平岩弓枝 火宅の女−春日局     一  京の夏は連夜、猛暑が続いていた。  殊に、おふくが起居している三条西《さんじようにし》家の雑仕女《ぞうしめ》達の部屋は、狭い上に風通しが悪く、四、五人が肩を触れ合せるようにして雑魚寝《ざこね》するので、おたがいの体温だけでも寝苦しかった。夜半に目をさますと、大抵、誰《だれ》かの脚が腹の上に載っていたりする。  だが、この夜、おふくが目覚めたのは、そうした理由ではなかった。  どこかで、誰かの叫び声を聞いたように思った。体を起すと、月光が妻戸のところまでさし込んでいる。  十五夜の月であった。  屋敷の内はひっそりしていた。  若い当主である三条西|実条《さねえだ》は母親と共に、西園寺《さいおんじ》家の宇治《うじ》の別邸へ招かれていて留守であった。  西園寺家は、実条の母の実家に当る。  家司《けいし》の主だった者はお供をして行ったから、今夜の三条西家は無人であった。  もっとも、名家といっても、この節の貴族達は大方が貧乏で、奉公人の数も決して多くはない。  月明りに目が馴《な》れて、おふくは自分の周囲を眺めた。  驚いたのは、この部屋に自分一人だけだったからである。  一人は宇治のお供について行っていた。  あとの二人の中、一人はおふくが横になる時、寝苦しいといって廻廊《かいろう》のほうへ出て行った。もう一人は、部屋のすみでものを食べていたような気がする。  その二人の姿がない。  どこか、他の場所へ行って寝ているのかも知れないと思った。  主人の留守中、奉公人達がかなり勝手なことをしているのを、おふくは知っている。  この部屋に誰《だれ》もいないとわかって、おふくは衿《えり》をくつろげた。ぐっしょりと汗に濡《ぬ》れている。  風のないのが、怨《うら》めしかった。  今頃、宇治へ招かれて行ったこの屋敷の主人達は、名月を眺め管絃《かんげん》の催しでもして楽しんでいるに違いない。水辺だけに、暑さもここよりはましな筈《はず》であった。  母がよく口にした、世が世であればという言葉を、おふくは思い浮べた。  世が世であれば、おふくは明智光秀《あけちみつひで》の重臣、斎藤利三《さいとうとしみつ》の娘であった。  斎藤家は、源平の世に白髪《しらが》を染めて出陣した斎藤別当|実盛《さねもり》の後裔《こうえい》に当る。  そして、おふくの母の実家の稲葉《いなば》家は、かつて、この三条西家の姫君が輿入《こしい》れをしたほどの名門でもあった。  勝敗は武門の習いとはいいながら、明智光秀が本能寺《ほんのうじ》で、主君|織田信長《おだのぶなが》を討って、僅《わず》か十一日で、今度は羽柴秀吉《はしばひでよし》の軍勢に敗北し、土民の槍先《やりさき》にかかって命を失うと、おふくの父、斎藤利三も捕えられて、処刑された。  四歳だったおふくは、その当時のことを、おぼろげにしか記憶していない。  思い出がはっきりしているのは、母や兄姉たちと暮した土佐《とさ》での日々であった。  亡父の妹に当る人が、その頃、四国全土を平定していた長宗我部元親《ちようそかべもとちか》の北の方であった縁で土佐へ身をひそめたものだったが、不自由はなくとも、掛人《かかりうど》の肩身の狭さは幼いおふくにもよくわかった。  長宗我部元親が四国の覇王であった時はまだしも、秀吉の四国征伐に屈服してからは、一族の間で内紛が絶えず、決して居心地のよいものではなかった。  おふくの母が子供達をつれて京へ戻って来たのは、もはや、世を忍んで暮している分には、斎藤利三の妻子だからといって捕えられて処刑される怖《おそ》れはないだろうという判断のためであったが、亡夫の妹の婚家に厄介になりにくいという事情もなかったわけではない。  すでに子供達は成人して、男は奉公に出ていたし、おふくの姉は嫁いでいた。  おふくが母方の伝手《つて》で、三条西家へ奉公したのも、行儀見習のためであり、良い縁談をみつけるきっかけにもと思ってのことであった。  夜半の月を眺めて、おふくは暫《しばら》くの間、ぼんやりしていた。  行儀見習といっても、この屋敷でおふくは雑仕女《ぞうしめ》同様に働いていた。  母は、公卿《くげ》の家に奉公していれば、ひょっとしてどこぞの貴公子とまで行かないまでも、気のきいた公卿侍《くげざむらい》の目に止って、縁談が起るかも知れないし、三条西家の人々が世話をしてくれるのではないかという期待を持っているようだが、おふくはこの頃になって到底、それは無理だと思うようになっていた。  公卿の貴公子などは、三条西家へやって来ても、雑仕女になぞ目もくれなかったし、若くて、末頼もしそうな公卿侍など滅多にいる筈がない。  まして、自分のように、格別、美しくもない、平凡な娘が、玉の輿《こし》に乗ることなど、まずあり得ないと、おふくは考えている。  それにしても奉公に来て丸二年が経《た》っていた。行儀見習に来ている娘たちは、普通、一年そこそこで暇《ひま》を取って親許《おやもと》へ帰る。  三条西家へ奉公したということが、嫁入りの箔付《はくづけ》になるので、長くなっては婚期を逸するからであった。  彼女達がいそいそと親許へ帰って行くのをみるたびに、おふくは心が青ざめた。  どこかで、人の声がしたように思い、おふくは耳をすませた。  庭のほうで男と女がひそひそ話している。  女の声は、どうやら自分と一緒に働いている雑仕女《ぞうしめ》のおきくのようであった。忍《しの》び笑いが聞える。  妻戸にすりよって、おふくは外をのぞいた。  男が女に手を上げて、こっちへ忍びよって来る。男の顔は逆光でみえなかった。ただ、間違いなく、おふくのいる、この部屋へ向っているのだけはわかる。  本能的に、おふくは男がなんのためにこっちへやって来るのかを悟った。  公卿の家で働くようになって、主人も奉公人も恥知らずと思えるほど放埒《ほうらつ》なのは知っていた。  武士の娘として育ったつもりのおふくには信じ難いほど好色で放縦な世界である。  どこの男だろうと思った。  自分が知っている男か、それとも。  恐怖が先に立って、おふくは自分の葛籠《つづら》の中から短刀を取り出した。ここへ奉公に来る折、母から渡されたもので、なにもいわれなかったが、おふくはそれを身を守るためと解釈していた。  おふくが短刀を手にした時、妻戸の開いているところから、男が入って来た。  あいかわらず、月光を背中にしょっているので顔が暗くてわからない。おふくには男の姿が黒い怪鳥のように見えた。 「何者ですか」  しぼり出すような声で叫んだ。我ながら、よく声が出たと思う。  男がおふくを認めた。一瞬、ひるんだようだったが、そのまま、おふくに近寄って来た。  おふくは短刀を抜いた。  男の足が止った。なにかいおうとして、さかんに手を振った。が、おふくは両手で短刀の柄《つか》の部分を握りしめ、相手が襲いかかって来たら、いつでも突き出せるように腰を落して、身がまえていた。  どのくらい、そうしていたのかわからない。気がつくと、男はじりじりと後退して、妻戸のところへたどりつくと、わあっと声を上げて外へとび出して行った。  庭を走って行く足音がどんどん遠くなる。  逃げたのかと思い、それでも、おふくは短刀をかまえたまま、暫くは息を殺していた。  気がゆるんだのは、鶏鳴を聞いてからであった。  もう夜明けが近い。そう思って、おふくは短刀を鞘《さや》におさめ、それを抱くようにしてうずくまった。  その頃になって、先刻の男が小袴《こばかま》をはいていたのに気がついた。身なりからして下人とは思えない。物腰|恰好《かつこう》が、見おぼえのあるような感じだった。  翌日、おふくは雑仕女《ぞうしめ》達が自分をみて笑っているのを知った。ささやき合ったあげくに、腹を抱えて大笑いをしている。 「まあ、もったいないことを……」  とか、 「だから、あの人はよしたほうがいいというたのに……」  などと聞えよがしにいう声も耳に入る。  それが、昨夜のことだとおふくにも察しがついた。  どうも、女達はおふくのところへ忍んで行った男が誰《だれ》か知っているらしい。  午後になって、宇治から主人の三条西|実条《さねえだ》が牛車《ぎつしや》を連ねて帰って来たので、邸内は俄《にわか》に慌しくなった。  おふくが、雑仕女のおきくと話をしたのは夜になってからである。 「おふくどのも人さわがせな女子《おなご》じゃ。なにも刃物で斬《き》りかかることはあるまいに、藤助《とうすけ》どのが、まるで戻橋《もどりばし》の鬼女じゃというて笑うて居られたぞ」 「藤助どのというと……あの……」  はっと思い当った。西園寺家の家司《けいし》で、この三条西家へも時折、使にやって来る。  男にしては小柄だが、品のいい顔立ちの若者で、おふくも何度か挨拶《あいさつ》をしたことがあった。 「藤助どのだったのですか」  思わず口に出して、おふくはうつむいた。  あの人だったらという気持と、いきなり夜這《よば》いをかけて来たことへの怨みがましさがあった。  自分に気があるなら、文をよこし、心の中を訴えて、こちらの気持を確かめた上で忍んで来てもらいたかった。  公卿《くげ》の貴公子達はそうした手順をふんで女の許《もと》へ通っている。  氏素性《うじすじよう》の知れない雑仕女《ぞうしめ》と、自分を同じように扱ってもらいたくないというのが、おふくの本音であった。  そんなことを考えるのも、おふくが藤助という男を満更嫌いではなかったせいで、ひょっとしたら、改めて文でもくれて、あの夜の軽率さを詫《わ》びて来るのではないかなどと、おくればせながら胸をときめかしていたおふくだったが、藤助のほうは三条西家へ来ても、決しておふくをみることはなく、そればかりか、もの欲しげに誘いをかけるから、わざわざ忍んで行ったのに、刀をふりまわし、斬りつけて来たので仰天しただのいい年をして男女の秘め事も知らない情なし女だのと、さまざまの噂《うわさ》が尾鰭《おひれ》をつけて広まって行く。  奉公人の間の噂だけならまだしも、いつの間にか、当主の実条《さねえだ》の耳にまで入っていたらしく、或《あ》る日、実条の許に何人かの公卿の客があって、おふくが酒を運んで行くと、不躾《ぶしつけ》なほど、好奇に満ちた目で眺められたあげく、部屋を下ったとたんに、 「成程、あれが女武者ですか」 「流石《さすが》、斎藤利三の娘だけあって、なにやら猛々《たけだけ》しい女子でございますな」 「あれでは、男はたまりますまい」  などと聞えよがしの声が廻廊《かいろう》に出たおふくの背へ追いかけて来る。  怒りで、おふくは全身が熱くなった。  本来なら、行儀見習に来ている娘の許に、男が夜這《よば》いをしたことがとがめられるべきであり、身を守ったおふくには健気《けなげ》なとか、よくぞといった賞讚《しようさん》が与えられる筈であった。  それを主人までが奉公人と同じように、おふくを笑い者にしている。  たまりかねて、おふくは奥のたばねをしている老女に、この次第を訴えたが、 「まあお前様のその気性では、おいそれとよい婿にめぐり合えますまいよ」  と皮肉たっぷりに、たしなめられてしまった。  三条西家の中でおふくは自分が孤立していることに漸《ようや》く、気がついた。  それ以前にも、とりすましているとか、とっつきにくいとか陰口を叩《たた》かれているのを、全く知らなかったわけではないが、これほど上も下も自分の味方をしてくれないかと思うと居たたまれない思いであった。  もし、おふくがもう少し年をとっていて、心にゆとりを持っていたら、自分の生真面目《きまじめ》すぎる性格と、窮地に立つと一層、かたくなになって、遮二無二《しやにむに》、我意を通してしまう気の強さに心づいたかも知れない。  持って生まれたその性癖が、自分の生涯にどれほどの火宅を抱え込むことになるのか、十七歳になったばかりのおふくには予想もつかないことであった。  夏の間、おふくは歯を食いしばるようにして三条西家に奉公していた。  もっとも、歯を食いしばって耐えていたのはおふくだけで、当主の実条《さねえだ》は勿論《もちろん》、奉公人達もとっくに、あの十五夜の事件を忘れていた。  彼等にとっては、それは他愛もない、滑稽《こつけい》な騒ぎであって、おふくがいつまでもそのことにこだわっているとは、誰も思いもしなかった。  秋になった時、おふくは自分から願い出て三条西家から暇を取った。 「親許《おやもと》よりよい縁談が決ったと申して参りましたので……」  世話になった誰彼《だれかれ》に挨拶をする際、おふくは殊更、胸をそらせて暇乞《いとまご》いの理由をつけ加えた。  それは、十七歳のおふくのせい一杯の見得《みえ》であった。     二  親許へ帰るといっても、おふくの戻る家はなかった。  母は、加藤清正《かとうきよまさ》に仕えている兄の斎藤|利宗《としむね》の許に身を寄せているし、おふく自身は謀叛人《むほんにん》の娘という立場をかくすために、母方の稲葉|重通《しげみち》の養女ということになっている。  で、とりあえず三条西家から暇を取った旨を知らせに、おふくが稲葉家を訪ねて行くと、たまたま同族の稲葉|正成《まさなり》へ嫁いでいた重通の娘が病死してその法要が終ったばかりという時であった。  妻を失った稲葉正成は小早川秀秋《こばやかわひであき》の重臣であったが、もとは美濃十七条城《みのじゆうしちじようじよう》の城主、林《はやし》政秀《まさひで》の嫡男《ちやくなん》で、稲葉家へ養子に入った人であった。重通の娘との間には二人の女児がいる。 「まだ幼い子供達には乳母《うば》がついて居りますが、この先、母親なしでは養育もおぼつかない。それも、なろうことなら、稲葉家にゆかりのあるお人が、正成どのの後添えに入ってくれれば、継母といっても、なにかにつけて安心なのですが……」  愛らしい盛りの孫娘達を、ひょっとして正成の後妻に入る女が継子《ままこ》いじめでもしてはと、おふくの養母に当る、重通の妻はしきりに案じている。  稲葉重通夫婦には、もう一人、娘がいたが、すでに勢州《せいしゆう》岩手《いわて》城主、牧村兵部大夫利貞《まきむらひようぶだゆうとしさだ》の許《もと》に嫁いでいた。 「どうであろう。おふくどのにとって悪い縁ではないと思うが……」  それとなく、養母がいい出したのは、三条西家を下って来て、さし当ってこの先の身のふり方も決っていない、おふくの立場に気がついたからで、 「小早川秀秋様といえば、大閤《たいこう》様の御養子だったお方、お血筋からいっても北《きた》の政所《まんどころ》様の甥御《おいご》様ではあり、小早川様へ御養子に入られた折に、大閤様がつけられた御家来が稲葉正成どので五万石を頂いているのですよ」  身分からいっても、おふくの夫として申し分なかろうと養母は少々、恩きせがましく話した。 「私にもう一人、娘がいたら、迷わず正成どのの後妻に入れたであろう。そなたが養女だからといって、便宜にこの縁談を勧めるのではないことは、わかって頂けような」  そういわれて、おふくは神妙にうなずいた。 「ありがとう存じます。私のような者にとりまして、過分のことでございます」  おふくの返事に、養母は満足したようであった。 「早速、重通どのに御相談申してみましょう。吉報を待つがよい」  当分は利宗《としむね》どのの許に居るのであろうといわれて、おふくは、 「母も、兄の屋敷に居りますので……」  と答えた。  兄の斎藤利宗はすでに妻を迎えていたし、そこへ厄介になるのは心苦しい気がしたが、この際、仕方がなかった。  加藤清正に仕えている利宗は、伏見《ふしみ》城下の加藤家の屋敷内にある侍長屋に住んでいた。  長屋とはいっても武士の住いだから、それなりの体裁のととのったものだが、広大な屋敷というほどではない。  利宗夫婦と母が、数人の奉公人を使って暮している家へ、おふくは落着いた。 「どうしたのです。三条西様で、なんぞ不始末でも……」  突然、帰って来た娘に対して、母親は仰天したが、 「別に粗相があってお暇を出されたわけではございません。ただ、あまりに御奉公が長くなりましたので……」  というおふくの言葉に、兄の利宗が察しのよい顔をした。 「母上、おふくももはや十七歳。他家へ奉公するよりも、良い縁談をみつけてやらねばなりますまい。暫《しばら》くはここで御奉公の疲れをいやし、嫁入り支度をしてやりましょう」  この兄は苦労人であった。  まだ少年の年頃で父や長兄と共に本能寺の合戦に加わり、その後、織田|信孝《のぶたか》の軍勢に攻められて父や兄とちりぢりになり、斎藤家の菩提寺《ぼだいじ》に逃げて、出家し、世を忍んでいたことがある。  その後、明智光秀の娘の縁を頼って、細川忠興《ほそかわただおき》の許《もと》にかくまわれていたが、謀叛人《むほんにん》の生き残りとして、何度も命の危い思いをして来ている。  それだけに年に似合わず、人の心を思いやるところがあって、おふくをほっとさせた。  もっとも、おふくとこの兄は兄弟の中で比較的、よく似ていた。  他の兄姉達が母親似なのに対して、二人だけが父親の利三似であった。  利三は如何《いか》にも武将らしい風貌《ふうぼう》をしていた。  顔が大きく、眉《まゆ》が濃く、眼も鼻も大きかった。  男の利宗はともかく、おふくのほうは女にしてはいかつい感じで愛敬《あいきよう》がなかった。三条西家に奉公している時も、その顔立ちのせいで、なにやら武ばった女とか、ごつい顔をした娘だとかげぐちを叩かれたものである。  だが、そうはいっても年頃になったおふくには、相応の若々しい色気も滲《にじ》み出ていたし、公卿奉公の中でおぼえた柔かな動作や言葉づかいが、容貌《ようぼう》のいかめしさをかなり救ってはいた。  で、母も兄も、今が嫁入り時と感じたのかも知れない。  伏見で暮すようになって、おふくは母にも兄にも、稲葉重通の妻からいわれた縁談について話さなかった。  あの場合、養母は娘の死と、とり残された孫娘のいたいけなさに逆上していて、あまり深くは考えないで、おふくを稲葉|正成《まさなり》の後妻にしたらと思いついただけだろうと、おふくは考えていた。  仮に、養母が本気でそう思ったとしても、肝腎《かんじん》の稲葉正成がなんと返事をするかわからない。  小早川秀秋の家中で、五万石の知行取りとあれば、いくらでも後妻のなりてはあるに違いなかった。  病死した稲葉重通の娘が、どんな容貌《ようぼう》をしていたのか、おふくは知らないが、重通夫婦は美男美女といってよい器量を持っている。  その娘なら、どちらに似たところで、そう醜女《しこめ》ではなさそうに思えた。  おふくは自分の器量に劣等感を持っている。  まず、大きな顔が嫌いだった。  眼はまあ気に入っているほうだが、鼻はやはり大きすぎて、いかめしい印象を与える。眉《まゆ》の濃さも、口の大きさも好きになれなかった。男のような顔だと自分でも思う。  女の顔は造作がやや小さめのほうが化粧が落着いて品がよいものだと、三条西家にいた頃、何度も耳にしていた。  所詮《しよせん》、自分の顔は女らしくなく、男に好まれないと承知している。  下手に自分から縁談のことをいい出して、母や兄が稲葉家に訊《き》いたあげく、あの話はなかったことにしてなどといわれるのは屈辱《くつじよく》であった。  それに、おふくの気持の中には、重通の娘が死んで、その後へ自分にお鉢《はち》が廻《まわ》って来たようなのが不快であった。  稲葉正成という人は、まだ三十になっていないらしいが、二人の幼児が残されている。子供の乳母代りに嫁に行けといわれたようで、それも、おふくの自尊心を傷つけていた。  その一方で、まだ会ったこともない稲葉正成への関心もあった。  どんな風貌《ふうぼう》の男なのだろうと思う。  小早川秀秋の家臣で、五万石の知行取りというのも魅力であった。  明智光秀の重臣だった斎藤利三の暮しぶりがどんなものだったのか、おふくはおぼえていない。母や兄弟と共に逃げ廻《まわ》り、他家の居候として過した歳月の印象のほうが遥《はる》かに強烈だったからである。  だが、母の、世が世ならばという愚痴からして、大名の重臣の生活が、どれほど豊かであったのかは、おおよそ想像が出来る。  稲葉正成の妻になれば、少くとも、母がいうところの、なに不自由のない生活と、周囲から奥方様とあがめられる日常を手に入れることが出来るのだろうと思った。  不安定な居候や、三条西家での奉公人の暮しにくらべて、それは夢のような未来であった。  稲葉重通の妻がいったように、間違いなく良縁であり、玉の輿《こし》に相違ない。  もしや、という期待と、そんな筈《はず》はないと思う気持が交互におふくを襲って来て、絶えず落着かない中に月日が過ぎて行く。  秋が深まるにつれて、おふくは母が焦り出しているのに気がついた。  兄の利宗は、妹のために良縁を求めているようだが、一向にこれといった話がない。  それほど広い屋敷ではないので、おふく一人が増えた分だけなにかにつけて不自由なのは、おふくにもわかった。  兄夫婦の寝所とおふくの部屋が襖《ふすま》一重というのも具合が悪かった。  夜半にふと目がさめて、隣の部屋の気配に胸をとどろかし、息を殺すことがある。  おふくにしても、ここに長居はしたくないという気持が日々、強くなっていた。  その日、母が他出したのを、おふくは知ってはいたが、多分、いつものように気晴しをかねた寺まいりでもあろうと思っていた。  最初の中は、おふくも母について行ったりしていたが、いつもいつも、母娘《おやこ》が仲むつまじげに出かけて行くのは、兄嫁にとってあまり気分のいいものではないと気がついてからは、母のお供をやめてしまった。  で、部屋にこもって縫い物などをしていると、夕方になって母の帰って来た気配がした。  珍しいことに、兄嫁に機嫌のよい声でなにかいっている。  その声が廊下を渡って来て、おふくの部屋の外へ来た。 「なにをしてお出《い》でだったの」  板戸を開けて、にこやかに入って来た。 「まあ、屋敷にばかり籠《こも》っていて、気づきませんでしたけれど、紅葉《もみじ》の美しいこと、ほんに唐紅《からくれない》をみるような……」 「お帰りなされませ」  と手をつかえたおふくには、母の調子がいつもより、かなり高いのに驚いた。  明らかに、母は浮かれている。 「稲葉重通どのをお訪ねして参ったのですよ。そなたの養い親になって頂いているのですから、それとなく、良い縁談でもお世話して頂こうと思いましてね」  どきりとして、おふくは顔を上げた。  母はなにも知らないことだが、もし、そんな話で稲葉家を訪ねたのなら、先方は例の件の催促と受け取ったかも知れない。 「そなた、稲葉|正成《まさなり》どのとの縁談を、聞いていたそうではありませんか」  母の言葉に、おふくは慌《あわ》てた。咄嗟《とつさ》に返事が出来ないでいると、重ねていわれた。 「あちらは、稲葉重通どのの御養女なら申し分ない。年が改まったら然《しか》るべき人を立てて祝言の段取りをつけたいとおっしゃってお出でだそうですよ」  そういう良いお話があったのなら、何故《なぜ》、もっと早くに打ちあけてくれなかったのかとなじられて、おふくはいよいよ口がきけなくなった。 「利宗《としむね》どのが戻られたら、今夜にもお話をして、輿入《こしい》れの支度にかからねばなりませんね」  その兄の利宗も、この縁談には率直に喜びを口にした。 「おふくにとって、これ以上の良縁はまずございますまい。早速、稲葉重通どのへお礼に参らねばなりませんな」  黙ってはいたが、おふくの心中は次第に波立って来た。  母も兄も、兄嫁も、誰《だれ》一人、おふくの気持を訊《き》くことを忘れている。  そればかりか、どんな相手であっても、望んでくれるなら喜んで、おふくが嫁いで行くと考えているふうであった。  もっとも、嫁入りとはそういうものだと、おふくも承知はしていた。  親が決め、顔を知らない相手の許《もと》に唯々諾々《いいだくだく》と嫁いで行く。  身分の高い者ほど、そうであった。  家と家、金と金との便宜のために縁組が行われ、時には人質の意味が濃かったりする。  それから思えば、おふくの場合はまだ、ましかも知れなかった。  結局、おふくは心中の不満を口に出さなかった。  なにをいっても仕方がないと考える一方で、自分を後妻に選んでくれたという稲葉正成に好意を持った。  けれども、相手はおふくを知っていて妻にといってくれたのではなかった。稲葉重通どのの養女なら、という但し書がついた求婚である。  それでも、おふくの胸の中には華やかなものがふくらみはじめていた。  これで、三条西家の人々に面目が立つといった気持もある。  年があけてからと、稲葉正成はいったようだが、おふくのほうに思わぬ事情が持ち上って来た。  兄の利宗が主君、加藤清正に従って肥後《ひご》へ行くことになったからである。  肥後には屋敷もあって、伏見の侍長屋よりはずっと広い。  一度、国許《くにもと》へ戻ればいつ、伏見へ出て来るかわからないので、無論、家族も一緒に肥後へ行くことになる。 「なにも、稲葉家へ嫁ぐ者がわざわざ肥後まで行くことはない」  と稲葉重通がいい、おふくの母や兄が伏見にいる中に祝言を上げるように先方に話をしてくれた。  その年の暮に、おふくは稲葉正成と祝言をあげ、小早川秀秋の領国である筑前《ちくぜん》へ向うことになった。  祝言の席で、おふくは初めて夫となる人の顔をみた。  眉目秀麗《びもくしゆうれい》な貴公子ではなかったが、男らしい感じのよい印象であった。  夫のほうが、おふくをどう思ったかは知る由もなかったが、二人きりになった新床で正成がおふくに訊《き》いたのは、 「これまでに患ったことがあるか」  というものであった。 「別に、これといって病に苦しんだおぼえはございませんが……」  不審そうに答えたおふくに正成は言った。 「妻が病弱では困る。丈夫で良い子を産んでくれ」  夫の言葉を、おふくは体中を熱くして聞いた。自分に対する愛の言葉だと理解したからである。  正成がいったのは、もっと単純なことであった。  前妻の、稲葉重通の娘は病身であった。  嫁いで来て、医者を必要としなかったのは半年もなかった。  健康な妻が欲しいというのは、正成の実感であり、極めて現実的な理由によるものであった。     三  慶長《けいちよう》元年の正月を、おふくは満ち足りた思いで迎えた。  稲葉|正成《まさなり》は、どちらかといえば、まめな男であった。  先妻が病弱だったということもあって、奥向きの一切を自分自身で取り締り、秀尾《ひでお》という女に代行させていた。 「何事も秀尾が承知して居る。わからぬことは秀尾に訊《き》くがよい」  と夫がおふくにいい、秀尾も、 「なんなりと仰せ下さいますように……」  と挨拶《あいさつ》した。  秀尾の身分は、正成の二人の姫の乳母であるという。  秀尾の年齢は、あとで正成から聞いたことだが、この正月で二十四歳になるらしい。  もともとは、正成の先妻について、実家から従って来た者で、乳母とはいっても二人の娘に乳を与えたというのではなさそうであった。  けれども、病がちだった生母に代って、娘達の養育の一切は、この秀尾が面倒をみて来たらしく、三歳と五歳の二人の娘は、秀尾によくなついていた。 「これが、そなた達の新しい母じゃ」  と正成がおふくを二人の娘にひき合わせた時も、二人は秀尾の両側にすわったまま、上目づかいにおふくをみただけで、決して傍《そば》に近よろうとはしなかった。正成も、特に娘達におふくのところへ来いとは命じなかった。 「暫《しばら》くは乳母にまかせておくがよい。月日が経《た》てば、おのずからそなたに馴《な》れよう」  正成にいわれて、おふくは納得した。  たしかに、或《あ》る日、突然、見ず知らずの女がやって来て、自分はお前達の新しい母だといわれても、幼子は戸惑うばかりだと思ったからである。  それに、この頃のおふくは新しい生活に馴染《なじ》むのに必死であったし、夫の愛にひたり切っていた。  夫婦の閨房《けいぼう》で、正成は若くて健康的なおふくの肉体に堪能しているようにみえた。  おふくのほうは、いささか、あてがはずれたような気持であった。  三条西家に奉公している時に、男女の秘《ひ》めごとについて少々の耳学問をしたものだったが、まず、男が女に文を贈り、さまざまの睦言《むつごと》があっての後に、肉体の交りがあると聞いていた。  正成は終始、無言であった。  同衾《どうきん》すると、すぐにおふくの着衣をはだけ、黙ってのしかかって来る。加えて、行為に入るのが早すぎた。  おふくが、まだ陶酔とは程遠いところにいるのに、遮二無二《しやにむに》、体を押し開いて目的を遂げると、余韻を楽しむ間もなく、おふくの上から下りて行く。おふくとしては、せめて抱き合って、優しい言葉の一つも欲しいと思っているのに、そんなことはまるで正成の念頭にないようであった。  もっとも、おふくは夫のそうした慌しい営みにたいした不満を持っているわけではなかった。  なにしろはじめての男であったし、男女の交合とはこのようなものだったのかと思っていた。  間もなく、おふくは夫に合せる方法を会得した。  夫の手が、どこを触れても、おふくはすみやかに反応し、体の奥深いところで歓喜が湧《わ》き上って来る。夫の腰に両手を廻《まわ》して、自分を押し上げるようにして恍惚《こうこつ》に達することもおぼえた。  夜が来るのを待ちかねるようになったおふくにとって、最初の別居は残酷なものになった。  秋、正成は主君、小早川秀秋に従って伏見城へ出仕した。  文禄《ぶんろく》年間の秀吉の朝鮮出兵は、一応の休戦状態にあったのだが、この九月、伏見城にやって来た明《みん》の使節の上表文に秀吉が激怒し、再び半島へ軍勢を送る準備にとりかかった。  小早川秀秋の上洛《じようらく》もそのためで、正成以下、秀秋の腹心といわれている家中の者が随行した。  夫が留守になって、はじめておふくは自分の周辺に目を向けるようになった。  最初に気になり出したのは、秀尾の存在である。  正成の二人の娘の乳母として、秀尾は稲葉家の奥向きを取りしきっていた。  奉公人達の仕事の分担から、毎日の食膳《しよくぜん》の献立から出入りの商人への注文に至るまで、秀尾の采配《さいはい》で女中が動いている。  それはまだしも、正成の留守中のさまざまの支払や勘定方まで、彼女に一任されているのを知った時、おふくはひどく不快になった。  なにか、自分がないがしろにされているような気がしたからであった。  秀尾に対するおふくの感情を更に悪化させたのは、二人の娘に関してであった。  まだ幼い娘達の起居する部屋は、おふくの部屋と中庭をへだてていた。  夏は開けはなってある部屋から、子供の戯れる声が中庭を通り抜けて、おふくの部屋まで聞えて来る。  ぼつぼつ、二人の娘に母らしいことをしてみたいとおふくは考えていた。  正成の後妻になる時に、重通の妻である養母から、くれぐれも孫達をと、頼まれていることでもあった。  いつまでも他人の手にゆだねておくのはよくないとおふくは自分から部屋を出て、娘達の遊んでいる広縁のほうへ行ってみた。  姉娘のほうが、きれいな小石を掌中におさめて、妹に、どちらの手に持っているのか、あてさせている。 「さあ、どちらでございましょう。今度は右のお手か、それとも左のお手にお持ちか、さあ、おあてなさいませ」  秀尾が明るい声でいい、二人の娘がきゃっきゃっと笑っている。 「面白そうなことをしてお出でですね」  おふくが近づいて声をかけると、二人の娘は、はっとしたようにふりむいて固い表情になった。 「これは奥方様、いつの間に、こちらへお出でなさいました。お出迎えも致さず、ほんに失礼をいたしました」  秀尾が慇懃《いんぎん》に会釈したが、それは、ことわりもなしにどうしてこっちへやって来たかと、とがめているように、おふくには聞えた。 「ぼつぼつ、私もこのお子たちの遊びのお相手をしようと思いますので……」  広縁に腰をかけて、おふくは姉娘の握りしめている手をさしのぞいた。 「いったいどちらの手に持っているのか、お母様があててみましょう。きっと、こちらですよ」  小石を握っていると思われるほうの手を軽く叩《たた》いたとたんに、姉娘がわあっと声をあげて泣き出した。  姉にさそわれたように、妹も続けて泣く。 「まあ、どうなさいました。なにも怖いことはございません。こちらにお出でなさいませ。なにが御機嫌を損じました」  秀尾が二人の肩を抱くと、待っていたように姉妹は秀尾にすがりつく。 「お二人はびっくりされただけでございます。どうぞ、又、御機嫌のよろしい折にお越し下さいますように……」  むこうへ行ってくれと追い立てられたように、おふくは中庭を通って自分の部屋へ帰った。  おふくの姿がみえなくなると、二人の娘は泣くのをやめ、間もなく先刻と同じような幼い笑い声が聞えて来る。  体中が熱くなるほどの怒りを、おふくは抑えた。  誰《だれ》でも最初はこんなものだろうと思う。  くじけてはならない、と己れにいいきかせて、翌日、おふくは自分で町へ出て美しい絹糸を何色か買い求めて来た。  真綿を芯《しん》にして絹糸でかがり、愛らしい手鞠《てまり》を二日がかりで作った。  出来上ったそれを持って娘達の部屋へ行った。  姉妹はおふくの持って行った手鞠には心|惹《ひ》かれた様子であった。  おふくが広縁に出て手鞠を突いてみせると、鞠は思いの外、よくはずんだ。 「やってごらんなさいまし」  姉娘に渡すと、おそるおそる鞠を手にして、力まかせに突いた。はずんでころげた鞠を拾って、又、突く。  みていた妹のほうが、手を出した。  自分も突いてみたいという。だが、すっかり面白くなった姉娘は容易に手鞠を放そうとはせず、遂には姉妹で奪い合いになった。 「これはなんということでございましょう。只今《ただいま》、乳母が別の鞠をお持ち致します」  秀尾が取り出したのは、やや古ぼけた手鞠であった。 「これは、歿《なくな》られた先の奥方様がお小さい折のお手遊びの品でございました。お輿入《こしい》れの時にお持ちになって、そのまま、私がおあずかり申して居りましたのは、いつか、お子様方へお母上様のお形見としてさし上げたいと存じていたからでございます」  その古い手鞠もよくはずんだ。 「母上様の手鞠……」  と妹娘がいい、姉がおふくの作った手鞠を放り出して、妹の手鞠を取り上げようとした。  妹が取られまいとして、手鞠を抱きしめる。 「お小さい方に、ものをさし上げる時は、必ず、お二人に同じものをお渡し下さいまし。折角、仲むつまじくお遊びなのに、ひょんなことで、泣かずともよい涙を流させることになりまする」  何気なく秀尾のいった言葉が、おふくの胸に突きささった。  よけいなことをするな、とたしなめられたのでもあり、そんな気のつかなさで、子供達の母にはなれませんよ、と皮肉られたようでもあった。  返す言葉もなく、おふくは子供達に背をむけたが、彼女の自尊心はいたく傷ついた。  たかが乳母などに、やりこめられてたまるかという気持の一方で、もはや、秀尾から二人の娘をひきはなすのは無理かも知れないと思う。  稲葉家へ輿入れしたら、どんなにか先妻の忘れ形見を可愛《かわい》がり、立派に育てようと期待していたおふくだったが、ひたすら、秀尾になつき、自分に白い目をむける姉妹を愛らしいと思う気持は薄くなり、むしろ、憎らしいとさえ感じるようになってしまった。  そのことを、おふくは養母である稲葉重通の妻にすまないと思った。彼女は孫達によかれと思って、おふくと稲葉|正成《まさなり》の縁談を進めたのであった。  それだけに、もし、なにかで孫娘がおふくになつかないなどという噂《うわさ》を耳にしたら、どれほど立腹するだろうかと、おふくはそのことも気になり出した。  そんなことから稲葉正成の妻の座が崩れ出さないとは限らない。  神経が苛立《いらだ》って、おふくは夜、ねむれなくなった。食欲がなく、無理に食べると吐いてしまう。  女中達から、そのことを知った秀尾は早速、医者を呼んで、おふくを診断させた。 「間違いなく、御懐妊でございます」  と医者がおふくに告げた時、秀尾がしたり顔でいうのが、おふくの耳に入った。 「ええ、左様でございましょうとも。きっと、そうではないかと存じて居りました」  秋が深くなって、正成は主君と共に帰国した。  夫婦二人になって、おふくが恥らいながら、みごもったことを告げようとすると、 「そのことなら乳母殿より知らせの文があった。出産は来年の春、桜の咲く頃だと申すではないか」  といわれて、顔から血の気がひいた。 「秀尾が、殿にお知らせ申したのですか」 「そうだ。奥向きのことは一々、京へ書状をもって問うて来る。そなたの懐妊のことも一番に書いてよこした。こたびは必ず男子出生であろうと喜んで居る」  その時は、なにもいわず、おふくは数日、思案してから、夫に秀尾に暇をとらせて欲しいと頼んだ。 「何故《なぜ》、そんなことをいう。