[#表紙(表紙.jpg)] 素晴らしい一日 平 安寿子 目 次  素晴らしい一日  アドリブ・ナイト  オンリー・ユー  おいしい水の隠し場所  誰かが誰かを愛してる  商店街のかぐや姫  あとがき [#改ページ]   素晴らしい一日     1  日曜日の朝っぱらから無精髭をはやし、ボサボサ頭にくたびれたジャージの上下という格好でパチンコをしている三十七歳の男に相応《ふさわ》しい呼び名は一つしかない。  甲斐性《かいしよう》なし。  かつて、わたしが付き合っていた頃の彼は実に颯爽《さつそう》としていた。スラリとした長身にシンプルで仕立てのいい服をキリリとまとい、かすかに葉巻の甘苦い香りを漂わせていた。だからといって今の姿に落魄《らくはく》の�もののあはれ�が漂っているかといえば、それはノーだ。背中を丸め半分口を開け、のどかにパチンコを楽しんでいるだらしないアホ面こそが、彼の本性だからだ。彼は堕ちてこうなったのではなく、もともとこういう男だったのだ。  わたしのほうはトレーナーにキュロットスカートにスニーカー。逃げられたら追いかける心積もりのいでたちで店内に入り、人を探すふりをしながら慎重に彼に近づいた。そして、左の肩を片手でギュッとつかんだ。訝《いぶか》しげに振り向いた顔はわたしを二、三秒みつめた後「オー」という機嫌のいい声とともに、ニコーッと笑み崩れた。そのまま額に入れたら〈最高にハッピー〉というタイトルがつきそうな笑顔。もともと、どこを探しても陰とか屈折とかそういう妖しい色気が一切ない、至ってのんびりした顔つきなのだ。みんな、この顔に気を許す。わたしも、その一人だった。 「幸恵《ゆきえ》ちゃん! 元気そうだねえ。わあ、奇遇だなあ。二年ぶり?」 「お金、返して」  わたしは怖い顔で言った。言いたいことはそれだけだ。 「いきなり、そう来る? 返すよ、もちろん。返すって言ったでしょう、僕。約束したじゃない」  友朗《ともろう》はケロリとしている。いつだってケロリとしていられる男だった。今だってジャージ姿をわたしに見られても、恥ずかしがる様子もない。普通の神経で付き合っていられる相手じゃないのだ。わたしは声を励ました。 「パチンコするお金があるんなら、わたしに返して」  周囲の目が集まった。頭にインカム、縞のシャツに蝶ネクタイという妙にしゃれた格好の若い従業員が興味津々で様子をうかがっている。 「幸恵ちゃーん。そりゃ、いきなりは無理だよ」友朗はなおもニコニコしている。わたしは少し声を落として、スゴみをきかせた。 「返してくれるまで、離れませんから」 「えー、だって」 「わたし、借用書もちゃんと持ってます。なんならここで騒ぎを起こして、警察呼んでもらってもいいんですよ」  友朗は、笑顔を消してわたしの目を見つめ返した。 「幸恵ちゃん、背水《はいすい》の陣《じん》って感じ。なにかあったの?」 「……お金、返して」     2  五十万円貸してくれ──と、友朗はわたしに言った。二年前の夏だ。  わたしと彼は付き合って半年たっていた。友朗は優しくて面白い男で、二ヵ月くらいは恋愛もどきを楽しめた。が、他にも付き合っている女がいるのが見え見えだったし、面白いけど頼りない、というかどこかあやふやなところのあるヤツだったから、もっと誠実そうな男と知り合ってからは、パッとしない気分のときにご飯をご馳走してもらいながら笑わせてくれる、まあ、都合のいいボーイフレンドというところだった。ホント、あの頃、わたしの人生は順風満帆《じゆんぷうまんぱん》だった。  わたしは、幸福というのはだいそれた夢や野心と関係ないところにあると思っていた。抜きんでた才能があるわけでなし、頭と見掛けの出来具合もまあ「そこそこ」レベルのわたしだから、世間並みの暮らしができればそれで成功。高校生のときに、そう思うことに決めたのだ。わたしが望んでいたのは、結婚するまではそう見苦しくないマンションで気ままなひとり暮らしを経験しておきたい──くらいのものだった。私立の女子校からエスカレーター式に入れる短大を出て、ゼネコンの系列の末端にぶらさがるエクステリア会社に就職して、その望みはあっさり実現できた。  就職したのは一九八八年。バブル真っ盛りでゼネコン関連は景気がよかった。わたしはただ花のOL生活を楽しんでいればよかった。仲間とつるんでランチを食べに行き、帰ってきてトイレで歯を磨きながら噂話や悪口を言い散らして、気分は女子校時代と変わらない。ホントに楽しかった。キャリア志向じゃないから�楽しい�ですむのだと、わたしは自覚していた。分をわきまえていれば幸福になるのは簡単だと、二十歳そこそこですっかり悟りの境地だった。そして年頃になれば、花に蜂が群がるように、オス蛙が我先にメス蛙に突進するように、プロポーズしてくれる相手は自然に湧いてくると思っていた。  ところが、わたしはモテなかった。不倫のお誘いめいたものはよくあったが(そしてたまには好奇心に負けて誘いに乗ったが)、独身の男はなぜかわたしに目もくれない。社内恋愛は望み薄、ならばと出会いのチャンスを求めて女友達のつてを頼って合コンやらキャンプやらに出かけたが、やっぱり何も起こらなかった。話が盛り上がったはずの彼は、ちょっと目を離したスキに他の誰かと消えていた。お見合いをすれば、これはと思う相手に限ってやんわり断られてしまう。  わたしは決して美人ではないが、断じてブスではない。ただ、友達が言うには「性格が暗そう」なのだ。「クール」とも言われる。自分ではそう言われると「そうかなあ?」と思う。確かに、あんまりおしゃべりではないし、周囲の様子を見てからどういう態度に出るか決めるところはある。自分の意見を主張しない。前に出るより、一歩引いているほうがトクだと思っていた。そうすれば、どこに仕掛けられているか判らない他人の心の地雷を踏まずにすむ。そういう用心深さが「暗くて」「クール」なムードのバリアとなって、男を遠ざけるのだろうか。ともかく、誰にも求められないまま二十八歳になって、わたしは激しく落ち込んだ。こんなはずではなかったのだ。自分のどこがいけないのか、どうしたらいいのか、どうしたいのか、皆目《かいもく》わからなかった。生きているのが辛かった。  そんなとき、友朗に出会った。知り合いが経営するレストランのオープニングパーティーだった。  わたしは人が大勢集まっている場所が苦手だ。気後れして、隅っこでワインをなめながら、それでも「いい男がいないかな」「誰か声をかけてくれないかな」と下心を燃やしつつグズグズ時間をつぶすのが常だった。そこに、あちらと思えばまたこちらと店内を巡って盛んに愛想を振りまいている男がいた。ニコニコしていて、リアクションが大きく、見るからに愉快爽快な感じで、彼が加わるとそのあたり一帯が明るくなるようだった。わたしは彼をみつめていた。魅力を感じたからではなく「ああいう風に誰とでも気安く接して、誰にでも受け入れられる人はいいなあ」と羨《うらや》んでいたのだ。すると、視線を感じたらしく、その男がわたしを振り向いてニコーッと笑った。それは、思わず微笑み返さずにはいられない類《たぐ》いの笑顔、〈最高にハッピー〉と言っている顔だった。  彼が近付いてきて、短い自己紹介をして、少し話した。それが友朗だった。友朗は情報サービス関係の小さな会社を経営しているらしかった。コミュニケーションシステムはベンチャーがどうしたこうしたと説明されたが、よくわからなかった。それから彼はレストラン経営者の昔のマヌケなエピソードを披露して、わたしを笑わせてくれた。そして「笑顔がいいね。その笑顔をまた見たいな」と嬉しがらせを言った。 「そんなこと言って、ホントにデートに誘ってくれる人、いないんだよな」わたしはフテくされた。「え?」と聞き返した友朗に、わたしは堰《せき》を切ったようにモテないつらさ寂しさを打ち明けた。友朗は優しくて感じがよかったが、胸をときめかせる存在ではなかった。だから格好をつける必要がなくて、わたしは情けない自分をさらけ出した。 「モテるのと愛されるのは違うよ。幸恵ちゃん」と、友朗は言った(初対面でいきなりちゃんづけで呼ばれて、正直わたしは嬉しかった)。 「見た目がいいコだと男は本能的にゲットしたいと思うけど、それは愛することとは違うもの。だからモテるコほど、逆に愛からは遠ざかるんだ。それに、一生誰にも愛されないってことは絶対にないんだから、へんに焦ることはないよ。ドラマでやってるような恋愛は、普通はないことだからドラマになってるんだよ。でも、幸恵ちゃんが好きだとか守ってあげるとかドラマの台詞みたいなこと言ってほしいんなら、僕が今、言ってあげるよ」  言ってほしいと答えると、友朗は微笑みながらわたしの目を見、わたしにだけ聞こえるような小さな声で「幸恵ちゃん、好きだよ。ずっとそばにいて守ってあげたい」と言った。  わたしはブハッと噴き出した。それと同時に湧き出てきたかすかな涙を友朗の指先が拭い、そのままさらわれるようにレストランを出て、ラブホテルではなくてシティホテルで寝て、終わったあとも彼の腕枕で話を聞いてもらった。会ってまもない男と寝るのは初めてではなかったが、あんなに自分のことばかりしゃべったことはなかった。友朗には、そういう一種の包容力があった。別れ際に「わたしはモテたのかな、愛されたのかな」とダメ押しに聞いたら、友朗はちゃんと「愛されたんだよ。愛してるよ、幸恵ちゃん。一目惚れ。ホントだよ」と答えてくれた。すごく嬉しかった。わたしはそのときまで、自分がそんな薄っぺらな甘ったるい言葉に飢えていることを知らなかった。  会うたびに優しくしてもらって、わたしは微妙に変わったらしい。なんとなく機嫌がよくなって〈ちょっとハッピー〉な笑顔を見せるようになったと、上司や同僚に言われた。「彼氏ができたな」と言われ、見栄を張って曖昧に笑ってごまかしていたが、なんと本当に恋人と呼べる人が現われた。  彼は、会社のメインバンクの融資担当だった。「前任者が転勤したので今後は私が」と挨拶に来て、応対に出たわたしと少ししゃべった。いかにも育ちのよさそうな清潔感と、単なる�おツボネOL�のわたしに対するほがらかで丁寧な物腰に、ものの数秒でわたしはマイった。なにしろ妻子持ちで半禿の前任者と違い、彼は輝くハンサム独身だ。聞けば同い年の次男坊で、今はマンションに一人住まい。わたしの秘めた結婚願望にピタリ適合する。こんなに胸がときめいたことはなかった。いつもはそこで終わりで、わたしはついてまわる不運の星を恨んで、ひとりで前後不覚になるまで酔うしかなかった(それもちゃんと金曜の夜、自分の部屋で)。ところがあのときは、わたしの人生において空前絶後の展開が訪れた。彼から誘いの電話がかかってきたのだ。あとはトントン拍子だった。わたしと彼はまもなく、ぼんやりとだが将来設計を話し合うようになった。彼は新居のインテリアや子供の名前を考えるのが好きだった。女の子みたいだと思ったが、いかにも家庭を大事にしてくれそうで頼もしくもあった。  彼はわたしの「地味だけどしっかりしている」雰囲気に惹かれたと言ってくれた。「僕は古い男で、派手な感じの女の人ってどうも信用できないんだ」と。嬉しかった。わたしは「暗い」のでも「クール」なのでもなく、「地味でしっかりしている」のだ。そうなのだ。モテなかったおかげで、本当にわたしの価値を見てくれる人とめぐり逢えた。そして、結婚できる。それも三十前に! 一時はダメかと絶望しかけていたのに……。  そういうことを、わたしは友朗に話した。友朗は、こちらから求めない限りわたしを抱くことはなかった。だからわたしは罪悪感を感じることなく、彼のことを友朗に話せた。友朗は喜んでくれた。「友朗さんのおかげかもしれない」とわたしは思ったし、口にも出した。「友朗さんと出会ってからだもの。こういうことになったの」  だから、思いがけない借金申し込みも、わたしは承知した。  本当は貸したくなかった。手取り二十万円で、家賃が八万円、そのほか車のローンも払っているわたしには五十万円は大金だ。その頃、三百万円を超す貯金があったから貸せないことはなかったが、千円二千円ならまだしも、わたしは五十万円も人に貸せる器ではない。どちらかというとケチなほうで、お祝い事でお金を包むときには断腸の思いを禁じ得ないし、人に食事をおごるとか見返りをあてにできない贈り物をするとかの慈善事業はまずしないタイプだ(しっかりしているという印象は、そういう意味で当たっている)。  しかも、友朗は事業に行き詰まって借金を申し込んでいるのだ。半年付き合ったくらいのわたしにまで泣きつくのだから、相当大変なのだろう。二年前はもう平成不況の真っ直中だから、先行きが暗いのも不安材料だった。貸したら戻ってこないかもしれない。わたしは渋った。  すると友朗は必死の面持ちで「金は家族から借りられるから週が明けたらすぐにでも返せるけど、街金《マチキン》は待ってくれないんだ。待たせると、ものすごい金利がつく。今のこのときをしのげば、後はなんとかなるんだ。いろいろかき集めて、あと百万足りない。すぐ返すから、少しの間だけ預けるつもりで貸してください」とかきくどいた。一晩寝ないで考えて「二十万なら」とわたしは答えた。ATM機でおろした二十万円を渡すと、友朗は「ありがとう。恩は忘れないよ。愛してるよ」と飛び上がって喜び、ちゃんと目の前で借用書を書いて実印に加えて拇印《ぼいん》まで押した。そして一週間後に姿を消した。電話は解約されていて、数少ない共通の知り合いは誰もが同じ状況で困惑していた。  その時点でのわたしは、まあしょうがないやと思っていた。友朗には精神的に助けてもらった。わたしには仕事があるし、結婚相手もいる。今回の出費は海外旅行にでも行ったと思えばいいわと自分に言い聞かせると、ちょっと大人の女になったみたいで気分がよかった。余裕だった。わたしは知らなかった。友朗と共に来た幸運は、友朗と共に去っていったのだ。     3 「会社が倒産したの、一年前」 「ああ、ねえ。この景気じゃあねえ」  二百円コーヒーの店のカウンターに並んで座って、わたしたちは話した。  アブナイのは五年も前から薄々判っていた。でも、今までなんとかしのいできたのだからこれからもなんとかなる……とタカをくくっていた。すると、いきなり社長が夜逃げをした。退職金もなく、突然失業者になった。 「でも、あの、彼氏は? 銀行員だったよね。もしかしたら、彼もリストラかなんかで?」 「クビになったのよ。使い込みして。それから雲隠れ。それが半年前」 「わ」友朗は小さく叫んで眉をひそめた。  そんな人に見えなかった。そんな人ではなかったのだろう。毎日大量の金を見ていれば、魔がさすのもしょうがない……。わたしはそう思おうとした。でも懲戒免職を言い渡された彼は、人が違ったようになった。エリートが恥辱にまみれると、あんなに薄汚くなるものか。彼は下を向き「オレはもうダメだ。噂があっというまに広がって、どこに行っても針の筵《むしろ》だ」とメソメソ泣いた。そして「オレ以外にも同じようなことをやっている人はたくさんいるのに、オレは運が悪い。こんな男とは別れた方がいい」と言い残して、去っていった。おおかた親の家にでも逃げ込んだのだろうと予測はできたが、追いかける気にはなれなかった。情けなかった。わたしが好きだったのは、虚像だったのだ。 「そうかあ。辛いねえ。でも、幸恵ちゃんはまだ若いんだから、これからいくらでも」 「これからなんて待ってられないの」わたしはブスリと言った。  わたしはちゃんと就職がしたかったから派遣会社には登録せず、時間の融通がきくパン屋のアルバイトをしながら転職の機会をうかがった。でも、うまくいかなかった。三十でこれといった特技がなければ、この不況下での転職は難しい。今さら、ファミリーレストランのウェイトレスなんてしたくないし、宝石のキャッチ販売や資格試験教材の電話セールスみたいなことはしゃべりに自信がないからやれそうもない。それで一般事務職の面接にセッセと行くと、必ずわたしより若いコが採用になった。  貯金は減る一方だった。銀行員の彼と出会ってからの順風満帆に浮かれて、欲しいと思ったものはすぐに買っていた「ひとりバブル状態」が響いて、もう百二十万しかない。お金に関する器の小さいわたしは、そこまで貯金が減ったことに心底おびえた。貯金が百万円しかないなんて、わたしは貧乏人だ。二十万円も人に貸した豪気な時代もあったのに……と思い返した夜、ひらめいた。  そうだ! 貸した二十万円を回収するんだ。  そう思い立つと久々に気力がみなぎってきて、朝まで眠れなかった。そして翌日は一日かけて、知っている限りの彼の知り合いに電話をかけた。一念通って、ひとりの男がようやく友朗が住んでいる町の名前を白状した。 「そのへんにいるらしいっていうだけだよ。住所までは知らない。本当だってば」  そしてわたしは毎週末、愛車のキャロルでその町に出かけて友朗を探した。電話帳には載《の》っていなかったから、マンションやアパートや一軒家の表札をしらみつぶしに見て回った。そして四週間目に、パチンコ屋でやっとみつけたのだった。 「今日という今日は、お金返してもらわないと帰らないから。日曜日だって銀行のATMは使えるもの。パチンコしてるくらいだから、お金あるんでしょ」 「いや、それがね。カード持ってないんだ。ほら、家族やら知り合いからかき集めた金を返してヤバいところへの手当ては終えたんだけど、今度はそういう人たちに返さなきゃいけないからさ。なにしろ二千万円近い借金だからね。あれから二年、通販会社の倉庫係でもらう給料をほとんど返済に当ててるんで、何の楽しみもないわけさ。それじゃかわいそうだからってんで、毎月五千円を遊興費ってことでもらってね」 「誰に? お母さん?」バカにしてやるつもりで、わたしは鼻を鳴らした。 「いや、あの……奥さんに」 「結婚してたの!?」 「あ、幸恵ちゃんと付き合ってるときは独身だったんだよ。ホント、ホント。僕が無一文以下になったときに、借金返済生活を支えてあげるって結婚してくれたんだよ。ありがたいよね。無償の愛っていうの? ちょっとゴメンね」友朗は横を向くと、いつのまにか出したティッシュを使っておおげさに鼻をかんだ。「このことを思うと、いまだに泣けてきちゃってさ」  ふざけた野郎だ。 「じゃあ、その奥さんが返してくれるわけね」 「いや、それがね。結婚するときに、全部告白したんだよ。誰にいくら借りてるとかどういう関係だったとか。それで、許してもらって結婚に至ったわけだから、別口《べつくち》が現われたということになると、僕の信用問題に関わるでしょ。とくに幸恵ちゃんみたいな可愛いコが来たら、奥さんもちょっと穏やかではいられないと思うんだよね。僕のこと、愛してくれてるだけに」 「その全告白の中に、わたしは入ってなかったわけね」 「それが、あっちこっちから大体百万単位で借りたでしょう。だから、幸恵ちゃんはその」 「二十万円なんてハシタ金だから忘れてたっていうの?」  声が大きくなる。わたしはバッグからクシャクシャになった借用書を出して突き付けた。 「……ゴメン」 「言葉なんていらない。謝ってもらいたくもない。利子をつけろなんて言わないから、わたしの二十万円を今すぐ返して。わたし、待つのもあきらめるのも、もうイヤ。取り戻せるものは、取り戻したい。運を天に任せて後ろの方に引っ込んでちっちゃくちっちゃく生きてたら傷つかないと思ってたけど、そうじゃないってわかったから、わたし、あなたをこのまま帰さないからね」  わたしは興奮していた。自分でも何を言っているのか、よくわからなかった。でも、何がなんでもお金を取り返すのだとすごく気合いが入って、いい気持ちだった。なのに、涙がポロポロこぼれていたらしい。 「泣かないでよお」友朗が優しい顔になって、わたしの涙を指で拭った。 「女の子に泣かれると、オレ、弱いんだよお。うーん。じゃあ、こうしよう。これから、お金を都合してくれそうなところを一緒に回ろう。五万円ずつだったら四人いれば二十万だよね。うん、何とかなるかもしれない。そうしよう」  友朗は元気よく立ち上がった。  心当たりの電話番号が書いてある手帳を取りに、友朗夫婦が住んでいるアパートに行った。モルタル塗り二階建ての貧乏くさいアパートだった。このアパートも表札を見て回ったことはあったがわからなかったのは、奥さんの旧姓が表に出ているからだった。彼女は学習塾に勤めていて、土日は出勤日なのだそうだ。だから顔を合わせてどうこうの面倒はなかったが、わたしは路上駐車したキャロルの中で待つことにした。奥さんの存在を感じさせる場所に行くのは気が進まなかったのだ。五分ほどで、カジュアルながらシャツにジャケットにズボンというまともな格好の友朗が、システム手帳と電気カミソリを片手に持ってやってきた。そして助手席に乗り込むと、わたしの携帯を使って電話をかけ始めた。 「もしもし、友朗です。イヤー、ご無沙汰しちゃって。お元気そうですね。私? そりゃもう、今の日本でこのくらい身を慎んで暮らしているのは天皇陛下と私くらいってほどで。なにしろ愛する妻に全身管理されてますから。アハハ。いやところで、ちょっとご相談に乗っていただきたい事態が生じまして、突然でなんなんですが」  明るく調子よい交渉はしかし、不首尾に終わる。わたしだって、いきなりこんな電話を受け取ったら絶対面会を断ると思う。わたしは落ち着かず、車を降りてあたりを歩き回った。ときどき外から様子を窺《うかが》うと、友朗はメゲるどころか、どこか生き生きした様子で笑い、しゃべり、手帳の住所録にボールペンで印を入れている。興味をそそられて運転席に戻り手帳をのぞき見すると、住所録の頭に並ぶ×印の間にポツンポツンと○が見えた。  ある時点で手帳をバタンと閉じた友朗は、いきなりわたしの左腕を握って顔を近付けてきた。ドキンとした。しかし彼は、わたしの腕時計をのぞきこんだのだった。 「十時前だな。茶臼《ちやうす》カントリークラブに一時間以内に行けるかな」  わたしはカーナビを示した。これを買ったとき、車の維持費だけでも負担なのに運送屋じゃあるまいしアルバイト生活者にカーナビは贅沢だと家族や友達に怒られた。でも、カーナビとともに車をコロコロ転がしていくのは、わたしの唯一のストレス解消法だった。今いる場所と行きたい場所への行き方が目で見て確かめられる。間違いがない。迷いがない。今のわたしには、確実に頼りになるものはこれしかなかった。最先端設備が自慢でもある。しかし友朗は「お、さすがですね」と言うわりにはそれほど興味を示さず、サイドミラーに目を注いで電気カミソリを使い始めた。     4  ゴルフ場の喫茶室に現われたのは、小太りの身体を高そうなゴルフウェアで包んだ五十がらみの貫禄のある女だった。素早くソファから立ち上がった友朗をチラリと見ると、一緒に歩いてきた白髪頭や禿頭の男たちになにか言い置いて、微笑を浮かべ栗色のショートカットを手で撫でつけながら急ぎ足で近付いてきた。 「友朗くん、ひさしぶり。こんにちは、はじめまして。私、梶原順子と申します」とわたしへの挨拶まで一息ですませ、よく通る声でグレープフルーツジュースを注文してから座った。 「こちら、僕がお世話になりっ放しの梶原順子さん。こちらは僕がご迷惑をかけている花場幸恵さん」と紹介した後で、友朗はあっけらかんと呼び出した事情を説明し、わたしに返すべき金の一部を立て替えてほしいと願い出た。その横でわたしは居心地悪く下を向き、上目遣いで順子を見ていた。お金を貸しているのはわたしなのに、借金をする側に座っているせいか、へんに恥ずかしい。 「そうねえ。今たちまちってことだったら五万円くらいしかご用立てできないんだけど、それでいいかしら?」と、彼女はにこやかにわたしに向かって言った。わたしは思わず顔を上げ、口をポカンと開けて順子をみつめた。人って、こんなに簡単に他人に金を貸すものだろうか? 確かにわたしも二十万円貸した。でもそれは、追い詰められている事情を聞いてからのことだったし、そのうえ頼まれてから一晩は悩んだ。順子はきっと女社長かなにかで金持ちなのだ。五万十万は金のうちに入らないのだろう。  圧倒されたわたしが黙ってうなずくのと友朗が「いやあ、助かります。必ずお返ししますから」と立ち上がってお辞儀をするのが、ほぼ同時だった。「ちょっと待ってね」と中座した順子はすぐにゴルフ場のネーム入りの封筒を持ってき、友朗から拇印を押した借用書(途中の文房具屋で便箋と印肉を買い、車中で何枚か作成した)を受け取ってケラケラ笑った。 「なんだか懐かしいわねえ。友朗くんの借用書」 「僕の実印、やたら使えないように封印されてまして、拇印だけで失礼します。ホントは血判にしようと思ったんですけどね、いちいちそんなことしてたら今夜中に出血多量で死んじゃいますから」  順子は派手に笑い転げて「もう、この人ったらこれだから、ねえ」と、わたしにうなずきかけたかと思うと、時計を見て拭ったように真顔に戻った。そして「申し訳ないけど、みんなが待ってるから」とサッと立ち上がり、レシートをつかんで喫茶室を出際にこっちを向いて、立ち上がって見送る友朗に軽く手を振って、消えた。茫然としているわたしに友朗は封筒の中身を見せ「早くも四分の一を達成。幸先いいよ」と、嬉しげにささやいた。  次に向かったのは、ニュータウンと名のついた新興住宅地だった。運転しながら、わたしはずっと気になっていたことを口に出した。 「友朗さん、今の人と特別な関係だったの?」 「ヤッてたかっていう意味なら、そうだよ」 「やり手の女実業家に飼われた年下の男ってやつだったんだ。だから、あんなにあっさりお金出してくれたんだ」 「いやあ、順子さんは実業家だからね。お金に関してはシビアだよ。男女関係、担保にとるような甘い人じゃないよ」 「じゃあ、どうして貸してくれたのよ」 「僕に貸すだけのメリットを認めてくれてるからだろうね」  友朗はシャアシャアと言う。わたしは鼻で嗤《わら》ってやった。 「幸恵ちゃんは嗤うけどね。僕はこれで義理堅くて役に立つ人間だよ」 「義理堅くて役に立つ人が、二十万円の借金踏み倒すかしら」 「踏み倒してないでしょうが。返すべく努力してるじゃない」友朗は教え諭すような口調で言いながら、目ではサイドミラーに映る自分の顔や髪型を点検していた。わたしはどうにも納得できない。釈然としない思いで眉を寄せっぱなしのわたしの顔をチラリと見て、友朗は「幸恵ちゃんがどう思おうと、順子さんは取り引きをしたんだよ。僕はこれから先、順子さんに何か頼まれたら、まず断らないからね」 「何かって、何よ」 「花見の場所取りとか冠婚葬祭の裏方とか引越しの手伝いとか選挙の応援とか死体の始末とかヤバいブツの運搬とか」 「ベッドのお誘いとか?」  ふざけた返答に、わたしはアテこすりを返した。スンナリ五万円が戻ってきたというのに、あまりにもスンナリ戻ってきたから、わたしの頭の中では「金持ちの五十女とその愛人」という構図が出来上がってしまい、友朗に対する軽蔑の気分が拭えない。 「うん。受けて立つよ」友朗は事もなげに即答した。 「……それ、奥さんに対する裏切りじゃないの?」 「裏切りじゃないよ。僕が帰っていくのは奥さんのところだもの。順子さんだって、そんな用で僕を呼ぶとしたらよっぽどハートがピンチのときって決まってるからね。そんなときは、おそばに行かなきゃ男じゃないでしょ」  わたしが友朗との付き合いに本気になれなかったのは、こんな風に人とのつながりを軽く見ているところが原因だと思った。優しいが無責任だ。こんな男を愛するようなお人好しじゃなくてよかった。奥さんという人の気が知れないが、要するに破《わ》れ鍋《なべ》に綴《と》じ蓋《ぶた》なんだろう。まあ、いいや。わたしはお金さえ戻ってくればそれでいいのだから、友朗の女たらしぶりはこの際、好都合だ。そう自分に言い聞かせて気を取り直したわたしは「これから行くところも女の人?」と、明るく軽く確かめた。 「うん。僕は大体昔から、女の友達の方が多くてね。今度の人はね、人妻なの。だから周りの目があるから、幸恵ちゃんもちょっと演技してね」     5  その人妻と待ち合わせた場所は、郊外型の大きなスーパーマーケットの駐車場だった。自転車を駐輪させた中年の女が、キャロルの前で並んで立っているわたしたちのほうに「あらあ、おひさしぶり! お元気ぃ?」と笑顔で駆け寄ってきた。そして友朗とわたしに等分に会釈した。わたしはやっと作った曖昧な笑顔を返した。 「こちら、広沢かなえさん」と、笑顔の友朗が口の中で言った。かなえも笑顔を保ったまま「本当はこんなの困るのよね」と、低い声で厳しく言った。薄化粧をして長い髪をバレッタでまとめ、ピンクのニットのアンサンブルに長いスカートをはいたごく普通の中年主婦が見せる離れ業に、わたしは度肝を抜かれた。  友朗はいかにも雑談をしているようなリラックスした姿勢で、事情の説明と借金の申し込みをした。かなえは一瞬わたしを睨んだ。それからすぐに笑顔に戻り、さげていたキルティングバッグの中を手探りしながら早口で「もう二度とわたしの前には顔を出さないと誓ってくれたら、二万円あげる」と言った。 「わたしたち、脅迫に来たわけじゃないわ」わたしは思わず真顔で抗弁した。かなえはビクリとして、気遣わしげな目であたりを見やった。 「かなえさん、今、幸せなんだな」友朗がニコニコと言った。「今の幸せを守ろうと一生懸命になってる。僕、嬉しいですよ。もう、かなえさんに甘えられないのは寂しいけど、最後に幸せなかなえさんに会えて、ほんとに嬉しい」  かなえの目が友朗の笑顔に吸い込まれるように、まともに彼のほうを向いた。そして小さく微笑むと、素早く二枚のお札を彼の手に押し込んだ。「脅迫じゃありませんから。もう二度と来ませんから」と横で言い張るわたしの存在は、完全無視だった。借用書も受け取らなかった。そして友朗に小声で「じゃあね」と言うと、スーパーに駆け込んでいった。 「あの人とも付き合ってたのね」運転しながら言うと、膝の上で受け取ったばかりの一万円札の皺を伸ばしていた友朗は、屈託なく「うん」と答えた。 「脅迫されるなんて被害妄想にかかるくらいなら、不倫なんかしなきゃいいのよ」  わたしは脅迫者と見られたことにこだわって、ムシャクシャしていた。 「そんなの無理だよ、幸恵ちゃん」友朗はおかしそうに言った。「誰だって、ちょっと誰かを好きになったりするじゃない。結婚してたって、そういうことは起きるよ。それが普通だよ。人を好きになるとそれだけで幸せになって、パワーが出るじゃない。でも、幸せってすぐなくなっちゃうから、人間はパワー補給のためにしょっちゅう誰かを好きになるようにできてるんだと思うよ。結婚してるんだからもう一生誰も好きになるな、なんて不自然だと、僕はかねがね思ってるんだよな」  女たらしの自己弁護──と言ってやりたいところだが、言えなかった。  わたしは彼氏が欲しいといつも思っていたが、それは誰かを好きになりたいというのとは違っていた。モテない女でいるのが情けなかったのだ。別れた彼のことも、夫として理想に近いと思ったから舞い上がっていた。彼自身を好きだったら、彼の心中にあんなに無関心でいられたはずがない。失敗した彼を、わたしは許せなかった。使い込みをしてクビになった元銀行員が相手では「人並みのささやかな幸せ」さえも高嶺の花だ。そういう境遇にハマるのはごめんだった。わたしは彼を助けたいとは一瞬たりとも思わず、背を向けた彼を追わなかった。でも彼は、わたしに何か(愛の支えとか)を期待していたのかもしれない。初めてそういう風に考えて、わたしは、ちょっと落ち込んだ。  唇を噛むわたしを見て、友朗は二万円をわたしの目の前にヒラヒラさせた。 「ホレホレ、すんだことはすんだこと。前進あるのみよ、幸恵ちゃん。ここらで腹ごしらえして、さらに驀進しようじゃない」  それでわたしたちはマクドナルドに入り、割り勘で食べた。  午後イチで向かったのは、オートロックの瀟洒《しようしや》なマンションだった。管理人室は日曜日のせいかカーテンが閉まっていた。低くしわがれた声がインターホンの呼び出しに応じて「ドア開けとくから、入ってきて。今、手が離せないから」と言った。  七〇三号室の玄関ドアには「アイザワ ルイ」と焼きこんだ子犬の形のウッドボードが取り付けられている。友朗は一度チャイムを鳴らし、ドアを開けて「こんにちはー」とセールスマンのような元気のいい挨拶をまず室内に入れた。それから先に上がり、わたしを振り返って「さ、幸恵ちゃんも遠慮しないで」とうなずいて見せた。  しがないワンルームマンション暮らしのわたしは、オートロックでアプローチにギリシャの女神みたいな彫像を立たせた美麗マンションにビビッていたが、入ってみると間取りはチマチマしていた。三和土《たたき》も廊下も狭くて窮屈。トイレとバスルームらしい二つのドアを横に見て入ったリビングダイニングは細長く、ダイニングテーブルとリビングセットがくっつきあっていた。リビングセットのソファに背中を丸めて座りペディキュアをしている髪の長い女が、顔を上げずに「どうもぉ」と言った。 「そこら、座って。友朗、なにか飲みたかったら冷蔵庫開けて。ビール、ウーロン茶、リンゴジュース、エビアン、なんでもあるよ」  それにしてもドスのきいた声だ。おそるおそる向かい側のソファに腰掛けながらチラチラその顔を見た。すると視線を感じたらしく、女がキッと目を上げた。ものすごく、色が白い。どこかビョーキではないか? 眉がほとんどない。日本人形のようにまっすぐな黒い髪に縁取られた顔は、彫りが深くて美しい。出会ったことのないタイプの人間と向かいあって不安になったわたしは、反射的にヘラヘラ笑ってヒョコンと頭を下げた。女のほうもいかにもな作り笑いを見せると、すぐにペディキュア作業に戻った。  ほどなく、友朗が口を開けた缶ビールと二つのグラスに入れた水とウーロン茶を載せたお盆を捧げてきた。そして彼女の前にビールを、わたしの前にウーロン茶を置いた。それぞれの好みを把握している証拠だ。でも、借金のことは忘れていたのだ。そういう男だ。 「ルイさん。元気そうだね」  わたしの横に座った友朗が、笑顔で口を切った。わたしにはちっとも元気そうに見えない。でも水商売の女の休日は、こんなものなのかもしれない。ルイはモデルで、副業としてホステスをやっていると車中で聞いていた。ホステス七モデル三の営業状況だが、職業欄に記入するのはあくまでモデルなのだそうだ。確かに、半袖の男物のTシャツに裾をまくりあげたジーンズというどうということのないスタイルがカッコよかった。やがて、指の間にティッシュをつめた両足を大きく広げて座り直し、右手をヒラヒラさせながら左手で缶をつかみ中身を一気に飲み下したルイは、のけぞって盛大なゲップをもらした。 「で?」  ソファにふんぞりかえったまま、わたしと友朗を交互に見た。友朗はきょう三度目になる説明とお願いを繰り返した。 「話はわかった。わかったけどね」ルイは肩をすくめると、グイと顎を上げてわたしを見下ろした。そして「あんたって、みっともない女よね」とスラリと言った。  一瞬、言葉を失った。ここまで正面から侮辱されたことはない。どうして? どうしてわたしがこんなこと言われなきゃならないの? 怒りのパワーで背筋が伸びた。 「貸したお金を返してもらうのがみっともないことだなんて思いませんけど」キッパリ言ってやった。 「あの、あのねえ」横で友朗がオロオロしている。ルイは真っ直ぐ座り直してハッタとわたしを睨んだ。 「そりゃ、正論ですけどね。あんただって、この男に少しはいい目を見せてもらったんでしょ。単なるお友達だったわけじゃないでしょ。いや、|単なるつき《ヽヽヽヽヽ》でもお友達だったんなら、ありがたいじゃない。世の中、友達面はしても本当の友達付き合いしてくれる人間は、そうはいないんだからね。いい目を見せてくれた男になら、二十万円くらいサラリと貢《みつ》ぐのが女の甲斐性ってもんじゃないの?」 「それって、度胸があるのを見せつけたら勝ちみたいな、ヤクザの論理だと思う。地道に生きてる人間は、そんな見栄を張ってたらやっていけないんです」  わたしはムキになって言い返した。 「お金出すのがイヤなら、こんな風に呼びつけることないじゃない。わたしはお金を取り戻しに来ただけよ。なんでお説教されなきゃいけないのよ」 「まあまあ、幸恵ちゃん」  友朗がわたしの肩を抱くようにして押さえた。わたしは彼に向き直った。 「大体、あんたがいけないんじゃない。どうしてわたしがこんなこと、言われなきゃならないのよ。どうしてわたしが惨めな思いしなきゃならないのよ」 「そりゃ、あんたが今すぐ返せなんて無理言うからじゃない」と横合いからルイが突っ込んできた。「友朗の事情も考えずに自分の都合ばっかり言い立てて。あたしだって、友朗には金貸してるのよ。言いたかないけど、二百万よ。あんたとはケタが違うんだからね。だけどね、毎月一万円ずつでも返してるこの人の心情を思うとさ。それもあんた、競輪や競馬でスッたわけじゃない、事業がうまくいかなかったあげくの借金よ。同情ってもんがないの? ああイヤだ。自分の利益ばっかり考えて、人は利用しなきゃ損だみたいに思ってる心の貧しい女くらい、見てて浅ましいものはないね!」  そこまで言うか!?  わたしは肩に置かれた友朗の手を振り払い、立ち上がってルイを睨み下ろした。友朗があわてて立って再び肩を抱きかかえ「ごめんね」とわたしに言い、ルイに向かって「ルイさん、ごめんなさい」と頭を下げた。そして、わたしを引っ張るようにして廊下まで出た。 「幸恵ちゃん、気持ちはわかるけど、ここは僕がうまく話すから、我慢して黙ってて。ね? ね? お金、必ず、都合してもらえるから。僕じゃなくて、お金に免じて、ここは我慢して。ね?」  お金に免じて──の一言がきいて、わたしは唇をきつく結んでうなずいた。それから、友朗に連れられて元の場所に座った。ルイはソファに寝転び、目を寄せて枝毛の点検をしていた。 「ルイさん。幸恵ちゃんが言ったこと、怒らないであげて下さい。本気で言ったんじゃないんですよ。僕が借りてた金のこと忘れてたもんだから、ずっとイライラしてて。ホント、僕のせいなんです。幸恵ちゃん、田舎から出てきてひとりで暮らしを立ててるんだけど、この不景気で会社が倒産したうえに、結婚を誓いあってた男にだまされて」  ん? 大体そうだが、ちょっと違う。動きかけたわたしの膝を友朗の左手が軽く押さえた。わたしはしかたなく、うつむいた。うつむきながら上目遣いで見てみると、ルイの表情がわずかに変わったのがわかった。 「いろいろあって、お金苦しくなってきたんです。それで、僕に貸してた金のことを思い出して。あんな不幸のドミノ倒しさえなければ、幸恵ちゃんだって、取り立てに来るみたいな真似はしなかったはずなんです。幸恵ちゃん、優しいコですから。でも、どうしようもなくなって、恥ずかしいのを我慢して、覚悟を決めて僕んとこに来たんですよ」  まあ、そうだけど……。わたしはそっと顔をそむけて、友朗の言葉を頭の中で再生してみた。この違和感は、なんなのだろう? すると横で気配がして、ハッと見ると友朗がカーペットにおりて土下座していた。 「ルイさん! この通りです。僕がふがいないせいで、幸恵ちゃんに返せる金が今は一円もありません。一万でも二万でもいいですから、立て替えて下さい。もともとの借金と一緒に必ず返します。借用書も用意してあります。それで幸恵ちゃんの窮状を助けてあげて下さい!」  驚いた拍子に、わたしとルイは顔を見合わせていた。友朗の演説につられたわたしは、思わずルイに深々と頭を下げた。下げた頭の中に「?」マークが飛び交っていた。  ルイは立ち上がるとリビング横手の寝室らしい部屋に入り、ルイ・ヴィトンの財布の中を調べながら戻ってきた。そして一万円札を二枚取り出し、少し考えてもう一枚足して立ったままわたしに突き出した。わたしも立ち上がって、無言で受け取った。 「男なんか、アテにすんじゃないよ」  怖い顔で、それでもさっきよりは柔らかみのある声音でルイはそう言った。友朗はカーペットの上に正座して、いそいそと借用書に金額を書き込んでいた。  車中で、友朗は口笛を吹いた。 「五、二、三で十万。半分達成だね。