平岩弓枝 千姫様 目 次  大坂落城  桑名にて  船幽霊  播磨の姫君  瀬戸内の夏  京の寺  満 月  別れ行くもの  忠刻逝く  時の流れ  大坂落城     一  大坂《おおさか》城本丸奥御殿の部屋で、千姫《せんひめ》は長いこと、すわり続けていた。  慶長二十年五月七日のことである。  簾《すだれ》をかかげた縁側のむこうの中庭には、まるで霧がたちこめたように白く硝煙がただよっていた。  半年前の冬の戦《いくさ》では、こんなことはなかった。  あの時、この城内では御母公様と呼ばれている 姑《しゆうとめ》 の淀《よど》の御方と共に、本丸のやや小高いところから眺めた限りでは、この城を取り巻く徳川《とくがわ》方の軍兵の旗差物《はたさしもの》は十重二十重《とえはたえ》のように見えたが、いずれも城からは遥《はる》か遠くにあった。  本丸の前には堀があって、その先に二の丸の建物があり、更に内堀があって三の丸の城郭があった。  三の丸からは、天満《てんま》川から流れ込む猫間《ねこま》川を利用した大きな外堀に取り巻かれた広い土地に豊臣《とよとみ》家の侍達の屋敷も建ち並んでいて、それらは本丸を守る鉄壁のようであった。  たしかに、一か月余りにもなった合戦の終りには、徳川勢の陣地から三百|挺《ちよう》といわれるほどの大砲、それもイギリスやオランダから購入したという五貫目玉を飛ばすようなのがいっせいに打ち込まれた時は、百雷が落ちたようなすさまじさで、その数発は本丸の矢倉を突き崩し、御母公の侍女七、八人を吹きとばしたのを、千姫も知ってはいた。  結局、それが一つのきっかけになって、双方から和議の使者が往復し、十二月の二十二日、暮も押しつまって戦は終った。  けれども、この度は天守に立ってみなくとも、大坂城そのものが、この前とはまるで変ってしまっている。  冬の戦が終ったとたんに、多くの軍兵や力仕事をするために徴発されて来た百姓などが、あっという間に外堀、内堀を埋め、二の丸、三の丸を打ちこわしたから、本丸はまるで裸同然のみすぼらしい姿になった。  それについては、何度も大坂方から徳川方へかけ合いに行ったり、城壁や堀の修復もはじまったりしたものの、徹底的に破壊されたものをどこから手を加えていいか、途方に暮れるばかりだと、秀頼《ひでより》が口惜《くや》しげにいうのを、千姫は泣きたい気持で聞いていた。  大坂城を包囲した敵軍の本陣で指揮を取っていたのは、千姫にとっては祖父である徳川|家康《いえやす》と、父に当る徳川|秀忠《ひでただ》であった。  が、そのことで夫の秀頼も、姑《しゆうとめ》 の淀の御方も千姫を責めはしなかった。  戦国の世では、ままあることだったし、むしろ、千姫にはなんのかかわりもないと割り切っていてくれている。  それは、もし、大坂方が敗れることになれば、千姫も豊臣家と運命を共にしなければならないと承知しているからでもあった。  今度の合戦のはじまる寸前に、秀頼が側室に産ませた八歳になる国松丸《くにまつまる》と七歳の姫君はそれぞれに乳母がついて城を出て、京の公卿《くげ》の屋敷へ避難したが、そのとき、間もなく再びいくさが始まるとは思ってもいなかった先方が、 「奥方様も御一緒に、京の春をごらんになりにお出《い》で下さいませんか」  といってよこしたのに対し、 「千姫様は、万一の折の人質の御立場でございますから……」  と、御母公付きの大蔵卿局《おおくらきようのつぼね》がきっぱり断ったというのを、千姫の侍女が口惜しそうにいいつけて来たが、千姫自身は格別、衝撃も受けなかった。  ただ、間もなく、確実に戦が再開されると思い、本丸の庭からなにも遮るものがなくなって、以前よりぐっと間近く見渡せる大坂の町を眺めて、なんともいえない気持になったものである。 「姫君様……」  次の間から松坂《まつざかの》局《つぼね》がそっと声をかけて来た。 「三帆《みほ》どのが戻って参りました」  千姫は放心したような目を中庭から松坂局へ戻した。 「三帆か、これへ……」  大坂城で、千姫は七歳で嫁入りして来た時のまま、姫君と呼ばれていた。  夫、秀頼との間に、まだ子供がないせいでもあり、御母公がそう呼ぶ故でもあった。  そして、それは十九歳にしては幼すぎるものを多く残している千姫には、まことによく似合った呼び方でもあった。  若い女が小走りに次の間へ入って来た。  速水甲斐守守之《はやみかいのかみもりゆき》の娘で三帆といい、千姫より一つ年下だから、今年十八歳になる。十二の年から千姫に仕え、年少ながら聡明《そうめい》で、松坂局も、この娘を一番信用しているほどのしっかり者だが、容貌《ようぼう》はまだ子供子供していた。  母親が横笛の名手だったので、彼女も笛のたしなみがある。平和な時にはよく千姫の琴と合奏をして、御母公や秀頼に激賞されたこともあった。 「三帆、如何《いかが》いたした。奥の御様子は……」  本丸奥御殿の淀の御方の居間には、表からさまざまの知らせが入り、時には軍議めいたこともする。  そのため、千姫は遠慮をして、この部屋へ戻っていた。 「間もなく、上様は桜《さくら》門より本丸へ帰陣なされるとのことでございます故、姫君もお出迎えのため、あちらへお出ましなされますよう、御母公様よりの仰せにございます」  秀頼が城兵を鼓舞するために、今朝方より二の丸の桜門まで出ていた。  それが本丸へ帰陣するというのは、 「よくはわかりませぬが、裏切者が城中に火を放つとやら申す風聞があった由、御母公様を御心配なされて、お帰り遊ばすとか……」 「して、お味方は如何か」  松坂局がたまりかねたように口をはさんだ。  すでに六日の道明寺《どうみようじ》での戦では後藤基次《ごとうもとつぐ》、薄田兼相《すすきだかねすけ》、山川賢信《やまかわかねのぶ》が討死をしていたし、八尾《やお》、若江《わかえ》では木村重成《きむらしげなり》の敗死が報告されていた。  そして、今朝は大坂方の部将の殆《ほとん》どが城を出て真田幸村《さなだゆきむら》は茶臼《ちやうす》山へ、毛利勝永《もうりかつなが》、大野治長《おおのはるなが》は四天王寺《してんのうじ》あたりへ、大野|治房《はるふさ》は岡山口へ押し出して行った。 「このようなこと、姫君に申し上げてよいかどうかわかりませぬが、今しがた、表より参った侍どもの知らせを御母公様がお聞きなされて、大蔵卿局様にお話し遊ばしたところでは、茶臼山の真田どのの軍勢は大御所《おおごしよ》様の本陣へ突き進み、大御所様には危く難をお逃れなされたとのこと……けれども、真田どのには討死なされ、嫡男|大助《だいすけ》どののみ、城内へお戻りなさいましたとか」  松坂局が息を呑《の》むのが、千姫にわかった。  真田の精鋭三千騎は最後の突撃に、徳川家康の首を求めて茶臼山に肉薄し、大御所家康は命からがら逃げ出したという。だが、その真田の兵も全滅に近い。  千姫が気持をふり切るようにして立ち上った。 「御母公様のところへ参ります。供をしや」  重い襖《ふすま》を侍女が開けると、きなくさい臭《にお》いが急に濃くなった。 「三の丸あたりに火の手が上っているようでございます」  廊下に出ていた女達が口々に叫んだ。  敵兵がそこまで来たというのか、それとも裏切者のせいなのか、千姫達には考えている余裕がなかった。  本丸のそこここに血にまみれた侍の姿がみえる。それらは御母公の居間に近づくほど多くなった。  開けはなした襖のところに、大蔵卿局の姿がみえる。 「姫君がお出でなさいました」  奥へむかって知らせながら、千姫を迎えた。  敷居をまたいで、千姫は一瞬、異様な気がした。  この中は豪華|絢爛《けんらん》のままであった。  硝煙や血の匂《にお》いを消すためか、香炉が並べられ、名木が惜しげもなく火にくべられている。  上段の間には、秀頼が腰を下し、大きなギヤマンの鉢で水を飲んでいた。  その隣に、御母公は桐《きり》の紋所を織り出した白羽二重の小袖《こそで》に、紗《しや》の打掛《うちかけ》を腰巻にしてすわっていたが、顔色は青ざめ死人のようであった。 「お千か」  秀頼がしゃがれた声で呼んだ。煙で咽喉《のど》をやられたようである。 「ここへ来い」  千姫は夫の傍《そば》へ寄った。  幼い日から兄のように親しんだ人が、この一年、どれほど苦渋に満ちた日々を送って来たか、千姫にはいたましく見えた。そして、その人は今、最後の気力をふりしぼって屈辱に耐えようとしている。 「そなたに、頼みがある」  千姫は両手を突いて頭を下げた。夫がなにをいい出すのか見当がつかない。 「敵の本陣へ……徳川どのの陣へ使をしてもらいたいのだ」  千姫が顔を上げると、秀頼は目を伏せた。 「今更とわしは思う。だが、将たる者は最後まで命を惜しまねばならぬと、甲斐守より諫言《かんげん》された。母上の命は尚更《なおさら》である」  恥と苦痛が語尾を消した。 「修理《しゆり》はそなたを城外へ出せと申して居る」  つまり、秀頼母子の助命|歎願《たんがん》のため千姫に東軍の陣へ使者に行けということであった。  なんとなく千姫はあたりを見廻《みまわ》した。  間に合うだろうかというのが、まず心を占めた。  耳をすませば、ときの声が聞え、きなくさい臭《にお》いはいよいよ強くなっている。 「かような戦になると知っていたなら、旗あげはせなんだものを……」  うめくように、淀の御方がいい出した。 「たばかられたのじゃ。見事に欺《だま》されたものよ。この前の戦の終った時、敵の使はなんと申した。ただ軍勢をひかせては、大御所の顔が立たぬ。大坂まで馬を寄せ、多くの兵を失って、その上、軍をおさめては、諸大名に対し、面目が立たぬ。それ故、御出馬の印《しるし》に惣構《そうがまえ》を取りこわしてたもらぬかと申した。大御所の体面のためならと承知したものを、なんと堀ことごとく埋め立てて、二の丸、三の丸の塀、柵《さく》に至るまでとりこわし居った。欺されたのじゃ。大御所はこのたびの戦のために、大坂城をかような有様にした。それすら心付かず、敵のいうままになったのは、侍どもが愚かであった。愚か者ばかりが寄り合うて、太閤《たいこう》殿下のこの城を、今日の憂きめに会わせたのじゃ」 「母上」  辛うじて、秀頼が叫んだ。 「侍どもをお責めなされますな。侍どもが責められること、この秀頼が責められるに同じでございますぞ。なにを申されても後の祭。秀頼の武運つたなきためと御承知下さいますよう……」  千姫が顔を上げた。 「お使に参ります。必ず、お役目を果して戻って参ります故、くれぐれもお大事に……」  別の部将の顔がのぞいた。 「火が迫って居りますぞ。ここは危い。山里《やまざと》の曲輪《くるわ》へお移りなさいますように……」  この奥御殿は本来、詰《つめ》の丸と呼ばれた本丸の中央で、南に本丸の表御殿があり、北側には山里曲輪があった。  秀頼が出陣していた桜門というのは、この本丸のいわば表門に当り、その内側に櫓《やぐら》門があった。  本丸はこの南側のほうが地面が高く、北へ行くに従って低くなっている。従って山里曲輪は奥御殿よりも、かなりの段差があり三方を深い水濠《みずぼり》に囲まれていて、その堀には極楽《ごくらく》橋という土橋が非常の際の脱出路としてかけられていた。  いってみれば、大坂城の中で山里の曲輪は北限であり、そこまで追いつめられたことは、もはや、どうあがいても勝つ戦ではないと引導を渡されたようなものであった。 「三の丸は、はや焼け落ちました。火は二の丸へ広がり、間もなく本丸にも移ること必定と存じます。はやばや、山里の曲輪へ避難なされますように……」  一座に動揺が起った。 「御母公様、お支度を……」  大蔵卿局が介添に立ち上った。 「姫君、お早く……」  声をかけたのは、速水甲斐守であった。 「姫の御尽力をもって、何卒《なにとぞ》、豊臣家の滅亡をお救い下さるよう、神かけてお祈り申して居ります」  大野治長が、千姫に近づいた。 「罪はこの修理を始め各々、切腹|仕《つかまつ》る。何卒、上様、御母公様、御助命の儀、大御所様に請願なされて下さりますように……」  無意識に千姫は立った。夫の顔も 姑《しゆうとめ》 の顔もみるのが耐え難かった。  千姫がこの城に嫁いで来た時、一人は太閤殿下の遺児として光り輝く御曹子《おんぞうし》であった。一人は太閤殿下の思い人として牡丹《ぼたん》の花よりもあでやかな大坂城の女主人であった。  そしてその二人を取り巻く綺羅星《きらぼし》のような豊臣|譜代《ふだい》の大名達、その人々の多くは死に、或《ある》いは徳川家に従った。 「姫君、お早く」  再度、うながしたのは速水甲斐守であった。  平素は詩歌や茶道にたしなみの深い、温厚な侍が、満面に返り血を浴びて別人のような風貌《ふうぼう》になっている。 「御供は松坂局、三帆、御案内は次の門に居る……急げ」  松坂局が千姫の手をひいた。  よろめくように敷居を出る時、千姫がふりむいてみると、近習《きんじゆ》に囲まれた秀頼と、侍女達に支えられた淀の御方が東側の戸口から外へ出ようとしているのがみえた。むこうは千姫を見送る余裕もない。 「三帆……」  千姫の背後で、速水甲斐守が娘を呼びとめる声が聞えた。 「姫君をお守りして、必ず御使命を全うされるよう……父はこのお城にて良い首尾を待っているぞ」 「父上……」  と応《こた》えた娘の声が泣いていた。 「必ず戻って参ります、姫君と共に……」 「姫君には葵《あおい》の御紋の打掛をお着せ申して行け。それが、なによりの目じるしになる」 「承知致しました」 「流れ矢などに当るなよ。心して参れ」  流石《さすが》に父の娘への思いが最後の叫びにこもっていた。  次の間には案内人がいると速水甲斐守はいったが、それは堀内氏久《ほりうちうじひさ》という侍であった。彼の配下だろう二、三人の軍兵が待っている。 「姫君、こちらへ……」  奥御殿を抜けて東側の堀に沿って表御殿の脇《わき》から崩れた土塀をくぐって本丸を脱出した。  二の丸の手前は逃げまどう人々であふれていた。  この城にこもっていたのは侍ばかりではなかった。賄方《まかないかた》などのように日常の用を足す男や女中、下女、それに大坂方の勝利を神に祈っていたキリシタンの宣教師、雑役に従事していた商人や百姓など数千人の者が逃げ場を求めて右往左往している。 「姫君のお傍《そば》をはなれるな」  堀内氏久が叫び、自らの背に千姫を背負うようにして二の丸を進んだ。  建物はどこも火がついていた。  音を立てて燃えているところもあれば、焼け落ちてくすぶっている個所《かしよ》もある。  三帆が千姫の頭からかぶせた葵《あおい》散らしの白地の打掛の上にも火の粉が舞った。  松坂局が石段から足をふみはずしてころがり落ちた。それを抱き起そうとして三帆も転んだ。手足に感覚がなくなっていて、痛いとも思わない。  ばらばらと土塀のむこうから軍兵がとび出して来た。大刀《たち》をかざし、槍《やり》をひねって千姫の一行を取り囲む。 「慮外するな。これは大御所様御孫娘、千姫様におわしますぞ」  堀内氏久が叫び、松坂局が千姫を背にかばうようにして前へ出た。 「徳川様の御家中はお出でなさらぬか、千姫様にございますぞ。とく、大御所様の御本陣へ御案内なさいませ」  軍兵のむこうから、柄の大きな侍が前に出た。 「千姫様とは、将軍家一の姫、千姫様のことでござるか」  汗と土埃《つちぼこり》と砲煙でまっ黒になった侍の顔をみて、堀内氏久がどなった。 「貴公は、坂崎出羽守《さかざきでわのかみ》どのではないか。手前は堀内氏久、千姫様のお供をして、漸《ようや》くここまで参った。何卒《なにとぞ》、姫君を大御所様御陣所へ御案内下され」  坂崎出羽守と呼ばれた男が、松坂局の背後の千姫をみて、土に膝《ひざ》を突いた。 「姫君には、よくぞ御無事で……坂崎出羽守、御案内申し上げる」  千姫と松坂局、三帆をはじめ付き従った侍女達が坂崎出羽守の配下に守られるのをみて、堀内氏久は改めて、千姫へ頭を下げた。 「それがしはこれより城内へ立ち戻ります故、姫君には首尾よく大命をお果しなされますよう、くれぐれもお願い申し上げます」  そのまま、手勢を伴って、すばやく群衆の中に姿を消した。  坂崎出羽守も彼等を追うことはしない。 「大御所様には茶臼山に陣をかまえてお出でなされます。いざ、御案内を……」  ここからは、坂崎出羽守の軍兵に守られての脱出であった。  途中からは千姫のために荷車が用意された。  屈強の男達に拉致《らち》されるように茶臼山へ走り続ける。  すでに日は落ちて夜であった。  茶臼山の徳川家康本陣は、この前の冬の戦の時に、船場《せんば》の町屋を取りこわして用材を運び込み、大工頭の中井正清《なかいまさきよ》が建造したという立派なもので、入口を入ると番士の詰める部屋が東西にあり、軍議に連なる近臣達のための広い座敷や台所、更には十二畳の家康の寝所と控えの間、茶室、納戸《なんど》、風呂場《ふろば》までついている。  大御所家康は甲冑《かつちゆう》は最初から着けず、浅黄色の帷子《かたびら》に茶色の夏羽織という、これが総大将かと思われる恰好《かつこう》で、近習に湯漬を運ばせ腹ごしらえをしていたが、千姫が到着したと聞くと箸《はし》をおいて表座敷へ出て来た。  戦場を抜けて来たことだから、さぞかし半死半生の体《てい》だろうと思った家康の予想を裏切って、千姫は憔悴《しようすい》し切ってはいたものの、祖父を迎えた目には底力があり、むしろ、颯爽《さつそう》とした印象であった。 「よく戻って来た。さぞかし怖い思いをしたであろうな」  この孫娘に会うのは七歳の時以来だと家康は思った。  大坂城の秀頼に嫁ぐとなって、祖父に別れの挨拶《あいさつ》に来た折は、まだ、ほんの幼女であったが、十二年ぶりにみる千姫は美人の聞えの高い母のお江与《えよ》の方よりも美しく、聡明《そうめい》そうで、しかも愛らしかった。 「大御所様、お久しゅうござります」  と呼びかけた時、千姫の目から涙が糸を引いて落ちるのを、家康はなんともいえない感動で眺めた。  この魅力あふれる孫娘を、自分はたった今まで、大坂落城の犠牲にすることをなんとも思っていなかったのだという後悔が家康を捕えていた。いずれ滅す豊臣家と承知の上で、七つの小娘を美々しく着飾らせて輿入《こしい》れさせた。  あれからの歳月を、この美少女がどれほど寂しく、苦しい思いを重ねて成人したことかと思うと、たった今、戦勝の報告に酔いしれていた心の中に、甘い感傷がなだれ込んで、家康もつい涙ぐんだ。 「不愍《ふびん》なことをした。しかし、祖父《じい》の手に戻ったからは、もう案ずることはない。どのような幸せも、そちのためならかなえてやろう」  誰《だれ》が千姫を大坂城から救い出したのか、その者にはどれほどの賞美を与えてやろうと、家康の気持が先走った時、千姫の必死の声が聞えた。 「私が城を出て参りましたのは、秀頼様、御母公様の命乞《いのちご》いのためでございます。どうぞお二人の御助命を大御所様のお口から諸軍にお伝え下さいませ。この儀、何卒お聞き届けなさいますように……」  涙に濡《ぬ》れた千姫の視線にぶつかって、家康は反射的にうなずいていた。 「お姫の頼みとあらば、どのようなことでも聞いてやろう」 「では、お二人の御助命をきいて下さいますか」  花のように輝いた千姫の顔をみつめて、家康は愕然《がくぜん》とし、慌てていい直した。 「きいてやりたい。かなえてやりたいと思う。しかし、ともかくも、将軍家に訊《き》いてみねばなるまい。そうじゃ何事も将軍家次第じゃ」  千姫の紅潮した頬《ほお》が、再び緊張した。 「では、将軍家にお目にかからねばなりませぬ。将軍家には、いずれの御陣にお出でなされます」  今にも走り出しかねない千姫の様子に、家康は目をしばたき、両手で制した。 「待たれよ。只今《ただいま》、使をもって子細を伝える故……」 「急ぎまする。もし、夜の中《うち》に城が落ちることあらば……」  家康が漸《ようや》く笑った。 「お姫にも似合わぬことを申すものじゃな。およそ、夜の戦はせぬ。同志討ちして、あたら兵をそこなうのは大将たる者、避けねばならぬ」 「夜は、兵を動かさぬと仰せになりますか」 「耳をすませて聞いてみるがよい。大砲《おおづつ》の音もせぬであろう。すでに各々の陣は兵をとりまとめ、明日の戦いに備えて居る」 「では、夜の中に御返事を……」 「よい。今、将軍家へ使をやる」  近習に声をかけ、別に手を叩いて阿茶局《あちやのつぼね》を呼んだ。家康の愛妾《あいしよう》の一人だが、もう六十歳になっている。 「お姫に湯あみなどさせ、いたわってやるように……。その中に、将軍家より返事が来るであろう」  阿茶局は、それでも立ちかねている千姫の傍へ近づいてささやいた。 「大御所様の仰せのようになさいませ。万事は必ず良いように向いましょうほどに……」  その言葉には人の心を柔かく包み込むような安堵《あんど》感があった。  支えられて千姫は家康にもう一度、深く頭を下げ、奥の部屋へ伴われて行った。  三帆と侍女が、そのあとに従い、最後に松坂局が続こうとすると、家康がさりげなく呼び止めた。 「お姫が、どのように大坂城で暮して来たのか、そのことについて少々|訊《き》きたい」  平伏した松坂局に、家康がまずいったのは、秀頼との夫婦仲についてであった。 「風聞によると、秀頼には側室が居り、二人の子をなしていると申すが、お姫に冷たくしていたということはなかったか」  それは孫娘の婚家先での様子を案ずる好々爺《こうこうや》の表情だったので、松坂局は安心して答えた。 「おそれながら、たしかに秀頼君にはお一人の御側室が居られ、お二人のお子を設けられたのは事実でございます。なれども、それは千姫様のいまだ幼き時のことにて、姫君が十六になられまして鬢《びん》そぎの御儀がとり行われましてからは、御夫婦仲むつまじく、それに御側室には間もなく病を得て歿《なくな》りましたこともあり、姫君には二人のお子を優しくお心づかい遊ばしてでございました」 「仲むつまじかったのか」 「はい、最初の中こそ、兄君と妹君のような御仲ではございましたなれど……」 「昨年、関東と手切れになり、合戦となった後もか……」 「それは……」  つい正直に松坂局は訴えた。 「昨年八月、方広《ほうこう》寺大仏殿の鐘銘のことがありましてからは、秀頼君もしばしば苛立《いらだ》ち給《たま》い、関東の仕打、奇怪なりと仰せになって、姫君の居られます奥にはお入りにならないことが続きましたが……」  ふと不安になって言葉を詰らせた松坂局に家康は優しく笑いかけた。 「さもあろう。姫はさぞ苦しかったであろう。かえすがえすも不愍《ふびん》なことをしたものよ」  もう奥へ行けといい、松坂局が去ると、入れかわりに本多正純《ほんだまさずみ》が入って来た。  家康の最も信頼の厚い近臣の一人である。 「お召しにございますか」  夜風が止って、急に蒸し暑くなった部屋に蚊よけに焚《た》いた松葉の煙が流れている。  僅《わず》かの間、その煙の行方《ゆくえ》を見守っていた家康が低くいった。 「お姫が、大坂城の小悴《こせがれ》とお袋様のために命乞いに参った」  正純が深く頭を下げた。 「そのことにつきましては、先刻、近習共より耳に致しましたが……」  照れくさそうな苦笑いが、家康の顔に浮んだ。 「お姫が不愍できつい返事が出来なんだ。其方《そのほう》、行って将軍家の御意を承って参れ」  正純が下から主君を窺《うかが》った。 「如何《いか》に姫君の御歎願といえども、御助命の儀は……」 「わかって居る。なんのための戦じゃ。左様なことは、将軍家にもようおわかりのこと。じゃが、万一のために其方を使者に立てる。それだけのことよ」  正純の目が笑った。 「それを承って安堵《あんど》致しました。では、お使に参りまする」 「頼むぞ」  具足の音も立てずに、正純が部下を伴って本陣を出て行った頃《ころ》、千姫は湯をつかい、奥の間に案内された。 「使が戻るまで、暫《しばら》くおやすみなされませ」  阿茶局が薬湯をすすめ、千姫はそれを飲んだ。  たしかに疲労は全身に及んでいた。家康の優しさに、張りつめていた気持がゆるんで、それも疲れを増幅させた。眠るつもりはなかったのに、脇息《きようそく》に寄りかかると、もう目を開けてはいられなくなった。  阿茶局が家康と共に、この部屋をのぞいた時、千姫は崩れ落ちるように突っ伏して、静かな寝息を立てていた。     二  長い夜を、人々は過した。  そこは大坂城の山里の曲輪《くるわ》の中にある唐物倉《からものぐら》であった。  秀頼と淀の御方を囲むのは大野修理亮治長、毛利勝永、速水甲斐守、それに大蔵卿局、韓《かん》長老、真田大助らを含む二十九名であった。  大倉卿局は大野治長の母であり、真田大助はすでに討死した真田幸村の嫡男であった。  韓長老は南禅《なんぜん》寺の住持で、そもそも大坂冬の陣のきっかけとなった方広寺鐘銘の作者であった。博学能文の聞えのある人である。  方広寺の大仏殿は、かつて太閤秀吉が子孫の繁栄のために造営したものだが、慶長《けいちよう》元年の大地震で崩壊した。  それを、家康の勧めで、秀頼が再興することになり、途中、失火のこともあって工事が長引き、およそ十二年もかかって昨年完成した。八月に行われる堂供養と大仏開眼供養を前にして、梵鐘《ぼんしよう》の銘に徳川家から抗議がきた。  即《すなわ》ち「右僕射源《うぼくやみなもとの》朝臣《あそん》」は、右大臣を唐名で右僕射というのをそのまま用いたのに対し、源朝臣とは源氏《げんじ》の出である家康を意味し、家康を射ると解釈が出来る。又、「君臣豊楽、子孫|殷昌《いんしよう》」の文は、豊臣家を主君と仰ぎ、の意であり、「国家安康」の部分は家康の名を二つに分けて呪詛《じゆそ》しているものだと言いがかりをつけたのが合戦の緒となった。  その責任が、韓長老をして最後まで大坂城と運命を共にする決意をさせたものであろう。  五月八日の朝になって、大坂城は三の丸、二の丸から本丸まで炎上して、僅かに山里の曲輪だけが煙の中に残っている有様であった。  そして、正午には東軍の井伊直孝《いいなおたか》、安藤重信《あんどうしげのぶ》の鉄砲隊が山里の曲輪めがけて一せいに射《う》ちはじめた。  唐物倉の中で、ひたすら千姫による助命歎願の結果を待ちわびていた秀頼、淀の御方はこの攻撃によって遂《つい》に決断せざるを得なかった。  やがて、唐物倉からすさまじい炸裂《さくれつ》音と共に激しい炎が上り、みるみる中に倉全体を猛火に押し包んだ。  山里の曲輪炎上、秀頼、御母公御生害の知らせが茶臼山へ届いたのは一刻ばかり後である。  阿茶局から、そのことを聞かされた千姫はそのまま、気を失った。  三帆は大坂城へひき返そうとして松坂局に制止された。  実際、帰ろうにも、城はすでに焼け落ちている。  やがて、輿《こし》が用意された。  死人のような顔になった千姫が輿に乗せられ、松坂局や三帆などが、それに従った。  家康が陣を払ったのは申《さる》の刻(午後四時頃)で、千姫の輿もその行列と共に茶臼山を発《た》った。  雨が降り出したのは夕刻になってであった。  沛然《はいぜん》と降る雨の中で、大坂城を燃やし尽した火も消えた。  ずぶ濡れになった家康の隊列が二条《にじよう》城に凱旋《がいせん》したのは戌《いぬ》の刻(午後八時頃)で、雨はまだやまなかった。  京では、すでに大坂落城と豊臣家滅亡の報が伝わっていた。 「豊《ほう》太閤様の涙雨じゃ」  と空を仰ぐ公卿《くげ》もあって、京の人の多くは無理難題をいいかけ、いわば欺《だま》し討ちにしたような徳川家のやり方を不快に思い、滅びた者へ同情の念を禁じなかった。  それらの人々に、徳川千姫が落城間ぎわに脱出して、無事に生きのびたことが伝わると、 「やはり、狸《たぬき》の孫娘よ。命冥加《いのちみようが》な……」  と顔を見合せた。  その千姫は二条城に入った夜から高熱を発して意識不明に陥っていた。  医師が呼ばれたが、投薬してもはかばかしくなく、女達の中には、 「豊臣家のたたり……」  と怖《おそ》れる声も出て、家康は僧を集めて祈祷《きとう》をさせた。  岡山に本陣をおいた徳川秀忠は、大坂落城の翌九日に陣払いをして伏見《ふしみ》城へ帰った。  東軍の諸大名も、あいついで大坂を発ち、軍兵は帰国させ、五月十日には二条城へ戦勝の祝賀に出むいた。  が、戦はまだ終っていなかった。  命からがら大坂城を逃げ出した人々の中で運よく助かった者も、東軍の兵に襲われて、身ぐるみ強奪された。  宣教師の中には修道服まで剥《は》ぎとられ、丸裸で死体の焼けている戦場を二日も歩き続けた者もいれば、着のみ着のままで平戸《ひらど》までたどりついたのもあった。  女達の多くは軍兵に乱暴され、中には気が可笑《おか》しくなる者もいて、暫《しばら》くの間、大坂の町は昼でも通行が絶えた。  三帆が、千姫様の御病気平癒のために、豊臣家最期の場所を訪ね、香華をたむけて来たいと願い出て許されたのは、落城から十日が過ぎてからのことであった。  千姫様の侍女の警固というので、阿茶局から格別の指示があって、然《しか》るべき者が供につき、早朝に二条城を出て大坂へ入った。  まず、三帆の目に入ったのは、見渡す限りの焼野原と化した大坂の町であり、そのむこうに、これも昔の偉容は跡形もなくなって、ところどころ城壁の石垣だけが残っている大坂城があった。  死体はすでに片付けられていたが、死臭はまだ、どんよりとただよっていて、三帆は何度も吐きそうになり、脂汗を流しながら二の丸、本丸とたどって行った。  詰の丸の、かつての奥御殿のあった場所は瓦礫《がれき》の山になっていた。  当代一流の絵師が筆をふるった天井の花鳥風月の絵も、金箔《きんぱく》を貼《は》った襖紙《ふすまがみ》も、総檜作《そうひのきづく》りの書院も、黒柿《くろがき》の木材を用いた休息の間も、今は跡形もない。  案内について来た侍の一人が、三帆にいった。 「御最期の場所は、この裏手の山里の曲輪《くるわ》でございます」  それはいわれずとも三帆にはわかっていた。  自分が千姫について奥御殿を立ち去る時、秀頼はじめとして御母公も御家来衆もひとかたまりになって山里の曲輪へ続く廻廊《かいろう》へ下りて行ったのを、はっきりと目にしている。  その殿《しんがり》に立っていたのは、父の速水甲斐守であった。  三帆へむかって、大きく手を上げた父の姿が、今も瞼《まぶた》にこびりついている。  豊臣家|終焉《しゆうえん》の場所となった唐物倉は屋根が吹きとび、壁が崩れて無惨な有様であった。 「内側から火薬を仕掛け、轟音《ごうおん》と共に吹きとんだということでござりました」  阿茶局がつけてくれた中年の僧が合掌した。そこへ来るまで、三帆は知らなかったのだが、安英《あんえい》といい、南禅寺で韓《かん》長老に仕えていたという。 「手前がここへ参ったのは、これが二度目でございます」  最初に来たのは、韓長老の消息を尋ねてで、 「合戦の終った翌日のことでございました」  その時は、この附近はまだ余燼《よじん》がくすぶっていて、まともには目もあけられないような状態だったと安英はいった。 「東軍の御奉行《ごぶぎよう》が、唐物倉でお歿《なくな》りになった方々の首実検をして居られましたが、強い爆発とやらで御|遺骸《いがい》は吹きとんでしまったとか。お供の方々の御遺体もまっ黒こげで、どれがどなたやらわからぬと仰せられてでございました」  韓長老の遺骨を拾うことも出来ず、ただ経を称《とな》え、三拝九拝して帰ったという。 「どうにも心残りで、阿茶局様におすがり申し、今日のお供に加えて頂きました」  安英が土にすわって経文を誦《ず》しはじめた。啜《すす》り泣くような声である。  三帆も合掌した。ここで父もお果てなされたのだという思いが次第に大きくなった。  優しい父であった。  三帆の母が歿ってからは、なにかにつけて三帆に気を使ってくれた。  大坂の町へ出た時には必ず土産《みやげ》を買って来てくれたし、出かける前にはなにか欲しいものはないかと訊《き》いてくれもした。  母親をなくしたことを知って、淀の御方が千姫の遊び相手にと、三帆の奉公をのぞんでくれた時も、ありがたいことだと喜ぶ一方で、寂しげであった。  三帆の奉公する奥御殿は部将の立ち入る場所ではなかったから、父と会うことは滅多になくなったし、関東との戦がはじまってからは尚更《なおさら》であった。  それだけに、あの最後の別れの折の父の顔が、三帆にはただなつかしく慕わしい。 「あまり時刻《とき》を過ごしてはなりませんぞ。もはや、立ちのきませぬと、京へ戻るのが遅くなり申す」  案内の侍達にうながされて、三帆はあたりを見廻《みまわ》した。  二条城で病に倒れたままの千姫のために、なにか亡き人々の形見になるようなものをと思ったのだが、なにもなかった。  焼けた土を一つかみ、袱紗《ふくさ》に包んでいて、三帆はふと、誰かが自分をみているような気がした。顔を上げたが、まだ名残《なご》り惜しげに念仏を称えている安英の他《ほか》は誰もいない。  供の侍達はひとかたまりになって、これもくずれ落ちた極楽橋のほうを眺めている。  袱紗をしっかり懐中にしまって、三帆は立ち上った。もう一度、廃墟《はいきよ》を見廻した。  その時、ちらと人影が動くのがわかった。  崩れ落ちた石垣のむこうを足早に立ち去って行くのは、僧のようであった。  安英と同じように、韓長老にゆかりのある僧がひそかに供養のために来たのかも知れないと思う。 「お女中……参りましょう。やがて日が暮れます」  安英に声をかけられて、三帆は重い足をひきずるようにして歩き出した。  三帆が帰って来て話す大坂城の模様を千姫は辛うじて床に起き上って聞いた。  涙はなく、やつれ切った顔は表情を失って化石のようであった。  ただ、三帆が語り終えた時、低く千姫が呟《つぶや》くのが聞えた。 「本当に、歿《なくな》られたのであろうか」  はっとして三帆は千姫をみつめた。 「御遺体もなく、お形見すら残っていなかったと申すではないか」  三帆は唇を噛《か》みしめるようにした。 「火が強かったと聞きました。唐物倉の火薬が爆発して……」  千姫が床に打ち伏した。 「お城を出るのではなかった。なんといわれようとも……お城を出ねばよかった……」  忍びやかな泣き声が聞えて、三帆も涙をこぼした。  大坂城の焼跡で三帆は泣くことを忘れていたようであった。  二条城の奥にいる千姫も三帆も知らないことだったが、その間、大坂、京、奈良などでは徳川方による激しい残党狩りが続いていた。  十一日に捕えられた大坂方の長宗我部盛親《ちようそかべもりちか》は十五日になって六条河原《ろくじようがわら》で斬首《ざんしゆ》され、二十日には真田幸村の妻が紀州《きしゆう》で捕えられたりした。  粟田口《あわたぐち》には連日、大坂方の梟《さら》し首が並び、その数は増える一方であった。  高熱は下ったものの、寝たり起きたりの千姫を見舞いに、小野阿通《おののおつう》が二条城へやって来たのは五月二十一日のことであった。  小野阿通は、織田信長《おだのぶなが》の家臣、小野|正秀《まさひで》の娘で、母は勧修寺大納言晴右《かじゆうじだいなごんはるあきら》に仕えていた女房であった。  その縁で若い頃から宮中に出入りをし、その豊かな才能をもてはやされた。  なにしろ、琴や三味線、舞の上手《じようず》に加えて文学をよくし、書や画にも才能があり、礼儀作法、茶の湯、香道、碁、生花にも通じていたので、徳川家康が江戸城に幕府を開くに当っては乞《こ》われて東《あずま》下りをし、江戸城内の女中達の教育にたずさわったりした。  千姫が豊臣家へ輿入《こしい》れする時には、その付き人として大坂城に行き、その大坂城では北政所《きたのまんどころ》にも淀の御方にも気に入られて、特に淀の御方の勧めで「浄瑠璃《じようるり》十二段草子」を改作し、沢住検校《さわずみけんぎよう》が三味線で節《ふし》づけをしたものが大層な評判になるといった才女ぶりを示した。  二、三年前からは大坂城を出て、勧修寺家へ奉公していたが、相変らず華やかな存在であり、話題の主でもあった。  阿通は千姫の気晴しにとさまざまな絵巻物を持参したが、二条城へ来た目的は別のことであった。  千姫の周囲に人のいない折をみはからって、彼女が告げたのは、秀頼の遺子である若君国松丸と妹の香姫《こうひめ》が捕えられ、板倉勝重《いたくらかつしげ》の屋敷へあずけられているという噂《うわさ》であった。 「勝敗はいくさの常と申しながら、あまりにいたいけなお方の御不幸に胸の潰《つぶ》れる思いでございます。せめてお命を助けられ、仏門に帰依《きえ》なさるよう、姫君よりおとりなし頂けますまいかと、お願いに上りました」  阿通にいわれるまでもなく、千姫にとって二人の幼子は、亡き夫の忘れ形見であった。  産んだのは夫の側室には違いないが、その母親が病死してからは、千姫が母親代りをつとめてきたつもりでもある。 「よう知らせてたもった。大御所に申し上げ、お二人の助命をお願い申します」  その場で千姫は床あげをした。  食が細く、やつれ切った体に新しい小袖《こそで》を着、三帆と阿通に支えられるようにして、まず阿茶局に対面し、尽力を頼んだ。  阿茶局の前で、千姫は二通の文を書いた。一通は祖父、家康へ、もう一通は父、秀忠へ宛《あ》てたもので、自分の命に代えても、国松丸、香姫の命を助けてくれるように、万一、聞き届けてもらえない場合は二条城を出て、尼になり、諸国をさすらって生涯を終える決心であると、思い切った内容であった。  流石《さすが》に、阿茶局は驚いた。  それでなくとも、大坂落城以来の千姫の様子には生きることを無視したような怖《おそろ》しさがあって、このままではいつ、なにを仕出かすかと不安な気持でいた阿茶局である。 「何卒《なにとぞ》、姫君のお頼みを、こたびばかりはお聞き届けなされて下さいませ。さもないと、姫君は自らお命を縮めかねませぬ」  阿茶局の言葉と、思いつめた千姫の文をみて、家康は決断した。 「香姫は女のこと故、千姫にあずけてやろう。しかし、国松丸はいかぬ。お姫に申してくれ。これ以上、爺《じい》を困らすな。爺の心はただ徳川のゆくすえを思うばかりじゃと……」  香姫の身柄は即日、二条城の千姫の許《もと》へ届けられた。  幼い姫を抱きしめて千姫が嬉《うれ》し泣きをした翌日、国松丸は六条河原へひき出された。  八歳の豊臣家最後の若君は悪びれた様子がなかった。  六条河原にはおびただしい数の人々が、国松丸の最期を見物に集まっていた、その人々が仰天したのは、河原にひき出された国松丸に役人が、この世の名残りに、なにかいいおくことはないかと訊《き》いた時である。  少年は胸を張り、高らかにいった。 「いうべきことは只《ただ》一つ。長年、我が祖父、太閤《たいこう》殿下の恩を受け、その死に及んでは深い信頼を受けたにもかかわらず、その恩にそむき、豊臣家を滅せし徳川家康、犬畜生にも劣る奴《やつ》よ」  役人は狼狽《ろうばい》して少年の首を斬《き》り落し、群衆はしばし声もなかったが、やがて、そこここで激しく泣く人々の姿が、役人が追っても追っても、六条河原から去らなかった。  国松丸の遺体は穴の中に捨てられ、首はさらしものにされた。  その噂《うわさ》はすぐに二条城へ届いた。 「姫君に申し上げてはならぬ」  蒼白《そうはく》になった松坂局が三帆に注意したが、その時、三帆は他のことを考えていた。  夜になって、三帆は奥御殿を抜け出した。 「千姫様御文を小野阿通どのに届けに参ります」  という三帆を、門番はうっかり通した。  途中、何度も人に道を訊《たず》ね、三帆がたどりついたのは六条河原であった。  月はもう細くなっていた。  それでなくとも寂しい場所である。加えて、残党狩りで捕えられた人々の処刑が続く六条河原は、まるで地獄を思わせる風が吹いていた。  ちらちらと灯が見えるのは、見張番の小屋で、酒でも飲んでいるのか、荒々しい男の声が聞えて来る。  地に低く這《は》いつくばるようにして、三帆は板に打ちつけられている生首の中から、国松丸の首を探した。  怖《おそろ》しいとも、気持が悪いとも思わなかった。  豊臣家に仕えた身として、どうしても若君の首を盗み出し、然るべき所へ持って行って供養をしなければならないと三帆は思いつめていた。  あの愛らしかった若君の首を野ざらしにするのは耐えられなかった。  がちがちと、三帆の歯が音を立てた。  若君の首がみつからない。  思い切って、持参した蝋燭《ろうそく》に火をつけようかと思う。  が、危険であった。  火がみえれば、役人に気づかれる怖れがある。  おそるおそる歩いていた足が、いきなり宙に浮いた。  死体を投げ込む穴に落ちそうになって、三帆は夢中で手に触れた棒杭《ぼうくい》のようなものを掴《つか》んだ。  その棒杭は鳴子《なるこ》を渡したものであった。  豊臣の残党が、首を盗みに来ると承知して仕掛けておいたものである。  鳴子が音を立て、見張番小屋から数人の男がとび出して来た。  抜刀し、或る者は槍《やり》を掴《つか》んでいる。  逃げる暇がなかった。  三帆は帯に挿して来た短刀を抜いた。  敵を斬《き》るよりも、いざという場合、身を守って自害するためである。 「女らしいぞ」  一人が叫び、三帆を取り囲んだ男達の間に残忍な笑いが起った。  三帆は短刀を胸に当てた。  こんなけだものに凌辱《りようじよく》される前に、命を絶たねばならない。 「父上」  思わず声が出た。  呼んだとて答えてくれるあてのない、娘の悲しい絶叫であった。  が、その声が消えない内に、三帆を取り囲んでいた男の一人が異様な悲鳴を上げて倒れた。  濡《ぬ》れた布を叩《たた》きつけたような音が続いて、三帆は無意識に逃げた。それを追おうとした男は二歩も行かない内に、肩先から斬り下げられて倒れた。 「逃げろ」  誰の声か、三帆の背へ叫んだ。 「早う行け、若君の御首は、もうここにはない」  なにを考える余裕もなく、三帆は走った。  石につまずき、ころびかけて、又、走る。  気がついた時は、町の辻《つじ》に立っていた。  先刻のは、いったい、なんだったのかと思う。  自分が助けられたのだと、漸《ようや》く気がついた。  見張番小屋のけだもののような男達から、誰かが自分を救ってくれた。  淡い月明の中で、その人は背が高く、がっしりした体つきであった。 「逃げろ」  と叫んだ声を思い出した。  しゃがれて、野太い声には聞きおぼえがなかった。  聞きおぼえはないが、どこかなつかしい感じであった。  若君の御首はここにはない、といったのが思い出された。  とすると、やはり豊臣家の残党であろうか。 「お女中……」  どこからか呼ばれた。  顔をそっちへむけると馬が止っていた。  馬上に侍の姿がある。  身分のある人らしく、何人もの武者が従っていた。手に手に、松明《たいまつ》を持っている。  火の粉が、風にあおられて散っていた。 「どうなされた」  灯をむけられて、三帆は咄嗟《とつさ》に答えた。 「私は二条城にお出でなさる千姫様の侍女でございます。姫君のお使の帰り道に賊に追われ、漸く、ここまで逃げて参りました」  馬上の侍が、三帆を凝視した。 「千姫付きのお女中とな」 「はい」 「ならば、お送り申そう」  従っていた者の中から、屈強の侍を二人呼んだ。 「丁重にお送り申せ」  三帆に軽く会釈をして、馬を進める。  白地に金で立葵《たちあおい》の紋を縫い出した陣羽織が、松明の灯の中に浮んだ。  それが、三帆がはじめてみた本多|平八郎忠刻《へいはちろうただとき》の後姿であった。  桑名にて     一  豊臣秀吉《とよとみひでよし》の最後の遺産といわれた大坂城が炎の中に消えてから二か月ばかりして、奇怪な噂《うわさ》が京大坂の町々に広がりはじめた。  豊臣|秀頼《ひでより》が生きているというのである。 「大坂落城のみぎり、山里《やまざと》の曲輪《くるわ》でお果てなされたというのは敵をあざむくための偽りで、まことは寸前に天満《てんま》川より舟にて逃れ、薩摩《さつま》様の手引きにて、然《しか》るべき方へ立ちのかれたと申すことでございます」  とか、或《ある》いは、 「御母公、淀《よど》のお方は、山里の曲輪にて流れ弾《だま》に当ってお果てなされたが、秀頼公はごく少数の近習《きんじゆ》と共に、かねて七組頭衆の一人であった速水甲斐守《はやみかいのかみ》がよしみを通じていた瀬戸内《せとうち》水軍の手の者に助けられ、無事に大坂城を脱出なされたそうな」  などというもので、二条《にじよう》城の奥にいる千姫《せんひめ》に仕えている三帆《みほ》は、その噂を耳にした時、とりわけ胸を轟《とどろ》かせた。  落城寸前まで千姫と共に城内本丸にいた三帆にとって、その噂はまるっきりの出まかせとは思えなかった。  確かに山里の曲輪の奥には水濠《みずぼり》に渡された極楽《ごくらく》橋があって、それは非常の場合の脱出路だと聞いていた。  その水路をたどって行けば天満川から淀《よど》川へ抜け、海へ出ることも可能に違いない。 「薩摩様が手引きをなさったというのは、どうでございましょうか」  三帆と共に、その話を聞いた松坂局《まつざかのつぼね》がいった。 「たしかに、島津《しまづ》様は|関ヶ原《せきがはら》のいくさの折に西軍にお味方をなさいました」  島津家の当主、龍伯義久《りゆうはくよしひさ》の弟、惟新義弘《いしんよしひろ》は千五百の兵を率いて西軍に参戦し、敗軍に際しては、悠々と敵中を突破して薩摩へ帰っている。 「なれども、この度の合戦では、徳川様のお味方につかれました」  大坂からは秀頼自ら書状をしたため、正宗《まさむね》の短刀を添えて助力を求めたのに対し、島津家当代の家久《いえひさ》は返書と共に銘刀を返して来た。  つまり、関ヶ原の敗軍のあと、徳川家康《とくがわいえやす》が島津義弘を赦免し、薩摩、大隅《おおすみ》、日向《ひゆうが》の本領を安堵《あんど》してくれた恩に対しても、今更、徳川家に刃《やいば》をむけることは出来ないし、太閤《たいこう》殿下への義理は、関ヶ原の折で、お返ししていると思うといった拒絶状である。  