泡坂妻夫 喜劇悲奇劇 目 次  序章 今《いま》しも喜劇《きげき》  1  豪雨後《ごううご》  2  期待《きたい》を抱《いだ》き  3  ウコン号《ごう》  4  たんこぶ権太《ごんた》  5  唄子《うたこ》が答《こた》う  6  罪人秘密《つみびとひみつ》  7  イザナミ読《よ》みなさい  8  抜《ぬ》け穴開《あなあ》けぬ  9  危険劇《きけんげき》  10  死《し》んだ異端児《いたんじ》  11  虎《とら》らと  12  ウロタエタロウ  13  死因縊死《しいんいし》  14  月並《つきな》みな傷《きづ》  15  罪《つみ》に満《み》つ  16  どこまで真実《まこと》  17  まさか逆《さか》さま  18  予期《よき》した死去《しきよ》  19  大敵《たいてき》が来《き》ていた  終章 奇劇《きげき》も仕舞《しま》い 序章 今《いま》しも喜劇《きげき》  台風《たいふう》とうとう吹《ふ》いた。  風がますます強くなる。空が悲鳴に似た息遣いをしている。吹き千切《ちぎ》れて飛んでいた黒雲は、豪雨とともに見えなくなった。生ま暖かな白い雨があたりを包むと、空と海の境界も消えた。  波が高くなり、無気味に船を揺り動かす。船は一切の装飾が取り払われていた。きらびやかな鮮黄色の船体も、今では重い朽葉《くちば》色に見える。岸壁との衝突を避けるため、船は沖に出て錨《いかり》を流し、暴風雨の中に、じっと息をひそめて、台風の通り過ぎるのを待つしかなかった。  マリアナ群島近辺で発生した台風一三号は、数日後、中心気圧九五〇ミリバール、中心付近から半径二〇〇キロ以内では秒速三〇メートル以上の暴風雨、六〇〇キロ以内では二五メートルの強風を持つ大型の勢力となった。その年は、中緯度地方で吹く、上層の偏西風が弱かったため、台風の進行速度も遅くなり、進路は迷走型だった。台風は何度か気象庁の予測を裏切った後、勢力が衰えぬまま、速度を早め、関東地方の太平洋側に接近する、最悪のコースをとり始めた。  レーンバンド(降雨帯)は関東から西の太平洋側の地方に拡がり、前日から断続的な豪雨が降った。台風は七月一日明け方に伊豆半島へ上陸。同じ日の午後四時過ぎには関東地方も暴風雨圏内に入り、東京で最大風速三二メートル、一時間に四五〇ミリの降雨を記録した。  デッキは川みたいになっていた。  船長の大館道夫《おおだてみちお》と機関技師の有田光次《ありたみつじ》は、ゴム合羽《がつぱ》に身を包み、横なぐりの雨の中を、ライフラインにすがりながら、デッキを一周したところだった。船はよく整備されていて、破損した個所は一つもなかった。  船は一八〇〇年代に活躍した蒸気船を模した構造である。船尾に大きな水車を付けた船尾外輪船で、その外輪が気がかりだったが、強い風雨にも充分堪えていることが判った。  船の点検を終え、上甲板に出て、最後に虎《とら》の檻《おり》へ廻ってみた。  頑丈な雨除けのシートがあったが、檻の中は水びたしだった。四匹の虎は檻の隅にうずくまっていて、光る目を二人に向けた。 「元気のないのが一匹いると聞いたな」  と、大館が言った。 「トオトって奴です。昨日から変に弱っているそうです」  機関技師の有田は、檻の奥を透かすように覗《のぞ》いた。 「こうして見ると、我我には虎の顔は全部同じに見えますね」  虎は上海《シヤンハイ》百戯団のものだ。中国では虎を使う芸を「虎術《こじゆつ》」というらしい。大館は調教師の劉雪山《りゆうせつざん》が、虎は猫よりも大人《おとな》しいと言っていたのを思い出した。 「虎達は台風に出会ったことがあるだろうか?」 「さあ、どうでしょう。虎達はフランスのサーカス一座の中で生まれたといいますから」  大館は檻の扉を調べた。がっしりした錠前に異状はなかった。大人しいといっても虎は猛獣だ。暴風雨に驚いて、檻を抜け出したりなどしては一大事だ。  二人は虎の檻を離れ上甲板の操舵《そうだ》室に戻った。  操舵室ではクルー(乗組員)の福井孝《ふくいたかし》がラジオを聞いていた。 「どうやら、今が峠のようです。あと一時間もすれば、かなり静かになるでしょう」  と、福井が言った。大館は時計を見た。そのときの時刻は、五時二十分であった。 「明日は晴れますよ」  と、有田が言った。 「一、二日後でなくてよかった。明後日は初日だからな。初日に荒れたのでは幸先《さいさき》が悪い」  大館の言葉に、有田がうなずいた。 「芸能人たちは、かつぎ屋が多いものです」 「そりゃ、我我も同じだ」 「そうでした。他人のことは言えません」  大館と有田は濡《ぬ》れたゴム合羽を脱いで、ハンガーに掛けた。 「連中は部屋に籠《こも》り切りだろうか」  福井が答えた。 「劇場で稽古《けいこ》をしているグループもいるようですよ」 「熱心だな。全員、揃《そろ》ったんだな」 「飛行機の遅れで、座長も大分気をもんでいたようですが、最後に奇術師がぎりぎりで到着して、それで出演者が揃いました。ノーム レモンという、黒い髭《ひげ》を生やした外国人です」 「その男なら、座長の部屋の前ですれ違った。あれが奇術師か」  大劇場のバラエティショウは、アニメーション映画に始まり、ハワイアンショウ、危険術、コミック体技、虎術を中心とする上海百戯団の曲芸など、盛り沢山に編成されている。 「大入りにさせたいものだな」  と、大館が言った。 「台風が行ってしまえば、初日まで間違いなく晴天が続きますよ。そうすれば、船に入り切れないほど、お客さんが押し掛けて来るに違いありません」  有田が太鼓判を押した。 「珍しい興行ですから、新聞やテレビ、方方で取り上げられているでしょう。不入りなんてことは考えられませんね。前夜祭と初日にも、テレビが取材に来る予定になっています」  天井近くのスピーカーから、トランペットの音が響いてきた。スピーカーは舞台に連絡されていて、舞台の進行状態が判るのである。  トランペットにギターが加わり、更にドラムやサックスの音も聞こえてきた。ハワイアンショウの稽古が始まるところらしい。バンドは〈ランペ健治《けんじ》とブルーバーズ〉、ダンスは〈スターレッツ〉というハワイの女性ダンサー達だった。  元気のよいダンサーの掛け声が聞こえたとき、電話器が鳴った。  福井がすぐ受話器を取り上げ、大館の方を見た。 「船長、座長からです」  大館は差し出された受話器を受け取った。 「はい、大館です——」  だが、受話器からは変な雑音が聞こえるだけだ。 「変だな?」 「さっきもそうでした。船の内線電話の調子が悪そうですね。受話器を置いて待っていて下さい。また掛かって来ますよ」  と福井が言った。大館はその通りにした。すると、福井の言った通りベルが鳴った。  大館は受話器を受け取った。響きのよい、床間亭馬琴《しようげんていばきん》の声が聞こえた。 「ちょっと話があるんだが、私の部屋へ来てくれないかね」 「どんなことでしょう」 「いや、部屋で話す」  馬琴はそれだけ言うと、電話を切った。 「ちょっと座長の部屋に行って来る」  大館は有田と福井にそう言って、部屋を出た。  大館は船員用の昇降階段を降りた。  操舵室の下には無線室と医務室がある。その下は食堂の調理室で、デッキに出ることができる。更に階段を降りたところが廊下で、階段の傍《そば》に馬琴の部屋がある。船首の方は一般の娯楽室やカクテルラウンジ、クラブに通じている。船尾の方は機関室で、その横を進むと、劇場の楽屋に登る階段があり階段の向う側には、劇場関係者たちの船室が並んでいる。  大館が階段を降りると、馬琴はもう自分の部屋の前に出ていた。 「座長、何か?」 「うん、出演者の船室に、何か起こったらしいんだ。これから、行ってみる」  馬琴は先に立って歩き出した。  機関室の横の通路は狭く、人一人がやっと通れるほどだ。その上、暗く、暑い。  機関室を過ぎたところに階段があり、登ると舞台の楽屋裏に出る。降りると船艙《せんそう》だ。  馬琴は階段に出たところで、立ち止まった。  廊下は更に船尾の方へ続き、両側には船室が並んでいて、一番奥が共同の湯沸《ゆわかし》室とシャワー室になっている。暗い廊下に何人かの人影が見える。 「私の部屋に電話を掛けたのは?」  馬琴は人人を見渡した。  太い横縞《よこじま》のシャツに短い吊《つ》りズボンの衣装が、たんこぶ権太《ごんた》だ。その向うにドクター瀬川《せがわ》とイザナギが立っている。こちらに背を向けている肥った背中は、イザナギの妻のイザナミに違いない。全員が一番手前にある右側のドアに視線を向けていて、八字髭の劉雪山がそのドアを叩《たた》いているところだった。 「僕です」  と、道化師《クラウン》のたんこぶ権太が答えた。 「この部屋で大きな音がしたんです。ドアの前にいたイザナミさんが、人の唸《うな》り声を聞いたという……」 「誰《だれ》の部屋です?」 「ノーム レモンの部屋だ」  ノーム レモンは最後に乗船した奇術師だった。  馬琴はレモンの部屋に近寄った。大館も馬琴に従った。雪山がドアに耳を当てた。 「……確かに、レモンさんらしい声がします」  と、雪山が言った。 「病気か?」 「マスターキイを使ったらどうでしょう」  と、大館が言った。 「キイは唄子《うたこ》さんが事務長のところへ取りに行っているんですがね。遅いな。どうしたんだろう」  と、権太が言った。 「やむを得ない。ドアを毀《こわ》そう」  馬琴が雪山に指示した。  雪山の大きな身体がドアに体当たりした。二度、三度、身体を打ち付けると、木製のドアは、めりめりと音を立てて、最後には、内側に突き飛ばされた。 「あ……」  部屋の中を覗いた雪山が、たじたじと後ずさりした。 「レモンさん……」  ぽっかりと開いたドアに、人の姿が現われた。部屋の明りを背にしているので、顔の表情は判らない。その姿は今にも崩れ落ちそうな足取りだった。  レモンは、一歩、部屋の外に出た。 「あっ、それは……」  イザナミの肥った身体が、くたくたと廊下に坐り込んだ。  廊下に出たレモンを見て、集まった全員も立ち竦《すく》んでしまった。  レモンの左|脇腹《わきばら》に、深深と突き立った、短剣の柄を見たからだった。  レモンはざんばら髪で、黒いガウンを着ていた。腰に同色の帯を小さく結び、短剣はその帯のちょうど上に食い込んでいるのだ。その部分のガウンの生地が、赤く染まっている。 「ウ、ウォーター……」  レモンは顔を歪《ゆが》ませて、けつまずくように歩き出した。 「動いちゃだめだ」  馬琴が大声で言った。  船が揺れた。レモンは廊下の壁によりかかった。がりがりと壁が鳴った。レモンの腹を突き抜けた刃物の先が、壁をひっかいた音だった。  レモンは馬琴の手を払い除《の》けると、乱れた足取りで廊下を進み、階段を登ろうとする。  イザナギがレモンの脚にすがろうとして、突き飛ばされ、階段の下に転がった。代わって、大館と権太がレモンの後を追う。レモンは最後の力を振りしぼっているようだった。  一階にたどり着くと、レモンは何を思ったのか、サイドデッキに出るドアに手を掛けようとした。 「開けちゃいけない。外は危険だ」  と、大館が叫んだ。  だが、一足遅かった。レモンはドアを開いた。どっと風雨が舞い込んだ。  大館と権太、ドクター瀬川と馬琴も、前後してデッキに飛び出した。  滝のような雨の中で、ライフラインに背をもたせ、短剣の柄を両手で握っていたレモンが腹の短剣を引き抜いたのと、両|膝《ひざ》を着いたのと、同時だった。デッキが真っ赤になり、雨がそれを押し流す。  近付こうにも、レモンの短剣の切っ先が向いているので、ただ見守るしかない。 「誰が、こんなひどいことを……」  権太が大声を上げたが、レモンが理解したか、どうか。  レモンは空《うつ》ろな目を開いていたが、突然、短剣をデッキに放り出した。馬琴の足元だった馬琴はあっと言って飛び退《の》いた。  それがレモンの最後の力だったようだ。レモンはデッキに倒れかかると、風に吹き飛ばされるように、ライフラインの間から、ずるずると落ちてゆこうとする。 「レモンさん!」  短剣がレモンの手になくなったのを見て、権太が走り出た。だが、瞬間遅かった。権太の手は、辛くもレモンの帯の結び目に掛かっただけだった。レモンの身体は、全員が見ている前で、水面に落ちて行った。  水面は一面の水煙りだった。大館は黒いガウンが流れるのを見たが、それもわずかな時間だった。レモンを飲み込んだ水面は、すぐに波紋も消えた。そのまま、レモンの姿は、二度と浮かんでこなかった。 「駄目だった……」  権太は手に残ったレモンの帯を見て、呆然《ぼうぜん》としていた。 「警察に、早く……」  と、誰かが言った。 「ちょっと待ちなさい」  馬琴は顔を歪めていた。瀕死《ひんし》のレモンの表情が移ったようだった。 「レモンには気の毒ではあるが、明後日が初日であることを、お忘れにならぬように——」  馬琴は厳しい表情で、デッキに集まった全員を見渡した。 「よろしいですか。レモンの屍体《したい》は誰かに見付かり、警察に通報されるかも知れない。そのときは、勿論《もちろん》レモンだということを認めなくてはなりませんが、レモンは、どこか、別の場所で災難に会ったのです。決して、このデッキから海に落ちたのではない。よろしいですね」  馬琴はずぶ濡れになったまま、立ち尽くしていた。デッキにいるのは、大館道夫、たんこぶ権太、ドクター瀬川、劉雪山、イザナギ、それだけだった。 「見ざる言わざる聞かざるですか……でも、助手のグラントさんが」  と、権太が言った。 「グラントさんはどこにいる?」 「さあ……さっき舞台から大きなトランプを運んでいましたが」 「よろしい。グラントさんには、後で私から事情を話しましょう」  デッキに散った血の色は、大量の雨に流されて、ほとんど消えかかっていた。 1 豪雨後《ごううご》  台風一過。抜けるほど空が青い。  うっかりと外を見たとたん、目にしみてしまい、楓七郎《かえでしちろう》は思わず頭を抱えた。目覚めたときから続いている頭痛が、眩《まぶ》しさで一しきり増幅されたのだ。  いつもなら、起きている時刻ではなかった。カーテンを引かなかった窓からの陽差《ひざ》しが、顔へまともに照り付けたので、それ以上寝ていられなかった。  ドアも半分開いたままだった。部屋に入ると、そのまま倒れ込んで寝てしまったようだ。右腕が卓袱台《ちやぶだい》の足に、妙に食い込んだままだった。立ち上がったとき、腕は不随意筋になってしまったようで、思うように動かなかった。  部屋は暑く、七郎はむかむかしていた。シャツは濡れてじとじとだった。玄関|傍《わき》に放り出された服は、泥にまみれて、ぼろ雑巾《ぞうきん》みたいになっていた。  長いこと雨の中をほっつき歩いていたことは確かだが、どこをどうしていたのか、一向に記憶がなかった。ずぶ濡れの服を見ると、河の中で泳ぎ廻っていたとしても、不思議はない。  口の中が酸《す》っぱくなっている。新聞を拡げる気にもならない。流し台に立って口をすすぐと、固い物が飛び出した。奥歯のうろに詰めてあったアマルガムだった。七郎はそれを拾い上げたが、すぐごみ入れに放り込んだ。  舌で奥歯のうろを探る。寒気に似た嫌な気分だった。  汚れて不透明になっているコップに醤油《しようゆ》をたらし、唐辛子《とうがらし》を加える。納豆《なつとう》の残りがあったのを思い出して、それもぶち込み、最後になみなみとウィスキーを注ぐ。掻《か》き廻す物を探すのも面倒になり、そのまま喉《のど》に流し込んだ。  身体にアルコールが入ったと思うと、少し気分が落着いた。部屋の真ん中にひっくり返って、天井を睨《にら》む。  ——雨の中、傘もささず、またたきもせず、ラワンデルの酒の香りと……  ふいに、小節《しようせつ》のいくつかが、頭の中に泛《うか》び、消えていった。  唄子が好きだった曲だ。七郎は歯を噛《か》み、顔をしかめた。  ……ということは、夜中じゅうその歌をわめき散らし、あるときは、こうして奥歯を噛みしめていたに違いない。  ……違いない。嵐《あらし》の中で酔っているうち、唄子のことが妙に頭へからみ付き、規沙江《きさえ》の店に寄ったのだ。だが「ケイプ」には灯がついていなかった。  ドアを押すと、がらんとしたカウンターの向うで、東野《とうの》がぼんやりと煙草《たばこ》を吹かしていた。 「どうしたい? 成績の良い顔じゃあないな」  と、七郎が言った。東野は私設競馬に手を出しているのだ。 「警察がこのところ喧《やかま》しくなってるんです。ですから、ずっと遊んでないんです」  東野はにこりともせずに言った。 「看板に電気がついてない」 「店なら、お休みです」  七郎はあたりを見廻した。そう言えば椅子《いす》も重ねられたままだ。 「規沙江はいないのかい」 「ママは禿《は》げました」 「禿げた?」  ほろ酔いの七郎は、聞き違えたのかと思った。だが、東野が言い違えたのだった。 「済みません。考え事をしていたものですから。ママは禿げたんじゃなくって、逃げたんでした。風と共に去る、とか言って……」 「誰と逃げた?」 「今は——言えませんが」 「大体……見当は付いている」 「じゃあ、余計言いません」  規沙江はしっかりした女性だった。先をよく読み、自分の限界を知ると、さっさと芸能界から身を退《ひ》いて、商売に打ち込んだ。芸への熱意も失《う》せ、転身の勇気も持たない七郎とは大きな違いだ。その規沙江なら、誰と逃げようが驚かない。一|旦《たん》こうと思い定めたら、七郎に相談する閑《ひま》もなく、行動を起こしたのだろう。七郎はしみじみと規沙江の性格が羨《うらや》ましくなった……  そのとき、七郎の部屋の電話が鳴った。  ろくな電話でないことは判っていた。このところ、七郎はほとんど仕事がなかった。昼間は麻雀《マージヤン》、夜は酒の生活だった。変な電話にわずらわされたくなかった。七郎は手洗いに立った。  部屋に戻ると、電話は静かになっていた。 「どこへ逃げた。王子《おうじ》あたりかな」 「もっと遠くです」 「じゃ、男の故郷、千葉か」 「海を越えます」 「八丈島《はちじようじま》 あたりか」 「もっと遠く」 「アメリカか」 「もっと遠い」 「月か」 「よりも、近いね」  東野は水割りを作った。七郎は乾杯した。 「禿げた……じゃない。逃げた規沙江のために」  だが、七郎は気持良く酔えない気分だった。 「規沙江は逃げられた男のことを考えたことがあるんだろうか」 「あの人は、本当はばかだったんです」 「そうだ。規沙江はばかだ……」  唄子のことを話し合える人間がいなくなってしまったのも打撃だった。それから、変に酔い始めたのだ。  ……唄子も、規沙江も、皆、ばかだ。  夜通し飲んで、雨上がりのぬかるみにでもはまり込んだに違いない。  ——ラワンデルの酒の香りと、剣の光……  騒騒しくはしゃいでは無闇《むやみ》に悲しくなって、奥歯を噛みしめ……  電話がまた鳴りだした。七郎は根負けがして受話器に手を伸ばした。 「おい、俺《おれ》だ」  横柄《おうへい》な声が聞こえた。 「誰でしょう」  七郎は他のことに、まだよく頭が動かなかった。 「ばか。俺の声を忘れたか。片平《かたひら》だ」  片平|義雄《よしお》とはしばらく会っていなかった。七郎を忘れたのは片平の方だと言いたかった。 「どこへ行っていたんだ?」 「トイレか、何かでしょう」  七郎は惚《とぼ》けて答えた。 「ばか言うな。電話をしたのは、これで三度目だ。また、酔い潰《つぶ》れていたな」  そう言えば、夢うつつの間にも、呼出音を聞いたような気もする。 「潰れるまで飲めるほど、働きがありやしませんよ」 「ということは、働く気はあるわけだね」 「働かなければ、食べられません」 「向う一月の予定は?」 「過去一月の予定もありませんでした」 「じゃあ、すぐ事務所へ来てくれ」 「仕事の話だったんですね」 「何だと思っていたんだ」 「いえ、すぐ行きます。有難うございました」 「ちょっと待て……向うには虎《とら》がいる」 「心配しないで下さい。もう、酔って舞台へ立ったりはしませんから」 「酔っ払いの虎じゃあない。本物の虎だ」 「本物……の?」 「そう。吠《ほ》えて、動く奴。そいつを舞台で消して見せる奇術師が欲しいと言うんだ」 「そんな仕事は朝飯前です。以前、二十匹の象を一遍に消して見せるアイデアを考えたことがあります」 「実際に演じたわけじゃなかろう」 「象の数が揃わなかったんです」 「道具を作る資本もなかったんだろう」 「よくご存知ですね」 「向うの言うのは、虎が一匹だけだ。道具もちゃんと揃っているらしい」 「……変ですね」 「何が?」 「奇術の道具があって、奇術師がいないんですか?」 「そういうことになるな。何でも、急いでいるらしい。すぐ来てくれ」 「ちょっと待って下さい。〈ケイプ〉の規沙江が逃げました」 「……誰だい、それは?」 「元、流行歌手だった女性です」 「……知らないな」 「そうですか……それじゃ、すぐ行きます」  七郎は電話を切って、息を吐いた。  考えればこの二、三か月、ほとんど仕事らしい仕事をしなかった。理由は痛いほど知っている。酔って舞台へ出ては何かとしくじる。やる気がないから、芸に迫力がない。心が表に出て、舞台が陰気になっている。自分を見ている観客が面白くもおかしくもない顔をしているのがよく判る。  誰もが七郎を見向きもしなくなった。ただ、片平だけが別だった。その片平とも、大喧嘩《おおげんか》をしてしまった。唄子のことを言われたからだ。そのときも酔っていた。それが、最後だった。だからこの電話は、涙が出るほど有難かったのだ。ただ、片平は七郎を見さえすれば説教を始める。それが難だが、今度だけはそれに逆らうまいと思った。  鏡を見ると、顔がむくんでいる。顔を掌で叩いてみる。目が黄色く濁り、無精髭《ぶしようひげ》が一センチも伸びて、髪はすり潰されたような寝癖が付いていた。  髭を剃《そ》り、髪を梳《と》かしたが、服は着られる状態でなかった。仕方なく、昔使っていた舞台用のダークスーツを引っ張り出し、蝶《ちよう》タイを締めた。  そのまま出ようとしたが、考えなおして、窓を開けた。濡れた服を干すためだった。ポケットを探ると、煙草の袋と名刺が丸まって出てきた。両方とも使いものにならない。あとはライターや小銭など。  ズボンを物干竿《ものほしざお》に通したとき、ふと言葉が泛《うか》んだ。 「ズボン干す……」  何だか妙な語感だった。だが、それは何が原因だか判らなかった。  片平の事務所は、上野《うえの》の裏通りにある雑居ビルの五階だ。一階が大衆食堂で、狭い入口の奥にエレベーターがあった。強い香水を付けた人間が乗った直後らしい。ぎしぎしと箱が動いたとき、頭がくらりとした。二日酔いと迎い酒のためだろう。七郎は「YK企画」と書かれたドアの前に立って、一つ大きく息を吸った。  部屋は一間で、医院を思わせるようなスクリーンが、部屋を二つに仕切っている。ドアに面してポータブルテレビが置かれ、その手前に安っぽい応接セットがごちゃごちゃと並んでいた。クーラーの音が騒騒しい。その割に部屋の温度はそう低くなっているとは思えない。  片平義雄はワイシャツに黒っぽいネクタイだった。丸い顔に黒縁の眼鏡を掛け、額が抜け上がって、年齢よりは老《ふ》けて見える。黄色い船のポスターを背に、新聞を拡げていたが、七郎の顔を見ると、 「ほう、正装で来たな」  と、新聞をテーブルの上に放り出した。 「だが待てよ。そりゃあ、飲んでいそうな顔だぞ。息をしてみろ」  七郎は苦笑して、椅子に腰を下ろした。  ソファの隅に、皮のバッグが置いてあった。若い女性の持ち物らしい。 「富《とみ》ちゃん、元気ですか?」  と、七郎は話題を逸《そ》らそうとした。 「ああ、元気だよ。今、土浦《つちうら》の丸三《まるさん》醸造へ行っている。社員慰安会の準備でね」 「ははあ、そこの仕事ですか」 「違うね」 「違う?」 「誰がお前を酒造会社へやるものか」 「すると?」  片平はそれには答えず、煙草に火を付けた。 「七郎君。ところで、今年、いくつになりました?」  七郎はそろそろ来たなと思った。片平が君付けで七郎を呼ぶようになるときが危険なのだ。 「年齢に関係のある仕事なんですか」 「年齢には関係ないが——三十五か?」 「冗談じゃあない。まだ、二、ですよ」 「芸人が老けて見えるというのは、得《とく》なことじゃないねえ」 「それに、朝から飲んでいるというのも、いけませんねえ」 「俺の言いたいことを、先廻りして言うな。判っているのなら、なぜ毎日そんなに飲んだくれているんです」  片平は背筋を伸ばし、左腕の肱《ひじ》を右手でつかんだ。片平が説教をする前の、独得の姿だった。 「なあ、七郎。俺はお前がこのまま駄目になってしまうのを見ていられないんだ。なぜ真剣に仕事に打ち込まない?」 「……最初、勘違いしてしまったんです。僕は奇術師に不向きな人間だったんです」  七郎は奇術が好きだったわけではなかった。たまたま、アルバイトで一城《いちじよう》の道具運びをしていただけだった。その一城から「奇術を教えてやろうか」と言われ、ふとその気になった。学校は一向に面白くなく、教室へはほとんど顔を出していなかった。七郎が好きだったのは一城であり、奇術ではなかった。後でそのことが判ったが、そのとき人生を転じることは性格的にできなかった。 「それは正しい」  と、片平は言った。 「君の芸はちっともうまくないし、面白くもない」 「その上、陰気です」 「今日は怒らないな」 「怒りません。本当のことだからです」 「大分、苦労しているようだな。じゃあ言うが、お前はまだ唄子のことを忘れられないでいる」 「……多分」 「それが一番いけない。奇術はいくら努力しても名人になれるとは限らないが、女のことならすぐ立ち直れる。この俺を見ろ」 「……しかし」 「本当にそれでいいのかね。それで、お終《しま》いでいいのか」  七郎はその言葉に、ぞくりと冷たいものを感じた。  他人の目から見ると七郎は「それでお終い」に見えるのだろうか。そういえば、唄子がいなくなった時期にはまだ意地があった。本気で芸に打ち込んだ。その努力が報われぬと、芸名を変えて出直すことまで考えた。だが、いつの間にかそんな気持も消え、まだまだと思っているうちに、実際は相当にひどく落ち込んでいて、それでお終いだと思われているのか。 「そりゃ、困ります。といって、どうすることもできません」 「だから、俺が力になってやろうと言うんだ」  七郎は早く説教から逃れたかった。 「電話の話は、どういう仕事ですか?」 「その前に、今度の仕事には一つの条件がある」 「どんな条件でしょう」 「むずかしい条件じゃない。仕事の間は、絶対に酒を飲まないこと。どうだ?」 「それなら簡単です。僕は重症のアル中なんかじゃありません。一晩や二晩、酒などなくても平気です」 「早合点するな。今度の仕事は、田舎《いなか》のお祭りや、歌謡ショウの妻なんてものじゃない。最初の契約が一月。相手に気に入られれば、もう一月契約が延ばせる。どうだ?」 「……ビールを飲んでもいけませんか」 「いかん。アルコールは一滴も駄目だ」 「それは、片平さんが言っているのでしょう。興行主が言っているわけじゃないんでしょう」 「嫌なら止《よ》せ。この話はなかったものと思え」  七郎はじっと考えた。この仕事を断わったのでは、夏中仕事にあり付く当てがなかった。酒などは隠れて飲めば、不自由はしないだろう。嘘《うそ》も方便だ。 「——覚悟をしました。一切、酒を飲まずに働きます」  と、七郎は素直に言った。 「さすが、俺の目に狂いはなかった。七郎はまだ芯《しん》まで腐ってやしなかった」  片平は満足そうだった。 「まあ、ぶらぶらしているとき、断わる手はないがね。悪くない仕事だよ。出演料の他、三食の賄《まかな》いと、宿泊費が只《ただ》になる」 「——というと、地方を巡業でもするわけですか?」 「いや、最初の一週間は東京、次は横浜、鎌倉《かまくら》と続く」 「?」  七郎はちょっと考えた。東京の興行で、賄い部屋付きとは、あまり聞かない。 「判らないかなあ。これだ」  片平は親指を突き出して、肩に乗せた。 「ウコン号のバラエティショウ。昨日、電話が入ってね。急に奇術師が一人必要になったという。そこで、七郎のことを思い出したってわけだ」  七郎は片平の後ろに貼《は》ってある、大きなポスターを見た。  青い海に鮮黄色の船が一杯に描かれてあった。最初に目に付くのは、船尾に取り付けられている巨大な外輪である。外輪は白いしぶきをはね上げながら船を押し進めている。 「昔の、蒸気船ですね」 「そう、懐しの蒸気船が蘇《よみがえ》ったんだ。蒸気機関車と同じだ。いかにも機械が船を動かしている感じがするなあ。沢山の夢を乗せているように見えるだろう」  船は三層で、上甲板の上に黒い二本の煙突が煙を上げている。日章旗やチューリップの旗が何本も見える。船体には〈UKON〉という真っ赤な文字が大きく書かれ、デッキには派手なテントやパラソルが並べられていた。  ポスターには大きな字が踊っている。「ショウボート ウコン号 豪華なショウ、ビアガーデン、大食堂、クラブ、娯楽室を満載 港の景色の中を遊覧 七月二日 処女航海……」 「ウコン号ね」 「知らないのか?」 「ここのところ、新聞もろくに開きませんでしたし、テレビも毀《こわ》れたままになっていて、見ていません」 「自慢するような話じゃないな」 「でも、その船は東京を振り出しに、各港を巡航してゆく、ショウボートだぐらいのことは知っています」 「ショウボートで有名だったのは、アメリカのミシシッピ川だろうなあ。ショウボートは小説にもなったし、ミュージカルにもなった。後年は何度も映画化された。だが、十九世紀の末の話だった」 「それを復活させたんですね。でも、建造費が大変だったでしょう」 「このポスターには処女航海などと書いてあるが、厳密に言えばそうじゃない。ウコン号は右近丸《うこんまる》という輸送船を改造した船なんだ。無論、輸送船と蒸気船とじゃ、構造が違うから、外輪が付いていても、これだけで進むわけじゃない。船にはちゃんとエンジンが付いているが、どうだい、外装はどこから見ても昔の蒸気船になっているだろう。元の右近丸は、四十五年前に建造された、岩波《いわなみ》汽船の輸送船でね」 「四十五年前というと、処女どころか、大変な姥桜《うばざくら》じゃありませんか。それがどうして厚化粧したショウボートに変身したんですか?」 「四十五年も年を重ねれば、船だって色色な運命に会う。当時の右近丸は輸送船として大きな方じゃなかった。まあ沿岸を巡航する、小廻りのきく船だったんだが、戦争になると、軍に徴用されて、兵隊や兵器の輸送に当てられたんだ。船は改造され、船体も真っ黒に塗り潰されてね。護衛艦に付き添われて、他の船とともに輸送船団に加わっていたわけだ。そのうち戦争が終わる。この戦争では、大多数の船が沈められてしまったろう。日本の海運界は最大のピンチに立たされた。右近丸も敗戦の間際、右舷《うげん》に魚雷を受けて大破されたんだが、奇跡的に沈没を免れていた。右近丸はその修復を受けると、休む間もなく、外地からの引揚者を運ぶ、引揚船として活躍するようになったね」 「戦争で大変だったのは、人間ばかりじゃなかったわけですね」 「そりゃそうだ。動物園やサーカスの猛獣達は全部殺されたし、奇術師も大変だったんだぞ」 「猛獣達と同じでしたか」 「別に猛獣と奇術師を一緒にする気はないがね。松旭斎《しようきよくさい》天勝《てんかつ》は鉄製の奇術大道具を軍に供出して、全部弾丸にしてしまった」  この調子では、どんどん脇道に逸《そ》れてゆきそうだ。 「右近丸の運命は、まだ終わっちゃいませんよ」 「そうだった。……引揚船としての役目が一段落すると、まだ船が少なかった時代だから、捕鯨母船や冷凍船と、何度となく姿を変えては活躍してきたね。最後には、また元の輸送船に戻され、五年ばかり前までは、ロサンゼルス航路についていたんだが、何ぶん船は酷使された上、老朽してしまった。もう外洋は無理というわけで、沿岸の貨物を運送するようになった。これが、つい先ごろまでの話だ。もう、昔の面影はとっくになくなっていてね、またここで、大幅な改造も必要になったんだが……」  片平は左腕の肱を右手でつかんだ。 「船の建造費は昔のうちに償却し終わっている。となると、誰もが同じ考えになる。老朽船に金をかけるより、スクラップにしてしまおうということになり、すんでのところで右近丸は解体され、鉄屑《てつくず》にされてしまうところ、世の中には珍しい人がいて、その老朽船を買い入れようと言い出した」 「その人なら知っています。前後の事情は知りませんが、船を買ったのは、床間亭馬琴でしょう」 「ほう、よく知っているな。さすがは芸人同士だ」 「いや、ずっと以前、楽屋で誰かが読み捨てた週刊誌に出ていました」 「それがいけない。そんなときは嘘《うそ》でもいいから、買って読んだ、と言うんだ」 「これからは、そうします」 「床間亭馬琴については、どこまで知っているかい」 「まるで知りません」 「そうだろうと思った。じゃあ、ついでに教えよう。馬琴というのは芸名だ。生まれたのは修善寺《しゆぜんじ》の西川《にしかわ》という大きな宿屋で、名は琴之《ことゆき》。小さいときから道楽者で芸事が好きだった。たまたま、修善寺に来た旅廻りの一座に加わって、家を飛び出す。これが十六のときだったね。以来、芸人の生活が続くわけだが、そのうちには自分の一座を持つようになり、色色な芸人を育て、海外まで出掛けたこともあるが、最後まで芸能人としてはあまり運がなかった。現在、六十歳になるところだ。四、五年前に芸能界を引退して、自分の家の旅館西川を襲《つ》いだんだが、好きな芸事より、経営者としての才能があったとみえて、旅館を改築してホテル西川にしてから、業績がぐんぐん伸びるようになった」 「あのホテル西川は馬琴の持ち物でしたか。少しも知りませんでした。ホテル西川は修善寺だけじゃないでしょう」 「そう、熱海《あたみ》、箱根《はこね》、那須《なす》、日光《につこう》……大きいところだけでも十数軒はあるかな。馬琴が息子と協力してあれまでにした。息子は先代のもとで、ずっと旅館の仕事をしていたんだ。その馬琴は、右近丸のことをどこからか聞くと、また昔のことを思い出したらしい。芸人と何かは三日やれば止《や》められないという譬《たと》えの通りだ」 「酒飲みも同じことです」 「つまり、馬琴は右近号を手に入れて、海運業で儲《もう》けようなどという気持はなかった。船をショウボートに改造して、沢山の観客を集めてショウを見せる。自分はその一座の座長になりたかったわけだ。つまり、最初から採算は度外視。自分の余生を好きな芸の中に置きたかったんだと言う」 「そりゃ羨《うらや》ましい話です」  七郎は心からそう思った。自分が気が弱くなった証拠だろうか。 「それに、馬琴という男は、子供のときから船が好きだった。ほら、今でもいるだろう。列車や飛行機の図鑑を手に入れて、片っ端から形や名称や機能を覚え込んでしまう子供が。馬琴もそれと同じで、船舶マニアだった。現に、豪華な外洋クルーザーを持っているほどなんだがね。その馬琴は、昔たまたま、右近号の進水式に立ち会ったことがあるんだそうだ。これは、祝典の演芸に出演したのか、単に愛好のため、祝典を見に行ったのか判らないが、とにかく、右近丸の誕生に立ち会っているわけだ。また、実際に右近丸に乗ったこともあるらしい。もっとも、これはずっと後のことになるがね」 「ずっと後というと、輸送船に戻ってからですか」 「そうだ」 「じゃ、馬琴は船員になったこともあったんですか」 「アメリカから帰国する間だけ。つまり、このときの巡業は散散な首尾で、帰国する金も遣い果たしてしまったほどの御難だったんだ。一座もてんでんばらばらになってしまった。馬琴はたまたまロサンゼルスから帰航しようとしている右近丸に頼み込んで、皿洗いなどしながら、船艙《せんそう》に寝起きして、やっと帰国することができたんだという」 「なるほど、そんなことがあったので、馬琴は右近丸がみすみすスクラップになってしまうことが見ていられなかったわけですね」 「そう、この老朽船に、最後の一花を咲かせてやろうとしたんだね。従って、最初から採算は度外視、こう言うんだが、どうだい?」 「何がです?」 「ぼんやり聞いているだけでなく、頭を使わなくちゃいけない。俺《おれ》は案外、この商売、物になると思うよ」 「儲かるんですか?」 「儲かるさ。例えば——現在、ウコン号にある千人も入場できる劇場を、都心に建てると考えると、どうだろう」 「不可能でしょうね。土地の値がべら棒ですから。いくら馬琴に財力があっても、そんな無茶なことはできないと思います」 「そうだろう。船だから、それができるんだ。その上、いいことに、船は動くんだ。東京を打ち上げれば、今度は横浜さ。日本は海岸線が長いから、港港を巡業すれば、一つ出し物で何年も商売ができる勘定だろう。観客のお目当てはショウだけじゃあない。劇場の他に、大食堂や、デッキのビアガーデン、階下にはクラブや遊戯場もあって、ゲームやパチンコの設備もある。玩具《おもちや》屋や土産《みやげ》物屋もそつなく店を出すとさ。ショウボートは時間で出港して、港を遊覧する。ちょっとした船旅の気分も味わえる仕掛けにもなっている。まあ、外の景色に飽きたらショウを見物し、ショウに満足したら食事。その後は、子供はゲーム場、母親は買物、父親はクラブへどうぞ、という寸法だろう」 「なるほど、そういう工合に儲けるわけですか」 「ホテル西川の経営者は、だから、道楽だけで右近丸を買ったんじゃあないと思う。珍しい興行だというんで、このところ、テレビや週刊誌で、ウコン号は大もてだぞ。明日の初日には、満員御礼の旗でも上がるかも知れない。もっとも、右近丸に心があれば、けばけばしく塗り立てられた上、真っ赤なチューリップなどを描かれて、さぞびっくりしているだろうがね」 「その、ウコン号ですが……」  七郎はさっきからその名の調子が気になっていた。 「妙な船名だと思いますね。一体、何を意味しているんでしょう。右近丸を号名に変えただけでもなさそうです」 「俺の考えじゃ、この船の色から出た名前だと思う」 「なるほど。濃い黄色を鬱金《うこん》色といいますね」 「それもあるが、鬱金香《うつこんこう》をもじったのだとも考えられる。チューリップのことを、鬱金香という。知らないだろう」  片平は鼻をうごめかした。 「なぜ、ウコン丸じゃいけないんですか。以前は右近丸といったんでしょう」 「……そうさな。俺の考えじゃ、ウコン丸じゃ、回文にならないからだと思う」 「回文?」 「そう、上から読んでも、下から読んでも同じ音に聞こえる言葉遊び。ほら〈竹《たけ》やぶ焼《や》けた〉〈新聞紙《しんぶんし》〉など、子供の頃《ころ》やった覚えがあるだろう」 「待って下さいよ……」  七郎は手帖《てちよう》を取り出して「うこんごう」と書いて、逆から読んでみた。 「変な響きだと思っていたんですが、理由が判りました。この名は回文だったんですね。でも、回文にしてどうしようというのでしょう」 「ただの言葉遊びだ。理由などないと思うな」  七郎は手帖をポケットに戻した。 「輸送船右近丸はウコン号として、華やかなショウボートに生まれ変わった。僕も気を新たにして、新しい生涯を始めろ、ということですか」 「やっと、俺の言いたいことが、判ったようだな」  片平は満足そうに笑った。七郎はもう一度、ポスターを見た。 「電話の話ですと、向うには奇術道具があって、奇術師がいないというようなことでしたが」 「そうなんだ。奇術師と道具は揃《そろ》っているのが普通だろう。電話の相手がグラントさんで、あまり要領を得ないんだ」 「グラントさんというと、外国人ですか」 「知らないかな。このビルの地下に〈ブロンズ〉というクラブがある」 「知っていますが、高級そうな店でしょう」 「なあに、大したことはない」 「でも、飲ん兵衛には向きません」 「そりゃそうだろう。グラントさんはその店のバーテンをしている人だ。カレーライスの好きな、変わった外国人でね。まあ滅多にないんだが、たまに外国から手紙が来たりすると、読んでもらう。日本語はあまり上手じゃないが、大体の用は足せるんだ。今度もウコン号のバラエティショウに、外国人の奇術家をという馬琴の依頼で、その交渉をグラントさんに頼むことにした。俺の考えじゃ、日本でも割に知られているリイ クイーニあたりが欲しかったんだが、駄目だった」 「というと?」 「奇術師の癖に鈍いな。七月一日から、ボストンで世界奇術大会が開かれているだろう。世界中の目星《めぼし》い奇術家は、皆、ボストンに集まってしまったんだ。ボストン以外は奇術家日照りなんだ」 「なるほど。でも、本当に運がよければ、僕だって今頃、ボストンで遊んでいますよ」  世界の舞台に立って、一流の奇術家を相手に芸を競う夢も、とうになくなっていた。 「その結果、何とかという難かしい名の奇術家を呼ぶことになったんだ。そういうわけで、グラントさんが向うにいる。様子は向うに行ってみりゃ判るさ」 「明日が初日ですね」 「そうだ。向うは急いでいる。この際、奇術師なら、何でもいい。こう言う」  七郎は苦笑した。 「運がいいと思え。台風も通り過ぎれば晴れになる。君は運をつかみ、その運を続かせるんだ。一時までに楽屋入りをして総稽古《そうげいこ》。遅れるなよ」  ポスターにはバラエティショウの演目も並んでいた。ハワイアン グランドショウ「スターレッツ」、楽団「ランペ健治とブルーバーズ」、危険術「火焔《かえん》男」、虎術「上海《シヤンハイ》百戯団」、コミック体技、大魔術…… 「どうした。仕事が不足、というんじゃないだろうな」  七郎はポスターから目を放した。 「別に不足はありませんがねえ。ただ……」  片平は意味あり気な笑い方をした。 「七郎は有能なアシスタントが欲しいんだろう」  その通りだった。最近の自分の芸では、とてもレビュー団や猛獣使いとは太刀打ちができない。 「忘れていたわけじゃあないが、話が長くなったんで、肝心な相談が遅くなった。実は、その有能なアシスタントを一人、楓七郎に世話するつもりでいたんだ」 「僕に、ですか?」  呆《あ》っ気《け》に取られている七郎に構わず、片平はスクリーンの向うに声を掛けた。 「マコト、待たせたな。ここに君が尊敬している、楓七郎先生が来ておいでだ。出て来て、御挨拶《ごあいさつ》しなさい」 「はい」  スクリーンの陰から、歯切れのよい返事が聞こえた。  七郎はまたびっくりした。その声は、若い女性だったからだ。  マコトと呼ばれた女性が、カーテンから現われて、七郎の前に立って、ぴょこんと頭を下げた。  顔を上げると、マコトは額にかかった髪にちょっと手を当てた。丸い顔に尖《とが》った顎《あご》がついている。感情が豊かそうな目と、可愛らしい丸い鼻があった。口は大きめで、口の端が健康そうに上を向いている。  片平は面白そうに二人を見較《みくら》べた。 「奇術師志望のお嬢さんだ。名は森マコト。マコトとは真実の真という字で真《まこと》だ。芸名も決まっているそうだ。阿波木真《あわきまこと》という。どうだ楓先生、真を気に入ったかね?」 2 期待《きたい》を抱《いだ》き  七郎は改めて、真を見た。  年齢は二十前後。女性としては中肉中背か、やや小柄な感じだ。引き締まった身体を、よく糊《のり》のきいた、シャーベットトーンの青いシャツブラウスで、無造作《むぞうさ》に包み、腰にぴったりしたジーンズを男の子みたいにはいている。 「片平さんも人が悪い」  七郎は酒の気が抜けて、不安な気持になった。テレビの横にウィスキーの瓶が見えたが、たった今禁酒を誓ったばかりだ。 「どうだ。なかなか効果的な演出だろう。初対面の印象は、驚きをともなうほど強くなるものだ」  片平はソファに腰を下ろし、二人にも「まあお掛けよ」と言った。 「それにしても——」  七郎は真に言った。 「奇術師は僕の他にも沢山いる。僕なんかより、ずっと人気のある人がね。それなのに、なぜ僕を選んだのかね?」  片平が口を挟んだ。 「さっきも言ったろう。今、目星い奇術家はボストンにしかいないんだ」  七郎は苦笑して、真に言った。 「君は僕の舞台を見たことがあるかね?」 「はい、先生」 「まだ君をアシスタントと決めたわけじゃない。先生と呼ばれると困る」  七郎は顔をしかめた。どう考えても冷やかしとしか思えない。 「まあ、そうしゃっちょこ張るなよ楓先生。悪く言ったんじゃないんだから」  七郎はそれに構わず、真に訊《き》いた。 「どの舞台を見ました?」 「この三年ばかり、東京で催された奇術大会を見逃したことはありません。プロのも、アマチュアのも。今年の五月、銀座のホールでの奇術家協会のグランドマジックショウで、先生が出演されていたのも、見ています」  七郎は変にがっかりした。唄子がいなくなってからの七郎は、芸を投げていた。特にここ二、三年は最低だった。 「で、どんな印象だった?」 「…………」  真は微笑《ほほえ》んだだけだった。 「はっきり言ってやれ」  と、片平が言った。 「いや、判っています」  七郎は両手を上げて、万歳でもするような恰好《かつこう》をした。若い女性から、はっきり批評されてはかなわない。 「それじゃ、片平さんが言った、僕を尊敬していると言った言葉と、違うんじゃないかね」 「違いません。わたしは先生を尊敬しています。グランドマジックショウのときでした。わたしは劇場のホールで、先生を見ました。そのときの先生は、車椅子を押している人に手を貸していました。ちょっとした段になっている場所で、まごついているのを先生が見て、さり気なく傍に近寄ったのです」 「変なところを見られたな。でも、そんなことは誰でもすることさ」 「傍にはただ見ていた若い男の人もいました」 「僕は弱い人を見ると、人事《ひとごと》とは思えなくなるんだ」 「先生の態度は、暖かでした。わたしはそれを見て、涙が出そうになったんです」 「だが、奇術の方は君が見た通り。人気もゼロ。若い人の師匠として、芸を教えることなんかできませんね。良い師匠に付いても、ちっともうまくならない人が沢山いる。まして駄目な人に付けば、人生はそれで終りでしょう。師匠は選ばなくちゃいけない」  半分は自分のことを言ったのだ。七郎の師匠は吉田《よしだ》一城といい、世界的に有名な奇術の名人で人間的にも優れた人格者だった。七郎は一城の芸に傾倒し、誰よりも尊敬していた。だが、一城から得たものは、酒の味だけだった。 「わたし、これでも随分と選んだつもりなんです」  と、真は真剣に言った。 「先生は奇術を吉田一城さんにお習いになったのでしょう?」 「……そうだ」  それを言われると、いつも穴でもあったら入りたい気持になるのだ。 「わたし、一城さんの奇術を見たことがあるんです」 「君が?」  一城が最後に舞台で奇術を演じたのが八年前、世界奇術家会議ホノルル大会で、オカワ劇場のグランドショウだった。七十九歳の舞台は信じられぬほど若若しかったが、帰国後健康を害し、二年後に肺炎で死亡した。最近では一城の芸を見ていない若い研究家も多くなっている。奇術の仲間の間では、一城の名を知らぬ者はいないが、一般の人の記憶からはかなり薄くなってしまった。 「十年も前のことです。わたしがまだ小学校の低学年のとき——」  真の口元に微笑がただよった。 「でも、そのときのことは、今でもはっきりと覚えています。一城さんは観客席を見渡して、わたしを舞台の上にあげたんです」  普通の奇術家は子供の観客を嫌うが、一城は子供の扱いが上手だった。よく子供を舞台にあげては一緒に奇術を演じていた。 「わたしの手の中で、ひとりでにカードの数が増えたり減ったりする奇術でした。わたしが不思議そうな顔をすると、一城さんも頭をひねります。すると、観客が大喜びしました」  一城は数枚のカードだけで、大劇場の観客を沸かせることができる奇術師だった。 「奇術が終わって、わたしは席に戻りました。一城さんはわたしが席に坐るまで、ちゃんと待っていてくれました。わたしが席に着くのを見て、〈お嬢さん、次の奇術を始めますよ〉と言ってから別の奇術に取り掛かりました。わたしはそれから一城さんが大好きになりました。一城さんのお弟子さんは、先生だけでしょう」 「それはそうだが、間違えちゃ困る。僕は先生の芸を何も覚えられなかった。先生の芸を君に伝えられやしない」 「でも、いいんです。一城さんと一緒にいて、全く何の影響も受けなかったとは考えられません。一城先生がこんなことを言っていた、そんなことを聞くだけでいいんです」 「君は、結局一城先生のファンなんだな」  だが、何だか暖かい気持になった。一城のことを称賛されると、何よりも嬉《うれ》しくなるのだ。 「今、何か、できるかね?」  七郎は真に言った。 「ボウルを持っています」 「見せて貰《もら》おうかな」  真はテーブルの隅に置いてあった、皮のバッグを取り上げて、中を開いた。バッグに入った手が、ゴルフボウルより一廻り大きな、真っ白いボウルを取り出した。  ビリヤードボウル。指の間で、ボウルが増えていったり、消えたりする奇術だった。補助的に一つの種があって、あとは指の技術が物を言う。奇術の習い始めには、誰でも手にする奇術だが、熟達するほど、奥行きは深くなる。  無論、七郎も一城から習ったことがある。七郎の場合、指の間に四つのボウルを挟んで持つのがやっとだった。一城は若い七郎がうまくボウルを扱えるようになるのを、優しい目でじっと見ていた。だが、最後までボウルは指に馴染《なじ》まなかった。 「先生、駄目です」  と、七郎は諦《あきら》めて一城に言った。 「まあ、いいさ。奇術には易《やさ》しいのがいくらでもある」  一城は自分にだけ厳しく、他人には寛大だった。その頃、七十を過ぎていたが、毎日の稽古量は七郎が及びも付かないものだった。 「七郎、酒にしよう」  とうとうボウルの奇術を習得することはできなかった。今になっては、片手で四つのボウルを持てるかどうかさえ怪しい。  真の指はしなやかで、持たれたボウルが一段と鮮やかに見えるほどだった。よく訓練されている手の形で、動きにも無駄はなかった。  だが、指先の動きだけでは奇術師として資質があるかどうかは判らない。奇術の基本は人間が演じる芸だからだ。七郎はボウルを持った真の表情と挙止にも注意して見ることにした。  一城の弟子時代には一流の芸人と付き合いがあった。最近ではもっぱら売れない連中が仲間だ。つまり、さまざまな芸人と接して来たわけだから、スタアになれる人間か、そうでないかを見極める目には自信があるのだ。  一つのボウルは真の指の間で増えていった。指の間のボウルが消えると、別の指先から現われる。ボウルは一つから四つに増え、そして一つずつ消えてゆき、最後のボウルは空中で見えなくなった。  真は軽く頭を下げ、ちょっと不安そうな表情で七郎を見た。 「なかなか、やるじゃないか」  と、片平は七郎に言った。 「無論、うまかあありませんがね」  七郎はそっ気なく言った。 「それだけできれば、学校なんかじゃ人気があったと思う。だが、奇術家になるのは、止《よ》した方がいい」  真は身動きもしなかった。 「真に資質がない、と言うのかね?」  と、片平が言った。  反対だった。  七郎は見ているうちに、真の手順が追えなくなってしまった。ボウルが増えるには、秘密の補給がなされているはずだが、どこからそれを持って来るのか、全く見当も付かないのだ。よほどの研究と訓練の結果か、天性の才能か判らないが、七郎は秘《ひそ》かに舌を捲《ま》いていたのだ。  それに加えて、ボウルを扱う真の表情も含めた演技力が見事だった。ボウルを持ったとき、真は別人のようだった。七郎はただの観客と同じになり、とろりと不思議な世界に引き込まれてしまった。  これは宝石だと思った。それも、大きな宝石の原石だ。矛盾するようだが、だから、真を奇術師にさせたくない気がした。 「ちょっとやそっとの奇術を見たぐらいで、資質があるかないかなど、大《だい》それたことは言えませんね」  七郎は心とは反対のことを言った。 「僕に娘がいれば、奇術師にはさせない。アマチュアで楽しむのは別ですがね」  七郎は真に訊いた。 「君のお父さんは、奇術師になることに、賛成かね?」 「父はいません。わたしが小さいときに死にました」  と、真が答えた。 「……そりゃ失礼。悪いことを聞いた」  片平は二人を見ていたが、ぽんと膝《ひざ》を叩《たた》いた。 「判ったぞ、七郎」 「何が判ったんですか」 「お前は真が恐《こわ》いんだろう。俺が見た目では、真はすぐ人気が出て、有名になる。仕事が多くなって、お前の分まで持って行ってしまう。だがな、こういう手もあるぞ。真の師匠だということで、真に食べさせてもらう。どうだ、悪くないだろう」  七郎は苦笑した。 「お前が嫌だと言えば、真は他の奇術師のところへ行ってしまうぞ。それでもいいのか。この子は毎晩、カードを持ったまま寝てしまうような、奇術マニアらしいから」  一城がそうだった。直接舞台に掛けるわけでもない、カード奇術なども熱心に研究していた。七郎はカード奇術など見せられるだけで頭痛がしたものだ。 「そんなに奇術が好きなのかね」  七郎は未だに奇術愛好者の心理がよく判らない。 「奇術なら、何でも」  と、真は答えた。 「他に、何が得意なの?」 「カードマニピュレーション、リンキングリング、ロープ、シングル。クロースアップマジックでは、カード、カップエンドボウルなどです」  七郎がうまく出来ない奇術ばかりだった。片平が言った。 「ただ奇術家にはさせたくないというような感情だけでは、真の決意は動かせそうにもないな。真の母親も真のために芸名を付けてやったほどだ」 「まだプロでもないのに?」  七郎は母親の気持が計りかねた。 「それだけ、娘に期待をかけているんだろう」 「学校の方は? 君の話では学校へ行っているようだったが」 「今、大学の二年です。でも、明日にでも止《や》める準備があります」  と、真が答えた。 「七郎、こうしろよ。とにかく、ウコン号でのショウ、一月の期間だけ、一緒の舞台で、真を使ってみないか。その後は後として、改めて相談しよう。さっき、有能なアシスタントを欲しそうな顔をしていたじゃないか。今|迄《まで》通りの七郎の持ちねただけで、バラエティショウの連中の中に入ったんじゃ、お前だって惨《みじ》めだろう」  そう言われれば一言もない。 「よし、決まったな」  片平は立ち上がった。 「七郎は真を得て、芸の新境地を開くんだ。真は奇術師のプロとしてウコン号で初舞台を踏み、一日も早く大成するんだ。二人とも、しっかりやるように……」  片平は芝居気たっぷりに言って、七郎と真の手を取って握らせた。 「お願いします、先生」  真の顔に、ぽっと赤味の差したのが判った。  話が決まれば、落着いてはいられない。すぐにでも道具を点検し、ウコン号へ運ばなければならない。その前に気付けが必要だった。  上野駅の近くに、酒屋を見付けた。奥に入ると、白木のテーブルがあった。その前に立って、 「一杯|注《つ》いでくれ」  真がそっと言った。 「いいんですか? 先生」 「いいのさ。まだ、仕事の前だ。片平さんとの禁酒の約束は仕事の間中ということだ。だから構わない。真も一杯付き合え」 「わたしも、ですか?」 