マリオネット症候群 乾くるみ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)通学|鞄《かばん》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#地付き]乾くるみ ------------------------------------------------------- 底本データ 一頁17行 一行41文字 段組1段 [#改ページ]  とにかく私は驚いた。ある晩、目覚めたら、勝手に動いている自分の身体。意識はハッキリしているのに、声は誰にも通じない——まさか私、何かに乗っ取られちゃったの!? 誰の仕業かと思っていたら、なんと操り主は、あこがれの森川先輩らしいの。でも、森川先輩って、殺されちゃってたらしくって……それっていったい、どういうこと? とっても奇妙なパラサイト・ストーリー。書き下ろしで登場。 [乾くるみ/マリオネット症候群] [#改ページ]  乾くるみ 【いぬい・くるみ】  1963年生まれ。静岡県出身。  1998年「Jの神話」で第4回メフィスト賞を受賞してデビュー。  他に「匣の中」「塔の断章」の著書がある(いずれも講談社ノベルス刊)。  本格ミステリ作家クラブ会員。  あるまじろう  ALMAJIRO  東京生まれ。天秤座。  いつもは漫画家、ときどきイラストレーター。 [#改ページ] マリオネット症候群[#地付き]乾くるみ [#地付き]ILLUSTRATION・あるまじろう [#改ページ]         1  最初に思ったのは、夢遊病って、聞いたことあるけど、これがそうなのかなって。だって私が目覚めたとき、身体《からだ》が勝手に動いてたんだもの。  っていうか、それで起きた。いや、起こされた。  本当だったらベッドに横になってなきゃおかしいのに、動けって命令してないのに、私は勝手にガバッて上体を起こして、鼻の頭を掻《か》いている。  私は目を開いてた。見えるのは、ほとんど闇《やみ》に沈んだ自分の部屋。さっきまではたしかに眠ってた、そのはずなのに。でも今は目を見開いてる。自分が目を開ければ、そりゃ嫌でも起きます。目覚めます。  起き抜けの寝ぼけた頭で、私は、何が起こったのかしら、何でこんな真夜中に目が覚めちゃったのかしら、って思ってた。目がショボショボする。掛け布団がめくれてて、起こした上半身が寒い。いいから寝直しましょ、布団に潜《もぐ》り込んで、暖かくしないと、って思うのに。  身体が言うことを聞かない。金縛りにあったみたいに。金縛りで、おまけに夢遊病。何だか矛盾《むじゅん》していて、笑っちゃうけど、そう、ちょうどそんな感じだった。  私は——私の身体は、闇に沈んだ部屋の中を、キョロキョロと見渡している。そして不意に、のそのそと布団から抜け出すと、両足を床につけ、そのまま立ち上がった。視座《しざ》がぐっと高くなる。  何で? 立ち上がろうなんて、これっぽっちも思ってないのに。  ひんやりとした冷気が全身を包む。寒い。そして私は——何を思ったか——右手で髪の毛を束にして掴《つか》むと、いきなりグイッと引っぱった。いいえ。これは私の右手じゃないわ。何をしたいの、この右手。全然わからない。意味がわからない。左手も加わる。左右両手で髪を引っぱられて、頭皮が痛い。とっても痛い。やめて。そう喋《しゃべ》りたいのに、口が言うことを聞かない。かわりに、 「あれ?」  そんなふうに喋っていた。でも私はそんなことを言おうなんて、ちっとも思ってない。勝手に喋ってる。誰かが勝手に、私の身体を使って、私の声帯を使って、喋ってる。それはとてもおぞましいことで。  首から上を左右に動かす。やたらにキョロキョロと。落ち着かない。視界がグルングルンと動く。やめて、って叫びたいのに、口が動いてくれない。私の身体なのに、ぜんぜん私の自由にならない。  首を相変わらずキョロキョロとさせながら、私はゆっくりと歩き始めた。それももちろん、勝手に、私に何の了解もなく。視野が迷動するので、酔いそう——そう、ちょうど乗り物に乗ってるような感じだった。私の身体が、乗り物になってしまった。誰かが乗り込んで、勝手に操縦していて——だから私は操《あやつ》られている。言わば操り人形状態。私は哀れな操り人形。手足を勝手に動かされている。助けて。どうにかして。  あたりを見回しながら、暗い部屋の中を、慎重に歩いてる、その私の頬《ほ》っぺたに、何かが触れた。電灯の紐《ひも》だ。私は——私の身体は、ビクンとして足を止め、その紐を右手でまさぐると、その来る方、真上を仰ぎ見て、そして紐を引いた。  グロウランプの青い光が二つ、チカチカッと瞬《またた》いて、二重になった丸形の蛍光灯が、白く、パッと輝く。私は眩《まぶ》しさに一度ギュッと目を閉じてから、再度目を開けて、あたりを見回した。最初はゆっくりと。ついでキョトキョトと。  何を見回してるんだろう。特に変わったところもない。自分の部屋だ。視野の中央に、さっき直視した蛍光灯の残映が、薄緑色の模様になって見えている。ゴクンとひとつ唾《つば》を飲み込んだ。息が荒い。はしたなく、ハアハアと口で呼吸をしている。吐くたびに、息が白い煙となっているのが、視野の手前側に見えている。肌寒い。心臓がドキドキいってる。  私は——私の身体を操っている奴は、不意に、両手で胸を触った。服の上から、その膨らみを確かめるように。続いて、何を思ったのか、左手をパンツの中に突っ込んだ。  何を。  私の左手。やめて。何をするの。  手の動きは止まった。凍りついたように。 「なん——」  喋りかけた声も凍りつく。  しばらくして、またキョロキョロし始める。今度は勉強机の上の鏡に目を留めた。私が目を留めようとして留めてるわけではないのだけれども、目の焦点がそこに合ってるのは、わかる。  私はつかつかと机に歩み寄って、鏡の中を覗《のぞ》き込む。  鏡の中には、私の顔が映っている。部屋で暇なときに、いつも眺めている、私の顔。二重瞼《ふたえまぶた》の大きな目が、私の方を見返してくる。自分で言うのも何だけど、けっこう愛嬌《あいきょう》があって、可愛い顔立ちをしてると思うのだ。でも今は、ポカンとして、馬鹿丸出しの顔。 「おい、ジョーダン……」  また声が洩《も》れる。私の声。でも別に私が言おうとして言ってるわけじゃない。  右手で鼻をつまむ。鏡の中の私は左手で、同じように鼻をつまむ。鏡だからそうなる。当たり前だ。何を確かめてるのやら。  ひとつ、当たり前じゃないのは、私が、そうしようと思ってしてるんじゃないってこと。  顔見て、鼻をつまもう、なんて思ってないのに。手が勝手に動いて、鼻をつまんでる。  私は——ようやく自分でも、それを認めないわけにはいかなくなった。そう、私はどうやら、誰かに身体をすっかり乗っ取られてしまったらしい。誰かが私の中に入ってきて、私を勝手に動かしている。  誰なんだ、こいつ、と思う。どうして私の身体に入ってきたりって、そんなことができたの。  いくら考えてもわからない。  それでもひとつわかったのは、こいつも、自分がどうしてこんなところにいるのか、サッパリわかってないってこと。いきなり他人の身体の中で目覚めて、戸惑っている。さっきからの素振りを見てる限り、どうやらそんな感じ。 (誰だか知らないけれども、とっとと出てって頂戴《ちょうだい》。返してよ、私の身体)  私としては、そう言ってるつもりなんだけど、口が動かない。喉《のど》が自由にならない。声が出せない。誰かが私の身体を使ってしていることを、ただ傍観《ぼうかん》しているしかない。  私は——私の身体を動かしてる誰かは、今度は通学|鞄《かばん》に目をつけた。鞄を開けて、ひっくり返して、中身を机の上にぶち撒《ま》ける。  教科書。ノート。筆入れ。そんなものが、ダダダッと雪崩《なだれ》を打って出てくる。  ノートの表書きに目を留める。 『二年三組 御子柴《みこしば》里美《さとみ》』  それを何度も繰り返し読む。 「みこしば……?」  私の名前だ。でも私の身体を動かしてる誰かは、その身体が誰のものなのか知らない。身元を明らかにしてくれる何かを探して、それで今、このノートを見て、初めて名前を知った。そんな感じ。  ええ。そうですとも。私は御子柴里美。十六歳。開明《かいめい》高校の一年生。可愛い女子高生。  で——あなたはいったい、どこの誰?  憑依《ひょうい》現象とでも言うのだろうか。それとも憑霊? 降霊?  そういえば——と思い出したことがある。子供のころに、ママが話してくれた。 「お祖母《ばあ》ちゃんはねえ——」  ママが言うのは、ママのママ、私から見て母方の祖母のことだ。父方の祖父母は健在だったのに、当時すでに母方には祖父しかいなかった。それで子供だった私は、こっちの家のお祖母さんはどうしたの、とか何とか、ママに聞いたのだろう。 「お祖母ちゃんは、ママが子供のころにね、ちょっと頭が変になっちゃったの。私は誰それの生まれ変わりだ、とか、急に言い出して、娘の私に向かっても、こんな子は知らない、他人だ、とかって言って、だからもう、まわりはビックリして、それでお医者さんに診てもらったり、御祓《おはら》いとかしてもらったんだけど、結局は治んなくて——」  イタコ、という単語を初めて聞いたのも、たぶんそのときだったように思う。霊に乗り移られる、という現象の説明を、ママがしてくれたのだ。  隔世遺伝という言葉がある。祖父母の誰かが持っていた遺伝的性質が、その子供の代じゃなくて、一代おいて、孫の代の誰かに現れる、みたいな意味。  当時は、話してるママも、聞いてる私も、半信半疑どころか、ほとんど信じてはいなかったんだけど、でもお祖母ちゃんは本当にそのとき、誰かの霊に乗り移られてしまっていたのかもしれない。で、私は、その祖母の持っていた、イタコ体質とでも言ったようなものを受け継いで、生まれてきてしまったのかもしれない。そういう体質だったところに、この誰だかわかんないヤツが、ひょいと乗り込んできたと。  今のこの状況は、たぶんそうだとしか、考えられない。  そういうのって、でもこんなふうに、突然、何の前触れもなく、起きたりするものなの?  何でもない日の——しかも、こんな真夜中に。  今って何時だろう?  ふとそう思って、壁の時計の方を向こうとして、自分の身体が自由に動かせないことに改めて気づく。これって、かなりイライラする。 (時計よ時計。壁の時計見れってば。時間見るだけ)  そう言っても——いや言おうと思っても、声にならないし、私の身体を動かしてるヤツには決して伝わらない。ああもう、ホントにもどかしい。  この人……たぶん男の人だったんだろうな、と、そのとき不意に思い当たった。  起きたとき、まず髪の毛を引っぱったこと。本来は頭髪がそんなに長くなかったから、まず最初に変だと思った。ついで胸を揉《も》んだのも、元の身体にはそこに膨らみなんて無くて、違和感を覚えたから。そして最後に、パンツの中に手を突っ込んで——乙女にとってこれほど侮辱《ぶじょく》的な体験があるかしら。知らない人に操られて、そんなことをさせられるなんて。でも、場合が場合だけに、操り主の方にも、情状|酌量《しゃくりょう》の余地はあるわね。  で、あるべきモノが無いという衝撃の事実を、その男の人は確認したってわけだ。  さあ、で——どうする?  自分の身体が、もう男じゃなく、御子柴里美って女の子に生まれ変わってて——それでどうするのかしら、この人。  私の操り主は、ドアに向かって、そっと足を進めた。身体を乗っ取られた私は、その意のままに動かされるしかない。  部屋から出るの? 出てどうするつもり?  私は、操り主が何をするつもりなのか、考えてみた。こういう場合—— 『私は誰? ここはどこ?』  という慣用句がある(慣用句? お定まりのセリフ?)。それからすれば、この人はさっき、私の教学のノートを見て、『私は誰?』の疑問の方は、とりあえず解決したはずだ。だから今度は『ここはどこ?』の方を、調べるつもりなんじゃないかしら。 (ここは私の家よ。住所も言いましょうか。高足《たかあし》市港町四の五)  そう言って教えてあげようとしても、でも操り主には伝わらないんだわ。これがまったく。私は、そっとドアを開け、暗い廊下に出る。家の中はしんと静まり返っていて、廊下板の冷たさが、裸足《はだし》の足裏を刺すようだ。肌寒さに、身体がブルブルと震えている。歯の根が合わない。  馬鹿ねえ。何か羽織って出ればいいのに。  でも操り主の人は、そこまで気が回らないらしい。自分の身体を抱くようにして、両の二の腕をさすりながら、抜き足差し足、廊下をそっと歩き始める。  二階には、私の部屋以外に、もう三部屋あって、ひとつは普段使われていない部屋、ひとつはママの寝室、そしてもうひとつは、その昔、パパの仕事部屋だったところ——今はママの仕事部屋だ。  操り主は、廊下に出たときに、その三つのドアに順繰りに目をやったものの、結局はどのドアの前も通過していった。  ママが起きている気配は無かった。どうやら寝室で休んでいるらしい。この人がもし、ママといきなり鉢合わせでもしたら、どうなるか。この人がどう出るか。予想もつかないだけに、とりあえずママが休んでいるらしいことを知って、私はひとつ、ホッと息をつきたい気持ちになった。もちろん呼吸も自由になりはしないんだけど。  廊下の突き当たりまで来ると、右手に階段がある。夜だから照明は落としてある。私の身体を操っている人は、暗いままの階段に、そっと右足を下ろし始めた。 (ちょっと。電気|点《つ》けて!)  家の階段を、照明を消したまま下りるのは、私にとって、何よりも——ジェットコースターに乗るよりも——怖いことだ。  私の身体は、今や最低の乗り物と化した。怖いから目をつぶりたいのに、それさえもできない。  階段は途中で右に直角に折れている。その曲がり角がいちばん暗くて、ぜったいに何かがいると、私は常日頃から思っている。その最悪の箇所を、私の身体は、左手の手すりの感覚だけを頼りにして、無事通過した。何事も起こらなかったことに、私は内心でホッとする。  というか、まあ今は私自身が、内心そのものなんだけど。  階段を下りてすぐ右手には、和室がある。襖《ふすま》は半分開いたままになっていた。それまで、暗い足元に目を落として、階段を下りてきた操り主は、階段を下りきったところで足を止め、目線を上げて、和室の中を覗き込んだ。ほとんどが闇の中に沈んでいるので、いくら目を凝《こ》らしても、家具の輪郭程度しか見て取ることはできない。  私はその和室に、すっと足を忍び入れた。右手で壁をまさぐる。電灯のスイッチを探しているのだ。押し慣れている私からすれば、何とももどかしい動きで。  そこじゃない。柱の——そう、そこ!  スイッチを押すと、蛍光灯が二、三度瞬いてからパッと灯《とも》り、和室内の様子が白色光の下に浮かび上がった。畳の上、中央に炬燵《こたつ》があり、壁際には衣装|箪笥《だんす》が二|棹《さお》並んでいる。その向こうで、鈍い金色に光を反射しているのは、仏壇の扉の金飾だ。  私が目を留めたのは、炬燵机の上、籠《かご》に入ったミカンの横に置かれていた、新聞紙。  四つに折り畳まれていたのを、もどかしく開いて、上欄枠外の日付を読む。 『平成十三年二月十四日(水)』  そうか。日付を確かめたかったのか。それもそうだ。『私は誰?』『ここはどこ?』だけじゃ足りない。『今はいつ?』ってわけか。  逆に言えば、あなたはどこから来たの。何時代の人だったの?  そんなに古い時代の人ではないはずだ。行動を見ていればわかる。通学鞄の中にノートが入っていて、それを見れば身元がわかるってことを知っていたし、電灯の紐を引いたり、壁のスイッチを押せば、照明が点くってことも知っていた。だから、江戸時代の侍《さむらい》の亡霊、なんてのじゃないことは確かで。  そこで操り主は、ようやく、現在時刻も確認しようという気になったみたい。キョロキョロと見渡していた視線が、箪笥の上の置き時計に焦点を結ぶ。  三時十五分過ぎ。午前三時、ってことね。こんな時刻に起きてたことなんて、私、未《いま》だかつて無いのですけど。寝不足は美容に悪いんですからね。他人の身体だと思って、あまり粗雑に扱わないでほしいわ。返してもらったときに困るのは、こっちなんだから。  そこで私は、ハッと息を飲んだ(もちろん呼吸も自由にならないので、気分だけ)。  返して——もらえるのかしら?  もしかして、ずっとこのまま——この誰だかわからない男の人に、乗っ取られたまま——になるんじゃないかしら?  そのとき、頭上で物音がした。  私は息を飲んだ——今度は身体の方も、同じ動作をしてくれた。といっても、私の意のままに動かせるようになった、というわけではない。操り主も、私と同じように、その物音に肝《きも》を冷やしたのだ。  私にはその音の正体がわかる。ママが寝室から廊下に出た物音。  身体が凍りついたように動かない。操り主がそうしてるのだ。そして耳だけが、音源が移動するのを追っている。  二階の廊下がギシギシとかすかに軋《きし》み、そして階段ホールに照明が点く。スイッチの入る音とともに、和室の襖の外、暗かった廊下が、パッと明るくなったので、それとわかる。  階段を下りてくる足音。そして襖の開いたところから、ママがひょいと顔を覗かせた。  私と目線が合う。  そうしてついに、私の操り主は、他人の家で、他人の姿のまま、その家族と——私のママと、対面してしまったのだ。 [#改ページ]         2  和室の中と外。私とママが、お互いの目を見ている。 「里美さん、どうしたの? こんな夜中に」  ママは当然、不審気な表情で問い掛けてくる。  私の心臓は、ドキドキと高鳴っている。ゴクンとひとつ唾を飲み込む。パニック寸前、という感じ。  さあ。私の操り主は、ここでいったい、何を言い返すつもりかしら。 「あ、あの……。ここはどこですか?」  ああ。結局そういうふうに言っちゃうわけね。娘が真夜中に起き出して、母親にする質問としては、とっても不自然な。  となると、当然のごとく—— 「なに? どうしちゃったの? 里美さん」  ママはいよいよ不審気な顔となって、訊《たず》ね返す。そりゃそうだわね。  私はまたも、ゴクンと唾を飲み込んで、 「えーっと、あの、僕、その、信じられないかもしれな——」  ママは最後まで言わせない。 「ちょっと待って。里美さん。黙って。黙りなさい! ……何なの? 里美さん。ボク、とかって。どうしてそんな言葉づかいするの?」 「だからちょっと、聞いてください。僕は——」 「何なの! ふざけてるの?」  ママの目つきが、いよいよ厳しくなる。 「だから僕、里美って子じゃないんです!」 (ママ、本当よ。私の身体、この人に乗っ取られちゃったの!)  私もいちおう、声にならない声で訴えてみる。でも私の声はママには届かない。 「何? 何なの?」  ママは当惑している。私の態度が、言ってることが、あまりにも変で、変すぎて、理解できないって感じで。まるで別な生き物を見るような目で私を見ている。そうなのよママ。ママの目の前にいるのは、姿形は私だけど、操ってるのは別な生き物なの。  ママが黙り込んでいる隙《すき》に、私の操り主は、一気に喋る。 「聞いてください。僕——私、さっきまで苦しんでて、ああ、だから僕、これで死ぬんだなって思ってたんだけど。それが気がついたら、こんな女の子の身体に、生まれ変わってて——」  そう言われたときの、ママの顔って。  驚愕《きょうがく》と恐怖。  まるで恐ろしいものを——化け物を見るような目で、私を見て。  それはそうだわ。いきなり『私は生まれ変わりです』とかって言われても、そんなの誰も信じやしない。当然よ。私がママの立場だったとしても、そう思うもの。ああ、この子、どうかしちゃったんだわ、って。  ママはでも、偉いと思う。凍りついたような表情を浮かべてたのは、ほんの一、二秒の間。すぐに笑顔を取り繕《つくろ》って(片|頬《ほお》がひきつってたけど)、 「ああ、里美さん。きっと怖い夢でも見たのね。それで混乱してるんだわ。……いいから、こっちに来て。部屋から出て来て」 「夢なんかじゃなくて——」  言った途端、 「出て来なさいったら!」  鬼のような形相《ぎょうそう》に一変。さすがの私もギョッとしたくらい。ママ怖い。  ママはどすどすと和室の中に入ってきて、私の左の二の腕を、むんずと掴まえる。 「さ、いらっしゃい。そんな格好でいつまでもいたら、風邪ひくわ」  もう有無も言わさず、そのまま引っ立てるようにして、階段を上ってゆく。内面の私は、操り主のなすがままの行動しかとれないが、感覚だけは普通にある。がっしりと握られて、引っぱられてる、その腕の痛さは、内面の私にも伝わってくる。でも自分の身体を思うようにコントロールすることはできない。  私の操り主が、何か言ってるんだけど、ママは「はいはいはいはい」と聞く耳持たずの状態。  そうして私は、自分の部屋に、ぽんと放り込まれた。 「明日も学校あるんでしょ。ちゃんと寝なさい」  そしてドアがバタンと閉められて。  私はそのまま、部屋の真ん中でひとり、立ち尽くしていた。たぶん、自分の言葉が相手に受け入れてもらえなかったので、呆然《ぼうぜん》としているのだろう。  内面にいる私は私で、実は、今のはちょっと惜しかったな、なんて考えていた。  ママももうちょっと、聞く耳を持たなきゃ。あのまま話させてたら、たぶんこの人、自分の名前を名乗ってただろうに。肝心《かんじん》のそれが聞けなかったので、私にとってこの人は、相変わらず、名無しの権兵衛《ごんべえ》さんのままだ。  私の身体は、ひとつ大きく、深呼吸をした。はあ、と声に出して息を吐く。息が白く煙る。  そこで、たしかに寒いなあ、とでも思ったのだろう。あたりを見回して(何か羽織るものでも探していたのだと思う)、布団の上に、寝る前に脱いだ半纏《はんてん》が載っていて、それに目を留めたんだけど、結局は、最初に目覚めたときの状態に戻ろう、とでも思ったのか、もそもそと布団の中に潜り込んでしまった。  布団は、まだほんわかと温《ぬく》もりを残していて、冷えた身体を優しく包んでくれた。  私の身体が、そのままじっとしている。  きっと作戦を練ってるんだわ、と思った。さっきみたいに、いきなり本当のことを言ったって、誰も信じてはくれないもの。というより、うちのママが相手では、そもそも話すら聞いてもらえない。今の一件で、そう学習をして、ではどうやって、自分の言うことを聞いてもらおうか——たぶんそんなことを考えているんだろうな、彼は。  そう。名前も住所も年齢も、いつの時代の人かも、結局はわからないままだったけど、彼、自分のことを『僕』って言ってたし、ママに対しての話し方なんかからすると、たぶん若い人だと思う。十代から、せいぜいいってて二十代ってところかな。私はそう見た。  でも、そう考えると、あの行為が、いよいよ許せなく思えてきて。  胸を触られたし、おまけに大事なところまで。  どう思ったのかしら。  年若い男性が、いきなり乙女の身体を、自分のものとして得た場合、いったいどんなことを考えるかっていうと。  うーん。想像したくない。  ベッドの中で、布団にくるまっていた私の身体が、のそのそと動き出した。何をするつもりかしら、と私は慌《あわ》てて視線を重ねる。  そう。私が考え事をしていた間、操り主はたぶん普通に目を使ってたと思うんだけど、私の方は、目は開いてるけど見えてない、という状態になっていたのだ。  こんなこともできるんだ、と、ちょっと感心してしまったり。  で、視線を重ねてみる(そういう表現がピッタリ!)と、私は電灯の紐を見て、手を伸ばしているところだった。本来の長さは短いんだけど、自分で紐を継ぎ足して、ベッドに寝たまま消灯できるようにしてある。その紐に手を伸ばして、一回、二回と引いた。  部屋の中が、オレンジっぽい色のスモールランプに照らされただけの暗さになる。  そして私は目を閉じた。私が閉じようとしたわけではない。操り主が、彼が、勝手に目を閉じてしまったのだ。暗い方が考え事に向いている、とでも思ったのかもしれない。  私も、そうして視界が閉ざされてしまうと、他にすることもないので、改めて考え事に没頭した。  さて。これからどうしよう。  といっても、今の状況では、私にできることなんて、ひとつもないんだけど。  彼はどうするつもりなのだろう。出て行きたいと思ってるのかしら。それともこのままこの身体に留《とど》まりたいと思ってる?  彼が身体から出て行ってくれたら……私はまた元に戻れるのかしら?  そのとき、彼はどうなるのだろう?  成仏《じょうぶつ》するのか。無になるのか。  無になるのは、さすがに嫌だと思うかもしれない。それぐらいなら、この身体のまま、生きていきたい、なんて思うかもしれない。  でもそれでは困る。この身体を私に返してくれなくては。  御祓いとかしてもらって、この人を追い出すこととかって、できないのかしら……。  あ、そういえば、ママが言ってた話だと、お祖母ちゃんが同じような状態になっちゃったときにも、御祓いとかしてもらったって——  ああ、そうか。  私はひとつ納得した。  ママは自分が子供のころに、自分の母親が、いきなりそうなっちゃったのを、その目で見ているんだ。それがたぶん、幼な心に傷となっていた、だから私が——自分の娘までが、そんなことを言い出したもんで、さっきはあんなにビックリしてたんだ。  そしてママはすぐに、子供のころの私に、自分があの話をしたってことを思い出して、それで最終的には、すべて私の作り話だろうって、そう思ったのに違いない。  私が、子供のころに聞いた話を思い出して、それをアレンジして、タチの悪いイタズラを、ママに対して仕掛けたんだろうって。  ママは憑霊現象なんて、信じてないのだ。お祖母ちゃんのことも、ただの病気だったんだって思って、それで今日まで生きてきたんだろう。  幼いころ、その話を聞いた私も、そういうもんだと思ってた。  でも今の私は違う。憑霊現象っていうものがこの世にあるってことを、この身をもって、今現在、しっかりと味わっている。思い知らされている。  だからお祖母ちゃんの場合も、本物の憑霊現象だったわけで、そしてお祖母ちゃんは——最後まで元には戻らなかった……?  ということは、私も元には戻れないってこと?  彼がこのまま私の中に居座って、だから私は一生こうして、ただ見るだけ、聞くだけ、動かされるだけで、自発的な行為は何もできない、ただの内面としての存在で、居続けなければならないってこと?  でも、彼がまた、さっきと同じようなことを言い張れば。  