狼の紋章 ウルフガイシリーズ ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)私立中学|博《はく》徳《とく》学園 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] 底本(文庫版)データ:段組=1 43文字×18行 -------------------------------------------------------  よく光る目に、上端がぴんととがった耳、痩[#痩はunicode7626]《や》せぎすな体《たい》躯[#「躯」はunicode8EC0]《く》から野獣の精気を発散する不思議な少年。私立中学|博《はく》徳《とく》学園の教師|青《あお》鹿《しか》晶《あき》子《こ》は、ある夜、この少年が三人の不良高校生に襲われ、ナイフで刺されて重傷を負ったのを目撃した。だが、現場に警官が到着した時、少年は姿を消していた。  それから三日後、少年は意外な形で再び彼女の前に現われた。転校生としてである。少年の名は犬《いぬ》神《がみ》明《あきら》。書類には、協調性に欠け暴力沙汰の絶えない稀《け》有《う》の問題児とある。その日、晶子のクラスに編入された犬神明は、早速、凄じいトラブルを巻き起こした……。  美しい女教師の危機を救う謎の少年犬神明。獣人伝説に材を取る名作SF! [#改ページ] 狼の紋章        1  夜の新《しん》宿《じゅく》の雑踏の中で、その少年を初めて見たとき、青《あお》鹿《しか》晶《あき》子《こ》は、以前どこかで逢《あ》ったことがある、と思った。  むろん、そんなはずはなかった。よくある記憶の錯誤、心理学の用語でいう既視感《デジャヴュ》にちがいないとわかっていた。初めての場所や初対面の人物のいつわりの記憶だ。過去の出来事がそっくりふたたび繰りかえされる、そんな奇妙な感覚のことである。  その少年は、ほっそりと痩[#痩はunicode7626]《や》せぎすの体躯[#「躯」はunicode8EC0]を持っていた。が、ひ弱な感じがしないのは、一種独得の野性味をおびた精気を発散しているからだった。若い野獣の精気だった。しかし、粗暴な雰《ふん》囲《い》気《き》というにはあたらない。ときおり、非行少年がそなえているギラギラするような獣性とは、およそ異質のものだった。  顔立ちは、美少年タイプではない。荒けずりなタッチの未完成の顔だった。特に印象に残るのは、よく光る目と、やや皮肉なおもむきをそえて、ひきしめられた厚い唇だった。耳の形も一風変わっていた。獣の耳《じ》朶《だ》のように上端がぴんととがっていたのだ。  一度見たら、容易に忘れられない顔であった。二度目に逢えば、すぐにそれとわかるはずなのだ。職業柄、同年齢の少年は見慣れている。  青鹿晶子は、都内|杉《すぎ》並《なみ》区の私立中学に奉職する教師だ。生徒の顔を憶《おぼ》えることにかけては、自信を持っていた。もちろん、その少年は自校の生徒ではない。  にもかかわらず、青鹿が少年のあとを追ったのは、彼女自身にも説明できぬ衝動によるものだった。  少年は、コマ劇場近くの盛り場を、猫科の動物を連想させるしなやかな足どりで、人波をわけていった。実に器用な歩きかたで、かなりのスピードで歩いても、決して他人と身体を接触させなかった。人出が多い夜で、人の流れに逆行するには青鹿などかなりの努力をはらわなければならないだけに、少年の身のこなしは、絶妙というほかはなかった。  なぜ自分が、見知らぬ少年を追おうとしているのか、青鹿には説明できなかったが、偶然に彼女はその口実を見出した。  少年を尾《つ》けているのは、青鹿だけではなかったのである。  三人組の高校生だった。学生服のボタンを残らずはずし、自分では粋《いき》なつもりで背広風にひっかけているところからすると、あまりまともな高校生ではなさそうだ。野卑な表情を浮かべた顔は脂ぎってニキビが繁殖していた。たえずすごんでいるのか、三人とも怒り肩だ。  東京の盛り場は、やくざ暴力団にかぎらず、非行少年グループの繁殖地である。少年非行は実に多い。小学生から大学生にいたるまで無数の徒党を組んでいる。中、高校生ともなると、学校単位のグループでいがみあい、争闘を展開する。恐喝、暴行沙汰の応酬は日常茶飯事だ。彼ら非行グループは、成人の組織暴力犯罪者の予備軍でもある。  青鹿は、以前新聞で読んだ〈他校生からの迫害を防衛する会〉という奇妙な名称の、高校生の自衛組織を思いだした。自警団を意図した組織が、争闘を繰りかえすうちに、レッキとした非行グループに成長したケースである。  青鹿晶子が、高校生三人組の意図にいち早く気づいたのは、学校教師という職業柄であった。彼女自身、担任する中学三年のクラスにも、悪質な非行グループをかかえこんでいたからだ。        2  高校生三人組は、いかにも場なれしていた。恐喝のプロともなると、人目の多い盛り場で、いきなり露骨なまねははじめない。  前後左右をとりかこむと、第三者の目には仲間同士としかうつらない友情にみちたそぶりで、いかにも親密そうに肩に手などまわし、口笛を鳴らしながら、うろたえている犠牲者を、人目につかぬ場所へ連れこみ、やおら牙《きば》をむくのだ。実に巧妙な手際である。  「よう、ずらかろうなんて思うなよ、な」  親しげに笑いかけながら、どす[#「どす」に傍点]のきいたセリフを犠牲者の耳《みみ》許《もと》にささやく。  「逃しゃしねえからよお」  「だまって歩きなよ、ほら」  身体を押しつけるようにして誘導する。ポケットに手をつっこみ、なかでナイフなど凶器を握っているように暗示をあたえる。もっとも実際に、凶器を所持している場合も多い。  だが、この場合は、通常の犠牲者がおびえきって満面を汗に濡《ぬ》らしているのと、いささか様子が異なっていた。多勢に無勢と観念したのか、あるいはふてくされているのか、その少年は無表情に連行されていった。  両側をビルにかこまれ、つきあたりを高架線路の土手でさえぎられた、人目のとどかぬ暗い路地にはいると、三人組の顔から作り笑いが消えた。粗暴で凶悪な雰囲気に豹《ひょう》変《へん》する。  「用はわかってるだろうな?」  肩幅の広いガッチリした身体つきの高校生が、血に飢えたようなしゃがれ声を出した。発声法も堂に入っている。野獣めいた目を光らせていた。演技だとしても身についていた。  「たぶんな……」  痩[#痩はunicode7626]せぎすの少年が応じた。平然としていた。虚勢を張っているふうではなかった。  「こんなことにゃ、慣れてるからな」  その返答は、三人組の気に入らなかった。  「この野郎、イキがるんじゃねえ」  少年の背後にまわっていた高校生が、凶暴なすばやい動きをしめした。尻《しり》ポケットからひきだした、短い鉛管を力まかせに少年の後頭部にたたきつけたのだ。殴打用の鈍器としてなかなか威力のある得物だ。やわらかい鉛は、たいした外傷を残さず、内臓を痛めつける。  少年は、わずかによろめいただけで倒れなかった。めまい[#「めまい」に傍点]を追いはらうように、ちょっと頭を振る。  「あんたたちが、金をほしがってるのか、それとも、おれのつら[#「つら」に傍点]が気に食わないんで、はたく[#「はたく」に傍点]気なのか、どっちだかあてようとしてたのさ」  少年は乱れのない声音でいった。厚い唇《くちびる》がしたたかな笑いでゆがみ、強《きょう》靭《じん》そうな白い歯をのぞかせた。犬歯が発達している。  「なにい……」  思いがけぬ手《て》強《ごわ》さを察知した三人組は、本能的に身がまえた。が、すぐに一対三なら負けっこないという確信がよみがえって、殺気立つ。喧《けん》嘩《か》には慣れている。  「どうやら、その両方だな……金ならあるぜ」  少年はポケットに手をつっこんだ。反射的に三人組も動いた。跳びのいて、ポケットに手を走らせる。  しかし、少年がポケットからとりだしたのは、金だった。それも一万円紙幣を筒にして、輪ゴムで止めたものだ。しかも分厚い。数十枚はあるだろう。  ショックを受けて三人組は口を開けた。彼らがお目にかかったこともない大金であった。  三人組の目つきが変わり、貪《どん》欲《よく》に光りだすのを見定めて、少年は札束をひょいとポケットに逆戻りさせた。皮肉な笑顔になっていた。  「だが、両方というのは気に入らないんでね。はたくならはたく、金なら金、どっちか一方だ」  「か、金をよこせ……」  高校生は息切れしたかすれ声になっていた。顔に汗をにじませている。欲望で瞳《どう》孔《こう》がひらいていた。  少年は首をゆっくり横に振った。笑いは、明らかな嘲《ちょう》笑《しょう》に変わっていた。  「おことわりだね。あんたがたはもう、おれをはたいたじゃないか。おれははたかれるほうに決めた……おれはタフなんでね。つづきをやったらどうだ?」  「野郎、ふざけやがって!」  「なめやがったな!」  たやすく逆上して罵《ば》声《せい》をもらした。それぞれの手に凶器が現われた。自転車のチェーン、拳《こぶし》の関節にはめるメリケン・サック。前に立った大柄なひとりの手に、スウィッチ・ナイフが鳴った。ギラッと凶暴な光が勢いよくはじけでた。  十五センチほどの刃わたりを誇示しながら、すり寄った。  「これでも、でけえ口をたたく気かよ。ズブッといくぜ、ズブッと……」  今度のすごみほ本物だった。ナイフを手にすると、自棄的な勇気がわいてくるのだ。目が無気味にすわってきた。  「生命《いのち》が惜《お》しかったら、金をよこしな……」  荒い息をつきながら、針のような鋭い切っ先を、少年の腹部の中央に押しあてた。おどしとも本気ともつかず、浅く突き刺す。  「今度は強盗に早変わりか。どうでもいいが、シャツをやぶかないでくれよ。買いたてなんだ」  少年は微動もせずに、冷然といった。  「うるせえ……動くんじゃねえぞ。動くとズブッと刺すからな……」  そいつは警告し、汗を流しながら、あいたほうの手を、少年の内ポケットにさしこもうとした。、緊張しぎって手がぶるぶる震えていた。  そのときだった、女の鋭い叫び声が夜気を引き裂くように響きわたったのは。  非行少年どもは、電流に触れたような反応をしめした。負担にもろい神経系に猛打を食ったようなものだ。筋肉が抑制を脱して、でたらめな痙《けい》攣《れん》の発作を起こした。  刺す意志はなかったろう。が、ナイフを掴[#「掴」はunicode6451]《つか》んだ手に、瞬間、爆発的な力が送りこまれた。ナイフの切っ先は、シャツを破り、少年の腹の筋肉の間にすべりこんでいった。  事態をさとって、はっと呼吸を呑《の》み、あわてて手をはなしたときは遅すぎた。  スウィッチ・ナイフは、少年の腹に突き立てられたまま残った。  非行少年たちは、ジリジリと後《あと》退《ずさ》り、少年からはなれた。せわしい呼吸音を響かせ、滝のような冷汗を流し、声もなかった。血の気の失せた顔は夜目にもそれとわかるほど白くなっていた。  ふたたび女の甲《かん》高《だか》い悲鳴があがると同時に、恐慌にとらわれた少年たちは、はじかれたように路地の入口へ逃げ走った。        3  まるで旋《つむじ》風《かぜ》が通過したようだった。  恐怖にかられた獣のように突進してくる少年たちをとどめるひま[#「ひま」に傍点]もなかった。彼らはあっという間に消え失せた。  「だ、だれか来て……だれか……」  青《あお》鹿《しか》晶《あき》子《こ》はあえいだ。はり裂けんばかりに目が見開かれ、瘧《おこり》が憑《つ》いたように身体がわななき震えた。歯が触れあって音をたてる。  突っ立ったままの少年の腹には、まるでナイフが生えているように見えた。異様にショッキングな光景だった。  少年は、苦痛の色も見せず、両手を腹にまわし、ナイフの柄《え》をつかんだ。  「やめて、動かないで!」  青鹿は悲鳴のような声をふりしぼった。少年がナイフをひきぬきにかかったからだ。  「いま救急車を呼ぶわ! 動いちゃだめ! じっとしてるのよっ」  血と脂にまみれた刃がひきだされ現われるのを見て、青鹿は両手で目を覆った。とうてい正視に耐えない。刃は十センチは腹に埋まっていたろう。脂肪層と腹筋を引き裂いて、内臓に達していたはずだ。  「そんなことをしたら、死んじゃう! ああ……」  脳貧血で頭がすっと冷たく空虚になった。膝から力がぬけ、その場へうずくまってしまう。  だれかが警察に通報したのか、まぬけなサイレンを鳴らしてパトカーが接近してきた。  警官たちがあわただしく走り寄り、うずくまっている青鹿を助け起こしたとき、すでに少年の姿はなかった。  立ち去る気配も残さず、消え失せたのだ。路地の湿っぽい泥土に、少年の血を吸ったナイフだけが、ひっそりと、ころがっていた。  腹を深く刺された少年が、高架線路の丈高い土手をよじ登って去ったとでもいうのだろうか。  口々に質問を浴びせかけてくる警官たちに対して、青鹿は返答に窮していた。        4  三日後、青鹿晶子はふたたびその少年に出逢った。  思いがけないことだったが、場所は青鹿の勤める杉並の私立中学、博《はく》徳《とく》学園だった。  少年は転校生としてやってきたのだ。 青鹿は校長室に呼ばれて、初めて、犬《いぬ》神《がみ》明《あきら》という奇妙な響きを持つ名を耳にした。  「犬神明……こりゃどうも、たいへんな問題児ですなあ」  と、教頭の沢《さわ》村《むら》がいった。上品めかした縁なしメガネを細い鼻《び》梁《りょう》の上に押しあげ、転出校からまわってきた書類を指先ではじく。  その書類を作成した転出校の教師が、犬神明に好意を持っていないのは明白であった。  他人との協調性皆無、暴力沙汰がたえず、長上者に対し、きわめて傲《ごう》慢《まん》にして非礼な態度が目立つ。放浪癖があり、欠席日数が多い。日常の生活態度きわめて不良。  そんな内容が、神経質な細字で記載されていた。  「少年院送りになった記録でもあるのですか?」  と、同席していたカウンセラーの田《た》所《どころ》教師が質問した。  「いや、施設に送られたことはないようですな」  教頭はメガネを光らせて、書類をめくった。  「補導歴はかなりあるんですが……どうも、そのやり口が実に巧妙なんですなあ。ただの一度も、家裁送りになったことすらないんですわ。喧《けん》嘩《か》上手というのか知能犯というのか、そのへんは非常にたくみに切りぬけてますよ。喧嘩の相手が死ぬような大《おお》怪《け》我《が》をしても、この犬神生徒は、責任を間われたためしがない……たとえばですね、喧嘩相手が刃物をぬいて切りかかってくる。犬神生徒は素手のまま逃げまわる。そのうちに相手はころぶかなにかして、自分の刃物で傷ついてしまう。つねにそんな結果に終わってしまう……つまり、当人は正当防衛どころか、完全に無過失無責任という状況をつくりあげてしまうんですな。そのうえ、ちゃんと証人をつくることも忘れない抜け目のなさ。法律を味方につける方法をよく知っているんですな。どうも大人《おとな》顔負けのテクニシャンとでもいいますか……」  「かなり知能は高いようですね。学業成績のほうも上の部……たしかに一風変わった生徒ではありますね」  と、田所が慎重な口ぶりでいった。  「一風変わったどころか、えらく口が達者で、どこでおぼえたのか、独学の法律論を吹きまくって、係官を煙《けむ》に巻くというんだから恐れいりますよ。どうも一《ひと》筋《すじ》縄《なわ》じゃいかん代《しろ》物《もの》で」  「家庭環境はどんなふうですか?」  「両親は死亡……伯《お》母《ば》が保護者になっています」  教頭は、家庭調査カードに目をやった。  「欠損家庭ですな。道理でね……しかし、保護者の山本勝枝という女性は、たいへんな資産家らしいですよ。なんでもアメリカで、大きな目本料理のレストラン・チェーンを経営しているとかで……三十億だか四十億だかの資産をお持ちのようで……」  校長がわざとらしく咳《せき》ばらいした。教頭はつい口をすべらせたらしく、渋面になって口をとざした。青鹿が後で聞いたことだが、資産家の伯母は、三百万円ほど博徳学園に寄付したそうである。たかが生徒ひとりの転入にしては破格の寄付だった。さもなければ、犬神明のような金《きん》箔《ぱく》つきの問題児をすんなりと受け入れるはずもなかった。  「それで、こちらの受け入れ態勢はどうなっていますか?」  と、校長がきいた。  「それはですね、いろいろ検討し考慮した結果、こちらの青鹿先生のクラスに編入することに……おりよく青鹿先生の受持のクラスは、定員をかなり下まわっていますし、教師としましても熱意のあるたいへん優秀な方でもありますので、適任と思います」  「しかし、青鹿先生のクラスには、羽《は》黒《ぐろ》グループが……」  と、田所教師がいいかけた。教頭は腰を浮かし気味に、あわただしくさえぎった。  「いやいや、その点は心配ありませんよ。青鹿先生は非常に優秀な方で、クラスの運営能力の点で、つとにわたしの信頼するところでもありますしね。それに、青鹿先生にはすでにご了解を得ています」  「ま、いろいろむずかしい点もあるようですが、なにぶんよろしく」  と、校長はあっさりといった。        5  「青鹿先生、どうも貧乏くじ[#「くじ」に傍点]をひいたようですね」  校長室を退室したあと、廊下を職員室に歩きながら、こっそりと田所教師がいった。  「どうやら校長と教頭、胸に一《いち》物《もつ》ありそうですよ。羽黒グループをクラスにかかえた先生に問題児を押しつけたやり口には……これは一波乱まぬがれそうもないなあ」  「おどかさないでくださいな、田所先生」  と、青鹿はいった。  「それでなくてもビクビクしているんですから」  そしらぬ顔をしていたが、青鹿は心重かった。彼女の担任する三年のクラスには、きわめつきの悪質な非行グループの指導者が在籍していた。かてて加えて新参の問題児ときては、憂《ゆう》鬱《うつ》にならざるをえない。  同僚の教師たちは、かげで〈はきだめ教室〉と称しているのだ。校長たちの腹は見えすいていた。まったくあのふたりはよくできた組合わせだ、と彼女は思った。策《さく》士《し》気取りの教頭と老《ろう》獪《かい》教育者タイプの校長。  キツネとタヌキのコンビだった。  「たえず監視をおこたらぬことですね。なにか問題が発生する前に、手をうつことです。よからぬ微候が見えたら、すぐぼくのほうにも知らせてください。いっしょに対策を考えましょうや」  田所がなぐさめてくれた。  「よろしくお願いしますわ。なにぶん未熟者ですから」  「いや、青鹿先生の度胸には、かねがね感心してるんです。ほかの先生がただったら、羽黒ひとりでノイローゼになりますよ」  「あたくし、のんきなのかしら」  「それも人徳ですよ。イライラしてみてもはじまらないことだし」  と、田所は、青鹿の気をひきたてるようにいった。  職員室にはいると、転入生の犬神明が待っていた。  ほっそりした痩[#痩はunicode7626]せぎすの少年が椅《い》子《す》から立ちあがった。  得《え》体《たい》の知れぬショックが、青鹿の背筋を走りぬけた。  驚きの念だけではない。なにか目に見えない運命の糸にあやなされて、その少年が自分の前に現われてきたような気がしたのである。  「あなたが、犬神明……君?」  とっさに言葉がつづかなかった。目が大きく見開かれるのを、青鹿は意識した。  「そうですが」  少年は変声期の終わったしわがれ声でこたえた。木彫りのように硬い無表情な顔には、青鹿を識別したいろ[#「いろ」に傍点]はなかった。  「あなたは、あのときの……」  青鹿は無意識に口走っていた。  「なんのことでしょうか?」  この異様なやりとりは、職員室の注意を集めていた。  「どうかしたんですか、青鹿先生?」  近くの席の男教師が、ひょうきんな声をかけた。  「その転校生は、先生の親の仇《かたき》ですか?」  職員室に笑いが湧《わ》いた。  「ここで逢ったが百年目という顔だ」  「盲《もう》亀《き》の浮《ふ》木《ぼく》、ウドンの玉……」  青鹿はいそいで少年を職員室から連れだした。