平林たい子 うつむく女   正月の客  夫の順一の、会社からの帰宅はずっといままでも早いとはいえなかった。がこの一カ月さらにおそくなった。きょうも、門の鈴がなって、順一特有の重い靴音がひびいたとき珠子が時計を見たら、八時十分になっていた。  しかし、ともあれ一日離れていた夫の顔を見る満足は理屈ではない。二時間近く火鉢《ひばち》のそばにうなだれて鉄びんの吹き出す蒸気の白い羽毛を見つめていたみじめはその瞬間かるく吹きはらわれた。  珠子は、鬢《びん》のカールにそっと手を当てて立ち上りざま、前掛をうしろ手に外《はず》して玄関に走って行った。 「おかえりなさいまし」 「ただいま。きょうはきのうより早いだろう。何時かな」  と順一がいうところをみると、彼も、帰宅時間を気にしていることがわかる。 「八時打ちました」  珠子はおろおろ言って、待ち呆《ぼう》けていた恨みがひびいていはしないかと、自分の言葉の余韻に自分で耳をすます。 「稲子達がきょう引越したもんだから、そのアパートをかえりにちょっと覗《のぞ》いて来たんですよ。ところがひどい室でね、アパートといったって、隣室との間が襖《ふすま》で、男の人が住んでいるんだ。あんな室をさがすんだから、若い娘には任せておかれない。また用事がふえちゃってね」 「まあ、そうですか。はじめからこちらで探《さが》してあげればようございましたね」  珠子は、歪《ゆが》んだ表情をかくすため、下をむきながら、やっと咽喉《のど》から押し出すような声で言った。  算盤塾《そろばんじゆく》をして、稲子と麦子の姉妹を育て上げた健気《けなげ》な未亡人|袖子《そでこ》は、順一の従姉《いとこ》に当っていた。本来順一は、やさしい思いやりのある性質で、袖子が健在だった頃もかげになり、日向《ひなた》になり、その算盤塾のために看板のペンキ塗までして助けて来たものだ。  が、その塾が、袖子の病気のために閉鎖されて、母子三人の生活行路がけわしくなりだすと、順一の一家に対する憐愍《れんびん》は、とめどのない激しさで三人に注ぎかかった。結婚七年間に貯《た》めた虎《とら》の子の十五万円の貯金さえ珠子にことわってあらかたの十万円を一家に貸し出してしまった。歯をくいしばって、堪《た》えられるだけ堪えて来たさすがの珠子も愚痴をいうようになった。 「でも、あまりそうなすったら、却《かえ》ってあの方の自立心がなくなりはしません? 稲子さんだって、いまはもう月給とりですもの、会社にたのんだら、少しは融通できると思いますわ」  すると順一は痛い所を突かれたように目をしばたたいた。 「僕はこうしたいんだ。こうすれば幸福なんだからしばらく見ていてくれないかなあ、何か変な意味じゃないからね。貴女《あなた》は心配しなくてもいい。玉川一家は可哀そうですよ」  順一にそう言われると、珠子は、はげしく突掛りたい不満のはけ所を失って、自分の心の奥の壺《つぼ》に、その悲しみを溜《た》めておく他《ほか》ない。  それにしても人間の隣人愛というものはあんなに境のない広大なものだろうか。珠子には信じられなかった。彼をあんなに玉川一家に向けて駆り立てるものが何だか珠子にはわかっているがそれは言えない。珠子は、いつぞや、しみじみと、退職判事である実家の父の俊作にきいてみたことがある。 「お父さま、あなたは男だから、うちの伊田の気持がおわかりになるでしょう。いくら親類だからって、男が、あんなによその家族に親切にするの普通じゃありませんわね。この頃のあのひとのやり方ではとても我慢できませんのよ。どうお思いになります?」 「さあねえ、あれがあの男の身上なんだから、まあ見ておいで。薄情にするのを見るよりゃ、いいだろうよ」  俊作は事勿《ことなか》れ主義の男だから、常識的なことを言って、娘の珠子を慰めておいた。が、彼は珠子がかえってから、妻の磯江《いそえ》に 「何か、あの男は、珠子に不満でもあるのかね。本来孤独なたちではあるが。大分本をよむようだから、思想上の煩悶《はんもん》でもあるのかと、こないだ逢《あ》ったとき謎《なぞ》をかけてみたが、そうでもないらしい」  妻の磯江はしっかりした現実的な女だった。 「あれは順一が姉娘の稲子に誘惑されているのですよ。わたしには前からわかっていました。珠子にそれを言うのが可哀そうだから上手《じようず》に機嫌《きげん》をとらないと、夫婦の倦怠期《けんたいき》は恐しいものだとだけ、それとなく言っておきましたけれどね。可哀そうなものです。も少し気をつけてやりましょう」  こんなことを親子がはなし合っていた矢先に、稲子と麦子の母親の袖子は、持病の腎臓病《じんぞうびよう》が悪化して、順一の友人が院長をしている病院で亡《な》くなってしまった。  この前後、順一が玉川一家のためにした奔走は、言語に絶したものだった。家の客座布団《きやくざぶとん》はもち出す。卓も椅子も食器もリヤカーを雇ってはこぶ。自身は終電車でかえって来て、朝七時に起きて玉川家に行く。  珠子は、ひとり居の茶の間でときどき鏡をのぞき込んでポロリポロリと涙をながした。が順一の熱のあげ方が普通でないのでかえって空恐《そらおそろ》しくて、その勢に逆らうようなことはますます言えなくなった。  しかし袖子の葬送も終って、姉娘の稲子はしばらく休んでいた会社づとめに、妹は大学に、もとの生活が戻って来た。ひる間行ってもいないため、順一は、夜の時間しか姉妹を訪《たず》ねることがなくなった。珠子はほっとした。しかし、それも束《つか》の間《ま》、姉妹が家をたたんでアパートに移ることにきまると、いろいろな助言の必要からまた殆《ほと》んど毎晩姉妹の顔を見てくるとしか思えない。珠子がいくらか取戻した快活はまた失われた。 「御飯まだですわね」  珠子は、夫のうしろに回って外套《がいとう》を受けとりながら、こわごわとたずねた。母の注意もあって、この頃は、玄人《くろうと》めいた料理の本をかって、フランス料理のまね事をときどき試みる。きょうのは、季節ものの牡蠣《かき》を入れたコキールだった。 「まだですよ。腹がペコペコさ」 「じゃあ、すぐ……ちょっと待って下さいね」  彼女はしいて気軽く言って、卓にかけてあった布巾《ふきん》をのける。それから、台所にかけ込んで天火のガスを大きくする。もう、いくどもかけたり外したりしたために、二つの皿のコキールの牡蠣は醜くちぢんで衣は黒くこげていた。 「石上君はもう夕飯すんだの」  石上は、二階に住ませてある順一の後輩である。彼は、ある地方の建築会社の技師で、東京で請負った仕事を完成するために、すでに二年ちかく伊田家に寄宿していた。 「石上さんは、一人でさきに召上りました。もうさっき散歩にいらしったようですわ」  今を何時だと思っているというせい一杯の抗議をその言葉に託したつもりだったが、臆病《おくびよう》でひかえ目な珠子の口調には、非難めいたアクセントは全然ひびいていなかった。 「残念だ。彼に相談したいことがあったんだがなあ。またパチンコで十一時ころまでかえらないんだろうね」 「なんの御相談?」 「いやあのねえ、玉川姉妹のかりた室の襖を、こちらの費用で壁にしたらどれだけかかるか鑑定して貰《もら》おうと思ったのですよ」  またしてもあの姉妹の話かと、珠子はうんざりして、つい言葉少なになってしまう。  順一は、皿にのったあついコキールをスプーンですくいながら 「世間には、貪欲《どんよく》な間貸人もいるもんだねえ。古ぼけたバラック建築の六畳で、権利金が三万円に室代が五千円だってさ。それにくらべると家の石上なんぞ、ずい分得をしているね」  ああ、もう沢山。しかし、珠子は悲しみに歪みたがる頬《ほお》をしいてねじ曲げるように笑顔にふりむけて 「石上さんのようなおもしろい方なら、二千円でも高い位よ。ときどきセメントももってきて下さるし、国から乾鮎《ほしあゆ》もとって下さるし……」  と心にもない言葉をつらねて、むなしく調子を合わせている。そのとき、門につけた鈴がなった。 「石上君だな」  順一の心は、やっぱり、さっきの、玉川姉妹のアパートの襖のことでいっぱいになっていた。彼は、食後のお茶もろくにのまずに立ち上って、自分から出て行って二階にあがる石上を茶の間によび込もうとした。  しかし、玄関の硝子戸《ガラスど》をあけて入って来たのは、大丸髷《おおまるまげ》に、シールの長コートをだらりときた珠子の従姉の小夜子《さよこ》だった。 「今晩は。こんなにおそく御免なさい」 「おや、いらっしゃい。さあどうぞ。家ではまだ夕飯が終ったばかりのところです。ちっともおそかありませんよ」  順一は愛想よく言って、珠子をよぶ。珠子はその前から小夜子の声をききつけて、ぬれた手を前掛でふきふき出て来るところだった。 「あらまあ! いらっしゃい」 「おっほほほ」  珠子は、まず、小夜子の大丸髷に讃嘆《さんたん》の声をあげた。 「よく似合うわねえ。結いなれていらっしゃるから。でも髪結いさん近くにあります?」 「品川まで行くの。大変よ。半日待ってやっと結ってもらっていまかえりなの。おやじさんがひとりで待ってるけれど、かまやしないわ」  珠子は、順一の愚痴を腹いっぱい訴えようと思ったから、わざと小夜子を茶の間から遠い応接間につれて行った。 「小夜子さんはよく小まめに、日本髪に結うわね。上背《うわぜい》もあるし、似合うからお好きなんでしょう」 「ほほほ、大違い。こんな髪、手入れが大変だから、どちらかといえば私きらいよ。だけども、おやじさんの注文だから、仕方がないのよ」 「へえ!」 「貴女《あなた》だから打明けるけれど、うちのおやじさんは、私を自分の寝間につれて行こうと思うときには、必ず髪を結ってこいって命令するの。きょうも忙しいけれど仕方なしに行って来たわ。だから、少し暇をぬすんでやるの」  珠子は、小夜子の露骨な打明け話に少からずてれたけれども、そんなこともあるのか、と感心していた。 「じゃあ、こんどから、貴女が髷に結ってらしたら、あれだな、って思うわ。木下さんて、変った嗜好《しこう》をもってらっしゃるのねえ」 「ふん」  小夜子は木下がほめられると冷淡に鼻であしらって 「ときにどう、やっぱり?」  と間接的にたずねるのは、前にも二人で喋《しやべ》り合ったことのある順一の玉川一家への傾倒についてである。 「ちっとも変らないの。むしろひどくなった位、小夜子さん、どうお思いになる? 鑑定して頂戴《ちようだい》よ。順一と稲子さんとはどの程度の間柄なんでしょう」 「勿論《もちろん》だわ」 「勿論て——ないという意味? あるという意味?」 「まあある方でしょうね。遠くて近きは——よ。いくら女がつつましくしていたって男が承知しないから結局そうなるわ」 「そうかしら……」  いろいろな疑雲はわだかまっていたけれどもまさか、そこまでは行っていない、というのが珠子の実際の気持だった。だから、珠子は、小夜子の断定的なことばに自分でもわかる程、すうと血の気を失って、唇《くちびる》をわなわなさせながら急に、左手の結婚指輪を気ぜわしく、ぐるぐる回し出した。 「もしそうだとすると、堪《たま》らない。ああ、堪らない。どうすればいいのかしら」  小夜子は、気のよい善良さの輝いている目つきで下を向いた珠子のいらいらした顔をのぞき上げて 「でもそんなこと大したことじゃないわ。我慢するのよ。いまさら出るの引込むのといったって、お父さんやお母さんが悲しがるだけだし、二度目となればもっといい相手なんか、なかなかありゃしないのよ」 「羨《うらやま》しいわねえ、小夜子さんの徹底ぶりにはいつも感心するわ」  が珠子は、その言葉で小夜子が、木下のような不潔な男性と、大した事もなく中年を迎えようとしている心境が手にとるようにわかる気がして、むしろ小夜子が気の毒である。自分だったら、とても我慢できないで逃げ出したに違いない。  小夜子の夫の木下は、広義の意味での画家である。四科会成立のときの記録を見ると、れっきとした洋画家として発起人の一人になっている。が、何十年前のことは知らず、ここ十年来、ちゃんとした画をかいたことは絶無である。戦争中には、満州国皇帝の肖像だとか、敵前上陸の殺ばつたる光景をかいて善良な村や町で米|味噌《みそ》と交換した。戦後にはガラリとむきを変えて衝立《ついたて》に表装する春駒《はるごま》の女姿とか、あぶな絵のイミテーションの膝《ひざ》を立てた女の趣向などを日本画風にまねた。それが案外うけて、目の蒼《あお》い兵隊さんのお国みやげなどに羽根が生《は》えてさばけるようになってから、一歩一歩深味に入って行った。今では、仕事の殆んど半分は丁髷《ちよんまげ》の男と櫛笄《くしこうがい》の女のあられもない姿態の古典めいた絵だった。 「ちょっと失礼。待っててね。もっと御相談したいことがあるんだから」  珠子は、こんなやりとりの間にも、茶の間に一人でいる夫に気をつかっていた。彼女はせわしくスカートの裾《すそ》を揺すぶって、よくふいた廊下に走り出す。  そのとき、二階に住んでいる石上が、こんどはほんとに散歩からかえって来た。 「おかえりなさい。——」  と声をかけると、石上は、丸いきれいな目で珠子を正面から見て 「今晩という今晩は、玉を千個とっちゃったんですよ。煙草ばかりでも気がきかないから、おみやげは、ざっとこの位——」  彼は片手にかかえていたむき出しのコンビーフやビスケットや味の素《もと》を得意そうに玄関の板の間に並べる。 「あらー、でもこんなにとったら、お店がかわいそうじゃありません?」  珠子は、快活な声を出していたが、気持はやっぱり、茶の間の夫の方に向いていた。もしかしたら、そのわざとらしい声も石上がかえって来たということを夫に知らせるための作為だったかも知れない。ほんとに珠子の高い声がきこえたと見えて順一が顔を出して、石上を茶の間に招いた。これでまた、当分の間、順一と石上との間には、玉川姉妹のかりたアパートの壁の話が取交《とりか》わされる筈《はず》である。  珠子はうんざりして、石上が、くれるつもりでそこに置いたパチンコの分捕品《ぶんどりひん》を床からひろい上げて、茶の間に入って行く。 「またパチンコかね。君には人間を相手にする気持がないらしいね。現代青年にしては全くめずらしくできてるよ」 「ニヒリストというんでしょうね。きょうも、パチンコの玉の行方《ゆくえ》を見つめながら考えたんですが、どうも僕には、流行の平和運動まで裏が透《す》けて見えて、夢中になる気にならないんです。僕にとって、唯一の実在は、パチンコの鉛いろの玉とその運動だけですよ」 「実在か——」  順一には、そんな言葉も耳なれない。順一は、人間と人間との関係の中に、甘い可能性の夢を抱いて、この友人のためにとか、あの親類のためにとかいう口実で、忙しく無償に動き回るのが人生至高の奉仕だと考えている。玉川一家の虜《とりこ》になってからは、彼の博愛心は、その一家の人々の上にだけ、だんだんせまく限られて行くようになったけれども。 「ときに——」  順一は珠子が入れかえた急須をとって、鉄びんの湯を注ぐ。それ、いまから例の話題に変るのだ、と珠子は、もうきくのもうんざりという面持で、次の言葉から逃げるように、廊下に出る。  応接間の小夜子は、しっとりした艶《つや》やかな髷《まげ》の首を重そうに傾けて、長い襟足《えりあし》をのぞかせながら正月すぎの霜がれた庭の暗がりをガラス越しに見ていた。じっと一点を見つめて、またたきもせず突立っている姿にはなにか、無気味な凄味《すごみ》が体中から発散している。彼女は、珠子が扉をあけると、ぎょっとしたようにふり向いた。 「珠子さん、いまのひと二階にいる技師さんでしょう」 「そうよ」 「素敵な人ね。とてもすばらしいわ」 「そんなにほめたってだめよ」  珠子は、笑い出した。男性と見ると、特殊な官能がうごくらしい女ざかりの小夜子の言うことには、つねづねおそれをなしていた。 「あら貴女のためにほめて上げるのよ」 「私のためにですって——私はそんなにひらけていないわ」 「あんなこといってるわ。まあいい。それならそれで。その方が仕合わせかも知れないわ」  小夜子は、何か心に泛《うか》ぶらしい感情とないまぜた独言《ひとりごと》を言って「まあね、男なんて、知ってみれば可哀そうなだけで、何の変哲もないから、貴女のように考えてる方が結局無事かも知れないわね」  珠子はだまっていた。と、窓外を見てうそぶいていた小夜子が、突然珠子の手を痛いほど握った。 「珠子さん、わたし木下と別れようかしら」 「あら、どうして。突然そんなこと言ったってわからないわ」  しかし、その場のさし迫った感情はさっきからの珠子の悲哀を一度にどっとさそい出した。 「いま、私に夫と別れるなと言ったのは誰? いけないわ。いけないわ」  珠子は涙をばらばら振りはらって、小夜子の手をぱたぱた打っていた。 「だって、別れたいんだもの、仕方がないわ」  小夜子も、珠子の涙に誘われて、意味もなく涙をためながら、笑っている。 「きょうは何だか貴女の顔は気味がわるいのよ。御免なさい。きょうはかえって。いつかまた、もっと澄んだ気持のときにお話するわ」  小夜子がかえってしまうと、珠子は、夫達が喋っている茶の間には行かず、セーターの袖《そで》をめくって風呂におりて、さっきたいておいた湯加減を見た。ついでに、冷たい水で、手を洗い、興奮をしずめるためにいつのまにか「ううううう……」と鼻をならして無意味な韻律をつけていた。  茶の間の話は、ききたくない話題の峠をこえたと見えて政府の政策批判に飛躍している。 「いい政治をやれば、僕は誰でもOKですね。鳩山内閣反対とか、吉田内閣反対という言葉がマンネリ化しているのを、僕は最も憎みますよ。マンネリズムには感動がないですもの」 「僕は、いつもいうように鳩山内閣には、消極的だけれども賛成なんだ。社会党にどんな人物がいます? 彼等は反対派だから引立って見えているけれども、政治の場に立たせたら、見劣りがして始末がつかないだろうと思うんだ」  珠子は、手をふきながら、二人の政治論をしばらくきいていた。彼女は、順一には相談せずに、この前の選挙には社会党にいれていた。こんなことも二人はちがうのか、と夫の言い分に耳をすます。  彼女は、尚《なお》二人の話には入りたくない気持でうろうろしていたが、二階の石上の室の火鉢《ひばち》の火種がなくなっていはしないかと、あがって行った。ほのかに男性の体臭が匂《にお》っている六畳の室には、出身大学の校旗が壁にとめてあり、ボートのチャンピオンだった記念の銀カップが二つ、本棚《ほんだな》の上にのっている。あまり荷物がないのは、当座の東京滞在だからで、国の方の自宅には、ほかに大カップが五つもあると言っていた。  珠子は室の真中に坐って、石上がいつも坐る布団の上に膝をついて、火鉢の中の赤い火種を一つずつはさんであつめる。彼の座布団の上に自分の体を置いてみたのは、きょうがはじめてである。  彼がすって、灰の中に突込んだ煙草の林。彼が切る爪剪《つめき》り、彼の使う万年筆。珠子は、いままでこの室で気がつかなかった一つ一つの石上用の品物が、急に目前に生れ出たように、しげしげと見る。  小夜子が折紙をつけてから、急にそう思うのは、愚かな話だが、石上は、たしかに魅力のある明るい青年である。   ある夜  丸髷《まるまげ》の小夜子が郊外駅でおりたとき、改札の柵外《さくがい》の人ごみに、赤い頬《ほお》をした娘のしづ子が見えたような気がした。 「おや、あの子は、今晩立川に泊るといっていたのにどうしたんだろう」  立川には、小夜子の姉の久代のかたづいた島津ベーカリーがある。戦後の食糧難時代に久代の奮闘で基礎が築かれて、いまでは五つ六つの学校給食を握っている大きなパン屋になっていた。  しづ子は、通学している高等学校が立川にある関係から、父母にことわって、ときどき、子のない島津家に泊ることがある。  小夜子が階段を降りきって、改札で切符を渡しながら、も一度見ると、通学の黒いトッパーをきた彼女が、毛糸の赤い手袋の手を振って小夜子に微笑《ほほえ》みかけていた。 「ずい分待ったでしょう。この寒いのに、迎えになぞ来なくたってよかったのよ。どのぐらい待ったの」 「そんなじゃありません。ちょうど、お父さんの用事でそこの支那料理《しなりようり》屋に注文に来たから、ついでに来てみたのよ」 「へえ、誰かお客様?」 「ええ、佐渡さんと、井上さんと、今西さんです」  それで、しづ子が小夜子の帰宅時間も知らずに迎えに出ているわけがわかった。 「それは大変だわ。またお酒ね」 「皆さんで勝手にお燗《かん》しているから、わたし、塩辛の容《い》れ物とビールとお箸《はし》だけ出して、お使いに出てしまったの。わるかったかしら」 「わるかないわよ。毎度のことだからサービスもしきれないわねえ」  小夜子はなんとなく溜息《ためいき》をついた。父を恐れているしづ子はめったに不平をいわないけれども、父の弟子筋《でしすじ》の画学生くずれの佐渡や井上を嫌《きら》っていることは、よくわかっていた。彼女は、若芽のような、いたみやすいしづ子の心を庇《かば》うように 「いいわ、あんた離室《はなれ》で勉強おし。どうせ酒もりは二階でしているんでしょう?」 「ええ」  夫の仲間が現出するいつもの乱痴気さわぎをどう捌《さば》くかという計画は小夜子の胸の中ですぐ組み立った。それはそれでよい、と小夜子は話題をかえて 「なぜ立川に泊らなかったの」  すると、しづ子は、急に、目前の記憶を見つめる目つきをして 「きょうは、ちょっとほかへ回ったから——」 「どこへ?」  が、しづ子は答えずだまって、地面に目をおとす。その小さい抵抗が、小夜子の心に、何かこつんとかるくぶつかった。しかし、小夜子は、綿密にひとを観察する性格ではないから、そのまま、その話題は放棄して 「井上さん、灰色のセーター着て来たでしょう」 「さあ、どうだったかしら……」  子供らしく慊《あきた》らない答えだったが、小夜子は格別不平でもない。もとより子供に関係のある事柄ではないから。夫のところにくる画学生の井上が、最近、電話交換手と恋愛して、思いをこめた手編みのセーターをクリスマスにプレゼントされたという噂《うわさ》が、野次まじりに木下一家に伝わったのは暮だった。 「着ていらっしゃいよ。灰色ならきっと貴方《あなた》に似合うわ。彼女の貴重な贈物が見たいわね」  この前井上が来たとき、小夜子は井上に冷やかし半分にいった。井上はいままで、どういう意味からも、小夜子の関心を惹《ひ》く男性ではなかった。けれども、貧乏画家の彼がセーターを贈られるような恋をしているときいたとき「へえ、そんなことがあるのか」と、薄汚《うすよご》れした年下の青年を見直す心地《ここち》だった。  きょう、井上が来ているときいてから、小夜子はふとそのことを思い出した。あれだけ惚気《のろけ》ていたのだから、彼は、きっと小夜子に見せるつもりでそのセーターを着て、来ているにちがいない。  家の前までくると、木下の書斎になっている二階八畳の窓が雨戸もしめないまま、金屏風《きんびようぶ》を立てたような明るい黄色に輝いていた。すでにもう酒が相当回っているらしい声高《こわだか》な笑い声がひびく。 「いやだなあ。呑《の》ん兵衛《べえ》たちのお付合いは、ほんとにかなわないわ」小夜子は口走った。  しかし、そうはいっても、もう十何年、木下のような男とつれそった小夜子の習慣は、知らず知らず多くの部分で、木下の生き方と狎《な》れ合っているのである。だから、しづ子が「お母さん可哀そうねえ」と、しんみりいったとき、小夜子はその声音《こわね》の澄んでいるのにびっくりして、目を瞠《みは》った。  離室の炬燵《こたつ》に火を入れてしづ子をむりやり押しやって、さかいの板戸をぴたりとしめてから小夜子は、茶の間の鏡台に、きょう結った髷をうつした。  ぱっぱっと二つ三つついでに、鼻のまわりをパフではたいて二階にのぼって行く。 「いらっしゃい」 「わあ、ブラボー! いつ見ても奥さんの丸髷はすばらしいなあ。先生がお待兼ねでしたよ。さっきから先生はとても|あれ《ヽヽ》なんだからな」 「何いってらっしゃるのよ」 「あっはっはっはっは」  絵具や画架をごたごたおいてある隣の仕事部屋との間の襖《ふすま》をしめて、四人は、あらい八端《はつたん》の炬燵|布団《ぶとん》をかこんでいた。ビールの空罎《あきびん》と日本酒の二リットル罎をうしろの畳に何本もならべて、すでにもう相当酔っていた。炬燵にのせた大盆のするめや、落花生《らつかせい》の皿は汚《きたな》くたべ散らされ、ビールの栓《せん》ぬきは酒びたしとなり、漆《うるし》ぬりの上にこぼれた日本酒が天井の灯で琥珀《こはく》いろに光っている。 「どうぞ一杯」  と誰かがビール罎の口をさし出すのを、小夜子はそこにあった誰かのコップに受けてぐっとひといきにのんだ。 「おお冷たい。ぶるるる。きょうはチャンポンなのね」  といいながら、思い出して、井上のきているセーターを見る。あつらえ向きの灰色のごつごつした手編みだった。小夜子は、しなやかな手つきで、ビールを井上に向けて、彼がコップをさし出すのを促しながら 「素敵じゃないの。さすが彼女のお見立てだけあって、井上さんによく似合ってるわ。妬《や》けちゃうわねえ」 「だめですよ。奥さん、話をきいてみると井上はまだ彼女をほんとにつかんでいるわけじゃないです。彼女は、一度井上にあれしたきり、もう呼出しても来ないんですよ。このセーターが彼の初恋の形見になるのじゃないかな」  そばから、一番若い今西がいう。 「ノウ、ノウ、彼女はいま旅行中である」  井上が呂律《ろれつ》のあやしい口調で反駁《はんばく》する。 「こんな素敵な井上さんを袖《そで》にするなんて、彼女も女の冥利《みようり》につきるわね。私だったら、床の間に置いて三拝九拝よ」  小夜子は、しらずしらず、こんな雰囲気《ふんいき》にとけ込んで、木下の顔を見い見い蓮《はす》っ葉《ぱ》な言葉を口ばしっていた。  ビールと酒がいっぱい注がれたままの大コップと杯を前にした木下は、酒気の見えないいつもの蒼白《そうはく》な顔で、一としきり小夜子と皆がやりとりする間だまっていた。が、しばらくしてから皆の喧噪《けんそう》を制して 「おおい、おおい、さっきの話のつづきだ。井上はまだ女の扱い方を知らん。特にヴァジンの扱い方に至ってはなっとらん。女が逃げるのはあたりまえだ。したがって絵だってどこか抜けているよ。いくら田舎《いなか》のお百姓だって体操をしているような男と女じゃ雰囲気は出ないからな。きょうは俺《おれ》が手ずから、女の扱い方と、描き方を一緒に講義することにする」 「お願いしますよ。さっきから、もういくども宣言だけはきいているんですがね。さあ、謹聴謹聴!」 「ばか! そう簡単に講義できるか。きょうは実演だから、なかなか道具立てがいるんだぞ」  木下は興にのったら最後、限度を失ってしまう男である。彼は、今晩、小夜子の水もしたたる丸髷を見た瞬間、とんでもないことを思いついていた。  小夜子は、さっき酌をしたついでに、井上と今西とが入っている炬燵の間に割り込んで、井上の恋人に関した話題をしつっこくほじり出していた。  そのうちに急にあたたまったためか、すき腹にのんだビールが利《き》いて、自分でもおかしいほど、気持と体が羽毛にのったようにふわふわしていた。木下は、小夜子の浮き浮きした様子を見ながら 「よし、それでは、井上は、階段口の戸をしめて、誰が入って来ても入れないように気をつけろ。それから、小夜子は、長襦袢《ながじゆばん》一つになって来い。この頃めったに着ない派手な赤いのがあるだろう。あれを着てくるんだ」  木下は、蒼白な表情を崩《くず》さず、しつっこく命令している。 「なんだって! 私が長襦袢一つに——何するの。いやです。おことわりします」 「なんだと。俺のいうことにさからうのか。さあ早く着かえて来い」 「恥を知りなさい。恥を。気違いおやじ!」 「なにを喚《わめ》いてるんだ。いいから着かえて来い」  若い皆には、前からの話のつづきで木下の言葉の意味が小夜子よりさきにわかっていたが、さすがに何ともいえない面持である。しかし、日ごろの木下の言動や危い画の注文にも結構応じている、生活ぶりから言えば、彼がこんなことを考え出すのは、少しも唐突《とうとつ》でない。彼等《かれら》は、先輩の徹底ぶりを見習って、何ごともない顔つきで坐っていた。  はじめは、笑って拒んでいた小夜子が、いつのまにか目にいっぱい涙をためて、木下を睨《にら》みつけていた。が、木下は勿論《もちろん》彼女の顔なぞ見もせず、早く早くとせき立てている。彼女は、しばらく拒絶しつづけたが、夫の言葉つきがだんだんけわしくなって行くので、夫の命令の厳《きび》しさの程度をおずおずとはかっている。が、何か言い出したらきかない木下は、やっぱり小夜子の方は見ずに、彼女が立ち上るのを無言の威力で促している。  彼女が何と抗議しようと、命令は絶対にひるがえさないと日ごろ教え込んだ、自分の教育の結果を試みているような、不可思議な冷静さである。  小夜子は、大きい髷の|うなじ《ヽヽヽ》をたれて、強情に坐っていた。自分の夫の木下という男は、こんなばかげたことをする男である。こんな男と、いやだいやだと思いながら、十何年も一緒にくらして来たのである。今更にそんなことを思ってみる。その間に、木下が自分で立って行って、階下の箪笥《たんす》を引っくりかえして 赤い友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の長襦袢をもって来た。 「ほら! そちらのアトリエで着て来い」  彼はつかんで来た紅絹裏《もみうら》の長襦袢を、付紐《つけひも》の結ばれたまま、小夜子の方にぱっと投げる。かるい絹織物は表と共布の裾《すそ》をひろげてひるがえった。 「奥さん、冗談にするんだから、そんなに深刻にならなくたって大丈夫ですよ。先生もああおっしゃるんだから、ちょいと着て来て下さいよ。振付は先生がするからあなたは、じっとしてればいいんでしょう」 「冗談にもほどがあるわ。私を何だと思ってるのよ。そういう佐渡さんが、自分のいい人をつれて来たらいいじゃないの」 「悲しいことにいい人がないんでねえ」  しかし、それから三十分もたたない間に、一度は、涙まで見せて拒絶した小夜子が、酒の力が手伝っていつのまにか、けろけろと笑っていた。毎日の生活の虚無がむき出したやけな笑いだった。 「さあ、そちらの室でお召換えだ。その間に、このお盆をとって、そこいらをちょいと片づけておこう」  とうとう小夜子は、赤い長襦袢と一緒にとなりの室に、追い立てられた。 「早く早く。……勿体《もつたい》ぶるな!」  小夜子はまた躊躇《ちゆうちよ》していると見えて木下が襖をあけて、隣の室にどなり込んでいる。がとうとう小夜子がふてくされながら伊達巻《だてまき》を解く絹ずれの音が、しゅうしゅうひびいた。     *  *  *  階下の離室《はなれ》に、小夜子から炬燵をかけてもらったしづ子は、ノートや筆入や下敷のセルロイドを、炬燵板の上にのせて、じいっと物思いにふけっている。  彼女には父母に絶対にかくしている秘密がある。一年前しづ子が高等学校の入学試験のため、戸籍抄本をとったとき、まちがって吏員がわたした謄本に、二つちがいの妹千世子の名がのっているのを知った。それは、大きな衝動であった。  何故、父母は自分にそのことをひたかくしにしているのだろう。  そして、その妹しかほかに子供がないのに、両親が彼女をよそに養女にやったことについても、彼女の頭脳は、解釈の下しようがなかった。戸籍面では、千世子は、赤い二本の掛印で抹消《まつしよう》されて、十四年まえ石川力三、同しかという夫婦と養子縁組をしている。  しづ子は、まだ薄い浅い胸の中に、この熾烈《しれつ》な疑問を秘めたまま、重くるしい思いで一年を過した。その少女時代の一年間は、成人後の五年間にも匹敵する知恵の成長期間だった。  彼女はその一年の間に、どうしてもその妹にめぐり合おう、と心をきめた。ひそかに、石川力三、同しか夫妻の行方をさがすことにした。  立川の伯母の家の島津ベーカリーに時々泊るのも、ちょうど十四年まえの戦争中に、自分の一家が、その近くに住んでいたので、伯母の口からでも何か手蔓《てづる》を引き出して、そこいらをさがして見ようか、という下心があったからである。  しかし、伯母の久代には、絶対にこのことを口外しなかった。伯母の口からさきにそのことが洩《も》れて来ない限り、これは、母と伯母との間に秘密として、守るべきかたい約束があったにちがいない、と判断できたので、こちらから率直にきくこともできずに、一年たったのだった。  ところがある日、しづ子は、自分の家の古い手紙の束の中から、日ごろさがしていた石川力三という署名のあるハガキを見つけ出した。  しづ子の幼い心は喜びでわなないた。しかしハガキの文面は簡単だった。 「拝啓前略御申越の件|正《まさ》に承知|仕《つかまつ》り候《そうろう》。何卒宜《なにとぞよろ》しく御はからい下さるよう願上候、早々」  これでは何の意味かわからない。が、消印は十四年前で、差出人の住所がはっきりかいてある。見れば、伯母のパン屋のある立川市である。  しづ子は前から、その縁組の相手は、父母の知人と連絡のある人間か、そうでなければ、その頃父母の住んでいた立川市と何か因縁をもった人間と見込みをつけていた。やっぱりその見当は当った。 「わが見ぬ妹千世子よ。わたしは、お前のそばに一歩近づいた。ああ千世子、妹千世子よ、たとえ、どんなにお前が栄耀《えいよう》栄華をしていようとも、お前は、ほかに実父母と姉があることを知ったら、きっと鳥のように翼を生《は》やして、実の親のところに翔《か》けてくるだろう」  しづ子は、その日の日記にこんなことをかいて、石川力三とかいた、鹿爪《しかつめ》らしいハガキをそっと挟《はさ》んで、父母の見つけない鴨居《かもい》の裏にかくした。  そして、いよいよ、自分が立川で、その夫妻をさがす決心をした。  が、最初に試みたその番地での家探《やさが》しは、予想したとおり、見事に失敗だった。 「さあ、戦争のとき、ここは危険だというのでみんな疎開《そかい》して、すっかり変ってしまいましたからねえ」  それは、彼女には思いもうけたとおりの返事だったから失望もしなかった。  次に彼女は、市役所に行ってきくことにした。それを試みたのが、実は今日だったのである。  子供は、案外うまい嘘《うそ》をつくものである。そして、世間は、子供のいうことなら案外信用するものである。  きょうの午後、学校を早退《はやび》けしたしづ子は、市役所の窓口に行って、憐《あわ》れな中共引揚者の寄辺《よるべ》ない親娘《おやこ》だととっさな嘘を言った。  そして雲をつかむような石川力三の行方《ゆくえ》をさがす特別な骨折を、最初に行当った窓口の青年に、いや応なしに課してしまった。  予定したとおり、引揚者ときくと、相手は俄《にわか》に言葉つきさえやさしく改めた。彼は奥に引込んで、親切にいろいろな書類をしらべてくれた。  役所といっても案外ルーズなもので、国民一人一人の動静が詳しく辿《たど》られているわけではないらしい。ものの一時間半もかかったあげく、彼は市役所のある出張所の配給台帳にその一家が、都内杉並区下高井戸に転出したと記《しる》してあるのを電話できき出してくれた。  下高井戸といえば、国電を新宿で京王電車にのりかえてそう遠くない所である。しづ子は、すぐ電車にのった。  そこまで目的に近づいた以上、このまま家にはかえれない。その駅が近づくにつれて、しづ子の胸はしきりにさわいでいた。  三十分か四十分の間に、憧《あこが》れの妹の顔が見られるとは、何だか信じられない恐しい幸福であった。相手の千世子にとっても、この邂逅《かいこう》がうれしくないはずはない。  もしかすれば、彼女も、自分の生みの父母をもとめて摸索《もさく》していたのかも知れない。彼女にだって、いままでに自分の身の上をしるした戸籍謄本を見る機会がなかったとはいえないのだ。  親切な立川市役所の吏員が下高井戸の番地入りの地図を見て教えていたので、目ざす所番地はすぐわかった。しかしその番地に辿りついたとき、彼女はひどく半信半疑である自分を発見した。  したがって自分の妹がこの世に存在するのかどうか、石川力三なる人物がこの世に存在するのかどうかも同様に疑わしくなった。  しかし、そんな躊躇も結局は、妹とのめぐり合いが嬉《うれ》しいのと一緒に空恐《そらおそ》しかったからだった。急に、彼女が臆病《おくびよう》になっている目の前に、石川力三という表札の家は容赦なく現われた。   悪魔の喜び  浅ましい演技を木下と一緒に演じた日の翌《あく》る朝、小夜子はなかなか起きて来なかった。  娘のしづ子は母親の珍しい朝寝をいぶかりながら、自分でタイルの台所におりたった。白菜の漬物《つけもの》を洗ったり、塩辛をふた物に入れたりしてから、日ごろきびしい父親の木下とさし向いで、朝飯の卓に向う。 「何をそんなにぷすっとしているんだい」  ゆうべのおぞましい記憶を払いのけるように、木下が娘に声をかける。彼自身こそ日頃の蒼白《そうはく》な顔を、さらに蒼《あお》くして、目には、刃物のような寝不足らしい光を添えていた。 「…………」  しづ子は、無言で、ちょっと父親の顔をぬすみ見て目をそらす。娘も娘なりに、父親に言えない記憶をもっているのだ。  しづ子は、見ぬ妹に逢《あ》うためきのうたずねた、下高井戸の石川力三の家で、ひどく失望させられた。 「木下さん、はてな、どだいそんな名前をきいたことがないんですよ、変な話ですねえ」  出て来た四十がらみの、お店の旦那《だんな》といった男は、しづ子の言い分をきくと首をかしげた。 「じゃあお忘れになったんですわ。戸籍謄本には、ちゃんと、木下からこちらに妹が貰《もら》われて来たように、かいてあります。こんどとって来てお目にかけてもいいですわ」 「とんでもない話。私達は、夫婦二人きりで、二十年このかたくらしていますよ。家内が下町につかいに行っていて、お目にかけられないのが残念ですが、うそじゃありません。論より証拠に、そんな娘はどこにもいないでしょう」  かけ引も洞察《どうさつ》の目もないしづ子は、石川に言いまくられて、すごすごと引下るほかなかった。  どこに食いちがいがあって、当の石川がそう言いはるのか、家にかえってゆっくり考えようと、きのうは、そのまますごすごとかえって来たのだった。  しづ子は言葉少なに、支度《したく》をして、台所口から 「行ってまいります」  と出て行った。  木下は、丹前《たんぜん》の膝《ひざ》であぐらをかいて、しばらく新聞をよんでいたが、やがてそれをもって立ち上る。彼は、二階にあがる前に、夫婦の寝室になっている奥の六畳間を、ちょっとのぞいた。  南側一方だけしめた雨戸の室だが、東側は、すり硝子《ガラス》の腰高い窓になっているため、小夜子の横に向いた寝姿の布団《ふとん》の上に、レモン色のいさぎよい朝陽《あさひ》の光が染まっていた。彼女は、きのう結ったばかりの髪の鬢《びん》を押しつぶして黄色なべっ甲の櫛《くし》を畳の上に落したまま、布団の襟《えり》に鼻までかくして、戸口の方に背を向けている。 「小夜子」  と木下はよんだが、彼女は、眠ったふりをしていた。彼の足音がこの室に向いて来たとき、彼女は、わざと布団を顔までひき上げたのだった。 「いつまで寝てるんだよ。いいかげんで起きろ」  が、木下は強くも言わず二階にあがってしまった。  彼が去ると小夜子は、布団から顔を出して、きょろきょろあたりを見回した。が、また布団の中に顔までかくしてしまう。  ゆうべの記憶が頭の中にありありと見えている間は、娘の顔も誰の顔も見たくない。抵抗する小夜子を、上半身で押えつけていた河馬《かば》のようなゆうべの夫の顔が、布団の闇《やみ》の中に見える。その夫が貸し与えた懐中電灯をわなわなするほどしっかり握って、ぶるぶるふるえていた世にも善良な青年たち。  合成樹脂のような白さでその場に丸太みたいにほうり出されていた自分の片足。  夫の木下は、まだそう老いこむほどではない。けれども多年の不摂生が祟《たた》って、もう、戦争中から夫婦生活がたまにしか満足に行えない生理状態に陥って焦《あせ》っていた。その焦りを投げつける壁の役目をしている妻の小夜子の肉体は、もうずい分前に、木下の体から磁力が失われたことを本能で感得して、ひとりでにそっぽを向いていた。  材木のように、感性を失った男と女の索莫《さくばく》とした肉体どうしは、尋常な手段では、わずかにのこった磁気をよびさまし合うことができない。  彼は、二階のアトリエで、よく、ある瞬間の男女の姿をパステルでかいている。多くの場合、それは金にするためであるが、たまには、自分で自分を見るような一種異様な目つきをして、自分に見せるためにもかく。  その絵ができ上ると、彼は、じっとそれを一人で眺《なが》めまわしてから、おもむろに机のわきにある呼鈴をならして妻の小夜子をよぶ。  姉さんかぶりに鯉口《こいぐち》の半天で、階下の座敷にポンポンはたきなどかけている小夜子は、黒竹の柄のはたきをとめて二階に耳をすます。 「いやだわ。自分で散歩に行っといて、煙草を買わずに来たのじゃないかしら」  彼女は、不承不承、はたきをラジオの上においてのしのしと階段をのぼって行くのである。 「何か御用事?」  と彼女が、無邪気な目つきでのぞいたとたん、障子のかげに待っていた彼の馬のような目《まな》ざしが、じろりと彼女を見かえす。結婚以来もう、何遍となく彼女を見た見知りの或る目つきである。  彼女は、その目《まな》ざしで見られるたび軽蔑《けいべつ》と汚《きたな》らしさと浅ましさと、その他ありとあらゆる否定で心の内部は、ぎゅうっと歪《ゆが》んで来る。  けれどもその浅ましさの底に習慣的な刺激がかくれているのだ。彼女の足は気持を裏切って、足に白足袋《しろたび》をはいた大根のようなすべすべした脛《はぎ》を、裾回《すそまわ》しの中にちょこちょこ見せながら彼の方に歩む。 「なにか御用事?」  という質問のしらじらしさ。  小夜子が身構えるとたん、木下は腕をのばして 「来い、こっちへ来るんだ」  と小夜子の肩をつかんで、引きよせる。ちっとも珍しくない十年一日の如《ごと》きマンネリズムの行為であった。しかもその度《たび》に新しくさして来た潮のような新たな感情を、小夜子の中に誘い出すのはふしぎである。  十何年も一緒にくらして来た夫婦の感情は、言葉をもたない動物同士のように、その一挙措で、いやというほどすべてを通じ合う。  つねに過剰なものを自分の中に溜《た》めている小夜子は、こんなときとっさに相手の欲情と拮抗《きつこう》できる、はげしい落差を体内に呼びさましながら、いつも自分を半腹に飢えさせておく相手に、ふしぎな憎しみさえ感じた。そして石臼《いしうす》のような重さで、相手にぶっつかりながら、わくわくしてのめり込む。 「あら、あら、だめよ。だめよ——」  という意味もない言葉が、あぶくのように唇《くちびる》から洩《も》れていた。  立っているときには取り繕われている女の理性は、体が倒れるとその拍子にがらりと崩《くず》れて、全く別な生きものに変ってしまう。その瞬間、もう小夜子は、ひかえ目な妻という人間ではない。受身を習性にした女というものですらない。 「殺してやるから……」  という憎しみのいっぱいの低い声が、情欲で喘《あえ》いでいる歯の間から、きれぎれにきこえた。木下はその焦立《いらだ》った雌の咆哮《ほうこう》をきくと 「なに、この女《あま》め!」  と、うめき声をあげて躍《おど》り込んで行ったが、その声には自分で自分をけしかけている誇張があった。彼の情欲のまん中に、いつも真空みたいな穴があいている空虚感は、その瞬間にも、つきまとっているのである。  彼は相手が熔岩《ようがん》のように、ふつふつ沸いているのを目のまえに見ながら、それ以上は手も足も出すことができず、何かでがんじがらめにされている、虚脱した自分を感じる。だめだ……。  やがて、何分かすると、木下は薄《すすき》みたいに透《す》いた髪を、ほうけ立てながら無言で立ち上って、椅子にどっかりと腰をおろした。水っぽい音でマッチをすっている。  小夜子は、赤鰯《あかいわし》のような目に、新しく憎しみの加わった焔《ほのお》をもやしながら、夫を見すえて 「どこかに行って、うんときれいな女でも見てくるんだわね。こんなことじゃしようがない」  とあざけるように言った。 「ふん、煙草の匂《にお》いなぞさせやがって——」  木下はさすがにひけ目を感じて、弱々しく言いかえしている。  こんな道化た場面を二人は、何べん繰返したことだろう。そしてそのたびに、木下はますます自信を失って倒錯して行った。  そのころのある晩、木下は、同じ仕事の仲間で、同年輩の須山という男を、外からつれてかえって来たことがある。  例によって二階で酒になって、ねる段になると、床をしきにあがって行った小夜子を見て木下が 「おい、今晩は二階にねるんだ。お前も来るんだ」  と命令した。  もう何かいやなことを予感した小夜子は、須山の顔をみて意味もなく笑いながら 「男同士でねる方が、話が合ってよござんすよ、ねえ須山さん」  と彼の助け船を促した。 「さあ、木下君はどっちだかね」  須山は日ごろの割り切れない表情を、ますます不透明にして、なかなか小夜子の希求どおりにはのって来ない。二人は、なにか、その前に話し合っていたにちがいない。  木下夫婦は、その年齢になっても、ずっと一つの床にねる習慣だったが、小夜子は、ここでは、まさかそうするわけにも行くまいと思って 「布団を下からもって来ましょうね」  と夫の顔を見た。 「いらないよ。めんどうだから二階にあるのに三人で一緒にねればいいよ」  それは、寒い頃のことではないから、一応、木下のいうことは理屈にあっていた。小夜子はそんなことはいやだったが、強くも言えなかった。やがて二人は支度をととのえて、便所におりた小夜子のあがってくるのを待っていた。 「さあどうぞおさきに。窮屈でしょうけれど、私は座布団《ざぶとん》を足しにしましたから、須山さんはごゆっくり——」  小夜子は二人がねてから、天井の電灯を消して、暗くなった所で、夫のそばへ横になるつもりだった。  