どこかで聞いただか読んだだかした憶《おぼ》えのある、何とか実話、みたいな話だと、生まれ変わりを主張する人たちって、だいたい、生前の自分のことをあれこれと思い出して、まわりの人に訴えて、それで調べてみたら、その話の内容が本当に、どこそこに生きてた誰それって人のものと一致してるってわかって、それで自分がその人の生まれ変わりだってことを、最終的には証明してたりするのよね。  で、話がそういうふうに、いったんおお事になってしまえば、ママだって、生まれ変わりってものがこの世にあるってことを、そして私が、身体を誰かに乗っ取られてるってことを、わかってくれるかもしれない。  まずはそれをママに理解してもらって。それからだ。  次にはどうにかして、彼をこの身体から追い出してもらわないと。  そう。たぶんそうなる。きっとママはそうしてくれる……。  そんなふうに考え事をしていて——  ふと気づけば、私の呼吸は、ものすごくゆっくりとしたリズムを刻んでいた。  呆《あき》れた!  この人、眠ってるんだわ。こんな状況下で。  いきなり、生まれ変わりだなんて、そんな異常な事態が自分の身の上に生じているって知らされたのに、それでどうして、こんなふうに、スヤスヤと安らかに眠れるのかしら?  信じられない!  あ、そうだ。操り主が寝てる間だけは、元のように、身体のコントロールが利くようになる、なんてことは、ないかな。  うーん。……やっぱダメか。 (あー)  声も出せない。  っていうか、この間延びした呼吸が……うーん。  実は私も、眠いかも。あは。  だって、身体の方が先に眠っちゃってるんだもん。  ああ。だんだん考えがまとまらなくなっていく。  明日の朝、起きたら、すべてが元のように戻ってた、なんてふうに、なっててくれると、いいなあ。  …………。 [#改ページ]         3  異常な事態に直面してるっていうのに、神経図太く、グースカと寝ていた私の身体。  いきなり目覚ましのベルに飛び起きる。目を見開いて、上半身をガバッと起こし、身体をひねって両|肘《ひじ》をついた姿勢で、音源の位置を探して、頭を左右にキョロキョロと動かしている。うーん。私はまだ半分眠ってるっちゅーに。  やっぱり、ひと晩寝ても、事態は変わってなかった。身体の方は相変わらず、私じゃない誰かの支配下にあるらしい。その誰かの、寝起きのよろしいこと。っていうか背中が寒い。早く何とかして。  すぐに目覚まし時計を視認。右手を伸ばして、ベルを止める。枕元に置いてあると、止めてすぐに、また寝直しちゃうので、ベッドからは微妙な距離をとって、床に置いてある。だから目覚ましを止めたときには、私はいつも、ベッドから半分落ちたような格好で、床に倒れている。まるでダイイングメッセージを書き残して死んだ死体みたいに、右手を伸ばした格好で。  で、いつもの私だと、そこからまた、ぬくぬくとした布団の中に、戻っちゃうんだけど。  彼は思いきりよく、私の身体をそのまま布団から抜け出させた。床の上に胡座《あぐら》かいて、暢気《のんき》にあくびなんぞをしながら、こめかみから右側頭部にかけてのあたりを、ボリボリと指で掻く。そして、長い髪の毛がどうも気になるらしくて、しきりに指でくしけずってみたり。 (うー。やっぱり寒いんですけど。半纏羽織ろうよ)  喋る、っていうか、言葉にして、伝われ、って念じてるんだけど、やっぱり伝わらない。っていうか、彼だって、同じ身体を使ってるんだから、言葉が伝わるかどうか以前に、私と同じこの寒さは、感じてるはずなんだけど。  私は立ち上がった。首を左右に思いっきりひねる。痛いっちゅーねん。元の身体で、首をバキバキ鳴らす癖《くせ》でもあったのか。でも私の首は鳴らないんですよ。おあいにくさま。  こら。何を。人差し指はダメだって。鼻の穴が大きくなっちゃうでしょ。空気が乾燥してて、鼻が詰まったみたいになってるのはわかるけど、突っ込むのは、せいぜい小指にしときなさいって。  ティッシュを見つけて鼻をかむ。かんだ後で、ティッシュを広げる。見るな。見せるな。 「ううううう」  私は背を丸め、声にならない声を吐きながら、ドアを開けて廊下に出る。昨日は恐るおそる、って感じだったけど、今朝はもう堂々と、廊下をスタスタと歩いて行って、そのまま階段を下りてゆく。  キッチンの方で、ママの立ち働く物音がしている。  階段を下りたところで、私はUターンして、一階の廊下を奥へと進んでゆく。彼にとっては未踏のエリアのはず。キッチンへ——物音のしている方へと、向かっている、のかな?  寝起きからさっそく、昨日の続きで、ママと一戦おっ始《ぱじ》めようとしてるのかしら。そのわりには、暢気にあくびなんかしてるけど。  キッチンの前を通る。ママと目が合う。ママは私を見て、ギョッとした表情をした。私が珍しく自分で起き出してきたから、ってのもあるだろうけど、それよりも、昨晩のあのやりとりがまだ記憶に残ってて、私が何を言い出すか、警戒してる、みたいな感じ。でもとりあえず、 「おはよう里美さん」  と普通に朝の挨拶《あいさつ》をしてきた。それに対して、私は目をこすりながら、ペコンとひとつお辞儀をしただけで、無音のまま通り過ぎ、廊下の突き当たりのドアを開ける。  ああ。やっぱり。トイレに行きたかったんだ。この尿意、やっぱり同じように感じていたのよね。  家の造りを知らないわりに、一発で迷わずに着いたのは、こういうのも動物的本能って言うのかしら。褒《ほ》めてあげてもいいくらいの、勘の良さ。  でもトイレって。  …………。  それからしばらく、不快な時間があった。  身体の構造が、やっぱり男と女では違うんだろうな、と思った。彼の動作は、恐るおそる、たしかめながら、みたいな感じで。  今これをしてるのが、本当は男の人で——って考えると、もう、本当に屈辱。私は十六歳の、花も恥じらう女子高生なんですからね。気安く見たり触ったりしないで頂戴。  ようやく屈辱の時間が終わる。着衣を戻し、水も流して。  でもすぐには外に出ない。  ドアの前に立ったまま、私はしばらくの間、深呼吸をしていた。  タンクへの注水の音が静まったころになって、ようやく意を決した、といった感じで、ドアを開ける。  あ、手を洗ってないじゃん。んもう。信じらんない。  でも彼は、それどころじゃなかったみたい。ゆっくりとした歩調で廊下を戻りながら、ゴクン、と唾をひとつ飲み込んで、またひとつ、大きく息を吐いてから、急に早足になって、ダイニングキッチンへと乗り込んで行った。  料理をしているママが振り返って。目が合って。  さあ、何を言う? 「……おあよう」  目をゴシゴシとこすりながら、何とも気の抜けた、普通っぽい挨拶。ついでに、あくびなんかしたりして(嘘《うそ》のあくびだった。身体を共有していると、そこまでわかる)。それでいて、心臓がドキドキいってる。ママの目線を巧《たく》みに避けてる。  そのまま、さり気なく、ダイニングテーブルに着いて。 「うー、寒いよー」  私が普通っぽい態度を見せたもんだから、ママもどうやら警戒を解いたみたいで、 「馬鹿ね。そんな格好で。何か羽織ってくればいいのに」  なんて普通の会話してる。 (ちょっとー。もしもーし)  ママは料理の手を止めず、こっちには背中を向けたまま、さり気なく言った。 「里美さん? あなた、夜中に起き出して、変なこと言ってたの、憶えてる?」 「え、ホント? 寝ぼけてたのかしら、あたしぃ」  うわっ、女言葉っ! しかも変。気持ち悪い。  そらっとぼけて。こいつ……やっぱり、そのつもりだったか。  身体がこうなっちゃった以上、生まれ変わりを主張しても、容易には信じてもらえないし、どうやらそれは得策でないと、悟ったんだ。やっぱり。昨日寝入る前にいろいろと考えてて、で、そういう結論に達したんだ。  私のふりをして。私になりきって。  それでどうにかしようとしてる。  うーん。敵ながら、こいつはなかなかしぶといかも。  でも、ママはきっと気づいてくれるはず。  そう思って、視線を重ねて見れば、ママは料理の手を止めて、不審気にこっちの方を見て。 「……何か、まだ変じゃない? 里美さん?」  いいぞ、ママ、その調子。  ザマーミロ。他人のふりをしようったって、どうせすぐボロが出るんだから。  実際、彼はボロを出しまくった。  ダイニングテーブルで、いきなり朝刊を広げたり(朝から新聞読む女子高生がいますか!)。  朝食なのに御飯のお代わりをしたり(私は朝はほとんど御飯が食べれない)。  極めつけは、ママのことを「お母さん」とかって呼んだり。  そのたびにママは目を真ん丸くさせて、私の顔をじっと見返してくる。  そんなふうに、ボロ出しまくりだった。それなのに。  結局彼は、その朝を乗り切ってしまった。  そう。彼はけっこう頭がいいのかもしれない。  たとえば彼は、テーブルに着いたとき、用意されている食膳の数を、こっそりと数えていた。それがママと私の、二人ぶんしか用意されていないことから、ウチが母娘二人暮らしだってことを見て取ったのだろう。食卓で、パパに関する話題を出したり、そういうボロの出し方はしなかった。  食事の後、ママから、仏前に御飯をお供《そな》えしてと頼まれたときにも、彼は平然とした顔で、お椀《わん》を受け取って、それを和室にちゃんと持って行った。昨夜の冒険の際に、仏壇がそこにあるって、ちゃんと見て憶えていたとみえる。なかなかやるではないか。  さらに、お供えを終えて、鈴《りん》を鳴らした後にも、写真とか位牌とかを、じっと観察していた。私に成りきるために、ウチの家族構成を、死者も含めた形で、そうして抜け目なく、確認しておこうと思ったのだろう。  仏壇に祀《まつ》られているのは、朋実《ともみ》だ。私の双子のきょうだい。遺影は三歳の時に撮影されたもの。私は位牌を手に取った。でもそれには戒名《かいみょう》しか書かれていない。朋実って俗名はわからない。遺影が幼くて、子供のころに死んだ私のきょうだいだってのは、たぶんわかっただろうけど、それ以上のことはわからないはず。よーし、何かそのへんでボロを出せ。  そういえば、パパの影が家に見られないことについては、彼はどう思ったのだろう。  仏壇に祀られていない、つまり死んでないのに、でも家の中にもいない。となると、単身赴任中か、離婚したか、あるいは元からいなかったか(つまりママが未婚の母だったってことね)。常識的に考えれば、まあそのあたりとしか思えない。  まさかパパが余所《よそ》に女を作って出奔《しゅっぽん》し、以来三年間、一度も顔を見せてない、でも戸籍上は今でもママと夫婦のままで、そしてときおり手紙とか原稿とかは届いていて、作家活動はママの協力のもとに続けてる、なんてことは想像もつかないだろう。  そもそも、ウチのパパが実は、作家の司馬《しば》哲郎《てつろう》だ、なんてことも、彼は知らないだろうし。  よーし。きっと彼はボロを出す。そのあたりで決定的なボロを。  ママだって、かなり怪しんではいるはずなのだ。昨夜の一件があって、それで今朝は今朝であの調子だったんだもん。  このままいけば、ぜったいにママは気づいてくれる。この、私の身体を操っているのが、私じゃなくて、どっかの、見も知らぬ誰かだってことを。  その危機感は、彼にしても、感じていたに違いない。朝食を済ませ、ママに頼まれたお供えの仕事も済ませると、私はそそくさと二階の自室に戻った。それもまた、普段の私からすれば、かなり不自然な行動で。階段を上ってるときには、内面にいる私でさえ、ママの疑惑に満ちた視線が背中に突き刺さるのを感じていたくらい。  自室に戻った私は、ほーっと、肺が空っぽになるくらいに、大きく溜息《ためいき》を吐《つ》いた。  全身が疲れ果てていた。そうでしょ。こんな無理、いつまでも続けようったって続けられるわけないんだから。とっとと諦《あきら》めて、ママに正直に言っちゃいなさいって。  でも、彼はほとほと、諦めの悪い性格みたい。しぶといんだな、これが。  ぐっと背筋を伸ばして、よし、と気合を入れ直すと、今度は箪笥に向かった。引き出しを次々に開けて、中に何が入っているか、順次確かめていく。下着の入っている段を開けたときには、しばらくじっと眺めていたっけ。もう。変態。  と思ったら、ソックスを選び出す。無地の白。地味な選択。  そこで彼は、着替えを始めた。まさかこんな状態で、私のふりをして、学校に行くつもりじゃないだろう、とは思うんだけど、とにかく外出着に着替えようとしているのはわかった。  これがもう最低。  寝着のスウェット上下を脱いで、さらにTシャツも脱いで。そうしてパンツ一丁になったところで、彼は急に、女体への興味を覚えたみたいで。 (お願い。変な目で見ないで)  自分に向かって、そう懇願したんだけど。  両手が持ち上がる。胸の膨らみのラインにあてがって、左右から寄せて上げて、みたいな格好をしてみる。そのままギュッと両の乳房を自分で揉んで。  かと思うと、今度は逆に、背筋をピンと伸ばして、胸を張って、その胸の張り具合を見下ろしてみたり。  なすがままにされている、という恥辱。  背筋がゾクゾクッと震えた。別に何かを感じたとかじゃなくて、寒さよ。寒さ。 「うぅぅ」  自然と声が洩れた、って感じで。  見れば、全身に鳥肌が立ってる。真冬の早朝に、素肌を晒《さら》してるんだもん。そうなるよ。当たり前じゃん。風邪ひくってば。  彼の好奇心も、さすがにその寒さには負けたらしい。自分の身体を抱くようにして、小さくなってしゃがみ込むと、両の二の腕をさすり、腿《もも》をさすり、しばらく暖《だん》を取るような行為をして、それからようやく服を着始めた。私は内心でホッと息を吐く。  まずソックスを穿《は》いて、それからブラをつける。ブラのホックを掛けるのに、慣れてないからきっと手間取るだろうな、と予想してたら、まあすんなりとはいかなかったんだけど、それでも意外と手際良くやってのけたので、ちょっと感心してしまった。けっこう手先は器用みたい。  それよりも、制服を着ることの方が、意外と難しかったみたいで。セーラーの上衣《うわぎ》を着るのって、慣れてれば何でもないことなのに、初めてだと案外、戸惑うものらしい。生地が破けるんじゃないかってくらいに、無理やりに着込んで。でもどうにか着込んで、最後に、襟《えり》の内側から、両手で髪を掬《すく》い出すのが、そんな経験したこと無いんじゃないかなって思うんだけど、その割《わり》には、けっこう自然に手が動いて。  で、今度はスカートなんだけど、これは単純だから大丈夫だと思ってたら、彼、どっちが前だかわかんなかったみたいで、最初左でファスナーを閉じたのに、また開いて、今度は右にして閉じてみて、首をひねって、また元に戻したり。どうにか落ち着いたところで、今度は何を思ったのか、息を詰めて、お腹《なか》を思いきりへこませて、だから何をするかと思いきや、そうしておいて、スカートのウエストラインに手を掛けると、上下に動かしてみたり。  たぶん、スカートってものを、生まれて初めて穿いたので、何かそのままストンと下に落ちちゃいそうな、不信感みたいなものがあって、だからそうやって、自然に落ちたりはしないってことを、わざわざ確かめてたんじゃないかなって、私は思ったんだけど。  TVで、男の人が女装してるときに、スカートを穿いた感想は? みたいなことを聞かれて、腿のあたりがスースーして、すごく落ち着かない気分になる、みたいな受け答えをしていたことがあったと思うんだけど、たぶん彼も今、それと同じような感覚を味わってるんだろうな。  とにかくそうして着替えは、無事——でもないけど、それなりに終わった。コートを羽織り、鞄を手にして、私は部屋を出る。  階段を下りると、今度はそのまま真っ直《す》ぐ、玄関へと向かう。  ちょっと待ってよ。まさかそのまま、外に出てくつもり?  髪は寝起きのままでぐちゃぐちゃだし、それ以前に、そもそもまだ顔も洗ってないし、歯も磨いてないじゃん。おーい。そんな状態で外に出ないでよ。みっともない。恥かくのは私なんだから。んもう。  靴を履いてるときに、物音を聞きつけたらしく、奥からママが顔を覗かせた。 「何、どうしたの里美さん。こんなに早く」  目を丸くして——ママのこの表情見るのって、今朝これで何度目だろう。 (ママ。私を止めて!)  しかしその願いも虚《むな》しく、私は頓着《とんじゃく》ない口調で、 「あ、ううん。何でもない。クラスでちょっと集まりがあって。うん。じゃあ、おか——じゃなかった、ママ、行ってきまーす」  にこやかにそう言い残すと(内心の私は、にこやかどころじゃなくて、もうプンプンだったんだけど)、私はついに、家の外に出てしまった。 [#改ページ]         4  外に出た私は、まず表札を確かめた。私は、なるほど、と思う。たしかにこれは、彼にとってみれば、手っとり早い情報源だったろう。  『高足市港町4—5     御子柴 徹志《てつし》         康子《やすこ》         里美』  私の視線は、住所と家族欄とを均等に、それぞれ三度ずつなめた。パパの名前もまだあって、表札だけ見れば、三人家族という体裁《ていさい》。彼はそれを見て、どう思ったことだろう。視線を外したとき、ひとつウンと頷《うなず》いたのは、どういう意味だったのか。  私の家はゴミゴミと家の建ち並んだ住宅街の中にある。南向きの玄関を出たすぐの道は、車が一台やっと通れるくらいの、幅の狭い一方通行路で、それを左右どちらに行っても、東西のどちらかの二車線路には出られるし、その二車線路をまた左右どちらに曲がっても、市の南と北を走る四車線の幹線道路の、そのどちらかには出る。  彼は私をどこに行かせようとしているのか。  私は玄関を出たところで立ち止まると、ちらりと空を仰いで、まずは路地を右に——西の方向へと進んだ。とりあえず、私が毎朝通学するのと同じ方向である。  いつもより三十分も早く出ているので、知った顔には会わない。ボサボサ頭の私からすれば、とりあえずそれだけは、ありがたい。  彼は途中、何度か立ち止まると、スカートの上から、両手で両腿をさすったり、あるいは両腿同士をスカートの中でこすり合わせるような、妙な仕草をした。どうやら剥《む》き出しの脚部が、寒くて仕方ないらしい。でもよそから見れば、くねくねとした、変な動作に見えてるはず。  もっと人目を気にして行動してよ。誰かに見られてたりしない?  私にしてみれば、どうしても他人の視線が気になって、せめてまわりの様子がどうなのか、見回したい気持ちでいっぱいなんだけど、それさえも、彼が見ようとしない限りは見えないのだ。あーイライラする。  幹線道路に出たところで、彼は電話ボックスを見つけ、駆け寄って中に入った。コートのポケットを漁《あさ》り、鞄の中を漁って、ようやくパスケースの中にテレカが何枚か入っているのを発見。その中から、よりによって〈布袋《ほてい》寅泰《ともやす》〉のやつを選んで、挿入口にさし込みやがった。バカッ。それを使うなっつーの。他に、使用済みの穴があいてるやつだって、あるだろうが。まだ使ってない、だから大事にしてるのだって、見りゃわかるだろうが。  その(私にとっては大切な)カードを挿入して、彼は七桁の番号を押した。ということは、携帯電話ではない。市内のどこかに住む、誰かの家に掛けているわけで。  どこに掛けようとしてるんだろう?  呼び出し音が鳴る間、彼は大きく息をしていた。血圧が上がってきているのがわかる。 「——はい」  相手が出る。中年女性の声。やけに暗いトーンだった。  彼はゴクンとひとつ唾を飲む。 「あ、あの、森川《もりかわ》さんのお宅でしょうか?」 「はい」  内面にいる私は、何となく、ドキッとした。『森川』という苗字は、私にとって、そういう反応を起こさせるものなのだ。 「あの、あたし、サッカー部のマネージャーをしている、石田《いしだ》という者なんですけど——」  彼はそんなふうに偽名を名乗った。自分の声がそんなふうに喋るのを、突然聞かされた私は、一瞬ポカンとしてしまった。  といってもこの場合、偽名うんぬんが問題なのではない。 『森川』で、『サッカー部』で、『マネージャーの石田』。  それってまさか。……森川先輩のことじゃないの?  まさか。  呆然とする内面の私のことなど知るよしもなく、私はさらに話し続けていた。 「——森川キャプテン、いらっしゃいますか?」  そこで相手の応答を待つ。  やっぱりそうだ。サッカー部のキャプテンが森川という苗字で、マネージャーが石田という女の子。それは明らかに、ウチの学校のサッカー部のことだ。それしかない。  掛けてる先は、森川先輩の家。  彼は——じゃあ、もしかして。  そんな。でもまさか。  私の身体に入ってきたヤツが、人が、まさか自分の知ってる誰かだろうなんてこと、まったく考えてもみなかった。  しかもそれが……森川先輩? ホントに?  そんな思考が駆け巡《めぐ》って、私は一瞬、ボーッとなってしまった。その間、耳がおろそかになっていた。それで、何か大事なことを聞き洩らしたのではないか、と、慌てて聴覚に神経を集中させたのだが。  まだ相手からの応答は無いようだった。  異様に長い、間。  私の、つとめて抑えようとしてるんだけど、それでも荒くなっている、むふー、むふー、という鼻息が、さらに三回、四回と重なって。  ようやく応答の声が、電話線の向こうから届いた。 「——達郎《たつろう》は、昨夜、亡くなりました」  えっ? 今なんて言った?  森川先輩が……死んだ?  え、うそ。何で。  どうして。 「今はまだ混乱している最中ですので、申し訳ありませんが——」  そして通話は向こうから切られた。ツー、ツー、という電子音が、耳に繰り返される。私はゆっくりと受話器を耳から離し、架台に置く。ピピー、ピピー、とうるさい音とともにカードが吐き出される。  ゆっくりと、大きく息を吸い、ふふーん、という音とともに、鼻から息を吐く。そして、 「そっか。やっぱオレ、死んじゃったんだ」  という呟《つぶや》きが、私の口から洩れた。  二つの衝撃的事実が、同時に明らかになった。  昨夜から私の身体に入っている、この人は、森川先輩だったのだ。  そして森川先輩の身体は、昨夜、死んでしまった。  つまり、事はこういう順で起こったのだ。まずは彼が死に、その魂が、本来ならば天に召されるところだったのを、私が生来のイタコ体質を発揮して、彼の魂を我が身へと、受け入れてしまった。  それで今、私はこんなふうになってしまったのだ。  それならわかる。森川先輩のためだったら、私はそうしたいと思うもの。受け入れられるものならば、この身に受け入れたい。そして彼だって、そんな若い身空で死にたくはなかった。この世に対して、まだ未練があったはず。  その両者の利害が一致したのだ。  私自身は、彼が死んだことも、私にそんなイタコ能力みたいなものがあるってことも、何も知らなかったんだけど、それでも天の配剤というのだろうか——神様だか仏様だかは知らないけど、誰だかがちゃんと、それぞれの希望どおりに、事を運んでくれたのだ。  憧《あこが》れの森川先輩が、私の中にいて、今現在、私の身体を動かしている。  これが愛の力というものなのだろうか。  でもそれは、残念ながら、私の側の、一方的な愛でしかない。彼は生前、私のことなんて、ほとんど何も知らなかったはず。私の一方的な片想いだったんだもん。遠くから見つめているだけだった、憧れのひと。  そうだ。  昨日のチョコは、受け取ってもらえたのかしら。あの手紙は読んでくれました?  御子柴里美っていう女の子が、自分のことを好きだってこと、わかってくれました?  もしかして、それで私のところに来てくれたのだったりして。  それにしても——と思う。  どうして先輩は、突然、死んじゃったりしたんだろう。昨日もちゃんと学校に来てたし——姿を見ることはできなかったけど、靴箱の中にはちゃんと靴が入っていた。だから昨日学校に来てたことは間違いない。  それがどうして——ひと晩の間に、急に死んじゃうだなんて。  事故? 何があったの? (教えて。答えて。森川先輩)  しかし私がいくら問い掛けても、彼には伝わらない。こんなにそばにいるのに、自分の声を伝えることができない。今の私に許されているのは、彼が、私の身体を使ってやっていることを、ただ黙って見てることだけ。  自宅に電話を掛けて、母親から、自分の死を改めて通告された彼は——森川先輩は、これからどうするのだろう……。  このまま森川家に乗り込むのではないか、と私は予想したのだが。  結果的に、その予想は、大きく外れることとなった。  電話ボックスを出たところで、森川先輩もしばらくの間、思案していた。視線がどこにも合ってないので、それとわかった。  考えている内容は、何だろう。  今後の人生をどう過ごすか、という長期的命題か。  それとも、とりあえず今、どこへ行こうか、という短期的命題か。  まあ、先のことは措《お》いといて、とりあえず今は、家に戻ってほしいぞ——と、内心の私は思っていた。家でなくてもいいから、とりあえず人目につかない場所に移動してほしい。寒いし、みっともない格好だし。  でも、私が恥ずかしがることでもないのかもしれない。この身体は、昨日までは私のものだったけど、もう今は私のものじゃないんだから。  将来的に、この身体が、再び私の支配下に戻る可能性があるというのならば、それまでの間、私の身体を使っている森川先輩には、あまり変な行動はしないでいてほしいと思う。でも今後ずっと——それこそ永久に、私がこの身体の支配権を取り戻すことができないのならば。  もう私は、御子柴里美の身体を『私の身体』などという形で、主格的に呼ぶことは、できないのではないだろうか。  そこのところさえ、うまく切り離して考えることができれば、私はもう、この身体がどんなことをしても——たとえどんなみっともない格好をしていても、それを恥ずかしいと思わずに済むのではないだろうか。  私が笑われてるんじゃない。彼が笑われてるのだ。そしてそれは不当な行為だ。なぜならば、彼はまだ御子柴里美という身体に、慣れていないのだから。そういう裏事情を知らずに、表面的な事実だけを見て、笑いたい奴がいるならば、笑わせとけばいいだけの話。そうやって、割り切って考えることができさえすれば。  でも——それはできそうにない。私という人格と、この身体とは、もう切っても切り離せない関係にある。この十六年間という長きわたって、培《つちか》ってきたもの。私がこれまでの人生で、ずっと何かを抑え、努力してきた、その結果として今ある、私の外見とかイメージとかといったもの。それが他人によって台無しにされるのを、黙って見ているのは、とてもしのびない。  