早朝のひと気のない音楽教室にはいる。少年は無言でしたがった。  「あなたをおぼえていたわ……」  青鹿は言葉を整理できぬままに口を切った。  「顔を見るとすぐにわかったわ。まさか、学校で逢《あ》うなんて夢にも思わなかった……」  「なんのことだか、わかりませんね」  少年はうっそりと立ったまま、ごく自然に答えた。  「おれは先生に逢うのは、いまはじめてだから。もちろん先生がおれをおぼえているはずはない。なにかの思いちがいでしょう」  教師に接する態度ではなかった。たしかに不《ふ》遜《そん》な物腰といえた。が、それよりも、なぜとぼけようとするのか気になった。忘れたふりをしているのだろうか。  「あたしは、とても記憶力が発達しているのよ。一度見た顔は忘れないわ」  「他人の空《そら》似《に》ということもある」  「三日前、新宿で逢ったわ。とぼけるのは、あたしに喧嘩の現場を見られたから?」  「なぜ、とぼける必要があるんです?」  少年は、例のしたたかな笑いを唇に浮かべ、逆襲した。  「それに、おれは一度も喧嘩なんかしたことがない。気が弱いんでね」  こいつ、と思うと闘志が湧いた。少年は、他人をかっとさせるような口をきく習癖を持っていた。  「あなたって、ほんとに一筋縄じゃいかない生徒のようね」  青鹿は唇をかみながらいった。どうやって白状させてやろうかといそがしく考える。  「話に聞いたとおりだわ」  「あまり目の仇にしないでください。転校早々、綺《き》麗《れい》な先生にいじめられるとは思わなかった。これじゃあ先が思いやられる」  大人びたせりふ[#「せりふ」に傍点]だった。  「口が達者ね……どうしてもシラを切るというんなら、考えがあるわ」  「どうするんです。拷問ですか?」  「馬鹿ねえ。服をぬいでごらんなさい、犬神君」  青鹿は思いついて目を光らせた。これで尻尾《しっぽ》がつかめると思った。路地で少年が腹を刺された光景は目に焼きついていた。  不意に、胸の鼓動が早くなった。職員室で少年を見たとき受けた異様なショックがなんだったのか、ようやく呑みこめたのだ。  少年が刺されたのは、わずか三日前だ。あれだけの重傷がなおりぎっているはずはなかった。それなのに、この少年はなにごともなかったように平然と動きまわっている……  「いま、ここで?」  少年がききかえした。  「そう、いま、ここで……」  青鹿は、おうむ返しにいった。すくなくとも放置しておけるような浅傷《あさで》ではなかった、と思う。医者の手当を受けなければ、腹膜炎を併発したはずだ……  「いいです、ぬぎましょう」  と、犬神明は思いのほか素直に応じた。  「転校早々、裸にされるとは思わなかった。全部ぬぐんですか?」  「シャツだけでいいのよ」  青鹿は、少年がベルトに手をかけるのを見て、あわてていった。  「ねえ、本当にぬぐ気なの?」  「先生が、そう命令したんですよ」  少年は手早くシャツをぬいだ。青鹿は目を皿のようにして注視したが、彼女の予想はあっけなく裏切られた。  頭が空洞になるような気がした。  少年の腹筋のしまったなめらかな腹部の皮膚には、傷痕ひとつ見あたらなかったのだ。  「これで満足しましたか?」  「おかしいわね……」  われ知らずつぶやきが漏《も》れた。孔《あな》のあいた風船のように確信がしぼんでしまった。  「もっとぬぎましょうか?」  少年にからかわれているとわかっても、腹を立てる気にもなれなかった。  「やめて。もうたくさん……なにがなんだか、わからなくなっちゃったわ……」  青鹿は混乱しきって、ピアノの前の椅子に腰をおろした。思考を整理しようと、額《ひたい》に手をあてがった。汗が額を湿らせていた。  考えがまとまらぬうちに、音楽教室の入口の戸が開いて、三年の女生徒がひとり顔をのぞかせた。  彼女の担任クラスの女生徒、小《こ》沼《ぬま》竜《りゅう》子《こ》だった。男を挑発するような目つきをし、刺激的な形の唇を持った女の子だ。小柄だが、成熱した身体つきをしていた。  髪に校則違反のパーマを軽くかけ、制服のスカートは思いきった超ミニになっていた。かなり不良がかっているが、その分だけ小《こ》粋《いき》である。他の女生徒がひどく野《や》暮《ぼ》ったく見える。  「あーら。なんだか知らないけど、カッコいいじゃん」  と、少女は面白そうにいった。  「なにしてんの、このしと[#「しと」に傍点]。ヌードなんかになっちゃってさ」  青鹿は、間の悪そうな表情になった。  「身体検査さ」  と、少年はこともなげにいった。  「へえ?」  少女は気をひかれたように、音楽教室の中にはいりこんできた。  「あんた、だれ?」  「今度、転校してきた犬神君よ。こちらは、同じクラスの小沼竜子さん……」  「お竜《りゅう》と呼んでよ」  少女は、青鹿の紹介をひったくるようにいった。  「あんた、わりと可愛いじゃん」  竜子は、突っ立っている少年の周囲をぐるっと一周して、丹念に検分した。論評を加える。  「筋肉は意外と締まってるけど、毛深いわね。あんまり強そうじゃないけどさ……」  少女は器用に片目をつぶってみせた。  「それとも、すこしは自信ある?」  「全然ない。強そうなのは、あだ名だけさ。ウルフというんだ」  少女はふきだし、身体をうねらせて笑った。  「カッコつけちゃってさ。大幅にイメージ狂っちゃったじゃない。ズッコケてるウルフねえ」  「さあ、もう教室へいらっしゃい。授業が始まるわよ」  青鹿はいった。少女が意識的にしめしているコケットリーが気に入らなかった。  「小沼さん先へ行ってて。先生は犬神君と話があるから、後から行きます」  「わかったわよ。追っぱらわなくたっていいじゃない」  少女は敏感だった。うるさそうな顔をしてはなれていった。  「また、あとで会おうね、ウルフ」  少年に親密そうな笑いを投げて、音楽教室を走り出た。  「あの娘《こ》、あなたが気に入ったらしいわ、犬神君……」  青鹿は、シャツを身につけている少年に向かっていった。  「そうですか」  気のない返事だ。  「だけど、あなたに注意しておくけれど、あの娘には近寄らないほうがいいわ」  歯切れの悪い口調になっていた。  「なぜです?」  「あの娘は、トラブル・メーカーだからよ。たしかに可愛いし魅力があるけど、危険よ。お節介かもしれないけど、忠告しておくわ」  「おれは、トラブルにはなれてますよ。だけど大丈夫です。おれは、女には興味がないんだ。まだ思春期前なんでね」  強そうな白い歯を見せて、ニヤリと笑った。大きい犬歯が印象的だった。        6  犬神明は転校に慣れていた。小学生時代から、忘れるくらい転校を繰りかえしてきたからだ。学校から学校を転々と渡り歩くことから、〈学校無宿〉と異《い》名《みょう》をとったことさえある。  だから、青鹿という若い美人の女教師の懸念を察するのは、むずかしいことではなかった。  どこの学校でも、彼は、教師たちに札つきの要注意人物、問題児としてマークされてきた。  生徒たちにしてもおなじことだった。群れに同和しがたい異物扱いにされ、孤立をやむなくされる場合が多かった。粗暴な傾向を持つ上級同級の生徒たちによって、手荒らな歓迎を受けたことも数えきれないほどある。  学校という地域社会の独得のルールを、彼が平然と無視することから、たやすく反発を招くのだった。少年は自分だけの掟《おきて》をかたくなにまもり、決してそれを曲げることはしなかったからだ。  少年は、生まれながらの異端者であり、それをよくわきまえていた。むしろ、群れに同化されることを、みずからきびしく拒みつづけてきたのだ。  それにしても、少年を迎えた教室の雰《ふん》囲《い》気《き》には、なにか異様なものがあった。新参者への好奇心とは異質の、とげとげしい期待をはらんだ沈黙が教室に充ちていた。  「今日《きょう》は、新しいクラスメートをご紹介します……」  青鹿は、みぞおち[#「みぞおち」に傍点]のあたりを、不可解な緊張がしめつけるのを感じながら、少年を教壇に立たせた。  「神《こう》戸《べ》から転校してきた犬神明君です。犬神君、黒板に名前をお書きなさい」  犬神はおとなしくチョークをとりあげて、生徒たちに背を向け、黒板に向かった。すべての視線が黒板に集中した。  そのときだった。  なにか細長いものが鋭く空気を裂いて飛び、チョークを当てようとする黒板の一点に突き刺さった。  二十センチほどの長大な刃を持つとび出しナイフだった。黒みがかった柄《え》の部分がビリビリ震えていた。  教室の空気は、凍りかけた水のように凝固した。私語はおろか、呼吸の音さえ聞こえなかった。  全員が固《かた》唾《ず》を呑み、息をとめて、壇上の少年の反応を待ちかまえていた。教師である青鹿ですら例外ではなかった。怒りと懸念に顔が凍りつくのを感じながらも、犬神から目をそらすことができなかった。投げた者は、およそ見当がついた。それより犬神はこの明らさまな恫《どう》喝《かつ》と挑発をどう受けるのだろうか。  が、犬神の反応は、意表をつくものであった。黒板に突き立ったとび出しナイフを完全に無視したのだ。ナイフを避けて、黒板にチョークをきしらせ、自分の名を記した。  チョークを捨てて振りむいた少年の顔には表情というものがなかった。完《かん》璧《ぺき》に感情を遮《しゃ》蔽《へい》したポーカーフェイスだった。  青鹿はなにをいうべきか迷った。ナイフを投げた犯人を叱《しっ》責《せき》しなければならない。が、あつかましい悪質な生徒を喜ばすだけだと思うと、嫌悪と不快感で気が滅《め》入《い》った。教師とのゴタゴタをちょっとした退屈しのぎの娯楽だと考えている馬鹿者を相手にするのはうんざりだった。  青鹿がためらっているうちに、犬神は次の行動に移った。ひょいと手を伸ばして、黒板のナイフを抜きとったのである。刃を折りたたんでポケットにおさめると、教壇を降りた。  平然としていた。無人の教室に、彼ひとりでいるかのようにふるまっていた。  教室後部のあいている席をめがけて、なんのこだわりもなく歩く。さきほど音楽教室で顔をあわせた少女、小沼竜子の隣席である。  教室の全員が、おそろしく緊張しきって前列のほうの生徒などは、首をねじ曲げるようにして少年を見ていた。  まるで、その空席に時限爆弾でもしかけてあるかのような、大《おお》仰《ぎょう》な関心をしめしていた。  あるいは、そのとおりだったのかもしれない。青鹿は胸が痛くなるような緊張につかまれていた。もっと露骨な表現で、犬神明に警告を発しておくべきだったろうか。  遅れてやってきた一時限目の数学教師が、教室の異様な雰囲気にうろたえて、戸口に棒立ちになっていた。鶏冠《とさか》にそっくりの突きでた喉《のど》仏《ぼとけ》をグビグビ動かしていた。        7  はたで見ているぶんには、さぞかし、スリリングな光景だったにちがいない。  虎《とら》の留守中、その洞穴へはいりこんだ馬鹿を見ている気分だったろう。虎が帰宅して顔を合わせたときの騒ぎが観《み》ものというわけだ。  だれひとりとして、犬神明に話しかける者はなかった。まして忠告なぞなおのことである。身を遠ざけて、ひそひそ話しあうのが関の山だった。  が、犬神明には、それだけで充分だった。彼は人間ばなれした聴力の持主だったのだ。  一時限目が終わったとき、隣席の小沼竜子が奇妙な笑顔を見せて、犬神にささやいた。  「ね、ウルフ。あんた、そこにずうっとすわってるつもり?」  「あいてたからすわったんだ」  犬神は強情そうに目を光らせていった。  「向こうへ行ったほうがいいのか?」  「あたしはべつにどうでもいいけどさ」  竜子は鼻のつけ根にしわ[#「しわ」に傍点]を寄せ、気をそそるような媚《び》態《たい》をちらりと見せた。こまかい動作のひとつひとつにも、男の注意をひかずにはおかぬ、特異な才能があらわれていた。生まれついての妖婦タイプの少女だ。  犬神は、青鹿の遠まわしな警告の意味するところを理解した。男心を爪の先でひっかけて、もてあそぶことを至上の喜びにする、そんな性癖を持っているのであろう。彼女の意図するままに、男同士が牙をむいて争うことを望み、悦楽を感じる。男にとっては、始末の悪いトラブル・メーカーだ。  しかし、とうに犬神は特異な洞察力で、小沼竜子のたくらみを看破していた。青鹿が考えている以上に、〈学校無宿〉の彼は世間を知っていたのである。苦労知らずのおぼっちゃんとは、およそほど遠い存在だったのだ。  そいつは、昼休みに近くなってから、教室に姿を現わした。  たくましい身体つきをした、大柄な少年だった。身長一メーター八十を超しているだろう。大男によくありがちな軽い猫背だった。  顔立ちは、鷹《たか》を連想させた。中学生にふさわしい子どもっぽさは皆無であった。なにかしら、凶暴な暗い翳《かげ》りを漂わせていた。  抜身の刀身を想わせる、特殊な暴力的な迫力を全身から発散していた。  教室は、緊迫感で金属的な味がする空気に満たされた。  病身らしい社会科の教師は、そいつをとがめだてする気配も見せなかった。粉っぽい顔色になり、精いっぱいの愛想笑いを顔に押しあげようと努力していた。  生徒を恐れていて、自己保身のためやたらに愛想がよく、ゴマをするタイプの教師であった。  「ありゃあ。これはこれは……最近ちっとも顔を見せなかったけど、身体でも悪くしてたの? ま、いいでしょ、おはいりなさい。ね、いま授業中なんだから」  教師のせりふではなかった。無意識にもみ手をしていた。  そいつは、教師を透して黒板を見るような一《いち》瞥《べつ》をくれただけだった。  爬《は》虫《ちゅう》類《るい》そっくりの無表情な目だった。感性のかけらもない。冷血な気味の悪い目だ。  戸口にうっそりとたたずみ、冷凍庫の扉を開放したときのような冷気を教室内に送りこみながら、執拗な凝視をつづけていた。  犬神明を見ているのだった。  「どうしたの、羽黒君?」  ゴマすり教師の笑いはひきつりはじめた。邪悪な害意を知覚したらしく、鼻の周囲を白っぽくさせ、汗の粒を上唇のあたりに滲《にじ》ませていた。  「そんな所に立ってないですわりなさいよ。ね、どうかしたの、羽黒君」  一言も口をきかないまま、広い肩をめぐらしてそいつは立ち去った。  またしても、全員の視線が、犬神明に集まっていた。いずれの顔も目を大きく見開き、ほとんど呼吸を止めているように見えた。  針の先を触れただけで破裂しかねない、神経質な静寂が張りつめていた。        8  昼休みになっても、教室は驚くほど静かだった。  通夜のような静けさが、隣接した他教室のにぎやかさと対照的だった。大きな音を立てることすらはばかるように食事を終えると、生徒たちは教室を出ていった。  とどまる者の姿もなく、空虚になった教室に、犬神明はひとりすわっていた。転入生の彼に、あえて話しかけようとする生徒は、ただのひとりもいなかったのである。  たしかに、なにか不吉な微候が見えていて、だれもがそれに気づいていたのだ。  犬神明の感覚の鋭敏さは、背中に目を持っているのとおなじだった。たやすく気配を感じとっていた。  教室後部の戸口から、だれかが彼をのぞき見ていたのである。  犬神が頭をめぐらせると、あわてて頭がひっこんだ。彼は、そのままの姿勢で待っていた。  やがて、そろそろと頭のてっぺんがのぞき、ついで、クルクルキョトキョトした小動物を想わせる目が現われた。犬神と視線があうと、いそいで隠れてしまう。  「隠れんぼは、それくらいにしとけよ。おれになにか話があるんだろ?」  と、犬神は呼びかけた。  おずおずとためらいがちに近づいてきた。小柄でひ弱そうな少年だった。耳がばかに大きく、発達した前歯が目立つ。  栗鼠《りす》とか兎《うさぎ》を想わせる顔をしていた。動作には落ちつきがない。  「あのう」  とチビがいった。犬神の視線を避けるように目を伏せ、両手の指先をしきりにこすりあわせていた。齧《げっ》歯《し》類《るい》そっくりだ。  「どうした? 小便でもしたいのか?」  と、犬神がきく。チビは目をまるくして首を横に振った。それでも、いくらか勇気が湧いたようだ。  「あの……変なこときくようだけど」  「かまわないよ。なんでもきいてくれ。身長は百七十五センチ、体重五十二キロ。バスト、ウエスト、ヒップのサイズも教えようか?」  「あの、そんなことじゃなくて……」  チビは目をぱちくりさせた。  「あの、いまきみがすわってる席のことだけど、そこが他人《ひと》の席だってこと、知ってる?」  「ああ。羽黒というやつの席だ」  「なんだ、知ってたの」  チビはごくりと唾《つば》を呑《の》んだ。  「ぼく、きみが知らないのかと思って……」  「教えにきてくれたのか。それはどうもご親切に」  「すぐに席を変えたほうがいいよ。羽黒、すごく頭にきてるよ」  心配そうな声だった。  「羽黒ってどんなやつだ? マンガに出てくる番長ってやつか?」  「そういうのとちがうんだ。羽黒の親父は、東《とう》明《めい》会って暴力団の大幹部なんだ。だから、先生だってなんだって、羽黒には手を出せないんだぜ。学校へ来て、やりたいほうだいさ。学校中に不良の子分が百人以上もいるしね」  兎《うさぎ》面《づら》のチビはしゃべりだすと雄弁だった。  「おっかないやつらしいな」  「怒るとなにをやりだすかわかんない。前に、学校の近くの家に、すごくでかいシェパードがいたんだ。そのシェパードに吠《ほ》えられて、羽黒は、頭にきてね、家から日本刀を持ちだすと、シェパードの首をぶった切っちゃったんだ……そのうえ、ヤクザが押しかけて、犬の飼主から五十万円もおどしとったんだ」  兎面に恐怖の表情が浮かんだ。ささやくようにいった。  「羽黒はきっと、きみをただじゃ置いとかないよ。早くあやまったほうがいい……羽黒は学校にピストルを持ってきたことだってあるんだぜ……」  兎面は言葉をとぎらせ、まじまじと犬神の顔を見つめた。  「きみ、こわくないの? 全然こわがってないみたいだけど、嘘《うそ》じゃないんだぜ」  「こわくて震えてるさ」  犬神は無表情にいった。  「あまりこわいんで、動けない。だから、このまますわってる。そう羽黒にいってくれよ」  チビは目をそらし、居《い》心地《ごこち》悪げに身じろぎした。犬神は例のしたたかな笑いに唇をゆがめていた。  「羽黒にいわれて、おれをビクつかせに来たな? なかなか芝居が達者じゃないか。感心したぜ」  チビの兎面から、みるまに気弱げな仮面が失せ、不《ふ》逞《てい》な素顔がむきだしになった。顔はおなじ兎面でも、肉食性の兎に変貌をとげたような薄気味悪さだった。  「わかったよ」  兎面は、喉の奥からふてくさった声を出した。  「油断のならねえやつだな、おめえは。けど、なぜわかったんだ?」  口調も一変していた。  「おれは鼻がきくんでね。さっきとび出しナイフを投げたのはおまえだ。匂いでわかる。ナイフとおなじ匂いをさせてるからな」  「あきれた野郎だ。まるで犬みたいなやつだな。犬神なんてチンケな名前を持ってるだけのことはあらあ」  「そのとおりさ。ほかにもいろんなことがわかるぜ」  「おれのナイフを返せよ」  いやらしい三《さん》白《ぱく》眼《がん》で犬神をにらみあげながら手を突きだした。犬神が苦笑してナイフをポケットから出すと、やにわにひったくっていった。  「なにもおれはハッタリをかましたわけじゃねえぜ。日本刀で犬を切り殺した話は嘘じゃねえ。シェパードの首が、血を噴いてよ、三メートルも吹っとんだんだ。おめえもそうならねえように気をつけな」  勝ち誇ったように、墓石みたいな形の前歯をむきだしてにやりとした。パチリとするどい長い刃をとびださせ、ものなれた手つきで柄《え》を握り、うっとり刃の光を眺めた。  「それから、いっとくがよ、お竜は羽黒さんのスケだ。ちょっかいを出すんじゃねえ。わかったな……ま、そのうち、てめえとおとしまえ[#「おとしまえ」に傍点]をつけることになりそうだがよ」  「そうすごむなよ。あんまりおどかされると、今夜あたり寝小便をしそうだ」  犬神はニヤニヤしながらいった。  