TITLE : 「まさか」の人に起こる異常心理 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載したりすることを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変したり、改ざんしたりすることも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 はじめに 「私は精神科の病気を、リューマチやかぜひきと同じ程度の感覚で世間が受け入れてくれないうちは、また、精神科の外来治療が経済的に成立し、精神科医が心おきなく診療に打ち込めないうちは、安心して死んでいけない」と、三十年ほど前の著書のあとがきに書いたが、現実には、そのころとちっとも変わっていない。  昔の精神科病院のイメージは、鉄格子とカギであった。しかし、近年、開放病棟の比率がどんどん進み、中には全開放の病院も出現するに至った。それはまことにうれしいことだが、そういう病院はある程度、病者を選択しているであろう。だが、われわれの病院のようにいかなる病態の病者も受け入れざるをえない病院では、ごく初期にはどうしても閉鎖病棟が必要だ。病人を保護しなければならないからだ。  閉鎖という言葉はあまり快い響きを持っていないから、私のところではクローズ病棟とかクローズ病室といっている。したがって、われわれの病院には開放病棟、半開放病棟(夜間のみ閉じる)、閉鎖病棟の三種の病棟があるのはやむをえないところなのである。  かなり前のことだ。クローズ病棟からある晩、なんと七名が無断退去、つまりいなくなった。あとでわかったことだが、針金一本でいかなるカギでもあけるというその道の名人が入院してきたのが運の尽きだった。しかも彼は扉を開いてほかの患者を逃がして、自分は逃げず、自室で悠然としていた。  病院は規則に従って所轄の警察と都庁衛生局へ報告した。ふだんなら新聞の記事にもならぬ小事件だが、運悪く所轄警察には例の三億円事件で新聞記者たちがおおぜい詰めかけていたからたまらない。たちまち電話報告がキャッチされ、テレビのニュースで放送されるという騒ぎになった。しかも画面には、例によって「凶暴患者脱走」とセンセーショナルな文字が大々的に出た。だが、彼らの中には凶暴な患者など一人もいず、全員おとなしく自宅へ帰り、数日を待たずしてみな病院に戻ってきたのだ。  しかし、いくら気をつかっても、悪意で見れば病院は刑務所に映るらしい。まして、なんでも悪くとる好訴的な人や被害妄想の持ち主には、病院の善意はなかなか理解してもらえない。  いつか東京近郊の少年院を訪ねたら、そこの院長が「少年が逃亡しても新聞や放送はなるべくそっとしておいてほしい。騒ぐと帰ってくる者も帰ってこなくなる」と言っていた。  父、茂吉が青山脳病院の院長だったころは、患者が脱走すると所轄警察から始末書をとられた。たび重なると院長が警視庁に召喚されたものだ。私は患者の逃亡をあまり心配していない。多くの患者はちょっとそこいらを散歩したくなったり、母親の顔を見たくなったり、新幹線に乗りたくなったり、ほんの軽い気持ちで出かけるのだ。厳重にカギをかけておけば患者の逃げはなくなり、監督官庁の覚えもめでたくなる。しかし、私はその道はとらない。病院は牢獄ではないからである。  私は日本精神病院協会の六年務めた会長職を一九八六年(昭和六十一年)に辞めた。そのころ、厚生省は新しい精神衛生法(現在は精神保健福祉法と名を変えている)の改正に情熱を燃やしていて、厚生省の担当者が足しげく協会に訪れ、われわれもまたしばしば厚生省へ相談に行った。またヨーロッパからNGO(非政府組織)団体が協会にやってきて、悪意に満ちた批判を展開したりした。あいにく悪徳精神科病院の事件などもあり、新聞記者に執拗に追いかけられもした。  かくして私が退職した翌八七年に、国民全体の精神保健の確保、人権への配慮、社会復帰をうたった「精神保健福祉法」が公布された。  その結果、精神科病院への入院制度の見直し、入院患者に対する人権への配慮が前進した。具体的な面について、わが病院でいえば、本館や開放病棟にしかなかった公衆電話を重病患者のいるクローズ病棟の中にも設置したので、患者はいつでも自由に外部へ電話をかけることができるようになった。電話室には人権擁護団体や、東京なら都庁衛生局の電話番号を明示して病者の人権を守っているのである。  このように入院患者の処遇は大幅に改善されたが、多くの心ある精神科医が日夜欲求不満に悩まされていることがある。それは「人権」という御旗の下に、早期発見、早期治療のできないケースが多々あるという現状のことである。  そもそも人権とは、その人間を助けるために存在しているものである。人権を優先するあまり、一人の人間を一生再帰不能の状態に追い込むというケースが、われわれの周辺に日常茶飯事のごとく存在しているのだ。  昔は少々乱暴なケースもあって、病院からドクターや職員を派遣して入院させるということが日常的に行われていた。しかし、それで何人もの病者が救われたのである。  今の法律では、いわゆる「強制収容」はほとんど不可能である。ほとんどというわけは、一定の条件がととのえば合法的に強制収容(措置入院)できるからだ。しかしその条件たるや、自傷、他害(殺人などのおそれ)、放火など、極端で一般的でないので、われわれが日常的に悩んでいるケースはほとんど「合格」にならない。  こんなケースがある。二十五歳の青年が三年前から昼夜逆転の生活となり、昼はほとんど寝ている。自室には家族を入れないから、散らかしっぱなしで不潔きわまりない。家族の作る料理には「毒が入っている」と言っていっさい手をつけず、スーパーなどで牛乳やカップラーメンなどを買ってきて食べている。  空笑があり、独語は幻聴に対する返答と解される。「通行人がおれの悪口を言う」と言って、ときどき道路に出ては通行人に罵声を浴びせる。隣家の玄関に「チクショウ」などと書いた紙をはったりする。また、隣家に向かって大声でどなる。  家人の話を聞けば、明らかに精神分裂病であると推測される。発病して三年はすでに経過しているから、この辺が治療開始の限界点である。このまま放置すれば、ひょっとすると一生、病気を背負ったまま不幸な生涯を送るかもしれない。今、懸命にめんどうを見ている母親もやがて老いて、あの世に行くかもしれない。  しかし、この程度では、今の法律では措置患者には合致しないのである。家人が病院に連れてくればなんとか手の打ちようもあるが、病識のない本人は断固として来院を拒む。しつこく来院をすすめると、興奮して家人に暴力をふるう。この程度の病状では病院側が迎えに行くことは許されていない。ますます、病状が悪化し、手おくれになることは目に見えている。心ある精神科医が全国で、切歯扼腕している姿が目に見えるようである。  人権、人権と騒げばカッコいいという風潮が世に満ちている。それを一部のマスコミや、いわゆる人権派の人々が扇動(これはけっして言いすぎではない)しているように見える。新聞紙上の社説や、テレビのワイドショーなど至るところで目につく。  少し過激な文章になってしまったが、日本じゅうに蔓延している甘えの構造が、青少年をはじめとする、常識では考えられない犯罪を続発させているのではないか、と考えられる。  法律の公布からすでに十四年が経過して、小規模の改正はなされたものの、全国の「心ある」(と何度でも言う)精神科医の不満を解消できぬものか。この際、真の人権とは何かを考えてみようではないか。一九九九年の精神保健福祉法の改正により、精神障害者の危険性のあるケースで、せっかく早期入院の道が開かれたのに、最近はいささか腰くだけの色彩が見えるのは残念無念だと思っているのは私だけであろうか。 著者 目次 「まさか」の人に起こる異常心理 はじめに 第1章 異常か正常か、その境界は微妙 母、輝子の整理癖は病的だろうか 強迫神経症といえる病的な癖もある なかにし礼さんの兄の異常な言動 ヒステリー性格とも呼べる兄 病気や人格障害かもしれないストーキング 私もストーカーに襲われた 精神疾患も起因する児童虐待 精神分裂病、うつ病も混在する引きこもり 第2章 古今東西の天才に見る異常性 進行麻痺で支離滅裂になったニーチェ 耳を切り落とした精神テンカンのゴッホ 難聴から被害妄想になったベートーベン テンカンで意識を失ったドストエフスキー ヒステリー性格がユダヤ人大虐殺に至らしめたヒトラー 躁とうつの波動に揺れた頼山陽 紙絵の世界にこもった精神分裂病の高村智恵子 誇大妄想か、名物患者として君臨した葦原将軍 恋がたきを射殺した早発性痴呆の石田昇教授 精神分裂病の発病の恐怖にさいなまれた芥川龍之介 神の啓示にとりつかれたパラノイアの女性料理学教授 第3章 犯罪事件から見た異常性格 犯行動機が了解不能の酒鬼薔薇事件 少年Aの精神鑑定 作為や幻聴は分裂病の症状 少年Aと分裂病の相関関係 犯行時の精神状態が焦点の宮崎勤事件 多重人格を生みやすい解離 平気でうそをつく和歌山毒物カレー事件の被告 ヒステリーという病気 家庭内暴力が発端の金属バット殺人事件 むずかしい暴力者の入院 次々と発生する精神科関係の事件 大阪・池田小学校の児童殺傷事件 第4章 何が異常を引き起こすのか 夏樹静子さんの『椅子がこわい』 心因性疼痛障害 疾病逃避による心身症 ある放送作家の疾病逃避 書 痙 うつに苦しんだ桂枝雀さんの自殺 電話のベルが鳴りやまない「自殺・過労死110番」 孤独感と自罰傾向が死を希求 リストラうつ、リストラ神経症 満州で死の恐怖におののいたEさん 長春脱出に意識を失う 悪夢におびえる 最大の自己防衛は記憶喪失 第5章 複雑に絡んで起こる異常心理 病識欠如の精神分裂病という病気 病感も消え、やがて病識がなくなる 関係妄想、被害妄想 被監視妄想(盗聴装置) 幻聴、作為体験 長期抗戦を要する治療 病気がよくなれば妄想は消える 妄想型「結婚願望」の女性たち 茂吉を結婚不履行で訴えた女性 躁とうつが交互に出現する躁うつ病という病気 ライト兄弟の病前性格 下田学説の執着性性格 高慢無礼になる躁、意欲が減退するうつ 神様が休養をお命じになった病気 不安感情の強い抑うつ神経症 退却神経症と逃避型抑うつ 仮面うつ病 ストレスからくる神経症という病気 不眠症 ヒステリー いろいろな神経症 強迫神経症 疑惑症と恐怖症 尖端恐怖症の詩人、萩原朔太郎 私の幼年時代の強迫行動 電話恐怖症の父、茂吉 性格が偏った人格障害という病気 夏目漱石は人格障害か さまざまな人格障害 反社会性人格障害の語学の天才 パラノイアとパラフレニー 人格が転換する多重人格という病気 「イヴの三つの顔」の人格 ヒステリー性(解離性障害)の病態 「恍惚の人」になる老人性痴呆という病気 抑制の低下から始まる痴呆 高齢者に見られる特徴的な変化 脳細胞の減少からくる老化 死に至るアルコール依存症という病気 振顫譫妄、アルコール幻覚症 最初の一杯から大量飲酒へ 渇酒症(ディプソマニア) PTSD(心的外傷後ストレス障害)という病気 地下鉄サリン事件の後遺症 第6章 異常の早期発見が心の崩壊をくい止める 異常を感じたら、専門科医を訪れよう 早期発見のためのチェック・リスト50 50項目にあてはまりそうな病気 感謝されざる医者でいい あとがき 第1章 異常か正常か、その境界は微妙 母、輝子の整理癖は病的だろうか  一九八四年(昭和五十九年)にあの世へ旅立った母の輝子は、無数のエピソードを残した人間だった。  むだを極度に嫌った。二言目には「倹約、倹約」と言った。もっともその倹約は本人のみの感覚で、結果においてはけっして倹約ではなかった。  わが家は、敗戦の年の一九四五年五月二十五日の大空襲で、病院も自宅も全焼した。私は当時、陸軍病院勤務の軍医であったから、わが家の壊滅した状況は知らない。幸いに私がいた陸軍病院は被害がなく、敗戦後三カ月で私は復員した。軍服は将校の私物であるから、全部持ち帰った。  敗戦後しばらくして私はやっとボロ家を手に入れ、疎開先から母を呼び寄せた。罹災した自宅にあった衣服は全部焼けてしまったから、当時の世人がみなそうであったように、軍服や軍靴をはいて歩いていた。  ある日、寒いし、雨も降ってきたので、戦闘帽(軍隊では略帽といった)をかぶろうとしたら見つからない。母に尋ねると、あっさりとこう言った。 「手伝いに来た知り合いの植木屋のおじさんに、お礼にやっちゃったわよ」  母にとって平和な時代に戦闘帽などはむだな存在だった。しかし、私にとっては苦労をともにしたその戦闘帽は、過ぎし日の思い出の一つとして貴重な存在だったのだ。  母にとって不要な物はむだな物体であるから、整理してしまうことは母の性格からすれば当然のことだったのだ。整理癖は母の性格の中核を形成するものの一つである。  母の攻撃目標の一つが、家内の作る正月のおせち料理の量だった。  二軒のボロ家を経て、敗戦五年後にやっと東京・新宿の大京町に自宅とクリニックを再建したころの話だ。  私がかつて学んだ慶応大学病院のすぐ近くだったから、精神科教室のドクター連が病院の新年の祝賀会のあとにわが家に押しかけてくることが多かった。そのために家内は料理を多めに作っていた。それが母の目にはむだに映ったのだ。ある年、母はついにがまんができなくなったのか、家内にむだな量を減らすように厳命した。母の命令には抗しきれない家内は、泣く泣くその言に従った。  運の悪いときには悪いことが起こるものだ。悪い予感が現実のものとなった。果たせるかな、おおぜいの先輩、後輩の精神科医が押しかけてきた。さらに悪いことに、その中に母の親しかったお宅の令息がまじっていたからたまらない。母はそのドクターだけをわざわざ別室に招いて、なけなしのごちそうをふるまった。肝心の料理が、その他おおぜいのほうへ回らなくなった。  家内が身の縮む思いをしたことは言うまでもない。数十年を経た今でも、家内はその日の悲劇をときどき口の端にかけるくらいだ。  かく言う私も、母だけを責めるわけにはいかない。私は母の子であるから、母の性格の一部をちょうだいしているのは当然で、母ほど顕著ではないが、若干の整理癖も持っている。  書類や手紙類は必要のない限り、なるべく整理して捨てる性癖がある。全部とっておいたら、家じゅうがゴミくずだらけになってしまうだろう。しかし、ときに家内から「あのかたの手紙、とってある? 住所が知りたいの」などと聞かれて、「しまった」とほぞをかむことも少なくない。  よけいなことを書いてしまったが、母の整理癖ははたして病的な部類に入れていいのか迷う。病的な範疇に入れる定義はむずかしい。「本人も悩み、周囲の人にも悩みを与える」という定義もあるが、母自体は全く悩みもせず、もっぱら悩んだのは家内であり、ごく少数の家族が迷惑をこうむった程度であるから、母の場合はまず病的とは考えないほうがいいであろう。  強迫神経症といえる病的な癖もある  ところが、こういう人がいる。十九歳のお嬢さんで、その母親の言によれば余分な物は全部捨ててしまう。したがって何もストックできない。ストックすることが身の毛もよだつほどいやだという。いやというより、むしろ恐怖というのだ。  普通の家庭なら、何日分かのトイレットペーパーがストックしてあるはずなのに、それもいやがって捨てるように母親に命令する。薬も食料も、はがき、切手もしかり。歯磨きでもなんでも余分な物は置かない。これではいざというとき、生活が困るに違いない。  その理屈は本人も理解している。しかし、わかっちゃいるけど、やめられないのだ。本人は悩んではいるが、どうしてもやめられないのだ。親がお小づかいをやっても突っ返してしまう。したがって、お小づかいをためて貯金するなど、とんでもない行為なのだ。  本人も自己の行動について悩んでいる。むろん、そのために母親をはじめ家族全員が悩んでいる。自分が正常でないという認識はある。認識はあるけれどやめられない。ある考えから逃れよう、逃れようとしても逃れられない。どこまでも追いかけてくる。その考えが強く迫るという意味から、この状態を「強迫神経症」と呼ぶ。そして、その考えを強迫観念と名づける。  この強迫神経症という病気は少なからず存在する。何事も確認しないと気がすまないから、行動に長い時間を要する。アイロンのスイッチを切ったかどうかが気になって出先から帰宅してしまう人、はがきがちゃんとポストに入ったかどうかが気になって、再びポストにとって返してポストの周囲を確かめて歩く人、絶えず手を洗わないと気のすまぬ人など、いろいろな病態がある。  要するに病気に入れるか入れないかは量の問題で、母の輝子の場合は量的に少ないから病的とはいえず、このお嬢さんの場合は量的に多いから、強迫神経症という病名がつけられるわけで、その境界は、はなはだ微妙で、むずかしい問題である。  ところで、これが病気か病気でないかにこだわる人がいる。ことに日本人に多いような気がする。病気であるか、病気でないか、どっちだっていいではないか。要するに、従来とくらべて変化が起こったり、周辺の人々や社会が迷惑をこうむったら、それに適切な対応をすればいいわけである。  いつだったか、不登校(登校拒否)が病気か病気でないか、という論争があったが、それはなんの意味もないことだ。そういう論争をする人は、病院は病人しか行ってはいけない場所、という誤解か錯覚を持っているに違いない。同じ不登校にも病的な問題をかかえているケースもあるのだ。  再び言う。病院は病人だけが来る場所ではない。もっともっと門戸を広げている場所なのだ。 なかにし礼さんの兄の異常な言動  なかにし礼さんの著書『兄弟』(文藝春秋刊)が大きな評判になり、テレビ・ドラマにまでなった。作詞家、なかにし礼さんと亡兄との長い苦闘を主題とした自伝的小説のドラマ化だ。  兄嫁からの死の知らせに、弟は「兄さん、死んでくれてありがとう」とつぶやく。ドラマはこのシーンから始まる。兄の死によって兄と弟の長い闘争に終止符が打たれる。  弟の禮三は敗戦後、満州から母親、妹とともに北海道・小樽に引き揚げてきた。間もなく特攻隊帰りの長男が復員して一家に合流する。その兄は、にしん漁で一山当てるが、成功はその一回だけで、その後は数々の事業に手を出してはことごとく失敗する。そのために一家は青森から東京へと転居する。  兄と衝突した弟は家を出て、作詞家を志す。やがて芽が出て、世間に認められてきた弟に兄のたかりが始まる。しだいにふえる弟の収入もことごとく兄に吸いとられてしまう。 肉親の情に絡めて、兄は弟をおどし、泣きつき、ペテンにかけ、金をせびる。まともな仕事をしようとせず、バーやクラブで札びらを切る。怪しげな事業に手を出しては失敗し、スッテンテンになる。そのたびに兄は弟の前に姿を見せては、金をおどしとる。まさにダニのような存在で、弟にとっては毎日が地獄のような修羅場であった。兄は弟にとって寄生虫といっていい。弟が家を売り払っても、体調をくずして入院しても、兄は全くおかまいなく、弟に圧力をかけてくる。  礼さんの著書によると、兄は英語がペラペラ、ダンスは名人、アコーディオンはじょうず、ギターも弾ける、といった多彩な人間だった。頭もよく、商才にたけ、ときには不動産業で二億円もの金を手に入れたこともあったそうだが、ただそれを手堅くたいせつに運用するといった謙虚さに欠けていたのだ。  そして、兄の一生は、見栄坊の一生といってよかった。それは兄が小樽に復員したときの服装に集約される。かく言う私もそうであったように、日本じゅうの大部分の男が軍服か軍服まがいのボロ服を着ていた時代に、彼はりゅうとした背広姿で故郷の家族の前に姿をあらわし、家族のみならず、地元の人々をあっと言わせた。  兄が泣き落としをかける。「さっきの涙は演技だったのか」と弟は気づく。そういうことが何度も続く。弟は「今度こそ」と勇気をふるって兄との関係を絶とうとするが、そのたびに兄の弁舌と、あれやこれやの演技にその勇気がしぼんでしまう。  兄には地道に働くなどという考えは皆無だった。「開けゴマ!」とひと声叫んだら、昔の財産が燦然として立ちあらわれることを夢見て生きていた。兄のやっていることは仕事ではなく、宝さがしだった、と弟は書いている。  やがて弟は一流の作詞家と認められて収入もふえる。しかし、過労がたたって心臓をわずらい、しばしば救急車のやっかいになる。そんなある日、兄は日本音楽著作権協会から弟の印税を横領する。弟の知らぬ間に、兄が印税の振り込み口座を変更していたのだ。弟の苦悩はまだ続く。兄の手を出した会社が倒産したときも、口車に乗って債権者会議に引っぱり出されたあげく、弟は銀行預金を全部おろし、出版社から前借りをし、兄の負債の穴埋めまでさせられる。  兄は結局、一年の闘病生活の末に死んだ。兄の死後、弟はつてを求めて兄の戦友に会って兄のことを聞く。兄は「飛行練習中、赤トンボで墜落したが、九死に一生を得た」とよく語っていたが、それはうそで、墜落したのは仲間の別人だった。戦友は「仲間の墜落を見たら、だれだって明日はわが身と思いますよ。その恐怖心がつのっていき、いつの間にか自分の体験のように錯覚してしまったんですよ。その錯覚が事実よりも重い記憶になる」と言った。 『兄弟』という作品の兄のケースは、実にいろいろな問題をはらんでいる。  まず、このケースには狭義の精神病の症状は見られない。しかし、兄の性格からくるさまざまな行動は異常としか言いようがない。彼は自己の性格について十分な認識がある。しかし、常識的、正常な範囲内でコントロールすることができない。演技的な涙はあろうが、ときに自己嫌悪の涙も見せている。彼がやたらとけんかを吹っかけたり、虚飾に身を包んだり、真っ赤なベンツに乗ったりしたのは、心の奥底にひそんでいる劣等感の裏返しと考えられないこともない。           このように性格が極度に偏っているために周囲の人間が迷惑をこうむり、また本人もそのために苦しんでいる場合、「人格障害」という言葉を使う。人格障害は学者によっていろいろな分類がなされているが、この兄の場合、反社会性人格障害、演技性人格障害、自己愛性人格障害などの混合と考えられる。  あるいはドイツ精神医学界の長老であるK・シュナイダーのいう「病的性格」といってもいい。なお、シュナイダーは「社会が悩む」という表現を使っている。 ヒステリー性格とも呼べる兄  シュナイダーは、病的性格を発揚性、抑うつ性、自己不確実、顕示性、気分多変、無力性、爆発性、情性欠乏、狂信性、意識減弱の人という十型に分類した。  これを兄にあてはめると、その中心は顕示性の人であろう。これを別の言葉を使えば、ヒステリー性格と呼ぶこともできる。ヒステリーという心因性の病気の基礎になるのが、ヒステリー性格と呼ばれる性格だ。例外はあるが、ヒステリーになりやすい性格ということもできよう。ヒステリー性格は病的な虚言(空想虚言)を伴うことが多い。兄の性格にはこのようなさまざまな要素が組み込まれているのである。  こういうケースの原因は単一ではない。病気を原点とすることもあるし、先のケースのように持って生まれた性格によることもあるし、その性格・成育歴などに起因する後天的なものもあるので、実に複雑である。  このような場合、たとえ病気でないからといって、精神科関連の病院に相談してはならないということはない。自由に、気楽に相談に来てほしいものだ。なんらかの解決法が見つかるかもしれないからだ。中には医療の対象にならないケースもあるかもしれないし、医療の対象になるものもあるかもしれない。 病気や人格障害かもしれないストーキング  二〇〇一年七月、社会に衝撃と不安を与えた桶川女子大生刺殺事件のさいたま地裁で、殺人実行犯に懲役十八年、見張り役に懲役十五年の判決が言い渡された。ストーカー規制法などストーカー犯罪対策の法整備を急速に進めるきっかけとなった二年前の事件だ。  多くの人がストーカーという言葉を知ったのは、おそらくテレビ・ドラマからであろう。どこのだれかはわからないが、いつでもどこまでもつきまとっておどす。尾行や脅迫電話、脅迫状など、相手が未知の人間だからいよいよこわいのだ。未知の人間だから恐怖は倍加する。この原点は、ヒチコックものの一連の映画にあるのかもしれない。  しかし、わが国のストーキングはやや趣きを異にして、知っている人が八〇パーセントを占めているという。横浜市にある「ストーキング被害者の会」の被害者調査による新聞記事の要点をピックアップしてみよう。  回答者の九割は一年以上も被害が続き、警察に相談した人の半数が十分な対策をとってくれない、と不満をもらしている。はっきりした形の犯罪ではないから、警察もなかなか腰を上げないのである。  ストーカーの被害は殺人や傷害事件などへエスカレートするまで表に出にくいので、警察は摘発を強化しているものの、取り締まりには限界があった。  回答のあった計七一人分を集計、分析すると、被害者は女性が六三人(八九パーセント)と圧倒的に多く、年齢は三十代の二一人をピークに、十代から六十代まで幅広い年齢層にわたっている。  被害の類型では、同僚や元同級生らに好意を寄せてつきまとう「知人型」が五二パーセントと最も多く、次いで元配偶者や元恋人らによる「ドメスティック(家庭内)型」の二一パーセント。見知らぬ相手から一方的に好意を寄せられた人も二人いた。その他、隣人による長年のいやがらせ、暴力によるつきまといなどだった。  被害期間は九〇パーセントが一年以上で六四人、一四人が五年以上十年未満、十年以上の人も一〇人いた。  これらの被害者は、「心が殺されたようで笑えない。ストーカーに人生を返せと言いたい」「電話が鳴るとびくつく」「部屋のカーテンをあけられない」「顔を上げて歩けない」などと言っている。不安と恐怖から体調や精神のバランスをくずす被害者も少なくない。  元恋人から迫られたので断ったら、「ぶっ殺してやる」「生活をめちゃめちゃにしてやる」とすさまじいいやがらせの電話が入り、こういう荒っぽい口調の電話が一日二十回以上もかかったというケースもある。また、十年以上もつきまとわれている四十代の女性宅には、一方的なラブレターとともに、女性の服装や行動などを詳細に記録した監視レポートが定期的に郵送されるという。  ストーキングは病気のこともあり、好訴性、攻撃性といった人格障害(病的性格)などからくることもあるが、対応困難のケースが多い。 私もストーカーに襲われた  かくいう私もストーカーに襲われた被害者の一人だ。  電話がかかってきた。「お前を殺してやる」と言う。私の子どもの名前を次々とあげる。母の名前も言う。正しい。わが家のこともよく知っている。「みんな、殺してやる」とおどす。「殺してやる」とはおだやかではない。「こちらのことをよく知っているなら、あなたも名前を名乗るべきだ」と言うと、「何をっ」と激昂する。  家内が私の身を心配して、かわって電話に出る。寒い晩に家内は四十分、五十分と相手になっている。話の内容は相も変わらず、「殺してやる」の一点張りだ。そのうち、家内はストレスがこうじて胃痛を訴えるようになった。  ついに玄関のドアに投石され、ガラスが割られた。おそるおそる家人が外に出てみたが、人影は見えない。電話では「院長を出せ」としつこく言う。  われわれ夫婦が仕事で海外へ出張すると、その間は不思議と電話はかからなかった。われわれの恐怖はさらに増大する。実にわれわれの状況を知っている。すべてを見通されている感じがして、ますます恐怖が高まるばかりだった。  ついに警察に頼んで、探知機を設置してもらった。ある日、とうとう逆探知に成功した。これで逮捕まちがいなし、となったとたんに電話がかからなくなった。警察が真剣に乗り出すに及んで終息したが、恐怖はのちのちまで残ったのだ。  あるときも、F首相を襲撃した男から、「お前の病院に収容され、精神分裂病という病名をつけられておれの一生は台なしになった。どうしてくれる」と言って、電話がかかり出した。例によって家内が私にかわって、防波堤になってくれた。ただ彼は感心なことに名前を名乗った。家内が病院に問い合わせてみたら、入院の件は事実だった。措置入院、すなわち強制入院である。これは都道府県の指定病院が当番制で入院を引き受ける制度で、入院患者に病院を選択することはできない。  何回目かの電話のとき、「精神分裂病という病名のおかげで、あなたは刑務所に行かずにすんだのではないですか」と家内は言ったそうだ。病気の診断がつけば、刑務所のかわりに病院への措置入院という制度がとられて、病者は刑務所に行かずにすむのだ。そして病状が落ち着けば、病院から出て社会に戻ることもできる。  家内のひと言に、彼は「それもそうだな」と言い、それから電話はかからなくなった。  また、ある女性からは「頭の中に電気がパチパチと鳴ってたまらない。どうにかしてほしい」と電話が一日何回もかかってきた。看護婦も対応しきれず、業務に支障が出るようになったので、自宅にいた家内が「私が引き受けます」と言って、一日に何回もしんぼう強く相手をしたこともある。こういう苦労は職業がら、いたし方ないと観念している。  ストーキングはいずれも対応がなかなか困難で、「病院にいらっしゃい」などと言おうものなら、相手は病識がないこともあり、必ず激昂するに違いない。しんぼう強く相手をし、聞きじょうずになって、説得するしか方法がないのである。  二〇〇〇年(平成十二年)、ストーカー規制法という法律が成立したが、実はその判定がむずかしいのだ。病的なものもあるし、性格に起因するものもあるからだ。  この法律の内容は、一、待ち伏せ 二、監視していると告げる 三、面会、交際の要求 四、乱暴な言動 五、連続した電話やファクス 六、汚物の送付 七、名誉を傷つける 八、性的な羞恥心の侵害の八項目から成っている。  ストーカー行為とは、これらの行為が繰り返し行われ、安全で平穏な生活が送れなくなった場合をいう、と同法は定義づけている。  ストーカー行為の前段階はつきまとうことだが、その目的は、恋愛感情やそれが満たされないことによる怨恨感情を満たす場合に限定する、とも同法は述べている。 「ストーカー」という名前が人口に膾《かい》炙《しや》するにつれ、精神分裂病などの妄想にも登場するようになった。ある分裂病者は家を出ると、「必ずストーカーがついてくる」と言う。「駅のホームにも、電車の中にも、バスの中にもいる。それも主に外国人で、白人も黒人もいる」などと言う。分裂病には「追跡妄想」といって、だれかがあとからついてくる、という妄想が少なからずあらわれる。その妄想の中に、「ストーカー」という名前が登場するのは、やはり時代というものだろう。 精神疾患も起因する児童虐待  最近、新聞でよく児童虐待の記事を目にする。二〇〇一年八月、兵庫県尼崎市の運河で、小学一年生のK君(六歳)の遺体がポリ袋に入れられて見つかった事件は衝撃的だった。死体遺棄容疑で逮捕された母親(二十四歳)と義父(二十四歳)は、暴行を加えて死なせたと虐待死を認めている。  日本法医学会の調査では、一九六八年から七七年の十年間で、虐待による児童の死亡例は一八五件だった。それが九〇年代の十年間では四四三件に上り、死に至る深刻なケースが大幅にふえていることがわかる。二〇〇一年の一月から三月までに、すでに一六人の児童が虐待で命を落としているという。  全国一七四カ所の児童相談所に、厚生省がアンケートをしてまとめた一九九七年(平成九年)度の調査によれば、相談所が「虐待」として相談を受け、処理したのは五三五二件で、一九九〇年(平成二年)度の一一〇一件の五倍近くになった。全体の二一・八パーセントに当たる一一六六人を行政判断で児童養護施設や乳児院などに入所させた。一時的に施設に保護されたのは二五・九パーセントの一三八六人。児童福祉施設に入所している三万四四一七人の児童(平成十年二月一日現在)のうち、五・五パーセントに当たる一九一〇人の入所理由は「主に虐待・酷使が原因」となっている。  八七の相談所が、二三七件のケースについて「施設に保護された子どもの親から強引な引き取り要求があるなど、保護者への対応に苦慮した」と回答している。保護措置を解除した七一〇人のうち、「親の引き取り要求が強くて、やむをえず家庭に帰した」のが一一二人。