ところが、木下は、須山がねてもまだ突立っていた。 「あなた早くねて下さい。電灯を消しますよ」 「いいんだ。今晩はお前がそこにねなさい」 「何言ってるの。変なこといわないでよ。失礼じゃないの。ねえ須山さん」  須山の隣に小夜子をねさせよう、という木下の案が、そのときはじめて小夜子によめた。木下と須山が考え出しそうな、どぎつい不真面目《ふまじめ》な試みだった。 「どういうわけで、そんなことするんですか。おかしいじゃありませんか」  小夜子はしばらく憤って立っていた。 「ねろと言ったら、ねたらいいじゃないか。別に何もわけはありゃしないよ」  と木下に言われて、しぶしぶと須山のとなりの場所にねた。もうこんなことは、木下との間にはいくどもあったようで、拒絶する張りもない気持だった。  三人が床に入って、電灯を消すと、木下は、向うを向いて、蝦《えび》のように体を曲げていた。小夜子は、須山のそばに取残されたような、ぎごちない気持で、木下の方を向く。すると、予想したとおり、須山が小夜子の体をつかんで、丸太のように、ごろりと向うに向けかえる。小夜子は体を横にするのと一緒に、立っているときの理性が、もうなくなっていた。小夜子は、須山に反抗して、またごろりとねがえりながら、木下の体をつねってやった。こんな戯れを考えついた木下に、それは抗議の意味だった。が、木下は、向うを向いたきり、つねられる腰を手で払うだけで夜中こちらを向かなかった。  須山はまた夜中もぞもぞと動いて、小夜子のそばによって来たり、抱きついたりした。小夜子は、自分の寝巻の裾を両足の間に、きつくはさみ込んで、彼に対抗するために一睡もしなかった。——人にも語れない愚かしさと、いやらしさである。  しかも、木下は、こんなことをして、客をもてなしておいて、客がかえってしまうと、こんどは自分がけだものに変るのであるが、どんなに木下が猛《たけ》り狂っても、小夜子には、結末が見えすいていて、なかなか相手の感情に乗って行かれなかった。しかし結局、誘い込まれて、彼女が力をぬいていた感情を集中しはじめる頃には、木下は索莫として、煙草に手をのばしている。煙草のやにで黄色に染まった彼の手を小夜子は、情ののぼりつめた強い腕で、二つ三つはげしく殴《なぐ》ってやる。  ——木下は、こんな男である。そして、小夜子はこんな女である。二人は、陰性と陽性の両極端で、ひどくかけちがっていたが、結局、一個のよい組合せだったかも知れない。習慣というものは恐しいもので、いやだいやだと思いながらくらした十何年の間に、小夜子はすっかり木下の妻としての適応性を身につけていた。     *  *  *  さて、あのいまわしいことを、二階で演じた日から二日たっていた。  ——しづ子がまた立川の島津家に泊ったので、ある晩、夫婦はさし向いで、湯豆腐《ゆどうふ》の鍋《なべ》をつついていた。料理のやかましい木下の躾《しつけ》で、小夜子の手料理は、なかなかばかにならない手ぎわだった。  木下が大好物の烏賊《いか》の塩辛は、去年のうちに漬《つ》け込んで適温の場所におき、毎日一度ずつかき回して、よく熟させたものである。彼の好みで、柔かい御飯の麹《こうじ》をいれてからぐんと甘味が増して、ふたものの中に桃色の何ともいえない艶《つや》を湛《たた》えている。  彼女は卓上に猪口《ちよこ》や取皿を手ぎわよく並べてから、豆腐にスが入らないように、瀬戸七輪の火をのぞいて加減していた。その顔色を見ていた木下が 「何だい。額に汗が出ているじゃないか」 「あら、そうですか。べつに暑くもないんですけれどねえ」  小夜子は、さっきから少し腹痛を感じたが、我慢していた。  ひるま、木下の嫌《きら》う鯖鮨《さばずし》を百貨店から買って来てたべたので、腹痛だと打明ければ、しつこい木下から何か言われるにきまっている。気むずかしい夫が、機嫌《きげん》よく晩酌をすまして床につくまで、小夜子は辛抱するつもりでいたのである。 「どうしたんだよ。顔が蒼《あお》くなって来たぜ」 「実は、少しおなかがいたいの」 「それ見ろ。鯖鮨なんぞたべるからだよ。口のいやしい奴《やつ》は、しようがない」木下は舌打をして、自分の忠告が受けとられなかった口惜しさを反芻《はんすう》している。たったいままでの上機嫌は忽《たちま》ち崩れて、険しい雲行になった。 「薬をのんで来い! 腹の痛い人間を相手で酒がのめるか」  と、もう大きい声になっている。小夜子には、耳なれた罵声《ばせい》だから動じない顔をしていた。が、仕方なし木下の憤りを押えるため、富山の薬をさがして一服のんだ。しかし腹痛は激しくなるばかりである。  とうとう彼女は、夫のまえに、苦痛を取りつくろい切れなくなった。 「どうしたんでしょう。痛みがとまらないわ。二階の炬燵《こたつ》で少し横になりますから、お一人で、海苔茶漬《のりちやづけ》をあがって下さい。罐《かん》は茶箪笥《ちやだんす》にあります」  彼女は二階にあがって、押入からうすい桃色の掻巻《かいまき》を出す。自分の背中にかけながら、がくんと傾いた丸髷《まるまげ》を枕《まくら》につけて横になった。  この炬燵に入ると、いや応なく、二日まえの晩の醜い光景を思い出さざるを得ない。小夜子は、掻巻をかぶってまたあの場の光景をこまかく復習していた。いままでにも、夫の木下という人間に尊敬を感じたことはない。けれども、あのときを境にして、夫という人間のもっていた、人間としての艶のようなものが、すっかり褪《あ》せてしまった。いまでは、彼の描く浅ましい画の中の一人物のようにしか感じることができない。  彼女は、腹を座布団に押しつけて低くうめいていたが、やがて、そのうめき声がだんだん高くなった。  階下の木下は、いつもの蒼白《そうはく》な顔で、古備前《こびぜん》の徳利からちびりちびりと酒を注いでのんだ。しばらく、小夜子のうめき声にきき入りながら、色のうすい酒を杯の中で見つめていたとき、玄関があいて井上が入って来た。 「やあ、やってますねえ」  と外套《がいとう》をぬいで、どっかり小夜子の座布団に坐ったところを見ると、例の灰色のセーターを、コール天のジャケットの下に着ていた。 「何だい。何をもって来たんだ」  木下は、もう大分酒のまわった調子で、井上のかかえた本のような、新聞包みをとがめ立てする。彼は、酒好きのくせに、体が弱いせいか、すぐ酒によう。せいぜい三合くらいでへべれけになってからんでくるのである。 「これですか。実は、寄付をいただきたいんですよ。安間がまた喀血《かつけつ》したので、相談して病院に入れることにしたのでね」 「俺《おれ》はいやだよ。奴《やつ》は俺のところに一年近く足ふみしていないんだぜ。何のいわれがあって、奴に俺が金を出すんだよ」  二人が声高《こわだか》に話していたときにも、二階のうめき声はきこえていた。 「おや、奥さんですか。唸《うな》っているのは。どうしたんです」 「どうしたのか知らないよ。さっきから、腹がいたいといってるんだがね」  二人が喋《しやべ》っている間中、小夜子のうなり声は、やはりつづいていた。井上は不安な面持で、ろくに木下の言うことに返事もせず、二階に注意を奪われていた。 「中毒でもされたなら、お医者さんをよばなくちゃいけませんね」  木下は、井上に 「大したこたあないよ。が、じゃあ、ちょっと見て来てくれ給《たま》え」  井上は、勝手知った階段をとんとん昇って行った。  小夜子は、階下の話声をきいていたので、二階にのぼってくるのが、井上だということは知っていた。しかし枕に額をつけ、腹這《はらば》ってちぢこまった体を動かそうともしなかった。 「ずい分いたいですか。医者をよびましょう」  井上は立ったまま、丸髷の小夜子を見おろしている。二日まえに演じた、凄《すさま》じいシーンの点景になっていた、桃色|友禅《ゆうぜん》の掻巻を見ると、彼の連想はやはりいや応なしに、あの晩の光景に移って行かざるを得ない。  彼は急にだまって立っていた。  小夜子も、返事をせずにうめいている。 「背中でももみましょうか」  とまた声をかけられたので、小夜子は、はじめて、そこに井上がいるのを発見したように、ぱっちり目をあいた。井上のジャケットの胸から灰色のセーターが見えていた。 「ちょっともみましょう、どこがいたいんですか」 「すみません。じゃあ脊骨のここいらを押してみて下さい」  井上の坐るけはいは、目をつぶって感じとった。彼は、小夜子のかけている掻巻を少しめくって、小夜子の背に手をかけた。彼は、そのへんの小夜子の体の地理を、あの晩以来見知っているのである。井上の手は思わずふるえた。彼は、小夜子の固く盛上った腰のあたりから目をそらした。 「おや、この人はふるえているんだわ」  小夜子は首を回して、前かがみの井上を見る。井上がはりつめた表情で、わなわなしているのが可愛らしく思われた。階下では木下がどんな気持でいるのか、二階のひっそりした気配も気にならぬらしく独酌の酒をつづけている。   稲子と麦子  万事にだらしない木下家とちがって、伊田家の朝はすがすがしく秩序立っている。  二階の石上は、さっき、いつもの時間かっきりに、赤革《あかがわ》の真新しい鞄《かばん》をさげて、二階からおりて来た。  珠子もいつもの順序どおり、その時間には応接間の椅子に、乾布巾《かんぶきん》をかけていた。  石上が階段をおりてくる足音をききつけると、彼女は手製の掃除帽子をかなぐりすてて送りに玄関へ出て行った。彼の靴は、順一のと一緒に、毎朝早く珠子が、艶々《つやつや》と磨《みが》いて並べてある。 「きょうは、会社の連中と社用で、秩父《ちちぶ》の奥の三峯《みつみね》山にのぼることになっているんですよ。雪があるだろうなあ」 「じゃあ、今晩はそちらにお泊りね」 「ええ、多分——」 「お寒いわ。きっと。よく着ていらっしゃらないと大変よ」  石上は、そこに出してある靴を、はかないつもりらしく、下駄箱をのぞいて、あと二足ある自分の靴を見くらべている。  珠子は、板の間に膝《ひざ》だけ突いて見ていた。彼女は、見送りの時間が長くなるのを気にして、夫の順一が鬚《ひげ》をそっている洗面所の方に、気持をはしらせているのである。 「結局、登山靴にするかな。大した山じゃないけれど、すべらない靴でないと危いですからね」  彼が手にとって見ると、平生使わない登山靴の紐《ひも》が、とったままになっている。下駄箱のすみにあった、新しい紐を替えるとなると、まだ二、三分かかる。  珠子の腰は、立ち上りたさでうずうずしていた。洗面所の夫が、聞き耳のアンテナを立てているような感覚が、電流のようにびりびり伝わってくるのである。 「あのちょっと……じゃあ気をつけて行ってらっしゃいませね。夕飯のお支度《したく》はしないでおきますよ」  とうとう珠子は立ち上っている。石上は怪訝《けげん》な面持で、そわそわと応接間に向いて、歩き出した珠子の後姿を見ていた。  石上は、この頃、珠子の自分に対する態度が、微妙に変っているのを、感じていた。  これだけ長く、この家に世話になっていても、彼は、かつてまだ、珠子の待遇に不平をもった経験がない。彼女は若い女には珍しく感情の均斉のとれた、躾《しつけ》のよい女だった。が、この頃、何か、彼女の心の中に、自分のうかがい知れない黒いかたまりが生れた。それが、何であるかは、女性を知らない彼には、とうてい想像もつかない。まさか、自分の寄宿を、急に邪魔にするわけもないし……、彼は、正直に疑問を泛《うか》べた目《まな》ざしで、応接間の窓にちらちら見える、珠子をぬすみ見て、門を出て行った。  石上が出かけて三十分たつと、夫の順一が、茶の間から寝室の洋服|箪笥《だんす》の前に現われる。彼は、珠子の手つだいがなくとも、自分で機嫌《きげん》よく、ワイシャツやハンケチを出し、畳に坐って靴下をはく始末のよい夫である。  しかし、珠子は、襖《ふすま》の音をききつけると、ポーチに水を流していた箒《ほうき》を投げ出して、さっきと同じ足どりで、寝室に走って行った。 「シャツお着かえになりません?」 「いいよ、まだきれいだ」 「ズボン下の上に、も一枚毛糸のをおはきんなると、腰のまわりが温いだろうと思いますわ。ためしてごらんになったら」 「腰が厚くなって、おかしいよ」  何を言っても、板に礫《つぶて》が当るみたいに、夫はにべもなく弾《はじ》きかえす。彼の心は、稲子と麦子の住むアパートに、境の壁をつけてやることで、いっぱいなのだ。  もし、珠子が、その話題の皮を切ろうものなら、彼は忽《たちま》ち、とめどもない雄弁になって、珠子の淋《さび》しそうな表情なぞ、目にも入れず、頭にむらがっている姉妹へのプランをたのしそうに喋《しやべ》りつづけるだろう。  あれから、彼は石上に教えられて、ベニヤ板をはることにして、大工までつれて行った。が、それではあまりみじめだというので、また、壁にすることにかえて、家を建てたとき出入りした左官を、大工につれて来させて、みつもらせた。それから、しばらくたっているから、壁はもうできかかっている頃である。  珠子は、ひとりでにしょんぼりして、うつむいていたが、ふと顔をあげて 「石上さん、今晩秩父にお泊りなんですって。この頃、何だか物騒《ぶつそう》だし、も少し早くかえっていただけないかしら」 「ああ、いいよ。いいよ。だが、きょうだけ勘弁してくれ。あすから必ず早くかえる。今日だけだからね」  こんな約束を、もう何遍もきいたような気がする。実行されずに繰返される誓いほど、白けたものはない。 「貴方が毎晩おそいもんだから、家には、ずい分いろんなことがあるんですのよ」  珠子は、ふとしたはずみに、こんなことをいい出した。 「何かあったの」  順一は、何の気もなく問いかえした。が、珠子の目つきが、不可解な狼狽《ろうばい》ぶりを現わしているのに目をとめた。 「何があったのさ。言いなさいよ」  そう問いつめられてから、珠子は、ほんとうにうろたえ出した。とっさに不自然でなく、言いまとめる口実のもち合わせもなしに、こんな大それたことを言い出してしまったのだ。 「なぜ言わないの。言えないことなのかい。とにかく言ってごらんよ」 「言えません」  と、頑《かたくな》に順一の言葉を振払ったのは、依怙地《いこじ》というよろいとかぶとの中にかくれて、曖昧《あいまい》に時を稼《かせ》ごうとする卑怯《ひきよう》に外ならなかった。  順一は、しばらく口を噤《つぐ》んで、洋服箪笥の鏡の中にネクタイをしめる手つきをうつしていた。彼が、いまの珠子の言葉で、不意な衝撃をうけているのは明らかである。  珠子は、大きく目を見ひらいて、一瞬息をのんだ。いまの打明け方と、具体的な意味をわざと廻り道するそぶりとでおよそ、どんな種類の想像を彼がしたか珠子にはわかっていた。或《あるい》は、そう思わせる予定の口ぶりで、珠子はあんなことを言い出したのかも知れない。その言葉をのせた瞬間の唇《くちびる》は「発作的」という言葉にふさわしい梃子《てこ》のような簡単さで、その言葉を空中に突放してしまったのだ。 「よし、じゃあきくけれどね、貴女《あなた》の告白は、この家の中に住んでいる人間に関しているね。ちがうかい」 「…………」  珠子は、頑にだまりながら、さっき、自分が、石上と二、三分ながく玄関にいるのさえ夫の気をかねていたことを思い出す。それほどな心づかいをしていた自分が、こんな大それたことを言い出してしまった心理のプロセスは自分ながら、思いがけない跳躍だった。  かつて、あらい言葉をかけたことのない順一だけれども、さすがに、不愉快な沈黙で玄関に出て行った。  知らず知らず珠子は、目にいっぱい涙をためて膝をついていた。 「お願いです。今晩だけ早くかえっていただけませんか、貴方は誤解なすっていらっしゃるのよ。もっとお話したいんですわ」 「それはそれとして、誤解? 誤解も正解も何もいわないじゃないの。さっきも言ったろう、きょうはだめです。あしたから、早くかえるからね」 「そうおっしゃらないで、今晩だけ——願い……」  順一は、結婚以来、こんなに取乱した珠子をはじめて見た。熱すぎも、冷たすぎもしない、空気の温度のようにいわば居《い》心地《ごこち》よい珠子が、こんな狂瀾怒濤《きようらんどとう》に身を任せ得る女だとは一つの発見だった。  しかし、それはそれとして、今彼女が言いはじめて、口をつぐんだ告白は、ききすてられない問題である。  順一は、それをどう扱ってよいか、考えのまとまらないまま、にがい表情で、駅への道を歩いて行った。が、ひょっと想念が、玉川姉妹の上に切換えられると、ぱっとそこから光が射《さ》したように救われた。何はともあれ、今晩行けば、きのう上塗を終りかけていた、壁の出来上りを見ることができる。珠子が勘ぐるような深い理由は何も潜んでいないけれども、彼は、やっぱり姉妹を助けることで、なぜか心の渇がみたされるのだ。  会社が五時に終ると、順一はその足で、玉川姉妹のアパートをたずねた。  もうすでに、同じ時刻に訪れる同じ足音の訪問者として、彼は、その建物内である意味を添えて有名になっていた。 「今晩は」  流しで洗濯している左隣の妾《めかけ》に、彼は同宿人の取沙汰《とりざた》などに全然無関心な言葉をかける。その声調には、通り一ぺんでない善意がひびいている。そのとき便所を出て来た青年と灯のくらい廊下でふと目を見合わせた。襖《ふすま》を壁につくりかえる原因になった右隣の住人である。  順一は、いまはじめて、この青年と真正面から顔を合わせることになったのである。うしろから垣間見《かいまみ》たときには、痩《や》せて身なりの悪い男の印象だったが、それは、光線のせいだったのだろう。前から見ると、どうして、本場スコッチの形よい辛子色霜ふりのジャケットにグレイの折目正しいズボンで、赤い斜縞《ななめじま》のネクタイをちゃんとむすんだ逞《たくま》しい青年である。 「今晩……」  彼にも惜しげなく挨拶《あいさつ》を与えたが、あとで、鏡に息を吹きかけたように、自分の感情がふっと曇るのを覚えた。順一には、稲子達が二晩、鍵《かぎ》のかからない襖を境にして彼と同じ屋根の下でねたということが堪《た》えがたいのだ。 「今晩は——。寒い風ですねえ」  青年は思いがけず、なれなれしい口ぶりで挨拶をかえす。彼はびっくりした。間の襖を壁にする工事そのものが真正面から何か失礼なものを彼に投げつけることであったし、濡《ぬ》れた下塗で幾日も過させたのは大変な迷惑であったにちがいない。が、それを彼が憤っていないとは、姉妹にとって幸いだったと言わねばなるまい。  彼はしかし、それでもいつものように日本晴の上機嫌ではなかった。けさ、珠子が、取乱した瞬間に、思わず口ばしった異様な言葉が、一日中胸につかえていた。自分が、家を外同様にして、この姉妹のことでいっぱいになっている間に、家には、何かいやなことが起っていると見える。  だが、それもみんな自分のせいだ。自分がこんなことをしている間に、珠子が何かで裏切りをしたとしても、どうして彼女を責められよう。皆自分がわるいのだ。もうしばらく我慢してくれ。ほんのもうしばらくの間だ。そうすれば姉妹は、自分の保護のいらない完全な大人になる。  しかし、そんな自己|苛責《かしやく》も、二階の階段口に、玉川と紙をはった扉が見えた瞬間、忘れてしまった。  順一はノックもせず、何やらよい匂《にお》いのする姉妹の室に入って行った。  せまい六畳の室には、ミシンと机と鏡台とがごちゃごちゃ並んで可憐《かれん》な小型の茶碗《ちやわん》をのせた小さい欅《けやき》の食卓は片隅《かたすみ》に押しやられていた。 「稲ちゃん、貴女のだろう。物干台にナイロンのブラウスが干したままだよ」  いまその卓で食事が終ったところと見えて、稲子はアメリカ製のフィルターつきシガレットをくわえていたが、順一の声がきこえると一緒に悠々《ゆうゆう》それを卓の下の灰皿で押しつぶして 「あら! 干しもののことをすっかり忘れちゃったわ。……」 「いいよ。僕がとって来てあげるよ」 「すみません」  気のよい順一は、もう扉の中から体を翻して廊下に出ている。彼女の一種柔かみのある「すみません」は、快い命令となって、易々《やすやす》と彼を行動に赴《おもむ》かせるのだ。そばに坐っている麦子は、その間フッフッとあたりに立ちこめた煙草の煙を吹きはらって 「お姉さんてばだんだん大胆に煙草をのむようになったのね。おじさんが見つけたらびっくりして気絶なさるわ」 「いいわよ。もう猫かぶりもいいかげんにしなくちゃ、とても繕いきれやしないわ。気骨が折れることおびただしいもの」  いま二人が交《か》わした会話を知らずに、順一はそこへ入って来た。靴をぬぐと、どっかり腰をおろして、物干から外《はず》して来たかるい水色ナイロンの紗《うすもの》を手でもてあそびながら 「壁のそばへ家具をもって行ったらだめですよ。当分ひどい湿気があるんだから。ほんとうなら、ここに住んでいるのも体に毒なんだけれどねえ」  順一は、この壁が完成するまで、姉妹を自分の家につれて行こうと一度は思ったことがある。珠子に気兼ねして、それはやめたけれども。ああ、世間も妻もないなら、この可憐な姉妹を家に連れて行って、掌《て》にのせた珠のように、朝夕ためつすがめつ暮らしたら、どんなにたのしいだろうか。——  しかし、それを思うにつけても、けさ珠子が示した不可解な錯乱ぶりが、いまの幸福感に翳《かげ》を与える。珠子の気持を考えると、こんな耽溺《たんでき》をやめて何とかしなくちゃという焦《あせ》りは感じるけれども、指の間から命ない砂がもれるように、自分の気持は、この姉妹の上にみんな流れ込んで、それを惜しいと思う理性すら痺《しび》れてしまった。  彼は、くらい目をして、坐った姉妹を凝視していた。 「麦ちゃん、少し頬《ほお》がこけて来たな。こんなせせこましい間借り生活がこたえるのかしら」 「それどころか、麦ちゃんは、珍しくって、たのしくって、流し場の井戸端《いどばた》会議に毎回出席しているんですよ」  稲子はついでに隣室に住んでいる安土が 「麦ちゃんは、水道の水音の伴奏でシャンソンをうたっていた」といった気のきいたことばをつけ加えようとしたけれどもやめておいた。  実は、最初に、隣の安土の奔走でこの室をさがしてもらったことを順一にいいそびれてしまったので、となりの安土と前から知合いだということが、あれ以来姉妹の大秘密の形で追込まれてしまった。安土がいろいろ援助してやろうという好意から、わざわざ襖を境にした隣室をとってくれたのだとも知らずに、順一がこの室をはじめて見たときの大げさな驚きぶりは、二人にそれを打明けさせる勇気をさらに挫《くじ》いたのだ。 「きょうは僕、何だか疲れて物憂くてしようがないんですよ。風邪《かぜ》でもひいたのかな」 「それはいけませんわね。お姉さん、ゆうべおのみんなったレモンが半分のこってるわね。あれでも絞ってあげようかしら。いい蜂蜜《はちみつ》がありますのよ」  麦子は順一を騙《だま》しているような疚《やま》しさから彼にいつも気をつかっている。となりの安土との交渉が一切順一の前に伏せられているので、彼女は、言葉のつかい分け一つでも気疲れした。現に、その蜂蜜も安土が、わざわざ銀座から舶来ものをさがして来たのだということを、自然につけ加えたいところをぷつりと言葉をきっている。が、自然に気持の筋道が通じ合う姉の稲子と、何となく目《まな》ざしが合うのはやむを得ない。嘘《うそ》のいえない真正直な年齢の娘が、こんな不自然さに堪えているのは、腰をかがめたまま立っているように骨が折れる。別にこれという用事はないので順一と向い合って三人は火鉢《ひばち》をかこんだ。 「あら、そう、そう、わたし、電話をかけなくちゃならなかったんだわ。ちょいと階下まで行って来ます」  稲子が急に思いついたように立ち上った。 「どこにかけるの?」 「会社に夜勤している同僚です。言っておくことを忘れたので、ちょいと気になるのよ。失礼します」  稲子は、順一が張っている網の目からするりとぬけて、廊下に出た。  隣の安土の室を見ると、扉にはめ込んだダイヤガラスに、きらきらした光がさして、この時間に彼がいつもきくスポーツニュースがはじまっているらしい。  こちらの扉のあく音をきいて、安土も扉をあけた。  稲子は人さし指を自分の方へ、もそもそ動かして、ついて来い、という合図をした。そして、自分は、さきに立って、うしろは見ずに階段をおりた。後からついてきた安土を階段の下で稲子は待ち受けた。 「今日はどうしてもいきたいんだけれど、ああやってねばっているでしょう。いやんなっちゃうわ。いい加減なことをいって出てしまおうかしら」 「いや、よした方がいいですよ。今日でなくたって、あの映画は見られるんだから、今度にしなさい。あれだけしてくれる親切に反抗する必要はないよ。全くああいう人間は見たことがない。君にとってはまさに天使だね」 「いやあだ。男の天使なんて」  しかし、稲子も順一に反抗しながら、それを迷惑だと割り切っているわけでは勿論《もちろん》ない。だから余計、気持は複雑だった。 「それではと、僕は一人で出掛けることにしようっと」  安土は、ちょっと嫌《いや》がらせをひびかせていった。 「どうしようかしらん。味気ないなあ」  稲子も呟《つぶや》いたけれども、気持は出掛けないことにきまっていた。  部屋に帰ってきて見ると、順一が会社の帰りに買ったらしい、折釘《おれくぎ》を鴨居《かもい》に一輪挿《いちりんざ》しの槌《つち》で打込んでいた。 「稲ちゃん、ここに釘だけは打っておくけれど、まだ着物は絶対にかけちゃ駄目ですよ。隣の方にもお気の毒だけれど、そのことも、あなたからよく謝《あやま》っておきなさい。だが、結局向うだって、間が襖より壁の方が落ちつくから、あとではよろこんで貰《もら》えるよ」  稲子は、ありがとうともいわず、やけにどっかりとプリツの襞《ひだ》をくずして、座布団《ざぶとん》に坐った。 「部屋の問題も一段落ついたら、ここいらで映画にでもいきたいわね」  稲子は、今晩安土と一緒に出られなかった憤懣《ふんまん》をまだ胸に残していた。 「何が見たいの」 「ジェームス・ディーンの第二作が、どこかにきてるはずなの。わたし、ディーン好きだわ。『エデンの東』の後、二作を作っただけで、この世を去ってしまったのよ。その出ずることやあまりにおそかりきだわ」  順一は、可愛いこましゃくれたものを見るように、稲子のしゃべる口許《くちもと》を眺《なが》めていたが 「樋口《ひぐち》一葉に対する高山|樗牛《ちよぎゆう》の批評ですよ。その言葉は、読んだことがありますか」 「知りませんわ。樋口一葉なんて。女だからって、甘やかされていた時代の作家ね。今だったら、あの位の小説で、あんな大評判にはならないと思うわ」 「そんなことはないですよ。彼女は天才だ」  実は順一も、文学にはあまり親しんだ方ではない。しかし、一葉は当時の天才として、あがめなければならない、という当時の通念にだけは従順な、或る時代の考え方を身につけていた。  順一は、その会話からしばらく何か考えていたが 「毎晩こうやって、雑談をしていても、何もあなた方を啓発しない。そのことを考えると、僕は煩悶《はんもん》するんですよ。今度から少しずつあなた方に、何か教えることにしようかなあ」 「何を教えてくださいます?」  妹の麦子は、まだ中身をきかないうちから、率直に当惑を目に浮べていた。しかし、順一はもちろん、そんな目《まな》ざしに気がつくはずもなく 「そうだなあ、僕が教えられることといえば、習字にソロバンだが、そんなものはあなた方には必要じゃない。英語はどうかな」 「英語はいいですわね」  と、麦子がいってしまった。しかし、姉の表情を見ると、眉《まゆ》一つうごかさず、何か考えているので、姉は不賛成だ、と読めた。   友と友の間  腹痛の晩から二、三日たった。ある晩、木下が千葉県に催された画の頒布会《はんぷかい》に出かけたあとに、井上がたずねて来た。生憎《あいにく》しづ子も立川に泊って不在だった。  家にいるのが小夜子一人だと知ると、井上のこの日頃|抑《おさ》えつけていた情欲はもえ上った。小夜子は勿論《もちろん》拒絶したが、その拒絶は形だけで弱かった。  すでに、そうなって行く二人の成行《なりゆき》はあのショウで、浅ましいものを見せたり、見られたりしたときから運命づけられていたのだ。  それに小夜子は、自分の気持をよく考えてみると、とっさの出来心のようでありながら、そこに行く気持の下地は、その前からあった。井上に、セーターを編んでくれたうぶな恋人の噂《うわさ》をきいたときから、急に彼を見直す気持が生れた。  それどころか、自分のもっているものを、ひとにさらわれたような心のこりさえ感じた。自分のいらないものでも、ひとがそれをとったときけば、惜しくなる欲ばり心はだれにもある。特に木下のような夫をもちながら、自分の愛の可能性をあきらめ切っていない小夜子は、世のあらゆる恋愛や結婚を、一度は妬《や》いてみる習慣みたいなものをもっていた。  そんな土台の上にこないだの夜の破廉恥な実演があって見ていた井上との間のある壁が失われてしまった。彼女は三人のわかい男性の前に、一糸まとわぬ裸体で立っているような意識を、今もってもちつづけているのだ。そして、それやこれやが手伝ったのか、その晩ふとしたはずみからとび越えてみると、案外その敷居は低かったという印象だった。  一方井上の側にとっても、その道行きは、もっと不可避で激しかったといえる。  彼も前から、小夜子が自分をもて扱いかねて、余剰なものを波打たせている姿が目について悩んでいた。何もかもあけすけに喋《しやべ》る木下は、自分たちの哀れな夫婦生活の詳細を、弟子《でし》たちの前で、いつも酒の肴《さかな》にしていたのである。しかし、こないだの実演で、彼女の肉体の具体性を知るまでは、何といっても彼等《かれら》の想像には観念の殻がついていた。「人間的」といった言葉をつかうとき、若い彼等は、汚《きたな》い欲情を花束でかざっていた。が彼は、あのとき、懐中電灯の照らし出すわずかな光の輪の中で、二た目と見られない汚穢《おわい》にまみれた凄《すさま》じい二匹の生きものを見た。その憎々しさ。そしてなお生きているという汚い実感。人間の精神といった抽象的なものは、どこにも入り込む余地のない、それは、泥まみれのあざとい生存の基底だった。  彼の心は雷に打たれたように、よろめいた。これが天の人間に与えた贈物だと、どうして信ぜられよう。嘘《うそ》だ、嘘だ。これが真実なら、宗教も真赤な偽りだし、芸術も空々《そらぞら》しい人間の偽善だ。——  そして井上は、あのときから、あの汚なさを抱いている人妻の小夜子の肉体は、だれがふんでもよい泥濘《ぬかるみ》のように思われだした。師にあたる人の夫人だったのは、その日以前のことであった。やや古風な着物の着こなしと瓜実顔《うりざねがお》に明治女の優雅な魂をはめ込んで考えていたのも、あの日以前のことであった。  そのくせ、井上は、彼女があれから、どんな表情をしているか、なんとなく見に行きたい誘いを感じた。あれから見直した目で、人妻という鋳型からぬけ出た小夜子を見たいのだ。しかし、その熾烈《しれつ》な欲求を裏切って、足は鉄の錘《おもり》がついたように、とても木下家の方角に運ばない。  井上は、近くの木下家にこだわりながら、同じ画仲間の今西の下宿に遊びに行った。 「どうだい、仕事はできるかい」  井上は、自分の白濁した精神から割り出して、それとなく今西の気持のあり場所を覗《のぞ》いた。 「ああ、この頃眠られないので弱っている。神経がすっかり痛めつけられたよ。めちゃめちゃだ」 「どうしたんだい。何か仕事の上の不満でもあるのか。顔が青いぞ」 「青くもなるだろうよ」  わかい今西は、汚れた長髪をむしゃむしゃとかきむしって机にのせた画紙の上に、ばらばらと塩のようなふけを落した。 「君のような強靱《きようじん》な人間じゃないから、あれ以来僕の精神は、打ちのめされているんだ。いまにはじまったことではないが、木下先生という人は、僕等の捧《ささ》げている祭壇に泥を投げつけて、にやにやしているような偽悪趣味があるね。いやだな。あれから飯もくわずに、ねて考えたが全く堪《たま》らないよ。破産の一歩手前だ」 「佐渡は何か言っていたかね」 「何も言わない。こないだ逢《あ》ったら、口笛をピーピー吹いて『あれからとめどなく、パンパンを買いに行って、金をはたいちゃった』ってこぼしていたよ」 「パンパンで割り切れる人間はえらいな」  と井上はつぶやいたが、それは、罪のない見得だった。彼も実はあの晩|甲斐《かい》ないとは思ったけれども、セーターをくれた愛人の佐々木安子に逢いに行った。愛人といっても一度彼に体をゆるしてから、彼女は何かその行為に幻滅したらしく、彼がよび出そうとしても、姉のいるアパートから出まいとしている。二人きりになる時間をつくらないようにさけていることは明らかである。そのくせ、手紙にだけは、大胆な文言をかいて速達で送ってくる。何か、男を焦《じ》らす優越物を一つもっている女というものが男を翻弄《ほんろう》しているのだと彼は解釈していた。  彼は、そんな関係の彼女にあの晩、何故ともなく逢いに行った。けれども、時間は常識|外《はず》れにおそかったので、姉妹はねる支度《したく》をしていた。彼は一たん招き上げられたものの姉と一緒の室で、あたりさわりのない世間話をしただけでしょんぼり引返した。  それからの二日ほどは借間にくすぶって、だらしなく万年床の中で翻訳のエロ文学などをよんでくらした。考えれば用事もあったがあれ以来、彼は木下家にはどうしても行く気にならなかった。木下にも逢いたくないし、夫人の小夜子とはなお顔を合わせる気にならない。  人妻として、あんなことのできる神経は、若い井上にはどう考えても解釈つきかねた。が、いずれにせよ、自分にとって憧《あこが》れだった師の妻の小夜子は、あのとき以来、全然変った人間になってしまった。  しかし、ある日、起き上って食堂へ外食しにいったついでに、ふらふらと彼の足は木下家に向った。安間という画仲間の病人を助ける為《ため》の奉賀帳を新聞包みにして抱《かか》えていた。こんな口実がなければ木下家を訪れるきっかけさえない奇妙な立場に追い込まれてしまった。  その晩小夜子の腹痛に出逢《であ》ったことはすでに記《しる》した通りである。その晩から小夜子の存在はぐっと近づいた。彼の魂は小夜子の記憶で火傷でもしたように二六時中ひりひりうずいた。彼はまた布団《ふとん》にもぐって、だれにも逢わずに考え込んでいた。一人の女が人間としてでなく、聴覚も視覚ももたない触覚だけの生きものとして彼に何かの答えをせがんでいるのである。  とうとうある晩、再び彼は木下家を訪れることになった。ちょうど木下は千葉に画会があっていない筈《はず》のことを彼は知っていたが、自分で自分をごまかすため忘れたような面持で訪問した。玄関を訪れたときから、すでに彼はその家の客ではなかった。客でも居住者でもないけれども、すでに何かの権利を既得している来訪者だった。  呼鈴の鳴る音をきいて、玄関の板の間に立った小夜子もまた、木下の妻という枠《わく》の中からふみ出している大それた眼付でなれなれしく笑っていた。 「いらしたわね、きっと今日いらっしゃるだろうと思っていたわ」  井上は、どぎまぎして、さそくの返事も出来なかった。彼女は何事もない顔で、彼の急所を指さしているのだ。 「おやじさんは千葉よ。しづ子も立川に泊ってだれもいないの。とにかくお上んなさいよ」  井上は、やはりうつむいていた。心の中に或る闘いはあった。しかし、行動は誘われる通りに靴をぬいで上っていた。二階には炬燵《こたつ》がかけてあった。井上は、何百燭光に射られているように目を伏せて、小夜子とさし向いで炬燵にあたっていた。 「井上さん、私、今日はそのつもりよ」  単純な小夜子は重大なことを簡単にいった。  井上は、上眼《うわめ》づかいで、彼女の顔をちらとうかがったが、窒息したようでもちろん返事は出来なかった。  木下は、干葉の画会に二晩泊って帰ってきた。彼は、洋服を丹前《たんぜん》に着がえて、長火鉢《ながひばち》の前にどっかり坐った。 「一本つけてくれ。まるでアルコール気《け》がないから、寒くて仕様がないや」  いつもなら「どう、ちっとは売れましたか」くらいの質問を出すところだけれども、小夜子は変に黙って、台所にとって返した。 「井上は来なかったかい?」  そのとき、小夜子は片口から古備前《こびぜん》の徳利の中に酒をごぼごぼ注いでいた。彼女は不自然なほど目をみはって 「来ましたよ」  その間に小夜子はちょこちょこと畳の縁《へり》を踏んで坐りなれた錦紗《きんしや》の座布団《ざぶとん》の前まで歩んできていた。 「何かいってなかったかい?」 「さあ、なんにも——」 「そうか、変だな。奴《やつ》にたのまれてかえったらすぐ佐々木安子との縁談をまとめに行く話がしてあったんだが……」 「ヘえ!」  小夜子は思わず、するどい声を出したが、途中で言葉をのんだ。そしてぐっと自分の気持の手綱をとりなおした冷静な声で 「あの人、やっぱりその娘さんと結婚するんですか?」  小夜子はいまの一言で自分の顔が青くなってはしないかと気をつかった。すでに彼女は井上が自分の物になったつもりで井上の愛人だった佐々木安子のことを半分忘れていたが、そうか。知らなかった。そんな話が夫と井上との間に交《か》わされていたのか。  俄《にわか》に小夜子は黙って塩辛の蓋物《ふたもの》を取りに台所へ引返した。細い目尻《めじり》は吊《つ》り上って呼吸さえ烈《はげ》しくなっている。 「お父さん、お一人でのんでらして下さい。私夕方の買物に行ってきますから」  彼女はかっとしていた。かけていた白エプロンの紐《ひも》がとけないので、いらいらしてぷつんと引きちぎって肩から外した。それから台所の釘《くぎ》にかかっていた買物籠《かいものかご》をつかみとって、手垢《てあか》だらけに汚《よご》れている財布《さいふ》を投げ込む。彼女は、台所口をぴしゃりと締めて、ラクダのショールで鼻をおさえながら、寒い風を寒いと思わず路地に出ていった。足は綿をふんでいるようで、大地の感触はない。  行先はもちろん盛り場と反対の井上の借間だった。玄関の横に一間の腰高窓をつけた六畳に彼は住んでいた。  小夜子は彼の下宿に使いにきたことは滅多にない。きても玄関に彼を呼び出して夫から言いつかった口上を伝えて、すぐ帰っていくことにしていた。が、今日は、いきなり彼の室の窓ガラスをじかに叩《たた》いた。 「井上さん、井上さん! いらっしゃる?」  中からは返事がない。彼女が窓を叩く音は強くなった。 「井上さん! いないんですか?」  二階の間借人がただならない物音をききつけて窓を明けるらしい物音を立てている。しかし小夜子はそちらを見上げもしなかった。彼がいないということを計算に入れていなかったので、ここまで馳《か》けつけてきた逆上のやりどころがない。彼女はどうしようかと、しばらく考えていた。ふと見ると、買物袋の中に鉛筆をさした手帳が入っている。家計のやかましい木下に報告する為に、彼女は品物を買うとその場で手帳をつけることにしていた。買ったものをじき忘れてしまう性分で、度々《たびたび》木下に油をしぼられてからこんな習慣をつけていた。彼女はその鉛筆をとって、ピリピリと一枚破った紙に 『ぜひお話したいことがあります。今晩きますからどこにも行かないで待っていてください』とあまりうまくない字で書いて、細く畳んで結び目をつくった。それを、ガラス戸の合わせ目から中へ押し込んだ。だれかほかの人がとって見ることになりはしないかということも考えたけれども構うものかと思った。こうするより外仕方がない。紙を差し込んでから、一枚上にはめてある透きガラスをとおして部屋をのぞくと、いつも井上がきているコール天のジャケットや埃《ほこり》だらけのベレー帽が釘にかかっている。  いままでは何の気もなしに見過したこれらに井上という人間の一部分が表現されていたのを見つけた。ベレーのかぶった埃にさえ彼という人間の肉体感がある。  買物袋を下げて歩き出すと、目の中に不覚な涙がにじんでいた。単純でひたむきな女の気持は、もう引きかえせないまで、井上に寄り添っていた。佐々木安子という電話交換手に、今となってむざむざと彼を渡すことがどうしてできよう。  その晩、小夜子が外に出る口実をつくるために、台所で考え事をしながら片づけものをしている所に、井上がやって来た。 「いらっしゃい」 「先生はかえられましたか」 「ええ、おあがんなさいよ。紙片見ました?」 「はあ……失礼します」  玄関で二人はそんな言葉を交わした。今となればこんなやりとりもそらぞらしかった。小夜子は取りすました井上の顔を見ると、彼の気持のあり所が不安で胸は騒いでいた。  木下は、茶の間で、新聞をよんでいた。 「よう」  彼は井上にそう声をかけただけで、新聞から目を離さない。小夜子は台所に去っていずれ井上の縁談の話題がでるものと聞き耳を立てていた。 「どうでした。あちらの景気は」 「うん……」  木下の気持には何か皮がかぶさっているらしく、とっさには井上の言葉に誘い出されない。しかしやがて二人は、ぽつぽつと世間話に入って行った。なぜか二人のいる火鉢のそばに行けない小夜子は、いつまでも台所に立っていた。おとなしく木下の言葉に相槌《あいづち》を打っている井上の気持を想像すると、やっぱりそらぞらしかった。が、そのそらぞらしさは、自分と彼との共通のものなのだと思うと、何かしら幸福でもあった。  小夜子は、台所にうろうろしていたが、結局二階に行って炬燵に当った。  炬燵のやぐらに額を押しつけていたが、やっぱり階下の話声の方に、ひとりでに注意は向いた。しばらく話声がつづいたあげく、だれかみしみし階段をあがって来た。  小夜子は、木下だろうとたかをくくって、炬燵布団に押しつけた顔をあげもしなかった。がいきなり伏せた彼女の顔を上向きに起して不意な冷たい接吻《せつぷん》を与えたのは、井上だった。小夜子は|かっ《ヽヽ》と溺《おぼ》れるような幸福感でくるめいた。しかし、言葉は気持と反対なことを喚《わめ》いていた。 「わたしは死にますからね。覚えていて下さいよ。いつでも死んで見せますから」  彼女はひそめたすごい声で口ばしった。 「何をいっているんです」 「何をですって。貴方佐々木安子さんと結婚なさるんでしょう、わたし知ってます。みんな知ってますよ」 「しかし、それは仕方がないでしょう。前からきまっていたことだもの」 「いや、いや……とにかく覚えといて下さい。貴方が結婚したら、わたしは死ぬということを——」 「弱ったな……」  と井上はつぶやいた。小夜子はけろりと話題をかえて 「何しに二階にいらしたの」 「先生のスケッチブックをとりに来たんです。千葉からもってかえられたのが二階にある筈だというんだが……」 「じゃあ、ボストンバッグの中よ。まだ荷物をあけてないんだから、自分でくればいいのに」 「早く出して下さい。先生に変に思われるといけないから」 「貴方木下なぞ恐れているのねえ。卑怯《ひきよう》だわ。私は、世の中に何もこわいものなんかない。あんな奴がこわくなんかあるもんか」 「そんな無茶なこと言ったって——」  いつのまにか小夜子は井上の腕をしっかりつかんでいる。「言っときますけれど、貴方が佐々木安子と結婚したら私は死ぬのよ」 「…………」  井上は、小夜子の腕を払って、立ち上りながら 「小夜子さん、先生は、僕達のことに気がついてやしないかな」  小夜子は、はじめて井上が自分のことを「奥さん」といわずに「小夜子さん」と言ったことで思わずにっこりしながら 「気がついてたってかまやしないじゃないの。憤ったら貴方の室へ逃げて行っちゃうだけだわ」 「そうは行きませんよ。……だが、変だな。こないだから、先生は、やたらに、僕に貴女のいる二階にくる用事をいいつけるんだ」 「そんなことがあるの。いやなおやじ!」  小夜子は思い切り、口汚《くちぎたな》く言った。木下の日頃の行いから推察すると、必ずしもあり得ないことではない。 「どういう気持なんだろうなあ。もしそうだとすると——」 「わたしにはわかってるわ。だけどそれならそれで、もっとさかんにやりましょうよ」 「小夜子さん、だめです。僕は、こんな裏切りには堪えられない。やっぱり結婚します。それだけは承知していて下さいよ」 「いやです。絶対に邪魔するから。死ぬんだ……死ぬんだ……その時にはわたし死ぬの」  小夜子は、悲しみに溺れて息がつまりそうに身もだえして、立っている井上を強い力で引き倒した。  一人の女がありったけの感情の裏をむき出してのたうちまわっている姿はやっぱり、若い青年の心を強くひいた。しかし、井上は、じっと自分の理性でふみこたえて 「さ、涙なぞ拭《ふ》いて下さい。先生に見られたら、どうします。ちゃんとして、髪を直して——」 「いいわよ。木下はみんな知っているのよ。あの人は、勘の鋭い人だから知ってて知らんふりしているんだわ——」  やがて井上は小夜子がバッグからとり出したスケッチブックをもって、後ろめたい目つきで、あたふたと階下におりて行った。三十分ほどすると、階下で井上のかえる物音がした。小夜子はその音をたしかめると、やっと、階下におりて行く気になった。  井上が、木下は二人の間柄に気がついていはしないかといったことをあとでしみじみ考えてみると、小夜子には思い当るふしがたくさんある。それどころか、木下は、二人がそうなるように、それとなく事をはこんでいはしなかったろうか。あの腹痛の夜井上が相当長い時間二階にいたのに、階下の木下から何も声がかからなかったことも、彼の性格からすれば、井上を信用してのことではあるまい。  小夜子が二人の床をしいてねる用意をしている間に木下が便所に行って戻って来た。 「小夜子、佐々木安子という娘は眼鏡をかけていたかな」 「眼鏡はかけていませんね」  小夜子は、木下の頭の中にいまひろがっている想念をぼんやり想像した。 「貴方はあの二人の仲人をするんですって、物好きよ」 「何が物好きだ」 「だってそうじゃないの。あんな乾《ひ》からびた娘のどこがいいのよ」  あけすけな小夜子は、その娘に対する反感を夫の前にさえかくせなかった。   