「そうさ、師弟の固めの杯だ」 「じゃあ、わたしにも一杯ちょうだい」  店員は太い指で厚手のグラスをテーブルに据え、一升瓶からなみなみと酒を注いだ。 「乾杯……」  真は七郎に劣らずいい飲みっぷりだった。雫《しずく》も残さず飲み終えて、けろりとした顔で、 「さあ、行きましょう、先生」 「待て……」  七郎は壁に貼《は》られたポスターが気になっていた。それもショウボートのポスターだったが、ビール会社とタイアップしていて、片平の事務所にあったポスターの倍の大きさだ。バラエティショウの出演者達の名も印刷されていた。 「真、あの字が見えるか」 「細かい字まで見えます」 「出演者の中に〈火焔男〉というのがあるな」 「あります。火焔男ドクター瀬川と読めます」 「その横の小さい字だ」 「ドクター瀬川の横に並んでいるのは、唄子です」  見間違いではない。唄子がショウボートにいるのだ。外国に行ったという噂《うわさ》の唄子が、いつの間にか帰って来ていた。七郎の頭がかあっと熱くなった。 「おい、この仕事は止《よ》しにする……中止だ」 「中止?」  真はびっくりして七郎を見た。 「君には気の毒だが、僕はウコン号の仕事をする気はなくなった」 「先生、酔ってるんですか?」 「まだ酔っちゃいない。すぐ、事務所へ電話をする。この仕事は、お断わりだ」 「……唄子というと、さっき片平さんが言っていた唄子という人のことですか」 「そうだ」 「でも、ポスターにはただ唄子としてあるだけです。他の唄子さんかも知れない」 「他の唄子ではない。瀬川と並んでいるから、僕の言う唄子だ。僕はあの売女《ばいた》と同じ舞台に立つわけにはゆかない」 「唄子って……誰ですか?」 「それを言うには、もっと酒が必要だろうな」 「付き合います。先生」  真は威勢よく言った。 「おじさん、お酒のお代わりよ」  七郎は立て続けに二杯の盛《も》っ切《き》りを飲み、三杯目を目の前にしていた。真も七郎に調子を合わせた。  三杯目に口を付けると、やや楽になった。唄子のことを考えても、鈍い感じでいられるようだった。 「……八年ほど前、ハワイのホノルルで世界奇術家会議が開催された。参加者四千人、会場のシェトラン ワイキキに収容しきれず、隣のアウトリガー ホテル、ロイヤル ハワイアン ホテルなどでも間に合わなくなって、離れたクイーン カピオラニ ホテルにまで分散されるありさまだった。僕は一城先生を中心とする、三十人ばかりのツアーに加わって、前後五日間の大会に参加したんだ」 「素晴らしいわ——」  真は目を輝かせた。  確かに、夢見るような五日間だった。シェトラン ワイキキでの前夜祭。ハワイアンバンドの演奏の中でのカクテルパーティ。大ホールでの華麗なオープニングショウ。二日目からはオカワ劇場でのステージ。プロの部での一城の芸に観客が沸き返った。夕方からのガーデンパーティ、さまざまなレクチュアー、ディナーショウ、コンテスト授賞式、お別れパーティ…… 「会期中、ホノルルの市街は全くのお祭り騒ぎになってしまったね。花火が上がる、爆竹が鳴る。ハワイ娘たちのフラダンスのパレードが繰り拡げられる。海の上では歓迎のためのサーフィン大会やカヌー競技が行なわれた。参加証を胸につけた会員は、どこにいても歓待されてね、新聞は第一面から大会の記事で埋めつくされていた。テレビも負けてはいなかった。目星いショウは残らず放映されるから、出演者はすぐ有名になって、街に出れば声を掛けられる、握手を求められる、サイン攻めにされる……」  熱に浮かされたような五日間だった。一城と一緒の七郎は、どこでも歓迎攻めだった。 「奇術仲間の僕達もびっくりしたほどだから、初めてこの世界に入り込んだ人はもっと興奮しただろう。僕達のツアーには二人の添乗員がいてね、一人はベテランの男性で、もう一人は若い女性だったよ。大会が始まると、彼女はすっかり奇術に夢中になってしまった。案内役は反対に僕が受け持つようになって、今度はどの会場がよさそうだと、彼女に教える始末だった」 「その女性が、唄子さんなのですか?」 「そう……岡津《おかつ》唄子。旅行社に入社してからまだ二年目。若く、聡明《そうめい》で、美しい女性だった。華麗なショウに酔った後、ガーデンパーティから月夜の浜辺で、僕達は甘い言葉を交わすようになった。お別れパーティで、僕は唄子にプロポーズした」 「素敵な話ですね」 「なに、今考えれば、作り物の愛だったと思うんだ。作り物の舞台、作り物の背景に酔って、僕達は無意識に作り物の台詞《せりふ》を取り交わしていたんだ。だが、そのときはただ唄子の美しさに夢中だった。僕は次の年、一城先生から独立して、二人で舞台へ出るようになった。そのときも、喝采《かつさい》のほとんどは助手の唄子に向けられていたことに気付かなかった……おい、お代わりだ」  七郎は空《から》のコップを宙に動かした。真のコップにも酒が満たされた。 「唄子は舞台の勘がよく、上手に僕の助手を務めた。だが僕の方の腕はさっぱりだ。仕事は多くなっていったけれど、本当は唄子のお蔭だったんだ。僕は自分の腕が認められるようになったと錯覚し続けていた。そんな僕に、唄子は愛想をつかしたんだ。唄子とのコンビは丸二年も続かなかったな。忘れもしない四月五日。桜がまっ盛り。夜桜を見て、一杯機嫌で家に戻ると、唄子はいなかった。それで一巻の終わりさ。どうだ、真」 「唄子さんは……何にも言わずにいなくなってしまったんですか?」 「部厚い手紙みたいなものが残ってた。どうせ、誰かいい男でもできたなどと書いた詫《わ》び言《ごと》に違いない。それを読めば、気が狂うさ。僕は封も開けずに、燃やしてやった」 「それっ切り、唄子さんに会わないんですか?」 「会わない。手を尽くせるだけ尽くして捜したがね。それから五年以上。一度、人伝《ひとづ》てで、ロサンゼルスで瀬川と一緒に見たという噂《うわさ》を聞いたことがあるが、それ以上判らなかった」 「先生、そのことを一城さんに相談しましたか?」 「……そんなこと、できるもんか。女房が逃げてしまいましただと? 飛んでもない。それに先生はずっと身体を悪くしていて、唄子がいなくなった年の六月十五日に、亡くなってしまったんだ。その衝撃は、唄子がいなくなった以上だった。僕は完全な独りぽっちになっちゃった。さばさばして、飲んで文句を言う奴もいない……」 「先生、二人の愛は作り物だったとおっしゃいましたが、先生の愛は本物だったのですね」 「偉い、よく判ったな。真」 「とすると、その先生を独りにしてしまった唄子さんは、ずいぶんひどい人だと思いますわ」 「そうだ、畜生。今度会ったらどうするか。芸がうまくなって、有名にでもなっていれば、どうだと見返してやることもできるが、残念だがそれは駄目だ。だが俺も男だ。唄子の首を締めてやるぐらいのことはできる」 「そこだわ、先生。その唄子さんが日本に帰って来て、ウコン号にいるんじゃありませんか」 「……そうだった」 「この仕事を断われば、また唄子さんと会う機会もなくなってしまいますよ」 「奴の首を締めなければならない……」 「唄子に会うのが恐い、とおっしゃるんじゃないでしょうね?」 「ばか。なぜ俺が唄子を恐がらなくちゃいけない」 「では、ここでぐずぐず飲んでいても仕様がないでしょう」  七郎は時計を見た。十二時近かった。 「楽屋入りは一時ですよ、先生」 「もう一杯だけ飲む」  七郎はコップの酒を飲み干した。真も自分のコップを空にした。 「君は、酒に強そうだな」 「強いんじゃないんです。異常体質なんです。いくら飲んでも酔いませんから、わたしにお酒を飲ませないで下さい」 「面白いぞ、真。じゃあ、これから〈ケイプ〉へ行こう」 「そんなことを言って、矢張り唄子さんと顔を合わせるのが恐いんでしょう」 「何を、畜生。あんな浮気女がどうした。……頼む。もう一杯飲ませてくれ」  上野から秋葉原《あきはばら》に出て総武線に乗り換え、錦糸《きんし》町で下車。南の商店街を抜けて、小さな家並がひしめいている一角。  七郎は真を連れて、アパートに戻った。  部屋は酒の饐《す》えた臭《にお》いが籠《こも》っていた。一人立ちの流し台には、汚れた食器や、空のラーメンの容器などが積み上げられたままだった。洗濯機には水が溜《た》まっていて、投げ込まれた下着の間から、ボウフラが浮き沈みしそうだ。  七郎は部屋に散らかっている新聞紙や座蒲団《ざぶとん》を部屋の隅に押し付け、どうやら二人がいられるだけの場所を作った。  真が流し台に立って、食器など片付けようとするので、 「止《よ》しなさい」  と、七郎は止めた。 「君は掃除の手伝いに来たんじゃない。奇術師になるために来たんだ。だったら、余計なことをするんじゃない」 「判りました、先生」  七郎は鼻をくんくん言わせた。 「だが、嫌な臭いがするな。台所で何かが腐っているらしい」 「矢張り片付けましょう」 「……まあ、建て前としては君にそんなことはやらせたくない。だが背に腹は代えられない。つくづく意気地のない男だ」 「先生は気が優し過ぎるんです」  真が流し台の前に立っている間、七郎は洋箪笥《ようだんす》を開けた。  しばらくすると、真は部屋に戻ってきた。 「さあ、早く服を脱いで」 「服を?」 「舞台着の様子を見るんだ。身体に合わなければ、すぐに直さなければならない」  七郎は洋箪笥を掻《か》き廻した。  唄子が残していった、舞台用のナイトドレスが二、三着そのままになっていた。七郎はその中から、ワインレッドのドレスを引っ張り出して、拡げてみた。箪笥の隅で押されていたので、皺《しわ》くちゃだった。 「アイロンはここにある」  七郎は石油ストーブの後ろからアイロンを引き出して、真に渡した。ストーブは夏になっても片付いていなかった。  真がアイロンを掛けている間、七郎は押入れを開け、汗臭くなったシーツを取り出した。部屋には天井と平行にロープが張ってある。ロープ奇術用の、丸打ちの木綿紐《もめんひも》だった。そのロープに、一週間ばかり前、洗濯したシャツが掛かっている。七郎はシャツを引き下ろして、シーツに掛け替えた。カーテンのつもりだ。真はアイロンを掛け終わると、ドレスを持ってその陰に入った。  七郎はいつも持ち歩く鞄《かばん》を開けてみた。中は乱雑だった。奇術用のシルクは汚れてくちゃくちゃに丸まっている。ジャンボカードはへし曲がってしまったが、代わりになる買置きはなかった。ただ、消耗品のロープだけを補充した。それも、一月保つかどうか危なかった。 「先生、見て下さい」  声がして、真がシーツの陰から出て来た。  何気なく振り返った七郎は、思わず声をあげるところだった。  真は髪を後ろに撫《な》で付け、赤いリボンで結んでいた。絹の服地は成熟した四肢を描きだしている。真は三つ四つ年上に見えた。満開の花の芳香が、部屋に拡がってゆくようだった。 「裾《すそ》が、ちょっと長いかしら」  真はちょっと身をよじった。 「詰められるか?」  七郎はうわの空で言った。 「今夜中に直しておきます。先生、他に変なところは?」 「舞台ではドーラン化粧をしなきゃな。持っているか?」 「いいえ……」 「待てよ」  七郎は洋箪笥の上から赤い鞄を引き下ろした。唄子が置いていった鞄だった。鞄には埃《ほこり》が積もっていた。七郎は窓際に立って埃を払い、中を開けた。中に化粧セットを入れた小さなバッグが見付かった。だが、化粧品はとうてい使い物にならなかった。 「化粧品は途中で買い整えよう」 「〈ブレンドシルク〉があるわ」  真は鞄の中を覗《のぞ》いて言った。化粧品より奇術の道具に興味を引かれるようだ。  三枚のシルクを結び合わせ、一振りすると溶け合うように大きなシルクに変化する、唄子の持ちねただった。 「〈モンキーレバー〉も、〈カラーダイス〉もあるわ」 「使い方を知っているかい」 「はい」 「よし、じゃあ、その鞄ごと持って行こう」 「先生の道具は?」 「僕はいつもの通りさ。こっちの鞄にある。すぐ出発できるぞ」 「じゃ、着替えます」  真は再びシーツの向う側に入った。  七郎が窓の錠を掛けたり、ガスの元栓を閉めたりしていると、 「先生」  真が呼んだ。  真はシーツを畳み、押入れの戸を開けたところだった。 「これ、何ですか?」  真は押入れの下の段から転がり出そうとしている四〇センチ角ぐらいの包みを指差していた。 「それは、マンモスシルクだ。一城先生の遺品の一つだよ」 「素晴らしいわ、先生。舞台一杯に拡がるシルクでしょう。これがあれば、舞台が華やかになるわ」 「……だが、取り出し方が厄介だ」  七郎は正直に言った。こんなに大きな物はポケットにも入らない。観客に気付かれぬように、どうして取り出してよいか判らない。勿論《もちろん》、部屋で拡げることもできない。だから、遺品として預かっただけで、一度も使ったことがなかった。 「持って行きましょうよ、先生。わたし、うまい方法を本で読んだことがあるんです」 「じゃ、持って行くか」 「……あら、〈三本剣〉もあるわ」  真は押入れの奥を覗いていた。 「それも、一度も使ったことはない。一城先生が昔使った道具だ」 「まあ勿体《もつたい》ない。これも持って行きましょうよ」 「よく持って行きたがる子だな、君は」 「わたし、三本剣の経験があります」 「じゃ、いいようにしなさい」  三本剣とマンモスシルクがあれば、どんな大舞台でも恐くはない。皺くちゃな小さなハンカチを取り出すより、何百倍も豪華な奇術だ。  真はざっと点検して道具をまとめ、最後に皺になったシルクにアイロンを掛けた。 「先生、見直しました」 「何がだ」 「他の道具は汚れていますけれど、一城先生の品だけはぴかぴかですね」  真は「菊宗正《きくむねまさ》」と書いた木の箱の中をそっと覗いていた。箱の中にはロープ切り用の鋏《はさみ》が入っていた。七郎はその鋏の手入れだけは怠ったことがなかった。  アパートの戸締まりをして外に出、タクシーに手を挙げたとき、七郎はすっかりいい気分になってしまった。 「今度のショウは僕達が圧巻だぞ。今迄、楓七郎を認めなかった人間はその不明を恥じなければならなくなるだろうな。なあ、真……」 3 ウコン号《ごう》  埠頭《ふとう》は若い男女や家族連れで賑《にぎ》わっていた。  近くに公園があり、散策に集まった人達が埠頭まで足を伸ばして、接岸されているショウボートを見物しているのだ。  巨大な外輪式蒸気船は、それだけで充分珍しい見世物だった。青空を背景にして、鮮黄色の船体は、デコレーションケーキを思わせた。二本の煙突の間に、初日を告げる旗がはためいている。だが、人気の的は船尾の大外輪だった。片平が言うように、外輪は大きな船を動かす実感に溢《あふ》れ、からくり仕掛けを覗くような楽しさがあった。子供達は初めて見る外輪に歓声を上げ、さまざまな人達が思い思いにショウボートの前に立ち、カメラに収まっていた。  七郎と真はタクシーから降り、道具類を運び出した。  船の守衛は玩具の衛兵みたいな制服を着ていた。七郎が出演者だと告げると、守衛は柵《さく》を外して二人を中へ案内した。  サイドデッキの一つのドアが事務所だった。事務長は女性で胸に小庭靖子《こにわやすこ》という名札を付けていた。小庭は七郎が部屋に入ると鼻をひくひくさせ、ちょっと嫌な顔をした。 「遅かったわね」  小庭は時計を見て言った。時間は二時近かった。 「遅いったって——」  七郎が言おうとすると、真が袖《そで》を引いた。 「済みません。道が渋滞してたんです」  真が代わって言った。 「荷物は後で運ばせるわ。大切な物だけ持っていらっしゃい。座長に紹介します」  小庭は奥のドアを開けた。  狭い廊下に階段があった。鉄のラセン階段で一人昇降するのがやっとだ。太い鉄パイプの周りを何度も廻されているうち、方向の感覚がすっかりなくなってしまった。階段が終わると、上と同じような廊下だった。  小庭は階段に一番近いドアの前に立った。階下の突き当たりはがっしりとしたドアで、娯楽室というパネルが貼ってある。  小庭はドアをノックし、ノブを廻した。  照明が行き届き、贅沢《ぜいたく》な感じの部屋だった。部屋の手前半分は卵黄色の絨毯《じゆうたん》が敷かれ、応接セットが並んでいる。左側にがっしりしたチーク材の洋箪笥が目に付いた。  部屋の向うは床を高くして、四畳半ほど畳が敷いてあった。障子が片端に寄せられて、座敷の文机《ふみづくえ》の前に坐り、書き物をしている男が見えた。 「座長、YK企画から、奇術の方が着きました」  男は机から顔をあげて、眼鏡を外し、ドアの方を見た。 「ご苦労さん。——それから小庭君、徹矢《てつや》とグラントさんを呼んでくれないか」 「承知しました」  小庭は部屋を出て行った。 「私が座長の馬琴だ」  馬琴は踏み台に足を下ろし、フロアに降りて来た。白髪の混った長髪で、目だけが小さく、骨っぽい四角な顔だった。白麻の着物に、もんぺのようなたっ着け袴《ばかま》をはいている。武芸でもやりそうな感じだ。 「楓と申します。よろしく」  七郎は鞄のポケットから、名刺を取り出して馬琴に渡した。 「——楓七郎さんですな」  名刺の字を読むには、文机に置いた眼鏡が必要だった。 「そちらの、若いお嬢さんは?」 「楓七郎の助手を務めます。阿波木真といいます」  と、真が答えた。 「阿波木真……それは本名ですか?」 「いえ、母が考えてくれた芸名なんです」 「お母さんが……ね」 「そうです。最初、母はわたしが芸能界に入ることに反対でしたが、わたしの心が変わらないのを知ると、その芸名を考えてくれたんです」  馬琴は目を細めて、真を見た。 「すると、君のお父さんは?」 「いません。わたしが小さいとき、死んだそうです」 「……真とは、男みたいだな」 「気に入りませんか?」 「折角《せつかく》お母さんが付けてくれた名ですが、もっと可愛い名の方が、君にはふさわしいように思うがね。……本名は何といいますか?」 「森真です」 「森真……それじゃ」  ちょっと首を傾《かし》げてから、 「森まりも……なんというのはどうですか。まりもちゃん……語呂《ごろ》がよくて、可愛いでしょうが」 「森《もり》まりもは回文にもなっていますね」 「ほう……」  馬琴はちょっと驚いたようだった。 「森まりもと聞いて、ぱっと回文名だと判るとは、意外《いがい》や意外《いがい》——」 「この船の名がウコン号。その船主の座長さんは、きっと回文遊びに凝っていらっしゃるなと思っていました」  馬琴は嬉しそうに目を細めた。 「回文は好きですか?」 「ええ。子供の頃、逆さ言葉で遊んだことがあります」 「僕も覚えています」  七郎は負けずに言った。 「〈大根《だいこん》こいだ〉〈住《すま》いにいます〉〈たしかに貸《か》した〉」 「小学生だな」  と、馬琴が言った。 「小学生?」 「〈ダンスが済《す》んだ〉〈わたし負《ま》けましたわ〉などは、子供でも知っている。大人が遊ぶなら〈草《くさ》の名《な》は知《し》らず珍《めずら》し花《はな》の咲《さ》く〉。このぐらい凝らないといけない」 「ちょっと待って下さい」  七郎はポケットから手帖を取り出し、その文章を書き付けて、逆から読んでみた。 「なるほど、ちゃんと回文になっていますね。回文は長いほどいいのですか」 「長ければいいとばかりは言えないが、作る方から言うと、一字でも多ければ加速度的に難かしくなるのは確かだ」 「では〈キャラメル噛《か》み噛《か》みカルメラ焼《や》き〉というのを知っています」 「昔〈白子屋《しろこや》お玉《たま》また親殺《おやころ》し〉というのがあった」 「回文は江戸時代にもあったんですか?」 「大ありですね」  馬琴は七郎が手帖で回文を確かめているのを見て、満足そうに言った。 「回文に限らず、言葉遊びの最も盛んな時代でしたよ。洒落《しやれ》や地口《じぐち》の判らない者は、ばかにされたものです。普段の会話でも、ぽんぽん洒落が飛び出す。当時の小説を読むと、それがよく判ります」 「なるほど」 「回文や早口言葉の他、川柳に雑俳、なぞなぞ、無理問答、山号寺号……」 「山号寺号?」 「〈八一三|謎《なぞ》の文字〉というような、あれです」 「〈ホーソンさん緋文字《ひもんじ》〉」  と、真が言った。 「なかなかやるな。では〈そば屋さん玉子とじ〉」 「〈腹沢山|爪楊枝《つまようじ》〉」 「〈大久保さん上り藤〉」 「〈難産一大事〉」 「〈外国産オレンジ〉どうだ。外国語が入っている」 「それなら〈俳優さんステージ〉」 「〈サルチル酸カビ退治〉……きりがないな」 「最初、回文の話をしていたんです」 「そう、回文だった。つまり、昔はそういった遊びが盛んで、回文にも高度なものが残っている。回文句ばかり集めて出版した本もありますね」 「回文で句を作るわけですね」 「そうです。〈咲《さ》く数《かづ》は十日咲《とうかさ》かうと二十日草《はつかぐさ》〉すらりと詠んだだけじゃ、回文句だとは思えないでしょう。そこが素晴らしい」 「まだありますか」 「〈松茸《まつたけ》に手出《てだ》しをしたで逃《に》げた妻《つま》〉」 「ははあ……」 「〈とんだ賊《ぞく》たれたもたれた糞《くそ》たんと〉」 「段段、優雅な味わいが消えてゆきますね」 「優雅でないものが覚え易い。これは子供でも同じでしょう」 「座長も回文句がありますか」 「ないこともないが……」  馬琴は四角い顎《あご》をなぜた。 「〈しかれども妻《つま》も子《こ》も待《ま》つ戻《もど》れかし〉」 「何ですか、そりゃ」 「亭主が家出をしようとして、引き止められている」 「亭主の家出ですか。あまり面白いとは思えませんが」 「それでは〈今朝行《けさい》かむ極寒覚悟迎《ごくかんかくごむか》い酒《さけ》〉はどうです。寒い朝の二日酔いの心境を詠み込んである」 「酔っ払いの句は……どうも」 「まだある。〈門《かど》の松晴《まつは》れ着《ぎ》を着《き》れば妻《つま》のどか〉」 「これは綺麗《きれい》です」 「〈眺むれば雪……〉」  馬琴は途中で口をつぐんでしまった。 「いや、これはまだだ」 「未完成なんですか?」 「いや、完成はしているが、まあ、いい」  馬琴は歯切れの悪い言い方をした。  七郎はふと朝のことを思い出した。その言葉を変に思ったのは、それが回文独得の調子だったことに気付いた。 「それで思い出しましたが〈ズボン干《ほ》す〉というのは回文でしょう」 「ズボン干す——か。なるほど回文ですね」 「たまたま、朝ズボンを干していてできました」 「句などでなければ、いくらでもできる。〈タイピストどす引《ひ》いた〉」 「〈留守《るす》はパズル〉」  真が割り込んできた。 「留守はパズル……なるほど、負けてはいられないな。〈コンタクトに毒《どく》だんご〉どうです」 「何ですか? それは」 「コンタクトレンズをつけている人間が、毒団子《だんご》を食わされたのです」 「苦しいですね。私の友達が作ったのに、こんなのがあります。〈竹馬《ちくば》の友《とも》と徹夜《てつや》でやってと元《もと》の博打《ばくち》〉」 「ううむ。では、シラノ ド ベルジュラックだ。〈代読《だいどく》で口説《くど》いた〉」 「〈口惜《くや》しい胃弱《いじやく》〉」 「〈よたったママだったよ〉」 「それを言うなら〈母《はは》の日《ひ》の母《はは》〉こう綺麗にゆきたいな」 「〈これでもテレコ〉」 「〈落下《らつか》すかつら〉」 「〈寝《ね》そべる臍《へそ》ね〉」  そのとき、ノックが聞こえた。 「そうだ。遊んでいる場合じゃなかった」  ドアが開いて、二人の男が部屋に入って来た。  一人はずんぐりと肥った三十前後の男だった。小さいが険しい目付きで、それと不釣合いな鈍重な鼻と口があった。 「息子の徹矢だ。この船のことをすっかり任せてある。相談したいことがあったら、徹矢に言ってくれ」  と、馬琴が紹介した。  徹矢は七郎と真をちらりと見た。二人を値踏みしているような目だった。  馬琴の息子というには親の洒脱《しやだつ》さが感じられない、暗い表情の男だ。  もう一人は外国人だった。背は一メートル七〇センチばかり。七郎よりちょっと高いが、華奢《きやしや》な感じだった。YK企画の片平が言っていた〈ブロンズ〉のバーテンをしているグラントという白人らしい。 「三時に舞台でリハーサルがあります。それまでに道具を整えておいてください」  徹矢は事務的に言った。 「細かい打ち合わせはグラントさんとしてください。夕食は七時から八時迄の間ですが、今日は六時半にビアガーデンでオープニングパーティがありますので、夕食はそれに変わります。それから、部屋ですがね。二人、相部屋でいいでしょう?」  七郎はあわてて手を上げた。 「それは、どうにかなりませんか。僕たち、夫婦じゃないんです」 「……どうにかしろと言われてもね」  徹矢はポケットから手帖を取り出して、開けて見た。 「個室は少ししかない。全部|塞《ふさ》がっていますねえ」 「僕は誰と一緒でも構いませんが」 「……となると、部屋割りを変えなきゃならない。あとで小庭君と相談しよう。それまでレモンさんの道具の置いてある部屋に、荷物を置いといてください」 「あの部屋は物置きで……君」  馬琴が反対するように言った。 「いや、ちょっとの間ですよ。夜までには移ってもらうことになるでしょう。キイはまだグラントさんが持っていましたね」  グラントはうなずいてポケットからキイを取り出して見せた。キイはプラスチックのタグに付けられている。 「座長、あとは?」 「それだけだ」 「じゃ、舞台に行っています」  徹矢はそう言うと、部屋を出て行った。  残ったのは外国人だった。色が白く、頬《ほお》がすぼまって、前後に長い頭が禿《は》げている。窪《くぼ》んだ目が、透き通るように青い。七郎はこの外国人の年齢がよく判らなかった。 「アーサー グラントさんだ。ここにいるのはマジシャンのシチローにマリモ」  馬琴は二人の名をゆっくりと繰り返した。  グラントは一生懸命二人の名を覚え込もうとしているようだった。 「グラントです。よろしく……」  たどたどしい言葉だった。そのためか、気弱な感じがした。 「グラントさんはあるマジシャンのアシスタントでした。だが、マジックの専門家ではない……」  馬琴はどう説明したらいいか、迷っている様子だった。 「事務所では、急にマジシャンが一人いなくなったと言っていましたが」  と、七郎は言った。 「そう。予定していたマジシャンが出演することができなくなってしまったのです」 「病気ですか?」 「よく、判らない。何しろ、突然いなくなりましたから。道具もそのまま残して」 「道具を残して?」  七郎は首をひねった。奇術家は命と同じぐらい道具を大切にする。もっとも、七郎の場合は別だったが。 「帰って来る気じゃないんですか」  と、七郎は言った。 「それが、まるで信用できない。初日は明日に控えている」  馬琴はむずかしい顔をした。 「ノーム レモンというのがそのマジシャンなんですが、悪天候で飛行機が遅れたとかで、到着したのが、一日の三時過ぎでした。そのときから手違いが続いている」 「船に来たことは来たわけですね」 「そう。私も会った。いかにも魔術師らしい、怪しい雰囲気のある男でした」 「グラントさんはその奇術師と、ずっと連絡を取っていたと聞きました」 「私と片平君とは長い付き合いです。グラントさんは片平君に紹介されたのです」 「さっき、座長はグラントさんはマジシャンのアシスタントだと言っていましたが……」  七郎は〈ブロンズ〉のバーテンが、なぜ奇術師の助手になったのか、ちょっと考え付かなかった。 「レモン氏は自分の助手が来られなくなった、と手紙で言ってきました」  と、グラントが説明した。 「レモン氏、とても困っていました。そこで、私、レモン氏の助手を引き受けることになりました。ですから私、奇術のこと何も知りません」 「知らなくとも、すぐ覚えるとレモンは言ってきたのだそうです」  馬琴が説明した。 「ただ、大きな道具を押したり、透視術で観客のやり取りを手伝う程度で、むずかしい仕事じゃなさそうです。たまたま、夏の間はグラントさんの仕事が閑《ひま》になるというので、じゃあ、奇術の助手をやってみないかと、頼んだのです」  グラントはオープンシャツ姿だったが、七郎は、頭の中で黒のタキシードに着替えさせてみた。なるほど、上流家庭の執事がぴたりとする感じだった。 「グラントさんはレモンの注文で大きな道具を全部|揃《そろ》えました。レモンが到着し、グラントさんと打ち合わせて、リハーサルをするところまでこぎ付けたんですが、リハーサルを終えてから、レモンは急にいなくなってしまったんです」 「何か、気に入らないことでもあったんですか」  馬琴はそれには答えなかった。 「まあ、いずれにしても、レモンは姿を現わしそうにもない。契約は破棄です。ただ、グラントさんは私の方から無理を言って引き止めたのだから、マジックのアシスタントは続けていてもらいます。その相談は君達でやってもらいたい。君達は君達のレパートリイを持っているでしょうが、ここには人間が虎《とら》になる道具がある」 「レモンという人が注文した道具ですか?」 「なに、借りて来た道具です。映画で使ったんだが、撮影後いらなくなったのを持ち込んだ男がいましてね。一月の約束で借りました。虎のマジックはショウの呼び物として刷り物にもしてあるしぜひ演じてもらいたい」 「でも……虎は?」 「事務所で聞かなかったかね。上甲板には四匹の虎が檻《おり》に入っている」  七郎は片平が言っていたことが冗談ではなかったのを知って、ちょっと驚いた。 「真、虎が消せるか?」 「道具があるんでしょう。先生」  真は平気だった。 「でも、虎なんどに触《さわ》ったことがない」  馬琴は笑った。 「何だ、弟子の方がしっかりしていそうじゃないか。大丈夫、虎は劉雪山という猛獣使いの虎で、猫みたいに大人《おとな》しい。調教師や飼育係が何人もいる。マジシャンは直接虎に触らなくてもいい。棒を振って、ピストルを鳴らすだけです」 「……それにしても、同じ舞台に立つわけでしょう」 「そうだ」 「虎だって人の好き嫌いがあるでしょう。食い付いてきたら、どうします」 「虎と格闘するまででしょう」 「冗談じゃありませんよ。僕は生き物を舞台で使ったことがありません。鳩《はと》だってだめなんです」 「……といって、今更|止《よ》すわけにもいかないな」 「わたし、動物は大好きです」  と、真が言った。 「兎《うさぎ》や犬と、わけが違う」  七郎は真面目《まじめ》だった。馬琴はそれを見ていて、 「じゃあ、馴《な》れるまでは縫いぐるみを使おう」 「虎の、縫いぐるみですか?」 「そう。ここだけの話だが、楓さんの言う通り、機嫌の悪いこともある。そんなとき、一時しのぎに、人間が虎の皮を着て代演することもあると雪山さんは言う。虎の皮といってもばかにしたもんじゃあない。今の縫いぐるみは極く精巧にできている。コンピューターが組み込んであって、目も動くし口も開く。テープで本物より凄《すご》いうなり声も出るらしい」 「それ、それにしましょう」  と、七郎は言った。 「まあ、急場のことだから、それも仕方がないだろうな。リハーサルのとき、雪山たちと段取りを決めてください」  馬琴は座敷の方へ行き、文机の上から一枚の紙を取って、七郎に渡した。出演者たちを表にしたコピイだった。  大劇場バラエティショウ   開演 平日  五時      土日祭 二時 五時 アニメーション 『インバーズマン』 オープニングダンス スターレッツ コミック体技 イザナギ・イザナミ 恐怖の火焔男 ドクター瀬川・唄子 大魔術 楓七郎 中国百戯 上海《シヤンハイ》百戯団 虎術 代表 劉雪山・田玉葉《でんぎよくよう》 ハワイアン ショウ スターレッツ    代表 ニコラス ディール・ エレーナ ポルト 道化師 たんこぶ権太 音楽 ランペ健治とブルーバーズ 座長 床間亭馬琴/総監督 西川徹矢/船長 大館道夫/機関長 有田光次/医務長 満武《みつたけ》 純一《じゆんいち》/事務長 小庭靖子/売店責任者 丸山松雄《まるやままつお》/コック長 ピエール シャロン/ボーイ長……  以下、映画関係者、遊戯場関係者、警備責任者などの名が続いている。  大魔術のところには、最初ノーム レモンと書かれていて、それが棒で消され、楓七郎に直されてあった。  字は全部同じ大きさだが、一か所だけ特別に大きく見える名があった。恐怖の火焔男とされているドクター瀬川と並んでいる文字……『唄子』だ。その名は大きくなって揺れ始めた。懐かしさのこもった憎さがこみあげてきた。矢張りこの船に来てはならなかったような気がした。 「……先生、部屋に行って、支度をしないと——」  気が付くと、真が鞄を持っていた。七郎は表を丁寧に折り、胸のポケットへ入れた。 「私、案内します」  グラントが先に立った。  部屋を出ると、グラントは船員用階段の前を通り過ぎ、狭い通路を船尾に向かって進んだ。通路は暗く、天井にはむき出しのパイプが、何本もうねうねと続いている。 「ここが、機関室です」  グラントは右側の壁を掌で叩《たた》いた。  機関室を通り越すと、もう一つの階段があった。この階段は幅が広く、上下に続いている。 「この上が、すぐ大劇場。この階段を登ると、舞台の袖《そで》です」  グラントは階段の上方を指差して言った。そういえば、遠くから音楽が聞こえてくる。 「舞台裏から、甲板に出られます。ただし、開演中はドアが開きません」 「階段の下は?」  と、七郎が訊いた。 「機関室と船艙《せんそう》です。私、降りたことはありません」  グラントは船尾の方を指差した。 「そして、この奥が私達の船室です」  階段の横に狭い廊下が続いていて、両側にドアが並んでいる。舞台の袖の位置からすると、観客席の真下に当たるらしい。  グラントは廊下に入りかかったところで立ち止まった。 「この部屋です」  右側の一番手前の部屋だった。  背を丸めてグラントがドアに鍵《かぎ》を差し込んだ。その向うに、人のいるのが判った。人影は二つで、立話をしているような気配だ。 「どうぞ。あまり、綺麗でないです」  グラントはドアを開けて部屋に入った。すぐ部屋の電気がつき、廊下に光が洩《も》れた。グラントにうながされて真が部屋に入った。さえぎるものがなくなったので、廊下に立っている人影がよく見えるようになった。 「唄子……」  七郎はドアの前に立ったまま動けなくなった。その一人は唄子に違いなかった。唄子は濃く化粧していた。唄子の若さは最後だった舞台と変わらなかった。  唄子と目が合った。唄子は明らかに狼狽《ろうばい》していた。軽く口を開いたまま、息を止めているようだった。 「……先生、どうかなさったんですか?」  部屋の中から真が言った。 「……今、行く」  七郎はかすれた声で言った。  唄子の右手が静かに動き、口元に当てがわれようとしていた。驚いたときによくする癖だった。  七郎はドアのノブに手を掛けた。 「しばらくだったな。生きてたのか、この……」  七郎は次の言葉を必死で堪えた。 「何い?」  唄子の横にいた男が言った。がっしりした感じの若い男だった。七郎ににじり寄ろうとする。その腕を唄子がつかんで、引き戻そうとした。  七郎は部屋に入り、手荒くドアを閉めた。 「先生……」  七郎は答えなかった。鞄《かばん》を開けて奇術道具を放り出すと、下からウィスキーのボトルが出て来た。七郎はそれをラッパ飲みした。 「廊下にいた人が、唄子さんだったんですね?」  真はボトルが空《から》になってゆくのをじっと見ていた。  七郎は胸に飲み込んだ言葉を吐き出した。 「この、淫婦《いんぷ》……」 4 たんこぶ権太《ごんた》  その道化師《クラウン》は七郎が見たこともない化粧をしていた。  太い横縞《よこじま》のシャツにつんつるてんの吊《つ》りズボンで、だぶだぶの靴という衣装は月並みだが、その上に載っている顔が異常だ。  道化師の顔の横に、もう一つの顔が飛び出しているが、それは作り物ではない。  どうやら、その男の頬には大きな瘤《こぶ》があって、その瘤に白粉を塗り、目鼻を描き込んだようだ。瘤の太い皺《しわ》に口紅で口が作られている。道化師が頬に力を入れると、その口がぱくぱくと動く。  何か飛んでもない芸の持ち主らしく見えるが、七郎はこの道化師が気に入らなかった。  というのは、道化師がいなくなったノーム レモンの芸を妙に誉《ほ》めそやすからだ。 「最初の出で度胆《どぎも》を抜かれたね。向うの奇術はずいぶん研究が進んでるんだね」  暗に七郎の奇術など見られないと言っているようだ。  その上、好奇心の強い男とみえて、七郎達が準備している道具を覗き込むのだ。  舞台では上海百戯団の曲芸が早いテンポで演じられている。桶《おけ》くぐり、火鉢の頭芸、数多い椅子《いす》を使う逆立ち、木槌《きづち》の曲取り、人間をボウルのように扱う足芸……中国人の曲芸師は皆若くきびきびしていた。小柄な中年の美人が指揮している。田玉葉だ。バランス芸では船の揺れも計算に入れなければならない。玉葉の指揮は相当に厳しかった。 「なるほど、ハンカチはそうして畳んでおくわけ」  道化師が真の手元を見て言った。 「真、お教えするのなら教授料を頂きな」  と、七郎が言った。  道化師はふんと言うように笑い、真の傍を離れた。 「皮肉られちゃったな」  と、道化師がつぶやいた。 「大したねたでもねえのにな」  と、瘤が言った。腹話術だった。 「そんなことは思っても言うんじゃないぞ」 「だって、女を虎に変えるのに、縫いぐるみって手は、少しせこいとは思わねえか」 「そりゃ思うが、俺は口に出しては言わないぞ」  グラントは虎の檻《おり》を組み立てていた。檻の中には上海百戯団から借りて来た、虎の縫いぐるみが入っている。真を檻に入れ、カーテンを引くと、中で真が縫いぐるみを着るという段取りができていた。 「それにしても、酒臭えや」  と、瘤が言った。 「虎が酒を飲んだのかな」 「縫いぐるみが酒を飲むかい。どこかに、二本足で立つ虎がいるようだな」  七郎は道化師を睨《にら》んだ。道化師はにやっと笑って、舞台に飛び出して行った。  上海百戯団の芸が一通り済んだところだった。  道化師の芸が始まった。  道化師は一つの芸が終わると舞台に出て、観客を笑わせながら、次の芸の橋渡しをする役だった。  虫は好かなかったが、七郎は道化師の芸にびっくりしていた。芸の中心は腹話術で、瘤との掛け合いに異様なおかしさがある。瘤は悪役である。毒を含む言葉が、歪《ゆが》んだ口から次次とはじき出される。道化師はそれを聞いては戸惑い、瘤の口を押え、瘤の口をねじ上げる……  次が七郎の番だった。  舞台に立ったとき、足元が少しふらついていた。誰にも知れまいと思ったが、一礼してから、下手《しもて》にいた真が、大きなシルクを手渡しに来たとき、 「先生、大丈夫ですか?」  心配そうな顔でささやいた。 「人のことに構うな」  七郎は小声で叱《しか》ったが、あまり大丈夫ではない。花柄のシルクの表裏を改める。その手元がおぼつかない。シルクは真がアイロンを掛けてくれたので、見違えるほど綺麗になっている。  七郎は仕方なく、指がうまく動かないのを隠そうとして、両手を不必要にばたつかせることにした。臭い演技だとは百も承知だ。だが、酔いが図太くさせた。七郎は勢いのなくなったコマみたいにぐらりと身体を一廻りさせて、シルクの中から大きな金属製の鳥籠《とりかご》を取り出した。籠の中には止まり木からずり落ちそうな形で、作り物の鳥がぶらぶらしていた。  大劇場は千以上の座席があった。観客席の照明は暗く、舞台の上からは、きちんと配列された座席の上段は闇《やみ》の中にある。  床に引いた油の臭いがする。幕もホリゾントも新しい。観客席との距離も最適だ。舞台の広さも申し分がない。場末のキャバレーのフロアと較《くら》べれば、天国に立っているのと同じだ。奇術を演じるのに、気持のよい舞台というのは、意外と数が少ないものだ。にもかかわらず、足が舞台に着いていない。  観客席の前の方に、何人かがいて、七郎の舞台を見ている。真ん中に馬琴と西川徹矢の顔がある。その両|脇《わき》にいるのが監督や進行係だろう。その他のスタッフは観客席から舞台へ、舞台から楽屋へと、忙しく動き廻っている。  ランペ健治とブルーバーズが、いい音を出してくれている。曲は「華やかな神秘」。七郎がプロを志したとき、友達が餞《はなむ》けとして作曲してくれた伴奏音楽だった。楽譜をバンドに渡し、生演奏で演技するのも、このところ全くなかった。会社の慰安会などではカセットテープを係に手渡す。キャバレーなどでは「まあ、適当にやってくれ」で済ましてしまう。だから、久し振りに聞く「華やかな神秘」だが、あまり乗り気にはなれない。妙に懐かしい気持が起こり、じっとしていたいような気分になった。  鳥籠を取り出したところで、上手《かみて》にいるグラントが傍に来た。七郎は鳥籠をグラントに渡す。グラントはダークスーツに蝶《ちよう》タイで、ぴったりとした助手になっている。グラントは鳥籠とシルクを大切そうに持って、上手の袖に引っ込む。その姿を見送って、ちょっと上手の観客席を見たときだった。観客席のドアが開いて、二人が入って来た。二人は独りでに閉まるドアを背にして、立ったまま舞台を見上げた。  一人は唄子で、一人はさっき廊下で見た男だった。  唄子が見ていると思った瞬間、前後が判らなくなってしまった。 「先生——」  気が付くと、真が代わりのシルクを差し出していた。七郎は半ば無意識のうちに、そのシルクを手にした。  シルクを一振りすると、結ばれた二枚のシルクに変化する。二枚を引くと、結び目が解ける。一枚をグラントに投げて渡し、手の一枚を振ると、シルクは再び二枚になる。これを繰り返し、さまざまな色のシルクを次次に現わして見せる。  現象が派手な割には、むずかしいところは一つもない奇術だった。七郎は最後の一枚を取り出したところでほっとし、正面を向いて作り笑いをして見せた。  打ち合わせ通り、次に真はロープを持って来た。  真はワインレッドのドレスだった。裾《すそ》を直したので、誂《あつら》えたようにぴったり着こなしていた。化粧は百戯団の田玉葉に教えてもらっていたようだ。ライトが白くくっきりと整った顔かたちを浮き上がらせている。  腰の強い、真っ白な太いロープ。中央に大きな結び目を作り、その上にもう一つの結び目を重ねる。ロープを一振りすると、結び目はぱらりと消えてしまう。次にはロープの真ん中を鋏《はさみ》で切断するが、息を掛けると、これも元通りの一本に復活する。一連のロープ奇術。  だが、その途中で、どうしたことか、ロープをいくら振っても、結び目は解けなくなった。両端を引けば、結び目は固く締まるばかりだ。  真が別のロープを持って来て、複雑にからみ合ってしまったロープを、七郎の手から取り上げた。気をきかして、別のロープを用意していたらしい。  七郎は咳《せき》払いし、新しいロープでロープの結び解けを始めた。結果は同じようになった。結び目は解けないのだ。  以前、同じ経験をしたことを思い出した。そのときも酔っていた。ロープの結ばり工合も同じ形になっている。酔うと、全く同じところを間違えるらしい。 「マジなのかい、ギャグなのかい」  誰かが野次った。声の主は判らない。唄子の横にいる男のような気がした。七郎はからんだロープを床に叩き付けた。 「マジなら、どうしようってんだ」  七郎は声のした方に向かって叫んだ。  グラントが駈け寄って、ロープを拾い上げた。真がブレンドシルクを持って来て、七郎に渡した。 「今、ボウルを持っているか?」 「袖にあります」 「持って来るんだ」 「はい」  真は七郎の顔を見ずに答え、普通の足取りで下手の袖に引っ込んだ。  予定では真はボウルの芸は舞台に掛けないことにしていた。プロの初舞台で、高等技術の連続は荷が重いと考えたからだ。最初は技術のいらない種目で舞台に慣らし、順順に技術的な芸を加えるつもりだった。ところが、ちょっと考えが変わった。  真にボウルを取りに行かせた後、七郎はブレンドシルクに取り掛かった。何枚かのシルクを一振りすると、それが融け合うように大きなシルクに変化する奇術だ。七郎は持ったシルクを無造作にびらびらさせ、大きなシルクにして見せた。 「不思議でも何でもねえや」  又、声がした。  当然な野次だった。小さなシルクを改めなかったからだ。見ている方では丸まったものを拡げて見せられたと同じにしか感じないだろう。小さなシルクを改めなかったのは、その方法を思い出せなくなり、はしょってしまったのだ。  真が舞台に戻って来た。手にシルクを持ち、その陰にボウルを隠して持っていることが判った。真はシルクとボウルを七郎に渡そうとした。 「真、君がやれ」  七郎はなるべく唇を動かさないようにして言った。 「わたしが?」  真も同じような調子で答えた。 「当たり前だ。俺《おれ》にボウルができるか」  七郎はブレンドシルクを持って、下手に歩きだした。  真が舞台の中央に残った。  七郎は下手寄りに置いてあるマジックテーブルの横に立った。テーブルの上には、まだ色色な道具が置いてあった。その全《すべ》てが、下らない品物に見えた。無意味ながらくたとしか思えなかった。  音楽の調子が変わった。ランペ健治が気をきかせたのだ。  見ると、真が観客席に向かって一礼したところだった。真は持ったシルクと両手を改めた。両手はシルク以外の物を持っていないように見えた。真はそのシルクの中から、ボウルを絞り出した。  観客席には芸を見る目の肥えた専門家たちがいる。普通の観客のように、奇術を見て、素直に不思議がったりはしない人間だ。その前で、真は呆《あき》れるほど落着いて演技を進めていた。向う側で見ているグラントも、真から目が離れなくなっている。  ちょっと下手の袖が騒がしくなった。見ると金ぴかのタイツ姿の若い男女が集まっていた。上海百戯団の虎術を行なう一行だ。  観客席から拍手が起こった。真がボウルの芸を終えて、一礼したのだ。  七郎はマジックテーブルの上から奇術棒《ワンド》を取り上げて、舞台の中央に戻った。 「予定変更、三本剣だ」  七郎はグラントに言った。  グラントはあわてて上手に引っ込み、三本剣の道具を押して来た。真は必要なくなったマジックテーブルを下手に運ぶ。  七郎は大袈裟《おおげさ》な身振りをした。ワンドを振り廻して、道具の場所を指示する。舞台の中央に低い台が据えられ、その横に剣《つるぎ》の台が置かれた。剣の台には三本の剣が立てられている。  七郎はワンドをグラントに渡してから、一本の剣を手に取った。剣は一メートルばかりの長さだ。普通、三本剣には青龍刀に似た形の平たい剣を使うことが多いが、七郎の剣は矛《ほこ》に似て真っすぐだ。吉田一城が改良して作った、世界に一つだけの道具だった。  剣に当たったライトがはね返って、観客席に鋭い光が走り廻った。七郎は剣を示してから、中央の台に、切っ先を上にして立てた。台には三本の剣が一列に並んだ。  七郎は下手に向かって手を挙げた。それが合図で真が登場した。  真は胸を大きく開けた黒のイブニングドレスに着替えていた。結んでいた髪を解き、肩に波打たしている。  真は軽く観客に目礼してから、七郎の方に向いた。七郎の後ろにグラントが待機する。七郎は真の目の前に両掌《りようて》を向け、暗闇《くらやみ》で壁でも撫《な》でるような恰好をした。それでも、相手に催眠術を掛ける演技のつもりだ。  真はすうっと目を閉じた。七郎は真の後ろに廻って軽く手を叩いた。真は直立したままの形で、あおのけに七郎の手に倒れこんだ。七郎が真の背を抱くと、すぐグラントが脚を持って、身体を水平にした。そのまま、真を三本の剣の上に置く。  三本の剣の上に寝かされた真の姿は、シュールな絵を見ているようだった。秘密の器具は正確に機能を果たしている。七郎は満足し、台から二本の剣を取り外した。  真は首筋に当てられた一本の剣によって、支えられている。身体の重みが消え去って、宙に浮いているとしか見えない神秘な空間が出現した。  七郎は他に支えのないことを証明するために、大きな輪を真の身体にくぐらせた。輪は何の抵抗もなく、真の身体を通り抜けた。  真をこの世に連れ戻すには、逆の手続きが必要だった。まず、取り除いた二本の剣を元に戻し、グラントと二人で、真を剣の上から持ち上げる。真を舞台に立たせ、手を打ち鳴らす。 「はいっ!」  気合とともに、真はぱっちりと目を開き、硬直した身体をほぐす。七郎は真の手を取る。真は右手を胸に当て、片膝を折って笑顔で一礼—— 「大変、結構ですがね」  観客席から大きな声がした。馬琴だった。音楽がすうっと消えた。 「もう少し、テンポを上げられないかね」  七郎はうなずいた。久し振りの三本剣だったが、危ぶんでいた真のできも素晴らしく、多少、陶酔していたようだ。 「まるで、鈍いや」  これは低い声だったが、音楽がなくなったので、七郎の耳にはっきりと聞こえた。唄子のいるあたりからだった。 「女房に逃げられそうな鈍さだ」  この言葉で、七郎はかっとなった。  剣の台に戻されている一本の剣を抜き取って、声のする方に向かって身構えた。 「誰《だれ》だ。もう一遍言ってみろ」 「酔っ払ってるな……」  七郎はその声に向かって、剣を投げ付けた。 「ばか。危ないじゃないか」  剣が何かに当たって、がしゃんという音がした。 「さあ、上がって来い」  観客席から剣を持った男が、ひらりと舞台に飛び乗った。瘤《こぶ》の道化師だった。  七郎はもう一本の剣を手に取って、男に狙《ねら》いを付けた。 「さあ、掛かって来い」 「冗談は止《よ》しましょうよ」  男は剣を片手で下げたままだった。 「あんたに聞こえるような内証話をしたのは、確かにこっちが悪かった。でも、あんただって酔って舞台に出るのはいいとは思えませんがね」 「お前が言ったんじゃない。瘤が言ったんだろう」  と、七郎は言った。  瘤という言葉を聞くと、道化師の表情が変わった。 「瘤にゃ違えねえがね」  と瘤が言った。 「兄貴以外の奴から、瘤と言われると、けたくそが悪くならあ」 「瘤が相手だ」  七郎は道化師に向かって剣を突き出した。 「先生、止《や》めて!」  真が叫んだ。七郎は止めなかった。道化師が七郎の剣をはね返した。七郎の手が痺《しび》れた。グラントが舞台を逃げ迷った。 「……権太さん、止めて!」  唄子の声だった。それを聞くと、七郎の血が渦巻きになった。剣を投げ捨て、相手に組み付こうとした。その瞬間、相手の剣が信じられぬ速さで伸びてきた。身をかわす間もない。剣は的確だった。七郎は鳩尾《みぞおち》に衝撃を受け、そのまま意識を失った。 「……先生、大丈夫ですか?」  夢の中で何か言ったらしい。七郎は真の声で目を開けた。 「——ここは、どこだ?」 「船の中ですよ。わたしは、森まりも」 「判っている。僕の弟子だ」  七郎は木製のベッドから身体を起こした。身体を撫で廻してみる。鳩尾を押すと少し鈍痛がするが、大したことはないようだ。上着は脱がされていて、シャツのボタンも外されている。 「目を覚ます前、何か言ったか?」  七郎は真に訊《き》いた。 「唄子さんの名を呼んでいたわ」 「……師匠をからかうんじゃない」 「本当です。先生ははっきりと唄子って言いました」  七郎は顔をしかめた。  ベニヤ張りの天井に裸の電灯がぶら下がっている。部屋は変に細長くて窓がない。馬琴は物置と呼んでいたが、正に物置部屋だ。  七郎は改めて部屋を見廻した。  七郎が使っている木製のベッドは、急遽《きゆうきよ》どこからか運ばれて来たという感じである。家具は不揃いの椅子が三脚と低いテーブルが一つだけだ。七郎の鞄《かばん》や三本剣の道具、マジックテーブルなどは壁に寄せられている。身丈ほどある大きなトランプは、前にいた奇術師レモンの道具に違いない。  部屋の一番奥に、押入れのような引戸が造り付けられている。衣服類はそこに収められたのだろう。押入れの隣に手を洗うだけの小さな流し台があり、その上に短い蛍光《けいこう》灯がぼんやり光っている。 「医務長の満武さんに見てもらうまで、心配していたんですよ。唄子さんも付きっ切りでした」  と、真が言った。 「言葉の端端に、唄子唄子と言うんじゃない」 「唄子さんは気の優しい人ですね。先生が倒れると、先生にすがって泣きだしたんですよ」 「真、酒だ。鞄の中にウィスキーがもう一本あるはずだ」 「お酒は、全部、捨てました」 「何だと?」 「先生のお酒の飲み方を見ていて、あ、これじゃいけないなと思ったから捨てました」 「じゃ、買って来い。食堂に行けば、いくらでもあるはずだ」 「お酒はいけません」  真はぴしゃりと言った。 「先生はお酒を飲むと人が変わるんです。片平さんとの約束もあります」 「師匠の言うことを聞けないのか」 「だめです。私、約束を守らない人は嫌いです」  七郎は仕方なく、手を震わせて見せた。 「真、震えがきた。禁断症状が出てきたぞ。早く酒を飲まないと、えらいことになる」 「アル中の真似《まね》をしてもだめです、先生。でも、どうしてもっと上手にアル中の演技ができないものですかね」 「……仕方がない。水をくれ」 「はい」  真は部屋を出て行った。  真の口から片平の名が出たとき、全く自分が嫌になった。あれほど酒を禁じられたのに、酔って舞台に立ち、喧嘩《けんか》をして首になりましたとは、とても報告することはできない。何か口実を作りたいが、真も言う通り、自分は嘘《うそ》が下手だ。  真がコップに水を入れて戻って来た。七郎はそれを一気に飲み干した。 「何をしていた?」  七郎は真に訊いた。 「……前の奇術師が残していった道具を見ていました」  真は部屋に立て掛けてある大きな三枚のトランプを指差した。 「調べたら、仕掛けのないカードなんです。どう使うのかしらと思って」  七郎は舞台にも奇術にも、全く興味を感じなくなっていた。 「真、君には悪いことをしたが、できた以上仕方がない。早く荷物をまとめよう」 「……荷物をまとめるですって?」  真は不思議そうな顔をした。 「お前が代わりにこっぴどく叱《しか》られたろうな。気の毒だった。きまりが悪いから、そっと船を降りよう」 「何言ってるんですか、先生」 「俺は首なんだろう?」 「真逆《まさか》——」  真は笑った。 「リハーサルはわたしとグラントさんで、ちゃんと済ませました。座長にもう二度と先生にお酒を飲ませないと約束したら、すぐ納得《なつとく》してくれました。リハーサルは全部終了しました。今晩、デッキのビアガーデンで、オープニングパーティがあります。報道関係もかなり集まるそうです」 「僕は嫌だね。ここにいる」 「暴れたのが恥かしいんでしょう」 「いや、酒の飲めないパーティに出たって、仕方がない」 「言うのが遅くなりましたけど、権太さんから先生に詫《わ》びを言ってくれと頼まれています」 「何だ、あの瘤が……」 「ああするつもりはなかったんですって。防衛手段で仕方なかったんだから、悪く思わないでくれ、そう言っていました」 「じゃあ、良く思えと言うのか?」  真はくすりと笑った。 「権太さんの肩を持つわけじゃないんですけれど、先生だって少し変だったでしょう。唄子さんの姿が見えたからなんですね」 「…………」 「わたし、ドクター瀬川と挨拶《あいさつ》しました。瀬川は先生よりうんと年を取っていて、額の両側がうんと禿《は》げ上っていて、眼鏡を掛けている、高慢ちきな男だったわ」 「ずいぶん悪く言うな」 「だって、唄子さんをおいって呼び捨てにして、顎《あご》で使うんですよ。