だから、 (とりあえず、どこか人目に立たない場所へ行って)  と思う。  それなのに。  そのとき、私はゆっくりと、歩道を歩いていた。歩きながら、ふと、前方に見えてきたバス停へと注意を向けた。そこでは数人が立ったまま、もうじき来るであろうバスを待っている。  それを目にした私の歩調は、目的地を見出《みいだ》した、とでもいった感じに、だんだんと確実なものになってゆく。  そこは、私がいつも利用するバス停よりも、一区間分、学校に近い停留所で、つまりそこから乗っても、私の持ってる定期は使えるし、そのまま学校に行くこともできる。  私はバス停に着くと、そのまま人の列に並んだ。外見の私はぜんぜん気にしてないふうなのだが、内心の私としては、他の人の目が気になって仕方がない。  バスが着くと、彼は平気な顔で、そのバスに乗り込んだ。特に車内を見回すでもなく、空《あ》いてる椅子《いす》に座ると、正面の行き先表示に目を向ける。乗り込む際に、視野の端にチラリと、ウチの学校の制服を着た誰かの姿が映ったようにも思ったのだが、彼が視線を向けなかったので、それが誰だかはわからなかった。  私の知り合いでないことを祈ろう。  車内は暖房が効いており、ことに足元が暖かくて、たぶんそのせいもあったと思うのだが、私は椅子に落ち着いたところで、ホッとひとつ息を吐いた。  慣れない身体で、慣れない格好をして、慣れないバスに乗っているはず(先輩の自宅は、学校を挟んで、ウチとは反対側にあるはず)なのに、彼は特に緊張した様子もなく、平常心を保っていた。たとえ彼の心は読めなくとも、同じ身体を共有している以上、体内の様子——心臓の動きや呼吸、皮膚《ひふ》の状態など——から、彼の精神状態はだいたいわかる。  私はおとなしくバスに揺られていた。停留所を五つ過ぎて、次が〈開明高校前〉だというアナウンスが入ったときに、私は背筋を伸ばした。  やはり学校に行くつもりなんだ。  ブザーの表示に目をやるが、すでに〈降ります〉のランプは点灯していた。  バスが減速し始めると、私は鞄の中からパスケースを取り出し、立ち上がった。バスが完全に止まったところで、他の生徒数人とともに、私はバスを降り、そのまま、すぐ目の前にある校門へと向かって歩き始めた。  どうするつもりなの? 森川先輩。まさかこのまま、御子柴里美として、普通に学校の授業、受けるつもりじゃないでしょうね?  そんなの無理だって。ぜったいにばれるって。  お願い。無茶しないで。私のイメージを崩すようなことはしないで。  事態は最悪の方向へと向かっている——ように、そのときの私には思えた。 [#改ページ]         5  そうなのだ。森川先輩はいつだって、自信家だったし、行動も前向きだった。だから学内でも目立っていて、私だって実のところ、彼のそういう部分に惹《ひ》かれたのだ。  英語の弁論大会で、全校生徒を前にして、堂々とスピーチをしたときの勇姿。  サッカーの県大会で、二点ビハインドのまま、後半も残り少なくなったときも、決して諦めずにボールを追っていた、その姿勢。好きよキャプテン。  でも、さすがの彼にしても、たとえば、これがまったく知らない土地で、とか、自分よりも年長者として、生まれ変わったりしたのならば、決してこんなふうに、無謀とも言える行動は、しなかったに違いない。  彼にとって幸いだったことに、新しい身体——御子柴里美は、同じ開明高校の生徒で、しかも下級生だった。つまりは土地勘も充分にあるし、先生の顔だって知らないわけではない。受けなければならない授業の内容も、彼の学力からしてみれば、余裕でこなせる自信があって当然だろう。問題は、友人関係など、私のプライベート部分に関しての知識の無さについてだが、それにしても、まあ最初は戸惑うにしても、どうにか誤魔化《ごまか》してやっていけるだろう、みたいな自信があったのかもしれない。彼は自信家であるだけでなく、そう、楽天家でもあったのだ。  とにかく、御子柴里美はその朝、普通に登校して、一年三組の教室に入っていった。 「あれー、サトミぃ?」 「あれ、なに、どーしたん?」  窓際でダベっていた真子《まこ》とヨーコが、私が普段になく、早目に登校してきたので、珍しいものを見たといったような顔つきで、そんなふうに声を掛けてきた。 「うーん」  対する私は、曖昧《あいまい》な笑顔で、何とも曖昧な応答をする。そう、先輩にしてみれば、この二人の名前も知らないのだ。そういった状況でも、身体的にはどこにも、パニクった徴候《ちょうこう》が見られないのは、さすがと言うべきか。 「えーと、あたしの席って、どこだっけ?」 「なに寝ぼけてんの朝から。そこでしょ?」  ヨーコが顎《あご》で示した席に座る。それにしても、堂々とそんな質問するなんて。しかもそれで通ってしまうなんて。  呆れるというか、感心するというか。ともあれ、何とかなるもんだなあ、と思っていると、ついにヨーコが指摘してきた。 「あんたなにその髪の毛。めっちゃくちゃやで。ちゃんと梳《と》かしてきたん?」 「え、うっそー」  とか言いながら、私、手櫛《てぐし》を入れる。 「あーもう、梳《す》いたるわ」  というわけで、クラスの男子に見られないうちに、髪の方は、ヨーコがどうにかしてくれたのだった。内心の私は、とりあえずこれでひとつ、ホッとした。  さあ、でも、それからが大変。  森川先輩のとった作戦は、とりあえず寡黙《かもく》に過ごしていれば何とかなる、という程度のものだった。真子やヨーコに話し掛けられても、曖昧に頷き、あまり言葉を発しない。それで張り合いをなくしたのか、二人は私を放っておくことにしたようだ。先輩にとってはラッキーな展開である。それから、時間が経《た》つのに従って、だんだんみんなが登校してきたが、それでも私は寡黙に徹していた。教室に入ってきた生徒の顔をチラッと見て、あとは椅子に座ったまま、そこかしこで交わされている雑談に、聞き耳を立てている。  そうした雑然としたクラスの中で、遠くから、 「サトミぃ」  と呼び掛ける声が耳に入った。なのに私は動かない。ピクリとも反応しない。 「おーい、サトミ」  同じ位置から、今度はさっきよりも少し声のトーンを上げて。ノブちゃんの声だ。なのに先輩は、自分が呼ばれていることに、まだ気づいていない。まわりの人間の方が先に気づいて、こっちの様子を窺《うかが》っている気配がする。どうしてこの子、自分の名前をあれだけ呼ばれて、気づかないんだろう? みたいな、変な空気が漂って。  それで森川先輩、ようやく気づいたらしい。ハッと顔を上げて、 「あ……誰? 呼んだ?」  キョロキョロとあたりを見回す。ああ。その反応はないでしょう。  案の定、まわりは大爆笑。その笑い声のむこうで、男子の誰かが、 「今日、御子柴、何か変だよなあ」  と小声で話しているのが、かすかに聞き取れた。私の視線は、さっきの呼び掛けの主を探して、まだあちこち揺れ動いている。こちらを不審気に見つめる、顔、顔、顔。この場合、声だけでノブちゃんだってわからないのが、そもそもおかしいのに。  その視野の中、ノブちゃんが近づいてくる。それで私も、ノブちゃんに視点を合わせる。先輩も、どうやらこの子が自分を呼んだらしいと、ようやく対象を絞り込めたらしい。  ノブちゃん、私の目の前まで来ると、ひとつ首をひねる。 「どうしたのサトミ? 様子変じゃない?」 「早起きしすぎで、まだ寝ぼけてんのよ」  ヨーコが言い、またまわりの子たちがクスクスと笑った。私自身も曖昧な笑顔を作って、まわりに同調して見せる。ああ情けない。  でもまあ、予想どおりっていうか。やっぱりこういうことになるわね、そりゃ。  それでも、大きな失敗はなく、朝の自由時間は、何とか乗り切ることができた。  やがて担任の澤入《さわいり》が来て、ホームルームが始まる。澤入が出て行った後は、休み時間なしに、一限目の授業という流れ。  ホームルームの時間もそうだったが、これから始まる授業にしても、私の存在は、生徒という群の中に埋没してしまっていて、だから特に指名されるようなことさえなければ、じっと先生の話を聞いているだけで、時間をやり過ごせてしまう。まあそれで、意外と何とかなってしまうものなのだな、と思っていたのだが。  ホームルームの終了後、まだ一限目の先生が来ていない時間。先輩はまわりの様子を見て、一限目が現国だと知った様子。鞄の中を漁っている。でも教科書とノートが入っていない。ああそうだ。鞄の中、昨日のまんまだ。  水野《みずの》先生が入ってくる。きりーつ。れい。そして先生が言う。 「えーと。今日は、百七十ページから——」  机の上に筆記用具しか用意できていない私が、急に手を挙げたのは、そのときだった。 「すみません、先生」  教室中の視線が、私に集まる。その中で、私は堂々と立ち上がり、 「すみません。教科書、忘れちゃったんですけど」  水野先生は一瞬、キョトンとした表情をしていたけど、 「じゃあ隣の人に見せてもらいなさい」  そんなことは、生徒間で勝手に解決しておいてくださいな、といった態度で応じて、すぐに授業を始める。私は着席すると、左右の隣席を等分に眺めた。左隣のチコちゃんが、もうこの子はしょうがないわねえ、といった目で私を見返しつつ、机をこっちに寄せようとしていたのだが、私の方はその意に反して、自分の机を右へと寄せてしまった。  それでビックリしたのが藤田《ふじた》君。目を真ん丸にして、私のすることをボーゼンと見ているの。  そりゃそうだ。自分が女の子で、こういう場合、男子と女子のどっちに席を寄せるかっていったら、普通は女子の方に席を寄せる。こんなふうに露骨に男子の方に机を寄せることができるのは、ウチのクラスで言えば、たぶん真子ちゃんくらいのもの。それを普段おとなしい私が、しかも藤田君相手に、こんなふうに積極性を見せちゃってるんだもん。そりゃ誰だって、何事かと思うわな。っていうか、誤解されるって。  森川先輩にしてみれば、自分が中身的には男子だもんで、女子と机を寄せ合うよりかは、男子と寄せ合う方が、心理的に楽なように思えたんだろうけど。  哀れ藤田君。私が机をピッチリつなぎ合わせて、椅子を寄せた途端に、顔が紅潮し始めた。それを視認して、どうやら先輩も、自分の失策に気づいたらしく、それで私の身体の方も、少し変調をきたし始める。胃がだんだん重くなってくるような感じ。内面にいる私も気が重い。  どよーんとした雰囲気のまま、どうにか一限目は終わった。机を離した途端、思わずフーッと溜息が出たのは、森川先輩ばかりでなく、内面の私も、そして隣の藤田君も同様で。私と藤田くんの場合は、まだ健全なレベルでの溜息だったんだけど、先輩の場合は、男子相手にラブラブっぽい雰囲気になりかけたんだもんね。心労の極限、ってな感じで。  休み時間になると、藤田君はそそくさと席を離れて行ってしまい、かわりにノブちゃんが駆け寄ってきた。囁《ささや》き声で聞いてくる。 「なにアレ。どうして? まさかサトミ、藤田君を?」  さらに、ホントに教科書忘れたの? と、そのレベルから疑って、ノブちゃん、勝手に私の鞄を漁り始める。私はただなすがままに、彼女のやることをじっと見ているだけ。 「あれ、数学だけじゃん、今日んのって。てゆーか、これ、昨日のまんまじゃない?」  そこでノブちゃん、ハッと何か閃《ひらめ》いたみたく、さらに声をひそめて、 「ねえ、もしかしてサトミ、昨日家に帰ってないんじゃない? 外泊? バレンタインのチョコ攻勢とか? ……で、ついにロストしたとかって?」  私は一秒間ぐらい固まって、ついでブルブルブルッと、顔を思いっきり左右に振った。ロスト(バージン)という言葉に、男性である先輩が、過剰な拒絶反応を見せたのだろう。 「そうかー。サトミもついに女になったかー」  ニヤニヤ笑って、そして私の肩をポンポンと叩く。  違うって。まだだってば。んもう。あーもう。先輩、ちゃんと否定してってば。黙ってると、まるで認めてるみたいじゃん。  そんな感じで、私とノブちゃんがコソコソと話しているところに。 「おーいみんなぁ! すっげー大事件発生!」  そう大声で叫びながら、教室に駆け込んで来たのは、サッカー部の山本君。 「二年の、ウチの——サッカー部のキャプテンの、森川先輩っているんだけど、その人昨日、死んじゃったんだって」  えー、うっそー、という声で、教室内は騒然となった。森川先輩のことを知っている子たちは当然、知らない子たちにしても、生徒の誰かが死んだ、というだけで、ビッグニュースとして迎え入れたのだ。  どうしてどうして、なんでぇ、と、山本君のまわりには人垣ができる。 「いや、そういうのはまだ、ぜんぜん聞いてないんだけど。とにかく先輩のクラスでさあ、担任の先生が、森川先輩が死んだって、みんなにそう言ったんだって。オレはただそれを聞いてきただけなんだけどさー」  ざわついている教室の中を見回せば、どっちを向いても、とりあえず手近な人同士で、目を見合わせて、先輩の死をネタに、あれこれ喋り合っているクラスメイトの姿が見られた。私の場合には、ノブちゃんが、何か必死に話し掛けている。 「ちょっとぉ、信じられるぅ? ねえサトミぃ。……サトミってばぁ」  私はいくら肩を揺さぶられても、彼女とは視線を合わせなかった。きっとノブちゃんは、私が森川先輩の死の報《しら》せに、相当の衝撃を受けたんだって、そう思ったに違いない。  一限目と二限目の間の休み時間に、ウチのクラスに伝えられたのは、とりあえずそんな程度の情報だけだった。  それがお昼休みになると、また新たな情報が、今度は写真部の坂本君によって、もたらされることとなった。 「おーい、すっげー大ニュース! いま聞いてきたんだけど。あの……森川って、その死んだ人の、死因とかなんだけどさー、なんか殺されたんじゃないかって話で」  えー、うっそー、どころではない。言葉にならない声の集積が、今度は教室を揺るがすほどの大音量となって。  まっじぃ? うそうそ、じゃあ犯人とかは? オレらの中にいたりして。うっそー。  一時は騒然となったクラス内を、坂本君が鎮まらせて、さらに情報を付け足した。 「ホントホント、絶対ホント。だってウチの先輩でね、父親が刑事やってるって人がいるんだけどさー、その先輩がさっき家に電話して、そしたら家の人が出て、それでそのお父さんって人が、何だかその事件、調べ始めてるって、聞いたって。殺人課の刑事が調べてるんだぜ」  同じ情報は、ウチのクラスだけでなく、隣のクラスにも、そのまたむこうのクラスにも、各所にもたらされたものとみえる。時間差をもって、どおおお、というどよめきが、学校中のあちこちで湧き起こっている。  ホン……ホント、に? (それってホントなの? 本当にあなた、誰かに殺されたの? 森川先輩!)  私は、そのあまりにも信じられない、新しい情報を、自分の中でどう処理していいのかわからずに、とにかくしばらくの間は、身体の様子を気づかうことも忘れて、呆然としていた。 [#改ページ]         6  森川先輩の死の報せは——ことにそれが、刑事事件として捜査されているということは、生徒たちのみならず、教職員たちにも、かなりの衝撃を与えたようだった。  たぶんその結果、だと思うんだけど、大会を控えた一部のクラブを除いて、放課後の部活動は自粛し、真っ直ぐ帰宅するように、との指示が、放課のチャイムの前に、校内放送で流された。  私とノブちゃんは黙ったまま、一緒に校門を出た。学校前のバス停には、思ったほど大勢の生徒は並んでいなかった。こんなときに真っ直ぐ家に帰ろうなんて生徒は、そんなに多くはいないってこと。ノブちゃんも当然のごとく、バス停の前を通り過ぎる。  そして先輩も——これは私の予想に反して——そのままノブちゃんと一緒に歩いていく。  私は心配になった。だって先輩、ノブちゃんのこと、ほとんど何も知らないはずだもの。彼女がクラスのみんなから「ノブちゃん」と呼ばれているってことぐらいは、まあ、今日一日の観察で知ることができたかもしれないけど、でもそのフルネームが青山《あおやま》宣子《のぶこ》だってことさえ、知らないはず。そもそも自分(御子柴里美)のことだって、よくわかってないのに。だから、ボロが出るのを警戒して、彼女とはなるべく喋らないようにする——なるべく早く、別れようとするんじゃないかと、私は思っていたのに。  バス停を通り過ぎたあと、ノブちゃんは歩調をゆっくりにして、私に聞いてきた。 「どうする? 〈ジャニス〉まで行く?」  この場合、誘っている場所が普通の、たとえばマクドとかじゃないのは、他の生徒のいない場所で私とじっくり話し合いたいっていう、彼女の言外の意味が含まれている。  私は、自分が森川先輩に憧れてたってことは、ノブちゃんにしか言ってない。誰にも言わないでねって言ってあったので、だから彼女、先輩の死のニュースに接してから、今までずっと、まわりの耳とかを気にして、私とは充分に話ができない状態にあった。いろいろと聞きたいこともあっただろうけど、それを自粛していた。そのフラストレーションを晴らしたい、〈ジャニス〉あたりに行って思う存分話したい、というお誘いなのだ。  それが伝わってるとは思えないんだけど、先輩は、うん、と言って、その誘いに応じた。  歩いて十分。二度ほど来たことがあるだけの店。〈ジャニス〉は今日も空《す》いていた。私たちは隅っこの席に着いた。ホットコーヒーを頼んで、それが来るまでは、ノブちゃんも会話をスタートさせるのを控えていたのだが、ウェイトレスのお姉さんが下がると同時に、 「で? どう? 大丈夫? サトミ」  そんなふうに切り出してきた。私の目は、それまではノブちゃんの視線を避けるように、焦点をずらしてたんだけど、ここにきてハッキリと相手の目を見すえて、そして言葉を返した。 「え? 何が? 大丈夫って……今日、あたしってそんなに変だったりした?」 「うん。かなり変だった。それも、あの——ニュースを知らされるより前から。すごい、ボンヤリしてるって感じで。……寝てないってホントに? それってやっぱ、森川さんのことで?」 「森川さんのって……どういうこと?」  先輩は訝《いぶか》しげな表情を作る。 「あ、だから……うーん、だからズバリ言っちゃうとさー、私が聞きたいのって、だから昨日、サトミってさー、あれから結局どうしたの? 森川さんにさー、ちゃんとコクったの?」  なるほど、という先輩の内心の声が、聞こえたみたいだった。実際に聞こえたわけじゃないんだけど、身体の状態でそれと察せられたのだ。腑《ふ》に落ちる、とか、胸のつかえが取れる、とかって言い回しがあるけど、ちょうどそんな感じで。  ノブちゃんの今の質問で、彼にしても、これまでに私たち二人の間でどんなやりとりがあったのか、そしていま何が問題となっているのか、だいたいのところは理解できたはずだ。  私は、ううん、と言って、顔を左右に振ったあと、 「直接は言えなかったんだけど、でもチョコと手紙は、下駄箱にはいっ——入れといたから」  あ、じゃあ——と私は、パッと明るい気分になった。……じゃあいちおう、受け取ってもらえてたんだ。彼が死ぬ前に、私の想いは、届けることができてたんだ。それで彼も、御子柴里美って女の子は、あのチョコを贈ってくれた子だって、ちゃんと認識してくれてたんだ。  ノブちゃんは、そうかー、と言って、 「じゃあいちおう、気持ちは伝えたんだ、手紙で。……伝わったよね? たぶん」 「うん。いちおう、読んでくれたと思う。チョコも食べてくれたと思う」  その言葉を聞いて、私は確信した。彼は私の書いた手紙を、ちゃんと読んでくれたし、チョコもちゃんと食べてくれたのだ。だってそう言っているのが、何しろ本人なのだから。 「そうかー。うーん。そうだよね。……いや、私、なんかさー、実はもう、すっごい、ひどいことまで考えちゃってて。さっきまで。これ、怒んないで聞いてほしいんだけど、だってサトミ、今日、朝から様子変だったしさー、それで森川さん殺されたとかって聞いて、だから……」  さすがにハッキリとは言えない、って感じで、あとは言葉を濁したけど、言いたいことはわかった。私が昨日、先輩にコクって、振られて、それで逆上して、つい彼を殺《あや》めてしまった、みたいなストーリーを、彼女は想像していたのだ。 (んもう、ノブちゃん! 私のこと、先輩を殺した、ひと殺しだって思ってたってわけ? そんなの、あー、んもー、怒るなって言われたって怒りますよ。ホントにもう) 「いや、別に本気でそう思ってたわけじゃないんだけどさ。ただ何となく」  ノブちゃん、そう言って、満面の笑みで誤魔化す。その笑みを、でもすぐに引っ込めて、 「でも、サトミの気持ちが伝わってたとしても——うん、伝わってたって、私も思う。それは絶対そうだと思うよ。うん。でも……死んじゃったら、終わりなんだよね。もうそれで」  そう言われて、私はただ黙って溜息を吐いた。本当にそのとおりだ、という感じで。 (でも先輩、実際にはこうして、生きてるじゃないですか。そりゃ身体は死んじゃったかもしれないけど、でも本当に死んじゃってて、魂も何もかも無くなっちゃってたら、そうやって溜息を吐くことだって、ホントはできないんですからね。この状態だって、まだずっとマシなんですから。それもすべては、私がこうして、身体を提供してるからこそ、できることであって。そしてもともとは、私のこの愛があればこそ。……うーん。愛があって、身体を提供して、って、なんかエッチっぽいけど)  ノブちゃんも先輩も黙りこくっていたので、私はそんなふうに、思う存分、独白をしてみた。それだけの間があったのだ。重苦しい雰囲気の。  そう。実際、私が何か、考え事をしていたとしても、先輩が相手と会話をし始めたら、それを聞かなきゃならないので、私は、自分の考えを中断しなくてはならないのだ。自分の中で何かを考えながら、同時に他人の話を聞くということができないように、人間の身体って、もともとそんなふうにできてると思うんだけど、特に私の今のような状態だと、ひとから話し掛けられる場合ばかりではなく、自分の方からひとに話し掛ける場合でも、いつだってそれは不意に行われるわけで。  外からの情報を、見逃すまい、聞き逃すまいと意識していると、まるでテレビを見ているときのように、ただひたすら受け身になってしまう。よく、ひとりでテレビを見ているときでも、いろいろとツッコミを入れたりする、とかって人がいるけど、私の場合は、テレビを見ているときには、頭の中に、感嘆詞以外の言葉が浮かばなくなってしまう。そしてさっきまでは実際、そんな状態だった。でも今のこの場の、お互いに会話を望んでいないかのような沈滞した空気は、私にとってはブレイクタイム、テレビで言えばちょうどコマーシャルの時間のようなものだった。  その沈滞した空気を破ったのは、 「死んじゃったら終わりだよね、ホントに——」  ノブちゃんの、そんなセリフだった。コマーシャルあけに、前と同じセリフを繰り返す、というところまで、まるでテレビのようで。 「ごめんねサトミ。ホントならこういうとき、ひとりでいろいろと考えたりしたいとこだったはずだよね。それを無理やり誘っちゃって。ごめん。でもほら、私もどういうことなのかって、知りたかったし、それにもしサトミがそういう、何かあったら心配だって思ったし」 「あ、ううん。いいの」  私は首を左右に振る。ノブちゃんはもう一度、大きく溜息を吐いてから、 「行こうか」  と言って、私が頷くのを確認してから、席を立った。  店の前でノブちゃんと別れた後、私は学校の北にある商店街へと向かった。家に帰るのも嫌だけど、特に行くアテもないといった歩調。結局私は古本屋さんに入った。私にしてみれば、古本屋さんに入るなんて初めての経験だったけど、先輩は何度か来たことがあるのだろう、慣れた様子で、棚から文庫本を一冊抜き出すと、そのまま立ち読みを始める。  視界を埋める活字の列。よくテレビとかで、本とか手紙とかの一節が紹介されるときに、関係のない部分が暗くなって、問題の行のところだけが明るくなっている、ちょうどあんな感じで、私の目の焦点は、先輩が読んでいる行にのみ、しっかりと結ばれている。だから私も強制的に、その行を読まざるを得ない。それなのに先輩、読むスピードが、めちゃくちゃ速いのだ。視界を下から上に向かって、活字の列がものすごいスピードで流れてゆく。ぜんぜん追い付けない。内容を理解するどころか、それだけのスピードで文字情報が入ってくるってことが、もうそもそも私の処理能力の限界を超えていて。流れて行く活字の列の中に、ところどころ、パッと目立つ漢字の熟語がある、それだけが、記憶の網にわずかに引っかかっただけの状態で、もう先輩は、次のページをペラリと捲《めく》っていて——その繰り返し。  そんな言葉があるかどうかは知らないが、私は〈活字酔い〉しそうだった。酔うといっても、生理的にはぜんぜん気持ち悪くならないのだが(内臓も先輩の支配下にあるのだから、当然のこととは思いつつも、まだ何か釈然としない感じがする)、ともかく精神的には、もう、拷問《ごうもん》を受けているような感じで。  内面にいる私が、そんな状況に置かれているっていうのに、先輩、何が面白いんだか、ときおり、ふふっ、と鼻で笑ったり。ぜんぜん面白くないってば。こっちは苦しいんだから。  だから私は考え事に意識を集中した。せざるを得なかった。もうそれしか、この活字責めから逃避する手だてがなかったのだ。 (あの噂《うわさ》——先輩が殺されたっていう、あれは本当なの?)  伝わらないとわかっていても、ついそんなふうに問い掛けてしまう。  まだ実感が湧かないけど、もしそれが本当なら、とんでもないことだと思う。……殺人事件ですって? いったい誰が、森川先輩を殺すっていうの?  それがどうしても信じられないのには理由があって、何かこう、殺されたっていうにしては、被害者であるはずの先輩の、今の状態が、のどかすぎるように思うのだ。もし本当に誰かに殺されたっていうんなら、被害者本人である先輩が、こんなふうに暢気に立ち読みとかしてる場合じゃないって思うんだけど。自分を殺した相手を、どうにかして懲《こ》らしめたいとかって、思うんじゃないのかなあ、普通。  ていうか、まあ、そもそも、生まれ変わりとかって、こんな異常な事態が発生してる段階で、すでに立ち読みとかしてる場合じゃないとは思うんだけどさ。死んだと思ったら、こんなふうに、新しい身体とか与えられて、生き返ってて、じゃあこれからどうしようか、とか、まだまだ考えることはそれなりにいっぱいあると思うんだけど。  それなのに、現実にはこうして立ち読みして、しかも何がおかしいんだか、むふむふ笑っていたり。そんなことしてる場合か?  まあ、そういう意味からすれば、たしかにこの人、ちょっと普通の尺度じゃ測れないところはあるんだけどさ。  