平岩弓枝 女の四季 目 次  美女誕生  その顔を探せ  ハッピイ・エンド  オレンジ色の口紅  美しき殺意  秋の日  異母姉妹  嫁して十年  痩梅記  美女誕生  クッションのきいたグリーンのソファの片隅にちんまりと腰を乗せて足をくの字に曲げている患者《かんじや》と向い合って、美巳《みみ》は当惑し切っていた。  いつまで経《た》っても相手が黙りこくっているばかりなのだ。 「美巳《みみ》先生、おそれ入りますが初診の患者さんが……」  と先刻《さつき》から看護婦が二度も催促《さいそく》に来ている。彼女の本名は石井|美巳《よしみ》だが、病院では美巳《みみ》先生で通っていた。 「本当に御用とおっしゃるのは何でしょうか。整形の結果がお気に入らないのですか」  美巳はつとめてやんわりと聞いた。相手は男性だが、年齢は美巳より七歳も下なのである。美巳が机の上に拡げている美容整形のカルテには兵庫県O郡S村、南部久夫、十八歳とある。整形は隆鼻術であった。 「あの坊やったら少しゲイ趣味じゃないの。隆鼻術《ナーゼのオペ》の注文がね、すんなりと細く女みたいな型に、って言うのよ」  電気凝固法という脱毛専門の金井看護婦が、強度の近視を眼鏡の奥から光らして告げたのは、四日前の、南部久夫が初診を済ませていよいよ手術室へ案内されて行った時であった。 「嫌だ。あんな田舎《いなか》丸だしのニキビっ面《つら》がゲイだなんて、お門違《かどちが》いじゃない……」  数年前のゲイ・ボーイ全盛以来、ゲイという言葉に男装の麗人《れいじん》と同義語めいた解釈をつい持っている都会の看護婦達はきゃあきゃあ笑って否定した。  事実、南部久夫は色が真黒けの、ずんぐりむっくりした小男で、坊主刈りの頭といい、毛深そうな手足を見てもゲイという感じには程遠かったのだ。 「鼻だけ女性的にしたってねえ……お鼻違いでしょう。美巳《みみ》先生……」  受付係をしている、病院中で一番の美人と公認の中川看護婦が下手に洒落《しやれ》たのを美巳もにやにや笑いながら共感したものだ。  その問題の彼の鼻は今朝、抜糸《ばつし》が終ったがまだ全体にぷくぷくッと腫《は》れて平べったい。 「腫れがすっかり引かないと本当の形にならないのですよ。今日一杯は辛抱《しんぼう》なさらないと……。不安なお気持は分りますけど、手術の結果は院長先生を御信頼になって……」  二十四時間経てば、遅い人でも二、三日過ぎれば鏡を覗《のぞ》いてゴキゲンになるのだからと美巳は殆《ほと》んどの患者に繰り返すのと同じ、なだめの台辞《せりふ》をなだらかに喋《しやべ》った。  南部久夫は下を向いたまま、首だけ振った。秋の終りの虫みたいな哀れっぽい声でもぞもぞと言った。 「そやあらへん。手術の事ではあらへん」 「じゃあ、なんなんです。男なんだから愚図愚図しないでおっしゃいよ。私は政治家や容疑者に尋問してるんじゃないんですからね、何を訊いてもノウ・コメントじゃたまらないワ」  美巳は廊下の足音に聞き耳をたてた。そろそろ午《ひる》近く、病院は初診《ノイ》の一番立て混む時刻なのである。院長秘書の肩書の美巳だが、近頃は専《もつぱ》ら初診の片棒もかつがせられている。 「女の先生の方《ほう》が御相談しやすくて……」という患者がめっきり増えたためである。手術こそ出来ないが門前の小僧、習わぬ何とやらの類で、美容整形の理論はすっかり呑《の》み込んでいる。 「私、初診室の方へ行かなけりゃなりませんから……」  美巳は腰を浮かしかけた。内密に女の先生に御相談したいと言うので、わざわざこの応接室、兼、院長室へ呼んだのだ。南部久夫の入院した部屋は三階の大部屋なのである。 「ぼ……ぼく……」  南部久夫は、どす赤くなった顔をあげた。 「ぼく、女になりたいのですが……」  小学生が教室で答えるみたいに抑揚《よくよう》のない声であった。一瞬、美巳はぽかんとした。彼の言葉の意味が素直に呑み込めなかった。 「冗談《てんごう》やあらへん。ほんまだす。ほんまに女になりたいと思って上京《で》て来ましたんや」  久夫は慌《あわ》ててつけ加えた。 「女の人を男にする手術をここの院長先生がやらはったという記事を週刊誌で読みましたん。そやよって、ぼくも……」 「ちょっと、ちょっとお待ちなさいな」  美巳《みみ》は辛うじて女医の面目《めんもく》を取り戻した。 「話が唐突《とうとつ》でよく分りませんけど、あなたがおっしゃるのは、円盤投げのK選手の……」  スポーツ界では多少、名の通った女流円盤投げのK選手が俗にいう女男《おんなおとこ》であったことが判明し、松倉整形外科の院長、松倉治雄博士の執刀により性の転換に成功した事は当時、巷《ちまた》の話題としてかなり大きく報道された。むろん、美巳もその一件は知っている。 「でも、あれは女だった人が男に……」  美巳は若い女の恥らいを語尾に見せて口籠《くちごも》った。相手は強引だった。 「そやけど女が男になれるのやったら、男も女になれるのと違いまっか。片方が出来《でけ》て、片方は出来《でけ》んという事はあらへんやろ。何事も男女同権の世の中ですさかい……」 「だって、ああいうのは特別ですわ。つまり一人の人間が男性と女性と、両方の性をかね具《そな》えている場合、それが子供の時に間違って判断したりなんかして……ですからあなたの場合……」  言いかけて美巳《みみ》は真赤になった。 「そういう事でしたら、院長先生に申し上げますから、院長先生からお聞きになって下さい。その上で御診察をお受けになれば……」  つとめて事務的に早口で言った。ひどく汚らしい感じがする。美巳は自分でも気づかぬ中に眉《まゆ》をしかめていた。 「ぼく院長先生は嫌や。男の先生やったらよう言われしめへん。そやさかい初診の時も恥かしゅうて言い出せへんで、鼻の手術してしまいよったんや。ほんまは鼻なんぞどうでもええ、女になる手術して貰おう思ってましたん。お願いですよって、美巳先生が診察して、手術しておくれんか。頼んますで……」  南部久夫は両眼に涙を一杯ためて絨氈《じゆうたん》の上に跪《ひざまず》いた。その恰好《かつこう》で美巳《みみ》の方へいざり寄ってくる。美巳は悲鳴に近い声をあげてとびのいた。 「駄目だったら駄目よ。あんた、私を何だと思ってるの……」  彼は目をぱちくりさせた。 「女のお医者さんと違いまっか……」  美巳《みみ》はへどもどした。今更、相手に自分が院長の姪《めい》で、医学は専門外のずぶの素人《しろうと》だと説明したってどうしようもないと気がついたのだ。まごまごすると医師法違反を暴露しかねない。 「とにかく、院長先生をお呼びして来ます。ちょっとそこでお待ちになって……」  言い捨てて美巳は脱兎《だつと》のごとく院長室のドアからとび出した。  蛇口《じやぐち》をひねると微温湯《ぬるまゆ》が細《こま》かな水粒となって勢いよく石鹸《せつけん》の泡をはじきとばした。 「ねえ、伯父様、じゃ世の中には女男《おんなおとこ》の反対の男女《おとこおんな》っていうのかしら、そういうのもあるんですの」  タオルを差し出しながら美巳は好奇心に満ちた眼をした。 「あることはあるようだな。中国の古書なんかにゃ、よく出てくるよ。例えば、宋《そう》の宜和《ぎわ》六年に青果を売る男、ざっくばらんに言えば八百屋《やおや》か、それが孕《はら》んで女児を産んだ、また大明《たいみん》の周文襄《しゆうぶんじよう》という男が胡蘇《こそ》という所に住んでいて男の児を産んだ、とかね」 「中国の本なんて当てにならないわ。白髪三千丈の口でしょう。きっと……」  美巳《みみ》は文科出の女の子らしい言い方で反撥した。 「いや、そうとばかりは言えないよ。晋《しん》の恵帝《けいてい》の時、京洛に人あり、その形、男女の体をかねてよく両《ふた》つながら人道を用いる。これを半男女《ふたなり》という、とはっきり説明してあるんだから……」 「伯父様、随分お詳《くわ》しいんですのね」  美巳はてれかくしに伯父を冷やかす。松倉院長はけろりと姪と周囲の看護婦を見た。 「学生時代は興味|津々《しんしん》たるものでね。よく調べたもんだよ。お望みならもう一つや二つ暗誦してみせようか」  美巳は顔中をくしゃくしゃにして伯父の唇へ人指し指を当てがった。 「もう結構よ。伯父様、それよか、例の彼氏、その半男女《ふたなり》とかだったんですか」 「だと万事都合がいいんだが……彼氏ののぞみもOKだし、ここの病院の宣伝にもなったんだが……」 「駄目なの?」 「残念ながら、完全なる男性ですな」  横から副院長の富永がまぜっかえした。 「本当? 伯父様」 「本当だとも。美巳は又、ひどく好奇心たっぷりだね。若い娘がそんな事ばかり気にしてると、お嫁の貰い手がなくなるぞ」  松倉院長はからからと笑い捨てると新しい手術着に手を通した。心得て看護婦がドアを開ける。 「手術《オペ》、何です?」  続いて出て行く副院長に美巳は未練がましく尋ねた。 「額の皺《しわ》の除去ですよ。残念ながら半男女《ふたなり》の手術じゃありませんね」  子供が五人もあるという富永副院長は美巳に片目をつぶって見せた。  日本整形外科の重鎮、松倉博士が経営する松倉整形外科病院は、国電S駅に程近い瀟洒《しようしや》なビルの二階、三階、四階を独占して派手《はで》に宣伝を行っている。銀座へも、日比谷にも五分位で出られる場所だから地の利も絶好だし、美容整形としては歴史も一応古く、名の通った病院だから患者の数も極めて多い。  地方からはるばる上京して整形を受けに来る患者が二分の一くらいで北海道、九州の両極端から日本地図の殆んどすべての各県にわたり患者のカルテの住所はローカル色が濃い。こういう、散々迷って決心して必死の覚悟で上京して来た深刻型に対して、美容整形を楽しんでいる道楽型がある。こっちの方はいわゆる常連組なのである。美容院ヘパーマをかけに行くような了見でちょくちょく診察室へやって来る。常連組には二種類あって、一つは東京、横浜|辺《あた》りの玄人《くろうと》衆で、これは最初に二重瞼《ふたえまぶた》の整形をやり、一か月位して隆鼻術を、それから豊胸術、ついでエクボを作って、脇の下の脱毛をやって、という美容整形の月賦みたいな何でも屋、もう一種類は主として中年以上の婦人で一週間に一度ずつ通院しては若返りの注射だの、頬を豊かにする肉質注射と称するのや、斑《しみ》とり、皺の除去など同じものを延々《えんえん》とやる。この治療は何日で終るというものではない。皮膚の老化と美容整形のイタチゴッコみたいなもので、通う気があれば当人が死ぬまでという事になる。  時間に区切っていうと大体、午前十時から午後七時までの診察時間の前半は地方出の深刻型、後半が道楽型と大別される。病院の方ではそうきめてあるわけではない。患者の性質が自然に作り出した現象のようだ。  病院の内部《なか》に目を移してみよう。入口の回転ドアは大きな一枚ガラス、灰色っぽく曇《くも》らした上に金文字で「松倉美容整形研究所」と書いてある。ドアを入って左側が受付、美人看護婦が丁寧《ていねい》に用件を訊《き》く。初診だとここで受付メモに住所と姓名を書かされ、ブリジット・バルドウ型の看護婦が待合室へ案内してくれる。廊下の壁はかなり長い間が鏡になっていて始めての客は思わぬ所に自分の姿を発見してぎょっとなる。が、これは驚かすのが目的ではなく整形前に自分の顔をしみじみと観察し、整形への決心を固め、醜い容貌に別れを告げるためのもののようである。その他の壁は全部、若草色。カーテンは濃《こ》いエメラルド・グリーン。待合室の椅子《いす》は鶯色《うぐいすいろ》で小テーブルはデコラのグリーン、テレビが置いてある。待合室の隣りが初診室と呼ばれている相談のための部屋。ここで患者が我が顔、もしくは肉体の悩みを切々として担当の医師に訴える。松倉博士は専《もつぱ》ら手術専門で、この部屋に出入りするのは副院長の富永博士と美巳《みみ》先生だ。  廊下の突当りが二部屋に及ぶ手術室、ここのタイルもグリーンである。シーツはカラーシーツ、病院の手術室という冷たさ、厳しさを避けるために故意に華やかなロマンティックな雰囲気《ふんいき》をねらってデザインしてある。  隣がレントゲン室、その脇が技工室、隆鼻術に使用するプラスチックの鼻型は専らここでひねくり廻される。  この他、二階に設置されているのは脱毛室、治療室、事務室、応接室兼院長室、予備室があって、それぞれの室には四季の花がふんだんに飾られ、壁には額《がく》が、廊下の角には小鳥籠《ことりかご》がぶら下っている。白一色の看護婦姿が右往左往し、消毒薬の匂《にお》いさえ漂《ただよ》って来なければファッション・ショウのルームと間違えられそうであった。  三階と四階は入院室、三階が一人部屋で四階が大部屋、それに調理場と看護婦の宿直室がついていた。従業員は全部、通《かよ》いで松倉博士の自宅は六本木《ろつぽんぎ》にある。  ついでだが博士夫妻には子がない。姪の美巳《みみ》を京都から呼び寄せて高等学校、大学を卒業させた現在、尚《なお》、手放せないのはその故である。  ところでその半男女《ふたなり》問答の日、午後四時を過ぎると松倉院長は残った患者を富永副院長にまかせて、いそいそと白衣を脱いだ。心得て美巳が背広の上着《うわぎ》をさし出す。老眼鏡、ハンカチ、ちり紙。 「今月は五時開演だったね」  今朝からもう四回目だと、美巳は笑った。 「そうですよ。まだ四十三分と四十秒はたっぷりあります。最初は先代萩《せんだいはぎ》のまま炊き、中幕《なかまく》が船弁慶《ふなべんけい》で、最後が新作物《かきもの》です。休憩時間は二十分ずつ、最初の幕間《まくあい》には別館食堂でうなぎを、次の幕間にはお好み寿司《ずし》を予約しとくんでしょう。伯父様」  松倉院長はネクタイの結び目を壁鏡に映しながら真面目《まじめ》に応じた。 「四人前ずつだよ」 「私はお寿司だけにしときますワ。伯父様みたいに肥《ふと》らなけりゃいいけど……」 「健志《たけし》君に嫌われるか。まあいい、女の肥ってるのは愛敬《あいきよう》があっていいもんだが、今どきの若い者には分らんらしい。好きにしなさい。うなぎでも寿司でも……」  返事の代りに美巳は伯父の背をいやという程、叩《たた》いた。  ともあれ、二人は看護婦に送られて出かけた。  歌舞伎座《かぶきざ》の入口を入ると、真正面の太い円柱のかげに小肥りで小柄な和服姿の男が人待ち顔に顎《あご》を突き出していた。松倉院長はそれに向って子供のように手まねきした。 「おうい。結城《ゆうき》君、ここだ、ここだ」  辺《あた》りを憚《はば》からぬ太い声である。札《ふだ》もぎの女の子が呆気《あつけ》に取られて見上げている。美巳は周囲の視線の中で、松倉院長の連れではない顔をした。 (これだからお供は嫌なんだ……) 「珍しく早かったじゃないか、ええ、俺《おれ》も今来たばかりなんだ」  結城|亀松《かめまつ》は背伸びして松倉院長の肩を叩いた。中学生の昔の口調に還《かえ》っていた。銀座五丁目に「浜松屋」という呉服の老舗《しにせ》がある。店がまえはさして広くないが銀座でも一流中の一流で花柳界にも山の手にも上等の贔屓《とくい》先を持って、この店の帯には特に定評があった。結域亀松はその当主なのである。 「信《のぶ》ちゃん、今月は張り切ってるそうじゃないか、船弁慶は初めてだし、新作の方も主役だろう……」  松倉院長は入りのよい客の群を眺めながら言った。団体客らしい。 「そうなんだよ。けど新しいもんばかりで辛いだろう。おまけに新作は出来るのが遅れて作者から原稿貰ったのが初日の前日だって。それでも|黒ん坊《プロンプター》つけるのが嫌で徹夜して台辞《せりふ》を暗記したってさ。信ちゃんらしいじゃないか」  二人が信ちゃんと呼んでいるのは歌舞伎俳優、五代目|尾上勘之丞《おのえかんのじよう》の事である。本名は青木|信和《のぶかず》。この三人は小学校から中学卒業まで一緒だった。いわゆる幼友達をそのまま延長した交際が五十代の今日まで貴重に保たれている。戦争、終戦を過去に持っている東京人としては国宝的存在だと美巳は思っていた。  ごちゃごちゃ言いながら三の扉を入りかけて松倉院長は美巳をふり向いた。 「うなぎと寿司の予約、忘れるなよ」  美巳はくるっと踵《きびす》を返した。頬が赫々《かつかつ》と火照《ほて》って来る。辺りの人がみんな自分を見ているような気がするのだ。 (だから嫌よ。全く場所柄もへったくれもないんだから……大喰いの伯父様……)  フロントで予約をする時が又、恥しかった。フロント嬢はまさか同じ人間が二度食べるとは思わないだろうが、美巳は視線が上げられない。  ロビーを横切って客席へ戻りかけた時、 「美巳ちゃん」  ソファに腰を下《おろ》して煙草《たばこ》を吸っている、結城健志だった。浜松屋の一人息子で美巳とはK大で同期である。健志の方が年齢は二つ上なのだが遅《おそ》生れと早生れ、おまけに彼は一年受験にすべったから止むなく美巳と同学年という事になった。美巳は文科、健志は政経科である。在学中は両人共、新聞記者になる気だったが、事、志と違って彼は目下の所、親父の助手《アシスタント》をつとめている。昔風に言えば呉服屋の若旦那《わかだんな》というわけだ。但し、この若旦那、剣道三段というから筋骨隆々として荒っぽい。色は浅黒いといいたいが、通り越してチョコレート色をしている。夏冬にかかわらずである。和服は、美巳が知る限り浴衣《ゆかた》も着ない。 「どうしたの。お席へ行かないの」  美巳は突っ立ったまま挨拶《あいさつ》抜きで言った。彼も月に一度の友情的観劇会のレギュラーである。名目は親父の付き添いだが、彼には彼だけの別の目的があるのだ。 「ま、お坐りよ」  健志は悠然とソファを目で指した。 「ふん」  美巳はちょっと逡巡《ためら》ってから三十センチばかり離れて健志と並んだ。 「伽羅先代萩《めいぼくせんだいはぎ》なんてくだらない芝居、観る気かい。よしときなよ。忠義ぶって自分の子を殺すような女の話なんぞ美巳ちゃんの将来への影響が怖しいぞ」 「馬鹿らしい、お芝居と現実を一緒くたにする程、私は時代|錯誤《さくご》してませんよだ。話はつまんないけど、中村菊四郎が出てるでしょう。彼だけ見ようと思って……」  中村菊四郎はこの一座で目下売り出し中の若《わか》女形《おやま》だ。映画にも何度か出ている。 「相変らずゲイ趣味だな」  健志は軽蔑《けいべつ》したように煙草の煙を吐き出す。どことなく口惜《くや》しげな口ぶりでもあった。 「どうせそうでしょうよ。健志《オタケ》に言わせれば女形も男装の麗人もみんな変態なんだから、そんなら歌舞伎へなんか来なきゃいい……」  口では怒ってみせながら美巳は眼で笑った。開演のベルが鳴っている。美巳は聞えない顔をした。 「ゲイっていえばね。今日、妙な患者がいてね。美巳とっても困った」  南部久夫の話を聞いて、健志は腹をかかえた。健康的な笑い方である。 「それでどうした? その男……」 「どうしようもないわよ。完全なる男性なんだから……退院は明日だから今頃は諦《あきら》めて帰り仕度でもしてるでしょう」 「しかし、世の中にゃ妙な奴が多いな。美容整形なんて女の虚栄心のごみためかと思ったら……」 「近頃は男性が半分くらいよ」 「へえ、みんな女になりたがるの」 「まさか、隆鼻術《ナーゼ》や重瞼術《アウゲ》(二重瞼にする手術)よ。その他に男の人専門の特殊な整形もあるけど……」  美巳は悪戯《いたずら》っぽく首をすくめた。 「職業はなんだい。どうせ夜のつとめか、ステージの人間か、ゲイ・ボーイぐらいだろう」 「どう致しまして、学生さん、自衛隊、それからあなたのような平凡な市井《しせい》の若者もお出でになりましてよ」 「馬鹿にしてやがる……」  健志は忌々《いまいま》し気に煙草をもみ消した。 「先代萩《せんだいはぎ》」が済み、「船弁慶」が終って四人が客席を立った時である。場内アナウンスが入った。一時間余も長唄に馴れた耳には、ひどく現代的に響く。 「松倉整形外科の松倉治雄様、正面受付までお越し下さいませ。松倉整形外科の……」  美巳は伯父の顔を見た。 「なんでしょう、伯父様」  観劇は私の一か月唯一つのリクリエイションなのだから、めったな事で呼び出しなんぞかけて貰いたくない、とかねがね病院にも家族にも繰り返し言ってある。 「ま、とにかく行ってみましょう」  健志が先頭にぞろぞろと受付へ出た。 「あっ、美巳先生ッ」  泣きそうな声で呼んだのは中川看護婦だった。白い看護婦服を脱いで木綿のプリントのブラウスとスカートという恰好は、どこにでもいる平凡な娘である。  近づいた美巳の肩にしがみついた。 「あの……患者さんが、南部久夫さんが自殺を……」  美巳はあっと棒立ちになった。  南部久夫の自殺の手段は非常に古風なものであった。  四階の入院室のはずれにある布団《ふとん》やシーツや枕などを入れておく物置部屋の中で多量のアドルムを呑み、細紐《ほそひも》を布団棚のパイプ管に結んで首つりをやったものだ。 「全く、ふるってやがんな。布団部屋で首をつるなんて、江戸か明治のお女郎《じよろう》みたいじゃないか。ダイナマイト心中よかよっぽど情緒的《じようちよてき》だよ」  と事件が落着してから結城健志が呉服屋の息子らしい意見を述べたが、実際に南部久夫のクラシック極まる自殺行為は執行者自身がパイプ管から床までの空間の距離の目測をあやまった結果、紐が長すぎてぶら下った人間の爪先がどうやらこうやら床に触れるというだらしのない状態になった。慌《あわ》ててもがく中に棚へ積んであった布団が落ちる。物音を聞きつけて宿直の看護婦がとんでくる。老練な彼女の機転で田村町に住んでいる富永副院長に電話がかけられる。田村町から松倉美容整形研究所まではタクシーで五分とかからない。現場は病院の事ではある。  というわけで、歌舞伎座から松倉院長と美巳が迎えに来た中川看護婦と共にがくがくしながら帰って来た時は、既に南部久夫は富永副院長の至れり尽せりの手当で、危機を脱していた。  自殺は未遂に終ったわけである。 「寿司を喰ってから来るんだったねえ」  これが松倉院長の第一声。 「全く、人さわがせな人ったらありゃあしないわ」  駈けつける車の中では真蒼《まつさお》になって、 「死んじゃったら、どうしましょう。かわいそうに……」  恋人かなんぞみたいな同情ぶりをしめしていた美巳が看護婦のいれてくれたコーヒーを飲みながら、もう彼が絶対に死なないと知ってから呟《つぶや》いた台辞《せりふ》。  入院三日、南部久夫は今度こそ本当に松倉整形外科を退院して行った。  それから一週間経った日曜日、六本木に近い麻布の、松倉院長の自宅の庭で、美巳は飼犬「アンネ」嬢にせっせとブラシをかけてやっていた。  九州のすみっこを抜けて朝鮮沖へ消えた台風の余波で昨日まではぼしょぼしょと陰気な雨が降っていたが、今朝はすっきりと晴れた。ようやく一輪だけ咲いた芙蓉《ふよう》のピンクが目もさめるばかりに美しい。  かなり広い、モダンな松倉邸はもう午《ひる》近いというのにひっそりしている。松倉院長夫人は四季に一回ずつ開かれる女学校時代のクラスメートとの昼食会に出かけていたし、女中は盛り場へ買い物に行った。院長、松倉治雄氏五十一歳は七日目ごとに訪れる貴重な、時間に縛《しば》られない朝をぬくぬくとベッドの中で満喫しているに違いない。二階の東側にある彼の寝室のカーテンはまだ重々しく窓ガラスを覆《おお》っている。  ポメラニアン「アンネ」女史は急に秋めいた日射しの中で心地よさそうに目を細くしている。ブラシには白い抜毛と金色のとが真綿みたいにふかふかと丸まって付着した。 「アンネ」女史がヒステリックな啼《な》き方をした。美巳の手をすり抜けてバラの蔓《つる》のからんでいる白い垣根に向って突進した。けたたましく、逃げ腰で吠《ほ》える。 「アンネ、アンネちゃん……」  美巳は追って垣根を廻った。郵便屋かと思った。そんな時刻なのである。  垣根の向う側に立っているのは女であった。まだ若いらしい。白地の夏物のワンピースを着ている。  美巳はハハンと思った。  こういう患者は珍しくない。 「病院へ伺うのは恥しいし、落付いてお話出来ませんから……」  という秘密主義の羞恥居士《しゆうちこじ》のてあいである。返事は定《きま》っていた。 「松倉先生は自宅では患者の方にお目にかからない建《た》て前《まえ》になっておりますので……」  と慇懃《いんぎん》に拒絶申し上げる。そうでないと日曜休診の意味がなくなってしまうからだ。もっとも人の好い松倉院長は美巳や女中の応対が少々長引いてくると、自分から根負けして顔を出してしまう。そうなると否応なしに応接室は仮の初診室に変じて、整形の相談ばかりではなく延々と身の上話を小半日も聞かされるような結果になるのだ。 (伯父様が起きていらっしゃらない中に断っちまわないと……)  美巳は態勢を整えた。 (日曜くらいは、せめてのんびりさせてあげたい……)  肉親の思いやりである。 「あの……」 「あの……」  垣根の内と外と声は同時であった。アクセントは東と西のものである。 「こちらさんは松倉先生のお家《うち》だすか……」  そうら、お出でなすった、と美巳は思った。主人の気持を反映するかのように「アンネ」女史はキャンキャンと啼《な》く。 「そうですけど……」  美巳は垣根のかげから相手の器量を観察した。身長一メートル五十ぎりぎり、そのくせ体重は六十キロはたっぷりありそうだ。ちんまりした鼻は横からみると頬の方が出っぱって見えそうだったし、寝起きでもなかろうに腫《は》れぼったい瞼《まぶた》は象のそれを連想させた。眉だけが太々と濃い。 (ま、隆鼻術《ナーゼ》か、美眼術《アウゲ》の希望だな……)  職業柄、甚《はなは》だ失礼な見当をつけて、美巳はよそゆきの声を出した。 「あの、整形の御相談でしたら病院の方へお出で下さい。院長先生は自宅ではお目にかかりませんのよ」  相手はびくともしなかった。ビニールのボストンバッグを下げている。 「整形の相談に来たのと違いまっさ。南部久夫さんいう人のことで来ましたよって……」 「南部久夫……」  美巳は素頓狂《すつとんきよう》な声をあげた。不意に二階の窓が開いた。 「美巳、垣根越しになにを騒いでるんだ。すぐ降《お》りて行くから、お客様を応接間にお通ししときなさい」  さらりとあいたカーテンのかげから松倉院長の機嫌《きげん》のよい顔がのぞいていた。  朝食、兼午食のサンドウィッチを銀盆に山積みにして、湯気の立っているハムエッグ、冷たいサラダ、トマトジュース、牛乳、半熟玉子二個、それにコールドビーフとセロリと赤カブとチーズを盛り合わせた一皿と、まるでレストランのショウウィンドウをそのまま移動して来たみたいな献立《こんだて》の載《の》ったお盆を捧げて、美巳が応接間へ入って行くと松倉院長は卓上電話をかけている最中であった。  所在なげに坐っている大阪弁の女の子の前には手をつけないレモンティが冷《さ》めていた。 「院長先生はお食事前なので……失礼致しますね」  美巳は軽く断ってから、女中が運んで来た別の一人前盛りのサンドウィッチを彼女の前へ置いた。ついでにレモンティも女中に入れ替えさせる。 「よかったら、召上れよ。お手製だから味の方は自信ないけど……」  第一印象はあんまり香《か》んばしくなかった相手だが、美巳は自分の感情にいつまでもぐじぐじする性分ではない。 「美巳君、ちょっと……」  松倉院長が受話器を置いて美巳をうながした。廊下に出る。 「折角の日曜、気の毒だけどね、あの子を連れて銀座まで行ってくれないか」 「銀座へ……?」  美巳は解らない眼をした。 「それはいいですけど……伯父様、銀座のどこへ連れてくんです?」 「歌舞伎座の脇に文明堂の喫茶室があるの知ってるね、あそこにしといたよ」 「しといた……?」 「南部久夫君が待ってることになっているんだよ。彼女は彼の恋人らしいぞ」 「あら南部君は兵庫へ帰ったんじゃなかったの、だったら伯父様、どして南部君の行く先を御存知だったんです? 今、おかけになった電話は彼との打ち合わせなんでしょう?」 「当らずといえども遠からず……」  松倉院長はにやにやと笑った。 「美巳は推理小説マニアじゃないか、よろしく御想像願いたいね。え、本邦ナンバーワンの女流探偵長どの……」 「いいわ、伯父様、もし解けたら賞品を下さる?」 「ああ、いいとも……」 「カメオのペンダント。大《お》っきいのよ。直径五センチくらいある奴よ」  というわけで、やがて美巳は六本木の通りからタクシーを拾った。 「そうだわ、私、まだあなたのお名前聞いてなかった。私は石井|美巳《よしみ》、通称、美巳《みみ》」  動き出してしばらく沈黙の後、美巳は思い出して聞いた。 「わたし、南部|富貴江《ふきえ》っていいます……」  美巳は妙な顔になった。 「じゃ、久夫さんとはもう結婚なさってるの……?」 「いえ……」  娘は、それだけが取《と》り柄《え》の白い肌を首筋まで真赤にして首をふった。 「だって、苗字《みようじ》が同じじゃないの」 「家の方の村は南部という名が多くて、八軒もありますよって……」  富貴江のとぎれとぎれな話によると兵庫県O郡S村で南部久夫の家は一番の旧家であり資産家ということだった。彼女と彼は小学校が同級、但し年齢は彼女が一つ上、ともあれ筒井筒《つついづつ》ふり分《わ》け髪の幼《おさな》馴染《なじみ》なのだ。 「立ち入った質問して悪いけど、あなたは久夫さんの許嫁《フイアンセ》なの……」  公認か、非公認の恋人かという意味である。富貴江は蚊《か》のなくような返事をした。 「親たちがきめたことですさかい……」  なるほど、と美巳は、一人合点した。彼女はおそらくあのなよなよと女性的な南部久夫が好きになれないで悩んでいるに違いない。いくらちんくしゃの無器量だって生理的に嫌悪を催《もよお》すような男性のお嫁さんになりたくないのは当り前だ。もっとも至極だと美巳は納得《なつとく》した。彼女が彼を追って上京して来たのは大人達の介在しない所で一挙に彼と話をつける量見に違いないと思った。 (それにしても……)  美巳は銀座の町並を横眼に見ながら考えた。 (南部久夫君が女になる整形を受けるために上京して来たことを、彼女は知ってるのかしら……)  タクシーは歌舞伎座の横で止った。南部富貴江はきょろきょろして落付かない。 「あの……久夫さん、どこにいやはります」  頬が上気していた。 「心配しないで、思ってることをはっきり言うのよ。男性なんて言ってやらなきゃ分らない、そりゃ唐変木《とうへんぼく》なもんなんだから……」  美巳は全女性の代表みたいな口ぶりで富貴江をけしかけた。昔|気質《かたぎ》な親の命令であんなへんてこな男性と結婚させられる娘があわれだと同情したものだ。  喫茶室のドアをあける。南部久夫は奥のボックスにくにょんと腰かけていた。浴衣《ゆかた》姿である。 (今まで一体、どこにいたんだろう?)  久夫は美巳をみると、おどおどと視線をはずした。立ち上ってていねいにお辞儀《じぎ》をする。背後にいる恋人には目もくれない。 「電話で伯父から聞いたんでしょ。ゆっくり二人でお話しなさい。私は二時間もしたら戻ってくるから……」  話が済んだら連れて帰って来いと松倉院長の指図を受けている。美巳はさっさと店を出た。初秋の日が明るい。映画館の前はアベックで混雑していた。 (今日は日曜日だった……)  一人で歩いている自分がちょっとばかり馬鹿気ている。美巳は赤電話に十円玉を放り込んだ。 「や、美巳《みみ》ちゃん、どこにいるんだ、歌舞伎座のそば……よしゃ、そんなら銀座のキャンドルヘ行くよ。ああ、すぐ出かけてく」  結城健志の声が受話器の奥で陽気にはずんだ。 「キャンドル」は銀座のみゆき通りに面した靴屋の二階にある小さな店だ。軽いレストランだが気楽に入れる店の雰囲気とパンがおいしいので若い連中に人気がある。  美巳が入って行くと結城健志はもう来ていた。彼の店、浜松屋呉服店はここから百メートルの近さでもあるが、今まで待ち合せて美巳より遅れて来たことは一度もない。そそっかしい男で待ち合せの時間をよく錯覚するがそれさえ三十分か一時間早く勘違いすることはあっても遅く間違えることはない。 「フェミニストなんだ」  といばっているが、美巳は彼の性格が「せっかちだもんで……」  と思っている。  水色とグレイの半袖のスポーツシャツを着た健志はひどく坊や坊やしていた。鮮やかな水色が秋の空を想わせる。色が黒いくせによく似合った。 (美巳もブルーのスーツ着てくりゃよかったっけ……)  向い合って坐りながらふと美巳は思った。 「珍しいじゃないか、君が電話くれるなんて……」 「だって時間が余っちゃったんだもん……」 「何時間?」  美巳は返事の代りに指を二本突き出した。 「半端《はんぱ》だなあ」 「だってしようがない。縁切り話の済むまでだから……」 「縁切り?」  そこで、美巳は今朝からの一件をたのしそうに喋《しやべ》り出した。  二人の坐っている席から見おろせる街路はひっきりなしに人が通る。それでも土曜日ほど活気がないのは銀座という町の性格のようであった。季節変りなので女の人の服装が殊更に美しい。独創的なお洒落《しやれ》を無料で拝見できるのは大むねこういう時期のようである。 「というわけなんだけど、健志《オタケ》さんはどう思う。なぜ、伯父様が南部久夫君の行った先を知ってたか、私たち病院の者はみんな彼が兵庫県へ帰ったとばかり思ってたんですからね」  美巳はストローの先でジンジャーエールの中の氷塊を突っつきながら言った。 「そりゃ簡単じゃないか。彼は金持の息子なんだから金《ゲル》に不自由はないんだろう。女にはなれない、自殺は未遂《みすい》で故郷《くに》へも帰りにくい。相談を受けた松倉院長が旅館を世話してひとまずそこへ落付かせ、兵庫県の実家へ手紙をやって、これこれだから迎えに来いと言ってやる。実家の方じゃ、なまじ親が行くと我儘《わがまま》息子の感情がこじれるのを怖れて、許嫁《いいなずけ》を代りに上京させた、と、これで平仄《ひようそく》が合うんじゃないか」 「健志《オタケ》、あんた、いつから流行作家になったの……」  美巳は意地の悪い表情をした。 「世の中って、そんな単純なものかしら」 「そうさ、君は大体、物事を複雑化しすぎるよ。推理小説を読みすぎたんでノイローゼになってるんだ」  ぷんと美巳はそっぽを向いた。 「だったら、ついでに南部久夫君の泊っている旅館はどこのなんという宿で、彼はこの一週間なにをしてたか教えてくれない。そうすれば美巳、伯父様からカメオのペンダントせしめられるんだから……」 「調べる気がありゃ簡単さ。これから南部久夫君の後《あと》をつけて行けば旅館が分る。後はそこの帳場で訊いてみりゃいいのさ」 「まるで新聞記者か刑事みたいな人ね。御親切がおありなら調べて下さったら……」 「御冗談《ごじようだん》でしょう。ぼくは目下の所、ファッション・ショウの準備でてんやわんやなんだ。美巳ちゃんの物好きのお手伝いは真っ平御免さ」  浜松屋呉服店では春秋に一回ずつ、大がかりなキモノ・ファッション・ショウを催す。最初は洋服のファッション・ショウを真似《まね》て、単にその年の流行の着物と帯をモデルに着せて会場のフロアをしゃなりしゃなり歩かせるだけのものだったが、健志が経営に嘴《くちばし》を入れるようになってからは一回ごとに新奇なアイディアを凝《こ》らし、業界の話題になっている。 「ふーんだ。自分こそお道楽半分で仕事してるくせに……そんなに忙しいんなら何もこんな所へ出て来ることないでしょ」  ぐいときめつけておいて美巳は自分の話題へ引き戻した。 「もし伯父様が彼の相談に乗ったとしたら、旅館なんか教えないわ。世話好きの伯父様ですもの、御自分の家へ居候させるでしょう。だって相手は自殺未遂の未成年者よ。いくら一度失敗すると絶対に自殺しないって言ったって例外って事がありますからね。伯父様はそれ程ずさんな方じゃないし、無責任でもないわ」 「ふん、それで……?」  健志は神妙にうながした。ここで笑い顔でも見せようものなら、美巳の逆鱗《げきりん》に触れるのは長年の経験で熟知している。 「富貴江さんって言う娘さんの態度だって、挨拶だって、迎えに来たって感じじゃなかったもん……。そういうこと、美巳の勘《かん》はよく当るんだ……」 「非科学的なもんさ。が、いいさ、論より証拠、文明堂へ行ってみようじゃないか」 「だって、忙しいんじゃなかったの」  健志は答えないで勘定場《レジ》へ立って行った。くすんと肩で笑って美巳は後へ続く。 「ショウの日取りはいつ?」  並んで歩くと美巳は彼の肩くらいまでしかない。父親も母親も純日本民族並みに小柄なのに、息子は突然変異という奴なのかも知れなかった。 「今月の二十六日、二十七日の二日間……」 「土、日《にち》ね。でも今月ならまだ単衣《ひとえ》でしょう」  美巳は間の抜けた質問をした。九月はまだ単衣という着物の観念が如何《いか》に根強く女性の間に行き渡っていることか。 「ショウだよ。会場は冷房だし、お客に着てもらうわけじゃなし……」  その通りである。美巳は黙った。  四丁目を抜け、三原《みはら》橋を渡る。  文明堂のガラスのドアを美巳はそっと押した。 (どんな顔して二人が話してるだろう……)  が、席には女が一人っきりだった。トイレに行った風でもない。 「どしたの? 彼は?」  美巳が声をかけたとたん、富貴江はどすのきいた調子でずばりと言った。 「あて、男になります。整形手術して男にして貰わんなりません……」  太い腕を伸ばして美己の肩を掴《つか》んだ。すごい力である。 「先生、あてを男に変えておくれやす……。頼んまっさ。もう決心しましたよって……お頼み申しまっさ……」  ピンクのカラーシーツの上に横たわった南部富貴江のあおむいた顔に柔軟性のゴム状物質がぴったりと当てられた。馴れ切った看護婦の指が器用にゴムの上をかけめぐって彼女の顔の表面を狂いなく面型《マスク》に写し取るのだ。 「はい、結構です」  面型《マスク》を顔からはぎ取って看護婦は南部富貴江の体をベッドから起した。 「手術の準備が出来ましたらお迎えに行きますから、お部屋で気楽にしておいでなさいね。待合室でテレビを見てらしてもいいんですよ」  南部富貴江はもっそりとスリッパヘ足を下した。緊張のせいか顔色がやや蒼い。 「部屋にいますよって……」  語尾はごくりと唾《つば》を呑み込む音で消えた。お辞儀をして出て行くのを見送ると、看護婦は面型をガーゼにくるみ、技工室のドアをノックした。 「はい」  美巳《みみ》先生の声が応じる。 「南部さんの面型が出来ました」 「あら、そう」  立ち上りかけた美巳先生の膝から五、六枚のポートレイトがばらばらっと床へ散った。  慌てて走り寄った看護婦が拾い上げた一枚を見て素頓狂な声をあげた。 「まあ、これ、タカラヅカの……」  美巳はにやにやして人指し指を唇に当てた。カーテンで区切られた隣室の整形用特殊エンジンの前で電気やすりを動かしている松倉院長の方をちらと窺《うかが》って、 「別に写真みて遊んでるわけじゃないのよ。これ、重要なる参考資料なんだ」  首をすくめた。 「はあ?」  看護婦は妙な顔をした。少女歌劇よりもロカビリイの方に興味のある世代らしい。 「南部さんの整形に関する資料の一つよ」  男装の麗人のすっきりしゃんとした燕尾《えんび》服スタイルの写真を看護婦の手から取り返して美巳は一人合点な笑い方をした。 「後でゆっくり話したげる。初診《ノイ》の方は混んでるかしら?」 「え、でも副院長先生でまだ間に合います」 「そう、もし、なんだったら声かけてね」  看護婦は会釈してドアを閉めた。 「この鼻ねえ……」  ガーゼの中から出した南部富貴江の面型をひねくりながら美巳は独り言に呟《つぶや》いた。ちんまりとしゃくれた鼻の辺りを長い指で軽く叩く。  患者の顔をそっくり写し取った面型は隆鼻術の場合の基礎資料として大切な意味がある。つまりこの面型を基にしてどういう恰好の鼻なら顔全体とのバランスがいいか、どの位の高さにしたら皮膚が引きつれたり、不自然にならないかなど慎重に計算を立て、それによって鼻の皮膚に挿入するソフトプラスチックの鼻型を作り出すわけだ。つまり手術前の精密検査は殆んどこの面型を対象にして行われる。 「ああァ、厄介《やつかい》だぞ……」  美巳は再び面型から数葉のポートレイトに視線を転じた。 「美巳先生、なにを宣《のたま》ってるんだい」  エンジンを止めて松倉院長が近づいた。指先にピンク色のソフトプラスチックの鼻型をつまんでいる。美巳の膝の上をのぞいて、 「なんだい、そりゃあ……」 「タカラヅカの男役のブロマイドよ」  松倉院長は大きな手をふり廻した。 「おいおい、勘弁してくれよ。タカラヅカは伯母さんだけで結構だ……」  松倉院長夫人は若い頃からの猛烈な宝塚ファンで今も後援会だの、友の会だのとお交際《つきあい》を欠かさない。 「全く、あんな妙てけれんなものの、どこがいいんだい」  などと言おうものなら、美巳までが一緒になって、 「失礼しちゃうわ、タカラヅカのKさんみたいなステキな男性なんかこの世に存在するもんですか、口惜しかったら、あれだけのラブシーンやってごらんなさいよ」  と、くる、理屈にも何にも割の合わないことおびただしいものだが、口ではとうてい、男は女の敵ではない。 「大丈夫よ、伯父様、今日は伯父様とヅカ論議をするわけじゃないもの。これはね、南部さんの鼻の参考資料よ」 「鼻の……?」 「そうよ。だって彼女は、とにかく男っぽい顔に整形してくれってんでしょう。だからヅカの男役の中でも最も男顔《おとこがお》してる人のブロマイド持って来たのよ。役に立つと思って……」  松倉院長は唖然《あぜん》とした。 「男顔ねえ……」  昨日の日曜日、美巳に連れられて南部久夫に逢ってきた南部富貴江が血相変えて、 「あてを男にしてくれやす」  とつめ寄ったのを、松倉院長は否応なしに思い出した。 「それがねえ、伯父様、彼女は南部久夫君にぞっこんなんだけど、彼氏は女なんか大嫌いだ。まして女らしい女は真っ平だ、身の毛がよだつって言うんですって……」  美巳が紫色の嘆息と共に、たけり立っている富貴江の横っちょからぼそぼそと言った。 「あてはなあ、小さい時から久夫ちゃんの嫁はんになると思うて育ちました。親たちが定めた事やけれど、久夫ちゃんが好きで好きで早う大《おお》けなって夫婦《いつしよ》になりたいとそればっかし思うてましたん……」 「おおけに、御馳走《ごつそ》さん……」  美巳が半畳《はんじよう》を入れたが、富貴江の耳には入らないらしい。 「それを、この秋は結婚式やいう時になって久夫ちゃんはぷいっと上京しはって、あげくの果は葉書一本寄こして、松倉先生が勧《すす》めておくれやしたよって歌舞伎役者になるんやと言います。逢うて一緒に故郷《くに》へ帰って欲しいと頼んでも、女は嫌や、結婚せえへん……今更、そんな情《つれ》ない事いわれてはどうもならしまへん。あては京都で育ちましたよって芯《しん》の強い女だす。久夫ちゃんが嫌いなら結婚|詐欺《さぎ》でも結婚不履行でも訴えてやりますけど、あては久夫ちゃんが好きですよって、どうしてでも添い遂げずにはおかんと思います。久夫ちゃんが女は嫌や言うなら、あては立派に男になってみせますねん……」  富貴江は手放しでわあわあ泣き出した。それから十時間、美巳と松倉院長はそれこそ飲まず食わずで、完全なる女性は如何《いか》に発達した美容整形をもってしても完全なる男性にはなり得ないという厳粛なる事実を必死になって説明したものだ。その結果、明け方近くなってようやく、 「それやったら、せめて顔だけでも男らしいきりきりっとした顔に直しておくれやす」  という妥協点に達した。 「もともと眉毛が濃いんだから、鼻をつんと高くして、眼許を強《きつ》くすれば多少、男性的になるんじゃない……」  困惑のあげくに提案した美巳の言葉に、南部富貴江はいじらしいくらいに喜んだ。 「どうぞ、そうしておくれやす」  と松倉院長に手を合わせさえした。  その隆鼻術がこれから始るわけなのだが、 「美巳ちゃん、こりゃあ、あんまり高くは出来ないねえ」  南部富貴江の面型を眺めながら松倉院長はぼやいた。 「駄目? 伯父様」 「こういうちまちまっとした団子鼻は鼻筋を通して、鼻先の肉を薄くすっきりさせると如何にも女性らしい、品のいい鼻になるんだが、無理に高くすると皮膚に無理が行って、引っつれたような感じになるんだよ」 「そんな事言ったって……女性的になっちゃあアブハチ取らずですもの、少し位、恰好悪くたってそんなの彼女にとっては問題外だと思うわ」  美巳は一枚のブロマイドを松倉院長に押しつけた。…… 「この鼻がいいんじゃありません? 直線的で鋭角的で」  しかし、松倉院長は茶色い面型にピンクのソフトプラスチックの鼻型をあてたまま、大股《おおまた》にエンジンのある部屋へ歩み去った。  青山南町にある五代目|尾上勘之丞《おのえかんのじよう》の家は、如何にも歌舞伎役者らしい、重厚で瀟洒《しようしや》な日本建築である。石塀に松の覗《のぞ》いている門構えなどは、この辺りでもあまり見かけない。 松倉院長は車の鍵《キイ》をポケットに突っこむと勝手知った木戸から玄関へ入った。呼び鈴を押すと取り次ぎに出て来たのは、 「ああ、君……」  南部久夫はしとやかに敷台へ手をついた。和服に角帯をしめている姿はもうなんとなく役者の卵といった匂いがある。 「浜松屋の旦那はんは今しがたおいでなはりまして……えらいお待ちかねだす」  案内に立ちながら久夫はいそいそと言った。顔色は相変らず真黒けだが、眼には生気が出て来たようだと松倉院長は思った。 「どうだい女形修業は、……もう馴れたかね……」  久夫はうつむいた儘《まま》、ほほほ、と指を唇に当てた。  部屋へ入ると将棋盤《しようぎばん》が出ていた。 「飯前に一勝負と思ってたんだよ。どうせ商売繁昌で定刻には来られまいと噂《うわさ》してた所なんだが……」  よく出て来られたな、と勘之丞は相好《そうごう》を崩した。昨日、歌舞伎座が千秋楽を打ち上げて今日は午過ぎまでぐっすり寝たのだという。 「ま、劇評もよかったし、おめでとう」  松倉院長は鞄《かばん》の中からビタミンと肝臓薬の複合剤の箱を出して机の上にのせた。 「そろそろなくなる頃だろう。気安めみたようなものだがね……」 「いや、いつも有難う」  受取って勘之丞は蓋《ふた》をあけた。 「これがないと、どうも具合が悪くてね」  手を叩いて家人を呼んだ。久夫が顔を出す。水を持って来いと言われてすぐに引っこんだ。 「今、聞いたんだが、あの子は君の世話なんだって……?」  結城亀松が呉服屋の主人らしく律儀な膝を揃《そろ》えた恰好で笑った。 「いつかの……自殺未遂の子だってじゃないか……」 「そうなんだよ。死んでも女になりたいっていう執念を医学的には解決出来ないが、せめて芸術的救いを与えてやったらと思ってね。五代目に厄介かけてみたんだが……」  松倉院長は勘之丞を見た。 「どう? ものにならないかい」  勘之丞は煙草に手を伸ばした。箱の蓋を開けるとオルゴールが鳴る。 「よく気のつく子でね。呑みこみも早いし、家じゃ結句調法《けつくちようほう》にしてるんだが……役者としちゃあねえ……」 「駄目かい」 「訛《なまり》がひどいんだよ。それが実に妙なアクセントを持っていてねえ。台辞《せりふ》を言わせるとみんなが腹をよじっちゃうんだ」 「じゃ、とても舞台は無理か」 「直せないらしいんだよ。アアイという台辞だけでも、実に奇妙きてれつなんだ」  廊下に足音がして障子が開いた、三つ指を突いてお辞儀をする。すり足で歩いて水の入ったコップを音のしないようにテーブルヘ置き、しなしなと廊下へ消えた。 「恰好は立派な女形なんだろうになあ」  松倉院長は諦め切れんという顔で首をふった。 「あんまり深入りさせない中に故郷《くに》へ帰した方がいいか」 「そう。それにねえ、これはここだけの話だが彼が女になりたいって言うのはいわゆる変態ってんじゃなさそうだよ。もっと根本的なワケがあるんじゃないか」 「根本的な……? しかし、彼はぼくが診察したんだが、完全なる男性だよ」 「それなんだ……」  勘之丞は曖昧《あいまい》に苦笑した。 「近頃、流行《はや》ってるんじゃないのかい。性的ノイローゼって奴、あれは老人専門ばかりじゃないそうだっていうよ」 「南部君がそれだって言うのかい」  松倉院長は眉を寄せた。 「断定するわけじゃないが、うちに古くからいる内弟子ね、岡田にどうもそんなような話をしたんだそうだ。彼はこの秋に許嫁《いいなずけ》と結婚する筈だったってじゃないか」 「うむ」  松倉院長はうなった。 「だとしたら、こりゃ君の専門だよ。医学的にいくらも解決出来るんじゃないのかい」  女中が結城亀松に電話を取り次いで来た。 「お店からです」  亀松は立って行った。腕を組んでいる松倉院長に勘之丞は別に言った。 「久夫君の許嫁の女の子の手術は終ったのかい」 「ああ、昨日、眼も鼻も抜糸したよ。腫れが引いたら一度、故郷《くに》へ帰るって言ってるそうだ……」  松倉院長は気重く答えた。 「君、その前にもう一度、久夫君と話し合ってやってくれないか。性的ノイローゼなら問題は簡単なんだろう」 「そりゃ、ま、そうだ」  二人の大人はなんとなく目を見合わせた。  結城亀松が戻って来た。 「なに大した事じゃないんでね。明後日のファッション・ショウの打ち合わせで……」  亀松はくしゃみみたいな発音をした。 「なにもいちいち相談しなくとも勝手にやってくれと言ってあるんだが、健志《たけし》としてはやっぱり親を立ててくれる気なんでね」 「それそれ、昨日、楽屋で菊ちゃんがぼやいてたよ。長いこと歌舞伎役者やってるが、ファッション・ショウに引っぱり出されるのは始めてだって……健志君の強引なのには参ったとね……」  と、勘之丞。 