これらは「家庭に戻って再び虐待を受ける心配のあるケース」だった。  児童虐待は当然のことながら、家庭環境(継母、継父など)、親の性格特性、子どもの性格など、もろもろの要素が関係してくるが、狭義の精神医療、広義の精神医療にかかわることが多い。カウンセリングを中心とした対応をしている精神科医では、家族機能研究所所長の斎藤学博士などが有名だが、中には精神疾患が起因となっているケースもあろう。  何年か前にテレビの人生相談の回答者として出演していたとき、「子どもが憎くてたまらない」と言う母親がいた。番組が終わって、その母親からくわしく話を聞いたとき、私はある予感がして、私の病院に来てもらって精査してみると、抑うつ症という診断に到達した。そこで抑うつ症の治療を施したところ、ほぼ二カ月たったころ、その母親は「このごろ、子どもが憎らしくなくなりました」と漏らすようになり、三カ月が経過すると今度は「子どもがかわいくなってきました」と言いだした。その後、幸福な親子関係が続いている。こういうケースもあるのである。  二〇〇〇年十一月、「児童虐待防止法」が施行された。虐待の定義が改めて法律で定められ、また児童相談所による立ち入り調査権が強化された。その影響か、全国に寄せられる児童虐待の相談が平成十二年度は一万八八〇四件に上り、前年の一・五倍以上と大幅に増加、相談所による立ち入り調査件数は二・五倍の一〇五件になったこともわかった。  しかし人権問題に絡んで、強制力の弱体化も予想されるし、相談所の指示に親がすなおに従うかも問題だ。つい最近、名古屋市で小学二年生の女の子が、実母と同居の男性から虐待されて死亡した事件があった。児童福祉センターは虐待の通報を受けていたにもかかわらず、死を防ぐことができなかった。まともに食事も与えられず、やせた体には無数のあざ、やけどの跡があったという。 「他人の子どもでも、必要があれば叱ろう」という、こんなあたりまえの言葉がわざわざ提唱される世の中だ。まあ、ともかく実施してみて、三年後の見直しを待ちたいものだ。  すでに述べたように、何事にもおかたい日本人は、異常と正常の境界をはっきりするのが好きなようだ。  身近な例として、かぜか、あるいは肺炎に発展しているかの問題をとり上げてみよう。肺炎の症状がはっきりしてくれば問題はないが、それまで待っていては手おくれになるおそれもあろう。多くの内科医は、患者の生命を救うために肺炎の症状が全部出そろうまで待ってはいまい。肺炎のおそれが少しでも出現したら、先手を打って肺炎対応の治療を始めるに違いない。  われわれの分野でも、多かれ少なかれ、その思想は生きている。要するに、今までとは異なった点があらわれたら、なんらかの手を打つことになろう。先手を打つこと、手おくれにならぬことが医療の中心思想なのである。 精神分裂病、うつ病も混在する引きこもり  近ごろ、「引きこもり」という言葉が数多く新聞、雑誌などに登場している。引きこもりとは自分だけの殻に閉じこもって社会との交流を拒否する状態をいうらしい。  かつて、「自閉症」という言葉が一世を風《ふう》靡《び》したことがあった。マスコミがこの言葉を全国に広げたので、自閉的な症状を持つ病者が心理療法のみに走り、肝心の治療の時期を逸し、一生を不幸に陥れたケースが少なくなかった。「自閉」とは精神分裂病を中心とする症状で、いわゆる「自閉症」は主として親子関係に端を発する若年層に見られる全く別の病気だからである。  今、注目されている引きこもりは、社会環境、家庭環境などが関与している病的な状況をいうのであろうが、これをいわゆる力動的(ダイナミック)な状態とのみ理解し、その対応を力動的、精神分析的に求めているきらいがあるのは、かつての自閉症と軌を一にしているように思えてならない。自閉症のときも私は警告を発したが、今回も同じ態度をとりたい気持ちがわいている。  それはともかく、真の意味の引きこもりは確かに増加しているが、厚生労働省、国立精神・神経センターでは引きこもりを「精神病以外で六カ月以上家庭以外の人と交流しない中学生以上の人」と位置づけている。この定義によると、家族とのふれ合いは普通のように受け止められているが、中には家庭との接触を拒否し、暴力をふるう、もしくは暴言を吐くことも少なくないのである。  全国五六カ所の精神保健福祉センターの調査では相談件数は五六〇件(二〇〇〇年四月から半年間)、そのうち七二・五パーセントが男性だった。引きこもりが始まる時期は男性が十九歳から二十四歳(三二・一パーセント)、女性はやや早く十三歳から十五歳(三八・四パーセント)。相談時に引きこもりが三十一歳だったのは、男性で一七・一パーセント、女性で一二・九パーセント。全体の七割は本人との面接ができなかったというから、この中に、精神分裂病、うつ病などの精神疾患が混在しているかもしれないことは十分に推察できる。なお家族への暴力も一四・九パーセントに上った。  今、日本には引きこもり族が一〇〇万人いるといわれ、深刻な社会問題となっている。 知り合いの若いビジネスマンがこんなことをつぶやいていた。「会社の中が、このごろ、以前より静かになりましたよ。私語が減ったんでしょうね。私語のかわりにパソコンが使われているんですね」。「今晩、会社の帰りに一杯飲みに行こう」とか、「今度の日曜にゴルフに行こう」とかいうのも、みんなパソコンでやっているらしい。  確かにパソコンなどの機器は便利だが、これが生活を左右することを考えると、社員の会社への帰属意識や仲間意識が薄れて、つまり人間性が希薄になりかねないのだ。私は以前からワンタッチのやりすぎの危険性を感じ、その抵抗感から、これもいささかやりすぎと思うが、ワープロに近づかず、原稿もボールペン(万年筆は水ににじむから使わない)で書き、電子手帳にも背を向け、やはりボールペンで手帳に書いているのだ。  引きこもりの人口増加にはいろいろな原因があるだろうが、そういう人間に接触してみると、どうやら背後に母親の姿がチラホラすることに気づく。つまり、マザー・コンプレックスの影響が大きいと思うのだ。  結論的にいえば、引きこもりの原因の中で大きなウエートを占めているのは、少子化、携帯電話を含めたパソコンへの超依存性、そしてマザコンと言わざるをえない。さらに、引きこもり族の一部には、精神分裂病などの精神疾患が含まれているかもしれないことを忘れるべきではない。  長い間、引きこもり状態を続けていた青年は、依存していた大事な母親が心臓疾患で急死したあと、少しずつ立ち直ったケースを知っている。本人は一人っ子で、以前は、他人が来るのも電話がかかるのも恐ろしく、外出への意欲も乏しかったのに、このごろは、自分で買い物や、理髪店へ行くようになり、電話へも自分で出られるようになったのだ。  母親が死んでしまっては困るが、マザコンの母親には自分が死んだつもりで、子どもに接してほしいと言いたい。同時に、若い母親には子どもを少なくとも三人は産んでほしいと言いたいし、何年も前からそう言い続けている。むろん、子どもを産める環境づくりもたいせつで、これは国の政策にもそうあってほしいと思っている。  フランスの哲学者パスカルが、その瞑想録『パンセ』の中で「人間はあらゆる職業に向いている。しかし向かないのは、部屋の中に閉じこもり、じっとしていることだけだ」と書いている。 第2章 古今東西の天才に見る異常性  イタリアの精神病学者、ロンブローゾ、ドイツのランゲ・アイヒバウムの登場以来、天才と狂気の問題が盛んに論じられている。その狂気にもいろいろあって、素質的内因性のもの、梅毒、酒、麻薬などからくる外因性のもの、果ては病的人格障害(病的性格)に至るまで多種多様である。古今東西のいわゆる天才と称せられた人々一五人(ベートーベン、ゲーテ、ヒポクラテスなど)にしぼって精神医学的に観察すると、実に九二パーセントが異常であるというヨーロッパの統計もある。 進行麻痺で支離滅裂になったニーチェ  病気が進行麻痺(パラリーゼ。つまり脳梅毒のことで、かつては麻痺性痴呆といった)であったと目されている天才たちには、ニーチェ、モーパッサン、シューマンなどがあげられる。しかし、二十世紀初頭に開発されたワッセルマン反応(梅毒の判定検査)が当時はまだなかったから、梅毒と確定するわけにはいかないが、臨床症状からそう考えられているのである。  ニーチェは四十四歳のとき、卒中様昏睡、興奮を起こして発病し、誇大観念から連想が支離滅裂になった。末期には「余は神である」などと大言壮語を並べた。彼のいわゆる「大いなる正午」体験は躁的誇大妄想によるもので、彼の神もそのように解釈できるだろう。  彼は五十五歳で卒中様発作で死んでいるから、発病以来十一年間生きたことになる。進行麻痺は文字どおりどんどん進行し、ほうっておけば数年以内に死ぬことが多いから、ニーチェは平均より長く生きたケースである。  私が医学生のころ、父の茂吉がいきなり「進行麻痺はふつう、何年くらいで死ぬのか」と私に聞いたことがある。私が「症状によってまちまちであるから、一概には言えません」と答えたら、茂吉は「現役がそんなことで、どうするのか」と怒った。そのとき茂吉は「ニーチェの病気」という文章を書いていたことをあとで知った。  ニーチェの進行麻痺説はメビウスやヤスパースも唱えているが、性格学のクレッチマーは、精神の崩壊を直前にしてロウソクの火の消える前のように、梅毒が一過性にニーチェの天才の能力を高めたのだ、という見方をしている。しかし、ニーチェの発病後の十一年は、治療法がなかったころとしてはいささか長すぎるきらいがないでもない。  この一時的な天才的創造力の高まりは、モーパッサンの晩年の作品『ル・オルラ』についても同じことが言えることであろう。それよりのちの作品『誰か知る』は、すでに進行麻痺的な内容を持つ作品といっていいようだ。  進行麻痺といえばわかりにくいが、前にも述べたとおり、簡単に言えば脳梅毒のことだ。梅毒は主として下半身から侵入するが、その梅毒スピロヘータが脳に侵入するまでには時間がかかる。なぜなら、脳の手前には異物を反撃する堅固な「要塞地帯」が存在し、梅毒のスピロヘータがいくら攻撃しても撃退されてしまう。それは、さながら日露戦争の乃木大将が率いる日本軍の二〇三高地への攻撃に似て、無数の死傷者を出したのと似ている。   しかし長い年月をかけて、強いスピロヘータがついに防御線を突破して脳への侵入に成功する。その間、十年から十五年もの年月を必要とする。したがって進行麻痺の発病年齢が四十歳以上に多く見られる理由が、そこにあるわけである。  脳に侵入したスピロヘータは人間の知能を支える大事な脳細胞を破壊する。その結果、優秀な知能の持ち主でも、しまいには幼稚園、小学生レベルまで低下する。しかし発病初期の段階では、うつ病的、あるいは躁症状が発生することもあって、うつ病、躁病とまちがわれることもある。また、ケイレン発作で発病することもあるので、テンカンという病気とまちがわれることもある。  だが、決定的な診断は血液、髄液(以前は脳脊髄液といった)のワッセルマン反応が陽性で、独特な化学反応を呈することでわかるのである。終局的には、知能低下、発音障害(日本人の場合は、パ・ピ・プ・ペ・ポと言わせると、パパ・ピピ・ププというふうに反復する)が起こり、かつ栄養が衰え、さながら末期ガンのように衰弱するのである。そして、この病気のある時期は脳の活動が一時的に活発になることがあり、それが、たとえばモーパッサンの『脂肪の塊』のような名作を生んだとも考えられる。  ご承知のように、この病気の原因は知られていなかった。本病で死亡した患者の脳から梅毒スピロヘータを発見したのは野口英世で、ワッセルマン反応の開発とともに、この病気の本態が梅毒であることが解明されたのである。すでに述べたように、多くの著名人がこの病気で命を失っている。  一九二四年(大正十三年)にウィーンで仕上げた父、茂吉の学位論文は、「麻痺性痴呆者の脳図(ヒルンカルテ)」であった。ウィーン大学のワグナー・ヤウレック教授が一九一七年に開発し、ノーベル医学賞を受賞したマラリア熱療法をかつてわれわれも盛んにやったものだが、梅毒による脳細胞の破壊をある程度くい止めることはできても、破壊された脳細胞は再生しないから、知能低下はそのまま残ることが多かった。  進行麻痺で有名な日本人は、東条英機首相のはげ頭をたたいた大川周明博士だった。その情景はニュース映画でもとらえられたし、近年、映画にもなった。  とにかく、東京裁判という公的な状況の中で、前にすわっていた東条さんの頭をたたいたので大騒ぎとなった。アメリカの軍医が診察したあと、東大の精神科の内村祐之教授に回され、検査の末に進行麻痺という診断が確定し、東大の付属病院ともいうべき、東京都立松沢病院に移され、そこでマラリア熱療法などの治療をした。ところが驚いたことに、不治といわれた進行麻痺が治ったのである。  その秘密はやはり、早期発見、早期治療ということができる。もし東条さんの頭をたたかなければ、大川さんはこの病気で死んだかもしれない。治ったという理由は、その後、大川さんはコーランの翻訳をしていることがあげられるからだ。  そして現在、進行麻痺はほとんど姿を消しているように見える。抗生物質のおかげといっていい。だが、梅毒そのものは依然として健在なのだから、いつ再び進行麻痺が勢いを盛り返すかわからない。一時忘れかけていた結核が再襲来している現状を見れば、そのおそれは十分にある。  進行麻痺という病気は二十世紀の初めにその本態が解明され、そして二十世紀の最後に一応姿を消しているところを見れば、二十世紀の病気といってもいいかもしれない。 耳を切り落とした精神テンカンのゴッホ  テンカンという病気がある。この病気に対する大衆のイメージは、「泡を吹いて倒れる病気」「ケイレンを起こして倒れる病気」といったところだろう。  ところで、テンカンといってもいろいろの種類がある。いわゆる素質的なものを「真性テンカン」といい、後天的な原因で起こる、いわば外因性のものを「症候性テンカン」と称している。  戦時中は、砲弾、銃弾などによる頭部外傷や、爆弾の爆風によるテンカンが数多く見られた。近ごろは交通事故、災害などによる頭部損傷によるもの、アルコール依存症の大量飲酒によるケイレン、また進行麻痺の初発症状がケイレン発作によって始まるものなど、後天的なものがふえた。  典型的なケイレン発作は、ドストエフスキーの作品に見られるとおりだが、十九世紀後半における偉大な作家、フローベルのケイレン発作を友人のマクシム・デュ・カンが描写した文章でも見ることができる。  ……突然彼は上を向き蒼白となり、眼つきは苦悶の色を現わし、絶望的に両肩を挙げた。彼は言う。「左の眼が燃えるようだ」。そして少しして「右眼も火のようだ。何も彼も金色に見える」。この状態が数分続き……顔色は益々蒼くなり、絶望的な表情になり、急にベッドの方に走り、生きながら棺に入るような暗い面持で横臥した。次いで今でも私の耳に残っている程の特有の調子の叫び声と共に痙攣が始まり、それに続いて深い睡眠と数時間も続く疲労状態とが来た。  ケイレン発作と意識喪失は右のとおりであるが、中には意識もはっきりし、ケイレンも起こさず、倒れもしないテンカンもある。いわゆる「精神テンカン」と称するものである。 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの病気を、ヤスパースのように精神分裂病と想定した人もいるが、わが国の故式場隆三郎博士はじめ世界の多くの学者は、これはいわゆる精神テンカンの範疇に入るであろうと認めている。  そこで、「側頭葉テンカン」という精神運動発作のみの病型が登場する。症例の一つとして、カッとして前後の見境がなくなる行動をとることがある。ゴッホはゴーギャンの顔にアブサンという強い酒を浴びせかけ、あとでその記憶がないと言ったことがあったという。みずから耳を切り落としたのも、精神運動発作の結果と考えられるのである。 難聴から被害妄想になったベートーベン  ベートーベンは一八二七年三月、五十六歳であの世に行ったが、生涯、慢性下痢と重い聴力障害に悩んだことはよく知られている。  彼の生活態度や音楽の内容から、その性格は執着性と完全主義を中心とした粘着性であろうと想像される。彼はウィーンで、実に三十五年間に七十九回も引っ越しをしているのだ。たぶん家主とのトラブルや一〇〇パーセントを望む心情と粘着性にありがちなかんしゃく持ちが原因なのだろう。私の亡父、茂吉も典型的な粘着性だが、同じウィーン留学中のたった一年の間に、四回も下宿を変えている。主な理由は南京虫の襲来で、父は虫に好かれる体質の持ち主だったからだ。  父は慢性便秘だったが、ベートーベンは反対に慢性下痢だった。彼は人一倍、ストレスが強かったと思うが、ストレスは肉体的には消化器系統に最大の影響を及ぼすから、この下痢は心因性の下痢、つまり心身症の下痢と考えるのが妥当だろう。  ベートーベンが弟にあてた、いわゆる「ハイリゲンシュタットの遺書」は有名である。その中に彼が強い希死念慮に襲われていることを告白しているから、彼がうつ状態を持っていたことは十分に考えられる。同時に難聴から必然的に起こる被害妄想の所有者でもあったと思う。  彼の難聴の原因だが、一般論として、聴神経の炎症や萎縮があげられているが、中には先天性梅毒説を唱える研究者もある。彼の骨の変化が梅毒性によるものだと発表した学者もいる。  それやこれやでベートーベンは病苦に襲われ続けた。そのためにワインを飲んだとしても不思議ではない。しかも当然のことながら量はしだいにふえ、ついには大量飲酒にたどり着く。彼は、死亡する三年前の一八二四年にかの第九交響曲を作曲した。その翌年には肝硬変(多分アルコール性だろうが)がかなり重症になっているであろうことは、足の浮腫、腹水が生じていることでもわかる。  マレック著の『ベートーヴェン論』を読んだ。それによると、自分の部屋にはだれも入れようとせず(私の父も、書斎にはお弟子さんすら入れなかった)、いすの上に原稿が散乱し、ピアノの中にインクが流れ込み、原稿の報酬も本人が見せかけていたのよりはるかに多く、死後、秘密の引き出しから多額の金が発見された。  彼は服を着替えることを極度に嫌った。ひどいかんしゃく持ちで料理の皿を給仕人に投げつけたりした。晩年の病中、ベッドにはきたない虫が群らがっていて、病気中にもらった見舞い品の中で彼が最も喜んだのは、虫とりの粉だったそうである。  また父を引き合いに出す。私は戦後はやった発疹チフスの精神症状の研究で伝染病院に通ったが、そこで土産にもらったDDTを父がおしいただくようにして喜び、惜しみ惜しみ、畳のへりへまいていた姿を今でも覚えている。  ベートーベンがこのような肉体的、精神的苦悩に打ち勝って、偉大な創造力を発揮したことにはただ頭が下がるのであるが、同時に苦痛、悲哀が彼の創作意欲をかき立てたことに思いを至すのである。  松本清張は「悪妻が文豪をつくる」という有名な言葉を残したが、漱石も子規も、身体的、精神的な苦悩の中で、名作を生み出している。芥川龍之介もまた例外ではないのだ。 テンカンで意識を失ったドストエフスキー  ドストエフスキーがテンカンの持ち主であったことは周知の事実だが、彼の長編小説『白痴』と『悪霊』はこの病気を扱った代表的なものだ。多少の潤色はあるにせよ、たとえば、『白痴』に出てくる次の文章(岩波文庫『白痴』米川正夫訳)にわれわれは発作前後の心理をうかがい知ることができる。  テンカンとは特有なケイレンと意識喪失発作を主な徴候とする症候群のことだ。古くから知られている病気だが、シーザーもスペインのコルドバ進攻のとき、五十回もケイレン発作を起こしたという記録がある。  さて、ドストエフスキーの『白痴』の一節。  ……こうした発作のおこりそうなときの彼は、自分でも知っていたが、おそろしくぼんやりしてしまって、よくよく注意を緊張させて見ないことには、人の顔やその他のものをいっしょくたにして、間違えることが多かった。(筆者註。前駆症)……それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破って、ふいに脳髄がぱっと焔《ほのお》でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。(前兆)……「……」と叫んだらしいのを覚えているばかりだ。それにつづいて、なにかしらあるものが彼の眼前に展開した。異常な内部の光が彼の魂を照らしたのである。こうした瞬間がおそらく半秒くらいもつづいたろう。けれども、自分の胸の底からおのずとほとばしり出た痛ましい悲鳴の最初の響きを、彼は意識的にはっきり覚えている。それはいかなる力をもってしても、とめることのできないような叫びであった。つづいて瞬間に意識は消え、真の暗黒が襲ったのである。(大発作)  テンカンを持っている人に多く見られる性格は以前から知られていて、それを欧米では「テンカン性格」と呼んでいた。しかし、わが国ではテンカンという病気と混同されやすいので、われわれは「粘着性執着性性格」と呼ぶことにしている。  私の父は一九五三年(昭和二十八年)に他界した。私は新聞社に依頼されて原稿を書いた。そのとき父の性格を「テンカン性格」と書いたら、親類やお弟子筋から「攻撃」されたことがあった。それ以来、私はテンカン性格という呼称をやめにした。  その性格の要素をあげれば、きちょうめん、凝り性、完全主義、執念深い、執着する、頑固、正義感が強い、不器用、ばかていねい、責任感が強い、かんしゃく持ち、けんか早い、整頓好き、などとなる。  こう見てくると、これは日本人にかなり多く見られる性格ではないか。  私はこの性格を「融通のきかない粘着性」と「融通のきく粘着性」に分ける。むろん後者のほうが世を渡るには有利である。しかし、世の不正義、不合理に挑戦する、いわゆる世直し正義漢には前者をもって代表者とする。  ドストエフスキーがいかなる叫びを上げて世に挑戦したかは、彼の作品をじっくり読むしかすべがない。 ヒステリー性格がユダヤ人大虐殺に至らしめたヒトラー  第二次大戦で日本の運命を決したのはヤルタ会談だが、これと匹敵するのが第一次大戦のあとのパリ講和会議(一九一九年一月)だといわれる。この会議の決定が、やがてヒトラーを生み、第二次大戦の遠因ともなったのだ。  ジークムント・フロイトに『T・W・ウィルソン大統領その心理的肖像』という著書がある。フロイトによれば、ウィルソン大統領の父親はきわめて優秀で、彼は常に父に頭が上がらなかった。母親は彼を過保護に育て甘やかした。後年、彼は母親とそっくりな女性を妻に選んだ。フロイトは彼を「典型的なマザー・コンプレックス」と言っている。  ウィルソン大統領はアメリカ代表としてパリ講和会議に臨んだが、彼の言動には分別を欠いたものがあり、その後もアメリカの国際連盟の加盟を拒否したりした。こうしてアメリカの世界平和構想は失敗の方向へ湾曲していった。極端な言い方をすれば、ウィルソンの政策の失敗がヒトラーの台頭にまで及んだのだ。  一九二三年(大正十二年)の十一月八日、ドイツ・ミュンヘンに初雪が降った。亡父、茂吉はミュンヘンに留学中だった。英貨一ポンドの為替相場が二万七九三〇億マルクという大インフレで、ドイツ人は生活苦にあえいでいた。茂吉は夕食後、学会に出席したあと停車場前に来ると、広場は大群衆で埋め尽くされていた。異様な雰囲気がみなぎっていた。  その日の夕刻、ビュルガー・ブロイケラーというビアハウスの大広間で執政官カールの施政演説の最中、アドルフ・ヒトラーとその一派が侵入して革命政府の樹立を宣言した。しかし、翌日事破れてヒトラーは逮捕されたのであった。一九一八年十一月、帝政がくずれ去った革命以来ちょうど五年目だった。  ミュンヘンには戒厳令が敷かれ、午後八時以後は外出禁止となった。そして茂吉は「ミュンヘンを中心として新しき原動力は動くにかあらむ」と詠んだ。  千年は続くとヒトラーが豪語していた壮大な第三帝国がわずか十二年でくずれ去る寸前に、みずから生命を絶ったヒトラーの晩年のニュース映画を見ると、彼が心臓病と高血圧、動脈硬化からきたパーキンソン病であったことがわかる。背中を丸めた彼の姿は哀れみさえ感じさせる。  母親が乳ガンで死んだため、彼はひどくガンを恐れていた。またフロイトのいう肛門期性格を有し、潜在的同性愛者、マゾヒスト、女性的性格の持ち主であった。彼はマザー・コンプレックスといってよく、自己中心、動作がドラマチックで、他人への暗示性に富み、カリスマ的で負けず嫌い、自分がキングでないと気がすまず、流行を追い、挫折したとき自己を励ます能力が強く、強敵を抹殺しないと恐怖におののくという性格の所有者だった。  この性格は総じてヒステリー性格といってよく、アウトバーンの建設、フォルクスワーゲンの開発という建設的な大仕事の反面、ユダヤ人(強敵)の大虐殺に通じるのだ。ヒトラーを滅ぼした要素の一つに、短絡性をあげなければならない。  ここで私は突如として織田信長を想起するのである。彼の若いときの突飛な服装、奇矯な行動、綿密な都市計画、比叡山の大虐殺、ドラマチックな最期など、なんとヒトラーと類似点が多いことか。  たとえば大きな悲しみに襲われたとき、意識を失い、卒倒する人はヒステリー性格の持ち主に多いが、一九一八年、ドイツの敗北を認めることへの拒否としてヒトラーが一過性の失明状態に陥ったことも、彼がヒステリー性格であったことの有力な証左となる。  ヒトラーは父親の影響をすべて拒否し、自己に絶えず疑いを持っていた。自己不確実性の持ち主といえよう。父親への敵意を秘めていたことは、マザー・コンプレックスの存在を十分推定しうるところだ。ユダヤ人の大量虐殺の心理がここに源を持つことも考えられる。  珍説と言われるかもしれないが、織田信長は脳梅毒ではなかったか。信長が安土城を築いた晩年、「余は神だ」と言ったひと言が私には引っかかるのだ。やはり「余は神だ」と言ったニーチェの晩年に似ている。  ご承知のように、梅毒は一四九二年コロンブスが西インド諸島を発見したあと、新大陸からヨーロッパに持ち帰られ、たちまちヨーロッパ全土に広がり、フランスでは敵国の名をつけてイタリア病と呼んだりした。一五〇二年には中国に渡来したとみえて、広東病などという病名がつけられたが、十年後の一五一二年には琉球病という記載がある。  その梅毒が日本に上陸したのは、それからたった三年後の一五一五年である。やがて近畿から中国地方、関東へと広がった。信長が生まれたのは一五三四年であるから、そのころは梅毒がかなり蔓延していたはずである。信長が梅毒に罹患していないという証拠は何もない。梅毒が体に入ってから病原体が脳に侵入して脳細胞を破壊し始めるまで十年から十五年かかるので、通常は中年になってからの発病が多いのである。  そして本能寺の変で、信長が命を失ったのは四十八歳だったのだ。 躁とうつの波動に揺れた頼山陽  江戸時代の儒学者、頼山陽は躁うつ的な気分の波によって波瀾の人生を送った人である。  山陽が躁うつの人であったことは一つの定説になっているが、私はもう一つの仮説を考えたい。それはマザー・コンプレックスの存在だ。  山陽の父親、春水は漢学者で、謹厳、細心、完全主義者だった。この性格はほとんど山陽には伝わっていない。山陽の生涯の大半は、この父親への反逆といってよかった。その父親への圧力からの脱却に、山陽の母親が関与しているように思われる。  母親の静子は、浪花生まれのぜいたくなお嬢さん育ち。その都会的な洗練さは春水に合わない。社交的で、華美で、おしゃれな静子と堅物の春水とはまさに水と油の関係だった。 春水の死後、静子は当然の成り行きとして、陽気なメリー・ウィドウとなる。こういう父母の関係から、また、父親と正反対の山陽の性格から、母親の静子と山陽の間に深い心理的な結合が生じたとしても不思議はなかろう。  静子の日記によると、山陽がちょっと熱を出せば、「それ灸よ、それ医者よ」と大騒ぎするし、ちょっと帰宅が遅れると、息子が不良になったのではないかと過度に心配するありさまだった。現在、わが国の至るところで見られる過保護ママの原型を見るようだ。  山陽は十六歳で江戸に遊学したが、このころはきわめて元気がよく、酒と女に入りびたる放蕩少年だった。  十七歳で広島に帰ったが、「鬱症」(父親の言)、「気色よからず」(母親の言)といううつ的な時期があり、そのあと今度は、酒、女におぼれる躁的な時期が来た。十八歳で結婚したが、なお品行はおさまらなかった。  翌年、父親の名代で葬式に行き、そのまま脱藩して京都まで出奔してしまった。その知らせに静子は狂気のようになって心労し、睡眠剤、鎮静剤を必要とした。静子もまた精神的に敏感な人であったことがわかる。  脱藩はお家とりつぶしの重罪であるが、藩では山陽を狂気として扱って、頼家を救った。その背景には、母親静子の並々ならぬ奔走があったようだ。連れ戻された山陽は、廃人として自宅の座敷牢に監禁された。この閉居中に山陽は『日本外史』を書き始める。二十歳であった。そして二十七歳でおおむね完成に近づく。  脱藩という、当時としてはとてつもない行動は、山陽の放蕩による新妻のヒステリー的反応などによって夫婦の間がしっくりいっていなかったこと、また躁的な心理によっても惹起しうる可能性は十二分にあるのである。放蕩、女遊びと躁状態は密接な関連があることも考慮に入れなければならない。  幽閉は、ほぼ三年で解除になった。ところが二十八歳ころには、またまた夜遊び、色街通い、未亡人との交渉など、信義にもとる行為が始まった。しかし、それは二年ほどでおさまり、三十歳になると山陽は全く落ち着き、著述に没頭し、作家としての名声を不動のものにする。しかし、若いころからの大酒、放蕩から肺結核が悪化して、わずか五十一歳で多彩な生涯を終わる。  彼は自我が強く、無愛想、きちょうめんで、少年時代の母親の日記に「疑い多し」とあることから、粘着性性格の存在も推定できるが、一生の間、繰り返された顕著な波動という点から見れば、やはり躁うつ的な傾向を想像しないわけにはいかない。  さらに彼の趣味の広さ、旅好き、行動的、園芸を好み、絵画に熱心、書道をたしなみ、すずりのコレクション、琵琶を好んでみずからも演奏したことなどが、この点を裏づけていると思う。躁うつを基調とし、粘着性性格とマザー・コンプレックスをちりばめたものが山陽の一生だったのではあるまいか。 紙絵の世界にこもった精神分裂病の 高村智恵子  一九二七年(昭和二年)、高村光太郎をして「あなたはだんだんきれいになる」という詩を書かせた高村智恵子に、精神分裂病の徴候があらわれたのは三一年のことだ。アダリン服用による自殺未遂で千葉県九十九里浜への転地の末、症状がさらに悪化して南品川のゼームス坂病院に入院したのは、三五年の二月であった。  病院は海の見える高台にあり、今もゼームス坂という地名が残っている。院長は茂吉より東大四年先輩の斎藤玉男先生であった。院長が斎藤というので、よく茂吉とまちがえられるが、実は別の斎藤なのである。  智恵子の分裂病は、破《は》瓜《か》型という病型に属する。この病型の特徴は、症状の進行が緩慢、症状の中心は内閉性、感情鈍麻、生気がなくなり、独語、空笑(多くは幻聴に起因する)などだが、わき目も振らず、一つの事象に熱中することもある。  私は、ある分裂病者を「鳥博士」と名づけた。飛んでくる鳥の名を図鑑も見ずに当てるのだ。何月何日、何という鳥が飛来し、何という木に止まったなどと書いた大学ノートがぎっしり積まれている。その病人にとって、世界は鳥のみで、他の世界は全く関心のない存在なのだ。一種の天才といってもいい人間だ。  智恵子は肺結核が悪化して、三八年十月、この病院で生涯が終わるまで、実に千数百点の紙絵を作った。智恵子は自分だけの城に閉じこもって、斎藤院長ともついに最後まで口をきかなかったそうである。先のそったマニキュア用のはさみ一丁とのりだけが彼女の友だった。  山形市在住の茂吉研究家・故真壁仁氏は戦時中、智恵子の紙絵を数百点預かっていた。そして戦後、全国に先がけて山形美術館で智恵子の紙絵展を開き、私も真壁氏の案内で初めて見た。症状の進行にくらべて、技巧の進みぐあいが不思議だった。  