この夫  井上との秘密な関係は、小夜子の心に思いがけない充実を与えた。たるみ切った生活に絶望して醜くしぼんでいた心のすみずみにまで、あのときから生き生きした感情がみちた。そして、年甲斐《としがい》もなく耳の中には美しい憧《あこが》れをこめた音楽がひびいていた。  しかし、その歓《よろこ》びと一緒に、今まで知らなかった恐しい不安も経験している。砂上に建てられたこの幸福は、すぐ目前の井上の結婚という試練にさらされているのだ。彼女は毎日居ても立っても居られない思いで、気持のありったけを井上にあずけていた。人妻であってみれば、夫を無視してそう外出もできない。そうでなくとも、木下が気づいているのではないかという後ろめたさで、さし向いになるのさえ気づまりだった。  小夜子は、時計が買物時間の午後四時をうつのが待ち遠しかった。たまには遊びに行けばよいのに、家仕事の木下は、めったに外出しない。小夜子は、井上と逢《あ》う機会をつくるために絶えず気をつかっている。一番安全で、無難な方法は、彼女から井上を訪れることである。そうでもしなければ、臆病《おくびよう》な井上は自分で小夜子に逢いにくる積極性を見せたことがない。時間がくると二階の夫に声をかけてから、髪を直して羽織を着替える。そして、買物袋をさげて、そそくさと表に出る。行くさきは、勿論《もちろん》井上の借間だった。井上も、木下と佐々木安子への苛責《かしやく》に灼《や》かれながら、無理をして、その時間には室に待っている。 「このウイスキーはうちのおやじさんに高崎の画商がもって来た贈物よ。おやじさんがいないときだったから、かくしておいたの。いま召上る?」  小夜子は、世帯《しよたい》じみた編籠《あみかご》の買物袋から、紙に包んだ国産ウイスキーの黒|罎《びん》をとり出す。人のよさそうな唇《くちびる》には、不敵な微笑が浮んでいた。 「そんなことしたら、あとでわかったときまずいんじゃないかな」  井上は、小夜子の蠱惑《こわく》と良心との板ばさみになった割り切れない表情で、おずおずしていた。 「かまやしないわよ。あのひと、もうとっくに知っているんだから。知っていてさせているんだから、そちらのことは安心しなさい。それよりも、佐々木安子をどうするのよ」 「どうったって、いつもいう通り結婚するほか仕方がないですよ」 「いや、いや、いやー。まだそんなこと言ってるの。意気地《いくじ》なし。わたしの気持になぞなってみることないのね。貴方は。わたしは命を賭《か》けているのよ。いま一緒に死ねといえば、今すぐにだって死ねるんだわ。それとも、わたしが一人で死ねばいいの」  小夜子の情に激した言葉は、暖いつぶてのように井上の面を打った。井上は、小夜子に苛《さいな》まれる快さに痺《しび》れながら、やっぱり安子と結婚するという一本とおった芯《しん》は変えていなかった。  小夜子は、うちからもって来たコルク抜を、らせん型に回して、もうウイスキーの口をあけていた。アルコールの力をかりて生理のエンジンを動かす木下とつれそって覚えた習慣から、彼女は酒が男を動かすばかな力を知っている。  心にわだかまりのある井上は、二、三杯のウイスキーで、もう眼色を血走らせた。小夜子もしらふのまま知らず知らず井上の酔っている度合まで自分の興奮を引き上げていた。何か凄《すご》い眼光で彼女を見る井上を小夜子はぎゅっとつかんで引倒して自分の温い膝《ひざ》を枕《まくら》に与えた。小夜子が扱うと、水の中の重量物のように井上の体は軽く言うなりになった。 「さあ、思い切って言ってごらん。あんな女とは絶対一緒にならないって。ね、ね、いい子だから言ってごらん」  井上は、だまって、眼をつぶって、彼女の膝の弾力の上で、髪の根が柔かく揉《も》まれる感触をたのしんでいた。苦しい。疚《やま》しい。抗しがたい小夜子の誘い。井上は師の木下に対して小夜子との間に、こんな大それた秘密をつくってしまった。が、木下と自分との間にも、実は小夜子にかくさなければならない小さい秘密ができかかっていた。  小夜子が狂態を現出する恐しさに口をつぐんでいたが、安子との結婚のため、井上として最後の切札の木下の顔の利用が予想以上の効果をもたらしていた。彼はとうとう佐々木安子の姉の説得に成功した。 「もう、僕が足をはこぶ必要はない。これからさきは君の仕事だ。だが、一度あれしているんだから目をつぶっていたって彼女は君のものだよ。女という奴は、肉体を奪いとりさえすれば、必ず寄りかかってくるものなんだ。しかし言っとくが、いま暴力を用いちゃ駄目だぜ」  井上は、木下の言葉を粛然としてきいた。彼がひとごととしてあけすけに喋《しやべ》っているその真理が、そのまま彼の妻の小夜子と自分との場合にも当てはまっているのを、よもや彼は知っていまい。しかし、物臭な木下が、この縁談をはこぶについて、異常に熱心だったのは、気の小さい井上には居たたまれない後ろめたさだった。  或《あるい》は、木下の男らしい淡白さから、自分の妻のそばに寄ってくる虻《あぶ》を追払う方法として、こんな手数を惜しまないのだろうか。—— 「小夜子さん、冷静にきいて下さいよ。僕、貴女との間はきょう限りにしたいんだ。僕には、この関係はあまりに大きい負目で、とても、もちこたえ切れない。木下先生が僕の師でないんなら、また考えようもあるんだけれどさ。それに、先生が知っているらしいし……」 「きかない! きかない! いまさらなにを言い出すのよ。もとをいえばあのひとがあんなことをさせたのが原因じゃないの。わたしは、ちっともあのひとにすまないなんて思わない。それどころか復讐《ふくしゆう》のつもりよ。あの老いぼれの痴漢に私の思いがどんなものだか思い知らせてやるんだわ」  小夜子は、涙をばらばらふり払いながら、井上の魂の中に眠っているものを眼醒《めざ》めさせるように彼の上半身をつかんでゆすぶった。井上は、意気地なく、小夜子の腕でぐらぐらゆすぶられながら、取乱した小夜子の男のような力をやっぱり享楽していた。  二人が小声で口争いをしていたとき、庭に面した窓の外に人が入って来た影がうつった。勿論、さっき、小夜子が用心ぶかく窓の鍵《かぎ》はかけていた。が、彼は乱している小夜子よりも鋭く人の気配を感じとった。いつかあり得る来訪者への警戒を、井上は片時も忘れてはいなかった。 「だれか来ましたよ。そっち! そっち!」  井上は声をひそめて、小夜子が本箱の横にかくれるようにはげしく指さして叱咤《しつた》した。  小夜子が体をかわすのと一緒に、井上は、わざと玄関口に出てガラス戸をあけた。 「だれかと思ったよ。今西だったのか」  小夜子が物かげできいていると、井上の声は上ずって口調に狼狽《ろうばい》が現われていた。 「だれかいるのか?」 「だれもいないよ。なぜ?」  井上は落着かない言葉つきだ。 「僕も出よう。そこに待っててくれ」  井上としては上手な言葉つきだった。釘《くぎ》にぶら下っている古外套《ふるがいとう》を外《はず》して、小夜子の方は見向きもせず、外に出て行った。二人が五、六町も室から離れたと思うころ、小夜子は机の上に置いてあったショールをとるついでに、二つの引出しをがたがたあけて、佐々木安子の手紙でもないかと探《さが》してみた。勿論何も見つからなかった。  冷静に考えると、自分と井上の関係は、危い崖《がけ》に向いて走っていることを否応《いやおう》なしに認めないわけには行かない。娘のしづ子というブレーキさえないなら、彼女は、何もかもかなぐりすてて、夫の木下に赤裸々な秘密を思うさま見せつけた力の反動で、一と思いに木下家をとび出すこともできるのだ。  あの可哀そうなしづ子さえいなければ——。  小夜子は、買物籠をさげて外に出て行ったが、目には、はずかしげもなく涙を溢《あふ》れさせていた。  それにしても、結局夫の木下がもっていないある断固とした力は、井上にもないらしい。男とは所詮《しよせん》こんなものなのかも知れない……。しかし、井上に対しては、もう人間批判の段階はすぎた。彼がたとえ、夫のような腐れインテリであっても、今となって離れることはできない。 「いやだ。いやだ。私はあきらめない。絶対にあきらめない」  と、思わず彼女は独言を言った。  小夜子はショールを口にあてて、さかり場に向って急いだ。買物の時間が長くなることはこの頃毎日だが、あの口やかましい木下が、まだ一度も叱言《こごと》を言ったことがない。彼は二人の関係を知っているのではないかと、うす気味わるい気持もするけれども、そうだという証拠は何もないのだった。 「木下さん」  と彼女はそのときうしろから声をかけられた。さっき、井上のところに来た今西だった。 「ああ、今西さんお散歩なの」 「いいえ、お宅におうかがいしようと思っているんです。そこまで井上と一緒に来ました」 「あらそう。井上さんはどうなすって」 「佐々木安子が電話局から帰るのを駅で待合わせるんじゃないかな。僕と別れて一人で行きました」  小夜子は、眉《まゆ》をぴりぴり痙攣《けいれん》させただけで何も言わなかった。井上よりも若い今西は、どこかまだあどけない目《まな》ざしで年増《としま》ざかりの小夜子を見ながら 「奥さん、僕あしたからお宅にしばらくお世話になります。先生が、こんどの仕事は、いそぐので夜もするから、泊って手伝ってくれとおっしゃるのですよ」 「そう、ろくなお世話もできないけれど、どうぞ」  小夜子は、元気のない声で言って、ふとかすかな溜息《ためいき》をもらした。井上は今ごろ、佐々木安子を改札口で見つけ出して、寄添って談笑しながら歩んでいるのではなかろうか……。  小夜子のふさいだ面持を、今西は、じっとのぞき込んでいた。自分たちにあれだけ、強烈な印象を与えたあの晩のショウを思い出すと彼は、あれ以来小夜子の官能的な細面を正視することは一生できないと思っていた。が、それは、観念上の思いすごしだった。逢ってみると、以前のような尊敬は失せたにしろ、ある種のふしぎな親近さが加わって、顔を見ていると、何かたのしい思いがする。わかい彼は、あの晩の印象を呪《のろ》いながら、やはりいくどでも反芻《はんすう》せずにはいられない。  彼はひそかに、あの晩の印象をパステルで画紙にかいてときどき出して眺《なが》めている。その画でみると、彼女の顔は細面で眉も細く、口も小さい純日本型の美人だった。が、裸体の腰はぎゅっと細く括《くび》れて、尻《しり》のまわりが思いきり厚く布団《ふとん》でも当てたように肉づいていた。胸は幅せまくきゃしゃなつくりではあるけれども、その幅せまい胸をいっぱいにふさいで乳房が二つ大きく盛り上っていた。娘を一人|育《はぐく》んだはずだが、処女のように上吊《うわづ》って少しもたるみのない丸い大きな乳房だった。  この画をかきながら、彼はひどく疲れて、喀血《かつけつ》でもしたあとのようにすっかり憔悴《しようすい》した。パステルをもって画面に向っている彼の気持は弓のようにはりつめていたが、休んで煙草でもすおうとすると、がっくり力抜けがして、空《むな》しいことに引かれている自分の荒《すさ》みを自分で思って暗然とした。  彼は、自分の堕落を如実に感じて、煩悶《はんもん》した。しかし、木下から、住み込んで仕事を手伝ってくれと声がかかると、小夜子のそばに行くことがまず頭に浮んで、一も二もなく承知したのだ。  二人は、つれ立って談笑しながら木下家に向った。  家ではきれい好きの木下が、丹前《たんぜん》のまま箒《ほうき》とはたきをもって、茶の間の掃除をしていた。小夜子は買物時間が長くなった理由を、つれの今西にかこつけ顔で台所口から大びらに入って行った。 「客がくるので自分ではいていたんだよ。女ってしみったれだから掃除も男よりは汚《きたな》いね。どうだい、火鉢《ひばち》のうしろからあんな綿埃《わたぼこり》が出て来たんだぜ」  小夜子はえへらえへら笑っていた。このごろ、井上との秘密ができてから、彼女は、掃除も洗濯も身を入れてしてはいなかった。つくねんと、鏡の前に坐り込んだり、火鉢のふちによりかかったりして、甲斐《かい》のない物思いで一日の大半がつぶれてしまう。 「客ってだれがくるんですか」 「佐々木嬢と姉さんだよ。井上が、二人をつれてくる手筈《てはず》にしておいたんだがね」  そんなことは、いまのいま逢った井上がおくびにも出していなかった。小夜子の心の色どりは、もうその一言で凄惨《せいさん》になって、木下の前もかまわず顔いろを変えていた。 「で、話はまとまったんですか」 「ああ、きまった。きょうは、式の日どりや、今後の方針を話し合おうというんだが、どうだろう。表の三間の貸家を新夫婦に貸してやろうじゃないか」 「そんなこと言ったって、そんなわけには行きませんよ。向うは調停裁判に出しているんですもの」  木下は、路地の入口に、三軒だけ、セメント瓦《がわら》の貸家をもっていた。昔一度は左翼だったこともある彼だが、金のこととなるとなかなか強欲な所があった。彼は再三再四、借家人と争いながら値上げしてぴんぴんとり立てた。しかし、こんどの値上げについては、借家人も強気で、家賃を積み立てて法律的に対抗して来ていた。 「お父さん。いやにこのごろ井上さんに力をかしなさるわね。何かわけがあるんですか」  とうとう小夜子は、むかっ腹をたてたあまり、真正面から気持をむき出して木下にぶつかって行った。 「お前こそいやに井上の結婚に反対するじゃないか。どういうわけだ」  小夜子はぐっと詰《つま》ったが、もうやぶれかぶれだった。 「あんな乾《ひ》からびた娘と結婚したら、あのひとが可哀そうだからよ。私はあくまで反対しますからね。それは承知していて下さいよ」 「何を言ってやがんだ。ひとの疝気《せんき》を頭痛にやむってことがあるが。こいつのは、ひとの結婚を頭痛にやんでるんだからな」  木下は、そばで弱っている若い今西の方を向いて、陰気に笑った。今西は、いまのやりとりをきいていて、二人が重大な問題を喋《しやべ》り合っていることに愕然《がくぜん》とした。普通の夫婦なら、その場で離婚にも発展すべき大問題である。  が二人は、けろりとして、木下は、埃をはらった座布団《ざぶとん》の上に坐り、小夜子は、晩酌の用意のために台所に入って行った。今西には、それも意外で夫婦とはこんなものかと改めて見直した。  しばらく今西と木下とは、火鉢で話していた。それから木下は、何か仕事のことを説明するために、今西を二階につれて行った。  木下は、やがて一人で階下におりて来た。台所では、学校からかえって来た娘のしづ子が、弁当箱をハンケチ包みから出して水道の水を注ぐ音を立てている。  木下は、小夜子の居所を目でさがした。彼女は、派手なコール天の茶羽織をきて夫婦の寝間の雨戸をしめていた。 「へえ、いやに派手なのを着たじゃないか。どうしたんだい」  彼が、いまくる井上を諷《ふう》していることは見えすいていた。  小夜子は返事をしない。彼女は、細いよくとおった鼻すじを光らせながら思いつめた目つきで明るい窓ガラスに見入っていた。 「おい」  という低い嗄《しやが》れ声と一緒に、木下は、煙草のやにくさい体で小夜子を抱きしめていた。 「好きか。大好きか」  木下は小夜子の耳のそばに自分の顔をもって行って、囁《ささや》いた。小夜子はうろたえた目を瞠《みは》る。井上の名は省かれているけれども、彼のことを言っていることは勿論である。こんなにちぐはぐに行違っていても、夫婦の感情は、毛筋一本の隙《すき》も許さないほど密着したものである。このごろの小夜子のとつおいつした姿が木下の目につかぬ筈《はず》はなかったのである。  小夜子は、木下が、小夜子の胸の一カ所を指さしてにやにやしているうす汚《ぎたな》い表情を感じながら失神したように目をつぶる。 「好きだね。好きだろう」  木下は、抱いている小夜子のきゃしゃな胸をゆすぶって、も一度くりかえした。小夜子は目をつぶったまま、ぐにゃぐにゃ揺られていたが、そのとき彼女には十数年つれそって、ごく滑《なめら》かに接触面を磨《みが》き上げておいた木下の感情と自分の感情とのしっくりした合わせ目が快いほどぴったりと感ぜられていた。  彼女は、やっぱり目をつぶって、流れるように、彼の腕の中に傾いたまま、ごく素直に 「うん、うん……」  と肯《うなず》いた。 「そうか、好きなんだね。よし……よし……」  木下は、そう言いながら、生肉のような冷たい唇《くちびる》で小夜子に接吻《せつぷん》を与えながら 「三度寝たね。ちがうかい」  |あっ《ヽヽ》と小夜子は目を見ひらく。彼は、自分の掌《て》を見るように、小夜子の行動を見ていたのである。 「四度か。三度か」 「三度……」  小夜子は、暗示にかかったようにつぶやいた。それから木下の袖《そで》に顔を押しつけてさめざめ泣き出した。 「泣かなくてもいい。あれは俺より若いからな、わかるよ」  しかし、そのやさしさの底にはいつもの居《い》心地《ごこち》わるい木下の倒錯がのぞいている。小夜子はふらふらと秘密を打明けたことを悔いた。二人は離れて、小夜子は台所に、木下は二階に戻って行った。  それから三十分ほども小夜子は、流しの前でぼんやりしていた。麻薬の作用みたいなさっきの鎮静作用からさめると、小夜子は、やっぱり前どおりの焦燥《しようそう》に苛《さいな》まれている自分を見出した。  そろそろ佐々木安子姉妹と井上とが現われる時間である。夫の木下が自分と井上との秘密を知っているとすれば、ますます彼等《かれら》と自分との関係はこんぐらかってしまった。彼等の前に菓子やお茶をはこぶとき空恍《そらとぼ》けた笑声をつくることも、もうできなくなったのである。  間もなく玄関があいて、井上がさきに入って来た。うしろに黒くガラスが透けて見えるのは、外套《がいとう》をきた姉妹が立っているのである。  井上の顔を見た瞬間、小夜子の頭から、さっきのこまかい思慮は一度に吹きとんだ。 「早くお入んなさいよ。何をぐずぐずしてらっしゃるの」  彼の神経が、うしろの二人に半分|頒《わ》けられているのさえ小夜子の癇《かん》にさわった。 「お客さんをつれて来たんでね……」 「だれ? お客さんて——だれよ」  井上は、うしろの二人にぴんぴんひびく小夜子の甲高《かんだか》い声に弱っていた。 「とにかくあげて貰《もら》いましょう。先生は御在宅ですね」 「木下はいますよ。だけどお客さんはどなたなのよ」 「佐々木安子です。どうかよろしくお願いします」  短い言葉に言えない感情をこめて井上は心から頭をさげた。人目がないなら小夜子の膝《ひざ》に縋《すが》りついて宥恕《ゆうじよ》を哀願したい所だった。井上にとって小夜子との成行《なりゆき》は、木下が催したあのいまわしいショウからの思いがけない突発事だった。佐々木安子との話をすすめることで、何とかして、一たんできた生の行路上の亀裂《きれつ》を埋めようと彼は努力している。しかし、小夜子は、ますますその亀裂の幅をひろめる役目をもって、この場に登場しているのである。   二階と階下  佐々木安子と、彼女の姉と、井上とは、木下を中心に階下の食卓をかこんで、改まった面持である。安子は、電話局のひけ際《ぎわ》に化粧を直して来たと見えて、バングの毛筋一筋もゆるがせにせず、無数の生きものを這《は》わせた格好に絹糸のようなカールの毛を額に流していた。白粉《おしろい》を上手《じようず》に刷《は》いた額は銀色できらきらと脂《あぶら》で輝いて見える。小夜子はいままで彼女をただ、やせて貧相な女とばかり思っていたが、こう扮《つく》ったのを見ると、それなりにファッションブックの画姿のような華奢《きやしや》な魅力があるのを認めないわけにはいかない。  彼女は台所で、手づくりの煮ものを小皿に分けながら、夫と三人の来客とをらんらんとした目つきで見くらべた。  こうしているときにも夫と自分との間には一筋の粘っこい蜘蛛《くも》糸みたいな糸が引っぱっている。そして、井上と自分との間にも糸ほどでないにしろ何か電波みたいなものの往復がある。三十女の心は単純なようで案外そうでもないと彼女は自分の心を見つめて思う。彼女は、井上に睨《にら》みを利《き》かせながら木下の妻らしくせいぜいしとやかにふるまっていた。  木下の神経は、小夜子へのそんな気持のやりくりの中にもはいり込んで来て、井上と彼女との関係を、股《また》眼鏡《めがね》ででも見るような皮肉さで見ているのである。  彼女は、井上に向って、一途《いちず》に憤っていたが、夫の木下が、この秘密を筒抜けに看破していたのを知ってから、不可解な作用でその苦痛がかるくなった。  一ととおりの器が卓上にはこばれると、小夜子は安子の方に、歪《ゆが》んだ笑顔を向けながら、 「さあどうぞ御ゆっくり。水入らずで話をおきめになった方がいいですからね」  と言葉は井上に向けて、人もなげな皮肉を言った。井上は、弱ってだまっていた。 「うん、おめえなんざ、いない方がいい。この女ときたらひとの縁談を必ずぶちこわしたくなると公言しているんだからなア」  と木下がいやな相槌《あいづち》をうった。それを言ったのはほんとうは小夜子ではない。小夜子が何もかも打明けている明代という友達がいつか木下のいるとき来て、ほんとうにそんなばかな気持を告白したことがある。よい加減な木下はその場を面白くするために、それを小夜子の言葉にしてしまったのだ。小夜子は、しかし、夫の口汚《くちぎた》なさにはなれている。むしろ、木下夫婦には、こんな悪罵《あくば》が親愛の表現でさえあったのだ。 「じゃ、わたし、何だか寒けがしますから失礼させていただきますわ」 「どうぞ、どうぞ」  佐々木姉妹が口をそろえて言った。はっきりそう言われるとちょっと憎らしくもなったけれど口さきだけでなく、小夜子は、ひどく興奮したあとでは体に寒けがするくせがあった。きょうは昼間からのぼせることがつづいて、頬《ほお》にはかっかっと酒でも呷《あお》ったような赤味がさしていた。そのくせ、足は金ものみたいに冷えて、ときどき背中がぶるぶるとふるえる。 「二階の炬燵《こたつ》で今西が模写をしているよ」  木下は、もう酔っているらしい。どうして今西のことをいうのか小夜子には意味がわからなかったけれども、その言葉で、離室《はなれ》の娘の勉強室に向いていた足が階段口に向いたのは妙だった。  今西は、ほんとうに、二階の炬燵で、歌麿《うたまろ》のしどけない女の立膝姿《たてひざすがた》を模写していた。 「今西さん、貴方はどう思いなさる? あんな女を井上さん好きなのよ。軽蔑《けいべつ》しちゃうわね」  小夜子は、坐る気にもならず、立ったまま低い声で言った。やっぱり彼女の心の風景は相当|凄惨《せいさん》だった。 「足長おじさんという感じの女ですね」 「なに、足長おじさんて——」  小夜子はふと見ると、今西は、小夜子の方を見ず、不自然に顔をそらしてものを言っている。木下と小夜子とが、例の恥知らずの醜態を見せて以来、彼は、小夜子を正視することができなくなった。そして小夜子という師の細君に対する認識があれからがらりと変ったのを気づいている。  よく光る彼女の目ざしには前からいささかの非条理が現れているとは思っていた。  が、あの場面に立ち会ってから、彼女に被《かぶ》せて考えていたおよそ人妻とか先生の夫人とかいう観念のたぐいは、木端《こつぱ》みじんに砕けとんだ。それだけではない。彼は、着物に掩《おお》われて取繕われている女というものの、一皮はぐとその下にどんな恐しい埋蔵物が埋もれているかをいや応なしに見せつけられた。それ以来、その意識なしに小夜子の顔を見ることはできない。  今西がはにかんでいるのを見ると、小夜子は、この二階で、いつか井上を可愛らしく感じたのと同じ愛憐《あいれん》の情を感じた。 「ちょっとお邪魔してもいいでしょう。炬燵にあたって一服するわ。この寒いのに、ひとの縁談のおつき合いじゃ全くありがたくないですものねえ」 「そうですね」  今西はぎごちなく答えて筆をはこんでいた。が、画面から注意がそれているのが小夜子にはよくわかった。男というものは、よく知ってみれば案外手のこんでいない単純な道具である。彼女には、井上のときで、ある種の手心がひとりでに会得されていた。 「今西さん……」  と彼女は急に暗い声を出してそばの今西によびかけた。 「わたしみたいに可哀そうな女ってちょっとないわね。こないだのあの醜態でずい分|蔑《さげす》んでいらっしゃるでしょう。ほんとにはずかしいわ。あんなことまでして勤めなければ承知しないおやじをもっているんですよ、わたしは……それに……」  喋《しやべ》りはじめると、彼女は、ほんとうに自分が可哀そうになっていた。彼女は目頭《めがしら》に銀色の涙を光らせながら、今西の目をのぞき込んで、井上との儚《はかな》い関係まで一気に言ってしまおうとした。が、さすがに危く踏みとどまった。 「ああ、つまんない。あんな堕落したおやじさんとくらすのは味気なくてやり切れない。もう五つ若ければ私だってもっと勇気があったんだけれど、この年齢じゃどうにもならないですものねえ」  彼女の詠嘆は、自由にならない井上に対する偽りのない怨《うら》みを多分に含んでいた。が、あとの部分は今西を試みてみずにはいられない冒険心から、直感的な目分量で、罠《わな》を投げてみたのだった。  今西は、追いつめられたようにだまって、もうちょうどな受答えもできなくなった。彼は、半分|肌《はだ》をあけひろげたあけすけな三十女の呼吸音を、こめかみのすぐ近く感じている。成熟しつくした、誘いにみちた女の呼吸音——。  今西は、この室で演ぜられたあの晩の彼女の肉体のかたちを目の底に見ていた。ゴムのような弾力をもった女ざかりの肉体は、衰えたかるい木下の肉体をたたきつけてもたたきつけてもぽんぽんはねかえす、鈍重な精力に充《み》ちあふれて見えた。常識として想像していたこの夫婦の生理上の不均衡は、乾《ひ》からびた古い果物と、豊醇《ほうじゆん》な果物との比較となって目の前に堆高《うずたか》く盛り上って見えたのだ……。  今西がだまった気持の道筋は小夜子にはもう手にとるようにわかっていた。小夜子は勝手知った地点に立って、今西を手まねきでもするように 「今西さん!」と俄《にわか》によんだ。今西は、ぎょっとして、さらにうつむいた。 「何とかおっしゃいよ。でないと私泣き出しちゃうわ。いやだな。泣きそうだわ。ああ泣けてくる……」  今西はその時むりに押出した低い声できれぎれに 「僕、奥さんには、ほんとに同情していました。先生はあまりにひどいです。ひどすぎます。あんなことをさせるなんてひどいと思います……」 「いいわよ。もうあのことは。できたことは——。それよりも、可哀そうだと思うなら私を慰めて頂戴《ちようだい》よ。ねえ、誰も私の不しあわせを一緒に泣いてくれる人がないんだもの……不しあわせな女よ……」  涙は奇術のように、あつらえたときに湧《わ》いてくる。しかし、小夜子は、いつのまにか、自分で呼んだ涙にさそわれて自分でも押えられないほど本当にはげしく泣き出していた。今西の片腕をいやという程つかみ込んで、力いっぱい振りながら。  階下では、木下の酔った大声にまじって、佐々木安子の姉らしい中性的な声がときどききこえる。井上は、どんな気持なのか、あまり口をきかずに、皆のいうことをきいているらしい。それとも、二階でひっそりと今西と炬燵にいる小夜子を気にして耳をすましているのだろうか。そういえば、二階にあがって行く小夜子のうしろ姿を瞼《まぶた》の下からそっと見ていたっけ。  彼は自分の経験に照らして何か直感したのではあるまいか……。  かれこれ一時間ほどの時間がたっていた。小夜子は、強引に自分が奪おうと思ったものを、遮二無二《しやにむに》今西からうばってしまった。もう、いまさら、何も反省することはない。  こみあげる激情で息を詰まらせた若い今西の顔を見たときには、何か無残《むざん》な気持もした。けれども、自分に苦労させる憎い男の端くれだと思うと、いい気味だという残忍な気持もあった。それに、木下が、井上と自分との関係を、そっと外から導いていたかも知れないということを思い出すと、今西との場合でも木下に対する気持はそう重くない。 「それなら、誰にもわるいことじゃなかった。自分にだって、何も謝《あやま》る|せき《ヽヽ》はないのだ。あんな見世物に出した体だもの、いまさら勿体《もつたい》ぶることはない」  階下で客が立ち上るらしい気配と一緒に、今西は、引きつった顔つきで、あたふたと階段のおどり場に立った。 「大丈夫よ。今西さん。あのひとたち自分のことで有頂天だから、ひとのことなど注意してやしないわよ」  小夜子は投げやりに言って、畳にとんだピンどめを拾って、口にくわえながら髪を直した。 「今西さん」  小夜子は、まだ言い残したことがあったから、炬燵によりかかったまま今西を強い語調で引きもどして、 「あしたも、ここで逢《あ》うのよ。いいわね」  と押しつけるように命令した。今西は、下を向いて、後悔にさいなまれていたが、小夜子の押してくる力をふせぎかねて、こくりと肯《うなず》く外なかった。   貰《もら》われた先  ある日、珠子が物ほし場で洗濯ものを取込んでいるところに、裏木戸から木下家のしづ子が通学姿ではいって来た。 「おばさん、こんにちは」 「あらっ! しづ子さんね、寒そうな顔しているわ、何か御用事?」  珠子はかかえたかるい洗濯物を一とまとめにして日本室の濡縁《ぬれえん》の方にしづ子をつれて行った。しづ子は、思いつめた眼つきで言うことを頭の中で整理していた。 「おばさん、私、おききしたいことがあるんですよ」 「なあに? あらたまって——」  珠子は、真剣な、しづ子をじっと凝視《みつ》めていた。 「とにかくおあがりなさいよ。石油ストーヴでもたきましょうよ」  珠子はしづ子を洋間につれて行った。 「あのね、おばさん、私には千世子という妹があったんですね、おばさんはご存じでしょう」 「なんですって……」  珠子は、おおげさに驚きの声をあげかかったが、口調が空疎なのが自分でもわかった。 「だれにお聞きになったんです。そんなこと」 「だれにもききません。だけれどわかりました」  珠子はそう言うしづ子をしばらく観察していたが、一通りの嘘《うそ》ではだまされない年齢になっているのを否応《いやおう》なしに悟った。 「その千世子さんがどうしたと言うんですか」  しづ子は、はちきれそうな沈黙で床をにらめつけていた。 「私、妹にあいたいんですわ」  と言いながら珠子にもたれ掛ってはげしく背をふるわした。珠子の眼の中にも、しづ子の激情がつたわって小さい閃光《せんこう》が閃《ひらめ》くのと一緒に針の様な涙が光った。 「どうして又そんな事を急に気にするんですか、もうずうっと前の事よ」  しづ子は声を落して 「私、石川力三という人を訪《たず》ねて行きましたが、千世子はいないと言うんですの」  珠子は複雑な眼つきをして 「へえ……ああそうそう……」  その挙措からしづ子はおばが一切の事情を知っていると判断できた。 「おばさん、おしえて下さい。千世子は何処《どこ》にいるんですか」 「そこまであなたがご存じなら言いますけれどね、一度貰われた所から又よそに貰われて行ったらしいんですよ。それがわかったので、あなたのお父さんも心配なすってたずねて行ったらしいのですけれど、貰った方が大変な大金持で前の華族さんの邸《やしき》を買って住んでいるのをたしかめたので安心して帰ってらしったと言ってたわ」 「じゃあ千世子は、お金持のお嬢さんになっているんですね、そんな感じはしていましたのよ。でもそれだけで千世子は幸福かしら」 「それはわからないわね、しかし貧乏よりはお金持の方がいいでしょう」 「そりゃそうですけど……、おばさん、いま千世子のいる家をご存じなのね」 「知りませんよ、それを知っているのは、あなたのお父さんだけかも知れないわ。そんな事をおききにならない方がよろしいわ」 「でもどうして私の父母は自分の娘をよそへあげる事にしたのかしら。勿論《もちろん》そこにもきっと何か秘密があるんですわ」 「そう思うのはむりはないわね。でも何も秘密はないわ」 「ではなぜ自分の娘を人にくれたりするんですか」  しづ子ははじめからその部分の事情が不可解だった。何か小説にでもありそうないきさつが妹の出生の周囲にからんでいるのではないかと判断していた。 「そんなことはありません。それは絶対にありません。保証します。それはあなたの思い過しよ」  しづ子は、まだ納得しなかったから、はれきれない面持で 「それならどうして大事な娘を人にあげたんですか」 「それはね、あなた方の小さいころ、あなたの家は大変生活に困っていらしたのよ。あなたのおかあさんが着る物をすっかり質屋にもって行って長襦袢《ながじゆばん》にコートを着て訪ねてきた事もあったわ」 「じゃあ、貧乏だけで自分の子供を人にやったんですね。そんな親って世界中にあるかしら。もっと深い事情があってやったとばかり解釈していたんだけど、そんな事情で人にやったのならよけい軽蔑《けいべつ》するわ」  しづ子は一途《いちず》にはげしく言い放って眼からしずかに涙をぽろりぽろりと落した。 「私の親って、よその親とはどっか違っているのね。いつもそう感じているわ。だけれど貧乏だから子供がそだてられないのなら生まなければいいじゃないの」  珠子は急に自分の立場に気がついたように面持を改めて 「それはあなたの言いすぎよ。人の一生にはどうにも出来ないような事が沢山あるわ。子供を人にやる事になった親はそんな不幸を経験しない親よりよけいな苦しみを経験しているのだから同情してあげなければ」 「それも一つの考え方でしょうね。しかし私はそうは思いません。世間の親に子供がそだてられるのに、私の親だけどうしてそだてられないんですか」  珠子はだまってしまった。理屈はまさにその通りであったから。  若い頃木下は手のつけられない放蕩者《ほうとうもの》だった。くるしい間借生活で小夜子がお産をするために着物を質にいれて洗面器とタライを買って来たのに、お産の前日にそんな物まで持ちだして道具屋に売り払って女のいる呑《の》み屋に行ってしまったこともある。電車に石を投げて留置場にとめられたり、浅草の呑み屋から馬をつれて帰ったり、小夜子を絶望させることばかりしながら、家庭ではぜいたくで我儘《わがまま》でタイラントの夫だった。  もう夕飯の支度《したく》をしなければならない時間になっていた。 「じゃあ私御飯の支度にかかりますから、あなたはしばらくここでグラフでも見ていらっしゃい。久しぶりに一緒に御飯でも食べましょう」  微《かす》かに石油のにおいのする部屋から珠子はでて行った。  妹の千世子をよそにくれてやった事情が何か特別なものであったなら、勿論それを知ったときには、今よりももっと強い衝動を受けたかも知れないが、貧乏で食えないから両親が子供を他人にくれたときいたよりは、一層さっぱりしてよかったかも知れない。面をそむけたいようなこんな情けない感じは味わずにすんだにちがいない。  千世子の貰われ先が何かの事情で、も一度ほかへ彼女をくれているという事情に父母が案外無関心で、ただ千世子が前華族の屋敷に住んでいるという外形的なことに満足していたのではあるまいか。カルタのように人手から人手にうつって行く若芽のようなもろい魂のかなしみに父母が何も考えていないらしいことにしづ子は、激しい不満を感じないわけにはいかない。しかし、ストーヴの熱で体があたたまって、珠子が作ってくれたあたたかいホットケーキに蜜をかけて食べているうちに、冷たくかじかんでいた気持は少しずつほぐれて行った。華族の様な屋敷に住んでいるとすれば、彼女は今どんなくらしをしているだろう。  彼女は、やわらかいベッドに寝て花模様の羽根布団《はねぶとん》を着ているであろうか、スリッパにも刺繍《ししゆう》がしてあるに違いない。ピアノの上には蝋燭《ろうそく》を立ててあり、窓のカーテンはスカートにしても良いあつい生地で、しぼった所に房《ふさ》を下げているに違いない。  たわいない想像だったけれど、たぶん千世子がその境遇に満足しているにちがいないと思った時、しづ子は少しだけすがすがしい気持になって一人でほほ笑みながらテーブルの下に重ねてあったグラフを取りあげた。  台所では、珠子の仕込んだ肉パイがテンピの中で良い香を立てていた。彼女は調理台の上にこぼれたうどん粉を庖丁《ほうちよう》のさきでかきあつめながら幾度も時計を見た。夫の伊田は、あの日以来ややきちょうめんな時間に帰ってくるようになっていた。けれども、彼はあれ以来気のせいかなんとなく珠子に対してうす紙一枚ほどの間隔を持つようになった。今までのように二階の石上と、三人でテーブルに向ってもとかく言葉が切れて、石上と、珠子だけのお喋《しやべ》りになっているのに気がつく。繊細な伊田が二人よりもその事を気にして適当な間隔に言葉を投げこんでいる作意がまたはっきりわかる。彼は、玉川姉妹を離れては、意気|銷沈《しようちん》して、何に対しても、生き甲斐《がい》を感じることができない。しかし、彼はまた、世に行われる条理に対しては、誰よりも従順な人間である。彼はしょんぼりして時間どおりに出勤し、時間どおりに帰ってくる。   昏迷《こんめい》  次の日の晩、伊田順一は、もうしばらく来ないつもりだから、といって、お別れに稲子と麦子を銀座につれて行った。  資生堂で夕食をたべて、横の入口でパイを一箱買って稲子にもたせた。それから横町に列をつくっている自動車に二人をのせた。 「道はわかってますね。靖国《やすくに》神社のまえを右に曲って、神楽坂《かぐらざか》、矢来《やらい》、それから江戸川」 「大曲《おおまがり》の方を通った方が道がいいんですがねえ……」  もうハンドルを動かしかかった運転手が、うるさそうに言葉を挟《はさ》んだ。 「いや、いや、飯田橋から江戸川までの道路は狭くてゆれる。ためしに神楽坂に出てごらんなさい。非常に近いんだから」  伊田は、扉をあけたまま、車内をのぞき込んでいたが急に気を替えて 「僕、一緒にのります。アパートまで送ってからかえることにしましょう」  順一は、姉妹二人でいっぱいになっている車内に乗り込んで来た。娘達の温い太股《ふともも》を向うに押して、自分の坐る狭い場所をつくりながら 「かえったら、おふろに入って、すぐ寝なくちゃいけませんよ。それから同じアパートの人に、なれなれしくされても、うまく受け流して、絶対に深入りした交際をしないこと。世間には狼《おおかみ》がいるということが、まだわかっていないんだからね。ほんとうですよ」  稲子は、まっすぐに運転手の背を見ながら、微《かす》かに唇《くちびる》でわらっていた。きのうの夕方、稲子の室に隣室の安土が来ているところに、ばったり順一が入って来てしまった。利口な安土はとっさの機転で 「失礼しました」  と隣人らしい無愛想なあいさつをして出て行ったが、順一のおどろきと不安とは、それ以来今までつづいているのである。  車は神楽坂をとおりぬけて、矢来の戸をしめた商店街をはしっていた。 「危い。危い。娘二人の人生行路なんて高障害競走みたいなものだ……」  順一は、目深《まぶか》にかぶった中折の庇《ひさし》の中でつぶやいた。 「大丈夫ですわよ。大人はいつまでも子供が大きくならないと思っているらしいけれど、私達どんどん成長しているんですよ」  麦子がつよく言いかえそうとするのを、稲子は、膝頭《ひざがしら》で合図してとめる。単純な麦子とちがって、稲子には、順一の保護をいちがいに迷惑とばかり思っていない小さな思惑がある。折角さしのべている温い手を、こちらから引込めさせる必要はない。淋《さび》しい二人きりの生活には、彼の好意が、どれだけの潤いかはかり知れないのだ。  安土との交りは、自然、順一の好意が破られない程度の秘密とならざるを得ない。安土はそれをあきたらながっているけれども、稲子には彼の不満を押えつけて、なおつないでおく魅力の自信があった。  自動車は江戸川にさしかかった。 「さあ、僕はもうあまり来ないことにするからね、二人で扶《たす》け合って人にだまされないようにすること——」 「何べん同じことばを今晩は聞かされたことだろう」  麦子はそっぽを向いていたが、稲子は、深くうなずいて 「勿論《もちろん》、私達おじさんの心配なさるようなことは何もいたしませんわ。ですけれど、そんなに急に、来るのをおやめんなるわけが、どう考えてもわかりませんわ」 「だから言ってるでしょう。会社の仕事が忙しいので、当分家にもってかえらなくちゃならないし、それに……」  順一は、珠子のことを思うと、にがいにがい思いがした。しかし、冷静に考えてみると、何か家にあったにしても、責められるべきは自分だった。珠子を非難する資格は自分にはない。彼は身を剥《は》がれる思いだけれども、稲子たちの顔は当分見まいと決心をした。自動車は、小さいアパートの前でとまった。 「稲ちゃん、麦ちゃん、握手しよう。じゃあ、おじさんに誓ってくれるね。こんど逢《あ》うまであまり外に出ずに、二人で洋裁でもしているんですよ」  彼は切ない声で、二人に哀願するように言った。 「わかっています。おばさんによろしく」  まだ何か言おうとする順一を、車の中に押し込むように扉を外からしめる。  くらい舗道に立っている姉妹の姿が、車の窓をさっとかすめて、うしろに走り去ると、順一は、首を廻してうしろの窓から見送りながら愚かしく手をふった。が、先方はもうこちらも見ずに歩み出していた。  それから順一は、しばらくうしろの寄りかかりにもたれて、目をつぶった。  これからかえって行く家庭の中にある黒いわだかまりと、姉妹への心がかりとが一緒になって、何ともいえない暗澹《あんたん》とした気持だった。  彼が駅前までくると、郊外電車の改札口を出てくる石上の姿が見えた。 「おい、ここでいい。ここでとめてくれ」  彼は運転手に金を払っておりながら、そばにさしかかった石上をよびとめた。 「景気がいいですねえ。誰かと思いましたよ」  石上は屈託のない高い声を出した。  そんな明るい声をきくと、自分の心の暗さがかえりみられて、順一は、しばらくだまって歩んでいた。が、ふと、彼は衝動的に重大なことを思いつめた。——いっそ、姉娘の稲子を、思い切ってこの石上とめあわせたら、自分の心はかえって鎮《しず》まるのではなかろうか。 「石上君、僕、君にちょっと話したいことがある。どこか喫茶店にでも入ろうか」  石上はいぶかしそうに順一を見た。どうして家にかえらずに、街のまん中で、重大な話をしようというのだろう。  しかし、石上はその言葉につれて、見なれている、ある喫茶店のネオンライトを片側の軒なみに探《さが》した。 「『ザボン』に行きましょうか」 「いいでしょう」  二人はつれ立って、うす暗い喫茶店に入って行った。エルマンの「チゴイネルワイセン」。ヴァイオリンが鳴っていた。順一は、憑《つ》かれたような眼つきで腰を下ろした。石上は、順一の変った様子をしげしげみていたが、彼の言おうとする話は、胸の底の深い所にあるらしく、簡単には引きだされてこない。 「で、お話というのはなんでしょう」  すると、順一はますますうなだれた。彼の心にはたたかいがあった。 「石上君、今、僕がこれから言いだそうとすることは、常識的な判断ではわり切れない事だが、驚かない心がまえをしてから聞いてくれたまえな」 「はあ……」  石上は、わけのわからぬ胸騒ぎをおぼえながら、不可解な順一を、じっと見戍《みまも》る。 「話と言うのはほかでもない。君、家の珠子と結婚してくれないか」 「なにをおっしゃるんです」  さすがに快活な石上も、はねあがるほど驚いていた。  そう言いだした順一も、自分の言葉にびっくりして今、眼が覚《さ》めたようにあたりをみまわす。自分は、さっき玉川家の稲子を石上にせわするために、彼をここにつれこんだはずではなかったか。稲子がどうして珠子に変ったのか、その変り目は、なんとも自分ながら説明しようがない。いずれにしても大変な事を言いだしてしまった。 「石上君、君は、びっくりしているね、自分の妻を人にせわする男は珍しいからむりもないが、これにはいろいろわけがある。いずれ、ゆっくりそれも話すがね。今、言いたい事は、彼女が君を愛していると言う事だ」 「誤解です。あなたは何か大変な誤解をしていらっしゃる。奥さんが私を愛していると言う事はありません。そんな事、言わないで下さい。とんでもない話です」 「いや、君は知らないんだ。僕は彼女の心理をずっと観察している。それに僕の方にもちょっとした煩悶《はんもん》があってね、君さえ承知してくれれば彼女の思いをかなえてやりたいんだ」 「そういう話は閉口です。何もかも藪《やぶ》から棒でご返事のしようもありません。伊田さん、この話はきかなかった事にして下さい。そうでなければ、もう、あなたにも奥さんにもお目にかかれないではありませんか」 「そう言い給《たも》うな。僕がこれを言いだしたのは、よくよくの事だ。いったん言いだした以上きかない事にすると言ったって、君は現実に聞いたんだ。イエスかノウか今、言ってくれないか」 「そんな事が、言えるはずがないじゃありませんか。しいて言えばイエスでもノウでもない第三のものです。しかし、言っておきますが、僕は、あなたの奥さんといかなる角度から見てもやましい事はありませんから、それはよく知っておいて下さいね」 「わかっている。君が、そんな男でない事は僕がよく知っている。だから僕は間に入って公明正大に事を運ぼうと言うのだ。おねがいだ。何も言わずに珠子をつれて行ってくれ給《たま》え。それで万事が解決する」 「そう言う事はおっしゃらないで下さいといっているではありませんか。僕はとてもつらくなる。僕がどうしてあなたの奥さんをつれて出なければならないのですか。僕もいずれ結婚しなければならないのですが、その相手は物堅い中流家庭の二十一、二の処女だろうと想像していました。現在せわになっている先輩の奥さんと結婚したとしたら世間はなんと言うでしょう。僕にはそんな気は毛頭ありません」  石上は日頃のすなおさに似ず、つよい言葉で言った。彼には、伊田の世代の内攻した内面生活は理解出来ない。しいて言うなら、ばかばかしい感情の空転だと思っていた。しかし、こんな事を言いだされた以上、伊田家にはもう世話にはなれまい。彼には、その現実問題の方が重大であった。 「君の言う事がほんとうなら珠子の気持は一人|角力《ずもう》だったわけだね。