そして、実際、島津家久は、徳川家康の要請によって出陣し、東軍に参加している。  その島津家が、落城に際して豊臣秀頼を助け出し、ひそかに薩摩にかくまったとは、到底、信じられないと松坂局はいうのだが、その噂《うわさ》を疑わない者も少くはなかった。  島津家が東軍に味方したのは表むきのことで、内実は、八十歳になっている惟新義弘は相変らず豊臣家に心を寄せていて、その証拠には、徳川から出兵をうながされたにもかかわらず、天候が悪くて船出が出来なかったという理由で、かなり遅れて大坂へ到着していること、又、大坂落城の際には早々に兵をまとめ、沖に停泊していた軍船が逃げるように帰国したことなどを挙げ、 「まず、秀頼様、薩摩御下向は間違いない」  とうなずき合っている。  三帆は、それよりも、もう一つの水軍による脱出のほうに心を動かされていた。  父の速水甲斐守の名前が出ているせいでもある。  たしかに、父にはそれが出来なくはないと思う。三帆が知る限りでも、速水甲斐守は堺《さかい》の商人達と昵懇《じつこん》であった。  もともと堺の町は商業都市として発展し、豊臣家とも縁が深かった。  堺の商人達が船を建造し、東南アジアへ商売に出かけるのに保護を与え、便宜をはかってやったのは秀吉であった。  が、関ヶ原の合戦以後は家康がそれに代っていた。それでも、堺の豪商の中には豊臣家とのかかわり合いを保ち続けた者が多く、そうした人々と速水甲斐守は相変らず水魚のまじわりを続けていたといってよい。  それ故、いよいよ、徳川との戦が迫って来ると、堺は大坂方の求めに応じて武器弾薬を調達し、献上している。  ただ、その一方では徳川家に心を寄せる今井宗薫《いまいそうくん》などの堺衆は同じく鉄砲や弾薬を東軍へ送り、又、堺の鉄砲|鍛冶《かじ》の芝辻《しばつじ》家では家康の注文によって大砲の製造に従事していた。  それが、豊臣側の知るところとなって、冬の陣の折、大坂方は二万余の兵をくり出して岸和田《きしわだ》城を攻めるついでに堺へ入って市街を焼き払っている。  二条城へ来てから三帆が聞いたところによると、堺は焦土と化し、行きどころのなくなった人々の中には、自分の持ち船を棲家《すみか》として、瀬戸内を往来し、巧みに商売を続けている者もあるという。 「秀頼様が生きていらっしゃるかも知れぬなどというあてもない噂《うわさ》を、姫君のお耳に入れてはなりません。それでなくとも、物思いにふけってお出《い》でのことが多いのですから……」  松坂局は、三帆にも釘《くぎ》をさした。  その千姫は相変らず、居室に籠《こも》り切りで、家康の指図で、千姫の身辺に絶えず細やかな心くばりをしている阿茶局《あちやのつぼね》が、特に許しを得て、次の間を仏間に改装し、仏壇を設けたのだが、千姫はその仏壇に、秀頼の直筆の「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と名号《みようごう》を書いた紙片を供えて、朝夕に香を上げている。  その紙片をみた時、三帆は心を打たれた。  たしか、三帆が千姫付きの侍女として大坂城に起居するようになって間もなくの頃《ころ》であった。  あれは、明るい陽《ひ》ざしが廻廊《かいろう》にさし込んでいる午後のこと、千姫が机にむかって習字をしているのを、淀のお方が傍から優しく、ここはこう、あそこは文字に力がないと補筆をされていた。  そこへ表から戻ってきた秀頼が入って来て、新しい半紙の上に、千姫の筆を取って、さらさらと「南無阿弥陀仏」の六文字をしたためて、 「弥陀の名号を身につけていると、災難に遭わぬというぞ」  と笑いながら、千姫に渡したものである。  その場で、千姫は嬉《うれ》しそうにそれを折りたたんで、自分の守袋にしまったのを、三帆は意味もなく、羨《うらやま》しいような気持で眺めていたのだが、大坂落城の折も、千姫はその守袋を身につけたまま、淀のお方と秀頼の助命|歎願《たんがん》の大任を背負って東軍の本陣へ出かけて行ったのかと思うと、仏壇の中の名号を涙なしには拝めない気持になった。  それだけに、千姫がその名号をじっとみつめている姿をみるにつけ、その心中は如何《いか》ばかりかと思う。  そんな千姫の表情が僅《わず》かに柔らかくなったのは、秀頼の忘れ形見の香姫《こうひめ》を手許《てもと》にひき取ってからであった。  兄の国松丸は千姫の願いも空《むな》しく処刑されたが、香姫だけは命が助けられ、二条城の千姫の許にひきとられている。  七歳の幼女には、豊臣家の滅亡も、祖母や父の死も、ただ悲しい、怖《おそろ》しいとしか実感にならないようだが、一緒に京の公卿《くげ》の屋敷にかくまわれていた国松丸が召捕られた時の恐怖はよくよくのものだったとみえて、二条城へ来た時は失語症になっていた。  なにをいっても、ただ涙を流すだけだった香姫が漸《ようや》く、この頃、ぎこちなく千姫にだけは返事が出来るようになっている。  七月になって、千姫を見舞に常高院《じようこういん》がやって来た。  京極高次《きようごくたかつぐ》に嫁いだ浅野《あさの》家の姫で、姉は淀のお方、妹は徳川|秀忠《ひでただ》の北の方、お江与《えよ》の方であるから千姫には血を分けた伯母《おば》に当る。  夫の高次は関ヶ原の戦の時、西国の大名の中《うち》、唯《ただ》一人、徳川方に味方したことで、家康から高く評価されたが、その九年後に四十七歳で病死していた。  で、北の方のお初《はつ》は髪を下して常高院と称していたが、我が子、京極|忠高《ただたか》には徳川秀忠の四女に当る初姫《はつひめ》を嫁に迎え、いよいよ、徳川家との結びつきを深くしていた。  大坂冬の陣の折も、和睦《わぼく》の使者としての労をとっている。  もともと、千姫はこの伯母と親しかった。 慶長《けいちよう》八年、七歳で千姫が伏見《ふしみ》城から大坂城へ嫁入りした時、母のお江与の方は千姫の妹の初姫を産んだばかりで、婚礼の支度やら千姫の世話は一切、若狭《わかさ》から出て来たお初伯母が面倒をみてくれた。  以来、なにかにつけて大坂城へ訪ねて来て、淀のお方の話し相手になったり、千姫の成人ぶりに目を細めたりしていた。  そういう意味では、七歳で別れたきりの実母のお江与の方よりも遥《はる》かに気心の知れた肉親といえる。 「もっと早くに、お見舞に上りたいと思っていましたが、歿《なくな》られた姉君や秀頼様のことを思うと、あなたにお目にかかるのもつらい気がして……」  千姫が助命歎願のために城を出た頃、常高院も、なんとか淀のお方、秀頼の命乞《いのちご》いをと、大御所家康にすがり続けていたと、これは、あとから阿茶局が千姫達に打ちあけてくれていた。  それだけに、千姫には常高院が一層、身近な人に思える。 「なんのために大坂の城を出ましたのか。あのようなことになるとわかっていたら、御母公様のお傍《そば》を離れることは致しませんでしたのに、それが口惜《くや》しゅうございます」  泣きすがる千姫を、常高院は母親のように抱きしめた。 「私とて、姉の命、甥《おい》の命を助けることが出来なかった情なさに、何日、泣き暮したか知れません。けれども、今、こうして、あなたにお目にかかれて、せめて、あなただけでも御無事であったことを神仏の御慈悲とありがたく思わずにはいられません」  生きながらえたことを、後悔してたもるな、と常高院は訴えた。 「あなたが生きながらえたればこそ、香姫の命乞《いのちご》いも出来たのです。こうして、亡き人の御供養が出来るのも命あればこそ、いうてみれば、御仏《みほとけ》の思《おぼ》し召しでございますよ」 「伯母《おば》君に、そうおっしゃって頂けますと、いくらか心の重荷が軽くなりますような……」  泣き微笑《わらい》で千姫がいい、ひかえていた松坂局がほっとしたように口をはさんだ。 「あまりにも姫君のお歎《なげ》きが深いので、私共も途方に暮れて居りました。やはり、常高院様のお見舞がなによりでございました」  これからは、しばしばお訪ね下さいますようにと揃《そろ》って頭を下げた。 「暫《しばら》くは、悲しいことはみな忘れて、楽しかった思い出話を致しましょう。それが、お歿《なくな》りになった方々への、御供養になりましょうから……」  常高院がいい出して、千姫も昔を思う表情になった。 「世の中のお人は、関東と大坂とが敵味方になり、私が淀のお方から嫁いびりをされたのではないかと噂《うわさ》をしているそうでございますが、それは本当でございましょうか」  千姫の心がかりは、そうしたことで、淀のお方に悪い風聞が立っているのではないかという点で、 「伯母君も御承知のように、私は七つの時から大坂城で育ちました。淀のお方は秀頼様の御母公と申すより、私には優しい伯母君で、どれほど多くのことを教えて頂きましたことか」  古今集、伊勢《いせ》集などの古い写本を与えられて、和歌や連歌の手ほどきをしてもらったことを千姫はなつかしげに話し出した。 「それで、私も思い出しました。あれは、あなたが九つにおなりになった年の秋でした。姉君が京の豊国《とよくに》神社に七日間の祈願をこめられて、その御夢想の連歌の催しがございましたね」  淀のお方が夢の中でみた歌の句を神前に奉納するもので、 「あの折、姉君が、春駒《はるごま》や若草山《わかくさやま》に立ち出でて、おもう事なきことぞ嬉《うれ》しき、と発句と脇《わき》を続けられて、そのあとにあなたがおつけになりました」  千姫の頬《ほお》にかすかな赤味がさした。 「のどかにも、なるや心のさそうらむ」 「そうでした。九つのあなたが立派にあとをおつけなさったと、姉君はそれはそれは御自慢でございました。私も何度、そのお話を聞かせられたことか……」  大坂城の淀のお方の居室には、その折の短冊が千姫のと揃《そろ》えて、大事そうに手箱におさめてあり、なにかというと淀のお方が嬉しそうにそれを取り出してみせたものだと常高院は涙を浮べた。 「また、あなたの短冊の文字が、姉君の文字と筆づかいがよく似てお出ででした」  当然であった。千姫にとって習字も茶の湯も、すべて師は淀のお方であった。 「茶のお道具をえらんで下さいましたのも、着るものから、髪の飾りまで、お千はなにもかも御母公様におまかせして、安心して生きて参りました。それなのに、下賤《げせん》の者どもが嫁《よめ》 姑《しゆうとめ》 の仲たがいのように申しますこと、許し難う存じます」  目を怒らせていう千姫を常高院がなだめた。 「それこそ、下衆《げす》の勘ぐりと申すもの。真実は必ず残りましょう、御案じなさいませんように……」  そのくつろいだ席に、阿茶局が来た。 「常高院様がおみえとうかがいましたので……」  白玉に小豆《あずき》をまぶして冷やしたのを、 「おしのぎに如何《いかが》でございましょう」  自ら持って来て勧める。  常高院と阿茶局は共に冬の陣の時、和睦の使者に立った間柄で、心の許せる交りを続けている。 「実は、まだ御傷心の癒《い》えぬ姫君に、かようなことをお耳に入れるのは如何かと、思案に暮れて居りましたが、徒《いたず》らに時を過すと、かえって姫君をのっぴきならぬお立場に追い込みはせぬかと、それが気がかりで、常高院様も御同席の今日、思い切って申し上げようかと存じてまかり出ました」  阿茶局の言葉に、常高院が眉《まゆ》をひそめた。 「姫君に、のっぴきならぬこととは、いったい何事でございます」  阿茶局は本来、家康の愛妾《あいしよう》の一人であった。  もともとは、甲州《こうしゆう》の侍、飯田久衛門直政《いいだひさえもんなおまさ》の娘で、石和《いさわ》の神尾孫兵衛《かみおまごべえ》に嫁いだが、夫の死後、家康の目にとまって、その側室となった。  生来、聡明《そうめい》で男も及ばぬほどの胆力と、女らしい細やかな配慮を合せ持つ人柄を家康に愛されて、秀忠、忠吉《ただよし》の生母であった西郷局《さいごうのつぼね》が病死したあと、家康は二人の子の義母の役を阿茶局に命じたほどである。  従って、大御所家康の信頼と同時に、秀忠が十歳の時から義母として養育に当った立場上、二代将軍にも格別の知遇を得ているだけに、そのどちらの胸の内も承知している、徳川家の中で微妙な地位に居た。  その彼女が、千姫に関して重大な情報があるといい出したものである。 「どのように申し上げたなら、千姫様のお心が少しでも傷つかぬかと、言葉に迷いますなれど……上様には千姫様の将来《さきゆき》を御心配遊ばす余りに、はや、次の聟君《むこぎみ》に関してのお心づもりをなされてでございます」  千姫の顔色が変った。 「なんとおっしゃいます。将軍家には、このお千から御母公様、秀頼様を奪ったばかりか、次の男へ輿入《こしい》れをせよと仰せなさるのでございますか」  手をさしのべて千姫を制しながら、阿茶局が続けた。 「何事も親心とおぼし召せ。上様には武家への縁組はならぬ、二度と千姫様にこの度のような歎きをみせないためにも、次の夫は公卿《くげ》の然るべき者がよかろうと仰せになり、坂崎出羽守《さかざきでわのかみ》どのに、良いお相手があらばと御相談なされた由にございます」  坂崎出羽守といえば、大坂落城の折、脱出して来た千姫一行を茶臼《ちやうす》山本陣へ案内した武将である。 「その縁もあり、又、坂崎出羽守どのは公卿衆と昵懇《じつこん》であるとのことから、格別に、そのようなお話があったものと存じます」  無論、坂崎出羽守は将軍家直々の依頼に恐懼《きようく》も感激もして、早速、親しくしている公卿達を集めて、千姫の輿入れ先を物色しているという。 「参りませぬ。たとえ、将軍家がどのようにお決めなさろうとも、お千は誰《だれ》にも嫁ぎませぬ。強いてとおっしゃるなら、尼になるか、自害を致します」  唇をふるわせた千姫を、常高院がかばった。 「お待ち遊ばせ。そのようにお心を昂《たか》ぶらせてはお体に障ります」  たしかに、と阿茶局へ向っていった。  今の世では、千姫のような立場の女が寡婦《かふ》となれば、すぐにも嫁に欲しい、聟《むこ》になりたいという者があるし、将軍家にしても政治的な配慮を抜きにしたところで、二十歳《はたち》にもならない娘に一生、後家を通させることはむしろ不愍《ふびん》と考えるのが親心に違いない。 「将軍家|御台所《みだいどころ》、千姫様には母君の、お江与どのにしたところで、何度となく離別を繰り返し、あのような御不幸な方はあるまいと存じたこともありましたのに、めでたく大御所様御跡継ぎの秀忠様にお輿入《こしい》れ遊ばし、多くのお子にも恵まれて、この上もなくお幸せな日々を過されていらっしゃいます。伯母として、千姫様にも母君のようなお幸せをと願わぬではありませんが、それは今少し先のこと、いくらなんでも、早々に聟君を探すというのは、姫君がおかわいそうでございます」  阿茶局もうなずいた。 「それは、大御所様にも御心配遊ばしてでございます。一刻も早く、千姫様にお幸せの日をとお考えになる将軍家のお気持もわからぬではないが、やはり、早すぎるのではないかとお案じなされて、私に姫君の御内意を承って参るようにと……」 「大御所様に申し上げて下さいませ、お千はどこへも参りとうございません。一生、大御所様のお傍《そば》において下さいますように……」 「そのお気持を、大御所様にも、上様にも姫君よりお話しなさるがよろしかろうかと存じます」  家康は駿府《すんぷ》に帰っていた。  秀忠は江戸《えど》に戻っている。 「母君、御台所様にも姫君の御無事なお姿をみたいと仰せになっていらっしゃいます」  千姫が蒼白《そうはく》な顔を上げた。 「参ります。江戸へ参って、将軍家に申し上げとうございます」  どちらかといえば、千姫の気持には父、秀忠を怨《うら》むものが強かった。  茶臼山の本陣へかけつけた時、祖父、家康は、お千の頼みなら、なんなりと聞き届けてやりたい、とやさしかった。  ただ、自分は隠居の立場であるから、将軍家の許しを求めねばならない。将軍家が良いといったら、淀のお方と秀頼の助命は出来ると、秀忠の陣へ使者を立ててくれた。  そのあと、自分は不覚にも気を失ってしまって、意識を取り戻した時は、すでに大坂城は炎の中であった。  ずっとあとになって、耳に入ったのは、千姫の助命の願いを聞いた時、秀忠が、 「愚かなことを申す。城を出るほどの覚悟があれば、何故《なぜ》、秀頼|母子《おやこ》と共に死ななかったのか」  と使に立った本多正純《ほんだまさずみ》を叱《しか》りつけたというものであった。  利発なようでも、十九歳の世間知らずな千姫に、祖父の心の裏はみえなかった。  優しいのは祖父、非情なのは父と思い込んでしまったのは無理ではない。  実際、家康はこの孫娘には殊の外、心を配っていた。  駿府へひき上げる時も、病床にあった千姫のために、気に入りの阿茶局を残して行って居り、何度となく見舞の手紙や届け物をよこしていた。  その手紙も短いが愛情あふれる文面であった。 「江戸へ参る途中、駿府のお城へ参れば、大御所様にもお目にかかれます故……」  いくらか甘えるようにつけ加えた千姫に阿茶局は力強くいった。 「では、そう遊ばしませ。万事は私が大御所様にうかがって、出立の手筈《てはず》をととのえましょう程に、姫君には道中に耐えられるようお体に御留意なさいますように……」  傍から常高院もいった。 「その江戸への道中には、私もお許しを頂いて千姫様に同行致しとうございます。せめて、お力になればと存じます」  その日をきっかけに、千姫は自分をはげますように日常を変えた。  今まで、ろくに口にしなかった食事も、つとめて摂《と》るようになったし、医師のいいつけも守った。  すっかり弱っている足を馴《な》らすために、庭を歩き、体力をつけようとした。  松坂局は三帆や他の侍女と共に、いつ出立してもいいように、荷物をまとめたり、旅の支度にとりかかっていたが、或《あ》る日、表座敷から、その旅について、少々の注意があるので、侍女一名を伴って参るようにと使が来た。  で、松坂局と三帆が奥御殿から表座敷へ行ってみると、京都所司代|板倉勝重《いたくらかつしげ》が待っていた。 「まず、申し上げるが、千姫様、江戸御下向はこの七月三十日と決り申した」  道中には阿茶局、常高院をはじめ、千姫付きの侍女達の他《ほか》に警固の侍が多数つき従うことになっているが、 「それについて、姫君には御内密に、其方《そのほう》ら女中共が心得おいてもらいたいことがある」  千姫が江戸へ出立する理由は三つあると、板倉勝重はいった。 「最初の一つは、姫君も御承知の通り、先程、阿茶局様よりお話し申し上げた儀にござる」  将軍家が進めようとしている千姫の縁組を中止させるためである。 「次には、千姫様をなるべく大坂より遠去《とおざ》けること、京は大坂に近く、とかく、豊臣家の人々の噂《うわさ》などが聞え、姫君のお心をわずらわすばかりにて、一日も早く姫君の御傷心を癒《いや》すためにも、大坂より遠去かるのが一番と、これは上様、大御所様、同意見におわしました」  更に第三の理由は、 「これは巷《ちまた》の風聞と聞き捨てにしてよいことかも知れぬが、豊臣家残党共が、折あらば、千姫様を奪い返し、せめて怨《うら》みを晴らしたいと企《たくら》み居る由、密偵どもより知らせが入って居る。よもやとは思うが、大御所様には姫君を京において万一のことがあってはならぬと、至急、江戸へお移しあるよう、御指図がござった」  江戸下向に大勢の侍がつき従うのは、そのための要心であるが、千姫にはその理由を告げるわけには行かない。 「その点、お女中方にはよくよくお心得あって、姫君へのおとりなしをお願い申す」  奥御殿へ帰りながら、松坂局も三帆も茫然《ぼうぜん》としていた。  巷の風聞として聞き捨てにしてよい、といいながら、京都所司代の密偵が報告して来ているというのは、豊臣の残党に千姫奪回の企てがあると確認したようなものである。 「もしや……」  たまりかねて、三帆はいった。 「姫君を奪い取る企みがあると申すことは、ひょっとして……右大臣様が御生存という噂とかかわりがあるのではございますまいか」  右大臣様とは、秀頼のことであった。 「私も、先程、板倉様のお話をうかがいながら、そなたと同じことを考えました。なれど……まさか……」  あの折、大坂城を囲む東軍の軍勢は文字通り十重二十重であった。  噂では極楽橋を渡って水路を天満《てんま》川へといっているようだが、その天満川の岸にも、淀川口にも、東軍の備えがあった筈《はず》である。  網の目のような東軍の包囲をくぐって、秀頼が脱出できたとは到底、思えない。 「ともかくも、私共のつとめは、いざという時、命にかえても姫君をお守り申すこと、三帆どのも左様《さよう》、お覚悟なさいませ」  松坂局にいわれて、三帆は神妙に頭を下げたが、心の中は波立っていた。  もし、千姫を奪回に来る豊臣家の残党の中に、父の速水甲斐守がいたとしたら、自分はどうしたらよいのか。  だが、三帆は首をふって自分の思いつきを否定した。  秀頼が大坂城を脱出することが不可能だったように、父も亦《また》、あの落城の中で命を長らえたとは思えない。  千姫の待つ奥御殿にたどりついた時、三帆はいつもの寂しい表情に戻っていた。     二  元和《げんな》元年七月三十日、千姫とその一行は二条城を出て江戸へ向った。  千姫付きの侍女の他に、付添う常高院や阿茶局の女中達が大勢、供をしていて、行列はきらびやかな上にも華やかであった。  が、道中の宰領をする者の胸の中は、女の数を多くすることで、警固の侍を目立たなくするのがねらいであり、えらばれて行列に従う武士達はいずれも、腕におぼえのある者であった。  それにしても、女の道中はゆったりしたもので、乗り物の千姫、常高院、阿茶局は別にして、あとの女達はすべて徒歩である。それこそ、牛の歩みのような、のろのろした行列に、侍達は内心、冷汗をかいていた。  いつ、豊臣の残党が襲って来るかわからない不安な旅であった。  神経の休まる暇がない。  それでも琶琶《びわ》湖までは、まだよかった。  琵琶湖東岸の草津《くさつ》から山路《やまみち》に入る。  鈴鹿峠《すずかとうげ》越えであった。  行列の進み具合は一層、遅くなる。  女達の中には、すでに足を痛めている者が少くなかった。  千姫一行の警固隊の責任者は板倉勝重の手の者で、加茂甚左衛門宗利《かもじんざえもんむねとし》という侍だったが、彼は山路に入ると千姫、常高院、阿茶局を中心にしてその前後左右を女達で取り囲むようにし、更にその周囲を侍達で垣を作るといった隊列をととのえ、前方と後方には必ず数名の見張りをおいて要心深く進んで行った。  上山で一泊して、夜明けに早立ちした。  鈴鹿の関を越える。  朝の中は何事もなかった。  午《ひる》近くなって空模様があやしくなった。  女の多い一行にとって雨は難儀なことになると思い、加茂甚左衛門はひたすら行列を急がせた。  が、雨は沛然《はいぜん》と襲って来た。  鬱蒼《うつそう》たる杉木立のかげで、行列は止《や》むなく一刻ばかり雨宿りをした。  そのために、一日の行程が大幅に遅れた。  山路で日が暮れるのを、加茂甚左衛門は怖《おそ》れた。一応、松明《たいまつ》の用意はして来たものの、万一、世上の噂《うわさ》のように、豊臣方の残党が千姫を奪いに来るとしたら、この鈴鹿越えが絶好の機会であった。  鈴鹿を抜けて桑名《くわな》へたどりつけば、桑名十万石を領するのは、徳川四天王の一人、本多|忠勝《ただかつ》の長男、忠政《ただまさ》であった。  桑名から海上を宮《みや》へ渡ると、そこから東はいわば徳川家の本拠地で、東海道沿いは徳川の宿将によって固められているといってよい。  到底、豊臣方の残党が手を出せる場所ではなかった。  危いのは、鈴鹿越えと、これは京を出る時から加茂甚左衛門の胸中にあったことでもある。 「お急ぎなされ」  女中達を侍がはげました。 「山路にて日が暮れては剣呑《けんのん》である。苦しかろうが今一息じゃ。各々、助け合って道をお急ぎ下さい」  比較的、足の確かな者が足弱をひきずるようにして、息を切らしながら山の中の街道を行くと反対側のほうから、こけつまろびつといった恰好《かつこう》で逃げてくる旅人に行き合った。 「其方共は何者だ。如何《いかが》致したのか」  行列の先頭にいた侍が誰何《すいか》すると、三人連れの男は、いずれも伊勢の木綿問屋の手代《てだい》で商売の荷を背負って草津へ行く途中だといい、十数町ほど先のほうで、もの凄《すご》い斬《き》り合いに出遭ったと青ざめて訴えた。 「人数は双方で、三、四十人でもございましたろうか。それはもう、すさまじい戦いで、その中の背の高い、大層、御立派なお方が、巻き込まれぬよう早く行けとおっしゃって下さいまして……」  部下の報告を聞いて、加茂甚左衛門は途方に暮れた。  侍同士の斬り合いで、しかも数がかなり多い。いったい、なにが起っているのか、とりあえず物見の者を先へやろうとしているところへ、鮮やかな馬蹄《ばてい》の音が近づいて来た。 「すわ、曲者《くせもの》」  と加茂甚左衛門達が身がまえるところに、馬からとび下りて来たのは、如何にも身分ありげな初老の侍であった。 「手前は本多家中の神尾|政之助《まさのすけ》と申す者、若殿、本多|平八郎《へいはちろう》様お使として、まかり越しました」  丁重な挨拶《あいさつ》であった。 「若殿には、本日、千姫様御行列、鈴鹿を越えて桑名へ入られると聞き、途中まで自らお出迎えになって居りまする」  十町ばかり先に家臣一同と共にひかえているといった。 「尚《なお》、若殿の仰せには、姫君御一行の通られる道筋にて、先程、山賊共を退治したばかりでござれば、血なまぐさきものの片付けが間に合いませず、何卒《なにとぞ》、姫君方には乗り物の戸をお開けなさらぬよう、又、お女中衆にも道の傍などごらんにならぬよう、くれぐれもお願い申し上げるとのことにございます」  落ついて話している神尾政之助の着衣に、明らかな返り血の痕《あと》があるのを、加茂甚左衛門は認めた。 「すると、只今《ただいま》、旅の者が申した、激しい斬《き》り合いとは……」  神尾政之助がひかえめに微笑した。 「本多家若殿自ら、姫君御一行の行手をはばむ山賊共を退治なされたのでござる」  御案内を、と神尾政之助が先導に立ち、千姫の行列は動き出した。  十町ばかり行くと、そこは片側が切り立った崖《がけ》で、道は急に狭くなる。  その手前のところに十人ばかりの侍が行列を出迎えている。 「若殿にございます」  神尾政之助が、加茂甚左衛門にささやくのが、千姫の輿《こし》の脇《わき》についていた三帆の耳に届いた。  その人は夕陽《ゆうひ》を背にして地に膝《ひざ》を突いていた。  千姫と常高院、阿茶局の三つの乗り物に対して、軽く会釈をして、涼やかな声でいった。 「本多忠政が嫡子、平八郎|忠刻《ただとき》、お出迎えに参上|仕《つかまつ》りました。ここは山路、まして日も暮れかけて居ります。御無礼ながら、城内御到着の後、改めて御挨拶《ごあいさつ》仕ります故、まずは、そのまま、お通り下さいますように……」  白い小袖《こそで》に、浅黄色の袖無羽織《そでなしばおり》がさわやかであった。  今しがた、ここで激しい血闘が行われたとは夢にも思えないような、もの静かで落ついた雰囲気である。  千姫、常高院の輿が行き、阿茶局の輿がそれに続いた時、そっと輿の戸が開いた。 「平八郎様には、まことに御苦労にございます。お言葉に甘えて、乗り物のまま御無礼いたします」  それに対して、平八郎が顔を上げた。  貴公子というにふさわしい秀でた美貌《びぼう》ながら骨格たくましく天晴《あつぱ》れな武者ぶりである。  どこかで、と三帆は思った。  たしかに一度、どこかでと思い、その前を通りすぎた三帆の目に、平八郎の袖無羽織の紋所が映った。  立葵《たちあおい》の紋である。  つい二か月余り前、三帆が六条河原《ろくじようがわら》へ処刑された国松丸君の御首《みしるし》を求めて行き、危く仕置場番人どもの手を逃れての帰り道、通りすがりの馬上から優しく声をかけてくれたその人が桑名の城主、本多家の若殿とは、思いもよらぬことであった。  ふりむいてその人をみることは礼を失すると承知していて、三帆は体中が熱くなった。  もう一度、ふりむいて、その人であるかどうか確かめてみたいという思いだけを胸一杯に抱いて、三帆はうつむいたまま、千姫の輿《こし》について行った。  行列の女たちの間から、小さな叫びが上っていた。  あらかじめ、平八郎が神尾政之助に命じて注意をさせたものの、歩いて行く道のあちこちに、とりあえず目立たぬように片寄せたに違いない武者の死体がごろごろころがっている。  土にはおびただしく血が流れていたし、どこかでまだ死に切れない人のうめき声が聞えている。  加茂甚左衛門はそれらを目に止め、地形を眺めて慄然《りつぜん》とした。  この崖と崖との間の狭いところで、突然襲われたら、どうやって千姫を守り抜くことが出来ただろうと、流石《さすが》に幾度も戦場をかけ抜けて来ただけに、敵が、この場所をえらんで網を張っていたのがよくわかる。  神尾政之助は山賊といったが、倒れている死体をみれば、そんなものではなかったのが一目|瞭然《りようぜん》であった。  これは、まさしく豊臣残党の襲撃であった。  本多平八郎は、どうしてそれを知ったのか。十人そこそこの人数で、その数倍の敵を相手にして、そのおおよそを斬《き》り捨てている。  どれほどの手だれの武者が、彼につき従って来たのかと思う。  亀山の城下へ入った時、加茂甚左衛門は緊張の余り、全身、しぼるほどの大汗をかいていた。  亀山城は松平下総守忠明の居城だが、折悪しく主は江戸へ出府中であった。ここへ足手まといの女中を大半残して、あとは屈強の武士が、千姫、常高院、阿茶局の輿を守って、ひたすら道を急ぎ夜半になって桑名へ入った。  桑名城内には、忠政の妻のゆう姫が行列を出迎えた。  ゆう姫は徳川家康の孫に当る。  母は織田信長《おだのぶなが》の娘の徳姫《とくひめ》、父は徳川家康の長男、信康《のぶやす》である。夫婦の間には二人の女児が誕生し、妹のほうがゆう姫であった。  この時、千姫の目に映ったゆう姫は四十そこそこにはみえないほど、ふっくらした上品な面ざしが、どこか家康に似ているようで親しみやすかった。  四十と十九と、年齢からいえば母娘《おやこ》のようだが、どちらも家康の孫である。 「なにか可笑《おか》しな気が致しますね」  年齢の話になって、ゆう姫が笑った。 「私の悴《せがれ》の忠刻よりも、千姫様のほうがお若いのですから……」 「若殿には、わざわざ途中までお出迎えを頂きまして……」  阿茶局が、改めて礼を述べた。 「鈴鹿山中に賊が出るとは思いもよりませんでした。もし、若殿が御征伐下さいませんでしたら、どのような怖《おそろ》しい目に遭《あ》いましたことか。姫君のおためにも、なによりでございました」  ゆう姫は鈴鹿越えでの事件を知らないようであった。ただ、おっとりと、 「それは、お役に立ってよろしゅうございました」  といい、 「折悪《おりあ》しく、忠政は江戸へ出府して居りますが、桑名より宮への海路は当家の船にてお送りするよう、指図が参って居ります。もし、私もお供がかなえば、宮までお送り致しとう存じます」  千姫と対面出来たことを、心から喜んでいる様子であった。  そのゆう姫の手厚いもてなしを受け、千姫が寝所にあてられた奥の部屋へ戻ったのは、もう、夜明け近かった。  松坂局と三帆は、この道中、一夜交替で宿直《とのい》をする手筈《てはず》になっていて、この夜は三帆の役目であった。  床についても、千姫はなかなかねむれないようであった。  鈴鹿越えで疲れすぎているせいでもあろうし、神経が昂《たか》ぶっているのかも知れないと、三帆は推量していた。三帆自身も、今夜は目が冴《さ》えていて、まるで睡気《ねむけ》をもよおさない。 「三帆……」  遂《つい》に千姫が呼んだ。 「はい……」  返事をしたが、それっきり千姫は沈黙している。 「お薬湯をお持ち致しましょうか」  と三帆はいった。道中、千姫が疲れたら飲ませるようにと、医師からことづかって来た薬の包みがあった。湯に溶かせば、すぐに服用出来る。 「あのお方は、おみえにならなかったではありませんか」  ぽつんと千姫がいった。 「山越えの道で出迎えて下さった時、城中に入ってから改めてと仰せになったでしょう」  やはり、あの人のことだったと三帆は自分の心が俄《にわ》かに波立つのを感じた。 「御到着が夜になりましたので、御遠慮遊ばしたのかも知れません」 「三帆は、あのお方のお姿をみたのか」  不意に問われて、三帆は狼狽《ろうばい》した。 「いえ……あの、前を通ります折に、ほんの僅《わず》か……」 「どのようなお方であった……」 「それは……」 「かまわぬ故、思ったままをいうてたも」  三帆は夜をみつめるような気持になった。 「お背が高く、御立派な御様子で……」 「それから……」 「なにやら、お優しい感じが致しました」  千姫がしんとしているので、三帆は不安になった。 「姫君には、若殿をごらん遊ばしたのでございますか」 「私が耳にしたのは、あのお方のお声ばかりであった。でも、お声を聞いて、お千が心に浮べたのと、今、そなたが申したことは、ぴったりであった」  千姫の言葉が消えてから、三帆は何度となく、それを反芻《はんすう》してみた。  千姫の言葉の中に、その声音に、本多平八郎忠刻に対して深い関心があったように感じたのは、自分の思いすごしであろうかと幾度も否定した。  それでも、三帆は落つかなかった。この自分の気持はいったい、なんだろうと恐怖さえおぼえる。  翌日、三帆は目を赤くし、重い頭をもて余していたが、千姫は晴れやかな寝起きのよい表情であった。  三帆がみつめていると、心なしかいつもより化粧が念入りのような気がする。  遅い朝餉《あさげ》が終ったところに、常高院がやって来た。 「良いお日和でようございました。間もなく御乗船とのことですが、姫君にはよろしゅうございますか」  千姫の元気そうな様子をみて下って行った。  たしかに、眩《まぶ》しいばかりの上天気であった。気温もやや高く、風はない。  千姫が、本多平八郎が挨拶《あいさつ》に来ないことを気にしていると三帆は気がついた。  なんとなく、表情に屈託したものが出て来たのは、いよいよ、城を出る頃になっても平八郎の姿がみえなかったせいである。  城から海へ続く突堤へ出た。  船はそこに係留されていた。  見事な大船であった。  中央のあたりに、御守殿のような屋形が甲板上に造られている。  舟子はすべて、本多家のお抱えであり、船上で指揮するのは侍達であった。  突堤から船へ厚い板がさし渡されている。  そこに、若い侍が待っていた。  先導して来たゆう姫に、 「母上」  と、明るく呼びかける。  ゆう姫が表情を崩した。 「姫君、常高院様、阿茶のお局様、これにひかえて居りますのが、悴《せがれ》、平八郎にございます。本日は船の宰領を致し、宮までお供仕ります」 「いざ、御乗船を……」  高らかに平八郎がいい、まず母の手を取って船へ乗り移らせる。 「平八郎様、姫君の御介添を……」  声をかけたのは阿茶局で、 「失礼仕る」  よく陽焼《ひや》けしたたくましい手が千姫へさしのべられた。  僅《わず》かにためらって、千姫がその手にすがりつくのを三帆は後方でみつめていた。  陸と船とを結ぶ板は、どんなに立派に出来ていても不安定なものであった。  千姫が怖そうに、忠刻の介添を受けて船に移り、続いて常高院と阿茶局が板を渡った。  それが親船で、千姫の供の者の中、主だった者のみ、同船し、残りは別に仕立てられた二|艘《そう》に分乗した。 「風はどうだ」  甲板で侍に訊《き》いている忠刻の声を、三帆は屋形の入口で聞いていた。  千姫や常高院、阿茶局はゆう姫と共に屋形の内へ入っている。 「沖へ出ますれば、おそらく追い風に……」 「それはよい」  船の宰領をするというのは容易なことではないと三帆は眺めていた。  平八郎は少しもじっとしていない。甲板を走り廻《まわ》って、各々の持場の者にまんべんなく声をかけている。  時刻は、すでに正午に近かった。  なにしろ、女が中心の一行は、何事によらず手間がかかる。 「沖へ出ると、多少、波があるやも知れません、昼食《おしのぎ》を召し上るなら、今の中がよろしいかと……」  ゆう姫がいい出したのは、まだ停泊中なのに常高院が気分が悪いといい出したためである。  つないであっても、船は波を受けて揺れるので、それが、常高院の船酔いをひきおこしたようであった。  城内から医師が呼ばれた。  そんなことで、出帆は更に遅れた。  いっそ、出立を一日延ばしては、とゆう姫はいい出したが、駿府《すんぷ》では家康が指折り数えて千姫の到着を待っている。  一行の責任者である加茂甚左衛門にしても、よくよくでない限り、行程の変更は出来なかった。 「大丈夫でございます。静かにやすんで居りましたなら……」  常高院が血の気のない顔でいい、やがて船は碇《いかり》を上げ、纜《ともづな》を解いた。  えい、えいと威勢のよいかけ声をかけて、漕《こ》ぎ手はひたすらに漕ぐ。  大船だけに、船足はそれほど速くはない。  帆が上った。  千姫が屋形を出たのは、船が沖へ出てからであった。  ゆう姫と阿茶局は常高院の看護をしている。  甲板を歩くのは不安定ではあったが、馴れればなんということもない。 「姫君……」  背後から声がかかった。 「お危のうございますぞ」  ふりむかなくとも、千姫には声の主がわかった。 「平八郎様か」  立ち止まると、平八郎は千姫を守るように傍へ立った。 「姫君には、船にお乗りになるのは……」 「はじめてのようなものでございます」  七歳で大坂城へ嫁ぐ時、淀川を下ったのは舟であったが、海を行くこの船とはくらべようもない。 「御気分は如何《いかが》でございます」 「屋形に居りますよりも、こうして外へ出たほうがずっと心地ようございます」  実際、風がいい具合に吹いている。 「桑名は、もう、あのような遠くに……」  手をかざして眺めてから、千姫は真剣な表情になった。 「一つ、おたずね申してもよろしゅうございますか」  平八郎が真顔でうなずいた。 「なんなりと……」 「昨夜、お顔をおみせにならなかったのは、もしや、峠の戦いで手傷を負われたのではございませんか」  心配そうな目が、それとなく平八郎の全身を探るようにみる。  平八郎が破顔した。 「成程、姫君には、手前が昨夜、御挨拶《ごあいさつ》にまかり出なんだことを、お気遣い下されましたのか」 「お怪我《けが》は、よもや、重いものではございますまいな」 「かすり傷一つ、負うては居りません」  お疑いなら、肌を脱いでお目にかけましょうか、と平八郎が豪放にいい、千姫は真赤になった。 「疑いは致しません。でも、お怪我をなされたのでなくば、どうして昨夜……」 「わけを申し上げねばなりませんか」 「お聞かせ頂きとう存じます」 「困った姫君ですな」  ふっと視線を海へむけた。  白く波濤《はとう》が立ちはじめている。 「手前は昨日、鈴鹿の山中にて人を斬《き》りました」  なんでもない口調で、平八郎が話し出した。 「侍は戦の場において、多くの人を斬りましょう。昨日とて同じことです」  けれども、人を斬ったあとというのは、決していい気持のものではないと平八郎はいった。 「人を斬る時、手前の体からは殺気と申すものがほとばしります。そして、それは相手を倒したあとも、すぐには消えぬもののようです」  姫君にその殺気をみせたくなかった、と平八郎は波濤をみつめたままいった。 「手前の体にある殺気が、姫君におつらい思い出を思い出させることになってはと懸念致して、昨夜はお目通りを願わなかったのです」  大坂落城のことを、平八郎がいっているのだと千姫は気づいた。  たしかに、あの時はどれほど多くの死骸《しがい》をみたことか。 「姫君にお気遣いを頂き、申しわけなく存じます」  それに答えようとして、平八郎をみつめ、千姫は自分が泣いているのに気がついた。  何故《なぜ》、このような時に涙が流れるのかわからないままに、千姫はうろたえ、平八郎に対して恥かしいと思った。 「姫……」  驚いたように平八郎が呼びかけた時、船が揺れた。  船の揺れが、千姫の心のようであった。  よろめいて、千姫は平八郎にすがりついた。  彼の腕が千姫をしっかり支え、遠慮がちに顔をのぞき込んだ。  こんなことは、自分の生涯にはじめてだと千姫は目を閉じて思った。  この腕のたくましさも頼もしさも、秀頼にはなかったものである。  二人の頭上で、帆が風を受けて大きな音を立て、帆柱が僅《わず》かにきしんだ。  海は次第に夕暮を迎えている。  船幽霊     一  夜になって、海は凪《な》いだ。  本来、桑名《くわな》からは宮《みや》へ、海上七里が東海道の行程だが、この度の千姫《せんひめ》の一行は伊勢《いせ》湾を南下して、知多《ちた》半島の突端を廻《まわ》り、三河《みかわ》湾へ入って、白須賀《しらすが》に近いところで上陸することになっていた。  一つには、鈴鹿《すずか》越えで疲れ果てた女道中のためであり、この船路ならば外海へ出ることもなく、いわば入江から入江へつなぐ平穏な航海だったからでもある。  親船を含む三|艘《そう》の本多《ほんだ》家の船は、帆を下し、漕《こ》ぎ手が掛け声も勇ましく艪《ろ》を押したが、なにせ、二層の御守殿が乗った豪壮な造りだけに、船脚はぐんと落ちる。  月はまだ上らず、船上には篝火《かがりび》が焚《た》かれ、その白い煙が海面へ流れている。  千姫をはじめとして、常高院《じようこういん》、阿茶局《あちやのつぼね》などは、本多|忠政《ただまさ》の妻であるゆう姫のもてなしを受け、屋形の中でくつろいでいた。  あらかじめ、屏風《びようぶ》や几帳《きちよう》をたて廻し、敷物を何枚も重ねた屋形の中は、それが船の上とは思えぬほどゆったりしている。  乗船早々、船酔いに苦しんだ常高院は漸《ようや》くうとうとしはじめて居り、その介抱をしていた阿茶局もゆう姫も疲れが出たのか、脇息《きようそく》に寄りかかって目を閉じている。  千姫だけは、一つだけ開けてある高窓からのぞける夜空を眺めていた。  暗い空であった。星もみえない。  あの方は、今、この船のどこに居られるのだろうかと思った。  あの方とは、本多|平八郎忠刻《へいはちろうただとき》である。  陽《ひ》が落ちる前、思いがけず甲板で、平八郎と僅《わず》かな時を持ったことが、夢のようであった。  初対面同様の男と、短いながら言葉をかわし、船の揺れのためとはいえ、その体に触れたことを、千姫は信じられない気持であった。  これまでの千姫には、およそ男と二人きりで話をしたり、寄り添ったりするなど想像もつかなかった。夫の秀頼《ひでより》にしても、常に誰《だれ》かが同席していたし、数少い夫婦の夜にしても襖《ふすま》のむこうには宿直《とのい》の者の気配があった。  まして、その人の前にあって、顔も上げられないほどの恥かしさをおぼえたのは、千姫にとって、生まれてはじめてといってよい。  忠刻に送られて屋形へ戻ってからの千姫は、誰の言葉も耳に入らず、ろくに返事もしないで、ただ、ぼんやりしていた。心に浮ぶのは、忠刻のことばかりであった。  そんな千姫の様子を、三帆《みほ》は下段の間にひかえて、みつめ続けていた。誰もが知らぬ中《うち》に甲板へ一人で出て行った千姫が、忠刻と共に戻って来た時から、三帆の胸中は荒い波が立ちさわいでいた。  ほんの僅《わず》かの間に、二人になにかがあったとしか思えない。  各々にもの思いに沈んでいた千姫も三帆も気づかなかったが、この時、船上では小さなさわぎが起っていた。  最初に発見したのは、船手頭《ふなてがしら》の猪熊仙兵衛《いのくませんべえ》であった。  暗い海上を、どこからともなく漕《こ》ぎ寄せて来る舟、舟、舟である。  大きさは漁師の舟ほどであった。そのかわり、ぐんぐんともの凄《すご》い速さで近づいて来る。  いずれも、灯はない。  むこうの舟に乗っている人の姿が朧《おぼ》ろに浮んでみえたのは、仙兵衛が配下の者に命じて、船ばたから松明《たいまつ》をさし出させたからであった。  本多家の侍達が、眼《め》を疑ったのは、先頭の舟に、見事な大鎧《おおよろい》を着た武者が乗っていたからである。しかも、その武者は顔に能面をつけていた。小面《こおもて》と呼ばれる女面である。  異様なその武者を中心に、灰色の頭巾《ずきん》で頭を包んだ侍達が弓をかまえて、こちらの大船の漕ぎ手をねらっている。 「出たか、海賊ども……」  仙兵衛の背後で、忠刻の声がした。 「鉄砲組、弓組、前へ……槍《やり》組は御座所の守りにつけ」  忠刻の采配《さいはい》が動くと、甲板に見事な隊列が出来た。  あらかじめ用意されていたのだろう、多くの龕灯《がんどう》にいっせいに火がともされ、海へ向けられた。  小舟から矢が飛んだ。  呼応するように、大船からは鉄砲が火を吹く。  忠刻も侍達の間に立って、弓を引いていた。  強弓である。近づいた小舟の舳先《へさき》から矢に当って転落する者の姿があいついだ。 「若殿、御油断なく」  左舷《さげん》で指揮を取っていた神尾政之助《かみおまさのすけ》が叫んだ。いつの間にこちらの船端《ふなばた》に取りついたのか、数人の武者が抜刀して鉄砲組へ襲いかかる。  忠刻は弓を捨て、大刀《たち》を抜いた。神尾政之助の背後に廻《まわ》った武者を一大刀で海へ斬《き》り落す。 「屋形へ行け。千姫は屋形の内だ」  叫びながら走って行く者の前に立ちふさがった。仙兵衛が得意の槍《やり》で、忽《たちま》ち三人ばかりを突き伏せる。  忠刻の前には、宮本三木之助《みやもとみきのすけ》が来ていた。  宮本武|蔵《むさし》の養子で本多家に仕えている。忠刻とは、二天一流の同門であった。 「ここは手前におまかせを、若殿は御座所のほうへ……」  忠刻は素早く船上を見渡した。  戦は瞬時にして片がついていた。  