あるいは、生まれ変わったという、その経験によって、世界観が一変した、とかっていうこともあるのかな。たとえば森川先輩、実は本当に誰かに殺されたんだけど、でもそのことが、いざこうして生まれ変わってみたら、もう他人事《ひとごと》のように感じられちゃってて、それでこんなふうに平然としてられるんだ、とか。  自分がもし殺されたとしたら——などと想像してみる。  それはやっぱり、悔しいんじゃないのかな。もし自分が殺されて、その後でこんなふうに、別な身体に生まれ変わって、チャンスが与えられたとしたら。もし私なら、そうした場合に、やっぱり犯人を糾弾《きゅうだん》しようとするんじゃないのかな。  そのためには、まずは自分が誰それの生まれ変わりだ、ということを証明する必要がある。生前の記憶を並べ立てて、自分を知っている人に、その内容を確認してもらうのだ。時代が離れていたりしたら——たとえば江戸時代の武士が現代に転生した、とかだったら——それを証明するのは難しいかもしれないけど、先輩の場合は同時代人の、しかも同じ学区の、私という人間の中に生まれ変わったのだから。証人となる人は、この場合にはいくらでも手近にいるはずで。  そして、いったん生まれ変わりが認められさえすれば、何しろ被害者自身が、犯人を糾弾するのだから、その発言が重要視されることはまず間違いないわけで。殺された恨《うら》みつらみを、そこで思いっきりぶちまければいい。そしてもし、生まれ変わりの事実が、世間的にも認められたならば、最終的には裁判で証言とかも、できたりして。何しろそうなれば、殺人事件の被害者が直接、相手の非道な行いを証言するのだ。言い逃れなんかいっさい許さない。犯人が極刑に処されるのは、まず間違いない。  そういう立場にいるのに、先輩は今のところ、殺人事件の被害者っぽい態度は見せていない。自分が前世で、森川達郎という男子生徒だったということには、さして拘《こだわ》っておらず、それよりも、これからの人生を御子柴里美に成りきって歩んで行こうという気持ちしかないように見える。それを前向きと言えば、聞こえは良いんだけど。でももし本当に、先輩が誰かに殺されたのだとしたら、もうちょっと後ろ向きというか、そういう気持ちも、あってしかるべきなんじゃないのかなあ。  そういったことから判断して、私は、先輩が誰かに殺されたのだという噂は、単なる噂であって、事実じゃない、と結論づけたのだった。……とりあえず、このときには。  本を読みつつも、先輩はときおり、店の奥の壁に掛けられた時計へと、チラチラと目をやっていた(私の方では、たとえ考え事に意識を集中させていたとしても、さすがに目を閉じているのとは違って、視界に何が映っているかは、ボンヤリと意識してはいたのだ)。  で、何度目かのチラリの際には、それまでよりも長時間、時計を見ていて、それで私が視線を重ねてみると(時刻は午後四時になるところだった)、先輩はひとつ大きく息を吸い、そして手にしていた本を閉じ、棚へと戻したのだった。  ようやく読書の時間が終わった。私は責め苦から逃れることができて、内心でホッと息を吐く——ことができないので、 (ふーっ)  と言葉に出して言ってみる(といっても、まあ、声だって出せないんだけど、でも頭の中で喋ったつもりになることはできるのだ)。  店を出て、商店街をぶらぶらと歩き出す。  何だったんだろう、今の立ち読みって。何かしなきゃいけないとは思ってるんだけど、でも具体的には何をしていいんだか、わかんなくて、それでとりあえず現実逃避してた、とかってことなのかなあ。そういえば私もそういうことってある。テスト前なのに、勉強しなきゃなんないってわかってるのに、急に部屋の模様替えを始めちゃったり。  商店街をぶらぶらしていた先輩、最初は何も目的が無いように見えたのだが、やがてタバコ屋の角に、緑色の公衆電話を見つけると、不意に何かを心に決めた様子で、鞄からテレカを取り出すと、ひとつ深呼吸して、受話器を取り上げた。  押したボタンの数はやはり七個。携帯ではなく、市内のどこかに掛けている。でも今朝掛けた森川家ではない。全部の番号はさすがに憶えてないんだけど、それでも最後に押した番号が、今朝のときと違っているのは確認できた。  呼び出し音が二回、三回と鳴る。  どこに掛けようとしているのか。  気がつくと、私の呼吸は荒くなっていた。心臓もその鼓動を速めている。そして、 「——はい、森川です」  女性の声が応じた。今朝の相手とは違って、まだ若い感じの声。 「あ、あの……わたくし、開明高校の生徒なんですけど。森川マキさんでしょうか?」  相手の応答が返ってくるまでに、数秒の間があった。 「あ、はい。そうですけど。……失礼ですけど?」 「あの……今、お時間、よろしいでしょうか?」 「えーっと、どういったご用件なんでしょうか? 開明の生徒さんと仰《おっしゃ》られましたよね? だったら、もしかしてご存知かもしれないですけど、ウチは今、ちょっと取り込んでまして——」 「森川……達郎について、でしょ? 死んだっていう。そのことに関して、わたくし、あなたにお話ししたいことがあるんですけど。ちょっとこちらまで出てきていただけません?」  そこでいったん間が空き、私は考える。先輩、いったい誰と話してるんだろう? マキっていう、この女の人は誰? 森川という姓であることから推し量れば、先輩の家族か、あるいは親戚の誰かってことになると思うんだけど……。  相手からの応答が無いまま、先輩はさらに言葉を継いだ。 「こう言えば、出てきてもらえます? ……ラビットボーイ。しゅり。ホテルなぎさ」  先輩が呪文《じゅもん》のようなことを言った途端、受話器の向こうで、女性が息を飲んだ気配がした。 「あなたは……いったい誰?」 「来ていただけたら、その場で何もかも説明いたします。北通りのグリフィンビルの屋上——わかりますよね? 去年の十月十四日に、二人で上ったあのビルの屋上です。あそこなら、他の人に聞かれる心配もない」 「どうしてそんなことまで……」  女性の声は震えていた。 「よろしいですね。それでは、先に行ってお待ちしております。……では」  先輩は、相手の了解も待たずにそう言うと、思いきりよく、受話器を架台へと戻した。 [#改ページ]         7  駅北にある商店街は、私が子供のころにはもう、さびれていたような気がする。先輩が向かったのは、そんな商店街の北外れに位置する、とにかくさびれた通りだった。  私はその通りに入るのは、生まれて初めてだった。  住宅街とも商店街ともつかない、その狭い通りの左右に立つのは、シャッターを下ろしたままの商店とか、古びたアパートなどが多く、人通りは皆無に近かった。冬の陽《ひ》が傾いて、北西側の建物はほとんどシルエットと化している。電柱の街灯にはまだ灯《ひ》が点《とも》っておらず、ところどころに設置された自販機の前だけがやけに明るい。  とにかく、制服姿の女子学生が、ひとりで訪れるべき場所ではなく、時刻でもない。そんな雰囲気だったのだが、しかし通りを行く森川先輩は、自分の外見が女子学生であることを忘れているのか、そんなことにはまったく頓着した様子もない。  彼が入っていったのは、通りの外れに近い位置に立つ、外壁のタイルも剥《は》がれかけた、古い、五階建てのビルだった。中に入る前、彼が建物を見上げたときに、私も確認したのだが、一階から三階までと、五階の窓には明かりがなく、唯一蛍光灯の灯った四階の窓には、そこに事務所を持つ探偵社の名前が、ビニールテープで形取られていた。  そのとき私は不意に、この通りがさびれて見える原因がわかったように思った。建物の数に比べると、明かりの灯った窓の数が、やけに少ないのだ。  どうやらその建物が、先輩が先ほどの電話で、マキという女に、屋上まで来るようにと指示したビルらしかった。エレベーターはなく、私は薄暗くて狭い、急な階段を、とにかく上っていった。すぐに息があがる。 「くっそー、体力ねえなーこいつ」  四階と五階を結ぶ階段を上りながら、先輩が呟いた。私の身体に対する文句だ。そりゃ、サッカー部のキャプテンだった森川先輩の身体と比べたら、私のこんな身体、ぜんぜん体力なく感じるでしょうよ。第一こっちは、か弱き乙女なんだし。  五階からさらに上へと向かう階段口には、立入禁止のロープが渡してあったが、先輩はスカートをたくし上げると(ちょっと、やめてよ! 誰も見てないでしょうね?)、ロープを大股で跨《また》いで、さらに階段を上っていった。  上りきった階段室から、錆《さび》の浮いた鉄製のドアを開けて、屋上へと出る。  ザラザラとした質感のコンクリート面が広がっていた。黄変《おうへん》した太陽が西空にあり、光の当たっている面はオレンジ色に染まっていた。四囲に張り巡らされた金網の目が正方形をしているのに対して、コンクリート面に落ちた影の網目は、菱形《ひしがた》に間延びしている。  隅の方にひとつ、木製のベンチがあった。どういう意図で置かれているのかは不明だった。こんなところまで上ってくる人が、そうそういるとは思えない。  先輩は、私をそのベンチへと座らせた。鞄を胸に抱いて、呼び出した相手が来るのを、じっと待っている。風が凪《な》いでいるので、そんなに、我慢できないほど寒い、というわけでもないのだが、それでもときおり身体がブルッと震えてしまう。  二十分ほど待っただろうか。その間に、太陽はますます傾き、残光はほとんど水平になって、さっきまで網目模様のオレンジ色に染まっていた屋上面は、今では四囲の金網を支える膝《ひざ》丈しかない縁石の伸ばす影に、すっかり浸《ひた》ってしまっていた。  誰か来る——私がそう思うのと、私の身体が反応するのが、同時だったので、久しぶりに、自分の意志で身体が動かせたのかと錯覚したのだが、それはぬか喜びに過ぎなかった。気配——というよりも、たぶん、かすかな物音がしたのだろう。それまでボンヤリと考え事にふけっていた私と、先輩とが、同時に気づいて、反応したのだった。  屋上のドアが開き、そこから現れたのは、スラリと背の高い、大人の女性だった。  私と目が合う。  二十代半ば、といったところか。厚地のコートに身を包んでいるので、体型はほとんどわからないが、わずかに見えている足首は細くて綺麗《きれい》だった。ウェーブのかかった髪は栗色にブリーチされている。色白の顔には化粧気がなく、寒さのせいか、あるいは階段を上ってきたせいか、頬だけが赤く染まっているのが、印象的だった。  これが森川マキという女か。森川先輩と、どういう関係にあるんだろう。  マキは、ツカツカと私の方に向かってきた。先輩は、思わず、といった感じに、腰を上げる。  一メートルほどの距離をおいて、私とマキは正対した。彼女の方が十センチほど背が高い。 「あなたは……誰?」  眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、訝しげな表情を作り、マキが訊ねてくる。  そのとき私は、自分の身体に異変が起きつつあることに気づいた。胸が塞《ふさ》がれたように苦しくなり、身体の中はカッと熱くなって、逆に表皮はすっと冷《さ》めたような感じ。 「マキさん」  震える声でようやくそう言ったが、後の言葉がなかなか出てこない。  私は先輩の感情を読もうとした。この感情の乱れ、この波形《はけい》は何だろう。胸の奥の方でモヤモヤと感じられている、これはどういった感情か。  複雑な感情が入り乱れている。懐かしさ。安堵《あんど》感。それに混じって不信感。 「マキさん、オレだよ。達郎だよ」  相手の目を見つめたまま、先輩はそんなふうに告白した。 「ちょっと待って。何それ? どういうこと?」  マキはひとつ唾を飲み込むと、改めて訊ねてきた。 「あなた、誰?」  私はマキの顔から一度視線を外し……たかと思うと、改めて相手の目を、今度は射抜かんばかりに見つめ直した。 「この——」  と言いながら、自分の胸に手をあてる。 「——身体は、御子柴里美って子のものなんだけど、でも中にいるのは僕なんです。と言ってもそう簡単には信じてもらえないと思うけど……ホントに、もう、これはホントに、嘘とかじゃなくて、もう——ホントなんです。僕なんです。達郎です。昨日の夜、病院に運び込まれて、もうダメだって思って、それで次の瞬間、フッと気がついたら、もうこの身体の中にいて……。生まれ変わった、ってことになるんだと思うんだけど」  先輩は身振り手振りも交えながら、そんなふうに必死になって訴えていた。内面にいる私は、先輩の話を聞きながら、マキの表情を観察していた。私の訴えを聞いているうちに、その表情がだんだんと強張《こわば》ってゆくのが見て取れた。 「何を言ってるのか、ぜんぜんわからない」  マキは小刻みに顔を左右に振った。 「あなた、言ってることがおかしい」  頭を振りながら、一歩、二歩と、少しずつ後ずさってゆく。 「待って」  先輩は慌てて、開いた両手を身体の前に立てた。 「ごめん。いきなり、そんなこと言ったってダメだよね。……わかった。えーと、じゃあこうしよう。マキさんさあ、僕が——あ、えーと、森川達郎が、これは本人じゃなきゃ知らないだろうってことをさー、僕に——あの、私に、質問してみてほしいんだけど」 「質問って? 達郎くんしか知らないこと?」 「あ、だから、うーん……たとえばさー、二人でラビットボーイ、行ったことあるじゃん」  先輩がそう言った途端、マキの表情が怒気《どき》をはらんだものに変わった。 「あの子から聞いたの?」  歯の間から絞り出すような喋り方。 「え?」 「たっ——達郎が話した。……そうでしょ? 何であんたみたいな子に」 「いや、ちが——だからぁ。……うーん、どう言えば信じてくれるんだろう?」  私は大きく溜息を吐いた。どうしたらいいんだろう、といった感じで。  その間に、今度はマキの方から質問をしてきた。 「あなたは、じゃあ、達郎とどういう関係だったの?」  聞かれた先輩は、もう一度大きく溜息を吐いてから、 「いや、だから、そんなふうに、この御子柴って子に関する質問を僕にされても、それはしょうがないわけで。だってオレ、そんなことぜんぜん知らないもん。そうじゃなくてさー、もっと僕に——えーと、森川達郎に関する質問を、してほしいんだけど。さっきみたいにさー、こっちからいろいろ言っても、ああ、それはじゃあ、達郎から聞いてたんだ、ってことになる……でしょ? それじゃあいくら言っても証明にならないってことはわかったからさー、だからマキさんの方から質問をして——うん、たとえば、いくら何でも、こんなことまでは、ひとには喋ってないだろう、みたいなことを聞かれても、オレはホントに本人だから、何でも答えれるし」  私がそう言い終わってから、十秒ほど、沈黙の間があった。  内面にいる私は、今まで、二人の論戦を、まるで他人事のように傍観していた。二人とも、言いたいことはわかる。お互いに、それぞれの立場からすれば、そう主張するしかないだろう。しかしそれじゃあ、どこまで行っても平行線だ。  それよりも—— (先輩、このマキって人と、どういう関係なの?)  私はそれが聞きたい。 「わかった」  諦め口調で、そう言い出したのは、マキだった。私は慌てて、二人の論争を謹聴《きんちょう》すべく、心の中で居住まいを正す。 「とにかく、あなたは、あくまでも自分が、森川達郎の生まれ変わりだって、そう主張しているわけね?」  私は頷く。 「達郎くんに関する質問なら、何でも答えられると?」  またしても私は頷く。 「じゃあ——えーっと、じゃあ、とりあえず、達郎の誕生日は?」 「一九八三年四月二五日」 「血液型は?」 「A型」 「星座は?」 「牡牛座」 「干支《えと》は?」 「イノシシ」  マキの繰り出す矢継ぎ早の質問に、先輩は間髪《かんはつ》を入れず答えてゆく。 「両親の名前は?」 「親父はショウスケ。お袋はマサコ。ついでに言おうか? 上の兄貴がタカヒロで、それがマキさんの旦那さんだよね。で、下の兄貴はノブヨシ。……あのさー、こんな質問ばっかじゃ、証明になんないと思うんだけど」  ううん、と内心の私は思う。私には答えられない質問だ。  そうか。このマキって人は、先輩のお兄さんのお嫁さんなんだ。 「じゃあ——私が買ってあげた本、憶えてる?」 「買ってくれた本? え? オレ、マキさんから本、買ってもらったことあったっけ?」  マキは無表情のまま、じっと私の顔を見つめている。その顔を見て、私は思った。  あ、これって、もしかして、引っかけ問題かも。  先輩は難しい顔を作り、視線を宙にさまよわせて、じっと考え込んでいる。そこでふと、何かを思い出した様子で、 「あ、あれかー。まだタカヒロ兄さんと結婚する前に。中島屋《なかじまや》の地下で。はいはいはい。あれでしょ? 山本《やまもと》文緒《ふみお》の文庫で——えーっと、あれは……タイトル何だっけ? ほら、あの、えーっと——」  マキの表情は、信じられないものを見るような、何かそんな感じで、固まっていた。その口がかすかに動く。 「眠れる——?」  それを聞いて、私は、ああ、と頷いた。 「そうそう。それ。『眠れるラプンツェル』……でしょ?」 「……内容は憶えてる?」 「えーっと。団地に住んでる奥さんが主人公でさー、隣の家の旦那さんと浮気しちゃって、で、そのうちに、その家の中学生の男の子とも、なんかそういう関係になっちゃって——」  私はそこで、左の耳たぶをボリボリと掻いた。 「——って、今から考えると、マキさん、けっこうすごい本を渡してたんだ。もしかして、あのときから、そういうこと考えてた?」 「そういうこと?」 「だからオレと、そういうこと、したいとかって」  マキは答えなかった。  ちょっと、どういうこと? 私は混乱していた。話の内容からすると、この二人——森川先輩と、このマキっていう二人の間に、何か、その……義理の姉弟の間では、考えられないような、あってはならないことが、あったみたいに思えるんだけど。  そんな……不潔なこと。  先輩はマキの反応をじっと窺っている。私も視線を重ねてみる。彼女の目が、少し潤《うる》み始めているように見えた。 「でも……まだ信じられない」  言いながら、マキはまた、首を小刻みに左右に振る。 「そんなこと、起こるはずない」 「信じてよ」  私は両手を広げる。 「信じられない」  そう言いながらも、マキは一歩、二歩と歩み寄り、そしてすぐ目の前まで来ると、その両手で私の頬を包み込んだ。  私の目の前に、マキの顔があった。その両目が、じっと私の顔を見つめている。心の奥底まで見通そうというような目つきだった。 「本当に……? 本当に、達ちゃんなの?」  マキの息が顔にかかった。それぐらいの至近距離。 「うん。僕だよ。この……中身はね」  私はそう言って、にっこりと微笑《ほほえ》んだ。 「信じてくれた?」  私が聞くと、マキは涙目になりながら、しかし首を左右に振った。 「マキさん。……目を閉じて」  そう言いながら、私は前に体重をかけていって——。  ちょっと待って。先輩、キスするつもりだ。待ってよ。どうして女相手に。  あー。私のファーストキスが……。 「あ待って。ねえ。待って」  もうあと五センチもない、ギリギリのところで、マキの『待った』がかかった。私の頬が強く押される。 「むぐっ、な、なんでー」 「だって……これじゃあ、女同士じゃない」  すんでのところで拒絶されて、先輩は不満そうだ。鼻息が荒い。 「そんなの。だって——じゃあマキさん、オレのこと、嫌い?」 「そうじゃないけど」 「中身はオレなんだよ。……じゃあマキさん、オレの外見だけが好きだったってこと?」 「そうじゃないけど、でもやっぱり」 「だから目閉じてれば、顔見えないじゃん。そうすれば、テクニックは同じだから」 「そういう……ちょっと!」  今度もまた、すんでのところで、マキさんの掌《てのひら》が、私の顔面を押さえつけた。 「待ってってば! あんたが本当に達ちゃんだって言うんなら、こんなことしてる場合じゃないでしょ?」 「むぐむぐ……えっ?」  私は目をパチクリとさせた。 「どういうこと?」 「だから——」  マキは大きく溜息を吐いた。 「だってあんた……殺されたんでしょ? とにかく、誰にやられたか、それをまず私に教えてよ。警察だってまだ、誰にやられたか、突き止めてないみたいだし。あんた、誰かに殺されて、悔しくないの? 仕返ししてやろうって思わない? それが一番じゃないの?」  マキは私に向かって、そう熱っぽく言い聞かせた。その情熱の一部には、女同士のキスは避けたい、その問題は後回しにしたい、という気持ちが、多少は含まれているようにも見えた。 「ああ、そうか」  先輩は、言われてようやく思い出した、というような、間の抜けた口調で言った。 「やっぱ、オレ、殺されたんだ」 [#改ページ]         8  森川先輩が生前、このマキという義姉と、どのような関係にあったのか——それも気になるところではあった。この際だから、そこのところをハッキリさせてもらおうじゃないの。もし私が想像してたとおりなら、許せないんだから。先輩ってば不潔!  ……などと思っていた私だったが、話題はそこから一転して、今は先輩の殺人事件が、二人の間で語られようとしている——それはそれで、私にしてみれば、聞き逃せない話題であった。だから固唾《かたず》を呑んで、二人の会話が再開するのを待つ。  まず口を開いたのは、私の方だった。 「じゃあ——ってことは、つまり、毒が入ってた……ってこと?」 「そう。あんたが山のように貰《もら》って食べたチョコの、そのどれかの中に、ね」 「ど……く……?」  先輩は、その言葉そのものが危険性を孕《はら》んでいるかのように、ゆっくりと、問題の言葉を復唱した。その実、復唱する口元には、まったく神経を使っていないようでもあった。今は考え事に神経を集中させている。  彼が頭脳に神経を集中させているときには、視界がぼやけ、焦点がどこにも合っていない状態になるので、身体を共有している私には、すぐそれとわかるのだ。  私も先輩と同様に、考えていた。  チョコレートに毒が入っていた……?  でもそれは、間違っても私じゃない。マキは今「山のように貰って食べたチョコ」という言い方をした。そう。先輩は、見た目もカッコ良かったし、頭も良かったから、モテて当然だ。だから貰ったチョコの数も、私の渡した一個だけ、なんてことはなかったのだ。山のように貰ったのだ。  で、その中に、毒入りのチョコがあった。  悪意を凝縮させたような、死のチョコレート。  いったい誰が、そんなことを……。 「どれが毒入りだったかって、自分でわかんないの?」  マキが質問をする。ちょうど私も聞きたいと思っていた内容だ。  先輩の答えはNO。首を左右に振るばかり。  マキが呆れたように言う。 「だいたいあんたねー、何も、一気に全部食べることもなかったんじゃないの」 「だってオレ、チョコ、好きなんだもん」 「だからって、何も、ねえ……。だって、それでお義母《かあ》さんだって、最初はあんたがチョコの食べ過ぎで、おかしくなったんじゃないかって思ったっていうし、それでお医者さんの手当てだって遅れたって話じゃない。それで死んじゃった——って、だからある意味では、あんた、自業自得みたいなもんじゃない? 警察だって今、そのせいで、何か、捜査がえらい面倒になったとかって言ってるみたいだし。誰がどのチョコを贈ったかって調べても、どうせあんたが全部食べちゃったんだから、どれが毒入りだったかわかんないって。……誰から貰ったかは、把握してるんでしょ?」 「あ、うん」 「いくつ貰ったの?」 「えーと、全部で……十二個、だったかな?」 「十二個! それあんた、全部、一気に食べたの?」 「うん」  やれやれ、と私は呆れた。私の目の前にいるマキも同様に、呆れたという表情を見せる。 「ま、いいや。……で? 十二個ってことは、十二人から貰ったってことだよね? それは?」 「えーと、まずマキさんから貰ったのがあるでしょ? あれが一個で、ああ、あと、この子からも貰ったんだよ」 「この子から……?」  マキが不審気な顔でそう言ったが、内心の私も言っていた。 (この女から……?)  お互い様だ。 「うん。でも直接貰ったわけじゃなくて、下駄箱に入ってたんだ。……手紙と一緒にね。でもそれまで、そんな、御子柴なんて——こんな子が、同じ学校にいるなんてことすら、ぜんぜん知らなかったし、だからオレのことをそんなふうに思ってたなんていうのも、もうぜんぜん知らなかったんだけど」 「それって……すごい怪しくない?」  何を言うのさ。この身内不倫バカ女。 「何で?」 「だって——じゃあ何で、あんたがその、その——」  と言いながら、私の身体を指差す。 「昨日まで、そんな子がいるなんて、知らなかったんでしょ? それなのに、何であなたが今、その身体の中にいるわけ?」 「そんなの、オレに聞かれたって」 「だってそうじゃない? いい? もし仮に、あなたが——じゃなくて、えーと……あーもう、やりにくいなあ。えーと、達ちゃんのことじゃなくて、だからその子のことね。その子が、達ちゃんに毒を盛った犯人だとするじゃない。それで達ちゃんが死んだ。ね? でもそれって、すごい不公平じゃない? そう思わない? それで誰かが死ななきゃならないんだったら、被害者である達ちゃんが死ぬよりも、その犯人の子が死んだ方が、まだマシって思わない? だから、その子の中身の方がどっか行っちゃって、で、達ちゃんは代わりに、この世に残って、だから今、その子の中に入ってる。……どう?」 「どう? って言われても……」  そんな無茶苦茶な——私は怒っていた。  自分がいくら薄汚れた女だからって、その薄汚れたレベルで、世の中を判断してもらっちゃあ困るんですよね。こんな女に、私の純真さが——その純真さが生んだ、奇跡の献身の意味が、わかってたまるもんですか。  私が天使のような心を持っていたからこそ——そしてそれが森川先輩に通じたからこそ、彼はこうして、今、私の中に転生してるんだわ。 「まあ、そう考えりゃ、どうしてオレが今、こんな子の身体に生まれ変わってるのかっていう、その説明は、ついたみたいな気になるけど」 「でしょ?」  マキは勝ち誇ったように言う。  んまあ、先輩! ……先輩まで、そんな巧言《こうげん》に騙《だま》されて。  っていうか、このマキって女こそ、実は犯人なんじゃないの?  だって動機はあるし。旦那さんの弟(しかもまだ高校生)と不倫してるなんて、もし旦那やその家族にバレたら、もうそれこそ、普通の不倫どころの騒ぎじゃないだろう。婚家側から、バカ嫁どころか、もう鬼畜《きちく》とかって、それぐらいのレベルで責められるんじゃないの? 