[#表紙(表紙.jpg)] くうねるところすむところ 平 安寿子 目 次  その1 見知らぬ風  その2 姫、ご乱心  その3 リフォーム・ミー  その4 マイ・カンパニー  その5 愛しきマイホーム  あとがき  文庫版あとがき [#改ページ]   その1 見知らぬ風     1  この世界を踏みつけて、思いきり叫びたい。  バカヤロ──────!!!  そう思っただけなのだ。ほんの出来心なんです。すいません。もう、しません。だから。  だから、誰か、助けて。  南のほうから桜の便りが届き始めた三月半ば、宵の口。月もおぼろな夜空の下、地上約五メートルの中空にかかっている頼りない足場板にへばりついて、梨央《りお》は口の中でそう唱えた。  でも、心の叫びに反応するエスパーでも通りかからない限り、お祈りだけでは誰も助けに来てくれない。  いっそ、大声で叫ぼうか。通りの向かい側にはコンビニもあれば、コインパーキングもある。大体、こうしてへたっているのだって、元はといえば通りかかったカップルに見とがめられるのを怖れたからだ。姿を隠そうと大急ぎでしゃがみ込んだら、くらっと目が回って落っこちそうになり、それでようやく地上五メートルの高さにいることを認識して──つまりは腰を抜かしたのだ。  それまでは、平気だった。  十五坪ほどの区画を取り囲むように鋼管パイプの足場が四段組み上げてあった。前に立つと一段の高さがちょうど梨央の身長と同じくらいだから、百六十センチくらいか。とすると、一番上は約六メートル四十センチ。  上下の足場をつなぐ階段もはしごも見あたらないが、よく見ると縦に伸びるパイプからL字型の枝が出ている。あれを足がかりにすれば、ジャングルジムの要領で上れる。よーし、やってやろうじゃないかと勢い込んだ。パンプスを脱ぎ捨て、邪魔になるショルダーバッグも放り出して、両手でパイプをしっかりつかむと、最初の足がかりに右足をのせた。それから、左。「ヤッ」「ヨッ」と声を出して、一段目の足場板にのった。  しっかりした足場に見えたが、実際は板が空中に一枚渡されているだけだ。体重移動するたびにギシッと揺れる。そこから上に位置するパイプを力一杯つかんで身体を支え、踏ん張っては伸び上がって上る。と口で言うのは簡単だが、段に両足をのせる梯子《はしご》と違い、片足分の幅しかないうえに上下の間隔が二十センチ以上ある足がかりを頼りに上るのは思っていた以上にきつい。二段目の足場に上っただけで、もう息があがってしまった。  我が身の重さを、悲しく実感する。去年の十二月、一度ヘルスメーターが六十キロ近くを指した。それ以来怖くて計ってないが、ダイエットは先延ばしにしているから痩《や》せてないことだけは確かだ。 「姉ちゃん、仕事うまくいってるみたいだね。太ってるもん。それだけ食えてるってことだろ」  故郷で迎えた正月の食卓で、二十五歳にしてフリーターの弟が憎まれ口を叩いた。 「体力なきゃ乗り切れない仕事だから、責任感で食べてるのよ。フリーターのあんたとは、立場が違うんだからね。親がかりでフラフラしてるくせに、大きな顔してよく食うわね。ちゃんと食費入れてるの?」 「入れてるよ」 「いくら」 「一万円」 「それっぽっちで、よく数の子食えるね。かまぼこ一切れ、おもちは一個、それ以上は資格なし!」 「姉ちゃんだって、一年ぶりの帰省だってのに手土産ひとつないじゃないか。栗きんとん、自分のとこだけ山盛りにするな」  小さな電器屋をやりながら一生懸命育てた娘と息子の情けない言い合いに、父親はムッツリし、母親は涙ぐんだ。 「ほら、お母さん泣いちゃったじゃないの。あんたがいけないのよ。長男なのに、何やってるのよ。この先、どうする気?」  どうしても弟をやりこめたくて、はっきり言ってやった。弟は箸を投げ出して部屋を出た。それでなくてもパッとしなかった雰囲気がますます気まずくなった。父も母も何も言わなかったけれど、梨央には聞こえていた。  そう言うおまえはどうなんだ。この先一体、どうする気なんだ──。  歯を食いしばって、もう一段上を目指した。だが、脚の筋肉はもうぱんぱんに張っている。この体重を支えるだけでも大仕事なのに、いきなり無理なことさせないでよね、と自分の身体から喧嘩を売られているみたいだ。三つ目の足場板にかけた両手に力が入らず、ぶるぶる震える。だが、このままぶら下がっているわけにはいかない。お腹に力を入れ、足場板にしがみついて、這《は》い上がった。  これ以上はつらいし、三段目でも立ち上がれば頭がフェンスの上に出る。妥協して、そろそろと腰を上げた。フワフワ揺れるが、足を肩幅に広げて踏んばると板のバウンドが収まった。梨央は両手でパイプをつかみ、足場板に仁王立ちして顔を上げた。  風が、来た。  冷たい風。  思わず、目を閉じる。湧き水みたいに、ひんやりしているくせに当たりの柔らかい風。  ゆっくり、目を開けた。三段目だから、およそ地上五メートルの高みにいるのだ。下を歩く人の顔や向かいのコンビニの様子がよく見える。目を上げて視界の果てを探り、それから空を見た。  高いところから街を見下ろしてバカヤローと叫ぶのが目的だった。なのに、その気は失《う》せた。  なんでだろう。なんか、気持ちいい。目を閉じて、シャワーを浴びるように風に浸《ひた》った。だが、心地よい忘我の境地は若いカップルの傍若無人な嬌声《きようせい》ですっ飛んだ。思わず見ると、女の子のほうと目が合った──ような気がした。  まずい。  あわてて、しゃがみこんだ。足場が大きく揺れる。コートのポケットの中で缶チューハイがこけた。  甘ったるいレモンとアルコールの匂いが立ちのぼる。三年着続けて、そろそろくたびれてきているけど、お気に入りだったのだ。舌打ちをして、かがみ込んだ姿勢のまま右手をポケットに入れて缶をつかんだ。すると今度は、掌に鋭い痛みが走った。思わず、缶を振り捨てた。下でタンと軽い音がした。  目の前に右の掌をかざした。薄暗くてよく見えないが、掌全体が赤く腫れているようだ。そこに缶に残っていたチューハイがこぼれたらしい。炭酸が傷口にしみこんでジンジンする。なめたら、ヘンな味がした。甘くて、金属っぽい。  そうです。酔っていたのです。今しも布地ごしに足場板にしたたり落ちる缶チューハイに行き着くまでに、立ち飲み屋で缶ビール三本、道すがらの自販機で缶入りカクテル一本か二本、もっとかも。ポケットに入っていたのが何本目か、わからない。好きなわけじゃないのに、体質的に酒に強い。飲んでも酔わないという自信がいけなかった。実は酔っていた。そうでなければ、スカートにストッキングという格好で足場に上ったりしない。  ダメだ。叫んで助けを求めるなんて、できない。酔っぱらって建設現場の足場によじ登った挙げ句、下りられなくなりましたなんて、どの面《つら》下げて言えるだろう。しかも、三十ですよ。  三十歳。普通その歳で、足場に上って泣くか、猫じゃあるまいし。  上れたんだから、下りられないわけがない。人知れず、自力で下りよう。それが大人というものだ。  酔いが醒《さ》めた。というより、醒めて初めて酔っていたことに気づいた。  梨央は板に伏せた姿勢でパイプのほうににじり寄った。コートの裾でべたつく右手をぬぐい、パイプをつかんだまではいいが、掌が痛くてたまらない。だが、我慢するより仕方ない。身体を起こして、足がかりに足をのせて、下りるんだ。身体を起こして──って、え?  脚に全然力が入らない。さっきまで立っていたのに。なに、これ。これが、腰が抜けたってこと?  そっと下をのぞき込んだ。くらっと目が回った。  落ちる!  恐怖で反射的に目を閉じ、全身を堅く縮めた。落下を察知した本能が大あわてで防御機能を総動員したらしく、目一杯働いた心臓が三倍くらいにふくれあがってバクバクしている。まだ一歩も進んでないのに、もう息があがった。ダメだ。動けない。  どうしよう。やっぱり、助けてと叫ぶべきか。携帯は、地面に放り出したバッグの中だ。もし手元にあったとしても、一体誰を呼ぶ? 一番に、メモリー消去しきれない腐れ縁の男の顔が浮かんだ。呼んだら彼は、来てくれるだろうか。  死にそうだと言えば、来てくれるかもしれない。断崖絶壁にしばられた生贄《いけにえ》のお姫様を救うたくましいヒーローの姿を思い浮かべて、梨央は一瞬置かれている状況を忘れ、うっとりした。  そのとき、真っ白い光が眼前で炸裂《さくれつ》した──。     2  起きたときには、こんなことになるなんて思ってもいなかった。ダイニングテーブルに置いたスタンドミラーに向かって化粧をしながら、どうせきょうも一日、曇りのち曇りみたいなぼんやりした不満を抱えたままで終わるのだろうと、ふてくされていた。  八畳の板張りダイニングキッチンと六畳の押入付き和室一部屋、それにバストイレ付きで家賃六万五千円のすみかは、首を一巡りさせるだけで全貌を見渡せる。  この部屋は、友達の実咲《みさき》に付き合ってもらってみつけた物件だ。収入の三分の一程度の家賃。通勤時間は電車で直通三十分。駅から徒歩五分で、近くにコンビニとドラッグストアと内科医院と歯医者がある。泥棒と痴漢に侵入されるリスクがより少ない三階で、南向きだから日当たりがよい。目の前はバス通り。  梨央はここに五年住んでいる。もっと広い部屋に住み替えたいと思うけれど、引っ越しにかかる費用と労力を思うとお尻が重くなる。もともと住空間に情熱を感じないタイプで、この部屋に決めたのも実咲がここにしろと言ったからだ。家なんて、雨風がしのげればいい。インテリアに凝るなんて、金持ちのすることだ。梨央は自分のメイクアップだけで精一杯。近頃では、それさえどうでもよくなってきた。  美容院に行く時間があれば、ため録りしておいた連続テレビドラマを見たい。ブティックからバーゲンセールのダイレクトメールをもらっても、着飾ったところでどうなるものでもないと、妙にクールにゴミ箱に葬る。  やばい。この無気力は自暴自棄へとつながっている。放っておいたら、どんどんブスになる。だけど──。  朝起きるのがイヤ。満員電車に乗るのがイヤ。朝マックのコーヒーを飲みながら、ため息をつくのがイヤ。煙草と安酒とカップラーメンの臭いで一杯の小汚いオフィスに入るのがイヤ。デスクに乱雑に積み上げられたファックスやメモの束がイヤ。  住所表記が間違っています。時給は千八百円ではなく八百円です。年齢制限なしというのはやっぱりやめたい、三十五歳までとすること。やりがいのある仕事で頑張ってますという写真付きコメントを載せている者が退職したので、削除してほしい。管理職募集の広告を出していた誠実金融の社長が傷害事件で逮捕されたため、緊急に原稿を引き上げること──。楽しい知らせなんて小指の先ほどもない、バッドニュースの山。  それから、壁に貼られたスローガン。〈ハイヤードリームはみんなで作る求人誌〉〈クライアント開拓こそ、クリエイティブアート〉〈働かざるもの食うべからず〉〈風雨に耐えて花は咲く〉〈目指せ、地域のナンバーワン〉  全部、イヤ。それなのに、はがれかけたら貼り直せと吊り上がる、六十過ぎてなおうっとうしいくらいエネルギッシュなワンマン社長の狐目がイヤ。そのワンマン社長がなぜか一目置くせいで、重役出勤を決め込んで昼近くになってようやく現れたと思うと、夕方五時には消えている編集長の五郎がイヤ。おかげで副編集長の梨央が、クレーム処理から営業マンが三センチ×五センチというサイズ規定を無視して放り込んだ殴り書きの原稿を切り貼りする辛気《しんき》くさい作業まで、一人でこなさなければならない。  五郎はハイヤードリーム以外にも、別名を使って他の小さな情報紙に記事を書いたり編集をするなど、ちょこちょこバイトをしている。ひとつところに落ち着かないのは、そのせいだ。もっとも、携帯の競輪競馬サイトを熱心に覗いているところを見ると、その方面のお出かけが最優先事項らしい。一度問いただしたら「ギャンブルは男のたしなみ」と、気取って答えた。 「寺山修司も山口瞳も伊集院静も、競馬にのめりこんだ。美文と馬は、脳の意識野で分かちがたくつながっている」  ほんとかよ。  五郎は元大手新聞の記者で、しばしばこのようなペダンチックな物言いで相手を煙に巻く三十半ばの中年男だ。背も高いが、頭《ず》も高い。自分のこと、人より頭がいいと思ってる男くらいサイテーなものはないんだけどな。と、有識者実咲は語る。梨央もこの頃そう思う。そんな男とズルズル付き合っているのが、もしかしたら曇りのち曇り気分の最大要因かもしれない。  妻との仲は冷え切っている。愛しているのは梨央だ。だけど、愛人とは呼ばないよ。梨央は俺の恋人だ。それが五郎の決め台詞《ぜりふ》だ。  結婚したいんなら、所帯持ちと恋愛なんかしてちゃダメよ。これも実咲の意見だ。結婚してる男はね、こんなこと一度でたくさんだと思ってるもんなんだから。  結婚したいわけじゃないと、梨央は抗弁した。結婚願望なんて、ない。わたしは彼を愛してる。彼もわたしを愛してる。それで十分よと、クールに笑ってみせた。  五郎は、第二の司馬遼太郎になるのだそうだ。その助けになるのは梨央だ。ミステリとファッション雑誌しか読まない妻に、資料の整理や原稿の校正みたいな知的な仕事ができるわけない(愛人に女房の悪口言う男はサイテー中のサイテーよ、とは実咲の弁)。歴史小説に本腰を入れられるようになったら、一緒に暮らそう。俺はひたすら書く。書く。書く。取材旅行には一緒に行こう。日本国中、旅しよう。  そう言われて、三年だ。最初の一年半くらいは、そう言われるだけで胸が一杯になった。だがこの頃は、一緒にいても全然気持ちが盛り上がらない。五郎の口からほとばしり出るベストセラー本批判やプロ野球機構改造計画を聞き流す癖ができた。以前は、彼の言うことは刺激的で面白いと喜んで耳を傾けたのに、近頃ときたら笑顔で相槌《あいづち》を打っている自分に内心「よくやるよ」と突っ込んでいる。  これって、倦怠《けんたい》期? それとも……。  俺を支えてほしい。おまえが必要だ。そう言われるのは女の勲章だ。愛されて大事にされることばかりを求めるのではなく、相手を愛し守ってあげたいと思う。それが〈愛の本道〉だと、自分に言い聞かせてきた。幸せにしてほしいなんて他力本願しているうちは、決して幸せになれない。そうよね。  暗い気持ちで靴を履き、暗い顔でドアの鍵を閉めた。メイクしながら頬張ったバナナ一本が本日の朝食。牛乳パックをキッチンに置きっぱなしで出てきたような気がするが、確かめに帰るのも面倒だ。のろのろと階段を下りる。補修剤を流し込んだせいで、かえってひび割れが目立つコンクリートの階段。まるで、誰かの心模様──なあんて、バカみたい。  なけなしの気合いをこめて顔を上げ、姿勢を正して駅に向かった。この時間帯は、通勤するサラリーマンやOLたちが人の流れを作っている。一様に無表情ではあるものの、一日のスタートらしい早足でキビキビ前進している。そんな中で背中を丸めてしょぼしょぼ歩くのは、やっぱりイヤだ。あ、出た。きょう一番目のイヤ。  いや、違う。きょう一番目のイヤは、朝起きて習慣でカレンダーの日付を見たときに出た。三月二十日。誕生日。ああ、イヤだ。とうとう、三十になった。  二十歳のときには、二十五までに結婚する予定だった。二十五になったときは、仕事で頑張りたいから結婚は三十までにできればいいと思った。つまり、仕事の成功と結婚の両方を手にするつもりだったのだ。それも、三十までに。そうならなかったらどうするか、考えもしなかった。  よるべない三十女が、八時五十分に会社到着。都心をややはずれた裏通りにある三階建てのおんぼろビルは一階の半分が駐車場で、あと半分は版下工房。二階が編集部と営業部、三階に社長室と経理部がある。  二階のドアを開けると、入ったばかりの営業マンが携帯に目を注いだまま、片手に握ったモップで足元の床をこすっていた。そして、顔も上げず「おはよーっす」と口だけで挨拶した。むかついた梨央が返事をせずに通り過ぎても、気にする様子もない。  天井が低いせいか、よどんで灰色に汚れた空気が見えるようだ。梨央は奥の編集室に向かって歩く道すがら、窓を開けてまわった。電話していた営業が、受話器を置きざま「閉めろよな。外の車の音がうるせえんだよ」と険しい声で文句を言ったが、無視した。  確かに往来の騒音は激しいが、一緒に流れ込んできた外気が昨日の残滓《ざんし》をかき回すのが気持ちいい。外の空気だって、このくらいの時間になると排気ガスまみれだが、それでも換気の習慣がない室内よりはましだった。  ハイヤードリーム社の正社員は、経理部員で会社創設以来の金庫番おばばと、付き合いのある信用金庫から天下ったじじい、そして、外回りの営業マン五人。それから五郎と梨央。版下工房に陣取るベテランレイアウターの計十人だ。あとは、編集部と版下工房の両方で使い回すバイトが三人。営業マンとバイトは、人の入れ替わりが激しい。  社員がこなせる仕事は外部委託しない。それが社長の方針だ。社内の掃除も、毎週刊行するハイヤードリーム誌の書店やキヨスクへの持ち込みも従業員がやる。そのうえ、生き残るために広告掲載料を他社より安く設定しているため、働く者にしわ寄せが来る。つまり、安月給でこき使われるのだ。嗚呼《ああ》、ハイヤードリーム哀史。みんな、ぼやいている。ぼやきながら、辞めずに出勤してくる。辞めたあとの補充も早い。先の見えない不安感が、ハイヤードリーム社の追い風になっているのだ。利益確保に血眼のドケチ社長なればこそ、倒産の憂き目だけは免れそうだ。それだけでも耐える価値はある、というのだろう。  ため息をついて、未決の箱に盛り上がる仕事の山をひとつひとつ片づけていく。電話をかけ、キーボードを叩き、かかってきた電話に応え、頭を下げ、自分用のお茶を入れ、アルバイトの雑用係の失態を注意し、あからさまなむくれ顔を見なくてすむようにトイレに立ち、営業マンの卑猥《ひわい》な無駄口に調子を合わせ、そうしているうちに五郎から携帯にメールが届いた。  悪い。チビが発熱。今夜、会えない。また今度。  二人きりのバースデイパーティーしような。そう言いだしたのは、おまえじゃないか。  きょうが誕生日だと知っているものは、周辺にはいない。言うと、いくつになったと訊かれるから。同い年の実咲ならその手の憂鬱は感じなくてすむが、あれは人の誕生日を記憶しているような殊勝な女じゃない。そのうえ、去年結婚してただいま生後二カ月の乳児を抱える身。梨央の自己嫌悪を、本人に成り代わって暴き立てる毒舌を振るう余裕もない様子だ。いや、あるだろうが、子供を抱く同い年の友人と顔を合わせる自分がつらい。  嬉しくない誕生日なのに、誰にも祝ってもらえないとなると、なんだか悲しいのはどういうわけだ。  わたしの人生って、まるで誰かに呪われてるみたい。  きょうも残業だ。アルバイトは五時になると同時に消え、営業マンたちも次から次へと殴り書きの原稿を梨央のデスクに抛《ほう》り出し、「お疲れ」とおそらく自分に言って去っていく。七時過ぎには社長が血色のいいハゲ額をドアから突き出して、一人残る梨央に口頭で一日の報告を聞くと、「じゃ、あと、よろしく」だけで夜の町に出ていった。ねぎらいの言葉なんか、誰もかけてくれない。  八時にかかってきたスポンサーからのクレームと、あまりに汚いのでどうしても読めない手書き原稿にぶち切れて、きょうは終わりと決めて立ち上がった。  まっすぐ帰るのもしゃくで、駅前の飲食店街で最近話題の立ち飲みの店に入った。ウナギの寝床式の細長い空間に飴色の木製カウンターがあり、カウンターの奥に酒や焼酎やワインの瓶が並んでいる。冷蔵庫には缶ビールがぎっしり詰まり、天井からはお品書きを書いた短冊が何枚もぶら下がっていた。  客層が若いせいか、背後に絶えずJ−popの有線放送が流れ、するめや塩辛といった昔ながらのつまみは見当たらず、ポテトチップスやチーズがこぎれいなバスケットに盛られて出てくる。  カウンターの向かい側の壁に沿って作りつけのテーブルがあり、客たちはカウンターかテーブルにつまみの皿を置いて飲みながら談笑している。若いサラリーマンやOLばかりで、肩が触れ合ったのが縁で挨拶しあって、新しい社交場めいている。  自分にも誰かが声をかけてくれたら。カウンターの端に寄りかかり、缶ビールを片手にナッツをかじりながら横目を使っている自分に梨央は気づいた。  感じのいい人がいたら、実はきょう誕生日なんですなんて打ち明けて、それはおめでとう、みなさん、きょうはこちらの誕生日だそうですよと彼が大声で言う。すると、誰かがハッピーバースデイを歌い出し、店中大合唱になって、そして彼が温かい目で梨央を見つめ、グラスを合わせて「おめでとう」と言ってくれる。いくつの誕生日なんて、絶対に訊かずに……。  妄想はそこまで広がったが、現実には何も起こらなかった。立ち飲み屋でグズグズするのもみっともないので、三十分ほどで出たが飲み足りない。  フラフラ歩きながら、酒の自販機が目に入ると硬貨を放り込んで、缶チューハイを叩きだしては飲むというのを繰り返した。  こういうのって、なんかカッコイイ。ワイルドで、それでいて都会的じゃない?  お姉さん、いいご機嫌だね。  自分で自分に言ってみた。イヤだ。寂しくて、ヘンになりそう。  目の前に季節はずれのクリスマスイルミネーションがある。赤く点滅する豆電球が一連だけ。わびしいわたしの誕生日パーティーにぴったり。梨央は否応なく灯りに吸い寄せられる虫のように、光に向かって歩いた。  それは建設中の建物だった。敷地を囲む簡易フェンスの上に、足場が突き出ている。そのフェンスに巻き付けられた電球入りの赤いチューブが光っていたのだ。ふと見ると、アコーデオン式に折りたためるフェンスの一枚が、ほんの少し開いていた。押してみると、本格的に開く。  開けっ放しじゃないか。不用心だ。わたしがホームレスだったら、ねぐらにしちゃうよ。こんな風にと身体を横にして、隙間に脚を差し込んだ。と、足音が聞こえたような気がした。あやしまれたら困る。急いで中に入った。  暗いが、真の闇ではない。吹き抜けになった上空から、筋向かいにあるコンビニやコインパーキングの照明が降ってくる。足元にはシートが敷き詰められているが、あちこちよれてでこぼこしているうえ、木ぎれのようなものが転がっている。足を取られてよろめきながら、梨央は中央に向かって歩いた。  仁王立ちして、あたりを見回す。ほのかに、金属と泥が混じり合ったような工事現場独特の匂いがする。誰もいないがらんとした空間が気持ちいい。  梨央は夜空を見上げた。一番上まで行ったって、コンビニが入っている向かいの雑居ビルよりは低い。街を見下ろすわけにはいかないが、野ざらしは気持ちいいだろう。  大股で正面のパイプに向かった。天を見上げてショルダーバッグを放り投げた。パンプスを脱ぐ。薄いコートの片方のポケットに飲みかけの缶チューハイを突っ込み、そして──。     3 「おい、そこで何してる」  まばたきを繰り返してようやく戻ってきた視界に、下から大型の懐中電灯を梨央に向けている男の姿がぼんやり見分けられた。  声が出ない。頭が混乱している。助けてほしいと思っていたのに、現実に人が現れた今、梨央の頭に浮かんだ言葉は「まずい。見つかった」だった。 「あんた、女か」 「……はい。ごめんなさい」 「下りれるか」 「ダメです」  男は即座に「今行くから、じっとしてろ」と命じた。 「はい」  言われなくても、動けない。目を細めて様子をうかがうと、男は上を照らすように懐中電灯を足元にセットして、パイプに片手をかけた。  と思うと、三つ数える間に、もう梨央のいる足場板の端にワークブーツを履いた両足で立ち、上からのぞき込んできた。工事関係者らしく、ジャンパーにもズボンにもポケットがたくさんついた灰色の作業着を着ている。わかるのはそれだけだ。パイプにしがみついているのが精一杯の梨央は、顔を上げて男の顔を見る余裕なんかない。 「動けそうか」  梨央は首を振った。 「そうか。じゃ、ちょっと荒っぽいやり方するけど、悲鳴は勘弁してくれよ。ワーワーキャーキャー言われたら、痴漢か何かと誤解されるから」 「……はい」  梨央はかすれ声で答えた。 「よし。じゃ、目つぶれ」 「はい」  すると、急に身体が浮いた。わ。と思った次の瞬間に上半身だけが頭から下に落ちた。声にならない悲鳴が出た。男が肩の上に梨央をのせ、膝裏あたりに左腕を回して落ちないように締めつけている。  右手一本でパイプをつかんだ男は、一、二の三と数えるうちに着地した。それから腰をかがめて、梨央の足を地面に着かせた。 「立てるか、だいじょぶか」  梨央は目を閉じたまま頷《うなず》いたが、男の両手が離れると腰が砕けた。崩れかける身体が、がっちりと抱きとめられた。男は梨央の両脇に腕を差し込み、ゆっくりと地面に座らせた。そしてしゃがみ込むと、梨央の顎をつかんで仰向かせた。 「貧血か。吐きそうか」  梨央は目をつぶったまま、深呼吸して吐き気を耐えた。 「ちょっと待ってろ」  男はしばらくして戻ってきた。そして、口を開けたミニボトル入りのミネラルウォーターとドリンク剤を差し出した。 「飲み過ぎたときには、下手な胃薬よりこっちのほうが効く」  ビタミン入りドリンク剤の冷たさとハッカ味が吐き気を押し戻す。それから、水を飲んだ。  まばたきをし、改めて男の顔を見た。  姿三四郎だ──と、思った。BSの黒澤明映画特集で見た『姿三四郎』。えらの張ったほとんど四角形の顔。がっしりした首と肩幅。五分刈りの堅そうな髪は一本残らず天を向き、風にそよぐ気配もない。さらさら髪で顎の尖《とが》った骨細ボーイズフェイスばかりの昨今、姿三四郎を演じた俳優の「青年」という言葉を形にしたような風貌は目覚ましかった。あんな顔の持ち主は絶滅したのだ。そう思っていたのに、目の前に現れた。梨央は口を開け、羞恥心を忘れてまじまじと見とれた。  鼻梁《びりよう》は太く、唇は薄くて大きめだ。黒目が大きいせいか明朗な印象の一重瞼の目が、心配そうに梨央を見ている。  こんな風に見つめられるのは久しぶりだ。鼻の奥がツンと痛んだ。 「どっか、痛いか」 「いえ。大丈夫、と思います」  自分の身体を見下ろしてみた。ストッキングが破れている。春物のセーターに泥汚れらしい線がついている。脚は役立たずだし、腕だって付け根から指先までぱんぱんに張っている。それに、掌。わーと口の中で嘆きながら広げた右の掌を、男がのぞき込んだ。 「痛いだろう。水かけて、冷やしてみるか」  そう言うと、梨央がまだ左手に握っていたミネラルウォーターのボトルを取り上げた。そして、両手を広げさせて水を振りかけ、ズボンの後ろポケットから取り出した白いタオル地のハンカチで軽く包むようにして水気を取った。 「他に痛いところ、ないか」 「大丈夫です」  これ以上好意に甘えるのは、恥ずかしい。 「なら、よかったが」  男も地面に腰を下ろし、作業着の胸ポケットから煙草を出して火をつけた。その手には百円ライターとともに、携帯用の灰皿が握られていた。 「しかし、無断で現場に入られたら困る」  梨央はほっとして、心から「本当に申し訳ありません」と謝った。 「酔っぱらって遊び半分で現場ひやかされるのが一番迷惑なんだ。あんた、自分の仕事場にゲロ吐かれたら、どんな気がする」 「ごめんなさい」梨央は小声で謝罪の言葉を重ねた。 「あの、でも、遊び半分とか、そんな気持ちじゃなかったんです。つらいことがあって、それで……」  恥ずかしさと情けなさでいたたまれなくなり、梨央は両手で顔を覆った。 「あんた、まさか」  男の真剣な声が、頭の上から降ってきた。 「悪いこと考えて、上ったんじゃないだろうな」  梨央は顔を覆ったまま、首を振った。穴があったら入りたい。できるものなら、異次元にワープしてしまいたい。 「どっちにしろ、この高さじゃ飛び下りても死ねんぞ。骨折するくらいが関の山だが、場所によっちゃあ足腰立たない大怪我になる。トビ職人でも、落ちて障害者になった者はいくらでもいる。酒飲んで足場に上るなんぞ、もってのほかだ。現場を血で汚されたら、働く俺らの気分が悪い」  男は真剣に怒っている。真っ当な怒りだ。梨央は体勢を立て直し、正座して手をついた。 「ご迷惑をおかけしました。今夜のわたしは大馬鹿者でした。むしゃくしゃして、死ぬ気はなかったけど、どこか高いところに上って叫びたかったんです。だけど上れたのに、下りられなくなって」  運動不足だし、酔っぱらいだし、デブで身体重いし。 「もう、ほんと、サイテーなやつ」  梨央は自分の頭を平手でどついた。反動で後頭部が寄りかかっていたフェンスにぶつかった。カンと軽い音がした。 「イテ」  男が小さく吹き出した。絵文字のにっこりマークのように、目が細い線になっている。皮肉のない、単純におかしがっている素直な笑顔。  やだ。また涙が出そうになる。  梨央は強張《こわば》る脚に活を入れて立ち上がり、転がっていたパンプスを履いて、ショルダーバッグを肩にかけた。 「本当にすみませんでした。おとなしく帰ります」 「ああ、外に出るまで足元に気をつけて。掃除はするけど、どうしても小さいビスやなんか尖ったものが落ちてることあるから」  男も少しぎごちなくなり、目をそらして頷いた。そして、足元を照らしてくれる。とぼとぼ歩き出したら、「ちょっと」と呼び止められた。 「はい」 「何があったか知らないが、そこまで飲んだんだったらタクシーに乗ったほうがいい。若い女が千鳥足で一人で歩いてたら、襲ってくださいと言ってるようなもんだ」  ちょっと嬉しかった。「そうします」と素直に言った。 「ありがとうございました」  丁寧に頭を下げて踵《きびす》を返すと、「あ、それから」また声がかかった。 「タクシー乗るとき、匂いのこと、先に謝ったほうがいい。酒臭いのは、運転手さんには迷惑だから」  ああ、そうだ。カッと顔が熱くなった。自分ではもうよくわからないが、なにしろ三五〇ミリリットルの半分がたがコートにしみこんだのだ。この人は、ずっとその匂いをかいでいた。とんでもない酔っぱらい女だと思っただろう。 「もう!」  自分に腹が立ち、梨央は地団駄を踏んだ。 「恥ずかしいわ。ほんと、サイテー界の女王よね」思わずため口で同意を求めると、男はちょっと驚いたように目を見張り、それから声を出さずに口を大きく横に開いた。笑ったのだ。可愛い──。  ヘンな間があいて、ドギマギする。男も困っているようだ。梨央は両手を重ね、男に向かって九十度頭を下げた。男は軽く片手をあげた。足元を照らす光は、梨央が外に出たのを確かめてからすっと遠ざかった。  ちょうどやってきたタクシーを止め、言われた通り、まず匂いの件を謝った。そして乗り込むとすぐにコートを脱ぎ、しみを内側に巻き込んでたたむと、後部シートにもたれこんだ。  シートは背中を支えてくれるが、あの男が抱きとめてくれたときの感触と、全然違う。当たり前だ。あれは生きている肉体だ。体温があって、しなやかで、強くて。  助けてくれた。心配してくれた。  ずっと求めていたことを、見も知らぬ男に与えてもらった。  あの人、本当にいたのかしら。もしかしたら、天使じゃない? それとも、夢だろうか。あの温かい体温も、強い筋肉の触り心地も、夢だったのだろうか。夢だとしたら、悲しい。  梨央はタクシーの中で、ついに泣いた。 「お客さん、大丈夫ですか」  運転手が訊いた。 「花粉症なんです」 「私もなんですよ。だけど、薬飲むと運転できなくなりますからね、鼻のうがいしてるんですよ。あれはお奨《すす》めですよ」  運転手は夢中になって、鼻うがいの方法について講釈している。梨央は頷きながら、心おきなく大きな音を立てて洟《はな》をかんだ。  家に着き、料金を払おうと財布を出したら思い出した。ドリンク剤やミネラルウォーターのお金、払ってない。そういえば、チューハイの缶を落っことしたっけ。ゲロは吐かなかったけど、ゴミを置いてきちゃった。  男を探す大義名分が見つかった。それだけで、笑みが広がる。  朝はとぼとぼと下りたおいぼれマンションのひびだらけの階段を、軽い足取りで上る。いつのまにか、鼻歌を歌っていた。ハッピーバースデイ・トゥ・ミーと。     4  翌日、梨央は七時になるやいなや、とっとと帰り支度をすませ、「お先に」とドアに向かった。 「えー」  営業マンたちが、声を揃えて小学生のようなブーイングをした。 「ちょっと待ってよ。俺、まだ原稿終わってないよ」「三島が帰ってきてないんですけど」次々、声がとぶ。 「悪いけど、自分で最後までやってください。三島さんにもそう伝えてください。すみません」  最速で頭を下げて、パッと出た。  爽快な気分だ。なんだ、やればできるじゃないか。もっと早く、こうすればよかった。カフェで軽く腹ごしらえをした。そして、どこに向かえばいいのか思い出そうとして、愕然とした。  思い出せない。酔った勢いで、馴染みのない路地から路地を巡り、行ったこともない町に踏み込んだらしい。ランドマークが何かなかったか。頭の中をかき回しても、なんにも出てこない。  角地で、向かい側にコンビニとコインパーキングがあった。覚えているのは、それだけだ。仕方ない。梨央は立ち飲みの店を起点に、四方八方を歩き回った。自販機から自販機へと漂流したのは覚えているからそれを頼りにするのだが、あちこちに路地があり、そのどこにでも自販機がある。歩いているうちにどんどん迷路にはまりこむような気がした。  手がかりを工事現場にしてみたが、今度はその多さに驚かされた。ほとんど一ブロックごとに、灰色のフェンスやシートで覆われた一角が現れる。バブルの頃はあっちにもこっちにも見えていた大型クレーンこそ少なくなったが、不況でも小さな建て替え需要はあるようだ。あるいは、維持できなくなった建物がひっそりと消えていく途上なのかもしれない。  こうして一週間探し回ったが、探している角地の現場には行き当たらなかった。記憶も曖昧《あいまい》になってきて、同じところを二度歩いたことに気づいたときは泣きそうになった。  しかし、見つからないことでかえって梨央はムキになった。どうしても見つけ出してみせる。実に何年ぶりかで、激しい闘志が湧いた。  生活パターンが変わった。帰る時間を決めているので、仕事運びがテキパキしてきた。以前は文句を言いながらも入稿の遅い営業マンを待っていたが、今は「締め切り時間守れないんなら、自分でやって」と宣言して、さっさと会社を出る。  ついに五郎が、あいている社長室に梨央を呼び出した。 「最近、どうしたんだよ」  五郎は社長のリクライニングチェアにもたれて、デスクの上の地球儀をもてあそんでいる。梨央は客用の椅子の上で、腕を組んだ。いずれ、こういう場面が来るとは予想していたから、もっともらしい答も用意してあった。 「今まで甘やかしすぎたのよ。わたしがずっと待ってて手伝ってくれると思うから、みんないい加減だったんだわ。わたしにばっかりしわ寄せ来るの、たいがいにしてもらいたい」 「そりゃ正論だけど、営業は広告取ってくるだけで一杯一杯なんだぜ。原稿にまとめるのは編集部の仕事だ」 「編集部員はわたし一人じゃないはずよ」 「谷本くんには、実作業は無理だよ。梨央じゃなきゃ」 「編集長がいるじゃない。ろくに会社にいないのは、どういうわけ」 「俺は全体の流れを見るのが仕事だもの。編集企画の打ち合わせもあるし、そのための人付き合いもあるし」 「求人誌で大事なのは、求人広告だけみたいなもんじゃないの。その一番大事なところに最終的に責任持つのが編集長でしょ」  正面切って逆らうのは、初めてだ。五郎は驚きの色を浮かべたが、すぐに笑顔になった。立ち上がり、デスクをまわって梨央に近寄る。そして、ささやいた。 「誕生日に会えなかったの、怒ってるのか」  梨央はそっぽを向いた。 「わたしにだって、大事にしたいプライベートライフがあるわ。今までみたいに仕事のために何もかも犠牲にするの、イヤなんです」 「梨央がそんな、そこらのおネエちゃんたちと同じこと言うなんてガッカリだな」 「じゃあ、もう、わたしに何か期待するのはあきらめてください」  五郎の笑みが、さらに面積を広げた。底意地の悪い、人を見下す笑顔。梨央は、その笑顔を下から睨《にら》みつけた。  イヤなやつ。  はっきり、そう思った。どんなときも、自分の優位を相手に見せつけずにはいられない傲慢人間。 「男、できたか」 「そんなんじゃないわ」  できるも何も、再会できるかどうかの瀬戸際なのだ。だが、そんなことは五郎には言えない。不公平な関係の意趣返しをしているように思われるのはイヤだ。それに、五郎がチラリと見せた嫉妬の色が心地いい。 「わたし、ほんとに疲れてるんです、この頃。いろんな意味で。リフレッシュしたいと思うの、いけないことでしょうか。いけないっておっしゃるんなら、もうここにはいられないかもしれない」  わざと丁寧な言葉遣いで言ってやった。本当に、こんな会社には未練なんかないんだ。辞めたって、いいんだ。五郎との関係だって、そうかもしれない。 「おいおい、脅すなよ」  五郎の態度が軟化した。尊大な笑みに、迎合の色が加わった。 「確かに梨央の言うことには一理ある。求人広告の原稿は営業が作る決まりだしな。よし、これからしばらくは最終チェック、俺がやるよ。谷本にも教えなきゃならんし。わかった。俺の裁量で、梨央のマイペース主義、許す」 「ありがとうございます」と頭を下げたが、それほど嬉しくはなかった。  俺が許す? なんでわたしが、あんたに許されなきゃいけないの。  なぜだろう。五郎の態度や言い草のひとつひとつが気にさわる。前から気にはなっていたのだが、ここまでひっかかることはなかった。そういう押しつけがましい態度を優しく許してやっていたのは、こっちだ。そう思う。  あの男のせいだ。それで、こんなに強気になっている。  会いたい。もう一度彼に会ったら、自分に何が起きるのか、それを知りたい。  今度はコンビニを手がかりにした。立ち飲みの店から歩ける範囲を特定して電話をかけ、向かい側に工事現場があるかどうかを確かめていくと、探していた現場は嘘のようにあっさり見つかった。  六時過ぎに乗り込んでみたが、フェンスがきっちり閉じられている。フェンスの上にはさらに足場が伸び、分厚いシートが張り巡らされていた。違う現場みたいだ。あれから一週間と少ししかたってないのに、建物は生まれたての赤ん坊のように着々と成長していた。  コンビニで様子を訊いたら、工事は五時にはしまいになるという。 「夜遅くまで騒音立てたら、迷惑でしょう。土建屋さんの仕事っていうのは、大概八時から五時って決まってますよ」  そりゃ、そうだ。求人誌の仕事をしていながら、業種ごとに違う仕事の実情を知らない自分に気づいた。  フェンスから、工事請負業者の名前を書き取った。鍵山工務店。ここに訊けば、彼のことがわかる。順調だ。干し草の山から針を探しているわけじゃない。一〇四で問い合わせた鍵山工務店の電話番号を手帳に書き付けながら、頬が落ちそうにゆるむのをどうしようもなかった。  電話は会社からかけることにした。誰かが聞きとがめても、広告に関する問い合わせと言い繕うことができる。初めて、ハイヤードリーム誌で働くメリットを感じた。 「お世話になっております。居心地を追求する住まいづくりのプロ、鍵山工務店でございます」  一回のコールですかさず返ってきた男性の名調子に、梨央は面食らった。社員教育の行き届いた会社にはよくある応対だが、この手のルールにうるさいところには、決まってやたらと血色のいい新興宗教の教祖じみた経営者がいるものだ。 「あ、あの、ちょっとお伺いしたいことがありまして」 「はい。なんなりと」  もみ手をしているような愛想のいい声だ。いかにも世慣れた初老の男が思い浮かぶ。  梨央は現場の住所を告げ、そこで工事に携わっているとおぼしき人物に世話になったので、礼をしたいから連絡先を教えてほしいと頼んだ。 「はあ、なるほど。ご用の向きはわかりましたが、現場の関係者というのは結構たくさんいるものですからねえ。はて、誰のことなのか」 「あの、三十くらいで四角い顔で、こうがっちりして、たくましい……」と説明しかけて、梨央は赤くなった。たくましいという言葉が、口に出してみると何故か恥ずかしい。 「現場監督の山本かなあ。山本なら、夕方にはこっちに戻ってきますが」  現場監督。そんな感じだった。梨央は住所を訊き、六時過ぎに会いに行ってもいいかと尋ねた。愛想のいい男は専務の棚尾と名乗り、実にあっけなく訪問を許した。  梨央は歯医者の予約を口実に、五時半には外に出た。入れ違いにどこからか戻ってきた五郎が文句を言おうとして言えず、口をパクパクさせる様子が目に入った。ザマミロと心の中で快哉《かいさい》を叫んだ。  心がはやる。自然と小走りになり、走りながらタクシーをつかまえた。  鍵山工務店は文教地区のはずれに、古い五階建ての自社ビルを持っていた。四階と五階にテナント募集の大きな貼り紙がしてある。一階の外壁に営業種目と加盟団体を列記したプレートがはめ込んであった。  入口は、一階の奥まったところにあった。ドアの向こうに無人の受付デスクが見えた。デスクの後ろの壁には、額入りの赤富士が掛けてある。  いざとなると、怖《お》じ気《け》づく。胸がドキドキする。こんなことは久しぶりだ。アイドルのコンサートに初めて行ったときみたい。だけど、わたしはもう十五歳の少女じゃない。三十の女だ。  梨央は深呼吸して胸を張り、入口のドアを押した。  受付脇の開けっ放しのドアから、人声や電話の鳴る音が聞こえてくる。だが、来客に気づいた気配はない。内線電話の代わりに呼び出しブザーがあった。こんなものなくても、声を掛けたらすむことじゃないかと思ったが、会社というものにはそれぞれ不思議な習慣があるものだ。ブザーを押すと、ほどなくピンクのブラウスに青いベストとスカートという古くさいデザインの事務服を着た六十過ぎくらいの女が出てきた。堅めのパーマヘアが、おばさんくさい。 「はい、お待たせしました」という口に、何かを頬張っている。一応手で口は覆っているが、悠然と咀嚼《そしやく》を続けている。 「あの、昼間電話した山根と申しますが、現場監督の山本さんは」 「おりますよ。お待ちください」  おばさんは首をねじって、大声で呼びかけた。誰かが返事をした。最初に聞こえたのは電話で話した棚尾専務の愛想のいい大声、それから低い声が。  なんか、違う。  と思ったら、男が現れた。ひょろりと背が高く、前髪が額に垂れかかっている。灰色の作業着は彼と同じだが、顔がまるで違う。 「山本ですけど、僕に何か」  声も違う。 「すみません、人違いです。わたしが探しているのは、もっと髪が短くて、顎が角張ってて、もっと男っぽい」と言ってから、後悔した。果たして、山本は傷ついた目をした。 「それ、てっちゃんじゃないかな」  声とともに、さっきのおばさんが出てきた。 「田所さんて、うちの従業員じゃなくて仕事頼んでるトビの親方がそういう感じよ。何か、あったんですか」  おばさんは好奇心を隠さず、嬉しそうに梨央をジロジロ見た。 「ちょっと酔っぱらって、あの現場のあたりで具合悪くなったときに、助けてもらいまして」 「ああ、わかるわ。てっちゃんは、そういう面倒見のいい人よ」 「連絡先、教えてくださいますか」  梨央はぼーっと立っている山本に訊いた。現場監督というからには、この男のほうがおばさんより立場が上なのだろうと踏んだからだ。 「えーと、本人に確かめずにそういうことしてもいいのかどうか、僕はちょっと」山本は首をひねった。 「何言ってるのよ。無粋な男だね、あんたは」  おばさんは梨央に向かって、ウインクした。そして、「ちょっと待っててね」と室内に消えた。  山本はもじもじと梨央の前に立っている。梨央はさりげなく無視の姿勢を示すため、横を向いた。  その横顔に空気の流れが叩きつけられた。ドアがすごい勢いで開いたのだ。四十過ぎくらいの女が険しい面持ちで入ってきたところだった。  スリットの入ったタイトスカートとジャケットのスーツを着て、爪先のとがったパンプスを履き、大きな革鞄を提げている。ボブヘアから、ゴールドのイヤリングがのぞいていた。美人だが、第一印象がやたらと怖い。  女は梨央と山本を見比べて「なに、何かトラブル?」と鋭い声を出した。 「いえ」  山本の声が、ますます自信なげになった。そこにメモを持ったおばさんが戻ってきた。 「あら、姫。お帰り」 「人前で姫はやめてって言ってるでしょう」 「あー、そうだった。はい、これ」  姫の怒りを軽く一蹴して、おばさんは梨央にメモを渡した。 「だから、なんなのよ」  姫が見とがめた。 「こちらがてっちゃんにお世話になったんでお礼がしたいとかで、連絡先を訊きにみえたのよ」  梨央はこわごわと姫に目で会釈した。 「あ、そ」  姫は梨央を見つめ、頬の力を緩めた。口角がわずかに上にあがった。 「ごめんなさい。わたし、もしかして、見ず知らずの人にいきなり怒鳴りつけちゃった? そんなに怖そうな顔しないでよ」 「すみません」  なんとなく、謝ってしまう。 「早く電話してごらん。この時間なら、仕事すんでるよ」  おばさんに言われて、梨央は急いで彼女に頭を深く下げ、ドアの外に出た。振り返ると、派手な身ぶりで何事か訴えている姫をなだめているらしいおばさんと、二人を見比べる山本の姿が目に入った。  何かトラブってるのかしら。彼と関係なければいいけど。  右手にしっかり握ったメモを見た。田所徹男。そして、携帯の番号。  トビの親方だと言っていた。だから、あんなに身軽だったんだ。まるで、空を飛んできたみたいだった。梨央の頭の中で、田所徹男は限りなくスーパーマンに近いものになっていく。  玄関を出ると、公民館の長い階段が見えた。男の子が一人なかほどに座り込んで、携帯に話しかけている。梨央は彼の横を抜け、上にあがった。図書館とイベントホールにつながるドアの前に「閉館しました」の掲示板が立っているが、中には灯りがついている。  