「おまえの癖が、おれにも伝染《うつ》っちまうよ」  突然、チビの顔が真っ赤になり、額に癇《かん》癖《ぺき》の青筋が浮いた。形《ぎょう》相《そう》が変わり、いやらしい凶暴な顔つきになった。  「この犬っころ野郎。いまなんといった?」  「おれの鼻はすごくきくといったろ? 夜尿症ぐらいすぐにわかる。肌に小便の臭いが染みついてるからな」  兎面は息がつまったような罵《ば》声《せい》を漏《も》らした。  「死にてえのか」  腰を落とし、身体を緊張させてナイフをかまえた。血の気がひいて、顔色が紙のような白さになった。  「喉《のど》をかっさばいてやろうか、え?」  血に飢えたような声《こわ》音《ね》だった。  犬神はすわりつづけたまま、身動きもせず、またたきすらしなかった。  「こわいかよ。え、こわいといってみな」  「刃物が好きらしいな。だが自分の刃物の上にぶっころぶなよ。おれは、そういうやつを何度もこの目で見てきたんだ。おまえもいずれそうなるぜ」  と、犬神は冷やかにいった。  「刃物を振りまわすのに気をとられて、足《あし》許《もと》がお留守になる。そのうち足がすべってころぶ。自分のナイフがズブッと刺さるんだ。一巻の終わりさ」  「ふざけるんじゃねえ。そんなヘマはしねえよ」  兎面の顔に血の気が戻ってきた。そろそろと息をついて身体を直立させた。  「いまはやらねえ。あっさり息の根を止めたんじゃ面白くねえからな。だが覚悟しとけよ。無事にゃすまねえからよ」  ナイフの刃を折って、ポケットにおさめた。  「ズラかろうたって、そうはさせねえ」  「逃げる気はない。転校してきたばかりなんだ」  「けっ、口の達者な野郎だ。いまに泣きわめくんじゃねえぞ。いっとくが、先《せん》公《こう》にいいつけて、なんとかしてもらおうったって無駄だぜ。腰抜けの先公なんかに手は出させねえ」  とがった薄い肩をそびやかしてあざける。  「さっきのナイフ投げは達者だったな。たいしたもんだ」  「あたりめえよ。的《まと》をはずしたことはねえ。いまにその目ン玉にぶっ通してやるからな」  退場していくチビの背中に、犬神はあびせかけた。  「せいぜい練習して腕をみがけよ。倉庫のネズミ退治ぐらいには、役に立つかもしれないぜ」  チビは振りむき、どうしてくれようかと目をぎろぎろさせたが、結局、獰《どう》猛《もう》に巨《おお》きな前歯をむきだしただけで、姿を消した。        9  なにが犬神を待ち受けているのか、クラスのだれもが知っていたようだ。ぎこちない沈黙がはりつめた教室で、午後の時間がのろのろと過ぎていった。  兎面は昼休みからずっと姿を見せなかった。隣席の竜子の姿もない。ほかにも空席がいくつか見られた。羽黒一党のメンバーなのであろう。教室が静かなのはそのためもあるのかもしれなかった。  六時限は、担任の青《あお》鹿《しか》の英語だった。彼女は詮索するような視線を何度も犬神に投げたが、彼の平静な表情にやや安心したようだ。授業を終えると、特に声をかけることもなく去った。  七時限目が終了し、放課後になった。  犬神明がテキストやノートをまとめ、下校する生徒に混って廊下へ出ると、ふらりと小沼竜子が現われた。  「ちょっとつきあってくれない、ウルフ。あんたに話したいことがあるんだけどさ」  なに食わぬ顔で、犬神の腕に手をからませた。そばにいた生徒たちは、いっせいに話をとぎらせ、顔をそむけて足早に立ち去っていった。かかわりあいたくないらしい。  「話ってなんだ?」  「あたしね、あんたにすごく興味持っちゃったんだ。ウルフのこと、もっとよく知りたいの」  竜子は、甘えるように身体をすり寄せてきた。仔猫のように可愛らしく無邪気そうな、天性の媚態だった。カールした長い睫《まつげ》にかこまれた目が熱意にあふれていた。軽くまくれあがった唇をなかば開いて、桃色の舌先をのぞかせた。気をそそるようなお得意の微笑を見せる。  犬神は無言で、竜子に腕をひかれるままに歩きだした。  階段を登り、四階の校舎の屋上へと、竜子は少年を導いていった。  コンクリートでかためられた屋上は、すでに初冬の夕闇でつつまれていた。西空に残照が赤くにじんでいるだけだ。  竜子はピクリと身をふるわせ、腕をほどいて犬神からはなれた。屋上のへり[#「へり」に傍点]の手すりに向かって足早に歩く。  背後から、うなりを生じて野球のバットが襲い、犬神の背中を強打した。  前にのめる少年に追い撃ちをかけて、バットが腰を殴りつける。犬神の身体はコンクリートの床に這《は》った。  膝を突いて身を起こしかけるところへ、狙《ねら》い澄ましてキャラバン・シューズの靴先が脇腹へ蹴こまれた。ふたたび犬神は仰向けにころがった。  五、六人の少年が、残忍な目を光らせて、犬神を見《み》降《おろ》した。兎面のチビの歯をむき勝ち誇った顔も混っている。兎面をのぞくと、いずれも大人顔負けの体格を持っていた。  階段の建物のかげに潜み、待ちかまえていたのだろう。  「ウルフ、悪く思わないで」  無邪気そうに笑いながら、竜子が戻ってきて、犬神の頭部近くに立ち、見降した。なんの罪悪感もない表情をしていた。  「あんたをだましておびきだしちゃったんだけどさ。あたし、ウルフがどれくらい強いか知りたかったんだ……きっと相当の実力があるわよね」  「強そうなのは、あだ名だけだといったはずだ」  犬神は仰向けにころがったまま、げっそりしたように竜子を見あげた。  「なぜ信用しないんだ?」  「さあね、きっと勘よね。あたし、みんなと賭《か》けたんだな。あんたは喧《けん》嘩《か》が強いって……三人までは相手にしてやっつけられるって」  「この連中を、おれにけしかけたのは、おまえなのか?」  「まあね……さあ、早く起きてよ。いつまでも伸びてないでさ」  「どうでもいいが、そんなところに突っ立ってると、スカートの中がまる見えだぜ」  犬神は、すらりと伸びた足を見あげていった。しゃれたフリルのついたパンティがまともに見えた。中学生にはふさわしからぬ凝った下着を身につけていた。太《ふと》腿《もも》は蒼《あお》白《じろ》い光沢をおび、足を動かすと、筋肉の翳《かげ》りがうねった。むろん、竜子はその効果を充分に承知しているのだろう。  「それどころじゃないわよ」  竜子は後《あと》退《ずさ》りしながらいった。  「ウルフ、あんたが三人やっつけないと、あたしみんなの前でヌードにならなきゃならないんだから……起きてよ。しっかりがんばってよ」  犬神はゆっくり身を起こした。すわりこんだまま周囲を見まわす。  うつろな目つきをした羽黒は、小屋の壁に肩で寄りかかって立っていた。それでもやたらにすごんでいる他の少年たちにくらべると、一段と迫力があった。デスマスクに似た顔だ。  「さっさと起きなよ。犬っころ」  悪意に目を光らせた兎面がほざいた。期待でうずうずしていた。  「おまえがストリップしようとしまいと、おれには関係ない」  犬神は小沼竜子を振りむいていった。  「とにかく、この場はただじゃすまないだろう。好きなようにするがいいさ。だが、ちんぴら相手のバッタのはねるような喧嘩はまっぴらごめんだ」  犬神は、しぶとい笑いを唇に浮かべて立ちあがった。  「なぐられ役のスタント・マンみたいに上手《じょうず》になぐられてやるよ。だがそのかわり、おれを徹底的にのしちまうのは、骨が折れるかもしれないぜ」  「ほざくんじゃねえ、痩[#痩はunicode7626]《や》せ犬」  兎面が唾をとばしてわめいた。  「いい気でおちょくってやがるとおっ」  とびかかってくると、力いっぱい犬神の腹をなぐりつけた。板のように硬い腹筋にあたって手首がしない、うめき声をあげた。いっせいに他の少年たちが襲いかかった。ガツンガツンと筋骨に拳《こぶし》のぶつかる音が饗いた。  見かけは派手だったが、拳の握りが不確実なので、さほどでもないパンチ力がさらに減《げん》殺《さつ》されていた。  「そんななぐり方をするから、指をくじくんだ」  犬神は冷やかにいった。サンド・バッグがわりにされていることを苦にもしていなかった。  「シロウトだ……」  拳の関節をくじいた苦痛にうなりながら、少年たちは、キャラバン・シューズの蹴りを放ってきた。  「くそ。どけっ」  兎面がバットをつかんでなぐりかかった。狂気のように乱打する。こめかみ[#「こめかみ」に傍点]に食いこんだはずみに、まっぷたつに折れて飛んだ。犬神は片膝を折って床に横転した。  「ざ、ざまあみやがれ……」  兎面は肩で息をついた。顔を汗で光らせていた。他の連中もおなじことだった。息をきらしながら、服の袖《そで》で顔の汗をぬぐう。重労働を終えたような表情だった。たずね顔で、羽黒を振りかえる。  羽黒は、硬玉に似た非情な目つきで壁にもたれ、傍観者の姿勢をくずしていなかった。  「もう、これでタネ切れか?」  犬神が床からいった。あざけり声だ。  「これくらいでへたばるようだと、根性がないといわれるぞ……」  少年たちは、すりむけた拳の皮膚をなめるのをやめ、唖[#「唖」はunicode555E]《あ》然《ぜん》とした顔を見あわせた。  「ウルフは、なんでもないといってるわよ」  と、竜子がいった。目を輝かせていた。  「あんたたち、ちょっとだらしがないのとちがう?」  そのとき、羽黒がはじめて行動を起こした。ゆるやかに壁をはなれ、豹《ひよう》のような足どりで倒れている犬神に歩み寄った。  「しぶとい野郎だ……」  羽黒は、鷹のように鋭い無表情な顔をしていた。声帯がつぶれたしゃがれ声だ。  「度胸もある。だが、これだけの目にあわされて、なぜ手むかいをしねえんだ?」  「教えてやろうか」  「いってみな」  「おれは狼だ。だから、おまえたちのような性《しょう》悪《わる》なひねた野犬どもには牙《きば》をむかない。その気になれないんだよ。おまえたちには、資格がない……わかったか」  なんという強烈な自信。虚勢では決して吐けないせりふ[#「せりふ」に傍点]だった。  「だからいったでしょ? ウルフは、あんたたちと出来がちがうのよ。一目見てわかったわ。これはほんものの男だって……」  竜子が満足そうにいった。生理的興奮で、目が濡《ぬ》れたように輝いていた。  「ちっ、いきがりやがってからに」  羽黒はつぶやき、犬神の後頭部を靴で探り、ぐいと体重をのせて首筋を踏みつけた。  「首の骨が折れて、くたばってもか。能天気な野郎だ」  「おれを徹底的にのすことはできないといったろう? プロレスをノックアウトするほうがまだらくだぜ。あいつらは演技が達者だからな」  犬神は、粗《あら》いコンクリートに顔を押しつけたまま低く笑った。  「野郎っ、キンタマを切りとってやろうかっ」  兎面が凶暴な絶叫をあげた。  「もう我慢ならねえ! だれかズボンをぬがせろ。おれがやつをキン抜きにしてやるっ」  親指がとび出しナイフのラッチ・ボタンを押した。しゅっと刃がおどりでる。目が狂っていて、しまりのない唇のへり[#「へり」に傍点]からよだれがあふれた。寸足らずの痩[#痩はunicode7626]せこけた身体が無気味に痙《けい》攣《れん》していた。  「お、おい。やっちまうのか……」  「本気か……」  少年たちは動揺した。兎面はほんとのラリ公だ。本気でやるかもしれない……  「てめえら、こいつをおさえろっ」  兎面が金切声でわめいた。少年たちは顔色を変えて、身動きもしなかった。  「意《い》気《く》地《じ》のねえ野郎どもだ。これだけなめられてよお、すっこんでる気か……見てろ、おれはひとりでやってやる」  兎面のちっぽけなゆがんだ顔は、正視に耐えないほど凶悪だった。抑制のきかない破壊欲を露呈していた。逆上すると見さかいがつかなくなるのだった。  チビは、奇妙にバランスを失《な》くした足どりで倒れている犬神に迫った。子どもじみた小さい手につかまれたナイフが、異様に大きく見えた。  「やめんかい」  と、犬神の首を踏みつけたまま、羽黒がいった。  「いいじゃないの。やらせなさいよ」  竜子が叫んだ。  「一対一でやらせりゃいいのよ。ウルフは、まだまいってないわよ。大丈夫よ」  竜子は、犬神が闘うところを見たいのだ。犬神によって、兎而のチビがたたきのめされるのを欲するあまり、それとわかるほど期待に身体を震わせていた。うっとりと鼻孔をふくらませ、唇を半びらきにしていた。ほとんど性的な興奮を感じとって、少年たちも呼吸を荒くしはじめた。  「やめんかい、クロ」  羽黒は繰りかえした。  「こいつの相手は、おれがする。だが、いまじゃねえ……こいつが、その気になったときだ……」  羽黒は、靴を犬神の首からどけた。  「十年もたって、一人前の悪党になったらこいよ」  と、犬神がいった。  「それまで、待っててやる」  電気にかかったような動作で、兎面が床の犬神に襲いかかろうとした。が、羽黒のほうが速かった。手首をつかむと、空袋のように振りまわす。ころころと兎面の短躯[#「躯」はunicode8EC0]が床にころがったときは、ナイフはすでに羽黒の手に移っていた。  「てめえはすっこんでろ。手をだすんじゃねえ。犬神の相手は、このおれがするといったんだ。わかったな」  非情な目の凝視を受けて、兎面は床にすわりこんだまま震えはじめた。  羽黒はかがみこむと、すさまじい一ひねりで犬神のシャツを引き裂いた。なめらかな背中を露出させ、ナイフの尖《せん》端《たん》を浅く突き立てた。  刃先をすべらせ、大きく犬という一字を彫りこむ。  一同は化石したようになって、裂けた背中の皮膚に血の玉がにじむのを見つめていた。  「いい記念になったろうが」  羽黒は立ちあがると、ナイフを兎面にほうった。相変わらず、デスマスクに似た顔つきだった。  「その気になったら、いつでも来な。サシで相手になってやるぜ」  一同の足音が屋上を立ち去ったあとも、犬神は微動もせず、コンクリートの床に顔を押しつけて倒れていた。  みごとな円盤型の月が東空にあがり、屋上を水底世界のような薄明りで満たしていた。        10  青鹿晶子が、校舎の屋上に姿を見せたのは、それから五分もたっていなかった。  青鹿は、犬神明が羽黒一党に連れ去られたという情報を、生徒から聞きこみ、校内じゅうをさがしていたのである。  生徒が下校してがらんとなった教室を見てまわり、この種の暴行事件の舞台に選ばれやすい体育館の裏、近く取り壊しを待って閉鎖中の旧木造校舎にまで足を踏み入れた。  なんの収穫もなく職員室にひきあげる途中、薄暗い校庭で、小沼竜子と行きあったのだ。  「先生、だれをさがしてるの?」  竜子は何気ない口調できいた。夜目のきく青鹿は、夕闇を透《とお》して、女生徒の顔に浮かんでいる薄笑いを見ることができた。電流のように緊張が背筋を走りぬけた。  この美貌の女生徒は、羽黒と尋常でない関係にあるという評判である。生徒たちははっきりと、竜子を羽黒の情婦とみなしている。性経験を積んだ自信からか、竜子は他の女生徒を子ども扱いにしているようだ。青鹿のように若い教師と対するときも、一種の優越感をちらつかせる言動が多かった。大会社の部長の娘である。家庭環境はかなり放縦に流れているらしい。  「犬神君をさがしてるの。あなたどこかで見かけなかった?」  「さあね。よく知らないわ。べつにウルフの番をしてたわけじゃないから」  「よく[#「よく」に傍点]知らないというと……見当はつくという意味なの?」  知らないはずがない、と青鹿は思った。竜子と犬神が連れだっているところを、生徒が目撃しているのだ。  「ウルフのことが、そんなに気になる、先生?」  と、竜子は面白そうにいった。心を見透かされたようで、青鹿の身体はかっと熱くなった。  「あたりまえじゃないの。犬神君の身になにかあったら、まっさきに先生が迷惑するのよ。早く居場所を教えてちょうだい」  青鹿は強い語気でいった。  「だからさ、知らないといってるでしょ」  「いいわ。先生が自分でさがしますから」  青鹿はいいすてて、職員室へ向かった。他の教師たちにも応援を求めようと思いついて、足が速まる。  「そうむきにならなくてもいいわよ、先生。ウルフは屋上のほうに行ったんじゃない?」  竜子の声が背中に浴びせられた。  「いまさっき、羽黒たちが降りてくるのを見たわ。なにがあったのか知らないけど」  青鹿は全部聞き終わらないうちに走りだしていた。やはり危《き》惧《ぐ》が的中したのだ。犬神明は羽黒グループの暴力を受けたのだ。  が、青鹿が階段をかけ登り、息をはずませて屋上へ走り出たとき、そこに倒れているはずの犬神の姿はなかった。  しんと月あかりを浴びた屋上には人影も見あたらなかった。  竜子の言葉からすると、階段をかけ登る途中で、降りてくる犬神と行きあうはずである。しかし、羽黒グループのふるう凶暴な集団暴力は、二、三発なぐりつけてすむような生やさしいものではない。被害者は半殺しにされ、足腰立たなくなるまで痛めつけられるのだ。  まさか屋上から落ちたのでは……  愕《がく》然《ぜん》として、脇の下に冷汗がにじみだした。恐るおそる屋上の手すりから顔を突きだし、四階下の校庭を目でさぐったが、それらしいものは見あたらなかった。下は堅《けん》牢《ろう》なコンクリートでかためられている。むろん墜落しようものなら生命はない。  青鹿の胸裡には、ふたたび疑惑の芽が育ちはじめていた。  あの、夜の新宿で逢った奇妙な少年。  チンピラに刃物で腹を深くえぐられながら、苦痛の色もなく青鹿を見返した、犬神明に酷似した少年。  その少年は、パトカーが到着する直前、煙のように唐突に消え失せたのだ。  その少年は、しかし、犬神明ではありえなかった。なぜなら、あれは三日前の出来事で、腹部をえぐった刃物の傷は、犬神のひきしまった腹には見出せなかったのだから。  が、犬神明は、たったいまも、逃げ場のない屋上から奇妙な消失ぶりを見せたのである。  もしかすると、やはりあの[#「あの」に傍点]少年は、犬神ではなかったろうか?  あの冷やかに澄んだ目。奇異なほど誇り高い表情。美しい野獣を想わせる軽やかな身のこなし。妖《あや》しいほど精《せい》悍《かん》な魅力。  それらは、彼女に微妙な戦慄の感覚を生じさせた。  見まちがえるはずはなかったのだ、と青鹿は、異様なたかぶりに心身を支配されながら考えた。  あの[#「あの」に傍点]少年はやはり、犬神明なのだ。たとえ彼が否定し、傷痕があろうとなかろうと……なにかしら常識を超えた神秘性を、その肉体と精神に秘めているのだ。  それがなんなのか、あたしは知りたい。あの強烈なプライド、謎めいた魅力の原泉をこの手でつきとめたい。  青鹿晶子は、熱望にかられてわれ知らず、両手をもみしだいている自分に気づいた。  暮れなずむ空には、円盤状の月が浮いていた。むきだしの裸のように異様に生なましく、露骨な感じがした。心を奇妙にたかぶらせ、得体の知れぬ衝動をかりたてる……  青鹿はいつしか身体をこわばらせ、獣のように耳をそばだてていた。  それは、妖しく美しい野性的な遠《とお》吠《ぼ》えであった。憂いをおびた、長く尾をひく波のうねりを想わせた。   ユーユーユーユオ 〜〜〜〜   ムールールールーム〜〜ン オ 〜〜〜〜  聴きいるうちに、背中を戦慄の波動が襲った。体毛が一本一本立ちあがっていく感覚だった。こんな叫び声は一度も耳にしたおぼえがなかった。  遠く近く、そこかしこで犬が吠えはじめた。けたたましく立てつづけの吠え声が、騒然と波及していく。  青鹿は、犬たちの吠え声に、恐怖に毛を逆《さか》立《だ》てた警戒の響きを感じとっていた。  もしかしたら、狼《おおかみ》の遠吠え……  彼女は、自分の考えの突《とっ》飛《ぴ》さに驚き、急いで追いはらおうとした。  狼……ウルフとみずから名乗る、野性の情念を感じさせる少年、犬神。  なにかしら息苦しい思いで青鹿は、少年の痩[#痩はunicode7626]せぎすのしなやかな肉体を、脳裡によみがえらせていた。        11  羽黒|獰《どう》は、その夜十時すぎ、組関係の息のかかった深夜スナックにいた。  