世間に顔向けできないくらいのこと言われて。  だから、そうならないために、一方的にその不倫関係を清算しようとした。……動機は充分にある。  っていうか、この女以外に、動機を持ってる女はいないんじゃないかってくらい、こいつ、怪しいじゃん。 「でも……それだと困るよな」 「え、何で?」  先輩とマキは、勝手に、私——御子柴里美が犯人だという前提で、話を進める。本人の私に言わせてもらえば、それは誤った前提に基づいた話であって、だから論じても意味のないことなんだけど——でもいちおう、話は聞いといてやろう。 「だってさー、もしこの、御子柴って子が犯人だったとしたら、そうしたらオレ——警察がちゃんと調べて、証拠とか見つかっちゃったら、オレが逮捕されちゃうんだぜ。そんなの——オレ、何もやってないっていうか……だって被害者なんだぜ、ホントは。何で被害者がさー、逮捕されなきゃなんないわけ」 「だからそれは——もしそうなっても、あんたがその、今は御子柴って子じゃなくて、その——中身は森川達郎だ、って主張すれば……」 「僕は被害者の生まれ変わりだって? そう言って、みんな信用すると思う? せいぜい、精神鑑定とか受けさせられて、それで分裂症とか何とかだって診断が出てさー、その手の病院に入院させられる——それじゃあ、結局ダメじゃん」 「だってあんた、本人でなきゃ知らないこと——」 「それは、マキさんだから判断できるんであって。……精神科医とかは、認めないでしょ。そんな——非科学的なこと。だって、オレだって、もし自分がこうなったんじゃなくて、それで誰かがそんなこと言ってたら、そんなの絶対に信用しないもん」 「何とか証明できないかなあ……。科学的に」 「だから、それはもう、何度も考えたんだけど。……たとえば、僕がね、僕について、こんなこと知ってる、あんなことも知ってるって、いくら並べ立てても——それで、それがことごとく正しかったと証明されても、じゃあきっと、森川達郎が、死ぬ前に、この御子柴って子に、そういうことをいろいろと話したんだ、ってなる……だけじゃない? だってさー、まったく見も知らぬ女の子だったら別だけど——いや、僕からすれば、この御子柴って子だって、まったく見も知らない女の子なんだけどさー。でも同じ学校の子じゃん? だから、接点があるって、他の人は考えるわけで、そうなると、じゃあ、この子がいろいろ知ってるのは、きっと森川のヤツが、死ぬ前に、この子にいろいろ教えてたんだ、二人はそういう関係にあったんだ、じゃあこの子が森川を殺すのも、動機はあったんだ——なんて、変なふうに誤解されちゃうと思わない?」 「困ったことになったわね……」  マキが眉間に皺を寄せて、ふーんと大きく鼻息を鳴らす。  んまあ、いろいろと言ってくれますこと。  ひとつ安心させてさしあげると、そんな——警察が私を逮捕するなんて、そんな展開には絶対になりませんことよ。だって私、犯人なんかじゃないですもの。  っていうか、犯人はこの女——マキだわ。絶対。  あーもう。憎たらしい。この女。ホントに、ぬけぬけと。 (先輩。先輩。いま目の前にいる、この女こそが、犯人なんですよ!)  口が動かせないかわりに、心の中でそう叫んで、伝われ——と、必死に念じるのだが、どうしても伝わらない。何でだろう? 同じ脳を共有しているはずなのに。 「だから、マキさん、そっちで何とかなんない? うーん、たとえば、この子の書いた手紙——もう警察に押収されちゃったよね?」 「そりゃ、そうでしょうね」 「そっかー」  先輩は悔しそうな声を出す。私も違った意味で悔しい気持ちになる。  だって私信だよ。私の純な気持ちを綿々《めんめん》と綴《つづ》った手紙なのに。先輩だけに読んでもらう、そのつもりで書いた手紙なのに。それを、脂ぎった中年の(とは限らないけど)刑事とかに、勝手に読まれて——その上さらに、容疑者扱いされてるなんて。  もうプンプン。 「達ちゃん……。ねえ、もし、その子が犯人じゃなかったり、あるいは犯人だったとしても、警察に捕まらずに済んだとしたら、その後、どうするつもり?」  マキが不意に、そんな質問をしてきた。先輩は、んー、と声にならない、うめき声のような音を出してから、 「だって、他に選択肢、ないじゃん」  マキは目をパチクリさせて、 「それって……その子に成りきって、これから生きてくつもりだってこと?」  先輩は黙って、コクンとひとつ頷く。 「でも……無理なんじゃないの? そんなこと。その子の家族とかは?」 「とりあえず今は、お母さんが一人いるだけ、なんだけど。父親がどこにいるか、まだわかんないんだけど。……大丈夫。うまくやるから」 「大丈夫、って。……よくそんな決心、したわねー」 「だって、ホントに他の道がないんだよ。このまま一生、この子に成りきって、生きてくか。だから死ぬまで演技し通すか。……あるいは、それじゃなきゃ、病院送りになるか」 「他にない? ……うーん、たとえば、そっちの家の家族と、ウチの——森川の家の家族とで、だから、その両家に関《かか》わる人間の間だけだったら、その子のね、中身が達ちゃんだってこと、証明できない? だから話の中身とかで。……で、両家で承知の上で、森川家に養子に来るとか。そうすれば、きっとお義母さんだって——」 「母さんが喜ぶと思う? いきなりこんな、女の子になってさー、母さん、ただいま、なんてオレに言われて。頭狂っちまうぜ。そんなの。それに、この子のお母さんも、いくら中身が他人だってことになっても、外見は自分の娘なんだぜ。それを手放すと思う?」 「うーん」 「っていうか、ウチの方は——ああ、えーと、森川の家の方は、ってことだけど。そっちはね、たとえばオレがさっき、マキさんにやったみたいにして、この子がオレだってこと、信じてもらえるんじゃないか、とは思うんだけど——まあ、そうやって信じてもらえた結果、どんな反応が返ってくるかっていうのは別としてもね。まあ、それはいいんだけど。……でもね、この、御子柴って子の家の方は、僕の言うことが、自分の娘じゃないっていう——あ、だからつまり、オレが御子柴って子じゃないってことの、何の証明にもならないわけじゃない。で、そうやって考えると、僕がいくら本当のこと言っても、事態が混乱するだけで、だから大勢の人間が、もうメチャクチャになっちゃうってだけだって思うから……」  二人の話は、そこで途切れた。万策尽きた、といった感じに。  マキがチラッと西空の方を向いた。その顔は、すでに闇の色に沈んでいて、目鼻がもうハッキリとは見えなくなっている。 「あ、もう帰らなきゃならない?」 「そうね。今はウチ、達ちゃんのことで、ゴタゴタしてるから」 「タカヒロ兄さんはどうしてる?」 「今日はさすがに会社休んで、一日中、実家の方へ行ってたけど。夜は帰ってくる——のかな? それか、私も、森川の家に行くことになるか。……どっちにしろ、今はホントは、私、家にいなきゃならないんだけど」 「そっか……」  先輩は、うんうん、と何度か頷いた。  そろそろ別れる気配がしていた。 「あ、最後にひとつ……聞いていい?」  先輩が、ちょっと上目遣いに、相手の顔を見た。マキが、なに? と聞き返すと、ちょっと言いにくそうな感じで、躊躇《ためら》いながら、 「あの……マキさん、オレがこんなふうに——こんな女の子の身体になっても、オレのこと、好きでいてくれる?」  そう訊かれて、マキは不意打ちをくらったような顔をした。息も止めて、しばらくそのまま固まっていたが、やがてふーっと音を鳴らして鼻から息を吐き出すと、 「私は……うん、好きだよ」  などと言う。嘘だね。絶対嘘! よく言うよ。この女。  邪魔になったからって、先輩のこと、殺したくせに! 「じゃあ、キスしてくれる……?」  おいおい。またかよ。 「僕のこと、好きなんでしょ? 前と同じように、愛してくれるでしょ?」  挑《いど》むような目で、マキを見る。やめなって。そいつが、おのれを殺した犯人なんだぞ。  マキの方は、タジタジとなって——実際に二、三歩、後ずさりした。 「ちょっと待って。達ちゃん。……そりゃ、中身は達ちゃんだって、わかってるんだけど。でも見た目が——私からすれば、前は相手が達ちゃんだったけど、今はその女の子なわけで、だから見た目が、ぜんぜん違ってるから——」 「じゃあ、目を閉じてればいいじゃん」  先輩……。さっきも同じような問答、してたんですけど。  でも実のところ、さっきとは身体の様子が違っている。さっきは何か、相手に縋《すが》るような、せつない感情があった。でも今は、私の胸の裡《うち》は、すごい醒めている。  先輩は今、このマキって女を、試そうとしてるんだ。  私に詰め寄られて、マキは突然、キッと表情を変えた。 「じゃあ聞くけど、あんた、キスしてどうするつもり? 前と同じように私を愛せるの? あんたの今の、その身体に、おチンチンは付いてるの? どうやって私をいかせてくれるの? そこまで考えて言ってるの?」  逆ギレしやがった。それにしても、えげつない会話だ。  ああもう、耳が汚れる。やめて。  私、先輩のこと好きだったけど、ちょっとだけ幻滅《げんめつ》。女の趣味悪すぎです先輩。どうしてこんな性悪女に引っかかってしまったの。  うーん、でも、まだ若い男の子が、大人の女に誘惑されたら、なかなか抵抗できないもんね。エッチさせてくれるって言われたら、つい据え膳食っちゃうよね。それで一回その味を覚えちゃったら、後はもうずるずると、その関係を引きずっちゃうよね。  だから悪いのは先輩じゃなくって、すべてはこの女が元凶《げんきょう》。義理の弟を誘惑するなんて、それで都合が悪くなると毒殺しちゃうなんて、悪女の最たるもの。  こんな女のことはもう忘れて。愛情なんか注がないで。本当なら憎むべき相手なのよ、先輩。 「……わかった」  先輩は、ぐってりと身体の力を抜いた。胸の中には虚脱感のようなものがあった。何かがプッツンと音を立てて切れたような感じ。 「私も……ごめんなさい」  マキもそんなふうに謝って、いちおう大人っぽいところを見せた。  それが最後の会話だった。私たちは屋上を後にして、無言で階段を一階まで下りると、ビルの前で左と右に別れた。  先輩は途中で立ち止まり、背後を振り返った。  その視界の中、マキは振り向きもせずに、後ろ姿のまま、向こうへと歩き続けていた。 [#改ページ]         9  仕事帰りのくたびれた勤め人たちの姿が目立つ、遅い時間のバスに乗って、私が自宅に帰り着いたのは、夜の七時もかなり回ったころだった。先輩は、今朝一度しか通ってないのにもかかわらず、降りるバス停を間違うことも、道に迷うこともなく、最短距離で家に帰り着いた。そのことはひとまず、褒めておいてあげよう。  マキみたいな悪い女に誑《たぶら》かされていたことは、ちょっと減点だけど。  二月は一年で最も寒い月。夜の訪れも早く、午後七時ともなると、空はもうまったく墨色に塗りつぶされていた。街灯はあるけれども、バス停から家までの道のりはとても淋しく、そして寒い。自分の身体が思うに任せない状況での、心細さという面もあったのだろう。自宅の玄関の灯りが目に入ったときには、もう心の底から、安堵の溜息を吐きたい気分だった。  肉体的な疲れは、もちろん先輩だって感じているだろう。同じ身体を共有しているのだから。でもそれだけじゃなくて、私はもう、精神的にもボロボロな状態だった。  いや、それを言うなら先輩だって、今日一日、私という他人になりすまして過ごしてきたのだから、私同様、いやそれ以上に、精神的に疲れていたはず。  だから玄関を開けてひと言、 「ただいまー」  そう奥に声を掛けただけで、すぐに二階の自室に上がって、制服のままベッドに倒れ込んだのも、無理のないことではあった。  部屋に暖房器具は無いし、とても暖かいとは言えないけれど、室温は、さっきまでの凍りつくような外気に比べれば、もう雲泥《うんでい》の差。ベッドの掛け布団の上にそのまま、大の字になって寝てるんだけど、肩から背中から脚から、身体中に溜まっていた疲れが、身体の下の布団の綿に、どんどん吸い取られてゆくような感じ。天井の蛍光灯が眩しくて(だと思うんだけど)私は目を閉じている。そのまま眠っちゃいそう。瞼の裏がほんのりと明るくて、どうせなら消灯してほしいとは思うんだけど、別にこのままでもいいや……。  制服が皺になっちゃうだろうな……。  ちゃんと布団に入らないと、風邪ひいちゃう……。  …………。  しかし、眠りに落ちる、その直前。とんとんと階段を上がってくる足音がして、 「里美さん。御飯は?」  廊下からママの声が訊ねてきた。 「いらなーい。食べてきたから」  嘘である。本当は食べてない。腹ペコなんだけど、でも眠気の方が勝《まさ》っているみたいで、先輩はそんな返事をする。目も閉じたままで。私も同じ気分だったから、よしよし、と思う。このまま寝させて。  でもママは私を寝かしてはくれなかった。コンコン、とノックをしつつ、 「いい? 里美さん。ちょっとお話があるの。……入るわよ」  先輩は、仕方なく、といった感じに目を開け、よっこらしょ、と上体を起こす。  ドアが開いて、ママが部屋に入ってくる。私はその表情を観察する。じっと舐《な》めるように。感情を読み取ろうとでもしているかのように。ママの顔。ママの目。  私は、鞄も床に放り出したまま、着替えもせずにベッドに座ってる。両腕を背後で突っ張って上体を支えている姿勢。髪の毛も変なふうによじれてるし、さっきまで寝てたのはママの目にも明白なはず。だからママが部屋に入って来たとき、これは絶対に怒られると思ってた。  でも、そんな気配は、微塵《みじん》も見て取れなかった。私の外見なんかには、これっぽっちも注意を払っていやしない。ママの目は、もっと重要なことを何か、私に言おうとしている。  ……何だろう?  ママの常態を知らないはずの先輩も、その表情から、何かを感じ取ったらしくて、すっと背筋を伸ばし、居住まいを正すと、ゴクンとひとつ唾を飲み込んだ。  ママの切り出し方は、単刀直入だった。 「あなた、本当は里美さんじゃないのよね? 里美の学校の二年生で、昨日死んだ——殺されたとかっていう、森川さん。森川、達郎さん。……でしょ?」  ママってば、鋭い! っていうか、鋭すぎかも。  いきなり図星を指されて、でも先輩は、そんなには動じなかった。素振りを見せなかっただけじゃなくて、内面も平然としたもので、さすがと言うか何と言うか。これが私だったら、もう今ごろは、心臓バクバク、汗ダラダラになってると思うんだけど。 「どうしてそんな突拍子もないこと言うの、ママ?」  呆気にとられて、そしてちょっと訝しんでいる——というような表情を作って、そんなふうに聞き返す。ちゃんとママのこと「ママ」って言ってるし。先輩、演技|上手《うま》い。上達してる。私は内心でパチパチと拍手を送る。  それでも何故だか、ママには通用しないのだった。 「もう演技しなくていいから。森川さん。今はもう、そんな場合じゃないの。あなた今、自分じゃわかってないと思うけど、今ものすごくピンチな状況に追い込まれてるんだから。……いいから聞いて」  何がピンチなんだろう……? 私は不安に駆られる。物事に動じないママが、ここまで言うんだから、それはホントにものすごい状況なのに違いない。  だけど私じゃなくて、森川先輩がピンチだってのは……どういうこと?  ママは床に正座して、私と目線の高さをほぼ同じにしてから、話し始めた。 「森川達郎っていう生徒が亡くなった、しかもバレンタインのチョコに毒が入ってて、それで殺されたんだって、夕方のニュースでさっきやってたんだけど、それと、昨日の夜のあなたの、あの変テコリンな行動とを考え併せて、それで私、ようやくわかったの。あなたがその、森川さんって子なんだって。ああ、生まれ変わりが起こったんだなって。死んだはずのあなたが、今こうして里美の身体に生まれ変わってて、で、代わりに里美の中身の方が、どっかに行っちゃったんだなって。……待って。最後まで聞いて。どうして私がそんな、突拍子もないことを、そう簡単に信じれちゃうのかって言うとね、私も実は、本物の御子柴康子じゃないから。里美のママじゃないの、本当は。私は実は、里美のママじゃなくて、パパなの」  はぁ? ママ……何言ってんの?  ママがおかしなこと言ってる。言おうとしてる。ちょっとやめて。ちょっと待って。  何かよくないことが始まるような予感があって、私はその前に、心を落ち着かせるだけの、時間的な余裕がほしかった。でも先輩はそんなことはなくて、むしろ興味|津々《しんしん》といった感じで、身を乗り出して、ママの話を聞く体勢をとっている。 「今から三年前、パパはこの家を出て、どっかに行っちゃった、ってことになってるけど、それは嘘で、中身はこうしてここにいる。そして身体の方は——この家の床下に眠ってるの。私が、この私が——本人が、よ。埋めたの。自分の死体を。康子が——妻が殺したんだ。俺を」  ママってば突然、何てことを言い出したのだろう。驚きのあまり声も出せない——というか、もともと私は昨夜から、声なんて出せない状況下に置かれてるんだけど……。そうした状況と、そして今のこのママの話とを、照らし合わせて考えてみれば。それはただ単に突拍子もない話というだけで、片づけられないことのような気もして……。  見た目は絶対にママなのに。その口から「俺」なんて言葉が出るなんて。絶対に変!  あ、そうだ。わかった。これって、昨日の夜の仕返しなんだ。昨夜、私が「僕は生まれ変わりです」とかって急に言い出して、それでママを驚かしちゃったもんだから、ママは今になって、その仕返しをしてるんだ。  ママも昨夜はだから、今の私みたく、ちょっと冗談やめてよ、とかって思ってたんだろうな。  そんなふうに思いたかったんだけど。思い込みたかったんだけど。  でも何か違う。なーんちゃって、とは言ってくれそうにない。ママ、目が真剣だもの。  ……ってことは?  ママは、本当は、パパだった?  そして——ママがパパを殺した? 「当時の私は、まあ今から思えば、たしかに、妻に殺されてもしょうがないような男だったの。仕事もほとんどまともにせずに——あ、私の仕事は当時も今も、小説家なんだけどね——それも書かずに、というか書けずにいて、それでいて、当時付き合っていた若い女性——大石《おおいし》梢《こずえ》さんっていう、雑誌の編集者なんだけど。その人との浮気に、なかば本気になって、のめり込んでいて」  大石さんか。憶えてる。連載の原稿取りに、一時期しょっちゅうウチに来てた若い人。綺麗なお姉さんだった。あの人とパパって、やっぱそういうことしてたんだ。何となく、私も、そうじゃないかなあって、思ってはいたんだけど。  ママの——じゃなくてパパの?——告白は続いていた。 「——だからママは当然のように怒っていた。……実は本気で怒っていたのよね。私、それを軽く考えてたんだけど。そしたらママが、ついに切れた。大石さんのところでひと晩泊まって、その次の朝、ここに帰って来たら、片手に包丁を持って、もう片方の手にはフライパンを持ったママが、まるで幽霊か何かのように、髪のほつれた異様な格好で、この下の廊下の端に立ってたの」  ママが「ママがどうのこうの」って言うと、単に自分のことを話してるみたい。でも実際に話してるのはパパなんだ。パパの目から見た、当時のママの話。まだ痩《や》せてたんだよね。で、いつもイライラしてた。そうか。あれってパパの浮気が原因だったんだ。 「——立って、私を待っていた。でも私はそれを見ても、別に何とも思わなかった。自分が本当に殺されるなんて、思ってもみなかった。俺はその時、何バカな格好してるんだ、早くメシを作れ、とか何とか、言ったような気がする。でもママは本気だった。その時は本気で、私を殺すつもりだったのね。でもママは——さすがに包丁は使えなかった。私はだから——ふん、バカみたいな死に方だが——フライパンで殴られて死んだんだよ」  ママがそこでいったん口を閉ざす。  私はパパがいなくなった当時のことを、いろいろと思い返していた。あの時にはだから、もうすでに、ママの中身はパパになっちゃってたんだ。そう仮定すると、思い当たることは実にたくさんあって。  家の中を急に整理し出したこと。パパがいなくなった直後で、パパの荷物とかを片づけてるのかなって思ってた。あれも、じゃあ、それまでママが家の中を片づけてたもんで、パパは何がどこにあるのかわかんなくて、それで一生懸命調べてた、ってことなのか。  料理も一時期、えらいヘタクソになったっけ。御飯さえもうまく炊けなかったり。煮物の味付けがメチャクチャだった時には、ママは「調味料を間違えちゃった」とか言ってたけど、そんなレベルじゃなくて、もう基本から全然ダメで、それで気づいたらコッソリお料理の本とか買い揃えてて、それでようやくマシになったんだけど、でも今でもときどき「あれ?」っていうようなものを作る。あれも、実は、ママの中身がパパに変わってたんだ、って考えると、すごい腑に落ちるし。  ママが急に太り出したってのも、じゃあ、その関係なんだ。パパはもともと大食いで太ってたから、別な身体に移っても、その食欲は抑えられなかったんだ。それで太ったんだ。なるほど。私はそれを、ストレスのせいだと思って納得してた。ママが、パパの家出ですごいストレスが溜まってて、それでああなっちゃったんだって思ってた。  だけど本当は、ママの中身がパパに変わってたんだ。  そんなことが起こっていたなんて!  いくら変なことがたくさんあったからっていっても、さすがにそんなことは、うーん、絶対思いつけないよね。  ママは話を続けていた。 「殴られて、世界が真っ暗になった。そして次の瞬間——私は康子の中にいた。右手にフライパンを握りしめて、さっきまでの康子の立場になっていた。そして目の前には男が倒れている。それが御子柴徹志だった。さっきまでの俺だった。俺の身体だ。それはもう、死んでいた。だから康子は、俺を殺すだけ殺しといて、その後始末はそんなふうに俺に押し付けて、自分はもうどっかへ逃げちまってたってわけだ。俺はホントは、被害者のはずなのに、気がついたらそんなふうに、自分を殺した殺人犯の役を、押し付けられていたってわけだ」  なるほど。パパの場合は、森川先輩とは、そこが決定的に違ってるんだ。パパを殺したのはママで、で、次の瞬間には、パパは自分を殺したそのママの中に生まれ変わってて、それで自分の死体を見下ろしてたわけだ。  うーん。そりゃ困っただろうな。 「どうしたらいいのか——とにかく、そんな理不尽なことで、警察なんかに捕まりたくはなかった。だから死体を始末して、あと、そんなふうに生まれ変わりだなんて、誰にも説明できないじゃない? この身体の中にいるのは、御子柴康子じゃなくて御子柴徹志なんだって言ったら、じゃあ徹志の身体はどうしたの? どこにあるの? と聞かれたら、答えようがない。だから他に選択肢もなく、私は康子のふりをして——里美のママの役を、今日までずっと演じ続けてきた。……だから、自分がそうだったから、あなたもそうだってことがわかるの。あなたは里美の身体の中にいるけど、里美じゃない。昨日死んだ森川っていう男の子で——そしてその子を、里美が殺しちゃった。だからあなたは、このままだと、殺人犯として捕まっちゃうわけよ。だから何とかしないと」  ちょっと待ってよママ。そこは違う。  私、先輩を殺したりなんかしてないってば。 「……そんなあ」  先輩は、理不尽だ、って感じの声を出す。 「どう? 自分の置かれている状況が把握できた? ……で、改めて聞くけど、あなたは誰?」 「あたし——いえ、僕は——仰るとおりです。森川達郎です。あ、どうも。初めまして——じゃないけど、改めて、よろしくお願いします」  ペコンとお辞儀する私。ママもつられてお辞儀してから、 「あらまあ、礼儀正しいわねえ」  女言葉で応じ、さらに手を口元に添えて、ホホホと笑ったり。  さっきの話が正しければ(正しいのだろう。まだ信じられないけど……)、このママは、本当はママじゃなくてパパなのに(パパ! ああ、嘘みたい。こんなに身近にいたなんて!)、自分の正体が男だってバクロった後でも、まだ女言葉を使っているのが、何だかオカマ言葉を聞いてるみたいで、ちょっと変な気分になる。でもまあ、この三年間で、もうすっかり身に染《し》みついてしまったのだろう……。  と、そんなこと考えてる場合じゃないのだった。ママってば(パパと言った方がいいのだろうが、私にとってこのママは、やっぱりママなのだ)、私が森川先輩を殺したんだって、端《はな》っからもうそれと決めつけている。 「で、本当なんですか? さっそくですけど。この子が、僕を殺したんだって?」 「心当たりはない? っていうか、あなたたち、どれぐらい深い関係だったの?」 「いや、深いもなにも、ぜんぜん」  先輩はプルプルと顔を左右に振る。実際、先輩の言うとおりなんだけど、でも何もそんなにムキになって否定しなくても。 「こんな、御子柴なんて子がウチの学校にいたってことも、昨日の——ちょうど二十四時間ぐらい前になるのかな? ちょうど一日前に、初めて知ったぐらいですから。それもチョコと一緒に手紙が下駄箱に入ってただけで、だから名前はそれで知ったけど、顔も見たことなくて——」 「下駄箱にチョコと手紙ぃ? 我が子ながら、本当に古臭いパターンで」  ママ(っていうかパパ)に言われたくない。いいじゃん。 「おかげでチョコが足臭くて。って言っても、結局は自分の足の匂いなんですけどね」  あっはっはと先輩が笑う。ちょっともうー。 「じゃあ、えーっと、話を戻すけど、そうすると、森川さんは、自分がなぜ里美に殺されなきゃならなかったのか、心当たりとかはぜんぜん——?」 「ええ、まったく」 「そうか。そうすると——」  ママは思案顔になる。考えても無駄だってば。私は殺してないんだから。先輩を殺したのは、あのマキって兄嫁なんだから。 「あのね、森川さん。怒らないで聞いてほしいんだけど……。ウチの里美って、ちょっとそそっかしいところがあるのね。だからもしかしたら——っていうか——たぶんそうだと思うんだけど、里美は、あなたを殺そうとして殺したんじゃなくて、ちょっとした手違いで、毒が混入しちゃった——それであなたを殺しちゃった——って、そんな可能性が高いように思えるの。えーと。昨日がバレンタインで、水曜日だったから——だからその三日前の日ね。日曜日。その日の昼間——この家って古いから、ネズミとかよく出るのね。それで日曜の昼間、私、思い立って、ネズミ取りの団子をこしらえて、いろいろと仕掛けたりしたんだけど、そのときに私、薬の瓶《びん》、台所に置きっ放しにしたまま、すっかり後片づけを忘れてたのね」  待ってママ。