詩人の故草野心平は「智恵子さんの狂気がなかったならば、現在私たちが知っているような詩集『智恵子抄』が編まれなかったことは確かである。また一方、智恵子さん自身もゼームス坂病院での生活がなかったならば、紙絵による造形美を創ったかどうか、それも疑問である」と言っている。 誇大妄想か、名物患者として君臨した 葦原将軍  どこの病院にも多かれ少なかれ、いわゆる「名物患者」という人がいるものである。  ある年輩以上のかたは、「葦原将軍」という名前を記憶しているであろう。その葦原将軍こそ、名物患者の最たるものだろう。  一農民だった葦原将軍は、茂吉が巣鴨病院に勤めたころ、すでに患者として入院していた。彼は金ピカの大礼服を着用し、謁見料と称して見学者から金をとったり、「お言葉」を与えることで有名であった。その金で、そのころ貴重品であった牛乳やリンゴを恵まれない他の患者に買い与えたりして、まさにボス的存在だった。  茂吉が巣鴨病院の副手であったころ、呉秀三教授の臨床講義の写真が残っているが、呉教授の横に長いあごひげを生やした葦原将軍が大礼服もいかめしく立っていて、学生たちの背後に白衣にハイカラーの茂吉の姿が写っている。  呉教授の後継者、三宅 一教授の『精神病学提要』は一九三一年(昭和六年)に発行されたが、その「妄想」の項に、葦原将軍が車輪のついた大砲の模型の前に胸を張って立っていて、「誇大妄想を有する患者にしてみずから葦原将軍と称し、自作の大砲にて敵軍を攻撃せんとする図」という説明がついている。彼は、このように精神医学教科書の総論の項にはのっているが、各論の項にはのっていない。  そのわけは、彼の受け持ちになった数多くの精神科医たちの診断がまちまちで、精神分裂病、パラノイア、パラフレニーと分裂病と同系統の妄想を主としたもの、躁病、分裂病と躁病の混合状態などと、ついに最後まで結論が出なかったからだ。今日に至っても、なお彼の診断は確定していないのである。  それは、あたかも夏目漱石の診断を思わせるものがある。漱石を初めて診断した呉秀三教授は、早発性痴呆(のちに精神分裂病と改称)の一病型である妄想性痴呆と診断したのであるが、その後、混合精神病説、非定型内因性精神病説、うつ病説など枚挙にいとまがない。天才の精神病は定型でないことが多いといわれるが、葦原将軍はたぐいまれな天才であったかもしれないのだ。  将軍は猫が好きで、生前は二匹の夫婦猫を飼っていた。将軍は参観者に「今般浜離宮に於て重要会議を開催す。汝臣らは朕が意を承認せよ。明治十二年 一月五日 葦原帝」などと書いた勅語を売りつけた。一枚金十銭也だった。その金で魚を買って猫に食べさせていた。  将軍は六畳の病室を一人で占領していた。床の間には勲章のいっぱいついた大礼服や竹製の軍刀、羽根のついた軍帽がかけられ、机上には勅語が数十枚重ねられていた。将軍は他人が部屋に入るのを嫌ったうえ、無精者なので部屋はよごれほうだいであった。  将軍最後の主治医は、私の叔父(母の弟)である斎藤西洋だった。西洋というおかしな名は祖父紀一が外遊中に生まれたからであった。西洋の弟が米国と名づけられたが、その理由はここに書くまでもない。  大陸に戦火が拡大し始めた一九三七年(昭和十二年)一月末、松沢病院にいた将軍は急に元気がなくなって、火鉢のそばにうずくまるようになった。西洋は将軍を寝かせ、足元に湯たんぽを入れさせた。翌日、西洋が「将軍、気分はいかがですか」と耳元で問うたが、将軍はただ唇を動かしただけだった。西洋は将軍の顔を写真に撮った。それから四日後の二月二日、将軍は眠るように死んだ。  前年の病院運動会の仮装行列に、副官を従えて悠然と馬車に乗り、数百人の観客の歓呼にこたえていた将軍の温顔はなく、ただ、しなびた葦原金次郎(将軍の本名)の顔があるだけだった。八十八歳だった。  葦原将軍は実に五十六年もの長い間、巣鴨病院、次いで一九一九年(大正八年)から現在の東京都立松沢病院で名物患者として君臨したのであった。盛大な病院葬が営まれ、世田谷区豪徳寺と埼玉県深谷市東源寺に分骨され、墓が建てられた。  西洋は将軍の脳の解剖所見を学会に発表したが、将軍の精神病を解くカギは何も見つからなかった。  一九年に病院が巣鴨から松沢へ移転したころの葦原将軍に扮した芝居を森繁久弥さんが演じたが、将軍の最後の言葉は「世の中は狂っとる」だった。これは森繁さん独自の台本にないアドリブだったかもしれない。 恋がたきを射殺した早発性痴呆の 石田昇教授  天才と精神病といえば、長崎医専精神科の石田昇教授をあげねばならぬ。  石田教授の米国留学中のいわば留守番役というわけで、茂吉がほぼ二年間の約束で長崎医専に派遣されたが、その二年間が倍にも延びたのは次のような事情があったのだ。  石田昇教授は茂吉より三年早く東大を出た先輩で、若くして多彩な才能を示す(入局三年目に早くも『新撰精神病学』という教科書を出版している)一方、雄島浜太郎というペンネームで小説も書いた文学青年で、感受性の鋭い、かつ繊細な神経の持ち主だった。アメリカ留学中に石田教授が発表した早発性痴呆の治療法は、米国各地の大学で実験された。きわめて評判がよく、そのため米国精神医学会の名誉会員に推薦されるなど、氏の前途は洋々たるものがあった。  だが、ひそやかに不幸が忍び寄っていた。留学先のボルチモアのジョンス・ホプキンス大学精神科でスイス生まれの有名なアドルフ・マイヤー教授に師事していたが、氏がその治療に情熱を注いだ早発性痴呆(今の精神分裂病)に皮肉にもおかされることになったのだ。彼がのちに収容され、一生を送った松沢病院のカルテによると、留学先で、妄想性曲解や被害的幻聴が発生し、一週間おきに何度も下宿をかえたりしている。  見学に行った病院の婦長が自分に恋愛感情をいだいていると思った。しかし、その病院にウォルフというドイツ系の医師がいて、やはり婦長に思いを寄せ、特に自分を敵視して敵対行動をとっていると考えた。おまけに時が第一次大戦後で、ドイツ系米人は敵国の日系人を憎悪していた時代だった。石田はついに短銃で恋がたきを射殺してしまった。  その結果、一九一六年(大正五年)から二五年に至る十年間、ボルチモアの刑務所に収容された。責任能力のない病者が有罪になったのはおかしいが、アドルフ・マイヤー教授が正しく病気を鑑定したのに、ウォルフ医師がいた病院の院長が石田を正常とした判定を裁判所が採り上げてしまったのだという。  その後、日本の精神医学会が熱心に米国側に運動し、病気が治れば再び米国で刑期を続けるという条件で、二五年に送還され、松沢病院に入院した。しかし病はついに治らず、四〇年に六十五歳で亡くなっている。発病以来、実に二十五年の歳月がたっていた。  茂吉は、二九年十一月十四日に松沢病院に石田昇を見舞っている。 精神分裂病の発病の恐怖にさいなまれた 芥川龍之介  ここまで書いてきて、私はかの芥川龍之介を思わざるをえない。  一九一九年(大正八年)五月に芥川は菊池寛とともに長崎にいた茂吉を訪ねてきて、初めて茂吉と相まみえている。芥川は二十八歳で、茂吉の第一歌集『赤光』に大いなる衝撃を受けたと書いた。  芥川は母親が精神分裂病だったこともあり、一生発病の恐怖にさいなまれていた。彼は二一年の中国旅行を機としてみずから神経衰弱を訴えるようになり、不眠のため睡眠剤を常用するようになった。  二六年、症状はさらに深刻となり、幻覚、妄想体験、作為現象(自己の言動が他人によって「させられる」と考える。「させられ」体験ともいう)などの病的体験が目立つようになり、自殺企図もあった。  彼の作品にもあるように、どこまで逃げても黄色いレインコートを着た人が必ず追いかけて出現するという関係妄想を思わせる思考があったり、茅ケ崎での体験で「犬が角を曲がるとき、こちらを振り向いてニヤリと笑ったりする」という了解不能な思考を見せることがあった。茂吉にあてて病状の報告と救いを求める手紙をたくさん寄こしている。  二七年(昭和二年)四月、菊池寛、小穴隆一などに遺書を書いた。五月、広津和郎と彼は、茂吉が院長であった青山脳病院にやってきた。二人は症状が悪化した宇野浩二の「精神錯乱」について茂吉に相談するためにやってきたのであった。そのあと茂吉は宇野浩二を進行麻痺と診断している。親友、宇野の発病は龍之介にとって大きなショックだった。 彼は六月二十日『或阿呆の一生』を書き終え、「では、さようなら」と書き置きをし、七月二十四日未明、田端の自宅で致死量のベロナールとジャールを飲んで死んだ。  死ぬ二カ月前に精神科医の式場隆三郎を交えた新潟高校での座談会で、話題が天才と精神病に及んだあと、「そうすると、精神病など予防どころか大いに賛成すべきですね。斎藤君(茂吉)も自分は早発性痴呆(精神分裂病)になりそうでなどと言っていました」などと話している。二七年三月二十八日付の、茂吉にあてた龍之介の手紙がある。  この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に回転する事あり、或は尊台の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。  精神医学的な天才論は今日まで少なからず出ているが、精神分裂病は天才的人物、知能の高い人物にたくさん出ているという統計もある。分裂病になりやすい人は芥川のような感受性の鋭い、繊細な神経の持ち主である。また、クレッチマーのいう細長型の体型の人が多いという見解もある。  しかし、そういう心身の素質が、彼らのこうした作品に少なからず影響を与えていることは否めないのである。芥川がもし自殺していなければ、ひょっとして何年かのちには彼の創作意欲が峠を越えて、やがて消滅し、感情は鈍麻して鋭さを失い、彼が危惧していたように、精神科病院の中で長い間生活することを余儀なくされたかもしれないのだ。 神の啓示にとりつかれたパラノイアの 女性料理学教授  今から三十年ほど前に某女子大学の料理学の女性教授が、学校当局から休講の処置をとられているのにもかかわらず、七年間も実習室を占拠した。聖室と称して奇妙に飾り立てた中に籠居して学校当局の立ちのき要求を頑として受けつけず、ときには包丁を振り回すなどの行為があったので、実弟の許可を得て入院の措置をとった。そのことがジャーナリズムにとり上げられ、人権問題化して国会法務委員会にまで持ち出されて天下を騒がせた。  その教授は知的能力も衰えず、創作意欲も旺盛で、七年間の籠居中に実に七冊もの著書を上梓している。同僚や学校に対する排他的な態度にもかかわらず、学生には人気があった。その精神内界の異常さは外部からはうかがい知ることはできず、「まあ、あのりっぱな先生を精神科病院に」といった素朴な抗議が目立ったのである。ある新聞は「料理の大家を精神科病院へ」と書いたが、そういうロジックでいけば、ゴッホやユトリロの場合、「大画家を精神科病院へ」入れるのはけしからんということになる。  入院中の主治医は私の友人だったが、彼女の籠居は神の啓示で、「神の為に作られたる此の聖室に独り居て、終日神との会話にのみ生き、神意の伝達者としての使命にのみ生きよ」とか、「聖徳太子、弘法大師の後継者である」とか、きわめて誇大観念、妄想性啓示、宗教的な幻視、幻聴などが見られたのである。  近代精神医学体系をつくったエミール・クレペリンの弟子筋にあたるE・ブロイラーは、「生来、持っている病的素質の上に、ある体験が加わり、それに対する感情的な観察と下界の影響が総合的に作用して、偏った心的傾向が増大発展したもの」をパラノイアと称した。この教授もそれに該当するものと考えられるが、このパラノイアや、それに似たパラフレニーほどわれわれ精神科医を悩ます病気はないのである。  同じ種類の病気に私の父も悩まされ、そしてこの私も悩まされたのである。 第3章 犯罪事件から見た異常性格 犯行動機が了解不能の酒鬼薔薇事件  天下を震撼させた大事件、マスコミを騒がせたのが、「酒鬼薔薇事件」だ。神戸小学生連続殺傷事件である。しかも、逮捕されたのが「酒鬼薔薇聖斗」と名乗った十四歳の少年Aだったので、世人は驚き、とまどったのだ。  神戸家庭裁判所は一九九七年(平成九年)十月、少年Aに対し医療少年院送致の決定を言い渡し、彼は現在、同院において治療と教育指導を受けているはずである。  しかし、世人が納得がいかないのは、少年の犯行動機がいまだ明らかに説明されていないことだ。いや、精神科医による精神鑑定は行われたが、その内容が一般世人にとって「了解不能」の域にとどまっているからだ。この了解不能という点に私はこだわっている。 少年Aの精神鑑定  二人の精神科医による精神鑑定は、脳検査をはじめとする各種医学的検査、心理検査、十二回にわたるインタビュー(面接)などの結果として、九七年十月二日に神戸家裁に提出された。  鑑定書は、一八〇ぺージに上る全十一章から成る前文と二ページの主文から構成されている。私はこれはたいへんな力作だと思う。力作というわけはその背後に大いなるご苦労がひそんでいると思うからだ。そのご苦労についてはあとでふれようと思うが、Aの家族歴、発達・育成、生活歴、非行の状況、心理テスト所見、精神医学的考察など詳細な論述がなされている。最も注目されるのは動機であり、鑑定書は次の五つをあげている。「未分化な性衝動」「攻撃性」「サディズム」「直感像素質者」「虚無的独我論」だ。  正常な分化による性衝動は異性に向けられるのが普通であるが、Aの場合は性衝動の対象が女性ではなく、別の対象に向けられた。それが少年の激越な攻撃性と結合して、対象を抹殺したいというサディズムが形づくられた。性的サディズムだ。  Aはホラー映画の流血シーンや、人体をズタズタに切り裂くシーンを見て、性衝動に駆られた。問診の中でも、Aは「こうした自己の性癖を当然のこと、他人も同じような性癖を持っていると思っていた」と述べているという。  攻撃性は彼の生活歴から形成されたと述べているが、これはさもありなんと思う。つまり、家庭に温かさが欠如し、親の愛情の乏しい環境、親の偏愛傾向の中で、弟をいじめ、その結果、両親から体罰を受けるという悪循環のもとで、少年が自己防衛のために性格形成された攻撃性だった。  この両者が性的サディズムに向かったとしても、不思議ではない。これを性的倒錯と表現してもいい。性的な倒錯には、ナルシシズム(自分自身を愛情の対象とする)、フェティシズム(異性の髪や下着などに強い愛着を持つ)、同性愛、窃《せつ》視《し》症(のぞき見)、服装倒錯(異性の服装をして快感を感じる)、サディズム・マゾヒズム(異性に苦痛を与え、逆に苦痛を与えられて性の満足を感じる)などと多くの種類があって、少年Aの場合、普通の性的な倒錯をはるかに超越した、特殊で強烈なものといっていい。  彼は猫を殺したときに初めて射精したという。ホラー・ビデオの悲惨なシーンを見ては射精をした。神戸のニュータウンに住む小学生(当時十歳)、そしてH君(当時十一歳)を殺害したときも、性的興奮が高まって射精をしている。未分化な性衝動の結果だった。 「直感像素質」とは何か。すなわち、画面ないしは光景を凝視したのちに、時をおいてこれらの画像を目前に知覚するかのようにありありと浮かべることができる現象があり、残像とも異なる場合を直感像と名づけているのである。  直感像は十一歳から十五歳の児童に多く、特殊な素質者に見られるので、これらの人々を直感像素質者と呼ぶのである。彼らはその記憶をいつでもとり出し、再現できる能力を持つのだ。Aはみずから猫を殺したときの映像をありありとよみがえらせ、自己の性衝動を満足させていたのだ。そして、猫でなく、本物の人間を対象にしたいという欲望がしだいに増大していったのである。  最後の「虚無的独我論」は、少なからず行われていた親の体罰の結果、ひょっとすると親が発したかもしれない、「お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ」というひと言が決定的な破断点となって、少年の心をゆがめたかもしれなかった。  自分は無価値な人間という価値感が、やがて他人も無価値な人間と思うようになったのだ。そして生命の価値を無に等しいと思う人間ができ上がった。この「虚無的独我者」が残酷な犯行を正当化した。  以上のような鑑定書を見て、私には、いくばくかひっかかるものがあるのを否定できない。何か隔《かつ》靴《か》掻《そう》痒《よう》の感がある。  鑑定書の中にある「このまま放置すれば……」の一節が気にかかる。このままほうっておけば重大な症状を呈するかもしれないという意味であろう。「熟練した精神科的接近法を要する」とか「分裂病、重症の抑うつ状態」「解離性同一性障害を生起する可能性もある」「少年はこれらの疾患の好発年齢に入る」などの文章があるのは、このおそれを予測しているあかしであろう。 作為や幻聴は分裂病の症状  少年Aの場合、面接状況でも「無表情」「感情の表出なし」などの記載がある。Aの調書を見ると、彼には作為現象、作為経験があるのがわかる。これは、何者かに「操られる」「させられる」という考え方だ。  また、殺人や首切断に際して「幻聴」(実際にはない声や物音が聴こえる)らしきものが存在した。この「作為」や「幻聴」は、精神分裂病に見られる重要な症状である。しかも、分裂病は思春期から発生しやすい疾患である。  精神科の専門医なら、少年Aを診て、真っ先に頭に浮かぶのは精神分裂病であろう。しかし、これを病気と断定すれば精神科病院行きという措置がとられるはずで、これでは被害者の家族や一般大衆は納得しないであろう。  ここまで書いてくると、私の頭に浮かぶのは芥川龍之介である。芥川が精神分裂病圏の人であったのは周知の事実である。彼はまさに秀才であった。  Aの国語の成績は小学校も中学校も1か2であった。だがニーチェやダンテを引用し、反抗に突き進んでいく心境をつづった文章力は、かなり高度のものだった。  Aは書く。「あたかも熟練された人形師が、音楽に合わせて人形に踊りをさせているようにおれを操る」と。作為体験を持っていたことはこの文章でも想像がつく。彼は昔から絵や工作がうまく、美術に興味を持っていた。音楽はチェコのスメタナの交響詩を好み、絵画ではダリの絵が好きだった。愛読書はヒトラーの『わが闘争』。  彼は別の道を歩めば、天才になったかもしれなかった。分裂病は知能の高い人に好発するといわれる。「天才と分裂病」は、専門家たちの間でかねてから大きなテーマであった。  話を芥川に戻すが、前に書いたように彼の思考の底辺に流れるものは分裂病的であり、分裂病によく見られる関係妄想もあった。芥川の作品中の「どこに行っても黄色いレインコートの男が立っている」「自分を見張っている」「飛行機が自宅の上でわざと大きな爆音を立てる」などの記述は、関係妄想のあらわれであろう。茅ケ崎に転地しているとき書かれた作品の中には、「犬がニヤリと笑った」などという文章も見られる。  芥川は分裂病の負因(母上が分裂病であった)を持っていたが、発病の前段階であったか、すでに発病していたかの論争は今も続いている。  少年Aも、芥川と同じような状況、つまりすでに病気だったのか、発病に至るプロセスの中にあったかどうかは、私にもわからない。しかし、鑑定書でもふれているように、精神科的処遇を施すことが必要であることは言うまでもない。 少年Aと分裂病の相関関係  捜査資料にもとづき、もう少し話を続ける。  H君を殺害した少年Aは、胴体から切り離した頭部を池のほとりの木の根元に隠す前に二、三分ばかり「鑑賞していた」が、「思ったより感動はなかった」と言っている。  Aが小学校三年生のとき、ノイローゼになりかけていると医師に言われ、母の過干渉が原因だと注意されたことがある。母親になぐられた彼は泣きじゃくりながら、「(以前住んでいた)社宅の台所が見える」「お母さんが見えなくなった」と口走り、ケイレンを起こし、目がうつろになった。そんなことがあって医師の診察を受けさせたのだが、このことからも彼が敏感体質であったことがわかるし、直感像素質者であることもわかるのである。    また、彼の受け持ちだったある教師は、「協調性の全くない、自分の感情だけで生きていく、異質な生徒だった」と感想を述べている。学校の授業も、前に述べたように、美術や国語以外には全く関心を示さず、自宅に戻れば宿題もほったらかして自室に閉じこもり、ノートにはお化けや意味不明のイラストなどを描いていた。  彼が好んだサルバドール・ダリもまた、直感像素質者であった。Aは徹夜で一晩のうちに百人一首のうち八十首の上の句、下の句を記憶したと親は語っている。たぶんAは記憶力のよさ、というよりも映像として覚えていったのではあるまいか。  服装にも全く関心がなく、流行にも若者らしい関心を示さず、一度着た服はよごれていても着替えようとしなかったそうである。感情の鈍麻がうかがえる。  少年は次のように書いている。 仮定された「脳内宇宙」の理想郷で、 無限に暗く、そして深い防臭漂う心の独房の中…… 死霊の如く立ちつくし、虚空を見つめる魔物の目にはいったい、 “何”が見えているのであろうか。 俺には、おおよそ予測することすらままならない。 「理解」に苦しまざるをえないのである。  了解不能な内容の詩のような文章であるが、普通の十四歳の少年にはなかなか、こうは書けないだろう。直感像素質者は天才に多いという。ダリを天才とすれば、Aも天才の範疇に入るかもしれない。芥川龍之介を天才とすれば、Aもまた天才かもしれない。ただ一方は芸術面の大仕事を後世に残し、Aは負の面でその存在を後世に残すことになった。  鑑定書に書かれているように、「衝動がついに内面の葛藤に打ち勝って自己貫徹した」のがAの犯行だったのである。  精神分裂病という病は二十世紀初めにその名が登場し、そして今日に至るまで難解な病気であるが、刑法犯総数に対する分裂病者の比率は〇・一パーセントで、そう高くはない。だが、殺人や放火など重要な犯罪に限ってみると、一般よりも高くなる。そのきっかけは、分裂病的思考、妄想、幻覚に左右されて犯罪に及ぶことが多いのである。  やはり私は、Aと分裂病の相関関係にこだわりを持つ。鑑定に当たった精神科医もおそらく、内心はそういう思いにこだわり続けたのであろう。しかし、諸般の事情から隔靴掻痒的な鑑定書になったのだと思うのだ。  彼が医療少年院送りになり、治療と教育を受けるという処理を、私はいい決定だったと思っている。放置すれば症状の悪化は避けられないと思うからである。 犯行時の精神状態が焦点の宮崎勤事件  少年Aの事件に次いで思い出すのが宮崎勤事件である。これは一九八八年(昭和六十三年)の事件だから、すでに十三年も経過していて、今なお控訴審が続いているので、軽々しく批判することは避けたい。  埼玉、東京で八八年から八九年にかけ、四歳女児二人、五歳女児一人、七歳女児一人を次々と殺害し、誘拐、殺人、死体損壊・遺棄などの罪に問われ、一審で死刑が言い渡された宮崎勤被告(三十八歳)に対する控訴審の第一回公判が、九九年(平成十一年)十二月二十一日に開かれた。  一審判決に対し、弁護側は「犯行時、被告は心神喪失または心神耗《こう》弱《じやく》の状態だった」として、死刑判決を破棄するよう主張した。これに対して検察側は被告側の控訴棄却を求めた。  ご存じのように、一審の東京地裁は「人格障害は存在したが、精神病的状態ではなかった」とする鑑定を採用した。その他、二つの精神鑑定が行われ、「多重人格(解離性同一性障害)などヒステリー性症状を主体とする精神病」と「犯行時は、精神病に罹患していた」などとする鑑定を退けていた。  一審は被告に責任能力ありとの判断であったが、控訴審でも刑事責任能力の有無が最大の争点になると予想される。同時に弁護側は新たな再鑑定を行うべきだとして再鑑定を要求している。  控訴審の当日の状況について、新聞はこう報道する。  裁判長の人定質問にボソボソと答える宮崎被告。舞台が東京高裁に変わっても「被告不在」の法廷は変わらなかった。相変わらず無表情で、ただ目の前の便箋に何かを書く被告。裁判長に本籍や住所を尋ねられても「意味がわからない」「もう一回言って」などと言うだけ。弁護側が控訴趣意書を朗読する間も気にする様子もなく、ほおづえをついて、まるで寝入っているようだった。  拘置所の独房で自分の周りを囲むように本を積み上げ、その中で生活しているという宮崎被告。自宅でビデオとマンガに囲まれて生活していたときの様子と変わりないようだ。 多重人格を生みやすい解離 「解離」という言葉が出てきたが、これについて少々説明する。解離とは強い情動体験によって、意識あるいは人格の統合性が一時的に失われる状態をいう。解離性障害は、心的外傷や、解決不能な耐えがたい問題などと関連がある。心因的な二重人格や多重人格を生みやすいのだ。  宮崎勤事件の特異な点は、遺骨の一部をダンボール箱に入れて遺族宅に届けたり、「今田勇子」なる名前で犯行声明文を新聞社や遺族宅に送りつけたりした点である。この点は少年Aとはなはだよく似ている。  宮崎容疑者は、「体が不自由なので結婚もできず、子どもも持てないので女の子を見るとむしょうにほしくなりました。殺せば好きな女の子をそばにおいておける」などと言っている。  いまだ結審していないから、断定的なことは言えないが、ヒステリー性格と分裂性性格が基礎にあって、その上に多重人格を持ったヒステリー性症状と精神分裂病が混在した状態と見るのが妥当な線ではないだろうか。  二〇〇一年六月、東京高裁で控訴審の判決公判が開かれ、死刑を言い渡した一審・東京地裁判決を支持し、「犯行当時、完全な刑事責任能力があった」「まれにみる凶悪非道な連続犯罪で、無慈悲かつ残忍。きわめて自己中心的、計画的な犯行」として、被告側の控訴を棄却した。弁護側は上告する方針を明らかにしている。 平気でうそをつく和歌山毒物カレー 事件の被告  和歌山の毒物カレー事件も天下を騒がせた犯罪だった。この事件もまだ係争中であるから軽々しい結論を出すわけにはいかないが、特に事件の主役である林真須美なる女性に、世人の関心が集まったのも当然であろう。  和歌山市の毒物カレー事件と保険金詐欺事件で、殺人と殺人未遂罪などに問われた元保険外交員の主婦・林真須美被告(四十歳)と、詐欺罪に問われた夫の健治被告(五十六歳)の初公判は、一九九九年(平成十一年)五月十三日に開かれた。  検察側は、ヒ素混入直前に真須美被告が「近所の主婦らの対応に反感をいだき、激昂した」と指摘し、またカレーに混入されていたヒ素は最大で一〇〇〇人分の致死量に当たる一〇〇グラム以上で、夏祭りに参加した住民すべてを対象にした無差別殺人だったと判定し、事件当日の地域の主婦らとのやりとりを契機に、地域住民に対する恨みが噴出した衝動的な犯行とした。  犠牲者四人と被害者六三人を出したこの大事件に対して、彼女は「私は全く関係ありません」と述べたとき、報道関係者や傍聴人席から大きな反応がわき上がった。  法廷で七カ月ぶりに夫婦が再会したとき、夫の健治被告が懐かしそうに真須美被告に視線を向けたにもかかわらず、彼女は目を合わせようともしなかったという。  夏祭りのカレーの調理に自宅のガレージを提供した飲食店主は、真須美被告が「やっていません」と言うのを聞き、「この野郎」と怒りをあらわにしたという。  一方、保険金詐欺に関してはあっさりと認めている。彼女は大手生命保険会社の保険外交員として勤めていたが、九七年、同社を退職してからは無職となり、夫健治もシロアリ駆除業を廃業して無職となった。  以後、二人の収入は保険金詐欺に頼るようになり、夫婦、家族のほか、知人、健治の従業員やマージャン仲間の名義を無断借用して保険契約を結び、真須美被告が主役となり、巨額の保険金をだましとっていた。健治被告が下半身マヒで入院したときは一億七三〇〇万円、ヒ素中毒で入院したときには一億六一〇〇万円、実母が死亡した翌年には一億七一〇〇万円をだましとっていた。すべて真須美被告の悪知恵が働いていたのである。  真須美被告にはうそが多いことは万人が認めるところで、ヒ素に関しても実兄に口止めの電話をかけ、隠ぺい工作をしていたこともわかっている。彼女は、逮捕前の取材者に「ヒ素なんて知りません」と言ったり、実兄に電話して、「警察の人が来て、『前にヒ素を使っていたか』って聞いてきたけれど、私は見たことも聞いたこともない言うたら、すぐ帰った」とうそをついた。  実兄はヒ素を隠していると警察に疑われると思い、ドラム缶のヒ素などを和歌山東署捜査本部に任意提出。預かった衣装ケース内にもヒ素があることに気づき、これも任意提出している。  逮捕されるまでに、彼女の言動はさんざんテレビなどの画面に登場しているが、絶えず報道陣にとり巻かれているのをむしろ楽しんでいるように見えた。すぐわかるうそを平気でついている。ニコニコと笑い、自己を誇張しているかと思うと態度がガラッと変わり、報道陣にホースで水をかけたりする。怒ると自分をコントロールできないようであった。  言動がすべて自己の感情にそのまま支配されているかのように見えた。すべてが自己を中心に動いていると、彼女は無意識のうちに思っているのだろう。  自己の利益のためには夫を平気で捨て去るような女性であった。夫に対して「死ね」などという言葉を発して、良心の呵責を感じない女性であった。 ヒステリーという病気  ここまで書いてきて私の頭に浮かんだのは、例のロス銃撃事件のMという人物だ。彼もまた自己の感情に左右されやすい男で、多くの報道陣にとり囲まれ、追いかけられるのをむしろ楽しんでいるように見えた。  二人とも、その場での話題の中心人物、クイーンであり、キングでなければ自己満足できない人間であった。もし仮に、周囲が彼らを完全に無視し、一人の報道陣もいなくなったらどうかを想像してみる。おそらく、彼らは何事かのパフォーマンスで世間の耳目を自分にひきつけ、再び大きな関心を持たれるような行動を展開するのではないだろうか。  ここで注目するのは、ヒステリーという言葉だ。  ヒステリーという病気は心因性の病気である。ジークムント・フロイトはヒステリーの本質を「疾病への逃げ込み」だとしている。ヒステリーは疾病へ逃避することによって、自己を防衛し、なんらかの利益を得るのだという。疾病への逃避は無意識下に、または半意識下に行われる。これが意識的に行われれば病気とは言えない。仮病(詐病)になる。  ヒステリーという病気は運動麻痺、ケイレン、感覚麻痺などの身体症状、意識障害、記憶喪失、朦《もう》朧《ろう》状態などの精神症状を呈することで、心の葛藤から逃避し、自己の心的欲求を代償的に満足させる状態をいうのだ。  ヒステリーという病気の基礎になるのが、ヒステリー性格と呼ばれる性格であることは前に書いた。この性格の中心は自己中心ということができる。くやしがりやで、負けず嫌い、自分が中心でないと気がすまず、流行を追い、自己を誇張する、言動がドラマチックであるなどがこれに伴う。負けず嫌いだから勉強はする。努力もする。したがって、トップクラスまで上りつめる。  しかし結局は、人のことを考えず、自己中心的であることがわかり、人々がしだいに離れていく。こういう人は利害関係さえなければつきあっておもしろい。言動が演劇的であるから愉快である。しかし、ひとたび利害関係、敵対関係が生じるとこわい相手になる。しっぺ返しを食う。おおげさにいえば、食い殺されるのだ。  こう書いてくると、ヒステリー性格は箸にも棒にもかからぬ悪いところばかりのようだが、どんな性格もいいところと悪いところの双方を持っている。ヒステリー性格のいいところは危機に際して強い、ということだ。人が、そして国がどん底からはい上がるときに、この性格が大いに役立っていることを歴史や生活歴が証明している。 家庭内暴力が発端の金属バット殺人事件  一九九六年(平成八年)十一月、二年間にわたり、家庭内暴力を繰り返した中学三年生の長男(当時十四歳)を自宅で、金属バットでなぐり殺し、殺人の罪に問われたK被告(五十三歳)に対し、東京地裁は懲役三年(求刑五年)の実刑判決を言い渡した。  裁判官は「将来に希望と可能性を秘めた息子の命を一瞬にして奪った結果は重いが、一人で暴力を受け止めていた被告の苦しみは本人でなければ容易に知ることができないほど大きく、犯行に至る経過及び動機には同情すべきものがある」と述べた。  