船へ上って来た者はことごとく斬られ、海へ突き落されている。  御座所を守るように取り囲んだ槍組の前方では、鉄砲組が海上へ火弾を浴びせていた。 「風が出ましたぞ、若殿」  仙兵衛の太い声がした。 「奴等《やつら》をふり切りましょう」 「よし、帆を上げろ」 「帆を上げよ」  なかば下ろされていた帆がきりきりと上った。  風を帆に受けて、大船は海原をすべるように走り出した。こうなっては、到底、小舟では追いつけない。  無益な戦いは、なるべく避けるというのが、桑名を出る時の忠刻の指示であった。 「海上にて、何者の襲撃を受けるやも知れぬ。守りに徹せよ。深追いはするな。我らのつとめは、千姫様を御無事にお送り申すことにある」  と号令した忠刻の命に従って、本多家の侍は機敏に働き、戦の作法を乱す者はなかった。  忠刻が屋形の入口に立った時、千姫がいきなり立ち上って来た。  言葉は出ず、ただ、忠刻の全身を探るようにみる。つい、忠刻は微笑した。 「御案じなく、たかが海賊どもを相手の戦、怪我《けが》など致しませぬ」 「海賊だったのですか」  ゆう姫が奥から訊《き》いた。 「左様です。この辺りは船の積荷をねらう海賊どもが跳梁《ちようりよう》すると聞いて居ります」  もう心配はないといい、忠刻は女達に頭を下げた。 「ごゆるりとおやすみ下さい」  船上へ出ると、月が上るところであった。  空は雲が流れている。  海に上る月を、千姫にみせたいと思った。屋形をふりむくと、入口に女が立っていた。  三帆という侍女だと気がついて、忠刻は声をかけた。 「姫君に、月が上るとお伝え下さい」  三帆は僅《わず》かに逡巡《しゆんじゆん》したが、屋形の内へ姿をかくした。入れかわりのように、千姫が船上へ出た。 「見事な……」  明るい、少女のような歓声に忠刻は満足した。屋形からは、次々と女達が出て来た。  阿茶局が月を眺める様子で、少しばかり離れたところに立っている忠刻と千姫を見くらべるようにした。 「半月も、こうして海の上で眺めますと、風情《ふぜい》がございますな」  ゆう姫が常高院にささやき、阿茶局が更に低声でいった。 「あちらのお二人をみて居りますと、古歌で申す天津乙女《あまつおとめ》を月の船に乗せて漕ぐ天男《あまおとこ》のようではございませんか。お似合いなこと」  船上の月見は短く終って、女達は屋形へ入り、忠刻は船尾の甲板へ戻って来た。  すでに甲板は海水で洗い清められ、死骸《しがい》の取り片付けも終っていた。 「味方に死傷したる者はなかったか」  忠刻が訊《たず》ね、神尾政之助が答えた。 「船子共の中に、矢に当って少々の痛手を負った者どもが居りますが、いずれも命には別状ありますまい」 「それはよかった」  仙兵衛が報告した。 「あとの船が追いついて参りました」  千姫の供人達を乗せた二|艘《そう》である。 「どうやら、敵の襲撃はなかった模様にござります」 「やはり、豊臣《とよとみ》の残党でございましょうな」  政之助が眉《まゆ》をひそめるようにした。  千姫の乗る、この親船のみを目がけて襲って来た。船上まで上って来た敵の中に、明らかに千姫を奪えと指揮をしていた者もいる。 「あれは、なんだったのでございましょう」  宮本三木之助もいった。 「見事な大鎧《おおよろい》を着し、小面《こおもて》をつけて居りました侍……おそらくは、あれが大将とおぼえましたが……」 「豊臣家の名ある侍だったのかも知れぬ」  侍達に各々の持ち場へ戻るよう指図をしてから、忠刻は舳先《へさき》へ歩いて行った。  船は何事もなかったように伊勢湾を南下している。  夜あけには半島の岬《みさき》を廻《まわ》る筈《はず》であった。  風が雲を払って、天上は星が無数に輝いている。  先刻、走り寄って来て自分を見上げた千姫の、ひたむきな目を思い出した。まだ、どこかに童女の面影を残し、清らかで初々しい。  今まで剣の修業一筋で、女には目もくれなかった忠刻の前に、突然、舞い下りて来た美しい小鳥のような千姫を、忠刻は欲しいと思った。  豊臣の残党に追われ、生命の危険にさらされているあの姫を、自分ならこの腕の中で守り抜けるという自負が、忠刻の心を昂《たか》ぶらせた。  我が生涯に、なんとしても千姫を得たい、だが、その人は徳川《とくがわ》将軍の一の姫であり、豊臣秀頼の北の方であった。  海の風をまともに受けながら、忠刻は凝然と立ち尽した。     二  船との別れは慌しいものであったが、千姫は挨拶《あいさつ》の折、忠刻が燃えるような目で自分をみつめてくれたことに、胸を熱くした。  だが、それまでであった。  一言の言葉をかわすこともなく、千姫は輿《こし》に乗り、行列は駿府《すんぷ》へ向けて急いだ。  ここからは、家康《いえやす》が特にさしむけた本多|正純《まさずみ》の家臣達が警固についている。  掛川、藤枝と各々の城に泊って、漸く府中へたどりついた。  駿府城の大手門には、家康自らが迎えていた。 「道中、さまざま、あったようじゃな。お姫はさぞ怖《おそろ》しい思いをしたであろう」  どことなく沈み込んでいる千姫をみて、心配そうにいたわった。  千姫が、家康の若い愛妾《あいしよう》の一人であるお勝《かつ》の方に案内されて、奥御殿へ去ってから、家康は居間へ阿茶局を呼んだ。 「本多家中の侍どもは、よう働いたそうじゃな」  鈴鹿での襲撃も、海上での異変も、行列より一足先に、家康の耳に知らせが入っている。 「まことに天晴《あつぱ》れと申す他《ほか》はございませぬ。流石《さすが》に本多忠政どのの嫡子、若いに似ず、心くばりの程も感服致しました」  豊臣の残党が、千姫を奪いに現われるのを予想して、鈴鹿にも出迎えに来たし、船にも充分の備えをした。 「そればかりか、千姫様のお気持をお思い下さって、あくまでも山賊、海賊と申し、豊臣の名を口に致しませなんだ。おそらく、姫君は、それを信じていらっしゃいましょう」  豊臣家の残党が、自分を奪い返しに来たと知ったら、それでなくても不安定な千姫の神経が、ずたずたになると阿茶局はいった。 「常高院様も、それを大層、御心配でございましたが、本多家若殿のおかげにて……」 「それにしては、お姫の様子が、ひどく暗かったが……」  阿茶局が、ほんの僅《わず》かばかり微笑した。 「ひょっとすると、姫君は恋をなされたのかも知れませぬ」 「なに……」 「本多平八郎様は、公卿《くげ》衆の中にも、あれほど眉目秀麗《びもくしゆうれい》な若君は居るまいと思われるほどの美丈夫、その上、二天一流の遣い手にござります。敵の襲撃の折にも、自ら大刀《たち》を振って姫君をお守りなさいました。女なら、まず、心を動かされずには居られますまい」 「お姫が、惚《ほ》れたか」  ぽつんと呟《つぶや》いて、家康は手近の文机《ふづくえ》の上を眺めた。  そこには千姫のために用意した、さまざまの贈り物が並べてある。 「すると、坂崎出羽《さかざきでわ》の骨折りは無駄になるのう」 「それを案じて、江戸《えど》の上様にもお文をお出し致しましたが……」 「将軍家は、千姫の気持を変えるためにも、新しい縁組がなによりと思って居る。御台所《みだいどころ》も同様じゃ。その上、このたび、坂崎が申して参った縁組は、ことの外、御台所の気に入っているようじゃ」 「お相手は、どなた様で……」 「冷泉《れいぜい》家の一門と申したな。中納言公久とか……」 「お年は……」 「三十をすぎて居る……」 「そのお年まで、北の方様がお出《い》でなさらぬというのは……」 「側室は居ろう。北の方にするだけの、釣り合いのとれた家の娘が居なかったそうじゃ」  阿茶局がゆるやかにかぶりを振った。 「おそらく、姫君には御承知なさいますまい」 「本多の悴は、いくつじゃ」 「二十と、うかがいました」 「無妻か」 「今まで、剣一筋でお出で遊ばしましたとか」 「ほう……」  家康が目を細くした。 「忠政の北の方は、予の孫じゃ。千姫をつかわすのに、不足のない家柄だが……むこうは、お姫をどう思って居るか」 「おそれながら、お傍《そば》で拝見致しました限りでは、平八郎様も、姫君を……」 「見初《みそ》めたか」 「千姫様はお美しゅうございます。まして傷を負った小鳥が懐中にとび込んで来ましたなら……いとしいとも、御|不愍《ふびん》とも、お思いなされましょう」 「阿茶局は、よくよく、平八郎が気に入ったようじゃな」 「いいえ、平八郎様にお心|惹《ひ》かれたのは、千姫様にございます」 「考えておこう」  その夜の駿府城の奥御殿は賑《にぎ》やかであった。  家康はなにかと千姫に話しかけ、千姫もうちとけていた。そして、時折、阿茶局はさりげなく、白須賀から帰ったゆう姫や本多忠刻の話をし、その都度、頬《ほお》を染める千姫を、家康は注意深く眺めていた。  駿府に二日滞在し、千姫の行列は江戸へ向った。 「お姫のことは、この祖父がいつも心にかけて居る。お姫のお気に染まぬことは、誰の仰せであろうとも、祖父が承知はせぬ。必ず案じられるな。祖父も折をみて、江戸へ参る。お困りのことは、文を下さるように……」  やはり、大手門まで見送った家康の言葉に、千姫は何度もうなずき、名残り惜しげに別れを述べた。  駿府から江戸への道中は、海沿いの道を行くことが多い。  海をみる度に、千姫は本多忠刻を想《おも》った。  そうした自分の心が、ふと、恥かしくもなる。  夫、秀頼が死んで、まだ三月。仮にも妻の身で、あまりにも移り気なと、自分をたしなめながら、やはり瞼《まぶた》に浮ぶのは、忠刻の面影であり、凜《りん》とした声であった。  海の風が行列を吹いて過ぎれば、その風の中で忠刻と並んで立った一刻がなつかしく、泊りの宿で、月をみれば、海上の月をみせようと、自分を呼んでくれた忠刻が慕わしい。  千姫は自分が恋の虜《とりこ》になっているのを、いやでも思い知らずには居れなかった。  そして、月が丸くなる頃《ころ》に、千姫の行列はつつがなく、江戸、千代田《ちよだ》城へ到着した。  徳川家康が江戸へ入国したのは、天正《てんしよう》十八年八月一日のことであった。  今年、元和《げんな》元年は、それから数えて二十五年目になる。  千姫がはじめてみる江戸の城は、石垣が高く、白壁の美しい堂々たる徳川家の本拠であった。  奥御殿に旅装を解き、父、秀忠《ひでただ》、母、お江与《えよ》の方に挨拶《あいさつ》をすませて、千姫はまず虚《むな》しい気持になった。  父も母も、それなりに千姫をいたわってくれたものの、駿府城での家康の歓迎ぶりとはまるで異なった。  やさしく迎えてはくれたものの、どこかよそよそしい。  一度、嫁に行った者が実家へ戻って来て感じる異和感を、千姫も亦《また》、強く味わった。  徳川家にとって、自分は荷厄介な存在なのだと改めて思い知らされる。  坂崎出羽守の仲立ちによる縁組の話は、最初の挨拶の時にも、その後にも、まるで千姫になかった。  なにもいわれないことで、千姫は不安であった。  たよりにするのは阿茶局で、彼女は将軍秀忠の養母の身分であるから、将軍にしても、彼女の言葉を無視することはあるまいと思いながら、心細さはこの上もない。  自分の知らないところで、縁組がどんどん進んでいるとしたら、どうなるだろうと思い、やがて、千姫は覚悟を決めた。  そうなったら、死ねばよいと思う。  どっちみち、大坂落城の折、死に遅れた身であった。命を惜しいとは考えていない。  みたこともない男の許《もと》へやられるよりは、死をえらぶほうがよいと思っている自分の心の中に、忠刻に操を立てたいと願っている本音をみつけて、千姫は自分が哀れになった。  夫でもなく、一度も肌身を許した相手でもないのに、その人のために死のうとしている自分がわびしかった。  秋が深くなるにつれて、千姫の耳には、さまざまのことが入って来た。  そのもっとも大きなことは、将軍の継嗣に関しての風説であった。  二代将軍秀忠には御台所お江与の方との間に、千姫をかしらにして四人の姫と三人の若君が誕生している。  男児の中、長男の長丸は慶長《けいちよう》六年十二月三日、江戸の城で生まれたが、翌年九月に早世したから、事実上の嫡男は、次男に当る竹千代《たけちよ》であった。その下に二歳違いの国千代《くにちよ》がいる。  竹千代は慶長九年、国千代は慶長十一年の生まれだから、千姫はこの弟達の顔を知らなかった。  千姫が豊臣家へ輿入《こしい》れしたのは、慶長八年のことで、竹千代の誕生は、その翌年である。  従って、二人の弟について、なんの知識もなかったのだが、江戸へ帰ってみると、どうも兄の竹千代よりも、弟の国千代のほうが両親の慈しみを多く受けているようである。  そういえば、江戸へ着いて、母のお江与の方へ挨拶《あいさつ》に行った時、国千代はたまたま奥御殿にいて、千姫と対面した。  十歳にしては大人びていて血色もよく明るい少年といった感じであった。  容貌《ようぼう》は母親似で、目鼻立ちがしっかりしていて、愛くるしい。 「お元気で御利発な国千代君とくらべて、竹千代君はお体が弱く、そのため、御学問も武芸も、あまりお進みにならぬとか、お傅役《もりやく》の方々は、心を痛めてお出でとか承りました」  江戸へ来て、奥御殿の暮しにも、すぐに馴染《なじ》んだような松坂局《まつざかのつぼね》が、千姫に告げた。 「お乳《ち》の人のおふくどのと申されるお方が、それはようお仕えしているそうでございますが、生まれつきの御病弱では、徳川家御跡継ぎには荷が重かろうと、おそらくは国千代様が御世子となられるとか、奥御殿の者は、みな、そのように申されて居りまする」  将軍職につく人が病気がちでは、将来がおぼつかないと、秀忠側近の人々は考えているらしい。  順からいえば、当然、跡継ぎになれる立場で、病身のため、弟に代られるとしたら、竹千代はさぞ、つらいだろうと、その時の千姫は思った。  竹千代の乳母《うば》のおふくが、阿茶局に伴われて、千姫のところへやって来たのは、それから間もなくで、千姫は所在なく、秋の深くなった庭を眺めていた。 「おふくどのにござります」  と阿茶局が紹介した女は、三十のなかばを過ぎたかとみえる年頃《としごろ》で、如何《いか》にも勝気らしい容貌ではあったが、千姫には好意を持っているらしくみえた。 「これは、駿府の大御所様からのお指図でございますが、千姫様には上州《じようしゆう》新田郡《につたごおり》の満徳《まんとく》寺に御入山遊ばし、豊臣家との御縁を切るようにとのことにございます」  満徳寺は上州新田郡徳川郷にある尼寺であった。  天正十九年に家康が関東巡歴した際、武州川越《ぶしゆうかわごえ》で、徳川郷四百五十石を領していた正田隼人《しようだはやと》を招き、その領地を朱印地として安堵《あんど》し、支配をまかせたのは、徳川家がもともと新田源氏《につたげんじ》の系譜であったせいである。  つまり、新田|義重《よししげ》の一子、徳川四郎義季が徳川家の祖先で、以来、八代親氏まで徳川郷に居館があったが、野州足利庄《やしゆうあしかがのしよう》に根拠地のあった足利氏に押されて、遂に同族の正田氏に後事を託し、この地を去って諸国流浪の果、親氏の子、泰時《やすとき》になって三河《みかわ》国に定住、松平《まつだいら》姓を名乗り、次第に勢力を伸ばした。  家康は、その泰時から七代目に当るというのが、徳川家の由来になっている。  その縁をもって、家康は正田隼人の本領を安堵し、その四百五十石の中、百石はやはり徳川家縁故の満徳寺の知行《ちぎよう》とした。  徳川山満徳寺の正式の呼称は「時宗一本寺《じしゆういつぽんじ》尼寺御所満徳寺」で一本寺とは本山も末寺もない独立の寺という意味であり、幕府では「尼寺御所」と呼んでいた。  この寺に入山して三年の修行をすませると、離縁が成立するというのは、当時、女の側からは夫との縁の切れなかった社会の唯一の便法であった。  千姫の場合、大坂落城の折、使者として城を出たのであって、秀頼との夫婦の縁は切れていない。  もし、この先、千姫が他の男と再縁する場合には、不都合であった。  それ故、家康は満徳寺への入山を指示したのだと、阿茶局は説いた。 「大御所様には、千姫様のさきざきのことをお考え遊ばし、なんとしても豊臣家とのつながりを、しかと絶っておきたいと思《おぼ》し召してでございます」  家康が、そう決心した背後には、豊臣の残党の千姫奪回の企《たくら》みと、秀頼生存説があってのことだったが、阿茶局はそれを口に出さなかった。  満徳寺へ入山の手続きは、たまたま、竹千代の乳母であるおふくが、徳川家へ奉公の折、自分の親が明智光秀《あけちみつひで》の重臣であったことが、なにかの障りになってはならないと、本多正純の指図で、満徳寺へ行き、親の縁を切ってもらったことがあったので、今回も本多正純が家康の意図を受けて、おふくに千姫入山の手筈《てはず》をととのえさせた。 「何分にも草深いところ、姫君が三年も御滞在なされる場所ではございませぬ。それで、入山の折のみ、満徳寺へ参詣《さんけい》遊ばし、その後は身代りの者が、寺にあって修行を致します。又、その期間もごく短い中にすませられるよう、寺法を変更する旨《むね》、本多|上野介《こうずけのすけ》様より、お寺のほうに申されて居りますとか」  落ついた、はきはきした口調で、おふくは千姫に事情を説明し、不安を取り除いた。 「何事も、大御所様の御安心のためでございます。どうぞ、おふくにおまかせなさいますように……」  すべては、大坂の北の方、と呼ばれる千姫を、関東の姫君、へ戻したい家康の意志だときかされて、千姫はうなずいた。 「それで、お祖父《じい》様のお気持がすみますのなら……」  豊臣家へ対する思いが消えたわけではなかったが、いつまでこだわっても、どうにもなるまいという気持も芽生えていた。  それは、自分が本多忠刻に恋をしたせいだと、千姫は気がついている。心がうしろめたいのは、それ故であった。 「そなた達にまかせます。よいように……」  阿茶局とおふくが喜んで辞去してから、千姫は三帆が吹いている笛の音に耳をすませた。  彼女が、笛を吹くのはこの城へ着いて以来のことであった。  三帆が自分に腹を立てていると、千姫は承知していた。  速水甲斐守《はやみかいのかみ》の一人娘であった。  滅んだ大坂城への思い入れは、千姫とは違ったものがあるに違いない。  千姫が満徳寺に入山し、秀頼との縁を切って、大坂の北の方、の呪縛《じゆばく》から解き放たれることは、三帆にとっては裏切りとしか思えないだろう。そのせいか、笛の音はむせび泣くように嫋々《じようじよう》と奥御殿を流れて行く。  秋十一月。  千姫は満徳寺に参詣《さんけい》し、身代りとして刑部卿《ぎようぶきようの》 局《つぼね》が入山した。  それをきっかけとして、常高院は俊澄尼《しゆんちように》と称し、満徳寺の住職に就任した。これは、満徳寺の格式を上げるためであり、徳川家から多くの寄進を受ける名目の故であって、常高院が長く満徳寺に居住することはなかった。  千姫が竹千代を見舞ったのは、満徳寺によって、豊臣家との離縁が成立してからのことである。  おふくから、竹千代が風邪《かぜ》をこじらせていると聞いた千姫は、たまたま、桑名の本多家から贈られて来た蜜柑《みかん》を、竹千代の見舞にと侍女にもたせて、竹千代の住む本丸へ出むいた。 「どのように、若君がお喜びなさいましょう。幸い、お熱も下り、落ついていらっしゃいますので……」  いそいそとおふくが案内した竹千代の居間は、思ったよりも狭く、暗かった。  調度なども質素で、寒々とした感じがする。  竹千代はうるんだような目をして、ぼんやりと千姫のほうをみていた。 「姉君様が、お見舞下さいましたのですよ」  とおふくが告げても、ただ、こちらをみつめるだけである。 「あなた様は、徳川家の御嫡子、大事なお体でございますよ、病気に負けてはなりませぬ。強い御気力をもって、必ず、徳川の若君としてふさわしいお方に成人して下さいませ」  心をこめて千姫はいい、蜜柑をむいて、竹千代の口許《くちもと》へ持っていった。  熱で乾いた唇が僅《わず》かに開いて、竹千代は千姫の手から蜜柑を食べた。  その日は、それで奥御殿へ戻ったのだが、中二日《なかふつか》ほどおいて、おふくが千姫の所へ礼に来た。竹千代が今朝、床あげをしたという。 「私に、何度も仰せになりました。姉君は、竹千代に、徳川家にふさわしい若君となれとおっしゃった、と。それは嬉《うれ》しそうに……」  床あげと同時に柳生但馬守《やぎゆうたじまのかみ》を呼んで、剣の稽古《けいこ》をしているという。 「そのようなことを遊ばして、また、お風邪《かぜ》がぶり返しては……」  と千姫は案じたが、その後の竹千代は熱も出さず、元気にしているという。  十日ばかりして、千姫が仏間から戻ってくると、三帆が山茶花《さざんか》を一枝、文机《ふづくえ》にのせて待っていた。 「今しがた、竹千代君がお自ら、お持ちになりました。千姫様は間もなく、こちらへお戻りになりますからと申し上げたのですが、恥かしそうなそぶりをなすって、早々にお帰りになってしまいました」  珍しく、三帆が可笑《おか》しそうにいう。  山茶花は三つばかり花が咲いていた。蕾《つぼみ》も多くついている。  壺《つぼ》を運ばせ、千姫はそれを自分で挿した。  いい枝ぶりである。  まだ十二歳の弟が、自分のためにどこかへ行って、この花をみつけて来たのかと思うと、千姫は心の中があたたかくなった。  それがきっかけになって、千姫は時折、手《て》土産《みやげ》を持って本丸の竹千代を訪ね、武芸の稽古ぶりをみたり、舞を所望したりした。  竹千代は能が好きで、謡や舞には自信があり、殊に千姫にみてもらうということが、はげみにもなるようで、 「姉上は、どんな曲がお好みであろうか」  と、おふくに相談する。 「千姫様のおかげで、若君がめっきり明るくおなりでございます」  或《あ》る時期は、自分が父母に愛されていないことを悲しんで、生きていても甲斐《かい》がないとおふくに訴えたこともあり、あまりの不愍《ふびん》さに泣きあかした夜があると、おふくは千姫にしみじみ打ちあけたあと、心から嬉《うれ》しそうに礼を述べた。 「かようなことを申すは憚《はばか》り多いことでございますが、私は必ずしも、若君が三代様をお継ぎなさらずともよい、それよりもお健やかに、お幸せな生涯をお過しなさるならと考えることがございます。なれど、それは女の浅はかで、若君の御側近の方々、お傅役《もりやく》の方々にしてみれば、竹千代君をさしおいて、国千代君が次代の将軍におなり遊ばすなど、由々《ゆゆ》しき大事と心得ていらっしゃいます」  たしかに、男の世界はそうなのだろうと、千姫も思った。将軍になるのと、ならないのとでは、その生涯が天と地ほどの差があると考えるのが、男達であり、まして譜代の侍の中には竹千代に自分の未来を賭《か》けている者もある。それは国千代のほうも、同じであった。  竹千代と国千代のどちらが次代の将軍になるかによって、それらの人々は失脚するか、栄達するかが決まるわけであり、その結果は、子々孫々、或《ある》いは家臣の末に至るまで影響を受けることになる。  おふくがいうように、これはもう竹千代の問題だけではなく、竹千代に肩入れするすべての人々をひっくるめた重大事で、乳母の彼女がどう考えたところで、力の及ぶ限りでなかった。 「竹千代君にとって、千姫様は唯一つ、心を許せる姉上でございますし、御不幸であった姉上様を自分がお慰めしなければと懸命になっていらっしゃいます。どうか、そのお心根を汲《く》んであげて下さいまし」  とおふくはひたすら、千姫を頼りにしている。  千姫は駿府の家康に御機嫌うかがいの文を書く時、竹千代のこともありのままに述べた。  その月の終りに、家康は突然、駿府を発《た》って、江戸城へ入った。  短い滞在の中に、家康は二度も千姫の部屋を訪ねた。  一度目は、江戸城での暮しに不満がないか、不自由なことは、と訊《たず》ね、松坂局や三帆にまで、困っていることがあれば、なんでも訴えるようにと言葉をかけた。  二度目は駿府へ帰る前日で、この時は千姫の部屋に竹千代を招き、三人で昼食を摂《と》った。  竹千代にも武芸や学問について、いくつかの質問をし、能の話までしたが、やがて思い出したように、 「ゆう姫を存じて居るな」  と、千姫に訊《き》いた。 「はい、桑名よりの船中にて、お目にかかりました。わざわざ、お送り頂きまして……」 「先日、平八郎忠刻を伴って、駿府へ参ったのじゃ」  思いがけない時に、思いがけない人の名を聞いて、千姫は狼狽《ろうばい》した。だが、家康の言葉は更に率直であった。 「ゆう姫は、わしと築山《つきやま》御前の間に生《な》した信康《のぶやす》の娘であった」  信康の妻は、織田信長《おだのぶなが》の娘、徳姫《とくひめ》であった。  天正七年、織田信長から、信康が甲州武田《こうしゆうたけだ》家に内通し、織田徳川に謀反《むほん》の企てがあるという理由で切腹させるよう、父、家康へ命じて来た。  この時、家康は、信康の無実を知りながら、信長に逆らうことが出来なかった。  当時、徳川家はまだ弱小で、織田と争うことは滅亡を意味した。 「父子の恩愛のために、累代の家を滅すことは、子を大事にして、祖先を思わないことになる」  と痛恨の思いで、信康を切腹させた。時に信康は二十一歳であった。  本多忠政の妻のゆう姫は、その信康と徳姫の間に誕生した娘である。 「信康のことは、わしの生涯での忘れ難い、苦しい思い出じゃ。それだけに、ゆう姫のことも不愍《ふびん》に思って居った」  が、幸い本多忠政に嫁して、幸せな歳月を送っている。 「そのゆう姫が、忠刻の北の方に、お姫を欲しいと願って参った」  ぽろりと、竹千代が箸《はし》を取り落した。慌てて拾ったが、その表情は不安そうに千姫へ向けられている。  千姫はうつむいて返事をしなかった。言葉がないといった風情《ふぜい》であった。 「平八郎と申す若者にも対面した。なかなかよい男じゃ。あれなら、お姫を幸せにすることが出来るであろう」  今すぐに返事をしなくてよい、と家康がいった。 「年でも改まったら、お姫の心中を聞かせてもらいに参ろう。その上で、将軍家にも申し上げる」  一刻《いつとき》余りを楽しげに過して、家康は竹千代と本丸へ帰って行った。  千姫にとって、家康のもたらした話は嬉《うれ》しい筈《はず》であった。  白須賀で別れた後も、その人に対する思いは消えてはいない。  しかし、江戸城で暮すようになって、千姫は自分の気持を少しずつ諦《あきら》めていた。  徳川家の姫としての立場を思っても、自分の意志で、自分の求める人の許へ嫁げるとは到底、考えられなかった。  女の縁組を決めるのは、父であり、それはさまざまの思惑《おもわく》から成立する。  まして、千姫は下世話にいう出戻りであった。  父の命にそむいて、他の男へ嫁ぐことなど、許されるとは思えない。  ならば、尼になろうと、千姫はひそかに決心していた。  伯母《おば》の常高院が住職になった満徳寺でもよいし、亡き秀頼の忘れ形見の香姫《こうひめ》がやがて入山することになっている鎌倉《かまくら》の東慶《とうけい》寺でもかまわない。  出家することが、自分に残された唯一の抵抗だと、千姫は悟っていた。  そんな時に、祖父の口から本多忠刻との縁談の話が出て、俄《にわ》かに千姫の心はかき乱された。  夢のような願いが、かなえられるかも知れない。  忠刻の母のゆう姫が、わざわざ駿府まで来て、家康に直訴してくれたということ、それには忠刻も一緒だったことを思い合せると、忠刻も自分を求めてくれたのかと、涙が出るほど嬉しかった。  愛し愛されて、妻となり夫となることが出来たらという希望で、千姫は夢中になった。  そのために、今までのように竹千代を訪ねることを、つい忘れた。  その一方で、松坂局が、奥御殿の老女達から、御台所のお江与の方は、やはり、千姫と冷泉家との縁組を強くのぞんでいるらしいとの噂《うわさ》を耳にして来た。 「駿府の大御所様に、お文をお書きなされませ。もし、姫様が平八郎様との縁組をおのぞみでいらっしゃるなら、少しも早く、そちらをお進め頂くように……」  千姫の気持を承知しているだけに、松坂局は、しきりに勧めたが、千姫としては、はしたないようで、とても、自分からそんな文は書けそうもない。  暮から正月を、千姫は落つかないままに過した。  阿茶局が出府して来たのは、正月十五日のことであった。 「只今《ただいま》、上様にお目通りを致し、大御所様からのお文をお渡し申して参りました」  さりげなくいって、千姫に笑いかけた。 「大御所様には、お年のせいか万事に御性急におなり遊ばして……」  よろしいのでございましょう、本多家との縁組をすすめまして、といわれて、千姫は赤くなった。 「おいやではございませんのでしょう、平八郎様を……」  うつむいている千姫に、更に続けた。 「ゆう姫様のお話ですと、平八郎様は姫君とお会いになってからは、とかくもの思いにふけってお出でとか……よく、海をごらんになっているそうでございますよ。千姫様をお送りした船にも、一人でお乗りになり、いつまでも、空の彼方《かなた》をごらんになっているとか。下々で申す恋患いかと、御家中の皆様も御心配なされてでございますとか」  今まで武芸一筋で、女にみむきもしなかった男だけに、恋には盲目なのだと、阿茶局は可笑《おか》しそうであった。 「大御所様も、あの男なら、と何度も仰せになりました」 「私は、豊臣秀頼の妻だった女です」  漸《ようや》く、千姫はいった。 「大坂落城から、まだ一年にもなって居りませぬのに……」 「そのような御斟酌《しんしやく》は御無用に願います。なんのために、満徳寺で縁切りをなさいましたのか。大御所様は一日も早く、千姫様のお幸せなお姿をみないことには、死ぬにも死ねぬと口癖に仰せでございます。大御所様には、このところ、お気力も御体力もいささかお弱り気味でもございます。どうぞ、大御所様を安心させてあげて下さいますように……」  そこまでいわれて、遂《つい》に千姫はうなずいた。 「嬉《うれ》しいのでございます。もし、かなえられたら……夢のようなことと思って居りましたのに……」  三帆は、その、ささやくような千姫の返事が、自分の耳に突きささったような気がした。  とうとう、そうなるという思いと、いや、必ずしも思い通りには行くまいという気持が三帆の中で入り乱れている。 「まあ、よかった」  阿茶局が大袈裟《おおげさ》に喜んでみせ、 「では、早速に駿府へ戻って大御所様に御報告申しましょう」  いそいそと立ち上るのを、三帆は憎しみの目でみた。  なんという丈夫な女だろうと思う。  六十歳を過ぎているのに、髪もまだ黒く、江戸と駿府、時には京まで平然と往復しているという。  終日、三帆は千姫と口をきかなかった。  翌日、おふくが久しぶりに千姫の許《もと》へ来た。 「嬉しいお知らせでございます」  将軍秀忠が、今朝、白書院《しろしよいん》で登城して来た諸大名に対し、世継ぎは竹千代と正式に披露したという。 「私共は存じませんでしたが、昨秋、大御所様が御出府遊ばした折、上様とそのことについて、おとりきめがあったそうでございます。これで、やっと、竹千代君に本当の春が参ります」  すべては、千姫様のおかげだとおふくは涙を拭《ふ》いた。 「私の力ではございません、大御所様の御配慮と、竹千代君の御運でございます。心からお祝いを申し上げます」  ともかくも、竹千代に挨拶《あいさつ》をしたいと思い、千姫はおふくに案内されて、本丸の庭へ出かけた。  吹上《ふきあげ》と呼ばれている城内の一角に、竹千代は侍臣を遠去《とおざ》け、ぽつんと立っている。  千姫は近づいて、声をかけた。 「お喜びを申し上げに参りました」  竹千代が頭を下げた。 「竹千代は、将軍の器《うつわ》でございましょうか」  少年の心細さが、声のすみに滲《にじ》み出ていた。 「大御所様の築かれた徳川の世を、竹千代が守り抜けるか……」 「若君に、その御器量があればこそ、大御所様は、竹千代君をと仰せられたのではございませんか。若君にはいつも大御所様のお心がついて居ります。良い御側近もお持ちではございませんか。あとは一日一日、御自身をお磨きなさいませ」 「姉上……」  竹千代が指した。 「あちらが、四谷《よつや》と申すところでございます。大御所様がこの城へはじめてお入り遊ばした時、人家は梅屋、木《ぼく》屋、茶屋、布屋の四軒だけで四つ家原と申したと、本多正純が教えてくれました。今は、見る限り多くの家々が建ち並んで居ります」  若々しい声に、千姫もうなずいた。 「仰せの通りです。この江戸の人々はおろか、日本国中の人々が、やがて若君の采配《さいはい》の下で働くようになりましょう。その日のために、若君は心たのもしくおなりなさらねば……」 「姉上は……」  突然、竹千代の声が変った。 「本多家へ嫁がれるのでございましょう」  祝いをいうのかと、千姫が思っていると、いきなり竹千代の目から涙があふれ出した。 「竹千代は、いつまでも、姉上に傍《そば》にいて頂きとうございます。竹千代が今少し、大きければ、忠刻ごときに、姉上をお渡しはせぬものを……」  それは、少年の姉に対する恋の告白であった。  姉でなければ、女として千姫を愛したいと竹千代が考えているのを、千姫のほうは、単に弟が寂しがっていると理解した。 「どこへ参りましても、私は若君を忘れは致しません。お気を強く思し召して……」  竹千代は姉の手を取った。柔かい白い千姫の手を頬《ほお》に押し当てて、泣きに泣いた。  午下《ひるさが》りの江戸城吹上のお庭は、ひっそりとして、音が消えている。  播磨の姫君     一  慶長《けいちよう》二十年は七月十三日をもって元和《げんな》元年と改元され、そのあたりから、大坂《おおさか》方の浪人が諸大名へ奉公することが許されるようになった。  五月の大坂落城から二か月目の、この措置は、一つには大坂方の残党狩が一段落して、もう大物は根だやしにされたせいともいわれたが、本当のところは、どこかに今も生きて身をひそめている豊臣秀頼《とよとみひでより》の存在を信じて、再挙の日のために、各々、集団となって巷《ちまた》にかくれ住むのを防ぐためだといわれた。  実際、秀頼生存説は殊に西の方面では強くささやかれていて、徳川家康《とくがわいえやす》がそれを打ち消すように、諸国の社寺へ梵鐘《ぼんしよう》を寄進し、天下泰平を祈念し、大坂での戦の死者の霊を供養しても、京大坂では、 「淀《よど》の御母公はともかく、秀頼様は御無事だそうじゃ。狸親爺奴《たぬきおやじめ》、いずれは寝首をかかれるぞ」  とか、 「歿《なくな》った太閤《たいこう》殿下の神罰が、徳川家に下って、さまざまの怪異があるそうだ。その証拠に、徳川将軍の江戸では、大地震が起って家屋が倒れ、大勢の人が死んだ。家康の命とて、そう長くはあるまいぞ」  などといった流言が、夏から秋へ、更には元和二年になっても、一向に下火にならなかった。  しかも、新しい年のはじめに、京の社寺に何者とも知れぬ一団が、家康調伏の祈願をこめた呪《のろ》いの御符を貼《は》って廻《まわ》るという事件が起った。  朱文字で「家康調伏」と書かれたそれは、裏白の矢羽根をつけた鏑矢《かぶらや》をもって柱や屋根に射込んであったり、拝殿や祈祷所《きとうしよ》に貼りつけてあったりで、神官や僧侶《そうりよ》が慌てて取り除いても、噂《うわさ》は忽《たちま》ち世上に知れ渡った。  そんな折に、家康病むの知らせが京大坂にも聞えて来て、世人はなんとなく不安げに顔を見合せ、さてこそ、豊臣家の祟《たた》りだとうなずき合った。  実際、駿府《すんぷ》城の家康は病んでいた。  鷹野《たかの》に出かけた駿府の在の田中《たなか》というところで気分が悪くなったといい、床についたのだが、老齢ということもあって、はかばかしく快癒しない。  大体、家康は自分で薬を調合するのが好きで、今までにも大抵の病いは、その薬で治ったというのが自慢だったが、今度ばかりはそうも行かず、侍医の手当てを受けていた。  江戸からは、将軍|秀忠《ひでただ》自ら、駿府まで見舞に訪れたのだったが、その折、たまたま、やはり桑名《くわな》から、悴《せがれ》の忠刻《ただとき》を伴って駿府へ来ていた本多忠政《ほんだただまさ》の妻、ゆう姫と対面することになった。  前にも書いたが、ゆう姫は家康の孫だから、秀忠とは叔父《おじ》と姪《めい》の間柄になる。  家康は病床にあって、千姫《せんひめ》の本多家|輿入《こしい》れは、必ず、この春の中《うち》にと、強く希望した。 「わしの身になにがあろうとも、お姫は春の花の散らぬ中に、桑名へ嫁入りをさせるように。花の盛りは短い、若い者をいたずらに待たすは酷じゃ」  更に、ゆう姫と忠刻が退出したあとで、家康は、秀忠を近づけて訊《たず》ねた。 「坂崎出羽《さかざきでわ》の儀は、如何《いかが》か」  千姫が大坂城を抜けて、徳川本営へ使者としてたどりついた時、途中からその案内をして来た功によって、秀忠から千姫再縁の相手を探すよう命じられ、朝廷の公卿《くげ》衆の間を廻《まわ》って、冷泉《れいぜい》家に縁のある若者を候補に立てて来たことは、家康の耳にも入っている。 「坂崎には、少々、不愍《ふびん》とは存じましたが、冷泉家の件はなかったものにせよと命じましたところ、屋敷にひきこもって出仕を致さなくなって居ります」 「不承知と申すことか」 「武士として面目を失ったことへ、抗議の心もあろうかと……」  将軍家一の姫の再縁の相手をみつけるという名誉を与えられながら、良い相手を取り決めて来たら、それはなかったことにせよ、では、自分の立場がない。京の公卿衆に対して、今更、いいわけも出来ないというのが、坂崎|出羽守《でわのかみ》のいい分であった。  困惑し切っているような秀忠に対して、家康は低くいった。 「いいわけが立たねば、切腹するがよい」 「なんと仰せられます」 「武士の面目が立たねば、死ぬがよいと申したのじゃ」 「しかし、それはあまりに……」 「お姫の幸せをはばむ者は殺せ。邪魔者を取り払うて、お姫を本多家へ輿入《こしい》れさせることじゃ」 「さほど、千姫をお慈しみですか」  秀忠の言葉に、家康はふと目を閉じた。 「お姫をみていると、わしは三つの齢《とし》に別れた時の母上を思い出すのじゃ」  家康の生母は、お大《だい》の方といって水野忠政《みずのただまさ》の娘であった。水野家というのは、三河《みかわ》国|碧海《あおみ》郡|刈屋《かりや》のあたり一帯に勢力を持っていた豪族だったが、当主、忠政の死後、お大にとっては異母兄に当る信光《のぶみつ》が織田信秀《おだのぶひで》と接近し、家康の父、松平広忠《まつだいらひろただ》と絶縁することになって、お大の方は夫や子と別れ、十七歳で婚家の刈屋へ戻された。その上で、尾張《おわり》国|知多《ちた》郡|阿古屋《あこや》の城主、久松佐渡守俊勝へ再縁させられた。 「僅《わず》か十七歳で、夫と子と別れた母上は、わしが後に織田家に捕われの身となった時、心をこめて縫われた衣服や、菓子などをひそかに届けて下された。今川《いまがわ》家の人質となってからも、時に触れ、ことに寄せて母の慈愛の品を受け取ることが出来た。幼い孤独の身に、どれほどの心の支えであったか。わしが母上に対面出来たのは十九歳の時、今川どのの上洛《じようらく》の際、周囲の者のはからいで、ひそかに阿古屋の城へ入って、まぼろしの母上にお目にかかることが出来た。その折のことは、この年になっても、まだ夢にみる」  秀忠は、老いた父の瞼《まぶた》に滲《にじ》むものをみた。  父の母に当る、その人のことは、これまでにも、どれほど聞かされて来たか知れなかった。秀忠自身が、その祖母に会ったのは、豊臣秀吉が歿《なくな》って間もなく、伏見《ふしみ》城にいた家康が、お大の方を呼び寄せて以来のことで、祖母は七十を越えていた。父、家康がどれほど、この老いた母に孝養を尽したか、慶長七年の秋、七十五歳で歿るまで、家康の母思いは家中の語り草になったほどだ。  が、その母の若き日と、孫娘千姫を、家康が重ね合せて考えていたというのは、今日初めて知ったことであった。 「御所……」  と家康は秀忠を呼んだ。 「どうか、お姫には亡き母の如《ごと》き悲しみを二度とさせぬように、お姫が本多忠刻に恋をしているのは衆目の一致するところじゃ。平八郎《へいはちろう》は良い男じゃ。お姫の幸せは桑名へ嫁ぐことだとわしは信じて居る。そのためには、なにをしてもよい。坂崎は殺せ。お姫の幸せのさまたげとなる者、一人たりとも生かしてはならぬ」 「承知 仕《つかまつ》りました。必ず、仰せの通りに致します故、もはや、お案じなく……」  その夜を境にして、家康の病状は医師が驚くほど回復にむかった。食欲はまだ、さほどではなく、脈が結滞《けつたい》することがあると、江戸から来ていた医師|半井驢庵《なからいろあん》は心配していたが、家康自身はすこぶる元気そうで、秀忠が駿府に到着した翌々日の二月四日には、側近の金地院崇伝《こんちいんすうでん》や藤堂高虎《とうどうたかとら》などと共に納豆汁を食べたりした。  家康についている阿茶局《あちやのつぼね》は、どうも、そうした家康の上機嫌は、秀忠が早速、江戸城の留守居役として残して来た本多|正信《まさのぶ》に対して、坂崎出羽守の処分を書状をもって内々に命じたと家康に対して報告したことにもよるのではないかと眺めていた。  何故《なぜ》なら、その日、家康は机にむかって、千姫|宛《あて》の手紙を久しぶりに書いていた。  それには、   この春の御慶事は本当によろこばしいことで、なによりもめでたく思うて居ります。そちらも息災の由、めでたいことです。わたしも、元気になったので安心して下さるように、いつも、お心にかけられて、お見舞の文を下さるのを嬉《うれ》しく思っています。  などと書きつけてあり、また阿茶局に対しても、 「本多家には聟《むこ》への引出物に、どの大刀《たち》をつかわそうかな」  と相談したかと思うと、わざわざ秀忠を招いて、 「お姫の輿入《こしい》れに際しては、十万石の化粧料を忠刻につかわすようにせよ」  といったり、 「桑名もよいが、お姫の住むにふさわしい城には今一つもの足りぬ。なろうことなら、お姫を天下一の名城の北の方にしてやりたい」  などと、祖父|馬鹿《ばか》ぶりを丸出しにして話しかけたりしている。  で、阿茶局が、 「そのように千姫様のことがお気がかりでいらっしゃるなら、この際、千姫様を駿府にお呼びよせになっては如何でございますか。千姫様も大御所様の御病気をひどく御心配遊ばしていらっしゃるときいて居ります」  と水を向けると、 「いやいや、病み上りのお姫に長道中は無理じゃ。それよりも、この春の輿入れまでには今一段と元気になるよう、江戸の医師どもにいうてやるがよい。養生専一に、風邪《かぜ》などひかせぬよう……」  まるで赤児に対するような気の使い方であった。  家康の文は、早馬で江戸へ届けられた。  千代田《ちよだ》城の奥御殿の千姫には、それより一足早く、忠刻の母、ゆう姫から、喜びの知らせが来ていた。  駿府で、家康がこの春の中に、千姫を桑名の本多家へ嫁入りさせよといったことについて、幸せの鳥が舞い下り来たようなと書いてあった。しかも、そのゆう姫の文には、もう一通、忠刻自身の恋文も封じ込まれていた。  男らしい力強い筆使いで、大坂落城から一年も経《た》たぬ中に、傷心の姫君にあまりに心ない申し出とお怒りをこうむるかも知れないが、自分にとっては、桑名の船上での一刻を忘れることが出来ず、一日が千日の思いで千姫との再会を待ちかねていること、毎夜、千姫の面影を瞼《まぶた》に抱いて眠りにつくことなど、抑えても抑え切れない情熱が文字の間にこめられた、その文を千姫は何度となく読み返し、胸をゆすぶられていた。  すでに、千姫の心も桑名に飛んでいた。  翼があるなら、このまま、大空に羽ばたいて、一路、忠刻の住む桑名の城まで天翔《あまか》けて行きたいと思う。  そうしたところへ、家康の文であった。  この春の慶事、と、はっきり書いてある。千姫は幸せで満たされた。  母のお江与《えよ》の方からも輿入れの衣裳《いしよう》えらびをと迎えが来る。  婚家の本多家の紋所を縫った立葵《たちあおい》の模様の打掛《うちかけ》や小袖《こそで》、春に嫁ぐ千姫のために、遣水《やりみず》を染めたり、桜を縫ったりと贅美《ぜいび》を凝らした嫁入り支度が長持に用意され、新しい化粧道具や夫婦が日常に使う膳《ぜん》や椀《わん》、鉢、桶《おけ》など、あでやかな塗り物が出来上ってくる。  そんな千姫の部屋を、竹千代《たけちよ》は時々、のぞきにやって来た。  千姫が新調の打掛などをまとってみせると、うっとりといつまでも眺めていて、やがて、少し寂しい顔をして帰って行く。 「若君は、千姫様のお輿入《こしい》れが近づくのが、お悲しいようでございますよ」  竹千代の乳母のおふくが、如何《いか》にも不愍《ふびん》そうに告げた。 「この頃《ごろ》は毎夜、おやすみ前に神仏に長いこと祈念をしていらっしゃいます。一つは駿府の大御所様の御回復を、もう一つは、千姫様のお幸せを……」  千姫には、そんな弟の心が嬉《うれ》しかった。  こんな出戻りの姉を頼りにし、親しみを持ってくれる。  千姫は自分が気に入っている帯の片すみを切って、それで守袋を作った。その中には「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」と名号を金糸で縫ったものを入れる。それを二つ作って、一つを竹千代に渡した。  姉と同じ守袋をもらって、竹千代は周囲があっけにとられるほどの喜び方をした。 「姉上と思って、いつも肌身を離しません。姉上も、その守袋を、どうか竹千代とお思い下さい」  そうした千姫の日常から、三帆《みほ》は離れた気持で暮していた。  無論、侍女として毎日するべきことをさりげなく勤めているものの、心はいつも上の空であった。寂しさと虚《むな》しさが、三帆をいつも暗く押し包んで、時にはその暗さに耐えられなくなる。