獰の父親は、山野組系の暴力団東明会の大幹部だ。  広域組織暴力ナンバーワンの山野組は、いわば暗黒帝国である。直属の暴力組織は一都三十二県にまたがり、構成員一万人におよぶ。本拠地は神戸にある。  そして、東明会は、関菓制圧をねらう山野組の拠点という性格をおびていた。  東明会会長の朝《あさ》田《だ》は、警視庁のマル暴頂上作戦にひっかかって刑務所入りし、健康を害して、出所後の現在は病床についている。  朝田会長にかわって、実権を握り、東明会をきりまわしているのが羽黒|武《たけ》雄《お》、獰の父親なのだ。  いまでこそ暴力団最高幹部におさまり、紳士然とした体面を保っているが、若いころ人斬り羽黒と異《い》名《みょう》をとった、凶猛精悍な父武雄の血をひいた獰は、父に優る非情な冷血性格者であり、暴力への異常な嗜《し》好《こう》を秘めていた。  若年ではあったが、親の七光りだけでなく、すでに組織の上層部からも一目置かれていた。酷薄な生まれついての殺人者の眼光は、獰《どう》猛《もう》なことでは人後に落ちぬ前科者ぞろいの組員たちの背筋に、冷たい悪寒を走らせる威圧力があったのだ。  暴力のプロとしては、名門に生まれ育ち、大器の資質に恵まれていたといえるかもしれない。  殺伐な乱世に生まれていたら、ひとかどの英雄になれたかもしれない。生まれるべき時代をあやまったのが、羽黒獰の不運だったろう。  いまは、彼はただ、忌み嫌われる札つきの非行少年にすぎなかった。暴力犯罪者の予備軍の一員にしかすぎなかった。  スナックのママや若いバーテンたちは、羽黒に対して、はれもの[#「はれもの」に傍点]に触るような態度をしめしていた。  羽黒の硬玉のような酷薄な目を恐れていた。彼が暴力をふるうのを直接見たことはないが、組員たちから噂《うわさ》は聞いていた。  頭に血がのぼりやすい安手なチンピラとちがって、めったに手はださないが、一度行動に移ると、おそろしく苛烈なことを徹底的にやってのける、といわれていた。  羽黒には、皮膚の底からにじみだすような、そんな猛悪さがあった。  羽黒は、左《ひだり》掌《て》にゆるく握ったグラスに、瞬《またた》きもしない酷薄な目をすえていた。  大きなグラスには、トマトジュースが満たされている。羽黒は酒を飲まないのだ。  ありきたりの非行少年と異なり、羽黒には背伸びをして大人ぶるというところが欠けていた。  そんな幼稚さは、羽黒には無縁だった。  酒タバコなどは、体力を殺《そ》ぎ、たやすく息切れさせる。  拳法や剣道の道場に通って、戦闘力を養っている羽黒には、自明の理であった。  節制を重んずるだけあって、羽黒の肉体は実によく鍛えあげられていた。  身長百八十センチ、体重七十五キロの肉体は、強《きょう》靭《じん》な筋肉で鎧《よろ》われている。自身を、凶暴無比な暴力機械にみがきあげることに、羽黒は執念を持っていた。その点にかけては、野心的な若いボクサーのように、羽黒はおそろしく生《き》まじめであった。  その夜の羽黒は、常になく気分が荒《す》さんでいた。暴力の衝動が、昂《こう》進《しん》した性欲のようにうずいていた。  あの奇妙なふてぶてしい転校生のせいだとわかっている。  犬神は、絶世の美女が好色漢におよぼすのと同等の強烈な欲望を、羽黒に湧きたたせたのだった。  一目、犬神を見ただけで頭がくらくらした。身体がしびれてくるような欲望だった。  想起するだけで、どうにもならない暴力への渇望がつきあげ、爆発寸前の内圧にたかまってくる。全身の筋肉が無気味なほどひきつってくる。  獲物をとらえようと跳躍にそなえた猛獣のはりつめた筋肉を襲ううねり[#「うねり」に傍点]だった。  「そんなに犬っころ野郎のことが気になるんですか、羽黒さん?」  と、隣りのストゥールに腰かけていた兎《うさぎ》面《づら》がいった。おもねるような顔つきだった。  「図星でやんしょ? これ読心の術、テレパシーとも申しやすがね」  黒《くろ》田《だ》という兎面は、羽黒の腰ぎんちゃくを務めている間に、下っば組員の下《げ》種《す》な口調をおぼえていた。  「痩[#痩はunicode7626]せ犬野郎、はたかれっ放しで手も足も出やしねえ。背中にヤッパで彫りこんだ犬の一文字、実にカッコよかったでやんすよ」  兎面はエヒエヒと耳ざわりな笑声をたてた。  「犬っころのやつ、これから毎日痛めつけて、そのたんびに犬と刻みこんでやるってなあ、いかがでやんしょ? そうだ、今度はやつのチンポコの頭になんぞ……」  羽黒は返事もせず、兎面を見もしなかった。羽黒にはいわゆる親分肌の包容力はない。媚《こ》びを売ってくる者に対してもつね日ごろから冷淡である。しかし、今日の羽黒は格別に無関心だった。  「どうもご機嫌ななめのご様子。お竜のやつなにやってんのかな。早く来りゃいいのに……どうも、痩[#痩はunicode7626]せ犬野郎を見る目つきがただごとじゃなかったすからねえ。ひょっとすると、お竜はいまごろ犬っころを手厚く介抱などネチョリンコンと……」  兎面の黒田は横目を使いながら、羽黒の嫉《しっ》妬《と》心をあおろうと、わざとらしい挑発にかかった。  羽黒のこめかみ[#「こめかみ」に傍点]にチリチリと痙《けい》攣《れん》が走るのを見定めて悦に入っていた。  小学生じみた貧弱な発育不良の身体つきの黒田は、中学三年になってまだ性的に不能だった。ひどい劣等感のため、女に手が出せないのだ。他の非行仲間と女にいたずらするときも、直接行為よりナイフを使って痛めつけるほうが好きだった。女を傷つけて泣き叫ぶのを見ることで倒錯した快感を味わうのだ。  この寸足らずのチビの心は、狂犬じみた見さかいのない破壊欲と憎悪でねじくれていた。  特に、小沼竜子に対しては、おしかくした憎悪で内心ふくれあがっているのだ。竜子が兎面の性的不能を知っていて、侮《ぶ》蔑《べつ》をかくそうともしないからだ。もし竜子が羽黒の女でなかったら、とっくに刃物で切り刻んでいたろう。こぎれいで挑発的な顔に浮かぶあからさまな嘲笑を見るたびに、まっくろな憎悪が煮えくりかえるのだった。  頭の中に血の塊りがつまって、竜子の乳房と性器をナイフでえぐりとりたい欲望で身体が震えた。かろうじて兎面を抑制させるのは、羽黒獰に対する盲目的な恐怖と追《つい》従《しょう》心だけだった。  いつの日か、泣き叫ぶ竜子のあそこに鋭利な双刃のナイフを突っこんでやることを想像すると、心がうずいて、女に役立たずの陰茎が小鬼のように硬直するほどだった。  羽黒が竜子に腹を立てればいいと念じる。竜子をやっつける[#「やっつける」に傍点]機会をつかむためならなんでもやる気だ。役立たずのちっぽけな陰茎のかわりに、大きくて凶暴なナイフで思いきり残忍に竜子を凌《りょう》辱《じょく》し、快い復讐をはたすのだ。        12  そのとき、スナックのドアを開けて、ふたり連れの客がくりこんできた。  職人風のたくましい体格の粗暴な雰《ふん》囲《い》気《き》を持った若者ふたりだ。年齢は十八、九であろう。酒がはいってい、威勢がよかった。フリの客で、店に暴力団の息がかかっていることを知らないのだった。がっちりした猪《い》首《くび》から短く刈った頭の皮膚まで赤く染め、ピンクのシャツの前をだらしなくはだけていた。  「な、なんでい。ここの客ァ、ガキばかりじゃねえか!」  ひとりが酒臭い吐息をつき、だみ声でわめいた。  「おめえらはよお、中学生か。ガキは早くクソして寝ろ。オラオラよたってねえで、早くけえれ」  「大人の時間だってのによう、めざわりだぜえ、こら」  と、相棒も勢いこんでどなった。  そこヘドアを開けてはいってきたのは、小沼竜子だった。どこで着替えたのか、小粋なミニスカートにブーツといういでたち[#「いでたち」に傍点]だ。挑発的な目つきで若者たちを眺める。若者たちは、たちまちだらしなく相好をくずした。  「おっおっ、いかすナオンちゃん……」  「こうこなくっちゃ」  「どう、おねえさん、今夜つきあわない?」  「こら、おめえ、あせるんじゃねえよオ。おねえさん浅丘ルリ子そっくりでないの……」  竜子は唇のあたりに、かすかな笑いを浮かべて若者たちを見返していた。与《くみ》しやすしと見たのか、若者たちはたがいにこづきあいながらいい寄りにかかった。しだいに図にのって、竜子の身体にさわりはじめた。竜子は身動きもしなかったが、目は期待に輝いていた。次に起きることを楽しんでいるのだった。  兎面の耳ざわりな忍び笑いが、静まりかえった店内に響いた。そのまぎれもないあざけり笑いが、若者たちを同時に振りかえらせた。粗暴タイプの人間は、侮辱に対して極度に敏感なのだ。  「なにがおかしいんだ、こら」  「てめえら、まだ帰らねえのか」  ふたりは好戦的にわめいた。血走った目をすごませ、兎面にすえた。  「おかしいねえ。おめえら、はいる店をまちがえたんじゃねえのか」  兎面は不敵に嘲笑した。  「これが笑わずにいられるかよ。百姓が」  「なにい、このチビ野郎」  「ブッとばされてえのか、ガキ」  若者たちの顔はどす黒いほどの赤さに染まり、殺気をはらんだ。  「おもしれえな。ブッとばしてもらおうじゃねえか」  と兎面。  そのとき初めて羽黒は身体の向きを変え、若者たちを見た。目は非情なガラス玉の光をたたえていた。  「お手やわらかに願いますよ、獰《どう》さん」  と、コップをふく手を休めて、バーテンが懇願するようにつぶやいた。兎面がエヒエヒと悦に入った笑声をたてる。  「なんだなんだ、やろうってえのか」  「泣きを見るんじゃねえぞ、ジャリども。やってやろうじゃねえか」  若者たちが口々に威嚇する。喧《けん》嘩《か》沙《ざ》汰《た》には年季がはいっていると誇示する。たかが中学生と見て、頭から呑んでかかっていた。が、カウンターをはなれて立ちあがった羽黒の体格を見て、やや鼻白んだらしい。罵声がとだえた。羽黒の身のこなしは、大型猛獣の獰猛な筋肉のうねりを感じさせたのだ。  「クロ。ドアにカギをかけとけ」  と、羽黒は冷やかにいった。  「おっと、合《がっ》点《てん》!」  兎面は敏《びん》捷《しょう》に走り、店のドアを内側からロックした。  「残念でした」  と、若者たちに冷笑をあびせる。  「おめえら、無事な姿じゃ外に出られねえよ。気の毒に」  「なんだと……」  若者たちは目をギラつかせていた。酒気は消えて、鼻と口もとが白くなっていた。  「声が震えてるじゃねえか。いまさら土下座してわびを入れたって遅いがな。逃しゃしねえからよ」  兎面は気取った手つきでポケットからとび出しナイフをとりだした。ラッチ・ボタンを親指で押し、長い刃をひらめかせる。  「ふざけんじゃねえっ、ヤッパぐらい毎日見なれてらあ」  若者たちはナイフを見てみるみる形相を変えた。ひとりがキック・ボクシングの構えをとった。もうひとりは手近にあったストゥールに手をかけた。うおっと咆《ほ》えて重い鉄製のストゥールをふりかざした。  「ブッ殺したる」  羽黒はすばやく足を踏みだしていた。怒声とともに猛然と叩《たた》きつけてくるストゥールを身をひねって避けざま、ひらめかせた右の靴先が、そいつの股間を蹴こむ。  もうひとりは、テレビで見よう見まねの廻し蹴りを放ってきた。どうせ仲間うちのふざけあいでおぼえたので、正規の訓練を受けたのではないから、スピードもなくバランスも崩れていた。羽黒は左の前膊であっさりブロックし、獰猛な右の手刀を相手の肩口に振りおろした。筋肉と腱《けん》と鎖《さ》骨《こつ》のひしゃげる異様な音がした。すさまじいスピードであった。一瞬後にはふたりとも床で苦悶にのたうちまわっていた。涙とよだれ[#「よだれ」に傍点]を垂れ流し、白目をむいていた。  羽黒はカウンターに近寄った。顔はデスマスクに似ていた。暴力のうずきをおぼえている間は、いっさいの表情がなくなってしまうのだった。  「ヤカンをかせ」  と、単調な声で命じた。蒼白な顔のバーテンは、ガスレンジにかかって煮えたぎっている大きなヤカンに目をやった。  「ど、どうするんで……」  と、舌をもつれさせる。  「いいから、よこせ」  「す、すごく熱いですぜ……」  ヤカンを手渡してから、バーテンはようやく羽黒の残忍な意図をさとり、顔を凍りつかせた。  羽黒は、床に這《は》っている若者ふたりの身体の上に、無造作にヤカンを傾けた。煮えたぎる熱湯をふりまく。  大量の蒸気が舞いあがり、男たちは絶叫をあげて身を跳ねた。泣きわめきながら床を這いまわり、椅子やテーブルの脚に頭をぶちあてる。恐怖のあまり発狂しかけていた。  カウンターの内側にいた店のママは、血の気の失せた表情でヘタヘタと床にすわりこんだ。腰がぬけたのであろう。  「こいつらを裏へ連れてけ、クロ」  羽黒はカウンターに戻って、ヤカンを置いた。情緒の欠けた冷血性格が、その顔をなにか人間ばなれのしたものにしていた。  「あとは、おめえにまかせる」  兎面は嬉々として、泣きわめいて哀願する若者たちの尻を蹴とばし、四つん這いのまま店の裏口へ連れ去った。ナイフにものをいわせていたぶり、おとしまえをつけるのだ。  気をとりなおしたママとバーテンが、店の掃除をはじめた。いまだに動悸がおさまらないという顔つきだった。  竜子は、カウンターの羽黒の隣りに腰をかけた。けろりとしていた。目の周囲がいくらか桜色に上気しているだけだった。暴力沙汰には慣れているのだ。  「ずいぶん荒れてるじゃないの獰ちゃん」  「どうした、あいつは……」  それには答えず、羽黒は手にしたグラスの血に似た液体を凝視しながらつぶやいた。  「あいつって、ウルフのこと?」  「とぼけるな。様子を見に戻ったろう」  「うん」  「どうしてた……」  「知らない」  羽黒は竜子に目をむけた。猜《さい》疑《ぎ》の色が目に宿っていた。  「なぜだ?」  「屋上から消えちゃったのよ。ウルフ」  「消えた……?」  「青鹿がさがしに来たんだけどさ、どこにもいやしないんだ。屋上から跳び降りたのかもよ。青鹿の先公、すごくあわててたわよ」  羽黒を平然と見返す竜子の目に、意味ありげな光が踊っていた。  「なんだ、その目つきは……」  「ね、あのときウルフはぜんぜん無抵抗だったけどさ。案外、ウルフはあんたたちのこと馬鹿にしてたからかもね。本気で喧嘩するほどの相手じゃないって……みんなウルフになめられてたのよ。獰ちゃんだって馬鹿じゃないんだから、わかったはずよ。ウルフが本気でやったら、あんただってかなわないんじゃない? カンだけどさ」  羽黒は無言で視線を、手の中のグラスに戻した。竜子が大胆に含み笑いする。  「とにかく、ウルフが抵抗しないんじゃ、話にならないわよね。そうじゃない?」  「その気にさせてやる……やつに靴底をなめさせてやる……」  「無理よ。そんなことできっこないわよ」  竜子はあからさまにせせら笑った。  「惚《ほ》れたのか、犬神に……」  その声には緊張があった。歯の間からむりやり押しだすようだった。  「かもね。あたしって強い男を見ると、ぐっときちゃうもんね。青鹿だってウルフに夢中よ。見ちゃいられないくらい心配してたわ……ウルフ、きっと青鹿をもの[#「もの」に傍点]にするわよ。それこそ、あっという間にね……」  竜子は顔をのけぞらせて、けたたましく笑いはじめた。この少女は挑発の天才だった。  羽黒のコブだらけの変形した関節を持つ指の間で鋭い音が弾《はじ》けた。一気に握りつぶされたグラスの破片がカウンター・ボードに散り、その鋭利なきらめきをちりばめて、トマトジュースが、鮮血の重おもしい量感を真《ま》似《ね》てゆるやかに這った。        13  その大邸宅は、原《はら》宿《じゅく》表《おもて》参《さん》道《どう》近くの、やや高台を占めていた。  地所の広さは、優に二百坪を超えるだろう。  建物はコンクリートの三階建てだが、傾斜している道路の低部から仰ぐと、そそりたつ感じの威容であった。  邸内は、青白い水銀灯の光で隈なく照明されている。威圧的なスパイクつきの鉄柵の門の隙《すき》間《ま》から、綺《き》麗《れい》に手入れされた広大な芝生と植込みがのぞかれた。  門灯に照らしだされた「山本」という銅板の標札を眺めながら、青鹿晶子はいくらか気遅れを感じていた。  家庭調査簿を調べて、いま山本邸にたどりついたところだった。  山本勝枝──犬神明の保護者で、続柄は少年の伯母《おば》である。  たいへんな資産家だと聞いていたが、聞きしにまさるという感じだった。  青鹿は腕時計をのぞいた。午後九時をまわっている。生徒を家庭訪問するには、あまり適当な時刻とはいえなかった。  が、意を決して、指を通話器《インタフォン》のボタンに当てた。今夜じゅうにどうしても、犬神明に逢《あ》って安否をたしかめたかった。  喉《のど》太《ぶと》な犬の吠え声が近づいてきた。黒い大きな獣が猛烈な勢いで走ってきて、鉄柵の向こう側でうなったり吠えたりした。大柄なドイツ・シェパードである。真っ黒な獰猛な面構えで、いかにも強そうだった。  インタフォンが、あまり若くない女の声でこたえた。青鹿は、自分の名と来意を告げた。まもなく、背の高い中年の女性が近づいてきた。  「夜分遅く、申しわけありません」  と、青鹿は繰りかえして詫《わ》び、名刺を鉄柵の隙間から中年女性に手渡した。  「あたくし、博徳学園の教師で、青鹿と申します。こちらの犬神明さんのことで、突然うかがいまして……」  「まあ、それはそれは……」  女性は、勢いよく吠えたけるシェパードを叱りつけて黙らせた。犬の名はフォスというらしい。  「ま、どうぞ、どうぞ」  聞けられた潜《くぐ》り戸《ど》から青鹿は邸内にはいり、中年女性に案内された。シェパードが、軽く尾を振りながら玄関までついてきた。  「山本勝枝さまでしょうか?」  重厚な印象のおそろしく贅《ぜい》を尽くした応接室に導かれ、ソファのひとつに落ちついてから、青鹿はいった。  「さっそくでございますが、すこしお話したいことがございまして」  「いえ、あいにくと主人の山本は渡米中なんでございます」  と、中年女性は、青鹿の真向かいの椅子から答えた。油断のなさそうな厳しい目の色で青鹿を観察していた。  「あたくしは、留守宅をまかせられております戸《と》崎《ざき》と申します」  「まあ、渡米中?」  「はい。主人の山本は、ほとんど一年の大部分をアメリカですごしておりますので。ご用件のむきは、わたくしがおうかがいいたします」  戸崎という中年女性は、しっかり者のようだった。どこか冷やかな気配を、理知的な整った顔に漂わせていた。  「実は、あたくしの受持生徒の犬神明さんのことで……恐れいりますが、本人にも会いたいので、ここへ呼んでいただきたいのですけれど」  「明さんでしたら、ここにはおりません」  意外な返事だった。  「あら。では、いまどこに?」  「いろいろ事情がございまして、いまは鷺《さぎ》の宮《みや》のマンションにおります」  「マンションに……おひとりで?」  「さようでございます。ご不審に思われるでしょうけれど、本人もこの屋敷に住むことを嫌いますし、たいへんわがままなようですけれど、主人の山本も、本人の好きなようにさせるという意向でございますので」  「…………」  「先生もうすうすご存じと思いますが、明さんは、ちょっと変人というか……いうなれば問題児なんでございます。事実これまでにもいろいろと厄《やっ》介《かい》事を起こしております。ですが、それはわたくしから校長先生にも直接申しあげ、了解していただいておりますし。それで、明さんは、もうなにか問題を起こしたのでございますか?」  「いえ、そういうわけでもないんですけど……」  青鹿は言葉をにごした。が、校内の非行グループが、犬神明に乱暴を働く懸念がある、ということだけは話さなければならなかった。  「そういうことでしたら、先生が心配なさることはございません」  戸崎はいささかも動ぜずにいった。どんなことが起きようが動揺しそうもない女性であった。コンクリートの壁のように情味がなかった。  「明さんは、それくらいの始末は自分でつける子でございます」  少年に対する愛情の一片も感じられなかった。  