何言おうとしてるの。  ママの話を聞きながら、私は何か嫌な予感がしていた。  待って。待って待って。お願いだから待って。何も言わないで。  でもそんな願いが通じるはずもなく。 「——で、昼間は普通に仕事して、それで夜になってから、キッチンに下りてったら、私がいない間に、里美が珍しく何かやってたみたいで、ボウルとかスプーンとか、あといろいろ、流しに浸けてあって」 「チョコを作ってた?」 「そう。今から思えば……ね。それで私、キッチンテーブルの上に殺鼠《さっそ》剤の瓶が置きっ放しだったのに気づいて、片づけたんだけど。でもタイミングとしては……」 「その——薬の形状って、どんな?」 「白っぽくて透明な、細かい結晶の粒で、うーん、でも砂糖とか塩よりは大粒な感じで——だからちょうど、粗塩ぐらいの感じかな?」 「あれか!」 (あれか!)  異口同音に——じゃなくて、同口同音に声が洩れた。  先輩が思い当たったのは、たぶん、自分が食べたチョコの中に、そういうツブツブが表面にまぶしてあったのが、そういえばあったなあ、ということ。  一方で私が思い当たったのは、そのツブツブをまぶしたチョコ、たしかに作ったなあ、ということ。そういう粒の入った瓶が、たしかにあの日、キッチンには置かれていた。そして私はそれを、化粧砂糖のようなものだと、なぜだかすっかりそんなふうに思い込んでしまっていて、それで森川先輩に贈るチョコの表面に、そのツブツブをまぶしたのだった。  まさか、あれが毒だったなんて。  つまり私が——そうとは知らずに、だったにせよ、結局は私が先輩を、殺してしまったのだ。  ああ、何てこと。  そして、御子柴家の女が、誰かを殺した場合には、その殺された誰かは、殺した側の御子柴|某《ぼう》の身体の中に転生する——そういうルールだったのだ。それでこんなことになってるんだ。  そうだったんだ。  ママとパパの中身が入れ替わっている、という話もそうだし、私のこの今の状態だってそう。そしてママから聞いた、あのお祖母ちゃんの輸廻転生《りんねてんせい》譚《たん》だって、ウチの家系にそうした血が流れていたのだとすれば、そのルールに則《のっと》って解釈することもできるし。……つまりはお祖母ちゃんも、その当時、誰かを殺してしまったんだってことになる。  わぉ。何てこと。親子三代にわたっての、殺人者の家系。  あ、待って。……ってことは。  私が今こうして、私の身体の中に残ってるってことは、それと同様に、ママの身体の中には、ママが残っているってことにならない? 今やその身体は、パパが動かしてるんだけど、でも私がこうして自分の身体に残っていて、先輩の行動を傍観しているのと同様、ママだって、ママの身体の中にいて、そしてパパのすることを傍観しているはず。  でも——ああ、それなのに。  先輩は、私がここにこうして存在しているってことを知らない。それと同様に、パパも、自分の中にママがいるってことは知らない。  ここにいる男二人は、自分たちだけが転生して、そしてもともとの身体の持ち主であった、ママとか私とかは、もうどっかに行っちゃったと、そう思い込んでいるのだ。  何とか気づかせてあげたい。彼らとコミュニケーションをとりたい。そしてできれば、ママと話してみたい。本物のママと。  何でパパを殺したりなんかしたの?  ……おっと。今はそれどころじゃなかったんだっけ。 「つまり僕は、このままでいくと……殺人罪で捕まると?」  私は、かつて自分が自由に身体を動かせていたときには、一度もしたことのないような、とても難しい顔をして、腕を組んで考え込んでいた。 「まあでも、殺意はまったく無かったわけだから、まあ問われたとしても、過失致死罪ってことになるでしょうし、しかも未成年者だし、刑事罰は免《まぬが》れることはたしかでしょうけどね。それでも、残りの人生を無事に楽しく過ごせる、ってことには、ならないでしょうね」  ママにそう言われて、私はひとつ、深ーく長ーい溜息を吐いた。 「だからどうにかして、里美さんの犯した罪を、あなたが被《かぶ》らないようにできないかと——」  そこでママの言葉が途切れた。玄関でチャイムが鳴っている。  ママと私は顔を見合わせる。……誰だろう? 「まさか……警察?」  ママが呟いたそれが、実はビンゴだった。  警察が私を——御子柴里美を——調べに来たのだ。 [#改ページ]         10  訪ねてきた刑事は、ドラマなんかでよくあるように、二人組だった。痩せとデブのコンビで、体型はまったく正反対なのに、顔がよく似ている。だから最初は、もしかして兄弟? と思ったのだが、苗字が違っていたから、たぶんまったくの他人なのだろう。痩せている方が佐々木《ささき》で、太っている方は西村《にしむら》と名乗った。二人とも年齢は同じぐらいで、三十代後半といったところ。  その二人を見ているうちに、唐突に閃いた。  使用前使用後のコンビだ。ダイエット商品の広告なんかにある、一|対《つい》の写真。あれみたい。  今ママにそう言えば、絶対にウケるのに。ああ言いたい。ママに耳打ちしたい。先輩でもいいや。聞いて聞いて。……でも伝わらない。ああもう、何てつまんない。  その使用前使用後の二人は今、ダイニングテーブルの向こう側に並んで座っている。最初は玄関で話を済まそうとしていたのだが、ご近所の噂になるのをおそれて、ママが二人を屋内に招いたのだ。  テーブルのこちら側には、ママと私が並んで腰掛けている。  壁の時計がコチコチと時を刻む音が聞こえる。何とも居心地の悪い間だった。  使用後(つまり痩せている方)の刑事が無言で指示を出し、使用前(つまりデブ)の刑事が、書類鞄のようなものの中から、大きな封筒を取り出した。その中からさらに何かを取り出す。ビニール袋が二つ。片方には封筒が、もう片方には便箋《びんせん》が、入っていた。どちらも私には見覚えのあるもので、それは私が日曜の夜に、先輩に宛てて書いた手紙の、封筒であり、便箋であった。  二つをテーブルの上に置いて、使用前が質問を開始した。 「こちらの手紙は、お嬢さんが書かれたものですね?」 「あ、はい」  先輩は素直に認めた。 「バレンタインデーの贈り物、ということですね。森川達郎さんに贈られた」 「あ、はい」 「あなた、ご本人が書かれた」 「はい」 「失礼ですが、調査のために、文面を読ませていただきました。……この手紙とともに、チョコを贈られたと書いてありますが?」 「はい。そのとおりです」  先輩はそれも素直に認めた。手紙に書いてあるのだ。認めざるを得ないだろう。 「そしてお嬢さんは、森川くんとは、それまでに面識は無かった?」 「ええ。っていうか、私の方が勝手に、憧れていたんです。彼は私のことなんて、知らなかったと思います」 「片想いだったってわけですね」 「はいそうです」  一通りの質問を済ませたところで、刑事たちは一度、お互いの顔を見合わせた。そして今度は使用後の方が、質問役に就《つ》いた。 「森川達郎さんが亡くなられたのは、お二人とも、もうすでにご承知のことかと存じます。だから要点だけ申し上げますが、その後の調査によって、彼が薬物の摂取によって死亡したということが、現時点でほぼ、確認されています。……まあ簡単に言うと、毒を飲んで亡くなられたというわけです。自殺したのか——あるいは殺されたのか。彼が死亡前に経口で摂取していたと思われる食べ物を、我々は今、そんなわけで、虱潰《しらみつぶ》しに調査しているのです。そこで御子柴さん、お嬢さんのところへも、こうしてお邪魔することとなった。彼は、自分宛に贈られてきたチョコレートを、その日のうちに食べていたんですね。だから、お嬢さん、あなたが森川くんに贈ったというチョコレートも、今回の調査の対象に入ってしまった——入れざるを得なかったというわけです。そういうことで、どうか、お気を悪くなさらずに、ここはひとつご協力を願いたいところなのですが……。よろしいですか?」 「あ、はい」  自分の犯罪がこれから暴《あば》かれる——そんな可能性もあるというのに、私は不思議なくらい、平然としていた。自分が傍観者の立場にいられるからなのだろうか。  先輩も平然としている。自分がやったという実感がないってこともあるだろうが、それにしても、度が過ぎるくらいに落ち着き払っている。もし私がこの場で、表面に出ていたら、たとえ自分が何もやってなかったとしても、こんな怖そうな刑事さん二人が目の前にいたら、もうそれだけで、心臓がバックンバックン脈打って、今にも倒れそうになっているに違いない。しかも今回の場合は、自分が実際にやってしまったことを、調査しに来ているというのだから。  もし私が表面に出ていたら、確実に私は、この二人の刑事に、悪い心証を与えてしまっていたことだろう。逆に言えば、心臓の強い先輩が表面に出ていたおかげで、私に対する心証は、今のところ、さほど悪くはなっていないようだった。  いいぞ先輩。その調子で頑張って。 「では、あなたの贈ったというチョコレートについて、いくつか質問をさせてください。まずは中身について。どういうものでしたか? 既製品ですか? それとも手作り?」 「あ、いちおう、その、手作りです」 「手作りですか。出来映えはどんな感じのものになりましたか? その、形状というか」 「ゴルフボールくらいの大きさの、団子状のものが、えーと、六つ、だったかな?」  先輩は、私が作って贈ったチョコの形状を、そんなふうに思い出しつつ、正直に答えていた。  私は、今度はさすがに少し、心配になった。……大丈夫なの? 先輩、それに毒がまぶしてあったんだって、もう知ってるはずなのに。他の人から貰ったチョコを、私からのものにしちゃった方が、安全なんじゃないの? だって十二個だか、貰ってるんでしょ?  危ない橋を渡ってる、という気がした。  使用後の刑事の質問はなおも続いた。 「材料を教えていただけませんか?」 「材料ですか? えーっと」  先輩はそこで詰まった。ダメだよそこで言葉詰まらせちゃ。不自然じゃん。  じわり、と脇《わき》の下に、嫌な汗が湧き出すのがわかった。まずい。  先輩。チョコの作り方なんて知らないんだ。  まずいぞこれは。頑張れ。どうしたらいいかわかんないけど、何とか頑張って。先輩。 「えーっと、まず——」 「市販の板チョコを溶かして、それがベースになってます」  見るに見かねて、という感じで、そんなふうに突然、横から割って入ったのは、やっぱりママだった(というか、実はパパなんですけど)。刑事二人の視線が、私の顔から、パッとママの方に移る。 「いえ、この子、普段料理なんてぜんぜんしないもんですから。今回のチョコも、だから私がお手伝いして作ったんですよ。ね、里美さん」 「あ、はい。実はそうなんです。でも正直に言うと、恥ずかしくて」  そう言いながら、額《ひたい》に浮き出た汗を、ぬーっと手で拭《ぬぐ》う。危機的状況は脱した、という体感があった。実際その後は、口調も滑《なめ》らかに、 「えーっとですね。そう。チョコをそのまま団子にしたのがひとつ。それから、中にアーモンドを入れたのがひとつ。胡桃《くるみ》を入れたのがひとつ……」  先輩は、自分が食べたチョコを思い出しながら、そんなふうにチョコの種類を並べ立てていった。こればかりは、作った私以外では、食べた本人(つまり先輩)しか知らないことだから、先輩自身が言うしかない。で、どんなチョコだったかを言ってしまえば、あとの作り方の部分は、ママに任せておけば良い。っていうか、本当はパパなんだけど、ママを三年間やってたっていうキャリアもあるし、一時期はお菓子作りに凝ってたから、手作りチョコの作り方くらいは、知ってて当然。後はママに任せちゃえば大丈夫。  先輩の記憶力は大したもので、全部で十二人から貰ったというから、つまり十二分の一の印象しか残っていなくて当然なのに、私が作った六つのボールチョコの中身を、すべて思い出して証言することができた。感心感心。  そして当然ながら、中の一個に施《ほどこ》されていた、ツブツブコーティングのことは、言わないで済ました。今のところはいい感じで来ている。 「では次に、包み紙について、確認させていただきたいと思います」  痩せた使用後の刑事は、なおも意地悪く、そんなことも聞いてくる。指紋が残ってるはずだから、そんなの、作った当人に聞かなくったって、もうすでに調べはついてるんじゃないの?  先輩はそこで、またしても記憶力の良さを発揮した。パッケージの全体は英字新聞の包みで、中のチョコはそれぞれ、色とりどりの和紙で包んであった——それを正確に答える。 「これですね」  使用前のデブの方が、先輩の証言の終わるのを待って、大判の封筒の中から、またビニール袋に入ったブツを七つ、取り出して見せた。大きなビニールの中には英字新聞が一枚。小さなビニール袋六つの中には、それぞれに和紙が一枚ずつ。仕事が丁寧というか——細かい。ぜんぶひとまとめにして、同じビニール袋に入れちゃったっていいのに、と思う。私ならそうすると思う。  刑事ってきっと、A型の血液型の人が多いんだろうな。 「わかりました。どうもご協力、ありがとうございました」  刑事二人は頭を下げた。デブの方の刑事は、テーブルに広げた証拠物件の数々を、元のように大判の封筒に仕舞い、そしてその封筒も書類鞄へと仕舞い直す。  私は——先輩は、ほっと溜息を洩らした。 「お役に立てましたか」  ママが、これでもう終わりですね、と確認するみたいに言った。ええまあ、とか何とか、デブの方の刑事が答える。すると痩せた刑事の方が、ギヌロッと私の方に向き直って、 「……あ、そうだ。ちなみに、お嬢さん、森川くんに贈ったのと同じチョコを、もう一度作ってくださいとお願いしたら、できますかね?」 「え、今すぐ、ですか?」  先輩はギョッとした声を出す。 「いえいえ。さすがに、今すぐに、とは言いませんが。何日か後に。同じ材料を揃えて、同じ包み紙を揃えて。とにかく前に作ったものと同じように作ることは」 「あ、はい。まあ……できますけど」  本当はできっこないのに、先輩は平然とそんなことを言う。いつもの先輩に戻っている。 「……でもそんなこと、する必要があります?」 「いえいえ。今のところは別に。ただ、もしかすると、そういうことが必要になるかもしれませんのでね。……それじゃあ、お邪魔しました」  そう言って立ち上がる。  私たちは玄関まで見送りに出た。これでようやく終わりだ、と思った途端——。  そこでまた、使用後の痩せた刑事の方が——まあ本人は単なる世間話のつもりだったのだろうが——また余計な質問をしてきた。 「そういえば、ご主人様は今日は?」 「いえ、ちょっと出ておりますが」  ママが硬質な声で答えると、 「そうですか。いや、できればお目に掛かりたかったですな。実は私、司馬哲郎さんの小説のファンでしてね。いや残念でした。それでは」  そして刑事二人は去って行った。  私たちは——外見はママと私なんだけど、実はその中身はパパと森川先輩という二人は——すぐにダイニングに戻って、今のやりとりを検証し始めた。 「問題は、毒の成分が包み紙に付着しているかどうかだな」 「そうですね。実は僕、里美さんを含めて、全部で十二人から、チョコ貰ってたんですよ」  ママは、まあビックリ、というふうに、目を丸くしてみせる。 「……だからですね、僕、一瞬、嘘|吐《つ》いちゃおうかな、って思わないでもなかったんですよ。他の人から貰ったチョコを、この子から貰ったことにして。でも結局、そんなところで嘘吐いたって、どうせ指紋でバレちゃうなって思ったんで、だからあの場合、正直に答えるしかなかったんですけどね」 「それでいいわよ。ヘタに嘘吐いたのがバレたら、余計に疑われるもの」 「包み紙も、だから僕、いっぺんにいろんなチョコ食べて、それらを全部ゴチャゴチャって、一緒くたにしてゴミ箱に捨てたんですよ。だからたとえ、ね、そんな成分とかが、もし、あの包み紙から検出されたとしても、ほら、それは他の人から貰ったチョコから、こう、その成分が移ったんじゃないの、とかって、そう言い張れば、確証にはならないんじゃないかなって思って」 「うん。それはそうかもね。……でもまあ、誰かが犯人にならなきゃ、解決しないのよねえ。まずいことになったわ」 「まあ、そうですね」  そこで沈滞ムードが訪れかかったのだが、 「あ、そうだ。あの刑事さんが言ってたことなんですけど——御子柴さんって、あの司馬哲郎なんですか?」 「ええ」 「ご本人なんですか? えーと、その、お母さんの、中身の方なんですけど」  ママの方に手を差し出しながら、そんなふうに訊ねる。 「ええ。つまり、御子柴徹志が、もともと、司馬哲郎ってペンネームで書いてて。今は、ほら、私が、つまり御子柴康子が、司馬哲郎なのね」 「あ、なるほど。つまり人格が同じだから、書く小説も同じだと」 「そう。だから、パパが死んだということも、世間的には隠したままにしておける」 「なるほど。……いや実は、僕も、ですね。司馬さんの小説のファンなんですよ。いやー、こんなところで、しかもこんな状況で、お会いすることになろうとは。……どうも。初めまして——じゃないけど、改めまして」  ママはクスッと笑って、 「気がついたら親子、ですもんね」 「そっかー。ママが司馬哲郎かー。感激だなあ」  森川先輩ってば、そんなふうに目を輝かせて。  そうか。先輩、パパのファンだったんだ。  だったら——もし私たち、こんなふうになってなかったら——つまり、パパもママも健在で、そして先輩と私が元のまま、別々な身体にいて、それで私が先輩にアプローチしてたら。私のパパが、先輩の憧れの作家、司馬哲郎だってことになれば、きっと先輩も、私のこと、好きになってくれてたかも。  少なくとも、あんな、身内でのドロドロとした不倫地獄からは、抜けだそうとして、そしてあのマキとかって性悪女のことなんて捨てて、で、私のこと、選んでくれてたと思う。きっとそうなってたはず。  でもまあ、今のこの状況は、これはこれで、そんなには悪くないかもしれない。何てったって先輩と一心同体なんだもの。  ただ、その一心同体のまま、刑事処分を受けたり、とかってのは、できればちょっと遠慮したいところなのよね。実は私がやっちゃったことではあるんだけど。  今日の取り調べ——結局あれは、どうだったんだろう? あの刑事二人に、私の(先輩の)様子は、どんなふうに映ったか。  心証は、シロなのか、クロなのか。  私がシロってことで、それでもう今日限り、片づいてくれれば、それがいちばん良いんだけど……。 [#改ページ]         11  先輩の事件は、全国ニュースでも大きく取り上げられることとなった。  愛の告白が、一転して死の罠《わな》になるという、そのギャップが、たぶんマスコミ的にウケると判断されたのだろう。「死のバレンタイン」とか「現実に起きたミステリー、犯人は推理小説を真似《まね》た? 毒入りチョコレート事件」とかって(後者は意味不明)、全国ネットのテレビニュースの画面や、あと新聞(全国紙)の一面なんかにも、活字が躍っていた(先撃はそれをまじまじと眺めていた)。  そうした報道のせいで、先輩が貰ったチョコの教が十二個であり、そしてそれをひと晩のうちに全部食べてしまった、ということなどは、もはや周知の事実となってしまっていた。先輩がママに頼んで、各種ニュースやワイドショーの類《たぐい》を録《と》っておいてもらったので、先輩も私も、事件の報道には詳しかった(ちなみに、ここではママって言ってるけど、その中身は本当はパパなのである。でも私はどうしても、彼女のことを「パパ」とは言えない。見た目がママだから、という単純な理由で)。  ともあれ、事件の概要については、そんなふうに、あらかたの事実が報道されてしまったのだが(憶測《おくそく》の入った報道や、中には明らかに誤りを伝えている報道もあった)、ただ、十二個のチョコの、それぞれの贈り主が誰なのか、ということについては、報道されることはもちろん無く(そんなことがあったら問題だ!)、そしてウチに取材の申し込みが来ることも無かったから、たぶんマスコミも、まだそのあたりの事実は把握してなかったんだと思う。  さらにありがたいことには、警察がウチに来た——そして私が事情聴取されたということが、ご近所で噂になるということも特になかった。そもそも校内で、私(御子柴里美)が森川先輩のことを好きだった、ということでさえ、噂にもなっていないのだ。これはノブちゃんが、私との約束を守って、秘密を誰にも洩らさずにいてくれたからである(あと写真部の、あの父親が刑事だっていう二年生からも、秘密が洩れるようなことはなかった。たぶん最初の日に息子から情報が洩れたってことが問題視されて、その刑事、以降は家族にも捜査状況を洩らさないように心懸けてたんだろう——というのは、先輩がママに話した見解なんだけど)。  この状態(無風状態とでも言うべきか)は、私にとって、本当にありがたいことであった。  なぜなら、たとえば二組の石田|可苗《かな》(サッカー部のマネージャーだ!)などは、先輩にチョコを贈ってたってことが、真っ先にバレたもんで、その死因が毒殺、しかもバレンタインのチョコに毒が混入されていたらしい、と報道されたときには、もうほとんど、クラス中で、彼女が犯人だ、みたいな扱い方をされてたって聞いてたし。  私の場合には、先輩にチョコを贈ったってことが、秘密のまま守られていたので、石田可苗みたいな馬鹿げた騒動に巻き込まれることはなかったのだ。  そんな中、先輩のお葬式が執り行われた。先輩は、自分の葬式に出てみたいと、ママに相談を持ち掛けたが、却下された。たしかに私だって、もし自分が先輩と同じ立場に立たされていたとしたら、自分の葬式には出てみたいって、そう思うから、先輩の気持ちもわからなくはない。ただしママの言うことの方が正論だった。 「何の関係もないあなた——つまり里美がね、ノコノコと出掛けてって、あの子何しに来たんだろう、とかって見られたら。ね。せっかく今はまだ、里美がチョコ贈った十二人の中の一人だってこと、学校でバレてないんだから。変に疑いを招くようなことは止《よ》しときなさい」  というわけで、先輩は日曜日、TVのワイドショーで自分の葬式の様子が中継されるのを、家で寝っ転がって見ていた。 「お、山形《やまがた》とか来てんじゃん」  画面に映った他校の女生徒を見て、そんなことを呟いてみたり。もう、誰なのよ。  私は私で、画面に映った黒白の幕から、朋実のお葬式のときのことを思い出していた。あのお葬式のときの記憶——それは私にとってたぶん、最も古い記憶のひとつであろう。  朋実は、ウチの階段で死んだのだという。二階の廊下から、階段を転がり落ちたのだ。  だから私はあの階段が怖いのだ。  式は自宅でやった。居間に祭壇が設けられ、四囲の壁面には黒白の幕が張り巡らされて——それは明らかに、いつものウチじゃなかった。家の中には大勢の子供たちがいた。幼稚園の、私と朋実のお友達。みんながウチに来ている。だから私はみんなと一緒に遊びたいと、ただそればかりを思っていた。  大人たちはみんな泣いていた。お母さんたちは、みんな見たこともないような黒い服を着て、メソメソと泣いていた。子供たちも、だからその場を支配していた異様な雰囲気は、感じていたはずだ。  でも逆に、はしゃぎ回って、母親に叱《しか》られている子とかもいて……。 「あ、あいつらだ」  先輩がそう呟いたので、私は回想を中断させ、視線を重ねてみた。それは刑事たちだった。あの使用前使用後のコンビが、会場の隅の方に並んで立っているのが、画面に映っていたのだ。 「ご苦労さんなこった」  事件の犯人(かつ被害者)が、こんなふうに家で暢気に過ごしてるなんて、いったい誰に想像がつくだろう。  ところがその夜、森川マキからウチに電話が掛かってきたので、そんな我が家の暢気ムードは、いっぺんに崩されてしまった。  ママが不審気な声で取り次ぐ。 「里美さん、電話電話。森川って若い女の人から。……誰? お母さん?」 「兄嫁です」 「その……あなたの事情を知ってるの?」  先輩はまだママにマキのことを言ってなかった。 「……とにかく出ます。話は後で」  先輩はそう言いながら、ママが持ってきた子機を受け取って、保留を解除する。 「はい。お電話変わりました。私です」 「えーと。御子柴里美さん?」  戸惑ったような口調。電話回線を通しているせいで、声の感じは多少変わっているが、喋り方はたしかに、あのマキという女のものだった。 「はいそうです。……マキさんですよね?」 「ええ」  そこでいったん会話が途切れる。マキはどう切り出そうか迷っているふうだった。 「あなた、この間のこと——」 「ええ。わかってます。私からも、話すことはあります。でも今は——」 「本当にあなた、達ちゃんなのよね?」 「そうです」 「今は都合が悪い?」  私は背後に立っているママをちらりと振り返る。 「ええ。ちょっと」  私は不審を感じた。先輩が自分のことを秘密にしたままであれば、こうしてママに背後で聞かれているのは、たしかに話しづらいことだろう。しかし先輩は、もうママに、自分が森川だってことは、とっくに明かしてしまっているのだ。だから今、たとえママが背後で聞いていても、森川先輩が自分の口調に戻って、僕がどうこう、みたいな感じで喋っても、特に問題はないはずなのに。 「じゃあ明日。明日の午後三時に、この前のところで」 「……五時ではどうですか?」 「じゃあ五時でいいわ。明日の夕方五時。この前のところで」 「わかりました」  電話が切れて、私はママに子機を返す。 「……で、どういうことなの?」  ママに真っ正面からそう聞かれて、先輩は、仕方なく、といった感じで、話し始めた。自分が正真正銘の森川達郎だったときに、兄嫁と道ならぬ関係に陥っていたことを。 「それで、この身体に生まれ変わった日の夕方、僕はマキさんを呼び出して、自分が達郎だってことを打ち明けたんですよ。最初はもちろん信じてくれなかったけど、二人だけしか知らないはずのことを話したりして、最終的には僕が達郎だってことを、わかってもらって……」 「あなたが——じゃなかった、里美が犯人だってことは?」 「その時はまだ、御子柴さんからあの話を聞く前だったから、確証は無かったんですけど、二人で話してて、たぶんそうじゃないかって……」  ママは腕を組んで仁王立《におうだ》ち。むーん、と不思議な音色の鼻息を吐いた。 「その人は信用できるの? あなたが——つまり里美が、犯人だったってことになったとき、でも中身はあなたなわけじゃない? それを知った上で、あなたを庇《かば》ってくれると思う? それとも、あなたを告発する側に回る?」 「いや、それは大丈夫だと思います」 (大丈夫じゃないってば)  私は先輩の甘い考えに心底呆れる。