「へえ、中村菊四郎君が着物のショウに出るの、そりゃ美巳君が聞いたら大さわぎだろう。健志君はどうして知らせてやらんのかな」  と、松倉院長。 「当日、あっと言わせるんだそうで、店員一同固く口止めですわ。どうも若い者のやることは……」  亀松は入れ歯の口でふわふわっと嬉しそうに笑った。  東京駅八重洲口のKホールヘ向うタクシーの中で美巳は憂欝にふさいでいた。隣には、南部富貴江がひっそりと坐っている。小ぢんまりした鼻、ぱっちりした二重瞼、手術前からみたらすこぶる愛敬のある可愛らしい容貌である。 (嫌んなっちゃう、男性的どころかまるっきり女性的になっちまったじゃないの……)  全く伯父様の腕は信用がならない、と美巳はくさり切っていた。折角、用意したブロマイドなんか、なんの役にも立ちはしない。 (これじゃ到底ハッピイ・エンドになりっこないわ……) 「Kホールには南部久夫君も行くようになってるからね。二人を逢わせれば万事OKだよ」  なにもかも呑み込んだような松倉院長の顔が憎らしい。 (全く伯父様なんか当にならない……)  一言も美巳に相談なしで南部久夫君を役者にしちまったような伯父様なのだから、と美巳はぶりぶりした。カメオのペンダントを貰いそこねた怨《うら》みもある。  Kホールの入口には「きものファッション・ショウ 浜松屋主催」と書いた黒札が出ている。会場は着飾った招待客、雑誌関係者で満員の盛況であった。指定の席へ美巳は富貴江と並んで坐った。久夫君は、と見廻したが周囲の席にそれらしい姿もない。  場内が暗くなり、古風な音楽が流れ出した。ステージにスポットが当り、和服姿のファッション・モデルが気取ったポーズを作った。それぞれに「秋の夢」「街燈」「ラ・セーヌ」などと洒落《しやれ》た題名のついた豪華な衣裳である。七色のライトが交錯して第一部が終了した。  美巳は南部富貴江を席において立ち上った。廊下は煙草の煙と人いきれでむんむんしている。  銀ねずの地に墨絵風な花鳥を染めた一越《ひとこし》を単衣《ひとえ》で着て、黒と銀のフランスレースの茶羽織《ちやばおり》を羽織った中年の婦人が洒落たパイプで細巻をふかしている。その隣で立ち話をしているのはブルーと茶の細かな格子《こうし》にグリーンの帯、鰐皮《わにがわ》のハンドバッグと草履《ぞうり》がお対《つい》だった。相手の方は地落ちのくものすという古い江戸小紋に白と黒だけの縞博多に古代朱の帯締め。  客席もさながらのファッション・ショウであった。絶対的に女が多い。  美巳はきょろきょろと男を探した。南部久夫はみつからない。 「美巳ちゃん」  肩を叩かれてふりむいた。 「健志《オタケ》……」  今日はグレイの背広に濃いワイシャツの、ちょいとした銀座|紳士《しんし》を気取っている。主催者のしるしの菊の造花を胸につけているのが野暮《やぼ》ったかった。 「なにをうろちょろしてるんだい」 「尋ね人よ」  美巳は突慳貪《つつけんどん》に応じた。 「南部久夫君なら探したっていないよ」 「え?」  じゃ、どこにいるのと口許まで出かけて、美巳はぎゅっと唇を結んだ。 「伯父様と健志《オタケ》で、又、なにかたくらんでるのね、そうでしょ……」  にやにや笑っている健志をにらめつけた。 「あんたって全く友情のない人ね。中村菊四郎が今日のショウに出ることだって、わざと私に内緒にしたんですってね。美巳、伯父様から聞いたわ……」  だけど、と言葉をあらためた。 「それとこれとはわけが違うのよ。久夫君に逢いに来たのは富貴江さんのためで、美巳のお節介じゃないんだから……今日、逢えなかったら永遠のすれ違いになるかも知れないのよ。大人の悪戯《いたずら》が少し過ぎやしない……」 「誰も逢わさないって言やしないよ。探したってこの辺にゃいないってことさ」 「じゃ、教えてくれたらいいじゃない……」  ベルが鳴った。 「教えてやるよ」  健志は美巳の肩を押してホールヘ入った。もう暗い。琴《こと》の音が聞えた。古風な、地唄らしい。ステージの中央がほんのりと青白くライトに照らされた。  客席にざわめきが上った。  京好みの割笄《さつこうがい》の髪に着物の裾《すそ》を長く引き、幅広な帯を角出《つのだ》しに結んだ後姿は浮世絵を見るような美しさだった。衿足《えりあし》の白さと僅かにのぞける下着の紅《べに》がなんとも言えない程になまめかしい。  地唄の曲にのって、その後姿のモデルはゆるやかに正面へ顔を向けた。銀かんざしがライトにきらりと光った。  細い三日月に描いた眉、紅を引いた眼許、すんなりしたおとがいから首筋に流れる白い曲線、妖艶《ようえん》という文字がそのまま女の姿となって現われたような美しさである。  思わず、ふっと嘆息をついた美巳の耳許で健志がささやいたものだ。 「南部久夫君の、美女誕生の図だよ」  美巳はKホールの楽屋へ通じる廊下を狐に化《ば》かされたような顔で歩いた。  頭の中で白い女の姿が艶《あで》やかに動いている。細い衿足、帯に締めつけられた腰のなよやかさ。今見たばかりのキモノ・ショウの光景である。  とても男だなんて思えない……。  ましてそれが色黒で、野暮ったく、薄気味悪くさえ見えた南部久夫とは……。 (中村菊四郎よか、きれいじゃないの)  事実、暗転になって南部久夫の次に、中村菊四郎が安土《あづち》桃山風な衣裳で現われた時、客席は前ほどには湧《わ》かなかった。見馴れた女装である。美しいとは言っても中村菊四郎のはあくまでも男が扮《ふん》した女形であった。南部久夫の女装には、何とも得体の知れない妖《あや》しい雰囲気が立ちこめていたような気がする、と美巳は思った。 「ほんまに、今の舞台に出やはった女子《おなご》はんが久夫ちゃんでっしゃろか……?」  後からぎこちなく靴音を鳴らして来た南部富貴江がおそるおそる聞いた。 「健志《オタケ》はそう言うけど……」  自信のない声で美巳が応じた時、廊下が曲ってカメラのフラッシュが三つ、四つ、六つ稲妻みたいに閃《ひら》めいた。 「どうも、お疲れさん……」  健志の会釈《えしやく》にうなずいて光の中から出て来た中村菊四郎に床山《とこやま》が走り寄って鬘《かつら》をはずした。目ざとく美巳をみて笑いかけた。 「いらっしゃい。どうでした、ぼくのファッション・モデルっぷりは……」  美巳が微笑してそれに応じかけたとき、健志の大きな手が美巳の肩を掴んでひょいと方向転換させた。 「そら、お尋ねの南部久夫君だよ」  健志の強引な行動をとがめ立てする前に、美巳は息を呑んだ。 「美巳先生……」  割笄《さつこうがい》の髪がしんなりと重くうつむいた。声が南部久夫であった。関西なまりの強い、独特のニュアンスで響いた。そのとたん、美巳の背後で悲鳴とも嗚咽《おえつ》ともつかぬ声が上った。南部富貴江である。 「久夫ちゃん……」  発作的《ほつさてき》に恋人へ向って突進しかけた彼女の体は、 「あっ、危いっ」  はき馴れないヒールの踵《かかと》を絨氈《じゆうたん》のすみにひっかけて久夫の足許へすべり込んだ。 「どないした、え、怪我《けが》せえへんか……」  あたふたと着物の裾を乱して抱き起す久夫の袂《たもと》に顔をうずめて、南部富貴江はわあわあとお得意の泣きじゃくりをはじめた。 「ああァ、商売物がわやや」  健志が器用な関西弁を呟いて首をすくめた。その脇腹を美巳はいやという程、小突いた。  夕食後、美巳は松倉家で美巳のためにと当てがわれた二階の部屋で手紙の整理をしていた。宛名は全部「松倉美容整形研究所」か松倉院長で、内容はすべて美容整形に関する相談ばかりである。美容整形のカタログを送ってくれというのに始って、整形の内容を微に入り、細に入って質問してくるのや、あげくは無器量に生れた身の悲劇をめんめんと訴えてくる。返事を書くのは並大抵の苦労ではない。これが美巳先生の担当の一つなのである。 「ぼくは専ら文章ノイローゼでね、昔っからラブレターを書いたことがないんだ」  という松倉院長の弁解を、美巳はあやしいものだと思っている。  日に五、六十通から来る手紙の中には、かなりの傑作もある。  裏に住所と松倉整形外科病院と印刷のしてある封筒に、相手の住所を書いていると女中の声がドアの外から呼んだ。 「富貴江さんがお帰りです。久夫さんもご一緒ですが……」 「そう、応接間でお茶でもあげてね」  美巳はすぐに机の前をはなれた。松倉院長の肝入《きもい》りで今日、二人は東京見物のバスに揺られて来た筈だ。 「個人的案内人はかえって邪魔だからね」  と松倉院長はなにもかも呑み込んだという調子で二人を送り出したが、美巳は不安だった。許嫁とは言え南部久夫は彼女と結婚するのを嫌って上京して来た筈だ。  おまけに女になりたくて自殺さえしかけた人間である。南部富貴江のひたむきな恋情に対しても終始、逃げばかり打っていた彼が恋人との東京見物を平凡なデイトに終らせるとはどうしても思えなかった。  美巳は足早やに階段をかけ下りた。応接間のドアを押す。 「あっ、ごめんなさい」  あわててドアを閉めた。  応接間のソファに並んで腰をかけている二人の姿勢はフランス映画にでも出て来そうなロマンティックなラブシーンそのままみたいなポーズだったのだ。  ドアの外で美巳はアハンアハンと咳《せき》ばらいをしてからおもむろにノックした。 「へえ、どうぞ……」  という蚊のなくような返事が戻って来てからゆっくり把手《ノブ》を廻す。  同じソファに、二人は膝小僧だけ離してうつむいていた。 「お帰りなさい。どうでした東京の名所は」  美巳は鷹揚《おうよう》にかまえた。ラブシーンをみせつけられてどぎまぎしているとは思われたくない。 「へえ、おかげさんで、あっちこっち見せてもらいましたよって……」  久夫と富貴江は操《あやつ》り人形のように同時にぺこりと頭を下げた。 「伯父様は……あの院長先生は御夫妻で試写にお出かけだけど、もう一時間もすればお帰りになるわ。まだ早いんだから久夫さん、ゆっくりしてらっしゃい。南町からお許しが出てるんでしょう?」 「南町からはお暇を貰いました。あてはやっぱり役者にはようなりません。折角、お世話して貰いましたけど、田舎へ帰って富貴江ちゃんと結婚しよう思いますねん」  すらすらと出た久夫の結婚という言葉を、美巳はつい鵜呑《うの》みにした。 「それは……おめでとう……」 「南町の師匠はんにも理由《わけ》をよう話しましたら、それやったら大賛成や言うておくれはりました」  青山南町に住む五代目尾上勘之丞のほっとしたような顔を美巳は思い浮べた。それにしても南部久夫の変り方は意外だった。 「それで……善は急げいいますよって、明日の汽車で二人揃って田舎へ帰ろう思います……」 「どうも長いことお世話になりまして……」  ふかぶかと下げた二つの頭へ向って、美巳は流石《さすが》に二の句が継げなかった。 「まだこれから銀座の浜松屋さんへ行って御挨拶しなけりゃなりませんよって……なあ富貴ちゃん……」  久夫がうながすと富貴江はいそいそと立った。 「そやったら、うちボストンバッグを取って来まっさ」  あっさり応接間を出て行く富貴江の後を美巳は慌《あわ》てて追っかけた。 「富貴江さん、あなた、じゃもうここへは帰って来ないつもり……?」  彼女は平然と応じた。 「へえ……」  女中部屋の隣の、昨日まで彼女が厄介になっていた部屋から、もうきちんとまとめてあるボストンバッグをさげて出て来た。 「だって汽車は明日なんでしょ。今晩はどうする気?」  東京に親類も知人もないと聞いていた。 「映画でも見て、二人で宿屋さんへ泊りまっさ、田舎へ帰ったら、もう遊んでもおられへんで……」 「宿屋って言ったって、どこか知ってる家でも……」 「久夫ちゃんが、渋谷や代々木辺りにはたんと泊る家があるさかい、心配せんでもええ、言わはりました……」  それを眉一筋、動かさずぬけぬけと言う。 「だって、あそこらは……」  美巳は自分の言葉を自分で消した。太刀《たち》うちの出来る相手ではない。沈黙した美巳の前に富貴江は大袈裟《おおげさ》に両手をついた。 「美巳先生、ほんまに有難うございました。久夫ちゃんは整形したうちの顔を可愛い言うておくれやした。花嫁衣裳を着て、お化粧したらどないに美しい嫁はんが出来るやろうと楽しみにしてくれはります。うち、久夫ちゃんにきれいの、かわいいの言うて貰うたこと生れてはじめてどす。もう何も言うことあらへん、久夫ちゃんはうちの顔が男らしゅうなったんで、うちに惚《ほ》れてくれはったんや」  美巳は答えに窮した。彼女の顔は以前より女性的に美しくこそなったが、男顔というには程遠い。南部久夫の豹変《ひようへん》の理由がどうしても美巳には解らなかった。  並んで廊下を戻る時、南部富貴江はふっと美巳の耳許へ口を寄せた。 「久夫ちゃんも隆鼻術しはりましたん……」  美巳は曖昧《あいまい》にまばたきした。 「うち、聞きました。うちも久夫ちゃんも隆鼻術しましたよって、キスの時、鼻がぶつかるか思いましたけど、ようぶつからしまへんなあ……」  美巳は息を呑み、廊下の暗がりに棒立ちになった。  応接間の入口まで出迎えていた南部久夫が走り寄って富貴江のボストンバッグを持ってやるのを、お茶を持って来た女中があっけらかんと眺めていた。  十三時十五分上野発、黒磯行臨時急行は二時間と少しで終着駅へすべり込んだ。  ゴルフ道具を肩にかけた松倉院長と尾上勘之丞の先に立って、赤いスーツケースを下げた美巳は改札を抜けた。 「いらっしゃい」  白地に赤い派手なラインの入ったセーター姿で結城健志が出迎える。 「親父《おやじ》さんは?」 「一足お先にゴルフ場へ……。いらっしゃる前に少しでもトレーニングしておこうという浅ましい了見ですよ」  ゴルフバッグを車へ運び入れながら健志は黒い顔で笑った。  たまさかの日曜日、ちょうど芝居休みの尾上勘之丞を誘って悪童三人が那須《なす》ヘゴルフの遠征というプランだったが、せっかちの結城亀松だけは一日早く息子を連れて先発した。実の所、ハンデの数も彼が最も悪い。なんとかして追いつこう、いや追い抜こうと懸命な心がけがしからしめた先がけである。  車は秋の陽を吸った赤松林の間をすべり抜ける。黒磯から那須温泉へ続く一筋のドライブウェイが快適だった。  尾花の根元にりんどうが咲いている。 「ロマンティックだわあ」  美巳がゴキゲンな嘆息をあげると、すかさず健志がハンドルを握ったまま続けた。 「山あり、川あり、花あり、温泉あり、ハネムーン旅行には最適でございまァす」  それで美巳が思い出した。そうそう忘れてたっけと言いながらハンドバッグから一通の封書をつまみ出した。隅に赤字で写真在中と書いてある。 「南部久夫君からなの……」  本当は松倉院長宛のものなのだが、他の美容整形の相談の手紙と一緒に封を切ってしまったのだと美巳は弁解した。 「彼に関する関係者御一同様お揃いの所で披露《ひろう》致そうと存じまして……」 「読んでごらん……」  と松倉院長。美巳は少しばかり気取ったアルトで読み上げた。  その折はいろいろと御厄介をかけましてまことになんとも御礼の申しようもございません。おかげをもちまして私共二人、今月八日にめでたく結婚致しました。 「ヒヤ、ヒヤー」  健志が奇声をあげ、後の座席の二人は大人同士の目を見合せた。  目下の所、下呂《げろ》温泉に新婚旅行をすませ幸せな生活設計に明け暮れております。先生みな様の御厚情にはただ感謝の気持あるのみです。また、結婚式当日の富貴江の美しさには全村あげての大さわぎでした。結婚前ならば、さだめしミス××の名を獲得したに違いないと思います。記念のため当日の彼女の写真を同封致します……。 「おい、その写真ってのを早くお見せよ」  後《うしろ》から松倉院長が美巳の肩を突いた。 「それがねえ。伯父様、素人のスナップらしく、てんでぼけてるのよ」  受取って松倉院長も眼鏡をかけ変えた。 「なるほど、花嫁らしい恰好はしてるがねえ。顔なんか全く分らんじゃないか」 「どうせ送ってくれるんなら、もう少しましなのを寄こしゃあいいのに……」  松倉院長と五代目の不平に美巳は笑いながらきっぱりと言った。 「いいのよ。どんなぼけた写真だって、彼氏の眼をもってみれば、絶世の美女誕生に見えるんだから……」 「第三者の審美眼の介入は許さず……か」  健志がハンドルをぐいとねじった。道は湯元から大きくカーブして「木樵《きこり》小屋」と書いた立て札のある山小屋風の洒落《しやれ》た建物の前でストップした。 「木樵小屋」の御主人は本業がお医者さんで絵も描けば建築にも趣味がある。詩人で随筆家という多才な人だ。松倉院長とは二十年からの知己でもあった。ゴルフの腕前もちょっとしたものだ。 「浜松屋の御主人とご一緒に……」  ゴルフ場へ出かけているという。遅れてなるかと湯にも入らず、着替えも早々に四人はゴルフ場へ出かけた。  紅葉に赤く周囲をかこまれてゴルフ場の緑のスロープはひっそりと横たわっている。先発の結城亀松氏は既にコースを廻っているらしく姿も見えない。 「健志《オタケ》はやらないの?」  大仰な松倉院長の身仕度《みじたく》を手伝いながら美巳が訊《き》いた。 「ゴルフなんてものはね……」 「老人のスポーツで、若い者なら真っ平御免だ、というんだろう。彼の持説だよ」  五代目が歌舞伎役者とは似ても似つかぬ声で笑いとばした。 「美巳と健志君はスコア係だ」  松倉院長について歩きながら美巳はふと訊いた。前から聞こうと心掛けていながら、つい聞きそこねていた質問である。 「ねえ、伯父様、南部君はどうして富貴江さんと結婚する気になったの。彼はそもそも女になりたがって、富貴江さんが上京して来た時は女形《おやま》になる気だったし、彼女を嫌い抜いていた筈なのよ。それがころっと彼女に参っちゃって結婚したなんて……美巳なんだか欺《だま》されたみたいな気がする……」 「そりゃ、彼女が美人になっちまったからさ……そうですよね、松倉先生」  健志がわざと茶化した。松倉博士の返事を美巳の耳に聞かせたくない心である。 「伯父様、お返事してよ。美巳だっていつもつんぼ桟敷《さじき》じゃつまんない。今度の事件では随分苦労したんですもの……」 「そりゃ、ま、そうだ」  松倉院長は謹厳な表情になった。 「平ったく言えば南部君は性《セツクス》ノイローゼだったのさ」 「性《セツクス》ノイローゼ?」 「ああ、美巳はいやしくも松倉整形外科の女医先生なんだから脳下垂体埋没法の効能書第一条は暗記しているだろう」 「ええ」 「言ってごらん」  美巳は目をつぶった。 「脳下垂体から分泌されるホルモンは非常に種類が多く、従ってその機能は多種多様にわたっています。その主なものとしては、一、性腺刺激作用。即ち生殖腺を刺激し、性ホルモンの分泌を充分ならしめるもので、これにより性的機能は活溌となり、身体は活力にあふれ、精神状態は爽快《そうかい》となります。いわゆる早老の若返り法、性欲減退の治療法として用いられる所以《ゆえん》です……。あら、いやだわ、伯父様ったら……」  気がついて美巳は真赤になった。 「医者が恥しがっちゃあいけないよ。美巳も知ってるだろう。毎月一回ずつ脳下垂体を埋没しに来るT製薬の社長のS君、彼の目的は効能書第一条なんだが、五十六歳にして女房の他にれっきとした若い愛人が三人も居る。しかも彼の性生活は矍鑠《かくしやく》たるものだ。にもかかわらず彼は不安でたまらないんだ。ホルモンってホルモンは薬、注射を問わず試みている。あげくの果が脳下垂体だ。これなんか或る意味での性ノイローゼだね」 「だって伯父様、南部君は……」  美巳はクラブをひねりながら抗議した。 「南部君の場合はS君の逆だ。性器発育不全という奴、しかも実際は発育不全でもないのにそうだと思い込んでしまった所に彼の悲劇があるんだよ。彼はね、中学時代に川遊びをしていて友達にそういう意味のことでからかわれたらしいよ。以来、悶々《もんもん》と悩み続けたんだね」 「まあ、いやだ」  美巳はつんとそっぽをむいた。 「おまけに近頃は性《セツクス》に関する読み物が氾濫《はんらん》しすぎてるんだね。興味本位の刺激的な奴が多い。正しい知識を持たないうちにそういう極端なものばかり読みあさるからノイローゼは一層激しくなる。いわゆる性的劣等感《セツクスコンプレツクス》となって女性が怖くなり、結婚恐怖症となる……」 「じゃあ彼が女になりたいって言ったのも、結局はその性《セツクス》ノイローゼの副産物なの」 「そういう事だ。もともと女性的な素質はあったんだろうけどね。ぼくの説明と脳下垂体の注射一本で性的劣等感《セツクスコンプレツクス》が解消してみれば、許婚は美人になってるし、南部君が豹変した理由は以上のわけさ」 「馬鹿らしいったらありゃあしない。男性なんて全く愚劣なもんね」  美巳は大きく嘆息をついた。 「おいおい、大分、鼻息が荒くなったね。こりゃあ嫁入り前の美巳には聞かせるべきじゃなかったかな」  松倉院長は右手を内ポケットに突っこんだ。 「今日の成績がよかったらプレゼントしようと思ってたんだが、先にやっとくよ。どうも美巳の舌鋒《ぜつぽう》には敵しがたいね」  赤い小さなケースを美巳に渡した。蓋を開けて、 「あっ、カメオ……」 「推理は当らなかったけど、美巳にはなにかと世話になったからね。昨日、伯母さんと銀座で買ってきといたんだよ」 「サンキュウ、伯父様」  早速、首にかけた。クリーム色のジャージイのワンピースにどんぴしゃりである。カメオのすべすべした肌が秋の陽を充分に吸って美しい。 「美巳、張り切ってスコアつけたげるわ」 「おい、おい、そんな買収法ってあるかい」  五代目が軽く笑いながら、ぴしっと白い玉をはじきとばした。続いて松倉院長のボールも飛んだ。  スロープを身軽く走って行く美己の後姿を眺めて結城健志はなんとなく上着の内ポケットを叩いた。部厚くふくれ上っているそこにはリボンで結んだ赤いケースが一つ。内には美巳が首に下げているのと寸分違わないカメオのペンダントがひっそりと収まっている筈である。 「さて……と。どうしたもんかな」  健志が短かく刈った髪をかき上げるようにして呟くと、茶臼山の上の白い雲に目をやった。  その顔を探せ  石井|美巳《よしみ》が、その凄《すさま》じい惨殺死体を発見したのは十月十二日、月曜日の午前八時前後であった。  松倉院長のゴルフのお供でやって来た那須温泉の旅館「木樵《きこり》小屋」での一夜が明けて、身仕度《みじたく》を済ませた美巳がテレビのおいてある一階のロビーヘ下りて行くと、レンガに岩石をはめ込んだ暖炉《だんろ》の前で松倉院長が朝刊を拡げていた。 「ま、伯父様、随分早いわ。お天気具合が可笑《おか》しくなるんじゃないかしら……」  美巳は大袈裟《おおげさ》にテラスから空を仰いだ。  昨夜、遅くなってから降り出した雨はけろりと上って、紅葉は一段と濃《こ》くなったように見える。秋の朝らしく日光は柔かに暖かい。 「美巳《みみ》はよく眠れたらしいな」 「ええ、ここのお風呂は温《あ》ったまるでしょ。朝までぐっすりよ。夢もみなかった……」 「羨《うらや》ましいね」  松倉院長は眼鏡をはずして大きくあくびをした。 「伯父様は……?」 「ぼくも美巳君とこっちへ泊ればよかったよ」  木樵小屋は本館と新しく増築したばかりの別館とがある。 「美巳ちゃんは小羊だから本館の二階の一人部屋、先生方は別館の方が静かでよろしいでしょう……」  と昨夜、いよいよ寝る段になって木樵小屋の、結婚前はミス那須《なす》だったといわれる美しい若夫人が部屋割りをしてくれた。 「おいおい、それじゃぼくらはみんな狼《おおかみ》だといわんばかりじゃないか」  と笑いながら松倉院長を筆頭に歌舞伎俳優の尾上勘之丞《おのえかんのじよう》、浜松屋呉服店の主人|結城亀松《ゆうきかめまつ》の親友三人、それに結城亀松氏の倅《せがれ》の健志《たけし》青年と老若の男性諸氏は別館へ、内心は若夫人の計らいに満足して引き揚げて行ったのだが……。 「まるで眠れないんだよ。亀松のいびきで……」  松倉院長は女中さんの運んできたコーヒーに砂糖を二つ落してしぶい顔をした。 「勘之丞と健志とは朝方になってようやく寝ついたらしいが、ぼくは全然、駄目。未練を絶って起きちまったのさ、一《ひと》思いに……」 「結城の小父様、昨日《きのう》のゴルフでお疲れになり過ぎたのよ」  美巳は濃い牛乳を男の子みたいにラッパ呑みして笑った。結城亀松氏の昨日の悪戦苦闘ぶりを想い出したものだ。短身小躯、よく善戦しながらスコアはやっぱり最低線を彷徨《ほうこう》して終戦となった。 「いい災難だよ。全く、彼も老《お》いたね。昔はいびきなんかかく男じゃなかったんだが……」  と松倉院長。 「あら、伯父様、いびきって年とるとかくようになるの」  美巳は眼を丸くした。 「そうさ。男女を問わずね。その他に諸原因もあるんだが、それは専《もつぱ》ら若い奴のいびき。いびきがひどくて嫁に行けないなんてのは治療法がないこともないが、婆さんになってからのはまあ治らんね。それでも入れ歯の年齢でいびきのために離婚ってのはないようだから、美巳が心配する事はないよ……」 「伯父様は最低ね。それよか散歩しません、空気がおいしそうだわ」 「そうだね、殺生石《せつしようせき》の辺《あた》りまで出かけてみるか……」  サンダルをひっかけて伯父と姪《めい》はふらりと坂道を下《くだ》った。それが二十五歳の美巳をして生れてはじめての奇妙な事件に首を突っこませる端緒となったのだから、思えば罪な結城亀松氏のいびきではあったわけだ。  那須の旧蹟《きゆうせき》、殺生石は温泉神社の横から続く石ころだらけな道を上り切った奥にある。昨夜の雨の名残りもあって、柵《さく》をめぐらした巨岩の間からは白煙がもうもうと立ち上っていた。異臭がいつもよりも強い。 「美巳、あんまりそばへ行くと玉藻《たまも》の前《まえ》の毒気に当てられるぞ」  ちょろちょろと温泉の流れている小川のふちの岩へ腰を下して松倉院長は煙草に火をつけた。  殺生石の由来は鳥羽天皇の御時、金毛九尾《きんもうきゆうび》の狐が玉藻の前という傾国《けいこく》の美女となって帝に近づいたが、陰陽師《おんみようじ》、安倍|泰成《やすなり》に見現わされ、那須野へ逃げたが勅命により三浦介義昭《みうらのすけよしあき》、上総介広常《かずさのすけひろつね》の両名が射殺した。しかしその執念は石に化して盛んに毒気を放ち、空とぶ鳥を落すというのだ。  実際は硫黄《いおう》やその他の地中から発する毒ガスの作用だと解っていても伝説の不気味さはその一帯だけ木も草も生えず、灰色の岩肌に悪臭のこもった白い煙が這《は》っているのを見ると、なんとなくぞっとするようだ。土曜、日曜だと観光客や湯治《とうじ》客の見物姿がちらほらするのだが、月曜日の、それも十月はじめという季節のせいか、辺りにはまるっきり人影もない。 「けど、殺生石なんて気のきいた名前をつけたものね、伯父様」  柵の脇の立札を眺めていた美巳は、ふと殺生石のななめ裏側のしげみに竜胆《りんどう》の花を見つけた。青味の濃い紫《むらさき》が、灰色の岩と緑のしげみの間に可憐《かれん》である。 「伯父様、ちょっと待ってて…」  美巳は身軽く岩を伝って上って行った。 「危いぞ、美巳、足元に気をつけろよ」  眺めていた松倉院長は細いズボン姿の美巳が紫の花の近くまで登りついて、中腰になって花に手を伸ばしながら、不意に鋭い悲鳴を上げてのけぞるのを見た。 「どうした、美巳」  吸いかけの煙草を放り出して松倉院長は遮二無二《しやにむに》、斜面をかけのばった。その厚い胸に、 「青鬼ッ、青鬼が……」  ぜいぜいと息を切りながら美巳が力一杯にしがみつく。 「青鬼?」  なにを子供だましな、と笑いかけて松倉院長は、はっと顔色を変えた。ふるえながら美巳の示す指先の地点に、岩と草の押し重った間からぬっと、青い人間の素足がのぞいている。 「美巳、眼をつぶって。見るんじゃないぞ」  松倉院長は美巳の体を背後へまわすと、慎重にその青い足へ近づいた。  発見された死体は、女だった。しかも、全裸である。 「まだ、はっきりしたことは解らないが、大体、死後四十時間前後という所だろうね。もっとも昨日《きのう》、一昨日《おととい》は割合に涼しかったし、ああいった特殊の場所だから普通の死後変化の状態とは大分、計算が違ってくるのだろうが……」  発見者として警察署へ出頭したり、なにやかやで滞在を一日延期した松倉院長は先に帰京した尾上勘之丞や結城親子を六本木《ろつぽんぎ》の自宅に招いて、延々と説明した。 「しかしね、あれは美巳が青鬼って言ったのも無理はないね。全身、これ真《ま》っ蒼《さお》なんだ。青いなんてもんじゃない。暗緑色ってのか、暗紫色ってのか、ブルーブラックってのか、とにかく凄い青さなんだ。おまけに茶色く染めた髪の毛がもじゃもじゃに乱れてるんだろう、爪はマニキュアで赤いし……」 「どうして、そんな青くなっちまったんだね。死体が殺生石の毒ガスに当てられたわけじゃあるまい……」  尾上勘之丞が訊《き》いた。 「なに、青変するのは死体の晩期現象なんだ。腐敗過程の一状態でね。死体ってものは硬直が解ける頃から腐り出すんだが、最初に変色するのが大体、下腹部でここがまず青緑色になるんだ。それから腐敗が進むと暗紫青色の腐敗血が血管に充満し、それが組織に浸みこんで死体が全身的に青くなってくるんだ。更に進むと皮膚に腐敗血と体液とが水泡《すいほう》を作り、破れると真皮が露出するんだが、水中に死体があったような場合は真皮が薄紅色になってね。全身真赤にみえるんだよ」 「つまり赤鬼というわけだね」  結城亀松が解ったような顔をした。 「まあね、昔の青鬼、赤鬼なんていうのは、こういう死後変化からヒントを得て考え出されたんじゃないかと思うよ」 「美巳君、那須にて青鬼を発見す、これ人類の歴史に大なる貢献《こうけん》……でもないか……」  健志が大声で笑った。  ドアが開いて美巳が顔を出した。 「伯父様、お電話……」  別に健志をにらみつけた。 「又、美巳の悪口言ってる……」 「悪口じゃないよ。美巳ちゃんは空想力豊かだって噂《うわさ》したんだよ。殺生石で青鬼なんて、全く芝居を心得すぎてるじゃないか」 「どうせ、そうでしょ。いっそ尾上の小父様が発見なさりゃよかったのよ」 「どうしてさ」 「死せる青鬼、生ける五代目を走らす」 「おいおい」  尾上勘之丞は危うく茶を吹き出しそうになって手をふった。 「いくら私が荒事《あらごと》を得意にするからって、そりゃ美巳ちゃん、ひどいよ」  松倉院長が戻って来た。 「なんだい、電話?」  と亀松氏。 「雑誌社から座談会の話なんだ。なにしろたった三日ばかり留守にしただけなんだが雑用がたまっちまってね。ちょうど結婚シーズンと、そろそろクリスマス特集なんだね雑誌の世界は……」 「結婚シーズンとクリスマスに、なんで美容整形医師が忙しくなるんだね」  尾上勘之丞には解らない。 「結婚シーズンには結婚前までに治しておきたい整形、つまりアザとか火傷《やけど》の跡とか、ホクロ、脱毛、いびきの治療ってのもあるそうだよ。ぼくの専門じゃないが……」  松倉院長はちらと結城亀松氏ののんびりした顔を見て続けた。美巳がくすりと笑う。 「口臭、花嫁の口が臭いのは色消しだからね。それから案外、多いのが無毛症」 「じゃ、クリスマスは……」 「これは必要に迫られてってんじゃないんだ。どうせ美しくなるんなら、暮までに治して、クリスマスやお正月をより楽しくっていう人間心理らしいね」 「人間心理じゃなくて病院の宣伝文句なんじゃないのかい」  勘之丞がまぜっかえした。  鳩《はと》時計が九時を知らせた。今夜は珍しく暖かい。昼間の小春《こはる》日和《びより》が夜まで残っている。那須の高原で散々、秋の冷気に触れ、おまけに死体発見なぞで胆《きも》を冷やして来たせいで暖かさに一層、心が和《なご》むのかも知れないと美巳は思った。  松倉院長夫人が大盛《おおも》りにした寿司《すし》を運んで来た。夜食のつもりである。 「秋の夜長と申しますものね」  笑いながら茶をいれ代えた。  美巳は光物《ひかりもの》には手を出さない。魚の色がどうも死体の青さを連想させるのだ。のり巻と玉子ばかり食べる。 「喰い物の時になんだけれども死体の身許は解らないのかい」  思い出したように亀松氏が聞いた。彼も鰺《あじ》の肌の色に死体を連想したのかも知れない。もっとも、彼の場合は実物の死体を見たのではないから現実感はまるでないわけだ。 「十七、八歳の女だという程度でね。顔はめった切りにしてあって見分けがつかないし、服装で身許を調べるにしたって素っ裸だからね。死体が敷いてたレインコートの他は持ち物もなにもないし……あの近辺の人間でないことは確からしいよ」  まぐろを平然と頬ばりながら答える松倉院長に美巳は眉をひそめた。 (男の人って、どうしてああも無神経なんだろう……)  そのくせ、やっぱり話には好奇心があって席を立てない。 「麻紐《あさひも》で絞殺してあったといったね」 「ああ、その麻紐もありふれたものでね、全く手がかりにはならないそうだよ」 「十七、八というと色恋が原因で……というには早いかな……」  茶碗《ちやわん》の温かさを掌《てのひら》で包みながら結城亀松が神妙に首をひねった。 「早かないよ。近頃の女の子は十三、四でもうれっきとした大人だぜ……」  健志がつい、うっかりと口をすべらして慌《あわ》てて美巳を見た。彼女は知らん顔でそっぽを向いている。 「そういう噂《うわさ》だよ。ぼくはつき合ったわけじゃないからよく知らないけど……週刊誌なんかによく出てるじゃないか……」  しどろもどろに健志は弁解し直した。 「ま、その中に木樵小屋の主人がなにか知らせてくるだろう。彼も相当な推理小説マニアだからね……」  松倉院長は新しく、とろに手を伸ばした。  夕方、新橋一帯に停電があった。  美巳は病院の撮影室《さつえいしつ》で新しい患者の写真を撮《と》っていた。  美眼術《アウゲ》や隆鼻術《ナーゼ》の患者の場合、手術後の参考として手術前に患者の顔をアップで写しておく。手術完了後、糸を抜いてしまってからもう一度、同じ角度から写真を取って比較し、研究材料として保存する。  稀《まれ》に隆鼻術など、済んでしまってから前の通りにしてくれという患者がある。挿入したソフトプラスチックを再手術で抜いてしまえば元通りになるのだが、そうすると、以前の顔はこうではなかったなどとゴテるのが出てくる。そんな場合、この手術前の写真一枚が素晴しく効果的な証拠物件となるわけだ。  美巳は今朝、抜糸を終えた入院患者六名の写真、前からと左右からのとを撮《と》り、その後でこれから手術する患者の撮影にかかっていた。 「すぐ、つきますそうですから、少々お待ち下さい」  蝋燭《ろうそく》を持って来た中川看護婦に言われて、美巳は暗闇の中で椅子《いす》に腰を下し、患者と向い合ったまま待った。  夕方といっても秋の陽は暮れ早く、おまけに都心のビルの中は一足先に夜が来る。撮影のためにカーテンを下していた、部屋の中は真暗に近い。 「あの、いつ退院できるんでしょうか」  心細そうな患者の声が美巳に聞えた。鼻の整形である。 「今晩、これから手術をして、四日目が抜糸《ばつし》ですから、五日目の朝にはもう汽車に乗れますよ。もし、なんだったら係の看護婦さんに頼んでおけば汽車の切符も用意しといてくれますからね」  まだ二十くらいの、九州から上京して来たという女の子は安心したようにうなずいた。母親の手紙を持って来院した患者である。話のいとぐちがほぐれて四名の患者がそれからそれへと美巳に話しかけた。  すぐの筈の電気はまだつかない。 「先生はカメラはお好きなんですか」 「ええ、好きよ、学生時代から……。写されるのは嫌いだけど、人を撮るのは大好き。美巳のスナップ写真はなかなかイカすって院長先生が誉めて下さるわ」  美巳は機嫌《きげん》のよい声で答えた。 「じゃ、現像なんかも御自分でなさいますのですか……」 「ええ、好きで撮った写真はね。遊びのものは大抵、自分で全部、やるんですけど、こうやって患者さんを写したのは駅前の写真屋さんに頼むんですよ。万が一、失敗したら大変でしょ。だから、大丈夫。あ、なんだ、それでそんなこと聞いたの……」  美巳の笑い声で蝋燭がゆらゆらと頼りなく炎をゆらめかした。その時、開け放したドアのかげで人の気配がした。 「あの、マッチありますか」 「ないんですよ。ここには……」  うっかり返事をして、美巳はおやと思った。男の声だったからである。  松倉美容整形研究所には院長と副院長の他に男性は存在しない。 「患者さんかしら……?」  呟《つぶや》いて美巳はドアのそばへ寄った。暗いので待合室にいる患者がトイレにでも行こうとしてまごついているのかと思いついたのだ。廊下をのぞくと黒い気配がした。 「お手洗いだったら、その角ですよ。この蝋燭を持ってらっしゃい」  淡い光の中で影法師がふりむいた。 「いや、煙草が吸いたくて……」  美巳はその人間がマスクをしているのを認めた。隆鼻術の患者は抜糸するまでマスクをさせられる。黴菌《ばいきん》が入るのを防ぐためと、ガーゼを絆創膏《ばんそうこう》で止めただけだと患者はどうしても手術の箇所に指を触れたがるので、それを避ける必要からである。もう一つは体裁《ていさい》のため。鼻の下に絆創膏を十文字に貼《は》りつけた恰好《かつこう》はあんまりみっともいいものではない。 「まだ抜糸前なのでしょう。煙草は駄目よ。がまんして下さらなくちゃ……」  美巳が言うと影法師は頭に手をやった。 「すみません。どうも、つい……」  すごすごと廊下を曲って行った。 「仕様がないわね。三、四日の辛抱《しんぼう》なのに」  停電で看護婦にみつからない中に一服しようと考えたらしい患者に、美巳はなんとなく苦笑した。  電気はまだつかない。中川看護婦が電話でしきりに催促《さいそく》している。受話器を邪慳《じやけん》に置いて、 「電柱工事なんですって……」  美巳はうなずいて窓をのぞいた。遠くの銀座のネオンが宝石箱を散らしたように美しい。  三日ばかり経った。  駅前のカメラ屋へ現像写真を取りに行った大庭《おおば》看護婦が妙な顔をして帰って来た。 「美巳先生、写真は昨夜、松倉美容整形研究所の者だって人がきて、持ってったそうです。写真屋の若い衆がそういうので、病院へ帰って来てみんなに聞いてみましたけど、誰も知らないっていうんです……」 「どんな人が持ってったっていうの……」 「男ですって……背の高い、まだ若い」  美巳はにやにや笑い出した。電話のダイヤルを廻しながら言った。 「健志《オタケ》のいたずらよ、きっと……」  受話器に向って思い切りどなった。 「健志《オタケ》、いい加減にしてよ。公務妨害だって院長先生にいいつけるわよ」  受話器の向うで健志はあっけにとられた。 「なんだい、藪《やぶ》から棒に……」 「写真よ。駅前の写真屋から現像写真持ってったでしょう。ちゃんと知ってるんだから、白ばっくれても駄目……」 「冗談《じようだん》じゃないぜ。俺《おれ》、知らないよ」 「嘘《うそ》……」 「嘘じゃない、俺が持ってったって写真屋が言ったのかい……」  健志の声の真面目さに美巳は気づいた。 「本当に健志《オタケ》じゃないの……?」 「ああ、俺じゃない……本当だよ」 「健志《オタケ》じゃないとすると……」  受話器を耳に当てたまま、美巳は途惑《とまど》った眼になった。  駅前のカメラ店から持ち去られた松倉整形外科の現像、焼付依頼のフィルムは十二枚|撮《ど》り二本だった。  その中の一本は二日ばかり前に松倉院長とS映画の女優、加川佳子《かがわよしこ》との美容対談が某雑誌の主催で行われた際、従《つ》いて行った美巳が病院の宣伝用にとぱちぱち撮りまくって来たもので、もう一本の方が患者の手術前、手術後の顔を写したものであった。 「気味が悪いわ。患者さんの写真なんか盗んで……悪い事に使うんじゃないかしら」  と美巳はひどく気に病んだが、 「なに、うちの病院のことに詳しい人間が物好きにやったんじゃないのか」  松倉院長は割合に楽観して深く詮索《せんさく》もしなかった。実際にあんな簡単なスナップ写真がさして重要な意味を持つとも思えない。それでも一応は警察に届けたが、写真を受け取って行った男が、痩せぎすな、眼鏡をかけた二十四、五歳の、という程度《ていど》の事しか分らなかった。探しようがないのである。思い当る事も、人間もない。  美巳によって犯人の嫌疑をかけられた結城健志は自分からカメラ店へ出かけて店員に首実検をさせたが、 「この方ではございません。もっと痩《や》せた面長なように思います。第一、こんなにお背が高くはありませんでした」  と、あっさり否定された。 「どうだ。そんな馬鹿気た事をする人間かどうか、これでよく分っただろう。七度探して人を疑えって格言を噛みしめて反省し給え」  と健志は肩を聳《そび》やかして美巳をなじった。 「だって人を見たら泥棒と思えとも言うじゃないの、大体、健志《オタケ》さんの平常が悪いから、疑っても見たくなるのよ……」  と口では張り合ってみたものの、美巳は別に小さな声で、 「ごめんなさい」  と神妙に謝《あやま》った。健志は眼を丸くして、やはり口の中でもぞもぞと、 「いや、どう致しまして……」  なんとなく頭へ手をやった。  それでフィルム盗難事件はけりがついてしまった。秋から冬にかけて整形美容は忙しい。殊に寒さにむかって隆鼻術には絶好の季節なのである。理由はすこぶる単純なことだ。つまり整形後マスクをかけていても不自然に見えない季節だということである。入院しないで、手術後四日間の治療を通院ですます患者にとってこれは全く有難いことなのだそうだ。他人に気づかれずにすむし、恥かしい思いをしない。美容整形の繁昌にはこうした患者の微妙な心理が大きく影響する。病院の忙しさは直接、松倉院長に響き、院長の多忙のしわよせは院長秘書の美巳にやってくる。彼女もついフィルム盗難事件を忘れるともなく忘れた。  十二月もなかばを過ぎて、那須の旅館「木樵小屋」の御主人から部厚い封書が松倉院長宛に届いた。明快な近況報告に添えて地方新聞の切り抜きが入っている。 「おい、美巳ちゃん、例の那須の死美人の身許が判明したそうだよ」  遅い午食を院長室へ運んで行くと手紙を読んでいた松倉院長が大声で言った。 「まあ、判ったんですか……」  ふと、青ぶくれの女の死体を思い出して眉をひそめながら、それでも美巳は好奇心から新聞の切り抜きをおそるおそるのぞいた。 「大阪のキャバレーの女給だとさ。西原糸子、十九歳、店ではひとみと言っていたそうだよ。あの時の死体解剖では十七、八といっていたが案外、年齢《とし》を喰ってるね」  西原糸子が勤めていたというキャバレーは「ニュー・ワールド」という、大阪でも二流だが規模の大きさで知られた店らしい。  新聞記事はかなり大きく扱っていた。地元で起きた殺人事件のせいでもあろう。三面の三分の一くらいのスペースを割いている。 「犯人は同店のボーイか?」と小みだしのついている部分から美巳は丹念に読みはじめた。  被害者西原糸子(19)は昭和三十三年四月よりキャバレー「ニュー・ワールド」に勤め、同年秋頃より同店ボーイの白石寛一(24)と親しくなり間もなく大阪市東住吉区山坂町××番地、白百合荘アパートに同棲《どうせい》、ひきつづき両名共、キャバレー勤めをしていた。  二人が店に現われなくなったのは昭和三十四年八月二十三日以来だという。  身許が発覚した端緒は死体が敷いていた女物のバーバリのレインコートの内ポケットにクリーニングの薄い伝票が一枚、残っていた。伝票にはクリーニング屋の所書きが印刷されているし、註文主の名も書かれている。  取調べを受けた白百合荘の管理人の話では急に遠くへ行くことになったからと言って目ぼしい家財を処分し、二人がアパートを去ったのが八月の二十四日だという。 「なんでも糸子さんが赤ん坊が出来たと言っていましたから故郷《くに》へでも帰って二人で堅気な職業につく決心をしたのかと……」  思ったと管理人は答えている。  西谷糸子の両親は広島の原爆で死亡していて身寄りもなく、白石寛一は母親だけが伊勢の旅館の女中をしていたが、五年前に別れたきり音信不通という親子関係で、むろん、最近立ち寄った形跡もない。 「どこで何をしていたのか、生きているのか死んでしまったのか、それさえまるで知りませんでした……」  という母親の談話が活字のせいでもあろうがひどく冷たく美巳には思えた。  被害者と同じキャバレー「ニュー・ワールド」に勤めて彼女の姉さん株だったという三条貞子(25)は、 「もともとひとみちゃんの方から熱をあげて一緒に暮らすようになったのですから……。白石寛一って男はお面《めん》がいいし、なんとなく冷たい所があるのが若い娘には惹《ひ》かれるものを感じるんですか、割合に店の女の子にも、もてるし浮気もしてたらしいんです。それでいてちっとも女たらしに見えないんだから得な男ですよ。勘のいい人で音楽なんかジャズでも流行歌でもすぐに覚えて鼻歌まじりに歌ってました。器用なんですかピアノも少しは叩けるようです。明るそうに見えて陰気な……ああいう男は女に腹の底から惚れるって事はないんだし、骨の髄までしゃぶられて捨てられるタイプなんだからいい加減にしておけと随分、注意したんですけれど、ひとみちゃんも若いもんで一途《いちず》にのぼせ上っちまったのでしょう。どんな苦労をしても添いとげるって、あの分じゃかなり男にみついでいたと思います。ひとみちゃんが妊娠《にんしん》していたことは知りません。私には何も話しませんでした。あまり男のことをくどくど忠告したので最近は私を煙たがっていましたから……。急に店を辞めてしまったので心配していましたが、裸で殺されていたなんて……」  涙ぐんで答えたと書いてある。 「やっぱり伯父様、犯人はそのボーイのなんとかいう男かしら」  美巳は新聞の切り抜きを持った儘《まま》、松倉院長に訊いた。 「そりゃ、犯人が捕まってみないことには解らんが、ま、そう言った所だろうね」  松倉院長は食事に手をのばしながら思いついて姪《めい》を見た。 「そうだ、今日は健志君と大曲《おおまがり》の観世会館へお能を観に行くんじゃなかったのかい」 「二時からよ、伯父様」 「ゆっくり遊んでもらってお出で、この所、忙しくて映画もろくに見てないだろう」 「相手が健志《オタケ》じゃねえ……」  美巳は悪戯《いたずら》っぽく首をすくめた。 「贅沢《ぜいたく》いうんじゃない。今頃、健志君だってぼやいてるぞ、相手が美巳じゃねえ……」  松倉院長は眼だけで笑って、冷めかけた松茸焼《まつたけやき》に箸《はし》をのばした。 「そうだな。この手紙、健志君にも見せておやり。彼もちょっとしたかかわり合いなんだからね……」  美巳は黙ってガスストーブの上のポットから急須《きゆうす》に湯を注《つ》いだ。  能は二番だった。 「羽衣」と「鞍馬天狗《くらまてんぐ》」どちらも華麗《かれい》な曲である。  結城健志はせっせとスケッチブックに鉛筆を走らせていた。能衣裳の模様、色などを克明に書きこんでいる。呉服屋の若旦那だけあって、新しい染物のデザインの参考にするのだそうだ。  終演はちょうど七時だった。 「ああ、肩が凝《こ》った……」  健志は暗い鋪道《ほどう》へ出ると背広の肩を拳《こぶし》で叩いた。能にはまんざら興味がないことはないが、能楽堂の雰囲気は大嫌いだというのが彼の持論である。妙に上品ぶって、しらじらとしているという。美巳もそれには同感であった。高級《ハイクラス》を売り物にして庶民性というか、一般大衆を見下している風な身がまえが気になるのだ。 「腹も減ったけど……」  ぞろぞろと駅へ向かって行く観客の中で、健志は足を止めた。 「美巳ちゃん、呑める?」 「え?」  美巳が眼を上げると、健志は間の悪そうな微笑を足許へ落した。 「この近くにね、ちょっとイカす店があるんだ……」 「呑むって言うからにはバアね」 「違う。日本酒だけなんだ」 「お料理屋さん?」 「でもない。なんて言ったらいいのかなあ」  健志は額に垂れている短かい毛をごしごしかき上げた。 「いいわ。お供してあげる」 「OK」  健志は右手をあげてタクシーを止めた。 「すぐ近くなんだ。歩いてもすぐだけど、美巳ちゃんハイヒールだろ」 「私の靴のせいじゃなくて、一分でも早くお酒の顔がみたいんでしょ」  タクシーが止った所は神楽坂《かぐらざか》だった。 「随分、粋《いき》な場所《ところ》を知ってるのね」  美巳はなんとなく周囲を見廻し、軽く健志を睨《にら》んだ。  毘沙門天《びしやもんてん》の境内《けいだい》の真向いの路地を入った暗がりに「いせ藤《とう》」と薄墨で書いた掛け行燈《あんどん》が出ている。健志が馴れた恰好《かつこう》で縄《なわ》のれんをかき分けると、 「いらっしゃい、お久しぶりですね」  正面に炉《ろ》を切った前にきちんと坐っていた若主人が微笑を含んで声をかけた。和服に角帯を結び、古風な前掛けをしている。笑った眼許が中村扇雀《せんじやく》にそっくりだと美巳は思った。炉の周囲が低いカウンターになっていて丸い木の腰かけが並んでいる。どこか鄙《ひな》びた、趣味的な店の造作である。出された盃《さかずき》と盃台とお銚子《ちようし》が洒落《しやれ》ていた。 「変ったお店ね」 「だろう。芸能人のお客も多いんだよ。歌舞伎だの、能楽師だの、ジャズ歌手だの、映画俳優だの……」 「健志《オタケ》は五代目の小父様に連れて来てもらったのね」  五代目の小父様とは歌舞伎俳優、尾上勘之丞《おのえかんのじよう》のことである。彼と松倉院長と健志の父の結城亀松とは小学校以来の幼《おさな》馴染《なじみ》であった。 「そうだわ、五代目の小父様にもこの新聞記事を見せてあげなきゃ……」  美巳はハンカチを出したついでにハンドバッグの中の例の手紙をのぞいて言った。 