にしている本家の大地主の子とケンカをしなければならなくなった。つまりそれが、一八九四年の日清戦争なのである。  日本は、アジアというイナカの子とのケンカに勝った。そして、「ぼくは都会の子になれた」と思った。そうしたら、今度は都会の子がケンカを売ってきたのである——「お前、あんまりでかい顔すんなよ」と。一九〇四年に勃発する日露戦争は、「都会の子になりたかったら、都会の子とのケンカに勝たなければならない」という、イナカの子・日本に課された、新たなるハードルだったのである。 [#改ページ]       1 9 0 5  一九〇五年、日露戦争は終わった。  十九世紀は、アメリカを含むヨーロッパ勢力が、アジア・アフリカに向かって急膨張する時代である。ヨーロッパの東には、歴史の古い様々な大国があって、ヨーロッパはこれを侵略し吸収していく。エジプト、トルコからインドにかけては、イスラム系の国々があった。大帝国であるはずのオスマントルコは「瀕死の病人」と言われ、エジプトや、インドのムガール帝国は、内紛でガタガタになっていた。オスマントルコは、ともかく第一次世界大戦に参戦するのだから、国としての体面をたもってはいたが、他はいとも簡単にヨーロッパに吸収される。ヨーロッパが次に目をつけたのは、「眠れる獅子」と呼ばれる清朝の中国だった。ヨーロッパよりも歴史が古く、領土も広く、皇帝の権力も強大だった中国は、ヨーロッパにとっての�脅威�だった。しかし、一八九四年から九五年にかけての日清戦争で、中国は日本に負けた。「なんだ、たいしたことはない。あれは�死んだ獅子�だ」ということになって、ヨーロッパ勢力の中国侵略は積極的に開始される。日清戦争に勝った日本も、中国からヨーロッパ並の領土を手に入れたはずだったが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉によって、中国から割譲《かつじよう》された遼東《リヤオトン》半島を手放すことになる。三国干渉のリーダーシップを握ったのは大国ロシアで、そこから日本は、ロシアとの戦いへ踏み出すことになる。日露戦争は一九〇四年に始まり、一九〇五年に終わった。結果は、日本の勝ちだった。絶対に負けるはずがないと思われていた「世界最強の陸軍国」ロシアが、日本に負けた——ここまでが世界史の常識である。  それでは、この�常識�の中にどのような問題が含まれているのだろうか? こういう世界史の流れの中で、日本のやったことにはなんの意味があるのか? 一体日本は�なに�をやったのか?——ということである。  日本は�なに�をやったのか?  日本のやったことは、「大国というものの定義を引っくり返した」である。「戦争に負けるはずのない大国」と思われていた中国とロシアが、日本に負けた。その後、中国はヨーロッパや日本の植民地として侵略され、ロシアには革命が起こる。中国もロシアも�大きな国�ではあったのかもしれないが、実は近代化の遅れた�後進国�だった——そのことを証明してしまったのが日本だったということである。  �大国�というものは、領土の大きさでもなく、皇帝の権力の大きさでもない。要は、侵略を可能にする近代のノウハウを持っているかどうかだった。一八六八年の明治維新から�近代化�への道を歩み出した日本は、三十数年の間にそれを達成していたのである。  日本で憲法が発布されたのは一八八九年、帝国議会の開会はその翌年だった。中国ではどうか? 最大の権力者・西太后が死ぬ一九〇八年になって、「八年後の一九一六年に憲法を発布し、国会を開設する予定である」ということが発表される。ロシアの議会開設と憲法発布は、一九〇六年。旅順《りよじゆん》のロシア要塞が日本軍によって陥落し、血の日曜日事件が起こり、戦艦ポチョムキンに反乱が起こり、国内は大騒ぎになり、日本との戦争に「負け」を認めるしかなくなって、それを認めた後だった。一九〇五年十月、皇帝は「来年議会を開設し、憲法を作る」という約束する。  王様の権限を規定する憲法があり、選挙による国民の代表が議会を作るということは、近代化の指標の一つなのだけれども、皇帝という名の最高権力者が「私がすべてを決めるんだからそんなものはなくていい」と言っていた中国やロシアに、そういう�近代化�は訪れなかった。それが訪れたのは、日本に負けた後なのである。いかに国が大きかろうと、最高権力者一人にすべてがゆだねられている国と、国民の一人一人に自覚が要求される国とではどっちが強いかということになったら、答ははっきりしている。「人は石垣、人は城」と言った武田信玄の昔以来、国民の自覚がある方が強いのである。近代というのは、そのことが明確になる時代だった。  もちろんこんなことは、近代化の先駆者であるヨーロッパ人にはとうに分かっているはずだった。ところがそのヨーロッパ人達は、「歴史のある大国だから、皇帝が親戚だから」といういたって単純な理由で、中国やロシアの強さを信じていた。ロシアの皇帝は、イギリスやドイツの皇帝と親戚同士だった。近代化を達成して、ヨーロッパ外の国々を侵略出来るようになっていたヨーロッパの国々は、根本のカン違いを忘れていたのである。  ヨーロッパ大陸の国々は、みんなどちらかと言えば、領土的には�小国�である。ヨーロッパは、自分達の国よりも大きな国を侵略してきたのである。近代化を達成した小国ヨーロッパは、国外に領土を広げた。ヨーロッパは、そのようにして�大国�になった。日本と同じ島国のイギリスが「太陽の没するところのない帝国」になったのは、その典型だ。  大国になる前のヨーロッパは、自分達の外にある�大国�にコンプレックスを持っていた——だから、ヨーロッパは�大国�になろうとしたのである。私には、そうだとしか思えない。そして、�大国�になったヨーロッパは、カン違いをしたのである。  国の大きさは、�結果�なのである。重要なのは、「大国になれるだけのノウハウを持っているかどうか」なのだ。近代化を達成した日本にはそれがあった。事実は、ただそれだけなのだ。それがないから、エジプトもトルコもインドも中国もロシアも、負けた[#「負けた」に傍点]のだ。  日露戦争に負けたロシアは、やがて革命への道を歩み出す。そして、一九一七年に社会主義革命を達成したロシアは、「ソヴィエト連邦社会主義共和国」となり、一九九一年にはこのソ連も崩壊する。ソ連が崩壊した後にロシアは再び[#「再び」に傍点]ガタガタになるのだけれども、ここにそんなにむずかしい理由はいらないだろう。皇帝の絶対権力の下でまともな議論の場=議会を持てなかったロシアは、持たないまんま、社会主義の絶対権力の下に入ってしまったからだ。ロシアの国民には�近代の成熟�がない。それだけの話である。  十九世紀の後半、ヨーロッパは急膨張をして、世界中がヨーロッパの支配下に入りそうになる。しかしそうなって、たった一つへんな例外があった。東のはずれの小国日本である。他の非ヨーロッパ諸国は、ヨーロッパ化することを拒んで、みんなヨーロッパに吸収された。しかしこの極東の小国だけは、自ら進んでヨーロッパ化への道を選んだ。そのことによって日本は、�被害者�となることをまぬがれたのである。  そして日本はどうなるのだろう? やがて、�加害者�への道をたどるようになるのである。それが大国化を目指すヨーロッパ化の必然だからである。  日本は勝って�加害者�になる。日露戦争は、そんな近代化の曲がり角だったのである。 [#改ページ]       1 9 0 6  この年、夏目漱石の『坊っちゃん』が発表された。  『坊っちゃん』は、もしかしたら今の日本人が普通に読める、唯一の明治文学である。もしかしたら、今の日本人が普通に読む�唯一の日本文学�かもしれない。小学生でも読める。そういうものが、もうこんな時代に書かれていたのである。奇跡のような気がする。何年か前、私はある編集者から「泉鏡花の現代語訳をやってくれませんか」と言われて、「え!?」と絶句したのだが、よく考えたら、もう今の人に泉鏡花の文章は難解なのかもしれない。難解でも、泉鏡花なら好きな人は好きだから、それでいいじゃないかと私は思う。泉鏡花の文体をいじくったら�泉鏡花�ではなくなってしまうだろうし。  それでは、樋口一葉はどうだろう? 今の高校生に『たけくらべ』を与えて、彼や彼女がすらすらと読めるだろうか? 疑問のような気もする。樋口一葉の現代語訳というのは、もう一部には存在しているのだ。しかし、まさか夏目漱石を現代語訳しろと言う人はいないだろう。奇跡のように、夏目漱石の文章は�現代文�になっているからだ。  『坊っちゃん』と同じ年に発表されたものでは、伊藤左千夫の『野菊の墓』と島崎藤村の『破戒』がある。翌年の一九〇七年になると、田山花袋の『蒲団』が発表される。いずれも、別に現代語に訳す必要はない文章である。  ところで、森鴎外は一八九〇年に『舞姫』を書いた。≪石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈《しねつとう》の光の晴れがましきも徒《あだ》なり≫——これは�現代文�ではない。  一八九五年には樋口一葉が『たけくらべ』を書いた。≪廻れば大門の見かへり柳いと長けれど、おはぐろ溝《どぶ》に燈火うつる三階の騒ぎも手に取る如く……≫——これも�現代文�ではない上に、センテンスが異様に長い。  十九世紀の最後の年、一九〇〇年に発表されたのは、泉鏡花の『高野聖』である。≪参謀本部の地図を又繰開いて見るでもなかろう、と思ったけれども、余りの道ぢゃから、手を触《さは》るさへ暑苦しい≫——表記は旧かなづかいのままだけれども、これは読める�現代文�である。  意外なことだが、森鴎外や樋口一葉よりも、泉鏡花の方が�現代文�なのである。これはなんのせいかと言ったら、時代のせいだろう。そのように私は思う。十九世紀の森鴎外は難解だが、二十世紀になった森鴎外は、こんな文章を書くのである。  ≪古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だということを記憶している≫——一九一一年に発表された『雁』の冒頭である。『坊っちゃん』の五年後、年号はまだまだ明治の四十四年なのだが、これはまぎれもない�現代文�だ。今の高校生でも読める。明治文学とか明治の文豪とかいうと、我々はみんな一色だと思ってしまうけれども、同じ明治でもけっこう違うのである。  明治三十四年である一九〇一年、国木田独歩は『武蔵野』を書いた。≪「武蔵野の俤《おもかげ》は今|纔《わづか》に入間郡に残れり」と自分は文政年間に出来た地図で見たことがある≫——この文章はまぎれもない�現代文�である。私は、この『武蔵野』が�現代文で書かれた最初の小説�ではないかと思うのだが、これは二十世紀最初の年の作品である。明治という時代は、十九世紀と二十世紀にまたがっていて、文学史をやる人は、「明治の文学・大正の文学」という風にしか分けないみたいだから、こういうものは見えにくいのかもしれない。しかし日本文学の歴史には、あきらかに十九世紀と二十世紀の間で線が引けるのだ。なにしろ、二十世紀になって登場する文学は、みんな�読める現代文�になっているからである。  日本の近代文学の歴史は、一八八七年に始まる。この年に、二葉亭四迷の日本で最初の言文一致体小説『浮雲』第一篇が出版されたからだ。『坊っちゃん』の十九年前である。二葉亭四迷の言文一致体がなかったら、現代文はなかった。二葉亭四迷は偉大である。しかしだからと言って、『浮雲』の後に続々と�現代文�で書かれた小説が登場したのかと言ったら、そうではなかった。『浮雲』と『坊っちゃん』の間には、『舞姫』があって『たけくらべ』があって『高野聖』があるのである。その後にやっと『武蔵野』が登場する。  言葉というものは、そうそう簡単には変わらない。言葉を使う人間の意識だって、そうそう簡単には変われない。今の我々が「分かりやすい」と思う文章が、その当時の人達に分かりやすかったかどうかは分からない。新しい文章で書かれたものよりも、今まで通りの文章で書かれた方が親しみやすい——昔も今もそうだが、�新しい�ということは、これに抵抗を感じる人にとっては、あまり受け入れたくないものなのである。  「言文一致体=二葉亭四迷の『浮雲』」という知識は、たいていの人が知っている。でも、その『浮雲』の文章がどんな文章かということになると、もしかしたら、それを教える先生だって知らないかもしれない。  「千早振《ちはやふ》る神無月《かみなづき》も最早|跡二日《あとふつか》の余波《なごり》となッた廿八日の午後三時頃に神田見附の内より塗渡《とわた》る蟻《あり》、散る蜘蛛《くも》の子とうようよぞよぞよ沸出《わきい》でて来るのは孰《いづ》れも顋《おとがい》を気にし給ふ方々……」——これが�現代文の元祖�である。読めないわけではないが、いたって読みにくい。�現代文�と言っていいのかどうか、迷いが出る。この三年後に書かれた森鴎外の『舞姫』の方が、より明確に古典的である分だけ、分かりやすい(と思う)。  誰かがなにかを発明したとしても、その発明が�実用�の域に達するまでは、けっこうな時間がかかる。なにしろ、�最初の現代文�である『浮雲』の冒頭が、いきなり�千早振る�の枕詞つきなのだから、現代文が現代文になるまでにはまだまだ時間がかかるし、まだまだ改良の余地はあった。夏目漱石が登場して流暢《りゆうちよう》な現代文を書いてくれるまで、我々は今口にしている言葉で文章を書けなかったし、もしかしたら、話すことだって出来なかったのかもしれないのだ。さすがに千円札になった人だけのことはある。  さてしかし、日本はそうだったのだが、果たして西洋の外国ではどうだったのだろうか? 意外や意外、こんな文学史もある——。  一九〇〇年『オズの魔法使い』『ちびくろサンボ』、一九〇二年『ピーター・ラビットの話』、一九〇六年『赤毛のアン』  日本人がシチめんどくさいことをやっている間に、海の向こうでは、さっさとこういう�成熟�が生まれていた。  日本人は、まず日本語を作り直さなければならなかった。しかし、日本に近代を教えた西洋諸国にそれは必要なかった。だから彼等は、もう高度な童話を書けていたのだ。羨ましいというのは、こんなことでもあろうか。 [#改ページ]       1 9 0 7  一九〇七年がどんな年かと言えば、おそらく�歴史に残らないような年�である。ヨーロッパにアール・ヌーヴォーの花は咲いていて、ピカソは前衛絵画の祖とも言うべき『アヴィニョンの娘たち』を発表する。受験に世界史を選択した人なら、「この年イギリス・フランス・ロシアの間で三国協商が成立した」ということを覚えるべき年だろうが、だからといってどうだというわけでもない。ヨーロッパが第一次世界大戦に巻き込まれるのは一九一四年で、�世紀末�を脱したヨーロッパは�古き佳き時代�の中にいた。  しかし、同じヨーロッパでも、南フランスのぶどう農家の人達にとっては違うかもしれない。この年、ぶどうの大量枯死に由来するデモが五月に発生して、それが六月には五十万人規模になり、数百人の市町村長が辞任してしまった。南アフリカのトランスヴァール共和国に移住して来ていたインド人にとっては、トランスヴァール政府が「インド人の移民制限」を発表して、ガンジーの指揮の下でインド人の不服従運動が始まる記念すべき年である。  一月には東京の株式市場で大暴落が起こり、二月には足尾《あしお》銅山で鉱夫と職員が衝突して大暴動になり、軍隊が出動して六百人が逮捕される。三月になれば、北海道の夕張炭鉱で賃上げ要求デモが起こり、幌内《ほろない》炭鉱でも千七百人が暴動を起こす。近畿の生野《いくの》鉱山でもやっぱり暴動。この年は、明治期の日本で労働争議が最も多かった年なのだが、ゴタゴタが多かったのは、なにも日本ばかりではなかった。  ルーマニアでは農民の大暴動が勃発して全国に広がり、これも軍隊に鎮圧される。モロッコのカサブランカでは一人のフランス人が殺されて、それを口実にしたフランスは軍艦を派遣して、モロッコの大西洋岸地帯を占領する。  オランダのハーグでは第二回万国平和会議が開催されていて、そこに日本からの侵略を受けていた韓国皇帝・高宗《こうそう》は密使を送る。「日本は韓国を侵略している」と皇帝は訴えるが、万国平和会議に出席している国々は、「韓国には独立した外交権はない」と言って、この訴えを無視する。無視された使節代表は自殺して、皇帝は退位し、以後韓国の各地では反日暴動が起こる。  遊水池建設反対で立ち退き拒否を続けていた日本の栃木県|谷中《やなか》村の住民達が、警察によって強制立ち退きを命じられて住居を壊される。ドイツ領南西アフリカでは、白人入植者のために植民地政府がアフリカ人の土地を取り上げて、それに怒ったナマ族が反乱を起こす。世界各地でいろんな�大騒ぎ�が頻発していて、しかしそのくせこの年は、�なにごともなかった年�なのだ。  アメリカのウォール街で株価が大暴落して世界恐慌が始まったのは一九二九年。大恐慌と言えばこの年のものだが、�大�にまではならない�中恐慌�は、この年にも起こっている。株価が暴落したのは、一月の日本だけではなくて、三月のアメリカでも株価が大暴落した。なんで日本の株価が暴落したのかと言えば、それは日露戦争の勝利でふくらんだ好景気のバブルがはじけたためだ。アメリカの大暴落は、この前年に起きたサンフランシスコ大地震(死者が千人以上出た)の後遺症その他の結果によるもので、この時代の世界経済はまだそんなに体力がなくて、なにかちょっとしたことがあると、すぐにガタついた——一月に株価が暴落した日本では、この年二度も中小銀行の支払停止と取付け騒ぎが起きている。三月に株価の暴落したアメリカも、やがて金融不安にまで進む。  日本は不景気で、アメリカも不景気だった。それでどうなるのかというと、日本よりもまだアメリカの方が金持ちだろうと思う日本人達は、アメリカへ働きに行こうとする。日本と、それからやがては日本の植民地にさせられてしまう韓国からの移民達は、メキシコ・カナダ・ハワイ向けの旅券を使ってアメリカ本土にやって来る。当然アメリカ政府はこの移民達の入国を拒否するのだが、「バブルがはじけた後の不景気な日本へ、中国からの密入国者が盛んにやって来る」という一九九〇年代の状況は、そのずっと以前に、日本人自身が演じていたりもするのである。  日本からの移民に職を奪われそうになったアメリカの労働総同盟は、日本人労働者の排斥を訴える。ワシントン州では、工場に勤めていたヒンズー教徒が襲われてカナダへ逃げ、カナダのバンクーバーでは、アジア人排斥のデモが起こる。世界中がガタガタと揺れていた——世界はまだ中途半端に豊かで、その分け方をめぐって、世界中の人間が小競り合いを繰り返していたのである。  ロシアに革命はまだこなくて、やっと皇帝が開催を承諾した議会は、左右の対立で揺れていた。そんな議会になんの期待もしない一部のロシア人達は、ロンドンに集まって社会民主労働党大会を開いたけれども、ここでも革命の方針をめぐって、ボルシェヴィキとメンシェビキが対立して大揉めになった。  四年後に辛亥《しんがい》革命を控えた中国では、革命同盟会が蜂起して、清朝の軍隊に鎮圧される。日本では、社会党の第二回大会が開かれて、議会政策派と幸徳秋水《こうとくしゆうすい》の直接行動派が対立して、日本社会党は過激な�行動派寄り�となり、その結果、日本政府から結社禁止の処分を受ける。世界はガタガタと揉めていて、しかしそうであるにもかかわらず、この年は�なにごともない年�だったのである。  世界は平和で、しかしその世界は、ちっとも平和ではなかった。やがて世界大戦がやって来て、革命もやって来る。既にそういう�大激突�がやって来るかもしれないという予兆だって十分にあったはずなのに、「まだそれが訪れていない」という理由だけで、世界は�平穏�だった。一九〇七年は、「一七八九年、フランス革命」とか、「一八六八年、明治維新」とかいうような歴史に残る年ではないのだ。しかしそうでありながら、一九〇七年は、歴史に残るような�なにか�を生み出していても不思議のない年だった。一九〇七年は、�なにごとも起こらない予兆だけの年�だったからだ。  しかし、�予兆�というものはいつでもある——そのことを考えようとしさえすれば。  一体、二十世紀にどれだけの�大事件�があっただろう? 実際に起こった二つの世界大戦を除けば、意外なことに、二十世紀は�なにごともない普通の年�で満ち満ちている。一年刻みに二十世紀を見ていけばいい。二十世紀は、�なにごともない普通の年�だらけなのだ。どうしてそんなことになるのだろう? それは、我々がこの二十世紀に生きているからだ。生きているということは、毎日毎日を普通に生きること。我々は、毎日を普通に生きていて、それが�激動�に結びつくことをあまり理解しない。一九〇七年もそうだった。この年は、二十世紀の他の年がそうだったのと同じように、�特別なことがなにもない二十世紀のある一年�だったのである。 [#改ページ]       1 9 0 8  この年の十一月、清朝末期の中国における最大の権力者・西太后が死んだ。七十三歳だった。彼女の最後の言葉は、「以後、婦人に国政をまかせてはならない」だったそうだが、しかし皮肉なことに、もう地球の女達は国政への参加を目ざし始めていた。  一年前の一九〇七年の二月には、イギリスで女性の参政権を要求するデモ隊が、国会に突入していた。三月には、フィンランドに十九人の女性議員が誕生していた。女性の�国政への参加�は、そればかりではない。その年の七月には、清朝転覆計画の首謀者として、女性革命家の秋瑾《しゆうきん》が逮捕され処刑されている。  一九〇八年になると、さらに女性運動は広がりを見せて、ドイツ議会は、女性による政治結社の設立を認め、ベルリンでは経済力のある女性運動家が、「女のための銀行」を設立している。もちろん、そういう�女性にまつわる動き�は日本にも波及して、一九〇八年の三月には、日本初の美人写真コンクールが開かれ、学習院の女子学生が一等に選ばれている——もちろん、それが学校にばれて、彼女は退学をさせられるのだけれども。  日本という国は、もしかしたら政治よりも�風俗�の方が優先する国なのかもしれない。一九〇八年は、どうやら女性の�なにか�が始まったような年で、アメリカのフィラデルフィアでは世界初の「母の日」が祝われているのだけれども、日本の場合は、どうしても、これがへんな風に�男の動き�と連動してしまう。  この年、西大久保の女湯では、池田亀太郎という男がのぞきをやって欲情した結果、風呂帰りの女性を殺してしまう。池田亀太郎という男は出っ歯だったので、ここから「女湯ののぞき=デバカメ」という言葉が生まれる。八月には、警視庁が猥褻文書の取り締まりを行って、三日間で春本十六万部、猥褻写真十二万枚が押収されたのだという。なんでまァ、一九〇八年の日本をわざわざそんなふうに�へんな連動�で語らなければならないのかと言うと、この日本で初の美人写真コンクールが行われた年は、どうやら「女の生々しさが認められた年」でもあるからである。  この年、日本で最初の女優養成所が作られた。一九〇八年の九月には川上貞奴《かわかみさだやつこ》が帝国女優養成所を設立し、翌年の五月には、坪内逍遥の文芸協会も演劇研究所を開設して、その第一期生の中には松井須磨子もいた。  それまでの日本に女優がいなかったわけではない。帝国女優養成所を作った川上貞奴は女優だったし、それ以前にも市川|九女八《くめはち》(あるいは�粂八�)という女性がいる。貞奴だの九女八だのと、なんだか男みたいな名前だが、それはそういうもんだからしかたがない。オッペケペ節で有名になった川上|音二郎《おとじろう》の妻になった貞奴は、その名からも分かる通り、芸者の出身だった。九女八は、「女|団州《だんしゆう》(女団十郎)」の異名をとる女役者で、この人は勧進帳の弁慶さえもやった——そういう�女優�なのである。  それ以前、舞台で�女�を演じるのは歌舞伎の女方役者だけだった。だから、女が舞台に立っても、�女優�にはなれなかった。これは�女役者�というものになって、「女だから可憐だ」とか「女だからきれいだ」というようなものではなく、「女でも芸が立派だ」という形で評価をされた。つまり、川上貞奴や市川九女八という女役者達は、「男と同等に演技力を評価される」という存在で、「女としての評価を受ける女優」ではなかった。�女�である以前に、「古い時代の演劇(=歌舞伎)の舞台で違和感を見せない」ということが、女役者の条件で、つまり、女はまだ女ではなかったのである。  だから、女が女であるような女を演じる�女優�が必要になる——当時の人達はそう考えた。「女優が登場すれば日本には新しい演劇が生まれる、新しい演劇は女優を必要とする」という考えのもとに、女優というものが新しく作られることになった。「女の生々しさが認められた年」とは、そういうことなのである。だから、美人写真コンクールも誕生するし、女の入浴シーンを直接目にして欲情する男も登場するし、ポルノの取り締まりも行われる。いささか突飛かもしれないが、現実とは、そういうものなのである。  一九〇七年に、イギリスの女達はデモ隊を作って国会に突入した。しかし、当時の世界の最先進国であったはずのイギリスで女性の参政権が認められるのは、一九一八年である。太平洋戦争後の日本に女性の参政権を持って来てくれたアメリカでは、一九二〇年にならないと女性の参政権が認められない。ところが、南半球のニュージーランドやオーストラリアでは、それよりもずっと早く女性の参政権が認められていた。ニュージーランドは一八九三年、オーストラリアは一九〇二年である。イギリスの植民地から独立したばかりの、この白人達の新しい国で、どうしてそんなに早く女性の参政権が認められたのだろうか? 答は、一つしかないだろう。「若い国だからうるさいことを言わなかった」である。  歴史の古い国ほど、女に対してうるさい。歴史が古いということは、「男達の文化の歴史が古い」ということで、古ければ古いほど、男達は女を縛りたがる——そこでは習慣的に、男が女を束縛するのが当たり前だったからだ。だから、ヨーロッパより古い歴史を持つアジアでは、「女性の地位が低い」とか「女性の社会進出が遅れている」と言われる。ところがしかし、いたってその歴史の新しい人民中国では、「男女共稼ぎ」がずっと以前から当たり前だった。民族としては古い歴史を持っていても、�国の歴史�としてはいたって新しいイスラエルでは、ずっと以前から「女性兵士」が当たり前にいた。歴史の古い国は、その古さに比例して男達が女を縛り、歴史の新しい国は、そんなめんどうなことを考えないで、ただ�必要�に迫られて女性をどんどん登用する——それだけのことなのだ。  一九〇七年、アメリカのボストンの海岸では、オーストラリアから来た一人の女子水泳選手が逮捕された。彼女は、腰回りにスカートのついていない普通のワンピース水着を着ていて、それが風俗紊乱になったのである。アメリカでは、腰回りにスカートのついていない水着はいかがわしいもの[#「いかがわしいもの」に傍点]で、この後まだ四半世紀も「禁止」のままなのである。  �新しい国�は、うるさいことを言わない。�新しい国�は、平気で生々しさを受け入れる。しかし、かつては�新しい国�だったはずのアメリカは、もう十分に古い�男達の歴史�を持つ国になりかかっていた。だからうるさいことを言う。「女性の参政権」は、別に�文化的に進んだ国�が認めるものではないのだ。�文化的に進んだ国�は、往々にして、�口やかましい男達の思い込みがうっとうしい国�で、だからこそ女達は、「なんであんた達は保守的なの?」と文句を言う。それだけのことなのである。 [#改ページ]       1 9 0 9  この年、意味のない国際会議が開かれた。その会議の名は「国際アヘン会議」、開催場所は中国の上海《シヤンハイ》。今回はそのお話である。  中国とイギリスの間でアヘン戦争が起こったのは一八四〇年、これが終わったのが一八四二年。イギリスは中国に開国を迫り、頑固な清朝政府はこれを拒んで、アヘン戦争になった。アヘン戦争は、中国の近代化の第一歩となるような�事件�なのだが、まさかアヘン戦争がそんなにいいもの[#「いいもの」に傍点]であるはずはない。これは、悪いイギリス商人が、なにも知らない中国人にアヘンという麻薬を売りつけて金儲けをしようとした結果なのである。  イギリスは中国に麻薬を売り、中国の銀は外国に流出し、人は麻薬中毒に苦しんだ。清朝だって麻薬を禁止しようとしたが、麻薬中毒患者が法律に従わないのは、今に始まったことではない。だから中国政府は、アヘンの流入口をふさぐしかない。この件の勅命大臣となった林則徐《りんそくじよ》は、当時の中国唯一の貿易港である広東《カントン》で、外国商人の持っている麻薬二万箱以上を没収して焼き捨てた。今からすれば、いたって当然の処置である。続いて林則徐は、広東の外国商人に、「今後アヘンは持ち込まない。それをしたら死刑にされても文句は言わない」という誓約書を提出させる。アヘン貿易をしていたのはイギリスだけではないから、アメリカやポルトガルの商人は誓約書を出した。しかし、イギリスの商人はそれをしない。林則徐は怒ってイギリス人の締め出しをはかる。イギリス側は、「アヘンというイギリス商人の財産が一方的に中国に没収され焼却された」という論法を立てて、中国に戦争を仕掛けてくる——これがアヘン戦争なのである。だから、後にイギリスの首相となるグラッドストンは怒る——「こんなに汚い戦争はない」と。  グラッドストンは商人の息子で、大蔵委員になり、植民次官になり、アヘン戦争の最中には商務院の副総裁にもなっている。商売の専門家と言ってもいい。だから、このグラッドストンが、「もっと商売をしろ、戦争をしてでも中国にアヘンを売りつけろ!」と言うのなら分かる。しかし、グラッドストンは逆なのである。彼は、「中国にはアヘン貿易を禁止する権利がある。その中国の正当な権利を踏みにじって、我が国の外務大臣はこのロクでもない貿易を援助した」と、アヘン戦争に向かうイギリスの政策を非難するのである。どこの国、どの時代にもまともな人はいるということである。  しかし、イギリスは中国に戦争を仕掛けた。香港を割譲させ、中国により広範囲な外国貿易をすることを認めさせた。アヘン戦争は、イギリス政府側の人間でさえも怒らせるような�汚い戦争�だったのではあるが、なんでイギリス人はこんなことをしでかせたのか?——ということである。  イギリスのアジア貿易で有名なのは、「東インド会社」である。これは国営の貿易会社のようなもので、アジア貿易を独占していた。しかし貿易が発展するにつれて、�自由化�という段階がやって来る。東インド会社が貿易を独占する時代は去って、アヘン戦争の頃には、イギリス人なら誰でも自由にアジアとの貿易が出来るようになっていた。つまり、国が麻薬を売って、それが相手国の怒りを買って焼却処分を受けたというのなら、赤っ恥のお笑い草になるけれども、中国とのアヘン貿易は、イギリスの民間人[#「民間人」に傍点]がやっていたのである。だから、「イギリス政府としては、断固イギリス国民の権利を守らなければならない!」というムチャな強硬論が登場する。アヘン戦争は、「自国の国民が自由に貿易する権利を剥奪されたことに対する報復の戦争」というものだったのである。  貿易というのは、けっこう恐ろしい。商売というのも、これまたけっこう恐ろしい。あえて言ってしまえば、シロートが商売に手を出した時のムチャは恐ろしい——である。  アヘン戦争にゴーサインを出したのは、自国民のアヘン貿易を支持し援助していた外務大臣だった。�商売の専門家�だったグラッドストンは、「ノー!」と言った。シロートが商売に手を出した時のムチャは恐ろしいのである。  十九世紀の後半から二十世紀までがなんで激動のゴタゴタ続きの時代かと言えば、その根本は�商売�にある。  十九世紀の中頃にいち早く産業革命をなしとげたイギリスが、商品を多く作りすぎて、それを外国に売りつけるためにさまざまなムチャをした——その先例を、日本も含む他の国が真似をしたから、ムチャが世界に及んで、世界戦争になる。商売をするのに暴力をちらつかせるという風習は、さすがに二十世紀の半ばにはなくなって、しかしそれでも、「作りすぎた商品を売りつける」という風習は、まだあまねく残っている(今でも)。だから、世界に富の偏差はあって、それで世界は相変わらずガタついているのである。  作りすぎた商品はゴミ問題となり、環境破壊となり、不必要な欲望の刺激による人間の思考の短絡を生み、「もうモノはいらないよ」という飽和状態から、慢性的な不景気状態が到来する——そのようにして、どうやら十九世紀由来の�悪い病気�はなくなりつつあるのではあるが、アヘン戦争は、そういう�商売に関する最悪の事件�の一つなのである。  商売で一番重要なことは、「いるものはいるが、いらないものはいらない」である。中国政府には、いらない麻薬を拒否する権利があった。しかし、売る側は、�売る自由�をタテに取った。金儲けだけをしたがるロクでもない人間を野放しにした国家は、これを、「自国民の保護」という名目で許した。こういう強引な考え方にはさっさと消えてほしいものだが、なんだかこれは、我々の記憶に新しいことのような気もする。錯覚だろうか?  アヘン戦争で香港を手に入れたイギリスは、それと共に、公然と麻薬商人を野放しにする権利を手に入れた。その六十七年後、一九〇九年の上海では国際アヘン会議が開かれた。この会議で決議されるべきことは、「アヘン貿易の禁止とケシ栽培の制限」だった。この当時、アヘンはまだ�麻酔薬�としても使われていたから、「アヘン=絶対禁止」にはならなかったのだが、この会議の目的が「麻薬としてのアヘン禁止」にあるのはあきらかだった。だがしかしである、この会議で「アヘン貿易の禁止とケシ栽培の制限」は、決議されなかった。イギリスが反対したのである。  アヘン戦争から、もう六十六年もたっている。中国保守派のボスであった西太后も、一年前には死んでいる。それなのにまだイギリス政府は、「麻薬を売る自国民の権利」なんかを守ろうとしていた。愚かと言えば愚かな話だが、これは本当に�遠い昔の話�なのだろうか?  悪い習慣でも、いったんそれに慣れてしまえばなかなか抜け出せないというのは、べつに麻薬患者だけの話ではない。悔い改めるのには時間がかかるのである。 [#改ページ]       1 9 1 0  一九一〇年は、なんと言っても「大逆《たいぎやく》事件の年」だろう。しかし、私の目はとりあえずへんな方向に向かう。一九一〇年は、世界で最初に父の日が祝われた年なのである。この年の六月十九日、アメリカの西海岸ワシントン州のスポーカンで、世界最初の父の日が祝われた。一九〇八年の母の日から、二年遅れのスタートである。  母の日を提唱したのは、婦人参政権運動をやっていた四十代の女性だった。