あれも可哀想な女だ。僕のような男とつれそって、ひどいめに逢ったと思っているだろうな」  石上は、階下の夫婦の間に複雑ないきさつがあるとは少しも気付かなかった。  順一が、遅く帰ってくることがあった事は知っていたが、勤務時間の都合だろうと気にもとめなかった。 「とにかくおどろきました。こんなたのみを貴方の口からうかがうとは、夢にも思いませんでした」 「すまなかった。聞かなかった事にしてくれ給え」  順一は、今更そんなことを言い、紅茶二杯分の勘定をカウンターの少女に払って石上と外に出た。家々は、のれんを外《はず》して、店仕舞をはじめていた。人通りの少くなった街の軒々に、ネオンライトだけが病的な光で柔かく霧のような光の枠《わく》をつくっていた。  こんな話をしてしまってから、どんな顔で珠子の顔を見たものか順一もとまどっている。彼は石上と珠子との間柄を相当深刻なものと想像して、すでに、その事実は気持の中に織り込みずみだった。珠子がそうであっても宥《ゆる》せたのは、玉川姉妹のところに、自分の慰みも歓《よろこ》びも憂えも、みんなあずけてあったからに外《ほか》ならない。 「伊田さん、いずれにしても、二、三日うち、僕は部屋を替ります。会社の特約旅館がありますから、あした電話をかけてみましょう。考えて見れば、あなたから誤解をまねくような行動を気付かずにしていたかも知れません。すみませんでした」 「あやまらなくてもいいよ。あやまるのはこちらの方だ」  二人は、ちぐはぐな気分で、伊田家の玄関をベルも押さずにがらがら開けた。  出迎えた珠子は、二人がそろって帰ったのが意外らしく眼を瞠《みは》っていた。  石上は、そのままだまって二階に上り、順一は洋服|箪笥《だんす》のある部屋に入ってきて、いきなり中折帽子を畳の上にぼとんと落した。 「なにかございましたの?」  珠子は、真剣な眼付で順一を見上げた。 「べつになんにもないよ」  順一は、努力して笑顔を作っていた。その、笑顔の薄皮の裏に硬《こわ》ばったほんとの表情があるのを珠子は見のがさなかった。 「でも、お顔のいろが、ただじゃあないわ」  珠子は、たまらない不安で夫の傍をはなれる事が出来なかった。 「二階に火はあるのかい」  よく気の付く順一は、こんな時もやっぱり珠子にそんな注意を与えていた。 「あらまあ、すっかり忘れてしまいましたわ」  珠子は、なにか心残りがしながら茶の間に行って火鉢《ひばち》の火を台十能《だいじゆうのう》にうつす。珠子は、二階に上って行った。階下の順一は、もう、丹前《たんぜん》に着替えていたが、二階の石上は洋服を着たまま部屋の隅《すみ》に立っていた。 「今日は、ずいぶん遅うございましたわね。お国から速達がきたようですけれど、ご覧になりました?」 「いいえ、どこにありますか」  石上は、机の上を眼でさがしていた。  しかし、珠子は、この部屋に入った時から、彼が不自然に自分の方をみないようにしている事に気が付いた。夫がなにか今晩変なように、彼も、微妙に変である。二人の間になにかあった事は明白だった。  しかし、夫が階下に居るので、珠子はそちらに気持を牽《ひ》かれていた。こころの中では、石上と狎《な》れ狎れしくしていたけれども、まだ彼に向って冗談一つ言えない珠子である。  珠子は、夫の居る茶の間に入って行った。よく灰を掻《か》きならした火鉢の銅壺《どうこ》に、いつもの如《ごと》く湯がたぎり、アルマイトの鍋《なべ》に清汁《すまし》がにつまりそうに泡《あわ》を立てていた。 「やっぱり、なにかございましたわね」  珠子は、真白に洗った布巾《ふきん》で火鉢から鍋を下ろしながら、珠子にしては、しつこく夫に言った。石上と、夫の間のただならない雰囲気《ふんいき》が自分に何か関係していたに違いないと彼女は直感していた。 「あなたの心配するような事は何もないよ。だが今晩ぜひあなたに言いたい事があるんだがね」 「なんでしょう」 「まあ、ゆっくり話そう。珠子、誤解してはいけないよ。僕は世間によくある男と少しタイプが違うらしいんだから。よくある通俗的な事とは違うんだからね」  珠子は、もう眼色を変えていたけれど 「なんでしょう」  と心を抑制しながらたずねた。 「あなたも知っているとおり玉川姉妹の母親が亡《な》くなった後、僕は彼らの後見役をつとめなければならない事になった。あれ達のアパートの人達なども何かいやしい解釈をしているらしいけれど、これは色恋から出た問題ではない。むしろ僕の人生観から発した心境だと言った方が、より適切だろう。だが、そんなことを言っても世間はとおらない。僕の行動から親類や知人や貴女にまで心理の波紋が起っているのが、僕には手に取るようにわかっている。それで、僕はいっその事、この気持に徹底して彼等と一緒に暮らそうかという事を考えはじめたんだ。あなたは勿論反対だろうね」  順一は、ぎごちなく火箸《ひばし》で灰をいじりながら、とぎれとぎれに言った。 「なんですって。あなたが、稲ちゃんや麦ちゃんと一緒にお暮らしになるんですって。それで私は、どうなるんですか」 「あなたには、生活費はあげる。また、二日に一度か三日に一度は必ず様子を見にくる。病気の時には勿論、すぐかけつけるからね」  その言葉と一緒に、珠子の表情は急に停止して眼ばかり大きく見ひらかれた。と思うのと同時に、彼女は、わあっと大きな声をあげて食卓の上に泣き伏した。 「ひどいわ。ひどいわ。そんな事が出来るかどうか考えて見て下さい。いくら世間の想像するような、いやしい関係がないからと言って、夫がよその娘さんと一緒に暮らすのを私が見ているんですか。そんな事は出来ません」 「あなたがそう言うのはむりもない。けれど、僕はこうしなければならない追いつまった所に追い込まれてしまったのだ。断じて、貴女が想像するような色恋の問題ではないのだから、その点は安心して待っていてくれ、あれ達が一人歩き出来るようになったら、かならず帰ってくるから」 「色恋でないと、あなたがご自分で思っていらっしゃるだけだわ。世間では自分で気の付かない恋愛もあるらしいんですよ」 「断じて、違う。そんな不潔な動機からあれ達を、保護していると思ったら大違いだ。しいて説明を求められれば父性愛とでも言っておこうか。それが一番近い気持だ。これが、人に理解されないのは寂しい事だね」 「理解いたしません。そんな事はおっしゃっても世間には通じません。私でさえみとめない事を、世間がどうしてみとめてくれましょう」 「いいよ。人には解《わか》らなくてもいいんだ。自分一人で解っていれば、それで満足さ」  珠子は、またテーブルの上に泣き伏して、いつまでも肩をけいれんさせていた。 「泣かないで。決してあなたを不幸にしはしない。しかし、もしあなたがもっと幸福になれるなら、僕の手でその道を拓《ひら》いてあげたい。あなたは、したいようにしていいんだよ。この家にいてもいいし、どっかに行ってもいい」 「どこに私が行くんでしょう」  珠子は、また声を新たにしてさめざめ泣いた。  順一も、頭を垂《た》れて考え込んでいたが、彼は自分の言った言葉にはげまされて腹を決めていた。  今夜の自分のとった行動は支離滅裂だったけれど、結局稲子と麦子を中心にして、ぐるぐると円を描いていたのである。  彼は、そう腹がきまると立ち上った。  泣いている珠子を、残したまま電話をかけに外にでて行った。呼びだす相手は勿論、玉川姉妹である。  彼は、酒屋の柱にとり付けた電話にすがりつくようにして、棚《たな》に並んだ日本製洋酒類の瓶《びん》をながめていた。やがてしっかりした稲子の声が受話器の底にあらわれた。 「稲子ちゃん? 僕、順一です。もう、寝ていたろうね。ごめんなさい。急にお話したい事が出来たんだけれど、行っても良いかしらん」 「もう遅いですわ、明日になすったら。麦子も眠っておりますし……」 「でも、どうしても今晩話したいんだけれどなあ」  彼は、あやうく電話口で自分の決心を喋《しやべ》りだそうとしたけれど、傍にコップ酒を呑《の》んでいる労働者がいるので、さすがに口をつぐんだ。彼は、しかたなしに話題を変えて 「どう、今晩の銀ブラは楽しかった、パイは開けて食べたかい」 「ええ頂きました。とてもおいしかったですわ」  稲子は、上手《じようず》に、電話をきるチャンスをさがしているらしい。   三月の深夜  今西とあんなことになってから四日ほどたっていた。  若い今西は、小夜子の一言の命令で五感が痺《しび》れたようにすくんでいた。彼は彼女の命これ重しと、ひるすぎ木下が散歩に出る時間になると小夜子が二階にあがってくるのを炬燵《こたつ》でおずおず待っている。  小夜子は、今西の悩みながら牽《ひ》かれている真剣な挙措を見ると、何か小気味よい復讐《ふくしゆう》をとげている心地《ここち》だった。しかし、逢《あ》うごとにあわれが募って用意した敵愾心《てきがいしん》は忽《たちま》ち萎《な》えて消えてしまった。これが愛だとは思いたくないけれども、いつか、小夜子の気持は、砂山を踏んでいるように、ずるずると足下をめり込ませていた。一たん肉体の裏を見せた男には、何かあずけてしまったような敗北を感じて、手も足も出ない女の弱味を、今西に対しても感じはじめたのだ。いっそ、この青年に溺《おぼ》れ込んで井上との悲しみを忘れようと思ったが、といってそれだけはできなかった。  今日も二人は、二階で一時間あまり過した。世帯《しよたい》くずれした三十女の小夜子と世間知らずの今西とは、そのこと以外では、共通の話題の乏しいとんちんかんな組合わせだった。 「奥さん、実存という言葉がありますね。僕は貴女とこうしていると、あの言葉が浮んで来て何だか絶望的になる……」 「じつぞん? 何よ。じつぞんて——そんなにいけないことなの」 「いいえ、いけないとかいいとかいうことじゃなく、人間の不可避な運命です」 「なんにもむずかしい理屈は要《い》りゃしないわ。わたし達こうして、木下や井上さんの鼻をあかしてやるのよ。ほんとに、どうだいって、見せびらかしてやりたいくらいよ」 「そんなことをしたら破滅です。僕は先生に追放されてしまいます。ときに、井上君は、ゆうべ佐々木安子を下宿につれて来たんですよ。あした先生の所に御挨拶《ごあいさつ》に行くんだと言ってましたがね」 「そう、来たの!」  小夜子は、やっぱりおどろいていた。このままほうっておけば、いずれいつか二人がそうなることはわかっていた。が、それまでに何か手をうつ位の余裕はあるつもりだった。  小夜子が顔いろを変えたのを見ると、今西は、自分が小夜子と井上との間柄に抱《いだ》いていた疑いがたしかめられたような気がしてやっぱりそうだったのか、と痛恨の唇《くちびる》を噛《か》んだ。 「じゃあ、ゆうべがお嫁入りというわけだったのね。ずい分虫がいいわ。うちのおやじさんを間にいれていろいろと骨を折らせておいて、挨拶なしに、くっついてしまうんだからね。だから、よしなさいと言うのに、あのひとときたら物好きなんだから——」  小夜子は、喋《しやべ》っているうちに、事柄の深刻さがひしひしと胸の底にこたえて来た。彼女はとじた口の中でかたかた歯をかみ合わせて障子の桟《さん》を見ていた。すると、気持を支《ささ》えていた支柱がひとりでにやぶれかぶれになって行った。 「今西さん、貴方気がついているでしょう。私と井上さんとは、ただの仲じゃないのよ」  小夜子は、ふてぶてしくわらってあけすけに言いはじめた。  今西は、知っていたのか知らなかったのか、じっと下を向いて空恐しい告白が頭の上を辷《すべ》って行くのを感触していた。 「貴方にいうべきことじゃないかも知れないわね。だけど、わたし、あのひとが女と一緒にくらすとなると、指をくわえて見てはいられないのよ。この気持わかるわね」  今西は、やっぱり貝のように唇をとじて、畳をにらみつけている。 「御免なさい。わたし、井上さんの室までちょっと行ってくるわ。むざむざとあのひとが、あんな女の手にわたるのを見ちゃいられないじゃないの」 「よして下さい。そんなことをしたら、貴女が笑われる——」  今西は自分の哀れな気持は率直にいうこともできず、ただ必死に立ち上った小夜子の腕をつかんだ。弱気な男とはいえ腕力は男一人前だった。小夜子は階段口に向いた体の勢を骨太な腕でとめられて、しなしなと今西の肩におもい体をもたせかける。豊饒《ほうじよう》な女の体を包んだ絹の衣類をぷわぷわと胸と頭にうけながら、彼はきものをかきわけて小夜子の体を炬燵|布団《ぶとん》の上におろした。 「どうせ笑われていますよ。今さらそんなことを恐れてやしないわ。やって下さい。貴方には、ほんとに失礼なんだけれど、あのひとにするだけのことをしたら、またもどって来ます。それまで待っててね」  今西はさすがに若いので、それ以上立ち入って愚かしい自分の立場を抗議する気強さもない。  彼がだまって見送るのを尻目《しりめ》に、小夜子は、階段をどしどしおりて行った。きょうは、夫の木下がいないので、弁解がましい買物籠《かいものかご》をさげる必要はない。木下がいても、或《あるい》は堂々と、出て行ったところだったかも知れなかった。  小夜子はショールも巻かずに継ぎの当った足袋《たび》で台所下駄を鳴らしながら歩いていた。大地の感触はゴムのようで、世の中にこわいものは何もなかった。  井上の借間の窓は、小夜子が中から鍵《かぎ》をしめたときのようにきっちりしまっていた。けれども、窓の霧よけの下にさげた洋服かけに、白メリヤスのスリップが、女の脇《わき》の下を想像させる脇のえぐり方で下っていた。 「おのれ!」小夜子はそれを見るともうカッとして、前後もわからなくなった。彼女は、ガラガラと表戸をあけて、ぴしゃりとしめてから 「井上さん、わたくしよ」  と返事もきかずにずかずかと彼の室に入って行った。  井上が佐々木安子とさし向いで鼻の下を長くしているとばかり思ってあけた室には井上が一人で何か画仕事をしていた。 「どうしたんです」  と頭をあげた彼は、小夜子のすさまじい顔つきを見ても案外落ちついていた。 「どうしたもこうしたもないわ。最後に貴方の考えをききに来たのよ。わたしを殺すかあの女と別れるか、どっちなのよ。それをきかずにはかえりませんからね」 「いいですよ。どうぞいて下さい。そんな嚇《おど》かしにはのらないんだから」  井上はやはり冷静にいった。相手が冷静なのを見ると、小夜子は、さらにのぼせ上って、ぶるぶるふるえた。彼女は、突然、狼《おおかみ》の吠《ほ》えるような声で「おおおお……」と泣き出した。 「奥さん、落ちついて下さい。あのことは、たしかに僕もわるかった。しかし、僕ひとりの責任じゃありません。それに一度足を滑《すべ》らして泥沼に落ちたからって、いつまでもそこに浸っていなくちゃならないことはないでしょう。僕は一と足さきに足をぬきました。貴女も勇気をふるって立ち上って下さい。僕にできることがあったらお助けします」 「まあ、井上さんはいつ、そんな道徳家になったの。みんなあの娘の入知恵ね。ぬけぬけとあの娘の亭主づらした貴方に誰が助けて貰《もら》いたいといったの。ああ口惜しい。わたし今晩はここを動きませんからね。私の見ている前で二人で寝てごらん」 「そんなことを言うもんじゃありません。貴女という人が浅ましくなります。さあ、涙を拭《ふ》いて、かえって下さい」  井上は、机のはしに置いたよくアイロンをかけたハンケチをとって、たたんだまま小夜子の顔をよこから拭いてやった。自分の室から泣顔した人妻が出て行く不体裁を思ってした動作だったかも知れなかった。  しかし、それだけのやさしさでも小夜子ののぼせをぐっと引き下げる効果は充分だった。彼女は、涙顔の中の目に媚《こび》をいっぱい湛《たた》えながら雲間から月がのぞいたようににっこり笑った。 「どう? とても幸福?」 「貴女が思っているほどじゃありません。僕は貴女と別れるためにこの結婚をむりしていそいだんですもの」 「うそ。うそ。一緒になりたくって渦を巻いていたくせして。だけど貴方は気がつかないの。うちのおやじさんは、わたしが貴方がた二人の間を嫉《や》くのを見るために貴方のお嫁さんの世話したのよ」  井上は、思い当るのか思い当らないのか、いやな顔をしただけで、何も言わなかった。 「井上さん、お願いだわ。あの娘にかくれて、ときどき逢ってよ。そしたら、彼女の前には、絶対に知らんふりしていてあげるから」 「いいですよ。知らんふりしていなくても、僕、彼女には貴女のことを打明けて謝《あやま》りました」  小夜子は、と胸をつかれた。がかえって 「しゃれたことするのね」  と笑顔をつくって言った。胸の中は、嫉妬《しつと》と無念とでかきむしられるようだった。 「さあ、かえって下さい。何もわざと彼女と顔を合わせることはないでしょう」 「かえれない。何か貴方の愛の証拠を見なくちゃかえれない」 「小夜子さん」  井上はここしばらくの間に急に大人びたしぐさで小夜子の手をやさしくとった。 「僕だって、そうまで未練をもってくれる貴女を憎いとは思いません。けれども、僕は堕《お》ちて行ったらとめどのない人間だということを自分で知っているんです。僕を可哀そうだと思うならもう誘惑しないで下さい。安子もあわれな身の上の女です。お願い。たのみます」  ところが井上の手は、彼の決然とした言葉を裏切って、磁気のある小夜子の手にいつまでもじいっとふれていた。彼の心中に大きなたたかいのあるのがありありと割り切れない仕草に告白されていた。  それを見てとると小夜子は、まだ望みがあると直感した。 「井上さん、わたしどんなみじめな立場でもいいの。野良犬《のらいぬ》のように扱われてもいいの。たまでいいから逢って。ね。ね」 「だめですと言ってるのに——」  二人は、まだ何か曖昧《あいまい》な雰囲気《ふんいき》をつくりながら、言葉だけは割り切った応酬をくどくくりかえしていた。  一時間ばかりたったときだった。  靴をぬぎながらした咳《せき》ばらいで、井上は、玄関に入って来たのが佐々木安子だと直感した。  彼は、急にそこいらを片づける小きざみな仕草に、心の動揺を現わしながら 「安ちゃんか」  と襖《ふすま》ごしに声をかける。 「ええ、ただいま……」  彼女は、室内の気配で人がいるのを察した。ぬいである見なれない台所ばきで見ると小夜子かも知れないと思った。 「入ってもよろしくって?」 「ああ、いいよ」  小夜子は、さっきからのぼせ上っていたので、佐々木安子が勤めからかえってくる時間になっていたとは、知らなかった。夜中まで居坐って困らせてやるつもりだったのに、もうそんな時間かと思うと本来気弱な小夜子は、急にもじもじと腰を浮かせた。  そのとき、佐々木安子が入って来た。ちょっと腰をかがめて襖のきわで挨拶してから、井上のかげに坐って、小夜子を錐《きり》のような目《まな》ざしで見る。  一切のいきさつは彼女に打明けてあると、さっき井上が言った。とすれば、まっとうな艶《つや》で光っている若々しい目だけれども、うしろには小夜子が井上にしかけたすべての秘密が知識として織り込まれているのである。いま、まさに、その秘密を感触しながら彼女は小夜子を見ているのだ。  小夜子は怯《ひる》んだ。しかし、佐々木安子の小さい頭や細い首を見ていると、こんな小娘にしてやられたのかという恥辱感がこみ上げて来た。 「安子さん、このたびはお目出とうと言いたいところだけれど、私には少しわけがあって、のどからどうしても言葉が出て来ないのよ。御免なさい」  小夜子は皮肉に言った。はじめ怯んでいた彼女の気持は、やっぱり、いつのまにか、年齢相応の押しのつよさに変っていた。佐々木安子がすべてを井上から打明けられて知っているということが小夜子を嫉妬にかりたてる。  彼女はいつの間にか居直っていた。佐々木安子は、返事にこまって、下を向いた。が、最初から、その秘密をあかされているということで小夜子に優越感を感じていた。彼女は小夜子と同じ列にさがるなと自分で自分を励ましながら 「奥さん、何もおっしゃらないで——。井上からみんなきいて御同情しておりました。どうぞ、何もおっしゃらずに引きとって下さい。決して、貴女にわるいようにはいたしませんから」 「わたしに帰れとおっしゃるの」 「いいえ、そうじゃありませんけれど、奥さんだって、こんなところにいらしても御気分はよくございませんでしょう。私も同じです。何もなかったことにして、気持よく引きとっていただきたいんですわ」 「やっぱり帰れと言ってるじゃないの。わたしはかえりません。今晩はここに泊めていただきます」 「そんなことをおっしゃってもこまりますわ」  佐々木安子の優越感も底を割ってみれば、上皮一枚だけだった。たとえ短い間でも、井上の情婦だった女と向い合う気持は、にがい薬が血管をめぐっているようで何ともいえない苦痛だった。相手が素直に自分のたのみをきいてくれるならまだしも、小夜子は、牙《きば》をむき出して、年上という抗しがたい圧力で圧して来るのである。 「貴方」佐々木安子は井上をあるリズムをつけた甘美な声でよんだ。 「ちょっと廊下まで来て下さいません?」  彼女は、小夜子を鋭く見やりながら、井上を襖の外に手招きした。井上はのそのそと彼女の指図《さしず》どおり出て行った。 「いやですわよ。貴方、みっともない。あの方が出て行かないなら、わたしが出て行きますからね」 「そう言っても仕方がないじゃないか。ふてくされているんだから何とか下手に出てかえってもらう外ないよ」 「貴方は、私と立場がちがうから、そんな悠長《ゆうちよう》なことを言っておいでになれるのね。でも私はそういうわけには行きませんわ」 「だから、きのうよくわけを話しておいたじゃないか。も少し上から見下ろして、彼女を扱うんだよ」  二人はしばらくごそごそと諍《あらそ》った。が、結局彼女をこじらせないようにする外、方法がないと判断して室に戻った。 「どうも失礼いたしました。私には何もかも意外でどう考えてよいかわかりませんの。でも、奥さんには御同情します。ろくなものもありませんけれど、これから、夕飯の支度《したく》をしますから御一緒にいただきましょう。あとで家までお送りしますわ」 「いいえ結構。わたしは御飯を御馳走《ごちそう》していただきに来たのではありませんから、お二人で仲よく召上れ。私はここにこうしていたいだけなんですよ」  小夜子は袂《たもと》から煙草を出して、火鉢《ひばち》の火でつけた。  片肱《かたひじ》を火鉢のはしにもたせかけて、片手にもった煙草のさきで火鉢の燠《おき》にかぶった灰をかきのけているふてくされた格好は、三日でも五日でもここに坐ったまま動きそうもない、根を生《は》やして見えた。  新夫婦は、目を見合わせて、しばらくだまり込んだ。しかし、いつまで向き合っていても仕方ないので佐々木安子は、廊下にある共同の炊事場のガスを使うため、鍋《なべ》や洗桶《あらいおけ》をもって心残りの目《まな》ざしで出て行った。 「小夜子さん、貴女もわからないひとだなあ。はじめから、こうなるのは、再三言ってあったじゃありませんか。感情的にならずに、落着いて考えて下さい。僕が木下先生の奥さんとあんな関係をつづけたところでどうなります。僕の破滅はよいとして、貴女も先生も、みんな破滅ですよ。第一、僕には、貴女を養う力なんかありません。としたら先生に放り出された貴女は、どうなるんです」 「木下は、私を放り出したりなぞしないわ。あのひとはみんな知って、ゆるしているんだわ」 「そんなことはありませんよ。そんな甘いことを考えているのは、貴女が男性の心理を知らないからです。どこの夫が、自分の妻の姦通《かんつう》を知ってゆるしますか。仮りに、ゆるしたにしたって、僕は、そんな姦夫《かんぷ》の立場にいつまでも立っているには堪《た》えられません。僕は常識人だ。とてもこんな苦しいことをつづけることはできません」 「今になってそんなことを言うなら、はじめからなぜ……ひどいわ。ひどいわ。ここで死んでやるから……」  二人があらそっている間じゅう、佐々木安子は、醤油《しようゆ》びんをとりに来たり、たき上った御飯の釜《かま》をもって来たり、外の台所と室とを往復した。  彼女は、井上が小夜子に対して、きっぱりした態度をとらないのが歯痒《はがゆ》かった。しかし、強くその恨みも表現できず、ただ、好意のない目ざしや、蔑《さげす》みの唇の歪《ゆが》みに、わずかな意趣をはらしているだけだった。  そのうち、牛肉の小間切《こまぎれ》と野菜を煮込んだ簡単な食事はでき上ってしまった。が、はじめに宣言したとおり、小夜子は、自分に用意された皿や茶碗《ちやわん》の方は見向きもせず、煙草ばかりぷかぷかふかしていた。新夫婦は当惑してしばらく、食物からいきのあがるのを眺《なが》めていた。が、始末がつかないので、ぽつぽつ箸《はし》をつけはじめて、結局食事は終った。  やがて、九時になり十時になった。時間がおそくなるにつれて小夜子の気持は、ますます精いっぱいの力で、二人の気持と押し合いをしていた。 「いくど言っても同じだけれど、奥さん、おかえりになったらどうです。僕、安子と二人でお送りします」 「いいえ結構。送っていただかなくても歩きなれた道だから歩けますよ。だけど、きょうはかえりません」  それきり夫婦はまた口をつぐんで憂鬱《ゆううつ》な沈黙を続ける。  十一時すぎたかと思われる時刻だった。 「井上いるか」  と窓口で木下の声がした。井上ははっとした顔つきで 「はあ居ります」とばね仕掛のように立ち上った。彼はうろたえてがたがたと窓の掛金を外《はず》す。外から見ていると、ふるえてでもいるかのような手つきだった。 「奥さんがいらっしゃいますよ」  彼は窓をあけて、木下が小夜子を認める前にそう断らずにはいられなかった。木下は、あけた窓の中に小夜子を見ると、井上の空《むな》しい言葉など耳に入らないように 「どこをほつき歩いているんだ。ひとにめしもくわせないで——」  といきなりどなりつけた。くそ度胸がすわった小夜子は、少しも動じず、こめかみを自分の人さし指のさきでもみながら 「かえりますよ。変な所から顔を出してうるさいわね」  とつっけんどんに答えた。 「さあ、かえるんだ。出て来い」 「かえりますってば。夜ふけにそんな大きな声を出すのおよしなさい。近所がありますよ」  その間に、井上はあたふたと小夜子のショールをさがして、手にさげながら彼女の立ち上るのを待っている。 「じゃあ、おじゃましました。きょうは泊めていただくつもりだったんですけれどねえ」  木下の前では小夜子のそんな言葉にも打擲《ちようちやく》されるらしく井上は、粛然として、下を向いている。小夜子は、むしゃくしゃした顔つきをかえもせずのろのろと玄関に出て行った。 「迎えになぞ来なくたっていいのに——」  小夜子はまだ胸のもたもたがおさまっていなかった。二人は、その家の門を出て人気のない住宅街をならんで歩き出した。風がなく、柔かい肌《はだ》ざわりの空気がしんと澱《よど》んでいる三月の夜ふけだった。  二人はしばらくだまって歩いていたが、ふと小夜子が何か言おうとしたとき、いきなり木下の鉄拳《てつけん》が小夜子の横鬢《よこびん》にとんで来た。小夜子はよろけながら 「なになさるんです」 「なに! なんだと……このど淫売《いんばい》——」 「淫売でも何でもいいの。わたしあのひとが好きなんだから」 「今一度言ってみろ。人をふみつけにしやがって——」  木下のかたい拳《こぶし》が、も一度降って来た。   忠言者  井上の室に坐り込んだ小夜子をつれ帰った晩、ちょうどしづ子がいないのをよいことに木下は小夜子をなぐったり、腕をつかんで振回したりひどい目にあわせた。  彼女がひいひい悲鳴をあげる声は、二階の今西にも筒抜けにきこえた。今西は、布団《ふとん》をかぶって、じいっと竦《すく》んでいた。自分と他人でない小夜子がぶたれる声を冷静にきいてはいられなかった。しかし、しばらくきいているうち度胸ができて、戸口まで布団からのり出しながら、きき耳を立てた。 「貴方は、はじめからみんな知ってたじゃありませんか。わたし何も貴方にかくし事をしてやしないわ」 「おう、知ってたさ。知ってたよ。だが、俺《おれ》は、それをお前に許した覚えはない。亭主の俺に女房の姦通《かんつう》を憤る資格がないというのか」 「いまさらあんな事言って——」  という言葉のあとは小夜子の悲鳴になって、よくききとれない。今西は小夜子が不愍《ふびん》さにぶるぶるふるえながら、うすい寝巻一枚で階段の踊り場までのり出した。  しかし、やがて、あらそいつかれたのか、階下は静かになって、ねる支度《したく》らしく、押入をあけたてする音がきこえた。  今西はほっとして布団をかぶった。が、この夫婦のまき起している大きな波濤《はとう》の中に、自分も一緒に捲《ま》きこまれているのだと思うと、いまさらのように空恐ろしかった。今晩の諍《いさか》いの成行《なりゆき》から考えると、もともと小夜子は捨身になっている所だから、このまま離婚に辷《すべ》り込んで行くことも考えられる。二人がそうなるのを見るにしても今西に、それほどの悔恨はない。むしろ端的にいえばひそかに、小夜子が、看視者のない自由な身になるのを希《ねが》っている不敵な気持さえある。  しかし、かけ引ということを毛頭知らないあけすけな小夜子の性質では、その間いつ何時、どんなきっかけから、口諍《くちあらそ》いの中に自分の名前を出さぬとも限らない。そのとき自分は、この仕事を失うのと一緒に、この社会をも失うのである。  彼は、そうなった場合の八方ふさがりなあれこれを想像して何か悲壮な気持に誘い込まれた。彼女への愛のためなら、その位の犠牲は仕方がないという天啓を感じてますますやみがたい気持になった。そしてもし井上とのことのために小夜子が木下と別れるなら、自分が小夜子を救ってやる外ないという自分でもおどろく大胆な結論に達した。 「可哀そうな女——曠野《こうや》をさまよっている傷ついた魂に自分が手をのべずして誰が拾い上げてくれるだろう」  そこまで思い到《いた》ると、今西は、何かほっと救われて、今日までの行為を、自ら責める呵責《かしやく》からのがれられた。最初の日以来彼はただ、悔恨の矢に射られていたけれども、あるいは、この成行は、天が彼女を自分に救わせるための試みであったのかも知れない。彼はその晩すうすうと久しぶりにしずかな寝息を立てた。  翌《あく》る朝の今西の寝ざめも、ゆうべ寝ついたときの雰囲気《ふんいき》のつづきで平和だった。一夜の眠りの間に、彼は、小夜子との罪が贖《あがな》われたようなすがすがしい気分になっていた。恐れずすすむのだ。その方向だけに、罪からの浄《きよ》めがあった。彼は、階下の手洗所に行ったかえり早起きの木下が庭をはいているのを窓からたしかめて、そっと台所口をのぞいた。 「奥さん、ゆうべは、きいているのが辛《つら》かったですよ。お怪我《けが》はありませんでしたか」 「ええ?」  小夜子は、今西の、声をひそめた切実な囁《ささや》きに、疲れたようなものうい返事をした。見ると、横顔が腫《は》れ上って目の下には黒い痣《あざ》ができている。 「先生はひどいことをするんですねえ。僕びっくりしちゃったですよ」 「毎度のことだからなれているの」  小夜子は、相変らず横顔を見せたままでこちらを向こうともせず、大根を切る庖丁《ほうちよう》の手許《てもと》をこまかく動かしている。  今西は、ゆうべからあれほど彼女のために思いつめている自分の心象とコントラストすると彼女の物腰に何か慊《あきた》らないものを感じた。しかし、物事にこだわらず直情的なのが彼女の美点だからと思いかえして二階にかえった。窓から見下ろすと、木下は、なお庭をはきつづけている。しばらくはいているうち彼はふと庭のすみの堆高《うずたか》い土のかげをのぞいた。 「小夜子、ちょっと来て見ろ」 「なあに——」 「サフランが咲いているよ。春の魁《さきが》けだね。尤《もつと》ももうすぐお彼岸だからなあ」  木下の声につれて、小夜子が台所の戸口から土の上に降りるらしい。 「あら、まあほんとうに、知らなかったわ」  井上や今西とのいきさつに心をうばわれて外界の移り変りに気づかなかった詠嘆がその声にひびいていた。彼女がこごみ込んでいる場所には金色の可憐《かれん》な花が緑色の短い茎をつけて大地にはみつくように咲いていた。  二階の今西は、二人の会話を終始きいていた。彼はゆうべのけさ、二人が、世にも親密な夫婦らしく、こんなお喋《しやべ》りをしていることにおどろいた。何か欺かれたような心地《ここち》にさえなった。  結婚の経験は勿論《もちろん》のこと男女間の交渉の経験さえ浅い今西には、ゆうべとけさの間に、夫婦の間がどういう回転をしたのか、見当もつかない。  彼は、裏切られた者の佗《わび》しい気持で、しばらく腕を拱《こまぬ》いていた。  しかし、彼はまた自分が夫妻を嫉妬《しつと》しているから、特に強く感じすぎるのかと考え直した。どんなに冷却した夫婦でも一緒にくらしている以上、睨《にら》み合いばかりではお互にたまるまい。たまに、悪意を忘れた隣人同士になって、さらりとした会話をすることもあろうじゃないか。  今西はそう思って、ピーピーと俄《にわか》に口笛をふきはじめた。やるせない気持をふきはらうためだった。  しかし、やっぱり、その日は、今西にとって、辛い一日だった。  二階の隣室で今西と同じいそぎの模写をしている木下は 「何をぼんやりしているんだ。月末までに五十枚画商に渡さなくちゃ五日の勘定がとれないんだぜ」  と、さかいの障子をあけて今西のぼんやりした顔をいぶかしそうにうかがった。 「わかっております」 「しかし、こんどのバイヤーは歌麿《うたまろ》専門だから始末がいい。この前みたいに写楽や広重がコミだと外の画かきに仕事を出さなくちゃならないから厄介だ。もう懲りたよ」 「そうですね」  今西は気のない相槌《あいづち》をうっていた。自身大して仕事に身を入れていない木下は、弟子たちの模写から、相当なピンはねをして、案外らくなくらしをしている。外の画かきに仕事を出すとなれば、露骨な搾取はできないので、手数だけが彼の負担になる。彼は、なるべく、自分や井上たちで間に合うお手のものの歌麿の仕事をとりたがっていた。 「ああ疲れた。少しねるからな」  しばらくすると木下は、棚《たな》からとったウイスキーをグラスに注いで、ちびちびなめてから炬燵《こたつ》に座布団枕《ざぶとんまくら》で横になった。 「君も一杯どうだ」  と言われたが、きょうはほとんど能率があがっていないので 「はあ」  と生返事をしただけで、画紙に向っていた。  彼は、しばらく、木下のやせた寝顔を見ていた。この忙しい時に、ウイスキーをひるまからのんで横になるとは、木下にしては珍しいことである。  憎い男! いままで、しいていえばある尊敬の対象であった木下を、いつのまにか敵に回している自分を見出《みいだ》して彼は暗然とする。  夕方、今西は、夕食の支度をしている小夜子を横眼に見て、外套《がいとう》をきた。 「一寸出かけて来ます」 「ああもうすぐ御飯ですのに」 「いいえ、食事はしてきますから支度しないで下さい」  彼は、夫婦がさしむかいで、さしつさされつ晩酌をするところにあほうづらをして坐っている自分を想像するとあわれだった。どっか焼酎《しようちゆう》ホールでニコヨン相手に沢庵《たくあん》でもポリポリかみながら安焼酎をあおる方が気がきいている。  彼は、やるせない思いで早春の街に出て行った。どこかの垣の中から沈丁花《じんちようげ》の香がしてくる。  彼にとって小夜子は最初の女性だった。他人に見せたら草履《ぞうり》と足駄の組合わせだというかも知れないけれども、一旦《いつたん》この門をくぐってしまった以上、生半可《なまはんか》な気持で彼女と対しているのではない。  彼は、焼酎でものむつもりだったが、今の気持はとうてい酒などでみたされるはずはない。彼の足は、佐渡の住んでいたアパートに向いていた。 「佐渡いるか」  彼は、アパートの階下に住んでいる佐渡の室の外で声をかけた。 「おおい、いるよ。今西か、上れ」  今西は、廊下に入って、佐渡の部屋の扉を開けた。 「どうしている。今度の仕事は手伝わないのか」 「うん」  佐渡は、あまりはっきりした返事もせずに綿埃《わたぼこり》だらけの髪をかきむしっていた。 「どうしたんだよ」 「うん」  彼は、やっぱりあいまいな返事をしていた。  その眼付きに見入っていた今西は、何か佐渡の心の内に自分の見知らない思想が生れているのを感じた。 「何かあるのか。お前は水臭いぞ」  その時、佐渡は、はじめて、今西の顔をしみじみ見て 「僕はいやだ、あの家庭に出入りするのはつらい」  今西は、何か心にぎくりとこたえるものがあった。しかし、自分と小夜子との事を彼が知っているはずがないと思いかえして 「それはどういう意味だ」 「君は、知らないのか、井上と、木下夫人とは、あれ以来あれなんだぜ」  今西は、知らぬ振りをしようとしたが、その言葉に驚く眼顔はそらぞらしくて出来ない。  今西は、あいまいな表情をごまかしながら 「だって、井上は結婚したじゃないか」  すると、佐渡は、今西の顔を見て意味ありげに軽く笑った。  脛《すね》に傷持つ今西は、又ぎくりとしてさそくの応答もせず、火箸《ひばし》で火鉢《ひばち》の灰をかきならしていた。  暫《しばら》く、今西はだまって自分の考えている事を調《ととの》えようとした。ここを訪《たず》ねて来たのは、それとは言い表わせないけれども、この心の底にある憂愁を彼に聞いて貰《もら》いたいためだった。が、彼の方からこんな風に言いだされては、打明け話の出穂をもぎ取られたようなものだった。 「どうしたんだ」  佐渡の方から、今西のなにか意味のあるらしい顔付を見てきりだした。 「うん、一寸待ってくれ。今言うから」  とは言ったものの、とうてい簡単に切りだせる告白ではない。  佐渡は、皮肉に今西の顔を見て 「井上は、うまくやったな。ある意味では羨《うらやま》しいよ」  今西は、とうとういたたまれなくなって 「佐渡、君にはもう解《わか》っているだろうが僕も、井上のあとから、木下夫人と、同じ過失をしてしまったんだよ。今では後悔している。けれど簡単には引退《ひきさが》れない。それで悩んでいるんだ」 「そうだろうと思った。井上との話を聞いた後で君が住み込んだという話だったから、おそかれ早かれそういう事になるのではないかと思っていたんだよ。僕の想像は、あまり違わなかったね。やっぱりそうだったのか」 「僕は、苦しんでる。木下夫人は、淫蕩《いんとう》な女だ」  彼は、やっと、その告白の敷居を越えたので後はらくに今朝《けさ》の木下家での見聞を打明けて、掴《つか》みがたい彼女のこころのままに一喜一憂している苦しみを呻《うめ》く様な口調でぽつりぽつりと喋った。 「きみは、もてあそばれているんだよ。要するに、井上や君は、夫婦がよりたのしむための小道具にすぎないのさ。この間のショウだって僕等がどんな顔をするか見るための木下氏の実験なんだぜ。井上と君は、つまりその罠《わな》に引っかかったのだよ」 「そこまでは思いたくないな。木下夫人は、可哀想な女だよ。だれかが救ってやらなければ地獄に落ちる女だ。僕はなんとかして自分の手で救いだしてやりたいんだ」 「だって、君は、さっき彼女は、淫蕩だと言ったじゃないか」 「そう言ったよ。けれども、僕が救えば彼女はあの境地からのがれられるという意味さ」  二人は、ちぐはぐな事を言い合って暫く火鉢に向き合っていた。  佐渡は、今西と夫人に対する自分の想像があまりにぴったり当ったのが、意外で、あまり愉快ではない。  木下夫婦が演じたあのショウを見てから自分が感じたもろもろの思いは明るい陽光のもとで人に語れる性質のものではなかった。が、彼は、結局木下家から遠ざかるということで自分に囁かれた悪魔の啓示からのがれようとしていたのだ。 「君よした方がいいぜ。我々に女を救うなぞというだいそれた事が出来るものか。すでに木下夫人は、出来上った中年の女だ、まだ自分というものをしっかり形成していない君がぶつかって行ったらこちらが破砕されるだけだ。よした方が、いいぜ」 「しかし、今の彼女は、僕が、たすけなければどんな男でもめくらめっぽうに掴むね。非常に危険な精神状態だ。ほとんど破産に瀕《ひん》しているよ」 「君が、救うなんて思いあがりだよ。仮りに彼女が、どこかの男とどうかして行ったにしたって僕等の知った事ではないよ。見ているしか仕方がないじゃないか」  ひたむきな今西は、佐渡のいうことにいくどでも反駁《はんばく》した。  が、結局中年婦人の催眠術に掛っているのだと言う、佐渡の意見に言い負かされたかたちになった。 「悪い事は言わない、とにかく木下家を出|給《たま》え。ああいうタイプの女はそれほど後を引きゃあしないよ、その時は井上の家に坐り込んだりするけれども半年もたてばけろりとして外の男を相手にしているよ」 「そうしよう」  今西は、もう少し一人になってから考えて見たい未練はあるけれども、佐渡の言う事が間違っているとは思えなかった。 「じゃあ、僕は木下家を出て仕事をする事にする。しかし、井上の様に追っかけられたら、僕は、とてもやつの様に気強い態度はとれないね」 「大丈夫だよ。やつは、丁度結婚ということと重なったから、彼女が彼を追うことになったのだ。そういう事がなければほかの男をあさっていたさ。男と女ってそういうものなんだぜ」  今西は、よわよわしい表情で笑っていた。自信はないけれど勇気をだして今晩から早速、佐渡のつくってくれたプログラムの実行に掛ることにしよう。 「ありがとう、君と話したおかげで、なにか血路を見いだしたような気がする」 「くどく言うようだが、第一にあの家を出ることだ。解ったね」 「うんうん」  今西は、やはり自信はなかったけれども、とにかくその気になっていた。彼は 「ありがとう」  としょんぼりと出て行った。  今西が帰ると佐渡は、暫く火鉢のふちに肘《ひじ》を突いて物思いにふけっていた。  井上と今西とが言い合わせたように、木下夫人とそんな関係になったという事は、いくら驚いても驚き足らない事実であった。  あのショウは自分も一緒に見たが、あとからそういう仲間に引き込まれなかったことでは、天に感謝しなければならない。しかし、そう思う眼の底にあの場の光景がはっきりと焼きついている。  彼が幾度となく思いだしているうちにほっそりした肉付よい小夜子の四肢《しし》は網膜の中で蜘蛛《くも》の足の様に思われた。丁度、蜘蛛の腰のくくれめから下にあたる丸い腰が、褥《しとね》の上に横たわって、迫ってくる横暴な木下の肉体をその繊細な蜘蛛の手で支《ささ》えながら拒絶している光景が、戦慄《せんりつ》と一緒に思い出される。手足のすみずみまでよく感覚のゆきとどいた本能の強い女である。あのぴちぴちした触感は、蝸牛《かたつむり》の角みたいになにかにさわるのと一緒に石火の早さで飛び込む敏感さを持って想像される。二人の友人がその蠱惑《こわく》にたえきれずに一人ずつ身体を投げ込んで行った様は如実に見える。  佐渡たちの世代は、この種の蠱惑に対して無防備を誇りとするように躾《しつ》けられた年齢だった。  誘いに陥れられなかったことよりも陥れられたことの方がより興味的に語られる。知らず知らず彼らは生の冒険の中に女性とのかけひきと、それに負けることを計算に入れていた。  彼は、小夜子の捕虜にならなかった事を感謝していたけれども、その冒険に遭遇しなかったことには痛恨があった。  ことに友人の井上と今西とが安々と得たものを自分だけが得なかったということは非常な幸運を意味しながらマイナスの響きを持っている。彼は、さっきの今西の告白から自分の感情がなんとなく乱れていることを感じて机に拡《ひろ》げていた模写の仕事をやめてしまった。  この上は、今西が自分の忠告通り木下家を引揚げて夫人から遠ざかることが自分の心の平和のためにも希《のぞ》ましい。  翌日になった。彼は、一日アパートに居て今西から木下家を引揚げたという知らせを心待ちした。夕方まで待ったが、彼からはなんの音沙汰《おとさた》もない。勿論《もちろん》、本来、事柄は彼の所へどうしても告白にこなければならないことではない。  しかし彼は、一日今西を待っていた。自分のこのことに対する必要以上な関心を滑稽《こつけい》に思ってぶらりと散歩にでて、今西の下宿の前を通ってみた。  彼の部屋には電灯がついていた。やっぱり彼は帰って来たのかと、佐渡はそのことの価値だけでない深い満足を覚えた。   娘の行方《ゆくえ》  佐渡は今西の室になっている二階に向いて 「今西……今西……」  と声をかけた。すぐに返事はない。  しかし、根気よく、も一度よぶと、黒い影が室を横切って窓をあけた。佐渡は今西のタオルの寝巻姿を見て 「何だ。もうねているのか」 「ああ、何か用事?」 「べつに用事じゃないけれど、昨日《きのう》の話のつづきがしたくて来たんだよ……」 「あしたにしよう」  今西にしてはめずらしい素気なさだった。佐渡はゴツンと何かにぶっつかった。やっぱり今西が、あの忠告を、それほど素直にきいていないことを如実に感じた。 「今晩だっていいじゃないか。まだ早いんだぜ」 「あしたにしようよ」  佐渡は、今西の口調にむっとした。こんな態度で自分に向うようでは、彼の心境も危いものである。佐渡は、今西の煮え切らない面持を見ると、気持がしきりにいらいらした。ひとのトラブルに首を突込むのは愚かしいと思いながら、このことでは、今西の告白以来、気持の中で、思いがけない深入りをしている。彼は、今西をどうしても自分の意志どおり小夜子から引きはがして、赤い血のしたたる傷口を自分の目でたしかめなければ気がすまない無残な嗜欲《しよく》を感じた。 「とにかく、ちょっと寄らして貰《もら》うよ」  佐渡は押しつけるように言って、階段口からのぼって行った。  彼が扉をあけると、今西の室の玄関には女の草履《ぞうり》がぬぎそろえてあった。三尺の沓《くつ》ぬぎ場の前に障子が一枚はまっているので中は見えないけれども、外の扉をあけたのに、中から障子をあけない所を見ても中に女客がいるものとよめた。  佐渡は躊躇《ちゆうちよ》した。その女が誰であるかはちょっと見当がつかない。