次はちょっと大口いけるかも、だよ。頑張ろうね」  ウキウキしている。わたしは反対に腹立たしさと惨めさでムカムカしていた。わたしは債権者だ。貸したお金を取り返すのは当然の権利だ。この男が自分ですんなり返してくれていたら、こんなヘンな立場──悪者の借金取りみたいな──で居心地の悪い思いをせずにすんだのだ。幸恵ちゃんを助けてあげて下さい──だなんて。それじゃわたしはルイに「助けてもらった」と恩を感じなければならないみたいじゃないか。  わたしはご機嫌の友朗に腹が立って、運転しながらそんな不満をぶちまけた。 「なんだ。さっきから機嫌悪いと思ったら、それで怒ってたんだね。いやあ、ごめんごめん。でもね、ルイさんって姐《あね》ご肌で、助けてあげてって言葉に弱いんだよ。一肌脱ぐのが快感なんだな。ああいう風に持っていくと、あの人も気分よくお金を出せるわけ。ね? どうせ借金するなら、相手が貸してよかったと思えるような、そういう演出をしたいじゃない。相手もこちらも気持ちよく。ね? 幸恵ちゃん、心よ、心。人の世は」  なんでこの男は、こんなに幸福そうなんだろう。わたしは初めて友朗を見たときのことを思い出した。ニコニコしている彼をわたしは羨んでいた。そして今も、わたしは友朗が羨ましい。羨ましくて、悔しかった。     6 「大口が狙えそうな次」に向かうに際して、友朗はショッピングビルの名店街で五百円の詰め合わせ和菓子を買った。それを持って出向いた先は、B級私大のお膝元に位置する商店街の一角。一階にコンビニ、二階に学生向けの不動産屋が入っている四階建ての古いビルで、通用口に『ハマグチビル』というプレートがついていた。ハマグチというのは友朗の姓でもある。「親戚?」と聞くと、「うん。親父のほうの叔父さんチ。叔父さん、身体弱くてね、同い年の従兄弟がもう跡を継いで、このビルとか店とか切り回している」  通用口近くにキャロルを路上駐車すると友朗は身軽くポンと外に出たが、わたしは気後れした。わたしだったら、どんなに仲がよくても同い年の従兄弟に金を借りにいくのは嫌だ。年上ならまだしも……。早くも頬の筋肉を緩めて〈最高にハッピー〉顔の友朗の横で、わたしは目を伏せてビルの狭い階段を上った。  三階のそっけないスチールドアに、ドアホンがついていた。友朗が名乗ると「おお」と返事があり、パタパタ足音がしてドアが開いた。ワンポイントマークのポロシャツの腹が出て、額が禿げ上がった典型的なオジさんがそこにいた。同い年だと思って比べると、スマートな友朗のスタイルが厭味に思える。しかし見る人が見れば、外見とは裏腹の中身の差がわかるかもしれない。かたや親の事業を継いでしっかり守る質実剛健男、こなた借金で首が回らない落ちこぼれだ。  部屋は事務所と兼用にしてあるらしく、靴を脱いであがるものの、事務机と事務機器と簡単な応接セットで一杯になっていた。その奥に引き戸で隔てられた小上がり風の居室らしき部屋があり、閉めた戸の向こうから競馬の実況中継が漏れ聞こえる。わたしたちは、玄関側の片隅にある応接コーナーに座った。花柄ソファも模造毛皮の敷物もデコラ張りのテーブルも古びて色あせ、不景気な印象は否めない。逆に、隅に立て掛けてあるゴルフセットは磨き込まれてピカピカしていた。テーブルにはポットと急須と茶筒が置きっぱなしになっていた。その横に友朗が「これ、つまらないものだけど」と手渡した和菓子の包みを無造作に置くと、友朗の従兄弟は脇にあるミニキッチンから湯飲みを持ってきてテーブルの上で茶を入れた。そして湯飲みをこっちに押しやりながら、下から覗きこむようにわたしの顔を見た。 「こちら……」と、友朗がいまやおなじみの紹介と事情説明をした。従兄弟の名前は隆道という。友朗は「タカちゃん」と呼んだ。「タカちゃんトモちゃん」と呼びあう仲だそうだ。そう説明されて、隆道は苦笑した。 「まあ、電話があったときから大体の予想はついてたけど」隆道はポロシャツのポケットから禁煙パイプを取り出し、指先でもてあそびつつわたしに話し始めた。 「あんたもこういうことになったんだからわかるだろうけど、トモちゃんはどうも、依頼心が強いってのか。一人息子で猫っ可愛がりされたせいだねえ。オレなんか三男坊のみそっかすで、子供んときはずいぶん羨んだもんだよ。同じ年に生まれて、なんでこんなに違うんだろう、あっちの家に生まれりゃよかったとかね。新発売のおもちゃとか子供用の革靴とか、オレの欲しいもの全部持ってるんだもんなあ。欲しがると、たまにおさがりがもらえてね。まあ、今度みたいなことがあると、あのときの恩返しをしてることになるのかな。なあ」と、最後の「なあ」で友朗を見た。  これは皮肉だ。わたしはムカッとした。しかし友朗は「いやあ、そんなつもりはないけどさあ」とニコニコしている。 「人生ってのは不公平にできてると思うよ。気楽な三男坊のみそっかすが親の面倒を見る代わりに財産管理任される身の上になって、この不況で四苦八苦しながらなんとか面目保ってる一方でそっちはあんた、一家の希望の星の一人息子が大借金作って、伯父さん伯母さんがオレにまで白髪頭下げて金かき集めて、なんとかなっちまうんだから。まあ、おかげでこっちは今頃になって親戚中で株が上がってるけどね。それにしても、ちったあ親父さんたちのこと考えてやりなよ」と、またしても最後の言葉を友朗に振る。 「そうなんだよね」友朗は、しみじみうなずいている。  わたしの胸の中に黒いものが湧き出てくる。それは、どちらの男へともつかない苛立ち、怒りだ。でも今それを噴出させたら、この場がだいなしになる。お金が出てくるまでの辛抱だ。お金に免じて、わたしは険しくなっている顔を上げないように、不満げな声を出さないように、キュロットの裾を握りしめた。  隆道は禁煙パイプをポケットに戻すと「ちょっと」と友朗に合図をして二人で席をはずし、わたしに背中を向けて小声で言葉を交わした。「いくらくらい……」と隆道が聞き、「そりゃもう、いくらでも……。できたら……」と友朗が答えている。隆道は事務机の後ろに回ってしゃがみこんだ。そのあたりに金庫があるらしい。立ち上がった彼の手には数枚の一万円札が握られていた。それを事務机から出した茶封筒に入れ、応接コーナーに戻ってわたしに差し出した。 「五万円あります。なにぶん急な話なんで、ほんの一部しかお返しできませんがお収め下さい。友朗がご迷惑かけて申し訳ありませんでした」と、親のような口上を述べた。わたしは頭を下げて受け取った。横から友朗が借用書を出した。隆道はそれを手にとって眺めながら「このこと、伯父さんたちに言わないほうがいいよね」と言った。友朗が何か答える前に「言うつもりはないよ。オレとトモちゃんの間のことだから」と付け加えて、嘲《あざけ》っているような怒っているような妙な目付きで友朗を見た。  友朗の両親には黙っていても、奥さんやら親戚には話すんだろうなとわたしは思った。そうやって溜飲を下げるのだ。友朗は立ち上がると身体を二つに折って頭を下げた。そのまま「タカちゃん。ありがとう。恩に着るよ」と言い、起き直ったときには無敵の〈最高にハッピー〉顔を晴れ晴れと浮かべていた。     7 「やったやった。五万だよ。えーと、今何時? 三時になるところか。ほぼ半日で十五万円だぜ。すごいじゃない」 「なにがすごいのよ」  わたしはプンプンしながら、わざと乱暴にハンドルを操作した。 「なにか勘違いしてない? これ、稼いでるんじゃないのよ。借金してるのよ」 「あらら、幸恵ちゃん怒ってるの? 借金してるのは僕で、幸恵ちゃんから見れば取り返してるんだからさあ、もう少し喜んでよ」 「喜べるわけないじゃない。惨めな場面にばっかり付き合わされて」 「えー? なんで幸恵ちゃんが惨めになるの?」 「……わからないけど」わたしは正直に言った。「でも、さっきのあんな言われかた、聞いてるほうがいたたまれないわよ。友朗さんにはプライドってものがないの!?」と責める口調になる。 「あるよお。と、思うけど」友朗は首を傾げた。 「あったら、今みたいな場面我慢できないわよ。わかった。友朗さんのプライドって、ものすごく鈍感なんだ。鈍感で、普通なら傷つくような出来事でも何にも感じないんだ」 「打たれ強いって言ってくれる?」  そんないいもんじゃない。鈍感なんだ。その鈍感さが羨ましいんだとわたしは思った。そのほうが絶対、楽だ。  しかし、いつまでも怒っているわけにはいかなかった。なんのかんのと言いながらもスイスイと進んでいた金策コールが、あと五万というところで止まってしまったのだ。「あと五万だな。あと五万」呪文のようにつぶやきながら携帯をかけ続ける友朗を乗せて、わたしはあてもなく運転を続けた。機械のように運転している方が気が楽だった。断られ続けているうちに、なにはともあれ金を出してくれた人たちにまとめて感謝の気持ちが湧いてきたほどだ。一時間ほども話し続けて、ついに友朗が「あ、ほんと? ナオミちゃん、恩に着るよ。今すぐ行ける。五分で行くから、そこにいて」と早口でシティホテルの名前を繰り返したとき、わたしはアウンの呼吸で鋭くハンドルを切り返していた。  ホテルのロビーにいたのは、赤い髪を長くたらし、きつめのニットにミニスカートでメリハリのあるボディラインを見せつけている若い女だった。三人掛けの椅子の真ん中に陣取って右側にエナメルのバニティバッグを置き、高く組んだ脚をブラブラさせながら友朗に向かってニマッと笑った。 「やーだ、トモくん。会うんなら、もっと前に連絡くれたらよかったのにぃ」 「うん。そうしたかったんだけど、ナオミちゃん、モテモテで忙しいだろうと遠慮してたんだよ」 「まあね。今だって、三十分くらいかな? あいてるの」 「いやあ、助かるよ。会ってくれて。実はさあ」と友朗はあいている左側に座り、事情説明は抜いて「お金を貸してほしい」と単刀直入にもちかけた。わたしの紹介はなく、ナオミはわたしが座れるようバッグをどける気遣いを見せない。頼むのもシャクなので、仏頂面で脇に立っているしかなかった。  ナオミという娘は女子大生で、キャンペーンガールやコンパニオンのようなバイトでかなり稼いでいる。そのうえモテるので奢《おご》ってくれる相手には事欠かず、金に不自由していない。借金するにはもってこいの相手だと聞かされていた。個人的にはもっとも腹の立つタイプの女だ。取れるだけ取ってやれと、わたしは内心友朗にハッパをかけていた。しかし、何の説明もなしとはあまりに乱暴だ。驚いているわたしを尻目に、ナオミは困惑する様子もなく「えー、お金五、六枚くらい持ってるけど、それはちょっとお買物用だからなあ」と甘ったるい調子でつぶやいた。 「これから会うの、彼氏だろ? ナオミちゃんに弱くて、お願いしたらなんでも買ってくれそうだろ? ナオミちゃん甘え上手で、ナオミちゃんの頼みごと断れる男はいないって聞いたよ」 「えー?」テレ笑いめいたものを浮かべながら、ナオミは否定しない。 「きょうの彼氏だって、ナオミちゃんの思いのままなんじゃない? だって、今のナオミちゃん、輝いてるもの。そのうえ、さっきすごく困っている友達にお金を貸してあげたらお財布カラになっちゃったなんて、チョロッと話してごらん。ナオミちゃんの優しさに彼氏はグッとくると思うなあ。そういう話に感動しなきゃ、男じゃないよ」  よく言うよ。わたしはあきれ返って目をそらした。しかし、そんなわたしの反感が作用したのだろうか。ナオミが首をひねりながら財布から札を引きだした。何も考えず「ちょっと出してみた」という体《てい》だが、友朗はすりとるような素早い手つきでそれをナオミの手から引き抜いた。そして、瞬く間に二枚を彼女の手に戻した。 「三万円でいいよ。サンキュ。ナオミちゃんって、やっぱり天使みたいなコだな」とニッコリ笑った。そして、札をポケットに入れると同時に借用書を取り出して立ったままサラサラと金額を書き込み、ナオミのほうにかがみこんで渡しながら「じゃあ、邪魔者は消えるね。彼氏と楽しくね」とささやいて、次の瞬間には背中を向けて歩き出していた。 「え?」声を出したのは、わたしだった。え? 今の、なに?  わたしはなんとなくゾッとして、置き手紙のような借用書にキョトンと目を当てているナオミに曖昧に頭を下げると大急ぎであとを追った。現場から逃げ出す犯人の気分だった。 「い、いいの? い、今の、あのコ、ほんとに納得してるの?」  わたしは舌も足ももつれさせながら、大股でホテルの駐車場を歩く友朗に追いすがった。 「いいんだよ。三万円くらいの無駄遣いしつけてるコだから。金には淡泊なんだよ」  友朗はキャロルの助手席におさまると、ジャケットのポケットから折り畳んだ札を取り出し、わたしに示して会心の笑みを浮かべた。  三万円が切実な金額ではない人間がいる。そんなことはわかっていたが、わたしはつい今し方見た、あまりにもあっけない金の移動にショックを受けていた。梶原順子の場合には、五万円を軽く右から左に動かせる生活力が背景にある。ルイにも隆道にも専業主婦らしいかなえにも、この程度の金なら大丈夫と判断できる経済観念と実力が感じられた。だからわたしも、気が楽だった。でも、ナオミは違う。あの娘にとって金は、気が向けば簡単に貸せるし、気苦労なしにもらえるものでもある。あの娘がその気になれば、男たちは簡単に�お小遣い�をくれるのだろうし、ナオミのほうも、金が欲しいと思えばあっさりと�その気�になるのだろう。そう思うとナオミを見たときの嫉妬含みの腹立ちが消えて、寂しいような気持ちになった。執着の度合いはまるっきり違うけれど、わたしもナオミも結局は金に振り回されているのだ。 「どうしたの? 幸恵ちゃん、運転疲れた?」  友朗が、黙ってしまったわたしを持ち前の呑気な顔で見やった。そして力づけるように「あと二万円。次の人で達成できるよ」と言った。「また女の人?」と聞いたわたしの声もハンドルを握る手さばきも、ちょうど夕暮れに差し掛かる街の色と同じく昏《くら》くなりかけていた。多分、疲れたせいだ。そう思った。そう思う以外に、この奇妙な気怠《けだる》さを説明できない。 「うん。でも、今までとはちょっと違う。バツイチの子持ちでね。旦那の浮気がわかって、慶子ちゃん──ていうのが彼女の名前なんだけどね──がどうするつもりだと詰め寄ったら、彼は別れるつもりはなかったらしくて、僕との交際のこと持ち出して、これでおあいこじゃないかとか言い出してね。それが逆に慶子ちゃんの逆鱗《げきりん》に触れたっていうか」 「だって、おあいこといえば、おあいこじゃない」 「ところが、僕たちはほんとにただの友達なんだよ」 「へえ、珍しい」 「あら、幸恵ちゃん。僕のこと、誤解してるよ。僕は確かに女友達多いけど、半分以上がただの友達だよ」 「だったら、何の問題もないじゃない」 「ところが、そういう関係じゃないと証明するのが難しい。旦那はそう思い込んでたらしいから、いくら言っても駄目なんだよね。オレはずっと傷ついてたなんて言ってさ。慶子ちゃんは慶子ちゃんで、今まで黙って疑い続けながら一緒に暮らしていたというのが許せないっていうんだ。はっきり言えばよかったのにって。僕は旦那の気持ち、わかるような気がするんだよ。でも慶子ちゃんていう人が、潔癖なうえに意地っ張りなんだな。ま、その前から本人は仕事が面白くなってるのに旦那はそれが不満だったりで、気持ちが噛み合わなくて居心地は悪かったらしいんだ。それで一挙に、離婚したいってところまでいっちゃって、お互いの家族巻き込んで大騒ぎになったんだけど、慶子ちゃんは早く決着つけたくて、別れてくれたら慰謝料も養育費もいらない、誰の世話にもならないってタンカ切っちゃった。だから、今は女手ひとつで子供育ててる状態」 「……そんな人に借金頼むつもり?」 「もう頼んだんだよ。ほら、最初に携帯かけまくったとき、一番にOK出してくれたのは彼女なんだ。事情も全部話してある。そのうえでいいわよって言ってくれたから」  わたしは走っていたバス通りの路肩に寄せて車を止めた。 「どしたの、幸恵ちゃん。トイレ?」 「いいわよって言ったからって、そういう事情の人からなんて!」  友朗は目を丸くした。 「だって、慶子ちゃん外資系の住宅メーカーに勤めてて、いい給料もらってるし、母子家庭はいろいろ優遇されてるから、結構おいしいよって言ってたよ。だから、少しならなんとかなるから遠慮しないでって。でも一応遠慮して、二万くらいって言っといたんだよ。そしたら、なんとピッタシ!」  友朗は得意そうに力強くうなずいてみせた。  今日という日ほど、自分が何にも知らないことを痛感した日はない。母子家庭は結構おいしいだと? 母子家庭は貧しくて、子供は高校進学もあきらめる──という世界ではないのか? わたしは自分一人の生活さえ守りきる自信がなくて、こうして貸し金回収の鬼になっているというのに……。そうか。母子家庭はおいしいのか。ならば、わたしの二万円、気持ちよく出していただきましょう。  わたしは気合いを入れ直し、信号が変わって動き出した車の列に強引に横入りして、クラクションのブーイングを蹴散らして進んだ。     8  飛石《とびいし》慶子が住んでいるのは、築二十五年は過ぎていると思われる古いタイプのマンションだった。鉄筋五階建てだがエレベーターはなく、扉のない出入り口が通りの裏側にあり、その前に草|茫々《ぼうぼう》の青空駐車場というつくりが昔の公団アパートを思い出させる。これなら家賃もそう高くないだろう。日曜日の夕方らしく、十台分の駐車場のほとんどが埋まっていた。わたしは表通りの路肩にキャロルを駐車して、友朗とともに出入り口付近をブラブラしながら待った。慶子は子供を連れて遊園地に行っているのだが、小学校二年の子供が見たいテレビアニメがあるので六時には必ず戻るということだった。  六時十分前に駐車場に駆け込んできたのは、三つ編みのおさげがよく似合う少女だった。キルティングのリュックも手提げバッグもほっそりした身体に羽織っている春物のジャンパーも、すべてピンクのピラピラしたナイロンだ。慶子は三十三歳だと聞いている。しかも、平気で夫を離縁して女一人で子供を育てているキャリアウーマンだ。イメージが違う。目を見張るわたしの前で、少女(のような彼女)は「キャー、トモさーん」と嬌声をあげ、友朗と手を取り合ってピョンピョン飛んだ。 「ひさしぶりぃ。会社ダメになってから連絡なくなって心配してたのよお。なんで今まで、何にも言ってきてくれなかったの?」 「だって、慶子ちゃんには、僕、申し訳ないような気がしてさ」  友朗も息を弾ませて、嬉しそうに言った。わたしには「申し訳ないような気」もしなかったくせに。わたしは少なからずムッとしたが、サッとわたしに向き直ってピョコンと頭を下げた慶子に不機嫌な顔を見せるわけにいかない。「申し訳ないような」表情をつくろっているわたしに近寄ると、慶子は手提げから取り出した白い紙を笑顔で「はい」と差し出した。 「出かける前の連絡で封筒探してる暇がなくて、とっさに包めるものってティッシュしかなかったんですよ。ごめんなさいね。でも、中身はちゃんとしてますから。日本国発行のお札ですから」  冗談めかしたその言葉から、わたしに(あるいは友朗に)負い目を感じさせまいとする心遣いが感じられて、わたしは今日初めて心から恥ずかしくなってうつむいた。すると、慶子が心配そうにのぞきこんだ。 「あの、二万円くらいって聞いてたからそれだけ包んであるんですけど、もしかして、足りません? 足りないんなら、もう少しなら」 「いいえ!」急いで強く否定したものの、何をどう説明すればいいのかと口をパクパクさせている鼻先をかすめて、ビュンと飛んできた物体が慶子の腰にぶつかった。「マママママママ、テレビ始まった?」  息|急《せ》ききっているから「ママ」が呪文みたいにつながっている。それはおしゃれに前髪をたらした、半ズボンにハイソックスの男の子だった。「ご挨拶しなさい」と言われて、慶子の腰にしがみついたまま「こんにちは。トビイシミノルです」とわたしを見上げた。それからすぐ「ねえねえねえ」と慶子を揺する。  慶子が「すぐ行くから、先に帰ってて」と渡した鍵を握るとすぐに走りかけ、止まって振り向いてわたしに「おばさん、サヨウナラ」と手を振った。この子がもっと憎ッたらしいガキだったら、こんな気持ちにならずにすむのに。でも……。わたしはわが子の後ろ姿を微笑で見送っている慶子に、ティッシュの包みを突き出した。 「お気持ちだけ、いただきます」  慶子は手を後ろに組んで、笑顔のまま小首をかしげた。 「でも、お入り用なんでしょう?」 「大方は戻りましたから、もうそれでいいんです」  慶子はじっとわたしを見た。それから、やや離れたところに立って珍しく黙ったまま様子を見ている友朗と目を合わせた。それからまた、わたしに視線を戻し「それでいいってことはないんじゃないかしら」と歯切れよく言った。 「あなたの要求は正当だし、わたしはたまたまお金を都合できる。無理して、いやいや出してるんじゃない。できることをしてるんです。大方戻ったからもういいなんて、嘘でしょ? シングルマザーに同情して遠慮なさってるんでしょ。でも、同情されて一旦出すと決めたものを引っ込めるなんて、わたしは気持ちがよくないわ」  そこで慶子はニッと笑った。「ごめんなさい。わたし、強情なんですよ。可愛くないですよね。離婚もこの性格が原因なんです。自業自得みたいなもんだけど、ちっとも不幸じゃないんです。大丈夫なんだから、気にしないで受け取って」  足音がして、マンションの住人が通りかかった。慶子と挨拶を交わし、出入り口の蛍光灯をつけた。三階の外廊下のフェンスにミノルの小さな頭が半分現われ、「ママママママ」と叫んだ。慶子はそっちを向いて「今行くからテレビ見てなさい」と叫び返した。そしてわたしに笑いかけ、出入り口のそばで待機していた友朗のほうに駆けていって何か話した。それから借用書を受け取ると、階段を上り始めた。  わたしはダッシュして、友朗の前を駆け抜けた。そして一階から二階への踊り場で慶子の肘をつかんだ。それだけで息が上がり、逆に慶子に腕を支えられた。 「半分わけ、しましょう」苦しい息で、わたしはやっと言った。言って、片手につかんでいたティッシュ包みを開いて一万円札一枚を慶子の手提げに押し込んだ。 「あなたはよくても、わたしの気がすまない。わたしだって少しはいい格好したいもの。だから、半分こ」そう言ったあとで、ちょっと恥ずかしくなって「半分じゃ、あんまり格好つかないけど」と言い添えた。  慶子はニッと笑うと「了解」と答えた。そして、ポンとわたしを突き放して「ママぁ、もうもうダメだよお」と何やらわめいているミノルに向かって走っていった。  出入り口の外から首を伸ばし、ニヤニヤ笑って見ていた友朗にわたしは厳しく言った。 「一万円の貸しよ。借用書、書いてね」     9  わたしと友朗は、友朗の住んでいる街の駅に続くバス通りで別れた。バス通り沿いにあるファミリーレストランで奥さんと待ち合わせているのだそうだ。知らないうちに、わたしの携帯でちゃっかり連絡をとっていたらしい。七時過ぎに仕事から帰ってくる奥さんに「今日は急な来客があって夕食の支度ができなかった」と告げると、それでは外ですませようと言ってくれたのだそうだ。それで、そのレストランの近くで彼を下ろした。友朗は「じゃ」と言うと、案外あっさりと車を離れた。もっとも二重駐車だったから、別れを惜しんでいる場合ではなかった。それでも、友朗の広い背中がレストラン目指してせっせと歩いていくのを見送ると、物足りない気持ちで後ろ髪を引かれた。せめて一度くらい、振り向いてくれてもいいではないか。それが不満だった。そうしたら、わたしだって友朗に笑顔を見せることができたのだ。  道路は遊び帰りらしい車で渋滞していた。トロトロと走る車はやがて友朗に追いつき、レストランに入っていくまでを見届けることができた。ガラス張りの店内に入った友朗が手を振った先を、わたしは振り返って見た。ショートボブのさみしげな顔立ちの女が、合図に応えて半立ちになった。その細面が幸福そうに和らいだのが遠目にもわかった。もっとよく見ようとしたが、クラクションに急かされてそれ以上は無理だった。  『 花場幸恵さま  私、濱口友朗は貴女様のご好意により、本日確かに金壱万円を借用いたしました。このうえは粉骨砕身努力して一日も早く返済いたしますことを、私の名誉にかけて誓います。   平成十一年五月三十日 [#地付き]濱口友朗』  走り書きした借用書の文章は、二十万円貸した二年前と同じだった。わたしは二十万円のほうを友朗の目の前で破き、新しい借用書をきれいに折り畳んで十九万円と一緒に封筒に入れた。 「今度は忘れないでよ。忘れたって、そのうち必ず回収に来るからね。貸したほうは忘れないんだから」なおも厳しい顔と声で言うと、友朗は例の〈最高にハッピー〉顔で「うん。幸恵ちゃんが取り返しに来るの、楽しみにしてる」と答えた。その借用書は今、薄い札束の上に重なってグローブボックスに突っ込んだ封筒の口からのぞいている。  駅前を抜けてしばらくすると、車は順調に流れ始めた。わたしは運転しながら、何度もグローブボックスに目をやった。十九枚の一万円札と一枚の借用書。一枚一枚に関わる顔を頭の中で順番にたどった。最後にピースサインを掲げる友朗の笑顔が浮かんだ。  ピースサインの指が伸びてきて、わたしの頬をくすぐった。すると、お腹の底からこみあげてきた笑いで一杯になって、顔が破裂しそうになった。そして抑えきれずに爆発した。  わたしは思いきり笑った。集金途上で感じた疲れも、友朗と別れた寂しさも、壊れた結婚の夢も、よるべない三十路《みそじ》の不安も、粉々に吹き飛ばしてやった。ラジオをつけて流れてきたメロディーに合わせて、大声で歌った。シートの上でお尻を弾ませ、肩を揺すって、ハンドルを叩いて、運転しながら踊った。じっとしてなんか、いられなかった。  ハッピーだったから。〈最高にハッピー〉にはまだ少し、何かが足りなかったけれど。 [#改ページ]   アドリブ・ナイト     1  金曜日の午後六時。駅前広場は人で一杯だ。家路を急ぐ人。これから夜の街に遊びに出ようという人。そして待ち合わせをする人。  ことに駅前広場の中心にある花時計は、グルリを二重三重に人が取り巻く盛況ぶりだった。  人待ち顔は、みんな似ている。所在なさそうな虚ろな表情。笑っているのは携帯電話で話している若い子たちだけ。それだって、ぼんやり待っているのに耐えられないから、とにかく空白を埋めるために電話してるんだと、瑠美《るみ》は思った。  わたしもあんな心配そうな不安そうな顔をしているのだろうか。人待ち顔は、待人が来るといっぺんに晴れる。その鮮やかなこと! わたしも彼が現われたら、あんな顔ができるだろうか。自信がなかった。どんな顔をしたら、いいだろう。どんな顔になるんだろう。それを思うと不安が増し、瑠美はうつむいた。 「やっと、みつけたぞ」と腕をつかまれたのは、まさにその時である。  瑠美はギクリとして、ぱっと顔を上げた。短い髪と何事かを決意したような真面目な面持ちの三十代とおぼしき男が瑠美を見下ろし、いかつい顔つきにわざとらしいまでにクッキリした笑みを浮かべた。  たぶん、わたしはものすごく怯《おび》えた顔をしたんだ。そんなの失礼だ。男の力の入った笑顔は、瑠美に反省を促《うなが》した。 「あ、はい」聞こえるか聞こえないかの声で答えると、瑠美は男に引っ張られる形で立ち上がった。そして、上目遣いにオズオズと彼を見つめ、口角をあげて笑顔を作った。  十一月に入って、夜は冷え込む。瑠美はニットのワンピースにカーディガン、さらにマフラーと寒の入りモードだが、男はチノパンツに紺色のトレーナーだけで上着を着ていない。力仕事をしているのか、盛り上がった筋肉の形が薄着を通して目に見える。次にどうすればいいのか、瑠美の迷いを断ち切るように男が口を開いた。 「久《ひさし》も来てるぞ」 「え?」  瑠美が眉をひそめるのと同時に、トレーナー男の背後から彼よりは骨格の貧弱な眼鏡の男が顔を出した。こちらはセーターの上にブルゾンをはおっている。 「あの」瑠美はトレーナー男に言った。「この人は?」 「久よ、仲村久。おまえと小学校の時、一緒だった。忘れたか? この広田のあんちゃんのことは覚えとったみたいじゃないか。オレも田舎出てサラリーマン生活が長かったで、ちっちゃい頃のおまえしか覚えとらんがな。正直、変わっとるんで驚いた。だが、面影はある」広田のあんちゃんと自称した男は、満足そうに微笑んだ。そして、その兄貴然とした表情のまま、久の腕をつかんで瑠美のほうに押し出した。 「おまえは忘れたか知らんが、こいつは忘れとらん。だから、十年たってもちゃんとおまえのこと、見つけよった」  瑠美は目をパチパチさせて、久を見た。久は下を向いた。 「あの、人違いみたいですけど」瑠美が小さな声で言うと、広田は「ごまかすな」と言葉の強さよりはずっと優しい声で言った。 「美代子。小学校んときからひそかにおまえに恋い焦がれとった久が見つけて、オレが写真と引き合わせて、確認したんよ。おまえがここに来たときから、もう二十分もあっちからこっちから見直して確かめた。ごまかしたいおまえの気持ちはわかる。でもな、美代子。父ちゃん、もうすぐ死ぬぞ。顔見せるだけでええ。また、田舎出ていっても、オレらはなんも言わん。父ちゃんにひと目会うだけだ。車、あるんだ。帰ろ」 「わたし、美代子じゃありません。瑠美です。大沢瑠美といいます。人違いです」  瑠美が言うと、広田は久と目を見合わせた。久は困ったような顔で首を傾げてみせた。瑠美に向き直った広田は、かみつくような目付きでじっと瑠美を見つめた。瑠美は「困ります」とつぶやいて、うつむいた。そして、うつむいたまま横目であたりをうかがった。こうして人と話しているところを彼に見られたら……どうなるんだろう。わたしだと、わからないかもしれない。一人で待っていると約束したのだから。早く消えてと言わなければ。そう決めて顔を上げた瑠美よりも、またしても広田の口のほうが早かった。 「あんた。明日、仕事か」  上からおっかぶせるような強い声である。瑠美はつい「いえ。休み、です、けど」と、正直に答えた。 「じゃあ、今からちょっと付き合ってくれんか。オレらは決してあやしいもんじゃない。今言ったことでなんとなく察しはつくと思うが、あんたと瓜二つの美代子いう娘の父親が危篤だ。死ぬ前にひとり娘の顔見せてやりたい。もう、時間がない。あんた、美代子の身代わり、してくれんか。礼はする。アルバイトのつもりで引き受けてくれんか」 「え……」と瑠美はたじろいだが、久もたまげた様子でポカンと口をあけて広田を見つめた。 「でも、あんちゃん。この人、誰か、待っとられるんじゃ」久がオドオドと言った。 「デートか」広田は生徒を補導する教師のように、瑠美を睨んだ。 「というか、みたいなもの、みたいな感じで」尻切れとんぼの瑠美の言葉に構わず、広田は「それだったら、オレら携帯持っとるから、相手さんに電話してくれ。デートはいつでもできる。けど、沖田のおっちゃんには、今夜がたった一度のチャンスだで。あんた、これは人助けよ。人間の熱い血が流れとるんなら、断れんはずよ。頼む。この通りだ」と、頷く程度に頭を下げた。そして、答を待たずに瑠美の手首をつかんで歩き出した。久があわてて後を追う。 「チョ、ちょっと待って」と瑠美は言ったが、引っ張られて足はどんどん前に進む。 「悪いが、急いでくれ。おっちゃんの容体《ようだい》は、一刻を争うで」  腕をつかんだ広田が走るので、瑠美もヨロヨロ小走りになった。流行《はや》りのブーツは走るようにはできていない。転ぶまいとすれば広田のペースに合わせるしかなかった。手提げスタイルのミニトートバッグが人にぶつかる。カラー舗装の道路を叩くヒールの音が、カンカンと高架下の壁に響いた。  ラーメンやおでんの屋台がわびしい灯りを並べている駅裏に、白いミニバンが停まっていた。横っ腹に『沖田酒店』と書いてある。助手席の窓を開けて煙草の煙を外に吹き出していた男が、足音に振り向いて急いで車のドアを開けた。広田が瑠美を一気に抱き上げて後部シートに放りこんだ。蓋をするように隣に久が座る。広田は運転席に飛び乗ると左手でシートベルトをつけ、右手でキーを回した。助手席の男がドアをロックした。エンジンがブルブル音を立てる。 「エンジン、スタンバイさせとかんかい。気のきかんやっちゃ」広田がイライラと言うと、助手席の男は「環境問題は、個人個人の日頃の心がけが大事じゃ」とクールに答えた。 「こいつは藤村。青年会の重鎮《じゆうちん》よ」広田に紹介され、藤村はできるだけ身体ごと瑠美のほうに向いて、頭を下げた。 「あんたが、美代ちゃんか。僕は実はよう覚えとらんのよ。年も離れとるし、家も遠かったし、お互い、近所付き合いは悪いほうだったからね」 「あの、わたし」 「この人は、人違いじゃと言うとる」広田が瑠美の抗弁を先取りした。同時に、車はビュンと発進した。瑠美は「あ」と小さく叫んだ。約束がふっとんだ。彼に待ちぼうけを食わせることになる。今夜の予定が粉々に砕けていく。  口を開けたまま前を見、横を見ると、隣に座っている久と目があった。久は片手拝みをしてペコペコ頭を下げた。外を見ると、ミニバンは渋滞の中にいた。スピードこそ出ていないが、飛び降りれば車の群れのど真ん中に転がり落ちることになる。そんなの、無茶だ。  そうだ。無茶だ。なんだか知らないが、ここにいるしかない。しかし、これって──。 「ど、どこに行くんですか?」  声が引っ繰り返った。〈今夜の予定〉に気をとられて、ぼんやりしている内にさらわれてしまったのだ! どこかに監禁されて、レイプされて、殺されるのかも──急に恐怖が襲ってきた。 「生沼《おいぬま》町といって、ここから車で三時間くらいの田舎だけど、地の果てってほどの山奥じゃないし、帰りはちゃんと車で送りますから」  藤村が助手席から振り返り気味に横顔を見せて言った。瑠美はドキドキしながら、広田と藤村と久、名前と特徴を頭の中に刻んだ。車は白いミニバン。ナンバーは見てないけど、確か〈沖田酒店〉と書いてあった。少しずつ頭を動かしてサードシートを見ると、たたんで重ねられた段ボールがパタパタ音を立てていた。ポテトチップスの商品名が読み取れる。コンビニのビニール袋もある。軍手一揃いとガムテープが一巻き。  ガムテープ! 誘拐の必需品ではないか。泣きそうになった瑠美の顔をバックミラーでのぞいていたらしい藤村が「あ、誘拐とか監禁とか考えてるでしょ」と、笑った。 「だから、さっき、美代子という娘の身代わりをやってくれと言うたろうが。あんた、人の話はちゃんと聞かんといかんぞ」広田が叱りつける。 「だって、そんな」涙目になった瑠美に、横に座っていた久が「すまんですう」と情けない声をふりしぼって頭を下げた。 「オレがあんたを美代子と間違うてしもうて。オレ、半年前にサザンのライブ見にでかけて、そいで、あの駅であんた見かけて、もう、あ、美代子じゃとドキーッとして」 「ちょうどその頃に、美代子の父親が末期の肝臓癌とわかってね。あと一年もたんだろうということで、僕らの集いでも話題になってたんですよ。あ、そうか。ちゃんとした自己紹介、全然してなかったですね。僕らは生沼の青年会という後継ぎ集団、青年会議所の田舎版というとわかりやすいかな。そのメンバーでね。名刺、ありますよ」  藤村が腰にくくりつけているらしいポーチから名刺を取り出し、肩ごしに瑠美に渡した。〈緑と歴史のふるさと生沼町に新しい息吹を──生沼町青年会 藤村|敏樹《としき》〉、そして住所と電話番号、メールアドレスまで書いてある。 「あの、わたし、名刺、今日持ってないんですけど」瑠美が言うと「そんなもん、いらん。人間と人間の合縁奇縁じゃ。名刺交換みたいな通りいっぺんの儀式はいらん」広田が強引に超然たる態度を気取る。 「そういうの、失礼じゃないですか」瑠美はキッとなった。「何だか知らないけど、人にものを頼むんなら、もうちょっと気を遣ってください」 「だから、時間が」運転しながら猛然と言い掛ける広田を制して、藤村が「おっしゃる通りです」と言った。 「しかし、事態が切迫していることをお察しください。沖田のおじさんは本当に瀕死《ひんし》なんですよ。この広田くんは青年会の会長でね。美代子がみつかったんなら、おじさんが死ぬ前に会わせてやりたいと言いだしたのに、僕らが賛同したというわけで」 「だったら、本物の美代子さんに連絡すれば」瑠美の言葉に、「あんたもわからん人だねえ」と、広田が焦《じ》れたように声を荒らげた。 「美代子は十年前に家出して、そのまま音信不通になっとるのよ。だから、知らせようにも誰にも連絡先がわからんのだよ。そこに、みつかったという情報が入ったから」 「オレは、似た人を見たと言うたんだよ。美代子とは言い切らんだった」 「そう言うが、あの駅を利用しとるかどうか、本当に美代子かどうか、確かめるいうて何度も足を運んだのもおまえだろが。それで、やっぱり美代子らしい言うたろうが」 「あんた見とるうちに、美代子のような気がしてきてしもうてね」久は瑠美への申し開きに懸命になっていた。「オレが覚えとる美代子よりは、あんた、やせとるけど、女の人はやせたり化粧したりしたら変わるから……」 「とにかく肝心なのは、死にかけとる沖田のおっちゃんに最後に娘が会いにきた、ああ、これで思い残すことはないと幸せに目を閉じてもらうことよ」  広田が久の弱気を叱り付けるように言った。 「しかし、間違いでした、すみませんでイチから始める時間は、もうない。だから、身代わりでもいいから連れていこうと、やむなく強行手段に至ったいうことよ。これだけ言うても、あんた、わからんか?」広田は運転しながらバックミラーに映る瑠美に目の焦点をあわせ、熱弁を振るう。 「ちゃんと前見て、運転してください」瑠美はきつく言い返した。 「大丈夫じゃ。このくらい、寝ながらでも運転できる」ムスッと視線を前方に戻す広田を見て、藤村が声を殺して笑っている。 「──ほんとに、わたしで身代わりがつとまるんですか?」  藤村がぱっと振り返った。「わかってもらえた?」 「だって、死にかけてるなんて言われたら」瑠美は真面目な顔でそれとなく恩を着せた。横で久が半泣きになった。 「ほんと、すまんです。そうしてもらったら、オレの顔も立ちます」 「謝礼は青年会の交際費からきっちり払わせてもらうで」  広田は、ありがたいと思えといわんばかりである。     2  車は高速に乗り、灰色のフェンスごしにビルの高層部の連なりが見えるばかりになった。暗いけれど、真の闇にはなりきれない薄汚れた夜空に、ネオンサインの蛍光色が滲みだしている。ビジネスホテル。消費者ローン。パチンコ屋。ファミリーレストラン。それらの名前の間隔が広くなり、灰色のフェンスが急に高くなったように感じられると、車がビル群のない郊外に出たとわかる。  こうして走っている間に腹ごしらえをしておこうとコンビニの袋が取り出された。最初の選択権を与えられた瑠美がおむすび弁当を選び、藤村が幕の内、久が中華弁当、運転をしている広田は片手で食べられるサンドイッチと決まった。暖房が入った車内に食物の匂いが立ち籠める。まるで友達の車でドライブしているみたい。〈今夜の予定〉をあきらめたせいか、瑠美はリラックスしてきた。お茶のペットボトルの蓋を開けてくれたり、ポケットティッシュを渡してくれたり、瑠美のご機嫌とりに心を砕く久の様子もいじらしく、気持ちを和ませる。 「ねえ、美代子さんて人の写真あります?」口をモグモグさせながら訊くと、藤村が割り箸を横ぐわえして、ポーチの中を探った。手渡されたそれは、女子高の卒業記念写真だった。 「これが美代子です」と、横合いから久が指差した。小太りで、長く伸ばした量の多い髪で顔の半分を隠した制服姿の女の子。それでなくてもわかりにくい集合写真の中ではっきりしているのは、への字に曲がった口だけだ。可愛げがない。若さの魅力もまったくない。「わたし、似てるかしら」瑠美は不満げに写真をじっと見つめた。久は「そう言われると……」と、情けない顔になった。 「なんかこう、憂鬱《ゆううつ》そうなマイナスのオーラが一致するんだよね」と言う藤村の後頭部を、瑠美は睨んだ。