ドアの前で携帯を取り出し、番号を押した。コール音を聞いただけで、どきっとした。こんなに胸が震えるなんて、いつ以来だろう。  六度目のコールで「はい」とあの声が聞こえたとき、呼吸が止まって声が出なかった。 「もしもし?」 「あの、田所さん、ですか」 「そうだけど」  訝《いぶか》る声。その後ろがざわついている。どこか賑やかなところにいるようだ。 「あの、今、いいですか」 「いいも悪いも、名乗ってもらわないと。おたく、どちらさん?」 「すみません。あの、先日、足場から下ろしてもらった者ですけど」 「ああ」  その声が笑っていた。ほっとした。 「無事に帰れたみたいですね」  丁寧な言葉遣い。他人行儀だ。 「で、何か」 「あ、あの、あのとき、買ってきてもらったドリンク剤とミネラルウォーターのお金を」 「あー、なんだ。そんなことなら、いいっすよ」 「でも」 「五百円かそこらですよ。いいから、気にしないでください」 「でも、あんなご迷惑かけたんですから、ちゃんとお詫びとお礼をしなければ、わたしの気が済まないんです。ですから、お食事でも」 「あれは、俺の責任でもあるから」 「え?」  思わず携帯を握り直した。 「おたく、ゲートが開いてたから入ったんでしょう」 「ええ、まあ」 「あそこ、開けっ放しにしたのは俺なんですよ。心がけの悪いもんが入り込んで事件を起こしたり火でも出したら、ごめんじゃすまないことになってた。現場の人間が一番やっちゃいけないことを、俺はやってたんです。だから、謝ってもらう必要ないです。怪我でもされてたら、俺のほうが謝らなきゃならなかった」 「でも、足場上るほうが非常識ですから」 「そりゃ、そうだけど」  梨央の耳に、カラカラと明るい笑い声が心地よくこだました。白くて大きな歯を全開にした笑顔が目に浮かぶ。 「ですから、気にしないでください。これからはお互い、あんなことはしないように気をつけようってことで、よしにしましょうや」 「ええ」と答えたものの、それじゃ、この後が続かない。 「あの、あの、じゃあ」 「はい」 「インタビューさせてください」  梨央はつっかえながら、自分が求人誌の副編集長であることを伝え、トビ職について記事を書きたいと申し出た。とっさの思いつきにしては上出来だ。 「でも、俺は求人広告出すつもりないけど」 「それはいいんです。あの、こちらこそたいした謝礼は出せませんけど、建設現場の仕事について話していただければ、というか、プロの仕事人としてですね。あの、そういうページがあるんです。仕事人紹介みたいな」  そんなページはない。企画を出したことはあるが、スペースの無駄遣いはまかりならんと社長に言われて断念したのだ。だが、そんなことは構うものか。謝礼は自腹を切る。一度口に出したことを、今さら引っ込められない。 「お願いします」梨央は懇願した。「わたし、建設現場のお仕事、興味あるんです。力仕事って、偏見あるでしょう。バブルの頃に3Kとか言われて」 「でも今は、正直言って人手には困ってませんよ。不景気のせいで、仕事選んでられないっすからね」 「ですから、そういう仕方なく、みたいなニュアンスじゃなく、素晴らしい仕事だということを話してほしいんです」 「素晴らしいかどうか」  照れ笑いが耳に響く。 「素晴らしいと思うわ、わたし」  そう。わたしを助けてくれたときのあなたは、素晴らしかった。 「まあ、ちょっと話するくらいなら」  梨央は飛びつく勢いで都合のいい時間と場所を訊いた。こういうアポ取りの手順は仕事で慣れているからデレデレドキドキせずに、しっかり応対できる。  ずっと使ってなかったデジカメとMDレコーダーを持って、梨央は指定された郊外の川べりのカフェに行った。  川に向かってウッドデッキが張り出し、その上にスカイブルーのテントがかかっている。都心から離れている分、土地が安いので開店できましたというタイプの、しゃれてはいるが客の少ない店だった。  約束の十分前にタクシーで近くまで乗り付け、息を整えてから中に入ると、徹男はカウンター席で店主と話し込んでいた。丸首のTシャツにブルージーンズというスタイルだが、胸板や太股が大きく、カッコよくは見えない。堅太りという表現がピッタリだ。でも、あの身体で細い鋼管一本を伝って、上へ下へと自由自在に動くのだ。なんたって、トビ職だ。空を飛ぶ鳥になぞらえた職業が、他にあるだろうか。それだけでも今の梨央には、美しく感じられる。 「あの」  声を掛けると徹男が振り返り、ちょっと驚いたような目をした。  きょうの梨央は、かっちりしたグレーのパンツスーツだ。インナーの白いシルクブラウスは襟ぐりが深めで、鎖骨の間のくぼみ(あんまり目立たないけど)と、その下のなめらかな皮膚がよく見えるはず。  梨央は徹男の前に立ち、名刺と最新のハイヤードリーム誌を差し出した。そして、店主にもついでに挨拶した。 「じゃ、そのへんで」と徹男が示したテラスのテーブルに座り、MDをセットした。それから、丁寧に頭を下げた。 「改めてご挨拶申し上げます。ハイヤードリーム誌副編集長の山根梨央と申します。先日は、無断で現場に入り込んで本当に申し訳ないことをいたしました。そのうえ助けていただいて、ありがとうございました」 「いや、その話はもういいですよ」  徹男があたりを気にした。 「それから、取材にも応じていただいて」 「挨拶はいいですから、始めてください。一対一でこういうの、どうも苦手で」  本当に困惑している。可愛いと思うと、余裕が湧いた。梨央は落ち着き払って、年齢とトビ職になったきっかけを訊いた。  三十五歳。高校を出て、親父の解体屋を手伝っていたが、現場で見ているとトビのほうがカッコよかったから、知り合いの親方に弟子入りして、仕事を覚えた。今は現場ごとに職人を集めるひとり親方として、仕事をしている。 「トビって、由緒のある仕事なんですよね」  梨央は憧れの色を一杯込めて、口を挟んだ。 「火事のときに纏《まとい》を振る、あれですよね。町内で冠婚葬祭があると揃いの半被《はつぴ》で歌ったり」 「そりゃ、時代劇の見過ぎですよ」  徹男は苦笑した。 「でも、今でもお正月になると、梯子の上で逆立ちしてるのなんか、テレビで見ますよ」 「そういう伝統を継承してるところも確かにありますけど、俺らみたいな普通のトビは普通に仕事してるだけですよ。でも、そうだな。現場で一番威張ってるかもしれない」  遠くを見て、嬉しそうに微笑《ほほえ》んだ。 「どの現場でも、まず俺たちが一番乗りですよね。足場がなければ、工事は始まらないんだから。大工にしろ、左官にしろ、俺たちが作った足場に生命預けて仕事するんですよ。俺らは現場の最初と最後を受け持つから、何もなかったところにこれだけのものができたっていうのを目で確かめられる。達成感、感じますよ。俺らに限らず、建設の仕事についてる人間は、みんなそれを感じてると思います。家でもビルでも、できあがると人がみんな、おおって感じで見ますしね。俺らが最後足場ばらしてるときって、建物の全貌が初めて人目にさらされるときなんですよね。すると、不思議なもんでね、通りがかる人、みんな見ますよ。車の中からでも、見るんですよ。ああ、でかいなあとか、きれいだなあ、みたいな感じでね。そしたら、なんか、ニヤニヤしてくるんですよ。どうだ、いいだろうみたいに。自分の家じゃないのにね。土建屋なんて、ろくなところに住んでないんですよ。人の家を自分の家みたいに思っちゃうから、かえってどうでもよくなるのかなあ」  梨央は、しゃべる徹男の笑顔に見とれた。なんて……なんて、健康なんだろう。 「こんな話でいいんですか」  問いかけられても、数秒返事ができなかった。 「……面白いです。素敵です」 「素敵?」 「いえ、あの」  素敵って、ヘンだったかしら。 「でも、危険ですよね。高いところに上るわけだから。怖くないですか」 「怖かったら、トビはやってませんよ」 「ですよね。でも、危険ではあるでしょう?」 「そりゃ、新聞記事にこそならないけど、落ちて怪我したとか死んだとか、そういう話はありますよ。安全帯つける決まりはあるけど、そう高くない場所だったら面倒だから、なしでやっちゃいますしね」 「そんな!」思わず、声が高くなった。「ご家族は心配じゃないですか、一家のお父さんがそんなことになったら」 「でも、不慮の事故っていうのは、トビに限らず誰の身の上にも起きることだから」  あっさりと言い捨てるところが、またカッコイイ。調子に乗って、梨央はもっとも知りたい情報を引き出すことにした。 「田所さんの奥さんや子供さんは、お父さんのお仕事のこと、なんておっしゃってます?」  徹男の表情が変わった。まずかったか? 梨央はあえて気づかないふりをした。 「俺はひとりもんだから」  やった。可能性ありだ。しかし、ぼそりと答える目に力がないのが気がかりだ。痛い部分に触れてしまったらしい。梨央は気分を変えるために、わざと声を弾ませて問いかけた。 「高いところにある鋼管パイプ一本の上をひょいひょい動くんですもの。トビの職人さんって、みんなさぞかし小さいときは腕白坊主だったんでしょうね」 「ああ。学校じゃ、休み時間ほど元気がいいタイプ。身体動かすのが好きじゃないとね」  よかった。気を取り直してくれたみたい。 「先ほどおっしゃった達成感以外に、外仕事ならではのよさがあったら、教えてくださいませんか」 「そうだなあ」  なにげなく訊いた質問だが、再び遠くに投げた徹男の目に和《なご》やかさが戻った。 「季節の変わり目が人より早くわかることかな」 「ああ、気温の違いとか日の当たり具合とかで」 「じゃなくて、匂いがするんですよ」 「匂い」 「うん」優しい顔で、徹男は頷いた。「春には春。夏には夏の匂いがね」 「ああ、花とか草とかの」 「いや、それとも違う。空気自体にね、匂いがあるんですよ」 「こんな街中でも?」  わたしには排気ガスの匂いしかわからないけど。 「うん」再び、頷く。「地上は排気ガスだらけでもね、上空は季節ごとの風が吹いてるんですよ、ちゃんと」 「それって、どんな匂いなんですか。たとえば、何に似てます?」 「うーん」  今度は首をひねった。目を閉じて、考えている。  そして、パッと目を開けると初めてじっと梨央を見た。それからゆっくり言った。 「口では言えないです」もどかしげに眉間にしわを寄せ、やがてこれだけは言っておきたいという熱をこめてつけ加えた。 「でも、確かにあるんです。季節の匂いが。それで、ああ、春が来た、夏になったとか、わかるんですよ」  あ。 「この間、足場でわたし、風、感じました」夢中で口に出した。 「高いところに行けば、まず見晴らしに感動するだろうって思ってたんです。でも、実際に上に立ったら、一番先に風が気持ちいいと思いました。目に見えることより、肌に感じる感覚が」  あとの言葉は、出てこない。言わなくてもよかった。そう、それなんです。そう言うように、徹男が微笑んで頷いた。  そのあと、労働時間や収入について、ついでのように訊いた。収入に関しては口を濁したので、深追いするのはやめた。そして、盛んに照れるのをなだめすかして何枚か顔写真を撮った。最後に掲載誌を送るからと、住所を教えてもらった。アパートかマンションで暮らしているようだ。 「これ、少なくて申し訳ありませんが」と、謝礼のビール券を出した。五千円分入っている。現金だといかにも生々しくて恥ずかしい。  徹男も最初は「いいですよ、そんな」と断ったが、ビール券だからお仲間と飲み会でもするときに使ってくださいと言うと、素直に受け取った。  それで、会見は終わった。空気が和《やわ》らいで雑談が始まるのを梨央はひそかに期待していた。しかし、徹男は梨央が礼を言って頭を下げると、自分も頭を下げ、立ちあがってカウンター席に戻ってしまった。仕方なく、梨央は店主にタクシーを呼んでもらえるか問いかけ、それとなく帰りの足に困っていることを匂わせたが、居合わせた常連らしい女性客がちょうど都心に行くところだから乗せてあげると口を出した。  緑色のボルボを運転しながら、親切な女性はひっきりなしに先ほどの店や店主をほめそやした。取材の様子を見て、タウン情報誌の類だと思い込んだらしい。上の空で相槌を打ちながら、梨央はほぞをかんだ。  取材は、心置きなく会え、興味のあることを訊ける絶好の口実だった。でも、しょせんは表向きの顔で当たりさわりのない会話を交わしただけのことだ。本当の出会いではない。  わたしは、あの人のことをもっと知りたい。梨央は、自分の中に湧いた徹男への欲望を確認した。  記事を書こう。そして、掲載誌を持って彼を訪ねよう。そのうえで、やっぱり助けてもらったお礼をちゃんとしたいからと、食事に誘おう。彼にも一端の責任があるとはいえ、下手をしたら、大怪我をしていた。それでなくても、朝まであそこにいて大恥をかいただろう。そんな窮地から救い出してもらったのだ。構いませんと断られたからといって、すごすご引き下がるのはかえって大人げない。きっちり、しっかり、お礼しなくちゃ。ビール券なんてものじゃなく、食事に招待するのよ。  ついこの間まで、おしゃれ費用をリストラしようなどと手元不如意をぶつくさ嘆いていたのに、梨央の世界が一変した。  原稿は、その夜のうちに出来上がった。翌日出社するとすぐ、梨央は本日出稿分の原稿とレイアウトを睨《にら》み、やっと片面四分の一のスペースを確保した。写真を入れ、達成感と季節の風についてのコメントをまとめて〈田所徹男親方、トビ職の魅力を語る〉とタイトルを入れた。  徹男に会うため、そして知り合うための策略で生まれた記事だ。徹男の目に触れさせるのが目的だった。だが書いているうちに、梨央は見知らぬ大勢の人たちに呼びかけている自分に気づいた。  ねえ、この人、いいでしょう。こんな気持ちで仕事してるなんて、素敵でしょう。冷暖房のないところで、夏の暑さや冬の寒さにさらされて働く人たちは、季節のないカプセルの中でひ弱く暮らすわたしたちが知らないことを知っているのよ。  そうだ。わたしはカプセルの中にいる。書き終えた原稿をスペースに合わせて推敲《すいこう》しながら、梨央は思った。だからいつも、曇りのち曇りの気分だったんだ。  パソコン上で組み立てた原稿を、一階の版下工房に送った。刷り上がりは明後日だ。できたてを持って、徹男を訪れよう。そして、食事に誘うのだ。  予定を頭の中で繰り返す。自然に唇がほころんだ。  しかし二日後、刷り上がった見本誌に、梨央の原稿はなかった。指定したスペースには、自営業者向けの融資情報が入っていた。  梨央は、五郎に事情を問いただした。 「ああ、あれね」五郎は競馬新聞を読みながら、どうでもよさそうに言った。 「社長がああいう融資業者の紹介ページを思いついてね。差し替えたんだ」 「融資って、街金でしょ」 「そうとも言うね」 「そういう話の仲介、やるの」 「リストラされた中高年で資金持ってる人は、雇い主探すより自分で事業起こしたほうがいいって、そういう考えもあるってことさ」 「わたしの原稿は、どうなるの」 「どうなるって、編集長に相談もなしに、あれはないぜ」 「それは悪かったけど、前からスペースが空いてたら埋め草記事は任せるって言ってたでしょう」 「だけど、金にならない原稿は社長が喜ばないの、知ってるだろう。ガテン系の求人広告が取れるんなら別だけど、ああいうところは渋いからな」  五郎はゆっくりと競馬新聞に赤丸をつける。まともに相手をするつもりはないと、態度で告げているようだ。  頬のそげた横顔を見ていたら、梨央の中で何かが音を立てて弾けた。こんな風にあしらわれるのは、もうたくさんだ。 「わたし、辞めます」  五郎は横顔のまま、おかしそうに微笑んだ。 「よせよ。そういうぶち切れ方は、子供っぽいぞ」 「子供じゃないけど、今ならまだ、やり直せるわ」  ようやく、五郎が梨央を見た。しかし、ふんぞり返った姿勢は崩さない。 「やり直すって、何を」 「生き方です。わたし、高校のときから編集者目指してた。でも、それは『アンアン』とか『ノンノ』とか、そういう雑誌を見て育ったから憧れてただけ。他にもいろんな仕事の世界があるのを知らなかった。ここで働いていて楽しくないのは、まだ未熟で手応えをつかんでないからだと思った。そのうち、人生は甘いものじゃない、どこに行ってもこんなものなんだと思うようになったわ。それが大人になるってことだと自分に言い聞かせてきた。でも、この人は」  梨央は見本誌をつかみ、そこに原稿が載ってないのに気づいて、五郎のデスクに抛り出した。 「このトビの親方は、三十五だけど、自分の仕事を楽しんでる。達成感を感じて、人に見られると自慢に思って、それから、わたしたちにはわからない特別の感覚を磨いてた」  梨央は半身をひねって、後方にある窓の外に視線を投げた。向かいのビルが見える。たくさんの窓があるが、そのほとんどがブラインドを下ろしている。街路樹が揺れていた。 「ハイヤードリームの仕事がよくないなんて、言うつもりはないわ。だけど、ここでわたしが達成感や喜びを感じられるようになるとは思えない。今まで知らなかったことに気づくようになるとも思えない。希望が持てないの」 「おいおい、待てよ」  椅子をきしませて、五郎が立ち上がった。そしてデスクを回って、梨央の前に立った。 「そりゃ、今回の原稿は没になった。でも、それは梨央も悪いぞ。事前にちゃんと相談してくれてたら、俺がなんとかしたんだ。やりたいことがあるのなら、頭を使わなきゃ。梨央は才能あるんだ。辞めるのはもったいない。やりたいことがあるんなら、まず俺に言え。できるだけ希望は叶えるよ。だから、逆ギレはよせ。第一、ここを辞めてどうする気だ。トビ職にでもなるつもりか?」  最後はからかうように、唇をねじ上げて嗤《わら》った。  まただ。人をからかわずにはいられないんだ。そうやって、一体何を証明する気? 「やりたいわ。トビ職」  お腹の底から、答が飛び出した。 「冗談言うなよ。スキーはいて二メートルと立っていられないバランス音痴のくせして」 「外に出たいの。カプセルの中で息苦しく過ごすのは、もうイヤ。ここから、出たい。今までの自分から、脱け出したい」 「何言ってるんだよ。今どき、自分探しかよ。勘弁してくれよ」  五郎はあくまでも皮肉な態度を変えない。いつも、いつもそうだ。わたしの毎日がぱっとしないのは、こいつのせいだ。梨央は、そう思った。こいつがいつも、わたしの頭を抑えつけてきたんだ。  おまえには、才能がある。おまえは頭がいい。センスがある。可愛いよ。好きだよ。そういう言葉の餌をちらつかせて、でも結局は自分の思い通りに従わせてきたんだ。  きょうから梨央は、副編集長だ。俺が社長に掛け合って、そういう役職を作らせた。何かやりたいことがあったら、どんどん言えよ。できるだけサポートするから。そう言ったくせに、企画を出したら片っ端からはねられた。ありきたりだ。面白くない。ページがない。金にならない記事は、社長が許さない。  女房は俺の気持ちが離れてること、勘づいてる。それが哀れでね。子供もいるし。こんな形でしか付き合えないこと、本当にすまないと思ってる。だけど、俺には梨央が必要なんだ。ずっと、そばにいて俺を励ましてほしい。けど、梨央が他に幸せにしてくれるやつを見つけたら、俺は身を引くよ。  ずっと、ごまかされてきたんだ。この男は、わたしを都合のいい女にしておきたいだけなんだ。  憎しみがどっと噴き出した。自分がこんなに怒っているなんて、知らなかった。 「あなたは探さなくても、自分を見つけてるのよね。第二の司馬遼太郎になるんでしょ。だけど、ほんとになりそうなの? そこへの道をちゃんと歩いてる?」  ずっと言わずにおいた言葉をぶつけてやった。 「逆襲がうまくなったじゃないか」  口では決して負けない男は、あくまでも冷笑を崩さない。だけど、質問には答えてない。五郎は自分に不都合な質問には答えないのだ。 「辞めるわ。決めました。辞職願、書きます。職務規定では、届け出すのは一カ月前でしたよね。編集者募集の広告原稿、至急入れてください。なんなら、わたしが書きますよ」 「梨央」 「あなたには止められないわ。そんな権利、ないでしょ」  五郎は息を呑んだ。拭ったように笑みが消え、コケにされた怒りで口角が下がった。 「後悔するぞ」  低い声で、脅された。 「今のままでいたら後悔しないっていうの?」  われながらいい切り返しだと思ったが、後悔はもう始まっていた。  あーあ、言っちゃった。これって、痴話喧嘩だ。その勢いで、この不景気に収入を保証されている仕事を辞める。三十なのに。  一度は惚《ほ》れていた男だ。今でも、気持ちがすっかり冷め切ったわけではない。怒りの言葉の裏に、大切にされないことへの恨みがあるのは否めない。だから、自己本位で醜い怒りの表情を見るのはつらい。彼には他の男にはない、いいところがある。だから愛していたはずなのだ。  梨央は両手を膝で揃えて、深く頭を下げた。 「お世話になりました」  そして、目をそむけたまま踵を返した。部屋にいた二人ほどの営業マンが、あわてて下を向くのが目に入った。今夜は早速、どこかの飲み屋で盛り上がるんだろうな。構うものか。  次のあてがないのに退職するのは、確かに不安だ。トビ職なんて、とんでもない。自分に、そんなことができるはずがない。  それでも、梨央は季節の変わり目を告げる風に吹かれてみたいと思った。  ただ一本、目の前にあった細い道を漫然と歩いてきた。でも今、少しだけ視界が広がって他にも歩ける道があることがわかった。だから、そっちに行ってみる。この決断を子供っぽいと嗤うなら、嗤え。失敗の痛手を負うのは、わたしだ。  ヒーローに見えた男に会いたい、その出来心で始めたことが、人生の一大事になってしまった。これって、ほんとにただの逆ギレかもしれない。  でも、ここで止まってはいけないと、梨央は思った。今のこの暮らしに、どうしても失いたくないものがある? ないじゃない。だけど、今踏み出したら──。  その先には、田所徹男の笑顔がある。梨央の知らないことを知っている彼。足場の上にしっかり立って、地上を見下ろし、上空の風をかぐ彼。  あそこに行きたい。だから、行くんだ。  梨央は五郎に背を向けて、窓に向かった。そして、がたつく窓を一気に開けた。車の騒音と排気ガスと埃まみれの四月の強風が、躍り込んでくる。 「やめろよお。あー、目にゴミ入った。イッテエ」  営業が悲鳴を上げた。 [#改ページ]   その2 姫、ご乱心     1  もう、イヤ!  そう叫んで、何もかも投げ出したい。こんな風に、ポイッと。  鍵山|郷子《さとこ》は、重ねた工事台帳の上にボールペンを放り出した。  午後十時。社内に残っているのは、郷子だけだ。応接室を兼ねた社長室の開け放したドアから、誰もいないオフィスが見える。真ん中で島を作っている十一個のデスクの半分は、書類が積み重なって物置になっている。  家を建てる会社なのに、事務所内は古くてゴタゴタしている。自社ビルを建てて二十年。外壁や設備のメンテナンスはやっているが、事務所の内装は「いずれ、そのうち」と後回しにされっぱなしで、ここまで来た。男性社員は灰色の作業服、女性社員はスカイブルーのベストとスカートの組み合わせという制服も、社長室のドアやら戸棚やらの備品が木製でやたらとどっしりしているのも、昭和っぽくて古めかしい。  郷子が座っている椅子は背もたれの高い革製で、しかも肘掛け付きだ。もたれると、父が使っていたヘアリキッドの匂いがする。  この部屋には祥二もいたのだ。それも、十年。それなのに、痕跡がない。彼に合わせて新調した椅子は、彼と共に去った。というより、粗大ゴミとして捨てたのだが。  郷子は父のものだった椅子に全身を預け、ここから逃げ出す方法を考えた。  とりあえず、家を出る。そして、名前を変えて別人になって生き直す──ったってなあ。  別人になりすますのはいいけれど、とりあえずどうやって生活する? 預金を全部引き出せば、小さいアパートを借りて三カ月くらいならぶらぶら過ごせるだろうけど、そこから先が問題だ。生活費を稼がないと。しかし、この就職難のご時世に特殊技能を持たない四十七歳の女を雇うところがあるだろうか。しかも、身元不明。まともなところじゃ、働けない。それでもいい、どんな仕事もいとわない、てほどの覚悟もないし。  じゃあ、出家するか。それなら、現世の役割を投げ出しても文句は言われないだろう。でも、俗世を離れ、すべての欲望を絶つなんて冗談じゃない。おしゃれをして、おいしいものを食べて、人生を楽しみたい。夜明けと共に起きて、冬でも裸足で廊下の拭き掃除なんて絶対にしたくない。  自殺も言語道断だ。郷子の願いは、人生を楽しむことだ、二年前までは楽しんでいた。祥二が他の女との関係にどっぷりはまりこんでいることに気がつかないほど、お気楽だった。今振り返ると、ため息が出る。  両親に愛され、のんきな学生時代を謳歌し、結婚して、子供を産んで、つつがなく育てた。その過程には、小さな試練がいくつもあった。山かけに失敗して無惨な結果に終わった期末試験とか、うまくいかなかった恋愛とか、マリッジブルーとか、切迫流産しかけたときの恐怖感とか。  でも、手に負えないほど追いつめられたことはなかった。生まれつき、グズグズ悩むマイナスのエネルギーに欠けているらしい。嫌な思いをして、それを自分の中で蒸し返していると、落ち込むより先に腹が立ってくるのだ。  えーい、面倒だ。もう、どうにでもなれ!  そう開き直って、思考停止する。すると、どんな難題も自然にどうにかなっていた。 「ママの単純さって、暴力的よね」  娘の早知子《さちこ》がそう言ったのは、高校生の頃だ。小さい頃は甘ったれで、構ってやらないと押入に入り込んですねていたくせに、知恵がつくにつれ、へんに醒めたことを言うようになった。  目に余る金遣いの荒さから浮気の事実を吐かせ、すったもんだの末祥二に判を押させた離婚届を提出すべく、郷子が玄関でもどかしくランニングシューズの紐を結んでいた半年前の晴れた朝も、背後に立ってこう言った。 「止める気ないけど、ママの人生って、ママ一人しかいないみたいね」 「何言ってるのよ」  郷子は振り返って叩きつけた。 「ママ一人が我慢すればいいんなら、こんなことしないわよ。だけど、パパはね、定期預金解約して、女に貢いでるのよ。このままほっといたら、会社のお金にまで手をつけるようになる。あんた、他人事《ひとごと》みたいな顔してるけど、そんなことになったら、のうのうと大学なんか行ってられなくなるんだからね」 「何も離婚しなくたって、手切れ金でも払って追っ払っちゃえばいいじゃないの。どうせ、お金で買われた女なんでしょう」  早知子はほっそりした身体を壁にもたせかけ、冷徹な裁判官のように言い捨てた。  父親似の切れ長の眼が美しい。だが、祥二のどこか女っぽい容貌は線の細さを感じさせるのに、道具立てのほとんどを受け継いだ早知子の顔は、コピーの輪郭を上からなぞって強化したように怜悧《れいり》で頑固そうだ。その顔で高慢な口をきくから、非常に憎々しい。見下されているのは愛人なのに、郷子は早知子が自分をバカにしていると感じた。 「問題は女じゃない」早知子を睨んで、きっぱり言ってやった。  あんたは見ていない。マルカを愛してるんだと泣いたパパの顔を。あの歳で、愛してるなんて空々しい言葉を口にするなんて、思い出すだけで脳みそが腐りそうだ。おぞましい。 「パパは、社会人としても家庭人としても壊れちゃったの。地獄に堕ちるんなら、一人で堕ちてもらう。巻き添えはごめんよ」  郷子は不快感をエネルギーにして、ぴしゃりと決めつけた。  本気でそう思った。離婚に突っ走ったのは怒りからだが、娘に短絡を責められた途端に、会社の行く末だの家族の面目が頭に浮かんだ。そして、祥二と別れることが誰にとっても最善の方法だと確信した。従業員十一名を抱える鍵山工務店の社長をいきなり排除したら、一体どういうことになるのか。深くは考えなかった。  問題ないと、ひとり決めしていたからだ。娘婿《むすめむこ》の祥二に社長職を譲り会長に退いた父が、まだ健在だ。パーキンソン病の進行で手足が不自由になり、寝ていることが多くなったのをきっかけに痴呆が出てきた母の介護に明け暮れているが、自分が興した会社存亡の危機となれば落ち着いてもいられまい。カムバックしてくれるだろう。母の介護は自分と早知子でやればいい。  その目論見があればこそ、祥二を追い出す決断ができたのだ。  父には、離婚を決意したとき、まっさきに相談した。祥二が惚れ込んだフィリピーナと半同棲状態であることを告げたとき、屈辱で胸がつぶれそうになった。そういう男と結婚したことが、父に対して恥ずかしかった。  一度の浮気くらい、大目に見てやりなさい。そう諫《いさ》められると思ったが、父は郷子が我慢できないなら別れればいいと言った。会社のことにはひと言も触れなかった。だから、父が再登板してくれるものと思い込んでいた。  だが、違った。  離婚が成立し、家から祥二の荷物を一切合切まとめて女と住むマンションに送りつけてやったあと、父に報告に行った。  実家は高台にある。リビングのピクチュアウインドウからは市街地が一望に見渡せた。父は窓に向かって座らせた母の口元にスープを運びながら、穏やかな声で、「会社は、郷子がやりなさい」と言った。  母は父の手からでないと食べない。父の姿が見えないとパニックを起こし、おぼつかない身体でやみくもに探し回る。だから、離れるわけにはいかない。それに、自分はもう事業勘をなくしてしまったというのだ。 「事業勘なんか、わたしはもっとないわよ。素人よ。OLだって、一年ちょっとしかやってないのに」  郷子は思いがけない展開にクラクラした。 「棚尾と時ちゃんが助けてくれるよ。事業を大きくしろとか、時代に合わせて新しいものを打ち出せとは言ってない。今受注してる仕事を無事にやり遂げればいいんだ。幸い、建設の仕事は時間が長い。やりながら、勉強すればいいさ。うまくいかなければ、店じまいしてもいい。郷子にしまいにされるんなら、文句はないよ」 「お父さん……」  郷子は、父の丸くなった背を見つめた。母は食べ終えた口元を拭ってくれる父と目を見合わせて、童女のように笑っている。郷子を見ると「どちらさん」と警戒するくせに。  会社は父の夢だったはずだ。農家の三男坊が一国一城の主になりたくてゼロから興し、懸命の営業で資本金三千万円の株式会社にまで育てたのだ。  郷子が覚えている限り、父は家にいたことがなかった。もっとも、会社が大きくなるまではモルタル二階建ての一階が事務所、二階を住居にしていたから、父に会いたいと思ったときは下におりていけばよかった。お父さん子の郷子は、歩けるようになるとしょっちゅう事務所に行き、従業員に遊んでもらったものだ。  お父さんは会社にいる人だった。いつも、仕事をしている人だった。  その父が会社を捨てようとしている。人生の終盤をまるごと母に与えようとしている。  郷子は、父の献身を享受する母に嫉妬した。  お母さん。わたしは亭主に裏切られ、ひとりぼっちになったのよ。そのうえ、会社まで押しつけられた。娘も冷たい。できるだけ金銭的に頼らないようにするなんて言い訳こしらえて、アルバイトばっかりして、ろくに家にいないんだから。  誰も助けてくれない。誰も守ってくれない。こんな時、一番いてほしいあなたは、わたしが誰かもわからない。  孤立無援だ。  幹部会議だの、関係筋との協議だのの根回しを経て、正式に社長として出社したのは、三カ月前のことだった。  月曜日の午前九時、自分を叱咤《しつた》するつもりで新調したスーツを着て、緊張のあまり怖い顔になっているのを自覚しつつ、従業員の前に立った。専務取締役の棚尾のじいさまが紹介役となり「きょうから、こちらの鍵山郷子さんが社長です。ご存じの通り、郷ちゃんは創業社長の一人娘だ。ついに、姫君が本丸にご登場です。みんな、一丸となって新社長を守《も》り立てていきましょう」と挨拶した。  みんなといっても社員の多くは現場に出払っていて、その場には四人ほどしかいなかったがパチパチと拍手が起こった。郷子は仕方なく、お辞儀をした。その日から、棚尾に連れられて毎日どこかに出かけ、誰かに会い、頭を下げ、愛想笑いをし、「はい」と「いいえ」だけで乗り切ってきたが、それにしても──。  会社経営って、こんないい加減なことでいいのか?  建設業は帳簿が多い。材料台帳。工事台帳。得意先元帳。工事未払い金台帳。預金出納帳。当座預金出納帳。手形記入帳。貸借対照表に損益計算書。精算表。元帳。繰り越し試算表。  出社初日に、総務主任で陰の女帝と呼ばれている日比野時江おばばがドサドサ放り出して説明してくれたが、さっぱりわからない。単位千円で端数を省略された五、六桁の数字の羅列を見ているだけでめまいがした。いくらなのかも、わからない。小学生みたいに十万、百万と単位を指で押さえて確認した。  年間の完成工事高、ざっと三億。 「うちって、こんなに儲けてるの」  思わず、声が出た。億という金を稼いでいるなんて、鍵山工務店、やるじゃないか。 「売り上げと儲けは違うよ、姫」時江が諭すように言った。 「ここから、職人さんの賃金や材料費、それにわたしらの給料、事務所の維持費、なんやかやを引くと収支とんとん。ていうより、赤字」 「建設業は動く金が大きいから帳簿上はすごいけど、未収金もいっぱいあるし、儲かってる実感はほとんどないねえ」  後見役よろしく常に背後に控えている棚尾が腕を組み、感慨深そうに口を挟んだ。 「しかしね、姫。おいしい思いをしている会社ってのは、ないんだよ。バブルのときは何でもありで、やっつけ仕事でウハウハのところがいくらもあったけど、そういうところほど今、苦しんでるじゃないか。あのとき無闇に事業拡大したせいで、あたら歴史のある暖簾《のれん》をおろしちまった御店《おたな》がどれだけあるか、考えてごらんよ」  時江がそばで、そうそうと頷いた。 「どんな大会社も、一皮めくれば自転車操業なんだよ。毎日毎日あくせく働かなきゃ食っていけないようになってるんだ、この世の中は。ちょい赤字くらいなら、いいほうだよ。あの鬼の銀行さんが、融資引き上げ言ってこないんだ。たいしたもんだよ」  たいしたもんだと言われても、あくせく働いてちょぼちょぼが前提ではねえ。二十歳前の若殿なら家老の人生訓を素直に受け入れて、我が手で国を盛り上げようと青雲の志に燃えたりできるだろうが、あいにく四十七まで生きてしまった年増女だよ。そのうえ、亭主に裏切られた傷心を抱えてるってのに、自転車操業は当たり前みたいなしょぼいこと言われて、元気が出るわけないじゃない。  実は、社長就任を引き受けたとき、自主廃業という手を考えた。郊外にマンションがあり、五階建ての自社ビルにはテナントが入っている。どちらも古いのでメンテナンスが面倒だが、つましくやれば家賃収入で暮らしていける。  父は、つぶしてもいいと言ったのだ。つぶすというのはイメージが悪いが、にっちもさっちも行かなくなる前に借金を全部返してきれいにお開きということなら、いいのではないか。  わけのわからない帳簿と自転車操業という現実にびびって、冗談めかして廃業案を持ち出したら、家老と女帝にケラケラ笑われた。 「個人営業の八百屋じゃあるまいし、やめますと貼り紙一枚で店じまいってわけにはいかないよ、姫」  鍵山工務店には、仕事を出しているたくさんの職人や取引先、なによりお客さんとのつながりがある。郷子は家賃収入があるからいつやめても平気だろうが、うちから仕事が来なくなるとその日から暮らしに困る職人さんが何人もいる。長い付き合いで、いろいろ無理もきいてもらった彼らをいきなり放り出すわけにはいかない。  客だって、そうだ。建物は、納品したらそれで終わりではない。必ず傷《いた》むから、修理がいる。そのうち、増改築の必要も出てくる。建物は生き物だ。一度関わったら、この世から姿を消すまで面倒を見るのが工務店の務めだ。 「だけど、うちだけが工務店じゃないんだもの。替わりはいくらでもあるじゃない」 「まさにそれ」  棚尾は指を鳴らした。六十五になるジジイの仕草とも思えないが、棚尾はカントリーバンドでバンジョーを弾く洒落者《しやれもの》だ。 「うちで作った家に住むお客さんには、工務店はうちしかないって思ってもらえるようなお付き合いをしよう。それが、お父さんとあたしらの合言葉だったんだ。そうやってここまで来た。竹中工務店だの清水建設だのの大手には及びもつかないが、この街に根付いた地元の工務店としちゃあ、真面目に立派にやってきたんだよ。やれ崖崩れだ、洪水だでお客さんの家がつぶれたら、ショベルカー出して復旧活動に駆けつけるのはあたしら地元の土建屋だ。災害の後始末引き受けてるのは、自衛隊ばっかりじゃないんだよ。ま、それはいいけどさ。とにかく、工務店は人のつながりが強いんだ。今日で終わりって、いきなり全部を切り捨てるなんてできない。そのかわり、やっていることを続けるのは、難しくないよ。現場に任せときゃ、いいんだから。大事なのは職人さん。工務店の社長はね、人付き合いだけしてりゃいいの」 「だって、わたし、ずっと専業主婦だったのよ。いくらなんでも素人が社長っていうんじゃ、職人さんたちだって嫌でしょう」 「それは、ない」  時江が断言した。 「旦那が死んだ、お父ちゃんが倒れたで、それまで家に引っ込んでた母ちゃんや高校出たばっかりのぼくちゃんが後を引き継ぐってのは、この世界じゃよくあることよ。ほら、政治家が急に死んだら弔い合戦で未亡人や子供が選挙に出るじゃない。そうすると、素人だってわかってても当選するでしょう。それと同じ。社長をしてた旦那と別れたことだって、悪いのはあっちだってことがわかれば、同情されるのは姫だよ。何もわからないけど、お父さんの跡を継いだ。そうか、頑張れよと温かい目で見て応援してくれるのよ。考えてもみなさい。なんでもコンピューターでやれる時代に、人間さまの手がなきゃ成り立たないのが土建屋よ。人間技にかなうロボットなんか、百年経ったってできやしない。それだけ、情がものを言う世界なわけさ」  宝塚ファンの時江は腕を広げ、男役風の作り声で言った。 「素晴らしき土建屋稼業にウエルカム。姫」  姫と呼ぶのは、棚尾と時江がまだ二十代で鍵山工務店に勤務していた頃、遊びに来た郷子の子守をしていた名残だ。お姫様ごっこは郷子の好きな遊びだった。棚尾は敵方の悪者、時江は敵に捕らわれる侍女で、郷子扮する姫君が単身侍女を救い出すという設定だった。  ゴタゴタした事務所のあちらこちらに身を潜めた時江を捜し出し、見つけて逃げようとすると襲いかかってくる棚尾をプラスチックのトンカチで殴りつける。時江も棚尾も芝居っけたっぷりに付き合ってくれたが、電話が鳴るとさっと仕事に立ち戻る。そうなると、泣いても暴れても郷子の要求には応えてくれなかった。  名前だけの社長でいいのだ。会社の顔として、会合や接待や客への挨拶なんかに顔を出せばいい。あとのことは、追々教えるから。 「姫らしく、よきにはからえと威張ってりゃいいんだからさ」  棚尾と時江のお気楽な様子は、まるで社長さんごっこをしましょうと誘っているようだった。だが始めてみたら、かつてのお姫様ごっこと同じように、郷子はいきなり現実の中に突き放されてしまった。  まず、社長就任の挨拶で会った銀行の担当者に、新経営者として会社をどうしようと考えているか訊かせていただきたいと迫られた。  公共事業七割の体質はいかがなものかと前社長にもご意見申し上げていたのですが、そのへん、どうお考えですか。以前から懸案事項になっているコスト削減の件は? 前社長はリストラを考えるとおっしゃってはいましたが──。  前社長というとき、こちらを見る担当者の目に浮かんだ嘲笑《ちようしよう》の色に、郷子はムッとした。  あの男が逃げ出した女房ってのが、これか。一人娘で甘やかされて育った、わがまま女なんだろうな。そう思ってるに違いない。  ええ、わたしは強気の女です。元亭ができなかったことをやってみせますわよ。 「リストラはするつもりです」  郷子はグッと顎をあげて、言ってやった。 「どのように?」 「公共事業部門は思い切って縮小します」 「それはつまり、人員削減に着手なさると考えていいんでしょうね」 「この際、不要な部分はどんどん切り捨てて、新しく生まれ変わる覚悟でおります」 「ほお。で、それはいつの話です?」 「──二カ月以内に答を出します」 「あーあー、言っちまったねえ」  帰路、ネクタイは締めているが上着は作業着の棚尾がのんびりと言った。 「しかし、よく言った。それでこそ社長だ。リストラは社長の仕事だよ」 「あれでよかったの?」  なんで止めてくれないのよ。そんな気分も込めて問いただしたが、棚尾はのほほんとしている。 「今年度受注した公共事業は二件だけでもうほとんど終わってるし、計画中のは予算の関係で議会で揉めてるのばっかりだから、そっち方面は切りやすいと言えば切りやすいと思うよ。思い切った決断だけど、姫らしくていいじゃない」  郷子は、唇を噛《か》んだ。  銀行の思う壺にはまって望み通りの答を出し、老獪《ろうかい》な棚尾には首切り役を押しつけられた。社員を知らない郷子なら、個人感情を抜きに首を切れる。恨みをぶつけられるのも郷子だ。  不況の荒波に揉まれて沈みかけた船が、なんとか対策を講じてますというポーズに差し出す人身御供《ひとみごくう》なのだ、わたしは。  いいわよ。やってやろうじゃない。バシバシ切って、最後には根こそぎにしてやる。鍵山工務店は、父の夢だ。わたしのじゃない。父の人生の舞台だった。わたしのじゃない。そして、父は自分から舞台を下りた。鍵山工務店は、もう終わったんだ。一人娘のわたしが、幕を引いてやる。  郷子は父の椅子から身を引きはがし、社員名簿を手に取った。     2  鍵山工務店の従業員は建築士や施工管理技士の資格を持つ工事部四名、営業部二名、総務と経理を管理する事務職が時江を含めて四名、それに専務取締役の棚尾の十一名だ。  人件費という一点に問題を絞ったら、この中からのリストラ要員選出はさほど難しくない。  公共事業担当で実績のある古い社員一名。これは役付だから、いってみれば野球チームが億単位の年俸をとる五番打者を切るようなもの。かなりのコスト削減になる。あとは、コネ入社でまだ使い物になっていない営業担当と、いなくてもなんとかなりそうな事務員それぞれ一名ずつ。  官庁発注工事七割の体質を改善しろという銀行の言いなりになるのは気にくわないが、報道を見ると公共事業見直しの声が高いうえ、借金を抱えた自治体も引き締めにかかっている。大体、公共事業を巡る汚職や不公平感が背後にあるから、建設業界はイメージが悪いのだ。社長として世に出るからには、名刺を渡すとき気後れするのは嫌だ。うちは官公庁ではなく、一般の皆様のお役に立っているクリーンな企業です、という顔をしたい。  三人の名前を棚尾に見せると、「まあ、こんなところかな」とあっさりしたものだ。 「ねえ、ほんとにいいの。この人は残しておいたほうがとか、ないの。はっきり言って」  郷子は、荒井と中道の名前を指さした。 「この二人なんか、感じ悪い、とろい、そういうわたしの印象だけで決めてるのよ」 「ほお、姫も大人になったねえ。人の意見を聞くようになったか」  悪かったわね、意見も聞かずに前社長を追い出して。思わず、心の中で子供っぽい憎まれ口を返した。でも、この二人に関してはすでに時江に意見を求めてある。 「そうそう、荒井にはね、常々わたしも腹を立ててた。どっか、浮かれてるのよね。人によって態度変えるしさ。見えないところで手抜きするよ、ああいうのは。なかみっちゃんねえ。悪い子じゃないけど、事務員も誰か切るってことなら、仕方ないかもね」と、同意された。  しかし、時江一人の意見では心許《こころもと》ない。棚尾の意向も聞いて、形だけでも連帯責任にしたい。 「ま、妥当なとこじゃない。トカゲの尻尾《しつぽ》切りじゃなく、大物が入ってるところが憎いね。官庁依存体質を脱却するために、公共事業から手を引くっていう姫の決意が現れてるねえ」  決意なんかしてないのに、感心されて怖くなった。  第一工事部長は公共事業担当だから切る。それだけしか考えなかった。郷子の理解では、えらいのは名刺に取締役という冠がつく重役たちで、部長は単なる中間管理職だ。大物と言われると、にわかに不安になる。本当に切っていいのか。そんなことして、大丈夫か。 「第一工事部長は、置いとこうか」 「姫。荷物の整理してるんじゃないんだから」  棚尾はおかしそうにヒャッヒャッ笑った。 「彼は我が社のミスター公共事業だからね。あの大物を残したら、公共事業部門のリストラはできないよ。人件費の削減も目標達成できない。走り出したばっかりで、腰砕けはまずいんじゃないかい。朝令暮改は、姫らしくない」 「じゃあ、棚尾さん、言い渡して」 「そりゃあ、やっぱり姫が言わないと。あたしが言ったって、社長の口から直《じか》に聞くなんて怒鳴り込まれるのが落ちだよ」 「わたしが言うの」 「社長だもの」 「イヤよ。できない」 「こういう人間関係の修羅場に立ち向かうのが社長業だよ。細かいことは従業員がやるからさ。大きなことは、姫がやる。大丈夫。くびにしたって、殺されやしないよ。恨まれるだろうけど」 「恨まれて、殺されるかもしれないじゃない」 「恨まれないように、うまいこと言うのさ」 「どうやって」 「それくらい考えてよ。社長だもの」  もう! 結局、一番難しいことは自分でやれなんて、全然助けになってない! 「考えられない。できない」 「とにかく、やってごらんよ。あたしは姫ならできると思うよ。お父さんもそう思ってる。だから、社長を任せたんだ」  根性もののドラマでは、「きみならできる」のひと言で主人公は決意を固めると相場が決まっている。だが、現実は違う。他人事だと思って無責任な……と、ムカつくばかりだ。 「なんか、わたし、棚尾さんに操られてるみたい」  厭味《いやみ》で言ったが、棚尾は余裕で笑い飛ばした。 