しかし、かまうものかと思い直してぴしゃりと障子をあけると木下夫人が隅《すみ》の方に坐っていた。 「おや、誰かと思ったら——」  佐渡は、さすがに気おくれがして、その場の名状しがたい気持をそのまま喋《しやべ》ることはできなかった。 「誰かと思わなくたってわたしよ。立川のかえりにちょっと寄ってみたんだわ。いそぐ仕事があるのに、この方、室にかえってしまったんで、木下はとても困っているのよ」  小夜子は、すき間だらけの弁解をした。仮りに事情を知らない人間でも、さっき窓から今西が顔を出したとき、タオルの寝巻をきていたことを思い合わせると、いまのいま大急ぎで床を片づけて、小夜子が着物を着なおしてそこに坐ったにちがいないことは一と目でよめる。  佐渡は、ちょうど二人の枕《まくら》もとあたりに当る畳の上の灰皿をじろりと見て 「もう晩《おそ》いですよ。奥さん。お送りしましよう」 「いいわよ。いま今西さんに送ってもらおうとしていたところなんだわ」  そういわれると、なお自分が送ってやろうと、たって主張するいわれのないことが、ことさら明瞭《めいりよう》になって佐渡は口をつぐんでしまう。小夜子は、坐ったままいつまでも喋っている。佐渡もそこにあぐらをかいてどっかり坐り込んでいた。いわず語らずの間に、三人はそれぞれの立場から、口に出していえないあるものの周《まわ》りをめぐって押し合いをしている形だった。  一番気の弱い今西は、無難に小夜子が腰を上げてくれることを願っていた。木下だって今頃まで自分の妻が帰らないのを何と解釈してるだろう。また、井上のアパートに見に行ったかも知れない。けれども、いないとわかれば、ここまで回ってくるのに五分とはかからない。  しばらく黙ってうつむいていた小夜子が、きっと眉《まゆ》を上げた。 「佐渡さん、おせっかいね。わたし、今西さんとは、ただの関係じゃないのよ。今西さんが若い女と結婚しようなどという俗っぽい考えさえもっていなければ、いつでも木下としづ子をおいて、ここへ乗り込んでくる勇気をもっているんだわ。こういうことは、一人一人それぞれの事情があるんだから、あなたのような第三者には、わからないわ。人の恋路の邪魔をする奴《やつ》は、犬に食われて死ねばよいって、昔の人はいいことをいってるわ」  佐渡は苦笑した。しかし、そう三人の立場があけすけになってしまえば彼としても何も恐れるものはなくなった。 「奥さん、僕にはあなたのしていらっしゃることの善悪についての判断はありますけれど、今、それをいおうとは思いません。けれども僕は木下先生のおかげで飯を食っている弟子の一人として、こういうことを耳にはさんだ以上、黙っていれば、それだけで先生への裏切りになります。今日は、私の顔を立てると思って、家へ帰って下さい。こんなところを先生に見られたら、僕までどうにもなりません」 「なかなか立派な理屈ね。佐渡さんにそんな演説が出来るとは知らなかったわ。だけども私はいいのよ。私は木下に見つかったって、ちっとも恐《こわ》くなんかないんだから、見つかったら困る人が先に帰ることだわ」  そんな議論の間じゅう、今西はじいっと首を垂《た》れていた。小夜子から遠ざからなければならないという義務感と、それができない感情との闘いは、昼間から、今もなお続いている。  今西は、弱り切ってはいたけれども、二人のあけすけな議論の間に、堪《た》えがたい陰湿さをもったこの秘密が、だんだん乾《かわ》いて、人中に出せる形をととのえてゆくような心地《ここち》がしていた。しかし、佐渡が主張してやまないのは、この場合、世間の通り相場としての彼の「何をなすべきか」だった。  それを、耳のそばでささやかれているのも、あながち悪い心地ではない。佐渡に責められている間は、自分の良心から責められるのを逃れていられるのである。一時間ばかり小夜子と佐渡とは言い争っていた。夜は大分|更《ふ》けて、省線電車の音がいつの間にか、重くいんいんとひびく貨物列車の音にかわっていた。  これほど、佐渡が師の妻に当る木下夫人に向って強い言葉を吐いたのは珍しい。今西は、おどろいて彼の性格を見直した。 「さ、悪いことはいいません。僕と一緒にお帰り下さい。先生には何とでも嘘《うそ》をいってあげます」 「いやだわ。あなたにそういわれれば、わたし、なおここを立ち上れないの。野暮な人ね。二人きりで話したいことがあるということがわからないの」 「わかっていますよ。わかった上でいっているんです。じゃ、こういう案はどうですか。あした、昼間、ここで今西と逢《あ》うということにして、今晩は帰ることにしたら」 「それはいいわ。もちろんそれでもいいわ」  小夜子は、今晩、木下を怒らしてまでここに泊るという腹をきめていたわけではない。自分にすっかり弱いところをつかまれた今西は、自分が何もかも捨ててここにころがり込んでくるといったら、随喜して命これ重しと、自分のために騎士になってくれるに違いない。しかし、そこまで自分を投げ出すには、しづ子のことも考えなくてはならないし、木下についても気持はまとまっていない。正直のところ小夜子は木下との生活を捨てる決心をしたことは、まだ一度もないのだった。  妙ないきがかりから、佐渡の忠告に反抗して坐り込んだ形になったが、一ばん初めの気持では、もともと今晩ここに泊るつもりは毛頭なかったのである。 「じゃあ、そんなにしつこくいうんなら帰ることにするわ。佐渡さんのおせっかいにはほんとにおどろいた」  とうとう小夜子は、立ち上った。佐渡は話のなりゆきから、自然自分が送る役になったつもりで、一緒に階段を下りた。  表まででると、あたりの住宅は灯を消して、街灯の光が夜更《よふ》けらしく、燭光を増していた。 「晩《おそ》いのね。何時ころだろう」  佐渡は腕時計を見て 「二時過ぎています」 「二時? 二時ですって! それで木下にはどんな嘘をいうの?」 「お友達のところで、麻雀《マージヤン》をしていたというのでは駄目ですか?」 「そんなありきたりの嘘のきく木下なら苦労しないわ。まるで嘘をいっていましたというような嘘じゃないの」 「じゃあ、僕のところにいたことにしたらどうですか」 「何のために、こんな時間まで貴方のところにいたことにするの。それも変だわ」 「じゃ、こんなことはどうですか。あなたがそこいらをうろうろしていたのを僕が見つけてつれてきたことにしたら、案外その方が先生の同情を引くかも知れませんよ」 「私が自殺でもしようとしていたことになるのね。さあ、それもいいかも知れないけれど、あの人、信じるかしら」  しかし、およそそんなところに話は決まった。佐渡は、おろかだと思いながら、何か楽しい気持で、足のおそい小夜子と並ぶために、歩調をゆるめていた。  木下家の表まで来ると、しづ子がセーター姿で表に立っているのが門灯の明りで見えた。 「おや、しづちゃん、どうしたのよ。今ごろまで起きていたの」  小夜子は、ついてきた佐渡も、いままでの事情も一度に忘れて、思わずしづ子のそばに駆けよった。  しづ子は目顔で佐渡に挨拶《あいさつ》して 「心配したわ」  とだけいった。 「何も心配することないわ、大人だもの。それに電車のいらないところを歩いてきたんだし。それよりあんた、カゼでも引いたらどうするのよ」  小夜子は、持っていた手提袋《てさげぶくろ》をつかんだまま、玄関を上って火鉢《ひばち》の火もないらしい茶の間の電灯の下に突立った。 「お父さんは?」 「お父さんはお二階です」 「今ごろまでお仕事?」 「ちがうわ。さっきから泣いていて、どうしても止められないんです」 「へえー、お父さんが泣いてるんですって。それはまたどうしたの。お酒に酔ってるんじゃないの」 「いいえ、そうじゃないんです」  しづ子は一緒に入ってきた佐渡をはばかって、語尾を口の中で消してしまう。  小夜子には佐渡の耳など問題ではない。どうせそれ以上のことを聞かせているのに、今更何の秘密があろう。 「いってごらん」  しづ子は、おびえたように母の顔を見て非常識さに呆《あき》れて黙っている。いつもより濃い化粧をして、妙に桃色の目立つ頬紅《ほおべに》までつけた母の顔は、今晩は殊《こと》に酒に酔ったようで、ナイロンみたいな光を目に湛《たた》えていた。  二人の話の成行《なりゆき》を耳にはさんで、後ろに控えていた佐渡は 「奥さん、僕ちょっと二階の先生にお目にかかってきます」 「ちょっと待って——」  と、小夜子は声をかけたが、佐渡は振りかえらずに、階段を上っていった。 「なんでお父さんは泣いてるのよ」  小夜子は改めて、しづ子の顔を見た。 「お母さん、私に妹があったんですわね。その妹が、芸者に売られているんですよ」 「えっ! まさか」  と、小夜子は軽く受け流していたが、全身が急に硬《かた》くなったように突立って、しづ子の顔を、見知らぬ人間の顔のようにじろじろ見ていた。 「だれがそんなことをいったのよ。馬鹿らしい! あの子はある大家の令嬢になっているんだから、何にも心配しなくてもいいわ」 「ちがいますよ。お母さん! 千世子は芸者になって、東京の場末で働いています」 「だからさ、誰がそんなこといったの」 「そんなことはきかないで——。でもお父さんにそれをお話したら、急に泣き出しちゃって、どうしてもとまらないんです。さっきから一人で困っていたところに帰ってらしたのよ」 「ばかなお父さんね。わたしはそんな話絶対に信じない。千世子が七五三のお祝にとった写真があるけれど、大変なものよ。ローブデコルテの服をきせて、ほんものの真珠の首飾をしているの。どうしてあの家が娘を芸者にするの」 「それは知りませんけれど、とにかく芸者になっていることは間違いないんです」 「うそうそ、どこから聞いてきたか知らないけれど、そんな馬鹿な話はありませんよ。それにしづちゃん、千世子は、他所《よそ》へあげた子供なんだから、あなたが余計な気をつかったりする必要はありませんからね。でもどこから聞き出したんだろう。千世子のことなど」  おわりは独言《ひとりごと》にしながら小夜子は、坐って足袋《たび》をぬいだ。それから、寝間の隅《すみ》に巻いてたてかけてある花ござを敷いて、短い羽織をぱっとその上に投げた。  しかし、彼女の燃えていた気持は、千世子の名前が出た瞬間、冷水を浴びせられたように、しゅんとしてしまった。忘れるともなく忘れていた次女の名を、何にも知らない筈《はず》のしづ子の口から、はじめて聞いた時には、心の底が凍る思いだった。千世子が芸者に出るようなことは、万々、ないけれども、彼女の名前が出てきただけで、彼女はおびえるには充分だった。 「余計なことに口を出さないで、早く離れにいってお休み。あしたの朝のお米は洗ったのかい?」 「洗いました」  しづ子は、しょんぼりいって、離室《はなれ》にいく板戸を開けた。小夜子は、二階にいったものか、どうかと考えながら、寝間着の袷《あわせ》の腰紐《こしひも》を締めていた。すると、二階から 「お小夜、お小夜」  と、木下が呼んだ。  小夜子は 「はい、只今《ただいま》!」  と、よい声で、調子の高い返事をして、快活な歩調で、とんとん階段を上っていった。まさかと思うけれども、とにかくいやな話を聞かされたものだ。それにくらべると、さっきの自分のこだわりなぞ問題ではない。すでに、彼女の頭の中では問題が入れ替っていた。 「お前、聞いたかい、しづ子の話を。俺《おれ》は人生がいやになった」 「聞きました。子供のしづ子が何を言い出すことやら。だれがあんな話を吹っ込んだんでしょう。今日立川に行きましたけれども、何もそんな話はありませんでしたわ」  小夜子は、相変らず、高い調子で喋っていた。そばに黙って聞いている佐渡には、いくらか彼女の語調に、わざとらしい誇張がひびいてきこえた。木下も日ごろの虚無的な調子に似ず、高いオクターブで喋っていた。 「しかし、お小夜、全くあり得ないことではないぜ。おれはこの話はほんとうだと見た。戦後|成金《なりきん》は九分九厘まで闇屋《やみや》なんだから、沈むとなれば、何にも支《ささ》えがない。常識では考えられないことが行われているかも知れないよ」  木下は、炬燵《こたつ》の上の板に、肘《ひじ》をついて、乾《かわ》いた瞼《まぶた》の裏から、新しい涙をぽとりぽとりと落した。 「おれは、たまらないよ。千世子が芸者をしているということをじっと考えてみろ。仕事なぞ手につきゃしない。とにかく調べたいんだが、急いでこの仕事だけは渡してしまわないと、後の仕事に関係するんだからな」 「そうですよ。そんなにあわてたって仕方がないわよ。それに、そもそもこの話はうそです。珠子さんあたりが、何かききかじって、そそのかすんだわ。あのひとときたら何でも、妙に勘ぐるくせがあるんだから」 「お前はそんなことを思っているから甘いもんだ。言っとくが、この話はほんとだよ。ああああああ。俺の若いときの生き方の過失が千世子の運命で酬《むく》いられているのだ」 「生き方の過失ってなに? いまだって過失を犯しているじゃないの」 「そりゃ今も犯しているさ。犯しているけれど、若いとき、理想を追って妻子を飢えさせた罪ははかり知れないものだ。第一、こんな不貞の女房に頭があがらないのは、何のためだ」 「ふん。不貞な女房で申しわけありませんでしたねえ」  と小夜子は、鼻のさきで、あっさり夫の重大らしい言葉を吹きとばした。木下も、小夜子の不敵な挙惜に格別おどろくわけでもなく、黄色なやにのついた指で、煙草をつまみあげる。 「僕、失礼します」  佐渡は、索莫《さくばく》とした目つきで欠伸《あくび》をしながら立ち上る。娘が芸者になったということを耳にした今晩の木下は、そのことに酔って、妻の帰宅時間などに、全然関心がない。何かあくのつよい一と役うけもつはずだった漠然《ばくぜん》とした予想は外《はず》れた。それに見なれてはいるものの、この夫婦の関係の複雑さは、端倪《たんげい》すべからざるものである。小説にも、芝居にもある夫婦感情の法則は、きまりきった一つの枠《わく》の中でしか変化していないけれども、この夫婦の間にはその枠がない。  佐渡がかえると、小夜子は戸じまりをするために玄関まで送り出した。 「おお、何だか生温い風ですこと。あしたは雨かも知れませんね」  小夜子の言葉は、佐渡に、さっきの事柄のつづきを言わせない圧力をもっていた。しかし、佐渡には、さっきから何か、肚《はら》の底に溜《たま》っている悪意的なガスがあった。 「奥さん、貴女は幸福な方だ。大変豊富な愛情生活をしていらっしゃる」  ふと、そんな言葉が、歪《ゆが》んだ佐渡の唇《くちびる》から出てきた。彼は、思いきり、陰にこもった口調で、それを言わずにはいられなかった。 「ええそうよ」  小夜子は、佐渡の低い語調に反抗するように思いきり高いソプラノで言った。 「貴方、嫉《や》いているのね」  佐渡はその言葉にびっくりする。そして、戸口を出かかりながら引返して来て 「しかし、奥さんに言っておくことがあります。僕も貴女と先生との挑発的なシーンを見せていただいた一人ですが、僕一人だけは、のこりの二人とちがってどうも別な性格をもって生れているらしいことです」 「結構じゃないの」  と小夜子はにっこり笑った。彼女は、前から、上あごの犬歯の奥に細い金を入れていた。そのとき、特に、その金がピカリと光ったのが、佐渡には印象的だった。   夫の発意  伊田順一はあの晩、稲子に電話をかけて、すぐ彼女たちのアパートに引返すつもりだった。が、稲子がはっきりした返事をしないので、そのまま家で、側の床の珠子のしのび泣きを聞きながら、輾転《てんてん》反側して夜を明かした。  起きる時間になると、珠子はいつもの通り起きた。髪にブラシを当てて顔をつくってから、台所に入って行った。いつもの通り彼女はママレードを皿に移したり、ミルクの罐《かん》に孔《あな》を開けたりしていたが、涙は目の中から、抜け落ちるようにセーターの腕の上にぽつりぽつり落ちていた。  夫の順一は本来何にでも凝る方で、いつぞや小犬をもらったときにも、犬が親を慕って鳴くと、ほとんど夜中、土間においた藁《わら》の箱の上にかがみ込んで、撫《な》でたり、ミルクをのませたりして眠らなかった。それ以来しばらくは頭の中が全部犬のことで充《み》ちて、犬の本を取寄せるやら、犬を自動車にのせて、代々木あたりにある愛犬協会の診療所に連れて行くやら大変だった。会社から帰ってきても、しき藁を干したり、消毒したり、犬の毛並にブラシをかけたり、ほとんど犬のことに忙殺されて親類の招待さえ迷惑がった。  しかし、相手が犬であったのは始末がよかった。稲子と麦子という若い女に傾倒して一緒に暮らそうとまで思いつめてしまっては、犬のように単純には捌《さば》くことが出来ない。  二階から降りてきた石上も、順一も、その朝はそれぞれが思い思いに気まずく、朝飯のパンをむしったりバターをぬったりした。  石上は、ゆうべ順一の申込みで、少からずぎゃふんとしていた。が、彼にはそんな外的な屈託では抑《おさ》えつけられない若さがある。彼は一番先に快活になって、新聞の将棋欄を見て棋譜の通りに「五三歩……」などとつぶやきながら頭の中で駒《こま》を動かして見ていた。 「不思議だ。どうしてこれで坂下八段が投げたんだろう。どうも僕にはわからない」  と独言《ひとりごと》をいってから 「要するに読みが足りないんだな……」  と、半分は順一を相手に自分を自分でわらって新聞から頭を上げた。その拍子に、深刻な思いで二杯目の紅茶をついでいる珠子のうつむいた顔を発見する。ゆうべ、大分泣いたらしい彼女の頬《ほお》は、紅葉色の赤みが磨《みが》き出されたように輝いて、瞼《まぶた》にも同じ色が淡くぼかされている。  彼はふと泣いた女の魅力といったものを発見する。女がさめざめと泣きすがるようなさし迫った場面に、まだ一度も際会したことのない石上は、きのうあれからどんな場面が二人の間にあったかを、ごく常識的に想像して、ちょっと痛ましい気持になった。それが自分と関係あるとは、いかに考えても了解できないことであるが、ゆうべのようなことをいわれてからよく見れば、なるほど彼女はつつましくもあるし、年も自分より一つしか上ではない。うすくない鼻の肉付が、彼女を軽薄でない美人に見せていた。がそんな条件がどんなに揃《そろ》っても、彼は本来、人妻というものを好かなかった。彼女らは処女とは全然ちがう次元に住んでいて、意外なことに泣いたり思いがけないことで笑ったり、理由のわからぬ感情を蜘蛛《くも》の巣のように張りめぐらしていて、うっかり何か喋《しやべ》っても、その糸に引っかかりはしないかと、いつも警戒して相手になっていなければならない人種である。珠子は、縦から見ても、横から見ても、理想的な貞女であるらしかったが、そういう点になると、石上には全く苦手だった。  石上は、珠子を見る度《たび》に、人間がこんなに小さく糸を巻いたまりのような感情の塊《かたまり》に凝りかたまってよく生きて行けたものだと、感心することがある。女が貞節のために針鼠《はりねずみ》のように武装して小さく身がまえているのが家庭なら、家庭というものはあまり有難くないものだということが漠然《ばくぜん》とした独身者の感想だった。といって、妻が不貞であるのがよいというのでは毛頭ない。その点では彼の空想の中に、自分の妻が不貞であることなど想像も出来ないから不貞の弊害について考える必要はなかった。だから古い貞節の弊害の方だけを考えていたのである。  食事が終ると、石上はいつもと同じ時刻に、同じカバンをもって玄関に出ていく。珠子が送り出すのもいつもの通りである。石上の靴音が家の表を歩き去ったのをはっきり確かめてから、珠子は茶の間に引返してきた。 「あなた、いま一度、考え直していただけませんか。あなたがあんな若い娘さんの二人暮らしの中に入り込んだら、世間は何というでしょう。誰も監督だと解釈する人はないと思いますわ。それに私は安閑とこの家に一人で暮らしてなんぞ行かれません。お願いします。いま一度考え直してくださいまし」 「すまない、珠子。我儘《わがまま》な僕のために嫌《いや》な思いをさせてほんとにすまないと思う。だが、僕があの姉妹のために後見人になってやらなければ、誰もあれ等の責任を負うものはないのだよ。可哀そうじゃないか」  要するに順一の言ってることは、いつもの通りだった。客観的に見れば、稲子の魅力に取り憑《つ》かれているのかも知れないけれども、彼自身はそのことに少しも気づいていないので、こちらからそれは持ち出せない。  珠子は強くも言えず言葉を柔らげてくれる涙で抗議の効果をぼやかしていた。こんなとき、実家に父母が生きているということが、彼女を傍観者的にすることがある。こんな交渉は親がするものだという実家の父などの考え方が、どっかに潜んでいるのだろうか。  彼女は、順一が出勤したら、すぐに実家へタクシーで駈《か》けつける手筈《てはず》にして、訴える言葉まですでに頭の中では出来上っていた。順一は、箪笥《たんす》のある部屋でいつもの通り、自分で引出しから下着類を出して次々と手際《てぎわ》よくボタンをかけていった。 「そんなに泣いてばかりいないで、ちっとは元気な顔も見せておくれよ。せっかくあれたちの幸福を考えても、あなたがそんな悲しみに沈んでは、僕の気持は台無しだ。今日すぐ行くというわけじゃないんだからね。あなたにも納得させて、向うには準備もさせれば、まだ二、三日はかかるでしょう。それまでになおお互の気持を反省しようじゃないの」  順一はいつものような穏かな調子で、何かの道徳を説くように、じゅんじゅんと珠子にきかせていた。が、その反省という言葉すら珠子には気にくわない。  珠子は 「はい。はい」  と、ときどき答えてはいたけれども、夫の言葉に賛成していたわけではない。順一もやがてカバンをさげて玄関から出て行った。  珠子は送り出た玄関から引返してくると、目を大きく見張って、さあ、何を一番先にしたらよいだろうかと考える。実家の母に電話をかけることだ、と、判断して近所の酒屋に小走りに走った。 「もしもし、お母さま、わたし、珠子、ぜひお話したいことがあるんですけれど、来ていただけるかしら」 「急にどうしたの。用向きは何よ」  母の磯江は、もう凡《およ》そ見当がついたような声で、珠子に反問していた。 「とにかくいらしって、電話でお話し出来ることではありませんから」 「じゃ、これから支度《したく》をしてタクシーでいきますから、一時間半はかかるでしょうね。何かもっていくものはあるかい」 「何もいりません。お菓子もいいカステラがありますから、どうぞ何もお持ちにならないでいらしてください」  夫婦というものの間には親の力が何の働きもしないことは、結婚後に珠子の発見した真理の一つだった。けれども珠子はやっぱりこんなとき親がいるということで、まだ真直《まつす》ぐには自分の現実に面していなかった。彼女は、母親がすぐ来るということで、何か自分が楽観しているのを発見して、むしろ、滑稽《こつけい》に思った。  珠子はいつもの通り、きれいに家の中を掃除して、火鉢《ひばち》の灰をふるったり、箪笥に艶《つや》ぶきんをかけたりしていた。箪笥は五十年間位の幸福は保証する顔つきで、でんと座敷に坐っていた。そのとき、表で自動車の止まる音がしたので、こんなに早く母が来たのかと出迎えると、朝出て行った石上だった。 「僕、今日引越すことをゆうべ伊田さんにお話してあったんですが、ご存じですか?」  石上は、珠子の顔を見ると、何の陰影もなくあっさり言った。 「知りませんでしたわ。伊田が何も申しませんので……」 「そうですか。何もおっしゃらなかったんですか……それは突然でなんでしたね」  珠子は、喋りながら石上の後について、二階に上って行った。階段を上ってから、どうして自分は二階に来たのかとちょっとあきれた。が、彼の意味ありそうな口調が重大で、それを聞かずに、自分だけ台所に引返して行くことは出来なかったのだ。 「伊田が昨晩何かあなたに申し上げたんですわね」 「ええ、まあそうです。こんなことを言ってもいいかな……」 「おっしゃってください。私にとっては重大なことです」 「伊田さんはゆうべ、僕にあなたを連れていってくれといいました。が、それは一体どういう意味でしょう。そんな言葉に僕、返事出来たと思いますか」  珠子はうつむいて、自分の白い前掛に落した視線を動かさない。そういわれて思い当ることはある。いつぞや、夫の続くおそい帰宅を防ぐ手段に困って、思わず留守にいろんなことがあると、一言口走ったことは自分としても重大だったから忘れてはいなかった。あのとき見せた夫の表情で、順一が何を思ったかも想像出来ていた。 「僕があなたを連れ出してどうするものですか。馬鹿なことを言う伊田さんですよ」  珠子はそれまでじっとうつむいていたが、そのとき石上の言葉に軽い軽蔑《けいべつ》が匂《にお》っているのを感じとった。しかし、それ以上に、順一は何ということをたのんだものだろう。自分は玉川姉妹のところに行くことにしておいて、のこる足手まといの珠子を石上につれて行けとは——。珠子はかっとしていた。彼女はきつい目《まな》ざしで石上を見上げて 「わたくしをつれて行けですって。伊田はなんて勝手なことをいうんでしょう。私はやっぱり、父のところにかえることになると思いますの」 「お父さんのところに——。それはまたどうしてです。そんなお話はききませんでしたね」 「こんなことお話してよいかどうかわかりませんけれど、伊田は、玉川の姉妹にとても打込んで、もう離れてはいられなくなったんですの。おはずかしいことですわ」 「へえ!」  石上はおどろきながらも、ゆうべの順一の言動とてらし合わせていた。  そんな事が裏面にあったとは全然知らずに昨夜は罪もないのに何か罪人ででもあるかのように自分は振舞っていた。 「で……」  石上は、彼女の言った事のほかにまだなお自分と珠子とのことについての話があったはずだと思ったが、それをあからさまに質問するのは躊躇《ちゆうちよ》された。  珠子にも、その時おおよそ石上の質問している事は解《わか》った。が、それは自分の口からでまかせの根拠のない一言から出たことだったから、そのことに触れて行く勇気はない。  しかし、あんな言葉が自分の唇《くちびる》から躍《おど》りだしたのには、自分一人だけのごく淡い理由があったのだ。それは、いつぞや来た小夜子が二階にあがって行く石上を見て、頻《しき》りに素敵な男性だとほめた暗示からに違いないと後で自分には判断出来た。  小夜子が、石上を見て冗談に言った一言が、そういうことに全然無関心であるだけ無防備な珠子にどんな大きな影響を与えたか、はかり知られぬものがあった。それはちょうど一粒の酵母が落ちたために処女地だった温床全体が、その菌に侵蝕《しんしよく》されるようなものだった。  そういう気持のプロセスには彼女の意識した遊びは少しもなかった。  自分の心の中身が何にとらわれていたかわからないほど、彼女の外側は、順一に対する貞操で鎧《よろ》っていたのを、やっぱりああいう熱のある言葉がとびだしたのは、こころの底に、熔岩《ようがん》が沸《たぎ》っていたからに外ならない。  石上は、昨夜順一からあの話をもちかけられた時この家を逃げだして、自分の身の潔白を立てることばかり考えた。しかし、今、珠子から詳しい事情を訊《き》くと、ただ逃げだして冷たい他人の垣の外から珠子を見ているのはしのびない気持になった。 「よけいな事かも知れませんが、あなたのお父様にお逢《あ》いしてこの前後の事情を、僕、お話しましょうかしらん。伊田さんは、何を考えてこんなことにしてしまったのでしょうかね。ひどい。いくら考えても」 「そうして頂けます? そうしたら、父もきっと本人の私が話すより客観的に事情が解ってよろしいと思いますわ」 「よろこんで致《いた》しますよ、僕、ずいぶん義憤を感じました。こんな話ってあるもんじゃない」  石上は、男女問題の割り切れない泥沼を知らない単純さで若い者らしく足をふみ入れようとしていた。  二人が小一時間も喋っていた時、表に自動車が止まった。 「母がきたんですの、きっと。お逢い頂けますね」  珠子は、石上のそばから立ち上りざま、なれなれしい目《まな》ざしで見おろした。 「ええ勿論《もちろん》。このことでならどなたにでもお逢いしますよ」  珠子は、生気を取りもどした足どりで階段をとんとん降りて行った。門扉が、ガラリと開いた。 「どなたかお客様? 自動車が待っているじゃないの」  といいながら母の磯江がはいって来た。  その時、後から階段を降りてきた石上は、玄関にぬいであった珠子の下駄を靴下の足につっかけて出て行って、自分が荷を運ぶつもりで乗って来た大きい乗用車をかえした。彼にとっては、重大な他人の問題に足を一歩踏み入れる合図みたいなものだった。 「まあ、一体どうしたと言うのさ」  磯江は手提袋《てさげぶくろ》をぶらぶらさせてはいってくるなり、気弱い珠子に気勢をかけるようにいう。 「どうもこうもないんですの。こんなこと私にはとても手におえないんですわ」 「とにかくまあ熱いお茶でも頂きましょう。咽喉《のど》が渇《かわ》いちゃった」  磯江は、ずかずか茶の間に入って行った。こんなことがあっても、艶《つや》やかに拭《ふ》かれた鉄瓶《てつびん》は、シュンシュンと家庭的な音を立てていた。  磯江は、急須が何処《どこ》にあるのかと茶壺《ちやつぼ》を手に持ったままあたりを見回す。珠子もうろたえて 「あらっ、急須を何処へ持って行ったんでしょう」  昨日と今日と、珠子が変っていたのは急須の置場がわからなくなったことぐらいである。 「珠子さん、この海苔《のり》は紙箱にはいっているからしめってしまいますよ」  彼女は、もう娘の越度《おちど》を発見していた。彼女はそんなところに、娘と順一との間の不和の原因をみようとしているかに見えた。「で、順一さんはもうかえらないの。寝耳に水だからびっくりしちゃうじゃないの」  珠子は、昨日の出来事に石上と順一とのいきさつをまぜて語った。その物語に、涙の伴奏がはいらなかったのは、さっき二階で石上との間に打明けられて、今はその復習であるからだった。 「稲子さんてどんな娘さんかねえ、私はまだ一度も逢ったことはないんだよ」 「ええ、家にはあまり来ませんから。でもいま考えると、くるなと言っていたのかも知れませんわね。しかし、竹を割ったようなさっぱりした気質の娘さんですわ」 「しかしそんなこといいだすところを見ると、よっぽど深い関係だろうね」 「さあ、それがどうしても順一が色恋じゃあないといい張るんですよ」 「馬鹿な珠子さん、そんな男のいうことなど真正直にきいて、ああそうですかといっているんですか。かりに、あなたのいう通りなら、どうしてその娘さんが順一さんの同棲《どうせい》を承知するものかね。自分の前途がめちゃめちゃになるじゃあないの」 「だから、私にはまるで判断が出来ないのですの」 「しかし心配しなくてもいいわよ。お父さんにたのんでそんな話はやめさせて頂くから」 「でも、むりにそうしてもあの人の気持が面白くないから同じですわ。ここまでいわれてこの家にとどまっているわけにはいかないじゃありませんか」 「そりゃ、まあそうだね」  二人はだまって顔を見合わせる。さんざん言ったような気がしたが、話はいつの間にか振出しに戻っていた。 「で、二階の石上さんは忠告してくれるとおっしゃるのかい」 「いいえ、そこまでの話じゃないんですけれど、くわしい事情をお父さんに話して下さるとおっしゃるんです」 「事情はもうきかなくてもそれで大体わかったよ」  磯江は、くどくなる珠子の話を簡単に自分の方から端折《はしよ》って 「石上さんはまだお嫁さんを貰《もら》わないのかい」 「ええ」  珠子は、母が何を考えているのかと顔を見た。 「あの方、大学は何処だえ」 「順一の大学の後輩です」 「秀才らしい人だね」  珠子は、若いだけにこんな会話を続けているのがばからしくなった。さっきまで石上の同情と好意にすがろうとした気持が母親の手でうんと俗っぽくされたような気がした。  まさか母は順一の身替りに石上を考えているわけではないだろうと思うけれど——。母の世代の俗物性には日頃珠子は笑ったり当惑したり迷惑したりしていたが、今こんな切迫した場面にそれが飛び出してきたとは滑稽《こつけい》だった。 「あなたは笑っているけど石上さんは立派な青年だよ。私は前から順一さんにはあきたらなく思っていたの。こせこせしていて男子としての社会的野心といったものがまるでないんだものね。何かというとすぐ、こんな社会には自分の夢をつないでくれるものが何もない。せめて肉親のためにでも誠意をつくすほか生活の喜びを求めることができない。なんてきいた風なことを言ってさ」  珠子は下をむいて、母の言葉の放つ毒気を避けていた。順一に不満があってもことが起らないうちは、母のようなつよい女でも、それを口に出す機会がなかったと見える。  珠子は、しかし、母にそうまで言われると、順一がすこし可哀そうな気がした。 「しかし、私にも悪いところがありましたから、いちがいにあのひとばかりも責められないんですの」 「どんなわるいことがあったのだい」  磯江は、すかさず娘の手許《てもと》におどり込んだ。大体この話はどこか間がぬけていて、一箇所自分には目かくしされているところがあると、彼女ははじめからあたりの匂《にお》いをかぎ回っていたのだ。  二人は、次の瞬間ふっとだまって顔を見合う。 「珠子さん、あなた、まさか、順一さんのいない間に、石上さんと、このごろよくあるあんな事件を起したのじゃないでしょうね」  磯江は、何もこわいもののない五十女の目つきで鋭く珠子を見ながら、ずばりと言った。 「いいえ、まさか、そんな……」  珠子は、うろたえて、取乱しながら母の言葉を遮《さえぎ》った。 「それならそれで解決のしようはかえってあるんだけどねえ」 「どんな解決ですか」 「石上さんに貰ってもらうのさ」  磯江は自分の思いつきのよさを誇るように脂肪質ののどで笑った。   誘いの夜  順一の足はその日のかえりも、玉川姉妹のアパートに向いていた。  寒いころは五時に会社を出ても、飯田橋交差点にさしかかると、前の焼酎《しようちゆう》ホールが、すでに灯をつけた夜景になっていた。が、この頃では、埃《ほこり》っぽい昼の光の中で、焼酎の値をかいた立看板の字がよめる。交差点の信号灯にも、黒い雑踏にも、順一は玉川姉妹に対するひたむきな想いを託していた。いろいろ苦労はさせられたけれども、あとでは結局、その苦労|故《ゆえ》に彼女|等《ら》と離れられなくなった。彼女等がこの世にいることだけのよろこびで、弓のように張り切った生活を送って来たような気がする。  彼は、ゆうべ、稲子との電話が不徹底だったので、一緒にくらすについての打合わせを逢《あ》ってしなければならないと思っていた。が、その日その日にいろいろ口実はあっても、要するに二人の宅を訪れずには、安んじて眠ることができないのである。  彼はきのう、自分の家の石上に、稲子との結婚をたのむつもりだったが、一時の衝動でそんなことを言い出さずによかったと思う。彼がそれを承知したあとの孤独や失望を思うとぞっとする。順一は、永遠というものにひびくような、自分の慟哭《どうこく》をもうきいた気がして寒気立った。  彼がアパートヘの坂をのぼりはじめたとき、アパートの表からはしり出したタクシーがあった。誰か居住者が、自動車でお出かけと見える。僅《わず》かの顔ぶれだから、順一はほとんど全部の人々と顔見知りだった。誰かが、二人づれで出かけようとしているのだろう……。  たそがれの坂道を、タクシーは、らんらんと目を剥《む》き出したヘッド・ライトで照らしながらおりてくる。  順一は歩く歩調をゆるめて、目の前を辷《すべ》って行く車の中を見るともなく見ていた。と、中にのっていたのは、稲子と隣室の安土だった。 「稲ちゃん!」  順一は走りすぎた車に向けて思わずよんだ。  しかし、車は勿論《もちろん》、同じ速度で無表情にうしろを見せて行く。その瞬間、順一の感情には、種々な色合いや音が一時に入り乱れた。どれが主な音色なのか、自分ながら見当つきかねるほど悲哀や恨みが一時に鳴りひびいた。が、最初の衝撃が去ってから考えると、きょう自分が重大な打合わせにくることがわかっていながら彼女が出かけたということはまだゆるせた。それよりも、隣の安土と馴々《なれなれ》しく並んでどこかに出かけたということの方が、やっぱり重大だった。 「あれほどつねづね戒めているのに、安土という男とだんだん近づいて行っていると見える」  毎日自分がたずねても、彼女たちのまわりにめぐらしておく緩衝地帯は遂《つい》に少しずつ侵されていたのである。この上は、一緒に住むよりほか仕方がないという最後の悲痛な結論に、彼は再び辿《たど》りついて、ほっとする。  彼はポケットから鏡を出して髪やネクタイの様子をちらとしらべてから、昇りなれた階段をのぼって行く。何か失礼な身なりでもしていて稲子や麦子にいやな感じを与えはしないかという心づかいから、この頃よく彼はここにくるときには、身のまわりに注意するのである。 「麦ちゃん……」  彼は名をよびながらドアをたたいた。彼の感情は迫っていた。 「あら、おじさんでしたの」  麦子はすぐ中からドアをあけた。時間の見当から、稲子と安土が彼に見られたかも知れないと察して、彼女はうろたえているのだ。 「稲子ちゃんはどこに行ったの」 「おじさん、お会いになりました?」 「車の中に見かけたんですよ。おとなりの安土さんと一緒だった……二人でどこに行ったんだろう」 「映画じゃないかしら」  麦子は、とっさにうまいことが言えず、ほんとうのことを言ってしまった。 「変だね。今晩大事な相談があるのに、映画に行くはずがないじゃないの」  順一としてはいきり立った声だった。普通の人間なら、卓でもたたきかねないほどの感情をこめていた。  麦子は弱ってだまり込む。稲子は、順一が来ないうちにと大急ぎで支度《したく》をしたのだが、会社のかえりがおそかったので、大変な手ちがいをしてしまった。 「きっとお姉さんは、お約束を忘れていたんだわ。どうしてもディーンが見たいと、こないだからさわいでいたんですもの」 「こんな約束を忘れるのかねえ……」  順一も、自分の心を傷つけることの少いそのへんの理由にしたがっていたから、そういうことにした。が、それにしては、ゆうべ、電話で稲子が自分からあすの晩来いと言った言葉を、きょうもう忘れていた不信を、やっぱり恨みがましく責めていた。 「安土さんはよくくるの」 「いいえ、そうでもないわ」 「だってこの前も見かけましたよ」  しかし、順一は、それ以上麦子ににがいことを言いたくなかった。 「麦ちゃん、ゆうべ、電話で稲ちゃんにはちょっと話してあるけれど、おじさんは、貴女がたの所に引越して来て、めんどうを見てあげようと思うんですよ。どう? 勿論それには、も少し広い室に移って、おじさんはおじさんで一室とりますけれどね」 「そしたら、おばさんはどうなさるんですか」 「おばさんは淋《さび》しいけれど、当分一人でくらして貰《もら》おうかと思うの。貴女がたが一人立ちできるまでのことですからね」 「そんなことしたら、おばさんがお気の毒だわ。それに親類の方だって——」  二人は向き合って、卓に坐っていた。順一は浮かぬ顔で煙草をすっていたが、麦子がけがれのない唇《くちびる》からはげしく妻のために反対しているのはすがすがしかった。 「ありがとう。麦ちゃんがそう言ってくれたのはおばさんのために、おじさんはとても嬉《うれ》しい」 「あら、だってそれはあたりまえよ」  順一は、暗くとじていた表情をはじめてそのとき生き生きと動かした。 「ふしぎだねえ。麦ちゃんがいうと、あたりまえな理屈でもおじさんにはとても魅力があるんだから——」  同じことでも珠子がいうと、順一は、ただ、しらじらしくそばできいて傍観していたい気持になる。しかし、それは言わなかった。 「おじさん、いつもより早いから御飯まだでしょう。炒飯《チヤーハン》つくってさし上げますわ」 「有りがとう。よく気がつくね」  麦子は、室に一つしかない卓の電灯の下に爼板《まないた》をもって来て、買ってあった肉と野菜とをぶつ切りにする。彼女が窓ぶちの石油|焜炉《こんろ》でジャアジャア油炒《あぶらい》りの音をさせている間、順一はじっと目をつぶって考え込んでいた。  一個の社会人として、彼は、自分を虚無主義者かも知れないと思っていた。ひとにはやさしい男のように思われているけれども、かえりみると他人のためにほんとに苦しんだことも、誰のためにこれという献身をしたこともない。  そうした自分の気持の方からいえば、この人生は愛を支払う価値のない砂礫《されき》の曠野《こうや》みたいなものだった。外から見ると順一は淋しい人間だった。その淋しさに追われて、この姉妹を曠野に咲く二輪の花にも喩《たと》えて傾倒することになった。  彼は首をめぐらして、焜炉にかがみ込んでいる麦子の脂肪の光った首を眺《なが》める。  彼女の存在は、肉体ではなくて、ある精神だった。あるきびしい神の象徴だった。彼は、それを復習するように自分に言いきかせながら、まじまじ麦子を見つめているうち、さっきうけたショックの苦痛からくるひどい心の不均衡も手伝って、何か残酷なまでに自分のその信仰を試みて苛《さいな》みたい衝動を感じた。 「麦ちゃん、ちょいと来てごらん」 「なあに——」  卓スプーンをもった麦子は何げなくよって来た。順一は思わず彼女をうしろからしっかり抱きすくめていた。 「麦ちゃん、貴女まで世間の人のように誤解しないだろうね。……僕の愛は純潔だ。……誰に見られてもはずかしくない……誰にでも話してごらん……」  順一は、浮わずったように言いながら麦子の左耳のうしろに、剃《そ》りあとのあらいあごをブラシのようにざらざらとこすりつけていた。 「ああっ!」  スプーンをもったまま麦子は立ち上ろうとしたが、うしろからしっかりつかんだ順一の両手をはらうことはできなかった。 「だめよ! おじさん、だめよ——」  順一はいま一度麦子を羽掻締《はがいじ》めにして、きめのこまかい首筋の肌《はだ》にあごを二、三度こすりつけた。そして拒み疲れた麦子のうす桃色の微妙な耳たぶに、乾《かわ》いたキスを与えた。  順一は、蒼《あお》ざめて、こめかみに青筋を浮かせながら、あらい呼吸をしていた。手を放すと麦子は逃げた。 「麦ちゃん、変に思ったらいけないよ。僕のは、親愛の表現だからね。そこいらのうす汚《ぎたな》いあれとはちがう。わかってますね」 「知らない!」 「おや、知らないだって。いやだな。変にとっているんでしょう」 「あったとおりにとっていますわ」  こんな時にも彼女は冷静で賢いことを言う。  それっきり麦子は、石のように無言になって、コーヒー茶碗《ぢやわん》にいったんつめて抜いた丸型の炒飯を皿の上にもり上げた。即席の清汁《すまし》の椀《わん》と一緒にそれをもって来た。 「さ、どうぞ。わたし、おじさんがおかえりになるまで、外に出ています」  麦子は、はじめからの手きびしさを変えない調子でいう。 「麦ちゃん、何か誤解しちゃいやですよ。おじさんは、そこいらの不純な男性とはちがうんですからね」 「誤解なんかしていませんわ。でもわたし外に出ています」 「麦ちゃん。ひどいことになったものだなあ。このおじさんに変なレッテルをはって、いままでの心づかいを台なしにするのかい」  順一は、ひどくあわてていた。どうしてこんなことになったのか、あの時のとっさの心理は自分でも的確には説明出来ない。要するに稲子が留守なのと自分の気持が乱れて理性の力が弱くなっていたということだろう。  順一は、ことが大きくなるのをふせぎたさに畳に手をついた。 「麦ちゃん、おじさんはあやまる。このとおりあやまるからかんべんして頂戴《ちようだい》。だけどもこんなことはあなたの考えているほど重大なことではないんですよ」 「世間に重大でなくても私には重大ですわ。失礼します」  順一が後から何か声をかけているのに麦子は扉の外にでてしまった。順一は、溜息《ためいき》をついてテーブルに凭《もた》せた手で額をくるしそうに撫《な》でまわした。しかし、姉の稲子には自分の私心ない二人への誠意はわかるはずだと思って、麦子の手厳《てきび》しさにはさからわないでおくことにした。  扉の外の麦子は、なさけない顔付で廊下に立っていた。  しかし、人が見たらおかしいと思って、目的もなしにゴトンゴトンと階段を降りて行った。その時、階下の管理人の部屋の扉が開いて 「玉川さん、丁度よかった。お姉さんからお電話ですよ」  麦子にとっても姉からの電話は時にとっての救いだった。 「もしもし……」 「もしもし、麦ちゃんかい。私よ、稲子。今映画館の中から掛けているの。おじさん随分憤っているでしょう。ばったり逢ったんですもの」 「それよりも、私いやな事があるの。お姉さんすぐ帰って来て」 「何かあったの」 「電話でなんかお話し出来ないわ、とにかく帰って来てよ」  稲子は暫《しばら》く考えていたが 「じゃあ、三十分の間に帰ります」  と電話を切った。  麦子は、稲子の帰るまで廊下に立っているつもりだったが、やはり目立つので、しかたなしにしょんぼり灯火のすくない外に出て行った。走る自動車ばかりで人通りのあまりない坂道を、彼女は、わざと用事ありげな足どりで降りて行った。明るい表通りまで行き着くと人目のない間にくるりと後を向いてまた坂を上って来る。  その時、アパートの門から順一がそそくさと出てくるのが見えた。麦子はそこからまた急いで引返そうとしたけれどもう見られていた。 「麦ちゃん、帰っておいで。そんな暗がりをうろうろしていたら、人はなんだろうと思うじゃないか。おじさんが悪かったなら心からあやまるから、とにかく、部屋に帰って来てお茶でも呑《の》みなさい。みんなあなたのおもいすごしなんだから」 「おじさんこそ眼につきますから部屋に帰って火にあたっていて下さい。私は、お姉さんを待っているんですわ」 「まあ、そう言わないで——」  順一は、弱味があるので強くも言えずまた部屋に引返した。  いっそ今日は帰ってまた出なおしてこようかと思ったがそうすれば麦子が彼女の解釈で今日あったことを稲子に告げるに違いない。それが順一にはなによりつらかった。  