「あんたの場合は、それが憂いの影になって大人の色気になりかけてるからいいけど。ホント。怒らないでね」藤村はシレッとフォローする。  それにしても、この写真の印象は悪い。表情のせいか、どう見てもブスくさい。これで似ていると太鼓判を押されては、納得できない。 「他に写真、なかったんですか?」もっとましな……というニュアンスをこめて、瑠美は文句をつけた。 「それが、手に入るのはそれだけなんですよ。沖田の家のアルバムには、小学校くらいまでの写真しかなくてね。不自然だから美代子本人が家出したときに持っていったか、怒ったおじさんが抜いて捨てたかしたんじゃないかと僕らは推測してますがね。それというのもね」と、藤村が説明するには──  美代子は都会の短大に進み、一年で親に無断で退学して行方をくらませた。男と暮らしているという情報に激怒した父親が縁切りを宣言した。母親とは細々と連絡を取り合っていたようだが、その母親が三年前の夏に急死した。その葬式に、美代子は帰ってこなかったのだという。 「あんた、覚えとるか。あの夏の大雨」広田が勢い込んで、藤村の話の続きを横取りした。 「沖田のおばちゃん、実家に帰っとって、土砂崩れにおうて死んだのよ。おばちゃんの日記にはさまっとった美代子の連絡先に電話かけたら、もう使われておりません、いうやつよ。こっちからは、もう、どうしようもない。だがな、事故のことは新聞に載った。美代子にもわかっとったはずよ。だのに、帰ってこんだった。住民票も移されとった。おっちゃんはそれでもう、キレた。美代子のことは探すな、帰ってきても家には入れんと言うて」  瑠美は窓の向こうに視線を逃がした。そんな娘の身代わりをさせられるのは、気が重い。 「でもなあ」藤村が、広田の勢いをなだめるように言った。 「あんときは全国で同じような被害が起きたから、扱いが小さかった。美代子が気がつかんでも無理はねえさ」 「母親の実家のあたりで大水が出たと町の名前はデカデカ載った。テレビでも流れた。気がつかんほうがおかしい。美代子は薄情もんよ。大体、美代子は根性の悪いやつで、小さいときからろくに近所の者に挨拶もせん。中学校からは都会のお嬢様学校に越境入学して、寮暮らし。生沼に帰ってくるのは正月だけ。帰ってきたところで、田舎の人間とは付き合いとうない言うて、年始まわりに出掛けたこともなかったそうでないか。帰った、出てったいう噂だけで消息が知れたいうんだから、オバケみたいなやつよ」  広田は憎々しげに顔をしかめた。 「だから、仲間うちでは、僕らの美代子連れ戻し計画に反対する意見もあったんだよ。そこまでやってやる必要はないとね。美代子は嫌われ者だから」  藤村が淡々と補足説明をした。故郷の人間との付き合いを徹底的に避けてきた結果、美代子は悪評だけで生沼の伝説と化しているらしい。 「だが、何度も言うように、沖田のおっちゃんの容体が時間の問題になっとるんだ。美代子がどうこうより、おっちゃんの気持ち、考えんかい!」 「美代子さんのお家って、旧家とか名家とかなんですか」  ひとりで盛りあがる広田を無視して、瑠美は藤村に訊いた。瑠美が通った私立の女子校にも遠隔地から来ている同級生が何人かいたが、彼女たちは例外なく土地のお大尽の娘だった。 「名家ってほどのこともないけど、三代か四代続いた酒屋でね。美代子は、沖田のおじさんが四十過ぎてやっとできた一粒種《ひとつぶだね》なんだよ。だから、すごく可愛がられてたみたいだね」 「小学校ん時は、いつも学年中で一番可愛い服を着とったで。お人形さんみたいだった」  夢見る瞳の久をちらりと見返って、藤村は肩をすくめた。 「しっかし、似合わんかっただろな。あのフクレッ面じゃ。僕の覚えとる限りは、まあ、ちっちゃい時から世の中なんにも面白いことがないという顔しとる子だった」  でも、それって、しかたないかも──瑠美は思った。女の子がみんな、フリルやリボン一杯のお人形みたいな格好が好きだと思うのは間違いだ。いや、むしろ、親の趣味をおおいに反映した服を着せられて周囲から浮き上がることくらい、不本意で屈辱的なことはない。そりゃあ、フクレッ面にもなるわよね。瑠美は心の中で、美代子に話しかけた。  走り始めてからおよそ二時間。ミニバンはパーキングエリアに滑り込んだ。 「ほい、トイレ休憩」と藤村が言い、まっさきに車を飛び出た。開けたドアから冷気が入ってくる。瑠美も外に出て、思い切り伸びをした。排気ガスのおかげで空気清涼とはいかないが、暖房でよどんだ車内の温気に比べると気持ちがいい。深く澄んだ空に星が散らばり、またたいている。広田と久は車をロックして、何事か話し合いながらトイレに消えた。  瑠美も女子トイレに行き、鏡に向かった。  もっと美人に間違われて身代わりをさせられるのなら、気分ものるだろうに。ああ、しかし……。マイナスのオーラ。当たっている。そういう顔だ、確かに。瑠美はため息をついた。  暗い面持ちでトイレを出ると、外で待っていたらしい久にぶつかった。 「大丈夫ですよ。逃げませんから」すっかりあきらめ口調で言うと、久は「すまんです」とまたペコンと頭を下げた。 「あの、それより、気になっとるんだけど、あんた、待ち合わせしとった人に電話せんで、ええんかね」 「ああ」瑠美は肩をすくめた。「行けたら行く程度の約束だったから、別にいいんです」  そして、マフラーに顎を埋め、先に立って車に向かった。 「ほんとですか。なんか、オレらのせいで友達関係トラブったら悪いで。なんなら、電話であんたの立場釈明させてもらうで」追いかけてきながら、久が懸命に言う。 「友達ってほどの人じゃないんです」瑠美は、追い付いた久に微笑みかけた。「釈明なんかする必要のない相手なんです。だから、もしほんとにわたしでお役に立てるんなら、そのほうがいいから」 「──あんた、いい人だね」  誉められると嬉しい。瑠美はニヤついた。  缶コーヒーを抱えた広田と藤村が戻ってきた。今度は藤村が運転席に座る。 「わたし、何か、知っておいたほうがいいこととか、ありますか?」  瑠美の質問に、藤村が「お、やる気になってますねえ」とからかうように応じた。 「だって、顔が似てるっていっても、声とかしゃべり方の特徴とかあるでしょう? お父さんのこと、なんて呼んでたかとか」 「沖田のおじさんは、痛み止めのモルヒネでほとんど意識|朦朧《もうろう》状態だから、美代子らしい雰囲気があればいいんだよ。難しく考えないで、まあ、遊びのつもりで気軽にその場に参加してもらえれば」  藤村は合コンにでも誘うようだ。 「遊びのつもりはいかん。仮にも、おっちゃんは死にかけとるんだで。厳粛な気持ちで臨まにゃならん」広田が重々しく言った。「こう言うと厭味に聞こえるかもしれんが、こっちは謝礼を払うんだで。引き受けたからには、ちゃんとやってもらわねば困る」 「だから、相談してるんじゃないですか」瑠美は、広田への反感が隠せない。『なによ、エラそうに』と口の中でつぶやくと、聞こえたのか察したのか隣の久がすまなさそうな顔でうなずいて、賛意を示した。 「お父さん、ごめんなさいと言うてほしい」ややあって、広田がボソリと言った。 「お父さん、ごめんなさい」瑠美が鸚鵡《おうむ》返しをすると、助手席の広田の頭が動いて満足を示した。 「美代子に親不孝を謝ってほしい。おっちゃんも、それを聞きたいはずじゃ」 「お父さん、ごめんなさい」小声で復唱する瑠美に広田は「もちっと、ごめんなさい! いう悔恨の気分を出してほしい」と演技指導をする。 「お父さん……ごめんなさい」瑠美はできるだけ悲しげに言ってみた。 「それじゃ、聞こえん。相手はあっちにイキかけとる病人よ。大きな声で、哀切に、叫ぶように」 「お、お父さん! ごめんなさい!」今度は小さく叫んでみたが、恥ずかしくてつい笑ってしまう。広田は「真面目にやってくれ」と怒った。 「素人に無理だよ。おじさんはさっきも言ったように、もうほとんど意識がないんだ。手のひとつもとってくれたら、それでいいよ。スキンシップが一番よ」  藤村が、興奮気味の広田を抑えにかかった。 「ときどき、しゃんとする」広田の抗議を藤村は「うん、まあね」と受け流した。  瑠美はムクレながらも、口の中で「お父さん、ごめんなさい」泣き声バージョンをこっそり練習した。久が心配そうに見て「うまくなっとるで」とささやいた。  車は高速をおりて、コンビニや中古車センター、ガソリンスタンドが並んでいる国道を走り抜け、収穫が終わって裸になった田畑の間を縫《ぬ》い、ソーラーシステムを屋根に載せたモダンな住宅と打ち棄てられ壊れかけた古い民家が混在している農道を進む。あたりはますます暗く、星が手の届くところまで下りてきたかのように大きく輝いた。 「ああ、そうだ。電話」藤村が広田に顔を向けた。「身代わりしてくれる人が行くこと、電話しとかんといかんだろ。みんな、心の準備いうか、おじさんの前で芝居するならちゃんと根回ししとかんと」 「うーむ」広田はうなった。 「いきなりじゃ、浩二郎さんが何言うかわからんぜ。下手ぁすると喧嘩になる」 「それはあるかもしらん」広田はひょいと瑠美を見返って「浩二郎というのは、おっちゃんの弟よ。美代子には叔父さんだの。一人娘の美代子がおらんとなると、沖田の家土地管理するのは自分の役目じゃと、おっちゃんの癌がわかってから夫婦で居座っとるのよ」と説明した。瑠美は頷くのがやっとだった。にわかに緊張が高まってくる。本当に、こんな素人芝居が通用するのか? 「しょうがない。手短に説明しとけ」と広田に言われて、藤村が片手運転で携帯電話をかけた。  そして、しばらく話した後、パチンとフリップを閉めた。 「なんか、騒いどるわ」おかしそうに告げられ、広田は一瞬愉快げな笑い声を噴き出した。それから、誰も口をきかなくなった、シューシューと窓をこする風の音だけが聞こえていた。  ミニバンが街道沿いの商店街らしき通りに入ったのは、十時近かった。暖簾をしまった一杯飲み屋や木戸を立てた和菓子屋、シャッターを半分おろした八百屋、煙草屋、木賃宿風の小さな旅館──木造二階建てのしもた家とまだかろうじて営業している店屋が、ところどころまばたきをしている街灯に照らされてボンヤリと見える。 「田舎でびっくりしたでしょう?」藤村が軽快に言った。  瑠美はうわの空で「そんなことないです」と適当なことを言った。広田は「このくらい、普通じゃ」とブスッとしている。 「ほら。あそこの杉玉《すぎだま》がぶらさがっている、あれが沖田の家」  藤村が教えた。  間口の広い古い二階家で、立派な瓦屋根の下に『沖田酒店』と書かれたホーロー看板が掲げられ、スズメ蜂の巣のような杉玉がさがっている。ガラスの引き戸はピタリと閉められ、カーテンがかかっていたが灯りがついているのはわかった。隣はコンクリートの箱型の家で『脇佐《わきさ》商店』という看板がかかっているが、こちらはシャッターをおろしている。「おばさんが死んでからは、隣の荒物屋の脇佐一家がおじさんの面倒見ててね。脇佐の長男の義行《よしゆき》が酒屋を手伝ってたんですよ。すぐ紹介するけど、この義行と美代子はちょっとは付き合っとったはずなんだ。親同士が仲良くて一緒にさせたかったらしくてね」藤村が瑠美に説明すると、広田が「義行はいい男よ。美代子にはもったいない」と怒ったように言った。車が停まると同時に引き戸がガラリと開いて、数人の男女がこぼれるように外に出てきた。  肩を押されて外に出た瑠美の足から頭のてっぺんに、寒気が急ピッチで駆け抜けた。空気は氷のように研ぎ澄まされていた。頭はスッキリしたが、身体に底冷えが残る。広田はまたしても瑠美の手首をつかんで、一人の青年の前に連れ出した。 「これが、義行よ」広田は瑠美に言い、続けて義行に「美代子の身代わりさん。似とろう。そっくりだろが」と言った。  瑠美は頭ひとつ高い義行を上目遣いで見た。五分刈りの頭と広い肩をどっしり太い首がつないでいる。頑丈そうな体格に比べると、顔立ちは柔和だった。その柔和な顔立ちが緊張を見せた。運転席に残った藤村さえも、車を動かすのを待って彼の反応を見つめている。 「……わからん」義行はつぶやいた。 「しっかりせんか。おっちゃんは口はきけんが、意識はまだあるんぞ。美代子というて通用するかどうか、おまえが検分《けんぶん》できんでどうする」広田が叱咤した。 「美代ちゃんよ、このコは」  義行の背後から女の声がした。人のよさそうな顔立ちが義行に似ている割烹着《かつぽうぎ》姿の初老の女が前に出てきて、瑠美の手をとった。 「美代ちゃん、脇佐のおばちゃんよ。あんたが帰ってくるたびに、裏の塀越えて会いに来てくれたマルがね、死んだのよ。老衰で」 「あの、わたし」瑠美は腕を引いたが、逆に抱きつかれてしまった。脇佐おばさんはオイオイと泣き出した。 「あんたは、なんで帰ってこんだったの。お母さんも死んで、お父さんがどんだけ寂しがっとったか。口には出さんでも、わたしらにはようわかった。あんたは、もう」 「でも、わたし」はずみでおばさんの肩を抱く形になった瑠美は、救いを求めるように周囲を見渡した。しかし、冷やかな視線が返ってくるだけだ。 「母さん、この人は違うと言うとるで」義行が母親と瑠美の間に割り込んだ。 「オバさんが間違えるくらい、似とるんだ。これで決定じゃ。みんな、おっちゃんの前ではこの人を美代子ということで、頼むで」  広田が伸び上がるように顎を上げ、大声で家の奥に向かって宣言した。いつのまにか、半分開いたガラス戸の向こうにいくつもの頭が並んでいる。広田は瑠美の手をつかみ、先に立って人の頭の中に進んだ。     3  セメントで固めただけの土間に日本酒や焼酎やウイスキーを並べたスチールの陳列棚が四台ほど置かれ、壁ぎわに缶とボトルを詰め込んだ冷蔵庫が光っている。レジの向こうには黒光りする廊下が奥まで延びていた。瑠美は広田に引っ張られるまま、奥で枝分かれしている廊下を歩いて、台所に連れていかれた。昔風の〈お勝手〉にダイニングテーブルとシステムキッチンをむりやりはめこんだ、ちぐはぐな印象の台所は瑠美たちがなだれこむと一気に狭くなった。  テーブルの上には盆に伏せて重ねられた揃いの湯呑茶碗に、大きめの急須《きゆうす》が三つ、電子ジャーが二つあった。通夜の準備は整っているらしい。 「とにかく、お茶でも飲んで落ち着いて、再会に備える心の準備をしよう」瑠美の手を離して椅子に座らせた広田が、自分自身の高ぶりを抑えるように言った。 「おまえらも、一服してくれ。ご苦労だったの」  言われて久と藤村がテーブルに座った。ダイニングテーブルの下の床にはホットカーペットが敷き詰められている。瑠美はカーディガンを脱いだ。すると、ウェーブヘアを金茶色に染めた中年の女が、温かいおしぼりを瑠美に手渡した。 「すいません」瑠美は、首を傾げて会釈に変えた。 「なんだか、ヘンなこと頼まれて、悪かったですね」女は、大きな声でそう言った。「わたし、美代子の叔母です。主人が挨拶するのが先だけど、主人、お義兄さんの枕元離れられないもので」訛りのある標準語が冷たく響く。 「……はあ」瑠美は首をすくめて恐縮を示し、茶卓にのせて出された焙じ茶を口に運んだ。  まわりに人垣ができている。お茶は熱すぎて舌を焼いた。思わず「アチッ」と洩らすと、「ほら、やっぱり」「でも、焙じ茶は熱いほうが香りが」「こっちのポットのお湯で入れ替えたら」「仏間に干菓子《ひがし》があるけど」などと女たちが色めき立つ。瑠美は「あ、大丈夫ですから。甘いものは、いいです。お腹一杯ですから。ほんともう、お茶だけで」と、湯呑みにそろそろ口をつけ、飲むふりをした。 「おいおい、見せ物でないで。散ってくれや」藤村が言うと、女たちは「だって、あっちにおると息が詰まるもん」と文句を言いながらも引き上げていった。しかし、叔母という女だけが残って瑠美のそばに腰を落ち着け、間が持てなくてチビチビお茶をすする瑠美を無遠慮に眺めた。 「年頃が似てるだけなのに、強引なことして。わたしはあなたに、本当に申し訳ないと思ってるのよ」 「今は、生きとるもんより死にかけとるおっちゃんの気持ちが大事じゃ。オレらはみんな、そう思うとる。あんまり心ないこと言うて、みんなの気持ちを汚さんでくれ」  広田がピシリと言うと、叔母はそっぽを向いたが席は立たない。勝手口が開いて、脇佐おばさんが小鉢を抱えて飛び込んできた。そして、いそいそと瑠美の前に置いた。大根とキャベツの古漬けが入っている。 「美代ちゃん、これ、好きだったでしょう。美代ちゃん、帰ってくるいうたびにおばさん、お母さんに頼まれとったのよ」 「お義姉さんがお愛想言ってただけですよ。若い人がこんなもの好きなわけないでしょうが。スパゲッティーとかグラタンじゃないと。ねえ? 第一、この人は美代子じゃないんだから。ねえ?」  ねえと言われて、頷いてもいいものかどうか……。困惑する瑠美の口元に、爪楊枝に刺した大根が突き出された。 「一口でいいから、食べてみて。美代ちゃんを悪く言う人多いけど、おばさんは本当はいい子だと思っとるのよ」  脇佐おばさんの真剣な目がコワイ。気圧《けお》された瑠美は大根を口に入れ、全員注視の中、必死で呑み下した。そこに、義行が顔を出した。 「どした。とうとうか」広田が椅子を蹴って立ち上がった。室内の視線が義行に移る。瑠美は息が止まりそうになった。 「いや……どんな様子かと思うて。あの、そろそろ来てもろうたら。早うすませたほうが、その人も楽にしてもらえるだろうから」 「そうだな。うん。どうかね?」と広田に訊かれ、瑠美が「あの、じゃあ、先にお手洗いに」とバッグを持って腰を浮かした。すかさず、脇佐おばさんが「こっちよ」と手を取った。美代子の叔母もついてくる。  緊張で行きたくなっただけらしく、出る量は少なかった。洗面所の鏡で顔を点検する。口紅を塗り直そうとして、やめた。少し顔色が悪いくらいのほうが、その場にふさわしいかもしれない。その場──「死の床」という言葉が浮かぶ。瑠美はまだ、臨終に立ち合った経験がない。初めて死に近付く。そう思うと、心臓のリズムがバラバラになった。  トイレを出ると、待ち構えていた一団に取り囲まれ、病室に運ばれた。誰かが後ろから瑠美のショートヘアを撫《な》で付けている。  病人は、床の間のある広い部屋に寝かされていた。庭に面した障子が片方だけ開けられている。ガラス戸ごしに、石灯籠《いしどうろう》とナナカマドが見えた。  病人の枕元は、点滴や在宅療法用の酸素吸入の装置でものものしい。四十がらみの看護婦が、落ち着き払ってクリップボードに何事か書きこんでいる。布団の両脇を何人かが固めていた。その部屋の手前の仏間が控え室代わりらしい。比較的若い男女が隅にかたまって、ひそひそ話しあっている。 「家で最期の日を過ごせるように、病院がああいうの貸してくれるのよ、この頃」  いつのまにか瑠美に寄り添っている叔母がささやいた。反対側に脇佐おばさんがいる。文字通り脇を固める二人の女のおかげで、瑠美はようやく立っていた。だが、動けない。広田が「美代子を父ちゃんの枕元に行かせてやってくれ」と芝居がかった大声で言い、さっと瑠美の身体をひっさらった。そして、白髪の小柄な男の横に押し込んだ。  そばに脇佐おばさんが座ったところを見ると、この男が隣のおじさんらしい。すると、病人を挟んで向かい側、看護婦の隣にいる半禿の男が美代子の叔父なのだ。彼は、横に滑り込んだ叔母に何事か耳打ちされ、うさんくさげな目付きを瑠美に投げた。  部屋の空気はオイルヒーターと人いきれで十分以上に温かく、ワンピースの下で汗が噴き出てくる。瑠美は両手で鼻と口を押さえ、頭をクラクラさせるよどんだ温気と死病の臭いから身体をガードした。 「美代ちゃん。手を握ってやって」脇佐おばさんが瑠美の両手をひっつかんで顔からひきはがし、布団の上に投げ出された病人の手を取らせた。瑠美はコワゴワと、美代子の父を見下ろした。  鼻に通した管でようやく酸素を取り入れている茶色くしぼんだ顔。やせ細り、紫色の糸のような血管が皮膚のすぐ下にはりついて見えるカサついた手。病気がそうさせたのか、二十八の娘の父親にしては老けすぎている。半開きの口から吐き出されるすえた匂いにひるんだせいで、瑠美は泣き顔になった。 「おっちゃん!」  病人の足元に座った広田が、身を乗り出して叫んだ。 「おっちゃん! 美代子帰ってきたぞ!」 「こうちゃん! 目ぇ開けろ! 美代子だぞ」脇佐おじさんが声を振り絞った。すると、病人の首が動き、薄く目を開けて瑠美の方を見た。瑠美はぎょっとして、膜のかかったような目を見返した。視線が固まってしまって逃げられない。 「美代子! 父ちゃんって呼べ!」広田が叫ぶ。 「ごめんなさいって、言ってあげて」脇佐おばさんが涙声で瑠美の肩を揺すった。とたんに、あちこちから泣き声が湧きあがった。 「お」瑠美は、やっと言った。 「お父さん」 「ごめんなさい、だ。言え!」広田は命令する。 「お父さん、ごめんなさいって。ほら、言ってちょうだい。頼むから」  脇佐おばさんがすがりつく。瑠美は目だけ動かして、見える範囲の顔を見た。みんなが瑠美に注目している。看護婦さえも、患者を見ずに瑠美を見ている。最後に、向かいにいる叔父と目が合った。叔父が苦々しげに「言うだけ、言ってやってくれんかね」と言った。  瑠美は人形のようにぎごちなく病人を見下ろし、もう一度「お父さん」とささやいた。  みんなが固唾《かたず》を呑む音が聞こえるようだ。半分開いた病人の目がひとつゆっくりと瞬きをした。瑠美が触れている枯れ枝のような手は動かない。瑠美は唇を結んで黙り込んだ。病人は声もなく目を閉じた。 「おっちゃん!」 「こうちゃん!」 「にいさん!」  ワッとみんなが押し寄せてきて、瑠美はつぶされそうになった。病人と顔がくっつきそうになる。悲鳴をあげながらそむけた顔が布団に埋まった。必死で腕を振り回して、手近な袖にしがみついて身体を起こすと、それは脇佐おじさんの袖だった。彼は邪険に瑠美の身体を後ろに押しやった。勢いで、瑠美は一団の後方に投げ出された。  泣き声が連鎖しかけている見舞い客をよそに、看護婦が子細らしく病人の脈をあらため、瞼《まぶた》をめくって瞳孔を調べた。 「死んだかね」広田が言うと、看護婦は首を振り「眠っとられます」と厳《おごそ》かに答えた。  急に空気がしぼみ、いくつもの深呼吸がまとまって部屋を揺らした。そう言われれば、病人の腐臭に似た息の匂いは健在だ。 「このまま、意識が戻らんということじゃないんかね」部屋の隅に控えていた藤村が、立ち上がって看護婦に訊いた。 「こればっかりは、わかりませんです。神様が決められることですから。でも、私の経験で言いますと」  看護婦は巫女《みこ》のような面持ちで、もったいをつけてじっと病人を眺めた。「もう二、三日は、こういう状態が続くと思われます」  誰かが脇からそっと瑠美の肘に触れた。義行だ。「疲れたでしょう」と小声で言う。そして立ち上がって、仏間のほうで立ち話をしている広田と藤村のところにいき、何事か言って部屋を出ていった。瑠美はボンヤリと義行の行方を目で追った。 「とにかく、親子対面はすんだということで、あんたには休んでもらうことにしたから」  なんとなく気落ちした様子で広田が言った。     4  瑠美は若い娘に案内されて二階に上がり、そこだけ後から改造したようなドアのある部屋に入った。六畳の和室にシングルベッド、そして勉強机と洋服ダンスとジッパーで開閉するビニール製のロッカー、ドレッサー、一六インチのテレビにミニコンポがすきまなく押しこまれている。娘がエアコンのスイッチを入れた。 「美代子ねえちゃんの部屋よ」娘は、瑠美に好奇心むきだしの目を向けて言った。 「わたし、脇佐正子。義行の妹。て言っても、あなたには関係ないことだけどね。ここ、座ったら?」  無理のない標準語、というより全国共通の若者言葉で歌うようにしゃべる正子は自分が先にベッドに座って、横をポンポンと叩いた。座った瑠美の様子を上から下までざっと眺め、それ以外に誉める対象がみつからなかったのか、ピンクのミニトートバッグに触って「これ、可愛いね」と言った。そして、肩にさげていたリュックから花柄のパジャマとタオルを出し「これ、ね」と瑠美の傍らに置いた。 「美代子ねえちゃんのがあるけど、いつ洗濯したかわからないから気持ち悪いでしょ。わたしのだけど、これは洗濯したて。遠慮しないで、着替えて。二階には、トイレも洗面所もあるから。沖田の死んだおばさんは美代子ねえちゃん、めちゃめちゃ甘やかしてね。一人で使えるトイレと洗面所作ってあげたんだよ。それなのに、出ていった。ま、わたしは気持ちわかるけどね。そうだ。歯ブラシとかクレンジングとかもいるよね」 「わたし、持ってるから」瑠美はバッグを開けて、携帯用の歯磨きセットと化粧ポーチを見せた。 「そういうの、持ち歩いてるの?」 「友達の家に泊まること、あるから」 「いいなあ。都会で一人暮らしする女って感じ。わたしも、早くそうなりたい」 「そうカッコいいもんじゃないけどね」瑠美は苦笑した。「自由でいいって最初のうちは思ってたけど、生活しなきゃいけないから、結局起きて働いて帰って寝て、その繰り返し。ちっちゃな殻の中に閉じこもって、惰性でズルズル暮らしてるだけ。先のこと考えると、ぞっとするよ。何にもないんだもん。夢も希望も可能性も。持ってたはずなんだけどなあ」  正子はクスッと笑った。「感じは確かに美代子ねえちゃんに似てるけど、あなたはよくしゃべるね。そこが違うわ」 「美代子さんだって、人によってはよくしゃべったと思うわ」瑠美は正子の生意気さに釘を刺したくなった。 「言える相手と言えない相手がいるのよ。そいで、言える相手って少ないんだから。友達付き合いだって、わたしたち仲良しよねって確認するために付き合ってるみたいなものでさ。本当のことなんか何にも言わずに、新しいヘアスタイル誉め合ったりして。余計ストレスたまる。それでときどき」  言い掛けて黙った瑠美を、正子が面白そうに覗き込んだ。 「ときどき、何?」 「……落ち込むわけよ、ものすごく」 「でも、一人で生きてるわけでしょ? どこ行くの、何するの、誰と一緒、なんていちいち詮索《せんさく》されないだけでもいいよ。ここじゃ、町中が親みたいに人のこと監視してるんだから。美代子ねえちゃんが出ていったの、無理ないよ」  正子は立ち上がって伸びをすると、狭い部屋の中をブラブラし始めた。そして、ドレッサーの引き出しや洋服ダンスの扉を次々に開けて中のものを引っ張り出した。かたまって蓋が開かなくなったマニキュアは元に戻す。何本かの口紅はスティックから出すと半分溶けかけていたが、構わずに手の甲に塗って色を確かめている。ウールのコートは袖に両手を入れて広げ、虫食いがないか調べた。黒のカットソーを胸に当て「これ、どう?」と、瑠美に向かってポーズをとった。 「いいみたい」瑠美が答えると「よね。定番ものってほんと、十年前のでも着られるから嬉しい」と、リュックにしまった。瑠美は目でとがめたが、正子は平気だ。「使えるものは、使わないともったいないじゃない? 美代子ねえちゃん、たぶん怒らないよ。わたし、前からこの部屋に忍び込んで、服借りたりCD持ち出したりしてたもん。ウチとここって、ツーツーだから。鍵なんか、かけないしね」  合格点をとったらしい口紅やスカーフやセーターやCDが無造作にリュックに放りこまれる。こうしてふくらんだリュックを、正子は瑠美に振って見せた。 「あなたも、持っていけるものあったら持ってけば? 身代わりなんかさせられたんだもん。権利があるわよ。ほんと、メイワクよね。わたし、みんなみたいに、死にかけた親の枕元に家出娘が駆け付けて泣くのが正しいなんて、思ってないよ。親不孝なら親不孝らしく、親の死に目にもあわないで、そういうこと背負って生きていくっていうほうが、なんか、いいじゃない。広田なんか、正義漢ぶっちゃってさ。そのうち、選挙にでも出る気なんだよ、あいつ。何かっていうとしゃしゃり出てきて、仕切っちゃって。うっとうしい野郎だ、まったく。さてと」  元気よく立ち上がった正子は勢いをつけてリュックを肩にしょった。 「じゃね。寝たほうがいいよ。明日になったら、誰かが車で家まで送ってくって」そして、サッと出ていった。  瑠美は気を取り直して、化粧ポーチと歯磨きセットを持って廊下の奥にある洗面所に向かった。鏡はくもり、洗面台にはうっすら埃が積もっていた。用をすませて部屋に戻り、ストッキングだけを脱ぐとベッドに倒れこんだ。  かびくさい。  下の物音や人声が、くぐもって形にならない雲のように耳をくすぐる。それから、裏庭で虫のすだく声がなだれこんできた。  何度か寝返りを打った末に、眠るのをあきらめた。正子が開けたときに見覚えた引き出しから、紺色のソックスを出して履いてみる。ワンポイントマーク付きのそれは足にしっくり馴染み、顔のことはわからないが足のサイズは『わたしたち、同じだ』と瑠美は思った。そして、忍び足で下におりた。だが、どこに行って何をすればいいのかわからない。茫然と立ち止まっていると、座敷のほうから言い争う声が聞こえた。 「あなたたちはなんですか! わたしらのことを財産目当てみたいにそこらじゅうに吹聴《ふいちよう》して。わたしらは、なにも美代子の取り分まで横取りしようとはしてませんよ。美代子が戻ってきたくなった時に帰る家がないようなことにならないように、管理しようとしてるだけですよ。なにしろ美代子にはもう、わたしらより他に頼れる身寄りはないんだから」  あの冷笑を含んだ叱り付けるような声は、美代子の叔母だ。 「横取りというなら、お宅のほうじゃないのかね」ムッツリと言うのは、叔父のほうか。「義行が未だに独り身なのは、美代子が都会で失敗して帰ってくるのを待っとるからだともっぱらの噂だわ。隣の土地は借金してでも買えと昔からいうからな。美代子と義行が所帯持ったら、お宅ら万々歳《ばんばんざい》だで」 「義行のは純愛だ!」広田が怒鳴った。堰を切ったような女の泣き声が聞こえる。ドスンと何かを壁か畳に叩きつける音がした。 「こうちゃんはまだ死んどらん。こんな浅ましい言い争い枕元でされて、浮かばれるか!」  瑠美は身震いして、後退《あとずさ》りで少しずつ声が遠くなる方向に向かった。着いたところは台所だった。灯りはついているが誰もいない。土間にあったサンダルを履いて外に出ると、裏庭が広がっていた。葉を落とした木がまばらに植えられ、倉庫らしいプレハブ小屋があり、ミニバンとオートバイと自転車が投げ出されたように停まっている。隣家との境に立つ波型トタンのフェンスには、いくつか裂け目があった。伸び放題の雑草の茂みから虫の声が力強く湧きあがってくる。  瑠美は自分で自分の肩を抱いて、空を見上げた。そのとき、横合いがパッと明るくなった。倉庫の入り口に取り付けてある蛍光灯がついたのだ。庭下駄を履いた義行が立っていた。この裏庭は病室から見えていた坪庭とつながっているらしい。 「寒かろう」言うと義行は倉庫に入っていき、ダウンジャケットを持ってきて、瑠美に手渡した。腕を通すと、男物のジャケットの襟で耳まで隠れた。彼が着ている薄手のウインドブレーカーには〈沖田酒店〉と縫い取りがあった。 「聞こえただろ。大声で喧嘩しとったから」ズボンのポケットに両手をつっこみ、義行がボソリと言った。瑠美はうなずいた。 「……そのあたりでな」義行は、瑠美の立っている所を顎で示した。「オレ、美代子にキスしたんだわ。高三のとき。あいつは中学生だった。今みたいに夜、ここらでぼーっと立っとるの見かけて、なんか悩みがあるんなら言えいうて近寄って。まあ、口実よな。生まれたときから知っとる、パンツ丸見えで犬のマルと転げ回って遊んどったチビが、いきなり女に見えてきてな。ムラムラきたから、ムードもクソもない。スキを狙うて、食いつくみたいにキスした。そしたら、美代子はね」  義行は自分が立っているあたりの土を指差した。 「ここらに、ペッペッ唾吐いた。それから、逃げてった。よっぽど、イヤだったんだろ」  義行は自嘲の笑い声を立てた。  瑠美はどちらに同情すればいいのか、わからない。 「悪かったと思うとる。あんな風にされたら、オレのこと嫌うのは当たり前よ。美代子が帰ってこんのは、オレにも責任があるんかもしれん」  肩を落とす義行に、瑠美は「そんなこと、ないと思う」と言った。 「美代子さんは、自分らしく生きたかったんだと思う。それだけですよ」 「オレは、関係ないということか」義行はつぶやいた。「そういえば、いつも言われとったで。あんたには関係ない、いうてな」 「美代子さんのこと、待ってるんですか?」  義行は瑠美を見つめた。 「あんたが来て、顔見たとき、似てるのかそうでないのか、ほんとにわからんだった。考えれば考えるほど、頭ん中の美代子の顔が雪が溶けるみたいに消えていって、ああ、オレのあいつへのこだわりなんかこの程度だ、ということがわかった」 「……そうですか」 「それで、気が抜けた。オレも、美代子を忘れて生きとったんだ。美代子だけが薄情もんじゃない」  そのとき、病室の方で声が上がった。二人は同時にそちらのほうを見た。義行が一度瑠美を振り向いて、すぐに走りだした。瑠美も後に続いた。倉庫の裏側に細い抜け道があり、坪庭に出た。病室は煌々と明るく、布団を取り囲んでいる人たちの背中だけが見えた。義行はガラス戸を開け、中に駆け込んだ。瑠美は庭にとどまって、伸び上がって様子を見ようとした。  誰かが走り、誰かが叫び、誰かが泣いていた。硬直して立っている瑠美のほうにやってきたのは、やはり義行だった。彼は縁側にしゃがみこみ、「あんたは部屋に戻っとりなさい」と低い声で言い渡した。 「お父さん、もう?」瑠美の声が震えた。義行は無言でうなずいた。 「わたし……わたし、どうしたら」 「あんたは、もう何も見んほうがいい」  瑠美は逃げ出すように急いで裏庭に走った。  台所に戻ると、ガスレンジにかけた大きなヤカンの前で脇佐おばさんが割烹着を顔に当てて泣いていた。足音をしのばせて通り過ぎようとする瑠美を一顧《いつこ》だにしない。瑠美は、立ち止まって「あの……」と言ってみた。おばさんは真っ赤な顔を上げ「あんたは、どして、ごめんなさい言うてくれなかったの」と涙声で責めた。「美代ちゃんもひどいけど、あんたも冷たいわ。この頃の若いコは、情というもんがないんだわ。あんな年寄り、死のうがどうしようが、あんたらはなんともないんでしょ」  おばさんは再び割烹着に顔を埋めて「ヒーッ」と嗚咽《おえつ》を洩らした。瑠美は何か言い返したくて口を開けたが、言葉が出ない。泣いているおばさんにお辞儀をし、廊下に飛び出た。診療鞄を提げたセーター姿の男と看護婦が、黒いスーツケースを持ち黒い服を着た二人の男と立ち話をしていた。ひそひそと話し声の気配だけがそこらじゅうを飛びかっている。瑠美は爪先立って二階の美代子の部屋に逃げ帰った。  はずしていた腕時計を見ると、午前二時だった。そのときになって、義行が貸してくれたダウンジャケットを着たままなのに気付いたが、脱ぐ気になれなかった。大きなジャケットは防護服のように瑠美の上半身をスッポリくるんでいる。瑠美は電気をつけたまま、ベッドの上で膝を抱き、身体を縮めて横になった。  ノックの音に「ハイ」と小声で答えると、ドアから美代子の叔父がスルリと入ってきた。瑠美はあわてて半身を起こした。叔父はベッドの端にドサリと腰を下ろして両手を膝につかえ、頭を垂れてひとつ大きなため息をついた。 「迷惑かけたけど、ついさっき、逝ったわ」と自分の膝を見ながら言った。 「ご愁傷《しゆうしよう》さまです」瑠美の声にうつむいた顔を心持ち上げ、ウンウンとうなずいた。 「これからすぐ、通夜の準備が始まるで。今日か明日かという状態でずっときとったで、こんな夜中でも町の連中がどんどん来たりするでね、あんたのことはほったらかしになるけど、許してやって」 「はい」  叔父はふと宙を見た。 「あんたも、わたしらを業《ごう》つくばりだと思っとるんだろね」 「わたしは」瑠美は答に窮して、唇を尖らせた。「……わかりません」 「なんのかんの言うても、実の兄貴だで。死なれると、こう、寂しゅうてたまらんわ。美代子のことはちっちゃいときの記憶しかないし、人になつかん子だったから、正直可愛いと思うたことはない。家を出て帰ってこんと聞いたときも、躾《しつけ》が悪いからだ、兄貴らは親として失敗しよったと、対岸の火事見物気分だったんよ。だが考えてみたら、女房にあんな死に方されて、一人娘に背かれて、かわいそうな晩年よな」 「………」 「兄貴夫婦の墓は美代子の代わりにわたしらが守るで。何かの縁だで、あんたも成仏《じようぶつ》祈ってやって」 「はい」 「すまんね」立ち上がった叔父は、腰のあたりをこぶしで叩きながら「あ、それから」と続けた。「言いにくいが、明日になったら本格的に親戚やらなんやらが来るでね。二階も使うことになるで。関係ないあんたの姿が見えたら、田舎のことで話にどういう尾ヒレがつくかわからんから、明るくなる前に帰ってもらえんかね。若いもんに送らせるから、車ん中で寝てもらって。追い立てるようで、すまんがね」 「──はい」 「じゃ、誰かを迎えに寄こすまで、ここで待っとって。すまんね」  叔父は片手を上げて、形ばかり笑った。そして、出ていった。ドアがそっと閉まった。  瑠美は急いでトイレに行き、薄く化粧をして身支度を整えた。美代子のソックスを丁寧に引き出しにしまい、脱いで抱えたダウンジャケットに頬を埋めて、迎えを待った。どのくらい待っていたのか、わからない。迎えにきたのは藤村だった。 「いやあ、下でまた、ひと騒ぎ。若い娘をこんな夜中に追い出す気か、美代子が帰ってきたと噂が立ったら困るからだろうって、広田のあんちゃんが詰め寄ってね。関係ないのに、いてもらったらかえって迷惑をかけると叔父さんが言い返して、あぶなく取っ組み合い。結局、こんな状態の中にいてもらうほうが迷惑だろうから、できるだけ早く家まで送っていこうってことに多数決で決まった」 「はい」と義行のジャケットを片手に持ち、部屋を出ようとする瑠美を藤村は引き止めた。 「あんたへの礼のことだけど、一万円てことで、いいかな」 「いいんですか? こんなことでお金もらうのって、なんだか……」ためらう瑠美に、藤村は「アルバイトと割り切って考えたほうがいいよ」と、ズボンの後ろポケットから財布を出して、中をあらためた。 「あの、だったら七千円でいいです。あとの三千円はわたしからのお香典ということにしてください」 「へえ」藤村は顔を上げて、からかうような目をした。「若いのに、できた人だね」 「いえ。あの、あまり付き合いのない人のお香典は三千円くらいが相場っていうから」  藤村は一万円札を出し、瑠美がバッグから財布を出し、取り出した三千円と引き替えた。そして、藤村が先導する形で階段を下りた。  裏庭から外に出るようで、台所の靴ぬぎに瑠美のブーツがちゃんと置いてあった。数人の女たちがしゃべっている。脇佐おばさんはいない。昨夜のうちに見かけた顔はなく、瑠美が藤村の横に隠れるように通り抜けても、素知らぬ顔で芸能人の離婚話で盛り上がっていた。  裏庭から道路に出ると、ミニバンのそばに義行と広田、それに久が立っていた。広田が瑠美の両肩をつかんだ。目が真っ赤で、鼻も腫《は》れあがって見えた。 「父ちゃんは美代子に会えて思い残すことがなくなって、満足して息引き取ったんだ。オレは、やっぱり、おまえを引っ張ってきてよかったと思うとる。美代子!」 「あ」瑠美が口を開けると、広田の後から久が「あんちゃん、いかんて」と肘を引っ張った。「この人は、違うで」 「いや。オレはおまえは美代子だと思うとる。だが、うるさいことは言わん。行きたいとこへ行きゃええ。でもな、帰りたくなったら、いつでも帰ってこい。なんというても、ここがおまえの生まれ故郷だで。母ちゃんの墓も、父ちゃんの墓も、ここにある。な! 美代子」  感極《かんきわ》まった広田の大音声がそこら中に響きわたった。 「もう、やめんかい」  義行が助手席のドアを開けた。「困っとられるで」  瑠美は義行のジャケットを胸に急いで助手席に乗り込み、ドアを閉めてシートベルトを着けた。外では藤村と義行が何か話している。リアウインドーを叩く音に顔を上げると、久が小さく会釈した。瑠美はウインドーをおろした。 