秀尾はそなたの実家でもある稲葉重通どのより、つけてよこした侍女だ、罪もないのに暇を取らせることは出来ない」  あまりに二人の娘が秀尾になつきすぎているとおふくは訴えた。 「私は、母として二人の姉妹を我が手で養育いたしたいと存じます。やがて生まれて来る我が子とわけへだてなく慈しみ、可愛《かわい》がって参りたく、そのためには、秀尾が居りましては、なにかと不都合でございます」 「秀尾は娘達の乳母だ。なついているのは仕方があるまい。それに、そなたはやがて赤児を産む。乳呑児《ちのみご》の世話と、まだ年はも行かない姉妹と両方の世話は無理だ。二人の娘は今まで通り、秀尾にまかせておくがよい。いずれは他家に嫁に出す女の児のことではある。あまりむつかしく考えることはない」  正成に反対されて、おふくはそれ以上、我意を通すわけにはいかなかった。  考えてみると、うっかり秀尾に暇をやって、彼女が稲葉重通夫婦のところへ行き、二人の娘を、おふくが虐待しているとでも、讒言《ざんげん》されてはたまらないとも思う。  小早川家は、朝鮮への出兵の支度で上も下も慌しかった。 「我が殿には、もともと、北の政所《まんどころ》の甥御《おいご》様であったが、大閤《たいこう》殿下にのぞまれて、養子になられ、大層、可愛がられて成長された。にもかかわらず淀《よど》の御方に秀頼《ひでより》様が誕生されると、俄《にわ》かに大閤殿下のお気が変られて、小早川家の養子に出された。畢竟《ひつきよう》、これは淀の御方の差し金によるものであろうと、我が殿には日頃、無念に思し召して居られる。この度の出兵には先陣を承り、華々しい殊勲をあげられ、大閤殿下に流石《さすが》、金吾中納言《きんごちゆうなごん》よとお認め頂ければ、殿はもとより、我等の面目も立つというものだ」  出陣に際して、正成がおふくに洩《も》らしたのは、その程度のことだったが、勇ましい言葉と裏腹に、おふくは、夫が半島へ出陣して行くことを、あまり望んでいないように思えた。  おふくが知る限りでも、あまり武勇の人という感じではなかった。  だが、おふくは夫の態度を、春には誕生するおふくの子供に対する配慮と、みごもっている妻への気がかりのためと考えていた。 「どうか、御無事で……、一日も早い御|凱旋《がいせん》をお待ち申して居りまする」  出陣の日、おふくは夫の前に手を突いて涙のこもった目で訴えた。  正成はそんなおふくに乾いた声でいった。 「案じるな、進退のわからぬわしではない」     四  夫の留守は、おふくを再び孤独にした。  しかも、今回は合戦であり、戦場は海の向うであった。  思いついて、おふくは肥後の熊本《くまもと》にいる母に文をやった。  嫁ぐ前は身勝手な母だと心中、非難したこともあったが、自分自身が妻となり、子をみごもるようになって、今までの母の立場が少しは理解出来るような気がした。  五万石の知行取りの妻となった今は、母に孝行らしいこともしてやりたい。  母からは折りかえし返事が来て、臨月までにおふくのいる筑前《ちくぜん》の名島《なじま》城へ行くつもりでいると伝えて来た。  文には、その他にも食事がすすまないことがあったら、僅《わず》かずつでも回を重ねて食べるようにとか、冬の間、足腰を冷やさぬ用心をせよと、女らしい注意が書かれている。  娘の初産を気づかってくれている母の心が、おふくには嬉《うれ》しかった。  筑前の冬は厳しいものだと、最初の年に悟ったおふくだったが、とりわけ二年目の今年は寒さがきつく、天候が悪かった。  雨は雪やみぞれになり、晴れていても海のむこうから吹いて来る風が白い粉雪を散らしたりする。 「殿様の戦っておいでになるところは、ここより更に北でございます。陣中のことではあり、さぞ、御苦労なことでございましょう」  おふくが空を眺めていると、入って来た秀尾がそっといった。  この人の思いも自分と同じだったのかと気がついて、おふくは少し、打ちとけた気持になった。  おふくが夫に、この人に暇を取らせてくれといったことを、秀尾は知らないのだろう、おふくに対する態度も前と変りはない。  相変らず二人の娘はおふくになつかなかったが、おふくは自分から努力をすることをやめていた。  夫からも、そっとしておけといわれているのだし、おふくが大事に育てなければならないのは、今は、腹の中にいる我が子だけでよいと思うようになっていた。  女の子は、いずれ、他家へ嫁に出すのだからといった夫の言葉には二人の娘への愛情が薄いようで、それも、おふくには快かった。  先妻の忘れ形見に、夫が愛情を注ぎすぎるのは、おふくの気持としては面白くない。  前の妻の産んだ二人の姉妹など、どうでも良いから、お前は丈夫なよい子を産むようにといった正成の言葉を、おふくは単純に喜んでいた。 「この前の御出陣の折にも、海のむこうへ渡られた軍勢は、随分ときびしい戦をなされたとか、殿様よりうかがいました。大閤《たいこう》様はあの折、肥前名護屋《ひぜんなごや》城までお出ましになりましたが、この度は若君のお傍を離れとうないとおっしゃって居られるとか……」  秀尾の話に、おふくは彼女があまり大閤秀吉に対して良い感情を持っていないのに気がついた。  もっとも、秀尾がついて来た正成の前妻の実家は斎藤一族であり、明智光秀の家臣として山崎の合戦で秀吉に破れて死んだ斎藤利三が、おふくの父であることも承知している。  つまり、秀尾が秀吉をよくいわないのは、おふくにおもねるためともいえた。  父のことは遠い昔のことで、大閤秀吉を父の仇《かたき》と思う気持は、今のおふくにはそれほど強くはなかった。  むしろ、母と一緒に逃げ廻った時の本音は、怖《おそろ》しい人であり、謀叛人《むほんにん》の一族としての追及がやんだ時には、ほっとした感じであった。  それに、今の世は日本国中、大閤殿下の思いのままといわれ、その人に怨みを持っては到底、生きて行けないと承知している。  だが、秀尾の言い分はまた、別のようであった。 「殿様の御主君、金吾|中納言《ちゆうなごん》様もお気の毒でございます。都合のよい時だけ養子にしておきながら、淀の御方に若君が御誕生となると、さっさと小早川様へ養子にお出しになる。中納言様の伯母上《おばうえ》様の北の政所様も、内心はとても御不快なそうでございますよ」 「そのようなことを、秀尾はどなたから訊いたのですか」  夫は、自分にそうした話はしていないと思い、おふくは訊《たず》ねた。 「御家中の方々は、みな、そうしたお噂《うわさ》をして居ります。中納言様にしても伯母君の北の政所様をさしおいて、大閤殿下の御寵愛《ごちようあい》をほしいままにする淀の御方には、よいお気持をもってお出でではないとか」 「あまり、そのような噂をしてはなりませぬ。なんといっても、天下人と、そのお方の若君をお産みになったお方のことですから……」  さりげなく、おふくは秀尾をたしなめた。  実際、三条西家に奉公していた頃、公卿衆《くげしゆう》の間でも、淀の御方の噂はよく耳にしていた。  亡き右大臣信長の姪《めい》で、父は浅野長政《あさのながまさ》、母はお市《いち》の方という名門の姫であった淀の御方は、秀吉の愛妾《あいしよう》とはいっても、本妻の北の政所よりも上位にあって、殊《こと》に若君の誕生からは、淀の御方の意見は、天下人の意見というように、京童《きようわらべ》はささやいている。  同じく、秀吉の養子で関白職《かんぱくしよく》を継いでいた秀次《ひでつぐ》が、たいした理由もなしに一族ともども憤死させられたのも、淀の御方が我が子を豊臣家の跡継ぎにするためには、秀次が邪魔だったからだと、これは口には出さなくとも、京に住む人々の衆知であった。  そういう意味では、金吾|中納言《ちゆうなごん》秀秋が小早川家へ養子にやられたのは、むしろ幸運といわねばならない。  強い力に逆らうのは愚かなことだと、おふくは考えていた。  竜車に向う蟷螂《とうろう》の斧《おの》になるよりも、竜車の通りすぎる傍《そば》を、目立たないように生きて行くほうが望ましい。  なにはさて、五万石の奥方である今の身分を大事にしたいと思う。  秀尾は、そんなおふくを黙ってみつめていたが、 「ほんに左様でございました。とかく、口は禍《わざわ》いの元と申しますなあ」  薄ら笑いを浮べて部屋を出て行った。  朝鮮へ出兵した正成からは、家族にあてた私信が来たわけではないが、小早川家の留守居役には、時折、合戦の模様がもたらされて来て、それが、家中の者に知らされる。  戦況は必ずしも良いとはいえなかった。  土地勘のない他国での戦であった。  陸続きの場所ならまだしも、海を越えて軍兵を運ぶことになると、思うように後続の兵が来ない、将兵の間にある心細さは格別であった。  しかも、今回は総大将たる秀吉が名護屋城へ布陣しているのでもなかった。  全軍の士気が上らないのは、そのためでもあった。  条件の悪い戦を強いられている上に、冬の季節であった。  おふくは、ひたすら神仏に手を合せ、夫の無事を祈り続け、凱旋《がいせん》の一日も早いことを願った。  やがて、海のむこうから吹いて来る風が、雪の代りに大陸の黄砂を運んで来る季節になって、おふくの腹はぼってりと大きくなった。  肥後から母がやって来たのは、名島城の庭の桜が咲きはじめた頃で、僅《わず》か一年余り会わなかっただけなのに、おふくの目には母の髪にめっきり白いものが増えているのが、痛ましく映った。  それでも母は元気であった。 「そなたもずっと大人びて、やはり女子は嫁いで、赤児《やや》が出来て一人前になるものなのですね」  いくらか大儀そうな娘を眺めて笑った。  おふくの母が来たことを知って、秀尾も挨拶《あいさつ》に来た。 「はるばる、ようお越《こ》し下さいました。殿様、御出陣のお留守中のことでもございますれば、奥方様にはさぞお寂しくていらっしゃいましょう。どうぞ、ごゆっくり御滞在なさいまして、御出産にお立ち会い下さいますように……」  日常のことについては、なんなりとお指図を下さるようにと、行き届いたところをみせて秀尾が下ってしまうと、母がおふくに訊《き》いた。 「今の者が重通どのの娘と共に、正成どのへ参った女か」 「はい、二人の娘の乳母ということで、奥向きを取りしきって居ります」 「あのような者が居っては、娘達がそなたになつかぬ道理ですなあ」  女だけに、母はこの屋敷へ来て、すぐに先妻の娘と、おふくが疎遠なままであることを気にしたらしい。 「私もいろいろと手を尽してみましたけれど、無理をしてはかえってよくないと存じまして……」  手鞠《てまり》の件を母に打ちあけた。 「そのようなことがおありだったの」  流石《さすが》に、母は秀尾に対して面白からぬ様子をみせた。 「重通どののところから供をして来たと申しても、奉公人に過ぎぬものを、そなたにそのような口をきくとは、思い上った女よ」  そういう時の母には、斎藤利三の奥方として時めいていた頃の権高《けんだか》なものが戻って来て、白髪《しらが》のふえた分だけ、気性も激しくなっている。 「そなたが輿入《こしい》れする折に、よい召使の一人二人、おつけ下さればよかったものを、重通どのも養女となると気を抜かれるのか」  その非難は、むしろ重通夫人であるおふくの養母にむけられているもので、暗に気のきかない人だとおふくにいっている。 「その中、母が心がけてあげましょう」  とはいうものの、加藤家の家臣となった息子の許《もと》に養われている母に、そんな才覚が出来るとおふくは思っていない。  母娘の話は、少し落着くと、やはり半島へ出兵している家族のことになった。  おふくの兄の利宗も、加藤清正について朝鮮へ渡っていた。 「蔚山《うるさん》とやら申すところに陣を張っているようですが、くわしいことはわかりません。ただ、無事でいるとだけで……」  留守の家は利宗の妻が守っているが、 「利宗どのが居られた時は、それなりに私にも心くばりをしていたものを、留守ともなると……この節は私の申すことなどに耳もかしませんのですよ」  嫁と 姑《しゆうとめ》 の仲が、かなり気まずくなっているらしい。  もともと、利宗の妻は加藤清正の重臣の娘だ。その縁もあって利宗は加藤家に仕官をしたといういきさつからしても、嫁として姑に仕えるよりも、夫にも姑にも、彼女のほうが大きな顔をしているところがあった。  母がおふくの許《もと》へやって来たのも、娘の初産《ういざん》を案じたのと、そうした家の内の愚痴《ぐち》を娘に話してうさ晴らしをしたい気持もあったようである。  それはそれとして、母が来てから、おふくは俄《にわ》かに心強くなった。  十八歳の娘は、まだ、どこかで母をたよりにしていた。  名島城の桜が散りはじめて、おふくの出産の日が来た。  初産にしては軽く、たいして苦しみもしないで、おふくは長男を産み落した。  後の稲葉|正勝《まさかつ》である。  若い母親は乳も豊かであった。 「これはこれは、ようお乳がお出になりますこと。前の奥方様の時は、お乳人《ちのひと》を何人も必要と致しましたが……」  秀尾がいいかけるのを、おふくは激しく遮った。 「私に、乳母は要りませぬ。この子は、私の乳で育てます故……」  それでも、秀尾はおふくの顔色を窺《うかが》うようにしてつけ加えた。 「左様でもございましょうが、高貴なお方は自ら、乳をふくませることはございません。必ず、お乳人におまかせなさいます」 「私は高貴の血筋ではありません。我が子に我が乳をふくませてこそ母と申すもの。あり余る乳を捨てて、他人の乳で育てとうはございません」 「それでは、どうぞ、お心のままに……」  実際、おふくは健康な母親であった。  産後の肥立ちも、付添っていた母が驚くほど早かったし、体力の回復もめざましい。 「普通は、お子を産むと髪が多く抜け落ちたり歯が傷んだりするものですが、そなたはそのようなこともないようですね」  子供を産んで一|廻《まわ》りは肥《ふと》ったようなおふくをみて、母は可笑《おか》しそうにいい、乳の出がよくなるからと、大豆を挽《ひ》いた黄粉《きなこ》を餠《もち》にまぶして、おふくに食べさせた。  慶長《けいちよう》二年から三年にかけて、おふくは幸せな母であった。  夫の正成は朝鮮へ出陣したまま、帰って来なかったが、留守の寂しさを忘れさせるほど一日一日と成長する我が子は愛らしかった。  男の児は育てにくいというが、正勝も神経質なところがあって、よく熱を出した。  疳《かん》の虫のせいだからと、近くの寺で虫封じの護符を授かって来たりしたが、それでも夜泣きの続くことがある。  乳母はいらないといった以上、赤児の世話はおふく一人の責任であった。  頼りにしていた母は、孫が誕生した年の秋まで滞在したが、あまり長くなってはと、冬の来ない中に肥後へ帰ったので、それから先は、おふくの才覚だけで子育てをしなければならない。  よく晴れた冬空は星が海のむこうのほうまで見渡せた。 「早く大きゅうなるのですよ。あのお星様の下で、そなたのお父上はいくさをしてお出でなのだから……よい子に育って、お父上を喜ばせてさし上げなければ……」  おふくの懐に抱かれて、星空の下で泣いていた赤ん坊が最初の誕生日を迎えて間もなく、正成は主君、小早川秀秋と共に突如、朝鮮から呼び戻され、妻子の許《もと》に立ち寄る暇もなく、まっすぐに京へ向った。     五  大閤秀吉に呼びよせられた小早川秀秋の御前の首尾は悪かった。  軍律を破って兵を動かしたというものだったが、小早川秀秋はもとより、従っていた小早川家の重臣達にとっても、見当違いの叱責《しつせき》と聞えた。  総大将が戦略を決め、それに従って軍を進めるといういくさならば、軍律を破るという言い方があるかも知れないが、朝鮮における合戦は、そんなものではなかった。  指揮官をつとめる加藤清正と小西行長《こにしゆきなが》が反目し合っていたこともあって、戦いはいつも出たとこ勝負のようなものであった。  敵がどこへ現われたと知らせが来れば、そちらの備えに走り、包囲されたとわかって遮二無二《しやにむに》、敵陣を突破する。  そうした状況にあっては、軍律もへったくれもなかった。  臨機応変に兵を動かさなければ、全滅してしまう怖れもある。  小早川秀秋は若さにまかせて、取次役の石田三成《いしだみつなり》に戦場の有様を伝え、釈明につとめたが、三成は、 「大閤《たいこう》殿下の思《おぼ》し召し……」  というばかりで、埒《らち》があかない。 「おのれ、石田|治部奴《じぶめ》、淀どのの意向を受けて、この秀秋を潰《つぶ》す気か」  戦いの苦労も知らず、妻子と別れて他国に屍《しかばね》をさらした兵の悲しみもわからず、身勝手ないいがかりだと、若い主君は憤ったが重臣達は心の底まで青くなった。  下手をすると、関白秀次の二の舞と思う気持が誰《だれ》の胸にもある。 「この上は然《しか》るべきお方にお取りなしを頼《たの》むしかあるまい」  という重臣達の意向を受けて、稲葉|正成《まさなり》は伝手《つて》を求めて北の政所へ訴状を出した。  二年にわたる朝鮮での合戦の様子をこと細かに記し、主君、小早川秀秋の大閤殿下に対する忠節を述べ、その上で讒言《ざんげん》によって窮地に立たされている旨を訴えた。  間もなく、正成にひそかな使者が来た。  四十なかばと思われる品のよい女性であった。 「北の政所様より内々のお指図にございます」  低いが、しっかりした声音で、その女性が伝えたのは、大閤殿下にこれ以上、釈明をするよりも、筑前《ちくぜん》へ戻って慎んでいるようにというものであった。 「そのようなことをして、更におとがめを受けますまいか」  女の使者の身分ありげな様子に、つい、正成はすがるような気持で訊《たず》ねた。 「申すも憚《はばか》り多いことでございますが、大閤《たいこう》様には、このところ、お体がよろしくございませぬ。その枕辺《まくらべ》には淀の御方様、石田治部どのがつききりで居られると承って居ります。  そのようなところへなにを言上しても、事態は決してよいようには向いますまい」  とりあえず、大閤殿下の命に従い、下知の通りに越前《えちぜん》国へ国替えをする準備と称して筑前へ戻っているのが良策と使者はささやいた。 「北の政所様には中納言《ちゆうなごん》様をたよりになされてでございます。くれぐれも御自重下さいますようにとおことづてでございますれば、何卒《なにとぞ》、よしなに」 「委細、承知仕《つかまつ》りました」  使者を送って出ながら、正成はそれとなく訊《たず》ねた。  北の政所様、お使いとだけで、この使者は名乗っていない。 「おさしつかえなくば、お使者どののお名前を承りとう存じます」  使者が目許《めもと》だけで笑った。 「くれぐれも、御他言御無用に願いまする」 「かまえて、洩《も》らしは致しませんが……」 「内府《ないふ》様より阿茶局《あちやのつぼね》の名を賜って居ります」  正成は思わず相手を見直した。  内府様とは内大臣|徳川家康《とくがわいえやす》であり、その家康に阿茶局という才長《た》けた愛妾《あいしよう》があることを正成は知っていた。  かねがね、北の政所と家康とは交誼《こうぎ》があって、殊に阿茶局はしばしば、北の政所の許《もと》に御機嫌うかがいに出入りしているという噂《うわさ》も聞いている。  北の政所の意向を故意に、徳川家康の愛妾が使者に立って伝えに来たという意味は、いってみれば、これは内大臣徳川家康の意向ということにもなる。  そのあたりを含んでくれといわんばかりの挨拶《あいさつ》であった。 「中納言《ちゆうなごん》様御家中でも、稲葉正成様は深謀遠慮《しんぼうえんりよ》のお方と承って居ります。かまえて、御主君、秀秋様をよろしゅうと、北の政所様のお言葉にございました」  平伏して、正成は使者を見送った。  正成の意見はそのまま、重臣の意見でもあった。  小早川秀秋は、あくまでも大閤《たいこう》殿下の御命令に従うと石田治部へ伝え、家臣と共に筑前へひき返した。  だが、筑前へ戻っても、直ちに国替えを命じられた越前《えちぜん》へ移ることはなかった。 「金吾中納言様、筑前へお帰りになられてより、俄《にわ》かの御発病、御回復まで暫時《ざんじ》の御猶予を願い奉る」  という歎願書《たんがんしよ》が家老の名によって大坂城へ出され、小早川秀秋は城中深くひきこもったまま、家臣の前にも顔を出さなかった。  国替えを延引させるために、稲葉正成が考えた口実だったが、実際に秀秋は帰城すると間もなく、心身の疲労が出たのか床につくことが多くなった。  殿様、御発病の噂《うわさ》は城下の人々の耳にも達し、それは国境を越えて隣国にまで聞えた。  近隣の大名により、小早川秀秋が重病にかかっていることは、大坂城にも伝えられた。  そして、その頃の大坂城は、もはや小早川秀秋の国替えどころのさわぎではなかった。  重患で病臥《びようが》しているのは、大閤秀吉であった。それも、日々、衰弱が激しい。  秀吉が病床へ五大老、五奉行を呼びよせて自分の亡きあとの秀頼への忠節を誓言させたという知らせが、極秘に五大老の筆頭である徳川家康から阿茶局の文として正成の許《もと》へもたらされたのは八月のことで、その後を追いかけるようにして、大閤様御逝去の報が入った。  小早川秀秋は、秀吉の死によって越前の国替えがうやむやになった。  その頃から、おふくは夫の正成が徳川家康に並々ならぬ関心を持っているのに気がついた。 「内府様は苦労人なそうな」  とか、 「内府様には、よい御家来衆が揃《そろ》って居るらしい」  などと洩《も》らす折がある。  が、それ以上のことではなかった。  おふくは、夫とは別の意味で大閤秀吉の死に、ほっとしていた。  亡父、斎藤利三を殺した男であり、おふく達、家族は彼の目を逃れて放浪した。  おふくが、親類の稲葉重通の養女になったのも、謀叛人《むほんにん》の娘という立場から解き放たれたいためであり、身の安全を願ってのことであった。  いってみれば、これまでのおふくの生涯は大閤様の目に触れないように生きることであった。  その相手が死んで、長年の不安が消えたような気持であった。  筑前に落着く暇もなく、正成はまだ病が本復したとも思えない小早川秀秋の供をして、慌しく上洛《じようらく》して行った。大閤殿下の法要に参列するためでもあり、その後の天下の趨勢《すうせい》を察知する目的もあった。 「大坂では、北の政所様と淀の御方様の間柄が、ひどくお悪いそうでございますな」  正成が留守になってから、秀尾がおふくにそんな話をした。 「大閤様が御存命の頃は、なにかにつけて北の政所様をお立てになってお出でだったので、まだ、けじめがついていたものを、お歿《なくな》り遊ばしたとたんに、淀の御方様が若君をおつれになって大坂城へお入りになり、北の政所様を追い出してしまわれたそうですよ」  おふくは目を丸くした。 「そのようなこと、誰《だれ》が申して居るのですか」 「御家中の、主だった方々がお話しになったそうですが、殿様はなにもおっしゃいませんでしたか」  逆に訊《き》かれて、おふくは首をふった。 「殿は、あまり御政道むきのお話はなさいません」 「御城下では、いろいろな噂《うわさ》がささやかれて居ります」  得意気に秀尾は続けた。 「次の天下人には、どなたがおなりになるのだろうか、とか」 「次の天下人は、大閤様の若君ではないのですか」  思わずいった。  淀の御方と呼ばれているお茶々《ちやちや》が、秀頼を産んだのは文禄《ぶんろく》二年のことで、当時、三条西家に仕えていたおふくにも、大閤様が大喜びなされて、淀の御方のために朝鮮を攻め取って差し上げるつもりだというような風聞さえ流れたものであった。  その秀頼が当然、次の天下人とおふくは考えていた。 「奥方様には御存じありませぬか、秀頼様が御誕生の時、下々で、あれは大閤様のお子ではない、大野治長《おおのはるなが》の胤《たね》じゃという噂が、まことしやかに流れました」 「それは、私も聞いたことがございます」  三条西家の奉公人たちの間で、面白ずくにささやかれていた。 「でも、まさか……」  大閤殿下と呼ばれる人と、その寵《ちよう》をほしいままにする淀の御方のことであった。 「大閤様に若君がはじめて御誕生になったのは五十三におなりになってからでしたから、そのようなお噂が立ったのでございましょうが……」  淀の御方が最初に産んだ鶴松《つるまつ》が二歳で病死し、その後、二年|経《た》って秀頼が誕生している。  秀吉はこの若君の将来のために、徳川家康の三男|秀忠《ひでただ》の娘、千姫《せんひめ》を未来の花嫁にと約束していた。 「それほどまでに若君を御寵愛になってお出ででしたのですから、よもや不義のお子ではありますまい」 「御存じなかったのは、大閤様だけということもございましょうが……」  秀尾は冗談らしく反論した。 「第一、大閤様には北の政所様をはじめとして、淀の御方、松《まつ》の丸《まる》様、三の丸様、加賀《かが》様と数え切れないほどの御寵愛のお方がおいでなされたのに、どちらにもお子はお産まれではございません。何故《なぜ》、淀の御方にだけお二人も若君が御誕生なさったのでございましょう」 「そのようなことは、私は存じません」  険しい表情で、おふくはその話を打ち切ろうとした。 「秀尾は、少し口が過ぎます。奥の取り締りをする者が、そのように口さがなくては、下の者へしめしがききますまい、慎まれますように……」  秀尾が横をむいていやな笑い方をした。 「奥方様は、お固くて融通がおききになりませぬなあ。したが、それが、奥方様のよいところかも知れませぬ」  早く、あの女に暇をやりたいとおふくは思った。  先妻の二人の娘も年々、大きくなって、物心がついて来ている。  いつまでも、実子と継子《ままこ》とわけへだてをするのはよくないと思いながら、それも、秀尾がいる中は、どうしようもない。  が、おふくは気がついていなかったが、おふくの気持の中に、本能的に淀の御方に対して或《あ》る種のひけめというか、同情しなければならないようなものがあった。  それが、どこから来ているのか、その時のおふくは別に考えてもみなかったのだが、間もなく、我が子、正勝の守りをさせている初老の女中から、 「姫様の御乳母どのが、このように申されて居りました」  といったいいつけぐちを聞いた。 「奥方様は、明智光秀様の御家来、斎藤利三様のお子様で、そもそも淀の御方様がその頃、猿面冠者《さるめんかんじや》などと呼ばれていた秀吉様の側室に上られたのは、明智光秀様が御主君の織田信長様を滅したからで、そのために淀の御方様は後楯《うしろだて》を失って、母君のお市《いち》の方は柴田勝家《しばたかついえ》様と再婚なさり、更には秀吉様が柴田様を攻め滅された時にはその母君まで兵火の中でお失《なく》しになって居られます。それもこれも、もとはといえば、織田信長公が本能寺で殺されたからで、その謀叛人《むほんにん》の縁につながる奥方様としては、淀の御方様を悪くいうわけには行かないのだと、かように話して居りました」 「馬鹿《ばか》な……。そのような昔むかしのことにこだわっては、とても生きては行けませぬ。秀尾の悪推量と申すものです」  一笑に付しながら、おふくは内心で、成程、そうしたこともあるのかとは思っていた。  別に、淀の御方に味方するつもりは全くないが、考えてみれば、お気の毒な人だとも思えた。  敵の妻になるというのは、例のないことではないが、淀の御方にとって実の父である浅井長政《あさいながまさ》を討ったのも秀吉なら、養父の柴田勝家を滅したのも秀吉である。  その人の愛妾《あいしよう》となって若君を産めば、不義の子ではないかと世間が噂《うわさ》をする。  世が世であれば、右大臣織田信長の姪《めい》であった。  同じ、世が世であればという感懐も、おふくの母などとは桁《けた》が違う。  だからといって、おふくは格別、淀の御方に同情しているわけでもなかった。  天下人の妻になって、子供を産むと淀に豪勢な城を築いてもらって、淀の御方と呼ばれるほどの栄華の暮しをして、今は我が子と共に、天下人の象徴ともいうべき大坂城の主となっている。  女としては、幸せを極めたとおふくは思った。おふくが同情しなければならないことはなにもない。     六  大閤秀吉が歿《なくな》ったのは、慶長《けいちよう》三年八月のことだったが、その一周忌にもならない、翌慶長四年三月に加賀《かが》の国主、前田利家《まえだとしいえ》が薨《こう》じた。  前田利家は織田信長の家臣であり、秀吉とは竹馬の友であった。  五大老の筆頭として、まだ幼い秀頼を補佐すると共に、とかく反目しがちな北の政所と淀の御方の間を、波風立たぬよう心をくばってきた。いわば、豊臣家にとって重鎮ともいうべき立場の人物がこの世を去って、いよいよ北の政所と淀の御方との確執が大きくなったといえよう。  秀吉の死後、大坂城を出た北の政所は京都|三本木《さんぼんぎ》というところに住み、剃髪《ていはつ》して高台院《こうだいいん》と称していたが、彼女の許《もと》には大閤殿下の恩顧を忘れない大名達がしばしば出入りし、仏前に香華《こうげ》をたむけているようであった。  慶長五年の正月、久しぶりに筑前へ戻ってきた正成を出迎えた時、おふくは夫が今までにみたこともないほど憔悴《しようすい》しているのに、胸を轟《とどろ》かせた。  朝鮮から帰国した当座も、二、三年余分に年をとったような印象を受けたのだったが、このたびは、心身共に疲れ果てているように思えた。  朝鮮へ出かけたのは合戦のためであり、どれほど苦労の歳月だったかと思いやることはあっても、いってみれば主君をはじめとして将兵ことごとくが疲れ果てて帰ってきたので正成一人のことではなかった。  けれども、今回の上洛《じようらく》は戦に出て行ったわけではなかった。  秀吉|歿後《ぼつご》のさまざまな中央の変化に対応するための都暮しで、殊に後半は大坂にある小早川家の屋敷に滞在していたものだと聞いていた。それにしたところで、激務というものではあるまいと思う。  で、おふくは夫がよくよく大きな心労を抱え込んで帰国してきたものに違いない、と悟った。  正成は、見違えるほど大きくなっていた正勝の顔をみ、先妻の二人の娘を呼んで京土産などを手渡すと、早々に湯に入った。  嫁に来て以来の習慣と、おふくは裾《すそ》をからげて、夫の背を流しに湯殿へ入った。  正成の背は少々、肉が落ちていた。 「殿はお痩《や》せになりました」  丹念に垢《あか》すりを使いながらおふくがいうと、目を閉じていた正成が急にいった。 「時には女子のほうがよいこともある。いや、女子でなければならぬ場合もあるのだ」  おふくは夫の顔をさしのぞいた。 「なんのことでございましょう」 「内府様に阿茶局《あちやのつぼね》と申す女子が居られる」  低い声で正成がいった。  内府様とは徳川家康のことだと、おふくは全身を耳にした。 「無論、御寵愛《ごちようあい》の女子だが、その才智《さいち》は男も到底、及ぶところではない」  それでいて、みかけは派手なふうではなく、むしろ、慎み深い。 「男が動けば、とかく人の目に触れるものを、女であるばかりに、さして、あやしまれることもない」  よく、高台院様の京の住居に、徒然《つれづれ》をおなぐさめするために来ているといった。 「高台院様の許《もと》には、今でも多くの大名が亡き大閤殿下の御霊前に香華をたむけに参って居られる。阿茶局は高台院様と共に、それらの大名に会うことがある」  今、大坂城にいる淀の御方やその側近である石田三成らが、もっとも気にしているのは徳川家康の動静だと正成はいった。 「内府様が、高台院様の許へ出入りをすれば、忽《たちま》ち、大坂方が目くじらを立てる。しかし、阿茶局なれば、なんということはない」  漸《ようや》く、おふくは夫のいわんとするところを察知した。 「それでは阿茶局様は内府様の意を受けて、高台院様の許《もと》にお出でになる大名の方々と、なにやらお話し合いになって居られるのでしょうか」  正成が苦笑した。 「そうした役目、もし、そなたならやり遂げられるか」 「滅相もございません、私ごときになにが出来ましょう」 「並みの女子には無理なことだ。内府様は阿茶局をとりわけ御寵愛《ごちようあい》なさるそうな。もっとも、内府様は才女がお好きなようで、小野《おのの》お通《つう》と申す女子もお傍《そば》近くに召し使って居られるそうだが、そのお通は、徳川家の奥仕えの女たちに琴や茶の湯、香道、礼儀作法まで教えているとか、これが亦《また》、大層な美女という話だ」  黙《だま》っていたが、おふくの気持の中で僅《わず》かに苛立《いらだ》つものがあった。  夫が口をきわめて賞讚《しようさん》する阿茶局や小野お通という女に、かすかな羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》をおぼえた。  が、その時のおふくは、女でも、時には男以上の働きをするといった夫の言葉が、心のどこかに残っただけであった。  その春にかけて、正成は筑前の名島城下で暮していた。  おふくが二度目の懐妊に気がついたのは三月であった。  正成が帰国してすぐに懐胎したものである。  最初の子が誕生した時、正成は朝鮮にいた。  で、おふくとしては、今度はなんとか夫が傍《そば》にいる時に出産したいと思っていたのだったが、五月になると、大坂城から使者があって小早川秀秋の出府を求めて来た。 「御帰国は、いつ頃になられましょうか」  ぼつぼつ目立ちはじめた腹部を気にしながら、おふくが問うたが、正成は気むずかしい顔で首を振っただけであった。  関《せき》が原《はら》の合戦に至るまでを、おふくはたいして知らされたわけではなかった。  六月に徳川家康が会津《あいづ》攻めのために出陣して行くと、石田三成の命令で、家康に従って会津へ向った大名の妻子は突如、大坂城へ人質として連行されるという騒動があり、それを拒んだ細川忠興《ほそかわただおき》の妻が屋敷に火をかけて自刃《じじん》するという事件が起った。  おふくがその知らせを受けた頃には、石田三成、小西行長らが中心となって家康討伐の軍をおこし、毛利輝元《もうりてるもと》、宇喜多秀家《うきたひでいえ》、吉川広家《きつかわひろいえ》、島津義弘《しまづよしひろ》、蜂須賀家政《はちすかいえまさ》、長宗我部|盛親《もりちか》らの諸将と共に小早川秀秋も大坂方に参集した。  戦はまず家康の留守を守っている伏見城を攻めるに始まった。 「御主君、金吾|中納言《ちゆうなごん》様、大坂方におつきなされました」  という知らせが筑前に届いた時、おふくは意外に思った。  これまでの夫の言動からして、徳川家康に心を寄せている様子が窺《うかが》われたからである。  それは、もしかすると主君、秀秋が北の政所を通じて、徳川家康とよしみを通じているのではないかと思っていたからである。  それに、今度のいくさは、表むきはともかく、北の政所高台院方と大坂城の淀の御方の反目に根ざしているとは、おふくですらもわかっていることであった。  関が原の合戦は、伏見落城からおよそ二か月後のことであり、その時のおふくは臨月に近かった。  使は次々と城内に入るが、なにしろ軍勢の大半が主君と共に出陣してしまっているので、留守は老人が多かった。  伏見落城からは、もっぱら、石田三成方の優勢が伝えられていたのが、九月になって或《あ》る日、突然、徳川様大勝利の報が入り、続いて、小早川秀秋様、東軍にお味方なされましたという知らせがもたらされた。  正直のところ、留守の人々はあっけにとられた。  西軍、石田三成方に組して戦っていた筈《はず》の主君が、関が原の合戦で西軍を裏切って東軍に味方したというのであった。  釈然としないままに、 「ともかくも大勝利、おめでとう存ずる」  という者があるかと思うと、 「そもそも、我が殿は高台院様、甥御《おいご》様じゃ、本来から申せば、当然、東軍にお味方する筈のものであった」  なぞと弁解がましく述べたりする。  そうした中で、おふくは医師がいった予定の日よりも半月も早く、第二子を出産した。  次男の稲葉|正定《まささだ》である。  小早川秀秋に従って、稲葉正成が帰国したのは、秋も深くなってからであり、それより先に、 「我が殿には、このたびの恩賞として備前《びぜん》、美作《みまさか》五十一万石の領主になられました」  という知らせが、名島城へ入っていた。  つまり、早々に筑前から備前|岡山《おかやま》城へ移らねばならない。  家中の留守宅には、早速、その旨が伝えられたので、おふくも産後の体で女中達に指図をして家財道具のとりまとめなど、引越しの支度をはじめていた。  勝ちいくさの凱旋《がいせん》にもかかわらず、正成の表情は暗かった。  正成だけではなく、家中の面々の顔色も冴《さ》えない。  正成はなにもいわなかったが、帰国後、間もなく、 「稲葉様は、御主君の御機嫌を損じていらっしゃるそうな」  といった噂《うわさ》が、おふくの耳にも入って来た。  