彼は、部屋に引返してうつむいたまま石油ストーヴの燃える音を聞いていた。  ふと気がついて腕時計を見るともう十一時近くなっていた。稲子も隣室の安土も帰ってない、彼は再びしんとした灯の消えた廊下に靴音をしのばせて出て行った。玄関も灯を消して表扉に鍵《かぎ》こそは掛けてなかったけれど管理人の部屋も閉ざされていた。麦子は、何処《どこ》へ行ってしまったのだろう。彼は、再び表に出て行った。が、表の人通りはすっかり途絶えてスピードを増した自動車が走っているだけである。  今の順一の気持ではこのまま二人に逢わずに帰ることも出来ない。といって、二人の部屋に泊ることも、世間の誤解をまねきそうである。結局彼は、明日の晩また出直して話すことに決め部屋に外套《がいとう》を取りにかえった。ストーヴの火を消し、ぴったり扉をしめて鍵をかけない心のこりのまま帰って行った。彼は、しょんぼり電車に乗って家のある郊外駅で降りた。玉川姉妹との話をきめないまま珠子に顔を合わすのは手順がよくないと思ったけれど一寸《ちよつと》した手違いでこんなことになってしまった。家の玄関を開けると昨日のとおり珠子が出迎える。壁や天井のたたずまいと同じに彼女の挙措にもあまり変りはない。ただ下をむいてなるべく順一の顔を見ない様にしているらしかった。 「石上は?」 「いらっしゃいます」  彼は、意外な顔をして妻を見直した。石上は、今日宿屋に引越して行くと自分に言明した。それが、どうして変更になったのだろう。彼は洋服|箪笥《だんす》のある部屋に入る。昨日までは妻に言うべきことや許しをこうべき事が沢山あった。しかし、今日一日で自分の気持や位置が相当変ったので、もうなにもいう必要がなくなった。彼は、靴下を足袋《たび》に穿《は》きかえて茶の間に入った。 「御飯はいりませんよ」 「……であのお話はどういうことに決りました?」 「まだ決まりません」 「…………」  順一は、妻の沈黙のなかに堅い芯《しん》のあるのを感じてまた彼女を見なおした。今日一日の間に彼女の心境は何か重大な変化を遂げたらしい。 「今日、母が参りましてあなたのお話を私から聞いて帰りました」 「勿論、お母様に解《わか》って頂ける気持じゃあありませんね、今更はなしたって無駄さ」 「それは、無駄かも知れませんけれど、私が実家に帰るには、そうなるまでの事情を告げない訳には参りませんわ」  順一は、なるほどそのとおりだと思った。妻の言うことがあまり理屈に合っているので条理にせめられている気持がした。 「であなたはやっぱり実家に帰ることに決めたの」 「そうするほか仕方ないじゃあありませんか、まさかこの家に一人で暮らしてなんかおられませんわ」 「しかし、それもいいかも知れませんね、その方が安心だ」  順一は、言った。こんな話のあいだにも妻が今朝《けさ》のように泣いていないのが今日一日に起ったある種の経過をいちばんはっきり語っていた。それに、二階の石上が今日引越して行かなかったのも重要なことだった。彼は、あんなにきれいなことを言っていたけれどやっぱり何か雰囲気《ふんいき》はあったのかも知れない。彼は、布巾《ふきん》をかけた食卓の前に坐ったまま考え込んでいた。妻が、涙を流している間はまだしも二人の間にはある種の潤滑された雰囲気があった。けれど眉間《みけん》になにかの決意を結んで涙を乾かしたいまの妻との間にはもはや滑《なめ》らかにすべらせるものがない。 「酒屋はまだ起きているだろうか。電話を掛けなくちゃあならないんだが」  珠子は、柱時計を見上げた。 「もう、十二時回っております。寝ているかも知れませんね」  順一は、稲子が帰ったかどうか電話でたしかめなければ落着けなかった。家庭の雰囲気が微妙に自分一人と向き合ってきた今、心の救いになるのは、玉川姉妹だけだった。彼は、稲子と麦子を失うことは絶対に出来ないと天に向ってたすけを求めたい気持だった。 「あの酒屋は、叩《たた》いたら開けてくれるだろうか」  珠子は、そうまで情痴的になった夫をさげすむような眼で見上げた——と彼は思った。 「でも、まんいち開けているかも知れませんから一寸《ちよつと》行ってごらんなさいまし」  そう言われると、彼は行く勇気がくじけて 「やめておくかな」  と呟《つぶや》いた。二人は言葉もなく寝る支度《したく》をした。その時、今までしんとしていた二階の石上が階段を降りて来た。 「伊田さん、こんなに遅くて何ですが二階に来て頂けませんか」 「ああ、いってもいいよ」  順一は、むしろ今の行詰りの血路を見いだすつもりで軽く引受けた。彼が、何を言いだすかにも興味がある。順一は、煙草を持って二階に上って行った。石上は、自分の机の前にあった座布団《ざぶとん》を裏返して差出した。 「布団なぞいらん、君の言うことは何なの」  順一は、短兵急に切出した。 「格別なことではありませんけれど、今朝あなたがこの家をお出になることを聞いてびっくりしているんです。なんとか考えなおして頂けませんか」 「そんなことか」  順一は、もっと変った思いがけない言葉が石上の口からでてくるのかと残酷な期待をもっていた。 「そんなこと、とおっしゃったってそんな簡単なことではありませんよ、若い者がこんなことを申し上げるのは失礼ですが、今度だけは許して下さい。お二人の幸福な家庭が破れるのを見ているわけには行きません」 「お二人の幸福な家庭だって。君には解らないことがあるよ。まあだまって見ていてくれ給《たま》え、君も、結婚五、六年したらきっとこんなことにぶっつかるんだから」  順一は、冷たく笑っていた。   今西の不在  妹娘の千世子が、芸者に出ているときいた翌朝、早起きの木下は、しづ子と一緒に食卓についた。 「じゃあ、俺《おれ》はきょうほかにも行くところがあるから、ついでに立川に行ってきいてくる。万々そんなことはありゃしないがね」 「お願いします。もし、ほんとにそんなことだったら、わたしは生きていませんからね。私達だけらくなくらしをして、あの子がそんな思いをしているなんて……わたしもういても立ってもいられないの。あのときから五年我慢すればあの子を人にやったりしなくてもすんだんですよねえ」 「そんなこといま言ってもしようがないやな」  小夜子は茶箪笥《ちやだんす》の前に坐って、わかめの味噌汁《みそしる》のお替りをよそいながら堪《こら》え性のない涙をほろほろ落していた。  しづ子は二人の話を冷静にききながら、箸《はし》を動かしていた。立川の伯母のところに行っても、恐らく何もわかりようがない。しづ子はあのとき、千世子の貰《もら》われ先の石川力三に「そんな話は知らない」と突放されてから珠子の知恵でこんどは動かしがたい証拠の戸籍謄本をもって、もう一度石川のところにたずねて行った。そのときは学校友達の光子という娘がついて行った。  そこできき出した千世子の二度目の貰われ先をさがすと、その大浦という貰い主の邸宅は、知らない別な表札になっていた。しかし、その家をいまの居住者に売ったのは大浦で、替ったのはそう古いことではなかった。  いまの居住者の婆やさえ、その家が売買されたときのことを知っていた。売主大浦の現在住んでいる所も彼女が教えたのである。  大浦は、戦争中からの闇屋《やみや》だったらしく、戦後大邸宅に移り住んでいた頃は近所の話題になる華《はなや》かさだった。自動車のガレージをつくるため、隣の地所を桁外《けたはず》れの値で買い足したりした。が、それが絶頂で物資が潤滑になると自動車を売り、パンパンに室貸しをはじめた。近所には当時の政務次官もいて、妻同士は、親しく往復していた。が、そんな間借人に客がちらちらするようになってからは、近所となり全部がひとりでに遠ざかった。  そのうち、ときどきその家を目標に刑事がはり込みするようになった。  その家に室をかりている香港《ホンコン》からのバイヤーの動静を見るため、一軒おいてとなりの二階に刑事が交代で坐りつづけて、障子の隙間《すきま》から望遠鏡で大浦家の二階をうかがうのである。  石川家から貰われて来た千世子は、肉づきよい美人で姉娘のしづ子よりも背が高かった。しかし、幼いとき人手を転々としたせいか情の深いところがなく、年にしてはなかなか口が巧《うま》いと近所では噂《うわさ》していた。  そのうち、彼女はそのバイヤーの何かではないかなどという噂もとんだ。かたい蕾《つぼみ》の女学生だった彼女が、この頃びっくりするほど派手な服をきて、顔には脂粉も見えるようになったからである。その中国人は二カ月に一度位ずつやって来て、長く滞在したから、大浦家の頽勢《たいせい》と考えあわせて、ありそうなことだと世間は想像したのだ。  中国人は、別にオフィスをもつより安上りに、滞在中は、二世の秘書を臨時に雇い、身辺の世話をする中国青年もどこかからつれて来た。が、女は絶対に雇わなかった。  彼の滞在中大浦家の台所は、上質の胡麻油《ごまあぶら》の匂《にお》いがぷんぷんして、豚や鶏の大ぶりな肉の塊が景気よくはこび込まれた。  しかし、そのバイヤーは俄《にわか》にいなくなった。荷物を置いたまま飛行機で高飛びして、再びかえって来なかった。邸《やしき》は間もなく売られた。が、抵当に入っていたので、大浦の手にはいくらものこらなかった。  千世子が、高等学校をやめて近くの三、四流の土地から半玉に出たのは、間もなくである。彼女は背が高いのを幸い、年齢も、世話する人の知恵で偽っていた。が、それでも、一本芸者ではなかった。  彼女は、家でも、銘仙のきものに、自分の髪で桃割れを結って肩あげをした茶羽織をきていた。別にそんな身分を恥じる風でもなく、三味線の袋をかかえて稽古《けいこ》に行く。もちろん日頃は抱《かか》え主の置屋に住み込んでいたが、昔とちがって抱え主もやかましく言わないのかよくかえって来て、甘栗《あまぐり》などをぽりぽりたべていた。わずか三間のベニヤ壁の家に、ちょっと不似合いな調度をならべて、両親は何もせずにくらしていた。それでも何か品物を動かしているのか、ときどき目立つ埃《ほこり》っぽい風体の男が出入りする。  ある日、千世子が、いつものように桃割れで三味線をかかえて家を出ると、道路のわきで様子をうかがっていた制服の女学生が二人、隣の生垣のかげから|つつ《ヽヽ》うと現われた。 「ちょっと、ごめんなさい。千世子さんでしょう?」  と声をかけたのは、しづ子とつれ立って来た同級生の光子で、なかなか勇敢な娘だった。当の姉のしづ子は、近所で、千世子が芸者に出ているときいたときから、おどろきと打撃ですっかり萎《しぼ》んでいた。しかも、出て来た千世子は、きいたことをそのまま裏書きして鬢《びん》をひっつめた桃割れに三味線をかかえて、疑う余地のない半玉姿だった。 「ええ、わたし千世子です。どなた?」  千世子は、さすが人中で揉《も》まれているだけに、落ちついた返辞をして二人をいぶかしそうに見た。 「千世子さんですね。やっぱりそうよ。この方、あなたのお姉さんのしづ子さんよ」 「私には姉はありませんが……」 「いいえ、貴女は御存じないんですよ。貴女のほんとうの御両親には、もう一人娘さんがあったんですわ」  そんな言葉をきいても千世子は、はっとする様子でもなく、一種の細く鋭い目《まな》ざしで、光子の指さすしづ子をじいっと眺《なが》めた。  石川家での記憶を辿《たど》って、こんな姉があったかどうかをまさぐっているらしい。しかし、やっぱり思い当らなかった。 「失礼しますわ。お稽古の時間がきまっていますので……」  千世子は二人から顔をそむけて、自分だけの言葉をそっぽに投げ出していた。  千世子はそれなり汚れた白足袋《しろたび》で歩み去った。二人は言葉もなく見送った。が、しづ子は泣き出していた。ついて来た光子も貰い泣きして、二人は泣きながら電車駅にいそいだ。  そしてその晩、つまりゆうべ、しづ子は母が不在の間に、そのことを父の木下に打明けることになった。自分より幸福な生活をしていると思っている間こそ、別れた妹を思う心にも、ある悲哀を帯びた平和があった。が、妹が、世間の後指さす芸者というものになって、平気で、その日その日を肯定しているとは、何とおどろくべきことだろう。日頃、気ままな父の木下もこの話では、こちらが驚くほど動顛《どうてん》して娘のように泣いた。おそくかえって来た母も、はじめは信じないで強いことを言っていたが、結局、ほんとうらしいということに落着したとき、父よりもはげしく悲しがった。 「いいわ。何とかして貰いかえすから。いまのお父さんの力なら、少しお金を積む位のことはできるんだから、貰いかえして、仕合わせにしてやりましょうよ。ねえお父さん」 「うん、とにかく、できるだけの手をつくしてみよう」  と木下は言った。が、彼は、小夜子や、しづ子とちがって、世間を知っていた。別にいまこれという障害が見えているわけではないけれども、すでに久しい以前に、親としての無責任から義務も権利も放棄した娘がたやすく手にかえってくるほど、世間は平坦ではない。というよりも、彼はすでにその娘は、何かの理由できっと取戻せないと想像して、心の底では投げていた。それだからこそ、彼の悲しみは、絶望そのものの彩《いろど》りを帯びていたのだ。  その朝、木下はでき上った分の仕事をもって、しづ子と一緒に出かけた。  小夜子は、拭《ふ》き洗いをすますと、かぶっていた手拭《てぬぐい》をとって鏡台に向った。ゆうべから、千世子のことでほとんど泣きつづけたが、その涙はきれいで、澄んでいて、この日頃の心を浄化してくれる甘美さがあった。しかし、涙が乾《かわ》いてみると、急に問題が遠くなって、やっぱり久しい以前自分から手放しただけのうすい縁だったことが思われた。  いまの自分の心を領しているのは、はずかしいけれども、もっと汚《きたな》く生々しいいまの愛情の帰趨である。夫とあんな醜態を演じたあとのいきさつから小夜子は、自分でもこれほど醗酵《はつこう》できるものかとあきれるほど誇りも見栄もその中に投げ込んで、一粒の粒ものこさないほど欲情の醗酵体になり変っていた。  一人いてじっと考えると、小夜子の心は、やっぱりひとりでに新婚の井上のところにはしって行く。彼に拒まれたということで彼女は、永久に飽和しきれないものを彼のところに残してしまった。  しかし、その執着はだんだん未練という精神の色を帯びて、肉体から離れて行くらしい。いまの肉体は、いま賑《にぎ》わしてくれる今西のところにつながれていた。彼女は、自分の頭が狂っているのではないかと、ときどき疑うことがある。しかし、女の誇りを失ったあのときから、自分を特殊な目で見はじめた青年達と、こんな風に結ばれる宿命にあったのだと思う。  今西はとうとう佐渡の忠告にしたがって自分の室にかえってしまった。が、むしろ逢うには好都合だった。彼女はきれいに髪のウエーブを出して、化粧もすませた。木下は立川に回ると言ったから、夕方までは、何をしてもよい時間である。  彼女が悶々《もんもん》としている今西を陥れるのは、赤児の手をねじ上げるようなものだった。その点に物足らなさもあって不可能な井上にやっぱり惹《ひ》かれた。しかし現実の彼女は、きょうも、夕方まで今西のところに行くことにきめていた。  彼女は、きっちり支度《したく》をした満足で姿見の前にしばらく立っていた。目に一筋殺気立った光があるのは、胸の中に炎がもえている証拠である。その炎は一体誰が放火したのだ。みんな木下のすることだ、と小夜子は思う。 「わたしは狐憑《きつねつ》きだ。そしてその狐は、木下なのだわ」  と小夜子は思った。  寝室の雨戸を一枚ずつしめて行くにしたがって、鏡の中の自分の姿は暗くなった。最後に全く見えなくなって、戸の節穴からさし込む光で外の景色がガラスに逆さにうつっていた。下の部分が青いところを見ると、きょうは上天気らしい。その日の天気にも注意せずに小夜子は朝からいままでばたばたしていたのである。  あちこちの鍵《かぎ》をしめて、最後に蠅帳《はいちよう》の中に、柏餅《かしわもち》の皿を出した。しづ子がいつかえっても、おやつが食べられるようにしておいたのである。  そのとき玄関の戸があいた。出ばなにうるさい客でも来たのかと出てみると、ゆうべも来た佐渡だった。 「きょうはいないわ。立川に回ると言ったからおそいと思うの」  小夜子は、わらいながら言った。ゆうべの妙にしつこい彼の言動を思い出して、何かからかってやりたい気持だった。佐渡は小夜子の身なりを見て 「どこにお出かけ? また今西のところでしょう」  小夜子は、ぴたりと図星を指《さ》されたので、けらけら笑ってごまかした。 「およしなさいってば。わるいことは言いません。これ以上つづけたら、今西も貴女も心中するほか道がなくなります。いいお年齢《とし》をして、一体どうしたというんです。今西が可哀そうだと思いませんか」 「そりゃ可哀そうよ、だけど、私が行かなければ、あのひとはもっと可哀そうだわ。それにね、貴方に言っとくわ。恋愛に年齢はないのよ。それどころか、あのひとが若くて純真だからよけい愛するのよ。老いぼれ狸《たぬき》の木下にうんと見せつけてやるんだわ」  小夜子は、片手に春のうすいショールをもって、玄関の下駄箱の中から、ピンクに近い革草履《かわぞうり》を出した。  しかし、玄関に立った佐渡は、いつまでもそこに立っていて、外に出ようとしない。仕方なしに、小夜子は彼を茶の間に入れて向い合った。 「やめて下さいよ。お願いです。少くとも、きょうだけあいつと逢うのを我慢して下さい。一日だけでもそんな責苦から解放しておきたいです」 「責苦だって……お気の毒さま。貴方にはわかりゃしないわよ。わたしたち、とても幸福なんだから、とてもとてもよ——」  小夜子は、眉《まゆ》の下の目を細めながら、赤く塗った唇《くちびる》を蚕《かいこ》みたいにうごめかした。  さっきまで勝ち誇って昂《たかぶ》っていた細面は、その瞬間マシュマロみたいに柔かく崩《くず》れて、正視できない煽情《せんじよう》的なうす笑いの中に嘲《あざけ》るような笑窪《えくぼ》が浮んでいた。  佐渡は、かっとして、思わず、小夜子の頬《ほお》を平手打ちしていた。「あまりに不謹慎な——あまりに——あまりに……」  佐渡に打たれた拍子によろめいてうしろの茶棚《ちやだな》に凭《もた》れた小夜子は、かっと涙を噴《ふ》き出させたが、唇には、さっきの不敵な笑をまだ浮べていた。 「ふん、こんなことするところを見ると、貴方よっぽど嫉《や》いているのね」  小夜子は呟《つぶや》きながら起き上って、裾《すそ》の乱れを直した。「嫉いている」と言われた佐渡は愕然《がくぜん》として目を瞠《みは》った。 「冗談も休み休み言って下さい。私までがその泥沼に足を突込みたがっているとおっしゃるんですか。まっぴらですよ」 「泥沼だかどうだか、外から見ている貴方にわかりますかと言ってるのよ」  小夜子は衣紋《えもん》を直して立ち上った。彼女がいそいでいるので、佐渡もやっと腰をあげた。玄関で靴をはきながら、何かの妖気《ようき》が漂っていたいまの茶の間をふりかえって 「失礼しました。どうしたはずみか、あんな手荒なことをしてしまって——。先生には秘密にして下さるでしょうね」 「言わないわ。だけども、あのひとはとても勘の鋭い人だから、何かあった位のことは感じるに違いないわ」 「今西のことも知っているんですか」 「知っているでしょうね。わたしは知っていると思ってしているの」  表に出ると、明るい陽《ひ》が射《さ》して、木々の梢《こずえ》に、緑のつぶらな若葉が光っていた。二人は、さっきの急迫した話題からひとりでに解放されてのん気な世間話をしながら今西の下宿の方角に歩んで行った。 「佐渡さん、もういいわ。貴方の忠告はありがたく頂いたから、ここいらでかえってよ」  佐渡は、だまっていた。が、犬が飼主について行かずにはいられないように、いま、彼は、どうしても小夜子について行かずにはいられない。 「僕、行きます」 「いやだったら——」  二人が争いながら行くうち、今西の住んでいる二階が見えた。この明るい陽がさしているのに、その窓には、防火のトタンをはった雨戸がしまっていた。 「御覧なさい。奴《やつ》はまだねています。悩んでいるんですよ。可哀そうじゃないですか」 「あら、どうしたんだろう」  小夜子は叫んだ。きのう小半日、彼とさし向いで語った小夜子には、ちょっと思い当る不安があった。  彼が、夫の木下の存在を呪《のろ》って、こうなった以上は少くとも、彼と寝室を共にしてくれるなと再三懇願するのに対して、小夜子はあまりに少年らしい要求だと思った。 「そりゃ、なるたけそういうことにしますけれどさ、貴方位の年では、わからないいろいろな事情もあるのよ」  小夜子は、一番正直な答えとしてそう言った。相手はその答えに慊《あきた》らながって、再三小夜子に突掛って来た。  しかし、小夜子は、正直な性格だから見えすいた嘘《うそ》の誓言で相手を喜ばす気にはならなかった。いくどでも同じ答えをりくかえして、相手を絶望させた。そのとき、今西は言った。 「ああ、いやだ。いやだ。仕事もいやだし……僕はいっそ、木下先生の仕事はよして、国にかえっておやじのペンキやの手伝いをしようかしらん。そもそもの堕落のはじめはあの仕事なんだ」 「それもいいわね。あんなおやじに搾取されたって、うだつは上りゃしないわ。それより田舎《いなか》にかえって可愛い田舎の高等学校出をお嫁さんに貰《もら》うのよ」  小夜子には今西にそうなって去ってもらいたい矛盾した祈りもあった。 「しかし、一度国にかえったら、あの年とった親爺《おやじ》をおいて再び出ては来られないからな」  彼の故郷は、北海道の旭川《あさひかわ》である。再び出て来られないというのは、あながち誇張でもあるまい。  小夜子は、きのうのそんな問答を思い出して不安な面持で階段を昇った。扉はしまって、外から錠がおりている。 「変だわねえ。うちのおやじさんにことわらずにかえる筈《はず》はないんだけれど……」 「ゆうべから友達の所にでも泊っているんじゃないですか」 「友達って誰よ。みんな知ってる人ばかりじゃないの。まさか、新婚の井上さん所に泊ることはないでしょう」 「それもそうですねえ」  佐渡は首をかしげて考えていたが、小夜子ほどの切実さで、彼の不在を感じている様子はない。  彼がいないと知ったとき、小夜子は、思いがけない深い穴に陥ったような狼狽《ろうばい》を感じた。とにかく、東京のどこかで彼を探《さが》さなくてはならない。北海道の旭川まで行かれては自分の心は破産だ。 「とにかく、管理人にきいてみましょう。何とか言って行ったかも知れないから」  彼女は、佐渡をうしろにのこして、どしどし階段をおりた。 「ああ、今西さんですか。一週間位不在すると言って、二時間ばかり前お出かけになりました」  管理人は言った。 「へえ! 一週間というとやっぱり北海道だわねえ。どうしよう……」  小夜子は深い失望と、じりじり胸底が焦げるような未練を覚えて、立ちすくんでいた。 「わたしあのひとに今行かれちゃ心は闇《やみ》よ。ああ、ああ、こんな思いをする位ならとめればよかった。佐渡さんが来て時間をとったもんだから、行違いになっちゃったんだわ。くやしいわねえ」  佐渡は、そんな恨み言よりも、小夜子のひたむきな今西への執着におどろいて、小夜子を見まもっていた。  木下と小夜子とがむき出しの演技をしたとき、佐渡は、中年の女というものをはじめて発見して、目がくるめくような激動を覚えた。その後あのときの見物人だった今西と井上が交《かわ》る交《がわ》る小夜子とそんな関係に陥ったときいたときにも、人生観の根底がゆり動かされるような衝動を覚えた。若干、造型美術についての抽象論から人間の生き方といったものにも思い及ぶことのある佐渡だった。しかし、彼が、目前の事実からうけた激動は、彼が書物からうけた人生観の体系を一度にかき乱して、混乱させる力をもっていた。 「佐渡さん、どうしてくれるのよ。あのひと、わたしに別れも言わずに行っちゃったじゃないの」 「いまにかえって来ますよ。一週間たてばかえると言っていたじゃありませんか」 「一週間なんて待てないわ。あのひとの心もまだしっかり掴《つか》んでないのに、どうして一週間宙ぶらりんで生きて行くの」  二人はアパートの表に立って大きい声で口あらそいしていた。彼女はやっとその不体裁に気づいて、 「あんたのアパートに行くわ、こんな所に立ってたってしようがない。あのひとの国の住所わかってますね?」 「ええ、多分、アドレスブックにかいてあったでしょう。いつか、干魚を送って貰ったことがあるから」  小夜子は、すっかり悄気《しよげ》て、口も利《き》かずに佐渡のうしろからついて来た。 「佐渡さん、わたしって女、可哀そうじゃないの。折角井上さんを掴んだと思ったら、あんな女に横どりされてしまうし、今西さんをつかんだとおもったらこれだもの」  佐渡はだまって何もそれには答えなかった。彼の心の中にはたたかいがあった。絶対に自分が第三の男になってはいけないという——。  しかし、砂山にのぼったように、足もとは、その陥穽《かんせい》に向って、ずるずる落ちて行く心地である。   復活  佐渡は、思いがけないいきさつから、小夜子を自分の室につれて行くはめになった。  小夜子の秘密を握って以来、ずっと上わ手に出ていた彼が、いまは急に言葉少なになって、派手に着かざった小夜子から目をそらしてそっぽを向いて歩く。井上と今西との例を見ているから一寸《ちよつと》した隙を見せても、きっと同じ崖《がけ》からとびおりたがるだろうと小夜子は彼をやすく踏んでいた。この男を手に入れるのは、今西よりももっとたやすいかも知れない。そういえば、この頃の妙な絡《から》みつき方もただではなかった。  しかし、そんなにやすく転《ころ》がり込んでくるものなら、欲しくはない。  歩いている道々、小夜子は、何で自分から佐渡の下宿に行こうなどと言い出したのだろうと自分の心理を不可解に思った。  あるいは、佐渡が唯《ただ》一人残った男として、そうなって行く運命を感じているように、小夜子自身も、のこりの一人に同じ運命を与える義務を感じたのだろうか。 「佐渡さん、わたし家にかえって一人で考えるわ。いくら何でも、今西さんのかえりかたがあっさりしすぎて、あきらめられないわ」  そんなことを言われると、佐渡は、彼女を一層一人にさせたくなかった。一人で、めそめそと今西を恋しがっている彼女を思うだけで妬《や》けた。 「行きましょうよ。僕の下宿へ。井上や今西のアパートには目の色かえて押しかけたのに、僕の室には、まだ玄関にしか来てくれたことがないんですよ」 「そんなこと言ったってむりよ。あのひとたちは、私がどうしてもほしいものをもってたんだもの」  小夜子はむきになって、こんなばかな反駁《はんばく》をする女である。  佐渡はぐっと咽喉《のど》を押えられたようで「僕にだって貴女のほしいものはありますよ」などと気がるな言葉はとても出て来ない。  佐渡の下宿に曲る道のわかれ目に来た。 「どうします?」  佐渡はそれ以上の言葉で小夜子を誘うことはできなかった。しかし、その執拗《しつよう》な語調には、言葉でいえない陰性な要請がひびいていた。  二人が瞬間立ちどまったとき、向うから、木下が何か紙包みのようなものをもってこちらにくるのが見えた。 「あら、うちのおやじさんだわ」  佐渡は、はっとして、何か大変な秘密でも見られたようにあわてていた。小夜子は落ちついて遠い夫に微《かす》かな笑顔を送りながら、口では低い声で 「ねえ、ごらんなさい。わたしが今西さん所にいるかと思って見に来たのよ。いつもそういうことをする人なんだから」  とそばの佐渡にささやいた。 「今西がいる室に来られたら、ぬきさしならなかったですねえ。彼、居なくてよかった……」  佐渡は、きのう、今西の室で見た狼藉《ろうぜき》を思いうかべながら、自分のことのようにつぶやいた。 「おめえ、今西の所に行ったのか」  木下は近づいてくると、かすれた声で言った。 「ええ、さっき佐渡さんがいらして、今西さんが急にいないから一緒にさがしてくれとおっしゃるもんだから、きてみたんです。あのひといませんよ」 「どこ行ったんだ」  木下という男は、どんな椿事《ちんじ》があっても、おどろくということを知らない人間である。彼は、当然なことが起っているのをたずねるようにたずねた。 「それがわからないのよ」 「わからないって、お前が知らないはずはなかろう」 「変なこと言わないでよ。わたし知らないわ」 「そうか。ほんとうに知らなかったのか。まさか、自殺なぞしないだろうな」  木下は、重大な想像を茶飯事《さはんじ》のように言い放って 「さて、どうするか。とにかく家にかえるかな」  と小夜子をかえりみる。自殺という言葉をきいたとき、小夜子は一つ大きく瞬《またた》きをして、いままで見つめていた地面を今一度見直した。彼女は、まだ人間がどんなとき、自殺するほど八方塞《はつぽうふさ》がりになるのか、かつて想像したこともない。  夫の木下が、酒の中毒から一時腰がたたなかった事があって、膝《ひざ》にまつわるしづ子や千世子をおいたまま夫を便所に行かせるため小夜子が負った時期がある。  金は、はいるめあてはないし、親類からは借りつくして、無心に行っても子供を引き取ってやるから別れろと言われるだけだった。  あんな時なら、死を思ってもいいはずだが小夜子は、夫のすすめで幼い方の千世子を人にくれて生きることを考えた。  神道の出来た時代の人間に、死という観念がうすかったように彼女も、生きて充実しているこの生が消えて無になる瞬間など考えようにも考えられない。  昨日《きのう》、あれ程生きた命の甲斐《かい》をたのしんでいた今西が、そんな暗い、何もないところに忽然《こつぜん》と跳《と》び込むことなど有り得ないと小夜子は思っていた。  悄然《しようぜん》と自分の下宿に帰って行く佐渡と別れて、夫婦は自分たちの家の方へ並んで歩んで行った。 「いやにおめかししているじゃあないか。だれに見せようと言うんだい」 「だって外にでるのに膝の抜けた袷《あわせ》ではおかしいじゃあないの」  木下は、そんな弁解は耳に入れずに 「お前は、このごろ大分忙しいようだな」  とあてこすった。  家に帰って、雨戸を開け放ってから着ていたものを衣桁《いこう》に掛けて、赤い衿《えり》をかけた肌襦袢《はだじゆばん》と腰巻一枚で小夜子は、火鉢《ひばち》の埋火《うずみび》を掘り起した。  細い、衿と衿の合わせ目から、まだ上を向く弾力のある乳房が、ぼってり見えていた。  木下は、小夜子と違って体のほてる方ではないから、冬物のラクダのシャツを着たまま小夜子と差し向いで座布団《ざぶとん》に坐った。 「お前は、あんな青臭いのが好きかい」 「え?」  小夜子は、そらとぼけた返事をしていたが、今西のことか、佐渡のことか的確にはわからなかった。 「だが、あんながつがつした餓鬼を、あれしたって、たいしてお前の手柄にはならないぜ」  小夜子は、そうまで解《わか》っているならもうやけくそで 「手柄になるかならないか、そんなことは知らないわ。私は、あなたに敵《かたき》を討つつもりでやっているんだから」  と、急に細い眦《まなじり》を笹《ささ》の葉のように鋭く吊《つ》り上げて、木下を睨《にら》みつけた。 「何いってやがるんだい」  木下は、小夜子の蟷螂《とうろう》のような挑戦を無視して 「お前に、ほんとに腕があるならあのまま諦《あきら》めずに井上の女房と、も少し互角の喧嘩《けんか》をするはずじゃないか、その方がずっと面白い勝負だぜ」  小夜子は、自分の心の底に意識しないであったものを、木下に指さされたような気がして、本当にそうだと思った。  しかし、何も言わずに、夫の顔をみつめていた。 「佐渡や、今西のようなあんな小便臭いのが好きだなんて、お前の程度をよく現わしているよ」 「あなたは何か勘違いしているわ。私、今西さんなんかちっとも、好きじゃあないのよ。だけどとってもしつっこく言い寄って来るの、まるで脅《おど》しよ。常識じゃ考えられない位のしつこさなのよ。これというのも亭主のあなたに威厳がないからだわ」  小夜子は、深い気持からではなく今西のことをそんな風に言ってしまった。 「あいつが、お前を脅したって。そんなことがあるのか。子供だ子供だと思っていてもゆだんも、隙《すき》もならないな」  案外今の一言が、木下の深い処《ところ》に触《さわ》ったらしいのを小夜子は案外に思った。しかし、言い始めた嘘《うそ》だから話が徹《とお》るまで言わなければならない。 「あの人ときたら、あなたのいない間中、私のそばによって来てしつっこくするの。一緒に死んでくれ、だって。嫌《いや》で嫌でしようがなかったわ。何んで、あんな男に泊り込めなどとおっしゃったんですか」 「そんなことを言ったのか。知らなかったなあ」  見ると木下のこめかみの青筋がぴんと張って癇《かん》のたかぶった証拠がありあり見えた。  小夜子は、自分で嘘は言ったけれど、やはり木下を勝手な男だと思った。ひょっとすれば今西を寄宿させたのさえ、彼にあんな結果を起させるための詭計《きけい》ではないかと解釈していた。それなのに、今更、案外まじめに彼が今西を憤っているのは理屈に合わない矛盾である。 「もう、よせよ。ほんとうにあんな子供を自由にしたってお前の手柄にはならないんだから。それよりも、お前の力で安子と井上の間を裂いて見せたら、そのときこそお前の腕を認めてやらあ」 「そう、ほんとう?」  小夜子は、その瞬間今一度あきらめていた井上と戦う気持になって悲壮な眼付をしていた。 「それはそうと、千世子のことはききにいらっしゃらなかったんですか」 「うん、立川に行ってもしようがないだろうと思って、また出直すことにしたよ」  小夜子は、自分の経験から、木下が家の外に出ると案外千世子のことで打撃を受けていない自分を発見してぐずぐずに立川行をやめたのだろうと想像した。こんな点でも、夫婦は非常に違うようで案外同じ軌道を歩いているのを発見する。小夜子は、襦袢一枚の上に幾度か水をくぐった絣御召《かすりおめし》の袷を重ねて台所に行って燗《かん》の用意をする。珍しく、二人は和《なご》んでぴったりした気持になっていた。 「お父さん、仕事のお金は貰《もら》えたの?」 「ああ少しね」 「私に御召を一枚買ってよ、今年は、こまかい井桁《いげた》がはやっているのよ、私はやせた方だからあれが似合うかも知れないわ」 「うん、よし。お前がえらぶと泥くさいものを買っちゃうから俺が自分でみたててきてやる。帯は無地がいいぜ。この間三越のウインドに綴織《つづれおり》の無地が出ていたが、あれはさびがあっていいね。あれをしめて、丸髷《まるまげ》に結って、どこか待合にでも行こうか」  木下は、ねばっこい手付でちびりちびり盃《さかずき》のふちをなめるように昼酒を呑《の》んだ。小夜子は、火鉢の向うから細い指で芸者みたいにしなをつくりながら酌をした。それから、まもなく木下は二階に上って横になって小夜子にあとから丹前《たんぜん》をかけて貰って眠ってしまった。  小夜子は、夫の枕元《まくらもと》に、寝覚《ねざ》めの水のフラスコと灰皿をそっと並べておいた。それから素足になった陽《ひ》やけしていない白い足の爪先《つまさき》でとんとん階段を降りて来た。  夫と気持よくうまを合わせて、二階に昼寝する所まで運んだが、今、ここにこうして立っていると、さっきからの間中自分の中に何か別行動をとっている独立した意識があったことを感じなおしていた。それは、何だかよく解らない。が、それにせき立てられて、何だかじっとしてはいられないのだ。  小夜子は、時計をみた。時間は午後二時過ぎだった。取敢《とりあ》えず買物籠《かいものかご》を柱の釘《くぎ》からはずして手垢《てあか》のついた台所の財布《さいふ》を中に投げ込んだ。  何処《どこ》に行くかは表に出てから考えようと思っている。不思議なもので、夫の言葉は案外妻のこころを支配するものである。彼の一言から、いつの間にかもう一度井上の所に行ってみることに気持は傾いていた。  時間は二時だから、にくい安子はまだ電話局から帰って来ていないはずである。彼女は、空《から》っぽの籠を提《さ》げたまま井上のアパートの方角に歩んで行った。  井上は、以前と少しも変らずに木下から回された画をせっせと描いていた。小夜子が、窓に回ってことわりもなくガラリと開けても案外動じない眼付で一瞥《いちべつ》しただけだった。結婚によってできた一種の落着きである。その落着きぶりを見ると、小夜子はかっとして今日ここに来て、彼をたずねるきっかけに苦労した尻込《しりご》みは一度に吹っ飛んだ。 「暫《しばら》くね、井上さん」 「おや、珍しい」 「女こうもり安みたいね。でも一寸《ちよつと》あげて頂くわ」  小夜子は、玄関に回って内に上って来た。  小夜子は、招かれないのにはずみをつけてあがって来た押しのつづきで井上に詰め寄るつもりだった。ところが、井上の方から 「近ごろなかなか盛んなお噂《うわさ》をきいていますよ。結構ですね」  と機先を制された。小夜子は、もろもろのことを彼に知られているとは夢にも予期しなかった。噂というものは、どうしてこんなに早くひろがるのだろう。  彼女は一瞬間、ちょっと取乱したが 「私もうあなたを失ってから、誇りも希望もないの。めちゃくちゃよ」  とうまく押しかえした。 「あなたの噂はまったく聞かれませんよ。佐渡とは、どうなんですか」  小夜子は、その質問になんと答えてやろうかと暫く考えていたが、とっさの判断で 「時間の問題よ、もう半分くらい踏み込んでしまったわ」 「踏み込んだって、具体的にどうなんですか。一線を越えたんですか」  小夜子は、また、何と答えようかと考える。 「まだ越えてないけれど、もうすぐ越えるのよ。自分でもどうしようもないの。もういいわ」 「よして下さい。一体この結末は、どういう所に落着くんですか。そんな事になれば、あなたの不幸は勿論《もちろん》だし、佐渡だってだめになります。あの男は気が小さいから、立ち直れませんよ」 「そんなこと言ったって皆あなたが悪いんじゃないの。あなたのおかげでこんなことになったんだわ」  小夜子は、膝《ひざ》に掛けていた白い小さな前掛を取り上げてやさしい肩をふるわしながら泣きだした。  向うの壁の近くに、新妻《にいづま》の安子の持ってきた鏡台が半分だけ蔽《おお》いをめくりあげたまま彼女の方に角度を向けている。小夜子は、自分が、純白の前掛で、顔を蔽っている形や姿を、鏡の中にそっと見ながら泣いていた。 「泣いてばかりいたってだめですよ、今西との間は、噂どおりですか」  小夜子は、前掛の中でがくんがくんと頷《うなず》いた。 「やっぱり、そうですか。噂のとおりなんですね。ひどいことになったものだ。小夜子さん、あなたに是非言っておきます。佐渡だけは、絶対に、絶対に、そんなことにさせてはいけません」  小夜子は、まだ前掛で顔を蔽ったままうんうんと頷いた。 「あなたは、乞食《こじき》だ。そんなみじめな姿で男の所をあっちこちほっつき歩いているのを僕は見ちゃあいられない」  小夜子は、まだ泣きながらやはり素直に頷いた。井上は、小夜子のいろいろな噂をきいて以来胸の内に抱《いだ》いていたもたもたをすっかり吐き出して、せいせいした寛大な気持になっていた。彼は小夜子が、顔を蔽っている前掛の手を伸ばしてやさしくはずしてやった。  小夜子は、びしょびしょに濡《ぬ》れた、前掛の陰からにっこり笑った顔をだしかかったが井上の温い手が顔に触《さわ》った瞬間、いきなり、その手を掴《つか》んで自分の胸に抱込みながら 「しっかり抱いていて、しっかり抱いていて——、でなければ、私は地獄に堕《お》ちてしまう……」  と、身も世もなく、彼の肩に泣き崩《くず》れた。  井上は、一種の無表情で肩を圧迫してくる女の体の暖気を支《ささ》えながら、だまって天井を睨《にら》んでいた。  しかし、以前と違って井上は、女の一通りのいざないくらいでは揺がない、何か強靱《きようじん》な芯《しん》を持ってしまったらしい。  小夜子は、あてがはずれて、依怙地《いこじ》な力で井上を押しながら春雨でも降るような低い嗚咽《おえつ》の声を彼の耳たぶの傍に響かせていた。男が、女の体中から振りしぼった蠱惑《こわく》そのもののなき声を、じっと、聞いている気持はどんなものだろう。一瞬間も、男の立場に立ってみることの出来ない小夜子には井上が何を考えているか、覗《のぞ》いて見ることは出来ないが、すべて自分の周囲の男は自分の手で自分の好きな形につくり出したもののように思っていた、思いあがりははずれた。最後の当てがはずれたのを見ると、こんどは、技巧でないほんとの恋しさとくやしさが眼の底からふきだして来て、彼女の肩はふるわそうと思わないのにほんとうにふるえていた。 「だめだ、僕には妻がある。再び後悔するようないざないはよしてくれ給《たま》え」  しばらく涙をまぜた押問答をしていたが、結局、井上は柱のように動かなかった。  小夜子は、安子が帰る時間だと思ったのであきらめて白粉《おしろい》がはげたはずの顔を前掛でこすりながら 「じゃあ、ねえ、井上さん! 時々きてもいいでしょう」 「さあ、ねえ、安子の居る時ならきてもいいけど、一人の時には世間がうるさいですからね」 「まあ、何処《どこ》まで冷酷なんでしょう、この人は。あんなやせっぽちのひょろひょろ女の何処がいいんでしょう。よっぽどあの女にほれちゃったのね」  井上は、何を言われても動じまいと口を噤《つぐ》んでいたが、苦笑が頬《ほお》をかすめるのはとどめられなかった。 「ああもう、こうなれば世間も子供も何もいらない。私は、私の行きたい道を行くわ」  小夜子は、脅迫のつもりで口走りながら立ち上って、持って来た買物籠をとりあげた。 「小夜子さん、おねがいだから、今西と、佐渡にだけは触らないでおいて下さい。たのみます」 「何のために、貴方がそんなことを言う必要があるの。余計なお世話だわ」  小夜子は、それっきり挨拶《あいさつ》もせず外に出てうつむき勝ちに歩いて行った。  彼女は、打ち砕かれたような面持で、ものの一丁も歩いた。  そのうちに、井上に絶対に復活ののぞみはないという今の場面の印象はだんだんうすくなって来た。そして、ああ見えて彼はやはり自分を愛しているのだという祈りのような希望が胸の中に生きてきた。  彼が、彼女と結婚して絶対に自分をよせつけなくなった最悪の時にも、彼女の胸の中にこんな希望の絶えたことはなかった。復活ののぞみが、全然ないと決まったらいまの気持ではとても生きられない。だけども、自分をあんなに愛した彼が、安子に、こころ全部を傾かせてしまうということはありえないことだ。  しかし、それはそれとして、このままの気持では家へは帰れない。やっぱり、さっきの続きで、佐渡の所へ行こうと彼女は歩き出した。  井上の話では、大分自分の噂はひろがっているらしい。小夜子は、用心して窓の外から 「佐渡さん! 佐渡さん!」  と呼んだ。その方がよっぽど人眼につくはずであった。が、彼女には、そんな判断はもうなかった。  閉《し》まっていた窓が開いて、すぐ佐渡は顔を出した。  彼は、一種の当惑を浮べた眼付で 「今、今西が来ているんだ」  と言って上れとも言わなかった。 「今西さんが居るんですって? そう、じゃあ北海道へは行かなかったのね」  彼女の、愁《うれ》いに閉ざしていた顔は一時に、ぱっと、輝きだした。彼女は大きい笑窪《えくぼ》をぽんと泛《うか》べて 「あの人を一寸、呼んで」  佐渡は、渋っていたが小夜子が、いつまでも同じ表情をかえずにこちらを見ているので仕方なく室内の、今西に何か言った。今西が顔を出すと小夜子は、にっこりあでやかに笑った。 「何処にいたのよ。必配させるじゃあないの。今これからあなたの部屋に行って待っているから鍵《かぎ》を投げてよ」  今西は、小夜子の言葉に何か躊躇《ちゆうちよ》しているようだった。がすぐ折れて鍵をさがすためにポケットをさぐった。 「だめだよ、今言うそばからこれなんだからな」  と佐渡はいつもの忠告のつづきらしくはげしく抗議していた。しかし窓ぶちに立ちはだかった佐渡のうしろから鍵が投げられた。   ホテルにて  小夜子は、今西の部屋の鍵《かぎ》を持って彼のアパートの二階の室に行った。自分を置いたまま北海道まで彼が帰って行くとはまさか信じられない話だった。やっぱり、自分の勘はあたっていた。彼は、北海道まで行くつもりで部屋を出たものの小夜子をのこしてはそれを実行することが出来なかったのだ。小夜子は彼が、伝書鳩のように自分のもとに帰ってくるだろうと心の何処《どこ》かでたのんでいたが、そのとおりだった。  小夜子は、鍵で開けて男の香が沈んでいる部屋の中に入って窓も開けずに坐っていた。  佐渡に妨げられて、今西が、来かねている姿が遠いかなたの部屋に見えている心地《ここち》だった。  しかし、佐渡が、どんなに邪魔立てしても今西の手綱は自分が握っている。男性の魅力は、自分の磁気によって手も加えないのに相手がくらくら動くことである。今西が、自分に引きつけられて、よろめいている限り自分は可憐《かれん》な彼をはなそうとは思わない。  小夜子は、つくねんと机に凭《もた》れて彼が描きあげた何枚もの浮世絵を一枚ずつ手に取ってながめた。自分の家で毎度いやと言う程みせつけられている、曲線ばかりの女の姿態である。  昔の男は女をこんな風に感じたのだろうかと思うと何か滑稽《こつけい》である。女の芯《しん》には、依怙地《いこじ》で梃子《てこ》でも動かないものがあると言うことを男は知らないのである。  小夜子は、何に向って楯《たて》をついているのか自分でも解《わか》らないけれど、しきりに足を踏張《ふんば》って、力んでいた。もう、一時間程たっているのに今西はまだ来ない。彼女は、机の上の枕時計《まくらどけい》を見てだんだん落着かない気持になって行った。世のすべての妻が負っている夕飯の支度《したく》という義務は、絶対だった。もし、女がそれから逃れようと思えば、離婚さえ考えなければならない程おもい責任である。  もう空は菫色《すみれいろ》に変り始めて、省線電車の窓《まど》硝子《ガラス》が落陽の光で炎のように輝きながら走って行った。  小夜子は、そわそわして戸口に行ってみた。何処かの部屋で、鰊《にしん》を焼く匂《にお》いがする。