「あたしは姫の応援団だよ。このリストは姫が考えて決めたんじゃないか。あたしは、文句を言ってないよ」  それはそうだが──。  棚尾は定年を過ぎたけれど、古い客や職人とのつながりを保持するため、身体が動く限りはという条件付きで専務取締役として居座っている。既に孫を持つ身で、アマチュアながら月に一度は小さなライブハウスで演奏するミュージシャン生活を謳歌している。悠々自適の半分仙人だ。鍵山工務店がどうなろうと、彼の人生はびくともしない。だから、気楽に構えていられるのだ。むしろ、面白がっているのかもしれない。操られていると感じても、郷子は彼を頼りにするしかない。棚尾は郷子を駒にして、会社経営ゲームをしているようなものだ。  父も父だ。任せるなんて、いかにも豪気そうだけど、もしかしたら、後先見ずに夫を追い出して会社を窮地に追い込んだ郷子への懲らしめではないのか。内助の功を怠ったわがまま娘にうんざりし、男の苦労を思い知れと反省を促す作戦かもしれない。  誰も彼もが憎らしい。  いいわよ。わかったわよ。お父さんも棚尾のジジイもできなかった首切りを、わたしがやってあげるわよ。それを皮切りに、鍵山工務店を葬ってやる。  郷子は破れかぶれで、終わりの始まりに着手したのだった。  最初は練習台のようなつもりで、コネで途中入社した若い営業部員、荒井を切った。口ばかり達者で遅刻が多い持て余し者だ。 「樽岡さんは知ってるんですか」  荒井は口を尖らせて大物の名を出した。第一工事部長の樽岡は、自他共に認める鍵山工務店のナンバーツーだ(ナンバーワンは、年功序列で棚尾と時江が分け合っている)が、「知ってたら、こんなことにはなってないって言うつもり」とかましてやったら、グッと詰まった。  中道彩美は気弱な微笑を浮かべただけだった。「お世話になりました」と頭を下げられ、罪悪感を感じた郷子はつい「もうちょっと、明るく振る舞えないかしらね。そうしたら、次の職はすぐ見つかるわよ、あなた、そこそこきれいだし」  ちょこっとお世辞も入れて、助言らしきことを言い添えた。中道は消え入りそうな声で「はい……」と答え、小さく頭を下げた。  あー、気分悪い。ああいうのが根に持って、無言電話かけてきたりするのよね。  暗い予感で気分は急降下。落ち込むと、やけっぱちスイッチがオンになる。嫌なことはさっさと済ませてしまおう。さあ、殺せ。  その気分で、大物を呼び出した。 「俺が呼ばれるとはね」  ミスター公共事業、樽岡は椅子にふんぞり返り、煙草を横ぐわえしてにやりと笑った。  染めているのか、五十三歳だというのに白髪が一本もない。七三分けに櫛目が通り、ワイシャツの襟もピンと角が立っている。腕白坊主の面影が残っていて、見た目の感じは悪くないのだが、郷子はいい歳をして人前で自分のことを「俺」と呼ぶ男が嫌いだ。「俺は」「俺が」を聞くたびに、自意識肥大のマッチョ気取りめと、心の中で突っ込みを入れる癖がついているくらいだ。 「公共事業部門のリストラですか。素人の考えそうなことだ」  樽岡は挑発するように、鼻で嗤った。 「時代の流れです。ハコモノに税金を使うのはいい加減にしろというのが住民の声よ。選挙になれば、そういう主張をする人が当選してます。発注自体がなくなりつつあるんですよ」  郷子はきっぱり反論した。  樽岡のことは、棚尾だけでなく父からも聞いている。役所や議員連中に食い込み、仕事を取ってくる名人で、鍵山工務店成長の一端を担ったのは否めない。反面、公共事業こそが会社の命綱と決めつけ、個人住宅の建て替えに職人を回すのを渋ったり、民間からの注文を軽視する傾向がある。みんなの前で人の仕事を「そんなもの」呼ばわりしてはばからないということを、時江に聞いた。  郷子が社長として初出社した日も、現場張り付きを理由に顔を見せなかった。しかし夜には、社員だけでなく職人有志を集めた歓迎会を主催し、郷子の肩を抱いて『きみといつまでも』を熱唱するというパフォーマンスをやってのけた。間奏の部分で郷子の目を見つめ、「突然のことで、大変でしょう。お察しします。あんまり無理をせずに、現場のことは俺たちにお任せを。いいだろ」と、本歌のもじりで拍手喝采を浴びたのだ。  酒席だからいいだろうとばかり、ことわりなしに肩を抱く無礼も気に入らなかったが、優しげな言葉とは裏腹に「現場に口出しするなよ」と脅す目が、郷子の神経を逆撫《さかな》でした。  任せろと言われるのは大歓迎だが、見下されるのはごめんだ。  公共事業切り捨てを簡単に決意できたのは、担当者が樽岡だからだ。切るのが気まずくないだけでなく、その鼻っ柱をくじいてやりたい誘惑もあった。  好き嫌いの感情だけで人事を動かすのかと郷子の中の良識が声を上げたが、心は動かなかった。樽岡という人間を、郷子は知らない。ろくに知らない人間を排除するのは、ダイレクトメールを捨てるくらいたやすい。 「官庁依存の体質を変えます。それしか生き残る道はありません」  ひるまず顔を上げる郷子を、樽岡はしばらく黙って眺めた。やがて立ち上がると、パイプ椅子をデスクまで近寄せ、郷子の真正面に向かってきちんと座り直した。 「公共事業を悪者みたいに言ってるけど、うちがどんな仕事をしてきたか、知ってますか」  おもねりも皮肉もない、真剣な声だ。郷子は、なんとなく顎を引いた。 「知ってますよ」  緊張しながら、社史を読んで知った小学校や体育館や団地の名前を、おぼつかなく聞こえないように並べた。  樽岡は頷いた。そして、訊いた。 「その中に、不必要な建物がありますか」  返事に詰まった。必死で考える。必要だから建てた。でも、もう充分なんじゃない。そう言おうとしたら、先手を打たれた。 「新規の需要は、そうはないかもしれない。でも、建て直し需要はある。公立の図書館や公民館は老朽化が目立つって、この間も新聞に投書が載ってましたよ。あんたは──社長は知らないだろうが、地域振興を目的にした産学協同の研究所や医療施設や工場を建てるプランがどんどんあがってきてるんだ。税金の無駄遣いはよくないが、地域の利益を考えたら公共事業がなくなるわけはない。今は景気が悪いから住民感情に配慮してストップ状態だけど、いずれ発注は来る。金額に一定のスケールがあって、とりっぱぐれがない公共事業は建設会社の生命線だ。単純に切り捨てるのは間違ってる。リストラするつもりが総崩れになったら、どうするつもりなんですか」  脅したって無駄よ。総崩れは覚悟の上なんだから。郷子はますます腹に力を込めて、樽岡を睨んだ。 「責任は、わたしが取ります」 「お父さんはどうしたんです。なんで出てこないんだ。惚けちゃったんですか」 「父がわたしに任せたんです。そして、わたしが公共事業部門のリストラを決めました」  言っているうちに、不思議や、だんだん気分がよくなってきた。ポーズだけでも決然とするのって、気持ちいい。あんなにさっさと離婚できたのも、決然とする快感に酔ったせいかもしれない。 「あんた、もっと大局からものを見なさいよ。公共事業がダメだっていうのは、人のことより自分のことだけが大事なやつらの発想だよ。公共事業は文字通り、地域のみんなのためになってるんだ。世論なんてのはね、自分じゃ努力しないで、人になんとかしてくれって文句垂れてる連中がたかってる蚊柱みたいなもんだ。そんなもの真に受けてちゃ、会社経営なんてできないよ。これは自分のために言ってるんじゃない。会社を愛すればこそだ」樽岡は、食い下がった。 「俺らは、小学校や中学校を作ってきた。街の歴史博物館も作った。図書館や体育館や授産所も。地域の教育や文化に携わるんだ。その達成感といったら、ない。小さい家を建てるのもいい。だけど、達成感が違うんだ。一度味わったら、あんたにもわかる」  そうかもしれない。郷子は樽岡を見返した。でも、そんな時間はないの。二カ月以内にリストラすると、銀行に啖呵《たんか》を切っている。それに、もう決めちゃったの。これ以外にどうすればいいのか、わからない。やると決めたら、やるしかないの。  ママの単純さは暴力的。早知子の言葉を思い出す。そうだ。わたしには柔軟性がない。迷って選択肢を増やすと、混乱するだけだ。見えている一本道を歩くしかない。その道が行き止まりなら引き返すかもしれないけど、今、立ち止まるわけにはいかない。止まったら、歩く勇気が失せていく。そんな気がする。 「官庁依存の体質を変えるために、抜本的に改革したいんです。樽岡さんには申し訳ないけど、うちにいたら樽岡さんの力も思いも生きないわ。公共事業を大事にしてる会社か、いっそ自分で開業なさるかしたほうが樽岡さんのためです」  心から言えた。樽岡の言葉に、少なからぬ共感と感動を覚えた。その気持ちは伝えたつもりだ。だが、樽岡にはお為《ため》ごかしにしか聞こえなかったらしい。表情が強張った。 「開業するには金が要る。うちにはこれから大学に行く子供がいるんだ」  リストラされた人のほとんどが、そうだったんでしょうね。でも、みんな、なんとかしてるのよ。あなたもそうなさい。 「樽岡さん、わたしもつらいんです」 「つらい?」  樽岡は冷ややかに笑った。 「社員の首を切って自分だけ生き残る、小狡《こずる》い偽善者らしいお言葉だ」  言葉の泥を叩きつけられたが、郷子は表情を変えなかった。 「退職金は規定通りお出しします。大企業みたいに第二の人生支援金を上乗せできないのが申し訳ないけど、あなたならきっと今よりいい道を拓いていかれると信じます。あなたなら、できます」  お為ごかしの上塗りをしてやる。デスクを挟んでしばらく睨み合いをしたが、樽岡はもう一度鼻で嗤い、席を立った。  大仕事を終えてホッとしたのもつかの間、一週間ほど経ってから余震が来た。  一級建築士の資格を持つ現場監督の木場と事務職の三上が辞職したのだ。大手電器販売店チェーンが新しく立ち上げたリフォーム部門に、樽岡共々参加したという情報がすぐに流れてきた。  民間需要を軽視していた樽岡がリフォーム業に転職というのは皮肉だが、建築施工管理技士の資格があり経験も豊富な即戦力だ。間髪をいれぬ再就職から察するに、打診はかなり前からあったのだろう。  三人の首を切ったら、あーら不思議。いなくなったのは五人でした。 「これって、リストラ大成功?」  首を切った連中がさっさと行き場を見つけたことで気が楽になった郷子は、調子に乗った。 「うーん。木場くんがいなくなったのは痛いよ。まあ、現場監督ならあたしがやれるし、工藤くんもいるけど」  工藤という二十三歳の若造は、手先が器用で設計事務所で模型作りのバイトをしているうちに本物を作りたくなり、工務店に就職したという変わり種だ。さっさと施工管理技士の資格をとり、現在は二級建築士目指して勉強中。能力も意欲も十分だが、マイペースで他人の都合や感情に斟酌《しんしやく》しない物言いが、古手の職人さんたちのひんしゅくを買っている。  彼も樽岡に誘われたが「めんどくさいから」断ったそうだ。 「鍵山工務店にいたって先はないと言われたけど、今日か明日かってわけじゃないんでしょう。だったら、会社がつぶれたときに考えればいいですもん。試験勉強してるときに環境変わるの、うざったいですよ」と、そんなことを平気で口にするのは若さの特権か。  にしても、工藤の話から樽岡が行きがけの駄賃に木場と三上を引き抜いていったことが知れた。木場と三上は「鍵山工務店はもうダメだ」と樽岡に吹き込まれ、難破船から逃げ出すネズミよろしく乗り換えたわけだ。  たったひとりの営業マンとなった雨森と、ただ今妊娠三カ月の経理担当事務員田村は声をかけられなかったことで気を悪くしたらしく、「頑張りましょう」と向こうから言ってきた。 「現場監督なら、山本くんもいるじゃない」  郷子は従業員名簿で名前を確かめて、棚尾に言った。入社年度と年齢を確かめると、工藤よりベテランではないか。 「まあ、いるよね。そうか、なんとかなるか」 「できたら人員増やさずに、このままでいきたいのよ。この状態で、たちまち困ることはないんでしょう」 「うーん。まあ、大丈夫でしょう。何か起きたらその都度手当てしていこう。現場の仕事は元々そういうもんだからね。人生そのもの」  棚尾は、わっはっはと笑った。  この時点で郷子は疑問に思うべきだったのだ。樽岡が何故、山本を引き抜かなかったかを。  世間では、リストラでどのくらい首を切られたとか、どの程度人件費を圧縮できたかくらいのことしか話題にならない。首を切ったら、企業は安泰、万々歳。一方、切られた方は鬱になったりホームレスになったり、ああ、悲惨。まったく、雇用主というのは冷酷非情なエゴイスト。  そんな風に白い目で見られるけれど、知っているのか、リストラの後始末の大変さを。  切った人員の穴埋めを残った従業員でカバーする。計算上は可能だ。だから、実行した。しかし、穴はなかなか埋まらない。ことに、優秀な人材が流出した後は。  樽岡と木場がいかに優秀だったか、郷子はすぐに思い知らされた。  二人が関わっていた仕事を残った工藤と山本に振り分け、全体を棚尾が管理することにした。とはいえ、久々にいくつか現場を持つ身になったご老体が検閲するのは、工事日誌止まりだ。  その結果、毎日のようにあちこちからクレームがあがり、郷子は謝罪に走り回る羽目になった。  コンセントの位置が悪い。換気用の窓の位置が高すぎる。クロスが注文したものと違う。新築なのに、床が鳴る。バスルームの壁にひび割れができた。ブロック塀の石積みがゆがんでいる。階段に手すりがない。バリアフリーのはずなのに、段差があった。カーテンレールがついていない。廃棄を依頼した家具を取りに来てくれない。  とるものもとりあえず、棚尾を引き連れて(というより、連れられて)菓子折を提げて謝りに回った。たった一カ月で、四十七年間の通算謝罪回数を上回った。ぺこぺこ頭を下げているうちに、人の代わりに謝るコントの謝罪マンを思い出した。こういうのって免疫ができるのだろうか。情けなさにめげるかと思ったのに、どんどん平気になっていく自分に郷子は驚いた。  クレームの半分以上は素人の勘違いだと棚尾に言われていたが、現場で見せられた現実は言い訳のできないものが多かった。客が怒るのは当たり前だ。こりゃ、謝るしかないでしょう。この頭でよかったら、いくらでも下げます。いつの間にか、そんな気になっている。  謝って、取りなして、修復の約束をするまでは平静でいられるが、事態改善、業界用語で言う手戻りの手配をするため、あちこちに電話をするときは、まさにイライラを抑える行を課せられた修行僧の境地だ。  事情を聞く職人たちからも、苦情の雨霰《あめあられ》が飛んでくるのだ。  いわく、図面通りだ。自分がやった段階では、そんな風になってなかった。自分は渡された材料を使っただけだ。  共通して出てきた言葉はこれだった。  山本さんはオーケーを出した。山本さんから何も聞いてない。山本さんには報告してある。  工藤のミスも、あるにはあった。  一日の最後に、工程をチェックするのは現場監督の仕事だ。だが工藤は、作業が六時を過ぎた現場のチェックを電話だけですませたことが二回ある。職人たちの口ぶりから察するに、来ないときはもっとあるようだが、そんなときは翌日まめに顔を出してチェックしたり、仕事を手伝ったりして帳尻合わせはするようだ。二回の管理ミスの原因は、客からの変更やクレームを職人に連絡するのをうっかり忘れたという単純なものだった。  郷子は工藤を呼び出し、もっと責任感を持てとみっちり説教をした。 「技術や知識があっても、それを使い切れなかったら意味ないでしょう。あなたには期待してるんだから、もっと職人さんたちの気持ちにも配慮して、謙虚になって働いてちょうだい」  技術的なことはわからないが、気の持ちようなら年長者として指導できる。それに、実際に見た現場の不具合は素人目にも明らかで、郷子は謝りながら恥ずかしいと思った。鍵山工務店は、こんな仕事しかできないのか。これじゃ、マスコミでしばしば告発されている欠陥住宅そのものじゃないか。 「あなたは建築が好きだから、この世界に入ったんでしょう。だったら、あんな仕上がり、許せないはずよ。木場さんがいなくなったから掛け持ち仕事が増えて大変なのはわかるけど、小さな傷を見逃してクレームが出て手戻りに時間がかかったら、苦しくなるのはあなたでしょう」 「僕だって、一生懸命やってますよ。だけど、試験勉強もしてるんすよ。一杯一杯なんすから。これじゃ、樽岡さんとこに行ったほうが楽かもしんない」  工藤は子供っぽく、脅すようなことを言う。  じゃあ、行きなさいよ。くそ生意気な青二才が。そう言ってやりたいところだが、ぐっと我慢した。本当に行くやつなら、口に出したりしないだろう。工藤は叱られたのが不愉快だから、厭味で意趣返しをしているだけだ。 「そういうこと言わないでよ、工藤くん」  ガキには飴をねぶらせなきゃ。郷子は角を収めて、甘え声を出した。 「あなたがいなかったら、うちはどうなるの。樽岡さんがいなくてもやっていけると鍵山工務店を背負っていく気になれたのは、工藤くんがいるからなのよ」  うわ、見え見えのおべんちゃら。内心汗をかいたが、工藤は顔をほころばせた。 「そりゃあ、僕だって自分の現場は可愛いっすからね。ちゃんとやりたいですよ」ちょっと鼻を高くして、カッコをつける。 「だけど、正直きついすよ。人、増やさないんすか」 「棚尾さんに探してもらってはいる」  でも、人数より質が問題なのだ。クレームの内容を検討した結果、郷子が感じたのはそのことだ。  クレームが集中した山本は、二級建築士の資格を持っている。二十八歳で、鍵山工務店は二つ目の職場。経験者だと思えばこそ、昨年ベテランの社員が独立した穴埋めに履歴書一枚で採用したのだと聞いている。  最初は、無口だが仕事ぶりは手堅いと評価されていた。客や職人から、愛想がない、暗いという印象の悪さを伝えられたが、この世界は愛想より腕だ。ということで、棚尾や樽岡が「口下手なやつでして」と間に入って、周囲の不愉快を手当てしてきた。  だが、担当する仕事が一気に増えて、山本が抱える本質的な問題が明らかになった。  彼はコミュニケーションが苦手なのだ。いや、苦手などという生やさしいものではない。不能。不全。ほとんどビョーキ。  客が図面と違う注文を言い出す。急な用事が入った職人が、予定を途中で切り上げて帰ってしまう。届けられた材料が間違っている。改修現場の床下や壁の内側の処理が予想以上に悪いから、対応に時間がかかる。図面と実測の数字が違う。  それらのメッセージを、山本はしかるべき人物に伝えることができない。結局、客が直接職人に話したり、職人たちが現場で異変に気付いて対処したりでなんとか辻褄《つじつま》は合わせているが、このぶんでは発覚しないまま進行している隠れ欠陥住宅があるかもしれない。  郷子は山本を呼び出し、一体どうしてこんなことになるのか、かなりキツい口調で問い詰めた。  気の弱い人間だから「穏やかに、静かに、頭ごなしにならないようにね」と棚尾に釘を刺されたが、当惑して浮かべる卑屈な笑みを見ただけでかっとなった。  愚痴《ぐち》や当てこすりを言い散らす工藤は、思っていることを口に出すぶん、まだ可愛げがある。だが、言うべきことを言わないでグズグズされるとカンにさわる。それでなくても、郷子の頭脳も精神も許容範囲を超える事態の連続でパンク寸前なのだ。 「みんなに迷惑がかからないように、自分でやればいいと思ったんです」  山本はモゴモゴ言った。 「僕は、一応現場の仕事は全部できるから。今までも、そうやってきたし」 「そういうもんなの?」  傍らに、苦い顔で控える棚尾を振り返った。 「簡単な大工仕事なんかはするけどね。遅くなって大工さん働かせるの悪いときとか、ちょっとした手戻りとかは」  棚尾の口ぶりは、歯切れが悪い。このじいさんは、きついことを言って人に悪く思われるのが嫌なのだ。好々爺《こうこうや》で通っているのは、険悪になるのを極力避けているからに過ぎない。  ずるい。郷子は、グッと棚尾を睨んだ。いいわよ。鞭《むち》を振るうのは、わたしの役目だってことでしょう。改めて、山本に向き直った。 「今まではともかく、今はできてないからクレームになってるんでしょう」 「それは──このところ忙しいから、つい後回しにしちゃってますけど、やるつもりではいたんです」  また、負担増が理由だ。リストラし過ぎた社長が悪いってか。 「でも、ひと言、職人さんやうちに言えばいいことでしょう。工事日誌にも記載がないのはどういうわけ。あなたが何もかも抱え込むことないじゃない。現場監督って、野球の監督と同じでしょう。試合運びを考えるんであって、自分が出てってプレイするのは違うんじゃない」 「でも、できるから。だから自分でやっちゃえば、他の人をわずらわせることないと思ったんです。すいません」  意外な頑固さで、山本は自説に固執する。おまえは一人で住処《すみか》をこしらえるロビンソン・クルーソーか。怒鳴りたいが、抑えて抑えて。 「気持ちはわかるけど、建築はチーム仕事なんだから、これからはちゃんと連絡してよ。職人さんたちには手間賃払ってるんだから、遠慮するのがおかしいわよ。現場で人に言われたことは注文も苦情も全部日誌に書いて。わたしも勉強になるから」 「──わかりました」  半端に頭を下げてよろよろと出ていく山本の背中を見送った郷子は、デスクに突っ伏した。 「もう! あいつこそリストラしたい」 「まあまあ。あたしもこれからは山本くんの現場、フォローするから」 「頼みますよ、ほんとに」 「でも、姫、短期間で成長したね」  棚尾が相好《そうごう》を崩した。 「現場監督は野球の監督と同じだ、自分がプレイするもんじゃないとか、わたしも勉強になるから現場で言われたことは全部書き留めろとか、感心しちゃったよ。姫、仕事の勘所を押さえてるじゃない」 「そりゃあね。これでも努力してますもの」  平気を装ったが、ニヤニヤしてしまった。実は≪新入社員のための現場管理心得ハンドブック≫なる小冊子を、このところの座右の書にしているのだ。受験生時代を思い出して、建設関係の教科書や参考書の類を泥縄で買い集め、暇を見ては読んでいる。しかし、専門的なものは情報が多すぎて、すぐにわけがわからなくなる。その点、社会経験がなく、おそらく勉強もあまりできないような新入社員用に書かれたハンドブックは、具体的なケーススタディをイラスト入りで展開してあり、重宝している。現場監督を野球の監督になぞらえたり、とにかく現場から学べ、よく見聞きしてメモをとれというのは、そこからのパクリだ。  勉強といっても、暇つぶしの趣味の学習ではない。生活に、いや、一生に関わる知識と知恵を身につけなければならないのだ。それもできるだけ迅速に。  この歳で、受験生をもう一度繰り返すなんて。郷子はくさったが、参考書を抱えて現場を走り回っているうちに、心意気のようなものを身に付けつつある自分に気がついた。  釘を打て、鋸《のこぎり》をひけ、墨つけをしてみろと言われればできないし、習得する気にもなれない。だが、職人たちの仕事を見るのは好きだ。できあがっていく過程に立ち会うのも面白い。それは、自分が手をかけて育っていくものを見る感覚に似ている。建物は生き物だ。棚尾の言ったことが実感できた。  父は、こんな仕事をしていたのだ。  子供の頃から、土建屋という家業がなんとなく恥ずかしかった。お父さん子だったくせに小学校も高学年になると、ネクタイを締めたホワイトカラーの子に生まれたかったと思うようになった。跡を継ぐなど、とんでもない。そんなことは期待しないでほしいと、進路を決めるときに居丈高《いたけだか》に宣言した。父も、こんな苦労を郷子にさせるつもりはないよと言ったのだ。  でも、大学を卒業する頃になると、父も欲が出たらしく、結婚するなら建設関係の人としてほしいと望むようになった。口では反発したが、お父さん子は死ぬまでお父さん子だ。郷子は「会ってみるだけ」と自分にも周囲にも但し書きをつけながら、持ち込まれる縁談に応じた。  五人目にお見合いしたのが祥二だった。優しい顔立ちの設計士。コルビジェの空間設計の美しさを語る彼に、郷子は惹かれた。彼への思いに、お父さんのためという自己犠牲の気分を添えて、二十五歳で結婚した。  考えてみれば、祥二も経営は素人だった。郷子と結婚したから、一介の設計士から工務店の社長に成り上がったのだ。  祥二にできたのなら、自分にだってできるかもしれない。そう思えば、気分も盛り上がった。頑張ろうと思った。でも、健気な決意は一週間ともたなかった。  だって、毎日毎日、トラブルが持ち込まれるんだもの。  現場で職人が喧嘩をした。足場から落ちた。騒音をなんとかしろと近所のじじいが怒鳴りこんできた。工事が終わったのに支払わない客がいる。東南アジアを襲った台風の影響で資材の輸入がストップした。取引銀行の上層部に政変が起きて、会社に好意的な担当者が辞めそうだ。  現場から、社内から、どこからも文句が出なかった日がないのだ。ただの一日も!  なんなんだ、これは。なにかの呪いか。こんなきつい運命を背負わされるなんて、わたしが一体、どんな悪いことしたっていうの。     3  郷子は結婚前、ほんの短期間だがアパレル系商社でOLをしていた。というと、おしゃれな職場に思える。郷子自身もそう思って就職試験を受けたのだし、入社当時は張り切っていた。いずれ、ニューヨークやパリやミラノの最先端ファッションを買い付けるバイヤーになるのだと夢を描いていた。  しかし、現実はしょぼかった。人件費の安いアジアの工場で大量生産したポリエステルの簡単服(長方形に裁断して縫い合わせ、ウエスト部分にゴムを通しただけのスカートとパンツ、襟と袖をくりぬいてウエストに紐をつけたワンピース、その上半分を切り、裾をかがったカットソー)を、安売り業者に卸す。客は「デパートで買ったら一万円は下らないものを二千円で買う」ことに意義を感じるおばはん族だ。パリコレ遠征なんか、夢のまた夢。来る日も来る日も、大量の服を裏返したり引っ張ったりして、縫い目のほころびやひきつれがないか検品するのが仕事だった。  面白くない単純作業だし、化学染料のせいか一日の終わりには目がチクチクし、指先は乾いてひび割れた。働くことに意味も喜びも見いだせず、祥二と出会って、退職して結婚するのが幸福への道だとすぐに気持ちが切り替わった。  その程度のものだったが、OL経験は最悪ではなかった。亭主と子供のストレスをもろにかぶる主婦業に比べると、アクシデントやトラブルがあれば全員でカバーし合う会社員のほうがずっと楽だと思ったくらいだ。  そうか。社員なら、楽なのだ。社長ときたら、まるで射撃場の標的だ。みんなに穴だらけにされる。  建設業は受注産業だ。図面と予算が確定しない限り、動き出さない。それも、予算範囲内に収まるよう時間と人員をきっちり振り分けた計画を作り、関係省庁に届け出た後に、ようやく着工する。  つまり、工事の一件一件に、職人や監督が現場を掛け持ちする都合や屋外作業を不能にする天気模様も織り込んだ工程表があらかじめ用意されているのだ。海図を持たず、手こぎボートで太平洋に乗り出すわけじゃない。スケジュールに沿って着実に前進するのを横目に、郷子は社長室に陣取り『工務店経営A to Z』という参考書を読み込んで、粛々と素人からの脱却を図る予定だった。  それなのに現場が迷走するおかげで、席の暖まる暇もない。きょうもきょうとて、朝から三件の現場を回った。  資材が倒れて、隣家のトタン塀を倒した。前の施工者の手抜きで床下がひどいことになっており、その手当てをしていたらスケジュール通りに収まりそうにない。施主が風水師を連れてきて設計変更を言い出し、職人がそれは無茶だと受け付けない。それぞれの現場で、ひたすら頭を下げた。  関係者の怒りや不満は、責任者が平身低頭すれば、とりあえず収まる。そのことだけは、いやと言うほど学んだ。  それからの行動も、もはや習慣と化している。  いかにも威厳ある物腰で現場の者に収拾法を確認する。自分でも、忘れないようにメモを取る。収拾後に間髪をいれず再訪して、修復がなされたかどうか確認する。ついでに、何か不満はないか施主に訊く。そうすると、ああ、ちゃんと気にしてくれているのだなと施主が安心する。同時に、現場の職人に「なめるなよ」と睨みをきかせられる。  全部、棚尾に教えられた。技術的なことはわからなくてもいい。でも、どんな現場かくらいは、わかっていないとね。社長だもの。  ごもっとも。ですがね。  ああ、秘書が欲しい。社長秘書なんて、ただのお飾りだと思っていたが、本当に必要だったのだ。しかし、現実にはそんなものはいない。殴り書きのメモを持ち帰り、ファイルするように命じたら、パソコン画面を睨んでいた事務のバイト娘は郷子に一瞥《いちべつ》もくれず、未決の箱を指さして「そこ、入れといてください」ときた。  三上の穴埋めに急遽雇い入れたバイトだが、パソコン入力以外はほとんど何もしない。工藤がブーブー言っている。郷子の顔を見るたび、「なかみっちゃんを呼び戻してくださいよ」とせがむ。暗い顔でしずしずと退社していった中道については、郷子も後味の悪さを感じている。でも、今さら戻ってくれと頭を下げるのもなあ。 「頼むわよ」  きつい声で念を押したが、バイト娘は「聞こえてますから」と答えるだけ。電卓をいじっている時江を見ると、心得顔で頷いた。  社長室で待つこと、一分。ポットを抱えた時江が入ってきて、戸棚から紅茶セットを取り出した。客用の応接テーブルでお茶を入れながら、「あの子は使えない」びしりと言った。 「三上ちゃんがいなくなった穴は大きいわ。未整理の工事台帳が山になってる。わたしがフォローしてるけど、限界だね。このままだと、姫がカリカリするネタが増えるばっかりだ」 「脅かさないでよ」  郷子は客用の長椅子に座り、テーブルに常備しているフィンガーチョコレートを手に取った。容器はクリスタルガラスのばかでかい灰皿だ。誰も彼もが煙草を吸った時代の遺物で、底に鍵山工務店の名入りプレートがはめこんである。一種のノスタルジーで菓子入れとして再利用しているのだが、まずかったかもしれない。デブと糖尿病のリスクが迫っている。  時江はそんなことは心配してないらしい。フィンガーチョコの銀紙をむいてはポイポイ口に放り込み、頬をふくらませて首を振った。 「やっぱりバイトじゃ無理よ。工事台帳のファイリングだって、時間軸に合わせて機械的に並べりゃいいってもんじゃないのよね。あれはどうなった、これはどうなってるって問い合わせや確認があったときに、さっと答えられるようじゃないと。仕事に愛着も責任感もないから、サービス残業してくれないし」 「中道、呼び戻そうか」  時江が同意してくれたら、復帰依頼役を頼める。それを期待したが、時江の答は意外なものだった。 「それより、いい話があるのよ」  いそいそと顔を寄せてきた。嬉しそうに唇がほころんでいる。 「田所さんて、知ってるでしょう。うちとは長い付き合いのトビの親方。あの人の知り合いに、建設の仕事をしたい女の人がいるんですってさ。なんでも、アルバイト情報誌の副編集長をしてたんだけど、どうしても土建屋をやりたいって、会社辞めちゃったんだって。で、わたし、相談されちゃってさ。パソコンいじれるし、副とはいえ長のつく役についてたんなら責任感も能力もあるだろうし、第一、やりたいって意欲があるのがいいじゃない。一度、面接してやってくれない?」 「だけど、建設やりたいからって、長のつく仕事をあっさり投げ出すんじゃ、責任感あるかどうかあやしいじゃない」 「そこを見極めるにも、まず会ってみなくちゃ。首切りもやれば、人材の発掘もする。それが社長」  そんなこと、するつもりはない。今受けている仕事を無事にやり遂げたら静かにフェイドアウトが第一目標だ。郷子は渋ったが、三上の退職は計算外のもので、事務に欠員があるのは事実だ。やる気のないバイト娘に腹を立ててもいることだし。 「歳は三十だっていうし、こっちは頼まれて引き受けるんだからさ。大きく出られるよ。給料はバイト並でもいいって言うかもしれないよ」  時江はいやに熱心だ。おおかた、自分に任せておけば大丈夫、くらいの大口を叩いたのだろう。 「時江さんがいいんなら、いいわ。来るように言って。そいで、あのバイトをくびにして」 「また、そんな投げやりな。面接くらいしてよ。バイトの子にだって、今月一杯とか予告しないと」 「わたしからの指令だってことで、いいじゃない」 「形だけでも面接はしなきゃ。アルバイトじゃなくて、社員を雇うんだから。しっかり働いてもらうためには、社長が直々に頑張りましょうねと声をかけるのが大きいのよ」  そんなくさい芝居、今どきの働く女に通用するわけないじゃない。ほんとに、体質古いんだから。郷子はソファにごろんと倒れ込んだ。 「めんどくさい」 「姫」  はいはい、わかりましたよ。わたしはどうせ、家老と女帝の操り人形。 「山根梨央と申します。本日は、お時間を割いていただきまして、ありがとうございます」  ショートカットの小柄な女が、勢いよく膝まで頭を下げた。地味なスーツを着て、きちんと挨拶するさまはなるほど世慣れている。だが、興奮を隠しきれずにやたらにニコニコしているところは、タレントオーディションに臨む中学生みたいだ。作業着姿ではあるが、横にかしこまって座っている田所のほうが緊張で頬を強張らせている。 「姫、この人に一度会ってるのよ。覚えてないかな」  後見人然としてそばに座った時江が言った。郷子は改めてまじまじと、梨央を見つめた。梨央は目に力を入れて、見返してくる。  覚えがない。が、うっかりそんなことを言えない。 「あー、その節は、どうも」  曖昧な返事をすると、梨央はクニャクニャと身をよじらせた。 「こちらこそ。なんだか、あのときのことは思い出すと恥ずかしくて」 「でも、こうして二人並んでるところを見ると、あのときウチに来たから縁ができたって感じよね。もしかしたら、ウチが結びの神かな」  時江の言葉に田所は困惑もあらわに目をしばたたかせたが、梨央は「いえ、まだ、そんな」と嬉しそうにデレデレしている。全然、話が見えない。 「お二人、ご結婚なさるの」  なにげなく訊くと、田所が大きな声で否定した。 「そういうことは、ないです。ただ、あの、最近、ここにいた三上さんが辞められたと聞いて、事務所に人が要るように見えたもんですから」途中から勢いがしぼんで、田所はうつむいた。  社内の混乱は、業界の噂になっているのだろうか。郷子は内心、ヒヤリとした。お嬢さん社長が後先見ずに首切りした結果、グチャグチャになっている──そう言われているに違いないと、被害妄想がふくらむ。 「それは確かにいい人がいたら助かりますけど、でもねえ、山根さん」  履歴書に目を落とし、名前を確かめてから呼びかけた。 「雑誌の副編集長までなさってたのに、ウチに来たら一従業員からのスタートですよ。お給料だって、下がります。ほんとにそれでいいんですか」 「はい」  梨央は姿勢を正して、即答した。 「できたら現場の仕事がしたいんですけど、素人にはそれは無理だと田所さんに言われました。ですから、せめて何か現場に関係する仕事をやりたいんです。新人なんですから、一番下からのスタートは覚悟してます」  雄々しく言い放つ。おーおー、張り切っちゃってからに。 「やることはそれこそ山のようにありますけど、雑用の類ですよ。伝票の整理に事務所の掃除。台帳のファイリング、電話の応対、苦情の電話も一杯かかってきます。雑誌の編集みたいなカッコいい仕事とは全然違いますけど」 「編集なんて、カッコよくないですよ。やっていたことは、今おっしゃってたのと同じです。伝票の整理、事務所の掃除、顧客ごとの書類のファイルに苦情電話の応対」 「じゃあ、ウチに来る必要ないんじゃないかしら」 「姫」  時江にささやき声でたしなめられて、郷子はうろたえた。人手は要るのだ。なんで、こんな意地悪な言い方してるんだろう。この女の希望が叶うかどうかは、自分次第だ。ここまで上位に立てるのが久しぶりだから、威張ってストレス発散しているのかしら。 「いえ、その、何か特別な事情でもあるんならともかく、いいお仕事をなさってた人がわざわざ建設業を選ぶというのが、ちょっと理解できないものだから」  笑顔を繕って出任せの言い訳をすると、梨央が身を乗り出した。 「求人情報を発信するなんて聞こえはいいけど、結局紙切れをいじってるだけでした。建設業なら、できあがったものが現実にそこにある。何もなかった土地に一軒の家が建つ過程に立ち会えるのって、ワクワクしません?」  しませんね。いちいち立ち会ってる暇、ないから。鼻白む郷子の横で、時江が「そうなのよねえ」と声を上げた。 「よくわかってるじゃないの。てっちゃん。あんた、いい人連れてきてくれたわねえ」  もう決めたような口ぶりだ。  ふん。ワクワクだなんて、そんなきれいごと言ってられるのは、現実を知らないからよ。  一つ二つを経験するだけなら、いい。確かに感動的。だけどね。わがままでけちんぼな施主。やたらと態度のでかい銀行と役所。愛想が悪くて、付き合いづらい職人。一筋縄ではいかない現場。それを山と積まれてごらん。もう、しっちゃかめっちゃか。  ようこそ、穴だらけの舟みたいな零細土建屋の世界へ。 「わかりました。でも、しつこいようですけど、お給料は安いですよ。それから、残業も多いです」 「しつこいようですけど、覚悟してます」 「じゃあ、働いていただきます」  田所がいきなり立ち上がった。横幅があるので、前に壁が立ちはだかったような圧迫感がある。ぎょっとして見上げる郷子に向かって、深々と頭を下げた。 「無理をきいていただいて、ありがとうございました」  梨央がぴょこんと立ち上がり、並んで頭を下げた。時江はニヤニヤしているが、郷子はなんとなく面白くない。 「うちとは長いお付き合いだそうですから」  それとなく、恩に着せた。職人の顔を立ててやるのも、いつか借りを返してもらうため。助け合い、もたれ合うのが慣習のベタベタ人情がまかり通る世界。だから、ダメになるときゃ共倒れ。  どこがいいんだか。  郷子は、田所を見上げ「盆と正月がいっぺんに来た」みたいな顔で喜んでいる梨央に冷たい一瞥をくれた。  覚悟してるって、言ったわね。けっこう。おおいに働いてちょうだい。  翌日からこき使おうと手ぐすね引いては見たものの、一日が始まるとまたしてもクレーム客への謝罪、工事が完了した客への挨拶、取引先との情報交換、ほとんど必須科目の授業と化した棚尾と銀行の融資担当者と三人で膝突き合わせての資金繰り相談、それに同業者組合の理事会だの勉強会だの自分のスケジュールをこなすのが精一杯で梨央のことを思い出す余裕もない。バイト娘には昨日のうちにくびを言い渡した。今月一杯のつもりだったが、娘は「正社員を雇ったので」と言った途端に、とっとと私物をまとめた。給料振り込み先のメモ一枚残して、仕事も途中で放り出して、である。  伝票の入力だけだから、仕方なく残りは郷子がやった。数字を打ち込んでいると、戻ってきた工藤が目をむいた。 「一人入れたから、前のは即ポイって早過ぎ。来るのがなかみっちゃんならそれでもいいけど、今度も素人なんでしょ」  工藤のタメ口には馴れた。ある意味、忌憚《きたん》のない意見と喜んで聞ける。もっとも、今の鍵山工務店には、郷子におもねってくれるような者は一人もいないが。 「素人ったって、元副編集長よ。使えるって時江さんが保証したんだから、仕事できなかったら時江さんに責任とってもらうわ」 「時江さんに、それ言ったんすか?」 「……言わなくても、わかってるはずです」 「だけど、なかみっちゃんは」 「いやにこだわるじゃない。付き合ってるの?」  工藤は唇を尖らせた。 「元同僚としてですよ」  なによ。付き合ってるんじゃない。もう。そんなのばっかり。 「コンビニのバイトやってるんですけどね。まわりがみんな高校生で、いづらいらしいんですよ。鍵山は楽しかったって、俺、泣かれちゃったんすよ」 「しょうがないじゃない。泣いたらなんとかなるほど、世の中は甘くない」  携帯が鳴った。数秒遅れて、工藤の携帯も。まったく、のんびりおしゃべりもしてられないんだから。  梨央の働きぶりについては、時江から報告があった。「たいしたもんよ」と、ほめ言葉一辺倒だ。  二週間で工事台帳のファイリングをすべてやり直し、監督ごとに仕分けした現場の覚え書きノートを作り、出入りの業者や職人が来たらさっさと自己紹介し、お使いも率先していく。 「すごい張り切りようでね。あんまりとばすと身体壊すよって、手綱引いてるくらい」  なによりいいのは、積極的に質問することだそうだ。業者も職人も、専門のことについて興味津々で訊かれるのは悪い気がしないらしく、いろいろと教えている。梨央はいちいちメモをとりながら聞く。 「現場に出たいって言ってたからね。建築士でも目指すんじゃない?」  ふうん。そういう野心があるのか。世の中、いろいろね。  では能力のほどを試してみようと、自分にかかってきた顧客からの電話メモを直接梨央に渡してみた。梨央は一枚一枚めくっては目を走らせていたが、ふと手を止めた。 「中谷さま、また設計変更ですか」  もう把握しているのか。 「そうなのよ。工期が延びるのは構わないけど、大工さんの都合はつくのかって。なんで、こんな細かいこと、いちいちわたしに言ってくるのかしらね」  事態をわかっているらしいことに気を許してぼやいたら、梨央は「山本さんに不信感持ってらっしゃるんじゃないかしら」と、あっさり答えた。そして、少しあわてた。 「ごめんなさい。悪口みたいなこと、言っちゃって。反省します」  郷子は梨央を見つめた。なにげない疑問に、ピンとくる答を返してきた。それも、即時に。 「ちょっと、来て」  社長室に向かった。梨央は不安げについてくる。ドアを閉めると、膝まで頭を下げた。 「ごめんなさい。山本さんを中傷するつもりはありません。ほんとに申し訳ありません」 「いいから、座って話して。何か、問題を感じてるんでしょ」 「でも」 「あんなこと言っといて、でもはないでしょう。わたしは工事台帳全部細かく見てるわけじゃないの。あなたが何か見つけたんなら、教えて」  梨央は唾を飲み込み、頷いて話し出した。  中谷邸の工事は、設計の時点から変更が相次いでいる。工事に入ってからも、窓の位置、間取り、壁材、階段のデザインと検討もしくはやり直しの連続だ。その都度費用についての話し合いはしているということだが、職人の都合や資材のやりくりで他の現場にも影響が出ている。 「サグラダ・ファミリアみたいに何百年かかっても思い通りにしたいっていうのなら話は別ですけど、現場でコロコロ考えが変わったら、職人さん、やりにくいですよ。どういう家にしたいか、よく練ってないんじゃないかと思って山本さんに訊いたら、機嫌悪くされちゃって」  気が変わりやすい人なんだから、しょうがない。施主さまの要望に応えるのが自分たちの仕事だと、山本は怖い顔で言ったそうだ。気弱そうに曖昧な微笑を浮かべているのが常の山本だが、いったんムッとするとえらく怖い。 「山本さん、それ以来、わたしのこと避けるんですよ。壁作っちゃって。中谷さまが社長と話すのも、もしかしたら、いろいろ言っているうちに山本さんがムッとして話しづらい雰囲気になってるんじゃないかしら。だから、社長に直訴してるんじゃないかと思うんですけど」  それは考えられる。コミュニケーション不全の山本の現場なら、ありそうなことだ。しかし、施主にも問題はある。二度も呼び出されて言い分を聞いた郷子には、わかる。一家の主婦がインテリアコーディネーター講座を修了したとかで、いっぱしのプロ気取りなのだ。建築雑誌を読み込んで、新しい工法や設計のアイデアを見ると取り込みたがる。 「山本くんの言うことも正しいのよね。お金を出す人の望み通りにするのが仕事よ。だけど、そうしているつもりで施主の機嫌を損ねるのはまずいわねえ。どうしたらいいんだろう」  質問ではない。困惑を口に出しただけだ。だが、梨央は真剣に考え込み、やがて切り出した。 「差し出がましいんですけど、休日にお食事会やるっていうの、どうでしょう」 「なに、それ」  梨央がいうには、施工途中で工事関係者と施主が会食をする場合があるという。本来、施主が職人たちを慰労するために開くもので、凝った一軒家を建てる旦那がたの習慣だったらしい。 「今はそんな気前のいい資産家はいないから滅多にないらしいですけど、手のかかる家を注文した粋な人がなさることが、ごくたまにあるそうなんです」 「でも、それは施主の意向ですることでしょ。こっちから、言えないわよ」 「バーベキューだと手間もかからないし、飲み物は鍵山から差し入れということにすればいいんじゃないでしょうか。施主さまだって、わがまま言ってる自覚はあると思いますよ。ねぎらわれたら、職人さんたちのほうも多少のことは許せるだろうし。間に立つ工務店には、そういうアドバイスをする資格があるんじゃないでしょうか。上棟式に準じるものだから経費になるし。もっとも、人の気持ちのわからない根性悪の施主さまだったら、勝手にしろってとこですけど」 「あなた、なんでそんなこと知ってるの」 「本で読んだんです」  梨央は恥ずかしそうにもじもじした。 「この頃、建設関係の本ばっかり読んでるものですから。本で読むことと現場は違うとは思いますけど、でも、参考書って必要でしょ。実際、わたし、建築業一年生だし」  突破口を示されたのは、有り難い。郷子は気が短いぶん、素早い反応を無条件に喜んでしまう傾向がある。 「わかった。検討してみるわ。もしやることになったら、手伝ってもらえるかしら」 「はい!」梨央は躍り出しそうな勢いで大きく頷いた。  この件を棚尾と時江に話すと、「そうそう、そういうこと、したね。あれは昭和三十六年」に始まる大量の思い出話とともに賛成された。 「梨央ちゃん、やるじゃない」  時江が売り込むのはいつものことだが、今度ばかりは郷子も感心した。 「あの子、施主さまとか中谷さまとか平気で言うのよ。