「でも、もしかしたら怪《け》我《が》でもしたのではないかと……」  「明さんが?」  戸崎は冷やかに微笑した。  「とんでもございません。むしろ、先生が心配なさる必要があるのは、相手の不良少年たちでございますよ。明さんは、そこいらのチンピラが手に負えるような少年ではございません」  「でも、なにしろ相手は大勢ですから……」  「先生がそれほどご心配になるのでしたら、直接本人に会い、おたしかめになるのがようございます。でも、おそらくそのお気づかいは無駄でございますよ」  戸崎が、鷺の宮の住所を調べてくれたのをしお[#「しお」に傍点]に、青鹿は腰をあげた。この冷たい女性と話していると、肩がこってかなわないというのが実感であった。さぞかし万事につけて有能な人物なのだろうが、いかにも血の冷たさを感じてしまう。お茶の一杯も出そうとしないのだ。ビジネスライクなアメリカ風なのであろうか。  「明さんには、よくない癖があるんでございます」  戸崎は、青鹿を送りだしながらいった。  「放浪癖と申しますか、生まれつきの浮浪児なんでございます。縛りつけておこうとしても、すぐに脱走して、あちこちを風船みたいに流れまわるしまつ……主人の山本も、かえって束縛しないほうがいいと考えまして、明さんにひとり暮らしを許しているわけでございます」  「こんなに立派なお屋敷がありながら、なぜ、わざわざ不自由なひとり暮らしなど……」  青鹿は心にもない言葉を口にした。自分が犬神明だったら、こんな冷やかなしっかり者の中年女と顔をつきあわせてすごすのはごめんだと思った。息がつまってしまう。  シェパードのフォスがうなりながら、送りに来た。  「さあ、どうですか」  と、戸崎は硬い微笑を見せた。  「そのほうが、明さんにかぎらず、おたがいに気楽でございます。それに、明さんがここにおりますと、犬が……」  戸崎は威嚇的にうなっているフォスを振りかえった。  「フォスが、ひどく怯《おび》えるんでございます。ふだんは気の強い犬なのですが、犬小屋にとじこもってブルブル震えているぼかりで、飲まず食わずのノイローゼと申しますか……」  「きっと、そり[#「そり」に傍点]が合わないんですわね」  「さあ、どうですか。犬が明さんを恐れるのも、当然かもしれません」  中年女は、ふと奇妙な表情を見せた。  「先生も、明さんの問題に、あまり深入りしないほうがよろしいかと思います。妙な話ですけれども、明さんはたいへん不吉な星の下の生まれで、近づく者をことごとく災いに巻きこむ運命を持っているそうです……なんでもアメリカの有名な占星術者ゾラーが、明さんは世にもまれな魔性の持主と占ったそうでございます。先生にご忠告いたしますが、明さんに近づくことはお避けになったほうが賢明です……先生ご自身にも災いがおよびます」  生《き》まじめな顔つきだった。理知的な見かけによらず迷信家らしい。  シェパードのフォスが、底力のある声で吠えた。この猛犬が、犬小屋にとじこもり、死にそうに怯えている図など、想像もつかなかった。おそろしく凶猛で危険そうに見えた。  青鹿晶子は、割りきれぬ思いで豪壮な山本邸をあとにした。好奇心はますますたかまり、強く鋭く胸中にうずいていた。  犬神明には、なにか秘密があり、戸崎という中年女性はそれを知っているとほのめかしたためだろうか……        14  犬神明という野性的な少年には、なにか言葉につくせぬ、鋭い孤絶感がある、と青鹿は思った。  心にぽっかりあいた空洞でもあるようだ。そのむなしさに耐える努力から、あの超然としたポーズが生まれたのかもしれない。おそらく、あの倨《きょ》傲《ごう》、孤高の気取りは、心の餓《う》えから生まれているのであろう。  青鹿は、自分でもそれと気づかずに、少年の心の餓えを満たしてやりたい欲求を育てていたのである。同情でも憐《れん》愍《びん》でもなかった。なにか得体の知れぬ情念のたかまりが、彼女をとらえていた。理性では制御できない強い衝動であった。  あるいは、憑《つ》かれるという表現があたっていたかもしれない。  そのとき、彼女はすでに、悪夢の中へと足を踏み入れていたのである。  青鹿が、西武線|鷺《さぎ》の宮《みや》駅に降り立ったとき、駅の時計は十時半を指していた。  駅前の商店街のほとんどが灯を消し、シャッターを閉じていた。終バスはすでに出てしまっている。長い行列がタクシーを待っているが、空車のランプを点《とも》らせた車はほとんど姿を見せない。  戸崎にもらった地図によると、「白鷺コープ」は、駅から十分ほど歩く距離にあった。タクシーに乗るほどのこともないが、雑木林や空地の多い淋《さび》しい道を歩かねばならない。  〈痴漢ひったくりにご用心〉  道路脇に警察の立看板が目について、いやな気持がした。ネクタイをしめ、牙《きば》をむいた〈狼〉の、拙劣な絵入り看板だ。  たしかに痴漢が出没しても不思議はなさそうな荒涼感が、照明のとぼしい夜道に充満していた。  夜空の、裸を想わせる生なましい満月が無気味だった。青鹿の夜道に落とす影がくっきりと黒い。  それでも、痴漢に襲われることもなく、めざすマンションにたどりついた。  場所柄を考えると、驚嘆するほどデラックスなマンションであった。外観といい規模といい、都心部の高級マンションにも、ひけ[#「ひけ」に傍点]をとるまいと思われた。  八階建てだが、入居者が少ないのか、灯のはいっている窓は数えるほどであった。  それにしても、たかが中学生の身でひとり暮らしをする場所ではなかった。山本邸の威容に接したときにまして、青鹿はショックをおぼえた。思わず自分の安アパートの四畳半とひきくらべてしまう。  おっかなびっくりロビーに足を踏み入れたが、まったく人《ひと》気《け》がない。ロビーに面した正面の管理人室にも人影は見あたらなかった。見かけこそ高級マンションに匹敵したものの、内部はひどく殺風景であった。  おおかた近在の土地成金がマンション造成ブームをあてこんで建てたものだろうが、内装まで手がまわりかねたという印象である。  壁際に並んだメイル・ボックスで、犬神明の部屋番号をさがしだすのは造作もなかった。入居者がいくらもいないのだ。  八一三号──八階であろう。  それでも二基並んだエレベーターの右側の一基が感心に作動した。ひょっとすると、八階まで歩いて登らされるのかとなかば覚悟していたのだが……  八階に着く。  廊下の照明は、大半が消えていて、たよりなくうす暗い。いまさっきたどってきた夜道にまして荒涼感が強かった。人気のない広大な建物は恐ろしい。夜道のほうがまだしも救いがあった。ここには警察のパトロールはないのだ。  首筋の毛が逆《さか》立《だ》つような気がした。自分が神経質になるのがわかった。  八一三号のドアの前にたどりついた。ブザーを押したが反応がない。ドアをノックする。が、ドアの向こうはしんと静まりかえっていた。犬神明は留守なのだろうか。  しかし、ドアのノブに手をふれると、あっけなく外側に開いた。錠がおりていなかったのだ。  部屋の内部は、明るい灯光に満たされていた。青鹿は思わず安堵の吐息をついた。  十坪ほどのかなり広びろとした洋間である。床一面に敷かれた緑色の絨《じゅう》氈《たん》と、応接セットが置かれているだけで、そのためか壁が遠く、実際よりかなり広く感じられた。  犬神の名を呼んだが、やはり返事はない。青鹿はしばらくの間、上唇をかんで、ためらっていた。決心がついて、奥の部屋につづくとおぼしきドアに近づく。  隣室は、十畳ほどのスペースで、寝室と書斎をかねていた。片隅にカバーをかけたシングル・ベッドが置かれている。ハイファイ・セットと、巨大なマホガニー・デスク。備品は少ないがいずれも高級品であった。  壁一面を占めた大きな書架には、意外なほど大量の書籍がつまっていた。それもかたい[#「かたい」に傍点]本ばかりだ。百科事典だけで和洋三通りもそろえてある。専門書が多い。  とりわけ目をひくのは、柳《やなぎ》田《だ》国《くに》男《お》全冊|揃《そろ》い、フレイザーの「金枝編」十三巻をはじめ、民俗学関係の資料だった。  知職人の書架であった。青鹿が聞いたこともない本で埋まっていた。  意外感にとらわれ、あらためて驚きと好奇心がこみあげてきた。あの少年の精神生活は、いったいどんな具合になっているのだろう。  おそろしく巨大なマホガニー・デスクの上には、ブックエンドにはさまれて、教科書参考書類がこぢんまりと並んでいる。そこだけが中学生らしく、青鹿にはアットホームな感じがした。その中に、固い表紙の大判の分厚いノートが目についた。彼女がハンドバッグや持物をデスクに置き、その厚いノートに手を伸ばしたとき……いきなり部屋の照明が消えた。唐突だったので、冷水を浴びせられたような心地がした。  闇の充満した部屋の中に、なにかが潜んでいるのを青鹿は知った。異質な存在の気配をはっきりと感じとっていた。  身震いが襲い、背骨が氷柱《つらら》と化した。はっはっ[#「はっはっ」に傍点]とせわしい喘《あえ》ぎを聴きとったのだ。  青鹿は悲鳴に似た短い声を漏《も》らした。  窓のカーテンごしに浸透する月光のわずかな光を鮮やかに反射して、緑色に輝く目が双《ふた》つ宙に浮いていたのだ。  それは、人間の目ではなかった。  「だれっ、だれなのっ」  青鹿の声はうわずっていた。  はっはっ[#「はっはっ」に傍点]とせわしい喘ぎがこたえた。異様な緑色の目は、爛《らん》々《らん》と燃えていた。        15  密室に、凶暴な肉食獣といっしょに閉じこめられた、そんな気がした。  異臭が漂ってきた。幻覚ではない。分厚い毛皮の匂いに似ていた。  闇に目がなれて、相手の輪郭がかすかに浮きだしてきた。光る目の位置が四足獣と異なってずっと高く、ほぼ人間のそれだった。それとも、野獣が後脚で立ちあがっているのか……青鹿の動悸はさらにたかまった。背筋に冷汗が流れ落ちる。  そのとき、低い笑声が響いた。いかにもおかしそうに笑う。  「青鹿先生ですね……」  聞きおぼえのある少年の声だった。  「犬神さん! やっぱりあなただったの……」  たとえようもない安堵感が彼女を包んだ。膝がゆるんで、その場にすわりこんでしまう。  「お、おどかさないで。心臓がとまるかと思った……いじわる。なぜ電気を消したの?」  「腰がぬけたんですか、先生。まさか失禁したんじゃないでしょうね、すわり小便」  少年は含み笑いしながらいった。  「いやなひとね」  青鹿は闇の中で赤面し、声を高めた。  「わざとおどかして面白がったりして」  「わざとじゃありません。先生が勝手に驚いて失禁したんです。おれのせいじゃない」  「やめて、人聞きの悪いこといわないでちょうだい。早く灯《あか》りをつけてよ」  「いま灯りをつけると具合が悪いんじゃないんですか? 乾くまで待ったらどうなんです」  青鹿は闇の中で真っ赤になった。少年のいうとおりだった。腿《もも》の間が気味悪く濡《ぬ》れていた。  「このことを聞いたら、みんな喜ぶだろうなあ。いい話題になる」  なおも少年は仮借なくいった。  「やめてよ、おねがい」  青鹿は泣きそうな声でいった。恥ずかしさに身も世もなかった。なぜ少年にわかってしまったのだろう。  「だれにもいっちゃいやよ。恥ずかしくて死にそうだわ……ね、いわないと約束して」  燃えるように熱い頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を、彼女は両掌ではさんだ。  「ま、いいでしょう。これにこりたら、教師だからといって、生徒の部屋へ勝手に押し入ったりしないことです。不法侵入罪に問われるんですよ」  「法律にくわしいのね」  青鹿は溜息をついていった。  「でも、あなたのことを心配してやってきたのよ。あなたが羽黒グループにひどい目にあわされたんじゃないかと思って……」  やっと気をとり直して、教師の口調をとりもどした。  「ずいぶん手間どっちゃったわ。でも、その様子だと、たいした被害はなさそうね」  「すると、原《はら》宿《じゅく》の山本家に行ったんですね」  少年の口が、やや重くなった。  「戸崎という人に逢ったでしょう? おれのことを、なにかいってましたか?」  「ええ。いろんな話を聞いたわ。あなたに近づいてはいけないって警告されたわ」  「そうです。まったくそのとおりだ……」  少年は溜息をついた。  「おれに近づくと、ろく[#「ろく」に傍点]なことにならない」  「あなたと戸崎さんは、そり[#「そり」に傍点]が合わないようね。なぜかしら?」  「べつに戸崎だけにかぎらない。おれはだれともそり[#「そり」に傍点]が合わないんだ。どこへ行っても、おれは嫌われ者の鼻つまみなんだから。もっとも、そのほうが気楽でいい」  言葉を投げだすような口調だった。  「そうかしら……でも、あたしは犬神君が好きよ」  青鹿は、自分が大胆になるのを意識した。暗闇のせいかもしれない。恥ずかしいことを少年に知られてしまったことが、奇妙な親密感を生みだしていた。それが、教師の立場から、彼女を気楽に逸脱させたのだ。  「あなたが生徒のうちでいちばん可愛いわ」  青鹿はいいながら、絨《じゅう》氈《たん》から身を起こした。立ちあがって、犬神のいるほうへそろそろ近寄っていった。  「えこひいき[#「えこひいき」に傍点]はよくないな」  「だって、本当のことだもの」  「とにかく、おれはだれにもかまわれたくないんだ。だれにも邪魔されず、ひとりで静かに暮らしたい……それが、おれのささやかな願いなんです。たとえ、相手が綺麗な女の先生でも……」  しかし、その声音には動揺の響きがあらわれていた。青鹿が前進するにつれて、少年は壁際に後《あと》退《ずさ》りしていった。  「近寄らないでください。なにをする気なんです?」  青鹿が手をさしのべると、少年はすぼやく跳びのいた。  「馬鹿ね。思いちがいしないで」  彼女が狙ったのは、壁の照明スウィッチだった。  部屋が光に満たされたと同時に、青鹿がぐうっと音を立てて息を吸いこんだ。  青鹿晶子の目は、虹彩が完全に現われ、真円に近くなった。頭髪が軽く逆立ち、血の気《け》の失《う》せた顔色は紙の白さになった。  少年の顔は異様な変貌をとげていたのである。顔全面が短い剛毛にびっしりと覆われ、つりあがった目が爛《らん》と輝いていた。黒く隈《くま》取《ど》られた口は、肉食獣のそれだった。太くたくましい牙《きば》がのぞいていた。  それは人間の顔ではなかった。異《い》形《ぎょう》の獣面であった。  青鹿は、両の握りこぶしを口《くち》許《もと》に押しつけ、凝固したように立ちすくんでいた。悲鳴が喉《のど》に石ころのようにつまり、呼吸が停止していた。  「ちょっと待った」  と、獣面から声が出た。  「ぶっ倒れるんなら、枕《まくら》を取ってきます」  まったく日常的な少年の声音が、青鹿を正気にひきもどした。ひゅっと音を立てて息を吸いこみ、呼吸活動を再開する。  「い、犬神さん……」  青鹿は声をしぼりだした。ふたたび顔に血の色が射してきた。  「その顔は、いったいなんなの」  少年は、獣毛の密生した奇怪な顔に手をふれた。  「ビックリ玩具《おもちゃ》ですよ。デパートの玩具売揚で買ってきたんです。狼マスクというんです」  こともなげにいって、喉で笑った。  「どうです。よくできてるでしょう」  「脅かすつもりだったのね」  青鹿はショックから回復するとともに、怒りはじめた。  「あたしを死ぬほど脅かして喜んでいたのね。ひとを馬鹿にして……ああ、腹が立つ!」  彼女はいきりたって叫んだ。  「ひとがこんなに心配して、わざわざ夜遅くやってきたのに、こんな目にあわすなんて。くやしいったらありゃしない」  顔色が変わり、目に涙がにじんでいた。彼女は両手をわなわなと震わせた。  「ひっちゃぶいてやりたい」  「来てくれと頼んだおぼえはない」  「なんですって……その悪趣味なマスクをすぐにとりなさい。命令よ!」  「いやですね」  「マスクをとりなさいっ」  青鹿は絶叫した。  「おことわりします。学校でなら、なんなりと先生の命令に服従しますがね。ここはおれの部屋だ。おれに命令する権利は、先生にはないんだ」  なんというふてぶてしさ、青鹿は逆上した。怒りにわれを忘れた。やにわに両手をのばし、目の前の獣面にむしゃぶりついていった。少年の憎にくしさを許せないと思った。  「力ずくでも、とってやるからっ」  口走りながら、両手で獣面をひっつかみ、力まかせにひきむしった。もみあいになり、ふたりの身体がもつれて、ベッドに倒れこんだ。なにがなんでもマスクをはずしてやろうと彼女はあせった。目をキラキラ輝かせて、青鹿は少年のしなやかで強《きょう》靭《じん》な身体の上にのしかかり、全力をふりしぼった。  が、獣面マスクは少年の顔に膠《こう》着《ちゃく》し、どうしてもはずれない。呼吸が荒くなり、全身が汗で濡れた。力をだしつくして、青鹿は手を休めた。  発熱したように身体がおそろしく熱く、筋肉が萎《な》えた。しびれるような脱力感が青鹿を襲った。表現しがたいような快いけだるさであった。  そのとき、下に組み敷いた少年の若わかしい肉体が、炎の塊りのような感触に変わるのを意識して青鹿はちいさな声をあげた。思いがけぬ感覚の奔《ほん》騰《とう》であった。少年の肉体に押しつけている乳房が硬く重く張りつめていた。  やましさと恥ずかしさが、灼《や》きつくように心をつかんだ。  「へんね……なかなかとれないわ……」  青鹿は当惑をすりかえようと、喉にからむ乾いた声でいった。他人のような声の響きだった。身体がへんに重く、自由にならない。彼女は深い震える溜息をついた。  少年は、彼女の両の手首をつかみ、ぐいとひきはなすと同時に、彼女を押しのけ身を起こした。  「いい加減にしなさい。暴力をふるうなんて、先生には似合いませんよ。なぜ、マスクをはずせないか、わけ[#「わけ」に傍点]をいいます」  青鹿は争いでまくれあがったスカートをひきさげ、のろのろとした動きで少年からはなれた。デスクの椅子に、ぐったりと身を沈める。真っ赤にのぼせ、鈍くはれぼったい顔になっていた。充血し、うるんだ目を、少年の目から避けていた。  少年はベッドをはなれ、壁に向かって立った。  「おれは、放課後、羽黒グループに歓迎を受けたんです。連中は、よほどおれが気に入ったと見えて、熱心にもてなしてくれた……そのあげく、おれの顔は、ちょっと人前に出せなくなっちまったわけです」  青鹿は弾《はじ》かれたように椅子からとびあがった。  「怪我をしたのね。それでマスクをして顔をかくしていたのね」  「まあ、そんなところです」  「知らなかったわ。ごめんなさい」  深い後悔にとらわれ、青鹿の表情がゆがみ、べそ[#「べそ」に傍点]をかいた。  「あたし、なんて馬鹿なんでしょう。ああ、穴があったらはいりたいわ」  青鹿はうめくように泣き声をだした。  「ゆるして……ねえ、本当にごめんなさい」  「気にしなくてもいいです」  「怪我はひどいの? 医者に診《み》せたの? ちょっと顔を見せて……」  「たいしたことはないんです。それより先生に見られるのが恥ずかしい。ひどい面相なんでね」  「ひどくたってかまわないわ。恥ずかしがることなんかないのよ。お医者さんに診てもらわなきゃだめ。これからあたしが連れてってあげる」  少年は、青鹿の手を逃れて、鋭い声をだした。  「やめてください。おれに近寄らないでください。おれは羽黒一党よりか、先生のほうがこわいんだ。明日から転校したほうがましだ」  「ちょっと乱暴したからってそんな……悪かったと思ってあやまっているのに……」  青鹿は立ちすくんで青ざめていた。  「羽黒一党なんか、なんとも思わない。おれはタフだから、好きなだけなぐらせておく。そのうちにあきますからね。だが、特定の生徒に異常な関心を持つ、美人の先生ははるかに始末が悪い。平気でずかずかと他人の心の中にまで、土足で踏みこもうとする。とにかく女というのは、厚かましくて無神経だから、かなわない」  少年はおそろしく冷やかにいった。  「ひどいわ。