教会で自分の母親の追悼式をやった時、「年に一度は母親に感謝する日を作って、世界中で祝ったらどうか」と考えついた。彼女は「母の日をアメリカ国民の祝日に」という運動を始めて、一九一四年にはこれが達成された。母の日が五月の第二日曜日というのは、提唱者の母親の命日が五月九日だったからだ。  父の日も同様に、ある女性の発案から始まった。スポーカンに住む若い主婦の父親は、南北戦争の退役軍人で、妻に死に別れた後で五人の子供達を献身的に育ててくれていた——ここから思いついて、YMCAと教会関係者に、彼女は訴えた。父の日はそうして実現したけれども、こっちは別に祝日なんかじゃない。  母の日は、ある種の�運動�によって、国民の祝日へと進化を遂げた。一方父の日は、宗教的な世界(YMCAは、Young Men's Christian Association ——キリスト教青年会の略)で認知され、なんとなく広がった。その普及は、「母の日があるのに、なんで父の日はないの……?」というようなぼやきによるものだろう。  今となってはもう違う[#「もう違う」に傍点]だが、「母の日」が提唱される頃の�母親�とは、埋もれた私的な存在である。だからこそ、「年に一度くらい、うっかりすると�忘れられた存在�になりがちの母親に感謝しよう」という発想も生まれる。そして、�母親�をそういう�忘れられがちな存在�にしてしまう元凶は、�父親�である。父はまだ強かった。  その父親が、たまたま「男手一つで子供を育てる」という、(当時としては)あまり日の当たらないドメスティックなことをしていたから、「日の当たらないお父さんに感謝をしよう」という発想も生まれたが、そうでなかったなら、わざわざ「お父さんのための日」などということは考えない。考えようによっては、「一年三百六十五日が父の日」なのだから。「そんな昔もあったのだ」というのが、�今となっては�の感想だろう。  ともかく、アメリカで父の日は生まれた。その父の日は、「天にまします我らの父[#「父」に傍点]よ」が当たり前のキリスト教世界の中に存在した。母の日は、「いまだ達成されていない女の権利」の一環だが、父の日はそうではなかった。今となっては分かりにくいことかもしれないが、「アメリカ以外の国で、�父の日�というものが果たして存在しえただろうか?」——という考え方だってあるのである。  一九一〇年、日本では大逆事件が起こった。今では存在しない、旧日本帝国の刑法では、皇室に対して危害を加えたり加えようとしたら[#「加えようとしたら」に傍点]「大逆罪」で、これはイコール死刑なのである。幸徳秋水以下の十二名は死刑にされた。大逆罪は一審で確定されてしまうから、�控訴�という手段はない。二十六人が逮捕され、二十四人が死刑を宣告され、その内の十二人が明治天皇の�仁慈《じんじ》�によって無期懲役に減刑されたが、残りは死刑。  この�事件�は一九一〇年の五月に発覚した。初めに三人の社会主義者が逮捕されたが、やがては「無差別」と言いたいぐらい大量に、無政府主義者・社会主義者が逮捕されていった。やがて国民は、それが天皇の暗殺を企てていた大逆罪の発覚によるものだということを知る。裁判はその年の十二月に非公開で開かれ、約一カ月後に判決、その日の夜に減刑の�仁慈�があって、死刑執行は六日後という超スピードだった。�仁慈�という言葉には、今となってはルビを振らなければならないだろうが、これは、�情けによって慈しむこと�である。  大逆事件というのは、明治政府がしでかした�社会主義者への弾圧�と、暗黒裁判の典型である。果たして、容疑者達が本気で「天皇暗殺」を計画していたのかどうかは、分からない。逮捕され処刑された人間の中に本気でそれを計画していた人間がいたかもしれない、しかし、それが処刑された人間全員に共通することだったかどうかは、分からない。それは、「私は確かに�天皇を倒せ�とは言いましたが、本気で天皇暗殺を計画していたわけではありません」というものであったのかもしれない。それだからこそ、明治天皇の大いなる慈悲——�仁慈�も下るのである。  今の人にとって分からないものは、昔の厳格なる家族制度と、�父�の位置づけである。「父への反抗」などというものは絶対に許されない——そういう状況があったればこそ、青年達の反抗も�本物�だった。「父の権威は絶対」——それがこの当時の常識で、そういう常識のある社会の中で、国民は天皇の�子供�だった。大逆事件の判決を聞いてショックを受けた徳冨蘆花《とくとみろか》は、すぐに�天皇陛下に願い奉《たてまつ》る�という上奏文を書いて朝日新聞に載せた。「彼等(幸徳秋水達)もまた陛下の赤子《せきし》」と訴えるのが、当時の進歩的知識人・徳冨蘆花である。�赤子�というのは�赤ん坊�のこと。天皇は�父親�、国民はそれに比べればずーっと力のない、しかも素直にその父に従う�赤ん坊�だったのである。そういう�父�に逆らってはならない——だからこそ�大逆�という罪がある。これは、�あまりにも大きすぎる反逆�だったのである。  こういう日本に、果たして�父の日�は存在しえるのだろうか? こういう日本は、「毎日が厳格な父の日」なのである。この状態は、日本ばかりではない。程度の差こそあれ、世界各地の国々に共通することであった。国の主権者は�父なる君主�という国が、圧倒的だったのである。  だからこそ、世界は激動する。息子達は�父�から自由になりたくて、息子達にとって、�父�は圧制者の別名だった。ところが、合衆国大統領を頭にいただくアメリカには、そういう�父�がいない。だからこそ、「お父さんに感謝する日を作りましょう」という発想が生まれる。そういう発想が生まれて、しかしそれは、そんなに一般的にはならなかった。まだまだ�父�は強くて、そんな発想をしてもらう必要もなかったからだ。その発想を受け入れたのは、「天にまします我らが父」を必要とする宗教世界だけだった。以前に比べてその影響力が弱くなっていたからこそ、キリスト教世界のYMCAは、それを受け入れたのだ。  �強い父�がいて、息子達が問答無用で処罰される国もあった。しかしそんな地球の上にも、�忘れ去られる父�が生まれる兆候だけは登場していたのである。大逆事件の年は、父の日誕生の年だった。無残なまでの皮肉であろう。 [#改ページ]       1 9 1 1  この年は、中国で辛亥《しんがい》革命が起きた年だが、この原稿ではまったく関係がない。  一九一一年三月の日本には、最初の洋風劇場である帝国劇場がオープンする。暇を持て余した金持ちの奥さん達が、「今日は三越、明日は帝劇」と言われるようなモダンな浪費生活をスタートさせることになるのだが、しかしそういうことをするモダンな奥さん達がなにを着ていたかということになると、ゾロッとした着物である。この年、三十五歳の野口英世はニューヨークにいて、梅毒のスピロヘータの培養に成功するのだが、彼の奥さんはアメリカ人だったから着物を着てはいなかった。きっと床までの、ゾロッとした裾を引くドレスを着ていただろう。そして、この年二十五歳の平塚らいてうは、「元始女性は太陽であった」で有名な雑誌『青鞜《せいとう》』を仲間の女性達と一緒になって作る。青鞜は「青いストッキング」のことで、ロンドンの社交界にあった女性主催のサロンの名前から取った。しかし、平塚らいてうとその仲間達は、青いタビを履いても、きっと青いストッキングなんかは履かなかっただろう。彼女達は着物を着ていたからだ。  松井須磨子は、この年女優としてデビューする。帝劇で『ハムレット』のオフェーリアをやり、イプセンの『人形の家』の主人公ノラをやる。まさかこの彼女が着物を着ていたわけはないのだが、黒髪を日本風に結い上げて、なんだか不思議な�ドレスのようなもの�を着ている彼女は、とても「二十世紀の女」のようには見えない。古い家を捨てて自立への歩みを進める松井須磨子のノラは、なんだかクレオパトラの親戚みたいにも見えるからだ。なんでそんなことを言うのかといえば、一九一一年のこの頃、�さっそうとして活動的な女性のための服�なんていうものがまだ存在していなかったからである。  一九一三年になると、三十歳のココ・シャネルが�新しい婦人用のスポーツウエア�を売り出す。これは、ベレーと開襟シャツを組み合わせたものだった。シャネルは女性用の帽子のデザイナーとしてスタートした女性だから�ベレー帽�というものも登場するのだが、女性用ファッションと言えば、豪華でフェミニンな毛皮や羽飾りのゴタゴタ付きが常識だった時代に、このシャネル・ファッションは画期的だった。�スポーツウエア�でさえそうなのだから、普通の女性用ファッションは、ましてや[#「ましてや」に傍点]なのである。一九一一年の平塚らいてうは、着物を着るしかない。  一九一一年には、フランスでオートクチュールの協会が設立される。会長は、「大洋裁師《グランクチユリエ》」と呼ばれたポール・ポワレである。二十世紀に入ると、彼は「シンプルなドレス」をめざすようになる。二十世紀の初頭からアール・デコの時代によく見られる、スカートがふくらまない、筒のようなシンプルなシルエットを開発したのが彼なのである。  一九〇八年に、彼は『ポール・イリーブの物語るポール・ポワレの衣装』というデザイン画集を出版する。一九一一年のこの年には、『ジョルジュ・ルパプの見たポール・ポワレの作品』である。ポール・イリーブもジョルジュ・ルパプも画家の名前。こういう名のある画家達にスタイル画を描かせて、ポール・ポワレは自分のファッションを売ったのである。後のスタイルブックのはしりで、当時はまだ白黒写真しか使われていなかったファッション雑誌に対する、挑戦でもある。  このデザイン画集を見ると、一九〇八年のドレスは、ストーンとしたシンプルなラインなのだが、まだ裾を引いている。一九一一年のものになると、ドレスの丈は床ギリギリになって、もう裾を引かなくなる。このあたりから、女達は靴を公然と見せながら歩くことが出来るようになるのである。  ポール・ポワレは、女達の服からコルセットを取り除いた。ドレスの中心はバストの下に来て、コルセットのかわりにブラジャーが必要になる。ドレスの裾はくるぶしぎりぎりくらいのところに来て、履いている靴は丸出しになる。ロンドンにあった「ブルー・ストッキング」なる上流サロンの女主人が、自分の履いているストッキングの色を見せるためにはかなり�ふしだらなポーズ�をしなければならなかっただろうが、平塚らいてうが『青鞜』を創刊した頃のパリの女達は、そんな古臭いことをする必要がなかったのである。  ポール・ポワレによって、女性ファッションは�現代�というところに入った。後は、スカートの裾を短くして行くだけのことだ。ポール・ポワレが新しいドレスを提唱する以前、女達はコルセットでウエストを締めつけ、大きくふくらんだドレスの裾を床に引いていた。日本が文明開化を西洋諸国に告げるために作った鹿鳴館で、日本の高官夫人達は、そういう西洋風のドレスを着てダンスを踊ったが、ポール・ポワレ以前の女性ファッションは、基本的にみんなアレだったのである。鹿鳴館の舞踏会は�猿芝居�と言われた。言いえて妙だが、当時の日本女性の身長はとても低くて、ああいうドレスは、ものの見事に似合わなかったのである。  二十世紀になっても、日本女性の体位はそんなに向上していなかった。だから、帝劇に『ハムレット』を見に行く進んだミセスの方々だって、洋式劇場にドレスを着ていけない。鹿鳴館じゃあるまいし、あんなゾロゾロしたものを着て行くんだったら、着物の方がよっぽどオシャレだ。それで、青鞜の女性方もタビを履くしかなかったのである。「旧来の因習よさようなら、私達は新しい女性です」と言ったって、まさか鹿鳴館風のゾロゾロしたドレスを着て現れるわけにはいかない。新しいドレスは、まだ日本に届かない�最先端のファッション�で、日本の女達はまだまだ背が低かった。日本の女達は、綿入れを着てタビを履いて、「新しい女」を語るしかなかったのである。  モネが『印象・日の出』という作品を発表したのは、一八七二年だった。ここから印象派がスタートする。印象派のグループ展は一八八六年まで八回開かれて、一八八〇年代は印象派の時代だ。そこで、「印象派の画家達が描いた女性達はどんなかっこうをしていただろう?」と考える。どうも、そんなにトッピなものを着ていたようには思えない。印象派の絵はいたって自然で日常的なものだから、そうそう不自然な感じはしないのだけれども、印象派の絵の女達も、やっぱりコルセットをして裾を引くドレスを着ている。  印象派の時代の後、世紀末から今世紀初頭まではアール・ヌーヴォーの時代。前衛絵画の時代も来る。一九〇七年にはキュビズムが生まれ、一九一一年にはカンディンスキーが�抽象画�という新ジャンルを開いている。絵だけを見れば二十世紀なのだが、でもその絵を見ている女達は、まだまだコルセットをしてドレスの裾を引いていた。�現代�というものは、そうそう簡単にはやって来ないのだった。 [#改ページ]       1 9 1 2  一九一二年は、地面が揺れるほどの「地殻変動の年」である。ただ、それをどれほどの人が感じたのかは知らないが。  この年の一月六日、フランクフルトの学会では一人の学者がとんでもないことを言い出した。「地面は動いている」というのである。後に�地球に関する常識�となってしまった、アルフレッド・ヴェーゲナーの「大陸移動説」である。かつて地球の陸地は、「パンゲア大陸」という一つの大きな大陸だった、それが引き裂かれて移動して、現在ある世界地図のような形の六つの大陸になった——地殻の下にあるマントル対流の動きによってこれが可能になるということは、彼の死後になってからしか説明されないのだけれども、現在の�地球に関する常識�となっているプレート・テクニクス理論の原型は、ここに登場する。これから三年後、ヴェーゲナーの説は出版されて大論争を巻き起こすことになるのだけれども、ともかく、「地面は動いている」という考え方だけは、この年に提出された。  そしてこの年、明治は終わった。明治天皇は死んで、乃木将軍夫妻は殉死した。夏目漱石も『こころ』の中でこう書いている——�すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました�  『こころ』の作中人物である�先生�は、こう書いて自殺をしてしまう。一つの時代が終わるというのは、きっと大変なことだったのだろう。時代も動いている——それは、きっと�大変なこと�だったのだ。一九一二年は、そういうことも含めて、「自覚されなかった地殻変動の年」なのである。  中国では、前年の辛亥《しんがい》革命の結果、中華民国が成立した。清朝は滅んで、宣統《せんとう》帝は退位することになるのだが、しかしこの時宣統帝——かの�ラスト・エンペラー�はまだ六歳だった。きっと六歳じゃなんにも分からないだろう。一九〇八年、二歳で帝位についた彼は、六歳で廃帝となった。しかしこの彼は、その後もずーっと生きて紫禁城《しきんじよう》の中にいた。彼は、彼を取り巻く宦官《かんがん》や后《きさき》や多くの女官達と共に、その後も紫禁城の中で�皇帝�として存在し続けた。紫禁城の外に清朝はなく、しかし紫禁城の中にはその後も清朝が健在だった。  革命が起こって、皇帝がまだ六歳なら、そのまんまほうり出してしまえばいいようなものだが、皇帝は無事健在だった。紫禁城の中には�皇帝�を必要とする人々が大勢いて、そのために六歳の少年は�皇帝�として存在し続ける。この皇帝——愛新覚《あいしんかく》羅溥儀《らふぎ》が紫禁城を出るのは一九二四年、彼が十八歳になる年である。  ある種の人々の必要に合わせて、この六歳の皇帝は存在していた。だとしたら、この�皇帝�はどういうものなんだろう? 革命を終えて皇帝をほうり出してしまった中華民国では、そんなことを考える必要はない。もう皇帝はいない[#「いない」に傍点]からだ。そして、おそらくこの幼い皇帝のあり方を頭に置いたわけではないだろうが、日本では一人の学者があることを言う——「国家というものは一種の�法人�であって、その頂点に立つ天皇は、一種の�機関�である」と。後になって、ファシズム化した日本で弾圧される美濃部《みのべ》達吉《たつきち》の「天皇機関説」は、この年に提出される。明治が終わり、大陸移動説が提出され、六歳の廃帝が�皇帝�のまま放置されることになる、一九一二年のことである。  美濃部達吉は、天皇を「国家の機関」だと言った。しかも、天皇が死ぬ時に一人の将軍が殉死してしまうような天皇絶対の時代だから、ここには「国家の最高の[#「最高の」に傍点]機関である」という但し書きもついていた。しかしこれは、「天皇の絶対性を侵すもの」として、昭和の十年(一九三五年)には大問題となる。美濃部達吉の天皇機関説は、「天皇の大権」と言われるものを規制して、それに対抗する議会の権限を大きくさせた。だからこそ、議会の力を嫌うファシズムの時代には、これが排撃されることになるのだが、これが発表された一九一二年当時だって、やっぱり反発はあった。  父親の絶対性が強い時代に、「お父さんはえらい人かもしれないが、でも�お父さん�というのは、家族の中の役割の一つにしかすぎない」なんてことを言ったら、そんなことを言う息子は父親に殴られる——というようなものだろう。しかし、この時代、既に隣の中国の紫禁城の中には、天皇機関説のあり方をそのまま実証するような「六歳の皇帝」はいたのだ。彼は、皇帝になったことも知らず、皇帝ではなくなったことも理解しなかったはずだ。  皇帝を必要とする人間達のために、彼は�皇帝�としてあり続けた——もちろん、その彼を必要とする人間達は、絶対にそんなことを言わなかっただろうけれども。  二歳であろうと、六歳であろうと、その人を�皇帝�と位置づけ、その皇帝に仕えることによって自分の生活を成り立たせるような人達にとっては、自分の生活が絶対であるように、�皇帝�というものは絶対[#「絶対」に傍点]なのだ。だから彼等は、「私達が生きて行く上で、�皇帝�というものは絶対に必要だ」などとは言わない。「神聖なる皇帝の生活はそのままに保持されなければならない」と言って、そこに寄生して自分自身の生活を成り立たせる。これはりっぱな�皇帝機関説�だろう。  皇帝が�機関�だからこそ、六歳以前の幼児でもつとまった。彼が神聖だからではない。皇帝を必要とする人達が、それを�皇帝�と見るから、六歳の幼児でもりっぱに�皇帝の役目�を果たせるのだ。別に�幼帝�というのは珍しいものではない。日本の歴史にだっていくらでもいた。天皇は幼くて、それだからこそ、天皇にかわって政治を担当する�摂政�というものがいる。�摂政�が存在するということ自体が、�天皇�というものが政治の�機関�であるということの証明なのだ。  平安時代には、自分の娘を天皇の后にして、その娘の生んだ皇子を幼い内に天皇の位につけて、政治担当能力のない幼い天皇にかわって政治の実権を握った、�摂政�という名の�祖父達�が、いっぱいいた。もちろん、そういう時代の天皇達は、一人前になった途端「譲位」ということを要求されてしまう。紫禁城を出るしかなくなった時の溥儀が十八歳だったというのも、なんとなく平安時代を感じさせるのだが、ところでしかし、明治が終わってやって来た新しい時代——大正の御代を統治なさるはずだった天皇には、どこか�問題�があった(ということになっていた)。それで、大正十年(一九二一年)になると、その天皇の皇子である後の昭和天皇が�摂政�として立たれる。  やがて�摂政�を必要とすることになる天皇が位につくその年、天皇機関説というものが発表されている。どれだけの人がこの暗合に気づいただろう? しかし、もう既に「大地は揺れ動くものである」という新しい�常識�は、登場してしまっていたのである。 [#改ページ]       1 9 1 3  一九一三年である。来年になると第一次世界大戦が始まる。  「やがてはそうなるんだろうな……」という可能性を見せて、この年のバルカン半島は揉めていた。第一次バルカン戦争が五月に終わったと思ったら、その一カ月後にはもう第二次バルカン戦争が勃発している。そういうゴタゴタが翌年の第一次世界大戦へと続くのだけれども、日本はこれと、あまり関係がなかった。日露戦争直後は好景気にわいていた日本だが、これはすぐに終わって、日本は不景気に悩んでいた。日本が、「どうしようか……」と頭を抱えている時、ヨーロッパでは戦争が起こった。市場を独占していた大会社がゴタゴタを起こして生産をストップさせてしまったすきに、小さな無名会社が売上を伸ばしたというようなものである。ドサクサまぎれに日本は豊かになり、そこに「大正デモクラシー」という、近代日本史の中では珍しくも�平穏な時期�がやって来る。一九一三年は、そういう時代が始まる日本の大正二年だったのである。  二月には「憲政擁護」を叫ぶ民衆が国会を取り巻き、�憲政の神様�と言われた尾崎行雄は、�歴史に残る演説�をした。「薩長藩閥政府」と言われた明治政府の中枢にいた、�元勲�とか�元老�と呼ばれる古い政治ボス達が、近代資本主義の中で成長して来た�市民�という新興勢力の前で後退をよぎなくされる——そうして「政党政治の時代」がやって来るのだが、しかし、「政党政治の時代」が本当に日本にやって来たのかどうかは分からない。自民党分裂以後の一九九〇年代における日本政治のゴタゴタは、「果たして日本には�政党政治�に価するものがあったのか?」という問いかけにもなるはずだが、そういう�日本の原型�は、この時点でスタートする。  アメリカでは、イギリスからやって来たチャーリー・チャップリンという青年俳優が映画制作者マック・セネットと契約を結び、やがて人気ナンバーワンの喜劇俳優になる。前世紀の終わりに発明されていた�映画�なるものが、やっと産業としてスタートし始めて、ハリウッドには映画の撮影所が作られるようになる。ココ・シャネルも、フランスで、軽快な女性用のスポーツウエアを売り出し始める。やっと世界は、�我々の知っているような時代�としてのスタートを開始したのだと言ってもいいのかもしれない。  個人的な話になるが、私の実家は、東京の西部を走る京王線という私鉄の、新宿駅から三つ目の「笹塚」という駅の一つ先にある「代田橋」という駅を降りたところにある町の一角で、菓子屋をやっていた。一九一三年に、まだそういう店は存在しなかったのだけれども、歴史は、そういうものを存在させてくれる方向に近づいていた。一九一三年の四月、京王電気軌道という会社が、「笹塚」から「調布」の間に電車を通してくれるからだ。「笹塚」の次の「代田橋」という駅も誕生して、やっと私の家が近代史に登場する余地も生まれる。同じ年の六月には、森永製菓が「ミルクキャラメル」というものを製造発売してくれて、やっと私の家で�売る物�が出来上がる。この二つの条件がなければ、私の家は現代史に登場出来なかったのである。ありがたいことだ。  がしかし、「代田橋」という駅は出来ても、この線路はまだ「新宿」というターミナル駅に続いてはいなかった。「笹塚・新宿」間が開通するのはこの二年後で、当面京王線は、「笹塚・調布」間だけだった。現在の京王線のこの区間沿線は、�東京の住宅地�である。しかし、一九一三年のこの辺りにはロクに人間が住んでいなくて、ここは�なんにもないところ�だったはずなのである。  明治の大流行作家でもあった徳冨蘆花は、一九〇七年、東京府北多摩郡千歳村字|粕谷《かすや》へ転居した。そこに永住して「美的百姓」としての生活を始めるためである。その地は、現在の世田谷区粕谷町で、最寄りの駅は京王線の「芦花公園」である。この駅は、一九一三年に開通した「笹塚・調布」間にある。小学生の私はここにピクニックに連れて行かれて、「公園のくせになんにもない……」と悩んだ。徳冨蘆花の住居跡が公園になっていた、一九五〇年代の話である。  そこは、木が鬱蒼と茂って暗くジメジメした印象を与える�公園�だった。徳冨蘆花から五十年たっても、まだ武蔵野の面影が残って、木が茂って田んぼや畑ばっかりの田園地帯だった。徳冨蘆花が越して来た時点では、当然まだ電車も走っていない。その辺りはなんにもなくて、徳冨蘆花も都会とは無関係なところを選びたかったのだろう。しかし、だとしたら、そんなところに線路を引く必要もない。電車に乗る人がいないのである。「代田橋」から電車に乗っても、新宿には行けないのである。  ものの本には、この京王電気軌道が開通した一九一三年頃から、「東京の郊外電車の延長が始まる」と書いてあるものがある。この頃から�通勤圏�としての郊外が発展するのかと思うが、そうではない。東京の郊外が通勤圏として開けるのは、一九二三年の関東大震災で都心部が壊滅してしまった後のことで、その十年以上も前の東京の人間には、そんな�へんぴなところ�へ引っ越す理由がなかった。徳冨蘆花は、変わり者のインテリでもあるからこそ、そういうところへ移ったのである。この頃の東京には、まだロクに私鉄なんかなかったのだ。  一八七二年、新橋・横浜間に鉄道というものが開通して、これはまだ煙を吐く蒸気機関車だった。一九〇四年には、既に蒸気機関車が走っていた中央線の飯田町・中野間に電車が走るようになったが、その先の「阿佐ケ谷」とか「高円寺」という駅はまだない。だから、通勤ラッシュの起こりようもない。なにしろ、まだ肝心の「東京駅」がないのだ。  一九〇九年に、山手線では電車の運転が開始される。東京の市街をグルッと回る環状線が登場して、その駅をターミナルとする私鉄各線も存在しうるのだが、そういう東京の線路全体をたばねるような東京駅は、一九一四年——京王線が走った次の年にやっと開業する。そして、そうであっても、まだ東京には私鉄を存在させる必要があまりなかった。一九〇七年には、渋谷と玉川をつなぐ玉電が開通したけれども、これは�通勤用�ではない。これで玉川の砂利を運び、そのついでに人間も[#「そのついでに人間も」に傍点]運んだ。一九一三年に開通した京王線もこれと似たようなもので、「新宿」というターミナル駅に接続しないこの電車は、人よりも農作物を運んでいたのである。  我々の知る�東京の歴史�は、この頃やっと始まった。しかし始まったばかりの東京は、我々の知る�東京�とはあまり似ていない。歴史というものは、現在の我々を成り立たせるために始まるものではなくて、なんだか分からないままに始まるのだ。そうやって始まってしまった歴史の上で、人間はいろんなことを始める。歴史とは、そうやって徐々に現在に似てくるものなのかもしれない。 [#改ページ]       1 9 1 4  この年の六月二十八日、バルカン半島のサラエボで、オーストリア帝国皇帝の甥に当たる皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人に暗殺された。世に言う「サラエボの悲劇」で、第一次世界大戦はここから全世界へ広がっていく。  サラエボから火の手の上がった第一次世界大戦は、いつの間にか「ドイツ対フランス・イギリスの戦い」のようなものになっている。ドイツ軍の潜水艦Uボートは無差別攻撃を始め、それをきっかけとしてアメリカも参戦し、第一次世界大戦は、潜水艦や毒ガスや飛行機や戦車が登場する�近代戦�になる。それはいいのだが、しかし、その昔に高校生や大学生だった私は、「オーストリアはどうなったの?」と首をひねった。  第二次世界大戦なら、ナチス・ドイツはオーストリアを併合してしまう。しかし第一次世界大戦はそうじゃない。第一次世界大戦の主役はドイツで、口火を切ったオーストリアは、いつの間にかどっかにいっている。オーストリア帝国は、いつの間にか�共和国�になっている。同じ帝国だったロシアやドイツにはダイナミックな�革命�が起こって、世界史の関心はもっぱらそちらの方に向けられるから、おとなしくなったオーストリア[#「おとなしくなったオーストリア」に傍点]は、あっさりと忘れられる。「第一次世界大戦はサラエボで始まったはずなのに、一体�サラエボ�はどうなったんだ? 一体サラエボの�なに�が重要で、どうしてバルカン半島は�ヨーロッパの火薬庫�なんだ? どうして、印象の薄いオーストリアにこんな大戦争が引き起こせたんだ?」と、昔の私は悩んでいた。悩んで忘れて、時がたった。  「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていたバルカン半島の国々は、第一次世界大戦後の「民族の自決」の原則の中で独立する。オーストリア帝国の支配下あるいは影響下にあったこれらの国々は、やがてソ連の社会主義体制に組み込まれ、そのまま忘れられ、一九九一年のソ連崩壊をきっかけとして再浮上する。サラエボの地・旧ユーゴスラビアでは、住民同士が殺し合った。その南のアルバニアでは、�資本主義の投資�とネズミ講とを取り違えた国民達が、内乱状態を現出した。「ヨーロッパの火薬庫」は、�依然未解決の問題�として再浮上したのだ。  「サラエボの悲劇」を起こしたバルカンには、確かに�なにか�があった。「サラエボの悲劇」という歴史事件の下には、とんでもなく広がった根っこがあった。それが見えなかったから、昔の私に第一次世界大戦は分からなかったのである。それで私は、もう一度、第一次世界大戦を振り返った。今の目で見てあきれてしまった。あまりにも第一次世界大戦の発端が、バカバカしかったからである。  皇位継承者の甥を殺されたオーストリア皇帝は怒って、セルビアに仕返しを考えた。それで、同盟国ドイツの皇帝に、「仕返ししてもいい? 協力してくれる?」という親書を送った。打診されたドイツの皇帝はノンキな男で、「ああいいよ」と言った。ドイツの皇帝は、「セルビアの悲劇」を�隣の皇帝一家の身内の問題�とだけ考えて、�兄弟分の喧嘩に助っ人を約束する太っ腹なヤクザの親分�とおんなじノリでOKを出した。ドイツの支持を得たオーストリアは、ただちにセルビアに強硬姿勢を示す。それを知って慌てたのはドイツ政府で、彼等は、まさか自分のところの皇帝が大戦争を誘発するような危険な約束を平気でしていたとは思わなかった。  オーストリアはセルビアと戦争を始めた。セルビアはスラブ民族の国で、セルビアの背後には、同じスラブ民族の大国ロシアがいる。大国オーストリアと小国セルビアが戦争をするということは、オーストリアがセルビアを自分の領土にしてしまうということで、セルビアを自分の領土にしたがっているロシアが、そんなことを許すわけがない。ロシアは戦争の準備を開始した。オーストリアとセルビアの間に戦争は起こって、しかしまだロシアとオーストリアの間に戦争はなかったのだが、せっかちなドイツは、さっさとロシアに対して宣戦布告をしてしまったのである。  ロシアはフランスと同盟を結んでいる。ロシアとドイツが戦ったら、当然ドイツは、背後にあるフランスから襲われる。だからドイツは、「我が国がロシアと戦うことになってもそちらは手出しをしないように」と、フランスに要請する。「フランスは中立を守れ、その約束の保証として、ドイツとの国境地帯にある要塞を二つ引き渡せ」と。こんなムチャな条件がフランスに呑めるわけもないから、ドイツとフランスは戦争を始める。これが、第一次世界大戦の発端だった。  この第一次世界大戦の初期段階で特徴的なのは、�戦争をしたがっているドイツの早とちり�である。第一次世界大戦前のドイツは、イギリスとフランスとロシアに包囲されていた。そういう状況だから、ドイツもさっさと戦争をしたがっていたのかもしれない。がしかし、そうであればなおのこと、ドイツはより慎重になっていてもいいはずなのだが、この国の皇帝(かのヴィルヘルム二世)はノンキだった。第一次世界大戦の発火点は、オーストリアがセルビアに対して強硬に迫ったことで、これをおさえれば戦争は避けられたかもしれないのに、ノンキなドイツ皇帝は、あっさり「いいよ」と言った。第一次世界大戦はその一言で始まったのである。これを「バカバカしい」と言わずしてなんであろう。  第一次世界大戦は、近代の戦争である。この戦争の結果�革命�が起こって、皇帝という前近代的なものは消えてしまう。だから、近代史はもうそういう�古臭いもの�を相手にはしない。しかし第一次世界大戦は、この皇帝という古臭いものの早とちりを、国民が素直に受け入れたことから始まった。  第一次世界大戦は、それをきっかけにして各国のナショナリズムが国民の間で盛り上がった戦争である。それまでの戦争は、「支配者とそれに率いられる職業軍人がするもの」だった。国民は、「関係ないよ」でもすんでいたのだが、それが二十世紀になって変わった。「戦争を支持して戦争に積極的に参加する一般国民」というのは、意外や意外、二十世紀になってから登場するものなのである。だからこそ、その�反対の声�としての反戦論も、二十世紀に登場する。我々は二十世紀の戦争しか知らないから、戦争というのはそういうものだと思っているけれども、戦争は「二十世紀になってから異常になったもの」なのだ。  皇帝はバカげていた。その皇帝は追放された。しかしそのバカげた皇帝におとなしく従っていた国民が、その後の国家というものを作る。第一次世界大戦以後の世界状況がもっと危険になるのは目に見えている。そのことを頭に入れておいた方がいい。第一次世界大戦は�バカげた戦争�なのだが、それがいつの間にか見えなくなっていた——そのことが二十世紀最大の問題なのである。 [#改ページ]       1 9 1 5  第一次世界大戦は二年目に入った。ヨーロッパの各国は戦争で忙しかったが、日本は関係なかった。第一次世界大戦が勃発した一九一四年、イギリスは「ドイツと戦ってほしい」という依頼を日本にした。中国の山東省を租借していたドイツは、ここに東洋艦隊を置いてイギリスの艦船を攻撃していたから、日英同盟を結ぶイギリスは、そのよしみで日本に援軍を頼んだのだ。日本は少し考えて[#「少し考えて」に傍点]、これを了承した。しかし、その日本の�考え�を知ったイギリスは、依頼を取り消した。日本の�考え�は、「ヨーロッパが戦争で忙しい間に中国を侵略してしまおう」だったからだ。日本はさっさとドイツに宣戦を布告して、さっさと勝った。日本が第一次世界大戦でやるべきことは一九一四年で終わり、後は�金儲け�だけになった。  ヨーロッパという�大工場�は、戦争で操業停止状態になっていた。だから、日本という�小さな町工場�にも仕事は回ってきて、景気はよくなった。第一次世界大戦勃発当時の日本は不景気で、明治天皇の喪中とも重なっていたから、雰囲気は暗かった。しかし一九一五年は、華やかな大正天皇の即位式の年でもあった。そこに「大戦景気」がやってくる。十一月の末には、東京の株式市場も空前の高値をつけた。日本はパッと華やいで、イケイケのバブルになった。  ドイツに勝った日本は、一九一五年の一月、中国に「対華二十一条」という要求をつきつけていた。「ドイツの租借地だった山東省を日本の好きにさせろ」とか、「中国政府の政治・財政・軍事の顧問に日本人を雇え」とか、結局は中国を属国にしたいという日本の野望が濃厚な要求だった。