さらに、「被告は暴力を深刻に受け止め、転職までして長男との意志疎通をはかるために多くの時間をさき、専門家に相談して助言を受けるなど、長男の苦しみを自分のものとしてともに生きようとしていた」とも述べている。  家庭内暴力の原因の可能性の一つとして、判決は、「長男が幼いころから感受性の強い子どもで、学科の勉強や新しい課題などを思いどおりに処理することができず、中学入学後も不安感が高まって情緒不安定になっていたと指摘できるにとどまる」と述べた。  さらに、「暴力の原因の一つが被告の家庭内にあった可能性が否定されるものではないが、被告自身が自覚しなければならなかったような明らかなおちどはなかった。犯行の動機になった暴力の原因について被告を責めるのは酷だ」と判断した。  弁護側は「被告は二年間にわたり暴力を受け続けており、ストレスが極限にまで達していた。犯行時の精神状態は心神耗弱状態だった」と主張している。これに対して判決は「正しい判断力はある程度低下していることは否定できないが、物事の是非善悪を区別してそれに従って行動する能力が著しく低下していたとまでは言えない」と弁護側の主張を退けている。  長男が中学一年のころに始まった暴力に苦しみ、本を参考にしたり専門家の助言を受けるなど、暴力に抵抗せずに改善をはかろうとしたが、二年たっても改善の兆候は見られなかった。暴力が原因で長女と妻が別居していき、九六年から二人だけの生活になった。  同年九月ごろから、被告は自分か妻がいつか長男に殺されるかもしれないと恐怖を感じるようになり、もし長男を殺す場合にはひと思いに殺そうと思い、金属バットを購入し、同年十一月六日の朝、寝ている中学三年生の長男の頭を金属バットでなぐったうえ、なわ跳びのなわで首を絞めて殺害したのであった。  さて、いわゆる「家庭内暴力」とは何か。  一九七七年(昭和五十二年)に家庭で暴れる息子を父親が絞め殺し、その翌年に母親があと追い自殺をするという「開成高校生殺人事件」以後、家庭内暴力という言葉が使われるようになった。怒声、罵詈雑言などの言葉の暴力。物を投げる、ガラス、家具を壊すなどの物品破壊。なぐる、ける、突き飛ばす、土下座させるなどの身体的暴力。こういう状況の相談を受けた精神科医は少なくないはずである。  家庭内暴力と不登校が共存していることが比較的多いことは、われわれの経験しているところだ。ここで注意すべきは心の病と合併しているケースもあるということだ。たとえば精神分裂病、テンカン、精神遅滞などだ。これらの場合は治療をしなければならない。家庭内暴力というと、親子関係などの心理要因のみに目を奪われがちであるが、こういうケースがあることも念頭において対処すべきである。  最近、少年の殺人犯が「頭の中の声をなんとかしてくれ」と言っているという報道があったが、これは明らかに「幻聴」を思わせる言葉である。  家庭内暴力は「よい子の家庭内暴力」と言われるように、暴力を起こす前はよい子であることが多い。きちょうめんで、完全主義者で、教師や親の意向を先取りして行動する、聞き分けのいい子であるが、友達が少なく、消極的であることが目立つ。それは自己中心的であることにも通じるのである。  私の経験からすると、家庭内暴力者の父親もきちょうめんで、完全主義者的な人間が多いようだ。しゃべり方も理路整然と、一つのよどみもなく話す人が多い。家庭内暴力者とキャラクターが似ているから、正面衝突してスパークが飛ぶのは当然であろう。  一方、母親は不安、取り越し苦労型の神経質性格者が多いようだ。しかも、わが子に対して過保護、過厳格で、子どもが腹が痛いと自分も腹痛を感じるという情緒過剰な母親が少なくない。子どものあと追い自殺をする母親は、その典型である。  こういう子どもたちは、思春期までは聞き分けのいい優等生であるが、思春期に入って自立的な行動を求められるようになると、いわゆる不適応な行動を呈するようになる。それは、これまで聞き分けのよかった子どもの自己主張、反抗、自己防衛と考えることができる。 むずかしい暴力者の入院  われわれのところに親たちが子どものことで相談に来ることが多い。親は本人を連れてくることを第一に考えるようだが、むろん本人は親の言うことを聞かないから、その機会はなかなかやってこない。そして対処や治療が遅れ、手おくれになることがある。そうならないためには、まず親が単独でいいから病院に早くやってくることだ。本人不在でも親のインタビューでその対処法が発見できるかもしれないからだ。  こういうケースを扱っていて、母親が子どもを「ちゃん」づけで呼ぶのを聞く。高校生や大学生、社会人になった息子を「○○ちゃん」と呼んだら、ほぼまちがいなく、過保護、過干渉、情緒過多の母親と思っていい。「ちゃん」はせいぜい幼稚園までで、それ以上は「太郎」「一郎」と呼び捨てにするのが普通の姿ではあるまいか。  家庭内暴力は精神障害を伴うものであれば、正確な診断のもと、精神障害の治療を優先すべきなのはもちろんであるが、「受診や入院などの方策もあったのではないか」という東京地裁の裁判長が加えた被告の対応批判は、精神科医療の現場を知らない素人の発言である。今の制度のもとでは、入院させることがいかにむずかしいかを知らない発言である。入院の前に、人権優先の思想が大きく立ちはだかっているのだ。  人権を濃厚に織り込んだ法律がある。われわれはそれに従わざるをえないのだ。それでなくとも暴力者は他罰的(何事も人のせいにする)で反抗的であるから、親が入院させるといってもそう簡単には従わないだろう。第一、親が施設に相談しに行ったと聞けば、激昂して親にさらなる暴力をふるうに違いない。昔のように強制的に入院させることなどとうてい不可能なのである。  たとえ、やっと入院させたとしても、本人が「退院したい」と言えば、七十二時間のうちに本人を説得せねばならない。精神障害の場合、現在は主力は薬物療法であるが、本人は薬を拒否することが多いから、なおさら実施不可能である。  精神障害合併の場合はまだいい。これが純粋に心理的要因によって発生した場合、来院するのは主として親(本人は来たがらない)であるし、親たちは自分のやっていることが最良と考えているから、なかなか当方のアドバイスに乗ってこない傾向がある。  したがって、心理療法は時間がかかることを覚悟しなければならない。親が、そして周囲ががまんを重ねているうちに、子どもは年をとり、考え方が主観的から客観的に変わっていく(ふつう、子どもから大人へ変化していくにはこの経過をとる)かもしれない。  その間を待ちきれないでついにキレてしまったのが、「金属バット殺人事件」の父親であった。  私はこの父親の苦悩に同情を禁じえない。妻も娘も身の危険を感じて家を出て、父親一人が長男の暴力と日夜、真っ向から直面せざるをえなかったのだ。しかも、父親の悲劇は彼自身の持って生まれた性格の中にもひそんでいた。  彼の性格の中心を占めたのが、粘着性性格だったと思う。物事を四角四面に考えるような正義感があって、礼儀正しく、がまん強いが、ある程度を越すと猛然と爆発しやすい性行が見られる。つけ加えれば、本業以外の趣味がなく、ジョークがわからない、要するに超まじめ人間ということがいえよう。  この性格は、けっして珍しい性格ではない。実は日本人に多い性格なのだ。事実、私の父、茂吉も粘着性を中心にして、神経質、内閉性をあわせ持った性格だった。かんしゃく持ちで、よく激怒した。しかし、粘着質が文学活動に開花した。分水嶺と同じで、同じ水源から流れ出た水が一方は「正」のほうに作用し、一方は「負」の道をたどるのだ。 次々と発生する精神科関係の事件  世紀末に凶悪な事件が次々と発生して世間の耳目を集めた。  一九九九年(平成十一年)九月には山口県下関駅で、車が突っ込み、通行人七人をはね飛ばし、車から下車した男(三十五歳)が二階のプラットホームに駆け上がり、持っていた包丁で男女を次から次と刺した。被害者一五人のうち五人が死亡し、十人が重軽傷を負った。警察の調べに対し、被告は「何をやってもうまくいかず、社会に不満があった」とか「だれでもいいから殺してやろうと思った」などと述べたという。目撃者によると、男は笑いながら車を運転していたそうだ。  男は前年三月から下関市内の精神科の病院に通院しており、前日にも診察、投薬を受けているから、精神科と関連のある事件であることはまちがいない。当然、精神鑑定が行われるであろうから、その鑑定を待たなければならないが、この種のいわゆる「通り魔事件」は、覚醒剤中毒と関係があることが少なくないことを申し添えておく。  九九年七月の全日空機ハイジャック、機長刺殺事件もまた社会に大きな衝撃を与えた事件である。犯人は一橋大学を卒業後、就職したが社内で人間関係がうまくいかず、仕事上の失敗もあり、家族に無断で退職し、日本各地を放浪、その間三回も自殺未遂があった。  自宅に戻ったあと、両親のすすめもあり、三カ所の診療所、一カ所の病院(いずれも精神科)の診察を受けているから、これも当然、精神科関係の事件であるが、精神鑑定に回されるであろうから、今はうんぬんできない。ただし新聞報道によると、精神科の診察は「人格障害」であったそうだ。 大阪・池田小学校の児童殺傷事件  二〇〇一年(平成十三年)六月八日、大阪府池田市の大阪教育大学付属池田小学校に出刃包丁を持った男が乱入、一、二年生児童と教師の計二三人が被害を受け、うち一年男児一人、二年女児七人の計八人が胸や腹を刺されて死亡、児童七人と教師一人が重傷を負った。犯人は宅間守という三十七歳の男だった。  宅間容疑者は九八年三月、別れた妻をなぐった傷害容疑、九九年三月、伊丹市立小学校の技術員だったとき、同僚に精神安定剤の入ったお茶を飲ませたとして逮捕、九九年十一月には住居侵入容疑で再逮捕されている。精神安定剤混入事件では、西宮市の精神科病院に措置入院。その後、この病院への入退院を繰り返す。  二〇〇一年五月、医師のすすめで四度目の入院をしたが、一日で退院。医師は通院を指示したにもかかわらず、来院しなかった。二〇〇〇年九月、大阪のタクシー会社に入社したが、客とのトラブルを起こして翌年解雇。同年十一月、運送会社にトラック運転手として入社後、間もなく解雇された。  興奮しやすく、対人関係不如意、空笑、独語も認められ、診断は精神分裂病だった。本人は「何もかもいやになり、どうでもよくなった。エリート校の子どもを殺せば死刑になると思い、やった」などと供述しているという。  この事件直後、マスコミの論調は、われわれが以前から考えている方針の応援団のようだった。しかし、時間がたち、興奮がおさまったころが心配だ。  わが国には犯罪を犯した精神障害者の処置として措置入院というものがある。警察からの通報により、精神保健指定医二人が鑑定、二人の意見が一致して初めて強制収容が認められる。そして放火、殺人などのおそれがなくなったと主治医が判定すれば措置解除、やがては退院、社会復帰となる。ただし、あくまでその時点での判定で、全人格的な判定ではない。正直のところ、過去に重大な社会的要素がなければ、どうしても甘い判定にならざるをえない。  しかし一〇〇パーセントでないにしろ、将来、再犯のおそれが予測される場合、社会の安全を守るため、普通の精神科病院以外の施設をわれわれは考えていた。西欧の国々ではみなそうした施設を持っている。私はアメリカ、英国、オランダなどの施設を見学したが、高い塀などによって社会から隔離されているものの、一歩中に入ると花が咲き乱れ、生活環境もまあまあで、治療設備も高水準である。  昔、わが国では「保安処分」、のちに「治療処分」と称していたが、その名称はともかく、わが国にも西欧諸国のような施設がほしいと考え、何回か会議を開いたが、強力な反対にあい、その構想はつぶれて現在に至っている。その反対グループはいわゆる人権派の弁護士や一部の精神医療従事者たちであった。  われわれは会合のたびにそういうグループになぐり込みをかけられ、しまいには会合場所も秘密にせざるをえない状況だった。たとえば何駅の前に集合し、そこで初めて会合場所を指示するといったあんばいで、その後「保安処分(治療処分)」という言葉は禁句同然になった。  英国その他の諸国では、犯罪を犯した人は、たとえ精神障害者でもきちんと裁判を受けることになっており、退所の場合でも、精神科医と裁判官の両者がタッチすることになっている。いまのわが国の制度ではどうしても甘い判定が下されるおそれがある。  人権を重視するのは近代国家としてあたりまえであるが、わが国の場合、人権が偏り、偏在していることは、幅広い考え方を持つわれわれ良識派の最も心配しているところだ。亡くなった子どもたちの霊は必ずやわれわれの望む方向に進むことを祈っているであろう。  小泉総理も池田小学校児童殺傷事件に関連して法の見直しを指示した。日本は何か重大な事件が起こったり、外圧がないと改革できないお国柄であるが、この不幸な事件をバネにして、改革への第一歩を踏み出してほしい。「鉄は熱いうちに打て」のことわざどおり、ほとぼりの冷めないうち、マスコミの論調が冷めないうち、反対派の台頭のないうちに、だ。わが国は国際社会の一員なのだ。国際的に孤立してはいけない。  そういう施設を造り、法の整備をすることが、「精神障害者は危険」という誤った観念を打破することに通じる道になるのだ。 第4章 何が異常を引き起こすのか 夏樹静子さんの『椅子がこわい』  日本ミステリー界の旗手、人気作家である夏樹静子さんが『椅子がこわい』(文春文庫)という本を書いた。サブタイトルには「私の腰痛放浪記」とある。  夏樹さんは、この本のまえがきに次のように書いている。  私は、一九九三年一月から約三年間、原因不明の激しい腰痛と、それに伴う奇怪とさえ感じられるほどの異様な症状や障害に悩まされた。考えられる限りの治療——最後に、どうしても最後まで信じられなかった唯一の正しい治療法に辿《たど》りつくまで——を試みたが、何ひとつ効なく、症状はジリジリと不気味に増《ぞう》悪《あく》した。私は心身共に苦しみ抜き、疲れ果て、不治の恐怖に脅かされて、時には死を頭に浮かべた。……   なにぶん、真暗闇で脱出不能の森の中に踏み迷ったような精神状態で、肉体的には坐ることもできず、横向きに寝て、ボール紙に貼りつけた原稿用紙に書き綴った文章には、今読み返してみると、理解できないくらいにおかしな箇所も多々ある。「この記録は、もしかしたら私の遺書になるかもしれない」という書き出しからして、すでに相当平静を欠いた心境がうかがわれるのだ。……  夏樹さんは学生時代から結婚するまでは、テレビ・ドラマのシナリオを書いていたが、結婚して五年後、一九六九年(昭和四十四年)、現在のペンネームで小説を書き始める。まえがきにもあるように、家庭でも、車の中でも、旅客機の中でも、腰痛のため椅子にすわることができず、横になっていることが多かった。  九三年の腰痛襲来の前にも、耳鳴り、腹痛、腸閉塞(手術)、眼の痛み、眼精疲労などに悩まされたこともあった。  九三年一月二十日、腰がだるくて腰かけることができず、立ち上がってしまった。これが腰痛の初発だった。一カ月後、東京(夏樹さんの自宅は福岡)のホテルで、椅子に腰かけているのがつらくなり、ソファに正座すると楽だった。腰をかけるのがつらいので、列車旅行もキャンセルした。  以来、「考えられる限りの治療」を試み、日本各地を「青い鳥」をさがし求めて転々とする生活が始まる。しかし、その間も、出版社からの仕事の攻勢はやむことを知らない。  鍼灸、低周波、手かざし療法、水泳、水中歩行、気功、カイロプラクチック、野菜スープ、漢方療法、ペインクリニックなど、夏樹さんが試みた治療は数多い。  医学的にも整形外科、眼科、内科、婦人科、精神神経科、東洋医学科、ついには心理学科まで受診したり相談したりしている。  その間、名作『デュアル・ライフ』も書き、文学賞選考委員を務めるなど席をあたためる暇もない。立って原稿を書くために、図面台(トラフター)まで作らせた。会食の席でも五分とすわることができなかった。 心因性疼痛障害  かくして三年の放浪の末、心療内科のH先生と出会い、九六年一月、同先生が副院長を務める南熱海温泉病院に入院する。  H先生から「心身症です」と告げられたとき、夏樹さんは「そんなバカな」と信じることができなかったが、森田療法(一九一九年ごろ、慈恵医大の森田正馬教授によって開発された心理療法)や絶食療法(十二日間、それに復食期五日間)を施行するうちに、夏樹さんの心の中に、ある目覚めのようなものが兆し始めた。  夏樹さんの性格特徴は「合理性が強く、協調性が若干落ちる特徴から、合理主義者でやや自己中心型の性格傾向がある」と出た。そして診断は「心因性疼痛障害」であった。  病院側として注意すべきことは、「患者は著名な作家(夏樹静子)と主婦(出光静子)という二つの顔を持っている。当院としては、主婦・出光静子としてとり扱うこと」だった。人格の大部分を占める夏樹静子さんをスパッと切り捨てること、それが治療の原点だった。  腰痛がなだらかなスロープを描いて快方に向かっていったのではない。インフルエンザや腸チフスの発熱と同じように、循環的に軽さと重さを繰り返している。腰痛の出現のたびに、心因を否定し、治療者を攻撃するエネルギーが夏樹さんの中に出没した。  入院前にも、H医師と夏樹さんの間で、ファクスのやりとりが十九回もあった。最初は心因などまるで耳を貸さなかった夏樹さんが、いつの間にか「心因か否か」という疑問に正面から向かうようになっていた。  入院中、H医師の質問に夏樹さんはすなおに答えた。「これほど洗い浚い、自分のことを人に話した経験はいまだかつてなかった」と夏樹さんが書いているように、そういう雰囲気がいつの間にかH医師との間にかもし出されていた。 疾病逃避による心身症  ある日、夏樹さんはH医師から、「典型的なワーカホリック(仕事中毒)ですね」と言われ、初めて「疾病逃避」という言葉を聞いた。さらに、「夏樹静子という誰にでも知られた大きな存在を支え続けることに、あなたの潜在意識が疲れきって耐えられなくなっているのです」とも言われた。 「夏樹という存在を葬ることです。夏樹静子のお葬式を出すのですよ」「百パーセント出光静子として生きていく覚悟を決めて下さい」  絶食療法中も相変わらず痛みは波状攻撃でやってきた。絶食療法の後半に入ってもなお激痛がやってきた。だまされたような憤満がストレートに医師に向けられる。  私は、この絶食療法が夏樹さんの病に直接効果があったとは思わない。ただ、治癒へのきっかけになったことは確かである。  H医師はこう言っている。 「あなたみたいに思い込みが強く、心身相関の認識もうすく、一般的な説明、説得ではとても受けつけないような人には、その凝り固まった頭を柔軟にして、他人の話に素直に耳を傾けさせるために絶食療法しかないと考えていました」  十二日間の絶食療法が終了し、五日間の復食期間が終わってもなお痛みは押しかけ、終日、鈍痛が続くこともあった。  しかし、H医師は「病気の本態は筋肉弱化ではなく、疾病逃避であること。その解決には夏樹静子との別離が必要であること。そして出光静子として有意義に生きること」を根気よく説き続けた。  やがて痛みが少しずつ間遠になっていった。二十四時間から三十六時間くらいおだやかな時間が続き、ある日、十分か十五分間、ベッドに正座して先生と対話することができた。痛みはときどき出没したが、痛みと共存するという気持ちで行動するように努めた。  禁止されていた電話が解禁になると、出版社へ次々と「一年間全面休筆」という表現の電話をかけた。睡眠剤なしで眠れるようになった。  三月九日、めでたく退院。翌日、福岡まで飛行機の椅子にもきちんと腰かけて飛んだ。  疾病逃避という用語はFlucht in die Krankheit というドイツ語の直訳だが、ある病的な状況に没入することによって、他人から同情をひき、休養欠席を正当化し、ときには生命を救うために発生する状態をいう。  登校したくない小学生が登校時間になると、発熱や腹痛や下痢を起こして不登校を正当化したり、戦時下の兵士が種々の症状を発症することによって兵役を免除され、安全な後方病院に入院して生命を保持したり、高齢者が病症を過大に誇張して家族、友人の同情をひこうとしたりするメカニズムである。  夏樹さんのケースは、H医師の診断どおりの「疾病逃避」による心身症(心身相関の病)といっていい。夏樹さんは自分でも述べているように、完全欲が強く、絶えず向上を望み、せっかちで気ぜわしい性格(ワーカホリックになりやすい性格)で、次々と押し寄せてくる原稿注文や社交に対処しきれなくなり、これ以上仕事を引き受けると身が危ないという危機意識(むろん無意識下である)が腰痛となって出現したのである。  強烈な痛みや椅子にすわれないという自覚症状は、明らかに仕事拒否を正当化する人間の自己防御のあらわれといっていい。さらに夏樹さんの性格と、インテリにありがちな、すべて自己の学問的な分析によって結果を予測してしまうという悪い面とが症状を長引かせているのだ。  言葉は悪いが、インテリほど病気の治りが悪いと言いうる。学識がじゃまをして、すなおさに欠けるからである。単純で、すなおな町のおかみさんのほうが病気の治りが早いともいえるのだ。むろん例外はあろうが。 ある放送作家の疾病逃避  五十歳の放送作家の、こんなケースもある。  彼は流行作家といってよく、次々と注文が殺到する。本人はおとなしい人柄で、注文を断りきれない。必死になって仕事をこなす。徹夜が続き、休日もなく、プライベートな時間も全くない。飛行機や列車でも原稿を書かねば間に合わない。まさにワーカホリックそのものである。  雑誌の仕事なら、まだやりようがある。理由をつけて休載も可能だからだ。「サザエさん」の長谷川町子さんは健康上の理由で、しばしば休載した。  だが放送となれば、そう簡単にはいかない。他の番組との兼ね合いもある。あらかじめ発表されることもある。ドラマの場合、多くの配役の人々の手配もある。多忙なタレントや役者の時間の調整も気の遠くなるような仕事だ。  その中心になる脚本家は、個人的な作家とはそのプレッシャーだけでも質が違う。適当に避けることができるほど単純ではない。しかも仕事が次々と押し寄せる。本人は「ノー」と言えるほど気が強くない。  ある時点で、彼はなんとなく文字がスムーズに書けないことに気づいた。終日、ほとんど休むことなしにペンを握っているのだから、当然、筋力、握力、筋肉弱化が考えられる。休養をとりたいが、例によってワーカホリックから逃れることができない。  そのうち、ペンを握る手に痛みを感じるようになった。それでも彼はペンを握る日が続いた。さらにペンを握ると、ケイレン性の硬直と耐えられないほどの疼痛が襲ってくるのだった。当然のことながら、彼は原稿用紙に文字を書くことが不可能となった。  彼がそういうせっぱ詰まった症状を持って私のところにやってきたのはその時点だった。くわしく話を聞き、性格調査、整形外科的検査をしたあげく、私の診断は「疾病への逃避」だった。むろん無意識下ではあるが、これ以上仕事を強制的に続ければ、彼は心的、肉体的に破断点に到達し、生命さえ危険にさらされるという危機を予想させる状況を、彼のレーダーが感じとっていたかもしれない。  彼の話の中に、私は入院願望を感じとった。彼の入院が間もなく放送界に知れ渡り、やがて彼の休筆宣言となった。病気ではしかたがない、遠慮しようということになり、プッツリと原稿の注文がなくなって、彼の休筆が本格化した。  入院一カ月余り、彼のケイレン性硬直はしだいに軽快していき、やがて、へたながらも、文字を書けるまでに回復し、それに伴って疼痛もしだいに軽くなっていった。  この人もやはり、きちょうめん、完全主義、一〇〇パーセントを望みやすい性格特徴を持っていた。典型的な疾病逃避だった。 書 痙  もっと軽いものに、いわゆる書《しよ》痙《けい》がある。一人で自室にいるときはなんでもないが、他人の目の前では文字が書きづらい。手指の硬直や痛みが、それほどひどくはないにしても存在する。当然、文字はミミズがはったようにへたになる。葬式や、結婚披露宴の芳名簿に文字がうまく書けない。デパートの店員で、客の前で、注文書類をうまく書けないという人もいる。  この種の人に共通する特徴は、一〇〇パーセント完全主義者で、人前で、書道の先生のように、みごとでりっぱな文字が書けなくては恥ずかしい、という思いが強いことだ。「個性のある文字を書けばけっして恥ずかしいことはない」と説得することが、私の治療のコンセプトだ。武者小路実篤さんの文字など、書道の先生から見ればそれほどうまいものではない。しかし、氏の文字に人気があるのは、いかにも氏らしい個性がにじみ出ているからだ。 うつに苦しんだ桂枝雀さんの自殺  一九九九年(平成十一年)三月に自殺をはかり、意識不明が続いて、同年四月に亡くなった桂枝雀さんは、長い間、うつに苦しんだ人である。「あの明るく見える人がなぜ?」と人々はいぶかるだろうが、実は彼はヨーロッパ的な人間といっていいのだ。  六四年に亡くなったドイツ・チュービンゲン大学のクレッチマー教授は、体型と性格を疾病と関連させて体系づけたことで有名である。彼は、肥満型体型と外向性同調性を躁うつ病と結びつけた。枝雀さんはこの学説に一致するのだ。  ちなみに、私がクレッチマー教授にチュービンゲンの自宅でお目にかかったのは六三年夏のことで、その翌年に先生は亡くなった。父、茂吉が同じチュービンゲンに先生を訪問したのは二二年(大正十一年)だから、先生の声望はずいぶん早くから日本にも知られていたのである。  枝雀さんは桂米朝師匠の門下で、しゃべり方に独特の味を加味した爆笑型の、明るくて楽しい落語家として人気者となり、趣味を生かして英語落語を「開発」した。八七年から約十年、アメリカ、イギリス、オーストラリアなど、海外でも公演している。しかし、九七年ごろから躁うつ状態に陥り、入退院を繰り返していた、という。  私は枝雀さんの病気を診たことはないから、はっきりしたことは言えないが、新聞報道が正しければ、氏の病気はたぶん躁うつ病であろう。  ご存じのように、躁うつ病とは感情の高揚による躁状態と、それとは反対の抑うつ状態が交互に来る感情の病気である。英語による落語などというとてつもない発想は、おそらく躁状態のなせるわざであろう。その過度の活動が反動的に抑うつ状況に転換したときにうつが来て、そのうつがやや軽くなったときに、絶望感による自殺企図をはかることがままあるのである。  躁うつ状態が枝雀さんのような有名人にも発生しうる、つまり、こういう病気はだれにでも起こりうるのである。けっして人ごとではなく、どんな人でもかかりうる病気であることを強調したいがために、ここに枝雀さんに登場してもらったというわけだ。  何年か前に京都の高僧が自殺した。悟りを開き、物事を達観したであろうかただが、希死欲求には勝てなかったのであろう。この大僧侶も私が直接問診したことはないからなんとも言えないが、たぶんうつ状態であったと想像される。  アメリカで開かれた「二〇〇〇年世界医療会議」の席上で、「うつ病が世界のかかえる病気による重荷の上位の座にある」という研究が報告されている。これは世界的な傾向であろう。  この病気はいまや、日本で三五〇万人に達しているという。アメリカは八〇〇万人といわれる。かぜひきや糖尿病のごとく、だれでもかかりうる病気になったのだ。 電話のベルが鳴りやまない 「自殺・過労死110番」  一九九九年(平成十一年)、全国三五カ所で一斉に実施した「自殺・過労死110番」では、五時間に三〇〇件の電話相談があったそうだ。うち五二件が過労自殺で、四六件が過労死の相談だった。  九八年の自殺者数は、三万二八六三人と初めて年間三万人を超えた。九九年には三万三〇四八人と過去最高を記録。二〇〇〇年は三万一九五七人と前年より減ったものの、三年連続で三万人を超えた。特に五十代男性の増加が目立ち、経済・生活問題を理由に自殺した人は、前年にくらべて一〇パーセントふえたことが、警察庁の調べでわかった。なお、自殺未遂者は既遂の十倍に上るといわれている。  当然のことながら、不況、リストラの影響を考えないわけにはいかない。その中のかなりの人数がうつ病圏に属すると予想される。うつ状態の大部分がストレスに起因すると考えられるからだ。社会福祉法人「いのちの電話」にかかってくる自殺願望の相談件数も、九八年ごろから急増しているという。  二〇〇一年四月の厚生労働省の発表では、ストレスを感じる人は五四・二パーセント、そのストレスの内容は、男性は仕事、人間関係、女性は病気、健康、介護、家計であった。  うつに躁の加わった、いわゆる「躁うつ病」にかかった人はバイロン、ゲーテ、トルストイ、ヘミングウェイ、わが国では頼山陽などに代表されるが、これら「波動に生きた」人間はそれほど多くはなく、最近は「うつ病」が圧倒的に多い。そして、うつは自殺願望ときわめて親和性が高いのである。  クレッチマーの唱えた外向性性格に対して、慶大教授を経て、のちに九大教授、鳥取大学長を務めた下田光造先生は、日本人の場合はいささかそれと異なり、執着性性格が多いという意見を示した。すなわち仕事熱心、凝り性、熱中性、バカ正直、正義感や責任感が強い、ごまかしができない、何事も他人にまかせられないなどの性格特徴を提唱した。こういう性格がストレスを過大に受けやすいことは十分に理解できる。  だが、悲しいことにわれわれはストレスから完全に逃れることは不可能である。悲しさと同時に、それはまた幸いでもある。なぜならストレス学説の創始者ハンス・セリエ教授は「人間からすべてのストレスをとり去ったら、その人間はダメになる」と言っているからである。 孤独感と自罰傾向が死を希求  うつ状態に陥った人の心中に巣くっているのは孤独感と自罰傾向である。これが死を願う心理に通じる。内向した攻撃性が自己に向けられるのである。うつは、たぶん人類とともに末永く歩んでいくであろう。したがって、みずからを消し去る行動も無になることはあるまい。だが、死はやっぱり敗北と言わざるをえないケースが多いから、一人でも自殺者が減ってくれることを祈りたいのだ。  私はうつ状態を「神様が休養をお命じになった」と考えているので、広義の休養が対応の中心になると思う。重要なことは、自殺は病気がやや快方に向かったときに起こりがちなことだ。症状が軽くなると、周辺の者は安心して通院をやめさせたり、薬の服用をかってに中断させたりするが、これは危険な行為である。自殺は大きなエネルギーを要するから、病気が少しよくなったころが危険なのである。  もう一つ、えてして家族や友人が激励することが少なくないが、「ああしろ、こうしろ」などのさしず、干渉はやってはいけないことのトップに位置する。うつは往々にして、配置転換、退職、昇進、離婚、肉親の結婚、入学、借金、リストラ、そして無視を含むいじめなどの変化を契機に発生しやすいことを心にとどめておきたい。  一九〇三年(明治三十六年)五月二十二日、旧制一高生の藤村操が、「不可解」の文字を書き残して華厳の滝に飛び込んだ。一高教授の夏目漱石は『草枕』の中で、この教え子にふれ、「余の視《み》るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う」と述べた。ところで茂吉はこの事件に関していかなる感想を持ったか。当時、同じ一高生だった茂吉が友人にあてた手紙の中で、ある程度うかがい知ることができよう。  ……君よ、藤村の死を羨しとおもひ給ふ事なかれ……分らざるが為めに生きて居て何の不都合かある彼の昆虫を見ずや蠢々として動けり彼宇宙の真相を解せるか。然も彼は生きて居るなり而して何の不都合かある……ショウペンハウエル曰く、『戦はずんば勝ちなし』と……日輪の光をも仰ぎ夕顔の花白く咲く時あるものなるを死する迄〓がむ。死せば其迄の事なり、後は空々寂々土と化するのみ……  さらに、茂吉は「是処に至りては哲学者などは屁の役にも立たず候。(日本の似而非哲学者)」とかなり思いきったことを書いている。