そうすると、三帆は父の形見の笛を取り出して吹いた。  その笛の音さえも、日々、細々となる。  千姫が三帆をみつけた時も、彼女は笛を吹いていた。  奥御殿の庭に最近、建てられた茶室の縁側に腰をかけている三帆に近づいて、千姫は暫《しばら》く、その音を聞いていた。  なんという悲しい曲なのだろうと思った。  まるで、血の涙を流して泣いているようだと、千姫は吹いている三帆の後姿をみつめた。  明らかに、その背が泣いていた。やがて、ふっと笛の音が途切れる。 「三帆……」  侍女を遠去《とおざ》けてから、千姫は彼女に声をかけた。 「そんなにつらいことがあるのなら、どうして、私にいってくれないのです」  三帆は千姫をみないようにして涙を拭《ふ》いた。 「千代田のお城が、そなたにとって住みよい場所とは思いませんでしたが……」  豊臣家の重臣、速水甲斐守《はやみかいのかみ》の娘であった。  三帆が低く、口を開いた。 「私にとりましては、どこへ参りましても、住みよい場所などございません。炎の中に焼け落ちた大坂のお城も、只今《ただいま》では徳川様のお手で、新しい御普請が始まっているとやら、聞いて居ります」  せい一杯の皮肉のようであった。  この娘の体には、豊臣家滅亡の怨《うら》みがしみ込んでいる。心ならずも豊臣家と運命を共にすることなく、実家へ帰って安穏に暮している千姫に対して、三帆がいいようのない怒りを感じているのもわからないではなかった。  だが、千姫はもう一つのことを見落していた。  三帆の胸中にある、彼女自身もどうしていいかわからない、莫《ばく》とした敵意であった。それを追いつめて行くと、嫉妬《しつと》という文字が浮び上って来る。  それが、間もなく自分が夫とする筈《はず》の本多平八郎忠刻という男を対象とするものだとは、その時の千姫には思いもよらないことであった。  で、今もいった。 「そなたの将来のことについては、私も随分、思案しているのです。阿茶局は、そなたほどの器量なら、どんな家にでも嫁《かた》づくことが出来る。まかせてくれるなら、仲立ちをさせて欲しいというて下さるのですよ」 「私は、徳川家の御家来衆の許《もと》には嫁ぐ気持はございません」 「では、豊臣家恩顧の諸大名の家中ならば……」 「まっ平でございます。豊臣家の御恩を忘れて、徳川様のお味方についた大名など……」 「そういうのではないかと思っていました」  三帆の言葉に、千姫は苦笑した。腹も立たない。自分にしても、相手が本多平八郎でなかったなら、三帆と同じことをいったに違いないと思う。 「では、どうします。私と一緒に桑名へ行ってくれますか」  三帆が唇を噛《か》みしめた。 「そなたの気持は、誰《だれ》よりも私が知っているつもりです。そなたが、私に腹を立てているのも承知です。大坂落城から一年にもならぬ中に、再縁することを喜んでいる私に、三帆は怒っている筈《はず》です」  三帆が顔を上げた。 「仰せの通りでございます。三帆には合点が参りません。あれほど、淀《よど》の御方をお慕い遊ばし、秀頼君を愛《いと》しゅう思《おぼ》し召して居られた姫君が、何故《なぜ》、お心変りをなされたのか」 「桑名で、あのお方にお目にかからなかったら、私は尼になっていたでしょうね」  静かな調子であった。 「どんなに勧められようとも、強いられようとも、どこへも嫁ぎはせず、ひたすら、亡き方々の御菩提《ぼだい》をとむろうて、一生を過したと思います……」 「そうして下さいまし」  哀願の声であった。 「三帆も御一緒に髪を下します。生涯、お傍《そば》を離れません」  千姫が千代田城の庭の上に広がっている空を仰いだ。 「お千が恋をしてしまったのを、三帆は知っているのでしょう。あの方にお会いした時から、お千はこの世に未練が出来てしまったのです。生涯に一度の恋を成就させたくなって、そのためには命を賭《か》けてもいい」 「生涯に一度の恋とおっしゃいますのか」 「ええ」 「では、秀頼様は……」 「申しわけのないことながら、あれは恋ではなかった。兄上のような……親しい……でも、恋ではなかった……平八郎様にお目にかかって、それがよくわかりました」 「御|卑怯《ひきよう》です」  三帆が声をふりしぼった。 「それでは歿《なくな》ったお方が、あまりにもお気の毒でございます」 「お詫《わ》びは、あの世へ行って申します。でも、お千の心の中には、もう、あの方しか住んでいない。平八郎様だけが、お千の命になってしまって……」 「お見苦しいお方です。姫君は色好みの、恥知らずなお方です」  激しすぎる言葉を、三帆は激しいとも思わず、千姫に叩《たた》きつけた。 「三帆は情のうございます。三帆がお仕えした千姫様が、そのようなお方であったとは……くやしくて泣くにも泣けません」 「なんとでもいうておくれ。どんなにさげすまれても、私には返す言葉がないのです」  早春のまだ冷たさを含んだ大気の中で、千姫の言葉はなよやかだったが、なにも寄せつけない強さがあった。 「どのようなそしりを受けようとも、私はあのお方を恋しています。あのお方の妻となる日が一日でもあったら、そのあとは八つざきにされようとも、火あぶりになろうとも、後悔はありません」 「姫君」 「平八郎様にお目にかかる日のことを思えば、針の山も越えて行きます。血の川も渡りましょう。お千は、そう思う女になってしまったのです」  三帆は、茫然《ぼうぜん》として千姫をみつめた。一つしか年の違わないその人が、急に十歳も二十歳も、年長の女にみえる。  敗北感に、三帆は打ちのめされた。  本多平八郎は、この人を愛したのだと思った。炎の中に絢爛《けんらん》と咲いたひなげしのような女の前には、片すみにひっそり見上げているような路傍の花が目にとまるわけがない。  あきらめの中で、三帆は残った力をふりしぼるようにして叫んだ。 「もう、なにも申しません。姫君は姫君のお好きなままに、お生きなさいませ。三帆がどうするかは、私が決めます」 「出来ることなら、一緒に桑名へ来て欲しいのです。そなたと別れるのはつらい。まして、落城の折の、そなたの父、速水甲斐守の姿を思うと……せめて、傍《そば》にいてもらいたいのです。どんなに憎まれても、怨《うら》まれてもかまいません。そなたと離れて行くのは、心がかりで……」  涙を、三帆は咽喉《のど》の奥に飲み込んだ。 「考えさせて頂きます」  千姫の足音が遠去かってから、三帆はゆっくり顔を上げた。緩慢な動作とは裏腹に心は激しく動揺していた。  どうしよう、と思う。  千姫が桑名へ嫁入りしたあと、自分の行き所がなかった。  一番、簡単なのは出家することであった。  髪を下して尼になるといえば、千姫はどこか、ふさわしい尼寺を三帆のために紹介してくれることだろう。  静かな山の中の寺にでも入って、亡き人々の冥福《めいふく》を祈りながら、読経三昧《どきようざんまい》の毎日を過す自分を考えて、三帆はぞっとした。  あまりにも、わびしすぎると思う。二十歳にもならない中から、そんな世捨人の暮しを死ぬまで続けるとしたら、自分の一生はなんだったのかと悲しくなってくる。  千姫に出家を勧めながら、自分にその決心がつかないのは情ないことであった。  その気持の奥には、本多平八郎と睦《むつ》まじく暮している千姫の姿が浮んでいる。千姫と二人、寂しい草庵《そうあん》の生活ならまだしも、彼女のほうは華やかで女の幸せに満ちた新しい人生が開かれているのに、何故《なぜ》、自分だけが灰色に包まれていなければならないのかと怒りさえおぼえる。  まして、千姫の隣に並ぶのが、本多平八郎忠刻と思うと、三帆は居ても立ってもいられない気持になった。  京の夜更けの辻《つじ》で、やさしく自分に声をかけてくれた馬上の平八郎を、鈴鹿《すずか》の山越えで路上から行列に会釈をした忠刻を、そして桑名の海上で、甲板を走り廻《まわ》る船夫を指揮していたその人のさわやかな声音を、瞼《まぶた》の中に思い浮べて、三帆は体を慄《ふる》わせた。  あの人が、千姫様の聟君《むこぎみ》になる。  神も仏も呪《のろ》いたいというのが、三帆の本心であった。  本多平八郎に出会ったのは、自分のほうが千姫より先ではないかと考える傍から、ふと、平八郎は自分をおぼえていなかったことに思い当った。  船の上で、忠刻は一度だけ、三帆に声をかけた。  海上に月が昇ったことを、千姫に伝えてもらいたいといったのだが、その時も忠刻の様子には三帆を、以前、京の辻で助けた女と意識したところはなかった。  無理もない、と自らを慰める。夜の暗い中で、たった一度、出会っただけの女を、本多家の若殿が記憶している筈《はず》もなかった。  忠刻が愛したのは千姫であった。大坂の北の方と呼ばれた女性が、落城で夫を失い、傷心の体《てい》で実家へ帰って行く姿に、忠刻は惹《ひ》かれたのかと思う。如何に天下一の美貌《びぼう》の姫とはいえ、一度は他の男の妻であった女に、平八郎は思いを寄せた。  そのことが、三帆には無念であった。  美しさでは、千姫に劣るかも知れないが、自分の体は清らかだと誇りたかった。  むらむらと、敵愾心《てきがいしん》が湧《わ》いていた。  千姫が本多忠刻に嫁ぐなら、自分もついて彼の許《もと》へ行こう。傍近《そばちか》く仕えることが出来れば、いつか、京の出会いを打ちあける日もあろう。忠刻に接近して、いつか、必ず、彼の心を自分に向けさせる。すべてを賭《か》けて千姫から平八郎を奪い取ろうと思いついて、三帆は、かすかな微笑を浮べた。  僅《わず》かとはいえ、自分のほうが千姫よりも若い。そして、まだ無垢《むく》であった。  翌日、三帆はあたりに人のいない時をみはからって千姫の前に出た。 「まず、昨日のこと、お許し頂きとうございます」  悪びれずに手を突いた三帆を、千姫は不安そうにみつめた。 「お千は立腹なぞ致して居りません。そなたの申したことは、一々、もっともであった。昨夜も、それを考えて……」 「姫君……」  優しく遮《さえぎ》った。 「どうぞ、なにも仰せなさいますな。三帆は姫君のお出《い》でなさる所なら、どこへなりとついて参ります。どうぞ、いつまでもお傍へおいて下さいませ」 「一緒に桑名へ行ってたもるか」  嬉《うれ》しい、と千姫は三帆の手を取った。あたたかい千姫の手が、ひんやりした三帆の手に重ねられた。 「約束ぞ。三帆、必ず、約束ぞ」  掴《つか》まれた手をそのままに、三帆は千姫と目を見合せて笑った。心の奥をひたかくしにした、表面だけの笑顔を作ることを三帆は初めておぼえたようであった。     二  千姫の桑名への輿入《こしい》れをたのしみにしていた家康は二月中、病状が一進一退で、秀忠をはじめとして、尾張義直《おわりよしなお》などの一族、金地院崇伝《こんちいんすうでん》、側近の大名までもが駿府にあって、その容態を見守っていたのだが、三月になってやや悪化の状況がみられるようになった。  そのこともあって、かねて朝廷から家康に対して「太政大臣《だいじようだいじん》」の極官を贈るという内々の思し召しが急に具体化し、病床の家康も拝受すると返事をしたので、その旨《むね》を三月十七日、駿府に見舞に来ていた伝奏《でんそう》の広橋兼勝《ひろはしかねかつ》と|三条西 実條《さんじようにしさねえだ》が京へ報告した。明らかにはいえないが、とにかく生きている中に、太政大臣の栄誉をということだったが、家康の病状はそれをきっかけに又、もち直した。  十九日には起きて歩いてみせるほどに元気になり、食欲も出て、二十五日には京から太政大臣の正式の任命の使が駿府に来て、二十七日、装束をつけ、家康は宣命《せんみよう》の授与の式を行った。  諸大名は二十八日、太政大臣昇任の祝いに駿府城へ出仕し、家康は機嫌よく、その祝賀を受けた。  しかし、それが家康の最後の晴れ姿であった。  四月に入ると、もはや周囲の者には、不安の色がかくせなくなり、家康自身も死期を悟ったようで、老臣、諸大名に指示をしたり、金地院崇伝、南光坊天海《なんこうぼうてんかい》、本多上野《ほんだこうずけのすけ》介正純《まさずみ》を呼んで、死後のことについての遺言をし、四月十七日、七十五歳で死去した。  遺体はその日の中に遺言に従って久能山《くのうざん》上の城へ移され、神として埋葬された。  駿府はもとより、江戸、千代田城も憂愁に包まれ、諸大名も喪に服して、その夏が終ろうとする時、秀忠は大御所様御遺言と称して、千姫を本多忠刻へ輿入れさせることを公けにし、九月十三日その行列は慌しく江戸を発《た》って桑名へ向った。  そして、桑名城で、千姫と本多忠刻の華燭《かしよく》の典がとり行われて後、人々の耳目を驚かしたのは、坂崎出羽守が乱心のため、家臣によって殺害されたが、将軍家の格別の思し召しをもって、坂崎の家は取り潰《つぶ》しにならずにすむらしいということであった。  桑名城にあった千姫は、無論、そのことを知らなかった。  忠刻との初夜で、千姫は、はじめて自分の女が花開いたように思った。  夫の愛撫《あいぶ》に我を忘れ、取り乱し、慎みをかなぐり捨てて絶叫する夜が重なって、千姫はさながら牡丹《ぼたん》の花のようなあでやかさであった。  若い夫婦の蜜《みつ》のような毎日に、舅《しゆうと》の本多忠政も、姑《しゆうとめ》 のゆう姫も安心し切っていて、桑名城は一段と華やかになった。  その中で、三帆は常にまめまめしい千姫の侍女であった。  身近に仕えていれば、夫婦のあられもない姿をかいまみることもある。  三帆は目を逸《そ》らさなかった。  夫婦のなにもかもを知ることで、自分の心を強くしなければと思った。  羞恥《しゆうち》に耐えることも、嫉妬《しつと》を抑えることも巧みになったし、自分の感情をとりつくろう術《すべ》にも馴《な》れた。  秋、本多家は将軍秀忠より姫路《ひめじ》へ国替えを拝命した。  桑名は街道の要所だが、十万石であり、姫路は西方への備えの意味もあって、徳川家の重臣の中でも、とりわけ将軍の信任の厚い者の所領とされた。こちらは、播磨《はりま》姫路十五万石であり、白鷺《しらさぎ》城と呼ばれる美しい天守がある。  更に、千姫の化粧料として十万石を忠刻に与え、 「何事も、東照《とうしよう》大権現《だいごんげん》様の御遺命である。白鷺城は、千姫にふさわしい名城、本多家によって、より美しい播磨の城に仕立て上げるように……」  との御沙汰《ごさた》があった。  国替えは翌年早々のことで、本多家は桑名から播州《ばんしゆう》姫路へ移り、忠政は若い夫婦のために西の丸と武蔵野《むさしの》御殿と呼ばれるようになる新しい建物を造ったが、どちらも伏見城の一部を移した豪華なもので、それもすべては生前に家康が孫娘への祝いとして、秀忠に指示しておいたことであった。  もともと、姫路城は元弘《げんこう》三年に赤松《あかまつ》氏によって縄張りをされたと伝えられ、その後、およそ二百五十年も経って、秀吉《ひでよし》が入って三層の天守を築いた。が、現在の美しい白鷺城に姿を変えたのは、池田輝政《いけだてるまさ》によってであった。  なによりも、この城を優美にみせているのは、輝政によって改築された天守で、一つの大天守に三つの小天守を連結させ、それを白漆喰総塗籠《しろしつくいそうぬりごめ》造りに仕上げたので、青空にくっきりそびえ立つ白い城は、城の名の白鷺が羽を広げて舞っている姿を連想させる。  けれども、白鷺城の名は、その外観のせいではなくて、もともと、この城のあった姫《ひめ》山は、別名、鷺《さぎ》山と呼ばれるほど、五位鷺《ごいさぎ》が数多く棲息《せいそく》していたことに由来するともいう。  その白鷺城は更に本多家によって、播磨の姫君と呼称されるようになった千姫にふさわしい華やかで、雅《みやび》な城に完成されたのであった。  武蔵野御殿での忠刻、千姫夫婦は、更に睦《むつ》まじさを増した。  鷹狩《たかがり》に出かける忠刻を、千姫が天守に上って、いつまでも見送って居り、その千姫にむかって、忠刻が馬上から弓を高くあげて合図を送ったりというのを、家臣はもう見馴《みな》れてしまって、忠刻の側近の猪熊仙兵衛《いのくませんべえ》などは、 「どうも、若殿の狩のお供は閉口でござる。雉子《きじ》一羽射ようとすれば、あれは母鳥かも知れぬ故、殺すな、鹿《しか》を追い出せば、山の巣には妻が帰りを待っているであろうから、そのまま放て、と仰せになる。それでは、なんのための狩かわかりませぬぞ」  と苦情を述べた。  その頃、千姫はみごもっていたのである。  はじめて妊娠した妻に忠刻は細やかな心遣いを欠かさなかった。  狩に出れば、獲物の代りに、野の花を摘んで来て、手ずから壺《つぼ》に挿して居間の棚においたりする。  食膳《しよくぜん》も滅多なことがない限り、夫婦さしむかいで摂《と》るので、千姫の食が細いとみると、妊婦が好みそうな桃や瓜《うり》などを、賄方《まかないかた》に命じて取り寄せるといった、やさしい夫ぶりであった。  その日も、忠刻は仙兵衛等を従えて、海へ出かけた。豊漁で、鯛《たい》を何匹も釣り上げ、鮑《あわび》や、栄螺《さざえ》なども籠《かご》一杯に捕えて来て、ひとしきり千姫にもみせ、本丸へも披露に行った。  戻って来て、潮風にしめった衣服を脱ぎ、湯あみをする。そういう時、千姫は必ず忠刻の着替えを持って湯殿へ行き、夫の世話を侍女にまかせないものだったが、流石《さすが》にこの頃は身重の体が不自由で、なにもかも自分がというわけには行かなくなっていた。  で、三帆にその役目が廻《まわ》って来た。  湯殿では、宮本三木之助《みやもとみきのすけ》が忠刻の背中を流していたが、やがて終えて出て行った。  着替えの用意をして、三帆は板の間でひっそりと待った。  が、急に、 「そこにひかえて居るのは、お千か」  と声が湯殿からかかった。 「いえ」  三帆はつつましく、いくらかかすれた声で応じた。 「三帆にございます。奥方様にはお居間にお待ちなされてでございますが……」 「それはよかった。身重の体で板敷は冷える故、先日より気にしていたのだ」  湯を上る気配がして、三帆は木綿の小袖を広げた。  板戸を開けて忠刻が出て来る。背をむけたところへ、三帆は小袖を着せかけ、素早くその上から忠刻の体を拭《ぬぐ》った。つまり、木綿の小袖《こそで》が、手拭《てぬぐい》がわりとなる。何枚か小袖を代えてから、肌着を着せかけ、下帯を渡し絹布の小袖、帯と、うつむいたまま介添をつとめる。 「そなた、いくつになる」  若い女と二人きりでいるのが、気づまりだったのか、忠刻が訊ねた。 「ちょうどになりまする」 「二十《はたち》か」 「はい」 「成程、それで奥が案じていたのか」  千姫が、三帆の縁談について相談したと忠刻はいった。 「そなた、速水甲斐守の娘だそうじゃな」  そんなことまで、千姫は夫に打ちあけていたのかと、三帆は不快になった。 「身分から申しても、器量、心がけをいうても、本多家の家中の主だった者の嫁として、この上もない。どうじゃ、わしが仲立ちを致そう。誰ぞ良い男がいたら、添うてみる気はないか」 「おそれながら……」  三帆はうつむいたまま、小さく答えた。 「若殿の仰せ、まことにありがとうは存じますなれど、その儀ばかりはお許し下さいますよう……」 「何故《なぜ》じゃ」 「三帆は、どなたのところにも嫁入りする気はございませぬ」 「そのわけは……」 「申し上げられませぬ」 「まさか、男嫌いではあるまいに……」 「お許し下さいまし」  忠刻の背に廻《まわ》って、帯を締めた。 「そのようなお話より、三帆は、一度、若殿に申し上げたいことがございました」 「なんじゃ」 「申し上げても、ようございますか」 「かまわぬ、いうてみよ」 「若殿には、大坂落城の年の夏、京の辻《つじ》にて、一人の女子《おなご》をお助け遊ばしたことがございましょう」 「大坂落城の年の夏……」 「夜の町に、女一人、途方に暮れて居りましたところを、若殿が馬上から、お声をかけて下さいました」 「思い出した」  忠刻が微笑した。 「何者かと問うてみたら、二条城におわす千姫様の侍女と答えた故、仙兵衛に送らせたものだが……そうか、あの時の女がそなただったのか」 「おぼえてお出ででございましたか」 「どこやらで会うたことがあるようなと、桑名の船の上にて、そなたをみた時、思うたのは、その故であったか」 「おそれ入ります。その折のお礼を申し上げたく、つい、不躾《ぶしつけ》を申しました。何卒《なにとぞ》、御容赦下さいますように……」 「いや、話してくれてよかった。奥はそのことを存じて居るか」 「その折は陣羽織の紋所を拝見したのみにて、本多平八郎様とは気づきませず、それ故、奥方様にも申し上げて居りませぬ」 「予から話そう。奥も驚くであろう」  そちも参れ、といわれて、三帆は忠刻のあとから居間へ入った。 「世の中に合縁奇縁と申すが、三帆から面白い奇遇を聞いたぞ」  忠刻が千姫に三帆の話をそのまま語り、千姫は素直に喜んだ。 「まあ、三帆にそのようなことがあったとは、今まで存じませんでした。ようこそ、お助け下さいました。私からもお礼を申し上げます」 「それにしても……」  と忠刻が、ひかえている三帆に訊《たず》ねた。 「何故、あのような夜更けに、巷《ちまた》をさまよっていた。奥の使にでも参ったのか」 「それは……」  いいよどみ、三帆は意識的に千姫を眺めた。 「姫君の御存じないことでございます」 「私は二条城で病み伏して居りました。三帆は、いったい……」 「若君のお首を奪い返しに参ったのでございます」 「若君……」 「国松丸《くにまつまる》様の御首《みしるし》にございます」  千姫の顔色が蒼《あお》ざめた。  国松丸は豊臣秀頼が側室に産ませた若君であった。大坂落城の後、捕えられて六条河原《ろくじようがわら》で斬首《ざんしゆ》され、晒《さら》された。  三帆は、それを知って、せめて御首をとり返し、ねんごろに葬りたいと思って女だてらに夜の六条河原へ忍んで行ったものである。 「でも、若君の御首は見当りませんでした。その上、張り番の侍にみとがめられ、漸《ようや》く逃げて……」 「そうでしたか」  千姫が苦しげな吐息を洩《も》らした。  桑名から姫路へ移って、幸せにくるまれた毎日に、忘れるともなく忘れていた古傷をえぐり出されたような面持である。 「殿に、お茶を……」  湯上りに茶を勧めるつもりで用意した炉のほうへ行こうとして、大きく体がよろめいた。 「危い」  すかさず、忠刻が千姫を抱きとめた。土気色になっている千姫をみて、三帆に命じた。 「医師を呼んで参れ。早く……」  三帆は走り出した。  長い廊下を侍女を呼びながら、居間から遠去かる。  一つ、思い知らせたという気持であった。  幸せの中に、冷水を浴びせた結果、千姫が流産でもすれば、この上もない。  きりきりと眉《まゆ》を釣り上げ、武蔵野御殿を行く三帆の顔は、美しい鬼であった。  瀬戸内の夏     一  元和《げんな》四年、千姫《せんひめ》は姫路《ひめじ》城で長女、勝姫《かつひめ》を産んだ。  男子出生ではなかったが、本多《ほんだ》家中の喜びは大きく、江戸《えど》在府中の忠政《ただまさ》の許《もと》には早馬で知らせが行った。  女は子供を一人産んだあたりが最も美しいといわれるが、母となった千姫は、傍《そば》に仕えている三帆《みほ》の眼《め》にも、嘆息《ためいき》をつきたくなるくらいに美しさを増していた。  千姫の母のお江与《えよ》の方は、お市《いち》の方の遺児の中で、一番、母親似だといわれていたが、その美しさは、どちらかといえば静的であり、人形のような雰囲気であった。  千姫は母ゆずりの美貌《びぼう》ながら、どこかに伯母《おば》の淀《よど》君に通じる天性の明るさを備えていた。  そのむかし、どんな地味な衣裳《いしよう》でも、ひとたび、淀君が身にまとうと、絢爛《けんらん》と華やかになり、それが法要の席であったとしても、淀君が着席すると、太陽がさし込んだように明るくなるといわれたものだったが、千姫にもそんなところがあった。  もともと、花のような姫君なのだと三帆は承知していたが、その花が、この頃《ごろ》は、露に濡《ぬ》れたようにしっとりと色香を増して、触れなば落ちんという風情《ふぜい》がある。  そうした妻に、忠刻《ただとき》が満足し切っているのも明らかであった。  千姫を本当の女にしたのは自分だという意識が忠刻にはあって、それが彼を自信に満ちた夫にしている。  しかも、二人の間に最初に誕生した勝姫は父親にそっくりであった。  愛らしいが、どこかきかぬ顔をしている。  忠刻の母のゆう姫は、そんな孫がとりわけ可愛《かわい》いらしく、一日に何度も武蔵野《むさしの》御殿へやって来る。 「お千どのは、長らく大坂《おおさか》でお育ちになったせいか、お好みが大変、雅《みや》びでいらっしゃいますことね。まるで、公卿《くげ》の姫君のようでございます」  と 姑《しゆうとめ》 のゆう姫が感心するように、千姫が江戸から持って来た調度類はすべて京好みであった。  それは、本多家へ輿入《こしい》れする時に新調したもので、殆《ほとん》どが千姫の好みであった。  どちらかというと、母のお江与の方の好みと千姫の好みは、まるで異《ちが》っていた。  遥《はる》かに千姫の好みのほうが高尚で、優雅であった。  それは、千姫が母よりも淀の方の影響を強く受けて育ったせいであった。  大坂城の淀の方の生活が万事京好みであったのは、彼女の側近にあった小野阿通《おののおつう》のせいだった、と千姫は 姑《しゆうとめ》 に話した。 「淀の母上は、小野阿通が御|贔屓《ひいき》でよくお傍《そば》にお召しになりました」  もともと、小野阿通は亡き徳川家康《とくがわいえやす》が孫娘である千姫につけて大坂へやった女であった。 「なんでも、よく出来る人で浄瑠璃《じようるり》をよい声で語ってくれましたし、碁も上手で淀の母上のお相手をして居りました。琴も茶の湯もお香《こう》も……」  ゆう姫もうなずいた。 「阿通どののことは、よう耳に致しました。今は京においでで、新上《しんじよう》東門院《とうもんいん》様にお仕えしているそうでございますよ」  新上東門院は、帝《みかど》の母に当る人であった。 「そうでしたか、阿通にはよく衣裳や重ねの色目のことを教えてもらいました」  本多家の若嫁になって三年、千姫は漸《ようや》く、大坂の頃の話を、屈託なく口に出すようになっていた。  歳月のせいでもあり、幸せな今の生活に安心しているためであろう。  が、三帆は違った。  千姫が大坂の頃の話をする度に、胸の奥が熱くなり、時には涙がこぼれそうになる。  それは、三帆にとって忘れ難い幸せの日々であった。  淀の方を中心にした大坂城、奥御殿の華やかな毎日を打ち砕いたのは、僅《わず》か一年の中《うち》に二度も起った徳川家との戦であった。  千姫は、その徳川の娘である。  あの戦がなかったら、父、速水甲斐守《はやみかいのかみ》も討死することはあるまいにと、三帆は涙をこらえ、悲しみを笛に托《たく》して吹いた。  もの寂しげな夕方、人目を避けるようにして笛を吹いている三帆を忠刻は知っていた。  その心の中になにがあるのかは知る由もなかったが、三帆の後姿が、いつも心細げで、たよりなげなことに、忠刻は少しずつ、惹《ひ》かれるものを感じていた。  けれども、忠刻は千姫の良き夫であった。はじめての子を成した夫婦の仲に、三帆の割り込む隙《すき》はまだなかった。  その年の夏、瀬戸内《せとうち》の海には海賊の跳梁《ちようりよう》が目立った。  徳川の天下が落ついて、経済社会は活気が戻っていた。  商売が盛んになり、諸国の物産が中央に集められ、取引が行われる。  瀬戸内海の航路は九州、四国、中国からさまざまの積荷を乗せて往来する船で賑《にぎ》わっていた。その中には平戸《ひらど》や博多《はかた》を経由して入って来る外来品を運ぶ船も少くはない。  そうした船をねらって海賊船が横行した。  被害が大きくなって来て、幕府は瀬戸内海沿岸の諸藩に通達を出し、海賊の実態についての調査を命じた。  本多家はもともと桑名《くわな》にあって海には強かった。姫路へ移ってからも、何|艘《そう》か御用船を持っている。  舟方の宰領をしているのは猪熊仙兵衛《いのくませんべえ》といって、かつて堺《さかい》の茶屋船に乗って、トンキン、ルソン、シャム、カンボジャへ渡航したことがあり、オランダ船の安針《あんじん》(航海士)から航海術を学んだ、いわば海の武士であった。  大男で腕力があり、一本気だから、気にくわない相手にはそれが上役であっても遠慮なく突っかかって行くが、どういうわけか、忠刻にはひどく心服していて、大殿忠政に懇願して、若殿付きにしてもらい、以来、忠刻の行く所、必ず、猪熊仙兵衛の姿があるようになった。  同じく忠刻の近習《きんじゆ》である宮本三木之助《みやもとみきのすけ》とは親子ほども年齢が違うのに、うまが合うというのか、始終、ああだこうだといい争いながら、おたがいに一目おいている。  忠政は桑名の頃から、舟方に関しては忠刻にまかせていたので、瀬戸内の海賊の調査は、忠刻の仕事になった。  なにしろ、海上での犯罪であり、襲われる船も、その船主がまちまちなので厄介であった。  忠刻の下知を受けた仙兵衛は、以前の船乗り仲間を通じて情報を集めて来たが、それは忠刻の予想以上のものであった。  海賊船の出没する場所は、最初、讃岐《さぬき》の丸亀《まるがめ》の沖、西北にかけての海上が多かったという。 「あの辺りは、小島が多くございます」  海賊船は島陰にかくれていて、通行の船へ襲いかかった。  が、近頃はむしろ播磨灘《はりまなだ》に出没するらしい。  多くの船がめざすのは大坂であり、その手前に播磨灘がある。  小豆《しようど》島と淡路《あわじ》島にはさまれたこの海域は大坂へたどりつく一足手前で、長い航海をして来た船ほど、ほっとする場所であった。  瀬戸内は、季節によっては霧が多く、うっかりすると小島に突き当りそうになって、楫取《かじと》りは肝を冷やすものだが、播磨灘へ出れば、そんなこともない。  順風に帆を上げれば、一息で大坂へ走り込む近さであった。 「大胆不敵としか申しようがございません」  仙兵衛が報告し、忠刻が眉《まゆ》を寄せた。 「捨ててはおけぬな」  播磨灘は文字通り、姫路の海であった。  陸地に近いところには、男鹿《たんが》島、家《いえ》島、西《にし》島の三島が並び、眼を西へ転じると赤穂御崎《あこうみさき》であった。  目前の海上で、殺戮《さつりく》が行われて、積荷が強奪されるとあっては、本多家の面目にかかわる。 「仙兵衛、海へ出てみるか」  とりあえず、海上を巡視して、もし、あやしげな船をみつけたら拿捕《だほ》してやろうと忠刻がいい、仙兵衛が勇み立った。 「久方ぶりに船に乗れますな」  それは、忠刻にとっても心の躍る思いであった。  もともと、海の好きな男達である。  忠刻が海上警備の船に乗るということを知って、千姫は顔色を変えた。 「危いことはございませんのか」  忠刻は豪快に笑った。 「商人達ですら、海賊を怖《おそ》れていては商売が出来ぬと船を出す。まして、武士が鼠賊《そぞく》を怖れてなろうか」  いわば、武士の出陣だといわれて、千姫は途方に暮れた。  忘れていた大坂の戦の思い出が甦《よみがえ》って来る。 「御心配なことはございません。たかが、海上の巡回でございます。万一、海賊共が現われましょうとも、我等が楯《たて》になって若殿をお守り申し上げます」  宮本三木之助が不安そうな千姫を慰めたが、そんな時、飾磨《しかま》港へ逃げ込んで来た堺《さかい》の船が、とんでもないことを報告した。  備前日生《びぜんひなし》の沖合で海賊船に襲われ、積荷をことごとく奪われたが、手むかいをしなかったので、乗っている者のすべてが命に別状はなかった。 「ですが、その怖《おそろ》しいことと申しましたら、この世のものとも思われません」  取調べに当った猪熊仙兵衛に、その船の人々が語ったところによると、 「むこうの船上には白地に黒く桐《きり》の紋所を染めた幔幕《まんまく》がみえまして、その中に怖しげな仮面をつけた人が三、四人、みな、鎧《よろい》を着て居りました。采配《さいはい》を振っていたのは黒糸縅《くろいとおどし》の大鎧を着用した大きな侍で、その脇《わき》に緋縅《ひおどし》の鎧をつけた武将らしいお方が床几《しようぎ》にかけて居られました。そして、船の舳先《へさき》には豊国《とよくに》大明神と書いた旗が何本も立ててあったのを見ましてございます」  という。 「豊国大明神と申せば、京の豊国神社に祭られて居る太閤《たいこう》殿下の御事……ひょっとして、これは豊臣《とよとみ》の残党ではございませんか」  と仙兵衛にいわれて、忠刻も桑名の海上に出没した船団を思い出した。  あれは、千姫が京から江戸へ帰る途中で、あらかじめ、板倉重昌《いたくらしげまさ》から使をもって、豊臣の残党が千姫奪回に動くかも知れぬ故、と注意を受けていた。  で、忠刻はまず、鈴鹿《すずか》越えに自ら行列の出迎えに行き、そこで、出会った豊臣方残党と思われる曲者《くせもの》どもを一人残らず斬《き》り捨てた。  更に用心のため、船にも万全の備えをしておいたところ、やはり、不思議な船団が追いついて来て矢を射かけ、船上にのぼって来たが、これも本多家の家臣によって退けられた。  その折、むこうの船の甲板に、やはり異様な仮面をつけた男達が乗っているのを、忠刻もみている。  瀬戸内の海や播磨灘で海賊を働いているのは、あの船団なのかと思い、忠刻は慄然《りつぜん》とした。  なんのために、彼等がこの姫路に近い海上を荒らし廻《まわ》っているのか、およそ想像が出来る。  もし、彼等がまさしく豊臣の残党であるならば、目的は姫路の白鷺《しらさぎ》城に住む千姫ではなかろうか。  とすれば、夫として妻の身にふりかかる火の粉は、なんとしても払いのけてやらねばならない。 「我が船には、戦いの用意を充分に致せ。手練《てだ》れの侍をよりすぐって乗せよ。弓矢、鉄砲の用意も怠るな」  忠刻に命ぜられるまでもなく仙兵衛は、すでにその準備を整えていた。船の漕《こ》ぎ手もよりすぐった者を揃《そろ》え、一人一人の身許《みもと》を丹念に調べた。  相手が豊臣の残党となると、どんな計略をもって、こちらに勝負をいどんで来るかわからない。  これはもう、海上を巡回して海賊を捕えるというものではなさそうであった。  敵のねらいは、本多家の兵船を誘い出し、その指揮をする忠刻の命を奪うことかも知れなかった。 「若殿の名代は、手前共がつとめまする。若殿は乗船なさらず、御城内に居られたほうがよろしかろうと存じますが……」  宮本三木之助がいい出したが、忠刻は笑って相手にしない。 「若殿の御気性では、乗るなと申し上げても、お聞き届け下さるまい。この際、自ら豊臣の残党を討って、後顧の憂いをなくそうと御決意のようじゃ」  仙兵衛たちもふるい立った。  一方で、忠刻は姫路城下の街道口に関をおいて不審な者を取締るように命じた。  白鷺城は天下の名城で、賊の忍び込む余地はあるまいと思ったが、武蔵野御殿にいる千姫を考えると、用心に越したことはない。  明日は飾磨《しかま》港から巡回の船を出すという日に、思いがけない獲物がその網にかかった。  大きな荷を背負った町人体の男で、関の役人が念のため荷の内身《なかみ》を調べようとすると、急に逃げ出したので、捕えたところ、男は舌を噛《か》み切って自殺した。  その男が背負っていた荷は、大きな絵馬であった。  書写《しよしや》山へ向う道を来たところから、書写山へ奉納するものではないかと思えたのだが、絵馬の図柄は船であった。航海の安全を祈願するので、別に珍しくもないが、その船の名前が豊国丸、願主の名がひでより、と読めて、役人は色めき立った。  直ちに仙兵衛を通じて、忠刻へ知らせが入った。 「ひでより、とな、まさか……」  絵馬を眺めて、忠刻が呟《つぶや》き、仙兵衛も三木之助も眉《まゆ》をひそめた。 「まさか、秀頼《ひでより》公が生きておわすとも思えませぬが……」  千姫の夫であった豊臣秀頼は大坂落城の際、山里《やまざと》の曲輪《くるわ》で自殺したとされているが、長らく生存説が巷《ちまた》でささやかれていたのも事実であった。  もし、海賊船に乗っていた、仮面をつけ、緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》を着た武将が、豊臣秀頼だとしたら、それを討つことは徳川家の侍として、この上もない手柄であった。  だが、千姫はどう思うだろうと、ひそかに忠刻は胸を痛めた。  愛し合って夫婦になったという自信はある。  しかし、忠刻が、最初の夫である秀頼を討ったと聞いた時、千姫がどう思うか。嫉妬《しつと》のために、前の夫を殺害したと千姫に推量されることは、忠刻の誇りが許さなかった。  暫《しばら》く思案して、忠刻は武蔵野御殿へ行った。  出迎えた千姫は蒼《あお》ざめていた。 「殿、本当のことでございましょうか、海賊船は豊臣家の残党共で、その采配《さいはい》を振るうのは秀頼様であるとか……」 「左様なことを、誰《だれ》がお耳に入れたのか」  千姫の傍から、三帆が手を突いた。 「お許し下さいまし。私が表の侍どもの話を聞きまして、驚きの余り、つい、奥方様に申し上げてしまいました」 「三帆をお叱《しか》りなさいませんように……」  千姫が忠刻にすがった。 「どうぞ、おかくし下さいますな。書写山へ向う街道にて捕えられた者の所持した絵馬の願主は、ひでより、と書いてあったとやら」  唇をふるわせている妻をみて、忠刻は心を決めた。 「それまで御存じなら仕方がない」  まず、三帆を下らせて、夫婦二人だけになった。 「三帆よりお聞きなされたことは、みな、事実でござる。ただし、真偽のほどはわからぬが……」  海賊船の首領が豊臣秀頼であっても、別人であったとしても、みつけ次第、討つ、と忠刻はいった。 「それが、徳川家四天王の一人、本多家の役目でござれば……」  うつむいている千姫に訊《き》いた。 「そなた、予を怨《うら》むか」  ええっ、と顔を上げた千姫に重ねていった。 「予が秀頼に討たれたほうがよいか、それとも、秀頼を予が討てばよいのか……」 「殿……」  咽喉《のど》を切り裂くような声であった。 「なんということを仰せられます」 「そなたの心が知りたい。二人の中、どちらが死んだらよいのか……」 「お千は、殿の妻でございます」 「しかし……」 「鬼のような女とお思いなされましょう。でも、お千の心は……たとえ、神仏にどのようなおとがめを受けましょうとも……この命、殿のものとお思い下さいまし」 「お千……」 「万一、秀頼様があの世から生きてお戻りなされても、お千は殿の妻でございます。八つ裂きにされましょうとも、殿の妻として死にまする」 「お千……」  ひしと忠刻が千姫を抱きしめた。 「心ないことを訊《き》いてしまった。許せ」  思いつめた千姫の眼から涙が流れ、それを忠刻は顔を寄せて吸った。 「予の妻だ。放しはせぬ」 「どこへも参りませぬ。お千は殿のものでございます」  狂おしく千姫がすがりつき、忠刻は本能のままに、そのたおやかな体を横たえた。  控えの間で、三帆は千姫の嗚咽《おえつ》に耳をすませていた。すすり泣きが苦悶《くもん》の喘《あえ》ぎに変り、やがて歓喜の叫びとなって尾を引くのを、無表情で聞いている。  忠刻が出て来たのは、半刻《はんとき》余りの後であった。  表へ戻る忠刻を、三帆は廻廊《かいろう》まで見送った。 「殿」  と、思い切ったように声をかける。 「お願いがございます」  忠刻がふりむいて三帆をみた。 「何事じゃ」 「明日の御乗船に、何卒《なにとぞ》、私をお供にお加え下さいますよう……」 「なんのためじゃ。軍船《いくさぶね》に女の用はない筈《はず》」 「おそれながら、若殿には、秀頼様の御顔を御存じでございましょうか」 「なに……」 「海賊船の首領が秀頼様であるかどうか、首実検の出来る者が、本多様御家中に居られましょうか」  漸《ようや》く、忠刻は三帆の真意に気がついた。 「そなた、海賊の首領の首実検に乗ると申すのか」 「必ず、お役に立とうかと存じます」  速水甲斐守の娘であった。  千姫に仕えて大坂城内にあり、豊臣秀頼は無論のこと、豊臣家の側近達の顔もよく知っている三帆ならば、海賊船の曲者《くせもの》を、あれは誰、これは何某と見分けることが出来るかも知れない。 「そなた、何故《なぜ》、そのようなことを申し出たのじゃ。ひょっとして海賊の一味の中には、そなたの父も生きて居るやも知れぬ」 「いいえ」  三帆は激しくかぶりを振った。 「父は落城の際、討死 仕《つかまつ》りました。もし、生きているとしたら、今日まで私に、なんのおとずれもないとは思えませぬ。どのような方法にても、生きていることを知らせようとする筈《はず》でございます。それがなかったのは、討死した証拠と存じまする」  言葉とは裏腹に、三帆は父の死を打ち消していた。  秀頼が生きているからには、必ず、父も生きている。  その思いは、大坂落城の夏、六条《ろくじよう》河原《がわら》へ斬首《ざんしゆ》された秀頼の遺児、国松丸《くにまつまる》の首を奪い返しに、女だてらに忍んで行き、番人にみとがめられた時、助けてくれた人の声につながっていた。  あの声は、父ではなかったのか。  そうした三帆の心中を、忠刻は気づかなかった。 「では、そなたは豊臣残党討伐に助力したいと申すのだな」 「はい」  きっぱりした返事であった。 「どうぞ、千姫様のお心の憂いをお取り除き下さいますように……」  表へ戻って、忠刻は仙兵衛と三木之助に三帆の申し出について話し、一緒に乗船させることを決めた。     二  本多家の船が飾磨港を出た日は、曇っていた。  灰色の雲が垂れこめて、今にも雨が降り出しそうな中を、船はゆっくり纜《ともづな》を解き、波のうねりの中へ漕ぎ出して行った。  仙兵衛がまず針路を西へむけたのは、先だって海賊船に襲われた船の人々が、その場所を、備前日生の沖といったこともあって、まず、小豆《しようど》島の北を通り、島をぐるりと廻って播磨灘へ出てから飾磨港へ戻ることになっていたからである。  赤穂御崎を通過する頃から、雨になった。  雨が降り出すと、海上は濃い霧がたちこめる。 「皆の者、油断すな」  忠刻自ら、号令し、侍どもは甲板から八方に目をくばり、仙兵衛は細心の注意を払って船を進めた。  ごく、たまに、海上を船が来るのに出会う。が、それは漁師の釣り舟であったり、霧を避けて近くの港へ入ろうとする船であった。  小豆島の西へ廻《まわ》ったところで、正午がすぎた。  霧のせいで、船脚は極めて遅い。 「笛を吹いてもよろしゅうございましょうか。じっとしていると、船酔いになりそうな気が致します」  三帆が仙兵衛にいい、仙兵衛はなんの気もなく承知をした。  自分にあてられた囲いの中へ入って、三帆は笛を吹きはじめた。  もし、この海域に横行する海賊船が豊臣家の残党の船であり、それに秀頼や父、速水甲斐守が乗っているとすれば、三帆の吹く笛の曲にはおぼえがある筈《はず》であった。  鶯宿梅《おうしゆくばい》と名付けられたその曲は、難曲であった。よほどの笛の名手でなければ教えを受けることが出来ない。  三帆は十五歳の時、師の許しを得て、その曲を習った。  以来、父の速水甲斐守は、娘の自慢もあって、よく鶯宿梅の曲を所望する。  千姫も秀頼も、三帆の吹くその曲を好んだ。  難曲だけあって、名曲であった。  美しく、変化の多い調べは独特のものである。  鶯宿梅の曲を吹くことで、三帆は自分がこの船に乗っているのを、父に知らせたいと願った。  三帆の乗っている船は、即《すなわ》ち、本多家の軍船であることを、父は悟るだろうと思う。  瀬戸内を荒らしている海賊が、果して豊臣家の遺臣であるのか、その首領が秀頼なのか、また、父、速水甲斐守が生きているのか、いずれも、伝聞ばかりで、雲を掴《つか》むような話ではあったが、三帆の気持はそれにすがりついていた。  父が生きていてくれたら、秀頼公が御無事であったなら、と喜びに慄《ふる》える心の奥に、その先にある修羅に怯《おび》える気持もないわけではない。  おびただしい血が流れ、その結果、どちらが勝っても、自分は新しい涙をこぼすことになるのだろうと考える。  しかし、今の三帆はそれらに目をつぶり、ひたすら、笛を吹いた、吹くことで自分をまぎらわせるより仕方がない。  小豆島を廻《まわ》ったあたりから風が強くなった。  雨に濡《ぬ》れた帆が重い音を立てている。  笛の音は風に吹き消される。  三帆は茫然《ぼうぜん》と暗い海を眺めていた。  船は波の間を進み、帆柱がきしんだ。  仙兵衛が船子に命じて、帆をなかば下している。  讃岐《さぬき》と小豆島との間の海は、播磨灘へ向って、かなりの速さで潮流が動いていた。  本多家の船はその潮の流れに乗って、ずるずると播磨灘へ押し流されて行く。  霧の中に船影がみえたのは、そんな時であった。  前方に黒く、どっしりした大船が、まるで本多家の船の行く手を遮るように立ちはだかっている。  忠刻の声が、三帆の耳に聞えた。  潮流に乗って流されて行く船を、船子達が必死で向きを変えようとしている。  それでも、双方の船はみるみる中に近づいた。  三帆は囲いを出た。  甲板の中央で忠刻が家来に命じ、厚い布をかぶせてあった大砲《おおづつ》を引き出させている。  この前の大坂の戦の時、徳川の陣中から大坂城めがけて打ち込まれた大砲よりも一廻り以上小型ではあったが、南蛮《なんばん》渡りの立派なものである。 「雨で火薬がしめって居ります」  大砲の係らしい侍が忠刻にいい、船底へ新しい火薬を取りに走って行った。  あんなもので、敵の船を撃つのかと、三帆は青ざめて、海上をみた。  こっちにそうした備えのあるのを知っているのか、むこうの船は悠々と近づいて来る。  甲板には篝火《かがりび》が赤く燃えていた。  まず、三帆の眼に映ったのは、白い幔幕《まんまく》であった。  豊臣家の家紋が黒く染め抜かれている。  