「日本はドイツに勝ったのだから、�ドイツの領土�を日本のものにするのは当然だ」というのがこの考え方の背後にはあるのだけれども、日本が占領した山東省は、�ドイツが中国から借りている借地�であって、�日本とドイツの戦争�に、大家の中国は関係がない。しかし日本はそう考えなかった。「�租借地�というのは単なる口実で、それは�領土�なのだ」と日本は考えていたから、こんな要求をしたのだ。  一九一二年以来、中国には袁世凱《えんせいがい》を代表とする中華民国が成立していた。「対華二十一条」がつきつけられた中国は、この袁世凱が代表する中華民国だった。中国に�市場�を求めて�商売�を考えている欧米諸国は、それが�代表のいる国�でありさえすればかまわないと思って、この中華民国を認めたが、日本はこの中華民国を嫌っていた。どうしてかと言えば、これが皇帝のいない�共和国�で、日本に戦争で負けていた国だからだ。  大日本帝国で、天皇は絶対だった。「議会および国民は天皇に従うもの」が大日本帝国の前提で、日本は清朝の中国に日清戦争で勝っていた。自分の国の国民の言うことさえ聞かないのが、絶対者の天皇を盾とする大日本帝国の政治ボスである。そういうやつらが、�共和国の中国�を認めるわけはない。なにしろ�負けた国�なのである。�独裁者の中国�だって認めっこない。日本の政治ボスに認められるものは、唯一�日本の属国となった中国�だけだからである。それで日本は、「対華二十一条」をつきつけた。  第一次世界大戦は、もちろん�侵略戦争�だった。自分のところの皇位継承者を暗殺されたオーストリアの皇帝は、それをしたセルビア人の国を自分の領土にしようとした。そのセルビアを助けようとして戦争に乗り出したロシアだって、胸の内はおんなじだった。第一次世界大戦は、バルカン半島に対するオーストリアとロシアの�領土争い�から始まったと言ってもいい。それだから、日本が中国を�属国�にしようとするのも、この時代の考えでは、別に不自然ではないかもしれない。しかし、二十世紀の戦争である第一次世界大戦は、そんなに単純なものではなかった。この侵略戦争で一番重要なものは、�市場《マーケツト》�というややこしいものだったからだ。  二十世紀のゴタゴタのすべては、十八世紀のイギリスで達成された産業革命に始まる。イギリスは、あまりにも大量の�商品�を作りすぎて、この余った�商品�を売らなければならなくなった。産業革命で作りすぎた商品を買う相手を求めて、十九世紀ヨーロッパのアジア侵略は始まる。軍隊をバックにしたセールスマンがアジアにやって来て、「買わないのならこっちにも考えがありますよ」と脅す。暴力団とつながった地上げ屋がやって来るバブルの日本と同じである。暴力は最終的な手段で、重要なのは�商取引�だった。だから、十九世紀後半の世界で一番重要なものは、軍隊ではなく、商品を作り出す工場だった。  「軍隊同士が戦って相手国から領土を獲得する」という形の戦争は古くなって、二十世紀の戦争は、「ウチの市場《マーケツト》をお前なんかに渡すもんか、お前にうまい商売なんかさせるもんか」という、陰湿でややこしいものになる。第一次世界大戦でこういう種類の戦争をしたのは、ドイツとイギリスとフランスで、ドイツの工業が強くなって、それに慌てたイギリスとフランスがドイツを封じ込めようとして、戦争になった。「ドイツ対イギリス・フランスの戦い」は、まぎれもなく近代の戦争である。しかし、同じ第一次世界大戦には、古臭い�領土争い�をする「オーストリア対ロシアの戦争」もある。第一次世界大戦は、それを戦った国々から皇帝が消えていく戦争だが、この皇帝達の頭の中にあったのは�領土�だった。�領土�を求めた皇帝達は消え、「領土を求める」という戦争は決定的に古くなる。ところが、そんな第一次世界大戦と関係がないのが、中国を狙う日本だった。  欧米諸国の真似をして近代化に励んだ日本は、その対外侵略も真似た。「それが出来てはじめて一人前」というのが、十九世紀世界の常識だったからだ。日本は近代的な工場を作った。戦争もした。欧米諸国の常識に従って、勝った戦争で�取り分�を要求して、すぐにそれを欧米諸国に取り上げられた——それが常だった。競争相手を増やしたくない欧米諸国は、日本の成長を望まない。それと同時に、戦争に勝った日本は、まだ近代工業が十分に発達していなかったから、商品を売る�市場�よりも、もっと分かりやすい�領土�というものを求めた。  近代日本の対外的ゴタゴタの原因は、日本が�市場�ではなく�領土�を求めたその古臭さに由来するものだろう——私はそのように思う。絶対者をいただく大日本帝国の日本人達にとって、�市場の拡大�なんかよりも、�領土の拡大�の方がずっと分かりやすかったはずだ。  日本は、中国侵略を�侵略�と考えなかった。「欧米諸国がやっているのと同じこと」と考えて、「ヨーロッパが戦争で忙しい間に……」と画策した。しかしそれは、もう第一次世界大戦後の世界では通用しなくなっていた。日本は�古臭い国�になって、そのまま第二次世界大戦の悲劇へとなだれこんで行く。 [#改ページ]       1 9 1 6  第一次世界大戦は三年目に入ってまだ続いていた。ロシアから亡命してスイスにいたレーニンは、『帝国主義論』と通称される『資本主義の最高段階としての帝国主義』の執筆に没頭していた。この本の中でレーニンは、「帝国主義は資本主義の最高段階であり、最終段階である。帝国主義は戦争を必須として、その戦争=第一次世界大戦は、社会主義革命へと移行しなければならない」と訴えるのだが、レーニンの祖国ロシアに�高度に発達した資本主義�があったわけではない。ロシアには、ただ頑固な皇帝がいた。この翌年ロシアには革命が起こって、皇帝は退位する。しかしそれとは関係なく、この一九一六年には、オーストリア帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世が八十六歳で死んだ。  サラエボで皇位継承者の甥を殺され、怒ってセルビアに戦争を仕掛けた�第一次世界大戦の元凶�は、在位六十八年目に静かに死んだ。皇帝が死んでもオーストリアは平穏で、革命なんか起こらなかった。後を継いだのは、サラエボで暗殺されたフランツ・フェルディナント大公の甥に当たる二十九歳のカール一世で、彼は老皇帝の�甥の甥�に当たる。  第一次世界大戦終了直前の一九一八年、カール一世は古いオーストリア帝国を解体して連邦国家にしようとした。しかしオーストリア帝国を形成していた諸民族は、さっさと独立を宣言してしまった。オーストリアは�小さな帝国�になり、戦争は終わった。カール一世は退位して、オーストリアは小さな共和国になる。この若い皇帝の在位は二年で、彼が若くて在位期間が短くて、先代の皇帝から遠いところにいた人だったから、オーストリアの変革もすんなりといったのだろう。老皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の死と共に、「オーストリア帝国」は終わっていたのだ。  一九一六年に死んだオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世は、典型的な�昔の王様�だった。彼の生まれたハプスブルク家は、中世ヨーロッパの中央にデンと広がっていた神聖ローマ帝国の皇帝となる家系だった。ところが、神聖ローマ帝国は解体した。ドイツには複数の王国が分立し、やがて新興プロイセンのホーエンツォレルン家が、�本家�であるハプスブルク家を排除して、ドイツ帝国を作る。かつてのよきライバルだったブルボン王家も、共和国となったフランスからは消えている。栄光あるハプスブルク家も、今や�寂れかかった田舎の名家�でしかなかった。  ハプスブルク家を排除してドイツ帝国の皇帝となったホーエンツォレルン家のヴィルヘルム一世は、息子の嫁にイギリスのヴィクトリア女王の娘をもらった。ヨーロッパの王室には、「王族の妃になるのは王家の娘でなければならない」という規定があって、ヴィクトリア女王には四人の娘がいたから、ちょうどよかった。ヴィクトリア女王の娘達も娘を生んで、彼女達は各国の后となり、イギリス王室は各国に根を張った。女達の縁で、ドイツの皇帝もイギリスやロシアの王室と縁続きになっていたのだが、しかし、かつては「戦争よりも結婚で領土を広げる」と言われたハプスブルク家は、そうではなかった。  皇帝とは、複数の王様の上に立つ�王様の王様�で、帝国は�複数の王国を含む国�である。ドイツ帝国[#「帝国」に傍点]には、�狂王ルートヴィッヒ二世�で有名なバイエルンをはじめとするいくつもの王国・公国があった。ハプスブルク家の結婚相手は、この�隣のドイツの王族の娘�だったのである。フランツ・ヨーゼフ一世の皇后エリザベートは、ルートヴィッヒ二世と同じバイエルンの王族ヴィッテルスバッハ家の一員で、かつては「世界帝国」と言われた栄光のハプスブルク家も、今では�地元で縁組をする田舎の名家�でしかない。皇位継承者を殺されても、ハプスブルク家には、�本家より大きくなった分家の当主�のようなドイツ皇帝しか相談相手はいなかった。  ホーエンツォレルン家のドイツ皇帝は、ロシアやイギリスの王室と一族だったが、一族だから仲がいいとは限らない。一族だからこそ争うというのもある。ヴィクトリア女王の娘を母に持つドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は、そっち[#「そっち」に傍点]だった。ヴィルヘルム二世は、母親からイギリス風の教育を受けて、イギリスが嫌いになっていた。母なるイギリスよりも父なるドイツを愛したヴィルヘルム二世は、イギリスに対してライヴァル意識を燃やし、そういうドイツ皇帝を、イギリス人は「世界で最もダサイ皇帝」とばかりに笑いの対象にした。ドイツ皇帝は傷ついた。「自分は偉大なるヴィクトリア女王の孫だ」と思っていたドイツ皇帝は、�身内�であるはずのイギリス人から笑われたくなかったのである。ドイツ皇帝は傷ついて、イギリスに対して敵愾心を燃やした。このドイツ皇帝は、ロシアの皇帝にもやっぱり複雑な感情を持っていた。�近代の戦争�である第一次世界大戦には、そんな側面だってあったのである。  しかし、オーストリアの皇帝には�張り合うべき一族�なんかなかった。一族どころか、�家族�もない。甥を皇位継承者にしていたフランツ・ヨーゼフ一世には、ちゃんと息子の皇太子もいたが、その皇太子は愛人と自殺をしていた。姑と折り合いの悪かった皇后エリザベートは、その息子の死を悲しんで夫の皇帝と距離を置くようになり、やがて無政府主義者に暗殺される。息子と妻を失った皇帝は、甥を皇位継承者に立てたのだが、古いハプスブルク家には、「皇帝の息子以外は皇太子と呼べない」というきまりがあり、そこに「王族の妃となるのは王家の娘だけ」というしきたりが重なる。  ただの「皇位継承者」となったフランツ・フェルディナント大公には妻もいたし子供もいた。しかしその妻は、�伯爵の娘�だった。こういう女性を�后�にすることは出来ない。フランツ・ヨーゼフ一世は、「その女との間に出来た子供を帝位にはつけない。その女をハプスブルク家の墓には入れない」という条件で、甥の結婚を許した。「皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の妻」は、ただそれだけの存在で、�王家の一員�ではなかった。サラエボで大公夫妻が暗殺された時、その危険はあらかじめ承知されていたのに、警備は手薄のままだった。なぜかといえば、「ただの�皇位継承者�に対して�皇太子並の警備�をつけてはならない」という規定もあったからである。その結果、「ただの皇位継承者」である大公夫妻は、あっさりと殺された。  息子に死なれ、妻を殺され、皇位継承者も見殺しにするしかなかったオーストリア皇帝は、八十六歳で死んだ。皇帝が死んでも、帝国の首都ウィーンは平穏だった。国民はこの老皇帝を支持していて、皇帝であることだけをまっとうした老人は静かに死んだ。彼が守った帝国は、その二年後に消滅する。それを知って、この老人は平穏でいられただろうか? �第一次世界大戦の原因�はそうやって姿を消すのだが、なんだか悲しい一生である。 [#改ページ]       1 9 1 7  ロシア革命の年だが、四年目の第一次世界大戦はまだ続いている。  アラビアのロレンスはトルコ軍をアカバから追い、アメリカはドイツに参戦し、半分ドイツ人でもあったヴィクトリア女王とアルバート殿下の家系であるイギリス王室は、家名をドイツ風の「サックス・コーバーク・ゴータ家」から「ウィンザー家」に改め、王族が平民のイギリス人と結婚してもかまわないように王室の婚姻法を改めた。帝国ドイツには�王国・公国�がいっぱいあって、もしも王族が王族の娘としか結婚出来ないのならば、敵国ドイツから王妃をもらう可能性が高くなってしまうからである。「王家の娘としか結婚出来ない」を守ったホーエンツォレルンやハプスブルクの王家は消えたが、�民主化�を結果的に図ったイギリス王室は生き延びた。  前年の暮れには、「ドイツが講和を求めたからもう第一次世界大戦は終わりだ」という情報が流れて、東京市場の株価は一時暴落したが、でも、第一次世界大戦はまだ終わらなかった。  一九一七年がそういう年なのだから、当然一九一六年も戦争中である。ドイツ軍がフランスのヴェルダン要塞を攻撃して、七カ月かかって死者を何十万人出しても攻略出来ず、九月にはソンムの戦いでイギリス軍が史上初の戦車を登場させた。ルーマニアはオーストリアに宣戦を布告し、イタリアはドイツに、ドイツはルーマニアに宣戦を布告して、戦争はますます激しいはずなのに、その一九一六年が終わったばかりの一九一七年一月二十二日、スイスに亡命中のレーニンは、「われわれは、ヨーロッパの現在の墓場のような静けさに欺かれてはならない」と演説した。  その演説は、日露戦争中の一九〇五年に起こったロシア最初の革命的蜂起である「血の日曜日事件」から十二周年を記念する講演だった。レーニンは続けて、「ヨーロッパは革命をはらんでいる」と言う。そうして�革命の必然�を訴えなければならなかったのだから、きっとヨーロッパは�静か�だったのだろう。  レーニンは続ける。ヨーロッパは�革命�をはらんでいて、「一九〇五年のロシアに、プロレタリアート指導のもとで、民主的共和制の獲得を目的として、皇帝《ツアーリ》政府にたいする人民の蜂起がおこったように、ヨーロッパには、近年のうちに、ほかならぬこの強盗戦争と関連して、プロレタリアートの指導のもとに、金融資本の権力にたいし、大銀行にたいし、資本家にたいする、人民の蜂起はおこるであろう」と。しかしレーニンは弱気だった。レーニンは、「われわれ老人たちは、おそらく、生きてこのきたるべき革命の決戦を見ることはないであろう」と続けた。この年レーニンは四十七歳。まだ�老人�には早すぎるが、そう言いたくなる気分だったのだろう。レーニンが言及する�革命�は、�ロシアにおこるはずの革命�ではなく、�ヨーロッパの革命�だった。レーニンは�ロシアの変化�に絶望的だったが、それから二カ月もしない内に、ロシアでは�革命�が勃発した。  ロシアの首都のペトログラード(後にレニングラード、現在はサンクト・ペテルブルグ)は、食料不足に陥っていた。前年が飢饉だったというわけでもなく、ロシアの農村に食料がなかったというわけでもないらしい。都市と農村をつなぐ鉄道があまり動かなくて、農民の方もわざわざ食物を売って現金に換えようという気がなかったから、都市に食料が来なかったのである。�一九九〇年代のロシア�みたいである。  ペトログラードでは、第一次世界大戦発生前に比べて、労働者人口が倍になっていた。当然食料は足りなくなるが、なんで資本主義が発達していないロシアの労働者人口が急増したのかと言ったら、このペトログラードが、ロシア最大の軍需工場の存在地だったからである。戦争関係の工場はフル回転し、労働者の数は増える。軍事関係ばかりが膨張して食料がない——昔からロシアはこうだった。  その日、三月八日は「国際婦人デー」だった。男達は戦争に行き、女達は軍需工場で働いていて、原料不足で操業停止になる工場は多かった。女達は集まり、食料はなかった。国際婦人デーに集まった女達は、「パンをよこせ!」と叫んで町へ出た。町には、来るあてのないパンを待って配給の列に並んでいる女達がいた。この女達も「パンをよこせ!」に合流した。これが革命の発端である。  「パンをよこせ!」は、やがて「皇帝を倒せ!」になる。皇帝はぼんやりしていたが、皇后は情勢を分析していた。ドイツから来たヴィクトリア女王の孫でもあるしっかり者の皇后は、「このままではロシアが戦争に負け、皇帝の地位が危なくなる。そうなる前にドイツとの講和を」と考えていた。さすがに「パンがなければケーキを食べればいいのに」とは言わなかったが、皇后は、「寒かったら家の中にいるはずの怠け者が騒いでいる」と言った。プロレタリアートを�指導�するはずの男達は、レーニン以下ほとんど国外に亡命していてこの騒ぎを知らなかった。ロシア革命は、まず�女の戦い�だったのである。  当時�世界最大の陸軍力�を誇っていたロシアは、この第一次世界大戦の初めから、ドイツに負けていた。ロシア最大の資本家であるはずの軍需工場の経営者達は、「戦争に負けるのは指導部が無能だからだ、内閣を変えろ!」と騒いでいた。「内閣なんて皇帝の権限をおびやかすものだ」と思っていた皇后は、「さっさとドイツと仲直りして戦争をやめればいい」と、実家の方を向いていた。ここに、「今ロシアに戦争から抜けられたら困る」と言うイギリスやフランスのちょっかいが入る。英仏の考えも、「内閣を変えろ」である。皇帝は、ただ「うーん……」と悩んでいた。  デモとストライキの騒乱状態は拡大し、ここに軍隊も合流して、三月十五日、皇帝ニコライ二世は退位を決意する。「現皇帝が退位すれば帝政は安泰であろう」という考えによるものだが、次の皇帝に推薦された弟のミハイル大公はいやがって、ロマノフ朝は終わる。ロシアは共和制になったが、当然革命はそこにとどまらない。レーニン達はロシアに帰って来る。十一月六日にはレーニンやトロツキーに率いられたボルシェヴィキが武装蜂起し、ソヴィエト政権が天下を取ったロシアは、史上初の社会主義国となる。レーニンは人民委員会議議長になったが、社会主義国家の基礎を固めるのに忙しいはずのロシアで、レーニンという�まともな指導者�が健在だったのは、六年に満たなかった。  一九二三年、レーニンは脳卒中で車椅子の人となり、一九二四年に死ぬ。権力の中枢についたのは、レーニンが排除したがっていたスターリンだった。「元帝政ロシアの秘密警察のスパイだった」という嫌疑濃厚なスターリンは、ソ連の一切を掌握し、思想統制の�カルト国家�となったソ連は、左翼思想の発展継承を歪めた後、やはり「パンをよこせ!」の声によって、一九九一年に崩壊する。 [#改ページ]       1 9 1 8  この年の十一月十一日、第一次世界大戦は終わった。ドイツとロシアとフランスとオーストリア=ハンガリーとイギリスとイタリアとアメリカとトルコとで合わせて約七百九十万人の戦死者を出し、ロシアとオーストリアとドイツとそれからかつては栄光を誇ったオスマントルコのトルコ帝国からも�皇帝�というものを追放して、第一次世界大戦は終わった。一九一四年六月の「サラエボの悲劇」から四年四カ月以上がたっていた。  第一次世界大戦は終わり、しかし終わったのは、「第一次世界大戦」という戦争だけだった。大戦終結の二カ月後——一九一九年の一月には、やがて「ナチス」と呼ばれるようになる小さな政治結社・ドイツ労働者党が、南ドイツのバイエルンに結成される。三月にはイタリアでムッソリーニがファシスト党を結成し、九月になれば、バイエルンの軍隊で雄弁の才を買われるようになっていた一兵士ヒトラーが地元のドイツ労働党へ入党し、その党勢拡大を主張するようになる。第一次世界大戦の終わりは、そのまま第二次世界大戦の始まりへと直結しているのだ。  国同士の戦争は、「他国を侵略して自国の繁栄を得る」という考え方から生まれる。この考え方がなくなれば戦争もなくなるだろう。しかし第一次世界大戦の終わりは、そういう考え方の終わりではなかった。戦争は�中休み�に入り、二十世紀は新たなる戦争の準備にかかる。大きな犠牲を出した戦争の後で、なんでまたそんなくだらないことを始めなければならないのかと言ったら、そこにはやっぱり、�ある必然�があるのである——。  第一次世界大戦の終結と共に、あるものが終わった。オーストリア皇帝の退位によるハプスブルク家の終焉である。十八世紀末から十九世紀前半のヨーロッパ大陸で最も力のある王家はハプスブルク家だった。ハプスブルク家は保守派の代表者で、その保守派に対抗する形で英雄ナポレオンがいた。この時代は、「ナポレオンの時代」だったからである。  一七八九年のフランス革命はブルボン王家の一族を処刑し、フランスを共和国にした。�民衆の国�となったフランスは左右に揺れ、その混沌の中からナポレオンという�英雄�が現れる。「私が革命だ」と豪語するナポレオンはフランス革命の理念を掲げ、�ヨーロッパの解放者�として他国に向かう。  フランスを取り巻くヨーロッパ大陸の王国にとって、その革命は「王を処刑する恐ろしい伝染病」だった。だから当然、周囲の国王達はこれをつぶそうとする。ロシア革命後の「ソ連対資本主義陣営の対立」と同じである。フランスは革命の成果を守ろうとして戦い、やがてそれはナポレオンによって、�フランス革命の成果を広める戦い�となる。ナポレオンは戦争に勝利を続け、共和国フランスは、彼に�皇帝�の地位を与えた。ヨーロッパ大陸におけるナポレオン最大の敵は、一族の娘マリー・アントワネットをブルボン王家に送っていた神聖ローマ帝国の皇帝(ハプスブルク家)だったが、ナポレオンという�ヨーロッパ最強の皇帝�の出現におびえたハプスブルク家は、一八〇六年、神聖ローマ帝国皇帝の地位を放棄する。  ヨーロッパ最大の帝国はかくして滅び、この時以来ハプスブルク家は「オーストリア帝国の皇帝」となるのだが、したたかなのは、そうして生き延びた王家である。この王家は、皇帝の娘マリー・ルイズ(マリー・アントワネットの兄の孫に当たる)を后としてナポレオンに送る。ナポレオンとハプスブルク家は政略結婚で結ばれ、そして、ナポレオンは失脚する。ヨーロッパ大陸の主導権はハプスブルク家に移るのだ。  ナポレオン失脚後、フランスでは政治体制がコロコロと変わったが、結局共和制は消えなかった。しかし、その共和制もドイツとの国境を越えられなかった。ハプスブルク家の�下�にあったはずのドイツでは、プロイセンを中心としたドイツ帝国が誕生し、その統一ドイツから排除されたハプスブルク家は、ドイツの東の広大な領域を支配地として健在であり、そのさらに東には、ロシアのロマノフ王家が健在だった。つまり、ナポレオンに対抗した�反共和制の砦�を健在のままにして、凍結されたような時間が第一次世界大戦へと至る。  第一次世界大戦に敗れて、ドイツもオーストリアも共和国になった。ロシアは社会主義国になり、チェコやハンガリーや、ユーゴスラビアをはじめとするバルカン半島の国々も、「民族自決の原則」によってハプスブルク家の支配から独立した。フランス革命の理念はついに国境を越え、�東�へ流れ込んだのだ。もはやフランス革命は�遠い昔の出来事�で、革命の最新モードは「社会主義革命」になっていたけれど、古い王家の支配を倒す�革命�が訪れたことだけは確かだった。つまり、二十世紀の一九一八年になって、やっとこの地に「十八世紀の終わり」は訪れたのである。だから当然、問題は�その後�に来る。  革命後のフランスにはなにが起こっただろう? 「革命の結果国内は大きく揺れ、やがてそこから独裁者が登場する」である。革命後のフランスに起こったことが、そのままこの地にも訪れる。ドイツのヒトラー、イタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリン——国内の混乱の中から独裁者が生まれる。彼等は�一世紀ほど遅れて来たナポレオン�なのである。  フランス革命の理念を掲げて他国に進軍した皇帝ナポレオンは、結局のところ、「思想を掲げて他国を侵略した人」である。第一次世界大戦は「利益を求めた国家間の戦争」だったが、その後の第二次世界大戦は�思想戦�になった。侵略戦争を仕掛ける側は自分達の�正義�を訴え、�理想�を唱えた。これに対する連合国軍も、「ファシズムからの解放」という�思想�を掲げる——つまり、時代はいつの間にか「十八世紀末のナポレオン戦争の時代」に逆もどりしていたのである。  ナチス・ドイツは、ナポレオンがロシア遠征に出発したのと同じ日を選んでソ連侵攻を開始した。第二次世界大戦後、ソ連が旧ハプスブルク家の支配下にあった東欧を社会主義圏にしてしまったのも、「ヨーロッパの解放者」を自認したナポレオンと同じである。革命以後のロシアの独裁者スターリンの矛盾したあり方は、�共和国の皇帝になったナポレオン�と同じなのだ。あきれるほど、歴史というものは変わらない。  ナポレオンに対抗したハプスブルク家は倒れ、そのことの意味が理解されないまま、いつの間にか�ナポレオンの亡霊達�が生まれていた——ナポレオンほど華麗ではなく、ナポレオンよりもっともっと思想的に厄介な亡霊達。歴史はあきれるほど変わらないのだ。  各国に�革命�をもたらした第一次世界大戦は終わった。そしてその時、ヨーロッパ大陸には、フランス革命後の混乱と同じような状態が静かに広まっていた——それが一九一八年なのである。 [#改ページ]       1 9 1 9  前年の十一月に第一次世界大戦は終結したが、その終結にまつわるゴタゴタで、まだ世界中が落ち着かなかった。前年から大流行して全世界で死者を二千万人も出したスペイン風邪もまだまだ猛威をふるっていたけれども、それとはまったく関係なくて、そんなことにどんな意味があるのかよく分からないようなものが、この年、発見されたのかどうかも分からないまま、発見されていた。太陽系の一番外側にある惑星・冥王星である。  長い間、天文学者達は天王星や海王星の動き方がへんだと思っていた。天王星や海王星の動き方を見ていると、どうしても「その外側にもう一つ別の惑星が存在する」としか考えられないからだ。それで、一九〇五年にアメリカのローウェル天文台で�未知の惑星�の探索がスタートしたのだが、なかなかそれは見つからなかった。冥王星は公式には一九三〇年に発見されるのだが、それが発見された時、「なんだ、その星なら一九一九年に発見していた」とか、「一九一四年に発見していた」という声が起こる。天文学者達はその星がもっと明るい星だろうと思っていて、予想よりもずっと暗かったその星を「冥王星」だとは判断出来なかったのだ。  それで、この星は冥界=地獄の王の名前を取ってプルート (pluto) と名づけられた。別の説では、発見者トンボーの最初の二文字「TO」と、その所属する天文台の創立者パーシヴァル・ローウェルのイニシャル「PL」を組み合わせたら「PLUTO」になったのだとも言う。  もう二十年近くも前のことだけれども、私は本屋で「ホロスコープの作り方」というような本を見つけた。正確な書名は忘れてその本もなくしてしまったけれども、そこには、「占星術というのは、人間が生まれた時の星座や惑星の位置を見てホロスコープというものを作り、それによって運勢を見る」ということが書いてあって、「ホロスコープの具体的な作り方」も載っていた。「ふーん……」と思った私は、さっそく自分のを作り、ついでに友人知人の生年月日も聞き出していとも勝手な�星占い�をやっていたのだが、そのうちへんなことに気がついた。どういうわけか、すべての人が「ヘンタイの星」をしょっているのである。  私の買った本によると、冥王星というのは「セックスと神秘をつかさどる星」なのだが、それがみんな�いい角度�にはないのである。占星術で重要になるのは「星の角度」で、「セックスと神秘の星がいい角度にはない」ということになったら、どうしてもこの解釈は「ヘンタイの星をしょっている」になる。とんでもないことである。それで私は、「なんでだ?」と考えた。答はいたって簡単なのである。太陽系の一番外側を回る冥王星の公転周期は約二百五十年で、この星は�ほとんど動かない星�だったからである。  それで私は考えた——「そうか、うっかり冥王星なんてものが発見されてしまったから、ある時期に生まれた人間はみんな平等にヘンタイになっちゃったんだな」と。冥王星が発見される以前の人達は、「セックスと神秘の星」なんてものの存在を考えなくてもすんでいたのに、それが発見されてしまったがために、その後の人達はやっかいなものをしょいこんでしまったのである。  まァ、私は占星術のシロートだから、こんなことをあまり本気にしてもらわなくてもいいのだが、しかしこの二十世紀になって発見された�未知の惑星�は、なにか別のものに似ているのである。ずーっと以前からそれは存在していて、しかしその�発見�がなかなか行われなかったために知られないままでいて、発見されたらされたで、その暗い�神秘�の前に人間が頭を抱えることになってしまったもの——それは他にもある。ウィーンでフロイトの発見してしまった�無意識�である。人間が二十世紀になって発見した最大のものは�無意識�なのではないかと私は思っているのだが、占星術における冥王星の発見は、人間における無意識の発見とおんなじようなことなのではないかと、勝手なホロスコープを作っていた私は考えたのだった。  �無意識�の発見は、やっぱり二十世紀最大の発見である。�無意識�なるものを発見されて、人間はそれ以前とはまったく違うものの考え方をしなければならなくなったからだ。それまでは�呪術�や�神秘�や�超自然�といった領域に属すると思われていたものが、「人間に必須の構造」として説明されるようになってしまった。  「人間がバカげたことをするのは、その当人の中にある抑圧のせい」で、「自分に関する最終的な責任は、すべて自分にある」なのである。もしもフロイトが�無意識�を発見しなかったら、人間は�自分�というものをそんなにややこしく考える必要がなかっただろう。「そんなバカげたことをするのはあなたの幼児期に問題がある」とか、「あなたの愚行は、あなたの無意識的な選択の結果だ」などと言われなくてもすんでいた。「なぜある種の人間は�戦争�などという愚行を平気で選択出来るのか?」とか、「なぜ人間は、それを愚かだと分かっていても、平気で状況に押し流されて、�戦争�などというものに熱狂的に賛同してしまえるのか?」などという考え方も、それ以前にはする必要がなかった。しかし�無意識�を発見されてしまったら、もうそういう考え方をしなければならない。すべては「当人のせい」で、「人間のせい」で、「あなたのせい」なのである。  それまでなら、「悪いのはあいつだ!」と言って、王様や資本家を処刑していればすんでいた。しかし�無意識�というものが発見されてしまったら、「どうして人間は自分の上に�支配者�なんてものを求めるのだろう?」とか、「どうして人間は不必要な金儲けをしたがるのか?」などというやっかいなことも考えなければならなくなる。二十世紀の複雑さは、二十世紀の歴史が�無意識の発見�と歩みをともにしているからだろうと、私は思うのだ。  第一次世界大戦中の一九一五年から一九一七年にかけて、フロイトはウィーン大学で講義をしていた。それが書物としてまとめられて出版されたものが『精神分析入門』である。これ以前に精神分析という学問はなかった。やっと人間に関するメスが入れ始められた。フロイトは当然、「第一次世界大戦を精神分析する」なんてことをやっていない。精神分析は、まだ個人にメスを入れるだけのもので、人間のする行為自体、あるいは歴史そのものが精神分析的な方法によって処理されるとは考えられなかった。まだ「個人の中身」と「社会状況」は別々のものだったからだ。  二十世紀はやっかいな時代だけれども、それは別に、人間が二十世紀になってダメになったからではない。二十世紀になって、人間は�自分�に関する新しい要素を発見した。それで、その複雑さに少しばかり振り回されているだけなのである。そう考えよう。 [#改ページ]       1 9 2 0  一九二〇年の日本は大正九年である。この年の日本は不景気だった。前々年に第一次世界大戦は終わり、ヨーロッパ各国が戦争をしている間に火事場泥棒的な大儲けをしていた日本の好景気は終わる。三月には株価が暴落して「戦後恐慌」がやって来るが、日本の大衆文化・市民文化が立ち上がるのは、その不景気の時期なのである。  映画雑誌『キネマ旬報』は前年に創刊されているが、この年に映画会社の松竹は、東京|蒲田《かまた》に撮影所を開設する。後に「キネマの天地」と呼ばれるものである。翌一九二一年には、「日本映画の父」と言われる映画製作者兼監督の牧野省三《まきのしようぞう》が、京都で自分の映画会社を設立し、本格的に大プロデューサーへの道を歩み始める。映画はまだサイレントだったが、「娯楽の王者」になりつつあった。  一九二〇年の十一月、読売新聞は文体を文語体から口語体に改め、日本の主要新聞もそれにならうようになる。日本の推理小説の歴史を語る上で欠くことが出来ない雑誌『新青年』が創刊されるのがこの年で、二年後には『旬刊朝日』『サンデー毎日』という週刊誌も創刊され、三年後には雑誌『文藝春秋』が創刊される。後の日本の大衆市民文化のベースとなる映画・新聞・雑誌がこの時期に形を整えるのだが、この年にはもう一つの大要素も登場する。「チャンバラ」である。  「チャンバラブームが起こった年」は、普通「一九二一年」とされる。その年、沢田正二郎《さわだしようじろう》の新国劇が東京で『国定忠次』を上演し、劇中のリアルで新しい立ち回りが東京にチャンバラブームを起こしたからである。しかしこれは�東京中心の事実�で、その前年、新国劇のチャンバラは既に関西でブームになっていた。前年の関西における好評が、新国劇の東京進出を可能にし、それが「一九二一年のブーム」として記録されるのである。  新国劇の創始者・沢田正二郎は、東京の人間である。三歳の年から東京に育ち、早稲田大学の英文科から、坪内逍遥の指揮する島村抱月と松井須磨子のコンビでも有名な、早稲田の文芸協会に入った。『復活』の再演では、松井須磨子の相手役も演じている。沢田正二郎はそもそも�新劇の人�だった。その彼が「新国劇」という劇団を設立してコケる。それで関西に行き、大興行師・大谷竹次郎《おおたにたけじろう》と出会う。「剣劇」はそこで創造され、チャンバラブームが誕生する。チャンバラと言えば「映画」だと思う人は多いかもしれないが、チャンバラとはまず、東京人・沢田正二郎が関西で創り出した「演劇」なのである。  