「しかし、被害者の身許がキャバレーの女とは驚いたね。それも大阪からあんな那須くんだりまで来て殺されるとはねえ」  健志は湯豆腐《ゆどうふ》をつつきながら呟いた。 「でも、美巳はあの殺されていた女の人が素人《しろうと》の娘さんじゃないと思ってたわ」 「何故?」 「長い爪が赤く染めてあったし、髪のブリーチ(脱色)がひどかったもの」 「だって近頃は素人のお嬢さんだって赤いマニキュアしてるし、髪だって茶色くしてる人が多いんじゃないかい」 「だけど、素人と玄人《くろうと》ではやっぱり違うわ。同じ赤でも色のえらび方がね。それに……うまく言えないけど女の勘で分るんだわ」 「そういうもんかな」  健志は美巳の爪先のピンク色のマニキュアをじろじろ眺めた。 「でも、その同棲してたボーイ、白石寛一ってのが本当に犯人かしら……」 「まずそうだろうね。そうでなけりゃとっくに警察へ出頭してるよ。今だに消息不明ってのは犯人なればこそ逃げかくれているんじゃないかい」 「けど、自分が一年でも六か月でも一緒に暮してた女の人をあんなに酷く殺せるもの……」  美巳は無器用な手つきで健志の盃に酌《しやく》をした。 「キャバレーの女給が証言してるじゃないか。白石って男は非情な奴だって。彼はおそらく女に嫌気がさしていたんだろう。女の方は妊娠を枷《かせ》に結婚してくれと迫る。女の強引さに男は一層、逃げ腰になる。もて余す。せっぱつまって女を殺す気になったんだろう。なんで那須を選んだかは分らないが、どうせ殺すなら遠い場所の方が捜査が厄介になる。女の身許を解りにくくするために証拠になる着衣を剥《は》ぎ、顔をめった切りにして容貌を不明にする。そのくせ死体をレインコートの上に寝かせておいたのは、やっぱり同棲していた女への情からだろう。その内ポケットにクリーニングの伝票があろうとは気づかずにね。男心なんてそんなものさ」 「男心って怖しいわね。健志《オタケ》さんもそう?」 「御冗談でしょう。ぼくみたいなまっとうな人間は一生、女房の尻に敷かれて満足するタイプだよ。女を欺《だま》すの、殺すのなんて器用な真似《まね》が出来るもんか」 「どうかしらねえ……」  美巳はわざと大袈裟《おおげさ》に身ぶるいした。 「どうもぶっそうな話になりましたねえ……」  新しいお銚子を長い盆の先へのせて差し出しながら若主人が笑った。カウンター越しに聞いていたらしい。 「でも健志さんは大丈夫ですよ。女の人に欺されたって欺しっこありませんですよ」 「おいおい、それほど心細かないぜ」  同年輩の気易さで健志と若主人は声を揃えて笑った。 「大体、人殺しをするような人間は人相からして違いますですよ。先だって用足しで出ました時、交番の横に指名手配の兇悪犯人《きようあくはんにん》の写真がずらりと並んではり出されていましたけど、みんなやっぱり兇悪犯らしい顔をしてますね。どことなく不気味で、すさんでますですよ」  若主人がチロリに新しい酒を入れて言った時、のれん口に足音がして三人連れの客が入って来た。 「おっ、健志、あら美巳先生も御一緒」  一番最後に入って来た派手な服装の一人が柔かな声で言った。調子は女性的だが声は男性である。ゲイ・ボーイで売り出したシャンソン歌手で近頃は映画にも出演している。松本|千春《ちはる》というのが彼の芸名だった。松倉美容整形研究所で二重瞼の整形手術を受けている。美巳の紹介で彼のステージで使用する和服は全部、健志の経営する浜松屋呉服店でデザイン、染め、仕立て一切《いつさい》を承っていた。 「美巳先生、近頃ちっとも私のステージ見に来て下さらないじゃないの、ひどいわ」  美巳は当惑し、苦笑した。 「ごめんなさい。病院が忙しいし、それに今あなたが出演してらっしゃるナイトクラブは横浜でしょう、つい、遠いと億劫《おつくう》でね……」 「年寄りじみた事をおっしゃらないで……。京浜国道をとばしてお出でになればすぐじゃありませんか、一度、院長先生とお出でになってちょうだい……」  松本千春は執拗《しつよう》に愛敬をふりまいた。 「ええ、そのうちにね」 「きっとですよ。クリスマスまでは出演してますからね」  念を押して彼は離れ座敷へ消えた。 「ちぇッ、好かんなあ、酒がまずくなっちまった」  健志が低く呟く。 「いけない人ね、あんたのお店のお贔屓《とくい》様じゃないの」  美巳は軽くたしなめて話を前へ引き戻そうとした。健志が松本千春に以前から反感を持っているのはよく知っている。アルコールも入っていることだし、早く話題を変えた方が無難だと思いついたものだ。  ハンドバッグの口金を開け、例の新聞の切り抜きを持ち出した。 「兇悪犯は兇悪犯らしい顔してるっていう御説だけど、このボーイさん、そんなに悪相かしらね」 「ふん」  案の定、美巳の思惑通りに健志はあまり明るくない電気の下で新聞の鮮明でない写真を苦労して観察し始めた。ボーイ時代の白石寛一のスナップ写真である。  中肉中背という所だろう。髪は割合に長く刈っていて眉《まゆ》が濃い。 「眼はいわゆる腫《は》れ瞼《まぶた》で小さく、鼻は段鼻、総体に平凡な顔立ちで眼尻に小豆《あずき》大のホクロあり、って人相書のところに書いてあるわ」  美巳は記事の方を読み、それからもう何度も見たそのぼやけた写真を面白半分に又、みつめた。 「こんな顔の人が人殺しなんかするのかしらね、こんな平凡な、おとなしそうな……」  笑っていた美巳の顔が、ふと固くなった。不意に美巳はその写真を電燈にすかすようにしてまじまじと眺めた。 「どうしたんだい、美巳ちゃん」  健志の声に美巳は黙って首をふった。何か考える時の美巳のくせで、遠くを見るような深いまなざしになった。  窓の外を流《なが》しの三味線《しやみせん》が粋《いき》な撥《ばち》さばきで、ゆっくりと通りすぎた。珍しく新内《しんない》のようだ。花街らしい雰囲気である。 「新派の……」  鶴八鶴次郎の芝居を思い出すね、と健志が言いかけた時、美巳がぼそりと呟いた。 「この顔、どこかで見たことがあるわ。ずっと前に……。なにかで見た……」  無意識に盃を唇へ運びかけて、あっと声をあげた。ふっ切れたように叫んだ。 「そうだわ、この顔……松倉整形外科の病院の患者さんの写真の中にあったんだわ……」  神楽坂から松倉美容整形研究所へ、美巳は結城健志とタクシーをとばした。  那須の女給殺しの容疑者、白石寛一の写真を眺めていた美巳が、この顔は病院のカルテの中にある患者の顔だと言い出した結果である。 「まあ、美巳先生、どうなさいましたの」  宿直の中川看護婦が驚いた表情でドアを開けてくれた。院長はじめ大方は既に帰宅してしまっていて、ビルの中の病院はひっそり閑《かん》としている。入院患者の娯楽室の方から低くテレビの音だけが聞えていた。 「ちょっと調べなきゃならないことがあるの」  美巳は健志をうながしてさっさと事務室へ入った。正面の棚にイロハ順でカルテがぎっしりと積まれてある。患者の住所、姓名、整形の種類、患者の希望だのが細かく記されているその診断書の下方には手術前と手術後との患者の写真が貼《は》りつけてある。  美巳はまずシの部を抜いて見た。「白石寛一」の名はない。 「当り前だよ。もし犯人が整形したとしたら本名でなんか来るもんか」  そうでなくとも美容整形の患者の中には偽名を使う者が案外に多いのだ。美巳は黙ってイの部から改めて調べ出した。白石寛一の写真の出ている新聞を前に置いて丹念に見くらべて行く。男の患者は割合に数が少ない。健志もカルテに手を伸ばした。 「そんな古いことじゃないわ。私の記憶がはっきりしてるんですもの、せいぜいこの二、三か月のうちよ。絶対だわ」  という美巳の見幕に気圧《けお》された形である。二、三か月と言っても日に数十名の患者を受付ける松倉整形外科であってみればカルテの数は厖大《ぼうだい》なものである。呆気にとられて眺めていた中川看護婦は気がついたようにポットをガスにかけた。マッチのボッという音と同時に美巳が叫んだ。 「これだわ、これよ。この患者よ」  新聞の写真と並べて断定した。 「絶対よ。健志《オタケ》、見てごらんなさいな」  覗《のぞ》いて健志もうなった。新聞の白石寛一のボーイ姿の顔だけをそのままクローズアップしたと同じ手札型の写真が、手術前と赤インクで書かれた下にべたりとはりつけてある。カルテに記載された所書きは大阪市阿倍野区××町。名前は室田寛《むろたひろし》となっていた。 「偽名を使う時、どうしても本名に似た名前を考えるものだって推理小説で読んだけど、本当ね……」  と美巳。健志はカルテの日付を見た。来院して手術を受けたのが十月十二日、入院六日で退院したのは十七日の午前中となっている。 「十二日っていうと那須で美巳ちゃんが死体を発見した日じゃないか……」 「そうよ。あの時、死体は既に死後四十時間余り経過していたっていうでしょ。犯人は殺しておいてすぐその足で整形に来たってことになるわ。一刻も早く顔を変えたかったのよ。本当なら十一日に来院する筈なんだけど、十一日は日曜日でお休みだったもんで十二日になったんじゃない……」 「いい推理だ。整形したのは?」 「隆鼻術《ナーゼ》、二重瞼《アウゲ》、それからホクロの除去、……手術料金総計、二万三千円よ。ごらんなさい、どんぴしゃりだわ。容疑者白石寛一は眼は腫《は》れ瞼《まぶた》、鼻は段鼻、眼尻に小豆《あずき》大のホクロありって人相書に出てるもの、健志《オタケ》の言い草じゃないけど、ぴったり平仄《ひようそく》が合うわ。犯人は自分の顔の特徴を全部、整形で変えちゃったのよ」  興奮してキラキラ輝く眼をあげて美巳は女探偵を気取った。 「しかし、それにしても手術後の写真が見えないじゃないか……」  なるほど、手術後と青ペンで書いた下に患者の写真はない。 「写さなかったのかい?」 「そんなことないわ。隆鼻術《ナーゼ》と二重瞼《アウゲ》してるんですもの。まだ写真の整理をしてないで、貼《は》るのを忘れてるのかしら……」  コーヒーを入れて来た中川看護婦がぽつんと答えた。 「十月十七、十八日退院の患者さんの写真は手術後の分がございません。いつか駅前のカメラ屋さんで盗まれたフィルムの中に入っていたもんですから……」  美巳と健志は思わず、うっと喉《のど》の奥で叫んだ。 「そいつはえらいことになったな」  美巳と健志の報告を聞いた松倉院長はカルテを睨《にら》んでうなった。 「那須からのその後の知らせじゃ、容疑者の足取りが全く分らないので捜査が難航しているそうだが、その白石寛一が整形で顔を変えちまっているとすると、そりゃあお手あげだよ。おまけに手術後の写真が盗まれてるんじゃ、この顔がこう変りましたという証明は何一つないことになるんだからね」 「すると犯人はそれを見越して手術後の自分の写真をフィルムごと盗んで行ったという推定が成り立ちますね」  健志は考え深げに眼を伏せて呟いた。 「とすれば奇妙なフィルム盗難事件の謎《なぞ》も解けるわけだわ」 「だが、犯人はどうして手術後の写真が駅前のカメラ屋で現像されることを知ったのかね」 「看護婦が話したんじゃありませんか」 「いや、うちの看護婦達は迂闊《うかつ》にそういうことを患者に喋《しやべ》らんように言ってあるが……。ま、それは明日、病院で聞いてみよう」  松倉院長はオレンジジュースのコップをゆっくりと口ヘ運んだ。健志は煙草に火を点《つ》ける。宵《よい》のうちだというのにかなり風が強くなっていた。窓ガラスが揺れて音を立てる。美巳はなんとなく電燈を見上げた。秋口に散々、台風の襲来を受けた体験上、風というとすぐに停電を連想する。不意に美巳はクッションから立ち上った。卓上電話のダイヤルを慌《あわただ》しく廻す。 「今頃、病院へ……。どうしたのさ」  ダイヤルの数字を見ていた健志が眉を寄せた。美巳は答えず中川看護婦を呼び出す。 「ね、思い出してよ。いつだったかトランス工事で新橋一帯が停電したことがあったでしょ、夕方から一時間以上も……ん、そう、あれは何月何日だったっけ……?」  中川看護婦の記憶のいいのは病院中で定評がある。しばらく、カレンダーを眺めている気配が続いて、 「十月十六日でした。その晩、映画へ行く筈のが停電で遅れて駄目になったんです……」 「ありがと、間違いないわね」  受話器を切って、美巳は泣きそうな顔になった。 「私だわ。患者に駅前のカメラ屋で現像を頼むってこと話したの。停電の日に撮影室で」  だが、あの時に撮影室にいたのは確か女ばかりだった……。 「とにかく偶然というか、皮肉だね。今度の事件は最初っからぼく達について廻ってる……」  松倉院長はミキサーのジュースを新しくコップに注《つ》ぎながら独り言のように言った。  翌日の松倉整形外科はてんやわんやの騒ぎだった。「室田寛」と偽名した患者についての記憶を全員が必死になって想い出そうとした。結果は徒労だった。手術を行った富永副院長は、 「こういう顔の患者を手術した覚えはありますよ。院長先生が那須へお出かけで隆鼻術《ナーゼ》も二重瞼《アウゲ》もぼくがしました。鼻は鼻段でくぼんでいる部分にだけソフトプラスチックを挿入し、瞼《まぶた》は脂肪除去をして二重《ふたえ》に治し、ホクロはかなり大きかったので電気メスによる除去が存外、手間がかかりましたよ。眼尻でしたね、場所は。経過がよかったから今ではもう跡方もなくなっているでしょうな。手術後の容貌は二日目と抜糸の時、しかし腫れている時ですから、おそらく今見たらわからないでしょう」  整形直後の地腫れした顔から、腫れの引いた後の顔を連想することは職業柄、可能でも、記憶として残るのはやっぱり地腫れしている時の顔でしかないというのだ。退院する白石寛一を送った看護婦が最も新しい顔に近い彼を見ている筈だったが、 「それが風邪《かぜ》気味とかでマスクをかけてましたし、サングラスもお取りにならないままで帰って行ったんですよ。恥しいんだと思って見てましたけど……」  眼の手術後、一定の期間だけ、眼帯をはずしてガーゼだけを止めている時期にサングラスをかけて不体裁《ぶていさい》を補うのは患者の間で流行になっている。サングラスとマスクをかけていたのでは看護婦に容貌を記憶されよう筈がない。白石寛一はよくよく用心深い男と見えた。 「人一人殺してるんだからね。その位の用心は当り前だろうが……困ったね……」  名を代え、顔を変えた白石寛一は大手をふって白昼を闊歩《かつぽ》しているに違いない。室田寛を過去の白石寛一と結びつける線はふっつりと途切れている。僅かにそれを知っているのは彼の鼻軟骨と皮膚の間に挿入されている小さなソフトプラスチックの鼻型だけなのだ。那須で情婦を殺した白石寛一という男の顔は永遠にこの世に存在しないわけになる。 「弱ったね。美容整形が犯罪に利用されるとは……」  松倉院長はソフトプラスチックの鼻型がずらりと並んでいる手術室のガラス棚を眺めて深い嘆息をついた。  京浜国道は車の洪水《こうずい》だった。ラッシュアワーでもあったし、クリスマス・イブのせいもあろう。結城健志の運転は彼の性格通り、慎重で歯切れがよかった。紫のアストラカンのオーバーの下にピンクのカクテルドレスを着た美巳は浮々とした眼をネオンの夜景に向けていた。シャネル五番の甘い匂いが彼女の全身を柔かく包んでいる。  シャンソン歌手の松本千春からクリスマス・パーティの招待状を受け取った時はあまり乗気ではなかった美巳だが、 「たまには出かけてやらないと悪いし、いっそ今年の縁起直しにみんなで出かけてわあっと騒いで来るかな……」  という松倉院長の説に従って出かけてみるとやっぱり町の雰囲気に包まれて楽しい気持に誘われる。そうでなくとも、女はたまにお洒落をすると生き生きとした眼差《まなざし》になるものだ。言い出した松倉院長が急な手術で遅れ、一足先に夜の京浜国道を健志と二人っきりでドライブしていることも美巳の頬を上気させていた。  松本千春の招待してくれたナイトクラブは横浜でも名の通った一流の店であった。内部もかなり広い。松本千春はここのステージに出演中でもあるのだ。  クロークにコートをあずけ、赤いビロードを張った壁に囲まれた通路を上ると、中世の騎士《ナイト》みたいな恰好をしたボーイが二人をテーブルヘ導いた。照明が交錯する中で楽団がクリスマス音楽を演奏している。「ブラック・エンド・ホワイト」のオンザロックを軽く空けると健志は美巳をうながしてフロアヘ下りた。招待客ばかりらしいが、かなり混んでいる。健志のリードは運転と同じく慎重で歯切れがいいから絶対に肩をぶっつけない。三曲ばかり続けて踊ってテーブルヘ戻ってくると、松本千春がにこやかに近づいて来た。真黒な和服は裾《すそ》に銀で「恋」袖に「愛」を散らし書きにしてある。白献上《しろけんじよう》の博多帯がしなやかな腰をきりっと締めている。ゲイ・ボーイ好みの、しかし如何にも松本千春ならではの着こなしである。 「よく来て下さいましたのね。うれしいわ」 「御招待どうも有難う……」  美巳はハンドバッグと一緒に置いてあったリボンのかかった小箱を差し出した。 「クリスマス・プレゼントですって、院長先生から……先生も少し遅れますけど参りますわ。久しぶりに千春さんの歌を聞くんだってとても張り切っていらっしゃいましたわ」  小箱を受け取って千春は微笑した。 「美巳先生からのプレゼントだと、もっと嬉しいんだけど……」  悪戯《いたずら》っぽく肩をすくめた。 「ぼくの歌も、なんですけどね、今日はあの子の歌をお聞かせしたかったんですよ」  千春が指すステージにはスポットライトが交錯《こうさく》して白いタキシードの歌手が登場した所だった。男装と思われる程だが、まだ若い男性である。曲は流行のシャンソンだ。 「いい声でしょ。ぼくの弟分なんですよ」  千春は少しばかりアルコールの入った眼許をほの赤く染めて言った。 「ある所でぼくが見つけて来てね。歌の勉強させたら、ちょっとイカすのよ。境遇もぼくに似ているんで同病相憐れむっていうのかしら、すっかり仲良くなっちゃったの。ここのナイトクラブにもぼくが無理言ってステージに出さして貰ってるんだけど、案外、好評なのよ」  確かに器用な歌い方であった。声の素質もいい。新人に似合わずステージ度胸もよかった。 「後で御紹介しますから、どうぞよろしくね」  千春は繰り返してテーブルを去った。 「ね、本当にちょっとイカすわね……」  美巳はそれまで無視されていた形の健志へ言ったが、彼は知らん顔でオンザロックをぐいぐい呑んでいる。 (また、憤《おこ》ってる……)  苦笑して美巳は立った。化粧室へ行く。髪を直して暗い廊下を戻ってくると、ふと横の暗がりから声がした。 「マッチありますか……」  美巳は自分に言われたのだと思って立ち止ったが、声をかけられたのはボーイらしかった。ポケットから出して渡している。 「有難う」  人影はステージの裏へ続くらしい廊下を曲って行った。白いタキシード姿の、先程の歌手であった。ぽかんと美巳が見送っているとボーイが近づいて来た。 「黒田さんに御用ですか……」  ファンと間違えたらしい。美巳は首をふった。テーブルの方へ戻りかけて訊いた。 「今の歌手の方、なんとおっしゃるの」 「黒田|三晴《みはる》と申しますが……本名だそうです……」  好奇心を持ったらしい若い女客の様子にボーイはなんとなくにやにやしている。気がついて美巳はさっさとテーブルヘ戻った。松倉院長はまだ来ていない。健志がちらりと美巳を見て煙草をくわえた。ボーイが近づいてライターで火をつける。ぼんやり見ていた美巳は先程の暗がりで聞いた、マッチありますか、という声を意味もなく思い出した。カクテルを飲んでいても、フロアに下りて健志と踊っても美巳の耳の奥からはその声が消えなかった。 (何故、そんな事にこだわるのだろう?)  なにかの潜在意識が美巳の中にあって、それがしきりと或る事を思い出させようと美巳の中で働いているかのようであった。クリスマスの派手な飾りつけも、シャンペンを抜く音も美巳の周囲から遠くなっていた。青い蝋燭《ろうそく》を模したスタンドを美巳は虚《うつ》ろな眼で眺めていた。所在なげに健志は煙草ばかりのむ。気がついて美巳はマッチをすってやった。 「いけないよ。そんなことをしちゃあ……」  たしなめながら健志は煙草の先端を近づけた。青い炎が紙をめらめらと燃やす。 (マッチ、ありますか……)  独特のアクセントがくっきりと美巳の脳裡に甦《よみがえ》った。美巳の頬から血が引いた。 (あの人だ……あの時、停電の暗い病院の廊下で聞いたあの声……)  あの時、その男は低い声で美巳に言った。 「あのウ、マッチありますか……」  白いマスクをかけた入院患者だった。 (その時、私は……撮影室で患者と雑談をしていた。写真の現像は駅前のカメラ屋に頼むという話を、あの男はドアの横で聞いたかも知れない……その可能性は充分ある) 「健志《オタケ》、健志《オタケ》さんったら……」  美巳はかすかに慄《ふる》える声で健志を呼んだ。真黒な不安をどうにも胸一つに収めかねた。  二十分ばかり後、二人は何気なく席を立った。或る実験のためである。ステージでは松本千春が歌っている。 「それじゃ、美巳ちゃん……」  健志が真剣な顔で美巳を見た。うなずいて美巳はさりげなくボーイに近づいた。 「黒田三晴さんは楽屋ですか」  ボーイはあっさり教えた。 「そうです。その突当りを右へ行って三つ目の部屋ですよ。松本千春さんと同室です」  美巳はそのドアをノックした。 「千春先生?」  独特のアクセントである。美巳はすっとドアの中へすべり込んだ。部屋の中には男が一人きりだった。 「白石寛一さんでしょう……」  黒田三晴は小さな鏡の前で蝶《ちよう》ネクタイを結んでいた。一瞬、肩の辺りがこわばったが、ふり向いた顔は自然だった。 「ぼく、黒田三晴ですが……」  しかし、美巳を認めた瞳《ひとみ》に明らかな驚愕《きようがく》が走った。 「私を覚えていらっしゃるでしょう……」  美巳は健志に教えられた通りを必死になって言った。 「いいえ……」 「白ばっくれても駄目。あなたは大阪のキャバレー新世界《ニユーワールド》のボーイをしていた白石寛一さん。那須で恋人の西原糸子さんを殺してから松倉整形外科で隆鼻術と二重瞼《ふたえまぶた》の整形をして人相を変え、ホクロを除去して特徴を消し、指名手配の眼を晦《くら》まそうとしたのね。そのために証拠になる手術後の写真を病院の者だといってカメラ屋から盗み出した……そうでしょう白石さん……」  美巳は夢中で続けた。自分が舞台で演技しているような錯覚を起している。 「あなたはそれで証拠|湮滅《いんめつ》を計ったつもりかも知らないけど、それは計算違いよ。松倉整形外科では万が一の写真の失敗を考えて、病院のカメラと私のカメラと二台で患者さんの撮影をしているの。私のカメラのフィルムは私が現像するから、あなたの新しい顔の写真は私の手許に正面からのと、左右からのと合計三枚残っているんだわ……」  美巳はきびきびと言ったが、むろんこれは嘘である。 「黒田三晴の元の顔が白石寛一だという証拠の写真を私は持っているのよ。それに……もしあなたがそうではないと言い張っても整形であなたの顔を再手術し、鼻に入れたプラスチックを抜き、二重を一重に戻し、ホクロを入れ墨すればあなたの顔は昔通りの、白石寛一の顔に復元するのよ。整形では簡単な操作だわ」  黒田三晴の顔色が変った。わなわなと全身に慄《ふる》えが走る。急にテーブルに突伏すと肩をしゃくり上げた。稚《おさな》げな泣き方である。美巳はふと犯人に哀れを覚えた。 「ね、もう仕方がないわ。自首して立派に裁きを受けるのよ。ね、そうなさい……」  近づいてのぞき込んだ美巳の体へ不意に男の腕が伸びた。声をあげようとした唇は厚い掌でふさがれた。じりじりと喉《のど》を締めてくる。殺されると美巳は感じた。 「畜生、俺の秘密を知った奴は……」  荒々しい男の息が顔に触れた時、美巳の体は床に放り出された。本能的にはね起きて、 「あっ、健志《オタケ》さん……」  美巳の悲鳴を気合がわりに結城健志は鮮やかな背負い投げで、白石寛一をぐにゃりと部屋の隅に気絶させた。  警察に連行された黒田三晴はすっかり観念したものか白石寛一として一切の犯行を自白した。 「しかし、とんだクリスマス・イブだったね」  派手な結城健志の活劇の終った所へ到着して後始末一切をやらされた松倉院長は、我が家の暖炉の前でくつろぎながら美巳にぼやいた。事件落着から二日目の夜である。 「今の若い者は怖《こわ》いね。人を殺すことを何とも思っていないのだから……」 「邪魔者は殺せ、なのよ、伯父様」  靴下をあみながら美巳がけろりと言う。 「美巳も派手なことをやったもんだ……」 「夢中だったのよ。怖かったけど、でもちょっとイカしたなあ」 「冗談じゃありませんよ……」  りんごを剥《む》いていた松倉院長夫人が真顔でたしなめた。 「もう絶対あんなおてんばをしないで頂戴《ちようだい》。もしもの事があったら美巳ちゃんの御両親に私達、申しわけがありゃあしません。お願いだから私達の寿命をこれ以上|縮《ちぢ》めないで……」  美巳はペロリと舌を出し、頭を下げた。 「しかし、偶然だらけの事件だったね。那須で美巳が死体を発見したのも偶然なら、犯人が私《うち》の病院で整形したのも偶然、ナイトクラブでその犯人に逢ったのも全くの偶然なんだからな。ひょっとすると被害者の魂が美巳に取っついたんじゃないのかい……」  松倉院長はりんごをつまみながら横眼で姪《めい》を見た。 「いやだ、伯父様、科学者の癖にそんなことをおっしゃるなんて……」  美巳は右手を伸ばしてテレビのスイッチをひねった。不気味になる気持をまぎらわしたい了見である。  スピーカーからシャンソンが流れて来た。松本千春のクローズアップがぼやけたまま画面に浮んだ。 「千春君も胆《きも》をつぶしてたっけな……」  松倉院長が思い出し笑いをした。警官の取調べに周章狼狽《しゆうしようろうばい》しながら、白石の前科をまるで知らずに交際していた旨を必死になって述べ立てていた彼の恰好を、取り澄したステージ姿に連想したらしい。 「白石寛一って子も、千春さんみたいな流行歌手になる心算《つもり》だったんでしょうかねえ」  ナイフの手を止めて、松倉院長夫人がひっそりと呟《つぶや》いた。  窓の外は昼からの雨である。美巳はふと、ぐっしょりと濡《ぬ》れた那須野の、西原糸子の青い死体を想い出した。  電話のベルが鳴った。 「健志《オタケ》だわ、きっと……」  美巳は不快な想いをぶち消すような明るい声で叫ぶと、勢よく受話器を取り上げた。  ハッピイ・エンド  受話器から流れて来た声は美巳《みみ》の推定通りきびきびした結城健志《ゆうきたけし》のものだったが、ひどく改まってそっけなかった。 「あ、美巳先生ですか、ぼく、結城健志ですが院長先生は御在宅ですか、はあ、でしたら、恐縮ですが御電話口までお願いします……」 「左様でございますか、浜松屋さんの若旦那様でございますね。院長先生をお呼び致しますから、少々お待ち下さいませ」  まけず劣らず気取った調子で受け答えをする美巳の手から松倉院長はやんわりと受話器を奪い取った。 「む、健志君、わたしだが、ふん、なるほど……いいとも、明日病院へ連れて来たら……ああ、何時《なんじ》でもかまわんよ」  ガチャリと受話器を置いてソファヘ戻る松倉院長に、美巳は憤懣《ふんまん》やる方ない眼を向けた。 「なんですの。伯父様……」 「健志《オタケ》さんの用事かい、なに、患者を一人紹介したいんだそうだ。浜松屋さんのお得意さんなんだとさ。明日、彼が一緒に病院へ連れてくるからよろしく頼むということだ」 「なんだ、そんな事なの。健志《オタケ》ったら馬鹿にしてるわ。他所《よそ》行き声で院長先生は御在宅ですかだなんて……」 「美巳だって、とぼけた事、言ってたじゃないか。浜松屋さんの若旦那様なんて言うからいったいどこのどなた様かと思ったよ」  松倉院長は笑いながら使い馴れた志野の茶碗を掌に包んだ。 「呉服屋と美容整形と、まんざら縁のない商売じゃないな。どっちも美しくなるための執着がお得意さんだ。それにしても呉服屋さんの紹介の患者と言えば、まあ中年女性だろうね。でなければ、嫁入り前の娘さんか……」 「健志《オタケ》の紹介の患者なんて、どうせロクなんじゃあないわ……」  突慳貪《つつけんどん》な言い方をして美巳は唇をとがらせた儘《まま》、ガスストーブの炎を覗《のぞ》き込んだ。  結城健志が松倉美容整形へ姿を現わしたのは午後三時近く、病院は朝からの患者の手術が一段落ついて美巳は院長室で松倉院長とコーヒーを飲んでいた。 「昨夜は、どうも失礼しました……」  看護婦に案内されて入って来た健志が長身をぎこちなく折って松倉院長に挨拶するのを横目で見て、美巳はつんと立った。ガラス戸棚から新しいコーヒー茶碗を三組、並べる。結城健志の背後から院長室へ招じ入れられたのは三十五、六の痩《や》せぎすな婦人とその娘らしい十歳位の女の子だった。子供にコーヒーは、と美巳は気をきかして一つのコーヒー茶碗には紅茶を注ぎ、角砂糖を三個つけてテーブルヘ運んだ。 「お熱い中にどうぞ……」  美巳が勧《すす》めると女の子は母親に倣《なら》って丁寧《ていねい》に会釈《えしやく》をした。水色の大きなリボンがワンピースと同色である。靴は黒のエナメル。抱えている兎のハンドバッグが、それ一つだけ稚《おさな》い感じである。 「美巳君、到来物のチョコレートがあっただろう、モロゾフのキャンディ、あれをお嬢さんに……」  子供を扱い馴れない松倉院長がせめてものサービス精神で美巳に言いつけた。 「はい」  そうだっけ、いいものがあった、と美巳がいそいそとガラス戸棚を開けかけるのを、婦人客はきっぱりと押し止めた。 「どうぞ、もうおかまいなく……」  はっきり付け加えた。 「チョコレートは頂きませんの、この子。あの……皮膚によくないと聞きましたので」  美巳は聞き違いではないかと自分の耳を疑った。チョコレートを食べるとニキビが出来るから……というのは二十歳前後の女の子の言い草である。グリーンのソファにチョコンと坐っている色白の子はニキビだの色気だのには程遠い。せいぜい小学校四、五年だろう。 「それは、ま、美容上結構な事ですな」  度胆を抜かれた形の松倉院長が曖昧《あいまい》な言い方をして紅茶を勧《すす》めた。なんとなく結城健志の顔を見る。彼はしきりにまばたきをし、もぞもぞと頭に手をやった。 「実はその……。小野まりちゃん……こちらのお嬢さんは『さわらび児童劇団』の女優さんで、しょっちゅうテレビや映画に出ているんですよ」  遅ればせな健志の紹介の尾について、 「申し遅れました。私、小野まりの母でございます」  婦人が立ち上って社交馴れのした微笑を浮べて挨拶した。 「実はこの子の事につきまして折入って先生のお力を拝借致したいと存じまして……」  美巳はそこまで聞いてさりげなく院長室を出た。煙に巻かれたという顔である。廊下の突き当りにあるロビーまで来ると、思った通り結城健志が追って来た。ふりむいた美巳へ、 「いや全く、よわっちゃったよ……」  ポマードっ気のまるでない髪を指先でかき上げながら言う。当惑したり、照れたりした時の彼の癖である。 「紹介者が席をはずしたら失礼じゃありませんの」  美巳は故意に取りすまして言った。昨夜の電話以来、虫の居所が悪い。 「だって、とても居たたまれやしないよ。汗かいちゃった……」 「院長室のガスストーブが熱すぎたのでございましょう」 「おい、美巳ちゃん……」  健志はようやく相手の逆鱗《げきりん》に気がついた。 「なんだい。何を怒ってるのさ」  美巳はくるりと窓へ体を向けた。眼の下の通りを都電が走り、車の列が長く続いている。そろそろ夕暮のラッシュ時だ。交通信号が神経質に青に変る。 「なによ。昨夜の電話、お芝居みたいに気取っちゃってさ……」 「ああ、あれは仕様がないよ。あの奥さんが傍に居るんだもの。まさか、やあ美巳ちゃん、院長先生を呼んどくれよ、とも言えやしないじゃないか。俺《おれ》は君が気がついてて、それであんな丁寧な返事をしてるんだと思ってたけども……」  健志は美巳に並んで窓の下を覗いた。Vネックのセーターの上にツイードの背広を着た肩幅はがっしりと広くて、呉服屋の一人息子には見えそうもない。 「電話はテレビじゃありませんからね。健志《オタケ》の状況判断まで出来やしないわ」  ぷんとふくれて、美巳は御立腹を好奇心に置き換えた。 「なんなの、あの患者さん……?」  ちらと突き当りの院長室のドアを見た。 「それがさあ……」  健志は顔中をくしゃくしゃにした。 「銀座のポルオス、って言っても美巳ちゃんは知らないだろうけど、一応、名の通ったバアのマダムなんだ。もっとも店の方は妹さんにまかせっきりで専らステージママに夢中なんだけれどね。名前は、他人の内緒事だから言わないが、有名な財界人の、二号って言葉が悪ければ愛人みたいな存在なんだよ」 「じゃ、あの女の子は……?」 「その男との間に出来た子さ」 「まあ」  美巳はお嬢さん気質を丸出しに眉をひそめた。大人ぶった口をきいても、二号とか愛人とかいう語感にはよわい。 「とにかく事情を話せば長いことなんだが、種々の理由《わけ》があって正式に親子名乗りも出来ない日蔭の立場なんだ。母親にしてみれば娘一人が命のよりどころなんだろうな。それがバレエの稽古へ通っている中に勧められて児童劇団へ入り、二、三回テレビの子役で好評だったもんで、お袋さんがすっかりとりのぼせちまったんだ。もっとも近頃は子役スターばやりだから無理もないけど、どうしても娘を人気スターに仕立てたいと、そりゃすごい熱狂ぶりなんだ」 「じゃ、整形するってのは……」  美巳は唖然《あぜん》として反問した。 「そうなんだよ。あの女の子の鼻を高くして、エクボを造って貰いたいって話なんだ」 「冗談じゃないわ。あんな小さい子、第一、院長先生がお断りになるに定《きま》ってるわ」 「駄目なのかい。年齢が若すぎると……」 「そうよ。成長の途中にある人間の美容整形は不可能よ。それでなくたって人権問題じゃないの。まだ美的感覚も、自意識もない人間の顔を勝手に治すなんて、いくら親だって無法だワ。乱暴よ」 「だって、あのお袋は歯並びが悪くなるといけないって、あの子のミソッ歯を歯医者でみんな抜かせちまったんだぜ」  健志はのんびりと煙草の煙を窓外へ吐いた。 「あんたって全くわかんない人ね。ミソッ歯を抜くのと隆鼻術《ナーゼ》するのと本質的に違う事じゃないの。大体、健志《オタケ》は軽率よ……」  美巳がジェスチャーまじりに健志を攻撃しかけた時、院長室のドアが開いた。しょんぼりした恰好《かつこう》の母娘《おやこ》が受付へ出、玄関でスリッパを脱いだ。 「いけねえ、美巳ちゃん、又、電話するよ」  健志は煙草をもみ消して身軽く玄関へ出て行った。紹介した手前、一応、話も聞かなければなるまいし、送って行く心算《つもり》らしかった。美巳は不機嫌な顔で院長室へ戻る。 「美巳君、見てごらんよ。それ……」  松倉院長が指さした紅茶茶碗には受け皿に角砂糖が二つ残っていて、添えてあったレモンと紅茶自体はきれいに飲み乾されてあった。 「九つや十の女の子って言えば甘い物には目のない年頃だよ。それが紅茶に角砂糖一つしか入れないで飲むんだ。おまけにレモンの輪切りをバリバリ食べちまう。顔中しかめて如何にも酸っぱそうにさ。それもこれも肌を美しくさせるために母親が強制した事なんだ。見ているうちに腹が立ってねえ……」  松倉院長はコーヒーポットに新しくガスを点《つ》けながら言った。 「それで伯父様、整形の方は……?」  汚れたコーヒー茶碗を片づけながら美巳が訊く。 「勿論《もちろん》、断わったよ。ヤケドやアザの整形ならとにかく、子供に隆鼻術《ナーゼ》なんか私は出来ない……」 「健志《オタケ》が馬鹿なのよ。あんな患者を連れて来るなんて……」  ここのテーブルの上の灰皿にも健志の吸いさした煙草の端が一本だけ残っている。美巳はマッチ棒の先でその吸いがらを邪慳《じやけん》に突っついた。 「いや、健志君は随分、止《と》めたらしいよ。断わってもきくような母親じゃない。強引に連れて来て貰ったのだと当人が言っていたよ」 「伯父様はなにかと言うと健志《オタケ》の肩ばかり持つのね。美巳、嫌いだわ。あんな優柔不断な男性……」  美巳は入って来た看護婦に汚れ物をのせた銀盆を渡した。受け取って看護婦が、 「先程、週刊S社からお電話で今晩六時までにお迎えに参りますからよろしくとの事でございました」  と言う。 「そうだわ。伯父様、今夜は週刊Sの座談会に行く予定でしたっけ。美巳、すっかり忘れてたわ」  メモをのぞいて美巳は素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「心細い秘書君だね。ま、とにかく入院患者の手術を済ませとこうか」  松倉院長は沸騰《ふつとう》したコーヒーを一口すすっただけで手術着へ腕を通した。  初|春《はる》の銀座は、宵《よい》のせいもあってどことなく浮々と華やかな気配がする。  週刊S社主催の座談会の会場は西銀座のMレストランだった。席の設けられている特別室ヘ松倉院長と美巳が導かれて行くと、既に週刊Sの編集者に集められた数名の若い男女がにぎやかに雑談していた。今夜の話題は「創《つく》られた美貌について」で、つい最近、週刊S社に投稿された二つの手紙、一つは美容整形を受けて醜女の劣等感から解放され、同時に一流会社へ就職する事が出来たという幸せの体験を綴《つづ》ったもの、もう一つはより美しくなるために整形を受けた結果、恋人から捨てられて悲嘆のどん底にあるという女性の訴えなのだが、その二つの例をめぐって美容整形によって得た美貌について賛否両論をディスカッションしようというわけで、ゲストとして松倉院長、女流評論家の深沢道江女史、それに若手映画俳優の水木豊が招かれていた。  葡萄酒《ぶどうしゆ》と軽い食事の中に進められた座談会は主催者側の思惑通り、醜くくとも生れながらの自然さを尊重すべきだという穏健派と、美容整形で顔を直したからと言って愛情がなくなるなどというのは本当の恋人じゃない、人工的に美しくなれるのだったら、どしどし利用して醜女から美女、もしくは醜男から美男に生れ変った方が人生は嬉しくなるのじゃないかというドライ派に分れて各々の言い分をはなばなしくまくし立てた。  議論が百出した所で司会役がゲストの意見を求め、しめくくりをつけて座談会は終った。三人のゲストには別室が用意されて、そこで改めて茶菓が出された。  水木豊が、直接、美巳に話かけて来たのはそんな時になってからであった。 「実は、お宅の病院には親父がお世話になってるんですよ」  美巳は咄嗟《とつさ》にその意味が解らなかった。が、松倉院長はメロンを食べながらあっさりうなずいた。 「そうですな。全く厄介な患者ですよ」 「松倉先生でもお手あげですか」  水木豊は若々しい声で笑った。ドライボーイと言われている彼だが、白い歯並みは清潔な感じである。 「しかし、ああいう患者がないと病院は儲《もう》かりませんよ」  松倉院長はメロンのスプーンを置いておしぼりに手を伸ばした。 「伯父様、どなたの事ですの」  そっと尋ねた美巳の声をすばやくキャッチして、 「ぼくの親父ですか、関根泰治ですよ。毎週一回、ホルモン療法に通ってるでしょう」  ずばりと水木豊が答えた。  関根泰治と聞けばカルテを見なくとも美巳にも即座に想い出せる。松倉美容整形の常連の一人であった。三つ四つの大会社を経営し、その他にも子会社をいくつか持っている。財界でも一流のクラスだ。 「水木さんが関根さんの……」  美巳にとっては初耳だった。新進の映画スターで目下売り出し中の水木豊が財閥《ざいばつ》の御曹子《おんぞうし》だと言う。彼の本名は関根豊というわけだ。 「御存知じゃなかったんですか、週刊誌では随分、派手に書いてましたよ。週刊S《うち》でも特集で大きく扱ったんですから……」  編集者の一人が美巳の迂闊《うかつ》を笑った。だが、美巳はあまり週刊誌を読まない。 「知られなくて幸いですよ。あんまりみっともいい話じゃないもの……。ま、私生児じゃなくて、れっきとした一人息子なんだから、まだ救われるだろうけどさ」  水木豊は他人事のような言い方をして、ちらと美巳を窺《うかが》った。意識した言葉のわざとらしさが美巳には少しばかり不快だった。 「お車が参りました……」  Mレストランのボーイが知らせて来た。それをきっかけに美巳は席を立った。クロークで松倉院長のと自分のと二人分のオーヴァーを受け取る。一枚を松倉院長へ着せかけておいて、紫《むらさき》のアストラカンヘ手を伸ばすのを、横から水木豊がさっと取り上げた。 「さあ、どうぞ」  馴れた動作で水木豊は美巳の背後へ廻った。紫色がやんわりと美巳の肩を包む。 「おそれ入ります……」  低く会釈して美巳は黒のハンドバッグを抱え直した。その胸許へ、水木豊は四角な封筒をタイミングよく差し出した。 「ぼくの映画《しやしん》なんです。明日の午後三時、Sホールです。お出で頂けませんか」  試写会の切符だった。美巳がためらっている中に松倉院長は至極、簡単に応じた。 「それはどうも……。ぼくは病院があって行かれませんが、美巳君は映画ファンですから喜んで伺いますよ。じゃ、お先に……」  大股《おおまた》にハイヤーヘ歩き出した松倉院長の後から美巳は止むを得ず受け取った招待券の封筒を抱いた儘《まま》、小走りに追って行った。  翌日午後三時。  美巳は日比谷のSホール六階の試写室に居た。 「いやだわ。一人で試写に行くなんて……。第一水木豊なんてキザな人から貰った切符じゃ全然すっきりしないわ」  止めとこうかしら、を十数回も繰り返した癖にその時刻になるとなんとなくハイヒールとコートをロッカーから掴《つか》み出して、 「伯父様、やっぱりちょっと観《み》て来ますわ」  病院をとび出して来た美巳である。水木豊主演はあんまり有難くないが、いわゆる文芸大作で美巳の御《ご》贔屓《ひいき》のT監督の正月作品である事に食指が動いた。  映画は期待通り面白かった。昨夜の初対面の印象は甚《はなは》だ香《か》んばしくなかったが、映画の中に登場する水木豊は素朴で純情でタフガイで、なかなか頂ける。  場内が明るくなって、美巳は赤いビロードのドアを押した。とたんに、 「昨夜はどうも……」  地味なチャコールグレイの縞《しま》の背広に同色のネクタイという渋いスタイルの水木豊が照れたような微笑を浮べて突っ立っていた。えんじ色のチョッキに白い背広という昨夜の伊達姿《だてすがた》とはがらりと変った神妙な恰好《かつこう》である。服装のせいか、観たばかりの映画の影響か、ぐっと好青年に見えるし、感じもいい。 「今日は有難うございました。とっても楽しんじゃいましたわ」  美巳は素直に頭を下げた。 「そうですか……」  彼は、はにかんだ眼をちらと周囲に向けたが、早口に続けた。 「失礼じゃなかったら、感想みたいなもの、聞かせてくれませんか。正直言って凄《すご》く不安なんですよ。これまでとまるで違った役柄だし……。今まではチョンマゲつけて、刀をふり廻してりゃ済んだんですからね」  デビュー当時から時代劇専門で、現代劇出演はこれが始めてだという水木豊の経歴を、美巳はプログラムの解説で知ったばかりだった。 「感想なんて、私……」 「いいんですよ。思った事をなんでも言って下さい」  水木豊は強引に美巳の肩を押してエレベーターに乗せた。結城健志にないその強引さがなんとなく美巳を惹きつけた。健志と喧嘩《けんか》別れした昨日の今日、のせいもある。  街はもう暗かった。デザインを競ったネオンが輝いている。  日比谷の交差点を渡って、ごちゃごちゃと映画館の固まっている通りを左へ入った路地の突き当りに「エトランゼ」とガラスのドアに金文字で描いてある喫茶店へ、美巳は水木豊に導かれて入った。 「率直に言うけど、昨夜、貴女《あなた》はぼくのことを軽蔑してたでしょう。財閥の息子だって事を売り物にするような俳優なんぞ、全く男の風上にも置けない。そう思ったんじゃありませんか」  レモネードが二つ運ばれてくると水木豊は真正面から美巳を見据えるようにして口を切った。けれん味のない声に生真面目な若さがあった。美巳は正直にうなずいた。 「その通りよ。私も本当を言うと、昨夜の第一印象の貴方《あなた》は妙にスター意識が過剰で、相当にキザっぽいような気がしたの。でも今日の第二印象は違うわ」 「どう違うんです」 「率直で、フランクで、飾り気がなくて……」 「やあ、凄い変化だな……」  二人は十年の知己みたいな笑い声を立てた。垣根がすぽんと取れた感じである。すっかり気軽になった美巳は観たばかりの映画評を熱心に喋《しやべ》り出した。水木豊は神妙にふんふんと聞く。時々、 「そこはこうで……」  とか、 「実は、それがね……」  などと説明や弁解が合いの手に入って話題は二人の間で具合よく豊富になった。 「場所を変えて、もう少し喋《しやべ》りたいな」  水木豊が提案した時、美巳はすぐに賛成した。サングラスをかけていない水木豊の素顔は人気スターだけにどうしても人目につく。それでも時代劇専門のおかげでまだしも胡魔化《ごまか》しがついていたのだが、一人が気がつくとたちまち喫茶店の中の視線が集中する。まごまごしていて勇敢なのがサインでも求めようものなら、一度にどっと取り囲んでくる。流石《さすが》に水木豊は機を視《み》るに敏だった。素早く美巳をうながして外へ出る。  夜の街なら、一応、安全だった。二人はコートの衿《えり》を立て彼の愛用車が置いてある有楽町の駐車場まで歩いた。  通りすがりに明るいウィンドウがある。その前に買い物帰りらしい母娘づれが足を止めていた。飾り窓の中には如何にも女の子が喜びそうなアクセサリーやセーターやハンドバッグが色とりどりに並べてあり、その隅にふかふかした毛並の愛くるしい熊《くま》の玩具《おもちや》がちょこんと置かれていた。十歳前後と思われる少女はその小熊を母親にねだっているらしい。 「こんな高価《たか》いもの、いけませんよ」  すれ違った時、母親の声が美巳の耳に入った。何気なくその顔を眺めて、美巳は口の中で小さく声を立てた。昨日、結城健志が病院へ連れて来た婦人である。すると白いフードをかぶって飾り窓をのぞいている女の子は小野まりに違いない。挨拶をしようかと迷って結局、美巳はその儘、通り抜けた。相手は美巳に気づいていない。水木豊はもう曲り角まで行っている。立てた衿の中に顔を埋めるようにして新聞社のネオンニュースを仰いでいる恰好が妙に故意《わざ》とらしかった。追いついた美巳と再び肩を並べて歩きながら、しきりと何かを考えている風な彼に気がついた美巳はそっと尋《たず》ねた。 「どうかなさいましたの……」  水木豊は大きく眼をあけて美巳を見、それから慌《あわ》てたように手をふった。 「いやあ、別に、どうもしませんよ」  しかし、無理に笑ってみせた彼の瞳の中には、やっぱり思案して、逡巡《ためら》っている気配があると美巳は思った。が、強いて追及するつもりはない。  冬の夜らしく白い靄《もや》が流れる。吐く息も白い。自動車のヘッドライトの光芒《こうぼう》を縫って白い気体が動くのが美巳をロマンティックな気分へ誘った。若い娘は雰囲気に弱い。 「美巳さん、御両親は?」  ぽつんと水木豊が聞いた。 「京都に居りますの。親をほったらかして、悪い娘ですわ」  美巳は底冷えのする京都の冬を想った。今年はとうとう正月にも帰らなかった。加茂川の水で産湯《うぶゆ》を使った、れっきとした京娘の癖に、東京暮しが肌に合って京誂りは語尾にも滅多に出てこない。もっとも京都が嫌いなわけでもないし、両親に冷たい美巳でもないのだが、子供のない松倉院長夫妻に姪というより娘同様な愛され方をしていると、つい自分から親の許へ行って来ますとは言い難くもある。 (京都の家にはお兄さん夫婦がいるんだから……)  つい、親孝行は兄まかせと割切っている美巳でもある。 「水木さんは?」 「お袋は五年前、いや六年になるかな。冷たい墓ん中ですよ」  うっかり悪い事を訊《き》いたと美巳は後悔した。それにしても突然、両親の事など話題にした彼の真意が解らない。愛用車の前で水木豊はポケットを探って鍵《かぎ》を取り出した。 「寒かったでしょう」  ハンドルを握りながら隣へ坐った美巳を見る。一つ年上でしかないのに大人ぶった言い方をする彼が美巳には可笑《おか》しい。  車を止めたのは新橋のバアだった。暗く狭い階段を地下へ下りる。 「あら、豊ちゃん」 「まあ、ようこそ……」 「お久しぶりね。よく忘れなかったこと……」  たちまち蜂《はち》の巣を突いたような女の嬌声《きようせい》が巻き起って水木豊を囲んだ。想像以上のもて方である。美巳は立ちすくんだ。 「駄目だよ。今日は大事な人と大事な話があるんだ。なるべく寄りつかないで貰いたいな……」  うるさそうに手を振るのに、 「まあ、御挨拶ね……」 「大事な人って、豊ちゃんの恋人……」 「きゃア、ごちそうさま……」  羨望《せんぼう》と嫉妬《しつと》と好奇心の入り交った視線を浴びて美巳は蒼白になった。恥かしさと怒りとが同時に胸許へ突き上げてくる。そんな美巳の気持を敏感に察したのか、 「怒らないで、頼む。帰っちゃいけないよ」  水木豊が耳許へささやいた。 「ここへ来たのはまずかったんだ。ここなら顔馴染《かおなじみ》の場所だから安心して喋れると思ったものだから……」  しきりに弁解する彼に、美巳は辛《かろう》じて笑顔を見せた。 「怒りはしないわ。少しびっくりしただけよ」 「そんならいいけど……」  しかし、ブランディとピンクレディが運ばれて来ても女達の視線は放れなかった。なにかと話かけてくる。落付けない儘に水木豊は黙々とブランディのチューリップグラスを唇へ運んでいる。