いわれてみれば、正成は帰国以来、あまり城中に出仕もせず、家臣に指示して備前へ移る用意を急がせている。 「まことのことでございましょうか。あなた様が、御主君のお怒りを買って居られると申しますのは……」  たまりかねて、おふくは夫に訊《たず》ねた。 「いったい、なんのために、そのようなことを噂されますのか」  正成は最初、おふくの問いにとり合わなかったが、やがて苦笑まじりにこう答えた。 「御主君が、わしを不快に思われるのは、わしが高台院様、徳川内府様の御意向を取り次いで、東軍にお味方するようおすすめ申したからだ」  小早川秀秋の許《もと》には石田三成から何回も使者があって、ご西軍に味方するよう要請があったという。 「でも、中納言《ちゆうなごん》様にはもともと、北の政所様の甥御《おいご》様ではございませんか、高台院様がお心をよせられていたのは徳川様でございましょう」 「しかし、我が殿にはかつて、大閤殿下の御養子でもあった。大閤殿下への恩義をいわれれば、大坂方にお味方しないわけにも行くまいが……」  関が原の合戦では、敗者となった石田三成、小西行長、安国寺恵瓊《あんこくじえけい》など、ことごとく六条河原で斬首《ざんしゆ》されたが、その背後にあった淀の御方も豊臣秀頼も、なんのかかわりもないとして、全く処分は受けなかった。 「内府様にしてみれば、今、大閤殿下の忘れ形見である秀頼公を処罰しようとすれば、関が原の合戦で東軍についた諸大名の中にも、異議を称《とな》える者が多いのを御承知じゃ」  いってみれば、豊臣家譜代の大名の中にも、石田三成、小西行長に反目して東軍についた大名が多かった。 「淀の御方はともかく、秀頼公まで討とうとなると、内府様は数多くの敵を相手にしなければならなくなる。そのためにも、大坂城の御母子には手を出されなかったのだ」 「そのことと、あなた様が御主君から不興をお買いなさるのと、なんのかかわりがございますのか」  正成は妻の追及にうなずいた。 「かかわりがないとはいえぬ」  西軍を裏切って、東軍についた小早川秀秋は、戦が終ると、大坂城の淀の御方、秀頼に対して不面目な立場におかれた。 「東軍についたために、結果からいえば、お命も無事、領地も禄高《ろくだか》が増えたことになったが、御主君のお気持の中には、淀の御方や秀頼公からどのようにさげすまれているかと思われて、お心が落着かれないのであろう」  最初から東軍の陣営に加わったのなら、まだしも、天下分け目の関が原において、西軍を裏切ったのであった。 「わしは、最初から内府公にお味方するように申し上げた。が、御主君にはその決心がおつきなされなかった」  徳川家康と共に会津討伐の軍に加わっていれば、まだよかったと正成はいった。 「大坂にいたのが不運というべきかも知れぬが……」  大坂方の警戒の目をくぐって、大坂から脱出するのは難かしかった。 「あの場合、止《や》むを得なかったと、わしも思ってはいるのだが……」  いずれにしても、今の小早川秀秋は裏切者という汚名に押しつぶされそうになっていると、正成はいった。 「御主君は、それを、わしのせいにして、少しでも御自分の重荷を軽くなさろうとしてお出でなのだ」  そういった時、正成の目の中に浮んだ、明らかな主君に対する軽侮の色を、おふくは見逃さなかった。  家臣が己れの主君に不信を抱いたら、主従の関係は成立しない。  といって、主家を離れれば浪人であった。  おふくの不安を見抜いたように、正成は低く笑った。 「案ずることはない。わしは五万石を棒に振るようなことはせぬ」  年の暮に、小早川家の家中は主君ともども、筑前から備前岡山へ移った。  事件は、秀秋の行列が城下へ入った時に起った。  華やかな行列を見物していた領民の中から、 「裏切者」  という罵声《ばせい》がとんだのであった。  続いて、 「犬畜生……」 「二股《ふたまた》こうもり……」  声は道の前後左右から起り、行列の者が走って行って捕えようとしても、誰が叫んだのかわからない。  供廻《ともまわ》りの侍が右往左往しただけで、犯人は挙がらなかった。  駕籠《かご》の中の、小早川秀秋の耳にも、その声は届いていた。  考えてみれば、備前岡山城の主は宇喜多秀家《うきたひでいえ》であった。五大老の一人として、幼い秀頼の補佐をつとめ、今度のいくさでは西軍で奮戦した。  その宇喜多秀家は八丈島《はちじようじま》へ流罪になっている。  領民の中から、そうした声が上るのも無理はなかった。  だが、新しい領主の国入りの日の、この出来事は小早川秀秋の神経をひどく傷つけた。  それでなくとも、朝鮮に出陣して以来、心身の疲労が回復しないままの秀秋であった。  その前から気配のあった秀秋の心神耗弱《こうじやく》が岡山城へ入ってから、急激に悪化した。     七  おふくにとって、備前岡山城下での暮しは一年足らずで終った。  その間、正成は病と称して、殆《ほと》んど出仕をせず、屋敷にひきこもっていた。  が、彼が鬱々《うつうつ》として悩んでいただけではないことを、あとになっておふくは知った。  岡山へ移って間もなく、正成は秀尾に暇を出した。  そのことを、おふくは全く知らずにいて、秀尾が、 「お暇《いとま》の御挨拶《ごあいさつ》に参りました」  といってからも、僅かの間、合点の行かない顔で相手をみつめていた。 「長らく御奉公をさせて頂きましたが、このたび、お暇をたまわって、京へ参ることになりました。何卒《なにとぞ》、お二人の御姉妹のこと、お願い申し上げます」  丁寧に頭を下げた秀尾に対して、おふくはうろたえた。 「あまりにだしぬけではありませぬか、いったい、どうして……」  と訊《き》いても、秀尾は、 「これが、よい機会だと存じますので……」  としかいわない。  考えてみると、秀尾はぼつぼつ三十路《みそじ》に達している筈《はず》であった。  今更、嫁入りでもあるまいが、いつまでも他家に奉公していてもと思う時期なのかも知れないとおふくは思った。  とりあえず、おふくは自分が大事にしている髪の道具一式と、まだ新しい小袖《こそで》を形見にと秀尾に与えた。 「くれぐれも、体を大事に……」  嫁に来て以来、なにかにつけて気に入らない女ではあったが、先妻について稲葉家へ来た者ではあるし、二人の娘の乳母でもあった彼女へ、おふくは心をこめて別れを述べた。 「何故《なぜ》、秀尾に暇をおやりになりましたのですか」  その夜、夫と二人になってから、おふくは訊《たず》ねてみたのだが、 「京の親許《おやもと》から暇をとって来るようにと申して来たそうだ」  あまり気のない返事が返って来た。 「でしたら、私にもそのようにお聞かせ下さればよろしかったのに……」  せめて、ちょっとした引出物のようなものを用意してやりたかったと思う。 「その必要はない。長年の奉公に見合うだけの金子《きんす》は与えてある。それに、そなたはあの女をかつて暇を取らせよと申したのではなかったか」 「そのような古いことを……」  長男をみごもった時に、たしか夫にむかって、秀尾に暇を出して欲しいといったことがあったが、夫がそれを今頃までおぼえているとは思いもしなかった。 「二人の娘も大きくなった。もはや、乳母の必要はない」  それだけで、正成はその話を打ち切った。  だが、半年ほども経《た》ってから、秀尾の文が正成|宛《あて》に届いた。  かなり長いその文を、正成が何度も巻き返し、巻き返しして読んでいるのを、おふくはそれとなく眺めていた。  夫は秀尾の文についてなにも、おふくにはいわない。  正成が寝所へ入ってから、おふくはその文を探してみたが、何故《なぜ》か、どこにも見当らなかった。  更に、おふくが驚いたのは、その夜の夫婦の閨房《けいぼう》で、正成のいった言葉であった。 「稲葉重通どのより知らせがあって、奥方のお加減がよろしくないとのことであった。わしは備前を動くわけにも参らぬので、そなた、四人の子供を伴って、京まで見舞に行って来ぬか」  おふくにとっては養母に当る人であった。  稲葉正成に嫁いでから一度も会っていない。 「幼い者どもを伴っての道中は大変だと思うが、季節は悪くない。筑前からくらべれば、遥《はる》かに道も近い」  それはその通りであった。  形ばかりの養父母ではあったが、おふくを稲葉正成に嫁がせてくれた恩人でもある。 「それでは、行って参ります」  一日を旅支度に費《つか》い、おふくは四人の子をつれて、京へ旅立った。  岡山から京まで、さほどの道のりではないが、幼子をつれている旅なので無理はせず、四日をかけて、おふくは京に入った。  稲葉重通の屋敷を訪ねると、たしかに養母は病んでいたが、重通のほうから岡山へ知らせてやったということはないといわれた。 「もしかすると、秀尾が知らせたのではありませぬか」  といったのは、重通の孫娘のおのうであった。  正成の前妻の妹の娘に当り、おふくが正成の後妻になった時は、加賀《かが》国|小松《こまつ》の城主、前田|対馬守《つしまのかみ》の妻であったが、その後、不縁となり、今は蒲生《がもう》家中の町野長門守《まちやながとのかみ》に再嫁していた。  やはり、祖母の病をきいて京へ帰って来ていたものである。 「秀尾が、こちらへ参りましたのですか」  驚いて、おふくは訊《き》いた。 「あの者は、半年ばかりも前に、暇を願い出て、京へ戻りましたが……」 「なにやら、正成様の御命令で働いているようでございますよ」  というのが、おのうの話であった。 「よくは存じませぬが、この前、ここへ参りました時に、自分が京へ参ったのは、正成の殿の御命令で大事な御用を果すためだと申して居りました」  おのうにいわれて、おふくはあっけにとられた。 「そのようなこと、私はなにも聞いては居りませぬが……」  秀尾が口から出まかせをいったのかと思ったが、どうやら、重通の妻の病気を正成に知らせたのは、彼女らしい。  その証拠に、秀尾からの文の来た夜に、正成はおふくに養母の病を話し、子供をつれて見舞に行くよう命じたのであった。  おふくにとって解せないことはあったが、稲葉重通も、病んでいる妻も、おふくと四人の子供の来訪を殊の外、喜んでくれた。  とりわけ、先妻の忘れ形見の二人の娘は、歿《なくな》ったおのうの母にそっくりだといって、老いた祖父母は涙ぐんだりした。  夫の先妻の妹に当り、おふくにとっても義理の妹であるおのうの亡母は、父親似であった。  おのうがおふくと対面したのは、今度が初めてであったが、義理の姪といってもあまり年齢も違わず、親しみをおぼえた。  人柄はおっとりしていて、好人物である。  気どりがなくて、お腹の中にあるものを皆、口に出して喋《しやべ》ってしまうようなところがおふくには、かえってつき合いよかった。  で、京の稲葉家における居心地は決して悪くはなく、養母の看病をしながら、のんびりした日を送っていたのだったが、一か月近くが経《た》った時、たまたま、町へ買い物に出かけていたおのうが戻って来て、 「備前《びぜん》から、正成様がお出でなされたのではありませんか」  という。  町で、正成らしい男をみかけたもので、 「お声をかけようとしたのですが、見失ってしまって……」  てっきり、ここへ来ていると思って戻って来たのだが、その正成は夜になっても姿をみせなかった。 「おのう様の見間違いでございますよ」  おふくは、いささかそそっかしい義姪を笑った。  おのうが正成と会ったのは、十年以上も前のことである。 「おのう様のおぼえてお出での正成どのと、今の正成どのでは、随分と面変りがしたと思いますよ」  とおふくは笑ったのだったが、そのおふくが数日後、子供達を伴って町へ出ていると、辻《つじ》のむこうを歩いて来るのが、まぎれもなく夫の正成で、それに従《つ》いて来る女が秀尾であった。 「父上……」  と娘達が叫び、それで正成がおふくを認めた。 「これは、どうしたことでございます。備前にお出でなさるとばかり存じて居りましたのに……」  路傍だということを忘れて、おふくは激しい声になった。  なによりも、夫が秀尾と一緒だったことに怒りが湧《わ》いた。 「大きな声を出すものではない」  正成はおふくをたしなめ、すぐにつけ加えた。 「実は小早川家から暇を取ったのだ」  家臣はそっくり主家へ返上して自分一人だけ、浪人したという。  おふくは声が出なくなった。 「十日ほど前に、京へ来て、秀尾の案内で或《あ》る御方にお目にかかって来た。これから、そなた達のところへ参るところであった」  秀尾をふりむいて、あっさりいった。 「ここで別れよう、御苦労であった」  正成がおふくが手をひいていた正勝を抱き上げ、先に立って歩き出したので、おふくも供の女中も、そのあとに従った。  気がついて、おふくがふりむいてみると秀尾はまだ、こちらを見送っていて、おふくに対して丁寧にお辞儀をした。  稲葉家へ来て、正成は義理の父に当る重通と、かなりの時間、話をしていた。  それから養母を見舞い、おのうにも挨拶《あいさつ》をした。  夫婦二人きりになったのは、夜が更けてからであった。 「五万石を棒に振ることはないといっておきながら、かようなことになり、さぞ、驚いたであろうが、さきゆきにあてがあったこととて、遂に決心をしたのだ」  と正成はいった。 「御主君とは、関が原以来、どうにもしこりが取れない有様ではあるし、このまま、小早川家に奉公して良いことがあるとは思えなくなった。子供達のためにも思い切ったほうがよいと考えた」  それは、おふくも漠然と思っていたことでもあった。  武士が、奉公している主人とそりが合わなくなっては、むしろ危険であった。 「中納言《ちゆうなごん》様には、明らかに神経を病んで居られる。このままでは、いつお手討になっても不思議ではない」  おふく達が京へ出発して間もなく、小早川秀秋は近習《きんじゆう》の一人を、たいした理由もなく斬《き》り捨てたといった。 「身の危険を悟って浪人したのだが、前にも申したように、さきゆきのあてがないわけではないので、安心して居るがよい」 「あてとは、なんでございましょう」  どうも、そのために秀尾がなにが画策しているように思えた。 「秀尾はいったい、なにをしているのでございます」 「それは、いずれ話す。せいぜい一年ほど、どこぞで親子共々、浪人暮しをすると思っていてくれればよい」  そんな曖昧《あいまい》な返事で、おふくが満足したわけではなかったが、なにを訊《き》こうにも正成の手がのびて来て、おふくは久しぶりに夫に抱かれた。  昼間、秀尾と一緒にいる夫をみたせいか、おふくはいつもより執拗《しつよう》に夫を求めたし、正成のほうも、彼女が満足して睡《ねむ》りにつくまで、いつもより細やかに交情を尽した。  その秋に、重通の妻が死んだ。  野辺送りがすむと、正成は妻子をつれて美濃《みの》の里に移り住んだ。  僅《わず》かな召使だけの暮しは、五万石の知行取りの時にくらべれば質素なものだったが、貧しいというものではなかった。  正成は時折、一人で京へ出かけ、三、四日して戻って来る。  なんのために出かけるのか、どこへ行ってなにをしているのか、おふくにはなにもいわない。  たまりかねたおふくは、家に米や青物を売りに来る百姓に銭をやっていいふくめ、夫のあとを尾《つ》けさせた。  若い百姓は要領よくその役目を果して、おふくに正成の行った先を知らせた。  山科《やましな》にある女の家だという。  それだけで、おふくは見当がついた。  百姓に案内させて、おふくは自ら、山科へ出かけて行った。  小さな寺の裏にあるその家に夫はいた。 「秀尾に会わせて頂きましょう」  おふくは夫を押しのけるようにして家に入った。  そこは、まさに新世帯であった。  夫の着物がかけてあり、さしむかいに夕飯の膳《ぜん》がしつらえてある。  秀尾は世話女房のように酒をあたためていたが、入って来たおふくをみると、流石《さすが》に顔色を失った。 「これは、どういうことでございますか」  部屋を眺め廻《まわ》して、おふくは詰問した。 「仰せられませ。秀尾はいったい……」  そういいながらも、おふくはまだ、よもやと思っていた。  秀尾は奉公人であった。  おのうがいったように、主人のためになにかしようとしていて、正成がここへ来るのはその目的のためではないのか。  だが、その時、襖《ふすま》のむこうで赤児の泣き声がした。  慌てたように秀尾が腰を浮かせ、隣室から赤児を抱いた若い女が声をかけた。 「おかかさま、赤児《やや》にお乳を……」  逃げるように、秀尾が隣室へ走り込んで襖を閉めた。  正成は途方に暮れたように、すわり込んでいる。  漸《ようや》く、おふくにも、この家の様子がのみこめた。 「あの赤児《やや》は……あなた様の……」  まさかと思いながら訊《き》いたのに、正成は照れくさそうな顔で肯定した。 「女の子だ。お三津《みつ》といって……」 「では、秀尾が暇を取ったのは、赤児が出来て……」 「それもある……」 「それもでございますって……」  逆上して、おふくは息をはずませた。  あとでわかったことだったが、その時のおふくは、ただの体ではなかった。  三番目の子が胎内に宿っていたことで、おふくの神経は異様な興奮に耐え切れなくなっていた。  彼女自身、自分がなにをしようとしているのか意識がなかった。  襖《ふすま》を開けると、白い乳房をむき出しにして赤児に乳をふくませている秀尾の姿が目に映った。  あの乳を、夫は毎夜、弄《もてあそ》び、赤児と同じように強く吸って、と思った瞬間、おふくは帯の内の懐剣を抜いていた。  秀尾の悲鳴と、赤児の泣き声と、おふくを制する正成の声と、それらが入り乱れ、おふくは庭へころげ落ちた。  そのふりむいた目に、胸許《むなもと》からまっ赤な血を吹き上げるようにして倒れている秀尾の姿が悪夢のように重なった。  正成が秀尾を抱きおこし、その足許《あしもと》には火がついたように泣く赤ん坊がころがっていた。  そして、おふくは自分の手に握りしめている血まみれの懐剣を、もう一方の手で叩《たた》き落した。  乾いた土に血の痕《あと》が点々とこぼれている。  美濃からおふくを案内して来た若い百姓がなにか叫びながら寺のほうへ走って行くのを、おふくはぼんやり見送っていた。     八  慶長《けいちよう》八年の冬は、二十五歳になったおふくにとってきびしすぎるようであった。  美濃《みの》の里は、この年、雪が深かった。  軒の下まで積った雪のせいで屋内はかえって明るい感じがする。  七歳と四歳の二人の息子を寝かせつけたあと、おふくは机に向って写経をするのが日課になっていた。  夜、睡《ねむ》ると必ず夢をみた。  血の海の中で七転八倒して苦しみもがいていた秀尾《ひでお》の断末魔の姿が夢の中に出て来る。  おふくは自分の悲鳴で目がさめ、恐怖におののいた。  そんなおふくの様子をみて、写経を勧めたのは、夫の正成《まさなり》であった。  最初は、誰《だれ》のために、こんな苦患を受けるのかと叫び出したいおふくであったが、自分の仕出かした殺人の後始末に、夫がどれほど苦労したかを知っているだけに、なにもいえなかった。  正成は妻によって刺し殺された秀尾を、通りすがりの賊の仕業と強弁して、遂にそれで押し通した。そのためには、かなりの金を遣ったようである。  もっとも、それは加害者であるおふくを庇《かば》うというより、自分の立場を擁護するためといえないこともない。  だが、そんな夫の心中とは別に、おふくは打ちのめされていた。  毎晩のように夢でうなされているくせに、秀尾を殺したことについては、それほどの後悔はなかった。  写経をしているのは、自分の魂が鎮まるためであった。  秀尾が死んだあとの、夫のおふくに対する釈明はおふくを驚愕《きようがく》させて余りあるもので、なかでも秀尾が、おふくが嫁に行く以前から正成と褥《しとね》を共にする間柄だったというのは信じられない思いであった。  最初の妻も公認だったというのである。 「彼女《あれ》は体が弱かった。二人の娘を産むのがせい一杯で、到底、夜伽《よとぎ》には耐えられない体であった。さればこそ、秀尾が身がわりになったのだ」 「では、何故《なぜ》、私を後添えに迎えたのでございます。秀尾を妻に直されればよろしゅうございましたのに……」 「それは出来ぬ。娘たちの乳母《うば》を奥方にはせぬ」 「私が、あなた様の許《もと》へ参りましてからも、秀尾とみだりがましい仲でございましたのか」 「いや、それはなかった。秀尾とよりを戻したのは、暇を取らせる少し前のことだ」  それが弁解だとおふくにもわかった。  正成はおふくを後妻に迎えた後も、秀尾を愛妾《あいしよう》として遇していたに違いない。下手《へた》をすると、それは奉公人達も衆知であって、気がつかなかったのは、おふく一人だったのではなかったか。  だからこそ、秀尾はおふくに対しても主従とは思わず、いいたいことをいい、やりたいようにふるまっていた。そして、おふくがそのことを正成に訴えても、夫は柳に風とうけ流して、決して秀尾をとがめようとはしなかったのだ。  それだけでも、おふくにとっては気が狂うほどの衝撃だったのに、正成が秀尾を失って殆《ほとん》ど絶望的になっていることを知らされては、もはや、なにをいう気にもなれなかった。 「秀尾が死んで、わしの計画は水泡《すいほう》に帰した。取り返しのつかないことをしてくれた」  無念そうに正成が打ちあけたのは、秀尾が徳川《とくがわ》家の乳母《うば》となる筈《はず》だったというものであった。 「実を申すと、内府《ないふ》様御子息|秀忠《ひでただ》様に昨年七月、姫君が誕生なされた。故あって御母子とも、京《きよう》にお住いだが、秀尾はその姫君の乳母に召されることになっていたのだ」  秀尾が乳母に上れば、それをきっかけとして、乳母の親許である稲葉《いなば》正成を徳川家において召抱《めしかか》えるという内約も出来ていたのが、秀尾の死で御破算になった。 「内府公には、わしが関《せき》が原《はら》の合戦の折、殿にお勧め申して、東軍へ裏切らせた功を、いつか報いてやりたいと仰せられ、その折を待って居られた」  当時、正成は小早川秀秋《こばやかわひであき》の家臣であった。 「関が原の功により、小早川秀秋様は御加増になり、わしも御主君より厚く遇せられる筈《はず》の所を、かえって御勘気をこうむった。そのことは、阿茶局《あちやのつぼね》様より内府様のお耳に届いて居る。それ故、小早川家を浪人した暁には、機会を待って徳川家へ御奉公出来るようにとの、わしの願いも御内諾下された」  正成が、あてがあって浪人したといったのは、そのことであった。  だが、小早川家を浪人したからといって、すぐに召抱えるというのは、徳川家にとっても具合が悪かった。  関が原の合戦での稲葉正成の裏取引を公けにするわけには行かない。  きっかけをつけるまで待てといわれた、そのきっかけが、秀尾を乳母に上げることであった。  すでに小早川秀秋は昨年の秋に病があらたまって急死している。それは、小早川家の旧臣を徳川家が召抱えるには都合がよかった。 「秀尾は、わしにとって、出世のきっかけになる筈であった。それをそなたは嫉妬《しつと》に狂って打ち砕いてしまった」  実際、正成は落胆し切っていた。美濃へ移って来た時の自信に満ちた、ふてぶてしさが消えて、失望の色をかくせない。  夫婦の間柄《あいだがら》が気まずいということもあって、事件以来、美濃には落つかず、もっぱら京に仮住いしている。おふくのほうも、その夫をとがめる気力を失っていた。  おふくにとっては義理の姪、つまり稲葉正成の前妻の実妹の娘に当るおのうが美濃の里へやって来たのは、三月の末、流石《さすが》にこの山里の雪もぼつぼつ解けようかという季節であった。  おのうは娘を伴っていた。 「この子もお濃《のう》と申しますのよ」  音で呼ぶと、やはり「おのう」であった。 「お濃の父が、どうしても私と同じ名前がよいと申しまして……、まぎらわしいので、私は止《や》めたほうがよいといいましたのに……」  娘に妻と同じ名前をつけるというのは、夫が、それだけ妻を愛している証拠のようなものである。  夫と疎遠になっているおふくとしては、ただ微笑して聞いている他《ほか》はない。  おのうがわざわざ美濃までやって来たのは、 「実家《さと》の祖父が、おふく様からおあずかりしている二人の娘のことで、私におふく様と相談して来るよう申しつかったものですから……」  という。  おふくが、夫と共にこの美濃の里に移る時、前妻の忘れ形見の二人の娘は、京の稲葉家へあずけて来た。  美濃での暮しが落つくまではという気持であったが、それが思いがけず長くなっている。 「祖父が、美濃にいても、正成様の仕官の道がひらけるものでもない。いっそ、京にいてこそ、機会もあろうし、その気があるなら稲葉の屋敷に同居してもよいではないかと申して居りますの」  おのうは、例によってざっくばらんな口ぶりでいった。 「本音を申しますと、祖父は祖母が歿《なくな》って寂しくなっているようですの。出来ることなら、孫達に囲まれて暮したいと考えて、私におふく様を説得するよう申しましたの」  その稲葉|重通《しげみち》も、おのうも、おふくが秀尾を殺害したことは知らないし、正成との夫婦仲が可笑《おか》しくなっているとも思っていない。 「おふく様から正成様におっしゃって下さいまし。老いた祖父への孝行と思《おぼ》し召して……」 「ありがとう存じます。夫は只今《ただいま》、仕官のために旅に出て居ります故、戻りましたら話してみましょう」  おふくにとっては、とりあえずの返事だったが、おのうは安心したようであった。  その夜は、久しぶりに賑《にぎ》やかな夕餉《ゆうげ》になった。この家に客を迎えるなどというのは、はじめてのことである。  おのうの娘のお濃は十七歳にしては体つきはまだ子供子供していた。だが、如何《いか》にも聡明《そうめい》そうな眼差《まなざ》しをしている。 「ぼつぼつ、縁談があるのですけれど、こんなふうで、果して嫁入りが出来るものか、案じられてなりません」  おふく様は稲葉正成どのに嫁がれたのはおいくつでしたか、と訊《き》かれて、おふくは遠い眼《め》になった。 「私も、お濃どのと同じ十七でした」  それから、もう八年の歳月が経《た》っている。 「それごらん。おふく様もお前と同じ年で輿入《こしい》れをなすったのだもの、お濃も今年中にはお相手を決めなくては……。あまり遅くなると、お子を産むのに苦労すると申しますからね」  お濃が軽く首をまげるようにしていった。 「女が子を産むのは、いくつぐらいまでなのでしょうか」  母親がおふくの顔をみて笑い出した。 「あきれたものでしょう。いい年をして、こんなことを申しますの」 「でも、お母様が、遅くなると産むのに苦労するとおっしゃるから……」 「それは人によりけりですけれど……」  それで思い出したようにおのうがいった。 「おふく様は御存じでございましょう。徳川様の御跡取りの秀忠様の北の方は、秀忠様よりも九つも年上でいらっしゃるのですって」 「お江与《えよ》の方様のことですか」  徳川|家康《いえやす》の三男、秀忠が十七歳で淀君《よどぎみ》の妹のお江与と祝言をあげたのは文禄《ぶんろく》四年の九月で、おふくもその年の春に稲葉正成の許《もと》に嫁いだのだが、この徳川家の跡取りの婚礼は京童の内で大層な噂《うわさ》になったものであった。  夫が十七歳で、妻が二十六歳という年齢の差もさることながら、お江与にとって、それが四度目の祝言であるのも、人々を驚かせた。 「お江与の方様は大層、お美しい方だそうでございますね」  今、大坂《おおさか》城にいる淀君よりも、遥《はる》かに臈《ろう》たけてあでやかな美女だと、もっぱらの噂だとおのうは話した。 「なんといっても、母上様が天下一の美女といわれたお市《いち》の方様ですし、お父上は浅井長政《あさいながまさ》様、お血筋からいっても、名流の姫君でいらっしゃいましょう。そのせいでしょうか、秀忠様は北の方様以外には御側室《ごそくしつ》もお持ちにならず、それは大層、御仲むつまじくいらっしゃるそうですよ」  おふくが眉《まゆ》をひそめるようにした。 「秀忠様が、御側室をお持ちにならないのですか」  父親の家康の好色ぶりは稲葉正成の妻になってから、夫に聞いたことがある。  英雄色を好むといい、歿《なくな》った豊臣秀吉《とよとみひでよし》もあまたの妻妾《さいしよう》を持っていたが、家康もそれと劣らぬ漁色家で、甲州《こうしゆう》の武田《たけだ》家を滅亡させたあと、美女を求めて女狩りをしたと悪評をこうむったほどである。  その父の息子が、十七歳で祝言した年上の女房と睦《むつま》じく、側室の一人もおかないというのはおふくにとって信じ難いことであった。 「世間では、お江与の方様が大変なやきもちやきでいらっしゃるので、それ故、御側室をおくことが出来ないなどと申しますが、殿方がその気になれば、出来ないことではございませんもの、やはり、秀忠様とお江与の方様は本当におむつまじいのでございます。その証拠には千姫《せんひめ》様をはじめとして四人ものお子様が御誕生になっていて、それも、子々姫《ねねひめ》様、勝姫《かつひめ》様、それに昨年、お歿りになった長丸《ちようまる》君のお三人は年子でございますもの、どれほど秀忠様がお江与の方様を御寵愛《ごちようあい》遊ばすか、よくわかるというものではございませんか」  袖《そで》を口にあてて、おのうが忍び笑いをした。 「でも、その秀忠様も、昨年はとんだしくじりを遊ばしたとか……」  そもそもは、秀忠とお江与の間に誕生するのが三人目までも女児ばかりだったことから、父の家康が心配して、用事にかこつけて秀忠を駿府《すんぷ》に呼びよせ、そこで、一人の女を夜伽《よとぎ》に侍《はべ》らせたのだという。 「もっとも、その時はお江与の方様も四番目のお子様を御懐妊中だったのですけれど、陰陽師《おんみようじ》に占わせてみたら、今度も女のお子だと申したのですって……。それで、秀忠様もお父上様の勧める女子《おなご》をお断りになれなかったとか……」  黙って聞いているおふくを、おのうは面白そうに眺めた。 「それに、内府様は、かねてから秀忠様がその女子を憎からず思っていらっしゃるのも、とくと御承知だったようですよ」 「誰なのです。その夜伽に上った女子と申しますのは……」  遂に、おふくも好奇心に耐えられなくなった。 「おふく様も多分、御存じのお方……」 「私が……」 「京では大層、評判のお方ですもの。名前をお耳にされたことがおありだと存じます。小野《おのの》お通《つう》といって……」 「小野お通……」  稲葉正成の妻になって地方暮しが長く、世間の噂《うわさ》には疎《うと》くなっていたおふくだったが、小野お通の名は何度か聞いたことがあった。  正成の口からも、内府様が江戸《えど》城に奉公する女中達の行儀作法の師として招いたという話を聞いたことがあるし、それ以前、おふくがまだ三条西《さんじようにし》家に奉公していた時分にも、天下の歌よみといわれていた九条稙通《くじようたねみち》が清少納言《せいしようなごん》の再来ともてはやしている女が、勧修寺《かしゆうじ》大納言に仕えていた女房の娘で、お通というのだと評判になっていたのもおぼえている。 「小野お通が、秀忠様の夜伽《よとぎ》に召されたのですか」  改めて訊《き》いたのは、おふくの記憶だと、お通という女は自分よりもかなりな年上だったような気がしたからである。 「ええ、そうですとも。内府様は下々の者が後家好みだと申しているそうですけれど、そのお子だけあって、秀忠様も年上の、他人の女房だった女がお好きなようですのね」 「お通も、年上ですか」 「ええ、お江与の方様よりも二つ上ですと。おまけに、以前、関白|秀次《ひでつぐ》様の御家来だった塩川志摩守《しおかわしまのかみ》どのと子までなしながら、夫婦別れをしているのですよ。その上、秀忠様のお子を産んだのですから……」  流石に、おふくは声を上げた。 「お通が、秀忠様のお子を……いつ……」 「昨年の七月……。でも、残念なことに女のお子で初姫《はつひめ》様とお名がついたそうですよ」  たまたま、秀忠の本妻であるお江与の方はその前の年の十二月に産んだ若君、長丸が同じく昨年の九月に病死したこともあって、お通が夫の子を産んだとは、まだ知らないらしいと、おのうはいった。 「でも、いつまでもかくしておけることではございませんでしょう。それで、お通は姫君と共に京の勧修寺家の宇治《うじ》の別宅へかくれてお暮しなのだそうですけれど、やはり、三十をすぎてのお産ともなるとお乳が思うように出なくて、昨年の秋には内府様のお指図でお乳人《ちのひと》が召し出されたと申しますよ」  なにかが、おふくの頭の中で、はじけた。  夫の正成が秀尾を乳母にさし出そうとしていたのは、このことだったと思い当った。  江戸城の秀忠夫妻には一昨年の十二月に若君が誕生していたが、その若君の乳母というにしては、昨年の秋に召抱えられるのでは遅すぎた。第一、若君、長丸は昨年の九月に歿《なくな》っているという。  正成がいった、秀忠の子の乳母というのは、まぎれもなく小野お通の産んだ初姫の乳母だったに違いない。  だが、その秀尾を、おふくは殺した。  茫然《ぼうぜん》と考え込んでしまったおふくは、子供達の声で我にかえった。  おふくの幼い息子達《むすこたち》と、お濃が囲炉裏《いろり》で餠《もち》を焼いている。 「おふく様も、ぼつぼつ次のお子がお出来になってもよい頃《ころ》でございますね」  思い出したようにおのうがいった。 「今度は女のお子がよろしゅうございます。正成様もそうおっしゃってではございませんか」  おふくはとってつけたように笑い、召使を呼んで、おのう母子の寝所の仕度をさせた。  翌日、おのう母子が京へ戻って行ってから、おふくは改めて昨夜の話を思案した。  どう考えても、夫が秀尾を乳母に出そうとしていたのは、お通の産んだ初姫に相違ないと思えた。  秀尾をまず、初姫の乳母に上らせて、その縁を頼って仕官をする。  正成が徳川家に召抱えられるには、そんな方法しかないのかと不思議な気がしたが、考えてみれば、小早川家を浪人して来た侍を高禄をもって迎えるには、それ相応の理由がなければ、徳川家譜代の侍達が納得しないだろうと、おふくにも想像がつく。  槍《やり》一筋で出世の出来た時代が、終りかけているのはなんとなく感じられていた。  秀尾が乳母に上るのが挫折《ざせつ》したのなら、自分が代りになれないものかと思いついて、おふくは苦笑した。  おのうの話では、初姫の乳母はすでに秀尾でない女が奉公に上ったようである。  いっそ、お通などのようにかりそめの夜伽《よとぎ》に上った女の子ではなく、御正室であるお江与の方の産んだ子の乳母に上れたらという思いが、その時、おふくの心をかすめた。  だが、おふくは大きな嘆息《たんそく》をついた。  お江与の方は、すでに昨年、歿《なくな》った若君を入れると四人の子を産んでいる。年も三十のなかばと思われた。  第一、仮に、お江与の方がみごもったとしても、肝腎《かんじん》の乳母になるためには、お江与の方の出産に合わせて、自分も子供を産んでいなければならない。そんな都合のよい偶然がめぐって来るとは思えなかった。  しかし、その夜、いつものように写経の机にむかっていたおふくは、突然、胸の奥のほうから激しい吐き気を感じて愕然《がくぜん》とした。  二人の子を産んだ時の経験からして、もしやと思う。  指を折ってみると、月の障りが昨年の秋の終り頃からとどこおっていた。  おふくは、それを秀尾を殺害した衝撃のためと一人で決めていたのだったが、今にして思えば、あの逆上は胎内に子供を宿したばかりの不安定な状態だったからと考えられなくもない。  四月になって、ひょっこり正成が美濃の里へ戻って来た夜に、おふくは夫に妊娠を告げ、そのあとでこういった。 「私は地蔵尊菩薩《じぞうそんぼさつ》様に願をかけましてございます。何卒《なにとぞ》、江戸城にお出でのお江与の方様に若君御誕生遊ばしますよう……」 「なに……」 「もし、お江与の方様に若君御誕生の時には、私を乳母にお召し出し下さいますよう……」 「おふく……」  ふと、正成の表情に優しいものが浮んだ。 「世の中は、そう思い通りに行くものではない。お江与の方様は昨年、長丸君をおなくしなされたばかりだ」 「なればこそ、徳川のお家のために、是非若君の御誕生を願わねばなりませぬ。もし、私がその若君の乳母となることが出来ましたら……あなた様のおのぞみも……」 「それはそうだが……」  秀尾の事件から初めて正成は妻に笑顔をむけた。 「わしも神だのみをしてみるか」  この年の二月、徳川家康は征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に任ぜられ、江戸に幕府を開いていた。  