憎たらしいったらありゃしないわ。もし、瀬川と先生が喧嘩をするんだったら、止めなかったでしょうね。もう一本の剣で、あいつの四角い頭をぶん撲《なぐ》っていたでしょう」 「君なら、やりかねない」 「でも先生、ドクター瀬川って、ずいぶん強そうよ。レスラーみたいな感じ。だから、先生一人のときは、瀬川に喧嘩を売らない方がいいと思うわ」 「大丈夫だ。飲んでいなければ、人に向かって悪態もつけない。今度あの道化師に会ったら……名を何と言ったかな?」 「たんこぶ権太さん」 「そう、権太に会ったら、僕の方からも謝っておく」  真はちょっと腕時計を見た。 「先生、シャワーを浴びませんか。シャワー室は部屋の前の廊下の突き当たりです。明日からは、終演後の一時間が入浴時間だそうです。今日だけは時間が繰り上がってもうシャワー室が使えます」 「……何だか、億劫《おつくう》になってしまった。今日はシャワーは止そう。真だけ行くといい」 「先生は?」 「デッキへ出て、外の空気を吸っていたい」  七郎は毛布をのけて、ベッドから降りようとした。そのとき、真が顔をこわばらせた。 「先生……血が」  真はベッドを指差した。見ると、シーツがめくれている下にマッチ箱ぐらいの大きさの赤いしみが見えた。七郎はベッドから毛布を取りのけた。 「先生、出血していると大変ですよ」  七郎はもう一度身体をさすった。 「いや、どこにも怪我《けが》などない。それに、血だとすると、古い血みたいだ」  よく見ると、その他にもベッドのところどころに米粒ほどのしみも見える。 「気持悪いわ、取り替えてもらいましょうか」 「待てよ……」  七郎はベッドから降りて、床を見た。木の表面にはさまざまなしみが付いている。だが、はっきりと血と言えそうなしみはない。七郎は部屋の奥に行って、押入れの引戸を開けた。中は割に広く、七郎の舞台着がハンガーに掛かっている。七郎はその隅に大きな鞄が二つ重ねられているのに気付いた。 「……誰の鞄だろう?」 「いなくなったレモン氏の荷物だそうです。グラントさんがそう言っていました」  レモンの荷物に、ふと興味を持ったが、他人の品に手を付けたくはなかった。奇術道具が入っているとすればなおさらだ。他人の道具に手を触れないのは、奇術家同士のエチケットだ。  七郎は引戸を閉め、反対側に歩いて行って、いきなりドアを開けた。  ドアの向うに人が立っていた。真っ赤な部屋着を着た、肥った女性だった。女性はドアに耳を立てていたらしく、明らかに狼狽《ろうばい》していた。 「通り掛かっただけなの」  女性はばつが悪そうに笑って、言い訳をした。 「前の部屋にいる、イザナミです」 「前にご一緒したことがありましたね」  と、七郎は言った。  イザナミは胸に手を置いて、ゆすり上げるような恰好をした。 「そうそう、思い出したわ。あれ、秋田の角館《かくのだて》で……」 「ご主人は元気かね?」 「有難う。今、シャワー室に行っているわ。じゃ、あとでオープニングパーティで会いましょう」  見ていると、イザナミは前の部屋のドアを開けて入って行った。 「コミック体技のイザナミだ。亭主のイザナギと組んで芸をしている」  七郎は真に教えた。 「ご主人のイザナギさんは、ひょろりとして、頭の長い人でしょう。前に舞台で見たことがあります」  イザナギとイザナミの芸は、体技を基本にした笑劇で、その主題は徹底的に女が男を攻撃し痛め付けるというものだ。肥ったイザナミは、ひょろりとしたイザナギをねじ曲げ、引き伸ばし、手玉に取り、もみくちゃにし、手や足をつかんで振り廻し、二つに折り、四つに畳む…… 「イザナミは悪い女じゃないんだが、ひどく詮索《せんさく》好きなんだ。きっと、君を見ていて、探りを入れたくなったんだろう」  七郎は上着を着た。  部屋を出るとき、妙なことに気付いた。 「あの道化師は、たんこぶ権太と言ったな?」 「そうです。安田《やすだ》権太というのが本名ですって」 「……たんこぶ権太《ごんた》と言うと、回文名だな」 5 唄子《うたこ》が答《こた》う  虎《とら》が荷物用のリフトに乗せられて、上甲板に運ばれるところだった。  一匹の虎が苛立《いらだ》っていて、調教師が手を焼いているようだ。虎は七郎が通り掛かると、がっと口を開けた。 「トオト!」  調教師が虎を叱咤《しつた》した。 「虎と、相性が悪いとみえますね」  黒いタイツの男が、七郎に言った。イザナミの夫、イザナギだった。イザナギは扇子《せんす》で胸に風を送っていた。 「良くしてもらいたいとも思わないね」  と、七郎は言った。 「慣れない船と台風で、参ったんでしょう」  リフトのドアがやっと閉まった。 「今、閑《ひま》かね?」  と、七郎が訊いた。 「別に……」  イザナギは扇子をぱちぱち言わせた。 「ちょっと訊きたいことがあるんだがな」 「何でしょう?」  イザナギは青くて細長い顎を撫でた。  七郎はサイドデッキに出て、べンチに腰を下ろした。イザナギは隣に並んだ。 「僕の前にいた奇術師のことなんだが……」  イザナギは取り出した煙草《たばこ》に火を付ける手を止めた。一瞬、表情がこわばったようだった。 「レモンさん、ですね」 「レモンはどんな奇術をしていたかね。リハーサルには立ち会ったんでしょう?」  七郎は一応前にいた奇術師のレパートリイが気になっていた。 「レモンさんは一度しかリハーサルをしませんでした」  と、イザナギが言った。 「台風の影響で、飛行機の到着が遅れ、レモンさんがショウボートへ来たのは、午後の通し稽古《げいこ》が終わってからでした。助手のグラントさんが、ずいぶん気を揉《も》んでいたようでしたがね」 「レモンとグラントさんは、ショウボートで初めて顔を合わせることになっていたそうだね」 「そうなんです。グラントさんは、奇術の助手も初めてなんです。先に到着していた荷を解く時間もあまりない。百戯団の虎を使うことになっていたんですが、その段取りもできません。全部の演技は十五分ばかりだそうですが、それは明日——つまり、今日ですね、今日のリハーサルには全手順を組み上げることになりまして、取りあえず、奇術の出《で》と、売り物の芸だけを舞台で見せることになりました」 「その芸は?」 「舞台の中央に三枚の大きなトランプが立っています。最初にグラントさんが出て来て、世界のグレートマジシャン、ノーム レモンを紹介しますと言い、三枚のトランプを三角に立てた中に自分が入る。少しして、トランプの扉が開くと、グラントさんが消えていて、レモンさんが現われ、観客席に向かって、悠悠とした態度で一礼する」 「なるほど」 「三枚のトランプを畳んで舞台の下手袖に片付けてしまうんですが、そのところはちょっとまずかったね」 「まずい?」 「レモンさんがトランプの向う側を気にしすぎたからです。誰が見ても、トランプの裏が怪しいと思う。もっとも、グラントさんとの打ち合わせが不充分だったせいでしょう」  権太の話とでは、大分様子が違う。 「でも、売り物の透視術はさすがだと思いました」 「透視術といっても、色色あるが」 「ほら、両目を白い粘土みたいな物で、ふさいでしまう奴です」 「それはパテだ。その上に接着テープを×印に貼《は》って、完全に目が見えなくなるようにして、更に目隠しをした上、黒い袋をすっぽりかぶる、という順序だろう」 「そうです。それでいて、観客の持ち物を当てたり、観客が黒板に書いた数式を計算したりするんです。不思議でしたねえ。目の見えるわけはないんですがね。助手がこっそり教えたりするんでしょうか」 「助手のグラントさんとは、打ち合わせをする閑もなかったというじゃないか」 「そう言えば……グラントさんはレモンさんの傍に付き切りじゃありませんでしたね。そう、たまたまリハーサルを見物しに来ていたコック長のシャロンさんが舞台に上がりました。レモンさんはシャロンさんが黒板に描いた虎の絵に、尻尾《しつぽ》がないのを知って、描き加えましたよ。シャロンさんがさくらであるわけはないし……ねえ、楓さん、レモンさんの目は、本当に見えるわけじゃないんでしょう?」 「……まあ、どうしても知りたければ、専門店に行って、材料を買えばすぐ判る。〈盲目のビジョン〉とか〈X線の目〉という名の奇術だ」 「私は、それほど物好きでもありませんよ。権太さんなら、本気で買うと言い出すかも知れませんがね」  七郎は聞いているうちに、気が楽になった。レモンがリハーサルで、超一流の芸を見せたとなると、その後を受け持つのは気が重い。ところが、イザナギの話では、レモンの売り物は透視術。それも、ごく一般的な手順で、驚天動地というような代物《しろもの》ではなさそうだった。ただ、レモンが独得な個性を持っていて、その魅力が絶大だとすると、話は別だ。 「レモンはどんな感じの奇術師だったね?」  と、七郎はイザナギに訊いた。 「……そうですねえ。外国人としてはまあ、普通の体格でしたが、舞台に立つと大きく見えましたねえ。眉《まゆ》が太く、口の周りに黒い髭《ひげ》を生やしているためでしょう。スマートな西洋奇術という感じじゃなくて、東洋の魔法博士といった演出でしたよ。同じ外人でも、グラントさんなどとは、正反対のタイプですね」 「その奇術師が、道具を残して急にいなくなってしまったという。何だか、おかしいと思わないかい」 「……私には何とも言えませんねえ」 「レモンが船に到着したのが昨日の三時頃。リハーサルは夕方近くだったはずだ。それなのに今日の午前中には、座長はもう新しい奇術師の手配を始めている。これはどうしても不思議だ。レモンが死んだのなら、ともかく……」  イザナギは立ち上がった。 「ビールでも飲まないか」  と、七郎が言った。イザナギは手を振って、 「嬶《かか》あに用事を頼まれているんですよ。煙草を切らしてしまったんでね。早く買って届けてやらないと……」  そわそわとして傍を離れて行った。 「どうも怪しい」  七郎も立ち上がった。イザナギは何かを知っていて、それを言いたくない様子だ。七郎のベッドに着いていた血のような痕《あと》といい、どうも気になる。  七郎は船首の方に歩いた。陽差しはまだ強いが、海を渡って来る風が爽《さわ》やかだった。七郎はビアガーデンに出て、デッキの端にあるパラソルの下に腰を下ろした。  しばらくして、人が近寄る気配を感じた。  七郎の横に、そっと椅子が引かれ、滑り込むように女性が腰を下ろして、海の方を見た。唄子だということは、見なくとも判った。 「……元気そうね」  と、唄子が言った。 「喧嘩もできるしな」  七郎は遠くの海を見たままで言った。 「どこにいた?」 「海の向う——アメリカを転転として、最後にいたところはブラジルでした」 「いつ、戻って来た?」 「二十九日の朝」 「規沙江とは会ったか?」 「その閑がありませんでした」 「なぜ、戻って来た?」 「向うにいられなくなったからです。瀬川が博打《ばくち》で負け、莫大《ばくだい》な借金を背負い込んでしまったんです。瀬川はわたしに内証で馬琴さんに手紙を書き、助けを求めました。馬琴さんが旅費を送ってくれたので、わたし達は逃げることができたんです」 「日本に戻れば、僕がいる——」 「覚悟はできていました。でも、こんなに早く会うとは思わなかった」 「君は昔と変わらず綺麗だ」 「有難う」 「だが、真には敵《かな》うまい」 「——そう。あの子はいい子だわ。芸もしっかりしている。ずっと一緒なの?」 「まあね……」  七郎はぼかした言い方で、唄子の反応を窺《うかが》った。唄子の表情に嫉妬《しつと》を見たかった。だが、唄子は表情を変えなかった。 「……最初に廊下で会ったとき、わたしに向かって、ひどいことを言ったわね。聞こえなくとも、わたしには判りました」 「詫びろ、と言うのか?」 「いえ。そのぐらいのことを言われるのは、覚悟の上でした。むしろ、心の中では喜んだほどです」 「変な女だ」 「昔の女を罵倒《ばとう》できるというのは、それだけ現在の自分に、自信を持っていることでしょう。見れば、綺麗な若い子と一緒でした。楓七郎はわたしのいない間に、とうとう本物になった。そう思って、心の中で喜んだのです。ところが、あれはただ酔った勢いだけだったんですね」 「…………」 「あなたのリハーサルを見ました」 「止《よ》してくれよ。同業者から批評なんか、聞きたくもない」  だが、唄子は止《や》めなかった。 「久し振りに〈華やかな神秘〉を聞いて、涙が出そうになりました。でも、あなたは、全く、駄目になりましたね。以前から芸はうまくなかったけれど、酔って、舞台に出たり、喧嘩などしたことは一度もなかった」 「当たり前だ。女房に逃げられた男だ。一日も酒なしで生きてゆかれると思うか」 「あなたは、そういう人だったんですか」 「今更、見損なったわけじゃあないだろう」 「今日のあなたを見て、今迄のわたしが、飛んでもない間違いを犯していたことが判りました」 「そんなことはあるまい。好きな男との海外生活。羨《うらや》ましい限りさ。そして、金がなくなれば金持ちの友達を頼ってご帰還だ。そして、相変わらずうだつの上がらない僕を見て、芸をけなしている。さぞ面白かろう」 「すると、わたしが書いた手紙を読まなかったんですか?」 「あんなもの、読まない。相手の男の名前など、知りたくなかったから、すぐに捨ててしまった。けれども、親切にちゃんと教えてくれた奴がいる。太田成明《おおたなりあき》と仲良くロサンゼルスにいたそうじゃないか。その後は、瀬川とだ」  唄子の椅子が、小きざみに鳴り始めた。見ると、唄子は手を顔に当て、肩を震わせていた。 「わたしのいたところは、地獄だったわ」 「太田はどうした?」 「サンフランシスコで、死んだわ」 「太田が死んだのが、泣くほど悲しいか」 「わたしの恐れていたことが現実だった。あなたはただの判らず屋だったのね」  唄子は自分に言い聞かせるように言って、黙ってしまった。黒い鳥がどこからともなく飛んで来て、海面をついばんでは舞い上がる。そのうち、その鳥もいなくなった。 「もっと、訊きたいことがあるんでしょう?」  しばらくして唄子が言った。 「いや、ない」 「わたしがなぜいなくなったのか、知りたくないんですか」 「知りたくない」 「じゃ、わたしだけ、勝手に話します」 「どうぞ自由に。つまらなくなったら、寝てしまうかも知れない」 「……それを決心したのは、吉田一城先生の言葉がきっかけでした」  七郎は一城という名を聞いて、ちょっとどきりとした。今度は唄子の方で、反応を窺うようだった。七郎は強《し》いて無関心を装った。 「忘れもしません。新宿《しんじゆく》の大きなホールでした。わたし達が舞台に出ると、一城先生はいつものように、一番前の座席で舞台を見ていたわ。奇術を演じているあなたには判らなかったかも知れない。わたしはあなたの後ろに立っていて、観客席を見渡すゆとりがありました。舞台の上から、ふと一城先生を見ると、先生はじっとあなたの芸を見ていましたが、妙に身体を動かしていたんです。ときどき首を横に振り、水でも吹き出すように口を尖《とが》らせます」  一城の癖だった。自分の気に入らぬことがあったとき、こういう態度をすることがあった。 「舞台が終わってから主催者がパーティを開き、わたし達も招待されました。そのとき、わたしは一城先生に挨拶をした後で、そっと尋ねました。〈七郎の奇術はどうでしたか?〉」 「余計なことを訊くもんじゃない」 「わたしは勝手に喋《しやべ》っている、と言ったでしょう。聞きたくなかったら、どこかへ行ってしまえばいいわ」  唄子は続けた。 「……一城先生は首を横に振り、唇をすぼめました。そして〈どうにも、いけない〉と言いました。〈何が、いけないんでしょう〉わたしは聞き逃すわけにはゆきませんでした。〈さっきの舞台は、七郎が七分、あなたが三分の芸だった。それはいい。だが、お客さんの七分はあなたを見ていたが、七郎を見ていたお客さんは三分しかいなかった。だから、どうにも、いけない〉」 「…………」 「そのうち、先生の前に色色な人が集まってしまったので、話はそれだけになりました。けれども〈七郎の芸は三分のお客さんしか見ていない〉という一城先生の言葉は、大変なショックだった。自分では全く気付かぬうち、わたしは七郎の芸の邪魔をしていたに違いない。主役を引き立てるはずの助手が、その逆であれば、助手はむしろ、いない方がいいわけですからね」 「そんなのは後からの言い訳だ。お前は最初から太田と……」  唄子は七郎に構わず話を続けた。 「わたしがいなくなれば、お客さんはあなたを見てくれるだろうか。一人だけでは舞台が淋《さび》しくなりはしないだろうか。わたしはずいぶん迷いました。そのうち一城先生は病いに倒れ、相談をすることができなくなってしまいました。その結果、ふと太田にこのことを打ち明けて、意見を訊く気になったんです。太田とは中学が同じでした。同じ音楽部にいて、太田の気心はよく知っているつもりでした。たまたまある公演で太田と一緒だったとき、話をしたんです。〈今、わたしがいなくなっては、七郎が困るでしょうか?〉太田の答えははっきりしていました。〈君がもしいなくなれば、七郎は発奮するに決まっている。男だったら、それで芸も飛躍すると思う。ちょうど僕は、これから、アメリカ西海岸を巡業することになっているんだ。僕は自分のギターを完成するためにも、当分は日本へは〉……」  七郎は酒がないといられない気分になった。あたりを見るとビアガーデンの入口にビールのケースが目に付いた。七郎は主任らしい男と掛け合い、ビールとコップを手に入れることができた。  椅子に戻ると、唄子は独りで話していた。 「……それまで、わたしはまだ欺《だま》されていることに気付きませんでした。バンクーバーに着いても、落ち合うはずの一座なんて、どこにもなかったわ。その夜、ホテルで太田の本心を打ち明けられた。太田は自分独りで成功する気だったんです。〈あなただって、日本へは帰らない覚悟なんでしょう。僕だって、一流にならなければ、帰る気はない〉と太田は言いました。その夜、半ば力ずくで、わたしは太田の女にされたわ」  泡ばかり多いビールだった。飲むとなまぬるく、苦かった。だが、味などはどうでもよかった。 「最初、太田は天下を取るぐらいの意気込みでした。けれども、世の中は太田が考えているほど甘くはなかった。さまざまなコンクールに応募しますが、予選でも通過すればましなぐらい。とうてい、ホテル住いを続けることはできず、すぐにダウンタウンに移りました。生活費はすぐに底をついて、太田は小さなバンドで働くようになりましたが、風俗習慣に溶け込めないのか、どれも長続きはしません。そのうち、太田の焦《あせ》りがわたしにも堪えられないものになってきました。そうなると男はだらしなくなるものね。酒に酔い、わたしに手荒な仕打をし、安女郎と寝て……」  七郎は黙ってビールだけを飲んだ。 「とどの詰まり、わたしは紙屑《かみくず》みたいに捨てられたんだわ。あとで判ったことですけれど、太田はそのときサンフランシスコにいた馬琴さんのところへ手紙を書いて、拾ってもらったんです。わたしには何も知らせず、一人だけで。馬琴さんは一座を組んでいて、在米邦人に見せるためのショウを持って、太平洋沿岸を巡業していました。夫婦者じゃ、売り込みにくかったんでしょうね。太田は自分一人が助かり、何とかして日本へ逃げて帰ればよかった。太田がいなくなってからの、わたしの生活は……あら、眠くないんですか?」  唄子は初めて七郎を見た。怒りに燃えているような目だった。 「まだビールが残っているもんでね」  と、七郎は言った。 「だったら、先を急ぎましょう。ビールの残りが少ないものね。わたしだって思い出したくはない。お酒がうまくなるような話じゃありませんからね。結局、わたしも馬琴さんに助けられたんです。太田が口を添えてくれたわけじゃない。太田が死んでしまったからなの。盲腸をこじらせて、手遅れになったそうです。太田の荷物を整理していた馬琴さんが、わたしがバンクーバーのダウンタウンに独りでいることを知って手紙を書いてくれました。皮肉なことだけれど、結局は太田に助けられたということになるのかしら」  決して愉快ではなさそうだったが、唄子は初めてかすかな笑顔を作った。 「馬琴さんの一座にいたのは、それから半年ばかり。そこに権太さんや玉葉さんがいました。やっと一年ぶりに、人間らしい生活ができると思ったのも束《つか》の間《ま》で、行く先先の興行はどれもひどい不入りが続きました。その年、太平洋岸では二年続きの天候異変で、雨が極端に少なく、どの農地も凶作にあえいでいたんです。とてもショウなど見る状態ではなかった。最初から、馬琴さんは手ひどい契約違反にあって、わたしが一座に入ったとき、元の三分の一の人数に減っていたそうです。一行は車のガソリン代にも困るようになって……ここも飛ばすわ。口では言えないこともあった……」 「ドクター瀬川のことを聞いていない」  七郎は最後のビールを飲み干した。 「瀬川も馬琴さんの一座にいたんです」  風が強くなっているようだった。唄子は手で髪を押えた。 「……散散な目に会った挙句《あげく》、その一座は半年ばかりして解散してしまいました。ある人達は貨物船で日本に戻り、ある人達は現地に残ったり、別のサーカスに入団したりしました。わたしは日本へ戻る気はありませんでした。瀬川と一緒になって、そのままアメリカに留《とど》まったんです。だから、瀬川の申し出を聞いたのは、瀬川が好きだったからじゃありません」 「もう、いいよ」  七郎は空《から》のビール瓶を振ってみせた。 「言いたいことは判っている。愛してもいない瀬川とそれから何年間も外国を転転として苦労して来たと言いたいんだろう。その瀬川は最後にはブラジルで博打で借金を重ね、その度に君は苦労し続けた。にもかかわらず、僕はその間、ずうっと酒に溺《おぼ》れ、仕事をする気力もなく、ただ無駄に生きていただけ。早く見切りを付けた、君の勝ちだったよ」  唄子は悲しそうに言った。 「これまで言っているのに、まだ判らないの。わたしはあなたを見限ったわけじゃなかった——」 「もういい。眠くなった。酒もなくなった」 「わたしからも訊きたいことがあります。ビールなら貰《もら》って来ましょう」  唄子は立ち上がった。だが、ドアの方を見て動かなくなった。七郎が見ると、瀬川の大きな身体が見えた。瀬川は二人を見ていたようだ。  唄子は瀬川に近付いた。瀬川が何か言ったようだが、七郎には聞こえなかった。瀬川の右掌《みぎて》が上がり、唄子の頬に打ち下ろされた。唄子の髪がはね返った。  七郎は飛び掛かろうとしたが、思い留まった。相手があまりに強そうだったし、酒の量も不足だった。  瀬川は太い眼鏡の向うから、じろりと七郎を見ると、そのまま唄子の腕を持ち、引き立てるようにして入口に消えた。  唄子と話し合ったのが、夢みたいな感じになっていた。  唄子がいなくなってからの六年間、一日だって唄子を思わぬ日はなかった。ただ、見えない唄子に焦がれ、酒で唄子の幻影を追い、醒《さ》めては唄子を怨《うら》んだ。言いたいことは山ほどある。唄子の態度によっては殺してもいいとさえ思っていた。  それが、いざ会ってみると、自分が思っていたことは何一つ言うことができなかった。  七郎は情けなくなった。空のビール瓶を持って、ふらりと立ち上がり、調理場の方に歩いた。さっきの主任がいた。 「お代わりを頼むよ。できれば、もっと強いやつが欲しいんだ」 「困りますねえ……」  主任は言った。 「まだ、営業はしていないんです。あと一時間もすれば、パーティが始まります」 「それまで待てれば、頼まないんだ」  白い調理服を着た男が通り掛かって、ちょっと足を止めた。銀髪でバラ色の顔をした太鼓腹の外国人だった。七郎は胸の名札にコック長とあるのを素早く読み取った。コック長と仲良くしていれば損はないと思った。七郎は右手を差し伸べた。 「おお、コック長。私、マジシャンの楓といいます」  コック長はにこにこして手を握った。 「ピエール シャロンです。よろしく」  流暢《りゆうちよう》な日本語だった。 「酒が欲しいんですがね。コニャックか、ウィスキー」  シャロンはちょっと頭を傾けた。 「マジシャン、ダイスのトリックを知っていますか?」 「素晴らしいのを、沢山」  七郎は嘘をついた。いざとなれば、真に訊けばいいという腹だった。 「それを教えてくれれば、酒はただあげます。ただし、誰も知らないようなトリックでなければいけない」 「勿論《もちろん》、飛び切り不思議な奇術をいくつも教えますよ」 「約束しましたよ」  シャロンはそう言って、調理室の奥に行き、瓶を抱えて来た。 「奇術は好きですか?」  シャロンは片目をつぶって見せた。  七郎は早速栓を抜き、ラッパ飲みした。口の中が火になるようなコニャックだった。 「先生——」  真の声がした。七郎はあわてて口の酒を飲み下ろし、瓶の栓を閉めた。 「またお酒を飲んでいるんですか?」 「……唄子と会った」  七郎は関係ないことを言った。 「首を締めましたか?」 「ダイスのトリックがあるね?」  真はむきになって、奇術とは関係のないことを言った。 「先生、権太さんが、殺されています……」 6 罪人秘密《つみびとひみつ》  暗い廊下に、何人かの人影が動いている。  一番手前に立っている肥った女性と、ひょろりと背の高い男は、イザナミとイザナギだった。イザナギたちの向う隣のドアが、内側に開いていて、瀬川と唄子が廊下に出ていた。七郎と真が廊下に着くと、何を思ったのか、瀬川は唄子を部屋に押し入れ、自分も中に入ってドアを閉めてしまった。かちりと音がしたのは、施錠した音に違いない。 「権太の部屋はどこだ?」  と、七郎が言った。七郎は元気だった。コニャックの廻り方は、まことに素晴らしい。 「しいっ」  七郎を制したのはイザナミだった。イザナミはあたりを見廻してから、そっと真に言った。 「あんたも、すばしっこくって、困った子だねえ。こういうときには誰かの指図を受けてから動かないといけないよ。これを知っているのは、わたし達と瀬川さん夫婦、グラントさんと、あんただけだったんだから」 「グラントさんは?」  真が訊いた。廊下にはグラントの姿は見えなかった。 「そうっと、座長さんのところへ報告に行ったよ。あんた、七郎さんの他には喋《しやべ》らなかったろうね?」 「コック長のシャロンさんが聞いていた。食堂にはまだ人がいたから、その耳にも入ったかも知れない」  と、七郎が言った。イザナミは七郎が持っているコニャックの瓶に目を落とした。 「きっと、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てたんでしょう」 「殺人事件だとすれば、いずれ皆に知られてしまうじゃないか。警察だって来るだろう」 「あたしゃ、嫌だね。何も知らないことにするよ」  イザナミは自分の部屋のドアを開けて、イザナギの腕をつかんだ。 「さあ、あんたも、部屋に入って静かにしているのよ。こんなこと、一度でこりごりだ」  七郎は最後の言葉を聞き咎《とが》めた。 「一度でこりごり……? すると——」  イザナミはそれには答えず、部屋に入るとイザナギを引き込んで、ドアを閉めてしまった。  廊下には七郎と真だけが残った。 「イザナミさん口を閉じ、だわ」  真は少しも動揺していないようだった。 「権太の部屋は?」  七郎は真に訊いた。 「瀬川さん達の、二つ向う側」  真はそのドアを指差した。こちらから算《かぞ》えて、四番目の左側の部屋だった。ドアはどれも同じように閉まっている。 「権太の部屋には、誰かいる?」 「死んだ、権太さんだけ」 「変死だとすると、見張りが必要じゃないかな」 「先生、見張りますか?」 「真、それを見るのは嫌か」 「最初、見たときはびっくりしましたけれど、もう、平気です」 「じゃ、一緒に来てくれ」 「案内するわ」  真は先に立って四番目のドアに近付き、手にハンカチを巻いてノブを廻した。 「先生、早く」  真が先に部屋へ入って、七郎は入口でちょっとためらった。何気なく廊下を見ると、イザナミの部屋のドアが細目に開いていて、イザナミがこちらを窺っている様子だ。七郎は大きく息を吸ってから、権太の部屋に足を踏み入れた。  すぐ、屍体《したい》を見る度胸はない。それで目を上に向けた。間口は七郎のいる部屋と変わらないが、奥行きはずっと浅い。白い天井にむき出しの蛍光《けいこう》灯が光っている。少しずつ、目を下に向ける。突き当たりの壁に沿って、ベッドが置かれている。白いシーツと灰色の毛布が乱れているが、人はいない。部屋の左側に鏡台兼用のライティングデスクがある。七郎は床に目を落とした。樽型《たるがた》のスツールが転がっている。そのスツールと並んで屍体が見えた。七郎の足元から一メートルと離れていない。  屍体はうつ伏せで、顔を床にこすり付けるようにしている。顔を中心とした敷物に血の輪ができている。道化師の扮装《ふんそう》のままだった。眉をへの字に描き、口紅を大きくぬりたくっている権太の横顔は、相棒の瘤と共に完全に動きを止めていた。七郎は一つ大きく息を吸った。 「権太が殺されている、確か、そう言ったな?」 「はい」  真ははっきりと答えた。 「どうして判る?」 「床に目を近付けて覗《のぞ》くと、傷口が見えるんです。権太さんの額に、鉄の棒みたいな物が刺さっていますよ。こんな自殺の方法って変だし、事故というのも考えられません」  七郎は屍体に顔を寄せるなどということはとうていできそうにもなかった。  ドアがそっと開いた。  馬琴とグラントの顔が見えた。馬琴はグラントにも部屋へ入るように言い、ドアを閉めた。  馬琴は七郎をじろりと見た。 「あんたも、来ていたのか」 「わたしが教えました」  と、真が言った。 「……まあ、仕方がない」  馬琴は屍体の傍《そば》にかがみ込んでいたが、やおら屍体の肩を持って、ひっくり返した。 「動かしたりして、いいんですか?」  真が言った。馬琴は無言だった。  屍体はあおのけになった。真の言う通り、血で染まった権太の額に、細い棒のような物が突き刺さっていた。 「……釘《くぎ》だな、こりゃ」  と、馬琴が言った。  七郎も一目でそれが釘だということが判った。額に生えている釘はかなりの太さで、出ている部分は五センチほどだが、いわゆる五寸釘とすると、元の長さは一六センチはあるだろう。  馬琴は血溜《ちだ》まりに気を付けながら、くわっと見開いている権太の目を閉じた。次に手を調べてみる。荒れた手だったが、両手には何も持っていない。死後硬直も起こっていないようで、死んで間もないことが判る。  馬琴は次に、権太のポケットに手を入れた。太い横縞のシャツには胸ポケットが一つあって、白いハンカチが入っているだけ。ズボンの両側には、煙草が一箱、裸の紙幣が数枚、最後に小銭が出て来て、それで終り。馬琴はその全部を権太のハンカチで包み、ライティングデスクの上に置いた。 「キイがないな……」  馬琴は部屋を見廻した。ないとすれば、犯人が持ち去ったに違いない。  馬琴は七郎と真を見較べた。 「これを知ってしまったのは誰と誰だ?」  真が答えた。 「わたし達と、瀬川さん夫妻、イザナギさん夫妻、それと……」 「まだ、いるのか?」  馬琴は眉をひそめた。 「コック長のシャロンさんと、もしかすると、従業員も聞いていたかも知れません」 「……実際に、これを見たのは?」 「ここにいるわたし達と、瀬川さん、それにイザナギさんだけです」  馬琴は腕を組んだ。 「警察に知らせないんですか?」  真が言った。 「勿論《もちろん》——警察には知らせません」  馬琴は低いがはっきりした言葉で言った。 「楓さんも、まりも君も、よく聞いておいていただきたい。明日は処女航海なのですよ。大劇場は初日です。その他、全《すべ》てがオープンする日なのです。でありますから、今日、この船で、こうしたことがあってはならんのです」 「あってはならんと言っても、現実にはここで、権太さんが殺されている……」  と、七郎は言った。 「ですから、権太はここにはいないことにします」 「そんな……」 「よろしいですか、権太はどこかに行ってしまって、ここにはいないのです。ですから、このような事件は起こるはずがないのです」  馬琴は七郎の持っているコニャックの瓶に目を止めた。 「ちょうど、あなたは酒に酔っているようだ。酒に酔って、幻覚を見たのだと思えばよろしいでしょう」 「……ではこの始末は?」 「あなたが心配しなくとも、わたしが何とか致します。埠頭《ふとう》にいる今はまずい。明日、船は岸壁を離れますから、権太には気の毒だが、夜にでも——」 「水葬にしますか」  馬琴は真を見た。 「まだ、訊きたいことがある。だが、ここでは何だから、君達の部屋に行きたい」 「わたしは構いませんが、先生は?」 「まあ、仕方がないだろう」  馬琴は部屋を捜したが、矢張り権太の部屋のキイは見付からなかった。 「こんなこともあるだろうと思って、合鍵《あいかぎ》を持って来た」  馬琴はポケットから番号札の付いたキイを取り出した。  四人は部屋を出た。馬琴は合鍵で慎重に施錠した。廊下には誰もいなかった。七郎は馬琴を自分の部屋に案内した。  木の椅子《いす》は三つだけだった。七郎と馬琴とグラントがそれを使い真はベッドの端に腰を下ろした。 「さて……」  馬琴はちょっと部屋を見廻してから言った。 「色色の手違いがありまして、あなた達をこんな物置同然の部屋に押し込めたままで、気の毒に思っていますよ」 「いや、僕などもっとひどい部屋を使わされることが、しょっちゅうあります。ここは上の口ですよ」 「とにかく、明日の夕方までには別の部屋を捜しておきます。私の方にも都合がある。それはそれとして、まりも君、君が最初に権太の屍体を発見したそうだね」 「はい」  真はいつものはっきりした口調で答えた。 「そのときのことを詳しく教えてくれないかな。最初に、君はどんな用で権太の部屋に行ったんだね?」 「権太さんに、奇術を教えるためでした」 「ほう……どんな奇術でしょう」 「ちょっとした危険術風の奇術なんです」 「どういうことをするのかな」 「話すより、見せますわ」  真は立って自分のバッグから小さなケースを出し、その中から一本の事務用のピンを取り出した。薄い書類を止めて置くときなどに使われる、ありふれた品だった。真はピンを馬琴に手渡した。 「別にピンに仕掛けがあるわけじゃないんです」  馬琴はそれでもピンを指先でひねくり廻した。  真はピンを机の上に差して、垂直になるように立てた。 「よく、見ていて下さい」  真は右掌《みぎて》を開き、一、二度机を空打《からう》ちしてから、掌でピンの真上をはっしと叩いた。真はゆっくりと手を除《の》けた。真の掌の下に、真っ二つに折れ曲がったピンが転がっていた。 「……見事だ」  馬琴は唸《うな》った。 「そんな柔らかそうな手で、ピンが折れるとはとても思えない」 「勿論、掌に仕掛けがあるわけじゃないんです。ただ、これにはちょっとした骨《こつ》があるんです。権太さんが、それをどうしても覚えたいと言うので、教えるために、部屋に行ったんです」 「それは、何時かな?」 「先生が舞台で権太さんに撲《なぐ》られ、ここに運び込まれたのが……四時半頃でしたかしら」 「そう、そんな時間だった。リハーサルが全部済んだのが、五時だったからな」 「リハーサルが終わって、ここに戻り、少ししてから、先生が目を覚ましました。先生が風に当たりたいからと、デッキに行ったのが、五時半頃かしら」 「そんなもんだな」  と、七郎が答えた。 「その後、わたしはシャワーを浴びました。それから、権太さんの部屋に行ったんです。屍体を発見した時刻は時計を見たのでよく覚えています。六時ちょうどでした」 「すると、権太が殺されたのは、リハーサルの終わった五時から、六時ということになる」  馬琴は腕を組んだ。  七郎は馬琴がむずかしそうな顔をする気持がよく判った。五時から六時といえば、舞台でのリハーサルが終わり、銘銘、部屋に戻ったり、シャワーを浴びたりしている時間だ。アリバイから犯人を推理するのは困難なはずだ。 「部屋の鍵は掛かっていなかったんだね」  馬琴は真に訊いた。 「そうです。最初にノックしたんですけれど、返事がありませんでした。それで、ノブを廻してみると、ドアが開きました」 「電灯は?」 「ついたままです。それから、倒れている権太さんが見えました」 「私が見た、あの状態でだね」 「そうです。わたしは部屋の物は何一つ動かしませんでした」 「それで、グラントさんに知らせたのだね」 「そうです」 「グラントさんの部屋は、権太の向う隣でしょう。何か物音でも聞きませんでしたか」  グラントはまだ脅《おび》えているようで、両手を組み合わせていた。 「物音は聞きませんでした。私、ちょうどシャワーから帰って来たばかりでした」 「それで、すぐ私の部屋に報告に来たのですね」 「そうです」 「途中、誰かに会いませんでしたか」 「誰にも会いませんでした」  馬琴は再び真の方を向いた。 「君は権太の屍体を見て、グラントさんに知らせた。それから?」 「ちょうどイザナギさんの部屋のドアが開いていたので、声を掛けました」 「部屋にはイザナギさん夫婦がいたんだね」 「はい」 「ドクター瀬川には?」 「声を掛けたのはイザナギさんの部屋だけです。瀬川さん達はわたしがデッキに行った後で騒ぎを知ったんだと思います」  馬琴は腕を組んだ。 「権太さんて、どんな人なんですか? 何だか、とっても好奇心の強そうな人に見えましたけれど……」  と、真が訊いた。馬琴はじろりと真を見て、 「権太はここにはいない人間だ。いない人間には興味を持たない方がいい」  七郎と真は顔を見合わせた。 「この事件は全て私に委《まか》せるのです。あなた達は権太とショウボートでは会っていないのです。判りましたね、グラントさんも」  馬琴は立ち上がった。 「もうすぐ、オープニングパーティの時間だ。私はこれからまだ忙しい。権太のことは、後でもう一度話し合おう。それまでは、さっきのことは誰にも言わぬようにしてほしい」 「安心して下さい、座長。仕事がなくなれば、僕達も困ります」  馬琴はもう一度念を押して、グラントと部屋を出て行った。 「怪しいわ、先生」  と、真が言った。 「そうだ。馬琴は何かを隠している。大変な男らしいぞ」 「興味を持つなと言われると、余計色色なことが気になるわ」 「僕もそう思っている」 「先生、押入れにレモンさんの荷物が残っているんですよ。調べてみましょうか?」 「よし」  七郎は椅子から立ち上がった。  真は押入れの引戸を引いた。七郎と真の舞台衣装がきちんとハンガーに掛けられている。その下に、車の付いた大きなトランクと、黒いスーツケースが重ねられていた。勿論、七郎の荷物ではない。  真は上に置かれているスーツケースを部屋に持ち出して中を開いた。中には色色な奇術道具が詰められている。  奇術道具はその持ち主の芸を雄弁に物語る。カードの手入れが行き届いていれば、その持ち主はカード奇術が得意だろうし、摩滅したコインを持っていれば、コイン奇術の名手に違いない。 「ほう……」 「先生〈二本の筒〉ですね」  真は「二本の筒」を取り出して見せた。空《から》の筒から花束やシルクを出現させる道具だ。次は「シルクキャビネット」というシルクの染替箱、「火焔皿《かえんざら》」という火の中から品物を取り出す皿。花束やシルクは新品同様だった。古新聞の束があるのは、ペーパーツリーを作るためだろう。後はエンドマークが染められている大きなシルク、マジックテーブルに、マジックワンド。 「イザナギさんが言った通りだ。レモンという奇術師の売り物はX線の目だったようだな」  と、七郎はスーツケースの中をざっと見て言った。レモンの道具のほとんどは、誰にでもできて、奇術材料店へ行けばすぐ手に入りそうな品ばかり。プロらしい品はX線の目だけといってよかった。  そのX線の目は黒い袋の中に、一式が揃《そろ》っている。両眼を塞《ふさ》ぐためのパテと接着テープ。最後に黒い袋を頭からすっぽりとかぶって、目と外界とを遮断するのだ。 「接着テープが残り少なくなっているわ」  道具を見ていた真が言った。 「どこかに新しい予備があるんだろう」  真はなおスーツケースを探したが、その予備は見付からなかった。 「変ですね。古新聞まで用意している人なのに……でも、この道具だけ見ると、大した奇術を演《や》る人とは思えませんね」 「まあ、僕よりはましだろう。僕のシルクはもっと汚れている」  真はくすりと笑った。 「そっちのトランクもレモンのかな?」 「調べてみますか」  真はスーツケースを元通りにしてから、灰色のトランクを引き出し、蓋《ふた》を開けた。  一番上に、手荒く丸められたような黒い布が見えた。布は木綿で、ガウンの帯のような紐《ひも》が巻き付けられている。その下にはブレザーコートやタキシードがきちんと畳まれて重なっている。その丸まった布が何か異質だった。 「何だろう……」  真も同じ思いだったようで、巻き付けられている紐を解いた。紐は一メートル半ばかりの長さだった。 「ガウンの帯みたいですね……あ」  真は手を止めた。紐の両端に赤黒い汚れが見えたからだ。 「血……じゃありませんか」  七郎は床にかがみ込んだ。汚れはこわばった感じで乾いている。 「よし、俺が見る」  七郎は紐で結ばれた布を手早く拡げた。布はシーツのようだ。血のようなしみはシーツのあちこちにも飛び散っている。シーツは部屋にあるのと同じ品だった。すっかり拡げると、中から三〇センチばかりの両刃の剣が転がりだした。刃は白い光を放ち、よく見ると柄の元に、乾いた血のような痕《あと》が見えた。 「あっ……」  真が低く叫んだ。 「どうした?」  真はスーツケースの横を示した。そこにはステッカーが貼られていて、NOME ANGERAVARYという活字が印されていた。 「ノーム アンジェラバリーと読むんでしょうか、それがレモンさんの本名みたいです」 「それが、どうした」 「芸名のレモンとは、きっと|LEMON《エルイーエムオーエヌ》と書くんでしょうね」 「そうだろうな」 「すると、ノーム レモンは回文名のような気がしますけど」 「えっ?」  七郎は目を大きく開けた。 「書く物はないか」 「ここにあります」  真はすぐメモと鉛筆を持って来た。七郎はすぐ鉛筆を走らせる。NOME LEMON—— 「確かに、これはローマ字の回文名だ」  七郎は唸《うな》った。 「先生、もっと驚くことがあるんです」  と、真が言った。 「万一ということがあります。岡津唄子という名をローマ字で書いてみると、どうなるでしょう」  七郎はあわてて手帖と鉛筆を取り直した。誰かがドアを叩いているようだったが、耳には入らなかった。自分が書いた文字に食い入った。   OKATU UTAKO  七郎は思わず手帖を取り落とした。  真がドアを開けた。イザナミの顔が見えた。イザナミは薄紅色のカクテルドレスになっていた。 7 イザナミ読《よ》みなさい 「忙しそうね」  イザナミはそっと部屋に入って来て、あたりを見廻した。  七郎と真は荷物を片付け始めたが、イザナミはそれがレモンの鞄《かばん》類だとは気付かないようだ。 「まあ、お掛けよ」  七郎はイザナミにも訊《き》きたいことがあった。 「この部屋は広くていいね」 「いいけれど、お茶の用意はここではできないよ」 「……コニャックがあるじゃない。それを頂くわ」 「グラスがない」 「持って来る」  イザナミは部屋を出て、グラスを三つ抱えて戻って来た。 「どうも、向うにいると気恥かしくってね」 「何があったんです?」 「うちの部屋は、隣の声が丸聞こえなんだよ。七郎さん、さっき、唄子さんとどこかで話していたでしょう」 「ああ……」 「それを瀬川が気に入らないらしいんだ。瀬川って男、大変な妬《や》きもちみたいだわ。唄子さん、撲られてた」 「撲られた?」 「ひどい音がしたもの。唄子さんの忍び泣きが聞こえていたけれど、彼女、相当飼い馴らされているみたい。泣き声が段段|歓《よろこ》びの声に変わってね……あら、あんたも飲む?」 「飲むよ」  七郎が言った。 「先生、いけません」  真が止めようとする。七郎は聞き入れなかった。 「今、屍体の傍にいた。清めのために、飲む」 「飲ん兵衛は飲む口実を作るのがうまいね。うちのもそうだけれど」  イザナミは三つのグラスに酒を注いだ。 「イザナギさんは?」  と、七郎が訊いた。 「部屋で大人《おとな》しくしているから、放っとけばいいわ。うちのはあんなのが好きなんだから」  七郎はコニャックをあおった。 「馬琴さん、何て言ってた?」 「権太はここにはいないんだと言ったよ」 「矢張り——ねえ」 「イザナミさんには言わなかったかい」 「わたし達はわきまえていると思っているんでしょう」 「そりゃ変だ。じゃあ権太が殺されるのを予《あらかじ》め知っていたみたいじゃないか」 「そんなことないわよ——ただ」  イザナミはちょっと言い澱《よど》んだ。真がイザナミのグラスに酒を注いだ。 「もしかすると、これが最初じゃなかったんでしょう。前にも誰かが殺されて……馬琴さんが事件を消してしまったことがあるんじゃない?」  イザナミは寒気に襲われたように身体をすくめた。 「……この子、鋭いわ」  七郎は思い当たることがあった。 「さっき、あんたは〈こんなこと、一度でこりごりだ〉と言ったね」 「そうなのよ。あんた達、仲間になったから話すけれど、誰にも教えないと約束する?」 「約束する」  イザナミは肥った背を丸くした。 「……実は、この船で、もう一人が殺されているのよ」 「この部屋にいた奇術師、ノーム レモンだな」 「そう、レモンさんはこの部屋で刺されて、死んだわ。わたしも、うちの亭主も、権太さんも見ている前でね」 「すると、矢張りこれは血痕《けつこん》だったんだ……」  七郎は立って、ベッドに付いているしみをイザナミに示した。 「レモンさんの血だわ」  イザナミは恐ろしそうにベッドから目をそらせた。 「……このことを知っている人はあまりいないの。喋りたくっても、座長からきつく口止めされているでしょう。心細くってならなかったわよ。あなた達なら仲間になったんだから、もう大丈夫。すっかり話してしまうわ。あれは、ちょうど昨日の今頃ね。リハーサルが全部終わって、銘銘が道具を片付けたり、部屋に戻ったりしていたの。たまたま、この部屋の前を通り掛かると、中から大きな物音が聞こえた。変に思ってドアを叩くと、鍵が掛かっていて、今度は人の唸り声がするでしょう。変に思っていると、権太さんが部屋から出て来たの。これは、おかしいと言うので、権太さんが座長のところへ電話を掛けた……」 「権太の部屋には電話がある?」 「廊下の向う側は全部個室で、一つずつ電話が付いているわ。そこへ唄子さんが通り掛かったので、事務室にマスターキイを取りに行ってもらいました。そのうち、座長や船長も船室にやって来る。キイを待ってはいられないというので、百戯団の雪山さんがドアに体当たり。部屋の中からレモンさんが出て来たんだけれど、一目それを見たわたしは、本当に腰が抜けちゃった。だって、レモンさんの左|脇腹《わきばら》に短剣が突き刺さってるのよ」 「脇腹……ね」 「そう。レモンさんは黒っぽいガウンを着ていて、共色の帯を締めていたわ。剣はちょうど小さな花結びの結び目の上あたりに突き立っていたの。日本の刀じゃないわね。両刃の剣だったわ」 「剣は深く?」 「そう。切っ先が背中に突き抜けていたわ。その先で壁を引っ掻《か》いた痕がまだ残っているはずよ。レモンさんは部屋から出て来ると、その階段を登り、デッキに出て、海に落ちていったんですって」 「じゃ、その最後は見なかったんだね」 「うちの亭主たちが見ていたわ。レモンさんは気丈にも、自分の手で短剣を抜いたんだけれど、それが最後の力だったらしい。ひどい血を流して貧血を起こしたのね。そのまま嵐《あらし》の海に落ちてしまったそうよ。権太さんがやっと帯をつかんだけれど遅かった。帯だけが権太さんの手に残ったんですって」 「それを見ていたのは?」 「うちの亭主、座長と船長、それから、権太さんとドクター瀬川、百戯団の雪山さん……それだけね」 「あんたは?」 「腰を抜かしたまんまだったわ。この部屋の前から動けなかったの。いつ部屋からレモンさんを刺した人間が出て来るかわからないでしょう。皆が戻って来るまでの恐《こわ》かったことといったらなかったわ」 「それで、この部屋には誰《だれ》かがいたの?」 「……それが変なのよ。皆が帰って来て部屋を調べたんだけれど、部屋には誰もいなかった。わたしはずっとドアの前にいたでしょう。鼠《ねずみ》や猫ならともかく、大きな人間が出て来れば見えないことなんかない。レモンさんを刺した犯人は、消えてしまったとしか思えないわ」 「……今時、人間が消えたりするかな」 「この船は新しく見えても、本当は古い船なんでしょう。古い船には怪しいことが起こるものよ」 「そのとき、助手のグラントさんはどうしていたんだろう。レモンさんと一緒じゃなかったのかな」 「よく判らないけれど、舞台裏で虎《とら》の檻《おり》を修理していたそうよ。レモンさんの気に入らないところがあったとかでね」 「レモンに続いて権太か……」  七郎はコニャックを飲み続けた。 「嫌だねこの人は。人が殺されるのを面白がっているみたいだ」 「面白がってやしない。心配してるんだ。後は、岡津唄子と森まりもがいるからな」 「何ですって?」 「イザナミさん、これを読んでごらん」  七郎は机の上に放り出されている手帖を手に取って、イザナミの顔の前にひらひらさせた。  空は高く黒かった。海も闇《やみ》に呑《の》まれて、つい近くに宇宙空間が近付いていた。港の灯は巨大なステーションに見えた。  ショウボートの全室に電灯がつけられている。船体に照明が当てられ、シャンデリアみたいだった。  デッキのビアガーデンも、真昼の明るさだ。撮影用のライトに照らされている仮ステージは眩《まぶ》しいほどだ。  今、馬琴が挨拶《あいさつ》をして舞台を降り、乾杯が終わって、スターレッツのダンスが始まったところだ。波の音が音楽にかき消された。  デッキには広いテーブルが持ち出され、その中央に、チューリップを造形した見事な氷の彫刻が立てられ、その周囲にさまざまな料理と酒が並べられている。  デッキには、舞台関係者を初め、船舶の技術者、アニメ映画関係、食堂関係、売店、事務の関係者たちが揃《そろ》い、それに特別招待客と報道関係者で、かなりの混雑だった。  七郎の傍に真が付き切りだった。部屋で清めのコニャックを飲んでからは、真が飲ませないのだ。それでも、七郎の足元は危なっかしくなっていた。 「真、いい気分になった」  と、七郎が言った。 「先生、お願いですから、暴れたりなどしないで下さいよ」 「判っている。さっきのは向うから仕掛けて来たんだ。ビールぐらい飲んでもいいだろう」 「先生、約束です。もうビールでもいけません」 「おのれ、片平め……」 「どうしたんです?」 「馬琴の顔が片平に見えた。片平が舞台で俺の悪口を言っていたぞ」 「そら、ごらんなさい。飲み過ぎです」 「ひっ……唄子はどこだ?」 「いけません。先生は唄子さんの顔を見ると、また飲みたくなるんですから。それより、上海《シヤンハイ》百戯団、ずいぶん人気がありますね」  真は七郎の注意をそらすように言った。  大勢の記者が集まっている一団があって、盛んにフラッシュを浴びていた。猛獣使いの劉雪山を団長とする、上海百戯団の一行だった。人垣の中央に色の白い小柄な女性がいて、何本ものマイクで囲まれている。金銀の縫取りも鮮やかな中国服を着た、目鼻立ちのはっきりした美人だ。 「あれが唄子か」 「先生、もう目もはっきりしなくなってしまったんですか。あれは百戯団の田玉葉さんじゃありませんか」 「そうだった。だが、通訳みたいなことをしているぞ」 「今、中国人みたいな名を使っていますが、本当は日本で育った人なんですよ。本名は浜田多津《はまだたづ》さんです」 「よく知っているな」 「リハーサルの舞台に出る前、化粧を直してくれました。そのとき、あまり日本語が上手なので訊いたんです。そうしたら、わけがあってずっと百戯団にいるが、六、七年前までは日本にいたんだそうです。ドクター瀬川や権太さんとも知り合いですって」 「権太ともね……」  上海百戯団のインタビューが一段落したようだ。ライトが消され、記者やカメラマンが散ってゆく。  人が動いて、馬琴の顔が見えた。馬琴は黒絽《くろろ》の五つ紋の羽織|袴《はかま》をきちんと着ていた。馬琴の隣に背の高い男がいた。  白髪の混った髪をきちんとオールバックにし、形の良い口髭《くちひげ》を短く揃えている。彫りの深い上品な顔立ちで、白に近い銀鼠《ぎんねず》の背広がよく似合っている。  二人は軽く談笑していたが、中年の男がふと真に目を止めた。  真は七郎のために肉料理を取り分けているところだった。  中年の男は馬琴に何かを言い、二人の傍に近寄って来た。 「まりも君、紹介したい人がいます」  と、馬琴が言った。  隣の男は人好きのする笑顔を湛《たた》え、軽く頭を下げた。 「香取進一郎《かとりしんいちろう》と申します」 「全幸《ぜんこう》商会の社長ですよ」  と、馬琴が付け加えた。  七郎は酔っていなければ、もっとびっくりしたに違いない。全幸商会は指折りの芸能社だった。 「楓七郎の助手、森まりもです」  と、真が言った。 「お会いできて嬉《うれ》しゅうございます」  香取は真の手を取らんばかりだ。 「こちらは、奇術の楓さんです」  と、馬琴は香取を七郎に引き合わせた。 「昔、クリスティ ブラックという女優さんに憧《あこが》れていたことがありました」  と、香取は真に話し掛けた。穏やかな中音だった。真は小首を傾《かし》げた。 「お嬢さんがご存知なくても当然ですよ。昔のことですし、輸入された映画は二本きりでした。私はその映画を何十回となく見たものです」 「情熱家でいらっしゃるのですね」 「昔はね。熱が嵩《こう》じまして、終《しま》いにはハリウッドまで出掛けて行きました」 「その女優さんにお会いになるために?」 「勿論《もちろん》そうです。あなたはそのクリスにそっくりだ。遠くで拝見したときには、全くびっくりしました。二十年も前に戻ったような気がして、胸が高鳴り始めました」 「まあ……」 「明日、必ず舞台を拝見に参ります。終わってから、食事をご一緒にしていただけたら嬉しいのですが」 「お待ちしています」  香取は七郎の方を向いた。 「先生はお酒がお好きなようですな」 「嗜《たしな》む程度であります……ひっ」  と、七郎が言った。 「それでは特別にワインを選んで持参しましょう。モンラッシュの系統はいかがでしょう」 「け、結構であります」 「赤は取って置きのボルドーを持って来ましょう。60年のシャトー シャフランが酒蔵の奥に見付かりましてね」 「あのエキゾチックでゴージャスな味がたまりません」 「じゃあ、お約束しましょう」  香取は手を差し伸べた。細い、柔らかな指だった。七郎が手を放すと、香取は真の手を握った。  香取が馬琴と立ち去ると、後にかすかな香りが残った。 「……きざな奴だ」  七郎は香取の後ろ姿を見送りながらつぶやいた。身体をちょっと斜めにした歩き方だった。 「真、欺《だま》されるんじゃないぞ」 「大丈夫ですよ、先生」 「だが……クリスティというのは、奴の最初の女房だった」 「本当ですか?」 