美巳は次第に後悔しはじめていた。初対面に近い男性と二人っきりで暗いバアヘ来る。しかも相手はとかくゴシップの種になり易い映画俳優である。つまらない噂をたてられたら、それこそとんでもない事になると遅ればせながら気がついたものだ。別に恋人ではないが結城健志に対しても気が咎《とが》めた。それでなくともバアの雰囲気は気づまりで居たたまれない。ピンクレディを半分程、空けて美巳は化粧室に立つ素振でそっと店を抜け出した。追われるようにタクシーを拾う。 「六本木」  運転手に指定してクッションにもたれかかると、美巳はコルセットをはずした時のような解放感にぐったりとなった。  関根泰治氏が松倉整形外科へ自家用車を乗りつけてくるのは毎週土曜日の午後四時頃に定っていた。  普段はホルモン注射だけでこれは看護婦で済むが、月に一回行なう脳下垂体埋没療法の日は松倉院長の御厄介になる。  この日は月に一回の方の日だった。  脳下垂体埋没療法(略して病院ではヒポと呼んでいるホルモン療法)は若い牛の脳下垂体の細片を特殊の器具で患者の臀部《でんぶ》へ埋没し、患者自身の脳下垂体の機能を活溌ならしめ、もしくは脳下垂体の若返りをうながす療法で適応症はホルモンに関するものだけにすこぶる多種多様だが、主として早老の若返り法、性欲減退、婦人の更年期障害、月経不順など、変った所では赤ら顔の治療や、身長を高くする、又は禿髪症などにも効果があると宣伝されている。  関根泰治氏の場合は勿論《もちろん》、若返り療法が目的である。ちなみに彼の頭髪は日本人放れのしたロマンスグレイであった。 「なんだかんだ言っても結局、倅《せがれ》には弱いんですな。親の心、子知らずで映画スターなんぞになり居って、ドライだとか言われとるようでも、案外、気の細かい子なんですよ。それだけに彼《あれ》の気持を尊重してやりたい。ま、あちら立てればこちらが立たず、問題が問題だけに頭の痛いことですわ」  美巳がクロロマイセチンを持って病室へ入って行くと関根泰治氏の言葉がそこで途切れた。ラクダのシャツの上からワイシャツを着てネクタイを締める。上着《うわぎ》をつけて、 「や、どうも毎度、御世話さんで……」  照れくさげに美巳へ笑いかけ、そそくさとドアを押した。その背へ、 「難しい問題とは思いますがね、まあ一日も早くじっくり話し合って解決した方がいいんじゃありませんかね。今の貴方には失礼だが脳下垂体療法より家庭療法の方が先決ですな」  石鹸の泡を両手にこすりつけながら、珍しく松倉院長が真顔で言った。 「全くです。実際、その通りなんですがね」  関根泰治氏は気弱げな苦笑を浮べて、じゃと改めて会釈した。美巳はそれが習慣で受付まで送って出る。ロッカーから看護婦がオーヴァーと帽子を出して着せかけている中に受付の電話が鳴った。 「関根様へ御電話でございます」  受付の美人看護婦に言われて関根泰治氏は受話器を受け取った。 「む、俺だ。ふむ、わかった。よしよし、む、いいよ。なんとかする……」  電話を切って、関根氏は相好《そうごう》を崩した儘、美巳へふりむいた。 「妙な事を訊くようじゃが、若い女の子が喜びそうなものにどんなのがあるかね。芝居に出ているんで、楽屋へ届けさせるんじゃが……」  看護婦達が一せいに顔を見合せる。 「楽屋見舞でしたら……やっぱりお花とかお菓子なんかでしょうかしら……」  美巳は当り障《さわ》りのない返事をした。 「花か、花はバラとカーネーションが好きじゃというて居ったな。菓子はいかん、甘いものはあかん……」 「甘いものは皮膚への影響も悪うございますし、肥りがちなものでございますから女優さんには不向きかも知れませんわね。でしたら果物ならよろしゅうございましょう。ビタミンは肌を美しくしますし、いくら食べても肥る心配はまあございませんし……」  美巳はいささか中っ腹になって皮肉たっぷりに応酬した。相手は皮肉と受け取らない。 「果物が肌にいいと、そりゃ結構、いや、どうもお邪魔《じやま》さん……」  お供の運転手が開けたガラスのドアを悠然と出て行った。 「あきれちゃうわね、全く」 「若い女の子の喜びそうなもの、ですってさ。いい年齢《とし》して、脳下垂体療法《ヒポ》なんかやっちゃってさ。最低ったらありゃあしない。なによ。あの態度、鼻の下がずんとチューリップの茎でさ……」 「いやらしいわね。ぐっと……」  看護婦が一せいに喚《わめ》き出すのに仲間入りこそしなかったが、美巳も同感だった。  病院のお得意客だから言いたくはないが、関根氏も関根氏なら相手の女も女だと思う。 (旦那がホルモン療法に通っている病院へ、よくもぬけぬけと電話をかけて来れるものだ……) と思う。ふと、 (お袋は六年前に死んじまった……)  と呟《つぶや》いた水木豊の声が想い出された。親一人子一人の、その父親が若い女にうつつを抜かしているのでは、 (水木豊君、淋しいだろうな……)  院長室の隅にある自分用の机の前に腰を下して美巳はなんとなく白い霧《きり》の流れていたあの晩の水木豊の彫《ほり》の深い横顔を思い浮べた。あの晩、無断で先へ帰ってしまった事を美巳は水木豊にあやまっていない。  病院が午後七時に閉ると、美巳は松倉院長の運転するオースチンで一緒に六本木にある松倉家へ帰るのが常である。  主人の車の音が分るのか、キャンキャンと喚きながら出迎えるポメラニアンのアンネ嬢を抱き上げて、美巳が先に玄関を入ると、見馴れた和服用の男|草履《ぞうり》がある。 (結城の小父様が見えてるんだわ……)  美巳は物足りない顔になった。草履と一緒に並んで脱いであってもよさそうな男靴はない。 (健志《オタケ》ったら、あれっきり電話もかけて来やしない……)  茶の間へ入ると、結城亀松は炬燵《こたつ》に顎《あご》を埋めてテレビを眺めていた。松倉院長と美巳へ、 「や、お帰り、待ちかねましたよ」  どっちが主人だが解らない挨拶をした。 「珍しいな、近所へ来ての帰りかい」  突っ立ったまま背広を脱ぎ、夫人にかけてもらったガウンの袖《そで》に手を通しながら松倉院長。 「いや、今日はここへ商売に来たのさ」 「そうなんですの。美巳ちゃんに春の着物と帯をと思って番頭さんにお願いしたら、御自身でお持ち下すったんですよ」  傍から松倉夫人が言葉を添えた。 「なにね、商売も商売だが、まことの目的はこっちの方でね……」  結城亀松は炬燵の上で将棋《しようぎ》を指す真似《まね》をした。 「よし、久しぶりでお手直《てなお》しと行くか」  松倉院長はいそいそと炬燵へ坐り込んだ。 「まずまず、商売がお先……」  亀松氏は部屋の隅から大きな呉服包を運び出して店開きを始めた。 「伯母様、美巳、着物なんて、まだ袖を通さないのが何枚もあるわ」  一応、口では辞退しながら、やっぱり女は女で拡げた呉服へ向ける眼は幸せそのものである。 「普段はあまり着なくたって、そろそろお嫁入り仕度の心算《つもり》で揃《そろ》えておかなけりゃ……。京都でも心がけては下さるだろうけど、東京は東京でね……」  松倉夫人は日本シリーズみたいな言い方をして、これはと思うのをせっせと選り分ける。茶の間はたちまち百花|撩乱《りようらん》のお花畑と化した。 「そうそう、忘れない中に……。美巳ちゃん、先刻《さつき》、水木豊君から電話があってね。今度の日曜、T劇場へ見物に来てくれないかって言ってたわよ。ミュージカルで初舞台出演なんですって。切符は受付に彼の名前であずけておくそうよ。初日なんで五時開演ですとさ」  二枚の呉服を美巳の両肩へ掛けながら松倉夫人が告げた。 「今度の日曜日ねえ……」  美巳はかすかに逡巡《しゆんじゆん》する。今度の日曜あたり健志から電話がかかって来そうな気もする。帯を拡げていた亀松氏がそこへ言った。 「水木豊って言やあ近頃、凄い人気だってね。彼はうちの健志と高校まで一緒でね。その昔、同じ女の子を張り合ったりしたらしいんだよ。喫茶店かなんかの……どうせ他愛のない冗談だろうが」 「へえ、そりゃ初耳だね。実は水木豊の父親のね。ああ、例のS会社の社長の関根という男、あれが病院《うち》の常連でねえ……」  松倉院長と亀松氏との会話を、美巳はもう聞いていなかった。 (健志《オタケ》が喫茶店の女の子を水木豊と取りっこしたなんて……)  唇をへの字に結んで、美巳は呉服の山を睨《にら》みつけた。  日曜日。  美巳は早目に六本木の松倉家を出ると、行きつけの美容院で髪をセットし、ついでにマニキュアもしてもらった。  バスで日比谷へ出る。それでもT劇場の開幕には一時間余りもある。ぶらぶらとショウウィンドウを覗いて歩いた。暮からお正月にかけてあまり街を一人歩きする機会がなかったせいもあって、のんびりと楽しい。美巳くらいの年頃の娘にとって、お洒落《しやれ》をして、多少お財布がふくれていて、高級なショウウィンドウを見て歩く娯《たの》しさはまた、格別なものである。とは言うものの、美巳は次第に時間をもて余し出した。ハイヒールの脚《あし》に長歩きは禁物である。喫茶店へ一人で入るのも気がきかない。それに……。 (今頃、健志《オタケ》から電話が来てるんじゃないかな……)  意識的に彼の電話を避ける気で、必要以上に早く出かけて来たことを、美巳は内心、後悔しはじめていた。  日活国際ビルの地下のアーケードを出て、美巳は有楽町駅について左へ折れた。ふと、道路を距てた向い側の店の前に、中腰になって飾り窓を眺めている水木豊を発見したものだ。 (嫌だわ。今頃こんな所をうろうろしていて舞台に間に合うのかしら……)  が、後で気がついた事だが、T劇場のミュージカルは二本立で、水木豊はあとの方にだけ出演しているのだ。  近づいて声をかける気で、美巳が横断歩道の信号の変るのを待っている中に、水木豊は遂に決心したという顔で店内へ入ってしまった。歩道を渡って美巳も店へ顔を突っ込む。 「こんちは……」  肩を叩くまで気がつかない程、彼は思いつめたような固い表情をしていた。 「やあ」  と驚くのと、店員が紙包を差し出すのと一緒だった。連れ立って店を出る。 「何? お買い物?」  切符のお礼を忘れて、美巳はつい訊いた。 「熊の玩具《おもちや》……」  ほろ苦い笑いが口許に漂う。 「ああ、ウィンドウにあった、ふかふかした白いの……」  男の子の癖にあんなもの欲しいの、と美巳は笑った。 「違うよ。女の子にやるんだ。今度が初舞台なんだよ……」 「あら……御親切ね」  美巳はふっと興冷《きようざ》め顔になる。ドライボーイと言われるだけあって御発展なことだと思った。高校生時代、彼と健志とで喫茶店の女の子をはり合ったという話を想い出す。 「俺の妹なんだ……」  美巳は聞き違いかと疑った。水木豊は一人息子の筈ではなかったか。 「親父が死んだ俺のお袋以外の女に産ませた子なんだ……。親父はその女と娘を家へ入れたがっている。それが出来ないのは俺がうんと言わないからなのさ……」  紙包のリボンを弄《もてあそ》びながら水木豊は眼を落した儘《まま》、続けた。 「俺は不愉快なんだ。親父に後妻が来るのは反対しない。けど、その女と、お袋が生きてる時分から関係があったって事がたまらない……そいつが引っかかるんだよ」  美巳は静かにうなずいた。突然、思い当った。この前の霧の深い夜、あの飾り窓を覗いていた小野まり母子の事である。娘は水木豊が今し方買った小熊を欲しがっていた。 「それじゃ、貴方の妹さんって……」  小野まりっていう子役スターか、と唇まで出かかって美巳は言葉を呑み込んだ。先日、病院の帰りがけに、若い女の子の喜びそうな楽屋見舞は何か、と訊ねた関根泰治氏の言葉の意味も解る。 (若い女の子っていうのは、関根氏の娘さんのことなんだわ)  そうとは知らず、看護婦達と一緒になって最低のロマンスグレイ呼ばわりをしたのが気の毒になる。我が子の初舞台に何か人並みな祝い物をとその母親に頼まれて、いそいそと楽屋見舞を思案していた関根泰治氏の横顔は、どこにでもいそうな子煩悩《こぼんのう》な父親のそれであった。  複雑な家庭の事情は知る由もないが、親も子も、母も娘も、各々《それぞれ》に人間的な人達ばかりなのに、すっきりと幸せを掴み切れない哀れさが美巳の胸にしみた。 「妹さん……貴方がお兄さんだって事、知ってらっしゃるの?」  偶然に同じ舞台を踏むというドラマティックなめぐり合わせを、出来れば無駄にして貰いたくないような気持で美巳は言った。初日は今日これからだがそれまでに立稽古、読み合わせと、兄妹の顔が合う機会は既に何回かあった筈なのだ。 「妹はおそるおそる俺の傍へやって来るよ。俺から声をかけられるのを待ってるんだろう。だが、俺は優しい言葉なんかかけてやるもんか。ステージ裏の御兄妹の対面なんざおかしくって、三文芝居の種にもなりゃあしないよ」  水木豊は憮然《ぶぜん》として言った。美巳は横目に彼の抱えている紙包を見る。口では強がりを言うくせに、妹の欲しがっていた熊の玩具を買いに、幕開き前の忙しい時間を割いて街へ出てくる。 (やっぱり一人っきりの妹さんが可愛いんだわ……)  一人合点に唇をとがらせながら美巳が水木豊をふり仰いだ時、四つ角にわあっという叫び声が上った。わらわらと人が走って行く。 「火事だッ」  という声が二人の耳に入った。向い側のビルの後辺《うしろあた》りから白い煙が上がっている。二人はなんという事なしに表通りまで駈け出した。 「火事は、火事はどこです」  通行人を掴まえて水木豊が訊いた。 「よく分らんが、T劇場だそうですよ」  とたんに水木豊がカモシカのように走り出した。美巳も後を追ったがハイヒールでは思うように走れない。映画館の所まで来ると逃げて来る人と野次馬とがぶつかって戦場のような騒ぎだ。水木豊の姿も見失った。おろおろと人波の外を廻ってTホテル側へ出るとT劇場の四階の窓からどす黒い煙の吹き出すのが見えた。ようやく、遠くに消防自動車の鐘の音が消えるようだ。 「美巳ちゃんッ」  不意にがっしりと肩を掴まれた。蒼白な結城健志の顔が眼の前にある。 「健志《オタケ》」  恥も外聞もなくなってその厚い胸許へしがみついた。人波がどっと崩れる。美巳はいつの間にかハイヒールを脱ぎ捨てていた。 「全く、驚いたよ。京都から帰ってすぐに六本木へ行ってみたら美巳ちゃんはT劇場ヘミュージカルなんか観に行ったって言うんだろ。どうしても早急に話したい事があったんで、T劇場までやって来たら火事だと言うんだ。美巳ちゃんが逃げ遅れてやしないかと思ってさ、慌てたのなんのって……」  悪戦苦闘の結果、人波を脱出し、新橋まで歩いて折よく来かかったタクシーを拾ってから健志はようやく人心地がついた風な美巳の頬の色を眺めてふかぶかと嘆息をついた。  だが、その二人が取りあえず六本本の松倉家へ帰ってみると、 「まあ、美巳ちゃん、よく無事で……」 「おい、どこも怪我《けが》はしなかったか……」  たった今、ラジオの臨時ニュースでT劇場炎上を知ったという松倉院長夫妻が転げるようにとび出して来て美巳の体中を撫で廻した。 「まあ、本当にいい所へ健志さんが行って下すってねえ……」 「これからは、もう一人で観劇なんぞに行かん事だな」  健志と美巳から詳細を説明されて、すっかり健志が男っぷりを上げている所へ電話がけたたましく鳴った。手近かに居た松倉院長が受話器を取り上げてたちまち噛みつきそうな声になった。 「なに、関根氏の息子が怪我《けが》をして、病院《うち》に運びこまれた……副院長は……ふむ、よし、俺もすぐに行く……」  松倉整形外科に運びこまれた怪我人は二名だった。水木豊と小野まり。  T劇場の舞台裏から火の手が上った時、小野まりの母の美佐子《みさこ》はちょうど楽屋見舞を持って訪ねて来た関根泰治氏と楽屋口で僅かな立ち話をしていた。小野まりは五階の化粧部屋で一人ぼっちだった。火事騒ぎに気がついて三階まで逃げ下りて来ると、既に煙は渦を巻いている。 「五階にまりが居るんです、まりが……」  炎と煙を仰いで半狂乱に叫びつづける美佐子と、係員に抱き止められながら夢中で楽屋口の階段を上ろうとしている関根泰治氏。そこへ水木豊がとび込んで来た。 「まりが楽屋に……」  聞くや否や、水木豊は猛然と煙の中へ跳躍した。若い身軽さである。三階と二階との階段の踊り場へ倒れているまりを抱いて二階、一階、そこで燃えくずれて来た大道具に足を取られて転倒したが、続いて救助に入って来た消防夫達によって外へかつぎ出された。待ち受けて居た関根氏の指定で、とにかく松倉医院へ運んで来たという順序である。 「どうでした、伯父様、怪我の様子は……」  事件の翌日の午近く、病院から引き揚げて来た松倉院長に美巳はとびつくように訊ねた。後から結城健志が松倉院長の鞄をぶら下げて入って来た。二人とも昨夜は病院で徹夜だったと言う。 「いや、健志君が居てくれて助かったよ。警察や新聞社や劇場側なんかの応対を一人で片づけてくれたんだ。おかげで妙なスキャンダル的記事にならなくて済んだと関根氏も心から感謝していたよ」 「そんな事より伯父様、お二人はどうなんです。大丈夫なの」 「大丈夫だとも、豊君の方は腰の打撲傷も、腕の火傷《やけど》もすこぶる軽症だし、まりちゃんの方も咽喉《のど》の火傷がちょいと重いが命に別状はないよ」  松倉院長はテラスの籐椅子《とういす》に腰を下すと夫人の運んで来たミルクを一息に呑み干した。 「そんならいいけど……でも咽喉っていうと火傷の痕《あと》が残ったらかわいそうだわ。女の子のことですもの……」  美巳は自分の頸《くび》へ手をやった。醜い火傷痕が首筋に出来てしまったら、仮に小野まりが女優にならないとしても、年頃になってどんなに悩むだろうかと苦労になる。 「心配無用。あの程度の火傷痕なら時期を見て切除縫合手術とサンドペーパー法とでうまく目立たないように出来るよ。だからまりちゃんが容貌が売り物の女優|稼業《かぎよう》を志すにしても少しも支障は来たさないわけさ。もっともまりちゃんのお母さんのステージママ熱は火事にあったT劇場と一緒にきれいさっぱり燃え落ちちまったらしいが……」  松倉院長の言葉に美巳は眼を輝やかした。 「本当、伯父様、美容整形で火傷の痕も治せるの……」 「おいおい、美巳君、しっかりしてくれよ。美容整形ってのは何も鼻を高くしたり、眼を二重にするだけがノウじゃないんだぜ」  松倉院長はそこでガラス越しの日射しに眼を細めた。 「しかし、人間、性は善なりだねえ。これで関根一家の紛糾《ふんきゆう》もあっさり水に流れるんじゃないかね。とすればめでたしめでたしだが……」  ふと、所在なげに煙草をふかしている健志の横顔をちらりと見た。 「そう言えば、君、とんだ火事さわぎで京都の報告、まだ美巳君にしてないんだろ」 「はあ、そうなんですが……」  健志はなんとなく眼ばたきを繰り返し、照れたように頭へ手をやった。 「京都の報告って何よ。健志《オタケ》、京都へ行ってたの……」  美巳の問いに健志は口籠《くちごも》り、もぞもぞと煙草をもみ消した。 「貴方、助けておあげなさいな」  そっと松倉夫人が院長の横腹を突いた。 「健志《オタケ》さんねえ、美巳、京都の美巳の家へ行って来たんだよ」 「なにしに……」  美巳はじんわりと熱くなって来た頬を押えて立ちすくんだ。心臓が或る期待でコトコトと鳴り出している。 「美巳ちゃんをお嫁さんに貰えませんかと、直接、談判しにさ……」  松倉院長は柔かい微笑で交互に二人を見た。 「美巳ちゃんの御両親の返事は、本人次第ということだった。健志君はお婿《むこ》さん候補として無事にパスしたわけだ……」  ひょいと立ち上って松倉院長はわざとらしいあくびをした。 「年をとったせいか徹夜はこたえるねえ。一眠りするかな」  その儘、夫人をうながしてすたすた奥へ消えた。  テラスは日光が明るい。温かさが溢《あふ》れるようだ。 「美巳ちゃん……」  健志が思い切ったように立ち上った。美巳は慌てて視線を庭へ逃げる。 「健志《オタケ》ったら、本末顛倒してるわ……」  両親の許可さえ下りればむろん、美巳の答えはイエスだと信じている風な彼の自信が、美巳にはちょっとばかり小憎らしい。 「駄目かい……え……」  健志の声がかすかに慄えを帯びた。 「ぼく……美巳ちゃんを一生、幸せにするよ……」  世の中に恋の台辞《せりふ》ほどキザなものはないよ、と常々軽蔑していた健志だが、肝腎《かんじん》の時にはやっぱりありきたりの言葉しか出て来ないものらしい。 「おおきに」  つんとそっぽを向いている癖に美巳の口許は自然に綻《ほころ》んでくる。  日だまりの中に寝そべっていた小犬のアンネ嬢がちんくしゃな顔で怪訝《けげん》そうに二人を見くらべていた。  オレンジ色の口紅  鳩時計《はとどけい》が一時を打つのを聞いてから大内悟郎《おおうちごろう》はベッドを出た。 「あかりを点《つ》けちゃいや」  甘ったるい美谷川華子《みやがわはなこ》の声を無視してスイッチを押した。脱《ぬ》ぎっぱなしで椅子《いす》にかけてあったズボン、スポーツシャツ、ジャンパーを次々に着て行く悟郎を、華子は毛布から眼だけ出して眺めているきりで、手伝いに起きて来ようともしない。  テーブルの上に出ているウイスキーを水割りにして呑《の》む。喉《のど》が乾いていてうまい。悟郎は愛用のハンチングをつかむと美谷川華子の部屋を出た。  梅園荘《うめぞのそう》というこのアパートの玄関は外燈だけが灯《つ》いていた。入口は一晩中開いている。アパートとしては上の下くらいの所で防音装置も一応してあるし、一戸が三部屋くらいの割合でバス、トイレ、リビングキッチン付という近代的造りである。借り手は美谷川華子のような新進映画女優やファッション・モデル、それに高級バアに勤めているといった類《たぐ》いの階級である。普通のアパートのような隣近所の交際もしないらしいし、管理人も部屋を貸しているというだけで、居住者の生活にはノータッチを守っている。大内悟郎が美谷川華子と関係を持つようになってからの三か月、週に一度はこのアパートへやって来るのだが、いまだに管理人とも他の居住者とも顔を合わせたことがない。どの部屋も住み主がいるのかいないのか分らないほどひっそりしている。が、これは悟郎にとっても、美谷川華子にとってもむしろ幸いなことであった。大内悟郎は美谷川華子が所属しているK映画会社の助監督である。二人の密会が公《おおや》けになれば、れっきとした醜聞《スキヤンダル》の種だ、美谷川華子は目下、清純な娘役として売り出し中である。  タクシーが通らないので悟郎はぶらぶらと坂を下った。この辺は戦災を受けていないから宏壮な邸宅が多い。アルコールのせいもあって体がひどくけだるい。夕方からのバア歩きの他に角瓶《かくびん》を一本、彼女の部屋であらかた空けてしまっているのだ。  道玄坂を下って行くとTデパートの夜光時計がちょうど一時三十五分を指していた。さすがにもう人通りはない。渋谷駅を通り、宮益坂《みやますざか》を上って狭い裏道へ入った所に、梅園荘とは比較できないほどちゃちなアパートが寒々と星明りに浮いている。 「三崎荘」と表札の出ている入口を入って突き当りのドアの前で悟郎は郵便受の後を探った。ガシャリと冷たい感触が指に伝わる。部屋の鍵であった。一度上着のポケットに入れておいて失《な》くしてから、悟郎はもっぱら鍵を持ち歩くことを敬遠して郵便受の空間へかくしておく。部屋へ入って電気のスイッチをひねった。点《つ》かない。 「ちぇッ、球が切れたか」  酔いが全身に廻って立っているのも大儀である。男世帯《おとこじよたい》で敷きっぱなしの万年床《まんねんどこ》へ、悟郎は手探りでもぐり込んだ。  隣の部屋の時計が二時を打った。  大内悟郎が殺人容疑で逮捕されたのは翌朝、午前十時少し前である。 「大内悟郎さんの部屋に死体らしいものがあります……」  S署に急報したのは三崎荘の管理人であった。 「私が今朝、庭を掃除しながらひょいと見ると大内さんの部屋の窓ぎわのカーテンが開いています。珍しいことだ、もう起きたのかと……大内さんは活動屋ですから十時前に起きたことはかつてないようでした……何気なく窓に近づいて声をかけようと覗《のぞ》いてみますと、大内さんが部屋の真ん中に血だらけな人間を抱えて突っ立っていましたので……」  と管理人は後になってその時の情況を係官に説明した。  知らせを受けたS警察署の捜査係長以下五名が現場へかけつけ、管理人に合鍵でドアを開けさせてみると、大内悟郎は死体の上にまたがって、しきりと顔をゆさぶっていた。 「あまりのことで仰天《ぎようてん》してしまったもんですから……もしや生き返らないかと思って」  と悟郎はどもりどもり陳述《ちんじゆつ》したが、死体は絞殺した上に果物ナイフで心臓部を一突きにしてあった。白地の浴衣《ゆかた》に伊達巻《だてまき》を締めただけの白い胸のあたりがとっぷりと血に染っている。場所の割合に血が吹き出たふうでないのは絞殺後に刺したと見えた。  被害者の名前と身許を、大内悟郎は、 「加田京子、二十九歳、かなり前から親しくつき合っていました。六本木で姉さんと二人でアザミ美容室という店を持っています」  と答えた。  大内悟郎の身柄は本庁からの鑑識課員《かんしきかいん》が現場へ到着したのと入れ違いにS署へ連行された。そこで彼が初めて、自分が加田京子の殺害者として取調べを受けているのに気づいた。 「違う、俺が加田京子を殺したなんて、とんでもない誤解だ」  悟郎は必死で抗弁した。  昨夜は泥酔《でいすい》して帰り、そのまま朝まで熟睡《じゆくすい》したこと、眼が覚めてみると、部屋の隅に加田京子の死体があったこと、 「すぐ警察に届けるべきだったかも知れません。が、ぼくは動転してしまって……それにあの情況だとぼくが容疑者と思われはしないかと……」  取調べの係官は薄く笑った。 「加田京子殺害の容疑者になる資格が君にあるというわけだね」  悟郎はうなだれた。 「けれどぼくじゃありません。誓って言います。ぼくは昨夜、加田京子を殺しはしなかった」  悟郎は乱れた前髪を指ですくい上げた。 「君が昨夜、アパートへ帰ったのは何時頃かね」 「午前二時です、隣室の時計の音をうっすらと憶えています」 「午前二時……」  係官はちらと背後の椅子に坐っている高橋捜査係長をうかがった。 「昨日の夕刻からアパートへ帰るまでの君の行動を言い給え」  窓の下を都電の通る音がした。 「会社の仕事が終えたのが六時で、それから新宿へ出ました。一人です。歌舞伎町《かぶきちよう》でマドンナというバアで飲んで、もう一軒はしごをしました……」 「名前は……」 「角筈《つのはず》の近くでロデリゴという店です。そこを出たのが九時すぎで……」  悟郎は絶句した。十時に美谷川華子の梅園荘へ行く約束であった。二軒のバアはそれまでの時間つぶしである。十時から午前二時までの時間は完全に梅園荘の美谷川華子の部屋にいた。それは口外しかねた。恋人の名誉のためでもある。自分の立場からも都合が悪い。大内悟郎が師事《しじ》しているK映画の巨匠、今西監督が美谷川華子に思《おぼ》し召《め》しがあるのを悟郎は知っていた。 「ふん、黙秘権《もくひけん》かい」  係官は含み声で言った。 「プライベートなことはお答えしかねます」 「君の立場が不利になってもかね」  新刑法では被疑者は係官から供述拒否権のあることを告示される。自分に不利なこと、答えたくないことは言わなくてもよいわけだ。だが、それでは係官の心証を害することになって実際には損な立場に追い込まれがちである。悟郎は頑強に唇を結んだ。  捜査が進むにつれて大内悟郎の立場は次第に悪くなった。  三崎荘の居住者で、事件の当日、午後十時すぎに自分の部屋へ入った大内悟郎の姿をみかけたという男が現われた。二階に部屋を借りている雑誌記者で独身者《ひとりもの》である。 「その時、ぼくは十時三十分からのテレビドラマでどうしても仕事の上から見ておかなけりゃまずいのがあって、それを見るためにシブヤの喫茶店へ出かけるところでした。階段を下りて玄関へ曲る時に何気なく廊下を見ると、突当りの大内さんの部屋のドアが半開きになってハンチングをかぶった彼の後姿がちらと見えたので、ああ彼は今帰って来たんだなと思いました。別に声をかけたわけではありません……」  加田京子が大内悟郎を訪ねて来た時刻は、管理人の妻君が知っていた。 「ちょうど十時の愛の鐘が鳴ってる最中だから間違いっこありませんよ。私がしまい忘れた洗濯物《せんたくもの》を取りこんでいると、いつものようにすっと入って来て真直ぐに大内さんの部屋の方ヘ行きかかるんで、お節介《せつかい》かと思ったんですが、大内さん今日もまだ帰ってないんですよ、と言うと、いいんです、内で待ちますからって返事なんですよ。そうですかってんで私は引っこんじゃったんですけどね。部屋の鍵ですか、あの女《ひと》持ってるんじゃありませんか、大内さんからあずかってるでしょうよ。今までにだってよくそういうことがあったんですから……。大内さんとの間柄ですか、アパート中の評判ですよ。今年の春くらいまでは一日おきくらいに来ちゃあ泊ってくんですものね。洗濯から炊事《すいじ》まで、まるで女房気どりでしたよ。六本木の方でお姉さんと美容院やってるんですってね。いつ来る時も髪をきちんとセットしてきれいにお化粧してるんで、女優さんじゃないかなんて噂《うわさ》してたんですがねえ。近頃は大内さんの方が秋風立っていたらしく、ちょいちょい外泊したり、朝帰りだったりして待ちぼうけを喰わされてたようですよ。あんなきれいな娘さんをねえ、男って全く浮気なもんだから……」  大内悟郎の隣室は若い夫婦者だった。まだ女学生っぽい奥さんは係官の問いに赤くなりながら口重く応じた。 「あの晩、最初に大内さんの部屋へ入ったのは女の人だったようです。ハイヒールの音だったので……。いつもの女の人だと思いました……。それから三十分くらい経ってもう一人……。お帰りなさいって女の人が言ったようでしたから、確か大内さんじゃないかと思います。それからずっと二人でしゃべっている風でした。女の人は泣いていたような感じでした。いえ、別に立ち聞きしてたわけじゃありません、なにしろ壁一重ですから、会話は分りませんけど……。十一時頃でしたかラジオをかけてました。音楽です。それが終って静かになって……。うちも寝てしまいましたから……」  午前二時に帰って来たという大内悟郎の言葉を裏付けるような証言は誰からも出なかった。朝の早い勤人の多いアパートの住人は、せいぜい十二時までぐらいしか夜更《よふか》しをしない。つまり、加田京子は午後十時から翌朝の発見時までの間に大内の部屋で殺されたことになる。解剖《かいぼう》による推定死亡時刻は午後十一時から午前三時頃までと発表された。この時刻に大内悟郎が他にいたというアリバイがない限り、彼の立場は絶対に不利である。大内悟郎がとうとう包み切れずに美谷川華子との情事を告白したのは事件から二日目のことであった。  刑事はすぐに美谷川華子の許へとんだ。彼女はきっぱりと否定した。 「大内さんとは仕事の関係で顔を合わせることはありますが、個人的なおつきあいなんて、……お茶をのみに行ったこともございませんワ。まして私のアパートへいらっしゃったことなぞ……」  迷惑を露骨《ろこつ》にした。 「あの晩は、たしか風邪気味で早寝をしたはずです。困りますわ、そんな根も葉もないことを……」  梅園荘へ聞き込みに行った刑事もその晩、美谷川華子の部屋へ大内が訪ねて来たという確証はあげられなかった。大内悟郎の顔を梅園荘の誰もが知らないのである。  撮影所で集めた噂も否定的だった。 「今、人気の上り坂にいる美谷川君が大内君なんか相手にするもんかよ。女優ってのは案外計算高いもんだからね……」 「今西監督と醜聞《スキヤンダル》なら、まあね」  事実、撮影所内の者で美谷川華子と大内悟郎が特別親しげだったという者は一人も出て来なかった。念のため美谷川華子とライバルの立場にある新進女優を当ってみたが、今西監督といい仲なのではないかという推定を強調する以外に大内の線はどうしても出て来なかった。 「もし、大内さんの言うのが本当だったら、二人はよっぽど上手《うま》くやってたんですね」  S署へ戻って来た石川刑事は疲れ切った顔で南部長刑事に報告した。 「すると、大内は窮《きゆう》するの余り、当てずっぽうを言ったか、それとも美谷川華子に怨《うら》みでもあって巻き込もうと考えたか……」 「昔、彼女に小当りに当ってふられたんじゃないのか、女にはだらしのない男らしいからな」  煙草《たばこ》をふかしていた古参の霜井《しもい》刑事が苦笑まじりに言った。 「だが、美谷川華子の立場から言えば、事実その時間に大内が自分の部屋に居たとしても否定する他はあるまい。人気女優にとっては致命的なスキャンダルだからね」 「自分の恋人の一生を左右する大事でもですか」  若い石川刑事は唖然《あぜん》とした。 「真実、惚《ほ》れ抜いていれば別だがね。ま、今どきの若い者は……」  霜井刑事は語尾を呑んだ。 「しかし、それが後で発覚したら、具合の悪いことになるでしょう」 「女は目先のことしか考えていないものだよ。まして芸能界の女はね……」  南部長刑事は調書に目を落した。 「とにかく、大内のアリバイは一応ないことになるね」 「ですが、私はどうも大内がクロだとは思えないのですよ」  煙草を灰皿にこすりつけながら霜井刑事がぽつりと言った。 「君は犯行の動機が弱いというんだね。だが、もののはずみということもある……現場の情況も大内に不利だ」  加田京子は浴衣《ゆかた》に伊達巻という恰好で死んでいた。着て来たワンピースとピンクのカーディガンはハンガーにかけて部屋の隅につるしてあった。白地の浴衣は彼女が寝巻として持って来たものと判断された。ちょうどそれくらいの大きさの風呂敷包を抱えていたと、生前の彼女を目撃した三崎荘の管理人の妻君が証言している。以前からよく泊っていったという間柄であれば、この用意は至当でもあった。  きれいに結い上げた髪はピンクのネットで包んでいた。加田京子は完全な寝仕度である。眠っている所を絞殺されたようであった。顔に苦痛はほとんどない。絞殺に使ったのは革《かわ》のベルトである。三センチくらいの幅の赤い女物で加田京子がワンピースに締めて来たものと姉の加田信子《のぶこ》の証言で判明した。このベルトは部屋の隅に落ちていた。一息に強く絞めたらしく死体は顔面鬱血《がんめんうつけつ》、眼瞼眼球結膜《がんけんがんきゆうけつまく》に溢血点《いつけつてん》が著しい。  心臓を刺した果物ナイフは死体のそばにころげていた。大内悟郎の申し立てによると心臓部に突き立ったままであったのを、彼が夢中で引き抜いたのだという。ナイフから検出された指紋は大内悟郎のものしか出ない。  大内の部屋に残された加田京子の持物はピンクのハンドバッグと靴、コート、それに口紅が一本、死体の脇の布団《ふとん》の下から出てきただけである。 「酷《むご》い殺し方ですね」  調書をのぞいていた石川刑事が改めてため息をついた。痴情《ちじよう》による犯行という匂《にお》いが濃《こ》い。  六畳一間きりの大内悟郎の部屋は中央からやや壁寄りに敷きっぱなしの布団があり、それと壁との空間に死体があったのだという。つまり大内の自供が本当だとすると、彼は死体と背中合わせで一夜を過したことになる。 「血の匂いがしたでしょうにねえ」 「彼は酔っていて気がつかなかったと言っているよ」  霜井刑事は新しい煙草に火をつけながら石川刑事に言った。  夜具の枕許に灰皿が一個、吸いがらが山積みになっている。その中に吸い口に口紅のついたのが一本。 「吸口から検出した唾液《だえき》の血液型が被害者の血液型と同じA型なんで被害者が吸った物と鑑識《かんしき》されている。口紅の色も死体の唇の紅と同じなんだ」 「被害者は煙草を吸うんですか」 「姉さんの話だと人前では吸わないが、一日に三、四本は、ということなんだがね」  南部長刑事はゆっくりと調書を閉じた。 「被害者の姉さんという人は以前はK映画のニューフェースだったんだそうだ。おそらく大内と加田京子のつながりは、その線からきたものだろうが……」 「部長《ぶちよう》」霜井刑事は淡々とした口調で言った。 「ぼくと石川君とで、もう少し被害者の身許を洗ってみたいと思いますが……」  六本木の通りでバスを下りた。  黒い塀に白いペンキでギターだのテレビ、ラジオ、時計、電気スタンドなど質入れ品を描いた質屋の広告が奇抜《きばつ》だった。  電車通りを横切ると花屋の店先が明るい。菊の花が多かった。季節でもある。  足の長い石川刑事は小柄な霜井刑事と歩幅を合わせてゆっくりと歩いた。狭い道をいくつか折れると渦巻状になった美容院独特の円いネオンが見えた。普段なら渦巻が青く、くるくると渦を巻いて動く仕掛になっているのだが、電気が止めてあるらしくひっそりと静止している。横書きで「アザミ美容室」の六文字がピンク地に黒く書いてある看板《かんばん》が出ている。入口は白いカーテンが下りてしまっていた。近づくと「本日休業」の張り紙が出ている。二人の刑事は裏へ廻った。  水道の水音がしている。赤い水玉のエプロンをした若い子が皿小鉢を洗っていた。入って来た男達に怪訝《けげん》な眼を向けた。  石川刑事がポケットから手帳を出して娘にしめした。 「警察の者ですが、加田信子さんはおいでですか……」  加田信子は京子の姉の名である。  娘はみるみる頬をこわばらせた。慌《あわ》てて奥へ入った。すぐに引き返して来て、 「どうぞお上り下さい」  という。台所の横に小《こ》ぢんまりとした玄関があった。美容室と住いとが一緒になっている家がまえである。  通されたのは六畳の日本間である。調度が女住いらしい。加田信子が出て来た。化粧気のない青白い顔である。短かく切った髪が乱れていた。美容師だというのにパーマもろくにかかっていない。石川刑事はふと「紺屋《こんや》の白袴《しろばかま》」という諺《ことわざ》を思い出した。 「どうも度々《たびたび》、お邪魔して申しわけありませんが……」  霜井刑事は瞼《まぶた》の重たげな眼を上げて挨拶した。 「今日はお店は休みですか」  信子はちらとカーテンで仕切ってある店の方へ眼をやってうなずいた。 「なんですか、まだ落着いて仕事をする気になれませんのです。生活のこともありますから、そういつまでも休むわけには参りませんのですけれど……」  薄手のウールの和服に地味な帯を締《し》めている。痩《や》せとがった肩が痛々しかった。 「ごもっともです……」  霜井刑事はありふれた応じ方をした。 「あの男……大内はまだ白状しませんのですか……」  信子が訊いた。強い訊き方であった。忘れかけた怒りが急にこみ上げてきたという風である。 「犯行はあくまでも否認していますよ。アリバイははっきりしないのですがね」  霜井が抑揚《よくよう》のない調子で答えた。 「まあ、ふてぶてしい。盗《ぬす》っ人《と》たけだけしいとはあの男のことです。さんざん妹を弄《もてあそ》んで、あげくの果はこんな酷《ひど》い……」  鼻をつまらせた。 「もともとは、私が悪かったんです。あんな男と知ったら妹を紹介なんかするんじゃありませんでした……」 「大内とは貴女《あなた》がニューフェース時代からのおつき合いだそうですね」  信子はハンカチで眼と鼻を軽く拭《ふ》いて肯定した。 「そうなんですの。私がK映画のニューフェース募集に応募してパスし、あれは三本目でしたかしら、主役じゃありませんけどかなりな大役をつけていただいて、しかも今西先生のお作ですから嬉しいより怖《おそろ》しいって気持でした。緊張しすぎてNGばかり出して、ノイローゼ気味だった私を、何かにつけて親切にしてくれたのが大内悟郎なんです。あの頃もう助監督になっていました。撮影が完了してからも友達づき合いを続けて、妹と二人っきりの私の家へも、ちょくちょく遊びに見えるようになっていたんです……」 「失礼ですが、御両親は……」 「歿《な》くなりました。広島の原爆で……。私と妹だけが生き残ったのですけれど……」  終戦後、知人がバアを経営していて、手伝い方々上京しないかと誘ってくれたのを頼りに東京へ出て来たのだという。 「私はバアの女給もしましたし、ニューフェースとして芸能界の裏道も歩きました。けれど妹だけは堅気に幸せな結婚をさせたいと思って美容学校へ入れ、美容師の免状も取らせました。これからの女は何か手に職を持たなければいけないと思ったからです。それなのに大内なんていう男に……」 「妹さんと大内との間柄に気づかれたのは何時頃《いつごろ》のことですか」 「もう四年ほどになります。最初は私、反対致しました。けれど反対すればするほど、妹の恋は強くなってしまいました。どうしても大内と結婚するのだと申してききません。その頃、私はお世話して下さる方があって女優をやめ、この店を持たしてもらいましたので生活も一応、安定していましたから、妹がそれほどに思いつめているのなら立派に嫁入りさせてやろうと考え、仕度も致しました。けれど大内は妹と同棲《どうせい》みたいなことをして三度も子供を堕《おろ》させたりしたくせに、一向、正式に籍を入れてはくれません。妹も一度は愛想をつかして私の許へ帰って来て店を手伝ってくれたのですが、昨年、大内が渋谷のアパートへ引っ越してくるとまた、よりが戻って一日おきぐらいに逢っていました。忠告しても無駄なのでつい見て見ぬふりが続いて……」 「大内が妹さんに別れ話を持ち出したということですが……」 「ええ、今年の五月頃からのことです。他に女ができたらしく、妹に別れてくれと言ったそうです。妹は死んでも別れてやらないと冗談らしく言っておりました。今にして思えば、そんな妹の一途《いちず》さが命取りになったのでございましょう……」  ハンカチを握りしめたまま続けた。 「それに、大内はよく妹に申したそうです。K映画という所は封建的だから、いくら才能があっても上がつかえている限り一本立の監督に昇進することができない。まごまごすると一生うだつの上らない助監督勤めだ。それが嫌ならスター級の女優と結婚することだ。うまくいけば尻についてのし上れるし下手にいってもヒモで喰っていけるなど……」 「大内が最近親しくしているという女の名前など、心当りはありませんか」 「さあ、さすがに大内も新しい恋人の名までは妹に打ち明けなかったようです。なまじ知らせて妨害でもされてはと要心《ようじん》していたのでしょうか……」 「美谷川華子との交際については……」 「知りませんでした。私も妹も……。美谷川さんはもっとも、私と同期のニューフェースでしたから、そういう意味では知ってますけど」  加田信子はそこで妙な含み笑いをした。 「あの方、最近になって娘役で売り出したので、随分お年齢《とし》を若くおっしゃってますけれど、たしか妹と同い年でしたから、もう二十九歳になっているはずですわ。小柄な方はいつまでも若く見えますからお得ですわね」  霜井刑事は日射しに目を細めて窓ぎわに乾してある数枚のネットを眺めた。ピンクやブルーや藤色である。ナイロンの糸であんだ三角形のネットは商売用のものと見られた。髪をセットしてドライヤーに入る時、このネットでピンカールした頭をすっぽり包むのだということは、知識として霜井刑事は妻から知らされていた。加田京子の髪を包んでいたのもこれと同じピンクのネットであった。店の品を彼女は夜の髪の乱れを防ぐ目的に使用したと思われる。  細い眼を穏やかに相手へ向けて、霜井刑事は別に訊いた。 「妹さんの殺害の動機ですが……ま、別れたいという大内に対して妹さんが執拗《しつよう》に否定したため、つい酒の勢いもあってと、推定されているんですが、これについて貴女のお考えは……」 「大内は酒を呑むと前後の見境いのつかなくなる男でした。それに……身体の弱い妹をもて余していましたし、妹も意地になり過ぎていました。それだけ妹は真剣に大内を愛していたのかも知れません。三十近い女のあせりの気持もありましたでしょう……」  信子はハンカチに眼を落としたまま低く答えた。そういう彼女自身、すでに三十をいくつか越えているはずである。妹の不安定な心理はそのまま彼女にも当てはまる。  アザミ美容室の出資者であり、彼女のパトロンだった土建屋は三年前に死亡したという話を霜井刑事は思い出した。 「まことに何度も恐縮《きようしゆく》ですが、事件当夜、妹さんの出かけられた時刻や、様子などについてお聞かせ願えませんか」 「はい、それは……」  信子は考える眼をした。 「妹が出かけましたのは九時すぎでした。ちょうどその晩は遅くまでお客様があって、セットが仕上ったのが八時頃、後片づけやなにかで九時近くなってしまいました。手伝いに来ている子、はあ池上君子といいます。家は四谷《よつや》で、まあ一人前の美容師になる気で店でインターンみたいな実習の勉強をしているんですけど、その子を帰してやって、妹と二人で銭湯《せんとう》へ行くつもりでした。そうしましたら京子が大内のアパートへ行くと申します。この間中から何度もすっぽかされたり、冷い扱いをされているのを聞いていましたので、どうせ行ってもまた留守じゃないの、と言いますと、妹はどうしても言ってやりたいことがあるから、今日は帰ってくるまでアパートで待つのだと勢い込んでおります」  嘆息と共に細い眉をしかめた。もう何度も同じ質問を取調べの係官や刑事から受けていた語り馴れた風であった。 「止めても訊く妹ではありませんので放っておきますと、間もなく妹は浴衣や伊達締めを包んだ風呂敷をかかえて出て行きました。私はそれから洗い物をして、しばらく本を読んだりしていましたが、なんだか身体がねとねとするようで気持が悪いので店を締めて一人で銭湯へ行きました。あいにく行きつけの松の湯が休みで、坂上の弘法湯《こうぼうゆ》まで参り、戻って来てすぐ寝てしまいました。十二時前だったと思います。妹はどうせ大内のところへ泊ると思っていましたから……」  障子《しようじ》のかげから君子という、先刻、台所にいた女の子が遠慮がちに声をかけた。なにかの集金らしい。信子は鏡台のひき出しから財布を出して渡した。 「この鏡台は……」  霜井刑事は赤い鏡台掛のかかった日本風な鏡台を見て言った。三面鏡ばやりの今日では珍しく古風な形だ。 「御姉妹で兼用ですか」 「いえ、妹のですわ」  信子は苦笑した。 「私は、あまりお化粧には縁がないものですから、あんな小さなもので充分、間に合ってしまいます」  箪笥《たんす》の上に姫鏡台《ひめきようだい》が別にあった。ブラシと櫛《くし》とコールドクリームの瓶《びん》がのせてある。 「妹さんの鏡台を拝見してもいいですか」  霜井刑事が珍しげに鏡台をのぞいたので石川刑事は妙な顔をした。女の色気がほのぼのと匂って来そうな鏡台と、無精髭《ぶしようひげ》の生《は》えた霜井刑事の顔との取り合わせはひどく可笑《おか》しなものだった。信子はどうぞとうなずいた。刑事の物好きと見たらしい。台所へ立って行った。茶をいれている。  鏡台のひき出しは三か所あった。そのどれにもぎっしりと化粧品や化粧道具がつまっている。  加田京子はお洒落《しやれ》だったらしい。アストリンゼントや乳液やクリームなどが、それぞれ三種類ぐらいずつある他に粉白粉も数種類ある。霜井刑事は、いちいち蓋《ふた》を開けて見た。頬紅も練紅と粉のとがある。アイシャドーは茶、灰色、紫《むらさき》、緑、ブルーと五種、眉鉛筆《まゆえんぴつ》が茶と黒と二本。マスカラという睫毛《まつげ》を染めるものや瞳毛をカールする道具などもあって刑事を途惑《とまど》わせた。  出された番茶をお義理で飲み、霜井刑事と石川刑事はアザミ美容室を辞去した。靴の紐《ひも》を結びながら、霜井刑事はふと思い出したという様子で聞いた。 「妹さんは体がよわかったとおっしゃったが、どこか悪かったのですかな」  信子は視線を伏せて低く言った。 「どこと言って……ただ……三度も妊娠中絶を致しましたので……」  表へ出ると秋の陽が暖かかった。通りへ出る角に煙草屋《たばこや》があった。五十年配の女が割烹着《かつぽうぎ》をかけたまま猫を抱いて居眠りをしている。霜井刑事は近づいて窓ガラスを軽く叩いた。 「煙草を下さい」  女は眼を開けて愛想《あいそ》笑いをした。 「なにをあげます」 「いこいを二個」  代金を払うと霜井刑事は、すぐその一個の封を切った。 「すみませんな。マッチありますか」  女は、はいはいと気軽くマッチをすってくれた。霜井刑事はふっとうまそうに煙を吐き出すと、石川刑事に勧《すす》めた。 「いただきます」  石川刑事は自分でマッチをすった。霜井刑事がなんとなく煙草屋のお内儀《かみ》と世間話をしているのを注意深く聞いた。この先輩のやり口に興味を持ちはじめていた。 「そう言えば、この下の美容院でしたね。妹さんが渋谷の方のアパートで殺されたってのは……」 「そうなんですよ」と相手は調子よく応じてきた。 「なにしろ気の毒なことで、あの美容院もこの春からロクなことがありませんよ」 「まだ、なにかあったんですか……」 「ご存知ないんですか、まあ男の方には縁のない話ですがね。コールドパーマをかけたらお客さんが丸坊主になりましてね。え、古いお客さんでね、お姉さんとは個人的におつきあいもあった人なんですよ。それをまあ話の行き違いってんですか、うまくいかなかったんでしょうね。新聞にまで、でかでか出ちゃったんですよ……」  霜井刑事は思い出した顔を大袈裟《おおげさ》にした。 「そう言えばそんな事件がありましたな。うちの女房なぞもあの当時はパーマ恐怖症になってましたが……」 「そうでしょう。店じゃなんの手違いもないし、薬液も不良品じゃないという証明をして結局、お客さんのその時の体具合のせいだということになったんですがね、いい気持のものじゃあありませんよ。