天下の政権は明らかに、徳川家によって掌握されたも同然であり、その徳川家に奉公するのは、関が原の合戦以後、めっきり増えた浪人達にとって最大の夢といえた。  稲葉正成にしても例外ではない。  翌日から、正成は身重の妻と共に、近くの地蔵尊へ参詣《さんけい》をはじめた。     九  おふくの地蔵尊|詣《もう》では臨月まで続けられた。  最初は妻に同行していた正成も、途中からはいい加減になって、大きなお腹を抱えて地蔵尊の御堂へ続く石段を上って行くおふくを左右から支えて行ったのは、七歳と四歳の息子達であった。  八月、おふくは男児を出産した。後の稲葉|正利《まさとし》である。  産後の床あげがすむかすまない中から、おふくは地蔵尊詣でを復活した。  今までの子供達の時と同様に、今度もおふくの乳の出は豊かであった。しかし、それは赤ん坊が母の乳を必要とする間だけのことである。  成長して母の乳を必要としなくなった時、おふくの乳は自然に止まる。それが摂理というものであった。  赤ん坊は誕生して一年もすれば歯が生えはじめる。せいぜい一年半ぐらいが乳の限界であろうとおふくは眉宇《びう》に火がつくような思いであった。  正成は、秀尾を乳母に上げようと画策した折と同じ伝手《つて》を頼って、お江与の方にもし、御懐妊のことがあれば、至急、知らせを欲しいと諸方に声をかけてあるといったが、そのどこからも吉報は来ていない。 「なんといっても、お江与の方は三十四歳におなりじゃ。それに、この前の長丸君御出産はかなり重かったそうで、今後の御出産に差し障りが出るかも知れぬと医師どもが申したらしい。加えて、秀忠公がお通に姫君を産ませたことも、お江与の方の耳に入って夫婦仲が以前のようではないとか聞く。一度、潰《つぶ》れた夢はまず返っては来ぬものだ」  何日か京の知り合いを訪ねて戻って来た正成が気落ちした顔で告げても、おふくの地蔵尊詣ではやまなかった。  まだ首もすわらない赤児《あかご》を背負い、息を切らして石段を上って行くおふくの姿には鬼気迫るようなものがあって、通りがかりの近在の百姓《ひやくしよう》などは、怖《おそろ》しいものをみるように彼女を眺めている。  だが、その慶長八年の暮も押しつまった或《あ》る日、京からの使が美濃の里へやって来た。  使を出したのは阿茶局で、その文の内容は正成を狂喜させた。  お江与の方様、御懐妊の知らせである。  今のところ、医師の診立《みた》てでは、御出産は明年七月とのことで、今年の七月、長女千姫を大坂城の豊臣|秀頼《ひでより》に嫁がせた秀忠夫婦にとっては重なる慶事だと阿茶局は書いている。 「若君を……どうか若君が御出生遊ばしますように……」  おふくの参詣《さんけい》は前にも増して熱のこもったものになった。  すでに、阿茶局を介して、乳母志願のおもむきは将軍家康の耳にも達しているという。  春になって、正成は美濃の住居をひき払って親子共々、京へ移り住んだ。  その頃から、しばしば阿茶局よりの使が来るようになり、正成が出かけて行くことも多くなった。  そして五月。 「喜べ、そなたの願いがかなった。やがて御誕生なさる将軍家の御孫の乳母として、そなたの江戸城奥向きの御奉公が許された。一刻も早く、出府するようにとのお達しである」 正成がおふくに告げ、その日から旅仕度がはじまった。  江戸へ行けば、いつ京へ帰れるかわからないというので、おふくは三人の子を伴って稲葉重通の屋敷へ暇乞《いとまご》いに行き、談合の上、あずけてあった正成の先妻の二人の娘も引き取って一緒に江戸へ伴うことにした。 「私の仕官はまだ先のことになりましょうが、とりあえず江戸に屋敷も拝領出来る手筈《てはず》になって居りますので……」  正成が義父に挨拶《あいさつ》をし、めっきり年老いた重通は、それでも聟《むこ》の出世を喜んだ。 「女の身で御奉公はさぞつらかろうが、稲葉家のためじゃ、心して勤めるがよい」  重通に、はなむけの言葉を贈られて、おふくは頭を下げた。  遮二無二《しやにむに》、ここまでことを運んで来たが、この先に待っているものが、どんなものか、今のおふくには見当もつかない。  おのうは、むしろ江戸へ行くおふくを羨《うらやま》しがっているようなところがあった。 「京の人は、江戸は鬼の棲《す》むところなどと申しますが、京より江戸へ招かれた方々のお話によると、決してそのようなことはないそうで、殊に徳川様お住いの江戸のお城はそれは大層な御普請《ごふしん》とか。まして奥向きは大坂城の淀の御方様の妹、お江与の方様のお住いでございますもの、さぞかし御立派なものでございましょう。そのような所で御奉公申し上げるおふく様が妬《ねた》ましゅうございます」  だが、おふくにとっては琵琶湖《びわこ》から東へ行くのは生まれてはじめてのことである。 「くれぐれもお体をおいとい遊ばして……」  別れがすめば、出立《しゆつたつ》であった。  親子七人、肩を寄せ合い、手を引いて朝靄《あさもや》の立ちこめる都大路《みやこおおじ》を東へ向った。  幼い子連れの道中は思いの他に手間どって、正成一行が江戸へ入ったのは六月のこと、梅雨《つゆ》の晴れ間の暑い日であった。  あらかじめ、定められていたように、正成たちは本多佐渡守《ほんださどのかみ》の屋敷へ草鞋《わらじ》を脱ぎ、やがて外桜田に屋敷を賜って、そこに落ちついた。  おふくの目に映った江戸のお城は案外な感じであった。まだ天守閣が完成して居らず本丸は堂々としていたが、その他は普請中のところが多い。  しかし、江戸の町には異様なほどの活気があふれていた。  城作りよりも町作りが先行しているので、やがて大都会となるであろう江戸の空気を明るいものにしている。 「徳川様の御威勢はたいしたものだな」  おふくは滅多に屋敷の外へ出ることがなかったが、正成は毎日のように幕閣の誰それを訪ねて来たなどといい、江戸への関心を深めていた。その一方で、正成は、三男|正利《まさとし》の乳母になる女を探したりもしていた。  おふくが乳母として御城内へ上ってしまった後のためだったが、それを聞いた時、おふくはなんともいえない寂しさを味わっていた。  間もなく、我が夫とも子供達とも別れて暮す日が来る。  乳母ともなれば、普通の女中のように宿下りなど望むべくもなく、お城へ上ってしまえば、まず当分は我が子に会うことすらままにならなくなると、正成からも聞かされていた。  自分からいい出した御奉公であり、覚悟は決っていたつもりだったが、いざ、その時が近づいて、おふくは内心の動揺をもて余した。  腕白《わんぱく》盛りの長男と次男の養育についても不安だったし、三男は愛らしさを増して来た時期であった。無心に乳を吸っている我が子を、或る日、他人の女にまかせて、いつ家族と会えるとも知れない境遇に身を置くのかと思うと、心がひきちぎられる思いがする。  子供達にしたところで、上の異腹の娘達はともかく、三人の男の児《こ》は今までおふくと別れて暮したことがなかった。突然、母親の姿が、この屋敷から消えたら、どれほど驚き、怯《おび》えるだろうと思う。  我が子との別れのつらさが激しくなるにつれ、おふくは妻子をこうした運命に追い込んだ夫が怨《うら》めしかった。  が、それも稲葉家のためであり、一家が美濃《みの》の里に埋もれるか、浮び上るかの別れ道と思えば、涙をこらえて諦《あきら》めねばならない。  七月になって、おふくは初めてお召しを受けて御城内に上ることになった。  この城の主である徳川秀忠並びにお仕えするお江与の方にお目見得のためであった。  御本丸は、後に表、中奥、大奥の三つに区別されるようになったが、おふくが出仕した当時は、表と奥だけで、奥といっても必ずしも男子禁制ではなく、表といっても御用によっては女中達の立ち入りが出来た。  で、おふくはまず表小座敷から女中に案内されて奥御殿《おくごてん》へ入った。  そこで、まず、家康の側室であり、奥御殿の総取締り役でもある阿茶局と対面した。  阿茶局は、この時、ちょうど五十歳、細面の上品な顔立ちで、しっとりした物腰になんともいえない貫禄《かんろく》がある。  秀忠と、その弟、忠吉《ただよし》の生母は西郷《さいごうの》局《つぼね》と呼ばれる女性であったが、早くに他界していて、この阿茶局が母親代りをつとめて来たといい、その一方で、家康の懐刀といわれるほど政治向きには隠密《おんみつ》に働いていると、おふくは夫の正成から教えられて来たが、こうして向い合ってみると、如何《いか》にも才色兼備といった印象がある。 「稲葉正成どのの御内室《ごないしつ》ですね」  やや低いが、よく透る声であった。おふくは襖《ふすま》ぎわで平伏し、いくらか昂《たか》ぶった調子で挨拶《あいさつ》を述べた。 「はじめてお目通り仕ります。ふくと申します。この度はお局様のお力により、新規御奉公のかないましたこと、幾重《いくえ》にも御礼申し上げます」  阿茶局が軽くうなずいた。 「上様《うえさま》におかせられましては、過ぐる年の正成どのの功績、決してお忘れではございませぬ。この度のそこもと様の御奉公が必ず、よいきっかけになり、一門御繁昌の日を迎えることと存じます。それを頼りに御奉公におはげみなさいますよう……」 「ありがたき幸せに存じまする」 「奥向きのしきたりなどについては、改めて申しきかせましょう。今日のところはお目見得万事、滞《とどこお》りなくあいすませますように……」  本丸奥御殿からの案内は左京局《さきようのつぼね》という中年の女であった。 「これより西の丸へ御伴い申します」  西の丸は秀忠夫妻の住居であった。  そこも、表と奥に分れている。  西の丸の奥御殿は、むしろ本丸のそれよりも華やかな感じであった。おそらくは、ここの女主人であるお江与の方の好みに違いない。  そのお江与の方の居間の襖は鴛鴦《おしどり》が水辺に遊ぶ図柄であった。  すでに出迎えていた侍女がうやうやしく襖を左右に開く。 「只今、新規お召抱えの乳母どの、お目見得にまかり出ましてございます」  左京局が取り次ぎ、深々と頭を下げているおふくにむかって遥《はる》か上段《じようだん》の間《ま》から、 「苦しゅうない、面を上げよ」  と若々しい声がかかった。  おふくは若いと感じたが、それはむしろ愛らしいといったほうが正しいかも知れなかった。  上段の間は見事な几帳《きちよう》をめぐらし、脇《わき》のほうに犬の仔《こ》を描いた衝立がおいてある。これは安産のための縁起物《えんぎもの》であった。  お江与の方は脇息《きようそく》にもたれていた。  白絹の小袖《こそで》に、紅花ぼかしの薄織りの裲襠《うちかけ》を肩から少しばかりずらして羽織っている。  臨月のことで、面ざしはやや窶《やつ》れていたが、それがかえって凄艶《せいえん》な感じがする。聞きしにまさる美貌《びぼう》であった。  傍《そば》から左京局がおふくをお江与の方にひき合わせた。 「稲葉正成の妻、おふくにございます」 「大儀である。よしなにたのみます」  挨拶《あいさつ》はそれだけであった。  おふくが下ろうとしているところへ、先触れが来た。 「殿がこちらにお成りなされます」  秀忠はおふくがあっけにとられるほど気軽に、お江与の方の居間に現われた。  お江与の方は、褥《しとね》を下りて夫に手をつかえている。 「御機嫌は如何《いかが》じゃ」  穏やかな調子で、身重の妻をいたわり、遥かに平伏しているおふくへ視線を移した。 「あの者は……」 「おふくと申しまして、やがて御誕生遊ばす御子様の乳母にございます」  左京局が言上《ごんじよう》し、秀忠は軽くうなずいた。 「左様か、義母上《ははうえ》が仰せられたのは、この者のことであったか」  秀忠が義母上と呼ぶのは、阿茶局のことであった。 「よい乳母を得て、お方《かた》も安堵《あんど》なされたであろう」  少し体を動かしたほうがよいといい、秀忠は自分から手を取って、お江与の方を立たせた。 「朝鮮渡来の朝顔がよう咲いた。庭先へ運ばせた故、ごらんなさるがよい」  お江与の方が甘えたように、夫の腕にすがり、揃《そろ》って広縁のほうへ出て行く。  如何にも仲むつまじいその後姿が、おふくの目に焼きついた。  その日はいったん、お城を下り、二日ほどして改めて迎えが来た。 「それでは、参りますよ。子供達のこと、何卒《なにとぞ》、よろしゅうおたのみ申しまする」  夫に挨拶《あいさつ》した時、おふくの口から出たのは子供のことだけであった。 「そなたも御奉公大事につとめるように……」  前もって、御奉公に上れば、当分、会うことも出来ないと、上の二人の子供にはいいきかせておいたので、今日が別れだというのはわかっている。  今にも泣き出しそうな弟を、兄がしっかり手をつないでやっているのが、おふくには不愍《ふびん》であった。 「健やかに、病などせぬように……」  それだけが気がかりであった。我が子が病気になったとしても、看病にかけつけて来られる立場ではない。 「母上も御健勝にて……」  兄の正勝《まさかつ》がいい、弟が泣くまいとして唇を噛《か》みしめた。 「遅れてはならぬ。早う参られるように……」  夫の声で、おふくは駕籠《かご》に乗った。  迎えの供について来た女中が戸を閉める。ゆるゆると駕籠は動き出した。 「母上様……」  たまりかねたような正定《まささだ》の声が聞えて、おふくは体中が熱くなった。涙があふれて止めることが出来ない。  後髪をひかれるようとは、このことをいうのかと思った。  西の丸奥御殿には、すでにおふくのための部屋が用意されていた。  身の廻《まわ》りの用事を足すための女中が三人つけられている。  その一人は小夜《さよ》といって、今日、駕籠脇《かごわき》についた女であった。  三人とも十八、九で、御家人《ごけにん》の娘ということである。  部屋は簡素なものであった。調度なども充分とはいえない。  あとで知ったことだが、お江与の方に仕えている左京局などの部屋のほうが、余程《よほど》、賑《にぎ》やかに飾りつけられている。 「左京局様はお旗本の井上政重《いのうえまさしげ》様の御息女でございます」  と小夜が教えた。  井上政重は水野守信、柳生宗矩《やぎゆうむねのり》、秋山正重と並んで大目付の役職にあった。これは要職である。  左京局の羽振りのいいのは当然といえた。  一介の浪人者の女房とはわけが違う。  おふくがお城へ上って三日目に、お江与の方は産所へ入った。  奥御殿に奉公する女中達の部屋は長局《ながつぼね》と呼ばれる棟《むね》に集っていて、おふくの部屋もその一部にあったのだが、奥廊下を行く女中達の足音が俄《にわ》かに慌しくなる。 「乳母どのには、いつ、お召しがあるや知れませぬ。そのおつもりで……」  と左京局から使の女中が来て、おふくは用意されていた白麻の衣服に着がえた。が、その夜は何事もなく過ぎた。  七月十七日の明け六ッ近くであった。 「只今、若君御誕生遊ばしました」  御老女と呼ばれている奥御殿仕えの女中が長廊下に、はずみのついた声で触れ廻《まわ》り、おふくはそれ以前に、御産所へ伺候《しこう》した。  襖《ふすま》のむこうで、赤児の泣く声がし、建物のどこかで蟇目《ひきめ》の弓弦《ゆみづる》の音が聞えて来る。  待つというのが、これほど長く感じられるものかと、おふくが思ったとたんに、襖が開いて、阿茶局が白地に徳川家の家紋を染めた産着《うぶぎ》に包まれた赤児を抱いて現われた。 「乳母どの、若君に拝謁《はいえつ》申しつけますぞ」  重々しい言葉に、おふくは平伏し、押し頂くように若君を抱き取った。  生れて間もない赤ん坊は、まだ乳を吸う力はない。これは、いわば儀式であった。  おふくが若君を抱き、お供の女中がついて御産所から若君御養育の間へ移る。  殿内では祝いの太鼓が高々と打ち鳴らされていた。  おふくが初めて若君に乳をふくませたのは、それから半刻《はんとき》ばかり後であった。  最初、おふくがあせったのは、若君がなかなか、おふくの乳首に吸いつかなかったことで、小さな口に、おふくの乳首を入れてやっても、すぐ舌で押し出してしまう。  三人の子を育てたおふくの乳首は大きく、こりこりした感じなのが、若君には馴染《なじ》まないようであった。  御産の医師や御老女のみている前なので、おふくは全身に汗をかき、苦労して若君を乳房に吸いつかせた。  吸い方はあまり強くなかった。おふくの三人の子の時は、こんなものではなかったものをと、おふくは不安になった。どの子も乳首を口許《くちもと》へあてがってやっただけで遮二無二《しやにむに》、吸いついて来た。  それでも、小さな若君は少し乳を吸うと、とろとろと睡《ねむ》り出した。 「お乳母どの、必ずあせってはなりませぬぞ」  阿茶局が、おふくに微笑し、それから手を仕えている女中達を見廻《みまわ》しておごそかに告げた。 「若君御誕生、まずはおめでとう存じまする。御家の弥栄《いやさか》を祈り上げましょうぞ」  弥栄、弥栄と唱和する女中達の声に包まれて、おふくは若君をそっと褥《しとね》に移した。  赤ん坊はどこか気むずかしげにみえたが、おふくにはそれが長いこと願をかけ続けた美濃の里の地蔵尊菩薩《じぞうそんぼさつ》のお顔に似ているように思えた。     十  慶長《けいちよう》九年七月十七日に誕生した若君は、祖父、家康の幼名をそのままに、竹千代《たけちよ》と名付けられた。 「丈夫に育って、徳川家の跡取りとなるように……」  と赤児の顔をみた家康が祝いをこめていったのは、この前の長丸君が生後九か月で早逝しているためで、 「乳母どの、よくよくの御丹精、たのみ入るぞ」  と家康自ら、おふくに声をかけた。  この若君は、まぎれもなく徳川家のお世継ぎだと思い、おふくは改めて血が騒いだ。  同じ乳母でも、姫君では成長の暁には他家に輿入《こしい》れをすることになる。  乳母というものが、単なるお乳の人ではなく、その養育の責任者であり、場合によっては成人の後も奉公を続けることが出来るとお城へ上ってみて、おふくは知った。  徳川家のお世継ぎの若君の乳母という立場が、将来、どれほどの重みを持って来るのか、それは美濃の里で地蔵尊菩薩に願かけをして、どうせのことなら姫君よりも若君のほうが一門の立身出世に都合がよかろうと、漠然と考えていた以上であった。  夫の正成はそうしたことを承知した上で、秀尾を、そして自分を乳母にさし出したのかと、おふくは今更ながら、夫の深慮遠謀に驚いていた。  が、それとても、おふくが乳母として実績を上げなければ取らぬ狸《たぬき》の皮算用というものであった。  肝腎の若君、竹千代が病気にでもなって、短命に終ってしまっては、稲葉家の将来も夢と消えてしまう。  毎日を、おふくは細心の注意を払って、若君の養育につとめた。  竹千代は、どちらかといえば育てにくい赤ん坊であった。乳の飲み方が弱く、途中で必ずねむってしまう。満腹していないから、半刻《はんとき》も経《た》つと又、空腹になってむずかり、乳を与えると、やはり充分、吸わない。昼はとにかく、夜もそんな状態が続くと、おふくは寝不足で神経が苛立《いらだ》った。  我が子なら、乳を飲みながら睡《ねむ》りかけたら、頬《ほお》を突ついても、無理に飲ませることが出来る、若君にその真似《まね》は出来なかった。  絶えず、乳をふくませ、襁褓《おしめ》を取り替えるのも、おふくは女中にまかせなかった。  赤ん坊の排泄物《はいせつぶつ》は、なによりも健康状態を知る手がかりになる。  長男と次男を育てた時は、五万石の奥方様で、乳母や女中に手を借りての子育てだったが、三男が誕生したのは美濃の里の浪人暮しで、下働きの召使しかおいていなかった。そのために、赤ん坊の世話は殆《ほとん》どを、おふく自身がやってのけた。その経験が、思いがけず、竹千代の役に立っている。  秋から冬を、竹千代はともかくも無事に越えた。決して発育のよいほうではないが、格別、医師の手をわずらわすほどのこともない。  生母であるお江与の方は日に一度、竹千代をおふくに抱かせて、その様子をみせにつれて来るよう命じていたが、乳をやるわけではないし、無論、下《しも》の世話をするのでもないから、それはまことに形式的な御対面でしかなかった。  しかも、その折におふくに与えられる言葉は、かなり手きびしいものであった。 「若君は、あまり肥えませぬな。乳母どのの乳の出がようないのではないか」  とか、 「このように泣いてばかり居るのは、どこぞ悪いところでもあるのか」  などと、若君付の医師に問うたりする。  実際、竹千代はよく泣いた。  御対面の前には、必ず乳を飲ませ、襁褓《おしめ》を替えて、機嫌のよい様子にして抱いて行くのだが、お江与の方の居間である御座の間へ入ったとたんに泣き出して、いくらあやしても泣きやまないことが多い。  それは、御座の間が気に入らないのではなく、竹千代が神経質で、日常とほんの僅《わず》かでも異った場所に対して敏感に反応するためだが、度重なると、お江与の方には不快に思われるらしい。  竹千代が泣く度に、おふくは身の縮む思いがした。癇《かん》の虫が起っているのだろうといわれて、虫封じの護符《ごふ》を女中に受けにやったりもしたが、効果はない。  翌慶長十年四月、家康は征夷大将軍《せいいたいしようぐん》を秀忠にゆずった。  秀忠が将軍職を継いで、竹千代の立場は更によくなった。 「これで、竹千代君が三代様をお継ぎになることが決ったようなものでございます。ほんにおめでたいことと、奥御殿の皆々様がお祝いを申されて居ります」  部屋方《へやがた》の女中である小夜《さよ》までが嬉《うれ》しそうにおふくに告げた。  自分に運が向いて来ていると、おふくは思った。  秀忠夫妻の長男、長丸君がすでに死去している今、次男である竹千代以外に、世継ぎの若君はいない。  健やかに、健やかにと、おふくは乳房をふくませるたびに、竹千代へ祈るように語りかけた。 「何卒《なにとぞ》、おすこやかに、早う成人遊ばしますように……」  生みの親より育ての親というが、竹千代はおふくを母と信じているようであった。  鳥でもけものでも、自分に餌《えさ》を与えるものを親だと認識する。いってみれば、生きものの本能が、竹千代をおふくになつかせているのだが、おふくのほうも次第に乳母という感じではなくなっていた。  稲葉家の栄達のために、この若君は大事に育て上げなければならないという算盤勘定《そろばんかんじよう》を超えて、おふくは母性本能にめざめて行くようであった。  実際、朝、目がさめて、一番先に竹千代が求めるのはおふくの姿であったし、どんなに激しく泣いていても、おふくの腕に抱かれて、その乳房が顔に触れただけで、安心して泣きやむのであってみれば、おふくにしても可愛《かわい》くない筈《はず》がない。  西の丸奥御殿の長局《ながつぼね》に起居しているといっても、おふくの一日は殆《ほとん》ど竹千代の傍《そば》を離れることがなかった。  竹千代の居室は上段の間、二の間、三の間とあって、襖《ふすま》には銀泥《ぎんでい》で流水を、金泥で笹《ささ》の葉を描いたもの、天井、小壁の貼付《はりつけ》は唐草《からくさ》と笹竜胆《ささりんどう》であった。  夜、竹千代は上段の間に寝かされ、おふくは二の間に仮眠する。  長局の自分の部屋へ戻るのは、着替えの時ぐらいのものであった。  正成からは時折、文が来た。  三人の息子の成長ぶりを書いた文面を読む時だけは、おふくは母親らしい気持になったが、その文を巻きおさめて、竹千代の傍へ戻った時には、きれいさっぱり消えてしまっていた。我が子よりも竹千代君というのが、その当時のおふくであった。  一年はまたたく間に過ぎた。  その頃《ころ》から竹千代の人みしりが一層、激しくなった。  おふくと、やはり竹千代の養育係の女中達の他は、誰の傍にも寄らないし、抱かれればあばれて泣いた。おふくが大事に育てすぎた結果でもあったし、どちらかといえば女児より男児のほうが繊細で、気むずかしいものだということを、奥御殿の人々は考えに入れなかった。 「乳母どのは、若君を御自分以外の者の手には決して抱かせないそうでございます。他の者が若君のお傍に近づくのさえ嫌うとか……」  奥御殿は女の世界だけに、そうした噂《うわさ》が忽《たちま》ち広がって行く。  八月一日は徳川家康が江戸入りをした日として幕府にとっては、重要な式日であった。  大名の総登城があり、営中《えいちゆう》においては大御所と呼ばれる家康、それに将軍秀忠が揃《そろ》って大名の祝詞を受けた。  その席において竹千代を諸大名に初見参させようということになり、最初は阿茶局が抱いてと指示があったのだが、阿茶局が、 「若君を大人《おとな》しゅう、お祝いをお受けなさるようおのぞみなら、乳母どのに抱かせて御表《おおもて》へお出し遊ばすのが一番でございます」  といい、結局、おふくが竹千代の供をして式に連なることになった。  竹千代にとっては、初めて奥御殿から御表御殿へ出座することになる。  それでなくとも神経質で人みしりの激しい竹千代が、もし大事な御対面の儀で泣き出しでもしてはと、おふくは気を揉《も》んだが、肝腎の竹千代は表御殿に出る少し前からおふくに抱かれたまま、ねむりこけていて、万事が終って奥御殿へ戻るまで目をさまさなかった。 「これは、肝の太い若君じゃ」  大御所家康はひたすらねむっている竹千代の顔をさしのぞいて機嫌のいい笑いを浮べ、秀忠も、 「父上の御幼名を頂戴《ちようだい》しただけのことはござりますな」  と満足げであった。  続いて、翌慶長十一年の端午《たんご》の節句の御祝儀にも、おふくは竹千代を抱いて御表へ参り、大御所より、若君に羽二重《はぶたえ》の黒地御紋付、白無垢《しろむく》の重ねを賜ったのだが、その御祝の席に御台所《みだいどころ》であるお江与の方の姿がなかった。  まず、こうした営中の祝いの席に御台所が出ないというのは、お江与の方の場合、珍しいことなので、奥御殿へ戻ってから、おふくは小夜に命じて、左京局まで御台様欠席の理由を聞かせにやった。  もし、御病気ということなら、早速にもお見舞にうかがわねばと思ったからである。  小夜が戻って来ての返事では、 「御台様には今朝ほど御納戸《おなんど》御座敷にてお化粧遊ばす中《うち》、俄《にわ》かにお気分|悪《あ》しゅうなられておひきこもりになりましたそうな。お医師の勧めにて、端午の節句のお祝いにはお出ましにならなかった由にございます」  という。 「すると、お風邪《かぜ》でも召されましたのか」  二、三日、急に気温が下って、おふくも若君に風邪でもひかせてはならぬと、随分、気を遣っていた。で、すぐにそっちに考えが動いたのだったが、 「左京局様のお言葉では、御病気ではない故、案ずることはないと仰せでございました」「御病気ではないといわれたのか」  反問して、おふくはあっと思った。  女が病気でなく気分が悪くなったといえば、理由は一つしかなかった。 「では、御台様には御懐妊遊ばしたのであろうか」  小夜はうつむいた。 「左京局様は、しかとは申されませなんだが、そのようなお口ぶりで……」 「そうであったか、それは、まことにおめでたいこと……」  言葉とは裏腹に深い嘆息が出た。 「まことに上様と御台様は御仲むつまじくお出で遊ばしますこと……」  小夜を前にして皮肉な口調が出た。  下世話にいうなら、よく飽きもせずといったところだろう。  御台所、お江与の方はすでに三十六歳であった。女としては、すでに盛りを過ぎたというべきであろう。九歳も年上の女房に次々と子を産ませている秀忠という男にも、おふくはいささかあきれていた。  奥御殿へ入ってから聞いたことだが、小野お通は初姫を産んだあと、秀忠の側室にはならず、千姫のお供をして大坂城へ入り、淀君にも気に入られて、それまで琵琶《びわ》で語られていた「浄瑠璃十二段草子《じようるりじゆうにだんぞうし》」を改作して、沢住検校《さわずみけんぎよう》に三味線で節づけさせたのが、今、京、大坂でもてはやされているという。  しかも、そのお通の産んだ初姫は、お江与の方の姉に当る京極高次《きようごくたかつぐ》の北の方、お初の手許《てもと》で育てられていて、ゆくゆくは京極家の跡継ぎ、熊若丸《くまわかまる》の妻になると決っているらしい。  天下の将軍の座につきながら、一人の側室もおかず、御台所に対して優しすぎるほどの夫ぶりである秀忠に甘え切っているようなお江与の方が、おふくにはねたましかった。  それにひきかえ、自分は後妻に入って、先妻の子供で苦労した上に、信じていた夫には、自分が輿入《こしい》れする以前からの妾《めかけ》がいた。  おまけに夫は主家を浪人し、その仕官の手蔓《てづる》としておふくに奉公を願い出させた。  同じ女なのにと、おふくが夜更けの一刻《ひととき》、つい涙にくれてしまうのは、二十七という女盛りを夫ともう何年も枕《まくら》を共にすることもない独り寝の寂しさから来る苛立《いらだ》ちのために違いなかった。  が、なんにしてもお江与の方の御懐妊の知らせは、おふくを動揺させた。  来年、誕生するのが姫君なら問題はなかった。万一、若君だったとすると、将来、竹千代が家督を継ぐ時の競争相手になりかねない。  家を継ぐのは必ずしも長男とは限らなかった。  早い話が、現将軍秀忠は三男でありながら、次男の秀康をさしおいて、徳川家の家督を継いでいる。  今一つ、おふくの不安があった。  竹千代の発育が少々、遅い点であった。  生後丸二年目が近づいて、もうとっくに歩いてもよい頃《ころ》なのに、よちよち歩きさえおぼつかない。  加えて、言葉も遅かった。  廻《まわ》らない舌で竹千代がいうのは、 「うば」  という言葉ぐらいのもので、あとは意味不|明瞭《めいりよう》なおお、とか、あう、などというものばかりであった。  そのために、唖ではないかなどという噂《うわさ》が流れたこともあったらしいが、流石《さすが》にそれは、おふくの耳までは届かなかった。  たまりかねて、おふくは若君付きの医師である高柳伯庵《たかやなぎはくあん》に相談したことがあった。 「早熟なお子が必ずしも御利発とは限りませぬぞ。むしろ、大器ほどゆっくり育つという言い方も出来ましょう」  言葉の遅いのも、動作の鈍いのも、将来の大器の証拠のようなものだと弁明されて、おふくはとりあえず落着いた。  その年の六月に、竹千代付きの小姓《こしよう》が何人かえらび出された。  松平長四郎《まつだいらちようしろう》、九歳を筆頭に三河《みかわ》以来の旗本の子弟であったが、その中の一人としておふくの長男、稲葉正勝が上野下野《こうずけしもつけ》から五百石の領地と二十人|扶持《ぶち》を賜って、小姓に取り立てられた。  その正勝が、お小姓組一同、打ちそろって若君へ御挨拶《ごあいさつ》のため奥御殿へ伺候した日、おふくは若君の乳母として、およそ二年ぶりに我が子の姿をみた。  世話役にいいふくめられて来たのだろう、正勝は入って来た時と退出する時にちらとおふくをみただけで、あとはひたすら顔を伏せたままであった。おふくのほうも、言葉をかけるわけにはいかない。  だが、嬉《うれ》しさはかくしようがなかった。  我が子が若君の小姓となって出仕してくれば、顔をみることも、元気な姿をたしかめることも出来る。 「なんとお礼を申してよいやら、ただ、御恩の有難さに泣きましてございます」  奥御殿総取締りである阿茶局《あちやのつぼね》に対して、おふくは心から礼を述べた。 「なにもかも大御所様《おおごしよさま》のおはからいにございます。御嫡男《ごちやくなん》ばかりではございません。おつれあいの稲葉正成どのも、この度、新規お取り立てと相成り、一万石を領された御様子。御一門の御繁栄をお喜び申します」  阿茶局の言葉に、おふくはああやはりと心の中で合点《がてん》した。  いってみれば、これは関が原の合戦の折の稲葉正成の取引であった。  おふくの大奥御奉公は、その大義名分を作ったにすぎない。が、なんにしても、夫婦の目的は一応、達せられたわけであった。 「重ね重ねの御配慮、ありがとう存じ上げます」  一万石の小名《しようみよう》でも、夫ほどの才覚があれば折をみて頭角をあらわすに違いないとおふくは思った。阿茶局のいったように、稲葉家の繁栄はこれから始まるといってよい。  正成からの知らせは、間もなくおふくの手許《てもと》に届いた。  阿茶局のいった通りだったが、一万石について不足がましいことは書いていない。  夫に会いたいという気持がおふくになかったわけではないが、それは愛情というよりも、肉欲の意味が強かった。おふくの女としての意識が夫を恋しがっている。そのことが、おふくには忌々《いまいま》しいようであった。  二年目の誕生日を迎えて、竹千代は漸《ようや》く歩けるようになったが、言語のほうは相変らず遅れていた。たどたどしい喋《しやべ》り方は幼児の特性といえたが、最初になかなか声が出て来ないで、当人もそれに苛立《いらだ》っているのが、おふくにはわかった。  これは、吃音《きつおん》ではないかと思い、おふくはまた、高柳伯庵に相談したが、 「ただ、お生れつきとあらば……」  と当惑そうに答えるばかりである。  九月、重陽《ちようよう》の節会《せちえ》で、また一つ、お江与の方が不快をもよおすことがあった。  御台所は五ッ衣《ぎぬ》に緋《ひ》の袴《はかま》、檜扇《ひおうぎ》を持つという礼装であった。  普段、見馴《みな》れない装束姿《しようぞくすがた》に、竹千代は仰天したように後ずさりをして、お江与の方が声をかけても返事もしなかった。 「いとけなきお方のことでございます。何卒《なにとぞ》、お許しを……」  とおふくは御台所に頭を下げたが、その心の底にあったのは優越感であった。  やがて三代将軍になるべき若君が母のように慕っているのは、お江与の方ではなく、おふくであった。そのことを嬉《うれ》しいと思う一方で、実の母親にうとまれては、竹千代のためにはなるまいと案じる気持もあった。  とはいっても、なつかないものは致し方がない。  将軍家の若君、姫君というものは、誰でもこのようなものではないかとも考えた。  どの子も母の乳房を知らず、抱かれて眠ることもない。  そういう意味では乳母が母であった。  そして竹千代は小さいながら、やがて人の上に立つ者として育てられていた。  幼い小姓達は毎日、若君の御居間に伺候して、遊び相手をしている。その遊びにもおのずから主従のけじめがついていて、おふくには微笑《ほほえ》ましく思えた。  小姓達は十歳から七歳までの悪戯《いたずら》盛りでもあった。その行儀作法を教えるのも、いつの間にか、おふくの役目になっていた。  西の丸のお庭の楓《かえで》が、おふくにとって二度目の紅葉《こうよう》の時を迎え、やがて、木枯《こがらし》の音を聞くようになった頃、お江与の方は秀忠にとっては六人目の子を出産した。 「上様と御台様のよいところばかりを、お授かりになったような、それはそれは、お可愛《かわい》らしい若君でございますよ」  奥御殿から長局《ながつぼね》にかけて、女中達が華やかな声で知らせて行くのを、おふくは穏やかでない思いで耳をすませていた。     十一  慶長十一年十二月三日に誕生した若君は、国松《くにまつ》と名付けられた。  まだ赤ん坊だというのに、眼鼻《めはな》立ちのととのった、誰がみても愛くるしい容貌《ようぼう》に加えて、あまりむずかりもせず、お傍仕《そばづか》えの女中達にも手のかからない和子《わこ》様だと奥御殿では評判であった。  国松の乳母は、旗本|矢嶋喜十郎《やじまきじゆうろう》の妻で菊野《きくの》という者が召し出されたのだったが、 「お乳をようお吸いになりますし、お寝《やす》みになりますと二刻《ふたとき》(四時間)あまりもぐっすりとお目のさめることがございません。夜泣きもなさいませず、ほんにお利口な若君でいらっしゃいます」  と菊野が自慢しているというのも、おふくは小夜から聞いた。  竹千代の出生当時から思うと、羨《うらやま》しくなるような話だったが、だからといって、竹千代が国松に劣るとは、おふくには思えなかった。二年余りの歳月で、おふくと竹千代はまるで一心同体のようであり、どれほど手のかかった若君にせよ、いや、むしろ、苦労して育て上げた分だけ、おふくの竹千代に対する愛情は奥深いものになっている。 「どなたが、なんと申されようと、乳母には若君が天下一の若君でございます。弟君に劣ってなるものですか」  竹千代を寝かしつけながら、おふくは子守歌のようにいい続けた。  おふくがそう口に出さざるを得ないほど、奥御殿での国松は日々、人気者になっている。 「ようお笑いになる」  から始まって、 「父君、母君がおわかりになるような……」  とか、果ては、 「乳母どのがどうあやしてもお泣きになったのに、御台様がお声をおかけ遊ばしたらすぐ、泣きやんでおしまいになった」  などと、おふくにしてみれば容易に信じ難い話まで奥御殿を走り廻《まわ》っている。  