あんな女を信用するなんて。  ママも同意見だった。 「でも、そのマキって人も、チョコの贈り主のひとりなわけでしょ? おまけに生前のあなたと不倫していた。警察にしてみれば、最有力容疑者ってことになんない? そうして疑われながら、でも真犯人を庇い続ける、なんてことができるかしら?」  先輩は難しい顔をして黙り込んでしまった。 「あなたが万一、逮捕されるようなことになったら、私だって困るのよ。身内から犯罪者が出たとか、あるいは、だから作家として困るとかって、そういうことじゃなくて。それより、ウチの内情が問題になって、御子柴徹志はじゃあ今どこにいる? とかって話になったら——あるいはそうじゃなくても、犯人の自宅をいろいろ捜索するとかって場合に、ほら、下の和室には、私の——だから徹志の死体が、床下に埋めてあるって話したじゃない? あれがねえ……」  そうだ。もしそんなことになったら、私が逮捕されるばかりじゃなく、ママ(とパパ)も——つまり一家揃って獄中に、みたいなことになっちゃう。 「とにかく、そのマキって人にも——もう喋っちゃったんなら、とにかく私たちの仲間になってもらわないと。里美は絶対逮捕されるようなことになっては困る。でもそのマキって人も、追い詰められたら、何言い出すかわからないと思うし……。だからその人の疑いを晴らすようなことも、私たち、何かしないとまずいのかも……」  これは難題だ。本当は私が犯人。でも表面的にいちばん怪しく見えるのはマキだろう(警察は、マキと森川先輩の不倫関係について、気づいているのだろうか?)。そうした状況で、二人の疑いを同時に晴らすことなんで、はたしてできるのだろうか? 「とにかく、明日、コンタクトしてみます」 「あなたひとりで大丈夫? 何なら私もカセイに行くわよ」  火星に行く? ああ、加勢に行く、か。などと考えているうちに、先輩は、大丈夫です、と言い切っていた。  しかし、部屋に戻った先輩は、かなり長い間、何かを考え込んでいた。  そして翌月曜日。学校の授業を無事に終えて(でもないか。体育の長距離走で、先輩は私の身体能力を見誤り、最初の方で飛ばしすぎて、後半は完全にグロッキーになっていた)、放課は午後三時。それから北の商店街をぶらぶらして時間を潰し、午後五時になるのを見計らって、先輩は意を決した様子で、傾いた西日にシルエットと化しつつある、あのビルへと向かって行った。  マキは先に来ていた。ベージュのコートに身を包み、寒そうにベンチに座っていて、私が屋上に出ると、すっと立ち上がった。 「マキさん……」  先輩が女の前まで歩を進め、話し掛ける。マキが私を見返す、その視線には、複雑な感情が宿っているように思えた。 「あなた……本当に、本当に達ちゃん……なのよね? まだ信じられない」 「本当です」 「……で? その里美って子、犯人かどうかって調べた?」 「ええ。で、やっぱりこの子が、犯人でした」  あーあ。先輩、正直に言っちゃった。私は、私かこのマキって女か、そのどちらかが犯人にならないと、事件は解決しないんじゃないかって思ってて、だから二人の利害は対立しているって思ってたのに。  それなのに先輩、正直に手の内を明かしちゃって、自ら不利な立場に立っちゃった。 「どうします? 僕のこと、犯人だって告発します?」 「私……警察に疑われてるのよ。チョコを贈った一人なわけじゃない? 身内で、旦那の弟にそういうの贈るのって、別に特別だとかってことないって思ってたから、正直にそう言ったわ。普通のことじゃない? でも警察は、どうも私と達ちゃんの間に、特別な何かがあったんじゃないかって、どうも疑い始めてるみたいで。何か、本家の松下《まつした》さんが、私と達ちゃんが抱き合ってるとこ、覗き見してたらしくて……」 「それは……マズいですね」 「抱き合ってたって、ハグハグしてただけなのにね」  ハグハグ……? 「それでも、義理の弟と、しかも人目のないところで、そんなこと、普通はしないだろうし。だからたぶん、マキさん、遠からず、重要参考人として引っぱられると思うよ」 「冷たい言い方するのね」 「もし不倫の事実が明らかになれば、当然あなたは疑われる。動機があるのはあなただけ」 「その子は?」  マキはぐっと怖い顔をした。 「そうよ。何で達ちゃんを殺したの? あなた、そんな子のことなんて、知らなかったって言ってたじゃない? だったら何? ストーカーみたいなの? 無理心中しようとしたとか?」 「いいえ。ただ単に、チョコを作るときに、砂糖と亜砒酸《あひさん》を間違えたみたいだって」 「は? 何それ?」 「だから、この子がオッチョコチョイだったってだけで——だから別に、僕に対して殺意があったとかじゃなくて——だからただ単に、あれは事故だったっていう」  そう言う私の片頬は、皮肉な感じに歪《ゆが》められていた。話を聞いたマキは、本当に脱力した様子で、口をポカンと開け、両腕を肩からだらんと垂らしていた。 「だったらいいじゃない。そんなの。正直に言えば。殺意が無かったんなら、罪にも問われないんじゃないの?」 「でもこの子が殺したことに変わりはない」 「でも、あなたが黙ってたら、私が困る。私が殺《や》ったわけじゃないから、逮捕されることはないとは思うけど、でもその前に、達ちゃんとの不倫がバレただけで、私はもう破滅する。タカヒロさんが許してくれないもの」 「いいじゃん。兄貴のこと、もう愛してないんだろ?」 「そういうレベルじゃなくて。夫の弟と不倫してたなんてことがバレたら——社会的に恥ずべきことなのよ」  本当は、バレるのが恥ずかしいことなんじゃなくて、行為そのものが恥ずべきものなのだ。あんたはすでに恥ずべき行為をしている。その段階で、社会的に糾弾されて当然なのだ。こんな女、絶対にそうすべきだ。 「僕としては……この先、この身体で生きてくつもりでいる。それしかないからね。でも、自分がやってもいないことで、殺人者の汚名を着て、この先、生きてくつもりはない」 「あなたは——っていうか、その里美って子が、本当は犯人なんだけど、それをひとに言うつもりはないのね?」 「当然、ありません」 「でもそうなると、私が困った立場に立たされる」 「自業自得です」  先輩はそう言い切った。しばしの沈黙が訪れる。 「つまり私たち、利害が対立しているのね」 「そうです」  西日を正面から浴びて、マキの顔がオレンジ色に染まっている。すっと目を細めたのは、陽光が眩しいから、だけじゃないはずだ。 「じゃあ私は、あなたが犯人だって告発する」 「証拠が無い」 「あなたの生まれ変わりのことも言う。それが証拠になる。少なくとも、あなたの側に異常事態が生じてるって話にはなるでしょ? そっちに注目が行くはず」 「それも証拠がない。突拍子もない話だって、誰も聞きやしない」 「あなたの家族はどうかしら? いったん疑いを抱きさえすれば、証明するのは簡単なはず。だってあなた、その子のこと、何も知らないんでしょ?」 「御子柴さんは——この子の母親は、すでに知っている」 「知って——いる?」 「そう。何もかも。生まれ変わりのことも。この子が僕を殺したってことも」 「知っていて——庇うつもり?」 「そう。こっちは家族が協力してくれている。でもあなたは、家族からの協力は得られない。あなた自身が、すでに家族を——森川家を、裏切っているから」  再び沈黙が訪れる。マキは必死の表情で、何事か、考え込んでいる様子。 「……私たち、ある意味で、利害は一致しているのよね」 「ほう? たとえば?」  問い返す先輩の口調には、相手を揶揄《やゆ》するような響きがあった。 「私がもし、達ちゃんとの不倫のことがバレたら、私は絶対にあなたのことを警察に話す。そうしたら警察だって、私の言うことを無視はしないはず。あなたも一緒に調べられることになる。そうなったらあなただって、その子のふりがいつまでも通用するって、楽観はできないんじゃないの? そもそも、殺したのはあなたの方なんでしょ?」 「オレじゃない」 「でもあなた——の、その子なんでしょ? どうして私が、痛くもない腹を探られなきゃなんないの?」  先輩は鼻で嗤《わら》った。 「不倫してて、痛くもないも何も、今さら」 「殺してないってこと」 「でも弱みはある」  先輩、今日はマキに対して、徹底的に冷たい態度をとっている。どうやらこのバカ女に対する愛情も冷めたみたい。よしよし。  マキはほとほと困り果てたといった感じで、 「だから……やっぱり同じ穴のムジナなのよ。私たちって。利害が一致してる」 「だったらどうする? この子とあんたが一緒にいたって、アリバイでも作るか? でも毒殺だから、アリバイなんて関係ないし。……オレにはあんたが疑われるのを止める手立てはない」 「あなたが自首してくれれば」 「それしかない? だったら二人の利害は、ぜんぜん一致してないってことになんない?」 「でもこのまま行ったら、私は破滅するし、そうなったらあなただって、私がペラペラ喋って、足を引っ張って、私と同じような目に遭わせてやる」 「いいよ。言えばいいじゃん。どうせ誰も信用しないって。そんなこと」  先輩にそう言われて、マキは黙り込んでしまった。顔が強張って、ものすごい形相になる。そして次に口を開いた時には、絞り出すような声で、とんでもないことを言い出したのだ。 「あなたが死ねばいいのよ」 「僕が? 僕が死ねばいい?」 (私が死ねばいい、ですって?)  黙って聞いてれば、この女。ついに本性を現したか。私は呆れてしまった。  マキはなおも言い募る。 「そうよ。達ちゃんがそうして生きている限り、あなたの口から不倫の件が洩れる可能性が常にある。どうせあんた、ホントなら死んでたんでしょ? どうして生きてんの? そもそもそれがおかしいのよ。話をおかしくさせてる原因。素直にあなたが死んでて、で、その子が殺したんだってことで片がついて。私が不倫してたとかって、関係ない話じゃない。痛くもない腹を探られることも、ホントならなかったはずだし。……死んじゃいな。こっから飛び降りて。私を楽にして」  そう言うとともに、マキが飛び掛かってきた。先輩は一瞬、ポカンとしていたが、マキに掴みかかられ、身体をフェンス際まで無理やりに引っぱられていくうちに、全身がカッと燃えるように熱くなった。血がたぎっている。マキを押し返す。そうだ。やり返せ。先輩は姿勢を低くとると、頭部をマキの股間のあたりに押しつけ、彼女を手すり際まで追い込む。そして、マキの両足首を両手で掴んで、それを思いっ切り持ち上げる。 「ちょ、ちょっ——」 「マキさんが死ねばいいんだ」  マキは屈《かが》んだ私の背中のあたりに縋り付こうとする。私は頭部で、マキの上半身を、手すりの向こうへと押しやる。そして両足首を握っていた手を離す。 (あ。やっちゃった……)  マキが落ちて行く。私は彼女を押し出した格好のまま、手すりから頭を乗り出させて、それを見下ろしている。マキの長い髪がぶわっと煽《あお》られて、服もバタバタと煽られて——信じられないといった表情をこっちに向けたまま、あっという間に小さくなって行って——。  ドスンという音がして、地面に激突した。マキの全身が一瞬、衝撃で振動した。小さくバウンドしたように見えた。四肢が浮いて、再び着地して、それきり動かなくなった。  落ちた場所は、ビルの裏手だった。ビルとビルの谷間。  大きな音がした後は、しんと静まり返っている。  目眩《めまい》がした。金網から身体を離す。全身から力が抜けて、私はその場にへたり込む。  次の瞬間、私は目をくわっと見開いた。そして何度も瞬《まばた》きをする。  首を思いっ切り、ねじ切れるんじゃないかってぐらいに、左右に振って、あたりを見回した。視界がグルングルンと動く。  右手を上げる。左手も上げる。両手を何度も握ったり開いたりする。  自分の身体を見下ろす。紺のコート。制服のスカート。 「……え? 何で?」  次の瞬間、私はそんなふうに呟いていた。その声と同時に、 (あれ? どういうこと?)  という声がした。いや、後者は声ではない。言葉そのものが、直接私の心に伝わって来たって感じで。 (おい。あれ? どうして勝手に動くんだよ、コノヤロー)  あ、もしかして……。 (あの……) (うぉっ。誰だ?)  通じた。言葉が通じた。 (もしかして、森川先輩ですか?) (そうだけど……。どうしてオレ、勝手に動いてるんだ? 動かせないぞ?) (私、御子柴里美です。初めまして) (あ、あんたが? じゃあこの身体、あんたに帰ったってわけ?) (ううん、そうじゃないみたい。私も動かせないまんま。そうじゃなくて、どうも今は、マキさんが動かしてるみたいね)  そうなのだ。私にはやっと、何が起こったかが理解できた。 (は? マキが? ……どうして?) (だって、先輩もママから聞いたでしょ? 私が誰かを殺した場合、その相手が、この身体に乗り移るってルール)  先輩からの応答は、しばらくの間、途切れた。 (なるほどね。……じゃあ君は、オレがこの身体に生まれ変わってから、ずっとこんな感じで、オレの中にいたんだ?) (そうです) (じゃあオレも、これからそうなるってこと?) (そうです) (こんなふうに、受け身でいるだけなの? 自分からはまったく動かせない?) (そうです。だって先輩だって、さっきまで、自分が動かしてたから、わかるでしょ? 自分が動かしてないのに、身体が勝手に動いたとかって経験、無かったでしょ? つまり私みたいな状態の人間には、どうしても動かせないってわけなんですよ) (かー。これは辛《つら》いな。うわっ。乗り物酔いしそうだ) (でも胃袋は平気なんですよ) (うわー。これ、ホントに辛い) (馴《な》れちゃえば、そのうち平気になりますよ)  内心で、先輩と二人、そんな会話をしている間、身体を動かしているマキは、どうにか、今の自分の状態を把握したみたいだった。最初は心臓がドキドキしてたのに、パニック状態からもどうやら醒めたみたいで、今は落ち着いて、しきりに何か考え込んでいる様子。視点がどこにも合っていないので、それとわかる。  そうなのだ。マキは事前に、先輩の生まれ変わりのケースについて、聞かされている。それから類推すれば、「里美の身体が誰かを殺した場合、その殺された人間の精神が、次に里美の身体の支配者となる」というルールも、自力で導き出すことが可能なのだ。 (おーい、聞こえるか?) (え? 聞こえてますよ。聞こえるっていうか——) (ああ、それはわかる。……ふーん。こうやって、喋るってわけじゃないけど、伝われ、って思って念じないと、お前には伝わらないんだ)  先輩、いろいろと試している様子。 (そうだ。お前……とんでもないことしてくれたな) (え、何が?)  私はとりあえず、とぼけてみる。 (チョコくれたのは嬉《うれ》しい。でもお前、間違って毒入れたりするか? 普通?)  痛いところ突かれて、私はもう、こう言うしかなかった。 (てへっ) [#改ページ]         12  マキはとりあえず、殺人事件の現場になりたてホヤホヤの、このビルの屋上から、私の身体を脱出させることにしたらしい。コンクリートの上に放り出されていた、二人の荷物を見下ろし、一瞬迷う素振りを見せたものの、マキのバッグはそのままに、私の通学鞄だけを拾い上げた。左右を見回す。ドアから階段室に入ると、暗い階段を慌てて駆け下りて行く。心臓がドキドキしている。途中、横に張り渡してあったロープに引っかかって、すっ転びかけた。めちゃくちゃ慌ててる。大丈夫かしら。  階段を下りて行く間に、私は先輩に質問をしてみた。 (マキさん、これからどうするつもりなんでしょう?) (さあ。見当もつかねえ。でもさっきまでの俺と同じで、今度は自分が、やってもいない犯罪の責任を取らされて、犯人にされちまう、って立場に立たされたんだもんな。何か考えてくれるんじゃないかと期待したいところだけど)  ビルを出て、北通りの寂《さび》れた地区も駆け足で脱出。あんな大きな音がしたのに、不思議と、誰も事件には気づいていない様子だった。  大通りに出て、バス停に向かう。ちょうど来たバスに乗り込む。マキが乗ったバスは、ウチとは反対方向に向かうものだった。 (あ、これは……。マキのヤツ、家に帰るつもりだ) (家って?) (マキさんの家。つまりオレの兄貴ん家《ち》)  そんなとこへ行ってどうするつもりなのか。といっても、彼女の立場に立って考えれば、他に行くところも無いわけで。  私の鞄から財布を見つけ、小銭を取り出して、バスを降りる。わりと小綺麗な住宅街。五分ほど歩いて、五階建てのタイル貼りのマンションに入る。 (ここがそうなの?) (え? ああ。そうそう。ここの四〇三号室)  エレベーターを降りたところで、マキは、あ、しまった、という素振りを見せた。しかしすぐに、何か思いついた様子で、四〇三号室のドアの前まで来ると、電気のメーターの裏を右手でまさぐった。その指先に触って、取り出されたのは、部屋の鍵であった。  あ、そうか。いつも使ってた鍵は、マキさんのバッグの中にあったんだ……。  とにかく、そうして鍵を開け、私はマキの家に入ることができた。見知らぬ女子高生が、他人の家の前で、あんまりウロウロしていては、不審に思われるから、とりあえずは良かった。  そしてマキが次にとった行動は……。 (あ、ウマイ!)  と、先輩が思わず叫んだほど。  マキはまず、私の鞄から、ニットの手袋を見つけて、それを両手にはめた。そうしてから、彼女は、筆記用具を見つけてきて、ダイニングテーブルの上で、書き始めたのだ。  遺書を。 [#ここから3字下げ] 貴弘《たかひろ》さんへ。そして森川家のみなさんへ。 達郎さんを殺したのは私です。私は彼と不倫をしていました。それを清算するために、彼を殺したのです。 でも私は、いずれ警察に捕まるでしょう。そうなる前に、自分で決着をつけます。 さようなら。 そして小林《こばやし》満《みつる》様。幸子《さちこ》様。そして真弓《まゆみ》ちゃんへ。 お父さん。お母さん。真紀《まき》は悪い子でした。今回のことでは、本当にご迷惑をおかけします。 真弓ちゃんは、お姉ちゃんのようにはならないでね。 一時のお別れです。三人には、また別な形で会えると思います。その時に、本当のことを言います。それを待っていてください。 さようなら [#ここで字下げ終わり] [#地付き]真紀  その筆跡は、私のものでもなく、そしてここ数日で見慣れた、森川先輩のものでもない。紛《まぎ》れもなくそれは、真紀の筆跡のはずだった。  そうして書き上げた遺書を、ダイニングテーブルの上に置いて、私はその家を後にした。  完璧《かんぺき》だ。森川先輩の事件も、真紀さんの墜死《ついし》も、これでいっぺんに片がついた。 (あ、ドアの指紋!)  先輩が気づいてそう言ったけど、私は大丈夫だと思う。本人自筆の遺書さえあれば、細かいことはどうとでもなる。  あとは彼女がこの後、どこへ行くかだ。 (御子柴の家に帰るのがイチバンなんだけどなあ) (でも真紀さんは、ウチの住所とか、知らないんですよね) (どっかに書いてない?) (あ、生徒手帳には書いてあるんですけど。真紀さん、見つけてくれるかなあ)  真紀さんは、手帳は見つけなかったが、街角で電話ボックスを見つけると、電話帳で御子柴姓を探した。なるほど。それもひとつの手だ。やっぱり珍しい苗字のようで、ハローページには二人しか載っていなかった。最初の方がパパの名前である。 (上の方だよな?) (うん)  先輩は、パパの名前もちゃんと憶えていた。えらいえらい。  真紀さんがウチの番号をプッシュする。呼び出し音が鳴り、受話器が外される。 「はいもしもし」  ママの声。不機嫌そうなのは、仕事を中断されたからだろう。 「あの……失礼ですが——」 「里美さんでしょ? 違うの?」 「あ、そうです」 「どうだった? 行ったんでしょ? その人に会えた? どんなこと言ってた?」 「あの、私——」 「……里美さんでしょ? どうしたの?」  ママの声に不審の色が混じる。 「あの……お母さんですか? 迎えに来ていただけます?」  ママはそのひと言で、どうも何事か起こったらしい、ということは、理解したようだった。私のいる場所を聞いて、すぐに迎えに行くと言ってくれた。  そして待つこと三十分(私はその間、先輩といろいろと積もる話をしていた)。  目の前にタクシーが止まり、そしてママが降りて来た。といっても真紀は最初、この人がそうなのかしら、と不安気な様子で、降車する相手を見ていたのだが、ママの表情が真っ直ぐにこちらを向いているので、どうもそのようだと判断したらしい。  ママが駆け寄ってきて訊ねる。 「どうしたの里美さん? 何があったの?」 「私……違うんです。でもとにかく、家に連れてってください」  ママは素直に従った。タクシーの中では、何も質問して来なかった。えらいえらい。みんな偉いぞ。  そして家に帰り着いて、ドアを閉め、二人だけになったところで、ママが聞いてきた。 「あなたは……誰?」 「あの……本当は、森川真紀といいます」 「つまりあなたは、殺されたってわけね」  真紀さんはポカンとする。それを後目《しりめ》に、ママは盛大に笑い出した。 「あーおかしい。どうしてこう、揃いも揃って、みんないとも簡単に人を殺すのかしら。おまけに自分が消えちゃって。あっははははは。……おっと、そうそう。初めまして。里美の母の、御子柴康子です。というか、本当は父なんですけど。いや、いきなりそう言っても、こんがらがるだけか。あっははは。……おほほほ」  真紀さんはポカンとしたままだ。まだ事態が把握できていない。そりゃそうだろう。  とにかく、ママは笑うのを止《や》め、ダイニングキッチンに場を移して、説明をし始めた。  テーブルを挟んで、母と娘が二人きり。ここ三年ばかりはずっとこの形できていて、だから私も別にどうとかは思ってなかったんだけど、こうして改めて客観視すると、やっぱり淋しい情景である。二人きり……とは言っても、実はこの身体の中には、表に出ている真紀さんの他に、私と先輩がいるし、ママの身体の中にだって、表面に出ているパパの他に、ママも潜《ひそ》んでいるはずで、だから肉体レベルで見ればたしかに二人きりなんだけど、でも本当は今ここに、五人が集まってるのだ。そう考えると、何だかおかしい。  ママが一方的に喋り、真紀さんはひたすら聞いている。聞き手の真紀さんの方も、先輩から事前に多少のことは聞いていたし、何より自分が実際に体験したことでもあるので、御子柴家(というか、母方の家系なので、九鬼《くき》家ってことなんだけど)の血筋に伝わる、特異な生まれ変わりのルールについては、即座に理解したようだった。  しかしママが実はパパだっていうこと——ママがパパを三年前に殺して、二人が入れ替わってしまったってこと、そしてパパの死体はこの家の床下に埋められているということを聞いたときには、目を真ん丸に見開いて驚愕していた。そりゃそうだろう。一家揃って殺人者。なんて家だって思われても仕方がない。でもあんたも今じゃその一員。  ママの説明が終わると、今度は真紀さんの話が始まった。ママは結果を知っているので、最初はさして驚いた様子もなく聞いていたのだが、遺書のくだりを聞いたときには、目を真ん丸にして声を上げていた。 「あ、そうか。その手があったわね!」  それからは真紀さんのことを、褒めること褒めること。 「……で、どうします? これから? って言っても、選択肢がそうあるわけじゃないけど」 「いいです。私、これからはこの身体で、御子柴里美として生きて行きます」  なんて思いきりが良いのだろう。 「殺されたこととか、残されたウチの家族のこととか、割り切れない部分もあるんですけど、とにかくこうして新しい身体を与えられた以上は、この身体で生きて行こうかなって」 「若返ったってことにもなるのよね」  ママがそんなふうにフォローすると、 「そうそう。この身体で、十六歳から人生をやり直せる、ってことなんですよね。この子、けっこう可愛いし」 「そうそう。また新しい恋をして」  ママが乗せる。 「たくさん恋をして。いっぱい楽しい思いをして」  真紀さんは弾《はず》んだ声を出す。指を組んで、ウルウルの瞳《ひとみ》を天井に向ける。 (おいおい。真紀。オレのことはどうなんだよ。もう忘れて平気なんかよ) (先輩、真紀さんを殺しちゃったんですもん。そりゃ印象悪いって)  そう言って、私も真紀さんのとった姿勢に浸り切る。まさに、両手を組んで、ウルウルの瞳で天を見上げたい気分。だって—— (こうして先輩と二人きりなんて) (なんだよ。うるせーな) (んもう、嫌わないでよ。だってもう、先輩とはこうして、もう二度と離れられない仲になってしまったんですもの。せいぜい仲良くやりましょう) (うーむ……)  というわけで、私はハッピーだし、真紀さんも人生のやり直しができてハッピー、そしてママも御子柴家が安泰でハッピー。  現時点で不満気なのは、先輩ひとりだけだけど、でも先輩もきっとそのうちに、私の愛の深さにほだされて、この状況をハッピーだと認識してくれるでしょう。  めでたしめでたし。 [#改ページ]         13  ……と思ったら。 (二人きりじゃないよ)  という声が聞こえてきた。 (え?) (何が?)  私と先輩がほとんど同時に聞き返す。私は先輩が言ったものと思ってたし、先輩は私が言ったと思って聞き返してる。ってことは……? (私もいるもん。私だって、森川先輩のこと、好きだったもん)  内心の声で喋ってる。いったいこれは誰なのか。……もしかして、真紀さん? 私たちの声が聞こえるの? 身体を操りつつ、内面にも話し掛けられるの? そういう特殊能力を持っていたりするの?  しかしそれは違った。内面の声は続けてこう言ったのだ。 (先輩はあなたには渡さないもん。私の方が好きだったんだから) (ちょっと、誰よあんた)  私は聞き返した。おかしい。ここに先輩と私以外の誰かがいるなんて。そんなはずがない。 (あんた、まだわかんないの? 私が本当の里美なんだから) (……ちょっと待って。どういうこと?) (だからあ、私が本当の里美なんだってば。でもまだ子供のときに、あなたが死んだもんで、それで乗り移られちゃったんだから)  えーと。私が先輩を殺しちゃって、それで初めて私は内面に引っ込んじゃったわけで。もし私がその前に誰かを殺してたのなら、その段階で、私はもうすでに内面に引っ込んでなきゃならなかったわけだから。だから私は殺していない。でも内面にもう一人いて。だからこの声の主は、私より先に内面に引っ込んでたわけで。  えーと。つまり。この人が内面に引っ込むと同時に、私が御子柴里美に乗り移って、それ以来ずっと今まで表に出ていた?  