更に、その前に飾られているのは、千成瓢箪《せんなりびようたん》の馬印であった。  だが、人の姿はどこにもなかった。  霧の流れている大きな船は、無人のまま、ゆらゆらと海上にただよっている。 「若殿、御油断なく」  三木之助の声がどこかで聞え、三帆は舳先《へさき》へ眼を移した。  そこには舷《ふなばた》をよじのぼって来た武者と本多家の侍とのすさまじい斬合《きりあ》いがはじまっていた。  本多家の侍が、無人の大船に気をとられている中に、どこからともなく漕《こ》ぎ寄せて来た何|艘《そう》かの小舟が、舷に綱を掛け、次々と乗り移って来たものとみえた。  忠刻の長身は、三帆のすぐ前で、まるで蝶《ちよう》が舞うように動いて、敵を斬り捨てた。  次にかかって来る武者の前には三木之助が立ちふさがっている。  そして、三帆はすれすれに近づいて来た大船の船上に、ずらりと並んだ人々をみた。  いずれも、能面をつけていて顔はみえない。  あの中に秀頼が、父の甲斐守がいるのだろうかと、二、三歩、舷へ近づきかけた時、矢がとんで来た。その一本が、三帆の肩を縫った。 「三帆」  忠刻がよろめいた三帆を支え、板囲いの中へ運んだ。  同時に、こちらの船から、すさまじい轟音《ごうおん》が響いて、大砲の弾《たま》が、むこうの船の帆柱を一瞬にして、はじきとばした。  そのはずみで二|艘《そう》の船がぐんと離れる。  むこうの船上は混乱していた。それでも、こちらへむけて何人かが弓をひく。鉄砲をうちかけて来る。  本多家の船からも、矢が飛び、鉄砲が火を吹いた。 「大砲を撃て、敵の船を沈めよ」  忠刻が号令した。その二発目はむこうの甲板へ落ちた。更に三発目が撃ち出される前に、敵の船は潮の流れに乗っていた。  播磨灘へ注ぐ、もっとも激しい流れが、深い霧の中に敵の船を吸い込んでいく。 「追え、見失うな」  仙兵衛自ら、舵《かじ》に取りついたが、こちらは流れの外に出ている。  風と雨が、本多家の船の動きを鈍くしていた。  甲板での斬合いはすでに終っていた。  血の流れた甲板を、波が洗って行く。 「三帆、しっかり致せ、気を確かに……」  忠刻の声を耳許《みみもと》に聞き、三帆は次第に意識が遠くなりながら、その人の腕に身をゆだねた。  三帆の左肩の矢傷は深かった。  忠刻が矢を抜き、とりあえず止血をして、船が飾磨港へ入ると、他の傷ついた侍達とは別に、医者の手当を受けた。  城内へ戻った夜は苦痛の余り、脂汗を流して呻吟《しんぎん》した。  熱は高く、唇が乾いた。  夢うつつの中で、三帆は千姫が自ら冷水を三帆の唇に運んでくれたのを、ぼんやりとおぼえていた。  高熱が二日で下り、そのあとは順調に回復して十日も経《た》つと、 「山の湯が、矢傷によう効くと申す故……」  湯治に行くよう、千姫がはからってくれた。  輿《こし》で、三帆は山の湯の里へ運ばれた。  そこには、民家が何軒かあり、本多家が造らせた湯治のための別邸がある。  三人の侍女にかしずかれて、三帆は心身共に疲れ果てた体を湯壺《ゆつぼ》に沈め、療養の日々を過した。  肉体の苦痛はなくなっていたが、その代りのように夢をよくみた。  船の上に並んでいた、仮面の人々が夢の中に、はっきり浮んで来る。  時には、その仮面の顔が秀頼になったり、父の甲斐守になったりして、三帆は自分の叫び声で目がさめたりする。  千姫から三、四日ごとに使が来た。  さまざまの見舞の品が届けられ、医者もやって来て、三帆の容態を診る。  至れり尽くせりの千姫の心遣いに対しても、三帆は形だけ礼を述べ、頭を下げるだけであった。  心の中が空洞《うつろ》になってしまったようで、人の情を受けつける余裕がない。  忠刻が、この湯の里へやって来たのは、夏の終り、山はすでに秋の気配が濃かった。  鷹狩《たかがり》の帰りに立ち寄ったという忠刻は、いつものように精悍《せいかん》で、病み上りの三帆の眼には眩《まぶ》しすぎるほどの男ぶりであった。 「奥が、そなたのことを案じて居る。山の湯で、矢傷の痕《あと》が少しでも薄くなるとよいと申して居った」  嫁入り前の女の肌に、醜い矢傷の残ることを千姫は心配しているのかと思い、三帆は胸の中が波立った。  千姫の肌はすき透るような桜色をしていて、その全身に斑《しみ》一つないのを三帆は知っている。  姫路へ来るまでは痩《や》せぎすで、子供子供していた胸乳《むなぢ》が、勝姫を産んでからは、豊かに丸味を帯び、体中にふっくらした柔かみがついた。  あの千姫の美しい肉体を、忠刻はすみずみまで知っているのかと思うと、抑えていた嫉妬《しつと》がめらめらと燃え上って来る。  狩の獲物を、山里の者が手料理にし、忠刻も供の主だった者と酒を酌みかわし、腹ごしらえをした。  今夜はこの湯の里へ泊って、明朝、帰城するという。  三帆は甲斐甲斐《かいがい》しく、忠刻の身の廻《まわ》りの世話をした。  武蔵野御殿でも、そうしていることだから不自然ではない。  忠刻の寝所の支度もした。 「湯をお召しなさいませ。お疲れが癒《い》えまする」  湯壺は、岩をめぐらし囲ってあった。  湯にひたって空を仰ぐと星がみえる。  野趣のある風情《ふぜい》に、忠刻は満足していた。  いつか、千姫をここへ伴って来てやりたいと思った。  透明な湯は、肌をなめらかに伝って落ちる。  千姫の白い肌が、湯につかったように赤く染まる、その時のことを忠刻は思い浮べた。  忠刻に組み敷かれ、のけぞり、身もだえして、千姫の肌はうす紅に染まって行く。  それを想像しただけで、忠刻は欲望をおぼえた。  小さな音がして、忠刻はふりむいた。  三帆が小袖《こそで》の裾《すそ》を高くからげて、湯のふちにいた。 「お背中をお流し申します」  忠刻は動かなかった。 「よい、下って居れ」  今、女を近づけたくなかった。  自分の中に、たけだけしいけだものがいる。 「殿」  三帆が呼び、忠刻は無意識にそっちをみた。  三帆は肌を脱いでいた。  丸い肩から豊かな胸が、湯の白い煙の中に浮んでいる。 「三帆は、矢傷を受け、このような醜い肌になってしまいました」  ふっと声が涙ぐむ。  憐愍《れんびん》の情が、忠刻の心を動かした。  近づいて、手をさしのべて、その矢傷に触れる。  それは醜くはなかった。  赤く、小さく傷口がくぼんでいる。 「いつか、元のように戻る」  歳月が経てば、肉が盛り上って来ると忠刻はいってやりたかったのだが、三帆は激しく首をふり、忠刻にすがりついた。  忠刻の唇が、三帆の矢傷に近づいた。  ぴくんと慄《ふる》え、三帆は更に深く、忠刻を抱いた。  忠刻の唇が、矢傷から胸乳へ移った。  まだ固い花の蕾《つぼみ》をゆっくり愛撫《あいぶ》する。  眼を閉じ、三帆は腕を廻して、忠刻の背に指を這《は》い纏《まつ》わらせた。  山の夜気は、火照《ほて》った肌には快かった。  忠刻が三帆を貫いた時、三帆は声をあげ、更に深く忠刻に寄り添って行った。  一つになった二人の周囲に、秋の虫の音が俄《にわ》かに激しくなった。  翌朝、忠刻の表情は、冴《さ》えなかった。  不機嫌ではないが、どこか当惑していると三帆は感じた。  給仕をしている三帆に声もかけない。  やがて、出立の時が来た。  思い切って、三帆は忠刻にいった。 「一日も早く、病を癒《いや》して、お城へ戻りとう存じまする」  忠刻は、ちらと三帆をみて、うなずいた。 「お千も待ちかねて居る、早う、戻れ」  侍が迎えに来て、忠刻は三帆に背をむけた。  三帆が表へ出て行った時、忠刻はすでに馬上であった。 「若殿がお発《た》ちであるぞ」  三木之助の声がきっかけで、忠刻は軽く馬腹を蹴《け》った。  高らかな蹄《ひづめ》の音が、やがて遠くなる。  三帆は放心したように、その場に立っていた。  昨夜のことは、生涯、忘れまいと思う。  自分がなにをのぞんでいたか、改めて悟った。  その人に抱かれ、その人のものになった今、後悔はなかった。  出来ることなら、忠刻の子を産みたいと思う。  千姫が産んだのは女児であった。  もし、自分が忠刻の子を、男児を産んだとしたら、その子は白鷺城の跡取りになる。  よく晴れた山の空を仰ぎ、三帆は小さな吐息を洩《も》らした。  城中へ戻って行く忠刻の胸中は複雑であった。  よりによって、千姫の侍女を抱いてしまったという後悔がある。  同時に、三帆に惹《ひ》かれている自分の心に、途方に暮れていた。  今更だが、時折、三帆が自分にみせる媚態《びたい》には、とっくに気がついていた。  妻の侍女が、自分に格別の好意を持っているのを、そ知らぬ顔でやりすごしていたのが、昨夜は遂《つい》にその虜《とりこ》になってしまったと思った。  不快ではないが、千姫に知れるのは困る。  愛し恋し合って夫婦になった二人のきずなが、侍女一人のことでどうなるものでもないとも考えられた。  本来、大名には何人かの側室があって不思議ではない。  父の忠政にしても、江戸の屋敷には、母も知っている愛妾《あいしよう》がいた。そのことで、父と母が気まずくなっていることはない。  だが、千姫はどうだろうかと思った。  誇り高い徳川の姫であった。  ただ、ひたすらに忠刻を愛し、信じ切っているその人を、裏切ったのだという気持を、忠刻はもて余した。  山を下る途中、前方がひらけて海がみえて来た。  晴れた空の下で、今日は青く輝いている播磨灘であった。  あれ以来、海賊は鳴りをひそめている。  果して、あの海賊が豊臣の残党共であったのか、今となっては知る由もない。 「若殿……」  三木之助が馬を寄せて来た。 「白鷺城の御天守がみえて参りましたぞ」  その城の内では、千姫が忠刻の帰りを待ちかねている。  忠刻は手を上げて、額の汗を拭《ぬぐ》った。  京の寺     一  山の湯の里が、紅葉《もみじ》の赤に囲まれるようになって、三帆《みほ》は姫路《ひめじ》へ戻った。  出迎えの侍の中には宮本三木之助《みやもとみきのすけ》も加わって居り、いささかものものしい警固ぶりは、 「万一にも、豊臣《とよとみ》の残党どもが、三帆どのに危害を与えることがあってはならぬ、と、若殿より内々の御指図がござれば……」  と、道中の宰領役である山本四郎左衛門《やまもとしろうざえもん》という侍が三帆に説明した。  豊臣の残党が、自分になにをするのだろう、と、輿《こし》の中で三帆は考えていた。  危害を与えるというのは、三帆もまた、千姫《せんひめ》と同じく、裏切り者の烙印《らくいん》をおされているのかも知れなかった。  自分は豊臣家の恩顧を忘れてはいない。父が生きているのなら、なんとしても逢《あ》いたいと思う一方で、ただ一度とはいえ、徳川四天王《とくがわしてんのう》の一人といわれた名門|本多《ほんだ》家の嫡流と契りを結んだ自分の行為は、速水甲斐守《はやみかいのかみ》の娘として、父にも、豊臣方の人々にも、顔むけのならない恥知らずだと悲しくもあった。  そのくせ、姫路の城が近づくにつれて、三帆の心は、本多|平八郎忠刻《へいはちろうただとき》に対する思いで一杯になった。  その人の息使い、肌の温味《ぬくみ》、かすれたような声が耳の底に甦《よみがえ》って来て動悸《どうき》が高くなるばかりである。  やがて、輿は城門を入る。  武蔵野《むさしの》御殿へ続く石段の下には、松坂局《まつざかのつぼね》が侍女と共に出ていた。すでに、輿を下り、徒歩でそこまで上って来た三帆にいった。 「千姫様が、御殿のお庭から、そなたの輿が大手門《おおてもん》を入ったのをごらんになられ、私に出迎えるよう仰せになりましたのですよ」  どれほどお待ちかねであったろう、と松坂局にいわれて、三帆は眼《め》を伏せた。その人を裏切った自分の心の処理が、まだ出来ていない。  松坂局に手を取られるようにして石段を上った。  武蔵野御殿の庭は満天星《どうだんつつじ》の紅葉で赤く染まっていた。  千姫は縁先に出ていた。 「三帆」  と呼びかけた声だけで、三帆は忠刻が自分との一夜を千姫に打ちあけていないことを悟った。 「元気になったようですね。傷は、もう痛みませぬか」  いそいそと居間へ招き入れ、傍《そば》の侍女にいった。 「殿にお知らせ申してくるがよい。三帆が、山より下りて参ったと……」  三帆は反射的に千姫の表情を窺《うかが》ったが、 「殿も御心配なさってお出《い》でだったのですよ。そなたを船に乗せるのではなかったと、何度もおっしゃって……」  千姫の様子には屈託がなかった。 「船に乗せなければ、あのような怪我《けが》をさせることもなかった。私にまで、すまぬと仰せられて……」 「いえ、何事も、私が出すぎた真似《まね》をしたからでございます。皆様のお働きの邪魔をしただけで、なんのお役にも立たず……」  首実検をしようにも、むこうの船に乗っていた武者は、能面をつけていて顔をみせなかった。 「そのことは、もう、よろしいのです」  つらそうに、千姫が三帆の言葉を遮った。 「幸い、あれ以来、瀬戸内《せとうち》の海に、海賊の噂《うわさ》を聞くことはないと殿が申されました」  珍しい菓子が運ばれ、千姫が茶をたてた。 「山の湯は、さぞ寂しかったであろう」  三帆は余裕のある微笑を浮かべた。 「でも、若殿が狩の帰りにお寄り下さいましたので……」  千姫が無邪気にうなずいた。 「あの折は、私が殿にお願い申したのです。そなたの矢傷は順調に回復しているとうかがい、ほっとしました」  そんなことを、平八郎忠刻は妻に話したのかと、三帆はあきれた。疑い深い妻ならば、何故《なぜ》、外からはみえない矢傷のことを知っているのかと反問するところである。  千姫には、そんな様子は全くなかった。ひたすら、夫を信じ切っている。  あの夜の出来事を残らず喋《しやべ》ってしまいたいという衝動を、三帆は抑えた。今は、その時ではないと思う。  侍女が戻ってきた。 「若殿には、只今《ただいま》、お手のはなせぬ御用事がおありとか。三帆どのには、あまり無理をせぬようにとお言葉がございました」  という。  平八郎忠刻が自分を避けた、と三帆は感じた。  初心《うぶ》なことだと笑いたい気持である。  千姫に仕えて武蔵野御殿にいる三帆を、この先、どうやって避け通す気か。  乳母が勝姫《かつひめ》を抱いて来た。  忠刻と千姫の間に誕生した長女である。赤児の成長は早いもので、ほんの僅《わず》かの間に色白の愛らしい姫君になっている。 「三帆に、勝姫を抱かせてごらん。きっと、重くなったのに、びっくりするでしょう」  千姫がいい、三帆はおそるおそる、乳母の手から勝姫を抱き取った。  成程、ずっしりと手ごたえがある。 「ほんに大きゅう、おなり遊ばしました」  夕暮まで千姫の傍《そば》にいて、三帆は、 「疲れたであろう。下って休むがよい」  千姫の言葉で奥御殿の自分の部屋へ退出した。  千姫に仕える女達はみな奥御殿の局《つぼね》に部屋を給《たま》わっているが、松坂局と三帆は各々、独立した部屋を持ち、身の廻《まわ》りの世話をする召使がいる。  着がえをすませ、軽い食事をして、はやばやと横になった三帆だったが、肉体が疲労しているのに、神経が冴《さ》えてねむれない。明日、忠刻に会ったら、どんな顔をしたらよいのかと思い、妙に心がときめいたりする。  その忠刻は、三帆が千姫の傍《そば》を下って間もなく、武蔵野御殿へ来た。  いつものようにさしむかいで、夕餉《ゆうげ》をすませる。 「おかげさまで、三帆が山より戻りました。以前より元気そうになって、安心致しました」  千姫が礼をいった時、忠刻は軽くうなずいただけであった。  それよりも、その夜の忠刻の話は、間もなく江戸《えど》から帰国する父、忠政《ただまさ》のことで、 「今日、母上の許《もと》へ届いた書状では、勝姫に対面なさるのを、殊の外、たのしみにして居られるそうじゃ。どのように大きくなったかと……それ故、母上に申し上げた。お帰りになられたら、もっと、喜ばせてさし上げることがあると……」  千姫が赤くなった。 「では、母上にお話しなさいましたの」 「良いことは早くお知らせ申したほうがよいではないか」 「でも、恥かしゅうございます。今年、勝姫を授かったばかりでございますのに……」  勝姫誕生から半年ばかりで、再び、懐妊したことを、千姫は恥じらっている。  そんな妻をいじらしく思いながら、忠刻は心の奥に痛みを感じていた。  山の湯から戻って来た三帆も、間もなく、千姫の懐妊を知る。彼女が傷つくだろうと思い、また、早い時期に彼女をどうするかについても、決断しなければなるまいと考えている。  それは、誰《だれ》にも相談の出来ぬことであった。  忠刻が三帆に会ったのは、翌朝である。  いつものように、三帆は千姫の身じまいを手伝い、夫婦が揃《そろ》って、武蔵野御殿の居間から、はるか男山八幡《おとこやまはちまん》へ拝礼をする朝の行事をすませたあとで、改めて、忠刻に挨拶《あいさつ》をした。 「長らく、勝手を致しました。本日より、再び、御奉公させて頂きまする」  それに対して、忠刻は短く答えた。 「たのむぞ」  三帆の日常は、前と同じに戻った。  武蔵野御殿へ来た時の忠刻の身の廻《まわ》りの世話をすることはあるが、忠刻から格別の言葉はなかった。  やがて、三帆は千姫の妊娠を知った。  それは大きな衝撃ではあったが、三帆は自分の気持を巧みに制御してのけた。  だが、最初の子が産まれて、その年の中《うち》にもう次の子をみごもったというのは、如何《いか》に夫婦の仲が睦《むつ》まじいか、思い知らされるようである。 「しもじもでは、お乳を飲ませている中は、次の子をみごもらないと申しますが、高貴のお方は、乳母におまかせなさる故、はや、御受胎なされますのじゃ」  勝姫の乳母が、わけ知り顔に若い女中達に話しているのを、三帆は不快そうに眉《まゆ》をひそめて聞いていた。  その月の末に、江戸へ出府していた忠政が帰城した。  出迎えの家臣の挨拶を受けると、まっしぐらに武蔵野御殿へ来て勝姫を抱く。 「次のお子をみごもられたそうじゃな。なによりの喜び。本多家にとって、めでたい初春が来よう」  その忠政の口から語られた江戸の噂《うわさ》は、忠刻を通じて、千姫にもたらされた。 「あまり大きな声にては申されぬことだが、将軍家御三男、忠長《ただなが》様が、上様の御不興を蒙《こうむ》られたそうな」  将軍|秀忠《ひでただ》の長男、長丸《ちようまる》は二歳で早逝《そうせい》し、次男|竹千代《たけちよ》が元服して家光《いえみつ》となり、西の丸に居住している。  その西の丸の堀にいる鴨《かも》を、この頃《ごろ》、稲富《いなとみ》流の鉄砲を学んでいる三男の忠長が射《う》った。 「御台所《みだいどころ》が大層、喜ばれて、その鴨を上様の食膳《しよくぜん》に上らせたところ、御世子の住む西の丸へむかって発砲するとは何事ぞ、とお怒りなされたとか、江戸在府中の諸大名の間で、えらく取り沙汰《ざた》されたと申すが……」  家光にせよ、忠長にせよ、千姫にとっては血を分けた弟であった。  だが、千姫はどちらかといえば、江戸にある間、家光と親しく、忠長とは殆《ほとん》ど行き来がなかった。  それを知っているから、忠刻は父の話を妻に打ちあけたのである。 「やはり、上様は御兄弟の仲に、けじめをおつけなさる、と、父は申して居った」  すでに家康《いえやす》が他界する前から、三代将軍は家光と決って、世子の扱いを受けている。 「それから、そなたの妹、松姫《まつひめ》どの御入内《じゆだい》のことだが……」  三代将軍秀忠の一番末の娘、松姫は慶長《けいちよう》十九年に後水尾《ごみずのお》天皇の女御《にようご》として入内が決っていた。  それが、のびのびになっているのは、元和《げんな》二年に家康が、元和三年に後陽成院《ごようぜいいん》が各々、他界され、喪中にあったせいだったが、ここへ来て、秀忠を激昂《げつこう》させる事件が持ち上っているという。 「父の話によると、帝《みかど》には、かねてお傍近《そばちか》く仕えていた四辻公達卿《よつつじきんみちきよう》の娘、御与津《およつ》の局《つぼね》と申されるお方に、やがてお子が産まれるそうな」  そのことが、藤堂高虎《とうどうたかとら》らの耳に入り、江戸へ知らされたので、松姫の父である将軍秀忠が立腹し、朝廷に対して抗議を申し入れた。  少くとも、朝廷側の釈明によっては、松姫の入内をとりやめるという話すら、江戸では出ていたらしい。 「父上は、とりわけ、松姫をお慈しみになって居られました故……」  将軍家にしても、人の親で、末の子には格別の情愛を持つ。  まして、松姫は誕生して間もなく、祖父家康の意志で、やがて入内《じゆだい》と決っていただけに徳川の姫の中でも、特別な育てられ方をしていたという。  千姫は十歳年下のこの妹に、大坂《おおさか》から江戸へ戻って、はじめて対面したが、おっとりして、聡明《そうめい》なという評判にたがわず、まだ九歳の少女なのに、礼儀正しい、しっかり者で、驚いた記憶がある。  その松姫も十二歳になっている筈《はず》であった。  松姫入内の話をしながら、忠刻は否応《いやおう》なしに、三帆のことと、ひきくらべてしまった。  千姫も松姫も、同じ将軍家の姫君であった。  入内を前にして、他《ほか》の女をみごもらせたと、天皇ですら、激しく非難されている。  もし、千姫の夫である自分が、千姫以外の女と間違いがあったと江戸に知れたら、どういうことになるのか。忠刻としては、慄然《りつぜん》とせざるを得ない。  ところが、そうした忠刻の心中を、全く知る由もない忠政が、何度か、孫の勝姫をあやしに武蔵野御殿へ来る中に、三帆の姿をみて、妻のゆう姫に話をしたらしい。  暮も押しつまった或《あ》る日、ゆう姫が千姫を本丸へ招いて、正月の支度について、あれこれ、女同士の打合せをした折に、 「大殿が、三帆に良い縁談があると仰せられたのですよ」  相手は、本多一門で、忠刻とは遠縁に当る二十六歳の若者で、新太郎信行《しんたろうのぶゆき》という。 「お千どのは、まだ対面されたことがないと思いますが、この正月には姫路へ年賀に参る由、その折、三帆をひき合せてみては、と大殿はお考えなのですよ」  舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》 の思いやりに感謝しながら、千姫はつねづね、三帆から聞いている彼女の気持を話した。 「御存じのように、三帆は大坂方の重臣、速水甲斐守の娘でございます。それ故、世を憚《はばか》る心が深いと申しますか、もし、自分が嫁いで、先方に迷惑がかからぬかと不安に思って居ります」  ゆう姫がおっとりと否定した。 「そのことは、大殿も御存じでした。でも、大殿は、大坂の戦が終って、はや三年、今では将軍家も大坂方にゆかりの者を諸大名が召し抱えるのさえ、お許しになって居られるそうな。たかが女子《おなご》一人のことで、おとがめを受けることは、よもあるまい。まして、三帆はお千どのの侍女でもあること、そうした斟酌《しんしやく》は無用に致せと仰せられました」  女子はやはりよい縁を得て、妻となり母となるのが幸せ、と姑にいわれて、千姫は武蔵野御殿へ戻ると、三帆を呼び、ありのままに打ちあけた。 「新太郎信行様とは、どのようなお方か、私も知らぬけれども、母上のお話では、お人柄もよく、御気性|秀《すぐ》れたお方と承りました。無理にその方へ嫁ぐと思わずに、それとなくお目にかかってみては……」  千姫の言葉に、三帆は頭を下げ、暫《しばら》く考えさせてくれと低い声で告げた。  が、それっきり忘れたように、そのことに触れない。  返事の催促をするのもためらわれて、千姫は寝物語に、忠刻に相談した。 「三帆は、私には返事がしにくいのかも知れませぬ。殿より、それとなく仰せられて頂けますまいか」  正月は目前であった。千姫にしても、姑に返事をしなければならない。 「よい。予が三帆に訊《たず》ねてみよう」  心ならずも、忠刻が妻にそう答えたのは、他にも三帆に問いたださねばならないことがあったからである。  翌日、忠刻は三帆を東小天守へ招いた。  白鷺《しらさぎ》城の大天守は三つの小天守——乾《いぬい》小天守、西小天守、東小天守——に取り囲まれている。それらが、すべて、白漆喰総塗籠《しろしつくいそうぬりごめ》造りに仕上げられているところが、今までのどの城にもない斬新《ぎんしん》さであり、まさに白い鷺の城と呼ばれる美しさでもあった。  東小天守には朝の陽《ひ》がさし込んでいた。  見渡す播州《ばんしゆう》の山々は冬景色だが、この城を取り巻く風景は明るく、穏やかである。  三帆と二人きりになるのを避けて、忠刻は控えの間に宮本三木之助だけをおいた。  場合によっては、三帆がなにをいい出すかわからない。宮本三木之助ならば、なにを聞かれてもかまわないという気持が忠刻にはあった。  同じく二天一流を学び、主従というより兄弟に近い感情を持っている。  三帆は東小天守に呼ばれた時から、おおよそを察していたようであった。 「まず、そなたに訊《き》きたいのは、過日、千姫が申した縁組のことだが……」  ためらいがちに、口を切った忠刻に、三帆は叩《たた》きつけるように応じた。 「そのことでございましたら、これまで通り、三帆はいずれにも嫁入りする気持はございませぬ」 「しかし、千姫も案じて居る」 「千姫様が御心配なのは、山の湯の出来事を御承知なされたからでございましょうか」  忠刻の頬《ほお》に血の色がさした。 「なんと申す」 「私と若殿との秘めごとを、千姫様がお気づきになり、私を若殿から遠去《とおざ》けようとて……」 「愚かなことを……。この度の縁組は、我が父母が、そなたの年頃を思うて談合のあげく、思いついたこと、千姫はなにも知らぬ」 「では、大殿様、奥方様には、私たちのことを……」 「ひかえよ」  狼狽《ろうばい》するまいと思い、忠刻は三帆から眼を逸《そ》らした。 「山の湯のことは、我が生涯のあやまち、父にも母にも申しては居らぬ」 「あやまちと仰せなされますのか」  三帆の声が慄《ふる》えた。忠刻は遠くの冬山を眺めた。 「予には妻がある」 「北の方にして下されとは申しませぬ。多くの女を持つは世の習い、秀頼《ひでより》様にも、千姫様より早く、御側室が居られました」  千姫が豊臣秀頼に嫁いだのは七歳の時だったが、まことの夫婦になる以前に、秀頼は愛妾《あいしよう》に二人の子を産ませている。  忠刻が苦い表情になった。 「予には無用のことだ」 「将軍家のお怒りを怖《おそ》れられてのことでございますか」  三帆が痛いところを突いた。 「若殿とて男子の御身、千姫様お一人を守らねばならぬといういわれはないと存じますが……」  ずけずけといえばいうほど、三帆は自分の声が虚《むな》しくなるのに気がついていた。  忠刻が三帆に興冷め、失望して行くのがよくわかる。それでも、三帆は自分を制することが出来なくなっていた。 「私から千姫様に申し上げます、若殿の御|寵愛《ちようあい》を蒙った身は、どこへも嫁ぎませぬ。若殿のお傍《そば》にあって……」 「待て」  忠刻が強く制した。 「お千は、今、みごもって居る。そのようなことを聞かせ、心を乱させとうない」 「では、縁組のこと、お断り下さいませ。三帆は若殿が黙って居れと仰せなさいますなら、神仏に誓って、他言は仕《つかまつ》りませぬ」  かすかに、忠刻は吐息を洩《も》らした。 「よかろう。そなたの申すままに致そう。但《ただ》し……」  苦悩に満ちた眼が三帆を凝視した。 「万一にも、そなたが千姫の心を苦しめることがあらば、生かしてはおかぬ」  三帆は視線を逸らさなかった。 「どうぞ、御存分に……」 「今一つ、そなたに訊《たず》ねたい」  この秋、例の海賊船に出会った時のことだが、 「あの船に、能面をつけて居並んでいた武者共の中に、秀頼がいたと思うか」  無表情のまま、三帆はかぶりを振った。 「わかりませぬ」 「では、そなたの父、速水甲斐守らしき者はみたか」 「父が居りましたら、私に矢を射かけさせるとは思いませぬ」 「そなたが、我が船に乗っていること、敵は知らなかったと思うが……」  嵐《あらし》の中の、暗い船戦《ふないくさ》であった。 「かも知れませぬが……」 「父らしい姿はみなかったのか」 「はい」  豊国《とよくに》大明神の旗をかかげた船上に、父によく似た体格の武将のいたことを、三帆は口に出さなかった。その傍の緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》の武将を、豊臣秀頼ではないかと思ったことも、今は黙っていたほうがよいと判断した。 「では、下るがよい。そなたの返事は、予から母上に申し上げよう」  忠刻の言葉に、三帆は軽く頭を下げ、小走りに小天守を出て行った。 「若殿」  立ち尽している忠刻に、控えの間を出て来た宮本三木之助が静かに手を突いた。 「あの娘、手前にお下げ渡し下さい」 「斬《き》ると申すのか」 「生かしておいては、若殿の御為《おんため》、千姫様の御為に、よろしくございません」 「早まるな」  ほろ苦く、忠刻が笑った。 「あの娘に罪はない。予が愚かであった」  三帆のような小娘に乗せられた自分を、忠刻は恥じていた。 「今は、ことを荒立てたくないのだ」  妊婦にとって、大事な時期であることを忠刻は意識していた。 「千姫には心安らかに、よい子を生んでもらわねばならない」  三帆のことは案じるな、といい、忠刻は小天守を下りて本丸へ行った。  ゆう姫に直接、三帆の返事を伝えると、黙ってうなずいたが、急に侍女を下らせて、忠刻と二人だけになった。 「大殿が仰せられたのですが、もし、三帆がこのたびの縁組を辞退するようなら、あの娘を近い中に、お千どのの傍《そば》から遠去けるようにと……」 「三帆をお千から遠去けよと……」 「つまりは、そなたから遠去けよという意味でございます」  ゆう姫が、まじまじと我が息子《むすこ》をみつめた。 「私達は、そなたがあの娘に心奪われているとは思いませぬ。けれども、あの娘の心中奥深くにかくされているものを怖《おそ》れるのです。なにかが起らぬ中に、あの娘をこの城から出したほうがよい」 「母上」 「母にまかせて下さいますか。口実を設け、京の知り人にあずけてもよし……」 「お待ち下さい。三帆は千姫の侍女、お千の気持も訊《き》いてやらねば……」 「お千どのも、三帆のことについては、いろいろとお心を悩ませてお出でかも知れませぬよ。ただ、お千どのはそなたを信じ切って居られる故……」  母の前で、忠刻は顔が上げられなかった。  父も母も、千姫ですらも、三帆の忠刻に対する気持を読んでいる。  何事か起らぬ中に、といった母の言葉の重みを、忠刻はもて余した。     二  元和五年の初春は、姫路の本多家にとって、まことに穏やかな新年であった。  忠刻と千姫の夫婦仲は、結婚当時にも増して蜜《みつ》のような濃厚さであったし、漸《ようや》く、つかまり立ちをはじめた勝姫を囲んで、武蔵野御殿には笑いが絶えなかった。  白鷺城の南面の庭の梅が、はやばやと咲きはじめた頃、ゆう姫が一通の書状を持って武蔵野御殿を訪れた。 「京の二条《にじよう》城にお出での阿茶局《あちやのつぼね》様からのお文でございますよ」  千姫と、傍にひかえている三帆を等分にみながら、にこやかに告げた。 「江戸の上様におかせられましては、このたびのお千どのの御懐妊を殊の外、お心にかけられて、本多家のためにも是非共、男子出生を祈願して伊勢《いせ》の慶光院《けいこういん》へ願文を納めるようにと仰せなさり、阿茶局様が小野阿通《おののおつう》どのにその使者をおたのみなされた由、ついては、お千どのの願文を京へ持参致し、阿通どのと共に伊勢へ参詣《さんけい》する使を、誰ぞに頼まねばなりませぬが、三帆は如何《いかが》かと、大殿が仰せになりましたので、お千どのと談合して決めたいと存じまして……」  無論、本多家から屈強の侍どもが供をするので、道中の心配はいらないという。  千姫がなにかいう前に、三帆がゆう姫に訊《たず》ねた。 「その、阿茶局様のお文、私が拝見致してもかまいませぬか」  ゆう姫が微笑した。 「みるがよい。いつに変らぬ力強い阿茶局様の御手蹟《しゆせき》じゃ」  文を三帆は丹念に読んだ。  たしかに、ゆう姫の話した通りであった。  将軍秀忠は重ねてみごもった千姫に対して今度こそ男児をと強く期待している。  伊勢の慶光院というのは、伊勢神宮の中にある尼寺で、紫衣を許される格式の高い寺であった。  院主は代々、慶光院を名乗り、江戸に出るときには道中に御朱印伝馬《ごしゆいんてんま》が許され、江戸においては霊岸《れいがん》島に屋敷を頂き、江戸参府の折には、そこへ宿泊することになっている。  豊臣家とも縁故が深いが、本多家は桑名《くわな》にいた関係から、伊勢とはかかわり合いが多く、慶光院に対しても、寺領を寄進している。  秀忠が本多家に嫁いだ千姫に対し、男児出生を慶光院に祈願するように命じたのは、そうした縁のためでもあった。 「どうじゃ、三帆、御苦労ではあるが、外ならぬ千姫様のお為、我が本多家のためじゃ。願文を納めに行ってたもるか」  ゆう姫にいわれて、三帆は文を返し、手を仕えた。 「ふつつかでございますが、お使の役目、お受け致しまする」 「それはよかった。では、お千どの、早速、願文をしたためなさいませ」  五日後、三帆は侍女二人と本多家の侍に守られて、慌しく京へ発《た》った。  自分に使者の役目が命ぜられたのは、忠刻が母のゆう姫としめし合せてのことかと三帆は思案したが、仮に、そうだとしても、この役目を辞退するつもりはなかった。  旅に出てみたい、と三帆は願っていた。  忠刻が山の湯で三帆を抱いたのは、あやまちであった、と、はっきり、彼の口からきかされて、三帆は絶望していた。  長いこと、その人を思いつめていて、その恋が成就したと喜んだのも束《つか》の間《ま》、奈落《ならく》の底に落ちたようなものである。  失恋の苦しみに耐えながら、さりげなく千姫に奉公することに、三帆は疲れ切っていた。  二度と姫路へ戻れなくなろうとも、今は、この城から逃げ出したいというのが、三帆の本心でもあった。  それでも、千姫に別れを告げて武蔵野御殿を出る時の寂しさは例えようもなかった。 桜《さくら》門までは、松坂局が送って来た。 「首尾ようお役目を果して、一日も早くお戻りなされませ」  なにも知らない松坂局の言葉が、三帆にはつらく、苦しかった。 「千姫様のこと、お願い申し上げます」  夢中でいった。  恋敵であろうとも、千姫は三帆にとってすべてであった。  大坂落城から今日まで、千姫と共にあることで、三帆は自分を支えて来たように思う。  千姫を憎もうとして憎み切れず、怨《うら》もうとして怨めない自分に、三帆は途方に暮れている。  加古《かこ》川を渡る時、遥《はる》かに白鷺城の大天守が見えた。 「暫《しばら》くのお別れでございますね」  侍女の一人が呟《つぶや》き、三帆は瞼《まぶた》の奥に熱いものが湧《わ》き上って来るのを抑えることが出来なかった。  京までの旅は、何事もなかった。  世は、すでに泰平であった。  冬枯れの田畑を、もう掘り返している百姓の姿も、戦国の頃とは違って落ついたものがある。  街道は更に賑《にぎわ》っていた。  大坂に入って、三帆が驚いたのは、焼け落ちた筈《はず》の大坂城がみごとに建て直されていたことであった。  よくみると、天守の位置も、城郭も昔とは少々、異っているものの、江戸の千代田《ちよだ》城にまさる華麗な城が出来上っている。 「将軍家には大坂城代をおき、今までの伏見《ふしみ》城番にお代えになったそうでございます」  これも、阿茶局の指図で三帆達の一行を待っていたという茶屋《ちやや》又四郎の手代が話した。  大坂からは茶屋の用意した舟で京へ淀《よど》川を上る。  二条城の阿茶局の居間には小野阿通がいた。  三帆がこの人に会うのは五年ぶりのことだが、かつての大坂城で淀君《よどぎみ》に仕えていた頃よりも、やや肥《ふと》って、男のようにはっきりした眼鼻立ちが優しい感じになっていた。相変らず、個性のある女ぶりである。 「三帆どのは、すっかり女らしゅうなられましたな。以前、私がお目にかかった時分は、まだお子衆のようであったに……」  特徴のある低い声でいい、阿通は再会を喜んだ。  すぐにも伊勢へ発つのかと思ったが、阿茶局は、 「江戸の上様より、慶光院へ御寄進の使者がまいるので、それを待って一緒に参ることになろう」  それまでは二条城に滞在するようにという。  やがて、城内に居るのは固苦しかろうというので、阿通が自分の屋敷へ三帆を伴って行った。  阿通の屋敷というのは、御所に近いところにあった。  さる公卿《くげ》の別邸を拝借しているのだと、阿通は三帆にいったが、どうやら、その公卿とは近衛《このえ》家の一門のようである。  二条城内と違って、阿通の屋敷から三帆は気軽く外出が出来た。  京は、大坂落城の頃とは又、変っていた。  内裏《だいり》はすっかり修理されていたし、公卿の屋敷も新しく建て直されたものが多かった。  町屋は更に華やかになって、四条、五条の辺には人があふれている。  その日、三帆は供もつれずに、阿通の屋敷を出た。  誰かが自分のあとを尾《つ》けているのではないかと気がついたのは烏丸《からすま》を歩いている時で、なんとなく怖《おそろ》しくなって小走りになり、土塀をまがると、そこに男が立っていた。  恰幅《かつぷく》のよい僧である。網代笠《あじろがさ》をかむり、杖《つえ》を手にしている。 「三帆」  僧が呼んだ。忘れもしない声である。 「案じるな。父について参れ」  僧が歩き出し、三帆は夢中でそのあとに続いた。  背後からも、人の来る気配がする。  ふりむいてみると、もう一人、背の高い僧が、ゆっくり三帆の後を歩いて来る。  加茂《かも》川を渡った。  やがて、林に囲まれた寺へ出る。  方丈の裏に、御堂《おどう》があった。  僧が御堂に入り、三帆もそれに従った。  あとから来た僧は外にいるらしい。 「三帆、久しいな」  僧が笠を取り、三帆は息を呑《の》んだ。  坊主頭の僧形だが、父、速水甲斐守にまぎれもない。 「父上」  声にならない声で呼び、三帆はすがりついた。 「やはり、生きてお出でだったのですね」  なにから話してよいのかわからず、ただ、父の手を握りしめている三帆を甲斐守は不愍《ふびん》そうにみつめた。 「千姫様のお傍《そば》に、そなたが居るのは承知していた。なろうことなら、生涯、会わぬほうが、そなたの幸せと思うていた。しかし、どうしても、そなたから訊《き》かねばならぬことが生じたのだ」  穏やかな口調に、三帆は耳を疑った。 「どうして、私と会わぬほうがよいと……」 「速水甲斐守はすでに死んだ。そなたにしても、豊臣家の重臣の娘であることを、一日も早く忘れたほうが、身のためになる」 「そのような……」  途惑《とまど》いながら、三帆はいった。 「父上は、豊臣家再興のために御苦心遊ばしてお出でなのではございませんか。秀頼様をお助けして……」  甲斐守が三帆に顔を近づけた。 「そなた、秀頼公をみたのか。みたとしたら、どこで、どのようにしてお目にかかった」 「父上は、秀頼様と御一緒ではなかったのですか」  あっけにとられた。とすると、あの海賊船の上の武者達は何者だったのか。 「大坂落城の折、秀頼公には極楽《ごくらく》橋の下の抜け堀から、舟にて脱出された」  お供に従う者は、大野修理《おおのしゆり》ら数名。 「父は、矢弾《やだま》に当ってお果てなされた御母公の御遺体を山里《やまざと》の曲輪《くるわ》へ運び、火薬を仕かけた後、もう一|艘《そう》の舟にて、秀頼公の後を追ったが、遂《つい》にお姿を見失ったのじゃ」  抜け堀は迷路のようになって、やがて天満《てんま》川へ出る。 「夜のことではあったが、川筋には徳川方の軍勢が見張って居る。御無事に通り抜けられたかどうか……」  幸い、甲斐守の舟は海へ抜け出し、漁師に姿を変えて、脱出に成功した。 「暫《しばら》くは堺《さかい》の寺に身をひそめて、世上の噂《うわさ》を窺《うかが》ったが、秀頼公が生きておわすやら、御消息をつかむことは出来なかった」  豊臣家の残党が、江戸へ向う千姫の行列をねらって本多忠刻に斬《き》られたという話を、甲斐守は堺の商人から聞いたといった。 「では、あれは、父上の手の者ではなかったのですか」  鈴鹿《すずか》の山中で斬られていた人々、桑名の海上で襲って来た船、そして、 「瀬戸内の海に出没する海賊というのは……」 「それを、父は探って居る。豊臣家残党と称する海賊の噂だが、そなたは本多家の兵船に乗り、海賊との戦に出会うたとか……」 「その通りでございます」  息をはずませて、三帆は話した。 「海賊船には、豊国大明神の旗が並び、桐《きり》の紋所の幔幕《まんまく》が張られて居りました。そして、船上には能面をつけた武者が……」 「能面をつけた武者……」 「はい、緋縅《ひおどし》の鎧《よろい》をお召しの方は、秀頼公のようにお見受け申しました。お顔は面にかくれてみえませんでしたが……そして、お傍《そば》にいた武将を、私は父上とばかり……」  甲斐守がうなずいた。 「左様か。そなたにしてからが、そのように思う。世の噂は、まことであったか」  秀頼公の行方《ゆくえ》を求めているのだと、甲斐守は沈痛にいった。 「もし、御無事でおわすならば、なんとしてもお目にかかりたい。御対面申して、言上せねばならぬ」  唇を噛《か》みしめるようにして、三帆へ視線を移した。 「そなたにも申しておこう。もはや、昔のことは忘れよ」  人の世は動いている、と甲斐守はいった。 「激しく流れる水を、人の力にて止めることは出来ぬ。そなたの父はその水の流れに押されてこの世から消えた。が、そなたは岸辺にたどりついた。岸辺には草木も茂る。花も咲こう。あるがままに生きることだ」 「では、父上は千姫様をお許しなさるのでございますか。豊臣家滅亡のあげく、本多家へ輿入《こしい》れなされた千姫様を……」 「千姫様は岸辺にたどりつかれた。さしのべられた手にすがりついた。それを、誰もとがめることは出来まい」 「三帆には信じられませぬ」  これが、豊臣家の重臣の中でも智将《ちしよう》、猛将の誉れ高かった父の言葉かと思う。 「いつから、父上はそのようにお気が弱くなられました」 「千姫様のお傍にありながら、そなたには世の動きがみえぬのか。いや、千姫様がそなたをおかばい下さる故、かえって、世の中がわからぬのかも知れぬ」  いずれ、わかろう、と甲斐守がいった。 「なんとしても、そなたは父を忘れることだ。豊臣家残党のことも、秀頼公が生きておわすかも知れぬという風説も、そなたとは全くかかわりのないことと思え」 「それは、御無理と申すものでございます。子として父を忘れることなど出来ませぬ」 「忘れるのじゃ」  甲斐守が外にいる僧を呼んだ。 「娘を、川のむこうまで送って下さるか」 「承知いたしました」  外にいた僧が、三帆に近づいた。 「お供を申します」 「父上……」  呼んだが、甲斐守は三帆を残して方丈のむこうへ足早に去って行った。  なまじ取り乱しては、父の身が危いと三帆は思った。ここに父がいることがわかれば、また、訪ねてくればよい。 「帰りまする。今日はこのまま……」  素直に寺を出て、先刻来た道を戻った。  あとから、僧がついて来る。  加茂《かも》川を渡ったところで三帆がふりむくと、どこにも、その僧の姿はなかった。  翌日、三帆は少々の金子《きんす》を用意して、加茂川を渡り、昨日の寺へ行ってみた。  御堂には誰もいなかった。方丈にも人の気配はない。  翌日も、翌々日も川を越えた。  無住の寺には、まだ春浅い風が吹き抜けていた。  満 月     一  白鷺《しらさぎ》城の庭の桜が満開になると、やがて雨が降った。  盛りを過ぎていた花は、それでなくとも散り急ぐ。  武蔵野《むさしの》御殿の居間で、千姫は濡《ぬ》れた花片《はなびら》が池の面に白く重なり合って揺れているのをみつめながら、心の中で指を折っていた。  三帆が伊勢《いせ》の慶光院《けいこういん》へ使に発《た》って、もう五十日が過ぎていた。  京の小野阿通《おののおつう》からは、二度ばかり文が来て、三帆の一行がつつがなく京へ到着したことを知らせ、その上で近く将軍|秀忠《ひでただ》が上洛《じようらく》することになり、その準備になにかと手間どっていて、伊勢への出立が遅れていること、三帆には暫《しばら》く京へ滞在してもらってやがて同行する心算《つもり》であることなど、当初の予定の変更について釈明して来ていた。  阿通からは忠政《ただまさ》の妻のゆう姫にも同じような知らせが来たらしく、 「三帆どのにはお気の毒じゃが、将軍家御上洛とあらば、阿通どのにしても御用繁多となりましょう」  やむを得ないと、暗に三帆の帰国の遅れることを示唆した。  将軍秀忠の上洛は、松姫《まつひめ》の入内《じゆだい》に対して波紋を投げた恰好《かつこう》の御与津《およつ》御寮人の問題に結着をつけるのが、その主な目的と、阿通は文の中に書いてあるし、とすれば、松姫の入内に京の御所の人々と緊密な連絡のある阿通が伊勢へ出かけてしまうわけに行かないのは千姫にもよくわかる。  けれども、そうしたもっともらしい理由とは別に、千姫は三帆がもう二度と自分の許《もと》へは帰って来ないのではないかという予感がしていた。  それは、三帆がこの姫路《ひめじ》を出立して行った時から漠然と千姫の心の中にあったもので、今になってみると、やはり三帆を自分から遠去《とおざ》けたのは何人《なんびと》かの意志が働いてのことだったと察しられる。  その理由を考えるのは怖《おそろ》しかった。  よもやと思う。  廊下に衣《きぬ》ずれの音がした。  千姫の近くにひかえていた松坂局《まつざかのつぼね》が立って行って、侍女の取次を聞いている。 「若殿が、御本丸からお下りのようでございます。千姫様にはお出迎えは無用との先触れでございました」  身重の妻をいたわって、忠刻《ただとき》は必ずそういった使を先によこすのだったが、千姫は鏡をのぞくと、身じまいを直して立ち上った。  