小夜子が落着かない面持で部屋の鍵を閉めないまま表に出ると、佐渡が、階段を上ってくるところだった。 「今西さんは、どうしたのよ」  小夜子の口調には相手をなじるような気持がひびいていた。 「今西は、木下先生が来られて、何か話があるから新宿で一杯|呑《の》むんだといって電車に乗って行きましたよ」 「へえ」  小夜子は、昼間夫に今西の事をいろいろと告げたことを思いだしていた。何もかも高い処から見下ろして許しているのかと思った木下が、案外小夜子の告げ口を信用して今西が自分を脅迫したと言った事に顔色をかえたことが思い出される。 「で、家のおやじさんは、今西に何か、憤ったような口をきいていませんでした?」  小夜子は、そのことが心懸《こころがか》りだった。 「そうですね、ちょっと変ってたかな。しかし先生は憤っていても陰性だから、すぐには解りませんからね」  小夜子は、気がかりだったけれど二人で一杯呑むような話し合いならそれ程のこともあるまいと、それ程気にしないことにした。 「だけども、可哀そうだわね。私のことでさんざん油を絞られるんだわ」  と言って、今更救いだす手段も思いつかない。 「男って不思議なものよ。妻が愛人をつくると、つくった本人より愛人の方をにくむんだからね」  小夜子は、経験者らしく呟《つぶや》いた。いま鷹《たか》ににらまれた仔雀《こすずめ》のように木下の前に坐っているだろう今西のことをやっぱり思っていた。 「僕の見たところでは木下先生の顔は先生としては珍しい凄《すご》さでした。ただではすみませんね。ひょっとすると追放だ」  小夜子も思い当って、胸をつかれたが、仕方なしに笑って 「大丈夫よ。木下は案外あの方のことではあっさりしているから、それ程根に持ちゃあしないわ」  二人は、話しながら買物の主婦で賑《にぎ》やかな通りを歩いていた。そしてまた話題はあとに戻っていた。 「佐渡さん、今西さんは追い出されるだろうか」 「僕は、追い出されるかと思いますね。新宿まで呑みに行って話そうというのは慎重なところが容易ならないですよ」 「おやじさんは、妬《や》いているのよ。私があまりのぼせたからね。いずれにしても、あの人を失う事になるような気がするわ。私は何て運が悪いんだろう」  佐渡は、それには答えずにだまって四、五歩あるいた。 「井上は、あれっきり動かないし、今西は結局あなたのそばからはなれる運命にあるし、あなたは、不幸な相手ばかり掴《つか》みましたね」 「それで、あなたが、今西さんの代りになって下さると言うんでしょう」  小夜子は、あざけるように笑いながら言った。 「笑いごとじゃありません。僕あれから考えたんですが、あなたは可哀想な人です。また今西を失うとなると、あなたは、きっとほかにかわりを探《さが》しだす。そして、ちぐはぐな相手に違いない。あなたは、手当りしだいなんだから。それなら、いっそ僕に、あなたをまかせて下さい。僕の手で、あなたを大破局から救ってあげます」 「あなたの手でなぞ救えやしないわ」  小夜子は、やはりあざけりを浮べた眼付で問題にならないと言ったふうに言った。 「救うと言ったら仰山だから反撥《はんぱつ》するのはむりないけれど、つまり、僕の手であなたを世間から防いであげるのですよ」  小夜子は、返事をせずに人ごみをきょろきょろ見ながら歩いていた。 「やっぱり、僕も、あなたの手に堕《お》ちて行く運命になったんですね。不思議なものだ。三人が三人ともそうなって行くんだから」  佐渡は、もう既定の事実であるかのように頭を振って考え込むように、小夜子の気を引いた。 「だけど、私、佐渡さんとはそんな気にはなれないのよ。おあいにくさまだわね」  小夜子は、はっきり言ってけらけら笑った。 「そんなこと言わずに、ついてくるだけついて来て御覧なさい。面白い所がありますよ」  見えすいた手だと思ったけれども、無邪気な小夜子は案外そのとおりにうけとった。 「じゃあね、行くだけ行って見るけど絶対にあてにしちゃあ嫌《いや》よ。実は、私まだ、連込み宿と言う所に行った事がないの、綱島温泉てすばらしい所かしらん」 「綱島温泉なんか、つまりませんよ。温泉て言ったって沸かし湯ですもの」 「そう、つまらない所なのね」 「それならば、僕、池袋にいいホテルを知っています。行ってみますか」 「ホテルも、いいわね。私一度もダブルベッドなんて見たことがないの。だけどそこに行って急に約束を変えようと言ったって私は聞きゃしないからね。喚《わめ》くわよ」  佐渡は、おぼつかないトリックを使っても、この女の前ではあまり役には立たないだろうと思った。  走って来たタクシーにのってから、小夜子は、今ついたばかりの新鮮な灯がきらきら輝いた街を見やって 「きょうも、しづ子は一人にされて可哀想に。こんな親をもった子は可哀想なもんだわね」  とひとり言をいう。池袋のホテルについてからの手つづきをあれこれ思いあぐねている佐渡には、そんな言葉は聞えなかった。  車がとまると利口者の佐渡は、年のちがう女をつれていることが急に恥かしくなった。佐渡のうしろから車をおりた普段着の小夜子は、いつのまにか膝《ひざ》の前掛だけはとっていたが、いま、茶の間から出て来たという風な世帯《しよたい》じみた様子はかくせなかった。しかし、ちぐはぐな組合わせであるだけに、二人を無形につないでいる愛欲のきずなの深刻さが強く見えた。 「下駄のままどんどん入っていらっしゃい、エレベーターがあります」  佐渡はささやいてから、自分だけフロントデスクに寄って何か書こうとすると心得たクラークが手をふって署名はいらないと遮《さえぎ》った。金だけ払って、白上着のボーイの案内で小さいエレベーターにのると、袖口《そでぐち》でなんとなく口を押えた小夜子が、四角の桝《ます》のうしろに立っていた。もうここまでくると恥かしいも何もない。二人は何階かにおろされて同じような室の一つに案内された。  室のまん中にダブルベッドがビニールのカバーをかぶせて、デンと据わっていた。コップをかぶせた水のみのフラスコと、卓上電話。それに「オブジェ」とよぶ、保《も》ちがよいので経済がられる銀粉塗りの生け花。 「こんな所なのねえ。もっとどうかしたところかと思ったわ」  小夜子は、言葉では安く踏んでいたが、少からず改まって興奮していた。 「ここは外人専門でしょう」 「そうでもないでしょう。いまは外人が少いから外人だけではやれませんよ」 「とにかくびっくりしましたわ。さあこれからどうするのよ」  佐渡は返事をせずに、手なれた格好で、電話器をとり上げる。 「何かのみ物を下さい。それから、食事を室にはこんで貰《もら》いたいんですがね」  二、三の問答ののち、白いレースを頭にかけたユニフォームのメイドがノックして入って来た。彼女が出て行くと小夜子は声をひそめて 「あの人には、私なんぞ、いい年をしたつれ込み女に見えたでしょうね。はずかしいわ」 「はずかしい?」  佐渡は反射的に言ったが目つきは、ちらりとそのことに触れただけで、ちがうことの方にはしっていた。  とにかくさし向いの椅子で洋食をたべた。 「佐渡さん、わたしはすぐかえるからね」  小夜子は、帰る帰ると言いながら細めに開けた扉から、大きい兵隊が小さい女をぶら下げるように通るのをうかがったり窓から外をのぞいたりしていた。そのうちに、彼女は隣室にバスと便所が一緒にあるのを発見した。 「あらっ、気持が悪いわねえ。お便所とお風呂が一緒だわ」  としばらく眺《なが》めていたが、おそるおそる便所で用をたしてから、バスの栓《せん》に触《さわ》ってみると熱い湯が来ている証拠に熱かった。 「お風呂があるんなら、入ろうかしら。入っても入らなくても室代は同じだもの、ばからしいわ。五分もあれば、体を濡《ぬ》らして拭《ふ》くくらいの事は出来るわ」  その間中、佐渡は、小夜子の文化生活に対する原始的な驚きを椅子に掛けたままながめていた。  彼が、彼女を一応の征服したかたちをとるには、心理的に彼を臆病《おくびよう》にさせている年齢の差などが気にならない上わ手な立脚点を探さなければならない。  彼は、小夜子があちこちを眺めて驚いているのを見た時、たやすく征服出来る少女のようなすき間を彼女の中にみつけた。  小夜子は、湯をほとばしらせて一浴びする用意をしているらしい。ドアの鍵穴からのぞくと、彼女は、例の赤い衿《えり》を掛けた肌襦袢《はだじゆばん》一枚で、捻《ひね》れば湯が湧《わ》きだしてくる奇跡のような文化を楽しんでいるらしい。  それから、二時間ばかりたった。二人はあたふたと表の電車通りを歩いていた。 「いやになっちゃうわ。こんなにおそくなっちゃったじゃないの」 「大丈夫ですよ。先生は、まだ帰っていません。僕の見当はちゃんと当るんだから」 「帰っていなくったって、子供が可哀想じゃあないの。ひどいわ。こんな所へだまして連れて来て」  しかし、その不平は気持の上皮だけだった。彼女は、やっぱり、今日という日に佐渡という相手でなければ得られない新たな経験をしていた。相手が違うたび経験がはじめてのように新たなのは不思議なことだった。  小夜子は、自動車に手をあげている佐渡のそばによりそって 「佐渡さん、あなたは約束を守らなくちゃだめよ。あなたの忠告どおり、もう井上さんなどに未練は残しませんからね。あなた一人ときめるかわり、あなたの言った通りにしなくっちゃいやよ」 「勿論《もちろん》です。僕は、今西みたいにセンチじゃないし、井上みたいに薄情でもないつもりです。そのかわり、あなたも、今西などに眼をくれたら、僕怒りますからね」  車に乗込むと、小夜子は、佐渡の、脂《あぶら》っぽい片手をしっかり握って、バックミラーの中で彼を流し眼に見ながらにっこり笑った。 「変るもんだわねえ。もう、私達、恋人になっているじゃないの」  佐渡にも、今、丁度そんな感慨のあった所だった。彼は、下を向いて奇妙な笑い方をした。が、心では|ぎょっ《ヽヽヽ》とした。 「ほんとよ。ほんとよ。もしあなたとはなれるようなことがあったら、今度こそ私生きていないわ」 「あなたこそ、じき、ほかの男の人に眼をくれるんだから。ちょっと、やさしいことを言われると頭がふらふらしてついて行くんですからね」  小夜子は、ここ暫《しばら》くの間のどす黒い経験を思い出した。が、いろいろの感想がありすぎて笑っている外なかった。 「とうとうあの時の三人ともこんなことになってしまったのよ。運命みたいなものだわね」  と腹の底から言った。佐渡にも、同じ感慨がもっと強くあった。すでに、井上と小夜子との噂《うわさ》を聞いた時、彼はいつか自分の頭上に舞いおりてくる黒い運命を感じて人知れず抵抗していた。が、ひとから見れば、その抵抗は手招きのような不可解なあがきであったかも知れない。その後今西が彼女の手に陥ったときいた時には、いよいよ次は自分だという戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。が、一方では、自分一人が素晴らしい饗宴《きようえん》の招待からとり残された焦燥《しようそう》を感じていらいらした日をおくった。  しかし、女とはなんと液体のように形の変る不思議な生き物だろう。あのホテルに、はなればなれに入って行ったときと、ホテルを出てくるときとでは、彼女は、もうすっかり別なものになっていた。こんなに、簡単に手なずけられるものだとは思いがけなかった。  いったんは、侮蔑《ぶべつ》と抵抗を見せたものの、すでにそうなる運命の暗示にかかっていた彼女は、自分から、それに順応しようとする逆な心理の命令に動かされていたのだった。 「じゃ、ほんとうに約束してね。今日からあなた一人だけ守って品行の良い女になるんだから、今西さんや井上さんのように、私をじらして泣かせちゃいやよ」 「わかっています。が、問題は、あなたの気持だけですよ。実際、たよりないんだからなあ」  佐渡の気持には小夜子には判《わか》らない悲壮な抵抗がある。  そもそも、どうしてこんな問題の多い女をむりして自分の手に入れなければならないのかという根本が、自分ながらわかっていないのである。それが、判らなければすべてが解《わか》らないのも同然だった。  小夜子は、彼のそんな入り混んだ心理は想像出来ようもないから、時々不可解なよそよそしい眼をする佐渡をたよりない不安な男だと思った。その度《たび》に佐渡の手を握って、運転手がきいているのもかまわず 「ほんとに、捨てちゃあ嫌よ。だけどもどうして、私は、すぐこんな風に深くはまり込むんだろう」  とあけすけに言った。  自動車が家に近い駅の前を通りすぎた頃から、小夜子は、しきりに身づくろいをして丸めて買物籠《かいものかご》に入れていた前掛をつけた。 「さあ、なんて言おうかしら。どうせどんなにうまく言ったって信用する人じゃないけど、でもやっぱり、一応の嘘《うそ》は必要ね」  小夜子は、娘の千世子のことを煩悶《はんもん》して珠子の所まで相談に行ったことに決めた。  そうと、腹が決まるとたいして苦にもせずに、自動車から自分だけぽんと降りて、空《から》の買物籠のまま家に行く路地を曲った。時間は春の夜の、八時すぎだったかも知れない。  二階は、戸を閉めないまま灯をともして、風を入れるため、少し窓を開けたところから、ラクダの冬シャツにズボンといういでたちの木下が見える。  夫を安く踏んでいるようでも、実は、彼女は木下を非常に恐れていた。彼が、手綱をゆるめている寸法だけの彼女の自由である。  小夜子は、そっと玄関の戸を開けて板の間に買物籠をことんと置いた。しづ子が、顔を出して 「何処《どこ》へいっていらしたの」 「伊田よ」  と、子供の前だけは、手もなくかたづけた。 「お父さんは、酔っているの」 「さあ、そうでもないわ。御飯を上ったから」  酒を呑《の》むと、食事をしない夫の習慣をしづ子も長い間に知っていた。  小夜子は、階下でぐずぐずしていたが、結局自分から二階に昇って行った。 「晩《おそ》くなって、すみませんでした。千世子のことで、伊田までちょっと相談に行って来ました」  木下は、じろりと、小夜子の顔を見たがなんにも言わなかった。「嘘」だと言うことが顔に書いてある顔だったがそれは言わなかった。  どうして、この男は、人の心の中が解るのだろう。小夜子は、今言った嘘が彼の眼前であっさり皮をはがれて中身がむき出しているのを見ている心地《ここち》だった。 「お前、井上のところへ行ったんじゃないのかい」  そう、そう、そう言えばそんなこともあったっけ。晩春の日は長いから一日の中にはいろいろなこともあるもんだと彼女は、朝からのことを思い出していた。今日は、今西にも会い井上にも会い池袋にも行ったのである。  こんなにがつがつと飢えたようにさまよっている自分の気持は人に話してもわからないに違いない。  けれど、自分は何か一つの物をしっかり掴《つか》みたいのだ。  それだけのことだ。そのために、若い男の留守の下宿をのぞき、また池袋くんだりまで別の男のあとをついて行った。 「井上のところでは、どうだったんだい」  と言う質問は、簡単だけれど、彼女は恐しいけだものに睨《にら》みつけられたようにすくんで、ついほんとうのことを言ってしまう。 「井上さんは、いました。格別のことはありませんでしたわ」 「そうか、そんなことだろうと思った。お前を見ているとただ体を投げだすだけで腕というものがない。それだけのことなら、誰にでも出来る。腑甲斐《ふがい》ない女だな」 「ほんとうだわ。もう、そのことだけで一杯になっちゃうから駈引《かけひ》きの余地がないのよ」 「井上には、また、肘鉄《ひじてつ》だね」 「どうせ、あなたが行けとすすめるくらいだから、だめなことは解っていたわ」  彼女は精一杯の憎悪《ぞうお》を吐きだした。  木下は、自分の暗示どおり彼女がのこのこ出掛けて行って、井上に当ってみたことがおかしくてからから笑った。可愛い女である。 「どうだい。お前のかかわった三人のうち誰が一番好いか言ってごらん」  小夜子は、三人と言われたのでうつむいて、依怙地《いこじ》にだまっていた。 「どうなんだい。正直に言って御覧てば」  木下が催促した。 「私、そんなに三人なんて知らないわ」 「嘘つけ!」  と言う鋭い声が頭の上で響いた。   虚空  伊田順一は、くらい思いで朝、眼を覚《さ》ました。  時計をみるとまだ六時ちょっと前なのに隣室では箪笥《たんす》の引出しを開けたてする音がしていた。 「こんなに早く、何しているのさ」  順一は、珍しく不機嫌《ふきげん》な声で隣室の珠子に声をかけた。 「荷をまとめているんですの。今日午後に母がトラックを回すと言って来ましたから」 「やっぱり、行くことにきめたの?」 「きめました」  順一は、珠子が実家に帰っていればかえって安心だから、そのことについてはむしろ満足だという心境に変っていた。  しかし、否応《いやおう》なし玉川姉妹と一緒に暮らさねばならない背水の陣を布《し》いたという自覚で悲壮になっていた。  彼の今日の行動のスケジュールは、その会話から割り出された。昨夕玉川姉妹と顔を合わせないまま不本意に帰ったことを思うと、彼は、しきりにあせっていた。  しかし、洗面所に行って無言で珠子がさしだす薬罐《やかん》を受取って鬚《ひげ》そりブラシで泡《あわ》を立てていると「そうそう、このブラシとボールも忘れないで持って行かなくちゃ」と思ったことから始まって姉妹への思いがとめどもなく連続する。  その時二階から、石上がタオルを肩に降りてきた。順一は何かのわだかまりから、彼にとかく言葉すくなになろうとするのを努力して 「君とも、とうとうお別れだね。あまり行届かないでお気の毒だった。僕の方が先に引越すことになるかも知れないな。君はいつ?」  彼は、気のよさから不機嫌を見せないためにそんなことを言い始めたが、言っている間に彼の移転をうながす語気を思わず言葉の底にむきだしていた。  石上も、その言葉の底意に鈍感ではなかった。この人の良い先輩の順一ともあろうものが、自分は、玉川姉妹と一緒になることにきめたから、後に残りそうな石上に早く出て行けと言わんばかりに仕向けているのは、いかにも滑稽《こつけい》だった。彼があとに石上と珠子とが残るのを恐れていることは明らかである。 「僕、いつでも越せるように手配してあります」  石上は素直に言ったが、言葉は平らでも心はそれほど平らではなかった。この間、彼が、自分に珠子と結婚してくれと言ったのは、結局珠子と自分との間に陰険なさぐりを入れたのである。真実に、そう事を運ぶ気はみじんもなかったに違いない。  若い石上は、それを堪《た》えがたい侮辱と感じた。そして珠子のために、義憤を感じた。二人は穏かな言葉のうしろで微妙な雰囲気《ふんいき》をつくって互に肩を聳《そびや》かし合っていた。自然言葉すくなに食事をしたが、いつもの、時間が来ても石上は立ち上らない。順一は、彼がでてから支度《したく》をする手順が狂って、いつまでも手に持った新聞を覗《のぞ》いていた。  結局、順一の出勤時刻も過ぎた。順一は、その日欠勤にして玉川姉妹のアパートに行くことにした。  それならば、麦子が学校に行く前に電話をかけて外出をとめておかなければならない。  彼は、部屋着のセーターと下駄をつっ掛けて台所口から出て行った。 「みそこないました。伊田さんが、あんな方だとは思いませんでした」  石上は、珍しく強い語気で台所にいる珠子に声をかけた。 「悪魔に、魅入られたとでも言うんでしょうか。でも、私、すっかり腹をきめましたから、どんな運命でも受け入れますわ」 「ほんとに、ひどい。あまりにひどい。あなたには匿《かく》していましたが、伊田さんは、あなたと結婚してくれと僕に言ったんですよ」 「まあ!」  と叫ぶなり、珠子は、前掛のポケットに入っていたレースのハンケチを眼に当てた。 「それ程まで、あの人に捨てられているとは知りませんでした。すみませんわね。とんだかかりあいに引張り出されて」 「いえ、そんな事はかまわないんですけれど、あなたがあまり、お気の毒で去るにしのびないんです……」  石上は、いつものおっとりした口調で言っていた。考えてみると自分の珠子に対する気持は、この間、順一に、珠子と結婚してくれとたのまれた時から色合いを変えていた。日が経《た》って、考えてみると彼の言葉は、何かの魔力を持った暗示だった。  波濤《はとう》にもまれているような珠子を残して宿屋の一室に去って行くにしのびない気持のそもそもは、順一の手で種播《たねま》かれたようなものだった。  珠子は、石上の話に驚いたときから眼の底に針のようないきどおりの涙を噴《ふ》きださせていた。  そうまで夫によそよそしく扱われていたなら、すべての努力はおそらく甲斐《かい》ないにちがいない。  石上は、清潔なレースのハンケチを顔に当てて泣いている楚々《そそ》とした彼女の風情《ふぜい》をながめて考えていた。  泣いている女の肩の迫ってくるようなボリュームに呼びおこされて彼の中に何か眼を覚ますものがある。  珠子は、暫《しばら》く泣いていたが気持をとりなおして 「石上さん、もう御出勤にならないと遅いですよ」 「かまいません。僕、移転やいろいろで三日ばかり休んでもいいように仕事の手配はして来ましたから」  その間に、電話をかけに行った順一が戻って来た。  石上は、思わず長い間、珠子と話していたことに気がとがめて、順一の足音と共に階段を昇りかけていた。台所から入って来た順一は珠子の桜色の瞼《まぶた》をみて、彼女が泣いていたと直感した。  順一は二階に昇って行く石上の足音を三段程きいて、彼が今ここに珠子と話していた格好を想像していた。彼が何を言ったために、珠子は彼の前に安々と涙をみせたのだろう。また珠子は心の肌《はだ》をみせるにもひとしい涙まで見せて彼に何を訴えたのだろう。電話で、麦子の返事が気がかりだったのも一緒になって、順一の胸は、波立っていた。  一旦《いつたん》、この家を出るときめた以上は、出なければならない。背水の陣は布かれている。  ああ、いっそ門出の血祭だ。珠子と石上がそうなるのもやむを得ないことだ。  彼は、やっぱり悲痛になっていた。電話の麦子は、何か気になるあいまいな事を言っているけれど、とにかく出かけてはっきりと話を決めてこなければならない。  稲子は、すでに出勤した時間だが、麦子がいるということで順一は、力づけられていた。  もしか、彼女が出掛けでもするといけないと思って、表通りでタクシーに手を揚げた。  車が、走っている間彼は、じっと、眼をつむっていた。後には、石上と珠子が居り、前には麦子が居る。  走りながら、感覚している妻の珠子は、彼にとってやはり失えない女だった。石上が、問題になりだしてから、それに気がつくとは何と愚かしいことだろう。  しかし、稲子も麦子も失えない。彼女達を失ったら、自分の生活は、ほとんど空洞《くうどう》になってしまうだろう。  会社勤めも、十年あまりして、およそ自分一身の栄進の程度はみとおせるところに来た。  毎日繰返されている十年一日の如《ごと》き業務に身を入れる気にはならない。  社会改良のために政党に入るのも、懶《ものう》いし、はたしてそんな努力がどれだけの実を結ぶのかも懐疑的だった。  こんな灰色の人生に、理屈でなく生気を吹き込んでくれるのは二人の娘の存在あるのみだ。  彼は、運転手の後から声をかけて登りなれた坂を車で登って行った。  外から見上げると、玉川姉妹の窓にはナイロン・ブラウスが衣桁掛《いこうか》けに掛けてぶら下っていた。こんなに、美しい春の朝陽《あさひ》がさしているのに窓を閉ざしているのはおろかなことだ。  彼は、眼の前に麦子がいるような気がして、もうやさしい小言を胸に浮べていた。  が、階段を上りかけて気がつくと扉の外に大きな南京錠《なんきんじよう》がぶら下っていた。彼ははっとした。 「麦ちゃん! 麦ちゃん!」  彼は、いないとわかっていながら、おろかしく呼んでいた。  さっき何かわけのわからないことを電話で言っていたが、あれから自分を待たずに外出したものとみえる。  順一は、しょんぼりたっているうちに思わず眼をつむって考え込んでいた。これ程、自分は彼女達のために力を入れているのに、彼女達は自分を疎外しているのではなかろうかという疑問がふっと額をかすめた。どうも、そうらしい。そうとしか思われない。  そう思い至った時、彼は額を鈍器でおもうさま殴《なぐ》られたような気がした。いくらかでも彼女達に、感謝されていると思い続けて、ここに足を運んだのは自分の勘違いだったらしい。  いい年をして、何というざまだ……。ふっと、虚脱したような一瞬間が彼の頭の中をすぎ去った。  順一は、低い声で 「だけども、やっぱり自分は失えない……」  と呟《つぶや》いた。彼女達にうるさがられているにしても、自分は、もうこの沖に向って船出してしまったのだ。  順一は、みじめな気持で立っていた。こないだは室の中で何時間も待たされたが、あのときもやっぱり世界中で一番哀れな男のような気がしていた。が、それどころかきょうは、錠をおろした扉の外で、人目にさらされながら立っているのである。  冷静に考えてみれば、麦子が錠をおろして行ったところを見ると学校に行ったのかも知れないから、ちょっとかえってくる見込みはない。ここに立っていても仕方がないと自分でよくわかっていた。  しかし、きょうは、会社も休んだし、妻との間は最後の段階に来てしまった。ここにこうしている間にも、珠子は石上と睦《むつ》んでいるかも知れないのである。石上という青年がそんな意味でマークされ出してから、順一は、珠子に対して、案外さらりとしていない自分を発見した。それだけに珠子を失うことは順一にとって、やはり相当な犠牲を意味しているのである。  その犠牲はしかし、稲子と麦子とのために、目をつぶることにしたのだ。だからもし彼女らが自分の手からつるりと滑《すべ》って、安土という男の手にでも落ち込むことになるとしたら、それはあまりに自分にとって悲劇的である。  彼はやっぱり扉の外に立っていた。愚かしいとは思いながら、ここを動く気にはなれない。  しかし、そのうちに、あることを思いついた。ここにぶら下っている錠は、自分が近くの金物屋から買って来て与えたものである。そのとき店員が錠掛けに下っている同じような錠をいくつも見せた。鍵穴《かぎあな》の形は似たり寄ったりで、そんなに厳密なものでないことをそのとき順一は発見した。 「どうなんです。この鍵で、こちらの錠があくようなことはありませんか」  順一は、姉妹の留守の安全をねがって、店員にそのときたずねた。 「さあ、これはマサ・ロックといいましてね。一つ一つ穴の形がちがうという証拠に、それぞれナンバーがついています」  と店員は言った。  しかし、順一は、店員のいうことが必ずしも信用できず、きゃしゃな鍵をとってあちこちの錠をねじってみた。そして似ている形の鍵穴なら、必ずしもあかないものでもないという結論に達して姉妹のために心安らかでない気分だった。  彼はいまそれを思い出して、鍵穴の形をしらべた。そして似た形の錠と組合わさった鍵を買うために金物屋に出かけて行った。  鍵は、似ているどころか、そっくり同じ形のがあった。順一は、いらない錠と組合わさったその鍵をもって来て、穴に突込んでみた。  ピーンと手ごたえがあって、すぐ錠は外《はず》れた。 「なんだ。不用心なものだなア」  順一は、玉川姉妹のためにそうつぶやいて扉の中に入った。  麦子は、順一がくるときいてあわててとび出したから、ぬいだ普段のスカートやセーターを椅子の上からだらりとさげたままだった。食卓の上にも、朝たべたままの醤油《しようゆ》さしがあり、パンの粉が散っていた。  順一は、一つの椅子に腰かけて、微《かす》かに女の匂《にお》いのする室の中を眺《なが》めていた。だんだん冷静に考えると、稲子は、となりの安土とこの頃では相当親しいものと思われる。珠子が自分の手からまさに離れかかっているように、稲子も離れかかっているのである。  順一は、座布団《ざぶとん》を枕《まくら》に何かみじめな気持でひるすぎまでひるねをしてしまった。眼をあくと口のはしからよだれが垂《た》れて、煩悶《はんもん》のために熟睡できなかったことが如実に思われた。  夕暮になると灯をともして、戸棚《とだな》の中にあったコンビーフをパンにのせてたべて湯ざましをのんだ。  八時——九時——十時——また姉妹は自分に待ちぼけをくわせるつもりなのだろう。どちらもかえって来ないところを見ると、窓の下から灯がついているのを見て、どこかに行ってしまったのだろうか。そこまでは、とも思うけれども案外そうかも知れぬ。  順一の気持は、だんだん狭いところに押しこめられていた。これほどまでに思っている自分をほかにして、二人に幸福があるというのか。彼は鼻血でも噴《ふ》き出しそうなほどのぼせていた。  よし、今晩は、二人に訓戒を与えるために泊って待っていてやる。珠子はもう、石上にくれてしまったも同然な妻である。彼女のことを思ってかえって行く不徹底さがめぐりめぐって、姉妹に疎外される結果を呼びよせているのだ。彼は祈りたいような気持だった。  押入をあける。と、布団が一組しかない。おや、と思う。  彼はどしんと深い谷に突き落された。ないのは、稲子の布団である。彼の視野は、九十度ほどの角度でぐるっと目まいのように動いた。稲子がこの室からいつのまにか出ているなら、隣の安土はどうだろう。そういえば、夕方彼がかえってくるかどうかをたしかめるべきだったのにうっかりしていた。  しかし、どうもかえって来なかったようだと思う。順一は表に出て彼の室の様子を見に行った。 「おや、引越したのか……」  表札は剥《は》ぎとられていた。それならば常識として、稲子と二人でどこかに室でも借りたと考えなくてはならない。いや、いや、そんなことがあって堪《た》まるものか。もしそんなことだったら、自分の心は破産である。  順一は、何かに縋《すが》るような目《まな》ざしを空間に向けて、心も空な足どりで室に戻って来た。  火のない火鉢《ひばち》の前に、どっかり腰をおろして沈思する。自分はどうすればよいのだろう。 「稲ちゃん、稲ちゃん……」  と順一はよんでみる。自分の心の温い泉の中に、いつもたっぷり浸しておいた可憐《かれん》な名前だった。その名をよぶだけで、順一の心は、きらきらした銀色の光の波のような幸福の中に漂っている気持になる。  彼は少年のように思いきり泣きたかった。が、中年の悲しさに、涙の壺《つぼ》は硬《かた》くなって乾《かわ》いていた。  その晩とうとう麦子も稲子もかえらなかった。恐らく、麦子も、稲子と安土のいる室に泊ったのだろうと彼は見当つけた。そういえば、この前、麦子が室をとび出したときにも、彼女は、恐らく姉と安土とが営むまま事のような新世帯《しんじよたい》に泊ったのである。  翌《あく》る朝になった。  順一は、麦子の布団をかぶって、短い布団から足を出しながら浅いくるしい眠りからさめた。  きのうからの行動は、自分にとっては、内的にも外的にも独《ひと》り相撲にすぎなかった。けれども、ゆうべの自分の外泊が、珠子には、相当決定的な意味をもったに違いないことを、彼は目がさめたとき、すぐに考えた。  しかし、もういい。自分は、両天秤《りようてんびん》をかけるような卑劣な人間ではない。彼女を自由にさせてやることの償いによって、姉妹を奪いかえすのだ。  彼は、ゆうべからみると、やや冷静になっていた。それだけに、自分の意志の深さがはっきりわかった。  彼は身支度《みじたく》をして、食事がてら稲子のつとめる会社に電話をかけることにする。腕時計の針が九時半を示したのをたしかめて外に出た。  自然にまた自分の会社は休むことになった。  食堂の電話でよび出すと、稲子は案外簡単に電話口に出た。彼は、稲子が逃げかくれするものと覚悟していたところだったので嬉しかった。 「稲ちゃん? 僕よ。どうしたのさ」  順一は、おどおどして、こんなとき何を言ってよいものやらわからない。が、自然にそんな言葉が出て来た。 「おじさんね? すみません。すみません」 「すみませんたって……何だろう? 安土さんと一緒?」  彼はまず一番問題な要点を言った。 「ええ」  もうわかっているのに、順一はその言葉で、ガンと脳天を一つ殴られた。まだそうでないことを祈っていたのだ。 「それならそれと打明けてくれればいいのに、なんでそんなに逃げかくれするのよ。おじさんはまたどこかにつれて行かれたのかと思って、どんなに心配したか知れやしない。話しさえすれば新憲法の世の中だもの、貴女の自由を誰も束縛しやしないのに。親類にだって一応の挨拶《あいさつ》をしておかなければ、順一さんがついているのにと言われるんだよ」 「すみません」 「とにかくちょっと会って、あんたの話もきいたり、こちらの言うこともきいて貰《もら》わなくちゃ始末がつかないね」 「はい、そうします」 「じゃ、きょう会社がひけたらアパートにおいで。仕方がないからおじさんはそれまで待っていますよ」 「すみませんね」  順一は、稲子の声をきいた満足で食堂の受話器を置いた。露骨に口をあけている料金箱にポケットから拾い上げた十円銅貨を投げ込んで彼は、板をたたきつけた腰掛に坐った。 「お酒はありませんか」 「ありますよ」 「何級酒ですか」  汚《きたな》い白前掛をした食堂のおやじはじろじろ順一を見て 「何級っていうほどの酒じゃありませんよ。問屋からみんなまぜてくるんだからね」  しかし、ガラスの厚いコップに色の薄い酒が一杯ついではこばれた。彼は、メチールが入っていないかと疑って、ちびちび舌でなめていたが、そのうち、いつのまにか大胆にのみはじめた。日ごろ、体の中にアルコール分がないせいか、いくらのんでも全身をうるおすだけで終るらしく、少しも酔わない。 「お酒、もう一杯……」  彼は遠い卓をふいているおやじに知らすために、厚いコップを持上げて知らす。おやじは心得て、台の裏にある赤いブドウ酒や透明な焼酎《しようちゆう》の一升|罎《びん》の中から、黄色な日本酒の罎をとってコップに注いでよこす。  彼はしたたか酔って、よろよろしながら表に出た。ぼうっと世の中の感触が柔かくなって、羽毛につつまれているように気持がいい。けれども、芯《しん》には、生爪《なまづめ》を剥がされたあとのように傷ついた心が、朝のままの|しらふ《ヽヽヽ》で呻《うめ》いているのだ。  彼がアパートにかえって大の字に寝ていると、稲子は、案外早くかえって来た。 「あら、お酒くさいこと。おじさんたら酔ってらっしゃるんだわ。めずらしいわね」  順一は、木の実のように真っ赤になった目をあげて、悲しそうに笑いながら彼女を迎えた。   夫の留守  稲子は、座布団《ざぶとん》をしいてある食卓の前を避けて、隈《すみ》の椅子に腰をおろすと、 「おじさんには、何とも申しわけございませんでした。……でも、どうしても安土のことは言えなかったんですわ」 「言えないことはないじゃないの。貴女が幸福になることにおじさんが反対するわけがないもの」 「それはそうなんですけれどね……」  その間の心理のあやの複雑なことは、順一自身が一番よく知っている筈《はず》である。が、その複雑さをとび越えて彼から抗議されると、表向きにはそのとおりだから、ただ謝《あやま》るほかはない。 「しかし、おじさんは言っておくけれど、安土さんはどんな人なの。僕がこの眼でよい人だということをたしかめない間は、まだこの結婚に賛成はできませんからね。それは承知して、下さいよ」 「だって、もう結婚してしまったのに……」 「結婚したって、まだ正式じゃないから、どうでもできますよ。とにかく、貴女だけこのアパートにかえってらっしゃい」 「えっ、……そんなことはできませんわ」 「できますよ」  順一は穏かだけれども、頑固《がんこ》さのむき出した口調でいう。 「わたしが、あのひとだけのこして、結婚のしなおしにかえってくるんですか」 「まあそうです。いいでしょう?」 「そんなことはできませんわ」 「できます。してごらんなさい。できるから」  稲子は、あきれて順一の顔をしげしげと見ていた。彼女は、さっきこの室に入って来たとき、しばらくの間に、順一の人相がすっかり変ったのに胸を打たれていた。自分が安土のところに奔《はし》ったのがどれだけの打撃であったか、まざまざと思い知らされて、くるしい気持だった。 「おじさん、そんなことおっしゃらずに、私達の結婚を認めて下さい。お詫《わび》はいくらでもしますけれど、あの人だけのこしてここにかえってくるなんてことはできませんわ」 「できます。するつもりならできる……」  と言いながら、順一は、下を向いていた顔をぱっとあげていきなり稲子を真正面から、つよい腕の力で羽掻締《はがいじ》めにしていた。彼は稲子をしめつけながらぶるぶるふるえていた。 「かえってくると言いなさい。ね、ね、かえってくるでしょう? おじさんは、稲ちゃんがかえってくるまでここに待っていますよ。かえってくるね」 「くるしい。放して……」  稲子は彼の執着心で火焙《ひあぶ》りにでもされているような声をあげた。 「放さない。……稲ちゃんがかえってくると約束しなければ絶対に放さない」  順一は、そう口ばしりながら、抱きしめていた稲子の胸に顔を当てた。彼女のふくらんだ胸では、彼女が生きている証拠の息づかいで肌《はだ》がゆるやかな運動をくりかえしていた。彼は目をつぶって、豊かな肉体の音楽をきいていた。  稲子はあきれて、普通でない順一を見守りながら手で彼を放す。麦子に、こないだのことをきいていたから、そうおどろきもしなかった。 「ああ絶望だ。稲ちゃんにまでこんな思いをさせられるなんて、思いもかけなかった。おじさんは、もう世の中がいやになって、とても生きて行く力がないよ」 「そんなことおっしゃったらいやですわ。おじさんにはやさしい珠子おばさんもいらっしゃるし、今にきっと可愛い赤ちゃんも生れてくるんだから何も世の中が嫌《いや》になることなんかないでしょう」 「赤ちゃんは、もう生れませんよ。おじさんは前からあきらめているんです」  順一は、テーブルの前に蹲《うずくま》って俯向《うつむ》いていた。この間、麦子におろかな事をしてから、後でずいぶん後悔したのに又、こんな事をしてしまった。  彼は、悔恨に苛《さいな》まれた眼付で 「稲ちゃん、おじさんは、おろかな男だね。軽蔑《けいべつ》しているでしょう」 「いいえ、軽蔑どころか感謝で一杯です。世の中の誰が私たちのためにこんなに献身的な世話をしてくれたでしょう。それなのに、相談なしに結婚したりなんかして、ずいぶん申訳ないと思っているんですわ。許して下さいね。心からおわびします」 「あやまる必要なんかないよ。あなたがあやまる位で、おじさんのこの気持がしずまると思ったら大違いだ。僕の悲しみは、永遠ですよ。これを償ってくれるものなぞどこにもありゃしない。しかし、おじさんは、堪《こら》えます。堪えるつもりです」 「そう言われるとますます途方にくれてしまいますわ。いっそ怒っていらっしゃるんなら私としてはその方が始末が、いいくらいです。でも今度の事は仕方がなかったんですわ」  稲子は、年にしては世間の苦労を知っている言葉で順一の登りつめた気持をすこしずつときほぐすように言った。  しかし、彼女は、椅子に腰かけたまま何かしら警戒しながら、順一の挙措を見ていた。機会があったら立ち上って、二人きりの息づまる場面から逃《のが》れたいのだった。 「稲ちゃん、今晩は、ここにいてくれるね」 「そういうわけには、いきませんわ」  話は始めから少しも進んでいなかったことを稲子は発見する。 「じゃあ、どうしても行くんだね」 「すみません。でも、おじさん判《わか》って下さるでしょう。私たちは結婚したんですもの、行かなくちゃなりませんわ」 「まだ、そんな事言っているんだね。どうしておじさんの気持が判って貰《もら》えないんだろう。ああつらい」  彼は、小羊のように呻《うめ》きながら憑《つ》かれたように稲子を凝視する。先刻のような気味のわるい事を繰返されないためにも稲子は感傷を振払って 「おじさん、御免なさい。私あちらに行きます。麦子も今晩、早く帰るかどうか判りませんからお待ちになってもむだかも知れませんよ」  稲子は、麦子の学校に電話をかけて、ここにこさせないようにしようと思った。だから、順一にはそれとなくそう言った。 「じゃあ、さようなら。おじさん、いつまでもここにいらっしゃらないでお家に帰って下さいね。おばさんが心配なさるわ」  稲子は、順一が絶望して畳に手枕《てまくら》をして寝たのをみながら、こころを鬼にして出て行った。  姉妹は何か不安を感じながら今日まで順一の庇護《ひご》に甘んじて来た。一人立ちは、恐しいものと決めて世間を窓から覗《のぞ》いていた時には、何かと煩《わずら》わしい順一の庇護も結局たのもしかった。  しかし、安土が現われたのは順一に代って新しい庇護者があらわれた意味に外ならない。順一の庇護が、どんなに行届いていてもそれは清潔で乾《かわ》いていた。安土があたえてくれるなまなましい汚《きたな》らしさがたりなかった。順一の、親切が行届けば行届くほど若い女が求めている生々しさからは遠くなった。  稲子は、絶望して畳に倒れている順一を残したまま表に出て行ったが、格別こころが痛むこともなかった。  彼女の中で、まっとうに育って行く女としての愛情は、順一の常識はずれのした愁嘆など幾重もの肌を隔てた遠いことのようにしか感覚しなかった。順一にとってこそ人生途上の大問題だったが、稲子には路傍のできごとでしかなかった。  その晩も、順一は、畳に倒れたまま十二時頃までそれでも麦子だけは帰ってくるかと待っていた。  稲子が、麦子に電話を掛けてここへ帰らないように指図《さしず》することなど、彼にはとても考えられなかった。  十二時過ぎて、麦子も帰ってこないと判った時、彼は、着ていた服だけ脱いでワイシャツもネクタイもそのまま昨夜と同じに麦子の布団《ふとん》に寝た。  床の中で額に皺《しわ》を寄せて目をつぶって苦痛に堪えながら昨日からの苦痛を思いかえしているうち、かちっと、石に蹉《つまず》いたように思いは妻の珠子の上に急転換する。  彼の頭の中では、すでに珠子は、石上と完全な妥協に到達していた。疑いというものはいつもぎりぎりの極点まで走りたがるものだと自分をいましめてはいるけれども、彼と彼女の間に何か起ったことだけは疑いない。  自分は、一瞬にすべてを失ったのだと思う。もう生きる望みはなんにもない。人の顔を見るのも嫌だ。  彼は、夜中に起きて薬罐《やかん》の口から水をぐびぐび呑《の》んで又寝た。が、翌日は八時過ぎになっても起き上る気にならなかった。会社は、又、休むことになる。  家の珠子は、実家がむけてよこしたトラックに当座いるものの入った箪笥《たんす》や、つくりなおすつもりだった布団などをつんだ。大きいトラックの背はまだ空《あ》き空きして勿体《もつたい》ないようだった。 「何かほかに積むものはありませんか。あれだけじゃ荷が動いて傷がつくでしょう」  ワイシャツとズボンで甲斐甲斐《かいがい》しく珠子の小さい桐《きり》の机などをはこんでいた石上は、門の外に立ってトラックを見上げた。珠子もそのことはさっきから思っていたが、トラックがいっぱいになるまで家具をはこび出すには、まだ未解決な問題が心にたくさんのこっていることを発見して躊躇《ちゆうちよ》していた。  珠子は、自分がさしずめいる物を持って行くことばかり考えていた。  が、順一が、稲子の方に行くならこの家は自然解散ということになる。とすれば、順一の荷物はどうなるのだろうか。アパート住居に大きい棚《たな》やガスレンジや本箱などを持ち込んでも困るだろう。が、それを自分の方に預るという話をしたわけではない。  それとも、この際順一の物は順一に任せるとして自分が嫁入の時持って来た荷物だけをまとめて引退《ひきさが》るところだろうか。  それは、事実上離婚の形だが、当面のなりゆきはそういう意味を持っていると解すべきだろうか。  つまりは二人の間の割り切れなさがどれだけ荷物を持って行くかという問いの答えをあいまいにしているのである。  珠子は、石上にほかに積む物はないかと言われた時、自分の順一に対する気持の割り切れた度合をたずねられたような気がした。  二人が、だまって何かこだわっているところに母の磯江も戸口から出て来て 「おや、荷物はこれだけかい。後に残した物はみんな順一さんのアパートに行くの」  珠子は、とっさに何とも言えなかった。 「可笑《おか》しな話じゃありませんか。家をたたむのなら自分の物はみな持って行って、順一さんの物はアパートに届けなければかたづきゃあしないじゃないの」 「そうなんです」  珠子は、自分が思ったとおりの事を言われたのでうつむきながら低い声で答えた。  珠子のためらっている心には、母の割り切った口調は鞭《むち》のように響く。 「どうするのよ」  磯江の苛立《いらだ》ちは当然だった。だまっていればトラックは僅《わず》かな荷を積んだままで出発するだろう。  珠子の眼は、ビニールのような涙で一杯になった。  彼女は、石上をおいたまま母を引っぱって玄関の中までつれて来て 「お母様、私はどうしたらいいんでしょう」  と、磯江に縋《すが》り付いて少女のようにさめざめと泣きだした。 「肚《はら》の決まらない人だね」  磯江は、娘の肩にやさしく自分の手を置いて背中を二つ三つ叩《たた》いてから撫《な》でてやった。  しかし、珠子に強制出来ない磯江の歯痒《はがゆ》い気持が自然にあらわれて思わず撫でるには力の入りすぎた撫で方をしていた。  その間に、トラックのエンジンが鳴って出発するけはいがした。が、珠子は、それを止めて何か積み加えようとは思わなかった。 「とにかく、妙な話だ。きいた事がない」  二人は、茶の間のテーブルに向き合って坐っていた。  二人の後から、家の中に入って来た石上に二人は 「いかがですか。お茶でも一杯」  と声をかけた。 「はあ、ありがとうございます。僕もかたづけ物がありますので」  彼は二階に上ってしまった。 「これだけでは、何にも問題の解決にはなっておりませんよ」  磯江は、石上が二階に上りきったのをたしかめてから、さっきからの話を続けた。 