一九二三年の関東大震災以後、壊滅的な被害を受けた東京を脱出した文化人の多くが関西に移る。そのためしばらくの間、関西からの文化発信も起こるのだが、しかしその以前から関西文化の東京進出は起こっていた。沢田正二郎が出会った大谷竹次郎は、映画会社松竹の社長でもある。一九二〇年の蒲田撮影所設立は、関西松竹の東京進出なのだ。当時の新聞は、東京では各紙が群雄割拠状態だったが、大阪では既に大阪毎日と大阪朝日の「大新聞」があった。これがやがては東京進出を果たして、日本の新聞地図は変わる。下っ端の歌舞伎役者・尾上松之助を日本で最初の映画スターにしていた京都の牧野省三も、一九二三年には新しいスターを発見する。チャンバラブーム発祥の地・関西が生んだ新スターは、「剣戟《けんげき》王バンツマ」——阪東妻三郎である。  彼を得た京都は、すぐにチャンバラ映画の王国となる。チャンバラブームの影響は文学に及び、それ以前「講談の速記録」という形でしか存在しなかった大衆向けの読み物が「新講談」というジャンルを生み、これが「大衆小説」へと進化する。一九二〇年頃の関西は、新しい文化の発信源だったのである。  その関西にはなにがあったか? 新国劇の沢田正二郎に勝利を与えたものは、関西、特に大阪の�客�だった。当時の大阪は日本最大の産業都市で、そこには娯楽を必要とする数多くの労働者がいた。一九二〇年の大阪は、都市としては東京を凌駕していたのである。  ヨーロッパが戦場となった第一次世界大戦の時期、日本は、ヨーロッパの市場だったアジアに輸出を伸ばし、大戦景気でにぎわうアメリカへの輸出も盛んになった。日本の輸出の中心は繊維品で、その生産量の飛躍的アップが、家内工業型だった繊維産業を工場型に変える。輸出に必要な海運・造船を中心として、重工業も興隆して来る。「繊維成り金」という言葉は、工場の経営者にだけ使われるものではなく、その工場に勤める労働者にも適応されるようになる。日本人の多くに働き口が出来、平均的な収入もアップするようになって、「二十世紀の都市民」というものがこの時期の日本にやっと定着するようになるのだが、それはまず大阪に起こった。  輸出先のアジアに近い大阪では、繊維産業が急成長し、大阪湾周辺では造船所が活気を呈し、他県の労働者が大量に流入して、ここは「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになる。淀川沿いに立ち並ぶ工場の煙突群が煙を吐き出す光景は市の誇りで、一九二一年制定の大阪市歌は「民のカマドに立つ煙、賑わいまさる大阪市」と歌う。「ゴミゴミと小さな町工場が並ぶ大阪」はこの時期に作られ、そこに住む都市民・労働者は、自分達の文化を生み出して行く。  一九二〇年には大阪の阪急梅田駅に白木屋が出店して、日本最初のターミナルデパートが誕生するが、都市としての大阪の発展に最も大きな功績があったのは、この阪急電鉄の創業者である小林一三《こばやしいちぞう》だろう。彼は、東京に先駆けて沿線の開発——新しい住宅都市の建設を開始した。客集めのためのレビュー——宝塚少女歌劇の創設もした。生活と娯楽と都市、ある意味で、その後の日本の都市文化は、「小林一三の大阪」から始まったようなものなのだ。  好景気による�工業国化�は、日本の大衆の生活をレベルアップし、それが定着した頃に不景気はやって来る。しかし二十世紀初頭の日本人は、一度獲得した「新生活」を元に戻そうとはしなかった。「日本は工業国である」という前提は維持され、その前提に従う日本人は、「不景気というものは間違った事態であり、我々はこれを克服しなければならない」という立場に立つ。工業化した日本では、生産された工業製品はすべて消費されるか輸出されるかしなければならないし、その実績は年々増大して行かなければならない——つまり、その後の日本を長く支配する「右肩上がりの成長神話」の原型も、この時期の大阪で確立されたということである。  第一次世界大戦中の好景気は、日本に「帝国主義的な世界進出」を可能にし、その後の不景気は、「この不景気をなんとかしろ」という形で、日本を帝国主義的侵略の道——戦争へと進ませる。もちろん、この頃の日本人には、まだそんな因果関係への理解はなかっただろうけれど、すべてはここから始まるのである。 [#改ページ]       1 9 2 1  「一九一八年十一月の第一次世界大戦の終わりは、そのまま第二次世界大戦の始まりに直結している」と言うと、いささか突飛に聞こえるかもしれない。第二次世界大戦の始まりは一九三九年で、一九二〇年代・一九三〇年代の二十年間はとりあえず平和だったからだ。一九二〇年代は「ローリング・トゥエンティーズ」と呼ばれるような、騒がしいけれど活気に満ちた時代、それが一九二九年の世界恐慌で、「戦争に向かう暗い時代」になる——第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間を「活気の一九二〇年代」「暗い一九三〇年代」と二分するのは一般的な考え方かもしれないが、これは、かなり無責任な考え方でもある。  一九二〇年代は、第一次世界大戦終結後の時代であると同時に、一九一七年に成立した社会主義国家ソヴィエト・ロシアの脅威に揺れる時代でもある。各国は「革命への恐怖」に揺れて、革命を起こしかねない「労働者」に対して様々な妥協をした。その結果、一九二〇年代は労働運動の高揚期になるのだが、そのことから、「労働運動が高揚するような時代の�平和�が、一九三〇年代に勃興するファシズムによって壊され、世界は第二次世界大戦という新たな戦争の時代へと突入して行く」という考え方が生まれる。この考え方は今でもまだ一部に支配的かもしれないが、なぜそうなるのかと言えば、一九九一年のソ連の崩壊まで、二十世紀の世界は、どこかで漠然と「世界が社会主義化することこそが正しい道かもしれない」と信じていたからである。  この前提に従えば、社会主義・労働運動を否定する形でファシズムが勃興して来る一九三〇年代は、�特別に暗い時代�で、その以前の一九二〇年代は�まだ希望のあった時代�になる。「希望の灯は大恐慌で消え、以後、人々は暗い時代風潮の中で無気力化してファシズムに傾斜して行きました」ということになるのだが、ファシズムにすべての責任を押しつけるこの考えは、一種の運命論で、実のところなにも語らない。一九二〇年代も一九三〇年代も、やがて第二次世界大戦に行き着くための移行期間で、世界が危険に傾く下地は、第一次世界大戦終結の段階でもう出来上がっていたと考えるべきなのである。  第一次世界大戦と第二次世界大戦とでは、その終結のしかたに大きな差がある。第二次世界大戦の後では、「平和に対する罪」等を戦争犯罪人に対して裁く国際軍事法廷が開かれた。第一次世界大戦にはそれがなかった。第二次世界大戦の後では、アジアやアフリカの多くの植民地が独立したが、第一次世界大戦にそれはなかった。戦勝国が、自分の植民地を手放さなかったからだ。その第一次世界大戦にあって第二次世界大戦にないもの、それが「戦勝国への賠償金支払い」である。  第一次世界大戦は、その結果「王様達」が消えて行く戦争で、言い方を変えれば「古い時代の最後の戦争」である。だから、これをきちんと終わらせていれば、第二次世界大戦だって起こらなかったのかもしれない。きちんと終わってしかるべきものがきちんと終わらなかった——その後の悲惨はこれによる。  「古い時代の戦争」は「王様ルールによる戦争」で、これは、「王様の所有する軍隊が別の国の王様の所有する軍隊と戦争をして、勝った方が得をして負けた方が損をする」というだけのものである。勝った方は、相手側の領土を取り、戦争に要した費用を負けた側に負担させる——つまり賠償金である。民事裁判で、裁判の訴訟費用を負けた方が支払うのと同じである。「王様ルールの戦争」は、戦闘員と非戦闘員がはっきりと分かれていて、戦争をするのは軍隊、させるのは王様、他の国民は無関係なのである。軍隊を「弁護士」、国民を「傍聴人」に置き換えれば、この戦争は「裁判」と同じになる。貧乏人は訴訟費用を問題にするが、金持ちの王様にはそれが払える。それだけの投資をしても得になると思えばこそ、裁判=戦争をするのである。第一次世界大戦は、その「王様ルール」による戦争だった。しかしその内に王様がいなくなって、その後始末が国民にのしかかって来た。大問題はそこなのである。  一九一八年の大戦終結以前、革命が起こったソヴィエト・ロシアは、ドイツとの戦争をやめようとした。国内のゴタゴタが大変で、とても戦争どころではなかったからである。革命後のロシアは、「国民ルール」による終結——すなわち無賠償の講和を求めた。しかし、この戦争で優位に立つドイツには、まだ皇帝がいた。  「王様ルール」のドイツは、戦争終結の条件として、賠償金と領土の割譲を要求し、ロシアはしかたなしにこれを呑んだ。その第一次世界大戦が一九一八年に終わる。ヴェルサイユ条約は、負けたドイツの賠償金支払いを決めたが、まだ額は決定されていなかった。それが、一九二一年に決まるのである。賠償金は、なんと千三百二十億マルク。しかも、インフレによるドイツマルクの下落を懸念して、この額は「金貨で」と決められた。しかもロシアとの講和は無効とされたから、ロシアからは賠償金が入らず、ドイツはただ金を払うだけである。第一次世界大戦後のドイツは、その苦しさで歪むのだ。  大戦前、一ドルは四・二マルクだったのが、賠償金支払いの始まった一九二二年には一ドル=四千マルク、その翌年には一ドル=四兆二千億マルクになる。超インフレに苦しむドイツは、賠償金が支払えない。ドイツの賠償金は、その五二%がフランスに支払われることになっていたが、支払い不能となり、それを口実にして、フランスは、鉱業地帯ルールを占領。フランスに次ぐ支払い先はイギリスだが、イギリスは、ドイツからの賠償金を使って、戦争遂行のためにアメリカから借りた借金を払おうとしていたから、こちらも当てがはずれる。困った連合国側は、アメリカの実業家ドーズの提案に従って、ドイツの賠償金額を減らし、と同時に、アメリカがドイツに金を貸すことによってこの支払いをスムースにしようとした。これが一九二四年のことで、アメリカはドイツに金を貸し、ドイツは借りた金を使ってイギリスやフランスに金を返し、イギリスはその金でアメリカに借金を返すという構造が出来上がる。このシステムは、「金貸しアメリカ」の懐具合がすべてだから、一九二九年にアメリカで大恐慌が起こると、すべてがガタガタになる。第二次世界大戦へなだれ込むしかなくなるのである。  第一次世界大戦の賠償金は、実は「戦争の費用に対する支払い」ではなく、「市民の損害に対する賠償」だった。もう「王様ルール」は通用しなくなっていたのだが、しかしそうであっても、人間には「取れるものなら取ろう」と考える�欲�がある。この�欲�が、第一次世界大戦を�その後�にまで引き延ばす結果となる。既得権を平然と手放さないままの国があり、世界はその�欲�を当然として存続する。第二次世界大戦という大惨事は、世界がその�修正�を求めた結果なのだ。 [#改ページ]       1 9 2 2  この年イタリアで、ムッソリーニが政権を取る。ファシズムの誕生である。第一次世界大戦の終わりはそのまま第二次世界大戦に直結しているのだが、しかしここにはとんでもない�内実�もある。というのは、ローマ帝国以来の歴史を誇るイタリアには、一八六一年まで「イタリア」という国がなかったのである。ここには、ファシズム以前の「国家の歴史」が六十年しかないのだ。  西ローマ帝国の滅亡後、イタリアはゲルマン世界に取り残される。八世紀には、カール大帝のフランク王国の支配下に入り、十世紀には、ドイツに中心を置く神聖ローマ帝国の支配下に入る。イタリアは長い間「神聖ローマ帝国の一部」として存在するのだが、このフランク王国→神聖ローマ帝国と続く北イタリアとは別に、南イタリアの歴史もある。十二世紀の初め、北の海からノルマン人がやって来て、南イタリアとシチリアに王国を作る。この地の支配権は、その後ノルマン→神聖ローマ帝国→フランス→スペインへと移る。なんでこんなことになるのかと言えば、ノルマン人もゲルマン人の一支族で、ドイツ、フランス、スペインそれぞれが、ゲルマン人の王朝を持ち、王族達が互いに姻戚関係で結ばれていたからである。イタリアというところは、ジクソーパズルのように各地方バラバラの支配権が設定され、それが他国の王族間の�相続�によって移動する。だからイタリアはややこしい。しかし、そうでありながらも、イタリアは�イタリア�として存在していた。ここに、ローマ教皇がいたからである。  ゲルマン世界の信仰の頂点に立つローマ教皇は、フランク王国や神聖ローマ帝国その他に対して、「保護させてやる」という形で支配権を与えた。俗な言い方をすれば、イタリアとその支配国との関係は、「結婚したって男なんか適当にあしらえるからいいわ」と思っている女の結婚生活と同じなのである。女は結婚して贅沢をし、男と喧嘩ばかりする。�自立�なんか考えず、結婚・離婚を何度でも繰り返す——イタリアはそんな�昔の美女�なのである。もしもイタリアが、強国支配にあえいでいたのなら、ここに「独立の気運」は生まれただろう。しかしイタリアは違う。「国」としてのあり方を外国にまかせ、自分達は各地方の都市を発達させる。ローマ教会と、その周辺都市が生んだルネサンス文化の威光によって、イタリアは、「国としては存在しないがイタリアとしては存在する」という不思議なあり方を続ける。それが破られるのは、十九世紀初頭のナポレオンの出現によってなのだ。  「共和制の皇帝」という矛盾した存在だったナポレオンは、イタリアを支配していたオーストリア帝国(神聖ローマ帝国の後継)を破り、イタリアを占領する。イタリアは、異国の独裁者ナポレオンによって、「外国支配からの自由と独立」を知らされる。ナポレオンが没落してオーストリア帝国のイタリア支配が復活する一八一五年頃から、イタリアの独立運動は動き出し、一八六一年には「イタリア王国」が成立する。イタリアはやっと�独立�を達成するが、しかしイタリアには、それ以前の「国家の歴史」がないのである。  第二次世界大戦を引き起こした枢軸三国——ドイツ、イタリア、日本は、「近代化の遅れ」によって�悪役�になった。この三国は、どれも�新しい国�である。日本の明治維新は一八六八年。しかし、日本にはそれ以前、徳川幕府による統一国家があった。ドイツが統一されてドイツ帝国となったのは一八七一年。ドイツ帝国を成立させたものは、「神聖ローマ帝国の本家」を自負するオーストリアのハプスブルク家に対する、プロシアのホーエンツォレルン家の競争心である。オーストリア帝国と張り合ったプロシア帝国→ドイツ帝国は、「統一国家」であることの利点を明瞭に理解していた。しかし、枢軸三国の中で国家成立が一番早いイタリアは違う。イタリアには、それ以前に「国家」がなくて、「イタリアとしての自負心」しかなかった。  第一次世界大戦前、フランスが北アフリカのチュニスを占領したことに腹を立てたイタリアは、ドイツやオーストリアと三国同盟を結んだ。チュニスはシチリア島の対岸で、十二世紀に成立したノルマン人のシチリア王国は、チュニスから北アフリカ一帯を支配下に置いていたから、イタリア人にとって、チュニスは「本来ならば自分のところ」なのである。「国家はないがイタリアはある」を前提として来たイタリア人は、このノリで植民地獲得競争に参加する。  第一次世界大戦が勃発し、しかしイタリアは、同盟国ドイツやオーストリアに協力しない。各国が争う間に金儲けをしたルネサンス都市国家の伝統を持つイタリアは、得にならない戦争なんかしないのだが、しかし、二十世紀のイギリスやフランスはもっとずるかった。イタリアに参戦を呼びかけて協力させ、しかもイタリアには「取り分」を与えなかったのである。イタリアは「騙された」と怒り、しかも労働運動の隆盛と重なって、国内は騒然となる。ムッソリーニのファシスト党は、この労働運動鎮圧で名を挙げて浮上して来た、かなりいい加減な集団なのだ。  暴力で労働運動を鎮圧したファシスト党は余勢をかって、「ローマ進軍」という武装デモンストレイションを開始する。もちろんムッソリーニ自身は、こんなことで政権が取れるとは思っていないし、こんな�ただの暴力集団�は軍隊によって鎮圧されてしかるべきだったのだが、イタリアの内閣はバラバラで、その上の王室もバラバラだった。  「ローマ進軍」は鎮圧されず、逆に内閣が総辞職する。その後に国王が首班として指名したのはムッソリーニで、ひょうたんから駒的に政権を取ったムッソリーニは、翌年になると選挙法を改正する。「全投票数の四分の一以上の最多投票数を獲得した政党は、議席の三分の二を取り、残りは各党が比例代表制で分ける」というとんでもない案である。これが通って、ムッソリーニは�安定政権の首相�となり、後はやりたい放題である。一九二七年にはムッソリーニが首相と内務・外務・陸軍・海軍・空軍・労働の六大臣を兼任する。いくらなんでも、ドイツや日本にこんなイージーで珍妙なことは起こらないが、イタリアではそれが起こった。なぜか? 私には、「イタリア人が�国家�というものをろくに理解していなかったから」としか思えない。  この国は、「独裁者の出現」に危機感を感じなかった。「国家」というものがまだピンと来ないイタリア人にとって、「国家」とは、「ナポレオン並の強い指導者が指揮するもの」だったのだ。ムッソリーニは、未熟な立憲君主制国家が生んだ�近代のナポレオン�で、イタリア人は自分達の選択を奇っ怪なものだとは思わなかった。イタリアにはこの�珍妙�が根づき、一度根づいた�珍妙�は、やがて�リアルなもの�と錯覚され、ドイツのヒトラーへと受け継がれて行くのである。 [#改ページ]       1 9 2 3  一九二三年は、後の厄介の種がすべて出揃うようなとんでもない年である。  イタリアでは、前年に政権を獲得したムッソリーニが選挙法を改正する。イタリアは着々と全体主義への道を歩むのだが、この年にはロシアでレーニンが再起不能になる。  一九一七年の国際婦人デーに端を発するロシアの革命は、一九二二年十二月に「ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の成立」へとこぎつける。しかし、よかったのはここまで。ソヴィエト政権を引っ張って来たレーニンは、新体制成立の半年後に脳溢血の発作で倒れる。つまり、出来上がったばかりのソ連は、その国のあり方を確実にして行かなければならない段階になって、指導者を欠くのである。権力奪取の御家騒動状態が現出し、療養先のレーニンが出す指示を、野望に満ちたスターリンが曲げていく。  一九二三年三月、レーニンは三回目の発作を起こして半身不随となり、翌年の一月に死亡。一党独裁国家のすべては、スターリンのものとなる。ソ連がスターリン独裁の恐怖国家となるまでの時間は、その成立からたったの二年、革命からでも七年だから、イタリアがファシズム国家になる時間よりもずっと短い。「国家」であることを模索する新国家が、たやすく全体主義国家となる——それが一九二〇年代のこの時期に重なっているのは、偶然の一致ではないだろう。  イタリアがムッソリーニの国となり、ソ連がスターリンの国となりつつあるこの一九二三年、ドイツではヒトラーが動き出す。ミュンヘン一揆である。ドイツは賠償金の支払いを滞らせ、それがフランスとベルギーによるルール地方の占領を招く。ミュンヘン一揆はそんな状況の中で起こり、逮捕されたヒトラーは、牢屋の中で『わが闘争』の口述にかかる。さすがドイツはまだ国としての骨格がしっかりしていて、ここが全体主義化するのは少し先のことだが、そんな世界の一九二三年、日本には関東大震災が襲いかかる。  関東大震災は、その損害額が当時の国家予算の三倍に当たるような大災害である。首都東京は壊滅状態。しかも同時に、市民や警察による朝鮮人の大虐殺や、軍部による無政府主義者・労働者の虐殺事件も起こる。関東大震災は、後のファシズムの血腥《ちなまぐさ》さを予感させるようなものでもあるが、問題は、「なぜそんな虐殺事件が起こったか?」である。  大正十二年九月一日の正午少し前、強い南風が吹いていた。多くの人は昼食の支度にとりかかっていて、激しい揺れはそこを襲った。強い風の中で火は燃え広がり、やがてそこに一つのデマが生まれる。日本の植民地となっていた朝鮮半島出身の労働者達が、大地震に乗じて火をつけ、井戸に毒を投げ込んだという、デマである。警察と軍隊は、このデマを簡単に信じた。警察や軍が「事実だ」と言うのだから、人はたやすくその気になる。かくして朝鮮人への大虐殺は起こるのだが、しかし不思議なのは、「なぜ軍部や警察がそんなデマを簡単に信じたのか?」である。もう一つ、憲兵大尉・甘粕正彦《あまかすまさひこ》は、無政府主義者の大杉栄とその妻・伊藤野枝、さらにはその幼い甥までも虐殺した。なぜそんなことをしたのか? 当時の左翼運動は、そんなに強力なものではない。軍国主義が日本を覆う以前のこの時期に、そんな�弾圧�が必要なはずもない。それなのに、なぜそんなことが起こるのか? なぜそんなことをしたのか? 大地震の後の火災に怯えた民衆は、不安の中で妄想をつのらせた。それと同じようなことが、警察や軍部(特に陸軍)の中で起きていた——私はそのように思う。  関東大震災の起こる前年、一九二二年には特徴的なことが二つあった。一つは、ワシントン会議による軍縮の決定であり、もう一つは、陸軍の創設者である元老・山県有朋《やまがたありとも》の死である。関東大震災とは直接結びつかないこの二つが、血腥い虐殺を実現させた�不安�の元凶なのだと、私は思う。  日露戦争の直後と、第一次世界大戦による「大戦景気」の数年間を除いて、日本は一貫して不景気だった。「不景気だからなんとかしろ」は国民の願いであり、そのためにはまず「高くなった税金を下げろ」である。日本の税金は多額の軍事予算の存在によって高かった。しかし、日露戦争後の日本に軍備拡大は必要なのか?  第一次世界大戦とは基本的に無縁だった日本に、軍備拡大はそう必要ではない。だから国民は「軍事予算カット」を言う。しかし、それは実現出来なかった。なぜか? 不景気を基本トーンとする日本において、唯一晴れがましいものは、「戦争に勝った」という記憶だったからである。そのプライドを維持するため、軍事予算は増額され続けた。しかし、「軍事予算を減らしたい」は、日本国民だけではなく、第一次世界大戦で損害を受けたヨーロッパでも同じだった。だからこそ、一九二二年のワシントン会議で「軍縮」は決まる。「軍縮」を可能にしたのは、日本とヨーロッパに共通する財政事情なのだが、しかし、日本にはもう一つの隠された要素もあったはずだ。軍事予算の減額など絶対に認めなかった頑固者、山県有朋が死んだことである。彼が生きていたら、事はそうすんなりと運ばなかっただろう。  帝国議会を持ち、内閣総理大臣が存在して、政党というものもある日本には、「元老」という不思議な存在があった。明治維新に功績があったとして特別な地位を与えられていた「元老」は、一九二二年の段階でまだ三人いたが、彼等の最大の役割は、誰を総理大臣にするかを天皇に推薦することだった。つまり、「元老」とは、総理大臣の指名権を持ち、政治を私物化することが出来た大ボスなのである。日本の政治を動かしていたのは、天皇でもない、総理大臣でもない、政治家でも国民でもない、「元老」と呼ばれる老人であり、その中で最も力を持つ頑固者が、陸軍の創設者にして終身元帥であった長州出身の山県有朋だった。  彼にとって、陸軍は日本帝国の栄光であり、彼自身の栄光でもあった。誰がなんと言っても、山県有朋は「陸軍の絶対」を揺るがせない。そのためには、平気で政治を操作した。戦前の内閣には陸軍大臣・海軍大臣というポストがあったが、これは現役の武官でなければならなかった。つまり、「お前を総理大臣にしてやる」と言える山県有朋が、同時に「でもお前の内閣には俺の子分を陸軍大臣として送ってやらない」と言えば、その内閣は成立しないということである。軍隊だけではない。政府の手足となる官僚達が、警察も含めて、彼の影響下にあった。一九二二年に死んだのは、そういう男だったのである。  「陸軍の絶対」は揺れた。「軍縮」を呑まざるをえない陸軍は、「学校で軍事教練を実施させ、陸軍の影響力を保持しよう」という動きに出た。それは、まだ軍国主義に至らない一九二三年の五月である。関東大震災前の日本に、もう�不安�は確実に訪れていた。 [#改ページ]       1 9 2 4  一九二四年は、『わが闘争』をたずさえたヒトラーが、牢屋から出て来る年である。前年の十一月、ヒトラーはミュンヘン一揆(別名ビヤホール一揆)を起こして失敗、逮捕された。一九二三年の逮捕時、ヒトラーの蜂起を失敗させる要因はあった。しかし一九二四年の十二月、ヒトラーが牢屋から出て来た時には、それがなくなっていた。かくしてヒトラーは「政権への道」を歩き始めるのだが、一体ヒトラーの逮捕・出獄の前後でなにが変わったのか? 語られるべきは、「第一次世界大戦後のドイツ」である。  ヒトラーはオーストリアで生まれた。ドイツ人ではない、オーストリア人の彼がドイツへ来たのは、徴兵逃れである。ドイツに来て二十五歳になった年、第一次世界大戦が勃発した。ドイツへの愛国心ならあるヒトラーは、進んでドイツ兵となり、そこでなにがあったのかは知らないが、やがて「軍隊大好き人間」になり、上等兵として敗戦を迎える。  敗戦で皇帝が退位したドイツは、共和国になった。「ワイマール共和国」の通称で呼ばれるものだが、この共和国は連邦制だった。瓦解したドイツ帝国は、北のプロイセン地方を領有するホーエンツォレルン家出身の皇帝を中心に、いくつもの王国・公国が集まって出来た�連邦�だったが、戦後のドイツもこの基本線を踏襲していた。ということは、共和国ドイツの中に、ある種の独立性を保つ�王国�が存在していたということである。  徴兵忌避のヒトラーがやって来たのは、オーストリアと境を接する南ドイツだが、ここはヴィッテルスバッハ家の王様をいただくバイエルン王国だった。オーストリア皇帝の皇后はこの王家の出身で、ヒトラーはこの王国の首都ミュンヘンを活動の中心とした。ドイツ共和国の首都は、北のベルリンで、ここには左派である社会民主党出身の大統領エーベルトがいて、彼が国外に対して「ドイツを代表する人間」であったのは確かだが、そのドイツには、�別の王国�さえあったのである。  ドイツ帝国の中心だった北のプロイセンは、そのまま共和国の中心となった。しかしこの共和国は、軍部(=ドイツ国防軍)と対立していた。ドイツは、一九二〇年のヴェルサイユ条約の規定によって、四十万人いた兵士を四分の一に削減することが義務づけられていたのだが、それでも軍部は健在だった。ヴェルサイユ条約の実施と共に、連合国側は、ドイツに「九百人の戦犯引き渡し」を要求した。これがうまくいけば、軍の上層部は壊滅状態になり、第一次世界大戦終了と共に「国際軍事法廷」も開かれていただろう。しかし、そうはならなかった。ベルリンの中央政府はやろうとして、軍人達が「|だめだ《ナイン》!」と言った。これが通ったのである。  第二次世界大戦は、「悪いファシズムとの戦い」という�思想戦�だが、第一次世界大戦は、「国益による争い」だった。「ドイツの軍人を戦争犯罪人として逮捕しろ」と言っても、ここには「悪に加担した軍人」などいない。それを言ったら、連合国側の軍人も同じなのである。戦争の存在を当然とする時代の国際常識は、ドイツ軍人の「やだ!」を黙認した。つまり、中途半端な武装解除を受けただけのドイツには、えらそうな軍人達が健在でいられたのである。  「戦犯」と目された上級軍人達は、消えた皇帝に忠誠を誓って、そのままだった。北のベルリンに、ホーエンツォレルン家の支配伝統と軍部の秩序はそのまま残って、そんな軍部が、左派である大統領を受け入れていた。つまりは、「共産主義勢力への防波堤として」である。左派の大統領が存在するのだから、工業地帯である北ドイツに、労働者や左派勢力は強い。軍部は、大統領を盾として自分達の勢力伸張を図る。盾にされた大統領は、左派から「なまぬるい」と批判される。北のドイツにはそんな分裂があって、そして、南である。  農業地帯である南のバイエルン(ババリア)は、敗戦に対して、「関係ない」という立場を取れる。彼等にとって、敗れたドイツ帝国は「便宜的」なもので、「ホーエンツォレルン家の王が皇帝を退いても、バイエルン王国は、ヴィッテルスバッハ家のバイエルン王国」でしかないからである。だからこそ南のバイエルンには、二つの選択肢がある。一つは、「バイエルンをドイツから分離独立させ、�関係ない�を確固とさせる」で、もう一つは、「北に攻め上り、連合国の言いなりになっている共和国政府を倒す」である。考え方は二つだが、ここには当然、「自分の利益と権力保持のため」だけを考え、どっちつかずでどっちにもつく人物がいくらでもいる。  同じ軍部でも、南と北とでは、仕える王家が違う。同じ軍部の中にも、「王政や帝政は古い、軍部独裁がいい」とする人間がいる。軍部とは別に、「南は南、北は北」とする人間もいて、それとは別の「共和国が正しい」もいるし、「共和国はだめだ、社会主義革命が正しい」もいる。そこに、巨額の賠償金支払いによる経済不安が起こり、さらには、戦後になって「失業者」となった兵隊が三十万人もいる。兵士であること以外に取り柄がなくてしかも自尊心だけはやたらと強いこの失業者達は、「軍隊の温存=ドイツの誇り」と考える上級軍人達の支援によって、私兵組織のようなものを作っている。しかも民衆とは、「昨日までのあり方がだめなら、明日は平気で別な方へ」になるのだから、「右翼支持」は簡単に「左翼支持」になり、逆もまたありである。そんなとんでもない状況にあるドイツで、アンチ共和国派は南に集結する。ヒトラー上等兵がいたのは、その南なのである。  初めの内、ヒトラーに野心はなかった。なにしろドイツは、ついこの間まで�帝国�だったのである。「高貴な身分の方々」はいくらでもいる。下っ端ヒトラーは、「上つ方がなんとかするもの」と信じ、嬉々としてアジテイターをやっていた。しかし、国の指導者とか支配者になる者は、ドイツの四分五裂を直視して、それをなんとかまとめなければならない立場にある者である。こんな厄介なドイツがまとまるのか? 果たして、現実を知る�上つ方�は、えらそうな口をきくだけでグズグズしていた。だからこそヒトラーは、「じゃ、俺が——」で行動を起こすのである。  それがミュンヘン一揆の失敗で、ヒトラーは逮捕される。それと同時に、�上�も力を失った。南の反動ボスも、北の軍部ボスも。その理由は、「ドイツに内乱を起こして政情不安を招いた」である。指導者となるべき人間に、これは致命的な傷だった。しかし、現状認識が不十分で下っ端のヒトラーには、関係がない。何人もの政治ボスを失脚させるような�内乱�を平気で起こし、牢屋の中でひたすら確信犯的な強さだけを備えて無頓着なままのヒトラーは、『わが闘争』の口述を始める。彼が牢屋から出て来た時、ドイツには、ヒトラーより声の大きな指導者がいなくなっていた。それだけの�悲劇�なのである。 [#改ページ]       1 9 2 5  この年の四月、パリではある展覧会が開かれた。タイトルは「現代装飾・産業美術国際博覧会」とか「装飾芸術と近代工業の国際展」「現代装飾・工業美術国際展」などと訳されるが、英語だと「International Exhibition of Modern Decorative and Industrial Arts」——つまり「|現代の装飾《モダーン・デコラテイヴ》と|工業の美術《インダストリアルアーツ》に関する国際展覧会」である。なにかと言えば、世界で最初の「デザイン博」で、今なら「芸術《アート》」の代わりに「デザイン」という言葉を使う。「装飾デザインと工業デザインの展覧会」なら分かりが早い。しかしこの時代にはまだその言葉がなかった。それでいささか分かりの悪いこの展覧会だが、これは「ここからアール・デコが生まれた」として有名な展覧会なのである。  「装飾美術《デコラテイヴ・アート》」をフランス語で読めば「装飾美術《アール・デコラテイフ》」、略して「アール・デコ」である。世紀末美術の代名詞である「アール・ヌーヴォー」の次に生まれたこの美術様式は、一九二五年に開かれたこの国際展から生まれたのだが、しかしこの二十世紀初めの美術様式には、かなりややこしい歴史経過があった。  たとえば、私が持って使っている百科事典は一九六八年版というとんでもなく古い版なのだが、この百科事典には「アール・デコ」の項目がない。「アール・デコ」という言葉自体がない。「アール・ヌーヴォー」はあって、しかし「アール・デコ」の方はカケラもない。それで、一九六九年だか一九七〇年頃にこの百科事典を買った私は、「どうしたことだ?」と首をひねった。なぜか? その理由はなんと、「�アール・デコ�という言葉が美術史の用語として定着するのは一九六八年以降のことだったから」である。  一九六六年のパリで、「パリ一九〇九〜一九二九展」という展覧会が開かれた。内容は「アール・ヌーヴォー後のパリ」なのだが、「アール・デコ」という言葉は、この展覧会の図録にサブタイトルとして使われたのが公式の最初なのである。この展覧会をきっかけとして「アール・デコの時代」は再評価され、一九六八年には「アール・デコ」をタイトルに掲げる専門書も刊行されるようになる。つまり、「アール・デコ」は一九六八年になってやっとその存在を認知されたようなものだから、その年に出版された日本の百科事典に載っていなくても不思議はないのだ。その以前から存在していたにもかかわらず、正式な名称を持たないために一九六八年まで「存在しない」ということになっていた様式、それが「アール・デコ」なのである。  たとえば、アール・デコの前にあるアール・ヌーヴォーである。この十九世紀の終わりに登場した様式は、いたって貴族的——あるいは上流市民《ブルジヨア》的な様式だった。だからこそ、この命名の由来もはっきりしている。アール・ヌーヴォーは、一八九六年のパリに登場したこの様式を専門に掲げる画廊「新美術《アール・ヌーヴオー》」の名前なのである。その美術品を受け入れる金持ちの顧客が存在するからこそ、画廊というものも存在しえる。  アール・ヌーヴォーは、ともかくなんでもウネウネと揺らぐような様式だが、これは、その以前にあった装飾パターンの新しい展開なのである。アール・ヌーヴォーの顧客は、「装飾がなかったら美術じゃない。装飾が今の時代に対応する新しさを持っていなかったら、買う理由がない」と言う上流の金持ち市民と、「我々にはまだ存在理由がある」と思う、新しがり屋で芸術好きの貴族達だった。ところがアール・デコは違う。