わたしだって抵抗あっていまだに、さまづけで話すの苦手なのに」 「業界の習慣知り始めたところだから、面白いのよ。土建屋さんごっこしてる子供ってところ。でも、面白がってくれるんならいいじゃない。向いてるんだよ」  そうかもしれない。想像以上にイケるかも。  郷子はこの件を梨央の担当にし、施主に話を持ち込むところから自分に同行させた。山本には知らせなかった。施主が彼を煙たがっているという梨央の推測に共感したからだ。いないほうが、話がスムーズに運ぶ。そう判断した。  三階建てのはずの中谷邸の工事は、骨組みはできているものの二階から上に手がつけられないまま中断していた。職人たちは他の現場に行っている。  郷子と梨央は、中谷一家が現在住んでいるマンションを訪問した。  梨央はまずマダム中谷(とは、鍵山側の符丁である)に、とどまるところを知らない家への夢やら希望やらを話させ、そのすべてを実現させるわけにはいかないと説き、停滞している工事に活を入れ直すため、職人たちを慰労し、かつ、この家を作る仕事に「特別な思い入れ」を持たせる懇親会を提案した。  郷子はスムーズな会話の運び方に舌を巻いた。工事の騒音で迷惑をかけているご近所も招待したら懐柔策になると言うと、マダムは考える顔になった。 「アメリカでは、できかけでもホームパーティーするみたいですよ。そこでお祝い金かき集める人もいるんですって。ここにこういう椅子が欲しいのよねって言うと、友達がじゃあ、それをプレゼントしてあげよう、なんてことになったり」 「へえ、それ、面白いわね」  結局、日曜日にちょっとしたパーティーを開くことになった。  帰りの車の中で、郷子は素直に梨央をほめた。 「初対面なのに、うまくやったわねえ」 「前の仕事で取材してたから、人から話を引き出すの馴れてるんです」 「アメリカのホームパーティーの話も、わたし知らなかった」 「あれは映画で見たんです。途中で資金が尽きた主人公たちが思いつきでやってたんで、習慣かどうかはわかりませんよ。でも、やる気にさせるにはメリットがあると思わせないと。欲の深い人が相手ですからね」 「ふうん。頭いいのね、山根さんは」 「そんなことないですよ。求人広告なんて、いいことばっかり言うでしょう。それで、この手の悪知恵が身に付いちゃったんですよ」  ありきたりの謙遜だが、そもそも謙遜する人間に絶えて久しく会ってない郷子の中で、梨央の評価は赤丸急上昇した。調子に乗って、慰労会のセッティングを全部一人でやれるかと訊くと、やってみますという答だ。一件でも用事を誰かに丸投げできるとわかっただけで、とてつもなく気分が軽くなった。  バーベキューパーティーは、できあがっている一階と庭を使って開かれた。職人たちがブロックと廃材で器用にテーブルや腰掛けを作り、施主の家族や招かれた隣人たちを喜ばせた。山本も参加したが、憮然《ぶぜん》とした表情でビールばかり飲んでいる。梨央が職人や施主の家族の間を飛び回って、接待役を務めた。郷子も関係者全員に近寄り、それとなく希望や愚痴を聞いたが、山本だけは無視した。  この会を開くことを告げたとき、彼抜きで決定したことを詫びるかわりに、本来なら現場監督がこの種の気配りをするべきなのだと説教をした。工事日誌に詳しい報告をあげるように言ったのに、山本の態度は改まらない。現場に決定的な混乱は起きてないが、小さい行き違いはしょっちゅうだ。追及すると黙り込んでしまう。頭ごなしに叱らないようにと棚尾に注意されることさえ、しゃくの種だ。なんで、こんな半端な男にこっちが気を遣わなくてはならないのだ。  曖昧な微笑を浮かべているくせに、こちらの要求に応える努力のあとすら見えてこない。この頃では、顔を合わせるだけで自動的にむかっ腹がたつ。無理して話そうとすると、しまいには説教になってしまう。だから、いっそ無視したほうがいいのだ。そのほうが、コミュニケーション不全の彼も楽だろう。  慰労会がすんだあとは、しばらく平穏だった。どうやら、マダム中谷は何かあると梨央に連絡するようになったらしい。梨央は親しくなった職人たちに電話をして、事態を調整した。しかも、その経緯は逐一郷子に簡潔に説明される。  秘書がいるってこういう感じかと、郷子はホクホクした。実働部隊が別にいて、自分は報告だけを受ける。いかにも実力者になったようで、すこぶる気分がよろしい。  そのうち、新規客の問い合わせがあった。大学時代の友人が介護保険を使って家をバリアフリーに改修したいという。今受けている仕事だけでフェイドアウトを狙ってはいるが、自分のことを思い出してくれたとあっては引き受けざるを得ない。棚尾を伴って、話を聞きに行った。  久しぶりの再会にお互いの事情なども打ち明け合い、話が弾んでいたところに携帯が鳴った。梨央からだった。三カ月前に終えたはずの増築工事の客からクレームだという。  洗面所の化粧台を新調したら、接している浴室の壁に亀裂ができた。気がついたのは工事後ひと月経ってからだが、現場監督の山本に問い合わせたら様子を見に来て、専門業者をよこすと言った。それから二カ月、音沙汰がないがどうなっているのか。  台帳をひっくり返してみたが、何の記載もない。山本に連絡すると、あれは表面のひっかき傷だからほっといても大丈夫だという。それを客に伝えたかという質問には、言っておいてくれと返答した。 「声の感じだと、すごく気の弱そうな奥さんなんですよ。だから、二カ月もずっと黙って待ってたんだと思います。それなのに、大丈夫だから気にしないでくださいって電話で言うだけでいいんでしょうか」  また、山本か。郷子の腹が一瞬で沸騰した。 「明日にでも、わたしが行くわ。山根さん、悪いけど、とりあえずきょうのところは電話できっちり謝っといて」 「わたし、行っちゃいけませんか」 「謝りに?」 「補修しに、です。ほっといてもいいって言っても、ひび割れはひび割れでしょう。パテ塗るとか方法はあると思います。内装の西島さんに訊いてみたら、ちょっとだけなら一緒に行ってもいいってことなんですけど」 「頼むわ」  郷子は即答した。  夕方、社に戻ると梨央がとんできた。ニコニコしているところを見ると、うまくいったようだ。郷子も思わずニッコリした。表情がはっきりしているのって、わかりやすくて助かる。  報告によると「よーく見ないとわからない」ような薄い傷だったそうだ。主婦は、傷を見せるために懐中電灯を持ち出した。本当は補修材も要らない程度のひっかき傷なのだが、西島が一応客の前で補修材を塗ってみた。すると、塗った分だけ傷跡が浮き上がった。何もしないほうがきれいだということに気付いた客は「もし、何かあったらすぐに手当てします」という梨央の言葉で納得したそうだ。 「塗ったら逆に目立つってことは、西島さんに聞いてました。でも、お客さまに納得してもらうためのパフォーマンスが必要だと思ったもんですから、やってもらったんです。お礼に、この間の慰労会で余った日本酒、持って帰ってもらいました」  自分の裁量で事を運んだことで上気しているようだ。梨央は早口でたたみかけた。 「でも、一応、社長がご挨拶に行ったほうがいいかもしれません。ああいう、おとなしいけど神経質な人って意外と根に持って、鍵山に頼んでこんな目にあったって一生言いそうだから」 「そうね」  相手が矛《ほこ》を収めたあとの謝罪なら、やりやすい。郷子は満足した。しかし、山本にはひと言言っておかねば。  現場から戻ってきた山本を社長室に呼んだ。そして、きょうの一件を話した。 「連絡があってから二カ月もほっといたって、どういうこと」  山本は軍手をいじりながら、ボソリと答えた。 「下手に補修しないほうがいいってわかってたから」 「お客さんに、ちゃんとそう伝えた?」  今度はちらっと上目遣いで郷子を見る。でも、話の途中ですぐに目がよそを向く。 「最初に見に行ったときに、たいしたことはないってことは伝えました。向こうも、別に問題はないが気になるからって笑ってましたよ。だから、あれですんだと思ったんです」 「何もしないままでいいって、お客さんにちゃんと納得させた? 向こうはあなたが業者を手配するって思い込んでたのよ」  山本はうつむいて、口をへの字にした。また、だんまりだ。 「あなたさあ、向いてないんじゃないの、この仕事。話が食い違ってばっかりじゃないの」  気がついたら、言っていた。斜め下を向いた山本の首筋が堅くなった。 「何かって言うと黙りこんで。子供みたい。山根さんのほうがよっぽど役に立つわ」  山本が何かつぶやいた。まったく!  郷子はデスクに両手をつき、椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がった。 「そういうのがイヤなのよ。言いたいことがあるんなら、はっきり言ってちょうだい。口の中でモソモソ。気持ち悪いわねえ」 「山根がいいんなら、現場監督やらせてみろよ」  つぶやき声だが、はっきり聞こえた。山本はムクレ顔でぶつぶつ文句を垂れた。 「こんなにゴタゴタしてるのは、あんたのせいじゃないか。あんたが樽岡さんを切ったから、めちゃめちゃになったんだ。自分の失敗のツケを俺にまわしといて、何かあると俺に八つ当たりして」 「──ずっと、そう思ってたんだ」  山本は黙った。泣きそうな顔で、目を泳がせている。口に出したことを後悔しているらしいが、詫びる様子はない。自分の気持ちをうまく表現できない人間は、うんと思いやってやらなきゃいけないのよね。牧師さんかカウンセラーなら、こういう人間をうまく導くことができるのだろう。でも、わたしはダメ。  人に思いやりを求めるなら、そっちも他人の気持ちを考えなさいよ。 「わたしが会社をダメにしたって思ってるんなら、ここにいないほうがいいんじゃない。わたしはあなたが望むような社長にはならないもの。だって、あなたがわたしの望むような現場監督じゃないから」  静かに言うと、山本は顔を上げた。眼差しは弱々しい。困惑と落胆があるばかりで、哀願の色はなかった。自分の目つきも弱いだろうと、郷子は自覚した。毅然としたいが、ああ、言ってしまったという後悔が大きいのだ。山本がいなくなったら困るのはわかっている。でも、居座られてもストレスが増すばかりだ。生理的に合わない人間の存在は、疲れていると殊に身にこたえる。  じっと対面していることに、先に音を上げたのは山本だった。目をそらすと、何も言わずに出ていった。そして、翌日から来なくなった。  社長室の対策会議に集まったのは、棚尾と時江、そして工藤だ。呼んだつもりはないが、ずかずかと入り込んできて「俺は、知らないからね」ぴしりと予防線を張った。そして、デスクにどしんと尻を据えた。 「いつかはこんな日が来ると思ってたけど」  客用ソファにもたれた時江は、フィンガーチョコを頬張ってため息混じりだ。 「でも、どっかで期待してたのよ。姫が成長して山本くんを使いこなす奇跡を」  郷子はなけなしの気合いを振り絞って何でもなさそうな顔を装い、パイプ椅子に腰掛けて顎を撫でている棚尾に求人広告を出そうと提案した。 「しかし、継続中の仕事をすぐに任せられる人ってのは、そうはいないんだよね。いい現場監督ほど大事にされるから、仕事探してうろうろしてないもの。姫も、もう少し考えてくれないと」  説教嫌いの棚尾に珍しく愚痴られて、郷子はカッとした。後先見ずに、くびにしたわけじゃない。考えがあったからだ。というところを見せなければ。 「山根さんに、現場監督やらせてみたい」  棚尾と時江は顔を見合わせた。 「できるんじゃないかと思うわ。職人さんたちともう仲良くなってるし、なんたって施主さんへの対応が堂に入ってる。呑み込みがいいし、頑張り屋だし、現場やりたがってたし」  思いつきに過ぎないのだが、言えば言うほどいい考えのような気がしてきた。棚尾は考え込んでいるが、意外なことに賛成したのは時江ではなく、工藤だった。 「とりあえずなら、彼女でいいじゃん。俺が前バイトしてた設計事務所に、何にも資格ないのに監督やった人いたよ。て、それ、俺なんだけどね。現場管理なんて、新入社員に現場を知れとかいってやらせるところもあるくらいだから、山根さんでもいいんじゃないの」 「でも、そうしたら、事務のほうが」時江の言葉に、工藤がすかさず返した。 「なかみっちゃんに戻ってもらえば」  郷子はハッとして工藤を見た。工藤はウインクした。謀《はか》ったな。よし。そっちがそう来るなら。 「そうよね。なかみっちゃんが戻れば事務のほうも落ち着くから、工藤くんも少しは楽になって、山根さんの面倒見る余裕も出てくるわよね。なんたって、先輩になるんだから」  たじろぐ工藤に、郷子は笑いかけた。わたしたち、共犯者じゃない。そうでしょ。それから、棚尾と時江の説得にかかった。 「職人さんたちには、わたしから事情を話して協力してもらうわ。あの人たちだって山本くんには不満があったはずだから、わかってくれるわよ」 「まあ、こうなっちまったからには仕方ないか」  棚尾の楽天的発言は、思考停止宣言でもある。 「現場を投げ出したら、みんな飯の食い上げだもん。協力はしてくれるよ」 「やりかけたことは、最後までやりたいのが職人だしね」時江が歌うように続けた。 「素晴らしき土建屋の世界。ね。姫」  郷子は笑ったが、それは苦笑に近かった。ほんとにそう思えたらねえ。 「じゃ、早速梨央ちゃんと話して、ざっとでも今後のスケジュール見直さなくちゃ」 「梨央ちゃん、呼んでくる。姫、ちゃんと話してよ」 「なかみっちゃんには、俺が連絡するわ」  三人がパッと散った。一気に襲ってきた静寂の中で、取り残された郷子は茫然とした。  もしかしたら、ものすごく、まずいことになってないか?  ママの単純さって、暴力的。  早知子の言葉がこだまする。一言《いちごん》もない。夫と別れたのも、山本の首を切ったのも、郷子の思い込んだら止まらないシンプルな決めつけが招いたことだ。だから、まずいことになっても誰にも文句は言えない。それはわかってるけど。  なんで、誰も止めないのよ。  素人社長が、素人を現場監督に抜擢。こんなこと、やったのが他人なら、わたしだって「バカにもほどがある」と嗤うだろう。  ああ。誰か、替わって。自分を辞めたい──。 [#改ページ]   その3 リフォーム・ミー     1  映画監督と野球の監督は男が一度は夢見る憧れの職業だと、五郎が言っていた。  大勢の人間を思い通りに動かして、ひとつのものを作る。もしくは、勝負に打って出る。その恍惚《こうこつ》感たるや、比べるものがない。  現場監督も同じようなものだ。男の仕事とされていた監督業に、自分がつく。  梨央は、夢を見ているような気分だった。  社長室に呼び出され「やってちょうだい」と姫社長(と、梨央はひそかに呼んでいる)に言われたときには、もうすべてが決まっていた。梨央には考える時間が与えられなかった。 「え、そんな」  驚いて丸くした目の前に、鍵山工務店の名前入り作業服一式と名刺一ケースが差し出された。 「でも、わたし、素人なのに」  たじろいでいると、 「わたしだって、素人よ」  姫社長は朗らかに言った。 「最初は誰だって、素人。技術があったって、結局実体験に勝る学習はないの。そうよね、棚尾さん」 「その通り」  棚尾のじいさまは、ニコニコと頷いた。  建築作業に関する知識がまったくなくても、予定通りにすべてが運んでいるかどうかを見守る労務管理ができれば、現場監督はオーケーだ。  姫社長と棚尾じいさんと時江おばさんがうち揃って、不安がる梨央をなだめた。 「何かあったら、職人たちに相談してごらん。梨央ちゃん、出入りの職人さんたちとは一通り顔つなぎできてるし、元々男ばかりの世界だもの。可愛い女の子に頼られたら、嬉しいもんだよ」 「可愛い女の子って歳じゃありませんよ」  棚尾の言葉に照れながら、梨央は内心それはそうかもなと、ちょっといい気になった。そこに、時江がだめ押しをした。 「梨央ちゃん、もともと現場に入りたいって言ってたじゃないの。この事態は、梨央ちゃんの熱意が神様に通じたってことじゃないかしらね。神様の後押し付きだもの。きっとうまくいくよ」  そうだ。現場に入れるのだ。  現場写真のファイルに改修前と後の室内を並べて貼り終えると、決まって三分は眺め入ったものだ。ボロボロだった床や壁が生まれ変わっている。どうやったら、こんなことになるのか。興味は募る一方だったが、現場に入れば過程をつぶさに見学できる。  デスクワークと現場は違う。素人とはいえ、梨央はきのうきょう社会人になったわけではない。そんなことはわかっている。多分、思いがけない苦労が待ち受けているだろう。でも、会社上層部が梨央ならできると見込んで決めたのだ。  高揚した梨央は電器屋に行き、モバイルパソコンを買い込んだ。  山本が担当していた現場のうち、負担の少ない増改築物件を三件割り当てられた。どれも七割から八割できあがっているし、書類上だけではあるが、どこをどんな風に建て替えているかの内容も把握している。それをモバイルに打ち込んで持ち歩けば、必要なときにいつでも開けて参照できる。  このアイデアは、デスクワークをやっていたときから胸に温めていたものだ。工藤は手書きのメモを工事ごとのファイルポケットにつっこむだけだし、山本はファイルを自分で抱え込んで、神経質そうな小さい字で日々の予定を書き込み、それにチェックを入れるだけだった。二人とも、現場には手ぶらで入るのだ。 「工程なら現場の人間はみんなわかってるし、どうせ会社に帰って報告書書くんだもん。いちいち持ってかなくてもいいんだよ」と、工藤は言う。山本は「車に入れてるから」と、ぼそりと言い訳していた。  もっとも、山本はすでに建築士だし、工藤は勉強中の身の上だ。経験もある。書類に頼らなくても、現場を一目見れば状況がわかるのだろう(山本の失敗は、自分さえわかっていればいいという一人合点《ひとりがてん》にあったのだが)。  早速三件の現場ファイルを作り、何度も見比べてみた。  やるしかない。そう自分に言い聞かせた。  何でもやる。そう大見得切って飛び込んだ職場だ。できませんと泣くわけにはいかない。そんなことをしたら、この世界への道を拓いてくれた徹男に顔向けができない。  現場監督就任を要請され、パソコンを買うより早くやったことがある。徹男への報告だ。それも「会って話したい」と注文をつけて。  仕事が終わってから会おうと返事をもらったとき、梨央はニンマリした。時間的には「夕食をご一緒に」という頃合いだ。  チャーンス!  差し向かいでご飯を食べるからには、なにかと話し合うことになる。どうしたって、二人の距離は今より縮まる。そう目論んでウキウキしていたのに、駅前で落ち合った徹男が先に立って入っていったのは、すぐそこのスターバックスだった。  色気のない狭いテーブル席で向かい合うとすぐ、徹男は前置きもなく「話って?」と訊いてきた。仕方なく、梨央のほうも生真面目に現場監督を命じられたことを告げた。  徹男は眉間に皺を寄せ、梨央の左肩あたりに視線を当ててつぶやいた。 「いきなり現場監督なんて、ずいぶん乱暴な話だな」 「会社が決めたことだもの」  梨央は、なんとなく言い訳をした。 「だけど、誰かがやらないと。田所さんも知ってるように、山本さんが会社に来なくなっちゃって、大変なのよ。職人さんたちだって、わかってくれると思うわ。わたし、迷惑にならないように、すべきことを教えてもらいながら一生懸命やるから」  梨央は頬をほてらせて、力説した。  その熱は、思いがけない展開に上気しているせいではない。出会って半年近くになるのに、いまだに徹男と向かい合うとドキドキしてしまうのだ。  恋人に発展していれば、もっと平静でいられるだろう。片思いの状態で知り合いの枠内にとどまっているから、行き場のない恋心が妄想含みで無闇にふくらむのだ。  素人のくせに現場監督という無茶な要請に乗ったのは、もちろん現場を知りたいからだ。だが、それ以上に、こんな事態になれば相談とか報告という形でおおっぴらに徹男に頼れるという思惑が働いたのは否めない。  なんたって、建築業界に転職したきっかけは徹男だ。徹男といるときのときめきを思えば、梨央の情熱の対象が果たして建設現場なのか、男なのか、わからなくなる。  でも、どっちだって構やしない。徹男が目的で建設現場はついでだとしても、仕事として新鮮で面白みを感じていることに変わりはないのだし。  今は足場の必要がない小さな増改築現場しか持ってないから接点がないが、そのうちトビが加わる物件を担当するようになったら、毎日顔を合わせることになる。一緒に足場に上がったりできるかも──。  その日を想像するだけで、ニヤニヤしてしまう。三十過ぎて、初恋少女みたいな想いができるなんて、神様から贈り物をもらったみたいだ。  嬉しい。  今も徹男はこうして、梨央の問題を真剣に考えてくれる。なんて頼もしいんだろう。 「そりゃ、職人たちは協力してくれるだろうよ。仕事しないと、金にはならないからな。でも、間違いました、すいませんですむ世界じゃない。一生懸命やるのはけっこうだけど、気力だけじゃ持たんぞ。身体、大丈夫かい」 「間違いました、すいませんが通用する世界にいたわけじゃないわよ、わたし」  梨央は胸を張った。でも、心配されたのが嬉しくて、フニャッととろけた。 「頑張るわ。頑張れる。現場に入りたかったんだもの。楽しみでワクワクしてる。ほんとよ」  だから、心配しないで、という顔で微笑んでみせたが、実はもっともっと心配してほしかった。何かあったら俺に言えよ、くらい言ってくれないかなと期待したが、徹男は眉間の皺をさらに深め、テーブルの隅を睨みつけて黙り込んでいる。  ちょっとでいいから、こっち見てよ。梨央は弱っぽい声で甘えてみた。 「だけど、へこんだりしたら、田所さんに相談してもいいかな。会社の人に愚痴るわけにはいかないこととか」  徹男はそこでようやく、梨央の顔を見た。といっても、大きな身体を猫背に丸めて、下からちらりと見上げる姿勢だ。足場から救い出してくれたときのように、まっすぐ見つめてくれない。 「いいよ。俺も紹介した責任、あるから」  責任ね。ま、いいか。  どんな形でも、徹男との絆が深まるきっかけができたのは喜ばしい。今の梨央にはやはり、仕事より男なのだった。  徹男は一度結婚している。今年、四歳になる息子もいる。妻と別れて、二年になるそうだ。そのあたりの事情は、時江が話してくれた。断片的に聞いた話をつなぎ合わせると、こういうことになる。  離婚の原因は、妻の度を超した独占欲にあったらしい。日に何度も電話をかけてきて、今どこにいる、誰といる、何時に帰ってくると問いつめる。仲間とつるんで飲んだり、遊びに行ったりするのをひどく嫌った。  しかし、それはトビの親方の女房としてあるまじき態度だと時江は言った。  相撲部屋でもやくざ屋さんでも、親方だの親分だの、親の字のつく職に就いている人間の女房は、下で働く若い衆の母親役を務めなければならない。  古いようだが、力仕事をする人間はサラリーマンとは違う。じっと座ってお勉強というのが苦手だから、身体を使って稼ぐ道を選んだ連中ばかりだ。社会的には未熟な甘ったれの若い衆も多い。親方は、単なる雇用主ではない。彼らの面倒を見るのも仕事のうちなのだ。  とくに徹男は、仕事のたびに人員を集めて手間賃を払うひとり親方だ。この方法だと、従業員を雇って一定の給料を毎月払うよりは、ロスが出ないだけ経営の苦労が少ない。しかし、いざ仕事だというときにすぐに働ける人間をキープしておくには、日頃から面倒を見て事実上の雇用関係をつないでおかなければならない。  食事をおごる。冠婚葬祭があれば、相応の金を出し、顔も出す。相談を持ちかけられたら、時間を割く。このように、人を使うからには、それなりに気も金も時間も遣わなければならない。  だが、妻にはそれが理解できなかった。  彼女は徹男がガキ大将時代、舎弟と呼んでいた男の妹で、小さいときから徹男に憧れていたという。大人になり、OLをしていたが、徹男が親元を出てひとり暮らしを始めると、勝手に押しかけてきて身の回りの世話をした。しかし、徹男のほうは迷惑がっていたそうだ。  顔を合わせると、彼女はいないの、そろそろお嫁さんが要るんじゃないのと、おばさんらしいちょっかいを出す時江に心の内を打ち明けたのは、彼が二十五くらいのときだった。  自分は、女の子といてリラックスできたためしがない。可愛いなと見とれることは多々あるし、飲み屋でそばにいてはしゃいでいると、単純に嬉しい。だが、デートとなると、相手が楽しんでいるかどうか気にしてばかりだ。  舎弟の妹は、小さいときから知っているから気安いと言えば気安いが、女房気取りで洗濯したり料理したりするのを見ていると、有り難いより先にひやひやする。  洗ったパンツを干すために、大きく手を伸ばしてパンパン引っ張っているのを見ると恥ずかしくてたまらない。夕食となると、炬燵《こたつ》テーブル一杯に皿が並び、向こうは徹男の反応を確かめようとじっと見ている。噛むのもそこそこに飲み込んで「おいしい」と言うまで解放してくれない。  やっぱり、家庭的な手料理っていいものでしょうと言われるが、徹男には行きつけの定食屋がある。そこでおばちゃんたちに「早く嫁さん、もらいなさいよ」などと構われながら、好きなものを仕事仲間とかっこむので十分だ。  ピタピタのTシャツを着て、目の前をうろうろされるのも非常に困る。何かしてほしいらしいが、兄貴ばかりか彼女の親とも古い知り合いなだけに簡単に手を出すのは、はばかられる。かといって、迷惑だから来てくれるなと断るのも、舎弟の手前、とてもできない。だから、好意は受けるが一線は越えないよう用心して兄貴分らしく振る舞っているのだが、これが疲れてかなわない。  どうしたらいいだろうとぼやかれた時江は、他に女がいることを見せつけてあきらめさせろとアドバイスしたそうだ。  その後どうなったか聞かずにいたら、結局三十になる直前にその女と結婚した。  鍵山工務店主催の忘年会で、徹男が先輩親方にこう説教されているのを時江は見ている。  惚れてくれる女と結婚するのが一番だよ。今どき、好きよ好きよで尽くしてくれる女は、そうはいない。まめに面倒見てくれるんなら、それに越したことはないじゃないか。そりゃあ独り身が気楽に決まっているが、嫁さんがいるっていうのは、なにかと助かるもんだぜ。  女といると気疲れするってのは、相手を女だと思うからだ、とその先輩親方は喝破した。  女房は女じゃない。女房は家族だ。いったん女房になっちまって、しょっちゅうそばにいるとなりゃあ、気なんか遣ってられないから、ほったらかす。そうすると、あっちも遠慮なく、少しは気を遣えとギャンギャンわめき出す。そうなったら「いつもすまないね」と洋服のひとつも買ってやればいい。それで収まるんだ。馴れあうっていうか、こなれるっていうか、自然とそうなる。それが夫婦ってものなんだ。  うつむいて考え込んでいる徹男に、先輩親方はだめ押しのひと言をつぶやいた。  おまえも来年、三十じゃないか。父ちゃんと母ちゃんを早く安心させてやりなよ。  三十のプレッシャーは、女より男のほうがきつい。徹男が結婚に踏み切ったのは、そのせいだと時江は言うのだ。  結婚式には、時江も出席した。文金高島田の花嫁はもちろん、徹男の両親も花嫁の兄貴も、ボロボロ泣いていた。羽織袴でかしこまった徹男は、緊張しっぱなしの硬い表情で通したそうだ。  徹男の妻の過剰な干渉は、結婚後すぐに始まった。徹男に連絡が取れないと、妻は仲間たちに電話をかけまくった。あんまり徹男さんを連れ出さないでくれと、ヒステリックに抗議された者もいる。仲間思いの徹男には、そうした締めつけが耐え難かったようだ。挙式の翌年に生まれた息子もいたが、三年で結婚を解消した。  話し合いには、半年かかった。納得しない妻を説き伏せたのは、舎弟だったそうだ。舎弟が乗り出す必要を感じたほど、徹男の消耗は目に見えた。妻だけが、それを認めようとしなかった。 「愛情と執着は違うんだなって、わたしら話し合ったもんよ」  時江はしみじみ言った。 「今思うと、てっちゃんは親と幼なじみを喜ばせたくて妥協したのよね。それが間違いの元だった。最初から、二人の気持ちにズレがあった。奥さんはそれがわかってたから、あせったんじゃないかな。自信がなくて、女房の権利を振り回したんだろう。考えてみれば可哀想だけど、でも、奥さんっていうのは旦那の評判も気にしなきゃいけないもんなのよ。梨央ちゃんみたいな若い人は、こんなこと聞くと冗談じゃないって怒るだろうけど」  そう言ってこっちを見た時江の目には、徹男を落とすための心得を教えてるんだからね、というような得意げな色があった。 「男にとっては、奥さんがよくないっていうのは恥ずかしいもんよ。とくに、この世界はね。古いから」  古いから。  この言葉を口にするとき、時江は決まって誇らしげににんまりする。まるで、樹齢何百年の古木をほめる庭師のように。  しかし、梨央のほうは古いのがいいとか悪いとか言っている場合ではない。ただ、徹男の心境や状況をもっとよく知りたいのだ。  妻とは別れた。未練もないらしい。それはめでたいが、子供のことはどうなっているのか。それを訊くと、時江は「そこなのよ」としかつめらしく頷いた。 「奥さんがヘソ曲げちゃってね。別れるのは承知するが、そのかわり子供には会わせないって決めちゃったのよ。別れたいって言われたのが口惜《くや》しくて、なんとか苦しめてやりたかったんだろうね。別れたとき、二つになるかならないかくらいだから、可愛い盛りよ。中に入った舎弟の家で預かったときに顔見に行ったりしてるんだけど、どんどん可愛くなるのに、おじさんて呼ばせてるらしくてね。あれがつらいらしい。だから、てっちゃんの前で子供の話は御法度よ」  そう聞いた瞬間、梨央は胸の中で呟いた。  子供だったら、わたしが産んであげる。わたしだったら、仕事の邪魔はしない。だって、仕事仲間になるんだもの。  そして、そこまで考えたことに、あわてた。恋愛が始まってもいないのに結婚を考えるなんて、いくらなんでも早過ぎ。  ダメダメ、ひとりで気持ちをあおっちゃ。まず、ちゃんと仕事をして、それから徹男さんにわたしのことをわかってもらう努力をしなくちゃね。  恋と仕事の二本立て。どっちも気が抜けない。勝負が始まるんだ。だからこそ、リラックス、リラックス。  梨央は自分にそう言い聞かせた。     2  最初のうちは上々だった。梨央は誰よりも早く現場に入り、施主と職人たちに、これからは自分が管理することになったと挨拶をした。 「未熟ではございますが、間違いのないようきちんとやらせていただきます。至らない点がございましたら、どうぞどんどんおっしゃって下さい」  施主は「はいはい、よろしくお願いしますよ」と、あっさりしたものだ。女だということで懸念を示されはしないかと身構えていたが、そんなことはなかった。  施主にとっては、監督が誰かなど問題ではない。そつなくこなしてくれるなら、顔や個性なんか、あってもなくても構わないのだ。そのことが、身にしみた。  職人たちの反応も、実にあっさりしたものだった。大工の親方や内装業者たちとは、会社で顔を合わせるたびによく話した。みんな、梨央ちゃん梨央ちゃんと可愛がってくれた。だから、もっと歓迎してくれると思っていたのだが、挨拶して頭を下げるのに「ああ、はい。よろしく」だけで、さっさと仕事に取りかかる。  当たり前だ。建設現場のスケジュールには、余分な時間は一分もない。  建設現場は、静かだ。  梨央が担当する増改築現場はたいてい屋内だから、施主家族の話し声や物音がする。だが、職人がいることを意識するのか、仕事中は住人のほうが鳴りをひそめる傾向がある。  けれど、静けさを感じる原因は、そんなところにはない。  土地を掘削したり、建物を解体するような大がかりな工事の場合は、半端ではない騒音が長時間響きわたる。だが、土台ができてから、一人一人の職人が担当の場所にとりついて、部材をとりつけ、釘を打ち、塗装をしているとき、あたりの空気はピンと張りつめる。  工具は確かに大きな音を立てる。だが、腕のいい者ほど音を立てる時間が短い。口を固く閉じて、一瞬に集中する。みんな携帯を持っているが、仕事中は着信音はオフにしている者が多い。集中力をそがれるからだ。  建設現場の作業は、どんな小さなことにも危険が伴う。やり直している時間は、もとより、ない。だから、集中せざるを得ないのだ。それが自分のためだから。  徹男にそう聞いてはいたが、実際に現場に入って独特の引き締まった空気に触れたとき、梨央は胸を打たれた。  オフィスには、いつも人声がしていた。電話が鳴り、あちこちで打ち合わせが行われる一方、ちょっとした軽口が横行する。昼間は人が出払って梨央とバイトだけになることが多かったハイヤードリーム時代も、どこかザワザワしていた。  しかし、建設現場にはざわめきの気配もない。職人たちが黙って働くからだ。  現場って、お寺みたいだ。それが梨央の直感だ。  集中力というもの、集中している人間の姿がこんなにもきれいだとは。オーラというのは、集中力の別名か。  他にも感じ入ったことがある。  改築で古い壁の一部に穴を開けるとき、職人たちは壁をノックする。音で、内部に壊してはいけないものがあるかどうかをチェックするのだ。  そして、筋交《すじか》いなり電話回線なりがあるとき、彼らはそこに何かが「いる」と言う。 「ある」ではなく「いる」と称することに、建物を構成する材のひとつひとつを生き物ととらえる現場の感受性が見える。だから、たとえば床や壁や家具を傷つけないようカバーを掛けることを、現場では「養生《ようじよう》する」というのだ。  養生する。  今の世の中、そんな優しい言葉を聞ける場所が他にあるだろうか。  家は生き物だ。  棚尾たち、古い現場人間たちがよく言う言葉だ。梨央自身も、徹男に出会った現場を探し歩いたとき、少し時間を置いたらもう様相が変わっているのを「成長」と感じたものだ。  もしかしたら、家を生き物ととらえるのは、それを造る職人たち独特の感覚ではないか。そうだとすると、自分にも現場に立ち入る資格がある。  そんな風に感心しながら、同時に自分を励ましてもいた。だが、梨央は観光客ではない。見学して、感動して、はい、さようならというわけにはいかないのだ。  現実は、すぐに襲いかかってきた。  工期は決まっている。実作業をする職人たちは、おおむね日当ではなく、一件いくらで請け負う。そして、ここが終われば次は別の現場という自分のスケジュールがある。 『大工殺すに刃物は要らぬ。雨の三日も降ればよい』なんて、のどかなことを言っていた頃とは時代が違う。なにがなんでも期間中に終わらせなければ、次の現場は休日を返上するとか、どこかで身体に無理をさせることになる。約束の日にちに入れないというのは、信用にもかかわる。  だから、彼らは時間に厳しい。八時開始でも、通勤ラッシュを避けるため早起きして七時半には現場に来ている。 「この仕事始めたら、夜暴走かましてられなくなったからさあ、更生しちゃったよお」  鍵山出入りの大工、佐藤さんに預けられている高校中退の元ちんぴら、トクちゃんがコロコロ笑いながら話してくれた。 「遅刻したら、佐藤さん、殴るんだもん。すげえ怖いの。何にも言わずにドスンと一発で、鼻血タラー。ほんとに痛いと、声も出ねえよ。大工って、力の使い方知ってるから、強い強い」  この話に、梨央は驚いた。  佐藤さんは、白髪混じりの長髪に毛糸の帽子をかぶり、無精髭を生やし、あちこちかぎ裂きのあるジャンパーを着ている。現場で釘や廃材に引っかけて破れたものを、どうせ汚れるのだからこうなったら行けるところまで行くと着続けているのだが、腕がよくて誠実な仕事ぶりを知らなかったら誰が見てもホームレスだ。  施主さんも一目見たときには、みんな眉をひそめる。だが仕事を始めたら、ぐらついた椅子を直してくれるとか、廃材と一緒に要らないものを捨てるといった用事を快く引き受けてくれるので、次第に好意を持って迎えられるようになる。  梨央も、鼻歌交じりで釘を打つ、羊のように優しい目をした佐藤さんが大好きだ。トクちゃんのことも、まだ十代なのに礼儀正しい好青年だと感心していたのだ。その二人の間に、陰でそんな暴力沙汰があったとは。  だが、トクちゃんが言うには、族の上にいる面倒見の暴力と佐藤さんのゲンコツは、質が違うのだそうだ。やくざの暴力は八つ当たり。だが、佐藤さんのは殴られても仕方ないと納得できる罰だ。 「おいらバカだけど、ついてっていい人と、そうじゃないヤツの区別はつくよ」  ということで彼は見事更生したのだが、かくのごとく、普段は仏のごとき佐藤さんを鬼にするのが時間の無駄遣いだ。  ところが、スケジュール通りにサクサク進む現場なんか、ないのである。  工期日程は、元請け工務店が作成する。その見積もりが甘いと、職人たちは怒る。 「これだけの仕事がこれだけの日にちでできるかどうか、やれるものならやってみろ」と彼らは吐き捨てる。  キッチンのリフォームひとつをとっても、大工が入って床や壁を作り替え、その間に電気工事屋が内部の配線をやり直す。それから、システムキッチンの業者がユニットをはめこむと、今度は内装屋が来て床材壁材を貼る。それから、電気屋がコンセントや照明器具の取り付けをして、最後に冷蔵庫や食器棚が運び込まれる。職人たちは、この順番で現場に入るよう手配されている──はずだが、どんどん狂ってくる。  とくにリフォームの場合、改築する場所の内部、つまり壁の内側や床下の構造がどうなっているか、開けてみなければわからないのが問題だ。  時間の経過による腐食、ときには最初の施工業者による手抜きなどが発見されれば、その都度手当てをする。それに時間がかかる。  屋内の一部を入れ替える工事は、何もないところに一から積み上げる新築の何倍も神経を使う。資材や工具を運ぶにも、既存の内装や家具に傷をつけないよう用心しながらだし、工事の過程で出るゴミや埃の掃除もまめに、丁寧に、静かに、速やかにやらねばならない。  そのうえ、施主の家族が次から次へと興味津々でのぞきに来ては、あれは何、ここはどうなっていると訊いてくる。子供が走り込んでくるのは、まだいい。面倒なのは、訳知り顔で首を突っ込んでくる大人だ。  まだ未処理の部分を取り上げて「ここのコードが垂れ下がっていると見場が悪いし、危険だ」「この角っこの、木材の間に隙間がある」と文句を言う。自分が施工の過程を何も知らない素人だという前提を、すっかり忘れている。  いちいち、辛抱強く「それはここからきれいにします」とか「建具というのは、少々の遊びが必要なんです。全部が組み上がったときに、ピタリと収まるようになってます」と説明すると、「あー、なるほどね」と曖昧な微笑を浮かべて頷くのだが、心から納得していないのがありありとわかる。興味が半分、手抜き工事をされはしないかという疑惑が半分の妙な関心の寄せようは、いずれ、テレビや雑誌で見た「リフォームで見違えるようになった我が家」とか「悪質業者のこんな手口」といった興味本位のよたっぱちを鵜呑みにした結果に違いない。  半可通の一般人くらい、頭に来るものはないな。  梨央は既に業者の側だから、プロらしく陰でひとりごちる。  ともあれ、このような事情でリフォーム現場では計算外の時間がかかる。だが、工期を設定するとき、そんなところまでは織り込まない。工務店のほうもそこらへんの事情を知らないわけではないが、あえて無視する。  現場の人間に多少の無理をしてもらうのはしかたない。そう割り切らねば、元請けとして効率のいい工期は組めない。時は金なのである。  こうして大工仕事のほうはブーブー言われながら辻褄を合わせてホッとしたのもつかの間、次に入るべき業者が時間通りに来ない。  電気工事や内装は大工のような一日仕事ではないだけに、他と掛け持ちをする。だが、その日はよそがあるから難しいとは、決して言わない。発注した時点で「うーん、なんとかしましょう。オーケーオーケー」と、実にアバウトな安請け合いをする。そして、悪びれもせず、遅れてやってくる。  内装がずれ込んで、システムキッチンが予定の日に入れられない。仕方なくキッチンの業者に連絡すると、できたから来て下さいと言われた日に搬入できるかどうかは不明だと言い出す。下請けはどこもぎりぎりの人数でまわしているから、融通がきかないのだ。  それなら、業者を替えればいいではないか。素人はそう考える。梨央も知らないうちは、そう考えていた。しかし、業界の仕組みはそこまで単純ではない。元請けといえども大きく出られないのは、安い料金で請けてもらっているからだ。  元請け下請けの力関係も、微妙なものだ。梨央は内側に入って、つくづく思い知らされた。ゼネコンならいざ知らず、鍵山工務店程度の中小元請けは、下請けを泣かせて自分だけいい思いをするというわけにはいかない。  資本家が労働者を搾取する、なんて、どこの世界の話だろうと思う。ほんとに、みんな、ぎりぎり一杯だ。  だから、一人の職人が電気もやれば内装もできる、大工もできるという多能型になるようにと業界では指導が進んでいるというが、実際の現場はそんなスーパー職人の出現を待ってはいられない。  現場監督は、職域の違う職人たちの調整に頭を悩ませる。そのうえに、施主の要求がかぶさる。  高い買物だし、完成図が目に見えてくるようになると、変更がきくうちにあれこれ言いたくなる気持ちは十分にわかる。だが、それにしても、うるさい。  増改築といえども、マイホームだ。施主の興奮度は半端ではない。クロスの模様、ドアノブの形といった細部で希望がころころ変わるのは、まだ可愛いほうだ。  鉤《かぎ》の手に曲げて小さい踊り場をつけた階段を螺旋《らせん》状にしたい。吹き抜けは冷暖房の効率が怖ろしく悪いそうだから、やり直したい。キッチンをカウンタースタイルにしたが、レストランじゃあるまいし、料理の匂いが家中に漂うのはいかがなものかと文句が出たから、やっぱりキッチンはキッチンとしてクローズさせたい。  こういうことを、できた形を見てから言い出す。  あるいは、目の前で何かができあがるダイナミズムに酔うせいか、胸に秘めていた夢を語り出す。  ベランダをもっと広いテラス式にしたい。ガレージがレンガ敷きにならないか。天窓をつけたい。部屋の半分をウォークインクローゼットに。屋上にガラス張りの展望風呂を。  いい加減にしなさい!  梨央は何度も、そう怒鳴りたいのをこらえなければならなかった。  そりゃあ、やってできないことはない。しかし、これなら払えるという改築費用の上限を指定してきたのはそっちでしょうが。こっちはその範囲内に収まるように計画を立ててるんですよ。それも、不景気な中で客の取り合いをしているご時世だ。薄い儲けに泣きながらの料金設定をしてるんです。  変更がきくったって、限度がある。しょうもない夢を語るために、いちいち呼び出さないでよね。  腹の中は煮えくり返るが、ぐっと我慢して「そうすると費用が」と、現実をつきつけてやる。  しかし、施主という冠をつけた人間は、なぜかやたらと威張るのだ。 「ちょっとくらいなら上乗せできるかもしれないし、どこかを削ってそっちに回すとか、できないかしらね。考えてみてくれない?」  ちょっとって、どのくらいですか。二万や三万じゃ、ききませんよ。建設にかかる費用は十万単位ですからね。わかってます? それもローンで払うんでしょう、おたく。  それにねえ、おたくがこだわってるのは、見かけの部分ばかりでしょう。見かけと使い勝手は違うんですよ。使い勝手が悪いから改築してるんでしょ。本来の目的から離れないでくださいよ。  はっきりそう言ってやれたら、どんなにいいだろう。そのくらい、施主の要求はどんどん浮ついていくのだ。  まさか、工務店が「落ち着きなさい」なんて意見するわけにいかないから、まわりに誰か冷静な人がいて注意してくれないかと思うのだが、施主の親戚や友人たちがまた、ベランダにジャグジーを置けだの、屋根裏部屋を作れだの、冷蔵庫も洗濯機もテレビも食器棚もチェストも、家具という家具を全部ビルトインにしてデコボコのない真っ平らな空間を作れだの、地下室をスタジオにしろ、いや、外国みたいに物置にしておいて、いざというときにはシェルターになるようにしたらいいだの、勝手な思いつきを吹き込んであおるのだ。  野次馬のやっかみがらみのタワゴトなのに、なぜか施主は真に受ける。そして、梨央が呼び出される。 「あのねえ、友達が言うんだけど」  施主になると、どんなに冷静沈着な人でも、どこかおかしくなる。家を建てる、もしくは造り替えるということで、脳内に興奮物質が異常分泌されるのだ。そうとしか思えない。  噛み合わない職人同士の都合をやりくりするだけで頭が一杯なのに、顔を合わせれば施主は要望だの質問だのを繰り出してくる。  たった三件の現場なのに、混乱させないように毎日、整理とチェックに追われるのだ。 「施主さんというのは、無理を言う生き物だと思っといたほうがいいよ」  工藤が教えてくれた監督心得の第一条だが、これほどとは思わなかった。施主とのコミュニケーション不足は山本に責任があると思っていたが、事実は違うのかもしれない。梨央の頭に、そんな考えが浮かんだ。  デスクワークだけで、梨央はそう思い込んだ。姫社長も、そうだ。そのうえ、山本は職人たちの評判もよくなかったから、すっかり悪者扱いしてしまった。  だが、職人から見れば、元請けは立場を利用して無理難題を押しつける非情な「上」だ。いい噂が出てくるはずがない。  小さな現場で気を合わせて働いている職人たちは、一息つくタイミングが一致する。たまたま居合わせた梨央にはわけがわからないうちに、いきなりふっと空気が緩んで雑談が始まるのだが、その中味のほとんどが他の施主や彼らの上司の悪口だ。  さすがに今の現場や鍵山工務店の話題は出さないし、全体に笑い話にして明るく愚痴っているから楽しげだが、梨央は自分の甘さを思い知らされた。