畢竟《ひつきよう》、これは竹千代がお江与の方になつかなかったのを知っているお傍仕《そばづか》えの者達が、御台様におもねるつもりでいい触らしているに違いないと、おふくは気がついた。  どう考えても、これは竹千代のためによいわけがなかった。  国松の評判のよい分だけ、竹千代が駄目《だめ》な子供になってしまう。  だが、御台所は国松に満足しているようであった。  乳母の菊野も心得ているのか、御台所の仰《おお》せがなくとも、国松の機嫌のよい時を見計って、日に何度も御居間に抱いて行くという。  竹千代のほうは、もうだいぶ前から両親に対面するのは、毎朝の「惣触れ」の時だけである。  将軍秀忠は毎朝四ッ(午前十時)に御台所と共に「お清《きよ》の間《ま》」と呼ばれている仏間《ぶつま》で徳川家の先祖の霊を祭った祭壇に拝礼を行う。大御所家康が江戸城にいる時は、それから御機嫌うかがいに行くのだが、このところ、家康は伏見《ふしみ》城か、或いは改築が進んでいる駿府《すんぷ》の城へ出かけていることが多い。  この朝の「惣触れ」の時、竹千代は父と母に挨拶《あいさつ》をするのだが、それは極めて形式的なことで、親子の情が通い合うというものではなかった。  御台所は国松に夢中だし、秀忠は弟が誕生したことで、竹千代を一人前として扱うとけじめをつけているらしく、甘い顔をみせることはなかった。  それはそれで、おふくにも納得《なつとく》が行かないこともないのだが、いくら兄といっても、まだ三歳になったばかりの幼児で、世間でいえば両親に甘えていたい年頃であった。それが自分だけ突きはなされたように扱われ、その一方で、弟である赤ん坊がちやほやされているのをみれば、子供なりに嫉妬心も湧《わ》こうし、孤独を感じることもあるようであった。 「予には乳母が居るからよい」  と、惣触れから帰って竹千代が、まだ、たどたどしい言い方ながら、おふくに告げたことがあって、おふくははっと胸を衝《つ》かれた。  それと、その頃から竹千代がおふくに添い寝をしてもらいたがった。 「若君が左様なことを申されては、御家来衆に笑われますぞ」  とおふくはたしなめた。  相変らず、竹千代は上段の間に寝て、二の間におふくが寝《やす》むという習慣は、竹千代の希望で今も続いていたのだが、夜半に、ふと気がつくと、竹千代がおふくの褥《しとね》にもぐり込んで来て、乳房に顔を押し当てたり、手で掴《つか》んだりしてねむろうとすることがある。  竹千代がおふくの乳を飲んだのは生後二年までで、それから先は流石《さすが》に乳を吸うことはなく、おふくの乳も枯れてしまっていたのだが、乳房の感触が竹千代にはなによりの安らぎになるのかも知れないと思い、おふくにはそれも不愍《ふびん》に思えた。  小姓達は交替で宿直をするようになっていたが、子供なりに奥御殿の雰囲気をみて、主君の心情がわかるのか、どことなく悲愴《ひそう》な感じで、幼い竹千代により添っているところがある。  暫《しばら》くの辛抱だと、おふくは自分を慰めていた。  人間には新しいもの好きの習癖がある。もう半年、一年もすれば国松を大騒ぎすることもなくなるに違いない。御台所にしたところで、次にまた御懐妊ということにでもなれば、とおふくは考えていたのだったが、 「御台様には、おめでたのようでございます」  と御老女から知らせて来たのは、慶長十二年三月、奥御殿では今年の花見をどのように趣向をこらそうかと、女中達の主だったものが、あれこれと相談をとりまとめている最中であった。  御出産は秋らしいという。 「このたびは、また若君でございましょうか。それとも、久しぶりにて姫君でしょうか」  女中共のざわめきを他《よそ》に、おふくは又、考え込んだ。  若君では、国松と同じく、将来の家督相続の邪魔になるかも知れなかった。出来ることなら姫君であってもらいたい。それも、玉のように美しい姫君ならば、御台所の心もその姫に移るのではないか。  物事はそう都合よく行くものではないと承知していて、やっぱり、おふくは竹千代中心にものを考えていた。  その年の花見は、これまでになかったほど華やかなものになった。  江戸城内の普請《ふしん》がほぼ完成し、庭造りも終ったところで、それを祝う気分もあった。  はるばる京に註文《ちゆうもん》したという厚板染《あついたぞ》めの緞子《どんす》の幔幕《まんまく》が諸方に張りめぐらされ、桜のとりわけ見事なあたりには、仮のお休息《やすみ》の場が設けられた。  穏やかな春の日、御台所お江与の方は目もさめるような紅梅染めの紋縮緬《もんちりめん》に花車を縫い取りにした小袖《こそで》に錦織《にしきお》りの襠《かいどり》を腰巻のようにまとって、秀忠将軍と共に吹上げの庭園に現われたのだったが、その華やかな衣裳《いしよう》と濃い化粧がよく映って、まるで花の女神のような美しさであった。  時折、花の下に足をとめ、そぞろ歩きながら、秀忠が懐妊中の御台所をいたわって、時折、手をさしのべ、お江与の方もその手にすがって行くのが、まるで昨日《きのう》今日、祝言をあげたばかりの若夫婦のようで、お供の女中達も、なんとなく頬《ほお》を赤らめている。  おふくは竹千代につき添って、お茶室のところで秀忠夫妻を出迎える手筈《てはず》になっていたのだが、やがて姿をみせた秀忠夫妻の背後に二歳になった国松が乳母の菊野に抱かれて従っているのをみて顔色を変えた。  まだ赤ん坊とはいいながら、兄の竹千代より先に弟の国松が将軍夫妻に対面し、そのまま、お供をして来たということが、おふくには慮外なことに思えた。  本来からいえば、竹千代が将軍夫妻を出迎えたあとで、国松は御挨拶《ごあいさつ》に出るべきである。  おふくの動揺を感じとったのか、竹千代が表情を固くした。秀忠夫妻がこのお茶室まで来た時に、竹千代が御挨拶申し上げる、その言葉を何回も練習して来たというのに、黙ったまま、前に進み出ようともしない。 「若君……」  そっと、おふくがうながし、竹千代は顔面を硬直させ、異様な吃音《きつおん》を発した。  秀忠が、ふと眉《まゆ》をひそめ、お江与の方はあらぬ方を眺めた。 「竹千代、落ついて申せ、あせることはない」  赤くなって力んでいる我が子に秀忠は声をかけたが、どうしても竹千代の口から言葉らしいものが出て来ないのを知ると、さりげなくお茶室の方から歩を移した。  行列は、それに続いてお茶室を通りすぎて行く。  お茶室には、お点前《てまえ》の準備が出来ていた。  とりきめでは、将軍夫妻はここで御休息の上、一服、召し上る筈《はず》であった。  遠ざかって行く行列を、竹千代は歯をくいしばるようにして見送っていた。握りしめた両手がぶるぶる慄《ふる》えている。 「若君……」  おふくがそっと背後から竹千代を抱いた時、そこにひかえていた小姓達の中から、すすり泣きが洩《も》れた。この幼い家臣達は、ちいさい主君の心中が痛いほどわかっていた。  今日の晴れの日に、どれほど見事に御挨拶を申し上げ、将軍夫妻の優しい笑顔を期待していたか。そして、それが出来なかった主君の口惜しさ、情なさは、即ち、彼等の口惜しさであり、悲しさであった。  竹千代が、泣いている小姓達をふりむいた。 「ゆるせ」  吃《ども》りもせず、はっきりといって竹千代はくるりと背をむけた。行列とは逆に吹上げの庭を奥御殿へ戻って行く。 「お待ち遊ばせ」  後を追いながら、おふくは涙が頬《ほお》を伝うのを、どうしようもなかった。  その花見の宴が終ったあとで、おふくはまた、いやな噂《うわさ》を聞いた。  御台所のお傍《そば》に仕えている女中達の間で、花見の日のおふくの衣裳が笑いものになっているというのであった。 「どなた様も、晴れの日に綺羅《きら》を飾って、花見の宴につらなるのを身の面目と承知して居るのに、竹千代君の乳母どのは、あまりにお心得がなさすぎますな」  と奥向きの老女達がいったということから、 「そう申されますと、あちらの乳母どのは、あまりお召し物にこだわらないお方のようでございますね」  などと、国松付きの女中達までが笑っているらしい。  女だけに、着るものの陰口は身にこたえた。  御奉公に上る時に、おふくが持ってきた衣裳の中、裲襠《かいどり》は、稲葉重通の亡妻の形見のもので、それは江戸へ向う折、重通がはなむけに贈ってくれたものでもあった。  この前の花見に、おふくはその一枚を装った。  それは雲形に桜花を染め縫いしたもので、花見の宴にはふさわしいと思って着用したのだったが、 「花見に、桜の小袖《こそで》というのは如何《いかが》なものでございましょう。どのような美しい小袖も絢爛《けんらん》と咲く自然の花には、かないませぬし、花に花を装うは気のきかぬものと申しまするに、乳母どのは左様なこともわきまえて居られませぬのか」  と老女達は陰口を叩《たた》いているという。  いわれてみれば、御台所のお召し物にしても、花車の花は桜を避けてあったし、お傍《そば》の女中衆も裲襠を着る身分の者は松葉散らしや浪《なみ》に千鳥、或いは丸龍《がんりよう》などで、殊更に花を装わぬよう心がけていたように思う。  竹千代君の乳母のくせに、ものを知らぬといわれたことが、おふくを逆上させた。  自分一人の落度に、なんで竹千代の名前が出て来るのか。人目を避けて、おふくは身を慄《ふる》わせて泣いた。  その当時、奥御殿に奉公する女中の中、主だった身分の者には、諸大名から柳営《りゆうえい》へ献上される呉服、反物《たんもの》などが、御台所様お思し召しと称して下賜される他に、各々《おのおの》の親許から差し入れられたり、或いは昵懇《じつこん》にしている大名から名ざしで進物を受けたりというふうであった。  奥御殿で羽振りのよい女中には、いくらでも呉服物、髪の飾り、諸国の名産などが贈られて来る。  おふくにしても例外ではなかった。  竹千代君の乳母として、それ相応の進物も受けている。  また、奥御殿には御用掛の呉服商が出入りしているので、女中達は自分の好みの衣裳を註文することも出来た。  おふくにしても御奉公に上ってからは幕府から扶持《ふち》を頂く身の上であった。求めようとすれば、それなりの衣裳が手に入る。  が、これまでのおふくはあまり身の廻《まわ》りのものを飾ろうとしなかった。  竹千代が乳児の頃は、一刻も傍《そば》を離れることがなかったので、自分の着るものに気をくばる暇がなかった。  なんであれ、体面を保ち、身ぎれいであればよいと考えていたものだ。  だが、自分の衣裳えらびにまで、竹千代の名が出るようではならないと、おふくはひそかに阿茶局に乞《こ》うて、衣裳の心得を学んだ。  奥御殿では年中行事の折は別として、平素、御台所《みだいどころ》は正月より三月までは白無垢《しろむく》の三枚重ねに、縮緬綿入《ちりめんわたいれ》に裾《すそ》には縫い取りのある裲襠《かいどり》を召されることになって居り、この間は綿入りの小袖《こそで》であった。  四月からは小袖が袷《あわせ》に変り、白羽二重《しろはぶたえ》の重ねになる。  五月の五日からは単衣《ひとえ》になってすずしの織物、或《ある》いは透物と呼ぶ薄物をお召しになり、下重ねも白の練絹《ねりぎぬ》の単衣であった。  六月から八月までは、すずしの帷子《かたびら》、或いは明石縮《あかしちぢみ》になって、下には白麻、時には絹絽《きぬろ》を召すことがある。  九月は九日まで袷で、模様は菊が多く、下重ねは白羽二重、九月十日を過ぎると小袖になって、襠《かいどり》を用いるが、十二月までは一月から三月に準ずるというのが一応のとり決めであった。  無論、その年その年で気温の差もあるし、病後やお産の前などはこのとり決めに従う必要はないことになっている。  御台所に奉公する女中達の衣裳も、ほぼ、季節感はこれにならい、各々《おのおの》の身分に適した衣裳が、ほぼ定められていた。  そうした奥御殿の取り決めは、今まで奥御殿総取締り役に任ぜられている阿茶局が側《そば》づきの者と相談し、御台所お江与の方に取り次いでは、一々、御右筆《ごゆうひつ》に書き出させていた。 「たしかに、花見に花を避けるのは、ものにものが重なって、押しつけがましく感じることが多いので、堂上方《とうしようがた》では好まれぬようです。それよりも季節に応じて、ふさわしい色重ねをするように心がけられるのがよろしかろうが、そなたはお若い頃、三条西家へ奉公なされた由、装束の色目に、紅梅の重ね、柳の重ねなどと申す色の合わせ方があるのは御存じでありましょうな」  阿茶局にいわれて、おふくは頭を下げた。  たしかに、三条西家の雑仕女《ぞうしめ》であった頃、主人の三条西|実条《さねえだ》が宮中に参内する折など、華やかに美しい色重ねの装束によそおいを凝らしていたのを、何度となくみている。 「不心得でございました。以後、心いたしまする」  阿茶局に礼を述べて長局《ながつぼね》へ戻って来ると、おふくは久しぶりに夫の正成へ文を書き、尽力を求めた。  やがて、正成から人を介して届けられたのは、有職故実《ゆうそくこじつ》に関する文書と公卿《くげ》の礼法の書であった。  奥仕えの間に、おふくは丹念にそれらを読んだ。  竹千代の乳母として恥かしくないだけの知識を持たねばならないと自覚してのことだったが、次第におふくは学ぶことに熱中しはじめた。生来、一つのことに執着しはじめると自分自身の制御がきかなくなるところが、おふくにはある。  知識が豊かになることは、彼女の優越感になった。  やがて有職故実や礼法について学ぶだけでは飽き足りなくなったおふくが目をつけたのは本草学《ほんぞうがく》であった。  おふくが仕えている竹千代は蒲柳《ほりゆう》の質であった。  どんなに周囲が気をつけていても、よく風邪をひくし、腹も悪くする。で、竹千代の居室にはいつも薬草を煎《せん》じる匂《にお》いが籠《こも》っている。  病弱な若君を少しでも丈夫にしたいと、おふくは神信心《かみしんじん》をする一方で、いわゆる民間でよいといわれているものは、なんでも試みようとした。けれども、その度に医師の反対に出会った。 「左様なことは、本草綱目《ほんぞうこうもく》にも記されては居りませぬ」  本草綱目というのは、中国の李時珍の著になる薬物学の医学書で、慶長二年に林道春《はやしどうしゆん》が長崎で入手し、幕府に献上したので、いってみれば本草学の新知識であり、集大成のようなものであった。  おふくは本草学の入門書をとりよせて学びはじめた。  素人《しろうと》の生半可《なまはんか》な学問が、場合によっては周囲の迷惑になるということに、おふくは思い及ばなかった。何事も、竹千代のためということで、彼女は自分のしていることを正しいと信じ切っている。  秋風が吹くようになって、おふくは御台所お江与の方がひきこもっていることを知った。  毎朝の惣触れにも姿をみせない。  その中に、医官の延寿院道三が招かれて、御台所の容態を診たという話も洩《も》れて来た。 「御病気というのではなく、お悩みは御懐妊のためのものでございますそうな」  小夜の知らせで、おふくはさもあろうとうなずいた。  御台所はすでに三十八歳になっている。その上、国松が誕生して、すぐの懐妊であり、二年続きのお産であった。  若くて健康な女でも、これでは身にこたえる。  十月四日、延寿院道三の必死の助力があって、御台所は姫君を産み落した。  幼名を松姫《まつひめ》、後に後水尾天皇《ごみずのおてんのう》の女御《にようご》となる東福門院和子《とうふくもんいんかずこ》である。  姫君御誕生の祝い事のあとで、たまたま、奥御殿の行事について、阿茶局の指図を受けに行ったおふくは、思いがけないことを聞いた。 「大御所様には、このたび御誕生の姫君を、さきゆき、入内《じゆだい》させたいお気持がおありですよ」  阿茶局が、この頃、髪にめっきり白いものが増えて来て、その分、更に貫禄《かんろく》を増した容貌《ようぼう》に穏やかな微笑を浮べて呟《つぶや》くようにいったものだ。  一瞬、おふくはなんのことかわからなかった。問い返そうと思った時には、阿茶局は、もう他の話をしている。  長局《ながつぼね》で、おふくは改めて阿茶局の言葉を思い出した。  入内とは、天皇の後宮に上ることではなかったのか。  十二月になって、おふくにとっては御奉公に上って初めての客があった。  京から、おのうが訪ねて来たものであった。  阿茶局の計いで、おのうと長局での対面を許されたおふくは、そこで義父、稲葉重通の病死を知った。 「祖父は大層、喜んで居りました。おふく様の御奉公で、稲葉家に春が来たと……」  老いて、安らかな大往生《だいおうじよう》だったと聞き、おふくは改めて合掌した。  おのうの話は、もっぱら昨今の京についてであった。  大御所家康公の下知《げち》によって、帝《みかど》の内裏《だいり》と仙洞《せんとう》御所の修理が始まっていて、この頃の都は活気づいているという。  それで、ふと思い出しておふくは問うた。 「帝は御健やかでいらせられましょうね」  おのうが、かぶりを振った。 「それが、噂《うわさ》ではあまりお元気とはいえないそうで、御譲位のこともあるやも知れぬと聞いて居ります」 「御譲位遊ばすとなると、どなたに……」 「左様なことは、私共ではわかりかねますが、娘聟《むすめむこ》の八郎《はちろう》などは政仁親王様のお名などを申しています」  おのうの上の娘の夫は八条宮《はちじようのみや》と呼ばれている智仁《ともひと》親王に仕える公卿侍《くげざむらい》であった。おのうの宮中に関する知識は、その辺りから入って来るものらしい。 「その政仁親王様のお年は……」 「さあ、まだ幼いお子のようでございますけれど……」  おのうが何故という表情をみせたので、おふくは思い切って阿茶局の言葉を伝えた。 「御入内《ごじゆだい》でございますって……」  それはないのではないかと、おのうはいった。 「武家からの御入内は、そのむかしの平相国《へいのしようこく》様の姫君ぐらいのものだと聞いて居ります」  京に住む者にとっては考えられないことだった。 「江戸城にお住いのおふく様には申し上げにくいことですが、京の者は今だに関東を東夷《あずまえびす》と呼んで居ります」  それは、おふくも三条西家にいた時分、よく耳にしていた。  琵琶湖より東に住むものは、荒夷《あらえびす》であり、足利《あしかが》将軍を頂いて上洛《じようらく》して来た織田信長《おだのぶなが》ですらも同様のいわれ方をした。 「まして、御誕生なさったばかりの姫君様を御入内などとは……」  それはそうだろうとおふくも思う。  で、その話はそれきりになったのだが、おふくの心の中では、やはり阿茶局の言葉がしこりのように残っていた。  阿茶局という人が、口から出まかせをいうとは思えなかった。  大御所家康の数多い側室の中でも別格の扱いを受けている。  おふくのみるところ、愛妾《あいしよう》というよりも参謀とでもいった感じが強い。  実際、その活躍ぶりは男子顔まけのところがあった。  おふくが知っているのは、関が原の合戦の前に、高台院《こうだいいん》様(豊臣秀吉の正室)の使と称して、夫の正成に近づき、小早川秀秋の東軍への裏切りの画策を見事に成功させたのが、阿茶局であった。おふくとの縁のはじまりもそれ以来のことだが、江戸城奥御殿を統率して、女中共のたばねをしているかと思えば、慶長八年に千姫が大坂城へ輿入《こしい》れする折の宰領をしたのも、この人だと聞いている。  阿茶局の素性については、これはもう奥御殿に仕える者のすべてが承知していることだったが、もともとは甲州武田家に仕える侍の娘で、甲州|伊沢《いざわ》郡|春日明神《かすがみようじん》の社家《しやけ》へ嫁いだが、夫の病死によって寡婦《かふ》になってから、家康の目に止って、側室になった人であった。  従ってその時、すでに二十代のなかばであり、その後、家康と共に小牧長久手《こまきながくて》の戦の陣中にあって流産し、以来、子宝に恵まれていない。  にもかかわらず、家康が阿茶局を重んじて来たことは、秀忠、忠吉が生母、西郷局が歿《なくな》って、その養母の任を阿茶局に命じたことでもわかる。  その阿茶局が洩《も》らしたことだけに、おのうのいうようにあり得ないことと片付けられない気持であった。  だが、そのことについて阿茶局は二度と、おふくに話さなかった。  その年の冬、奥御殿に怨霊《おんりよう》が出るという噂《うわさ》が出た。  夜更け、お火の番が奥廊下を改めていると、誰もいない筈《はず》のお清《きよ》の間で鐘を鳴らす音がして、そのあと怖しいようなうめき声が聞えたとか、宇治の間で奇妙な物音がするので襖《ふすま》を開いてみると、まっ暗な中に衣冠束帯《いかんそくたい》の若い男がすわっていて、 「予は越前中納言《えちぜんちゆうなごん》である」  と名乗り、かき消すように姿がみえなくなったというようなものである。  越前中納言とは、将軍秀忠の兄に当る結城秀康《ゆうきひでやす》のことであった。  生母はお万《まん》の方といい、家康の正室、築山殿《つきやまどの》の侍女であった。  天正《てんしよう》十二年には、豊臣秀吉の養子となって大坂城にいたこともあったが、その後、下総《しもうさ》国結城|晴明《はるあき》の嗣子となっている。  関が原の合戦のあとは、越前|北之庄《きたのしよう》において七十五万石を賜っていたが、秀忠が将軍職を継いだあたりから酒色にふけり、病を発して、この春、三十四歳の若さで他界していた。  その秀康の怨霊が奥御殿に出るという。 「秀康様は兄の自分をさしおいて、弟の秀忠様が将軍をお継ぎになったのを大層、御不満に思われて、そのわけを本多正信《ほんだまさのぶ》様にお訊《たず》ねになったことがあるそうでございます」  どこから聞いて来たのか、例によって小夜がおふくに話した。 「その折、本多様が、秀康様は豊臣家に養子に入られたことがあるので、徳川家の御家督を継ぐわけには行かないとお返事なされたそうで、秀康様はそれならば、御自分は徳川家ではなく、豊臣家に肩入れをするとおっしゃって、それをお聞きになった大御所様がひどく御立腹遊ばしたそうでございます」  いってみれば、徳川家に怨みを持って歿《なくな》ったので、その怨霊がたたりをしているのだといい、 「御台様も松姫様御出産のあと、お体がすぐれませず、それもたたりのせいだとか……」「そのようなこと……」  眉《まゆ》をひそめて、おふくはいやな気がした。  むかし、三条西家に仕えていた頃も、怨霊とかもののけについての話は、いやになるほど聞かされていた。  結城秀康が秀忠夫婦にたたりをするとなると、そのとばっちりが竹千代に及びはしないかと、おふくは怖れたのだったが、年が明けて間もなく、奥御殿の御庭の築山で狸《たぬき》が一匹、罠《わな》にかかって死んでいるのがみつかった。  劫《こう》を経た古狸ということで、奥御殿の怨霊は、この狸の仕業だといわれ、実際、それ以後、怪異をみる者がなくなり、御台所も、間もなくお床あげになって、おふくも胸をなで下した。  その年、京にいるおのうからの便りで、おのうの娘のお濃が婚家に不祥事があって離縁をとり、八条宮家へ奉公に上ったと知らせが来た。  お濃はなかなかの才女で和歌や筝《そう》にも長じていて、八条宮様からお賞《ほ》めを頂いたと、親の娘自慢が書いてある。  一方、竹千代には学問の師がきまった。  それ以前から剣術、弓術、槍術《そうじゆつ》の稽古《けいこ》もあったが、むしろ、体を鍛えることに重きがおかれていたのが、このあたりからは本格的になって来た。  竹千代付きの小姓達は学問も武術も主君と共に机を並べ、木刀をとる。  自然に竹千代の周囲には男子の家臣が増え、その分、これまで身の廻《まわ》りの世話をしていた女中の数が減った。  もっとも、竹千代の場合、最初からおふくがつきっきりで、なんでもしていたので、女中達の数もそう多くはなかった。  それに対して、国松のほうは御台所の指示で、奥御殿の御台所、御休息の間のすぐ隣に部屋があるので、日常の世話は殆《ほとん》ど女ばかりという有様であった。  住む所が近いので、御台所も気易く、国松の部屋へ行くし、国松も御台所の部屋へ出入りをする。  それだけ御台所も目をかけているので、竹千代のような人みしりもせず、御台所の姿をみると国松が、 「母上、母上……」  と呼びながら走りよって行くのが、みていてもまことに愛くるしいという。  御台所のお部屋には将軍秀忠もよく表から戻って来られるので、そういう時の国松は文字通り、父母の膝下《しつか》に甘えているといった印象であった。  で、奥御殿では次第に、将軍夫妻は竹千代よりも国松を気に入っているというような評判が根強く広がって行った。  夫の稲葉正成から、久しぶりに文が来たのも、その頃のことだったが読み進むにつれて、おふくは全身から血の気の引く思いがした。  このたび、大御所様、格別の思召しをもって、山内一豊《やまのうちかずとよ》どのの姪《めい》を稲葉家の奥に迎えることになった故、了承して欲しいと簡単に書いてある。  だしぬけに山内一豊の姪を妻に迎えるという夫の本心がわからなかった。  おふくは竹千代の乳母となってお城仕えをしているが、稲葉正成の妻には違いない。  妻を奉公にあげ、別れ別れに暮すことは、最初からわかっていたことであった。  妻も辛抱していることなら、夫も不自由に耐えてくれるものと、おふくは信じていた。  無論、身の廻りの世話に女手が必要であろうし、そのために夜伽《よとぎ》の女が侍《はべ》るのも止むを得ないと考えてもいた。  けれども、大御所お声がかりで正室を迎えるとなると話は別である。  稲葉家における、おふくの立場はどうなるのか。  流石《さすが》のおふくが、取り乱して、ものに手がつかなくなった。  出来ることなら、お城をとび出して夫の許《もと》へかけつけ、その背信をなじってやりたいと思ったが、それが出来るわけもない。  阿茶局に呼ばれた時、おふくは青ざめた顔で、どこか放心したままであった。 「お文があったようですね」  と阿茶局にいわれた時、おふくは自制心を失った。 「大御所様のなされ方は、あんまりでございます。この私に、なんの罪があって、夫の縁組みをなされましたのか」  阿茶局が、かすかに苦笑した。 「大御所様には、女の気持はおわかりにならぬのですよ。この度のことも、稲葉正成どのは御内室が若君のお傍《そば》に上ったきりで、さぞ御不自由であろう。よい女がある故、なかだちして遣わせと、そうお思いになっただけで、おふくどのの気持など、まるで御斟酌《しんしやく》遊ばさない。殿方には左様なところがおありなのでございますよ」  さぞ口惜しかろう、となぐさめられて、はじめておふくは涙を流した。 「なにもかも御存じの阿茶局様なればこそ申し上げまする。私が御奉公に参ったそもそもは、稲葉家のため、夫の仕官のためでございました。それ故に、夫とも我が子とも別れてお城へ上りましたのに、大御所様のお口添えで妻を迎えるとは、私をふみつけにするにも程がございましょう。断じて許すことは出来ませぬ。納得《なつとく》いたしかねます」  唇を慄《ふる》わせていいつのるおふくを阿茶局は暫《しばら》く眺めていたが、やがて匙《さじ》を投げたようにいった。 「よろしゅうございます。おふくどのがどうしても稲葉どのの御妻帯に御不満なら、お暇を願ってお城をお下りなされ、その上で御夫婦で御談合なさるがよろしかろう。稲葉どのは、まだ男盛り、長らく御内室御不在では奥向きのこともさぞかし御不自由であろう。おふくどのの身代りに、誰ぞを奥へお入れなさるも止むを得ないと存じまする。それ故、お城を下って、稲葉どのの奥方のお役目を果されるがよろしかろう。おふくどのにその御決心がおつきならば、山内様よりのお輿入《こしい》れのお方は、私が大御所様に願って実家へお戻し願うようにおはからい申しましょう」  おふくは茫然《ぼうぜん》とした。 「私が、お暇を願うのでございますか」 「他に思案はございますまい」 「それは出来ませぬ。竹千代君はまだお小さく、何事によらず、この私をたよりにして下さいます」 「その通りです。竹千代君にとっておふくどのはかけがえのない只《ただ》一人の乳母どの。御学問の折も、武術のお稽古《けいこ》の時も、左様に我儘《わがまま》をなさると乳母どのがおなげきになりますと申し上げれば、まことにおききわけよく、お師匠方のいうことをお守りになるとか……。それほどまでに乳母どのを慕うて居られる若君を捨てて、このお城をお出になりますのか。竹千代君の将来《ゆくさき》はどのようになろうとも、お心残りではございませぬか。おふくどの、どうでございますか」  穏やかな口調ながら、阿茶局にはこの人独特の説得力があって、おふくははっと逆上から我に戻った。  考えてみれば、今更、夫の許《もと》に戻ったところで、すでに山内家から輿入れした女がいるのであった。夫の正成がおふくをみて喜ぶ筈《はず》もない。  第一、その女を追い出せば、大御所の面目は丸つぶれになり、どのようなおとがめをこうむるか知れたものではなかった。  夫も我が子も漸《ようや》く掴《つか》んだ出世の緒口《いとぐち》を忽《たちま》ちにして失いかねない。  そんなにしてまで、正成の妻の座に執着する必要があるだろうかと思った。  おふくの今の身分は、将軍家若君の乳母であった。  竹千代が三代将軍になった暁には、将軍の乳母としてどのような尊敬を集めることも出来る。阿茶局のあとを継いで、この奥御殿の取締り役になることも夢ではなかった。  そしてそれ以上に、おふくは竹千代が可愛《かわい》かった。国松君は御台様のお姿をみると走って行くと女中達はいうが、竹千代はおふくをみると、乳母、乳母と呼びながらとんで来る。  衣服を着がえるのから、食事をするのから、およそおふくなしではなにも出来ない若君をおいて、この城を出るなどとは殺されても出来ないことではなかったのか。  改めて、おふくは阿茶局の前に両手を突いた。 「私の不心得でございました。大御所様のお心づくし、まことにありがたく、心よりお礼を申し上げます」 「山内殿よりのお輿入《こしい》れ、御異存なきか」 「全くもって、異存なぞござりましょうや」 「それでよろしゅうございます」  阿茶局は傍の火鉢へ白い手をさしのべて、いった。 「御離縁をおとりになることはございません。今のままで……。それは大御所様も御承知の上でございますから……」 「何事も、お指図に従いますでございます」  それは、おふくにとっては幸いなことであった。おふくが正式に離縁をしない限り、後から来た女は仮の奥方という形になる。  稲葉正成からの離縁状が来たわけではなかった。  竹千代に仕えるおふくの気持が、今までよりも、更にひたむきになった。  それまでは、折があればお城奉公を終えて稲葉正成の許《もと》へ帰るつもりがあったが、もはや、それは考えられなくなった。  これからは竹千代の住むところが、おふくの家であり、生きるよりどころであった。  生涯を、この若君のためにと、おふくは自分にいいきかせた。  驚いたことに、おふくは一身上のことを竹千代になにも話したわけではないのに、竹千代は、おふくが城を下るかも知れないと知っていた。  おふくがそのことに気がついたのは、三月の或《あ》る夜、竹千代が風邪をひいて早めに床についた時であった。  いつものように薬湯《やくとう》を煎《せん》じて竹千代に飲ませていたおふくの手を、竹千代がそっと握りしめて、どもりながら聞いた。 「乳母は、お城を下るのか」  おふくは驚いて、竹千代をみつめた。 「左様なことを、誰が申しました」 「誰でもよい。お暇を願うのか」  みつめられて、おふくは微笑した。 「いいえ、乳母は命のある限り、若君のお傍《そば》に御奉公する所存でございます」 「まことか……」 「乳母が、いつ、若君に偽りを申し上げました」  ぽろぽろと竹千代の双眼から涙が落ちた。 「約束ぞ、乳母……約束……」  小さな指が、おふくの小指にからみついて、おふくも亦《また》、その手を押し頂いた。 「お約束申します。若君……神明《しんめい》に誓って乳母は若君のお傍を離れは致しませぬ」  次の間にひかえていた小姓《こしよう》の中から、すすり上げるのが聞えた。おふくの長男、正勝が目をうるませて、うつむいている。  母の決意を、この子はどのように感じたのかと思い、同時におふくは心強かった。  少なくとも、この子は母と共に竹千代君に御奉公をしている。おふくは孤独ではなかった。  若君と、我が子と、心の支えになるものが二つながら、おふくの手近にある。  夫のことは忘れようと思い、それでも、おふくはいささか怨《うら》めしかった。  二十のなかばからお城へ上って、おふくは孤閨《こけい》を守り続けて来たというのに、夫は若い妻を得て、さぞかし若返った気分でいるに違いない。  そして、自分は三十を越え、女ばかりの奥御殿暮しが、この先、永遠に続く。  竹千代という、我が子以上の存在がなかったら、ひき合わぬ話だと、おふくは自らに苦笑した。  少なくとも、自分の女としての生涯はすでに終ったと思わねばならない。  春、今頃《いまごろ》必ず吹く強い風の音を聞きながら、おふくはねむりかけている竹千代をみつめた。     十二  慶長十六年、竹千代が八歳になった正月に、おふくにとっては胸のつぶれるような出来事があった。  元旦《がんたん》の参賀に、竹千代と国松は父、秀忠と共に本丸において、諸大名、旗本衆を謁見《えつけん》したのだったが、その途中で竹千代が急に昏倒《こんとう》し、医師に運ばれて奥御殿へ帰って来ることになった。  医師の診断では、昏倒は風邪《かぜ》をひいていて、やや熱が高かったのと、緊張のためではないかといわれ、おふくはつきっきりの看病をしたのだったが、やがて、秀忠夫妻の間で竹千代があまり丈夫ではないので、家督相続はどうかというような話が出たということが聞えて来た。 「徳川家の跡目を継ぐ者は、身体が強健でなければ、つとまらぬ。竹千代があまり病弱では子孫繁栄もこころもとない」  と秀忠が案じ、御台所が、 「国松はほんに丈夫で、風邪一つひいたことがございませぬのに……」  といわれたというものである。  それは、たまたま儀式の途中で退座した竹千代を案ずる言葉だったにもかかわらず、奥御殿では、それ以前からささやかれていた、 「上様、御台様は国松君が御贔屓《ごひいき》でお出でなさる」  という評判を急に声高なものにした。  竹千代にとって不利なのは、生れつきの吃音《きつおん》が、まだ治らないことであった。  普段はさほどでもないが、改まってなにかいおうとしたり、神経が張りつめたりするとひどくなる。殊に最初の音が出て来るのが難しく、吃《ども》るまいとすると、ゆっくり話さねばならず、それは竹千代にとって一つの劣等感になっていた。  加えて、たしかに病弱ではあった。  およそ子供がかかりそうな病気にはことごとくかかっているし、風邪をひけば咽喉《のど》を痛め、熱が出た。  おふくは高名な仏師に依頼して、地蔵尊菩薩《じぞうそんぼさつ》の木像を彫らせ、それを長局《ながつぼね》の自分の部屋へ祭って、朝夕、礼拝を欠かさないが、それでも竹千代の住居する奥御殿の一角は煎薬の匂《にお》いの絶えることがないといわれた。  それにひきかえ、国松は丈夫で、熱を出したこともないというけれども、こればかりは生れつきで、おふくが不注意だということにはならない。  むしろ、医師の間では、 「おふくどのが、あまり細かく気をお遣いになりすぎるので、若君が神経質におなりなさる気味がある」  と陰口が叩《たた》かれている。  病弱ではあるけれども、竹千代は忍耐強かったし、我慢心もある。  武術の稽古《けいこ》にも熱心だったし、学問の中、素読は吃音を治すのに良いとおふくからいわれて、出ない音をふりしぼって読むのが、おふくには涙ぐましくさえあった。  国松のほうも、昨年から学問の師が決まったが、こちらは生来、なんの支障もないので、ごく普通に幼い声で師匠が読んで聞かせるのを、そのまま復誦《ふくしよう》しているのだが、御台所《みだいどころ》付きの女中が、それは愛らしいお声だとか、玉をまろばすようなとお世辞を述べて、それを御台所が御自慢なさるといった有様であった。  おふくにしてみれば、誰が産んだ子かといってやりたいくらいのものであった。  生れつき、さまざまな障害を与えておいて、その子供が苦労して難関を乗り越えようとしているのを、はげましても下さらない。  それだけでも、怨めしく思っているのに、家督を継がせるのは無理かも知れないなぞと、かりそめにもいってもらいたくないとおふくは内心、忌々《いまいま》しく思ったが、事態は次第に、それどころではなくなって行った。  どこからそうした話が流れて来るのか、将軍家には、お世継ぎは国松君と決心なさったようだとか、それには御台所もお喜びになって居られるとか、まことしやかに話す者がいる。  そうした噂《うわさ》が竹千代の耳に入らないようにと、おふくは願っていたが、やはり、いつの間にか女中達のお喋《しやべ》りが耳に入ってしまったらしい。 