松坂局につき添われて武蔵野御殿の表玄関へ通じる廊下へ下りる。  忠刻は千姫の姿をみると、風のように走り寄った。 「出迎え無用と申し上げたに……」  素早く千姫の肩を抱き、いたわりながら居間へ戻る。 「ころんだりなさっては一大事ぞ」  夫の腕の中で、千姫は微笑した。 「お医師の方々が申されましたの。じっとしているよりも、動いたほうがお腹《なか》の赤児《やや》にもよろしいのです」  二人目の子だけに、千姫は落ついていた。 「お座敷にお豆を播《ま》いて、拾って歩くとよいそうでございます」 「では、それがしも一緒に拾おうではないか」  明るい笑い声が聞えて、松坂局はほっとした。  京へ行ったきり帰らない三帆を千姫が気にかけているのは、傍《そば》にいてよくわかる。  松坂局は三帆が姫路へ帰って来ないことを望んでいた。傍輩《ほうばい》の直感で、松坂局は三帆の心中にある忠刻への思慕を察知していた。  別に、ふたりの間になにかがあったとまでは推量していないものの、無意識に或《あ》る種の不安を感じとっていたのは、忠政夫婦と同じで、それ故、三帆が伊勢の慶光院へ願文を納めに行くと聞いた時は、胸のつかえが下りたような安堵《あんど》感があった。  更に千姫はすでに八か月の身重の体であった。これから臨月にかけては、夫婦の閨房《けいぼう》のことも滞りがちになり、とにかく夫が間違いを起すのも、妻のその時期といわれているので、千姫付きの松坂局としては一層、三帆に遠去かっていてもらいたい気持であった。  その松坂局が茶の支度をして行くと、忠刻と千姫は雨の庭を眺めて、穏やかに話し合っていた。 「将軍家の御上洛《ごじようらく》が決って、父上も来月には京へ向うことになったそうな」  忠刻の言葉に対し、千姫が、 「では、三帆はどうなるのでございましょう」  といったのが聞えて、松坂局はどきりとした。忠刻がどう答えるか耳をすます。  忠刻の返事はさりげなかった。 「よくはわからぬが、上様御上洛とあっては阿通どのも京を留守には出来かねよう。そのあたりは何事も阿茶局《あちやのつぼね》様におまかせしてあると、父上は申されてじゃ」  三帆が傍に居らず、寂しいのか、と忠刻が訊《き》き、 「そうではございませぬが……」  と千姫が口ごもっている。 「お傍には松坂も居る。この忠刻とて、おのぞみとあれば一日中でもお相手を致す故、お寂しいことはあるまい。三帆のことはお案じなされぬように……」  千姫が笑った。 「でも、殿は宮本《みやもと》武蔵《むさし》どのと剣の修業に余念もなくていらっしゃいます」  忠刻に二天一流を手ほどきした宮本武蔵は、この春から姫路に滞在していた。  忠政は武蔵を客分として厚遇し、忠刻をはじめ家中の侍が師事することを許した。  で、忠刻も昼は武蔵の傍にいる時間が長い。 「先生にお目にかかるのは久しぶりのことだったのだ。それに近く、父上が願って小笠原忠真《おがさわらただざね》どのの明石《あかし》築城の手助けをなさるためにお出かけなさる。されば、稽古《けいこ》もあと二、三日のこと」  その前に三木之助《みきのすけ》と三人で、遠駈《とおが》けに出掛けるつもりだと、忠刻は楽しげであった。 「先生にとっては、播磨《はりま》はいわば生れ故郷、この折に御覧になりたい場所もおありのようだ」 「では、又、お留守居でございますね」 「なんぞ、お気に召すものを土産《みやげ》に持って戻ろう」 「それより、お早ようお帰り遊ばしませ」 「心得た」  乳母《うば》が勝姫《かつひめ》をつれて来て、居間は一段と賑《にぎ》やかになった。  幼子の相手をしながら、忠刻は妻をそれとなく眺めていた。  身重の体はふっくらしているが、顔をみると頬《ほお》のあたりが細くなっている。姫路へ来た当座はまだ子供子供していたのが、勝姫を産んでから、しっとりした情感を持つようになり、それが更にこの頃は《ごろろう》たけた美しさであった。  その千姫が忠刻と二人でいる時、ふと、なにかを考え込んでいる。気がついて、 「どうなされた」  と声をかけると、俄《にわ》かに笑顔をみせるのだが、どこかぎこちなく、無理なところがあった。  忠刻の不安はそんな千姫の様子で、三帆のことで心に負い目のある忠刻としてはいいようのない焦燥《しようそう》に駆られる。  そうした夫婦の僅《わず》かな心の溝も、やがて二人目の子供が誕生すれば、きっと埋まるに違いないと、ただ、その日の来るのを待ちかねる思いであった。  そうした忠刻の心中を知る三木之助は、一人悩んだあげく、師であり養父である宮本武蔵に問うた。 「仮に主君の心をわずらわす禍根《かこん》があると知ったならば、臣下として、これを取り除くべきでございましょうか」  武蔵は思いつめている養子へきびしい眼《め》をむけた。 「禍根であることが明らかなれば、論外であろう。但《ただ》し、時期をみることじゃ」 「それは心得て居るつもりでございますが……」 「迷いのある中《うち》は難しかろう。まず、心眼をみひらいて、迷いの雲を払うてから、決断するがよろしかろう」  三木之助が手をつかえた。 「お教えありがたく、この三木之助、命を平八郎《へいはちろう》君に捧《ささ》げて居ります。万一の時は不孝の罪をお許し下さい」  武蔵は、ただうなずいただけであった。  五月、宮本三木之助は自ら志願して、京へ上る本多《ほんだ》忠政の供についた。     二  千姫の全く知らないことであったが、三帆は伊勢の慶光院にいた。  春の伊勢路を小野阿通と共に慶光院へ行き、願文を納めた後、三帆は自分から願って、暫《しばら》く、この尼寺へ逗留《とうりゆう》したいと阿通に言った。 「私も、このあたりにて来《こ》し方、行く末を考えてみとうなりました。御仏《みほとけ》のお傍《そば》にあれば、愚かな私にも悟りの光がさして来るやも知れませぬ」  阿通は暫く考えていたが、 「案外、それもよろしいかと存じます。阿茶局様より本多様にはよしなにお伝え頂くように、私が骨を折りましょう」  といってくれた。  慶光院の庵主《あんじゆ》、周清尼《しゆうせいに》は三帆の申し出に対し、院内の一室を与えて滞在を許してくれた。  小野阿通は予定通り、京へ戻り、三帆は伊勢に残った。  慶光院の朝夕は三帆にとってまことに単調であった。尼僧にまじって寺の掃除をし、勤行《ごんぎよう》の時は、後にすわって合掌する。  毎日は穏やかだったが、三帆の心にはなにも浮んで来なかった。悟りには程遠く、ただ漠然と日を送っている三帆のところへ、或る日、一人の僧が訪ねてきた。  笠《かさ》を取って顔をみせるまでもなく、三帆には、それが父、速水甲斐守《はやみかいのかみ》であるとわかった。 「小野阿通どのより、そなたがここに居るのを聞いて参った」  思いがけない言葉に、三帆はあっけにとられた。 「父上は小野阿通どのと……」  たしかに、大坂《おおさか》城に小野阿通が仕えていた時期、速水甲斐守とは顔見知りでもあったし、茶の湯や連歌の催しに同席することもあった筈《はず》である。 「阿通どのとは、茶屋四郎次郎《ちややしろじろう》どのの御子息、又四郎清次どのを通じて、今も文のやりとりをして居る」 「茶屋どのがどうして……」  茶屋四郎次郎は徳川家康《とくがわいえやす》の側近として功績のあった大商人であった。今も幕府より許しを得て海外へ渡航し、貿易を行う朱印船の大半は茶屋船と呼ばれる、茶屋家の持ち船といわれている。いわば、徳川家の御用商人である茶屋家が、どうして大坂方の落武者、速水甲斐守を庇護《ひご》しているのか、三帆には合点が行かなかった。 「茶屋どのは日本国の外の、広い世界をみているお人じゃ。海のむこうをみる眼を持って居る人には、豊臣《とよとみ》の、徳川のと申すのは、あまりに小さく、また、過ぎ去った昔のことなのじゃ。それはとにかく、父は父の考えがあり、茶屋どのは茶屋どのの考えがあって、このたび、茶屋船に乗ることになった」 「茶屋船にて、いずこへ……」 「南の国々じゃ。とりあえず、交趾《コーチ》と申すところへ行くことになろう」 琉球《りゆうきゆう》より遥《はる》か南方の国だといった。 「なんのために、そのような所へお出かけなされます」 「茶屋船は交易のためじゃ」  日本からは、屏風《びようぶ》や甲冑《かつちゆう》、大刀《たち》、織物などを運び、むこうでは生糸や鹿皮《しかがわ》などの仕入れをする。 「表むきは商売じゃが、今一つ、目的がある。人を尋ねるためじゃ」  茶屋船と同じく、南の国々と交易のために日本を出ていく船は少くなかった。 「末次《すえつぐ》船、角倉《すみのくら》船、荒木《あらき》船、またその他に御朱印状を持たず、勝手に商売におもむく船もある。その船の中に、右大臣家をみたと申す者があるそうでな」  右大臣家とは豊臣|秀頼《ひでより》のことであった。 「茶屋どのも、その真偽をたしかめたいと思うて居る」 「もし、右大臣様が生きておいでだとしたら、茶屋どのはどうなさるおつもりでございますか」  徳川家に縁の深い茶屋又四郎が、秀頼をそのままにしておくとは思えない。 「茶屋どのとは腹蔵なく話をした。父には父の思案もある。それ故、父は茶屋船に乗って参る」  それ以上は訊《き》くな、といわれて、三帆は涙ぐんだ。  姫路にいる時、天気がよければ池のようにおだやかな瀬戸内《せとうち》の海ですら、いったん、荒れ狂うと大きな船でも難破することがあるのを見たり聞いたりした。  実際、本多家の船に乗って時化《しけ》の怖《おそろ》しさを体験している三帆でもあった。 「大海原に乗り出されたら、どのようなことがあるか、三帆は父上の御身《おんみ》が案ぜられてなりませぬ」  折角、生きてめぐり合った父であった。 「出来ることなら、世の片すみにひっそりと父上と共に暮しとうございます」  恋を失った今は、ひとしお、その思いが強かった。 「父も、そう思う。しかし、今は行かねばならぬ」  南へ行く船の人々から、秀頼が生きているといった噂《うわさ》が大きくならぬ中に、真偽をたしかめ、 「大坂の生き残りとしては、なんとしてもやりとげねばならぬことがある」  と甲斐守はいった。  それは大坂方として幕府に弓を引くことではなく、過去を捨てて生きる道を開くためだと説かれて、三帆は眉《まゆ》をひそめた。 「そのようなことが出来ましょうか」  大御所家康は歿《なくな》ったが、二代将軍秀忠とて秀頼を許すとはどうにも考えられない。  甲斐守が娘の頭上に広がる青い空を仰いだ。 「この国で出来ぬことも、遠い南の島なら出来るやも知れぬ」 「では、父上もその折は……」 「万に一つ、右大臣家御生存の折には、今度こそ、父も運命を共にする」 「私も参りましょう」  たまりかねて、三帆は叫んだ。 「私も父上と共に、茶屋船に乗せて下さいませ」 「今は早い。やがて、その時が来たら、そなたを迎えに参ろう。それまでは何事も小野阿通どのの指図に従って居れ」  娘の手を取った父親の眼の中に、薄く滲《にじ》むものがあった。 「そなたの立場については、おおよそ、阿通どのより聞いた。長年、御奉公申し上げた千姫様のお傍《そば》を去らねばならぬそなたの心中、不愍《ふびん》とは思うが……。耐えるのじゃ。この父の娘なら、耐えてくれ。父が再び、そなたを迎えに来るまで、健やかでいてくれるように……」 「父上こそ、お大事になされて下さいませ。三帆は父上のお約束をたのしみに、その日を待って居ります」  慶光院の周清尼の心尽しで、その夜はすぐ近くの寺に宿を求め、翌日、甲斐守は新しい草鞋《わらじ》をふみしめて伊勢を去った。  父に会ったことで、三帆の心には又、変化が起った。  南の国々と交易をする船に秀頼が乗っているというのは、いつぞや瀬戸内でみた海賊船が南海を往来しているということなのかと思う。  そういえば、忠刻はあの事件以来、瀬戸内の海に海賊船をみなくなったと話していた。  京の小野阿通からは時折、便りがあった。  京へ戻って来る気になったら、いつでも文をくれるように、迎えはこちらからさしむけるからと、親切である。  三帆は今暫《いましばら》く、伊勢に滞在したいと返事を出した。  毎日、仏へぬかずく三帆の心に祈りが湧《わ》いた。  父の無事と、首尾よく秀頼とめぐり合えるよう、ひたすら合掌する。  時鳥《ほととぎす》の啼《な》き声を耳にするようになって、小野阿通が三つのことを知らせて来た。  一つは将軍家|上洛《じようらく》のことで、参内《さんだい》した秀忠は天皇、女御《にようご》、女官などに銀千枚ずつを贈り、明年にも松姫を入内《じゆだい》させる旨《むね》、万事、とり決めたという。  二つは、その将軍上洛中に、安芸《あき》国|広島《ひろしま》城主であった福島左衛門《ふくしまさえもんの》大夫正則《たゆうまさのり》が幕府の許可なく城の改築をしたことを理由に改易になったというものであった。  福島正則は豊臣家の股肱《ここう》の臣だったが、|関ヶ原《せきがはら》の合戦以来、徳川家に従い、今は、安芸、備後《びんご》合せて四十九万八千石の大名に列《つらな》っていた。  それほど、徳川家に従順であった福島正則でも、徳川家にしてみれば折をみて取り潰《つぶ》そうとするのは、やはり、豊臣家恩顧の大名という過去にこだわってのことと、三帆にもわかる。  やはり、豊臣秀頼が生きていると知れたら、ただではすむまいと思い、三帆は衿許《えりもと》が寒くなった。  三つめの知らせは、千姫に若君誕生のことであった。  本多忠刻にとって、はじめての男児出生である。本多家の喜びは天にものぼるようで、祖父忠政が江戸へ早馬をたてて将軍家に報告し、名を幸千代《こうちよ》とつけた、と阿通は書いている。  千姫様は、とうとう本多家のお世継ぎをお産みなされた、と三帆は複雑な気持で西の空を眺めた。  本多家に嫁し、その世継ぎを産んだ千姫は、生涯、本多忠刻の妻として幸せな日々を約束されたも同様であった。  姫路のお城下は、さぞかし喜びに湧きかえっているだろうと思いながら、三帆は慶光院の庭をみつめた。  春から夏へ、尼寺の庭の池では蓮《はす》が小さな蕾《つぼみ》を持ちはじめている。     三  姫路城下は二重、三重の祝いに包まれていた。  最初の祝賀は安芸広島城主、福島正則が幕府の禁を破った廉《かど》で改易となり、その城地の引き渡しに関して、山陽、西国、南海の諸大名が参集させられた。  本多家も忠刻自ら、船奉行に号令して、兵船を備後|尾道《おのみち》へ廻《まわ》させ、忠政は軍兵を率いて陸路を尾道に至り、そこから船で広島へ向って、諸大名と共に城を接収した上、紀伊《きい》和歌山城から浅野但馬守長晟《あさのたじまのかみながあきら》が入城するのを待って、引き渡し、無事に任務を終えた。  一つ間違えば合戦になりかねない大事だっただけに、留守を守るゆう姫や千姫は、ほっと安堵《あんど》の胸をなで下した。  続いて、将軍家より本多家に対し、その功績を賞《め》でて、大《おお》安宅船《あたかぶね》一隻を預けるという御沙汰《ごさた》が下った。  これは、かつて池田輝政《いけだてるまさ》が建造し、池田家より将軍家に献上したもので、まことに立派な大船であり、本多家にとっては、名誉なことであった。  それに加えて、千姫が幸千代を出産したので、御城内は無論のこと、播州《ばんしゆう》の津々浦々まで、祝賀の太鼓が打ち鳴らされ、百姓、漁民に至るまで仕事を休み、町々の主だった者には御城内から祝い酒が下されるといった大賑《おおにぎわ》いになった。 「お手柄でござる。これで我が本多家は万々歳、忠政の喜びはこの上もござらぬ」  千姫の手を押し戴《いただ》くようにして忠政夫婦が嬉《うれ》し涙を浮べ、忠刻も妻の傍から離れなかった。  早速、家中の主だった家の妻で半年前に出産した者が乳母に召し出されたが、千姫は勝姫を産んだ時と同様に、せめて最初の中だけでもと願って、暫《しばら》くは自分の乳房をふくませた。  が、それも一か月ですべてを乳母にまかせたのは、当時、産婦がいつまでも乳を与えていると産後の回復が遅れると案ぜられたためである。  二人の子の母となって、千姫の心から不安がすべて去ったようであった。  夫と三帆の間に、妻としての本能が、なにかしら不吉なものを感じさせていたのだったが、それも、さっぱり消えてしまった。  それほど、男子を産むというのは誇らしいことであり、栄誉であった。  八月十四日、待宵《まつよい》の月見の宴が、大安宅船の船上で催されることになって、本多一門が、すべて顔を揃《そろ》えた。  忠政夫婦と忠刻夫婦、それに、忠政の次男である政朝《まさとも》、忠義《ただよし》などが集った船上では連歌の会があった。  大安宅船の繋留《けいりゆう》されている高砂《たかさご》の浜は、謡曲で知られる高砂の松のゆかりの地で、祝いの宴にはふさわしい場所でもあった。  この夜の主賓は、なんといっても千姫で、曙染《あけぼのぞ》めの小袖《こそで》に薄綾《うすあや》の打掛《うちかけ》が艶《えん》に美しく、その妻を晴れがましく介添えしている忠刻の颯爽《さつそう》たる男ぶりと合せて似合いの夫婦雛《めおとびな》と、これは後々までの語り草になった。  連歌の題は「船」で、まず忠政が、 「いさぎよき、心やたむる菊の水」  と詠《よ》み、妻のゆう姫が、 「池のしづかに月うつる庭」  とつけた。  続いて忠刻の、 「初秋の風を簾《すだれ》にまきとりて」  に対して、千姫が、 「軒場におほふ竹の葉の露」  そのあとは、   時雨《しぐれ》つる跡とや霧の降り来らむ (お千代)   まだきにくるる末の山きは (お亀)   かりすててあかぬとかへるともおいて (政朝)   かたかたにしも駒《こま》祝ふ声 (お千代)   広き野や村より村をかけぬらむ (忠義)   つづく煙にしるき池の水 (お金)  と一門が続けて、最後を勝姫と幸千代に代って、   松陰も岸のかくれも明はなれ   船さし出《いづ》る袖《そで》あまたなり  と詠み終えた。  あとは酒をくみかわし、海上に上る月を眺めて一門の繁栄を喜び合う。  千姫は僅《わず》かの酒で頬《ほお》を染めた。  幸千代を産んでから城の外に出たのも初めてなら、酒も久しぶりのことであった。  船上を吹き渡る風に酔いをさまそうと舳先《へさき》に出ると、上ったばかりの月が波間に映ってきらきらと輝いているのが眺められた。  連歌が、千姫に昔を思い出させた。  千姫が九歳の年の十一月であった。  豊臣秀吉を祭った豊国《とよくに》神社で、千姫が願主となって、淀《よど》の御方の御夢想による連歌が催されたことがあった。  つまり、淀の御方がみた夢の中で詩や歌の一句が浮んだ場合、それを神意として連歌を作り、神前に奉納するというものである。  その折の淀の御方の発句は、   春駒《はるごま》や若草山《わかくさやま》に立ち出《い》でて   おもう事なきことぞ嬉《うれ》しき  というものであり、三句には千姫が   のどかにもなるや心のさそうらむ  とつけたものであった。  あの頃は、徳川家と豊臣家の間に少々の確執はあったものの、それはまだ怖《おそろ》しい戦につながるものではなかった。  少くとも、千姫はそれから十年後に大坂城が炎に包まれるとは夢にも思わず、母のように思っていた淀の御方に教えられて連歌の筆をとったものであった。  あの折の連歌と、今日の連歌と、自分の生涯がこれほど大きく変ったというのが、信じられない思いである。 「どうなされた。御気分が悪いのか」  いつの間にか、夫の忠刻が千姫の背後にいた。  白皙《はくせき》の彼の顔にも酔いの色がある。 「なにやら、酔うてしまいましたの」  熱い頬《ほお》を千姫は押えてみせた。 「忠刻も快く酔うた」  並んで沖を眺めた。  月に照らされた金波、銀波が高砂の浜に打ち寄せている。 「桑名《くわな》の海を思い出す」  忠刻がいった。  桑名から本多家の軍船で、千姫を送った時のことだと、千姫も気がついた。 「あの折も、よい月でございました」  海上に上る月を、自分にみせようとわざわざ声をかけてくれた人であった。  海上で襲って来た豊臣の残党を自ら剣をふるって追い退け、千姫を守り抜いた。  強く、たのもしいその人の腕に抱かれて、女の幸せを知り、二人の子を産んだ。 「忠刻は、果報負けがするのではないかと思うことがある」  妻の背に軽く手を廻《まわ》しながら、忠刻がいった。 「今宵《こよい》のそなたは、月の天女のようにみえる」  千姫は上気した顔を夫の胸にもたせかけた。 「お千こそ、幸せ者にございます。もし、殿にお目にかかることがなかったら、今頃《いまごろ》はどこぞの尼寺で寂しい日々を送っていたことでございましょう」  忠刻の手に力が加わった。 「そなたとめぐり合せて下された縁《えにし》の糸をありがたく思う。この幸せがいつまでも続くように……」 「私も神仏にそれのみ祈って居ります」  高砂の松に並んだ尉《じよう》と姥《うば》のように偕老同穴《かいろうどうけつ》を全うしたいと、その夜の忠刻と千姫は心の底から思った。  姫路の本多家が幸せの絶頂にあった元和《げんな》五年から翌六年にかけて、幕府は将軍秀忠の末の姫君である松姫|和子《まさこ》の入内《じゆだい》に奔走していた。  松姫和子は慶長《けいちよう》十二年十月四日に江戸城で誕生した秀忠の七番目の子で、千姫にとっては十歳年下の妹であった。  松姫が生まれた頃、千姫はすでに豊臣秀頼の妻として大坂城にあったので、この妹に関する噂《うわさ》の多くは、姑《しゆうとめ》 の淀の御方やその側近を通して耳にしたことばかりだったが、祖父家康が早くからこの孫娘を、その頃、まだ政仁《ことひと》親王と称されていた後陽成《ごようぜい》天皇の皇子に入内させる意志を持っていたようで、それは慶長十九年になって正式に決定した。  それ以前、慶長十六年には政仁親王が即位されたので、松姫は天皇の女御《にようご》として宮廷に入ることになる。  武家の姫が入内するのは平清盛《たいらのきよもり》の娘、徳子《とくこ》以来のことではあり、朝廷には多くの反撥《はんぱつ》があるということも千姫は聞いていた。  そんな反対の中で、自分の妹が天皇の女御になるのはかわいそうだという気持が強かった。  が、今の千姫は幕府の思惑もおぼろげながら理解出来るし、小野阿通や阿茶局などが女の立場を利用して根廻《ねまわ》しをし、朝廷側にも幕府に迎合する動きが出て、松姫入内がいよいよ具体化して来たことも、本多忠政からの話で知ることが出来た。  妹にくらべて自分は幸せだと千姫は思った。  たとい、帝《みかど》であろうとも見も知らぬ男の許《もと》へ嫁いで行くのであった。まして、帝にはすでに四辻公達《よつつじきんみち》の娘で御与津の局《つぼね》という寵妃《ちようき》があって皇女まで誕生しているという。  もっとも、千姫にしても、最初の結婚は似たようなものであった。  従兄妹《いとこ》の間柄とはいえ、大坂城へ輿入《こしい》れするまで、夫の秀頼の顔も知らなかったし、幼年とはいえ千姫という妻があるのに、秀頼が側室に二人の子を産ませたのは、千姫が事実上、秀頼の北の方になる以前であった。  ともあれ、元和六年五月八日、松姫和子は入内のため江戸城を出立した。  従う者は、老中|酒井《さかい》雅楽頭忠世《うたのかみただよ》を筆頭に、京都所司代|板倉周防守《いたくらすおうのかみ》など大名二十人、それに母代りとして阿茶局がつき添い、美々しい行列は東海道を西へ向い、二十八日には無事、二条《にじよう》城へ入った。  本多家でも当然忠政が、次男で竜野《たつの》城主となっている政朝を従えて上洛し、二条城の警備に当った。  六月十八日、松姫和子は金銀|梨地高蒔絵《なしじたかまきえ》の華やかな牛車《ぎつしや》で、古式にのっとり九条《くじよう》関白幸家、摂家、清華の公卿衆《くげしゆう》や殿上人《でんじようびと》、並びに武家の随身達に前後を守られて二条城から内裏《だいり》へ入った。  沿道には、この華やかな行列をみる人々が群をなしたという。     四  伊勢の慶光院にいた三帆が小野阿通によって京へ呼び戻されたのは、松姫入内の一月ほど前であった。  相変らず年齢を感じさせない、いきいきとした表情で三帆を出迎えた阿通は居間で向い合うと、すぐにいった。 「そなた、暫《しばら》くの間、内裏にあって、やがて入内なさる和子様に御奉公してくれませぬか」  三帆はあっけにとられたが、阿通はもう万事、決っているといったふうな自信のある口ぶりであった。 「和子様には、そなたのような心きいたお傍仕《そばづか》えがなんとしても必要なのですよ。江戸からついて来る女房衆では、到底、こちらの女官方とは大刀《たち》うちが出来ますまい。なにしろ内裏の女官方というのは、けっこう意地の悪いお人が多いのです」  三帆ならば、まだ子供の頃から大坂城の千姫に仕えていた。 「御存じのように、淀の御方は何事も京の公卿《くげ》好みでいらっしゃったから、大坂城の奥向きは御所の内とあまり変りのない御日常でした」  取次や挨拶《あいさつ》の仕方から、食膳《しよくぜん》の好み、作法、その他、さまざまの行事や遊びごとに至るまで、公卿風の暮し方であったと阿通はいった。 「その中でお育ちになっている三帆どのなら、必ず和子様のお力になろうかと存じます」  これは阿茶局を通して、将軍家からの指示でもあるという。 「和子様は、千姫様の妹姫、そなたのことはすでに阿茶局様が申し上げている筈《はず》、なにかと御奉公もしやすかろうと思います」  慌てて三帆は阿通の言葉を遮った。 「私は父を待って居ります」 「茶屋船にて、南海へ参られた父上のことか」 「はい」  必ず、自分を迎えに来ると約束してくれた父の言葉を伝えると、阿通は笑った。 「それは必ず、その通りであろう。けれども、三帆どのは父上が明日にも帰られると思うてお出でか……」  茶屋船に限らず、日本から南の島々へ行く船は風の都合で秋の終りから冬にかけて出発し、帰国するのはどう早くても、翌年の夏、南から北へ吹き上げて来る風に乗って戻って来るしかない。 「商いのために行く船は少くとも、行った先に二年は逗留《とうりゆう》せねばならぬとか。まして、そなたの父上は、或るお人を尋ねての旅、日本へ戻られるのは、二年先か三年先か。それ故、私は三帆どのに暫《しばら》くの間、御奉公をなさるようにと申し上げているのですよ」  あてもなく慶光院の厄介者でいるよりは、人の役に立ち、自分のさきざきにも有用になる宮仕えをしながら、父の便りを待てといわれて、三帆は考え込んだ。  たしかに阿通のいう通りだと思う。  姫路の千姫の許を去って、新しい道を歩み出そうとしている自分にとって、宮仕えは一つの活路になるかも知れないと悟って、翌日、三帆は改めて阿通に手をついた。 「何事も御指図に従いまする。何分、よろしゅうお願い申し上げます」  その日から、三帆は鷹司《たかつかさ》家へ入って、つい近頃《ちかごろ》まで御所に宮仕えをしていたという女官から、宮中のしきたりや祭式、礼法など、きびしく教えられた。  それは、決して安楽な毎日ではなかったが、三帆には張り合いがあった。  特に管絃《かんげん》の指南を受けることになって、三帆の笛が殊の外、女官を驚喜させてからは、教えるほうにもたのしみが出来たようで、師弟の関係がぐっとまろやかになった。  姫路を出てから、あまり吹くこともなかった笛が、ここでも、三帆の力になった。  三帆の笛の技量が並々でないというのが女官の口から、鷹司家の当主関白左大臣|信房《のぶふさ》に聞え、姫君|孝子《たかこ》の箏《こと》に合せるようにと懇望された。  孝子はなかなかの箏の上手で、三帆の笛が気に入って、毎日のようにお相手を仰せつけられる。自然、鷹司信房にも目をかけられるので、三帆の立場は更によくなった。  この一か月ばかりの鷹司家での奉公が、三帆の将来を大きく変えるきっかけになるのだが、この時の三帆は無論、知る由もなかった。  五月、松姫が二条城に到着した翌日、三帆は鷹司家の人々にこれまでの礼を述べ、別れを告げて、阿通と共に二条城へ入った。  阿茶局に案内されて、はじめてお目通りをした松姫和子は十四歳で、ちょうどその年頃の千姫に仕えた三帆には、まるで昔の千姫をみるようであった。  姉妹だけに容貌《ようぼう》も似ているし、声や、ちょっとしたそぶりもそっくりである。  三帆はなつかしさに胸が一杯になった。  千姫に仕えた当時の、この姫君のためならという気持が三帆に甦《よみがえ》って来て、それは、傍の阿茶局にも通じたらしい。 「御所は私達、武家出の者にとっては別の世界、馴《な》れぬこと、つらいこともおありだろうが、どうか女御様のために、力を尽してたもるように……」  と念入りな言葉があり、松姫和子も、 「姉君にお仕えしたそなたを、姉とも思い、深くたのみに思います」  とやさしい挨拶《あいさつ》であった。  松姫和子の入内に従って御所へ入った三帆は、甲斐甲斐《かいがい》しい女房ぶりであった。  もともと、ひかえめな性格だが、大坂落城以来、千姫と共にさまざまな体験をし、有為転変の世の中を歩いて来ただけに度胸も出来ているし、臨機応変の才智《さいち》もある。  江戸から松姫和子に従って来た女中などは忽《たちま》ち、三帆に心服し、万事、その指図に従うようになった。  その三帆が一番、案じたのは、松姫の夫である帝が、この入内を決してのぞんでいなかったという世間の取り沙汰《ざた》で、実際、鷹司家にいる間も、口さがない者達が、 「天子様は東夷《あずまえびす》から女御様を迎えることを、恥とお思いなされてお出でじゃ」  などといっているのを耳にしたことがあった。  京の朝廷にとって、江戸はまだ東夷の住む土地であり、武士を軽んずる風潮は根強く公卿《くげ》達の間に残っている。 「平安の昔、武士は貴族の番犬のように思われていたのを、今になっても同じようにお考えなさる。そうした公卿どのの頭の悪さと、世の中の移り変りに眼を閉じて見ようとしないかたくなさが、御所をいよいよ困窮させて行くことになるのですけれど……」  三帆が鷹司家にいた時分、訪ねて来た阿通がよくいったもので、その阿通の口から朝廷は幕府が献上する金銀でかろうじて体面を保っているのだと知らされていた。  実際、松姫が入内して住む女御御所にしても、二年がかりで幕府が造営したものだし、内裏の修復や新しい普請などにも、幕府の命令で諸大名がその資金を奉《たてまつ》っている。  そうした事情が松姫和子の入内で、もう一つ、はっきりと、幕府と朝廷の力関係を世間に知らせる結果になっただけに、三帆は内心、帝《みかど》の松姫に対する処遇を心配していた。  嫁して、夫に冷ややかにされる妻ほど悲しいものはない。  が、帝は闊達《かつたつ》な君で居られた。  幕府に対する御不満を胸中にお持ちのことは、御言葉のはしにうかがわれなくもないが、女御に対しては、優しかった。  松姫和子の愛らしさ、美しさにも心を惹《ひ》かれてお出でのようだし、女御御所へお成りのことも少くはない。 「女御様も帝を好ましくお思いのようですね」  松姫和子の母代《ははしろ》として扈従《こじゆう》して来た阿茶局が、ほっとして三帆にささやいたように、長身で、なかなかの美丈夫でいらっしゃる帝に松姫も心を惹《ひ》かれているようであった。  三帆が、松姫和子の入内に従って宮仕えをするようになった顛末《てんまつ》は、忠政を通じて千姫にもたらされた。 「三帆はあまり気が進まぬようであったが、阿茶局様、小野阿通どのの懇望で、とうとう心を決めたような……」  と忠政がいい、阿茶局からの書状を千姫に渡した。  阿茶局の文には、まず千姫の許しを得ず、三帆に宮仕えをさせたことを詫《わ》び、また、松姫が三帆を大層、気に入っていること、御所の中の三帆は、まるで魚が水を得たようだと書いて来ている。  三帆に新しい道が開けたのだと、千姫は思った。 「女御様は私の妹、三帆が仕えてくれるのは、私にとりましても心丈夫でございます」  千姫の言葉に、忠刻もうなずいた。  これでよかったと、胸をなで下すものがある一方で、男の勝手な気持だろうか、忠刻は自分から遠く去ってしまった三帆に、かすかな未練を感じていた。  ともあれ、人は幸せのただなかにある時、ただ歳月がめまぐるしく過ぎて行くのを惜しむ気持はあっても、その幸せの行く末になにがあるのか気づこうともしないのが常であった。  花なら盛り、月なら満月の本多家の人々が、さりげなく近づいている死の影を全く予想しなかったのも無理からぬところであった。  誰が、健やかに成長を続けている幸千代に、また、筋骨たくましく、宮本三木之助を相手に武術鍛練の汗を流している忠刻に、更には夫と息子夫婦に囲まれ、二人の孫の優しい祖母として穏やかな朝夕を送っているゆう姫に、不吉のきざしを感じ取ることが出来ただろうか。  元和六年、白鷺城は幸福に酔いしれている人々を包んで、この上もなく明るく輝いていた。  別れ行くもの     一  千姫《せんひめ》が白鷺《しらさぎ》城にあった頃《ころ》の播磨《はりま》国は、世に「播州本多《ばんしゆうほんだ》」と謳《うた》われるように播州一帯を本多一族が領していた。  まず、本多|忠政《ただまさ》、忠刻《ただとき》父子合せて、播磨国|飾東《しきとう》郡、飾西《しきさい》郡、神東《かんとう》郡、神西《かんさい》郡、加東《かとう》郡、加西《かさい》郡、印南《いんなみ》郡、加古《かこ》郡、多可《たか》郡、揖東《いとう》郡、揖西《いさい》郡の二十五万石を中心にして、忠政の次男、本多|甲斐守政朝《かいのかみまさとも》が播磨国|竜野《たつの》城主として五万石、また忠政の娘聟《むすめむこ》に当る小笠原右近《おがさわらうこんの》大夫忠真《たゆうただざね》が播磨国|明石《あかし》、三木《みき》の両郡合せて十万石の明石城主で、一族で四十万石という大勢力になる。  これは本多忠政をして西国探題職に任じ、西国大名の目付役にした将軍|秀忠《ひでただ》の、本多一族に対する絶大な信頼に他《ほか》ならない。  加えて、忠刻と千姫の間には勝姫《かつひめ》、幸千代《こうちよ》と二人の子に恵まれて、忠政をして、 「我が幸せ、これに勝ることなし」  と感動させた本多の幸せに、最初に不吉の影が射《さ》したのは、幸千代の急死であった。  冬のはじめに風邪《かぜ》をひいて二、三日床についたあげく、高熱を発し、あっけなくあの世へ旅立った。  元和《げんな》七年十二月九日のことで、幸千代は三歳の愛らしい盛りであった。  人は突然の悲しみに遭遇した時、涙が出ないものだということを、千姫は我が子の死によって初めて知らされた。  医師が幸千代の臨終を告げても、千姫は信じなかった。抱き上げた幸千代の体はまだ温かく、僅《わず》かに開いた唇からは、今にも、 「母様」  と呼びかける声が聞えそうである。 「幸千代は生きて居ります。これ、このように……」  訴える千姫の手から、忠刻が我が子を抱き取った。 「幸千代はどこへも行きはせぬ、こうして我らと共に……」  いいかけて、忠刻が絶句し、傍《そば》にいたゆう姫がこらえ切れなくなって嗚咽《おえつ》した。  それでも千姫はまだ茫然《ぼうぜん》としていた。何故《なぜ》、姑《しゆうとめ》 が泣くのか不思議な気がした。 「母上様……」  侍女の手から放れた勝姫が千姫にまつわりつき、それをきっかけに忠刻が松坂局《まつざかのつぼね》に命じた。 「お千と勝姫をあちらへお伴い申せ。予もすぐ参る」  松坂局が勝姫を連れ出そうとしたが、この部屋の異様な雰囲気に怯《おび》えたのか、勝姫は母にすがりついて動こうとしない。  無意識に千姫は勝姫と立ち上った。  松坂局にうながされて部屋を出る時、ふりむいてみると、忠刻は幸千代をしっかり抱えたまま、千姫にうなずいてみせた。  勝姫がむずかり、千姫は幼い娘の手をひいて奥へ戻った。 「お小姫様は、お眠いのでございましょう」  奥御殿では勝姫のことをお小姫様と呼んでいる。  着がえをして、夜具に入っても、勝姫は母の手をはなさなかった。が、やがて泣き顔のまま、寝息をたてはじめる。  気がつくと、忠刻が千姫の背後に立っていた。 「殿」  幸千代は、といいかけて千姫は声が出なくなった。黙って自分によりそってすわった夫の様子が異常であった。青ざめた顔と血走った眼《め》に悲痛があふれている。  夫をみつめている中《うち》に、千姫はわなわなと慄《ふる》え出した。幸千代の死が逃れられない現実となって、千姫は夫にすがりついたまま、声も涙もなく泣いていた。  幸千代の葬儀は、忠政が姫路《ひめじ》へ来てから、菩提寺《ぼだいじ》として建立した群鷺《ぐんろ》山|西岸《せいがん》寺にてとり行われ、遺骸《いがい》は書写山《しよしやざん》に埋葬された。  暫《しばら》くの間、本多家は悲嘆の淵《ふち》に沈んだかにみえた。  忠政は不幸な孫のために、多可郡の西仙《さいせん》寺観音に寺領を寄進したり、書写山の金堂、講堂の修復に施財したりして、その冥福《めいふく》を祈ったし、祖母のゆう姫は孫の墓参に余念もない日が続いていた。  が、同時に本多家中からは、少しも早く幸千代にかわる若君の誕生を望む声が上っていた。  武士の家は跡継ぎがない中に当主に万一のことがあると断絶するというのが、当時の武家諸法度《ぶけしよはつと》として定められている。  忠刻はまだ二十七歳だが嫡子誕生は急ぐに越したことはない。  若殿に御側室をお勧めしてはといった話が出たのも、この時からであった。  千姫は二十六歳になっていた。実際には女盛りだが、高貴な身分の人々の間では、子を産むにはやや高齢とされている。  側近から、その話を聞かされた忠刻が言下に一蹴《いつしゆう》したというのを、千姫は侍医から耳にした。  それほど若殿は千姫様を大事にして居られるということを医者はいいたかったのだろうが、千姫の心には暗いものが残った。  何日か思案して、千姫は 姑《しゆうとめ》 のゆう姫の許《もと》へ行った。  忠刻に、側室を勧めてくれと懇願する千姫を、ゆう姫は不愍《ふびん》そうにみつめていたが、 「本多家の行く末をお案じなさるお千どののお気持は平八郎《へいはちろう》に伝えましょう。なれども、仮にそのような女子《おなご》が出来たとしても、平八郎の、お千どのに対するお気持が薄くなったとは、決してお思いなさいませんように……」  夫婦の間が疎遠になっているのではありますまいね、と訊《き》かれて、千姫は頬《ほお》を染めた。 「そのようなことはございませんが……」  幸千代の死で激しい衝撃を受けた千姫を、忠刻はいたわるつもりか、夜を共にしながら、千姫に触れようとはしない。 「一番良いのは、お千どのが忠刻の子を二人でも三人でも産んで下さることです。御苦労とは存じますが、何卒《なにとぞ》……」 「私も、それをのぞんで居ります。なれども、そのこととは別に、やはり、側室をお勧めするのは妻のつとめと存じますので……」  もしも、自分に男児が出来なかった場合、本多家の将来は暗澹《あんたん》たるものになる。 「御家中の方々の御心中を思いますと、千はいても立ってもいられませぬ」  なまじ将軍の姫を妻に迎えたばかりに、遠慮して側室もおけなかったといわれることを千姫は案じていた。 「そのようなことになっては、私の心が済みませぬので……」  くれぐれもゆう姫に頼んで武蔵野《むさしの》御殿へ戻って来て数日後、忠刻がいつもより早く、中書《ちゆうしよ》丸から退出して来た。  姫路城では、だんだんに建て増しをして、忠政の住む本丸に対し、忠刻のために西の丸を築き、忠刻が中務《なかつかさ》大輔《たゆう》の位にあったので、その唐名を用いて、中書丸と呼んでいた。  いわば、公邸で、日常の政務はここでみることにして、夜は私邸に当る東側の武蔵野御殿で過す。  大方は早くとも未《ひつじ》の下刻《げこく》(午後三時頃)にならないと武蔵野御殿へ戻って来ない忠刻が昼過ぎに居間へ入って来た時、千姫は或《あ》る予感がしていた。  忠刻の表情は明らかに立腹していた。  それでも、 「お戻りなされませ」  と出迎えた千姫にうなずき、 「少し、そなたと話がある。侍女どもは遠慮してくれ」  といった。  不安そうに松坂局達が下ってから、千姫はいつものように炉の火加減をみ、茶釜《ちやがま》の湯のたぎり具合を確かめた。  中書丸から下ってくると、まず、妻の点前《てまえ》で一服というのが忠刻の毎日であった。 「母上よりお招きがあって、三人の娘どもと対面をした」  怒りを抑えた声でいい、忠刻は千姫をみつめた。 「母上の御言葉によれば、そなたが勧めたと申されたが……」  千姫はつとめて笑顔を夫へむけた。 「お気に召した者がございましたか」 「何故《なぜ》、そのようなことをなさる」 「お千は本多家に嫁いだ者、本多家の繁栄を願ってのことにございます」  忠刻の顔に朱がさした。 「お千どのは、この忠刻の妻、本多家の嫁としての斟酌《しんしやく》は無用じゃ」 「なんと仰せられまする。殿は本多家の嫡流、お家の大事を無用とおっしゃいますか」 「お千……」  たまりかねたように、忠刻が千姫の手を取った。 「どう申したら、わかって下さるのか。忠刻に側室は要らぬ。母上には、お断り申し上げて来た」 「私にお気を遣われてはなりませぬ」 「平八郎は、そなたが将軍家の姫故、恋をしたのではない」 「それは、わかって居ります」 「わかって居るなら、何故、要らぬ気遣いをなさる」  いきなり、忠刻が千姫を抱きしめた。 「幸千代の四十九日までは慎みを持つのが、そなたへの思いやりと考えていたが、もう許さぬ。平八郎の真実をみせてつかわす」  押し伏せられて、千姫はただ夫にすがりついていた。忠刻の息が乱れ、千姫はなかば気を失った。  水差しの水を忠刻が柄杓《ひしやく》に受けて、口移しに千姫の唇へ運んだ。 「そなたが好きだ。これほどに愛《いと》しいと思っている忠刻の心が、おわかりではないのか」  夫の腕の中で、千姫は涙をこぼした。 「殿のお子を、必ず産みまする。産ませて下さいませ」  夫婦の夜が、前にも増して濃くなって、やがて千姫はみごもった。 「ごらんなされ、忠刻の子を産む者は、お千どのと決って居る」  武蔵野御殿に、漸《ようや》く笑い声が戻ったのも束《つか》の間、その年の八月、千姫は体の異常をおぼえて、医師の診察を乞《こ》うた。 「なんと申し上げてよいやら……姫君の御胎内にて、お子が消えて居りまする」  なにが原因かはわからないが、胎児が水泡《みなわ》のように消えてしまっていると知らされて、千姫は失神した。     二  たて続けに二人の子を失った千姫に、追い討ちをかけるような噂《うわさ》が広がった。 「播磨の姫君には、豊臣秀頼《とよとみひでより》公の怨霊《おんりよう》がとりついて祟《たた》っている」  誰《だれ》がいい広めたのか、その噂は姫路城下をかけめぐって武蔵野御殿へも聞えて来た。 「愚かなことを……」  忠刻は一笑に付したが、千姫はやはり不安になった。  で、ゆう姫に相談をし、陰陽師《おんみようじ》を京より招いて占いを立てさせると、 「千姫様には、なにか亡き豊臣秀頼様のお形見をお持ちなされてお出《い》でではございませぬか」  という。  そういわれて、千姫が思い当ったのは、一枚の紙片であった。  そのむかし、千姫がまだ大坂《おおさか》城内で暮していた頃に、たまたま習字の稽古《けいこ》をしているところへ秀頼がやって来て、千姫の筆を取り、「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》」の名号《みようごう》を書いたあとに秀頼書と書きつけて、 「弥陀の名号を肌身につけていると、守りになるそうじゃ」  守袋に入れて持っているようにといわれて、千姫は素直にそれを肌守にしまった。  その守袋は大坂落城の折も持って出て、その後は、秀頼の位牌《いはい》と思い、仏壇に納めて香華をたむけて来た。  本多家へ輿入《こしい》れする時、それまでの思い出の品々はみな取り捨てたものの、弥陀の名号を書いたものだけに粗末にも出来ず、やはり守袋に入れたままにし、大坂落城の日を命日と決めて、ひそかに供養を続けて来た。  その他に秀頼の形見となるものはなく、千姫は陰陽師に、その紙片を取り出してみせた。 「成程、かようなものをお持ちでございましたか」  歳月を経て、幾分、黄ばみはじめたそれを、陰陽師は子細らしく眺めていたが、 「されば、亡きお人の怨霊《おんりよう》をなだめるためには、観音像一体を彫り、その胎内にこのお形見を納め、然《しか》るべき僧に怨霊を鎮める願文を書かせて供養をなさいませ」  と勧めた。 「お千どのには、何故《なぜ》、そのようなものをいつまでもお傍《そば》におかれたのか。もそっと早うに、寺へなりと納めておかれればよろしかったものを……」  ゆう姫が怖《おそろ》しそうに、その名号の紙片をみつめ、千姫は返す言葉もなかった。  別に秀頼恋しさに、いつまでも大事にしていたわけではなかったが、本多家の人、殊に忠刻の母であるゆう姫には不快だったに違いないと思う。  ひょっとすると、忠刻にも誤解されるのではないかと千姫は胸を痛めたが、母からそのことを聞いたという忠刻は、早速、播磨国で指折りの仏師といわれる彫海《ちようかい》という老人に観音像を依頼してくれた。 「観音像が出来上ったなら、早速、然るべき大|智識《ちしき》にお願い申して、供養を致そう」  千姫の気持をいたわって、さりげなく話しながら、忠刻は忘れるともなく忘れていた一人の男を思い出していた。  最初は桑名《くわな》の海上で、二度目は瀬戸内《せとうち》の海で、海賊船とも思える船上にいた鎧《よろい》武者である。顔は能面をつけてみることは出来なかったが、 「もしや、あれは、秀頼……」  再び、その疑惑が甦《よみがえ》って来て、忠刻は動揺した。  妻の、かつての夫が生きているかも知れないという想念は決して快いものではない。  元和《げんな》九年、秀忠は将軍職を家光《いえみつ》に譲ることになり、その宣下のための上洛《じようらく》が決った。  本多家では忠政、忠刻が召されて、参内の行列に加わることになり、六月、二条《にじよう》城へ入って、秀忠の到着を出迎えた。  