髪の毛が抜けちまったんじゃ、体裁《ていさい》悪くて外も歩けませんしね」 「丸坊主って、くりくり坊主になったんですか」 「四谷怪談のお岩さんの髪すきの場みたいなもんですってよ。櫛《くし》でとかすとベロリと抜けちまってね。一か月もしたら新しいのが生えて来たそうですけど、それまでが大変でね、美容院に罪はないって言ったってそりゃ人情でね。随分|怨《うら》んでましたよ」  煙草屋のお内儀《かみ》は猫の背をなでた。白い毛が艶々《つやつや》している。手入れが行き届いていた。 「髪のことだと、女の怨みは執念深いですからね」 「その人はこの近くの方ですか」 「ええ、S町ですよ。ここから三つ目の横町を入った左かたの、白い石の門の家の奥さん、まだ若い、きれいな人ですよ。奥さん自身より御主人の方がすごく腹を立てたって話ですけどね……」  霜井刑事は適当に話を打ち切って歩きだした。花屋の前まで戻って来て言った。 「石川君、今の話、どう思う?」 「…………」 「直接、今度の事件に関係があるとはもちろん、思えないが、古くからの交際なら何か聞き出せるかも知れんな」 「一応、当ってみますか」 「行くだけ行ってみるか、それと、君はすまないが松の湯と弘法湯を廻ってくれないか、念のために当夜の信子の足取りだ」 「そうしましょう」 「おそらく、はっきりしたことは分らんだろうが……報告は署へ戻ってからだ」  二人の刑事は眼を見合わせて交通信号を別に渡った。  が、収穫はどちらも大したものはなかった。  アザミ美容室でパーマをかけ、丸坊主になってしまったという西原明子《にしはらあきこ》(三十二歳)は霜井刑事にこう答えた。 「加田信子さんとの交際ですか、ええ広島で女学校が一緒でした。私の伯母が東京で戦前からバアをやっておりまして、戦後も銀座へ復興したのは随分早かったんです。信子さんが上京して来て二年ばかりそのバアヘ動めてました。紹介したのは私です。その頃は親友でしたから……。パーマのことですか。あんなこと、もう何とも思ってはおりません。その時は随分ショックでしたけれど……信子さんとお交際《つきあい》しなくなったのはパーマのことだけではありませんの。もっと根本的にいろいろなことがあって……あの姉妹は本当に身勝手な人達なんです。それにとてもひがみっぽくて……こんなことを言っていいか分りませんけども、信子さんって胸の下にもの凄いアザがあるんです、左の乳房《バスト》から腹部にかけて三十センチ四方くらいの……。それで正式な結婚もなさらず、ああやって自活してるんですけどね。そりゃ、バアに勤めてた時も、女優さんになってからもパトロンや恋人は何人かあったようですわ。でも、そのアザが解ると大抵、駄目になったんですよ。信子さんは随分、用心深くかくしてましたけど、やっぱり解っちゃいますからね。赤茶色い、松の皮みたいなんですもの、その部分だけカサブタみたいに盛り上って、毛まで生えてるんですよ。悪いけど、そりゃ気持が悪くて……」  殺害された京子についてもあまり好意のある様子はなく、 「神経質な人でしたわ。お化粧道具でもなんでも人が触っても嫌だという性質で、櫛一つ貸すのでも人が使ったのは紙で拭いて熱湯で消毒して……。二度と借りる気にならないと肉親の姉さんでさえ言うくらいですもの。殊に髪のことったら大変、風が吹いたっては気を使い、人が触ったっては鏡をのぞくんですよ。いつもきちんとおくれ毛一つないように結い上げておかないと気がすまないんですって、美容師って職業はまさにうってつけだと思いましたわ。三日にあけずシャンプーはする、私なんかせいぜい夏でも五日に一度ですのよ。夜、寝る時はきちんとピンで止めてネットをかぶって、そりゃ仕度が大変ですの。あれじゃ旦那様になる方はお気の毒ですわねって、私いつも噂してました。広島で戦災に遭《あ》った時ですか、私と信子さんとは動労動員で郊外にいました。京子さんは確か市内の学校に居たんですけど、もちろん、爆心地からはかなり離れてましたし京子さんは偶然長い石塀の脇にいたので、かすり傷一つ負いませんでした。でも京子さんは放射能を受けていて、いつか発病するのではないかと不安がっていたようです。もっともあの人の病気はほとんどが気分的な原因によるものらしく、ちょっと風邪を引いても肺炎《はいえん》になるのではないかなどと大さわぎしていましたわ。しまいには周囲が相手にしませんでしたけど……」  石川刑事の聞き込みは一層、徒労に近かった。事件当日、松の湯は確かに休業、弘法湯の方はそのため凄い混雑で、お馴染さんでもなければ到底《とうてい》、顔など憶えていないという。 「御苦労だがもう一度、行ってくれないか。胸に松皮みたいな大きな茶色のアザのある女だと……番台で分らなければ十一時前後に来た客を探して手繰《たぐ》ってみてくれ」  間もなく石川刑事は勢い込んで帰って来た。 「加田信子は間違いなく当夜、十一時過ぎに弘法湯へ来て三十分ばかりで帰ったそうです。番台に胸のアザのことを言うと、すぐに思い出してくれました」 「そうか十一時すぎねえ……」  霜井刑事は深々と腕を組んだ。 「霜井さんは、なにか加田信子に不審な点があると考えておられるんですか」  石川刑事の質問に霜井刑事はかすかに首をふった。 「不審というわけじゃないんだが……」  語尾をにごして霜井刑事は立ち上った。 「飯《めし》でも食《く》いに行こうか」  外はもう夜であった。土曜日の夜で繁華街《はんかがい》はかなりの雑踏《ざつとう》である。交差点《こうさてん》では長く待たされた。車のラッシュアワーでもある。角の化粧品店で派手な宣伝の声が聞えた。若い娘が群っている。ポスターをみると口紅の広告であった。ローマンピンクとやたらに書いた文字が派手である。青信号を待つ間に何気なく眺めていた霜井刑事が、急につかつかと化粧品店へ入って行った。ずらりと並んでいる口紅のサンプルを指さしてきいたものだ。 「これ、みんな口紅ですな……」  店員はあっけにとられた。 「色は何種類くらいあるんです?」 「会社によって違いますけど、十種類前後ございます」 「一人の人間が幾種類かの色を使うものですか」  宣伝に集っていた娘たちの中から笑い声が洩《も》れた。店員も可笑《おか》しさを噛み殺している。 「一人の方でその時のお化粧や服装に合わせて口紅の色を変えるのが本当のお洒落《しやれ》だと申しますが、大抵の方は自分に似合う色を一色お定《き》めになっているようです。もちろんその時の流行色というのもございますが……」 「いや、ありがとう」  霜井刑事は大股《おおまた》に戻って来ると、せかせかと言った。 「すまないが、もう一度署へ戻ってくれないか、妙なことに気がついたんだ……」  折角の青信号を背にして歩きだした。石川刑事は黙って後に従った。 「君、加田京子の鏡台にあった口紅はピンクだったね」 「はあ」  石川刑事は金色のキャップのついた口紅を思い浮べた。白っぽい、薄色のピンクである。 「被害者の、加田京子のハンドバッグの中に入っていた口紅もあれと同じピンクだったんだ。にもかかわらず死んだ時の加田京子の唇の紅の色はオレンジに濃く塗ってあった」 「しかし、あれは死体の脇の布団の下に変色《ツートン》のオレンジ色の口紅が落ちていましたから」 「あの口紅が果して加田京子のものだっただろうかということだ。あの日の加田京子の服装はコートがピンク、靴もバッグもピンクだった、お洒落な彼女のことだ。当然口紅もピンクだったと推定すべきじゃないか。もしかりに、加田京子がピンクとオレンジと二本の口紅を持って来て寝る前に塗り変えたという見方もできないことはない。だが、女が寝る時にわざわざ口紅を塗る、しかもあんなにこってりと濃くつけて布団へ入るものだろうか」  霜井刑事の細い眼がキラと輝いた。 「もし、あのオレンジ色の口紅が加田京子のものでないとしたら……。京子の後から大内の部屋へ入った者があるわけだ。オレンジの口紅を持っていて、京子があの時間に大内の部屋にいるのを知っている人間、京子が首にベルトを巻かれるまで気がつかないような相手……」 「しかし……まさか真実の姉が……」 「そのまさかが盲点になっていたかも知れない……」  石川刑事は緊張で青ざめた顔を上げた。 「アザミ美容室の女の子、池上君子を当ってみましょう。加田姉妹の口紅の色を彼女なら知っているでしょう」 「む、例のオレンジの口紅のケースに見憶えがあるかも知れないぞ……」  石川刑事に連れられてS署へ出頭した池上君子は不安に怯《おび》えながらも、しっかりした口調で証言した。 「殺された京子さんは口紅の濃いのは唇が厚いので似合わないといって、いつも淡いピンクばかり使っていました。信子先生の方は事件後はまるでお化粧もなさいませんが、以前は変色《ツートン》のオレンジをうっすらとつけていらっしゃいました」  霜井刑事は池上君子に、例の殺人現場に落ちていた変色の口紅のケースを見せた。さすがに胸の鼓動《こどう》が早くなっていた。 「よく見てくれないか、見憶えはないかね」  一目見て彼女はずばりと言った。 「信子先生のものです」 「なぜ……なぜ、わかるんだ……」  思わず声が上《うわ》ずっていた。池上君子は口紅のキャップの上を指した。 「ここにNの字が彫ってあります。信子先生と京子さんとは同じ会社の口紅を使っていらっしゃるのでキャップが同じで見分けがつかず間違えて触られると嫌だと京子さんが、ピンでキャップの上側に信子先生のはN、京子さんのはKとしるしをつけておかれたんです……」  キャップに刻まれたNの字は小さな下手《へた》くそなもので、キャップ全体に模様として彫られている花形にまぎれて、それと言われてみなければ到底、判別できぬようなものであった。  加田京子のハンドバッグにあったピンクの口紅のキャップにも同じく小さなKの字が認められた。  深夜のS署は俄《にわ》かに色めきたった。  直ちに六本木の自宅から連行されて来た加田信子は例の変色の口紅を見せられると、小さくあっと叫び、それからがっくりとうなだれて静かな声で言った。 「私が妹を殺しました……」  加田信子が妹を殺害した動機は嫉妬《しつと》であった。大内悟郎は信子にとって生れてはじめての恋人だった。彼女は身も心も捧げつくしてひたむきに彼を愛した。しかし、間もなく彼は信子の秘密を知った。胸の凄いアザである。男は冷たくなり、信子は身の因果に泣きながらも諦《あきら》めようと努力した。が、大内悟郎の新しい恋人が妹の京子と知って信子は蒼白になった。驚き、悲しみ、嘆きにと彼女の悩みは深刻に長く続いた。 「妹は私と大内との関係を知っていたのでございます。姉さんには悪いけれど、どうにもならないと泣いて申しました。そんな妹が憎く、それでいて不愍《ふびん》でございました。私はどうせ人並みな身体ではないのだから、せめて貴女だけは幸せになって欲しい、貴女の幸せのためなら一生に一度の恋でも諦めると口先では申しながら、私はやっぱり大内が忘れられませんでした。妹が大内と別れて戻って来た時の嬉しかったこと……愚かな女でございます。妹と大内との間に再びよりが戻ったとき、私は妹に今度こそきっぱり別れるようにきびしく申しました。あんな男と一緒にいては妹の人生はめちゃめちゃになると思いました。本心から妹を案じての言葉のつもりでございましたが、妹は私を蔑《さげす》んで言いました。姉さんは大内が好きだから、それで私に大内と別れろと勧めるのだと、また、大内が寝物語に信子もあのけだものじみたアザさえなければと笑ったと申しました。それを聞いた時の私の口惜しさ。怒りで体中がふるえました。私がはっきり大内を怨み、妹を怨むようになったのはこの時からだと思います」  事件の夜、例によって京子がアパートへ泊りに出かけてしまった後、信子は居ても立ってもいられない激しい衝動に襲われた。思うまいとしても妹と大内の痴態《ちたい》がなまなましく連想される。妄想が妄想を生んで、信子はいっそ二人を殺してとまで思い込んだ。醜いアザを身体に持っているという劣等感で無理に圧《おさ》えつけてきた嫉妬が彼女を狂気にさせていた。ズボンをはきスーツの上着を着た。台所から果物ナイフを持ち出し、夢中で表へ出た。渋谷まで出て道玄坂の通りで洋品屋へ寄り、男物のハンチングを買った。 「意識して犯行をくらますために変装しようと思ったわけではありませんが、心のどこかにそんな考えがあったのかも知れません。大内のアパートは前に一度、訪ねたことがございました。妹と別れてくれと申しに行ったのでございます。その時は、大内は私の身体を着物の上からなめ廻すように見て、京子の胸にあんたのような凄い代物《しろもの》があれば、今日にでも別れてやると、笑いながら申しました。私が大内のアパートを訪ねるのは、二度目でございました。ドアを開けると京子は浴衣に着替えて布団に横になっておりました。壁の方をむいたまま、お帰りなさい、と言います。私を大内と間違えたようでした。大内が留守と知って私の昂《たか》ぶった気持も少し落着いたと思います」  信子は改めて京子に大内と別れるよう説得した。京子は鼻の先で笑った。 「うるさいわね、姉さん、もうすぐ大内が帰ってくるわ、邪魔だから帰ってちょうだい」  あげくの果てに言った。 「いくら姉さんが大内に惚れたって駄目よ。大内は言ったわ、姉さんのアザに触った時、まるで熊を抱いたような嫌な気持になったって」  信子は赫《か》っとした。肉親の妹の唇《くち》から出た言葉だけに一層、鋭く胸に突き刺さった。京子はラジオのスイッチをつけ、横になって眼を閉じた。浴衣の胸が少しはだけ、白い首筋から胸もとがのぞけた。女盛りの豊かな胸であった。信子の手が発作《ほつさ》的に落ちていた赤い革ベルトを掴んだ。 「気がついた時、妹は眼をむいて死んでいました。生き返るのが怖しいようで、私は革ベルトを取り、果物ナイフを妹の胸に突き立てました。一つにはこういう酷い殺し方をすればかえって肉親の犯行とは思うまいと考えたからですし、もう一つはしみ一つない妹の胸の白さがねたましく、憎かったのです。果物ナイフを掴む時は指紋を残さぬように手袋をしました。完全に息の絶えた妹の顔は青白く怖しいようでした。その時になって私は急に妹があわれになりました。妹だって結局は浮気な男にもてあそばれたかわいそうな女なんです。私は妹の顔に白粉をはたき、口紅を引いてやりました。せめてもの死化粧をお洒落だった妹のためにしてやったのです。それから大内が帰って来てもなるべく死体の発見が遅れるようにと思って電球の線を切り、ラジオを消して部屋を出ました。鍵をしめ、それを郵便受の後へ入れました。このことは妹から聞いていたので無意識のうちにしたようです。足音をしのばせて外へ出るまで誰にも会いませんでした。ハンチングを捨て、表通りからタクシーを拾って帰りました。タクシーは六本木で捨てました。銭湯へ行ったのは一度、家へ寄ってからです……」  信子は大内悟郎を犯人に仕立てるまでは考えていなかったのだが、結果がそうなってくると、神様の思《おぼ》し召《め》しだと思った、と言った。 「神様のお裁《さば》きだと思います……」  彼女はしらじらとした表情で、はっきり言い切った。 「女の犯行らしく、ずさん極まるものなんだが、偶然が都合よく集ったので晦《くら》まされたんだな。それと、やっぱり肉親の姉という盲点だろうね。大内悟郎が信子との交渉を黙っていたのも悪かったが、彼にしてみればまさか姉が妹を……と思いもよらなかったらしい。信子という女は内攻性なんだね。大内にしても京子にしても、信子があれほどの怨みを抱いているとは少しも気づいていなかった。大内なんか妹のことを案じてくどくど言うだけの善良な、諦めのいい女とばかり思っていたというんだ。確かに外見はおとなしそうな、ありふれた女なんだからね」  事件が一応、落着いてから霜井刑事は石川刑事にしみじみと言った。 「三崎荘の二階の雑誌記者が、部屋へ入る大内悟郎の後姿を見たと言ったのは、ズボンをはいてハンチングをかぶった信子だったんですね」 「それが笑い草なんだ。あの雑誌記者の奴、強度の乱視と近視なんだとさ……」  それにつけても人間の眼なんて当にならないよ、と霜井刑事は繰り返した。 「あんな平凡な女が、自分の殺した妹の死顔へ化粧し口紅を塗っている図を想像しただけで凄まじいね」  死化粧という女らしい心づかいと凄惨な犯行と、それが全く同じ人間の手でほとんど同時に行われた事実が霜井刑事には不可解であった。しかも、その死化粧の口紅一本が発覚の端緒《たんしよ》となったことも因縁《いんねん》がましい。信子はオレンジの口紅をハンチングと共に捨てたとばかり思っていたそうだ。それと、これも後で判ったことだが、灰皿に残っていた口紅のついた煙草は加田信子の吸ったものであった。彼女の血液型は妹の京子と同じA型だったのである。 「美谷川華子にしたってそうじゃないか、自分の恋人が殺人犯になるかならないかという瀬戸ぎわにだよ、自分の名誉にかかわる、都合が悪いという理由で事実を平然と否定する。それで恋人が無実の罪で死刑になったとしても、人気スターの座には代えられないという了見だ。女という奴は怖いねえ……」  霜井刑事がゆるく煙草の煙を吐き出す窓の下を、国電が音を立てて走りすぎた。  美しき殺意  染子《そめこ》が「藤原和男《ふじわらかずお》」を殺そうと決意したのは、彼から五度目の電話がN花街《かがい》の見番《けんばん》へかかって来た時であった。  二階から三味線《しやみせん》の音が流れていた。 「お待たせしました……染子ですが……」  辺りをはばかって低く応じると、受話器の中の声はふてぶてしく笑った。 「毎度、お呼びたてしてすまないが、こないだの返事はどうなったんだい」 「あの……それは……」  染子は形のよい唇を噛《か》みしめた。 「『花の井』一番の売れっ妓《こ》のあんたに、たかが百万や二百万のはした金の工面《くめん》がつかないはずがないじゃないか。あんまり長引かせるようなら、こっちから『花の井』へ出かけて行ってもいいんだよ」  図に乗った男の調子を脅迫《きようはく》とわかっていながら、染子の膝頭《ひざがしら》から、慄《ふる》えがわなわなと背筋ヘ上った。 「すみません。二、三日中には、きっと私の方から伺《うかが》いますから……」  相手の目的は金である。「花の井」へ出かけてきて事実を暴露《ばくろ》してしまえば、結局、元も子もなくなるのだから、万が一にもそんな真似《まね》はしまいとは思うものの、染子にはその万に一つが怖しかった。 「二、三日中って、そういういい加減な返事は困りますね。いつなら都合《つごう》がつくんです」  ねっとりした男の言葉には、馴《な》れた懇懃《いんぎん》さがある。かつて、美容整形医として多くの女患者と応対していた時分の名残《なご》りだった。染子は新しく身ぶるいした。 「日曜……日曜でしたら……」 「日曜というと……明後日ですね。じゃあ明後日の夜……そうだな、六時すぎならアパートへ帰ってるけども……」 「そちらへ伺います……」 「そう……」  受話器の中の声が、ふっと考えこんでから、 「いいだろう。その代り、もしあんたがすっぽかすと赤坂の×××番へ電話するからね」  かすかな含み笑いが語尾を消した。染子の顔から血の気が引いた。  赤坂の×××番とは、飛鳥井流《あすかいりゆう》日本舞踊の家元、飛鳥井|左京《さきよう》の家の電話番号であった。  染子は自分の急所に蛭《ひる》のような執拗《しつよう》さで正確にくいついている相手の正体を改めて思い知らされた。追いつめられた女の最後のあがきが、ふと訊かせた。 「先生、今、どちらからお電話なすってるんですの……?」  男は不用心に答えた。 「新宿の公衆電話のボックスさ。こういう電話はめったな所からはかけられないからね」  明後日の夜、待っているから、と念を押して、電話は向うから切った。  染子が、自分自身の中でくすぶっていた「殺意」を、ぼんやりと意識したのはこの瞬間であった。  静脈の浮いた手が受話器を置くと、蹌踉《そうろう》とした足どりで廊下を歩いた。 「染子さあん、お稽古《けいこ》の番ですう、お師匠《つしよ》さんがお待ちかね……」  ばたばたと階段を下りて来た足音が、ぎょっとした風に止った。 「どうしたの、真蒼《まつさお》な顔して……」  染子はこわばった頬に笑いを作った。 「少し頭が痛いのよ。風邪《かぜ》かしら……」 「大丈夫? 秋口の風邪は性質《たち》が悪いっていうわよ」 「平気よ。大したことなさそうだから……」  先に立って階段を上った。習慣のように左手の指輪を抜いて、帯の間に財布を開けて収《おさ》めた。稽古場では指輪や時計を身につけて稽古することをひどく嫌がり、染子もこの社会へ入った時に、先輩の姐《ねえ》さん連中から厳しく叱《しか》られた記憶があった。パチンと財布の口金《くちがね》を締《し》めた時、チロチロと鈴《すず》が鳴った。財布に付けてある金色の小さな鈴である。この春頃から「幸福を呼ぶ鈴」といって、花柳界《かりゆうかい》にひどく流行し、我も我もと、その小さな金むくの鈴を身につけだした。そんな噂《うわさ》を出稽古先で耳にしたのだろう、飛鳥井流家元の一人息子で舞踊界では新進の麟麟児《きりんじ》と評判されている飛鳥井|若彦《わかひこ》が、染子とたまの逢瀬《おうせ》で、銀座へ出た折に、要屋《かなめや》という袋物の店でわざわざ買ってくれた。 「いつの日か、二人に幸福を呼んでくれる鈴」  と、若彦は言葉に出して言ったわけではないが、染子にはそう思われて、胸が痛くなるほど、嬉しかった。 「そうだ。他の人のと取り違えたりしないように、名前を彫《ほ》っておこう……」  後から思いついて、染子は再び要屋へ足を運んだ。本名の田口美枝子《たぐちみえこ》でもなく、源氏名《げんじな》の染子でもなく、平仮名《ひらがな》で「なつお」と刻《きざ》んで貰ったのも、飛鳥井若彦とのつながりを思ってのことだった。染子はこの春、飛鳥井流の名取りを家元から許されていた。その踊りの方の名が「飛鳥井|夏生《なつお》」だったのだ。  染子はじわりと汗ばんだ掌《て》の中で鈴をゆすった。  まっとうに行けば、金の鈴が呼んでくれた幸せは、来年の春か、遅くとも秋には染子を訪れるはずであった。  N花街《かがい》で五本の指に数えられる置屋《おきや》の一つである「花の井」のお内儀《かみ》、篠崎《しのざき》りゅうは飛鳥井流の古参《こさん》名取りとして、五十を過ぎた現在でも一年に二回|歌舞伎座《かぶきざ》を買いきって催される、この花街の大がかりな舞踊|温習会《おんしゆうかい》の花形スターの座を守っていた。立役《たちやく》(男役)を得意とし、新作物《かきもの》の「源氏物語《げんじものがたり》」の光源氏《ひかるげんじ》や心中物《しんじゆうもの》の二枚目が新聞で評判になって以来、素人の女の子からファンレターやプレゼントが来たりして、宝塚の男役めいた存在でもあったから、置屋を経営しながらも現役としてお座敷も勤めている。その篠崎りゅうの娘分で、器量《きりよう》といい、芸といい、若手|筆頭《ひつとう》と噂される染子と、飛鳥井流家元の一人息子との恋は、それが人の口に上りはじめた最初のうちこそ、何やかやと支障が入ったが、二人の気持が動かないと知るや、染子のパトロンで、同時に飛鳥井流の後援者でもあった某《ぼう》が、にわかに二人の仲人《なこうど》を買って出るという雅量《がりよう》をしめしたので、話はとんとん拍子《びようし》に片がついた。もっとも、某の腹を打ち割ってみれば、七十を過ぎた老躯《ろうく》に若い染子はむしろ重荷で、少々もて余し気味だったところでもあり、まして女の心がすっかり他へ移っていると知った上は、なまじ立腹して三枚目になるより、むしろ太《ふと》っ腹《ぱら》な粋人《すいじん》を気取って、若い二人を結んでやる方が世間態から言っても、精神的にも遥《はる》かに、得だと算盤《そろばん》をはじいた上のことだったかもしれない。  とにかく、染子の結婚費用一切は、某が祝うということで、染子が飛鳥井流の家元若夫人に落ちつくのは、もう日《ひ》にちの問題だけになっていた。 「美人薄命なんて嘘っぱちね。染子ちゃんだって、あれだけきれいだったからこそ、家元の玉の輿《こし》に乗っかることになったんじゃないの」  などと若い妓《こ》が岡焼き半分に噂するように、美人揃いで有名なN花街の中でも、染子の美貌は群を抜いていた。小さめな顔に道具の大きな派手《はで》な容貌《ようぼう》で、ことに眼が片方だけ二重瞼《ふたえまぶた》なのが何ともいえないアンバランスの魅力をつくり出していた。一度逢えば忘れ難い、印象の強い顔である。五年ばかり前に「花の井」から芸者《いつぽん》のお披露目《ひろめ》をして、たちまちの売れっ妓ぶりを見せたのも、器用で心がけのよいという当人の努力以外は、一にも二にもその派手な美しさのせいに違いなかった。  だが、その美しさには裏があった。染子と、少なくとも、もう一人の男、藤原和男だけが記憶している彼女の美貌の秘密であった。  稽古を終えてから、染子は銭湯へ行き、髪を洗った。帰りがけに、行きつけの美容院へ寄ってセットを頼んだ。すべては夜の座敷へ出るための身だしなみである。ドライヤーヘ入ると、顔馴染《なじみ》の美容師が新しく出たばかりの婦人雑誌を膝《ひざ》に置いた。所在《しよざい》ないままにグラビアのぺージをぱらぱらめくって、染子はどきりとした。 春と共に、美しさを貴方へ贈る ——美容整形は幸せの青い鳥——  とサブタイトルをうった整形の宣伝記事であった。肥った小柄な整形医師が美貌のファッション・モデルと並んだ写真が見開きのページの半分を占めて掲載《けいさい》されていた。反射的に染子は雑誌を閉じ、窓へ目を逃げた。にわかに早くなった胸の鼓動《こどう》がはっきり聞える。そっと閉じた染子の瞼《まぶた》に、五年前にたった一人で上って行った戸倉《とぐら》美容整形研究所の暗い石段がまざまざと浮んだ。  田口美枝子は十九歳の夏、父親が病死して、完全な孤児《こじ》になった。母親は彼女が三つの時、交通事故で死亡していた。 「お父さんにもしものことがあったら、東京のNという花柳界の『花の井』という店を訪ねるのだよ。そこのお内儀《かみ》さんは死んだお前の母さんと従姉妹《いとこ》同士になるんだ。母さんが死んでからはまるで行き来をしていないが、なんと言っても、お前の血縁といえば、その人一人しか残っていないのだからな。一度は尋《たず》ねてみることだよ」  父親はやつれた口許をゆがめて低く続けた。 「だがなあ、親切にされるかどうか……お前がせめて十人並の器量なら、なんとか運が開けるかもしれないが……水商売《みずしようばい》の家では、器量の悪い女は二|束《そく》三|文《もん》の値打《ねう》ちもない、それこそ洟《はな》も引っかけないって言うからな……」  父親の無神経な呟《つぶや》きが、必要以上に鋭く美枝子の心を突き刺したのは、折も折、彼女が失恋の痛手にあえいでいたためでもあった。相手は彼女が勤めていた薬品会社の同僚で、すでに美しい恋人があった。劣等感が激しく彼女を苛《さい》なんだ。父親の葬式《そうしき》がすんでしまうと、美枝子には空白状態が続いた。ひそかに青酸《せいさん》カリを手に入れたのも、若い娘の感傷に追いつめられてのあげくだった。それでも決心はなかなかつかなかった。そんな時、友達から借りた雑誌で目に止ったのが、東京の戸倉美容整形研究所のインタビュー記事だった。 「貴方も美人になれる」と言った書きだしの美容整形の紹介文は美枝子の心をがっしりと掴んだ。  浅黒い顔に、ちんまりした鼻、腫《は》れぼったい瞼《まぶた》、陰気な暗い平凡な顔立ちに加えて、小柄な身体は発育不全でしなびている。女としての魅力のかけらもない自分に、もし美しさがつくられるものなら……美枝子は美容整形に運命を賭《か》ける気になった。 (駄目なら、その時に死ねばいい……)  思いつめると、行動が思慮《しりよ》を先走る性質《たち》である。  家財を始末し、アパートを引き払った金に退職金を加えた五万ばかりと青酸カリとを懐にして、美枝子は大阪を発った。  戸倉美容整形研究所は都心のビルの三階にあった。半日以上も待合室で順番を待ったあげく、応対された医師は副所長だという如才《じよさい》のない四十がらみの男だった。初診室の机に置かれた美枝子のカルテに、その医師の動かすペンが「隆鼻術《ナーゼ》。美眼術《アウゲ》(重瞼術《じゆうけんじゆつ》、眼尻切開《めじりせつかい》)豊胸術《ブレスト》」と必要手術を書きこんだ。同時に入院十日間の料金の前払いが言い渡された。  十日が過ぎた。手術の腫れはうっすらと残っていたが、美枝子は鏡の中の顔に満足した。退院と同時に、美枝子はN花街の「花の井」を訪ねた。  無器量で何の取り得もなかった田口美枝子から、N花街一番の売れっ妓《こ》「染子」への転換は鮮やかに行われた。もっと、二重にした眼は、どうしたわけか片方だけ一か月も経《た》たないうちに一重に戻ってしまったが、眼尻を切開して切れ長になっているため、醜《みにく》くは見えず、整形の失敗が、かえって彼女の容貌に余韻《よいん》と個性をプラスする結果となった。  むろん、美枝子は美容整形を受けたことは口を閉じて誰にも洩《も》らさなかったし、それに気づく者もなかった。 「本当に、技術的に秀れた美容整形ならば、その患者が隆鼻術《りゆうびじゆつ》、あるいは美眼術を受けたということが、第三者からは絶対にわからないものなのであります……」  という戸倉整形医の宣伝文の文句が嘘でなかった証拠を、美枝子は自らの経験によって実証したわけであった。 「隆鼻術もいいけど、何年か経つと形が変り、紫色になったりするんですって……」  などという話をどこからか聞きこんできて、内心ひどくおびえた時期もあったのだが、染子の場合は、左の瞼以外は鼻もバストも何ら異常がなかったし、いささかの変化も生じなかった。そして五年の歳月は、いつか染子自身つくられた美貌の意識を失いかけるまでになっていた。少なくとも、藤原和男からの電話がなかったならば、染子は美容整形の手術を受けたという過去の秘密を、恋人にも、周囲のすべてにも、負《ひ》け目と意識しないで、輝かしい家元夫人の席へすべりこんだに違いなかったのだ。  八月になって間もなくの、変にむしむしした午下《ひるさが》りに、染子は聞き馴れぬ男の声で電話口ヘ呼び出された。 「もしもし、お久しぶりですな。藤原ですが……田口美枝子さんでしょう……」  低い、薄っぺらな調子にも、名前にさえも染子は記憶がなかった。染子の当惑を察したらしい相手は改めて名乗った。 「おわかりになりませんか。ぼくは戸倉美容整形の副所長をしていた藤原ですよ。貴方の手術一切を担当した……」  染子は電話口で思わず、あっと小さな叫びを洩らしていた。同時にプラスチックが挿入されている顔の一部と胸とに、鋭い痛みが突っ走ったような錯覚《さつかく》をおぼえた。 「すみません。おかあさん、大阪にいた時分の先生が上京なすって……ちょっと三十分ばかり行って来ます……」 「花の井」のお内儀《かみ》の手前を取り繕《つくろ》って、染子はあわただしくタクシーを拾って藤原が指定した喫茶店へかけつけた。 「先生、どうして私のことがおわかりになりましたの」  顔を合わせて第一番に染子が聞いたのはそれであった。戸倉整形研究所のカルテには田口美枝子と本名を書いたものの、住所は全く出たらめな大阪の所番地である。退院と同時に病院との縁は切れていた。広い東京の中で五年も前に手がけた患者の顔を探すのは不可能に近いはずであった。相手は得意そうに鼻を皺《しわ》ませた。 「どうして分ったと思います?」  反問しながら茶色の紙袋を取り出した。  差し出したのは一冊の週刊誌であった。藤原が開けたページにはお座敷姿の染子が微笑していた。そのグラビアは毎週、「著名人《ちよめいじん》が推薦《すいせん》する美人」という見出しで、花柳界やバアやキャバレーの女のポートレートが掲載《けいさい》されていたが、染子もかねがね贔屓《ひいき》にしてくれる流行作家から名指しを受けてカメラに収まったものである。それが、人もあろうに藤原和男の眼にとまろうとは、皮肉なめぐり合わせと言うほかはなかった。 「ぼくは、自分が手がけて満足な結果に整形した患者の顔は、何時《いつ》、如何《いか》なる所で逢っても決して見落すことはないんですよ。患者さんから言えばえらく迷惑な医者でしょうがね……」  藤原は無造作《むぞうさ》に肩をゆすって笑った。 「先生、お世話になっていて、こんな失礼なことを申し上げてすみませんけれど、私、整形を受けたということを今の場所では秘密にしているんですの。お願いですから、どうぞ誰にもおっしゃらないで下さいまし……」  染子の嘆願に藤原はきわめて鷹揚《おうよう》なうなずきを見せた。 「心得ていますよ。整形医は滅多に患者の秘密を洩らすような真似《まね》はしません。まあ、これをご縁に時々はお目にかかりたいものですなあ。自分の造った美を観賞する気分は、対象が生きている女性だけにまた、格別なものなんですよ」  好色を瞳の中にちらつかせて無遠慮に言う藤原に、染子は激しい嫌悪を感じたものだが、彼の目に触れたということがそれほど重大な結果を招くとは、まだ気づいていなかった。  二度目に藤原から電話がかかって来たのは、最初の日から十日ばかりの後である。  好ましい相手ではないが、そっけない真似もしにくかった。藤原に悪い感情を持たれることは危険である。だが、呼び出されてみると、話は金の無心《むしん》であった。 「それは他《ほか》ならぬ先生のことですから、お礼心にもできるだけのことは致しましょうけれど、先生は戸倉整形の副所長さんでしょう……」  染子には納得《なつとく》が行かなかった。戸倉美容整形研究所といえば、美容整形の流行に伴って雨後《うご》の筍《たけのこ》みたいに乱立したいい加減な整形外科と違って、その方面では歴史も割合古く、信用でも規模の大きさでも、都内で屈指《くつし》の病院と聞いている。そこの副所長ならばどう考えても月給は十万を下るまいと、染子にも見当がつく。それだけの位置にある人物が芸者|風情《ふぜい》に金を無心するのは奇妙であった。 「実はね。君には言ってなかったのだが、戸倉整形は二年ばかり前にやめたんだよ。ちょっと面白くないことがあってね。一時は他の整形外科に勤めていたんだが、手を怪我《けが》して、運悪く神経の筋を切っちまった。右手が不自由じゃ整形外科のような指先の仕事は到底《とうてい》できない。それから飯の食いあげさ……」  藤原は乾いた声で自嘲《じちよう》した。 「俺の飯の種というのは、戸倉整形から持ち出した数百枚の古いカルテなんだ」  呆気《あつけ》にとられている染子の前で、藤原はがらりと語調を変えて居直った。 「整形を受けた者は、誰だってそれを内緒にしたがる。まして、売り出し中の女優や歌手やファッション・モデルはなおさらだろう。そういう連中にとってこの古いカルテは凄《すご》い威力を発揮《はつき》するんだぜ。現にお前さんがそうだ。あんたは俺の手術のおかげでN花柳界一番の美人芸者にのし上った。財界の大物をパトロンに掴んだ。間もなく飛鳥井流とかいう家元の息子の女房になるんだそうだ。だが、もしあんたの恋人が、自分の惚《ほ》れた女の眼も鼻も、バストまでもプラスチックをはめこんで作り直したものだと知ったらどうだ。このカルテに貼《は》りつけてあるあんたの整形以前のみっともない写真を見ても、あんたは玉の輿《こし》に乗れる自信がおありかね……」 「そんな、そんなひどいことを……」  藤原の脅迫ぶりは板についていた。染子は蒼白な顔をうつむけて小刻みに体を慄わせた。 (もし、飛鳥井若彦が整形の秘密を知ったら……)  笑ってすませてくれるとは思えなかった。五年前の陰気で醜い小娘に、どうして家元の一人息子が惚れてくれるものかと思う。整形によって得た自信があるだけに、染子は精神的なつながりを考える余裕を失っていた。整形外科の門をくぐって美しさを獲得した人間は、その代償《だいしよう》に、醜いままに愛された者の喜びと毅《つよ》さを支払ってしまわねばならない。染子も例外なしにその一人であった。 「生れつきおきれいな人は得ですわねえ。どんな髪形にしてもぴっしゃりお似合いだから、……」  セットを終えて美容院を出る時、女主人が何気なく言った愛想《あいそ》が、染子をぎくりとさせた。 (この花街の人達に、私の顔が造りものだと露見《ば》れたら……)  人々のさげすみの顔が染子には目に見えるようだった。まして、若彦にはどんなことをしても知ってもらいたくなかった。 (あの人に嫌われたくない、あの人に嫌われるくらいなら……)  暮れかけた道を染子はそれだけを思いつめて「花の井」へ戻った。習慣で部屋へ入ると鏡の前へぺたりと坐った。鏡に映った自分の顔が、すぐに藤原を連想させる。 (だにみたいな奴……)  きりっと唇を噛んだ。藤原にはすでに三十万もの金を渡している。だが、彼の要求がそれで終ったわけではない。弱味さえ握っていれば女は扱いようによってどうにでもなる。いわば染子は藤原にとって当分の金蔓《かねづる》であった。食いついたが最後、骨までしゃぶり尽す量見だった。その証拠には五万が十万になり、十万が百万に野放図《のほうず》な請求をして来ている。すでに縁の切れたパトロンに無心もできかねた。 (このままでは破滅がくる……)  染子に金の工面ができなくなれば、藤原は嫌がらせにどんなことをどこへ行って言うかしれたものではなかった。それくらいの非情さを持ち合わせている男のようであった。  染子は帯の間の財布を鏡の横へ抜いて置いた。金色の鈴が澄んだ音を立てた。  苦労してようやく掴みかけた幸せを失いたくない想《おも》いが、染子の身体に渦巻いた。 (失いたくない。今更になって……嫌だ。私は失いたくない……どんなことをしても)  ほとんど叫び出しそうになって染子はがっくりと畳に手を突いた。  ふと、染子は鏡台の引出しの奥にしまい忘れたように入っている小さな紙包のことを思い出した。紙包の中には白い粉末がひっそりとつぐんでいるはずであった。五年前に、それで自分の命を絶つ気であった。  不意に、染子は憑《つ》かれたもののように鏡台へにじり寄った。わななく指先がそっと細い引出しを抜いた。  その日、染子はデパートで特売品のワンピースと素通しの、赤いふちのついた眼鏡とポケットウイスキーを買い、映画館へ入った。  途中から見た映画がぐるりと一回まわると、染子はトイレの中で、着ていた浴衣《ゆかた》を、買ったばかりの平凡なワンピースに着替え、眼鏡をかけた。時刻は六時を少し過ぎていた。朝から降っていた雨は止《や》んでいたが、どんよりとしめっぽい日で夜は早くに来た。染子は窓の外を見た。あつらえむきの暗さである。ちょうど映画が終った。人ごみに押されて入口を出る時、染子は切符売場の上に掲《かか》げてある時間表を仰いで確かめた。最終回が終了するのは十時十五分であった。  パスに乗った。藤原和男のアパートはこの前に連れて行かれて、記憶ははっきりしていた。揺れるバスのガラスに染子の顔が映った。眼鏡をかけ、ありふれたスタイルの洋服を着たというだけで他人のように見えた。変装の目的は充分だと思った。それでも染子は用心深く、浴衣とウイスキーとを包んだ風呂敷に頤《おとがい》を埋めるようにした。  停留所に下り立ったのは、七時半であった。近くに私鉄の駅があった。染子はゆっくりと歩いた。犯行の場所はすでに決っている。  藤原和男のアパートへ行く道筋の左手に黒い森があった。神社の境内《けいだい》である。染子は躊躇《ちゆうちよ》なく石段を上り、鳥居をくぐった。まだ宵《よい》の口だというのに山の手の神社らしく、広い境内はひっそりと暗く、社務所の窓だけに灯《ひ》の色が見えた。その出窓の所に赤電話が置かれている。窓の中をのぞいてみると誰もいなかった。奥の方でテレビ放送らしい雑多な音が、わんわんと洩《も》れて来る。あわただしく受話器を取り上げようとして、染子は思いついてハンドバッグからレースの手袋をつまみ出して両手にはめた。十円玉を入れてダイヤルをまわす。藤原はすぐに出て来た。 「遅いじゃないか。こっちから電話しようかと思ってたところだ……」 「すみません。停留所からの道が分らなくなってしまって……この辺はこの間がはじめてでしたし、私、土地勘が悪いもんですから……お宮の所まで来て、それから散々、迷って、またお宮の境内へ戻ってしまいましたの」 「しようがないな。じゃとにかくそこにいなさい。迎えに行ってやるから……境内に藁屋根《わらやね》の小屋みたいのがあるだろう。古代住居を復元した区の記念物なんだ。ああ、池の向う……その辺にいたまえ……」  電話を切った時、奥から黄色いポロシャツを着た男が出ていて窓越しに染子を見た。 「すみません。無断で拝借して……」  どぎまぎと頭を下げる染子に、男はかまわんですよ、と応じたらしかった。染子は顔をうつむけて早々に去った。  池をまわると、なるほど原始民族が住みそうな藁の小屋が黒っぽく突っ立っていた。まわりは柵《さく》が結ってあるのだが、子供が悪戯《いたずら》に登るのか、ひどくこわれている。染子は胸の動悸《どうき》を鎮《しず》めるために深く息を吐いた。落着きなくウイスキーの瓶《びん》を風呂敷包ごと振ってみた。青酸カリはすでに映画館で仕込んである。昼夜燈に近づいて腕時計を見る。八時五分、思ったより早かった。手ぎわがよすぎたのだ。本当なら、殺人現場と考えたこの境内の様子を一応調べて、もう一度、駅へ戻って公衆電話から藤原に連絡するつもりであった。 (やっぱり、あがっている……)  社務所の赤電話を見て、あわてて掛けたのはまずかったのではないかと悔まれた。しかも人に顔を見られてしまった。 (なにを今更びくびくするのさ。見られたってかまやしない。そのための変装じゃないか……)  空を仰いだ。夏木立の葉の間から見る夜空は月も星もなかった。どす黒さが無気味であった。下駄《げた》の足音が近づいた。染子は必死な表情になった。眼鏡をはずしてハンドバッグにしまった。  染子は新聞を待ちかねる女になった。朝と夕方、二回配達される新聞の第三面を開ける時には息をつめた。「犯罪」とか「人殺し」などの文字に神経をおびやかされる。気がついたことだが、連日の新聞には大抵一つや二つの殺傷事件が掲載されているものであった。だが、被害者の名前に「藤原和男」は見当らなかったし、何日経っても「××神社の境内で死体が発見された」というような記事も出なかった。 (もしや、生き返ったのでは……)  危惧《きぐ》は何度か湧いた。しかし、万が一にも生きていたとしたら、当然、何か言ってくるはずであった。自分が後暗い立場にあるのだから、警察に染子を殺人未遂で訴える事はできなかろうが、染子に対しては新しい脅迫の材料が増えたわけである。無言ですますとは思われない。 (藤原の死体はまだ発見されていないのだ)  確かに発見しにくい場所に思われた。染子は藤原がすさまじい苦悶《くもん》を見せてぶっ倒れた古代住居|址《あと》の暗闇を思い浮べた。  アパートへ行こうと言う藤原へ、染子は急ぐからここで話をすませたいと言い張った。 「『花の井』のおかあさん、とっても時間がうるさいの。今日は映画を見るって出てきたんですもの……」  雨が落ちてきはじめた。二人は住居址の柵《さく》をくぐった。入口の板戸は簡単に開いた。「無断立入禁止」の白い札が馬鹿みたいである。  住居址の内部は地上より一メートル以上も深く掘りこんであり、三|坪《つぼ》ばかりの広さであった。厚い藁《わら》の束が幾重にも周囲を包んでいるから穴倉のように暗い。それでも眼が馴れてくるとわずかに開いている入口の辺りから、外燈の光が射して明るさの気配が藤原のワイシャツをようやく白いと感じさせた。顔は定《さだ》かに見えない。 「よくアベックがもぐりこむらしいよ。少し蒸し暑いが雨にぬれるよかましだろう……」  藤原はえげつなく笑った。口が酒臭かった。染子はこの時になって、藤原がアルコール類を好むかどうかも確めずにウイスキーを殺人手段に用意した迂闊《うかつ》さに気づいた。 (もし飲まなかったらどうする気か……)  ひどく間の抜けたことである。ずいぶん、考えたつもりでも、この殺人計画は手落だらけのようであった。染子はにわかに心細くなった。 (止しとこうかしら……)  まだ機会がないわけではないのだ。しかし、五十万円の入った封筒を藤原に渡し、あとの五十万円は来週中に都合するからと哀願して、地の底みたいな藁屋を出ようとした時、染子の唇から自然に言葉がすべり出した。 「先生はお酒、召し上るんですの。お好きだったら、これ差上げようかしら。汽車で発つお客さんを見送りに行ってプレゼントする気だったんですけど、出しそびれたの……」  藤原はあっさり受け取った。 「こりゃあ上物だ……」  くるくると蓋《ふた》をまわして、ぐいと口をつけた。無茶な呑みぶりであった。  藤原の体が重く崩れ落ち、指が泥をかいて動かなくなるのを、染子は入口の板戸にしがみつき、気配だけで知った。  二十分の後、染子は藤原の足許に落ちていた五十万円入りの白い角封筒を拾い、片手を藤原の鼻孔《びこう》にかざした。別人のような落着きようであった。ぎりぎりに追いつめられると無知なほどに不敵になる染子の性質が、こんな場合にふいと頭をもたげてくるのかもしれなかった。男の息はなかった。  ふと、染子は何年か前に、同じような行動をしている自分を思い出した。深夜、息を引取った父親の枕辺で、彼女は同じ掌を死人の鼻孔へ当てたはずであった。  板戸を出ようとして染子は思いついた。「花の井」へ洋服を着て帰ってはおかしいのである。  変装の必要はまだありそうにも思えたが、着替える適当な場所が浮ばなかった。死体のある場所で、着物を替えるという怖ろしさは不思議と感じないようであった。緊張がまだ続いているせいかもしれなかったし、そういう無神経なものを染子が持ち合わせているのかも分らなかった。それでも結び馴れた腰紐が容易に締まらず、あげくに柵を出る時うっかり、めぐらしてある鉄条網に身体を引っかけそうになった。  撫子《なでしこ》の模様の浴衣姿になって鳥居をくぐる折に、染子は何ということなしに神社の方へ向って軽く頭を下げた。小走りに石段を下りる。  どぶ川ヘワンピースと眼鏡を捨て、私鉄で新宿へ出ると、そこからタクシーを拾って帰った。これだけは計画の通リであった。  染子は何度となく、殺人現場へ出かけて藤原の死体を確かめてきたい欲求に駆られた。不安がなせる業《わざ》である。が、彼女は抑え通した。昔、読んだ探偵小説かなんぞに「犯人は必ず一度は犯行現場を見に来るものだ」というような一節があったのを憶えていた。それが、ひどく心に引っかかるのだ。  染子が新聞の三面記事に拘泥《こうでい》しているうちに、秋は日一日と濃《こ》くなった。  藤原和男の死体が発見されたのは九月になって東京に強風注意報が出た翌朝で、発見者は神社に出入りの植木職人であった。 「なにしろ驚きやしたねえ。風で倒れた木が、住居址の上におっかぶっちまったもんで、神主《かんぬし》さんに頼まれて柵ん中へ入《へえ》ったんですよ。なあに仕事は屋根の方なんですが、煙草休みん時に、昔の人間が住んでいた家の内部《なか》あどんなもんかと思って入口の木の戸を開けると、いきなりむっと来ましたね。いやもう、その臭《にお》いのすごいの何のって、最初《はな》は犬か猫の死骸でも放りこみやがったのかと思いましたがね……」  植木屋は取調べの係官へ大仰に説明した。  それだけの死臭が外に洩《も》れなかったのは、すっぽり藁で厚く葺《ふ》いた古代住居という特殊な建築で、臭気がもっぱら空へ抜けて辺りに漂《ただよ》わなかったことにもよるし、また、連日の雨のために林の中にぽつんと建っている住居址へ近づく者もなかったのが発見を遅らしたものだ。  普段ならば、団体や個人の見学者があって、神官が立ち合いで柵の中へ立ち入りを許可する以外にも、子供が悪戯《いたずら》したりなぞして入口の板戸が開けられないはずはないのだ。  死体はかなり腐蝕《ふしよく》していたが、着衣のポケットに入っていた名刺から身許が知れた。藤原に部屋貸しをしていたアパートの老管理人は、 「部屋をお貸ししたのは今年の二月からで、新聞記者をしてなさるという話で、月のうちの半分は外で泊ってきましたし、今までに一週間や十日は帰って来なさらんこともありました。そんなことで、めったに話をしたこともないし、アパート内の人たちと交際もないようで……奥さんを戦災でなくしたという以外には何にも聞いておりません……」  しょぼしょぼした口調で答えた。一週間余りも部屋を開けたのに不審とは思わなかったか、という質問に対しては、 「何しろ部屋代を今年一杯、先に頂いておりますので……多分、新聞社の仕事で遠くに行きなすったのじゃないかと……」  非常識ぶりを発揮した。  だが、管理人の返事から、藤原の自殺説は九分通りくつがえされた。死因は死体のそばにあったウイスキー瓶に僅かばかり残っていたウイスキーから青酸カリが検出されたので、青酸カリの中毒死と推量され、警察側が彼の過去を検討すると厭世《えんせい》による自殺と思われる節も充分にあったのだ。参考人として呼ばれた戸倉美容整形研究所長の戸倉準二氏は、 「藤原君は非常に美意識というか、美に対する感覚が鋭く、整形技術も優秀だったので、研究所ではずいぶん信用もし、重宝《ちようほう》にしていたのは事実です。専門は産婦人科で、戦前は外地で開業していたそうですが、戦争になったので奥さんを先に帰国させ、自分も折を見て帰るつもりだったのが終戦になり無一物でようやく引揚げて来たと聞いています。奥さんは広島空襲で原子爆弾の犠牲になったとかで、虚脱したような有様で上京して来た時、たまたま街で偶然に出逢い、それが縁で私の仕事を手伝うようになったのです。はあ、彼とは中学時代の友達でした。