これは茂吉が現実的、即事的な思想の持ち主であることを物語っているが、それが茂吉の本質なのか、養父、紀一の感化なのか、よくわからない。  いずれにしても、人に迷惑をかけない自殺などはありえない。自殺はけっして美学ではないのだ。 リストラうつ、リストラ神経症  やたらに人々の不安をあおるような、センセーショナルな報道の多い、相も変わらぬマスコミの姿勢だが、新聞を開けば、けっして明るくない紙面が目に入ることが少なくない。特にここ数年の新聞においてしかりだ。憂うつな統計の一つ。  失業者三百万人を超す。完全失業率四・六%……前月の最大数を十五万人上回り、初めて三百万人の大台に乗り、最高記録を更新。雇用者は一年前にくらべて七十二万人減と、十三カ月連続のマイナスで、過去最大の落ち込みとなり、企業の人員削減の波の高まりを裏づけた。完全失業者のうち、企業倒産、リストラなど「非自発的離職」による失業は九十六万人で、厳しい雇用環境を反映している。また、世帯主の失業者が九十一万人と過去最大になるなど「家計を支えてきた人の失業が多く、深刻度を増している。(一九九九年二月、総務庁調べ)  二〇〇一年七月の完全失業率が五・〇パーセントとなり、一九五三年以来初めて五パーセント台に乗った(総務省統計局発表)。失業者は三三〇万人を超え、倒産やリストラによる失業者は九九万人で、中高年者が目立つという。小泉内閣の構造改革が進めば、雇用情勢がさらに悪化するのは避けられないだろう。  若いときの失業ならともかく、一家の支柱である家長級の中高年者がいきなり職を失うと、いかに大きな心的ショックが襲うかは想像以上のすさまじさであろう。  ストレスの原因を見ると、配偶者の死亡、家族の死亡、離婚、自己の病気、家族の病気などを含む上位十位の中に「解雇」「経済状態の悪化」が含まれている。また一〇〇〇万円以上の借金という項目も含まれている。  若い人なら再び新たな仕事を見つける可能性は高いが、中高年についてはその可能性が若い人よりはるかに低いのは当然のことだろう。  要するに前途不透明で、そこに強烈な不安、パニックが襲来して、急速にうつ状態に移行するのだ。これらのほとんどが、いわゆる「リストラうつ」「リストラ神経症(ノイローゼ)」という範疇に入る。うつは当然のことながら、希死傾向を伴うことは前に書いたとおりだ。 満州で死の恐怖におののいたEさん  二〇〇一年六月、ユーゴスラビアのミロシェビッチ前大統領が、セルビア南部のコソボ自治州のアルバニア系住民の迫害や殺人の罪で、旧ユーゴ国際戦犯法廷に収監され、国連の法廷で被告として裁かれることになった。  バルカン半島の紛争で多数の難民が生まれ、彼らは状況の赴くままあちらこちらに移動せざるをえなかった。ユーゴ、マケドニア、アルバニアの国境が開かれたり、閉鎖されたり、ユーゴ軍、セルビア治安隊、民兵が住民に十分以内の退去を命じたりした。さらに貴重品を奪い、家々に放火したり、あげくの果ては住民を虐殺までした。九九年三月、その対抗措置としてNATO軍はユーゴを空爆。ついに首都のベオグラードまでミサイルの標的とするに至った。  私はかつてドナウ河を船で下り、ベオグラードに上陸したこともあり、ドナウ河にかかる橋梁も破壊されたと聞いて、人ごとではいられない気持ちであった。  その当時、コソボの村人たちはあっちへ逃れ、こっちへ移動し、教会の中にひっそりと隠れ、野宿をし、缶詰めや干物で飢えをしのぐというありさまだった。  私の頭に浮かんだのは、満州での悲劇である。  日本が敗戦してソ連軍の進駐。国民党軍と八路軍(共産党軍)の戦闘。逃げまどう在満日本人。そこにはパニックのため、うつ状態から記憶喪失まで、高度のノイローゼが発生したのも当然の成り行きであったろう。たぶんコソボ、マケドニア方面においても、その種の疾病が多数発生したことは十分想像がつく。  一九四五年(昭和二十年)八月十五日。日本敗戦の日、四歳八カ月の女の子だったEさんは満州国の首都、新京(現長春)で製薬会社を営む父親のもとにいた。  敗戦後の無秩序状態が過ぎたあと、長春に進駐してきたのはソ連だったが、彼らは略奪をほしいままにし、暴虐の限りを尽くした。コレラや発疹チフスが猛威をふるい、多くの人が命を失った。四六年、ソ連軍が撤退すると同時に、八路軍が長春を攻撃し、国民党軍との内戦が始まった。  Eさんは流れ弾に当たって、右ひじの骨まで届く傷を負った。  長春はやがて八路軍に占領された。しかし、それもつかの間、勢いを盛り返した国民党軍が再び長春を占領する。一方の八路軍は長春を包囲し、長春への物資の補給路を遮断したので、住民は食糧難と生活苦にあえぐ。これという物はすべて奪われて、Eさんの家には財産らしき物は何一つ残っていなかった。やがて、水道、ガス、電気などの補給が断たれ、住民の生活はパニック状態に陥った。  Eさんは結核菌におかされ、負傷のあとは結核性の骨髄炎にまで進行した。餓死者も出始めた。消耗率の関係から、まず男性が多く死んだ。町では犬が死んだばかりの赤ん坊を食べる姿が見られた。野性化した犬が飼い主の子どもをかみ殺すシーンも見られた。  敗戦後三年が経過した。八路軍は長春を包囲したまま入城せず、住民を生殺しにする態勢のようだった。Eさんの父親も極端に衰弱して歩行も困難なほどになった。  ついに父親は決心した。 「長春を脱出しよう。解放区へ行こう」  一九四八年九月、長春脱出の前夜、Eさんのいちばん下の弟が消え入るように短い一生を終えた。 長春脱出に意識を失う  八路軍が長春を包囲している環の一角に、チャーズと呼ばれた関所のような柵があり、その内側は国民党軍、外側が八路軍の支配区域となっている。包囲の中にいる市民の脱出ルートはこのチャーズを経由するしかなかった。  餓死寸前のEさんも父親も、よろよろと歩む。荷車を押してきた従業員が、社長である父親を貴様呼ばわりする。極限状態におかれた人間の、むき出しにされたエゴのすさまじさには有無を言わせぬものがある。モラルの入り込む余地などみじんもない。  餓死して緑色になった人間の腐乱した腹部から、蠅《はえ》がワーンと音を立てて飛び立つ。柵の前には国民党軍の歩哨兵が立ち、難民を監視している。ここを一歩出たら、再び戻ることは許されない。  柵門をくぐってしばらく進むと、難民の列の前方でどよめきが起こった。道は腐乱した死体でいっぱいだったのだ。死体の開いた口の中まで蠅が入り込み、うじがわいている。列の中の一人の男が力尽きて倒れた。やがて深い息とともに動かなくなった。それを見た一団の人間が駆け寄ってきて、衣類をはぎとり、全裸にして転がしてしまった。  ここは八路軍の解放区ではなく、両軍の中間にある緩衝地帯だった。Eさんは廃墟の陰で用を足した。薄桃色の腸が脱肛して、その先が地面に達して泥だらけになっている。  食糧は母親が作ってくれた高粱《コーリヤン》のほしいを少しずつかんでいた。解放区の手前に小高い山が見える。よく見ると、それは死体の山だった。しかもまだ息があり、完全に死んでいない者まで積み上げられていた。Eさんはここで正常な精神を失った。恐怖心もなくなっていた。  結局、父親は八路軍と交渉の末、製薬という技術者ゆえに、なんとか柵を出ることを許されたが、当然、いっしょに出られると思っていた会社の職員の家族は出られなかった。八路軍は技術者のみを必要としたのだ。やっと柵門をくぐったEさんの耳に、「裏切り者ーッ」と叫ぶ、残された日本人の悲痛な叫びが聞こえた。チャーズ内の餓死者は延べ十数万人以上ともいわれている。  Eさんの一行は、八路軍に連れられて吉林へ行き、次いで国境に近い延吉に着き、長春脱出後三週間目に日本人難民の住む寮に合流できた。  もう死んでも大丈夫だ。そう思ったとたん、私を支え続けてきたものが体からスーッと抜けて行くのがはっきり感じとられた。  暗闇が私の後頭部を深い深い奈落の底へ引っぱっていく。  Eさんはそのあと長いこと意識をとり戻すことができなかった。 悪夢におびえる  Eさんがぼんやりと意識をとり戻したのは、翌四九年の春、そして本格的に意識が回復したのはその年の夏だった。  母親の話によれば、Eさんは完全な昏睡状態ではなく、食べさせようとすれば口をあけ、医師による腕の上げ下げの指示にも応じていたという。だが、Eさんの記憶はこの部分だけがすっぽり抜けている。現実を認識できるだけの意識が戻っていなかったと考えられる。  その間、結核菌はEさんの全身に蔓延していたが、幸いなことに、アメリカからの援助によるストレプトマイシンが、国民党軍の横流しか、八路軍の押収か、延吉にあったのだ。あらゆる手を使ってようやく手に入れたその薬のおかげで、二〇本も注射したころには外出できるまでに回復していた。四九年十月、毛沢東が中華人民共和国成立を宣言したころのことだ。  外出できるまでに回復したEさんは、暗闇に極端におびえる子どもになっていた。そしてチャーズの恐ろしい光景は脳裏の奥のほうにしまい込まれていた。無意識下に自衛本能が働き、恐怖を真正面から受け止めることを拒否する反応をしていたのだろう。Eさんは涙と言葉を失っていた。しかも近所の中国の子どもたちからいじめられ、石を投げつけられる毎日だった。  五〇年六月、朝鮮戦争勃発。中国の経済復興を支える技術者は疎開せよ、と命令され、十二月、Eさん一家は山海関を越え、大都会の天津に着いた。都会は華やかな色彩に満ちていた。「きれい……うれしい」とEさんは繰り返した。Eさんはこの瞬間から言葉を回復したのであった。  同時に、Eさんの意識下に奥深くしまい込まれていたチャーズの記憶がよみがえってくる。  ……何やら小高い青白い山が見える。その山はだには人の手首が生えていて、私に「おいでおいで」をする。「ギャーッ」と叫びそうになると、パッと白いヴェールが認識をふさぎ、記憶を遮断する。  そういう悪夢のような繰り返しが、十一歳の少女を毎日、おびえさせた。  スターリンが死に、朝鮮戦争休戦の見込みが立った五三年、中国残留日本人の帰国の指示が出て、九月、Eさん一家は日本へ引き揚げることができた。 最大の自己防衛は記憶喪失  Eさんはその後、大学で理論物理学の研究に従事した。ある日、Eさんは私を訪れ、当時の自分の意識を中心とする精神症状について私の意見を聞きたいということだった。  Eさんの著書『不条理のかなた』が、第四回読売「女性ヒューマン・ドキュメンタリー」大賞に入賞した。この項に引用したのは彼女の作品からの抜粋である。  コソボで起きた悲劇は、Eさんの味わった状況とはまだまだくらべものにならないかもしれないが、状況が長く続き、複雑化すれば、これが大きな悲劇に発展する可能性は十分にある。コソボの情勢が目や耳に入ってくると、Eさんのチャーズがいきなり私の記憶の中からよみがえったのは当然と言えば当然であるかもしれない。  いわゆる神経症のいろいろな症状は、大ざっぱに言えば、多かれ少なかれ、自己防衛につながるものである。その最大のものは記憶喪失である。Eさんが延吉のやや安全な場所にたどり着き、ホッとしたところで記憶喪失が襲った。だが、それは彼女の全面的な精神の崩壊を防ぐ役目を果たしたとも考えられるのだ。  それにしても、自分が目にした地獄絵を生々しく展開して見せるEさんの強靭な意志の力に感動する。  戦争末期、私は陸軍精神科病院で、失立(立てない)、失歩(歩けない)、失声(声が出ない)などの患者を診た。あらゆる治療を試みたが、なかなか軽快しなかった。だが運命の四五年八月十五日が来た。戦争が終わったのだ。  患者に驚くべき変化が起こった。あれほど頑固をきわめた立てない患者が一週間もしないうちに自然に歩けるようになり、声の出なかった患者があいさつの声を出すようになったのだ。彼らは病気に逃避することで生命を守ったともいえる。ただし、彼らをひきょう者呼ばわりすることは酷である。人間の本能がそうさせたのだから。もしわざと意図的にやったのであれば、それは気の弱いひきょう者ということもできようが。  私はビルマ(現在のミャンマー)の戦場で、英国兵の敵と出合いがしらに意識を喪失した兵士を思い出した。むろん、敵兵も意識を失ったのである。これで両人は恐怖から逃れ、しかも生命も維持できたのだ。  何年か前、フランスのノルマンディー海岸でずぶぬれになって徘徊している日本人の女性が発見された。記憶を喪失していた。名前も住所も覚えていない。何か耐えられないほどの恐怖に襲われる事件があったに違いない。  幸いなことに報道関係者がいっさい取材しなかったから、たぶん彼女は今では回復しているに違いない。しつこい取材はその反対の結果を招くこともあるのだ。  ストレスによる臨界点を突破すればなんらかの異常を引き起こすが、その臨界点、発火点のレベルは個人によって異なるし、また性格によって、その方向も異なることも心得ておいていい。 第5章 複雑に絡んで起こる異常心理 病識欠如の精神分裂病という病気  精神分裂病というのはわれわれをいちばん悩ませ、治療に最も苦労する病気の一つである。これからは変化を余儀なくされる精神科病院の形態も、今までは精神分裂病を想定した構造だった。精神分裂病者の心理は「了解不能」と言われた。われわれの理解に遠く及ばない心理の持ち主だと思われていたからだ。それゆえに、われわれは彼らの心情を探り、理解する努力を試みなければならない。 病感も消え、やがて病識がなくなる 「心の病で、どういう状態がいちばん重いのですか」とよく質問を受けるが、簡単に言えば、「自分が病気と思わないこと」と答えることが多い。自分の状況を客観的に認識する、つまり自己のマイナスの部分を認めることが普通である。これを、「病識がある」と表現する。うつ状態や神経症(ノイローゼ)の患者はおおむね病識がある。一方、自分の病的状態を認識しない、つまり病識が欠如している、その代表選手が精神分裂病ということができる。  もちろん発病初期には、自分が少しおかしいのではないか、という漠然とした感じはあるかもしれない。これを病感というが、病気が進行するにつれて病感もなくなり、病識欠如が確立してくる。病識がない患者は当然のことながらなかなか来院しないが、それでも家族や友人に連れられて、しぶしぶやってくる。だが、診察室に入ることを拒んだり、最初のひと言が「僕はなんでもないんですが……」であったりすると、われわれは病識がないことを知るきっかけになる。  この病気の原因についてはこれまで、古今東西の先輩同僚たちがあらゆる面から追求してきたが、残念ながら今日に至るまで真相は解明されていない。遺伝説も、濃厚な遺伝負因が見られるケースもあるにはあるが、決定的な結論は出ずに終わった。親子関係も話題に上ったことはあるが、これもやがて消え去った。  現時点では、脳内の神経伝達物質とそれを受けとる部位(レセプター)のバランスがくずれた結果ではないか、という説が有力であるが、いまだに決定的な結論は出ていない。むしろ治療のほうが先行してしまった。  発病年齢は十代、二十代が最も多いが、中高年でも発病しうることはすでに述べた。  この病気の発病状況は実にさまざまである。急性発病もあるし、いつ発病したかわからない慢性発病もある。問題は変化がゆるやかにやってくる場合で、孤独になり、対人関係がまずくなったり、学校の成績が落ちたり、周囲の者や家族がまさか病気とは思わず、診断がおくれ、そのために予後が悪くなることがある。  次に診断、発見がむずかしいのはノイローゼ、うつ状態などの症状で始まるケースだ。しだいに精神分裂病の症状がととのってくるのだが、よく誤診といわれるように、その時点で神経症と病名がつけられたり、ある時点からは分裂病といわれるケースがある。だが、これはけっして誤診ではなく、その時点、時点で正しい病名がつけられているわけである。    それにくらべ、急性発症の場合、家族も驚いて医師のもとに駆けつけるから、まず手おくれになることはない。総じて急性の場合は早期発見のせいもあって予後は悪くない。 せっかくよくなっても再発する場合もある。よくなったからといって本人が薬の服用をやめたり、理解の少ない家族がやめさせたりすると、再発というしっぺ返しがやってくる。  こういう失敗を何回か繰り返すと家族も慣れてきて、これは危ないと直感し、一時、通院を中止していたのに再び病院に連れてきたりする。家族は肉親という甘えに流されず、あくまで科学的、合理的に、ある時点では心を鬼にして対処しなければならない。 関係妄想、被害妄想  いろいろなケースがあるが、分裂病に最初にあらわれるのが「関係妄想」といっていいかもしれない。周囲の状況を全部自分に関係づけるということだ。電車の乗客が友人と談笑している。隣りのビルの窓から女性社員が仲間とこちらを見て談笑している。それらを、自分をあざけって笑っていると思い込む。  それが発展すると、だれかが自分に悪さをする、自分を陥れようとする人がいる、会社の中で自分を首にしようとする一派がいる、などという「被害妄想」となる。  せきばらいにおびえた主婦(二十五歳)のこんなケースがある。  ——短大時代に同級生にせきばらいする人が近くの席にいて、とてもうるさかったのです。そのせきばらいする人がしだいにふえて、私をじゃまするようになりました。卒業以来その同級生とは会っていませんが、彼女があるグループをつくり、私をいじめていると思うのです。買い物に入った八百屋の主人もスーパーのレジの女の子もせきばらいをして、私をからかっているようです。  家に帰ってテレビをつけると、山田洋次監督の姿が映って、なんと私に向かってせきばらいをしました。新宿から立川行きのJR中央線に乗ったら、隣の席にすわったサラリーマン風の男性がまたせきばらいをして私をおどかすのです。彼にまで手が回っているとしか考えられません。そのうちにストーカーが私にまといつくようになりました。北海道に行っても、ニューヨークに行っても、ストーカーがついて回るのです。  ある人にすすめられて「世直し教」という宗教団体に入ったのですが、そこにも手が回っていました。そこの会員の中で数人の人がわざとせきばらいをしたり、悪口を言う声が聞こえるようになりました。その宗教はまた私に悪霊をさし向けるのです。数人のある信者は別人に変装して私を追いかけてきます。実に巧妙な変装で見分けがつきません。  蒲田の駅にも、東京駅にも、西武新宿線の高田馬場駅にも出没します。箱根に逃げていっても、強羅からの上りのケーブルカーにもちゃんと乗って見張っている。声はどこまでも追いかけてくるが、このごろは、ああしろ、こうしろと命令調になりました。私は危うく、電車から飛び降りるところでした。  先生、なんとか助けてください。かぜで近所の内科の先生にかかったのですが、その医院の待合室にも敵がいたんです。 被監視妄想(盗聴装置) 「被監視妄想」も多い。課長がいつも自分を監視している。一所懸命どこまで逃げても監視する人が立っている。監視が近ごろは発展して「盗聴装置」となる。天井に盗聴装置を仕掛けられている、電話を盗聴される、というのはかなり多い。  日本は残念ながら国土が狭い。したがって、都会の家では押し合いへし合いである。すぐ目の前が隣という家も少なくない。こちらが窓をあけると、隣家の窓がすぐ閉められる。こちらの会話を隣家の人が聞き耳を立てている。電話をかけるとすぐジーッと音がする。隣の人が盗聴のスイッチを入れたに違いない。  ついには大声で隣家に怒声を浴びせたりする。隣の人に「もうがまんの限界だ。なんとかしてくれ」と抗議され、そのたびに患者の家族は平謝りする。しかし、肝心な本人に病識がないから、家族が「病院に行こう」などと言おうものなら、「僕はなんともないのに、何を言うか」と激怒し、家族に暴力をふるったり、器物を投げたり、壊したりするのが落ちである。 「強制収容」という制度もあるが、この程度の症状ではその法律をクリアして病院に連れていくことはできない。われわれ精神科医はくやしい思いをすることがしばしばなのだ。 幻聴、作為体験  さらに重要な症状は「幻聴」だ。これは実際にない声や物音を聞くことで、精神分裂病の場合は声が聞こえるのが大部分だ。知人の声であったり、未知の人の声だったり、一人の声であったり、複数の声であったりする。批判、悪口、命令などが多い。神のお告げと表現する人もいる。  患者はこれを実際の声と信じ、その命令に従ってしまう。羽田空港の日航機の着水事故も、機長が「逆噴射せよ」という幻聴に従ってしまった事故だった。患者の中にはその幻聴を「ボイスさん」と実にうまい表現をする者もいる。空笑(おかしくもないときにニヤッと笑う)や独語も、この幻聴の結果であることが少なくない。  ある患者から渡された手紙にはこう書いてあった。  私が二十二歳のころ(いま三十一歳)、幻覚結婚(神前、ケイサツ、恋愛、学校)していて、トリコロシがあって「ケイヤク犯」と聞こえてきました。神社やケイサツから「あなたに失礼しました」と、聞こえてきました。ケイサツの出入りの洗濯屋さんが、「あなたにいやがらせをしました」と、聞こえてきました。  この病人は数年以上、二カ所の精神科病院に入院して、いま外来に通い、薬物療法と精神療法を受けている人だが、なお幻聴が少なからず聞こえているようだ。その幻聴の内容に一貫性がなく、また支離滅裂で、意味不明の思考がうかがわれる。また、症状の中に、造語を思わせる記述がある。たとえば、幻覚結婚とかトリコロシなどである。ケイヤク犯なども理解に苦しむ言葉である。  分裂病患者の一部の人々の思考には「了解不能」と表現されるものが存在することは、昔からの文献、教科書に述べられているとおりだが、回診のたびに「十億五〇〇〇万円くれ」と言ったり、また職員の名前を列挙して、「一人あたり二〇〇万円を与えてやってください」と言う患者もいる。  どう考えても、思考内容が理屈に合わず、現実離れしている。病者の思考内容を、特に分裂病に関して、的確に表現する精神科医がいるとしたら、それは彼の創作といってよく、「文学作品」と称してもおかしくはない。世間受けはするかもしれないが、まじめで経験を積んだ真の精神科医なら、「了解不能」という四文字を重視するに違いない。  感情が鈍り、青年であっても若者らしい生き生きした感情が失われる。対人関係がうまくいかないので、友人が次々と去っていく。外出もせず、自室に閉じこもってしまう。自閉症状が増し、何をするにもものぐさになり、部屋も乱雑をきわめ、ついには終日、布団の中に身をゆだねるようになる。全く入浴しなくなる患者がいる。「風呂に入るな」という幻聴に左右される場合もあり、「入浴姿をだれかが見ている」と言う患者もいる。  見られるといえば、テレビが「私を見ている」と訴える患者がいる。さらに、ときどき「だれかが私をそそのかす」とおびえる患者もいる。これは「作為体験」とも「作為現象」ともいわれ、「させられている」「操られている」という心理で、「させられ体験」ともいう。 長期抗戦を要する治療  かつて精神分裂病は予後不良、人格荒廃に至る、といったイメージが強く、かのクレペリンも「人格荒廃、一種の痴呆状態に陥る病気」と言っていたくらいである。現在もそこまで至る人はいるが、戦前の状況よりははるかによくなっている。  昔は、薄暗い部屋に終日寝ているといった重病患者が少なくなかったが、現在はこうした重症の程度はかなり軽くなり、院内適応というか、病院での生活は普通にできる。食事も作業も運動も遠足もできるが、社会に戻すと社会的に適応できない人がいる。  またなんとか家庭生活が可能と思われる患者を、家庭の事情で引きとることを拒む家庭もあるのだ。本人の病気のことを秘密にしているところへ嫁が来たとか、いま帰ってきても住む部屋がない、などという理由からだ。  いずれにしても精神分裂病は長い経過をたどる病気であるから、治療もまた長期抗戦を要するといえる。  一九三九年(昭和十四年)ごろ、イタリアの精神科医、チェルレッティとビニ、わが国の九大の安河内、向笠の発想になる電気衝撃療法(いわゆる電気ショック)が開発され、インスリン・ショック療法とともに全世界に普及して治療法の中心を占めた。しかし、六○年ごろから種々の抗精神病薬が登場すると、しだいに前記のショック療法は影をひそめ、いまや薬物療法が分裂病や躁うつ病治療の中心となった。  ただし、電気ショック療法は急性発病(あるいはうつ状態の自殺願望の強いとき)の際は著しい効果を示すこともあるから、全廃というわけにはいかない。実際、精神医療の草分けの一つといわれる東京都立の松沢病院で、興奮して暴れる閉鎖病棟の患者を鎮静するため、ケイレンを伴う電気ショックを頻繁にかけているという実態が、最近明らかになったばかりだ。欧米では全身麻酔と筋弛緩剤を併用して実施する「無ケイレン法」が原則である。  抗精神病薬としては興奮を鎮静し、幻聴、妄想に効果があるもの、感情鈍麻や意欲低下を改善するものなどとしてクロルプロマジン、レボメプロマジン、ハロペリドールなどが複合的に使用される。  もちろん、精神安定剤や睡眠剤を用いる必要があることもある。また人によっては主としてパーキンソン病的副作用が出ることもあるから、その防止剤を併用することも多い。  以上の薬物療法で、もちろん完全というわけではない。レクリエーション、作業療法といった治療法を回復期や慢性期の患者に施行することが必要だ。デイケア(毎日異なったメニューを用意する)を行っている病院では、朝の体操に始まって、食事、おやつ、作業療法、運動療法、映画鑑賞などで規則正しい日常を過ごすが、家庭に戻るとついわがままが出て、生活が不規則になり、これが再発のもとになることもあるから注意しなければならない。  ある分裂病の青年だが、初診のときにはひと言も発しなかった。薬物療法に次いでデイケアに参加させたところ、めきめきとよくなり、デイケアには全出席、他の患者とのコミュニケーションもよく、こちらが明るくふるまえば明るい返事を寄こし、第一、ひと言も発しなかった彼が、「コンニチワ」「オハヨウゴザイマス、キョウハシンブンヅクリ(新聞編集)」「キョウハオンガクカンショウデス」「サヨウナラ」と、はっきり発言できるようになった。これはデイケアの効果をはっきり示したケースであった。 病気がよくなれば妄想は消える 「私のプライバシーを侵害する機械が私にとりついていて、私を操っているのです。恨みをつくる機械なのです」と訴える分裂病の患者。 「私の心の中に入り込んでいる神様、名はゴッドさんというのですが、そのゴッドさんが私の肝臓を傷めるのです。私の肝臓は正常なのですが、ときどきゴッドさんが肝臓のガンマGTPを病的な状態に押し上げるのです」と、しばしば血液検査を要求する患者。  診察のたびに「二週間後が出産予定日です」と、まじめな顔をして訴える患者。いつも二週間後というその不合理さを患者に教えようとしてもそれはむだである。むしろ、「それはたいへんですね。体を大事にして、無事、お産にこぎつけましょうね」と同情的な言葉を与えたほうがいい。妄想をいだく患者に、百万遍のお説教をしても効果はない。自説を絶対にひるがえさないのが妄想である。  先に幻聴をボイスさんとうまく名づけた患者にふれたが、別に「スピーカーさん」と、これまた幻聴にうまい命名をした女性の分裂病患者がいる。もう発病以来二十五年にもなり、現在四十九歳だが、家族の無理解により、受診がおくれ、その結果、手おくれとなり、いまだに幻聴、感情鈍麻、対人関係不如意、被害妄想が残っている。  そのスピーカーさんにおびえる女性が、こんなことを言ってきた。 「スピーカーさんがいろいろと言ってくるのです。私のことを、あることないこと警視庁に告げ口をするので、私を今にも逮捕に来るかもしれません。先生、だれか警視庁にお知り合いがいるなら、私の無実を訴えて私を救ってください。そのスピーカーさんが福島県の原子力発電所をそそのかして、私に放射能を送りつけてくるのです。おかげで私の体力は刻々と低下して今にも死にそうになっています。けしからん原子力発電所の職員を早く逮捕してください」  彼女に「そんなバカなことはありませんよ」などと言っても全くむだで、本人はその妄想を信じきっているのだ。妄想は説得によって消滅することはまずありえない。治療が進んで症状が軽くなれば、妄想は自然に消え去るのである。この際、患者の訴えることを同情的に聞いてあげるのが最もよい。訴えることによって患者の心はいやされるのである。  また、あるときはこんなことを言った。 「スピーカーさんが私を殺そうとしている。この病院の入院患者に乗り移って、私を殺そうとしている。レントゲンの器械を操作して誤った画像を出させたり、心電図の器械に誤った成績を出すようにして私をつけねらっているのです。当直のA先生が怪しいです。スピーカーさんがA先生を操って私を殺そうとしている。私の血圧を異常に高く操作しているんです。A先生を早く解雇してください。また別のB先生を操って、放射能を浴びせようとしています」  そして、最後に「先生を愛しています」と言う。この被害妄想と幻聴、「愛しています」はどうしても連結しない。そこに「分裂」があるのである。  精神分裂病という言葉には、どうも、人格そのものがバラバラに分裂しているというイメージがあるようで、かなり前から精神障害者の家族から、人格を否定するような響きを持つ「精神分裂病」という名称を変えてほしいという要望があった。精神科医たちの間でも、この名称は医学的にも不適切だとの声もあり、二〇〇二年の八月に開かれる世界精神科医学会の大会までに新病名を決定したいとしている。  新しい呼び方として、㈰原語(ラテン語)の読みをカタカナ表記した「スキゾフレニア」 ㈪疾病の概念と診断の確立に功績のあった人名にちなんだ「クレペリン・ブロイラー症候群」 ㈫原語を翻訳し直した「統合失調症(統合失調反応)」の三つの案があがっている。  名称を変更することで、少しでも心の病に対する差別・偏見が解消でき、理解を深めてもらえれば、こんなうれしいことはない。 妄想型「結婚願望」の女性たち  今は亡き遠藤周作氏から電話がかかってきたことがある。 「女の子がうちの庭にすわり込んで、どうしても動かない。もう二十四時間もすわり込んで、いくら説得しても言うことを聞かない。なんとかしてくれませんか」  あるとき、弟の北杜夫からも同じように電話がかかった。 「庭に女性がすわり込んでどうしても動かない。のどが渇いたろうと、家内がお茶など運んでいる。助けてくれえー」  精神科医のうちのせがれの家に大きな荷物が送り届けられた。あけてみると、真新しい布団が出てきた。そんなものをもらういわれはないから送り返した。間もなくまた布団が届いた。また送り返す。また届く。もはやお手上げである。  いずれも「結婚願望」である。相手は、遠藤さんにも北にもれっきとした配偶者がいることは知っているに違いない。しかし、自分の世界だけに閉じこもって、客観的に物事を考えられない、いずれも精神分裂病の妄想型である。  私は一九四三年(昭和十八年)、結婚前夜に大量のラブレターを焼いた。相手は躁状態の女性だった。  戦後、私は三十代の女性に追いかけられた。こまかい経緯は省略するが、「新宿のE喫茶店でお待ちしています。奥から二番目のテーブルに来てください」という手紙が来る。むろん何回来ても、私がのこのこそこへ出かけるわけにはいかない。ついに最後通牒的な手紙がきた。「私が嫌いなのですか。よくも私をだましたわね。あなたの家に火をつけてやる。子どもも殺してやる」  また、ある日、一人の女性が私の病院の外来に来た。年齢は四十がらみでやせぎすの、顔色の悪い、皮膚につやのない、女を感じさせない、女史といったタイプの女性である。 「私は今、周囲の者から精神病者扱いされている。精神病ではないという証明をいただきたい」と言った。 「私は小説の道で一生を貫きたい。小説を書くために、夫と離婚しなければならない。離婚するためには、私が精神病であってはならない」とも言う。そのへんの理屈がわからなくて、「もう少しくわしく事情を聞きたい」と言うと、彼女は突然、涙を流し、かん高い声を発し始めた。私は妄想の存在を感じた。  何日かののち、彼女は前回と全く同じ要求と、今度は自分の短編ののっている同人雑誌を持参した。少なくとも文章のうえでは「異常」は認められないようだった。  