家光はこの年、二十歳、病気のため出発が遅れて、七月十三日に伏見《ふしみ》城へ入り、征夷大将軍《せいいたいしようぐん》の宣下、並びに正二位、内大臣に任ぜられる旨《むね》の勅使があった後、八月六日には将軍宣下拝賀のため、宮中に参内した。  忠政、忠刻父子が行列に加わったのは、この時で、家光は内侍所《ないしどころ》にて天皇に拝謁《はいえつ》し、大刀《たち》、馬、銀などを故実に従って献上した。  天皇の女御和子《にようごまさこ》は家光の妹に当るので、関白、左大臣、右大臣など摂関の公卿衆《くげしゆう》との対面のあとには、女御の御住いの御殿へ参って祝いの盃《さかずき》を受けた。  万事が滞りなく終った翌日、二条城に女御和子の使が、このたびの慶事の祝物を持って訪れた。  秀忠の側近には本多忠政、忠刻もひかえていたのだったが、やがて案内されて入って来た女官をみて、思わず息を呑《の》んだ。  緋《ひ》の袴《はかま》に小袿《こうちぎ》、髪は長くおすべらかしにして、姿は全く変っているが、千姫に仕えていた三帆《みほ》にまぎれもない。 「女御様にお仕えなさる女官、姫路どのにござります」  取り次ぎの侍がいい、三帆は顔を上げた。 「大御所様に申し上げます。女御様より、このたびのお慶《よろこ》び、心よりお祝い申し上げるとの御言葉にござりまする。また、これなるは江戸《えど》におわします大御台《おおみだい》様への御文《おふみ》、なにとぞ、おあずかり願わしゅう存じまする」  家光に将軍職をゆずったことで、秀忠は大御所と呼ばれることになり、秀忠の妻で、和子や家光、千姫の生母に当るお江与《えよ》の方は大御台所《おおみだいどころ》と尊称されるようになる。  三帆は、そのお江与の方への文を、秀忠にことづけたものであった。 「また、女御様仰せには、かねてお話のございました関白左大臣様姫君、江戸へ御下向のこと、帝《みかど》におかせられましても、御満足の由、その旨《むね》、大御所様にお伝え申せとのことにございます」 「左様か」  秀忠が大きくうなずいた。 「女御様のお心尽し、秀忠、ありがたくお礼を申し上げるとお伝え下され」 「かしこまりました」 「かねて聞き及ぶところによると、姫路どのは以前、千姫に仕えていたことがあるとか。ここには、千姫ゆかりの者共も居る。消息など訊《たず》ねたきことあらば、別間にて物語をして参るがよい」 「ありがたきお心遣いにはございますれど、今日は女御様のお使、いずれ、女御様より千姫様への御文、持参 仕《つかまつ》ることもございましょうほどに、改めて……」  さわやかな挨拶《あいさつ》を残して、三帆は退出して行った。  女御和子のことづての鷹司《たかつかさ》家姫君、関東下向とは、将軍宣下を機会に家光の御台所を京の公卿衆《くげしゆう》から迎えたいという幕府の意向で、和子が尽力し、その結果、鷹司|信房《のぶふさ》の姫、孝子《たかこ》に白羽の矢が立ったことである。 「三帆どのは、すっかり変られたのう。姫路の城に居た時分は、内気で、どこやら寂しげな娘と思うて居ったが……」  宿所となっている二条城内の本多家敷へ戻ってから、忠政がしみじみ、忠刻にいった。 「宮中の女官は、その出身地を名にして居ると聞いたが、三帆が姫路と名乗っているのは、やはり、千姫様を忘れかねる故か……」  忠政は何気なくいったことかも知れないが、忠刻は胸を衝《つ》かれた。  三帆にとって、白鷺城での歳月は決して幸せなものとはいい難いのを、忠刻は承知している。  一度は激情にまかせて、あの娘を蹂躙《じゆうりん》しておきながら、妻の手前、三帆のいちずな恋心を突き放すというむごいことをしていた。  その後悔は、三帆が姫路を去ってから次第に忠刻の心の中で重く、濃くなっている。  今日、思いがけず三帆の姿をみ、声をきいたことで、忠刻は自分の気持が揺れているのに気がついた。  二日経《た》って、本多家へ小野阿通《おののおつう》からの使が来た。 「女御様より千姫様へお見舞の御文がございます。また、千姫様の度重なる御不幸について、私からも申し上げたいことがありますので、おそれながら、中務大輔様に使ともども、お出で願わしゅう存じます」  という阿通の口上で、忠刻は二条城を出た。  今年は秋の訪れが例年よりも早かったといわれている京の町は、しめり気を含んだ風が吹いていて、今にも雨が降り出しそうな空模様であった。  案内されたのは、嵐山《あらしやま》に近い公卿の別邸のような所で、玄関を入ったあたりで、年老いた女が待っていた。  通されたのは庭にむかった座敷で、広縁にむけて簾《すだれ》が下りている。  茶が運ばれたきり、ひっそりと誰も来ない。  屋敷の中は静まりかえって耳をすましても聞えるのは遣《や》り水の音ばかりであった。  庭の池で鯉《こい》がはねた。  雨が降り出すのか、あたりは急に薄暗くなって来た。  忠刻は妙な気持になっていた。まるで、恋人と忍び逢《あ》いをするために、その到着を待ちかねているような雰囲気である。  一陣の風が吹いて、庭上に雨が来た時、かすかな衣《きぬ》ずれの音がして、襖《ふすま》が開いた。 「お待たせ申してあいすみませぬ」  聞きおぼえのある三帆の声に、忠刻はふりむいた。  今日は小袿《こうちぎ》姿ではなく、花染めの小袖《こそで》に、柳の緑を溶かしたような織物を重ねている。髪も後でゆるやかにまとめ、紫の房のついた紐《ひも》でくくっていた。 「中務様には、お子様をあいついでおなくし遊ばしたとか、おくやみ申し上げます」  間近にすわって手をつかえた三帆から、香の匂《にお》いがした。  千姫が用いている香とも違い、どこか異国の感じがする。 「三帆どのは変られたと、父上が申されていた」  なにから話してよいか、言葉に迷いながら忠刻はいった。 「平八郎様には、三帆を老けたとお思い遊ばしたのではございませんか」  昔のままに忠刻を呼び、三帆がゆとりのある微笑を浮べた。 「そんな年ではあるまい」  千姫よりも年下の女であった。だが、今日の三帆には実際の年齢よりも落ついて、しっとりした女ぶりがある。  それは、女御和子の傍仕えの女官としての歳月の中に、おのずと備わったものか、それとも、苦しい恋を乗り越えてたどりついた悟りの故なのか、忠刻には判《わか》らない。 「千姫様には、お変りもなく……」  三帆が忠刻をみつめ、忠刻は庭へ視線を逃げた。  三番目の流産した子は姫君ということになっていた。せめてもの医者の配慮だったが、千姫は以来、健康が秀《すぐ》れないでいる。 「平八郎様も千姫様も、まだお若うございます。やがて、又、若君が御誕生遊ばす日もございましょう」 「そなたはどうなのだ」  何故か気が苛々《いらいら》と昂《たか》ぶって、忠刻は訊《き》いた。 「一生を女官として宮中に奉公するつもりではあるまいな」 「やがて、父が迎えに来てくれますまでは……」  簾《すだれ》のむこうの雨の音にまぎれそうな低い声である。 「父とは……父御は生きて居られたのか」  大坂方の智将《ちしよう》、速水甲斐守守之《はやみかいのかみもりゆき》が、もし生きているとすれば、秀頼はどうなのか。 「父は、船にて南の島へ参って居ります」  三帆が続けた。 「それは、右大臣様御生存の噂《うわさ》をたしかめるための旅ときいて居ります」  京で父とめぐり合ったことから、三帆は手短に話した。 「父は私にも昔を忘れよと申しました。時の流れには逆らえぬとも……」  そのために、秀頼がもし生きているなら、もはや徳川《とくがわ》に弓を引こうとするよりも、より大きな海のむこうに新しい天地を求めることを説くべく、南海へ発《た》って行ったのだと三帆は話した。 「私も、やがては父と共に、この日本を捨てるつもりで居ります」  その覚悟が、三帆のゆとりになっているのかと、忠刻は改めて相手をみつめた。 「千姫様にも、二度とお目にかかることはございますまい。平八郎様より、よしなに申し上げて下さいませ」  話が終ると、雨の音が俄《にわ》かに高くなった。 「山の湯を思い出すな」  ふと、忠刻がいい、三帆がうつむいた。 「あの一夜が、三帆にとっては今生の思い出でございます」  これは、女御様より千姫様への御文にございます、と、たずさえて来た文箱《ふばこ》をおいて暇《いとま》を告げようとする三帆の袖を、忠刻がとらえた。  言葉はなく、みつめ合うようにして几帳《きちよう》のかげに寄り伏した。  三帆の体は、山の湯の時のままであった。そのことが忠刻を予期以上に狂わせた。  雨でほの暗い部屋の中に、男と女の匂《にお》いがたちこめて、それはおたがいの生気を吸い尽す激しさで挑み合い、もつれ合って、長い時刻を過した。  三帆が身じまいをととのえたのは、雨がやんでからであった。  去って行く三帆に声をかけたいと忠刻は思った。  南海へ行くことも、宮中の女房づとめもやめて、姫路の城へ戻って来い、そういいたい気持が遂《つい》に言葉にならず、ただ、ひそやかに遠去《とおざ》かる衣《きぬ》ずれの音に耳をすますだけであった。     三  家光の将軍宣下の儀式が終って、忠刻は姫路へ戻り、忠政は秀忠に従って江戸へ向った。  小野阿通が姫路城下へ姿をみせたのは、十月なかばのことであった。 「千姫様に、亡き右大臣様|祟《たた》りのこと、忠政様より阿茶局《あちやのつぼね》様のお耳に達しました。阿茶局様の申されますには、陰陽師《おんみようじ》の申すことなど、とるに足らぬとは思うものの、そのようなお形見をいつまでも千姫様のお手許《てもと》におくのは如何《いかが》かと……。されば、ここは、とりあえず陰陽師の言葉にまかせ、観音像の胎内にそのお形見の名号の紙片を納め、伊勢の慶光院《けいこういん》にて法要を営み、周清尼《しゆうせいに》に願文を書かせるがよろしかろうとのことで、私がそのお使に参りました」  名号の紙片と観音像をあずかって、伊勢へ行く役目を仰せつかったという。  無論、忠刻にも千姫にも異存のあるわけがなく、すでに出来上っていた仏師、彫海作の観音像に名号の紙を納め、阿通にことづけた。  白鷺城で数日、歓待された阿通は吉日を占って伊勢へ旅立つことになったが、 「なろうことなら、若君様、御墓所にお詣《まい》りをして行きとう存じます。中務様、御同道願えれば幸いにございますが……」  と申し出た。  他ならぬ阿通の頼みというので、忠刻は承知し、阿通の見送りかたがた、書写山へむかった。  墓参は霊地に入ると、供の侍達は石垣の外にひかえ、忠刻が阿通を案内して、本多家の廟《びよう》へ行った。  阿通が低く、忠刻にささやいたのは、その時である。 「三帆どののお子のこと、この阿通におまかせ下さりませ」  一瞬、耳を疑い、忠刻は阿通を凝視した。 「子とは……三帆がみごもったのか」 「男君《おとこぎみ》であれ、女君《おんなぎみ》であれ、暫《しばら》くは阿通におまかせ下さいますよう……、やがて、時をみて、よろしいように……、この阿通を信じて、おまかせなされませ」  茫然《ぼうぜん》として、忠刻は書写山の上に広がる空の彼方《かなた》をみた。  空の果に京の都がある。  三帆が自分の子をみごもったというのが実感にならず、忠刻はむこうから供養のために近づいて来る書写山の僧の姿を目で捕えていた。 「今日、私が申し上げましたこと、時が来るまでは、お忘れなさいますように……」  読経が済み、墓所を離れる折に、阿通はもう一度、念を押し、六十五歳とも思えない足取りで石段を下りて行った。  阿通の知らせは、忠刻の心に小さな嵐《あらし》を与えたが、それは彼だけのことで、白鷺城は再び、穏やかな日々を迎えていた。  江戸から帰国した忠政が吉報をもたらしたのは、その秋のことで、忠刻と千姫の間に誕生した勝姫と、大御所秀忠のお声がかりで、因幡《いなば》鳥取城主、池田新太郎光政《いけだしんたろうみつまさ》との間に婚約が整ったというものであった。  池田光政は、かつて姫路城主であった池田|三左衛門輝政《さんざえもんてるまさ》の孫に当り、父、利隆《としたか》が歿《なくな》った時、まだ弱年であったため、西国探題職には無理であるとて鳥取城へ国替えになり、その後に本多家が入国した。  従って、姫路に縁のある者同士の縁組になり、両家にとっても具合のよいことになる。  もっとも、婚約したといっても、光政は十五歳、勝姫はまだ六歳なので、正式の輿入《こしい》れは、両人の成長を待ってということになった。  その年の暮、関白|鷹司信房《たかつかさのぶふさ》の姫、孝子が将軍家光の御台所として江戸に下向した。 「上様にも漸《ようや》く御台所がお決りになり、おめでたいことでございますな」  ゆう姫がいい、千姫は自分が本多家へ嫁ぐと決った時の寂しげな弟の姿を思い出した。  同じ兄弟なのに、母のお江与の方が、家光よりも弟の忠長《ただなが》のほうを可愛《かわい》がって、とかく江戸城にあって孤独だった家光に、公卿《くげ》の美しい姫が嫁いで来る。  晴れて征夷大将軍《せいいたいしようぐん》に任ぜられた家光の晴れがましい姿は、夫の忠刻からも聞かされていた。  不運だった弟が、いつの間にか徳川家の主《あるじ》として、光の当る場所に立ったことが、姉の立場では嬉《うれ》しかった。  更に、京の御所では女御和子に皇女《ひめみこ》が御誕生になったこともあって、翌元和十年の正月は、徳川一門につらなる本多家も久しぶりに喜びをとり戻したかにみえた。  が、千姫はそうした慶事は別にして、夫の忠刻の微妙な変化にこだわっていた。  京から帰って来て以来だと思う。  外見はとりたてて変ったところがあるわけではなかった。  いつもながらの優しい夫であり、勝姫のよい父である。  夫婦の間柄も別段、すきま風が吹くということもない。  けれども、千姫は自分を抱いている忠刻が、誰か別の女のことを考えているような気がしてならなかった。  これといって理由があるのではなく、女の本能のようなものかも知れなかった。  千姫の肌に触れて来る忠刻の指が、なにかを探している。妻の示す反応とは別の、遥《はる》かな記憶の痕跡《こんせき》を、忠刻が無意識に求めているのが、漠然と感じられてならなかった。  京で、夫になにかがあったと考えるのは不安であった。  相手が白拍子《しらびようし》のような遊び女《め》ならば、それはそれでよいと思う。  将軍宣下の行列に加わるような、長い緊張を解きほぐすためには、遊女を抱いて酒を飲んだり、一夜を過すこともあるに違いない。忠刻の若さでは、それももっともと納得しないでもない。  千姫がこだわるのは、忠刻に、そうした女ではない女の影を感じるからであった。  よもやとは思う。  だが、三帆は女御和子に仕えて、京の御所にいる。  それとなく話をきけば、今度の大御所、並びに新将軍は在京中、女御御所を訪ねることもあったし、二条城に女御様からのお使も出入りをしたらしい。  千姫は居間の手文庫の中にしまってある女御和子からの文を思い出していた。  夫はそれを帰国して妻に手渡す時、 「女御様よりのお使が参って、これをことづかって来た」  といい、その使が誰かはいわなかった。千姫も訊《たず》ねなかった。  女御様に仕える女官は、なにも三帆一人ではあるまいし、忠刻にとっては名も知らぬ女官であったのかも知れないと思う。  そう打ち消しながら、千姫はいつの間にか三帆を思い浮べている自分に気がついて背筋が冷たくなった。  自分の口から夫に側室を勧めたこともあるのに、何故か、夫の横に三帆を並べて置くのはたまらなかった。  三帆だけは、いやだとつい思ってしまう。  どういう心の綾《あや》なのだろうか。  大坂以来の忠実な侍女であった。身分も速水甲斐守の息女であれば不足はない。  千姫にとって気心の知れた、一番、頼りにもなる美しい女を、夫にだけは近づけたくないという自分の気持を千姫自身、判断しかねていた。  やはり嫉妬《しつと》なのかと思う。  忠刻のほうも、千姫がなにかを感じとっているのに気がついていた。彼は彼で悩みが深い。  表面は何事もなく、しかし、心の深いところでの小さな谷間を、夫婦はおたがいにみてみぬふりをした。  それより他に、方法がない。  元和十年は二月三十日をもって寛永《かんえい》元年となった。  忠政が発病したのは、その春のことで、たまたま二条城は、明後年に帝の御幸《みゆき》を仰ぐため、大がかりな修復が行われ、諸大名十七家に石垣の工事が命ぜられた。  本多家もその十七家の中に入って居り、忠政は二条城へ出かけて指揮をとっていたが、日に日に食が進まなくなり、遂に医師から安静を命じられた。  同じ頃、忠刻も病んだ。  鷹狩《たかがり》に出かけて獲物を追っていて、切り株で足に傷を負ったのが、その夜から熱を持ち、食物はおろか、水も咽喉《のど》を通らなくなった。  高熱に苦しむ夫の許《もと》に、千姫はひたすらつき添っていた。  鳥取城の池田光政から、大山《だいせん》の氷室《ひむろ》の氷が早馬で届けられたのは、夜明けに近かった。  これも、忠刻の枕辺《まくらべ》を離れなかった宮本三木之助《みやもとみきのすけ》が運ばれた氷を桶《おけ》の中で砕き、千姫は自ら、それを夫の口に入れようとしたが、思うようにならない。  たまりかねて、千姫はその氷片を口に含み、口移しで夫の咽喉《のど》へ流し込んだ。  二口、三口、冷水が咽喉を通って、忠刻がかすかに声を洩《も》らした。 「三帆……」  はっとして、千姫は反射的に宮本三木之助をみた。医師はたまたま、松坂局を介添えにして次の間で薬湯を煎《せん》じて居り、忠刻の枕近くにいたのは、千姫と宮本三木之助の二人だけであった。  三木之助はひたすら氷を砕いていた。  彼に、今の忠刻の声が聞えていないことを千姫は祈った。  夫の心の秘密を知る者は、妻の自分だけにしてもらいたい。  だが、忠刻の口から三帆の名が出たのは、それ一度だけで、やや暫《しばら》くして意識の回復した忠刻が最初に求めたのは千姫の手であった。 「生きていたのか」  低く呟《つぶや》いた。 「夢をみていた。さまざまの人の顔が次々と現われた」  その中に三帆が居りましたのでしょうか、といいかけて、千姫は黙って夫の汗を拭《ふ》いた。  医師が薬湯を飲ませ、忠刻は再び、睡《ねむ》った。  翌朝、あれほどの高熱が嘘《うそ》のように引いて、本丸や中書丸、果ては武蔵野御殿の庭にまで集って夜をあかした本多家中の人々を安心させた。  若いだけに、快方にむかえば早い。  忠政のほうも十月《とつき》足らずの病臥《びようが》で床あげが出来た。  家光からは、直々に見舞の使者があり、心を入れて養生するよう、格別の御沙汰《ごさた》があって忠政を感泣させた。  ともあれ、父子共に健康をとり戻した本多家では加古郡にあった高砂《たかさご》神社が、池田輝政の時代に西北の方角に移され、その跡に高砂城を築いていたのを、改めて取りこわし、神社を元の場所に戻した。  神殿を中央に、拝殿、舞殿を備えた見事な造営で、社殿の東方に相生《あいおい》の松を植え、完成を待って、寛永二年九月十一日に遷座式をとり行った。  忠政夫婦、忠刻夫婦に勝姫、更に政朝、忠義など一門が揃《そろ》って、祝いの式にのぞむのは、六年前の安宅《あたか》丸船上の連歌の催し以来のことであった。  忠刻に側妾《そばめ》をという話は、このあたりから、又、蒸し返された。  三人目の子を流産してから、千姫に懐妊のきざしは全くなかったからだったが、今度も忠刻は承知しなかった。 「若殿は千姫様に御遠慮をなされて居られる」  という家中の噂《うわさ》を、千姫は耐えた。  三帆を京よりお呼び戻しなされませ、という言葉が幾度となく千姫の胸をかすめたが、それを口に出す勇気はなかった。  その冬、本多家では忠刻が出府することになった。  将軍家に新年の賀を述べるためであり、昨年の病気の際の温情に対し、御礼を言上する意味もあった。 「長くなろうとも、梅の咲く頃には帰国致す。お寂しかろうが、江戸の土産《みやげ》をたのしみにお待ちなされ」  優しい言葉を残して忠刻が出立してしまうと、千姫は心に空洞が出来たような気になった。その一方で、なにか、解放された気分もないわけではない。  忠刻を愛しすぎているのかと思った。  その日その日が自分のものでなく、ただ忠刻を思い、その人と共にあることだけを意識して生きている。  忠刻をもし、失うことがあったら、到底、一人では生きて行けないだろうと考えて、千姫はまたしても三帆へ心が飛んだ。  三帆がもし忠刻を慕っていたとして、この姫路を離れ、御所に奉公している彼女の歳月は、どれほど酷《むご》いものかと怖《おそろ》しい気がする。  江戸へ向う忠刻の行列は京で一泊した。  思いあぐねて、忠刻は、宮本三木之助を呼んだ。  小野阿通が鷹司家の別邸に暮しているのは承知している。 「阿通どのに会い、ただ、このことを訊《たず》ねて参れ。いつぞや、書写山での話は如何《いかが》あいなったのか、この忠刻がするべきことはなにか。それだけ申して返事をもらって来るように……」  三木之助が戻って来たのは、夜更けてであった。阿通の帰るのを待っていて、返事をきいて来たという。 「お返事は口上でございました」  明日、忠刻の行列が京を出る時、見送りに出るという。 「おあずかりのものは、その折、ごらん下さるように、尚《なお》、暫《しばら》くは大事におあずかり申し上げるとのことにございました」  出立は卯《う》の刻(午前六時頃)であった。  江戸へ向う三条《さんじよう》大橋の袂《たもと》に、阿通はひそやかに立っていた。傍《そば》に侍女と思われる女が幼女を抱いてひかえている。  幼女は睡《ねむ》たげであった。  あれが、三帆の産んだ子なのか、と馬上の忠刻は動揺した。  母親の三帆はどこで子を産んだのか、今でも女御御所に奉公しているのか、訊《たず》ねたいことを何一つ訊《き》けないままに、忠刻の行列は凍りつくような冬の朝を粛々として進んだ。  忠刻逝く     一  寛永《かんえい》二年の暮、本多中務《ほんだなかつかさ》大輔忠刻《たゆうただとき》は江戸へ入った。  本多家の江戸屋敷は江戸城西の丸下にあったが、それとは別に忠刻は大手前に屋敷を与えられていた。  幕府が武家諸法度《ぶけしよはつと》によって大名の参勤交代《さんきんこうたい》を決めたのは寛永十二年のことで、この頃《ころ》はまだ大名の出府、在藩はほぼ自由であった。  翌寛永三年の正月には、まず元日に本丸へ登城して将軍|家光《いえみつ》に年頭の挨拶《あいさつ》を、二日には西の丸の大御所|秀忠《ひでただ》に新春の賀を述べた。  それらは、いわば儀礼的なものであったが、その後、家光からは乳母《うば》のおふくを通じて忠刻に招待があり、本丸中奥へ伺候した。  中奥は、いわば将軍の私邸に当るところで、家光はくろついだ様子で酒肴《しゆこう》を運ばせ、忠刻をもてなした。  彼の口からはしきりに姉、千姫《せんひめ》の消息を訊《き》く言葉が出る。  江戸へ来て、忠刻は先年、京から御台所《みだいどころ》として迎えた鷹司《たかつかさ》家の孝子《たかこ》と、家光の夫婦仲が円満とは行かず、殊に孝子と、彼女に従って京から江戸へやって来た女中達と、江戸城大奥を取りしきる女達がことごとに対立し、止《や》むなく吹上御苑《ふきあげぎよえん》内に御殿を造って、そこへ御台所を移すことになっているという噂《うわさ》を耳にしていた。  たしかに、御城内では正月早々、その普請が続けられているらしく、その物音はこの本丸中奥にも時折、聞えて来る。 「中務様にはお跡継ぎがお歿《なくな》り遊ばし、さぞ、お力落しでいらっしゃいましょう。なれども、千姫様との御仲|睦《むつ》まじくお出でなされます由。やがて若君の御誕生も間近でございましょう」  席にひかえているおふくが口をはさみ、 「上様にも将軍職をお継ぎ遊ばした今、一日も早くお世継ぎの御誕生を願って居りますなれど、上様には千姫様に似た女子でなければ、お側には召さぬと仰せられまして……まことに御難題でございます」  と冗談らしく笑う。  すると、その尾《あと》について、 「姉上のようなお方は二人とは居るまい。家光にとって姉上は見果てぬ夢じゃ」  と真顔で家光がいう。  酒の酔いもあって、 「我が姉でなくば、中務には遣わさなんだ」  と歎息《ためいき》をつくので、つい、忠刻は苦笑した。  この若い将軍が少年の日、千姫を慕っていたことは、忠刻も承知している。 「この度は、手前一人にて出府致しましたが、次の折には北の方ともども、上様にお目通りを致しましょう」  というと、 「いや、姉上に播磨《はりま》より江戸までの長旅はおさせしとうない。それよりも今年の夏には、大御所が京の二条城《にじようじよう》に帝《みかど》の御幸《ごこう》を仰ぐことになって居る。その時は予も上洛《じようらく》すること故、中務には是非、姉上を京までお伴《ともな》い下さるように……」  それがいいたくて、忠刻を招いたといわんばかりであった。  なんにしても、家光は終始、機嫌がよく、帰りにはあらかじめ、おふくに命じて用意させたという衣服や菓子などを忠刻に与えた。  更に四、五日もすると、今度はお能拝見の招きがあった。  家光は能が好きで、その日は観世《かんぜ》太夫《だゆう》と「鶴亀《つるかめ》」を舞った。  そこでは、久しぶりに阿茶局《あちやのつぼね》に対面した。  忠刻にとっては、千姫との縁談を取りまとめた大恩のある女性でもある。  もう七十歳過ぎていて、みたところ上品なお婆《ばば》様だが、言葉のはしばしには男まさりの剛毅《ごうき》な気性がみえがくれする。 「上様のお情にて、竹橋《たけばし》御門の内に屋敷を賜わりまして、そちらに隠居して居ります。是非、在府中にお訪ね下さいまし。この年になりますと、昔の思い出話が一番、なつかしゅうございます」  その場限りのお愛想ではなくて、数日後、忠刻の都合を訊《たず》ねてから、改めて迎えが来て竹橋の屋敷へ呼ばれた。  竹橋は本丸の北側、平河《ひらかわ》門の内側にあって吹上の御庭から続いている。  屋敷そのものは簡素で、如何《いか》にも阿茶局にふさわしい住いであった。 「早いものでございますね。中務様にお目にかかったのは、千姫様のお供をして京から江戸へ戻る道中、桑名《くわな》にて大層、御厄介になりましたが……」  それから数えて、もう十年の余と指を折る。 「思えば、あれが、中務様と千姫様の恋のはじまりでございましたね」  鈴鹿《すずか》の山中まで千姫を出迎えた忠刻が、豊臣《とよとみ》家残党を斬《き》り伏せ、千姫の難を防いだ。  そして、翌日は桑名の海上で千姫を乗せた本多家の軍船を海賊が襲ったが、これも忠刻の采配《さいはい》で難なく退けた。 「千姫様は、中務様の許《もと》にお輿入《こしい》れ遊ばして、本当によかったと思って居ります」 「それを申すなら、それがしのほうでございましょう。十年がただ夢のように過ぎた心地が致します」 「この婆のお節介を喜んで下さいますか」  千姫を忠刻にひき合せたのは、阿茶局の才覚でもあった。 「どれほど御礼を申してよいかわかりません。夫婦ともども、有難いことに思って居ります」 「嬉《うれ》しいこと……」  やがて、ギヤマンの酒瓶に入れた赤い酒が出た。 「茶屋《ちやや》船が南の島から戻りましてね。ポルトガルとやら申す国のお酒だそうでございますよ。眠れぬ夜に盃《さかずき》に一つ、二つ、薬の代りにたしなむようにと頂きましたが、中務様のお口に合いますかどうか」  口に含み、忠刻は甘いと思った。口あたりはよいが、あとから強い酔いが来る。  夕刻、宮本三木之助《みやもとみきのすけ》が迎えに来て、忠刻は阿茶局に暇《いとま》を告げた。 「私は、もう老い先短い身でございますが、中務様と千姫様はせいぜい長生きを遊ばして、お仲睦まじゅうお幸せに……」  玄関まで見送った阿茶局は、心からそう願っていったことだったが、あとで考えてみると、それから数か月後に姫路《ひめじ》城で起った悲劇を予感して、その不安を打消すような心算でいった言葉のようにも思えた。  江戸へ滞在すること二か月、忠刻は将軍家に暇乞《いとまご》いをして、千姫の待つ姫路への帰途についた。  この道中に宮本三木之助は加わらなかった。暫《しばら》く、江戸の藩邸に残って、本多家中の侍に稽古《けいこ》をつけ、自分自身も諸国から集って来る剣客に学ぶべきものを学びたいという彼の願いを、忠刻が承知したからである。  忠刻が自分の体に異変を感じたのは、東海道《とうかいどう》を尾張《おわり》まで来たあたりでであった。  どこがどうというのではないが、頭が重く、食が進まない。  江戸での緊張がとけて疲れが出たのだろうと思った。  体の不調と共に、忠刻の帰心は矢の如《ごと》くなった。  一刻も早く姫路へ戻って千姫の顔がみたいと思う。父と母も待ちかねているだろうし、勝姫《かつひめ》はどんなに大きくなったことか。  僅《わず》か数か月留守にしただけなのに、まるで何年も会っていないような気分で、忠刻は旅を急いだ。  京泊りの夜、忠刻は自身で小野阿通《おののおつう》を訪ねる腹づもりであったが、その気力も体力もなくなっていた。  宮本三木之助でも供にいれば、使に出したのだが、あいにく彼はいない。  京に心を残しながら、忠刻は帰路についた。  白鷺《しらさぎ》城は桜が咲きはじめていた。  先触れがあったので、千姫は勝姫と共に大手門まで出迎えていた。  道中は駕籠《かご》であったが、領内に入ってからは馬上の忠刻は威風堂々と帰城したが、千姫は夫の顔をみた瞬間に、ただならぬものを感じていた。 「今、帰った。父上、母上に御挨拶《ごあいさつ》を申し上げて来る」  勝姫を抱き上げてから、忠刻が本丸へ行くのを見送って、千姫は武蔵野《むさしの》御殿へ戻ったが心は落つきを失っていた。  医師を呼んだものかどうかと思う。  だが、松坂局《まつざかのつぼね》が女中達に忠刻の江戸|土産《みやげ》を運ばせて来た。 「こちらは将軍家よりの贈《たまわ》りもの、こちらは阿茶局様よりの献上とのことでございます」  それらがところ狭しと並べられている中に忠刻が入って来た。 「まず、湯あみがしたい」  用意されていた湯殿へ行き、旅の汗を流して出て来たのをみると、心なしか顔色も常にもどっている。 「やはり、我が屋敷はよいものじゃ、疲れが吹きとんだぞ」  勝姫への人形からはじまって、松坂局にまで江戸土産が渡される。  千姫を喜ばせたのは、さまざまの珠玉をつないだ連《れん》であった。 「近頃は上様の御朱印をたまわった日本船が数多く、異国へ交易に出かけて居るとやら。これは江戸にて入手した異国の女の飾りものと聞いたが……」  忠刻が、それを千姫の胸にかけてやり、千姫は珠《たま》の一つ一つを珍しそうに眺めた。 「お気に入られたか」  忠刻が訊《き》き、千姫は嬉《うれ》しそうにうなずいた。 「殿《との》がお求め下さったのでございますもの、気に入らぬわけがございません」  家光からは見事な細工の小箱に入った香木が、阿茶局からは唐織《からお》りの小袖《こそで》がことづけられている。 「明日は、それを召されて、花見を致そう」 「まるで、殿のお帰りを待っていたように咲きましたのですよ」  夫婦の居間からは夜更けても笑声が絶えず、千姫は夫の不調を発見する機会を失った。  帰国して一か月後に、忠刻は発病した。  微熱が続き、憔悴《しようすい》が著しい。  病床にあっても、忠刻は千姫に今年の予定を語り続けた。 「上様には、この夏、二条城にて帝《みかど》の行幸をお迎え申すため、御上洛《ごじようらく》になる。その折、我等にもそなたを同道して京へ参るよう御|沙汰《さた》があった」  その準備を今からしておいてくれという。 「たのしみでございます。殿と御一緒に京へ参りますこと……」  それまでに夫の病が本復するよう、神仏に祈った。実際、その頃の千姫は夫が間もなく死を迎えるなどとは考えてもいなかった。  それだけ、夫の頑健を信じていた。  だが、忠刻の病状は少しずつ悪化していた。  四月になって、忠刻病むの報は江戸にも届いた。  家光からは老中、土井大炊頭利勝《どいおおいのかみとしかつ》に命じて、養生して一日も早く快癒するよう、又、回復の上は大和《やまと》国において三十万石を与えるという見舞状が姫路へもたらされた。 「上様のお情、なんとお礼を申してよいか」  衰弱した顔に涙を伝わらせながら、忠刻は江戸の方角へむかって深々と頭を下げたが、五月になると、全く食物をうけつけなくなった。  七日の夜半、もう何日も不眠のまま、枕辺《まくらべ》につきそっていた千姫に苦しげな声で訴えた。 「予は、そなたに詫《わ》びねばならぬことがある。それを申しても、予を許して下さるか」  千姫は、なにを考える余裕もないままに、うなずいた。 「なにがありましょうとも、お千は殿の妻でございますもの」  忠刻が千姫の手を掴《つか》んだ。だが、その手には、もう力がなかった。  夜明けの明星が西の空に消える頃、忠刻は忽然《こつぜん》と逝《い》った。     二  夫の死を知った時、千姫は狂乱した。  医師が手当をしたが、逆上はおさまらず遺体にすがりついて離れなかった。  忠刻の母のゆう姫も衝撃が大きかった。こちらは忠刻の死んだ夜から病床についた。  姑《しゆうとめ》が倒れて、千姫は辛うじて自分を取り戻した。  自分の歎《なげ》き以上に、父、忠政《ただまさ》の胸中の悲しみを思いやったからでもある。  逆縁ほどつらいものはない。  老いた父が、若い息子《むすこ》の死を見送るのであった。  しかも、その息子には跡継ぎの嫡子がいない。  千姫はうちひしがれている舅《しゆうと》を助けて夫の葬礼の指図をしなければならなかった。  忠刻の遺骸《いがい》は、幸千代《こうちよ》がねむっている書写山《しよしやざん》に葬られた。  家光からは弔問のため、太田采女正資宗《おおたうねめのかみすけむね》と神尾宮内少輔守勝《かみおくないしようゆうもりかつ》が姫路へ来た。  悲しみに沈んでいる白鷺城には、更に悲痛な知らせが入った。  江戸にいた宮本三木之助が忠刻の死を知って姫路へ帰り、忠政や千姫に挨拶《あいさつ》をした後、書写山へ行って、忠刻の墓前で切腹したものである。三木之助は二十三歳、忠刻は三十一歳であった。  死ねる人はいい、と千姫は思った。  なにを考えるでもなく、ひたすら逝った人の後を追って行ける者は幸せだとすらいいたくなる。  千姫は勝姫の母であった。  病床にある姑の看病も、傷心の舅の介抱にも心を砕かねばならない。  千姫が思いきり泣けるのは、人々の寝静まった夜更けだけであった。  その上、江戸からおくやみをいって来た阿茶局の書状によると、江戸では大御台所、千姫の母に当るお江与《えよ》の方が病んでいるという。  姑の看護をしながら、千姫はひたすら神仏の加護を祈るしかなかった。  だが、六月二十五日、ゆう姫は薬石効なく我が子の後を追うようにあの世へ旅立って行った。  息子と妻と、たて続けに失った忠政は、その悲しみをふり切るようにして任務についた。  すでに、徳川家では九月に二条城に帝《みかど》の行幸を奏請して居り、秀忠はその準備のために六月二十日に上洛《じようらく》していた。  本多家には、饗宴《きようえん》や帳具一切の宰領が任《まか》されて居り、その準備万端のため、娘聟《むすめむこ》の小笠原忠真《おがさわらただざね》と共に京へ向った。  忠政の出発を見送った千姫の胸中にも悲しいものがあった。  病床にあって、忠刻はこのことのために千姫を伴って京へ行くことを、しばしば、たのしげに口にしていた。  もし、病が本復していたら、夫婦そろっての華やかな旅立ちになったに違いない。  忠刻の法要はあらかた終っていたが、ゆう姫の忌日は千姫が施主代理をつとめて一つ一つ片付けて行かなければならない。  そうした中で、千姫は文を書いて、上洛中の弟、家光へ歎願《たんがん》をしていた。  忠刻の遺領十万石のことについてであった。  跡継ぎの嫡子のない大名家は当主が急死した場合、領地は幕府に没収される。  忠刻にしても、よもや三十一の若さでこの世を去ることになるとは当人はもとより周囲も予想しなかったので、あらかじめ養子を迎えてもいなかった。  しきたり通りからいえば、本多家は十万石を失うことになる。  つまり、これまで忠政、忠刻父子に与えられていた播磨国|飾東《しきとう》郡、飾西《しきさい》郡、神東《かんとう》郡、神西《かんさい》郡、加東《かとう》郡、加西《かさい》郡、印南《いんなみ》郡、加古《かこ》郡、多可《たか》郡、揖東《いとう》郡、揖西《いさい》郡など合せて二十五万石の領地の中《うち》、忠刻の所領十万石を失って、十五万石に減ぜられる。  さぞかし、本多家中の人々が落胆するであろうと千姫は思いやった。  せめて、遺領の中のいくばくかを、忠刻の弟達に分け与えることが出来たら、妻子を一度に失ったような忠政の衝撃に対して、幾分の慰めになるのではないかと考えての、将軍家への願い文であった。  家光は八月二日に入京し、二条城に秀忠を訪ねてから、改築された淀《よど》城へ入った。  続いて秀忠、家光が日を違えて参内し、朝廷からは秀忠に左大臣、家光に右大臣の任官があった。  帝《みかど》の行幸は九月六日のことで、家光が行列をととのえて参内し、行幸の奏請をしてから二条城へ戻ると、御所からは中宮になられている和子《まさこ》や内親王、及び帝が牛車《ぎつしや》をつらねて二条城へお入りになり、五日間、滞在された。  その間、善美を尽した饗宴《きようえん》があったが、帝の御|膳部《ぜんぶ》はすべて黄金をもって製したものを用いるといった贅沢《ぜいたく》さであった。  後世の語り草になった二条城行幸が首尾よく終った翌日に、江戸から早馬が到着し、大御台所、お江与の方の危篤《きとく》を告げた。  家光の弟、駿河大納言忠長《するがだいなごんただなが》は直ちに江戸へ馬をとばしたが、秀忠と家光は、そういうわけに行かなかった。  朝廷からは二条城での歓待のお返しとして、秀忠には太政《だいじよう》大臣を、家光には左大臣への昇格を伝えて来たからである。  十五日には二条城本丸と二の丸で、各々、太政大臣新任の祝いが行われ、公卿《くげ》諸大名の賀を受けた。  その同じ日に、お江与の方は東海道をかけつけて来る次男忠長の到着も待たず、五十四歳の生涯を終えていた。  その知らせは十八日に二条城へ入り、秀忠と家光は京での行事をすべて終えて、家光は十月九日に江戸城へ帰り秀忠は同じく十月六日に京を発《た》って、駿府《すんぷ》城へ戻った。  お江与の方の葬儀は十月十八日、増上寺《ぞうじようじ》において行われたが、その遺骸を運ぶ道筋には白布が敷かれ、香が絶えることなく薫《た》かれて、流石《さすが》、大御台所の野辺送りと江戸の人々を感嘆させたという。  在京中に、家光は本多忠政を召した。  率直に、姉、千姫からの文をみせ、恐縮している忠政に、忠刻の弟で竜野《たつの》城五万石の領主である甲斐守政朝《かいのかみまさとも》を、本多家相続人として、姫路城へ移し、忠刻の遺領の中より新たに五万石を与えるよう、又忠政の三男、能登守忠義《のとのかみただよし》には、やはり忠刻の遺領の中、四万石を、更に忠刻の甥《おい》に当る小笠原信濃守長次《おがさわらしなののかみながつぐ》を竜野城に移し、政朝の旧領に忠刻の遺領一万石を合せた六万石を分ける旨《むね》を申し渡した。  即ち、忠刻の十万石は形を変えて、弟や甥など、本多一族に与えようというものであった。  忠政が感泣したのはいうまでもなかったが、家光はその忠政に千姫を江戸へ戻す相談をした。 「白鷺城には、中務の思い出が多すぎよう。本多家を忘れよとは申し上げぬが、どう歎き悲しんだとて、中務が生き返るわけではない。  また、政朝が姫路へ参れば、中務の居館は開け渡すことになろう。姉上のお気持を思えば、一刻も早く江戸へお移しするのがよかろうと思うが……」  忠政も答えた。 「千姫様にはこの上もない幸せを我が本多家へたまわりました。中務は果報者でござりました。なれど、中務亡き後は、せめて千姫様のお幸せを、家中の者共すべてが祈って居りまする。上様の思《おぼ》し召しに従うのが、最善かと心得まする」  姫路へ帰ったら、千姫に江戸へ帰ることを勧めると忠政は約した。 「その折は、手前もお供をして出府 仕《つかまつ》ります」 「たのむぞ」  千姫の心が決まれば、江戸から迎えの使者を出す、と、家光の姉への思いやりは行き届いたものであった。  帰国した忠政から、千姫はすべてを聞いた。  弟の厚意には、ただ感謝しかなかったが、姫路を去るのは、つらく、悲しかった。 「この白鷺城での十年は、私にとりまして生涯の幸せの日々でございました。お千の一生は、もう終ったと思って居ります」  せめて幸千代が生きていてくれれば、忠刻の跡を継ぐことも出来たし、その成長をたのしみに、本多家で一生を終ることが許されたものを、と、愚痴が涙になる。  別れの日は早く来た。  江戸から松平重則《まつだいらしげのり》が将軍家使者として千姫の迎えに来て、十一月二日、千姫、勝姫の行列は晩秋の播州路《ばんしゆうじ》を江戸へ旅立った。  白鷺城が遠くなるにつれ、千姫は自分がぬけがらのようになるのを知った。  忠刻との思い出が、自分の周囲からひきちぎられて行くような気がする。  駕籠《かご》の中の千姫の泣き声に、脇《わき》についていた松坂局も泣いた。侍女達も眼《め》を泣き腫《は》らしている。  泣き泣き進む行列に沿道の領民も亦《また》、涙をこぼした。  本来なら召し上げられるべき十万石が、千姫のおかげで、本多家に遺《のこ》されたことを、村の主な者達は知らされている。 「播磨の姫君の置き土産」  と本多家の侍達も感動していた。それだけに行列を見送る者は加古川を越えても慕って来る。  たまりかねて、忠政自らが命じて、侍共が追って来るのを禁じた。 「名残りは尽きぬ。はや、みな、戻るように」  それを知って千姫は行列を止めさせた。  駕籠の外へ出る。 「長々の見送り、かたじけのう存じます。そなた達の気持、千姫は生涯、忘れませぬ」  悲しみを抑えて、凜《りん》とした声があたりに響いて、沿道にひれ伏した侍も領民も声をふりしぼって泣いた。  行列は東へ向い、加古川の上を木枯《こがらし》が吹いた。     三  江戸へ、あと三十里ばかりという沼津《ぬまづ》の宿の夜に、松坂局がそっと千姫にささやいた。 「小野阿通どのの文を持ちたる僧が、お目通りを願い出て居りまするが……」 「小野阿通の……」  なんであろうといいながらも、千姫は松坂局に案内して参るように命じた。  人眼《ひとめ》を憚《はばか》るのか、その僧は庭伝いに千姫の部屋の外へ来た。  この家は黄瀬《きせ》川のほとりにあって、庭のむこうは川であった。 「召しつれましてございます」  侍女の声で、千姫は障子の外をみた。  僧は庭にうずくまっているらしい。  松坂局が千姫に命ぜられて障子を開けた。 「お寒くはございませぬか」  と松坂局は案じたが、夜気はそれほど冷えてはいない。  小野阿通の千姫|宛《あて》の文には、   姫君、御存じよりの者、何卒《なにとぞ》、お目通りのほど願い上げます  としか書いていない。 「千姫様にございますぞ」  松坂局が、土に頭をつけている僧に告げた。 「御僧には、いずれのお方、お名を仰せられませ」  僧が静かに顔を上げた。  千姫が小さな声を上げた。  十年余りの歳月が、額に深い皺《しわ》を刻み、結んだ口許《くちもと》に人生の厚味を感じさせている。 「そなたは……」  僧が手を上げて制した。 「どうぞ、昔の名は仰せられますな。又、それがしが姫君に危害を加えるために参ったのではないことも御承知下さいませ」  そういわれなくとも、千姫は怖《おそろ》しさよりもなつかしさを感じていた。 「よう、無事で……まるで、夢のように思います。そなた、三帆《みほ》には会《お》うているのですか」  小野阿通の文を持って来たことで、そう推量したのだったが、 「おかげさまにて、対面がかないました」  三帆が姫路から京へ出て来て間もなくのことだといった。 「さぞ、喜んだことでしょう」  今度の道中で、三帆に会いたいと思い、京の宿舎から小野阿通へ宛《あ》てて、その旨《むね》をいってやったのだったが、 「三帆も阿通も、京には居らぬとのことで心残りながら、旅立って参りました」  千姫の言葉に、速水甲斐守《はやみかいのかみ》は頭を下げた。 「姫君の江戸御下向のこと、阿通どのより知らされまして、せめて、お別れの御挨拶《ごあいさつ》なりと申し上げたく、御後より慕うて参りました」 「別れとは……」  眉《まゆ》をひそめて、千姫が訊《き》いた。 「どこぞへ参るのか」 「遠い海の果でございます」 「そなた一人か」 「いや、娘も同道致します」 「三帆も……」 「おそれながら、姫君の御存じなきことではございますが、今は昔、文禄《ぶんろく》の頃、亡き太閤《たいこう》殿下より交易のお許しを得て、南の国へ渡海いたした九艘《そう》の船がございました」  よどみなく、甲斐守が話し出した。  末次平蔵《すえつぐへいぞう》の末次船が二|艘《そう》、それに船本弥平次《ふなもとやへいじ》、荒木宗太郎《あらきそうたろう》、絲屋随《いとやずい》右衛門《えもん》、茶屋四郎次郎《ちややしろじろう》、角倉了以《すみのくらりようい》、伊勢《いせ》屋、伏見《ふしみ》屋各々一艘、合せて九艘が太閤の朱印状を持って、安南《あんなん》、呂宋《ルソン》、柬埔寨《カンボジア》などへ行き、貿易を行った。 「御朱印船は徳川《とくがわ》様の御世《みよ》になりましても、次々と渡海をして居りますが、南の海には、いまだ太閤様の御恩を忘れぬ者共が生きて居るのでございます」  といっても、彼等は今更、徳川家に一矢報いようとか、豊臣家の天下に戻そうなどとは決して考えてはいないと、甲斐守は断言した。 「彼等は世の流れを知って居ります、流れに逆らって溺《おぼ》れる愚を熟知して居り、もし仮に、そうした迷いを持つ者があれば、その間違いを悟らしめ、新しい人生を生きる方法を与えようと致し居ります」  千姫の血が騒いだ。 