アール・デコは、「装飾は否定しないが、金持ちの趣味に合わせて成り立つ過剰な様式は否定する」という様式なのである。  アール・デコに特徴的なのは、装飾の直線的、あるいは幾何学な処理である。だからこそ、「現代デザインはアール・デコに始まる」と言ってもいいのだが、アール・デコは、貴族や金持ちの好む華美な装飾を、全部スッキリと簡略化してしまった。柱の先にゴチャゴチャと装飾が渦巻いていたところを、アール・デコは「丸と三角」に置き換えてしまう。ゴタゴタとうねる唐草模様の縁取りを、ただの「直線」に置き換えてしまう。「人間に装飾というものは必要である」という基本線は崩さないまま、その装飾をまったく別のシンボリックなパターンに置き換えてしまうのがアール・デコで、これは、「装飾は否定しないが、装飾に金と手間をかける、その奢侈は否定する」というものである。言ってみれば、アール・デコは「特権階級の過剰な贅沢を否定する、美における革命」なのである。だからこそこれは、「現代の装飾と工業[#「工業」に傍点]の美術に関する国際展覧会」に登場する。アール・デコは、大量生産を可能にした近代工業によって送り届けられる、「中流市民のための美」だったからである。  アール・デコは、「大量生産品が粗悪でいいのか? 大量生産品に美は不必要なのか?」というところから登場する。美を愛する金持ちのために存在した�過去の余分�を、だからこそアール・デコは、デザインという武器によってあっさりと処理してしまう。アール・デコは、ロシア革命以後の時代にふさわしい「様式=考え方」なのである。  たとえば、ニューヨークはアール・デコの都会である。なにしろここは「二十世紀の新都会」なのだ。新しいものが過去の贅沢をなぞっても�成り金�にしかならない。その悪趣味を拒絶するのがアール・デコである。  たとえば、戦前から戦後のある時期までの日本で最も典型的なアール・デコの建物は、町の映画館だった。だからこそ、日本における最大のアール・デコの町は浅草だったろうと、私は勝手に思うのである。浅草は「西洋と日本が民衆の前で出合う町」であり、それを可能にして洗練する様式がアール・デコなのだ。アール・デコは、それを生み出した時代の�新しさ�と�大衆性�と�過去の繁雑�とを一つにする様式で、アール・デコは、「過去の繁雑を現代の時間軸ですっきりと処理してしまうデザイン」なのである。  戦前の日本映画のポスターには、アール・デコのロゴマークが氾濫した。『魔像』とか『丹下左膳』というチャンバラ映画のタイトル文字さえも、アール・デコだった。日本古来の�書道の美�は、当時の大衆にとって、「処理されるにふさわしい過去の繁雑」だったのである。  アール・デコは、その後の現代生活のルーツともなる「デザイン」という思想を生み出した。ところがしかし、それは正式名称を持たぬままに忘れられた。生まれたばかりの市民文化は、「身分の低い者達を対象にする取り柄のない大量生産の美」として無視される。だからこそ、その誕生から四十年以上たった段階で、現代生活のルーツを作った功労者に対して、「アール・デコ」の名が与えられ表彰される。  二十世紀は、歴史の浅い大衆の時代で、「大衆」の持つ意味は、時々平然と見失われてしまう。忘れられるアール・デコとその復権は、二十世紀という「新しい時代」のあやふやさを語るものだろう。 [#改ページ]       1 9 2 6  この年の十二月、日本は昭和になった。世界は安定していたのかどうか、よく分からない。  一時的にでも経済が安定したドイツは国際連盟に加入し、アメリカは景気がよかった。しかし、一九二六年のイギリスではゼネストが起こり、財政難のフランスでは左翼政権が倒れた。第一次世界大戦の戦勝国であるイギリスやフランスで、左翼勢力はそれだけ強くなっていたということだが、つまりは、戦勝国の側にも、「なんかへんだな?」という懐疑は訪れていたということである。その一九二六年には、ポーランドでクーデターが起こって、独裁政権が誕生していたりもする。  我々日本人が二十世紀前半のポーランドで知ることは、「第一次世界大戦前にドイツとオーストリアとロシアの三大帝国によって分割された」ということと、「第二次世界大戦は、ヒトラーのポーランド侵攻によって始まり、ポーランド人は強制収容所に送られた」の二つくらいである。ポーランドはとても悲劇的な国だが、しかし、その国が第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間に�どんな国�だったかというと、ほとんどの人が知らない。一九二六年に独裁政権が成立したポーランドは、その性格ゆえにナチス・ドイツへ接近し、そのまま凌辱されてしまう国なのである。  ポーランドが独立したのは、第一次世界大戦終結の一九一八年。戦争中にロシアが奪った領土を占領したドイツとオーストリアは、ここにポーランド王国を成立させていたのだが、その二大帝国が消滅して、傀儡《かいらい》王国ポーランドは、自由な共和国になった。大統領になったのは、陸軍元帥ピウスーツキ——その後に政権から追われ、一九二六年のクーデターで独裁者として返り咲いたのがこの人物である。独立から独裁までの八年間にでも、ポーランドにはいろいろのことがあったろうが、すごいのは対ソヴィエト・ロシアとの戦争である。  共和国として独立したポーランドの国境を確定したのはヴェルサイユ条約。それが一九二〇年の一月に発効して、その四カ月後には、ポーランドがロシア領内へ攻め込んでいた。「まだロシアに奪われたままになっている分の領土を、この際取り返す!」である。つまりは「奪われた祖国の奪回」なのだが、しかし、独立して間もないポーランドは、飢えと病気に悩まされていたのである。「他にすることあるんじゃない?」と言いたくなるが、その進軍を命じたのは、後の独裁者ピウスーツキ元帥である。「領土を奪われたポーランドの悲劇」は悲劇として、やっぱり、「他にやることあるんじゃないの?」である。  ポーランドの進軍の裏には、「社会主義化したロシアとドイツの間にあるポーランドを強くしたら、我が国の利益になる」と考える、フランスの支援があった。ということになると、「弱小ポーランドが、またしても大国のエゴの犠牲に」ということになるのかもしれないが、やがて独裁者となる男の下で、ポーランドが進んで「領土拡張」に走ってしまったのは事実である。つまり、世界はまだまだ相変わらずの、「欲の時代」の真っ只中にあったということである。そこには被害者も加害者もない。  第一次世界大戦後のヨーロッパを第二次世界大戦へと導くのは、敗戦国ドイツに対する容赦のない賠償金取り立てである。なぜそんなひどいことをしたのかと言ったら、この戦争に勝ったイギリスとフランスが、戦争のおかげで大損をし、ドイツの脅威を恐れていたからである。第一次世界大戦後の世界を作るヴェルサイユ条約の体制は、結局のところ、「世間知らずのアメリカがイギリスとフランスに引きずり回された」というような結果のもので、イギリスとフランスのエゴは剥き出しになっていた。  ドイツと国境を接するフランスは、復活したドイツが勢力を伸ばしてフランスに攻め入って来るのが、なによりもこわい。これはもう、理屈の問題ではなく、当時のフランス人にとっては、「ただこわい」というようなものだったらしい。だからこその反動で、「二度とドイツが立ち直れないくらい、徹底的に痛めつけてやれ、取れるものは全部搾り取ってやれ」という発想になる。  第一次世界大戦まで、世界は帝国主義の時代だった。しかしフランスは、一八七一年のパリ・コミューン以来、共和国になっている。「帝国に比べれば、共和国はずっとましな人間的な国家のあり方」と普通は考えるが、周りが帝国主義で、しかもその国々に対して旺盛なる競争心を持つ共和国が、そんなにいいものでありえるのかという話もある。人間の欲は、国家の形を越えて存在する。フランスでは、議会が大統領を選ぶに際して、「有能か、無能か」ではなく、「強大か、気弱か」という基準を使ったとも言われる。「大統領が弱かったら、議会が大統領を自由にコントロール出来る」というのが理由である。ために、ヴェルサイユ条約の発効した一九二〇年一月、この国の議会は、敗戦のドイツをメッタクソに痛めつけるためのヴェルサイユ条約を作り上げた前首相——「虎」とあだ名された強大なる政治家クレマンソーを拒否して、その九カ月後には情緒不安に陥ってしまうような気の弱い男を、大統領に選んだ。「クレマンソーは強すぎる」という理由と、ドイツから取れるだけのものを取ったはずのクレマンソーであるにもかかわらず、「英米の言いなりになった」という非難が生まれたからである。  革命で最も早く王様を処刑してしまった共和制の国は、平気で左翼政権を生む一方、とても欲深く疑り深く、臆病でありながら、気だけはいたって強かったのである。  一方のイギリスは、「ドイツがこわい」よりも、「金がない」だった。戦争のために商売は落ち込み、世界一の座をアメリカに奪われ、しかも戦争遂行の費用をアメリカから借りた。産業革命以来一直線に進んで来たイギリス式繁栄は、曲がり角に来てしまったのである。経済がうまくいけば、そこで雇用されている労働者も潤う。だめになったら、雇用されている労働者は文句を言う。一九二四年には、イギリスで初の労働党内閣が成立する。わずか九カ月の短命内閣だが、資本主義の本家イギリスで、労働者の政党が政権を取ったのは大きかった。なんでそうなったのか?  それまでのイギリスの二大政党体制は、自由党対保守党だったのに、その自由党が分裂して、小さくなってしまったのである。議会の勢力地図は、与党の保守党に対して、労働党が野党第一党になった。保守党がだめなら、政権は労働党へ行く。ということになって、イギリスの政界地図は、資本家の利益と労働者の利益が真っ向からぶつかるようになってしまった。「自由」という中間的な要素が小さくなり、ただ利益だけがぶつかり合うようになったのである。  「欲の時代」であることを当然として、社会はコロコロと変わり、人は�譲歩�ということを忘れ、再び戦争の時代がやって来る——それを語るのが、一九二六年なのかもしれない。 [#改ページ]       1 9 2 7  一九二七年は、昭和二年である。前年の十二月二十五日、大正天皇が崩御して昭和天皇が即位、その日がそのまま「昭和元年十二月二十五日」となった。昭和元年は一週間で終わり、昭和二年は実質的な「昭和最初の年」である。その七月二十四日、作家の芥川龍之介は自殺をした。彼の遺書的な文章『或《ある》旧友へ送る手記』によれば、原因は「ただぼんやりした不安」、あるいは「何か僕の将来に対するただぼんやりした不安」である。芥川龍之介の死は、この有名な言葉によって語られることが多いが、それとは別に、私はこんな文章を思い出す。  �すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました�——夏目漱石の『こころ』である。  漱石が自身を仮託したと思われる作中人物の�先生�は、作中人物の�私�にこう書き置いて死んでしまう。明治天皇の崩御は、一九一二年の七月三十日。芥川龍之介の死の日付と六日しか違わない。だから、漱石の文章はこうも書き直せるだろう——「すると夏の暑い盛りに芥川龍之介が自殺しました。その時私は大正の精神が芥川龍之介に始まって芥川龍之介に終わったような気がしました」  芥川龍之介は、大正と共に生まれ大正と共に逝った作家である。彼が東京帝大の英文科に入学したのは大正二年。別に作家になる気があったわけでもないが、翌三年には学内の同人誌『新思潮』に参加。大正四年には『羅生門』を発表、夏目漱石の門人となり、翌五年に発表した『鼻』が漱石に激賞されて文壇デビューを果たす。芥川龍之介は流行作家となり、大正の終わりと共に死ぬ。しかし、この大正を代表する作家は、その死において�大正の精神�など語らなかった。そこが『こころ』の作者とは違うところである。  芥川龍之介は、夏目漱石から文学的な影響を受ける代わりに、「磁力(人格的マグネティズム)」と言うべき特殊な感情を抱いた。だから、この二人の関係は『こころ』の作中人物——�私�と�先生�のそれにそっくりなのだが、しかし、�明治の精神の終わり�を語って作中の分身を殺した漱石は、明治と共に死ななかった。�大正の精神の終わり�を言わずに死んだ、芥川龍之介。漱石に�明治の精神�はあり、芥川龍之介に�大正の精神�はなかった。にもかかわらず、「芥川龍之介の死」は「危険な時代の到来」と連動して語られることが多い。訪れた昭和が、芥川龍之介の語った通りのものだったからだ。  芥川龍之介の死の翌年、「満州某重大事件」と呼ばれる張作霖《ちようさくりん》爆殺事件が起こる。軍部暴走の第一歩となるこの事件を隠蔽するため、政府はその詳細を伏せ、「満州某重大事件」としてしか報道させなかった。�なにか�は起こっている、しかしそれは正体不明の�某重大事件�なのである。その三年後、満州事変の起こる昭和六年には、「三月事件」と呼ばれる陸軍のクーデター計画が発覚する。後のテロリズムの時代の序章ともなるべきこの計画は、事前に取りやめられたのだが、政府はこの事件の存在を隠した。国民がそれを知るのは、戦後のことである。テロリズムの時代は確実にやって来ていたのだが、それは隠されていた——つまりは「ただぼんやりした不安」である。それが「訪れた昭和」だった。  なぜ昭和は、「ただぼんやりした不安」として訪れるのか? それは、その前にあった大正という時代が、終わると共に雲散霧消してしまう時代だからだろう。そうだとしか思えない。「デモクラシーの時代」である大正は、「時代精神」として結実しなかった。だからこそ、「芥川龍之介の死」の中に、人は�大正の精神�を探さない。大正は語られぬままに終わる。「ただぼんやりした不安」は、その上にある。  大正という時代は、憲政擁護に始まり憲政擁護に終わった。大正二年の二月には、「憲政擁護」を叫ぶ人間達が国会を取り巻き、政治を私物化する政治ボス・元老が一歩後退を迫られた。それが「大正デモクラシー」で、「政党政治の時代」はそうしてやって来たことになっているのだが、しかし、それはまだやって来ていなかった。だからこそ、関東大震災後の大正十三年になって、第二次護憲運動が起こる。  大正の「護憲」とは、「憲法を守れ!」ではない。「憲法に規定されているような議院内閣制の政党政治を守れ=確立しろ!」である。これが確立しないのは、元老という政治ボスが、総理大臣の指名権を握っていたからである。後に元老の一人となった伊藤博文《いとうひろぶみ》は、天皇絶対を前提にして帝国憲法と帝国議会の制度を作り、初代の総理大臣となった。伊藤博文の頭の中には、「我々が天皇をお守りし、我々が政治を行う」だけがあった。だから、日本に議会政治が登場しても、ここに国民の要求は反映されない。かえって逆に、日本には「上に伝えられない欲求不満が下に沈潜する」という社会構造が生まれる。  政党は元老の壁に阻まれている。国民がなにかを託すべき政党が壁にぶつかっているのだから、それから後は順々に鬱積して下降するしかない。そのどんづまりにあるものが、過激化するしかない左翼運動なのだ。ところがしかし、いかなる政治形態であっても、国の政治とは、国民の納得がない限り成り立たないものである。支配下にある人間達を納得させることが出来ない政治は倒される——近代以前にこのことは大常識として存在していた。大正五年に吉野作造の説いた民本主義の言うところも同じで、彼は「国の主権者が国民であるか天皇であるかはどうでもいい。問題なのは政治のあり方だ」と言う。ところがしかし、政治を動かす元老達は、この大原則を無視するようにして存在していた。対立はここに起こる。  元老がすべての元凶であることは明らかなはずなのに、大正というデモクラシーの時代は、「元老というガンを排除摘出すべきだ」という発想を持たなかった。だから、排除されない超法規的人物のエゴが野放しになった。大正政治の根本は、陸軍を超法規的存在にして掌握する元老・山県有朋のものである。政党政治が大嫌いで、決して政治の表舞台に出ようとはしなかったこの人物の下で、陸軍と官僚と枢密院《すうみついん》は、「天皇を守る」という名目によって、勝手にそのエゴを肥大させていた。大正は「デモクラシーの時代」ではなく、統轄者・山県有朋の掌の中で肥大した複数のエゴがまだおさまっていた時代——それこそが「語ることを忘れられた大正」なのである。  山県有朋の死後、政党側は再び「護憲」を主張する。大正の終わりには「護憲三派」の連立内閣が出来ていたのだから、大正はデモクラシーの中で終わった。しかし、芥川龍之介が死ぬ三月前、この内閣は倒れた。後継は、陸軍出身の田中義一を首班とする内閣。決着を回避したデモクラシーの大正は、昭和という混沌の中で、ぼんやりと薄れて行く。 [#改ページ]       1 9 2 8  一九二八年——日本の昭和三年は、最初の普通選挙の年であり、治安維持法が初めて本格的に適用された社会主義者への大弾圧の年であり、満州で「某重大事件」が起こった年でもある。  二十五歳以上の男子すべてに選挙権を与える普通選挙法は、一九二五年に可決された。これはつまり、一九二四年に起こった第二次護憲運動の成果である。一九二四年の一月、特権派の枢密院《すうみついん》議長・清浦奎吾《きようらけいご》を首班とする内閣が成立した。元老の推薦によってである。一九二四年には二人の元老が生き残っていた。その内の松方正義《まつかたまさよし》は、七月に八十九歳で死ぬ。残るは七十五歳の西園寺《さいおんじ》公望《きんもち》ただ一人だが、老いた元老達は、現状を刺激しない策として、政党に拠らない内閣を望んだ。  時代を束ねた反動の中心・山県有朋亡き後では、うっかりすると時代が普通選挙へ傾きかねない。特権派の枢密院議長を総理としたのは、その防衛策である。しかし、これに対して政党側は反対を唱えた。政党は政党で、自分達がイニシアチブを取る強力な政府を作ろうとしたのである。この「強力な政府」とは、元老特権派に対してではなく、「民衆や新聞社に迎合しない強力な政府」である。だからこの政党勢力も、あまり普通選挙を望まない。これに対して、普通選挙を望む政党勢力も別にあった。普通選挙を望む政党勢力は、「このまま放置すれば、社会が左傾化する」と思ったのである。  政党の中は、普通選挙を望むものと望まぬものの二つに分かれ、第二次護憲運動は、「普通選挙を望む政党勢力が特権内閣に対して戦う」という形で起こった。今の我々が思うような�護憲�や普通選挙の成立と、実際のそれとはかなり違う。だから、第二次護憲運動勝利の後の一九二五年には、普通選挙法の前にまず治安維持法が可決されるのである。  普通選挙の実施が、まず「社会の左傾化防止」なのだから、その前に左翼思想の取り締まりがあるのは(彼等にとって)当然だった。かくして、「国体変革の思想と私有財産否認の思想を持つ者」は犯罪者として位置づけられる。普通選挙と思想統制のファシズムは、その初めから一つだったのだが、ついでに、学校の軍事教練も同じだった。一九二五年三月十九日に治安維持法が可決され、その十日後に普通選挙法が可決され、その十五日後には全国の中学と高等専門学校と師範学校において、軍事教練が義務づけられるようになる。すべての成人男子が政治に参加し、思想的に統制され、軍国体制の一員となる前提は、大正十四年のデモクラシーで成立していたのである。  昭和三年は、その大正という時代が無責任に放置したものが一つの形を取り始めるような年なのである。満州に「某重大事件」が起こっても不思議はないだろう。  この当時、中国は二つに分かれていた。広東を中心とする国民政府と、北京を中心とする軍閥政府である。  一九一一年の革命で出来上がった中華民国の臨時総統には革命派の孫文《そんぶん》が就任したが、革命勢力が弱体だった理由により、翌年には清朝の重臣でもあった北の軍閥の一人・袁世凱《えんせいがい》が初代総統になる。南北対立の原点はここにあるのだが、日本政府は、革命派の孫文と、旧派の袁世凱のどちらを嫌ったか? 意外なことに、袁世凱の方である。なぜかと言えば、日露戦争以来、日本は満州に権益を獲得していて、満州に近い北の袁世凱は邪魔だったのである。権力者・袁世凱はしたたかで、一方南の孫文は、「革命成立の暁には満州と蒙古(満蒙)を日本に任せる」という口約束を、支援の日本人達にしていた。「満州問題」という厄介はそこから始まる。  日本であぶれて中国へ渡り、「支那浪人」と呼ばれる存在になっていた日本人達は、その満蒙を自分達の拠点にしようとした。しかも、それが中国の民衆達の支持を得たことだと思っていた。だから、中国に反日運動が起こった時、彼等はパニックに襲われる。かつては「中国民衆のため」を思って革命の支援をして来た日本人は、そのためにやがて満蒙侵略主義者へと変わる。そこに重なるのが、満蒙を「自身の栄光の成果」と思う、陸軍の軍人達である。  彼等は当然革命を好かない。北の軍閥政府を襲うほどの勢力になった南の国民政府はもちろん嫌いだが、満州を自分達の領土だと思っている軍閥の代表者達も気に入らない。日本の軍人達にとって最もいい解決方法は、北の軍閥政府の代表者が、日本軍の指揮下に入って傀儡《かいらい》政権の主となることだけなのである。そこで彼等は、軍閥の一人・張作霖に目をつけた。  軍閥政府は、権力争いに終始してまとまりがない。張作霖を支援して軍閥政府をまとめ、これを盾にして国民政府軍を追って満州の権益を揺るぎなく確保するというのが、その筋書きであった。日本軍はそのように工作し、そんな無謀な策を拒絶したはずの日本政府も、やがてこれを追認することになるのだが、うまいことはそう長く続かなかった。日本軍の後押しによって力を得た張作霖が、やがて傀儡であることをいやがるようになるからである。しかも、国民政府軍は中国統一を目指して南から攻め上って来る。張作霖は戦おうとするが、彼の負けを予想する日本政府は、張作霖を彼の本拠地である満州に呼び戻そうとした。  張作霖が国民政府軍と戦って負け、そのまま満州に逃げ戻ったら、それを追って国民政府軍も満州にやって来る。日本の権益地・満州で戦争が始まることをいやがった日本政府は、満州で張作霖を保護する策に出たのだが、現地の日本軍は反対だった。彼等は、張作霖の謀殺を考えた。張作霖を殺し、その犯人を国民政府側の者に見せかけ、中国の南北対立を煽る。そして北の軍閥達の間に混乱を引き起こし、その混乱に乗じて日本軍を介入させる。「武力で一挙に満州全体を制圧する」というのが、いかにも軍人らしい考えだった。  満州事変や満州国建国騒ぎはここから一直線に続いて行くのだが、そんな軍人達の勝手で無茶な計画に、日本政府が賛成するわけはない。諸外国の見る目を気にする日本政府は、あくまでも南の国民政府を交渉相手として、中国への貿易拡大と勢力伸張を考えていた。  時の政府は、陸軍出身の田中義一内閣だった。しかし、現場の軍人は従わない。張作霖は列車ごと爆殺され、慌てた日本政府はこの隠蔽を図った。「張作霖爆死」は「満州某重大事件」としてしか報じられなかったが、それは、日本政府が自分達のやったことを隠蔽するための工作ではなかった。陸軍出身の田中義一内閣は、自分達に現場の軍人を統制する力がなくなっていることを隠すため、「満州某重大事件」という隠蔽をしたのである。  張作霖を殺されて、しかし中国は堪えた。堪えて平静を装い、日本軍の企ては無効になったが、軍に対する日本政府の統率力のなさは歴然となった。後は、ただゆるゆると一直線で泥沼へ下る。それが、「まだまだ大丈夫」だったはずの昭和三年なのである。 [#改ページ]       1 9 2 9  一九二九年は、言わずと知れた世界恐慌の年である。「一九二九年十月二十四日——やがては�暗黒の木曜日�と言われるようになるその日、ニューヨークのウォール街で株価は暴落を開始した」というようなことが、近現代史を語るどの本にも書いてある。「世界恐慌の始まりである」などと。もう少し正確に言えば、世界恐慌はニューヨーク市場の株価暴落によって始まったのではなく、「以前からあった予兆がこの日には決定的になった」であり、「暗黒の木曜日」以降も株価は下げ止まらず、五日後の十月二十九日は「最悪の日」と言われるようになる。  ところでしかし、分からないのは、なぜ株価の暴落がそのまま「恐慌」に直結してしまうのかということである。「そういうもんだ」と言われてしまえばそれまでだが、しかし、分からないものは分からないのである。  中学生や高校生や大学生の頃、私は「世界恐慌」とか「恐慌」という言葉がこわかった。「恐慌」がこわかったわけじゃない。その頃の私に、世界恐慌で大損するほどの金があるわけもない。私の親だとて同然である。こわいのは、「恐慌」という言葉なのだ。この言葉がなにを意味するのかが、よく分からない。それがもたらす因果関係も分からない。にもかかわらず、近現代史の本の中に「恐慌」という言葉が登場すると、必ず社会の様相は悪い方へと転ぶ。「世界恐慌」が登場したら、これはもう明確に「戦争の危機」で、果たして一九二九年の世界恐慌は、「第二次世界大戦への引き金」だったりもする。「経済恐慌」が登場したら、もうおしまいなのである。こんなメチャクチャなことがあるのかと思って、しかし、「経済恐慌」とか「世界恐慌」のなんたるかはさっぱり分からないのである。調べようとしても分からない。それはまるで、金に縁のない人間が証券会社の窓口に行って、「あのー、株ってなんですか?」と質問するようなものである。向こうは親切に教えてくれるように見えて、結局「お金のない人には関係のない話ですよ」と言っているだけなのである。どうやら「経済」とは、そういうもの[#「そういうもの」に傍点]なのである。「金のないやつには関係がない、金儲けをする気のないやつにも関係がない」のだ。だから私は、長い間「自分の頭が悪いから、経済も近現代史も分からない」ということにしておいた。「金がないから株はやれない」のと同じ理屈である。そんな私に訪れた転機——それが、一九九〇年代初頭における「バブルの崩壊」だった。  「�ウォール街の株暴落から世界恐慌が始まった�というのは、もしかしたら�バブルがはじけた�ということではないのか?」と思うと、なんだかすべてが分かるように思えた。一九二九年、バブルははじけた——こう言われると、「世界恐慌」がなんとなく分かる。  一九二〇年代の世界は、バブル経済だったのである。「一九八〇年代の日本に、世界中の金は流れ込んだ」の八を二に変えれば、一九二〇年代のアメリカなのである。  第一次世界大戦の結果、アメリカの商売敵となるような国はみんな倒れた。戦争中、アメリカは「世界の工場」になって大儲けした。広大なアメリカ大陸に、�原材料�となるものはいくらでも眠っていたから、アメリカは輸入に頼らず、いくらでも工業製品の輸出が出来た。しかも、入って来るものには、いくらでも高い貿易関税をかけられる。ヨーロッパとは一線を画して独立独歩だったアメリカの姿勢が、俄然有利に働き出した。  戦争が終わると、戦争遂行費用をアメリカから借りたイギリスやフランスには、借金返済の義務が訪れる。その支払いには、負けたドイツから入る賠償金を充てる——と考えて、しかしドイツにその支払い能力がない。払えないドイツは、アメリカから金を借りて生産活動を再開し、イギリスやフランスに金を返す。つまり、すべての金は、アメリカから出てアメリカに入る——そういう仕組みになっていた。アメリカは、「世界一の工場主」であると同時に「世界一の金貸し」になった。世界経済は、この世界一の大金持ちでもある大金貸しの掌中にあるのだから、これがこけたら皆こけるのである。こけた結果が「戦争」なのだから、一九二〇年代から一九三〇年代というのは、「金と暴力」だけで成り立っていたようなものである。こっちは、もう少しまともなもんなんだと思って「分かろう」としていたのに、出て来るのは「異国の言葉を喋る金貸しと暴力団だけだった」というのが、実は、第一次世界大戦後の欧米情勢なのである。まともな人間に分かるはずはないのである。  二十世紀になって、金貸しは「投資家」というものに姿を変えたが、「投資家」とは金貸しなのである。「誰でも金貸しになれる」というのが、二十世紀先進国の開いた世界状況なのである。あまりロクなものではない。「金を貸す」という行為は、「思惑によって未来を決める」という行為でもある。「儲かる、儲かる、絶対に儲かるから!」で投資ばかりが先行して、その結果が予測通りにならなかったらどうなるのか? 金貸しの未来は、「儲かる」か「損する」のどちらかにしかなく、だからこそ、損をしないためにありとあらゆることを考えるのが、金貸しというものなのである。だから、いたって極端なことを言ってしまえば、「経済」とは、この金貸しの考える世界観をすっぽりと共有することなのである。あまり品のいいことではないし、そこに入れない人間には「経済」が分からない。「分からなくてもいいや」と言ってしまうと、「わーい、貧乏人!」という揶揄が飛んで来る。それで、「経済が分かる」ということはなんだかえらいことのようにも思えて、一九二九年の世界恐慌も、「学のない貧乏人には分からないとんでもない世界情勢の変化なのだろう」と錯覚してしまうのだが、実は、単に「バブルがはじけた」なのである。  そもそも「バブル経済」というのは、とんでもなく不思議な言葉である。「アブク銭の経済」があるのなら、「アブク銭じゃない経済」もあることになる。「アブク銭じゃない経済」とは、必要なものが必要なだけ循環している経済で、これは当然、「不景気ではないが、別に景気がいいわけではない」という段階である。だから、「アブク銭じゃない経済」に余分な金が流通し始めると、「好景気」になる。つまり、好景気とは、基本的にバブル経済なのである。「あらららら……」である。貧乏を基準にすれば、余分な金がある好景気状態は、「夢があるいい状態」になる。しかし、達成されてしまった豊かさを基準にすれば、「余分な金がある」とは、すなわち「バブル」なのである。  一九二九年、世界はまだ豊かさに慣れていなかった。だからこそ、「余分な金」という発想が出来なかった。「金よ、いくらでも無限に来い!」と叫んで、それがバブルだとは思わなかった。しかし、はじけるバブルははじける。それが「世界恐慌」なのである。 [#改ページ]       1 9 3 0  一九三〇年の日本は、昭和五年である。翌年には満州事変が始まる。この年の十一月には、総理大臣|浜口雄幸《はまぐちおさち》が、「不景気による社会不安を作った元凶」として、右翼の青年に東京駅で襲われる。なにしろ、世界恐慌の翌年である。日本が身にしみて不景気なのは当然だろう。  一九三〇年代の日本というと、軍部と右翼の勢力が拡大して来て太平洋戦争へと向かう「暗い時代」である。だから果たして、この一九三〇年も「暗い」ようには見えるのだが、しかし本当にそうなのだろうか? この一九三〇年は、一方で「帝都復興祭の年」でもある。七年前の一九二三年——大正十二年の九月一日に襲いかかった関東大震災の被害から、首都東京は見事に立ち直った。この年は、その復興を記念する祝典が行われる「明るい年」でもあった。  関東大震災は、その損害額が当時の国家予算の三倍にも当たる大災害だった。東京は焼け野原となり、一九二七年には、その後遺症とも言える金融恐慌が起こっている。「ただぼんやりした不安」という不気味な言葉を遺して芥川龍之介が自殺したのも、金融恐慌の年である。その前年には、大正天皇の崩御《ほうぎよ》があって、年号が「昭和」には変わったが、その一年間は「御大喪《ごたいそう》」の喪中である。どうあっても雰囲気は暗い。しかし、「御大喪」が終わった一九二八年の十一月には、昭和天皇の即位式——「御大礼《ごたいれい》」が行われる。東京の皇居からわざわざ京都御所にまで出向かれての「御即位」があり、それにまつわる行列を見ようとして、京都の人間達は二食分の弁当を持って徹夜で沿道に並んだ。  今の人にはとうてい理解出来ないだろうが、「行列見物」というのは、平安時代の昔から、日本人にとっての最大イベントでもあったのである。市内を練り歩く花やかな行列イベントがあったら、五年や十年は話の種になるという時代に、末代までもの語り種《ぐさ》になりそうな、古式ゆかしい平安時代風の大行列が繰り広げられた。しかも、その年は、オランダのアムステルダムで開かれたオリンピックで、初めての日の丸が揚がった年でもある。  三段跳びの織田幹雄《おだみきお》、二〇〇メートル平泳ぎの鶴田義行《つるたよしゆき》が金メダル、陸上八〇〇メートル女子の人見絹枝《ひとみきぬえ》は銀メダルである。それが八月で、十一月が「御大礼」——一九二八年の日本は、大はしゃぎのドンチャン騒ぎであっても不思議はない。しかも、暗いはずの前年には、円本ブームが起こっている。当時の日本人は、手頃な値段で手に入る文学全集という教養=娯楽に飛びついた。その中には、関東大震災で丸焼けになって蔵書を失った東京人も大勢いただろう。自殺した芥川龍之介は、一家を支えるために苦労して原稿を書いていたが、世界文学全集から始まる円本ブームは、すぐに大衆小説のジャンルまで及び、日本の作家達の懐具合を大いに潤したのだ。「暗い一九三〇年代」へ至る昭和の初め、日本はそんなに暗くなかった。  一九三〇年に、まだ映画はサイレントだった。しかしこの段階で、既に阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、長谷川一夫(当時林長二郎)、嵐寛寿郎はスターになっていて、鞍馬天狗はもうスクリーンにいた。大衆小説の主人公達は、「暗い世相」を反映するようなニヒリズムの世界を体現していたが、それが映画になれば、「いいぞ! いいぞ!」の大喝采である。  ラジオ放送が始まったのは一九二五年。それと同じ年、東京には神宮球場が完成する。プロ野球のない時代、ここで行われラジオ中継で人気を博すのが、六大学野球——早慶戦である。二年後には、大学を卒業して社会人になった人気選手達が登場する都市対抗野球も、同じ球場で始められる。ラジオによって、遠くの娯楽が耳で楽しめるようになったところへ、一九二七年には、やがて歌謡曲の全盛時代を作るようになる大手のレコード会社、日本コロムビア、日本ビクター、日本ポリドールが揃って設立される。一九三〇年のヒット曲は、『すみれの花咲く頃』『祇園小唄《ぎおんこうた》』『洒落男《しやれおとこ》』。翌年は『酒は涙か溜息か』『丘を越えて』『侍ニッポン』である。和洋が一緒で、明るいのも暗いのも一緒だった。  一九三〇年の、復興なった銀座の通りを闊歩するのは、断髪にオカマ帽をかぶったモガ(モダンガール)だろうが、より多くの人が集まるのは、銀座よりも浅草だったろう。浅草六区には、映画館や芝居小屋、見世物小屋が立ち並んで、そこには「カジノ・フォーリー」というお笑いとミュージカルの一座があった。