「乳母、父上や母上は竹千代よりも国松のほうがお好きなのか」  気が昂《たか》ぶっているせいかいつもより吃音《きつおん》がひどくなって、おふくですら聞きとりにくい声でいった。 「そのようなことはございませぬ。若君の思いすごしでいらっしゃいます」  と最初は否定していたおふくだったが、その中に大名達の献上品が竹千代よりも国松に多いと聞かされては、遂に、 「なんということでございましょう。若君こそは、まぎれもなく、上様、御嫡男でいらっしゃいますのに、何故、上様、御台様までが左様なことをおとがめもなくいらっしゃいますのか、ふくには合点が参りません」  と竹千代の前で口走ってしまった。  竹千代も流石《さすが》に悲しくなったのだろう、おふくにすがりついて声を上げて泣き出し、 「おかわいそうな若君」  とおふくも竹千代を抱きしめてむせび泣いた。  が、泣いてばかりいられる場合ではないとおふくは自分をはげました。自分の生涯を捧《ささ》げたつもりの竹千代の不幸を、手をつかねてみているわけはない。 「下手《へた》をすれば、結城中納言《ゆうきちゆうなごん》様の二の舞になる」  と気がついて、おふくは慄然《りつぜん》とした。  秀忠の兄の結城秀康は、豊臣家へ養子に行ったことを理由に、家督を弟、秀忠が継ぐのを指をくわえてみていなければならなかった。  そのために、酒色に身を滅ぼした秀康の怨霊《おんりよう》が奥御殿に出ると大さわぎをしたのは、つい数年前のことである。  たまたま、駿府《すんぷ》城の家康の許《もと》へ行っていた阿茶局が江戸へ戻って来たので、その御機嫌うかがいに出た折、奥御殿の噂《うわさ》についていいつけた。 「そのようなことを、上様、御台様がお考えなさる筈《はず》はないではないか」  阿茶局はおふくをたしなめる口調で、 「上様には、昨日、御挨拶《ごあいさつ》に参ったが、その折、左様なお話はなかった」  むしろ、将軍家が一番、心にかけて居られるのは松姫|入内《じゆだい》のことだといわれて、おふくは驚いた。 「松姫様が御入内なさるのでございますか」 「大御所様、御配慮にて、今上《きんじよう》は政仁親王様に御譲位なされました。新帝《にいみかど》の女御様に、松姫様をというお話は八条宮様が只今《ただいま》、御尽力下さって居られます」  そのために、阿茶局は駿府へ行き、又、大御所の内意を受けて京にも大坂城にも行って来たといった。 「大坂城にては千姫様、秀頼様、御仲むつまじゅうおわしたが、淀の御方様には、何故、征夷大将軍《せいいたいしようぐん》を秀頼様におゆずりなされなんだかと、御気色ななめにて、おなだめ申すのにいささか骨が折れましたぞ」  あまり疲れた顔でもなく笑っている。  阿茶局はおふくよりも二十五歳も年上だから、もう五十のなかばを越えているというのに、相変らず旺盛《おうせい》な活躍ぶりで大御所の耳目となり、手足となっているのかと、おふくは感嘆していた。  けれども、国松が竹千代をさしおいて、徳川家の家督を継ぐかも知れないということは、この際、いい加減な噂では片づけられないと思う。 「阿茶局様が仰《おお》せられますように、よもや上様、御台様が竹千代君を御廃嫡なされるとは、私も信じては居りませぬ。ただ、かようなことが世上に流布されて、御家来衆の中にも竹千代君、国松君と各々《おのおの》、別れて競い合う者が出ましたり、果ては御兄弟のお仲不仲になる基にでもなりましたら、とりかえしのつかぬことと相成りまする。なんとか、よい思案はないものかと日夜、心を痛めて居ります」  竹千代のことになると、むきになりすぎると思いながら、おふくの口はもはや止《とど》まるところを知らなかった。  阿茶局はそんなおふくを困ったように眺めていたが、ふと思いついたようにいった。 「乳母どのは伊勢《いせ》参宮にまいられたことはおありか」  だしぬけだったので、おふくはうろたえた。 「いえ、今だに……」 「竹千代君のために、伊勢へ参って祈願をかけて来られるがよろしかろうと存ずるが……」 「私が伊勢へ参るのでございますか」 「竹千代君も、もはや八歳、ことをわけて乳母どのよりお話し申せば、そのくらいのお暇は願われましょう。竹千代君の御武運を伊勢の大神に祈念してお出でなされ」  納得《なつとく》の行かないおふくの顔をみて、ひそやかな笑みをこぼした。 「伊勢参宮のついでと申してはおそれ多いことながら、道中の途次、駿府《すんぷ》へ寄って大御所様に竹千代君のおすこやかな御成長ぶり、お話し申しては如何《いかが》……」  はっと、おふくは気がついた。 「左様なことを致してもよろしゅうございましょうか」 「大御所様のお傍《そば》にはお勝《かつ》の方様がお出でなさる。御聡明なお方ゆえ、きっと、よいようにして下さる。ともかくも、伊勢参宮の儀、願い出てごらんなされませ」  考えるまでもなく、おふくの決心はついていた。  阿茶局は伊勢参宮にかこつけて駿府へ行き、大御所に願い出てみよ、と教えてくれたのであった。  たしかに、竹千代の将来について大御所がどう考えて居るのかたしかめる必要があると思った。 「上様、御台様とて大御所様の御意向にはさからえぬ筈《はず》……」  となれば、頼みの綱は大御所しかなかった。,  まして、駿府へ行けと、阿茶局が指示しているのであった。  すみやかに、おふくは行動に移った。一度、こうと決めたら遮二無二《しやにむに》、突っ走るおふくの性格が今度もはっきり表に出た。  竹千代は自分のために伊勢参宮を思い立ったという乳母を途方に暮れてみつめていたが、 「気をつけて参れ。早う戻るように……」  と、やっといった。  御台所は、竹千代君の健やかなることを祈念しに伊勢参宮を思い立ったというおふくを、「御苦労である。道中、要慎して参るように」  と、はなむけの言葉と共に、老女に命じて御手許金《おてもときん》の中から、道中の費用にと銀百貫目を下された。  おふくとしては、内心、御台所に対しては後めたい出発であった。  もしも、御台所が国松君に御家督をと願ってお出でなら、おふくがこれからやりとげようとしているのは、御台所をだしぬくようなものである。  伊勢参宮というからには、供の者も僅《わず》かであった。白装束《しろしようぞく》に身を固めて、おふくは竹千代に当分の暇乞《いとまご》いをして江戸城を出た。  お城の外へ出るのは八年ぶりのことであった。  八年の歳月の中に、江戸の町はおふくの知っている京の町に劣らないほどの繁栄をみせていた。  町屋の数も、夫と共に江戸へ出て来た時とは比較にならないほど増えている。  旅を、おふくは急いだ。 「若君が一刻も早く戻れと仰《おお》せられました故……」  とおふくは口癖のようにいい、その言葉で自分をはげましていた。  この前、東海道を下って来た時は、赤児を伴い、二人の幼児をつれての旅だったが、今回は将軍家御乳母どの伊勢参宮の肩書のついたものである。  泊りは本陣であったし、道中はくらべものにならないほど、恵まれていた。  駿府までを、おふくは急ぎに急いだ。  おふくが驚いたのは、お城下に入った時、街道の宿駅に出迎えがあったことである。 「お勝の方様、御指図により御案内申し上げます」  おふくと同い年ぐらいの女中は、名を浅尾局《あさおのつぼね》と名乗った。  導かれて、駿府城内へ入る。  通されたのは、奥御殿で、そこで旅装から着がえた。  浅尾局に案内されて、まず、お勝の方の御前に出た。  お勝の方の若さに、まずおふくは目を見張った。せいぜい二十二、三であろうか、眼許《めもと》の涼しい、さわやかな感じの美女である。  大御所家康はすでに六十であった。御愛妾《ごあいしよう》とはいっても、親子以上の年の差である。 「道中、つつがのう参られましたか」  張りのある声でいい、お勝の方は平伏しているおふくへ好意のある視線を向けた。 「何事も阿茶局様より、お文が参って居ります。大御所様にはなにも申されず、ただ、御挨拶《ごあいさつ》のみにおとどめなされますように……」  次に案内されたのは、庭であった。  見事な藤棚《ふじだな》の下で大御所は若い女中に茶を点前《たて》させていた。 「竹千代君|乳人《めのと》、おふくどの、伊勢参宮の途中、大御所様に御挨拶にまかり出ましてございます」  お勝の方が取り次ぎ、大御所は遥《はる》かに手をつかえているおふくへ顔を向けた。 「おふくか、よう参った」  低い、そっけない声であった。 「若君は変りなくお育ちか」 「かたじけないお言葉に存じまする。竹千代君、まことにおすこやかに御成長遊ばしましてございます」 「学問、武芸、怠りなかろうな」 「はい、日夜、御修練なされてお出ででございます」 「おふくにも一服つかわせ」  女中に命じてから、大御所は立ち上って藤の花を仰ぐ姿勢になった。 「おふくの心配事、阿茶より申して参った。案ずるには及ばぬ。将軍家には儒学をもって政事《まつりごと》の支えになさるお心のようじゃ。左様にお考えの上は、女どもの心配は無用じゃ」  うつむいて、おふくは全身を耳にしていた。 「竹千代はよい若君か」 「この上もなく、御仁慈に富み、御器量|秀《すぐ》れて拝されまする」 「よろしかろう。乳母どのの丹精、大儀である」  一碗《ひとわん》のお茶を頂いて、おふくは頭を下げた。  折角、大御所にお目通りが出来たのであってみれば、言上《ごんじよう》したいことは胸に余っていたが、お勝の方から御挨拶《ごあいさつ》だけに止めよ、と念を押されている。  そのお勝の方が静かにいった。 「では、乳母どのは道中を急ぎます故……」  大御所がおふくに背をむけた。 「近い中に、若君に対面いたそう。たのしみに待つがよい」  おふくが頭を上げた時、大御所の姿も、お勝の方もそこには居なかった。  浅尾局に案内されて、奥御殿の一室へ戻り、再び着がえて御城外に出る。  これでよかったのだろうかとしきりに思った。  阿茶局の手の平の上で踊らされているような気がしないでもなかったが、近い中に若君に対面のため、江戸へ行くと約束してくれた大御所の言葉がたよりのように思えた。  宮《みや》から舟で桑名《くわな》へ出て、おふくは伊勢参宮を終えて、江戸へ戻った。  大御所家康が江戸城へやって来たのは、その年の秋であった。  本丸に入って、秀忠夫妻の出迎えを受けた家康は孫どもの顔をみたいといい、奥御殿から竹千代、国松、それに松姫を呼びよせた。  竹千代はおふくにいわれたように、家康の前へ手を突くと、 「大御所様には御機嫌うるわしく、恐悦に存じまする」  とゆっくりした口調でいい、頭を下げた。 「竹千代どのか、大きゅうなられた」  家康の目が、やや吃音《きつおん》で挨拶をした竹千代へそそがれた。 「今日は祖父《じい》が、竹千代どのによいことをお話し申そう。人はみな、重いものを背負うてこの世に産まれ、生涯、それを背負うて参らねばならぬ。或る者は生まれながらに目がみえぬ、或る者は不運に生れつく、或る者は病がち、或る者は人に好かれぬ」  ひっそりと竹千代は祖父を見上げていた。 「若君は人より重い口を持ってお生れなされた。しかし、よう考えられるがよい。重くとも言葉が話せる上は不自由はあるまい。決して、愚痴をおいいなさるな。竹千代という名は、この祖父の幼少のみぎりの名でもある。祖父も生れながらにして、さまざまな艱難辛苦《かんなんしんく》を背負うて参った。しかし、一度もその重い荷を投げ出そうとは思わなんだ。おわかりかな、竹千代どの」  竹千代の頭が低く下るのをみて、家康は口許《くちもと》をほころばせた。 「よい跡継ぎにおなりなされ。竹千代どのは生まれながらにして、将軍を継ぐお人じゃ」 それから、国松を呼んだ。 「よい大将となり、徳川の家を守らねばならぬ。何事も兄の命に従い、違背せぬよう」  乳母と共に近づいた松姫の髪を撫《な》でた。 「これは、よい御器量じゃ。やがては国母ともなられる身、お大事になされよ」  竹千代を家督にと大御所が指摘したことに、秀忠夫妻は格別、意外な様子はなかった。むしろ、つつしんで、大御所の言葉に頭を下げている。  本丸奥御殿で阿茶局を呼んだ家康は笑った。 「竹千代の乳母どのは、いささか早のみこみのようじゃな」  阿茶局がうなずいた。 「それも、若君に忠義の故とお思い遊ばせ」 「悪いことではないが……」  声を出さずに、家康は笑い続けた。 「若君は、あの乳母どのが重荷になろう」  江戸城は菊が盛りであった。  黄菊白菊の籬《まがき》を眺めて、家康はつつましくひかえている阿茶局に別のことをいった。 「大坂だが……ぼつぼつ、花の蕾《つぼみ》をつまねばならぬと存ずるが……」  阿茶局が籬に寄って、とりわけ見事に咲いた大輪の白菊に鋏《はさみ》を入れた。 「千姫様が、おかわいそうにはございますが……」 「なに、その手だてはついて居ろう」 「はい……。でも……」  白菊を手にした阿茶局をみて、家康が立ち上った。 「その白菊は、竹千代どのの乳母につかわすがよい。若君へ忠節の褒美《ほうび》じゃ」 「左様、いたしましょう」  今頃は、竹千代を抱きしめて泣いているに違いないおふくの姿を思い浮べて、阿茶局はちょっと眉《まゆ》をしかめるようにした。  秋の雲が、江戸城本丸から遥《はる》かに眺められる海の上に、白く大きく浮んでいた。     十三  元和《げんな》元年の春、おふくは江戸城奥御殿で徳川《とくがわ》一門による二度目の大坂攻めの結果を聞いた。  大坂落城は、この夏の陣が始まった時から明らかだったといってよい。  難攻不落を誇った城も外壕《そとぼり》から内壕まで埋められては守り切れるものではなかったし、それ以上に天下の趨勢《すうせい》は豊臣《とよとみ》家のほうに向いていなかった。  世の中は、水の流れのように徳川家の思うままに動いているのが、江戸城の奥に奉公しているおふくにもよくわかった。  もっとも、そうした知識をおふくに与えてくれたのは阿茶局《あちやのつぼね》であった。  例によって彼女は、この前の冬の陣の折にも、家康の陣中に供をし、大坂方との和議を結ぶに際しても、本多正純《ほんだまさずみ》と共に京極高忠《きようごくたかただ》の陣中で、秀吉《ひでよし》の御台所、高台院《こうだいいん》と会い更には板倉重昌《いたくらしげまさ》と大坂城へ赴いて、秀頼《ひでより》母子から誓書を取って来るという活躍ぶりを示した。  その阿茶局が、この度の講和は壕を埋めるためであり、諸国の大名に改めて徳川家と豊臣家の落差をみせつけるためのものだと、おふくに話した。 「遅くとも、半年の中には、大坂は滅びましょう」  といわれて、おふくは驚いた。 「それでは、大御所様には秀頼様も淀《よど》の御方様もお許しにならぬお考えなのでしょうか」  豊臣家が、徳川家と主従の礼をとればよいのではないかとおふくは思っていた。徳川将軍に従う一大名となれば、将軍|秀忠《ひでただ》の娘の千姫《せんひめ》の聟《むこ》である秀頼は、むしろ厚遇されるのではないかと考えていたものだ。  それは、大御所|家康《いえやす》がとりわけ千姫を可愛《かわい》がっていて、始終、大坂へ文をつかわしているということを阿茶局から聞いていたからでもある。  まして、秀頼の母は、将軍秀忠の御台所お江与《えよ》の方の姉である。  その時、阿茶局は少し遠いところをみるような眼差《まなざ》しをして、こういった。 「大御所様には、この徳川家の御代を永久に盤石のものにしておきたいお考えなのですよ。乳母どのは御存じないかも知れませんが、江戸へ参府する諸大名の中、殊に西国の方々は、その往《ゆ》き帰りに大坂城へ寄って、秀頼様に御機嫌うかがいをし、時には長く滞在する者もあるそうですよ」  大名が参府する時には、将軍家に対して莫大《ばくだい》な進物があるのが慣例となっている。  それは黄金何百というものであり、駿馬《しゆんめ》や名刀が添えられたりもする。  それ以上のものが、やはり大坂城の秀頼にも贈られていると、阿茶局はいった。 「やはり、西国大名には臣家恩顧の方々が多うございますから……」  一つには大坂が江戸から帰国する道の途中にあるせいでもあった。 「なんにせよ、天下に号令する者は横に並んではなりませぬ。祖父から父に、そして子にと縦に並ぶ分には、なんの障りもありませぬが……」  家康から秀忠に、そして竹千代《たけちよ》にということかとおふくは思った。その横に豊臣秀頼をおくのは危険だという意味である。 「千姫様は上様のお子、秀頼様と千姫様の間に若君でも誕生なさることがあれば、そのお方は徳川一門のお血筋にもなりましょう」  漸《ようや》く、おふくにも阿茶局のいいたいことがわかった。下手をすると三代将軍の競争相手が増えて来る。おふくは青くなった。  今でも、相変らず諸大名の多くは竹千代よりも国松《くにまつ》のほうに御機嫌うかがいに出る。それは、やはり、御台所お江与の方が国松を溺愛《できあい》していて、終始、御手許《おてもと》におかれているといった事情にもよるのだが、そのことは竹千代も気がついている。 「大御所様には三代将軍は竹千代君とお決めになってお出《い》ででございます。そのことは乳母が駿府《すんぷ》のお城で、しかと承って参ったのでございますから……」  と、おふくは口癖のように竹千代にいっているが、その声も次第に弱くなっている今日この頃《ごろ》なのであった。で、おずおずと阿茶局に訊《たず》ねてみても、 「大坂のことが一段落なされば、必ず御出府遊ばしますから、その折に、よいお知らせがございましょう」  というばかりであった。  たしかに、昨年から今年にかけて、大御所家康は大坂城にかかりきりといえないこともない。 「でも、もし、大坂落城の暁には千姫様は如何《いかが》あいなりましょう」  と訊いたおふくにも、その時の阿茶局は、おっとりした微笑で、 「そのことは、もう手配がしてございますから……」  といっただけである。  その手配とは、どのようなことなのかと思いながら、おふくはやがて素読の稽古《けいこ》を終えて戻って来る竹千代のために茶菓子の支度をしていた。  侍女が慌しく入って来たのは、その時で、 「阿茶局様よりのお文が参りました」  やや使い古した文箱を、おふくにさし出した。文面は簡単なもので、戦は上々吉に終ったことと、大御所様にはまるで物見遊山のような余裕のある有様だったと述べ、そのあとに、世良田《せらだ》の満徳寺《まんとくじ》に千姫様、御入山の手筈《てはず》をととのえておくようにとしたためてある。  満徳寺は徳川家にゆかりの深い尼寺であった。この寺で三年間、修行をするとその女人は夫と縁を切ることが出来るとされていて、妻が別れたいのに、夫の同意が求められない場合、ここへかけ込んで離婚を願う女達から縁切寺と呼ばれていた。  その満徳寺に千姫が入山出来るように準備をせよということである。  世良田は上州新田《じようしゆうにつた》郡であり、ここは新田の源氏《げんじ》の流れをくむ徳川(得河《とくがわ》)家の発祥の地とされている。  おふくは、やがて竹千代と共に小座敷へ姿をみせた本多正純に挨拶《あいさつ》に出て行くと、正純のほうから大坂落城の報告があった。 「秀頼公御母子には大坂城山里の糒櫓《ほしいやぐら》にて自刃された由、また、千姫様にはそれ以前に御城内を出られ、堀内主水氏久《ほりうちもんどうじひさ》が御供申し、途中、坂崎出羽守《さかざきでわのかみ》が御守護の上、御無事に御本陣へお着き遊ばした由でございます」 「御戦勝、まことにおめでとう存じまする」  竹千代に頭を下げたおふくに、正純が重ねていった。 「ついては乳母どのに、阿茶局様よりお文がござったと存じますが」 「はい、つい先程……」 「それにつき、手前にもお指図が参って居ります」  やはり、満徳寺へ入山の件だといわれて、おふくはつい、自分よりも年下の、大御所側近第一といわれている本多|正信《まさのぶ》の子、正純に訊ねた。 「なんのために、左様なことをなさるのでございましょう」 「これは、乳母どののお言葉とも思えませぬな」  正純はその端正な容貌《ようぼう》に薄く笑いを浮べた。 「千姫様には、秀頼公御母子の助命|歎願《たんがん》のため城をお出になり、そのまま、秀頼公と永のお別れにあいなった次第でござれば、御離縁になったわけではございませぬ。それでは、この先、姫君の御生涯になにかと不都合ゆえ、縁切寺にての御修行が必要であろうかと存ずるが……」  成程と、おふくは承知した。 「阿茶局様よりのお文のおもむき、あいわかりましてございます」 「万事は、それがしが手配を仕《つかまつ》ります。ただ、尼寺なれば、御使者には乳母どのが適任。それ故、竹千代君に数日のお暇をたまわるようお願い申し上げます」  本多正純が去ってから、竹千代はおふくにいった。 「正純はきらいじゃ、予の乳母を軽んずるものいいをした。無礼者じゃ」 「いいえ、この私が心づかぬ故でございます。若君の御前でお恥かしいことにございます」  けれども、おふくは十二歳の竹千代が、本多正純の慇懃《いんぎん》無礼に立腹したことを頼もしくも、有難くも感じていた。 「千姫様には御年七歳にて大坂へお輿入《こしい》れ遊ばし、さぞかし御苦労の多い歳月であったかと存じまする。姫様のおために、私が満徳寺へ参りますこと、お許し下さいますように」  竹千代が大人びたうなずき方をした。 「姉君御入輿の時、予はまだ、この世に生まれていなかった。どのようなお方かも知らぬ」 「乳母もお目通り申したことはございませぬが、大層、お美しい姫君と承って居ります」「満徳寺には、いつ参る」 「いずれ、本多様よりお指図がございましょう」 「道中、気をつけて参れ。用がすんだら、早う戻るように……」  おふくと話している時の竹千代はゆっくりした話しぶりだが、格別、どもるようなことはなかった。このところ、背も伸びて声もやや変りはじめている。  阿茶局からはその後も何度か文が来て満徳寺に入山するのは、千姫の乳母の刑部卿局《ぎようぶのきようのつぼね》が代理として修行をすることや、千姫自身は江戸城内で受戒が出来るように、また三年間は長すぎるので、寺法を改めさせて、もっと早くにすませられるよう便宜をとりはからうなどの指図があった。  おふくが満徳寺へそれらの要請を持って出かけたのは七月になってからで、それより少し遅れて千姫は阿茶局、刑部卿局、松坂局達にかしずかれて京を出発した。  琵琶湖《びわこ》東岸の草津《くさつ》から山路を行き、鈴鹿《すずか》峠を越えて伊勢《いせ》の桑名《くわな》に出た時、桑名十万石の主、本多|忠政《ただまさ》の嫡男、忠刻《ただとき》が家臣と共に出迎えた。桑名から舟で対岸の宮へ渡る手伝いのためだったが、忠刻の母は国姫《くにひめ》といい、父は徳川家康の長男、信康《のぶやす》で、母は織田信長《おだのぶなが》の娘の徳姫《とくひめ》であったから、千姫にとっては年齢は親子ほども違ったが、同じく家康の孫に当る。  で、桑名からの本多家の船には、国姫も乗船して、傷心の千姫を慰めた。国姫は阿茶局とも親しい間柄で、木多忠刻も改めて母のひき合せで、千姫一行に挨拶をした。  この時、忠刻は二十歳、母親似の眉目秀麗《びもくしゆうれい》な若者であり、しかも宮本《みやもと》武蔵《むさし》の教えを受けて二天一流の免許皆伝という武芸者でもあった。  十九歳の千姫の目に、忠刻が頼もしい青年に映ったのと同時に、忠刻にとっても、はじめて出会った高雅な姫君の印象は胸をときめかすに充分であった。  ともあれ、江戸城本丸へ入った千姫はあらかじめ、おふくによって根廻《ねまわ》しされていたように、城内で戒を受け、身代りに出家して俊澄尼となった刑部卿局が満徳寺に入山した。  おふくが、はじめて千姫に対面したのは、八月の末のことであった。  十二年ぶりに親許へ戻って、疲れが出たのか、千姫はお江与の方の住む奥御殿の一室で寝たり起きたりの暮しをしていたが、おふくが御機嫌うかがいに出た時は白綾《しらあや》の小袖《こそで》に唐織の帯をゆるやかに結び、秋草を染めた打掛けを肩からややすべらせて、これもおふくが前もって献上した古今集《こきんしゆう》をひもといていた。 「竹千代君、御乳人、おふくどのが参られました」  松坂局に取り次がれて、おふくが遥《はる》か下座に手をつかえると、千姫は目で自分のすぐ近くへ、おふくをさし招いた。 「乳母どのの、さまざまの心づかい、ありがとう存じています。若君には御息災か」  おふくはつつましく平伏した。 「ありがたきお言葉に存じ奉ります。竹千代君には大坂の戦のそもそもより、千姫様の御事を御心配遊ばしてでございました。なによりも御無事に御到着遊ばしましたこと、おめでとう存じ上げます」 「今少し、常のようになりましたら、若君にもお目にかかりたく、その折は松坂より乳母に申し上げましょう」 「さぞ、若君がお喜び遊ばしましょう。お待ち申して居ります」  あまり長居をしてはと思っているおふくに、千姫が訊ねた。 「乳母は、明智光秀《あけちみつひで》が家中、斎藤利三《さいとうとしみつ》の娘と聞いたが……」  はっとして、おふくは頭を下げた。なんのために、そんなことを千姫がいい出したのかと不安であった。謀叛人《むほんにん》の娘という生涯の重荷を忘れていたわけではなかったが、千姫の母方の祖伯父は織田信長に当る。 「幼い日に、戦場を逃げまどうたことがありましょうか」 「おそれながら、あまりに幼なすぎ、その折の記憶は定かではございませぬ。なれども、物心つく頃より謀叛人の子として、世をはばかり、おそれおののいて暮したことは、今でも忘れては居りませぬ」 「不愍《ふびん》なこと……」  まだ年若い姫の言葉には、しっとりした思いやりがあった。 「その上、夫にも、子にも別れて御奉公とか、さぞ、つらいことも多いであろうに……」「もったいないことを……」  不覚にも、おふくは声をつまらせた。奥御殿へ上ってから、最初に聞いた優しい言葉であった。 「大御所様お思《ぼ》し召しにより、夫、正成《まさなり》は臣下の端にお加え下さり、我が子、正勝《まさかつ》は若君様お側《そば》に御奉公を許されて居りまする。身に余る幸せと、朝夕、手を合せて御恩を謝して居る次第にござりますれば……」 「乳母のことは、京よりの道中、阿茶局より度々、聞いた。この上とも、若君に忠節をたのみ参らせます」 「ありがとう存じまする」  本丸奥御殿を出て、おふくは改めて千姫の並々でない、器量と聡明《そうめい》さに心を打たれていた。  母親のお江与の方がいえない言葉を、まだ二十《はたち》にもならない深窓の姫がごく自然に口にしている。そうした心くばりが出来るのは、大坂城で人質同様の暮しを送ったせいでもあろうし、一つにはもって生まれた性格の良さでもあろうと思った。  あのような心ばえ秀れた姉が、竹千代の味方になってくれれば、江戸城内での竹千代の立場もいくらか明るくなるのではないかと思い、おふくは、竹千代に対して千姫の印象を口をきわめて賞《ほ》めたたえた。  竹千代にとって、おふくの言葉は何事によらず吸取紙のように素直に心にしみ渡って行く。九月のなかばになって、千姫が竹千代を訪ねた時、竹千代は自ら、部屋の入口まで姉を迎え、手を取らんばかりにして座を勧めた。  千姫も、この口の重い弟が、目を輝かせ、頬《ほお》を紅潮させて自分をもてなそうとしているのが愛《いと》しくみえたようであった。  無論、おふくはこの日のために用意した新栗《しんぐり》の菓子や餠《もち》などを並べ、また、竹千代と相談して注文しておいた双六《すごろく》を千姫の御覧に供した。  それは、象牙《ぞうげ》の盤の上に東海道の駅名が彫り込まれ、象嵌《ぞうがん》で富士山などの名所の風景が描かれた見事なもので、賽《さい》を収める筒も象牙をくり抜き、外側に葵《あおい》の紋所を刻んだ、如何《いか》にも千姫にふさわしい道具であった。 「姉上のお気に召しますか、どうか」  緊張して、口ごもりながらいった竹千代に千姫はこぼれるような微笑をみせた。 「なんと美しい。かような双六を、私は初めてみました」  江戸をふり出しに京へ上る道を指して行き、それが宮から桑名へ続くところで、ふと止った。  千姫の顔が赤くなり、片手で胸を押えるようにしているのを、その時のおふくはなんのことかわからず見守っていた。 「若君より、大層、嬉《うれ》しい贈物を頂きました。それ故、申し上げるわけではございませぬが、来月、駿府より大御所様が、お千の病気見舞にお出で下さいます。その折、若君によいお土産《みやげ》がある由、阿茶局が申して居りました。たのしみに遊ばせ」  竹千代が訊ねた。 「姉上は大御所様がお好きですか」 「ええ、好きですとも……お千が大坂に居ります時も、よくお文を頂きました。私がお文をさし上げると必ず、すぐにお返しがあるのですよ。大坂落城の折、私は大御所様に秀頼様、御母公様の命乞《いのちご》いを致しましたの。大御所様は、お姫のたっての願いとあらば、そのように取り計ってやると仰せられましたが、父上は、お千をお叱《しか》りになりました。何故、大坂にて死ななかったと……」 「そのようなことを、父上が……」 「ええ、その折は悲しゅうございましたけれど、今になってみると父上のお考えもわかります」 「姉上は死ぬことはない」  まっ赤になって竹千代が叫んだ。 「姉上は徳川の家のために大坂へ参られたのだ。よう生きてお戻りになりました。竹千代は、心からお喜び申し上げる」  千姫の手が、慄《ふる》えている竹千代の手をそっと取った。 「若君のお言葉、嬉しゅうございます」 「竹千代は、終生、姉上をお守り申します。いつにても……命ある限り、竹千代をたのもしくお思い下さい」  美しい姉の胸にすがって泣いている竹千代を、おふくも涙の中にみつめていた。この若君にとって、千姫様は間違いなく力になって下さると思い、それが有難かった。いってみれば出戻りの姫の情けにさえ感動するほど、この頃の竹千代の周囲は心細いものだったのでもあった。  千姫がいったように、その十月、家康は出府して江戸城へ入った。  まず、元気になっている千姫の様子に喜び、そのあと秀忠夫妻とくつろいだ折に、竹千代を呼び寄せた。 「若君は久しくみぬ中に、一段と大きゅうなられた。おいくつになられた」  竹千代は胸を張って答えた。 「おかげさまにて、十二歳になりまする」 「もう元服なさるがよろしかろうな。この祖父が、明年、共に京へ上って二条城《にじようじよう》にて元服をとり行って進ぜよう。その後、将軍家世子として西の丸にお移りなされ。崇伝《すうでん》に申しつけ、良い御名を考えさせよう」  念を押すように、秀忠夫妻をみた。 「上様にも、御台所にも、それでよろしかろうな」  秀忠がお江与の方と共に、頭を下げた。 「大御所様の御配慮、ただ有難く御礼申し上げます」  家康の機嫌は更によくなった。 「ついては、若君に改めて傅役《もりやく》をつけよう。予の考えでは、酒井忠世《さかいただよ》、土井利勝《どいとしかつ》、それに青山《あおやま》の爺《じい》がよいと思うが……」  酒井忠世は、徳川譜代の最上位にある酒井家の嫡子で、秀忠の家老職をつとめている。  土井利勝は、七歳で、その年、誕生した秀忠の小姓となった男で、下総佐倉《しもうささくら》三万二千石の老職であった。  青山の爺と家康がいったのは、青山|忠俊《ただとし》のことで、これはそれ以前から竹千代付きの傅役でもあった。やはり、三河《みかわ》以来の譜代で武蔵岩槻《むさしいわつき》三万五千石を領していた。この年、まだ三十八歳の青山忠俊を、家康が爺呼ばわりをしたのは、竹千代が彼を青山の爺と呼んでいたためである。  この日以来、江戸城における竹千代の地位は弟、国松と逆転したといってよい。  大御所自ら、竹千代を世子と決め、それに将軍家も同意を示したばかりか、将軍家側近の酒井忠世、土井利勝が傅役に加わったとなると、諸大名の竹千代に対する態度もがらりと変って、俄《にわ》かに竹千代の周辺は華やかな脚光を浴びたようになった。 「乳母、姉上が申された、大御所様のお土産とは、このことであったのか」  いささか戸惑いながらも、喜びをかくさずに竹千代がいい、おふくは大きくうなずいた。  過ぐる年、伊勢《いせ》参宮にかこつけて駿府まで行った甲斐《かい》があったと思い、若君の今日の幸せには、自分の力も大いに役立ったと満足であった。  けれども、家康が秀忠と談合して竹千代を世子と決めたのは、そのためではなかった。  徳川の世が固った今、将軍の後継ぎを長男と決めておくことは、将来の家督争いを未然に防ぐことにもなり、一族に謀叛など起らぬために、重大なことであった。  大御所の決断に、秀忠が同意したのは、それ故であり、国松をこよなく愛していたお江与の方にしても、反対は出来なかったものだ。  しかし、おふくは竹千代世子の決定は自分の駿府行きのためであると信じ、竹千代も乳母の言葉を疑わなかった。 「乳母、予が将軍になったら、なんでも望みのものをとらす。たのしみに待っていよ」  まだ幼さの残っている顔で竹千代がいい、おふくは笑顔で頭を下げた。     十四  明年、京へ参って元服を約束した家康は、その正月二十一日の深夜、俄かの腹痛を訴え、同時に咽喉《いんこう》に痰《たん》がつまって苦しんだ。  その時は愛用の万病丹でおさまったが、以来、病床につくことになった。  七十五歳の老齢である。江戸からは将軍自ら、駿府へ見舞にかけつけたが、容態は思わしくない。  三月になって、朝廷は勅使を遣わして家康の病気を見舞い、二十一日を以て太政大臣《だじようだいじん》に任じた。  だが、そのあたりから家康は食欲を失い、日一日と衰弱した。  たまたま、桑名の本多家からは国姫が見舞に来て、その折、病床にいた家康の愛妾《あいしよう》お勝の方や阿茶局と共に、嫡子、本多忠刻に千姫を賜りたいと願ったところ、家康は喜んで承知した。 「お姫の幸せな姿をみるまでは死ねぬな」  といった家康だったが、一方では死期を悟ってもいたようで、本多正純や天海《てんかい》及び崇伝を呼んで、自分の死後は遺体を久能山《くのうざん》へおさめ、葬儀は増上寺《ぞうじようじ》で行うこと、又、一周忌が終ったら日光山に御堂を建てて勧請《かんじよう》をするようにと遺言をし、京都吉田神道の神院竜|梵舜《ぼんしゆん》を招いて、死後、神になるための法式を訊ねたりした。  そして、四月十七日、大御所|薨去《こうきよ》の早馬が江戸城に到着、ひたすら祖父の回復を祈念していた竹千代は茫然《ぼうぜん》自失し、暫《しばら》くは声もなくおふくにすがりついて慄えていた。  家康の遺体は遺言に従って久能山へ移され、吉田神道によって葬られ、明神号を与えられたが、数日後、天海によって神君御遺言は、山王一実神道によって権現として祭れということであると主張され、翌年四月、日光二荒山に東照宮《とうしようぐう》が建立されることに決った。  が、それより以前、家康死後の九月に千姫は祖父の遺言通り、本多忠刻へ嫁いだ。 「大御所様の喪中なのに……」  と眉《まゆ》をひそめたおふくに、阿茶局は、 「姫君と本多の若殿は桑名の御対面の時より相思の仲でお出でなさる。お幸せなことは喪中にても、御所様はむしろ、お喜びなされましょう」  といった。  実際、本多家は、忠刻の父、忠政が桑名十万石から播磨姫路《はりまひめじ》十五万石に国替えになり、忠刻に対しては千姫様御化粧料として十万石が与えられ、千姫は華やかな行列をととのえて東海道を西へ去った。  千姫の再婚は、竹千代にとっても衝撃だったが、おふくの落胆も大きかった。江戸城中にあって竹千代の良き相談相手にと思ったのも、束《つか》の間のことである。  しかし、翌元和三年十一月に竹千代は大御所の遺命通り西の丸に移った。  西の丸は将軍世子の住居と決っているので、これで竹千代が三代将軍を継ぐことは天下に伝ったといってよい。  同時に、弟の国松には甲斐国が与えられることになった。  甲斐は武田信玄《たけだしんげん》ゆかりの地であり、甲信越の一つの要でもあった。  西の丸へ竹千代が移って、おふくがほっとしたのは、今までの奥御殿で御台所お江与の方に気を遣い、阿茶局に遠慮して暮していたのとは違い、この奥御殿は或《あ》る程度、おふくの思いのままに出来たからであった。  奥御殿といっても、主の竹千代は十四歳で、まだ正室も決ってはいない。従って、ここは表も奥の区別も、それほどやかましくなく、竹千代自身は自由に表と奥を往き来して、相変らず、身の廻りの一切はおふくにまかせっきりであった。  家康の死によって延びていた竹千代の元服は、元和六年に妹の松姫和子が新帝の女御として入内したことで更に遅れた。  秀忠とお江与の方の末娘である和子は竹千代よりも三歳年下で、大御所家康は、この姫をいずれは帝《みかど》の妃《きさき》にと心づもりをしていた。  慶長十六年に政仁親王が新帝に即位されると、間もなく和子入内の工作が勧められ、もっぱら阿茶局などが朝廷側の八条宮智仁《はちじようのみやともひと》親王や近衛信尋と交流を深めたが、現実には平清盛《たいらのきよもり》の娘|徳子《とくこ》以来の武家からの入内であり、朝廷の反撥は予想以上に激しかった。  