「オレのせいで、ほんと、すんませんです」  首を振る瑠美に、久は情けない顔でもう一度ペコンと頭を下げた。  義行が運転席に乗り込んできて、何も言わずにエンジンをかけた。コンソールパネルのデジタル時計が午前三時十分を示している。あたりは真っ暗で、ヘッドライトが照らす正面の道路だけが見えた。     5  車の走行音を聞いているうちに瑠美はまどろんだらしい。目を覚ますと、膝に置いておいたダウンジャケットが首までかけてあった。義行は前を向いて運転している。時計を見ると、四時になっていた。 「大丈夫ですか?」瑠美が小声で訊くと、「え?」と心持ち身体を寄せて問い返した。 「運転。ずっと寝てないんでしょう?」 「どうせ、あと半日くらいは眠れんだろう。気持ちが高ぶっとるから、運転でもしとるほうが気が紛《まぎ》れるで。あんたこそ、大変な目に遭わせてしもうたね。なんか、デートの約束つぶさせてしもうたらしいね」 「いいんです。テレクラで知り合った人だから」 「──そうかい」 「そういうこと、いつもしてるわけじゃないんですけど」急いで言い添えて、瑠美はうつむいた。義行がウインドブレーカーのポケットから熱い缶入りココアを出して、前を向いたまま瑠美のほうに差し出した。瑠美は冷えた両手で缶をくるんだ。  窓の向こうに目を凝らしてみたが、闇に浮かぶのは自分の顔と義行の横顔だけだ。 「──広田さん、わたしのこと、まだ美代子さんだと思ってるんですね」 「広田は美代子のこと、知らんからな。かえって、思い込んだらそのままになってしまうんだろ。悪気はないんだよ」 「わたし」そう言ったきり瑠美が黙ってしまったので、義行は「なに?」と先を促《うなが》した。 「わたし、ごめんなさいって言ったほうがよかったんでしょうか」 「……そうだね」 「でも、わたしが言っちゃいけないような気がしたんです。言うんなら、美代子さんが言わないと。それにお父さんだって、それが一番聞きたい言葉かどうかわからないでしょう?」  義行は少し考えて「そうかもしれないね」と言った。「頑固に連絡もよこさんのは、美代子なりのちゃんとした理由があるんだろ。それなのに、オレらはそれを認めずに、美代子が負けて泣いて帰ってくるのを期待しとるんだわ。そんなところには、そう簡単に帰れんよな」 「お帰りって、言ってくれる場所は欲しいけど……。あのお父さんのやつれた顔、ショックだった。お父さん死んじゃって、美代子さん、かわいそう」  バッグから出したティッシュで鼻をかむ瑠美を、義行は黙って見やった。  道沿いに建つ倉庫や家屋の軒灯りが、スライド上映のように闇の中からポツポツと風景を拾いだす。やがて前方が明るんできた。農道のとっつきに道路標識を掲げた国道が広がり、トラックが走っているのが見えた。 「さっきのことだけど」義行が口を開いた。 「え?」 「テレクラのことだけど、なるべくならそういうことはやめたほうがええで。いろいろ事件があるようだで」  だがすぐに、口に出したことを恥じるように義行の頬がこわばった。 「その、事件を求めてたとこ、あるんです」  瑠美は背筋を伸ばし、膝の上でジャケットをたたんだ。 「自分の殻を破りたくて。それでテレクラに電話して、駅前で待ち合わせ。身元探られないように名刺とか携帯とか定期とかは持たずに、遊び慣れたふりで服の色だけ教えて、探してごらんなんて言ったんだから、笑っちゃいますよね。広田さんのこと、テレクラ男だと思ったんですよ、わたし。ヒェー、こいつう!? やっぱ、テレクラに期待するのは間違いだとか思っちゃった」  瑠美は思い出し笑いをした。義行は真面目な顔で聞いている。 「──あそこから連れ出されたとき、心の底ではホッとしてた。もうこれで、全然知らない、好きでもない人と付き合うようなことにならなくてすむって」 「こっちもあんたが来てくれて、よかった。おじさんにはなむけができて、オレら残されたもんの気がすんだ。ほんとに助かったよ」義行が優しい声で言った。  国道から高速に乗った頃から白み始めた空は、出口に近付くにつれ、車のスピードと競い合うように明るさを広げていった。出口が見えてきたとき、義行は瑠美の家への道順を訊いた。瑠美が町名を言うと、料金所の順番を待つ間に道路地図を見て調べた。  高速を出ると、すぐ駅だ。六時を過ぎていたから、そこらはもう忙しげな騒音がこだましていて、空が狭くなったかわりに高層ビルのてっぺんが朝日を照り返してピカピカ光った。ミニバンは駅のロータリーを中心に切れ目のない流れのひとつに乗り、住宅地に向かって走った。反対車線では、客をまばらに乗せたバスが走っていた。 「ああ、今日は土曜日か」  義行が独り言を言った。  丘を切り崩して雛壇《ひなだん》のように造成された住宅地は、家並みと家並みの間を急な坂がつないでいる。二番目の坂を登り切り、ブロック塀で囲われた二階建てのアパートの前にミニバンは停まった。ジャケットを助手席に残して瑠美が下りると、義行も運転席を下りて玄関前まで来た。 「あの、いらんお節介だけど、やっぱりテレクラなんかで人と会うのは、なるべくならやめたほうがええで。あんたのこと心配しとる人もおるんだから、もっと大事にしたほうがええ。て、こういうこと言うで妹にジジくさいって、バカにされよるんだが」義行はうつむいて瑠美の靴を眺めながらテレ笑いをした。 「でも、わたし、今、そういう風に言われて、すごく嬉しい」 「そうかね」  二人は顔を見合わせて笑った。 「じゃ、オレ、行くで」  義行が車をバックして方向を変えるのを、瑠美はじっと見守った。そして、坂道を下りる頃、リアミラーに向かって頭を下げた。クラクションが一度鳴った。  坂道に吸い込まれるようなミニバンと入れかわりに、自転車で新聞配達をする少年の野球帽が見えた。右に左にリズミカルに揺れながら登ってくる。登り切って一息入れている彼に瑠美は「おはよう」と声をかけた。 「ウッス」少年は金髪の頭を下げた。どこかで門扉の開く音がした。カラスが鳴き交わし、犬が吠えた。ジョギングの足音が近付いてくる。  新品の一日が、もう始まっていた。 [#改ページ]   オンリー・ユー     1 「中原さん、食欲あるほうですか?」  いきなり聞かれた中原は、返事をためらった。史織はどういう答を期待しているのか? どう答えれば、正解《ヽヽ》なのか? 「……まあ、人並みだと思うけど」 「そうですか。じゃあコース料理じゃなくて、一品ずつとってシェアしません? 男性はこういう食べ方あまりしないみたいだけど、二人で同じものが出てくるコース料理をしずしず食べるって、あんまり面白くないんですもの」 「そうだね」微笑んで答えながら、女とレストランにくれば高いほうのコース料理を注文するものと思っていた中原は、目から鱗《うろこ》が落ちる思いだった。 「でね、そうやってひとつのお皿からシェアするときに一緒に食べる人が小食だと、こっちも勢いがつかないんです。取り合いするくらいの方が消化もよくなるような気がするの」  だから、最初に聞いてみたんですと史織は言って、メニューに目を落とした。レンガ積みの外壁と木の扉、中に入ると壁に間接照明が仕込まれ十五のテーブル席に小さな花生けが置かれているこぢんまりしたイタリア料理店は、金曜の夜らしく混んでいた。赤い蝶ネクタイとエプロンの娘たちが、料理をのせたトレイを捧げ持ってテーブルの間を巡っている。 「中原さん、好き嫌いあります?」「パスタと魚の香草焼き、それにシーフードサラダ、それからここはハーブを練り込んで焼いた自家製のパンがおいしいんですよ。リゾットも食べたいけど、ちょっと無理かな」「飲み物は、わたしはスキッと冷えた辛口の白ワインがいいんだけど、中原さんはやっぱりビール?」史織の質問は矢継ぎ早だ。  中原は「好き嫌い、ないよ」「きみのお薦めにしよう」「せっかくだから、僕もワイン。スキッと冷えたやつ」と、問い掛ける史織の目に微笑みを返しつつ手短に答えた。この優しげな微笑みの威力には、ちょっと自信がある。なにしろ小学生の時から伯母に「ジャニーズ事務所に入れ」と言われ、思春期には同級生たちを「顔じゃ勝てない」とひがませた男前である。史織も一瞬〈ホレボレ〉という感じに頬をゆるめかけたが、すぐに立ち直ってフロア係にオーダーを告げた。  逆三角形の猫型の顔をすっぽりおおうショートヘア。シャギーカットとかいうんだったかな。目が合うと切り返すような素早さで広がる笑顔が、はっとするほど華やかだ。このルックスと見事な脚は二ヵ月前、中原の勤めるスポーツ用品メーカーに途中入社してきたときに多くの男性社員の胸を騒がせたものだ。おん年二十七歳。帰国子女で英語とフランス語に堪能で外資系の会社に勤めていたが、上司のセクハラに怒ってビンタと共に辞表を叩きつけたという武勇談に、中原たちは「セクハラされるような女は、やっぱり女っぷりが違うねえ」と大いに盛り上がったものだ。  ワインで乾杯し、食事が運ばれてくるまで、そして食べている間も、史織は社会現象から会社の同僚の性格までどんどんサカナにして論評しながら、トマトソースのスパゲティーやちぎったハーブパンのかけらをスイスイと口に運ぶ。食べながらしゃべる姿が下品にならない女は珍しい。中原が心嬉しく見惚《みほ》れていると、史織は急に口をつぐんだ。 「なんか、わたしばっかりしゃべってません?」 「ん? ああ、でも、いいんだよ。きみの話、面白いもん」 「ほんとに?」  うなずくと、史織は顔中を輝かせた。そして勢い込んで、入社以来気になっている会社のセールスプロモーションの問題点についてトウトウと攻撃し始めた。  男たちの胸騒ぎを沈静化させたのは、この歯に衣《きぬ》着せぬ毒舌が原因である。商品企画部に配属された彼女は、初めて出席した全体会議で先輩格が発表する営業報告や提案を、片っ端から「考え方がステレオタイプ」「その提案でよしとするデータが足りない」などと批判した。正論理想論をふりかざして一歩も引かないその強気に、男どもはたちまち「怖ぇー」と腰砕けになった。だが、中原は違った。プレイボーイというわけではないが女に不自由した覚えがないせいか、このキラキラした勝ち気な女の子(女というより、女の子という感じがした)をなびかせてみたいという欲望にかられてしまったのだ。それで、言ってみた。 「有能なのは十分わかってるからさ。もう少し、肩の力を抜いていいんだよ」  この言い草を陳腐と笑う輩《やから》は、生涯女にモテることはないと思い知れ。中原はこの一言で、三十三歳の今日までに少なくとも一人、女をオトしている。  会社の第二販売促進部長、榊原涼子、四十一歳。マニッシュなスーツに身を包み、長い髪をキッチリとひっつめ、右手にノートパソコン、左手に携帯電話、パンプスを鳴らして大股で闊歩する。ドラマに出てくるキャリアウーマンそのものの姿で、新人OLの憧れの的になっている彼女も十年前、新入社員の中原の販売店まわりを同行指導したときは、気負いばかりが目立って痛々しいほどだった。それでつい件《くだん》の台詞を言ってみたら、ポロッと涙をこぼして、そのままデキてしまった。その直後に、彼女はこう言った。 「私、ここまで頑張ってきたキャリアをだいなしにしたくないの。悪いけど、このこと、なかったことにして忘れてくれない?」  中原に否やはない。会社の先輩と〈なりゆきでつい……〉の関係を後悔していたから、女の方からそう言ってきたのは有り難かった。しかし、同じ会社で日々顔を合わせていると、それぞれにミスをして落ち込んでいる様子を見過ごしにはできない。多少なりとも情が移っているから慰めるし、中原のピンチをベテランの彼女に救ってもらったことも再々あった。そうすると、しみじみ話し合うついでに〈なりゆきでつい……〉ということになり、そういうことの繰り返しでズルズル続いている。  あの殺し文句をもう一度試してみる気になったのは、この成功例がそそのかしたといえる。ダメモトという気持ちもあった。しかし、見よ。史織のほうからツカツカ歩み寄ってきて「食事付き合っていただけません? わたし、中原さんともっとお話がしたい」と言っただけでなく、時間も場所もお膳立てしてくれた。おかげで、中原は労することなく悠然と微笑んで、彼女のおしゃべりに耳を傾けることになったのだ。  女の子の話に微笑みつつ耳を傾ける──これが中原の得意技である。というか、男同士の下ネタやバカ話ならどんとこいだが、女との〈会話〉となると何を話していいのかわからないのだ。しかたなく話に相槌を打つのに専念しているうちに、この方法でうまくいくことを発見した。こうして、黙ってひたすら話を聞いていれば「優しい人ね」と思われる。感動されて、甘えられて、しなだれかかられて、一丁上がりである。それが今までのパターンだった。しかし、今回は頭のいい女が相手だけに「中原さんは、日本の対米政策、どう思う?」などと突っ込まれたらどうしよう……と、ひそかに緊張していた。だが、どうやら史織は自分の考えを伝えるのに夢中だ。中原は次から次に話の種を繰り出す頭の回転に舌を巻きつつ、話の中身は聞き流して生き生きした表情の変化を楽しんだ。  そして食後のコーヒーにたどりついた途端、史織が目を伏せて黙ってしまった。中原はあせって「どうかした?」と尋ねた。史織は思い詰めた顔で「中原さん、正直に言ってくださいね」と切り出した。 「わたし、生意気ですよね。嫌われてますよね」  確かに、社内では男からも女からも敬遠され、浮いている。 「わたし、一生懸命に仕事してるだけなのに、まわりの人のことも考えなさいなんて言われると、どうしたらいいかわからなくなる。まわりの人のことを考えて、言うべきことは言ったほうがいいと思っているのが、間違いなのかしら」  史織はすがるように中原を見つめた。この時、中原の全身に快感が走った。史織が自分に助けを求めている! 「気にすること、ないよ」  口が勝手に動いていた。 「会社って、いろんな人がいるじゃない。酒癖の悪いのとかオタクっぽくて付き合いの悪いのとか。みんな、文句や悪口言ってるけど、だからって誰も改心したりしないよね。その内、まわりのほうが馴れてくるんだよ。あの人はああいう人だって。生意気だってなんだって、仕事がちゃんとできてれば結局それでいいんだから、平気平気。ヘンに遠慮したら、きみらしくなくなるよ」  史織の顔が花が開くようにほころんだ。彼女の喜びが中原の中になだれ込んできて、彼の胸をも薔薇色に燃え上がらせた。 「ありがとう。中原さんて、大人なのね」  尊敬の目で見つめられ「いやあ、そんな」と、デレデレになった中原に冷水を浴びせたのは、突然鳴り始めた携帯電話の着信音だった。  反射的に上着のポケットを押さえたが、「ごめんなさい」と言ったのは史織の方だった。隣の椅子に置いた大型のバッグから携帯を取り出し、少し横を向いた史織は「今、食事中」「うん」「わかった」「じゃあね」とそれだけの返事で通話を終えた。 「妹から。これから遊びに行くのに服を貸してくれって言ってきた。大学生は気楽ね」  中原はホッとした。どうやら別の男からの電話ではないらしい。それに、自分の携帯は電源を切っていたのだ。  その夜の首尾《しゆび》は上々《じようじよう》だった。史織は「誘ったのはわたしだから」とワリカンを主張し、テーブルでレシートを見て半分を出し、レジでは中原が支払うようにはからった。そして中原を真っすぐ見て「楽しかった」と先に言った。それで中原も安心して「また、行きましょう」と言うことが出来た。史織は大きくうなずき、送るという申し出を断って、目の先にある地下鉄の階段を軽い足取りで下りていった。  どうということのないグレーのスーツを際立たせる脚の線を、中原は半ば陶然として見送った。「ありがとう」と彼女が言ったとき、二人の距離が一気に縮まっていったあの感じは、何度思い返してもグッときてしまう。あの瞬間の周辺を頭の中で繰り返し再生しながら、中原はぶらぶらと電車のホームに向かった。時間待ちの間に携帯の留守電をチェックすると、案の定、由佳子からのメッセージが入っていた。「こら、電話切って、何してるの。ほんとにもう!」ときた。  くわばらくわばら。中原の手は自動的に、再び電源を切った。     2  中根由佳子は、中原の高校時代のガールフレンドである。中原はサッカー部に所属しており、由佳子は三人いた女子マネのひとりだった。  制服姿の彼女は、小柄で童顔ゆえに可愛かった。その可愛い顔で熱っぽく見つめられたら、十七歳の少年としては受けて立つしかない。自転車置場で初キスを交わしたとき、由佳子は涙のたまった目を伏せて「中原くん、入学式で二つ隣の席だった。あのときから、ずっと好きだった。こうなることを夢見てた」とつぶやいた。そして顔をあげ、チョロリと舌を出してはにかみ笑いを見せた。ジャニーズ顔のおかげで女の子のラブラブ攻撃を「受けて立つ」のに馴れていた中原だったが、この笑顔にはホロリとさせられ、思わずキュッと抱き締めていた。由佳子の処女をいただいたのも中原だった。「中原くんなら、いい」と言われたのだ。ヤラざるを得まい。  あれはまさに、気恥ずかしいばかりの学園漫画の世界だった。中原は由佳子のヒーローで、由佳子は中原の寵愛《ちようあい》を受けるシンデレラだった。驚くべきはあれから十六年、由佳子が|そのまんま《ヽヽヽヽヽ》であることだ。  中原の方は、あれから、まあ五、六人の女とイロイロあった。わりと簡単に始まり、適当に付き合っているうちに、飽きたり飽きられたりでフェイドアウトしたりゴタゴタしたりと終わり方もさまざまだったが、別れたあとは懐かしく思い出すこともない(涼子との関係は恋愛と思えないので、別勘定になっている)。しかし、由佳子は終始一貫「中原くんが一番」だという。  大学も会社も別で、由佳子は旅行代理店の古株OLになっている。長い間には喧嘩もしたし、別れ話も何度もした。他の女たちとの縁を結ぶ糸は、その繰り返しで擦り切れた。しかし由佳子とは、いつのまにかヨリが戻っている。 「おまえさあ、他の男と付き合ったことないの?」うんざりして、そう訊いてみたことがある。 「あるよ。当たり前じゃない」由佳子は、自慢げに答えた。 「その中にいなかったのか? これっていうのが」 「いなかったのよね。そういう中原くんだって、未だに独身じゃない。いなかったの? これっていう人」 「………」  いなかったのである。洗濯は全自動洗濯機、食事はコンビニ、掃除は気の向いたときに掃除機をブイブイいわせて、それですんでしまう。伴侶の必要を感じない。どちらにしろ、由佳子は問題外だ。  童顔というのは色気がない分、二十五歳を過ぎると一気にオバさんくさくなる。ポッチャリした身体つきは、女子高生の頃ならともかく、大人の女として見るといかにも鈍重な感じだ。話すことといえば芸能界のゴシップと同僚の悪口。涼子のようなキャリアウーマンを知ってしまうと、自分の女がこの程度では「ちょっとなあ……」と、そんな気持ちもないではない。  しかも、たとえば今回の史織との夜のように、他の女と会っているとどういうカンが働くものか必ず電話をかけてくる。デート中は電源を切っておくようにしたのだが、そうすると深夜にかけてくる。こっちは今夜の彼女かと思うから、つい、とる。すると「ねえねえ、携帯切ってたの、デートでしょ」と、由佳子の声だ。「関係ないだろ」「あら、別にいいのに。怒ることないじゃない。感じ悪いわね」。そして、プツンと切れる。ムッとした勢いで、楽しかった気分が泡と消えていく。  これはまずい、こんなことではいけないと思いながらズルズルここまで引っ張ってきたが、これではほんとにイケナイ。 「なんとかしなくちゃなあ……」終電車で洩らした独り言は、続いて出た大あくびの中に呑み込まれて消えた。     3  初めてのデートの翌週、出社すると史織からのメールが届いていた。「金曜日は楽しかった。また、よろしく」とだけ書いてある。史織のいる企画部と中原が所属している第一営業部はフロアが違うので、顔を合わせるのは月一回の全体会議か、イレギュラーに行われる新製品の販売促進会議くらいしかない。二人はメールで連絡を取り合い、月に二、三回は食事をしたり映画を見に行ったりとデートを重ねた。そうして半年が経った。しかし、未だお床入りを果たしていない。  これまでの中原なら、とっくの昔にヤッてしまっていた。だが、史織はそうはいかないのだ。今までの女たちのようにベタベタしてこないから、きっかけがつかめない。いい家のお嬢さんだということがプレッシャーなのかもしれない。そのうえ、史織の言うことや物腰には威厳のような〈上物《じようもの》〉感があって、それが中原を畏《おそ》れさせていた。要するに、史織は今までの女たちとは違うのだ。 「生意気問題」を打ち明けた後の史織は、社内では相変わらずの減らず口で煙たがられていたが、中原と二人になると素直な人生観を口にした。 「わたし、いつもこの先の自分に興味を持っていたいの。仕事でもプライベートでも、いろいろな事があって、いろいろな人と出会って、人間って成長していくものでしょう? もっと大きな仕事がきたら、結婚したら、子供ができたら、わたしはどんな風に変わるのか、どうやって切り抜けていくのか、それを楽しみにできる自分でいたい」  落ち着いた調子でそう言うのを聞いたとき、中原は本当に感心した。そんな風に考えたことなど、なかったからだ。社会人生活は忙しく、嫌でもやらなければならない仕事や人間関係の面倒が次から次へと現われて、ひとつひとつ片付けたり棚に上げたり後ろに蹴飛ばしたりしているうちに、どんどん時間が経っていく。独り身の今でさえこうなのだから、ここに結婚が加わったら煩《わずら》わしさが増すだけだ。中原が結婚に踏み切れない主な理由は、それだった。  それだけに、史織の考え方は頼もしかった。そうか。今までは、夫という役割を期待されるのが嫌で逃げていた。しかし、夫婦になったら助け合う──というのがアリなんだ。そう考えたとき、中原はハッとした。史織と結婚することをごく自然に想像している自分は、史織の言葉で言えば「成長した」のじゃないだろうか……。     4  運命に歯車があるのなら、中原のそれは人格を反映して惰性でタラタラ動いているものとばかり思っていた。しかし、史織に本気になり始めるのと時を同じくして、歯車がガクンと大きく前進する気配が見えた。直属の上司である富田部長に、今の主任から課長に昇進の話があることをそれとなく聞かされたのだ。  富田部長は人望があり、いずれは取締役になる人物と社内の意見は一致していた。中原にも、彼のような|できる《ヽヽヽ》男に腹心の部下として取り立てられたいという野心というか、熱き共感がある。が、これが大変なマイホームパパで「父親になってこそ男は一人前」というのが持論だった。何も家庭を持つことを昇進の条件にあげられたわけではないが「我々の商品は、子供が重要なお客だからね。子供のことがわかってないとなあ」が口癖でもある。  もしかしたら史織とのことに部長が薄々感付いているのではないか、そして応援してくれているのではないかという虫のいい考えが、チラリと中原の頭をよぎった。史織は夫婦別姓だの家事は分担だの言いそうだが、中原はもともと男権主義者ではない。あの賢さなら、家庭もうまく仕切ってくれるだろう。社内結婚したら女の方が退職するという不文律も〈先端的な企業〉をアピールしたい会社のイメージ戦略で男の育児休業制まで採り入れられた今、消えたも同然である。  第一、独身男というのもそれほどいいものではない。不倫がばれて大騒ぎになり、すっかり消耗した所帯持ちに「いいねえ、おまえは。やりたい放題だからなあ」とボヤかれると、どことなく馬鹿にされているようでいい気がしなかった。責任感の欠如を指摘するニュアンスが匂うからだ。  住宅ローン、教育ローン、家族のための各種保険の支払い、学校の問題、妻の不満、抑制しなければならない欲望の数々、あきらめなければならない夢の数々……。「家庭を持ってこそ男は一人前」というのは、そうした重荷を背負って立ち続けねばならないお父さんたちをからくも支える共通認識なのだ。その重荷を免れている中原は「おまえには、わからんわなあ」の一言で仲間はずれにされていく。組織の中にいて、こういう立場は結構つらい。  それでも結婚となると二の足を踏む自分を、無責任で薄情なヤツと反省することもあった。相手の気持ちを全部受けとめるのが面倒になり、扱いがぞんざいになっていって──「そんな人だとは思わなかった」「あんたって最低ね!」とこきおろされる。似たようなことが続くと、柄にもなく落ち込んでしまう。オレって、ずるいだけのヤな男、なのかな……ションボリつぶやいたとき「そんなこと、ないよ」と断言してくれたのは、他ならぬ由佳子だった。 「運命的な結びつきって、あるんだと思うわ。中原くんが悪いんじゃない。無理しないと切れちゃうような縁なら、切れちゃっていいのよ。本当の出会いなら、きっと他のと違うってわかるわよ」  いつでも近くにいる由佳子は、中原が反省したい気分のときに呼びだしやすい〈旧友〉、又の名は〈愚痴のごみ箱〉である。頻繁《ひんぱん》に電話がかかってくるとうっとうしいが、いてくれて助かるときがあるのも本当だ。一応男と女の関係なのだから、泣いてすがったり、錯乱して会社に怒鳴り込んできたりされたら、中原も嫌気がさしてきっぱり断ち切ることが出来ただろう。しかし喧嘩や別れ話のあとで、由佳子は見事に姿を消してみせるのだ。そして、中原の状態がダウンしてつい電話をかけたりすると、例の舌をチョロリとのぞかせるはにかみ笑いを持って現われる。  中原は、この笑顔に弱い。「こいつ、いいヤツなんだよな」と思わずにはいられない。そのうえ、たまにいいことも言うではないか。運命的な結びつき、か。本当の出会いは他のとは違う、か……。  そうか。そうだ。史織に他の女たちとのパターンを当てはめられない、この自分の反応が何よりの証拠ではないか。そこへもってきて、昇進の話だ。今自分は、人生の一段上のステップに足をかけているのかもしれない。そう思った中原は、思い切って史織の気持ちを確かめてみようと、高いので有名な一流ホテルのワインバーに誘った。 「僕がプロポーズしたら、きみはどうする?」反応が悪かったら、どう言ってジョークにつなげるかと中原の頭はもうそこまで考えていたが、史織は即座に「考えさせていただきます」そして、笑って付け加えた。 「前向きにね」  おいおい、いいんじゃないかい? よし、ヤってしまおう──と、女性雑誌をあさってみつけた〈ホスピタリティのよさはピカイチ〉という温泉宿への一泊旅行に誘った。客室がひとつひとつ離れ座敷になっているあたり、意図は見え見えである。史織はこれにもすぐにうなずいた。そしてそれからナンダカンダの果てに腕に抱いて眠ったときに、中原は「好きだよ」と迷わず言えた。「わたしも」と史織は答えた。  そうだ。こんな風にして、人は結ばれていくのだろう。  以前、取引先の連中と親睦の飲み会に行ったとき、中原が同い年と知って急にからみ始めた男がいた。 「中原さん、指輪してませんね。自分だけモテようとしてるでしょ。ズルイな」 「いや、正味の独身ですから」  男は「ええー!?」と大げさにのけぞった。「私みたいなブサイクでも、一応女房なるものがいますよ。それなのに、私の二倍、とはいかないまでも八割増しはいい男のあなたが結婚してないというのは、一体どういう魂胆ですか」  魂胆もナニも、ただなんとなく結婚してないだけだ。ほっといてほしい。男の態度に辟易《へきえき》した中原は「そういうあなたは、どうして結婚したんですか」と質問で応酬した。すると彼は妙にしんみりして、こう答えた。 「そりゃあ、魔が差したんですよ。あのね、中原さん。魔が差すというのはね、遺伝子の仕業だそうですよ。自分が乗り換える新品の乗り物を作らせるために、フト、結婚しようかなと思うように仕向けるんだそうです。そう言われるとね、まさにフト、その気になったとしか思えない。相手がね、可愛く思えるんです。愛しいというか、いじらしいというか、そういうエもいわれぬ気分に襲われてね、気がついたときにはもう遅い。あなたね、中原さん。そのフトがないとすると、気をつけたほうがいいですよ。あなたの遺伝子は、ひょっとすると滅亡しかけてます」  この説にのっとれば、中原の遺伝子はようやく〈運命〉に触れて息を吹き返したらしい。  いよいよオレも結婚か──と感慨にふける中原の胸には、悲しみに似た感情が漂っていた。しかし、その悲しみに似たものにかすかに甘い味があったのも事実だった。     5  問題は、そろそろ二人の仲を公表してもいいだろうと話し合っていた矢先に起きた。中原の長年の得意先を、ライバル社にさらわれたのだ。中原は、富田部長ともども営業総本部長室に召し出された。 「こういう景気だ。お得意様をしっかりキープ。そのためには、水も漏《も》らさぬサービスの徹底と他社の動きを把握して常に先手を打つこと! ついこの間の全体会議で言ったばかりじゃないか。一体、何やってたんだ。相手はずいぶん前からアプローチかけてたそうじゃないか。きみは、応戦もしなかったのか。それとも、何にも知らなかったのか。ええ? どうなってるんだよ!」  会議の場でしか会ったことのない本部長に指を突き付けられて、怒鳴られた。  そのスポーツクラブは、バブル崩壊で売りに出されていたものをさる投資家が安値で買い取ったものだった。知り合いから情報を得た涼子に耳打ちされて中原が単独で新オーナーのもとに乗り込み、用具やネーム入りの特製ウェアやグッズ、スポーツドリンクだけでなく教室の構成まで綿密なリニューアル・プランを見せながら何日もかけて、一社独占的な契約を勝ち取ったのだった。この蜜月状態が五年続いていることが、中原の課長昇進資格のポイントになっていることは間違いなかった。  金額的に見ると、それほどの大物ではない。だが、ここは大丈夫と売り上げを見込んでいた顧客をいきなり持っていかれるのは、どう考えても大失態である。しかも中原には、「私は金のことしかわからん人間でね。ソフトは中原さんにお任せします」と言ってくれたオーナーの言葉に安心しきって、担当を入社三年目の部下に譲り渡し、史織との付き合いに浮かれていた自覚がある。部下に任せていたので──そんな言い訳ができないことくらい、よくわかっていた。 「……なんとかします」  頑張って強い口調で言うと、本部長は「そんなことは、当たり前だ」と言い捨てた。 「なんとかしても、オオよくやったとは言わんよ。問題は、きみの仕事に対する心構えだ」低い声でそう言うと、本部長はさっさと行けとばかりに顎をしゃくった。中原は富田部長に目をやったが、彼は本部長と意味ありげに顔を見合わせている。 「失礼します」できるだけ力強く聞こえるよう鮮明に挨拶をして、中原は本部長室を飛び出した。  震える手で携帯を取り出し、非常階段に出た。このまま部室に戻って、すでに事態を知っている同僚や部下の前で相手先に電話をかける勇気などない。非常階段の踊り場に座り込んだ。 「実は社長にお見せしたいウェアの最新作がもうすぐ出来上がるところなんですよ。これはもう自信作です。すぐにお伺いしますから、もう一度考え直していただけませんか」 「それがねえ。あちらさんがいくらお断りしても、見本に置くだけでも、お客さまにプレゼントとして差し上げるだけでもと、いろいろ持ってこられましてね」相手はいつもと変わらぬ余裕の含み笑いで答えた。「なにしろ、あちらさんは動きが速くてね。どんどん作って持ってこられるものだから、もういりませんと言うわけにもいかず、かといってオタクに知らせて天秤にかけるようなことはしたくなくてねえ。私の気が弱いもんだから、だまし討ちみたいなことになって申し訳ないと思ってるんですよ」 「しかし、社長。長い付き合いじゃないですか。僕は最初から関わっているだけに、途中でこういうことになるのはツライですよ、寂しいですよ。僕と社長は、信頼関係で結ばれてると信じていたんですよ」  営業マンになったときから、これだけはしたくないと思っていた〈泣き落とし作戦〉が自然に口をついた。灰色の壁に反響する中原の声が、責め立てるように我が身に降り掛かってくる。なおも言いつのろうとする勢いを、相手の冷ややかな声音が止めた。 「中原さん、そのおっしゃりようじゃあ、私があなたの信頼を裏切ったみたいに聞こえますねえ。それならはっきり申し上げますが、あちらの担当の方はそりゃあ熱心でしてね、私のプライベートな用事まで引き受けてくれて、よく働いてくれるんです。ちょうど昔のあなたみたいにね。私は、ほだされたんですよ。そういうことです。私、忙しいので、もうこの電話切らせてもらいますけど、あなたもまた頑張ってください」 「と、とにかく、会ってお話しさせてください」 「お会いするくらいはね。でも、私、明日から上海に行くもので帰ってからということで。じゃ、失礼」  非常階段の壁に、中原が虚しく叫んだ言葉がこだました。  社長! しゃちょお! チッ……クショー!  しかし、なんとかしなければならない。中原は、鉄砲玉のように非常階段から販売促進部へと駆けつけた。涼子はちょうどミーティングの途中だったが、「緊急の用件なので」と頼み込んで、空いている会議室に連れ込み、事情を説明した。 「この話はもともと涼子さんの線じゃないですか。なんとかもう一度考え直してくれるよう、話してもらえませんか」  今までのどんな時よりも必死になってかきくどく中原の訴えを、涼子はうつむいてじっと聞いていた。 「テキさんが熱心に動いてるという話は聞いてたわよ。でも、当然あなたが守りを固めてると思ってた。何にもしてなかったの?」涼子は冷笑気味に、続けた。「それとも、史織さんに夢中になってて、何もかも忘れた?」  中原は、氷を呑み込んだような気分になった。胃の底にヒヤリと冷たいものが突きささる。 「結婚するんですってね」 「──どうして、それを」 「史織さんがそれらしいこと、盛んにほのめかしてるもの」  意外だった。史織は二人が付き合っていることなどおくびにも出していないと、中原は思っていた。彼女は「発表したら、みんな驚くでしょうね」と、いたずらを仕掛ける子供のように笑っていたのだ。  立ちすくむ中原に背を向けた涼子は、窓の向こうに視線を投げた。 「私はね、あなたたちの結婚のことをとやかく言うつもりはないのよ。でもね、あなたは気付いてないでしょうけど、あのコは私を目の敵《かたき》にしているようなところがあって……。最初にちょっと態度のことで注意したのが原因だと思うけど、ずっと、なんていうか挑戦的なのよ。あなたとのことも、私への対抗意識がないとは言えないと思う」 「でも、僕と涼子さんのことは」 「誰にも知られてないと思ってるの?」涼子は振り向いて、皮肉な笑顔を見せた。 「会社っていうところは、どんな秘密も保《たも》てないところなのよ。そんなこともわかってないのね」  そうだったのか? 知らずにノホホンとしていたのは、自分だけだったというのか? 自分の知らないところで、涼子と史織のバトルが繰り広げられていたというのか!?  そのとき、ある考えが中原の頭にひらめいた。 「……涼子さん。もしかしたら、今度の一件は涼子さんが」  物凄い目で睨まれたと思った次の瞬間、涼子は高らかに笑い出した。 「私にそんな力があると思ってるの? 私をあのオーナーの愛人だとでも思ってるわけ? 会社の利益を犠牲にしてもあなたを懲らしめようとするような、そんな人間だと思ったのね?」 「す、すいません! 頭がパニックになって、つい。そうなんです。会社の利益のためなんです! 涼子さんの力を貸してください。今から社長のところへ行くんです。涼子さんからも、その関係者のかたに働きかけて下さい。お願いします!」  涼子の前に回って、九十度以上頭を下げた。一瞬土下座も考えたが、どう考えてもそれだけは出来ない。中原は歯を食いしばって、頭を下げ続けた。 「取り返しのつかないことって、あるものね」  頭の上から、涼子の静かな声がおりてきた。「私にできることがあれば、当然なんとかしています。でも、本当にこの件に関しては、できることは何もない。あったとしても、今の私の気持ちではしたくないと思ったでしょうね。史織さんとのこと、いい気持ちはしないけど、仕方がないと思ってる。でも、さっきあなたが言ったことは、許せない」 「謝ります。はずみなんです。追いつめられてて……。自分でもひどいことを言ったと後悔してます。オレは最低のヤツです。どんなことを言われても仕方ありません。でも、とにかく今は、会社の利益を考えて少しでもお力添えを」  追いすがって肩をつかむ中原の両手首を、涼子は強い力ではずした。そして悲しげに、中原を見つめた。 「いい加減だけどひねくれてない、のどかなところが好きだったのよ。これ以上、失望させないで」そう言うと、さっと会議室を出ていった。  それで、終わりだった。中原はオーナーのオフィスに駆け付けて門前払いを食い、上海の連絡先に国際電話をかけ、帰国したと聞いては足を運んだが、すべてが無駄だった。富田部長の態度は変わらなかったが、課長昇進の話はなかったような顔をされた。大きなミスをしでかした人間には負け組ウイルスがついているらしく、同僚も必要以上に近付いてこない。こんなときこそ、恋人の出番ではないか。史織がいてよかった──と思いたいところなのだが、史織もこのところ話しかけにくそうに中原を避けていた。中原の方からSOSを出すのはコケンにかかわるようで悶々としていたところ、やっとパソコンに史織からのメールが届いた。  開いてみると『話したいことがあるので、昼休みに駐車場まで来てください』とそっけない。しかも、駐車場とはナニゴトか。  それでもいそいそと、自社ビル地下の駐車場に行ってみた。中原は電車通勤だが、史織はサーブを運転する。スカイブルーの車の中に、仏頂面《ぶつちようづら》の史織がいた。助手席に座り「どっか、いいとこ見つけたの? どんなランチ?」と聞く鼻先に、近くのベーカリーの袋が突き出された。 「これ、どうぞ。わたしはとても食べる気になれないから」  やれやれ。強気の仕事女としては、恋人の失敗も自分の恥に思えるのかな。中原はなんとか軽い気持ちになろうと、袋の中身を覗き込み「お、うまそうじゃん」とサンドイッチのパックをばりばり破って頬張った。ポテトサラダがグニャリと歯にくっつく。 「中根由佳子って、誰」  ムセて目を白黒させる中原の目の前に、ストローを突きたてた紙パックのカフェオレが差し出された。 「ずっと付き合ってるんですってね」中原の答を待たず、史織はずんずん突き進む。「メールで呼び出されたわよ。昨日のことだけど。それで、中原くんには自分というものがいるんだって言われた。中原くんって、呼ばせてるの? 信じられない。まるっきり、子供じゃない」  史織はフンと鼻を鳴らして嗤った。 「それは、違うよ、あいつは」 「あいつ、なわけね。面と向かうと、おまえって呼ぶんでしょ」  その通りだ。しかし、だからといって、恋人ではない。 「彼女は友達だけど、それだけだ。オレのことを好きではあるらしいけど、オレの方は」 「手切金、払うって言われた」 「え……」 「手切金払うから別れてくれって。まるでヤクザじゃない。一体、どういう関係なの」 「どういうって、だから、ただの古い友達だよ」  中原はおおいにうろたえた。史織は、いかにも不愉快そうに鼻にしわを寄せている。 「吐きそうだわ。このわたしが、そんなこと言われるなんて」 「ごめん」と謝ってみたが、なぜ自分が謝らなければならないのかわからない。由佳子のふるまいにももちろん腹が立つが、史織の汚いものにでも触れたかのような態度も気に入らなかった。 「手切金をくれって言ってるんならまだしも、払う、だろ? 無視していいんだよ。なんでもないんだから。それ以上騒いだら、オレがなんとかするから」 「そんなことを言ってるんじゃないの。わたし、ああいうタイプの女が一番嫌いなのよ。男にしがみついて、情けない。イライラしてくる。鈍感で図々しくて、スーパーで売ってるみたいなセンスの悪い服着て」  そんな言い方しなくてもいいじゃないか。中原はムッとした。確かにセンスがいいとはいえないし、颯爽としたところなどみじんもない女だ。