ここの中心スターは、やがて「日本の喜劇王」と言われる榎本健一(エノケン)である。その、人の集まる浅草を舞台にした川端康成の小説『浅草紅団』が、一九二九年の暮れから『東京朝日新聞』の夕刊に連載を始める。  浅草は、「モボ、モガ」と言われたモダンボーイ、モダンガールの集まる東京一の盛り場であると同時に、いかがわしさと犯罪がひっそりと——あるいは公然と息づく�猟奇の巷�でもあった。監視するうるさい親を持たない孤児でもあった川端康成は、帝大出でありながら、そういう�いかがわしい浅草�に通暁していた。『浅草紅団』は、そういう�猟奇案内小説�でもある。�いかがわしい浅草�にはまった先駆者には谷崎潤一郎という大物もいたが、『浅草紅団』を書く川端康成のそばには、江戸川乱歩という巨人もいた。一九二七年、自分の書くもののグロテスクさに自己嫌悪を感じて一時筆を折っていた江戸川乱歩は、一九二八年の『陰獣』で見事な復活を遂げる。続いて『芋虫』『孤島の鬼』というのが、一九三〇年までの江戸川乱歩である。グロと猟奇と恐怖の江戸川乱歩は、見事に健在だった。  満州事変は勃発し、京大の滝川事件や二・二六事件へと時代は進むが、そんな時代に大衆文化はどんどん盛んになった。大衆小説はどんどん書かれ、どんどん映画化され、トーキーになって音が出るようになった映画は、「主題歌」という形でレコード会社との連携も深める。  一九三〇年は、世界恐慌の翌年である。日本の景気がいいわけはないし、その後がいいわけもない。だからこそ日本は戦争へと傾斜して、そんな昭和初期の日本人は、「忍び寄るファシズムとエロ・グロ・ナンセンスの中にいた」ということになっている。しかし、大衆は大衆である。別に彼等が、「忍び寄るファシズムの予感」におののいて、思想性のない娯楽に逃避していたわけではない。この当時の大衆文化や風俗が「エロ・グロ・ナンセンス」の三語に凝縮されてしまうのは、その大衆を直視する目がなかっただけの話だろう。  「右翼と軍部のファシズムは勢力を得、左翼勢力は弾圧された」——戦前の日本を語る�まともな材料�はこの二つだけで、「知性のない大衆はエロ・グロ・ナンセンスの中だけにいた」という図式は、もうやめるべきだ。大衆は大衆で、そこにある意味を拾い上げるだけの知性がなかったからこそ、日本はファシズムへなだれ込んだ——そんな考え方だって、もうあってもいいのである。 [#改ページ]       1 9 3 1  昭和六年——一九三一年の九月十八日夜、満州(中国東北部)で日本の拓殖会社・南満州鉄道株式会社(満鉄)が経営する鉄道線路が爆破された。犯人は中国人で、日本の鉄道守備隊までもが襲撃されたという。場所は奉天(現・瀋陽)北郊の柳条湖《りゆうじようこ》(昔の人にとっては柳条溝《りゆうじようこう》)。日本軍はただちに応戦して戦闘状態に入る。満州事変の勃発である。日本軍はすぐに満州を占領、翌年にはラスト・エンペラー愛新覚羅溥儀《あいしんかくらふぎ》が皇帝としてかつぎ出され、満州国の建国となるのだが、ここまでが「日本軍の謀略」である。なにしろ発端の爆破事件そのものが、日本軍の仕組んだものだからである。当時「満蒙(満州とモンゴル)は日本の生命線」と言われた。だからこそ日本軍は突っ走った。ここから「十五年戦争」と呼ばれる長い中国との泥沼時代が始まるのだが、しかしよく考えてみると分からないのが、この「日本軍の満州侵略」である。  一九四五年に戦争が終わって、満州から引き揚げて来た多くの日本人がいる。「満州国」というものが存在していて、そこを「日本同然」と考えた多くの日本人が移住して行った。だから満州と日本との関係は深いように思われて、「日本軍は謀略によってでも満州を占領したのだ——必要だから」という考え方も生まれてしまう。しかし、これが実は逆なのである。どういうわけだか、日本軍は「満蒙は日本の生命線」と信じた。そして占領して、そのことによって多くの日本人の間に「満州は自分達のもの」という特殊な感情が生まれた。これが順序である。なぜか? 一九三一年に日本軍の持ち出した「満蒙は日本の生命線」という言葉が、ある過去の時代状況を反映する言葉でしかなかったからである。  「満蒙は日本の生命線」という言葉は、「満蒙は日本の重要なマーケットであり、移住する日本国民の新天地であり、戦争を継続するために必須な鉱物資源の宝庫である」ということを意味しない。これは、満州占領後の方向付けであり、満州占領のための名目・願望である。そういう錯覚はどうして生まれたか? それは、「満蒙は日本の生命線」という言葉における�日本�が、日本本土のことではなく、日本が特殊な権益を主張して植民地にしてしまった韓国のことだということを、一九三〇年代の日本人が忘れてしまっていたからである。「満蒙は日本の生命線」を本来の意味に戻せば、「満州やモンゴルを�敵=ロシア�に侵されたら、日本の韓国での権益が危うくなる」で、これは一九〇四年に始まる日露戦争前の状況を指す言葉なのである。  日露戦争の直前、韓国はまだ日本の植民地とならず、ここを牛耳るものは、韓国皇帝を保護下に置いたロシアで、ロシアは満州やモンゴルに侵入していた。だから、「このままだとやがてロシアが韓国を支配し、日本本土にまで攻め入るかもしれない」と、考える人は考えた。日露戦争とは、「ロシアの脅威から韓国での権益を守り、日本本土をも守る」ということを目的とする戦争だったのである。だからこそ、この当時は開戦論の他に「満州やモンゴルにおけるロシアの権益を認め、その引き換え策として、韓国での日本の権益をロシアに認めさせよう」という考え方も生まれた。しかし日本とロシアは戦い、そして勝った。話はここからややこしくなるのである。  勝った日本は、その当時の戦争の常識である賠償金を得られなかった。日露戦争で日本が得たものは、樺太《からふと》の南半分と韓国の保護権と遼東《リヤオトン》半島の租借権と、ロシアが南満州に建設した鉄道——つまり満鉄だった。常識でいけば、ここから日本の満州経営あるいは侵略が始まるのだが、賠償金が一銭も入らないことに怒って焼き打ち騒ぎを起こす当時の日本人には、自分の手に入れたものの価値を理解する能力も、また使いこなすだけの能力もなかった。日本はせっかく手に入れた満鉄を、アメリカの鉄道王に売却してしまおうとする。後のことを考えれば嘘みたいな話だが、かろうじてロシアに勝った日本には、満州で手に入れた鉄道を維持運営する金がなかった。そんなことより、鉄道を売って金を手に入れた方がいいと考えた。つまり、日露戦争直後の日本には、満州経営をしようという発想自体がなかったのである。  日本は、韓国での優越権を守るためにロシアと戦い、満州に市場としての価値を見出すイギリスとアメリカは、日本が満州からロシアを追い出してくれるのを期待した。日露戦争とは、日本がイギリスとアメリカのために戦った戦争でもあり、だからこそ、この戦争の講和にアメリカの大統領ルーズベルトも協力したし、その後の日本が韓国でなにをやっても文句を言われなかった。満州事変の後にリットン調査団がやって来て、日本が「世界の孤児」となって行くのとは大違いである。  一九〇五年に終わった日露戦争の段階で、日本は欧米帝国主義の使いっ走りのような存在だった。それも仕方がない、日本には帝国主義侵略の大原則である「原材料の調達と商品販売のためのマーケットとして、他国を自国の植民地化する」ということがまだ出来なかった。開国して近代化への道を歩き出した日本は、清朝の保護下にある韓国へ目をつけたが、日本の近代産業は未発達で、当時の韓国は商品経済そのものが存在しないような所だった。商品販売のマーケットとしては意味をなさず、調達すべき原材料もなく、それをして得にもならず意味もない。当時の帝国主義侵略の常套である鉄道建設の権利を、日本は韓国から獲得したが、しかし日本にはその権利を行使する必要も能力もなかった。韓国での鉄道建設を実現させないままでいた日本である。満鉄を手に入れても「猫に小判」にしかならないという、そんな「満州事変以前の状況」もあったのである——ということになったら、「一体なんだって日本は韓国を手に入れたがったのか?」という根本の疑問さえも生まれる。問題はここなのである。  明治維新の後、近代化した日本は、当時の世界を支配する帝国主義の原則にのっとって、韓国侵略を開始した。しかし、まだろくに近代化していない、「売るべき商品」と「作り出すための工場」を持たない日本には、侵略の必要がない。ないのにそれをする日本とはなにか? 「豊臣秀吉の朝鮮征伐」が、「帝国主義」という新スタイルによって繰り返されただけである。つまり、「意味はないが侵略だけはしたい」である。しかも、そこに戦争が起こって勝った。勝った日本はなにを手に入れたのか?  日露戦争の後、日本には一時的あるいは瞬間的に好景気が訪れたが、しかし日本は一貫して不景気だった。日本には、手に入れたものを意味あるものに変える力がなかった。勝って得たものは、ただ「勝った」という栄光の記憶だけなのである。勝って得た「満州」——それは、軍人達にとって栄光の記念碑だった。記念碑を守り、栄光を信じ、そして、脆弱《ぜいじやく》な日本は幻想に押し潰された。それが「満州」という幻想なのである。 [#改ページ]       1 9 3 2  前年の満州事変を受けて、一九三二年の日本はかなり血腥《ちなまぐさ》い。三月に満州国は成立し、その前後には血盟団事件や五・一五事件が起こって、総理大臣|犬養毅《いぬかいつよし》をはじめとする政府要人の暗殺が頻発する。単純に言ってしまえば、「満州幻想」に取り憑かれた軍部とその支持者達が暴走し、軍部と政府との間に大きなきしみが生まれていたことの結果である。  当時の日本政府は、満州侵略にあまり積極的ではなかった。その弱腰ぶりが軍部(陸軍)を刺激し急き立てて、「既成事実を作ってしまえ」という満州事変の暴走へと至る。軍部は勝手に突っ走り、政府はその後をフォローしなければならない。満州事変の一カ月後、もう国連では「日本軍の満州からの撤兵」を決議してしまっている。軍部の作ってしまった�既成事実�を認めてしまえば、日本が困った状況に置かれる——それを日本政府は知っている。その以前、満州事変などを計画実行してしまえばどうなるかも知っていて、だからこそその態度を、軍部の側から「弱腰!」と怒鳴られる。自分達のしたことをフォローしないでいる政府に対して、軍部の側は恫喝を加えた。それがこの年のテロリズムである。  五・一五事件で犬養毅以下を殺されてから、日本政府はおとなしくなる。満州国を成立させ、それを政府に承認させた軍部も、とりあえずはよしとして、しばらくはおとなしくなる。だから一九三六年の二・二六事件まで、テロリズムはしばらくお休みである。  厄介というのは、日本のファシズムが、言うに言われない欲求不満によって動き、明確な方針を持たないでいたことである。「それをすればどうなるか?」を考えないで突っ走る。つまりは、「問答無用!」の野蛮状態なのである。一九三二年の日本はそういう野蛮さを歴然と持っていて、もしかしてそのことを端的にあらわしてしまうのが、十二月に発生する白木屋火事なのである。  一九九九年一月、「東急百貨店日本橋店」となっていた白木屋は三百三十七年の歴史に終止符を打って閉店したが、この白木屋を不思議な形で歴史に残すのが白木屋火事である。  一九三二年当時の白木屋は、三越と並ぶ日本の代表的百貨店だった。つまりは、最も格式が高く、最も時代の先端を行っていた豪華な社交場でもあったということである。ビルディングの高層建築で、その内部は当時の流行でもある、桃山様式の金ピカだった。そこに火事が起こった。白木屋火事が有名なのは、「日本で最初の高層ビル火災」としてではなく、「火事に巻き込まれた女性客や女性店員の多くが着物の下に下着をつけていなかったから、そのまま火事で焼け死んだ」という悲惨によってである。  私は、この白木屋火事のことを中学生になったかならないかくらいの頃に知って、びっくりした。「昔の日本には、パンツを穿かないで町を歩いている女の人が一杯いた」ということにショックを受けたのである。白木屋火事は、「日本女性のノーパン」と連動して、ある時期までの男達の記憶に残っていた。中学生になるかならないかの私には、「ノーパンが当たり前」という女性達が平気でいる日本というのが信じられず、それで「きっと白木屋火事は明治時代くらいの大昔のことだろう」と思っていたのだが、なんとそれは満州事変の翌年の、昭和のこの年なのである。  「着物の下はノーパン」というのは、女性の美学のようなものでもある。それをする女性達は、「だって着物の下に下着の線なんかが見えたら色気がないじゃない」などと言う。しかし、昔の女性達がノーパンでいた理由は、そんなためではない。昔の日本女性は、屈めば下着の線が見えるようなピチピチの着物の着方をしていなかったし、着物の下から肉体の線があらわになるような豊かな肉体も持ち合わせていなかった。昔の着物は、基本的には肉体の線すべてを覆い隠すものであったのだから、白木屋火事で焼け死んだ女性達は、色気のために下着をつけていなかったのではない。彼女達はただ単に、それ以前からの常識に従って、「パンティーを穿く」という発想を欠落させていただけなのである。  昭和が七年になっても、日本の女性達は相変わらず前近代のノーパンのままだった。女達のノーパンに対して、男達はどうだったのか? この当時の日本男児の成人儀式である徴兵検査の時につける下着の正装は、越中フンドシだった。つまり、「日本の近代はノーパンと越中フンドシ」なのである。これはかなり気が抜ける話で、またショッキングな事実でもあろう。上っ面だけを近代化しても、日本人は肝腎のところで相変わらずのままなのである。  考えてみれば、日本というのは不思議な国だ。たとえば、日露戦争の段階まで軍部と政府は一つだった。あえて言えば、政府首脳が先に立って、侵略戦争を引き起こそうとした。あまりロシアとの戦争に積極的ではない国民に対して、日本政府は煽動を試みてさえいる。政府と軍部の間にまだ分裂はなく、一九〇四年の日露戦争開戦段階での日本政府は、あえて言えば、軍隊を引っ張る「帝国主義の優等生」だったのである。イギリスやアメリカとの間で根回しを十分に行っている。日本の007とも言うべき軍人|明石元二郎《あかしもとじろう》は、対戦相手のロシアを掻き回すため、革命勢力の手助けさえしている。「外交が苦手」という後の日本人の欠陥が嘘みたいである。政府は日露開戦を煽り、これに対して「無意味な戦争」を叫ぶ反戦論も、幸徳秋水や堺利彦、あるいは与謝野晶子によって訴えられる。  ヨーロッパで反戦論が一般的になるのは一九一四年に勃発する第一次世界大戦になってからだから、日本の方が十年早い。一九〇四年に幸徳秋水達の作った平民新聞に掲げられた反戦社説『露国(ロシア)社会党に与る書』は英訳され、欧米の社会主義系新聞に転載されているのだから、「反戦論は日本から起こった」と言っても過言ではない。それ以前、一九〇〇年の中国で起こった義和団事件の時には、包囲された欧米人救出に向かった日本軍は非常に礼儀正しく、欧米各国の軍隊とは違って略奪なんかしなかった[#「しなかった」に傍点]と称賛されているのである。この「称賛さるべき日本軍」は、日露戦争の段階まで続く。つまり、日本という国は「初めはいい」のである。それがやがては調子に乗って、世界の鼻つまみ者になる。ずっと後の一九七〇〜一九八〇年代において、「経済大国」を実現した日本が、「金儲けだけの日本」としか言われなかったのも、これと同じだろう。  日本は、なにも知らずに手探りでやっている内は「いい」のだが、それがうまく行った後は「ダメ」なのである。一九三一年の満州事変以後、それはもう明らかになっていた。軍部はクーデターを計画し、しかしそれは成功せず、にもかかわらず、政府は「こわい軍部」に怯えてメチャクチャを許す。肝腎なところは無防備のままで、それが悲惨な結果へとつながる。一九三二年の白木屋火事は、そんな哀れな日本の象徴かもしれない。 [#改ページ]       1 9 3 3  一九三三年は、ヒトラーのナチス政権がドイツに誕生する年である。この六年後に第二次世界大戦が勃発する。第二次世界大戦の口火を切るのはヒトラーのポーランド侵攻であり、一九三三年以降の世界の危険なカジ取りをするのもヒトラーだが、だからと言って、「この年に成立したヒトラーのナチス政権が、各国をファシズムへ傾けて行った」というわけではない。これ以前、他国はもう十分に全体主義化していたのである。  ファシズムの語源となったイタリアのファシスト党は、ナチス政権誕生の十一年前に政権を獲得し、独裁体制を作り上げている。日本軍国主義は、一九二八年に張作霖爆死事件を起こし、一九三一年には満州事変へ突入している。ソ連の独裁者スターリンが権力を掌握したのは一九二四年。既に世界は十分に危険で、ヒトラー政権はだめ押し的に登場する。別に「悪いドイツが世界を傾けた」というわけではない。それは、あまりにもヨーロッパの一部を中心とする考え方だ。  第一次世界大戦が終わり、ミュンヘンにいたヒトラーが、後に「ナチス」と呼ばれることになるドイツ労働者党という小さな政党で演説を始めるのが一九一九年。それから政権獲得までに、十四年がかかっている。見方を変えれば、「ドイツという国は、よくもここまで最悪を選択せずに踏み止まっていた」ということにもなる。ドイツは、それほどひどい状況にいた——つまりは「借金苦」である。  第一次世界大戦終了後、ドイツは戦勝国に対して、とんでもない額の賠償金支払い義務を負っていた。第一次世界大戦は、「勝った国が負けた国から領土を取り、賠償金の支払いを受ける」という、古い時代の戦争の最後のものだった。この清算方法が間違っていたから、第二次世界大戦は起こった。だから、第二次世界大戦終結時には、もう「古い清算方法」が採用されなくなった。つまりは、第一次世界大戦終結後の清算方法の悪さがドイツを災厄に導き、結果としてナチスという最悪が選択されたということである。  一九二一年、ヴェルサイユ条約の規定によって、ドイツの支払うべき賠償金額は決定された。ドイツは天文学的な借金を抱え、この時から「敗戦国と戦勝国」という関係は「債務国と債権国」へと変わる。膨大な負債を抱えたドイツでは、経済が破綻して恐るべきインフレが起こり、賠償金額が決定された翌年にはもう支払い猶予を求める状態になっていて、その翌年は「返済不能」である。賠償金の半分以上を取ることになっていたフランスは、支払いを滞らせたドイツに対する報復措置として、この年にルール地方を占領——要は「差し押さえ」である。ヒトラーが逮捕されるミュンヘン一揆もこの年で、さすがの旧連合国側も、「ドイツをこのまま放置するのはやばい」と思った。それで、「ドイツの支払い能力を前提にした新しい賠償金額」を改めて設定し直そうとするのである。  ドイツと戦ったヨーロッパの戦勝国には、「戦争で勝った以上、いただくものはいただく。戦争とは、勝ってトクをするものである」という古い常識があった。と同時に、「ドイツに勝つための戦争遂行費用を借金でまかなった」という家庭の事情もあった。金を貸したのはアメリカで、ドイツの賠償金がなければ、戦勝国達はアメリカに借金が返せない。ドイツの借金は、結局アメリカへ流れ込むのである。だからこそアメリカは、「なんとかしなくちゃ」と考える。  一九二四年、アメリカの財政家にしてモルガン財閥系の信託会社社長であるチャールズ・ドーズが考えて提案した「ドイツの新しい借金支払いプラン」が「ドーズ案」である。ドイツはこれに沿って借金返済を再開し、五年間はまァ順調だった。しかし、ドーズ案の根本にあるものは、「ドイツは借金返済のため、アメリカから別口の借金をする」なのだ。別口の借金が増えたドイツは当然苦しくなって、「新しい借金返済プラン」が再び必要になる。  一九二九年、アメリカのゼネラル・エレクトリック社長が「ヤング案」を提案した。「借金の返済に困ると新しい金融業者がやって来て、�楽な返済プラン�を新しく設定してくれる」のはいいが、そんなことをいくらやったって、根本にある�法外な借金�は消えない。ドイツは相変わらずの借金地獄で、哀れなドイツが再び返済を始めようとした途端、アメリカのバブルははじけた——世界恐慌である。  「やっぱりだめだ」というので、一九三二年にはローザンヌでまた会議が開かれた。前二回はアメリカ主導だったが、今度はイギリスが主導権を握り、会議の方向も少しだけ変わる。ドイツから賠償金の支払いを受けるヨーロッパ諸国が、「この問題の根本にあるものはなんだ?」と、ちょっとだけ考えたからである。  第一次世界大戦後の一九二〇年代、「すべての金はアメリカに流れ込んでいた」と言っても過言ではない。そこで、旧連合国側は一致して、「アメリカの権利放棄」を要求した。アメリカから金を借りたドイツが旧連合国に賠償金を支払い、その金が、アメリカから借りた戦争費用の返済に充てられてアメリカに返る——この悪循環を断ち切る最良の方法は、金持ちアメリカの権利放棄しかないからである。だがしかし、アメリカはこれを拒否した。哀れなドイツは再び、「借金をして借金を返す」を始める。ナチスが政権を取ったのは、その翌年なのである。  ある意味でドイツは、「堪忍袋の緒が切れた」状態だった。ヒトラーは、「不当とは、第一次世界大戦の賠償そのものである」と言って、支払いを拒否した。そして、ドイツは借金地獄から抜け出した——それと同時に、孤立と戦争への道をも選んだ。  ヒトラーが出て来なければ、ドイツは自分の背負った不当な責務を帳消しに出来なかった。賠償金の支払いは、「戦争に関するルール」で、それに従って負けた以上、付随する�法外�も引き受けなければならない。しかし、「ねばならない」の義務の前には、「そんなものを引き受けたらどうなるか?」が棚上げになる。「そんなもの、ウソっぱちだ!」と言って、欺瞞的な根本ルールを引っ繰り返せたのは、ナチスというならず者だけだったという、悲しい時代状況を頭に入れておく必要はあるだろう。  第一次世界大戦の終わった一九二〇年代は、まだ「古き佳き時代」の雰囲気が残る「紳士の時代」でもあるが、「紳士的」なるものの厄介は、根本がいくら矛盾していい加減なものであっても、その前提を受け入れて紳士的に振る舞うことこそが「紳士的」であるということにある。人に借金を押し付ける紳士達は、結構汚かった。もちろん、そうであればこそ、他国を勝手に「植民地」として、その「自国の利益」を争い合う第一次世界大戦前の状況も生まれる。第一次世界大戦は、それ自体がロクなものではなく、それを認めない限り、その後だってロクなものにはならない。ナチスとは、紳士のいた時代に生まれたならず者だったのである。 [#改ページ]       1 9 3 4  ドイツのベルリンで国会議事堂が燃え、ワイマール共和国にとどめを刺すナチスが政権を取った一九三三年、アメリカでは禁酒法が廃止されていた。アメリカで禁酒法が制定されたのは一九一九年。第一次世界大戦終結の翌年で、ドイツのワイマール共和国成立の年でもある。アメリカの禁酒法は、ワイマール共和国と共に生まれ、ワイマール共和国と共に消えた。  ナチスが政権を取ったドイツは異常への道をたどり、アメリカは酒を飲むことによってノーマルへと戻る。「民族の浄化」を叫ぶナチス・ドイツは、異常に「清潔」と「ノーマル」が好きな国だった。アメリカの禁酒法もまた「清潔」と「ノーマル」への志向によって生まれ、結局は、酒のブラック・マーケットを支配するギャング達の隆盛を生んで終わる。人間というものは、適度の不健康や悪と共存出来てやっとノーマルになれるような生き物でもあるらしいのだが、最も難しいのは、「人間に必要な適度の不健康・適度の悪」をどの程度にするかという、サジ加減だろう。酒を禁止したからと言って、人間がノーマルになるわけではない。「飲まずにはいられない」という衝動が陰にこもって、ろくでもないものに成り下がるだけである。  一九三四年、酒を飲むことによってアメリカはノーマルに戻った。しかし、禁酒法などというものを制定してしまうアメリカの精神は、やはり健在だった。一九三四年、酒を飲むようになったアメリカでは、その代わり、映画の検閲制度がスタートするのである。  それ以前、ハリウッドには映画業界の自主規制制度があった。巨大産業となっていた映画界には、大金持ちになったスターや制作者達がゴロゴロいた。ここがただのマトモであるはずはなく、後に「ハリウッド・バビロン」と言われるような退廃があった。作り手達は、自分達の精神状態を反映するような作品を平気で作っていて、やがてその業界に犯罪事件が起こる。映画界の自粛、あるいは検閲を求める声も、そこに起こるのである。  一九二二年、ハリウッドの映画業者達は、仕方なしに、「客が入らなくなるおそれのあるつまらない映画」を作るための自主規制制度を作った。しかし、禁酒法でギャングがはびこるアメリカである。「客が見たくなるようなものを作らなければ商売にならない」と思う映画業者達の決めた自主規制は、有名無実の代名詞だった。その禁酒法が、廃止されたのである。  アメリカは再び健全な「酒を飲む社会」へと戻り、その健全さへの志向が、相変わらず続くフシダラあるいはフマジメな映画へと向けられた。(当時としては)過剰な性描写と扇情的なスキャンダリズムの横行を憎んだカトリック教会その他の勢力が、強硬な圧力をかけた。そうして、その後三十年以上もハリウッドを支配することになる「ヘイズ規則」と言われる検閲制度がスタートするのである。これ以後、アメリカ映画からはヌードとベッドシーンと残酷描写と異常性愛が姿を消し、そのスケールの大きさとは別に、「世界で最も保守的な映画」の量産体制が確立され、ハリウッドは世界を征服する。酒を飲むことによって平衡感覚を取り戻したアメリカ人達は、こうして「健全な娯楽」を得るのである。  一九三四年、健全をモットーとするようになったハリウッドは、それにふさわしい大スターを世に送った。アステア&ロジャーズのダンス・コンビと、歌って踊れる名子役シャーリー・テンプルである。前年『空中レビュー時代』で初コンビを組んだフレッド・アステアとジンジャー・ロジャーズは、この年の『コンチネンタル』で主役となる。六歳のシャーリー・テンプルは『歓呼の嵐』でスター・デビューする。やがては「アメリカの完璧な子供」という存在になるシャーリー・テンプルは、「達者に歌って踊れる子供芸人」として登場するのである。  一九二七年、映画はトーキーになった。その第一作は『ジャズシンガー』。アメリカでの「音が出る映画」は、ミュージカルでなければならなかった。アメリカ文化の中心にはミュージカルがある。アメリカ映画のスターには、シリアスな演技で有名な人でも、平気で歌って踊ってしまうような人が意外と多かった。コメディがやれる人なら、歌ったり踊ったりすることが出来ない人の方が珍しいし、多くのスターが「歌って踊れる」を前提にしてデビューしていた。「子供の時から芸人」も当たり前で、「歌って踊れる」は、アメリカのスターの基本のようなものだった。日本の映画スターは、多く歌舞伎の世界からやって来たが、アメリカの映画スターは、映画の草創から産業として確立されるまでの期間に全盛を極めていた、ボードヴィル(寄席)からやって来た。  彼や彼女は、お客さんの前で歌って踊って人気を集め、いかにして自分を見せるか、いかにして人に好かれるかという技術を確立した後、スターとなる。アメリカ映画のスターの条件が笑顔であるというのも、そんなところに由来しているであろう。親しみやすさとは、人間の共有出来る近似値の別名でもある。歌って踊れるシャーリー・テンプルは、そういう芸人の子供版として登場した。  歌って踊れる愛くるしい芸達者のシャーリー・テンプル。大人のアステア&ロジャーズは、最後まで「ミュージカルの人」だったが、シャーリー・テンプルは微妙にそのあり方を変える。彼女は、大人が失ってしまった純粋さと愛くるしさを持っている「完全な人間」であって、それゆえにこそ、トラブルに巻き込まれた大人をたしなめるという役割も果たすようになる。当時、作家のグレアム・グリーンは、シャーリー・テンプルを「大人を手玉に取る悪女」と評したそうだが、それをしてもバレないでいるところが、「純粋な子供」の強みである。  シャーリー・テンプルは人気を得て、大金も稼ぐ。アメリカ中の大人達がシャーリー・テンプルに夢中になるのは当然で、彼女は「アメリカの完璧な子供」として演出され、「完璧な子供を持つアメリカの誇り」として、世界制覇をもなしとげる。子供にはセックスも暴力も異常性愛も無縁で、シャーリー・テンプルは、「健全であること」を商売のタネにしなければならなくなったハリウッドの救世主であり、「失われた純粋さ」を追い求めて禁酒法を誕生させてしまうようなアメリカ人にとっての、理想だった。  しかし、シャーリー・テンプルの全盛期は、第二次世界大戦に至る前の四、五年ほどだった。子供は、子供でなくなってしまえば終わりだからである。「愛くるしい子供」は「美しい少女」に変わり、「美しい少女」は「美しい人妻」に変わったけれども、彼女の中でたった一つ、「自分は善である」という信念だけは変わりようがなかったらしい。ヴェトナム戦争の一九七〇年代、健全なまま大人になった彼女は、最もアメリカ的なタカ派の共和党議員になっていた。正しく清潔な健全というものは、ナチス・ドイツの例に漏れず、どうもそういう危険性をはらんでいるものらしい。 [#改ページ]       1 9 3 5  一九三五年、ドイツではニュールンベルグ法が成立する。後のユダヤ人絶滅=皆殺しへと至る、ユダヤ人排除の法である。しかし、この段階で、ヒトラーにドイツ国内のユダヤ人を皆殺しにするという発想があったかどうか。ニュールンベルグ法の骨子は、ユダヤ系のドイツ人からドイツ人であることの資格を奪ってドイツ国内に居ずらくすること——つまり「ドイツからの自発的退去」が、この時点での「ユダヤ人絶滅」だった。  キリスト教圏におけるユダヤ人差別の話を始めると長くなりすぎるから省略するが、ユダヤ人嫌悪はその根拠自体が抽象的なもので、「やなものはやなんだから消えろ」という子供の論理のようなものである。ナチス・ドイツの「ユダヤ人絶滅」も、その初めにおいては、ただの「いなくなれ!」だった。要は、自分達の目の届く範囲から消えてくれればいい。排除されたユダヤ人達は、ヨーロッパの外の「海の向こう」か、シベリアにでも勝手に行ってくれればよかったのである。ユダヤ人嫌悪という「胸の中の幻想」は、そうして処理されるのだが、しかし、幻想に対処する方法と現実に対処する方法は違う。ユダヤ人を嫌ったナチス・ドイツには、ユダヤ人よりもっと具体的な敵——スラブ人という存在があったのである。  第二次世界大戦の初めは、ナチス・ドイツのポーランド侵攻である。スラブ民族の国ポーランドを落としたら、その先にあるのはスラブの大国ソ連である。ソ連とドイツは、第一次世界大戦の時にも戦っている。お互いにスラブの盟主とかゲルマンの盟主と思い合っているし、ドイツにはソ連に対する領土的野心もある。もちろん、ドイツにとって、革命後のロシアは「殲滅《せんめつ》すべき悪魔」にも等しい共産主義者の国である。ナチス・ドイツの掲げる「アーリア民族優越主義」は、国内に存在する「セム民族=ユダヤ人」に対するものだが、国内の幻想の敵を追放してしまったその後に問題になるものは、国外の実際の敵——拡大されたドイツ領土の中にい続けるであろう、スラブ人なのである。  ゲルマン民族もスラブ民族も、同じアーリア民族に属するものである。しかし、ナチス・ドイツの民族差別とは、結局のところ、「自分達が一番エライ」を言いたいだけのものだから、その根拠となる「民族」のカテゴリー自体が曖昧なのだ。「セムに対するアーリア」の差別と同時に、「スラブに対するゲルマン」という差別もある。自分達と同じアーリア民族のスラブも、やはり排除の対象なのだ。だから、ナチス・ドイツの民族区分は、「アーリア=ゲルマン=自分達だけ」という不思議な展開をする。  それをするヒトラーと、彼を選んだドイツ人の中には、「西側」に対する劣等感が歴然とある。第一次世界大戦に負けて、その後の賠償金支払いで疲弊していたドイツの劣等感の中から生まれたのがヒトラー政権である以上、それは当然だ。ヒトラーは、自分より先に全体主義体制を固めてしまったイタリアのムッソリーニをこよなく崇拝していて、しかしムッソリーニは、ヒトラーのことなんか歯牙にもかけなかった。長い文化的伝統を誇るイタリアからすれば、ヒトラーはドイツという田舎を牛耳る「騒がしい小男」でしかない。ヒトラーはその屈辱を甘受して、だからこそ、国内のユダヤ人排除という「弱いものいじめ」をやり、次に、西側ヨーロッパよりも格が落ちる(はずの)東のスラブを狙う。ヒトラーの西側への敵意は、東を陥して自信をつけた後に歴然となる。  「自分達だけが優れた民族」という考え方に立つナチス・ドイツは、スラブ人の排除を前提にして、ポーランドへ攻め入る。ドイツは、ポーランドから東のスラブ人の土地を奪い、そこにドイツ人を移住させる計画だった。ヒトラーはオーストリアの出身だが、ナチス・ドイツを支えた支配者層の中には、プロシアのユンカー=地主貴族に由来する人間達が多くいた。彼等を率いるヒトラーの、真面目にして狂気した発想から生まれるものは、「広大なるスラブ人の土地を自分達で耕し、そこに住んでいる劣等住民は邪魔だから追い出す。一部は奴隷として残し、後は全部シベリアへ追いやって野垂れ死にをさせる」である。ナチス・ドイツの侵略拡大路線は、その究極において、「世界のすべてはドイツのものとなり、アーリア民族=自分達以外の民族・人種は、すべて自分達に奉仕するための奴隷となる」だったのだが、その最初の矛先はスラブ人へと向けられた。スラブ人奴隷化殲滅計画の方が、ユダヤ人絶滅=皆殺しよりも先なのである。  実際に侵略する予定の土地に住む実際の敵=スラブ人は、ナチス・ドイツの計画通り、奴隷同然の虐待にあう。しかし、ナチス・ドイツの目算もその内に狂う。あっという間に自分達の領土となるはずのソ連が、なかなか自分達のものにならない。頭の中では「スラブ人はシベリアへ」なのだが、その追放先であるシベリアが、まだ手に入らない。そこで、始末に困ったドイツ人達は、邪魔なスラブ人達を殺し始める。そうなって、ユダヤ人も同様の運命をたどる。戦争が膠着状態になった時、「自分達の目の届く範囲」から消えてしまえばよかったユダヤ人達の消える先——追いやるべき「国外」がなくなるからである。ドイツ人達は�邪魔なもの�の処理を、国内で考えなければならない。つまり、強制収容所の建設である。  人間のこわさというものは、その初めに極端で矛盾に満ちた方針を立てると、やがてそれに合わせてもっともっと極端な矛盾を冒し始め、その極端や矛盾を「極端」や「矛盾」と自覚しなくなるところにある。