もちろん、整形の技術は全部、私が教えたのです。彼を免職させた理由ですか、当人が死んでしまった今だから申し上げますが、彼は非常な女たらしでして、それはまあ妻君もないことですから、私もずいふん見ないふりですましてきたのですが、あまり常識外のことをしでかすので……看護婦といわず、患者といわず、そりゃあもうでたらめなことでして……この分では病院の評判、信用にもかかわりますし、風紀上面白くないので何度も意見し、忠告してみたのですが、まったく聞き入れる様子もないので、止むを得ず辞職してもらいました」  と述べ、次に藤原をやとったという穂積《ほづみ》整形医院の院長、穂積仁蔵氏は、 「器用な人でしたし、うちも開業早々で技術者を必要としていたところでしたので手伝ってもらいましたよ。しかし、一か月ぐらいで関係のあった看護婦と痴話喧嘩《ちわげんか》をやらかしましてな。ガラスに手を突っこんで神経を切り、指の自由がきかなくなったんで辞めてしまいました。その後ですか……? 一度、整形の裏幕を暴露《ばくろ》するとか言って脅迫に来ましたがね、病院じゃ別に後暗いことはなし、やれるならやって見ろと突っ放して、それっきりになっていますよ。人間も落ちぶれると何を言いだすか知れたものじゃありませんな」  と迷惑げに語った。  従って、自棄《やけ》になったあげくの自殺説も出たのだが、 「自殺する人間が、どうして四か月も先まで部屋代を前納する必要があるのか……」  しかも、死体解剖の結果は死後推定一週間という。すると、藤原はアパートを最後に出た日から一日二日内、もしかするとアパートを出た晩に死んでいることになる。アパートを出て行く藤原の最後の姿を見た者はなかったが、当夜、留守番をしていた管理人の孫息子の五歳になるのが、藤原に電話がかかって来たのを憶えていた。 「女の人で、藤原さんを呼んで下さいと言ったから呼んであげた。若いか、お婆さんかなんて分らないよ。小さい声だもの……」  電話の会話はテレビに夢中だったから聞いていない、という。テレビの番組から、電話のかかって来た時刻が七時半から八時の間だと推定された。  仮に藤原が自殺だとすると、彼は普段の汚れたワイシャツ姿に下駄ばきで青酸カリの入ったウイスキーを飲んだことになる。藤原は女たらしというだけに、生前はかなり洒落気《しやれけ》のある奴だったらしい。現にアパートにはかなりキザっぽい背広や色物のワイシャツや派手なネクタイなどが残っている。そんな人間があんな恰好《かつこう》で死ぬものだろうか。  藤原はその晩、電話をかけてきた女か、もしくはその共犯者によって××神社の住居址へ呼び出され、ふらっと下駄ばきで出かけたあげく、青酸カリ入りのウイスキーを飲まされて殺されたと見るのが至当ではないかと警察側の意見は一致した。職を失ってからの藤原の行動が刑事によって洗われた。アパートの管理人に言った「新聞記者|云々《うんぬん》」は勿論、嘘である。その結果、藤原が戸倉美容整形研究所から持ち出したカルテを種に、昔の患者を強請《ゆす》っていた事実が明るみに出た。強請られた相手はいずれも売り出し中の芸能人で、商売柄、整形を受けた過去が明るみに出るのを恐れて警察へ届けず、多額の金を彼に手渡していた。藤原に脅迫された人間が窮したあげく彼を殺すというのは容易に考えられる。しかし、藤原の部屋から押収したカルテは数百枚に余る。カルテには姓名、住所、手術内容、手術前の患者の写真(眼、もしくは鼻、口唇の整形に限る)が貼付《てんぷ》してある。だが、名前は偽名が多いし、住所も大半がでたらめであった。それでも既成の芸能人で手術を受けた人間は正確に姓名を書いているから手がかりがついた。困るのは整形を受けてから出世した、顔が商売の人間達である。彼らの中の何人かが、藤原に現状を知られ、強請られたに違いないのだが、数百枚のカルテからその何人かを発見するのは不可能に近かった。カルテには何のしるしもついてはいない。藤原は強請る相手がどのカルテに結びつくかを自分の脳裏の中にのみメモしていたようだった。 「整形外科殺し」の捜査の発展は連日の新聞が詳細に報道し、そこで迷宮入りの可能性を知らせた。  染子は使い残りの青酸カリを小さく包んで、財布の中に入れて所持していた。 (いざとなったら死んでやる……)  八方破れの姿勢でお座敷を勤めていた。事件後、人に不審がられるような挙動をしたこともなかったし、夜もぐっすり寝た。自分が怖ろしい殺人を犯したということが嘘のようであった。忘れ難いはずの夏の夜の出来事が、何か芝居か、舞踊劇の上で演じられたもののようにさえ思えるのだ。それと、藤原が自分以外にもかなり多数な患者を同じ手口で脅迫していたという事実が、染子に信念をもたらした。 (藤原のような男は当然、殺されてよいのだ。あの男が死んだことで、少なくとも十数人の不幸な女が救われたのだ……)  受難者めいた想いが、染子の中から罪悪感を薄れさせた。同時に、「藤原和男殺人事件」に関する新聞記事が捜査の行きづまりにつれて次第に収縮し、ついには一行もそれに触れなくなって来ると、染子は自分の犯罪に自信を持ちはじめた。次から次へ発生する殺人事件が彼女の犯罪を過去へ閉じこめてしまうようでもあった。  考えてみれば、決して完全犯罪とは言えなかった。思慮も分別も全く素人くさい、行き当りばったりなものである。犯行の動機も方法も平凡すぎるくらい平凡なのがかえって捜査上の難点になっているのだ。  染子は自分のやり方が巧妙だったのだと思っている。当夜のアリバイのためには映画が面白くて二回りも見てしまったと「花の井」で話しておいた。染子がその映画に出ている女優のファンであることは衆知《しゆうち》だから、同じものを二度見た不自然は容易に納得できる。 「天然色でしょう。何枚も何枚も着物を替えるのよ。気に入ったのがあったら、よく覚えて同じのを作ろうかと思って必死になってたんだけど……」  同僚に映画のストーリーを話しながら、染子は派手な笑い声をたてた。  現場に残った唯一の証拠物件であるウイスキーの瓶にも指紋は残していないはずである。染子はレースの手袋をしていた。他に目撃者もなかった。唯一人、染子は黄色いポロシャツの男を気にしていた。少なくとも当夜、電話を借りた若い女を見たということはすこぶる重要であるべきだった。 (でも、私はあの時、眼鏡をかけ、普通、着たこともない洋装をしていた……)  染子は四季を通して洋服を着なかった。座敷着はとにかく、外出も日常も和服である。スラックスをはいてゴルフに出かける芸者の多い現在の花柳界にはそんなこともすぐ評判になった。  それにしても、新聞には各社とも「美容整形医殺し」に犯人らしい女の目撃者があったとは報じていなかった。むろん、神社側の談話を掲載した記事の出たものもあったが、それにも「電話を貸した」とも「女を見た」とも書いてなかった。何とも書いていないことが染子を不安にさせた。だが、変装をしていたことと、証拠を残していない自信が彼女を強気にした。 (普通のお参りの人と思ったのかしら。それとも忘れているのか……)  染子は本気でそう判断するようになった。元来が物事を筋道だてて考えるのは得手《えて》ではない。そうでなくとも、女はとかく自分に都合のよい解釈を好むものだ。  もう一つ、気がかりがあった。染子の帯の間にはさんである財布には音がなかった。金の鈴をつけた朱《あか》い紐《ひも》は千切《ちぎ》れたままになっている。 (どこで切れたのか……)  染子は慌《あわ》てた。映画館でワンピースに着替えた時、財布は帯と一緒に包みにした。二度目に財布が帯の間へ戻ったのは、例の場所で浴衣に着替えてからである。だが、鈴が財布から失《う》せたのが、それ以後という確証はない。映画館の手洗所の中で着替えた折、かなり気が転倒していたと見えて、鈴があったかどうか記憶にないのだ。鳴ったような気もするし、すでになかったようにも思える。ひょっとするとデパートの人ごみで落しているのかもしれなかった。仮に殺人現場に落したとしても、それは運命と思って諦める他はなかった。あの小さな鈴が捜査の手がかりになるかどうかは、染子に判断がつきかねた。それよりも差し当って鈴を失くしたことが飛鳥井若彦に知れる方が怖ろしい。染子は早速、要屋へ出かけて、新しく「なつお」と彫って貰ったのを、今度は大切に綿にくるんで鏡台にしまいこんだ。  飛鳥井流の家元が主催する舞踊会は例年十一月に歌舞伎座で行なわれる。今年は二日から四日まで三日間で二本の新作物の他に、門下生が踊る古典物のプログラムが豪華に組まれていた。  新名取として染子にふり当てられた役は「清元」の「かさね」であった。相手役の「与《よ》右衛門《えもん》」は飛鳥井若彦がつき合うことになっている。二人のコンビが実現することで、明春と噂される結婚を前ぶれするかのようであった。二十歳になってから持った舞扇《まいおうぎ》だったが、好きなのと筋がよいのとで、染子の踊りの上達は早かった。 「なんてったって若家元と篠崎のおかあさんがついてるんですからね。うまくならなきゃどうかしてるさ……」  といった陰口に対しても染子は必死になったものだ。それにしても三年かそこらで「かさね」を演《や》るのは大役に過ぎた。初日まで染子は稽古に忙殺《ぼうさつ》された。例の一件は夢の間にも思い出さなかった。 「かさね」の化粧《かお》もすみ、衣裳を早めに着けてもらって楽屋へ坐った時、身の回りの世話をしてくれている喜代《きよ》という女の子が花束を見せた。 「お姐《ねえ》さんのファンらしいんですよ。若い男の人なんです……すぐ客席の方へ行ってしまいましたけど、『かさね』が終ったら来るって言ってました」  花束は白い菊ばかりであった。黒いリボンが根本で結んである。不吉な色の取り合わせである。踊りの温習会の花束にかけるリボンはきまって赤かピンクであった。田舎から出て来て間もない喜代にはそれが不審に映《うつ》らなかったようだ。花の根本にかなり厚い封書がはさんである。抜いて見ると、宛名は「飛鳥井夏生様」、裏に署名はなかった。染子は喜代に食堂からソーダ水を持ってくるように言いつけ、あわただしく封を切った。 [#ここから2字下げ] この奇妙な手紙の前書として自己紹介をしておきたいと思います。北村晋助《きたむらしんすけ》。三十歳。××神社の神主の次男。K新聞勤務。貴女にとって分りやすく言うなら、藤原和男が殺された晩に貴女を目撃した唯一人の男です。ただし、その事実をぼくは今まで誰にも洩らしていません。新聞記者の特ダネ意識もあったかもしれませんが、その他にも理由があったのです。被害者が電話でおびき出された時刻に、殺人現場にもっとも近い所から電話をかけた若い女といえば、十中八、九、犯人と見るのが当然で、目撃者の証言は捜査の重要な鍵になるはずです。その女は眼鏡をかけワンピースを着ていました。容貌は暗くてよく分りません。当然、ぼくはそう答えねばならないわけです。しかし、ぼくはその女が果して「眼鏡をかけた洋装」かどうかに疑いを持っていたのです。理由は極めてつまらないことです。その晩、九時近くなってぼくは煙草《たばこ》を買いに行き、帰途、石段の下を横切る広い道路で交通信号を待ちながら、何気なく高い石段を見ていたものです。浴衣姿の女が石段を足早に下りていました。ぼくが注意したのはその鮮やかな裾《すそ》さばきでした。和服の着こなしのうまい女は何人も知っています。が、これほど水ぎわ立った歩きぶりを見たのは初めてでした。その印象は長くぼくの記憶に残りました。藤原和男の死体が発見され、ぼくはその重要な目撃者であると意識した時、ぼくは改めて電話をかけた女のことを思いおこそうとしました。ふとぼくはワンピースに下駄ばきだったその女の歩き方を思い出したのです。内輪にさっさっと弧を描くような歯切れのよい歩きぶりの素足《すあし》に、もし和服の裾をまといつかせたら……。これがぼくをして眼鏡をかけた洋装の女と浴衣姿の女とが同一人物ではないかと想定させた唯一の理由です。非常に曖昧《あいまい》な、頼りない理由でしたが、ぼくはその推定を捨てかねました。もう一つ、ぼくだけが掴んだ手がかりがあります。金色をした小さな鈴で「なつお」と彫ってあるそれをぼくは住居|址《あと》の柵《さく》にはってあった鉄条網の間から手に入れました。掌《て》で微《かす》かに鳴る鈴を見た時、ぼくは何という事なしにこのありふれた小《ち》っぽけな鈴が事件を解く端緒《たんちよ》になるような予感がしたものです。ぼくは知り合いの警官に頼んで、ひそかに藤原の部屋から押収したカルテを見せてもらい、その中から「夏尾《なつお》」という姓名を探しました。結果は見事に失敗しましたが、ぼくは数百枚のカルテに残されている名前のどれか一つが「夏尾《なつお》」という本名であることを疑いませんでした。これでぼくの推理も一応は迷宮に入ったようでした。警察側もいうように事件そのものは単純すぎるくらいに単純なものです。もし、藤原和男がN花街の染子という芸者を脅迫しているという事実をメモするとか、友人にちょっとでも洩らしていたとすれば難なく解明したはずです。貴女にとって幸せだったのは用心深い藤原が日記もつけず、メモにも人間にも貴女の名前を残していなかったことでしょう。「金の鈴に彫ってあったなつお=N花街の染子=田口美枝子」という線が浮んだのは全くの偶然からでした。その日、ぼくは街で従妹に会いました。従妹は(これも全く偶然ですが)飛鳥井流の家元の所へ舞踊の稽古に通っていたのです。たまに逢った従妹に夕飯を奢《おご》る気で中華料理店へ入り、料理の来るのを待つ暇に従妹は灰皿に仕掛けてある占いをやると言いだしました。生れ月の下に開いている穴へ十円硬貨を入れると吉凶、運勢を書いたおみくじが出てくるあれです。十円硬貨を取出すために従妹が手にした小銭入れにぶら下っていたのが金色の鈴だったのです。それはぼくの内ポケットから取り出した例の鈴と比較して見ると色も形も瓜《うり》二つでした。従妹の口からそれが「幸福を招く鈴」として花柳界に流行し、踊りの仲間にも蔓延《まんえん》しつつあるもので、要屋という袋物を扱う老舗《しにせ》に売っていることが分ったものです。要屋には「なつお」の文字を彫るように貴女が依頼した時、注文帳に記入した貴女の住所、姓名が待っていました。しかもそれによると貴女は事件後まもなく二つ目の鈴を注文していたわけです。春に貴女が求めた同じ鈴は殺人現場からぼくによって拾得され、今もなお、重要な証拠物件としてぼくがあずかっているのです。ともあれ、飛鳥井流の名取、飛鳥井夏生、即ち「花の井」の染子の本名が、藤原の所にあったカルテの中の一枚、田口美枝子であるのを確かめるのは時間の問題でした。あの夜、ぼくが目撃した鮮やかな裾さばきも貴女の職業や踊りの素養を思い合わせれば、ぴったりと平仄《ひようそく》が合うはずです。ぼくの推理はこれで一応、納得がゆきました。これから先は本職の捜査の手にゆだねるのが順でしょう。素人推理の当り外れは彼らによって決定されるべきです。不幸にしてぼくの想定が適中したとするなら、貴女は全く迷惑な目撃者を持ったというほかありません。…… [#ここで字下げ終わり]  自信たっぷりな文面は、それからもっともらしく自首を勧めていた。むろん、自分が付き添って行ってこの特ダネを一人占めにする了見《りようけん》と見えた。  染子は凝然《ぎようぜん》と立ちすくんだ。濃化粧《あつげしよう》の下の皮膚は血の気を失って、痙攣《けいれん》が刹那的《せつなてき》に走った。 (誰が自首なぞするものか……)と思う。幸福の夢はすでに音を立てて崩れ落ちていた。美貌の秘密が暴露し、犯罪者となった女に、幸せの望めるわけがないと染子は知った。絶望と彼女の自尊心が決意をうながしていた。傍らのハンドバッグの中の財布には、肌身はなさぬ青酸カリの紙包が万が一に備えてうずくまっている。染子はそれを湯呑の水に開けた。  柝《き》が鳴っていた。「かさね」の幕あきを知らせるものである。染子は自分の扮装《ふんそう》を虚《うつ》ろな眼で眺めた。美しい御殿女中の「累《かさね》」は、所作《しよさ》の中途から半面赤アザのような怖ろしい容貌になる。  大道具のかげでメーキャップをなおして醜い女に早変りするのだ。 (そうだ。醜く生れた女は、醜いまま死んでやる……)  今となってみれば、鏡の中の偽りの美貌が身の仇《あだ》であった。醜い「かさね」の成れの果ての化粧《かお》こそ、自分の死化粧にふさわしく思える。それが己《おの》れをここまで追いこんだ美容整形への、せめてもの復讐《ふくしゆう》のような気がした。 「喜代ちゃん、これを持って大道具の後においとくれな。中入りで、私が顔を醜く汚す時に飲ましてくれるんだよ。ちょうど、あの辺りが喉の乾くところなんだから……」  戻って来た喜代に蓋をした湯呑を渡した。 「埃《ほこり》が入るからね。決して蓋を開けるんじゃないよ……」  喜代は大きくうなずいた。この忠実な小間使は、染子の指が再びその蓋に触れるまで、しっかと湯呑を胸に抱いて大道具のかげで待っているに相違なかった。 「夏生《なつお》ちゃん、出番だよ。いいかい……」  与《よ》右衛門《えもん》に扮《ふん》した飛鳥井若彦が微笑を浮べて染子を促した。 「おねがい……お願い申します……」  深々と頭を垂れて、染子は暗い奈落《ならく》をひっそりと揚げ幕へ向って歩きだした。  秋の日     1  授乳を終えて、英子をベビーベッドへ戻し、汚れたミルク瓶《びん》を台所で洗っていると、裏口から、母の戸美子《とみこ》が入って来た。 「いそいで来たんで、息が切れちまったわ。お水、一杯ちょうだい」  草履を脱ぎながらいう。 「あら、すぐお茶をいれるわよ」 「それはそれ、これはこれよ」  娘の渡した水のコップを旨《うま》そうにあけて、 「英子ちゃんは……?」 「一日中、よく寝るの」 「寝る子は育つってね。夜泣きなんかしない」 「全然……」 「親孝行だね。お前もそうだったけど……」  奥の六畳のベビーベッドをのぞきに行った。それが楽しみで、このところ二日おきくらいに顔を出す。 「まあ、大きくなったこと……三日逢わない中に、見違えるようよ」  寝顔をみつめて、満足そうな祖母の声になっていた。 「三日ぐらいで、そんなに変るかしら」 「変りますよ。このくらいの頃は毎日、毎日が大変な成長なのだから……」  久仁子は母のために、買いおきの上等の煎茶をいれた。久仁子も、夫の浩介《こうすけ》も現代っ子で、コーヒーにはうるさいが、茶は番茶でも安物の煎茶でも一向に苦にならない。母の戸美子だけは静岡の茶問屋の娘で、茶にかけては一家言を持っている。だから、客用にという名目で、上等の煎茶や玉露を久仁子が用意しておくのは、母への心づかいであった。 「今日は世田谷教室ね。土曜日だから……」  母がテーブルの脇においた黒い皮のバッグを眺めた。久仁子が結婚する前から、母が愛用している大型のバッグには、佐賀錦《さがにしき》の材料や、図案を書いた紙などがぎっしりとつまっている。 「世田谷はらくなのよ。生徒さんがみんな古い人たちでしょう。放っといても、みんながいいアイディアを出してくれて、いい作品が出来るから……」  娘時代に趣味で習った佐賀錦を、母が本格的にやり出したのは戦後であった。ぼつぼつお弟子さんがふえていた頃に、佐賀錦のブームが起り、世田谷の神社の社務所を借りている世田谷教室のほかに、渋谷と丸の内にも教室を持つようになっていた。そのおかげで、六年前に父が亡くなってからも、母は父の残してくれた僅かな資産をあてにしないで生活が出来たし、久仁子の結婚にもかなり金をかけることが出来たのだ。 「どう、みてよ」  黒いバッグから、母が小さな手鞠《てまり》を取り出した。佐賀錦の小さな布をはり合わせて作った美しい手鞠である。 「きれいねえ」 「英子にね、作ったのよ」 「もったいないわ、佐賀錦の手鞠なんて」 「買えば高いかも知れないけど、端布をうまく利用したんだもの」  母が縁側の板の上で、ぽんと打つと手鞠は軽くはずんだ。 「大事にしまっておくわ、鞠つきには惜しいもの……」 「今に、英子が大きくなったら、手遊びにさせてやってよ」  上品な配色の手鞠を、久仁子はしみじみと眺めた。母は端布と気易くいったが、これだけのものを作るのに、幾夜、母が背を丸め、眼鏡を直しながら仕事台に向ったことだろうと思う。  茶を二杯、喜んで飲んだだけで、戸美子は立ち上った。  秋に催している制作展が近いので、仕事がつまっているという。 「あんまり、根をつめないようにね。母さんだって年なんだから……」  母一人娘一人であった。ろくな親孝行も出来ないが、せめて長生きだけはしてもらいたいと思う。 「大丈夫よ。おかげでね眼は少し心細いけど、肩もこらないし、世田谷教室へ来ていた石川さんは、母さんと同い年なのに、この春から、ずっと入院してね。血圧が高いらしいけど……もう、佐賀錦ともお別れだなんて心細いこといってるわ」  自分の元気なことが誇らしげであった。 「石川さん、いくつ……」 「ちょうどよ。還暦のお祝いをしてすぐに具合が悪くなったのよ」 「還暦……」  はっとした。 「それじゃ、母さんも今年、還暦ね」  はじめての出産で、母の年のことをすっかり忘れていた。 「まあね。あたしは石川さんより、半年以上、下なんだけど……」  誕生日が十月であった。母は還暦などという年に自分がなっているのを、いくらか恥ずかしがっているふうである。 「お祝いしなくちゃね」 「冗談じゃないわよ。還暦なんて、まだまだ女盛りなんだから……」  来た時と同じように、せっかちに母は帰った。  久仁子は、母の還暦の祝いの品物について、考えていた。誕生日には、いつもちょっとした品物をプレゼントしていた。還暦なのだから、いつもよりは気ばりたいと思う。  生活に不自由はない筈だが、決して贅沢に暮している母ではなかった。英子を産むまでは、久仁子も会社づとめをしていたので、自分の金があった。時々、おこづかいにと、母に五千円、一万円と渡しても、みんな久仁子の名前で貯金してしまっている。いくら、自分のものを買えといってもきかなかった。  そういうところは頑固である。  久仁子が市川浩介と知り合って、結婚する時もそうであった。浩介は三男だし、両親は佐賀なので、久仁子の母が同居することはかまわないといってくれた。どうせ、赤ん坊が出来るまでは共働きだし、留守番にもなって有難いから、といってくれたのに、母は最初から別居を主張してきかなかった。 「あたしも仕事を持っているし、一人のほうが気らくでいいのよ」  久仁子と二人で暮していたアパートに、そのまま居すわり、久仁子たちが今の新居を買うのには、浩介の実家から援助を受けた金よりも、戸美子が出してくれた金のほうがむしろ多かった。 「だもの、母さん、いばって同居すればいいのよ」  と久仁子が冗談めかして誘っても笑っていて相手にならない。  母のアパートと、久仁子たちの新居とはバスで停留所が三つばかりだったが、最初の頃久仁子は寂しかった。  恋愛結婚だった夫と一緒にいても寂しく感じることがあるのだから、母は一人でさぞと思うのだが、そうした娘の心配を、戸美子は笑いとばした。 「なに子供みたいなこといってるのよ。母さんなんて、毎日が忙しくて、寂しがってる暇もないわ」  事実、戸美子の毎日は多忙らしくて、英子が産まれるまでは、十日に一度ぐらいしか訪ねてくれなかった。久仁子のほうから訪ねて行きたくても、その頃は勤めを持っていたし、日曜日は夫婦で外出したり、一週間の滞った家事を片づけたりで、実際には全く実現しなかった。  母に還暦の祝物を贈るについて、久仁子はその金をどこから拈出《ねんしゆつ》するか、胸算用していた。英子を出産する前に、勤めのほうは辞めた。その退職金の大方は、クーラーの月賦や出産準備などに費《つか》ったが、いくらかは貯金してある。他にも、結婚後、生活費の中から、僅かずつでも将来に具えて月掛貯金をしていたが、そっちのほうは手をつけたくなかった。  浩介が帰ってくるのは、いつも七時から八時の間であった。営業だから、接待などで遅くなる日も週に何回かある。  その日の帰宅は七時すぎであった。  風呂も食事も済んでから、久仁子は夫に、母の、佐賀錦の手鞠をみせた。 「ほう、こりゃあ、立派なものだね」  浩介は手鞠を、久仁子の置いた位置のまま眺めた。 「子供の玩具にしては惜しいな」 「英子にとっては、おばあちゃんの形見になりますわ」  昼間、母から受取った時に、ふと感じたことが口に出た。 「まだ、そんな年でもないだろう」 「還暦ですって、今年……十月が誕生日なのよ」  久仁子は、さりげなく夫をみた。  浩介の口から、それなら、なにか祝ってあげるといい、といってもらいたかった。 「還暦にしては若いな」  夫は新聞を取り上げた。次の言葉を待っていたのだが、会話はそれでとぎれた。  自分の口から、母にプレゼントを、といい出しにくかった。自分の退職金でなにかを買うのだから、かまわないようなものの、夫のほうから思いついてもらいたい気持が強い。  夫の両親には、暮にも盆にも、なにかと心がけて送っているが、誕生日までは手がまわらなかった。そこまでは余裕のある生活でもない。浩介の両親はどちらも還暦をすぎていた。古稀には間がある。  何日か久仁子は、母の還暦祝のことを夫に相談出来ないですごした。浩介の帰宅が続いて遅かったせいでもある。  日曜日、浩介は客の接待でゴルフに出かけて行った。営業にいると、ゴルフは必修課目のようなもので、浩介も昨年あたりからぼつぼつ、練習場に通い、なんとかグリーンに出られるようになった。もともと、スポーツ好きだから、上達も早かったらしい。久仁子は時々、夫の自慢話をきかされたが、ゴルフにはまるで知識がないので具体的にはわからない。ゴルフ道具もまだ揃ってなく、近くの従兄のを借りていた。  石川律子がやって来たのは、昼すぎであった。久仁子は襁褓《おむつ》の洗濯物を干していた。 「今、あなたのお母さまのところへお寄りして来たのよ。これ、ことづかって来たわ」  ケーキの包みであった。 「お弟子さんから沢山、もらって食べ切れないからって……」  箱の中は手つかずであった。娘の好物を知っていて、母はそっくり、律子にことづけたらしい。 「商売のお世話をして頂いた上に、お昼まで御馳走になったの」  律子は、母の友達の娘であった。先日、高血圧で入院していると母が話した石川とめ子の次女である。銀座の高名な宝石店に、もう十年もつとめている。 「お母さまのお弟子さんで、この秋、結婚なさる方から、エンゲージとウェディング・リングの注文を頂いたのよ」  洒落《しやれ》た大型バッグからカタログを取り出した。高価な品物だけに、実物はめったに持ち歩かず、カタログで大体の話をまとめ、あらためて実物をみせるというやり方である。  カタログといっても、写真は贅沢なものでさまざまのデザインの指輪がきらびやかに並んでいる。  ダイヤモンドで、ウェディング・リングとエンゲージ・リングがコンビになったものが評判がいいという。  律子のコネで買うと一割から一割五分ぐらいサービスしてくれるので、久仁子も結婚の時、浩介から結納金のかわりにもらったエンゲージ・リングは、律子を通して買った。 「母、なにしていました?」 「別に……ぼんやりしてらしたわよ。日曜日で、佐賀錦の教室もないんでしょう」 「家へ来ればいいのに……」 「あたしも、そういったのよ、久仁子さんのところへいらっしゃらないんですかって……日曜日は浩介さんがくつろいでらっしゃるのに、邪魔しては悪いって……」 「ゴルフなのよ、朝早くから……」 「電話してあげればよかったのに……」  久仁子の家には電話がなかった。公衆電話を利用するにしても、英子をおいては外出も出来ない。 「でも、お元気で羨ましいわ。うちの母と同い年ですってね。還暦のお祝い、もうなさったの」  律子の来た目的の一つはそれらしかった。 「どう……指輪でもプレゼントなさったら……」 「とても、手が出ないわ」 「真珠なら、どうかしら」  真珠のカタログをひらいた。宝石をあしらった真珠のブローチが美しい。五十万、七十万という値段である。 「リングは、そんなにお高くないのよ」  無論、高いほうはきりがないが、五、六万でも、かなり良質の真珠が買える。 「指輪なんて、するかしら……」  母が指輪をしているのを見たことがなかった。おそらく、一個も持っていないだろう。仕事をする時の母の手には、指輪は邪魔なようである。 「そりゃあ、女ですもの。おきらいな筈がないわ。今日も、私の持って行ったカタログを楽しそうにみていらっしゃったもの……」 「欲しいようなこといってました?」 「お勧めしたんだけど……この年になって指輪なんて、もったいないからって……」  そういう母だと思った。きものでも帯でも、ハンドバッグでも、久仁子が、あれはどうかしら、なぞと、一緒の買物の途中で勧めても、もったいないからと、あっさりきき流してしまう母である。 「真珠はいいわよ。そういっちゃなんだけど、いずれ、あなたが頂いて、あなたから英子ちゃんへゆずって行けば、なによりのお形見になるじゃないの、宝石って大体がそういう性質のものなのよ」  ヨーロッパなどでは母から娘へ、娘から更にその娘へと代々、受け継がれる財産だと律子は話した。 「いずれ、お古を頂くのをあてにしてプレゼントするなんて、悪い娘ね」  苦笑しながら、久仁子は気持が動いた。  還暦の祝いに真珠の指輪なぞはたしかに気がきいている。六十になるまで、ちゃんとした指輪一つ持っていない母が不愍《ふびん》でもあった。  久仁子には結婚前に真珠のネックレスとブローチを買ってくれている。  近頃は、ちょっとした家庭の主婦が安物でもダイヤを指に光らせ、若い娘は誕生石だのムーンストーンだの、値頃《ねごろ》な石の指輪をたのしんでいる。  カタログをみる久仁子の眼が真剣になった。  五、六万なら、退職金の残りがそれくらいはある。 「おおよその見当をつけてくれれば、二、三日中に実物を何点か持ってくるわ。やっぱり、きめる時は実物でないとね」  律子は勧め上手であった。カタログで五点ばかりをえらび、久仁子は自分の指輪のサイズをいった。結婚の時、久仁子のエンゲージ・リングを母もはめてみて、ぴったりだったのを思い出したからである。 「なるべく、いい品を持ってくるわ。値段も店長に頼んで、どこよりもサービスさせるわよ」  カタログをしまって、律子は帰った。     2  浩介に無断で指輪の注文をしたことで、久仁子は、又一つ、心の重荷が増えてしまった。  久仁子の退職金のことは浩介も知っている。  自分の金だからなにに使ってもかまわないようでいて、やはり、一応、夫に報告はしておかねばならない。  夕方になって、浩介は上機嫌で帰って来た。  賞品にもらったのだといって、フランス製のストッキングが三足入っている箱を渡してくれた。ゴルフの賞品は、ゴルフウィドーの女房族の機嫌を取るためか、女物が多かった。  浩介が風呂を浴びている中に、ビールの仕度をした。枝豆もゆでた。  今夜はどうしても、母へのプレゼントの件を話さねばならない。 「君の退職金、まだ、いくらか残ってるかな」  ビールを半分ほど空けて、突然、浩介がいい出した時、久仁子ははっとした。夫婦は一心同体というから、以心伝心で、母のプレゼントのことを夫も考えていてくれたのかと思った。 「ゴルフの道具を揃えたいんだよ」  いくらか照れくさそうに、浩介がいった。 「いつまでも、人の借り物じゃ具合が悪いんだ。日曜ごとに借りるんじゃ、悪いしね。やっぱり、自分のものでないと、クラブに癖がつくそうだ」  久仁子は、ぼんやりして、少し慌てた。 「ゴルフの道具って、高いの」 「上をみればきりはないが、ま、五、六万から十万だろうな。僕らの分相応となると……」  浩介の口調が、昼間の石川律子に似ていた。 「ばらばらには買えないの」 「やっぱり、必要なものだから、どうせなら全部そろえたほうが便利だそうだ」  凝り性だけに、きちんと揃えないと気がすまない。 「ボーナスまで待つつもりだったが、やはり不便でね。定期預金は下ろしにくいだろう。ボーナスが出たら、返すよ」 「返すなんて……」  夫婦の間で水くさい表現だと思う。母のプレゼントのことがなければ、退職金の残りをそっくり、ゴルフの道具にあててかまわなかった。夫にとって、ゴルフは半分仕事なのだ。 「すまないが、たのむよ。せいぜい、賞金を稼いでくるからね」  冗談らしく笑って、浩介は話題を変えた。久仁子は母のプレゼントのことを話しそびれた。  翌日、久仁子は英子を乳母車に乗せて郵便局へ行き、一万円ばかりを残して貯金をひき出した。公衆電話から、石川律子のつとめている銀座の宝石店へ電話したのは、昨日の話をことわるためであった。  律子は外勤で留守であった。ことづけですませられることでもないので、とりあえず、電話のあったことだけ伝えてくれるようにいって切った。  母へは、気のきいたバッグを贈ろうと考えていた。仕事のために持ち歩いているバッグが、もうかなりくたびれていた。軽くて、上質の大型バッグなら一万円で買える筈である。  真珠の指輪は、又、暮のボーナスの時に考えてもよいと思う。  だんだん、買いにくくなるというのが久仁子の実感であった。浩介一人の月給で親子三人が生活して行くのだ。久仁子が働いていた時よりは、余裕がなくなっている。赤ん坊が一人いると、眼にみえない金も出て行くし、病気などを考えると予算のたてようがなかった。子供の将来を思えば、貯金も今まで以上に心がけねばならない。  それに、夫婦の間で水くさいとは思いながら、夫の金で、自分の母へのプレゼントに多くの出費をすることは、やはり気がねだった。どうしても必要というものではないだけに、一層、話しにくい気がする。  止むを得ないとわかっていて、母がかわいそうに思えた。  真珠の指輪をプレゼントした時の、母の喜ぶ顔を想像したあとだけに、寂しかった。  その翌日は雨であった。  雨の日は外出が出来ない。英子一人をおいて外へ出ることは危険だった。母親がちょっと出かけた留守に赤ん坊が思いがけない事故に遇ったという事件を、久仁子も何度か新聞で読んでいる。  買物は御用聞きもまわってくるし、隣の主婦が親切に声をかけてくれる。  かなりな雨の中を、戸美子は両手に荷物を抱えてやって来た。 「雨で買物に出られないと思ってね」  野菜の他に、肉や魚も持って来ている。 「浩介さんが好きだから、どじょうを買って来たのよ」  一人前である。久仁子は泥鰌《どじよう》も牛蒡《ごぼう》も嫌いだから、柳川が作れない。  母はごとごとと台所で柳川を作っていた。 「浩介さんの顔をみたら、鍋を火にかけて、卵を割り入れるのよ。それで、もういいようになってるから……」  少しも、じっとしていない母であった。襁褓を洗い、ミルク瓶の消毒をし、その間に米までといでくれる。 「貧乏性ね、少し、すわったら……」  だが、仕事がすむと、戸美子は雨の中を忙しげに帰って行った。  その日は、浩介がゴルフの道具を買ってくる予定であった。金は昨夜の中に渡してある。 「お金の足りる範囲で、いいものをお買いなさいね。安物は結局、損よ。変なところでけちらないで……」  妻の金だということで、夫が遠慮をしないように、今朝も出がけに念を押した。  浩介は八時すぎに帰って来た。手ぶらである。真新しいゴルフバッグを持って帰ってくると想像していただけに、久仁子はあてがはずれた。 「あなた、ゴルフの道具は……?」  あとから届けてくるのかとも思った。 「買わなかった。……」  浩介の声がそっけなかった。いそいそと今朝、出て行った人とは別人のようである。 「買いに行く暇がなかったの?」 「いや……」  茶の間にすわって、上着のポケットから小さな包みを出した。 「これを買ったよ」  包装紙が銀座の宝石店のものである。 「あなた……」 「石川さんという人から、会社へ電話があってね。お母さんの還暦祝に君が注文したそうじゃないか」  なんでもないように話していて、声の底に不満がありありと出ている。 「品質もいいし、サイズもぴったりだし、サービス甲斐のある品物だそうだ。買い得だといっていたよ」  どうして石川律子が夫の会社へ電話したのか、律子の無神経さに腹が立った。 「君にみせて欲しいというから、とりあえず金は払っておいた。気に入らなければ、電話してとりかえてもらえばいい」  残った金だと、一万円札をテーブルの上へおかれて、久仁子はとり乱した。 「どうして、そんなことをなさったの。それは、ことわるつもりだったのよ」 「俺が、ゴルフに金を貸せといったからだろう」 「でも……別に、どうしてもっていう品物じゃなかったんですもの」 「折角、買おうと思ったものじゃないか。君の金なんだ。遠慮することはない……」 「そんな言い方、いやだわ」 「ゴルフの道具は暮まで待つよ」 「そんな必要ないわ。これ、石川さんに引取ってもらうわ」 「みっともないことをするな」 「だって……」 「お母さんにあげたらいいじゃないか。誕生日は来週かい」 「母には、もっと安いものを贈るわ。それで充分、喜んでくれるのよ。もともと、指輪を欲しがるような人じゃないし……」 「まあ、いい、それは、お母さんにあげなさい。そのほうが僕もすっきりする……」 「ゴルフ……あなたが不自由するのが嫌なのよ」 「かまわないよ。あと何回か、従兄《にい》さんのを借りればいい……」 「だって……これは、急いで必要というものじゃないし……」 「もうよそう。女房の金をあてにしたのがいけなかったんだ」 「ひどいわ。そんな言い方……」 「別に腹を立ててるわけじゃない。しかし、石川さんに指輪を注文したのなら、何故、そうだといってくれなかったんだ。うっかりすると、僕が恥をかくところだった。話の辻褄《つじつま》を合わせるのに苦労したよ」  テーブルの上で、あたためた柳川の鍋が冷えていた。  台所で、娘の夫のために牛蒡を刻んでいた母の背を思い出して、久仁子は涙がこぼれそうになった。 「ごめんなさい。話すつもりが、きっかけがなくて……」 「いいんだよ。君の金を君がどう使おうと文句をいってるわけじゃないんだ。君を責めているんじゃないんだよ」  浩介が嫌味をいっているのではないと思いながら、久仁子は心の中を風が吹いて行くように思えた。夫婦でも他人という言葉が、胸をかすめる。 「間違っても、石川さんに指輪を返すなんて真似《まね》はするなよ。それをしたら、本当に怒るぞ」  翌日、出がけに浩介は久仁子へ釘をさした。     3  真珠の指輪は誕生日に、母の手に渡った。  浩介が自分で上等の肉を買って来て、すきやきの仕度をし、母を招待してくれた。 「お母さん、おめでとう。今日は久仁子からお母さんにプレゼントがあるんですよ。たいしたものじゃないが、気持だけ受けてやって下さい」  浩介がそう切り出して、久仁子に指輪をとり出させた。  戸美子は驚いて、指輪をみた。 「これを私に……冗談じゃないわ。こんな立派なもの……もったいないわ」  それでも勧められて指にはめてみた。 「ぴったりよ。でも、本当にもったいないわねえ」  喜ぶ母をみて、浩介は満足そうであった。母は久仁子ではなく、浩介に何度も礼をいった。珍しくビールも飲んだ。 「ありがとう、浩介さん……本当にたのしかったわ……ありがとう……」  帰りがけも玄関で、それだけをくり返した。 「あなた、ありがとうございました」  後片づけは母が殆どすませてくれたので、夫を風呂に入れ、居間に落ちつくと久仁子は改めて浩介に礼をいった。 「なにをいってるんだ。他人行儀だな」  照れくさそうに笑いながら、浩介は機嫌がよかった。 「やっぱり、指輪をあげてよかったじゃないか。あんなに喜ぶなんて、お母さんも女だね」  ゴルフの道具のことは、当分、棚上げであった。久仁子は夫に借りが出来たようで、嬉しさの中にも胸がつかえた。  母の喜びをすっきりとは喜べない。  久仁子は生活費をきりつめたが、無駄であった。物価は上る一方であった。月給から一万円浮かすのは困難である。  母は、五日か七日おきぐらいにやって来た。  指輪を嬉しそうに、はめている。いつも、例によって魚や肉を買って来てくれては、台所でごとごととやって帰る。その間、指輪は抜いて、大事そうにハンドバッグにしまわれていた。 「真珠は傷がつきやすいそうだから、気をつけないとね。英子にゆずるまで無傷にしておかなければ……」  戸美子の内部で、指輪は久仁子を素通りして、一足とびに孫へ行く感じであった。  そんなに孫はかわいいものかと思う。  十月の末に、久仁子の高校時代の恩師が亡くなった。まだ五十代で、病名は肺癌であった。学園では人望のある教師だったし、久仁子の担任でもあったから、通知を受けて告別式には、是非とも、出席したいと思った。 「母さん、悪いけど、英子を三時間ばかりおねがいするわ」  ちょうど、佐賀錦の教室のない日である。  母乳はもうとっくにやめて、ミルクと離乳食であった。時間的にも母が留守番をしてくれればなんとかなる。 「いいですよ。お安い御用……」  戸美子はあっさり引き受けて、ミルクの量や離乳食について細かく訊ね、メモをした。  告別式には和服で行くことにした。洋服のほうが便利だが、あいにく黒のスーツで適当なのがない。  出産後、久仁子はやせて、それまでの服はみんなだぶだぶになってしまった。  箪笥《たんす》から新しいたとうに入った喪服を出した。結婚の時、母が揃えてくれたもので、黒無地の帯に白の丸ぐけの帯締め、白無地の帯あげ、白の長襦袢《ながじゆばん》が一そろいになっている。  長襦袢を出して、はっとした。衿《えり》がかかっていなかった。  告別式が明日でよかったと思った。  白い半衿の買いおきがなかった。衿芯もない。  日曜日で浩介が家にいた。 「困った時の神だのみだな。英子はみているから、お母さんのところへ行って来いよ」  英子にミルクを飲ませ、襁褓もとりかえてから、長襦袢を風呂敷に包んで出かけた。  アパートはしんとしていた。  秋のよく晴れた日曜日である。大方は家族連れで外出したものらしい。  見馴れたドアの前で、なにかがむかしと変ったと思った。表札であった。母娘二人で暮らしていた時は、戸美子の名札に並んで、久仁子の表札が下っていた。それが、今は母のが一枚きりになっている。  ドアに鍵《かぎ》がかかっていた。外出しているのかと思った。 「お母さんなら、下の公園にいらっしゃいましたよ」  管理人に教えられて公園へ走って行った。  同じアパートの住人らしいのが、夫婦に子供二人揃って出かけて行くのに、母が挨拶している。子供が両親にまつわりつき、両親もはしゃぎながら駅のほうへ遠ざかるのを、戸美子はしんと見送っていた。  母の背が、どきりとするほど寂しげであった。孤独が六十歳の母のまわりを重くとり巻いている。  声をかけると、びっくりした顔が久仁子をみて、ぱっと明るくなる。 「どうしたの、あんた……まさか、浩介さんと喧嘩したんじゃないだろうね」  すぐ、そんな取越し苦労をするのも母らしかった。 「だったら、どうする、母さん……」  くすんと笑って舌を出した。母のところへ帰って来ただけで、娘の気分になっている。 「用があって来たのよ。母さんとこに半衿の買いおきないかしら」  なんだ、と笑い出して、いそいそと先に立った。  エプロンのポケットから鍵を出して、ドアをあける。  部屋の中は、寒々とみえるほど片づいていた。母娘で暮らした時分より冷え冷えとしてみえるのは、華やかな色彩が悉《ことごと》くなくなってしまったせいであった。  鏡かけまでが、地味な色になっている。 「あら、喪服の長襦袢、衿がかけてなかったかね」  風呂敷をといてみて、すぐ箪笥から新しい半衿と衿芯を出した。 「時間あるの」 「四時間はね」 「あきれたお母さんね」  裁縫箱を出して、衿をつけはじめた。娘は和裁が苦手である。 「そこに、おせんべいがあるわよ」  針に糸を通しながら世話をやいた。勝手にお茶をいれ、せんべいを割りながら、この部屋で一人っきりの母を想った。さっきみた、母の背の寂しさが胸にしみ渡るようであった。 「ねえ……いい加減に、うちへ同居しない」  自然にそのことが出た。 「どうして……」  針を動かしながら訊く。 「だって……不便だもの」  寂しそうだとも、心配だともいえなかった。 「勝手な人ね」  嬉しそうに笑った。 「困った時は、いつでも頼まれてあげるわよ」  同居はしないと暗にいっている。 「浩介に気がねしてるの」 「ううん、あんたがね」 「あたしが……」  はっと思った。母と夫との間にはさまって娘がつらい立場に立つ。それを母は怖れているのだ。 「そんなこと……」  ないわよといいかけて言えなかった。指輪の一件が胸にきた。 「母さん、一人が気らくでいいのよ」  陽気にいって、そうそうと思い出したようにハンドバッグをひきよせた。 「これ、満期になったのよ」  定額貯金であった。久仁子の名義になっている。 「ハンコは、あんたが持ってるわね」 「母さん……」  動めに出ていた時分、毎月いくらかずつ渡していたのを、そっくり貯金していたものだ。額面は五万円であった。 「来年の四月になると、もう一つが満期になるわ。あとは英子の……」 「母さん……」  不意に涙が出た。 「こんなことしないで……母さんのために、母さんのためにお金を使って……」 「なんにも使うものがないのよ」  戸美子は微笑した。 「あんたから、こんないいプレゼントはもらったし……もう、なんにも欲しいものはないのよ」  母の指で、真珠がぎこちなく光っていた。  長襦袢の包みを抱いて帰って行く娘を、戸美子は戸口まで送った。  いっとき、あたたかだった部屋の空気が、又、ひんやりしたものに変っている。  戸美子は真珠をみつめていた。その頬に、耐えている孤独の翳《かげ》が濃い。  秋の陽も、この窓にはまだ届いていなかった。  異母姉妹     1  入口の戸が、いくらか乱暴にあいたのを、若子は客が入って来たと思った。実際、板前も、店の若い子も、 「いらっしゃいまし」  と異口同音に声をかけている。若子は洗い場にいた。洗い場は店に背中をむける位置にある。パートタイムで来ている皿洗いの小母さんは午後九時で帰ってしまうので、それから先は、もっぱら、若子が洗いものをする。  板前が一人、運び専門の女の子が二人という小さな店であった。 「へえ、案外、いい店じゃないの。こりゃ、たいしたもんだわ、なんたって、東京の銀座なんだから……」  傍若無人な声にききおぼえがあった。ぎょっとしてふりむくと、三津江は、もうカウンターの前に立っていた。 「おやおや、いい男の板前さんじゃないか」 「姉さん……」  なつかしさがないわけではなかったが、周囲のほうが気になった。  店内に二、三人の客が残っている。板前の吉岡育夫も、店員の女の子も、茫然として三津江を眺めていた。  眼をむくような派手な色彩の混ぜ合わさった単衣《ひとえ》に博多帯をずるずると結んでいる。片手にスーツケースとハンドバッグを下げ、あいた手の中指には安物のダイヤが光っている。  そのくせ、足袋は薄汚れて、草履もくたびれていた。 「今、東京駅へ着いたのよ、新幹線が二十分とかおくれちゃってさ。弁当も売りに来ないんだから、いやになっちゃった」  カウンターに腰をのせて、ハンドバッグから煙草をとり出した。 「ビールちょうだいよ。咽喉《のど》が乾いた」  若子はおろおろして、コップを持つ手が慄えそうになった。それでも冷蔵庫からビールをとり出して、五年ぶりに姉の前へ立った。  突然、姉が自分の前に現われたことへ、直感的な不安があった。 「板前さん、なにかおいしいもの作ってよ。この店、なにが出来るの」  吉岡がちらと若子をみた。普段から無口な男だが、こういう場合、決してよけいなことはいわない。 「あの……味噌うどんが売りものなんですけどね。他に、ちょっとしたもの……お刺身とか、酢の物とか……季節のものの炊《た》き合せや、お惣菜みたいなものとか……焼き物とか」  若子の説明より先に、三津江は手をのばして杉板で作ったメニュウをみた。 「お刺身、なにがある」  客の口調であった。 「鰹と鮪と……鯛と……」 「鰹はもう売り切れましたよ」  そっと、吉岡が声をかけた。 「じゃ、鮪と鯛でいいわよ。雲丹《うに》ももらいたいわね。それから、たけのことなまりの炊き合わせってのがうまそうじゃないの」  ビール一本はあっという間にあけて、ウイスキーの水割を註文する。 「国産しきゃおいてないのね。ま、いいでしょう」  客がどやどやと入って来た。バアから流れて来た客で、これから十二時頃までが、一日の最後の商売になる。  姉が気になったが、若子はこだわっていられなくなった。一日中で、もっとも手が足りない時間でもあり、客が混雑する刻限でもあった。  気がついてみると、三津江が手伝っていた。  手伝うといっても、もっぱらビールや酒を運び、客に愛想をふりまいている。 「小母さん、新顔かい」  馴染の客が訊き、 「若子の姉なんですよ。どうも、妹がいつもお世話さまで……」  酒と煙草でつぶした声が、しゃがれて、品がなかった。 「へえ、お若ちゃんの姉さんかい」  似てないなあ、という声に、ぬけぬけと答えた。 「腹違いなんですよ。お胤《たね》は一緒なんですけどさ」  カウンターの中で、若子は赤くなった。姉の臆面のなさは知っていたが、相手かまわぬ喋りっぷりには、その品のない口調や態度も含めて、きまりが悪い。板前の吉岡がどう思っているかと、若子は横顔を盗み見たが、これは、いつもと変らず、次々と客の註文に応じて庖丁を動かしている。ひょいと若子をみると、 「失敗しましたよ。鰹をもうちょっと仕入れておくべきでした」  かすかに苦笑して、それもいつもと変りのない口調だった。