しかし、そこまで悪《あ》しざまに言うことはないだろう。 「わたし、あなたがああいう女と付き合ってたっていうことが、イヤなの。榊原さんならまだ許せるわよ。でも、あんな……あんな」 「レベルの低い?」  言われて、史織はキュッと唇をかたく結んだ。 「……さっきから、あんな女、あんな女って言ってるけど、あいつはオレの恋人じゃないにしろ、同級生で古い友達なんだ。きみより目上だよ。とんでもないことを言ってきて嫌な気分にさせられたのはわかるけど、もうちょっと言い方ってもんが」 『あるだろう!』と毅然とキメるか、『あるんじゃないのかな』とソフトランディングでいくか、一瞬迷ったすきに史織がすごい勢いでドアを開け、運転席を出た。 「下りてください。もう、時間ないですから」史織は他人行儀に言い渡した。 「あなたの|お友達《ヽヽヽ》に、会えてよかったわ。とんでもない間違いをするところだった。もう個人的にお付き合いすることはないと思いますけど、仕事の点では今まで通り、よろしく。お互い、私情をはさまず頑張っていきましょう」  そういうと、きびすを返して立ち去った。背筋をピンと伸ばした後ろ姿は、ホレボレするほどカッコよかった。ちょうどエレベーターから下りてきた見知らぬ男が、振り返って目で追った。いい女なのだ。中原は「待て」を命令された犬のように、カフェオレとサンドイッチを持ってじっと立ったまま、史織の目に浮かんだ涙を思い返していた。行ってほしくなかった。失うのが惜しくて、たまらなくツラかった。     6  もう我慢できない。今度こそ、別れるぞ。  そう気合いを入れて呼び出した由佳子は、いつもどおりの屈託のない笑顔で「わあ、中原くんの方から電話かけてくれるなんて、久しぶり」と、何もなかったかのようだ。  二人は日曜日、昼下がりの公園にいた。着古したトレーナーとジーパンの中原と、子猫をプリントしたTシャツにチェックのスカートという|スーパー《ヽヽヽヽ》・ファッションの由佳子が並んで座る木陰のベンチの前を、犬を連れた老人やよちよち歩きの赤ん坊の手をひく若夫婦が行き交う。片手に缶ジュースを持った由佳子がスニーカーの足をブラブラさせている。思えば、二人で会うのはいつもこんな風だった。金のかからない女だ。しかし、そんな感慨にふけっている場合ではない。 「おまえ、いい加減にしろよ」  精一杯スゴんでみたが、由佳子は「あ、あの人、なんか言ってた?」と、アッケラカンとしている。 「なんか言ってたかみたいな、のんきなことじゃないだろ? 自分のしたこと、わかってるのか?」 「わかってるよ。中原くんの彼女の、中原くんへの愛情度を、試しました」噛んで含めるように、そう言う。 「なんだとオ!?」 「ひょっとして、お金受け取るって言うかもしれないじゃない。そんな人だったら、大変じゃない。そういう女、いるんだから。五十万円で手を打とうとかさ。それだけじゃないよ。これから先、中原くんにどんなピンチが訪れるかわからないじゃない。中原くんがうっかり浮気しないとも限らないでしょ。だから、どんなことがあっても中原くんと寄り添っていける人かどうか、試したのよ。ホントよ。あたし、何を言われようと結婚するとか、中原くんを信じてるっていう言葉を聞けたら、その場で、すいませんでした、冗談なんです、中原くんをよろしくお願いします、おめでとうございますって言うつもりだったのよ」 「そんな、おまえ」  これは一体、どういう発想だ!? 唖然として言葉を失った中原の顔を、由佳子は「大丈夫?」と覗き込む。 「大丈夫じゃないよ。おまえ、ヘンだよ、どうかしてるよ、フツーじゃないよ。大体、なんでおまえが彼女のこと知ってるんだよ。メールなんか出せるんだよ。おまえ、オレのこと監視してるのか!?」 「榊原さんが教えてくれたのよ」 「………!」  一体どういうことだと聞く前に、由佳子がチョロリと舌を出して「エヘッ」と笑った。 「榊原さんのことはね、あの、五年くらい前かな、中原くんと二人でいるとこ偶然見かけて、あとつけて、自己紹介して、ちょっと話したの」 「話したって、何を!」 「中原くんとのことよ。お互い、どういう付き合いかとか。あの人、自分たちは大人の関係だから、あなたが心配することは何もないって言ってた。あたしのことをね、『タッチ』の南《みなみ》ちゃんが大人になったらあなたみたいになるのかもねって笑ってた」  そりゃ、皮肉を言われたんだよと言ってやる気にもなれない。 「いい人ね。キリッとしてて、あたし、ファンになっちゃった。ときどき、一緒にご飯食べてたのよ。知らなかった?」 「……それで、榊原さんが何を言ったんだよ」 「中原くんが結婚するそうだけど、あんまり相性のいい相手とは思えないって。だから、あたし、心配になって」 「それで試したっていうのか! おまえに人の気持ちが試せるのか? 仲を裂きたかっただけだろ? そんなこといくらしたって、オレはおまえとはゼッタイ結婚なんかしないからな!」 「あたしだって、中原くんと結婚しようなんて、全然思ってないよ!」  人出が少ないとはいえ、住宅地の真ん中である。二人は声をひそめて怒鳴りあった。中原は植込の草を力任せにひきちぎった。興奮が収まらない。 「とにかく、おまえはフツーじゃない。頭、おかしいよ。三十三だろうが。フツーなら、子供の一人も育ててる年頃だぞ」 「だから、フツーになろうとしてるんじゃない」由佳子は悲しそうに唇を尖らせた。 「フツーじゃないって、友達にも言われたもの。この年になってまで中原くんのこと思ってるなんて、フツーじゃない。初恋の人とか初めての男が忘れられない、なんて女がいるはずがない。誰だって、今の男が一番っていう風に進化していくもんだ。あんたは学習能力がないって、馬鹿にされてる」 「………」  そういう言われ方は、あまり面白くない。中原は憮然として、飲み口を開けたまま忘れていた缶コーヒーをあおった。 「だから、あたしも反省したのよ。今まで、中原くん以外に三人付き合った人がいて、うまくいってると、中原くんに悪いような気がしてた。そのときはその人のほうが好きだったから。でも、結局みんなダメになった。あたし、中原くんには幻滅ってしたことなかったから、他の人とのことがダメになると、やっぱ中原くんが一番なのかもなあと思っちゃうのよ。何でも話せるし。だけど、もしかしたら、あたしは高校のとき中原くんを好きだった、あの時の自分に戻りたいだけなのかもしれない」 「……おまえの気持ちは嬉しいけど、ホントお互い、いい年なんだからさあ、いい加減大人になれよ」 「そうだよね。そう思ったから、今度は中原くんが幸せになるよう、あたしにできることがあったら何でもしようと心に誓ったのよ」 「だったら、何もしないでくれよ。なんで、あんなことしたんだよ」  泣き声になった。 「ええー、ダメになったの?」由佳子が意外そうに言う。「だって、あの時、あの人何にも言わなかったよ。ただ真っ青になっただけで。ああ、こういう修羅場《しゆらば》の経験ないんだなって、ちょっとかわいそうになっちゃった。だから、手切金の話は忘れてくださいって言ったのよ。まあ、こういう女がいたということだけ、お含みおきください、中原くんはいい人です、どうぞお幸せにって、あたし、二人分のコーヒー代払って帰ったんだから」  中原が甘く見ていたのは、得意先や涼子のことだけではなかった。由佳子のことも、そうだった。修羅場の経験だと? 由佳子は涼子にも会っていた。このぶんなら、中原のかつての女たちすべてと闘って、蹴散らしてきたのかもしれない。  すっかり力の抜けた中原は缶コーヒーを取り落とし、茫然と足元の地面を眺めた。  こういうのも、ストーカーというのだろうか? つきまとい、監視し、他の人間との仲をぶちこわす、キョーフのストーカー……。 「──中原くん」  遠くから、呼ぶ声がする。背中を撫でる小さな手の感触。これは悪魔の手の平なのか? 「中原くん、ごめんね。あの人のこと、好きだったのね」 「……好きだったよ」 「だったらカッコつけてないで、追いかけなさいよ」由佳子は明るい声で励ました。「あいつはフラれた嫌がらせをしただけだ、二度と邪魔しないようにキッパリ別れてきたって。心から話せば、きっと通じるよ。あたしが一緒に行って、悪ふざけでした、すいませんって謝ろうか。あたし、いくらでも頭下げるよ。なんでもする。だからさ」 「いいよ、もう。いいんだ。それほどの気持ち、ないよ」  本当にそうか? 中原は自分に聞いてみた。あの地下駐車場で別れてから、三日がたっていた。もしも本当に別れたくなかったら、史織の家に押しかけて「もう一度チャンスをくれ」と言えたはずだ。だが中原は、電話ひとつしなかった。あのキラキラした目に浮かぶ軽蔑の色を見るのが、そしてなにか決定的なことを言われるのが怖かった。 「オレは、ダメな男だからさ。オレなんかとは結婚しないほうがいいんだよ」  そうだ。ダメなヤツだ。弱虫だ。それでいて、受け入れてくれた相手のことをすぐにみくびる。傷つけられると忘れようとし、傷つけたことも忘れようとする。できるだけ楽でいられるように、なりゆき任せですませてきた。 「仕事もしくじるし。好かれてると思ってた女にはフラれるし。力になってくれてた人の気持ちを裏切るし、もう、どうしようもないね。ハハ」  自虐《じぎやく》の言葉を並べていると、小さな手が背中を撫でて、ささやく声が聞こえてきた。 「そんなことないよ。中原くんは、絶対盛り返せる人だよ。今までだって、いろんなことあったじゃない。でも、いつも挽回してきたじゃない」  そうだ。いつも、こうやってきた。一生懸命やったのに報われず、飲んでも飲んでも酔えないまま路地裏のゴミ袋の山に突っ伏してうめきながらゲロを吐いた夜も、オヤジ狩りにあってボコボコにされ、財布も時計も盗られてボロきれになった朝も、この声が隣でささやき続けてきたのだ。 「あたし、信じてるよ。中原くんは、ちょっとやそっとじゃメゲやしない。魅力もパワーも一杯あるから、きっとすぐに立ち直れる。今度のことも、すぐに笑い話にできるよ」 「……そう言ってくれるのは、おまえだけだよ」  ほら、見ろ。また、言っちまったじゃないか。  中原は目を閉じた。  そこにあるはずの由佳子の笑顔。チョロリと舌を出し「エヘヘ」と笑う、あの可愛い〈してやったり〉の顔を見ずにすむように。 [#改ページ]   おいしい水の隠し場所     1  金、貸して下さいよ──と、男が迫ってくる。そして、いいじゃないですかあと語尾を長く残して、横を通り過ぎていく。  ルイは、男が着ている白いパーカを視野の片隅でとらえながら、知らん顔でグイグイ歩き続けた。今年最後の五月晴《さつきば》れのもと、心身ともに虫干しをする野外ウォーキングエクササイズ中である。姿勢と呼吸に注意を集中しているのだ。バカに付き合っている暇はない。しかも、トレーニングで作ったダイナマイトボディーを〈ファインフィットスタジオ〉のロゴ入りTシャツとショートパンツで包み、ランチタイムで人があふれ出てきたオフィス街の真ん中を歩くのは、営業活動でもある。それでなくても通行の邪魔になるキックボードでまつわりつかれては迷惑千万。  斜めがけしたバッグや長く垂らした黒いストレートヘアが背中で刻むウォーキングのリズムを楽しみながら、つんと顎をあげて男を無視する。と見せかけて、ルイは紫外線カットの真っ黒いサングラスごしに彼の姿形をチェックした。スーツとネクタイの正調サラリーマンモードの上にナイロンパーカを羽織り、リュックをしょって革靴でキックボードを蹴り進めるという、真面目なのかふざけているのかわからない出立ちは得点ゼロである。だが、無視しきれない部分があった。  顔。かなり、美形。信号待ちで立ち止まった人群れにボードごと割り込んで、ルイに「お願いしますよ。お気持ちでいいんですから」と頼み込んでいるその顔に、何人かのOLの視線が釘づけになる。年の頃なら、二十代前半。グレーがかった微妙な色合いの髪がウェーブしながら目にかぶさって、長いまつげの陰が濃く、鼻筋は細く、黙っていれば完璧な美青年。惜しむらくは、口のきき方が大バカ野郎だ。 「妹が病気でね。手術費用がいるんです。助けて下さいよお」  内容のわりに口調が軽い。腕を組んでジロリと見るルイに、唇の片端をねじあげて笑う。その、ちょっとワルっぽい微笑がフェロモン手榴弾というわけか。 「お断りよ」  ルイはあっさり言って、信号が変わると同時に先頭を切って道路を渡った。  オフィス街から三ブロックほど歩いて路地に入り込むと、そこは飲み屋街だ。昼間だから、舞台裏丸見えの姿をさらしている。ここまで来るとさすがに人通りは少ない。ルイは立ち止まり、持参したミネラルウォーターを飲みながら、しぶとくついてきた男をジロジロ見た。男はキックボードのハンドルにもたれかかり、薄っぺらい微笑を浮かべたまま、こぶしで額の汗を拭った。 「その顔でお金引き出すつもりなら、相手が違うわよ」 「やだな。色仕掛けで金出させようなんて思ってませんよ。ルイさん、そういうの通用する人じゃないって有名ですもん。ただ、事情が事情ですから」  男は笑みを崩さずに言った。 「妹の病気? ハハ、どんな妹だか。とにかくね、誰に何を聞いてきたか知らないけど、あたしは可愛い顔とか上手なセックスとか可哀想な事情とかに財布のひもを緩めるタイプじゃないの。ろくでもない事ばっかり起きる世の中で、この人のためならバカになってもいいと感動させてくれる人に出資するのよ。担保は、あたし自身てわけ。あんた、ひとりで生きてる年増女ほど甘い言葉や優しい態度に弱い、なんて聞いてるんでしょうけど、お生憎さまだわね。そのセオリー、もう死んでるよ。近頃のリッチな年増はね、お金貸してって言われたら百年の恋も冷めるのよ。男は、ときどきいればいい。色と金じゃ、金のほうが大事。それが本音。あんた、美青年力で女にたかって生きる道を選んだんなら、人に言われたまんまじゃなくて、自分のシステム見つけなさい。素質はあるんだから」  男はルイをじっと見つめた。皮肉っぽい微笑は消えない。惜しいなあ。きれいな男は寂しげでなきゃ。大人ぶって斜に構えずに、捨てられた子犬みたいなおすがり目線で正面攻撃かけるのよ。ああ、訊いてくれたら、教えてやるのに。 「じゃあ、せめて、この顔に負けて貸してくれそうな人、紹介してくれませんか?」  それじゃ、訊き方が違うでしょ。ルイはため息をついた。 「あのね」ルイは彼の肩に片手をかけて、その美しい目に語りかけた。「あたしが素質を認めながらもあんたに貸さない理由は、そこよ。どんな世界でも、素質はあっても努力しない人間はモノにならないの。わかる?」 「努力?」男はものすごくおかしいギャグを聞いたように、のけぞって大笑いした。そしてボードをターンさせ、挨拶もせずにアスファルトの地面を蹴った。  平坦な道を行くキックボードは、何度も蹴り直さなければ前進しない。子供の頃にああいうので遊んだな。ルイは、片足をひょいと後ろにあげているせいでマヌケに見える後ろ姿を見送った。  彼とは、ルイがチーママを務めるバー〈よし絵〉で二回顔を合わせただけだ。古なじみの杉浦という客が何人か引き連れてきた中にいた。直接言葉を交わした記憶はない。それなのにどこからたどったのか、今日、ルイのマンションの前で待ち構えていて、玄関から出てきたところへキックボードでスイーッと現われた。それからずーっと「金、貸して下さい」一点張りで、ここまで約二キロの道のりを地面を蹴り蹴り、ついてきたのだ。それは「努力」の部類に入れてもいいかもしれない──と考えかけた自分に気付いて、ルイは大きく頭を振った。  いかん、いかん。あの程度のことで貸してやると、つけあがるだけだ。それでなくても小金持ちゆえに、金目当てで言い寄ってくる連中をかきわけかきわけ生きている今日この頃。このうえ、あいつは甘いと評判が立ってはたまらない。人の金をあてにして生きる輩《やから》は独特の情報網を持っているらしく、白蟻《しろあり》みたいに一匹見かけるとその三百倍は近くに潜伏していると思っていい。油断すると、食いこまれてしまう。ルイはミネラルウォーターをバッグに戻すと再び大股で歩き出し、男の薄情そうな微笑のイメージを踏み潰し、蹴散らして捨てた。  飲み屋街からさらに一本裏の路地では、小さな商店と雑居ビルが傾きかけたお互いの体を支えあうようにミッシリと軒を連ねている。立ち話たけなわのバケツを下げた花屋のおじさんと白衣の薬屋のおばさんは、通り過ぎるルイをそれぞれ視線で追いながらおしゃべりを続行。スモークガラスのドアに〈純喫茶〉と切り出したテープを貼りつけているマスターは、くわえ煙草の横から「よお」と声をかける。ルイは彼に「ハーイ」と返し、隣の来々軒の暖簾ごしに客のいない店内を覗き込んだ。厨房に座ってむっつりと競馬新聞を読んでいた店主が、ジロリと目を向けて「おお、ご苦労さん」と言った。それには無言で頷いてみせて、三軒先の間口の狭いビルを目指す。  鍼《はり》・灸・マッサージの治療院や何をやっているのやら英語の頭文字を並べた会社らしきもの、訪問販売の化粧品の代理店といった弱小業者が入居している五階建ての年代ものの|ビルヂング《ヽヽヽヽヽ》だ。エレベーターがない。トレーニングオタクのルイでさえ、五階の一番端にある沖村の事務所にたどりつくと文句のひとつも言いたくなる。実際、何度も言っているのだ。 「弁護士も客商売なんだから歩かせるんなら二階まで、でなけりゃエレベーター付きのビルに引っ越しなさいよ。金持ちの年寄りなんかだと、途中で帰るわよ。リッチな客とりたいんなら、それなりのことしなきゃ」  沖村は「引っ越しなんかメンドクサイ」と、聞く耳持たない。やる気があるんだろうか。大学の法学部にも司法試験にもスイスイ通った切れ者でありながら、沖村は身なり構わず頭も禿げるに任せ、ときどき弁護料もとりはぐっている。これでは、女房に逃げられても仕方ない。  旧式のブザーだけのドアホンを無視し、〈沖村鉄法律事務所〉とプレートが貼ってあるスチールドアをドンドンとふたつ叩いて、返事も待たず中に入った。 「あら、ルイさん」  サングラスをはずして顔を見せると、パソコンをいじっていたアルバイト秘書のリカが目をあげた。着ているスーツは、彼女が新米ホステスだった頃にルイがあげたお古だ。胸の切れ込みは深く、スカート丈は短い。いいのか? 人権の番人の秘書が、こんなチャラチャラで。  まったく、沖村の職業意識はどうなっているのか。事務所の貧乏くさいロケーションを筆頭に、お色気秘書と知り合いからの貰い下げでまかなっている器機備品。そして、それら手垢にまみれた書棚やキャビネットの空き地に、または接客用のテーブルやロッカーの上に、あるときはペーパーウエイトがわり、あるときは意味もなく置かれているビニール製のウルトラマンと怪獣たち、およそ三十体が形成するこの世界は、一体ナンなんだ。「ビジネスにはイメージが大事なのよ。それなのに、ウルトラマンはないでしょう」ルイの忠告を、沖村は「これでいいのだ」とバカボンのパパのごとく泰然と切って捨てた。 「弁護士事務所に来る人は、くらーい気分なんだ。よっぽど訴訟に慣れてりゃ、別だがな。たいていは縮み上がってる。うまく事情を話せるだろうか。この先生は信用できるだろうか。そう思ってビクビクもんなんだ。そこに、こいつらが目に入る。あ、バルタン星人だ。これで一挙になごむのよ。話のきっかけになるしな。ウルトラマン人口は、おまえが思ってるより多いんだ。バカにすると、天罰が下るぞ。第一、きみ、ウルトラマンは地球とよい子を救うために闘うヒーローだ。オレそのものじゃないか。これをイメージ戦略といわずして、なんという?」  それはそうかもしれないが、もうちょっとナントカするべきだとルイは思っている。素人は外見に左右されるものだ。腕はいいのに商売が下手だから、沖村の世間的評価はいつまでたってもBランク。ルイは、それが口惜しくてたまらない。 「まったく、あんたって人は、弁護士に人が何を期待するのかを少しは考えて」とブツブツ言いながら沖村のいる奥の間に向かおうとしたルイを、リカが身体で止めた。 「今、お客さまですから」と、睨みあげてくる。ルイは構わず「センセ、胡瓜《きゆうり》の漬物お持ちしましたのよ。お茶請けにいかが?」と声をかけた。奥の間といっても、スチールキャビネットとゴムの鉢植えがパーティション代わり。ボスと秘書をつなぐインターコムなどない。声をかければ用が足りる狭さだ。 「依頼人なんですよ! 仕事中なんですから少しは遠慮なさったら!?」細い描き眉を怒らせてとがめるリカを、ルイは「ふぅーん」という顔で見下ろした。  あんた、あたしにそんな口きいていいの? ホステスのイロハ教えたうえに、ここのアルバイト売り込んであげたのは誰だと思ってるの?──ルイは表情でリカにそう伝えた。しかし、惚れた弱みで鈍感になっているリカは負けずに見返してくる。なんと、リカは沖村にぞっこんなのだ。だからルイは、沖村を訪れるときは決まって刺激的な格好をして、彼女をヤキモキさせるのをヨロコビとしている。当の沖村はひとりの人にハートを持っていかれっぱなしなのに、リカはそれがわかってない。そばにいれば、なんとかなると思っている。ちょっと、可哀想──。  ルイは余裕の眼差しでリカを見下ろし、沖村に言った。 「初夏の味。旬の胡瓜の糠漬けで、話し合いの風通しをよくしたらと思ってるんですけど?」 「集金なら、今日、金ないぞ」  ゴムの木の向こうから、沖村の声がした。そういうことを口に出して言えるくらいなら、気心の知れた客らしい。  依頼人らしき男の背中ごしに沖村の様子が見える。客が相当親しいのか、あるいはことが相当厄介なのか、ワイシャツの第一ボタンをはずし、ネクタイを緩めるという「お疲れ様」スタイルである。しかし、片手に握った古代怪獣ゴモラの尻尾をいじるのは、真剣に考えこんでいるときの癖だ。ルイはゴムの枝から腕を突き出し、ポリ袋に入れた胡瓜と大根の漬物を陽気に振って、彼の注意を惹いた。 「しゃきっと歯応え残して、うまい具合に漬かってますけど」 「うむ。よきにはからえ」  ルイはむくれ顔のリカにニンマリと白い歯を見せて、隅にある食器棚から勝手に小皿を取り出し、胡瓜と大根を形よく盛り付けた。そして、緑と白のコントラストがみずみずしい漬物を目の高さに捧げ持ち、「熱い焙じ茶にしてね」とリカに命令して、鉢植えの横をすりぬけた。  沖村が座っているデスクは、彼の師匠筋に当たるセンセーがお下げ渡しくだされたもので、デカさといい古さといい、さすがの貫禄である。ただし、机上は混乱を極めていた。書類整理箱もファイルも角も揃えずつっこまれた書類でふくらみ、そこかしこで資料の小島が身を寄せあっている。沖村と差し向かいで座っている依頼人を結ぶ線だけが安全地帯のように空き、コーヒーカップが置いてあった。ルイは座っている依頼人の横に立ち、爪楊枝を添えた漬物の小皿をデスクにすべらせて、あらためて「いらっしゃいませ」と頭を下げた。こざっぱりした紺色のサマースーツを着た依頼人の男は戸惑い気味に会釈し、自然の流れでルイと目を見合わせた。 「あ」  驚いたのは、ルイだった。 「室田?」 「え?」沖村と依頼人が同時に反応した。 「室田|俊《しゆん》、じゃない。もしかして」 「なんだ。知り合いかよ」  沖村の言葉に室田は「え、いや、僕は」と口ごもって、訝しげにルイを見つめた。 「相沢類子よ。ほら、のっぽのルイコ。県立青葉高校三年D組。卒業式以来だから、覚えてないかな。進学組と就職組で、あんまり接点なかったし」  でも、あたしはいつもあんたを見てたんだよ、と心の中で続けた。 「え──」とさらに戸惑う室田をよそに、沖村が爆笑した。 「高校のクラスメイトか。それじゃ、わからんよな。こいつ、顔全面改訂してるもん」  それは、つまり──言いかけてやめた室田の代わりに、ルイは「そ。マイケル・ジャクソン並みのお直し顔よ」と言葉にして、過剰なまでに色白で彫りの深い国籍不明の顔を突き出した。すると、弾かれたように室田が立ち上がった。  形よく切り揃えられた髪に白いものがまじっているが、がっしりした顎、真っすぐな鼻、真っすぐな唇、スーツが似合う真っすぐな肩、優しい心根を伝える切れ長の目は変わらない。こうして同じ高さの目線でみつめあうと、フニャフニャした線がどこにもない青い野草みたいだった少年が、二十五年の時をこえて少し疲れた風情の男の身体にピタリと重なった。 「相沢。相沢か」 「身長一七五センチ。高校のときから、一センチも伸びてないよ」  あの頃はデカイのが恥ずかしくて、特に室田の前では恥ずかしくて、いつも高飛車によそ見をしていた。こんな風に、まっすぐ目と目を合わせたことはない。無口だけれどワルぶったり変わり者ぶったりせず、試験勉強も掃除当番も同じように「やるべきことはやるよ」とばかり淡々とこなす、とてもマトモでとても普通だった室田俊が、十七歳のルイにはまぶしく見えた。初恋ではないが、高校のとき一番好きだった男だ。想いを秘めていただけに忘れられない少年。いや、今の今まで忘れていたが、思い出したら心は一気に十七歳に戻った。ルイはドキドキし、それを隠すために派手にクルリとまわってモデル立ちのポーズを決めた。 「エッヘッヘー。驚いた? 名前も少し変えて、アイザワルイと申します。カタカナのルイね。もう二十年、この名前」 「胸もお直し入ってるだろ。一生垂れないようにシリコンでガチガチに固めたせいで、うっかりわしづかみした酔っ払いが突き指したって伝説の」  沖村が無遠慮に言い募る。 「デミ・ムーアもこういう胸よ。ハリウッド・スタイルなんだからね」ルイは言い返して胸を揺すって見せながらも、ひそかに室田の顔色をうかがった。整形手術を受けたことを恥だと思ったことはないが、室田の反応は気になった。 「でも、どうして」室田は口ごもった。そして、うつむいた。あまりジロジロ見てはいけないと思ったのだろう。 「あたし、モデルになりたかったのよ。そのためには顔が問題だと思ったわけ。だから」 「で、今、モデルなの?」  室田は、未だ釈然としない様子でルイの顔をはすかいに眺めた。 「まあ、ね。ヴォーグの表紙にパリコレ、てのは無理だったけど、結婚式場のパンフレットとかエステの広告とか、けっこうやったよ。さすがに四十過ぎたら、あんまりお呼びがかからないけどね。そのかわり、プロポーション維持に通ってたフィットネススタジオで中高年向けのエアロビやエクササイズの講師の仕事、頼まれるようになってね。そっちのパンフレットはほとんどあたしの写真だから、まあ、今でも現役のモデルだと、自分では思ってるわけよ。ミセスものの服のモデルもしてるし」 「スーパーモデル、バーゲンチラシのな」茶々を入れる沖村に「通販カタログもやってます」と言い返し、ルイは室田に笑いかけた。 「だから、まあ、夢はかなえたわけよ」 「それならいいけど」室田は少し悲しそうな顔をした。 「でも、オレ、相沢の顔、可愛いと思ってたよ。夏になると、鼻の頭の皮がむけてて」  ルイはあせった。確かに夏休みに入る頃、室田に鼻の頭の皮むけを指摘されたことがある。笑われたと思い込んだルイは「何よ。文句ある?」と喧嘩腰になった。そして、特徴がないだけに、ちょっとした傷が目立ってしまう自分の顔を恨んだ。あのときの居たたまれない気持ちが、いきなり胸に噴き出してきた。 「モデルになるためには、あの顔じゃダメだった。この顔で仕事をかちとったの。今の仕事もその延長だもの。この顔は、あたしのガッツの証明よ。だから、顔は変わっても、あたしという人間の内面は全然変わってない」  なにをムキになってるんだろう。ルイはうなった。話題を変えよう。 「それより、なんで室田がここにいるの?」 「オレたち、大学んときのスキー同好会仲間。卒業してからは年賀状のやりとりくらいだったけど、有能な弁護士が必要な事態が起きて、おっとり刀でオレっちまでかけつけたってわけさ」  沖村が答えた。 「──もしかして、離婚の調停?」ドキドキしながらカマをかけると、室田は困ったように微笑んで首を振った。もしかして、結婚してないとか? 反射的に期待したが、沖村がすぐに水を差してくれた。 「そっちはうまくいってるの。室田、市民運動家なんだぜ。ゴミの不法投棄をした悪徳業者を訴えるんだよ。すげえだろ」  ルイは室田を見た。室田は苦笑いを浮かべて、視線を横にずらした。整形手術よりも、市民運動のほうが恥ずかしいと言っているように。  そこに、リカが二人分の焙じ茶を持ってやってきた。ルイは、ふたつの湯呑みをさっと取って自分と室田の前に置き「センセには寿司屋のでっかいので入れてあげてね。漬物つまむときは、ガブ飲みする人だから」と、リカに先輩風を吹かせた。リカは思い切りルイを睨みつけながら「はい」と返事をして下がった。 「ルイの漬物、ほんと、うまいぜ」室田にすすめ、自分もポリポリ食べながら、沖村は室田の運動について解説した。  室田は大学卒業後、通信機器メーカーの総務部でリスク・マネージメントを担当した。そういうと聞こえがいいが、実は事件や事故が起きた場合のマスコミ対策や消費者とのトラブルで会社の損害を最小限に止《とど》めるためのテクニックを研究実施するチームに組み入れられたのだ。ストレスの多い仕事に耐えて昇進すると、総会屋対策のようなタフな業務が加わり、神経性の脱毛症や胃潰瘍に苦しむようになった。そのうえ、社内結婚でできた子供が小学校でいじめにあう。夫と子供の不幸に、妻が決断した。都会を捨て、妻の実家の製材業を手伝おうと言い出したのだ。 「観光果樹園を作ったり、木工のギャラリー作ったり、何かそういう、森でできる仕事しましょうよ」  夢のような話、甘い話と思ったが、村おこしに懸命になっている同世代の男たちに刺激され、製材業を維持するだけならできるかもしれないと、会社を辞めて家族で引っ越した。それが、もう十年前だという。観光果樹園は仲間と共同で実現させた。ここを起点になんとかやっていこうという矢先、管理の行き届かない地所に何年も前から不法投棄されていたゴミが自然発火して山火事を起こしたことから、事件が始まった。  不法投棄した業者を突き止め、行政側に告発したが、勧告処分が出ただけ。海千山千の業者はノラリクラリと勧告をかわし、賠償金を払わないどころか、監視の目をかいくぐって不法投棄を続けている。ならば、大々的に告訴して世論にも訴え、損害賠償と環境保全を勝ち取ろうと運動体が組織された。そして、総会屋対策の経験があるというだけで、室田が責任者にまつりあげられたのだった。 「お、そうだ。室田、相沢にカンパ頼めよ。こういう長引きそうな訴訟は金がかかるからな。こいつ、貯めこんでるぜ。なにしろ、趣味は資産運用なんだから」 「やめてよ」  弁護士のくせに人のことをパアパアしゃべる、とんでもないやつだ。ルイに借金申し込みにくるタカリ虫どもの半分は、沖村の口が情報源じゃないのか? 「身体が資本の個人営業だから、自転車操業でやっと生きてられる状態なのよ。ご苦労なしにゴージャスがやれるお金持ちの奥様お嬢様とは違うんだから。誤解を招くようなこと、言わないでよね」 「だって、パトロンがいるじゃないか。あ、そうだ。室田。こいつのパパ、引退してるけど、すげえ実力者だぜ。いわゆる乗っ取り屋でさ。政界にも右翼にもお友達がいるっていう──おお、そうだ。それだよ」  沖村は立ち上がり、デスクごしに腕をのばしてルイの肩を叩いた。 「あのジイさんなら、その筋に顔がきくじゃないか。口きいてもらえよ。蛇《じや》の道は蛇《へび》で、こういう裏社会がらみの訴訟は、その筋からつっつくのが一番よ。すげえ、すげえ。ルイ。胡瓜の漬物が今日食べ頃になったのは、神様の思召《おぼしめ》しってやつじゃないか? 今日じゃなけりゃ、二人会えなかったんだものな」  ひとりではしゃぐ沖村についていけずに、室田は茫然とルイをみつめた。  違う。違うのよ。パトロンとかパパとか、あたしはそういう女じゃない。  そう言いたかったが、会長さんとの仲を説明するのは難しい。一千万円ちょっとで売ってくれた2LDKの新築マンションは、ルイに月々二十万円の安定した家賃収入をもたらしている。株式売買のアドバイスも受けているし、〈よし絵〉には彼の名前でキープされたレミー・マルタンが鎮座している。重さで台から転げ落ちそうなダイヤの指輪ももらった。傍目には、確かにパトロンなのだ。だが、決して金で結ばれた縁ではない。金銭でしか気持ちを伝えられない人間が、この世にはいる。それは、悲しいことだ。悲しいとわかるから、ルイは会長さんと心で結びついている。  沖村に、パパの愛人呼ばわりされるのは腹が立たない。沖村は、そこにある種の友情が成立しているのを察しているからだ。だが、室田はそうではない。室田は、何も知らない。何も知らず、自分を哀しげに見る室田の目がつらくて、しかし、目をそらすのも口惜しいから、ルイは彼に微笑みかけた。 「──頼めるの?」室田が低い声で訊いた。 「もう、そういうことから手を引いてるんだけど」はっきり断れず、ルイは優柔不断に語尾をごまかした。 「現役の頃は、ずいぶん人を泣かせてきたんだぜ。ここで人助けすれば、気持ちよくあの世にいけるってもんじゃないか。本人のためにもなる。ルイ、話してみろよ。話すだけなら、いいだろ。ルイが言えば、ジイさん、聞いてくれると思うがな。そうすりゃ、勝利間違いなし。裁判まで持ち込まずに、和解金引っ張り出せるぞ。そして、美しい森林の環境は守られ、室田の顔が立ち、オレのキャリアにも箔がつく。金も入るしな。そしたら、おまえんとこの店のツケも払える。おまえにも、メリットがある。四方八方、いいことずくめだ。ああ、もう、祝杯あげたい気分。よし、室田。今夜、ルイの店に飲みに行こ」  沖村はすでに絶好調である。一方的にしゃべり倒す馬力はさすがに弁護士だが、室田に言わずにすませようとしていたことすべてをばらされて、ルイは苦り切った。 「店って」案の定、室田はルイに訊いた。 「あたしはね、モデルでエクササイズのトレーナーで、小さいバーのチーママなの」  ルイは仕方なく、バッグから肩書きの違う三種類の名刺を取り出して室田に渡した。 「バーのほうは、パートみたいなもんなんだけどね」という言い訳を、沖村が「お得意さん、あのジイさんだけだもんな」と補足した。しかし、すぐに「ルイは豪傑だからな。ママにとっての精神的な用心棒て感じで、頼みこまれてチーママやってるんだよね。売り上げ関係ないんだよ。バー〈よし絵〉の良心っていわれてるんだぜ」とフォローするところが、彼の憎めないところだ。  まあ、隠し立てするほうが、誰にというより自分に対して不誠実だ。そう思い直したルイは室田に満面の笑顔を広げた。 「会長さんに紹介するしないはともかくさ。飲みにおいでよ。鉄ちゃんのツケで」 「おごれよ。久しぶりの再会だろ」沖村が言ったが、室田は「いや。せっかくだけど」と断った。ルイは、拒絶されたような気がした。 「どうして? いいお店よ。カラオケなんかないし、へんなショーもないし、腕のいいバーテンダーがいる、静かで感じのいいバーよ」 「そうだよ」加勢する沖村に、室田はすまなそうに首を振った。 「ここまで来たアゴアシ、カンパなんだよ。酒飲みに行ったことがバレたら、何言われるかわからない」 「もう、始まってるのか。中傷合戦」  今までで一番シリアスな顔の沖村の問い掛けに、室田は苦笑いを返した。 「なに。どういうこと?」 「複数の人間が集まって運動始めるとな、必ず足の引っ張りあいが起きるんだよ」ルイの問いに沖村が答えた。 「業者側に金もらって寝返るのもいるしな。どんな大義名分があっても、どんなに志が高くても、組織ができるとすぐに内部分裂が始まる。人間ってのは、タチが悪いんだ。おかげでオレたちは飯が食えるんだがな。だから、ルイ」  沖村は、真面目な顔でルイを見つめた。そうすると、愛想のいいブルドッグみたいな沖村がいっぺんにシェパードのように凜々しくなる。リカが惚れるのも、わからなくはない。 「カンパでここまで来た室田は、手ぶらじゃ帰れないんだ。運動に首つっこんだからには、こいつは、必ず傷つく。勝っても負けてもボロボロになる。それでも、こいつはそれを引き受けたんだ。友達なら、力を貸してやれ」  ルイは室田を見た。見返す室田の目が疲れていた。  この人のためならバカになれると見込んだ人の頼みなら、あたしはきく。それは、あたし自身を信じることだから。 「話してみる」と、ルイは室田に言った。沖村がガッツポーズを作る。室田は何も言わなかった。ただじっと、ルイの目を見ていた。ルイは微笑みを浮かべて、その視線を吸い取るように受けとめた。それは、十七歳のときにはしたくてもできないことだった。胸が熱くなり、次の瞬間には容易に手を出せないものを想う悲しみが押し寄せてきた。あの頃と同じように。     2  夕暮どきの空に似た深いブルーのベンツに乗り込むと、葉巻の香りがした。葉巻とコニャックが似合うジャン・ギャバンみたい──と、ルイがやや持ち上げ気味に評してから、会長さんは背広の胸ポケットにハバナ産のそれを三本入れてくるようになった。 「ごめんなさい。急にお呼び立てして」  走る車の中で頭を下げた。 「いや、近頃ようやく面倒な筋からの呼び出しがなくなってね。隠居が板につき過ぎて、生きとるのが億劫になってきだしたところなんだ。たまにデートでもせんことには、風呂にも入らん、顔も洗わんで、汚いジジイになってしまうよ」  ホッホッホと、会長さんは笑い声を立てた。  八十二歳になるそうだ。白い髪が禿げた頭頂部を取り巻いている。眼鏡をかけた丸顔は笑うと円満このうえないが、自分だけの考えにふけっているときは近寄りがたい険がある。一代でのしあがった人物にありがちな小男で、オーダーメイドの紳士服をまとい、怜悧な眼差しを持つ若い秘書とレスラーあがりの運転手兼ボディーガードを従えて動くから、周囲を取り巻く空気はいよいよ剣呑《けんのん》だ。  ベンツは、〈よし絵〉が入っているビルの入り口に横付けされた。あたりは建ち並ぶビルのすべてにバーやスタンドの名前が光る古くからのネオン街だ。六時をまわってまもないというのに、道路の両端には肩もあらわなドレス姿で客引きをするフィリッピーナたちが列を作り、中央を割ってゆっくり走るタクシーの間を縫うように香水の匂いをプンプンさせた女や手首にロレックスを光らせた男が往来している。  ルイは、そんな喧騒から会長さんを守るように車を下りる彼に手を貸し、すばやく肩を抱き込んでビルの中に入った。一六〇センチしかない会長さんは、ルイが横に立つと隠れてしまう。かつては、誰の差し金ともしれない男に刺されたり、会社を乗っ取られた社長の家族に恨まれて嫌がらせにつけまわされたり、四六時中気が抜けなかったという。しかし、引退して「どうも癌らしい」という噂が流れてからは潮が引くように人が去り、同時にあぶない目にあうこともなくなったそうだが、いまだにボディーガードが離れないのだ。ルイにも身構える習慣がついた。  エレベーターが開くと、そこはもう店の中である。〈よし絵〉は十二坪ほどのごく小さな店だ。薄いブルーがかった照明がピンクベージュの大理石をぼんやり照らす空間を、熱帯魚のような女たちがドレスの裾をひるがえして動きまわる。アルコールの冷たい香気が頬を撫でると、お腹の底にポッと小さな火がともる。クールとホットが混じりあい、本当の顔で嘘をつき、嘘つく顔で本当のことを洩らす夜の店が、ルイは嫌いではない。  秘書の小林青年が先に立ち、後ろをボディーガードの平松に固められて、ルイに抱き抱えられた会長さんが姿を見せると、ママの由枝《よしえ》が挨拶にやってきた。 「おひさしぶりでございます。お元気そうで」小腰をかがめた姿勢から会長さんを見上げるようにして、由枝はささやいた。  濃紺に白い小さな花びらを散らしたシンプルなワンピースを着ている。絞ったウエストからなだらかなフレアーが広がる。ほっそりした身体でなければ美しく着こなせない服だ。肩までのおとなしいウェーブヘアに縁取られた顔は、若い頃の佐久間良子に瓜二つ──というのは、彼女の元亭主、沖村の説である。水商売らしくない地味で品のいい身なりが、持って生まれた美貌をさらに際立たせている。雇われママの由枝こそ、この店最高の調度品だった。  