ポーランド人やユダヤ人を虐殺していたドイツ人達には、おそらく、自分達のしていることが殺人だという自覚はなかっただろう。「自分達のしていることは不必要なものの始末だ」ぐらいの頭で、毎日ユダヤ人達を平気でガス室に送っていた。そして、強制収容所に送られるユダヤ人達の姿を目撃するドイツ人達も、そのユダヤ人達の�運命�について、おそらくは考えなかった。「ドイツ人じゃないユダヤ人は、ドイツ人じゃないから追放する」というところで一九三五年のニュールンベルグ法は出来上がっている。それを容認してしまったドイツ人達は、「追放された者のその先は知らなくてもいい[#「知らなくてもいい」に傍点]」だったはずだからだ。  かくして、ユダヤ人は大量に虐殺される。虐殺されることと、強制収容所に入れられることとの間に、根本的な差はない。強制収容所とは、「国外がだめだから」という理由だけで仕方なく国内に作られた、「野垂れ死にさせるための場所」でしかないからだ。ポーランド人は強制収容所へ送られ、ユダヤ人も送られ、同性愛者も送られる。「自分達と違う者」は、「いやな者、劣った者」で、そのレッテルを貼られた者は、みんな追放=処分の対象になる。矛盾と極端を容認した者は、やがてその矛盾と極端に合わせて、もっともっとひどいことを始める。そしてその矛盾と極端に気づかなくなる。一九三五年は、それが始まる第一歩の年なのである。 [#改ページ]       1 9 3 6  一九三六年は、スペイン内乱が勃発する年である。スペイン内乱は「第二次世界大戦の前哨戦」とも「予行演習」とも言われるようなものだが、ここには、二十世紀の政治的混乱をあらわすすべてのものが集まったと言ってもよい。ある意味でスペイン内乱は、「二十世紀に人間はなにを選択すべきだったのか?」という問いを示すものでもある。先に答を言ってしまえば、「結局のところ明確な選択肢はなにもなかった」でしかないが。  内乱の五年前、一九三一年の段階で、スペインにはアルフォンソ十三世という王様がいた。この王様は無力で、スペインはプリモ・デ・リベラという将軍の独裁体制だった。ここら辺は、独裁者ムッソリーニがいて王様もいたイタリアと似ている。なるほど、イタリアもスペインもカソリック教会の勢力が強いところである。しかし、ムッソリーニの独裁一本に絞られるイタリアとは違い、スペインでは、一九三〇年に独裁者将軍が死ぬ。王様は権力を握ったまま呆然として、国民に選挙をさせる。結果、王様は敗れて、一九三一年、スペインは共和制になる。  王様は亡命する。もう王様はいないが、その代わりスペインには三つの勢力が混在するようになる。  第一は、「なんだかよく分からないけど今までのまんま」派である。彼等は、教会への信仰を相変わらず持続させて、「自分の現状が保障されるのなら、その支配者が教会であろうと国王であろうと軍事独裁政権であろうと共和国政府であろうとなんでもいい」と考えている。  第二は、「旧来のスペインに利権を持つ今までのまんま」派である。古いスペインから王様を除いた、教会と貴族と軍人の勢力で、「権力は、王様に代わる強いものが持つべきだ」と考える。つまりは、軍事独裁待望とその了承派である。彼等は当然のごとく、共和国政府と争う。敗戦後のドイツに混乱を引き起こした、アンチ・ワイマール共和国の保守勢力と同じであるが、スペインは、それでも近代化をやったドイツとは違う。外側では資本主義が当たり前になっているご時世で、スペインにも労働者は大勢いたのだが、にもかかわらず、スペインの本体そのものは、相変わらず貴族や教会の封建支配が続く十八世紀以前なのである。  そういう頭が痛くなりそうなところに、第三の共和国政府派がいる。これで、共和国政府派が一本にまとまっていれば、まだ問題は少ない。保守派と共和国派が争うだけですむからである。実際この二つは争って、一九三三年の十一月、選挙は保守派の勝利となる。勝った保守派は共和制の廃止を主張して、弾圧を開始する。弾圧する保守派の中心は、フランコ将軍の率いるスペインのファシズム政党ファランヘ党であるが、それでは弾圧されるのはなにかと言うと、これが種々様々である。  かつての共和国政府派は、アナーキストと共産主義者と自由主義者の混在になっている。アナーキストとは、スペイン土着の労働者である。共産主義者とは、スターリンのソ連とつながる勢力である。自由主義者とは、イギリスやフランスとつながる知識人グループでもある。ところがしかし、彼等を支持すべき自由主義陣営のイギリスやフランスでは、ちゃんと資本家と労働者が争っている。だから、同じ自由主義陣営の中でも、左翼とは一線を画したい資本家寄りの共和派と、ほとんど左翼に近い労働者寄りの自由主義派という対立がある。そして、この近代工業の発展によって生まれたグループの他に、スペインには、カタルニャ独立派という農業系もいる。この弾圧される側の複雑とはつまり、「スペインの未来をどうするか」という、展望の数でもあるのだが、結局のところ、「未来とは保守勢力以外のところにしかない」と考える点で一致する彼等は一つになって、一九三六年の一月、選挙協力の人民戦線を作る。人民戦線が保守勢力に勝ったところで、スペインの内乱は始まるのだ。  人民戦線政府は、保守派を放逐する。しかし、保守派の中心フランコ将軍は、既に成立している二つの全体主義国家、イタリアとドイツの支持を得て、この年の七月に武力蜂起をする。内乱の始まりである。人民戦線側は劣勢に立たされ、イギリス・フランスに援助を求めるが、しかしこの自由主義国は、中立を守ると称して知らん顔をする。フランコ将軍を倒して、その結果、スペインに左翼政権でも出来たら困るからである。現に、スペインにはソ連の支援が入っている。スペイン人民戦線に味方する自由主義者は、各国の有志——後のフランス文化大臣アンドレ・マルロー、フランスに来ていたアメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイ、イギリスの作家ジョージ・オーウェル以下、有名無名の義勇軍兵士達で、彼等が第二次世界大戦に先駆けて全体主義との戦いを闘ったというその点において、一九三九年三月まで続くスペインの内乱は名高い。自由のために人々は戦い、しかしその自由は圧殺され、スペインはフランコの独裁下に入る——これが、一九三九年八月の第二次世界大戦勃発前までの真実である。  第二次世界大戦は、全体主義国家と自由主義国家、あるいは、全体主義国家と反全体主義国家の戦いということになっている。だがしかし、これはあまり正確ではない。なぜかと言うと、反全体主義であるはずの連合国側に、スターリンのソ連がいるからである。  スペイン内乱の勃発した一九三六年、ソ連ではスターリンの大粛清が始まっている。すなわち、自分の個人崇拝を確固とさせようとするスターリンによる、反対分子の大虐殺である。犠牲者の数は数百万人とだけ言われて、正確な数が分からない。ある意味で、スターリンのソ連は、ヒトラーのナチス・ドイツよりもひどいのだが、その事実は第二次世界大戦終了後まで明らかにならず、ソ連は全体主義国家だと思われていなかった。  そういう事実があって、しかしスペインの独裁者フランコ将軍は、第二次世界大戦に対して無関心だった。「同じ全体主義国家仲間」という発想が、彼にはなかった。なぜかと言えば、王様の支配をそのまま受け継いだスペインは、古い王国のようなものではあっても、新興の全体主義国家なんかじゃなかったからである。  第二次世界大戦が終わっても、フランコ政権は倒れなかった。フランコ将軍は一九七五年に大往生を遂げ、その時の彼は「立憲王制」の一歩手前にいた。スペインは全体主義国家以前の古い王国のままで、ここに勝ちを占めたものは、「自分の現状が保障されるのなら、その支配者が教会であろうと国王であろうと軍事独裁政権であろうと共和国政府であろうとなんでもいい」と考える、「よく分からないけど今までのまんま」派だったのである。  情けないことに、「二十世紀に人間はなにを選択すべきだったのか?」という問いに対する明確な選択肢は、なにもなかった。人はそれを知らずに、この「第二次世界大戦の前哨戦」を戦った。気の抜けるような話である。 [#改ページ]       1 9 3 7  一九三七年は日本の昭和十二年。その七月七日の夜、北京の郊外の地・盧溝橋《ろこうきよう》で夜間演習をしていた日本軍に十数発の銃弾が撃ち込まれた。それが中国側の攻撃か、あるいは日本軍による謀略なのかはいまだに分からないが、この銃弾が、「日支事変」あるいは「日華事変」と呼ばれる日中戦争の発端である。日本は遂に�ある段階�を越えてしまった。  ところでしかし、「戦争勃発」ということになると、「大変だ!」の大騒ぎをする人達がいる。大騒ぎをして、急に�その後の事態�に目を向けたりもするが、戦争はアクション映画ではない。戦争が始まった時には、もう遅いのである。それを始めないよう、始まらないようにするため、�それ以前�がある。戦争というものは、始まってしまったら、もう終わるのを待つしかないようなものなのである。一九三七年七月七日の夜、盧溝橋に銃声の響いた時は、もう遅かった。それ以前、日本を破滅に導くだけの要素は、すべて出尽くしていた。問題はそこなのである。  一九三七年七月七日以前の日本にはなにがあったか? 前年の昭和十一年二月二十六日は二・二六事件である。陸軍の青年将校達がクーデターを起こし、日本はこれを鎮圧して[#「鎮圧して」に傍点]、破滅への準備を完了した。  しかし、この言い方はへんだ。「戦争をしたがる青年将校達の起こしたクーデターが成功し[#「成功し」に傍点]、軍による暴挙が日本を戦争へ駆り立てた」ではない。「陸軍の将校達のクーデターは鎮圧され、にもかかわらず[#「にもかかわらず」に傍点]、日本は戦争へ追い込まれた」でもない。不思議なことに、「日本は軍事クーデターを鎮圧し、そして[#「そして」に傍点]戦争へ向かった」なのである。当然ここには矛盾がある。こんなことが成り立つためには、「誰か[#「誰か」に傍点]がクーデターを鎮圧し、日本を戦争へ向けた」という条件がなければならない。それをしたのは�誰�か? それをしたものこそが、日本を戦争に導いた�真犯人�のはずなのだが、それは一体�誰�なのか? あるいは�なに�なのか? 問われるべきはそこである。  陸軍を掌握する元老・山県有朋の死後、陸軍には派閥争いが起きた。それが成長したものが、皇道派と統制派の二大派閥である。二・二六事件を起こしたのは皇道派の将校で、これを鎮圧する側に回ったのが、統制派の将校である。皇道派も統制派も、陸軍の絶対を信じていることでは変わらず、その違いは、�絶対�を獲得あるいは確立して行くための方法だけだった。  皇道派は、自分達の存在を「天皇に直結するもの」と位置づけた。事実陸軍は、元老・山県有朋を通して天皇に直結していた。陸軍皇道派は、天皇に直結する自分達が脅かされるはずはないと信じ、「陸軍の絶対を脅かす者は天皇の絶対を侵す者であり、その排除は天皇に直訴することによって可能になる」と考えた。一方の統制派の考えは、「絶対であるべき陸軍は、政治を支配することによって国全体を支配し、そのことによって絶対性を揺るぎなくする」だった。皇道派・統制派の両方に共通するのは、「陸軍の絶対を脅かす者がいる」である。  「陸軍の絶対」は、「永遠に続く軍備拡張」という考えにあらわれる。だからこそ、元老・山県有朋の生きている間に「軍縮」は起こらなかった。その方面で陸軍が応じるのは「拡張計画を引っ込める」だけで、「一度手に入れたものを削減する」という発想はない。それこそが「陸軍の絶対」であり、陸軍が応じるのは、「新しい拡張計画は引っ込めるが、その代わりに——」という、「代替の軍拡」だけなのだ。  ところがしかし、軍備拡張に必要なのは国家予算である。国家予算を握っているのは政府だから、対立はそのところに起こる。政府が軍事予算を削ろうとすれば、スポイルされた陸軍には、そのたんびに「国賊!」という政府への憎悪が生まれる。皇道派と統制派の差は、この憎悪の処理の差——天皇に訴えるか、自力で政府を放逐するかでしかなかった。  皇道派は短絡していた。だから武装蜂起をして、統制派がその鎮圧に回ることになった。  二・二六事件以後、陸軍の主導権は統制派が握る。クーデターの後には、陸軍への反感が強くなり、陸軍への恐怖も強くなった。反感は巷に起こり、恐怖は、殺戮の対象となった政治家仲間に残った。だからこそ、二・二六事件以後には「粛軍」がキイワードにもなるのだが、「軍の自粛」を実現するのは、怯《おび》えた政治家ではなく、主導権を握った統制派だった。  「粛軍」の名の下に、統制派は、敵である皇道派を遠ざける。そして、それを実行しながら、統制派は政治家達に脅しをかけた。死刑にされたのは二・二六事件の実行犯だけで、皇道派となりうる軍人達は、まだいくらでも残っていたのだから、それを示唆すれば、十分に政治家達への脅しにはなる。示唆しなくても、政治家達は怯えている。だから、二・二六事件以後の政府方針は、「軍を刺激しないように」になるのである。  軍拡を当然の前提にする陸軍を「刺激しないように」とは、どういうことか? それは、陸軍のすることを全部追認することである。  さすがの政府も、軍人を増長させるような政策を取ろうとはしなかった。関東大震災以後、国家財政だって逼迫している。軍事に対して積極策を取るつもりも余裕も、政府にはない。しかし、陸軍の現場は別だった。陸軍の現場は満州事変を起こし、満州国を作ってしまった。そしてその現場は、次なる敵を北のソ連と考えていたのである。  ソ連は社会主義の国で、中国にも社会主義勢力は台頭している。それを放置して満州国の安全はないと考える。安心してソ連と戦うためには、中国側からの妨害を排除しておく必要があると考える現場は、満州国保全のため、それと隣接する中国の華北地方への進出=侵略を考える。そのやり方は、満州国を手に入れたのと同じ方法だった。  中国の主体である国民政府は、華北から遠い南京にある。だから、「北京を中心とする華北地方に、日本と通じる傀儡政権を作ってしまえ」である。これを「華北分離工作」と呼ぶ。そうして出来上がってしまったのが満州国の南に続く冀東《きとう》政府であり、さらに満州国と冀東政府の西側一帯を、「冀察《きさつ》政務委員会」と呼ぶものが統治する地域にしてしまった。こうして国民政府(中華民国)を華北から遠ざけたのである。一九三七年の七月七日、日本軍が「満州外の地」である北京郊外などというところで軍事演習を行っていられた理由は、以上である。  華北への侵略を日本政府が容認したのは、二・二六事件の一カ月前だった。既に�事態�はそこまで来ていた。そこにテロは起こり、「陸軍を刺激しないように」が政治の方針として定着した。後がどうなるかは、分かりきったようなものである。盧溝橋で「銃弾を撃ち込まれた[#「撃ち込まれた」に傍点]」と認識した日本軍は突進し、政治家は追認をする。日本を破滅に導いた�真犯人�は、政治家達の臆病なのである。 [#改ページ]       1 9 3 8  一九三七年七月七日、月のない北京郊外の盧溝橋に十数発の銃声が響いた。近くには中国軍もいたから、これは日本軍の侵略を憎む中国軍のしわざかもしれないし、あるいはまた「なにか騒ぎを起こして、それをきっかけに——」と考える日本軍のしわざかもしれないし、あるいはまたそれ以外のものかもしれない。真実は不明だが、銃声は響いた。日本軍と中国軍の間に戦闘が起こり、日本軍が勝った。停戦協定が結ばれて、そこから日本と中国の悪夢が始まる。  日本は華北地方を侵略している。一九一九年、第一次世界大戦終結後のヴェルサイユ条約で日本の「対華二十一条」は承認され、それに怒った五・四運動以来、中国での反日・抗日の動きは続いている。自身の絶対を信じる日本軍にとって、不快とは、日本軍のやり方に異を唱える中国人達の存在である。「なにか騒ぎが起これば、それをきっかけに——」と思う日本軍の前で、盧溝橋の事件は起こった。陸軍の一部には、「これを機会に華北全体の武力制圧を——」という声が生まれ、一方には、「いやだめだ」の声も生まれる。  「だめ」が出る理由は、「中国にある軍隊は、ソ連との戦闘に備えるもので、今ここで中国との戦闘を拡大してしまったら、戦力が削がれる」である。  陸軍の中には、「中国なんか簡単に倒せる」派と、「そう簡単にはいかない」派の二つがあったのだが、それでは、日本政府の意志はどうだったのか?  政府方針は、当然「戦闘を拡大するな」だった。しかし、こういう風に議論が分かれた時、戦前の日本ではどうなるのか? 誰も明確な結論を出さないのが常である。「騒ぎは現場にある。判断は現場に任せよう」になる。つまり、日本政府と陸軍の出した共通見解は、「戦闘をこれ以上拡大させないように、揉め事は現地で解決するように」である——がしかし、こんなことを言われて、現地の日本軍が話し合いで事を解決するはずはない。「現地での解決」とは、すなわち「戦って勝つ」だからである。「戦って勝つ」とは、すなわち「戦闘の拡大」なのだから、こんな矛盾した結論はない。しかし、軍縮を拒否する陸軍に対して、一貫して、「現状を維持する代わりに——」という形で代償を与え続けて来た戦前日本である。誰もこの矛盾を矛盾とは思わなかった。だから当然、戦闘は拡大するのである。  盧溝橋事件から始まる戦闘状態を、初め日本は「北支事変」と呼んでいた。これが二カ月後には「支那事変」と変わる。「北支=中国北部」が「支那=中国全体」に変わっている。政府の方針も、一九三七年は「局面不拡大」だが、一九三八年には「戦面不拡大」へと変わっている。「こじれる局面は広げるな」が、「こじれる局面を広げても、戦闘だけは広げるな」になっている。事実が先行したら、もう日本政府はこれを追認するしかない。「戦闘を広げるな」の理由はいたって単純。「金がないから」である。  一九三七年の盧溝橋事件は、その年の十二月には「南京占領」というところまで行った。中華民国国民政府の本拠地を、日本は陥落させたのである——日本軍に抵抗した「生意気な中国人」を虐殺して。しかし南京が落ちても、国民政府が降伏したわけではない。国民政府は、その本拠地を揚子江上流の武漢《ぶかん》に移している。だから当然、戦闘はまだ続かなければならない。しかし、日本にはもう余裕がなくなってきていた。だから、一九三八年の二月に「戦面不拡大」を決定した日本政府は、翌三月に国家総動員法を成立させる。太平洋戦争の勃発は、まだ三年先のことである。  中国との戦争を「戦争」とは呼ばず「事変」と称していた日本は、一年もたたない内に余力がなくなり、「総動員」の事態にいたる。そういう�事実�があって、それでもまだ太平洋戦争をやろうとしていた日本の過去にはあきれるばかりであるが、ここで重要なのは、国民政府が降伏したわけでもないのに、なぜ日本は中途半端な状態の中で「戦面不拡大」などが言えて、この戦争を「事変」のままにしていられたのかということである。  「事変」とは、「異常な出来事」のことである。一九三七年から始まった対中国の戦争は、日本にとって、「中国での異常な出来事=支那事変」であり「日本と中国との異常な出来事=日華事変」だった。日本の政府には、「中国に対して宣戦布告をすべきだ」という考え方が、初めの内あった。しかし、「�日本が中国に戦争を仕掛けた�ということになると、外国の手前まずい。輸入に頼る軍需物資が入って来なくなる恐れがある」——軍部はこう考えた。つまりは、「その内さっさと終わってしまうはずだから、宣戦布告などという余分なことをする必要はない」である。軍部はそう言って、政府はこれに従った。国民政府に対して明らかに戦争を仕掛けているにもかかわらず、日本政府は、この対戦相手の存在を否認してしまった。だからこそ、一九三八年の一月——「戦面不拡大」の方針を決定する一カ月前——日本政府の代表たる内閣総理大臣・近衛文麿《このえふみまろ》は、「国民政府を対手《あいて》にせず」などというムチャな宣言をする。  戦争の対戦相手を「対手にせず」というのは、メチャクチャである。それを�対手�にしなかったら、この戦争をどうやって終わらせるのか? 戦争というものは、どこかで終わらせるもの[#「どこかで終わらせるもの」に傍点]である。そのためには、終わらせるための�交渉相手�が要る。それがいなかったら、戦争の終わりようがないではないか。対戦相手の存在を否定して「いなくてもかまわない」と言うのは、どういう頭なのか? つまりは、こういう�頭�である——。  近衛文麿と日本政府と日本軍は、「国民政府じゃない政府を日本の手で中国に作っちゃえばいい」と考えたのである。事実、一九三七年の十二月、南京陥落の翌日には、北京に「中華民国臨時政府」というのが出来た。一九三八年三月の国家総動員法が可決した四日後には、南京に「中華民国維新政府」というのが出来た。どちらも、日本の作った傀儡政府である。「それを対手にすればいい」と思えば、「国民政府を対手にせず」は成り立つのである。成り立つがしかし、依然中国には抵抗を続ける国民政府がある。日本は「対手にせず」などと言うが、国際社会はこれをこそ「中国政府」だと思っている。その矛盾をどう解決するのか? �満州での異常な出来事=満州事変�以来、日本のやり方は一貫して同じである。国民政府の要人を引き抜いて�傀儡政権の一員�にしてしまうことである。かくして、「日本に文句を言う中国政府」は存在しなくなる。日本はそのように工作して、しかし国民政府はなくならなかった。  日本は、対戦相手の存在を無視して、この後も中国での戦闘を続ける。なるほど、日本人の頭では、「戦争」ではない「事変」なのだ。相手国の存在を否定してかかる戦争などあってたまるものかと思うのだが、日本は、そのように中国を蔑視していたのである。 [#改ページ]       1 9 3 9  一九三九年は第二次世界大戦勃発の年である。この年の九月一日、ドイツ軍はポーランドに攻め込み、その二日後にはイギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告をする。かくして第二次世界大戦は始まるのである——というのが世界史的な�事実�ではあるけれども、ここにはやっぱり�不可解�がある。  この年の三月十五日の夜、ヒトラーはチェコ共和国の首都プラハにいた。チェコがドイツの支配下に入ったからである。その二十時間ほど前、ヒトラーはドイツの首都ベルリンにいて、彼の前にはチェコ共和国の大統領がいた。「チェコを侵略しないでくれ」と請願に来ていたのである。しかし、ヒトラーの答は「|だめ《ナイン》」だった。大統領が降伏文書に署名しなければ、ドイツ軍は午前六時を期してチェコを攻撃すると脅した。心臓の悪いチェコ大統領は卒倒し、結局降伏文書に署名をした。チェコはドイツの支配下に入った。  ドイツのチェコ侵略に戦闘はなかったが、チェコは降伏文書にサインをしたのだし、その結果、軍隊を率いるヒトラーはプラハに入城した。言ってみればこれは、戦闘のない軍事侵略であり、その戦闘は密室の中にあったということになる。そういう軍事侵略はありながら、その三月十五日に第二次世界大戦は勃発しなかった[#「しなかった」に傍点]。第二次世界大戦は、九月一日のドイツ軍によるポーランド侵攻に対する、イギリスとフランスの宣戦布告があるまで、始まらなかったのである。変な言い方をしているようだが、二日後のイギリスとフランスの宣戦布告がなければ、第二次世界大戦は勃発せず、ただ「ポーランドはドイツのものになった」で終わっていたのである。  戦争というものは、�侵略�によって始まるものではなく、�宣戦布告�によって始まる。それで、アメリカ人の一部は今でも日本人を怒っている。一九四一年の十二月、日本軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ軍基地を奇襲攻撃して、そこに太平洋戦争は勃発するのだが、奇襲だからこそ、この真珠湾攻撃には宣戦布告がない。それで、「そんなことをする日本人は卑怯だ」と、アメリカ人は怒るのである。「宣戦布告があればフエアな戦争、宣戦布告がなければ卑怯な侵略」という国際戦争のルールにのっとれば、「太平洋戦争の開始」は、日本軍の真珠湾攻撃にあるのではない。正しくは、「日本軍がアメリカ軍基地を攻撃し、それに対してアメリカおよびイギリスが宣戦布告をすることによって、太平洋戦争は始まった」なのである。  話をポーランドに戻すが、第二次世界大戦の勃発は、「ドイツ軍に侵略されたポーランドの宣戦布告によって始まる」ではないのである。第二次世界大戦とは、ドイツ軍のポーランド侵攻に対するイギリスとフランスの宣戦布告によって始まったのである。言い方を変えれば、ドイツ軍のポーランド侵攻に対してイギリスとフランスが宣戦布告をしなかったら、まだまだ第二次世界大戦は始まらなかったということである。なんとも不思議な言い方をしていると思われるかもしれないが、私がこんな奇妙なことを言うのは、第二次世界大戦というものが、実は、「その勃発以前に、黙認された長い侵略の期間を持った末の戦争」だからである。  一九三一年、既に日本軍は満州侵略を開始していた。一九三五年にはイタリアがエチオピア侵略を開始して、一九三六年には、ドイツがフランスとの間にあるライン非武装地帯に軍隊を駐留させている。一九三七年に、日本は中国の侵略を決定的に開始し、一九三八年にはドイツがオーストリアを侵略している。これらは全部、本来なら「してはいけないこと」なのである。第二次世界大戦というのは、「してはいけないことをしたファシズム国家の暴力に対して正義の国が立ち上がった結果の総力戦」のように思われているが、その戦争に至る前の段階で、正義の国家達は、悪いファシズム国家のすることを黙認し続けていたも同然なのである。その黙認の理由は、もちろん国家間の利害のせいである。いけないことをした国に対して明白に「いけない」と言ったら、言った方にも類が及ぶという事情があって、第二次世界大戦に至るような状況は、ずーっと黙認され続けたのである。第二次世界大戦は、一九三九年の勃発から一九四五年の終結まで七年かかるが、一九三一年の侵略の開始から勃発まではそれより長く、九年もある。しかも、この勃発までの九年間は、二十世紀大衆文化の黄金時代なのだ。  一九二九年に世界恐慌が起こって、それでもまだ世界は豊かに輝いていた。だからこそ、「さらなる豊かさを求める」が起こる。金持ちは「より豊かに」を望み、現在の自分の豊かさを損なわないように考え、そんなに豊かでない人間達は、一攫千金を夢見る。国のレベルにおいても、それは同じだった。  一九三九年、第二次世界大戦が勃発した年、ある映画が公開された。『風と共に去りぬ』である。その日本公開は戦後になってのことだが、太平洋戦争の時代、まだ日本では知られていなかったこの映画を、日本が占領した外国都市で一足先に見た日本人は、それだけで敗北を予期した。「こんなとんでもない映画を作る力のある国に勝てるわけがない」と。  当時のアメリカは、世界最大の金持ち国であり、しかもその事実は、アメリカ合衆国が新興国であるという理由だけで、外部にはもう一つよく呑み込まれていなかった。一九三九年度のアカデミー賞候補作には、『風と共に去りぬ』の他、『オズの魔法使い』やジョン・フォードの『駅馬車』まであった。こういう種類の�豊かさ�は、とんでもなく新しいものでもあるから、十九世紀型の文化を引きずった国にはなかなか理解されない。しかしアメリカは、もうその豊かなる二十世紀文化の全盛時代を築いていた。そして、「豊かさ」を言うのなら、日本もまた同じなのである。  一九三〇年代は日本の大衆文化の黄金時代だった。映画も寄席も音楽も劇場も文学も、かつてないほどの成熟と隆盛を見せていた。しかも大衆が手に入れたものは、娯楽だけではない。「円本」と呼ばれる大衆向けの全集の時代は既に一九二〇年代に築かれ、安価な文庫本も登場していた。本という知性は十分に大衆化されていて、一九三八年には岩波新書さえも創刊されている。第二次世界大戦勃発前に、日本の文化レベルはある達成を見ていて、戦後という廃墟の時代は、そのレベルを回復するための苦難の時代でもあった。日本ばかりでなく、そのことは、戦争を始めてしまった国々全体に共通することでもあった。  不思議だが、人間というものは、豊かさの中で破滅への準備をするものらしい。豊かさの中で、人はそれを失うまいとして、足をすべらせて破綻へと至る。第二次世界大戦前の世界を「暗い時代」と言う人は多い。しかし、その暗さは、豊かさの中に忍び寄るものなのである。  第二次世界大戦前は「豊かな時代」だった。だからこそ戦争は起こったのだ。 [#改ページ]       1 9 4 0  一九四〇年は日本の昭和十五年である。前年の九月には第二次世界大戦が始まった。日本がアメリカと太平洋戦争を始めるのは翌年の十二月だから、まだ日本とは直接関係がない。中国では依然戦闘状態が続いていたが、これは「戦争」ではなく「事変」だということになっていた。果たして日本国民は、自分達の「戦争中」を自覚していたのかどうか。  この前年の一九三九年には、大学でも軍事教練が始まっている。学生や教官達にも「いやなものがやって来た」ということは実感されただろうが、しかし、軍事教練そのものはこの十五年前の大正時代に始まっている。十五年前に始まった軍事教練の対象は、中学生と高等専門学校生と師範学校生だった。大学とは関係がない。大学に行くような人間達は、中学時代にいやな軍事教練の時間を過ごせば、その後は兵役も免除になっていたのだから、軍国主義に対して「関係ない」の状態をキープしていられた。日本のファシズムの不思議は、「いつそれが始まったのか」が明白に分からないところにあるが、この十五年遅れの軍事教練もその一つだろう。  大学関係者は、一九三九年になって、やっと「戦時体制」を我が物として実感する。しかし、国家総動員法はその前年に成立している。中国との戦闘は、陸軍の読みではすぐに終わるはずだったが、実際にそうはならなかった。当時の日本人にしてみれば、中国との戦争は、「しぶとい支那(中国)征伐」のような感覚だったのだろうが、そう簡単に退治されない中国相手の戦争は、たやすく国家総動員法を必要とした。  日本は、中国との戦争を始めるために国家総動員法を用意したのではない。戦争にあらざる戦争=事変を始めて、それがどうにもならないから、国家総動員法を出すのである。日本のファシズムは、やる方にも明確なポリシーがない。「一歩踏み出した以上もう後戻りは出来ない」だけで前に進むから、いつの間にかとんでもないことになってしまっている[#「なってしまっている」に傍点]。気がついたら完了形である。  一九四〇年の段階で、日本人はもう生活に困っている。それでもまだ太平洋戦争を受け入れる。すべてが焼け野原になってすべてを失ってからでないと、自分達が「困った状態」にいることを理解しない——それが日本人である。太平洋戦争になって、米軍機が日本本土を襲うようになってから、日本人はやっと「自分達は戦争の中にいる」ということを理解するのだろう。一九四〇年の日本本土に、「戦争」はまだ[#「まだ」に傍点]なく、「ただぼんやりした不安」だけがあった。最後の元老・西園寺公望《さいおんじきんもち》が死んだのは、その十一月のことである。  「明治の元勲」とも言われる元老は、全部で九人いた。死んだ順に名を挙げれば、黒田清隆・西郷|従道《よりみち》・伊藤博文・桂太郎・井上|馨《かおる》・大山|巌《いわお》・山県有朋・松方正義・西園寺公望である。初めの三人は明治時代に死んだが、元老というものは、どうやらやたらと長生きをするものらしい。西園寺公望は九十歳、松方正義は八十九歳、山県有朋は八十三歳で死んだ。後になればなるほど長生きをする。元老にしてみれば、「長生きするのも芸の内」だろう。  戦前の総理大臣とは、「元老が天皇に推薦し、天皇がそれを受けて任命する」というものだったから、元老がいなくなったら、天皇に総理大臣を推薦する人間がいなくなる。つまりは、内閣が成立しなくなって政治はストップである。そういう仕組なのだから、元老は生き続けなければならない。元老は明治製の九人だけで、その後のストックはないのだ。昭和の時代に生き残っていた元老は西園寺公望ただ一人だったのだから、「彼が死んだらどうなるのか?」という疑問は当然生まれる。  元老が絶滅したらどうするのか? 新しく「昭和の元老」を任命するか、あるいは元老以外の誰かに総理大臣の推薦権を与えるということをしなければならない。それが当時のシステムである。だから、八十四歳になっていた昭和九年の西園寺公望は、後者を採用して、「重臣会議」というものを召集したのである。召集されたのは、宮中にあって天皇に仕える内大臣、衆議院・貴族院の上にある天皇の最高諮問機関・枢密院《すうみついん》の議長と、四人の元総理大臣だった。西園寺公望は「重臣会議」という総理大臣推薦のシステムを残し、そして死んだ。元老は絶滅したのだが、しかしそのおかげで、後の我々は「元老という特権的な存在が日本近代を歪めていた」という事実をきれいに忘れてしまうのである。  元老という超法規的にして特権的な存在は、明治憲法と帝国議会の誕生と共に機能し始める。明治憲法と帝国議会を作ったのが元老グループだったからである。憲法と議会は、元老達が作りたくて作ったものではない。「作れ」という敵対勢力の声に押されて、作らざるをえなくなった。だから、それを作る元老達は、自分達の権力の温存を考えた。元老が総理大臣の指名権を握ったのはそのためである。  「憲法と議会を持つ天皇を、政党勢力から庇護する[#「庇護する」に傍点]」という形で、元老達は憲法と議会を作った。だから、このシステムがある限り、政党とは「なにものをも反映しない不平集団」と同じなのである。だからこそ、大正二年に「憲政擁護」を訴える大正デモクラシーの運動が起きた。この始まりは、「不景気だから軍事予算を削れ」なのである。つまりは、政党嫌いの陸軍ボスであった元老・山県有朋のわがままと、政党政治の対決だったのである。この時に、政党政治を訴える者達は、「元老の廃止」そのものを訴えるべきだった。そのことによって、元老の下で肥大する陸軍のエゴを抑えるべきだった。それがあれば、その後の暴走はなかった。しかし、その発想が政党の政治家達にはなかった。彼等は、山県有朋を頂点とする勢力の一歩後退で事をすませた。すべてはそこで歪んだのである。  帝国憲法の限界の中でなら、議会で選ばれた与党の代表者=内閣総理大臣が、天皇に忠誠を誓えばいいのだ。それをシステムとして要求すれば、不快な元老支配などは消えていたのだ。それをすることこそが、政党政治を担う人間達の義務だったはずだが、彼等にはその発想がなかった。だから、行政の最高責任者となる内閣総理大臣は、「話し合い」の中で誕生するものとなった。下からの声は、決して総理大臣を生まない。