実は、自分が監督になれば、現場に女っ気が加わって楽しくなったとか言って、みんなが張り切ってくれるのではないかとうぬぼれていたのだ。しかし、そんなご都合主義のテレビドラマみたいなことにはならなかった。職人たちは、文句や愚痴をどんどんぶつけてくる。  考えてみれば、雇われている人間は大概、雇っているほうに不満を持つものだ。梨央だって、ハイヤードリーム時代は五郎をはじめ社長や同僚、それからクライアントに心の中で文句ばかり言っていた。そういうものなのだ。山本に過失があるとしたら、身内ともいうべき鍵山の人間にさえ、何も言わなかったことだ。  このストレスを、どう処理していたの?  梨央は山本に訊きたくなった。  建設現場の魅力は薄れない。それなのに、行くのがつらい。この矛盾を解決できるのは、時間だけなのだろうか。  しかし、その時間がますます問題になってきた。ようやくひとつの完了が見えてきて、やれやれと思っていたら、別の現場が回ってきたのだ。新規注文があり、工藤がそこに回るから、玉突きで梨央が担当することになったと、姫社長にこともなげに通達された。  梨央はげんなりして返事ができなかったが、姫社長は何にも気づいてくれなかった。  そうしたら、これが前にも増してやりにくい現場だった。  裏庭の古い物置をつぶして、母屋と廊下でつながったこぎれいな離れにするという。それ自体、そう難しい工事ではないが、事情が複雑だった。大工や内装は鍵山が送り込む職人でいいが、電気工事は施主指定の業者にするというのだ。  今までは顔見知りの職人ばかりだったから、愚痴られながらも頭を下げてお願いすれば、ずれていく日程に合わせてくれた。そのために、鍵山でも出入りの職人に盆だ正月だと機会を作っては飲み食いの接待をしているのだ。  しかし、初めて組む相手とうまくやれるかどうか、梨央は不安でたまらなかった。  現場仕事は、職人同士の相性が大事だ。お互い、結果を出してなんぼだから現場で取っ組み合いの喧嘩なんかしないだろうが、流れがスムーズに運ぶかどうか、相性で大きな違いがある。  ひやひやしながら打ち合わせをしてみたら、これがなんとも感じが悪い。どうやら施主の親族らしく、梨央にはもちろん施主に対してもえらく高飛車なのに、何か弱みでも握られているのか、施主は苦笑するばかりだ。  悪い予感がするが、施主の直接注文ということで支払いも別なので、何かあったら責任は向こうにある。こっちはこっちの仕事をするだけだ。工藤は、そう言った。  案の定、梨央が引き受けてからも、内部の配線がまだだから壁を打ち付けられず、大工が無駄に手待ちをする事態となった。調整をしたくても、電気屋の携帯は「ただいま電話に出られません」と答えるばかりだ。  大工も、その後に入る内装屋のスケジュールもぎりぎりだ。ちっとも反応のない携帯を握ってあせりまくる梨央の横で、大工の津川が聞こえよがしのため息をついた。  津川は、工藤との付き合いが長い。梨央と組むのは初めてで、梨央がもたもたするのを眺めては、当てつけがましく煙草を吸いに出て「じっと我慢してやっている」ことを印象づけていた。  優しい人間ばかりじゃない。わかってはいるが、それでなくてもヘコたれているときだ。津川の態度は、梨央の心を鉋《かんな》で削るに等しい。 「こっちはちゃんとやってんだ。殿様商売に合わせてられるかよ。冗談じゃねえや」  ぶつぶつ呟いている。自分が怒られているわけではないのだが、梨央は身をすくめた。 「そんなこと、言わないで」というひと言が出ない。  施主は無理を言うものだ。笑いながらそう言う工藤なら、津川をうまく説得できるだろう。だが、梨央は立ち往生するだけだ。  進退|窮《きわ》まり、母屋に出張って、電気屋の返事が来ないので大工が困っていると施主に訴えた。施主は、迎合するような笑みを浮かべて「本当に申し訳ないけど、電気工事に合わせてスケジュールを組み直してくれませんかね」と、簡単に言った。  そうすると、他の職人との兼ね合いで全体に遅れが出る。「だったら、合わせられる人に頼めばいいじゃないか」ときた。  それをやると、元々頼んでいた職人と新しく頼む人と二重払いすることになる。既に冷静さを失いつつあった梨央は、料金が超過になってもいいなら融通は利《き》くと、はっきり言ってしまった。  すると、施主は「それはおかしい」と顔色を変えた。 「大工は他にもいるだろう。この不況だよ。仕事やりたい人間はたくさんいるはずだ。客のニーズに合わせて柔軟に対応できるように人材を集めておくのが、元請け工務店の仕事じゃないのかね」  相手が悪かった。よりにもよって、人材派遣会社の部長である。この手の理屈が商売道具だから、言い出したらきかない。 「おたくもプロなら、ちゃんとやりなさいよ」  その大声は、現場にまで筒抜けになるよう計算されたものだったのだろうか。  うまく言い返せず、しおれて現場に戻ってみると、津川がひとつ舌打ちをし、ビス打ち工具のインパクトをふるって、あっという間に壁を打ち付けてしまった。  そして、茫然と見守る梨央に「電気屋だったら、壁をはがしてまた打ち直すくらいのこと、できるはずだ。自分のケツは自分で拭かせろ」と捨て台詞を残し、大股で立ち去った。  梨央はせっぱ詰まった。  携帯で棚尾を呼び出すと「時間があったら、あたしが行ってやってあげるんだけど、今無理なんだよ。梨央ちゃん、ビス抜くくらいならできるだろう。壁板はがして、電気工事を明日中にすませるように頼んでごらん」 「だけど、明日、土曜日ですよ」  思わず、渋る声が出た。  土日は、よほどのことがない限り工事は休みだ。それでなくても根性の悪そうな電気屋が、休日に出てくるだろうか。 「スケジュール無視してるのは、向こうのほうだろう。施主さんから言ってもらえばいいよ。それから、津川さんに月曜の夕方、他の現場が終わった後にでもちょっと来て、打ち付けるのだけやってくれって頼むんだよ」 「月曜は、朝からクロス屋さんが入る予定なんです」 「だから、それは一日ずらしてさ」 「もう一回ずらしてるんですよ。月曜はずしたら、三日後になるって」 「クロス貼りが三日遅れるくらい、いいんじゃないの。施主さんに話してごらん」 「リフォームすませてから海外旅行に行くように、スケジュールが決まってるんだそうです」 「だったら、戻ってきてからにさせてくれって言えばいい」  そうなったらなったで、そっちに合わせてまた職人たちの都合を聞いて回って調整しなければならない。梨央は泣きたくなった。  このところ、毎日そればっかりやっているのだ。横になって寝ようとしても、いつ、誰をどこに回すか考え、それを調整するために工藤や他の工務店の人たちと折衝する、その言い回しのあれこれが頭をよぎる。  それでなくても溜まっていたストレスが、気体から固体に変化していくのが体内感覚でわかる。胃が石になった。頭もキンキンする。担当している現場が錯綜《さくそう》して、どれがどれだかわからなくなりそうだ。  それでも、前に進まなくてはならない。  棚尾の言い分に頷き、お腹に力を入れて、壁板をはがすから明日中に電気工事をすませるよう、そちらから指令してくれと施主に交渉した。  スケジュール通りに進めるためには、それしかない。延期になれば、施主の海外旅行計画はパーになるし、近所迷惑が長引くことを改めて挨拶して回らなければならない。こちらの事情ではなく、向こうの都合と近所迷惑を錦《にしき》の御旗《みはた》に掲げて、脅した。施主はコロリと軟化して、電気屋に必ずそうさせると約束した。  そして、現場に梨央が残された。  外はもう夕暮れで、壁のフックに引っかけた工事用ランプが、いまだ掘っ立て小屋のごとき現場の模様を明々と照らし出した。  壁に打ち付けられているのは、薄い合板ボードだ。図面を見て、電気配線をするところだけはがせばいい。図面も工具袋も、パソコンバッグの中にある。インパクトでビスを打ち込んだり抜いたりするやり方は、廃材で練習したから知っている。  だが──。  失敗したら、どうしよう。この壁は練習台ではない。本物の家だ。ボードを穴だらけにしたら。うまくはがせず、ひびでも入れてしまったら。不安がどんどん湧いてきて、とても勇気が出ない。  携帯で徹男を呼んだ。 「工藤さんにかけようと思って、間違えちゃった」  そう言い訳した声に、泣きが入った。 「どうかしたか」 「困っちゃって」  涙声で事情を説明した。見栄もプライドもない。誰かにすがりたかった。 「ビスを抜かなくちゃいけないんだけど、怖い」  怖じ気づいたのを知られるのは恥ずかしいが、もう張るべき意地そのものがない。梨央は携帯を握りしめ、しゃがみ込んでシクシク泣いた。 「その現場、外から入れるか」  徹男が落ち着いた声で訊いた。  来てくれるのか。期待で気が緩み、洟をすすりながら、裏口の鍵が開いていることを告げた。用が済んだら、母屋の施主に声をかけて中から施錠してもらうことになっている。徹男は十分以内に行くからと、すぐに電話を切った。  梨央はインパクトのバッテリー残量を確かめ、図面を床に広げた。それ以上、すべきこと、できることを何も思いつかない。情けなさとあせりでこみあげそうな涙を叱っては押し戻し、裏口と現場の間をうろうろしながら、待った。  やがて、オートバイのエンジン音が近づき、止まるのが聞こえた。長く感じたが、時計を見ると電話を切ってから八分後だった。たまらずスチールドアを開けると、ヘルメットをむしり取った徹男が振り向いた。そして、梨央が何か言う前に、横を通り過ぎて現場に入った。 「図面は」  言われて、床に広げたままだった図面を渡した。徹男はジャンパーを脱ぎながら、受け取った図面に目を走らせた。そして、インパクトを拾い上げると同時にジャンパーを梨央の肩にかぶせた。  徹男の体温が残っているせいか、炬燵に首までもぐり込んだような温かさに包まれた。ぶっきらぼうな思いやりが嬉しいと同時に、気遣わせてしまった負い目が恥ずかしくて、梨央はうつむいてジャンパーの襟をかき合わせた。  徹男はそんな梨央に一瞥もくれず、ボードの表面を平手で一度撫でるや、短いモーター音を連発させて、あっという間にビスを抜いた。そして、慎重な手つきで縦長のボード一枚をはがし、そっと床に横たえた。同様にはがした二枚目は、表面に汚れがつかないように、裏返し、静かに一枚目と表を合わせる。  職人が新しい資材を扱う手つきは繊細だ。重ね合わせるときも持ち上げるときも、息を詰めて集中し、ほとんど音を立てない。大事な商品なのだから当然といえば当然だが、梨央の目にはやはり、彼らが資材をモノではなく生命のある何ものかのように感じているからではないかと思える。  普段、足場に使う頑丈な鋼管を力で束ねているトビ職の徹男が、大工と同じように音を立てずにボードを重ねるのを見て、梨央は嬉しくなった。  この人も、丁寧な仕事をする人なんだ。  徹男の身体から、集中する人間のオーラが出ている。梨央は見とれ、彼のジャンパーの襟を顔に引き寄せて、温もった空気を吸い込んだ。スチールと埃が混ざったような、野天現場の匂いがした。  抱かれたら、こんな匂いがするのかしら。うーん。恍惚。  はがした三枚のボードの上にカバーを掛け、腰を伸ばした徹男が振り向いた。梨央はあわてて、ほとんど頬ずりしていたジャンパーから手を放し、真剣な表情を繕った。 「ここまですることはないだろうけど、人によってやり方が違うから広めに開けとくよ。明日、電気工事がすんだらすぐ打ち込もう」 「明日も来てくれるの?」  期待で一杯の子供っぽい甘え声が出た。 「ああ、すぐすむから。やりっ放しで蓋をしてない現場ってのは、嫌なものでね。やらないと、気になって眠れなくなる」 「助かります。ありがとう」  梨央は深々と頭を下げた。  徹男はニコリともせず、「施主さんに挨拶して、早く引き上げよう。工事関係者が用もないのにダラダラ居残るのは迷惑だ」と言い、床面に目を走らせてゴミや木くずをチェックした。梨央はあわてて、クリーナーを使った。  明日、電気工事が終わり次第、知らせてくれたら壁打ちに来ると告げると、施主は目尻を下げた。 「すみませんねえ。電気屋のほうは私からよく言っておきますから、よろしくお願いします。できるだけ、五時前に終わるようにね。お互い、せっかくの週末ですものねえ」  居直ったときの憎たらしい高慢な表情が嘘のように、温厚そうな笑顔でそれとなくわがままを言った。  外に出たとき、梨央は手に抱えていたジャンパーを徹男に返した。徹男は受け取らず、ヘルメットをいじりながら「飯、どうする」と低く訊いた。  やった。初めてのお誘いだ。 「て、て、徹男さん、まだなら、お礼にごちそうさせてください」  チャンスの前髪、逃がしてはならじと勢いこんだせいで舌がもつれた。おまけに、田所さんではなく、名前を呼んだ。  やだ。なれなれしすぎると嫌がられないか。梨央はひやりとしたが、徹男の態度は変わらずぎごちない。こっちを見ずに、なんとなくシートのゴミを払ったりしている。 「そんなのは、いいよ。小汚い定食屋でよければ、行くから後ろに乗ってくといい」 「──はい」 「それ、着とけよ。バイクの後ろは寒いから」 「はい!」  またしても、嬉しさ丸出しの明るいお返事が出た。虫がよすぎる。いつにも増して自意識過剰になり、一人で照れまくる梨央にヘルメットが差し出された。  ここで目をパチパチさせて戸惑うと、可愛い子ぶってるようでみっともない。梨央はテキパキとヘルメットをかぶり、バッグを斜めがけして背負うと、勇ましく後部シートにまたがった。それから、徹男の腰に両手を回し、思いきりニヤケた顔を大きな背中に押しつけた。     3  さっきまでの泣きべそはどこへやら。定食屋の年季の入ったテーブルで向かい合い、徹男と同じもの(豆腐とワカメの味噌汁、ブリ大根、きんぴらコンニャク、ソーセージとタマネギの炒め物、ポテトサラダ、それに丼飯)を食べる間、梨央は幸福で舞い上がっていた。  調子に乗り、現場監督の大変さ、自分の非力を笑い話にしてしゃべるうち、自然と施主なるものの理不尽さにまで話が及んだ。  職人たちは、いつもこんな調子でぼやいている。徹男も笑って同意してくれると思った。だが、違った。  食べ終わり、出がらしのお茶を飲む段階になって、徹男はテーブルの角あたりを睨み「手伝ったから威張るわけじゃないけど、この際だから言わせてもらう」と、低い声で切り出した。  梨央のご機嫌気分が、いっぺんにしぼんだ。  まずった。まぎれもない失態を演じたのに、笑ってごまかそうとした。いい気なものだと怒ったに違いない。どうしよう。  唇を噛んでうつむく梨央に、徹男は言いづらそうに顎のあたりをかき、「鍵山さんが決めたことだから、あんたには責任はないだろうけど」と前置きして、意見を言った。  きょうのような事態は、しょっちゅう起こる。だから、現場監督は手戻りがひどくならないよう、ちょっとした大工仕事くらいはできたほうがいい。少なくとも、図面くらいは読めないとまずい。  現場仕事のうち、できないことのほうが多い監督で、職人たちを仕切れるものだろうか。うまくいってない箇所を見つけられるか?  今、鍵山工務店に出入りしている職人は信用できる人ばかりだが、どこの世界もいい人ばかりではない。大体、職人というのは、仕事の良し悪しがわかる人間に見られると思うと自然に性根が入るものだが、反対に素人が相手では、どうしても気が抜ける。手を抜くとまではいかなくても、自分の都合で勝手をやる者は出てくる。  確かに、俺らも現場をやりながら勉強しろと言われてきたし、そうしてきた。でも、それができるのは、最低限の知識や技術があってこそだ。体力や腕力もいる。資材廃材を運ぶ力仕事もこなせたほうがいい。この頃ぼちぼち出てきている女の職人は、男ほどの量を運べないにしろ、そういうことを甘えずにちゃんとやっている。  持ち分をきちんとこなそうとする姿勢があればこそ、他の職人も手助けする気になるのだ。監督だからといって、自分は手を出さず、ふんぞり返って命令だけする人間ほど職人に嫌われるものはない。  梨央がそういうタイプではないことは百も承知だが、今の梨央は逆にひ弱すぎる。何かしようとして怪我やヘマをされたら困るから、職人たちのほうが気を遣う──。  梨央のできなさ加減を、よほど見かねたのだろう。訥々《とつとつ》とではあるが、口ごもることもなくそこまで話し、徹男は目をしばたたかせた。 「あんたが建設の仕事に真剣なのはわかるし、嬉しいと思うよ。でも、こんなことが続くのは、あんたにとっても鍵山工務店さんにとっても、いいことだと思えないんだ」  きついことを言って気が重くなったらしく、徹男はうなだれてため息をついた。 「わたしも、このままじゃいけないと思ってます」  梨央のほうは、できるだけしっかり答えようと姿勢を正した。  徹男の指摘は正しい。だから、すいません、心を入れ替えて頑張りますと言えばいいのか。それとも、じゃあ、やめます、か?  どちらも言いたくなかった。心を入れ替えてすむ問題じゃない。やめるのは、絶対に嫌だ。  やりたいと言って飛び込んだのに、無理でしたと尻尾を巻くなんて、そんなことしたら、この先どうしたらいいかわからなくなる。二十歳そこそこならまだしも、三十でそんな半端な逃げ方をしたら、自分を許せない。 「現場に入って、ますますこの仕事をちゃんとやりたい気持ちが大きくなりました。だからこそ、できないこと、わからないことだらけの自分がもどかしい。わたし、本気で勉強したい」  そんな時間を作れるかどうか不明なのに、梨央はそう言っていた。  紹介した責任がある。徹男はかつて、そう言った。その彼に、恥をかかせるつもりはない。この世界に踏みとどまりたい。その意志を示したかった。  それにしても、徹男の言うことは説得力がある。このまま、姫社長にぶつけようと思いついた。  最初に意見を採り入れてもらったせいか、あるいは「わたしだって素人だ」と本人が認めているせいか、梨央は姫社長には気後れを感じない。現場の声には、お互い耳を貸すべきだ。そう提言したら、あっさり納得しそうな気がする。  現場監督にはもっとちゃんとした人を雇うよう、進言しよう。そのほうが会社のためだ。工藤に聞いた話では、リストラした結果、いてほしい人員まで辞めてしまったそうだ。ならば、あと一人雇うくらいの余裕はあるはずだ。  そして梨央は、初心者らしく基礎のデスクワークに戻ろう。ポジションとしては、社内の仕切り役、つまり時江のサポートをしながら、傍らで施工管理の勉強をする。そうすれば、やがて現場もデスクワークもこなせるスーパー建築ウーマンになれるはず。今、半端な自分が無理をして事故を起こすよりは、そのほうが建設的だ。  ワオ。建設的って、いい言葉。建設業って、未来産業なのね。このアイデアに重ねて、先行投資と人材育成こそが会社経営の王道じゃないですか、くらい、言ってやろう。  頭がめまぐるしい勢いで動いた。目の前が、どんどん明るくなっていく。一石二鳥というか、一挙両得というか、できないことをやらされている苦しさと不安から逃れられるうえ、未来に希望を持てる方法が見つかった。素晴らしい!  徹男の忠告のおかげだ。やっぱりこの人は、わたしのヒーロー。梨央は晴れ晴れと徹男を見上げた。 「言ってもらって、よかった。目の前のことで頭が一杯になって、初心を忘れてた。一年生なんだから謙虚になって、しっかり勉強しないとね」  健気《けなげ》、かつ大人らしいことが言えたと満足し、笑顔を向けたが、徹男の顔を見てぎょっとした。  先ほどまでの説教ではあらぬほうに目をやってボソボソしゃべっていたのに、今、彼は厳しい眼差しで梨央をまっすぐ見ている。  え、何? どこに問題がある?  梨央は内心、真っ青になった。     4  家というのは、服や靴とは違う。自分のものにしようと思ったら、二十年三十年という長期ローンを組まなければならないほどの金がかかる。言ってみれば、建設業者は一人の人間が一生をかけて手に入れるものを作っているのだ。  腹の立つことはたくさんあるが、そのせいで仕事をおろそかにするようになったら、見えないところで手を抜こうと思えばいくらでもやれる世界だから、なしくずしに腕が、つまり心がけが落ちていく。  家は生活の基本だ。家づくりに携わる人間は、自分たちがやっている仕事の価値をちゃんと根っこに据えておかなければならない。 「──て、言ったのよ。素敵でしょう」  梨央はほてる頬に両手を当て、思うさま身もだえした。 「立派過ぎ。鼻につく」  実咲は冷たく言い放つと、フォークで大きく切り取ったショートケーキを頬張った。  徹男の手助けで難題を乗り切った翌週の日曜日、梨央は実咲の家を訪れた。のろけるためだ。  実咲のほうも、梨央が久しぶりに話したいと言ってきた気持ちを察して、亭主に子供を連れ出させ、二人きりでのびのびできるように計らってくれた。  徹男の言葉を批判されても、梨央は怒るどころか、いっそうデレデレした。実咲が梨央に共感してくれないのは、いつものことだ。鍵山や徹男の周辺に何の関わりもない実咲だから、心おきなく思いの丈を洗いざらいさらけ出せる。そうやって思い返す徹男の言葉や仕草のひとつひとつは、いつまでも減らない飴のようにしゃぶってもしゃぶっても甘い味がして、舌がとろけそうだ。 「だけどさあ、わたし、ほんとに生意気になってたんだ」  仕事がスムーズに運ばないことで苛立ち、施主のわがまま勝手を恨んだ。自分たちに支払う金を、彼らがどんな思いで積み重ねてきたかに思いを馳せなかった。彼らが家に懸ける夢を逆恨みで笑い話にした。好きにしたけりゃ、それだけのお金を出してよねと、心の中で突っ込んだ。ドアの取っ手を金メッキにするか、ウッドにするか、迷いに迷うのを見て、どっちでも似たようなものじゃないかと陰で嗤った。  だが、徹男の言うとおり、ちょっとしたリフォームでも費用は十万を超す。普通の社会人にとって、たやすい出費ではない。  梨央は定食屋のテーブルで深く頭を垂れ、徹男に心得違いを謝った。すると徹男も、あわてて頭を下げたのだった。 「俺もえらそうなこと言って悪かったって、すごく照れるのよ。その後もずーっと、気にしててさ。なんか、ぎごちないのよ。もう、可愛くって。えらそうなこと言うのに、慣れてないのよね」 「前の男とは、そこが違うわけだ」  実咲は皿にこぼれた生クリームをフォークでこそげとりつつ、にやける梨央に軽いジャブを放った。 「だけど、前の男のときは、そのえらそうな言葉にいちいち感動してたよね。それって、あんたのパターンじゃん。惚れたら、なんでもよく見えるのよ」  梨央はポカンと口を開けて、実咲をまじまじと見つめた。 「お、ツボにヒットしたか」  実咲はニヤリと笑ったが、すぐに「ま、いいんじゃない。王子さまに見える間は、その気になってれば。いやでも、目が覚めるときは来るんだから」と、クールにフォローした。  だが、梨央が茫然としたのは、痛いところを突かれたからではない。  五郎のことを、すっかり忘れていた。そのことに、自分で驚いたのだ。  五郎とは、ハイヤードリームを辞めて以来、すっかりご無沙汰だ。向こうがどんな気持ちでいるかはわからないが、梨央に関して言えば、切れているのかいないのか不明ながらそれなりに続いていた彼への想いが、いつのまにか消えてなくなっている。  そうなってみると、かつての熱情が我ながら嘘のようだ。一時は家に戻っていく五郎の背中を窓から見送るとき、カーテンを握りしめて涙にくれるほど好きだったのに、今では、なんであんな男に入れ込んでいたのかと自分で首をひねっている始末。五郎との関係ですり切れてできた傷が数々あったのに、もうチクリとも痛まない。  確かに、五郎はもう完全に「前の男」と化した。終わってしまったのだ。  これだから、怖いのだ。  五郎は妻がいながら、梨央と付き合った。だから、薄情さにかけてはお互い様だ。そう思いはしても、徹男に夢中の今、引き比べて五郎をどんどん卑小に貶《おとし》めていく現金な自分に、梨央はかすかな不安を覚える。  徹男への気持ちは、本物なのか?  自分は徹男を偶像化している。おそらく、五郎に対して、そうしていたように。  女も三十ともなれば、自分で自分に仕掛ける心のからくりが読める。だからといって、走り出した気持ちにブレーキをかけるのは難しい。実咲に彼とのことを話すのは、自分の愚かさに冷水をかけるためでもある。  ああ、しかし、今は何を言われても火に油を注ぐばかりだ。だって、好きなんだもん。 「知性が自慢の男は心の中味がスカスカだって、前の経験から学んだのよ、おかげで、本当の男に目覚めたんだわ。こういうのを、進歩っていうのよ」  梨央は威張って、言い切った。 「目新しいからよく見えてるだけって気がするけどな。知性派のあとが肉体派ってのも、ありがちだしさ。そいつ、バツイチなんでしょう。子供がいるのに別れたってことは、結婚に向いてないのかもよ」 「あれは、相手が悪かったのよ」 「はいはい、そうでしょうとも。いいお相手にめぐり逢えて、よござんすこと。言っとくけど、結婚したらどっちだって同じだよ。旦那には、知性も肉体もない。そこがつまんなくて、でも、疲れなくていいところ」  実咲は独身時代、けっこう男を転がして遊んだ挙げ句に結婚したせいか、三十そこそこで悟ったようなことを言う。 「結婚なんて、そんなことまで考えてません」  梨央は反射的に言い返した。 「へえ、じゃあ、その男とはどうなりたいわけ。わたしを高めてほしいの、かなんか言ったら、張り倒すよ」  徹男と、どうなりたい?  梨央は返事に窮した。  愛されたい。愛し合いたい。でも、それだけ? いずれは冷める恋の一時期を過ごせたら、いいの? それともやっぱり、結婚して一緒に暮らしたいんだろうか。  徹男の心には、バリアが張ってある。  説教された翌日、徹男と梨央は現場の壁打ちに連れ立って行った。徹男がビスを打ち込む間、梨央はその手元を観察し、終わると素早くクリーナーを使って後始末をした。  そして、定食屋では割り勘だったから今度こそ礼をさせてほしいと頼み込んで、徹男を夕食に誘った。徹男が指定したのは回転寿司だった。  そこで並んで食べるときは、徹男もくつろいで冗談交じりに仲間の噂話を聞かせてくれた。梨央に説教をしたのが気にかかり、なんとか埋め合わせをしようと努めているようだった。  帰り道、歩きながら、梨央は徹男の言葉に感銘を受けたと率直に伝えた。 「わたし、改めて、この仕事についてよかったと思ったわ。気まぐれや流行《はや》りすたりでお手軽に手に入れて、飽きたらポイと捨てられるようなものじゃない。人が一生をかけた願いを預けられるなんて、それこそこっちの一生をかけるのにふさわしい仕事だし、心を込めなくちゃいけないと思った。徹男さんにはほんと、教えられるわ。これからも、どんどん叱ってください」  立ち止まって、頭を下げた。顔を上げると、徹男は苛立たしげな渋面を作っていた。 「そんなに持ち上げないでくれないかな。俺だって、いつもそういう心がけでいるわけじゃない。鍵山さんのところがバタバタになってるって噂になってるから、俺が噛んでるのにひどいことになったら立場がないと思って言ったんだ。早い話が、自分のメンツを守るためだ」  そして、かすかに苦笑した。 「俺のこと、あんまりいいように思い込まれるのは困る。俺は、あてになるような人間じゃない」  唇に浮かんだのは、自嘲の笑みだ。梨央を嫌悪し侮辱する冷笑ではない。離婚が徹男を臆病にしている。女が愛を掲げて彼を振り回すのを怖れている。  あてになんか、してないわ。ただ、好きなだけ。心の中でそう言って、梨央はカラリと笑った。 「徹男さん、真面目ね。真面目の上にクソがつく。せっかく人が感動してるんだから、ほっといてくださいよ。わたし、この世界で頑張るわ。そして、きっと徹男さんに仕事発注する側になって、恩返しする」  そうなったら、俺のことをあてにするななんて、絶対に言えないでしょう?  男と女は、五分五分だ。あてにするとかされるとか、そんな依存関係で結びついたって、結局はお互いの重みでグズグズの共倒れになるだけだ。わたしは、強くなる。あなたと同じ世界で生きるために。そしてあなたに、認めてほしい。たいしたもんだ、話が通じる仲間になった、よくここまできた、と。  徹男には、仕事の世界がすべてなのだ。狭いと言えば、確かに狭い。だが、奥が深い。  家は生活の基本だ。俺たちは、人が一生をかけるものを作ってる。その重みを、腹の根っこに据えておけ。  確かに、立派すぎる言説だ。でも、本当のことだ。自分もその志をもって働きたい。そんな風に生きていきたい。  梨央にはいまだに、建設業への興味と徹男への関心と、どちらの比重が重いのかわからない。徹男が好きだから、建設をやりたいのか。徹男と建設業が込みになっているのか。どちらにしろ、しんどくてきついけれど、入ったばかりの建設業から抜け出る気持ちは、まだ微塵《みじん》もない。  ここに、何かがある。自分を生かす何かが。その直感を信じたい。そして、その何かをつかんだら、それはきっと、徹男のバリアを飛び越すジャンプ台になるだろう。  そのためには、なんとかして、この世界に踏みとどまらなきゃ。 「梨央。ケーキ食べないんなら、引っかき回すの、やめてくれない? 旦那にやるからさ」  実咲に言われて目を落とすと、ショートケーキが土砂崩れを起こしていた。 「旦那のは、さっき冷蔵庫に入れたじゃない」 「甘いもの好きなのよ、うちのは。身体使って働く人間は、酒も飲むけど甘いものも食べるの」  実咲の亭主は、中学校の体育教師だ。あんたも覚えときなさいと実咲に言われ、ピンとひらめいたことがある。梨央はフォークを投げ出して、腰を上げた。 「全部あげる。わたし、行くとこ思いついたから、きょうは帰るね。いろいろ、ありがと」  バタバタ帰り支度をする梨央を見て、実咲は鼻を鳴らした。 「恋する女は忙しいってね。あーあ、わたしはいつ、そういう暮らしにカムバックできるんだろ」  だが、梨央は返事をしなかった。友達甲斐がなくて申し訳ないが、それどころではない。あんたは亭主と子供をお大事に。こっちは、道のないところに道を切り開かなければならないのだ。  表に出た梨央は、辛抱できずに携帯を構えた。呼び出し音を数えながら、目を閉じて祈った。  神様、どうか、この道が行き止まりではありませんように。わたしという人間の増改築計画が企画倒れになりませんように。 [#改ページ]   その4 マイ・カンパニー     1  街が浮かれている。十二月だからだ。  クリスマスを祝え。お歳暮は贈ったか。忘年会はどこでやる。諸人《もろびと》こぞりて金を使えと、けしかけている。 「あー、うるさい」  渋滞車列のど真ん中。郷子は無意識のうちにハンドルを指で叩き、声に出して街を叱りつけた。  普通の会社なら年末なりの締めくくりがあって「休みに入っちゃうもんですから、二十日までにこの件なんとかお願いしますよ」「正月休み返上しますから、年明けまで待ってもらえませんか」などというやりとりが、年の瀬のせわしなくもどこか華やいだ気分をいやがうえにも盛り上げるのだろう。  だけど、建設業者はね。年をまたぐ仕事ばかりで、そう簡単には締めくくれないのよ。  そうは言っても、職人は正月休むのよね。そりゃ、正月休みにトンテンカンテンは近所迷惑だからできない道理だけどさ。休まずやってくれたら、仕事のはかがいくのになと思わずにいられない。でも、そんなこと言えやしない。それどころか、鍵山主催の忘年会でご馳走して「ご苦労様でした。来年もよろしくね」と笑顔を振りまくのも社長の任務だ。  もちろん、取引先へのお歳暮は欠かせないし、付け届けは御法度のお役所にもそれとなく「ご挨拶」しなきゃいけない。年賀状ときた日には、一体何枚印刷するものやら。そこらへんの仕切りは女帝に任せているけれど、誰にいくらくらいの何を贈ったとか、年賀状の送り先に目を通し、それが誰であるかの確認はしないとな。  社長になると、付き合う人間の数がめちゃめちゃ増える。勉強会でも落成式でも葬儀でも、仕事の関係者が集まればそこは名刺交換会と化し、片手でつかみきれないほど大量の名刺が集まる。大事な人のは区別できるように角をちょっと折っておく、なんていう隠し技を女帝に教わったが、見ているとみんなやっていた。そうなると、自分の名刺がどんな扱いを受けるか気になって、ニコニコ会話しながらチラチラ相手の手元を盗み見るようになった。  社長って、ほんと、気苦労が絶えないんだから。  通りを歩いていると、向こうから見覚えのある人がやってくる。誰だったっけ、なんてぼーっとしてちゃいけない。すかさず笑顔で駆け寄って「いつもお世話になっております」とか「この間はどーも」と頭を下げる。こういうことが、ほぼ自動的にできるようになったんだから、わたしもエライ。  話しているうちに誰だったか思い出せるんだもの、もっとエライ。脳みそフル回転してるんだなあ。誰か、ほめてよ。  じゃないと、限界。  渋滞を抜けて、社に戻る。たちまち「あの現場が」「施主が」「職人が」トラブっている報告が雪崩《なだれ》を打って押し寄せる。そんな毎日なんだから。  そして、ようやく日曜の朝。  というより、きわめて昼に近い午前十一時。どんよりと起き出して、パジャマのままダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいると、早知子が向かい側に座った。 「洗濯しといた」 「ありがと」  新聞から目を離さず、おざなりに感謝した。視線を感じる。ああ、もう。郷子は新聞の陰で舌打ちし、早知子の正面を向いてきっちり頭を下げた。 「どうも、ありがとう」 「そんなことより、話あるんだけど、いいかな」  言い方が怖い。眉間に皺があり、口は真一文字に引き締められている。  どちらかというとパパっ子で、よその母と娘のように仲良く一緒に買物したりおしゃべりしたりしたことがなかった。むしろ、母親を見下すような批判的な態度を隠さない、付き合いづらい娘だった。  丸二日陣痛が続いて、明け方に死ぬ思いでこの身体から押し出した。あのときは感激した。元気というより押し殺した悲鳴のような産声のありがたさ。そっと触れた人差し指を握り返してきた小さな手の思いがけない力。何もかもが奇跡のようで、涙が止まらなかった。生まれてきてくれて、ありがとう──と思った。この子のためなら、なんでもすると思った。  それが今じゃ、この子と自分にどこか似たところがあるんだろうかと、産んだことまで信じられなくなってくる。 「なんか、改まって言われると緊張するじゃない」なんて、笑っておもねるのがようやっとだ。相手をするのが、他人より難しい。 「わたし、来年四年生になるんだけど、知ってた?」  顎をあげての切り口上。なんでこんな、厭味ったらしい言い方をするんだろう。 「……知ってるわよ。誰が学費払ってると思ってるの」  威張ったのは狼狽《ろうばい》を隠すためだ。すっかり忘れていた。四年生。もう? ということは。 「就職活動、もう始まってるのよ。情報集めに先輩訪問。フリーターにはなりたくないもの」 「そうよね。やっぱり正社員がいいわよ」  またしても、衝突を避けんがための通り一遍の返事が自動的に排出された。とりあえず、きちんと将来を考えているだけでもいいことだ、よかったよかったと、無理やり安堵を先立たせる。だが。 「でね。鍵山工務店に就職しようかと思ってるんだけど」  すらっと言われて、郷子は反射的に口を開け、すぐにつぐんだ。あからさまな当惑に、早知子はむっとした。 「なによ。まさか、女の仕事じゃないなんて言い出すんじゃないでしょうね」 「そうじゃないけど、あんたがうちの仕事に興味があるなんて思ってなかったから」 「家を作るんでしょう。これ以上、クリエイティブな仕事ないと思う。興味あるわ」  クリエイティブ。そんな風に思ったことはない。少なくとも、社長業をやっていてその種の実感を得たことはなかった。 「そんなカッコいいもんじゃないわよ」心底うんざりという声が出る。ため息も混じった。 「カッコよさなんか、仕事選びの基準にしてないわよ。若いやつはみんなそんなもんだって決めつけないで」  早知子はピシャリと言った。それはそれは。失礼しました。 「でもねえ」  どう返事をすればいいのか。口を濁して目をそらすと、早知子の態度が軟化した。 「会社、なにか、問題あるの」 「あるといえばね」 「あぶないの」  二人だけの家なのに急に声を落とすところがいかにも不安そうで、郷子は思わず笑った。 「あんたを大学出すくらい、大丈夫よ」 「でも、就職はさせられない?」  郷子は娘と正面から見つめ合った。大学三年。来年は二十二だ。大人扱いしたら大人になってくれるなら、そうしなきゃ。 「合併しないかって言われてるの」 「どこと」 「玉島建設。メインバンクが同じで、規模も同じくらい。歴史は向こうの方があるけどね。ゼネコンの下請けで鉄骨を主にやってて、今は古いビルを再生させる事業を展開してる。うちは個人の家を建てるほうにシフトしてるから、補い合えばいいんじゃないかって。建設業の再編は自治体の方針で、合併推進のために支援策打ち出してるのよ。それ狙い」 「支援って、どんな」  郷子は、早知子に開いた新聞記事を見せた。早知子は眉を寄せて読み下した。 「ごめん。よくわからない。どんなメリットがあるの」 「わたしも実は、よくわかってないんだけど」  郷子は率直に前置きして、ざっと説明した。  建設業界には、建設業法で定められた客観点数と呼ばれる格付けがある。財務体質、技術レベルが数値化され、公共事業入札参加資格の基準になる。いわばお上のお墨付きで、合併すればその数値が一〇から一五パーセント加算されるのだ。  建設業者は数が多い。日本の就労人口のうち、十人に一人は建設業に携わっているといわれるほどだ。どんぐりの背比べみたいな家族経営の小さいのがゴロゴロしているよりは、大きいところが数社並び立っているほうが行政側が管理しやすく、過当競争による低賃金化、就労条件の悪化を防げるという大義名分もある。 「でも、合併ってうまくいかないみたいじゃない。それまで商売|敵《がたき》で違いを出そうと必死になってたのが、急にひとつになろうなんて無理があるわよ。業界の三位と四位くらいのがひとつになって、これでトップになるなんてぶちあげておいて、結局破談になりましたなんてのばっかりだし」  早知子は旅行会社や製薬会社の名前を挙げた。さすが就職を口にするだけあって、それなりに勉強しているらしい。 「でも、建設はやってることが同じだからね。他業種よりは無理がないんじゃないかな」 「ママ、合併する気なの」早知子は責める口調で言った。 「合併って、つまり、鍵山工務店がなくなるってことでしょう。おじいちゃんが作った会社、つぶすの。それでいいの?」 「歌舞伎役者じゃあるまいし、親の仕事を継承する義務はないわよ。それでなくても、社長の世襲は評判悪いんだから」 「もう決めてるような口ぶりね。みんな知ってるの。棚尾さんや日比野さん。それに、おじいちゃん。みんなに相談した?」  郷子は早知子の手から新聞を取り戻し、難しい顔で見直した。娘の視線から逃れるためだ。早知子のほうは、ますます突き刺すように見つめてくる。  追及するのは、楽よね。郷子は記者にマイクを突きつけられた総理大臣の気分だ。だんまりを決め込む。やがて早知子は横を向き、当てつけがましく大きなため息をついた。 「ママはいつもそうよ。自分が耐えられないと思ったら、まわりの人間の気持ちなんか全然考えずに投げ出しちゃうのよ」 「……あんた、離婚したこと、怒ってるの」 「怒ってるよ」  やめてよ、今さら。忘れていた罪悪感を引っ張り出され、怒りなのか情けなさなのか、どす黒いものがこみあげてきて胸焼けに変わる。  どうせ、みんな、わたしが悪いのよ。不覚にも、泣きそうになった。ティッシュをつかんで鼻を押さえていると、今度は早知子のほうがバツ悪そうに横目を使った。 「ママだけにじゃない。パパにも怒ってる。パパがしたことは許せない。ママが我慢する必要はないと、わたしも思う。だから、仕方ないんだとわかってる。わかってるけど、こんなことにしてしまった二人のこと、怒ってるよ。克服しようと努力中」 「そう」  だったら、さっさと克服してよね。つらいのは、あんただけじゃないんだから。こっちは、罪悪感だけでも十分罰を受けてるんだ。そう言いたいのを我慢する。あー、大人って大変。  そっぽを向いて、その場つなぎに新聞を読むふりをした。 「だからね」  早知子は一転、子供をなだめるように優しく声をかけた。 「離婚のことは、もういいよ。だけど、会社のことはさっさと決めないで。わたし、今の大学は入りたくて入ったところじゃない。合格したからよ。それなりに楽しかったけど、時間はただなんとなく過ぎていっただけ。仕事は、なんとなくで選びたくない。こういうの見ると」  テーブルに置きざらしの建設雑誌のグラビアを広げ、郷子のほうに押し出した。 「ステキよ、やっぱり」 「そりゃ、こういうのはね」  郷子は示されたページに目をやった。  無人の空間。整然と片づいた、曲線と直線の美しい混合。建物はアートだ。確かに。 「だけど、これはプロが撮った写真だからよ」  工事完了の暁には、挨拶がてら見に行く。屋根も壁も新品だから、そりゃあピカピカしている。施主も嬉しそうだ。笑顔で頭を下げながら、郷子の頭は現在抱える懸案事項で一杯になっている。一件落着の安堵感しか、そこにはない。それもつかの間だ。 「家具が入って人がうろうろしてると、こんなにきれいには見えないものよ。生活空間だからね。新築でも雑然としてる。それに」またも、ため息が息継ぎ代わり。 「仕事自体は苦しいわ。資金繰りに追われてばっかり。顧客確保も大変だし。住む人はいいけど、作るほうは」  本音が出た。どんなに大変か、この際、思い知らせてやりたい。 「ママは、仕事好きじゃないの?」  ほら、これだ。えらそうに。 「好きでやってるんじゃないのは、確かね」 「だから、投げ出すの」 「投げ出すんじゃないわよ。合併は会社存続のひとつの方法だもの。新体制で出直すんだから、仕事は続けるわよ」 「好きでやってるんじゃないのに、もっと情けない立場になって、どうやって続けられるの」  返事の代わりに、新聞をテーブルに叩きつけていた。一瞬、早知子が幼児のようにおびえて首をすくめるのが見えた。 「人生背負って働いたことないくせに、わかったような口きくの、やめなさい」  早知子の目は勝気に母親を睨みつけているが、言葉は出ない。出るはずないだろ。養われる身の上で、親に説教するんじゃない。身の程知らずの無礼者。  郷子は優位を示すため、立ち上がった。 「不景気のせいで、素直に家業を継ぐ子供が増えてるそうよ。あんたも、親の会社ならリクルート活動しなくていい安全パイだって思ったんじゃないの? 現場も帳簿も見たことないくせに、建設業はクリエイティブだからやってみたいなんて、浮かれたこと言ってんじゃないわよ」 「浮かれてちゃ、いけないの?」  負けじと早知子もテーブルに両手をつき、勢いをつけてすっくと立った。 「ママみたいに、夢もやり甲斐も感じてないよりましでしょう。バイトさせてもらえるなら、今からやるわよ。建設業会計だって、福祉環境コーディネーターだって、勉強して資格取るわよ。ママは好きにすればいい。合併で鍵山工務店消滅させるなら、わたしがいつか再興してやる」 「やれるもんなら、やってみなさいよ。口先だけなら、なんだって言えるんだから」  最後は二人とも、怒鳴り声の応酬になった。早知子は足音荒く外に飛び出していき、郷子は憤然と椅子に座り込んだ。  でも、言えないこともある。  会社、たたみませんか。ご覧なさい、この財務状況。タコが自分の足を食っているようなもんですよ。今やめれば、本体は残る。不動産収入だけでも老後は安泰だ。お父さんが築いた資産を守るためには、それが得策です。  税理士に、そう言われた。  それは、郷子自身が社長に就任したとき考えたことだ。  社長なんて、やってられない。いい加減なところで、ケツをまくって幕引きしてやる。だけど、幕引きの時期と方法がわからないから、誰かが勧めてくれたら楽なのになと思っていたはずだ。  それなのに実際に廃業を口にされると、難病の宣告を受けたように落ち込んだ。  やっぱりあんたじゃ無理だと、決めつけられたようなものだ。「お父さんと相談なさってみては」と言葉は遠慮がちだが、税理士は暗に父の判断を仰げと指令したのだ。素直に従う気になれなかった。こんなことを言われましたと、どんな顔をして父に告げればいいのか。  合併話のほうが、まだ救いがある。会社の未来がある。早知子にそっちの可能性を示したのは、廃業勧告に目をつむりたいからか?  どちらにしろ、これだけは確かだ。郷子は今、分岐点に立っている。  もしかしたら、ずっと前からそれと知らずに立っていたのかもしれない。今、ようやく分かれ道がはっきりと見えてきた。だが、心が決まらない。     2  合併の話は、棚尾も時江も知らない。ひと月ほど前に、郷子一人にこっそり持ち込まれたからだ。  場所は、シックハウス症候群についての勉強会が行われた会館のロビーである。帰りかけていた郷子は後ろから玉島建設の専務に呼び止められた。この専務は三代目で、父親が元気に社長として君臨しているため専務止まりではあるが、業界経験は郷子よりある。  以前は、業界人間が集まる場所に行くときは棚尾が人形遣いのようにくっついてきた。しかし、彼がリストラの巻き添えで現場監督に復帰してからというもの、勉強会だのシンポジウムだのは郷子一人で立ち向かう羽目になった。名刺の角を折りつつ、こいつはどこの誰か、業界内の力関係はどうか、愛想笑いを顔に貼りつけて、必死で脳細胞に叩き込むのだ。心の余裕なんか、逆さに振っても出てこない。  そのうえ、税理士の廃業勧告が茨《いばら》の冠となって頭を締めつけてくる。