たおやかで、優しげで、ボゥッとした眼差しがどうしようもなく色っぽい。まだ三十七だから、もっともっと艶冶《えんや》になるだろう。  ルイは、男の胸を騒がせずにおかない由枝の美しさが好きだ。彼女を見ると、神が作った美は整形手術では再現不可能だとつくづく思う。しかし、天与の容貌もモデルとしては不発だった。瞬時に表情とポーズを決めるモデル的反射神経がゼロなのだ。モデルエージェンシーの先輩としてルイは根気よく基本を教えたが、向かないと悟った由枝の転身は早かった。世話する人がいて水商売に入り込むやたちまちご贔屓《ひいき》を増やして、それこそ水を得た魚。「一生お守りします」と拝み倒されてしていた結婚を、ポイと投げ出した。  沖村は、由枝の「自分の人生を生きたいの」という一方的な離婚申し出を受け入れ、そのうえ他の男の出資で始めたバーの売り上げに貢献すべく、金もないのにせっせと通うだけでなく、毎回きれいな現金払いをしてみせる。その金の立て替えをルイが引き受けたのは、別れても好きな人にツケで飲む姿を見せられない、そんな沖村の見栄を応援したいからだ。負担にならない愛情生活でお茶を濁すよりは、とびきり美しい女の餌食になって人生の幾分かを無駄にするほうがいい。沖村の男心を、ルイは文字通り、買ったのだ。  しかし、会長さんのように男心を卒業すると、類《たぐ》い稀な美貌も壁紙同然らしい。静かにたたずむ由枝をろくに見もせず、ルイに手をとられてあらかじめ用意されていた席に向かった。秘書とボディーガードは由枝に案内されて、カウンターに座った。壁が鏡張りになっているそこなら、背を向けていても会長さんを見守ることができるのだ。  新米ホステスの沙也加にレミー・マルタンのボトルとチェイサーを運ばせて、ルイはカウンターの中に入り、ヴィトンのバッグから漬物の容器を出した。会長さん用にガラス鉢に盛っていると、横に由枝がやってきて「いい色の胡瓜ね。鉄ちゃんにも持っていってくれたの?」と、小声で訊いた。 「うん」 「そう。元気だった?」 「元気に太ってた。ウチのスタジオに来いって言ってるのにきかないから、お腹タプタプ」 「そう」  横目を使うと、由枝の憂いを含んで湿り気のある横顔が見えた。由枝は多分、ルイが沖村の飲み代を立て替えていることを知っている。知っていて、知らぬ振りをしている。そうこなくっちゃ。美しい女は善人でいてはいけない。刺のない薔薇なんか、退屈なだけだ。  ボゥッとしている由枝に笑いかけて、ルイは漬物と昆布茶を持って会長さんの席に向かった。そして、彼に寄り添って座り、沙也加がかねての指示どおりブランデーグラスに三分ほどのレミーを注いだのを見計らって「ありがとう。あとはいいわ」と追い払った。  会長さんはグラスを持ち上げ、ゆっくり揺らして香りをかいだあと、テーブルに戻した。そして、胡瓜をつまんで昆布茶を飲んだ。会長さんのレミーを飲むのはルイの役目だ。彼は酒を飲まない。代わりに、ルイが用意した昆布茶や桜湯や上煎茶を飲む。そして、話す。 「胡瓜か。子供の時分、夏のおやつといえば、胡瓜に味噌を塗ったやつだったな。生味噌むすびを知ってるか? 腹が減ったというと、おふくろが作ってくれた」  会長さんの話は、近頃とみに母親に関するものになってきた。前は、たくさんいた兄弟姉妹や小学校の悪童仲間、白いブラウスがよく似合った女先生と、登場人物も盛り沢山だった。とはいえ、老人の繰り言である。同じ話を何度もする。だがルイは、いつも初めてのような顔をして聞いた。  お母さんのおっぱいが出ないので、一番上のお兄ちゃんが夜な夜なあちこちの牛小屋に忍び入って絞ってきた牛乳で育ったこと。十二歳で町に奉公に出たお姉ちゃんが買ってくれた新品の運動靴が汚れないように、小学校の行き帰りの山道を裸足で歩いたこと。家の外の掘っ立て小屋が便所で、冬の寒い夜にはお母さんに背負われておしっこに行ったこと。途中で漏れそうになったので、お母さんに見守られながら、裏庭の雪におしっこで穴を開けたこと。貧乏で子沢山の家に生まれた田舎の子供の話は、四十二歳のルイにとってさえ、日本昔話的ファンタジーの世界だ。なにより、話しているときの会長さんの顔が胸にジンとくる。彼は微笑むのだ。宙に向かって。そのとき、彼がまとっている虚しさと孤独が雪が溶けるように消えていく。 「やあねえ。ジジイの昔話」と、二十歳そこそこのホステスたちは陰で悪口を言っている。ルイも、その年ならそう思っただろう。だが、三十半ばを過ぎた頃から、両親の老いが見えるようになり、その先にある死を意識せざるを得なくなった。  会長さんの昔話を聞くたびに、ルイは死にゆく人を看取っているような、なんともいえない悲しみを味わう。彼にはもはや、昔話しかしたいことがないのだ。  熱心に話を聞くルイに、会長さんはマンションを安く融通し、株のアドバイスをして、金銭的な援助を惜しまない。「何か、不自由してないか」と、よく尋ねてくれる。ルイは「大丈夫ですよ。でも、何かあったら言います」と答える。それで、会長さんは安心するからだ。してやることがある限り、人は自分から離れない。それが、彼の経験則がもたらした他人とのつながり方だった。彼はそれ以外の方法を知らない。  夜の街で働き始めた頃、ルイは中学生くらいの女の子がショッピングビルで悪い仲間に万引きを強要されている現場に出くわした。ただの度胸試しなら見逃したのだが、いい家の嬢ちゃん坊っちゃんに悪事をさせてそれをネタに親をゆするチンピラの影が見えたから、ルイは聞きかじっただけのさる筋の名前をちらつかせて悪童どもを抑えこみ、少女をその場から連れ出した。そして、タクシーで送った屋敷で、出迎えに出てきた会長さんと知り合った。そのときは、名前も名乗らず挨拶だけで帰ったのだが、誰かに調べさせたらしく、おん自ら〈よし絵〉に訪ねてきてくれた。ルイの何を気に入ってくれたのかわからないが、それ以来十年に及ぶ付き合いだ。  どういう人かは、沖村に聞かされた。会長さんという呼び名は、連れてきた秘書や運転手の口真似だ。沖村から聞かされた数々のエピソードから、公の場所で名前を呼ぶとよからぬ連中の注意をひいてしまうのではないかと危惧したせいだ。ルイはルイなりに、会長さんの身の上を心配していた。 「まあ、殺されたってしょうがないかもしれないんだぜ。人が営々と築いてきた会社をギャンブルみたいな仕手戦だけで取り上げてきたんだ。実際、自殺者も何人かいるしな。きれいな生き方とはいえんさ」と、沖村は論評した。 「そうだけど……会長さん見てると、自殺した人とさせた人の背負うものって同じだって気がするのよ。ボディーガードがいなきゃ安心して外を出歩けない生活が、楽しいわけないわ」ルイはそう思い、沖村にもそう告げたのだった── 「この間な、お祖父ちゃんくらいになると、夢なんて言葉、意味なくなるんでしょうねって夏美が言いやがるのさ」  会長さんの声に、ルイはまばたきをした。心をこめて務めているつもりでも、やはり同じ話を聞いているといつのまにか耳がお留守になって他のことを考えている。 「へえ。夏美ちゃんが」ルイは急いで、相槌を打った。夏美というのが、ルイが助けた孫娘である。 「うん。それでね。オレは言ったよ。夢はあるよ。こうなってほしいという願いを夢というんなら、お祖父ちゃんにだって、ある」  欲しいものは何にもない──はずではないのか。ルイは、会長さんの顔を見た。 「どんな夢か、聞きたいな」と言うと、会長さんは遠くに視線を投げた。 「もう一度、おふくろに会いたい」  会長さんはテレて、胸ポケットから出した葉巻を鼻に当てて匂いを嗅ぐふりをした。 「夏美に言うと、マザーなんとかだって気味悪がられるから、おまえの花嫁姿を見ることだとごまかしたがね。それは嘘だ。孫が可愛いのは、小さいうちだけだよ。もう、どうでもいい。オレはただ、おふくろが恋しい。それも、ばあさんになったおふくろじゃなく、若い頃のおふくろばかりが思い浮かぶ。妙なもんだ」 「そこまで大好きになれるお母さんで、会長さん、幸せね」ルイが言うと、会長さんは首を振りながら「そうかね。そうなんだな」とわずかに笑った。  八時近くなって、客が増えてきた。「いやあ、ママ、きょうもお美しい。疲れたボクを慰めて」と、働き盛りの男たちが大声でのさばっている。会長さんは「それじゃあ、帰ろうか」と、秘書の小林青年に合図をした。素早く近寄ってきた彼が「ルイさんのご用はすみましたか?」とささやいたので、会長さんは「あれ?」という顔をした。 「何かお話があるということで、予定外でしたが、ここに来たわけで」小林青年に言われ、「ああ、そうだった」と会長さんは椅子に座り直した。 「すまんね。じゃあ、小林にも聞いといてもらおう。オレひとりだと、また忘れるといけない」  ルイは唇をなめた。急に、喉がひりついた。     3  室田が訴訟準備のために滞在できる日数は、二泊三日だった。一日目に沖村の事務所に行って打ち合わせをし、二日目は地元選出の議員に会ったらしい。すべての党派を試したら、どの議員も選挙民だから会うには会ってくれたが「詳しい話は秘書が聞きます」と、握手だけですまされたという。三日目の午前中は、沖村の顔見知りのフリーライターと会見。最終便で帰るまでの短い午後が、ルイに与えられた時間だった。  ルイは、公立の日本庭園を待ち合わせ場所に指定した。連絡の電話で「そこなら、アヤシイ行為をしていたなんてかんぐられないと思って」と冗談めかした言葉に軽い笑い声を響かせた室田は、庭園の入り口で待っていた。ビジネスバッグをさげ、再会した日と同じサマースーツを着ていたが、中はポロシャツでネクタイをしていない。身体の線の目立たない大きめのTシャツにブルージーンズと地味づくりだが、日除けの帽子とサングラスは忘れていないルイが「お待たせ」と肩を叩くと、振り向いて少しの間、ためらいを見せた。ルイはサングラスをずらして笑いかけた。室田はすまなそうに微笑して言った。 「なんか、まだ、馴れないな。その顔」 「あとでプリクラしよっか。忘れないように」ルイは軽く応じて、一人五百円也の入園料を先に払った。  今が見頃のカキツバタの群生に、画板を抱えた子供たちがたかっている。小学校の野外授業のようだ。太鼓橋のてっぺんに腰掛けて池の浮島にへばりついている亀を写生する変わり種や絵そっちのけで蛾の死骸を運ぶ蟻の一群をみつめている男の子、クローバーの草冠を編みながらおしゃべりに興じる女の子たちが二人の目を奪い、ルイと室田はそんな子供らが思い起こさせる昔友達の話をしながら、遊歩道を巡り歩いた。  そして、池のほとりのあずまやにようやく腰を落ち着けたが、そうなるとうまく口を切れず、二人して気まずく押し黙った。 「あの、例の人に話するってことだけど」ルイが思い切って言うと、室田は「ダメだったんだろ?」と先回りした。 「十何年ぶりに会って、いきなりそんな面倒なこと押しつけられたら困るよな」  室田はため息をついて、膝の間に両手を垂らし、かがみこんでまぶしげに顔をしかめた。 「ほんと、とてつもなく面倒だよ。一介の市民なんて無力だよな」 「何にも収穫なかったんだ」 「話は聞いてくれるよ。だが、聞くだけだ。大がかりな産廃の山とか、ものすごく深刻な環境汚染とかならニュースバリューもあるけど、過疎の山里に大量のゴミが捨てられたってだけの話は、他にそれこそ山ほどあるんだな。裁判する暇と金があるんなら、どうぞご勝手にってなもんだ」 「でも、やめるわけにいかないんでしょう?」 「運動の消滅は考えられないこともないけどね……。ウチのやつも心配してる。自分がオレをこっちに引っ張ってきたせいで、また、面倒なことになって申し訳ないって泣くからさ。大丈夫だって、言ってやりたいよな。子供にも、お父さんは大丈夫ってとこ見せてやりたい。中途半端は、できない。だが、実は投げ出したい。どうやっても勝ち目はないってことでなしくずしに消滅してくれりゃ、嬉しいかもしれない。中傷されたのを理由に、やめてやるってケツまくってやろうかとも、正直思う」  室田は「暑いね」とつぶやくと、上着を脱いで傍に置き、またため息をついた。ルイはバッグからミネラルウォーターのボトルを取り出し、「直《じか》に飲んでるやつなんだけど、よかったら」と差し出した。室田はためらわず受け取ってキャップを開けた。飲み口に口紅がついている。「そこ拭いて」とルイが差し出したティッシュペーパーを無視して、室田は喉をのけぞらせてゴクゴク飲んだ。それから、中身が半分ほどになったボトルを見つめた。 「今までで一番おいしかった水、なんだかわかるか?」 「今住んでる森の水?」答えたルイは当たりだと思ったが、室田は首を振った。 「学校のな、水道の水。夏、体育の時間や部活が終わったあと、水道の蛇口から直接飲む水」 「ああ、ほんとだ」  汗で濡れた体育帽をむしりとり、ジャージャー流れる水の下に顔を横ざまにねじこんだとき、閉じた瞼の裏で爆《は》ぜる真っ白な光。順番を待ち切れず、身体ごと押してくる同級生の身体から立ちのぼってくる運動場の土の匂い。それらがパッと思い浮かんで、ルイは声を出して笑った。室田も笑ったが、すぐに声を落とした。 「あんな風に、水をうまいと感じること、もうないと思うよ。富士山の伏流水だの氷河の氷水だの、能書きを聞いてうまいと思うのは頭がそう思ってるからなんだよな。身体の反応じゃない。学校の水道水は、サビの味やらカルキの匂いやらしてたじゃないか。でも、うまかった」室田は頭を垂れて、自嘲気味に笑った。 「これからってときに、こんな後ろ向きな気分、よくないよな」 「そうじゃないよ」ルイは室田の首筋を、手ではなく言葉で撫でた。「あんな風に感じることはこの先ないとしたら、それは何かを失ったということじゃないと思うよ。室田もあたしも、あの水道の水のおいしさを今飲んだばかりみたいに思い出せるんだもん。失ってなんか、いない。持ってるのよ、ずっと。それのどこが後ろ向き?」  勢いがついたルイは、室田に会長さんのことを話した。  会長さんは、たくさんの大物をギャフンといわせ、たくさんの愛人を持ち、それこそ自慢話の種の尽きない壮年期を送った人だ。しかし、今の彼はそんな華々しい日々のことを一言も話さない。まるで、そんなことはなかったかのように。 「で、あたし、思ったんだ。もしかしたら、成功することも失敗することも、たいしたことじゃないのかもしれない。何年たっても昨日のことみたいに覚えてることって、夏の学校の水道水だとか、犬と一緒に見た川べりの夕焼けとか、銭湯の帰りにお父さんが屋台のおでん屋さんで芥子《からし》たっぷり塗ったこんにゃくを食べさせてくれたとか」憧れていた男の子の後ろ姿をずーっと見ていた現代国語の授業中とか──ルイは、頭の中で付け足した。 「とにかく、そんな風な、なんでもないことじゃない? そのときには、それが永久保存版の思い出になるなんて思いもしない、ドラマチックな部分なんか少しもないこと。今のあたしや室田みたいに、とにかく今日一日をしのぐのに忙しくてドタバタしてるとさ、そういう普通のことを自分がどんなに大事に思ってるかなんて、わからないんだよね。でも、年取って、生きるのにアクセクしなくてよくなって寂しくなったときに、真空パック保存してたそういう思い出が、なんていうか、慰めになるみたいよ。だって、思い出すだけで、その時の自分に戻れるんだもの。それって、大事なものは何にも失われないってことじゃないのかな」  室田は池の方向をみつめたまま、黙って聞いていた。ルイはその背中を見つめた。十七歳のあの頃、何メートルも後ろから空間に指でたどった肩と背中の輪郭。その背中は今、少し丸められて、そこにある。だが、触《さわ》れない。触らないでと、自分の中から声がする。 「でね」ルイは室田の背中から、彼が見ている池の方に視線を動かした。「この頃の会長さんは、七歳の頃の話しかしないの。あの人は今、七歳の子供なんだ。そんな小さな男の子をむりやり大人にするような、そんな頼みごとはできないよ。あたしは、できなかった。室田の役に立ちたかったけど。ほんと、ごめん」  室田に見えるかどうかわからなかったが、並んで座った姿勢のままでルイは頭を深く下げた。その背中を、室田はポンと叩いた。そして、カラリとした声で言った。 「いいよ、謝るなよ。あんまりスゴイ人に出てこられたら、かえって負担だよ。それこそ、あとに引けなくなるからな。それ聞いて、かえってホッとした。相沢に借り作るの、ほんとはオレ、イヤだったんだ。沖村には、大人になれ、もっと悪く世間ズレしないとこんな運動やってけないぞとゲキとばされたんだけどね」 「鉄ちゃん、自分のことになると気ぃ弱いくせに人にはけしかけるようなこと言うからね」  気分がほぐれたらしい室田を見て安心したルイは、バッグから封筒を取り出した。 「会長さんに話はできなかったけど、カンパならできるから、これ受け取って」 「いいよ。相沢にそんなことしてもらう理由、ないよ」  両手を突き出して拒否する室田の頭を、ルイは「こら、大人になりなさい」と封筒を持った手で叩いた。 「たいした額じゃないわよ。十万円。これで鉄ちゃんに着手料払ってやってよ。運動大変だろうけど、沖村鉄ならすごく助けになると思う。それにね、カンパする理由なら、ちゃんとあるよ」 「え?」と表情で訊く室田の手をとって、ルイは封筒を持たせた。 「室田、昔のあたしの顔、可愛いって言ってくれたでしょ。それ聞いた十七歳の類子がカンパしろってうるさいのよ。本人の頼みだから、聞かないわけにいかないじゃない」  室田は白い歯を見せて笑った。そして「ありがとう」と封筒を受け取って、上着の胸ポケットに大事にしまった。  ルイは室田を飛行場までタクシーで送った。車内では、それぞれが知っているクラスメイトの消息を交換しあった。別れ際に「頑張れるところまで頑張ってみなよ。あのくらいのカンパでよければ、またできるから連絡して。鉄ちゃん経由でもいいから」と言うと、室田は「うん。頼むときがきたら頼むわ」と素直に答えた。 「見送るの苦手だから、ここで」飛行場の入り口できびすを返したルイの背中に声がかかった。 「相沢」  振り返ると、室田は小首を傾げてルイをみつめていた。 「オレ、やっぱり、その顔馴れない。昔の顔で覚えてて、いいか」  ルイは笑った。 「いいよ。それも、あたしだもん」  自分の中にいる類子と室田の中にいる類子は、同じ顔をしている。その顔が赤く染まったのを、ルイは感じた。夕焼け色の教室の戸口からずっと見ていた後ろ姿の少年が、ふいに振り返って、微笑みかけてくれたから。     4  六月に入ると、大気は律儀に梅雨モードに入った。どんより曇った空の下、サウナ効果を期待して着た膝下まであるウインドブレーカーの蒸し暑さに閉口しながら、ルイはまた二キロ余りの距離を歩いて沖村の事務所に出向いた。ウインドブレーカーの中は、背中が大きくあいたエアロビ用のレオタードと、ピッチリしたサイクルパンツにレインシューズ。気持ちとしてはフジアキコかアンヌ隊員で、リカを怒らせることには成功したが、沖村の男心はソヨとも動かない。 「汗、拭けよ。こっちまで暑苦しくてしょうがねえ」 「室田の案件、やるんでしょう?」と訊くと「ああ、もう着手料受け取っちまったしな」と言った後で、沖村は舌打ちした。ルイはニンマリして、ウエストポーチから領収書を取り出した。 「つまり、今ならお金はあるわけね。そこで、提案。今、五万円を返せば、四ヵ月分のツケ、チャラにしてあげる。どう? 半額にマケる、あとの債権は放棄するっていう温情判決よ。イヤ、私は是非全額お返ししたいっていうんなら、この提案引っ込めますけど?」 「チクショー。持ってけ、泥棒」ズボンの尻ポケットから抜き出したヨレヨレの革財布を、沖村はルイの膝に叩きつけた。 「泥棒はないでしょ、センセ。言葉は正しく使いましょうよ」と応じて中を改めると、一万円札が六枚入っていた。このことを、予想していたらしい。ほらね、きれいに返しはしないけど、平気で踏み倒す人じゃない。だから、貸すのだ。自分を信じるように、沖村を信じられるのだ。 「じゃあね。またいつでも、飲みに来て。はい、これ、ごほうび」  通販で買ったウルトラマン貯金箱をデスクに置いた。 「うるさいわい」  沖村は不機嫌を装ってさも忙しそうにノートパソコンを立ち上げたが、その目はしっかり貯金箱をとらえていた。  事務所を出ると、しょぼしょぼと小糠雨《こぬかあめ》が降っていた。ウインドブレーカーのフードを深くかぶり大きなてるてる坊主と化して大股で歩き出せば、水捌《みずは》けの悪い路地裏の道では一歩ごとに派手な飛沫《しぶき》があがる。頭の中で鳴りだした『雨に唄えば』に合わせて踊るように歩いていると、ヒュッと口笛が聞こえた。音の出所は、道路の向かい側だった。  シャッターを閉めた花屋の軒先で、若いカップルが雨宿りをしていた。男の右手にたたんだキックボードがぶら下がっている。前と同じにスーツとナイロンパーカの彼が、ルイを見てウインクをした。その左腕は、厚底ブーツに黒レースのミニスカート、金色の髪に紅い唇の女の子を抱え込んでいた。女の子はベッタリと全身で彼に寄り掛かり、よだれのたれそうな目付きで彼の顔を仰ぎ見ている。  そうかそうか。貢いでくれそうな女をゲットしたか。彼女が売れそうなものは、若いが取り柄の身体だろう。キャバクラか風俗か。色と金なら、お金が大事。でも、その真実に気付くためには、色に迷って苦労するのが道筋かもね。  ふたりとも持ってるものを使って、しっかりお稼ぎ。疲れたら慰めてくれるおいしい水があんたたちの中にもきっと残るから、せいぜい長生きしようぜ──そう言う代わりにルイは、カップルに頷いてみせた。 [#改ページ]   誰かが誰かを愛してる     1  妻が留め袖を着たがっている。  智明と結婚したときに「いずれいるから」と親に誂《あつら》えてもらった黒留め袖だが、二十年間、一度たりとも出番がない。妻の多摩子は一人いる実妹の結婚を楽しみにしていたが、これが家族に無断で役所に届けを出すだけのいわゆる「ジミ婚」をキメてしまい、それがもとで大喧嘩をした挙げ句に、ただいま冷戦状態である。智明は末っ子で、結婚したときには兄たちはすでに所帯持ちだった。娘と息子に望みを託せるとはいうものの、できたらババアになる前に美しき留め袖姿を世に問いたいらしい。智明が四十二歳で勤めている建設会社の資材部長に昇進したとき、多摩子がまっさきに口にしたのは「部長といえば頼まれ仲人よね。留め袖に風通しとかなきゃ」だった。  それから三年、部下の結婚で祝い金を包んだ回数は四度にわたるが、仲人を頼まれたことは一度もない。「あなた、人望がないんじゃない?」と多摩子が言ったときは、日頃温厚な智明もカッとして大層な口喧嘩になった。たとえ夫婦の間でも、管理職に向かって「人望がない」は禁句である。非常に傷ついた智明の脳裏に「仲人」「留め袖」という言葉が親の仇のように刻みこまれた。  だから部下の下島から内々の相談を持ち掛けられたとき、智明の頭に何はさておき「留め袖」の一言が浮かんだのも無理はない。娘十七歳、息子十四歳、難しい年ごろの受験生二人を抱え、ピリピリしている妻の絶えて久しい喜ぶ顔が目に浮かぶ。自身の名誉と家庭の平和のために内心ウキウキしながら、智明は「一杯やりながら聞こうじゃないの」と下島を行きつけの飲み屋に誘った。  カウンターに五、六品の旬の煮物焼き物を盛った大皿が並び、板場からはおでんを煮込むいい匂いがしている。中年の夫婦とお運びの女の子一人で、詰めれば十人は座れるカウンター席と衝立《ついた》てで仕切られた二つのテーブルがある小上がりに集う客をさばく、至って気のおけない飲み屋である。今夜の座敷席は智明たちだけだったが、下島はあたりが気になる様子で首を縮めて小さく座っていた。  ビールを勧め「ゴルフ始めたんだって?」と気分ほぐしの問い掛けをしながら、下島が話を切り出すのを待ったが、なんとなくグズグズしている。仕方なく智明のほうから「で、相談というのは?」と水を向けた。小太りだが、いつもこざっぱりとお洒落をしているところなど、いかにも〈いいところのお坊っちゃん〉で点数が高いはずだ。なのに、そんな風にはっきりしないから会社の女の子たちにモテないんだぞと言ってやりたかった。 「はい。あの、それが」と、下島は上目遣いをした。「あの、実は、ご相談というのは、この間までウチに来てた派遣の園部|結子《ゆうこ》さんのことなんです」  園部結子。その名が、留め袖を吹っ飛ばした。 「……あ、ああ。彼女ね。園部さん。うん、来てたね。彼女がどうかしたの?」 「僕、園部さんと付き合ってまして」 「──あ、そう? そうだったんだ。へえ、ちっとも気が付かなかった。きみと園部さんが? いやいや、全然知らなかった。いつからそんなことになってたの」 「わりと早かったんです。夜桜見に、部のみんなで繰り出したときでしたから」 「桜。ああ、そうね。年度末決算の助っ人で来てもらったんだものね」  そのときの真面目な仕事ぶりが買われて契約更新となり、一ヵ月の予定が結局、三月から八月までの半年に及んだのだった。 「で、年がタメなもんで話が合って、それがきっかけだったんです」 「あ、年がね。そういえば、そうか。なるほどね」  下島は二十八歳である。男の二十八は智明の目から見るとまるでガキでしょうがないが、女の二十八は、なかなかにオツなものであった。二十四、五のOLたちほど「人種が違う」違和感を発散させてはおらず、それでいて確かに若い。お肌ピチピチである。ピチピチだったよなあ……。 「それが、できたって、言ってきて」 「──できたって」  子供という言葉が出るのをブロックするように、下島が「でも、そんなはずないんです」と殺した声を押しかぶせた。 「僕、ちゃんと予防してたんですから。病気、コワイから」 「ビョーキ!」 「いや、彼女がっていうんじゃないですよ。この頃の女の子は海外行って遊んでますからね。結構汚染されてるらしいですよ。だから、僕、習慣なんですよ。アレがなかったら、する気もしぼむくらいなんですから。それで、送別会の夜が最後だったんですけど、あのとき酔っ払ってしたから、しっかり着けてなくて中でこぼれたらしいっていうんですよ。あれが八月末でしたよね。それから一ヵ月もたたずに、できたって言ってきたんです。そんなに早くわかるもんですかね。第一、中でこぼれたなんて、そんな! 絶対そんなことはなかったって言ったんですけど、証拠がないでしょう。言い争ってたら、彼女、それなら小村部長に相談するって言うんです」一気にそこまで言うと、下島は大きくため息をつき、気の抜けたビールをあおってゲップを洩らした。 「……相談って、そうなったからには結婚したいってことじゃないのか」 「冗談じゃないですよ、部長! そういうことがきっかけで結婚なんて、惨めじゃないですか。愛してないんですもん」  下島は目を丸くし、胸を張って強弁した。 「しかし、付き合ってたんだろうが。真面目でおとなしい、いいお嬢さんじゃないか」智明は厳しく言った。 「いいお嬢さん、て、部長。二人で酒飲んでると、全然違うんですよ。なんて言うか、いつでもどうぞ、みたいな顔するんですよ。あんな顔されたら、魚心あれば水心と思いますよ」下島は声をひそめて、顔を寄せてきた。 「部長は知らないでしょうけど。そりゃ、もう、たまりませんよ」  こいつ、自慢しやがって。智明は下島を睨んだ。 「そういうことを言ってる場合か」  そういう風に見えるのは、艶《つや》ぼくろのせいだ。目元口元耳たぶに散らばるほくろが、瑞々《みずみず》しい肌の上で泳ぐように揺らいで見えることがある。今まで伏せていた目をぱっと見開いてこちらを見るときなど、まるで小さな石を投げ付けられたような衝撃があった。 「……まったく! トンでもないヤツだ」 「面目ないです」下島は下を向いた。 「子供のことは絶対違う、DNA鑑定してもらってもいいとまで考えたんですけど、そんな金のかかることとても出来ないし、そういう関係だったということを言い触らされたら、こっちに落ち度がなくても噂はヘンな風に広がるから、僕の評判にかかわるでしょう?」  おまえの評判なんか、もともとタイしたもんじゃないんだよ! 智明は腹立たしい思いで、たたみいわしをバリバリかじった。 「で、どうするんだ」 「手術の費用ということで、金をね。実は、もう渡したんです。彼女も僕と結婚して子供を産む気はないそうなんで、それで納得ということで。不幸中の幸いというか」 「まあ、金で解決できたんならそれに越したことはないが、近頃はそういうことがすぐ裁判沙汰になって、男のほうが分が悪いんだからな。そうなったら、会社にだっていづらいぞ。社会人としての命取りだよ。気をつけないと」 「金を渡した以上は、部長に何か言ってくることはないと思いますけど、何するかわからない女ですからね。もし来てもうまくあしらっていただきたいんです。お願いしますよ」  下島はすりよるような上目遣いで、ささやいた。 「……わかった」智明は重々しくうなずいた。「誉められたことじゃないが、きみも前途ある人間だ。今回は目をつぶる。しかし、二度目は知らんぞ」 「ありがとうございます!」  下島は跳ねるように座布団をはずし、平伏した。起き直った顔は、みっともないほど晴れ晴れとしている。「部長。酒のいいの、どうですか。お礼に一杯おごらせてください。おカアさん、浦霞《うらがすみ》、冷やで二つね」と、本日初めての大声を出した。  運ばれてきたコップ酒を目まで捧げて、下島は「部長がわかってくれて、ホッとしましたよ。責任とれなんて詰め寄られたらどうしようかと気が気じゃなかったんです」と感謝してみせたが、智明は黙って眉を寄せ、含んだ酒を舌の上で転がした。下島も神妙に口をつぐみ、居心地悪げにコップの中身をちびちびと減らしていた。そのうち、智明は何気なさそうに「ちなみに、金って、いくらくらいなんだ」と訊いた。 「部長だから言いますけどね。十万円です。言い値がそれだったもんですから。高いのか安いのか、微妙なとこじゃありますけど、やっぱり口惜しいですよお。部長の前ですけどね。この不況の時代に十万円稼ぐのに、どれだけ下げたくない頭下げてきたか」 「そりゃ、災難だったな」智明の皮肉は、下島には通じない。「ホントですよ」と大きく頷く。 「……まあ、しかし、早く忘れることだね」 「それしかないですよね」  そうだ。それしかない。     2  おとなしくて、感じが良くて、よく働く女だった。智明が、契約更新の話を受けてくれた結子を食事に誘ったのは、部長としてその労をねぎらうためだった。派遣社員は、正社員よりも条件が悪い。短期間だと思うと、遠慮会釈なくこき使うようになる。使い捨て扱いと知っている管理職のはしくれとして、多少なりとも思いやりを示してやりたい。そう思ったのだ。あの艶ぼくろのせいではない。  その後も誘ったのは、あれはゴールデンウィークの三日前から休みをとった社員のあおりをくらって残業していたのを、申し訳なく思ったからだ。雰囲気のいいバーに連れていったことにも他意はない。しかし十時を回っても、結子は「帰る」と言い出さなかった。酒が強いのか、ウオッカトニックをスイスイ飲んで、微笑みながら智明の面白くもない話に耳を傾けていた。ときどき、グラスに口をつけたままチラリと視線をよこす。そうすると、目元のほくろが揺らいで「おいでおいで」をする──ように見える。  確かにあれでは「いつでもどうぞ」と受け取られてもしょうがない。 「まだ、帰らなくていいの?」と、智明は訊いた。結子は目を伏せて黙ったままだ。 「このまま、一緒にいてもいいんだって思っちゃうぞお」  おどけた調子で顔を見ると、伏せていた目をぱっと開けて真っすぐ智明の目を見返した。  そりゃ、たまりませんよ。  ほくろは、腿《もも》の内側にもへその横にもあった。終わった後、智明は「ごめんね」と言った。まるで処女を奪った遊び人の台詞だが、こっちは所帯持ちで、こんなことになったからといって何かを期待されても困る。だから、なるべくならヒメゴトとして穏便にすませたい。でも、それではきみに悪いとは思ってるよ。男って勝手だね。ほんと申し訳ない。そういう意味を全部含んだ「ごめんね」だった。結子は微笑んで首を振った。つまり、謝ることは何もない、というわけだ。だから智明は図に乗って、その後も何度か結子を誘った。明日は送別会という日の夜も二人だけの慰労会をやり、アパートまで送っていくと別れがたくなって「心配だから中まで送っていく」と言い張り、そのまま二時間滞在した。  部で送別会をやったときは、みんなの目が気になって他の誰かに送る役を任せた。今思うと、あれは下島だったのか。 「妊娠しました」と携帯電話で聞いたのは、送別会の二週間後だった。  智明は言葉を失い、「あ、そう?」と間抜けな返事をした。気が動転した反動で、やたらに明るい声になる。「電話じゃナンだから、明日、いや、きょうの夕方でも時間作って会いましょう」と時間と場所を打ち合わせたのはいいが、完全にパニックに陥ってしまった。  その日の五時に、会社から地下鉄二駅分離れた町にある古びた喫茶店で結子に会った。昭和三十年代から営業している〈名曲喫茶〉は、客が少ないので有名だった。照明は暗く、コーヒーはまずく、年取ったマスターと偏屈そうなウェイターにモーツァルトを枕に居眠りしている客が三、四人という、まことに密談向きの穴場である。  結子は奥まった四人掛けの席で壁に向かって座っていた。向かい側に滑りこむように座った智明は、「久しぶりだね」となんとか薄く微笑んでみせることに成功した。そして、目であたりをうかがいながらささやいた。 「それで、あの話、確か、なの?」  結子はうつむいてグレープフルーツジュースをストローでかきまぜながら、「市販のテスターですけど。病院はこれからなんです。一応、ご相談してからと思って」と言った。 「ああ、そりゃそうだね。そうだけど、きみは、そういう(予定外の子供を産むなんて)こと、困るよね?」伏せ字含みの曖昧な言い方で様子を見ると、結子は唇を噛んで答えない。 「僕は、そう思ってたんだよね。そういうことになったら困るのはきみなんだから、というのはつまり、負担がかかるわけでしょう、肉体的に。だから、できるだけそうならないように気をつける。それが、僕の誠意、というか、責任というつもりで、毎回つけてたわけだよね」  自分で言いながら、嫌になってきた。こんなお為ごかしの言い訳をしたくないからこそ、アレには気を遣っていたのに。そう思うと腹が立ってきて、両腕を組んで下を向いた途端、憤然《ふんぜん》たる勢いの荒い鼻息が出た。モーツァルトの協奏曲がからかうように、沈黙している二人を包んだ。やがて結子がジュースに目を落としたまま、ポツンと「一度、うちにいらしたとき、なかったから」と言った。 「あ……でも、あの時、中には」 「ええ。でも、ああいうの、失敗する率、高いそうです」 「外から中に入っちゃったわけ?」 「ということですね」  結子は唇をすぼめ、チューと音を立ててジュースを吸い込んだ。そして、上目遣いにチラリと智明を見た。目元のほくろが、こちらに向かって漂ってくるようだ。智明は目をそらして、コーヒーを飲んだ。禁煙の誓いが恨めしい。不安にざわめく脳細胞を鎮《しず》める術がなく、視線が泳ぐのを止められない。頭がフラフラしてきた。 「ほんとにあるのかな、そんなこと……」 「ですから」結子は背筋を伸ばして、伏し目がちながらも毅然《きぜん》たる面持ちになった。「あたしにも責任のあることだって、わかってます。だから、このまま黙って一人で始末しようと思って、病院まで行ったんです。そしたら、玄関から待合室が見えたんです。そこにいる人たちはほとんど、ちゃんと産む人ですよね。そう思ったら、どんどん惨めになってきて、中に入れなくて……。産むつもりはありませんけど、あたしだけこんな思いをするのは割りに合わないっていうか。黙ったままだと、あと引きずっちゃいそうで。お互い様なら、後始末も二人でするべきじゃないですか。だから、小村さんには費用の負担をしてもらいたいんです」  それはそうだが、はっきり言われるとすごく気分が重い。あの気苦労が無駄だったと思うと「俺の青春を返せ」と言いたくなる。しかし、産むと言い張られたら、青春どころか人生をモッていかれる。智明は軽く咳払いをして気持ちを立て直し、「後始末っていうことは、なかったことにしてくれるということだよね。きみも、それでいいんだね」と確かめた。結子は智明の横の壁に睨むような視線を当て「あたし、子供はちゃんと望んで、望まれて、産みたいですから」と答えた。  聞きようによってはきつい厭味だったが、智明には言葉尻にこだわる余裕はない。 「いくら、用意すればいいのかな」 「友達に聞いてみたら、三年前で十万円だったそうです。あたしの場合はいくらくらいか、病院に行って聞かないとわかりませんけど」  結子は目をしばたたき、細い指先で口元を押さえた。さすがに智明の胸に罪悪感が湧いた。 「すまなかったね」 「いえ……あたしもいけなかったんです」  結子は首を傾げるようにして智明を見つめ、唇だけで寂しげに笑った。これをやられて、それでこうなったのだ。オレも悪いが、そうだ、おまえもよくない。智明はことここに及んでも媚態に見える結子の目付きから顔を背けた。結子は視線を彼にあてたまま「できるだけ早いほうが、いいみたいなんですけど」と言った。 「わかった。二日以内に振込むから、口座番号教えて」  結子はショルダーバッグから手帳を取り出すと、番号を書いたページを破りとって智明の前に滑らせた。そして「よろしくお願いします」と頭を下げた。  中絶手術の費用が十万円。だから十万円ぽっきりというわけにはいくまいと、智明は考えた。やはり、お見舞い金というか、こんなことは思いたくもないが「慰謝料」も込みにして、二十万円くらいは渡すべきだろう。しかし、月々の小遣い五万円、それ以上要るときは女房に申告しなければならない身の上で、どうやってこの緊急事態を乗り切ればいいのか。〈むじんくん〉の看板が脳裏をかすめたが、智明はサラ金恐怖症である。〈むじんくん〉はそのまま宇宙の彼方に飛び去った。 「いっぺんに十万円?」  その夜、眠たげにダイニングテーブルに頬杖をついた多摩子が、不機嫌に言った。智明はタラコ茶漬けを勢いよくかきこんで、平常心を装った。 「しょうがないだろ。お祝いごとなんだから、重なっても」 「佐田さんのところのおめでたはしょうがないわよ。部下なんだから。でも派遣社員の結婚のお祝い金に、なんで五万も包まなくちゃいけないのよ」  多摩子は手鏡をのぞいて、目元引き締めパックを指先で点検しつつ「仲人頼まれてるわけでもないのに。外面《そとづら》ばっかり、いいんだから」と、低い声でつけ加えた。 「一応、俺んとこで働いてたんだしさ。みんなが出すっていうのに、部長の俺が一万や二万でお茶を濁すわけにいかんだろう。誰がいくら出したなんて噂がすぐに会社中に駆け巡るんだぜ。ケチだと思われたら、俺じゃなくて女房のおまえが悪口言われるんだよ。おまえだって勤めてたから知ってるだろう? 女の子たちがなんて言うか」 「まあねぇ。あーあ、出世したって、いいことあんまりないわねえ」  おまえがそういうミもフタもないことを言うから、つい他の女に安らぎを求めて、それでこういうことになっちまったんだぞ──智明は、大あくびをカマしている多摩子に恨みがましい一瞥《いちべつ》を送った。  結局、結子の口座には十五万円を振込んだ。目標の二十万円には達していないが、向こう三ヵ月の孤独な耐乏生活を織り込んだ涙の十五万円。郊外の一戸建てローンと受験生二人を抱えた四十男の、精一杯の誠意である。ATM機が吐き出した証拠の品の振込み明細に目を落とすと、まだ記憶に新しい別れ話の情景がよみがえった。  話し合いが終わって、喫茶店の外で向かい合ったとき、結子は智明を見つめて「あたし、つきまとったり、あとで部長を困らせるようなことしませんから、ご安心ください」と言った。じゃあ、これで終わりなのか。予測はしていたが、これはこれとして関係は続けられるかも、とわずかな期待もあった。ハシゴをはずされた気分になったが、そんな気持ちを見透かすような皮肉っぽい結子の眼差しが智明のプライドに喝を入れた。 