「では……そなた……もしや大坂落城の折に……」 「長らく、手前は或《あ》る御方の行方《ゆくえ》をたずねて居りました。その御方が、船に乗ってお出でと耳に致し、茶屋船にて南の島を探し求めましてございます」 「で、その御方は生きてお出でだったのですか」  甲斐守の容貌《ようぼう》に、ゆとりのある微笑が広がった。 「幸い、お目にかかれましてございます」 「では……桑名の海にて……」  十年前、京から江戸へ帰る千姫の船を、海上で襲った一味があった。 「お考え違いをなさいますな。あの者共は、姫君ゆかりの御方ではございません。大坂落城により生きるのぞみを失った者共が、怨《うら》みの矢のむけどころを間違えただけのこと、やがて、彼等も噂《うわさ》をききつけて、南の海へ新しい人生を求めて参った者もあり、空《むな》しく海中の魚の餌《えさ》と化した者もございますとか……」  千姫を襲い、瀬戸内《せとうち》の海を荒らした者は、豊臣の残党であったかも知れないが、秀頼《ひでより》や自分達ではないと甲斐守は訴えた。 「何卒《なにとぞ》、お疑いをお晴らし下さいませ」 「では……あの御方は今、いずこに……」 「姫君の御存じの御方は落城と共にお果てなさいました」 「いいえ……お千は秘密を守ります。真実を教えてたもれ」 「甦《よみがえ》った御方は、南の海の頭領になられました」  船団を率いて、交易を行っている、と甲斐守はいった。 「二度とこの国にお戻りなさる日はありますまい。それ故、手前も娘と共に、南の海に旅立つ所存、それ故のお別れに参りましてございます」 「三帆はどこです」  甲斐の表情に翳《かげ》が落ちた。 「三帆は、姫君に顔むけのならぬことを致しました。それ故、伴って参りませぬ」 「会いたいのです。会って、三帆に訊《たず》ねたいことがあるのです」 「なにをお訊ねになりましょうとも、三帆はお答え申さぬと存じます。不忠者のことは、何卒、お忘れ下さい」  おさらば、といい、僧が立った。  止める暇もない早さで、庭から消えた。 「千姫様……」  金縛りにあったような松坂局が、漸《ようや》く声を出した。 「なんということ……甲斐守様が生きてお出でだったとは……」 「忘れるのです」  強く千姫がいった。 「今、そなたがみたこと、聞いたこと、残らず忘れるのです。誰にも申してはなりませぬ。心得て居りましょうな」  雷に打たれたように、松坂局は平伏した。  翌日、黄瀬川を渡って行く千姫の行列を、堤の上で見送っている二人連れがあった。  行列が遠去《とおざ》かると大きな影が小さな影を助けるようにして足早に西へ戻って行く。  黄瀬川の上には鳶《とび》が舞っていた。     四  千姫が江戸へ入ったのは、十一月二十七日のことであった。  江戸城は西の丸が大御所秀忠の江戸の居館として改築されていて、その西の丸大奥はこの夏まで大御台所、お江与の方が女主人であったが、今は主《あるじ》なき御殿になっている。  その西の丸大奥で千姫は、はじめて崇源院昌誉和興仁清となった亡母の位牌《いはい》の前に合掌した。  千姫にとって、この生母との思い出はあまり多くなかった。  七歳で豊臣家に嫁いでからは、むしろ、伯母《おば》であり、姑《しゆうとめ》 である淀《よど》の御方《おかた》のほうが母のような存在であった。  大坂落城後、江戸へ帰って来ても、どことなく近より難い感じがしたし、殊に弟の家光に冷たく、忠長を偏愛するといった噂《うわさ》が、孤独な家光の姿をみる度に、 「母上はどうかしてお出でじゃ、同じ我が子なのに……」  と千姫に義憤めいた気持をひき起させたりして、母をうとましく思ったりもした。  だが、こうして香華をたむけていると、やはり母を失った子の悲しみは素直に千姫の心をひたして来る。 「姉上、ようお戻りなさいました」  江戸城へ着いた翌日、家光は僅《わず》かな側近だけを供にして自分から西の丸大奥へやって来た。  西の丸の主である秀忠は駿府《すんぷ》にあって留守だったが、それにしても将軍が西の丸大奥へ来るというのは異例なことだったが、家光は全く気にしていなかった。 「姉上の御不幸、心からおくやみ申し上げます」  情のこもった挨拶《あいさつ》をしてから、 「でも、竹千代《たけちよ》は姉上が江戸へ戻られたのが嬉《うれ》しいのです」  と笑ってみせた。  昔のままに自分を竹千代と呼んだ家光の心の中には、大坂から戻ったばかりの千姫との短いながらも、愛情にあふれた月日への思い出があるのだと、千姫にはわかった。 「おなつかしゅうございます。上様は御立派におなりなされて……」  今や、天下の将軍であり、左大臣に任命されている弟であった。 「姉上のことは、万事、この家光が心得て居ります。お幸せをとり戻すことが出来るのなら、如何《いか》ようなことでも、お申しつけ下さい」  早速、千姫はこの弟に甘えた。 「来月六日は、亡き中務様の七月目の御|逮夜《たいや》に当ります。然《しか》るべき導師をたのみ、法要を行いたいと存じます」  それが終ったら、落飾したいといった。  家光は顔色を変えた。 「姉上には、もはや再度の御輿入《おこしい》れは無用とおっしゃるのですか」  駿府の父からは、良い縁があれば、といって来ていると伝えた。 「姉は、もはや三十路《みそじ》を越えたのですよ。もう、よいではありませぬか。この城に居るのが目ざわりとおっしゃるなら、どこぞの尼寺にでも入りましょう」 「なにを仰せられます。姉上がこの城にいて下さるのを、第一番に喜ぶのは、この家光にございます」  落飾されるのは寂しいが、と少年の時のままの眼をしてから、きっぱり答えた。 「何事も、お気のすむように致しましょう。家光におまかせ下さい」  二日ほどして、おふくが来た。 「上様は、千姫様に下総飯沼《しもうさいいぬま》の弘経寺《こうきようじ》の了条《りようじよう》和尚を導師として、中務様の御法要をいとなまれる旨《むね》、仰せになりました。すでに準備の者が弘経寺へ参って居ります。亦《また》、御落飾の折には了条和尚を戒師にと……」  了条和尚は亡き家康の戒師であり、弘経寺の中興の祖と仰がれ、紫衣を許されている大徳であった。  無論、千姫に異存のある筈《はず》がない。  十二月六日、忠刻の法要をすませると、千姫は落飾し、天寿院《てんじゆいん》と号することになった。  もっとも、落飾といっても、いわゆる切り髪で尼になるわけではない。  それなのに、おふくが、 「千姫様、御無事に髪を落され、天寿院様と号し奉りました」  と報告すると、家光は涙を浮かべた。  一方で家光は千姫の住いを竹橋の第の中に改築して、西の丸から移した。  この竹橋御殿の近くには、阿茶局の住いもあって、さながら女御殿の並んだ一画となった。  千姫の賄料《まかないりよう》は五百石というのが表むきであったが、家光はこの姉に全く不自由させないよう、格別の心遣いをみせた。  竹橋御殿と呼ばれるようになった千姫の住いには、娘の勝姫や松坂局などの侍女達が奉公して、執事としては長田十《おさだじゆう》太夫長政《だゆうながまさ》が任命された。  阿茶局が訪ねて来たのは暮も押しつまってからであった。 「もっと早くにと存じて居りましたが、あいにく風邪《かぜ》をひきまして、上様には、姫君に風邪などうつすな、と、それはそれはきびしいお達しにて、本復するまで、御挨拶《ごあいさつ》に参上することをお許し下さいませんでした」  少し、背は丸くなり、前より一まわりも小柄になった感じではあったが、阿茶局の口跡《こうせき》は昔のままにきっぱりしていた。  話はすぐに忠刻の思い出に移った。 「今年、中務様が江戸へお出ましになり、春まで御滞在遊ばした折に、お招き申して、私の屋敷へお越し下さいました。姫君と共白髪までとお祈り申して居りましたのに……」  なつかしそうに語られて、千姫はこの人に打ちあけてみる気になった。  忠刻が息を引取る前に、 「そなたに詫《わ》びねばならぬことがある」  と訴えたことである。  夫に詫びられるおぼえは、千姫にはなかった。  もし、あるとしたら、それは千姫の知らないなにかであった。 「その折にでも、なんぞ阿茶局様に申し上げたことはございませぬか。お心当りになるようなことは……」  阿茶局が庭の山茶花《さざんか》をみつめた。 「別に、これといって、姫君の仰せられるようなことに、思い当るものはございませぬが……」 「お局には、三帆をおぼえてお出ででございましょうか」  遂《つい》に、千姫は胸中をさらけ出した。 「三帆と仰せられましたか」 「大坂落城の折、私と共に城を出て参った者でございます。速水甲斐守の娘の……」 「思い出しました。姫君と御一緒に京から江戸へ参りましたな。桑名の船の上にて、何度か顔をみて居ります」 「三帆は私に従って本多家へ参りました」 「はい、それも存じて居ります」  姫君のお使いとして、伊勢の慶光院《けいこういん》へ参りましたでしょう、と阿茶局は自分の記憶をたどるようにいった。 「そうでございます。そして、京から戻りませんでした」 「たしか、中宮様が、帝《みかど》の許《もと》へ上《あが》られる折、お傍《そば》仕えとして御奉公し、その後、体を悪くして小野阿通の許へ戻ったそうでございますよ」 「体を悪くして……」 「姫君には、御存じではありませぬか」 「初耳でございます」  今は小野阿通の許にいるのだろうかと、千姫は訊《たず》ねた。 「おそらく、左様かと……」  何故《なぜ》、そのようなことをお訊ねなさると反問されて、千姫は言葉に窮した。 「いえ、ただ、亡き殿は三帆には目をかけて下さいました。それなのに、この度の訃《ふ》を聞いたでありましょうのに、姫路へ参ることもなく、たよりも参りませんでしたので……」 「それはそれは……」  阿茶局は念珠をつまぐった。 「或《ある》いは、病が重いのかも知れませぬ。早速、阿通の許へ問い合せてやりましょう」 「お願い申しまする」  沼津で速水甲斐守に会ったことは話せなかった。  あの時、甲斐守は三帆も一緒に船に乗るようにいっていた。  とすれば、病気が重い筈《はず》はないのだが。  阿茶局が帰ってから、千姫は庭へ下りた。  甲斐守が、娘は姫君に顔むけのならないことをした、といったことが、千姫の心の奥でくすぶっていた。  そのことと、忠刻が詫びたいといったことと、つながりがあるのか。  小さな吐息をついて、千姫はやがて夜になろうとしている庭にたたずんでいた。  時の流れ     一  竹橋《たけばし》御殿における千姫《せんひめ》の日々は、時が静かに流れて行くようであった。  大坂《おおさか》落城以来、傍《そば》に仕えていた松坂局《まつざかのつぼね》も、越智与右衛門《おちよえもん》に嫁いで行き、続いて、すでに婚約のととのっていた忠刻《ただとき》の忘れ形見である勝姫《かつひめ》が、江戸大名小路《えどだいみようこうじ》にある池田《いけだ》家上屋敷に輿入《こしい》れをすませた。  勝姫の夫となった池田|新太郎光政《しんたろうみつまさ》は、かつて姫路《ひめじ》城の主《あるじ》であった池田|三左衛門輝政《さんざえもんてるまさ》の孫に当り、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》三十二万石の領主である。  花聟《はなむこ》は二十歳《はたち》、勝姫は十一歳であった。  独りになった千姫のために、西の丸の、父、秀忠《ひでただ》や本丸の、弟、家光《いえみつ》からしばしば見舞の使が来たし、隣屋敷の主である阿茶局《あちやのつぼね》にも、 「さぞかし、お寂しいことでございましょう」  と慰められたが、千姫はそれほどにも思わなかった。  むしろ、母としての役目をすませた安堵《あんど》のほうが大きかったし、終日、思い出の糸をたぐりながら写経をすることにも馴《な》れた。  家光の姉思いは周知のものだったが、大御台所《おおみだいどころ》、お江与《えよ》の方に先立たれてから、秀忠は誰《だれ》の目にも老いた。  西の丸にあって、かつての家康《いえやす》と同じく、今は大御所として幕政にあれこれ口を出していたのが、この頃《ごろ》はそれも次第に影をひそめて、家光の裁断にまかせることが多くなった。  千姫にとって、父はどこか冷たい感じがあって、祖父ほど敬愛する気になれなかったが、それも、こうして同じ城内に住み、めっきり髪に白いものの増えた父の姿をみる折が増えると、やはり親子の情愛が甦《よみがえ》って来て、茶事や演能の催しなどで、西の丸から招きがあると、必ず出かけて行き、父の話し相手をするようになった。  家光のほうはもっと、まめで、鷹狩《たかがり》に行けば獲物が土産《みやげ》にと竹橋御殿に届けられるし、諸大名が出府の折、国許《くにもと》の名物を披露すれば、それは直ちに、 「姉君に持って参れ」  と側近や奥女中に指示がある。 「この節は諸大名も心得ていて、なるべく天寿院《てんじゆいん》様のお気に召すようなものを上様へのお土産になさるそうでございますよ」  そのほうが家光の機嫌がよいからだと、竹橋御殿へ来て、おふくが話した。  家光の乳母であるおふくは寛永《かんえい》七年に上洛《じようらく》して、帝《みかど》や中宮に拝謁し、その折、春日《かすが》という名前を頂いたので、大奥では春日局《かすがのつぼね》と称するようになっていた。  本来、大奥の慣例や法度《はつと》などは、秀忠の時代になって、阿茶局がお江与の方に計《はか》って一つ一つ決めて来たもので、それをおふくが大奥法度として、女中達に申し渡して来た。  従って、表むきはともかく、おふくとしては何事によらず阿茶局に頭が上らず、また、阿茶局が七十のなかばを過ぎたというのに、矍鑠《かくしやく》として、秀忠の信任も厚いのが、おふくには少からず煙ったいらしい。  で、なにかにつけては、上様お使いと称して千姫の許《もと》へやって来て、千姫を自分の味方にしておこうという腹がみえる。  承知していて、千姫は相手にならなかった。  なんといっても、徳川《とくがわ》第一の姫君と呼ばれるように、家康ゆずりの思慮の深さがいつの間にか幕閣の諸公の間に評判になっていた。  家光は、いわゆる私事に関して自分の判断に迷いがある時、必ず、千姫に相談していた。  そうした場合、千姫は女がよけいな口出しをしないようにひかえめにしながら、それとなく、弟の支えになるような助言をしていた。  そのことが幕閣に知れて、聡明《そうめい》な姫君、仁慈深き天寿院様と信頼を持たれるようになっている。  そういう意味でも、到底、おふくの才覚などで大刀打《たちう》ちの出来る姫君ではなかった。  どちらかといえば、阿茶局はおふくを軽んずるところがあって、 「春日どのにも困りものです。何事によらず、表へしゃしゃり出るのが好きなようで、あれでは当人も憎まれる。上様のおためにもよろしくない」  と手きびしい。  殊に、おふくが自分の義理の姪《めい》に当る祖心尼《そしんに》を大奥に奉公させ、更にその祖心尼の孫娘を、家光にすすめて側室としたことを、阿茶局はあまり快く思っていない。  おふくのほうも、阿茶局の気持にかんづいていて、 「あれは、私共が企《たく》んだことではございません。たまたま、祖心尼の孫で大奥奉公に上ったおふりに、上様がお目を止められて是非にと仰せなさいました故……」  などと、千姫に弁解した。 「そのようなこと、どうでもよいではありませぬか」  千姫は笑って、 「上様には一日も早くお世継ぎをと願うのが臣下の常でありましょう。御台所にお子が出来ぬ時は、御側室をおすすめするのも、そなたの役目、血縁の者だからといって遠慮することはありますまい」  それも御奉公といわれて、おふくは安心したようであった。  実際、家光と御台所、鷹司信房《たかつかさのぶふさ》の姫、孝子《たかこ》との間は睦《むつ》まじいとはいえなかった。  二歳年上の孝子は公卿《くげ》の姫ということを意識しすぎて、万事、京風にと当人も周囲もこだわりすぎたし、家光はそうした御台所に面白《おもしろ》くない顔をあからさまにした。  で、孝子は吹上御苑《ふきあげぎよえん》の中に別の御殿を建てさせて、大奥からそこに移り、家光の足もいよいよ遠のくといった有様であった。  それについては、 「あれは、おふくどのの嫁いびり……」  といった噂《うわさ》もあるが、おふくは、 「上様には、天寿院様そっくりの女子《おなご》でもない限り、お気に召すことはない」  などと、暗に千姫のせいにしている。  実際、おふくのすすめたおふりにしたところで、御寵愛《ごちようあい》はあったものの、まだ子供も出来ない有様で、家光が大奥へ行くのは、月の中《うち》、数えるほどだという。  それも仕方のないことと、千姫は考えていた。  将軍という身分にあれば、御台所を決めるにしても、自分の意志でとはいかない。  側室にと勧められる女にしても、将軍の寵《ちよう》を受けて出世をすることが第一であって、純粋に人間と人間が愛し合うなどという世界ではない。  自分は幸せであったと、千姫は思う。  本多忠刻《ほんだただとき》との出会いから、恋を貫き、夫婦となることが出来た。  それは、祖父家康をはじめ、周囲の助けがあったからだが、千姫自身、忠刻の許《もと》へ嫁入りが出来なければ、尼になると固く決めていたからで、そのひたむきな恋心がまわりの人々を動かしたともいえる。  本多家へ嫁いだ十年の歳月の幸せを思い出すだけで、その先の生涯を寂しくなく暮せると思えた。  実際、夜はよく夢をみる。  夢の中で、忠刻はいつも若々しく、優しい夫であった。  豊臣《とよとみ》の残党が千姫を奪回するべく戦を仕かけて来た時も、忠刻は自らの剣にかけて、千姫を守り抜いた。その男の自信に抱かれて、なんの不安もなく、愛し愛されて過した月日を夢にみることで、千姫は満足していた。  忠刻の法事は、江戸では千姫を施主として行われたが、姫路の本多家でも忠政《ただまさ》によって欠かすことなく続いていた。  千姫からは姫路へ供物が届けられ、忠政からは千姫に香華をたずさえた使者が来た。  そうした折々に、千姫は忠政に見舞の文を書き、忠政からも礼の書状が来た。  かつての嫁と舅《しゆうと》は、遥《はる》か遠く離れていても、心を通わせ合い、慰め合っていた。  千姫が、その忠政の急死の知らせを受け取ったのは寛永八年八月十日のことであった。  ちょうど、その春のあたりから、大御所秀忠は腫《は》れ物が出来たり、眼《め》を患ったりしていたが、夏になって体調を崩し、医師が眉《まゆ》をひそめる状態になった。食欲がなく、衰弱が急である。  大御所病むの報が姫路に届いて、忠政は直ちに江戸へ向った。  昔《むかし》気質《かたぎ》の律義者であったし、かねがね、君恩をかたじけなく思っている人だったから、道中を急ぐ余りに、無理をしたのが祟《たた》ったのだろう、江戸へ到着して上屋敷へ入り、まず道中の汗を流して登城しようと、湯殿へ入って倒れた。  おびただしく血を吐き、医師がかけつけた時には呼吸が止っていた。  忠政の死は病中の秀忠の耳には入れず家光が酒井《さかい》雅楽頭《うたのかみ》、酒井|讃岐守《さぬきのかみ》を使者として弔問させた。  千姫は自ら本多家へかけつけようとしたが、前例のないこととして家光は許さなかった。  千姫の衝撃の深さを考えたからで、 「天寿院様には、すでに本多家を去られたのでございますし、忠政どの御病中ならばお見舞なさるもよろしかろうと存じますが、すでに御落命であれば、かえって……」  本多家中の人々を困惑させるかも知れないと春日局にいわれて、千姫は執事の長田十《おさだじゆう》太夫《だゆう》を名代として香華をたむけさせた。  忠政は、千姫が江戸へ戻って間もなく、秀忠によって徳川一門に加えられて、黒書院《くろしよいん》詰めを仰せつけられていた。  で、江戸城黒書院には、本多家の家紋である三ツ葉立葵《たちあおい》が張りつけられ、葵《あおい》の間と呼ばれていた。  それほど、大御所の信頼厚かった人が五十七歳で歿《なくな》ったのであり、幕閣に与えた打撃は大きかった。  遺骸《いがい》は姫路へ運ばれて、西岸寺《せいがんじ》での葬儀の後、書写山《しよしやざん》に葬られた。  舅《しゆうと》を失って、ひそかに喪に服していた千姫は、更に翌年一月二十四日、父、秀忠の死を迎えた。  僅《わず》か半年足らずの中に、義父と実の父と、二人の死を見送ったのである。     二  大御所秀忠の死後、家光はゆかりの人々に秀忠の形見わけを行ったが、その中、千姫には黄金五万枚が贈られた。 「姉上には、この後、徳川宗家として、この家光の力になって頂きとうございます」  といい、宗家としての格式を保つための入用であるとして、千姫に辞退をさせなかった。  父の喪中にあった千姫に間もなく、もう一人の人の死が報ぜられた。 「小野阿通《おののおつう》どのが、昨年の暮に、みまかられた由にございます」  阿茶局がやって来ての話で、 「実は、いつぞや、天寿院様よりお訊《たず》ねの、三帆《みほ》の消息についてでございますが、彼《か》の者は、天寿院様が姫路より江戸へお戻り遊ばした年に、朱印船で呂宋《ルソン》へ渡り、その後、艾莱《プルネイル》と申す所へ参った由にございます。何分にも遠国のことにて、それより先の消息はわかりかねますようで……」  という。  千姫にとって、長年の謎《なぞ》であった忠刻と三帆との関係を、もし、知る者があったとしたら、それは小野阿通であろうと考えていたのに、その阿通も歿《なくな》り、三帆の行方《ゆくえ》も知れないのでは、謎《なぞ》は謎のまま、闇《やみ》に葬られてしまうのだろうと、千姫はむしろ、そのことに安堵《あんど》していた。  今更、真実を知ったところで、どうなるものでもない。  寛永十一年に、千姫は鎌倉《かまくら》の東慶寺《とうけいじ》の伽藍《がらん》を、大檀那《おおだんな》となって再建させた。  東慶寺には、秀頼《ひでより》の遺児、今は天秀尼《てんしゆうに》となっている姫が修業をしている。  その縁で、荒れ果てた伽藍を建て直させたものだったが、落慶式も終った秋も深い一日、千姫はお忍びで、鎌倉へ出かけた。  お忍びとはいっても、万事は家光自らの指示で道中のお供には旗本の中から然《しか》るべき者がえらばれて警固の任につき、品川《しながわ》から先は各々の代官所からお出迎えの者が待ちかまえるといったものものしさではあったが、千姫は、それも弟の姉思いの故と、別に気にもしなかった。  女行列のことで、六郷《ろくごう》川を越え川崎《かわさき》で一夜を送り、翌日、神奈川から|程ヶ谷《ほどがや》、鎌倉街道へ出て、夕刻に東慶寺へ到着した。  千姫が天秀尼に会うのは、大坂落城から江戸へ戻り、彼女を東慶寺へ入れて以来のことで、その当時、まだ七歳の幼女であったのが、二十代のなかばになっている。  天秀尼の容貌《ようぼう》の中に、千姫は秀頼の面影があるかと思ったが、彼女は淀《よど》どのの侍女であった母親似のようであった。  やや病弱らしい、細面で寂しげな顔立ちであった。  命の恩人である千姫に対面しても、どう挨拶《あいさつ》してよいのか当惑している感じであった。  むしろ、東慶寺の住職である法清尼《ほうせいに》のほうが千姫の気持を察して、天秀尼の日常について、あれこれと話をしてくれる。  東慶寺で、亡き人々の回向《えこう》をすませてから千姫は江《え》の島《しま》の弁財天《べんざいてん》に立ち寄って、藤沢《ふじさわ》から江戸へ戻った。  その旅の土産を、阿茶局に届けさせると、数日後に阿茶局が礼かたがた東慶寺の話を聞きにやって来た。  天秀尼が僧籍にあって、一生、尼僧の生活を過すと、そこで豊臣の血筋は絶える。  それが、彼女を出家させた徳川家の本心だが、千姫は彼女が不愍《ふびん》でならなかった。  女の幸せも知らず、恋も知らず、子を産むこともならずして生涯を終える。 「それも、前世のさだめと申すものでございましょう」  数珠《じゆず》をつまぐりながら、阿茶局は千姫にいった。 「それよりも、天寿院様には、先頃よりの幕閣のお触れをご存じでいらっしゃいますか」  海外へ渡航する船や、南の島々の日本人町に居住する日本人に対して出されたもので、 「とうとう、奉書船《ほうしよせん》以外の朱印船の渡航は御禁制になりました」  という。  朱印船とは、異国渡海朱印状を持って南方へ渡り貿易をする船のことで、徳川幕府になってからは、いわゆる外交顧問というような立場にある禅僧の長老が文を書き、それに老中の本多|正純《まさずみ》が将軍の朱印を捺《お》したものだったが、更に昨年からは格別の許しを得た奉書船以外は渡航を禁じてしまったというのであった。  加えて、外国の日本人町に居住する日本人の帰国も禁じられたと聞いて、千姫は顔色を変えた。 「では、今、南の国へ行っている者は、一生、日本へ帰れないというのですか」 「たてまえはそのようでございますが、お触れでは五年以上、国外に居る者の帰国を禁ずるということでございますから、今の中に戻ってくれば、なんということはございません」  何年何月何日に何某が日本を出たという記録が正確にお上の手許《てもと》にあるわけではないと阿茶局は話した。  出国した時が明らかでない以上、お触れが出て五年以内に帰れば、なんとでも辻褄《つじつま》を合せることが出来る。 「茶屋《ちやや》船でも、今年、日本を出て行ったのが、南の島々を廻《まわ》って、お触れのことを知らせ、なるべく早くに帰って来るよう、とりはからうようでございます」  季節風をたよりに南の国と行き来をしている船であった。  むこうから、こっちへ帰るには、夏の季節風を待たねばならない。 「三帆は、そのことを知っているのでしょうか」  南の国の、どこかにいる筈《はず》であった。  三帆のいるところには、その父の速水甲斐守《はやみかいのかみ》も、そして豊臣秀頼が名を変え、姿を変えて生きているに違いない。  その人々を母国のない者にしたくなかった。 「阿茶局より茶屋船に申して下さい。三帆の行方《ゆくえ》をたずね、必ず、お触れを伝えてたもるように……」  阿茶局は千姫をみつめ、少しの間、黙っていたが、やがて、 「天寿院様の仰せを、必ず茶屋に申してやりましょう」  と承知した。  だが、翌年になって茶屋一族の者から阿茶局へ知らせて来た消息によると、安南《あんなん》の交趾《コーチ》に入った茶屋船は、そこに集まって来る貿易の船を通じて、日本人町のある呂宋やアユタヤなどに、このたびのお触れを知らせ、更には日本人が数多く居住していると伝えられる、リゴールやパタニ、或《ある》いは高砂《たかさご》やマカオなどにも使の船を出したが、果して、そのどこかに三帆がいるかどうかは、全く不明だという。  千姫が想像する以上に、南の海は広く、さまざまの国、さまざまの島があって、そこにちらばった日本人の一人一人に、母国の禁令を伝えるのは、まず困難に違いなかった。  三帆と、その近くにいる筈《はず》の人々が無事、日本へ帰って来ることを、千姫は祈りはじめた。  過去になにがあろうと、その人々は千姫にとって、なつかしい顔であった。  母国を失って、南海の孤島に生涯を終らせるのは、どう考えてもむごすぎると思う。  それに、忠刻が歿《なくな》って、すでに十年の歳月が流れていた。  今となっては、三帆と忠刻の間に、なにがあったかと詮索《せんさく》するよりも、二人して亡き人のことを語り合いたい気持のほうが強くなっている。  そして、もし、秀頼が生きているとしたら、徳川の姫として、千姫は彼に詫《わ》びねばならないと思っていた。出来ることなら、家光にすがって、豊臣の名を出さず、秀頼が小大名として生きて行ける道をみつけることは出来ないものか。  女心で、あれを思い、これを思案していた千姫に、翌寛永十三年のお触れは残酷なものであった。  日本からの船は如何《いか》なる例外も認めず、海外へ渡航することを禁じ、海外からの日本人の帰国も許さない。もし、帰って来る者があれば、誰彼《だれかれ》を問わず断罪、更には南蛮《なんばん》人との混血児を海外に追放するといった措置が次々ととられて、長崎に限られた国の船が入港するのを除いて、日本は完全に海外との交流をとざした。  もし、三帆が南の国のどこかにいるとしたら、日本へ帰るのぞみはなくなったわけである。  千姫の小さな夢は、夢のまま消えた。     三  寛永十四年に阿茶局が歿《なくな》った。  八十三歳であった。  阿茶局が死んで、大奥の実権は春日局に移ったが、その春日局も、竹橋御殿の千姫には頭が上らないようなところがある。  家光の姉想《あねおも》いは、年と共に深くなって、千姫が病むと、直ちに自分で見舞にやって来るし、容態がはかばかしくないと、自分まで病気になったように沈み込んでしまう。で、諸大名はその将軍のお見舞に登城してくるといったふうで、春日局にいわせると、 「上様と天寿院様は、まるで、夫婦《めおと》のよう……」  仲むつまじいのを嫉妬《しつと》する気配がある。  その春日局は相変らず、家光に女を勧めるのに熱心で、近頃は大奥の呉服《ごふく》の間勤めの女中でおらんというのが側室に上ったということであった。 「それが、あまり生まれのよくない者で、親は御禁猟の鶴《つる》を射て死罪になった者だそうでございます」  たまたま、竹橋御殿へ千姫の御機嫌うかがいにやって来た松坂局が、ためらいがちにいいつけた。  罪人の娘が、どういうわけで大奥へ奉公することになったかは知らないが、そうした身許《みもと》もよく確かめず、美しいからと、将軍の夜伽《よとぎ》に出した春日局を非難する声もあるという。 「その娘の親許《おやもと》は誰になっているのです」  千姫が訊《き》いた。  身分の卑しい者が将軍家の寵愛を受けるようになれば、然るべき親許を決めなければならない。 「春日局様のお指図で、永井信濃守《ながいしなののかみ》様の娘分ということになって居《お》りますとか」  おらんという娘の出身が下野《しもつけ》国|猿島《さしま》郡|鹿麻《しかま》村なので、そこは、古河《こが》城主、永井信濃守|尚政《なおまさ》の所領であるところかららしい。 「では、よいではありませんか。親がなんであれ、娘の罪ではなし……」  松坂局をたしなめたものの、春日局の軽率さは、家光のためにもならないと眉《まゆ》をひそめた。  だが、後日、それとなく、おらんという娘をみると、気のよさそうな、丸顔の器量よしである。  弟は、ああいう娘がよいのかと、内心、ほほえましかった。  御台所の孝子は狐顔《きつねがお》だし、最初に家光の子を産んだおふりも細面で神経質そうであった。  そのおふりの産んだ千代姫《ちよひめ》は寛永十五年、二歳で尾張《おわり》侯右兵衛督光友《うひようえのかみみつとも》と婚約がととのっている。 「この次には、なんとしても若君を……」  という春日局の執念のせいか、おらんは寛永十八年八月に男児を出産した。  若君は早速、竹千代《たけちよ》と、家光の幼名をもらって、母であるおらんはお楽《らく》の方と名を改め、弟は武士にとり立てられ、常陸《ひたち》国|下館《しもだて》で二万三千石を与えられた。  春日局は得意満面で、白書院《しろしよいん》で諸大名が若君に拝謁した時は、自ら若君を抱いてその席に出たが、その名誉もそれきりであった。  家光が千姫に若君を対面させ、 「姉上には、竹千代の母代りになって頂きたい」  といい、 「竹千代を扶育《ふいく》する者は、必ず、竹千代に申しきかせよ。天寿院様を母と思い、孝養を尽すように」  と申し渡したからである。  その竹千代が三歳の夏の終りに、久しく姿をみせなかった春日局が、 「折入って、天寿院様に申し上げたきことがございまして……」  千姫を訪れた。  春日局をみて、千姫は驚いた。  どちらかといえば骨太で大女だったのが、ひとまわりも小さくなった感じがする。  年からいえば、まだ六十なかばの筈《はず》で、阿茶局が八十三で歿《なくな》るまで矍鑠《かくしやく》としていたのにくらべると著しい衰え方であった。 「おそれ入りますが、どうぞお人払いを……」  すわっているのも大儀そうな様子で懇願した。  春日局が何事によらず大袈裟《おおげさ》なのは知っているので、千姫はいわれるままに侍女達を下らせた。  それでも、春日局は猟犬のように耳をそば立てて、あたりに人の気配がないか窺《うかが》っているようである。 「案ずることはありませぬ。この屋敷には、盗み聞きをするような不届者は居りませぬ故……」  千姫にいわれて、漸《ようや》く手を突いた。 「今まで、天寿院様におかくし申して居りましたこと、もし、私があの世に旅立ちました後、なんぞ不都合が起りましては、上様のおためにならぬかと存じまして……」  持参した文箱《ふばこ》から取り出したのは、文であった。 「阿茶局様より、私がおあずかりしたものでございます」  その文は古かった。  上等の料紙に書かれていたが、紙も黄ばみ、筆蹟《ひつせき》も薄くなっている。 「これを、読めと申すのか」 「どうぞ、ごらん下さいまし」  文を広げて、千姫は自分の鼓動が俄《にわ》かに激しくなるのを知った。  それは、小野阿通から阿茶局にあてたものであった。  日付は寛永八年の初秋。  かねてより、おあずかりの本多|中務《なかつかさ》大輔《たゆう》様姫君、本年八歳におなり遊ばす……万一の折には江戸へ阿茶局様を頼って出府おさせ申すべく、何卒《なにとぞ》、天寿院様へよしなに……  文字が千姫の瞼《まぶた》の中で火花を散らしているようであった。  何度か読み直して、千姫は文を巻いた。  本多中務大輔の姫君とあるからには、亡き夫、忠刻の忘れ形見に違いない。その娘を小野阿通が育てていたというのは、母が誰であるか訊《たず》ねるまでもない。  三帆と忠刻の間に子が産まれていた。 「春日に訊ねます。この姫は、いったい……」  春日局が面を伏せたまま答えた。 「阿茶局様がお育てになって居られました」  小野阿通が歿《なくな》った後、江戸へ来て、阿茶局の屋敷にいたという。  夫の忘れ形見がすぐ近くにいるのを、千姫は全く知らされていなかった。 「阿茶局様は、天寿院様のお心を乱したくないと仰せられました。中務様との思い出を汚したくないと……」  春日局にしても、その姫君のことを阿茶局から打ちあけられたのは、阿茶局が歿る少し前だったといった。 「阿茶局様のおいいつけで、そのお方は、私がおあずかり申しました」  慌しく、千姫は指を折った。  三帆の産んだ、忠刻の娘は二十歳になっている。 「今、どこに居るのです」 「それが……」  もともと、ここへ入って来た時から悪かった春日局の顔色が、一層、青くなった。 「私の一存にて、大奥に御奉公させました」 「なんと申す……」 「天寿院様にとりましては、裏切りの子。親の罪をつぐなわせるためにも、末《すえ》の御奉公がよかろうと存じまして……」  春日局の言葉に、千姫は怒りをおぼえた。  仮にも、本多忠刻の血を引く者を、末の奉公とは、夫が辱められたような気持であった。  だが、春日局には千姫の心中はわからないようであった。それよりも千姫が自分の処置に満足していると思っている節がある。  この女の性格なら、そうかも知れないと千姫は自分の怒りを抑えた。  若い日に、夫の妾《めかけ》を斬《き》り殺したという逸話のある春日局であった。彼女なら夫と妾の間に産まれた娘を、お末などという下級女中にして胸のつかえを下すのかも知れない。 「その者に会いたいと思います。大奥から下らせて、この屋敷へつれて参るように……」  千姫の言葉に、春日局は当惑そうな表情をみせた。 「天寿院様のお言葉でございますが、その者には、先頃、上様のお手がつきまして……」  息をのんだ千姫を上目づかいに見た。 「それ故、思い切って天寿院様にお打ちあけ申しました。万一、その者が上様のお子をみごもりました場合、それは、豊臣家の侍、速水甲斐守の血をひく……」 「黙りゃ」  千姫にしては、常にない激しい声であった。 「三帆は妾《わらわ》に奉公せし者、もはや、豊臣家とは、なんのかかわり合いもない。仮に、豊臣家の重臣速水甲斐守の娘の子と知りながら、大奥へ奉公させ、上様のお目に止るような振舞をしたとならば、そなたの不届き、なんと申し開きをする所存じゃ」  春日局が体を慄《ふる》わせた。 「天寿院様、何卒、御容赦下さいますよう……」 「その者の身許《みもと》、決して誰にも口外してはならぬ。万事は、この天寿院の心にまかせよ。さもなくば、なにもかも、上様に申し上げる」  死んだような顔になって春日局が退出してから、千姫は暫《しばら》くもの思いにふけっていた。  やはり、三帆と忠刻にはそうしたわけがあったのかと思う。  不思議に怒りはなかった。  この世には、忠刻の血をひく姫が二人、生きていた。  一人は千姫を母にして産まれ、大御所秀忠が父親代りになって、池田家へ輿入《こしい》れをした。  そして、もう一人は、幼くして母と別れ、小野阿通、阿茶局に養育されて、こともあろうに春日局の愚かな仕打から、大奥の末の奉公を強いられた。  どれほど悲しく、つらい歳月を過したかと思うと不愍《ふびん》さが増した。  思案して、千姫は本多家にいた時分から仕えている岩倉《いわくら》という老女を呼び、春日局のいった女を調べさせた。  それはおなつという娘であった。 「母親は鷹司家の奥仕えをして居ったそうでございます。その縁で大奥へ奉公いたしましたとか……」  事情を知らない岩倉の報告に、千姫はうなずいた。  たしかに三帆は、阿茶局の指図で、帝《みかど》の中宮となった和子《まさこ》に仕えるために、鷹司家で女官としての心得を学んでいたことがある。 「上様のお目にとまったのは、お湯殿のお世話を致して居りましてのことと承りました」  湯殿の世話をする女中は大奥仕えの中でも身分の低い者であった。 「その者については、今後、天寿院が後楯《うしろだて》となる旨《むね》、大奥取締りに申し渡すように……」  やがて折があれば、おなつに対面しようと思う。それまでは、他《よそ》ながら、後見をしてやりたい。  千姫の指示を春日局がどう思ったか。  九月十四日、春日局は枯れ切った花が枝から落ちるように、あっけなく死んだ。     四  おなつの妊娠が千姫に知らされたのは、その冬のはじめであった。  弟の子をみごもった娘に、千姫はどんなことでもしてやりたいと思った。  自ら指示して、おなつのまわりには心きいた侍女をおかせ、着るもの、食べるものにも注意させた。  大奥は女ばかりの世界である。  新しく将軍家の寵愛《ちようあい》を受けた女が懐胎したとなれば、嫉妬《しつと》にかられて、誰がなにをしでかすか知れたものではない。  そうした女同士の醜い争いを、春日局から聞かされていただけに、千姫はおなつを保護することに気を使った。  その年が暮れて、初春に千姫が家光へ挨拶《あいさつ》に行くと、 「姉上は、おなつに大層、お目をかけて居られますが、なんぞ、格別のわけがございますのか」  と訊《き》かれた。で、 「私には、ゆかりの深い者でございます。長らくそのことを知らずにいて、不愍《ふびん》なことを致しました」  表向きにではなく、出来ることなら親代りになってやりたいといった千姫に、家光は暫《しばら》く考えていたが、 「では、姉上にお願いがございます」  自分は今年四十一の厄年《やくどし》に当るので、やがて、おなつの産む子は天寿院の養子と定めておきたいといった。  そのためにも、おなつは大奥から竹橋の千姫の屋敷に移し、そこで身二つになるようにしたいという家光の申し出を、千姫は喜んで承知した。  おなつが竹橋御殿へ来て、千姫は初めて彼女と対面をした。  三帆に瓜《うり》二つであった。  千姫と共に大坂城を出た頃の三帆にそっくりで、まるで、三十年の歳月が戻って来たような錯覚さえ起す。 「そなたは、何故《なぜ》、私がそなたの親代りになったか、その理由を知っていますか」  おなつと対面して、千姫は率直に訊《たず》ねた。 「私の母が、むかし、天寿院様に御奉公申し上げていたと、阿茶局様がおっしゃいました」 「その通りです。私にとって妹のような、なつかしい人でした」 「母はすでに世に亡きものと知らされました。天寿院様には、私の父を御存じでいらっしゃいましょうか」 「阿茶局は、なにもいわなかったのですか」 「父については、全くお話しなさいませんでした」  千姫が遠くをみる眼になった。 「そなたの父は、故あって名は申せませんが、立派な武士でした。身分のある、秀《すぐ》れたお方です」  胸の中に熱いものがこみ上げてくるのを、千姫は必死でおさえた。 「もし、そなたの父がこの世に生きておわせば、そなたに末の奉公なぞさせることはなかったものを……」  千姫の涙をみて、おなつは丁寧に手をつかえた。 「ありがとう存じます、天寿院様のお言葉を拝し、おなつは生き返ったような心地が致します」 「よいお子を産んで下され。上様のよいお子を……」  五月二十四日、おなつは男児を出産した。  長松《ちようまつ》と名付けられたその子は、千姫の養子として育てられた。  乳母には越智与右衛門へ嫁いでいた松坂局が、当人の願いで再び、召し出された。  家光は姉の養子となったこの長松に、二歳の時、竹橋の千姫の屋敷に近く新御殿を建て、八歳になると十五万三千石を与えた。 承応《じようおう》二年、十歳で元服して従三位《じゆさんみ》右中将となり、名を綱重《つなしげ》と改めた。  万治《まんじ》四年には十七歳で甲府《こうふ》二十五万石の主となり、甲府宰相と呼ばれるようになった。  ずっと後のことだが、この綱重の子が、六代将軍|家宣《いえのぶ》である。  弟の家光の長男、竹千代の母代りとなり、次男、長松を養子とした千姫の立場は、まさに徳川宗家の感があった。  だが、千姫は政事には全く口をさしはさまず、弟の子供達の成長をたのしみに静かな毎日を送っていた。  願わくは、この平安の中で生涯を終りたいと念じていた千姫の晩年を襲った痛恨事は、こよなくも姉を愛し続けた弟の死であった。  慶安四年四月、家光が重態に陥った時、千姫は最初、その枕辺《まくらべ》に近づけなかった。  将軍の姉が、最期を看《み》とるというのは前例がなかったからだが、その前例をくつがえしたのは、西の丸からかけつけた竹千代、当時はすでに元服して家綱《いえつな》と名乗っていた徳川家のあとつぎであった。 「天寿院様は徳川宗家であられる。父上にとって第一のお方を、何故《なぜ》、御対面させぬのか。直ちに竹橋へお使をさしむけるように……」  千姫を迎えに行ったのは、家光の次男である綱重であった。  助けられるようにして本丸へ入った千姫は病床から手をさしのべる家光にすがりついた。 「姉上に先立つ罪をお許し下さい」  少年の日に千姫をみたのと同じ輝きが家光の双眼に光っていた。  傍にいた家綱と綱重を呼び、しっかりした口調で命じた。 「父亡き後は、天寿院様を父と思うように。かりそめにも天寿院様のお心にそむくことはこの父が許さぬ」  それが家光の遺言となった。  四月二十日、家光は四十八歳の生涯を閉じた。  千姫は五十五歳で、弟を見送ることになった。  その悲しみの中で、家綱は将軍職を継ぎ、八月十八日、千代田《ちよだ》の城において将軍宣下を受けた。  翌十九日に、家綱はその報告のために千姫に対面した。新将軍は十一歳であり、その母として千姫の立場は更に重くなった。  相変らず、政事には口を出さなかったが、徳川一門の法要をとりしきるのも、一族の子弟の婚姻の世話をするのも、千姫の役目になった。  徳川家の長老として、千姫はものわかりのよい老女となり、若い者の相談を聞いた。  家綱が将軍職についてからの江戸には不祥事があいついだ。  由比正雪《ゆいしようせつ》、丸橋忠弥《まるばしちゆうや》など、幕府をくつがえそうとする輩《やから》の陰謀が発覚し、町奉行によって捕縛され、はりつけになった。  更に明暦《めいれき》三年正月には、本郷丸山本妙寺《ほんごうまるやまほんみようじ》から出火して、折からの強風のため、二日も燃え続くという大火事になった。  千代田城は本丸、二の丸、三の丸が焼け、千姫の竹橋御殿も燃えた。  千姫は侍女達と共に、西の丸に火を避けて無事であった。  長生きをすると、さまざまのことに出会うというのが千姫の、その頃の心境であった。  すでに六十を越え、ひたすら一門の人々の菩提《ぼだい》をとむらう日々でありながら、心安らかとはいいがたい。  年少の将軍は病弱であり、御台所を決めるにも、なにかと厄介であったが、千姫は後水尾《ごみずのお》上皇の中宮で、今は東福門院《とうふくもんいん》と称されている妹の和子に助力をたのみ、伏見宮二品式部卿貞清《ふしみのみやにほんしきぶきようさだきよ》親王の姫、顕子《あきこ》との婚約にこぎつけた。  明暦三年四月、顕子は京を発《た》って、華やかに東海道を下り、十八日に新築して間もない千姫の竹橋御殿に入った。  婚儀が行われたのは、七月十日のことである。  千姫の役目はまだ続いた。  養子である綱重の縁組を二条《にじよう》関白|光平《みつひら》の姫と結び、その婚儀もせまった頃に、綱重がこともあろうに千姫の侍女のおほらをみごもらせていたのがわかった。止《や》むなく、おほらの産んだ男児は、綱重の家司である新見《にいみ》備中守《びつちゆうのかみ》があずかり、後になって綱重の長男として披露をすることになった。  この子が、六代将軍家宣である。 「あまりにも長く生きすぎました。よいこともみれば、悪《あ》しきことも見ねばなりません。なつかしい人が一人去り、二人去って……」  仕えている松坂局に、そう呟《つぶや》いた千姫が自らの生涯を終えたのは、寛文《かんぶん》六年二月六日のことで、七十歳の古稀《こき》を迎えた年のことであった。  千姫の死に対して、諸大名は総登城し、将軍に弔意を述べた。  遺骸は小石川伝通院《こいしかわでんずういん》に納められ、天樹院栄誉源法松山と諡《おくりな》した。 平成二年九月、角川書店より単行本として刊行 角川文庫『千姫様』平成4年12月10日初版発行          平成12年11月30日21版発行