「そりゃ判っていますけれど……じゃあ、お母様の御意見は、この際伊田と別れたらと言うお気持なのね」 「そりゃ、そう決めているわけではないけれど、こんな話が世間ではとおるはずがないもの、貴女と一緒にあの人のいうなりになってはいられませんよ」  こんな問答を二時間ばかりしている間に磯江は、ますます珠子の気持の不徹底さを見て取った。 「まあよく考えて決めることだね。一生の問題だから」  とありきたりな結びを自分でつけて、磯江は帰った。  その晩、珠子はいつものように石上に先に食事をさせるため一人だけの茶碗《ちやわん》や箸《はし》を用意した。自分は順一を待つつもりで一尺ほど卓をはなれて、よく躾《しつ》けられた物腰でなめこの赤だしの椀《わん》を彼にさし出す。 「今日と言う日にでも、伊田さんは遅く帰るんだから、まったく気が知れませんね」石上は、一人で箸を運びながら珠子にしみじみ同情するように言った。 「もう、あきらめました」  珠子は、石上に同情されるとその言葉に誘いだされそうな自分の裏側をしっかり襷《たすき》でもかけた気持で戒めていた。  春の夕暮の七時頃で、まだ雨戸を閉めない縁先に櫨《はぜ》の若芽が赤く鴕鳥《だちよう》の頭のようにユーモラスに突きだして見えた。薄い残光の残った空を蜻蛉《とんぼ》のようにヘリコプターが飛んで行く。 「全く遅いですね」  石上は、さっきからの実感である同じ言葉をくりかえした。毎晩一人でこうして食事をさせて貰ったのだが、それに絡《から》まっていた多恨ないきがかりには全く迂濶《うかつ》にも気付かなかった。  彼女の、身堅いこなしの給仕が堪えがたい哀愁の表現であったということにもまるで気が付かなかった。そのことではまだ驚き続けていた。  珠子は、もう諦《あきら》めたと言う風に淋《さび》しく笑って 「それはそうと、石上さんはいつ引越しなさいます?」  石上は、意外な顔で彼女を見た。こんな不合理ななりゆきから、彼女の胸は哀《かな》しみで沸きたっているだろうと思っていたのに、もう一応それを胸の奥に畳み込んだような言葉の響が、彼には信じられなかった。 「そうですねえ、あなたが行かれれば御飯を食べさせてくれる人がないからすぐ移りますよ」  と言った。が、こんなとき珠子に蔓草《つるくさ》のように絡みつかれないのは何としてもものたりなかった。  しかし、それは頭の中だけの自分であって、現実の彼は自分の心のもとめに従ってこの問題に深入りしようとする気持にいつもブレーキを掛けていた。  なまじっかな教養や体面に牽制《けんせい》されて自然な要求に幾重もの皮をかぶせたまま手を拱《こまね》いている間に、自然に開かれた扉が、また、閉されかかっているらしい。それは大きな悔恨であった。が同時に何かすがすがしくもある。  珠子は、ときどき時計を見る。順一は稲子達のアパートに寄ったにしても、もう、およそ帰ってくる時間である。  石上は、昨日今日始めて与えられた地図で、珠子のいまの動作から彼女の気持のありかを読んでいた。若妻が、外にこころの向いている夫を思いながら、夜更《よふ》けのさえた電車の音を聞いている風情にはやはり強く訴えるものがある。彼は、ここでも未知の世界に対する新しい発見をしていた。しかし、もうこれ以上自分がここに坐っていられるいわれのない事に気が付いた。彼は、まだ夕飯も食べずに、うつむいている珠子の背を撫でてやるようなやさしい声で 「そうと決まったらあんまり煩悶《はんもん》なさらない方がよろしいですね。伊田さんにとってはほんの一時の迷いだからじき帰ってこられますよ。向うのお嬢さん方だって妖婦《ようふ》と言うわけじゃなし、伊田さんを捕《つか》まえて囚《とりこ》にしようと言うのじゃないでしょう」 「私の考えでは、伊田の一方的な気持ではないかと思うんですの。一人で口走っている言葉を聞いたんですが、今度の引越しは、あまり歓迎されていないのではないかと思われるふしがありますの」 「ほう、そんな事がありますか。そんならなおさらだ。そんならきっと帰ってくるでしょう。あまり失望なさらないで下さい」  石上は、このなりゆきから起ったもろもろの煩悩《ぼんのう》を超越してその瞬間、先輩夫婦のためにそうなることを希《ねが》った。  彼は、立ち上って寝るために二階に引揚げて行く。時計を見ると十時半になっていた。  もう、これ以上待っているのは愚かしいと思って、冷たくなった食物を蠅帳《はいちよう》から運んで来て一人で味気ない夕食をとった。  耳はやはり表通りに向けられていたが、今日は特別にも彼の帰りは遅い。  時計が、十二時半を打った時珠子は座布団からすっくと立ち上った。天井を衝《つ》くほどの勢だった。夫は、今日は帰らない。何んて言う踏みつけ方だろう。  箪笥のある寝間に、自分一人だけの床を敷いてから、玄関と門を閉めに行く。帰って来てコールドクリームで顔の白粉《おしろい》を落していると鏡の中の眼が、霧のように霞んで今にも涙を走らせそうなのを一心に堪えていた。  タオルの寝巻に着替えて白いカヴァーに包んだ毛布で顔を蔽《おお》う。夫は今まで自分に隠していた面を今晩は臆面《おくめん》なく曝《さら》けだしたのだ。今頃は、稲子と夫とは、どんな姿でアパートの一室にいるのだろうか。さっきまでしずまっていた彼女の心の湖には、また、波濤《はとう》が起っていた。  ひどい、ひどい。あまりひどすぎる。彼女は、およそ一、二時間も泣いていたろうか。その間にも未練がましく表の自動車の音に鋭く聞き耳を立てた。  順一が、ほんとうに稲子とそんな関係だったのなら、自分はこの世の中にもう頼むものも恐れるものもない。何をしてもよいのだ。石上とだって——。  どうして、自分は彼ともっと親密にして、順一にみせつけてやらなかったのだろう。  自分だけの悲しみにおぼれて気がつかなかったけれども彼が、或る目ざしで自分を見ていたことを、今こそまざまざと思い当るのだ。無念——。無念——。彼女は思わず、唇《くちびる》に当った毛布のカヴァーをぎりぎり噛《か》んでいた。  その時、彼女の想念に誘い出されたように二階の階段を降りてくる石上の足音がした。三足四足は、とり乱した自分の心の喚《わめ》きに耳を塞《ふさ》がれて気がつかなかった。が、気が付いた時には、階段の半ば下で足音はみしみしと何かの意味をささやくように鳴っていた。あっ、と彼女は心の叫びを押えて耳に神経を集中する。  夫がいる日頃の夜にも、こんな風に彼が夜半に階段をおりてくることはあった。が、そのときには、これ程その足音はきわ立って高く耳には聞えなかった。夫のいない今日のこの夜だからこそ、その足音がこんなにハンマーでも打つように一と足一と足、自分に迫ってくる如《ごと》くひびくのだろう。  ひとりでに彼女は息を殺して足音をやりすごすために毛布をかぶっていた。彼女はほっとする。彼は便所に行ったらしい。行きはどうやら無事だったが、かえりこそ恐しい。間もなく便所からの足音がスタスタとスリッパの革《かわ》の音をたてて近づいてくる。  彼女は毛布にしがみついてぶるぶるふるえていた。悪魔が近づいてくる。悪魔が——が、彼の足音は階段にかかった。一段一段何ごともなく昇って行く。彼女は毛布から顔を出して、まだはげしい息づかいをしながら、薄明の室内を見回した。ああ救われた。このすがすがしさ。彼女は、二階の石上に理由なく感謝した。   誰のために?  睡《ねむ》い初夏の朝だった。  時計は、まだ六時を打たないうちに木下はぱっと起き上って、夫婦の寝間の雨戸をあける。 「……早いわねえ。毎朝早くおこされるんだから、いやんなっちゃうわ。わたしはもう一と寝入りするつもりよ」  若葉が薄絹のように葉裏を透《す》かせている東窓からまぶしい朝の光が射《さ》し込んだ。小夜子は、うすい布団《ふとん》の襟《えり》で光を遮《さえぎ》って顔を掩《おお》った。  木下の命令で彼女はまだ丸髷《まるまげ》を結っていた。その粋《いき》な低い根元をこわれないように枕《まくら》から突出して、練白粉《ねりおしろい》をぬった首のうしろに、上手《じようず》に枕を当てていた。  窓外の明るい光のもとで木下はしどけない妻の寝姿をじっと立ったまま見ていた。 「おいっ」  木下はいきなり低い鋭い声を、小夜子にかけて、彼女が顔までかぶっている布団を顔から引きはがす。 「いま誰のことを思ってるんだ。今西のことか。佐渡のことか」 「あら、まさか……そんなことを思ってやしないわ。いやあよ。ねむいんだもの」  小夜子は一瞬間あきれたように細いきれの長い目をいっぱい見ひらいて木下を見上げた。が、すぐまた目をつぶって、木下のつかんでいる、めくれた掛布団を依怙地《いこじ》にとりかえそうとする。 「目をあけろ。目をあいて俺《おれ》を見ろ。こら。お前が目をつぶっているときには必ずほかの男のことを思ってるんだ。井上のことでも思っていたんだろう」 「ふふふっ」  小夜子は、含みのある笑い方をして針のような細い目《まな》ざしでコケティッシュに夫を見上げる。  雨戸をあけ終った木下は、ランニングシャツ一つの上半身を小夜子の枕元にかがめて 「正直に言ってみろ。三人のうちほんとうは誰が一番好きなんだ。やっぱり井上か。釣り落した鯛《たい》は大きいと言うから井上だろう」 「ちがう、ちがう……」  小夜子は枕の上で首をふりながらやっぱり、めくられた布団をかぶろうとする。 「じゃあ今西だな。あいつは気が弱くて小娘のようだから、何でもお前のいうとおりだ。あんなおとなしいのが好きか」 「ちがう、ちがう……」  小夜子は、眼をつぶったまま、まだ布団を取りかえそうと夫のもった掛布団に下からぶら下ってくる。 「してみると佐渡か。あいつは見かけ倒しだが、ちょっと屁理屈《へりくつ》を知っとる。ピカソの政治性は……、と来るからな。お前はあんなやつが好きだったのか。意外だね」 「ちがう、ちがう……」  小夜子は、同じことを口走って、遮二無二《しやにむに》奪われた掛布団をとりかえそうとする。 「じゃあ誰が好きなんだよ。言ったらいいじゃないか」  小夜子はわらって掛布団に未練がましくぶら下っていた。今の場合、自分の気持のありどころを、勿論《もちろん》、正直に木下に打明ける義務はない。けれども、たとえ義務があったにしろ小夜子は、ほんとうのところ何と答えてよいか自分でもわからないのだった。  井上に執着していたときには、井上が自分から奪われるなら、死んでしまおうとまで思いつめていた。が、思いがけないいきさつで、おとなしい今西が手に入るとしばしば自由になる自分の息子《むすこ》を持っているような喜びで有頂天《うちようてん》だった。しかし、彼の傷つきやすい心は、朝咲いて昼しぼむ花のようにひ弱くて、小夜子のひたむきなあらい情熱が迫ると、押しつぶされでもするようにじりじりあとすざりする。握ろうにも握り切れない彼の気持を追い回しているのは血を絞られる苦しさだった。そこに現われた佐渡は、今西よりも世間知りで、ちょっと図太いところもあった。家畜のようにおどおどしている今西とちがって、彼は、意力的なプログラムで行動する男だった。  いまこうしている間にも、彼は、きょう、どうして自分をこの家からつれ出すか工夫をこらしているにちがいない。たのもしいといえば、彼はたのもしい男だった。しかし仮りにいま小夜子が彼に一番つよく惹《ひ》かれているにしても、それは、彼の意力的な性格のためではない。一生涯つれそう夫にしようというわけじゃなし、小夜子は、束《つか》の間《ま》の儚《はかな》い愛人に野暮な意力などを求めてはいなかった。  それよりも、もし、彼に彼女がつよく惹かれているとすれば、それは、彼との間がいま沸《たぎ》りつつあるからに他《ほか》ならない。女の気持には、よかれ悪《あ》しかれ過去にあったものをいつまでももちつづけようとする保守的なところがある。その過去のつづきで、いまの身に一番近い現在という時は、小夜子にとって一番捨てがたくまた避けがたい瞬間であった。彼女は、現在自分を牽《ひ》いている佐渡に一番つよく牽かれていた。もし彼と離れる必要があっても向うの力でしなければとても離れられないに違いない。  小夜子はいま佐渡の中に湛《たた》えられている泉をもっと汲《く》み出さずにはいられない。しかし、同じように、井上の中にも、今西の中にも、何か自分のものをあずけて置いて来たような気がしていた。結局自分は誰を一番愛しているのかつきつめて行くとわからなくなる。ひょっとすれば、誰も愛していないのではないかと考えると、なぜか|ひやり《ヽヽヽ》とした。  その日も娘のしづ子は立川に泊ったので、小夜子は、何の心づかいもなく、柔かい床の中で両手両足をうんとのばしていつまでも快い半睡をたのしんでいた。  さんざん小夜子にいやがらせを言った木下は、いつのまにか庭に出て、草花の油虫退治をはじめていた。 「佐渡か。早いじゃないか」  と夫が木戸から声をかけたところを見ると、こんなに早く佐渡が来たらしい。小夜子は、さっきから、きょうあたり、きっと佐渡が何かうまい口実をつくって自分を呼出しに来そうな予感がしていた。胸の中に温い泉が湧《わ》いて来たのは、やはり彼の顔を見る歓《よろこ》びの期待からだろう。彼にとっても、あの日のホテルでのあわただしい出逢《であ》いは半腹だった筈《はず》である。彼はあのつづきを完成させるために必ず自分をつれにくる筈であった。  小夜子は、必ずしも、彼の肉体に惹かれているのではないと自分で思った、井上の場合にしろ、今西の場合にしろ、同じだけれども、肉体は、ほんのその戸口にすぎない。自分が彼の中に投入して行くためにそれが不可避の関門だというだけのことだった。  最初はそれにひきよせられたにしても、それをくぐったとき、小夜子がいつも見るのは、彼等の中にある自分のためのある宮殿だった。自分のために供えられたその宮殿の空虚を充《み》たさずにいられない焦燥に彼女はかり立てられる。それは、どう考えても単なる肉体の欲情ではない。にもかかわらず、万人がする平凡で不潔な肉体行為によってしか、その焦燥がみたされないとは何というふしぎだろう。  庭にまわって来た佐渡は、夫婦の床を並べてしいた室の中を見るともなく見た。小夜子は窓寄りの床に、丸髷を結った頭を大切そうに枕に置いてしどけなくねていたが、布団をずらした胸は、はだけて、乳と乳との間の白い窪《くぼ》みが、ういた脂《あぶら》で銀色に光って見える。知らず知らず佐渡は目をそらしていた。  あの肉のしまった白い体を、夫の木下と一緒の場所で見るのには、なぜか堪《た》えられない。  木下は、鋏《はさみ》を手にもって、ばらの根元をのぞき込んでいた。彼は、小夜子の寝姿を見てはっとしている佐渡を少しはなれた所から眺《なが》めやって、皮肉な面持で唇《くちびる》を歪《ゆが》めた。  他人の妻を盗み食った小癪《こしやく》な小僧っ子が、いま何を感じてひるんでいるのか、彼には、ガラスの中のものを見るように透きとおしに見えていた。所詮《しよせん》は自分の手の中の駒《こま》だと気づかず、彼自身の働きで獲た獲もののつもりでぬけぬけと亭主のいるところにひと妻をうかがいにくるこの二十日鼠《はつかねずみ》め。 「先生、次のいそぎの仕事は、いつはじまりますか」 「きょうからだ。ちょうどよい。二階の室にあがって待っててくれ。手を洗って行くから。おいおい小夜、いつまでねているんだ。起きろ」  木下が台所口に入るのと一緒に佐渡も庭から去った。  小夜子は、のろのろおき上って、うすい袷《あわせ》をきて、半幅帯をしめてから、鏡に向う。その間に二人は二階に昇って何か喋《しやべ》っている。小夜子は、きれいに髷《まげ》を椿油《つばきあぶら》でなでつけて、うすく化粧してから台所できりきり立ち働いた。朝早く佐渡が訪れてくれたことは、きょう一日を充《み》ち足らしてくれるよい占いだった。 「お父さん、御飯ですよ。佐渡さんもまだでしょう。一緒にいらっしゃい」  二階に向って張りのある声でよぶ。 「おうい」  木下がおりるあとから佐渡もついて来た。彼は、髷の襟《えり》をぐっとぬいて襷《たすき》をかけた小夜子の姿を、木下にかくれてそっと見ていた。が、食卓で木下のとなりに坐ると、さすがに眩《まぶ》しくて、二人へ半々に向うことはできなかった。 「どうだい。この味噌汁《みそしる》のわかめは柔かいだろう。秋田に行った画商のみやげなんだ。僕はわかめの味噌汁が好きでね」 「ほんとうに柔かいですね」  きょうの佐渡は急におとなしくなっていた。唐突に画壇の噂話《うわさばなし》をはじめるいつものくせは忘れたように、黙々と茶碗《ちやわん》を置いたり、漬物《つけもの》をつまみ上げたりしている。  木下は二人を並べておいて皮肉の一つも言ってやろうかと思った。が、佐渡に対する気持はかるくあてこすれるほど単純なかるいものではなかった。彼は、急にその想念の糸口をたぐって無口になった。  食事がすむと二人はまた二階に引きかえした。仕事の話はじき済んで、二人は、木下の画机のある室に坐ってさし向いになっていた。 「ときに君と小夜子とのことは小夜子からきいた。うまいことをしたナ」  木下は、そんな風に言い出した。佐渡は、はっとして、がくんと首をたれた。 「いいよ、いいよ。謝《あやま》らなくてもいいよ。あとから謝られるほど僕にとってばかなことはない。謝る位のことですむならやった方がいいからな」  木下らしい割り切れた理論だった。しかし、そうさき回りをされると、佐渡はますます首をたれて黙っているほか仕方がなかった。 「君はなぜうつむいているんだ。僕に悪かったと思うからかね。それなら、折入って君に相談がある。君が僕に謝る気持があるなら、こんどは君が小夜子と二人でポーズをしてみせてくれないか。僕が見物人に回って見てやる。あれのポーズをわきから一度見ておきたいんだよ。やや歌麿《うたまろ》の絵に近い体つきだと思うんだがね」  佐渡の首はますますさがるばかりである。彼は、木下の申出におどろいて拒絶の言葉も出て来なかった。 「なぜだまっているんだ。いやかい」 「堪忍《かんにん》して下さい。どんな罰でもうけます。それだけは……」 「何でもないよ。君はいつもそんな画をかいて飯をくっている人間じゃないか。画はかくけれどもポーズはいやか。つまりは同じものだぜ」 「ええ、それはわかっています。ですけれど、それほど僕はこの画に体をはってはいないんです。先生にとってはどうか知りませんけれど、僕にはこの画は生活費|稼《かせ》ぎのやむを得ない方法にすぎないんです」 「それだからどうだというんだい」 「先生、許して下さい。ほかの方法でならどんな罰でもうけます」 「そうかねえ。そんなにむずかしいことかねえ。それなら撤回するけれども、君の理論は少からず矛盾しているな。僕にかくれてなら小夜子にあれしておいて、僕が仕事上の必要で見せてくれといえば絶対おことわりだというんだ」 「その気持のちがいが先生におわかりにならないんですか。それなら……先生は芸術家じゃありませんよ」  佐渡の論理は飛躍していたが感情の脈絡はつづいていた。木下は冷たそうなぬれた唇をちらと動かして、その言葉を笑った。佐渡にとってこそ一世一代のプロテストをこめた言葉だったかも知れないけれども、木下は、もとより自分を芸術家だとは毛頭思っていなかったのだ。  しかし、佐渡の熾烈《しれつ》な罵《ののし》りにつれて唇が歪むのは、やはり、かつて、一度は自分をそういう者だと思った記憶が浮んで来たからにちがいない。 「じゃ、まあ、そんな話はこれだけでよそう。仕事の日どりは変えないようにたのむよ。僕はきょう早く行く所があるんで、これで失敬する」  しかし佐渡の熱しきった頭は、相手と同じにたやすく日常会話に戻れなかった。彼は、小夜子とのことの悔恨に鞭《むち》うたれてこれ以上木下に抗議もできない自分を嘲《あざけ》っていた。  佐渡は階下に下りた。目はやはり髷に結った小夜子の姿を追っていた。彼女は、叉棹《またざお》をもって、裏庭の物干しに干し物の棹をあげていた。  彼女は、窓から自分を見ているのが佐渡だとわかると、叉棹をもったまま近づいて来て 「じき、おやじさんは出かけるのよ、あとからも一度いらっしゃい」  とささやいた。 「僕、来ません。もういやだ。どの位後悔しているか知れやしない」 「いや。いや。そんなことは絶対きかないから。とにかくいらっしゃい。くるわね?」 「僕、来ませんから……」  いくどでも佐渡はそうよりほか答えなかった。 「だめよ! だめよ!」小夜子は、片手で拳骨《げんこつ》をつくって打つまねをしたが、声はひそめて小さかった。佐渡はとうとう玄関で靴をはいて出て行った。  あとで木下も二階からおりて来た。 「着物を着替えるのはめんどうくさい。きょうは筒袖《つつそで》のセルをきて行くかな」 「おかしいわ。あんなもの着て人をたずねたら笑われますよ」 「かまうもんか」  小夜子は、たすきを外《はず》し外し室に入って来て、ちょこんと膝《ひざ》を折って木下のセルを箪笥《たんす》の引出しから探《さが》し出す。彼女は、いつもより小さめの髷を低く頭にのせて、赤珊瑚《あかさんご》の玉かんざしを横鬢《よこびん》にさしていた。  うしろに立って、彼女の甲斐甲斐《かいがい》しい髷姿を見下ろしていた木下は、彼女がうしろに向いて、ナフタリンくさいセルをさし出すのは受けとらずに、いきなりセルと一緒に彼女を抱いた。 「色っぽい女だな。全く色っぽい女だ」  しかし彼はすぐ手を離して、|ほっ《ヽヽ》と息をつく。彼に抱かれていた小夜子は、きょろきょろと無邪気な目を動かして 「あら、それだけなの。いやよ。ちょっとここにプッとしてごらん」と自分の首の根をさして彼に接吻《せつぷん》を強要する。 「ここか」  彼は彼女の襟《えり》に顔をさし出したが唇はいつものとおり、貝のむき身のように冷たかった。  木下が出て行くと、小夜子は、鞠《まり》のように弾《はず》んで、いままで彼が着ていた着物を日向《ひなた》にもって行き、襦袢《じゆばん》と足袋《たび》は台所のたらいに入れ、兵庫帯《へこおび》は寝間の蒔絵《まきえ》の衣桁掛《いこうか》けにかけた。それから箒《ほうき》を出して、いま着換えをしたあたりをぱっぱっと掃き出す。彼女の仕草は活気にあふれてきびきびしていた。きれいに掃いた室の火鉢《ひばち》の前に坐って、いぶし銀の細身のきせるで、箱からひねり出した煙草を一服つける。藍色《あいいろ》の煙を吹き出しながら、彼女は玄関の方に何となく心を向けていた。あれほどきっぱり来ないと言った佐渡だが、小夜子は、必ず来ると信じていた。  きょうは佐渡が来て一日がみちる予定になっているのに、もし彼が来なかったら、自分は檻《おり》の熊のように室の中を行ったり来たりするだろう。  うろうろと街に三人のうちの一人をさがしに行く自分の姿をまだ一度も客観的に見たことはない。しかし誰かをつかんでいないと心がいらいらして、居ても立ってもいられない気持だけは、自分の中でよくみて知っている。多分、アヘン中毒やヒロポン中毒とはこんなものだろう。  恐しい地獄だ。しかし、その地獄の蠱惑《こわく》からとても逃《のが》れる自信はない。また逃れようとも思わない。自分から、その淵《ふち》ににじり寄って体ぐるみ首まで浸って溺《おぼ》れても悔いはないのだ。彼女をこんな地獄に導いた夫を憎む時期さえ、もうすぎていた。  小夜子は、茶の間に夫の浴衣《ゆかた》をひろげて縫いはじめたが落ちつかなかった。あれだけ言ってやったのだから、いやとは言っていたけれども、佐渡は必ず来ると小夜子は信じていた。いささか男心というものを知った判断力で考えると、彼は、口ではああ言っていたけれども、来ないではいられない熾烈《しれつ》な渦巻に心の中で責められている筈《はず》である。  彼女はだんだんいらいらして来た。ときどき立ち上って、窓から道路を眺《なが》めやる。浴衣を縫っている手許《てもと》に心がないため指のはらにまちがえて木綿針《もめんばり》を刺す。血が赤い玉になって吹き出して来たのを日本鋏《にほんばさみ》の厚い鉄でとんとんたたきながら、目はやっぱり道路を見張っていた。  彼女はふと、隣の垣根にそって、待っている佐渡でない今西が歩んでくるのを見つけた。 「きっと逃げ出すだろうと思ったあの人さえ、やっぱり自分に牽《ひ》かれて来るのだから、男って結局こんなものなんだわ」  小夜子の胸の中では、もう見つめていた対象が替っていた。小夜子はその瞬間、中指にさしていた指貫《ゆびぬ》きをぬいて針箱に置きながら、ひろげた縫物を足で片方によせていた。  今西が玄関の戸をあける前に、彼女は上り框《かまち》の板の間に出て行った。 「めずらしいわねえ。もう、うちのことなど忘れていらっしゃるのかと思ったわ」 「貴女こそ僕のことを忘れていたくせに——」  案外の手剛《てごわ》さで今西は小夜子を睨《にら》みながら小夜子の言葉をはねかえした。  佐渡が、きっと何か彼に打明けたに違いない。若い男同士の友情というものは端倪《たんげい》すべからざるものだ。小夜子はちょっと計算がちがって、どう出たものかと瞬間たじろいだ。 「僕、国にかえる決心しました。きょうは、先生と貴女に最後のお別れを言いに来たんです。先生はおるすですか」 「あら、いやよ。そんな冗談をいっちゃあ——。私は放さない。貴方がいなくちゃ生きられないもの」 「だめです。もう、そんなとろけるような声を私の耳にきかせないで下さい。貴女がたの見えない所で僕はくらす決心をしたんだから」 「だめだったら——。とにかくここじゃ話ができないわ。あちらに行きましょう」  小夜子はとっさの考えで、となりの寝室に今西をつれて行って座布団《ざぶとん》を出した。泣く赤ん坊に乳房を含ませればだまるように男には何を含ませれば手なずけられるか小夜子はよく知っている。  隅《すみ》に立ててあった小卓をおいて小夜子はそれにしどけなく寄りかかりながら、ものの三十分も今西にかえらない決心をさせるために口説いた。しかし、泣いてみせても、喚《わめ》いてみせても、今西はほとんど石のように無感動で、ただ静かにきいているだけだった。 「今西さん、貴方これだけたのんでもだめ? どうしてもだめ?」  とうとう小夜子は今西の膝《ひざ》の上に雪崩《なだ》れ込んで重い体をはげしくくねらせながら嗚咽《おえつ》しはじめた。今西は、目さきがくらくらくるめくような誘いの電流とたたかいながらも、目をつぶって言った。 「僕、失礼しましょう。先生にはお目にかからずにかえりますからよろしく」  今西は、自分の決心のかたい所からくる寛大さから、泣いてもたれている小夜子の体を、自分の膝からかかえおろして、やさしく起き上らせた。 「失礼します」  といいながら茶の間との間の障子をあけると、意外にもそこに、木下が立っていた。 「あっ、先生ですか、おるすにあがって失礼しました」 「なんだ、君か」  今西はどぎまぎしていた。が、すぐ乱れた気持をとり直して、彼がいままで立聞きしていたに違いないと判断する。ふと見ると彼が立っている場所のちょうど目の高さに、指であけたほどの障子の破れ目があった。彼のことだから、そこからのぞいて見ていたに違いない。  今西は、小夜子の狂態に心を奪われて、迂濶《うかつ》にも、彼が隣室に入ってきたことを気づかなかったのだ。   飢えた女  珠子は、荷物を積み出したものの、順一がかえって来ないので、その翌日も実家にかえることはできない。自分がこの家からいなくなるという最後の唯一のプロテストは、彼が家にかえって来ない限り著しく効果を削《そ》がれた。  いったん出勤した二階の石上は、こないだと同じにひる頃大型自動車でかえって来た。 「僕やっぱりきょう越すことにしましたからよろしく……。伊田さんには、いずれ会社をおたずねして今一度僕の考えをきいていただくつもりです。なあに、貴女がそんなに御心配にならなくとも、伊田さんは考え直しますよ。もともと、玉川姉妹をまもってやる気持から出たことですもの、貴女が考えておられるような風に発展しているかどうかさえ疑問です」  石上の言っていることは、ごく常識的な慰め言葉だった。しかし、彼がここ二日間に得た問題解釈の実感であることも彼女によくわかった。それに彼が珠子のために義憤を感じて、引越しを延期してからの二日間に、彼がどんな内的な経験をしたかも珠子には想像できる。  いくら珠子のため同情と好意をもっても、これ以上ここにいることは、世間がつくっているある常識の壁をやぶることだった。が、こうまでお膳立《ぜんだ》てされているなら、いっそ、いまの自分の感情を生かすために、表向きは順一のすすめにしたがうという形で、珠子と結婚するということも再三考えてみた。  しかし、それは、いくら考えても自分の人生コースに予定しない重大な変更だった。珠子が順一の妻でないならとにかく、親しい先輩の妻を娶《めと》って、一生、陰影のある世間づき合いをすることを考えると、彼は慎重になっていた。  とはいえ当の珠子も、順一の行動が極端になってからは、意識してか無意識にか、ほのかに自分に哀憐《あいれん》の情を示していた。そこに断ちがたい何かの人情が生れてくるのを押えようもなかった。が、ここが踏みこたえるべき生の行路の誘惑だと石上はしきりに心を戒めた。その間に一番危険だった瞬間はすぎ去ってしまった。  きのう石上がしてくれたように、こんどは珠子が甲斐甲斐《かいがい》しく二階と玄関とを往復して石上の室のものをはこび出した。 「もういいですよ。家財といったら、机と椅子しかないんだから。これほどあっさりした引越しはめったにありませんね」 「失礼ですけれど、さっきおあずかりした洗濯ものは、現場の方へお電話してからとどけにうかがいますわ。よろしゅうございますね」  珠子は、細い一筋の糸のつながりだけでも、石上との間にのこしておきたい気持だった。 「はあ、どうぞお願いします」  やがて、石上は、その自動車の運転台にのって、名残《なごり》を惜しみながらはしり去った。立って見送っていた珠子の目には不覚にも涙が流れていた。もし、自分に順一という夫がなかったなら、自分は石上のような男性のところにはしって行ったに違いない。しかし、いったん順一と結婚したということの仮初《かりそめ》でなさが、うしろで珠子の髪を強く引っぱっている。戦後よく小説や映画にでてくる妻の恋愛というものは、いろいろと誇張的に言われているけれども、案外自分の石上に対する程度のものではないかと珠子は思った。二人の男に肉体を頒《わ》けるということは、結局気持も二つに使いわけすることだから、狭い小さな心をもった女にできることではないと珠子は考えていた。  夫がかえって来ないので珠子は、四方から綱で吊《つ》られた人間のように気持はどちらにも動けなかった。が、身辺はぽつんとしてそのひるすぎから一人になった。石上が二階にいるため一人で緊張して寝た昨晩の自分を思い出すと、何か憐《あわ》れで滑稽《こつけい》でもあった。彼女は手持無沙汰《てもちぶさた》に茶の間に坐っていたが、仕事といえば、やっぱり夫のものしかない。自分が編んで夫が二年着たセーターを洋服|箪笥《だんす》の引出しから出してぼそぼそとときはじめた。かたまったかたい糸が微《かす》かな糸埃《いとぼこり》と一緒に手もとにもどってくる。  いとこの小夜子なら、こんなくさくさしたときには、ぱっと表からタクシーにのって、さかり場にでも行くところだろうが、自分はやっぱり何か仕事をしていなければ気がすまない。損な性分だと自分で思う。  夫の順一からは、きょうも何もたよりがない。何とか言ってよこしてくれてもよさそうなものだとそのことも恨みながら、糸くずの始末をしていたとき、門がいつもききなれたあけ方であいた。敷石を歩いてくる足音も夫の足音であった。彼に違いない。  珠子は玄関にはしって行った。 「あら! おかえりなさいまし。どうなさいましたの」 「どうもこうもないよ。ちょっと一言では言いつくせない次第でね。何か変ったことなかった?」  順一は、自分の味わった玉川姉妹のアパートでの深刻な経験を、ほんのちょっぴりいつもの上機嫌《じようきげん》で言った。しかしワイシャツの襟《えり》は汚《よご》れ、肩には、ふけと抜け毛が散り敷いて、髪の毛にも手入れがしてない。  わずか別れていた間に順一はげっそり痩《や》せていた。何気ない上機嫌は慣習的な上皮一重で、薄皮のすぐ下に、恐ろしい苦悩の彫り目が見えていた。明るい単調な表情はくらく翳《かげ》っている。 「何も変ったことはありませんが、石上さんが引越していらっしゃいました。お逢《あ》いになりまして?」 「逢わない。……そう。越して行ったの」  順一のこだわっている気持の中心に、話題は前ぶれもなくとび込んでいた。 「きょうです。つい二時間ほど前……いずれ会社の方にうかがうと言っていらっしゃいましたわ」  順一は、真黒に澄んだ目で珠子をじっと見る。持前の性格が性格だから決して鋭い視線ではない。けれども、何か知ろうとする強い要求がいつもに似ないきらきらした光を添えていた。  珠子は順一の目《まな》ざしにはげしく抵抗して彼を見かえしながら 「稲ちゃん麦ちゃんはお変りありません?」 「だからさ、変りは大有りなのよ。稲子は結婚しましたよ」 「まあ、どなたと?」 「安土さんといってね。それがちょっといかがわしい男なんだ。だけども稲ちゃんが好きだというんだから仕方がありませんよ」 「そう! で、その方とお逢いになりました」 「いくどか見かけたことはあるんだけれど、こんどはまだ逢わない。アパートを引越して世帯《しよたい》をもったからね」  珠子にはその間の複雑らしいいきさつは、想像しようもない。が、稲子が結婚したというニュースは、とにもかくにも、目出たいといわなければならない。 「でも、あの方も結婚適齢期ですから、好きな方を見つけたのはお目出たいわけですわね」  珠子は、きっと失望している夫の考え方を替えてやるつもりで言った。彼女は寛大な気持で順一を包んでいた。 「そう、うまくやってくれれば、僕の肩の荷はそれだけおりたというものですよ」  多分彼は、自分にそう思えと言いきかしているとおりを珠子に言ったに違いない。  話しているうちに、二人は、自然にとけ合っていた。ふしぎなもので、夫婦間のこだわりが解消するには、稲妻《いなずま》のような一瞬間があれば足りる。そこには、言ったり答えたりする一切の手続は不要だった。ただ、間をへだてていたごくうすい一重の感情の膜が破れれば、もとどおり、裸の肌《はだ》と肌とをむき出し合った二人に戻ることができるのである。しかし、この場合、珠子を苦しめた順一の罪劫《ざいごう》は、一切問われない。そのせいもあって珠子はある程度にその恨みを心の中にのこしていた。恐らく、次第に時というものの慰撫《いぶ》でその恨みの生々しさが失われ、やがて恨みの|みいら《ヽヽヽ》が心の中につくられて行くまで、彼女一人は苦しむのである。  一切のこだわりがとれた安易さで順一は、久しぶりに庭に立っていた。こないだ鴕鳥《だちよう》の頭のようだった櫨《はぜ》はもう大きい葉をひらいて長くなった夕陽《ゆうひ》の空にのびのびと背をのばしている。  順一は、にわかにぬれ縁から家の中に入って来て、台所で何か切っている珠子のうしろに立った。 「石上君は、僕がいなくなってから、何か貴女に言わなかった?」  その言葉は、彼が努力して表現した中心的な疑問への最短距離の言葉だった。これ以上真実に近い言葉をつかうことは、彼の性格としては絶対にできない。 「何もべつにおっしゃいません。なぜですの」 「いいや、何か彼らしい感想があるかと思ったからさ」  と彼はごまかしてしまった。  二人は久しぶりに、早目の夕食を終りかけていた。自分の家はよい。やっぱり自分の家庭はよい。順一は、妻に今更のように感謝していた。いままで、稲子を思っていた分だけ珠子のことをよけいに考えてやろうと彼は思う。 「ときに、どう? 石上君のあとに、麦ちゃんをつれて来て学校に通わせようじゃない?」 「それはいいお考えですわね」  珠子は相槌《あいづち》を打った。が、こんどは家の中で、また麦子への非常識な偏愛がはじまるのではないかと少からず警戒していた。 「そうしよう。それがよい」  順一は自分の発案に力をいれて感激している。珠子はああああと抗し得ない面持でその顔を眺《なが》めていたが 「麦ちゃん、来てもよいと言っておりますか」 「まだきいてみないけれどね、いやなはずはありませんよ」  珠子は、夫らしい独《ひと》り合点だと思った。けれども麦子一人のいるアパートが心配でまたしげしげ彼が通って行くことを思うと、この場合は、麦子を引きとる方が賢明だと分別をきめていた。  珠子が片づけをはじめた所に小夜子が訪れて来た。  玄関に出て行った珠子は快活な声をあげて小夜子の丸髷《まるまげ》をほめた。 「いつ見てもお似合いね。それに意味深《いみしん》なんだから、つくづく見ちゃうわ」  小夜子は、そんな冗談には大した興味をひかれないらしい顔つきであがって来た。 「伊田さんいる?」 「ええ」 「そう、じゃあ、あんまり勝手な話もできないわね」  彼女は、日ごろ順一の前に出るのがひどく窮屈である。だから、珠子が茶の間に来いというのをことわって、応接間の方へ勝手に歩んで行った。  珠子は、順一にことわっておいて、小夜子のあとを追って来た。 「小夜子さんはいつも幸福そうで羨《うらやま》しいわ。結局、木下さんという旦那《だんな》さんはいい旦那さんだったんだわねえ」  珠子は、自分の経験とてらして考えたあげく、遠見から見て小夜子のいまの生活を無難だと考えはじめていた。 「私が幸福? フフ、そういえばそうかも知れないわね」  小夜子は、あざける口調でいった。 「なにかあったんじゃないの」  家のなかの様子からなにか感じたらしくこんどは小夜子がたずねたが、珠子は、こないだからのことがいえなかった。 「ときに二階のひとはどうした?」 「あの方、越しました。旅館にいらしたわ」 「へえ」  小夜子は目をきょろりと動かした。その何ともいえないなまぐさそうな表情を見たとき、珠子はぎょっとした。 「あんな素敵な男の人とながく一緒にくらしていたのに、恋愛もしないなんて、あんたはどうかしているわ。惜しいじゃないの」 「そりゃ惜しいかも知れないけれど、私には夫があるんですもの」 「惜しかったわねえ……」  小夜子があまり惜しいというので珠子は小夜子の顔をしげしげ見た。ひょっとすれば、彼女は、狼《おおかみ》が家畜をねらって来るように、それとなく石上に目をつけてやって来たのではあるまいか。でも、そんな非常識なことを、どうして小夜子は思いついたのだろう。 「珠子さん、わたしあの人好きだったのよ。あの人となら、相当苦労してもよかったんだわ。ああつまんない。つまんない。いやらしいおやじさんの機嫌《きげん》をとって毎日くらしていると気がくさくさしてくるわ。別れちゃおうかしら」 「貴女の別れる、別れるも久しいものだわね。別れる別れるという人は別れないものよ」  珠子は、自分の経験を言っていた。小夜子はそんな珠子の言葉は耳に入らず、何か考え込んでいる。 「うそでしょう。二階の人と何ともなかったなんてうそよ。貴女がさっき、あのひとのことを言ったときの顔つきはただじゃなかったわ」 「まあ、そんなことを言っちゃいやよ。貴女は口がかるいから大変なことになるわ」  珠子は大げさに言っていたが、小夜子にだけは、きいて貰《もら》いたい気持もなくはなかった。 「正直に言いなさい。二年も一緒にいたら、可愛くて、ちょっと抱いてキスでもしてやりたいときがあったでしょう。女は偽善者だから正直にはなかなか言わないけれどね。それに一体なぜ急に越したの。それだって変じゃないの」 「いやよ。そんなひどいこといわないで頂戴《ちようだい》よ。私、浮気ものじゃないわ。どうして貴女って、すべての話をそちらへもって行くんでしょう。どうかしてらっしゃるわ」 「珠子さんの知ってるとおり、私のおやじさんという人は全然私には魅力がないのよ。わたし、とても退屈しているわ。恋愛がしたいの。こう、飛行機から落っこちるような恋愛がしたいのよ」 「飛行機から落っこちるような恋愛ですって。いやねえ、死んじゃうじゃありませんか」  珠子は、小夜子の心境の凄惨《せいさん》さにおどろいた。彼女がそんなあぶなかしい嗜欲《しよく》にひきつけられて行くのには何か深い理由があるにちがいない。 「珠子さん、貴女には腕がないわねえ。わたしだったら確実に、二階の青年を手に入れていたわ」  珠子は笑い出した。丸髷《まるまげ》に結った小夜子と二階の石上とを結びつけると、何かの喜劇でも見るような感じがする。 「そりゃ、手に入れるという意味次第ね。何かのはずみで肉体的にあれすることは、あるかも知れませんわね。男はいつでもそれを求めているから——。しかし、恋愛となればなかなかむずかしいんじゃないんですか。誰とでもいいというわけには行かないもの」  珠子は、ここ二、三日の石上との淡い精神的な交渉を思い出していた。順一の不在という偶然の作為で、結ぶべからざる人と結ぶような結果にならなかったことを思い残しながらも結局は感謝していた。  小夜子は珠子の口調をかるくわらって 「恋愛といったって、肉体のあれといったって、人が思うほどちがってやしないわ。大変なちがいがあるように世間で言うだけよ。私の経験では、肉体も恋愛も同じね。一度肉体の交渉をもってごらんなさい。その人は絶対に他人じゃなくなるから。私なぞたまらなく可愛くなって溺《おぼ》れちゃうのよ」  正直な告白に珠子は真赤になって大笑いした。 「先輩のおっしゃることだから承っておきます。その方面にずいぶん御造詣《ごぞうけい》が深いようね」  皮肉ぐらいでは小夜子は何も感じない。彼女は、そんな風にお喋《しやべ》りの緒《いとぐち》がほぐれると、とめどもなくあけすけになっていた。 「珠子さん、わたし、二階の青年に興味をもってたんだけれど、引越したときいてあてがはずれているの」  やっぱりそうだった。小夜子がこう告白するからには、きょうここに来たのは、何かの方法で彼を茶話の中にでも引っぱり込むとか、あるいはもっと彼女らしい直接的な方法で彼に当ってみようという目算があったにちがいない。珠子はあきれていた。 「実はね、わたし、ある青年に棄《す》てられたところなの。寂しくて仕方がないわ。誰か紹介してよ」  とうとうこんなことも言い出した。 「どうもお気の毒さま。若い方といえば石上さんよりほか知っている人はないわ」 「あのひとをすぐここへ電話でよびなさい」 「何いってらっしゃるのよ。伊田がいるんですよ。気違いとまちがえられるわ。それに、年頃になりかかった娘さんをもちながら何ということでしょうね。しづ子ちゃんはこないだのことで、ずいぶん泣いてましたよ」 「何でそんなに泣いたんだろう。あの子、この頃ちっともわたしに何も打明けなくなったわ」 「あたりまえでしょう。こんなお母さんじゃ、話相手になりませんものねえ。しづ子ちゃんは、学校をやめて働いて妹を芸者の境遇から救い出そうかと思うけれど、おばさんどう思うと言ってましたよ。わたしびっくりして、子供はそんなこと考えないようにと言っておきましたけれど、何も言いませんでした? お母さんに相談しなさいと言っといたんだけれど——」 「なんにも言わないわ。変な子だわねえ」  小夜子はさすがにびっくりして、急に考え込んだ。 「小夜子さん。千世子ちゃんが芸者になったということだって、貴女としては大事件なはずよ」 「それは大事件よ。そのために、毎晩どんなに涙を流したか知れないわ。だけどもね、あの子は、自分の子でありながらもう自分の子じゃないから、あの子を救い出す権利も私達にはないのよ。いまさら親でございなんて言って行かれる? そんなことしたらあの子が反撥《はんぱつ》して、もっと深い淵《ふち》へはまって行くのがせいぜいよ」  そのことでは、真実の親のこまかい思慮があふれていた。ほんとうにそうかも知れないと珠子は思う。その話になると小夜子はすっかり沈んでしまった。 「きょうは伊田が早くかえったからいるんですよ。ちょっとお会いにならない?」 「そうねえ。ああいう人格者は煙《けむ》たいんだけれど、ちょっと挨拶《あいさつ》して行きますかね。ときにあちらはどうした? まだやっぱり?」 「いいえ、解決つきました。いろいろ御心配いただいたわね」 「解決したんですって。変だわねえ。男と女の問題に解決なんてないんだけれど——だまされてるのかな」 「そうじゃないの。稲子ちゃんが結婚したからよ」 「結婚したんだって。それは厄介だ。結婚ほど色事の邪魔になるものはないね。結婚されたらもうだめだ」  その言葉にも小夜子の実感が溢《あふ》れているので、珠子は笑いながら想像する。——二人は、順一が夕刊をよんでいる茶の間に入って行った。 「こんばんは。いつも平和なお宅ですわねえ。退屈しないですか。伊田さん」  小夜子のほめ言葉はこんな風である。 「退屈なんてことは僕にはありませんね。誰かしらが僕の心懸《こころがか》りになっているんで、僕は心せわしくくらしていますよ」 「いまはどなた? 稲子ちゃんは結婚したそうじゃありませんか。こんどは麦ちゃんですか」 「そんな風にとっちゃいけませんよ。僕のは、全然ちがうんです。もし何かの類に類別するんだったら、趣味という項目にはいりますかね。つまり英語のホビイの類ですよ」  小夜子は、彼の穏かな話をききながら、退屈な男だと思った。しかし、こんな男性でも、自分らしい方法で料理すれば、思いがけない魅力を掘り出すことができる、などと思いながらしばらく我慢して、彼の正面の卓に坐っていた。  彼女は、味気ない思いで家にかえった。しづ子が夕食の支度《したく》をしたと見えて、木下が、晩酌を終るところだった。しづ子はもう室にかえって勉強しているらしい。  小夜子は、ぺたんと卓の前に坐って 「ああつかれた。それはそうと、この按配《あんばい》じゃお父さんの仕事を手伝う若い人が一人もいなくなりますね。どうなさる?」  小夜子の関心事はそのことだった。 「あいつらの仕事にどうもあきたらないから、やめさせようと思っていたところだ。また可愛いのをつれて来てやるから心配しなくてもいい」 「もう懲り懲りだわ」 「嘘《うそ》つけ!」  こんな会話が、この夫婦の和合している象徴らしい。 昭和三十三年六月新潮文庫版が刊行された。