「あの調子で、ハリウッドから連れて来たんだ。その女優はすぐ亡くなって、気の毒だったがね。それ以来、香取は女遊びはするが正式な妻は持たないでいる」 「お金持ちなんでしょうね」 「見たところはあんなに優しいが、本当は賭博《とばく》界の大親分だぞ。お金に釣られるんじゃないぞ」 「先生だって、ワインで目が眩《くら》みそうになったでしょう」 「ばか言え。俺《おれ》は安酒で沢山なんだ」 「でも、シャトー何とかと言われたら、顔がにたにたになりましたよ」 「そんなワインなど飲んだことはない。ただ、調子を合わせていただけだ。酒の話をしたら、一杯飲みたくなったぞ」 「いけませんよ」 「君もかなり強情だぞ」 「先生もしつっこいわ」 「俺が……ひっ」 「どうしました?」 「ひっ……ひゃっくりが……ひっ、止まらなくなったぞ。ビールを飲む……」  そのとき肩を叩かれた。見ると、どこかで会ったことがある芸能記者だった。 「楓さん、元気そうですね」  眼鏡を掛けた、目玉の大きな男だった。 「写真を撮《と》っても、いいよ」 「いや、結構です」  七郎はむかっとした。 「ひっ……ヒッ——ルムの無駄か?」 「怒っちゃいけません。こちらの女性を紹介して下さいよ」 「なんだ。矢張り俺を無視する気だな。ひっ……ひっきょう俺なんざあ……」 「何だか、ひどく酔っているみたいだな」  真が前に出て、自己紹介した。 「わたし、楓先生の助手で、森まりもといいます」 「まりもさんね。いい名だ。だが、この楓先生は——」 「何か用か?」  記者は意味あり気に笑った。 「……唄子さんがいますね」 「ひっ、それがどうした?」 「話しましたか?」 「何だ、この野郎、唄子とあうあう……」 「大丈夫ですよ、別に書いたりしませんから……」 「記事にする値打ちもないと言うんだろう。ひっ……今に驚くなよ。このショウの芸人の中に、たんこぶ権太という道化師がいてな、そいつが今晩——」  七郎の手に冷たい物が触《さわ》った。見るとイザナミが無理矢理にグラスを持たせている。 「まりもちゃん、早くビールを——」  真は七郎のグラスにビールを注いだ。 「さあ、お飲み」  と、イザナミが言った。七郎は言われるままにビールを飲んだ。飲み干したとき、記者はいなくなっていた。 「ああ、驚いた」  イザナミはそっとあたりを見て、胸を撫《な》で下ろした。 「この酔っ払い、何を言い出すか判りゃしない。まりもちゃん、気を付けておくれよ。もし何か言いそうになったら——」 「今の手ね」  真はビールの瓶を持ち直した。七郎は段段陽気になった。 「ひっ……そうだ。この手があったのに気付かなかった」  七郎は空になったグラスを高く差し上げて、大きな声を出した。 「——皆さん、この船にはたんこぶ……」 「先生、はいビール」  真は急いでビールを注いだ。それを飲み干し、グラスが空になると、 「皆さん、この船には——」  とやる。  そのうちに、船が揺れ始めた。 「おい、真。船が走りだしたか?」 「いえ。先生が酔っているんですよ」 「船が海に出たら、早く馬琴に教えなくちゃいけない。ひっ……権太の屍《し》」 「はい、先生。ビール」 「……こりゃいいや。さすがの真も飲むなとは言えまい。言えば太権《たごん》のたんこぶ……ひっ、なぜ注がない?」  そのうち、パーティの出席者が、大分少なくなってきた。報道記者らしい姿はほとんどいなくなった。  会場の見通しがよくなったので、七郎はあたりをきょろきょろした。そして、会場の一隅にいる唄子を見付けた。 「……唄子が、いる」 「先生、部屋に帰りましょう」  真が袖を引いた。 「真、ビールを注げ。ドクター瀬川大先生もおいでだ。行ってご挨拶《あいさつ》を……」 「いけません」 「いけない、だと? じゃあ、この船には権太という——」 「行きます。先生」  七郎はひょろひょろと歩き出した。瀬川は動かなかった。じっと七郎を見ている。 「これは……先生」  七郎は瀬川の前に立つと頭を下げた。 「まあ、お近付きの印に、一杯……」  自分のグラスを瀬川に持たせようとする。 「いや、わしは飲みません。酒と煙草は健康を害しますから、やりません」 「何だ? わしは飲みません、だと。高慢な面《つら》あするない」  七郎はいきなりグラスを振りかざした。 「先生、いけません!」  真がその腕に飛び付いた。目標が狂って、グラスの中のビールが横に飛び散った。そこに、グラントの頭があった。 「わっ……」  グラントは後ろ向きだったので、最初何が起こったのか、判らないようだった。 「グラントさん、ごめんなさい」  真が駈け寄って、ハンカチでグラントの禿《は》げ頭を拭《ふ》いた。 「……折角《せつかく》シャワーを浴びたばかりなのに」  と、グラントがぼやいた。  真が腕から離れたので、七郎は空になったグラスを瀬川に投げ付けようとした。だが、瀬川の拳《こぶし》の方が先だった。七郎は顎《あご》に一発食らってひっくり返った。 「唄子、行くんだ」  瀬川は唄子の腕を取ってずんずん歩き出した。  七郎の頭は粉粉《こなごな》になりそうだったが、どうにか四つん這《ば》いになることができた。目を開くと、真とイザナミの顔がちかちか動いている。 「どうしましょう?」  と、真が言った。 「ひっ担《かつ》いで、部屋に運ぼう。手伝うよ」  イザナミが後ろから七郎を抱えた。 「ひっ、ひっ……」 「何ですか、先生?」 「ひっ、ひっ、ひっくり返って……」 「まりもちゃん、酔っ払いに構うんじゃないよ」  と、イザナミが言った。腕を動かすと誰かがその腕を押えた。七郎の身体が宙に浮いた。担いでいるのは真とイザナミだけではなさそうだった。  階段を担ぎ降ろされ、七郎は部屋のベッドの上に放り出された。 「全く、世話が焼けるったら、ありゃしない」  と、イザナミが言った。 「こんなとき、どうしたらいいのかしら?」 「逆療法だね。もっと酒を飲ませるんだよ。そうすると、腰が抜けて、静かになる」 「飲むかしら?」 「水だって嘘《うそ》を吐《つ》いて、どんどん飲ませるんだよ。まだコニャックが残っているだろう」 「判ったわ」  真はグラスにコニャックを注いで、七郎に差し出した。 「先生、水を飲みなさい」 「やい、イザナミ。真に変な知慧《ちえ》を付けると、ひっ……」  イザナミは七郎の顎を持って、口を開いた。 「水を飲むんだよ」  七郎はコニャックをぐいぐいと飲み干した。 「やあ、酒だと思ったら、矢っ張り水だったな。真、おまえまえまえ……」  イザナミはグラスが空になると、どんどん酒を足した。 「この船にはあ、唄子という女がいてえ、その女が殺されてえ……」  七郎は何だか悲しくなった。唄子と言ったとき、涙がぼろぼろ出てきた。 「もう大丈夫」  と、イザナミが言った。 「酔っ払いは皆泣き上戸《じようご》になって、それで一巻の終り。もう静かになるよ」 「色色ありがとうございました」 「まりもちゃんはどうする? 今晩ここにはいられないね。第一酒臭くって敵《かな》わないや」 「さっき、玉葉さんが、自分の部屋に来ていい、そう言ってくれました」 「そりゃ、いいや。鍵は外から掛けた方がいいね。酔いが醒《さ》めて外に飛び出すといけないから……」  七郎が聞いた会話は、その日、それが最後だった。 8 抜《ぬ》け穴開《あなあ》けぬ  マジックテーブルを組み立てようとするのだが、鉄パイプの脚がなかなか立たない。よく見ると、鋲《びよう》が一つなくなっているのだ。七郎は鋲の予備など持っていなかった。  出番の時刻はとっくに過ぎている。七郎は仕方なく、ロープと鋏《はさみ》だけで奇術をすることに決めた。急いで鞄の中身を床の上に空ける。だが、ロープはどれも短く、使いものにならない。おまけに、鋏も忘れて来たようだ。 「早く、早く」  イザナミが七郎を急《せ》かせる。観客の拍手が聞こえる。「華やかな神秘」が演奏され始めた。 「とにかく、出なきゃいけないわ」  イザナミが七郎を舞台に押し出した。七郎は舞台に立って笑顔を作る。ポケットに手を入れるとボウルに触れた。ボウルは得意ではないが、道具があるのは幸運だった。ボウルを取り出し、掌の中で消して見せる。  凄《すご》くうまく演じられる。四つのボウルは自分の肉体の一部になったみたいだ。観客席の一番前に一城の顔が見える。真と馬琴もいる。  七郎の奇術が終わると、ドクター瀬川と唄子が舞台に出て来た。瀬川は舞台に出ると、唄子を床に突き転がした。唄子は裸で縛られている。瀬川は黒い皮の鞭《むち》を振り廻した。ぱんと大きな音を立てて、鞭が唄子の肌に食い込む。唄子は助けを求めるように七郎を見る。だが、七郎の身体は金縛りにあったように動けない。ぱん、と鞭が鳴る。喉《のど》がからからだ。声も出ない。ぱん…… 「唄子——」  七郎は力一杯腕を動かした。 「先生……」  七郎は揺り起こされた。やっと目が開き、見ると、真の顔が見えた。 「先生、ひどく魘《うな》されていたわ」  七郎はベッドから上半身を起こした。口の中がじゃりじゃりだった。 「……水を、くれよ」 「はい、先生」  真はテーブルの上に置いてあるグラスを七郎に渡した。 「何時になる?」 「もう、十時を過ぎています」  見ると、テーブルの上が真っ赤なバラで埋まっていた。花はテーブルに置き切れず、床にも溢《あふ》れている。 「どうしたんだ、この花は?」 「朝早く、全幸商会の香取さんから届きました」  七郎は昨夜のオープニングパーティに、香取が来ていたのは思い出した。  見たこともないほど見事なバラだった。花の間に白い紙が見えた。 「……カードがあるな」  真は花の間からカードを取り出した。 「残念ながら急用ができたので、ショウが見られなくなりました。でも、食事には間に合わせます、って」 「間に合わせると言っても、海の上じゃないか」 「座長に訊いたんですけど、香取さんはモーターボートを持っているんですって。それを操縦してやって来るに違いない、こう言って笑っていました」 「バラと、モーターボートと、ワインか……」 「先生の朝食を食堂から運んで来ました。召し上がりますか」  テーブルの上を見ると、トーストにゆで玉子、ベーコンなどの皿が見えた。 「うん……」  七郎は取りあえず水だけを飲むことにした。水を飲んでいる最中、ぱん、という音が響いた。夢の中で聞いた音と同じだった。七郎はびっくりしてコップを取り落としそうにした。 「何だ、あの音は?」 「花火です」  と、真が答えた。 「甲板はもうお客さんで一杯です。あと、三十分もすると、出航ですわ」 「連中はどうしている?」  七郎は頭痛を堪えながら言った。 「朝、食堂には全員が揃《そろ》いました——先生と権太さんの外は」 「死人と一緒にするな。……何だか昨夜は大分飲んだみたいだな」 「飲んだみたい? あれで飲んだみたいなんですか?」 「すると——大変だったのか?」  昨夜のことは、あまり記憶になかった。いつものことながら、酔ったときの行動を聞かされるのは、全く恐ろしい。 「YK企画の片平さんが、ああ言うのも無理はないと思いました。先生はアルコール中毒になっているんです。夜、それが判りました。先生は幻覚を起こしたんですからね」 「幻覚……すると、権太の死は幻覚だったのか?」  真は心配そうに七郎の顔を見た。 「そんなに先生の記憶はあやふやなんですか? 権太さんが殺されたのは本当です。先生がドクター瀬川に撲られたのも」  七郎は顎《あご》を撫《な》でた。手を当てると、わずかな痛みが残っている。 「イザナミさん達と、先生をこの部屋に運び込んで寝かしつけたでしょう。そこまでは現実なんです。その後、わたしは玉葉さんの部屋に行って寝せてもらいました。ところが、夜中の二時頃イザナミさんに叩き起こされたわ」 「……待てよ。真夜中の二時頃?」 「ええ。この部屋で突然|物凄《ものすご》い音がしたんだそうです。わたしはすぐ鍵を持ってドアを開けると——」  真は壁に寄せ掛けてある木の椅子《いす》を指差した。一本の脚が折れてなくなっている。折れたところは真新しいのが判る。 「先生は、見えない人影に向かって、この椅子を振り廻していたんですよ」 「見えない影?………」  七郎は考え込んだ。何か記憶に引っ掛かるものがある。 「イザナギさんが言っていましたよ。そのうち、先生の身体に蠅《はえ》や鼠《ねずみ》が取り付いて、離れなくなるんですって。部屋には誰もいないのに、自分の悪口を言う声が本当に聞こえてくるんですってね」  七郎はベッドから降りて、冷たくなった珈琲《コーヒー》を飲んだ。昨夜、ろくに物を食べていなかったが、食欲は全くない。トーストを牛乳にひたし、口に入れて無理に飲み込む。ゆで卵の殼を割る…… 「……椅子の脚がこうなっているのは、確かに俺がそれを振り廻したからなんだろう。だが、俺はこの部屋に誰かが入って来たのを思い出したぞ」 「でも、先生。ドアの鍵は外から掛けて、わたしがずっと持っていたんですよ。誰もこの部屋に入ることはできないじゃありませんか」  言われてみるとその通りだった。七郎は段段、心細くなった。 「見えない人間に、椅子を持って立ち向かったとなると、相当だな」 「そうでしょう。お酒を止《や》める気にはなれませんか?」 「今は全然飲む気がしない。自分の身体が酒臭くなっているのが判る。実に嫌な気分だ」  七郎は煙草に火を付けた。だが、一層気分が悪くなったので、二、三服で灰皿に捨てた。 「朝、座長は何と言っていた?」 「今日の夕方までに、先生の部屋を用意する、そう言っていました」 「俺が喧嘩《けんか》したことは?」 「何も」 「たんこぶ権太のことは?」 「同じです。何も言いませんでした」  馬琴は徹頭徹尾、権太のことを押し隠す考えを変えないようだ。だから、七郎の失態にも目をつぶっているに違いない。 「だが、変だ」  七郎は食事を中止して考えた。 「よく知らないが、幻覚というのは禁断症状のとき起こるんじゃないかな。例えば麻薬患者が薬を手にできなくなったとき起こる。昨夜の僕はアルコールが切れちゃいなかった。むしろ、よく酔っていた」 「じゃあ、先生の見た人影というのは、本当だった、というんですか?」 「そう問い詰められると、はっきりは答えられないんだが」 「この部屋に、何かが出るというのは本当なんでしょうか」 「何かが出る?」 「イザナミさんも、すっかり怯《おび》えていたわ。古い船には一つぐらい、必ず不思議な部屋があるものなんですってね」 「じゃあ、レモン氏もその何かに殺されたって言うのか」 「イザナミさんは、それを信じているようですよ」 「とすると、馬琴はその何かを知っているのかな。事ある毎に新しい部屋を捜すと言うのをみると、僕達がこの部屋にいるのが不都合なんじゃないか」 「こうして見ると、ただの空部屋なんですけれどねえ」  真はあたりを見廻した。そのとき、ノックが聞こえた。七郎はちょっと、どきんとした。真がドアを開けると、小柄な女性の姿が見えた。眉と眸《ひとみ》の濃い、しっかりした顔立ちで、半袖《はんそで》のTシャツから出ている腕は機敏そうな筋肉質だった。 「玉葉さんですよ。先生」  七郎は軽く会釈した。 「真がいつもお世話になります」  玉葉は黒い髪を後ろで束ね、銀色の大きなヘアーピンで止めていた。白い首に、赤いネッカチーフがよく似合う。 「権太さん、来ていませんか?」  玉葉は部屋をちょっと覗《のぞ》いて言った。 「さあ……?」  真はあいまいに答えた。七郎は知らん顔をすることにした。 「部屋じゃありませんか?」 「朝、食堂へも来なかったでしょう。昨夜から姿を見ないわ。部屋はずっと鍵が掛かったままだし——どうしたのかしらね」 「出演の時間になれば、帰って来るでしょう」  真は訳知りみたいに言った。 「……わたしもそうは思うんだけれど」 「権太さんに用でもあるんですか」  玉葉はちょっと笑顔を作った。 「昔のお友達なんです。権太さんがイタリアに行く前からの」 「権太さんはイタリアにいたんですか」 「ええ、別れてから五年にもなるわね。わたしはずっと百戯団で暮らしていたもんだから、当時の人が皆懐かしいのよ。唄子さんとか、権太さんとか、馬琴さんとか……」  唄子の名が出たので、七郎は玉葉を見た。 「唄子とは、どこで知り合いました?」 「ロサンゼルスで」 「すると、馬琴さんの一座にいたわけですね」 「そう。在米邦人のいるところを渡り歩いていた一座でした」 「何でも、大層難儀をしたらしいと聞きましたがね」 「まあ、色色ありました」 「唄子はそのとき、瀬川と一緒でしたか?」  玉葉はちょっと口をつぐんだ。そして思い切ったように言った。 「唄子さんから、楓さんのことをよく聞かされましたよ」 「……どうせ、いいことじゃなさそうだな」 「お二人の間の事情は、唄子さんの側からの話だけですから、事実がどうであったのかは言えませんけれど、唄子さんが大変な苦労をしていたことはほんとうですよ。一座が解散と決まったとき、唄子さんは瀬川さんと一緒になる決心をしたんですが、それも、唄子さんが好んだことじゃありませんでした。わたしは中国人の劉さんに見込まれて、百戯団の一員になって、唄子さんとは別れてしまったので、後のことはよく判りませんが、きっと、楽しい日は一日もなかったと思います」  自分を非難しているらしいな、ということが、玉葉の口調で判った。七郎は食べる気のしないベーコンをフォークで突ついた。 「……苦しかったのは、僕だって同じだったと思う」 「そうかも知れませんね。でも、変な言い方ですけれど、わたし達は、苦労の分量になら、自信があります」 「つまり……地獄にいたわけですか」  玉葉は何も言わなくなった。そして、腕時計を見た。 「そろそろ支度をしなくっちゃね。権太さんは他で捜すわ」  真の方を見て言うと、部屋を出て行った。  七郎はベーコンを巻いたフォークを皿の上に投げ出した。 「——どうも、変だ」 「先生、何が変なんですか」  と、真が訊いた。 「彼女、大変な苦労をしたなどと言っているが、その癖、突っ込んで訊こうとすると、逃げるように部屋を出て行った。唄子も同じだった。具体的なことになると、話をそらすようにした」 「辛《つら》いことは、思い出したくないからでしょう」 「一座が解散した後、唄子達はブラジルまで流れている。玉葉は上海《シヤンハイ》百戯団に入って、各国を渡り始める。たんこぶ権太はイタリアをさすらっている。日本に戻って来たのは、床間亭馬琴だけだ。どうも変だ」 「先生は唄子さんと話をしましたね」 「うん……」 「なぜ、唄子さんがいなくなったのか、その理由を訊きただしましたか」  七郎は立ち上がった。 「そんなことは気にすることはない。さあ、支度だ」 「はい、先生」  真は押入れの戸を開けて、七郎のスーツケースを引き出した。七郎はスーツケースを開け、洗面用具を取り出して部屋を出た。  洗面所にイザナギがいて、髪に櫛《くし》を入れていた。七郎は黙ってその横に立った。鏡を見ると、いつもの朝よりひどい顔が映っていた。 「玉葉さん、権太さんを捜してたでしょう」  と、鏡の中のイザナギが言った。 「うん」  七郎は水道の蛇口をひねった。イザナギは低い声で続けた。 「玉葉さん、騒ぎ出さないといいですがね」 「座長が何とかごまかすだろう」 「さあ、うまく玉葉さんを言いくるめることができますかね」  イザナギは意味あり気に言った。 「というと、あの二人は?」 「そう。片方が急にいなくなったりしたとき、大人《おとな》しくしていられないような仲だとすると、騒ぎが大きくなると思いませんか?」 「座長はあれをどう始末する気だろう」 「何でもいいから、上手にやってもらいたいと思うだけですね、あたしゃ」  踊り子たちの出入りで、廊下が一しきり賑《にぎ》やかになった。  部屋に戻ると、真は待っていて、朝食の食器を持って食堂へ返しに行った。  七郎は奇術材料の入っている鞄《かばん》を開けた。昨夜のうち、真が道具類を片付けてくれたようで、マジックテーブルもきちんと畳まれていた。  まず、テーブルを組み立て、他の道具を出そうとして、鞄の中を見たとき、いつもと違うものを感じた。  それは鞄の隅に押し込まれているロープだったが、その一端が黒くなっていたのだ。その理由はすぐに判った。黒いのはロープが焼け焦げているためだ。七郎はロープを引きずり出し、その端を鼻に当てた。ロープはまだ焦げ臭かった。七郎は考え込んだ。  真が部屋に戻って来た。七郎が変な顔をしているのを見て、 「どうかなさったんですか」  七郎はロープの端を真に示した。 「ロープを焦がしたのは、君か?」 「いえ。先生のロープには触りませんでした」 「最後にこの鞄を閉めたのは?」 「先生がぐっすり寝てからでした。テーブルを畳んで中に入れたとき……覚えていますわ、先生。ロープの切り口は鋏《はさみ》で切ったものでした」 「焦げているのを見れば、すぐ目に付くはずだしな」 「道具を片付けてから、わたしはドアに鍵を掛けて、玉葉さんの部屋に行きました」 「馬琴は僕達にキイを一つしか渡さなかった」  七郎はテーブルの上に置いてあるキイを手に取った。 「ロープは蝋燭《ろうそく》かライターで焼き切ったみたいですね」 「気のせいか、ロープの嵩《かさ》が減っているような気もするんだ」  七郎はキイをテーブルに戻して、腕を組んだ。 「気持が悪いわ……」 「何だか変だ」  七郎は部屋の中を見廻した。 「……昨日、イザナミさんが、壁が薄くって、隣の部屋の音が筒抜けに聞こえるとこぼしていた。真、この部屋の隣はどんな人達だ?」 「スターレッツの若い女の子ばかりです」 「若い女の子だけとすると、相当賑やかだろうな。それがどうだ。物音一つしない。ということは、この部屋の造りだけが特別だとは思わないか?」  七郎は立って壁を叩《たた》いて廻った。最後に押入れの戸を開け、中の物を外に運び出した。奥の壁を叩くと、音は奥に抜けるようだ。  七郎はしばらく押入れの中を探っていたが、やがて、床に近い壁に、金属製のレバーを見付けた。足で踏むと、手応えがあった。 「真、驚くな。隠し戸がある」  壁に割れ目ができて手前に動きだした。壁はドアと同じように、大きく開いた。その奥は暗く、埃《ほこり》っぽい空気が舞い上がって来た。 「昨夜、僕は幻覚を見たわけじゃなかったんだ。この通路から誰かが、この部屋に忍び込んだ。ロープを焦がしたのも、そいつだった。僕は物音で目を覚まし、そいつに襲い掛かったわけだ」 「すると、ノーム レモンさんを殺した人間も?」 「多分、同じだと思う。レモンが殺されたときにも、犯人はこの通路を使ったのに違いない」 「懐中電灯を借りて来ましょうか」 「……いや、懐中電灯なら俺の鞄の中にある。捜す前に、ドアに鍵を掛けるんだ。誰かが叩いても、開けるんじゃない」 「はい」  真はドアに鍵を掛け、鞄の中から懐中電灯を持ってきて、押入れの中を覗き込んだ。  七郎が電灯をつけると、隠し戸の奥は、ほぼ垂直に近い穴だった。穴の底は二メートル足らず。飛び降りて降りられない高さではなかったが、隠し戸から、がっしりとした鉄の梯子《はしご》段が下に続いている。梯子はほぼ垂直だった。 「降りてみるぞ」  七郎は自分に言い聞かせるように言った。 「先生、大丈夫ですか」 「うん、武器が欲しいな」  七郎は一旦《たん》押入れから出て、組み立てたばかりのマジックテーブルをばらばらにして、中央の鉄パイプを手に持った。パイプは四〇センチばかりで、重さも手ごろだ。七郎はパイプを腰に差し、懐中電灯をシャツの胸ポケットに突っ込んで押入れに戻った。  鉄梯子がしっかりしているのを確かめてから、一段ずつ降りると、すぐ床に足が着いた。わずか二メートル足らずを降りただけだが、空気が澱《よど》み、むっとした暑さだ。 「先生、わたしも降ります」  真が上からささやいた。 「おい、ちょっと待て」  言う間もなく、真は梯子を伝って降りて来た。七郎は両手に鉄パイプと懐中電灯を持ちなおした。  天井が低く、一人がやっと通れるほどの通路がある。奥はかなり深そうだった。七郎はゆっくりと歩を進めた。左手の壁の向うは機関室らしい。はっきりと機械の唸《うな》りが聞こえている。  通路の突き当たりは、四畳半敷きほどの小部屋で、隅に木箱や古材や縄、麻袋などが積まれていた。その正面に、ドアの体裁はしていないが、明らかに手前へ開く戸があった。戸の中央に丸く光るものが見えた。  七郎はその小穴にそっと目を当てた。 「覗《のぞ》き穴だ……」  穴には魚眼レンズがはめられていて、向う側の様子を一目で見渡すことができる。どこかに照明の設備があるとみえて、ほんのりと明るい。レンズのため、視界が歪《ゆが》んでいるので、はっきりした部屋の大きさは判らない。床には薄縁《うすべり》が敷きつめられている。部屋の中央には、細長い低い台が置かれてある。隅には座蒲団《ざぶとん》や文机《ふみづくえ》がきちんと寄せられ、小ざっぱりした感じだ。 「ううむ……」  七郎は唸った。 「何が見えますか?」  真が後ろで言った。  七郎はレンズから目を離して、戸を探った。隠し戸と同じような金具がすぐに見付かった。真が唾《つば》を飲む音が聞こえた。 「……大丈夫。向うには誰もいない」  戸が、手前に動いた。  七郎は戸の裏側を見た。  そこには部厚な額が取り付けられている。額の中は金色の象が横を向いている浮き彫りで、目にガラスのような石が嵌《は》められている。ははあ、この目がレンズになっているのかと思ったが、位置が合わない。よく見ると、ドアのレンズは額のすぐ上にあって、象の目とは関係ないようだ。それにしても、浮き彫りの色は趣味が悪く、象の形も不恰好《ぶかつこう》だった。  その戸は座敷より少し窪《くぼ》んだ場所に作られている。床もわずかに高い。 「俺達は床の間の中から出て来たというわけだ」  真はそっと部屋を見渡した。 「何の部屋でしょう?」  七郎は白い晒《さらし》を敷いた台を指差した。 「映画なんかで見たことはないかね。これは、盆の座だ」 「すると……」 「鉄火場さ。博打《ばくち》部屋だ」  七郎は靴を脱いで床の間から座敷に出た。盆|茣蓙《ござ》の片側には十二、三人が坐れそうだった。天井は通路と同じで、立つと頭がつかえそうに低かったが、換気設備があるとみえて、暑くはなかった。七郎は部屋を横切った。  部屋の奥に引戸があり、その戸にも背の高さに魚眼レンズが取り付けられている。手を掛けると、力に従って開いた。  すぐ、階段が見えた。これは梯子などではなく、かなり急だが、勾配《こうばい》のある、木製の階段だった。壁に蛍光《けいこう》灯の常備灯があり、懐中電灯の必要はなかった。七郎はそっと階段を登った。  登りつめたところに、隠し戸があった。しばらく聞き耳を立てた後、戸を押してみた。戸は向う側に開いた。  そこは縦に長い箱のような場所だった。七郎は自分の部屋の押入れを連想した。ただ、違うところは向かいが観音開《かんのんびら》きに開けられるようで、その隙間《すきま》から光が細い線になって床に落ちていた。  七郎はその隙間に目を当てた。見たことのあるような部屋だった。目を動かしていると、馬琴の横顔が見えた。七郎はそっと隠し戸を閉め、階段を降りた。  真は階段の中頃にいて、上に登ろうとしているところだった。七郎は手真似《てまね》で元に戻れと合図した。  博打部屋に戻り、引戸を閉める。待っていたように真が訊いた。 「上は、何だったんですか?」 「馬琴の部屋だった」  七郎はほっと息を吐いた。 「昨日、船に来て、最初に馬琴の部屋に通されただろう。そのとき、立派な洋箪笥《ようだんす》のあったのを覚えていないかね。あの階段は、その洋箪笥の中に通じているんだ」 「本当ですか……」  真は目を丸くした。 「戸の隙間から、馬琴の横顔が見えた。間違いはない」 「けれども、座長はどうしてこんな部屋を作ったんでしょう」 「決まってるじゃないか。賭博《とばく》を開帳するためだ。——馬琴という男、底が知れないな」  七郎は腕を組んだ。 「……これで、オープニングパーティのとき、香取進一郎が顔を出していた意味も判る。馬琴が右近丸をそっくり買い、ウコン号に改造したのは、単にお子様向けのショウや食堂のある、遊覧船で稼ぐのが目的じゃなかったんだな。目的の半分——いや、それ以上は賭博で儲《もう》けるための船なんだ。多分、全国名代の博打打ちや胴元に声が掛かっているんだろう。つまり、そのお客さんはショウボートで家族慰安という名目で船に乗り込み、家族はショウや食堂に追いやって、自分は安全な賭博場で過ごすことができるっていう仕掛けだ」 「最近、厳しくなった当局の目もごまかせるわけね」 「海の上だというのも計算のうちだろう。万が一、手入れなどがあったときは、すぐ隠し戸から客を避難させる。そのために、秘密の通路と、昨日からいる僕達の部屋が設計されたのだと思う。馬琴は二つもの殺人事件を押し隠そうとしている。それは警察にこの部屋を見せたくなかったからだ」 「わたし達の部屋は一番角、ドアのすぐ横に階段があるわ」 「客が逃げやすいためさ。だから、馬琴は船が出港するまで、僕達であの部屋が塞《ふさ》がっていては困るんだ。それで、違う部屋に移すことに熱心だった」 「でも……権太さんが、あんなことになったし」 「なあに、そういった連中の手下に話せば、屍体《したい》の一つや二つ、綺麗《きれい》に片付けてしまうだろう。だから、馬琴はあわてふためいたりしなかったんだ」 「この博打部屋は、今日から使われるんでしょうか」 「多分、そうだと思う。馬琴はそうやって、全国の港港を巡航して、全国の親分衆と親しくなる。それから先は、馬琴が何を目論《もくろ》んでいるか、それまでは読めないがね」 「ノーム レモンさんや権太さんの死は、そのことに関係があるんでしょうか」 「それも判らない。馬琴の秘密を知ったとしても、そのために殺されたとは思えない。まあ、そんな詮索《せんさく》は後にしよう。いつ誰がこの部屋に来るか知れない」  そのとき、変な物音を聞いた。 「何だろう……」  真も耳を澄ませた。 「虎《とら》の唸り声みたい——」  虎が飛び込んだりしては一大事だ。七郎は部屋を見廻した。音は盆茣蓙の中央から聞こえてくるようだ。七郎はそっと盆茣蓙に寄って、耳を寄せた。 「ここに来て、聞いてみろ。これは、人間の鼾《いびき》だ……」 「じゃあ、この台の下に、誰か寝ているんですか?」  七郎も真逆《まさか》と思った。台は人間がもぐり込めるほど高くはない。だが、どう聞いても人の鼾に違いなかった。七郎は腰に差した鉄パイプを抜いて傍に置き、盆茣蓙の縁に手を掛けた。  台はちょっと浮いただけだった。一人では無理な重さだった。 「真、ちょっと手を貸せよ」  二人でも台は上がらなかった。調子がずれて、七郎は手を放した。浮きかかった台が下に落ちて、音を立てた。  鼾が鳴り止《や》んだ。  代わって、人の声が聞こえた。あわてたような男の声だった。 「はい、はい。待って下さいよ。今、開けます、開けます。スイッチ、オン。チリツンツン、チリツンツン……」  口三味線《くちじやみせん》につれて、台が動きだした。電気仕掛けで、上げ蓋《ぶた》のように台がはね上がるようだ。  七郎は鉄パイプを片手に身構え、迫《せ》り上がっている台の下を見詰めた。暗い中に、二つの目が見えた。 「……へい、お待ち遠さま」  台がまだ開ききらないうち、黒い人影が部屋に飛び出してきた。 「あっ……」  七郎は声を上げた。  台の下から飛び出したのは、寂声《さびごえ》からは想像しにくい、背が六、七歳の子供ぐらいしかない男だった。  小男は中腰で、頭を突き出し、上目遣いに七郎と真を見た。 「おやっ、親方じゃあねえな」  男は黒の半袖シャツに、黒い半ズボンだった。身体に較《くら》べ額がいやに広い男だが、むしろ賢そうな顔立ちだ。 「何だ、お前は?」  七郎は相手が素手なのを見て、鉄パイプを構え、にじり寄った。 「いけねえ……弱い者をいじめるなあ、よかあありませんぜ」  男は後退《あとずさ》りしながら言った。 「よし、判った」  七郎は鉄パイプを腰のベルトに戻した。 「こんな中で、何をしていた?」 「寝てましたよ」  男は短い足であぐらをかき、ポケットから煙草を取り出して、火を付けた。 「暗くって、静かで、涼しかったでしょう。つい、とろとろとしちゃったんだね。ちょいと、姐《ねえ》ちゃん」  男は吹き消したマッチ棒で部屋の隅を差した。 「その座蒲団の横にね、灰皿があるんだ。一つ取っておくんなさい」  真は言われた通りに灰皿を男の前に差し出した。 「用を頼んだから世辞を言うわけじゃあねえが、綺麗な姐ちゃんだね。だからさ、そう怖い目で睨《にら》みなさんな。満更《まんざら》、知らない仲じゃありませんからね」  男は七郎を見た。 「あんた、手品の楓七郎さんでしょう」  七郎は改めて男を見た。言われれば覚えがある。以前、地方の巡業で一緒だったことがあるコメディアンだった。 「……何だ。芥子之助《けしのすけ》じゃあないか」 「覚えてくれてましたか。左様、あたしゃれっきとした三代目芥子之助です」 「この頃、仕事で会わないな」 「ちょいと、わけありでね。世間にあまり、顔を出さねえんです」  七郎はすっかり開かれた白い台を見た。 「盆茣蓙の下が、あんたのねぐらかい」 「冗談言っちゃあ、いけません」  芥子之助はにやっと笑った。 「ありゃ、穴熊《あなぐま》でさ」 「穴熊?」 「昔|馴染《なじ》みだから喋《しやべ》っちゃいますがね。ほら、博打にゃ、色色あるでしょう。穴熊てのが昔からのやり方でしてね、賭場《とば》が開かれている間中あたしがその中にいて馬琴親方のためになることをするんです。ほら、賽《さい》の目を動かしたり、札を誰かさんに合図したり……ね」  七郎は盆茣蓙の下を見た。そこは、囲炉裏《いろり》のように床が切り落とされていて、芥子之助が楽に入っていられる広さだった。どうやら、そこにいると、台の上の物が、ある場所で裏側から見えるからくりになっているらしい。 「……こりゃあ、手品師が顔負けだ。大した仕掛けじゃあないか」 「なあに、こんな古風な穴熊なんざ、可愛らしい方ですよ。最近の奴は、超音波やコンピューターといった最新科学兵器がふんだんに投入されています」 「全《すべ》て、馬琴が作ったんだな」 「勿論《もちろん》です」 「ずっと、こんなことをやってたのかい」 「まあね。親方は方方にホテルを持ってるでしょう。結構、これで忙しいんです。あんたも、下手な手品をしているより——と言いてえが、その図体《ずうたい》じゃあね。身体が大きいってのは不便なもんだ」 「で、あまり、世間には顔を出さなくなったというんだな」 「そう。現に、この穴熊を知ってるのは、世界広しといえども、何人もいやしません。穴熊を作った大工だって、変わった囲炉裏ぐらいにしか思っちゃいなかったでしょうね。で、楓さんはまたどうしてここへ現われたんです。親方に何か言われたんですか」 「いや、ちょっと違うんだ。僕がいる部屋で、隠し戸を見付けた。何だろうと思って探険したら、偶然、ここに出た」 「……まずいな、そりゃ。親方が知らないわけですね」 「そうさ」 「それじゃあ、このことは、絶対、誰にも喋らないようにして下さいよ」 「判ってる」 「そっちの姐ちゃんもですよ」 「約束するわ」  と、真が言った。 「ところで、台風が来た日、ノーム レモンという外国の奇術師が殺されたのを知っているだろう」 「親方から聞きました。誰がやったのか判らない。充分注意するように、と」 「そのとき、君はここにいたのかい」 「いいや。親方の部屋にいました」 「親方の?」 「こっちは、人間の穴熊ですからね。冬眠しているわけじゃあない。腹も減れば、退屈もします。あのとき、親方の部屋で、飯を食ってました。隅で、小さくなってね」 「すると、この賭博場には、そのとき誰もいなかったのか」 「いいえ。若|旦那《だんな》の西川徹矢と、事務長の小庭靖子がいたんです」 「何をしていた?」 「ショウボートが処女航海ということは賭博場も処女開帳。色色忙しいわけです」  レモンが殺されたとき、唄子が事務長のところへマスターキイを取りに行ったが、なかなか戻って来なかったという。唄子は事務長を探しあぐねていたに違いない。 「すると、誰か犯人を見た者がいるな」 「それが変なんですよ。知らせで現場に駈け付けた親方が戻って来て言うには、レモンという奇術師が自分の部屋で殺された。だが、部屋には犯人がいなかったから、どうやら隠し戸を見付けて、下の部屋に逃げ込んだらしい。一緒に行ってみよう。こう言いますから、親方の後からこの部屋に踏み込んだんですが、妙なことに、部屋には若旦那と事務長がいただけです」 「穴熊の中は?」 「だめだね。普通の人間じゃ、とてもあの中には入れねえ。無論、一通りは調べましたが」 「犯人はまたレモンの部屋に戻り、人が騒ぎ出している隙《すき》を見て逃げ出したんじゃないか」 「それもだめなんだな。親方と一緒に、通路を通って、レモンの部屋まで出てみましたよ。勿論、部屋には誰もいなくって、ドアの向うじゃ、イザナミがまだへたり込んだまま、動かないでいたんです。イザナミの目に触れずに、あの部屋から犯人が逃げ出せやしません」 「それはそうだ」 「ところで、昨夜、また一人が殺されたんだ」 「そうですってねえ。委細は親方から聞きました。どうなってるんでしょう」 「たんこぶ権太という男を知っていたかい」 「口をきいたことはありませんが、芸だけは見ました。一昨日、あんまり退屈だったんでね。可愛い姐ちゃんのあんよが見たくなって、こっそり劇場へ行って、リハーサルを見たんです」 「じゃあ、レモンの芸も見たろう」 「ええ。権太の芸は、まあまあでしたが、レモンの方はどうもね。死んで惜しいと思う芸じゃなかったね」 「手酷《てきび》しいわ」  と、真が言った。 「これでも、ちいっと芸にはうるさい方でね。あんた達の芸はまだ見ていねえが、そのうち……」 「僕達のことはいい」  と、七郎は言った。 「その、たんこぶ権太という名は、逆さから読んでも同じ回文名だ。それと、ノーム レモンをローマ字で書くと、これも回文名になる」 「回文名……ああ、〈鯛焼《たいや》き焼《や》いた〉って奴ね。その二人は回文名なんですか。気にもしませんでした」 「芥子之助……これも回文名じゃないのかな」 「変なこと言っちゃ、いけませんよ」  芥子之助は畳に字を書いてみた。 「違いますね。芥子之助の逆さは〈けすのしけ〉ですから」 「本名は?」 「これでも、ちゃんと山路龍之助《やまじりゆうのすけ》っていい名が付いています」 「山路龍之助ね」  七郎は心の中でその名を逆さから読もうとした。だが、すぐ回文にはならないことが判った。 「今夜のお客様は決まっているんだろう」 「まあ、だいたい」 「その中に、回文名の客がいるだろうか?」 「いると、どうなります」 「とにかく、最近、回文名の名を持つ二人が殺されているんだ。そんなばかなこともあるまいと思うが、注意するに越したことはない」 「何だか気味が悪くなったね。でも、お客さんのことは、何も知りません。全部、親方が自分で決めています」 「じゃあ、ショウボートでこの抜け道を知っている人間は?」 「さっきも言ったように、あたしと親方、若旦那に事務長、そんなところです」 「じゃあ、賭博場のあることを知っているのは?」 「シャロンに瀬川ぐらいかな」 「コック長のシャロンか?」 「あの人は賭博マニアです。特に日本風の鉄火場がひどくお気に召しているらしい。瀬川の方は——」  芥子之助が言い掛かったとき、引戸の上に、小さな明りがついた。弱い光だったが、芥子之助は見逃さなかった。芥子之助はいつもそのあたりに気を配っていたようだ。 「——いけねえ。誰かが来ます。二人共、早くいなくなって下さい。知れると事が面倒になる」  芥子之助は二人を床の間の隠し戸に押し込むようにして戸を閉めた。  七郎は通路に出たが、すぐ部屋に戻る気はしなかった。覗き穴のレンズに目を当てて、向う側の様子を見ていた。  しばらくすると、引戸が開いて、馬琴が部屋に入って来た。芥子之助は穴熊の様子を見ているような恰好をして、場をとりつくろっている。馬琴は芥子之助に何か話し掛けた。芥子之助は穴熊の中に手を入れた。盆台が動き出し、穴熊を塞《ふさ》いだ。それを見届けてから、二人は連れ立って部屋を出て行った。 9 危険劇《きけんげき》  七色に変わる鮮やかなライトの中に、若い肌が群舞している。  二時から始まったウコン号のバラエティショウ。オープニングダンスのスターレッツの踊り子の衣装は、胸にスパンコールをきらめかせた真っ赤な水着で、頭と腰が豪華な羽毛で飾られていた。ショウの後半、腰蓑《こしみの》を着け、花輪や竹の棒を使っての歌と踊りのハワイアンショウとはまるで違う感じのスターレッツだが、二十人あまりの踊り子達は、何でもこなせる実力があるようだった。上手《かみて》の袖《そで》では団長のニコラス ディールがスイングのリズムに合わせて、身体を動かしているのが見える。白い背広が似合う。白いものが混り始めた髪をきちんと撫《な》で付け、小柄だがいい姿の男だ。  観客席はほぼ満員だった。劇場の他にも、大勢の乗客は、思い思いに、デッキにいて港の風景を眺めたり、ラウンジで食事をしたり、娯楽室でゲームに興じたりしているはずだ。ビアガーデンやカクテルラウンジも満員に違いない。  実際、関係者の予想をはるかに上廻る乗客が集まった。イザナミはデッキの混雑ぶりを見て来て、きっと大入袋が出ると報告してきた。  だが、七郎は一度も外に出なかった。迎い酒に一杯やりたいところだったが、それさえ止《よ》すことにした。  同じショウボートの中で、短期間のうちに二人もの芸人が殺害されたのだ。その二人とも回文の芸名を持つ人間だった。  まるで、正気の沙汰《さた》とは思えないが、阿波木真の森まりもを勘定に入れると、バラエティショウの出演者の中には、あと二人、回文の芸名を持つ人間がいた。  森まりもと岡津唄子。岡津唄子、これをローマ字にすると、立派な回文名になる。真がそれを発見してから、七郎は出演者全員の氏名を当たってみた。その結果、芸名と本名を含め、仮名及びローマ字で回文が成立する人間は岡津唄子と森まりもだけだ。  その理由は皆目不明だが、犯人は回文名を持つ人間だけを襲うのだとすると、次に狙《ねら》う人間はその二人のうち誰かということになる。恐らく、唄子自身は夢にも思わぬことに違いない。  昨日、唄子の話を聞いてから、唄子を更に憎く思うようになった。といって、唄子が危害を加えられるのを黙って見ているわけにはゆかない。七郎は唄子から目を離せなくなった。  スターレッツのオープニングダンスは終曲に近付いていた。一列に並んだ踊り子達の脚は、櫛《くし》の歯のように揃っていたが、やがて五人ずつの組に分かれて形を決めた。観客席から盛んな拍手が起こった。アニメーションの『インバーズマン』に夢中だった子供達は、すっかり舞台にも馴染んでいるようだ。  新しい曲が始まった。スターレッツは前の踊り子の肩に手を掛けて一列になり、舞台を一巡してから上手の袖に入って行く。  上手の袖は下手より広い設計だった。従って、人数の多いスターレッツと、上海《シヤンハイ》 百戯団が出入りすることになっている。  下手の袖で出番を待っているのは、たんこぶ権太の代わりに道化師の扮装をしている馬琴、「火焔《かえん》男」のドクター瀬川と唄子、コミック体技のイザナギとイザナミ、それに奇術の七郎と真とグラントだった。少し離れたところに、照明係や音響効果などのスタッフがいるが、それぞれの道具や機械に掛かりきりだ。  ドクター瀬川の準備はすっかり整っているようだった。がっしりしたワゴンテーブルの上には、アルコールランプ、透明な液体が入った二つのコップ、マッチ箱などが揃えられている。ワゴンテーブルの下の段には、日本刀、大小の石、ラムネ瓶、太い大根などが見える。  瀬川は唄子の傍に付ききりだった。七郎が唄子に視線を合わせても、瀬川は七郎を睨み付けるほどだ。近寄って、唄子に注意をしたくとも、とても声を掛けられる状態ではない。瀬川に唄子が狙われているかも知れないわけを話したって、まともには受けとられないだろう。  瀬川は上半身裸だった。筋肉の盛り上がった見事な体格で、胸は逆三角形の体毛で覆われている。見ているだけで、危険術など苦もなくやれそうだ。  唄子は黒地に金糸や赤糸で花の縫いとりをした、袖なしの陣羽織みたいな衣装だった。濃いドーラン化粧の顔は、昔より艶《あで》やかに見えるほどだった。  スターレッツが舞台を引き上げるのを見て、道化師になった馬琴は、急いで唄子の傍に寄って尻《しり》を向けた。 「……頼むよ」  打ち合わせがしてあって、唄子はワゴンテーブルの上からマッチ箱を取り上げ、マッチに火を付けると、馬琴の尻に火を移した。馬琴の尻から煙が吹き出した。だぶだぶのズボンに花火が仕掛けられているのだ。 「座長、付きましたわ」  唄子は馬琴の背を軽く叩いた。  馬琴は尻から煙を立てながら舞台に飛び出した。 「火事だあ、火事だあ……」  観客は最初びっくりした様子だったが、すぐ道化師の扮装に気付いて、わあわあ笑いだした。  馬琴はたった今引っ込んだばかりの踊り子と同じリズムで舞台を駈け廻った。舞台を三周したところで、馬琴の尻がぱんと音を立てて破裂した。舞台の真ん中で、馬琴はひっくり返った。観客の笑い声が止まらなくなった。  昔の芸人は叩き込まれているな、と七郎は思った。一人や二人の芸人の穴など、手もなく埋めてしまう力を持っている。舞台の馬琴はとうてい年とは思えないほど身軽だった。  観客の笑い声を聞いて、下手の袖に出番を待っている七郎は、思わず袖幕の間から身を乗り出した。  馬琴はきょとんとした顔でのそのそ立ち上がり、口からぷうと煙を吐いた。口から吐いたのは、白く軽い粉で、ひっくり返ったとき、密《ひそ》かに口に入れたのだろう。  馬琴の尻から紐《ひも》がぶら下がった。布がほぐれかかったという感じだった。馬琴はその紐を引っ張るが、いくら引いても終りにならない。紐は際限なくズボンから現われ、最後には一抱えもある塊りになった。後ろ向きになると、大きな穴になっている。馬琴は何で観客が笑っているのか判らない。  やっと、背後に異状があるらしいことを感じ、馬琴は恐る恐る後ろに手を廻して愕然《がくぜん》とする。目で確かめようとするのだが、そうはゆかない。自分の尻尾を追い掛ける犬みたいに、馬琴はぐるぐると舞台を廻った。  最後に、馬琴は大袈裟《おおげさ》に手を叩き、右手で左腰をつかみ、左手で右腰をつかんで、えいとばかりにズボンを廻すと、どういうわけか後ろの穴が正面に移動した。穴が前に廻ったのを見て、また大あわて。すぐにズボンをぐるりと廻す…… 「こりゃあ、ホテルの経営などさせておくのは勿体《もつたい》ないや」  傍で見ていたイザナギがびっくりしたように言った。  馬琴は観客をわんわん言わせた後、手際よく乗船の礼を述べ、そつなく船内の設備を説明し、次の出演者の紹介をして、下手の袖に戻って来た。  馬琴は化粧が流れるほど汗みどろだった。 「久し振りで、矢張り、きつかった」 「お疲れさま、座長」  イザナミが引き寄せた椅子にどっかりと腰を下ろし、馬琴は黄色い鬘《かつら》と付け鼻をもぎ取った。  ドクター瀬川の出番だった。  瀬川は素肌の上に、プロレスラーが着るような、金ぴかのガウンを羽織っていた。ガウンの袖幅は広く、丈は短い。形は柔道着に似ていた。  瀬川は大股《おおまた》で舞台の中央に進み、少し遅れて、唄子がワゴンを押して行った。  初めて見る舞台だ。七郎はふと酒が欲しくなった。  瀬川は舞台に出るや、ガウンを脱ぎ捨て、拳大《こぶしだい》ほどの丸い川石を数個、手刀で粉粉《こなごな》に打ち砕いて観客の度胆《どぎも》を抜いた。観客席がしんとするほど、石を打ち割る音が、ばしっばしっと響くわけで、他にはしわぶきの声一つ聞こえなくなった。  数個の石を砕いた後、瀬川は拳にあまる石を握った。 「えいっ!」  瀬川の気合いとともに、石は粉となって太い指の間から流れ落ちていった。  息を詰めていた観客が、一斉にどよめいた。  拍手の終わるのを待って、瀬川はマイクに向かった。自分は長年外国にいて、この危険術で人気を得てきた。だが、自分の本来の研究は人間の極限の可能性を見極める学術的なものであり、そのためドクターという名で呼ばれている。芸はどれも危険を伴うものであるから、無用の野次などは欲しくない…… 「説教が長いね」  と、イザナギが七郎にささやいた。 「だけど、律義《りちぎ》な男だ。二度もリハーサルを見たけど、今と同じことを喋っていたね」  瀬川は次の芸に掛かっていた。  唄子は袖から二脚の椅子を運び出し、向かい合わせに舞台へ並べた。  瀬川は唄子を自分の前に立たせ、両手を拡げて唄子の目の前に向け、気合いを掛けた。唄子は目を閉じて動かなくなった。  瀬川はむしり取るようにして、唄子の衣装をはぎ取った。下は黒ラメの布で、胸と腰がわずかに覆われていた。衣装を脱がされると、唄子は後ろに倒れかかった。瀬川は唄子の身体を軽軽と抱え、二脚の椅子の間に渡した。唄子は木の橋のようになった。  瀬川はワゴンの下から太い大根を取り出して見せた。ちょっと観客の間に笑い声が拡がったが、長い間ではなかった。瀬川がガウンをきちんと着なおして、日本刀を抜刀したからだった。  瀬川は太刀《たち》を空振《からぶ》りしてから、大根を唄子の腹の上に乗せた。瀬川が太刀を振りかざすと、観客席は水を打ったようになった。  瀬川は長いこと呼吸を整えている。やがて、刀がきらめき、ばさっという小さな音がした。大根は二つに切断されて、床に落ちた。  大根の次は胡瓜《きゆうり》だった。瀬川は小さい品ほど難しい業だと説明して刀を鞘《さや》に収めた。今度は居合抜きで腹の上の胡瓜を切る気だ。  再び、刀が宙に舞い、小さな胡瓜は見事に切って落とされた。  七郎は一瞬、唄子が胴切りにされるのではないかと思った。折が折だけに、あり得ない妄想《もうそう》とはいえなかった。だが、直後、唄子は立って目を開き、観客に笑いかけていた。  衣装を着けなおした唄子がワゴンを舞台の中央に押してゆく。売り物の「火焔を吹く術」だ。  火を吹くといっても、人間の体内から火を発することはあり得ない。この術は人がベンジンなどの揮発性液体燃料を口に含み、小さな火種に向かって吹き付けると、燃料は一時に燃え上がり、ちょうど口から火を吹いたように見えるのだ。火は唇の端にまで達するから、初めて見る人は大抵《たいてい》胆をつぶす。  火に向かってベンジンを吹き掛けるとは、いかにも無謀に見える芸だが、正しい方法で演じれば、術者は火傷を負うことはない。  つまり、燃料は霧を吹くときの要領で、一気に火種へ吹き付ける。吹き付けた後、口を固く結び、じっと息を止めていれば、火は口腔《こうこう》に及ぶことはない。火は一度に燃え盛るが、燃料だけが燃えれば、自然に消えてしまう。  といって、不意の失敗を経験した専門家もいるほどで、充分な注意と気配りが必要である。  瀬川はワゴンの上から一つのコップを取り上げ、ちょっと口に含んでからワゴンに戻し、もう一つのコップと持ち替えた。最初のコップは水で、二つめのコップにはベンジンが入っているはずだ。瀬川はコップを持つと、ワゴンから遠退《とおの》いた。片手は注意深く、コップの上を覆っている。危険術を行なう場合、いつも綿密な用心が必要だ。  唄子は瀬川がワゴンから距離を置いたのを見て、細い燭台《しよくだい》を立て、その先にマッチで火を付けた。燭台にはアルコールが使われているようで、ほとんど炎が見えない。炎は小さいほど、ベンジンを吹き出した霧に引火する炎を効果的に見せる。  燭台に火を付けた唄子は、ワゴンテーブルから離れた。 「英語の名前を使ってるけれど、演《や》ることは古いね」  イザナギがあくびでもするような調子で言った。  舞台の瀬川が、コップに口を当てた。 「ドクター瀬川、瀬川博士か」  瀬川に気を取られている七郎は、イザナギの言葉を聞き流した。 「瀬川博士……ね」  ある感じがあった。だが、それが何か考えることができなかった。舞台の瀬川がワゴンの燭台に近付いたからだ。  瀬川は燭台との距離を計るようにして立ち止まり、燭台の上端を凝視した。  瀬川は胸を張り、口の中のものを、一気に燭台へ吹き付けた。  燭台と瀬川が立っている中央の空間に、どんといって巨大な火柱が立ち昇った。  惨事は、次の瞬間に起こった。  どうしたことか、もう一つの大きな火の塊りが、瀬川の身体を包み込んだのだ。  瀬川自身、予期しない引火だったろう。七郎は瀬川が口を開けたのを見た。口にベンジンが残っていたらしい。火が口に踊り込んだ。瀬川は手に持っているコップの口を、懸命に覆っていたが、無駄だった。あっと言う間もなく、コップのベンジンにも飛火した。新たな火柱が立ち、瀬川は完全に火だるまになった。  七郎は棒立ちになったままだった。観客も一時静まり返った。眼前の出来事が信じられないのだ。  その間、瀬川は全身から煙と炎を吹き出しながら、舞台を転げ廻った。伸ばした手が、必死で中幕をつかんだ。火が幕に移ろうとしていた。 「いかん。幕だ。幕を降ろせ!」  と、馬琴が叫んだ。 「酒だ!」  七郎は自分が何を言ったかよく判らなかった。だが、自分の声で活が入った。七郎は舞台に飛び出した。  同時に観客席のあちこちで悲鳴が起こった。観客の半数が席から立ち上がった。 「皆さん、お静かに!」  馬琴が道化師の扮装のまま、舞台に駈け付けた。緞帳《どんちよう》が降り始めた。  七郎は唄子から目を放さなかった。唄子は何か叫んだようだが、そのまま瀬川に取りすがったのだ。七郎はその唄子に飛び掛かり、瀬川から引き離そうとした。ゴムの焼ける臭《にお》いがした。 「ばか、手を放せ、火が移ったらどうするんだ!」  唄子の髪の毛に火が付いたのが見えた。七郎はとっさにタキシードを脱ぎ、唄子の頭にかぶせ、首に腕を巻き付けた。  視界を失った唄子の力が弱まった。七郎はそのまま唄子を引きずって舞台の隅に押え付けた。唄子の袖が小さく燃えていた。  グラントが消火器を引っ下げて来た。消火器の栓がなかなか抜けない。 「グラントさん、幕だ!」  イザナギが言った。  すでに火は中幕を駈け登ろうとしている。天井に火が移ったら最後だ。たちまち船火事となって、多くの犠牲者が出ることは明らかだ。  グラントの消火器が、勢い良く白い泡を吹き出した。最初、狙いは外れたが、すぐ火の真ん中に命中した。消火器が泡を吹き続けたのは数秒で、すぐ空になった。火勢は衰えたようだが、幕は凄《すご》い煙を吹き出した。  中幕が降りて来た。幸い、天井への延焼は免れたようだ。ほっとする間もなく、七郎は駈け付けた百戯団の団員たちと、くすぶり続ける幕の火を踏み消さなければならなかった。  遅れ馳《ば》せに、何台もの消火器が集まった。瀬川の火はその消火器で消し止められたが、すでにどうすることもできない状態だということは、誰の目にもはっきりしていた。  担架で運ばれる瀬川に唄子が取りすがった。瀬川はすすと消火液で、腐った肉塊みたいだった。  さすがの真も、蒼《あお》ざめた顔で、運ばれて行く瀬川を目で追っていた。 「一体……どうした間違いだったんでしょう」  七郎は真にだけ聞こえるように言った。 「これは、失敗なんかじゃない」 「先生……真逆《まさか》」 「そうなんだよ。