むしろ、三津江の存在を無視しているようなところがある。そのほうが、若子の心がいくらかでも楽だと考えての心くばりだと、若子にはすぐわかった。  郷に入れば郷に従えというけれども、三津江の順応ぶりは見事なもので、「お若」の店の看板の時間には、何年もこの店で働いているような調子のよさであった。  森本孝一が入って来たのは、ぼつぼつのれんを入れようという時刻で、 「あいすみませんね。もう、看板なんですよ」  のっけから、三津江が浴びせ、孝一がむっとした表情になった。 「若子、なんだい、この婆さんは……」  不快をがまんするという性格ではないから、かまわずカウンターヘどなりつける。幸い、店にもう客はなかった。  それにしても、店で若子と呼び捨てにされたのは、はじめてのことである。 「森本さん……」  手を拭きながら、若子は洗い場から出た。 「いらっしゃいまし」  孝一の手に車の鍵があった。いつものように、水戸の店から車を運転して来たものとみえる。 「姉なんです。さっき、上京して来まして、そのまま、店を手伝ってくれていましたの」  かばった言い方をして紹介しようとしたのに、三津江は面白そうに森本と若子を眺めている。そういうところは勘のいい女なので、さっき、森本が若子を呼び捨てにしただけで、およそ二人の仲を悟ってしまったらしい。 「君に姉さんがいたの」  機嫌のよくない表情のまま、森本は若子がひいた椅子へ腰をかける。 「知らなかったね」 「いつか、ちょっとお話ししたと思いますけれど……遠方にいるので……」 「名古屋と豊橋の間ですがね、碧南《へきなん》っていう市があるんです。そこに衣浦《きぬうら》って温泉があって……そこにいたんですよ」 「衣浦……」  森本が眉をしかめた。 「知らないね」 「むかしはいいとこだったんですよ。海がすぐ近くてね、埋め立てはじめちゃってから、すっかりさびれちまって……。今はみるかげもないんですよ。西浦とか蒲郡《がまごおり》なんかにお客とられちゃったから……」  森本が煙草を出すと、心得たように三津江がマッチをすった。  女の子二人を帰らせて、若子はビールを出した。森本は店にくると必ずビール一本だけ飲んで、腰をあげる。 「吉岡さん、帰ってね、適当に……」  そっと声をかけたが、吉岡はうなずいて、そのままカウンターの中を片づけている。  三津江がにやにや笑いながら戻って来た。 「若ちゃん、あたし、あんたのアパートへ帰ってるから、あんた、森本さんといつも泊るところへ行きなさいよ」  あけすけな言い方に、若子は声も出ない。 「あんたのアパート、吉岡さんに送ってもらうから……」     2  森本と他人でなくなってから、いつも利用している山の手のホテルで、若子はその夜、どうしても燃えなかった。が、そのことは森本に気づかせない。森本のほうは満足していた。 「驚いたよ。折角、いい話を持って出て来たのに、いきなり、姉さんがいるんだから……」  随分、あばずれだな、と森本は遠慮なくいった。 「苦労しているんです」  もともと静岡で芸者に出ていた三津江であった。その姉の縁で、若子も十五の時、お酌になった。若子が花柳界から足を洗って東京へ出たあとも、三津江は静岡にいて、やがて衣浦へ移ったものらしい。普段、全くといってよいほど音信がない姉であった。どうして、東京の「お若」の店がわかったのか。 「親父がね、どうやら、いうことをききそうなんだ」  鏡台の前で髪をまとめている若子の背中へいった。 「やっぱり、こないだ、君に逢わせたのがよかった。昔、バアで働いていて、小料理屋をやっている女なんて、どんな海千山千と思ったらしいんだ。君をみて、案外な顔をしていたよ」  森本の妻は昨年の秋に死んでいた。長い療養生活の果で、森本が月に何度か東京へ遊びに来て、その頃、バアにつとめていた若子と知り合い、関係を持つようになったことも、妻が入院中なので、親達から大目にみられていた。  妻が死んで、森本は若子との再婚を考え出した。森本の家は水戸で指折りの料亭である。 「君なら店のほうもうまく切りまわしてくれるだろうし、親父やお袋にもよく仕えてくれると思うんだ。死んだ女房はどうもお袋としっくり行かなくて苦労させられたから……もうトラブルは二度とごめんだよ」  森本は一人できめて、親の説得にかかったが、若子はあまり深く考えなかった。自分のような過去を持つ者が、そう簡単に結婚出来るとは思えなかったし、「お若」の店もやっと軌道に乗り出したところで、働くことに張り合いを持っていた。 「女房の一周忌でもすませたら、正式に結婚ということで、とりあえず、夏頃から水戸へ来てくれないかな」  母親が持病のリュウマチで寝ているといった。 「看病もしてもらいたいし、店のほうも君が来てくれたほうが便利なんだ」 「でも、店はどうするんです」 「お若」の店である。 「売ってもよし、君のものなんだ。君の好きにすればいいじゃないか」  森本はあっさりしていた。 「あんな、ちっぽけな店より、俺の店は水戸でも一、二なんだぜ」  来年は大洗《おおあらい》の海岸にもレストハウスを作る予定だといった。 「君だって、いつまでも若いわけじゃない。もう二度とこんな玉の輿《こし》はあるまいよ」  気持よさそうに森本は笑った。  翌日は日曜日である。若子が森本と別れてアパートへ帰ったのは午《ひる》すぎであった。  部屋に鍵がかかっている。三津江は外出したようであった。管理人のところへ合い鍵をとりに行こうと一階まで下りると湯道具を抱えた三津江が吉岡と歩いて来た。なにが面白いのか派手な笑い声をふりまいている。若子をみて手をあげた。 「銭湯、行って来たのよ、あんたの部屋のお風呂、西洋式で入った気がしないから、吉岡さんに電話して連れてってもらったの」  吉岡も手拭を下げていた。すぐ近くで、やはりアパート住いをしている。もともと、森本の水戸の料亭で働いていたのを、「お若」を開店する時、孝一がまわしてくれた板前であった。年は若子より七つ上で、三十六、口数は少ないが、心にあたたかいものがあって、決していいことずくめで開店したわけではなかった「お若」の店を今日までにするには人にいえない苦労もあった若子にとって、吉岡の存在は貴重であった。 「すみません、吉岡さん」  森本との朝帰りだけに、若子は吉岡の視線が眩《まぶ》しかった。  部屋へ寄ってビールでも飲んで行かないかと三津江が勧めたが、吉岡は断って、さっさと路地を出て行った。 「あの人、独り者かい」 「そうよ」 「あの年でねえ、なにがあったの」 「さあ……」  水戸にいる時分、女房が男を作って逃げて離婚になった経歴があるとは、流石《さすが》にいえなかった。 「うちの女中だったんだよ、男ぐせが悪くて、最初は女のほうが熱をあげて、酒で殺して吉岡をものにしたんだ。ところが、吉岡はまじめだから、一度そうなったからには責任をとって結婚しなけりゃって律義に考えやがってさ。もともと、まともな女房になれるような女じゃなかったのさ」  寝物語に森本が話してくれたものである。  森本はむしろ、そのことで吉岡の律義さを嘲笑していたが、若子は世の中に、そういう男もいるのかと、吉岡に同情をまじえた尊敬の念を抱いたものである。  若子の部屋は、ひどい状態になっていた。布団は敷きっぱなし、灰皿は煙草の吸いがらが山のようで、煙草はそれだけではすまないで、茶碗にも小皿にも手当り次第に吸いがらをなすりつけてある。  窓をあけ、若子が掃除をする間、三津江はトイレットに避難していた。 「あんたさあ、森本さんの後妻になるかも知れないんだって……」  出てくると、きれいになった卓袱台《ちやぶだい》の前へ落ちついて早速、煙草を出す。 「誰にきいたの」 「吉岡よ、あの人、口が固くて、きき出すのに苦労しちゃった」  妹の横顔を小狡《こずる》く見た。 「ねえ、あの店……森本さんがお金出したのかい」  話が飛躍して、若子は慌てた。 「いえ、少しはお借りしたけど……それは、もう殆んどお返しして……あと五十万くらいかしら……」  バアで働いて貯めた金を資本に、やっとはじめた店である。足りなかった分を森本から借りた。 「へえ、返したの」  不思議そうにいう。 「だって、森本さん、あんたと寝てるんだろう……」 「でも借金は借金ですもの」 「がめついんだね。森本さん、帳消しにしてくれなかったのかい」 「返さなくていいとはいわれたけど、いやだったから……」 「相変らず、馬鹿なことやってるんだね」  鼻の先で笑った。 「もっとも、森本さんの奥さんになれるんなら、返したって同じだけど……」  若子が買って来たケーキを手づかみで食べた。 「そんな計算したわけじゃないわ」 「結婚したら、銀座の店、どうするの」 「考えてないけど……」 「あたし、やろうかな。やとわれマダム、姉妹なんだから、信用出来ていいじゃない」 「姉さんが……」  遊びで上京して来たとばかり考えていた。 「衣浦、出て来たのよ、ろくなことがないし……、あんたが銀座でうまいことやってるって、静岡の叔父さんにきいたから……」  子供の時、世話になった母方の叔父に、若子は季節ごとにちょっとした食料品などを送っていた。姉はそこで若子の所在をきいたという。 「あんたは早く静岡を出て行って得をしたわよ。あたしは残されちゃって、とんだ貧乏くじをひいたわ」  不平がましい調子に、若子もひらき直った。 「なにいってるのよ、姉さん、あたしが静岡にいられなくなったの、姉さんのせいじゃありませんか」  お酌から芸者《いつぽん》になる寸前、若子は恋をした。  相手は静岡の茶問屋の息子で、どうしても若子と夫婦になるときめて親を説得し、まがりなりにも許しが出た。芸者屋へ借金も払ってくれて、あとは結婚の段どりをつけるだけという時、突然、破綻が訪れた。  芸者だった三津江と、若子の相手が間違いを起したのである。 「姉さんに誘惑された」  と男はいった。二度と馬鹿なことはしないといいながら、二度三度とかかわりを持った。  若子は絶望し、静岡を夜逃げ同様に去った。 「そりゃ、あの時は悪かったわよ。だけど、男女の仲ってのは、言葉じゃいえないなにかがあるもんよ。第一、あの若旦那だって、あのあと、いい家の娘と結婚して、今じゃ三人も子供があるってから、あんた、あたしを怨むのは筋違いだわよ」  三津江は、けろっとして二つ目のケーキに手をのばした。     3  若子がいいといったわけでもないのに、三津江はそのままアパートに居すわり、「お若」の店で働きはじめた。水商売が骨の髄までしみている女だから、客あしらいはうまい。 「お若」の店は、その分、下品にはなったが、客は面白がっている。えげつない話をする他に客に喜ばれる方法はないと思っているような姉がかわいそうでもあった。女道楽がすぎて、家産をつぶし、失意の中に死んだ父と、その父のおかげで苦労ばかりして逝った母二人と……、若子にしても三津江にしても物心ついた頃、すでに母親はいなかった。年は一まわりも違っているが、二人きりの姉妹である。  森本孝一からは電話や手紙で結婚を進めて来ている。父も母も、若子が水戸へ来るのを待っているとまでいわれては、若子の心も動いた。ありがたいと思わねば罰が当るように考えられた。  森本がいったように、玉の輿に違いなかったし、これをのがして幸せな結婚が他にあるとは思えなかった。結局「お若」の店は姉にまかせてやるのが一番いいようであった。  三津江のルーズな部分は、吉岡におぎなってくれるよう依頼すればよい。  六月の土曜日の夜であった。  二、三日降り続いた雨で、銀座の夜は車と人がごった返していた。  その客は「お若」でビールを一本飲んで、味噌うどんを食べた。歩けないほど酔っていたわけではない。新橋の駅へ出るには、どっちへ行くのかと訊かれて、たまたまそこにいた若子がエレベーターで一階まで送り出した。方角を教えて、客は傘をさして二、三歩、路上へ出た。すぐ十字路である。どかんと鈍い音をきいて、若子がふりむくと、雨の路上に傘が放り出されていた。  自分の店の客という意識が、若子をかけよらせ、血と雨にまみれている男を抱き起させた。救急車がくる。店からは吉岡がとび出して来ていた。 「あたし、病院までついて行きますから……」  若子は吉岡にいいのこして救急車に乗った。  その客は、「お若」の店の常連ではなかったが、はじめてでもなかった。二か月に一度ぐらいの割合で何度かやって来ている。事故でわかったのだが、名古屋の人であった。商用で上京し、なにかで「お若」の店を知って、その都度、来ていたらしい。  病院で困ったのは、名古屋へ連絡はついたものの、家人が上京してくるまでに時間がかかることであった。東京に親類はなく、商売でつき合っている知人はあるのだろうが、家人にはわからないという。  結局、若子は病院の廊下で手術の終るのを待った。赤の他人だが、こうした場合、若子の性格では、ほったらかして帰れるものではない。  とりあえず、「お若」の店には電話をかけた。電話口には吉岡が出た。  病院の名を告げ、最終の新幹線でたぶん、名古屋から家族がくる筈だから、それまでは病院にいたいといった。なにしろ、事故に遭った客は重態なのである。 「最終の新幹線ですか……」  吉岡の声がくぐもった。 「実は、森本の若旦那がおみえになりまして、今、三津江さんがアパートへ案内して行かれましたが……」  考えてみると土曜日であった。森本孝一が上京してくるのは土曜日にきまっている。  電話を切って、アパートへかけ直したが、誰も出ない。姉のことだから、森本とどこかで酒でも飲みながら話しているのかと思った。  森本にしても、若子との結婚で、姉に話したいこと、訊ねたいこともあるに違いない。それならそれでよいと若子は考えた。自分の口から話すより、森本からきいてもらったほうが気持が楽であった。まだ、将来のあてもないような姉の立場にくらべて、結婚して行く自分をすまないと思う気持が若子にはあった。姉をさしおいて自分だけが幸せになることに若子は遠慮がある。  手術は遅くはじまり、長びいていた。土曜の夜のことで、医者や看護婦の手が足りないのかも知れなかった。  十一時半になって、吉岡が来た。店をしめて、その足で病院へ来たという。 「どうなんですか」 「よくないらしいわ」  密閉したドアのむこうは不気味なほど静かである。一度、入ったきり、看護婦も出て来ない。 「いいんですか、アパートへお帰りにならなくて……」  そっと吉岡がいった。森本のことを気にしていると思い、若子は苦笑した。 「姉さんが適当にしてくれているでしょう」  だが、十二時になっても名古屋からの家族は到着しなかった。手術は終ったらしいが、病人は危篤状態だというし、外は雨が降っていた。車を呼ばうにも、ちょうど銀座|界隈《かいわい》が車の拾えなくなる時間である。 「こんな時になんだけども……」  病院の暗い廊下に並んで腰をかけながら、思いついて若子は話し出した。森本と結婚の話が進んでいること、もし、そうなった時、「お若」の店を姉の三津江にまかせるかも知れないこと。 「ただ、姉さんって人はお金の計算は駄目だし、ルーズなところがあるので、その点を吉岡さんに今まで通り助けてもらえたら有難いと思って……」  若子が話し終えても、暫く吉岡は黙っていた。窓の外の雨の音が、いよいよ激しくなっている。夜勤の看護婦が懐中電燈を照らしながら入院室のほうへ歩いて行った。 「申しわけありませんが……」  低く、前方をみつめたまま、吉岡が口を切った。 「もし、おかみさんが結婚なさって、あの店から手をおひきになるようでしたら、わたしはその時点で辞めさしてもらいます」  思いがけない返事だったので、若子は戸惑った。 「何故なの、やっぱり、吉岡さん、水戸の店へ帰りたいの」  もとの主人の命令で、「お若」へよこされた板前である。 「そりゃもっともだとは思うけど……水戸にいれば一流の料亭で働ける人が、なにも、あんなちっぽけな味噌うどんの店で……すまないとは思っていたけれど……」  吉岡が手をふった。 「そんなんじゃありません。そんなつもりじゃありませんよ」  水戸へ帰るつもりはないとはっきりいった。 「最初は森本の若旦那に勧められて来たことですが、わたしはわたしなりに今の仕事に愛着を持ってましたし、これでも一生けんめいやったつもりなんです」 「だったら、辞めるなんていわないで……お給料のことだったら考えるわ。おかげでもう借金も返せたし……」  あと五十万、森本へ返せば借金はなくなるのだと若子はいった。 「そうすれば、お給料も今よりはいくらか……」 「若旦那に借金を返していなさるのは知ってました。だから、わたしはおかみさんが若旦那と結婚はなさらないと思ってたんです」  独り言のように呟いた。 「だって……それとこれとは別々に考えたいじゃないの」 「そりゃそうですが……」  暗い窓のあたりへ眼をそむけた。 「とにかく、辞めさして下さい」 「辞めてどうするの」 「考えていません。どっちにしても東京じゃないところへ行って働きます」  何故と訊こうとして、若子は声を呑んだ。本能的に訊いてはならないと思い、そのくせ訊いてみたい誘惑も胸をかすめた。  ドアがあいて、看護婦が顔を出した。 「あの……御家族の方は……」  吉岡をそうかと思ったらしい。 「いいえ、まだ、お着きにならないようですけれど……」  中年の看護婦が軽く舌打ちした。 「困っちゃうわね。御臨終なのよ」     4  病院を出たのが、朝になってからである。  アパートの階段を上りながら、昨夜、森本はどうしたかと気になった。おそらくは姉と別れてホテルヘ泊ったか、そのまま、水戸へ帰ったか。  もし、まだホテルにいるようなら、着かえて逢いに行こうと思った。どっちにしてもアパートへ帰れば、姉が森本の消息を伝えてくれる筈であった。  だが、あけたドアの内側に、姉はいなかった。部屋は昨日、若子が出かけた時のままで、昨夜、三津江が帰った痕跡は全くない。  部屋のまん中に、若子は立ちすくんだ。  昨夜、三津江が帰らないということの意味をみつめねばならなかった。三津江は森本と一緒に銀座の店を出ている。  悪い予感があった。十年前、結婚のきまっていた若子の恋人と、それを知りつつ、関係を持った姉であった。  若子は無意識に首をふった。十年前の三津江は女盛りの年齢であった。今の三津江は四十もなかばを越えている。  廊下を草履の音が近づいて来た、三津江は鼻歌を歌いながらドアに鍵を入れている。 「なんだ、帰ってたの……」  鍵があいていると知ってから、ドアをあけるまでに少々の間があったが、あけてからの声は図々しいほど落ちついていた。 「あきれた人ね。赤の他人の怪我人について行っちゃって……森本さん、あきれてたわよ」  おやおや、まっ暗だと歌うようにいって、三津江がカーテンをひいた。 「姉さん……」  声がふるえていた。 「今まで、どこにいたの」 「ひと晩中、飲んじゃったのよ。森本さんのおつき合いで……」  嘘だと思った。森本孝一は酒の好きな男ではない。若子は姉の顔を凝視した。風呂へ入った顔であった。体中にしまりがなくなって、気だるさがはっきり滲《にじ》み出ている。 「森本と……泊ったのね」  体の芯まで蒼ざめる思いであった。なにもかも十年前と同じである。 「かくしてもわかることじゃないの」  三津江が笑った。体裁の悪さを笑いでごま化そうという気配であった。 「あんたがいけないのよ。帰って来ないし、吉岡さんのアパートへ電話してみたら、吉岡も帰ってないじゃない……」 「病院に来てくれたのよ」 「だろうと思った……」 「可笑《おか》しなことをするのね。どうして吉岡さんのアパートへ電話なんかしたの」 「森本さんがしてみろって……」 「森本が……」 「彼、やきもち焼いてるのよ。吉岡があんたのこと好きだって知ってるもの」 「そんな……」  若子は心の底をひきめくられたような気がした。 「あたしだって知ってますよ、吉岡の気持。それくらい、みてりゃわかるわ」 「違うわ」 「違いませんよ、そりゃ、あんたはなんとも思ってないでしょうよ。水戸の料亭の若旦那と、板前と、どう算盤はじいたって、取るほうはきまってるわ」  戸棚をあけてパンを出した。 「怖い顔しないでよ。悪気があったわけじゃないの。そもそもは銀座の店をあたしにやらしてもらいたいと思って、ホテルまでついて行ったのよ」  若子は窓のふちへすわった。三津江の傍には寄りたくもない。雨上りの外から初夏の風がいくらかふき込んでくる。 「二度とはしませんよ。森本さんだって後悔してたし……あんたには内緒ってことにして別れて来たんだもの……」  ぺろりと舌を出して、又、笑った。 「ね、忘れてよ。じゃないと、あたし、又、あんたの結婚、邪魔したことになっちゃうもの」  着がえをして、若子はアパートを出た。とにかく、姉と一つ家にいたくなかった。  身のまわりのものを買い、その夜は銀座のホテルに泊った。  どう考えても、森本と結婚する気持にはなれなくなっている。  午前中に銀行へ行き、五十万をひき出してから、吉岡に電話をかけた。 「どこにいるんです、今……」  仕入れをして店へ着いたところだという。ホテルを教えると、吉岡はとんで来た。昨夜、三津江から電話があって、若子が行っていないかと問い合わせて来たという。 「なにがあったんです」  口では訊ねたが、吉岡はおよそを察しているようであった。 「これから、水戸へ行って来ようと思うの」  自分でも思いがけないほど静かに、若子は告げた。 「森本さんに残った借金をお返しして、結婚のこと、おことわりして来ます」  吉岡が絶句した。  広いホテルのロビイには外人の観光客らしいグループが一かたまりになっているだけであった。 「後悔しませんか」  吉岡がいった。 「森本の若旦那と、よく話してごらんになったほうがいい。人間、間違いって奴は誰にもあるもんですよ」  一時の感情にまかせてことをきめるのは性急だと吉岡は続けた。 「若旦那にだって弁解の余地はあると思います。弁解をきいてあげて、もし、許せるものなら……、決心するのはそれからでいいんじゃありませんか」  若子はあてがはずれたような気分になった。  もし、吉岡が少しでも若子に好意を持っているならば、むしろ森本と別れることに期待するのではないだろうか。  店のことは心配ないから、ゆっくり水戸で話し合ってお出でなさいといい、吉岡は若子を上野のプラットホームまで送って来た。  若子が席へすわると、一度、ホームヘ下りて弁当とお茶を買って来た。 「気をつけて行ってらっしゃい」  列車が動き出すまで、吉岡はホームに立っていた。窓ぎわにすわっていた若子が手をあげると、彼も片手をあげた。笑って見送っているくせに、吉岡がひどく寂しげに若子にはみえた。  水戸へ着いたのが一時であった。駅前の公衆電話から店へかけると、孝一がすぐ出た。水戸へ来ているといったのが、余程ショックだったとみえる。そこで待っていろといわれて、若子は受話器をおいた。  駅の待合室で三十分待った。現われた孝一はいきなり切符を買い、若子をせきたてて下りの列車に乗り込んだ。 「地元じゃ誰にみられるかわからんで……」  水戸を発車しても、くまなく車内を眺めまわし、知人がいないかと確かめている。  平《たいら》でのりかえて郡山《こおりやま》へ出て、更にあともどりして黒磯《くろいそ》から那須《なす》へむかう。若子がなにをいっても、むこうへ着いてからの一点ばりであった。  タクシーを旅館に着けて部屋の交渉をする森本を、若子は諦めて眺めていた。話の結果がどうなるのか自分でも見当がつかない。  なにしろ、もう日は暮れかけているのである。話をつけなければと若子は考えた。話の成り行き次第では、自分だけこの宿を出て、他の旅館に泊ればよい。  すぐに食事をいいつけ、森本は湯へ入った。  最初からここへ来て泊るつもりだったとみえる。一緒に入ろうといわれたが、若子は無論、帯をとかなかった。  湯上りの浴衣姿でビールを飲みながら、森本は水戸からここへ連れて来た弁解ばかりをして、肝腎の話には触れもしない。たまりかねて、若子はハンドバッグから封筒を出した。 「これで、お借りした分は全部お返ししたことになりますけれど……」  森本はちらとみて笑った。 「若子も固いな」 「姉のことをおききしたいんです。おとといの晩……姉は全部話してくれました」  我ながら下手な言い方だと思いながら、若子は他に言葉がみつからなかった。森本は眼を細くし、ビールを飲んだ。 「俺から手を出したわけじゃないよ」  眉をしかめた。 「いい年をして、とんだ色気狂いだ。手ごめにされたようなものだ」  若子の心で、なにかが砕けた。 「私、お別れを申しに参りました」 「馬鹿だな。若子は……手ごめにされたんだといってるだろう」 「他の人ならとにかく……姉では……」 「二度としないよ。気にするな、大昔は姉妹そろって一人の男のものになったって話があるんだし……今だって姉さんが死んで、妹が後妻になるのは珍しくない」  帰ろうと若子は膝を立てた。今からなら、まだ東京へ帰る列車がある筈だと思う。 「失礼します」  立ち上ったところを、森本が追いすがった。 「待てよ、話はすんでいないだろう」 「私はすみました」  掴まれた肩を夢中でふり払った。 「後悔するぜ」  廊下を客が高声で話しながら歩いている。まだ宵の口だし、森本にしてもそれ以上、力ずくには出られなかった。 「俺はかまわないよ。どっちみち、お前の体は知り尽してるんだ。三十に手が届こうっていうすれからしを女房にしなくたって、いくらでも若い素人の娘が嫁にくるさ。世間体もそのほうが、ずんといいんだからな」  若子は廊下へすべり出た。背後で森本がなにが叫んだが、流石《さすが》に追っては来ない。  幸い、タクシーが拾えた。  黒磯駅には大宮止りの鈍行列車が止っていた。そのあとは午前二時近くならないと東京行がない。  ともかくも、それに乗った。少しでも早く森本から遠ざかりたい気持だった。大宮からは電車を乗り継いだ。  吉岡のアパートの前でタクシーを下りたのが一時をすぎている。  流石にためらいが出た。おそらく、もう眠ったと思われた。吉岡にだけは、今夜、森本と別れて東京へ帰りついたことを知ってもらいたい女心である。  アパートの前で、若子は石になったように立っていた。吉岡の部屋の灯は消えている。  足が動き出したのは、かなり経ってからである。姉には逢いたくないと思いながら、この時刻では、自分のアパートへ帰るより仕方がない。  重い足で階段をのばった。どの部屋もひっそりしている。  若子がドアの前に立った時、なかで物音が起った。人の争うような声が聞こえ、ドアがあいた。  とび出して来たのは吉岡である。続いてネグリジェの三津江が土間まで出た。 「待って……女に恥をかかす気……」 「姉さん……」  若子がその前に立ち、三津江は棒のようになった。 「姉さん……」  若子が近づこうとすると、三津江は慌ててドアをしめた。悪さをとがめられた子供のような振舞である。 「お帰んなさい」  吉岡が声をかけた。蒼ざめているが、シャツもズボンも乱れたところがない。  若子は階段をかけ下りた。  夢中で歩いて、足が止ったところが公園であった。吉岡はちゃんとあとからついて来てくれた。  立ち止った若子の背に近づく。 「弁解させてもらえますか」  若子は黙っていた。吉岡を責めるつもりはない。ただ、三度目になるところだったと思った。もし、吉岡が逃げ出してくれなかったら、三津江は妹に対し、三度目の意地悪を遂行したことになる。 「電話がかかったんです。若子さんがわたしにアパートへ来て待っていてくれって……上野から電話をして来たって……」  呼び出されて、吉岡はとんで行った。 「正直にいいます。僕としては、今夜に賭けていたんです。今夜、もし、若子さんが帰って来なかったら……」  それは、森本とよりが戻ったことになる。 「時計の針が進むのが、苦しくて……」  声が切れて、吉岡は空を仰いだ。 「そこへ、三津江さんから電話があったんで、行きました。そしたらビールが出て……、あとはごらんの通りです」  若子はぶらんこに腰を下した。 「別れて来たの、森本と……。那須まで連れて行かれたけれど……かえって、決心がついたみたい……」  列車を乗り継いで帰って来たといった。 「どうしても帰りたかったの、今夜中に……」  吉岡がふりむいた。  眼が絡みあって、若子は顔を伏せた。吉岡の眼が燃えていた。  三十分の後、若子は吉岡と連れ立って、再び自分のアパートへ帰って来た。  ドアには鍵がかかって居ず、部屋から三津江の姿が消えていた。  若子の箪笥のひき出しが一つあけっぱなしになっていて、着物を包んだたとうが散らばっている。  なくなっていたのは、若子がまだ手を通していない着物と、新しい帯であった。金は台所のひきだしに入れておいた三万円がそっくり消えている。被害はそれだけであった。  他には姉が持って来たスーツケースとハンドバッグがみえない。  三津江は妹の部屋から出て行ったものと思われた。  十年ぶりに現われて、若子の結婚をぶちこわして去った姉であった。そのことに、若子は腹が立たなかった。二回、ぶちこわして、三度目にはぶちこわせなかった相手が、若子のすぐ近くに立っている。 「姉さん、どこへ行ったのかしら」  追うつもりは少しもなかった。ただ、血のつながりが呟かせたにすぎない。 それでも、若子はガラス窓のむこうの夜の道を長いことみつめ続けていた。  嫁して十年     1  八月の日曜日の夕方であった。  夫の部下である川上哲夫が、仙台の名物である笹かまぼこを届けに来た。 「御自宅へ送るように申しつかったのですが、暑い季節ですし、少しでも早いほうがと思い、持って来ました。ひょっとすると、まだお帰りじゃないかと思ったのですが……」  とりあえず、応接間へ通し、冷たいものをすすめると、川上哲夫は、素子にとってわけのわからないことをいい出した。  素子の夫、石垣信行は広告会社に勤めている。先週の金曜日から仙台へ出張で、帰宅は今夜の予定であった。  川上哲夫はその出張に夫のアシスタントとして同行した筈である。川上の口ぶりで、素子は、夫がなにかの用事で川上とは別に帰ってくるようになったのかと思った。  だが、次に川上がいった言葉は、素子を完全に面喰わせた。 「蔵王《ざおう》、如何《いかが》でしたか」 「ざおう……」 「部長と蔵王へお出でになったそうで、お子さんの夏休みサービスですか。部長はまめですな。僕なぞは石巻《いしのまき》に親がいるんですが、仙台まで出張してもなかなか、親のところまでは足がのびません、今度は漸《ようや》く、一晩泊って親孝行をして来ましたが……」  わけがわからないままに、素子はぼんやりしていた。 「しかし、奥さんも大変でしょう。いきなり、電話をかけられて、すぐ出てくるようにといわれても、この節は列車の切符も急にはとりにくいんじゃありませんか」 「主人が電話をかけて呼び出したんですか、いったい、どこで……」 「あれっ、そうじゃなかったんですか、たしか、仙台の宿から、お子さんを連れてすぐ出てくるようにとお電話をなすっているようにおみかけしましたが……」 「うちには子供は居りません」  川上がどきりとしたようであった。 「主人は、川上さんといつお別れしましたのでしょうか」 「それはその……」  若い部下は、しどろもどろになった。とんでもないことをいってしまったという悔いが顔に、はっきり出ている。 「昨夜は石巻の御実家にお泊りになったっておっしゃいましたわね。川上さん……ということは、主人と仙台でお別れになったのは金曜日ですわね」  素子の追及に、川上は逃げ腰になった。 「はあ、しかし、部長はまだ仕事がございまして……」 「でも、子供を連れて来るようにという電話は……」 「いや、それは……わたしの錯覚かも知れません。どうも失礼しました。いや、きっと、きき違いです。よけいなことを申し上げて……どうか、悪しからず……」  ほうほうの体《てい》で川上が辞してから素子は考え込んだ。  夫が、仙台から、子供を連れてくるようにと電話したときいたとたん、心に閃くものがあった。 (あの写真……)  昨年の秋であった。  十月に三週間ばかり、素子はヨーロッパヘ旅行した。  素子が所属しているデザイナークラブのグループ旅行で、一応、パリを中心にカルダンとかバルマンとかディオール、ジバンシイなどの有名デザイナーのコレクションをみたり、ファッション・ショウをのぞいたりしたついでに、フランスとイタリアの観光をセットしたもので、 「行っておいで、少なくとも洋装店をやっているんだ。行けば行くだけの勉強になるだろう」  と夫にも勧められて参加したものである。  その時、素子は夫のカメラを借りて行った。  フィルムは帰って来て、 「いいよ、会社の前に俺が行きつけの写真屋があるから、そこで現像させてやる……」  信行がカメラごと持って行った。  三週間も家庭も店も留守にした皺よせで、その当分、素子はてんてこまいであった。  素子は五年程前から、青山に店舗を借りて洋裁店を経営している。  もともと、洋裁が好きで、日本の洋裁学校の草分けといわれる今井孝平の洋裁学校を卒業し、ずっと母校で働いていた。結婚前までは孝平の秘書のような仕事をしていた。  結婚後も子供が出来ないままに、友人の洋裁店を手伝ったりしていたのが、たまたま、今井グループのデザイナーが手放したいという店が青山にあり、まわりからも勧められて、自分の店を持つようになってしまった。  ちょうど、六本木から青山へ、若い人のたまり場が移行しかけた時代で、広告会社につとめている夫のアドバイスもあり、素子は店の半分を若い人中心の既製服売場にし、半分を落ちついた注文服のアトリエにした。  それが成功して、注文服のほうも安定したお得意がついたし、既製服のほうの評判もいい。  今度、三週間留守にする間は、一番古い弟子の市村京子に責任をもたせて行ったのだが、若い店員ではどうにもならず、素子の帰国を待ちかまえていた常連客で、当分は素子も写真どころのさわぎではなかった。  十二月になって、今井グループの忘年会が近づき、素子はその時にパリのスナップ写真を持って行こうと思いついた。写真に写っているのは、殆んど旅行に同行した今井グループのデザイナー仲間である。どっちみち、忘年会は旅行の時の写真の交換会になりそうであった。  で、信行に現像した写真を更に写っている人数分だけの焼増しをしてもらうように頼んでおいた。  あいにく、素子の忘年会の当日は、信行のほうが日帰りの大阪出張であった。  写真のことに気がついたのは、信行を送り出してからである。  あっと思ったが、もう間に合わない。考えて、素子は忘年会の行きがけに、信行の会社の近くの写真屋へ自分でとりに寄った。写真屋はいつも信行がもらってくるフィルムの袋に名前が印刷してある。 「石垣ですが……」  というと、店番をしていた若い女が、沢山並べてある袋の中から、ぎっしり写真のつまった袋を抜いて渡してくれた。金額は袋の表に書いてある。  その時、袋の中にあった写真の大半は、素子がヨーロッパで写して来たものであったが、なかに奇妙なのが五、六枚あった。  小学校三、四年と思われる女の子と、五歳ぐらいの男の子、そして二、三歳ぐらいの女の子と、その子供らの母親らしい女を写したスナップで、背景から考えると、どうも、奈良のようであった。  無論、素子にとって見知らぬ母子である。  最初、素子はその写真が間違って、袋の中に入ったと思った。  それで翌日、信行に写真をとりに行ったことを告げ、その見知らぬ数枚があったのを取り出してみせた。  写真屋へ返してくれ、というつもりだったのだが、みたとたん信行が変に狼狽《ろうばい》した。 「友人にカメラを貸したんだ。その時のだろう……きっと……」  慌てて、写真をかきまとめ、ポケットにしまった。 「きれいな奥さんね、三人もお子さんがあるなんて羨しいわ」  その時の素子は、夫の言葉を疑わなかった。  実際、三人も子を連れた女が、夫の愛人だなどとは思い及ばなかったのだ。  第一、素子は結婚以来、夫が浮気をするだろうなどとは、ついぞ、考えたことはなかった。  口では、麻雀で帰りの遅い時や、出張が長びいた際、 「どこで、浮気して来たの」  などといってみたりしても、本心から疑ったことは一度もなく、むしろ、夫の釈明を面白がっているふうがあった。  それだけ、夫を信じ切っていた。信行の性格も、どちらかというと温厚で、才気走ったところはないかわりに、誠実で責任感が強く、安心してまかせておけるタイプであった。  仕事のほうの関係者からもそういわれるし、部下にも人望がある。  だが、素子は今こそ思い知ったのである。川上が、仙台から夫が、子供を連れて出てくるようにと電話をしたといったとたん忘れていた写真の母子のことが、いきなり甦《よみがえ》った。  夫は土曜日に帰京出来る出張を、日曜の夕方だと嘘をついて、女と子供を蔵王へ呼んだに違いない。  それにしても、なんで三人の子持の女などを、と考えて、素子はいきなり横っ面をひっぱたかれるような気分になった。  三人の子は、夫の子に違いなかった。どこの世界に、他人の子を愛人と一緒に旅行につれてあるく馬鹿がいるかと思う。  妻の知らない間に、夫は他に三人もの子を作っていた。  素子はへなへなとリビングキッチンにすわり込んだ。     2  信行が帰って来た時、素子は半病人のような顔をして、まっ暗な中にいた。 「どうしたんだ。具合でも悪いのか」  出かける時、下げて行ったボストンバッグをテーブルの上にのせ、信行はすぐ上着を脱いだ。  暑い、暑いといいながら冷房のスイッチを入れる。 「なにをやってるんだ、いったい……」  素子は椅子に手を突いて、やっと立った。落ちつかなければと何度も決心したのに、口をきこうとするなり涙がこぼれた。 「素子……」 「今まで一緒にいらした女のことについて、うかがいたいんです……」  泣き声でいった。  人からは女手で店を経営し、しっかり者のようにいわれていたし、素子自身も、自分をかなりのしっかり者だと思い込んでいたが、こうなってみると、だらしがないほど意気地がなかった。  信行は一瞬、絶句した。 「あの女は……いつかの写真……三人も子供を連れてた……あの人だったのね」  声が上ずって素子は又泣いた。 「ずっと欺《だま》してたのね、出張だ……麻雀だって……人を欺して……」  夫の浮気を知った妻が、誰でも一通り喚きそうな言葉を、素子も喚き散らしながら、心のどこかで、夫の否定を待っていた。 「なにを、馬鹿な……」  と笑い捨て、素子の納得の行く説明をしてもらいたかった。  だが、信行は、ほどきかけたネクタイをそのままに、深刻な表情で煙草に火をつけている。 「いつも、いつも、欺したわけじゃない」  ぽつんといったのが決定的だった。 「欺したこともあるのね」  逆上して、素子はぶるぶる慄えた。 「あの人、どこの人ですかッ」 「上野に、よしのっていう旅館がある。会社が契約して、よく接待麻雀なんかに部屋を借りるんだが、そこの女主人なんだ……」 「いつから、つき合ってるの」 「知ってるのは、ずっと知ってる……」 「なんですって……」  よくもまあ素直に白状すると感心する程、信行はすらすらとなんでも話した。 「子供の時から知ってるんだ。家が近所で……彼女は下谷の芸者屋の娘だったんだよ。小学校が一緒で……」 「そんな人があるんなら、どうして、あたしと結婚したんですか……あんまりだわ」 「馬鹿……知ってただけだ。彼女が旅館をやるようになった頃だって知ってる……ずっと、ただの知り合いだったんだ」 「だってお好きだったんでしょう」 「好きもきらいも、ただの知り合いだよ」 「ただの知り合いで、三人も子供を産ませたんですか」 「子供……」  信行が笑い出した。 「あれは、俺の子じゃないよ」 「信じませんよ」 「嘘じゃない……断じて、俺の子じゃないんだ……」 「嘘ですよ、今更……」  素子は子供のように泣きじゃくった。 「あんまりですよ。子供のことは……あたしが一番、つらいことなのに……」  医者にみてもらっても、夫婦とも、どちらにも欠陥はないのに、子供に恵まれなかった。  素子が泣いている間中、信行はひっそりしていた。 「お前には、すまない……」  というだけである。 「お前と別れるつもりはないんだ。ただ、俺の性格は、お前も知ってるだろう。かりそめに、そうなったことでも……ただ、浮気ですませられない。相手に責任も感じてるし自分の気持もまだ、かたまっていないんだ。きっと、なんとかする……本当ならお前に気づかれない中に、俺だけの問題として処理するつもりだったが……知られてしまった上は……当分そっとしておいてくれないか、これ以上、君を傷つけまいと思っているんだから……」  信行が、おだやかに落ちついて話せば話すほど、素子の胸はおさまらなかった。  考えれば考えるほど、夫は自分勝手であった。三人の子が自分の子でないというのも信じられなかったし、幼なじみというのも不快であった。これ以上、君を傷つけたくないといわれても、これだけ傷つけられれば、もう沢山だと思う。  なによりショックだったのは、浮気ではないといわれたことだった。  信行という男が誠実で責任感の強い人間だということも、この場合、怨めしかった。  年がら年中、浮気ばかりしているが、決して一人の女と二度は寝ないのが、女房に対する義理だと考えて実行している男の話をきいたことがある。  そういうのも困るが、信行のようなのも困ると素子は思った。困るなどという生やさしい形容ですむものではなかった。  夫が自分以外の女を愛したという事実以上に、妻を傷つけるものは、この世にあるまいと思う。  素子は、その晩、とうとう夫と口をきかなかった。  ひと晩中、まんじりともしないで朝になり、夫に朝食の仕度もしてやらなかった。  幸か不幸か、お手伝いはおいていない。一日おきに近所の小母さんがパートで掃除や買い物をひき受けてくれる。  信行は仕事の性質から、夜はまず遅いし、あらかじめ早く帰れる日は素子に連絡があるので、その時は店を店員にまかせて、素子が早く帰宅したり、そうでなければ店へ信行が来て、二人で外食したりするのが今までの習慣である。  信行が出勤して行ったあと、素子は店へ電話をかけた。  ちょうど夏の終りで、仮縫いの予定もない。  体の調子が悪いといって店を休んだ。  頭の中は、夫と女のことで充満している。  正午まで茫然と考えていて、素子は決心した。  丁寧に化粧をした。服は迷い抜いて、紺と白の千鳥格子の絹のスーツにきめた。靴もバッグもよそゆきを出した。  目黒からタクシーを拾って、上野へ向かった。  何度か交番で訊ねた、近頃の交番の巡査は、その土地のことにくわしくない。  探しあてた「よしの旅館」は不忍池《しのばずのいけ》の近くにあった。  数奇屋《すきや》風のこぢんまりした建物である。  玄関の前を行ったり来たりして、素子は漸く格子戸に手をかけた。  入ったすぐ右手に帳場があり、正面がロビイのようになっている。  帳場から女が立って来た。紺地の絹の着物に白い帯をしめている。木綿の紺がすりの幅広の前掛がごつい感じであった。  決して若くはない。いつかの写真より、むしろ老けてみえた。素子より一つか二つ、年上かも知れない。  素子は肩で息をした。 「石垣の家内でございます」  女はちょっとたじろいだ。  手を叩いて、女中を呼んだ。 「梅の間へお通しして……」  二階だった。  六畳に三畳のふみこみがついている。全体にこざっぱりした感じである。小さな床の間の軸も悪くない。  茶菓子をもって、すぐ女が上って来た。 「芳野久子でございます」  手を突いた相手をみた時、素子の感情は爆発した。 「別れて下さい。主人と……別れて下さい」  みっともない真似はするまい、みじめな哀願だけはしたくないと、自分にいいきかせて出て来たのに、夫の愛した女の顔をみるなり、そんな理性はどこかに吹きとんでしまったようであった。  写真でみた三人の子が、まず浮かんだ。  確か、一番上は八、九歳になっているように思える。 「おいくつなんでしょう。上のお子さん」  無意識に口を出た。 「子供をご存じですか」  微笑して、久子が顔を上げる。 「前に、奈良でしたでしょうか、主人が写した写真で……」 「ああ、あの時の……」  ちらと眼を伏せたが、 「九歳になりましたの、この夏で……まん中が五歳、下のが三歳でございます」  誇らしげにさえ聞える声である。 「それじゃ、主人とは、もう十年も……」  九歳という子の年から逆算すると、そういう台辞《せりふ》が出る。  相手が声をあげて笑い出した。 「いいえ、奥様。お宅の御主人様の子は一人も居りませんのよ。信行さんとは昨年の秋からですもの……これから先は知りませんけど、今のところはまだ……」 「昨年の秋ですって……」 「ええ、奥様がヨーロッパへ御旅行中……」 「あの時……」  すると、勉強になるから是非、参加しろと勧めたのは、留守中にそういう下心があったのかと思う。 「瓢箪《ひようたん》から駒が出るって申しますでしょう。御主人様とは子供の時から知ってますし、あたしが下谷《したや》で芸者してる時分にも、宴会なんかでお目にかかったんですよ。この旅館をやるようになってからも、麻雀だの、お仕事の打合わせなんかによく使って頂きましたけど……昔の友達っていうだけで、本当になんにもなかったんですよ。それが……あの時……信行さん、うちで麻雀してて、胃痙攣起しちゃって、結局、お泊りになったんです。その時からですから、ちょうど十か月かしら」  あっけらかんと久子は喋った。きいている素子のほうが、きまりが悪くなるほどあけすけなもののいい方である。 「どういうつもりなんですか、いったい」  口が乾いて、素子はつい茶碗に手をのばした。敵の家の湯茶など飲むまいと思いながら生理的欲求には抗し難い。 「どういうつもりって——意気投合しちゃったんだから仕様がないでしょう」 「私、主人と別れませんよ」 「そりゃそうですよ、信行さんだって別れるつもりなんてないでしょう」 「浮気だっておっしゃるんですか」 「好きな言葉じゃないけど、仕方がないわね」 「主人は……浮気じゃないって申しましたわ……」  思いつめて、素子がいったのに、 「信行さんはまじめ人間だから……困るわね」  久子はけろりと微笑している。 「じゃ、主人をからかったんですか」 「とんでもない。私だって女ですもの、燃える時には燃えますわよ」  まっ赤になったのは素子のほうで、久子は虫も殺さぬ顔をして、素子のために新しい茶を入れてくれる。 「信行さんって、子供好きなんですのね。いつも、うちの子供達にお土産を下さいますのよ」  二杯目のお茶をすすめながら、上眼づかいに、 「奥さん、お子さんお出来にならないんですってね……別にどこもお悪くないのに、どうしてかしら。あたしなんて、よっぽど注意してても妊娠しちゃうんですのに……」  咽喉の奥で、含み笑った。 「あたしのお腹貸してあげましょうか」  ぎょっとした素子を尻目にかけ、 「もう無理ね、高年出産だわ、うっかりすると、命にかかわっちゃう」  又、あっはっはと派手に笑った。     3  なすこともなく、引揚げたという形で、素子は目黒へ帰った。  なんのために、上野くんだりまで出かけたのかわからなかった。まるで、恥をかきに行ったようなものである。  腹立たしいというより、うら悲しい気分であった。  それでもマーケットで、信行の好きなイクラやシチュウ用の肉を買った。  帰宅すると、すぐ電話があった。  素子が毎月、デザインを発表している今井グループのファッション雑誌のカメラマンである。  十一月号にのせる素子のデザインの作品を、どこか海岸で撮影したいという。 「作品のイメージからいっても、背景に海が欲しいんです。人の居なくなった海、どこか荒涼としたムードの中で、あの作品の効果をあげてみたいんですが……」  こんな時に仕事の話でもあるまいと思いながら、やはり、なおざりには出来ず、素子はその時だけ、しっかり者のデザイナーの声になって、まかせる、と答えた。 「じゃ、場所はこっちできめさせて頂きます。モデルは先生の御指定の野崎エマでスケジュールを調整してみます」  仕事の電話が切れると、素子は台所へ立ち、肉を切り、野菜を洗ってシチュウ鍋をガスにかけた。  あけはなした窓から、ひぐらしの声がきこえるのさえ、さびしい気がする。  シチュウが煮え上った頃に、再び、電話があった。今度は信行である。 「お前、上野へ行ったそうだな」  声が険しかった。  夫のそんな声にぶつかったことがなく、素子はうろたえた。 「どうして、そんなことをするんだ。あれほど、事を荒だてるな、そっとしておいてくれといったのに……」 「すみません、あたし、どうしても、相手の方に逢ってみたくて……」  自分のほうが詫びる必要はまるでないと思いながら、夫の怒りのすさまじさに、素子はおどおどと弁解した。 「逢ってどうするつもりだったんだ、お前は別れてくれといったそうじゃないか」 「いってはいけなかったんですか」 「お前の口から、そういうふうにいわれたくなかったんだ」 「でも、あたし……」 「とにかく、俺の考えていたことは、めちゃくちゃになった……」 「どういうことを考えたんですか」 「君の知ったことじゃない」  素子の血が逆流した。 「随分、身勝手をおっしゃるのね、大体、悪いことをなさったのは、あなたなのよ。あたしはなんにも悪くない……なのに、なぜ、あたしがあなたにあやまったり、叱られたりしなけりゃならないんですか」 「黙って俺のいう通りに出来なかったのか。俺を信じて……」 「信じていたら、裏切られたわ」 「不愉快だ」 「あたしは、もっと不愉快よ」 「当分、家には帰らんからな」 「どうぞ、ご自由に」  電話が切れると、台所へ行ってシチュウの火を止めた。  