あたしはただ、あなたのことが心配で……」  「それを好意の押売というんです」  少年はなおも容赦なくいった。  「本当は、好奇心を満足させたいだけなんじゃないのですか」  「そんなに、あたしがきらいなの……」  蚊のなくような声だった。  「おれが好きなのは、おれをうっちゃっといてくれる人間だけです。おれにかまわないでください。手を出さないでください。そうすれば、先生も好きになれる」  「わかったわ……帰るわ」  青鹿の目に涙が光った。少年は女教師に背中を向け、彼女が立ち去るのを待った。  ドアが開いて閉まった。  少年は、廊下を遠ざかっていく足音に耳を澄ました。慚《ざん》愧《き》の念が苦汁のように胸郭の中を満たした。好意をしめしてくれた女教師に、残酷な言葉でむくいたことに、いいしれぬ自己嫌悪をおぼえていた。青鹿の悲しみが、いまだに部屋の空気に立ちこめているのが、少年にはわかった。  少年は、窓際に歩き、カーテンとサッシの窓をいっぱいに開け放って、夜空に浮かぶ銅色の円盤を見つめた。  いつも夜空の満月を仰ぐときの、血が湧きたつような興奮と宏大な解放感も、いまは慚愧と自己嫌悪で圧殺されていた。  「なぜだ」  と、少年は声にだしてつぶやいた。鬣《たてがみ》に似た頭髪に両手の指をつっこみ、頭を振った。  「なぜ、こんないやな気持になるんだ……」  意地悪く、残忍にふるまったからだ。まるで人間みたいに[#「まるで人間みたいに」に傍点]……  ガチガチと長い牙がふれあって鳴り、鬣が生き物のように逆立った。  「先生、すまない……」  と、少年はうめくようにいった。        16  自分はあつかましいでしゃばり[#「でしゃばり」に傍点]女だ……  痛烈な自己嫌悪が、青鹿晶子を痛めつけつづけた。  こんなに夜遅く、生徒のひとり暮らしの部屋へ押しかけていって、さんざん醜態をさらしたあげく、手きびしい拒絶に会い、すごすごと追い返されるなんて……なんという見苦しさみすぼらしさだろう。  恥ずかしさのあまり、身をよじり、大声で叫びだしたくなるほどであった。  こんなぶざま[#「ぶざま」に傍点]な最低の教師がいるものか。もう教師なんてやめようと思った。自分には教師の資格がないと思った。どぶ[#「どぶ」に傍点]に落ちて、全身おぞましい汚物にまみれたような気がしていた。  それにもまして、不可解な悲哀と寂《せき》寥《りょう》が心をしめつけ、彼女は涙をこぼしながら、夜道を歩いた。  犬神明が、どんなに軽蔑をこめて自分を見ていたことか。奇怪な獣面マスクをかむっていてさえ、冷やかに澄んだ目に浮かぶ侮蔑の光はかくしようがなかった。  つまらない雑種の牝犬を見るような目つきで眺めていた犬神明。狼が牝犬の求愛に対するような、よそよそしい無関心と拒絶をこめて……  彼は知っていたのだ[#「彼は知っていたのだ」に傍点]。ちゃんと見ぬいていたのだ。自分が少年に対して、いやらしい欲望を抱いたことを……彼は少年らしい潔癖さで手ひどく拒否したのだ。  ああ、どうしよう。うめき声が口を衝《つ》き、青鹿は両手で顔を覆った。もう彼とは顔を合わせられない。自分は、それほど恥知らずにはとてもなれない。まったくなんというみじめさだろう。自分には、もはや自尊心の一片も残されていない。  うちのめされた足どりで、夜道をたどる青鹿晶子を、悪運が待ちかまえていた。  彼らはふたり組だった。いずれも黒い革ジャンパー、黒いヘルメット、防塵眼鏡《ゴッグル》で身をかため、オートバイに乗っていた。  年齢は十七、八歳で、単車の機動力を利し、〈痴漢遊び〉にふける常習犯だった。ひとり歩きの女をねらって遊《ゆう》弋《よく》している彼らにとって、いまの無防備な青鹿は絶好の餌《え》食《じき》であった。  無灯火のまま、彼らは疾風のように青鹿を襲った。だしぬけの爆音に振りかえる彼女の両側をわかれて通過しざま、左右からのびた革手袋の手が彼女の腕をつかんだ。そのまま道端の空地の雑草の中にひきずりこんでいく。  ふたりの若者はオートバイを急停車させ、草むらにころがった青鹿の身体にとびついた。ひとりがハンドバッグをもぎとり、中身をさぐりだした。その間に相棒が、軽く失神している青鹿の頭にすっぽりとタオル地の袋をかぶせた。ひどく手慣れた動作だ。  「あまり持ってねえや。三千ぐらいだ」  金を抜きとり、 ハンドバッグを放り投げた若造がいった。  「時計《ケイチャン》でもいただくか」  「そんなのどうでもいい。それよりこの女《スケ》、すげえボインだぜ」  相棒がうわずった声を出し、青鹿の乳房をわしづかみにした。乱暴にもみしだく。  「けっ、好きな野郎だぜ」  「たまんねえや。ムキムキするからよ、しっかりおさえてろ」  青鹿は失神からさめて、もがきはじめた。必死に布袋を顔からはらいのけようとしたがはずれない。袋の口のヒモがきつく締まって首を締めつけ、声もだせなかった。  服の裂ける音がした。呼吸《いき》がつまって、けんめいに身をもがく。身体じゅうをいやらしい手が這《は》いまわっていた。かみつこうにも、布袋を頭からかぶせられていてはどうにもならない。口惜《くや》し涙で顔が汚れた。腰をしたたか打ったらしく身体に力がはいらないのだ。  痴漢どもはスカートを腰までまくりあげ、パンティをひきおろしにかかっていた。足をからんで膝をあわせたが、あっさり脚をひろげられた。荒あらしい指が身体の中に侵入してくるのを感じ、彼女はうめいて唇を血の出るほどかみしめた。  「懐中電灯を出せよ、面白えぞ!」  濡れた粘膜の音を立てながら、野卑な笑声があがる。  冷たい恐怖が全身にひろがり、血を凍りつかせた。もうだめだと思ったとたん、意識がすっと薄れていった。   ウォ〜〜ウールルルルルオ〜〜ンッ  壮絶な迫力に満ちた咆《ほう》哮《こう》が巻きおこったのは、その瞬間である。地鳴りするような雄《お》叫《たけ》びが、薄れかける意識をつらぬいた。  青鹿の身体をもてあそぶ手がはなれていった。青鹿は顔にへばりつく布袋をはらいのけようとふたたびもがきはじめた。首筋にからむヒモをさぐりあててゆるめ、むりやり袋をひきぬいた。  青鹿から手を放し、腰を浮かした二人組は、闇に爛《らん》と目を燃やす巨大な野獣と対面していた。  冷水のような恐怖が襲い、ひとりが革ジャンのポケットに手を走らせた。登山ナイフを抜く。  刃物を見ると同時に、猛然と緑色の目が迫ってきた。牙が、突きだされたナイフを無造作に咬《か》み折った。同時にその腕の中ごろに、強力な両手の指がまきついた。一振りで肩のつけ根の骨がへし折れる無気味な音と絶叫。  残るひとりは夢中で単車にとび乗っていた。相棒を見捨てたまま、草むらをタイヤで蹴立て逃走する。が、相手は電光のように迅速だった。こわれた人形のように相棒の身体をほうりだすと、跳んだ。毛むくじゃらの強力な手がダッシュした単車の荷台をつかんだ。後輪タイヤが狂ったように金切声をあげ、空転した。恐ろしい力だった。全力駆動のエンジンがひねりだす三〇PSを超すパワーに抗して、ガッチリと錨《いかり》のようにつなぎとめてしまったのだ。  生まれて初めて、真に恐ろしいものに遭遇したライダーの喉をこじあけ、恐怖の絶叫が奔《ほとばし》った。とめどもなく悲鳴がつづく間に、怪物はライダーをのせたままの単車の重量も苦にもせず、ハンマーのように大きく振りまわした。  投げだされ、宙を飛んだライダーの身体が空中にある聞に、追撃が襲った。  すさまじい強打を食ったヘルメットが砕けた。強化樹脂製のヘルメットがなければ、頭蓋は卵の殻のように粉砕されたろう。  青鹿がようやく横ずわりに身を起こしたとき、若者ふたりが地上にのたうちまわっているだけで、巨大な獣の影もなかった。夜の中に、音もなく溶暗してしまったようだった。  青鹿は、氷水でも全身に浴びたように冷汗にまみれ、鳥肌立ち、激しい悪寒に震えつづけた。スカートが下着もろとも腰まで裂け、真っ白な太腿をむきだしにしていた。片方の足首にかぼそくパンティがからまっている。  が、青鹿が受けた衝撃は、暴力のためではなかった。だれが自分を救ったのか、彼女は直観的にさとっていたのである。  それは強力な猛獣に似て、人間以外の存在であった。あの想像を絶したスピードと怪力は、絶対に人間のものではなかった。  犬神明。  彼は、いったい何物なのだろう?  その疑惑にこたえるように、いまははるか違方から、あの妖《あや》しく美しい遠《とお》吠《ぼ》えが響いてきた。頭上の天空の満月のように、それは神秘的な美しさであった。  遠吠えにこたえて、夜空に遠く近く、犬の叫喚が湧きおこった。  狼の遠吠えだ、と青鹿は思った。それは確信に等しい想念であった。  道路にパトカーのサイレンが吠え、ブレーキを鋭くきしらせた。警官たちが大声でどなりながら走り寄ってくる。        17  青鹿晶子は、三日間勤めを休んだ。  単車に乗った痴漢二人組にひきずり倒されたとき、腰や背中を強打したからだ。  入院して加療を受けるほどでもなかったが、顔や四肢のあちこちに打撲傷や擦過傷をこしらえており、みっともなくて外出する気になれなかった。  救急病院で手当を受け、刑事に事情をきかれたりしたあげく、疲れきって帰宅すると、熱が出てきた。そのまま三日間、ほとんど布団の中にもぐって暮らした。精神的な打撃のほうが大きかったようだ。たえまなく、暴漢に犯される悪夢にうなされた。生なましい触感が、いつまでも執《しつ》拗《よう》に残っていた。  この事件が、学校でどんな反響を呼んでいるか考えると、げんなりして出勤する意欲が失せた。  アパートの管理人にたのんで、事務連絡その他、上司、同僚、生徒たちの見舞いは、全部謝絶してもらった。当分、だれの顔も見たくなかった。  起きだす気力もわかぬままに、ぼんやりと寝て暮らす間、脳裡を占めるのはただひとつ、犬神明のことだった。大勢の生徒たちが押しかけては見舞いの手紙を残して追い返されたが、犬神が来た様子はなかった。むろん来るはずはないと思っていたが、あてはずれのようで、なんとなくさびしい気がした。  三日目の晩、パジャマ姿でインスタント・ラーメンを煮ているところへ、田所教師が突然おとずれた。  「青鹿先生。五分ほどお話したいことがあるんですが、かまいませんか?」  ドアごしに、遠慮がちな声がした。  「あらっ、すいません。ちょっとお待ちになって」  狼《ろう》狽《ばい》して大急ぎで着替え、布団をあげた。そのへんを片づけるのに精いっぱいで、顔を直しているひま[#「ひま」に傍点]もない。  はいってきた田所が気がついて、ラーメンが煮えくりかえっているガス・レンジをとめてくれた。  「どうも申しわけないです。これからお食事でしたか」  田所は熱湯で火傷《やけど》した指を口につっこみ、恐縮した表情で狭い台所に突っ立っていた。  「いえ、よろしいんです。どうせ食欲もありませんから……どうぞおすわりになって」  「や、どうも」  田所は座布団をあてようとしなかった。身をかたくしていた。  「なんにもおかまいできませんけど、お茶でもいれますわ」  「とんでもない。すぐに帰ります。ほんとに五分で帰ります」  田所は居ずまいを正し、固苦しい見舞いの口上を述べた。  「校長をはじめ、みな心配しています。お元気のようで安心しました」  小さな果物|籠《かご》を照れながら差しだし、汗をふいた。実直な青年教師の好意がうれしかった。  「そんな、たいしたことなかったんです。でも絆《ばん》創《そう》膏《こう》だらけで、みっともないでしょ。人前に出るのが恥ずかしくて……」  青鹿は弁解しながら、だれかのセリフに似ていると思い、それが犬神のだったことに気づいた。  「その後、なにか変わったこと、ございました?」  「実は、例の犬神明のことなんですが……」  「犬神明がどうかしまして?」  青鹿は自分の顔色が変わるのがわかった。茶を注ぎかけた急須の手がこわばった。  「翌日も、またやったんです」  田所の話によると、犬神を目の仇《かたき》にしている羽黒グループは、二日目もまた、犬神を手ひどくいたぶったというのである。  犬神を使用されていない旧木造校舎の教室に連れこみ、その間、見張りを立てて他の生徒や教師が近寄れないようにしておき、リンチを加えたという。剣道部員を脅して巻きあげていった竹刀《しない》で、少年をさんざん叩《たた》きのめしたらしい。  「とにかく、見張りが立ってて、先生までえらい剣幕で追い返すしまつでしてね。だれも近寄れないんです。一時は警察の出動を要請するという騒ぎになりましたが、剣道部の椎《しい》名《な》先生とばくとでかけあい[#「かけあい」に傍点]に行き、連中の持っていった竹刀の返還を求めるという口実で、ようやく犬神を救出したんですが……」  田所たちは意外な光景にぶつかった。その間三十分というもの、リンチを加えた羽黒グループのほうがへとへと[#「へとへと」に傍点]になって、肩で呼吸《いき》しているていたらくなのに、当の本人の犬神はたいへん元気だったというのである。  「まったく、これにはみんなたまげました。取り戻した竹刀五本のうち三本までが、使いものにならないほどいたんで戻ったんですからね。残忍凶暴をきわめたリンチだったはずです……ところが、犬神ときたら、風呂あがりみたいにシャレッとした顔をしているんですよ」  「そんなひどいリンチが校内で行なわれているのに、どうして警察を呼ばなかったんですか」  青鹿は興奮して、思わず荒い語気になった。  「校長先生やほかのみなさんがたは、なにをなさってたんです。羽黒グループを恐れて手を出せないのはともかく、どうして警察を呼ばなかったんですか!」  「い、いや、ぼくはもちろん、警察を呼ぶべきだと強く主張したんです」  田所は彼女の語気に押され、うろたえ気味にいった。  「しかし、校長と教頭がしぶりまして……いま警察を呼んだら、羽黒グループを刺激して、ことを荒立たせるだけだというんです。連中は刃物を持ってるから、追いつめられて逆上すると、なにをするかわからないと……」  「なにをいってるんでしょう。結局、校長たちが心配してるのは、学校の体面だけなんだわ!」  青鹿の額《ひたい》は熱し、目は怒りにきらめいた。  「警察が介入して、事件が明るみに出ると、学校に傷がつく。わが身可愛さ、それだけなんだわ。そのためには、自校の生徒がリンチに会おうが、傷つこうが、いっこうに平気なのよ。まったく、博徳学園なんて、校名だけは立派だけど、その実は〈悪徳学園〉じゃありませんか!」  「まったくです……」  田所は頭をたれ、膝《ひざ》頭《がしら》に目を落とした。  「それと同じことを、犬神にもいわれました……赤面するほかはなかったです」  田所は、ようやく救出した犬神を、カウンセラー・ルームに連れていったのである。  犬神は平然としていた。ついいましがた、残忍な集団暴力をふるわれたとは、とうてい思えぬほどの冷静さだった。顔にも身体にも、殴打の痕跡は、ほとんど見あたらなかった。  相変わらず、澄んだ目をしていた。  「大丈夫なのか? 医考に診《み》てもらったほうがいいんじゃないのか?」  犬神は、医務室で手当を受けることすら、頑としてこばんだのである。田所の懸念は、少年が内臓出血を起こしているのではないかという危惧であった。とくに危険なのは、脳内出血だ。じわじわと出血が進行し、突然倒れる。死なないまでも、後遺症のため廃人にもなりかねない。  「頭が痛んだり吐気はしないか?」  「ご心配にはおよびませんよ。おれはタフだから」  犬神は強そうな歯なみを見せて、ニヤリと笑った。  「荒っぽいことにはなれてます。ところが、おれは不死身なんだ。おれをブチ殺すなんて、やつらには無理ですよ。そのうちに、よぼよぼのじじいになっちまう」  「たいした自信だな。しかし……」  「喧嘩好きで野蛮なやつらは、どこにでもいるもんです。そういう手合は、どういうわけかおれをほっておけなくなるらしい。しかし、おれは、自分のほうから問題を起こしたことは一度もない。先生もおれをほっといてくれませんか」  「だけど、取りかえしのつかないことが起きてしまったら、もう遅いんだ。これは、きみのためを思っていってるんだよ」  「それはどうかな……学校のため[#「学校のため」に傍点]じゃないのかな? 警察沙汰になって、新聞にでも報道されると、学校にだっておおいに不名誉だ。羽黒グループのような凶暴な非行グループを放任しておいた責任を追及される。それが恐いのじゃないですか?」  「実に落ちつきはらったもんでした」  と、田所はいった。  「それが虚勢をはって強がっているといった感じじゃないのです。小しゃくなチビ犬に吠えつかれたライオンとでもいった態度で……羽黒グループの迫害なぞ眼中にない、歯牙にもかけない。あれはたいへんな生徒ですよ、青鹿先生。恐るべき自信家です。あの強烈な自信とプライドが、いったいどこから出てくるのか。  話をしているうちに、生徒と教師の境いがつかなくなってくるんです。十五歳も下の犬神に、鼻《はな》面《づら》とってひきまわされている気分になりましてね」  その気持はよくわかる、と青鹿はうなずいた。たしかに、犬神明と対していると、年齢の差が消えてしまう。自分は、教師という立場を忘れて、ただの若い女に戻ってしまう。  「ところが、その冷静な犬神が、ぼくの一言で色をなす一幕があったんです」  と、田所がいった。  「たしかに、この博徳学園に、問題がないとはいわない、とぼくはこたえたんです。狼どもを野ばなしにしていると非難されると、生活指導担当の教師として、はなはだつらいし、面目ない……ぼくがそういったとたん、みるみる犬神の血相が変わったんです」  「冗談いわないでください。あいつらは、ただの野犬だ! 凶暴化した性《しょう》悪《わる》の野犬なんだ! かりにも狼なんていってほしくない! 狼というのは、もっともっと高潔なんだ」  犬神明は、突然仮面をぬいだように、激しい怒りをむきだしにしていた。  「あんたがた人間は、狼について、本当のことをなにも知りゃしない! 狼を残忍凶悪で卑劣な侫《ねい》獣《じゅう》とする俗説妄説は、新しい動物学者によって、完全に否定されているんだ!  明治三十八年に絶滅したといわれるニホンオオカミは、聖獣、神の使いとして、山人たちに尊敬されていた。グリム童話の〈赤頭巾〉の悪い狼は、悪意からでっちあげられた虚像なんだ。真の姿の狼とは、慈悲深く博愛心に富む生き物で、生物界広しといえども、種《しゅ》の異なる動物の幼生を可愛がって育てるのは狼だけだ。  先生だって、狼に育てられた人間の子どもの話を聞いたことがあるはずです。ローマ建国伝説にだって、幼い国王兄弟ロムルスとレムスを育てた母狼の話があるほどです」  それはもう、えらいいきおいでした、と田所は語った。なにしろテーブルを叩いて演説するんですからね。いささかたじたじ[#「たじたじ」に傍点]となりましたよ……  「ばかに狼の肩を持つんだね。狼についてくわしいんだな」  「とにかく、狼を、ひねくれた性悪な犬っころと一視同仁にしてほしくないんですよ。無知な人間どもは、くだらないおとぎ話を鵜《う》呑《の》みにして、狼を極悪非道な悪役に仕立ててしまった……狼が心やさしくて親切で、気前がよくて礼儀正しい動物だということを、知りもせず、知ろうともしない。先生は、狼が人間を襲わない、数少ない猛獣のひとつだってことを知ってますか。知らないでしょう?」  「たしかに、それは知らなかった」  田所は認めざるをえなかった。彼はまた、眼前の生徒が、ただたんに風変わりという以上の存在であることをさとりはじめていた。  「きみは狼の味万らしいが、なにかわけでもあるの? そういえば、きみの犬神という名《みょう》字《じ》はたいへん珍しいが、狼と関係がありそうだね?」  「日本語でいうオオカミは、大神のことです。つまり大口之真神です。地方によってヤマイヌとも犬神とも呼びならしています」  「なるほど。それできみは、一匹狼を気取っているわけか」  その不用意な一言が、田所の失言となった。冷やかしと受けとったのか、それまで情熱的に語っていた少年の口がぴたっと止まってしまった。  「そんなことはどうでもいいでしょう。