もっと早く気付くべきだった。ドクター瀬川は、元、瀬川博士という名で舞台に出ていたらしい」 「瀬川博士……」 「そう。昔風に、セガハハカセと書くと、立派な回文名なんだな。これが……」 10 死《し》んだ異端児《いたんじ》 「真、酒だ。どこからでもいいが、酒を都合して来てくれ」 「先生、いけません」 「なぜだ。ショウはもう中止になってしまったんだぞ。このショウボートは元の埠頭《ふとう》に戻され、乗客は全部降りてしまった。これからいつ船が出航することになるか、予定も立っていない。当分、出演だってないわけだから、酒ぐらい飲んだっていいじゃないか」 「先生、唄子さんのことを忘れたんですか」 「唄子が、どうしたと?」 「瀬川さんがあんなになったとしても、それでお終《しま》いじゃないんですよ。唄子さんも同じ回文名を持っている以上、今度狙われるのは唄子さんじゃありませんか」 「そうだ。これで終りとは言えないんだ。でも、少しぐらいなら、いいだろう」 「いけません。さっきだって、先生が酔っていなかったからこそ、唄子さんを助け出すことができたんでしょう。もし、先生が酔っていたら、あんな機敏な行動はできなかったはずです。犯人は瀬川さん諸共《もろとも》、唄子さんも焼き殺す計画だったでしょうからね」 「恐ろしい……」 「計画が遂行されなかった以上、犯人は次にはどうしても唄子さんをと思っているでしょう。そんな場合に、酔ってはいられませんよ。それに、さっき海上保安庁の係官が、大勢乗り込んできましたわ。そのうち、私達のところへも事情を訊きに来るでしょう。そんなとき酔っていては、相手の心証を悪くします」 「保安官に愛想を良くしたところで、仕方がないじゃないか」 「先生はずいぶん楽天的なんですね」 「楽天的?」 「そうじゃありませんか。先生には瀬川さんを殺害する動機があるんですよ」 「俺《おれ》が、瀬川を殺す、だと?」 「そうです。先生は元、唄子さんと一緒に暮らしていた。唄子さんは先生を捨てたけれど、先生の方は唄子さんに未練が残っています。久し振りに唄子さんと再会して、先生は昔の想いが燃え上がる。でも、相手には瀬川という男が付いている。昔の縒《よ》りを戻すためには、瀬川がどうしても邪魔なわけですから、先生は同じ舞台に出ている瀬川を殺すことになる。どうです」 「下手なドラマにでもありそうだな」 「もし、たんこぶ権太さんの屍体が発見されるようなことになると、先生はもっと困る立場に立たされますよ。権太さんが殺された日、先生が権太さんと大喧嘩《おおげんか》をしたことを、大勢の人が見ています。お忘れじゃあないでしょうね」 「おい、あまり驚かすな」 「驚かそうとしているわけじゃありませんが、先生は権太さんと瀬川さんを殺す理由を持っているということを自覚していてもらいたいんです。だって、回文名を持つ人間だから殺害するという動機より、よほど現実的でしょう」 「判った。変に疑われたりすることは、損だということだ。だが、保安官にしろ、警察にしろ、何か判るかな。二つの事件を隠した馬琴なら、極力事故だったと主張するに違いないな」 「なぜ、ベンジンの火が身体に移ったのでしょう」 「それが、さっぱり判らない」 「同じ芸をする人は、他にもいますね。先生は以前にこうした事故を見たり聞いたりしたことがありますか」 「……ないな。あったとしても、せいぜい髪や眉を焦がす程度、稀《まれ》に顔を火傷した人もいたそうだが、それで一命を落とした事故など、聞いたこともない」 「事故でない、とすると——」 「ううん……演技者の服に、同じベンジンでも着いていれば、似たような事態が起こるかも知れない。だが、衣装が濡《ぬ》れていて、ベンジンの臭いがすれば、瀬川が気付かないわけはないだろう」 「そうですね」 「馬琴は権太の屍体をどうする気だろう。部屋はまだあのままだな」 「そうです。瀬川さんがあんなになっては、とても処分するどころではなくなりましたね」 「唄子はどうした?」 「さっき、部屋をノックしましたが、返事がありませんでした。まだ、医務室にいると思います」  唄子は瀬川が負傷してから、ずっと付き切りだった。ショウボートに医師達が乗り込んだときには、すでに瀬川の死が確認されていた。船から屍体だけが運び出され、唄子と馬琴達関係者は、事情聴取を受けているようだ。 「唄子さんは相当ひどい打撃を受けているようですよ。目の前で、自分の主人が焼け死んだのですから」  それは七郎にもよく判っていた。もともと気丈な唄子だから、泣き叫ぶような真似はしなかったが、かえってじっと唇を噛《か》みしめている姿が痛痛しく、正視することがむずかしかった。 「先生はまだ唄子さんを憎む気持は変わりませんか?」 「……変わるものか。あいつは俺を目茶目茶にしてしまった」 「でも、唄子さんがいなくなったのは、先生のためを思ったからなんでしょう」 「あいつ、そんなことまで話したか」 「全部聞きました。先生だって、昨日唄子さんと話をしたんでしょう」 「あいつは——自分の事しか喋らなかった」 「でも、瀬川さんが死んで、いい気味だとは思わないでしょう」 「そうは思わない。それとこれとでは、話が違う」 「……よかったわ」  真は晴れやかな顔をした。 「じゃあ、唄子さんが帰って来たら、暖かい言葉を掛けてやって下さいね」 「そんなこと、いちいち指図されなくても判っている」 「それに、この部屋にこの花は多すぎますから、分けて上げて下さい」 「それも、余計なことだ」 「花まで持たせる気はないんですか」  七郎は真面目《まじめ》な顔になった。 「いいかい、真。これは大人同士の問題だ。確かに、現在の唄子の立場は気の毒に思う。だが、昔、唄子が犯した不貞は不貞だ。これは忘れることができない」 「先生って、ずいぶん古風なんですね」 「古風は悪いことじゃない」 「それはそうでしょうけれど……先生だって、唄子さんがいなくなってから、他の女性を抱いたことだってあるんでしょう」  真はあっけらかんとして訊いた。七郎は内心たじたじとしたが、正直に答えることにした。酔っていなければ、嘘《うそ》を吐く元気もない。 「他の女性を抱いたことなど、一度もなかった」 「へえっ……」  真はびっくりしたように笑った。 「先生は、唄子さん以外は女じゃないと思っているんですか?」 「真逆《まさか》」 「じゃあ……」  このとき、低いノックが聞こえた。真はすぐ立ち上がった。七郎はノックに救われたような気がした。  ドアの向うに唄子が立っていた。  幽霊みたいな姿だった。顔が蒼白《そうはく》で、目が落ち窪《くぼ》んでいた。右半面の髪が茶色に変色し、手首に巻かれた白い包帯が悲惨な事件の名残りだった。  真が七郎に目配せした。 「……飛んだことだったね」  と、七郎は言った。 「お蔭で、わたしの火傷は大したことありませんでした」  唄子は静かに頭を下げた。  真は唄子に椅子をすすめ、手近にある花の一束を持った。 「先生、それじゃあ、ちょっと虎を見て来ます」 「真、ちょっと待てよ」  真の身体は半分ドアの外に出ていた。 「……充分、気を付けるんだぞ。判ったな?」 「はい、先生」  真はドアを閉めた。  部屋には唄子と二人だけになった。唄子は飾り気のない白のブラウスだった。化粧もすっかり落とし、一廻りも小柄になった感じだ。 「まりもさん、虎を?」  と、唄子が言った。 「まりもという名はよくない。真の方がいい」  唄子は逆らわなかった。 「真さん、虎と稽古《けいこ》するんですか」 「なに、口実だろう」 「口実?」 「君と、二人にさせたかったんだろう」 「……よく気の付く子ね。いつ頃から一緒になったの?」  七郎は黙って指を二本立てて見せた。 「二年?」 「飛んでもない。昨日事務所で紹介されたばかりだ。だから、今日で二日目」  唄子は不思議そうに七郎を見た。 「僕達、結婚しているように見えたかい」 「……お互いに、何か、違っていることを考えていたようね」 「違っているところは、自然に理解するようになるだろうさ。だが、今はそれを話すにふさわしい日じゃなさそうだ。第一、死んだ瀬川が良くは思わないだろう」 「今日は酔っていませんね」 「酔っていなくてよかったよ」 「酔っていないと、昔と変わらないわね」 「酔っているときは、頼もしく見えるだろう」 「でも、瀬川には敵《かな》わない」  淋《さび》しい調子だったが、唄子は初めて笑い顔になった。 「意外と元気そうで、安心したよ。口もきけなくなっているんじゃないかと思った」 「逆境には強くなったのよ。わたしを訊問《じんもん》した係りの人も誉《ほ》めてくれたけれど」 「どんなことを訊かれた? いや、思い出させて悪いかな」 「いいのよ。今、何だかとても喋りたい。気持が昂《たか》ぶっているのね。少し話すと、落着くと思うから」 「じゃあ、今度の事故をどう思う?」 「それが、どうしても納得《なつとく》できないんです。瀬川は慎重な人でした。今日も、いつもの通り、怠りなく道具の点検を済ませてから舞台に出ました」 「道具に変わったところはなかったんだね」 「勿論《もちろん》です」 「例えば——衣装がベンジンなどで濡れていたとか」 「そんなことがあれば、すぐに判ります」 「或《ある》いは、タイミングを計って、瀬川が火を吹いた瞬間、天井からベンジンを降らせるとか——身の軽い男なら、不可能な芸当じゃない」 「あなたは、瀬川が殺されたと考えているの?」 「だって、どう考えても事故が起こりそうにもない状況だったじゃないか。たんこぶ権太やノーム レモンのことも考え合わせると、どうも尋常な事故とは考えにくい」 「あなたはレモンさんのことも知っているの?」 「イザナミさんから聞いた。瀬川は誰かに怨《うら》まれてやしなかったかい」 「ああいう人ですから、昔は敵もずいぶん作ったらしいわ」 「昔というと?」 「十年以上も前。まだ、瀬川が東京にいて、父親の道場にいた頃」 「すると、瀬川は剣術使いだったのか」 「ええ、柳生《やぎゆう》心眼流の道場で育ったんです。剣道は免許皆伝で、腕っぷしは相当だったといいます。でも、人に対するとき高慢で、瀬川門下の異端児などと言われているうちはよかったんですけれど、自我が強く身勝手なところから、不行跡が積もりに積もって、最後に父から破門されてしまいました」 「その頃の敵というのは、相手を殺したり、傷付けたり?」 「そういうことは聞いていません。ただ、破門の原因は賭博《とばく》だったと、ちらりと洩《も》らしたことがありました」  七郎はショウボートの地下に、賭博場のあることを思い出した。 「ブラジルで瀬川が賭博に負け、どうしようもなくなったことは、昨日聞いた。だが、その瀬川に、馬琴はどうして手を伸べる気になったんだろう。単なる昔のよしみだけだろうかな」 「だと、思っていましたけれど」 「瀬川の芸とは別に、馬琴は瀬川が必要だった。例えば——」  賭博場の用心棒……と言いかけて、七郎は口をつぐんだ。芥子之助との約束を思い出したからだ。 「瀬川と座長にどんな約束があったかは知りません。瀬川は普段わたしに何も言わない質《たち》なんです。でも、よく考えてみると……おかしいわね。瀬川と似たようなことは、他にもする人がいるし」  唄子はちょっと考え込んだ。だが、思い当たることはないようだった。 「外国では、ずっとあの芸を見せていたのかい」 「ええ……」 「さぞ受けたろうな」 「それ、皮肉でしょう。さっきのお返しね」 「別に、皮肉のつもりはない」 「……一時、落ちるだけ落ちたことがあったわ。そのときは瀬川と、もっとひどいショウを演《や》ったこともあった」  唄子の目に、新しい涙がにじんできた。瀬川の死の打撃で、まだ心が激しやすくなっているのだ。 「これからは、そんなこともないさ」  七郎はなるべく穏やかに言った。 「瀬川の家は、まだ東京にあるんだろう」 「ええ。相当に大きな道場みたいよ」 「瀬川の親父は?」 「まだ、現役の師範で、大勢の弟子を教えているそうよ」 「連絡はしたかい」 「いいえ」 「それはよくないな。長い間、君は瀬川の妻だった。君が困れば、瀬川家では助ける義務がある」 「でも、わたしにはその気がありません」 「どうしてだ」 「瀬川は絶対に実家へ帰る意志はありませんでした。自分の方から絶縁した気でいたんです。それに、わたしは結婚届けもしていませんし、瀬川の親にも会っていません。実家では瀬川が結婚したことも知らないんです」  七郎は籍のことなど考えたこともなかったが、唄子との離婚届けを出した覚えはない。すると、唄子は戸籍上、まだ七郎の妻でいるわけだ。 「だが、瀬川の死を知らせるだけは知らせるべきだな」 「それはそうね。でも、それは座長が引き受けてくれました」  唄子は立ち上がった。 「困ることがあったら、いつでも相談に乗るよ」 「ありがとう。長居したわ」 「それから……くれぐれも注意しろよ」 「大丈夫よ。すぐ元気になるわ」 「身体もだけれど、独りでデッキなどには出ないように。部屋にいるときは必ず鍵《かぎ》を掛け、誰かがノックしても、不用意には開けないこと」 「……そんなにまでしなきゃならないんですか」 「そうだ」 「変ね。今度はわたしが殺されるとでも言うの?」 「そうだ」  七郎の感情が、変に頭をもたげた。七郎はそれを鎮めることができなかった。 「君は自分のことだけを言い、君がいなくなってからの僕が、どんなだったかを知らない。けれども、そんなことはどうだっていい。僕はこの船に君がいるのを承知でやって来た。どんな気持で来たかだけは教えておきたいな」 「……判ってます。最初に会ったときで」 「そんな程度じゃないんだよ。真も知っているが、本当は、この手で、君を締め殺す気でやって来たんだ」  唄子は蒼白になった。 「だから、身辺には気を付けた方がいい。瀬川の死んだのは気の毒だ。だが、以前のことは以前のことだ……」  唄子は後ろを向いて、ドアを押した。  斜め前が唄子の部屋だった。廊下には誰もいなかった。七郎は唄子が自分の部屋に入るのを見届けた。 「楓さん、この部屋にも鍵を掛けておいて下さいよ」  見ると、唄子が坐っていた後に、芥子之助がちょこんとあぐらをかいていた。 「あ、その押入れの引戸は閉めないように。もし、他の人が来たら、すぐ入らなきゃならないから」  と、芥子之助が言った。 「楓さん、あんた、案外口が固いね」 「俺が?」 「そう。賭場のことを、唄子さんに一言も洩らさなかったからね」 「聞いていたのか?」 「悪いとは思いましたが、ついね。さっき話し掛けましたが、シャロンと違い、瀬川はお客さんで下の部屋を知っていたんじゃありません」 「矢張り、瀬川は賭場の用心棒に使われる予定だったんだな」 「何しろ、やっとうの達人でしたから」 「瀬川はそれを唄子には知らせなかったんだ」 「自分の女房にも気を宥《ゆる》せない質だったんですね。聞くところによると、唄子さんとやらは、楓さんの元の奥さんだったんじゃありませんか」 「そんなことまで聞いていたのか」 「何て言いましたっけ、あの元気な可愛い子。そう、真。その子と話していたときから、ずっと終りまで聞かせてもらいました」 「人の悪い奴だ」 「でも、後家になったばかりの女はいいね。真が粋《すい》を利《き》かして消えたでしょう。あたしゃ、てっきり濡《ぬ》れ場が見られると思ってました」 「唄子にはそんな気はない。昨日、喧嘩別れしたばかりだ」 「楓さん、あんた女にはだめな人だね。彼女は悲しい色気があって、敏感になってたよ。それを捨てて置くてえ手はない。あたしだったら、うっちゃっちゃあいない。全く、五体満足なのに、はがいいね。あの真にだって、まだ手を付けていねえようだし」 「そんなことを言いに来たのか」 「よっ、忘れてた。大事なことなんです。親方に頼まれてね。ぜひ、楓さんのお力が必要になりました。口の固いところを見込んで、お願いします」  芥子之助は椅子から飛び降り、ぴょこんと頭を下げた。 「一体、どんな頼みなんだ」 「たんこぶ権太の屍体を片付けるんです」  芥子之助は無造作《むぞうさ》に言った。 「権太の屍体を……いつだ?」 「ですから、これからすぐ」 「そりゃできないぞ。船には保安官達が大勢乗り込んでいるじゃないか。そんなとき屍体を動かすなんて、無鉄砲すぎやしないか」 「だから、いいと、親方は言うんです。ほら、船の中はごた付いているでしょう。保安官はまだ現場検証を続けていますし、どうやら、報道陣も大勢乗り込んだようで、もう、てんやわんやになっています。ほら、ときどきぶんぶんという音も聞こえるでしょう。ありゃ、テレビや新聞社のヘリコプターに違いありません」 「うっかり出られないぞ」 「その、逆手に出るんですな」 「逆手に出ると言ったって、屍体は矢張り屍体だ。袋に入れたとしても目立つ」 「真逆、屍体を生まのまま運んだりゃしません」 「細かく刻むんじゃなかろうな。そんなの俺は嫌だ」 「あたしだって嫌ですよ。ですから、親方の言うのには、警察は人の屍体にゃ喧《やかま》しかろうが、動物の屍体なら、とやかく言うまい、と」 「動物の屍体だ?」 「虎ですよ虎」  芥子之助は、殊更、声を落とした。 「上海《シヤンハイ》百戯団のところに、本物の虎の縫いぐるみがあるんですってね。うまい口実を使って、それを借り出して、その中に権太の屍体を詰め、虎が一匹死んだことにして、外に運び出しちまおうってんです。われわれはそれを船の外に運び出すだけでいい。船の外には親方の知り合いが車で来ていて、あとはそいつ等に委《まか》せてしまう、というわけ。何だか知りませんが、何とかという女が、権太がいなくなったのをひどく気にしている」 「百戯団の玉葉さんだ」 「そんな名でした。その女が、保安官にでもこのことを言ったりすると、すぐ部屋を探されるでしょうから、愚図愚図はしていられません。お願いです。手を貸して下さいよ」 「もし、嫌だと言ったら?」  芥子之助は凄味《すごみ》のある笑い顔をした。 「さっき、頭の良い真ちゃんの言ったことを忘れないでしょうね。楓さんには権太と瀬川を殺す動機があんなさる。もし、誰かがそんなことを警察にでも言ったらどうなるでしょう。楓さんだって、瀬川の死は事故。権太は船にはいなくなってしまった方が、いいんじゃありませんか? おっと……」  ドアのノブが、かちりと音を立てた。芥子之助は椅子から飛び降りて、 「頭の良い真が帰って来たようだね。あの子がいりゃあ、楓さん、そんな仕事は朝飯前だろ」  ノブの音はそれきり聞こえなくなった。七郎は急いで鍵を外し、ドアを開いた。真の後ろ姿が見えた。 「真、ちょっと来てくれ」  七郎は呼び止めた。 「先生、いいんですか」  真は引戸の陰から芥子之助がそっと出て来たのを見て、変な顔をした。 「先生、唄子さんに花を持たせなかったんですね」 「全く君の先生は焦《じ》れったくってね」  真はそれに構わず、七郎に言った。 「百戯団の虎が一匹、おかしくなりました。雪山さん達、残念がっていましたよ」  七郎は芥子之助を見た。 「……すると、馬琴か?」 「全く、いいときに死んでくれたよ。それから、奇術の外国人の助手、何てましたか?」 「グラントさん」 「そう、真さん、済まないが、グラントさんをちょっとここに呼んで来てくれませんか……」  三人が集まると、芥子之助はポケットから銀色のキイを取り出した。 「いいですか。これが、たんこぶ権太の部屋のキイです。親方から渡されたんですよ」  七郎はキイを受け取った。 「それから、この部屋のキイですがね。どなたが持ってます?」  七郎は机の上のキイを示した。芥子之助は言った。 「この部屋のキイは、これ一つなんだ。もう一つあったのは、レモンと海の中に沈んじゃったんです。マスターキイはちょっと使えない。ですから、この部屋のキイはいつもこの机の上に置いておくことにしましょう」  真は別のことを考えているようだった。真は低い声で言った。 「先生、百戯団の四匹の虎の名は、エイ、キム、クワン、トオト。とすると、死んだ虎はどれか、すぐ判りますね——」 11 虎《とら》らと 「トオトはとうとう動かなくなりました」  真はアーサー グラントと一緒に、そっと部屋に戻って来た。グラントは顔の汗をハンカチで拭《ふ》き、真はドアの鍵を掛けた。 「飼育係は医務長の満武さんを呼んで来ました。満武さんはトオトを一目見て、これはもう駄目だと言ったわ」 「医者がそう言うんだ、どうも、仕方がねえ」  と、芥子之助は言った。 「で、虎の縫いぐるみの方は、どうなりました?」 「その方はうまくゆきました」  と、真が答えた。 「舞台|稽古《げいこ》をするのだと言って、劉雪山さんから、例の虎の縫いぐるみを借りました。それを持って舞台裏に行き、稽古の準備をするようなふりをして袋に詰め、舞台を抜け出して、縫いぐるみを権太さんの部屋に運びました。権太さんの部屋に縫いぐるみを入れるところは、誰にも見られませんでした。舞台にいる百戯団の人達は、縫いぐるみはまだ〈虎になる美女〉の檻《おり》の中に入っていると思っているでしょう」  と、真は報告した。 「まず、第一段階は成功だね」  と、芥子之助が言った。七郎は真に訊《き》いた。 「権太はどうなっていた?」  真とグラントが顔を見合わせた。真が答えた。 「最後に見たままです。……顔の色はすっかり変わっていましたけれど」 「隣の部屋の様子は?」 「向う隣はグラントさんの部屋ですから誰もいません。こちら側の隣は雪山さんの部屋。雪山さんは舞台にいました。当分部屋には戻らないと思います」 「百戯団は稽古を始めていたかね」 「いえ。舞台にはまだ保安官や警察官が大勢います。馬琴さんや事務長の小庭さん、船長の大館さんや衛生係の人達もいました」 「現場検証がまだ済んでいないのだな」 「百戯団の人達はそれが終わるのを上手《かみて》の舞台裏で待っているわけです。奇術道具はまだ下手《しもて》にそのままにしてあるでしょう。下手には誰もいませんでした。ですから、虎の縫いぐるみを誰にも見られる心配はありませんでした。ただ、階段でイザナミさんと擦《す》れ違っただけです。勿論《もちろん》、縫いぐるみは袋に詰めてありますから、イザナミさんは何を運んだのかは判らないはずです」 「舞台では?」 「言われた通り、できるだけ目立つようにしました。保安庁の職員も檻を珍しそうに見ていました。舞台がまだ使えそうにもないので、グラントさんと〈虎の縫いぐるみは、一時、檻の中へ入れて置きましょう〉と大声で相談して、そっと権太さんの部屋に運んだわけです。檻には黒い布を被《かぶ》せて置きましたから、誰かが通り掛かっても、中は見えません」 「快調な出足だね」  と、芥子之助が言った。 「さあ、次は縫いぐるみの中に、権太を押し込める仕事だ。こりゃあ女の子の仕事じゃあないから、楓さんと、グラントさんにお願いしましょう」  芥子之助はグラントに向かって英語で説明し、最後にオーケー? と語尾をはね上げた。グラントはハンカチをポケットに戻し、静かにうなずいた。 「真ちゃんは外の見張りだ。権太の部屋に近付こうとする者がいたら、なるべく寄せないようにする」 「判ったわ」 「じゃあ、早速掛かってもらいましょう」  七郎は立ち上がった。  廊下には人がいなかった。部屋に残っていそうな人達といえば、ランペ健治達の楽団員と、スターレッツだが、ランペ健治の部屋は廊下の一番奥。問題は権太の部屋のすぐ前がスターレッツの男子の部屋、隣が女子の部屋だったが、現在どの部屋もひっそりとしている。  七郎は権太の部屋の前に立ち、芥子之助から渡されたキイで、静かにドアの鍵を開けた。  七郎はグラントをうながし、部屋に入って電気をつけるとすぐ鍵を掛けた。血の臭《にお》いだろうか、経験したことのない生ま臭い空気が澱《よど》んでいる。  権太は倒れたままの姿で、額に突き立てられた釘《くぎ》の周りに、血が黒く乾いている。顔と、相棒だった瘤《こぶ》の色はぞっとするような土色だった。ドアの傍に大きな木綿の袋が置いてある。七郎はその中から虎の縫いぐるみを引き出した。  虎の腹に、目立たぬように縫い込まれたファスナーを引くと、腹が大きく口を開けた。真が中の器具類を外しておいたとみえて、腹の中に邪魔な物はなかった。  恐る恐る権太に触れてみる。屍体《したい》は硬直していた。七郎は思い切って、腕の関節を折った。ぼきっと鈍い音がした。七郎は屍体が喋《しやべ》りでもしたように驚いたが、一度折ると、後はやや気分が落着いた。  グラントは両掌《りようて》を組み、しきりにぶつぶつ言っていたが、すぐ七郎の仕事を手伝い始めた。グラントは七郎より腕力があるようだったが、額の釘は引き抜けなかった。傷口の血が乾いた粘土のようになっていて、ぼろりと床に落ちた。釘を抜くには権太の顔に手を掛けなければならない。そのため、力が鈍るのだろう。七郎が試しても同じだ。仕方なく、釘はそのままにして、屍体を縫いぐるみに詰める作業に取り掛かる。 「先生、大丈夫ですか」  真がドアを細く開けて中を覗《のぞ》いた。 「大丈夫。もう少しだ」  屍体自体、そう重くはないのだが、縫いぐるみに詰め込むのはそう楽ではない。途中で考え方を変え、屍体の頭を虎の尻の方に向けてみる。それは成功だった。七郎は最後に腹のファスナーを引くと、全身からどっと汗が吹き出した。  その仕事の間、二人は一度も口をきかなかった。長い時間に思えたが、時計を見ると十分と掛かっていないことが判った。  七郎はドアを軽く叩いた。真が二つ叩き返してきた。廊下には誰もいないという合図だ。七郎とグラントは部屋を出、再び鍵を掛けた。  わずかな差だった。七郎が自分の部屋の前に立ったとき、ランペ健治がギターを持って階段を降りて来た。健治は真を見ると話し掛けてきた。 「君の奇術のために、曲を作ってみた。聞いてくれる?」  真は精一杯笑ってみせた。 「素晴らしいわ。でも、今、ちょっと忙しいんです。後できっとうかがうわ」 「ちょっとでいいんだけれどな」  七郎もにこにこしてみせた。 「お聞きの通りです。私達、ちょっと残している仕事があります」  ランペ健治は三人を見て、ぼろろんとギターを弾いた。  七郎は急いでキイを持ち直し、ドアを開けて、真を中に入れた。 「では、失礼」  七郎は最後に部屋に入ってドアを閉めたが、健治は独りでギターを鳴らしている。 「早かったね。うまくゆきましたか」  と、芥子之助が言った。  七郎はキイを机の上に放り出した。たまらなく酒が飲みたかったが、権太の部屋の臭いが鼻についていて、胃がむかむかしていた。七郎は煙草に火を付けた。グラントも同じ気持らしく、苦しそうに煙草を吸い続けている。 「さあ、次はいよいよ生まの虎を引き取りに行ってもらいましょう」  芥子之助は、畳み込むように言った。 「親方がちゃんと話は付けています。ちょっと前、若旦那から連絡がありました。そう、西川徹矢、総務部長の。検証が終わって、今、デッキで記者会見が行なわれているそうです。会見はもう済むらしい。で、あと十分したら、楓さんとグラントさんはデッキに出て、座長のところへ行って下さい。座長はすぐ死んだ生まの虎を引き渡してくれますから、それを外に運ぶふりをして、一時、そっと権太の部屋に入れてしまう。今度はこれだけのことですよ。簡単でしょう」  芥子之助は七郎に権太の部屋のキイを渡してから、又グラントに英語で説明を加えた。 「今度も、真ちゃんは見張り役。楽なようでいて、なかなか責任のある仕事だよ」 「役に不足はないわ」  いつの間にか健治のギターが止《や》んでいた。  三人は一人ずつ部屋を出た。階段を登るとき、七郎は唄子の部屋を見た。ドアはひっそりと閉まったままだった。  デッキに出る途中、ちょっと舞台を覗いてみた。  舞台の中央マイクの傍に花束が置かれている。真が部屋から持って行った花束だった。中幕は舞台の隅にまとめられ、百戯団の座員は稽古に掛かろうとしているところだ。  七郎の姿を見て、曲芸用の木槌《きづち》を持っている劉雪山が寄って来た。 「どこかで、玉葉さんを見ませんでしたか?」 「……さあ、見掛けませんでしたがねえ」  雪山は素肌にTシャツだった。手入れのよく行き届いた八字|髭《ひげ》と不釣合なベレー帽をかぶっている。 「今まで、ずっと下にいましたが、百戯団の方とは一人も会いませんでした」  七郎はなるべく部屋の周りをうろうろされたくなかった。 「いや、有難う。他を捜してみましょう」  七郎はそのまま雪山と別れた。  デッキは強い陽が照り付けている。初めて外に出た七郎は、軽いめまいを感じた。外は風が強くなっていた。  馬琴はビアガーデンのパラソルの下にいた。その周りに、検証を終えた何人かの係官らしい姿が見える。報道関係者は全部引き上げたようだ。埠頭《ふとう》から自動車の騒音がやかましく聞こえてくる。  七郎はゆっくりと馬琴の方に歩を進めた。 「……でも見たことも聞いたこともありません。本当に珍しい事故でした」  馬琴の声が聞こえた。  話を聞いている係官の表情は、穏やかだった。馬琴の話術に巻き込まれている風だ。馬琴は七郎とグラントに気付くと、話を途中で止《や》めた。 「おう、楓さん。ご苦労さんです」  馬琴はちょっと係官の方を向いた。 「虎の屍体を取りに来てもらいました。何せ、剥製《はくせい》にするためには、早くないといけません。特に、今日のように暑い日にはね」  何人かの係官がうなずいている。 「生きているのを見ると、死ぬような動物には見えませんね」  一人の係官が言った。 「来たときから、一匹、弱っている奴がいました。猛獣でも、気候が変わると、意気地のなくなるものです」  不思議な説得力を持つ語調だ。 「相手が猛獣でも小鳥でも、一度飼えば情《じよう》が移るのは当然のこと。まして同じ舞台で芸を共にした虎ですから、調教師達の落胆は大変なものでしたよ。それで、私がそれを剥製にし、永久に保存しようと申し出たわけです。彼等は異を立てるはずはなく、その遺骸《いがい》を快く私に譲ってくれましたよ」  馬琴はゆっくりと七郎に向き直った。 「ご存知の方もいらっしゃると思いますが、奇術の楓七郎さんです。たまたま、楓さんは腕の良い剥製師を知っていたので、お願いしたのです」  七郎は軽く係官たちに会釈をした。 「そう……楓さんも舞台の横で瀬川君の芸を見ていましたね。もし、お訊きになりたいことでもあれば、今のうちにおっしゃって下さい」 「まあ……よろしいでしょう」  と、一人の係官が言った。 「もう、沢山の方に証言してもらいましたからね。どうぞ急ぎのお仕事を続けて下さい」  馬琴は七郎に言った。 「虎は檻の横に置いてあります。運ぶときには、充分注意して下さい。落として傷でも付けると大変ですから」 「勿論、気を付けます」  馬琴は眉《まゆ》一つ動かさなかった。今度の事件で、莫大《ばくだい》な損害を受けた上、屍体遺棄という罪まで犯そうとしている豪胆さに、七郎は内心舌を捲《ま》いた。  七郎とグラントは乗員用階段で上甲板に出た。虎の檻の前で、二人の飼育係が、呆然《ぼうぜん》とした顔で立っていた。二人の前に手押車があって、虎はその上にうずくまっている。虎のトオトだ。七郎が傍に寄ると、二人は代わる代わる英語で何か言い始めた。 「トオトが死んだのが哀《かな》しいと言っています。屍体は大事に扱うように、とも」  と、グラントが七郎に説明した。  虎の屍骸に灰色のシートが掛けられた。グラントは二人に短く慰めの言葉を言い、肩を叩き、最後に握手をした。七郎もとりあえず、グラントに倣《なら》った。  グラントが手押車を押した。七郎は虎の檻の前を離れ、操舵《そうだ》室の方に向かった。操舵室の横に、荷物用のリフトがあり、荷台が来るのを待っていると、どこで見ていたのか、コック長のピエール シャロンが飛び出して来て、虎を指差し早口でまくし立てた。 「虎のレバーが欲しい、こう言っています」  グラントが通訳した。 「内証でレバーを譲ってくれ、お金はいくらでも出す。彼はいつかインドで食べた虎のレバーの味が忘れられないようです」  シャロンは太鼓腹をゆさゆさ揺らせた。 「そんなのに構っている場合じゃない」  七郎はグラントに言った。 「この虎は病気で死んだんだ。いいから、日本の法律では虎のレバーは食ってはならないとされている、とか何とか言って、ごまかしてしまいなさい」  グラントとシャロンがわめいている間にリフトが来た。七郎とグラントはシャロンに構わず手押車をリフトに押し込んだ。リフトは遊戯場の裏、船艙《せんそう》の前で止まった。  下で真が待っていた。 「誰もいません、今のうちです」  真が先に立ち、がらんとした遊戯場を抜け、権太の部屋の前に出る。  七郎はキイでドアの鍵を開けた。権太の部屋には虎が二匹になった。  七郎は手押車ごと部屋に虎を押し込むと、自分の部屋に戻った。椅子の上で芥子之助が待っていた。 「コック長のシャロンには気を付けた方がいい」  七郎は真に言った。 「何かあったんですか?」  芥子之助も身を乗り出した。 「シャロンは虎を狙っている」 「シャロンが?」 「虎の肝を食いたがっているのだ」  芥子之助は顔をしかめた。 「グルメってのは、うまい物が目の前にあると、命がけになるんだねえ。全く、始末におえねえ」 「じゃあ、そのつもりで注意するわ」 「さあ、いよいよ仕上げだ」  と、芥子之助は椅子に坐り直した。 「権太の部屋から、縫いぐるみの方を船の外に運び出してもらいます。外には食肉会社の白い冷蔵車が待っている。判りますね、あまり大きくない食肉会社の白い冷蔵車だ。その車には、若い運転手がいるから、ただ一言〈社長のところへ、頼むよ〉こう言ってもらう。余計なことを言っちゃあいけません。〈社長のところへ頼むよ〉これだけでいい。運転手は虎を冷蔵車に積み込んで、さるところに運んでしまう。それでお終《しま》い。最後は簡単でしょう」 「話だけなら簡単さ」  陽気な芥子之助に少し腹が立った。 「そりゃそうです。いや、言い方が悪かった。無論、気持のいい仕事じゃありません。でも、これが最後です。一つ、面倒を見てやって下さい」  芥子之助はグラントに向かい、英語で説明した。 「わたしは、特にシャロンさんに気を付ければいいわけね」  と、真が言った。  七郎は再び権太の部屋に入った。  部屋の中に、二匹の動かない虎がいる光景は、確かに異様だった。グラントと手押車の虎を降ろし、縫いぐるみの虎と取り替える。その虎を二人で持ち上げたときだった。  真が一つドアをノックした。  注意信号だった。二人は仕事を中止した。七郎はドアに耳を寄せてみる。真と男の話す声が聞こえた。 「〈ファンファーレ〉の記者ですが」 「何かご用?」 「たんこぶ権太さんの部屋はここですね」  七郎は顔をしかめた。「ファンファーレ」というのは芸能関係の週刊誌だ。何か嗅《か》ぎ付けたとなると、事が面倒だ。 「いいえ、違うわ」  と、真が応対している。 「ここは権太さんの部屋じゃありません」 「……おかしいなあ。確かにここだと聞いて来たんですが」 「誰に訊いたの?」 「舞台にいた、劉雪山です」  雪山は権太の死を知らないはずだ。 「勘違いしたのね、きっと」 「じゃあ、この部屋はどなたの部屋ですか」  相手は食い下がっていた。 「……楓先生のお部屋です」 「ほう、楓さんならよく存じています。すると、あなたは?」 「楓先生の助手です」 「なるほど。楓さんは、以前、取材に応じて下さったことがあるんです。〈ファンファーレ〉の井本《いもと》と言って下されば、すぐお判りと思いますよ。ちょっとお目に掛かりたいんですが、ご在室でしょうか?」 「さあ、わたしは今帰って来たところで判りません。ちょっと待って下さいね」  真はドアをノックした。 「先生、いらっしゃいますか」  七郎はドアを開けることにした。しつっこい男なのだ。楓さんが帰るのを待っていますと言われたら、いつまで経っても部屋から出られなくなってしまう。  七郎は細目にドアを開けた。真がドアの隙間に塞《ふさ》がるように立っていた。 「先生、〈ファンファーレ〉の井本さんという方が——」 「判った。ちょっと待ってくれ。今、行く。何しろ、裸なんだ」  七郎はドアを閉めた。 「グラントさん、厄介なことになった」 「記者が来たのですね」 「そうだ。あいつはきっと、部屋に入りたがるに違いない。そういう奴なんだ。そのとき、ここに虎の屍骸が二つもあっちゃまずい」 「どうしましょう」  七郎はちょっと考えた。 「とにかく、僕はあいつをこの部屋の前から、引き離すことにする。その隙《すき》を見て、生まの方の虎を君の部屋に運んで隠していてくれないか」 「私の部屋に、ですか」 「隠し場所はそこよりない」 「縫いぐるみを隠した方がいいんじゃないですか?」 「よく考えるとそうじゃないんだ。縫いぐるみがここにあっても、奇術用だと説明すれば言い逃れることができる。生まの虎ではそうはいかない」 「なるほど、楓さんの言う通りです」 「井本はよく楽屋に出入りするから、奇術家の道具には手を触れないぐらいのエチケットは知っている。だから、かえって縫いぐるみの方を残しておく方が悧口《りこう》なんだ」 「じゃあ、生まの方を私の部屋に運びましょう」 「注意して頼むよ」  打ち合わせを終えて、七郎は身体だけ通るほどにドアを開き、外に出た。 「楓さん、ご無沙汰《ぶさた》しています」  井本が頭を下げた。三十前後、目の大きな元気そうな男だった。 「何だい。ちょっと、忙しいんだがね」  と、七郎は言った。 「ショウが中止になったのに、ですか」  言葉は丁寧だが、質問は遠慮がない。 「新作だよ。新作の研究に打ち込んでいる」  井本は疑いの目で七郎を見た。確かに七郎が新作の研究とはうまい口上ではなかった。 「お手間は取らせません。五分でいいんです」 「一体、何だ」 「楓さんは瀬川さんの事故を見ていたんでしょう」 「見ていたが、馬琴さんが記者会見しただろう。それに付け加えることはないな」 「それとですね、たんこぶ権太を捜してるんです。実は権太とは旧友でしてね、久し振りに日本へ帰って来て、ショウボートで出演していると連絡をもらったので、寄ってみたんです」 「連絡は権太さんから?」 「勿論《もちろん》、そうですよ」  七郎は自分の部屋を指差した。 「権太さんの部屋なら、一番向うの左側だよ」 「変ですねえ。教えてもらったのとは、まるで違う」  井本はぶつぶつ言って歩き出した。  七郎はそっとドアを大きく開けた。ドアの蝶番《ちようつがい》は井本の方にあり、中を覗かれることはない。七郎は真に、ドアの横に立っているように目で知らせた。その状態でいれば、グラントが虎を自分の部屋に移し替えても井本には見えない。七郎は廊下を歩いて、自分の部屋のドアの前に立った。 「ただし、いるかどうかは判りませんがね」  七郎は自分の身体で、廊下の奥を塞ぐように立ち、ドアをノックした。 「権太さん、今、〈ファンファーレ〉の記者で、井本さんという人が見えています。いませんかあ?」  ドアの向うはしんとしているだけだ。勿論、芥子之助がじっと聞いていて、息をひそめているに違いない。七郎はノブをがちゃがちゃさせた。 「いないね。どこかへ出掛けたんだ」 「……帰るまで、待っていようかな」 「待つのなら、デッキの方が涼しいよ」 「その前に、楓さん、写真を撮らせて下さい。お部屋で」 「散らかってるぜ」 「その方が雰囲気が出ていいんです」  七郎は振り返って真を見た。真はそっとうなずいた。虎の移動は完了したらしい。 「長くいられると困る」 「三分で済みますよ。三分で」  七郎は先に権太の部屋に入った。一匹の虎が部屋の一番向う側に押しやられ、縫いぐるみが入っていた袋が掛けられている。虎の上にあったシートが床に敷かれているのは、血溜《ちだ》まりを隠すためだということが判る。 「何ですか? あれは」  井本はすぐ虎に気付いた。袋は虎を覆い切れていなかった。 「虎だよ。皮は本物だぜ」 「ほう。あれですね、新作というのは。ちょうどいい。あの虎と一緒に撮らせて下さい」 「馬鹿言うな。写真だと、縫いぐるみだということが、すぐに判ってしまうじゃないか。奇術の種明かしは困る」 「……縫いぐるみにしちゃ、大きいですねえ」 「色色、仕掛けがあるわけさ」 「縫いぐるみになっても、虎って臭《にお》うものですね」  井本は鼻をくんくんさせていたが、それ以上、虎に興味を示さなくなった。持っていたカメラを調整すると、レンズを真に向けた。一しきりモータードライブのシャッターの音が続いた。 「楓さんにこんな若い助手がいるとは知りませんでした。あなたも一緒に入って下さい。それから、何か……トランプか何か持ってくれませんか」 「……カードはここにない」 「ない? 奇術材料がですか」 「……舞台に置いたままなんだ」 「じゃあ、仕方がありませんね」  七郎と真は並んでカメラの前に立った。  撮影を終えると、井本は手早くフィルムを巻き取り、新しいフィルムを装填《そうてん》した。 「ところで、瀬川さんの事故ですがね」 「とっくに五分以上過ぎた」  と、七郎がそっ気なく言った。 「少しだけ話を聞かせて下さいよ。楓さんも近くでご覧になっていたんでしょう」 「うん……」 「僕には考えられない事故に思えるんですがねえ」 「何を言おうとしているんだ」 「例えば——瀬川の道具をちょっと狂わした者がいる、とかです」 「そんなことはあり得ない。道具は瀬川が自分でセットしていた。手を付けた者は誰もいない。舞台に立ったのも、瀬川と唄子だけだ。満員の観客の前で、何ができると言うんだ」 「その唄子さんですがね。長いこと外国にいたんでしょう」 「唄子のことはどうでもいい」 「楓さんは、もと唄子さんと——」 「唄子のことを言うなと言ったろう」  七郎はことさら声を荒立てた。 「ここへ来てから、唄子さんと何かあったんですか?」 「真、井本さんを階段のところまで、お送りしな」  井本は顔の半分で笑い、カメラを肩に掛けた。 「又、お会いします。今度までに機嫌を直しておいて下さいよ」  真がドアを開けた。  七郎も廊下に出た。二人が廊下の角に消えるのを待って、グラントのドアを叩く。グラントはすぐドアを開けた。 「帰りましたか?」 「今、帰った。思わぬ邪魔が入った」 「廊下を見ていて下さい」 「判った」  グラントは部屋から手押車を押し出して、すぐ権太の部屋に虎を運び入れた。  しばらくすると、真が戻って来た。 「しつっこく権太さんのことを訊かれたわ」  真は少し息を切らせていた。 「戻って来るようなことはないだろうな」 「大丈夫です。デッキに出て、係官に何か話を訊き始めていましたから」  部屋に入ると、グラントは手押車の虎を持ち上げるのに大汗を掻《か》いていた。七郎が手伝い、縫いぐるみの虎を手押車に乗せた。 「遅くなった。すぐ出掛けよう。真、廊下は大丈夫だな」 「誰もいません。今のうちです」  グラントは手押車を押し出す。七郎はドアに鍵を掛ける。  娯楽室を抜け、リフトの前へ。  リフトで下に降りると、荷物の搬入口だ。話が通じているらしく守衛はすぐ渡り板の柵《さく》を外した。二人はベルトコンベアーを渡って外へ。  桟橋にはさまざまな車が駐車してあったが、食肉会社の冷蔵車はすぐに判った。四角い小型トラックで、白い車体に「株式会社 大見《おおみ》食肉」と書かれている。運転席から真っ赤なTシャツを着た若い男が降りて来たところだ。七郎は男の傍に寄った。 「社長のところへ頼むよ」  七郎は芥子之助に教えられた通り言った。 「ショウボートの方ですね」 「そうだ」 「判りました」  男はすぐ車の後ろに廻り、冷蔵室の戸を開けた。中にはいくつもの肉の塊りが見える。グラントが手押車を戸の傍に近寄せた。 「例のものは、これですか?」 「そうだ」 「……虎ですね」 「そうだ」 「ほう——」  男はちょっと口を尖《とが》らせたが、すぐ虎を抱き起こした。 「重いぞ」 「大丈夫です。慣れてます」  男は動物の肉を持つ骨《こつ》を知っているようだった。手際よく虎を冷蔵室に収めて、戸を閉め、掛け金を下ろした。 「じゃあ、頼む」 「かしこまりました」  七郎は車が出るまで待てなかった。追い立てられるように荷物搬入口から船に戻った。  部屋に入ると、芥子之助は煙草を吹かしていた。 「車、ちゃんと来ましたか」 「うん、桟橋に待ってた」  と、七郎は答えた。 「待ってた? 打ち合わせと違ったじゃないか。仕方のない奴だ。遠くで待っていて、あんた達を見たらすぐ近付くように言って置いたのに。無神経な奴だ。でも、誰にも見咎《みとが》められはしなかったんでしょう」 「そう、引き渡しは順調にいった」  七郎は椅子に腰を下ろした。何となく、ぐったり疲れを感じた。 「さっき、誰か来たんですか」 「週刊誌の、しつっこい記者だった。権太の友達だと言って、なかなか離れようとしなかった。それで、思わぬ時間を使ってしまった」 「本当にご苦労さんでした。あたしも、これで肩抜けだ。早速、馬琴さんに報告して来ます。まあ、ゆっくり休んでて下さい」 「権太もやっと涼しくなったろう」  七郎は何気なく言った。芥子之助は笑って、 「いや、なかなか涼しくはないでしょう。あの会社は暴力団が警察の目をくらますためにやってる会社ですからね。冷蔵室などに電気は入っていねえでしょう」 「そんなことはない。ちゃんとした肉の塊りがいくつも入っていたよ」 「肉が……変だな?」  芥子之助は小さな腕組みをした。 「車には鈴木《すずき》食肉店としてあったでしょう」 「違うな。確か、株式会社 大見食肉としてあった」 芥子之助の顔から、みるみる血の気が引いた。 「……大変だ、楓さん。あんたは違う車に権太の屍体を積み込んじゃった!」 12 ウロタエタロウ  七郎は調理室に駈け込んだ。  七郎の前にピエール シャロンが立っていた。 「おお、虎の肝……」  シャロンの目の色が変わり始めた。 「いけない。おい、真」  真が一足後れてやって来た。 「ちょっと、シャロンさんの相手をしていてくれ」  七郎はシャロンを真に委せ、中年のコックを捕えた。 「大見食肉という会社を知っていますか?」 「知っています。この食堂の肉を入れていますよ」  と、コックが答えた。 「今日、誰か大見食肉を呼び寄せましたか」 「ええ。コック長の命令で、私が電話をしました」 「何事もなければ、ショウボートは海の上じゃありませんか。会社とはすっかり用が済んでいるはずでしょう」 「ところが、コック長は海の上で大見食肉の納品した肉を見て、怒りだしたのです。約束の品とは全然品質が違う。そこで、船が岸壁に戻ったのをいい機会に、早速、外線電話で引き取りを命じたというわけです」 「大見食肉はまだ引き取りには来ませんね」 「来ません」  七郎は唸《うな》った。食肉会社の運転手は、会社の事情をよく知らない、アルバイト学生みたいな人間に違いない。その男は食肉の代わりに、権太の屍体を引き取ってしまった…… 「大見食肉はどこにあります?」 「ええと……そう、江戸川橋《えどがわばし》です」  江戸川橋ならそう遠くはない。だが、一本道ではないし、日曜日で方方に交通規制があるはずだ。車を追うのは不可能に思えた。 「とにかく、電話を借りたい」  七郎はコックに言った。 「おや、知りませんでしたか。電話は通じませんよ」 「通じない?」 「昨日から変でしたが、とうとう駄目になってしまったようです。内線は修理中で通じませんよ」 「大見食肉に電話したいんだ」 「じゃあ大丈夫だ。外線はちゃんとしています」 「有線より無線の方が丈夫なのか」 「さあ……どうなってるのか判りませんがね。でも、何が起こったんです?」  奇術師が食堂に出入りしている食肉会社のことで騒いでいる姿は、確かに異様な風景だが、説明することはできない。 「後で話す」  七郎はそう言って、電話の方に歩き出した。電話の前の壁にボードが張られていて、メモ用紙に大見食肉の電話番号が撲《なぐ》り書きしてあった。七郎は急いでダイヤルを廻した。 「はい、大見食肉です」  眠いような声が聞こえた。 「ショウボートの食堂だ」  と、七郎は言った。 「へい、毎度あり」 「お宅の車が来たんだが」 「へい」 「まだ帰らないだろうな」 「へい、まだです」 「その車に、こっちの手違いで、違う品を渡してしまった」 「はあ」 「だから、車が帰り次第、すぐ連絡するように。ショウボートの、座長室だ」 「座長室?」 「そう、座長のいる部屋。間違えないようにな」  冷蔵室の中を見るな、と言おうとしたが思い留《とど》まった。見るなと言えば見たくなるのが人情だ。 「とにかく、急いでいる。帰ったら、すぐ電話するように」 「お宅の電話番号を——」 「何だ。控えがないのか」 「今日は日曜で、電話係が休んでいますんで……私も留守番のパートタイムなもんで」 「運転手も、か」 「あれは、大学生のアルバイトで」  七郎は相手に電話番号を教えた。 「間違えるなよ」 「へい」  何だか頼りない声だった。七郎はもう一度用件を繰り返して電話を切った。 「座長が、どうかしたんですか?」  コックが顔を寄せた。 「後で話す」  七郎はどんどん歩きだした。真がまだシャロンと話していた。 「真、部屋に戻るぞ」  言い置いて、七郎は部屋に帰った。  すぐ、芥子之助が隠し戸から出て来た。 「大見食肉の場所が判った。食堂に肉を入れている会社だった。キャンセルの肉を引き取りに来たらしいんだ」 「受け取った奴は、変に思わなかったんですかい」 「大学生のアルバイトで、店のことはよく知らないらしい」 「それにしたって……ああ、何て常識のねえ奴だろう。相手は虎じゃあねえか」 「虎の肝なら病死したのでも食いたがっている男だっているよ」 「そう——いや、そんなことを言っている場合じゃあない。親分に話すと、鈴木食肉からはまだ何とも言って来ないそうです。まだ桟橋で待っているに違いねえ。楓さん、その車で大見食肉まで行ってもらえませんか」 「おれのしくじりだ。すぐ行く」 「わたしも行くわ」  真がいつの間にか戻っていた。 「いや……君は、唄子の部屋にいてやってくれ。一緒に行くのはグラントさんだけでいい」  今度は間違いない。  桟橋に駐車している鈴木食肉の車はすぐに判った。七郎は運転席を覗いた。 「ショウボートの馬琴座長のところから来た」  運転席の男は大きな目でぎょろりと七郎を見た。 「合言葉を言ってみな」  色が黒く、ゴリラみたいに不機嫌な顔をした男だった。 「社長のところへ頼むよ」  と、七郎は言った。 「よし、判った。で、物《ぶつ》はどこだ?」 「それが手違いで、他の車に乗せてしまったんだ。その車を追ってもらいたい」 「判った」  ゴリラは運転席のドアを開けた。七郎とグラントはゴリラと並んで坐った。ラジオが地方競馬を中継していた。 「実は俺もいつか手違いをやらかし、他の車に物を積んじまったことがある。よし、他人《ひと》事とは思えねえ。必ず捕えてやる」  車はいきなり走り出した。 「どっち方面だ?」 「行先は江戸川橋。大見食肉という肉屋だ」 「おう、知ってるぞ」  と、ゴリラが叫んだ。 「最近、けた糞《くそ》の悪いビルをおっ立てた肉屋だ。だが、外濠《そとぼり》から行くか、内濠を廻るか、丁《ちよう》か半か……よし、丁だ」  勝鬨橋《かちどきばし》を渡って晴海《はるみ》通りを進むと、すぐ歩行者天国で、車は交通整理の巡査の鼻先をかすめるようにして、右に曲がった。 「物は何だ。薬《やく》かガンか、ダイナマイトか、核燃料か、何だ?」  物騒なことを大声で言う。 「言えねえんなら、言わなくていい。俺だって、言えねえことは口が割《さ》けても言えねえ」  それなら訊くことはないのだ。ただ自分が口が固いということが言いたかったのだろう。要するに、やくざが好きでならない男のようだ。  外濠通りに出ると、ゴリラはぶんぶん車を飛ばし始めた。幸い、日曜で道は空《す》いている。しばらくして半蔵門のあたりでダンプカーを追い抜いた。運転席の窓から突き出した、腕の彫物が物を言ったらしい。ゴリラは満足して、ラジオの音量を上げた。 「——さあ、期待のシカゴ記念日曜競馬、最終の一一レース、三崎《みさき》競馬場から中継でお送りしています。一番のアワノフキフキは例によってしゃがんで駈けていましてね、返し馬できません。二番のノンノンズイズイも返し馬できません。ただ気合の乗りは前走と同じでよく、ちょっとムラな馬なんですが状態はいいと思います。三番ウロタエタロウ、伸び足は今一つ。四番ウマノホマレ、馬そのものは元気なんですが、どうも飛びが綺麗なせいか、こういう馬場ではどうでしょうか。五番チータモドキ、ゆったりとした、ムラのない返し馬しました。状態としては本調子を取り戻したと思います。六番ヒダノカンパイ、今日の一番人気ですが、前走と違いますのは……」 「見ていねえ。このレースはどうしたって、四—八だぜ」  と、ゴリラが言った。 「四—八だとどうなるね?」 「大した大穴じゃあねえが、俺は儲《もう》かる」 「判ってるのかね」  ゴリラはにやっと笑った。 「——さあ、グレーターマジックが、今枠に収まりました。体勢が完了。第四コーナーのポケットです。各馬順調に収まりました。最後はウマノホマレでしょうか、さあ、気合が入ります……」  ラジオから銃声が響いた。  馬がスタートすると、ゴリラはハンドルにしがみ付き、腰を浮かせようとした。馬に乗っている気になってしまったようだ。 「——おっ、逃げ馬のチータモドキ、大きくあおりました。展開はどうなるでしょうか。さあ、一四頭が横に拡がりました。今、正面スタンド前をチータモドキが先頭で走り抜けました。二番手、グレーターマジック、三番手、ウマノホマレ……ずっと遅れてアワノフキフキ……」 「それ行けえ」  ゴリラがわめいた。 「……ヒダノカンパイが上がって来ました。続いてノンノンズイズイ、ウマノホマレ……」 「そこだっ」 「……いよいよ第三コーナーにかかります。先頭、一四番グレーターマジック、二番手ヒダノカンパイ、三番手にウマノホマレ……」 「そこで、ウマノホマレが上がって来るぞ。さあどうだ」 「ウマノホマレが上がって来ます」  と、ラジオが言った。 「先頭はグレーターマジックだ」 「先頭はグレーターマジックです」  と、ラジオが言った。 「二番手はウマノホマレだ」 「二番手はウマノホマレです」  と、ラジオが言った。 「そのまま逃げ切るんだ」 「そのまま逃げ切るでしょうか。おや、これは何でしょう? あっ、アワノフキフキです。猛然たるダッシュです。一頭、二頭、三頭、四頭……またたくうちに抜いて行きます……」 「アワノフキフキだと。そんな馬鹿な!」 「そんな馬鹿なことがあるでしょうか。三番、ウロタエタロウもそれに続きます。あっ、信じられません。アワノフキフキ、今、先頭に踊り出ました。二番手にウマノホマレか、ウロタエタロウか。いや、これは。ゴールイン。今、ゴールインしました。一着ウロタエタロウ、二着、アワノフキフキ、三着グレーターマジック……これは大穴です、大穴——」  ラジオが絶叫した。 「何でウロタエタロウなんだ」 「何でウロタエタロウなんでしょうか」  と、ラジオが言った。 「畜生! 計られた!」  ゴリラは言って、チャンネルを変えてしまった。女性歌手の演歌が流れ出した。  ほどなく、江戸川橋の大見食肉に着いた。一〇階建てのビルで、一階の店はシャッターが降りている。シャッター一杯に大きな牛の顔がけばけばしい色彩で描かれていて、なるほど一度見たら忘れられなくなりそうだ。  七郎は車を降り、シャッターの横にある入口を入った。