入内の宣下が下りたのが慶長十九年のことで、それまでに朝廷や公卿《くげ》の主だった者に対して、どれほどの黄金や贈物がなされたか、当事者にもわからないという始末で、その入内が家康の死や、翌年の御陽成院《ごようぜいいん》の御他界で延びたあげくに、元和五年になって新帝には四辻公遠《よつじきみとお》の娘の御|与津《よつ》の局に皇女が御誕生になったという事実が江戸へ聞えた。  和子入内が決っている時に、他の女が帝の後宮に上っていたというので、殊に和子の母であるお江与の方が立腹し、秀忠にしても幕府の面目を潰《つぶ》されたとして、厳重に抗議を申し入れた。  そうした曲折があって、漸《ようや》く十四歳の和子が新帝の後宮に入ったのだが、その行列の美々しさは京童《きようわらべ》の語り草になるほどで、とにかく、家康が晩年に望んだ公武和合は一つの結実をみた。  竹千代が元服したのは、和子入内の三か月後で、崇伝が家康の遺命によって家光《いえみつ》と名を定めた。  この時、御台所のお江与の方の強い要望もあって、同時に国松の元服も行われ、こちらは忠長《ただなが》と命名された。  竹千代が祖父の名を一字、受け継ぎ、国松が父の名を一字もらったことになる。  この年、竹千代は正三位、権大納言《ごんのだいなごん》に叙せられ、国松は従四位下、参議《さんぎ》兼|右近衛権中将《うこのえのごんのちゆうじよう》に任ぜられた。家光十七歳、忠長は十五歳になっていた。  おふくにとって、更に喜びが重なったのは、翌年、長男の稲葉正勝《いなばまさかつ》が小姓組番頭から書院番頭に変って上総《かずさ》国で千五百石の加増があり、今までと合せて二千石に出世したことである。 「ぼつぼつ、若殿に御正室を決めねばなりませんな」  お傅役《もりやく》の青山忠俊がおふくにいったが、その家光は一向に若い女に興味を示さない。 「どうも、これは乳母どののお躾《しつけ》がよろしくない。奥御殿は婆《ばば》あどもばかりではござらぬか」  忠俊にずけずけいわれて、おふくは内心、腹を立てた。  たしかに、この年、おふくは四十二歳になっていた。だが、四十三歳の忠俊に婆あ呼ばわりされるのは不快であった。  それに、奥御殿に奉公する者の大方が、おふくが乳母となって江戸城へ上った当時からの者である。十五、六で奉公した者も十七年も経《た》てば三十を過ぎるわけで、なまじ、若い女中を入れるよりも、心きいた者達のほうがおふくとしては、気易かったせいでもあった。  青山忠俊の言葉が癇《かん》にさわったおふくは、和子について京へ行っている阿茶局にそのことを文で知らせた。  間もなく、阿茶局から返事が来て、若殿御正室については、京でよい姫君を考えているので、心配は無用といって来た。  冗談ではないというのが、おふくの気持であった。  どんな姫君を阿茶局が物色しているのか知らないが、他ならぬ家光の北の方となる女は自分がみつけたいと思った。第一公卿の姫君などを迎えて、口の重い家光が馬鹿《ばか》にでもされたらたまったものではない。  だが、阿茶局になにもいえないおふくの立場であった。  大御所家康の愛妾達は、家康の死後、尼になったが、阿茶局とお勝の方だけは遺言で出家することを禁ぜられていた。  特に阿茶局は家康在世中と全く変らず、秀忠にも御台所にも信任され、相変らず奥御殿をとりしきっている。  おふくにしても、彼女には頭が上らなかった。そもそも、竹千代を世子にする件でも、おふくに駿府へ行って大御所に会ってみろと智恵をつけたのは阿茶局で、竹千代の家光の今日あるのが、おふくの力というならば、それはとりもなおさず、阿茶局の尽力といいかえることが出来るからである。  おふくは、家光の食事の給仕をしながら、それとなく訊ねてみた。 「若殿には、どのような女子がお気に入りでございますか」  家光はちょっと顔を赤くして首を振った。 「女は好きではない」 「それは、この奥御殿に御奉公申し上げている女中どもは、みな、乳母同様に年をとって居ります故、若殿のお気にも召しませぬが、青山どのが、もそっと若い女子を奥御殿に入れるよう申されて居りますので……」 「若い女子など要らぬではないか。予は乳母が居ればよい」 「乳母では、つとまらぬこともございます」 「無用じゃ」  家光が声を荒くしたので、おふくは内心、ほっとしていた。  若殿はまだ若すぎて、女に興味はないものと考えたからである。  だが、それから間もなく、再び、青山忠俊がおふくを呼んだ。 「乳母どのには、若殿をどのようにお育て申したのか、ちと、お考えが浅すぎると存ずるが……」 「なんのことを仰せられますのやら、私にはわかりかねますが……」 「若殿がこの頃、猿楽《さるがく》やら踊りやらを好まれて、近習《きんじゆう》どもと舞うたり、踊ったりしているのは御存じであろうな」 「はい」  それが、なんだとおふくはいいたかった。武将として猿楽ぐらいのたしなみがなくてどうするのかと思う。 「若殿が派手な衣裳《いしよう》を召し、化粧をなさるのは……」 「それは……踊りには派手な衣裳も化粧もつきものでございますから……」 「乳母どの……」  青山忠俊が噛《か》みつくような口調で続けた。 「乳母どのにとって、若殿は乳を含ませ、襁褓《むつき》の頃より手塩にかけられた我が子以上のお方と心得るが……」 「もったいないことながら、左様に存じて居ります」 「如何に若殿が可愛いからと申して、その嫁取りを邪魔するのは奇怪至極……」 「なんと仰せられます」 「乳母どのは、嫉妬《しつと》の故をもって、若殿に女子を近づけぬのではござらぬか。そのために若殿が男色に狂い、近習どもも先を争って寵《ちよう》を求める。まことに不快極まりなきこと……」  おふくは、あっけにとられて青山忠俊をみつめた。  家光が男色に狂っているなどとは初耳である。 「傅役《もりやく》様には、なんぞ勘違いを遊ばしてはお出ででございませんか。若殿と近習どもとは幼い時から主従を越えての親しい間柄。武術のお稽古も学問も共に学んで参って居ります故、四六時中、お傍《そば》を離れぬ者も何人か居ります。けれども、男色などとは……」 「いいや、表にてはもっぱらの噂《うわさ》でござる。乳母どのは自分の身内を立身出世のために、若殿のお相手にすすめて居ると……」 「稲葉正勝のことを仰せられますのか……」  怒りで、おふくは青ざめていた、聞き捨てには出来ない。 「他にも、お心当りがござろうが……」  いやな笑い方をして青山忠俊が去ってから、おふくは女中を使にやって、稲葉正勝を呼びよせた。十歳で、家光の小姓となった正勝も、すでに二十代のなかばになっている。  女中達を遠ざけて、おふくは早速、青山忠俊の言葉を彼に伝えた。  正勝は母親の顔から視線をそむけ、いいにくそうに低く答えた。 「青山様にも似なきこと……若殿が仮に寵童をお召しになったとて、それは古今に例あることで、格別、世間を憚《はばか》る必要はございますまい」 「では、青山どのが申されたのは、まことのことか」  おふくの追及に、正勝は苦笑しただけである。 「まさか、そなたが……」  正勝が表情を崩した。 「手前ではございません」 「すると、誰《だれ》なのじゃ。青山どのは私にかかわりのあるようなものいいをなされたが……」  止《や》むなくといった様子で、正勝が重い口を開いた。 「若殿が、このところ、目をかけていらっしゃるのは、堀田《ほつた》様の御子息ですが……」 「堀田|正吉《まさよし》どのの……」  堀田正吉は譜代の家柄ではなかった。かつては織田信長に、その後、浅野長政《あさのながまさ》、小早川隆景《こばやかわたかかげ》と主君を変えて、慶長十年に家康に奉公したもので、書院番で五百石の身分であった。  その正吉の妻は、おふくにとって義理の娘であった。稲葉正成の先妻の娘の一人である。  この縁組はおふくが竹千代の乳母になってから、正成と堀田正吉の間で決ったもので、無論、おふくも耳にしていた。  だから、その正吉の嫡男、正盛《まさもり》が今年の春、家光の近習として召し出されることになったのは、正吉の妻からおふくに推挙して欲しいと依頼があり、正勝に相談したところ、 「堀田どのの御嫡男《ごちやくなん》は、なかなか利発な若者でございます。母上がお口添えをなされば、必ず、お役に立とうかと存じます」  といわれて、家光に願い出たものである。家光は例によって、 「乳母の孫なら、なにも申すことはない、すぐにも近習の列へ加えよ」  と、松平信綱《まつだいらのぶつな》に命じて、正盛を出仕《しゆつし》させた。  その折、正盛がおふくのところにも挨拶に来ているので、顔も知っている。たしかに、目鼻立ちのととのった美少年には違いないが、まだ、十三歳であった。  十三歳の正盛と、十七歳の家光の間に、男色などという、なまなましい関係があろうとは、どうしても、おふくには思えなかった。  いってみれば、子供同志のことで、ふざけたり、とっ組合いなどをしているのが、変にかんぐられたのではないかと考えたかった。  正勝はそれ以上をいわず、決して母上が心配なさるようなことではないと繰り返して表へ戻って行った。  青山忠俊を、おふくは忌み嫌うようになった。家光の傅役の中でも、一番、醜い容貌であり、万事に粗暴であった。  まだ、家光が竹千代といっていた頃も、叱言《こごと》ばかりいって、自分の意見が通らないと膝《ひざ》を突き合せるようにして、自分を成敗しろなどといい、竹千代を怯《おび》えさせた。躾《しつけ》といっても、なにもそこまですることはあるまいと、おふくは夜中に青山忠俊に責められている夢をみてうなされたという竹千代の言葉に、ひそかに腹を立てたものであった。  間もなく、家光が近習に髪を結わせ、その出来具合を合せ鏡でみていると、青山忠俊が入って来て、また、猿楽の稽古をするのかと、鏡をひったくって投げ捨てるという事件があった。 「若殿に、なんということを……」  家光からその話をきいた時、おふくは体を慄《ふる》わせて怒った。 「臣下の身で、主君に対し奉り、あんまりな無礼でございます。いつか、きっと思い知らせておやりなさいませ」  おふくの言葉に、家光もうなずいた。 「そうじゃ、いつか、きっと目にものみせてくれる」  そのことを、おふくはやがて忘れるともなく忘れてしまったが、家光は元和九年、将軍職を継いで三か月ほど経つと、青山忠俊を武蔵|岩槻《いわつき》四万五千石から上総《かずさ》大多喜二万石に転封させて、あとからそのことを聞いたおふくを、ぎょっとさせている。  阿茶局は、元和八年になって一度、江戸へ戻って来たが、家光の北の方については、おふくに、なにもいわず、本丸奥御殿に三か月ばかり滞在して、再び、京へ帰って行った。  おふくが、家光の将軍宣下の話を聞いたのは元和九年の春、土井利勝を通じてであった。「上様には、若殿に将軍職を譲られる由、仰せられましてございます」  すでに朝廷に内奏をすませ、この夏に上洛《じようらく》して伏見城において宣下の式を行う予定でその折までに家光の御台所も決まる手筈だといった。 「それは、まことに 忝《かたじけな》 いことに存じますが、若殿御台所様とは、いったい、どなた様を……」  戸惑いながら訊ねたおふくに、土井利勝は、 「内々でござるが、関白右大臣の鷹司《たかつかさ》信房《のぶふさ》卿の姫君とのこと、洩《も》れ聞いて居ります」 「関白様の姫君でございますか」 「阿茶局、在京中、女御様に御相談申し上げての上とか、上様の仰せでありましたが……」  入内《じゆだい》して新帝の女御となった和子と、阿茶局が、家光の御台所にふさわしい姫として秀忠夫妻に推したものらしい。すると、昨年、阿茶局が慌しく江戸へ戻り、再び京へ発《た》ったのは、そのことだったのかと、おふくは少なからず忌々しく思った。  が、関白様の姫君というのは悪くないようにも思う。  土井利勝の報告より遅れて、阿茶局よりの書状が来た。それによると、姫の名は孝子、慶長七年に誕生した旨が書いてある。 「若殿より二つ年上ではないか」  といいかけて、おふくは秀忠の御台所お江与の方は九歳も年長であるのに気がついた。  それにしても、二十二歳の花嫁というのは、いささか嫁《い》き遅れであった。  おふくが三条西《さんじようにし》家に奉公していた頃、公卿の姫で美しいと評判であれば、まず十二、三歳で然《しか》るべき縁談がある。  その夜、おふくは久しぶりに、稲葉|重通《しげみち》の孫娘に当るおのうのところへ長い文を書いた。  おふくにとっては義理の姪《めい》に当る。  彼女の縁戚《えんせき》に和子入内の時に骨を折った八条宮智仁親王の家司がいるのを思い出したからであった。  おのうからの返書は、おふくの問いに対して、こう書いてあった。  鷹司家の孝子姫は特別、不美人というわけではなく、五体に欠陥があるとも聞いていない。今まで縁談が遅れていたのは、身分にふさわしい相手が見当らなかったのと、大変に内気な性質のためだという噂である。  無論、おのうは孝子姫に会ったことがないので、それ以上のことはわからない。 「若殿は、どうお思い遊ばしますか、鷹司家の姫君を御台所にお迎えなさいますこと……」  おふくは家光に訊いたが、二十歳の彼は赤くなって、口をもぐもぐさせただけでなにもいわない。それよりも目前に迫っている将軍宣下の式のことで、胸が一杯になっているといった感じであった。  七月二十七日、家光は伏見城で三代将軍の宣下を受け、帝に拝謁をすませた。  その年の秋、女御和子は皇女を産み奉り、興子内親王と御名が定まったという知らせが江戸城にもたらされ、本丸ではさまざまの祝い事が行われた。  そして十二月、鷹司孝子は京を発って江戸へ下った。     十五  家光と鷹司孝子との婚礼の儀は、寛永《かんえい》二年八月九日に挙げられた。  それまで家光が起居していた西の丸は一年がかりで改築されて、家光は婚儀が済むと本丸へ移り、新装成った西の丸には秀忠夫婦が入った。  本丸奥御殿は阿茶局の指図で襖絵《ふすまえ》などが京風に改められ、若御台と呼ばれるようになった孝子のために多くの心遣いがなされていたが、それでも、孝子に従って京からやって来た老女達から、あれこれと苦情が出て、それはすべておふくのところで解決しなければならない。だが、おふくはそのことをわずらわしいとも腹立たしいとも思わなかった。  家光と若御台の間柄が決してしっくりしていないのを承知していたからである。  本丸に移ってから、家光はもっぱら中奥と呼ばれる、将軍の私室で起居していた。そこで家光の身の廻りの世話をするのは近習達であり、時には使が来て、おふくが呼ばれて行く。奥御殿へ家光が来るのは、毎朝、家康の位牌《いはい》のある仏間へ来て、若御台と共に拝礼をする折だけであった。  歿《なくな》った家康は、東照大権現と呼ばれていたが、家光の権現様に対する敬慕の念は将軍職について、更に一段と強まったようであった。  江戸城中にある紅葉山の東照社に参詣するのは勿論《もちろん》のこと、自ら筆をとって、   いきるも、しぬるも、なに事もみな   大こんけんさましたに、将くんことも   みな|しん《 (神) 》へあけ奉る、な事もおもわくす   しんおありかたく存、あさゆふに   おかみ申ほかわなく候  と書いたのを守袋に入れて身につけていた。  生きるも死ぬも大権現様次第で、自分の身は神君家康に捧げているから、何事も思い患うことなく、神君をありがたく、朝夕、拝礼しているというような意味で、それをお守りにしているというだけでも、祖父に対する敬愛の念の深いのに驚かされるが、まわりの者の口から、 「神君様」  という言葉が出ただけで、別室へ下って袴《はかま》をつけ、威儀を正して、その言葉の続きを聞くといった有様であった。  家康の夢をみるのも始終であって、時には絵師を呼び、夢の中でみた家康の容貌、服装をこと細かに話し、それを絵師に描かせたりした。  そんな或る日、家光はおふくを呼んで茶を所望してからいった。 「乳母、約束じゃ。なんなりとのぞみを申せ」  おふくは微笑した。  家光が元服した折、自分が将軍になったら、おふくの望むものはなんでもかなえてやると約束したのを、おふくは忘れてはいなかったが、現実に、なにを望むとも思いはしなかったからである。 「別段、なんの望みもございません。我が子、正勝に破格のお思し召しを頂きます上に、孫までも過分のお沙汰《さた》を受けて居ります。その上、私ごときがのぞみごとを申しては罰が当りましょう」  正勝は元和九年に三千石の御加増があって五千石になり奉行職を仰せつけられ、翌寛永元年には、稲葉丹後守正勝として常陸国真壁《ひたちのくにまかべ》郡で五千石を加え、更にこの九月には、上野国佐野で一万石を賜って、合せて二万石を頂戴《ちようだい》している。家には妻があり、鶴千代という子に恵まれてもいた。  孫の堀田正盛は、家光が将軍宣下を受けた折、従五位下、出羽守に任ぜられていた。  おふくにとっては、この上もない果報と思えたのだが、家光は約束だといい、どうしても、なにかをのぞめといった。 「乳母には長いこと厄介をかけて来た。孝行はいくらしても足りぬと思うて居る。せめて一つ申せ。この家光をあなどって居らぬのなら申してくれ」  そうまでいわれて、おふくは涙を浮べた。 「それならば申しまする」  亡き親の供養のために、なにかしてやりたいとおふくはいった。  稲葉正成の妻になってからも、江戸城へ奉公に出てからも、父母の命日には、それなりの供養をして来たが、それはおふくだけのささやかなものであった。せめて、然るべき僧により、まともな供養をしたいと思ったのだったが、家光は早速、天海僧正に相談をし、その当時、豊島郡《としまぐん》と呼んでいた土地に寺を建立し、おふくの両親の菩提所《ぼだいしよ》とするように取り決めた。  法恩山天沢寺《ほうおんざんてんたくじ》と称し、寺領百石を香華料として寄進するという家光の配慮があって、おふくは稲葉正勝と共に思いがけない、大法要をいとなむことが出来た。その法要の席で、おふくは二十数年ぶりに、夫の正成に対面した。  正成は、越後高田城主、松平忠昌付きとして越後糸魚川二万石の城主であったが、元和十年に忠昌が転封になった折、致仕して正勝の許に身を寄せていることは、おふくも承知していたが、会う折もなく、対面する気持もおふくにはなかった。  五十なかばの正成は年よりも老いていた。 「乳母どのには息災で、なによりでござる」  と挨拶をした夫の隣には、長年、妻としてつれ添って来た女性がいた。おふくよりも年下に違いないその女が、自分よりも年長にみえるのを、おふくは素早くみてとった。  髪には白いものが目立つし、容色にも衰えがある。そのことで、おふくは満足していた。  なによりも、その日の衣裳はおふくがきわ立っていた。家光自らが指図して調製させた小袖も打掛けも、それは見事なものであった。  天沢寺へ来た行列にせよ、乗り物にせよ、沿道の人々の目をみはらさせるほど、きらびやかでもあった。  正成に対して挨拶は受けたものの、くつろいで話をすることはなく、やがて、おふくは正勝と共に天沢寺を出た。城内へ戻り、家光に揃《そろ》って御礼言上をしてから、おふくを奥ヘ送って来た正勝がいった。 「母上は、お年よりお若くみえるのですね。今日そのことがよくわかりました」  その言葉は、かつての夫の隣に自分ではない女が妻として従っているのをみた母親に対する息子の心遣いだったが、おふくは笑っていった。 「御器量《ごきりよう》のよいお人は、年と共にその御器量に衰えがみえるものですが、そうでなく生まれた者の幸せは、年をとっても、それなりに見苦しいと思われぬことでしょう。今となっては、ほんにこのように産んで下された親に礼を申し上げねばなりませぬな」  それは、おふくの本心であった。  長年、奥御殿にあってさまざまの女を眺めて来て、器量よく生まれついた者が、老いて来て皺《しわ》が目立ち、老けて来るのに対し、不器量なほうは、それほどに感じさせないものだというのを、おふくは実感として承知していた。それが、つい口に出たにすぎなかったのだが、正勝は当惑したような顔で、こうつけ加えた。 「母上は御丈夫なのがなによりです。やはり人は病身では思うことも出来ません」  妻が病んでいると正勝は母に打ちあけた。 「本日の法要にも参れませんでしたし、医師も、本復は難しいように申しています」 「まだ、お若いのに……せいぜい、よい医師にお診せなされ、薬餌《やくじ》を手厚くすれば、回復しない病ではありますまい」  おふくは言葉の上で、正勝を慰めたが、あまり実感がこもっているとは思えなかった。  可笑《おか》しなことかも知れないが、おふくの気持の中に女が病んで、そのために夫や子供に不自由をかけるのを、意気地がないと思うものがあった、病は気からというように、心をしゃんと持っていれば少々の具合の悪さなどは吹きとんでしまうと、おふくは考えている。  それは、おふくが健康に恵まれているからであったが、彼女自身はそのことに気づいていなかった。  奥御殿においても、おふくは女達が風邪をひいたり、もしくは月の障りのために頭痛や腹痛を訴えたりするのを、ひどく嫌った。 「御奉公申し上げる者は、常に健やかで、明るい振舞をすることじゃ。顔色悪く、気だるそうにして、お上の目にとまるなど、もっての外」  といい、病身の者には思いやりを持たないので、奥御殿に奉公するには頑強な女子でないと勤まらないといわれている。  家光が将軍となるのと前後して、弟の忠長は駿河、遠江を加えて五十五万石となり、祖父、家康が晩年に住んだ駿府城へ入った。  寛永三年になって、大御所秀忠はその時の夏から秋にかけて上洛し、帝の二条城行幸の計画をたてた。  娘の和子は女御から中宮になり、興子内親王も愛らしい盛りであった。このあたりで朝廷と幕府の間を緊密にしておきたいという秀忠側近の考えである。  その準備が進んでいる最中に、姫路城の千姫付の老女から、千姫の夫、本多忠刻が五月七日、三十一歳の若さで死去したと知らせがあった。 「播磨《はりま》の姫君の、なんという御不幸……」  本多家へ嫁いで播磨の姫君と呼ばれていた千姫は夫との仲もむつまじく、勝姫、幸千代の二人の子にも恵まれたが、幸千代のほうは五年前に三歳で死亡していた。そのために、豊臣家のたたりではないかという噂が立って伊勢の慶光院に願文をおさめたりなどしていたが、幸千代に続いて忠刻までが病死するというのは、なんということかとおふくは怖《おそろ》しい気がした。  更に六月二十日、大御所秀忠が行列も美々しく江戸城を出発して間もなく、やはり姫路城から、今度は忠刻の母の国姫が病歿《びようぼつ》した旨、使者があった。  この夏は気候が不順であった。西のほうでは井戸の水が涸《か》れるほどの干天が続くかと思えば、関東は五月下旬から雨が続き、梅雨あけの頃になっても肌寒かった。  そのせいか、風邪をこじらせた大御台所《おおみだいどころ》お江与の方の回復がはかばかしくなく、おふくは若御台孝子のお供をして、西の丸奥御殿へ見舞に参上したが、床の上に起きていたお江与の方のやつれようには、顔色が変るほど衝撃を受けた。  昨年八月、家光の婚儀の席に姿をみせた大御台所はまだ充分にあでやかで、容色の衰えを感じさせなかったが、それから一年足らずで別人のように面《おも》変りがしている。 「大御台様には、駿府の忠長様にお会いになりたい由、しばしば仰せになりますが、大納言様もこの度は上様と御一緒に御上洛なさいます故、大御台様のおのぞみを申し上げるわけには参りませんので、ほとほと当惑して居ります」  やはり見舞に来ていた阿茶局が帰りがけにおふくへそっと洩らした。  大御所秀忠に遅れて、家光もすでに江戸城を発ち、途中、駿府城へ立ち寄って忠長と共に八月はじめには二条城へ入る予定になっている。  家光は勿論、忠長にしたところで京都ではさまざまの行事に出席しなければならず、江戸へ戻るとしても十月なかばの予定であった。 「お医師の方々が、なんぞ仰せられて居りますのでございますか」  おふくはさりげなく阿茶局の顔色をみたが、 「いえ、左様なことはございません。お風邪をこじらせただけで、まだ、お年も私などからくらべたら、お若うございますから……」  といい、阿茶局はこの頃、住居にしている竹橋内の屋敷へ帰って行ったが、それから二日後、おふくは奥御殿の女中から、阿茶局が大御所様のお指図で、俄かに上洛して行ったという知らせを聞いたのであった。  それとは別に、上洛中の家光からはしばしば、おふくに宛《あ》てて直筆の文が来た。  それによると、大御所は二条城で公卿の主だった者と面会し、やがて、禁中に参内して帝と中宮和子に対面し、黄金二千両、白銀二万五千両、御服二百領などの進物が贈られ、家光からも白銀五万両、御服三百五十領などを奉ったとある。  おふくは家光が文の中で、対面した公卿の名を一々、挙げているのを眺めていて、三条西|実条《さねえだ》の名をみつけた。  公卿の中でも、時世をみる目のある者は幕府とよしみを結び、さまざまの恩恵を得ている。三条西家もその一人であるのが、おふくにはちょっといい気分であった。  九月六日から九日にかけては、帝が御母、中和門院や中宮和子、興子内親王と共に二条城へ行幸、その華麗な行列を見物する人々で沿道は身動きが出来ない有様だったという。  二条城では七日は舞楽、八日は和歌と管弦、九日は能楽と催物が続き、帝をはじめとして招待された公卿には金銀で造った食器でもてなしたという知らせが江戸へ届くのと入れかわりのように、大御台お江与の方の危篤《きとく》の報が早馬で京へ向った。  その使者が二条城へ到着したのは九月十一日のことだったが、秀忠にしろ、家光にしろ、すぐには京を発つわけには行かなかった。  御幸《みゆき》は終っていたが、公式の行事はまだ延々と十月まで続く予定である。  それは大納言忠長にしても同様であったにもかかわらず、彼はその翌日、ひそかに京を抜けて、僅《わず》かな供を従え、まっしぐらに馬をとばして江戸へ向った。  だが、その忠長の江戸到着前の九月十五日、大御台所お江与の方は五十四歳の生涯を終えた。  その夜、西の丸奥御殿はもとより本丸のどこもかしこも、ひそと静まりかえって、ただ僧侶《そうりよ》の読経の声だけが細々と城中を流れていた。  折柄の満月は中天にかかり、その光が墨絵のように江戸城を浮び上らせている。  月を仰いで、おふくは感慨にふけっていた。  思えば、大御台所ほど数奇に満ちた生涯はあるまいと思えた。  右大臣織田信長の妹、お市《いち》の方を母とし、浅井長政《あさいながまさ》を父として誕生した三人の姫の中、長女の淀君は大坂落城と共に滅んだ。  次女のお初《はつ》は京極高次《きようごくたかつぐ》に嫁ぎ、今は夫を失って常高院《じようこういん》と称している。  そして三女のお江与の方は四度、夫を変え、最後に徳川二代将軍の御台所として七人の子の母となった。  それにしても人の一生は果《はか》ないとおふくは思う。どれほどの栄耀《えいよう》があったとしても、死ねば、すべてが空に帰ってしまう。  大御台所はさぞかし心残りであったろうとも、おふくは想像した。せめて最後は夫、秀忠と我が子、忠長に手をとられて息を引き取りたかったのではないだろうかと考えて、おふくは突然、はっとした。  大御台所が病床で、しきりに忠長に会いたがっていたというのを思い出したからである。  ひょっとして、大御台様は、なにか大事なことを忠長様に御遺言なさりたかったのではないかと気がついた。もし、そうだとしたら、いったい、なんだったのだろうか。  何事も兄、家光に従い、徳川家のために尽せなどという立派なものではないように思える。  家光が将軍職についた今でも、おふくは大御台所が、忠長を将軍にという思いが消えていないと信じていた。  二歳しか違わない弟であった。まして、家光は幼少から病身であり、将軍宣下の式の前にも高熱を発して、そのために上洛が最初の予定よりも遅れたくらいであった。  家光と若御台《わかみだい》の間には子の産まれる気配もない。もし、家光に万一のことがあれば、忠長が、とお江与の方が考えたとしても不思議ではなかった。  大御台様は、そのことについていい遺《のこ》してお逝きになりたかったのではなかったかと思案して、おふくは胸を撫《な》で下した。  大御台所の臨終にはおふくも若御台のお供をしてすみのほうにひかえていた。大御台所は三日前からの昏睡《こんすい》状態のまま、ひっそりと息をひきとったのであった。  それでも、不安になって、翌日、おふくは大御台所に遺言のようなことはなかったかと、それとなく訊ねて廻ったが、それは全くの杞憂《きゆう》であった。  もともと、大御台所は風邪をこじらしての病臥《びようが》であった。重態におち入るまで、よもや、これが死病とは思いも及ばなかったものに違いない。忠長に会いたいといい続けたのは死期を悟ったというより、虫が知らせたのかも知れなかった。  十月十日、秀忠、家光父子がすべての京での行事をすませて江戸へ戻り、十月十八日、芝の増上寺《ぞうじようじ》において、大御台所の法要が行われた。秀忠は葬列の沿道に名香を焚《た》かせ、増上寺から荼毘《だび》所まで十反もの白布を敷かせ、盛大な野辺《のべ》送りを行った。  お江与の方の法名は、崇源院殿昌誉和興仁清大禅尼である。     十六  大御台所の死は、本丸奥御殿の雰囲気をかなり変えたといってよい。  西の丸に移り大御所と称したといっても、秀忠はあいかわらず政事の実権を握っていたし、家光はなにかにつけて、 「いかようにも、相国《しようこく》様仰せ次第にあそばさるべく候」  といった場合が多かった。  相国様とは秀忠のことで、寛永三年の上洛で従一位、太政大臣に任ぜられたからである。  従って、奥御殿に関しても、本丸奥御殿は万事、西の丸奥御殿に準じて物事を決めるような習慣になっていたし、城中の花見の宴のような催しですらも、衣裳はもとより、茶室の準備に至るまで、西の丸におうかがいを立ててから、ことを運んでいた。  それが、西の丸の女主人の死によって俄《にわ》かに解放された感じであった。  もはや、誰に遠慮もなく、物事が思い通りに出来る。  そうなった時、急に表立ったのは若御台の孝子に従って京からやって来た女達と、おふくの対立であった。  若御台のほうが、なにかにつけて京風を主張するのを、おふくは柳に風と受け流しながら、結局は、 「崇源院様以来の慣例でございますから……」  歿った大御台所の名前を持ち出して押し通した。  この対立は最初から、おふくのほうに分があった。なんといっても奥御殿に奉公する女中の大方が、おふくの腹心といってよかったし、将軍家光が若御台に対しても、 「何事も、乳母の指図にまかせるように」  となにかにつけて、おふくの肩を持つ。  十一月の末に、未亡人になった千姫が江戸へ戻って来て、西の丸奥御殿に入った。  舅《しゆうと》の本多忠政が自ら、送って来たのだが、千姫はそのまま床についてしまい、食は進まない有様であった。  家光の命と称し、おふくは西の丸奥御殿へ出かけて、千姫の看護に当った。  少々は薬餌《やくじ》の心得もあり、病人のあつかいには馴《な》れてもいた。  おふくが西の丸にいるので、家光も口実を設けては千姫を見舞に来る。 「やはり、私には秀頼様の怨念がつきまとっているのでしょうか」  若君と夫と、 姑《しゆうとめ》 を失ったことを千姫はそんなふうに考えて悩んでいたが、おふくは声をはげましていった。 「もし、そのような怨霊《おんりよう》が姫君に障碍《しようがい》を成すならば、いつにでも、この乳母がお身代りになりましょう。姫君には、上様御同様に東照大権現様がお守り下さいます。決して、お心弱いことを仰せなさいますな」  家光もいった。 「姉上のことは、この家光が如何なることにても、お心のままに致しましょう。必ず、お力に思し召して、なんなりと乳母に申しきかせて下さい」  秀忠はまだ三十歳の千姫を、然るべき相手に再婚させてもと考えていたが、千姫がそれには承知しなかった。 「もはや、どこにも参りとうございません。亡き人々の後世を弔いたく存じます」  十二月二十日、千姫は出家して天寿院と称し、家光はおふくと相談して竹橋に屋敷を造って住まわせるようにした。  その一切を、おふくが指揮した。天寿院に仕える女中達の世話から、屋敷の中の調度類のすべてまで、天寿院の気に入るように万事、心くばりをした。無論、おふくもその屋敷には入りびたりで、天寿院の話相手になった。  天寿院の屋敷には、忠刻の忘れ形見である勝姫も母と共に起居していたので、おふくはこの姫君の世話をすることになり、九歳の姫は、すぐ、おふくになついた。  その十二月には、稲葉正勝の妻女が病死して、四歳の鶴千代はおふくがひき取って養育することになったので、おふくの周辺は俄かに賑《にぎ》やかになった。幼子の明るい声に包まれて、、おふくは久しぶりに乳母らしい気分に戻っていた。  それは、おふくにとって束の間の小春日和《こはるびより》のような歳月であった。  翌年、家光は長男の許に身を寄せていた稲葉正成に対し下野国真岡《しもつけのくにもおか》二万石を与えた。  無論、それはおふくの形ばかりの夫に対する家光の厚意であった。  一方この年、幕府と朝廷の間には険悪な事態が生じていた。  それまで勅許《ちよつきよ》されていた五山、十刹《じつさつ》の紫衣入院《しえにゆういん》と浄土寺の上人号を、元和以後に賜ったすべてを無効であると幕府が申し出たからである。  これは、朝廷と京都の主な寺院との結びつきを切りはなすためであり、そのかげには家康以来、将軍の信任の厚い南禅寺《なんぜんじ》の金地院《こんちいん》崇伝の五山派と対抗している諸寺院への圧迫のためといわれた。  おふくの姪のおのうが、おふくを頼って江戸へ来たのはその翌年で、おのうは夫の町野長門守と死別し、祖心尼《そしんに》と名乗っていた。 「京は大変なさわぎになって居ります。帝は大層な御立腹で、板倉様へ御譲位の決意をお洩らしになったとか……」  だが、おふくは姪をたしなめていった。 「それは、朝廷にあやまりがあったのですよ。元和以来、主な寺院の住持が出世入院したり、紫衣を賜る時には、必ず、幕府に許しを得て、その上で、朝廷が綸旨《りんし》を下すと決めてあったのを、あちらがお守りにならなかったからで、大御所様や上様が、それをおとがめなさるのは当り前のことです」  祖心尼は驚いたように、義理の叔母を眺めた。 「御乳母様には、御政事むきのことも、よう御存じでございますな」  おふくが苦笑した。 「それはそうですとも、上様のお傍に仕えるからには世の中のこと、御政道むきのことも一通りは承知して居りませぬことには、まことの御奉公は出来かねます」  おふくは祖心尼に京での中宮和子《ちゆうぐうかずこ》の噂を訊ねた。  寛永三年の秀忠、家光上洛の折、和子は身重の体で、その年の十一月、高仁親王を産み奉ったが、この皇子はこの寛永五年に腫物《はれもの》が出来たのが原因で歿っていた。 「でも、中宮様には只今、お妊《みご》もりとか。この秋には皇子様か皇女様が御誕生なさる由でございます」 「それでは、帝の御寵愛はお変りなく……」  おふくの言葉に、祖心尼はいささか下世話な返事をした。 「ごもっともと思いますよ。中宮様のおかげで朝廷は、帝をはじめ奉り、朝臣の方々も豊かにお暮しなさることがお出来なのですもの。中宮様をないがしろには出来ますまい」  それはそうだろうとおふくも思った。  朝廷と幕府の間に少々の軋轢《あつれき》があったとしても、それが直ちに中宮和子の身に及ぶとは考えられない。  帝が譲位なさるという噂が、京に広まっているという祖心尼の話を、おふくは家光の給仕をしながら耳に入れた。 「それならば、大御所様よりすでにお答が参っている」  帝はまだお若く、春秋に富むお身であるから御位をゆずるのは早すぎるという秀忠の内意が京へもたらされているという。 「それで、帝が御承知なされますでしょうか」 「まず御承知なさる他はあるまいと、大御所様は申された」  万一の時は第一皇女の興子内親王の御即位ということもあり得るのだと、家光はおふくに教えた。女帝の誕生である。 「予はそれでも、かまわぬと思うて居る」  内親王の御母は、家光の妹であった。  そうした話をしている家光は、まことに頼もしい将軍ぶりで、おふくは心から丹精《たんせい》の甲斐《かい》があったと思っていた。  祖心尼はおふくの許にあって奥御殿に奉公することをのぞみ、それは家光によって簡単に許された。 「奥のことは、何事も乳母の心まかせに致せ。重臣共といえども、奥のことは乳母をさしおいて口出しはさせぬ」  で、祖心尼はとりあえず、おふくの手伝いをすることになったのだが、或る時、彼女が京から江戸までの旅の話をした折に、おふくをはっとさせることがあった。  