「わかってるよ。いろいろ、ありがとう。元気で、頑張ってね」  歯を見せて笑い、はっきりそう言ってやった。しかし、作り笑顔はすぐに強張った。Vネックセーターからのぞく鎖骨の間のくぼみ。そこにもあるほくろが目に飛び込んできて、身体の芯をグッと掴んだ。  もう、このほくろと縁がなくなるのだ。  お互いに背中を向けて歩き、どんどん遠くなるのを意識していたあの時はつらかった。振込み明細を破り捨てた後も、何も別れることはなかったんじゃないか、いや、トラブルが起きる前に、こうなってよかったんだ──と、堂々巡りの自問自答を繰り返していた。そんなことをしているうちに〈失敗〉が甘く切ない思い出に改良されて、心の庭にあえかな一輪の花を咲かせるはずだったのだ。下島が土足で乱入してこなければ……。  二股をかけられていた。それも下島とだ。できたというのは、あいつの子供だったのではないか。いや、妊娠自体、嘘だったに違いない。二人とも、一杯食わされたのだ。それも、考えてみればほとんど同時期だ。今日は智明、明日は下島。カレンダーに印でもつけていたのか? 畜生。バカにしやがって。  こんなことは、人には言えない。言えないから、嫌な感じが肚《はら》に居座った。それでも、ビジネス・ゴーズ・オン。やらなければならない仕事があるのは、ときには有り難い。智明は〈事件〉のすべてを頭から締め出して、ひたすら社用に集中した。     3  カレンダーが紅葉の絵柄を見せる十一月になって、突然「土日はわたしが車を使いますから」と、多摩子が宣言した。  智明は土曜日の朝の通例で、髪の寝癖もそのままにパジャマの襟元から手を突っ込んで背中をかきかき、リビングの長椅子で新聞を読んでいた。多摩子はキッチンでせっせとサンドイッチを作りながら、不定期だがボランティアを始めたからその足として車がいるという話を始めた。女性同士のネットワークで運営する、親が仕事に出るため家に残される子供や介護の必要な老人をピクニックやリクリエーションに連れ出す活動で、今日がその初日だという。 「どうせ、ウチにいてもうるさがられるだけだもの。何かしたら、ありがとうって言ってくれる人のために働くほうが気分転換になるから」と、当て付けがましいことを言う。  確かに中学二年の悟と高校二年の望美は、二人ともあまり親と顔を合わせない。毎月送られてくる受験塾の成績表だけが、なんとかやることだけはやっているらしい、という証拠である。智明としても、家のことは〈触らぬ神に祟りなし〉の心境だ。多摩子がボランティアをしたければ「お好きなように」であるが、しょっちゅう車を使われるのは困る。 「オレがゴルフ行くときとぶつかったら、どうするんだよ」 「誰かに乗せてってもらえばいいでしょ。牛尾さん、そうだったじゃない。朝早くから来てさ。奥さん、腹減ってるんで、握り飯作ってもらえませんかなんてさ。わたし、作ってやってたでしょう。あなたも、あれでやってちょうだいよ」 「なんか、ヤな言い方するなあ。何かあるのか? 他に言いたいことが」 「何か、あるのか?」芝居がかった声色で鸚鵡返しをすると、多摩子はバターナイフを片手にキッチンから歩いてきた。ショートヘアのあちこちに緑色が混じっている。そういう色の白髪染めがあるらしい。オレンジ色のセーターにニットのパンツという、カジュアルながらしっかりお出かけスタイルの多摩子が、智明を見下ろして「何かあるのか、だって?」と繰り返して、ニヤリと笑った。 「……なんだよ」 「あのね。嘘つくのが下手だから、許せるのよ。わかる? この妻の心意気」 「嘘って、おまえ」 「あのね」多摩子は不気味に笑いながら、智明の横に腰掛けた。智明の目の前で、バターナイフがリズミカルに動いた。 「普通、お祝いをあげるとね、お返しがくるものなのよね。自宅宛てに。ダブル寿で五万円が二件、あれ、九月でしたわねえ」 「それは、まだ、忙しくてそれどころじゃないからだろうが」 「もうバレてるんだから、墓穴掘るのはやめなさい」多摩子は勝ち誇ったように優しく言った。「まったく。どうせ嘘つくなら、こういうフォローの必要な嘘はやめなさいよ。ま、いかにも嘘をつき慣れてない人だってことがよくわかったから、なんとなく安心したけどね。で、何に使ったの?」 「競馬だ」 「十万も」 「積もり積もって、だ。ときどき勝つもんだから、ついな。しかし、借金してまでやるようになったら、恐くなってさ。きっぱり、やめた。悪かった。ごめん」  智明はピョコンと頭を下げ、新聞をバサバサとめくって多摩子の視線をさえぎった。多摩子は紙面を指で折り曲げて顔を侵入させ、耳元にささやいた。 「それも嘘じゃないの?」 「ほんとだ」  憮然として言うと、「ま、いいけどね」と軽く答えて立ち上がった。 「とにかく、土日の件はよろしく。何かあったときに連絡つくようにわたし用の携帯買ったから、番号控えておいてね。それから、ひょっとして不倫デートのご都合がおありなら、公共の交通機関を利用してお出かけくださいまし」  不倫なんかしてねえよと言いかけたが、それはやはりどこか嘘だと思えた。「はいはい。仰せの通りにいたします」大げさなため息をまじえ、なんとかジョークっぽくかわしたが、多摩子の意味ありげな含み笑いやチクチク続く皮肉でいじめられる日々がどのくらい続くのかと思うと、身から出たサビとはいえ、どんより暗くなった。  だから「おニイちゃん。折り入って、ご相談があります」と、弟分の健太が言ってきたとき、智明は今度こそ吉報であることを心から願った。     4  下請けの成沢工務店の若社長、健太は工業大学を卒業して二年ほど、智明の下でサラリーマンをした。修業に出されたといっていたが、コネ作りの意味もあっただろう。素直な性格が可愛くてよく面倒を見た智明を、今も「おニイちゃん」と慕ってくれる。この男も独身で、この間も「三十一だよ。大台に乗っちゃった」と嘆いてみせた。 「三十が大台なのは、女だよ。男の三十代は、まだまだヒヨッコだ」と、智明は言った。あながち慰めともいえない。四十五にして惑《まど》いっぱなしの自分に言う言葉でもあった。 「じゃあ、男の大台っていくつなの?」 「そりゃ、五十よ」 「へえ。そうなんだ。勉強になるなあ、おニイちゃんと話してると」  ホントにウいやつだ。健太は家にもよく遊びに来ており、多摩子のお気に入りである。「健ちゃんも、早く結婚しないとね」「そんときは、おニイちゃん夫婦に仲人頼みますよ」というやりとりがあったものだから、多摩子は健太をけしかけて釣り書と写真を用意させ、留め袖を着る日の早からんことを祈って活動している。が、「親と同居で、工務店の仕事手伝わなきゃいけないっていうのがネックになるみたい。専業主婦が楽でいいのは最初のうちだけなのに。会いもしないで条件ばっかり見てるコほどカスつかむんだって、言えるもんなら言ってやりたいわ!」とプンプン怒っていたものだ。  もしも、健太の〈相談〉が結婚話で、多摩子にかねて念願の仲人依頼を差し出すことができたら、そして「結納はどこでしようか」などと仕切らせることができたら〈疑惑の十万円〉に由来するわだかまりの自然消滅も、おおいにあり得る。 「よし。今夜あたり一杯やりながら、聞こうじゃないか」  智明は下島のときと同じ居酒屋の名前を告げた。  同じ小上がりで、まずビールで乾杯した。健太はコップ一杯のビールを一息で飲み干し、エラの張った顔を嬉しそうに紅潮させた。 「うまいねえ。秋風が吹く季節になっても、この世で一番うまいのは、その日一杯目のビールだねえ」 「二番目にうまいのは、二杯目のビールだろ」  健太の決まり文句を、智明は先取りした。おいしそうに飲み食いするのは健太の大きな長所だと、多摩子がよく言っていた。 「その通り。で、相談なんだけどさ」  健太はもう身を乗り出してきた。智明はニヤニヤしながら「まあ、先に注文させろよ」とかわし、カウンターに向かって「こっち、秋刀魚《さんま》、ちょうだいね。銀杏《ぎんなん》なんかもね」と声をかけた。 「ここ、前にも一緒に来たよな」 「うん。煮魚がうまかったね。それよりさ」 「なんだいなんだい。ウズウズしちゃってるじゃないの。宝くじでも当たったか」 「ほぼ、そんな気分」健太は厚い唇を結んで、笑いをこらえてみせた。 「で、どんなコなのよ」カマをかけると、健太は「おニイちゃん! なんでわかるの」と、目を見開いた。  やった! これこそ、天の助け!  大きくほころんだ智明の顔を見て、健太はますます嬉しそうに「それがさ、おニイちゃん、知ってる人よ」と言う。 「ほんと? 誰?」 「園部結子さん」  天から地獄へ逆落とし。いい気持ちで飲みかけたビールが喉で止まり、智明は鼻水が出るほどむせ返った。  これは何かのタタリか? 思わず「なんでだよ」と口に出していた。 「おニイちゃん、出張でいないときに会社に顔出したら、下島くんたちに飲み会に誘われて、そんとき知り合ったのよ。八月の暑い夕べ、屋上ビアガーデンで隣り合って……。感じのいい人だなあと心に残っちゃってね。電話番号、教えてもらったの。その内、オタクやめて会えなくなって……でも、デートに誘う勇気がなくてさあ。ところが、姉ちゃんが妊娠中毒症っていうのになって、無事産まれるまでお母ちゃんがついててやることになったんで、経理見てもらう人が緊急に必要になったわけ。しめたって感じで堂々の申し込みよ。電話かけたら、二ヵ月ぶりくらいなのに、ちゃんと僕のこと、覚えてくれててさあ」健太は、筋肉質の身体をよじって盛大にテレた。 「派遣会社通したほうがいいかって聞いたら、構わないって言うのよ。短期でも別にいいって言ってくれたから、十月イッピから来てもらってるの。そしたらさ」健太は嬉しそうに口をすぼめて笑う。あいつ、一体ナニをしたか知らんが罪なことだ、智明の胸は暗くなった。 「ほんっと、いい人だねえ、あの人! 仕事、きっちりしてるだけじゃない。現場に弁当持ってきてくれるんだよ。僕のとお父ちゃんのと。それというのがね、おニイちゃん、もう聞いてよ。事務所にお弁当持ってきてるの見てさ、いいなあって言ったの。そういう、ちゃんとした弁当箱──ってタッパだけどね。でも、ちゃんとしてるじゃない。そういうので弁当食ったの高校のときが最後だって、言ったわけよ。狙って言ったんじゃないよ。本心。コンビニのペナペナしたプラスチックのばっかりだから。そしたら、次の日よ、次の日! 僕とお父ちゃんの二人分の弁当、作って持ってきてくれたの。僕もお父ちゃんも、もう感激。んで、これがうまいの。卵焼きとかコロッケとか、懐かしい感じのおかずでね。ご飯は鰹節《かつおぶし》と海苔の二段重ね。正調海苔弁よ。それがその日だけじゃなかったの。今までに何回も、だよ。おかず作り過ぎたからって、言い訳がまた奥床しいじゃないの」  健太はうっとりと目を閉じて、軽く首を振った。 「おニイちゃん。わかるでしょ。僕の言いたいこと」 「わかる。だから、あえて言う。あの女はダメだ」  健太の顔色が変わった。何か言い出す前に、智明は「ダメだ」と強く出た。 「あの女は、おまえが思ってるような人間じゃない」 「どういう意味よ。オタクにいた間に、何か事件でも起こしたの?」 「まあな」 「どんな? どんな事件? 使い込みとか産業スパイとか?」 「そんなんじゃない。男関係だ」  健太はその言葉の意味を反芻《はんすう》するように、口の中で繰り返した。おとこかんけい──。 「彼女を争って、男同士が刃傷沙汰《にんじようざた》を起こしたとか?」 「そういう表立ったことじゃない」 「なんだ」健太は大きな声を出した。「事件なんていうからさ。物凄いこと、想像しちゃったじゃない。脅かさないでよ、おニイちゃん。ただモテてたってだけでしょう」  ああ、やれやれと健太はビールを手酌で注いで飲み干した。そして、明るい声でビールの追加を注文した。智明はムッとした。 「モテてたとか、そういういいもんじゃない。こっそり二股かけてたんだぞ。その上、片っぽうは不倫だ」他人事《ひとごと》として言うと、いかにも悪いことのように聞こえて智明は少し困惑したが、それはそれ、これはこれだ。 「男にだらしないんだ。そういう女は信用しないほうがいい」 「いいじゃない。二股くらい」  健太は膨れっ面で口答えした。息子の悟と話しているみたいだ。こっちの理が通らない。 「僕だって、かけられるもんなら二股でも三股でもかけてるよ。その中から、本命を選ぶんでしょ。みんなやってることじゃない。それより一人とは不倫だっていうんなら、彼女のほうがもてあそばれた、ということじゃないの」  もてあそばれたのはこっちだ。 「そんなんじゃない。不倫を承知の上で付き合ってたんだ。それだけじゃない。これは言うまいと思ってたが、こうなったらしょうがない。あの女はな、妊娠したと嘘をついて二人の男から金を絞り取ったんだ。そういうことをする女なんだ」 「嘘だって、どうしてわかるの?」 「そりゃ」答につまった。嘘だと言いきれないからこそ、金を払わざるを得なかったのだ。 「そりゃ、ちゃんと避妊してたからだ。二人とも、そう言ってた」 「でも、コン」と言い掛け、智明の表情で自分の大声に気付いた健太は、急いで声をひそめた。「ドームってさ、百パーセント大丈夫ってわけじゃないっていうじゃない。聞いたことあるよ、避妊に失敗した話。やりゃあ、できるの当然じゃない」 「………」  他人事のベールをかけたが、責められているのはまさしく我が身だ。智明は憮然として口をつぐんだ。 「可哀想だよ」  健太の声が変わった。見ると、握り締めた両のこぶしを膝に当て、うなだれて涙をこらえている。智明は仰天した。 「おまえ、泣いてんのか」 「可哀想じゃないか。二人の男にもてあそばれて、子供ができたのに堕ろさなくちゃいけなかったなんて。そんなことがあったのに何にも言わずに、笑顔で働いて。僕とお父ちゃんに弁当作って……」  こいつ、洗脳されてるのか。 「おまえ。それがおまえのいいところだけど、ちょっと人が好すぎるぞ。あいつは確信犯なんだから。他に男がいて、だましとった金をそいつに貢いでるということも考えられる」 「なんで、そう言い切れるの?」キッと上げた目が、思い詰めていた。「おニイちゃんは、園部さんのこと、どのくらい知ってるの?」 「そりゃ、ウチにいた半年弱しか知らんよ。個人的な付き合いはなかったしな。しかしだな。俺はその二人の男に相談されたんだ。そのうえに観察した結果を加えると、おのずとそういう結論が出る。年食ってる分、おまえよりは人ってものがよく見えるからな。気を許して深入りしたら、なんだかんだと金を食われる」  なにより、おまえのその純情を食い物にされるのが見るに忍びない。この気持ちをわかってくれと、智明は祈るような気持ちになった。  健太は唇を噛み締めて、黙り込んだ。可哀想だが、今ならまだ傷は浅い。 「まあ、飲めよ」と、智明はビールを注いだ。だが健太は、顔を上げるとコップに目もくれず、真剣な面持ちで智明を見つめた。 「そういう関係になったら、子供ができたから金を出せって言ってくるんだね」 「おそらくな」 「まだそういう関係になってないけど、僕、お願いしてみる。それで、子供できたって言われたら、結婚申し込む」  智明はしばらくその答を考えてみた。それは妙案かもしれない。 「そうか。その手があるな。結婚なんて言いだされたら、困って逃げていくかもしれないんだ。いや、こりゃ、いいかもしれんぞ。おまえ、なかなかのもんだな」 「逃げようったって、逃がさないよ」  健太は力強く言うとようやくコップに手を伸ばし、智明を無視して一人であおるように飲んでは注ぎ、たちまち中瓶一本を空にした。そして、天井に目を据えると「好きになっちゃったんだ。僕は、あの人に賭ける」と鼻の穴をふくらませた。 「やったらできたなんて嘘、可愛いもんじゃないか。そんな程度のだましなら、だまされたふりしてつかまえて、本当に、僕の子供産ませてやる」  智明は耳を疑った。どう言えば、こいつには自分の言うことがわかるのだろう。 「おまえなあ。バカにもほどがあるぞ。そう単純にことが運ぶと思ってるのか? 他に男がいるかもしれないんだよ」 「いたっていいよ。男に貢ぐなんて、いまどき、そういう健気なコはいないよ。もし本当にそうなら、僕、ますます本気になるね。嫁になってくださいと、お百度参りしちゃうよ。オシ! なんか、燃えてきた。あ、食うの、すっかり忘れてた。おニイちゃん、秋刀魚食べないの? 僕、もらっていい? 冷めてたって平気だよ。いただきます」  なんで、こうなるんだ? どう考えても理解できない。ヘンに張り切って、膳に並ぶ皿に片っ端から箸をつけている健太を横目に、智明はあえて言うなら「立つ瀬がない」──そんな不充足感を抱えて、苦いだけのビールを漫然《まんぜん》と口に運んだ。     5  再び仕事に集中して、健太と結子の問題を頭から追い払おうとした。自分には関係のないことだ。女にだまされるのも、ナイーブ過ぎる健太には必要な経験かもしれない。首を突っ込んだら、結子が自分とのことを蒸し返す危険性がある。それこそヤブヘビというものだ。俺は知らん。何も知らん。そう言い聞かせていた。だが、どうしてもこの一件が頭から離れない。どういうわけか、仕事が一段落して気を抜くと決まって、バーでぱっと目を上げてこちらを見つめてきたときやホテルの赤い薄明りの下で見た顔、背中に回した手にぐっと力をこめるときの感触、そんな結子の断片が生々しくよみがえってきて、神経をなぶる。なぜ自分がこうまでこだわっているのかわからなくて、智明は生煮えの気分を持て余した。そして、取引先とのミーティングをキャンセルされて時間が空いた昼下がり、気が付くと足が成沢工務店に向かっていた。  三階建ての建物の一階が車寄せと倉庫、二階が事務所で三階が家族の住居部分になっている。一応鉄筋のビルだが築三十年の時の流れがしみついた外観はいかにもわびしい。事務所の鍵が閉まっていたのでどうしようかと迷っていると、自転車に乗った結子がこっちに向かってくるのが見えた。  以前は額を出してバレッタでまとめていた髪を、三つ編みのおさげにしている。前髪をおろしているせいか、ずっと若く見えた。デニムの丈の長いジャンパースカートにジージャンをはおり、ソックスにスニーカーの脚でペダルを踏む結子が、智明に向かって突っ込んでくる。驚いてよけようとする目の前で、スイとかわして止めた。はずみでスカートの裾が広がって、白いふくらはぎが一瞬のぞいた。 「あら、いらっしゃい。今、みんな出てますけど」  結子は突き放すような冷たい口調で言いながら、自転車をロックし、籠から抜き取ったバッグを肩に掛けた。ポケットから鍵を出した後も、智明には目もくれない。 「あんたに話があってきたんだ」 「そうですか。じゃ、上へどうぞ」言葉だけ残して、さっさと階段を上がっていく。智明は腹立たしさを抑えながら、後に続いた。  事務所に一歩足を踏み入れると、結子の仕事ぶりがよくわかった。以前は、三つあるデスクすべてに書類が山をなし、衝立てといわず壁といわず書きなぐりのメモや去年の仕切り書が渾然一体《こんぜんいつたい》となって貼り付いている無政府状態だった。今はスチールキャビネットに、きちんとインデックスがついており、ホワイトボードのカレンダーでは色分けされた真っすぐな線が工程を示し、デスク上には薄いファイルを入れた決裁箱しかない。  智明は思わず「きれいになったなあ」と感嘆したが、結子はそれには答えず、窓際の応接テーブルに置いてある竜胆《りんどう》の萎れた花房をちぎりとると「どうぞ、おかけください」と言い捨てて、忙しげに衝立ての奥に消えた。 「インスタントコーヒーしかないんですけど」声だけが飛んできたので、「そんなことはいいから、こっちへ来て座れよ」と促した。 「手を遊ばせてる時間、ないんです。話なら聞きますから、どうぞご勝手に」衝立ての奥から言われて、智明は怒った。それならこっちから行ってやると奥に入ると、結子はミニキッチンで弁当箱を洗っていた。 「それが噂の弁当かい」皮肉っぽく言ってやった。結子は黙って手を動かしている。「そんなもんで釣って、どうする気だ」 「喜んでくれるから、作ってるだけです。変な言い掛かりはやめてください」三個の弁当箱が水きり籠に入れられるのを、智明は黙って見守った。結子は智明を振り向きもせず、手を拭きながら「失礼」と肩先をすりぬけて、一台きりのパソコンが載っているデスクに向かった。そして、座ってパソコンの電源を入れた。智明は手を伸ばして、スイッチを切った。結子は暗くなったディスプレーを見つめている。 「あいつには手を出すな」 「なに言ってるのかわからないわ。あたしと健太さんは、手を出すとか出さないとか、そういうんじゃありません。すごくいい感じなだけ。小村さんにそんなこと言われる筋合い、ないと思いますけど」 「あいつが傷つくのを黙って見てられないんだよ」  椅子がグルリと回って、横に立っている智明の正面を向いた。そして、結子は強い目で智明を見上げた。 「どうして、あたしと付き合うと健太さんが傷つくの? 平気で不倫する女だから?」 「……下島と二股かけてたじゃないか」 「小村さんだって、あたしと奥さんと二股じゃない。悪いのは、あたしだけ?」  返す言葉はない。しかし、腹立たしかった。悲しくもあった。金で清算する。それで後腐れがない。これでよかったはずなのに、苦みがあとをひく。そんなつもりではなかったのだ。 「二股でも、単なる遊びと割り切った、そういう軽い気持ちだったわけじゃない」 「あたしだって、そうだわ」結子は、再び暗い鏡のようなディスプレーに視線を戻した。 「小村さんだって、下島さんだって、いい人かもしれない、好きになれるかもしれない、そう思ったから……。でも、都合のいい女みたいに安く扱われて悲しかった。いつも自分の家に帰ることばっかり考えて。あたしがどう思ってるかなんて考えたこともないくせに、なんであたしを悪者にできるのよ」 「考えてたよ。いつもそっちの気持ちを訊いたじゃないか。いいのかって訊いたよ、オレは」 「いいのかどうかなんて、答えられない。一緒にいれば、何かが生まれるかもしれないと思ったのよ。何か、絆みたいな、愛情みたいな」  言われて、智明は黙った。愛情みたいな……。みたいなものはあったはずだ。それがなければ、妻を裏切るやましさに目をつぶってまで付き合いはしなかった。妻以外の女を持つスリルや男としての自信回復の魅力のほうが大きいとしても、心の通った関係であってほしかった。 「あたしに悪いところがあるとしたら、男を見る目がないことよ」  結子は顎をあげて、皮肉の効果を確かめるように薄笑いをしながら、智明を見つめた。 「何度同じ目にあっても、期待してしまう。どんな人でも、優しくしてくれるならいい人かもしれないと思って、あたしも期待してるんだから向こうの期待にも応えなきゃと思って……。誰とでもするわけじゃない。自分を安売りするつもりなんか、ない。それなのに、安売りになっちゃうのよね、そいで、安く買えて大喜びの男から、何の価値もない低級女って思われる」  結子は肩をすくめ、耳ざわりな虚しい笑い声を立てた。 「それでも足りずにわざわざ時間さいて、おまえなんか人並みに幸せになる資格はないって言いに来るわけね。なんで、そんなことが言えるの? お金もらったから? 最初からそんなことしようと思ってたわけじゃないわよ。でも、生理が遅れると怖くて不安で眠れなくなるのは、あたしよ。なのに、小村さんも下島さんも、できたって言ったとき、同じ顔した。あたしが悪いみたいな顔よ。そいで、同じこと、言った。そんなはずない。そればっかり。思い出してみてよ。あたしのこと、少しでも心配した?」 「本当だったのか?」 「嘘でもホントでも、態度は同じだったでしょう?」結子は唇を噛んだ。「面倒なことになりそうだったら、いつでも逃げ出すつもりだったのよ。そうでしょ? 楽しんだのはお互い様だろ、ハイさよならですまされるの、口惜しかった。傷つけてやりたかった」  顔を上げた結子と、智明は目を合わせた。睨みあう形になったが、逃げたくなかった。 「傷つけてやろうとして、傷つけたのよ。でも、健太さんは違う。あの人のことは、傷つけようなんて思わない……けど」結子は暗いディスプレーに映る自分の顔に目をやった。 「今まで失敗ばっかりだったから、健太さんとのことも不安だった。優しいのは今だけじゃないか、したら、またそれだけの女にされちゃうんじゃないかって、優しくされればされるほど、怖かった」  智明も画面に映る結子を見た。結子は映り込んだ智明に向かって、鼻で嗤った。 「でも、小村さんがそうやって悪い女から守ろうと必死になるところ見ると、健太さんがいい人なのは保証付きね。下手な鉄砲も数打ちゃ当たるって、このことだ」  智明は何も言えなくなった。ただ、物悲しさだけが後から後から湧き水のように滲み出てくる。  オレだってあんたが考えているような、女をモノみたいに思ってる計算ずくの男じゃないぞ。そう言いたかった。あんたのことを、何の価値もない低級女だなんて思ってないよ。あんたがオレに抱かれてくれて、嬉しかったんだ。好きだったし、好かれていたかったんだ。別れた後も、ずっと。  結子は立ち上がると、智明と向き合った。赤く染まった目の縁で、ほくろが浮かんで揺らめいたように見えた。 「邪魔しないでください」  そう言って、深々と頭を下げた。  違う。そうじゃないんだ。智明は心の中で叫んだ。いや、そうだ。邪魔したかった。他人のものになってほしくなかった。でも、あんたにそんな目で見られたら、オレ……。  下げたきりの結子の頭に向かって、右手が勝手に伸びていく。でも、その手でどうしたいのか。頭を撫でるか。肩を叩くか。よしよし。幸せになれよ。健太は、いいヤツだ。よろしく頼むよ──そんな台詞が頭に浮かんだ。言えたら、どんなに気が晴れるだろう。  でも、言えなかった。上げた右手が所在なく、ズボンのポケットに逃げ込んだ。 「──仲人、させてもらえるかな」  やっと言えたのが、これだ。結子は首だけ持ち上げて「え?」と口を開けた。 「女房が、留め袖、着たがっててさ」  期せずしてテレ笑いが出た。結子は身体を起こして智明を真っすぐ見つめ、寂しげに微笑んだ。 「そうなったら、いいけど」 「なるさ」力強く頷いてみせた。  エライ。それでこそ大人の態度だ。と、自分を誉めてやったが、笑顔を続けるのは難しかった。 「じゃ、ま、そういうことで」口の中でモゴモゴ言い、逃げるように事務所を出て階段を駆け下りた鼻先に、軽トラックのクラクションが浴びせられた。たじろいで見ると、健太が軽トラの運転席から顔を出して「おニイちゃん、ヤッホー」とニコニコしている。そのまま車寄せに乗り入れて停め、ポンと飛び降りた。半袖のTシャツの首に青いタオルを巻いている。日焼けした腕から、とうに終わった夏の輝きが発散されているようで、智明は目をしばたたいた。 「おニイちゃん。来るならそう言ってくれなきゃあ。仕事ブン投げて帰ってきたのにって、そりゃ、ないか」アハハと豪快に笑っていた健太の顔が、事務所の窓を見上げていっぺんにトロけた。大きく開いた窓から乗り出すように、結子がこっちを見ていた。 「ただいまあ」健太は大きく手を振った。  結子は泣き笑いの顔で、健太を見つめていた。健太しか見ていなかった。それは、智明の知らない顔だった。智明は目をそらし、やるせなく空を見上げた。結子の顔からあふれ出たキラめくもののおこぼれが、胸に刺さって痛かった。 [#改ページ]   商店街のかぐや姫     1  ズッキーニ、一本百円。  プライスカードに書き込んだところで、月恵《つきえ》は段ボールからそのシロモノを一本取ってつくづく眺めた。カボチャの仲間だが、外見はどう見ても太った胡瓜《きゆうり》だ。思わず、薄く切って生で食べたくなる。明治屋紀ノ国屋ならいざ知らず、下町マダムご用達のひまわりマートでこれを売るためには、バターでさっと炒めたものを試食させたほうがいいかもしれない。そうだそうしようと、電気プレートを用意するために立ち上がりかけたとき「奥さん。電話でーす」。  アルバイト女子高生のナナちゃんが、鼻先に子機を差し出した。赤い髪に青いアイシャドウ。ひまわりの刺繍《ししゆう》と〈ひまわりマート〉のロゴが入った黄色いエプロンの下は、ピチピチのTシャツと超のつくミニスカートだ。この格好で平気でかがみこんで、よっこらしょとキャベツを腕一杯抱えたりする。一度注意したら「ちゃんとタイツはいてるから、見ようったって見えませんよ」と、ケロリと答えた。登美子《とみこ》ママは「なんだい、あの子は。ここはキャバクラじゃないんだよ」とおかんむりだが、月恵はその図太さがなんとなく気に入って、したいようにさせている。今もナナちゃんはガムをクチャクチャ噛みながら「旦那さんですよ」と一言付け加え、断りもなく月恵の肩と顎の間に子機をねじこんでいった。  肩で支えた受話器に「はい?」と問い掛けると、「旦那さんだよーん」。  努《つとむ》のおちゃらけた声が飛び出してきた。やれやれ。月恵はため息を返した。 「切るよ」 「怒るなよお。いや、怒っていい。怒る気持ちは、重々わかる。もう、怒って。存分に怒って。でも、その前に三万円ほど持って迎えに来てくれないと、帰れないんだよ」 「別にいいけど。帰ってこなくても」 「月恵……それ、本気で言ってるんじゃないよね」  努の声がシリアスに震えた。月恵はもう一度ため息をついて、子機を手に握り直した。 「どこにいるの」  教えられたのは、駅裏のビジネスホテルだった。ひまわりマートがある中町二丁目商店街からは、徒歩で二十分の距離がある。月恵はバックヤードから事務所を抜けて店内に入り、通用口近くの壁に取り付けた受信機に子機を戻した。  午前九時。三十分後の開店に向け、ナナちゃんと登美子ママが忙しく立ち働いている。昼間の学校をドロップアウトして定時制高校に通っているナナちゃんと登美子ママと月恵。二十坪足らずの〈ひまわりマート〉は、女手で動いている。社長の肩書きがついている努は、自ら「遊軍」と称してしょっちゅう消える。昨夜も九時に店を閉めた後「ちょっと」と出ていったきり、帰ってこなかった。  月恵は、豆腐屋の六さんと品出しをしながらしゃべっている登美子ママに「智佳《ちか》が忘れ物したんで、ちょっと届けに行ってきますから」と声をかけた。 「あれ、そうかい? 昨夜寝る前に一緒にランドセルの中、確かめたんだけどねえ」  チリチリのおばさんパーマの頭を振り向けて、登美子ママが言う。店名入りエプロンに半袖のTシャツ、コットンパンツ、スニーカー。登美子ママと月恵は同じ格好をしている。しかし、化粧っけがなく髪も無造作にバレッタでまとめただけの月恵と違い、登美子ママはちゃんと薄化粧をしていた。 「とにかく、忘れてたんだそうです。パパッと行ってきちゃいますから、店お願いします」 「あいよ」  月恵はバックヤードに戻り、奥の扉を開けて二階に駆け上がった。三階建ての一階が店で、二階と三階が登美子ママ、月恵と努夫婦、それに小学五年生の大地と二年生の智佳、合わせて五人家族の住みかである。夫婦の寝室(といっても、古い六畳の和室だ)にある和箪笥にしまっておいた財布から三万円を出し、エプロンのポケットに押し込んだ。もっとましな服装に着替えることなど、チラとも考えない。自転車に飛び乗って、商店街の裏の道をすっとばした。仕入れた品物を搬入しているご近所連中が「おはよう、月ちゃん」と、口々に声をかけてくる。月恵は「おはよー」と叫び返して、息の続く限りグイグイこいだ。  商店街を抜けるとさすがに足にきた。駅が見えてきたところで自転車を止め、パンツのポケットに忍ばせた煙草を取り出し、一服した。そして、今度はゆっくりとこいだ。九月とはいえ、まだ暑い。半袖の腕に風が心地よかった。  外気が晴れ晴れとしている分、人気のないホテルの中はじっとり沈んで感じられる。狭くて薄暗いエレベーターをおり、妙にシンとした廊下を忍び足でたどって305のドアをノックすると、すぐに努が顔を出した。ボタンダウンシャツをだらしなく羽織り、靴下はだしで腰にバスタオルを巻いている。月恵の顔を見て、くしゃっと目を細め「サンキュ」と笑った。月恵は表情を変えず、肩で彼を押し退けて奥に進んだ。ベッドでは、スリップ一枚の若い女がへの字口で煙草を吸っていた。 「ヒイナちゃん。スワンって飲み屋で働いてるコ」後ろから説明する努の声は、まったく悪びれていない。 「ヒイナちゃん、二十歳だけど、ひとりで子供育ててる健気《けなげ》な子なんだよ、それで」 「一回三万円なわけ」月恵は、ヒイナに言った。声に軽蔑が滲む。ヒイナはむっと目を上げた。化粧をしたまま寝たらしく、アイメイクがムラになって目のまわりがグレーだ。 「本当は五万円以下ってことはないんだけどね、友達だから三万でいいって」努が言い訳をした。 「でも、オレはほら、財布持たずに出たでしょう、昨夜。だから、飲み代と一緒にツケといてって言ったら、一緒にするなって怒られちゃって。お金払うまで帰さないって、パンツとズボン隠されちゃったんだよ」  月恵は黙ってポケットから三枚の一万円札を出し、サイドテーブルに置いた。そして「先に帰るから」と、さっと努の前を通り過ぎた。  自転車をゆっくりこぎだすと、努が走って追い掛けてきた。ちゃんとズボンをはいているが、靴は突っ掛けただけでシャツのボタンを掛け違えている。月恵は自転車を止めて待ち、追いついた努の胸に手を伸ばしてボタンを直した。努はハアハア言いながらも、一年坊主のように首をあげ〈キヲツケ〉をして、されるままになっていた。 「あのな。そんなつもり、なかったんだよ。スワンで飲みながら話してたらね、ヒイナちゃんが子供を保育園に入れるのにお金がいるんで、ときどき、ああいうことして貯金してるんだって言うんだよね。それで、酔った勢いでオレも協力しようかって言ったら、そういうことになっちゃって」  ボタンを留め終えた月恵は、黙って自転車を引っ張って歩き始めた。努はついてきながら「悪いと思ってるよお。金は、来月分の小遣いから減らしてもらっていいから」と言っている。 「月恵みたいな生まれつき出来のいい女にはわからないだろうけど、頭の悪い、根性なしの女はさ、自分に売れるものは身体しかないってあきらめてるんだよ。そういうダメなやつの気持ち、オレ、すごくわかるからさ。それで」 「もう、いいよ」月恵は振り返って、努に形だけ笑いかけた。 「そういう言い訳、聞きたくない。一緒に帰ると登美子ママにバレるから、先に行くよ」そう言い捨てて、自転車にまたがった。怒りよりもアホらしさが顔に出ている。それを努に見られたくなかった。  努の浮気は、季節の変わり目にひょいとひく風邪のようなものだ。一過性であとをひかない。それはいいのだが、トドみたいに太った飲み屋の出戻りマダムとか所帯やつれしたパチンコ屋のバイト主婦とか男にフラれてヤケになった年増の薬剤師とか、相方がなんとも情けない。刺のある真っ赤な薔薇のごときいい女とどうにかなってくれたら、「お、やるじゃん」と見直しもしよう。だが、そこらのぺんぺん草やヤブカラシ相手に目くじら立ててちゃ、こっちの女がすたる。月恵は力をこめて風を切り、店に帰った。  十一時を過ぎたあたりから、客が多くなり始めた。今日の目玉は半割りにしたキャベツと大根だ。レジをナナちゃんに任せ、月恵は登美子ママとバックヤードで大根の葉を切ったり、キャベツを半分に割ってラップでくるむ作業に没頭した。十二時になって、やっと努が「やあやあ」と登場。月恵は黙って努に菜切り包丁を手渡し、列ができているレジに走った。  二時近くに、客足が途絶えた。レジを見張りながら崩れた缶詰の山を直していると、昼休みであがったはずのナナちゃんが「奥さん、奥さん」と、嬉しそうに走り寄ってきた。 「旦那さん、登美子ママさんにひっぱたかれてますよ。何か、あったんですか?」 「朝の品出し、サボったからでしょ」 「そんなの、いつもじゃないですか。おまえなんか、いっそ死んじまえって言われてますよ。すごいですよ。サンダルで叩いてますよ。行かなくていいんですか?」 「いいのよ。親子喧嘩なんだから」無視しかけたが、「お母ちゃーん。ちょっと、待ってよお」と響いてきた努の情けない声が、すぐに「つきえー」という叫びに変わった。 「店、あたしが見てますから」ナナちゃんが張り切って請け合う。仕方ない。月恵はバックヤードに向かった。  大小様々な段ボールが積み上げてあるほか、キャベツやレタスの外側の葉、段ボールから転げ落ちたジャガイモ、形の悪い胡瓜、つぶれかけたタマネギらが散乱して足の踏み場もないバックヤードで、登美子ママは自分より背の高い努を壁ぎわに追いつめ、片手に持った男物のサンダルを振るっていた。努は両腕で顔をかばいながら「お母ちゃん、謝ってるだろ。いい加減に止めてよ。血圧上がるよ。あ、いて」と、悲鳴をあげている。そして、月恵の姿をみとめて「つきえー、お母ちゃんにやめるように言って」と言い掛けた口に、まともにサンダルパンチを食らった。  登美子ママは、手を止めて振り返った。肩で息をしている。努は泥を食ったらしく、ペッペッと唾を吐いた。 「ひっでえなあ。こういうの、虐待だぞ」  登美子ママは顔を努に戻すと「なにが虐待だ」と唾を飛ばした。 「四十超えた息子のバカさ加減を知らされる親の身になってみな。それこそ、精神的虐待だ。月ちゃん、構うこたない。こんな男、追い出しちまいな」 「お母ちゃーん」 「うるさいね。あたしは月ちゃんと孫たちがいてくれたら、満足なんだ。月ちゃんたちを受取人にあんたに生命保険かけてるからね。あんたは死んだほうがよっぽどみんなのためになるんだ。出てって、どっか遠くで死んじまいな」 「ママ」月恵が仲裁に入ろうとすると、「あんた、どうして嘘ついたんだい」と登美子ママは悲しそうに言った。 「嘘つくにしても、忘れ物だなんて智佳のせいにしちゃいけないよ。あたしは、どうしても腑《ふ》に落ちないからピンと来たけど、智佳が知ったらどんな気がすると思う? 忘れ物しないっていうのが今年の努力目標で、ここまで毎日花丸なんだから」  月恵は、まじまじと登美子ママをみつめた。その通りだ。自分は智佳の気持ちまで考えなかった。やっぱり、この人にはかなわない。 「どうせ、安手の女にひっかかっちまったんだろうけど」登美子ママは、流しで顔を洗っている努を見やって、ため息をついた。 「へんにかばっちゃイケナイよ。女房なのに、あんたは物分かりがよすぎる。あのコは、それが寂しいんだよ」  月恵は「まあ、こうして帰ってきますから」と、ヘラッと笑った。 「そんなことより、ママ。ナナちゃん、お昼ご飯、まだみたいなんですよ」 「わかった。替わるよ。あんたもあがって一緒に食べちゃいな。炒飯、作ってあるから」  登美子ママが出ていった後、月恵はしょんぼりと流しに寄り掛かりタオルで顔を拭っている努のそばに行った。流しの縁に寄り添って腰を下ろし、ぐしゃぐしゃになった髪を撫でつけてやると、努は「ごめんな」とタオルの中につぶやいた。 「汚れついでに、ここら、きれいにしといてよ。それから、全部着替えて。着てたものは洗濯機に入れといて」それだけ言って、遅い昼食を食べるため、二階に上がった。  売れ残りのハムと野菜とちくわで作った炒飯を温め直していると、ナナちゃんがあがってきた。冷蔵庫に入っている、これも賞味期限切れ寸前の缶ジュースを取り出して飲んでいる。 「ナナちゃん、手、洗った?」 「あ、忘れた」と彼女はシンクにやってきて、石鹸を使った。汚れた手も構わず、ものを食べる無頓着さは直らないが、注意すればムクれず従う。だから、ナナちゃんはバイトとしては拾い物だと月恵は思っていた。 「奥さん。訊いていいですか」  向かい合って食べていると、ナナちゃんが思い切ったように目を上げた。 「なに?」 「旦那さん、怒られてたの、あれ、浮気したからでしょう?」 「──まあね」 「こんなこと言うの悪いけど、旦那さん、よく浮気してますよね」  月恵はおかしくなって、ぷっと噴き出し、むせてしまった。 「わ、奥さん。すいません。ショックでした?」  月恵はむせながら首を振った。 「大丈夫。ちょっと笑っちゃっただけ。確かに、よくやってくれてるよね」  空咳しつつ笑っている月恵を、ナナちゃんは感心した顔で見つめた。 