突き当たりがエレベーターで、左側の壁に郵便受けが並んでいる。反対側にドアがあって、同じ牛の顔が見えた。七郎はそのドアを押した。食肉店の事務所だが、中はがらんとしていて、中年の男がラジオを聞きながら競馬新聞を読んでいた。 「さっき電話したショウボートの者です」  七郎は声を掛けた。 「へい、毎度あり」  男は電話と同じ声を出した。 「例の車は帰って来ましたか?」 「まだ、戻りません」 「ショウボートの他にも寄るようなところがありましたか」 「いえ、聞いていません」  男は時計を見た。 「そうですねえ。もうそろそろ帰らなきゃなりませんねえ。……ひょっとすると」  七郎は胸騒ぎを感じた。 「ひょっとすると?」 「奴、今の競馬で、大穴を当てましたからねえ。ちょっと前シカゴ記念レースで一—三の大穴が出たんです。奴、一年分の給料を儲けやがった。真逆《まさか》、調子に乗って、トルコへなど行きゃあしまいかと……」  七郎は腕を組んだ。間《ま》の悪いときというのは、万事がこうだ。 「まあ、そのうち帰って来るでしょう。お掛けなさい。今、お茶でも入れます」 「いや……外で待っていましょう」  七郎は車に戻った。ゴリラとグラントが外に出ている。 「あの学生、シカゴ記念の一—三を買ったそうだ」 「畜生——」  ゴリラはぎりぎりと歯ぎしりをした。 「奴、きっと外濠を廻っているに違いねえ。付いていねえときは、いつだってこうだ……」  十五分待った。  七郎はいらいらしてきた。ラジオが交通情報を流し始めた。若い女性の声だ。 「……四時の交通情報です。午前中は快晴の真夏日でしたが、午後から急に曇り始めて、横浜以西では雨になってしまいました。東名高速道路は御殿場《ごてんば》、沼津《ぬまづ》間では最高速度八〇キロに制限されています。この時間、行楽地から流れて来る車で混雑が増してきていますが、本線上の流れは比較的まだ順調です。サービスエリアの駐車情況は上下線の海老名《えびな》で七〇パーセントと少し多目ですが、その他のところは——」  ゴリラは空を見上げた。 「どうしても、こいつは降るぜ」  黒い雲の流れが早かった。 「台風が通り過ぎたばかりなのになあ」 「その台風が、戻って来るんだとさ」 「戻るって?」 「あれ、知らねえのかい。さっきからラジオで繰り返し言っていたぜ」  この一日、天気予報を聞いている閑《ひま》がなかった。 「何でも、迷走台風なんだとさ。一度、海へ出た奴が、どう戸惑ったのか、又戻って来るらしい。これから大荒れだとさ」  近くにある公衆電話ボックスから、グラントが戻って来た。 「座長はつかまりません。後で又電話をしましょう」  と、グラントが言った。 「万事が、うまくいかない」  七郎は聞くともなしにラジオを聞いていた。声は今迄と違う女性になっていた。 「……都内の交通情報です。先ほど事故がありました。千代田《ちよだ》区の九段下《くだんした》から飯田橋《いいだばし》へ向かう路上、グランドパレスの付近で車の衝突事故がありました。現在、道路は交通止めになっておりますので、近くの車はご注意下さい。事故のあった車は、大見食肉店の小型冷蔵車で、道路を進行中、反対車線から来たオートバイと正面衝突……」 「やりやがった」  と、ゴリラが叫んだ。 「付いているときは、魔が差しているときとおんなじだ。行くぜ」  運転席のドアを閉める間もなく、車は走りだしていた。 「——実は、あの冷蔵車には虎《とら》が乗っているんだ」  と、七郎は説明した。こうなった以上、相棒も事情を知っていた方がいいと思ったからだ。 「へえ。物《ぶつ》は虎でしたかい」  ゴリラは虎と聞いても平気だった。もっと物凄《ものすご》い物だと思っていたのだろう。七郎はその期待を裏切りたくなかった。 「その虎というのが縫いぐるみの、頭と皮だけの虎でね」 「何だ。生きてるんじゃねえんですかい」 「生きてはいない代わりに、その虎の腹の中には、屍体が入っている」 「へえっ?」 「たんこぶ権太という男の屍体で、殺したのは私じゃない。私はただその始末を頼まれただけで——」 「よく打ち明けておくんなすった」  ゴリラは感動したように言った。 「なかなか、他人にゃ話せねえことだからね。よし、そうと判ったら、虎は必ず取り返してご覧に入れましょう」  飯田橋に着くと、車が渋滞してきた。そのうちに、反対車線の車がなくなった。どうやら、上り車線だけは開通したようだ。  問題の車が見えてきた。  冷蔵車は道の片端に寄せられて、左半面がめちゃめちゃだった。車の前には黒いオートバイが横倒しになっている。  ゴリラは交通規制をしている巡査の前で車を止めた。 「大見食肉と取引きをしている会社です。冷蔵室の肉を引き取りに来ました」  巡査はゴリラの顔と、車体とを見比べていたが、すぐ警笛を鳴らしながら、車を誘導した。ゴリラは駐車している大見食肉の車と尻を合わせるようにして車を止めた。  三人は車から外に出た。道に砕けたガラスが散乱し、急ブレーキの黒い跡が残っている。 「あんた方はここにいちゃあ困る。ちょっと離れていておくんなさい」  と、ゴリラは低い声で言った。 「邪魔かい」 「邪魔ってんじゃありませんがね。こんなことは、一人の方がいいんです。さあ、知らん顔をして、警察《サツ》に気取《きど》られねえように……」 「じゃ、頼んだ」  七郎とグラントはゴリラの傍を離れた。  ゴリラはあたりを見廻していたが、今まで人を指図していた私服の警察官の前に出た。 「可哀相に、黒川《くろかわ》の奴はどうしました?」 「黒川……?」  ゴリラが黒川という名を口にした理由はすぐに判った。その警官が真っ黒い顔をしていたからだ。 「名が違うぞ。運転手は林《はやし》という名だ」 「そう、本名は林。色の黒い男ですから、あだ名を黒川と言うんで」 「…………」 「林と名乗ったところをみると、本人は元気なようですね」 「いや、名は免許証で判った。本人は意識不明で、病院へ運ばれた」 「そりゃあ……」  ゴリラは思い切り悲しそうに言った。 「あいつはいつも運の良い奴だったんだがなあ。一—三を当てやがったし、畜生……そのとき、万歳をしたのに違いねえ。当たりに当たりやがったんだ」  ゴリラは警官の方を向いた。 「冷蔵車が毀《こわ》れちまったというんで、中の肉を引き取りに来たんです。何しろ、この陽気で、早くしないと中が皆腐っちまうもんで。お手数をお掛けします」  黒い顔の警官はもう一人の警官の方に行き、何か話し合っていたが、すぐゴリラの方に戻って来た。 「大見食肉とは連絡してあるんだな」 「向うから電話が掛かって来たんです。日曜日で人手がない。あんたのところの車で引き取ってくれれば大助かりだと言うもんで。取るものも取らず、急いでやって来ました」 「じゃ、注意して仕事をするように」 「はい、判りました。お忙しいところ、申し訳ありませんです」  ゴリラは大見食肉の冷蔵室を開けた。七郎は野次馬に混って、冷蔵室の中を覗いた。  衝突のショックらしい、虎は一番奥に丸まっていた。ゴリラはちょっと考えていたが、一番手前にある、腿肉《ももにく》を入れた大きな籠《かご》を引きずり出した。 「よいしょっと……」  ゴリラは手際よく籠をかつぎ、自分の車に放り込んだ。警官はゴリラの仕事を見ていたが、やがて傍を離れた。 「今だ」  ゴリラは冷蔵室に入り込み、一つの籠をひっくり返して中の肉を空《あ》け、その中に虎を押し込んで、その上に袋をかぶせた。 「ありゃありゃ……」  籠目の間から虎の皮が見えていたが、ゴリラは速度の方を重要視したようだ。  確かに、そこまでは、上できだったのだ。  だが、次の瞬間、ゴリラが片手を滑らせてしまった。牛の脂《あぶら》のためだろう。片手で籠は持ち堪《こた》えられなかった。  籠は道に落ち、布がまくれて、中から虎が転がり出した。 「待て!」  さっきの警官が戻って来た。 「何だ、これは」 「虎です」  ゴリラは平然と答えた。 「虎を、どうする?」 「虎の肉は人間は食いませんな」 「当たり前だ」 「ですから、動物園へ納入しますんで。虎の肉は禿鷹《はげたか》の餌《えさ》になります」 「禿鷹の餌だと?」 「今頃、お腹を空《す》かせて待っています。はいはい、今行きますからね……」  ゴリラは虎を抱え、籠の中に戻そうとした。 「待て」  また、警官が言った。 「旦那、早くしないと肉が腐っちゃうんですよ」  と、ゴリラが言った。 「虎の皮が、腐るか」  と、警官が言った。 「警察をばかにするなよ。虎の腹から、変な物が出ているじゃないか」  警官は虎の傍にかがみ、虎の腹のあたりを探って、白い紐《ひも》を引き出した。紐は手に従って、どんどん伸びる。 「何だ、こりゃ!」  七郎は悪い予感がした。その紐は七郎が奇術で使う、ロープにそっくりだった。ロープは一メートルばかり伸びると、動かなくなった。 「この虎は縫いぐるみじゃないか」 「ですから、動物園のショウで、この虎の皮を着て——」 「虎の腹には、もう、何か入っているぞ」 「ですから、牛肉を虎の皮でくるんで腸詰めにしたものを——」  警官は全部聞かなかった。虎の顎《あご》の下あたりを探って、ファスナーの引き金を見付けてしまった。  警官はファスナーを、一気に引き開いた。 「あっ?」  虎の腹から、白い腕が飛び出した。それは、血の気《け》のなくなった、女性の腕だった。警官が腕を引っ張ると、頭が転がり出した。  浜田玉葉の首に、赤いネッカチーフと白いロープがからみ付いているのだ。七郎はそのロープの一端が焦げているのを見た。 「違ってる……」  七郎はうめいた。さすがのゴリラもびっくりして七郎の傍に来て、耳元でそっと言った。 「あんた、誰かに嵌《は》められたね。俺にも覚えがあるんだ。よし、こうなったら、何が何でも、あんたを庇《かば》おう」  すでに、事故現場にいた警官のほとんどが、ゴリラを取り囲んでいた。  七郎はそっと見物人の奥に入ろうとした。 「ちょっと、君」  七郎はぎくっとしたが、呼び止められたのはグラントの方だった。 「あなたは鈴木食肉の車に乗っていたでしょう」  外国人の禿頭が目立ったのだ。 「ノオ、アイ、アム……」  グラントは手を振った。 「その外人を逃がすんじゃない」  別の警官が大声で叫びながら駈けて来た。  七郎はそっと横の道に入った。今度は運良く、空のタクシーがいた。 13 死因縊死《しいんいし》  ショウボートに戻ると、すぐ唄子の部屋を叩いた。 「どなたでしょうか?」  ドアの向うで唄子の声がした。 「俺だ。七郎だ」  ドアが細目に開いた。 「真、いるか?」 「さっきまで、ここでしたけれど……」 「仕様がない奴だ。どこへ行ったのだろう」 「座長に話があると、出て行ったわ。何か急に思い立ったことがあると言うので、わたしなら一人でいいからと言うと——」 「判った。じゃあ、座長のところへ行ってみる」  唄子は何か言いたそうだった。だがゆっくりしている場合ではなかった。 「鍵を掛けておけよ。僕か真の声がしないうちは、誰が来ても中に入れてはいけない」  七郎は鍵の音が終わるのを待って、馬琴の部屋に足を向けた。  馬琴の部屋では、馬琴と真が話しているところだった。 「大見食肉の車は、捕えた?」  真が心配そうに訊いた。 「ちょっと遅かった。ラジオの交通情報で知ったんですが、大見食肉の車は、飯田橋の近くで、交通事故を起こしてしまったんです」 「……まずいな、そりゃ。で、どうした」  馬琴は椅子から身を乗り出した。 「鈴木食肉の車を運転していた男、ゴリラに似た顔の——」 「ゴリラには似ていない。猪《いのしし》に似ている」 「僕はゴリラに見えましたよ」 「ゴリラではない。名も猪之《いの》だ。猪に似ているので、突っ込みの猪之という男だ」 「猪之は本名ですか」 「本名は知らない。皆が猪に見えたから、猪之としたのだろう」  いつまでも猪に構ってはいられない。 「現場へ行って見ると、運転手は意識を失って病院に運ばれましたが、冷蔵室はそのままでした。それで、その猪之が、警察官がいる前で、虎を取り戻そうとしました」 「気は良いが、無鉄砲な奴なんだ。猪突《ちよとつ》猛進、矢張り、猪だ」 「途中まではうまく行きました。ところが、ゴリ……いや、猪之は虎を道の上に落としてしまったんです。それで、虎が縫いぐるみだということが判り……」 「権太の屍体が見付かったか」 「いえ、虎の腹から出て来たのは、浜田玉葉の屍体でした」 「えっ……」  馬琴は目を丸くした。 「虎に入れたのは、権太じゃなかったのか」 「権太さんでした」 「……どうも、君の言うことが、よく判らなくなってきた。虎の中に入れたのは権太の屍体だったが、警官の目の前に出て来たのは、違う屍体になっていた、と言うのかね」 「そうです。いくら僕が緊張していても、男と女とを見間違えるようなことはありません」 「わたしもそのときドアの隙間から見ていました」  と、真が言った。 「虎の中に入れたのは、確かに権太さんの屍体だけでした」 「屍体が二つ入る、というようなことは?」 「一人入るのがやっとです。とても二人は入れられません」 「船から運び出すまで、他の者が虎に近寄らなかったかね」 「……そう言えば、井本という芸能記者がうろうろしていましたが、虎には指一本触れませんでした。屍体を入れた虎は、いつでも目の届くところにありました。船から運び出すまで、誰かが他の屍体と掏《す》り替えることは不可能です」 「……すると、その前か」 「船から運び出す前……」  七郎はちょっと考えた。 「トオトを取りに行く前、権太を入れた縫いぐるみの虎は権太の部屋に置いてあった。……でも、ドアには鍵を掛けておきましたよ」 「そのときだ」  と、馬琴が言った。 「権太を殺した人間は、権太の部屋からキイを持ち去っている。犯人はそのキイを使ったんだよ。あと一つ考えられるのは、大見食肉の運転手が、虎を受け取った後、どこかに立ち寄って、屍体を入れ替えたということだが」 「でも、大見食肉がなぜそんなことをしたのかとなると、まるで雲をつかむようです」 「大見食肉というのは、たまたま不良の食肉を引き取りに来た、と聞いたが」 「その運転手はただのアルバイト学生のようです。恐らく、権太の死んだことも知っているはずはないんですがねえ」 「君は大見食肉の会社に電話していたようだが」 「直接、会社へも行ってみました。会社は休みで、パートタイムの留守番がいるだけでした。その店員は会社のことをよく知らない男です」 「ショウボートと取り引きがあることも?」 「ですから、ショウボートとのつながりを知れば、とっくに警察から問い合わせが来ているはずでしょう」 「そうだ。警察はまだ大見食肉と虎とショウボートの関係をつかんでいない」 「猪之が喋るかも知れません」 「突っ込みの猪之なら大丈夫だ。あの男は口が固い。警察も大嫌いだから、喋ることはないはずだ」 「猪之の車にはグラントさんがいて、一緒に警察に捕《つか》まってしまいました」 「そうか。あの外国人はショウボートのことを喋るだろうな……」 「最初のうちは白《しら》を切るかも知れませんが、どんなものでしょう」 「グラントが喋らなくとも、その大見食肉の運転手が意識を回復すれば、全《すべ》てがお終《しま》いだ……」 「そう長いこと気絶したままだとは考えられません」 「それまで、我我には多少の時間があることになる……」  馬琴の目が光を帯びてきた。 「虎の屍体が入れ替わっていた……そうだ。まだ、死因を聞いていなかったな」 「玉葉さんのですか」 「見て、判らなかったか」 「それははっきりしていました。玉葉さんの首にはロープが巻き付いているのが見えました」 「すると、今度も完全な他殺であるわけだ……」  馬琴は立ち上がって、壁のボタンを押した。すぐ、洋箪笥《ようだんす》の中から、芥子之助の声が聞こえた。 「親方、いいですか?」 「いいから入れ」  洋箪笥が細く開き、芥子之助がぴょこんと出て来た。 「どうも、偉い手違いを起こしました」 「聞いていたのか」 「へい。風雲急なる気配を感じましたもので……」 「それなら、話は早い。まあ、済んだことは仕方がない。私達はこれからしなくてはならないことができたようだ」 「お忙しいことで」 「だから、いつ呼んでも飛び出せるようにしていなさい。間違っても居眠りなどしてはいけない。判ったな」 「へえ——」  芥子之助はびっくりした目のまま、洋箪笥にもぐり込んだ。馬琴は七郎の方を向いた。 「本物の虎は、権太の部屋に残っているはずだ」 「そうです」 「確かめる必要があるな」 「行って見ます」 「よし、私も行こう」  馬琴は机の上から、銀色のキイを取り上げた。さっきまで、芥子之助が持っていた権太の部屋のキイだった。三人はそのまま部屋を出た。 「保安庁の連中は?」  と、七郎が訊いた。 「さっき、全員引き上げたところです。それにしても、玉葉《たまは》までが殺されるとは……」 「え?」  七郎は馬琴の言葉を聞き咎《とが》めた。 「今、何と言いました?」 「玉葉《たまは》のことかね」 「座長は玉葉《ぎよくよう》さんのことを〈たまは〉と呼ぶんですか」 「そう、本来は玉葉《たまは》が正しいのです。上海《シヤンハイ》百戯団に入ってからでしょう、田玉葉《でんぎよくよう》と音《おん》で読むようになったのは。私が知っているのは浜田玉葉《はまだたまは》でした」 「えっ……」  不意打ちを食ったようだった。  浜田玉葉なら、れっきとした回文名ではないか。岡津唄子と森まりもだけを気にしていたが、玉葉も回文名だということは思い当たらなかった。田玉葉《でんぎよくよう》と耳から入った音の先入観が強すぎたのだ。だが、殺人犯はとうにそのことを知っていて、着実に手を伸ばして目的を遂げたのだ。  もっと訊きたいことがあったが、整理できないうちに権太の部屋の前に出た。廊下には誰もいなかった。  馬琴はドアにキイを差し込んで、鍵を外した。 「スイッチは左側です」  と、真が言った。馬琴は左の壁を探っていたが、すぐ電灯がついた。  ドアを大きく開けた馬琴は、一目部屋の中を見るなり、 「うーん」  唸《うな》りが止まらなくなってしまった。  馬琴の肩越しに部屋を見た七郎も同じ思いだった。  権太の部屋の真ん中には、虎のトオトが長長と寝そべっていた。その隣に男が倒れていた。眉間《みけん》に釘《くぎ》を立てられた、権太だった。 「もう一つだけ、頼まれてもらいたい」  と、馬琴が言った。 「また、権太を運び出すわけですか」  七郎はうんざりした気分だったが、虎の引き渡しを間違えたのは、自分なのだ。 「その閑《ひま》はないと思う。今、すぐにでも警察が来ると、覚悟しておかなければならない。外に運ぶのは危険だ。こうしよう。一時、船底に隠す」 「賭博《とばく》場ですね」 「……芥子之助に聞いたな」 「はい。他に隠すような場所はないのですか」 「……ない」  七郎はちょっと考えた。 「例えば、舞台の切り穴から、舞台下の奈落《ならく》に通じるといった抜け道などですが」 「ウコン号の舞台には、切り穴とか廻り舞台などの設備はないのです」 「すると、秘密の通路というのは、船の中では賭博場への通路があるだけなのですね」 「そうだ」 「虎の方はどうします?」 「……玉葉の屍体が見付けられたのでは、虎だけ隠してもどうにもならない。しばらくは、このままにしておく」 「グラントさんはいないし……わたしも手伝いましょうか」  と、真が言った。  馬琴はちょっと考えて、 「いや、運搬は私が手を貸す。これは女性の仕事ではないし、他の者の協力を求めるわけにもゆかない」  必要以外の人間には、賭博場を見せたくないのだろう。  真は七郎の部屋のドアを開け、あたりを見廻してから、七郎に合図を送った。  七郎が権太の上半身を抱え上げ、馬琴は脚の方を持った。  移動はすぐに終わった。馬琴は権太の部屋に虎だけを残して鍵を掛け、七郎の部屋に戻った。すぐ、真がドアに鍵を下ろした。  押し入れの隠し戸から、垂直の梯子《はしご》で屍体を運ぶときだけが厄介だった。屍体だからといって、蹴落《けお》とすこともならない。馬琴は芥子之助を呼んだ。七郎と芥子之助が権太の上半身を持ち、そろそろと下に降ろした。馬琴が下で待っていて、屍体を受け止めた。  機関室の横の細い廊下を抜けて、隠し戸の前の小部屋に運ぶ。 「親分、部屋の中に入れるんですか」  と、芥子之助が言った。 「そのつもりだが」 「屍体と同居するのはねえ……」 「嫌か?」 「好きな人がいたら、教えてもらいたいもんです」  馬琴はちょっと考えて、小部屋を見廻した。隅には古い木箱や木材などが積み重ねられている。 「じゃあ、置き場所は、ここにしよう」  木箱を動かし、その奥に権太を押し込み、手前に箱を置き直す。古いシートを掛けると、屍体は見えなくなった。 「これでいいだろう」 「部屋に置かれるよりは増しですが」  と、芥子之助は言った。  仕事を済ませると、三人とも、汗まみれだった。 「一まず、これでよい」  三人は部屋に戻ったが、七郎はまだよくなかった。 「座長に話があります」 「後にしてくれんか」  馬琴の方も、これで終りではないようだった。 「私にはまだすることがある……」 「座長……」  真が言った。 「折角《せつかく》、森まりもという芸名を考えて頂いたのですけれど、わたし矢張り母が付けてくれた名にしたいと思います」  馬琴はむずかしい顔で、うなずいただけだった。  真が小型ラジオを聞いている。  五時。ニュースの時間帯だった。瀬川の事故と、虎の腹から女性の絞殺屍体が発見されたという事件が最初に報道された。ただし、女性の身元は不明。ウコン号の事故とは別の事件として報道されている。大見食肉の運転手の意識はまだ回復せず、ゴリラは未だに任侠《にんきよう》の精神を発揮し続け、グラントは惚《とぼ》け、大見食肉のパートの事務員は、今もって事態がどうなっているものか、判断が付かずにいるようだ。  事件の報道はまだ未整理だが、天気予報の方ははっきりしていた。  中緯度で吹く上層の偏西風が弱まっているため、台風の進行速度が遅く、内地に上陸する前から迷走型の台風だったが、一度、銚子《ちようし》沖に抜けた台風は、更に速度を落とし、今度は進路を変えて、再び関東地方に接近し始めたというのだ。 「台風までが、元に戻る回文か」  七郎は重苦しい気持だった。その上、低気圧とは、全くやり切れない。  天気予報が終わると、騒がしいディスクジョッキーになった。真はラジオを止めた。  馬琴と別れ、部屋に戻ってから、真は元気がなくなっている。無理もない。これまで真の目の前で起こった事件は、若い娘に刺激が強すぎたようだ。その上、回文の名も持っているのだ。権太の屍体を片付けたとき、真は馬琴に森まりもという名を返上したが、回文名の虎までが死ぬ気味悪さに、さすが堪え切れなくなったのだろう。  七郎は真の方を見た。真は一点を見詰めたままだった。 「何を考えている?」 「回文の名のこと」 「回文名なら、全部|算《かぞ》え出したじゃないか。まだ、回文名を持つ人間がいるとでもいうのかね」 「ちょっと、気に掛かる名の人がいるんです」 「誰だ、それは?」  そのときノックの音がした。  真が立ち掛かるより先に七郎が立った。 「僕が出る」  静かにドアを開くと、戸口が花で一杯になった。大きな白い無数のダリアだ。 「何だ、これは?」 「お届けの品です」  制服の守衛が二人、手分けして花束を抱え込んだ。 「全幸商会の香取さんだわ」  真は花束に差し込まれたカードを見て言った。 「香取さんは船が戻ったのを知ったのだろうか」  と、七郎が言った。 「知らないようですね」  一人の守衛が答えた。 「花はヘリコプターで運ばれましたから」 「ヘリコプターで?」 「ええそうです。一台のヘリコプターが飛んで来まして、上甲板に落として行ったのが、この花束です」  守衛は花束を持ち込んだ後、重そうな箱を持って来た。 「この箱も一緒でした」  箱の上包みには「楓殿へ」としてある。中は最高級のウィスキーの瓶が並んでいた。 「再会を待ちかねて、愛するクリスへ——」  と、真がカードを読んだ。 「うーむ。あの手この手を使う。実に、油断ならない」  守衛は品物を渡すといなくなった。 「先生、お酒を飲みましょう」  七郎は真の顔を見た。至って真面目《まじめ》な顔だった。 「こりゃ、珍しいな。真がそう言うとは思わなかった」  真は二つのコップを取り出し、ウィスキーを注いで一つを七郎に差し出した。ほとんど、突き付ける態度だった。 「先生、飲んで下さい」  真はコップに口を付けた。中の酒が見る見る消えていった。 「真は酔わないと言ったじゃないか」 「だから、先生が代わりに酔って下さい」  七郎は苦笑してコップに口を付けた。 「酔いたくなるようなことが起きたのかね?」 「だから、酔える人が羨《うらや》ましいんです」  真は空になった自分のコップに酒を注いだ。 「気になる名とは、誰のことだね?」  七郎は改めて訊いた。 「さっき先生が来る前、座長と話していたでしょう。あれは、西川徹矢のことを問い詰めていたのです」 「西川徹矢……座長の息子だな。徹矢がどうしたんだ?」 「先生、ウコン号にいる人達の名を片端から逆さまに読みましたね」 「うん。回文名を見付けるためだ」 「わたしは西川徹矢の名が、どうしても腑《ふ》に落ちなかったんです」  七郎は手帖を開いて見た。 「西川徹矢を逆さに読めば……ヤツテワカシニだ」 「ほら……〈八《やつ》つで若死に〉」 「……それは、気付かなかった」 「先生、若い頃から回文に関心のある座長が、自分の息子にこんな名を付けるでしょうか?」 「……それは、付けまい」 「ですから、西川徹矢は座長の実の子ではないと思いました」 「それを、座長に問い詰めていたのか」 「そうです。案の定、徹矢は座長の実子じゃありませんでした。座長の父親が、家を飛び出したままの座長に愛想を尽かし、自分の後継者として、養子に迎えた男でした。座長の父親は、座長の子として、徹矢を育てたのです」 「すると、馬琴には、本当の子はいなかったのか」 「一人だけ、女の子がいたそうです。昔、旅廻りをしていたとき、一座の女性との間にできた子でしたが、生まれるとすぐ、別れ別れになってしまいました」 「どうしてだ?」 「座長が不実だったからに決まっているじゃありませんか」 「……その子は今、どうしているだろう」 「座長のすぐ傍にいました」 「誰だ?」 「先生も、鈍いわね」  真は怒ったように七郎を見た。 「俺が鈍い?」 「そうじゃありませんか。座長の名、馬琴は〈まこと〉とも読めるんですよ」 「確かに、そうだが……」 「先生、わたしも真なんですよ」 「……でも、それは——」 「単なる偶然の一致なんかじゃありません。なぜなら、阿波木真という名をアワキシンと読み、ローマ字にするとどうなると思いますか」  七郎は再び手帖を手に取った。 「AWAKISIN……NISIKAWA。西川だ……」  七郎は真の顔を覗き込んだ。 「わたしの母は、わたしが芸人になることに、大反対でした。勿論《もちろん》、自分がこの世界で不幸だったからだわ。でも、最後にはわたしに説き伏せられたとき、一生懸命芸名を考えてくれました。阿波木真なんて、ずいぶん変な名前でしたけれど、その意味がやっと判りました。同じ芸界にいれば、いつかは馬琴と出会うことがあるだろう。そのときには、馬琴は味方になってくれるに違いない。これが、母の気持だったのね」 「すると、馬琴は君の名を知ると、それが誰だか、すぐ判ったはずだ」 「勿論です」 「だが、それを言い出さなかった……」 「その上、わたしの名まで変えさせようとしたわ。座長は阿波木真などという名は、どうしても目障《めざわ》りだったんでしょう」 「さっき、君の方から名乗らなかったのかね」 「ええ。母はすっかり見抜いていたようです。わたしの方からそんなことを言い出しても、座長は取り合わないだろうと。果たして、座長はあくまで白《しら》を切る気のようです。だから、これ以上、わたしは何も言いません」 「よし、僕が言ってやる」 「止《よ》しましょうよ、先生。座長は赤ん坊のとき別れてしまった子への情などより、そのために生じるごたごたの方が嫌だったんでしょうから」 「だが、馬琴は君を信じている」 「わたしを?」 「そう。馬琴はさっき、信用して物を頼めるのは、君達だけだと言っていたじゃないか」 「ずいぶん、見くびったものだわ」 「何で?」 「わたし、あのとき、座長の顔を見ながら何と思っていたでしょう?」 「さあ……」 「こんな男、死んでしまえばいい——と」 「いや、今はそうでも、きっといずれ……」 「困るわ、先生。わたしだって、あんな下駄《げた》みたいな顔の父親なんて、嫌ですよ」  真は立て続けに酒を飲んだ。 「酔ったか?」 「ちっとも」 「真がそんなことぐらいで、酒の力を借りようとするのは似合わない」 「お酒も無駄ですしね」  真はコップを片付けると、七郎のコップも取り上げた。 「おい、それにはまだ酒が入って——」 「いけません、先生。……こう言っている方が、わたしらしいでしょう」  七郎はベッドの上に、あおのけにひっくり返った。 「……なあ真」  いつの間にか、蠅《はえ》はじっと天井に止まっていた。 「何ですか」 「お前、それで、本当にいいのか」 「わたしはいいんです。でも、先生はそれでいいんですか」 「俺が?」 「唄子さんですよ。先生、唄子さんを労《いたわ》って、優しい言葉を掛けてあげたのでしょうね?」 「あたり前だ」 「でも、変ですね」 「何が変だ」 「さっき、この部屋を出る唄子さんを見たら、目を押えていました」 「そうだったかな」 「先生、惚《とぼ》けないで下さい。唄子さんの全《すべ》てを宥《ゆる》してやったんじゃなかったんですか」 「……今度の場合、唄子は気の毒だった。可哀相だと思う。だが、過去のことは過去のことだ。どんな理由にもせよ、あいつは浮気をした」 「それが宥せないのですか」 「当たり前だ」 「……本当に、それでいいんですか」 「いい」 「だったら、試してもいい?」 「何を試すんだね」  真はそれには答えず、立ってドアの鍵を確かめて電灯のスイッチを押した。部屋は流し台にある短い蛍光《けいこう》灯の光だけになった。真はそのままベッドに近寄り、後ろ向きに浅く腰を下ろすと、シャツを脱ぎ始めた。 「おい、酔ったのか」  生ま暖かいシャツが飛んで来て、七郎の顔を覆った。シャツの向う側に、真の顔がすり寄ったのが判った。 「わたしは酔えない女よ」 「何をするんだ」 「だから、先生を試しているの」  シャツを取り去ると、真の白い裸身が見えた。  突然に自分の前から消えてしまった唄子といい、この真といい、七郎には女性の行動がまるで理解できなかった。二人共、理論的な行動のようでいて、実は全く違ったものに思える。理論と行動の奇妙な食い違いは、七郎の横にすべり込み、しばらくしてから、真がささやいた言葉にも現われた。  真は凄艶《せいえん》な表情で一|対《つい》になっていたが、そのとき、ぽっと目を開くと、 「……先生だって、今、浮気をしているんですよ」  と、言った。 14 月並《つきな》みな傷《きづ》  船員食堂はごった返していたが、唄子の顔を見ると、急に静かになった。  スターレッツの踊り子達は、七郎達に席を譲るようにして出て行った。部屋から花束が持ち去られたような気分だった。  一隅にランペ健治の一団がいて、健治は大きなリールの付いた釣竿《つりざお》を手にして、しきりに楽団員に釣自慢をしているようだった。健治が両手を大きく拡げたとき、七郎達が食堂へ入って来たのだ。目が合うと、健治は会釈したが、声は小さくなった。両手の幅も気のせいか狭くなったようだ。  その横に事務長の小庭靖子がいた。靖子は食事を済ませ、ライターで煙草に火を付けたところだ。靖子は空になった食器を盆に乗せ、カウンターに置くと、お先にと言って食堂を出て行った。全員が唄子のことを気にしているのだ。  食事はブリキ板みたいに固くて薄いビーフソテーとサラダ。それに薬臭いライス。七郎は腹が減っている気はするのだが、まるで食欲がなかった。唄子の方はもっとひどく、サラダを突ついただけだった。 「欲しいものがあったら、貰《もら》って来ましょうか。卵やミルクなら、食べられるんじゃありません?」  見かねて、真が言った。 「ありがとう。でも、何を頂いても同じです」  と、唄子が言った。  食事の途中で、船内放送があった。  台風の接近に伴い、岸壁が荒れる模様なので、ショウボートは危険を避けるため、再び沖に出ることになったようだ。  まだ風雨はそれほど強くない。馬琴は逃げる気だな、と七郎は直感した。沖に出て、虎の屍骸《しがい》も処分する気だろう。  ショウボートの中には、犯人がいるはずだ。その人間と一緒にいることは、危険ではないか。 「真、船を降りるか?」  と、七郎はそっと訊いた。 「この船にいては、危険だと思う」  真はきっぱりとした調子で答えた。 「いいえ、降りる気はありません」  馬琴のことが頭にあるな、と七郎は思った。 「わたしは大丈夫ですから、先生が唄子さんと船を降りて下さい」 「わたしも船を降りるのは嫌です」  と、唄子が言った。  唄子には自分が危険なことが判らないのか、それとも、七郎と一緒では嫌だという意味なのか、よく判らなかった。ではといって、自分だけ下船することはできない。 「ここ、いい?」  声がして、食器を載せた盆を持ったイザナミが七郎の隣に来た。返事をする閑もない。 「お邪魔するわ」  椅子《いす》にどっかりと腰を下ろし、 「あんたは、そっち側がいいね」  後ろにいるイザナギに命令した。イザナギは彼女の後ろから姿を現わし、言われた通り、イザナミと向かい合って席に着いた。 「……全く、嫌なことが起こるわ」  イザナミの食べ方は早く、その間に、いくらでも喋《しやべ》ることができる。 「百戯団の虎が死んだんですってねえ」 「らしいね」 「らしいじゃないわよ。楓さんが虎の屍骸を運んだって言うじゃない」 「誰から聞いた?」 「コック長のシャロンさん。シャロンさんは、あの虎は毒殺されたって言ってた」 「違うな」 「違う?」 「シャロンさんは、虎を食いたがって仕方がなかったんだ。無理に断わったものだから、そんな風に受け取ったんだろう」 「虎を食べるだなんて——嫌だ」  その間にも、イザナミはソテーを平らげ、 「あんた、肉、嫌いだったね」  イザナギのソテーも取り上げた。 「百戯団ていえば、そう、雪山さんが、玉葉さんを捜していたっけ。玉葉さんが船から消えてしまったんですってね。殺されてでもいたら、どうしよう」 「真逆《まさか》——」 「それに、権太さんのあれも、あのままなんでしょう」 「さあ……」 「全く、食欲もなくなっちゃうよ」  イザナミの視線は、唄子の前にある皿から離れなくなった。 「よかったら、召し上がってよ」  と、唄子が言った。 「でも……あんた、気の毒で……」  イザナミは最初遠慮していたが、そのうち食欲には勝てなくなってしまったらしい。 「折角だから……」  最後には手を出した。 「台風は戻って来ると言うし……船を降りたくとも、食費と宿泊費が掛かるし」 「亭主の稼ぎは少ないし、か」  イザナギはライスにソースを掛けて食べていた。  イザナミは食後、盛大に煙草の煙を吐き散らしていなくなった。 「瀬川は煙草を吸わない男だった……」  ぼんやりと灰皿を見ていた唄子が言った。  何かにつけて瀬川のことを思い出すのは仕方のないことだろうが、七郎は自分と比較されたような気がした。 「煙草を飲む男は嫌いか」  七郎は吸っていた煙草を灰皿に押し潰《つぶ》した。 「そんな意味で言ってるんじゃないんです」  唄子は元気なく言った。 「先生、また始まった」  と、真は七郎を睨《にら》んだ。 「からむような言葉はよくないわ。唄子さんに較べたら、先生の傷なんて、月並みな傷だと思います」 「月並みな傷か……」  七郎は苦笑した。真の術中に嵌《は》まったようだった。別れてからただ唄子のことだけを思っていたとは言えなくなったのだ。唄子への怨《うら》みは昔のことのように感じられた。 「で、瀬川さんの煙草がどうしたんですか」  と、真は唄子に訊いた。 「煙草を吸わないのに、瀬川はライターを持っていたというんです」 「ライターを?」 「保安官から聞かされました。瀬川の焼けた舞台衣装の胸のポケットから、これも焼けてしまったライターが見付かったんです」 「どんなライターだ?」  と、七郎が訊いた。 「どこにでも売っている、一番安い、使い捨ての赤いライターだったわ」 「それ、見せられたのかね」 「ええ。でも、わたしには見覚えのない品でした。けれど、今、イザナミさんが使っていたライターを見て思い出しました。あれは、権太さんが使っていた物と同じだったわ」 「たんこぶ権太が?」 「でも、同じ品はどこにでもあるでしょうね」  そのとき、七郎の傍で柔らかな弦の音が響いた。いつの間にか、ランペ健治がギターを抱いて立っていた。  健治は真の方に向いて〈華やかな神秘〉を弾き始めた。七郎が奇術を演じるときの曲だった。唄子は目を伏せて、じっと曲に耳を澄ませた。ギターで独奏されると、情感の溢《あふ》れた曲調になった。  健治は曲を静かに終えると、真に言った。 「これからが、君のための曲……」  健治はギターを持ち直した。  明るく軽快で、洒落《しやれ》た面白さのある曲だった。最初ぼんやり聞いていたが、七郎は途中ですっかり感心してしまった。これは、ビリヤードボウルには好適な曲だ。聞いているうちに、真の白い指の動きが見えるようだ。  曲が終わると、七郎は手を叩いた。真は立ち上がり、健治に手を差し伸べた。 「気に入りましたか」  健治は満足そうだった。  曲を中心に、会話が始まったが、七郎は真と健治の対話が頭に焼き付いた。最初に質問したのは真だった。 「……すると、健治さんは、さっきずっと私の部屋の前でギターを弾いていたの?」 「忙しくても、耳だけは空いていると思ってね。聞いていなかった?」 「そう言えば、ずっとギターの音がしていたようだったけれど。ごめんなさいね」 「何、いいんだ。曲が完成して、じっとしていられなかっただけさ」 「そのとき、廊下に誰か来なかった?」 「……誰もいなかったな。僕一人だけだった」 「権太さんの部屋に、誰か出入りしなかった?」 「そんな人間はいない。僕は廊下を往《い》ったり来たりしていたから、それは確かだな」 「……それで、ずっと一人でギターを弾いていたの?」 「そう。曲が終わって部屋に戻ってドアを閉めようとしたとき、君の部屋から楓さんとグラントさんが出て来るのが見えた……」  部屋に戻ると、芥子之助が待っていた。 「何だか、妙なことになったぞ」  と、七郎は言った。 「何です?」  七郎は食堂で健治が話したことを教えた。 「健治はあの間、ずっと廊下でギターを弾いていた。つまり、あのとき、権太を殺した犯人は、権太の部屋に出入りしていなかった。ということは、ぬいぐるみの虎は僕達が戻るまで、ずっとあのままだった。誰も権太と玉葉の屍体を入れ替えたりはしなかったんだ」 「それは、確かでしょうね」  真が答えた。 「わたし、トオトの様子を見に、先生とグラントさんが部屋を出るちょっと前まで、部屋の外でギターの音がしていた記憶があります」 「……すると、屍体を入れ替えることができたのは、大見食肉の運転手しか考えられなくなる」  芥子之助はじっと考えていたが、 「とに角《かく》、今、時間がないんだな。さっきから、親方があんた達の話を聞きたいと言ってるんですよ」 「座長は出航させるので忙しかったわけだね」  ショウボートはすでに岸壁を離れていた。 「まあね」  芥子之助は笑って、 「下の座敷が落着くってね、待ってますよ。真ちゃんもいらっしゃい」  芥子之助は先に押入れの中に入っていった。  芥子之助が隠し戸を開けた。  馬琴は芥子之助が出した座蒲団の上に正座して、じっと目を閉じた。どんな質問にも、正しく答える気だと七郎は思った。七郎は言葉を切った。 「さっき、ちょっと言い掛けましたが、虎の腹の中から屍体で発見された、玉葉さん。今まで気が付きませんでしたが、この名は座長のように〈はまだたまは〉と読むと、回文の名なのですね」 「……そうです」  馬琴は姿勢を崩さずに答えた。 「その、浜田玉葉。それと、今、小部屋に運び入れた、たんこぶ権太はそのまま回文名。更に、舞台で死んだ、ドクター瀬川は、もと瀬川博士といっていたそうで、すると、これも回文名。ところで、僕達が来る前に、外国人の奇術師も殺されているそうですね」 「そのとき、私もその場にいました。レモンが殺されたのは確かです」 「その名をローマ字で書くと、これも回文名でしょう。短期間のうちに、同じウコン号の船内で、四人の人間と虎のトオトが変死し、その全員が回文名を持っていることについて、どう考えますか? 偶然に、回文名を持つ人間が揃《そろ》ってしまった。僕にはそうは思えないのですが……」 「そう考えるのは正しいのですよ。虎は別として、その全員の名付け親が、実は、私だったのです。レモンを除き、その人達はカリフォルニアで一緒でした」  ……唄子は一座で馬琴と一緒だったとき「地獄にいた」という言い方をしていた。玉葉も一座のことになると、話をそらそうとした。一座が解散後、唄子たちはアメリカを漂浪して最後はブラジルへ。権太はイタリアのサーカス団で道化師の修業。玉葉は上海百戯団。全員遠くへ離散し、日本へ帰って来たのは七郎が知る限りでは、馬琴だけだった。これには何か深い理由がなければならない。 「今度の事件では、君達に大変迷惑を掛けてしまった。申し訳なく思っている。私が信用して物を頼めるのは、君達三人だけだったのです」 「すると、四人の死亡は?」 「同じ人間の仕業だと思っています。犯人は誰やら判りません」 「犯人は回文名を持っている人間だけを狙っていますね。この船には、回文名の人が、あと二人います。岡津唄子と、ここにいる森まりもです。真はさっき名を返上しましたが、わずかな間でも回文名を持っていたのです。早く真相をつかまないと、事件は更に大きくなりそうな気がしませんか」  馬琴は目を開けた。 「もう、これ以上、被害者を出してはならない」 「わたしが被害者なんて、まっぴらよ」  と、真が言った。 「そう、私の目の黒いうちは、そんなことはさせません。だが、楓さんの話には、ちょっと違う点がある」 「それは?」 「回文名の人間は二人ではなく、正確には三人いるということです」  七郎は首を傾げた。芥子之助はきょろりとあたりを見回した。 「三人? 一人は岡津唄子。もう一人はここにいる森まりも。あとの一人は誰です?」 「その一人もここにいる。つまり、この私です」 「すると、座長は別に回文名があるわけですか?」 「いや、今使っている芸名、それが回文なんだよ」 「座長の名なら、すっかり調べましたよ。本名も芸名も、回文として成立しているとは思えませんが」 「そう、世間で呼ばれている音《おん》では、回文にはなりません。わしは床間亭馬琴を〈どこまでまこと〉とも読めるようにしておいたのです。まあ、洒落《しやれ》たつもりだったわけです」  七郎は小さく「どこまでまこと」とつぶやき、あっ、と言った。それは完全な回文だった。 「その、芸名を回文にしたというのは、特に理由があるのですか?」 「いや、ただの遊びでした。強《し》いて言えば、若かった癖に〈どこまで真実?〉などと人生を達観したようなポーズを作って気取っていたわけです。けれども、後年、私の座員を片端から回文名に変えたのは、道楽や遊びではなかったのです」 「遊びではなかったとすると?」 「苦境から逃れるため、呪術《じゆじゆつ》としての気持があったのですよ」 「回文がお呪《まじな》いに?」 「昔は、正月の二日の初夢に、吉夢を見るよう、宝船の絵を枕《まくら》の下に敷いて寝るという風習がありました。その絵には〈長き夜〉という、有名な回文歌が添えられていたものです」 「〈長き夜〉……」  真が言った。 「若い人は知らないでしょうね。こうなります。〈長《なが》き夜《よ》の遠《とお》の眠《ねふ》りの皆目覚《みなめざ》め波乗《なみの》り船《ふね》の音《おと》のよきかな〉」  その歌に聞き覚えはあったが、真は目を丸くした。 「それ、本当に回文歌なんですか」 「嘘《うそ》だと思うなら、あとで調べなさい。つまり、昔の人は勝《すぐ》れた回文歌に神秘を思い、魔を除《よ》ける力を感じたのでしょう。困窮のどん底にいると、神にでもすがる気持が起こります。きっかけは確か、権太がいっそ名前でも変えてしまいたいと言いだしたことでした。権太は当時、安田権太という本名で芸をしていましたが、ある姓名判断に凝っている友達から、その名はよくないと言われたことがあったそうです。そのときは全く気にも止めなかったのですが、一度苦しくなるとそのことが気になり始めたのです。たまたま私の一座には、私と岡津唄子という回文名を持っている二人がいた。私の場合は、作為的な名でしたが、唄子は元元回文名。親が付けた名が偶然に回文だったのです。それを考え合わせ、この際、逆境を転換させるきっかけとして、全員の名を回文に変えてみたらどうか、と本気になって考えました」  七郎はその気持がよく判った。自分自身、名を変えたくなったことがある。七郎の周囲にも、かつぎ屋が多い。 「真夏のカリフォルニアの原野。どこまでも続く道を、トラックで何日も揺られながらでしたよ。行く先の期待も持てない。座の全員が絶望的になっていましたから、そんなことでもして、いくらかでも気分を変えさせたい。そうした考えもあったのです」 「それで、全員の名を回文に変えたわけですね」 「一座の座名もです」  と、馬琴は答えた。 「最初に、安田権太はたんこぶ権太。瀬川|力《つとむ》はドクター瀬川。これは、和文にしたとき、瀬川博士と回文名になるわけです。岡津唄子はもともと回文名でしたからそのまま。浜田多津は浜田玉葉。あと、タンポポ本田《ほんだ》に、支配人の新式新二《しんしきしんじ》という二人がいましたが、本田は巡業中に死に、新二は一年ほど前に死亡しました。二人とも身体が丈夫ではありませんでした。新二はあのときの無理が後後まで祟《たた》ったのでしょう。一座の名は〈三猿座《さんえんざ》〉ということになりました」 「見ざる聞かざる言わざるの、あの三猿ですね」 「そうです。三猿座という回文の座名。三猿座の座員も全員が回文名。世界にも類のない一座でしょう。昔の人が回文歌を枕の下に入れて吉夢を願ったと同じ気持で、私達は回文一座にすることで、運の好転を念じたものです」 「なぜ、一座の名まで変えてしまうようなご難になってしまったんですか」 「悪いマネージャーに欺《だま》されたんですよ」  馬琴は淡淡とした調子で言った。 「それまで、私の一座は、せいぜい多いときでも三十人を越えない、小さな劇団でした。主に地方都市の祭礼やタカマチを巡業して廻っていました。すでに旅廻り興行は不況の時代でしたが、私の一座には中心になる時代劇の他に、火焔男の瀬川やサーカスで芸を叩き込まれた玉葉、若手の歌謡ショウなどバラエティに富んでいたせいか、どこへ行っても客の入《い》りはまずまず。地道にやっていれば、困るということもありませんでした。けれども、座長はしていても、旅廻りの芸人は旅廻りの芸人。一方、実家の西川旅館では、オリンピックのホテルブームから、旅行ブームの波に乗って、あれよあれよという間に分店が増え始めました。そうなると妙なもので、親父の方から折れて出て、いい年になって旅廻りでもあるまい。ホテルを一軒委せるからと、再三にわたって人を寄越して来る。そういえば親父はもう先のある年齢じゃあない。私の気持が動いていたときに、ロサンゼルスの興行を持ち込んで来た男があったのです」  馬琴は続けた。 「ビリー野々宮《ののみや》という男で、ロサンゼルス生まれの三世だということです。ビリーはたまたま私の興行を見て、ワンダフルを連発しましたね。カリフォルニアの邦人農園には大勢の一世や二世がいて、皆この一座のような芸を見たがっている。太平洋沿岸を廻っても、一年や二年、どこでも大入りが続くだろうということです。まあ、芸人は芸を見てもらい、喜んでもらえれば、これ以上の幸せはない。とにかく、誉められると、つい無防備になってしまう。私の方にも迷いがなければ、そんなにもビリーを信用することもなかったのでしょうが、よし、ここで一花咲かせ、それを最後の花道として引退しようという気になってしまいました。私にも男の意地というつまらぬものが、多少は残っていたものとみえますな」 「それで、ロサンゼルスへ?」 「そうです。ビリーとの最初の契約は二年間。長くなりますから簡単にしますと、結局、三十人ばかりで一座を組んで、成田《なりた》を発《た》ったわけです。ロサンゼルスのシーメイという劇場で、無事二十日間の興行を終えましたが、その夜、ビリー野々宮は契約金を持って、いなくなってしまったのです。前後の言動から、後になって考えると、ビリーはただ、自分が生まれ故郷のカリフォルニアへ帰りたかった。その手段に私が使われたことが判りましたが、相手の興行主によると、これからの興行予定もまるでない様子。何しろ、英語はビリーだけが頼りでしたから、事態がどうなっているのか知るのにも時間が掛かりました。ホテルの宿泊費を払うと、私達は一|文《もん》無し同然になりました。遠い見知らぬ国で放り出されたわけです。相手の興行主が親切にトラックを賃してくれまして、これに荷物を積んで、農場廻りの旅に立ったのですが、その年は降雨量が異常に少ない年で、どの農場も不作に頭を痛めていました。それでも、最初のうちはどうにか食いつないで行くことはできましたが、サンタバーバラからオクスナード、モントレイト、オークランドと太平洋沿岸の都市を渡り歩き、サンフランシスコに入ると、一座の半数以上が、どうあっても故郷へ帰りたいと言いだしました。無理もない話です。そこで、希望者だけに船賃を分け与えると、私達は元の無一文になってしまいました」  芥子之助は一点を見据《みす》えたままだった。 「サンフランシスコで、唄子が転がり込んで来たのですね」  と、七郎が訊いた。 「唄子さんは太田成明に捨てられたのです。話を聞くと気の毒な身の上でしたからね。まあ、一人や二人、減っても増えても構わないと考えたのです。結局、一座に残ったのは、その唄子とたんこぶ権太、ドクター瀬川、浜田玉葉、支配人となった新式新二に、巡業中死亡したタンポポ本田と私。七人になってしまいました。そこで一座を再構成し、サンフランシスコを振り出しに、又、北へと向かったのです」 「……ノーム レモンはその一座とは関係なかったのですか?」  七郎はこれまで一度も回文名のレモンの名が出て来ないのが心に引っ掛かっていた。 「レモンは全く一座とは関係がなかったのです。ウコン号のバラエティショウで、初めて会った男ですが、ノーム アンジェラバリーと名乗るので、どうも覚えにくい。この国の人が覚え易い名にしませんかと話すと、それでもいいと答えたので、私がレモンという名を考えたわけです。昔の癖が出て、つい回文名になってしまいました。ですから、三猿座にレモンがいたわけではないのです」 「レモンは、その名が回文になっていることを知っていましたか?」 「そのとき、特に教えませんでした。自分で気が付かなければ、知らないと思いますね」  七郎はむずかしい顔をした。レモンが三猿座に関係なく、しかも殺されているとなると、森まりもの真も、矢張り危険だと考えなければならない。 「……新しい思いで旅立ったのですが、その旅は最初から不入り続きでした」  と、馬琴は続けた。 「人数も減ってしまって、売り物の時代劇も殺陣《たて》の入った本格的な芝居はできない。私が月形半平太《つきがたはんぺいた》、唄子が舞妓雛菊《まいこひなぎく》の扮装《ふんそう》で、玉葉の歌に合わせて踊ってお茶を濁す程度。人気が出そうにもないのは覚悟していましたが、それにしてもまるでお客が来ない。人に訊きますと道理で、すぐ前に大きなサーカス団が興行していて、大変な評判だったということです。とても三猿座が対抗できる相手じゃありません。サクラメントからメトフォードへと、私達はそのサーカスの尻を追っていたようで、泣き面に蜂《はち》とはこのことでしょう。そこで旅程を変更して、カリフォルニアの中央部を巡業することになりましたが、運の悪いときは仕方のないもので、タンポポ本田が血を吐いて医者に診せることもならず、一晩で死亡してしまった。近くの教会で遺骸だけは葬ってもらいました。その牧師さんからフェルアという森の奥に、農場を経営している日本人の部落があると教えられまして、フェルアの森を横切ることになったんですが、トラックがどう道を間違えたのか、すっかり森の奥に迷い込んで、三日三晩。最後には水と食料も尽き、車の燃料もわずかになってしまいました」 「唄子が言った、地獄を見て来たというのは、そのときのことだったんですね」  淡淡としていた馬琴の言葉が、そこで曇りを帯びた。 「唄子がそう言っていましたか。……その通りですよ。私達が生き延びる為《ため》には、ああするよりなかった。フェルアの森で、私達は神様を殺してしまったんです」 15 罪《つみ》に満《み》つ  迷い込んだら、三日三晩抜け出せなくなったというフェルアの森。七郎は昼なお暗い樹海の底にいるような気がして、じっと馬琴の話に耳を傾けていた。 「……森に入ってから、四日目の朝でしたか、あたりの道を探りに行った権太が帰って来まして、歩いて二十分ばかりのところに、何台かのキャンピングカーが止まっているのを見付けたと言うのです。テントが張ってあるのも見えたそうで、そこへ行けば、何とか森からは出られるに違いない。愁眉《しゆうび》を開く思いで、誰もこれが悲惨な結果になるとは思いませんでしたよ。森の下草を切り開いて車を進めるうち、なるほど、やっと車が通れるほどの道に行き当たりました。車を走らせると、権太が報告した通りのキャンピングカーやテントが見えました。私達は車から降りて急いでその場所に近付くと……」  馬琴はぐっと息を詰めた。ただならぬ悪夢を思い出しているようだった。 「不思議なことに、車の周囲やテントの中にも、人のいる様子がない。あたりはしんとして、ときおり聞き慣れぬ鳥の声がするばかりです。見ると車の屋根には薄く埃《ほこり》がたまっていて、何日も動かしたことがないようだ。幽霊船は聞いたことがありますが、それに似て、今迄キャンプを張っていた人達が、急に消え失《う》せてしまったような感じで気味悪く思っていると、どこから出て来たのか、私達の前によろめきながら立ち上がった人影がありました。その痩《や》せた男の姿が忘れられません。まだ若い白人の男でしたが、青味を帯びた黒い顔で、髪の毛は抜けて血と膿《うみ》が吹き出している。服も泥にまみれ、息も絶え絶えという状態。助けを求めているのは彼等の方だということがすぐに判りました。外国の生活で、かなり英語が話せるようになっていた新式新二が事情を訊きましたが、そのキャンプはざっと二十人ばかりの集団で、一週間前から得体の判らぬ病気が全員の間で発生し、すでに半数の人間が死亡したというのです」 「全員が発病? なぜ、それを一週間も放置していたのですか」 「最初、私達にも意味が判りませんでしたよ。けれども、キャンプの様子を見ると、それは尋常のものではない。前方に黒い岩がありまして、よく見ると、岩が折り重なった陰に、ぽっかりと穴がありました。