先生には関係ない」  目が冷やかになった。少年は田所教師にいっさいの関心を失ったようだった。心を閉ざし、殻の中にとじこもってしまったのだ。  「決して冷やかしのつもりでいったのではないのですが……ラポールがかかりかけたところで、とんだ大失敗です」  と、田所は唇をかみしめた。よほど心残りなのであろう。それ以後、少年は貝のように口を閉ざしてしまったのだ。その日の話しあいは、それで終わった。  学校側が監視を強化したにもかかわらず、その翌日も、羽黒グループの集団暴力は、犬神明を襲った。が、依然として少年は、しぶとい無抵抗主義をつらぬき通しているようであった。  「犬神が不死身と自称したのは、まんざらハッタリじゃなさそうです。反対にさんざん暴力をふるった羽黒グループのほうが、拳《こぶし》の関節を痛めたり、足の生《なま》爪《づめ》をはいだりのていたらく[#「ていたらく」に傍点]で、連中かなりバテてるようです。こうなると、どっちが被害者だかわかりゃしない。犬神のほうは、相変わらずけろりとしてますし」  「それで、羽黒はあきらめそうですの?」  「いや、それが奇妙なことに、羽黒本人は、集団暴力にまったく参加していないらしいんです。もっぱら先に立って乱暴しているのは、子分のクロのほうで……羽黒はむしろ傍観者の立場をとっています」  「黒田たちに命令してやらせているんでしょうか?」  「さあ、それは……あるいは、犬神のいっている無抵抗主義のためかもしれません。ぼくは、クロが煽《せん》動《どう》者《しゃ》だと思います。黒田は犬神に対して個人的な憎悪の感情を持っているようです。ところで、一般生徒の間で、犬神を尊敬するムードが高まってきましてね。いくら暴力を加えられても逃げかくれしない不屈の態度が立派だというんです。犬神は勇気がある、えらいという。非暴力無抵抗主義に徹して、インド独立をイギリスから勝ちとったマハトマ・ガンジーみたいだと、にわかに人気が、高まってきました。近ぢか、生徒会で学園暴力追放の決議集会をやるそうです。犬神の影響で、生徒たちも勇気がわいたんでしょう」  「すばらしいことだと思いますわ」  微笑を禁じえない痛快な話だった。犬神明の出現は、この数年校内を支配していた暴力への挫折感を一挙にくつがえそうとしているのだ。  「羽黒グループも、かなり動揺を見せています。なにしろ、例の女生徒、小沼竜子までが、夢中になって犬神の後を追いかけまわしているんですからね。身内から転向者が出るようでは、さしもの羽黒一党もかたなし[#「かたなし」に傍点]ですよ。これを機に、結束がくずれて解散ということになると、ばんばんざい[#「ばんばんざい」に傍点]なんですが」  「でも、羽黒が、このままおとなしくしてますかしら?」  「そう、それがいちばん気がかりなんです。羽黒はきわめて危険な偏執タイプですからね。暴力的支配者の地位を失うまいとして、どんな無茶をやりだすかわからない……」  青鹿の身体に悪寒が生じ、顔が鳥肌立ってきた。  五分どころか、一時間も話しこんでから、田所は青鹿のアパートを辞し去った。  青鹿の胸は、どす黒い不安でしめあげられていた。  田所の言葉どおり、羽黒は危険な偏執タイプだ。口先ばかりのチンピラではない。日本刀を持ちだして、猛犬を叩き斬った話は有名だ。あるいは、刃物で犬神を襲うかもしれない。  自動的にあの夜の記憶がよみがえってきた。  ナイフで深く腹をえぐられながら、苦痛も屈する色も見せなかった少年。それが犬神であったら、彼は常識を超えた不死身性の持主である。  犬神は、羽黒一党のリンチを受けて、傷ついた顔を見られたくないと称し、奇妙な狼マスクで顔をかくしていた。  だが、その翌日登校した彼は、さらに羽黒グループの暴力を加えられながら、田所によると殴打の痕《あと》もない平然とした顔を見せたという。  すると、あの夜の彼の言葉はいつわりだったということになる。  あの獣面マスクは、いったいなんのためなのか?  そして、あの夜、自分を襲った痴漢ふたりを、ぼろきれ[#「ぼろきれ」に傍点]のように地に這《は》わせたもの[#「もの」に傍点]は、警察の調べでは、強力な大型犬ということになった。現場に残った獣毛を調べた鑑識係も同じ結論を得ている。  が、ひょっとすると、あれは大型犬に酷似した野獣──狼ではなかったろうか。  自分の想像が、ばかばかしく、非常識なものだとわかってはいる。  狼が、東京をうろついているはずはない。  それはたぶん妄想にすぎないだろう。そんな話をするだけで、彼女自身の正気を疑われることになるだろう。  が、それにもまして、彼女の考えていることは常軌を逸していた。  あの狼は[#「あの狼は」に傍点]、犬神明ではなかったか[#「犬神明ではなかったか」に傍点]?  ヨーロッパの伝説にある人狼。人間が狼に変身するという狼人間の伝説。  獣人現象は、あるいは実在し、いま犬神明という少年の身に生じているのではないだろうか。  少年はみずからウルフと称し、狼に対して強度の執着をしめし、狼と自己同一化の傾向を見せている。  青鹿の知るかぎり、ヨーロッパの人狼伝説では、満月の夜、狼への変身は行なわれるのだった。そして変身した狼人間は、強大な不死身性を得るのだ。  あの夜の月は、あざやかな円盤状の姿を夜空に見せていた……  異様な戦慄が生じた。胸の芯《しん》に、氷塊を呑みこんだようだった。その一点から、気味悪い震えがにじみだし、全身に拡がっていく。  それは、ありえぬ非現実だ。無知な中世の人々の迷信だ。  アポロ宇宙船が、月という天体の神秘性をことごとくはぎとったいま、この科学技術万能時代に、そんな迷妄のとばりに包まれた過去の亡霊、不死身の獣人が実在するなんて、疑うだけでも許されぬことだ。  青鹿は、激しく頭を振り、妄念を追いはらおうと努めた。窓を開放して、冷たい夜気を呼吸し、たかぶった気持をしずめようとした。  頭上高く、夜空に輝く円盤があった。すでに満月期を過ぎて、周辺部が欠けだしてはいるが、妖《あや》しい美しさは衰えていなかった。  不意に、青鹿は身を焼く懊《おう》悩《のう》につかまれた。犬神明には、なにかしら常識を超越した神秘が潜んでいる。それをなんとしてでも、この手でつきとめたい。たとえ、少年にきびしく拒絶されようとも。  とてつもない情熱のたかまりが、彼女をとらえていた。それは、精神の深《しん》奥《おう》からふきあがってくる、熱泥にも似た情念だった。  少年が、どのように生まれ育ってきたか、あたしはつきとめてみせる。彼のすべてを知りたい。  そのためなら、どんなことでもあたしはやるだろう。  青鹿は、衝動にあやつられるままに、小さな座机に向かい、手紙を書きはじめた。 [#ここから1字下げ] (突然でございますが、先月二十六日まで貴校に在籍した三年生犬神明生徒につきまして、いささかのご教示を乞《こ》いたく、お手紙を差しあげる次第でございます。  わたくしは青鹿晶子と申しまして、このたび犬神生徒の転入した東京・博徳学園にて教《きょう》鞭《べん》をとっている者でございます……) [#ここで字下げ終わり]  青鹿は情熱的にペンを走らせた。神戸の転出校宛に問合わせの手紙を出し、そこでなにが行なわれたかを知るのだ。次には、渡米中の山本勝枝──犬神の伯母にも手紙を書こう。  青鹿の目は輝き、頬[#「頬」はunicode9830]は紅潮していた。        18  犬神明に特殊な関心を抱いているのは、青鹿女教師だけではなかった。  関心の強さ執拗さにかけては、羽《は》黒《ぐろ》獰《どう》もいささかも劣らなかった。  青鹿が神戸の転出校に問合わせの手紙を書いているころ、羽黒もまた調査の方法を思いめぐらしていたのである。  ──犬神というやつは、ただ者じゃない。  まったく人間ばなれした、しぶとさとタフさであった。その点にかけては、羽黒以外の連中が、実行者の立場から正当な評価をくだしていた。  「ありゃ、とんでもねえタマですぜ」  少年たちは、口々に不平を鳴らしたてた。  「まるで化《ばけ》物《もの》みたいな野郎なんです。いくら力いっぱいはたい[#「はたい」に傍点]ても、平気な面《つら》でよゥ、にやにや笑ってやがる」  「ぶっとばせばよォ、こっちの手のほうが痛くなりやがるんだ。すげえ石頭よ」  「面のかたちがひん曲がるほどはたいてもよゥ、次の日にゃ、シャレッとした面をだしやがってよゥ」  「あの野郎は不死身なんだ。嘘じゃねえよ。傷なんか、次の日までにけろっとなおっちまうんだ」  「そうだよな。犬神は不死身の化物野郎だよな」  「犬紳のニヤニヤ笑う面を見ると、ゾウッとするよ。寒気がして、いやあな気分になる」  少年たちの士気は、かつてないほど低下していた。  もっとも粗暴な非行少年ぞろいの彼らにしても、精神面ではひよわな子どもにすぎない。  犬神明の超人的な強靭さがもたらす薄気味悪さは、いまや迷信的な畏《い》怖《ふ》の念に変わりつつあった。  彼らは、強い男を単純に尊敬する。決して暴力に屈服しない犬神の強さは、彼らの基本的なメンタリティである超人願望にうったえるものがあったのだ。  彼らは、もうこれ以上、手出しをしたくないのだった。  「犬神がよゥ、いつまでもおとなしくしてるとはかぎらねえよな」  犬神がいつ、その無抵抗主義を突如かなぐりすてて、強大な闘士に豹変するかわかったものではないからだ。  「やつがよゥ、本気であばれだしたらよゥ、強《つえ》えかもしれねえなあ」  「スタミナがすげえからなあ」  と、少年たちはささやきあっていた。  「なんだ、てめえら、意《い》気《く》地《じ》のねえことぬかしやがって!」  ひとり兎《うさぎ》面《づら》のクロだけが威勢がよかった。  「ふざけんじゃねえよ。あんな犬っころがなんだってんだ……」  「だってよゥ、羽黒さんは、ちっとも犬神に手を出さねえしよゥ」  と、少年たちが抗弁する。  「そうだよな。羽黒さんはいつもだまって見てるだけだもんな」  「バッキャロウ!」  クロが躍起になってどなりたてる。  「羽黒さんは、てめえらとは格がちがうんだ、格が。羽黒さんは、痩[#痩はunicode7626]《や》せ犬が手向かいするのを待ってるんだ。野郎がちょっとでも手向かいしたら最後、やつはブッ殺されるんだぜ。それくらいわからねえのか……」  「でもよ、なにも犬神が手向かってくるのを、待ってることはねえじゃんかよ」  「そうだ、羽黒さんの気がしれねえよ」  「あとは、羽黒さんとあんたのふたりでやってもらいてえよ。なあ、みんな」  少年たちは異《い》口《く》同音に同意の声をあげた。ひとり残らず拳《こぶし》や足首を痛めて、うす汚れた包帯や絆《ばん》創《そう》膏《こう》を紫色にはれあがり変型した患部にまきつけていた。  連日の重労働で、バテて顎《あご》を出しているのだった。  「てめえら、羽黒さんに楯《たて》突《つ》く気か」  しまいには、兎面はとび出しナイフを抜いて脅迫するしまつだった。  「羽黒さんに楯突く野郎は、おいらが承知しねえぞ。文句があるやつは前へ出ろ。ブッた斬る」  「とんでもねえ! 羽黒さんに楯突くだなんて……」  「そんな気は毛頭ねえよ」  少年たちはひとたまりもなくおじけついて恭順の意を表したが、クロのヒステリックな叱《しっ》咤《た》ぐらいで、失われた士気が高揚するはずもなかった。  羽黒一党の結束は目に見えてゆるぎだしていた。  兎面のクロ自身、羽黒の真意がつかめず、あせりを深めていたからである。なにしろ、肝心の羽黒が、このところほとんど学校に顔を出さない有様だった。  これでは、いくら羽黒一家の結束を強化しようと努めても、クロの空まわりが目立つだけだった。  それに、校内の雰囲気は彼らにとって、不快な変化の徴候を見せはじめていたのだ。  思いがけないことに、犬神明は一躍校内の人気者の座を占めてしまったのである。  羽黒グループの袋叩きがつづく間に、奇妙な尊敬が犬神に集まりはじめた。  見て見ぬふり、同情やあわれみの目つきに変わって、英雄を見る目で、一般生徒たちは、犬神を眺めだした。  少年は、そんな目で見られることがわずらわしかった。人びとの関心を集めるのは、彼のもっとも嫌うところだった。  さらに、わずらわしいのは、小沼竜子がしきりに少年につきまとうことだった。まるで恋人気取りで彼のあとを追いかけまわすのだ。学校にいる間中、かたときも彼のかたわらをはなれず、トイレットにまでついてくるのだった。  「いい加減にしろ」  たまりかねて、犬神は怒気をあらわに吠えた。  「おれにかまうなといってあるはずだ。おれは女に興味がないんだ。向こうへ行け!」  「冷たいこといわないでよ」  竜子は平然としていた。なにをいわれようが、いっこうにこたえ[#「こたえ」に傍点]ないのだ。  「羽黒のとこへ行けよ。おまえの恋人だろう」  「羽黒なんかめじゃないわ。あんなのおかしくって」  どうにも手に負えなかった。  「ウルフはあたしのものよ。だれにも渡さないわ。ほかの女の子が手を出したら、ただじゃおかない」  「おれはだれのものにもならない。迷惑だといっているのがわからないのか」  「青鹿の先公なんかに負けないわよ。なによ、あんなオールドミスの年《とし》増《ま》なんか。あんな女、痴漢にやられたって当然よ。図《ずう》ずうしくウルフの家へ押しかけていくからバチがあたったのよね」  憎しみをむきだしにして、少女はいった。  「青鹿なんか関係ない」  「ほんと……青鹿をやろうとした痴漢をやっつけたの、ウルフじゃなかったの?」  少年は驚きの表情を浮かべて竜子を見た。  「どうして、そう思うんだ」  彼は目をそらし、ことさらにゆっくりいった。少女は瞳に光を踊らせて、彼の表情をうかがっていた。  「勘よ」  と、あっさりいう。  「新聞には、野犬だと書いてあった……」  「野犬? 狼じゃないの?」  「東京のどまん中に、狼がいるもんか」  「顔色が変わったわよ、ウルフ。図星だったんじゃないかな?」  「ばかばかしい」  少女は面白そうに声をたてて笑った。  「羽黒にいったら、やっぱり顔色を変えてたわ。あいつも勘がいいの。羽黒がウルフになぜ手を出さないか知ってる?」  「知るもんか」  「羽黒はね、あれで本当は、すごく用心深いのよ。クロみたいな馬鹿とちがって、すぐ刃物をふりまわしたりしない。相手の力を見きわめるまでは、実に慎重なの。だから、まだ手を出さないのよ。そのうち、あんたを殺す気だけどね」  「おれを殺す? くだらない。そんなことは無意味だね」  少年の顔はいつもの無表情に戻っていた。  「羽黒はいつも真剣なのよ。タバコも酒もやらないの。なぜだかわかる?」  「未成年だからだ。法律を守るのが好きなんだろう」  「馬鹿ね。身体の調子を、いつも最高にしておきたいからよ。タバコや酒は身体がなまるから……」  「いい心がけだ。一流のスポーツマンになれるな」  「一流の殺し屋になるためなんだって」  竜子は淡々と凄《すさ》まじい言葉を口にした。なんの抵抗感もなく、その言葉は、少女の淡く彩られた可愛い唇からすべり出た。顔色ひとつ変えなかった。  「羽黒の親父はヤクザで、凄《すご》腕《うで》の殺し屋だったんだって。人斬り羽黒といって、十六のとし[#「とし」に傍点]から何十人も眠らせているんだってよ。殺しのプロフェッショナルっていうやつよね。羽黒もそうなるのよ。もう、ひとりやふたりは殺してるかもよ」  「おっかない話だな。すると、羽黒は殺し屋大学の予備校生ってわけか」  犬神は、いささかも動じた気《け》振《ぶ》りはなかった。目の色は超然と澄んでいる。  「信用しないの? でもね、羽黒をそこらのチンピラ番長と思ったら大まちがいよ。ウルフ、あんたをきっと殺すわよ」  「おれが抵抗しなければ、羽黒は手を出さない。やつには面子《メンツ》があるからな」  「きっと、いまごろ、あんたが我慢できなくなるような方法を考えてるわ。たとえば、ウルフが愛してる人間を傷つける……そんな方法だってあるもんね」  「それなら、心配ない」  少年ははじめて晴ればれと笑った。  「おれが愛してる人間なんて、この世にひとりもいないんでね。気の毒に、羽黒君は骨折り損だ」        19  その日の昼休み、生徒会の委員たちが、犬神を教室にたずねてきた。  生徒会の三役で、男生徒と女生徒がふたりずつだった。  生徒会委員長は、高《たか》田《だ》という体格のいい少年であった。柔道部の主将で、初段ということである。副委員長は女生徒で木《き》村《むら》紀《のり》子《こ》、あとのふたりは虚弱体質のように痩[#痩はunicode7626]《や》せこけた野《の》口《ぐち》という書記長と、風紀委員長の杉《すぎ》岡《おか》由《ゆ》起《き》という少女だった。  いずれも学業優秀、育ちのよさそうな連中だった。  「犬神君ですか? ちょっと話したいことがあるんだけど……」  彼らは、犬神明にへばりついている小沼竜子を気にしていた。竜子は羽黒の情婦的存在として知られている。  「あたしに気がねしなくたっていいわよ。用件をさっさと話したら?」  竜子は愉快そうに彼らを眺めながらいった。  「実は、今日の放課後、緊急生徒集会を開くことになったんだ。それで、犬神君にもぜひ参加してもらいたいと思って」  と、心を決めたように高田がいった。竜子を無視することにしたらしい。  「あたしたち、犬神君の勇気ある行動に、とても感動したんです」  副委員長の木村紀子が、きびきびした口調で後を受けた。意志的な表情の少女だ。  「今日の生徒集会は、犬神君の勇気に力づけられてもりあがってきたんです。全校一致で学園暴力追放を決議し、先生方にもアッピールする運動を展開するつもりなんです」  「われわれはァ学園内にィ横行しているゥ一部非行グループのォ暴力をはねのけてェ、本来の正しい学内秩序をォ回復するためェ本日の生徒集会をォ成功させなければァならないィ」  やにわに書記長が拳《こぶし》をふるって演説をはじめた。血色の悪い顔に目がすわっていた。  「野口君、やめてよ」  と、木村紀子がぴしりといった。  「あたしたち、とっても恥ずかしかったんです。犬神君が殴られても蹴られても絶対に無法な暴力に屈しない姿を見て……そして暴力に暴力でむくいようとせず、堂々と無抵抗主義をつらぬいている姿に、涙が出るほど感動したんです。これまで暴力に怯《おび》えて、卑屈になっていた自分たちを深く反省しました」  「そうなんだ。犬神君、きみはすごく立派だと思う。われわれは、きみの行動に学ばなければならない。真実の勇気というものを……」  と、高田は顔を紅潮させていった。  「生徒集会に参加してください」  と、清純派タイプの杉岡由起が言葉をそえた。犬神と視線をあわせると、頬[#「頬」はunicode9830]を染めた。  「生徒集会でなにをやるんだ?」  犬神がきいた。  「みんなでゲバ棒をとって、校内非行グループを打倒するために決起するのか?」  「はっきりと羽黒グループといいなさいよ」  と、竜子が口をはさむ。  生徒会の三役たちは沈黙した。  「そんなことはしないわ……」  と、木村紀子がようやくいった。  「ゲバだなんて……ただ非暴力無抵抗主義で、暴力追放のキャンペーンをやるだけだわ」  「あんたがた、なにか、かんちがいをしてるんじゃないのか」  犬神は面倒くさげにいった。  「羽黒グループというのは、無法者の集団なんだぜ。暴力追放のなんのと理屈をいったって通じる相手だと思ってるのか? やつらには暴力という牙《きば》がある。やつらはいわば狂犬だ。狂犬に向かって、暴力はやめなさいと叫んでなんになる?」  「しかし、それは……現にきみは無抵抗主義で彼らにレジスタンスしてるじゃないか」  高田が、あっけにとられた顔でいった。  「おれの場合は、面倒くさいからさ。なぐらせておくほうが楽なんだ。おれはタフに出来てるんでね……しかし、あんたがたはそうはいくまい。委員長さんは柔道ですこしは身体が出来てそうだが、こちらの女の子たちや、胃下垂らしい書記長さんは、バットや竹刀《しない》で叩かれたら、病院へ入院しなくちゃならない」  「しかし、われわれ全員が団結すれば、羽黒グループだって……」  「びっくりしておとなしくなるっていうのか? 