つまり、この新しい声の人格こそが、元々の、だから本物の、御子柴里美であると。  いちおう、それで話の筋は通っている。何よりも、ここに私と森川先輩以外の誰かがいるってことが、その確たる証《あかし》となっている。  ということは。 (私が……里美じゃない?) (そう。だから、里美は私で、あなたは朋実) (朋実?) (おい、誰だよそりゃ?)  先輩が戸惑いを露《あら》わにする。ごめんね、先輩。今はちょっと黙ってて。  えーっと。私は。……朋実? 朋実っていえば。えーと。わかってる。わかってるんだけど。  何より、その事実が意外で、意外すぎて、私はほとんど思考停止状態にあった。 (うそ……)  そう言ったきり、言葉が続かない。絶句するしかない。  だって、朋実っていったら、私の双子のきょうだいで、お兄ちゃんで……。  ……ってことは、私は、男……? (あ、でも)  ひとつ気がついたことがあった。もし彼女の言うことが正しいのだとしたら。って、この状況からすれば、たぶん正しいんだろうけど。 (ってことは? 入れ替わりが起こったってことは、えーと、つまりあんたが、本物の里美が、私を殺したってこと?) (わざとじゃないんだもん。だってまだ三歳だったんだよ。お兄ちゃんが階段の前で、意地悪して、とおせんぼしてたから、私が押したらさあ、お兄ちゃん、落っこっちゃって)  朋実は階段から落ちて死んだ。あの曲がり角のところで首の骨を折って死んだ。  そうだ。私はあの階段を落ちたことがある。  不意に思い出した。死の直前に目にした光景。暗い階段。二階の廊下には照明が灯っていて。女の子が逆光になって、こっちを見下ろしている。あれが里美だ。そして私は、里美に突き落とされて、階段を転げ落ちて、首の骨を折って。  だから私は、あの階段が怖いのだ。あそこが怖いのだ。  そこで死んだという記憶が、どこかに染みついていたから。 (お兄ちゃん、許してくれる?)  許すも何もない。被害者である私は、そのことをまったく憶えてなかったのだ。  そして私は別に死んだわけじゃない。それ以降の十三年間も、ちゃんと生き続けてきた。御子柴里美として。  むしろ本物の里美の方こそ、ずっと前から、この身体の中に閉じ込められていたのだ。誰にも認知されず、だからほとんど死んだも同然の状態で。  私が五日間だけ体験した、あの状態で。それを彼女の場合には、三歳から十六歳まで、実に十三年間の長きに亘《わた》って続けてきたのだ。  ああ。何てこと。身体が自由に動かせれば、私は今、滂沱《ぼうだ》の涙を流していただろう。 (許すも何もないよ。よく耐えてきたね。……里美)  まだ自分が里美じゃないってことに実感は湧かないが、彼女こそ本物の里美なのだ。 (いやー感動の再会ですね)  森川先輩も、展開のあまりの意外さに、それまで声を失っていたみたいで、でもそんなふうに話し掛けてきた。  そうだ。今日からは三人で、ここで生きていくんだ。 (あ、ちょっと待って。ってことは、この五日間は、私とあなたと、二人がここにいたんだよね。……どうして話し掛けてきてくれなかったの?)  そんなふうに聞いてみると、 (だって、お互いにこんなふうに話ができるなんて、思ってもみなかったもの。お兄ちゃんの声が聞こえるのは、だってそれまでずっとそうだったから、別に変だとも思わなかったし。私が今までいくら声を掛けようとしても、お兄ちゃんには届かなかったんだよ。ずっと。だから今になって声が届くようになったなんて、思いもしなかったし) (あ、なるほどね)  と先輩が割って入る。第三者である先輩の方が、理解が早いみたい。 (でも俺が今日ここに来て、こいつと話してるのを聞いて、それで内面同士なら話ができるんだって気づいたわけだ)  先輩がそんなふうに説明を補足する。 (そうなんです。でも何か、話し掛けるきっかけがなくて。こんなふうに声を出したことも、久しく無かったですし)  彼女が自分の自由になる肉体を持っていたのは、はるかな過去のこと。爾来《じらい》十三年間は、自分の意志とは無関係に動く口から、自分の思ってもみない言葉が出る、そんな生活を強《し》いられてきたのだ。 (ともあれ、初めまして森川先輩。私ずっと先輩のこと好きでした)  おっと。そうくるか。 (お兄ちゃんなんかよりも、もうずっとずっと——) (ちょっと待った。いくらあんたが今まで苦労してきたからって、そこだけは譲れない部分ではあるのよね) (でもお兄ちゃん、本当は男なんだよ。元々は。そんなの、森川先輩を好きになったら、男同士じゃん。ホモじゃん)  私は、うっ、と詰まる。どう考えても、私は女のはずなのに。でも里美の存在が、自分が元は朋実だったということ、男性だったということを、証明している。  だけど、こんな存在になってしまった今、元々の性別なんて関係があるのだろうか。  無いはずだ。いいんだ。 (私は女です。女として、幼稚園の時からずーっと育って来たんですもの。こういう存在になった今、性別なんて関係ないんじゃない?) (でも名前は、朋実だからね。里美はあたしだもん。あたしは、お兄ちゃんって呼ぶからね) (まあまあ二人とも。別に俺ら、個別の肉体があるわけじゃないし、だからそういう、恋愛ったって、今さら何ができるわけじゃないし。とりあえずこんな感じで、言葉だけでやってくことになるんだからさ。性別も何も無いよ。それはたしかに、彼女の——じゃなくて彼? ああもう。性別が無いって話をしたいのに。……ね。だからともかく、三人で仲良くやってこうよ)  なるほど。それもそうだ。本物の里美が現れて、先輩と二人きりにはなれなかったけど、いつも一緒にいられるのは同じだし。三歳の時に死んだと思っていた双子の兄——じゃなくて、双子の兄の方が実は私で、妹がいなくなっていたんだけど、それとも今こうして再会できたわけで。  だから、これはこれで、ハッピーエンドなんだよね。うん。たぶん。  だから。  めでたしめでたし。 [#改ページ]         14  ……と思ったら。  ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴って、私たち内面三人組も、そして真紀も、ママも、揃ってハッと息を飲んだ。 「こんな時間に、誰かしら」  ママが席を立ち、玄関へと向かう。真紀も廊下まで出て、様子を窺う。ドアが開く音。そして聞こえてきたのは、あの刑事(使用前使用後の、使用後の方)の声だった。 「里美さんはご在宅でいらっしゃいますでしょうか? 森川達郎さん、および、森川真紀さんの亡くなられた事件について、できればお話を伺《うかが》いたいのですが……」  刑事の声を聞いた途端、真紀がひゅっと息を飲む。  私もわけがわからなくて、先輩に聞いた。 (……何で? どうして私が真紀さんの件で、警察に目を付けられたりするの? 私と真紀さんって、何の繋《つな》がりもないじゃない。しかもこんなにすぐに) (たぶん……あのビルから出てくるとこを、誰かに目撃されたんじゃないかな。そうとしか考えられない) (じゃあ、真紀さんのあの遺書の工作は?) (すべて無駄ってことになりそうだな。こうなってみると、あのドアの指紋も、どうやらまずかったみたいだし) (じゃあ私が、っていうかこの身体が、殺人犯として逮補されちゃうってこと?) (とりあえず、警察にしょっぴかれるんだろうな。そんな感じだよ。あの声は)  ママが廊下をこっちにフラフラと戻ってくる。真紀が小声で話し掛ける。 「みこ……おかあさん?」 「里美さん。警察が、あなたに警察署まで同行してほしいんですって。でも着替えさせてもらうからって言って、少しお時間をもらったから。……ちょっと待ってて」  囁き声でそんなふうに言うと、ママはキッチンに入った。明らかに気が動転していて、だから水でも飲みに行ったのかと思っていたら、違った。  戻ってきたママの手には、包丁が握られていた。 「ちょっと。それ……どうするつもり?」  真紀はママと正対したまま、じりじりと後ずさりをする。でも相変わらず、玄関にいる刑事には聞かれないようにと、ママには小声で話し掛けていた。 (お前の母さん、っていうか父さんか。何するつもりだ?) (…………) (オレっちを刺そうとしてる。……よな? おい、真紀、逃げろって)  真紀は後ろ向きのまま、ダイニングの中を必死に後ずさりする。ママは怖い顔をして、じりじりと間合いを詰めてくる。足元の何かに蹴躓《けつまず》いて、私は尻餅《しりもち》をつく。仰向けにひっくり返る。尾てい骨から背筋にかけて、痛みが走る。 (痛っ!)  内面三人組が大合唱する。 (ママ。やめて!)  私の声も届かない。真紀は壁に追いつめられてしまった。ゴクンと唾を飲み込もうとする。喉がカラカラに渇いていて、うまく飲み込めない。  ママは私を見下ろして言う。 「もう駄目。里美さん。……えーと、今は誰さんだっけ? いいわもう、誰でも」 「真紀です。森川、真紀」 (ママ。私もここにいる!) (オレも!) 「悪いけどあんたには死んでもらう。っていうか、実は俺が死にたいんだけどね。もう疲れた。これでもうお終《しま》いにしよう。ね。里美さん」 「ちょっと待って。やだ。たすけてー!」  真紀が大声を上げた。玄関の刑事の耳に届いただろう。でももう遅い。ママが動いた。 (ママやめてっ!)  真紀が必死で両手をパーの形に開いて前方に突き出す。でも何の役にも立たない。  ママの振り上げた包丁が、私の胸にドスンと重く突き刺さった。  嘘みたい。でも本当だ。  私の胸に、包丁が刺さっている。思いきり根元まで刺し込まれている。  視覚情報がまずあって、それから体感情報が遅れて届く。胸部に異物感。痛い。灼《や》けるように痛い。苦しい。痛い。痛い。痛い痛い。痛いよ。  そして、意識が、薄れてゆく。  …………。 [#改ページ]         15 「まあ、何だな。こうして家族みんなが再会できるなんて、考えてみれば奇跡のようだな」 「そうですね。朋実も、ちゃんとこうして生きてたんだし」  パパとママが話してる。朋実というのは私のことだ。まだその呼ばれ方には慣れてない。私はずっと自分のことを里美だと思っていたから。それが里美じゃないなんて。というか女ですら無かったなんて。いまだに信じられない。 「何で? お兄ちゃんなんて、ずっと表に出てたじゃん。私の方が、ずーっと、ずーっと不自由な思いさせられてたんだよ」  本物の里美が拗《す》ねた口調でそう言う。この子も、最初は引っ込み思案《じあん》だったけど、次第によく喋るようになってきた。 「そうよね、里美さん。里美さんの味わってきた苦労は、私もよーっくわかりますからね。ろくでもない男に身体の主導権を握られて、何もできなくて、私がこの三年間、どれだけイライラしてきたことか」 「ろくでもない男って、ママ、それはないだろ。元はと言えばママが、フライパンで……」 「そもそもはあなたが浮気してたのが悪いんでしょ。私はあのとき、あなたの浮気のせいで、ノイローゼだったんだから。ほんとに男ってのは、身勝手なんだから」 「そうそう」  と里美が同調し、 「ホントホント」  と私も同調する。 「おいおい。朋実は男だろうが。……って、いや、すまん。失言だ」  誰かが私のことを男と言うと、私は切れる。それを知ってるパパは、即座に撤回する。 「朋実も女だよね。うん。……やれやれ、三対一では分《ぶ》が悪いな。ウチの女どもはすぐこうやって同調して、パパを虐《いじ》めるんですもの。……ありゃりゃ。まだ女言葉の癖が抜けないな」 「司馬先生、男ならここにひとりいますよ」 「おお、森川くん。ひとつウチの娘たちにビシッと言ってやってくれ。君が言えば、里美も朋実も素直に言うことを聞くからな」 「えーっと、そもそも何についての話でしたっけ? ずーっと閉じ込められてたっていう? そうですよね。それは可哀想ですよ。お母さんも、それに里美ちゃんもね。里美ちゃんなんて、十三年間もずっとでしたし——」 「それはもういいの。話はもう変わってるのよ森川さん。要するに、パパにしろあなたにしろ、どうして男っていうのは、女にああもだらしないかって話で。あなただって同じよ。あんなひどい女に誑かされてたんですもの」 「…………」  先輩、痛いとこ衝《つ》かれて黙り込んじゃった。パパが誤魔化そうとして、急に話を逸《そ》らす。 「まあ、何だな。こうして家族みんなが再会できるなんて、考えてみれば奇跡のようだな」  それじゃ話が元に戻っただけだって。  私たちはお茶の間に顔を揃えている。パパはにこやかに笑っているけど、よく見れば片頬が引きつっている。隣にママが座っているからだ。ママは最近みたいにデブってなくて、昔の、つまり本人が身体を管理してたころのスタイルに戻っている。ネチネチと言葉でパパを虐めていて、こちらは心底晴れやかな表情を見せている。でもそれがちょっと怖い。そうだ。ママの怖さって、これだったんだよな。この三年間、パパの演じるところのママに慣れてたから。パパもママの怖さを演じてたつもりだったんだろうけど、実際にこうして、本物のママと比べたら、あんなのぜんぜんソフトだったってことがよくわかる。  そして私たち——私と本物の里美と、そして森川先輩は、パパとママとは向き合うような形で座っている。私と里美が喧嘩《けんか》しないように、先輩は私たち二人の真ん中に座っている。私は右半身を思いっ切り先輩に押し付けている。私が着ているのは学校の制服で、制服っていうのはもちろんセーラー服のこと。学生服を着た先輩は、私に寄り掛かられて、いちおう笑顔は見せてくれてるんだけど、その笑顔が強張っているのは、里美のせいだ。里美は里美で、私に負けないようにと、同じように思いっ切り左半身を先輩に寄せているんだもの。んもう、邪魔しないでよ。後から来たくせに。何もしてないくせに。先輩にアプローチかけたのは、そして(ホントは単なる手違いだったんだけど、結果的に)先輩をここに引きずり込んだのは、この私のおかげなんですからね。里美なんてホントだったら出る幕なんて無いんだから。 「でも、アレですね」  居心地悪げに、お尻をもぞもぞとさせながら、先輩が言葉を発した。 「御子柴家のみなさんは、結局、一家揃って人殺しだった、ってことですよね。ここにこうして集まってるってことは。……いや、僕もひとのことは言えないんですけど」  そのとおりだ。笑っちゃう。  里美は何と三歳で、私を殺した。私はちょっとした手違いで先輩を殺しちゃった。先輩は咄嗟《とっさ》の判断で(一種の正当防衛だった)真紀を殺した。  ママはノイローゼになってパパを殺してしまった。パパは自分が人を殺せば、自分の人格がこの世から消えて無くなると思って、自殺するつもりで里美の身体(操ってたのは真紀で、その中には私たちもいた)を殺した。  刑法上で罪になるもの、ならないものの違いはあれど、私たち五人はみんな、誰かを殺してここにいる。  先輩の指摘が可笑《おか》しかったので、私はとても愉快な気分になった。みんなも同じように思ったらしい。 「いやー、あっはっは」「ほほほほほ」  一家揃っての大笑い。終いには言い出しっぺの先輩も笑い出しちゃって、結局五人揃っての、笑いの大合唱となった。 「あーはっはははは」「おほほほほ」「がはははは」  ふっと視界に光が差し込んだ。薬が切れたのか、真紀が薄《う》っすらと目を開いた。途端にお茶の間の幻想はかき消える。ママの姿も、パパの姿も、里美も、森川先輩も——その温もりも、すべてが一挙に消えてしまう。  代わって視界に飛び込んできたのは、白一色の風景。白い天井に白い壁。白いシーツと白い布団に覆われたベッド。その中で寝ている私。自分の体重を感じる。手足の存在を感じる。 (ああ、目が覚めてしまった。気持ち良い夢を見てたのにな)  パパが寝起きの声で、そんなことを言った。私も同じ気持ちだった。もうちょっと今の夢を見続けていたかった。っていうか、あれは本当に夢だったのかしら。 (あー、あたしも。すごい楽しい夢見てた)  里美も言っている。そうだ。私たちは今、夢うつつのうちに、みんながあの、同じお茶の間の幻想を胸に描《えが》きながら、それぞれが実際に「内心の声」で言葉を交わしていたのだ。真紀が(つまりママの身体が)投与を受けた、あの薬のおかげで、全員が夢うつつの状態となり、そしてあんなふうに甘美な幻想が共有されたのだ。  薬が切れ、夢から醒めると、私たちはお互いにまた声だけの存在になってしまう。共有している身体はママのもの。それを動かしているのは真紀。私たちはともに、真紀のなすがまま。彼女が大の字になれば、私たち五人も揃って大の字になる。自分は操られていると、内面の五人が同じように感じている。 「私は……森川真紀なのに」  また真紀の呟きが始まった。 「こんなオバサンなんて絶対イヤ。せめてあの、里美って子の身体のままでいさせてくれたら良かったのに……」 (オバサンって何よ!)  ママがすかさずお怒りの言葉を発する。でも真紀には届かない。  実は私も真紀と同じことはいつも思ってるのだった。パパが好きなだけ太らせちゃった身体は重いし、年齢のせいなのか身体の節々は常に痛んでるし。ママには内緒で、ペロッと舌でも出したい気分。もちろん、身体は思いどおりにはならないんだけど。  私はベッドの上でゴロゴロと寝返りを打っている。手足をじたばたと動かす。そうだ。もっと暴れろ。暴れて、それで薬打たれて、またあのトロンとした世界に私たちを連れてってほしい。ただし暴れすぎないように。昨日のアレは痛かった。腕に青アザができてるんだもん。昨日は、内面の五人が揃って「あ痛っ!」て叫んだもの。もっと自分の身体を大事にしてよね。  真紀は寝返りを打つのをやめ、今度はベッドから下りようとしている。無理だってば。まだ頭が朦朧《もうろう》としているのに。うわ、視界が定まってない。……あ、コケた。痛ててて。  廊下から複数のスリッパの音が近づいてくる。鍵が外されて、ドアが開く。  真紀がぼんやりとそちらを仰ぎ見る。白衣を着た看護士が二人。そして看守が一人。すぐに腕を掴まれ、ベッドへと戻される。真紀はもう抵抗しようとはしない。すぐに注射を打たれておとなしくなる。その様子を五分ほど見ていた、看護士二人と看守は、やがて部屋を出て行った。  ああ。薬が効いてきたみたいだ。これでまた、あのお茶の間の幻想に戻れる。  家族が——私の愛する人たちが一堂に会する、あの瞬間が。 「あーはっはははは」「おほほほほ」「がはははは」 [#改ページ]    あとがき  はじめまして。乾くるみです。って、誰なんだお前は、そんな名前聞いたことないぞ、という読者の方がほとんどだと思いますので、ここで簡単に自己紹介をさせていただきたいと思います。  乾くるみ。四年前に「メフィスト賞」を受賞して、作家デビューを果たすも、マイナーな作風が災いしてか、以降は鳴かず飛ばず。今回のこれでようやく四作目という、まだまだ駆け出しの貧乏小説家。  などと書くと、自分のことを卑下しているように思われるかもしれませんが、ぜんぜんそんなことはなくて、売れない小説家、という現在の立ち位置が、自分ではけっこう気に入っているのです。読者からあまり期待されていない分、気楽に、自分の好きなものが書けるわけですから。  といっても、あまりに作品が売れないと、そもそも本を出してもらえなくなるので、それなりには売れてほしいなあ、っていうあたりが、実は本音だったりします。  ちなみに過去に本になった三作は、いずれもミステリです——と自分では思っているのですが、そっち方面では、「これはミステリではない」「イロモノだ」などと言われているようです。「SFが混じっている」とも言われているようで、だから私、もしかしたら、生来の体質的にはSF者だったのかもしれません。でも(道を誤った、とは書きたくないのですが)結果的にはミステリ育ちで、だから本人は一所懸命にミステリを書こうとしてきた——そのへんに、今までの作品が「イロモノ」になってしまった原因があるようにも思います。  で、今回は最初から「SFを書いてみませんか」という形でお誘いをいただいて、それで書いたのがこの作品なのですが、ちゃんとSFになっていますでしょうか? また「イロモノ」に仕上がっちゃってたりします? 書店でここを読んでるあなた、ちょっと試してみませんか?  ま、この本を手に取ってくださった方々に、楽しく読んでいただけさえしたら、作品にどんなレッテルが貼られようが、そんなの、ぜんぜん大したことじゃないんですが。  それと、少なくとも次作を出せる程度には、売れてほしいなあ、と思います。やっぱり。  二〇〇一年九月二十日[#地付き]乾くるみ [#改ページ]    解説/センス・オブ・ワンダーランドのガウディ[#地付き]大森 望  デュアル文庫の読者には乾さんの小説を初めて読むって人も多いと思うんで、「乾くるみ」がどんな作家なのか簡単に紹介してくださいよ。  というのが本稿に与えられた使命だが、簡単に紹介するのは簡単ではない。  第四回メフィスト賞を受賞した『Jの神話』(講談社ノベルス)で一九九八年二月に作家デビュー。その後、おなじ講談社ノベルスから、『匣の中』(九八年八月刊)、『塔の断章』(九九年二月刊)を発表。二年半ぶりの新刊となる本書が四冊目の著書——みたいな書誌情報は簡単に紹介できるんだけど、さて乾くるみとはどんな作家なのか。  あえて一言で形容すれば、乾くるみは�へんな作家�である。  だいたいデビュー作の『Jの神話』からして、思いきりへんな小説だった。珍品の宝庫と言われるメフィスト賞歴代受賞作の中でも一、二を争う怪作で、ちょっとネットを検索してみればすぐわかるとおり、読んだ人の評価は毀誉褒貶真っ二つ。もちろん大森は絶賛派で、この小説をなんの予備知識もなくゲラで読んだときの衝撃は忘れられない。  舞台は全寮制の名門女子高。学園に君臨するカリスマ生徒会長、朝倉麻里亜が子宮からの大量出血により変死。妊娠の痕跡があるにもかかわらず、なぜかその子宮からは胎児が消失していた。麻里亜の父の依頼で、�黒猫�と呼ばれる女探偵が調査に着手する……。  なんというか、どこかの国のエロゲーみたいなベタベタの設定で、なぜこれがメフィスト賞? と首をひねりつつページをめくってたんだけど、まさかこう来るとはなあ。 『お約束のプロローグ、ありがちな舞台、おきまりの事件と美貌の女探偵。しかし、ああしかし……。/断言しよう。この結末はだれにも予測できない。/九八年度ミステリ裏ベストワン、はやくも決定。』ってのは、大森がその驚愕もさめやらぬまま同書初版のオビに書いた紹介文ですが、この感想は今も変わらない。  SF方面では、認識的異化作用とか、センス・オブ・ワンダー(驚異の感覚)って言葉がよく使われるけど、それをメタレベルで実現したのが『Jの神話』だと言えなくもない。この種の�だまされる快感�を愛する人間にとって、乾くるみ作品は圧倒的にクセになる。  つづく第二長篇『匣の中』は、竹本健治の傑作『匣の中の失楽』にオマージュを捧げた思いきりマニアックな本格ミステリ。ふつうならメタミステリ的な着地をめざすところなんだけど、ラストは驚天動地の大技が炸裂。この結末も、予想できる人はまずいないと思う。  ぐっと薄くなった第三作『塔の断章』は、一転して、ごくふつうのフーダニット。のように見せかけて、これまた鮮やかな逆転が決まる。意図的に時系列をばらして提示されてゆく短い断片群。『匣の中』と同様——ただし全然違う意味で——�時間のコントロール�がテーマになる。まあたいていの本格ミステリは結末に向けて収束してくもんですが、収束した瞬間、それまで読者が認識していた世界観が音を立てて崩壊していくのがこの小説の特徴。  三作に共通するのは、ものすごく精密に設計図が引かれていること。ただしその精密さは快適な居住性やくつろぎの日常空間をまったく保証しない。お客をいかにびっくりさせるか。ただそれだけを目標に、細部まで綿密に計算した異形の大建築が論理的に構築されてゆく。本格ミステリの建築資材を使いながら、ひたすらセンス・オブ・ワンダーを追求するのが乾くるみ。そのためには建築法も消防法も平気で踏みにじる。こんな家に住めるか! と怒り狂う読者がいたってへっちゃらなのである。  では最後に、この『マリオネット症候群』はどうかというと、始まりは意外とふつう。  目を覚ますと自分の体に他人の人格が乗り移っていた——って設定はそう珍しくない。人格転移モノってことでは、SFファンなら、新井素子『あたしの中の…』やグレッグ・イーガンの短編「貸し金庫」、ミステリファンなら西澤保彦『人格転移の殺人』、北村薫『スキップ』、東野圭吾『秘密』なんかを即座に思い浮かべるところだろう。  ただし、この小説の語り手、十六歳の自称�可愛い女子高生�の御子柴里美は、一方的に体の支配権を奪われてしまい、自分では指一本動かせず、乗り移ってきた相手とコミュニケーションをとることもできない。マリオネットのように他人の意思に操られて動きながら、ただ観察し、なにがどうなっているのか考えるだけ。  そうこうするうちに、乗り移ってきた人格の本体(?)は憧れの森川先輩だったという(�私�にとって)衝撃の事実が判明。いつも前向きでかっこよくてハンサムで運動神経抜群の(一部推定含む)森川先輩はサッカー部のキャプテンで、もちろん�私�は森川先輩に片思い中だ。好きよ好きよキャプテン、とつい歌っちゃうリリーズ・ファンはデュアル文庫読者には少数派だと思いますが(昔、そういう歌があったんです)、このへんのギャグセンスは『Jの神話』に通じるものがあったり。  いつも前向きな森川先輩は、とりあえず里美になりすましてようすを見ることにしたらしく、持ち前の機転で日常生活を切り抜けていく。それを体の中から見守る(?)�私�としては、うれしいような悲しいような、恥ずかしいような誇らしいような、複雑な気分。  さらに、その森川先輩(の本体)は何者かに毒殺されていたことが明らかになり、かくして物語は、被害者自身が探偵役となって毒入りチョコレートの謎を解く、バークリーもびっくりの本格ミステリになだれこんでいく(アントニー・バークリーの古典的名作『毒入りチョコレート事件』は創元推理文庫で読めます)——のかと思えば、なにしろ語り手の�可愛い女子高生�はミステリ音痴なんでそんなの知ったことじゃない。意表をつきまくる後半の展開は乾くるみの真骨頂。論理のエスカレーションから導かれためくるめくセンス・オブ・ワンダーが存分に味わえる。もっとも、前三作と比べるとへんてこさは抑え気味(これでも!)なので、初めての人でも安心。乾くるみ入門にはうってつけの一冊だ。 [#改ページ] マリオネット症候群 2001年10月31日 初刷 著 者  乾くるみ 発行者  松下武義 発行所  株式会社徳間書店