口惜しさにいても立ってもいられない気持だった。  よりによって三人も子のある女に惚れた夫に腹が立つ。  どこの世界に、愛人との浮気旅行に愛人の子供を連れて来いという男があるものかと思う。それも、九歳を頭《かしら》に五歳、三歳と三人もであった。  第三者がきいたら腹を抱えて笑うだろう。自分が産ませたのでもない三人の子をひきつれて、浮気旅行がきいてあきれる。  だが、やがて素子はしゅんとした。  人がどういおうと、夫は三人も子のある、四十に近い女を本気で愛してしまったのであった。  おそらく、信行は上野の「よしの」へ行ったに違いなかった。今頃は三人の子と久子と五人で、夫婦親子のように夕食の膳を囲んでいるかも知れない。  夫に捨てられた妻は、がらんとした台所で冷えかけたシチュウをまずそうに胃へ流し込んだ。  翌日から素子はせっせと青山の店へ通いはじめた。  せめて働いてでもいないことにはやり切れなかった。  信行からは電話もない。  決してあきらめたわけではなかったが、素子にも意地があった。仕事を持っている強味もある。なるようになれと腹をすえた恰好になった。  土曜から日曜にかけて、素子は旅行をすることになった。  例のファッション雑誌の撮影に同行しなければならない。  作品はモデルの体型に合わせて仮縫もし、完成しているが、撮影場所によってアクセサリイや、帽子、スカーフ、バッグ、靴などのあわせ方が違ってくる。  助手として弟子の市村京子を伴い、カメラマンの山本とモデルと四人は早朝に東京を車で出発した。  その朝になって、素子は行先が千葉の安房鴨川《あわかもがわ》であるときかされた。思わず、顔色が変っていた筈である。 「ホテルも予約してあります。あいにく夏場は混むので、急にはむずかしいかと思ったんですが、八月も終ったので、なんとか三部屋都合してもらいました」  九月の最初の週末であった。  太陽はまだ夏だが、風にほのかな秋の気配がある。  京葉道路から安房鴨川まで、およそ二時間半であった。  海水浴場には、まだ客があったが、そうでない岩場や渚には過ぎ去った夏を思わせる荒れたものが感じられる。  到着すると、カメラマンはてきぱきと場所をえらび、すぐ撮影であった。 「明日の天気はわかりませんからね」  四着の服のために、撮影は場所を変えながら三時すぎまで続いた。その頃になると光線が、撮影に不適当になってくる。  予約したホテルへ入った。  このあたりにしては珍しく豪華な建物で、浜に面した庭にはプールもある。  土曜日のことで、家族連れが目立った。子供がプールで何人も泳いでいる。小さな子に泳ぎを教えている父親や、プールサイドから、応援している母親の声を、素子はあけはなした部屋の窓から眺めていた。 「今頃、家庭サービスですね」  服を片づけていた市村京子が、素子に並んで庭園を見下した。 「もう夏休みは終りでしょう」 「私立の学校だと十日前後に始まるらしいんですよ。うちの姉の子も、たしか、九日からだっていってました……」 「だったら、今頃のほうが利口かもね、真夏よりはすいていて……」 「でも、なかなかそうも行かないみたいですよ、九月に入ると宿題の追いこみで……」  子供の生活の実態は、京子のほうがよく知っている。  素子はなにをきいても、成程、そういうものかと感心するだけであった。  プールでは父親が五歳ぐらいの女の子の手をとって、盛んに泳がせている。女の子が、きゃっきゃっと笑い声をたて、父親と満足そうにプールの中を行ったり来たりしていた。  あんなことを、信行もしてみたかったのではないかと思った。  母親がプールサイドから口やかましく、もう日が暮れかけたから上がれといっているのに、子供は父親に甘えて、なかなかいうことをきかない。 「先生……」  京子が素子の横顔をのぞいた。 「先生、この辺の土地に、なにか想い出が、おありなんですか」  気転のきく、賢い娘であった。  今日の行先が安房鴨川ときいた時の、素子の表情の変化に気がついていて、今までカメラマンやモデルの手前黙っていたものらしい。 「ここへは、新婚旅行に来たのよ、新婚旅行といっても結婚して何年目だったかしら」  信行の仕事の都合もあったし、当時、信行の母が心臓を悪くして寝ていた。そんなこんなで、のびのびになった新婚旅行を、信行の母が歿《なくな》ってから、このあたりへ出かけて来た。 「館山《たてやま》から海辺をまわってここまで来たの、まだこんなホテルは出来ていなかったけれど、静かないい旅だったわ」 「ごちそうさまです……」  京子はぺこんと頭を下げた。 「それじゃ、ご主人様もご一緒出来るとよろしかったですね」  このまじめな助手は、素子夫婦の亀裂をまだ知らなかった。  信行が家をとび出して、女の許へ行ってしまったと伝えたら、どんな顔をするだろう。 「ねえ、京子さんは、こんな言葉、知ってるかしら」 「なんですか」 「嫁して三年、子なきは去る」 「嫁して三年……」 「お嫁に行って三年経っても子供の出来ない時、そのお嫁さんは離縁されても仕方がないのよ」 「そんなあ」  素頓狂《すつとんきよう》な笑い声がはねかえって来た。 「冗談じゃありませんよ。どこの国の話ですか……」 「日本のむかしよ」 「封建的だったんですね」  若い娘は自分達の常識で考えられないことを、全部、封建的で片づけてしまう。 「現代は、そんなこといわないんでしょう」 「そうね」 「可笑《おか》しいですよ。子供作るために結婚するんじゃあるまいし……」  部屋に食事が運ばれて来た。モデルとカメラマンとは、それぞれ部屋が違う。 「京子ちゃんはどう思う、結婚したら、やっぱり、子供が欲しいでしょう」  話題をかえるつもりが、やはり素子は子供にこだわった。 「そうですね。まだ考えてませんけど、産むとしたら一人か二人……それ以上は育てられないと思うんです。今の仕事、一生続けて行きたいと思いますし……出来なければ出来ないで、いいです。自分の子供に使うエネルギーを、他の子にかけてやればいいんですもの、どっちにしたって、子供を育てるってことは、無償の愛ですからね、自分の子じゃなくたって、いいと思うんです」 「養子をもらうってこと……」 「いいえ、そんな面倒くさいことしなくたって、人間の世の中には、いくらでも他人の面倒みなけりゃならないことがころがってますものね」  二十二歳の娘の智恵にしては出来すぎている。 「そんなこと、京子ちゃんが考えたの」 「いいえ、おばあちゃんがいつもそういうんです。人間って、そういうもんだよって」 「そう……」  二十二歳の娘の祖母といえば、どう計算しても還暦は越えている筈である。  いわば、嫁して三年、子なきは去るの時代に生きてきた女性であった。  嫁して三年、子なきは去る、などという冷たい言葉の一方、京子の祖母がいうような、自分の子供のない人は、我が子にかけるエネルギーを他人の子にかけてやればいい、人間とはそういうものだ。というあたたかい救いがあるのに、素子は感動していた。  自分は今まで、自分の子を育てるエネルギーのかわりに、いったい世の中のなにに、エネルギーをかけたのだろうとも思う。人の面倒をみるとか、世話をするなどということに無縁で生きて来た人生に痛恨すら感じる。  ふと、信行を想った。  赤の他人の三人の子に、せっせとサービスしている信行は、いってみれば、自分の子にかけられないエネルギーを、そんなところで燃焼させて、満足しているのかも知れない。  そう思った時、不思議なことだが、素子の心の中に、余裕が生じた。  口惜しさや、怒りの本質に変りはないのだが、口惜しさや怒りから一歩ひいて、自分と夫を眺めているような気がする。  翌日は早朝から撮影があって十一時までに完了した。  カメラマンとモデルは列車で帰京し、素子は京子と二人、車で館山をまわって帰ることにした。  どっちみち日曜日で、青山の店は定休である。  千倉《ちくら》からフラワーラインと称するドライヴウェイに入って白浜を抜けた。  市村京子の運転は、女にしては度胸がよく、そのくせ慎重であった。  海はいくらか風があって、白い波濤が秋であった。 「夏が終ったって感じがしますね」  平砂浦《へいさうら》にゴルフ場のある小ぎれいなホテルがある。  一休みして、あとは一路、帰京の途につこうというので、素子は先に車を下りた。  京子が車を駐車場へ入れてくる間、素子は玄関にむかって歩きかけていた。  右側にプールがある。  九月ではあったが日曜日のことで、そこにも家族連れが水を浴びている。  サングラスに派手な水着の女がプールサイドに長々と寝そべっている。どうみても母親らしくないのに、ママ、ママといって幼児がまつわりついていた。  そこへ、やはりサングラスに半パンツの男が両手にコカコーラの瓶を四本も抱え、ポップコーンの袋を小脇にはさんで近づいてくる。男のあとから子供が二人ついて来て、コカコーラを一本ずつもらい、ポップコーンの袋を破っている。  女が、男へ顔をむけた。 「煙草ある……」  男が椅子にかけてあった袋からシガレットケースを出した。女が一本をくわえると、すぐライターをすってやる。  その間にも、三人の子の或いは泳ごうというのに返事をし、飲みかけのコーラの瓶を受けとり、タオルを渡してやり、帽子をかぶせてやるというように、絶えず、まめに動きまわっている。  素子は石になったように、男をみつめていた。  信行であった。  そう思って気がつくと、寝そべっている女は、芳野久子である。  仕事が多忙で、日曜も祭日もないといっている信行が、日曜日、こんなところへ、女と人の子を連れてやって来ている。  そのことよりも、あまりにまめまめしい信行のサービスぶりが、素子にショックであった。  普段、仕事にかまけて、子供と遊ぶことのない父親が、たまの休日をせい一杯、子供の機嫌をとっているという、おそらく三軒に一軒はありそうな日本の父親の顔を、信行も亦《また》、他人の子に対して存分にみせている。  気がついた時、素子は駐車場へ走っていた。 「どうしたんです。先生……」  鍵をとって、こちらへ来かかった京子が、唖然《あぜん》とした。 「逢いたくない人がいるのよ、悪いけど……」  れだけで、京子は納得した。  車は、素子の夫と、その愛人と三人の子の遊んでいるプールサイドを抜けて、再び、ドライブウェイを走り出した。     4  素子は本気で離婚を考えるようになった。 「馬鹿なこと考えちゃ駄目よ。ご主人だって、きっと、その中、目がさめるわよ」  気長に待てと忠告する友人もあれば、 「七ツ下りの雨と四十すぎての女道楽はやまないものだっていうから……いっそ、ひとおもいに別れちゃって、さっぱりしたほうがいいんじゃないの。どうせ、生活して行けないわけじゃなし……」  と思いきりのいいことを勧める友人もある。  素子には自分から別れる勇気もなかったし、といって、夫がどうしても離婚するといって来た時、最後までがんばって拒み通す勇気もありそうになかった。  ただ、ずるずると日を送っているだけであった。 「ねえ、会社のえらい人にでも打ちあけて忠告してもらうとか、親類に話して仲介の労をとってもらったら……」  などという友人もあったが、素子は夫の会社にも親類にも極力、知られないよう努力した。 「必ず、いいようにするから、ことを荒立てないように……そっとしておいてくれ」  といった夫の言葉が、身にしみていたからである。  九月二十五日であった。  青山の店へ、芳野久子から電話があった。 「ちょっとお目にかかりたいんですけれど」  別にあらたまった声ではなかったが、素子には来るべきものが来たように思えた。  夫は流石《さすが》に、素子が不愍《ふびん》で離婚を切り出せないでいる。たまりかねて女が乗り出して来たのに違いない。  素子は店の近くの喫茶店を指定した。  夕方から夜は混むが、午後は閑散としている店である。  客の仮縫をすませると、ちょうど久子と約束した時間になった。パフで化粧を直し、店を京子にまかせて出かけた。  喫茶店に、久子はもう来ていた。  今日は夏大島に木綿の帯をしめている。美容院へ行って来たばかりのような髪に、見事な翡翠《ひすい》の玉かんざしが目立った。 「おまたせしました」  今日は間違っても、夫と別れてくれなどと、見苦しい泣き叫びはみせまいと思いながら、素子は相手の正面にすわった。  落ちついているつもりなのに、運ばれて来たコーヒーに砂糖を入れようとすると、手が自分のでないようにふるえてしまう。 「二つでよろしいんですか」  みかねたように、久子が砂糖を入れてくれた。  ついでのようにハンドバッグから紙を出して、素子の前へおいた。 「これ、ご主人様にお渡ししようかと思ったんですけれど、……なんとなく渡しにくくて、とりあえず、奥様にお支払いをお願いしたいと存じまして……」  請求書であった。  よしの旅館から石垣信行にあてたもので、宿泊費と食費が別計算になっている。新聞から煙草代まで、きちんと羅列してあった。 「今日二十五日でしょう。うちでは、いつも二十五日がお勘定日なんです。あの、長期滞在の扱いとして二割引にさせて頂きましたけども……」  素子はあっけにとられて、相手を眺めた。  夫は家出をして愛人の家にころがり込んだ。  だが、愛人は夫を宿泊人扱いにして、その請求書を妻のところへ持ってくる。  どういうことなのかと考え、やがて、素子はハンドバッグから財布を出した。  要するに、いやがらせなのかと思う。  いつまでも、妻の座にしがみついている自分へ、久子が腹を立てて、こんなものを持って来たのかも知れなかった。  請求された金額の他に、一割近くを別に出した。 「これは、お世話になっている係の方に……」 「ああ、そうですか、確かに……」  馴れた手つきで、久子は領収書を書き、印をおして差し出した。 「手前どもは、お客様ですから、いつまでご滞在下さってもかまいませんけれど……不経済ですわね、こんなふうですと……」  淡々といわれて、素子は絶句した。 「いい加減に、仲直りなさいませな。ご主人だって、後悔なさってると思うんですよ」  素子は、久子をみつめた。 「きちんと、別れろとおっしゃるんですか」 「なにをおっしゃいますの。別れろなんて」 「いえ……わかっています。もし、あなたがそのお気持なら……主人もそのほうがいいと考えているのでしたら……話し合ってもいいと思います」  ふっと涙が湧いた。 「別れて、どうなさるんですの」  久子が反問した。 「私でしょうか」 「いえ、ご主人様よ……」  残酷なことをいう人だと思い、素子はうつむいた。 「それは、主人がきめると思います。あなたと再婚するなり……なんなりと……」 「私と再婚……とんでもない」  変にさわやかな感じで、久子が笑った。 「奥様、それはお考え違いよ」 「なんですって……」 「私、再婚出来ませんの。ご主人様とも、どなたとも……」  手を叩いてボーイを呼び、つめたいコーヒーをもう一杯という。 「私の三人の子供、ご存じでしょう、あれ、三人とも、父親が違いますの」  冷房がきいているのに、扇を出して胸元をあおぐ。 「みんな、立派な父親ですの。みんな金持で……勿論、本妻さんもございましてね、毎月、子供の養育金を送って参りますのよ、別れる時、弁護士をたてて、そういうふうに致しましたの。私が正式に結婚しない限り、どの子も一人前になるまで、毎月、養育費が参ります。大きなお金ですわ。あんな旅館やらなくても食べられるくらい……」  くすっと久子は笑った。 「結婚出来ないわけおわかりかしら……」 「でも……それじゃ、なぜ……」 「浮気はいいのよ。そんなことまで束縛されませんわ」 「そのこと、主人は知っているのでしょうか」 「さあ、どうでしょう。なんなら、お話しておきましょうか」  金をハンドバッグにしまい、コーヒーを一息に飲んだ。 「あっ、そうだ、忘れるところ」  又、ハンドバッグからデパートの領収書を出した。 「ご主人様の下着、ないと困るので買いましたわ。ランニング二枚、パンツ二枚、ワイシャツ二枚、しめて七千二百円」  素子も亦、ハンドバッグをあけた。喫茶店の支払は、なんとなく、素子がした。 「どうも、ごちそうさま、じゃ、ごめん下さい……」  地下鉄の乗り場を訊いて、久子は帰った。  度肝を抜かれたような気持だった。  久子のような生き方もあるのかと思う。三人の男と交渉を持ち、それぞれに子を産んで、その子の養育費で一生食べて行ける算段をしている。  子供の産み方にも、そんなのがあるのかと考えると、なにか滑稽な気がした。  滑稽というのは間違いで、久子にとっては、せい一杯の女の智恵というべきかも知れなかった。  青山の店は八時が閉店であった。  近くのスーパーマーケットで食料品を買い、バスで目黒へ帰る。  家の鍵をあけようとして、はっとした。  家の中に灯がついている。  親類の誰かが来たのかと思う、それとも。  家へ入ると風呂場で湯の音がしている。  茶の間に脱いである服は、夫のものであった。拾ってハンガーにかけ、素子はどきどきした。  夫の帰って来た意味がよいようにも、悪いようにもとれる。  箪笥をあけて浴衣を出し、脱衣場へおきに行った。 「誰だ……素子か……」  湯の中で、いつもの夫の声がした。 「あたしです……」 「ああ」  返事と一緒に音をたてて、風呂から上った。 「ビールないか……」 「あります……」 「仕度、たのむ」  素子は我ながら自然に動いていた。感情はもみくしゃに波立っているのに、やっていることは十年一日の如き、妻の習慣で行動している。  浴衣を着て、信行は悠々と茶の間へ来た。  ビールを手酌で飲む。  思い出したように、夕刊のむこうからいった。 「おい、上着に月給入ってるから出しといてくれ……」  素子はすわり直した。 「どうして帰ってらしたんです」  信行が夕刊のかげから応じた。 「よしのやの勘定、払ったんだって……」 「お金かえしにいらしたんですか」 「馬鹿……」  新聞のかげから少しのぞいた。 「お前、怒ってるのか」 「怒らなけりゃいけないと思ってます」 「すまん……」 「それですませるつもりですか」  信行が黙り素子は狼狽した。ここで夫を責めてはならないと思う理性と、嵐のような感情が、素子をうろうろさせている。  信行がテレビのスイッチをひねった。なんとか、ごま化して、問題をぼかそうとする男のずるさが、素子には憎かった。  テレビは偶然、ホームドラマであった。子供に追いまわされている父親の姿が映っている。  ふイッと、信行が嘆息をついた。 「子供は大変だ、悪魔だね、つくづく、くたびれた……」  声に奇妙な実感があった。  素子は夫の傍にすわり、無言で夫の太腿を思いきり、つねり上げた。  痩梅記     1  その老人マンションは小田原にあった。  今から八年前に出来たもので、有料の老人専用マンションとしては上の下ぐらいになるだろうか。  出来た当時の入居料が一度に払い込むと、最低で四、五百万円といわれ、勿論、その頃としては最高級のものであったし、老人専用ということで、珍しがられもした。  マンションといっても、いわゆる高層建築ではなく、三階建の鉄筋コンクリートの建物が東西に長くのびていて、部屋は全部、海へむかって南が開いている。日当りと風通しのよいのが、キャッチフレーズで売り出されたものであった。  庭はかなり広く、梅の木が多い。  曾根原佐知子が、その老人マンションの門を入って来た時も、玄関のわきにある白梅が満開で花の香が門を入る前から感じられた。 「ああ、曾根原さん、又よろしくお願いしますよ」  管理人室のドアをあけると、このマンションの管理をしている主任の佐藤がテレビのスイッチを切って立ち上った。  佐知子が所属している家政婦会では、このマンションと特別契約をしていた。  このマンションの入居者はすべて六十歳以上の老人だから、ちょっと体の調子が悪いと家政婦の手が必要になってくる。年が年だけに、持病のある人も多く、どちらかというと看護婦の資格を持っていたり、病院で付添婦の経験のある者のほうが、なにかと重宝がられて、佐知子なども一年の中、三分の二は、このマンションヘ通っている。 「今度の方はどういう……?」  名簿にサインをしながら、佐知子は自分の働く先の相手の予備知識を求めた。  ここは夫婦で入っている人もいるし、独りの場合もある。独りというのは大抵、老女であった。平均寿命は女のほうが今のところ長い傾向にある。 「一階の十二号室、桐生芳乃さん、七十二歳、心臓があまり丈夫じゃない。血圧がやや高くてね」  一枚のカードが佐知子の前へおかれた。入居者の戸籍調べのようなものである。 「あら、御家族はいらっしゃらないんですか」  家族の欄が空白になっていた。老人マンションヘ入る者は身よりのない者ときまっていたのは昔のことで、こうした有料マンションともなると殆ど、子供が何人もいる。子供はそれぞれ独立して一家をかまえ、親は別居して、こうした老人マンションで暮していることに、最初佐知子はひどくびっくりして抵抗も感じたが、今はなんとも思わなくなってしまった。一々、驚いていたのでは仕事にならないし、そういう御時世だということをいやになるほど思い知らされてもいた。 「この人、新橋の芸者さんだったそうだよ」 「芸者さん……」  だから、結婚もしていないし、子供もいないのだと、主任はいった。 「もっとも、旦那は何人もいたらしいがね」  意味ありげに笑ったが、佐知子にはその時は、まだなんのことか判然としなかった。  身許引受人は、やはり、元新橋の芸者で、今は銀座でバアをやっている女で橋本洋子というのが養女になっている。 「今は別に病気ってわけじゃないけども、この冬、大病して以来、少し可笑《おか》しくなり出してるんで、一人でおいとくと、なんのかのと、うちのほうに手がかかるんだ。それであんたんところを頼んだわけだから、当分、様子をみがてら、通ってみてくれないか」  主任が、うちのほうといったのは、このマンションで働いている従業員のことであった。  この人々は、公共の場の掃除の他に、頼まれれば一時間いくらで各部屋の掃除や雑用もひき受ける。但し、人数がそれほど多くないので、一日中べったり、どこかにつかまってしまうと他が困るのであった。 「ちょっと変ってる婆さんだから、びっくりしないようにな」  主任にいわれて、佐知子は十二号室へ向った。この建物の中では一番東側である。  十二号室というのは、たしか昨年の秋に入居者が歿《な》くなって、新しい人に変った筈だと佐知子は思い出していた。  秋から暮、正月と、佐知子は小田原市内の病院へ泊り込みで出張していたから、このマンションヘくるのはざっと五か月ぶりである。  十二号室に現在入っている桐生芳乃という老女について佐知子が知らなかったのは、ちょうど彼女がここに御無沙汰している間の入居者だったせいである。  桐生芳乃は部屋にいなかった。庭を散歩していましたよ、と従業員に教えられて、佐知子は、ぼつぼつ暮れかけている南庭へ出て行った。  海からの風が、やや冷たく、この時刻になると、外にいた老人達も殆どが部屋へ帰ってしまう。  小さい築山をぐるっと廻って、芝生のある広場まで行ってみたが、それらしい姿はない。  入れちがいに部屋へ戻ったのかと思い、佐知子は足早に散歩道をひきかえした。  このあたりも梅樹が多い。白梅、紅梅と続いて、別にかなり老齢の唐梅《からうめ》があった。  この花は外側が黄色で、内側が暗紫色の目立たないものだが、香りは梅の中でも抜群に強い。普通、一月の末から二月にかけて、葉の出ない中に、他の梅に先がけて咲くといわれているのだが、この唐梅は、樹も老いて、場所も北側の陽の当りにくい場所のせいか、佐知子の知る限り花の咲くのが遅かった。  ひっそりと咲く花にはうっかりしていて、芳香のよさに気がついて眼をとめるというふうな木であった。  薄暮の中に、花の香がこもっていて、佐知子は自然にそっちへまわって行った。  唐梅の木陰に老女が立っていた。老女といったのは、二十代の佐知子の年齢からいってのことで、実際には、まだ充分に女らしく、瑞々しい印象であった。  近づいて、あっと思ったのは、その女のきものが唐梅の花のような朽葉色であったことである。枝へ軽く手をかけている、その袂から紫の長襦袢がのぞいていて、暗い緑色の染め帯に結んだ帯締めだけが古代朱であった。  すらりとした立ち姿が、絵のようであった。  少し、後ろにひいている右足のバランスといい、枝へかけた手の具合といい、流れるように形がきまっていて、そのくせ、全身からはゆるやかに、力がぬけていて、そこはかとない色気になっている。  声もなく、佐知子はみつめていた。日本の着物の配色の妙というものを、これほどの感動を持って眺めたことは、かつてなかった。  老女が自然に首をまげて、佐知子をみた。佐知子を知る筈もないのに、優雅に微笑していった。 「唐梅がやっと咲いたんですよ。まあ、木がすっかり痩せてしまって……」  それが、佐知子のみた桐生芳乃の最初であった。     2  変った女だといわれ、びっくりするなと主任に念をおされたが、別に、桐生芳乃は、それほど風変りな女ではなかった。  着物の着こなしのすばらしい、そして七十二という本当の年齢よりは十歳も十五歳も若くみえる美しい老女である。  顔立ちは古風であった。やや、瓜実顔《うりざねがお》で、鼻筋が通り、眼は切れ長で、目許にはどうかすると若い女もかなわないような艶なものが浮ぶ。口は小さくて、紅をつけなくとも朱《あか》く、耳朶は薄いが、形のいい耳であった。衿足が長く、染めている髪も年よりは豊かである。  なにより、佐知子が驚いたのは肌の色で、白くふっくらと張りがあり、老人のしみなどどこにもない。 「そう、あなたが佐知子さん、よろしくおねがいしますよ」  挨拶した佐知子へいう言葉も尋常で、これが江尺っ子の巻き舌というのだろうか、きびきびと語尾が明るい。  むしろ、驚いたのは彼女の着道楽で、ふみ込みの三畳に六畳に四畳半、それに狭い台所と風呂場にトイレという住いの中に、和箪笥が六|棹《さお》も並んでいる。おまけに押入れの下の段は作りつけの箪笥になっていて、その全部が衣類だということであった。  六棹の箪笥は全部、特別注文で、高さは鴨居の上まであり、ひき出しが八つ、その、どれもにきものやら帯やら、ぎっしりとつまっている。 「これでも、昨年、ここへくる前にお座敷着だの、派手になったものは全部、人にあげちまったのよ。まるで生んだ子を人にやっちまったようで、その当座はとっても寂しかったわ」  夕食を終え、風呂へ入る時になって、芳乃は帯をほどいた。緑色の中に、松葉が数本散らしたように染め出してある。  着物は銀箔と刺繍で、これも小さな梅の花片と雪輪が、まことに面白く配置されていた。長襦袢は紫で地紋が梅の花。 「今日、全部、出来てきたのよ、あの唐梅をみて、暮に注文しといたんだけど……」  やっぱり、唐梅に合わせて作った衣裳だったのかと、佐知子は嘆息をついた。 「あたしは唐梅が好きでね。戦争前まで住んでた家の庭にあったんだけど、空襲で焼けちゃったのよ。ここへ来て一番嬉しかったのは、唐梅があったこと……」  僅か半日の桐生芳乃との対面で、佐知子は主任がいったのとは別な意味で度胆をぬかれていた。  世の中には、こういう人種もいるのかと思った。一本の唐梅に合わせて着物や帯や長襦袢を作るという趣味的な生活は、佐知子の生涯に無縁のものである。  もっとも、家政婦をしていれば、どんな金持の家にも出張する。小豆粒ほどもあるダイヤモンドをひけらかしたり、何百万もするミンクやチンチラのコートを無造作に着て歩く人々を羨んだり、あきれたりすることにはもう馴れてしまっている。  その夜、自分のアパートの冷たい寝床で横になった時の佐知子の気持は、今まで金持の家に出張した場合、何度となく感じて来た、お金とはあるところにはあるものだという虚しいものを、改めて繰り返したにすぎなかった。  佐知子を芯から驚かせる出来事は翌日に起った。  午前八時に十二号室へ出勤して、芳乃に朝食を作って食べさせ、部屋の掃除をすませ、洗濯をすると十時になった。  その時間になると、芳乃は着物を着かえた。  やはり、昨日、着ていた紫の長襦袢の上に梅の着物を着て、緑色の帯を結ぶ。 「唐梅の咲いている間は、この着物を着ていようと思ってるのよ」  身じまいをしながら呟いた。 「来年は、あの唐梅、もう花が咲くかどうかわかりませんものね」  唐梅の寿命をいって、自分の年齢は考慮に入れていない。佐知子から考えると、いくら若くみえても七十二は七十二なのだから、ひょっとして来年は、唐梅の花の咲くのをみられないかも知れないという危惧《きぐ》を感じるほうが自然ではないかと思う。  芳乃が帯を結び終えた時、ドアがあいた。 「おや、洋子じゃないの」  芳乃が嬉しそうに呼び、相手は部屋へ入って来た。  五十をすぎているのだろう、眼と眉のあたりに、ややヒステリックな感じがあるが、これも美しい女であった。顔立ちは全く芳乃と似ていない。  これが、主任にみせてもらった桐生芳乃のカードに記入されていた、身許引受人で養女の橋本洋子だろうと、佐知子は見当をつけた。 「この人、昨日から来てもらってる家政婦さんで、佐知子さんというのよ。佐知子さん、これが、あたしの娘……」  芳乃の紹介に頭を下げたが、洋子という女は、お世話さまでも、母が御厄介をかけてでもない。が、そうした人種にも佐知子は馴れていた。不思議なもので、金のある人で物腰の丁寧な人というのは滅多にいない。  台所へ入って茶の仕度をしていると、いきなり洋子の激しい声がとんだ。 「冗談じゃありませんよ。こんなところに来てまで、なんで百万以上もする着物を作らなけりゃならないんです。どれほどお金があるわけじゃなし、いい加減にして下さい」  百万ときいて、佐知子はショックを受けた。  たかが一枚のきものに百万ときいただけで身がすくみそうな気がする。あのきもののどこにそんな値打があるのかと思う。 「へえ、こんなもので百万もするの、随分、高くなったものね」  平然と芳乃が応酬した。 「落ちついていられちゃ困るんですよ。銀座もこの節は不景気でね、とても、そんなお金払えませんよ」 「あんたに払ってもらおうと思ってやしませんよ」 「じゃ、どこにお金があるんですか」  佐知子は台所から出られなくなった。洋子の声がそこに他人がいることを無視している。 「浜町の家を処分したお金があるだろう」 「あるもんですか」  数字をぺらぺらと並べ立てた。六桁、七桁の数字を丸暗記していて、叩きつけるようにいう。  このマンションにいくら、それまでの生活費にいくら、税金にいくら、この冬の病気の時いくらと重ねて行くと、ざっときいていても忽ち八桁の金額になった。 「浜町の土地がいくらあったと思ってるんですよ、たったの五十坪足らず、お母さんがそれまでにこさえた借金払うだけだって、いくらかかってると思いますか」  芳乃が笑った。 「いいわよ、なけりゃないで、なんとかするから……」 「なんともなりゃしませんよ。今更、芸者に出るわけじゃなし……」 「なりますよ」 「どうするの」  あたしは頼らないで下さいよ、と洋子は冷たいほど、きっぱりといった。 「あたしだって、自分の老後の心配しなけりゃならない年なんですよ、第一、養女っていったって籍が入ってるわけじゃなし、あたしにお母さんの扶養の義務ってのは、全然ないんですからね」 「あんたに心配はかけませんよ」  流石《さすが》にぴしっといった。 「腐っても鯛だわ。その気になりゃあ、いくらだって、無心をいってやるところぐらいありますよ」  洋子がけたたましく笑った。 「無心ですって……、お母さんが無心をしてお金を出してくれるような人があるっていうの。まさか、あの世へ無心状出すわけじゃないでしょうね」  物音をきいて、佐知子が台所を出ると、洋子が頭をかかえるようにして畳に突伏している。マニキュアをした指の間から、マニキュアと同じ色の血が流れていて、佐知子は茫然とした。傍に割れた灰皿がころがっている。芳乃が、それを洋子に叩きつけたものであった。  救急車が呼ばれ、洋子をマンションからかつぎ出した。主任が蒼い顔でついて行く。  血の流れた畳を佐知子が何度も拭いて、すっかり血痕を消す間、芳乃は窓のほうをむいて、しんとすわっていた。怖いほど、なにもいわない。  間もなく、主任が戻って来た。洋子の怪我は三針縫っただけで、思ったよりは軽くすみそうだといった。 「どうするんだろうな、たった一人の身許引受人をあんなことにしちまって……」  部屋を出てから送って来た佐知子に主任が苦い顔をした。 「たとい、死んでも、知らせないでくれっていわれちゃったよ」  佐知子が部屋へ戻ると、待っていたように芳乃がいった。 「すまないけど、墨をすってちょうだいな」  硯《すずり》は台所のすみにあった。長いこと使ったこともないような硯箱に、新しい筆が一本入っている。  佐知子が墨をすっている間に、芳乃は押入れの箪笥のひき出しから巻紙をとり出した。  まるで、歌舞伎の舞台でしか使いそうもないような古風な巻紙をひろげて、芳乃は筆をとった。思わず見惚れるほどの美しい文字が芳乃の筆の跡からこぼれて行く。筆を持つ姿も、左の指で巻紙をくりひろげて行くさまと一幅《いつぷく》の画のようであった。  夕方までに、芳乃は六通の手紙を書いた。封筒も和紙で作ったものである。古い手帳をどこからか出して来て、芳乃はその住所を、佐知子に読ませては、封筒の上書きをして行った。宛名は全部、男名前である。 「これを、明日、速達で出してちょうだい」  百円玉を一枚、口金のついた財布から出して、手紙と一緒に佐知子に渡した。  あとは疲れたといい、早々と床につく。  百円玉一個を眺めて、佐知子はあっけにとられた。この老女は速達料金がいったい、いくらしていると思っているのだろうか。まさか足りないとわかっていて、とぼけているのではあるまい。  結局、佐知子は翌日、郵便局へ行き、六通の封書を速達で出した。足りない金は佐知子の財布から支払われた。  一週間、芳乃は寝たり起きたりしてすごした。食欲はあまりないが、といって、金の心配をしているようではなかった。  六通の手紙が全部、金の無心状だとは佐知子も知っていた。 「みんな、むかしの恋人、旦那さま達なのよ」  寝た人もいるし、清いつきあいで終った人もいると芳乃はいった。 「みんな、いい人達……、だから、あたしは、ちっとも心配はしないの」  一人一人の男達の想い出話を芳乃は、はじめた。競馬の馬主だった大会社の社長、清元が好きだった銀座の老舗《しにせ》の旦那、満州で活躍した鉄道省の役人、犬を十匹も飼っていた政治家……河豚《ふぐ》が好きで、芳乃を連れて冬になると必ず九州へ旅行した株屋の主人。  その一つ一つの思い出話を丹念にきかされている中に、佐知子は愕然とした。最後に話した日本画家の名前に、佐知子の知識があった。美人画で知られるその大家は、すでに十数年も前に病歿している筈であった。六通の手紙の宛名の一人はその画家で、しかも本名であったため、その時の佐知子はうっかり気がつかなかったのだ。  そう気がついて、芳乃の話を注意深く分析すると、どの男も、芳乃とつき合ったのは、すべて戦前の時代だったことがわかってくる。 「あの、奥さま……」  たまりかねて佐知子はいった。 「奥さまが、その方々とおつき合いになっていらっしゃったのは、いつ頃でございますか」  芳乃は幸せそのもののように、微笑した。 「あたしが栄龍といって、新橋に出ていた時分ですよ。なに、そんな昔じゃありません。ほんのつい、この間……」     3  佐知子は夕方から東京へ出た。  橋本洋子のバアは東銀座にあった。景気がよくないといっていたのに、店は客で一杯である。ボーイに身分を名乗ってマダムを呼んでくれとたのんだ。  洋子は最初からひどく不機嫌な顔でやって来た。この前の怪我の包帯をかくすためか大きなかつらをつけている。 「なんの用……」  睨みつけられて、佐知子は低声《こごえ》で芳乃の言葉通りを伝えた。 「あずけてある貯金通帳をもらって来いですって……」  洋子が眼を怒らせた。 「そんなもの、いったい、どこにあるっていうの。寝とぼけるのもいい加減にしてもらいたいわ」  これ以上、口汚ない言葉はあるまいと思われる言辞が次々に洋子の口からとび出して来た。 「大体、あの女は昔っから、そうなのよ。口をひらけば、お金をよこせ、お金ちょうだい、他に言葉を知らない人ですよ」  帰ったら、弁護士の浜田に電話をしてきいてみろと伝えろと、洋子はいった。 「浜町を売った金が、どうなったか、浜田先生がちゃんと立ち会っているんですからね。あたしの手許には一円もあずかっちゃいませんよ」  佐知子は頭を下げた。ここは長く居る場所ではない。着飾った女たちが化粧直しをするふりをして、ちょろちょろと、マダムと佐知子の会話を盗みきいて去る。 「あの……」  思い切って、佐知子は訊ねた。 「つかぬことをうかがいますが、あちらの奥さまが、新橋にいらしたのは、いつ頃のことでしょうか」  洋子が変な顔をした。 「なぜ……」 「よく、その頃のお話をなさいますので……」 「昔むかしよ」  せせら笑った。 「今から、二十何年も前よ」  五十までお座敷をつとめて、それから先は、 「踊りを教えてたけど、そんなものお金になりゃしない」  パトロンからもらったものを売り食いして、 「そのままじゃ、一文なしになっちゃうから、とうとう、浜町の家を売って、今のマンションヘ入れたのよ。なにせ、もう、ぼけて来ちゃっていうことは可笑《おか》しいし、あっちこっちへ行って迷惑はかけるし、うっかりするとみんなあたしがひっかぶらなけりゃならないでしょう。それで弁護士と相談して財産整理をしたんです。なにしろ東京へおいとくと、呉服屋に毎月何十万っていう借金作る人だから……」  あずかっている金はもうないと洋子は念を押した。 「あとは自分が持ってるへそくりを使うことだわね。あんたの給料もいくらか知らないけど、なるべく毎日、もらって帰りなさいよ。うっかり貯めると、あとで金がないっていわれても、あたしは支払いませんからね」  夜の中を電車に揺られながら、佐知子は慄然《りつぜん》とした。桐生芳乃が、栄龍といって新橋から出ていたのは、今から二十二年前までである。芸者を廃業した時、すでに五十歳とすれば、恋人や旦那の年齢はおよそ想像がつく。  この前、洋子が、 「あの世へ無心をいってやるのか」  といった意味が、漸く理解出来た。  六通出した無心伏の中、画家は間違いなく不帰の客になっているし、残る五人も、果して生きているやら、生きているとすれば、何歳になっているものやら、佐知子には途方に暮れる思いである。  第一、考えてみれば、昔の恋人の画家が十数年前に死んでいるのを、芳乃が知らないわけはないのに、現在の彼女は生きていると思い込んでいることであった。  老人マンションの主任がいったように、この冬、大病してからの芳乃の大脳は、急激に老化しはじめているようであった。  佐知子の危惧は適中した。  六通出した手紙の中、三通には付箋がついて戻って来た。残る三通については梨のつぶてである。  付箋のついた手紙を芳乃にみせる時、佐知子は背筋が冷たくなるほどの思いをしたが、芳乃のほうは、別段、ショックを受けたようでもない。 「あら、そう……」  といったきり、手紙はそのまま屑物入れへ丸めてしまった。  佐知子が東京へ行った翌々日、洋子から電話を受けたといって、弁護士が老人マンションを訪ねて来た。  芳乃とは時候の挨拶やら世間話をするだけにして、帰りがけに主任の部屋へ寄ったらしい。佐知子が呼ばれて行ってみると、弁護士は鞄の中から貯金通帳を出してみせた。  金額は四百万にちょっと欠ける。それが桐生芳乃の全財産だといった。 「あとは、まあ、衣類をかなり持っていますから、それを売るとすれば多少まとまったものが出来ると洋子さんはいっていますが」  それと、このマンションヘ入居した時の権利金である。 「まあ、とにかく、名妓といわれて一世を風靡した人ですから、まわりも心配して、こういう老後を考えたのですが……」  このマンションは住居費や光熱費は殆どかからないし、食費もマンションの中の食堂で与えられたものを食べていれば無料である。  つまり、まとまった金を払って入居すれば、ほんのこづかい程度で、死ぬまで暮せるようにはなっていた。そのかわり、当人が死ぬと、戻ってくるのは、入居の時、支払った金の一割だけで、これを権利金と呼んでいる。  従って、桐生芳乃をここへ入れた人々の思惑では、これでなんとか彼女の一生が過せると計算していたらしい。 「ところが食事も別に作る、家政婦さんに来てもらうとなると、これは大変な出費です。それと、買いものですな」  呉服屋の支払いのことであった。 「幸い、本人はかなり足がよわっていて、滅多なことでは外出は出来ないと思いますが」  外出はさせないでくれといった。勿論、呉服屋などを彼女が呼んだ場合も、わけを話して、むしろ、呉服屋のほうへ売らせないように注意してくれという。 「もし、売っても、本人に支払い能力がないことをよくよくいってやって下さい」  芳乃の行きつけの呉服屋には、すでに洋子から、そういう通達が行っているから、よもやとは思うが、と弁護士はいい添えた。 「大きな買物さえ、しなければ、まあ、時どき家政婦さんに来てもらったとしても四、五年はなんとかなりますから……」  佐知子への支払いはこの貯金通帳をあずかっている自分のほうでするから、月々、請求書を送ってくれといった。 「なにしろ、相当、ぼけて来ていますからね。まわりの方に、事情を話しておかないといろいろまずいことがあると思いまして……」  弁護士は貯金通帳を鞄にしまって帰った。  今まで、弁護士から雑費用として芳乃に毎月二万円ずつ送られていた分は、今月から主任宛に送って、適当に芳乃へ渡してもらうようにもきまった。 「これほど、急に耄碌《もうろく》するとは思いませんでしたよ」  弁護士も、いささか困惑気味であった。 「こりゃあ、家政婦さんをたのむどころではないね」  弁護士が帰ってから、主任もいった。佐知子が毎日、来るとなると、月七万近い出費になる。貯金通帳の金額は三年そこそこでなくなってしまう計算である。 「なにしろ、まだ七十二だからね」  このマンションは耄碌の度合が進んで、一人で生活が不可能の時は、家族もしくは家政婦などの付添人がないと、 「転出してもらうことになってるんだよ。それで、弁護士の先生もあわててるらしいけども……」  転出といえば言葉はやわらかいが、要するに追い出されるということである。  そうなった場合の芳乃の引取人はどうなるのかと佐知子は他人事《ひとごと》でなく考え込んだ。  佐知子の印象では、到底、ここのカードの身許引取人の欄に記入されている橋本洋子という女が、芳乃の老後をみてくれる筈もない。 「まあ、当人は、まだ恍惚《こうこつ》ってほどでもない、動けるんだ。あんたも今の中に……」  辞めたほうがいいと主任は勧めた。もっと老化が進んで、下《しも》の世話まで他人にしてもらうようになったら、家政婦なしでは、とてもやって行けなくなる。  佐知子は憂鬱になった。自分の働き先は、会へ戻れば右から左へきまってしまうから、そっちの心配ではなく、急激に体の衰えて来ている芳乃が果して、この先、一人でどんなふうに生活して行けるのか、それが不安であった。  安田高志という青年が、芳乃を訪ねて来たのは、その日の午後であった。  安田という姓に、佐知子は記憶があった。芳乃が六通出した手紙の宛名の一人が、安田武一郎である。 「安田武一郎の息子だとお伝え下さい」  取次の佐知子に青年はそういった。 「まあ、安田さんの……」  芳乃は慌しく立って、着かえるといい出した。午前中に弁護士の来た時に、一度、着かえたのに、それを又、脱いで、例の朽葉色の着物に着かえる。  二十分ばかり廊下に待たせた安田高志を部屋に招じ入れた時には、芳乃はあでやかな老女に変身していた。浴衣に半天を重ねて寝たり起きたりしている普段の老いさらばえたイメージは拭ったようになくなっている。 「お手紙を頂きまして、父の代理で参りました」  高志は挨拶をしたあと、すぐにいった。ポケットから金の入っていると、一目でわかる封筒を出した。 「三十万、入っています。父からことづかって参りました」 「まあ、ありがとう」  芳乃は礼をいって、封筒を押し頂いた。 「お父さま、お元気……」  高志がちょっと伏し目になった。 「入院しています」 「ご病気……」 「肝臓を悪くしまして……」 「それはいけませんこと、お大事になさらないと……」  芳乃の挨拶が尋常なので、佐知子は安堵した。 「折角、持って来て下さって申しわけないけれど、お金、都合がつきましてね」  なんでもなく芳乃がいったので、佐知子はあっと思った。 「おかげで助かりましたのよ。これはどうぞお父さまにおかえしして下さいな」  青年はあっけにとられた。 「もう、よろしいのですか」 「はい、間に合いました。又の節にはおねがいしますよ」  優雅に押し売りをことわっているような調子である。 「そうでしたか……」  青年はためらって、結局、金をおさめた。 「お母さんはお元気……」 「歿くなりました。昨年です。やはり、肝臓で……」 「知らなかったわ。まだ、若いのに……」  自分よりも一まわりも年下だったと芳乃はいった。 「五十八でした……」 「そう、もう、そんなになっていたの……」 「僕が三十の時の子でしたから……」 「そうだったわね」  青年が帰る時、芳乃はひきとめて、庭へ案内した。例の唐梅の木の下へ行き、梅の花を二つ三つ、摘んだ。 「これ、お父さまにお見舞に、いい香りがしますのよ」  青年は黙ってそれを受け取り、ポケットに入れた。 「さようなら、お父さま、お大事に……」  相手が帰ったあとも、芳乃は唐梅の下に立っていた。 「あの人のお母さん、あたしの妹芸者だったのよ」  海をみつめながら、ぽつんといった。 「あの人を産んだあと、本妻さんが歿くなって後添えに入ったんだけど、……そう、千代龍さん、死んじゃったの……」  語尾に悲しみがあった。 「どうして、お金、お返しになったんですか」  思わず訊いた。なんのために六通もの無心状を出したのか不思議である。 「だって……、安田さん零落してるらしいもの……」  佐知子は、思わず芳乃をみつめた。 「あんた、気がつかなかった、あの坊やの洋服、随分、くたびれて、袖口なんかすり切れてたじゃない。この贅沢な世の中で、すり切れるほど上着を着るなんて、零落してる証拠だわ」  この人はぼけてなんかいないと佐知子は叫び出したくなった。僅かの時間に訪問客の服の様子から、相手の経済状態に気がついている。 「安田さんって、そういう侠気《おとこぎ》のある人だったわよ。自分がどんなに苦しくても、昔の義理は欠かさない人だったわ」  株屋だった時代にも、それで随分、苦労をしょったことがあったと、芳乃はいった。 「結局、今の時代には合わないのかも知れないわね。そういう情のある人は貧乏しちゃうんだから……」  唐梅の下で、ひらりと袂をひるがえした。 「あたしもね、昔、新橋で栄龍って呼ばれた女よ。どんなに困っても零落した昔の男から、お金は一文も頂けないわ」  鮮やかな笑い声だった。愚痴も心細さも、みじめなものもない。からっと明るく、どこかに張りのある女の笑い声を、佐知子は一生、忘れないだろうと思った。  その日から、佐知子は老人マンションヘ通えなくなってしまった。  マンションの主任からことわりが来ていた。  気になりながら、芳乃を訪ねることが出来なかったのは、なまじ、家政婦という職業のせいである。行けば、相手に気を使わせ、負担をかけることになりかねない。  たまたま、やはり行きつけの小田原の病院で長期療養の患者の付添婦をたのまれて、ざっと一年近く。佐知子がその老人マンションの門をくぐったのは、芳乃と別れて、ほぼ十か月目の二月のなかばであった。 「あの、桐生さん、どうなさっていらっしゃいますか」  主任の顔をみたとたんに、言葉が口をついて出た。 「ああ、あの人、歿くなったよ」  さらりと主任がいった。 「昨年の夏……九月だったかな」  庭で心臓病の発作を起し、部屋へ運んだ時は、もういけなかった。 「極楽往生でね。よかったよ。そういっちゃなんだが、金のなくなる前だったし、ま、老化現象もまあまあの中だったからね」  十二号室には、東京で病院を経営している人の母親が入っていた。  五人も子供がいるのに、ここへ入ったら一人も逢いに来てくれなくなった、と、佐知子が出張した十一号室へ愚痴をいいに一日に一度はやってくる。  十一号室のほうは、やはり老女で神経痛であった。 「本当に、いやな時代になりましたよね。子供までが信じられなくなったんですから……」  仕事の間に、佐知子は庭へ出てみた。  唐梅に、今年はまだ花が咲いていない。花のあとから出てくる筈の葉が、もう青く芽吹いていた。 「陽当りは悪いし、木も年とったから、今年は花が咲くかどうか……」  佐知子の背後で、やはりこの老人マンションの住人が話している。  唐梅の梢を佐知子は見上げた。枝と枝が心細く重なり合っている間からみえる空に、春の日ざしが光っている。  唐梅の花のような衣裳を着て、この花の下に立っていた老女のことは、もはや、このマンションの住人の話題にもなっていないようであった。  どこともなく、別の花の香がただよってくる道を、佐知子はひっそりと戻って行った。 角川文庫『女の四季』昭和63年1月25日初版発行           平成11年1月30日27版発行