その奥が洞穴《ほらあな》になっているようで、どうやら病気だという男はそこから這《は》い出して来たらしい。男は必死で中を見てもらいたいと言っている。最初気味が悪かったが、仕方なく私と権太とで中に入ることになりました。男に案内されて、自然の岩肌を踏んで下に降りて行くと、冷たい空気と一緒に、何とも嫌な、脂でも腐ったような臭いが籠《こも》っているのが判りました。洞穴はすぐ広くなっていて、明りはバッテリーが使われているようですが、ひどく暗い。穴の底には何やら大勢の人がいる気配がします。目が慣れるに従って、中の様子が判ってきましたが、そこには正《まさ》しく地獄の底と言うにふさわしい光景がくり拡げられていました」  馬琴はちょっと言葉を切ったが、すぐ続けて話し始めた。 「洞穴の正面に深い窪《くぼ》みができていて、奥の方に木で作られた棺のような箱が据えられている。その前には黒い布が掛けられた台が設けられていました。その上に、金色をした象の彫物が置いてあると思うと、隣には銀色の花瓶に白い花が盛られている。燭台《しよくだい》には小さな赤い火が動き、見慣れない香炉のような道具からは細い煙が立ち昇っている。その他、血染めの短剣、杯や皿には液体や肉らしいものが見えれば、これは教えられなくとも祭壇に違いなく、外国の宗教のことはよく知らない私でも、何かの神秘教団、秘密結社の儀式が行なわれていたのだということはすぐ判りました」 「秘密結社の儀式で、人を呼べなかったのですね」 「そうです。集まった人達は、病状が悪化して動かなくなっても、それが死だとは信じなかったようです。日が経《た》てば、必ず蘇生《そせい》すると思っていたんですね。ただそれを疑った一人の男が洞穴から抜け出して、私達の助けを求めたのです。祭壇の周囲には、すでに動かなくなった人達が、ごろごろ転がっていました。いずれも肌から血や膿を吹き出して、それが固く変色し、体毛は剥脱《はくだつ》しています。わずかながら息のある人も、起き上がることもできない様子。そのいずれも、男女の区別さえつかぬひどい有様に、私はただ呆然《ぼうぜん》としていました。何やら知れぬ悪疫が、一度に結社を襲ったようです。そこへドクター瀬川もやって来て、そのとき、瀬川があれを見付けたのです」 「あれ、というのは?」 「屍《しかばね》の、一本の指に嵌められていた指輪ですよ。瀬川はそれを見て〈あれはダイヤに違いない〉と、私にささやきました。それを聞いて瀬川の心が判り、再び、ぞっとした気分になりました」 「それを奪おうというのですね」 「瀬川の考えはこうです。〈この人達を病院へ運ぶとしても、近くに病院などあるまいから、最後まで息のある者は多くあるまい。そんな人達に係り合って、逆に病いでも移されては大きな迷惑だ。我我だって、このままでは明日にもどうなるか判らない。一座が助かる道は一つ。この人達が残したガソリンや持ち物を頂戴《ちようだい》し、一刻も早くここを立ち去ることだ〉……」 「座長はその言葉に従ったのですか」 「今考えると、そのときの心理状態がよく判らない。森の中での彷徨《ほうこう》が続いたため、ただ助かりたい一心で、目先のことしか見えなくなっていたのでしょうね。眼前に宝石やガソリンがある。これにすがり付きたくなったのは瀬川だけではありませんでした。たんこぶ権太や新式新二が私の前に立ちはだかり、もし反対でもしようものなら、まず私から血祭りに上げてしまおうといった空気になっている。最後には、私もそれに従う覚悟を決めてしまいました」 「まだ、息のある人の前で?」 「薬を与えたのですよ。そう提案したのは瀬川でした。瀬川はどこで手に入れていたのか、麻薬を持っていました。それを多量に投与すれば、病いで弱くなっている人なら、すぐショックで死ぬだろうというわけです。話が決まれば早い方がいい。私達は早速瀬川を医者として扱うことにしました。私達を洞穴に案内した男に新二がそれを話して信用させる。瀬川がもっともらしく、男の口腔《こうこう》や眸《ひとみ》を見て、ぐずぐずすると手遅れになる、ただちに応急手当てとして、強心剤と頓服《とんぷく》を服用しなければならない。病院に連絡するのはそれからだと言って、男達で手分けをし、生き残りの者に片端から麻薬を飲ませてゆきました」 「……全員にですか?」 「勿論《もちろん》、一人でも残すようなことがあってはなりませんでした。薬の効果というのは恐ろしいものですね。しばらくすると、幻覚が起きたようで、寝たままの人が急に起き上がる。何やら声を立てて踊ったり駈け廻ったりした後、ばたりと倒れてそのまま。中には洞穴から外に飛び出した者がいて、外にいた玉葉などは腰を抜かしました。女性だったから無理はない。何しろ半分屍骸になっている人間が踊り出したのですから……」  真はそっと居住いを直した。さすがに恐ろしくなったのだ。芥子之助はさっきから身じろぎもしない。 「しかし、どうしても息の続いていた二人ばかりの男は、瀬川と権太が手を加えてやったのです。それが終わると、それぞれ身に着けている装身具を奪い、服のポケットを探り、最後にはキャンピングカーやテントの中を物色しました。ほとんどが裕福な人達ばかりとみえて、かなりの現金も集まったのです。それ等をまとめてトラックに積み込む。キャンピングカーからガソリンを抜いて一座のトラックに満たし、後をも見ず森を抜け出してしまいました」 「巡業の方は?」 「勿論、巡業などしている閑はありません。そのままサクラメントからロサンゼルスに戻りました。ホテルの部屋で独りだけになったとき、初めて生きていたのだという思いが胸に迫ってきたものです」 「フェルアの森でのことは、表には出さなかったのですか?」 「いや、事件は三日後に発見されて、大騒ぎになりましたよ。テレビは特集を組むし、新聞は毎日のように第一面で事件を報道していました。新二は会話ができるし、瀬川は喋《しやべ》るのは下手でしたが字は読めます。それで、私にも精《くわ》しい事情が判ったわけですが、発見したのは森林の調査で森に入った役人達でした。最初は秘密結社の集団食中毒ないしは疫病だということでしたが、その中に他殺体も混って発見されてから、事が大きくなったのです。警察の調べでは、その集団はナナバム エローグという教祖を中心とする象の会という宗教団体で、全員がシエラレオネ系のウイルスに感染していました。ただし、その教祖の屍体は発見されませんでした。つまり、教祖は行方不明だというのです。警察では事件の鍵を握る男として、必死でその行方を追っていたようです」 「とすると、三猿座の手から、逃げ出した者がいたわけですか」 「いや、あのとき、逃げた者は誰もいませんでした。洞穴で私達が確認した屍体の数は二十二。警察の発表も二十二。私達にはどれが教祖でどれが宗徒かの見分けは付きませんでしたが、屍体の数はぴったり。つまり、あのとき、最初から洞穴の中にはエローグという教祖はいなかったのです」 「象の会全員発病の責任追及を恐れ、逃げてしまったのでしょうか」 「最終的に、警察もそのような見方をとったようです。結局、私達は何の手掛かりも残さなかったので、覚醒《かくせい》剤を用いる秘密結社の儀式、一種のサバトが行なわれていたとき、何かの理由でウイルスが拡がってしまい、病院へ行くこともならない集団が極限状態に陥り、異常な精神のもとに、互いに殺し合ったのではないかという推論に傾いていったようです。警察はあくまでエローグを追うと言っていましたがね」 「その教祖もとうとう発見されなかったのですね」 「後のことはよく判りません。私達は教祖の発見されるのを待ってなどいられなかったからです。すぐカリフォルニアから離れなければなりませんでした。ある夜、ホテルの一室に全員が集まり、フェルアの森から奪って来た現金と宝石類を山分けにして、一座を解散してしまいました。そのとき集まった座員達は固い誓約を交わしたものです。フェルアの森でのことは、三猿座の名の通り、見ざる言わざる聞かざる、なかったことにして、これから互いに顔を合わせても、なるべく相手を避けることにしよう。そして、たんこぶ権太はロサンゼルスで興行していた小さなサーカス団へ。瀬川と唄子は独自の芸を持っていましたから、二人で南米の方面へ。玉葉は芸を見込まれて上海《シヤンハイ》百戯団へ。私と新二はロサンゼルスに停泊していた右近丸に頼み込み、船艙《せんそう》の一部に寝泊まりしながら、帰国の途につきました」 「一座は解散するとき、これからはなるべく相手を避けるように約束したと言いましたね?」  七郎は念を押した。 「そうです」 「では、その人達がなぜウコン号で再び顔を合わせることになったのですか。同窓会でも始める気ではないんでしょう」 「無論、同窓会などするわけはありません。まだ、話し足らないところがあります。それは帰国してからのことですが、私は以来、一座を作り直す気にもならなくなって、親父のところへ戻りました。それを待っていたように親父が死に、ホテルの経営は私の手に移りました。親父の布石があって、まあ、伸びる下地はあったのですが、私は私なりのやり方で、つまり、人の嫌がる賭博場を積極的に提供したのもその一つでしたが、それなりに成功したと思っています。フェルアの森でのことも忘れはしませんでしたが、五年も前のことになりますから、悪夢のように現実感がなくなっています。ホテルの仕事も忙しく、思い出す度数も減っているとき、三猿座の一人から連絡がありました。新式新二でしたよ」 「支配人をしていた男ですね」 「電話は病院からで、ぜひ会いたいと言うんです。私はびっくりして、解散のときの約束を忘れたのかと叱《しか》ってやりますと、それはよく判っている。だが、自分は癌《がん》に取り付かれていて、明日にも生命が判らない。息のあるうち座長に言い残して置きたいことがある。それは電話では言えないことで、ぜひ病院へ来て欲しい。声の調子で新二は弱っていながら必死だということが判りましたから、私は見舞いのつもりで病院へ出掛けて行きました」 「金の無心ですか」 「私も最初そう思いましたが、違っていました。新二は意外にも高級な病室を占領していたのです。けれども身体はすっかり窶《やつ》れ果て、顔などは別人に見えたほどで、なるほど当人の言う通り、長生きができそうにもないと思いました。新二は私の顔を見ると、傍にいた付き添いの者を部屋から出しまして、色色喋りたい様子でしたが、その力もなくなって、ただ要点だけを言います。それによると、ロサンゼルスで新二が受け取った宝石は、帰ってから売りに出すと、莫大《ばくだい》な値がついた。それを資本にして飲食店を経営すると、これが又大当たり。今では全く食うに困らなくなったが、あのとき、新二はどさくさにまぎれ、私達には秘密で、象の会から飛んでもない物を持ち出したと告白するのです」 「飛んでもない物?」 「洞穴の祭壇にあった、黄金の神像です」 「黄金の神像……」 「新二は若い頃、宝石商にいたことがあり、素人《しろうと》より宝石を見る目があったと白状しましたよ。ですから、分け前のとき、一番良さそうな石を手にすることができたのです。その彫像は私も見ているはずですが確かな記憶はありません。新二の話ですと、三十センチもある黄金の像で、女神が象を組み敷いている彫刻だと言います。確かな推定はできませんが、インドのパーラ王朝期の密教の特徴が見られるそうです」 「パーラ王朝……」  芥子之助が唸《うな》った。 「西暦八世紀から十三世紀にかけての時代です。神像には数多くの貴石が象嵌《ぞうがん》されていて、黄金と石の時価はもとより、美術品としての骨董《こつとう》的な価値は、恐らく想像も付かないと。少なくとも、七百年以上前に作られた品だと、新二は太鼓判を押すのです」 「病いで気が変になっているんじゃありませんか」  七郎はあまり大きくなり過ぎる話に、警戒心すら起こった。 「私も同じでしたよ。最初のうち、新二を信用することができませんでした。それで、その実物はどこにあるんだと訊きました。実物さえ見れば、話の真偽は判ります」 「新二はそれを持っていたんですか?」 「持っていれば、あなたなど呼んで話を聞かせることはないのだ、と新二は言います。つまり、新二はロサンゼルスで、右近丸に神像を持ち込むことは持ち込んだわけです。ところが、日本の税関は厳しい。うかつにそんな物を持ち出せない。新二は策に窮して、私達のいない隙《すき》を見て、神像を船艙の羽目板を剥《は》がし、その奥に押し込んだというのです。無論、後で取り戻すつもりでも右近丸は定期便ですから、すぐ海上に出てしまう。神像を積んだまま、右近丸は横浜とロサンゼルスの間を行ったり来たりしていたのです。新二が神像を取り戻す機会のないうち、右近丸は改造され、日本沿岸の輸送船となりましたが、改造工事は船艙にまでは及ばなかったとみえて、黄金の像が発見されたという報道はありませんでした。そこへ、今度の話です」 「右近丸が生命を終え、スクラップにされるという話ですね」 「そのために新二は私を呼んだというのです。スクラップになる船なら、丸丸買ったとしても、神像も手に入るものなら、これは大|儲《もう》けだ。新二はそう言って、神像の隠し場所を、精しく教えてくれました」  七郎は思わず息を呑んだ。 「すると、座長が、右近丸を買い込んだということは……」 「そうです。その神像を見付けたからなのです。私は右近丸の船主に、この船をショウボートに改造したいという話をして、調査のため右近丸に乗り込み、あちこち見るふりをして、新二の言う船艙から、その神像を発見しました。私は神像ぐるみ、右近丸を買い取ることに成功しました」 「うーん」  暗がりにいる馬琴に、一段と複雑な大きさを感じた。馬琴が右近丸を買い込んだ本当の目的は、ショウボートに劇場を作って座長に納まることではなく、勿論、右近丸への感傷のためなどではなかったのだ。 「そして、その神像は、今、どこにあるのですか」  七郎はその実物を見なければ納得《なつとく》できなくなった。 「いつでも手の届くところに置いておかなければなりません。ですから、神像はこの座敷にあります」  七郎は部屋を見廻したが、それらしい置物はなかった。 「床の間の額——避難口のドアに掛かっているのがそれです」  七郎は床の間を見た。不恰好《ぶかつこう》だと思っていた象の額があった。 「でも……あれは」 「趣味の悪い額だと思わせるところに、苦心しましたよ」  馬琴は立って、額に手を掛けた。ガラスが手前に動いた。馬琴はその中に手を入れると、金色の塊りを引き出した。今まで七郎が見ていたのは、神像の一部に過ぎなかったことが判った。  馬琴は神像を抱えて座に戻り、ずしりと畳の上に置いた。 「こりゃ、凄《すげ》え代物《しろもの》だ」  芥子之助が神像に顔を寄せた。  象が奇妙に変形されていると思ったのは、女神が組み伏せているからだということが判った。だが、全体を見渡したとき、怪異な印象は更に強められた。  象にまたがった女神は妖《あや》しく濃艶《のうえん》である。目は大きく、豊かな頬《ほお》で唇が厚い。裸の上体には丸い乳房が盛り上がっている。腰には細い腰飾りを着けているが、ほとんど全裸の身体は嬌態《きようたい》に近い姿だ。組み敷かれた象の顔が人に近く、目を細めている表情が何とも言えぬグロテスクな感じを与える。肉感的な女神と無気味な象の合体は、強烈な太陽を恐れる洞窟《どうくつ》にあるとき、いや増して妖気《ようき》を漂わせていたに違いない。  神像の宝冠、首飾り、臂釧《うでわ》、腕釧《うでわ》、腰飾りには、さまざまに輝く石が象嵌されている。中でも左肩から掛けられている神線は、無数に光る石の列だった。 「どうです」  と、馬琴は短く訊いた。七郎はしばらく声も出せなかった。うーんと言う芥子之助の声が聞こえる。  彫刻は精巧な技術と、気の遠くなるような手間が掛けられたに違いない。観察するにつれて、永遠とも思える時間の中を往来するような気持になっていった。七郎はしばらく神像から目を離すことができなかった。 「新二は私が神像を手に入れるのを待たずに死んでしまいました。さて、神像の発見に成功したからといって、買ってしまった右近丸を放置することはできません。私は企画した通り、右近丸をショウボートに改造する事業を進めましたが、そんなとき、私は一通の手紙を受け取ったのです」 「それは?」 「ただの脅迫状でしたよ」  馬琴の口調は、以前の淡淡とした調子に戻っていた。 「脅迫状ですから、差出人の名前は判りません。どうやら、新式新二は私の他誰かに、神像の秘密を洩《も》らしたに違いない。脅迫状にはエローグの神像を渡せ、さもないと、フェルアの森の真相を警察に知らせる、とありました。工夫に乏しい文面でね」 「それは、三猿座の座員だった一人……」 「そうです。フェルアの森の事件は、三猿座にいた者以外には知るわけがありません。でも、私は動かずに、じっと様子だけを見ることにしましたよ。もし、相手が三猿座にいた人間なら、その相手も同じ罪になる。軽軽しく警察に知らせることなどできっこありません」 「そりゃそうです」 「案の定、相手は慎重でした。脅迫状はその後、何回か来ましたが、どれも雑誌や新聞などの仮名文字を切り抜いたお定まりのもので、文面をよく読むと、警察|云云《うんぬん》は単なる脅《おど》し文句だということが判りました。相手は三猿座の一員だったことは疑う余地もなく、その確信を持ったので、私は反撃に出たのです。つまり、三猿座にいた全員をバラエティショウの出演という名目で、ショウボートに集める。私はその人達の動きを追い、脅迫者を押えてしまう。私にはその自信がありました」  芥子之助は大きくうなずいた。 「もし、その相手が出演の依頼を断わったら?」  と、七郎が訊いた。 「私はまずその人間を最初に疑うでしょうね。まあ、脅迫をするような人間ですから、きっとその手に乗って来ると思ったのです。私は色色に手を廻して、三猿座の座員がどこにいるか探しました。その結果、浜田玉葉のいる上海百戯団が日本公演に来ていることを知りました。また、たまたま、たんこぶ権太も帰国中でした。私はすぐ百戯団と権太に連絡し、ショウボートが完成次第、出演してほしいと依頼し、了解を取りました。すると、そこへドクター瀬川から手紙で、ブラジルで苦境にあるという。ブラジルにいるといっても油断はできません。私はすぐショウボートに出演するように、返事を出しました。こうして、三猿座の生き残りが、再び一つに集まったわけです」  七郎は唄子の言った「地獄を見た」という意味が、やっと理解できた。それをやって退《の》けた馬琴である。自分に都合の悪い屍体《したい》を片端から始末してしまうぐらいの度胸は、元から具《そな》わっているのだ。 「それで、脅迫者は判ったのですか?」 「すぐ判りました。自分から名乗って出たのですよ。脅迫者はたんこぶ権太でした」 「権太か……」 「私の思った通り、新式新二が洩らしていたのです。取り引きはあっ気なく済んだと思って下さい。私としては大して痛手にはならぬ金額を渡すことで権太が了解したのです。ところが、権太にその金を渡すことになっていた昨夜、本人の権太は殺されてしまった……」 「すると、今度の連続事件をどう思いますか。ノーム レモンが殺され、たんこぶ権太、ドクター瀬川、浜田玉葉と、次次殺されていった事件は。矢張り、犯人はその脅迫者と関係のある人間でしょうか」 「だとすると、全くその理由が判りません。犯人は、私だけを脅迫すればいいわけですからね。もっとも、全く脅迫者と事件が関係ないとは思えませんが、私はもっと恐ろしいことを考えているのです」 「もっと恐ろしいこと?」  いつも饒舌《じようぜつ》な芥子之助も、じっと全神経を耳に集めているようだ。事件の奥は想像も付かぬほど深そうだ。 「私にはフェルアの森で全滅した秘密結社象の会の教祖、ナナバム エローグという男が、このショウボートに姿を現わしたような気がするのです」 「失踪《しつそう》してしまった、教祖が?」 「当時のある新聞に出ていた記事によりますと、ナナバム エローグは一種の超能力者で、その以前にもさまざまな超能力現象を現わしたことがあるようです。彼が得意だったのは、蘇生《そせい》の術。つまり、エローグは一度生命を絶った後で、何日か後に、息を吹き返してみせる。この術を行なっては、信者を獲得していたそうです」 「このショウボートに現われたというと?」 「その超能力者の名は、ノーム レモン——」 「しかし、それは——」 「彼の本名はノーム アンジェラバリー。よろしいですか」  馬琴はポケットを探って、白い紙片を取り出した。それには何やらローマ字が書いてあった。 「つまり、NOME ANGERAVARYを|綴り替え《アナグラム》ると、NANAVAM YERROGEという名を作ることができるのです……」 16 どこまで真実《まこと》  船が揺れている。少し前、ショウボートは岸壁を離れたのだ。  部屋のどこを見ても花ばかりだ。酒も飲み切れないほどある。  だが、ぼんやりしていられない気分だ。といって、とりあえず何をしていいかも判らない。問題は頭を使うことだぐらいは承知しているが、ここしばらく、そうしたことで頭を使ったことがない。  どこから迷い込んだのか、蠅《はえ》が一匹、電灯の周りを気が狂ったように飛んでいる。七郎は蠅を目で追っているうち、苛苛《いらいら》してきた。 「……馬琴の話である点は非常にはっきりしてきた」 「そうですね」  真がぽつんと答えた。元気のない声だったが、七郎は自分の考えに夢中だった。 「これまでの被害者は、全部回文名を持っている人間。それだけ考えると、実に奇妙な連続殺人だと思ったが、実はその被害者たちは、昔、馬琴が率いる三猿座の座員達で、カリフォルニアを巡業中、疫病のため全滅寸前の秘密教団の息を止めるという、異常な罪を犯していた。その教祖だけは長らえていて、自分の教団を全滅させ、黄金の神像を奪った人間が三猿座の連中だということを突き止め、その復讐《ふくしゆう》のためウコン号に乗り込んで、次次とその目的を達成させているのだ。こう考えると、犯人の動機も綺麗《きれい》に説明することができる」 「そうですね」 「しかし、ここで判らなくなってしまう。秘密教団の教祖ナナバム エローグと綴り替えの名を持つ、ノーム アンジェラバリーこと、ノーム レモンは、事件の真っ先に殺されてしまった。そのノーム レモンも回文名を持つ。となると、推理は又、逆戻りだ。最初に戻り、犯人は何の理由で回文名の人間を殺してゆくか、考え直さなければならなくなった」  真は返事もしなくなった。 「馬琴にはっきりと言った方がよかったんじゃないか。君の母親のことも——」 「そんなこと考えていたんじゃありません」  真は自重するような調子で、ゆっくりと言った。 「前に雑誌で読んだ、蘇生術のことを思い出していたんです」 「蘇生術?」 「そうなんです。あれは確か〈シークレット〉のインドの奇跡特集号だったと思います」〈シークレット〉というのは、季刊の奇術専門誌だ。発行部数は少ないが、熱心な愛読者がいるようだ。一度見たことはあったが、月並みな職業奇術家が片端から厳しくやっつけられていて、いい感じはしなかった。 「その特集の中に、枯れた草木や、死んだ動物を生き返らせる術が載っていました。動物の息を止め、それを蘇生させたり、人間が地中に何日も埋められていて、生きて出て来る、といった術です」  真は続けた。 「例えば、インドのラホールというところでは、ハリダスというヨガの行者が、仮死状態で生き埋めにされたまま、四十日も地中にいて、掘り出されたときは、ちゃんと生きていたそうです」 「仮死状態というと、呼吸も心臓も止まっていたのかね」 「昔のことですから、ちゃんとした医師が立ち会ったわけじゃないでしょうね」 「どんな術を使うんだろう」 「小鳥や小さな動物では、動物催眠術などが使われているようですね」 「動物催眠術なら知っている。鶏の両眼を押え、あおのけにすると、動かなくなるといった術だ。それを用いた、蘇生術だと言うんだね」 「記録にある一番古いところでは、古代エジプトの魔術師が演じたという、アヒルの首を切り取って、再び両方をつぎ合わせて、蘇生させる術」 「例の、アヒルの首を翼の下に突っ込んで、首を切った振りをしてから、替え玉の首を示す奴だな」 「人間の首切りや胴切りも一種の蘇生術なんでしょうね。インドでは生き埋めの術がヨガの行者の間でよく行なわれていたらしいんですが、その多くは、抜け穴が使われていたといいます」 「抜け穴、ね」 「その典型的な一例が〈シークレット〉に紹介されていました。スラートという地方で実際に行なわれたそうなんですが、その行者《ヨギ》は〈星の体〉を持っているという触れ込みで、丸三十日地中にありながら、二〇〇マイル離れた場所に出現することができるというんです。その行者の一行は抜け穴を使っていたことが判り、出入口から出て来るところを、警察に逮捕されてしまったそうです」 「なるほど」 「もう一つ。これはインドでヨガの修業を積んだという、白人の話ですが、彼は大きな象で蘇生術を行なったといいます。その記事を書いた研究家の分析では、どうやら薬物も使われていた可能性があるんですって。その白人は生き埋めの術も行なったとありますが、この人の場合、ただ土の中に埋められたのではない。左|脇腹《わきばら》に剣を突き立てて死に、その上で埋められてから、二週間後に掘り起こしてみると、ちゃんと生き返っていて、最初の傷も痕跡《こんせき》もなく治っていたそうです」 「それはいつの話だ?」 「……わたしの記憶では五年ぐらい前の〈シークレット〉ですから、約十年前、インドで起こった、実録です」 「ちょっと信じられない話だが、十年前というと、昔昔の伝説でもないようだな」 「その白人の名もちゃんと記されていました。最初聞いたとき、どこか記憶にある名だと思ったんですが、間違いありません。その名はナナバム エローグ。珍しい名ですから、ずっと覚えていたんです」  七郎はびっくりした。 「ナナバム エローグといえば、馬琴の一座がフェルアの森で皆殺しにした教団、象の会の教祖じゃないか」 「変わった名ですから、同一人物に違いないと思います」 「馬琴はナナバム エローグを綴り替えると、ノーム レモンの本名、ノーム アンジェラバリーになると言った……」 「インドで不思議な術を行なった白人と同じ人です」 「勿論《もちろん》、綴り替えが成立するからには、同一人間には違いないと思うが……」 「わたしが今考えていることを言っていいですか?」  と、真が言った。 「おう、聞かせてくれ」  どうも、師匠として貫禄《かんろく》のない言葉だが、技術、研究、ともに真の方が上手《うわて》のようだから仕方がない。 「ナナバム エローグという人は、一種の山師だと思うんです。白人の間で産まれましたが、インドに渡って、色色な術を身に着ける。その一方、科学的なトリックを使って、現地の人達を驚かせていたのでしょう。象の蘇生術や、生き埋めの行《ぎよう》を行なっているのがそれです。その後、カリフォルニアに渡り、そこで宗数的な秘密結社を作ります。人を信用させるには、まず奇跡を行なって見せることが必要ですから、エローグはインドで覚えた術を応用したと思います。座長の三猿座がフェルアの森で遭遇したときの様子を聞くと、生き埋め蘇生の術を行なっていた最中だったという気がします」 「そうだ。儀式は洞穴の中だった。馬琴は祭壇の奥には棺のような箱が置いてあったと言っていた……」 「その中に、エローグの屍体が入っていたのですよ。息を止めてしまったその屍体は、しかし、二週間後には復活する……」 「エローグは、脇腹に剣を突き立てて、死んで?」 「そう思います。祭壇には血染めの剣が置いてあったそうですよ。けれども、棺の底には抜け穴があって、本人のエローグはちゃんとした場所で寝起きし、食物も充分に取っていたに違いありません」 「……すると、エローグの知らない間に、象の会は全滅してしまった?」 「そのところはよく判りません。全く他の場所にいて、後から事件を知ったか。或《ある》いは、まだ棺の中にいたが、自分も発病していて、身動きできない状態だったか」 「いずれにしろ、その責任を逃れるため、最後まで警察に出頭しなかった」 「結局、エローグは自分がそれまで築き上げたものを、何もかも失ってしまったのですよ。死んだ信者の中には、自分の家族がいたかも知れません」 「家族が……」 「〈シークレット〉にはエローグの妻と、一人息子の写真も載っていましたから。もっとも、何かの術を演じているところで、写真からは顔形はほとんど判りませんでしたが」 「とすれば、生き埋めの蘇生術には、必ず協力者が必要だ。フェルアの森には必ず家族もいたに違いない」 「教団に疫病が蔓延《まんえん》したとき、それでもまだ助かる望みがないわけではありませんでした。ところが、それを完全に踏みにじって破滅させ、その上、神像まで持ち去った一団がいたのです。エローグが事件の後、姿を消してしまったのは、その責任を逃れるという意味もあったのでしょうが、最大の理由は、自分の手で、その復讐《ふくしゆう》を決意したからに違いありません」 「ナナバム エローグの復讐……」  自分の教団が全滅、その中には家族がいた可能性も大きい。神像も持ち去られ、自分は陰に潜伏しなければならない身になった。その復讐がどんなものか、七郎にはちょっと想像も付かなかった。 「エローグはその報復のため、奇術師のノーム アンジェラバリーとなって、このショウボートに乗り込んで来たのか」 「そうです。象の会を亡ぼしたのが馬琴の三猿座と判るまで、相当に苦労したでしょうね。何しろ、あの事件から五、六年も経っていますもの」 「だが、そのレモンは、ウコン号に乗船したその日、殺されてしまった。レモンがエローグだということを知り、誰かが復讐されるのを恐れて、先に殺したというわけか」 「いいえ。わたしはそうは思いません」 「じゃあ、なぜレモンは殺されたんだ?」 「レモンさんは殺されてはいないと思います。よく考えると、剣を脇腹に突き立てた状態は、エローグが得意にしていた、生き埋め蘇生の術によく似ているじゃありませんか」 「すると——レモンは復讐の幕開きとして、自らが生を止める、あの儀式を行なったというのか」 「レモンさんが殺されたときの様子はイザナミさんが教えてくれましたね。そのとき、レモンさんはこの部屋を使っていて、レモンさんが剣を腹に突き立てて部屋から出て来たのを見て、イザナミさんはドアの前で腰を抜かしてしまったと言います。イザナミさんはそのまま部屋の前を動くことができませんでした。後で座長達が部屋を調べたのですが、部屋の中には誰もいませんでした。それで、イザナミさんは犯人は幽霊みたいに消えてしまったと信じているわけですが」 「この部屋には、賭博《とばく》室に抜けられる隠し戸があった」 「でも、そのとき、賭博室には、事務長の小庭靖子や西川徹矢達がいて、誰も犯人らしい姿を見ていませんでした。従って、犯人はこの部屋に抜け道はあったとしても、そこを利用しなかったわけで、結局、この部屋から消えてしまったというイザナミさんの考えに戻るわけです」 「犯人を幽霊だと信じているのは、イザナミだけだろう」 「そうですね。犯人は消えてしまったわけじゃない。といって、逃げもしなかった、となると、犯人は最初からこの部屋にいなかったと考えるのが一番自然でしょう」 「レモンが、自分で自分の腹に剣を突き立てたというのだね」 「それが復讐の序幕にふさわしい。三猿座にいた全員に報復するとなると、まだ、何人もの人間に危害を加えなければなりません。それを達成するためには、最初、自分が殺されてしまうのが一番良いという発想です。自分が最初の被害者になりさえすれば、これから起こる連続殺人事件で容疑者にされることもない。殺人の動機も謎《なぞ》になってしまうでしょう。レモンさんは死亡という、最上級のアリバイを持つことになるのですから」 「それはそうだ。最初に死んでしまった者など、誰も疑うまい。その理屈だと、レモンは腹を刺してから、デッキに出て、海に落ちたという。海に落ちてから、蘇生したことになるぞ」 「蘇生したレモンは船に戻り、どこかにいて、次次と復讐を開始したのです」 「だが、レモンはどうやって蘇生したんだ。脇腹に刺された剣は完全に体内を貫通していて、反対側から出た切っ先が、廊下の壁に当たったという。その傷はまだ残っているはずだ。真逆、奇術材料店で売っているような、中央が半月形になっている剣や、刃がバネ仕掛けで柄の中に引っ込んでしまうような剣を使ったわけじゃあるまい」 「レモンさんはデッキに出て、脇腹に通っている剣を自分の手で引き抜いたといいますね。その瞬間、血が吹き出して……」 「血は雨で流れてしまった。それが計算だとすると、血は偽物《にせもの》でいいわけだが、引き抜いた剣はそのまま目撃者の前に放り出されたんだ。ヨガの行者が、腕に丸い針を突き立てるのは見たことがある。だが、両刃の剣を腹に突き立てる術は聞いたことがない。真はあるか?」 「実は、わたしもないんです。レモンさんが復讐の初頭に、自分を殺してしまうという振り出しは、大変素晴らしいと思ったんですけれど、レモンさんがどうやって蘇生したかということが判りません」 「最後の詰めが足りないな。待てよ。エローグの術は〈シークレット〉に紹介されていた。その記事の種本となった原著を見れば、エローグの術が判るかも知れない」 「わたしもそう思っているところです」 「その記事を書いた筆者を覚えているか?」 「あまり有名でない研究家でした。……確か、山路《やまじ》何とかという名だったと思います。家に行けば本があるんですが」 「気が付くのが少し遅かったな。船は海に出てしまった……」 「台風が過ぎれば、すぐ船は桟橋に戻るでしょう。そうしたら、すぐ家に行きます」 「それまで、何事もなければいいが。……筆者の名前だけでも思い出せないか」 「……山路、という姓だけは確かなんですが。……思い出せませんわ」  そのとき、聞き覚えのある声がした。 「忘れちゃいけねえ。それは、山路龍之助という名でしょうが」  隠し戸から、芥子之助が姿を現わした。 「そうだったわ。山路龍之助——」  と、真が言った。 「すると、君がその記事を?」  七郎は改めて芥子之助の顔を見た。 「おっしゃる通り、あんまり有名じゃありませんが、怪しげな術の研究が大好きでね、これでもたまさか、原稿の依頼もありやす」 17 まさか逆《さか》さま 「すると、その記事の原著は?」  芥子之助は椅子の上に這《は》い上がって、あぐらをかいた。 「テンレス キングという雑誌記者が書いた〈インド黒魔術〉てのが種本です。ハードカバーで三五〇ページ、ウォークマン社からの出版で、値段は一二ドル五〇セント——」 「本の体裁など、どうでもいい」  七郎は早く先が聞きたかった。 「そのキングという男は、好奇心の塊りみたいな冒険家でしてね、不思議な術や行をする者がいると聞くと、目の色を変えて飛んで行く。読んで行くと、キングは多少能天気なところはあるが、なかなかの行動家で、相当に変わった体験旅行記になっていますよ」 「そのキングは、実際にインドでエローグと会っているんだね」 「そう、その生き埋め術にも立ち会っています。ただ、相手が同じ白人だったのが、ちょっと不満だったらしい。そのせいか、その部分は分量も少なく、軽く扱われていました。エローグの術は、あたし達研究家が見ると、ずいぶん面白いと思うんですがねえ」 「エローグはどんなトリックを使っていたか、それが知りたいんだ」 「残念ながら、トリックについては触れていませんでしたよ。無論、エローグは種明かしなどしなかったでしょう。今言った通り、キングは行動派の記者でね、惜しいことに奇術やトリックには全くの素人《しろうと》なんだな。だから、読んでみるとキングの欺《だま》され方がようく判ってね、その点じゃあたしなんか、凄《すご》く面白かった」 「……すると、エローグの蘇生術というのは、ついに判らないのか」 「そんなこと、ありません」  芥子之助はあっさり否定した。 「じゃ……別の本にでもそれが載っているのか」 「いや、エローグは誰にも蘇生術のトリックは教えなかったでしょう。自分がその術で教祖になる気でしたから」 「じゃ、どうして蘇生術が判る?」 「キングの書いた物を読めば、すぐ判ります。トリックには無学でも、見たことを書く点じゃ、正確ですから」 「すると、君はその記事を読んだだけで、エローグの蘇生術を見破ったのか?」 「まあね、原理は簡単なんです。ただ、ちょっと妙なトリックを使います」 「それは、どんなトリックだ」 「奇術師の楓さんが判らねえというのが不思議なぐらいだ」  芥子之助はにやっと笑った。 「今、聞いてましたよ。いい線までいってたじゃありませんか。奇術材料店で売っているような、中央が半月形に曲がっている剣を使う、と。素人にはなかなかそこまでも思い付くもんじゃありません」 「だが……剣は本物だった」 「そう、剣は本物の両刃の剣でした。だから、あべこべに考えりゃいい。剣が真っすぐなら、身体の方が曲がっていりゃいい、とね」 「身体が曲がる?」 「腹の部分を半月形に曲げて、その間に真っすぐな剣を通してやれば、身体に傷は付かねえ道理だ」 「腹を引っ込ますのか?」 「引っ込ますんじゃいけません。曲げるんです。脇腹に穴が開くみたいに」 「そんなこと、できるわけがない」 「できますね」  芥子之助の言葉に迷いはない。 「人間は訓練で、普通なら動かすことのできない不随意筋でも、動かせるようになるもんです。腹の筋肉も訓練でね、自分の意志で自由に動かすことができる。腹の半分ほどを、背中の方へ廻して見せるのを得意にしていた、インド人のヨガの行者を知っていますよ」 「それだわ」  真が叫んだ。 「わたし、写真でなら、見たことがあるんです。正面から見ると、まるでお腹の片側が消えてしまったような形だったわ。そのお腹の筋肉はどこへ行ったかというと、芥子之助さんが言った通り、横からの写真では、背中の下の方に、ラクダの瘤《こぶ》みたいに移動しているんです……」 「エローグは、その術を蘇生術に応用してたんですね」  と、芥子之助が説明した。 「レモンが腹に剣を突き立てて部屋から出て来たとき、裸だったわけじゃねえんでしょう」 「部屋着を着ていた、と聞いた……」 「剣は部屋着の上から腹に刺し込まれていた。そら、ねえ。その部屋着の下が見物だったわけだ。レモンの腹の半分がなくなっていて、その空間にぼろ布みたいな物が詰め込まれていて、そのぼろ布と腹の間に、剣が貫通していた、こうだったんでしょう」 「……証拠はあるのか?」 「ちゃんと、あります」  芥子之助は動じなかった。 「レモンの部屋着の帯はどうなっていたでしょうね」  七郎はイザナミの言葉を思い出した。 「黒い部屋着で、同色の紐《ひも》が小さな花結びに結ばれていた……」 「それ、ごらんなさい。小さな花結びでしょう。ところで、楓さん、レモンの部屋着の帯を覚えていますね。帯の長さは、余程短かったですか」 「いや……普通の長さだった。一メートル半ぐらいかな」 「で、レモンの身体は? 腹が出ているような体格かな」 「いや、反対だ。誰の話を聞いても、むしろ、痩《や》せている方だった」 「ねえ……胴周りが一メートル以上もあるような腹に結ばれている、普通の長さの帯だったら、小さな花結びになっても当然でしょうがね、痩せていて、決して肥ってはいないレモンの腹に締められた帯の結び目が小さな花結びというのがおかしい。レモンの腹が急に大きくなってしまった、と考えるべきでしょうね。背中に廻った腹の肉と、空間に詰められた詰め物のためにね……」  ガウンに締められた結び目の形など、見過ごしてしまうのが普通だろう。イザナミはその結び方をよく覚えていた。ということは、なぜかは判らなくとも、何か尋常と違う点を感じ取ったのに違いない。 「以上がエローグ得意の蘇生術だったわけです。インドやフェルアの森で行なったのも、同じ手だと思いますね。レモンはデッキに出てから腹に刺された剣を抜いて、目撃者の前に投げ出す。ほら、奇術師がよくやる演出、〈剣は本物。仕掛けはありません。手に取って調べて下さい〉という奴でさ。そのままレモンは海に落ちてしまう。次の瞬間、レモンは生き返る。もっとも、最初から無傷だったから、生き返るという言葉はおかしいが……」 「すると、剣の柄や、この部屋に残っていた血痕《けつこん》は?」 「注射針などを使って、少しばかり自分の血を抜いたと思いますねえ。いずれ、警察が立ち入って、検証することになるでしょうから、そんなとき、絵の具の血などではまずい。もっとも、デッキで盛大に流したのは、その手の偽《にせ》の血だったでしょうがね」 「海に落ちたレモンは、再び船に戻ったのだろうか」 「外は台風だし、行き場所はねえでしょう。どこからか、船に這い上がり、復讐の第二段に取り掛かったわけですが、ここで、レモンの計算になかった、二つのハプニングが起こってしまったんです。その一つは、レモンの部屋の前で、イザナミが腰を抜かしてしまい、部屋の中でレモンを刺した犯人が消えてしまったかのような状態を作ったこと。そのため、レモンを刺したのは、レモン自身ではなかったかという疑いを起こさせる結果を作った。それでも、あたしがいなかったら、まだその謎《なぞ》は解けなかったでしょう」 「もう一つ、レモンが予期しなかった出来事というのは?」 「親方です。ショウボートが翌日オープン、処女航海。その邪魔になるというので、親方は目撃者全員に箝口《かんこう》令を敷き、レモンが殺害された事件は、ないものにされてしまった。レモンに取って、これはまずいやね」 「しかし……邪魔な警察も入って来ず、かえって仕事はしやすくなったんじゃないかな」 「そうは思いませんね。エローグの計画は練りに練られたものに違いない。警察が介入するのは百も承知していたと思いますね。それより、自分が真っ先に殺されて、容疑圏外にいる、連続殺人の動機が不明、ということの方がエローグに利益があるわけでしょう」 「ところが、馬琴はレモンの死を押し隠そうとした」 「座長はその事件が連続殺人の始まり、ましてエローグの復讐の第一歩だとは夢にも思わなかったでしょうからね。まあ、連続して事件が起きれば、いずれレモンの死も新たに問題になるでしょう。そこでエローグは、なくなった象の会への手向《たむ》けとして、第一の犠牲者、たんこぶ権太へ目を向けたのです」 「権太は眉間《みけん》に釘《くぎ》を打ち込まれて殺された。……何だってそんな殺され方をしたんだろう」 「権太を殺すには、それが一番楽な殺し方だったからでしょうね」 「つまり、寝ている間に釘を打ち込んだ?」 「権太は寝てやしません。起きてました」 「起きている人間の眉間に、どうやって釘を打ち込むんだ?」 「ねえ、楓さん。不思議な蘇生術を考え出したエローグの発想を思い出して下さいよ。エローグは曲がった剣を使う代わりに、身体の方をねじ曲げて真っすぐな剣を腹に通して見せた。それとおんなじです。権太の頭が止まっていて、釘の方が眉間に入ったと思うから、わけがわからなくなる。事実は逆さま。釘の方が止まっていて、権太の頭の方が動いてきて、釘にぶち当たったんです」 「判らないな」 「真ちゃんはいい勘をしてるから、判ると思うね。そう、もう一つ逆さまにするものがあった。あの釘もあべこべにして考えてごらんよ」 「……先生、ありましたよ」  と、真が言った。 「五寸釘を使う危険術があったわ。〈額で五寸釘を板に打ち込む術〉というのが……」 「あっ……」  七郎はそう言っただけだった。 「先生、しっかりおしよ」  と、芥子之助が言った。 「権太はレモンにその〈額で五寸釘を板に打ち込む術〉を教えてもらっているうち、レモンの罠《わな》に嵌まったんです」 「……確かに、いつも権太は貪欲《どんよく》に、色色な芸を覚えたがっている男だった」 「レモンはその権太の性格を応用したんです。インドでヨガを覚えたエローグは、外にも怪しげな術を沢山知っていたに違いない。その一つに〈額で五寸釘を板に打ち込む術〉てのがあった。もっともこの術は日本でも演じられていますが、若いときアメリカに渡り、そのままイタリアで過ごした権太にはかなり珍しかったんでしょうね。教えてやると持ち掛けたのは蘇生したレモン、つまりエローグでしょう。権太はすぐ誘いに乗って来た。レモンが海に落ちたすぐ後だったが、権太はレモンが蘇生して変相していることに気が付かない。次に狙われているのは自分だとは夢にも思わなかったから、犯人を自分の部屋に入れたんです。これが喧嘩《けんか》したことのある楓さんだったら、権太は用心したでしょう。ねえ、考えても面白いじゃありませんか。権太が〈この骨無し野郎め〉と言う。権太のたんこぶが〈お前の頭にゃ骨はあるだろうが、金鎚《かなづち》の代わりにゃなるまい〉とやり返す。〈金鎚より固いか軟らかいか、証拠をみせてやる〉と、厚板と五寸釘を取り出すわけ。〈おい、本気か〉〈本気だとも〉〈そんなことをすりゃ、頭に穴が開くぜ。俺も言い過ぎて悪かった。謝るから止《よ》せよ〉〈嫌だ。一度言い出したら、後へは引けねえ〉と、厚板に釘を立てて、頭で釘を打ち込んでしまう……このアイデアがすっかり気に入って、権太は犯人につい気をゆるしてしまったと思うんです」 「その掛け合いは面白いが、実演するには危険じゃないか」 「お客が危険だと思わなければ、意味がねえ。だが、この芸には骨《こつ》がありましてね」 「釘には仕掛けがない。とすると、ははあ、板が怪しいのか」 「仕掛けというほどじゃありませんが、準備が必要です。ドクター瀬川が使っていた石と同じ手ですが」 「瀬川が素手《すで》で割っていた石のことか」 「先生、駄目だねえ。たまにゃ奇術の本でも読んだらどうですか。真ちゃんなら知っているね?」 「ええ。……石を素手で割れるほど軟らかくするのは、熱を加えればいいんですね」 「そう。昔から言うじゃありませんか。〈火事に逢《あ》った石臼《いしうす》は只でも貰《もら》うな〉ってね。石は急に熱に逢えばもろくなる。それと同じで、釘を通す厚板に熱を加えてやる。普通でも軟らかな桐《きり》を使えばもっと安全になります。といって、素肌をぶつけたんじゃ、相手は鉄の釘、矢張りたまりませんから、釘の頭には布を置くのが定法です。打ち込み方にも秘伝がありまして、一回二回は比較的弱く、最後に気合もろとも、一気に押し込むような気持で力を入れる。まあ、レモンがその通り教えたかどうかは別ですがね」 「なるほど。言われれば誰でも稽古《けいこ》を積めばできそうだ」 「危険術とは、全《すべ》てそういったもんです。レモンは実際に釘と板とを用意して、権太にその秘伝を教えたんですが、最後、板の上に、逆さまに生えた釘を持ち出した。普通の釘の頭でも打ち方では危険ですよ。それが、尖《とが》った方が上を向いていれば、一たまりもないわけだね。レモンは細かい点でも抜かりはなかったと思う。板に突き出た釘が動かぬように、板は二枚が貼《は》り合わせになっていたかも知れない。また、そのとき、レモンは権太の後ろに廻っていて、後頭部を強く押して、釘が充分に入る手助けをしたかも知れない。最後に、釘の先を頭に見せるような細工が必要で、それには——」 「権太の屍体の傷口に、乾いた黒い粘土のような物が着いていた……」 「粘土——きっとそれだ。レモンは粘土で釘の頭と同じ形を作り、それを釘の先に付けておいた……こうなる。レモンが権太の息が止まったところで、板を割って取り去り、釘だけを残せば、あの状態の屍体ができあがるでしょうねえ。板を持ち去ったのは、危険術利用の手口を知られたくなかったのが、その理由。釘を残しておいたのは、必要以上、屍体に触《さわ》るのが嫌だったからでしょう」 「何人も人を殺そうとするのに?」 「そう。エローグはいつも、なるべく自分の手を使わない方法を考え出していますよ。一番多く自分の手を使ったのは、玉葉さんのときぐらいです」 「……すると、権太の傷の奥には、釘の頭の上に置いた布の繊維が残っているかも知れない」 「細かく調べれば、きっと出てくるでしょう。もう一度、権太を見てみますか?」  七郎は手を振った。 「いや、もう沢山だ。ところで、その事件も馬琴は隠してしまおうと考えた」 「そう、勿体《もつたい》ない話ですねえ。警察が知れば大喜びするでしょうに。まあ、親方としてみれば、レモンをいないものにしてしまったんですから、権太も同じくと考えるのも無理はなかったでしょうね。エローグの方はどうだったかな。権太が海にでも消えてしまうのは、まあいいとします。一応、復讐の目的は終えたから。でも、レモンが死んだということは、隠しておいてもらいたくはなかったでしょう」 「で、奇術の穴を埋めるためにやって来た僕達の前に、血の痕《あと》が残っている剣が入った鞄《かばん》を置いたり、夜中に姿を現わしたりしたんだな」 「そう。レモンの荷物は下の小部屋に置いてあったんです。これは親方に言われ、あたしが手伝ったから確かでね。レモンはその荷物を態態《わざわざ》元の部屋に戻したんです。楓さん達が気味悪がって騒ぐのを期待して、でしょう」 「あの部屋のキイはレモンと海に沈んだと言ったな」 「レモンが浮き上がれば、キイも一緒です。楓さん達が気味悪がって、部屋を替えてもらえば、この部屋は誰もいなくなる。隠れるに都合のいい隠し戸や抜け穴もあるから、レモンにとっちゃ、好都合だ」 「レモンは賭博室があることを知っていたんだな」 「相手は抜け穴の専門家ですからね。すぐ見付けたに違いありません。油断のならない相手ですぜ……おや?」  芥子之助は耳を澄ませた。強い雨音に混って聞こえるのは、確かにフォグホーンの音だ。 「とうとう来ましたね」  芥子之助は口を尖《とが》らせた。 「ありゃ、第三管区海上保安庁の巡視艇、〈はゆま〉のフォグホーンに違いねえ」 「というと……」 「恐らく、あの船の上には一杯保安官や警察官が詰め込まれていますね。きっと、大見食肉の運転手が正気に返ったんでしょうね。虎《とら》を運び出したのがショウボートからだということが判ってしまったんだ。となると警察は台風なんて言ってられない。さあ、現場検証だ、犯人逮捕だって、船を飛ばして来たんだね。全く、恐れ入るよ。となると、こっちも愚図愚図しちゃいられねえ。……ええと、次は第三の犠牲者だ。誰だったっけね?」 「ドクター瀬川」 「そう、火焔《かえん》男のドクター瀬川。忘れちゃいけねえ。この瀬川の最後は無惨だったね。復讐にふさわしい殺し方だ。だが、その殺し方はどれよりも楽だったでしょうね。とにかく、相手は危険術を演じている最中だ。ね、普通のところにいる人間の背中を、軽く押したぐらいじゃ、死にゃしねえでしょう。ところが、綱渡りをしている人間の背中をちょっとでも押せばどういうことになるか。下に落ちて、死ぬでしょう。つまり、危険術師を殺そうと思えば、その人間が危険術を演じているとき、ちょっと背中を押すようなことをしてやればいいってわけです。実に簡単な手で、人が殺せます」 「だが、瀬川の場合は?」 「事故が起こった瞬間を考えりゃいいでしょう。瀬川の口から吹き出した火が、反対に瀬川の身体に引火したと聞きましたがね」 「……つまり、瀬川の身体に引火するような物があった?」 「それ以外、考えられねえでしょうが」 「瀬川の衣装をベンジンで濡《ぬ》らしておくとか……」 「駄目だね。危険術師は注意深いよ。そんな手はすぐ感付かれてしまいます」 「ガスだわ」  と、いきなり真が言った。 「ガス? ガスなら、余計に臭《にお》やしないか」  七郎は舞台の上でガスが使われたとは思えなかった。 「家庭用のガスじゃないわ、先生。ガスライターに使われているガス。ほら、さっき、食堂で唄子さんが言っていたじゃありませんか。瀬川は煙草を吸わない人なのに、焼けた衣装のポケットから、ライターが出て来た、と」 「そう、先生。しっかりしなくちゃいけねえ」  と、芥子之助が言った。 「それも、使い捨ての、安いやつだったろう」 「そうです。権太さんが持っていたのと、同じ色だったそうです」 「で、瀬川がライターを入れていたというのは、胸の内ポケット?」 「ドクター瀬川の舞台衣装には、外側にポケットは付いていませんでした」 「それで決まりさ」  芥子之助は自分のポケットから、同じ形をしたライターを取り出した。 「このライターの構造は、うまく単純化されていますね。ライター石を発火させるヤスリと、ガスを噴出させるレバー。必要以外のものは何もない。だから、仕掛けも簡単にできそうだね。例えばここに——」  芥子之助は更にポケットを探っていたが、輪ゴムを取り出して見せた。 「エローグの仕掛けも同じだと思いますね」  芥子之助は輪ゴムを二重にして、ライターの上下に巻き付けた。 「輪ゴムの端をライターの尻《しり》に掛け、他の端をレバーの上に掛けてしまう。ほら、こんな工合です。すると、輪ゴムの力でずっとレバーが押されていますから、目には見えなくとも、ライターからはガスがどんどん吹き出されている状態になる。中のガスが空《から》っぽになるまで、ガスは止まらないわけですね。まあ、ガスが出ているんですから、小さな音はします。けれども耳を寄せなければ、ほとんど聞き取れないでしょう」  芥子之助は輪ゴムを掛けたライターを七郎に渡した。耳に近付けると、確かにしゅうという小さな音が聞こえた。 「このガスは無色透明、無味無臭。こんな細工をしたライターを、出演直前の瀬川の内ポケットの底に、そっと落としておくんですね。どうなるでしょう。注意深い瀬川でも、小さなライターには気付かなかった。瀬川はいつものように演技を進める。その間にも、ガスは瀬川の衣装の内側で、どんどん吹き出されている。その近くに火が来ればどうなるか。神ならぬ身の瀬川は、それを知ることができなかったわけです」  ガスの引火だけだったら、すぐ消し止めることができたかも知れない。だが、瀬川は右手にベンジンの入っているコップを持っていた。最終的には、そのベンジンに引火したことが惨事を招くことになった。 「犯人は瀬川の舞台を充分に知っていたに違いない」 「その通り。瀬川のリハーサルをずっと見ていて、その手順をすっかり覚え込んでいて、計画を立てたんです。瀬川が几帳面《きちようめん》で、舞台の手順を変えないのを知った上でです。火焔術を演じるとき、ライターのガスがなくなってしまったのじゃ意味がない。その反対でもいけません」 「瀬川と唄子の衣装はけばけばしい色だった。色が鮮やかに仕上がる化学繊維だったとすると、これは火に弱い」 「そう。化繊は燃えると融けますからねえ。肌に貼《は》り付いたら、脱ぐこともできねえでしょう。衣装が焼ければ、ポケットのライターにも火が付くわけだ。輪ゴムはまず切れてしまい、ライターの仕掛けも消滅してしまうわけです」 「唄子を助けようとして、瀬川の傍に寄ったとき、ゴムの焼ける臭いがした……」 「じゃあ、まずあたしの考えに違いないようですね。瀬川が死んだ後、保安部の係員は、衣装のポケットに入っていたライターは見付けましたが、焼け焦げになった輪ゴムの一本や二本は問題にしなかったんでしょうね」  外が次第に騒がしさを増していた。船が嵐《あらし》の中をショウボートに近付き、横付けになったのは確かなようだ。警察官がこの部屋に来るのも、時間の問題だろう。 「相手は警察だとなると、親方も保安官を相手にするようなわけにゃいかねえね」  芥子之助はライターをポケットに戻した。 