それからしばらくたって、彼女から電話がかかり、「おりいってご相談したいことがあります。でも、そちらへお伺いする電車賃がないから、なんとかしていただきたい」ということだった。看護婦が取り次いだが、あたかも私が迎えに行くことを期待しているような口ぶりであったそうである。  丹羽文雄氏の小説『女は恐い』は、妄想を持つ小説家志願の女性にとりつかれ追い回されるという筋書きである。『女は恐い』の主人公の場合、彼女のいだく夢が、しだいに現実と錯綜して、ついに系統的な妄想が完成したのだ。私の彼女の場合も被害妄想が中心だが、最後のころは恋愛感情の芽生えを感じとった。私の経験が、『女は恐い』の筋書きとあまりにも酷似しているので、ひょっとしたら同じモデルかもしれないと思い、忘れられないケースとなった。 茂吉を結婚不履行で訴えた女性  父、茂吉の晩年にこんな受難劇があったから書き留めておきたい。  ある料亭の仲居さんをやっていたKさんは短歌もやっていて、父が結婚してくれるという妄想をいだいたが、父がなかなか実行に移さないので、とうとう裁判所へ契約不履行の訴えを起こした。それで父は何回も裁判所へ呼び出され、大いに迷惑したそうである。  Kさんからはその後、しばしば手紙が舞い込んだが、父はそれを私に「精神医学の参考にしろ」と言って、回してくれたので、私はそれらの手紙を読むことができた。戦争がはげしくなったころのことである。手紙は葉書、封書と色とりどりだが、たいていは鉛筆の走り書きで、なかなかの達筆ではあったが、どことなく病的なニュアンスが感じられた。 「責任をどうしてくれるのですか、いつまでほうっておくのですか。早く迎えに来てください。体が疲れてたまりません。お金もなくなるし、なぜ助けにも来ないでいつまでも働かせるのですか」といった抽象的なものから、「裏木戸をあけておきますから、一時から三時までの間に来てください。もう夏になったのに何をぐずぐずしているのですか。単衣とたびを届けてください」などという具体的な要求に至るまで、入れかわり立ちかわり届けられた。  一九四四年ごろ、彼女はとうとう南青山の自宅にやってきて顔を見せた。玄関の前にひっそりと立っていて、ちょうど客を送って玄関に出てきた父とばったり出会ったのであった。興奮した父は「何しに来た、帰れ帰れ」とかなり大きな声で言い、さっさと奥へ引っ込んだそうである。彼女は案外すなおに「はい」と答え、そのまま帰っていったそうである。  父とともに玄関に出ていた家内の記憶によれば、彼女は髪をキリリと引っつめ、黒っぽい着物を着て、モンペばかりの時勢には不似合いなほど、たびの白さが目立ったということだ。水商売の風情であったという。私は応召していて家にいなかった。  四五年の春まだき、父は空襲を避け、山形へ疎開した。その直後に彼女はまた姿を見せた。このときは母が応対に出て、父が東京をあとにしたことを告げると、「ああ、そうですか」とあっさり帰っていったという。母は黒の光る生地のドレスを着ていた。  ところが、たちどころに彼女の手紙が舞い込んだ。それには「先生、居留守を使うとはなんですか。黒い魔法使いのオバアさんに応対させるなんてあんまりひどいではありませんか」と詰問風の文章が書かれていた。  五月の空襲でわが家が焼け、戦争が終わり、私が復員し、西荻窪、世田谷の代田と居を移し、新宿の大京町に落ち着くころになっても、彼女の手紙はしばしばわれわれのあとを追ってきた。  そうして長い間、何年も続いたKさんの手紙も五三年一月二十日付のもので、ついにピリオドを打つことになった。それから間もなく父が死んだからである。  その最後の手紙は「昨年四月に上野まで出てこいというお電話をいただきましたのに、失礼申し上げました」という書き出しで始まっている。昨年というと五二年のことで、そのころ、父はひどく弱っていて、みずから電話をかけるなどということはできなかったはずである。  そうして手紙は、どこそこの家を売って、ここのアパートに部屋を借りたなどと自分の近況に及び、「目下肺炎が悪く、せきがひどくて夜も寝られず、寝汗をかき、食欲もなく、昼間は休日以外は私一人だけです。建物に沿って裏へ回ると、裏梯子のついた窓が二つある二室がそうです。物干しのある日当たりのいい室をあけておきます」と道順をくわしく書き、暗にその時間の来訪を待つ口ぶりである。  最後に「いよいよSOSまでまいりました」と結んであった。  父が死んで初七日の晩、きちんと喪服を着て、白い花束を持った婦人があらわれた。そうして静かに焼香をして逃げるように帰っていった。そのあまりの静かさが見る人に異様な感じを与えた。お手伝いが名前を聞いたら、「申し上げるほどの者ではございません」と言ったそうである。その後ろ姿を見た家内は、「Kさんに違いない」と言った。  それから長い年月がたったが、彼女のその後の消息は杳《よう》としてわからない。 躁とうつが交互に出現する 躁うつ病という病気  さて、次なる大物は躁うつ病である。  E・クレペリンは彼の教科書の第六版に「躁うつ病」という病名を初めて登場させた。一八九九年のことである。躁の状態とうつの状態が交互に、あるいは周期的に出現すること、その予後が比較的良好であること、経過が長くても人格の荒廃の見られないことなどを、その特徴としてあげた。  分裂病と同様、躁うつ病の真の原因は現時点では明らかにされていないが、発病と遺伝説、体質的な素因との関連が多少、認められるという説もある。また最近では、躁うつ病は間脳の機能と密接な関連性がある脳内のモノアミンという物質が減少すると、感情面の変化が生じ、それが発病につながるのではないか、という説もあるが決定的ではない。  躁うつ病は躁状態とうつ状態が交互に来襲する病気であるが、現実にはそれほど多い病気ではない。しかし、社会的、個人的にはきわめて大きな影響を与える。特に躁状態において然りである。  躁うつ病の病前性格を、かの性格学の大家、チュービンゲン大学のクレッチマー教授は躁うつ気質、循環性性格と名づけている。 ライト兄弟の病前性格  クレペリンが「躁うつ病」を発表したころ、アメリカで空の魅力にとりつかれた人がいる。二十世紀最大の事件の一つ、ライト兄弟の動力初飛行である。  兄ウイルバー・ライトは一八六七年生まれ、弟のオーヴィル・ライトは四歳年下だ。彼らはノースカロライナ州、キティホークの砂丘キルデビルヒルで苦労しながら造ったフライヤー一号機で飛行距離八五二フィート、滞空時間五十九秒の世界最初の動力飛行に成功した。一九○三年十二月十九日のことだ。この日、朝から兄弟がかわるがわる操縦して飛んだ四回目の飛行で、この記録が生まれたのだ。このときは兄ウイルバーが操縦している。  ところで、私の畏友であり、医師でもある、航空評論家の横森周信氏がこのライト兄弟に関して、オーヴィルが「うつ病」になったという興味深い試論を書いているから、それを拝借してみる。  教師志望であった兄のウイルバーはきわめてまじめな人間で、弟オーヴィルにとって保護者的な存在だった。兄は弟に対する責任感から進学をあきらめたほどだ。義務感、責任感が旺盛、きちょうめん、正直、しかも物事に熱中する、徹底性、凝り性というような、いわゆる執着性性格だった。  一方、弟のオーヴィルは幼いときから外向性があり、行動的で商才もあった。少年時代には学校新聞や週刊誌の印刷発行に夢中になりすぎて、彼のほうもカレッジに進学しなかった。  兄弟というのはえてして闘争関係に陥りやすいものだが、この兄弟がうまくやっていけたのは兄が責任感、義務感が旺盛、弟は明るくすなおで物事にこだわらない性格であったためではなかろうか。  ライト兄弟のように、マラソン界のチャンピオン、双生児の宗茂、宗猛兄弟がうまくやっていけたのは、兄がおおらかで些事にこだわらず、弟が繊細で神経質な面を持っているという差異が役に立ったからに違いない。  この明るく活動的なオーヴィルが、一九一二年に兄ウイルバーが他界してから人が変わったように、暗くて、孤独な人間嫌いになってしまったので、人々は驚くのである。  しかし、オーヴィルのような外向的で、世話好きな、いわゆる循環気質はクレッチマーによるうつ病の病前性格として最も重要視されるものだから、オーヴィルがうつに陥ったとしても不思議ではない。しかもこのとき彼は四十一歳である。  突然兄を失い、周囲には彼らの名誉や権利を危うくするような事態が次々と起こったのであるから、発病の条件はすべてととのっていた。晩年の彼の病名をつけるとしたら、「退行期うつ病」が妥当ではあるまいか。  もし、オーヴィルが先に死んだと仮定したら、ひょっとしてウイルバーもうつ的になったかもしれない。ウイルバーの執着気質は特に日本人の場合、うつの病前性格に最も多く見られるものだからだ。 下田学説の執着性性格  ここに下田光造先生に再びご登場願うことにする。先生は私の父と大学はほとんど同期で、東京府立巣鴨病院(都立松沢病院の前身)の同僚であり、慶応病院精神科の初代教授だった。その後、長く九大精神科教授を務められ、戦後は鳥取大学の学長に迎えられ、退官後は皆《かい》生《け》温泉で悠々自適の生活を送られていた。私も何回か、お見舞いに参上したが、記憶力は抜群で、私の父の歌をすらすらと暗誦された。  そして一九七八年(昭和五十三年)八月末に亡くなった。米子で大学葬が執り行われたが、その日、米子行きの飛行機は精神科関係者で占められていたといっても過言ではなかった。  下田先生の功績の一つは、クレッチマーの学説に反論したことである。クレッチマーの研究は主としてヨーロッパ人、特にアルプス人種を中心としたもので、その学説は日本人にあてはまらないというのが下田説である。そしてクレッチマーの循環気質に対して、執着性というものを提唱した。  下田学説の執着性は、仕事熱心、義務感、正義感が強く、ごまかしができず、凝り性、熱中性、徹底性、正直、きちょうめんといったもので、いわば一○○パーセント完全主義ということがいえよう。  下田学説の執着性性格は、粘着質と神経質を合わせたようなもので、われわれも臨床的に日本人の場合、うつ病になる人にばか正直なまじめ人間がきわめて多いという経験を積んでいるから、こと日本人に関しては下田説を認めざるをえないのである。しかし、一部にはクレッチマーの学説に従わざるをえないケースも、皆無ではないのである。ただヨーロッパ人よりも少ないことは確かである。 高慢無礼になる躁、意欲が減退するうつ  躁が人間を襲うと、その人間はガラリと変わる。高慢無礼になる。自分が天下一の人間になったように錯覚して、上司の言うことも聞かず、人をばかにする。かつて、ある出版社の社員が躁のとき、高名な作家の原稿をかってに直して、その作家を激怒させ、その出版社には執筆しないと宣言される事態に発展したケースがあった。  その社員をやっとのことで入院させたが、医師や看護婦をばかにして全く言うことを聞かない。「薬などとんでもない。そんなもの、効きやしない」などと言って、服用もしない。病院や医師の悪口を言い、マスコミにあることないことを告げ口する。家族の言にも全く耳を貸そうともしない。そんな患者がいた。  最近は、うつ状態のみ発生する病気「単極性うつ病」が多い。もちろん精神的原因、主としてストレスに起因するうつも近ごろは非常に多い。これを「抑うつ神経症」と呼ぶが、臨床的には両者を区別することはむずかしい。しかも治療はほぼ同じだから、無理に両者を区別することはあまり意味がない。  うつ状態の中心は意欲減退である。英語でもドイツ語でもDepressionというが、本来の意味は「沈下」「低下」である。うまい病名をつけたものだと思う。この病名のとおり、意欲も、食欲も、性欲も、睡眠時間もすべて低下するのである。  うつ状態の睡眠は一つの特徴を持っている。むろん例外はあるが、普通の睡眠障害は寝つきが悪いが、うつの場合は寝つきがいい。しかし、二、三時間寝ると、深夜の二時、三時ごろにパッと目が覚め、朝まで輾転反側だ。つまり睡眠の中断というわけだ。「午前二時症候群」などというあだ名がついている。  あだ名といえば、「朝の習慣の乱れ症候群」というのもある。洗面、身だしなみ、朝刊を読む、ラジオやテレビをつけて天気予報を聞くなど、朝の習慣的な行為がいやになり、めんどうくさくなるのである。意欲、気力の減退だ。  次に人間嫌いになり、特に知った人や利害関係のある人に会いたくなくなる。他人と会話を交わすのがおっくうになる。また判断力や決断力も落ちる。スーパーや本屋に入って、どれを買うかがなかなか決まらない。あれやこれやと考えあぐむのだ。口数が減り、体重も減り、行動が不活発になり、便秘、頭重、月経異常なども見られるが、心の中によどむ心理は憂うつ、悲観的で、厭世的な抑うつ気分である。  当然のことながら、ときに死を考える希死念慮も多い。昔からうつ状態は自殺率のいちばん高い病気だった。  また、それほど経済的に困っていないのに明日から食べるのにも困るといった貧困妄想や、自分は罪深い人間、申しわけないと思う罪業妄想などの妄想を発することもある。  要するに、躁状態の気分高揚、誇大妄想、次々と考えが浮かぶ、おしゃべり、多動、疲れを感じないなどの症状とは正反対の状況を呈するのである。 神様が休養をお命じになった病気  躁もうつも休養を必要とする。私は、「神様が休養をお命じになった病気ですよ」と患者に言う。  だが、躁の場合は病識もなく、多弁多動であるから、全く聞く耳を持たない状況で活躍する。休養どころでなく、睡眠もとらないから、本人の自覚もないまま実際は疲労が極度に達し、それをきっかけにしてうつに転じることもある。  うつの場合ももちろん休養が必要であるが、せっかく会社に診断書を出し、上司も承知して、自宅で休養をとれるというのに、まじめな本人としては、休養がとれないことがままあるのだ。つまり休養中も、今ごろ会社では同僚が自分のかわりに働いているのではないか、自分のやり残した仕事はどうなっているのか、などと思うことが多く、真の意味の休養がとれないことが多いのである。  そういった意味で、会社側も「早くよくなって早く出てこいよ」などと言ってはいけない。かえってプレッシャーをかけることになる。また家族や周囲の者も「しっかりしなさい」「がんばれよ」などという激励をしてはいけない。逆効果になるからである。  会社の人間や親族の見舞いも、かえって本人に負担をかけるから、遠慮したほうがいい。  家族は症状が軽快すると安心するが、自殺の心配がある場合、症状が少し軽快したときがかえって危険であることを心に留めておきたい。自殺には大きなエネルギーを要するから、重症時よりやや軽快したときのほうが危険なのである。  ひとたび死の希求を決意したとき、それを阻止することはなかなかむずかしい。治療を強化することしか方法がない。家族がうっかり発した「がんばれ」「しっかりしろ」などの激励の言葉が自殺に直結することもあるから、注意しなければならない。  現在は、うつの治療の中心は薬物療法である。主力は当然抗うつ剤であるが、イミプラミン、アミトリプチリンやマプロチリン、ミアンセリンなどの四環系の抗うつ剤が最もよく使用される。むろん抗不安剤や睡眠剤の併用も行われる。  昔は長時間の睡眠をとらせる持続睡眠療法や電気ショック療法が多用された関係で入院させることが多かったが、今は外来で治療することが多くなった。もちろん家族の間でトラブルがあったり、自宅が騒音の大きな場所であったりしたときには入院させることもあるが、入院率は昔よりはるかに減った。  服薬も症状が軽快するとすぐやめてしまう人がいるが、これはあくまで医師の方針に従ってほしいのだ。感染症などの場合、たとえば下熱すると抗生物質の服用をすぐやめる人がいるが、これは再発に通じ、再発のときは治りが悪くなるのと同じで、服薬はあくまで専門医の方針に従うべきだと思う。  また症状が軽くなって職場にめでたく復帰しても、少量の薬を服用して再発を予防することも場合によっては必要である。 不安感情の強い抑うつ神経症  近ごろふえている抑うつ神経症は、対象喪失(愛する人を亡くした人、離婚した人、子どもに巣立っていかれた親など)、プライドの喪失(人前での失敗や叱責など)、地位や職場の変動(定年退職を含む)など、身辺に起きた変化から生じたストレスによって発症するもので、リストラ時代において特にふえていると思われる。  症状はうつ状態と大差はないが、特に不安感情が強く、動悸、発汗異常、その他自律神経系の訴えが多く、いわゆる神経症的症状を呈することが目立つのである。ときに離人症的な訴え(自分が自分でないようで、喜怒哀楽などの感情の低下が見られる)をすることもある。  この病気は「人に自分の心を聞いてもらいたい」という要求が強いから、外来への対応もその線に沿ったやり方が求められ、カウンセリングの重要な対象となる。また薬物治療も、抗うつ剤以外に抗不安剤などの併用も重要である。  今はこの抑うつ神経症を含めて、うつ状態の患者が外来患者のほぼ七○パーセントを占めるという盛況である。まさに現代はうつの時代といっていいだろう。  一九九九年(平成十一年)、文芸評論家の江藤淳さんが自殺した。  りっぱな遺書を残したが、その遺書の中に、心身の不自由、病苦は堪え難し、脳梗塞の発作などという文字が見られる。江藤さんは愛妻の死、脳梗塞による心身の不自由、それにこれは重要なことだが、江藤さんが粘着質的なまじめ人間であったことなどから、うつ状態であったことは確かであろう。「江藤淳は形骸に過ぎず」とも遺書に書いている。  かのビンスワンガーのいう「過去視」、つまり過去にこだわること、もう一つビンスワンガーが「未来視」と呼んだ心理、この二つによって江藤さんは死(彼はみずから処理といっている)を選んだとも考えられる。  うつ状態と自殺との関連はけっして浅くはない。うつの中心症状の一つが希死なのである。それを避ける方法は何か。それは言わずと知れた、早期治療だといっても過言ではない。 退却神経症と逃避型抑うつ  近ごろ、うつ状態と神経症の中間に位置する現代的な新しい病態が注目されている。退却神経症と逃避型抑うつと呼ばれているものだ。  退却神経症は大学生などの年齢層に見られ、無気力、無関心を中心とし、本業、学業からの逃避、閉居を呈するが、自分にとって楽しいこと、たとえばアルバイトや同好会的なサークル活動には参加することができるのが特徴だ。  一方、逃避型抑うつは、就職後に配置転換などがきっかけで抑うつ的になるが、普通のうつよりも心的苦闘は少ない。仕事は休んでも、楽しい社内旅行やカラオケ、グループなどには参加する。  病気に対する自覚が乏しいので、自分から積極的に受診することはまずない。家族に連れられて、いやいやながら来院するのが大部分である。しかも、受診は長続きしない。診療継続を拒否することが多いからだ。 仮面うつ病 「仮面うつ病」(Masked Depression)とは、本質はうつであるにもかかわらず、身体症状が強く前面に押し出されて、一見さながら身体の病気であるように見える状態をいうのである。身体的訴えの多い神経症とも思われかねない。往々にして身体病として扱われ、うつの治療がおろそかになり、治療の時機を逸するおそれがある。  これは、うつにおいても、精神症状と同時に身体症状の観察をおろそかにしてはいけないという、いわば警告の意味でこういう病名がついたのだろう。  私の若いころ、教授からよく「人を見たら梅毒と思え」と言われた。梅毒によって起こる進行麻痺の華やかなころで、梅毒性の疾患が横行していたころだからである。今は梅毒を原因とする進行麻痺や脊髄梅毒はほとんどないが、精神的な病気でも、身体的検査はおろそかにできない。私は初診時には必ず血液検査をして、肝臓病やコレステロール値、糖尿病の有無などを見る。糖尿病からうつが発生することもあるからだ。  食欲減退は全般的な訴えであるが、「食事の味覚が全くない」と言う人もいる。反対に猛烈な食欲に悩むこともある。むろん真の食欲増進ではなく、一種の不安解消の手段であることもあり、また満足感消失のこともあっての過食なのである。何か口に入れると安心感を得るというのは、自己防衛という人間の本能の然らしむるところだ。  絶えず仁丹やビタミン剤をポリポリかじっていないと不安でたまらない人をかつて診たことがある。同じ理屈で、タバコの量や性行為の回数がふえることもある。過食のメカニズムと相通じるものだ。 ストレスからくる神経症という病気  通院医療で多いのは神経症だ。ドイツ語でノイローゼ、英語でニューローシスという。ノイローゼという言葉は今、日本語の中に定着している。  神経症という病気は、かつては神経疾患全般を意味していたが、現在は進行麻痺、脳器質性疾患、テンカン、精神分裂病、躁うつ病以外の心因性疾患を意味するようになった。  ストレスが身体的に影響を与える場所は無数にあり、それこそ頭のてっぺんから足の先まであるが、最もはげしくおかされるのは消化器系統といってよいだろう。口中が渇くという口渇、胃がしくしく痛む、嘔吐、ムカムカ、下痢、便秘、ガスの過発生(車中などでおならを気にする人が多い)など無数にある。 「皮膚病は皮膚の神経衰弱」と言われるように、ストレスによって頭髪が抜けたり(円形脱毛症はその典型)、ジンマ疹が出現したりする。神経症患者は総じて血液循環が鈍化しているという研究があるが、それがくび筋のこりや、肩こりに直結するのである。  また、神経症に多発する頭痛や頭重はおろそかにできない。頭痛が脳腫瘍(命取りの病気)から発症することもあるからである。そのため脳波などの検査もするに越したことはない。 不眠症  よく患者から、「睡眠時間は何時間ですが、これでいいのでしょうか」という質問を受けるが、これにはうっかり回答できない。まじめに答えると、患者が不安にさいなまれるというマイナスがあるからだ。睡眠時間は個人差が大きい。日本人の平均睡眠時間は七、八時間であるが、これはあくまで平均の数値であるから、これにこだわる必要はない。  いわゆる不眠症という病気は第三者から見ると、はなはだ合理的でない疾病だ。「もうひと月も一睡もしていません、なんとか眠れるようにしてください」などと訴える。患者の顔色もまず良好で、一見健康そのものである。 「ひと月も眠っていないあなたは、どこかで寝ているのです。たとえ最小限度でもあなたは睡眠をとっているのだから、生きているのです」などと説得しても、患者は納得しないのが普通だ。不眠症の患者には、まじめに説得しても意味がないのである。  ところで、睡眠時間が四時間以下と十時間以上の人は死亡率が高い、という統計がある。これとて個人差、例外があるので、あまりこだわることはない。たとえば、相対性原理を発見したアインシュタインは十時間以上眠らないと、頭が働かなかったそうだ。しかも、彼は一九五五年に七十六歳で没しているのである。 ヒステリー  神経症概念に含まれるヒステリー(ヒステリア)という病名は子宮(Hystera)から起こっている。古代ギリシャの医聖といわれたヒポクラテスは、体内で子宮が動き回るために発生する婦人病と考えたのである。もちろんヒステリーは男性にも存在するが、やはり女性に多いというのは古代ギリシャの人も気がついていたのであろう。  今、われわれの眼前に展開するヒステリーの身体症状、ケイレン発作、身体が弓なりになる後弓反張、失立、失歩、精神症状としてのもうろう状態、意識喪失などは、つきもの、もののけ、魔女などと結びついた時代もあったのだ。  そして、S・フロイトによって精神分析学的手法による神経症の分類、概念が確立していったのである。  ヒステリーという病気は心因性の病気である。フロイトはヒステリーの本質を、疾病への逃げ込みだとしている。ヒステリーは疾病へ逃避することによって、自己を防衛し、なんらかの利益を得るのだという。疾病への逃避は無意識下に、または半意識下に行われる。これが意識的に行われれば病気とはいえない。仮病になる。  ヒステリーという病気は、運動麻痺、ケイレン、感覚麻痺などの身体症状、意識障害、記憶喪失、もうろう状態などの精神症状を呈することで、心の葛藤から逃避し、自己の心的欲求を代償的に満足させる状態をいうのだ。  ヒステリーの症状は総じて派手で演技的であるが、「症状を発症することによってなんらかの得をする病気」と表現することもできる。自己中心的で、自己防衛機制の強い病気ということもできる。  かつて私が大学病院にいたころ、ある会社の社長が入院してきた。病気は進行麻痺だった。毎日、かいがいしく病院に来て病人を看護したのは本妻ならぬおめかけさんだった。その二号さんは派手な人でヒステリー性格を思わせた。社長は治療もかなわず、ついに息を引きとった。おおぜいの親族の目の前で彼女は悲しみのあまり(と見えた)、ケイレンを起こして卒倒した。その悲しみように打たれて、本妻も同情し、彼女はかなりの遺産を手に入れたのである。疾病への逃避によって得をした典型的なケースではあるまいか。 いろいろな神経症  神経症のうち、抑うつを除き、比較的多く見られるのは不安神経症、心気症、強迫神経症、恐怖症、心因反応(ヒステリー性)、それに心身症などがあげられる。また、ときに人格障害なる診断をすることもある。  不安神経症は文字どおり不安感を強く持った神経症で、漠然とした不安から、心臓などの一点に集中した心臓神経症があるが、初発は一種のパニック発作で発生することが多い。患者はこれを発作と形容するが、これがいつ起こるかという不安、ついには発作を待ち望んでいるという心理へと変化していく。  一人では外出できず、必ずだれかに同行してもらって、かろうじて外出することが多い。幅広い年齢層に見られるが、男女ともに発生する。  心気症というのは、必要以上に心配するということである。実際にはたいしたことのない症状を重大な病気ではないかと恐れ、悩み、その恐怖を他人に聞いてもらいたい欲求が強い、ということができる。  周囲の人からこれは偽りの病気ではないかと疑われることもあるが、これはりっぱな病気なのだ。 強迫神経症  強迫観念が中心になっている神経症である。強迫はしばしば脅迫とまちがえられるが、それは違う。けっして脅かされるのではない。強迫は強く迫るのである。  モリエールの書いた『病は気から』が心気症の典型であるが、この強迫神経症という病名をはっきり用いたのはフロイトである。それ以前にもフランスのエスキロールが「強迫」という言葉を登場させている。  逃れよう、逃れようと努力しても、いつまでも、どこまでも、ある考えが追いかけてきて逃れられないのが強迫観念である。  主婦がコンセントからプラグを抜く、アイロンのスイッチを切ったことを自覚していても、ひょっとすると切っていないという考えがわき上がってきて、外出先から消防署に電話をかけてしまう人、ポストに手紙を投函して帰ってきて、ひょっとすると手紙がすべってポストの下に落ちているのではないかという思いが襲ってきて、再びポストの場所に出かけなければ気がすまない人がいる。  詩人の萩原朔太郎は、『僕の孤独癖について』という作品の中に、「門を出る時、いつも左の足からでないと踏み出さなかった。四ツ角を曲る時は、いつも三遍宛ぐるぐる廻った。そんな馬鹿馬鹿しい詰らぬことが、僕には強迫的の絶対命令だった」と書いている。  一九七〇年度の芥川賞を受賞した古井由吉氏の『杳子』の中に、こんなくだりがある。 「……電車に乗ってどこそこまで、とただそれだけ言えば済むのに、彼女は途中の駅を数えはじめる。……」 「……階段の上の暗がりでひと休みして、もう一度数えると、……」 「……きまった順序を踏まなくては終えられないの。……まるではじめての衣裳をつける時みたいに、ひとつひとつ確めてやって行かなくては気が済まないの。ボタンをはめる時にすこしでもチグハグな気持になったらもう大変、肌着からやりなおしよ。階段を降りるにも、かならず右足から踏み出して、一段ずつていねいに、不安そうに踏んで降りてくる。……それからいちばん上の段まで引きかえして、またやりなおし。……」  これが強迫観念である。一見、妄想に似ているが、妄想は「根拠のない主観的な信念」と定義がつけられているのに反して、強迫観念のほうは、その考え方の不合理さに本人が気づいているところに根本的な違いがあるのである。自分で気づいているが、それから逃れることができない。妄想より自覚的にはるかに苦しいに違いない。この強迫観念が中心となっている強迫神経症の内容は大きく二つのタイプ、すなわち疑惑症と恐怖症とに分類される。 疑惑症と恐怖症  疑惑症は、さきに書いたスイッチやポストの件のように自己の思考や行動に対して疑いを持つ。何回も何回も確かめないと気がすまない。こういう確認が中心症状となる。同じメカニズムで起こる穿《せん》鑿《さく》症は、原因や理由を根掘り葉掘り穿鑿しなければ気がすまない。また、なんでも計算する人がいる。  かくいう私も、歯を磨くとき何回か計算し、電車の窓に映る電信柱の数を数える癖がある。階段の数を数える癖もある。友人としゃべりながら階段を上り終わって、「あっ、しまった(数え忘れた)」と言うだけなら笑い事ですまされるが、階段を駆けおり、再び階段の数を数え始めたら、これは強迫観念といってもいい。  また、強迫観念から生じる恐怖が中心となるときは、「恐怖症」(英語ではフォビア、ドイツ語ではフォビー)と名づける。対人恐怖、赤面恐怖、疾病恐怖、尖端恐怖、不潔恐怖、高所恐怖、閉所恐怖などたくさんの種類がある。  結核恐怖、梅毒恐怖などは少なくないが、かつて細菌恐怖にぶつかったことがある。あらゆる検査をしても悪い細菌は見つからない。ついに患者の要求によって電子顕微鏡で調べてもらったが何も見つからない。その患者はこう言った。「まだ発見されていない細菌に違いない」  不潔恐怖症は少なからず出現するものだ。いちばん多いのは「手洗い」だ。終日、手を洗わないと気がすまぬ人がいる。会社でしょっちゅう席を立つので調べてみると、洗面所へ行き、何回も手を洗っていた。月に一○万円も石鹸や消毒液を買う人がいる。  以前、蛇嫌いの老婦人を診たことがある。蛇が通りそうな道路だと車からおりることができず、あるときテレビの画面に映った蛇を見るやいなや、そのテレビを壊してしまったという。蛇嫌いの私は同情しきりであった。  乗り物恐怖も少なくない。地下鉄がこわい人、新幹線のこだまには乗れるが、ひかりには乗れない人がいる。車中で身体的に何か起こったら、各駅停車のこだまならなんとかなると考えるのである。 尖端恐怖症の詩人、萩原朔太郎  強迫観念をとり除くために、儀式的な行為を行わないと気がすまない人がいる。その強迫行動はいわば確認である。  就寝前にベッドの周囲を三回半(あくまで三回半なのだ)回らないと気がすまない人や、足踏みを十回やらないとベッドに入れない人もいる。いずれも儀式だ。外出するときにハンドバッグの内容を事こまかに点検し、いちいち「よし!」とかけ声をかけ、「よし!」の次に「はい」とみずから返事をするので、ひどく時間のかかる主婦もいる。  詩集『死の淵より』を最後に胃ガンのため、一九六五年(昭和四十年)、この世を去った高見順の年譜の、昭和二十七年、四十五歳のところに「尖端恐怖、白壁恐怖のはげしいノイローゼのため執筆不能となる」とある。  詩人、萩原朔太郎の出世作ともいえる詩集『月に吠える』は一九一七年(大正六年)の出版だが、その中に有名な「竹」という詩がある。「光る地面に竹が生え」「かたき地面に竹が生え」「凍れる節節りんりんと」などと朔太郎は詠んでいる。  この詩を反芻してみると、私はこの詩の中に朔太郎の尖端恐怖(尖《とが》ったものがこわい)が表現されているような気がする。  萩原朔太郎は、私が文学部の学生時代に、講義を聞いているから、恩師ということになる。先生は、「……僕は昔から人嫌ひ、交際嫌ひで通ってゐた。……それを余儀なくさせるところの環境的な事情も大いにあったのである。元来かふした性癖の発芽は子供の時の我がまま育ちにあるのだと思ふ……」「……何でもないことがひどく怖かった。幼年時代には、壁に映る時計や帚の影を見てさへ引きつけるほどに恐ろしかった」と書いている。  令嬢の作家、葉子さんも「(父は)右側の壁を瞬間的にひょいひょいとさわってからでないと、けっして二階に行かない」と書いている。 