それは駿府城を通り抜ける折に、城下の者から聞いたというもので、江戸に参府する西国の大名が必ず、帰りには駿府城へ立ち寄って、忠長に挨拶をし、忠長も彼らをねぎらって厚くもてなしているという話であった。 「この国のお殿様は、よその殿様とはわけが違う。将軍様の弟君で、場合によっては将軍様の代理をなさるお方だから、諸国の大名が頭を下げ、土産をもって集ってくるのだ」  と城下の者は自慢していたという。  祖心尼の話が、おふくに昔のことを思い出させた。  大坂城の豊臣秀頼のことであった。  あの時も、西国大名は参府の帰途、大坂へ寄って、秀頼母子と対面し、よしみを通じていた。それ故にこそ、豊臣家は徳川家にとって危険な存在と、神君家康公が考えられたのではなかったのか。  これは、いつか折をみて、上様に申し上げねばならないと、おふくは胸の中に刻み込んだ。  その年の九月、稲葉正成が死んだ。五十九歳であった。  正勝から知らせがあったが、おふくは家光から頂戴《ちようだい》した香を、彼にもたせてやっただけにとどめた。  夫婦として暮したのは九年、別れての歳月は二十四年であった。  そのことがおふくの悲しみを薄いものにしていた。  むしろ、正成の遺領、真岡二万石が長男正勝に与えられ四万石の大身になったことのほうがめでたい気がする。  正勝は、我が子ながらよく出来た人物と、おふくもことあるごとに息子自慢をしているのだが、正成の歿後は稲葉一族の中心となって、よく一族の面倒をみていた。  おふくは、この長男がもっとも気に入っていた。自分と共に家光の小姓に取り立てられ、比較的、身近に育ったということもあって情が深い。それにひきかえ、次男、三男は父正成の傍に居たし、或る時期からは養母が面倒をみている。  正勝は、夫と別れて奉公に上った母の苦衷《くちゆう》を或る程度、理解しているが、他の子供はなんと思っているのか、城内にいる母に便りを寄こしたこともなかった。  同じく自分の腹を痛めた我が子でも、やはり、とりわけ可愛い者とそうではない者の区別はあるものだと、おふくは今更ながら大御台所の気持に納得したりしていた。  なんにしても、正勝が腹違いの兄弟にまで気をくばっていてくれるので、おふくは稲葉家に対して、なにも心配することはなかった。  それよりも、正勝の息子の鶴千代に、この頃のおふくは夢中だったといってよい。  子よりも孫のほうが可愛いものだというが、鶴千代は正勝の少年時代によく似ていて、それ以上に愛くるしかった。 母親が病身だったこともあって、あまり亡母を慕わないのも、おふくにとってはいい気分であった。  家光は時折、おふくの手許にいる鶴千代を眺めて、言葉をかけてくれる。 「乳母の孫だけあって、利発そうじゃな」  とか、 「早う、大きくなれ。予が目をかけてつかわす故、乳母も鶴千代の行く末をたのしみにするがよい」  などと、おふくを喜ばせてくれる。  そのままの状態が続いていたら、多分、おふくは平凡な、どこにも居る祖母の一人として、穏やかな晩年を過したに違いない。  寛永六年の二月に、家光は発病した。  いきなり高熱を発し、意識を失って譫言《うわごと》をいう。最初、病名がわからなかった。  痘瘡《とうそう》だと診断されたのは、かなり後のことであった。おふくは意外に思った。 「上様には、幼い頃、痘瘡におかかりになり、それは、お軽くすんで居られます。痘瘡は一度かかった者は二度とは発病せぬときいて居りますが……」  およそ、ありとあらゆる病気をして来た家光の乳母として、おふくは奥医師の話を聞き、書物をとりよせて納得が行くまで問いただすという習慣があった。痘瘡は大人になってかかるほど重くなるという知識も持っている。  だが、新しく家光の治療に加わった武田道安は、 「乳母どのが仰せなさるのは、おそらく水痘でございましょう。水痘と痘瘡は似て非なるもの、それがし、拝診仕るに、これは痘瘡に間違いございません」  それも手遅れの状態だといわれて、おふくは気が遠くなった。  家光が病に呻吟《しんぎん》していると、奥御殿では必ず怪異をみたなどという話がささやかれてくるのだが、この時は大御台所お江与の方が現われるという噂が立った。  或る女中は御小座敷の上段の間にすわっている大御台所の姿をみたといい、或る者はお化粧の間から打掛けの裾《すそ》をひいて長廊下へ出て行く後姿をみたなどといった。  何故、大御台所の亡霊が出るかについては誰も口を閉していたが、おふくにはその者達の内心の声が聞えるような気がした。  大御所が、将軍にしたいと望んだ忠長は駿府城にあって、家光と主従関係におかれている。が、もし、家光が死ねば将軍職は忠長に廻って来る筈であった。  大御台所が家光にたたりをなすとは思えないが、そう思う者があっても仕方がなかった。  おふくはその旨を寛永寺の天海僧正に訴えた。  天海は直ちに奥御殿へやって来て、壇を築き、修法を行った。 「この天海が上様の四里四方に結界をめぐらしたからには、如何なる怨霊も上様に近づくことは出来申さぬ。乳母どのには御安堵《ごあんど》あって、御看病につとめられるように」  おふくは天海を伏し拝み、自らも紅葉山の東照社へ参詣《さんけい》をくり返し、家光の病気|平癒祈願《へいゆきがん》の願文を書いて伊勢神宮へ使者を立てたりした。  武田道安の勧めた薬が効いたのか、おふくの願いが天へ届いたのか、家光は間もなく意識をとり戻し、さしもの高熱も徐々に下り出した。  それでも床上げをしたのは一か月余りも経ってからである。  昨年から今年にかかって、家光はたて続けに病気をしていた。  瘧疾《おこり》を患い、脚気《かつけ》が長びき、風邪《かぜ》をこじらせたあげくに、痘瘡であった。  大御所秀忠は健在であり、幕閣は老職達が政務を行っていて、格別、支障を来たすことはないが、将軍が一年の半分近くを病臥しているのはあまり風聞のよいものではなかった。「戦国の世なれば、とても徳川の棟梁《とうりよう》に立てる御方ではなかった」  と三河以来の旗本どもがいったなどということが、耳に入って来て、おふくはじっとしていられなくなった。  家光の健康に関しては、育てた自分の責任という気持が、おふくにはある。  伊勢の参詣に行こうと思った。病気平癒の願文を捧げたままであった。お礼詣りは代理の者ですませるつもりはなかった。  家光に伊勢参宮を願い出ると、 「では、予の代参をして参るように」  といった。自分の病気が治ったのだから、自分で出かけるところだが、正直のところ、家光に長旅の体力はまだ回復していなかった。  おふくが伊勢へ出発する日が迫って来て、或る夜、家光が表と呼んでいる本丸政庁へおふくを呼び出した。  家光の側には、土井利勝、酒井忠世、それに金地院崇伝がひかえている。また少し下って堀田正盛の姿もみえた。 「今宵《こよい》は乳母どのに、お願いがござる」  土井利勝が口を切って、穏やかに話し出した。  伊勢参宮の帰りに京へ寄って、中宮和子を見舞うようにという。 「中宮様には、昨年、一の君、高仁親王の御崩御についで、九月二十七日に御産み遊ばした二の君、若宮様をもあい次いでおかくれにあいなり、いたくお力落しにてお出でなさるとのこと、くさぐさの御見舞をたずさえ、御機嫌をうかがって来て下さるように……」  おふくは頭を上げて家光をみた。 「そのようなお役目、この私でよろしいものでございましょうか」  家光がうなずいた。 「大御所には阿茶局をと仰せられたそうじゃが、阿茶局はもはや老齢。予は、乳母にこの役、申し渡したい。よいな」  すべては、京都所司代の板倉重宗《いたくらしげむね》が心得ているので、なんの心配もないといわれ、おふくは慎んで、これを受けた。  阿茶局に命じるところを、自分にといった家光の言葉が、おふくの心の中で躍り上るようであった。  阿茶局が神君家康の命を受け、政治の裏面工作に見事な働きをしていたのを、おふくは知っていた。歿った稲葉正成が、かつて、男と及ばない才智と賞讚してやまなかった阿茶局の代りに、おふくが活躍の場を与えられたのであった。胸がはずんで当然である。  おふくより二十四歳年上の阿茶局は今年七十五歳になっていた。この頃はもっぱら竹橋の屋敷にひきこもって、時折、西の丸の大御所様の御機嫌うかがいに出るのがせいぜいだとも聞いている。  八月二十一日、おふくは行列をととのえて伊勢へ向った。  将軍家光の名代である。  この旅に、おふくは思うことあって祖心尼を供に加えた。彼女は駿河へ入る以前に、二人ばかりの供とおふくの行列を離れた。  駿府城からは将軍御代参のおふくに対して丁重な挨拶と贈物があった。  家康が気に入って改築した城は、見事な天守が青空に映え、石垣には深いお堀の水がゆらめいている。  先を急ぐという理由で、おふくは城代に挨拶をして駿府を通りすぎた。  宮からは舟で桑名に渡る。  ここで、かつて、今は天寿院と号している千姫が本多忠刻とめぐり合ったことを、おふくは思い出した。その対面も阿茶局が意識して計ったことだという。  桑名から伊勢路へ入ると初秋の風景になった。  尾花が風にそよぎ、早くも色づいた山々の紅葉や黄葉が目をたのしませてくれる。  旅に出るのは、神君家康公御在世の折、やはり伊勢参宮と称して駿府城へ出かけた時以来だと思った。  必死で、竹千代君を世子にと思いつめたあの頃と、今、こうして上様の御代参として伊勢へ向う自分と並べてみるだけでも隔世の感がある。  伊勢では内宮、外宮に参詣し、幣帛《へいはく》を奉り、舞楽を奉納して祈願成就を神に謝した。  また、慶光院へも立ち寄って、家光の息災のために、おふくが自ら写した経巻を捧げた。  伊勢から京へ入ったのは九月はじめのことである。  出迎えには板倉重宗が自ら粟田口《あわたぐち》まで出て、おふくはとりあえず、板倉家に旅装をといた。  伊勢にも知らせがあって承知していたことだったが、この八月二十六日に中宮和子は三番目の皇女が誕生して、顕子内親王とお名がついていた。 「御母子ともに、お健やかでございます」  重宗の言葉に、おふくは少しばかり眉をよせた。 「もったいないことながら、中宮様には三人の姫君様はいずれもつつがなくお育ちであられますのに、何故、皇子ばかり御早世遊ばすのか、いささか合点が参りませぬな」  男児のほうが育てにくいというのは、よくいうことだが、それにしても宮中にはよからぬ企《たくら》みがあるのではないかというおふくに重宗は手を上げて制した。 「迂闊《うかつ》にも、左様なことは口になさいませぬように……」 「無論、外にては申せぬことでございますが、いささか気にかかります」 「京にては、上様御台所に未だ、お子が誕生せぬのは奇怪と申すやからがございます」  公卿の血をひく若君の誕生を幕府が喜ばないためではないかという。 「それこそ論外じゃ」 「どちらも、とかく疑心暗鬼、考え出せばきりがございますまい」  成程、京都所司代をつとめるだけあって、頭の切れる男だと、おふくは感心した。 「中宮様に、まず、拝謁《はいえつ》なさいますように。その上にて、また内々の御相談もござれば、まず、旅のお疲れをやすめ、おくつろぎ下さい」  木の香も新しい別棟は、おふくの上洛のために新築した建物で、寝具はもとより諸道具まで、いたれり尽せりであった。  納戸には、これも仕立て上ったばかりの衣裳が長持におさめて幾組も用意されている。「すべては、上様よりの御指図にございまする」  おふくが中宮和子や姫君へ献上する品もととのっていた。 「改めて、御乳母どのの御検分をお願い申し上げます」  九月十二日、おふくは板倉重宗の案内で、晴れて中宮和子を御所の内に訪ねた。     十七  この時、おふくが献上したのは、中宮和子に黄金五十枚、越前綿二百把、第一の姫宮に紗綾《さや》五十巻、第二の姫君に紗綾三十巻、また中宮に仕える権大納言局へ銀三十枚、同じく右衛門佐局へ銀二十枚で、いずれも京都所司代が用意してあったものであった。  中宮和子は産後のことで、やや、おやつれ気味と右衛門佐局がいったが、顔色は悪くなく、以前にも増しておっとりした感じで宮中に落ついているといった印象であった。  おふくにはもっぱら江戸の噂をお訊ねになり、殊に大御台所逝去の時の様子を細々と語らせ、時折、涙ぐんで居られるのが、おふくにもお気の毒に思えた。  大名の姫でも、場合によっては親の病気見舞が出来ないものでもないのに、朝廷へ上っては、どうのぞんでも不可能である。  中宮様にお目にかかったら、江戸へ帰るものと思っていたおふくだったが、板倉重宗はもう少々、滞在してもらいたいといった。  京へ行ったら、何事も板倉重宗のいうようにしてもらいたいと、江戸を出る前に幕閣から念を押されている。  毎日のように、おふくは板倉重宗と共に公卿を訪問し、手土産と称して少なくない贈物をすることになった。 「只今、朝廷では幕府に対し、面白からぬ気持を持った公卿衆が少なくございません」  それは、例の紫衣事件にからんで、大徳寺《だいとくじ》の僧、沢庵宗彭《たくあんそうほう》らに幕府の命によって羽州上山へ配流されることが決って、とりわけ帝が御立腹なされて居り、朝廷の中にも幕府横暴を称える者が目立っていると重宗にいった。 「乳母どのが上様名代として上洛なさり、中宮様をお見舞なされたのをきっかけにして、一人でも多くの公卿衆をこちら側へ抱き込むよう、乳母どのの御尽力をお願い申したいのでござる」  承知したとおふくは答えた。  そうしたことは、おそらく今まで阿茶局がやってのけていたに違いない。上洛にかこつけて表敬訪問をし、進物を贈って手なずけるなどというのは、女ならではの仕事であった。  男の訪問では目立つし、むこうも要心する。  将軍家の乳母というのは、この際、まことに都合のいい肩書であった。  まして、京育ちで三条西家と母方につながりがあるというのもいい口実になった。  やがて、おふくはその三条西家を訪問することになった。  衣裳はもとより髪飾りにも心をくばって盛装したおふくは、はじめて正門から三条西家へ入った。  かつて、この屋敷に奉公していた時のおふくの通用門は裏側の小さなものであった。  それが、今日は正門の戸を左右に押し開け、玉砂利の道を乗物のまま入って玄関に横づけにされる。  当主の三条西実条は自ら出迎え、客殿に招じ入れた。 「乳母どのには、当家とは古いゆかりのあるお方とか、麿《まろ》は本日が初対面なれど、他人のようには思われませぬ」  幕府の伝奏をつとめているだけあって、実条はおふくを下にもおかなかった。  四十年も昔、おふくがこの屋敷の雑仕女だったことなど、おくびにも出さない、おふくも触れなかった。  だが、この日、三条西家で実条と板倉重宗の間でとりかわされた話は、おふくを少なからず驚かせた。  おふくを、三条西実条の猶妹《ゆうまい》として、帝に拝謁させるというものである。  無位無官の者が帝に拝謁するなど前代未聞だということは、流石《さすが》におふくも知ってはいた。 「そのようなことをして、かえって帝の逆鱗《げきりん》に触れませぬか」  僅《わず》かの間でも公卿奉公をしていた時に、宮廷とは、慣例で成り立っていて、それを破るのは容易ならざることだという話をさんざん耳にしていた。  重宗がおふくの顔をみて、こういった。 「帝の御気色をそこなうのも、また止むなしと、江戸より申しきかされて居ります」  なんのことか、おふくにはわからなかったが、重宗はそれしかいわない。  十月十日、おふくは宮中の女官の服装の中でも、もっとも高位に準ずる緋《ひ》の袴《はかま》に唐衣をつけて、中宮の御所から参内した。  拝謁といっても、御簾《みす》のむこうの帝からは、なんのお言葉もなく、慣例に従って天杯を賜ったに過ぎなかったが、その内裏から下って後に、三条西実条が、帝の御言葉として、今後は足利《あしかが》将軍の乳母の名にちなみ、春日《かすが》を名乗るがよいと仰せられたと伝えた。  おふく、つまり春日は翌日から再び、参内に尽力したと称する公卿の屋敷を廻って礼を述べ、進物をして首尾よく京を発った。  江戸への道中では、往きとは逆に駿府を出たところから、祖心尼の一行が行列に復帰した。 「聞きしにまさる有様でございますよ」  祖心尼がおふくに報告したのは、駿府城へ訪れる諸大名についてであった。  江戸から国許へ帰る折に、その多くが駿府城下に滞在し、時には忠長と鷹狩《たかがり》に出かけたり、能をみたりするという。 「御城下での噂も不届きなものでございました」  江戸城の将軍は病身だから、明日にも命が危い。そうなれば、自分達の殿様が江戸城へ入って、四代将軍となる日は近いのだと、まことしやかに話す者もいて城下は浮き立っている。また、景気もよくて町の繁昌は江戸にも劣らない有様だと祖心尼の伝えるのを聞き、おふくは改めて駿府の印象を思った。  たしかに城下は活気にあふれ、領民は忠長を敬愛しているらしい様子がよくわかった。  忠長に四代将軍を継がせてなるものか、とおふくは戦闘的になった。  秀忠夫妻に甘えて、のびのびとふるまっていた少年の日の国松の姿が瞼《まぶた》に焼きついている。始終、御機嫌うかがいの大名達で賑《にぎ》わっていた国松の居室に対して、ひっそりとわびしかった竹千代の居間で、おふくと小姓達が歯を食いしばるようにして耐えていたのだと思った時、おふくの心の中に鬼が棲《す》んだ。  江戸城へ戻ったおふくは、京都の報告のついでに、道中の駿府でみたといい、家光にも土井利勝、酒井忠世、更には堀田正盛や稲葉正勝に対しても、諸大名の駿河大納言忠長に対する昵懇《じつこん》ぶりを悪意をもって告げた。 「漏《も》れ聞くところによりますると、忠長様御家来衆は、大納言が将軍職を継がれることになれば、自分達が幕閣の中心になると信じて居りますそうな、まことに笑止には存じますなれど、その昔、甲斐武田家において、勝頼公御家督相続の折、母方の諏訪衆と、信玄公以来の甲斐衆、信濃衆の間に軋轢ありしことが、武田家滅亡の源となりましたとやら、このあたり、とくと御賢察を願いとう存じます」  おふくの言葉が、家光はもとより、幕閣の要人に与えた衝撃は少なくなかった。  土井利勝にしても、酒井忠世にしても家康の時から、秀忠側近として将軍の信頼を得てはいたが、家康在世中は本多正純《ほんだまさずみ》、成瀬正成《なるせまさなり》、安藤直次《あんどうなおつぐ》などの、いわゆる家康側近には到底、太刀打ち出来ず、どれほど苦汁をなめさせられたか知れなかった。  けれども、家康が死んで秀忠の代になると、逆に家康側近は遠ざけられ、或いは本多正純のように失脚して、秀忠側近の全盛が来た。  家光が将軍となった今も、幕閣の体制に大きな変化はなかった。  忠長が将軍となった時、たしかにおふくのいうように忠長の家臣、側近が幕閣の中心になる怖《おそ》れは充分であった。その時の自分達の立場が、かつての本多正純のようになるのではたまらないといった気持が誰にもある。  更に、おふくは寛永寺の天海には口頭で、金地院崇伝には文で、同じ不安を訴えた。  それでも足りず、正勝を呼んだ。  三男正利の許へ祖心尼をやるよう尽力してくれと命じたものだ。  正利は、忠長付きとして駿府にいる。そこへ祖心尼をやるのは、とりもなおさず、密偵としてである。  正勝は暫く考えていたが、結局、おふくの思いつきに反対はしなかった。  祖心尼は体を悪くして京へ帰る途中だといいつくろって、正利を訪ね、その屋敷に滞在することになった。  その年の十一月八日、帝は俄《にわ》かに御退位になり、御位を第一皇女、興子内親王にゆずられることになったという知らせが来た時、おふくはもう驚かなかった。  板倉重宗のいった、帝の御気色をそこなうことがあっても、という意味が漸く理解出来たからであった。  無位無官の、将軍乳母が強引に帝に拝謁したことで、帝の退位のきっかけが出来たというなら、それはそれでよいとおふくは割り切っていた。  それが、徳川家のためであり、家光のためであるなら、自分は阿茶局以上の大役をつとめたことになる。  もっとも、帝の御退位は、腫を患っていて医師が灸《きゆう》治療を勧めたが、玉体に鍼灸《しんきゆう》の前例がないとして療治が出来なかったために譲位されたのであると、これは三条西家からの文書の中に書かれてはいた。  ともあれ、帝は仙洞御所《せんとうごしよ》に移られ、上皇となられ、同時に中宮和子も門院号を奉られて東福門院《とうふくもんいん》となり、仙洞に隣り合せた女院御所にお移りになった。  翌寛永七年の夏、秀忠は健康を害して病床に親しむことが多くなった。  それと前後して、家光が深川にある稲葉正勝の別邸を訪ねることが増えた。  表むきは浅草川で舟遊びの帰りに立ち寄ったとか、鷹狩の帰途に茶を所望したなどということにとりつくろっていたが、事実は密談のためであった。  駿府の祖心尼からはおふくの許へ、さまざまの知らせが届いていた。その多くはなんでもないことだったが、悪く解釈する分にはどうとでもなる。  忠長の悪い噂は、病床の大御所秀忠に少しずつ、側近の口から毒のように吹き込まれていた。  酒興に乗じて粗暴な振舞が多いとか、家臣がいさめた所、逆にお手討にあったなどというものだったが、その中に安養寺山で猿を射たというのがあった。  安養寺山は、殺生禁断の地であった。しかも猿は江戸の鎮守、日吉山王の神護であると天海が大御所にいい出すに及んで、遂に秀忠は土井利勝に命じて、どのような処分をするべきかを計った。  その結果、忠長は駿府城を出て、甲斐に移ることになった。  まず、諸大名の江戸への道筋からはずされたものである。  忠長にとって、この処分は心外だったに違いない。天海にあてて将軍より大御所へとりなしてくれるようにと文をもって依頼して来た。  天海から、その文をみせられて、おふくは笑みを浮べた。  利発な忠長ではあったが、江戸と駿府にいるのでは、こうも天下の大勢に遅れるのかと思う。  天海は秀忠側近である以上に、家光に大事にされていた。  およそ、天海の望むことで、家光が首を横に振ることはなにもなかった。  寛永寺の建立にしたところで、すべては天海の心のままに、したい放題にさせているし、東照社の造営に関しても、天海の指示のままであった。  家光は天海を師と仰ぎ、神君家康と同じように天海を思うとまでいっているのであって、江戸にいれば、その天海と家光の間柄にしても、また、自分が甲斐に移されたのが大御所秀忠の意志などではないということにも気がつく筈なのに、駿府にいたばかりに、その辺りの機微に目が届かなかったということが、おふくには笑止なのであった。 「よりによって、僧正様におすがりなさるとは……」  と含み笑いをしたおふくだったが、更に祖心尼から知らせて来た文には、甲斐の忠長が近江の佐和山城に使をやって、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》直孝に、大御所へのとりなしをたのんだらしいということが書かれてあった。  井伊家は家康以来の武功第一の大名である。  直ちに、策が練られた。  寛永八年の暮、病臥《びようが》して一年余りになる大御所の本復祈願のために、おふくは近江の多賀大社へ参詣に出かけた。  その帰りに、佐和山城へ寄って、挨拶かたがた、大御所様お申しつけといった内容の書状が直孝の手に渡った。  甲斐の忠長には狂疾《きようしつ》を病んでいる。狂気の者の頼みを迂闊《うかつ》にひき受けるなといった忠告であり、直孝がその書状の裏にあるものを読みとらない筈はなかった。  おふくが江戸へ帰るのを追うようにして出府した直孝は大御所を見舞い、その死期が近いことを悟ると、将軍家光に拝謁し、土井利勝、酒井忠世とひそかに面談を続け、やがて、近江へ戻って行った。  忠長の頼みの糸は、ここで完全に切れたといってよかった。  翌年正月二十四日、秀忠は五十四歳でその生涯を終えた。  遺骸は遺言通り、芝の増上寺にて回向の上、埋葬された。  その喪中である四月十三日に家光は日光へ社参した。その供には堀田正盛、稲葉正勝と加わっていて、旅の間にさまざまの密議があった。  夏、おふくは二度目の上洛をした。  秀忠の死が西国大名並びに朝廷にどのような影響を与えているか、家光に心服しない者の動きがあるかどうかを確かめるための旅で、同時に甲斐の忠長から京の朝廷へなんらかの働きかけがあったのではないかを探るためであった。  江戸へ帰って来たおふくの知らせは、家光に対して吉であった。  もはや、家光が弟、忠長にどのような措置をとろうとも、それに反撥《はんぱつ》する分子はいないという判断であった。  十月二十一日、大納言《だいなごん》忠長は領地を没収、高崎へ幽閉された。  幕閣の処分は、ここまでの筈であった。  だが、おふくは安心をしなかった。かつて家康は秀頼に孫娘を与え、六十五万七千石の一大名に転落させても、決して安堵しなかったのと同様に、おふくも亦《また》、忠長が生きている限りは油断が出来ないと思いつめた。  どうしたら、忠長を殺すことが出来るか、それも、家光の命令で死を賜うという形にしたくなかった。土井利勝や酒井忠世も反対していた。  なんといっても秀忠夫妻がもっとも愛した次男であった。その弟を兄が殺したとあっては、天下のそしりを集めると彼等は考えている。  どうしたら忠長が死ぬか、毒を与えるのも危険であった。誰の仕業かと詮議《せんぎ》をされれば、結局は家光の名が出て来る。  誰がみても、忠長自身が自らの意志で命を断ったという形にしなければならなかった。  おふくの執念にも似た願いを、正勝は聞いた。  忠長を殺して、自分も死ねるなら自分の命など惜しくはないとおふくはいった。 「ただ、私が忠長どのを殺したなら、やはり、上様が命じて、と世間は評判をすることであろう。それを思うと手出しも出来ぬ」  実際、その頃のおふくは夜もねむれないほど、思いつめていた。  家光の最後の敵は忠長であり、忠長が存命している限り、安らかに眠ることも出来ないと訴えるおふくに、正勝は告げた。 「母上が、それほどまでにお心配ならば、この正勝が如何ようにも計いましょう。必ずお案じなく……」  この年、東海に大地震があって、相州小田原城の城主となっていた正勝は箱根から小田原にかけての街道の修復の指揮をとって居り、この日も江戸城へその報告のためにやって来たものであった。  で、小田原へ帰る正勝を、おふくは奥御殿から見送ったものだったが、その後姿がひどく疲れているようにみえた。この時、正勝は三十七歳であった。  十二月になって、おふくは高崎で忠長が自刃したという知らせを耳にした。  それによると、忠長の幽閉されている屋敷に、お預かりの安藤重長の家臣が軒までの板囲いをしたところ、忠長はしきりに考えていたが、やがて手紙の反古《ほご》などを焼き捨て、召使を遠ざけ、居間に屏風《びようぶ》をたて廻して、その中に入って短刀で咽喉《のど》を突いて死んだという。  幕府からは検分の使者が高崎へ行き、忠長の死を確かめて戻って来た。  これでよいと、おふくは思った。同時に安藤家に命じて、そうした処置をとらせたのは正勝の差し金によるものだと気がついていた。  でかした、と賞めてやりたいところであった。  だが、晴れ晴れとした気分で迎えた正月は、間もなく、おふくを悲嘆のどん底に突き落した。  二十五日、小田原城より稲葉丹後守《いなばたんごのかみ》正勝の病死を知らせる早馬が江戸城へ到着したものである。  数日前から正勝は気分がすぐれないといっていたが、床につくこともなく、ほぼ平常通りの生活ぶりであったという。  だが、二十五日の朝、起きていつものように江戸へ向って礼拝を行う最中、急に突伏して、医師がかけつけた時にはもう息がなかった。  忠長の怨霊だと、おふくは感じた。  他に考えようがなかった。  忠長を死に至らしめたのは、おふくであり、その報復に、忠長はおふくの最愛の息子の命を奪ったと思えたのであった。  おふくは取り乱し、錯乱した。医師の手当てで正気づいたものの、数日は床について起き上ることが出来なかった。  家光は、おふくの悲嘆を慰め、はげました。 「乳母には、まだ鶴千代が居るではないか、先に母を失い、今また父を失った幼き者のことを思い、気をとり直すのじゃ」  正勝の遺領八万五千石はそっくり鶴千代に継がせるといい、直ちに幕閣へその旨を申し渡した。 「父に勝る侍になり、祖母に孝行を尽せ」  と鶴千代に声をかける家光をみて、おふくは辛うじて立ち直った。だが、その鶴千代が小田原城に去ると、再び、孤独がおふくを占めた。  朝夕、仏間にとじこもって念仏|三昧《ざんまい》のおふくに、家光は新しく京都にもおふくのための香火院を建てることをいい出した。先におふくが両親の菩提のため、香華をたむける寺として豊島郡に建立した報恩山天沢寺とは別に京の妙心寺《みようしんじ》の中に、おふくの香火院をと考えたのは、先年、紫衣事件で配流した妙心寺派の僧達が秀忠の歿後、赦免《しやめん》されたこともあって、この際、なにかの口実を設けて妙心寺に寄進をしておきたいという幕閣の考えであった。  その埋由づけに、妙心寺の内に、おふくの香火院を建てるというのは一石二鳥でもある。  家光の配慮をありがたく受ける一方で、おふくは家光にも亡き秀忠、台徳院、及びお江与の方、崇源院の霊廟《れいびよう》へ参拝することを強く勧めた。  忠長の怨霊が家光にたたりをせぬよう、亡き秀忠夫妻の怒りを買わぬための礼拝であった。  それほどまでに、おふくは家光に怨霊のたたりがあるのを怖れていたのだが、皮肉なことに忠長が死んで以来、家光は病気らしい病気をしなくなっていた。  京へ上洛もすれば、日光の東照社の造営にも熱心である。  そればかりか、或る時、おふくを呼んでいささかいいにくそうに、 「乳母に所望がある」  といった。 「乳母の許に居るおふりを予にくれぬか」  といわれて、おふくは耳を疑った。  おふりという娘は、祖心尼の孫娘であった。  今はまた、江戸城奥御殿へ戻って奉公をしている祖心尼の許へ昨年から身を寄せている。  それは行儀見習のためでもあり、おふくの伝手《つて》で然るべき縁談でもという腹づもりであったのだが、そのおふりに、家光の目が止ったとは、夢にも思わなかった。  御台所《みだいどころ》孝子との仲は冷えたままであり、家光が衆道《しゆどう》にしか興味を示さないものと、おふくは思い込んでいた。 「おふりを夜伽《よとぎ》にと仰せられますか」  半信半疑で問い直したおふくに、家光は照れて、なにも今夜すぐにというわけではないと弁解した。  もとより、当人にも異存のある筈がなく、次の夜、家光は奥御殿の小座敷へ泊って、おふりを召した。  どうなることかとおふくは案じていたが、その次の夜も家光は奥御殿に泊り、やはりおふりが寝所に入った。続いて奥泊りが重なる。  そうなってから、漸《ようや》く、おふくは幕閣に対して、おふりが家光の愛妾となったことを報告した。  間もなく、おふくの許に阿茶局からの使が来た。折をみて訪ねてもらいたいという口上である。  阿茶局が、このところ寝たり起きたりであるのは、おふくも知っていた。  なんといっても八十を越えている。  見舞の品を用意して、おふくが竹橋の阿茶局の屋敷へ行ってみると、局は縁先にすわって、庭の紅葉を眺めていた。  体が一廻りも小さくなって、子供のような感じがする。 「春日どの、ようみえられた、おなつかしいこと……」 「近くに居りながら、お見舞にも参らず、失礼をいたしました」  にじり寄って、おふくは阿茶局の顔色をみた。昔の恩を忘れたのかとなじられるのではないかと思ったのだが、阿茶局は背を丸めるようにして、おふくに頭を下げた。 「今日は、春日どのにお礼を申したく存じて、お呼び申しました」  よく光る目が正面から、おふくをみつめている。 「上様の御為に、徳川家の御行末のために、よくぞなされた。お見事でございます」  怪訝《けげん》そうなおふくへ、小さくいった。 「駿河どのを、よくぞ葬られたと申すことでございますよ」  おふくはあっといい、忽《たちま》ち顔から血が引くのをおぼえた。  だが、阿茶局は秋の陽《ひ》の中で、ゆったりとほほえんでいる。 「春日どののおかげで、私が地獄をみずにすみました。生涯、地獄をみることなく、神君様の許へ参ることが出来ます。そのお礼を申し上げたくて……」  陽ざしはあたたかかったが、おふくの体は冷水を浴びたようになっていた。 「人に罪を着せて殺すのは、地獄をみることでございます。権現様も御生前はそのことにお苦しみなさいました。台徳院様も御同様でございます。けれども、御当代様は、春日どののおかげで、自ら、地獄をみることはなさらずにすみました。この私とて同様でございます」  おふくがしなければ、やがては自分がするべきことだったと阿茶局はいった。 「権現様が三代将軍は竹千代君と仰せられた時から、それは決っていたのでございます。お世継ぎは一人でよい。他には要りませぬ。あっては、後の世の障りとなりますばかりにて……」  どうやって、阿茶局の屋敷を出たのか、おふくには記憶がなかった。  気がついた時には奥御殿の庭にいた。  自分は地獄をみたのか、と思った。  たしかに、人が術策を設けて人を殺すのは地獄に違いない。その報いに、正勝は死んだも同然である。  にもかかわらず、おふくは生きていた。  生きて苦しめということなのかと思った。  人を殺したのは、はじめてではないと改めて自分にいいきかせた。  夫正成に裏切られて、秀尾《ひでお》を手にかけている。戦国の余燼《よじん》のあった時代のせいもあって、あのことをおふくはそれほど怖しいとは思っていなかったし、更に長い歳月が忘れるともなく忘れさせていた。  が、今にして思えば、あれも地獄かも知れないと気がついた。  地獄をみた者は、地獄へ落ちるのだろうかと、おふくは庭の黒い土をみつめた。風が吹いて、枯れ葉が舞っている。その風はおふくの心の中をも、冷たく吹きすぎて行くようであった。  阿茶局が死んだのは、翌年の正月二十二日のことであった。     十八  阿茶局が歿ってから一か月ほどで、おふりは家光の子を産んだ。  千代姫《ちよひめ》である。  これは、家光が立派な男であることの証明になった。  その年、おふくは竹橋門の近くに屋敷を拝領した。そのあたりは阿茶局や、今は英勝院といっているお勝の方の屋敷もあって、比丘尼《びくに》町と呼ばれていた。  とうとう、自分も尼並みかと思った。  本来なら、夫の正成が歿っているのだから、出家しているのが普通かも知れないと考えたりもする。  奥御殿へ出仕していても、おふくはどこか気のない顔をして、庭を眺めているのが多くなった。  寛永十六年になって、伊勢から、慶光院の十七代院主、六条《ろくじようの》参議《さんぎ》有純の姫、満子が跡目相続の挨拶に江戸城に来た、家光はこの院主に目をつけて、伊勢へ帰さず、還俗《げんぞく》させて奥御殿へ入れた。お万の方である。  それに前後して、おふくの許に奉公に上っていたおらんが、やはり家光に気に入られて御手付|御中臈《ごちゆうろう》となり、お楽の方と呼ばれるようになっていた。  寛永十八年に、お楽の方は若君を産んだ。天海が竹千代という名を奉って、江戸城内は喜びに湧き立った。  この若君に矢島局《やじまのつぼね》という乳母が決ったが、その女が、老中、松平|伊豆守《いずのかみ》に申し立てたことを、後になって聞いたおふくは慄然《りつぜん》とした。  その女の夫は、牧野|因幡守《いなばのかみ》の家中だというので、どれほどの禄《ろく》を賜《たまわ》っているのかと訊ねたところ、三百石であると答えたという。  ところが、実際は遥《はる》かに身分の低い者であって、牧野家では彼女の言葉に合せて、俄かにその夫を三百石に取り立て、辻褄《つじつま》を合せたとのことであった。  いやな女だというのが、おふくの印象であった。しっかり者には違いないが、才走りすぎていると思う。  そんな女が若君の乳母になったというならば、これは最初からきびしく取り締らねばなるまいと考えたのだが、矢島局はまるでおふくの内心をみすかしたように、何事も、 「春日様、春日様」  とおふくを立てて、へりくだった様子であった。  その九月二日、若君竹千代が白木書院において、諸大名に初見参した折も、若君を抱いて晴れの席にのぞんだのはおふくであった。  だが、それが、おふくにとっては最後の脚光を浴びた思い出になった。  若君の乳母は矢島局であり、おふくの出る幕はない。  奥御殿は、家光の愛妾達で華やかにも賑《にぎ》やかにもなっていたが、そこにも、おふくの場所はなかった。  寛永二十年八月、病を得たおふくは九月十四日、竹橋の屋敷で息をひき取った。  家光は七日間の喪に服し、諸大名は続々と登城して、家光に弔意《ちようい》をしめしたという。   西に入る月をいざない法《のり》を得て     今日ぞ火宅《かたく》を逃れけるかな  というのが、おふくの辞世として伝えられている。 角川文庫『火宅の女−春日局』平成4年1月25日初版発行