そんなギリギリの状態でいても、「ちょっとお茶でも」と言われたら付き合わざるを得ない。これも浮き世の義理である。  玉島専務に影のように付き従っていたのが、経営コンサルタントだった。  サラサラの前髪がときどき額に垂れかかる若造だ。白々しいほど爽やかな笑みを浮かべ、ティールームに落ち着くやいなや、玉島専務を差し置いて身を乗り出し、元気よく朗々とまくしたてた。  ──やむにやまれぬご事情で経営を引き継ぐことになり、ご苦労のご様子、失礼ながら風の噂で聞き及んでおります。建設業は合併せよが国策のご時世、無理をして負債を抱え込むよりは、まだ体力がある時点で合併なさるほうが、先行きを考えるとベターな選択と思われます。  私どもで積み上げた客観的データ分析から推測しますに、鍵山さんのネックは営業力です。玉島さんには、それがある。一方、玉島さんになくて鍵山さんにあるのが、木を扱える職人さんたちとの昔ながらのご縁です。お互い、ないものを補い合う、企業合併としては一番無理のない良縁と存じますが、いかがでしょう。  鍵山工務店の名前はなくなりますが、社長さんには副社長の椅子が用意してございますし、若手の現場監督さんは当然主戦力として働いてもらいますよ。  若手の。郷子は思わず、オウム返しをした。コンサルタントは白い歯を見せて、嬉しそうに何度も頷いた。  ──工藤さんのことはよく存じております。大変、優秀ですね。失礼ですが、棚尾さんは事実上引退の年齢ですし、女性の方は経験が浅いうえに資格もお持ちではないようですね。ご本人の希望があれば、事務部門で続けていただくことは可能です。はっきり申し上げて、合併で難しいのは人材をどう整理するかなんですよ。重複する部分は、当然切らなければいけませんからね。玉島さんが合併の相手先としておたくを選んだのは、そのあたりをやりやすいからです。古い方たちは定年過ぎか定年間近ですから、これを機会に引いていただくという決断がしやすいでしょう。  副社長としてあなたがなさるべきことは、鍵山工務店の企業文化を守ることです。泥臭い営業は玉島に任せて、あなたは新会社の顔として、華麗に舞ってください。  華麗に舞う?  ──戦略として、あなたを前面に出すつもりです。メディアに出て、新会社の宣伝に努めていただきます。会社の業務、計画、理念、それらを広報してください。施主への挨拶、地鎮祭、棟上げ式、最後の落成挨拶、節目節目には出ていただきます。大事な仕事ですよ。責任は重いです。なにかあれば、経営責任を問われるのは現在と同じです。しかし、すべてを失うおそれはない。経営を退いても、株主として悠々自適の暮らしはできます。そのように計らいます──。  もちろん、これはひとつの提案に過ぎませんと、コンサルタントは快活に言った。  ですが、合併自体コストがかかるものですから、鍵山さんに力がなければ私どもも玉島さんにご提案しませんでした。鍵山さんの実力を認め、それをもっと生かしたいと思えばこその戦略です。そのことを、どうぞご理解ください。  そう言われたときから、郷子はふぬけになった。  夢のような話だ。資金繰りも顧客開拓も人に任せて、着飾ってにこやかに会社の名前を連呼しつつ、きれいなヴィジョンをしゃべり散らしていればいいなんて。何かヘマをして退陣に追い込まれても、株主様だから悠々自適だとさ。いいとこどりですよ。  合併したはいいけれど、という苦労話は山ほど聞いている。うまい話にゃ裏があるという世間知も持っている。それでも、郷子の心は動いた。  社長業に未練はない。それどころか、鍵山の名を背負う苦しさにあえいでいる。おかげで、心ならずも祥二の苦労に思いを馳せたほどだ。  何も知らない女房だった。祥二が少しでも仕事のことで弱音を吐くと、子供の前で愚痴を言ったことのない父を例に出して叱咤激励した。自分と結婚したおかげで社長になれたんじゃないかというおごりも多少はあった。  今、祥二はフィリピーナたちのマネージャーのような仕事をしているらしい。建築士の資格を取りはしたが、コルビジェ風の空間美なんか夢見ていてはいけない実用的な設計図に囲まれる現実に、彼はすり切れたのだ。夜の竜宮城のほうが、まだ居心地がいいのだろう。  意に染まない社長の日々が、祥二への怒りを薄めてくれた。いや、感情のレベルそのものが低下しているのかもしれない。  社長をやるのは苦しい。なのに、その重荷を下ろしなさいと言われた瞬間に、そうはいかないという強い思いにとらわれた。何故なんだろう。メンツだろうか。父への義理だろうか。ところが、合併を持ちかけられてみると、ああ、そういう手があったのかと、目から鱗《うろこ》が落ちた。  打ち明けたのは、早知子が最初だ。棚尾たちに言ってないのは、まだ心が決まっていないからだ。なのに、早知子に話しているうちに久しぶりに怒りの爆発が起きて、流れのままに自分の中での決定事項にしてしまった。  楽になれる。人任せにできる。それを望んでいたはずなのに、頭にのしかかるものが仮にでもはずれると、気持ちの腰が抜けた。  いったん座り込むと、今度は立ち上がれない。朝になっても、まったく元気が出ない。イライラしてばかりの毎日だったのだから、もともと元気ではなかったはずなのに、こうなってみると苛立ちもエネルギーの発露なのかと驚く。  早知子と言い争いをしてから一週間というもの、漫然と起き、漫然と出社し、漫然と報告を聞き流す。相変わらずトラブルの山に登り、クレームの川に足を浸すがごときだが、なんとも思わない。 「姫、聞いてる?」  顔をのぞき込む時江に力なく微笑み返すものだから、相手が戸惑っているのがわかるが、どうしようもない。 「どうしたの」  玉島建設と合併しようかと思うんだけど。いわゆる吸収合併だから、平たく言えば鍵山工務店はお開きってことなんだけどね。そう言えば、いいのかもしれない。だが、言えない。早知子に指摘されなくても、そう簡単に決めることではないくらいの理性は働く。 「寝不足かなあ」  薄く笑ってごまかしたら、「ウツじゃないでしょうね」と心配された。  合併話で頭が一杯で、考えが渦巻く隙もない。脳みそが凝り固まって、ひたすら重い。  これって、ほんとにウツかも。 「姫、ちょっといいかい」  時江と梨央を従えた棚尾が、社長室にやってきてそう言ったとき、ああ、合併の話が耳に入ったんだなと思った。  ついに、はっきりさせるときがきた。話して楽になろう。 「いいわ。ちゃんと話し合いましょう」  覚悟を決めて、椅子に座り直した。棚尾と時江はきわめて機嫌のいい様子で客用のソファに並んで腰を落ち着け、梨央が郷子の正面に立った。  どういう位置関係なの、これは。予測と違う雰囲気に、郷子はまじまじと梨央を見つめた。梨央は緊張した面持ちで見つめ返すと、いきなり半身を折ってお辞儀をした。 「お願いします。現場監督、辞めさせてください」  どうぞ。わたしも社長辞めますから。とっさに胸中に湧いた返事に、郷子は吹き出した。  今度は、向こうがこのリアクションに驚く番だ。棚尾と時江は当惑をあらわに顔を見合わせたが、梨央は「笑われるの、覚悟してきました」と真面目に言った。 「ちょっとかじっただけで、音を上げたんですから。でも」  言いかけるのを、郷子は手を振って止めた。笑いの発作はなかなか止まらない。 「いいわよ。たちまち困らないように、棚尾さんに相談してうまく引き継ぎしていってね。退職金は出ないわよ。まだ一年も経ってないんだから」 「会社を辞めるという意味じゃありません」  心外そうな声に、ようやくクスクス笑いが止まった。 「じゃ、どうしようっての。事務職なら、要らないわよ」 「姫、梨央ちゃんの話、黙って全部聞いてあげて」  時江が後ろから口を出した。 「わたしら、梨央ちゃんに相談されて、いい考えだと思ったから、自分で直接話してごらんってことになったのよ」 「そうそう。これからの話は、あたしらの総意と思ってもらっていいから」  棚尾までがそう言う。それも、かなりウキウキした様子だ。どうやら、合併話をただしに来たわけではないらしい。なんだか知らないが、言うだけ言わせるしかない。郷子が目顔で促すと、梨央は唇をなめて気合いを入れた。 「現場やって、わたし、ますますこの仕事が好きになりました。でも、現場は労務管理だけができればいいというものじゃないことも、よくわかりました。現場が商品なんだもの。わたし程度がごまかしごまかし、辻褄合わせしてたら、鍵山の名前に傷がつきます」  だから、その鍵山の名前をなくしましょうよ。それが一番手っ取り早いわ。心の中で、答える。それは、梨央の話がすんだあとで切り出すと決めたスピーチの練習でもあった。 「わたしがすぐに役に立ちそうなことは、他にあります」  梨央のほうは既に頭の中で何度もシミュレーションしてきたらしく、噛みしめるように話し続けた。 「そのひとつは、ネット方面の情報発信です。ネットを通して、オープンハウスや現場見学なんかの情報を流したり、建材とか設計についての疑問に答えるとかで、未知のお客さんに鍵山をアピールできると思うんです。他の分野とのリンクで、顧客開拓もできるし。ホームページの制作は、わたし、編集やってたからできます。それだけじゃなくて現場にも行って、職人さんや監督と施主さんの間をうまく取り持つのもやりたいです。そういうことが欠けてると感じましたから」 「いいお話だけど、今、必要なのはそういう人じゃなく、現場監督なのよ。だから、無理してあなたを」 「山本さんに復帰してもらえます。元々辞めさせるはずじゃなかったんでしょう。これで原状回復だから、問題ないと思います」 「復帰って、あなた」 「社長の頭越しに、下っ端のわたしが勝手に決めることじゃないのはわかってます。でも、そういうことになってしまって。それというのも」  どんどん早口になって、郷子の言い分に謝罪と説明をおっかぶせていく梨央を制して、棚尾が口を出した。 「山本くん、危機一髪だったらしいよ。梨央ちゃんが行かなかったら、やばかった」 「なによ、自殺でもしかけてたの」  ゾッとした。そんなことになったら、自分が追いつめたと罪悪感を負わされる。まったく、はた迷惑な。 「そうじゃなくて、素性のよくないところに行きかけてたんです」 「梨央ちゃん、落ち着いて最初から話しなさい。姫もこれでも食べて、キリキリせずに聞いてよ。なかなか面白い話なんだからさ」  時江がパイプ椅子を運んで梨央を座らせ、郷子の前にはフィンガーチョコを盛った灰皿を置いた。  キリキリするエネルギーもないんだけどね。胸の中でひとりごち、郷子は背もたれに身体を預けてフィンガーチョコの銀紙をむいた。梨央は時江から受け取ったお茶を一口飲んで、呼吸を整えてから話を再開した。  自分がこのまま現場監督をやるのは無理だ。山本に復帰してもらおう。そう思いついたら一刻も待っていられなくなった梨央は、携帯が記憶していた彼の番号に連絡し、率直に相談を聞いてほしいと頼んだ。現場はわからないことだらけだ。是非、アドバイスが欲しい。そう懇願すると、山本はぼそりと「いいよ」と答えた。 「わたし、その答を聞いて、一生懸命お願いしたら監督復帰してもらえると思ったんです。ものすごく怒ったり、ねじくれてたら、いいよなんて言うはずないでしょ」  手土産にケーキを買い込んで、山本の家に行った。山本は一軒家で母親と同居していた。 「パラサイトシングルだったの、彼って。確か、もうじき三十よね」  言いながら郷子は、棚尾と時江以外の社員について詳しいことを何も知らないことに気づいた。  社外の関係者についてはできるだけプロフィールを把握しようと、いやいやながらもメモをつけて覚える努力をしたが、それで一杯になって社員にまで手が回らなかった。棚尾たちに訊けば答えてもらえる、というより、社内のことは家老と女帝に任せていればいいと最初から視野に入れてなかった。  臆せず自己主張する工藤や梨央のことは、それだけ相手の顔もよく見えて、人となりが自然に頭にインプットされた。だが、山本のようにしゃべらない者は、こちらから働きかけなくては何もわからない。その労をとるのが面倒だった。いなくなってホッとしたというのが正直な気持ちだ。 「やまもっちゃんチは、お父さんが三年前に亡くなって、お母さん一人になったのよ。他の兄弟がみんな結婚して外に出てるから、独身のやまもっちゃんがお母さんの面倒をみるってことになってるんじゃないの」  時江の説明を受けて「お母さん、山本さんのこと、とても心配なさってました」  梨央が続けた。  会談したのは、山本の仕事部屋だった。書棚には建築関係の本が並び、パーススケッチが散らばる大きな仕事机とパソコンデスクが並んでいた。壁際に液晶テレビ、その向かいに置かれた広げるとベッドになるソファの端に綿毛布が片寄せてあるところを見ると、ここで寝ることもあるのだろう。  山本は仕事用の椅子に座り、さも忙しそうにファイルに見入っていた。他に座るところがないので、梨央はソファの綿毛布のないほうにちんまり腰を下ろした。母親は梨央の手土産のケーキと紅茶を載せたトレイをサイドデスクに置くと、何か言いたそうにもじもじしていたが、山本に追い出された。  二人きりになると、山本は無言でイチゴのショートケーキをパクつき始めた。梨央は構わず、現場を受け持って山本の大変さが身にしみたこと、だからこそ知識と技術のある人間がやるべきだと痛感したことを切々と訴え、山本さえ戻る気になってくれたら社長には自分が話を通すとかき口説いた。 「大物みたいなこと言って、すみません」梨央は恐縮してみせたが、口とは裏腹に目が得意そうに輝いている。 「とにかく、山本さんをその気にさせるのを優先したもんですから。もう、めっちゃ吹きまくりました」  施主のわがまま勝手な言い分には手を焼いた。あれほどのストレスにさらされながら、泣き言ひとつ言わなかった山本はえらい。改めて、尊敬した。その我慢強さに気づかず、見くびっていた自分が恥ずかしい。山本の実力をわかっていなかったのは、社長も同様だと思う。あの人はそそっかしいところがあるから。でも話せばわかる人だから、山本の必要性を是非社長に進言したい。 「すいません。行きがかり上、悪者にしてしまって」  梨央が再び口だけで謝り、時江が嬉しそうに「いいじゃない。話せばわかるってほめてるんだから」と、気休めにもならない慰めを言った。 「……それで、山本くんは復帰する気になったわけ」 「それが、就職が決まったっていうんです」  ショックだったが、社名を聞いて梨央は勝算を得た。  その会社には、聞き覚えがあった。建設専門ではなく、ソーラーシステムの訪問販売からスタートした会社で、やり手のたたき上げ経営者が介護事業とか健康食品とかうまみのありそうな分野に進出しては関連会社を作り、中途採用で人員を手当てしていた。そのうえ人の出入りが激しいから、転職情報誌のハイヤードリームにとっては常に広告を出してくれる優良顧客だったのだ。  得意先だからこそ、強引な営業にクレームが集中し、消費者センターのブラックリストにあがっているいわくつきの会社だという裏情報も知っていた。梨央はその場で編集長に電話をかけ、状況を確認した。  今、増改築は他分野業種からの参入が相次ぐ、流行りの事業だ。ソーラーシステムとは関連づけもしやすい。ただし販売員しかいないその会社は、山本が持つ二級建築士の資格が欲しいのだ。 「だけど、利益至上主義だから入社したら最後、売り上げを上げろって圧力がものすごいらしいんです。数字が悪いと、人間扱いされない。そこらへん、暴力金融会社と体質は変わらない。現場監督として入っても、ちゃんとした仕事ができない可能性があります。現場監督で採っても、営業をやらされるかもしれないってとこまで、わたし、言いました」 「やまもっちゃん脅すには、営業をやらされるって言葉が一番効くよね。梨央ちゃん、なかなか悪知恵働くわ」  梨央をほめる時江の口ぶりは、最初売り込みに来たときと同じだ。梨央は時江を振り返って、にんまりした。逆に郷子は憮然とした。人を懐柔するために知恵を巡らせるなんぞ、やったことがない。頭に来たら、即刻怒鳴り散らしてしまう。そりの合わない人間とは、口もききたくない。こんな自分は、やはり社長に向いてないと思い知らされるばかりだ。  梨央は調子に乗って、身振りまで加えて話を続けた。  山本は混乱した様子で、梨央が差し出した二つ目のケーキを食べるばかりで黙っている。すると、母親が躍り込んできた。そして、やくざみたいな会社に入るのはやめてくれと懇願し、かつ命令した。  そして梨央に向き直り、この子は何にも言わないから鍵山さんを辞めた理由もわからなかった。簡単に職場を変えるのは悪い癖だが、もう大人なんだから口を出すまいと思ってはいた。しかし、この子の力を買って家まで来て頭を下げてくれたのは鍵山さんが初めてだ。鍵山さんは地場の工務店でもあるし、そこで頑張ってくれるなら、親としても安心できる。そう言って頭を下げた。そばで、山本はきわめて居心地悪そうにケーキを食べまくっていた。  梨央はここぞとばかり、かのやくざ会社(ということにした)で従業員がノルマを果たすためどんな目に遭っているか、ハイヤードリーム時代に聞き込んだ悪徳業者のやり口を混ぜ込んで大幅に脚色した怖ろしい話を山本と母親に吹き込んだ。  でも内定を受けたしとイジイジする山本に、事情で行けなくなったと電話で断ればいい、入社する前なら嫌がらせもされないだろう、逃げるなら今のうちだとだめ押しをした。 「で、社長がOKならすぐにでも、ということになったんです」  一通り話し終えて、梨央はホッと息をついた。そして、棚尾と時江ともども郷子の反応を待った。 「だけど、彼は」  戻ったって、おんなじことの繰り返しじゃないの。その意味で語尾を濁すと、梨央が答えた。 「山本さんのコミュニケーション不足の問題は、わたしがサポート役として間に入れば解決できます」 「それ、つまり、二人で一人分の仕事をするってこと」 「そう言うと人件費の無駄遣いみたいに聞こえるけど、わたしは山本さん専属ではなく、遊軍として浅く広くみんなのサポートをするつもりです。もちろん、社長のサポートも」 「ま、官房長官てとこかな」  棚尾が、にわかには納得しづらい説明をした。 「とっさに動いて話決めてきちゃったんだから、梨央ちゃんはたいしたもんだと思うよ。この世界、技術屋は探せばいくらでもいる。でも、人や情報を見て動かす人間となると、そうはいない。だから、コンサルタントっていう職業が成立するんだな。でも、そういう人を頼むと高くつく。うちうちでできれば、それにこしたことはない。ホームページとやらも、あたしらではどうにもならない。梨央ちゃんが新しいこと考えてやってくれるって言ってるんだから、任せてみたらどうかとあたしは思うよ」 「やまもっちゃんに梨央ちゃんつけるっていうのは、いい考えだとわたしも思う。あそこのお母さん、知ってるしさ。安心させてあげたい」  棚尾と時江は、梨央の応援団だ。あらかじめ相談されているのだから、ここまではシナリオ通りなのだろう。  これでわたしが承諾したら、ハッピーエンド。よかったよかったで、先に進む。どうせ、そうなると踏んだんでしょう。棚尾と時江が了承していることなら、わたしは抵抗できないと織り込み済み。そうね。そうできたら、わたしだって楽なんだ。  郷子は三人を見据えて、静かに口を切った。 「玉島さんと合併しないかって話が来てるの」  梨央ははっと目を見開いたが、棚尾と時江は目を見交わした。やはり、知っていたようだ。 「それ、どんなメリットがあるんですか」  梨央が立ち上がって唾を飛ばした。 「行政が合併推進しようとして、いろいろ支援策出してるのよ。それに乗るのが得策かもしれない」 「行政が推進してよかったことなんて、ないですよ」梨央は高飛車に決めつけた。 「バブル作ったのも壊したのも、行政ですよ。第三セクターとかリゾート法とか、行政がらみでやった事業が今どんな悲惨なことになってるか。うっかり話に乗って採算合わなくなっても、連中は責任取ってくれないんですよ」 「わたしも会社に責任持てないのよ!」  思わず、本音を叩き返した。すっとするかと思ったが、後悔が押し寄せた。情けない。 「姫、そんなにつらいかい」  棚尾が穏やかに訊いた。 「社長を続ける自信がない。今なら、みんなを失業させずにすむと思う。梨央さんも山本くんも、新会社でやりたいことをやれるように向こうに話すわ」 「でも、玉島さんはうちとは全然方針が違うじゃないですか」  梨央の声は悲鳴に近い。 「うちの方針って、なに?」  郷子は苦笑まじりに訊き返した。 「個人住宅です。人の夢、人の思いがこもったマイホーム作りです。そうじゃないんですか」 「それは、あなたの方針ね」  郷子が言うと梨央は目をしばたたき、ストンとパイプ椅子に腰を落とした。 「あなたが鍵山の一人娘に生まれればよかったわね。わたしは行きがかり上、こうなっただけ。自分が今、何をやっているかもわからないのよ。方針なんか、ない。あなたがこのままじゃ現場監督を続けられないと思ったと同じように、わたしもこんなじゃ社長を続けられないとわかったの。だから、辞めようと思う。そのほうが会社のためだわ」 「そんなの、卑怯です」 「梨央ちゃん」  叩きつける梨央を、時江が諫めた。でも、梨央はやめなかった。 「努力もしないで、逃げるんですか」 「無理をして取り返しのつかないことになるのは、いいわけ? 会社経営は思いつきでなんとかなるような単純なものじゃないのよ」  スパッと切り返すと、梨央は唇を噛んだ。 「わかったよ。姫がそうしたいなら、それでいい」  棚尾が笑って口を挟んだ。時江は下を向いて考え込んでいる。 「うちクラスの工務店は、どこも家族が継いでるからね。あたしらも、多分親父さんも、姫の気持ち考えずにやらせてしまったんだ。実を言うと、中継ぎであたしがやろうかと一度は思ったんだけどさ、不整脈出てるから女房が反対してね。姫の若さに賭けたんだけど」  棚尾は寂しく笑って首を振った。 「向き不向きがあるし、景気は厳しいし。姫につらい思いさせるだけなら、あたしらも切ないよ」 「そりゃ、そうだ」  時江がやっと頷いた。 「わたしらの姫だもんね」  そういうこと、言わないでよ。郷子は顔をしかめた。罪悪感、感じるじゃない。 「梨央ちゃんも、せっかく山本くんをその気にさせてくれたのに悪いけど」  棚尾は、しょげこんでうつむく梨央の肩に手をかけた。 「梨央ちゃんの才覚なら、新会社でもどこかよその工務店でも働けるよ。建設会社は鍵山だけじゃない。多すぎるから整理しようとお国が躍起になってるんだけど、無理な話だ。小さいから結束してやってられるってとこばっかりなんだから。ま、玉島さんは玉島さんで、何かメリットがあるからそういうことにしたんだろうからいいけどさ。あたしら、この業界長いから知り合いがたくさんいる。梨央ちゃんはまだ若いから、どこでも歓迎してくれるよ」 「そうよ。どこに行っても、わたしは梨央ちゃんの応援団だよ。わからないことがあったら、いつでも聞きに来ればいいんだから」  棚尾と時江が、よってたかってメソメソする梨央を励ましている。  ちょっと待ってよ。郷子は鼻白んだ。  まだ迷ってる最中なのよ。誰か、止めない? ちょっと待ちなさい。もっとよく考えなさい。何か手はないか、みんなで考えてみようとか言ってさ。  他人に会社がなくなることを前提として話されると、見捨てられたようでひどく切ない。 「そうか。鍵山工務店も店じまいか。そういうことなら、最後にあたしの家を建ててもらおうかな」  明るい声で、棚尾が言った。 「棚尾さん、マンションじゃない」  時江に訊かれて「あれは売る」と、棚尾はあっさり答えた。  棚尾の生家は山里にあり、長いこと貸していた店子《たなこ》の家族が引っ越すことになった。また賃貸物件にするには、古すぎる。空き家にしておくのも気がかりなので、いっそ取り壊して土地は売却しようかと思案していたところ、私立の大学教授をしている長男が一緒に住む家を共同で建てたいと言ってきたのだそうだ。 「こっちはあんな田舎と思ってたんだけど、若いもんに言わせたら車使えば一時間だから通勤圏だって言うんだよ。息子も自分たちの余生を考えるようになったんだな。土地付きの家に住みたくなったんだって。経済学の見地からいうと、高層マンションより一戸建てのほうが金融不安が起きたときに安心なんだそうだよ」 「へえ、どうして」  時江が訊き、梨央までが洟をかみながら興味深そうに棚尾を見やった。 「南米あたりじゃ、不況で電気が止まってエレベーターが動かない高層ビルがゴロゴロしてるんだってね。みんなノホホンとしてるけど、日本だっていつそうなるかわからないそうだよ。庭があれば、いざとなったら芋を植えて自給自足できるとかさ。まさかとは思うけど、こっちもお迎えが近いせいか、近頃とみに兎追いしかの山が懐かしくなってきてるから、生まれ育った家に戻れるって思うと、なんか、ときめいちゃってるんだよ。マンションの四角い部屋に引きこもる年寄りになりたくないしね」 「そうですよ。マンションなんて、ただの箱じゃないですか。やっぱり人間、住むなら一軒家か、こぢんまりした長屋みたいなアパートがいいですよ。そういう家をたくさん建てたいのに」  梨央がまた泣き出した。 「ほらほら。なにも、この世の終わりじゃないんだから。とりあえず、一軒建ててもらうから。ね。姫」  棚尾は梨央を慰め、次いで郷子を振り返った。 「終《つい》の棲家《すみか》が鍵山工務店最後の仕事になるかと思うと、感慨もひとしおだよ。いい区切りになる」 「そうだね。わたしもその仕事を引退の花道にするか」  時江がサバサバと話を受けた。 「できたら、わたしんチも建ててって言いたいところだけど、うちの旦つくがまだ生きてるから、勝手にいじるわけにいかないんだよね。お亡くなりあそばしたらいくらでもできるけど、その頃には鍵山工務店はないんだね」  だから、まだ決めてないってば。なんで、わたしの言うこと、簡単に受け入れちゃうの。  そう言いたいが、言える雰囲気ではない。いったん口に出したら、言葉は一人歩きする。郷子は離婚したときのことを思い出した。  誰も反対しなかった。だから、決まってしまった。祥二が不実を謝って家族再建を誓ったら、許したかもしれない。  ママの人生って、ママ一人しかいないみたいね。  早知子の批判は、心に突き刺さったままだ。  だって、仕方ないじゃない。一人じゃないんだから一緒に頑張ろうって、今まで誰も言ってくれなかったのよ。  その言葉を郷子にかけてきたのは、皮肉にも合併コンサルタントだった。  ──今すぐご決断くださいとは申しません。どうぞ、じっくりご検討ください。しかし、いたずらに決断を引き延ばしても事態は好転しませんよ。玉島さんのほうは、危機感を持ってサバイバルに取り組んでらっしゃるんです。厳しい時代だからこそ、同じ立場の者同士が力を合わせて頑張るしかないじゃないですか── 「じゃあ、残務整理の方向で考えないといけないけど、きょう明日って話じゃないよね。このことは、当分あたしらの間の秘密にしておこう。施主さんに余計な心配かけてもいけないから」 「やまもっちゃんは戻ってもらうってことでいいのよね。とにかく、今ある仕事はちゃんとしなきゃ。合併先に見くびられちゃいけないもん」  棚尾と時江はこもごもにさっさと話をまとめると、南米の超インフレ社会について声高にしゃべりながら出ていった。  郷子は黙然《もくねん》と社長の椅子にもたれ、ため息をついた。梨央が残っている。パイプ椅子に座り、しきりに洟をかんでいる。 「……ごめんね。不甲斐ない社長で」 「いいです。大変なの、わかりますから」  梨央はかすれ声で言ったが、すぐにヒーンと嗚咽《おえつ》を再開した。 「でも、口惜しい。ようやく道を見つけたと思ったら、行き止まりだったなんて。神様は意地悪すぎる」 「わたしもおんなじ気持ち。どうにかなると思ったけど、この道は行き止まりだった」 「お父さんに、そう言うんですか」  梨央の声はすっかり鼻づまりだ。郷子は首を振った。 「不甲斐ない社長で、すみません。こうしか言えないよね」 「姫もつらいですね」  年下の社員に面と向かってあだ名で呼ばれた。だが、腹は立たなかった。梨央の口調には、同情の色があった。 「今晩、ご飯一緒に食べない?」  そう誘ったのは、梨央の望みを砕いた罪悪感からではない。  話し相手が欲しかった。身構えることなく話せる相手が、今の郷子には梨央しか思いつかないのだった。     3  鍵山工務店は店舗も手がける。≪ありの実≫は料理好きの母娘が、廃業したショットバーを居抜きで譲り受けたこぢんまりしたカウンター割烹《かつぽう》だ。少ない予算でやりくりし、藍の暖簾をかけ、厨房を広げ、壁をボード貼りから土壁に、椅子は革張りのスツールから刺し子の座布団を敷いた木製のものにした。  郷子はオープンした日に義務として顔を出し、その後も何度か接待で使った。五十がらみの母親と二十代の娘が普段着にエプロンがけで漬け物を切ったりおにぎりを作ったりする姿にぐっと来るおじさんたちや、外食が多いせいで薄味のお総菜に飢えている働く女たちで、けっこう賑わっている。 「いらっしゃい。お世話になってます」  揃って会釈する母娘に「素敵なお店ですね」と笑顔でお愛想を言う梨央は、さっきまで泣いていたのが嘘のようだ。いかにも食欲をそそられたような弾む声で次々と注文し、出てきた料理を歓声を上げてどんどん食べた。 「立ち直り、早いわね」  羨ましくなって、皮肉っぽく言ってしまった。 「だって、鍵山工務店は行き止まりかもしれないけど、わたしはこの世界で生きる道がありそうですもん。そう思ったら、泣く理由がなくなっちゃったんです。逆に闘志みたいなものが湧いてきました。姫のおかげです」 「皮肉らないでよ」 「皮肉じゃありませんよ。姫、わたしに言ったでしょ。人の思いがこもったマイホームを建てるのは、わたしの方針だって。方針があるって、いいことですよ。そっちに向かって努力すればいいんだもの。方針のない姫のほうが、先行き暗いですよ」 「あなた、本人を前にして、よくそんなきついこと言えるわね」 「だって、いきなり、社長に向いてないから合併話を進めるなんて情けないこと言うんだもの。腹立ちますよ。はい、飲んで」  梨央はホタルイカの一夜干しをモグモグしながら、郷子の杯に燗酒《かんざけ》を注いだ。郷子はその杯をクイッと飲み干した。 「社長の苦労も知らないで」 「知ったこっちゃありませんよ、そんなもの。社長なんだから、社長の苦労するのが当たり前でしょ。こんないい仕事ないのに、放り出すなんてもったいない。家ですよ。家って、なんだかわかります?」  カウンターの向こう側で熾《おこ》っている炭火のせいか、梨央の顔は紅潮している。からみ口調だが、焼酎の水割りを飲み始めてまだ三十分だ。梨央は酔った勢いではなく、素面《しらふ》のうちから郷子に説教するつもりらしい。 「家は家よ。雨風をしのいで寝起きをするところ。それだけのことじゃないの」  わざとクールに突き放してやると、梨央は鼻を鳴らした。 「やっぱりね。姫は現場に付き合ったことないから、わからないんです」  梨央は威張った。ムッとした。 「わたしだって、現場見に行くわよ」 「ちょこっと挨拶しに来るだけでしょ。それだけじゃ、わかりませんよ」 「なに威張ってるのよ。社長が何もかもわかってるんなら、現場監督なんか要らないわよ」 「そりゃ、そうだ。じゃあ、教えてあげます」  梨央はもったいぶって、咳払いした。 「現場で何が一番大変かっていうと、施主さんの対応なんですよ。ボルテージがどんどん上がっていって、振り回される。わたしはそれで泣きました。だけど、それって、家がそれだけ価値があるからなんですよね。何にもなかったところに、住む人が、ああしたい、こうしたいって描いたイメージが形になった家が建つ。そこで、人が暮らす。寝て、食べて、くつろいで。そして、旅行に行って戻ってきたとき、あー、やっぱりうちが一番だって言うんです。遠く離れれば離れるほど、懐かしく思い出すんです。夜中に寝ぼけ眼で起きてもちゃんとトイレに行けるのは、身体が間取りを覚えてるからでしょ。家ってそんな風に、その人の一部になるんですよ。そういうものを作れるなんて」  梨央の目に涙がにじんだ。しゃべりながら、どんどん飲んでいるから、さすがに酔いが回ってきたらしい。 「梨央さんって、泣き上戸なの」 「だって、感動的じゃないですか。家を作るって、素晴らしい仕事ですよ」 「そうかしらね」 「もう、姫ったら」  梨央はバシンと郷子の肩を叩いた。 「どうしてそう無感動なんですか」 「あなたが入れ込み過ぎなのよ」  しみじみ話し合おうと思ったのに、当てがはずれた。この酔っぱらいめ。 「だから、それが家の魔力なんですよ。施主さんたちのハイテンション、付き合ってるときは辟易《へきえき》したけど、人をあそこまで興奮させるものって他にないですよ。その人の人生でも一番か二番のハイライトに関わってるなんて、すごいことじゃないですか」 「まあ、そういう風に考えればね」 「姫ったら、また、他人事みたいに。もう社長辞めちゃったみたい」 「あなた、さっきから姫姫って、失礼じゃないの。立場をわきまえなさいよ」 「ほら、痛いとこ突かれると、怒ってごまかす」  梨央は人差し指を突きつけて、ヘラッと笑った。 「わたしもね、この仕事始めるまでは家のことなんか興味なかったんです。インテリアに凝るなんて、めんどくさい。雨風がしのげればいいじゃないかと思ってた。一生、どうってことない賃貸物件でいいやと思ってた。でもね、ある施主さんの奥さんがこんなこと言ったんです」  わたしの実家はなくなっちゃったの。子供たちがみんな独立して、残った父は特養施設。跡を継いで守ろうって者がいないから、家も土地も処分した。何にもなくなった更地を見たら、たまらなくなった。あの家には思い出が一杯あるのよね。それがどっと溢れてきて、泣けて仕方なかったわ。 「わたし、頭の中の家はなくならないからいいじゃないですかって、そのとき言ったんですよ。でも、その奥さんね」  頭の中にしかないのって、すごく寂しいものよ。そう言った。すり減った柱の手触りや廊下のきしむ音。そんな些細《ささい》で生々しいものは、頭では再現できない。 「わたし、ハッとしたな。そうか、家って思い出の容れ物なんだって。ねえねえ」  今度はなれなれしく身体を寄せて、顔をのぞき込んでくる。すっかりご機嫌だ。もはや、郷子に酒を注ごうともしない。お銚子の中の酒は、郷子のペースが遅いのですっかり冷えてしまった。負けずに酔い、しゃべって発散したいのに。  仕方ないか。社員の失望を慰めるためのおごり酒だ。酔ってこづき回されるのも、経営者の宿命ってね。郷子は自分に言い聞かせ、苦笑した。 「姫の家はどんなんですか。建設会社の社長の家なわけでしょう」 「普通よ。最初はモルタルの二階建て。一階が事務所で二階に家族が住んでた。事務所といっても、半分はトラックの車庫兼資材置き場になってたから狭かった」  鍵山工務店の看板は、松の一枚板に墨で書かれた、なかなか立派な物だった。近所の住職さんが創業のお祝いに書いてくれたのだそうだ。休みの日には、近所の子供連中ともどもトラックの荷台に乗って遊んだものだ。平日は学校から帰るとすぐに事務所に入り込んで、棚尾や時江に遊んでもらった。考えてみれば、幼い頃の郷子は一階に入り浸っていた。  だが、会社は次第に大きくなって、事務所は自社ビルのワンフロアに移り、家族は郊外の一軒家を借りた。それから自社物件のマンションに移り住み、郷子が大学に入る頃にようやく高台に家を建てた。  そこからは、街が一望できる。現役で仕事をしているうちは便宜上街中で暮らすが、隠居したら眺めのいいところでのんびりしたいのだと父は言った。  郷子は一人でそれまで住んでいたマンションに残ったが、結婚後は新居で暮らしたくて、有名な不動産会社の新築物件を購入した。鍵山の自社マンションのものよりベランダが広めで、キッチンに食器洗い機が装備されている高級感に惹かれたのだ。 「二十代の頃って、住むなら一軒家より高級マンションだって思い込んでたのよ。掃除が楽だし、近所付き合いもしなくていいし」 「ですよね。カッコイイのは都会のマンション暮らしって、わたしも思ってました」  梨央が同調した。  離婚して、すぐに取りかかったのが引っ越しだ。新しい生活は新しい環境で。ありきたりだが、古い物を捨てるには引っ越しに限る。そして、3LDKから中古の2LDKに移った。 「一人減ったってのが、ありありね」 「また、賃貸マンションなんですか」 「バツイチ母子家庭よ。一軒家って感じじゃないでしょう」 「でも、そのときはもう工務店の社長でしょう。普通のバツイチ母子家庭と違いますよ」 「だから、ほら、紺屋《こうや》の白袴っていうじゃない。仕事に追われると、家ってほんと、機能さえあればいいって感じになっちゃうのよね。それに娘はどうせ出ていくから、ここは仮の宿って思ってるところもあるし」  ああ、そうか。父がなかなか自分の家を建てなかったのは、人生の移ろいに圧倒されて、踏ん切りがつかなかったのかも。  建てた家は手入れ次第で百年でも変わらないのに、人は変わる。一年で、変わる。風のひと吹きで予想してなかった方向に飛ばされていく。  人の家を建て、あるいは建て替えしているうちに、父は人の運のさだめなさ加減を痛感したのじゃないだろうか。 「うちなんか、父親が三十代の始めに、一生もののマイホームって気合いを入れて建てた家ですよ。ずーっと住むつもりだと思うな。少なくとも、死ぬんならあそこでって思ってますよ、きっと。弟がいるから、あの子が住み継ぐってわたしも思い込んでるな。わー」  梨央は頬に両手を当てた。 「ほんとだ。今まで考えたこともなかったけど、あの家はあそこにずーっとあるって、わたし、決めてるわ。あそこにあってほしいんですよね。家って、不思議。無意識の分野に根を張ってる。ねえ、そう思いません?」 「うーん。わたしは何度も引っ越してるからねえ」 「でも、覚えてるでしょう」 「そりゃあね」  一番懐かしいのは小学校まで住んでいた、一階が事務所、二階が家族用の最初の家だ。  二階にある台所でカレーを作ると、匂いが下まで届く。従業員や職人さんたちが鼻をひくつかせるところへ、母が大鍋を持ってくる。それぞれの皿にカレーを盛るのは、郷子の仕事だった。なんとなく晴れがましかったな。大きな仕事が入ったときは、慰労と気分引き締めを狙って全員でカレーを食べる日を作ったというのを知ったのは、ずっと後のことだった。  大工さんたちが資材置き場で、木材の端を切りそろえたり鉋で削ったりするのを、夢中になって見ていたものだ。薄い木の皮が鰹節そっくりでおいしそうなので、口に入れたこともあった。至近距離でのぞき込むのが危ないから、ここで座って見るようにと、大工さんが廃材で小さい椅子を作ってくれた。嬉しくて、しばらく持ち歩いていたのに、いつのまにか失くしてしまった。  そこから先の家には、さほどの思い出がない。多分、外に出ることばかり考えていたからだ。学校。遊び。仕事。恋。興味の対象は、家の外にあった。家に帰りたい、家が恋しいと里心がついたことなど、一度もなかった。海外旅行やボーイフレンドとの秘密の旅行に行ったときなんかは、このまま帰りたくないと思ったくらいだ。  結婚していたときの高級マンションは、思い出したら嫌なものをほじくり返してしまいそうだから、封印中。今住んでいる家は──なんともないな。何の感情も湧いてこない。  無感動。  梨央の言う通りだ。ウツのせいかしら。社長を辞めたら、陽気なわたしに戻れるのだろうか。  郷子は、一人で盛り上がっている梨央を眺めた。梨央は、カウンターの中の母娘と店を作った経緯について話している。 「こういうお店を出すのが夢だったもんですから、大丈夫かってずいぶん心配されたんですけど、ダメモトでやってみようってことになったんですよ。お金があんまりなかったものですから、鍵山さんには苦心していただきました」 「でも、こうしてお客さんが来て賑わってるところ見ると、わたしたちも嬉しいですよ。ね。社長」  梨央はわざと「社長」を強調した。 「──って呼ぶのも、もう少し。わたしはなんとかして家作りに食い込むけど、姫は今後どうするんですか」 「どうするって、合併したあとの新会社の顔として華麗に舞うらしいわ」 「らしいわって、自分の意思じゃないんですね。それじゃ、精神的には今よりきついんじゃないですか」  あっさり言われて、郷子ははっとした。  そうかもしれない。重荷を下ろせると思ったが、そのかわり、別の重荷を負わされるということかも。 「でも、やってみたら案外はまるかもしれませんね。人生って、ほんと、予測がつきませんもん。わたしね、一年前の今頃、絶望の海で溺《おぼ》れかけのイルカみたいだったんです。胸を熱くすることが、何ひとつなかった。でも、さっき、鍵山はなくなるかもしれないって聞いたとき、最初は目の前が真っ暗になったけど、すぐにガーンて胸の中で火山が火を噴いたんです。コンチクショー、誰にも邪魔はさせないぞ、わたしはこの仕事を絶対に続けるんだって思った。そうしたら、鍵山だけが工務店じゃないって、すっと転換できたんです」 「なんか、羨ましいわね。自分のことだけ考えればいいんだから」  つい、子供じみた皮肉を言ってしまう。 「経営者になったら、単純に夢だけ追ってればいいってこと、なくなるのよ。資金繰りと営業展開に頭を悩ませて、それでも過当競争は続く。神経をすり減らしてばっかり」 「姫、ずっとそういう泣き言並べてますけど、悩まされっぱなしなのは、方針がないからじゃないですか」  図星を指されて、郷子はあわてた。 「さっき、自分には方針なんかないって言いましたよね。普通、なりゆきで仕方なくでも社長になったら、少しは考えるもんでしょう。ほんとに、まるっきり、なしでやってんですか」  梨央は、かさにかかって責め立ててくる。そうです。なし崩しにフェイドアウトを狙ってました。破れかぶれでした。でも、そのうちに、自然にこうなってほしいと願うようになったことはある。 「一番に考えたのは、会社の存続よ」  郷子は顎をあげて、経営者セミナーで聞いた言葉をかましてやった。 「利益を確保し、もって従業員の生活を安定させることよ」 「もう、やだなあ」梨央は一笑に付した。 「わたし、就職情報誌の副編やってたんですよ。そんな企業理念のテキストみたいな模範解答、耳にタコですよ」 「口だけじゃないわよ」  郷子は憤然と言い返した。税理士の言う通り廃業するのが一番楽だ。それなのに合併を考えたのは、社員の生活を守るためだ。この健気な心配りに感謝せよと言いたかったが、我慢した。  廃業を勧められたなんて、知られたくない。  なにより、自主廃業だけはしたくないという強い気持ちが今、胸の底にある。それだけは、わかる。最初は店じまいを目指していたというのに、奇妙なものだ。その気持ちの正体が見栄なのか、意地なのか、いまだにわからないのだが。  そんな苦悩も知らず、お気楽な平社員は調子に乗って経営者いじめの手をゆるめない。 「じゃあ訊きますけど、会社を存続させるために必要なことは、なんですか」 「それは──資金と営業力よ」この答には、自信がある。受け売りではなく、心からなる願望だからだ。ああ、資金と営業力さえあれば、生意気な年下女に突き上げ食らうこともないのに。  なのに梨央は、郷子の切実な回答をヘンと笑い飛ばした。 「それはガソリンでしょ。エンジンになるのは、方針です。やり甲斐です。喜びですよ。夢ですよ」 「また、きれいごとを」 「なんでそう、リアリストぶるかなあ。現実はシビアに決まってますよ。でも、そのシビアさに踏みにじられてばっかじゃ生きてけないでしょう。九八パーセントはシビアでも、二パーセントは夢が叶ったとか、やり甲斐を感じる瞬間があるはずですよ。そうじゃなかったら、誰もこんなくそったれな人生を生きてませんて。あの山本さんだって、建築の仕事は好きなんですよ。好きだから、戻ってくるんじゃないですか。CADで図面起こしてみせるときの顔なんか、ピッカピカしてましたよ。山本さんじゃないみたいだった」  いいことを言う。よすぎて、ムカつく。やられっぱなしだ。理論武装が全然できてない自分を思い知らされる。あれだけ、経営者向けのセミナーに出席し、ビジネス本も読みあさったのに。何ひとつ、身になってない。もっとも、共感できるような人や言葉に出会わなかったせいだけど。  徳川家康の人心掌握術やカルロス・ゴーンの経営哲学を参考にしろって言われてもねえ。頭の出来が違うんだから、無理でしょうよ。 「前とずいぶん態度が違うわねえ。もしかしたら、いい感じなんじゃないの、山本くんとあなた」  できる逆襲がこの程度というのは、我ながら情けない。やけくそでお銚子をひっくり返し、からにした。梨央がさっさと二本目を頼み、届いた熱燗を注いでくれた。 「大はずれですね。わたしが好きなのは、田所さんです」 「田所って、あのトビの」 「そう。田所徹男さん。ちゃんと覚えてるじゃないですか。えらい」  バカにして。 「──好きなら結婚して、二人で工務店やれば」  そして、経営者の苦労をするがいい。 「ところが、トビって生涯一職人でいるほうを選ぶんですよね。工務店だと丸ごと請け負うことになるでしょう。そういうの、性に合わないらしいです。歳をとって上にあがれなくなったら、親方として後進の指導したり、職人を束ねたりするほうに回るんだそうです。心底、自由人なんですよね。そこがまた、いいんだけど」  梨央はデレデレした。 「うまくいってるの」 「それが難しくて。でも、あせるのはやめようと思ってます。あの人も現場が好きなんですよ。同じものが好きで、同じものを目指す。そういう同志として、つかず離れず、じんわりにじり寄っていくしかないんですよね、今のところ」  しょぼんとうなだれてみせた後、梨央はこぶしを握って宙を睨んだ。 「だから、わたし、この世界で自分のポジション、しっかりつかみたいんです。