私の幼年時代の強迫行動  朔太郎先生の教え子である私も、八歳まで一人っ子だった。両親は多忙で、ほとんど私のそばにいなかった。そして大甘の松田というばあやに育てられた。私の嫌いなものはけっして食べさせてくれなかった。両親の顔もろくに見ず、ばあやから過保護に育てられ、しかも一人っ子で、長男の甚六ときては、一人っ子にありがちな悪いほうの性癖を発揮するようになっても不思議ではなかった。  当然のことながら、幼稚園でも孤独で人嫌い。砂場で一人で遊んでいたり、門前で引っくり返って足をバタバタさせて泣き叫んだりした。  家のトイレの前に大きな鏡があった。幼いころの私はトイレに入る前と、出てきたあと、必ず着物をはしょり、おしりを丸出しにして鏡で確かめることをやっていたのを思い出す。今から考えると、それはいわば強迫行動であったと思う。おしりに何かついていないかを確認していたのかもしれない。  衣服を着るのも、行動もすべてのろかった。家庭環境がいびつで、過保護に育てられた一人っ子の短所は、わがまま、引っ込み思案、内弁慶、虚弱、神経質、臆病、根気が続かず忍耐心がない、などだが、私はその大部分を発揮していたのだ。  箱根のケーブルカーの終点の早雲山駅から一望する箱根外輪山の展望もこわくて目をあけていられず、ついには泣き出したのは七、八歳のころだった。カエルはむろん、ミミズがこわくて泣き出し、叔父から叱られたことも思い出す。蛇恐怖症は今も続いている。 電話恐怖症の父、茂吉  私が一人っ子から抜け出し、少しましな少年になったのは、一九二五年(大正十四年)に妹が生まれ、続いて弟(北杜夫)が、さらに妹が生まれ、下に三人のきょうだいができてからである。それより前の二四年暮れには、祖父が院長をしていた東京・南青山にあった青山脳病院が自宅とともに全焼した。ヨーロッパ留学から焼け跡に帰ってきた両親とともに住み、食事も同じちゃぶ台でするようになり、一挙に貧乏生活に落下したことも役に立ったのかもしれない。  経済のことなどさっぱりわからない父が、すっかり落胆してもうろくした祖父にかわって、全国に借金の行脚をしたり、私が寝ているすぐそばで、父が電話で盛んに謝っている(あとで考えると、高利貸しからの借金返済の催促に謝っていたのかもしれない)姿を見て、これはたいへんなことと、危機感を持ったのかもしれない。  その父が二七年(昭和二年)に祖父にかわって院長職についたあと、電話恐怖症に襲われている。父は『フォビア・テレフォニカ』という随筆を書いている。つまり「電話恐怖症」だ。「大正十四年から大正十五年昭和二年三年あたりにかけ、私は電話の鈴の響が恐ろしくて為方のなかったことがある」という書き出しである。  その恐ろしい事の一つは、夜半過ぎなどにかかる電話の多くは大抵病院の事故で、その事故の大部分は患者自殺の報告であったからである。……夜寝てから電話が鳴ると、もう動悸がし出して来る。……次の日も次の日も同じ電話が来る。そして少し経ったところが、『近々差押といふことにいたしました』とか、『それではいよいよ弁護士を向けますから』とかいふ。……  この二つの電話でいぢめられたものだから、私はひどく電話の音が恐ろしくなって何とも為方がなかったものである。たまに信州に萬葉の話などに行って、電話の無い山中に寝たりすると、実に名状することの出来ない心の安定をおぼえたものである。  などと書いている。  前にも書いたが、一九二四年(大正十三年)暮れ、父は青山脳病院の焼け跡にヨーロッパ留学から帰ってきた。それから数年間、すっかりぼけた祖父にかわって病院再建に努力し、金策に困り、ついには高利貸しに借金するという苦境に追い込まれ、二七年(昭和二年)に祖父にかわって院長に就任し、全責任を負うことになったころの話である。  私が戦後初めて世田谷の代田で開業のまね事をしようとしたときに、父は「電話をつけるな」などと非常識な無理を言ったが、この文章を読むと、神経質な父の気持ちがわからぬでもない。  しかし、高所恐怖症、不潔恐怖症など数ある恐怖症は、自己防衛の一環としてあらわれるとも考えられる。高所恐怖症がなければ高所から墜落することがふえるだろうし、不潔恐怖がなければ伝染病や食中毒がふえるだろうし、尖端恐怖がなければ刃物でけがをする人がふえるだろうし、だ。  あたりまえのことを病的に恐れるのを生来的なものとすると、もう一つ、いわば後天的なものが考えられる。フロイト流の精神分析学の解釈に従えば、後天的なものは、観念と感情の分離、抑圧(いやなことを忘れようとする)が完全に行われずに一部が意識に入り込んできたときに発生する。 性格が偏った人格障害という病気  人格障害とはいかなるものか考えてみよう。  簡単に言えば、性格が極端に偏っているため周辺の人たちがひどく迷惑をこうむり、またそのために本人自身も苦しんでいる場合を人格障害、あるいは人格反応という言葉を使うと考えていい。  人格障害とひと口に言うが、性格の偏り、人への迷惑度への線引きをどこにおくかがはっきりしない。うっかり、ある人間を人格障害と決めつけると、相手を傷つけ、人権問題に発展しかねないから、これはあくまで精神医療の枠内に留めておかなくてはならない。  病気か病気でないかをはっきりさせないと気がすまないのは日本人の悪い癖である。病気と性格の中間地帯にあるケースもあることを忘れてはいけない。 夏目漱石は人格障害か  前にも書いた都立松沢病院の名物患者、葦原将軍は、のちに大学教授など名を成した多くの精神科医が主治医になったが、それぞれ診断名が異なり、病名が一致しなかったことも書いた。  また最後の担当医となった私の叔父も、死後の彼を解剖したが、確たる脳の所見も発見できなかったことも書いた。それほど診断のむずかしい症例だった。  同じように、各人各説を出して診断名の確定していない人に夏目漱石がいる。  漱石にはご存じのように、生涯三回の精神的変動があったといわれる。漱石はみずから神経衰弱と称している。  第一回は漱石二十七、八歳のころで、抑うつ気分、厭世感、過敏、かんしゃく、他人の行動に対する曲解、他人の自分への注察感、自分を探っているスパイがいるなどの被害妄想的な解釈の症状があり、それからの逃避とも見える都落ち、つまり松山中学への奉職を実行する。松山でも下宿の者をスパイと思ったりした。  その後の熊本時代は、夫人のヒステリー症状がはげしく、卒倒や後弓反張、自殺企図などがあって、彼を悩ませた。  第二回は三十六、七歳ごろ、ロンドン留学時代である。英国人がみな自分を悪罵している、下宿の者が自分を監視している、つけねらっているなどの被害関係妄想が中心で、下宿では暗い部屋に閉じこもって泣いたりしていた。留学生仲間も、日本人会のメンバーも、漱石の精神病を信じた。帰国のときは、奇しくも私の祖父、紀一と同じ船であった。  帰国したあとも夜中、突然激昂して物を投げつけたり、「自分の頭の中でいろいろなことを創作して、私などが言わない言葉が耳に聞こえて、それが古いこと新しいことといろいろに連絡して、幻となって眼の前に現われるものらしく……」(松岡譲筆録『漱石の思い出』)といった幻覚を思わせるような症状があらわれたりする。  また「このころは何かに追跡でもされてる気持ちなのかそれとも脅かされるのか、妙にあたまが興奮状態になっていて、夜中によくねむれないらしいのです。夜中、不意に起きて、雨戸をあけて寒い寒い庭に飛び出します。……」  松岡譲の記すところによれば「とにかく、すべてのものが彼を追跡し、脅迫し、探偵し、そうして敵対する」といった状態であった。  呉秀三教授が漱石を診て、追跡狂、妄想性痴呆としたのはちょうどそのころであった。この時期に限って漱石を診断すれば、大多数の精神科医は呉秀三同様、精神分裂病圏に属するものと考えただろう。  第三回はすでに『吾輩は猫である』が刊行されて七、八年後の四十六歳のころで、『彼岸過迄』が公にされたあと、前回にくらべればそれほど重くはなく、連載中の『行人』の執筆を一時休止したのも主として身体的理由からであった。  漱石の病気については、葦原将軍と同じく実にいろいろの見解がある。ある時期はうつ的であったり、ある時期は分裂病的であったりする。また両者が共存する時期もある。  伊東高麗夫氏の「抑うつ妄想症候群」、千谷七郎、加賀乙彦氏の「内因性うつ病」、春原千秋氏の「非定型精神病」、塩崎淑男氏の「敏感関係妄想型の人格反応」、それに鹿子木敏範氏の「人格反応」など病名も実ににぎやかだ。  鹿子木氏の論点は、漱石は粘り強い精神力の持ち主で、いかなる苦悩の時期でも精神活動を続けていたから過敏で弱々しい神経衰弱ではないこと、精神変調の時期以外には人格変化のくずれは認められないから精神分裂病ではないこと、周期性は認められるが、精神運動抑制や気分の日内変動や、その他内因性うつ病の基本的指標に乏しいから内因性うつ病ではないことに重きをおいている。  そして氏によると、漱石は生後すぐ貧しい古道具屋に里子に出されたが、実父に過酷な扱いを受け、さらに養子に出された先の義父母の別居、実母と十三歳で死別するなど、乳幼児から絶えず不安定な状況におかれたために、強い不安や警戒心の習性が培われ、複雑な執着性格が形成され、過度の責務や緊張感が持続した場合、これが内因の変化を誘発して、内因反応性の妄想様状態を生ずるようになった。そのために内因性精神病とも心因反応とも決められない精神変調であるから、やはり人格反応のほうを重視すべきである、と推論している。  私は漱石の性格を粘着性、執着性、それに神経質が混在したものと考える。性格の背後にいつもちらついている猜疑心、警戒心はあまり幸福でなかった幼児体験から自己防衛的に形成されたものであろう。  結局、漱石の病気は、「人格反応」「人格障害」という説に軍配を上げたいが、どういうものか。「天才の精神病は常に非定型である」と昔から言い古された言葉が念頭にちらつくのである。 さまざまな人格障害  人格障害の分類については、いろいろな学者がさまざまな分類を提唱しているが、最もポピュラーな分類はアメリカ精神医学会の診断基準に従うのがいいと思う。 ●妄想性人格障害——ひがみっぽく、猜疑心が強く、説得がきかず、ささいなことを「陰謀」があるなどと曲解する。 ●分裂病質人格障害——何事にも無関心、鈍感で、孤独である。 ●分裂病型人格障害——人とのコミュニケーションがへたで、環境に適応して態度を示さず、たとえば空笑があったり、テレパシーや霊を信じたりする。 ●反社会性人格障害——これが社会に最も大きな被害を与えるタイプである。自己中心で、自己抑制がきかず、すぐに激昂し、暴力をふるい、社会通念に背を向け、攻撃的、犯罪に走りやすいが、多くは衝動的、無責任である。 ●境界性人格障害(ボーダーライン・パーソナリティ)——最近、臨床的によく使われる名称である。激越な人間関係と強い心の不安定が特徴である。戦後、アメリカあたりから発信された人格障害の類型だ。最高の理想像をある人間の中に見つけ出したかと思うと、同じ人間に対してささいなことで裏切られ感を持ち、猛然と攻撃し、こきおろす。振幅がはげしい。心の奥底には、理想化した人間から見捨てられたくない、という願望がひそんでいるかもしれない。近ごろ、よく言われる「ストーカー」なる人間の一部にはこの類型が見られるかもしれない。 ●演技性人格障害——ヒステリー性格を頭に描けばいい。自己中心、他人から注目されたい心理が強いので、ふるまいがドラマチックでオーバー、パフォーマンス的な態度が目立ち、魅力的、暗示にかかりやすい。こういう人間とひとたび敵対関係になると、手ひどい反撃、あだ討ちをくらうことが少なくない。 ●自己愛性人格障害——演技性人格障害が他人から注目されたいという欲求が強いのに対して、この類型の人は、他人からほめられたい、という気持ちが強く、自己を最高の人間だと信じ込むことが多いから、周囲からうぬぼれ、鼻もちならないと思われがちで、人々が寄りつかなくなる。ナルシストの悲劇だ。 ●回避性人格障害——一人っ子にありがちな性格特徴に似ている。恥ずかしがり屋、引っ込み思案、臆病、他人の言葉にすぐ傷つきやすい、対人恐怖が強く、自己を極端に過小評価する。 ●依存性人格障害——自分で決定、決断ができず、あらゆることに対して他人の意見、結論を聞きたがる。外来患者にもときどき、こういう人がいる。何をどうしたらいいか、どんな行動をとったらいいか、ささいなことまで問いただす。私は医者ですよ、弁護士ではありません、会社の上司でもありません、と答えたくなるような依存型の人がいる。 ●強迫性人格障害——完全欲が強く、何々せねばならぬ、という頑固なタイプ。その考えを第三者に押しつけ、強要する。何事にもこだわりが極端で、行為に長い時間がかかる。何事も確認しないと気がすまない。 ●好訴性人格障害——人格障害の中に、好訴性を入れる説もある。なんでもすぐに訴えるというタイプである。この程度のことでなんで訴えるのか、と第三者は考える。新聞を訴え、役所を訴え、個人を訴え、病院を訴える。訴えてもたいていは敗訴となるが、それでも執拗に訴える。  医者から投与された薬を飲んで眠くなり、車の運転を誤って交通事故を起こし、そのために「会社を首になった」と言って、医師を訴えたというケースがある。その薬はそれほど眠けを催さないし、また交通事故は自分の責任でもあるのに、すべてを医師のせいにする。もちろん患者は敗訴となった。 反社会性人格障害の語学の天才  私が大学の医局に復員して最初に教授から命令されたのは、当時、はやりにはやった発疹チフスの研究だった。教科書や研究書にのっていない精神症状の有無を確かめるのが主目的だった。発疹チフス患者を収容していた伝染病院を回った。  ある都立病院でいきなり、「おっ、茂太君!」と患者から声をかけられた。見れば、叔父の顔がそこにあった。大学の英文学の教授をしていた叔父だった。その叔父の病気は結局、真性でないことが判明して釈放されたのだが。  当然、外国の文献を読まなければならない。英語やドイツ語の論文はなんとか読めるが、はたと困ったのはチェコ語、ハンガリー語の文献だった。  当時、私は医局から派遣されて、あとで継ぐことになった家内の父の精神科病院に手伝いに行っていた。そこの入院患者の中にとんでもない語学の天才がいたのだ。  彼は病的性格者、おおげさにいえば反社会性病的性格者、天才によくあるタイプだ。人間性が豊かすぎる人、社会常識が通じない人だった。おなかが減れば八百屋の店先からリンゴを一個失敬する。そういうたぐいの軽犯罪を繰り返す。ところが病院にいれば、せっせと語学の勉強に明け暮れする。数カ国語を話し、書くこともできる。  ついには、それまでなかった日本語とハンガリー語の辞書を完成させ、その功績によりハンガリー政府から勲章を贈られるという大物になった。入院患者としてはまさに模範的で、他の患者に全く迷惑をかけないからということで退院させると、たちまち無賃乗車、軽い窃盗などの軽犯罪を繰り返すので、再び病院に送り返されてくる。  私が発疹チフスの外国文献ではたと困ったのは、チェコ語の論文だった。これは、はなはだ重要な内容を持っているらしく、またナポレオン軍のモスクワ侵攻にまでふれているらしいので、どうしてもこまかい点を知りたかった。そこでおそるおそる、例の患者にその文献を読んでくれるかと伺いを立てた。  ところが、あっという間に彼はそれを読破してくれたのだ。おかげで私の書いた論文には箔がついた。私は彼にお礼がしたかった。何がほしいかと聞いたところ、彼はあっさりと言った。 「タバコを一箱ください」  彼はその後、事情があって都立病院に移った。何年かのちにその病院で一生を終えたと風の便りに聞いた。 パラノイアとパラフレニー  第三者から見るとただ妄想のみで、ほかに著しい症状が見られず、普通の人間としか映らない。分裂病的な症状や人格の崩壊のない症例もときに見られる。したがって、第三者はその妄想内容を信じてしまうこともある。  オウム真理教の顧問弁護士が「周辺の集落のほうから毒ガスで攻撃されていた」と言ったが、あまりにも荒唐無稽なので、人々の大部分は信じなかった。  しかし、次の例はどうか。 「アメリカのクリントン大統領の指示で、あるグループが組織され、日本の新聞や役所の中に細胞をつくり、私を見張り、あるいは私の家族や友人にまで手を伸ばした。アメリカにとって役に立たない、もしくはアメリカにとって敵であると判定されると、あらゆる手を使って慢性的に死を迎えさせる方法をとっているのです。一カ月前に私の叔父が脳梗塞で死にましたが、それはアメリカの魔手が自然死と見せかけたのです」  こういうふうに、普通の人間と思われる人間から述べられると、中にはそれを信じてしまう人も出てくるに違いない。  分裂病の妄想型は、こういう妄想のみしか表出しない患者もいるのである。その妄想の内容が荒唐無稽なら人々は怪しむが、そうでない場合は診断がむずかしい。ある学者はこれを分裂病とは分離して、「パラノイア」と名づけている。  さらに重症なものを「パラフレニー」と呼ぶこともある。確固とした妄想体系が潜行性に発展し、思考や意志、行為に首尾一貫性が保たれることが特徴である。  皇室妄想とか、「私の父は世界じゅうの自動車会社を支配している。先生がロールスロイスを好きなら、最高級クラスの車をすぐ手配させます」などと言われれば、これはすぐ病的だと気づくが、パラフレニーやパラノイアの場合、思考内容が系統的なので、だまされやすく、診断がむずかしくなる。  昔なら手紙が毎日のようにやってくるが、いまではファクスという便利な機械があるから、しょっちゅうファクスがその患者から配送される。まるでファクスがその患者に支配されているようである。反社会体制信奉者、攻撃性の強い、好訴性の持ち主の一部に、このパラフレニーやパラノイアがまじっているであろうことは十分に考えられる。  また、新しい宗教をあみ出した偉大な人物には、この妄想的色彩が濃厚であったことは疑いない。 人格が転換する多重人格という病気  多重人格とは同一人物に二人、またはそれ以上の人格が交互に出現して、互いに独立して活動する現象で、Aの人格のときはBの言動を、Bの人格のときはAの言動を全く記憶しないのである。 「イヴの三つの顔」の人格 「イヴの三つの顔」は、アメリカのアトランタ近くのオーガスタの精神科医C・H・セグペン、H・M・クレックレーのドキュメンタリー・レポートが原作となって映画化され、ジョアン・ウッドワードがアカデミー主演女優賞を獲得した。  これは実際にアメリカで起こったことだ。  イヴ・ホワイトという二十五歳の小柄な美しい奥さんが、サウスカロライナ州の田舎町の医師を訪れ、ひどい頭痛と心の不安を訴える。医師は原作者の二人の精神科医を紹介した。彼女は以後、両医師の治療を受けることになる。  何回かの面接のとき、彼女はいきなりはすっぱな態度で「ハーイ、先生! そこにいたの?」と話しかけ、セグペン医師を驚かせた。このとき初めてセグペン医師は、彼女が心の中にもう一つ別の人格イヴ・ブラックが存在することを知ったのだ。  そして、あれやこれやの経緯の末、最後にイヴは実にドライなもう一つの人格エヴリンに変身し、ホワイトとブラックの生き方を批判する。かくして、ようやく「適応状態」がやってきて、イヴは前夫と別れ、新しい配偶者を得て、今も幸福に暮らしている。  セグペン博士がロサンゼルスの学会で学問的な報告をしたのが一九五五年。三年後に本が書かれ、映画にもなった。博士はその後もイヴと接触し、予後を追求しているが、幸いなことに彼女の心は平安状況にあるという。  人格の転換というと、われわれの頭にはスティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』や『狼男』が浮かぶが、それらはあくまでフィクションである。しかし、『イヴの三つの顔』は実際に起こった事実であるから、鋭くわれわれの心に迫るのである。 ヒステリー性(解離性障害)の病態 「イヴの三つの顔」を現代の日本におきかえて脚色し、TBSから「私という他人」という多重人格を扱ったテレビ・ドラマが放映された。私も監修という立場でお手伝いし、また私の病院でもロケをしたから忘れられない作品の一つとなった。  村井純子という主婦(三田佳子)が主役、プレイボーイの夫(山崎努)、精神科医大谷(小林桂樹)、その妻の女医(斉藤美和)と、なかなか豪華なキャストだった。  ふだんはわが子をひたすら愛する貞淑な人妻だが、いったん病気が起こると、セクシーで派手で、わがままな人格に変わる。精神科医の努力で再婚にこぎつけ、幸福な人生を踏み出すまでをサスペンスタッチで描いている。原著にもあるように三つの性格が登場する。三田佳子は三つの異なった人間をみごとに演じ分けた。  多重人格は一見、人格障害のように見えるが、実はヒステリー(解離性障害)性の病態である。病気への逃避を無意識下に起こし、自己の欲求を代償的に満足させるメカニズムだ。  テレビ・ドラマの純子の欲求不満は夫婦生活の破綻によるものだが、純子は小心、弱気で、だれにも打ち明けることができない。その不倫を解消し、夫に復讐し、他人の関心をひくために、純子はバンプ的な人間に変身する。 「イブの三つの顔」の話はアメリカで起こった事実である。日本ではまだこれほどの症例は発見されていないが、すべてがアメリカのあとを追いかけている日本で、今後は、こういうケースが生まれないという保証は全くないのだ。 「恍惚の人」になる老人性痴呆という病気  有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』が世間の話題をさらい、恍惚という言葉が流行語になった時代があったが、そのころまだ、おそらく大部分の日本人にとって、それほど実感はなかったに違いない。  明治時代に名を成した人々が、実に若くして死んでいるのにわれわれは驚くが、人間の平均寿命は学者の研究によると、四千年前にはたった十八歳、二千年前には二十歳、百年前でも三十六歳だった。一九三五年(昭和十年)というと、ついこの間のような気がするが、それでも男性四十七歳、女性五十歳で、まさに人生五十年だったのだ。  ちなみに昔は、女性のほうが男性より早くあの世に行っていたのだが、しだいに女性の寿命が延びて、男性と女性の寿命が交差し、以後、女性のほうが長生きする傾向が出てきたのは明治から大正に移るころだった。  第二次世界大戦の終結時にはなお「人生五十年」であったが、その後しだいに寿命が延びて、六七年は男性六八・九一歳、女性七四・一五歳、九九年は男性七七・一〇歳、女性八三・九九歳、そして二〇〇〇年には男性七七・六四歳、女性八四・六二歳と過去最高になった。百歳以上の人口は二〇〇一年になんと一万五四七五人という盛況ぶりである。  六十五歳以上の人口は二二二七万一〇〇〇人いるが、そのうち約二〇パーセントが介護を要するという。  痴呆の一つのタイプは、脳細胞の減少と脳萎縮に由来する「アルツハイマー型痴呆」である。  アルツハイマーとはドイツの医学者の名前で、彼は一九一五年に亡くなっている。私の父がドイツ、オーストリアに留学したのは一九二一年だから、アルツハイマー先生にお目にかかってはいないが、帰国するときに、アルツハイマーの論文を持ち帰っている。それが戦火を逃れて今、私の手元にあるのだから、感慨ひとしおというところだ。  アルツハイマー博士の偉いところは、高齢者がほとんど存在しなかった二十世紀初頭、高度の痴呆で死亡した五十一歳の女性の死後、脳を解剖して大脳の萎縮、老人斑、神経原線維という微小構造を発見し、人間は高齢化とともに痴呆が発生、増加していくという説を提唱したところにある。アルツハイマーの名は永く後世に残るであろう。  痴呆のもう一つのタイプは、脳血管系の障害からくる「多発性脳梗塞型痴呆」といわれるものである。かつて日本は脳血管系の病気が多かったので、当然、後者の痴呆が多かったが、しだいにアルツハイマー型がふえ、近ごろは欧米型のアルツハイマー型が優位になっている。  高齢になると脳細胞や脳血管系の障害に加えて、視力低下、難聴、生活環境の変化、配偶者の死亡、退職、引っ越しなどの心理的要因も誘因となりうるのである。うつ感情が強いときは、これを「老年期うつ病」と名づける。 抑制の低下から始まる痴呆  作家の丹羽文雄さんの老化については令嬢がくわしく本に書いているので、世間によく知られているが、周囲の人々が丹羽さんの痴呆に最初に気がついたのは、母校の早大の卒業式に招かれて祝辞を述べたとき、決められた時間を大幅に超過しても、いつまでもやめなかった事件があったからだ。  最近、令嬢の死去が報じられたが、その後、丹羽さんの介護がいかなることになるか、多くの人が心配している。  痴呆については、ほんのちょっとしたことがきっかけになって周辺の疑惑を招くことがある。記憶力もよく、約束もきちんと守り、人さまから信用されている婦人が、ある日、居眠りもしていないのに、下車すべきバス停で下車せず、何駅か乗り越してしまったのが痴呆の始まりであったこともある。  私が昔から敬愛していた老夫婦がいる。仲がよく、お互いを立て、子育てもりっぱ、しかも人づきあいもよし、全く非の打ちどころのないすばらしい先輩だった。  ところが、ある年、突然、大事件が起こった。夫人がいきなり夫を攻撃し始めたのだ。それも五十年も六十年も昔のことを蒸し返したのだ。私はそんなことがあったとは全く知らなかったのだが、夫人の言葉を借りれば、「安月給で貧乏にあえいでいたとき、私は必死に働いて家計を助けたのに、そんなときにあなたはなんですか。浮気などというとんでもないことをして」と、夫人は夫を口で攻撃するばかりか、しだいに暴力を発揮するようになった。  つめでひっかき、夫にくってかかり、棒でなぐり、ついには刃物を振り回すまでに至った。夫は身の危険を感じ、家を出て、息子の家や友人の家に身を寄せる始末になった。  間もなく、夫は体調をくずし、ついには帰らぬ人となった。そして、夫人も数年後に老衰のために夫のあとを追った。  夫人の突然の変心は、実は老人性痴呆の開始だったのである。痴呆は心の抑制の低下から始まり、しだいに欠如へと向かっていく。  夫人は長い間、夫の浮気の過去について、がまんにがまんを重ねてきたのである。そして表面的には、すばらしく完璧な夫婦を演じてきたのだ。しかしあるとき、そのブレーキがゆるんできてがまんが低下し、過去の怨念が一気にふき出して、自己抑制(セルフコントロール)がきかなくなり、ついに暴力的な攻撃に転じてきたのだ。  夫人の息子や娘たちが夫人を特別養護老人ホームに連れていった本心は、病気を治してくれというより「預かってくれ」であったことを責めるわけにはいかない。  周囲の者はその対応に追われ、振り回され、ヘトヘトになった。家人が一日の疲れをいやすために寝る深夜に目を覚まし、大声で家人の名を呼ぶので、家人はろくろく睡眠もとれない。ガスの栓を開きっぱなしにしたり、マッチをいじったりして危険このうえない。外に出ると、迷子になって交番のやっかいになる。たいせつな郵便物を捨ててしまう。食事をすませて三十分もたたないのに、すぐ再び食事を要求する。「さっき食べたばかりなのに」といくら説明しても、「まだ食べていない」とがんばる。果ては家人を「殺人者」などとののしる。たまに訪れてくる人を「私の物を盗んでいく」と盗っ人扱いする。  家人がついに自宅での処置をあきらめる決定的な要因となったのは、徘徊がはなはだしく、外を出歩いて迷子になるのはまだしも、他人の家の郵便受けに手を突っ込んで、たいせつな郵便物をつかみ出して捨ててしまうという行為だった。これは社会的に大きな迷惑を及ぼすのみならず、郵便法にふれるれっきとした犯罪だったからである。 高齢者に見られる特徴的な変化  高齢になると性格の変化が起こるが、まず本来の性格が極端になることから始まる。頑固な者はいよいよ頑固になり、けちな者はいよいよけちになる。老齢の特徴である邪推、猜疑心、自己中心性、ひがみ、厚顔、出しゃばり、愚痴、変化を好まないなども加わってくる。それに、高齢者の宿命ともいうべき心気的(自分の身体に関して必要以上に気にする)な不安が押し寄せてくる。  それほど血圧は高くないのに、頻繁に来診して執拗に血圧検査を要求し、その結果を丹念にメモして満足げに帰っていく。そして、またあらわれる。実際よりもおおげさに表現して周囲の関心、同情をひきたいという心情もまた老人の特徴の一つともいっていい。また高齢者には感情の変化が認められることも少なくない。感動がはげしく、ちょっとしたことでワーワー泣き出すという感情失禁も見られる。  うつ状態を発症する高齢者もあるが、うつよりもむしろ不安焦燥感が強く、自殺の危険も高い。仮面うつ病も少なからず認められる。  また、「そこに坊さんが立っている」とか、すでに死んだ人が「立っている」などの幻覚、特に幻視を見ることもある。  作家、幸田露伴を父の茂吉は尊敬し、ご一家とつきあいが長く、親しくしていただいたが、露伴は茂吉より数年早く亡くなった。父は戦争末期から山形県に疎開していたので、私は父の代理で、そのころお住まいになっていた千葉県市川市で行われた葬儀に参列したが、そのあと父は、「枕元に幸田先生が立っているという幻視を見た」と、令嬢の作家幸田文さんや私に話したことがある。 脳細胞の減少からくる老化  老化は必ず来るものだが、それを少しでも先に延ばすことが必要だ。そのために最も大事なことは、廃用性萎縮にならないことだ。廃用性萎縮とは、使わないとダメになるということだ。体を使わなければ体がなまるし、頭を使わなければ、ボケが来るというわけだ。  頭脳の老化は主として脳細胞の減少による。極端なことをいえば、脳細胞は二十歳を過ぎると減少が始まる。したがって暗算や記憶力は二十歳をもって最高とする。ただし人生経験が少ないのが玉にきずであるが……。それはともかく、脳細胞が本格的に減り出すのは、四十代の半ばころからであろう。つまり老化の始まりである。  年をとると、脳細胞は一日に一五万個ずつ減少していくといわれる。しかし、脳細胞は一五〇億はあるといわれているから、そう簡単には減るわけではないが、減少によって記憶力が衰えるのは当然の理である。記憶力は記銘(新しいことを覚えること)と狭義の記憶(古いことを覚えておくこと)に分かれるが、老人に特有なことは記銘力の減退で、記憶は比較的保たれるということだ。  したがって三十分前に食事をしたことをケロッと忘れるのに、五十数年前の終戦の日のことは割合に保持されているという特徴があるのである。  物忘れがひどくなると、同じことを何度も聞く。聞いたことも忘れるから、また同じことを聞く。私も、「あいつ、また同じことをしゃべっているな」と言われるのがいやだから、「この話は前にしゃべったかな」と一応、ただしてからしゃべることにしている。健忘は私もしばしば経験するが、これは老人性良性健忘といい、あるときはどうしても思い出せなかったことを、別のときにひょいと思い出すことがある。これは病的というわけにはいかない。  先日も自宅に公衆電話で電話をかけたら、「あなたのおかけになった電話番号は現在、使われておりません」という答えが返ってきた。  病的な記憶障害に「コルサコフ症候群」というのがある。記銘力障害、作話(でたらめな作り話)、見当識障害(時間や場所がわからなくなる)を伴うもので、これは脳の器質性障害の場合に起こりやすい。ともあれ、脳細胞の減少と脳の萎縮、水分が失われ、脳の重量が軽くなって痴呆は進行していくのである。 死に至るアルコール依存症という病気  昔の言葉でいうアルコール中毒には、急性と慢性がある。  急性は学生らの一気飲みや、コンパなどで強制される大量飲酒などによる急性中毒で、死亡に至る例が少なくない。二年ほど前、熊本大学のコンパで学生が死亡し、両親が学校を訴えるという事例があった。先輩は後輩に酒の飲み方を教えるべきだが、他人のことには関心がないなどというまちがった個人主義がまかり通っている。東京消防庁の救急車出動回数は四月と十二月に最も多いという統計がある。入学、入社時と忘年会シーズンだ。  