「奥さん、そういう風に平気ですよね。あたし、そこ、知りたいんですよ。あたし、一応彼氏いるんですけど、浮気してるみたいなんですよお。だけど、へんに追及したり怒ったりしたら、バイバイされちゃいそうで、怖いんです」ナナちゃんは首をすくめて、無理にテレ笑いをした。 「でも、二股かけられるの、我慢できないし。どうしたらいいのか考えると、頭ぐしゃぐしゃになっちゃって」  そんな男とは別れちゃえば? と思ったが、月恵は「そうなんだ」と第三者発言で距離を取った。 「だけど、奥さんと旦那さん見てたら、どんなに浮気されても知らん顔してたら、男って結局信じて待ってる女のところに戻ってくるものなんだって、なんか勇気出るんですよね」  勇気? 「奥さん、やっぱり、それですよね。浮気されても、二人の愛を信じてるから、奥さん平気なんですよね」  そんな恥ずかしいこと、言わないでよ。いくら浮気をされても柳に風と受け流せるのは、我を忘れて怒るほど努を愛してないからよ、などとはとても言えない。月恵は「ウフフ」と笑ってごまかした。ところが、ナナちゃんはますます真剣な面持ちになり、「あたしね、奥さんのこと、目標にしてるとこ、あるんです」と言うのである。 「親の反対押し切って、旦那さんと結婚したんでしょ。ウチのおやじなんか、親のいうこと聞かないとあとで後悔するんだからな、なんてオドすんですよ。だけど、奥さんみたいに親と喧嘩してでも幸せになって、ちゃんとやってる人がいるじゃないですか。親ってだけで子供の人生に口出しするの、たいがいにしてほしいですよね」  月恵は、困った。なんで、みんな、出来がいいとか、ちゃんとやってるとか、わたしのことをそんな風に買いかぶってるんだろう。わたしは、そんな、よくできた人間じゃない。わたしは……。  そのとき、鳴りだした電話の音が月恵を救った。一瞬で飛び付いて「はい。長瀬でございます」よそゆきの声に、相手は押し黙る気配を返してきた。無言電話。ひょっとして、今朝の女か? まったく、面倒くさいわね。 「もしもし?」キツめの口調で問い掛けると、負けず劣らずコワめの声が「佳恵《よしえ》ですけど」と答えた。今度は月恵がウッと詰まった。 「アハ。びっくりした。元気?」気合いを入れて明るく応じると、妹は「ちょっと頼みたいこと、あって」と事務的に言った。     2  親の反対を押し切っての結婚──ではあるが、反対したのは父親である。二十六歳で結婚した十年前、母親はすでにこの世にいなかった。いたとしても、月恵の決心を応援してくれたとは思えない。母は二言目には、「お父さんに聞いてごらんなさい」「お父さんがお許しになるかしら」「お父さんが怒ってらっしゃるわよ」という女だった。そうやって、いつも夫の顔色をうかがっている母の態度を好きになれないと思うようになったのは、中学に入った頃だったろうか。  月恵の父、住岡|孝成《たかなり》は産婦人科の開業医である。頑固で愛想が悪い。妊婦が本で得た知識を口にすると機嫌が悪くなり「それなら、その本に産ませてもらえばいい。私は必要ないから、お帰りください」と追い出してしまう。中絶を望む患者の態度があまり軽々しいと説教をし、十七、八で妊娠した娘には「おまえのようなモノを考えない低級な人間に母親になる資格はない。中絶しなさい」と言い渡す。それでよくもめ事を起こしていたが、早産や難産の危機を確かな腕で何度も乗り越え、感謝もされてきた。だから、父のことを誇らしく思っていたのは事実だ。「お父さんは立派な方」と一家揃って仰ぎ見るのはいい。けれど、何をするにも「お父さんに聞いてからになさい」と言われると、なんとなく腹が立った。  最初に逆らったのは、中学二年の時だ。それまでずっと「お父さんがお好きだから」三つ編みにしていた髪を少し切って、パーマをかけた。ごくおとなしい内巻きのボブスタイルだったが、一目見た途端、父は即座に命令した。 「パーマをかけるのは校則違反だろう。すぐにとりなさい」。 「このくらい、みんなやってるわよ」と言うと、「みんながやっているからというのは理由にならん。学生なら学生らしくしなさい!」と怒鳴られた。 「今すぐシャンプーしたら落ちるわよね。月恵、そうなさい。パーマなんて、大人になったらいくらでもかけられるんだから」母親が横から懇願するような声でとりなそうとした。  月恵は、自分を見下ろしている父の目を見た。怖かったが、今までのようにいじけて「はい」と下を向いてはダメ! そう、お腹の底から突き上げてくるものがある。月恵は歯を食いしばって父を睨み返した。 「パーマ、とればいいのね」  その場を飛び出した。そして、貯金箱を割って金を出し、美容院に駆け込んで「うんと短くしてください」と言った。  男の子のようなショートヘアを見た父は、むっとしたが何も言わなかった。母と兄と妹は、目をむいた。父親の不機嫌が暗雲となって垂れこめる夕食の席で、月恵一人が意気揚々と箸を動かした。元気にふるまわないと、いたたまれなかった。  それ以来、父と月恵の間はギクシャクしたものになった。  女子高生になった月恵は、ハンバーガーショップでバイトをし、夏はビーチ、冬はゲレンデでボーイフレンド探しにうつつを抜かした。アイドルの追っかけは言うに及ばず、耳にピアスの穴を開け、友達の家に集まってビールを飲んで煙草を吸った。だが、それ以上に羽目をはずすことはなかった。そんな度胸のない、いい子でいたい普通の女子高生だったのだ。しかし、その程度の規則破りでも、父を不快にさせるには十分だった。  家の中でバッタリ顔を合わせると、父の周囲からシュルシュルと音が聞こえる。目に見えないバリヤーが張られる音だ。家庭内音信不通。お返しに月恵は、いかにも「毎日が楽しくてたまらない」という顔で機嫌よく過ごした。おかげで家にいるほうが疲れた。  勉強のできる兄は父と大人びた会話をかわし、おっとりした妹は無邪気に「はい」「はい」と父の言うことをきくいい子だった。月恵は、どうやったらそんな態度がとれるのかわからなかった。朝食の席で、父母と兄と妹が何事か話している。そこに月恵が加わると、雰囲気がいっぺんに硬くなった。「あーら、おじゃま虫」とおどけて、月恵はトーストとミルクを立ち食いして、さっさと登校した。母はいつも何か言いたげに月恵と目を合わせるくせに、何も言わなかった。  大学を出て証券会社に就職した。休日の診察室で内定を報告すると、父はカルテに目をやりながら「株屋か。それがおまえのしたいことか」と言った。 「お給料がいいのよ。一人暮らしが十分できて、貯金もできる」 「給料がよければ、いいのか。おまえの仕事に対する考え方は、それだけか」 「仕事がどうこうじゃないわ。独立したいんです。それが、わたしのしたいこと」  父は目を上げて月恵を見た。正面から見つめ合うのは何年ぶりだろう。月恵は緊張した。だが、彼はすぐに目をカルテに戻し、ゆっくりと万年筆のキャップを取った。それだけだった。  後ろ手にドアを閉め、月恵はうつむいて泣いた。「しっかりやれ」とか「無理はするなよ」とか、言ってほしかった。反発してばかりの出来損ないのわがまま娘に言えることではないが、でも、やはり、励ましてほしかった。わかってほしかった。  月恵は、下町にできたばかりの小綺麗なワンルームマンションに引っ越した。母が手伝いに来てくれた。だが、父の手前をはばかったのか足を運んでくれたのはその時一回きりだった。母は父だけが大事なのだと、月恵は思った。  念願の独立ライフは、しかし、ちっともよくなかった。証券会社は給料がいい分仕事がハードで、残業続きの月恵は一人暮らしを楽しむどころではなかった。日々の食料品を買う時間もない。仕方なく、日曜日に商店街のひまわりマートで冷凍やレトルトの食品の買い溜めをする。顔馴染みになった頃、店の登美子ママ(みんながそう呼ぶので名前を覚えた)が冷凍ピラフをレジに打ちこむ手を止めて「これ、毎週水曜日に三割引きにするんだよ。買い溜めするなら、そのときにしなよ」と教えてくれた。平日は閉店時間に間に合わないのだと告げると「とっといたげるよ。近くに住んでんだろ? なんなら、配達しようか。ウチの売り上げになるんだ。それくらいのサービス、させてもらうよ」と言ってくれた。  それから月恵はひまわりマートのチラシを見て、いるものをファックスで注文し、マンションに帰ってきた頃に配達してもらうことにした。持ってくるのが努でよく話をするようになり、やがて三人で食卓を囲むようになった。それも、登美子ママが「あんた、レトルトばっかり食べてちゃ身体に悪いよ。たいしたもん出来ないけど手間は一緒だから、今度うちに食べにおいで」と言ったのがきっかけだった。月恵が遠慮すると、登美子ママは「あんた、勘違いしてないかい?」と少し怒ったような顔になった。 「自活するっていうのは、誰の手も借りないってことじゃないよ。人間、一人じゃ生きられないと割り切ることだ。世の中、持ちつ持たれつ。誰かに助けられたら、いつか誰かを助けりゃいいんだよ。下手な遠慮は、誰の役にも立たないもんだよ」  カーンと一発、満塁ホームラン。そんな爽快感があった。  月恵は生まれてから二十四歳のそのときまで、これほど力のある言葉で抱き寄せられたことはなかった。この人と親しくなりたい。その一心で、月恵は喜んで招待に応じた。  長瀬家は、登美子と努の二人家族だ。父親がいなくて、仏壇がある。初めて食事に招ばれたとき、居間に置かれた仏壇を見て「あの、お父さまはお亡くなりに?」と訊くと、台所であら煮の味見をしていた登美子ママが「お父さまだなんて、そんなんじゃないんだよ」と笑った。 「ま、マリア様じゃないんだから、努の種つけしてくれた人はいるけどね、父と呼んではいけない人でさ」  どんな顔をしていいかわからずまばたきをする月恵に、登美子ママは「努は私生児なんだよ」と大声で言った。 「あたしのこと、世話してくれる人がいてね。この店開くときも助けてくれた。でも、奥さんがいてさ。結婚できなかったけど、子供は欲しくてね。産ませてもらった。いい人だったけど結構年寄りだったから、努が生まれてまもなく死んじまった」  あら煮の大皿を卓袱台《ちやぶだい》に運び、ようやく月恵のそばに座って、登美子ママは仏壇の位牌をしみじみ見つめた。 「知らん顔してお葬式に行って戒名覚えて、お位牌だけこっそり作った。写真はね、ないんだよ。あちらのご家族に迷惑かけちゃいけないから。努も、なまじ知らないほうがいいと思ってね。どうせ、生きてたって会っちゃいけない人なんだから。人間、筋を通さなきゃバチがあたるからね」 「オレは、そのせいで、ちょこっとグレたけどね」  かいがいしくお浸しやごまあえや箸を卓袱台に並べながら、努がニコニコと言った。「でも、ワル仲間に入ると喧嘩ざたがあってさ、痛いのヤだから、まともな少年に戻ったわけよ。お母ちゃん、怖かったしね」 「……ごめんなさい」月恵がうつむくと、登美子ママは「なにが?」と目を丸くした。 「つらいこと、話させてしまって」 「なに、言ってんのさ」登美子ママは、ケラケラ笑った。「こんなの、秘密でもなんでもないよ。ここらの人はみんな知ってるもの」 「お母ちゃん、終戦の年に十五歳で名前も知らない兵隊さんの子供妊娠した強者《つわもの》なんだよ。戦後のどさくさで流産したってんだけど、そういう話、ほとんど自慢っぽくしゃべるからさ。ほんとかよって思ってるんだよ、実は。カッコよすぎるもんな。死ぬかもしれない人のこの世の名残りに処女を捧げた、とか言うんだぜ」 「嘘なもんか。あんときは、燃え上がったんだよ。夢の中の出来事みたいでね。でも、やっぱり子供だからさ、妊娠するなんて想像もしてなかった。流産したときは、正直ほっとした。図々しい娘っこだったんだよ、あたしは」  なんだ、これって。月恵は興奮した。潔《いさぎよ》いというのは、これほど気持ちのいいものか。  月恵は、登美子ママに惚れ込んだ。そして、ひまわりマートがPOSシステム導入を考えていると聞くに及んで、パソコンのセットアップやその後の利用の仕方を教えることを口実に長瀬家に入り浸るようになった。  そうしているうちに、母がクモ膜下出血であっけなく死んだ。真っ白になった頭で通夜に駆けつけた月恵は、まだ高校生だった佳恵に「お母さん死んだの、お姉ちゃんの親不孝のせいだからね」と言われ、隅の方に縮こまった。病院の後継ぎにおさまったばかりの兄の妻が仕切る葬式も、悄然とうなだれて過ごした。そして喪服のままひまわりマートに行き、登美子ママに「お母さんが」と言った途端に泣きだしてしまった。  努が月恵にプロポーズしたのは、その晩のことである。 「今夜は泊まっていきな」と登美子ママに誘われ、夕食をすませた後だった。しんみりと食後のお茶を飲んでいたとき、努がいきなり月恵の前にストンと座り、額を畳にすりつけて「オレはあんまし出来のよくない男ですけど、一生のお願いです。結婚してください」と頼んだ。 「バカだね、このコは」登美子ママはあわてて努の頭をはたいた。「月ちゃんの気持ちが弱くなってるときに、つけこむんじゃないよ」  そして、月恵に向かってすまなそうに言った。「ごめんよ、月ちゃん。このコ、あんたのことが好きでねえ。可哀想なくらいなんだけど、なんせ、親のあたしがその日その日を生きるのに精一杯で野放しにしたもんだから、底の抜けたバケツみたいなでたらめな男に育っちまって、あんたみたいないいお嬢さんとは釣り合わないよ。聞かなかったことにしておくれ」  いつまでもベショベショと出ていた月恵の涙が、あまりの驚きでぴたりと止まった。努のことなど、真剣に考えたことはない。気のいい男だとは思っていたが、あくまでも登美子ママの付録に過ぎなかった。だが、そうだ。結婚すれば、登美子ママと家族になれる! 月恵は登美子ママを見つめて、「わたしも結婚したいです」と答えた。  それまで平伏《ひれふ》していた努が頭を上げ「へ?」と固まった。登美子ママは「ほんとかい?」と真剣な顔で訊いた。月恵は頷いた。涙が再び滲み出たが、それは嬉し泣きだった。  話はすぐに決まった。「お母さんの喪が明けるまで待つべきだ」と、登美子ママは主張したが、月恵はさっさと会社に結婚退職を申し出た。そして、初七日に家族に結婚が決まったことを報告した。父は無言だったが、兄夫婦と妹が「いきなり打ち明けるなんて、非常識だ」といきりたった。月恵は「あんたたちの承諾なんか、いらないから」と言ってしまった。  その顛末を聞いておさまらなかったのが、登美子ママだった。 「あたしたち揃って頭下げて、ちゃんとご挨拶しようよ。霊前で喧嘩別れみたいなことしちゃ、亡くなったお母さんに申し訳ないよ」と言い張り、暦を見て良い日を選び、自分で月恵の父親に電話をかけて約束を取り付けた。  その日、努は一張羅《いつちようら》のスーツに身を包み、登美子ママは樟脳《しようのう》が匂う訪問着を着た。そして菓子折りと線香をさげ、嫌がる月恵をひったてて、古くからの住宅街にある住岡医院の門をくぐった。  母に線香を上げ、礼儀正しく自己紹介と結婚の申し込みをする二人に、父は冷たかった。腕組みをし、目を半ば閉じて、登美子ママと努のこもごもの言葉を聞き終えた父は、開口一番「私は、この結婚を喜んではいません」と言った。 「悪いが、私は商売人が嫌いだ。百姓や職人が黙々と作ったものを安く買って高く売る。功利、儲け、それしか頭にない。そんな生き方は卑しい。娘には、貧しくとも世の中の役に立つ人間の妻になって夫を支える、そういう結婚をしてほしいと思っていました」 「お母さんみたいに?」でも、わたしはお母さんとは違うのよと月恵は言いたかった。しかし父の目は、月恵を通り越して宙の一点を見ていた。 「決まったものを、やめろとは言わない。しかし、今の私の気持ちを言うなら、その娘は家内同様、死んだようなものです」  父の声は、静かだった。だが、月恵は目の前が暗くなった。グラリと傾いた肩を、横から登美子ママの手がしっかりつかんだ。 「あんた、父親だから、何言ってもいいってのかい。お母さんが死んじまって、今のこのコがどれだけ心細い思いしてるか……それなのにそんな冷たいこと、よくも言えるもんだ」 「お母ちゃん」  努が小声で何度もたしなめたが、登美子ママは止まらない。 「大体ね、あんたはバカにするけど、商売人がいなきゃ、誰が百姓や職人に金を払うんだい。あたしらは金を払ってあの人たちが作ったものを買って、薄い利益を乗せて売り出すんだ。仕入れたものが全部売れりゃ、苦労はないよ。でも、そうはいかないやね。あんたたちは看板出して待ってりゃ、患者がやってくる。先生、先生って有り難がられてさ。だけど、こっちはね、眠る時間も削って頭使って身体使って、ようやくトントンなんだよ。人のアガリかすめとって生きてるって文句言いたいんなら、やくざと政治家に言っとくれ。あんた、自分がどれだけおエライと思っておいでか知らないけどね。あたしに言わせりゃ、トンビがタカ産んだってのは、このことだ。あんたみたいな根性曲がりの種で、よくも月ちゃんみたいないい子ができたもんだ。筋を通すってのがあたしの主義だけど、この際、父親の許しがなくたって、月ちゃんはいただくよ。いくら死んだつもりになったって、このコは生きてるんだ。寂しくなって泣くのはそっちだからね。さ、帰ろう」  立ち上がった登美子ママに続いて、月恵は「はい」と元気よく立った。しかし努は未練げに、腕を組んだままで彫像のように目を閉じ事態を無視している父の前に進み出て、膝をついて頭を下げた。 「すみません。おふくろは性格がきつくてひどいこと言いましたけど、悪気はないんです」 「いいのよ」月恵は努の腕をとって立たせた。 「ひどいこと言ったのは、この人のほうなんだから」  帰り道、月恵は広い溝を跳び越えたような興奮で胸を躍らせていた。登美子ママは「言い過ぎちまった」と盛んに後悔していた。 「あたしのおっちょこちょいは、死ぬまで治らないねえ」 「いいんです」月恵は声を励ました。 「父のああいう、上から人を見下ろすようなところ、前から嫌いだったんです、わたし。なんだか、スカッとした。これでよかったんです」 「でもさあ」一番後を歩いていた努が言った。 「なんか、カッコよかったなあ。威厳があって、いかにも父親って感じで。オレ、なんか、憧れちゃうなあ。反対されちゃってるけど、いつか、あの人と酒飲んだりしたいなあ」  ポツンとこぼれた努の父なるものへの思いは、みるみるうちに雨雲になってその場を翳《かげ》らせた。  登美子ママが黙ってしまったので、月恵は「あんな父親なら、いないほうがよっぽどマシよ」と言ったが、重い雨の気配を消すことはできなかった。努に対して申し訳ない気持ちで一杯になった月恵は彼に寄り添った。  努に優しくするのは罪ほろぼしに似ている。結婚する理由の中で、彼への愛の要素が一番少ない。いうなれば彼は、登美子ママという部屋に通じるドアの把手だ。そんな程度の気持ちを悟られないように、月恵は努の肩に頭をもたせかけた。努は嬉しそうに、月恵の髪に頬を寄せた。登美子ママは知らないふりで、大好きな北島三郎の『帰ろかな』を歌いながら、二人の前をゆっくり歩いた。  それから、商店街の互助会の世話で結婚式をあげた。花嫁側の家族は出席しなかったが、商店街の顔見知りが着飾って家族代わりを務めた。子供が二人できて、このあたりの子供たち同様、地域の公立に放りこみ、このあたりの働く母親らしく、教育熱心とはいかないが「勉強は?」と口うるさく言うだけは言う。迷うことがあると月恵は登美子ママの意見を聞き、彼女のやり方をなぞった。それ以上は、何も考えなかった。毎日忙しく、飛ぶように日が過ぎる。努の浮気も気にしている暇がなかった。だが、そんな日々の底で、ふと気を緩めると頭の中から声が聞こえる。  それが、父親に突き放されてでも、おまえが手に入れたかった生き方か。  登美子ママの真似をすれば、彼女のように強く潔くなれると思っているのか。その域に近付いているといえるのか?  おまえはただ、流されているだけではないのか。  妹からのほぼ十年ぶりの電話は、月恵の中からその問い掛けを呼び出した。「親不孝」となじられて以来、月恵はこの親孝行な妹が苦手だった。「頼みたいことがある」と言われても、責められることを予想して、つい身構えてしまう。 「わたし、婚約したの。それで、両方の家族が揃って結納とその後、会食をすることになって」妹はどこか暗い声で伝えた。「で、来てほしいんだけど」 「わたしはいいけど……」みんなは、いいの? お父さんは?──という問い掛けは飲み込んだ。「行くわよ。もちろんよ。あの、あの、おめでとう!」  月恵はことさら明るく答えた。昔、家の中でいつもそうしていたように。     3  佳恵の結納の儀式に列席すると聞いて張り切ったのは、努と登美子ママである。とりわけ、登美子ママが喜んだ。 「あたしはずっと気になってたんだよ。あたしのせいで、駆け落ち結婚みたいなことになっただろ? 月ちゃんのお父さんのメンツ、つぶしちゃったからねえ。月ちゃんが意地になる気持ちもわかるし。でもさ、今度はおめでたい席だもの。これをきっかけに、なんとかうまくいくようになってほしいよ」  その日の朝、登美子ママは正装した二人の世話を細々と見ながら、興奮を抑えきれずにしゃべりまくった。努は三つ揃いのスーツを新調し、月恵は母の形見の色留め袖を着た。「品のいい藤色のあれをあんたが着てるところ、見せておくれよ。そうしたら、お母さんと一緒に妹さんのお祝いすることになるだろう?」と登美子ママが頼んだのだ。  そして彼女は、着付け終えた月恵をまぶしげに眺め「どうだい。氏育ちは争えないってえけど、こうしてちゃんとすると掃き溜めに鶴だよ」嘆息したかと思うと、努を振り返って「努! あんた、頑張るんだよ。佳恵さんに言われたこと、わかってるだろうね」と叱咤した。 「任してよ。いくつだと思ってるんだよ」  努は鏡の前でネクタイを直しながら力強く答えた。 「年甲斐がないから、言ってるんだろ!」  そのやりとりを聞きながら、冷静なふりで月恵はお茶を飲んだ。しかし、内心は不安で一杯だった。不安の中身は、怒りや惨めさに似た感情の渦巻き。着馴れない和服の下で、身体が息苦しさに身悶えているようだ。  努さんに、あんまり口をきかないように言って──それが、佳恵の要求だった。母の法事には月恵夫婦も参加を許される(と月恵は感じていた)のだが、その際、努はいつもはしゃぎ気味によくしゃべった。あの調子でやられたら困ると、妹は断定的に言った。 「内々なら、まだ許せるわよ。でも、今度のはあらたまった席だし、ましてや、あちらは堅いお家柄だから、ウチもきちんとしたところ見せたいのよ」  駆け落ち結婚してろくに付き合いのない不出来の姉と、そのひょうろくだま亭主は、お見せできない汚点なわけね。そう思ったが口に出さず、月恵は「わかった。言っとく」と約束したのだった。  登美子ママが呼んだハイヤーに乗って行った先は、黒塀に囲まれた一流料亭だった。それも、築山《つきやま》にししおどしの音がこだまする庭に面した離れである。人懐っこい努の笑顔もこわばる物々しい舞台装置だ。母の形見を着たことで余計に自意識過剰になった月恵は、カチカチになった。ダークスーツの兄と訪問着の兄嫁、そして振袖を着た妹にはなんとか作り笑いを見せられたが、目に馴染みのあるモーニングを着た父の顔は見られなかった。  結納の口上が交わされる間は、緊張のあまりほとんど呼吸を止めていた。居心地の悪さに、どうしてこんな堅苦しい真似をするのだろうと、ちらりと妹を逆恨みした。  相手の様子を見ることが出来たのは、会食が始まってからだった。黒塗りの銘々膳を前に向かい合った花婿方は、額の禿げかけたぱっとしない男とその両親、そして妹。妙に余裕ありげなにこやかさが、月恵の目には権高《けんだか》に見えた。仲人を務める花婿の職場の所長夫婦もいかにも場慣れしていて、気圧される。  彼、吉井は三十三歳。設計事務所に勤める図面引きの専門家で、役所勤めの佳恵との付き合いは六年に及ぶと聞いていた。佳恵は粘りに粘って、なんとか二十九歳の内に結婚を手繰り寄せたのだ。そんな妹の快挙を素直に祝うべきなのに、いじける一方の自分が情けなくて、月恵は悲しくなった。  会食は坦々と進んだ。部屋や庭や食事の感想、それにお天気の話、中身のない会話ばかりで、ほとんどお通夜のようだ。アブナイ、と月恵は思った。努がじりじりし始めるのが、手に取るようにわかる。軽々しくしゃべらないと約束したものの、彼はこういう雰囲気がダメなのだ。しかし、間がもてないと感じたのは努だけではなかったらしい。吉井がおずおずと口を切った。 「あの、おニイさんのお仕事は」 「ですから、父の跡を継いで」口を出す兄嫁を会釈で制して「いや、そちらのおニイさんの方で」と、吉井は努のほうを向いた。「確か、スーパーマーケットを経営してらっしゃるとか」  努は「おニイさん……?」と、小さく口の中で繰り返した。  ウワ……。  月恵は内心ひそかに天を仰いだ。 「おニイさんって……聞いたかい? 月恵。嬉しいなあ。イヤ、嬉しい。吉井さん。握手してください」住岡家側の末席に座っていた努は伸び上がって、向かいの中央にいる吉井に手を差し出した。吉井は両脇の両親と目を合わせながら、仕方なさそうに握手した。 「ワタシは社長ったって、名前だけ。それも、八百屋あがりのしがないスーパーでして。オタクみたいな立派な仕事と比べものになりませんよ。ですが、ワタシもお義兄さんと呼ばれたからには自信を持って言いますがね。あなた、ほんと、この結婚はアタリですよ。住岡の血はもう、優秀ですよ。月恵がいなかったら、ウチの店なんか、しがないどころか今頃影も形もないですよ。月恵は客あしらいはうまいわ、生活情報なんてチラシに工夫こらすわ、問屋や産直農家との交渉ごともうまくまとめるわ、もう、ワタシはね、いっそ月恵に日本の政治を任せたいくらい。住岡の娘と一緒になったら、男が少々ボンクラでもマヌケでもお家は安泰間違いなし!」  月恵にスーツの袖を引かれて、努は「あっ」と頭を掻いた。「いや、これは失礼。ボンクラってのは、ワタシのことで」  吉井は「はあ」と弱々しく作り笑いをしているが、彼の両親は明らかに憮然とし、佳恵は恨めしげに月恵を睨み、兄と兄嫁は眉をひそめ、父は無表情に独酌していた。大体、父は最初から月恵と努がこの部屋にいないような顔をしていたのだ。 「そりゃもう、吉井さんは事務所の要《かなめ》だって、主人も常々申しておりますもの。佳恵さんとはほんと、ベストマッチですわよ。ねえ、あなた」所長夫人が取り繕《つくろ》った空気に、誰より先に努が乗じた。 「そうですよ。実にめでたい。そうだ。よろしかったら、結婚式でワタシ、ハワイアンウェディングソングやらしていただきますよ。こう見えても、商店街の有志集めてハワイアンバンド結成してるんです。夏祭りなんかでライブやると、これが結構ウケまして。昇天ガイズってんですけどね」  努はそこで一拍置いたが、こんな駄じゃれで笑ってくれるような連中ではない。月恵は目を閉じた。  夏祭りの特設会場にお揃いのアロハシャツを着た昇天ガイズが現われると、月恵はいつもそっと店の奥に逃げ込んだものだ。ときどき音程のはずれる裏声を聞くのが恥ずかしかった。そして今も、この沈黙の瞬間が恥ずかしい。  だが、努は妙な間を無視して、敢然と立ち上がった。 「昇天ガイズの十八番、ハワイアンウェディングソング。アカペラでお聞き苦しいでしょうが、挨拶代わりにちょっとさわりを歌わせていただきます」  もう仕方ない。ついにフラの腰付きを交えて歌いだした努の横で、月恵は観念してニコニコした。この家に戻ってくると、無理して機嫌よく笑うのがわたしの運命なんだと思いながら。  しかし、宴が果てて住岡医院に戻ってきたときは笑っていられなかった。  玄関をくぐって居間に走りこんだ佳恵が、わっとばかりに泣き出したのだ。「それでは失礼」と帰るわけにいかず、月恵は努とともに家に上がった。 「佳恵ちゃん。すいません。ワタシ、口がすべって」  月恵より先に努が居間の敷居にひざまずいて謝った。所在なく努に寄り添った月恵は、廊下にはみ出した中途半端な位置に座った。 「まあ、あれで破談になるわけじゃなし、そう堅いことを言いたくはないが、少しは場というものをわきまえてもらわないとねえ。今後のこともあるし」  座椅子にどっかり座った兄が、ネクタイを緩めながら言った。 「まあまあ、佳恵さん。気持ちはわかるけど、そんなに泣いちゃ、せっかくの晴れ着が汚れるわよ」兄嫁が、座卓に突っ伏して泣いている佳恵の肩を抱くようにして慰めた。 「姉さんは、わたしに恥をかかせたかったんでしょ!」佳恵が涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、月恵にわめいた。 「あんな格式ばったところで結納だなんて何様のつもりだって思ってるんでしょう。だから、努さんにあんなふざけたこと言わせて、歌までやらせて、ぶち壊しにしたんでしょう」 「なに言ってるのよ」思いがけない反撃に、月恵はむっとした。佳恵の言い分に少しは心当たりがあるだけに、へんに気持ちがこじれる。横合いから、努が「ふざけたんじゃないんだよ。佳恵ちゃんと結婚する人は幸せだって、言いたかっただけなんだよ」と、訴えた。 「努さんが言ってたのは、姉さんと結婚して幸せだってことよ。自分たちのことじゃないの。わたしの婚約なのよ。それなのに中心にしゃしゃり出てきて。ハワイアンウェディングソングだなんて、恥ずかしい。気取ってるって笑われても、わたしは厳粛にやりたかったのよ。静かにきれいに、『細雪』みたいに。夢だったんだから」 「ちょっと、舌が軽すぎたわよね」苦笑をにじませる兄嫁に答えるように、上座に座って茶を飲んでいた父がボソリと言った。 「商売人は口が勝負だからな」  反射的に月恵は立ち上がった。「本当に申し訳──」と、平伏しかけた努を「あなた、やめて」と遮《さえぎ》った。  なんで、ここまで言われなければならないのだ。なにが『細雪』だ。努は確かに軽い。そのせいで月恵自身も彼を軽んじてきた。だが、寄ってたかって侮辱されるほどの何を、彼がしたというのか。 「謝ることないわよ。なによ、これから親戚になるっていうのに、誰もましな口きかない、あんな形だけの会食じゃつまらないから、もっとみんなを和《なご》ませようとしただけじゃない。あれくらいのことで泣くなんて、どうかしてるわよ。ハワイアンウェディングソングのどこが悪いのよ。結婚の歌よ。それを歌っちゃいけないような結婚式なら、いいわ、わたしたち出ませんから」 「月恵。それは問題が違う」  兄が叱った。 「いいわよ、来ないでよ」  圧し殺した声で佳恵が言った。 「いい加減にしないか、二人とも」  そう言って、父が立ち上がった。「いい年をして、みっともない」言い捨てて、父は新聞を持って居間を出た。行き先はわかっている。診察室だ。父は、仕事のないときでも診察室にいるのが好きだった。 「姉さんは勝手よ」  気まずさの頂点で、佳恵がヒステリックに声を絞った。 「自分だけが正しいって思ってるんでしょう。姉さん、昔からそうよね。嬉しそうに、お父さんに逆らってさ。わたしは自分を主張するのよって、お母さんに見せつけてさ。わたしのことなんか、お父さんにへつらってるいい子ぶりっこってバカにしてたでしょう」  月恵は目を見張った。 「そんなこと、ないわよ。あんたは本当にいい子で、うらやましかったくらいよ。この結婚だって、お父さん、喜んでるし」 「ウソよ、そんなの」佳恵は子供っぽく唇をとがらせた。 「わたしは確かに、お父さんを怒らせるようなこと、何にもしなかった。お父さんを喜ばせたかった。お父さんの気に入る身なり、気に入る態度でね。だけど、そういうわたしをお父さんは見てなかった。わたしのことは、気にならない。だから、気にしてもらえなかった。お父さんが気にしてたのは、姉さんよ。ずっと、そうよ。あんな風に出ていったから、余計よ。なによ、カッコつけて大げさな真似して。ちょっと折れて出れば、お父さん、何でも許したはずなのに」  月恵は文字通り唖然と口を開けて、佳恵を見つめた。  そんな風に思っていたのか? 佳恵こそ、出来損ないの姉を軽侮していると思っていた。佳恵は口惜しそうに、言い募った。 「兄さんもそう言ってたわよね。月恵は自分のことしか考えてないから、楽でいいって。お父さん、ああいう人だから医師会の中でも敵が多いのよ。跡を継いだ兄さん、あっちこっちでいじめられて大変なんだから。姉さん、そんなこと、考えたこともないでしょう」  そうだ。考えたこともなかった。兄は生まれつきクールで、なんでもうまくやれる人だから付き合いにくいと敬遠していたくらいだ。兄は相変わらず「我関せず」の顔で黙っているが、兄嫁が「まあねえ。難しい方よね、お義父さまは。近くにいる者は、そりゃ苦労よ。言いたいことが言えたらどんなにいいかと、わたしもずいぶん思ったわよね」と、ここぞとばかり健気な我が身をアピールした。 「みなさん、すみません」  努が一声吠えて、今度こそベッタリと平伏した。 「ワタシが至らないばっかりにこんなことになってしまいましたが、月恵は結婚式出ますから。ワタシがいけないようでしたら、月恵だけでも。ね。おめでたい日に先立って、喧嘩なんかしちゃいけませんよ。お願いします。佳恵ちゃん、ワタシのドジのせいで、きついこと言っちゃいましたけど、月恵は本当に今度のこと、喜んでるんですよ」 「やめて」月恵は、ペコペコ頭を下げる努の腕を引っ張った。卑屈な姿をさらしてほしくなかった。「やめなさいってば」となおも引っ張る手を、努は振り払った。 「月恵の分も、ワタシ、謝りますから」  耐えられなくなって、月恵は廊下を蹴って玄関に向かった。  勢いのついた足は、実家から五百メートルもいかないうちに重くなった。タクシーを拾おうか、電車に乗ろうか、決めかねてトボトボ歩いていると「おーい」と、努の声がした。振り向かず立ち止まりもしないが歩調を緩めた月恵に、努はすぐに追い付いた。 「もう、大丈夫。佳恵ちゃん、立ち直って吉井さんに電話かけてた。オレ、お父さんに挨拶してきたよ。ちょこっとだけど」  月恵は立ち止まった。 「なんでよ」  二歩ばかり先に進んだ努が、怪訝な顔つきで振り向いた。 「なんで、挨拶なんかするのよ。お父さん、あなたのこと、バカにしたのよ。商売人は口が勝負なんて、皮肉言って」 「あれ、皮肉じゃないよ」努は、驚いたように言い返した。「お父さん、ああ言って、オレのこと、かばってくれたんだよ。商売人は口が勝負だから、どんな場所でもついしゃべりすぎちゃうけど悪気はない、そういう意味だったと思うよ」 「また、そんな」  月恵は、うんざりした。どこまで人がいいんだろう。だから、簡単に同情して、逆に利用されるのだ。わたしも含めて、下心のある女たちに。 「そうだって。オレ、あのとき、お父さんの顔見たもん。月恵は佳恵ちゃんとガンとばしあってたから、見てなかっただろうけど。お父さん、オレと目があってさ。その目は笑ってた。あれは好意的な目だよ。だから、勇気を出して挨拶しにいってさ、少し話したよ。ま、オレが一人でしゃべったんだけどね。お父さん、相槌打ってくれたもん」  父の笑っている目。月恵が見たくてたまらず、でも、見ることが出来なかったもの。 「──なんで?」  それから先は言葉にならない。喉元にこみあげてきた涙が蓋をする。  なんで、そんなことができるの? なんで、そう易々と人の心に飛び込めるの? なんでわたしには、それができないの?  立ち止まって歯を食いしばり、月恵は「もう!」とうめきながら、袂で努をぶった。月恵の涙にたまげた努は「え、悪かった? ごめん」と謝った。 「やっぱ、図々しかったかなあ。でも、オレさ、どうしても、お父さんと仲良くなりたかったんだよ。お父さんとの関係強くなってたら、月恵、オレのとこにずっといてくれると思って」 「……なによ、それ」  努は照れくさそうに、目をそらした。「オレ、未だになんか、ぴんと来ないんだよね、月恵とオレが夫婦だっていうの。月恵はウチにお客さんに来ただけで、いつかあのお父さんのところに帰っちゃうような気がしてさ。かぐや姫みたいに」  かぐや姫?  月恵は笑いだした。ほら、間違ってる。わたしは、そんな上等なものじゃない。強くなりたくて強くなれない、甘ったれの意気地なしなのに。  今泣いたカラスから笑顔になった月恵を見て、努は相好《そうごう》を崩した。 「とにかくさ、帰って話そうよ。お母ちゃんも待ってるし。あ、タクシー、来た」  手を振る努の横に、黄色いタクシーが止まった。運転手は若い女だ。半分開けられた運転席の窓に寄り掛かり、努はさっそく彼女と親しげに話し始めた。月恵は二人の間に首を突っ込み「ごめんなさい。間違って止めちゃったんです。乗りませんから」と、涙目ながらコワい顔で断った。そして、努の耳をぐいと引っ張った。努は悲鳴をあげた。けっこう美人の運転手は、迷惑そうな顔をして走り去った。 「なんだよお。ナンパしてたわけじゃないだろ」 「ちょっと、いいと思ったでしょ」 「いや、そりゃ、女の子のタクシードライバーに会うの初めてだから」 「あんまりいい気になってると、月に帰っちゃうからね」 「──それ、面白い。月恵さんに座布団一枚」  月恵は努の腕を取り、引っ張るように歩き始めた。努は嬉しそうに並んで歩く。 「ハワイアンウェディングソング、佳恵の披露宴でやらかそう」  月恵が言うと、努は「え、いいの?」と戸惑った。月恵は頷いた。 「登美子ママと大地と智佳、ひまわりマート合唱団アンド昇天ガイズで歌っちゃおう。結婚式の歌だもの。絶対ウケるわよ」 「だよね」  そして、本当の笑顔を父に見せるのだと月恵は思った。  わたしが手に入れた家族を見せたい。彼らとともに素直に真っすぐに笑えるわたしを見てもらいたいと。そこから、やり直せるかもしれない。いろいろなこと。 「あ、タクシーだ」  月恵は道路の真ん中にとび出し、二の腕までむき出しにして勢いよく手を振った。 [#改ページ]   あとがき  生きていくのは楽じゃない。世の中イヤなヤツばっかりだし、夢や希望は北極星みたいに遠くで光っているだけ。  わたしは七歳のときから、そう思っていた。めちゃくちゃヘンクツな子供で、めったに口をきかず本ばかり読んでいた。本の中の世界のほうが現実よりずっと面白かったからだ。  もうひとつ好きなものは、お笑い番組だった。昔は寄席中継がたくさんあり、テレビも『てなもんや三度笠』とか『シャボン玉ホリデー』とか、今でも語りぐさになっているコメディー番組で充実していた(そう。わたし、古い人間なのよ)。ヘンクツなガキだったので、笑うのはそういう番組を見ているときだけだった。笑うと、心が解放される。ヘンクツなガキは笑うことによって、いつしか図々しい明朗女に変身した。  しかし、やはり人生は厳しく、世の中は非情なのである。大人になってからは挫折の連続。ハッピーなときもあったけど、暗い日々のほうが長かった。そんなわたしを慰めたのは、田辺聖子先生のユーモア小説と桂枝雀の落語と気の合う友達との独断と偏見に満ちた世相談義で笑い転げることだった。笑える話を思い浮べるだけで、イヤなことも寂しさもみんな忘れた。それで、思い浮んだ話を書き留めて読んでみたら、これがオモシロイ。そういえば、近頃めっきりユーモア小説の書き手が減った。わたしの出番だ。そう思って一念発起。ようやく、自分だけでなく人が面白いと笑ってくれるお話が書けるようになった。それも、クスッと笑えてちょっぴり身につまされるビタースィートな大人のコメディー。ページを開いている間は、ハッピーにして差し上げましょうぞ。と、この二十一世紀とともに生まれた新世紀のユーモア作家たるわたしは宣言する。  買ってくれたお客さま、ありがとうね。平安寿子、この業界でのさばる予定なので、末長くごひいきに。書店であとがきを読んでいるあなた、悪いことは言わないから、まず買ってお読み下さい。ただで帰るなんざ、お人が悪いよ。よろしくね。  二〇〇一年三月吉日 [#地付き]平 安寿子   単行本 二〇〇一年四月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十七年二月十日刊