先行き不透明でもがむしゃらになれたら、とりあえず恋愛方面がはっきりしないイライラを忘れられますもん。これも、姫のおかげです」  梨央は改まって、頭を下げた。郷子はうんざりと、そっぽを向いた。下手な漫才師みたいに、おんなじ厭味を何度も何度も。やめてよね。 「わたし、いろいろ言ったけど、姫に感謝してるんですよ。慎重な常識人だったら、わたしを雇ったり現場監督に抜擢したりしませんもん」 「どうせ、わたしはおっちょこちょいよ」 「違いますって」  梨央は笑って、郷子の肩を叩いた。 「姫ってセコセコしてなくて、度胸があると思った。会えなくなるの、寂しいですよ。わたし、現場監督じゃなく、仕事全般のサポート役やりたいと思いついたときから、いろいろ考えたことあるんです。そういうこと、姫と相談するつもりだった。姫だったら、きっとすぐにやろうって言ってくれると思ってた。残念です」  そんなこと聞いちゃったら、わたしも残念です。前向きにいろいろ計画できたら、わたしも楽しいだろうな。景気がもうちょっとよければ。それよりも、強い心があれば。 「鍵山さん、おやめになるんですか」  女将がこっそりと訊いた。 「いいえ。あんまり景気が悪いもんだから、二言目にはやめるやめるって、口癖なんですよ」  梨央がさっと笑い話にしてごまかした。 「女社長さんは珍しいから、頑張っていただきたいと思ってるんですよ」  女将と娘に微笑みかけられ、郷子は仕方なく笑顔を作った。 「ありがとうございます。頑張ります」  頑張れ。頑張れ。  嫌な言葉。  頑張りたくなんか、ない。  ただ、自然に湧き出る力を感じたい。喜びに向かって進みたい。ここを耐えたら、あそこに行ける。あそこに行ったら、収穫物が待っている。そんな目当てが欲しい。  食事代は郷子が払った。梨央は「ごちそうさまでした」と、ペコンと頭を下げた。  客待ちのタクシーの列に向かって歩きながら、郷子はぽつんと言った。 「わたしにできると思う?」 「華麗に舞うことですか。楽勝じゃないですか。姫、磨けば光るタマですよ」 「そうじゃなくて、社長を続けること」  梨央は酔眼をまたたかせた。 「そんなこと、わかりませんよ」 「……そうよね」  梨央は先にタクシーに乗り込み、おやすみなさいと手を振って、行ってしまった。次のタクシーが郷子の前に止まり、ドアを開けた。  郷子はぼんやりと自分の靴を眺めた。  社長になりたての頃は、スカートにパンプスだった。いつの頃からか、パンツスーツにローヒールのアンクルブーツに変わった。現場をのぞくときに動きやすいし、アクティブなイメージが建設会社の社長にふさわしいと思ったからだ。  質実剛健の黒い靴。おまえは一体、どこへ行く? 「乗らないんですか」  毛皮のコートを着た太った女が、甲走《かんばし》った声で訊いた。 「え、あの」  戸惑っていると「急いでるんで、失礼するわよ」ドンと身体で郷子を押しのけ、タクシーに滑り込んだ。ドアがバタンと閉じ、すぐに目の前から消えた。  ひとりぼっちで、よるべない。  ふと、祥二のところへ行ってみようかと考えた。愛人のフィリピーナが働いている店は、そう遠くない。深夜零時になろうかというこの時間帯なら、祥二も店の周辺にいるだろう。その姿を見たら、負けるものかと闘志が湧くかもしれない。  それとも、実家に行こうか。もう寝ているだろうけど、叩き起こして苦渋の胸中をさらけ出したら、父がなんとか知恵を貸してくれはしないか。合併か、歯を食いしばって居残るか、それともいっそ廃業か。どっちに進むにしろ、背中を押してくれるだろう。  どうすれば、いい? 「あんた、乗らないの」  また、声がした。今度はサラリーマン風の中年男だ。 「乗ります」  郷子はポンとタクシーに飛び乗った。そして、言い慣れた家までの道筋を告げた。  家に帰ろう。化粧を落として風呂に浸かり、新聞を読みながら熱いお茶を飲み、明日着る服を用意して、目覚まし時計をかけ、ベッドにもぐって眠るのだ。  明日も仕事がある。合併準備も、がむしゃらにやらねばならない社長の仕事なのだ。 [#改ページ]   その5 愛しきマイホーム     1  木造二階建てのその家には、塀がなかった。  敷地面積六十六坪のうち、南側の道路に面した東南の一角は、むき出しの土に雑草がしがみついているだけでポカンと何にもない。ひと言で言えば、プチ原っぱだ。  原っぱアプローチの先に、タイルを貼ったポーチがある。テーブルと椅子を置くと、ちょっとしたオープンカフェの風情だ。その後方に、フローリングのリビングが見える。全面ガラスの引き戸が三枚。一方に片寄せておけば、石垣島あたりの民家のように開けっぴろげになる。ポーチとの段差は低く、年寄りや子供が腰掛けるのにちょうどいい。  ポーチの上に庇《ひさし》よろしく張り出しているのは、二階のウッドデッキだ。子供が身を乗り出しても落ちないよう計算された格子状の手すりがついている。  住宅ローンの返済期間は、短くて二十五年。平均三十五年。サラリーマンなら、三十前にローンを組んで、定年と同時に払い終えるのが一般的なパターンだ。稼ぐはしからローンに吸い上げられ、引退する頃ようやく完全なマイホームになる。つまるところ、人は生涯の大半を家と引き替えにするのだ。 「だったら、家は一生分以上の価値があってほしいと思うんだよね」  鍵山工務店の社長室でマイホーム建築一回目の打ち合わせをしたとき、棚尾は梨央と姫にそう言った。  一生分の価値なら、わかる。家は往々にして、一人の人間が人生をかけるモチベーションになるからだ。  自分用の衣服、食器、道具。そして、家族、友達。必要なもの、気に入ったものがそこに収集され、かつ出入りする。愛や孤独にかられて一人で考えこむとき、あるいは誰かに打ち明けたいとき、そして深く結ばれるとき、それらの感情や関係は、家の中に持ち込まれ、家の中で掘り下げられる。  家はほとんど、自分そのものだ。だが、一生分以上の価値とは、欲張りすぎでは? 「いずれ、高く売れるようにってことですか」  梨央は心の中で鼻を鳴らした。 「違う違う。ほら、よくあるじゃない。買ったはいいけど、景気は下向き、家族はバラバラ、いっそ売りたいけど中古物件はなかなか売れない。お父さんは孤独に、お荷物でしかない家屋のローンを支払い続ける。ね。すごーく、不幸だろ〜う?」  棚尾は怪談のごとく、声を震わせた。 「そんな家は建てたくない。ローンがすんでも、その先もずっと住み継がれて、減価償却できたうえに、なおも家として生き続ける家にしたい。それが、人の家づくりに携わって五十年のあたしの願い」 「じゃあ、たとえば、百年後に世界遺産に指定されそうな家ってことかしら」  姫が高ぶった声で、しょーもないジョークを言った。棚尾はエヘエヘ笑ったが、建築家セーノ氏はまんざらでもなさそうにツルリと顎を撫でた。 「いいな、それ。世界遺産になるんなら、屋根裏の梁《はり》に名前彫っとこうかな。東大寺の柱に残ってる職人のいたずら書き、今や保護の対象だもんね」 「またまた、先生。先生の設計そのものが署名代わりじゃないですか」  姫が調子よく受けた。梨央は目を丸くした。  この人ったら、どうしちゃったんだろう。目に隈《くま》を作って合併話をぶちまけたときとは大違いだ。あのときは暗くて、捨て鉢で、意地悪で、後ろ向きで、狭量で、憂鬱で、頑固で、弱虫で、不機嫌で、怒りんぼで、ボロボロで、ブスだった。  それなのに、初対面のセーノ氏を笑顔で持ち上げ、話にいちいち感心し、おおらかに場を盛り上げる様は、まるで心から仕事を楽しんでいるみたい。そりゃあ、いやいややってるとはいえ社長だもの、施主や取引先と対面しているときは前からにこやかに振る舞ってはいたが、そばにいると無理をしているのが見えた。姫は正直者なのだ。  飲み屋で梨央に泣き言を言ったボロボロの夜から、たった二週間。年はまたいだものの、事態に大きな変化があったとは思えない。それなのに、吸血鬼に血でも吸われて生まれ変わったか。あるいは、これがふっきれるということか。  棚尾は家を建てるならセーノ氏に依頼すると、前から決めていたそうだ。ただし、そこから先は施主に徹する(威張っていろいろ言って、工務店がどう出るか見るほうにまわりたいそうだ)。  施工は鍵山工務店。プランニングの段階から、姫と梨央が関わる。現場監督は山本。  山本にとっても、再出発の第一歩だ。それはとりもなおさず、山本をカバーすることに職分を見出した梨央の能力が試されることでもある。  梨央は緊張した。なのに、姫はヘラヘラしている。この人、やる気あるのかしら。会社経営の重荷を下ろして、最後に家を一軒建てる。これで終わりなんだから、せいぜい楽しめばいい。そう思っているのかもしれない。 「世界遺産はともかくさ、一生分より価値のある家、人から人へ住み継がれる家にして、棚尾遺産にしたいんだよね。だから、セーノさんに頼んだの」  棚尾は、気負い過ぎでうまく場の空気に乗れない梨央に優しく言った。 「わたしもお噂は聞いてました」姫のほうは、歓迎ムード一色だ。「ほら、テレビのリフォーム番組にも出てらっしゃいましたよね」 「条件の悪い敷地とか無理のある願いとかいうの、つい、そそられちゃって」  セーノ氏はニヤニヤ答えた。  リフォーム番組はブームなのかたくさんある。家でのんびりテレビを見る時間などないが、会社に録画ビデオがある。勉強のために借り出すのだが、疲れているせいか、映像を見ていると寝てしまう。  セーノ氏のこともよく知らない。梨央はエコロジーに基づいた建材の情報集めと建築法の勉強で手一杯だ。施主と職人の間を取り持つために、まず現場の具体的な知識を手に入れようと割り切ったのだ。設計には無論興味津々だが、建築家の数だけアイデアがある。今の梨央には、取り組む余裕がない。それに今回は、設計はセーノ氏と最初から決まっていた。 「この人、縁側フェチなんだよね。そこが気に入って、ずっと仕事一緒にしたいと思ってたんだ、実は」  棚尾は、恋人を家族に紹介する若い男みたいなウキウキ視線でセーノ氏を見た。 「そう。縁側は絶対作る。どんなに狭い敷地でも」セーノ氏は力強く頷いた。 「街中でも?」  梨央の疑問に、彼は再び頷いた。 「街中でも、商業地でも、どこでも。縁側はどこにでも出現させられる」  そんなこと、できるのか。梨央が生まれ育った建て売り住宅には、縁側なんかなかった。母方の祖父母の家に昔あったけれど、建て替えたときになくなった。最近縁側を見たのは、沖縄の民宿と京都の寺、それだけだ。近頃はリフォームでウッドデッキを作るのが流行りだが、いかにもとってつけたようで安っぽい。  現代建築に縁側ねえ。想像できない。戸惑いとわずかな反発を隠しきれない梨央に、セーノ氏はちょっと嬉しそうに主張した。  施主とのやりとりで最終的に形を変えたり縮小することはあっても、必ず縁側はつける。構造は木組み。空気も光もスカスカ通す。高気密高断熱の冷蔵庫みたいな家はつくらない。つくらないったら、つくらない。  梨央は棚尾に渡されたセーノ氏の仕事の写真集に目を落とした。確かに、縁側だらけだ。  生け垣を施した小さな庭に向かう縁側。南側の壁を一部へこませて光を引き込む空間に置かれた縁台のような縁側。道路に面したフロント部分を広いデッキテラスにし、さらにそこに段差を設けて作った縁側。  きれいだけど、だから、なに?  理解しきれず首を傾《かし》げる梨央に、セーノ氏はふくらんだバッグからレポート用紙を取りだし、鉛筆で絵を描き始めた。それは、棚尾から聞いた家族構成の情報をもとにした、今度建てる家のラフスケッチだった。  平面図、側面図、全体の眺め。なめらかな鉛筆の動きが境界線に仕掛けられた縁側へと梨央を導き、その意味を教えた。  正式な設計図のお披露目は、棚尾が現在住んでいるマンションで、ジュニア夫婦も揃ったところで行われた。  このマンションは鍵山工務店が二十五年前に建てたものだ。外観、間取りともに古いが、室内に敷き詰められたグレーのカーペットや真ん中に置かれた炬燵も粗大ゴミ寸前のところまで使い込まれていた。  土建屋は自分が住むところには無頓着だ。徹男がそう言ったのを、梨央は思い出した。  梨央と姫が一緒に一から関わる最初の、そしておそらくは最後の物件だ。計画を聞いてすぐに、二人は棚尾に伴われて建設予定地を見に行った。  棚尾が子供の頃は山里だったというが、今は一戸建てが並ぶ住宅地になっていた。かつて兼業農家相手のよろず屋を営んでいた棚尾の家はモルタル二階建てで、一階が店舗で二階が居住区という昔風の商家のつくりだった。最近まで自転車屋に貸していたのだそうだ。  家屋が解体され更地になるところも、梨央は棚尾に同行して見に行った。壁がショベルカーにバリバリと噛み砕かれ、あっさりつぶされていくのを見ると、自分の家でもないのに胸が痛くなった。長いことそこにあった家は、長く生きた人と同じだ。役目を終えて、去っていく。粉々になりながら、無言のうちに世界に別れを告げている。そんな気がしてならず、梨央は涙をこぼした。  だがその横で、思い出がたくさんあるはずの棚尾は腕を組み、ほんのり笑っていた。 「更地が好きなんだよ。これから、ここに家が建つと思うとワクワクする。根っから、土建屋なんだなあ。ま、面白い家になりそうだからってこともあるけどね」  その面白い家の図面が、今、炬燵の上に広げられた。  すると、炬燵の一辺にくっついて座っていたジュニア夫婦の妻のほうが、ぐいと身を乗り出した。棚尾の老妻は老眼鏡をかけたりはずしたりして図面と息子と嫁に目を配り、棚尾は少し離れたところにあるマッサージチェアに横たわって高みの見物といった体だ。セーノ氏は若妻の向かい側、梨央は彼女の横に身を寄せて、建築家の意図を施主(の同居人)に伝える目論見の位置取りをした。  姫は最初から関わると約束したものの、合併準備も含めて社長業が忙しい。進行状況は逐一梨央が報告することになっていた。 「では、ご説明いたします」  セーノ氏が図面の上に指を走らせながら、間取りの解説を始めた。若妻は鼻の穴をふくらませている。  家の間取り図を見て興奮しない女はいない。一年前まで、家どころかインテリアにさえ興味がなかった自分をすっかり棚に上げ、梨央は施工側の人間らしく、客の高揚を快く眺めた。  日本の経済は大変なことになりかけている。できるだけ早く土地付きの一戸建てを確保しておくのが身のためだ。札束なんか、いくら持ってたって紙くずになる時代が来るぞ。大学でグローバル経済を教えているジュニアの予測はシビアで、親世帯との同居に対して、若妻はいやもおうもなかったようだ。だが、キッチンやバスルームは別々のいわゆる二世帯住宅をイメージしていたらしい。  玄関がひとつ、キッチンとバスルームは共同、これじゃ、わたしたち、下宿人みたい。それに、この計画だと子供部屋が四畳くらいしかない、狭すぎる。不愉快を顔一面にみなぎらせた若妻は、セーノ氏にではなく、夫に向かって文句を垂れた。  ジュニアは学生時代の恋人と結婚して一児をなしたが、妻は子供を連れて出ていった。セカンドワイフは二十八歳。四十三歳の夫は「まあまあ、これは叩き台だから。ねえ」と曖昧な笑みを浮かべて、梨央に同意を求めた。梨央はそれには答えず、ただクッキリと微笑み返した。  若妻はジュニアの教え子だ。電撃結婚だったが、胸から下が風船のようにふくらんだウェディングドレスを見れば、何が起きているかは一目瞭然だった。ジュニアは憮然としていたが、若妻は堂々たるものだったと、式に列席していた時江に聞いた。  猪突猛進型のお嬢さん。欲しいものは、背伸びしてでも手に入れる。それはけっこう。でもね。あなたは家のことを、まだ、なんにも、知らない。 「二世帯住宅を建てたいという風には、僕は聞いてませんよ」  設計者のセーノ氏が、あくまでもにこやかに言い返した。不遜な言い草だが、この設計には仕掛けがある。事前に説明を受けている梨央は、若妻の反応が楽しみでウズウズした。 「親子二世代の家族が住むとうかがいました。だから、寝室が二つあるでしょう。風呂はひとつだけど、二階には洗面所とシャワールームをつけてあります。そのかわり、風呂のほうはお子さんがかなり大きくなっても二人で入れるくらいゆったりしてます。玄関はひとつでいいでしょう。二つ作ると、奥さんに隠れて旦那さんや子供が出入りすることになりかねませんよ」  セーノ氏はときどき、笑えない冗談を言う。若妻は虚をつかれ、いったん開けた口をすぐに閉じた。 「このプランだと、玄関に入るには一階のポーチを必ず通ることになる。ポーチにいる人間に、ただいまや行ってきますを言うことになるよね。懐かしいなあ、そういうの。あたしが子供の時分は、家を出て学校に行く道すがら、ご近所のみなさん全部に、行ってきます、ただいまってやってたもんだよ」 「そう、そう。そうでしたよね」  棚尾夫婦が回顧談を始めた。 「あんたくらいからよね。親にもろくに挨拶しなくなったの」  ジュニアは母親に昔の無愛想を責められ、ますます曖昧な笑みに逃げ込んだ。この人はとにかく、土地付き一戸建てが確保できれば満足らしい。  問題は、若妻だ。若い者に回顧談は禁物。本能的に反発される。この世代に通じる言い方をしなくては。 「二世帯住宅は問題ありますよ」  梨央はオーソリティーっぽく、おごそかに口を切った。 「最近、二世帯住宅の宣伝って、見かけなくなったと思いません?」 「──そうかしら」  若妻は素直に認めないが、否定もできない。やや弱気な上目遣いをした。 「評判がよくないからですよ。玄関もキッチンも別々だから独立した生活を守れるといったって、壁ひとつ隔てたところにいるんですから意識するなと言うのは無理です。中途半端なんですよね。お互いにへんに遠慮してストレスがたまります。たいてい、お嫁さんが出ていきたがります」  聞いた話ですけど、という部分は飲み込んで、確率百パーセントの顔で主張した。もともと、二世帯住宅というアイデアが嫌いだからだ。あれはまるで、家族の亀裂をネタにしたブラックジョークだ。いかにもバブルの時代の産物らしい。あんないびつな形にされた家が可哀想だ。 「子供部屋が狭いのも、子供に必要なのはベッドと机くらいだからです。居心地よくすると、引きこもりますよ」  梨央は近頃の親がもっとも恐怖するシチュエーションを持ち出して、若妻を脅した。 「宿題なら下のリビングやポーチのテーブルでもできるし、そういう習慣をつけたほうが宿題やってるのを見張れるからいいんじゃないでしょうか」 「そうだよ。あたしらも学校の勉強はちゃぶ台でやったもんだ。ご飯の支度するまでにすませろなんて怒られながらね」  またも、棚尾の回顧談。ちゃぶ台なんて貧乏くさい。若妻はうんざり顔を隠せない。  歳とった人間は子供時代の記憶が宝物だからその輝きを絶対視するけど、なんでも昔のほうがいいわけじゃない。決めつけられると腹が立つ。その気持ち、わかりますよ、だけどね。 「子供部屋って、ありさえすればいいんじゃないでしょうか。私事で恐縮ですけど」と前置きして、梨央は若妻の注意を自分に向けた。  小学校四年まで弟とひとつの部屋に押し込められ、すごく不満だった。毎日、ブーブー言った。親も初潮を迎える前に別にしたほうがよかろうと考えて、二階を建て増しして部屋を作ってくれた。狭かったけど、嬉しかった。  子供にとって、自分の部屋があるかどうかは大きな問題だ。同級生のほとんどは個室を持っている。だけど、自分は……。それだけで、子供は不幸のどん底に落ち込むのだ。だって、子供だもの。持ち物でしか、幸福を測れない。  だから、広さは問題ではない。部屋がありさえすれば、気がすむのだ。それに、どうせ大きくなればなるほど外に出ている時間のほうが長くなるに決まっている。極端なことを言えば、子供のためには畳一畳、寝袋ひとつあればいいくらいだ。 「下手に広くすると、くだらないものをため込むか、散らかしまくってゴミの山を作りますよ──って、自分のことなんですけど」梨央はぺろりと舌を出した。  今でもそうだ。マンションに段ボールの山脈ができている。いろいろと勉強中なので、資料や参考書が書棚に入りきらない。整理する時間もないので、とりあえず段ボールに一時保存。そうしたら、段ボールだらけになって、遊びに来た実咲が引っ越しの荷造りと勘違いしたほどだ。 「だけど、狭いと散らかす量も限界があるから、大変なことにはならないと思います、ていうか、要するにそのほうが合理的だと言いたいわけで」  ちょっと、無理やりだったかしら。最後はしどろもどろになったが、若妻は沈黙した。だが、子供部屋の広さについては、これで納得してもらいたい。  この家の施主は棚尾だ。棚尾名義の土地で、三千五百万円と見積もった建設予算のうち、一千万円は棚尾が出す。ジュニアは残りをローンで返済する。親子共同で建てるとはいえ、子供世代のいいようにはさせない。  棚尾がそこまで言ったわけではないが、梨央はそう感じていた。というより、若妻が二世帯住宅を希望しているらしいと棚尾に聞いたときから、その考えは絶対に撤回させると野心に火がついた。  現場監督時代は、施主にたてつくなどとんでもないと萎縮していた。おかしいと思っても、客には逆らえない。施主とは無理難題を言う生き物だ。じっと我慢と耐えていた。  だが、今度は違う。  施主は棚尾だ。そして、彼がどんな家を建てようと思っているのか、梨央は知っている。セーノ氏がその希望をどんな形にしたのかも。  だから梨央は、若妻を説得したかった。理解させたかった。彼女が住む家ではあるけれど、このプランは梨央の家でもあるのだ。  土建屋は自分が住むところには無頓着だ。その後を、徹男はこう続けた。仕事で建てた家が自分の家みたいになるからかな。  確かに、そうなる。欠陥住宅をつくるやつらの気が知れない。人の家でも、施工者にとっては自分の家なのに。  だけど、ああ、熱が入り過ぎ。若妻は眉間に皺を寄せている。ひかれちゃ、まずい。 「ごめんなさい。押しつけがましかったですね。だけど、セーノ先生の建てた家で暮らしてる方たちは、みなさん満足なさってるんですよ」  あわてて、大人っぽい笑みで取り繕った。 「いや、子供は絶対に散らかすものだっていう前提に説得力があった。そうだよね、ママ」棚尾がおかしそうに嫁に言った。若妻は唇をすぼめて考え込んだ。 「この家のコンセプトはね、循環する家。そして、外に向かって開かれた家」  セーノ氏の建築家らしい言葉遣いに、若妻は目を上げた。 「一階にある親世代のほうが広くて居心地がいい。二階の子世代居住区は機能優先。世代による家との付き合い方を考えたら、こういうことになるんです。働き盛りのうちは、家は寝る場所、自分のものの収納庫程度の使い方しかしないものです。逆に、歳をとったら家にいることが多くなる。だったら、居心地がいいほうがいい。活発に外に出ていた子世代が歳をとったら、一階に移る。そして、孫世代の家族に二階を譲るんです。つまり、循環するわけ。そうやって、何代も何代も住み続けていける。風通しのいい構造は、住む人の居心地もいいし、家の寿命も長い。家だって、呼吸してるんですから」  ほら。やっぱり、家を生き物扱いする。梨央はニッコリした。建築の仕事をすると、みんなそうなるのだ。 「アプローチはバリアフリーでゆっくりできて、往来する人と挨拶を交わせる。ついでにちょっと寄ってもらって、ポーチのテーブルや開けっ放しのリビングに腰掛けて、茶飲み話ができる。二階のウッドデッキもそう。中から、外から、声を掛け合える。この家のフロントは、まるごと縁側なんですよ」  縁側は、家のてのひら。おいでおいでと手招きをして、包んでくれる。家中の部屋が戸締まりをしても、縁側だけは外に向かって開いている。縁側は、内と外をつなぐ架け橋だ。 「そうよ。人が寄りやすい家にしたいわね」  老妻はさばさばと言った。そして、ジロリと若妻を見た。 「あんたたちが同居で息が詰まるようなら、部屋を別に借りればいいじゃない。ここはここで資産のひとつと思っておけばいい。わたしたちはどうしても同居してほしいわけじゃないのよ。あんたたちが住まないんなら、下宿人置いたっていいんだし。ねえ、お父さん」  老妻は嫁の言葉を使って逆ねじを食わせ、若妻はノーコメントを決め込む夫を恨めしげに睨んだ。 「おまえたちだって、あたしらがあの世に行ったら、そうやっていいんだよ」  棚尾が最終兵器を持ち出した。循環の節目には親世代の死がある。それを口に出されたら、子供のほうはむやみに自己主張できない。場が静まりかえる中、棚尾は部族の長老のごとく、穏やかに話した。 「おまえたちの子供だって、大人になったらここを出ていくよ。誰でも、一人で自由に暮らしたいと一度は思うものだもの。あたしはむしろ、外に出て家賃を稼ぐ苦労をしたほうがいいと思ってるくらいだ。だけど、家賃稼ぐのに行き詰まるかもしれない。そうじゃなくても、生きてりゃ、このままでいいのかなと思うときが必ず来るさ。そんなときに、ただいまって帰ってこれる場所をとっておいてあげたいじゃないか」  う。感動的。梨央の鼻の奥がツンとした。だけど、ここで泣くのはジュニア夫婦の役どころだ。そう思って我慢したら、ジュニアがやっと口を開いた。 「この家を出てよそで暮らすなんて、とんでもないですよ」と両親に言い、ついで妻に厳しく言った。 「間取りなんか、どうでもいいじゃないか。土地付きの持ち家があれば、経済状況がどんな風に混乱しても生き延びられる。資産と呼べるのは、金塊と地べただけだ。細かいことで文句を言うな」 「その言い方は、ないんじゃありません?」  反射的に、梨央が叩き返した。言いたいことを先回りされて、若妻はポカンとした。 「家は心の容れ物ですよ。資産以上のものですよ。奥さんや子供が気持ちよく暮らせるかどうかをまず考えてくださいよ」 「考えてますよ」  今度はジュニアが気色ばむ番だ。 「だから、この設計のままでいいって言ってるんじゃないですか。親父がいいんなら、僕はいいですよ。親父は建築のプロなんだから。僕は経済のプロとして、土地付き一戸建ての資産的側面について言及しただけです。おたくもプロなんでしょう。プロとして、この設計がベストだって言いたいんでしょう」 「そうですよ。ベストですよ」  大声の言い合いになった。梨央はあっけにとられている若妻にパッと向き直るや、「奥さん!」と熱く呼びかけた。 「──はい」 「子供、一杯産んでくださいね。縁側に原っぱですよ。転げ回って遊びますよ。近所の子供集めて、保育所にしてもらいたいくらいだわ」  棚尾が腹を抱えて大笑いしている。老妻は余裕の笑顔だ。 「梨央ちゃん、嬉しいけど、ベストは言い過ぎ」冷静に諭したセーノ氏も、すぐにグフッと吹き出した。 「すいません。暴走しました」  神妙な顔で謝ると、ジュニアは「いや、まあ、そういうことですから」と妙な受け答えをし、曖昧な微笑に立ち戻った。  若妻だけが何もなかったようにさっさと図面を手に取り、「えーと、それじゃあ」と次の問題に進んだ。  棚尾の名文句にも、梨央と夫の言い合いにも、感じ入った気配はない。若妻のシレッとした表情から透けて見えるのは別の思惑だ。  同居がいやなら住むことはないなんて、姑の厭味は聞かなかったことにする。間取りに文句は言ったけど、住みたくないなんて言ってないもんね。循環する家、大変けっこう。結局わたしたちのものになるのよ、この家は。そう言いたげだ。  若妻は可愛らしく小首を傾げ、キッチンは背の高さに合わせるべきものだが、姑と自分は身長が違う、その点はどうなるのでしょうとセーノ氏に質問した。セーノ氏は、高さは老妻に合わせ、若妻はキッチンチェアに座って調理するようにしてはどうかと提案した。あるいはいっそ、二人に合わせた段差のあるキッチンを作りましょうか。キッチンのオーダーメイド、できますよ。 「オーダーメイドのキッチン」  心を開く魔法の呪文。若妻は思わず、口元をほころばせた。よし、この問題はクリア。 「えーと、それから」  若妻はなおも図面を角度を変えては眺めまわし、ようやく外との境界線に注意を転じた。 「この道路との境目なんだけど、わたし、ブロック塀って好きじゃないのよね。家が木造なのにレンガだと合わないし。なにかこう、もっとおしゃれな感じの塀ってないかしら」  待ってました。梨央はセーノ氏に先んじて、断言した。 「塀は、ありません」 「塀がない!?」  果たして、若妻は驚愕した。 「そんな、そんなことしたら、外から丸見えじゃない」 「でもないですよ。これ見て」今度はセーノ氏が側面図を持ち出した。 「リビングはアプローチとポーチのさらに後ろだからかなり奥まってるし、二階のデッキが陰を作るから、外が明るいときはほとんど見えない。そのかわり、中から外はよく見える。逆に、夜になって灯りをつけたら丸見えですけどね。ブラインド下ろしたら、見えない。ただし、家の灯りは道まで照らす」 「侵入を企てる者がいたとしても、明るさにビビりますよ。スポットライト浴びながら、悪いことはできませんからね。古今東西、犯罪は暗いところで起きてます」  梨央はいそいそと、セーノ氏の発言の補足をした。さらにだめ押し。 「その証拠に、塀のある家のほうが泥棒に遭う率が高いんですよ」  これはセーノ氏からの受け売りだが、梨央なりの味付けも少々。「たとえば、ほら」と、ワイドショーのネタになった一家惨殺事件とか侵入レイプ事件などを例に出した。あれはどれも立派な塀があるか、オートロック式のマンションだ。そのことを若妻に想起させた。ついでに、アメリカ映画やテレビドラマまで持ち出した。  広い芝生があるだけで、家の全貌が丸見えなのが典型的な郊外住宅地のありさまだ。ニューヨークのような都会でも、ビレッジやソーホーあたりのアパートは、道路から階段をあがってすぐに玄関扉になっている。塀なんか、ない。 「そういえば、アメリカのドラマって、よく外階段に腰掛けてしゃべってるのよね。田舎だと、ポーチにブランコ椅子があって。昔、あれに憧れてた」  若妻も同調した。 「だけど、ああいうのは広い土地があるとか、大都会の街並みがあるとかだから、いいんじゃないかしら。眺めがいいもの。この家はまわりじゅう普通の家で、しかも塀だらけでしょ。ポーチに座ったって、見て気持ちのいい風景なんか、ないじゃない。意味ないわ」  若妻の言葉は、ため息で終わった。 「でも、塀のない家は、いい風景になりますよ」  不意に口をついた言葉に、梨央は自分で驚いた。こんなこと、言うつもりはなかった。  塀がないことの安全性をセーノ氏に教えられ、目から鱗が落ちた。逆転の発想的な痛快さが嬉しくて、そのことで若妻の根拠のない思い込みをひっくり返すつもりだった。  だが、そうだ。塀は醜い。どんなに凝った豪邸を建てようとも、塀が美観を損ねる。  塀は、怖い。感じ悪い。塀なんか、嫌い。  子供の頃、友達の家に遊びに行った帰り道で迷子になった。同じような家が並んだ新興住宅地なので、ひとつ角を間違えたら混乱して来た道を戻ることができなくなった。夕暮れはあっという間に夜に変わる。家々にともる灯りは塀で遮断されて外に漏れてこない。ただ、闇ばかりが深くなる。暗くなると、塀しか見えない。灰色の壁が四方からのしかかってくるように思えた。  せっぱ詰まった梨央は、何軒かの家のブザーを押した。次々と無視され、五軒目でようやく出てきたおばあさんに泣きじゃくりながら迷子になったと訴えて、ようやくバス停まで連れて行ってもらうことができた。  ブロック塀が並ぶ景色から梨央が感じたのは「拒絶」だ。あんなところには住みたくないと思った。だから今も梨央が住んでいるマンションは、コンビニや飲食店など外に向かって開いた商業施設があるバス通り沿いだ。あのときの恐怖は、忘れられない。忘れてないということを、忘れていただけだ。塀がないというアイデアが、記憶を呼び覚ました。  塀のある家のほうが狙われやすい。それは、塀が恐怖の表現だからだ。外の世界に向かって、中に入るな、おまえは敵だと叫んでいる。その敵愾《てきがい》心が、悪意を誘発するのだ。 「わたしが通りすがりの人間だったら、塀だらけの中にぽこんと塀のない家をみつけたら、きっといい気持ちになると思う。それに、中にいる人にとっては、前が全部開けてるとそれだけでかなり空気感が違うんじゃないでしょうか。ちょっと想像してみて。南向きだから日射しが丸々入るし、雨なら雨で視界一杯のスケールだとけっこう見物《みもの》じゃありません? 雪もいいし」  塀のない家。その外観、そして内から眺める雨を、梨央は想像できた。その空気感を。  半年のへっぽこ監督期間は無駄ではなかった。必死で過ごした大混乱の日々が腐葉土《ふようど》になって、そこから何かが芽生えかけている。 「クリスマスツリー飾ったら、外から見てもきれいよね、きっと」  若妻が夢見る瞳で言った。クリスマスディスプレーのことを考えると元気になるところは、さすがに二十八歳だ。 「じゃあ、塀はなし、原っぱにポーチ、二階はウッドデッキ、構造は木組み、このプランでオーケーですね。キッチンの件は、オーダーメイドの線で検討し直しましょう」  まとめの言葉を発したのは、梨央だ。若妻が頷くのを確かめてから、セーノ氏とアイコンタクト。セーノ氏はこうなることはわかっていたといわんばかりにニンマリした。棚尾がパンと両手を打ち合わせた。 「よし。決まりだ」  塀がない。そして、縁側がある。そんな家、近頃の住宅密集地では見たことがない。  不動産会社が作ったナントカが丘とかカントカ台の家々には、塀はない。しかし、あのような街は丸ごと住宅展示場のようなものだから、戦略上、家の外観を隠す塀を設けないだけの話だ。その証拠に、低いフェンスがある。内と外を隔てる発想からは自由になってない。  型破りの家をつくる。そのためには「これでいいのだ」という確信が要る。今まで、それがつかめなかった。この家のプランに魅力を感じてはいたが、どこか、おっかなびっくりだった。だけど、もう大丈夫。  わたしは、この家を絶対につくりたい。塀がない家があると、街の景色がよくなる。意識下から出た言葉の正しさを、自分に立証したい。これができるまでの一部始終を、しっかり見たい。  ああ、ほんとなんだ。何もないところに、家が建つ。初めて、そこに居合わせる。  とても待ちきれない。  そうだ、待てやしない。この気持ち、この高揚を、徹男に伝えるのを一分だって待てない。     2  報告したいことがあると堅い言葉で呼び出すと、徹男は断らない。  初めて新築物件に立ち合うこと、それも監督補佐という自分で申し出た立場で、ということを話そうと思った。だが、中味は言わず、聞いてもらうんだからおごりますよと、過剰に明るい声で伝えた。  知り合ってまもなく一年になるというのに、会うために口実がいる。いや、「飲みに行かない」とか「ご飯、食べようよ」だけでも、彼は応じてくれるだろう。だが、できなかった。徹男は呼べば応えるが、それだけだ。距離が縮まらない。  うまくいかなかった結婚のせいで、深入り恐怖症になっている。だから時間をかけてでも、呼びかけて、誘い出して、徐々に手元にたぐり寄せようと思っていた。だが、田植えじゃあるまいし、男と女の仲が手間と時間をかければ実るなんてこと、あるだろうか?  梨央は徹男に一目惚れしたのだ。そして、徹男は梨央のために仕事を探してくれ、困ったときには助けてくれた。まったく脈がないわけじゃない。  今年、三十一だぜ。一方的な片思いの純愛少女をいつまでやってるつもり? そりゃ、このもどかしさもそう悪くはないけれど。  仕事は一歩前進した。自分の力でだ。鍵山工務店は風前の灯《ともしび》だから前途洋々というわけではないが、少なくとも一軒の家を建てられる。  塀のない家。それを思うと、ニヤニヤする。だから、約束の七時ピッタリに≪ありの実≫に現れた徹男に、カウンターの隅から伸び上がって手を振ったときも、思い切りニヤけていたはずだ。  なのに、徹男の顔は暗かった。梨央の隣に座り、ビールを注文するとすぐに低い声で言った。 「鍵山さんのこと、聞いてる。大丈夫かい」  徹男のほうから口をきくなんて、滅多にないことだ。だが、梨央はガッカリした。  鍵山工務店は取引先だから、危ないという噂は気になるだろう。しかし、梨央は思いきり明るい声で電話したのだ。加えて、このニコニコ顔を見れば、何かいいことがあったのだとわかるだろう。それなのにいきなり「大丈夫か」はないだろうが。  わたしの顔色を読もうともしないの?  一気にシュンとなった。肩を落とすと、徹男は励ますように言った。 「言いにくいだろうけど、何を聞いても俺はよそでベラベラしゃべったりしないよ。それに、大体のことはわかってる」 「だったら、わたしから改めて言うこと、何にもないですよ。多分、徹男さんが知ってる通りだし、わたし、そのことで悩んでないもの」梨央はつんとして、高飛車に言い捨てた。  徹男は、梨央のことを心配してくれる。でも、それはいつも仕事がらみだ。感情面には、決して踏み込んでこない。意識して避けているのか、興味がないのか。呼べば応えるのは、お情けから? もしかしたら、自分に惚れてるのが見え見えの女を振り回すのが快感? 「家を建てるのよ。棚尾さんの家」  梨央は焼酎のおかわりを頼み、徹男の様子をうかがうのをすっぱりやめて、飲み食いしながら勝手にしゃべった。 「山本さんが現場監督で、わたしは総合マネージャー。今、勝手に作った肩書きだけど、技術的なことは山本さんが見て、わたしは全体の管理するの。意見調整やら、お金の計算やらね。土壁や無垢《むく》の木材やエコ建材使うから、建築家さんに教えてもらって資材集めもやるの。業者さんは日本全国から探し出したいから、出張もするつもり。そうだ、わたし、ずっとペーパードライバーだったけど、土日の早朝講習受けて、運転するようになったのよ。今はタクシー使ってるけど、外仕事だもの、車が要るよね。ワンボックスカー買おうと思ってる。テレビのリフォーム番組みたいだけどさ、施主さん乗せて建材見に行ったりしたいじゃない」  一気に話し終えると、徹男に挑むような視線を投げた。なぜか、そうなった。 「鍵山は、どうなるかわからない。だけど、わたしは仕事、続ける。今度の仕事で、できるだけたくさんの人に会って、自分を売り込むつもりよ。難しいかもしれないけど、手がかりにはなる。わたしは大丈夫。これがほんとの第一歩なの。絶対、これで終わりにしない。話したかったのは、このこと」 「──そうか。なら、よかった」  徹男はふっと息を抜き、気の抜けたビールを飲み干した。 「仕事口探したほうがいいんなら、なんとかしようと思ってたんだけど」 「頼むかもしれない。今は何にもわからないのよ。わかってるのは、わたしの気持ちだけ。でも、それだけで十分でしょう。どんなに不況でも、家を建てる仕事はなくならないもの」  おやまあ、なんで喧嘩腰なんだろう。さっきまで純愛少女だったのに、今はぶち切れたおネエちゃんだ。  それは、こいつがわたしの気持ちをはぐらかすコンチクショーだから。 「わたしや鍵山のことより、徹男さん、大丈夫なの? 人生、安泰? 何にも心配事はなし?」 「まあ、そこそこ」 「なに、それ」鼻で嗤ってやった。  カウンターに肘をつき、冷や酒を口に運んでいた徹男が驚いたように眉を上げて梨央を見た。 「徹男さん、ガード、堅い。そんなに、わたしに好かれるのが怖い?」 「酔ってる?」  ほら、質問に答えない。自分の気持ちは決して言わないのだ、この男は。 「今度の家ね、塀がないの」 「へー」 「それ、ギャグ?」 「いや」  小さく笑った。そうか、ダジャレなんか言うわけないか。 「塀がなくて、原っぱがあって、縁側があるのよ。外に向かって開いた、人が集まる家にしたいって。そこで生まれて育った家族も、立ち寄った人も、あそこに帰りたいと思うような家。みんなで大事にして、子供から孫へ何代も受け継がれていく家。そういう家になるように、そういう気持ちでつくるのよ。そんな家を建てるの、すごく嬉しい。すごく自慢。塀って、人を寄せつけないもの。人間味、ないわよ。徹男さんは、塀そのものね。いつも、そうなの。それとも、わたしにだけ?」  彼は答えず、苦笑いする。  いつまでも、それですむと思うなよ。  塀のない家のおかげで、梨央の脳内にアドレナリンが過剰分泌していた。この勢いで、ぶちかましてやる。塀に体当たりしてやる。失うことを怖がって、当たりさわりのないお付き合いでお茶を濁すなんて、もうごめんだ。好きなのに、宙ぶらりんでほっとかれ続けるくらいなら、いっそ自爆してやる。  梨央は焼きおにぎりとにゅうめんを注文した。第二ラウンドのために、しっかり腹ごしらえした。  カウンターに二人分の飲み代五千三百円をぱしっと置くと、梨央は徹男に「出よう」とひと言呼びかけた。 「徹男さん、家、どこ。送るわよ」 「いいよ。俺があんたを送るよ。酔ってるじゃないか」  酔ってる。確かにそうだ。だが、酒にではない。決意にだ。 「じゃあ、送って。車で五分。歩くと十五分。歩きたいけど、いい?」 「いいよ」 「よし、こっちだ」  先に立って、歩き出す。酔客が往来する夜の街を通りながら、わざとよろけて徹男の左腕をつかんだ。そのまま、離さない。酒はこれができるからありがたい。酔っぱらいなら、男にしがみついても誰にもとがめられないし、恥ずかしくもない。  徹男は梨央にくっつかれたまま、横断歩道を渡り「その先を右」「ここをまっすぐ」と言う梨央の指示に従った。しかし、両手はジャンパーのポケットに突っ込んでいる。梨央はまるで樫の幹にからみつく蔦《つた》だ。  チェッ。  マンションがあるバス通りは明るい。そこに着くと何もできなくなるから、街灯があるだけの川沿いの遊歩道に徹男を誘導した。気候がいいときはデートコースだが、三月初めの夜はまだ寒く、ホームレスの段ボールハウスもしんと静まりかえっていた。  あたりに人影がなくなったので、梨央は立ち止まり、徹男の左腕にまきつけていた両手をほどいて、コートのポケットにしまった。徹男も立ち止まった。  正面に立って見つめると、顎を下げて困ったような上目遣いをした。 「こんな道端でなんだけど、わたしの気持ち、知ってるよね」  徹男は目を伏せた。答えない。 「この間、思い込まれたら困るって言ったよね。だけど、わたし、まだ思い込んでるよ。自分でも困るから、はっきりさせたい。わたしにこれ以上接近されるの、本気で困る? やめてもらいたい? わたしは徹男さんに何にもできない?」  徹男はうつむいて、五分刈りの頭を軽くこすった。それから、ちょっと歩いて川べりの手すりによりかかった。  とにかく、とっとと逃げ出す気はなさそうだ。よかった。梨央は足音をしのばせて近づき、彼の隣に寄り添った。 「──あんたが足場に登った現場な」  徹男は対岸のマンション群に目をやって、つぶやいた。 「うん」  梨央も向かい側を見た。ぽつんぽつんとオレンジ色の窓灯りが散らばる夜のマンションは、寒々としたコンクリートの箱だ。つまらない建物。 「あそこのゲートが開いてたのは、前のと話してたからなんだ。喧嘩になって、あいつが飛び出して、それを追いかけたもんだから開きっぱなしになった」 「そう」 「子供のために復縁しないかって言ってきた。結婚しようという男がいるそうだ。でも、子供の父親は俺だから、あいつと夫婦に戻るというより、子供の父親として戻ってこないかって」  隠していたことをしゃべった。塀に穴が空いた。梨央は興奮し、もっと穴を広げるべく、徹男を苦しめる敵(前妻は敵だ!)を共に攻撃する気になった。 「それ、卑怯だよ。別れた男取り戻すのに、子供使うなんて。あ、男ができたなんて、嘘かもしれない。やな女」 「いや、本当らしい。決める前に、俺に知らせようと思っただけだって言った」  それから徹男は、今までのだんまりが嘘のように、そのときのやりとりの一部始終を話した。  徹男と前妻の間にできた男の子は、五つになったばかりだ。パパはいないということをなんとなく納得しているようだが、小学校に行くようになったらごまかしてばかりもいられない。しかし、その前に再婚して新しい父親ができたら、その人のことをパパと呼び、なつくだろう。そして、徹男のことは完全に忘れるだろう。あなたはそれでいいのかと、前妻は言った。自分の子供なのに、まったく縁が切れる。それで平気なのか。  徹男は答えられなかった。平気ではない。養育費を払っていたし、ときどき会ってもいた。父親だということを否定されるのは、何かの権利を取り上げられるような気がした。  すると前妻は、子供のためにやり直せないだろうかと言い出した。自分も前より大人になったから、今度はいい奥さんになれると思う、努力すると。だが、徹男はその申し出にも答が出せなかった。  うつむいて黙っていると、前妻は「もう、いい。わかった」とヒステリックに叫んだ。  あなたは自分の子供も愛せない冷たい人なのだ。そんな人が父親だと知ったら、子供のためにならない。今度の人はいい人だ。あの人といい親子関係を作ってほしいから、あなたのことは子供が大人になるまで話さない。話すとしても、愛情のない人だったと教える。子供はあなたを憎むだろう。でも、それはあなたが受ける報いなのだ。  前妻は激しい勢いでそこまで言うと、外に飛び出した──。 「それ」  ひどいねと言おうとした。だが、前妻の気持ちもわかる。たとえそれがノーのひと言でも、答を求められたのなら、ちゃんと気持ちを口に出して言うべきだ。答えないのは、ノーだと察しろと相手に要求しているようなものではないか。そんなの、やっぱり、冷たいよ。 「でも、追いかけていったんでしょ。子供の父親に戻ろうと思ったんじゃないの」 「あいつとやり直すのは無理だと思った。それは、とても考えられない。でも、子供と完全に縁を切るのは思いとどまってくれって言いたかったんだ。自分が父親になれない人間だというのは、ちょっと情けないっていうか」  徹男は苦しそうに、眉間に皺を寄せた。 「俺は親父や兄貴と同じ仕事をして、そういう絆の中で育ってきた。