慢性こそが、われわれの扱うことの多い真の意味のアルコール依存症である。酒はまさに両刃の剣ということができよう。適性飲酒なら健康、長寿につながるのに、アルコール依存、大量飲酒なら短命、不健康、さらに家庭にも社会にも迷惑をかけることになる。  われわれがいう大量飲酒とは日本酒なら五合以上をさしているが、これがやがてはアルコール依存症といわれるようになる。飲酒欲求が幾何級数的に高まるからである。そして依存症となり、早死にするというわけだ。やはり酒はうまく飲まなければいけない。 振顫譫妄、アルコール幻覚症  アルコール依存症者のいる家庭の家人は、「まさに地獄」と表現している。  大酒飲みを家人が気がついて、酒を制限し始めると、本人はうそをつき、酒を庭の草むらやテレビの背後に隠したりするのである。そのために自己評価を下げ、プライドを失い、そのマイナス、うつ感情を補うためにさらに酒におぼれるという悪循環に陥るのである。  依存的になると一日の生活がすべてアルコール中心となり、抑制心理を超越する飲酒欲求が高まり、酒量を減らしたりすると禁断症状(いまは退薬症状と呼ぶこともある)が出現するので、それを軽減するためにまた飲酒量をふやすことになる。  その症状には手指振顫、全身ケイレン、幻覚、悪心・嘔吐、下痢、腹痛、不眠、食欲不振など多彩なものがある。中でも「振《しん》顫《せん》譫《せん》妄《もう》」という幻覚を伴う症状は横綱格である。こうなるには大量飲酒十年というキャリアを必要とする。したがって中年以上の人に多く見られる。振顫という意味は手や体がふるえることである。最も重要な症状は小動物幻視と呼ばれるもので、いろいろな小動物(虫が多い)が布団や床の上に大量に押し寄せてくるような幻視を見ることが多い。  中には大蛇が寝所に入ってきて体に巻きついたという、上杉謙信の話のようなケースもある。わずか四十九歳で死んだ謙信は濁り酒(どぶろく)を一日平均一升以上も飲んだといわれ、死亡の二、三年前の文字はひどくふるえている。毛利元就の父、弘元もわずか三十九歳で死んでいるが、やはり振顫譫妄の症状があった。  以前、ハリウッド映画で「失われた週末」というアルコール依存症を扱った映画があったが、それにも大蛇があらわれる場面が出てきたのを覚えている。  次に大関格と思われるものに、「アルコール幻覚症」がある。中心症状は幻覚、特に幻聴である。この幻聴はかなり特徴的なものだ。精神分裂病などに見られる幻聴は病者に直接言ってくる。つまり悪口や批判、命令などの声が本人あてに言ってくるのが多いが、この場合はそれとは違って、第三者同士の会話の格好で聞こえてくるのだ。隣室で複数以上の人が会話している声が聞こえてくる。しかも、その会話の内容が自分に関することで、悪口や自分に危害を加える相談であったりする。  このタイプの幻聴は今、社会に蔓延している覚醒剤中毒にも見られる。覚醒剤中毒者はこの幻聴や、向こうから歩いてくる人や群衆が自分の敵であるという被害妄想から通り魔的な犯行を犯すことが少なくないのである。 最初の一杯から大量飲酒へ  ある男性(四十二歳)が初めて酒を口にしたのは、十二歳の正月、父親から「めでたい正月だ。お前も一口飲め」と盃を渡されたのが最初だった。そのときの父親の満足そうな笑顔を彼は今でも忘れない。統計的に見ると、最初に酒を飲んだのは「父にすすめられて」が圧倒的に多いのだ。自分の子どもがこんなに大きくなって酒も飲めるようになったという、父親の満足げな顔が浮かんでくる。  それはともかく、アルコールも麻薬も、最初の一杯、最初の一服、最初の注射の一本がその人間の一生を決めるといわれる。異常に強い反応を感じる素質的なものがあるのだ。  彼はこの最初の一杯の酒が忘れられず、おりをみては酒を飲むようになった。中学校に進み、高校生になるころには台所に忍び込み、父親の酒を盗み飲みするのが習慣になった。週に数日以上、酒を飲んだという。  初飲酒年齢が早ければ早いほどアルコール依存症になる年齢が早い、といわれるが、彼も例外ではなかった。ついに朝から酒に親しむようになった。酒が切れると手がふるえて文字も書けず、シャツのボタンもはめられぬ始末となった。一杯の酒を飲むと不思議や手のふるえが消え失せるので、朝から飲むようになったのだ。当然、学業も中断し、登校もしないで退学したのもやむをえなかった。親が注意すると暴力をふるうので、甘い親は彼の言いなりになり、彼の行動に従うしかなかった。  しだいに酒量がふえ、アルコール濃度の強い酒を求めるようになる。ウイスキーをストレートで飲んだり、ビールで割って飲んだりして、大量飲酒が続いた。  あるとき彼は天井に向け、また隣の部屋に向かってどなった。「バカヤロー」とどなったり、「コンチクショー」とどなったりした。そして、「だれか三、四人の人間が、天井や隣室にひそんでいて、おれの悪口を言ったり、おれを殺そうとして、ひそひそと相談している」と言った。明らかに、アルコール幻覚症の発症である。そのうちに、飲酒をしても手のふるえは止まらなくなり、ふるえは手から全身に広がってきた。  彼が盛んに「ほうきを貸してくれ」と言うので、母親は乱雑きわまりない部屋を息子が掃除するのだと思って喜んでほうきを貸してやった。しかし、そのうち母親は変だと感づいた。畳が別によごれてもいないのに盛んにほうきではいているのだ。シッシッと何かを追うように、しかも恐怖の表情も見せるようになった。ときには上腕のシャツの上から何かを払うようなしぐさを見せることもあった。あとで聞くと、彼はこのとき小さな無数の虫を幻視していたのだ。いわゆる、小動物幻視である。  彼は今まで両親の強制で、かかりつけの医師からいやいや血液検査を受けていたが、そのたびに肝臓はだいじょうぶ、異常なしと言われ、おれの肝臓はだいじょうぶなんだとうそ吹いてきた。しかし、つい最近、無理やり受けさせられた血液検査は最悪の結果だった。  これは本人に申し渡してもしかたがないことで、いまさら酒をやめようとしないことはわかっているが、医師が両親に宣告したのはアルコール性肝硬変だった。  肝臓は実に強い臓器で、肝臓がちょっと悪くなってもアルコールをしばらくやめると肝臓が回復することがよくあるが、肝硬変と名がつくと、たとえ酒をやめても肝臓は回復しない。あとは悪くすると、死を待つばかりだ。大量飲酒、アルコール依存症、肝硬変という一連のプロセスは自殺の道程といってもいいほどだ。 渇酒症(ディプソマニア)  もう一つ、こういうケースもある。  ふだんはあまり飲酒をしない。しかし、ある時期が来ると、猛然と飲み出す。つまり、周期性があるのだ。それはある日、全く突然にやってくる。いったん飲み出すとたいていは家を出ていってしまう。たぶん、どこかで、昼夜兼行で飲んでいるに違いない。そして何日かあとに周期がおさまって、悄然としてご帰館となる。金も使い果たし、衣服もよごれ、ボタンもとれ、さらにけがまでしている。このタイプが渇酒症と呼ばれる病型である。  作家のエドガー・アラン・ポーがこのタイプの持ち主だったといわれる。彼の好んだ酒はラム酒であった。  アルコール依存と病的な性格、特に反社会性性格が合併すると、家族も社会も苦悩の一途をたどるようになる。周囲が苦労して入院させても、病院側でとても対応できず、わずか一日、二日で病院がお手上げとなる。いちばん苦労するケースである。依存が長引くと脳炎を起こしたり、前頭葉機能障害を起こしたり、ひいては性格変化をきたしたりする。  やっと専門病院や精神科病院に入院させ、治療もスムーズにいき、「もう一滴もお酒は飲みません」と主治医に誓って病院の門を出て、めでたく家に戻る。何カ月かは無事に過ごすが、そのうち結婚式とか祝い事があり、心ない人がおちょこ一杯くらいならいいだろうと一口飲ませたのが運の尽き。たったの一口がたちまち一升酒、二升酒となってしまうというケースがあるのである。  依存を経験した人には絶対、酒を飲ませてはいけないのだ。こうした依存症の人たちを救うために活動しているのが断酒会、正式には「全国断酒連盟」である。 PTSD(心的外傷後ストレス障害)という病気  最近、週刊誌やテレビなどのマスコミに、「PTSD」という言葉が盛んに登場する。Pはポスト(後)、Tは心的トラウマ(外傷)、Sはストレス、Dはディスオーダー(障害)で、心的外傷後ストレス障害という意味である。災害その他で大きなショックを受けたあと、不眠、悪夢、孤独感、無関心、集中困難、警戒心、驚愕反応などをあらわすことをいう。  最近では、おしどり夫婦で知られた堺正章と岡田美里の突然の離婚で、この言葉が出現した。離婚の理由がいまひとつ納得できなかったが、二人の結婚生活に暗い影を落としていたのは岡田美里のPTSDだったというのである。父親、E・H・エリックの暴力行為が思春期の岡田美里に恐怖心をつのらせたようだ。 地下鉄サリン事件の後遺症  一九九五年(平成七年)の地下鉄サリン事件から五年たっても、なお心身への後遺症に苦しむ深刻な実態が、警察庁の二〇〇〇年三月の被害調査で明らかになった。  一四七七人を対象にした調査で、八三七人から回答があった。身体症状については、三分の一の人が前回の九八年の調査から「改善した」と答えたが、九・六パーセントが「悪化した」と訴え、「入院を経験した」人も二・七パーセントいる。被害直後と類似した症状で多かったのは「目が疲れやすい」「視力の低下」で、「肩こり」「疲労」「急に心臓がドキドキする」と訴える人も少なくない。  また、PTSDなどの精神的後遺症にいまだに悩む人は多く、四三パーセントが「突然に事件の光景がよみがえる」経験をしたという。その他、二〇パーセントが「電車に乗るのがこわい」、一〇パーセントが「事件に関連した報道にふれたくない」などと答えた。  読売新聞社と日本医師会が行っている「心に残る医療」をテーマにした作文の審査に、私がかかわってから、はや二十年がたった。二千編余りの応募作品(十一歳から九十五歳まで)の中に、上位入賞はしなかったが佳作として私も推した作品があった。その女性がサリン事件の被害者だったからだ。絶対に事件を風化させてはいけない、社会にアピールするためにこの作品を残したいと考えたからである。作者は当時中学二年生だった。その文章を抜粋してみる。  ……地下鉄日比谷線に乗り、眠い目をこすっていた。……急に自分の周囲の人たちが倒れだした。まるで映画の中のようだった。……「どこが痛い」とか、「息苦しい」という具体的な症状を自分自身理解できず、とにかく「体がおかしい」とだけ感じた。そこからの意識がほとんどない。気付いた時は車道の上に、青いシートをしいて寝かされていた。コンクリートのごつごつした感覚を苦痛に思い、起き上がった。いつの間にか、腕には注射の跡がある。……隣の中年女性が、私の肩を抱き、「この子を早く救急車に乗せてあげて下さい!」と叫んだ。「早く早く!」と、他人の私のことを一生懸命助けようとしている。……話そうとしても声が出なかった。今となっては、その女性の顔さえ覚えていない。名前も分からない。しかし私は、この女性のことを決して忘れない。忘れることはできない。もし今、会うことができたなら、感謝の気持ちを心から伝えたい。  当時、中学生だった彼女は、救急車で病院に収容され、生命を救われた。はっきり意識をとり戻したのは翌朝だった。  ——救急車の中では病院の医師が私の持ち物から私の名前を知り、一生懸命名前を呼んでくれた。「大丈夫だからね!」と何度も叫ぶ声で、私の恐怖心は取り除かれていった、と彼女は書いている。  PTSDといえば、阪神大震災のあとでも同様の障害が多数発生したことはよく知られている。その中にはうつ状態も当然含まれるであろう。  うつの場合、周囲の者が「がんばれ!」といった激励の言葉を吐くことは禁物であるが、大震災被害者の場合も同様である。やはり被災した作家、藤本義一さんは「がんばれ!」と激励した相手をなぐりつけたい気持ちに襲われた、と告白している。また、二〇〇一年(平成十三年)の一月十七日は阪神大震災から丸六年の日である。六年たった今も、PTSDから脱け出せない人もいる。しかし、多くは時間が解決するのである。解決方法としては、体験を紙に書き残したり、人にしゃべったりすることもいいといわれている。  二〇〇〇年五月に起きた、十七歳の少年によるバス・ハイジャック事件から一年以上たった今もなお、PTSDで苦しんでいる人が数多くいる。佐賀県の国立病院に入院中の少年が外泊を許された直後にバスを乗っとり、約十五時間半にわたって乗客を人質にし、一人の乗客が殺され、多数の乗客が緊張と恐怖にさらされた衝撃的な事件であった。  国立病院側は守秘義務のため、病名は公表していないが、医療少年院送りとなったことを見ても、これが病的な所業であったことがわかる。日本精神病院協会は緊急声明を発して学術的な思春期危機対策計画を立てることを提唱している。  阪神大震災の震源地といわれる淡路島の北《ほく》淡《だん》町には、悲しい体験を観光客に語って聞かせる現代の語り部が何人かいる。これは、ご本人にとっても救いになっているに違いない。  また、二〇〇一年九月、ニューヨークやワシントンDCなどで起こった同時多発テロの被害者にPTSDが多く発生するであろうことは、まずまちがいないであろう。  私は母の輝子からずいぶん無理難題を言われ、家内との間にはさまってつらい思いをしたが、いつのころからか、その心の内をメモ用紙に書くことを始めた。だれにも見せるつもりはないから、心に去来する感情も遠慮なく書きつけた。いつか役に立つと考えたからである。不思議なことに、これによって心のわだかまりが軽くなったことを自覚した。 第6章 異常の早期発見が心の崩壊をくい止める  二〇〇一年四月、東京の女子短大生がレッサーパンダのぬいぐるみの帽子をつけた山口誠容疑者(二十九歳)に殺され、同年八月には北海道の幼児が二軒隣に住む及川和行容疑者(二十四歳)に殺傷された。これといった症状の見られない普通の人間が、何かをきっかけに異常心理に襲われ、犯行に及んだという事件がこのところ多発している。 「被害者の後ろを歩いていた。声をかけようとしたら、その前に(被害者が)振り向いて驚いた顔をしたので、カッとして背中を刺した」(山口容疑者)、「目出し帽を脱いだとき子どもに見られ、不安になって引き返し、台所にあった包丁で子どもらを襲った」(及川容疑者)などの供述から、瞬時の衝動的な犯罪行為であったことがわかる。  人間の心というものは、かくもたやすく崩壊するものだろうか、と思う。  元塗装工の山口容疑者は札幌市出身で、住所不定、お金がなくなり、東京の工事現場で働いているところを逮捕された。  及川容疑者も退職して親から小づかいを減らされ、お金に困っていた。少なくとも二人の容疑者には、ふだんの普通の生活が変化し、それと並行してなんらかの心理的な変化もあったに違いないことが読みとれるのである。 異常を感じたら、専門科医を訪れよう  私は三十年ほど前に出版した精神科の本に、新設医大の新しい病院は外来診療室を四つも五つも持っていると書いたが、歴史の古い医大も、その後、外来診療室をふやす方向に進んでいる。私の病院も、昭和が平成に移ったころ、本館を建てかえたとき、外来診療室を三つ、ほかにインタビュー室を二つ設けた。現在は三人のドクターが外来患者を診ているし、インタビュー室ではカウンセリングも同時に行われている。  自分や家族が身体的にも精神的にも、従来とは何か違う変化があった場合は、なるべく早く相談に来てほしいものだ。精神科のドクターと仲よくやっておいて損はない。  231ページをごらんいただくと、予想病名がうつ病と精神分裂病が圧倒的に多いのに気がつく。かつて入院患者の七〇パーセント以上を占めていたのが精神分裂病であり、しかも難病であることはまちがいないので、これはいたし方ない。しかし、いまや少子化時代で、子どもの数が一・三人を切ってしまった現在、精神分裂病は十代、二十代での発病が多いから、近未来においては減少の道をたどるかもしれない。  それにかわって登場してきたのがうつ病であり、いまや民族病、国民病といわれるようになった。経済不況の現代、うつ病は増加の一途をたどりこそすれ、当分の間、減ることはあるまい。それは特に外来患者において著しい。外来患者の七〇パーセントはうつ病で占められているという。五十代の人々の自殺の増加はそのままうつ病の増加と考えていい。  精神疾患、心の病を一口で表現すれば、「現状に対する適応異常」ということができる。われわれは寒くなればオーバーを着込み、マフラーを巻く。夏の暑いときはショートパンツにTシャツで過ごす。つまり、環境に適応しながら生活している。  現実という環境の中で、生きていることに少しでも息苦しさを感じたり、不安にさいなまれたときは、気軽にわれわれ専門科医を訪れてほしい。あなたの心の崩壊をくい止めるのは、早期発見、早期治療であるといっても過言ではないからだ。かぜだって、くしゃみをしたり、寒けを感じたりしたら、薬を飲んで早めに寝るとか、即座に手を打てば、本格的なかぜにならずにすむのである。 早期発見のためのチェック・リスト50  日ごろ、なんらかの異常を感じている人で、次のような症状がある場合には、病的なものを疑って家人や友人、かかりつけのホームドクター、専門の医師に相談してみること。中には自己の病気に認識のない(病識がない)病者もいるから、周囲の者が疑いを持つ場合も少なくない。  次にあげるリストには、外見的に異常がはっきりわかる場合も、深層心理的にはある程度、突っ込まないとわからない場合も含めて並べてあるが、あてはまる項目にしるしをつけるなどしてチェックしてみよう。 □1 いつも不安な気持ちで、イライラして、夜はよく眠れない。 □2 無気力になり、洗顔、歯みがき、新聞読みなど朝の習慣が乱れる。 □3 買い物で、何を買うかなかなか決まらない。 □4 人嫌いになり、人と会うのを苦痛に感じる。 □5 何をやっても自信喪失することが多い。死にたくなることがある。 □6 酩酊を繰り返し、酒のうえでの失敗がふえる。 □7 ときどき失神、全身ケイレンに襲われる。 □8 気分が沈み、憂うつになる。 □9 むだ使い、おしゃべり、興奮状態、誇大的、他人を支配するような言動が目立つ。 □10 ぼやっとした表情で、反応がない。生気がなくなる。 □11 自己の健康に関して過度に心配する。 □12 物忘れが多くなり、場所と時間がわからなくなる。 □13 すでに死んだ人がそこに立っている、などの幻覚がある。 □14 迷子になったり、バスや電車などでよく乗り越しをする。 □15 ひとり言を言ったり、おかしくもないのにニヤッと笑う(空笑)。 □16 乗り物がこわくてどうしようもない。新幹線のこだまは乗れるが、ひかりやのぞみはこわくて乗れない □17 結婚式や葬式など、人前でうまく文字が書けない。 □18 言うことが支離滅裂で、話の内容に一貫性がない。 □19 だれかにつけられている感じがした。電車の乗客が変な目で自分を注目していると思う。 □20 どこに行ってもストーカーが自分を監視していると思う。 □21 昼間はほとんど寝てばかりで、生活が昼夜逆転する。 □22 発作的に眠くなり、ひどいときは路上で寝てしまうことがある。 □23 少量の飲酒でも、人格がガラリと変わる。 □24 寝つきはいいが、深夜に目が覚めて、朝まで寝られない。 □25 頻繁に手を洗い、何事も確認しないと気がすまない。 □26 室内の一定の場所しか歩かないとか、奇妙な動作を繰り返す。 □27 家族といっしょに食事をしなくなり、家人が寝静まったころ、冷蔵庫の食品をあさる。 □28 「自宅に盗聴装置がしかけられている」「隣家からのぞかれている」などと言う。 □29 それほど貧乏でないのに「自分は極度の貧困である」とか、「自分は罪深い人間である」などと考える。 □30 お金や貯金通帳や衣服が盗まれると思い、全財産を枕の下などに隠す。 □31 性欲が減退し、不感症(反対に、性欲過多)になる。 □32 孤独で、反抗的で、ほかの子と遊べない。不登校になり、家庭内暴力が始まる。うそをつく、いじめるなど素行の変化が目立ち始め、万引き、家出などの反社会的行動も出てくる。発達のおくれも認められる。 □33 下痢と便秘を繰り返し、暑さ寒さに敏感になる。 □34 無断欠勤、遅刻がふえる。 □35 服装が乱れ始め、自室も散らかしっぱなしになる。 □36 表情が乏しく、無口で、動作が緩慢である。 □37 「食物に毒が入っている」と言って、他人の作った食事に手をつけない。 □38 たいした理由もなく退職、退学、離婚を望む。 □39 不平不満が多く、何やかやと両親、家人、上司に反抗する。 □40 何事も長続きせず、せっかく就職してもすぐに辞めてしまう。心理的要求水準が高すぎて、自他ともに一〇〇パーセントを要求する。 □41 家人への思いやりがなくなる。 □42 酒の酔い方が以前より変わる。 □43 タバコの量がふえる。 □44 古いことはよく覚えているのに、新しいことを忘れる。たとえば、三十分前に食事をしたばかりなのに、もう忘れている。 □45 何かに悩んでいるとき、胃痛を覚える。 □46 女性の場合、何かを思い詰めて月経障害を起こす。 □47 特に午前中、やたらと疲労感を覚え、憂うつな気分になる。 □48 異常に口の渇きを覚え、口中の苦み感が異常に強い。 □49 非常識な言動が目立つ。 □50 天候、草花などの自然に関心がなくなる。  ざっとこんなところであるが、各項目を見ると、「何をおいても一刻も早く受診・治療」「なるべく早く受診」「早く受診」の三つに分けられる。それに各項目の番号をあてはめてみると次のようになる。 ◎一刻も早く受診・治療=5、7、9、15 ◎なるべく早く受診=1、2、10、17、19、20、24、27、28、35、36、37、45 ◎早く受診=3、4、6、8、11、12、13、14、16、18、21、22、23、25、26、29、30、31、32、33、34、38、39、40、41、42、43、44、46、47、48、49、50  医学の要諦は早期発見、早期治療だから、このチェックに惑わされず、従来と何か変わった変化があった場合は、なるべく早く相談に来てほしい。  中には、「娘に病院に行くよう何度もすすめるのですが、娘は頑として言うことを聞きません。なんとかならないでしょうか」という悲痛な手紙が舞い込むこともある。  家族への要望がある。病者をなんとかして病院へ連れていこうと思っても、肝心の本人が言うことを聞かないときは、まず家族が来院して相談してほしい。家人と相談して、なんらかの手段を考えることが可能ということだ。家人が早く相談に来てほしいというのが私のたっての願いなのである。 50項目にあてはまりそうな病気  ところで、あなたはたぶん、チェック・リストの50項目がいかなる病気にあてはまるかを知りたいであろう。  むろん、正しい診断を下すには、本人の性格、家庭環境、社会環境、ストレス、心理テストなどを調べて、総合的に判断するのであるが、一応、推定的にこんな病気が頭に浮かぶという点で列挙しておく。 △うつ病 1、2、3、4、5、8、24、29、38、43、47 △躁病 9 △躁うつ病 31 △精神分裂病 10、15、18、19、20、26、28、35、36、37、41、49、50 △精神分裂病・神経症 21、27、39 △精神分裂病・うつ病 34、46 △神経症(ノイローゼ)11、16、17、25、33(25は強迫神経症) △心身症 45、48 △アルコール依存症 6、23、42 △老人性痴呆症 12、13、14、30、44 △テンカン 7 △ナルコレプシー 22 △精神分裂病・性格障害 40 △思春期性格障害 32 「ナルコレプシー」とはあまり聞き慣れない病名だが、これは急激にくる睡眠発作で、ひどいときには路上で寝てしまうこともある。女性に多く、姑に「この嫁は居眠りばかりしている」と悪口を言われ続けている人の中には、この病気の持ち主がいることを忘れるべきではない。 感謝されざる医者でいい  少し古いケースになるが、父、茂吉の、学生時代からの親友のお嬢さんが発病した。うちへもちょくちょく遊びに来ていたので、私も彼女を幼いころからよく知っていて、母親、友人の依頼で、四谷にある私のクリニックに入院させた。分裂病の症状が歴然としていたが、案外早く治って退院した。しかし、半年ばかりして再発、今度は猛烈な興奮を伴っていたので、四谷のクリニックでは本人の保護上危険なため、府中の病院に入院してもらった。  もちろん病識が欠如し、興奮の続いている間はクローズ病棟で扱い、落ち着いてからは自由な開放病棟で生活させた。院長の知人というので、医員も職員もずいぶん気をつかい、大事にしていたようだ。四カ月後に一応症状が消滅して、彼女はめでたく退院した。  間もなく母親も老衰で亡くなったので、母一人子一人であった彼女は一人ぼっちになった。彼女は退院後、一度も私の前にあらわれないので、私も多忙にまぎれて彼女のことをいつしか忘れてしまった。  二年ばかりたったころ、友人から、「これ、君のことじゃないか」と一冊の本を見せられた。書名はここでは書かないが、「地獄のような家」といった意味の小説だった。なるほど私を知っている人が読めば、主人公の精神科病院院長は明らかに私であり、内容からして著者も確かに彼女だった。  財産横領の陰謀に加担して、ある若い女性を精神科病院に不法監禁する。そこへ婚約者の青年が精神病者を装って病院に潜入して、彼女との連絡に成功する。そして彼女の救いを求める手紙を、彼女の父の友人である院長の大先輩に渡す。その大先輩が病院にあらわれて、院長に彼女を釈放するよう厳命する。院長はハハーッとひれ伏して、彼女は無事救出されるという筋だった。  今どき噴飯ものの筋書きだが、いたるところに院長はじめ病院、職員に対する憎悪に満ちた文章が出てきて、それを読んだ彼女の担当の医師も看護婦もくやしいと涙を流す始末だった。単に分裂病の被害妄想の所産というより、父親に早く死なれたあとの家庭的不幸など、さまざまなインフェリオリティ・コンプレックスの裏返しの攻撃傾向とジェラシーからの産物であると、精神力動的(サイコ・ダイナミック)に説明できはしまいか。  この「小説」は世界精神衛生年にあたって出版されたと記しているが、父流の言葉を借りれば「人心を悪くすることはなはだ大」である。祖父が父にあとを譲るとき、「精神科医は感謝されざる医者だが、それでいいか」と言ったそうである。そして父が私に譲るとき、父も祖父と同じことを言った。やはり今も「感謝されざる医者」なのだろうか。私がせがれに院長職を譲るときは、そんなことは言わなかった。時代が変わって、その言葉は必要でなくなったからだ。  だが、私はこれからも、「感謝されざる医者」に徹しようと思う。感謝されなくともよい。なんらかの意味で、世間のお役に立てれば、それで満足きわまりないという心境だからである。 あとがき  大阪・池田小学校児童殺傷事件の宅間守容疑者のように、凶悪な事件を引き起こした異常者が事件を起こす前に精神科病院に入院していたとか、あるいは通院して投薬を受けていたなどという新聞記事をよく目にする。  たとえ精神障害者であっても犯罪を犯したならきちんと裁判を受け、仮に措置入院になったとしても、退所後、再犯のおそれが予測される場合は、精神科医と裁判官の両者がタッチして、治療処分として精神科病院以外の施設で治療を施されるべきであろう。  そうすることで社会の安全を守り、と同時に精神障害者の人権保護にもなるのである。さらには精神障害者を生きた凶器であるかのように見がちな、世人の偏見を打ち破ることにもつながるのである。  事件といえば、今年の八月、三件の少女買春、児童ポルノ禁止法違反の罪に問われた東京高裁の判事、村木保裕被告(四十三歳)に対し、東京地裁は懲役二年、執行猶予五年とする判決を言い渡した。村木被告は、「不安や重圧感をつのらせて、日常生活とは無縁の世界にいる女性との交際や性的接触を求め、携帯電話の伝言ダイヤルを使って少女に出会った」と、職務の重圧によるストレスを主張した。二〇〇一年九月二十日、二十年ぶりに裁判官弾劾裁判(第一回公判)が開かれたが、いずれ村木判事が罷免されるのは確実だろう。  この事件をモラルの問題としてとらえる裁判官が多いが、裁判所は不安や重圧感から来るストレスを正面から受け止めてもらえる組織ではない、という異論もある。  人間は不愉快な思いをしたり、不利な環境にさらされると、脳からコルチゾンという脳の副腎皮質ホルモンが出て、それがストレスの原因になることが解明されている。村木被告はそのストレスを日常生活とは無縁の世界で発散したのかもしれないが、中には自分の世界にこもってうつ状態を呈する人もあろう。  近ごろ、増加の一途をたどっている抑うつ神経症は、愛する人との死別やプライドの喪失、リストラによる職場の変動などのストレスによって発症する。うつ状態とほとんど大きな差はないが、特に不安感情が強いことは本文で述べたとおりだ。  不透明な時代、経済不況の時代において、この抑うつ神経症を含め、ストレス性うつ病は今後ますますふえ続けることが予測される現代病といえよう。この病気はだれにも起こりうる。けっして人ごとではなく、あなたもかかりうる病気であることを再び強調しておく。  ところで、最近の精神医療界をひと言で言えば、外来患者がふえて、入院が減ったということがいえよう。これは日本全国に通じることで、かつては入院患者が多く、うちの病院なども東京都のワースト・ワンで、役所の病院監査などでも、必ず超過を指摘されたものだが、現在では定床を割ってしまった。全国の統計でも、入院患者が定床より五パーセント減少しているという。  なぜそうなったかはいろいろなファクターがあるのだろうが、その一つに外来の増加があげられるだろう。今は前ほどではないが、かつては精神科への偏見があった。現在はうれしいことに軽い人がどんどん病院に来るようになった。そのあらわれが診療所の激増である。敗戦後間もなくのころ、東京ではうちのクリニックを含めて三カ所しかなかったが、現時点では日本全国でなんと約三千の診療所があって、津々浦々までカバーしているのだ。  戦前は大学病院の精神科でも待合室はなく、廊下にソファをおくだけで間に合った。それが今では外来診察室が複数になり、うちの病院でも四室が同時に稼働しているのである。つまり軽い病人が偏見なく、気軽に訪れていることのあかしなのだ。そして、通院医療が功を奏して入院患者を減らしているとも考えられる。  しかし、世人が精神疾患をかぜひきのように考えるまでには至っていない。どうやら、まだまだ抵抗感が若干はあるらしい。私の一生の仕事は、精神科医療の大衆化であるが、その努力をまだ放棄するわけにはいかない。 二〇〇一年十月 斎藤茂太  【著者紹介】 斎藤茂太 (さいとう しげた)  1916年(大正5年)、東京生まれ。青山脳病院院長で歌人の斎藤茂吉・輝子夫妻の長男。作家の北杜夫は実弟。明治大学文学部、昭和医専(現昭和大学医学部)卒業後、慶応義塾大学医学部神経科医局で学ぶ。  現在、医療法人財団赤光会斎藤病院理事長で、現役の精神科医として週2回、外来患者の診察も行っている。また、日本精神病院協会名誉会長、日本旅行作家協会会長、アルコール健康医学協会会長、日本ペンクラブ理事を務め、評論家、エッセイストとして多岐にわたる活動を続けている。  著書に『茂吉の体臭』(岩波書店)、『精神科医三代』(中央公論社)、『精神科の待合室』(中央公論社)ほか多数。 「まさか」の人《ひと》に起《お》こる異《い》常《じよう》心《しん》理《り》  斎《さい》藤《とう》茂《しげ》太《た》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年12月14日 発行 発行者  松村邦彦 発行所  株式会社 主婦の友社 〒101-8911 東京都千代田区神田駿河台2-9 (C) SHIGETA SAITOU 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 主婦の友社『「まさか」の人に起こる異常心理』平成13年12月20日初版刊行