「話し合い」は、元老とその周辺でだけ起こる。元老がいなくなったら、今度は「重臣」とその周辺である。「話し合い」で総理大臣が選ばれるということは、その中でいくらでも不明朗な事態が起こりうるということである。  元老という特権的な存在は消滅して、重臣という古い時代の存在も消え、しかしその代わりに「派閥のボス」や「党の長老」というものが出て来るのが戦後である。総理大臣は、変わらずに「話し合い」によって決められた。一部の人間による不明朗な談合政治が、「動かす必要のない伝統」として残っていたからである。西園寺公望から六十年たっても、あまりこの歴史的な不自然は気づかれていないようだ。 [#改ページ]       1 9 4 1  一九四一年も終わりに近づいた十二月七日の午前七時過ぎ——日本時間では八日の午前三時——日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。その日本に対してアメリカとイギリスが宣戦布告をして、第二次世界大戦のもう一つの側面、太平洋戦争は始まったのである。  太平洋戦争は、その初期段階では日本軍の勝利が続いた。しかしアメリカは、『風と共に去りぬ』を作ってしまう金持ち国である。しかもこの一九四一年には、もうテレビ放送が始まり、テレビCMも流れ、カラーテレビの実験放送さえも始まっている。この国を相手にして、やがて日本軍は敗北を繰り返すのだが、この段階ではまだ「知らぬが仏」である。  一九三九年に戦闘が開始されたヨーロッパ方面では、ドイツ・イタリアの枢軸国側の方が、初めは旗色がよかった。真珠湾攻撃前のアメリカは、まだドイツやイタリアに参戦していなかった。社会主義国ソ連は、ポーランドを征服したドイツと手を組み、ポーランドを分割して一部を自国のものにしていた。資本主義の敵である社会主義国であることと、ポーランド獲得の行為とによって、ソ連と連合国側の関係は険悪なものになっていた。一九四〇年になれば、フランスはドイツ軍に占領されてしまうし。太平洋戦争勃発前まで、ナチス・ドイツにとっての敵となるものはイギリス一国だけで、後に「連合国」となるアメリカやソ連は、まだドイツの対戦相手ではなかったのである。ということはつまり、一九四一年も終わりに近づく十二月七日になる前の段階で、ナチス・ドイツが弱気になる理由などまったくなかったということである。ところが、そんな一九四一年の五月十日、一人のドイツ人が飛行機に乗って、交戦中のイギリス(スコットランド)に着陸をする。もちろん、制止を振り切っての強行着陸で、着陸と同時にそのドイツ人は逮捕された。政治亡命を望んだのではないその人物は、とんでもない大物だった。ナチス・ドイツの総統代理を務める、序列としてはナンバー3の人物、ルドルフ・ヘスである。  ルドルフ・ヘスは、ヒトラーの古くからの仲間だった。ヘスはヒトラーより五歳年下で、一九二三年にヒトラーが逮捕されたミュンヘン一揆に、彼も加わっていた。二十九歳のヘスは三十四歳のヒトラーと共に獄中にあり、やがて、そこでヒトラーが演説口調で口述する『我が闘争』の筆記をするようになる。ヘスとヒトラーの盟友関係はそうして出来上がり、一九三三年にヒトラー政権が誕生した時、ヘスは「総統代理」というナチス党ナンバー2になった。そのヘスが、突然イギリスへ舞い降りたのである。  なにをしに来たのか? 彼は、ドイツとイギリスの和平交渉をするためにやって来たのである。  ナチス・ドイツの大物が、わざわざ隠密裡に敵国イギリスにまで和平交渉にやって来たとなると、当然「もうドイツは戦いに疲れて、戦争を止めようとしていたのか?」ということにもなる。そして、その和平交渉の相手を逮捕してしまったイギリスは、勝利の勢いに乗って、「ナチス・ドイツを断固として討つべし!」と張り切っていた——ということにもなる。しかし事実は違う。そんな重大な交渉に来る大物が、「逮捕される」などということはありえないからだ。そんな重大な交渉をするのなら、事前に打ち合わせをする。それがないから逮捕なんかされるのである。ヘスは、どうしてそんなわけの分からないことをしたのか? ヘスは、精神状態が危うくなりかかっていたのである。  第二次世界大戦後のニュールンベルグ軍事裁判で、ヘスは終身刑を宣告されるが、その時の彼は、もう精神状態が完全に破綻していたと言われる。つまり、一九四一年に戦争継続中のナチス・ドイツは、精神状態のおかしい人物を平気で大幹部にしていた、というのである。  ヒトラーが政権を取った時、ヘスはナンバー2だった。しかし、ヘスがイギリスに舞い降りた時、その序列はナンバー3になっていた。ヘスの序列を下げ、ヒトラーとの間に登場した新ナンバー2がいた。それが、第二次世界大戦が始まるとすぐヒトラーの後継者に指名され、一九四〇年には国家元帥となったヘルマン・ゲーリングである。ゲーリングがナンバー2となった時、ヘスの政治力はゼロに近くなっていた。だがしかし、それでもヘスは失脚しなかった。「失脚した旧ナンバー2が暗殺の恐怖に怯えてイギリスに亡命を求めた」というのならまだ分かるが、ヘスの身分は安泰だった。それこそが、ナチス・ドイツの不思議なのである。  ナチス・ドイツのナンバー3が、イギリスへ和平交渉に行って逮捕されたという話は、すぐに漏れた。ドイツはすぐに、「ヘスは発狂した」という声明を出した。当然である。そんなことをされたら、今後の軍事方針に狂いが生じるからである。  ナチス・ドイツの大きな狙いは、ポーランドの向こうのソ連にあった。ソ連と共にポーランドを分割したのは、そうやってソ連を安心させ、その後に攻め込む計略だったからだ。  ソ連もまた、ドイツの野心に感づいている。それが出来るのなら、ソ連だってドイツを占領したいのである。だから、「ヘスのイギリス着陸」を聞いて、ソ連の独裁者スターリンは激怒した。「イギリスはドイツと手を結んで、ソ連を攻めさせようとしている。ドイツはイギリスと結んで、ソ連を攻撃しようとしている!」と。  野放しにされたナンバー3のイギリス着陸には、ドイツのソ連侵略を頓挫させるような危険性もあったのである。だから、意味のない人物をナンバー3にしておくべきではなかったのだが、恐るべきナチスは、これに無頓着だった。つまり、ナチスはマヌケだったのである。  ルドルフ・ヘスは、もしも自分がナンバー3などという地位になかったら、「和平交渉」などということを考えつかなかっただろう。そして、彼が「和平交渉」などということを考え出したのは、開始して二年目になった戦争状態を、彼が「こわい」と思い始めたからだろう。  彼は逃げたくなった。そして、自分がドイツのナンバー3であることに気づいた。おそらくヘスは、「自分ならこの恐怖の戦争状態を回避出来る」と考えて、イギリスへ行ったのである。  問題は、戦争を遂行する立場にあるナチス党の創立メンバー——「総統代理」である人物がそんなことを考えて、排除もされぬままにいたことである。つまり、組織的にナチス党はガタガタで、それを支配政党にするドイツ全体もガタガタのいい加減だったということである。  「二十世紀最大の悪人の一人」とされるヒトラーは、そういういい加減な政治組織を率いていて、ドイツ国民はそういういい加減な支配体制にすべてをゆだねたのである。その結果の惨憺たるありさまが、第二次世界大戦なのである。太平洋戦争における日本の無責任体制は言われるが、しかし、「鉄のドイツ」だって似たようなものだった。それでも戦争は続くというのが、戦争の不思議なところである。 [#改ページ]       1 9 4 2  一九四二年六月、日本はミッドウエイ海戦でアメリカ軍から壊滅的な被害を受けた。  中国での戦争なら、拠点満州から地続きである。しかし、太平洋を挟んだアメリカとの戦争となると、海軍の出番である。そして、開戦前にアメリカとの戦争の見通しを聞かれた海軍は、「勝てる自信がない」と断言した。そんな海軍がなぜOKを出したのか? 事態がアメリカ・イギリスとの戦争に傾いてしまった結果、仕方なしに、「いくらでも艦船を建造する能力のあるアメリカ相手に長期戦は絶対に無理だが、短期決戦なら——」という譲歩をしたのである。  そして、前年十二月の開戦から半年がたって、このミッドウエイの海戦である。「短期決戦なら大丈夫」の言葉通り、ここまで負け知らずで来た海軍は、遂にアメリカに負けたのである。  北京郊外の盧溝橋で十数発の銃弾が発射されてから、南京陥落まで五カ月。南京は陥落したが国民政府には逃げられて、日本はその一カ月後に「戦面不拡大」を決定して長期戦に入る。「アメリカ相手に長期戦は無理だ」と言った海軍にとっての�長期戦�がどれくらいの期間だったかは知らないが、さっさと終わっているはずの対中国戦で、「半年以後」はもう�長期戦�なのである。だから果たして、開戦から半年を経過したミッドウエイ海戦後の日本も負け続きになる。「短期決戦ならともかく、長期戦は無理」が現実になった。冷静な人間なら、ミッドウエイ敗北の時点で「限界」を認めるだろう。しかし、日本はそれをしなかった。だから日本は、これからまだ三年二カ月もの間、�限界以上の無茶�をし続けて焼け野原になる。まァ、それも当然と言えば当然のことかもしれない。そもそも中国侵略に乗り出した段階で、日本は「限界」という言葉を捨てているからである。  海軍は「短期決戦」を前提にした。つまり、「さっさと勝って講和に持ち込む」である。「短期決戦」を口にした海軍には、「停戦の潮時」と「その戦争をする目的」が明確にあった。しかし同じ言葉が、陸軍にとってはまったく違う。陸軍にとっての「短期決戦」とは、「さっさと勝つ」以外のなにものでもないのである。  さっさと勝てなかったらどうなるのか? あきれたことに、そういう事態はありえない[#「ありえない」に傍点]。さっさと勝てなかった場合には、「なんとか言ってごまかす」という手を使う。「短期決戦などと言った覚えはない。この戦争はそもそも長期戦を覚悟して始めたものである」と言ってしまう。「そんなバカな、初めにあんたは短期決戦と言ったじゃないか」というクレイムがついたら、「帝国軍人をバカにするのか! この聖戦を愚弄するのか!」という怒鳴り声が飛んで、すべてはそれまでである。日本帝国陸軍にとって、戦争とは、「勝って終わるもの」であり「勝つまでやめないもの」なのである。  今や、日本がアメリカと戦争をしていたという事実さえ知らない日本人もいる。だから、「一体なんで日本はアメリカと戦争を始めたのか?」を理解しない人間だっているだろう。しかしもしかしたら、アメリカと戦っていた当時の日本人だって、このことをよく理解していたかどうかは分からない。  太平洋戦争の時代には、「聖戦」という言葉が当たり前に使われているから、「神がかりの日本軍がアメリカを憎んで、それで�聖戦�なんてことを言い出したんだろう」と思う人もいるかもしれない。しかし、太平洋戦争の時代に当たり前に使われていた「聖戦」という言葉は、そもそも日本と中国との間の戦争を指す言葉だったのである。  日本と中国との戦争は、さっさと終わるはずだったが終わらなかった。国民政府の代表・蒋介石が日本への抵抗をやめなかったからである。日本は勝てない。日本は「国民政府を対手にせず」とメチャクチャなことを言って、半年を過ぎた戦争は長期戦になる。国家総動員法が必要な事態になって、「それじゃ話が違う」という声が出た時に、「聖戦」という言葉が恫喝として登場するのである。「戦争じゃなくて事変(=異常な出来事)」だったものが、いつの間にか「聖戦」になっている。アメリカとの戦争は、この「天皇陛下を戴く日本陸軍が行う聖なる戦争」を完遂するために始められたものなのである。  しかし考えてみれば、この発想自体がまたメチャクチャなものであることは分かるだろう。すぐに終わるはずだった中国との泥沼戦争だけで、日本は国家総動員法を必要としているのである。海軍は、その初めから「自信がない」と言っているのである。国民生活を犠牲にしてすべてを投入しても勝てるかどうか分からない戦争をやっていて、その上に「物量にすぐれていくらでも軍艦を造り出す能力のある国」との戦争を始めようとするバカはいない。『風と共に去りぬ』を見なくても、日本海軍の軍人は、アメリカの国力をよく知っていたのである。  しかし陸軍は、どうしても「アメリカとの戦争」を必要とした。なぜか? 「聖戦」となった中国との戦争を勝利の内に終わらせなければならないからである。国民政府の蒋介石は抵抗をやめない。なぜやめないのかと言えば、彼を支援する欧米勢力があるからである。国民政府支援の援助物資が、中国とは地続きの東南アジアから入って来る。「これを絶たなければ、国民政府の息の根を止められない」と考えた日本陸軍は、あの広大なる中国を�兵糧攻め�にしようとしたのである。  盧溝橋事件の二年後、第二次世界大戦が始まった。東南アジアはイギリスやフランスそしてオランダの植民地地帯である。「イギリスやフランスがヨーロッパの戦争で忙しい内にここを押さえてしまえば、蒋介石の息の根は止まるし、東南アジアも手に入る」と考えた。「中国を倒すためのイギリス領への攻撃」が発想され、そこに「アメリカ」が登場する。東南アジアへ行くためには、途中でアメリカ軍基地のあるフィリピンを通過しなければならない。「ちょっと通らせて下さい」で、アメリカが許すかどうか?——「アメリカとの戦争の必要性」はこれである。  アメリカは日本の中国侵略に否定的で、満州国さえ認めていない。「だからこの際アメリカと戦争してしまえ」が、日米主戦論である。この論者は、ナチス・ドイツとの接近を考える。しかし一方、アメリカは日本とナチス・ドイツの接近を好まない。だからアメリカは、こじれにこじれた中国との戦争を終わらせるための斡旋をしてやろうと言うのである。  「日本は中国から軍隊を撤退させ、その代わり、国民政府は満州国を承認する。国民政府と日本が中国に作った傀儡政権は、合流して一つになる」——これが条件である。それまで日本のやり方に否定的だったアメリカとしては、�大幅な譲歩�に等しい。日米開戦前の日本には、「アメリカか、ドイツか」という選択肢があったのである。  どっちがトクかはバカでも分かる。しかし、日本はバカ以下だったらしいのである。 [#改ページ]       1 9 4 3  ミッドウエイ海戦の二カ月ほど前、東京・横浜・名古屋・神戸に初の空襲があった。真珠湾奇襲(実はアメリカは�奇襲�を知っていたのだが)への復讐である。  まだ日本近海に近づけない、太平洋上のアメリカ軍空母から飛び立ったのは、後の本土爆撃に使用されたB29ではない、B25だった。これだと、飛んだはいいが、スタート地点である航空母艦に帰るだけの燃料が積めない。それで、このドゥリトル爆撃隊の飛行機十六機は、目標都市を爆撃した後、そのまま飛び続けて、シベリアや中国へ行ってしまった。ある者はパラシュート降下に失敗して死亡したし、捕虜になって処刑された者もあった。「帰りの燃料を積まない」と言うと、一九四四年十月のフィリピン・レイテ沖海戦に登場した日本の神風特攻隊だが、それを先にやったのは、どうやらアメリカ軍なのである。  ドゥリトル隊の爆撃を受けた日本本土の人間達はびっくりした。まさか、敵が日本の上空に姿を現すとは思わなかったからであるが、その「敵機来襲」は一九四二年の四月に一度だけあって、一九四四年の終わり近くになるまでなかった。「兵をむだ死にさせるようなことをしてもしょうがない」とアメリカ軍は考えたのであろう。がしかし、日本人の戦意を喪失させる最も有効な方法が「焼夷弾による本土の焼き払い=空襲」であるということは、日米開戦以前、イギリスの首相チャーチルによって理解されていた。チャーチルは、それをアメリカの大統領ルーズベルトに教えたのである。日本の都市は紙と木で出来ていたから、火をつけられればひとたまりもないが、チャーチルはそれ以上の真実を把握していたのだろう。つまりは、「日本人は平気で現実を知らない」という根本的な弱点である。  ルーズベルトは、真珠湾の復讐でそれを一回だけやった。後は一九四四年まで凍結していた。従って、一九四三年に空襲はなく、日本の都市もまだ焼け野原になってはいない。日本人は、自分達に本当に直接的な形で被害が襲いかかるまで�危険�を実感しない不思議な生き物だから、平気で現実を知らないまま、無事な本土で「まだまだ戦える、弱気になるのは根性が足りない」と思っていたのだろう。しかし、ミッドウエイの海戦以後、日本は着実に負け続けていた。開戦と同時に「破竹の進撃」を続けて、ビルマからオーストラリアの手前まで勢力下に収めた日本軍は、ジリジリと撤退を続けていた。それを、報道管制下の日本人は知らないままでいた。一九四三年の五月に、突然「連合艦隊司令長官山本|五十六《いそろく》の戦死」ばかりを告げられて、日本人はただびっくりするのである。  何事が起こっているのか?——それはよく分からない。聖戦はいつの間にか中国との戦争ではなく、アメリカとのものに変わっている。聖戦遂行のための国民への締めつけはますます強くなるばかりなのだが、そんな日本の一九四三年(昭和十八年)、首都東京には「それをしてどうするんだ?」というような変化が起こった。「東京都」の誕生である。  昔、東京都は東京府であり東京市だった。今の京都や大阪と同じように、東京府の中に東京市が収まっていた。それが昭和十八年に廃止され、一本化して「東京都」となるのである。東京府と東京市の二重行政をやめ、東京の首都機能を高めるために「東京都」というものを新設した。昔、東京が府であり市だったことを知っている人でも、「じゃ東京はいつ東京都になったのか?」と問われると、意外にこれを知らない人がいる。なんとなく「戦後のこと」と思っている人も多いが、しかしこれは、戦争中の昭和十八年なのである。  戦争中の日本には、やたらと行政の簡素化が起こった。なにしろ、一九四〇年に総理に就任した近衛文麿が「戦争遂行のための新体制」を提唱すると、「よーし」と答えて日本から政党というものが一時的に消滅してしまうのである。まだ大政翼賛会が具体的になる前の段階で、政党が進んで解党をしてしまう。「政党は大政翼賛会だけでいい」を政党自身が進んで実現してしまうくらいだから、行政の簡素化なんか苦もないだろうが、しかし、東京府や東京市が「東京都」になったからと言って、別に戦争に勝てるわけでもない。だから私は、「昭和十八年の段階でそんなことしてどうするんだろう?」と思うのである。思ってそして、�その後�を考えるのである。「一体どうして、日本は戦争に負けた後で、東京都を東京府と東京市に戻さなかったんだろう?」と。  軍国主義体制と経済統制の下で、戦争中は日本の組織がやたらと改編され、戦後にこれが元に戻る。しかし「東京都」は戦時体制のままだった。かつての東京市は、山の手線の内側に収まる程度の規模だったのが、「東京都」になって二十三の特別行政区が出来上がると、これがやたらとでかいものになった。東京の山の手線の内側でさえ、世界の都市の規模としては例外的に大きなものだが、それがもっと巨大になったのである。しかも、巨大になったこの都市には、都市計画がない。ただでかくなっただけなのである。関東大震災で壊滅的な被害を受けた後、東京に都市計画が持ち上がったが、これは実行出来なかった。昭和十八年にそれが起こったわけでもない。空襲で焼け野原になった後の東京にも、都市計画はなかった。東京が意図的に改造されるのは、一九六四年に開催される東京オリンピックのためだけである。東京市は、ただ意味もなく巨大な「東京都」に変わって、ただそれだけなのである。  私は、東京が「東京市」のままだったら、東京ももう少し違ったものになっていただろうと思う。戦後の東京は、「都市としての適正な規模」などという発想抜きで、やたらと拡大するだけのものになった。それも、「ただ巨大で空き地だらけの東京」という器があってのせいだ。空きのある器には、なんでもやたらに詰め込めばいい。それが一杯になったら、その調子で周囲に展開して行けばいい——そうして、広大な関東平野のすべては見事に東京化した。だから私は、変えられず戦時体制のままで来た「東京都」のことを思うと、「日本人のメンタリティもまた変えられぬままに来たのだな」という気になる。  高度成長の時代になっても、日本人は「出来ないこと」を「出来ない」とは言わなかった。「出来るか?」と問われることは、日本人にとって、「出来るように無茶な努力をする気があるか?」と問われることなのである。アメリカとの戦争の見通しを問われて「自信がない」と明確な判断を述べた海軍は、それゆえに「腰抜け!」と言われた。日本には、「出来ない」という答があってはならないのである。「出来るように無茶でも努力をする」の精神は、「モーレツ社員」と呼ばれるようになった高度成長時代の日本に残って、戦時体制のままの「東京都」は栄え広がった。バブルがはじけるはずである。「東京都」に、戦時体制はずーっと健在だったのだから。 [#改ページ]       1 9 4 4  一九四四年は、こういう二十世紀一年刻みの編年体コラムを書く者にとって、非常に厄介な年である。二十世紀にはそういう年も一年くらいはあるのかと言いたくなるが、この年は、戦争以外に書くことがなんにもない年なのである。  勃発から六年目、第二次世界大戦はまだ続いている。終わるのは来年である。第一次世界大戦の時も、「書くのは戦争のことだけ」だったが、第一次世界大戦は五年で終わった。第二次世界大戦はまだ終わらない。第二次世界大戦が始まって、それでもまだ他の年には「戦争以外のこと」があった。一九四三年、フランス人飛行家のサンテグジュペリは『星の王子さま』を出版するし、同じくフランスの海軍士官クストーはアクアラングを発明する。まだ「他のこと」をする余裕はあったのだろう。すべてのものが「戦争を終わらせる」という方向に向かってしまったこの一九四四年になると、フランス人飛行家のサンテグジュペリも連合国軍に籍を置き、偵察飛行中に行方不明になってしまう。一九四四年の世界に、戦争以外のものはないのだ。  六月六日は「Dデー」——すなわち、連合国軍のノルマンディー上陸作戦の決行日。これがオールスター映画になった後では『史上最大の作戦』の日である。八月にはパリ解放——オールスター映画になって『パリは燃えているか』である。ノルマンディー上陸作戦に痛手を受けたドイツ軍は、占領地オランダから撤退を開始し、イギリス軍の最高司令官モンゴメリー将軍は、そのドイツ軍を叩くべく、九月にはマーケット・ガーデン作戦を決行する——これがオールスター映画になると『遠すぎた橋』である。マーケット・ガーデン作戦は、あまりにも被害者を出しすぎて「失敗」と言われるが、それも、イギリスのモンゴメリー将軍が、南からやって来るアメリカ軍のパットン将軍に対してライヴァル意識を燃やしたからだと言われる。そのパットン将軍の一九四三年北アフリカにおける対ドイツ軍との戦い——砂漠の狐=ロンメル将軍に勝つところから、シチリア上陸作戦をへてエンエンと続く武勇伝は、ジョージ・C・スコットのアカデミー主演男優賞辞退で話題になった映画『パットン大戦車軍団』になる。  ノルマンディー上陸作戦以後、追われる立場となったドイツ軍は十二月に反撃の「突出作戦」を開始するが、これがシネラマの大画面で映画になると『バルジ大作戦』である。ソ連の方も、後になって映画を作るためではきっとないだろうが、「レニングラードの解放」に成功する。要するに、一九四四年とは、後になって超大作のオールスター戦争映画を作るための材料となるしかないような年なのである。「ナントカ大作戦」の類に限らない。この年にはヒトラー暗殺未遂事件も起こっている。一九四四年は、戦争の中で「敵役」となるナチス・ドイツが負けて行く時期であり、だからこそ、やたらの数の戦争映画の題材となり背景となりうる年になったのである。  第二次世界大戦後、娯楽映画の一ジャンルとして、「戦争映画」が確立される。まだ生々しい戦争の記憶が、「勝った側」から描かれると、「敵をやっつける娯楽映画」になる。ハリウッドは、そうやって商売をしたのだが、「戦争映画」というジャンルが存在する以上、第二次世界大戦以後の朝鮮戦争やヴェトナム戦争さえもが、娯楽として成り立ちうる「正義の戦争」として捉えられ、戦争映画の題材になる。しかし残念ながら、これらはみんなパッとしない。いくらアメリカンヒーローのジョン・ウエインが頑張っても、もうだめなのである。  ヴェトナム戦争の時期を境にして、一九七〇年代になったハリウッドの戦争映画は、いつの間にか「娯楽」ではない「反戦映画」へと変わる。これは、戦争というものを見る人間の目が成熟した結果だろうが、私にはどうもそれだけとは思えない。第二次世界大戦以後、ナチス・ドイツという「カッコいい敵役」が存在しなくなってしまったことも、戦争映画変質の大いなる理由なのだ。  戦争映画は、その初めから「カッコいい」だけではない。なにしろ、意味もなく人が殺されるのである。しかし、そこにナチス・ドイツが登場すると一変する。彼等は残忍な悪役で、しかもその設定がいかにも悪役らしいのである。軍服が一番カッコいいのは、枢軸国・連合国を含めて、ナチス・ドイツだった。行進をする時には脚を真っすぐ伸ばし、敬礼の時には「ハイル・ヒトラー!」と言って、靴のカカトを鳴らしながら挙手をする。ナチス・ドイツが戦争に敗れた最大の理由は、国民がこういう時代錯誤的な様式美の世界を選択してしまったことにあるのだと思うが、これが「敵役」の設定としては最高なのである。  「軍服はカッコいいものでなければならない。軍服がカッコよければ、人は進んで兵士になりたがる」と喝破したのはナポレオンで、彼は自分で軍服のデザインをし、戦争を「カッコいいもの」として演出した。その伝統を引くのがヒトラーのナチス・ドイツで、そういう時代錯誤的な前提が、「映画の悪役にははまるが、現実では負ける」という結果を招来した。  自由とは、様式とか制服とかに縛られずにいることで、軍服の襟のボタンをだらしなくはずしてクチャクチャとガムを噛むアメリカ軍兵士が、制服の様式美で成り立っている悪のドイツ軍に勝つ——これこそが、「ファシズムに勝利する自由主義」の根本美学であり、これはハリウッド製のSF映画『スター・ウォーズ』にまで引き継がれている。  一九四四年が戦争しかない年であることは、太平洋方面でも同じだった。ここではアメリカ軍が勝ち続け、日本軍は負け続ける。三月が無残なるビルマのインパール作戦。七月がマリアナ沖海戦に続くサイパン玉砕。十月がフィリピンのレイテ沖海戦。負け続けた結果、十一月にはB29の東京空襲開始である。連合国軍が勝ち続ける時、日本軍は負け続ける。それを描くから、日本の戦争映画は暗くなる。だがしかし、もしかしたらそれは、負けた側の日本人が作るからではないかもしれない。勝ったアメリカのハリウッドが作ったにしろ、太平洋戦争を扱った戦争映画はパッとしないからだ。私はそれを、敵役として登場する日本軍の存在感の薄さにあるのだと思う。  ナチス・ドイツの軍人達は、その様式美の結果、「冷酷にして残忍な悪役」という役割を、映画の中でよく果たす。ところが日本軍には、そういうものがない。精神主義だけで戦争を乗り切ろうとして、「贅沢は敵だ!」と叫び続けた日本の軍人達は、「脳の血管が切れそうなくらいの高いテンションで怒鳴り続けている、なんだかよく分からない者達」にしか見えない。日本軍が野蛮で暴力的な集団にしか見えないというのは、別に黄色人種蔑視のせいだけではなくて、その軍服のダサさ(特に日本陸軍の方)が、大きく作用しているのではないかと、私は思うのである。 [#改ページ]       1 9 4 5  この年の四月二十八日、イタリアの独裁者ムッソリーニは、パルチザン勢力によってコモ湖畔で射殺された。三十日にはナチス・ドイツの総統ヒトラーが自殺する。指導者を欠いたヨーロッパの枢軸国《すうじくこく》は、もう戦えない。五月七日にドイツは無条件降伏文書に署名し、日本も八月十五日には降伏。戦闘を停止して、第二次世界大戦は遂に終わる。一九一四年の第一次世界大戦勃発以来、三十年続いた「戦争の時代」は終止符を打たれた。ある意味で、現代史はここで終わるのである。  その後の世界から戦争がなくなったわけではない。しかし、第一次・第二次世界大戦の主役となった国々からは「戦争」が消える。  この後に米ソ二大国による冷戦が始まり、ベルリンには壁が作られ、中東地域ではアラブとイスラエルが対立し、朝鮮戦争が起こり、水爆実験は繰り返され、「第三次世界大戦の危機」は流行語のようになって囁かれ、ヴェトナム戦争は起こって、戦争状態は世界のどこかで間断なく繰り返される。ところがしかし、日本にもアメリカにもヨーロッパにもソ連にも、その国内には「戦争」がない。その「危機」はあっても、実際上の戦争は起こらない。�周辺�は騒がしいまま、世界の�中心�は平和だった。ある意味で、歴史はゴールにたどり着いたのである。世界史の本の書き方が大体そうで、第二次世界大戦の終結までは、「戦争からの自由」という方向を目指して記述が一直線に進み、それが終わると、なんだか歯切れが悪くなる。その後は「まだ決着のつかない雑然たる現代」で、「体系立たない事実の断片」であり、「終わるとすぐに印象が薄くなるデータの軌跡」なのだ。「戦争の危機」は囁かれ、しかし第二次世界大戦終結後の世界から「歴史」は消える。  マリリン・モンローがいてプレスリーがいてビートルズがいる。女の子のスカートは短くなり、男の子の髪は長くなり、風俗世界の住人となった若者達は「反抗」という言葉を最も親しいもののように使い、人工衛星は宇宙を回り、人類は月へ行き、世界の�中心�はどこにも物が溢れて、これを記述するのは風俗史家の役割になる。オーソドックスな歴史家の出番はなくなって、「歴史」という火山は休眠状態に入る。もしかしたらそのまま死火山と化すのかと思われた「歴史」は、一九八九年の天安門事件、ベルリンの壁崩壊といったところから突然活動を再開する。  だから人類は驚く。「終わったはずのものがどうして?」と。歴史は再び動き始めて、「歴史というものはもうゴールにたどり着いてしまっている」と思う者には、どうしてもその変動が理解出来ない。江戸時代に黒船がやって来た時の有名な狂歌、「泰平のねむりをさます上喜撰《じようきせん》 たった四杯で夜もねられず」の示すところはこんなものかというようなありさまになる。歴史が動き始めたのなら、その歴史はまだ終わっていなかった——ただそれだけのことである。そして、我々がその歴史の再始動にうろたえたのなら、我々は「歴史というものはもう終わっている」と思い込んでいた——ただそれだけのことなのである。  一九四五年に第二次世界大戦が終結した時、その先の歴史がどのような道筋を歩むかを考えるグループには、二種類があった。「この後社会主義・共産主義が勝利する」と考えるグループと、「この後社会主義・共産主義は勝利しない」と考えるグループである。世界の中心はこの二つの考えで占められ、その対立の典型的なものが「米ソの冷戦」だった。しかもこの二つのグループの対立は、世界中のいたるところにあった。一九四五年以降に世界が進むべき方向は、「一九四五年以前の古いものはもう消えたのだから、後は社会主義・共産主義がどうなるかだけ」だったのだ。だから、「社会主義への幻滅」が広がると、もうなにがなんだか分からなくなる。  ところでしかし、一九四五年の社会主義国家ソ連は、実のところ、「スターリンの独裁国家」でしかなかった。一九四五年に枢軸側のファシズム国家は滅び、「もう地球からファシズムという�古いもの�は消滅した」というところから、二大グループの論争は始まり、「歴史の休眠」も始まったのだが、しかし、「独裁国家」は本当に消えたのか? 一九四五年の錯覚はここにあるだろう。スターリン独裁のソ連は、歴然たるファシズム国家だったのだが、「それを言えば�反共�と言われるから言えない」という現実があった。その現実こそがファシズム国家を証明するのだが、一九八九年になって、ルーマニアの「建国の父」と言われたチャウシェスク大統領がその暴政ゆえに倒されるという、ほとんど中世のドラマのようなことが起こるまで、「社会主義国家のファシズム」はタブーだった。私は「一九一八年」のこの欄で、「第一次世界大戦が終わった時に登場したのはナポレオンの亡霊達だった」と書いたけれども、すべての「ナポレオンの亡霊」が第二次世界大戦で退治されたわけではないのだ。  一九三六年、「第二次世界大戦の前哨戦」とも言われるスペイン内乱が勃発していた。そのフランコ独裁政権と人民戦線の戦いはどうなったか? フランコ政権は、その成立を支援したドイツやイタリアに対して中立を守り、第二次世界大戦に加わらなかった。スペイン独裁政権は無傷で、一九四七年にはフランコの終身独裁制が確立され、死後も栄華が続くように「立憲王制」の準備までしたフランコは、一九七五年まで死ななかった。スペインから独裁者が消えた時、世界は「忘れられた独裁政権」の意味に注目なんかしなかった。フランコが終身独裁を確立する前年の一九四六年、アルゼンチンでは軍事クーデターが起こり、ロック・オペラ『エビータ』で一躍有名になったペロン政権が成立する。新生アルゼンチン宣伝のためヨーロッパ歴訪の旅に出た彼の妻エヴァ(エビータ)が熱狂的な歓迎を受けたのは、フランコ独裁のスペインだけだったと、『エビータ』の中では皮肉に描かれる。ペロン政権は一九五五年に倒れるが、一九四五年から一九五〇年代の中頃まで、世界は「独裁政権の時代」なのだ。  ソ連のスターリンが死に、その独裁の「雪解け」が始まるのは一九五三年。一九五〇年には、アメリカにマッカーシー上院議員の叫びから「赤狩り旋風」が起こる。このアメリカの汚点ともいうべき「自由主義ファシズム」も、一九五四年にならないと終わらない。つまり、第二次世界大戦の終結で「戦争の時代」は終わったけれども、それを引き起こす基盤となった「独裁者の時代」は、まだ終わってはいなかったということである。  「古い独裁者の問題より、新しい思想対立」という選択が、一九四五年以降の世界だった。だから、「我が思想の勝利」を競う二大グループは、各地の独裁政権成立の支援さえした。冷戦の終結というのは、そういう欺瞞の終焉だったりもするのだから、その後に歴史が再始動するのは、ある意味で当然のことなのだ。 橋本治(はしもと・おさむ) 一九四八年三月東京生まれ。東京大学文学部国文科卒業。七七年『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作。以後、小説・評論・古典の現代語訳・エッセイなど、精力的に執筆活動中。著書に『桃尻語訳枕草子』『絵本徒然草』『窯変源氏物語』。ちくま文庫収録作に『これも男の生きる道』『宗教なんかこわくない!』『これで古典がよくわかる』など。 本作品は二〇〇一年一月、毎日新聞社より刊行され、二〇〇四年十月、二分冊の一冊目として、ちくま文庫に収録された。