「瀬川が火になったとき、唄子が飛び付いて来て、危うく唄子にも火が移りそうになった。エローグは二人とも殺してしまう気だったのか」  と、七郎が言った。 「可能性の問題だね。恐らく、彼は相当期待していたんじゃないかね」 「——座長さん。床間亭馬琴さん。おいででしたら、すぐ事務所においで下さい」  廊下にあるスピーカーが言った。悲鳴に似た女性の声だった。 「親方がいない? こんなときだというのに、変だな」  芥子之助は腰を浮かせた。 「さあ、どんどん話を進めましょう。第四番目の生贄《いけにえ》は浜田玉葉。復讐者の手は、女性たりといえど、遠慮はしねえ。玉葉に使われた凶器はロープだってね。それも、楓さんがいつも使っている、奇術用のロープだ。エローグはそれを楓さんの鞄の中から盗み出した。いいですか。あんたはエローグの罠《わな》に掛かろうとしているんですぜ。たんこぶ権太が殺されるすぐ前に、楓さんは権太と喧嘩して、気絶させられている。次のドクター瀬川のかみさんは、楓さんの元の妻だった。そこへ持って来て、今度は玉葉を殺した凶器が奇術用のロープだ。ということは、エローグの狙《ねら》いは、あんたにぴったりと焦点が合わされているということだ。そこで玉葉の死ですが、これは——」  隠し戸の方から物音が聞こえた。  芥子之助は素早く身構えたが、すぐ、顔を和らげた。 「ありゃ、若|旦那《だんな》です」  芥子之助は隠し戸に近寄った。戸の間から、西川徹矢の顔が覗《のぞ》いた。 「若旦那。何か?」 「親父を見なかったか?」  芥子之助は首を振った。 「警察が来たんだ。一体、どこへ行ったんだろう」  徹矢は部屋に入って来て、あたりを見廻した。 「電話があって、六時に約束をしていたようだったが——」  七郎は時計を見た。六時まで、わずかだった。 「それは、誰です」 「相手は判らない。ここでないとすれば……」  徹矢は隠し戸の方に戻ろうとして、真に目を止めた。 「まりも君——だったね」 「わたし、森真です」  と、真が言った。 「親父から話は聞いたよ。困るようなことがあったら、いつでも相談に来なさい」 「ありがとうございます」 「……君の芸は見事だった。嬉《うれ》しく思っていますよ」  徹矢はそう言うと、急ぐようにして隠し戸に戻って行った。 「あの人は淋《さび》しいんだよ」  と、芥子之助が言った。 「先代の眼鏡にかなっただけあって、なかなかの切れ者だが、縁者が少なく、孤独なんだね」 「座長は徹矢さんを信頼しているようですけれど」 「徹矢の方じゃ、どう思っているかだ。何しろ、徹矢は先代の仕込みで、地道に事業を伸ばして来た男だし、馬琴は途中から割り込んで来て、博打《ばくち》打ちみたいなことばかりしている。恐らくは——おや?」  ドアの外が急に喧《やかま》しくなった。人の走り廻る音がする、手荒にドアが開けたてされている。 「警察が乗り込んだにしちゃ、早過ぎるようだねえ」  突然、ドアが激しく叩かれた。 「楓さん、楓さん。大変だ。早く開けて」  イザナミの声だ。 「こいつはいけねえ」  芥子之助は隠し戸に飛び込もうとした。 「一つだけ教えてくれ」  七郎は必死だった。 「今、エローグはどこにいる?」 「それだけは判りません」  芥子之助は情けない声を出した。 「それが判ってれば、腕っぷしの強いのを頼んで捕えさせていますよ。こんなことを喋《しやべ》っているうちにね」  芥子之助は戸の向うに消えていった。 「楓さん、早く、助けて——」  七郎はドアを開けた。ドアの向うに、イザナミがへたばり込んでいた。顔が真《ま》っ蒼《さお》で、目が天井を向いている。 「一体、どうしたんです?」 「大変なことが起きたわよ。座、座長が、虎に食い殺されてる」 「虎に?」  イザナミは震える手で、廊下の奥を指差した。 「権、権太さんの部屋の中で……」 18 予期《よき》した死去《しきよ》  イザナミは片端から廊下のドアを叩き廻り、最後に七郎の部屋の前で、腰を抜かしてしまったようだ。廊下のあちこちのドアが開き、何人かが廊下に出ていた。 「雪山さん、早く、権太さんの部屋よ!」  イザナミは雪山の姿を見ると、金切り声を上げた。  雪山は権太の部屋の前に立って、中を窺《うかが》っている様子だったが、ドアに手を掛けた。  ドアが開くと同時に、からみ合った塊りが廊下に転がり出した。 「トオト! 止《や》めろ!」  雪山が叱咤《しつた》した。  馬琴の顔は血に染まっていた。虎は馬琴を組み敷き、響きに似た唸《うな》り声を上げながら、更に爪《つめ》を立てようとする。 「トオトが生き返った……」  七郎はその光景が信じられなかった。 「トオト!」  雪山は虎に近寄った。虎は野性に返ったように、雪山を見ると向きを変え、ぐわっと真っ赤な口を開いた。 「何とかして! こっちへ来るわ!」  イザナミは恐ろしさで、虎が何倍もの大きさに見えたのだろう。七郎は咄嗟《とつさ》に、瀬川の日本刀を思い出した。唄子の部屋のドアを叩く。 「唄子、七郎だ」  唄子はドアの隙間《すきま》から怯《おび》えた目を見せた。 「刀を貸してくれ、虎が暴れているんだ」  唄子も外の騒ぎの原因を感付いていたようだ、すぐ、瀬川が使っていた刀を持って来て、ドアから差し出した。 「後をよく閉めておけよ」  七郎は刀の鞘《さや》を払った。  ばりっと、布を引き裂くような音がした。虎が雪山に飛び掛かったのだ。  もう、夢中だった。両手で柄を握り締め、刃を上に向けた。虎は七郎を見ると、大きく口を開けた。七郎はその口の中へ、力の限り刀を突っ込んだ。 「がっ!」  虎の叫びか、刀の突き通る音か、雪山の声かよく判らなかった。  あたりが真っ赤になった。七郎は足を滑らせ、血の中にひっくり返った。  百戯団の若者が虎に飛び付いていった。  雪山は立ち上がった。シャツがずたずたに裂かれ、虎の返り血と自分の血で、赤い泥絵の具を浴びたような姿になっていた。 「座長……」  真は馬琴に飛び付いた。馬琴の方は立ち上がれなかった。かなりの重傷だ。 「誰か、医務長の満武さんを呼んで下さい。座長は一時、僕の部屋に運ぼう」  と、七郎が言った。  ブルーバーズの若い男が駈け出して行った。他の何人かが馬琴を抱き上げた。  馬琴は七郎の部屋に運ばれたが、出血は止まらなかった。肩口の傷が相当に深いようで、ベッドはたちまち赤く染まった。床に落ちる血を見て、真が泣き声を上げた。  その声が聞こえたに違いない。馬琴は必死で空《くう》を右手でまさぐった。 「真……」  七郎は真の手を取って、馬琴の手に握らせた。顔色がどんどん変わってゆく。誰の目にも、最期に近付いていることが判る。 「真……すまなかった」  七郎にはそれだけしか聞き取れなかった。真は馬琴の口に耳を寄せている。馬琴は真に何かを言っていたようだが、長くはなかった。口から血の泡をごぼごぼと出すと、動かなくなった。  同じ時刻、海上保安庁の巡視艇〈はゆま〉から、突っ込みの猪之とアーサー グラントを連れた警察の捜査官達、保安庁の職員達が、次次とショウボートへ乗船していた。  馬琴の養子、西川徹矢が警察官と七郎の部屋に現われ、死後の対面をしたのは、それから十分ほど後だった。徹矢は馬琴が四時前後、何者かから電話を受け、時間を計って自分の部屋を出たと証言した。  ショウボートの中はひっくり返るような騒ぎになった。  廊下は血の海で、虎の屍骸がある。座長も死んでいる。捜査官は玉葉の身元を確かめなければならないだろうし、虎の腹の中で入れ替わった、たんこぶ権太の屍体も見付け出さなければならないだろう。ドクター瀬川事件の再捜査も必要だろう。捜索が進めばノーム レモンについて喋る者が出て来そうだ。  馬琴の屍体が部屋から運び出されると、七郎と真はその部屋に軟禁されてしまった。外には出られないが、捜査官達の右往左往ぶりが、空気を伝わって感じられる。職員達は決して少ない人数ではなさそうだが、いくらいても足りることはないといった雰囲気だ。  七郎は覚悟を決めた。こうなった以上、成り行きに委《まか》せるしかなさそうだ。  部屋には二人の捜査官がいる。  一人は色白で真四角な顔の中に、小さな目鼻の付いている、無表情な男だった。ドアの近くに椅子《いす》を置いて陣取り、いざとなれば、いつでも七郎に飛び掛かる気配を示している。大人しい番犬みたいに気色《きしよく》の悪い男だった。  七郎達に訊問《じんもん》を続けているのは、もう一人の方で、小柄で色は黒いが、眸《ひとみ》の大きい、鼻筋の通った顔で、声はしっかりしたバスだった。 「なぜ虎が権太さんの部屋で暴れだしたんでしょうかね?」  言葉は丁寧だが、嘘《うそ》は吐《つ》かせないぞという迫力が感じられる。 「……あの虎は、死んでいたんです。僕には信じられませんが、その虎が何かのはずみで生き返ったようです」 「私にも信じられませんよ。その虎が死んだのはいつでしたか」 「今日の——二時か、三時頃でした」 「虎が死んだと言ったのは誰です?」 「虎は前の日から、工合が悪かったようです。死んだと言ったのは、医務長の満武さんです」  捜査官は手帖にその名を控えた。 「その虎の屍体が、どうして権太さんの部屋にあったのですか?」 「運んだからです」 「惚《とぼ》けようとしても、駄目ですね。あなたの奇術の助手、外国人の、何と言いましたか」  捜査官はちょっとノートを見た。 「そう、アーサー グラント。グラントさんが全部喋ってしまいましたよ。あなたとそこにいる森まりもさん、それとグラントさんで、死んだ虎と縫いぐるみの虎とを取り替えた、その場所が、権太さんの部屋だったんでしょう」 「……そうです」 「人の屍体をみだりに運んだりすると、どういうことになるか、知らないわけじゃないでしょうね。しかも、この場合、他殺屍体だということは、一目瞭然《りようぜん》だ」 「判っています。でも、座長の命令で断わり切れなかったんです」 「どうも、あなた方の道徳観がよく判らない。あのゴリラもそうだったし」 「ゴリラ?」 「鈴木食肉の運転手ですよ。名は猪之とか言ったが、猪《いのしし》よりゴリラに似ている男だった」  七郎は変にほっとした。 「その男も、みすみす罪が重くなるのを判っていながら、まだ口を閉じたままだ。それはまあいい。では、死んだ虎の屍体と、人間の屍体の入った虎の縫いぐるみを権太の部屋で取り替え、この船から出したことを認めますね?」 「認めます」 「それから、どうしました?」 「僕は座長から頼まれ、あの虎をショウボートから運び出し、桟橋でゴリラの車に引き渡すように言われました。ところが、手違いがあって、大見食肉の車に虎を乗せてしまいました。すぐ間違いが判ったものですから、ゴリラと一緒に大見食肉の車を追っていたというわけです」 「なるほど。……では、虎の腹から出て来た女性が、誰だか知っていますね」 「知っています。ショウボートで一緒にショウに出ていました。上海《シヤンハイ》百戯団で、曲芸を指導している、浜田玉葉さんです」 「浜田というと、日本姓ですね」 「ずっと前に、ロサンゼルスで上海百戯団に加わったそうです。日本で生まれ、日本で芸を覚えた、日本人です」 「あなたは鈴木食肉の車に乗っていて、玉葉さんの屍体が虎の中から出るところを見ていた」 「見ていました」 「その直後、あなたは現場からいなくなりましたね?」 「すぐ、ショウボートへ帰りました。座長に報告するためです」 「それを聞いたため、馬琴はすぐ船を出航させた。台風の避難という理由で。だが、本当は警察を避けたんだな」 「その辺はよく判りません」 「玉葉さんの死を知っている人間は?」 「僕達と、座長だけでしょう。あとは、犯人」 「では、あなたは玉葉さんの死が他殺だということも知っていたんですね」 「……いや、ちょっと違うんです。最初、虎の中に入っていたのは、同じショウに出ていた、たんこぶ権太という男の屍体でした」 「何だって?」  刑事は大声を上げた。 「すると、もう一つ屍体があるわけか」 「そうです」 「その人も殺されて?」 「間違いありません。額の真ん中に、大きな釘が打ち込まれていました」 「ちょっと待った。グラントはそんなことは言わなかったぞ」 「そういうことは訊《き》かなかったんじゃありませんか」  捜査官はせわしく部屋の中を見廻した。 「この部屋に、電話はないか?」 「ありません。ええ、物置きみたいな部屋でしたから」  ドアの傍にいた捜査官が、部屋から飛び出して行った。 「その、殺された男の名をもう一度言って下さい」 「たんこぶ権太。同じショウに出演していた、道化師です」 「殺されたのは、いつだ?」 「昨晩——五時から六時の間でした」 「ううむ」  捜査官はうなり出した。 「その屍体は、どこにありますか?」 「判りません」  七郎は賭博室のことを言いたくなかった。いざというとき、最後に逃げる場所は、下の部屋しかないからだ。 「権太の部屋は?」 「虎がいた部屋です」 「そうだった……」  捜査官も混乱し始めたようだ。  そこへ四角な顔の捜査官が、大勢の人間を連れて戻って来た。 「こんな場合だというのに、内線が通じない」  警察官は少なからず苛立《いらだ》っていた。  警察官達は七郎と真の荷物を調べ始めた。  七郎の奇術材料の中から、端に焦げ目のあるロープを刑事が見付けた。七郎は何故《なぜ》もっと早く処分してしまわなかったのかと悔んだが、もうどうすることもできない。  警察官達は最後に押入れの引戸を開き、中から、レモンの荷物を引き出した。 「それは、僕の品じゃありませんよ」  と、七郎が注意してやった。 「じゃ、誰のです」  と、捜査官が訊いた。 「僕達が来る前に、もう一人、外国人の奇術師がいたようです」 「その奇術師はどうしたのです」 「知りません。座長に訊いて下さい」  捜査官はその荷物に興味を持ったようだった。それが幸いして、押入れの奥まで注意が働かなくなったのが判った。疑うべき品が、目の前に山ほど出てきたからだ。  捜査官達は手分けをして、レモンのスーツケースと鞄を開け、一人はすぐ、汚れたシーツに包まれた短剣を見付け出した。 「これを見て下さい」  七郎を訊問していた刑事が布ごとその短剣を受け取った。 「楓さん、この品は?」 「知りません、初めて見ます」 「この鞄を開けて見たことはなかったのかね?」 「他人の品です。手を付けていません」  新しい顔が部屋を覗いた。その捜査官の報告で、七郎は大見食肉の冷蔵室や運転席のどこにも、他の屍体はなかったこと、大見食肉の運転手は、虎の中に屍体があるなどとは夢にも思わず、また、車はどこへも立ち寄らなかったことを知った。  捜査官達は七郎の部屋から証拠品を運び出した。人が頻繁《ひんぱん》に出入りする。  七郎はそのわずかな隙を見付けた。部屋に捜査官の姿が一人もなくなったのだ。七郎はその瞬間を逃さなかった。 「真、下の部屋に行くぞ」  七郎が隠し戸に飛び込むと、真もそれに続いた。  芥子之助は賭場の真ん中にいて、盆|茣蓙《ござ》の前に大きな紙を拡げているところだった。紙には数字やら人の名が書き散らしてある。 「よく来られましたね」  芥子之助は七郎と真の顔を見ると、泣きそうな顔になった。 「あれをご覧よ」  芥子之助の指差す方を見ると、床の間の壁に掛かっている額のガラスが開いたままだ。神像が入っていた跡に黒い穴だけが見えた。 「神像も消えちゃったよ」 「一体……どうしたんだ?」 「ちょっとした隙だった。あんた達が警察に訊問されている間に、ね」 「君はそれを戸の後ろで聞いていたんだな」  芥子之助は力なくうなずいた。 「親方も殺されちゃったね。全く、何てこったろう」 「虎が生きていたんだ。それもエローグの術だったのか」 「違《ちげ》えねえ。多分、インドかどこかで手に入れた薬を使って、虎を仮死状態にしたんですね」 「虎は息も脈も止まったのか」 「真逆《まさか》ね。虎を見たのは医務長の満武でしょう」 「そうだ」 「満武は、親方から何か耳打ちをされたね。とにかく、虎の屍体が必要だと。満武は親方が一服盛ったと勘違いしたんだ。まだ息はあるが、そのうち死ぬだろうと考えて、飼育係に引導を渡したに違いない」 「馬琴は何で権太の部屋などに入ったんだろう」 「電話で犯人に釣り出されたんでしょうね」 「権太の死を知ってしまった、権太の部屋で取り引きしようと持ち掛けたんだと思う」 「権太の部屋に入れば真犯人が判る、と?」 「それ以外、考えられませんね。犯人は虎が生き返る時間を、ちゃんと計算に入れていたわけだ。親方も気の毒なことをしたもんだ。真ちゃんも残念だったでしょう」 「でも、もう大丈夫」  と、真は言った。 「わたしには、最初からいない人だったんです」 「馬琴は最後に、真に詫《わ》びを言っていたな」  と、七郎が言った。 「それだけで、充分でした」 「まだ、何か言っていたようだったが」 「犯人の名?」  芥子之助は真を見上げた。 「いいえ。座長の言葉は……眺むれば雪も雲、それだけでした」 「眺むれば雪も雲? 何です、そりゃ?」 「辞世の句のつもりでしょう」 「句にしちゃあ、変に短い。半分言うのがやっとだったのか」 「半分でも、全部判りそうな気がするわ」 「本当だとすると、読心術みたいだ」 「ちょっと、書く物を貸して下さい」  真は芥子之助が差し出した鉛筆を持って、盆茣蓙の上にある紙の余白に文字を書いた。   なかむれはゆきもくも 「矢張りそうだわ。これは回文句なんです。ですから、最初の九字まで呼んで元に読み戻すことができるでしょう」  七郎はその文字を読んだ。 「眺《なが》むれば雪《ゆき》も雲消《くもき》ゆ晴《は》れむかな」  過去の罪業《ざいごう》を晴らしたい、馬琴の気持が浮かび上がっていた。それと同時に、辞世の句まで回文とした馬琴の怪物めいたぬけぬけしさが目に見えるようだった。 「これからどうします?」  と、芥子之助が訊いた。 「唄子さんの殺されるのを待っているんじゃないでしょう」 「当たり前だ」  七郎はむっとして言った。 「ここへ来たのは、ただ逃げて来たんじゃない。船から降ろされて、警察に連行されてしまいそうな気がしたからだ。そうなれば、唄子の身辺を見守ることもできなくなる。警察がいるうちは、変相しているエローグもじっとしていると思う。警察が静かになれば、エローグは動き出すと思う。そのとき、唄子を守らなければならない」 「それで、男だ」  と、芥子之助は言った。 「ついでに、犯人を捕える気にはなりませんか?」 「大いに、その気だが、残念ながら、エローグがどこにいるか全く見当が付かない」 「ちょっと待って下さいよ」  芥子之助は立ち上がって、違い棚の傍に寄り、何か棚の奥を捜していたが、すぐ黒い瓶を持ち出して戻って来た。 「へい、お待ち遠様」  芥子之助は黒い瓶を床の上に置いた。 「何だ、そりゃ?」  七郎は小声で訊いた。 「お酒です。ウィスキーを手に入れて来ました。これを手に入れるのに、どれほど苦労したか知れねえ」  芥子之助は瓶の栓を抜き始めた。 「待て、俺は飲まないぞ」 「嫌なら結構です。あたしだけ頂戴します」  芥子之助は七郎に構わず瓶の栓を取ると、ぐいと口飲みした。 「匂《にお》うな」 「匂いだけで我慢しますか」 「たまらなくなった」 「そうでしょう」 「一口ぐらいならいいだろう」 「じゃ、おやんなさい」  瓶を手にしたとき、遣《や》る瀬《せ》ない気分になってしまった。優柔、意志薄弱、充分に判っているのだ。  ウィスキーが、胃の奥底まで滲《し》み通った。七郎は大きく吐息した。 「あんまり疲れた顔をしてましたからね」  と、芥子之助が言った。 「真ちゃんも、一杯いかが?」 「わたしは疲れていません」  と、真が言った。 「さすが、若さだね」  芥子之助と七郎は代わる代わる瓶に口を付けた。 「唄子はどうしているだろう」  七郎はそれだけが気掛かりだった。 「ちょっと、上の様子を見てみましょうか」  芥子之助は立って、電話の傍に寄った。 「誰に訊く?」 「事務長の小庭女史」  芥子之助はしばらく電話をいじっていたが、 「おかしいな?」  首をひねった。 「内線はまだ直らないのかな」  と、七郎が言った。 「すると、船の電話は、故障してるんですか?」 「そうだ」 「いつからです?」 「ずっとだ。大見食肉に電話を掛けようとして、内線は掛からないと注意されたよ。さっきも警官が電話を使おうとして困っていたところだ」  芥子之助の顔色が変わった。 「なぜ、それを早く言わなかったんです?」 「言わないって——訊かれないから言わなかっただけだ」  芥子之助は、盆茣蓙の上に拡げた紙を、せわしく見渡した。紙一杯に、名前や数字が書きなぐりにされている。だが、七郎が見ると、ただ乱雑なだけで、意味は全く判らない。 「矢張り、そうだったか……」  芥子之助は顔を上げた。鼻の頭に汗が吹き出していたが、確信に満ちた表情だった。 「何が、そうだった、のかい?」 「困るなあ、そう呑気《のんき》な顔をしていちゃ。いいですか先生、ずっと、船の内線は故障しているんですよ」 「そうだ」 「親方はなぜ権太の部屋に行ったんです?」 「それは、さっきも言った。犯人におびき寄せられたんだ」 「犯人はどうやって親方を呼び寄せたんです?」 「電話だった。馬琴の部屋に電話が掛かり……」  七郎は言い掛けて、言葉を止めた。その意味が判ったからだ。 「先生……」  真もびっくりして七郎の顔を見た。 「そうなんだね。船の内線の電話が故障しているのに、なぜ、電話が掛かって来たんでしょうね」  芥子之助は早口で言った。 「答は簡単。それは船の中からじゃねえ。外から掛かって来た電話だ。犯人はそのとき、船の外にいた。ショウボートの人間で、親方が電話を受けたとき、外にいた人間、しかも権太の部屋に虎があることを知っている人間といえば、一人しかいませんね」 「アーサー グラント……」  七郎と真はほとんど同時に言った。 「待てよ。だが、グラントは警察にいたんだぞ」 「すると、電話は警察に捕まる前ですね」 「……そうだ。大見食肉の前の公衆電話で、グラントはショウボートに電話をしていた」 「それで決まりだね」 「すると……」 「その通り。アーサー グラントの正体は、ナナバム エローグだ」  七郎は世の中が逆さまになったような気がした。 「だが、レモンは奇術師で、グラントさんはその助手だった。その二人が同一人だとは?……」 「考えることができませんかね」  芥子之助は七郎の顔を覗き込んだ。 「だが、よく考えると、二人は同じ舞台に立ったことは、一度もなかったんだ」 19 大敵《たいてき》が来《き》ていた  船が揺れ、どこからともなく、みしみしと無気味な音がしている。そのきしみは、エローグの構築した企《たくら》みが、一気に崩れ落ちるときの悲鳴と共鳴するように思えた。 「ねえ、楓さん。奇術師がワンドを振り廻せば、助手は舞台に大きな箱やトランクを運んで来る。奇術師が手を伸ばせば、ロープやシルクを手渡しする。助手は奇術師より、いつも一歩後ろにいて、絶対に目立つ動きをしない。助手の持前とはそうしたもの。だからねえ、この事件でグラントは心理的に目立たなかった。それが、エローグの狙いだったんでしょう」  芥子之助は続けた。 「けれども、ぼんやりと道具を持ち運びしているだけのように見えて、奇術師の助手は、主役に負けぬような仕事をしていることがある。楓さんは奇術師ですから、よく知っているでしょうが、ある奇術一座では、名人の助手が亡くなってしまったために、売り物の大奇術のほとんどが上演できなくなってしまったことがありましたね」 「だが、待てよ……」  七郎には納得できない点があった。 「君はレモンとグラントが、同じ舞台に立ったことはなかったと言ったが、確かに、二人は本番の舞台は踏まなかった。だが、一昨日のリハーサルで、全手順ではなかったにしろレモンは舞台に出た。そして、大きなトランプを三枚使う人体交換術を、グラントさんと演じたそうじゃないか」 「ああ、あの人体交換術ね」  芥子之助は皮肉っぽく笑った。 「あたしはこの目で見てました。あたしの考えが正しければ、ありゃ、人体交換術じゃなくって〈人間変化術〉だね。あんた達がやろうとした、美女が虎になる手と、おんなじなんだ」 「人間変化術——ね」 「そう。レモンの最初の奇術はこうでした。——舞台の中央に三枚の大きなトランプが立っている。最初、グラントさんが舞台に登場し、これから世界のグレートマジシャン、ノーム レモンを紹介しますと言い、三枚のトランプを三角に立てた中に、自分が入る。少しして、トランプの扉が開くと、グラントさんが消えていて、レモンが現われ、悠然と観客席に向かって一礼する」 「僕がイザナギさんに聞いた舞台と同じだ」 「そうでしょう。だが、この後が気に入らねえ。レモンはその三枚のトランプを重ね、舞台の下手袖に片付けたんだが、至極、トランプの裏側が怪しそうな運び方だった。イザナギさんもそう言いませんでしたか」 「うん、覚えているよ。グラントさんとの打ち合わせが不充分だったせいだろうと気の毒がっていた」 「ところがですよ。後になって、死んだたんこぶ権太がレモンのことを変に誉《ほ》めあげていたというじゃありませんか。こんな芸は、今迄、見たこともない、といった調子でね。初めて奇術を見る観客だったら、話は判りますがね、権太は素人《しろうと》じゃあない。反対に芸熱心で、好奇心の強い男だったでしょう。外国の奇術師だって、無数に見て来ているはずだ。その男が、何だってレモンの三枚のトランプに感心したんでしょう。あたしやイザナギさんが、ちょっとまずいなと首をひねった芸をね」 「つまり……芥子之助さん達はレモンさんの芸を観客席から見ていたのに対して、権太さんは舞台の袖、つまり横から見ていたためですね」  と、真が言った。 「その通りだ、真ちゃん。権太はレモンを下手袖から見ていた。だから、三枚に重ねられたトランプの裏側も見ることができた。だが、その裏には、予想に反して、替え玉のグラントさんはいなかったんです」  七郎はあっと言った。権太は正しい意見を言っていたのだ。 「先生、覚えているかしら。レモンさんが残していった三枚のカードには仕掛けがなかったじゃありませんか」  と、真が言った。  七郎はぼんやりと思い出した。権太に気絶させられた後、気が付くと真はレモンのカードを調べていた。 「カードに仕掛けがなく、しかもカードの陰に他の人が隠れていたわけでもない。とすると、二人の人間が入れ替わることは不可能だわね」  と、真が言った。芥子之助は、 「その上、実際にはショウボートの舞台には切り穴も抜け穴もなかった。権太がその芸にびっくりしたのも無理はねえ。楓さんもあの奇術を〈人体交換術〉だと思っていたんだから。権太もあれを〈人間変化術〉だとは思わなかった。それで、レモンの芸を高く買ってしまった」 「人間そのものが変化する奇術なら、替え玉になる他の人間の必要がなかったわけだ。グラントがレモンに変化するのなら……」  七郎は唸った。 「その変装も、むずかしくはなかったでしょうねえ。奇術師とその助手は正装しているのが一般的で、レモンとグラントも、同じタキシードを着ていたからね。禿《は》げ頭で白い顔のグラントが、トランプの陰で、鬘《かつら》や付け眉《まゆ》や、付け髭《ひげ》をして、ふんぞり返れば、すぐ世界のグレートマジシャン、ノーム レモンができ上がります」 「イザナギは舞台を見ていて、レモンとグラントは、同じ外人でも正反対のタイプだと言っていた」 「そうでしょう。同じ服装をしている人間なら、正反対の人間に化けるのが、最も無難ですからねえ。折角、鬘や髭を着けても、同じグラントさんの物腰でいたら、これはすぐ、見破られてしまいます」 「その後で〈X線の目〉を演じたが、それも計画のうちかね」 「そう。レモンの考えも、単純なところがあるね。鬘と髭とで変装しているレモンの顔は、なるべく長い時間、他人の前に曝《さら》したくないという考えが、その〈X線の目〉を演じる理由だったんでしょう。何と、その間中、術者は黒い袋をかぶったまんまじゃありませんか。〈X線の目〉を演じていれば、何時間舞台に出ていようが安心だ。おまけに、舞台でレモンはシャロンを相手に英語だけで話していたじゃありませんか」 「グラントの方は不自由そうな日本語だけを使い、余程でない限り、英語を使おうとしなかった」 「二人の声が同じだと思われたくないためだね。声柄《こえがら》が似ていても、言葉が違うとちょっと比較しにくいもんでしょう」 「レモンの奇術道具を調べていたら、レパートリイに〈X線の目〉があることが判った。だが、目の上にパテを置き、その上に接着テープで固定させて目隠しをするんだが、その接着テープの残りが少ないことが気になった。とても一月もの興行には足りそうにもないんだ。奇術家はごくありふれた品でない限り、途中で足らなくならぬように、揃《そろ》えておくのが常識なんだが」 「つまり、レモンは一度だけリハーサルするだけの道具を持っていればよかったんです。その直後、奇術師のレモンは死んでしまうことになっていたのですから」  芥子之助は何かを思い出すように、ちょっと沈黙してから後を続けた。 「……カリフォルニア州、フェルアの森で、三猿座のために全てを失ったとき、エローグは自分も同じ疫病に罹《かか》っていたに違いねえ。それ以前のエローグの写真では、普通の髪の毛だったが、アーサー グラントとして現われたとき、彼の頭は禿げになっていた。疫病の後遺症だね、きっと。エローグは洞穴《ほらあな》の抜け穴の中で、じっと病いに耐え抜いたんでしょうが、森から出てみると、自分は警察から追われる身になっていた。警察に出頭して事情を話すのは簡単だが、後が厄介になると思ったのか、それでは気が済まなかったのか、エローグは警察の目を逃れて、ノーム アンジェラバリーと名乗る奇術師となった。恐らく、象の会の敵はその地を巡業中の芸人の一団だというところまで、突き止めたのでしょうな。ところが、その一座はとっくに解散してしまい、後を追うことができなくなった。そこで、自分も芸人になって、さまざまな土地を歩き、敵を追い求め続けていたのだが最後に、その一座の座長は床間亭馬琴だとまで突き止めることができた」 「そこで、更にアーサー グラントとなって〈ブロンズ〉のバーテンをしながら、復讐の機会を狙っていたんだな」 「敵を倒すには、まず相手の言葉から習得しなければならないと考えたんです。たまたま、グラントが勤めているナイトクラブと同じ建物の中にYK企画という小さな芸能社があり、その社長と顔見知りになって——いや、反対かな。馬琴がYK企画と古い馴染《なじ》みだということを探り当て、その近くのクラブに目星を付けてバーテンとなる。そして、YK企画の社長に近寄って、外国から来た手紙を読んだり、返事を書いてやったりするようになる。うん、多分、この方だろうな。前後して、馬琴はショウボートを完成させ、昔、三猿座にいた芸人達を集め始めたことを知った。エローグにとって、これは願ってもない絶好の機会になった」 「それで、グランドショウに出演する奇術師には、ノーム アンジェラバリーが選ばれたわけか」 「YK企画では外国との連絡はグラントに委せてある。会社はグラントがそんな野望を持っているとは知らないから、グラントの言うことはなんでも鵜呑《うの》みにしていたでしょうね。こうして、グラントは実はアメリカなどにはいないノーム アンジェラバリーと出演の契約を結ぶ。更に、奇術師は通訳のできる助手が必要だと言って来たことにして、その助手を、半ば迷惑そうに自分が引き受ける。そして、アンジェラバリーが必要な道具類を取り揃え、初日二日前までには、アンジェラバリーの到着を待つばかりにしておいたんです」 「同時に復讐の準備も、段段に完了していったわけだ」 「そして、アンジラクバリーが到着した日——そのときには親方の要望で、名はノーム レモンになっていましたがね、その日、グラントはそっと船から抜け出し、どこかで変装してから、レモンになって到着する。初日を控えて、皆それぞれに忙しい。親方だって、奇術師が到着しただけで安心し、リハーサルには目を光らせても、舞台を降りたレモンに、殊更注意を向けることはなかったでしょう。奇術道具は人目に付かないところでセットされるのが普通ですから、誰もレモンがグラントの変装だとは気付かなかったんです」 「イザナギの話では、レモンが楽屋入りすると、すぐリハーサルになったそうだ。それから程なくして、レモン殺害の事件が起こった。レモンが乗船してから海に落ちるまでの時間は、かなり短かったんだね。ほとんどの人は、レモンの姿を舞台でしか見なかったに違いねえ。そのレモンも、ほとんどは頭から袋をかぶった姿だった」 「リハーサルを済ませると、レモンはグラントと打ち合わせがあると言い、すぐ部屋に閉じ籠《こも》ったんでしょう。リハーサルが済み、芸人達が船室へ戻った頃を見計らって、レモン殺しが演出されたんです。目撃者が多いほど都合が良いというわけでね」 「もし、その日、台風が吹いていなかったら?」 「きっと違う手を考え出していたでしょうね。その手もきっと劇的だったに違いない。エローグという男の頭脳は、周囲の状況や、相手の特徴をよく見ていて、それを利用するのが恐ろしいほど巧みだった。台風が来れば、すぐそれを自分の舞台に応用する。たんこぶ権太が色色な芸を習得することに執着を持っていると判ると、すぐその性格に付け込んで〈額で五寸釘を板に打ち込む術〉を教えるとみせて殺害してしまう。ドクター瀬川の芸が、火を吹く術だということを知ると、それを応用した殺害方法を思い付く。楓さんが玉葉を絞殺するのによいロープを持っているのを見ると、すぐそれを失敬してしまうといった塩梅《あんばい》だ」 「そのロープなんだが、盗んだ後、残りの端を態態《わざわざ》焦がしたのは、矢張り、僕のロープと同じだという証拠を残しておくためだったのか」 「それもあるが、最初はもっと単純な理由だと思いますね。エローグは楓さんの部屋に忍び込み、鞄の中にロープは探し当てたものの、鋏《はさみ》が見付からなかったんだと思います。ロープの束を全部頂戴したんじゃ嵩張《かさば》るし、残りの始末にも困るでしょう。それで、適当な長さだけ切って持って行こうとしたんですが、鋏が見付からなかった。そこで、ライターか何かで焼き切らなきゃならなかったんです」 「鋏なら同じ鞄の中に入っていたぞ」 「エローグもそう思ったんだ。楓さんがリハーサルでロープ切りの奇術を見せていたからね。ところが、その鋏は楓さんが尊敬する一城先生の遺品で、大切にケースの中に蔵《しま》われていた。そのケースに印されている〈菊宗正〉という文字が、刃物の銘だということにエローグは気付かなかった。まあ、無理もねえ。エローグは外人だからね」 「ロープの端が焼かれていた理由は簡単なことだったのね。もっとそれが早く判れば、犯人は外国人だと的を絞ることができたのに」  と、真が言った。 「まあ、お互い様ですね」  芥子之助はふふっと笑った。 「そのロープで玉葉さんが殺されたんだが、一体、どこで殺されたんだろう」  と、七郎は訊いた。 「グラントの部屋ですよ」  芥子之助はあっさりと答えた。 「玉葉さんはグラントの部屋に誘い込まれて、そこで殺されたんです。グラントがどんな手を使ったかは判りませんがね」 「玉葉さんは殺される前、しきりに権太の行方を気にしていた。グラントは何かの理由で権太が自分の部屋にいる、とでも耳打ちしたんじゃないかな」 「そんなところでしょう。たまたまグラントの隣が玉葉の部屋だった。もう一方の隣の部屋はたんこぶ権太の部屋で、物音を聞く者はいない。グラントは雪山の留守を見計らって、玉葉を部屋に導き入れて殺したんです。ちょうどその頃おい、ドクター瀬川が舞台で死んだためショウボートは元の岸壁に戻って乗客を降ろし、代わりに海上保安官を乗せていた。そして、親方は権太の屍体の始末をどうするかを考え始めていた……」 「たまたま、虎のトオトが息をしなくなった」 「いや、あたしゃ、たまたまではないような気がするんですけどねえ」 「たまたまでないとすると、エローグが予《あらかじ》め毒でも飲ましておいたというのか」 「そうです」 「じゃあ、エローグは馬琴が虎を使って、権太の屍体を始末することを知っていて、そうしたのか」 「人の心は読めやしませんよ。〈X線の目〉は演じられてもね。エローグは他の目的でトオトに何かを与えていたと思うんです。台風の日、すでにトオトは食欲がなくなっていたそうですねえ。エローグの計画は、そのときすでに始まっていたんですよ。虎の神経が不安定になるような薬を与えておく。何かのとき、その檻《おり》の中に人を放り込んで、外から鍵を下ろしてしまう。人間に馴れている虎でも、神経がおかしくなっていれば、すぐその人間に襲い掛かるでしょう。インドで象に催眠術を掛けたくらいのエローグですから、それが可能だったと思いますね。もし、事情が変わっていたら、犠牲者のうち、誰かは虎の檻の中で発見されていた可能性もあります」 「恐ろしい話だ……」 「さて、親方は権太の屍体をショウボートから運び出す方法として、百戯団が持っている虎の縫いぐるみを使おうと考え付きました。ずいぶん妙な考えですがね、親方はいつもこの調子です。西川旅館を大きくしたのもそうですし、右近丸をショウボートに改造して、地下に賭博場を作るなどもその考えの現われでしょう。親方はそれを思い付くと、すぐあたしを呼び、万事を楓さん達、奇術家に頼むように言った。奇術家なら、万事そつなく仕事を済ませると思ったんですな。そのときたまたま——じゃない、前から薬を飲まされていたトオトの工合がおかしくなった。それを聞いて、エローグはトオトを使って、得意の蘇生《そせい》術を行ない、親方を殺してしまおうと考えたんです」 「すると、権太の部屋でトオトが蘇生するのも、エローグの計画のうちだったんだな」 「そうです。トオトの工合が変になったのを聞いて真とグラントは虎の檻に向かう。そこでグラントはトオトに重ねて薬を与えたんでしょう。真ちゃん、その隙があったかね?」 「ええ……きっと医務長の満武さんを呼びに行った間だと思うわ。その後でトオトは急にぐったりしてしまったんです」  と、真が言った。芥子之助はうなずいて、 「さっきもちょっと話しましたがね、満武さんは親方から虎の屍骸が必要だと聞かされていますから、トオトをろくに見ないで死を宣告してしまう。すぐ親方は雪山さんに交渉して、虎の屍骸を譲り受けることになる。その間に楓さんとグラントは、権太の部屋で、縫いぐるみの虎の腹の中へ、権太の屍体を詰め込む作業に取り掛かる。さあ、楓さん、その前後のことを思い出して下さい。グラントの奇妙な奇術が始まりますから」  七郎は後頭部を掌で叩いた。記憶は正確でなければならない。 「一番最初、僕は芥子之助さんから権太の部屋のキイを受け取り、権太の部屋で、権太の虎詰めを作った」 「そのとき、グラントに怪しい点は?」 「……ないな。終りまで、仕事は僕が指図し、グラントがそれに従う形で進められたんだ。権太の部屋には、権太の屍体だけしかなかった。仕事が終わると、虎は部屋に残して、僕達は生まの虎を引き取りに、デッキに登った」 「その間、権太の虎詰めはずっと鍵が掛かった権太の部屋だったわけだ。廊下にはランペ健治がずっとギターを弾いていて、誰も虎詰めに手を付けた者はいない。その後楓さんとグラントはトオトを受け取りに行く。真ちゃんは廊下を見張っていた」 「僕達はトオトを受け取り、再び権太の部屋に入る。船室の廊下には誰もいなかった。そのときまで、権太が虎の中にいたことは確かだ」 「そうです。先生とグラントさんが、トオトを権太さんの部屋に入れるまでは順調でした。それを見ている人は、他に誰もいなかったわ」  と、真が言った。 「今、権太の部屋には、二つの虎がいる。そのとき、邪魔が入ったと聞きましたよ。恐らく、問題はその前後だったね。楓さん、続けて下さい」  と、芥子之助が言った。 「邪魔者は〈ファンファーレ〉の井本だった。井本は強引に権太の部屋に入り込もうとした。井本に二つもの虎の屍骸を見られちゃまずいことになる」 「そりゃそうです。で、どうして切り抜けました?」 「とにかく、僕は部屋から出て、井本を部屋の前から引き離す。その間、一時トオトをグラントの部屋に移すように、グラントに頼んだ」 「なるほど」 「縫いぐるみの虎が奇術師の部屋にあっても不思議じゃない。だが、本物の虎の屍骸を見られたのじゃ、その説明が厄介になると思ったからだ」 「もっともです」 「僕は部屋から出て、井本には僕の部屋を権太の部屋だということにして、井本をその前に連れて行った」 「で、楓さんの部屋をノックしたんですね。楓さんの声で、ははあ、邪魔が入ったなと思ったから、あたしは中でじっとしていました」 「その間にグラントさんはトオトを自分の部屋に運んだわ」  と、真が言った。 「真がもう大丈夫ということを目で知らせたから、僕は井本を権太の部屋に入れ、五分だけインタビューに応じた。井本を帰してから、グラントは再びトオトを部屋に戻した。廊下に誰もいないことを確かめた上で、縫いぐるみを手押車で船の外に運んだ。縫いぐるみからは大見食肉の車に運び入れるまで、目を離さなかった」 「そこだね」  芥子之助は自信たっぷりに言った。 「そこ?」 「グラントが玉葉と権太の屍体を入れ替えたのは」 「……変だな。グラントは一度も自分の部屋から玉葉を運び出さなかったぞ」 「でも、一時、虎をグラントの部屋に入れたというじゃありませんか」 「あれは、トオトだ。トオトの腹には屍体は入らない」 「楓さん、まだ欺《だま》されてんですか。グラントが自分の部屋に運んだのは、トオトでなくって、権太の虎詰めの方だったんですよ」 「えっ?」  七郎は丸く口を開けた。その代わりに頭の方が猛然と動き始めたようだった。積木の家が音を立てて崩れ、また組み上がると、以前とは全く違う建物になった。 「グラントは楓さんと真ちゃんが井本に気を取られている隙を見て、縫いぐるみの虎の方を自分の部屋に入れ、玉葉の屍体と入れ替え、再び権太の部屋に戻したんです。極く、簡単な手でしたがね」 「助手に変な奇術道具を手渡され、それに気付かないで演技をしているうち、演者も予想しない現象が起こってしまい、びっくり仰天している奇術家……」  と、真が言った。  それは確かに喜劇の一場面を見ているようだった。だが、誰も笑わなかった。 「グラントは、なぜ権太と玉葉の屍体を入れ替えるようなことをしたんだ?」  と、七郎が言った。 「それも単純な考えだね。グラントは自分の部屋にある玉葉の屍体をどこかに運び出さなければならなかったんだ。その方法は他にも考えていたと思うが、結局、権太と玉葉を入れ替える方がいいと考えたんだ。何しろ、二人もの助手が使えるんだからね」 「僕達は結局、グラントの助手を務めていたわけか」 「それに楓さん、縫いぐるみの虎を運び出した後、権太の部屋は空き部屋になった。グラントは権太を殺したとき、部屋のキイを持ち出していました。それで、楓さんが食肉店の車を間違えたことを知って、食堂へ真ちゃんと電話を掛けに行っている間、グラントは自分の部屋に残っている権太を、権太の部屋に戻すことができたんです」 「……じゃあこれ迄《まで》、僕達はグラントのために、いいように操られていたわけだ」 「あまり色色なことが、次から次へと起こったからね。考えをまとめる余裕もなかったんだ」 「これ以上、勝手にはされない」  七郎は立ち上がった。 「どうするんです?」 「グラントの首根っ子を押え、唄子を守るんだ」 「下手に部屋を出ると、楓さん、あんたの方が最初に捕えられますぜ。そうなると、グラントに最後のチャンスを与えることになる。おや?」  芥子之助の視線が止まった。見ると、馬琴の部屋に通じる隠し戸の上の非常灯が点滅している。 「誰か来る……」 「警察か?」  芥子之助は、素早く戸を細く開けたが、すぐ引き返して来た。 「いけねえ。楓さん、反対側の避難口に逃げるんだ」  芥子之助は部屋の電灯を消し、常備灯だけにした。三人は前後して避難口から抜け、暑い小部屋に出た。 「誰が来るんだ」  と、七郎が低い声で訊いた。 「グラントですよ。グラントが、誰かをかついで階段を降りていました」 「——唄子か?」  七郎は息が詰まりそうだった。  芥子之助はそれに構わなかった。小部屋の隅に積んである荷物を掻《か》き分け、その下から権太の屍体を引きずり出そうとしている。 「何をするんだ?」 「権太を使って、エローグにこっちの蘇生術を見せてやるんです。権太もそのためだったら悪くは思わねえでしょう。……真ちゃん、戸を細くして、グラントの来るのを見てて下さい」  真は戸の前にしゃがんだ。 「向うの戸が動いているわ」  と、真が言った。  芥子之助は屍体を引きずり出すと、両目をこじ開けた。天井を見ている目が出てきた。 「楓さん、胴を持って下さい。あたしは足を動かすからね」  ここでまた権太を担《かつ》ぐとは思わなかったが、こうなればどんなことでもする気になっていた。 「……グラントが出て来ました」  と、真が言った。 「さすが、回文殺人事件だ。最初殺されたレモンが、最後にも登場だ」  と、芥子之助が言った。 「グラントが担いでいるのは——唄子さんだわ」 「死んでるか?」  七郎は心臓がとまりそうだった。 「判りません。グラントは下に唄子さんを置きました。——あっ」  真が低く叫んだ。 「どうした?」 「三本剣です。グラントは先生の三本剣の剣を一本持っているんです。それを、唄子さんに打ち下ろす気だわ」 「畜生……」  最後までグラントは七郎を容疑者に仕立てる気なのだ。 「よし、戸を開けて、真は戸の陰に隠れるんだ」  と、芥子之助が言った。  戸が開けられた。七郎は権太を起こし、芥子之助は足を動かして、部屋の戸口に出た。 「グラント!」  芥子之助が、びっくりするような大声で叫んだ。 「手前、よくも俺を欺しゃあがったな……」  権太にしては柄の悪い口のきき方だったが、相手に与えた効果は強烈だった。  グラントは奇術用の剣を振り上げようとしたところだったが、芥子之助の声で、はっと振り返った。グラントは暗い部屋の隅に、明らかに権太が立っているのを認めたようだった。グラントは剣を下に落とすと、動かなくなった。 「今だ!」  芥子之助は権太の股《また》の間から飛び出した。  グラントには二重の驚きだった。グラントは部屋の隅に飛び退《の》いた。芥子之助は剣を拾い上げた。  七郎は権太を放り出し、グラントに飛び掛かって、突き飛ばした。 「ナナバム エローグ、又の名はノーム レモンだな」  床に転がったグラントは、上体を起こした。 「いかにも私はエローグだ」  グラントの目がぎらぎら光った。 「私は今迄、この日の来るのを待っていた……」  七郎は組み付いたが、今度は及ばなかった。グラントに構える余裕を与えたからだ。七郎はグラントの脚で蹴返《けかえ》された。芥子之助が剣を持って、飛び掛かったが、グラントはそれも軽くはね除けた。 「私を見破るとは、さすがマジシャンだ。だが……」  グラントは床に転がっている権太を足で蹴った。 「こんな安い手に掛かるとは……運がなかったんだな」  グラントは開いている避難口に駈け込んだ。真が行手をさえぎった。 「真、危ない。避《よ》けろ」  と、七郎が怒鳴った。 「先生の言う通りだ」  と、芥子之助が言った。 「それより、早く手当てしないと、唄子が死ぬ」  グラントは真を部屋の中に突き飛ばし、見えなくなった。 「真、唄子を頼む」  七郎はグラントを追った。  鉄の梯子《はしご》を伝わって、部屋へ。グラントは見えず、ドアには鍵が掛かっていた。七郎は自分のキイを捜すのにもたついた。  ドアを開けると、警察官が組み付いて来た。 「グラントはどこだ」  七郎はわめいた。一人が七郎の腕をつかんだ。 「グラントを逃がすな。あ奴《いつ》は唄子を殺したばかりだ」  他の警察官が唄子の部屋を叩いていた。グラントは唄子の部屋に逃げ込んだらしい。それを見て、七郎は叫ぶのを止《や》めた。  警察官はドアに体当たりを始めた。ドアはすぐ、めりめりと音を立てた。  ドアはすぐ毀《こわ》されたが、警察官は戸口から入れなかった。  グラントは部屋の真ん中に立ち、空になった瓶を捨てたところだ。ベンジンの臭いが部屋の中から溢《あふ》れ出た。 「グラント、止めろ!」  グラントは動きを止めなかった。グラントはゆっくりとマッチをすった—— 終章 奇劇《きげき》も仕舞《しま》い  岸壁を鋭く叩き付けていた雨が、いつの間にか小降りに変わった。  迷走台風は熱帯低気圧となって、消え去ろうとしているのだ。  船長の大館道夫と、機関技師の有田光次はずぶ濡れのまま岸壁に立っていたが、いつ雨が小降りになったかも判らなかった。  薄暗くなった沖合いに、紐《ひも》のような黒煙が立ち昇っている。狐火《きつねび》に似た小さな赤い火は、火になったショウボートだった。  岸壁に這い上がった人達は全員ずぶ濡れだった。地上に立つと、誰もが振り返って、呆然とショウボートを眺め、しばらくは身動きもできないでいた。  ショウボートの火の廻りは早かった。大館が火災の発生を知ったとき、船底に行くことはもう不可能になっていた。大館は芸人達の船室が最後迄気掛かりだった。だが、一刻の猶予もならない状態だった。大館は最後に巡視艇に乗り移った。  雨はかなり強かったが、風力が弱まっていたことが幸いだった。乗員のほとんどは救出され、百戯団は三匹の虎も救出した。虎に鎖を付けて海に落とし、エアボートで鎖を引きながら、虎を泳がせることに成功したのだ。  埠頭《ふとう》は騒然としていた。空にはヘリコプターが舞い、救急車や警察、報道関係者の車がごった返した。 「どなたか、森まりもをご存知ありませんか」  大館が振り向くと、夏物の背広をきちんと着た上品な紳士が立っている。その隣に唄子の姿が見えた。 「奇術師の助手をしていた、森まりもです」  大館は返事することができなかった。  大館の傍で西川徹矢が沈痛な顔をしていた。 「奇術師の女性なら、森真でしょう」  と、徹矢が紳士に言った。 「あなたは?」 「森真の、兄です」 「……そうですか。私は香取進一郎と申します」 「あまりにも火の廻りが早かった。真の姿を見る閑がありませんでした」  そこへ、事務長の小庭靖子が駈け寄って来た。手にくしゃくしゃになった紙を鷲《わし》づかみにしている。さっきから、救出者の確認に当たっているのだ。 「食堂関係では、コック長のシャロンさんの姿が見えません」  と、靖子が言った。 「そんなはずはない……」  大館はデッキでシャロンの太鼓腹を見ていた。充分に避難できる場所だった。 「ショウに出演している森真を探しているんです」  と、香取が言った。  靖子はせわしく名簿に目を走らせた。靖子の髪はざんばらだった。 「ショウの関係者が何人も確認されません」  と、靖子は言った。 「奇術師の楓七郎、森まりも、バンドのランペ健治、百戯団の劉雪山……」 「そんな、ばかな」  百戯団は三匹の虎まで救出している。そのとき、雪山が指揮をとっていたはずだ。 「うちの亭主がいない」  まなじりを吊《つ》り上げた、肥った女が駈けて来た。コミック体技のイザナミだった。 「——誰か、イザナギの姿を見た者はおりませんか!」  大館は唇を噛《か》んだ。未救出者は意外な数にのぼっているようだ。イザナミは亭主の名を呼びながら人人の間を駈け廻った。 「芥子之助も見えない」  西川徹矢の声がした。重苦しい表情だった。 「芥子之助?」  大館が聞いたことのない名だった。 「芥子之助は、船底の座敷にいたんです」 「……座敷」  大館は船底に秘密の座敷があることは知っていた。だが、その部屋に人がいるとは思わなかった。その人間の救出はとても不可能に違いない。 「私の、真よ……」  香取は岸壁に立って、沖に向かって叫んだ。手に白いハンカチが見えた。その横に唄子が立っていた。  いつの間にか、イザナミ、百戯団やバンドの全員が岸壁に集まった。  イザナミの大きな泣き声が聞こえた。  そのとき、桟橋からモーターボートが走り出した。操縦員の他に、制服を着た職員が二人乗っている。ボートはショウボートの方に向かっていた。  しばらくすると、ボートはゆっくりとした速度で戻って来た。大館は急いで双眼鏡を目に当てた。船はゴムボートを曳航《えいこう》しているのが判った。ボートの中には何人かの顔が見えた。 「シャロンさんが助かったぞ」  と、大館は叫んだ。シャロンの大きな腹が、最初に目に付いたのだ。食堂関係者の歓声が上がった。 「うちの、亭主は? 頭の長い男よ!」  イザナミが大館の傍に転がって来た。 「……いる、間違いない、イザナギさんだ」  イザナミはどっと岸壁に坐り込んだ。 「森真は?」  と、香取が言った。 「……女性が一人だけいます。若い、美人ですね」 「ブラボー……」  香取は手のハンカチをボートに向かって振った。  近付くに従い、大館はボートの中の六人を確認した。  奇術師の楓七郎は奇術用の剣を持って、真ん中にふんぞり返っていた。その隣に真がギターを抱えている。ベレー帽に八字|髭《ひげ》の雪山は曲芸用の木槌《きづち》を持ち、ランペ健治は釣竿《つりざお》を大切そうに抱えている。イザナギが扇子《せんす》で胸に風を入れている姿が見える。  なぜか、ボートの進行は遅く、桟橋に到着するまで、かなり時間が掛かった。  香取はどこからかワインを持って来て、栓を抜いて待っていて、岸壁に上がった七郎にワイングラスを手渡そうとした。七郎は軽く手を振り、瓶の方を受け取り、ラッパ飲みし、 「……雨の中、傘もささず、またたきもせず、ラワンデルの酒の香りと……」  と、歌い始めた。  唄子がそっと七郎の傍に寄った。唄子の目に涙が光っていた。  香取はすぐグラスを海に投げ込み、真の手を取り、荒荒しく抱き寄せて唇を重ねた。  真は香取の胸を離れると、必死で誰かを捜していたが、すぐ西川徹矢の姿を見付けて、傍に駈け寄った。  イザナギはおいおい泣いているイザナミを抱き起こそうとしたが、イザナミの腰はすっかり抜けているようだった。  シャロンの大きな姿がボートから出て来ると、その底の方から、一メートルもない小さな男が這い出してきた。七人目の救出者だった。 「芥子之助だ」  と、西川徹矢が言った。 「ちょっと、船から持ち出したい物があったんでね……」  シャロンと芥子之助はボートに結ばれた白いロープを、ゆっくりとたぐり始めた。ロープはかなり長かったが、そのうち、ロープの端に結ばれている物が、海面に浮いて来た。それは、虎の屍骸だった。二人は協力して、虎を桟橋に引き上げた。 「約束通り、あんたはレバーをもらいなさい。あたしゃあ、胃袋の方を頂戴します」  シャロンはにこにこしながら、虎の腹を撫《な》ぜた。芥子之助は虎の口を開けると、片手を突っ込み、奥を探っていたが、すぐ、赤黒い物を引き出した。  虎の胃にしては変だった。よく見ると、何か複雑な形をしていて、かなり重そうだった。 「先生、包む物」  芥子之助は奇術師を呼んだ。奇術師はすぐ自分のシャツを脱いで芥子之助に渡した。芥子之助は虎の口から出した品を、手早くシャツでくるみ込んだ。そのとき、芥子之助がぶつくさと、句のような文をつぶやいているのが大館の耳に聞こえた。 「——わたしまた、とっさにさっと欺《だま》したわ」 角川文庫『喜劇悲奇劇』昭和60年10月25日初版発行