自分も、親父みたいな父親になるんだと思ってた。なのに、そうじゃなかった。子供と離れて暮らすのが、それほどつらくなかった。子供のために夫婦としてやり直せないかと言われて、それはイヤだと思った。また、あんな風に縛られる暮らしはしたくない。そのイヤだという思いがすごく強いんで、怖くなった」  天を仰いで、キョロキョロと視線をさまよわせた。梨央は口を挟まず、横目で様子をうかがいながら、言葉が止まるのを待った。 「あいつが言ったとおりだ。俺は心底、自分勝手で冷たい人間なんだ。父親になれない。家族が持てない。ダメなんだよ。あんたの気持ちは嬉しいけど、俺は多分、あんたが望むようなことはしてやれない。仕事のことだったら、助けてやれる。でも、それ以上のことは、できない」  手すりを両手でつかみ、肩の間に頭を落として、徹男は呻《うめ》いた。盛り上がった肩の筋肉。太い腕。太い首筋。四角くて、大きな身体。こんなに強いのに。  弱虫。 「徹男さん、カッコつけすぎ。ダメだ、冷たいって言うけど、そういう自分のこと、ひょっとして好きなんじゃない?」  梨央はぼそっと言った。徹男が落とした肩から亀のように首だけ振り向かせた。 「足場からわたしを助け出してくれたときは、頼もしかった。いろいろ気遣ってくれた。仕事や仲間も好きじゃない。人の面倒よく見るし。冷たい人なわけ、ない。もっと、自信持ってよ」 「現場のことは、こうやったらこうなるってコツをつかんでる。でも、人は──」 「対人関係なんて、うまくやれないのが普通よ。思い通りにいかないとか、相手がどう出るか見当つかないとかで、人のこと遠ざけるなんて、自尊心強すぎ。完全にコントロールできないくらいで、傷ついちゃうのね。前の奥さんとは、相性が悪かったのよ。相性と愛情は一致しないこともあるんだから。相性がよければ、一緒にいるのが息苦しいなんて、あるわけない。家と一緒よ。気持ちのいい空間と、なんとなく落ち着かないところとがあるでしょう。仕事もそう。やってて楽しいのと、全然ダメなのがある。それなのに、合うものと巡り合うのをあきらめるなんて、絶対、損よ。相性のいい、自分にとってのスペシャルと出会ったら、殻が破れるのに。ずっと埋もれてた本当の自分が、パーンて外に出られるのに」  パーン!  梨央は両手を空に突き上げて、大きく伸びをした。 「徹男さんに出会って、家を建てる仕事について、わたしはパーンと殻を破った。新しく生まれた気分。徹男さんが、それを後押ししてくれた。でも、わたしは徹男さんに何にもできないのね。徹男さんは、わたしの気持ちが迷惑なんだ。はっきり言ってもいいのよ。恨まないから、そうだって言ってよ」  両手を腰に当てて、梨央は徹男をじっと見た。彼はどんな顔をしていいかもわからないようだ。口を少し開けて、まばたきしている。そしてやっぱり、何も言わない。  梨央は肩をすくめた。 「徹男さん、わたしと一緒にいても、楽しくないんだ。てことは、相性が合わないんだ。それなら、わたしがいくら頑張っても無理。残念だけど、あきらめる。つらいけど、わたしには仕事があるし、乗り越えられる。徹男さんにも、女がコワイコワイ病乗り越えてほしいけど、大きなお世話ね」  梨央はぴょんと跳んで、立ちすくんでいる徹男をつかまえた。爪先立ちして、彼の頬を両手で挟んだ。 「いいでしょ。あきらめてあげるから、ちょっとだけサービスして」  動かない唇に自分の唇を押しつけた。乾いて、ふっくらしている。舌をそっと出してチラリと合わせ目をなぞってみたが、唇は開かない。コンチクショー。おまえは石像か。  顔を離して、徹男の目をのぞき込んだ。当惑とかすかな悲哀でフリーズした目。ほんとに石像になっちゃった?  梨央はニヤッと笑い、手を後ろに組んだ。徹男から目を離さず、後ずさりした。 「一人で帰れる。酔っぱらってないから、大丈夫。おやすみ」  踵を返して、早足で歩いた。ドラマだと、男が走って追いつくんだけどな。来る気配はない。振り向いて確かめるのは、やめた。  ほんとに、ダメなヤツ。     3  地鎮祭は三月最後の大安吉日に行われた。  東向きにしつらえた祭壇に米と餅、昆布にスルメイカ、鯛、大根、人参、白菜、ほうれん草、リンゴ、バナナ、ミカンに、木材をかたどったチョコレートケーキのブッシュ・ド・ノエル、それに塩と水、足元にのし紙でくくった一升瓶数本と缶ビールが供えられた。  地鎮祭は鍵山工務店が主催した。米、酒、鯛以外は海草、根菜、葉もの、なりものを揃えるのがスタンダードと時江に教えられ、梨央がすべて準備した。ブッシュ・ド・ノエルは本来クリスマスのお菓子だから神式のお供えにはふさわしくないが、何か特別なことをしたかった梨央が自腹を切って作ってもらったのだ。  ちんまりとした祭壇を囲むしめ縄の紙垂《しで》が、風に吹かれてパタパタ鳴る。忙しさと緊張でこのところろくに寝てないが、自分でも心配になるくらいテンションがあがりっぱなしの梨央は、まったく疲労を感じない。仕事でこんなに興奮するなんて、わたくし史上最高だ。  おもちゃのような祭壇の前で仰々しい装束の神主が祝詞《のりと》を唱える光景を、以前の梨央は滑稽に感じていた。あんなの、人に見られてよく恥ずかしくないなと嗤っていた。  だが、今は違う。  家を建てたり手を入れたりすると、近親者の身体にさわりがある。仕事に携わって一年足らずでしかないが、その種の実話をかなり見聞きした。土地の神様が人間の勝手でほじくり返されるのを怒るのだと、この世界の者は言う。地鎮祭をやってお許しをいただいたつもりでも、神様は誰かの頭をポコンと叩いて不機嫌を知らせずにはおかない。そうでもしなければ、人間は限りなく増長するからだ。  建築の仕事をすると、敬虔になる。気のゆるみや心得違いが大きな事故につながるからそれは当然と、他人事で見ていたときの梨央はただ頭でそう考えて、納得していた。だが、それだけではないのだ。  土地を掘り返し、山から切り倒してきた木を使い、気候のご機嫌をうかがい、そうやって土と空気に直《じか》に触れて働く人たちには、それが伝わる。  霊気。  オカルトじみているが、梨央は信じた。棚尾一家やセーノ氏や姫と一緒に深く頭を垂れて、祈った。  どうか、この家に平安を。ここに根ざした木のように育って、生きて、五十年も百年も永らえますように。  その後、梨央は司会を務め、施工者としての鍬入れは姫がやった。  後方には、現場監督の山本、大工の棟梁親子が控え、姫の娘の早知子がジーンズにスニーカーという軽装でデジタルムービーカメラ片手にあたりを走り回った。  早知子はまだ大学生だが、来年卒業したら鍵山工務店に就職するので、今から下っ端でこき使うと姫に紹介された。 「来春就職って、合併どうなったんですか」  耳元で問いつめると、姫もささやき声で「地鎮祭でそんな話やめてよ、縁起でもない」と叱咤し、さっと行ってしまった。  なんなのさ。態度を明確にしないところだけ、立派に腹黒経営者みたい。  式が終わり、おさがりの酒で乾杯をした。ケーキや果物を持ち帰ってもらうため紙袋に詰める作業も早知子が手伝った。姫と梨央は棚尾夫婦とジュニアに付き添い、手土産持参でご近所への挨拶回りに出掛けた。  山本はセーノ氏と大工に「よろしく」と頭を下げて、いつのまにか消えた。人付き合いはしなくていいよと言ってやりはしたが、ここまで非常識だなんて。梨央はあきれたが、山本がそういう性格だから、フォローする役目が生じたのだ。山本の梨央を見る目も、気のせいか柔らかくなってきたし。 「惚れられたら、どうする。やまもっちゃんのお母さん、梨央さんは誰かいらっしゃるんでしょうかって、この間訊いてきたよ。気に入ってるみたいよ」  時江がこの間、ニヤニヤしながら梨央に告げた。  それは困るな。これからしばらく密着することになる。山本が気分よく仕事できるように、いろいろ気を配らなきゃいけないけど、そんなことしたら、ほんとに惚れられちゃう。でも、それもいいかもしれないわ。徹男のことは、あきらめるんだから。  親子大工は木造建築の専門家だ。挨拶回りから戻った梨央はおさがりのお裾分けを受け取る彼らに「この仕事、うちのホームページの目玉商品にするし、工事見学会も完成展示会もやりますから、そのつもりでお願いしますよ。棟梁の顔写真もバッチリいただきますから。マスコミにも売り込みます。心と身体にベストの環境、想い出がいっぱい作れる家族の家をつくってます、これがうちのキャッチフレーズですからね。気合い入れてくださいよ」と、鼻息荒く言い渡した。  さて、セーノ氏にも挨拶をと見ると、早知子が彼にとりついてキャッキャッと笑い、話に興じている。  姫に娘がいることは知っていたが、会うのは初めてだ。ほっそりして化粧気がなく、怒り顔の美人だ。天然の愛想に欠けるところが姫そっくりと思ったが、セーノ氏と嬉しげに話している様子はおじさん転がしの女子大生そのもの。しばらく放っておくことにした。  棚尾一家と姫も加わって、祭壇の後片づけをした。それからセーノ氏と棚尾一家はそれぞれの車で去り、梨央は廃棄物を含めた荷物を積んだ会社のミニバンに乗り込んだ。姫は助手席、運転するのは早知子だ。建設の仕事をすると宣言して、すでに軽トラックでの資材運びを手伝っている。それだけでなく、ショベルカーやフォークリフトを運転するための特殊自動車免許取得に向けて勉強中だそうだ。外仕事に興味があるという。 「わー、先を越された」  営業用に買った中古車でトロトロ現場に通うのが精一杯の梨央は、思わず感嘆の声を上げた。 「若いって、いいなあ」 「面白いですよ。レディースコースがあって、トラックやショベルカー運転したい女の人にいっぱい会いました。みんな元気でカッコよかった。今って、宅配便ドライバーも女の人が多いでしょう。いつも求人してますからね。ひと昔前なら、仕事に困ったら保険のおばさんだったらしいけど、今は宅配便のおネエさん。体力勝負する女性が増えてるみたい」  早知子は落ち着いた口調で、感じよくしゃべった。怒り顔で無愛想という第一印象、撤回。 「そうかあ、頼もしいねえ」 「重いもの持つのも訓練とコツらしいですね。知っといたほうがいいかもしれない。母なんて、離婚したのを後悔して泣いたの、重いもの運ぶときと、シーリングライトの蛍光灯を取り替えられなかったときだったんだから。それだけのために男がいないのを嘆くなんて、情けないですよ」  あ、やっぱり、性格きつい。と思いながらも、梨央は唇を噛んで笑いをこらえた。 「あんた、泣いたの、見てたの」 「見てたわよ。脚立の上で、蛍光灯抱いて号泣してたじゃない」 「見てたんなら、なんで知らん顔してたのよ。普通、慰めるでしょう。ママのせいじゃない、自分を責めるのはやめてとか」 「あのときは、ママのせいだ、泣くくらいなら離婚しなきゃいいのにって思ってたんだもの」 「ほんとに、親の心子知らずなんだから」  運転席と助手席で、母娘が軽快に言い合いをしている。仲、いいじゃん。  鍵山工務店自社ビルの裏側に廃棄物倉庫がある。地鎮祭のゴミをしまい込み、三人で事務所に入った。時江や中道が「お帰りなさい」と迎えた。姫はその場にいる従業員に早知子を紹介した。 「文学部なんだけど、卒論は建設用語の研究にして、うちで仕事と卒論の両方の勉強するっていうの。合理的なんだか、欲張りなんだか。みんな、わたしに対する恨みつらみをこの子に思いきりぶつけて、こき使ってね」 「よろしくお願いします」  早知子は両手をそろえて頭を下げ、梨央以下みんなが拍手した。鍵山工務店三代目のお披露目だ。  合併はどうなったのよ。  その答がわかったのは、その日の終業後だった。  姫は社長室から出てこない。梨央も仕事をしながら、時機を待った。やがて、社内に残っているのは二人だけになった。  梨央は社長室のドアをノックした。 「まだ帰らないんなら、お茶でもどうですか。ケーキの残りがありますよ」 「ちょうだい」  ヒョロヒョロした声音の返事があった。来客用の紅茶を入れ、ブッシュ・ド・ノエルと共にお盆に載せて部屋に入ると、姫はデスクに突っ伏していた。  泣いてる?  やっぱり、合併か。 「社長」そっと呼びかけた。姫はガバッと顔を上げた。半眼になっている。 「寝てたんですか」 「忙しいんだもん」 「わたしだって、忙しいですよ」 「なによ、勝負しようっての」 「──姫、開き直ってます?」 「開き直ってますよ。早く、ケーキちょうだい。血糖値あげないと、百八十度の開き直りが九十度くらいに閉じちゃう」  応接テーブルにケーキとティーカップを置いていると、姫はサンダルばきでパタパタやってきた。アンクルブーツはデスクの下で西と東に分かれて転がっていた。 「姫、完全におばさんですね」 「仕事しながら、机の下でゴルフボール転がす足裏マッサージしてるんだもん」言いながら、今度はサンダルを蹴り飛ばしてソファにごろんと横たわった。 「あー、エステ行きたい。真っ裸になって、マッサージしてもらいたい」 「いいですねえ」 「ねえ、働く女のためのパラダイスつくろうよ。エステとマッサージと広ーいお風呂とベッドルーム、オードブルとカクテルが出てくるカフェ。おそばに侍《はべ》るいい男のサーバント付き」 「ベリーグッド。会員制の秘密クラブにして大儲けしましょう」 「冗談で言ってるんじゃないよ」  姫はむっくり身体を起こし、ケーキを載せた小皿を手に取った。 「鍵山工務店で、そういうクラブをつくりたい。うちは、ただの工務店じゃないんでしょう。ソフトのプロデュースもするんでしょう」  そんなこと、言った覚えはない。梨央は目をパチクリさせた。 「なんですか、いきなり。合併はどうなったんですか」 「あれ、やめた」  姫はあっさり言い、ケーキにかぶりついて唇のまわりをチョコレートだらけにした。梨央は唖然とした。 「やめたって、そんな。人を泣かせといて」 「あら、喜んでくれると思ったのに」チョコレートまみれの下唇を突き出す。 「ふざけないでよ!」  梨央は立ち上がって怒鳴った。姫も負けずにふんぞり返って唾を飛ばした。 「ふざけてないわよ。よく考えてやめたのよ。あなたの言ったこともちゃんと考慮して、父にも棚尾さんや時江さんにも、同業の先輩方にも腹を割って相談した。それで、やめにしたのよ。税理士は相変わらず、会社そのものをやめろと言ってるけどね。年賀状にまで、そのこと書いてきた」  合併はしない。嬉しい話なのに、梨央はすっきりしない。おとなしく腰を下ろしたものの疑わしげな視線を向けたものだから、姫も収まらない。 「なによ、気に入らないの?」 「何があったんですか。合併まで追いつめられてた財務状況が、いきなり好転するわけないでしょう。姫、ころころ変わりすぎですよ。経営者のひと言で、従業員は人生左右されるんですよ」  姫は反射的な迎撃体勢でカッと目を見開いたが、思い直して唇を噛み、小さく頷いた。 「そうね。確かにフラフラしてた。今でもしっかりしてるわけじゃないけど、でも前にはなかったものがある。見つかったの」  なにが? 目で問いかけた。姫は答えた。 「|やる気《ヽヽヽ》よ。融資の担保にできる不動産まだあるし、裸にむかれるまでやってみようと思う」  どうして。その質問の答は、すぐにピンと来た。 「早知子さんですね」  梨央が先回りすると、姫は頷いた。  わたしが鍵山工務店を再興すると啖呵を切った早知子は、ムキになって建設に関する事柄について片っぱしから独学を始めた。本を読み、ネットで調べまくり、そのうち九州にある若い女性建築家のグループを見つけてコンタクトをとった。パソコンで鍵山工務店の名刺を自作し、勉強させてほしいと話を聞きに行ったそうだ。 「そこで、二十八歳の女の子が設計した一階が丸々土間の家っていうのを見せてもらったんだって」 「土間。一階全部が?」 「そう。予算がなくてね。苦肉の策で提案したら、施主さんがアマチュアバンドのドラマーなもんだから、じゃあドラム置き場にするって、オーケーしたんだって。お金が貯まったら作り直すつもりだったんだけど、全部がガランとした土間って、すごく使い勝手がよかったの。最初はバンドの練習場にしてたんだけど、ライブ会場になったり、おばあちゃんが仲間と趣味でやってる手びねり陶器の作業場になったりしているうちにどんどん有名になっちゃって、今じゃテナント貸ししてくれって注文殺到なんだって。うちも同じにしてほしいっていう改築依頼も来たそうよ」 「へえ、場所が需要を作ったんだ」 「そうなのよ。面白いわねえ」  普通の住宅で、一階が全部土間。そんなこと、考えたこともない。以前、倉庫で暮らす女の子の映画を見たことがある。スタイリッシュだが、住環境としては快適ではないだろうなと思った。だが、暮らすのは二階で、一階は単なるフリースペースと割り切ればいいわけだ。それにしても、そんな家が現実にあるなんて。 「やっぱり、この仕事面白いですよね。姫もやっと、そこに気づいたわけだ」 「というより、早知子にあおられたんだと思う。土間の家を見てきたあの子、もう夢中で、帰ってきた途端にわたしつかまえて三時間もしゃべりっぱなし。親子であんなにしゃべったの、もしかしたら初めてかもしれない」  そのときの感慨を思い出す姫の目は、遠くを見ている。梨央は立ち上がって姫の横に行き、ティッシュで唇の横にはみ出たチョコレートクリームを拭ってやった。  あなたも、今、夢中でしゃべってますよ。心の中でそう言った。姫はコンパクトを出し、化粧直しをしながら話を続けた。 「わたし、会社を存続させるのが社長の義務だと思って、それで頭が一杯だった。資金をどうする、顧客をどうやって維持する、そればっかり。つらかった。楽しいことなんか、ひとつもなかった。だけど、会社があれば、あの子がやりたいことをやれる。父が興した会社をあの子に譲り渡せたら父も喜ぶだろうし、それがわたしの役目のような気がしたの。わたしが祥二と結婚して、離婚して、社長をやることになったのはこのためだったんじゃないかって、そんな運命みたいなこと、考えちゃって。思いっきり同族会社の発想だから、あんまし大きな声で言えないんだけどね」  コンパクトをパチンと閉じ、姫は照れ笑いした。 「いいんじゃないですか。母と娘が手を取り合って傾いた家業を立て直すなんて、朝の連続テレビ小説みたい」  梨央は励ましたが、姫は逆に不安を募らせた。 「だけど、娘入社させるんだもの。どうせ、まわりの人には、親バカだ利益の囲い込みだって悪口言われるよね」  素人なのに跡を継いだことで、この人自身がいろいろ言われたんだ。梨央はそのことに思い至った。姫の側にいなければ、梨央もそう思い、どうせろくなもんじゃないくらいのことは言っただろう。子供の頃は社長の娘が羨ましかったが、社長の娘も楽じゃないのだ。 「言わせときゃ、いいんですよ。経営者は大変だもの。わたし、今度からお金のことも全部見るでしょう。資材とのすりあわせ、見積もりの作り方、頭痛かった。これから工事始まったら、どうせまたなんだかんだアクシデントがあるでしょう。収支のこと、ずーっと考えてないといけない。計数そんなに得意じゃないだけに、これ、きついですよ。だけど、他の人に任せるわけにはいかないんですよね。費用計算できないと、えらそうにマネージメントできないでしょう。金に糸目をつけない注文なんて、あるわけないんだから。姫は会社全体のスケールでこんなことやってるんだ、エライなあって、尊敬しちゃいましたよ」  姫はポカンと口を開けて、梨央を見た。ほめたんだけど。 「はずしました?」 「ううん。一番言ってもらいたいこと、初めて言ってくれたのがあなたなんで、ちょっと気が抜けたっていうか」 「わたしじゃ、不足ですか」 「そんなことない。嬉しいわよお」  姫は顔をクシャクシャにし、身を乗り出して梨央のカップに紅茶を注ぎ足した。 「できたら、他のみんなにも言ってやって。わたしがどんなにエライか。梨央さん、あれやってよ。大統領の報道官みたいな人、あ、棚尾じいやが、あなたのこと、官房長官だって言ってたわね、それだ。それに任命する」 「はいはい」 「あー、気分良くなった。お祝いのお酒も残ってたよね。あれ、飲もう。いい、いい。わたしが持ってくる。官房長官は、そこで休んでて」  姫はサンダルをパタパタいわせて、社長室を走り出た。今度は梨央が靴を脱ぐ番だ。  地鎮祭に合わせて、スーツを着てきた。現場監督期間はスニーカーで過ごしたが、今は場合によってはスーツにパンプスを選ぶ。疲れないように、ローヒールで幅広のおばさん仕様の革靴にしているが、それでも固められた爪先は息苦しい思いをしていた。ソファに横座りし、足裏を揉んだ。  姫じゃないけど、あー、エステに行きたい。 「へい、お待ち。コップ酒にしけたポテチでござい」  盆を掲げて戻ってきた姫は、片足でドアを蹴って閉めた。そして、湯呑みに一升瓶の酒を注いで梨央に渡すと、ウキウキ話しかけた。 「わたしの会社問題は、そういうことになりました。そっちの男問題は?」 「ダメみたいですね」  梨央は肩をすくめた。あっさり言ってのけると、あきらめやすくなる、ような気がする。 「前の結婚の失敗で、女に懲りてるんですよ。いつでもどうぞとやる気全開でお迎えしても、後ずさりされちゃう」 「インポか、ホモじゃない?」  他人事だと思って、姫はえげつないことを言う。 「風俗には行ってるそうです」  それは職人たちの雑談から聞きかじったことだ。彼らはときどき、そういうところに集団で行くらしい。 「てことは、普通の女恐怖症か」 「要するに、わたしに魅力感じないんですよ。徹頭徹尾、片思いでした。口惜しいなあ」 「梨央さん、魅力あるわよ。いつかまた、出会いがあるわよ」  また、ありきたりの気休めを。 「姫に言われてもねえ」 「悪かったわね」 「だけど、わたしなんか、まだいいですよね。単なる失恋だもの。姫は浮気されて、離婚だもの。そっちのほうが傷は深いですよ。蛍光灯抱いて号泣ですもん」 「はいはい。わたしの不幸を踏み台にして、立ち直ってちょうだい」  梨央の厭味にも、姫は動じない。こうなったら、自分で自分を持ち上げなくては。 「そうですよ。まともに付き合ってもいない男との別れなんて、楽勝で乗り越えられる。三年間恋人同士だったけど別れた男と、もう普通に話せるんだもの」  山本がひっかかりかけた危ない会社の情報を教えてくれたのは、五郎だ。電話で事情を話したら、五郎はすぐに調べてくれた。素直な気持ちで礼を言うと「本気でやってるんだな」と、優しい声を返してきた。  梨央はそのことを姫に話した。 「不倫だったし最後のほうは喧嘩別れに近かったから、口をきいたら不愉快なことになると思ったんですけど、それできれいに終われたって感じですっきりしたんですよ。まあ、それだけの仲だったってことなんでしょうけど。ごめんなさい。姫は不倫されたほうだから、こういう話、不愉快ですよね」 「そうねえ。複雑だな」  姫は背もたれに首を預けて、天井を見た。 「わたしは、相手の女のことは考えないようにしてる。わたしに恨みがあって、わざと誘惑したわけじゃないだろうし。でも、前の旦那のことは許してないよ。彼は、わたしと別れただけじゃない。家族を捨てたのよ。未練はないけど、二度と会いたくないな。平静に話すなんて、一生無理かもしれない」  梨央は、姫の言葉を反芻《はんすう》した。  家族を裏切るって、そんなに重い罪なんだろうか。家族のために家を建てるとか、頑張るとか、そんな気持ちになれないほうがしんどいような気がするけれど。人生が無駄に複雑になっちゃうじゃない。少なくとも徹男は、離婚のせいで無用のコンプレックスを抱え込んでいる。 「結婚って、きついんですね。徹男さんが尻込みするの、仕方ないのかも」 「山本くんでも、いいんじゃない」 「バツイチの身の上で、いい加減に結婚勧めないでくださいよ」 「そりゃ、そうだ」姫はあっさり同意した。 「だけど、山本はうまく飼い慣らしたら、浮気の心配はなさそうよ」  そういう問題じゃないんだってば。梨央はしけたポテトチップスをまとめて口に放り込んだ。 「男は当分、いいですよ。わたしはこの仕事に献身します。愛して、燃えて、尽くします」 「じゃあ、わたしは倒産させないように頑張ります。でも、ダメだったら、ごめんね。セーノさんが言ってた。知り合いの工務店さん、受注した仕事がひとつキャンセルになっただけで資金繰り立ちゆかなくなって倒産したって、今朝電話があったんだって。うちだって、続けるからには他人事じゃないわ。それは覚悟しといて」 「了解」  女二人は向かい合ったソファに寝そべってコップ酒を飲み、しばらくそれぞれの考え事に沈んだ。  すこーし、眠くなってきた。明日から着工だ。もう帰って寝なきゃ。梨央は身体を起こし、パンプスに足を入れた。いてて。むくみが取れかけたところだったのに。足が悲鳴を上げた。 「ねえねえ。さっき言ってた、いい男がいる働く女のためのパラダイス、ほんとにいいですねえ」 「でしょう? 頑張って稼いで、つくろうね」姫はまだ起きあがれないらしい。寝転がったまま、夢見心地で答えた。  夢のパラダイスは、白馬に乗った王子さまのようなもの。ときどき思い浮かべて、一人でニヤけるためのファンタジーでいい。  わたしたちがつくるのは、家だ。人が暮らす家。帰っていく家。心の容れ物。マイホーム。     4  地鎮祭からほぼ一カ月。塀のない家の上棟式は五月上旬の吉日に行われた。  早朝八時、棚尾一家、セーノ氏に姫、早知子、山本、梨央、友人代表(という名目だが実は姫と梨央の後見人)の時江、棟梁の親子に加えて棚尾の旧知の大工総勢十一名、それにトビの徹男と弟分が基礎工事のすんだ敷地に集まった。  鍵山工務店の者は早知子も含めて、社名入りの作業服を着た。梨央はともかく、アイボリーのジップアップシャツとチノパンを姫が着るのは初めてだ。早知子と二人で新調したそうで、姫はそのうち上着の裾をシャーリングでしぼり、パンツは脚が細く見えるストレッチ素材にした女性用を作ろうとはしゃいだ。  土台の四方に棚尾と姫とで酒と塩をまいてお清めをしたあと、棚尾が全員に現場生活五十年にして初の我が家の棟上げに感慨無量と短い挨拶をし、拍手を浴びた。そして、直ちに作業が始まった。  早知子に撮影係を依頼してあるが、梨央は自分用にデジカメを用意した。  下で大工たちが木材の確認をする間に、徹男と弟分が足場を作る。その様子を撮影するためだ。ヘルメット、半袖のTシャツに紺色のニッカボッカ、紺色の地下足袋《じかたび》。首にタオルを巻き、ときどき弟分に声をかけながら、徹男はラチェットをふるって足場を組み上げていく。  初めて見る現場の徹男。それはまさしく、初めて会ったとき、足場にへたり込んで震えていた梨央のもとに舞い降りてきた空飛ぶヒーローの姿だった。素早く、無駄がなく、確信に満ちて、力強い。  ズームで顔を見る。ヘルメットのせいで眉から下しかのぞけないが、表情はわかる。うっすら汗をかき、くさび留めの最後の一瞬歯を食いしばり、留め終えるとふっと息を抜いて、弟分の作業をチェックするため視線を遠くに投げる。何か言って、白い歯を見せて笑った。  なんて、健康なの。  初めてこの笑顔を見たときも、そう思った。こんなに健康な人が、仕事場以外で気持ちを解放できないなんて。  チクショー。もったいなーい。  地団駄踏んでいると、姫に呼ばれた。梨央はデジカメをシャツの胸ポケットに収め、駆け出した。  まるでビデオの早回しを見るように、家の骨組みが立ち上がっていく。午前中で二階まで出来上がった。棟梁が昼休みの号令をかけるのを聞いて、梨央は弁当を配り歩いた。  徹男にも「ご苦労様です」と、他の人と同じ調子の笑顔で挨拶した。そして、次に行こうとしたら、徹男が「あ」と言った。 「え?」 「あの、これ」  使い込んだ仕事用バッグからビニール袋を引き上げ、梨央に差し出した。今度は梨央が「あ」とひと声発する番だ。 「あんたの最初の上棟式だろ。だから、祝い」  徹男はビニール袋に目を落として、ボソッと言った。  てことは、プレゼント? キャー。声に出さずに、叫んだ。徹男は、なぜかあわてた。 「いや、その、期待して見たらガッカリするかもしれないから、しゃれだと思って」  言い訳している。梨央はしゃがみこんで、袋を開けた。紺色の地下足袋が入っている。十二枚コハゼの力王太郎。トビ職用のスタンダードだ。  地下足袋を胸に抱き、徹男を見上げた。嬉しい! 言葉で言えないくらい。徹男は緊張を解き「サイズ適当に選んだから、合わなかったら取り替えられるから」と言った。  梨央はその場でスニーカーを脱いだ。チノパンの裾をまくり上げて、地下足袋に足を入れる。五本指ソックスを愛好していて、よかった。親指の付け根がしっくりはまる。それから、コハゼだ。慣れないので四苦八苦していると徹男が横にひざまずいて、手早くはめてくれた。立ち上がるときも、自然に手を貸してくれる。  爪先に少し余裕があるが、きついよりはいいだろう。その場でぴょんぴょん跳んでみた。 「いい感じ。軽くて、足の指で地面をつかめるくらい裸足に近いのに、着地の感触はふわっとしてる」 「現場は、それが一番いいんだよ。濡れてても滑らないし、疲れにくい」  徹男は嬉しそうに解説した。 「きょう、これで上にあがる。昔は、上棟式がすむまで女はあがっちゃいけなかったんですってね。バッカみたい。絶対にあがってやるって姫と息巻いてたら、棚尾さんが古来日本は女帝の国だ、卑弥呼《ひみこ》と天照大神《あまてらすおおみかみ》には是非ともご降臨いただきたいって。わたしが卑弥呼ね。姫とじゃんけんで勝負して、とったの」  梨央は夢中でまくしたてた。 「俺だって、女はあげるななんて迷信、信じてないよ」  徹男はなだめるように言い、梨央の足元に目を落とした。 「──だけど、女の人が地下足袋なんて、恥ずかしくないか。きょうは普通の靴でもあがれるし、やっぱりやめたほうが」  ひるんでいる。裾をまくったチノパンに紺の地下足袋は、妙と言えば妙だ。梨央はすっと右脚を前に出し、モデル立ちを決めた。 「きょう履かないで、いつ履くのよ。上棟式祝いの地下足袋よ」  徹男の後ろで、弟分が箸をくわえてニヤニヤしている。梨央は「じゃ、あとで。上でね」と早口で言い、鍵山工務店チームが固まっている場所めがけて走った。  五時前に屋根板まで張られた。二階のフロア部分に棚尾一家四人、鍵山工務店の五人、セーノ氏、棟梁親子、徹男と弟分が集まった。手伝いの大工たちは、下で待った。  時江は建設会社に勤続四十五年でいながら上棟式に出るのは初めてとあって、感慨深そうだ。下で梨央や姫の先に立って働いているときはいつものおしゃべりおばさんだったが、上にあがると神妙になった。 「この世界に入ったときから、女はあがるもんじゃないって教えられてきて、そういうもんだと思ってたのよ。でも、きょう、ここにいる人間の半分は女じゃないの。時代が変わったんだね」  だったら、わたしはいいタイミングでこの世界に入ったんだ。梨央は真新しい柱を撫でて歩きながら、そう思った。女だてらに土建屋なんてやめなさいと、誰にも言われなかった。現場監督時代、職人たちにいろいろ文句を言われたが、それは梨央が未熟だったからだ。女であることで攻撃されたり、バカにされたことはなかった。ちゃんとやれば、むやみに排除はしない。技術の世界は正当だ。  棟梁が一番高い棟木にハシゴをかけて、魔除《まよ》けの幣串《へいぐし》をさした。その下のウッドデッキとの境目に小さな祭壇を設け、酒と米と塩を供えた。全員が頭《こうべ》を垂れる中、棚尾が祝詞をあげた。現場歴五十年で祝詞はお手の物だ。調子に乗って、木遣《きや》りも披露した。  木遣りは本来、トビ職のものだ。そう思って後方の端っこに控える徹男を振り返って見ると、唇を小さく動かしていた。木遣りが歌えるのか。というより、この人も歌うんだ。会って話すときはいつも表情が硬いから、歌うところなどとても想像できなかった。  この人について知らないことが、まだたくさんある。  梨央は垂れた頭の中で、いつのまにか徹男のことを思っていた。目の先に、地下足袋の爪先がある。  これを履いていることにいち早く気付いた時江が「梨央ちゃん、それ、どしたの」と目を丸くした。それで、あたりにいたみんなが梨央の足元に注目した。梨央は「現場人間の心意気です」と、足を振り上げて見せびらかした。早知子が飛んできて、興味津々で観察し、履き心地や価格について矢継ぎ早に質問した。貰い物だからいくらするのかわからないと答えるのを横で聞いた時江が、なんにも言わずニヤニヤ笑って梨央の肘をつついた。梨央は素知らぬ顔を装いつつも、ちらっとVサインを出さずにはいられなかった。  紺色の親指を動かしてみる。  はるか昔から、家を建てる人間たちが愛用してきた作業用の履き物。テクノロジーの世の中になっても、足場をしっかり踏みしめて働くのに一番いい形。  これを、わたしに買ってくれた。だからって、浮かれちゃいけないよ。梨央は自分に言った。仕事がちゃんとできなかったら、わたしは徹男にとって見るべきところのない存在になってしまう。神聖な上棟式にあふれそうな愛しさは、家に注がなくちゃ。家の守り神がへそを曲げる。  丹田《たんでん》に力を入れ、地下足袋プレゼントの場面をリピート再生したがる頭を切り換えた。  儀式終了後、いよいよお楽しみの直会《なおらい》だ。一階に板を敷いて棚尾家の女二人が競って作った手料理を並べ、工事用のライトが煌々《こうこう》と照らす中で、総勢二十人を超す大宴会になった。  梨央は姫とピンク・レディーの『UFO』をやり、腰のグラインドで拍手を浴びた。姫は早知子と組んでパフィーの『これが私の生きる道』もやったが、途中から棚尾の若妻が乱入して「悪いわね、ありがとね、これからもよろしくねえ」と声を張り上げた。大工たちは演歌かと思いきや、J−popで盛り上がり、若妻と早知子がその都度混じった。負けじと時江が島倉千代子を思い入れたっぷりに歌い、棚尾の老夫婦は『銀座の恋の物語』をデュエットした。ジュニアも立ち上がり『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を原語でやって、数分場を冷やした。徹男は笑いながら手拍子を打ったり、仲間を冷やかしたりするばかりで歌わなかった。  早知子はすっかり出来上がり、真っ赤な顔で梨央をつかまえると「梨央さん、転職組でしょう。フツーのOLなんて、やってられませんよねー」と、なれなれしく寄りかかった。 「OLやってる先輩たち、いい男がいないいないってブーブー言ってるんですよ。バカですよねー。建設現場に来りゃ、いい男ザックザクいるのに。ほらあ」  早知子はよだれを垂らさんばかりの表情で大工の若い衆に目をやり、傾けた頭を梨央の頭にこつんとぶつけた。 「ジムなんかに行かなくても、あの腹筋、あの上腕筋ですよ。見とれちゃう」  うん。ほんとにね。  家を建てる。橋を架ける。道路をつくる。汗を流して、身体を使って、社会のインフラを黙々と建設する人たちには憧れちゃうよ。  でも、遠く憧れるだけでは、つまらない。  宴はまだ続いている。梨央はそっと抜け出して、二階にあがった。斜めにしたハシゴといった体の足場階段を踏みしめる。薄い鋼板のひんやりした感触が足裏に伝わった。  日中は汗ばむ陽気だったが、日が暮れるとすーっと冷える。ウッドデッキに座り、地下足袋の足を縁からブラブラさせた。地上三メートル程度だが、高いところは気持ちいい。  去年の三月、誕生日の夜に酔っぱらって鋼管パイプをよじ登った。あの日から、またいつか足場の上に登りたいと思って、きょうまで来た。今も酔ってはいるけれど、自分が何をしているか、ちゃんとわかっている。  背後に気配がした。こんなに静かにあがってこられるのは、トビ職人だけだ。 「この家ね、寿限無《じゆげむ》亭って名前がついてるのよ」  梨央は振り向かずに話しかけた。 「昔のえらい人は、綺人館とか無想庵とか家に名前つけてたんだって。だから、棚尾さん、やってみたかったんだって。寿限り無しなんて、縁起がいいでしょう」 「寿限無って、落語だろう」  徹男が横にあぐらをかいて、言った。 「うん。子供の将来の幸せを願う呪文よね、あれ。あの中に家のことが出てくるの。寿限無、寿限無、五劫《ごこう》のナントカ」 「すりきれ」  徹男が正した。それから、続きを唱えた。  海砂利水魚《かいじやりすいぎよ》の水行末《すいぎようまつ》、雲来末《うんらいまつ》、風来末《ふうらいまつ》、食う寝るところに住むところ、やぶら小路ぶら小路。  そこから先は知っている。梨央も唱和した。  パイポ、パイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの長久命の長助!  二人で言い終わり、同時に笑った。 「徹男さん、全部言えるんだ」 「俺、落語好きだもん。志ん生のテープ、ほとんど持ってる」  えー。梨央は目を見張った。 「そんな風に見えない」 「落語はほんとに好きだ。けっこう、通だ」  徹男は口をとがらせた。あん、可愛い。  わたし、ほんとにこの人のこと、全然知らないんだ。ヒーローに祭り上げて、ひたすら見上げて、敬っていた。この人には、それが窮屈だったかも。ただの男なのにね。 「だったら、しゃれのひとつも言ってよね。いっつも難しーい顔してるから、気を遣っちゃうじゃない」 「言ったよ、この間。この家には塀がない、へーって」 「あれ、やっぱり、しゃれだったの」 「そうだよ」  徹男はむっとした。梨央はデッキに倒れて笑い転げた。 「レベル低すぎ。それで通だなんて、志ん生が嘆くよ」 「隣の家に塀ができたよ、へーってのは、小咄《こばなし》の基本だぞ」 「へーへー、恐れ入りました」  笑いが止まらない。徹男も笑った。「そこまで笑うか」と文句を言いながら、クックと笑った。  二人で笑った。初めてだ。  二人で笑える。いいことだ。  目が合った。先に照れて目をそらしたのは、梨央だった。 「あ、風」  新しい木の匂いがする。これから建つ家の匂い。でも、もしかしたら──。 「ね、これ、夏が始まる匂い?」  徹男は顔をあげ、風の匂いをかいだ。そして、首を振った。 「これは建材。季節の匂いは、もっと高いところでなきゃわからないよ」  得意そうに、人差し指をピンと立てて空を指差した。  そうね。一年やそこらで、職人と同じ感覚が育つはずない。だけど、いつかきっと、わかるようになる。わたしはそこに向かって、歩いていくんだから。この地下足袋でね。  梨央は二階の床部分に寝かせてあったハシゴをつかむと、一番高い棟木に立てかけた。徹男は何も言わず、梨央のすることを見ていた。  ちょうど棟木が胸の高さに来るところまであがり、幣串をそっと撫でた。そして、薄い鋼のハシゴに両足を踏ん張り、棟木に頬杖をついて地平線まで見渡した。  視界を埋める家並み。誰かが建て、誰かが住むところが、どこまでも続く。  木の匂い。風の手触り。足元から湧き上がってくる人声。それらが混じり合って、梨央の全身を包んだ。  持ち前の力と感覚のすべてを捧げよう。人生は、そこから始まる。 [#改ページ]   あとがき  本作を書くに当たり、実際に建設現場で働く方たちのご協力をいただきました。  広島の丸山建設株式会社社長、丸山壽子さんは、同じ昭和二十八年生まれというだけでいきなり連絡してきたわたしの申し出に快く応じてくださり、話しにくいことまで話してくださいました。作中の鍵山工務店の描写は丸山建設に一部を負っていますが、状況や登場人物はまったくの創作です。壽子さんは姫とは似ても似つかぬ真摯《しんし》に仕事に取り組む方で、初めてお会いしたときから短期間で社長として成長していくさまに、姫の将来を明るいものにする勇気をいただきました。  また、建築プロデューサーの桑原あきらさん、建築家の瀬野和広さんには、主人公たちが建てる家のプランについての相談に応じていただきました。最後に登場する家は〈縁側大好き建築家〉瀬野さんが実際に設計なさったものを参考にしております。また、一階が土間の家は、福岡の女性建築家坂口舞さんが設計なさったもので、実在します。マルスプランニング大澤設計事務所の大澤和生さんには、原稿のチェックをしていただきました。  その他「恥ずかしいから、名前を出さないで」と口止めされてしまったトビの親方、我が家の改築の際、張り付きで見学させてもらった大工さんチームは、現場の職人らしい言葉の数々で多くのインスピレーションを与えてくださいました。また、自分の家の建築日誌を綴ったたくさんのホームページも参考にいたしました。どれにも施主の興奮が感じられ、改めて家を建てることこそ人生のハイライトであると痛感いたしました。  みなさま、本当にありがとうございました。おかげで、物語の最後までたどり着くことができました。作中に現実にはあり得ない間違いなどがございましたら、それは作者の心得違いによるものです。本作の記述に関する一切の責任は平にあることを明記しておきます。   二〇〇五年春 [#地付き]平 安寿子  [#改ページ]   文庫版あとがき  建設現場への好奇心から書き始めた本作が世に出て三年。今、わたしは作中で梨央を悩ませた、新築ハイで頭がおかしくなっている施主の一人となっている。  亡父から譲り受けた築五十余年になる木造家屋の建て替えは、以前からの懸案ではあった。しかし、きっかけがないままに本作の執筆に突入。協力者として出会った同い年の丸山壽子さんに導かれて、建築プロデューサーの桑原さんや建築家の瀬野さんに会い、さまざまな建設話を取材させてもらう中で「ばあさんになったわたしが快適に暮らせる空間とは、どのようなものか」に関するアイデアを聞いた。  住んで快適、見て楽しい、そんなマイホームを、いつか、丸山建設に建ててもらう。そのとき、彼女とわたしは夢を分かち合った。  しかし、それは「いつか」という漠然たる口約束のままで、わたしは梨央と郷子の冒険をたどるのに夢中になった。そして、本作完成後は他のテーマに移って、家のことを忘れた。  一方、会社経営という実業に携わる壽子さんは厳しい状況の中、郷子のごとく踏ん張って社長として奮闘。二人の娘さんが作中の早知子同様、丸山建設の社員に加わって、家族で家業をもりたてるところまで進歩した。  というところで昨年五月、我が家にシロアリが大発生した。ついに、かつての約束を実行する日が来たのである。そして、計画を立て、古い家を解体して更地にしたところで、耐震強度構造計算書偽装事件をきっかけにした改正建築基準法が施行となった。  鉄筋の数だけでなく、届け出書類もいきなり倍増。申請しても許可がおりるまでどのくらい時間がかかるのか、役所の窓口にも予想がつかない大混乱とあいなった。  わたしもだが、丸山建設も青くなった。いや、建設業界全体が青くなったのだ。建設計画の取り止めが相次ぎ、資材メーカーも製造計画の見直しを余儀なくされ、職人はいきなり仕事が激減して、業界全体が上から下まで逆風にさらされた。  しかし、五十五年も生きてりゃ、わかる。希望は必ず、試練を連れてくる。そんなつもりはなかったのに社長になった壽子さんは、ずっと経営の難しさに悩みながらやってきた。そして今、歯を食いしばって、この逆風に立ち向かっている。  わたしだって、大変だ。建設費は最初の試算を大幅にオーバーした。でも、わたしは果敢に受けて立った。走り出したら、一旦停止も後戻りもできない「暴力的な単純さ」に支配される郷子の性格は、実はわたしの引き写しである。  かくてわたしは、着々と育っていく新居の骨組みを見ながら、今になって設計に注文をつけたり、前言撤回したりの迷惑施主となっている。クールになれったって、無理だ。この先、死ぬまで住む家を建ててるんですよ、死ぬまで払い続ける借金背負って。  だが、完成を前にして、思っている。どんなに考え抜き、どんなにお金をかけても、いざ出来上がってみれば、「ここをこうすればよかった」「ここをこうしたのは失敗だった」と、不満百出になるのが家というものだと。  しかしながら、暮らしていくうちに、その形に慣れていく。すると、失敗に思えた部分にこそ個性が生まれ、愛着が湧いてくる。そうなるに違いない。生きることが、そうであるように。  くうねるところすむところ。それは人生そのものなのだ。  さて、本書は韓国でも翻訳出版され、連続テレビドラマにというオファーも来ている(自慢)。家を建てる仕事に賭ける二人の女の物語が国境を越えて楽しんでもらえるとは、作者として望外の喜びである。実にめでたい。  このうえは、一人でも多くの方にこの文庫版をお買いあげいただきたい。読者は楽しみ、わたしは住宅ローンが払える。また、買ってくださった方にはお礼を申し上げます。あなたのおかげで家が建つことを、平、肝に銘じます。いや、ほんと。   二〇〇八年三月 [#地付き]平 安寿子   [#改ページ]   参考文献 『中小企業診断士による工務店経営Q&A』住宅産業経営支援研究会編(井上書院) 『現代建築職人事典』「現代建築職人事典」編集委員会編(工業調査会) 『図解雑学 建築』羽根義男監修(ナツメ社) 『建設業工事現場事務』山崎正男著(工学出版) 『初めての建築施工』〈建築のテキスト〉編集委員会編(学芸出版社) 『実例 建築工事の失敗例とその対策』建築ミス対策研究会編(理工図書) 『絵とき 住まいづくりと施工管理入門』坂東治重著(オーム社) 『スローハウジングで思い通りの家を建てる』桑原あきら著(草思社) 『建築家と建てる理想の家』竹島清・笹敦著(筑摩書房) 『新入社員のための「工事管理」入門』中村秀樹著(日本コンサルタントグループ) 『リフォーム・スペクタクル』渡辺眞子著(読売新聞社) 『やっちまったよ一戸建て!!』伊藤理佐著(双葉社)  初出 『別册文藝春秋』二〇〇四年一月号、三月号、五月号、七月号、九月号  単行本 二〇〇五年五月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成二十年五月十日刊