考えがあまいな。まあ、いい。成《なり》行《ゆ》きを見物させてもらおう」  「成行きを見物ですって? それじゃ、犬神君は暴力追放に協力してくれないんですか」  と、木村紀子が、むっとしていった。  「おれには関係ない。そっちはそっちで、団結の力とやらを発揮すればいいだろう」  「あなたがそんな考え方の持主とは知らなかった……」  「そうかい。あんたがたの暴力追放キャンペーンで、羽黒グループはおれをかまっているどころじゃなくなるだろう。今度は、あんたがたの番だ。おかげで、こっちはのんびりできる」  「あなたって、ひどいエゴイストね。あきれたわ!」  「もちろん、おれはエゴイストさ。人間関係が嫌いなんでね。ほっといてもらうのが一番うれしい」  「自分さえよければ、他人はどうなってもかまわないというの?」  「だれだってそうだろう。口先だけだったら、いくらでも立派なことがいえる。おれは大言壮語するやつは信用しないことにしてるんだ。そういうやつにかぎって、いざとなると、えらく要領がよくなる。人間というのはその程度のものさ」  犬神は、あざけりをこめて歯をのぞかせ笑った。  「あんたがたに利用されるのはまっぴら[#「まっぴら」に傍点]だね。おれを英雄に仕立てて、宣伝に使おうたってそうはいかない。頭のたりないおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]だけが英雄になりたがるんだ」  「いやなやつ……」  木村紀子は息のつまるような声でいった。憎悪とさげすみがこもっていた。  「だが、おれはあんたのその可愛い顔をカミソリで切り刻んだりしないぜ。羽黒グループとちがって、おれは気が弱いんでね」  「あたしをおどかす気?」  木村紀子は蒼白になった。唇を震わせて犬神をにらみつける。  「もうよせよ」  と、高田が割ってはいった。  「いい争ったってしようがないよ。強制することはできないんだから……とにかく、犬神君、生徒集会にはできるだけ参加してもらいたいんだ。きみが暴力追放キャンペーンの発火薬だってことは事実なんだし、ぼく自身はきみに感謝してる。生徒集会に来てくれたらたいへんありがたいと思う……」  高田は公平にふるまおうと努力していた。まだなにかいいたげな木村紀子をひっぱるようにして引きあげていった。  「生徒集会、荒れるわよ。ただじゃすまないわ」  竜子が椅子から立ちあがり、猫《ねこ》のしなやかさで背伸びをして、何気なくつぶやいた。  「羽黒グループが、きっとなぐりこみをかけるわ」  「おれには関係ない」  「ウルフ、あんたのいったとおり、木村紀子って娘《こ》、顔を切られるよ。クロが、二度と見られない顔にしてやるってわめいてたわ」  と、少女は落ちつきはらっていった。  「あの兎面なら、やりかねないな」  「どうする、ウルフ?」  「おれには関係ない」  少女は、またたきもせぬ目で、犬神の顔を凝視していた。  緊急生徒集会のしらせは、職員室にも波紋をまいていた。重苦しい雰囲気だった。不吉な予感が、教師たちをとらえていた。  「校長先生、生徒集会の件ですが……」  校長室へちょろちょろと姿を見せた教頭がいった。  「やはり許可しなかったほうがよかったのでは……」  「むむ、しかし、ま、やりたいと生徒たちがいうんだし、やらせておいても」  「いや、実は、羽黒グループの動きがちょっと不穏のようですので、不祥事が起きる前に、許可をとり消したほうが無難かと思いますが」  と、教頭はとがった細い顔をせかせか[#「せかせか」に傍点]動かしながらいった。  「ま、しかし、流行《はやり》の造反ゲバルトというもんでもなし、学園暴力追放ということであれば、なまじ不許可にすると、生徒たちが騒ぎだす恐れもなきにしもあらずで……ま、やらせておきましょう」  「そうですか。校長先生がそうお考えなら……ただ、万一の事態にそなえて、警察に連絡しておいても、と思うのですが」  「いやいや、その必要はないでしょう」  校長はポッテリした手を振った。教頭はせわしく目をきょろつかせていた。校長の腹はおおかた察しがついている。  あってなきがごとき存在だった博徳学園の生徒会が、突然目覚めたように急激なもりあがりを見せたのは、ここ数日来のことである。いまここで、へたな干渉を加えると、弾圧と受けとってどのような方向に、生徒会の活動がそれるかはかりがたい。急進的な学生運動にすりかわって、学内体制改革を叫び、校外でビラをまいたりされては、かなわない。まずくすると、ジャーナリズムの関心を集めることにもなりかねないのだ。  そうなれば、博徳学園の恥部をさらけだすことになる。  博徳学園のかかえこんだ非行グループは、かなり特異なものだ。羽黒一党の中核十数名をのぞけば、あとは単純な虞《ぐ》犯《はん》少年にすぎない。  その中核をつぶすために、校長が羽黒グループを施設送りにふみきれば、問題はたやすく解決する。  そうふみきれない理由は、学校の体面や、校長個人の教育者としての面子《メンツ》に傷がつくという以外に、大きな部分を占める要因があった。  ひとつには非行グループの核心である羽黒獰のバックに、広域暴力団の凶悪な影がさしているということもある。  へたに羽黒を少年院送りにでもしようものなら、どんな報復があるかわからない。  その点に関しては、校長は他に口外できない対策を講じていた。  PTA会長の、土建屋で土地の政治ボスの金《かな》山《やま》を通じて、東明会の羽黒武雄にわたりをつけ、羽黒本人との間に暗黙の密約をとりつけていたのである。  羽黒獰が、学校側に目にあまる迷惑をかけない代償として彼に自由放任を認め、校規にかかわりなく卒業させる[#「卒業させる」に傍点]という取引であった。  この、明るみに出たら醜聞になることをまぬがれない陋《ろう》劣《れつ》な裏面工作が、長年教育界に巣食った古《ふる》狸《だぬき》の政治的解決だったのだ。  羽黒本人は、校長の思惑どおり、比較的約束を守っていたが、羽黒の取巻き連中は密約など頭から無視した。兎面のクロをはじめ中核分子の十数名が、羽黒の威光をかさに、横暴のかぎり[#「かぎり」に傍点]をつくしはじめたのである。  彼らは、校内の腐敗現象につけこんだ。経営面の不正、入学寄付金の横領、修学旅行積立金の浮貸し、PTAボスと教師の腐れ縁、不良教員の非行につけこんだ。教師たちに罠《わな》をかけ、脅迫することまでやってのけた。  いまや、彼らを放逐し、施設送りにすることは、博徳学園の腐敗を公開することだった。私立校である博徳学園の崩壊すら招きかねなかった。  校長はおのれの保身策のため、自《じ》縄《じょう》自《じ》縛《ばく》の羽目におちいっていたのだった。  有能な教師たちは、見切りをつけて次つぎに辞職していき、転校する生徒も増加の一途をたどった。それにつれて、学校の経営状態も悪化していた。  そこへ、思いもかけず、生徒会を中心にした一般生徒から改革の火の手があがったのだった。学園暴力追放から発展して、学園全体の改革運動に燃えあがる危険すらあった。  校長が、局面打開のために、どんな手を打とうとしているのか、ひとつ穴の狢《むじな》である教頭にとっては、重大な関心事であった。  「むむ……」  と、校長は痰《たん》がからんだように喉《のど》をうならせた。  「ええ……犬神明という生徒はどうしていますか?」  「その犬神のおかげで、本日の生徒集会になったわけです」  教頭は、校長の意図を読もうとせわしくまたたきした。  「どうも、あの犬神というのは、まさに台風の目《め》的存在ですなあ」  「青鹿先生は、今日から出勤なさっていますな。青鹿先生にいって、犬神生徒を生徒集会に参加させるようにしてくださらんか?」  「え……」  教頭は、とっさに校長の真意をはかりかねて、まのぬけた嘆声を出した。  「羽黒グループの関心を、犬神個人にひきつけさせる……ね、結果がどう出るか見ようじゃありませんか」  校長はうほうほ[#「うほうほ」に傍点]と喉をうならせ、得意のとぼけ面《づら》になった。        20  六時限は、青《あお》鹿《しか》晶《あき》子《こ》の担任クラスの授業だった。  犬神明の顔を見るのは、五日ぶりである。視線が会っても、相変わらず無表情に青鹿を見返すだけだった。なにごともなかったような、そっけない態度である。他の生徒たちの好奇心をみなぎらせた顔と対照的だ。  青鹿には、少年のポーカーフェイスがひとつの救いだった。生徒たちの意味ありげなささやきや忍び笑いから、おのれを毅《き》然《ぜん》と持していられるのも、その救いがあるからだ。  犬神明との結びつきが、自分を強くしたように感じていた。  授業が終了すると、彼女は犬神に声をかけ、教室を出た。二階のテラスへ連れていく。少年は、仮面をかぶったような顔でついてきた。  「このまま、帰るつもり、犬神さん?」  平静な声が出たのでうれしかった。少年とふたりきりになったら、取り乱してしまいそうな気がしていたからだ。  「もちろん帰ります。もう放課後です」  他人行儀であった。  「生徒集会には出ないの?」  「出ません。おれには関係ない」  「どうして? 犬神さんあなたが、そもそもの原因なんじゃないの。学園暴力追放を決議する集会でしょ?」  「好きなようにやればいいんです。どうでもいい」  「生徒集会に、参加しなさいといったら?」  「それは命令ですか?」  少年の目が反抗的に光った。青鹿は微笑を浮かべた。  「学校にいるときは、あたしの命令をなんなりときくといったのは、だれだったかしら?」  少年は沈黙した。  青鹿は、胸をどきどき[#「どきどき」に傍点]させて返事を待った。犬神の頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》に、しぶとい苦笑が刻まれた。  「ずいぶん、つまらないことをいったやつがいるもんだな」  「じゃ、出るのね?」  「出ます。先生のものおぼえのいいのにはかなわない」  「よかったわ」  「ちっともよくない。なぜ、先生はおれを生徒集会に参加させたいんです?」  「そうね……ま、用心棒みたいなものかしら」  と、青鹿はためらいながらいった。校長が青鹿を通じて、少年を集会に参加させようとする真意は、彼女自身つかめていなかった。  「羽黒グループのなぐりこみがあったときのガードマンかしら」  「それだったら、おれは役に立ちませんよ。喧嘩のやり方も知らないんだ」  「それじゃ、あの狼マスクをかぶっていったら?」  と、青鹿は衝動的にいった。  「けっこう、脅しがきくと思うわ」  犬神明はまったく動じなかった。  「学校へは持ってきません」  「そうなの……あの後ね、あれと同じ狼マスクを手に入れようと思って、デパートをいろいろまわったんだけど、どこにも売ってなかったわ」  「品切れだったんでしょう」  平然と答えた。青鹿の身体は熱く汗ばんできた。芝居じみた白じらしいせりふ[#「せりふ」に傍点]をかわしていることに耐えがたいもどかしさを感じた。少年の巧妙な仮面を両手ではぎとってやりたい欲望がつきあげて、身が震えた。  「そういえば、犬神さん……あなたにお礼をいおうと思っていたのよ」  思いきっていった。  「なぜです?」  青鹿は呼吸《いき》をゆるやかにすいこんだ。欲求不満を一気に解消する、しびれるような快感が身《み》裡《うち》にひろがった。  「あの夜……オートバイに乗った痴漢から、あたしを救《たす》けてくださったことに……」  「なんのことだかわからない。なにかの思いちがいでしょう」  「そういうと思った。でも犬神さん、とぼけ方はへた[#「へた」に傍点]ね。いつもせりふ[#「せりふ」に傍点]が同じだもの」  青鹿は勝利感をこめて微笑した。犬神明がちらっと困惑の表情を走らせるのを見のがさなかったからだ。すぐに得意のポーカーフェイスにかえったが、ほころび[#「ほころび」に傍点]が生じたことにちがいはなかった。  「ともかく、ありがとう。とても感謝しているし、お礼だけはいっておきたかったの」  青鹿はすばやくきびす[#「きびす」に傍点]を返し、無言で突っ立っている少年を残して歩き去った。床を踏む足が、奇妙に心もとなかった。  職員室に戻ると、なにやら雲行きがあやしかった。  居合わせた教師たちの視線が、いっせいに青鹿に集まった。  自分の仕事机の椅子を占領して、見たこともない若い男がすわっている。どうやら、職員室の違和感の元凶はその人物であるらしい。  教頭がせかせかと小走りにやってきて、青鹿を、職員室のすみの衝《つい》立《たて》のかげに連れていった。  「どうかなさったんですの、教頭先生?」  教頭はしかめつらで、若い男に顎《あご》をしゃくり、目《め》配《くば》せをした。  「どなたですの?」  「トップ屋ですよ」  教頭は声を低め、きたないものを見るような目つきで口早にいった。  「ことわったのに、のこのこ職員室にまであがりこんできましてね。困ってるんです。  青鹿先生の、例の事件について取材したいというんです。なんとも図ずうしい男で……できるだけ早く追い返してください。今日は生徒集会もあることだし、長居されると迷惑ですから」  青鹿に責任があるとでもいいたげな口ぶりである。  「わかりました。どうもご迷惑かけて申しわけありません。学校の外へ連れだしますから」  教頭があまり不機嫌なので、とにかくあやまっておいた。  「たのみますよ」  若い男は痩[#痩はunicode7626]せていた。腹ペコの狼みたいな痩[#痩はunicode7626]せっぽちだった。横腹に肋骨がとびだしているという印象だ。  顔つきは、ジャン・ポール・ベルモンドを漫画にしたようだった。  それほど、油断のならない人物には見えなかった。むしろ、滑《こっ》稽《けい》感のほうが強い。  灰皿が近所に見あたらないからか、火をつけないままのタバコを、大きな唇のへりからダラリと所在なげにたらしていた。  「青鹿先生ですか?」  タバコを口からむしりとると、うれしそうな顔で立ちあがった。青鹿が思いがけぬ美人だったので喜んでいた。  「ご用件はなんでしょう? 長くかかるようでしたら、またにしていただけません?」  と、彼女は切口上でいった。  「いや。お手間はとらせません」  トップ屋という悪印象よりは、だいぶましに思えた。服装は派手で、ピンクのシャツをカルダン・スーツの襟《えり》許《もと》からのぞかせているが、さほど下《げ》種《す》な印象ではない。  しかし、学校にまでおしかけられて迷惑しているということを、思い知らせてやらなければならない、と思った。  「率直に申しますけど、学校にまで乗りこんでこられると、あたくし迷惑です」  校門前の喫茶店までつんつん[#「つんつん」に傍点]しながら連れだし、テーブルをはさむなり、青鹿はかみつくようにいってやった。  「どんなご用件か存じませんけど、学校はあたくしの大切な職場です。他の先生方も生徒もみな迷惑します」  「そう、きびしい口のききかたをしないでくださいよ。それでなくても、昔から職員室というのは苦《にが》手《て》なんです。先生がたによってたかっていじめられたんでね」  すっとぼけた男だった。目をまるくして青鹿をぽかんと眺めていた。  「しかし、こんな綺《き》麗《れい》な先生になら、すこしぐらい、いじめられてもかまわない」  「冗談はけっこうです。ご用件をどうぞ」  彼女は思いきり冷たい顔をした。彼は恐れ入って名刺をくれた。  ルポライター 神《じん》明《あきら》  住所は杉《すぎ》並《なみ》区|下《しも》高《たか》井《い》戸《ど》だった。住所なぞどうでもよかったが、名前のほうがちょっとひっかかった。  犬なし[#「犬なし」に傍点]の犬神明だったからだ。  「わたしは、一匹狼[#「一匹狼」に傍点]のルポライターでして」  と神はいった。  「雑誌や週刊誌の仕事をしているんです。もっとも中央公論や朝日ジャーナルから注文をもらったことはないけど」  「じゃ、女性週刊誌?」  「まあね」  神はニヤッとしてうなずいた。  「いやらしい記事を書く気なんでしょう?」  と、青鹿は不快と嫌悪をこめていった。  「誤解しないでください」  と、彼は神妙な顔をした。  「痴漢に襲われた美人教師といった記事を書く気はないんです。たしかに、先生に目をつけた痴漢どもは女に関して鑑識眼を持っていたとは思いますがね。その気持はよくわかる」  「そんな話は聞きたくありません!」  「どうも失礼。では本題に。警察の調べではこうなっています。当日の午後十一時半ごろ、鷺《さぎ》の宮《みや》でひとり歩きしていた青鹿先生を、オートバイに乗った二人の痴漢が襲った。二人はまだ未成年者なので氏名は公表されていません。都内の高校三年生で、痴漢遊びの常習犯でした。刃物を所持していて、かなり凶悪な非行少年です。先生を彼らの毒牙から救ったのは、付近の放し飼いの犬、ないしは野犬と見られる大型犬、と警察ではいっています。いずれにしろ、青鹿先生にとっては、たいへん幸運なことでした」  「そうです。運がよかったと思っています」  青鹿はゆっくりこたえた。このトップ屋はいったいなにを知りたがっているのか……  「ところが、妙な点がいくつかあるのです。まず第一に、青鹿先生になんの縁もゆかりもない犬が、なぜ先生の危機を救ったのか。ふつう犬というものは、非常に忠実なタイプのものだけが、主人に加えられる危害に対して闘うだけです。しかもそういう犬はとても数少ないんです。  第二に、重傷を負って入院した少年ふたりが奇妙な供述を行なっています。自分たちをやっつけたのは、犬ではなく、毛むくじゃらの怪物、獣とも人ともつかない、奇怪な獣人だったというんです。その獣人はゴリラのように恐ろしい怪力の持主で、少年のひとりは、オートバイで逃げだそうとしたところをつかまえられ、オートバイごと空中高く投げとばされたといっているんです。もちろん、犬にそんなことができるわけはない。警察では、少年たちが恐怖のあまり精神錯乱におちいり、幻覚を見たのだと考えています。どうです……青鹿先生は、ご自分の救い主を見ましたか?」  「いいえ……」  青鹿はかぶりをふった。  「あたくし、気絶してましたから」  「おぼえていない?」  「ええ」  「警察の鑑識報告では、現場に残された獣毛を調べた結果、茶色か黒の大型犬らしいと判断しています。ところで、哺乳類学界に、わたしの知りあいの学者がいましてね。その獣毛の顕微鏡写真を持っていって見せたんです」  「…………」  「その学者は、犬の毛ではないというんです」  「…………」  「狼の毛だというんです」  青鹿は口をなかば開けて、ルポライターの顔を凝視した。  「そう、狼の毛。犬と狼は同じ犬科の動物でも、体毛の特徴には著しい相違がある。警察の鑑識係は動物学者じゃありませんからね。だが、専門家から見ればすぐにわかる」  と、神《じん》明《あきら》はくそまじめな顔でいった。  戦慄が青鹿の身体をゆるがせた。やはり、あれは幻覚ではなかったのだ。科学的な傍証で裏づけられた「事実」だつたのだ。  あたしの想像力が生みだした妄想ではなかった! と、彼女は心の裡《うち》に叫んだ。  狼は実在する。  その狼とは、犬神明だ!  「先生は、いったいなにを見たんです?」  と、神がきいた。  青鹿は愕《がく》然《ぜん》としてわれにかえった。トップ屋の目が、執拗な光をおびて、自分の表惰をさぐっているのに気づいた。顔の筋肉が板のように硬直してしまった。  「あ、あたくし……なにも……なにも知らないんです」  ぶざまなほどうろたえた声になった。  「青鹿先生は、美人であるだけでなく、たいへん正直なひとですな。嘘《うそ》をつくときは、そんなうしろめたそうな顔をしてはだめですよ」  神明は、面白そうに突きだした大きな唇を親指と人差指でつまんだ。  青鹿は心中を見透かされた狼《ろう》狽《ばい》を、眼前のルポライターへの怒りにすりかえた。  「失礼ね! あたくし帰ります。もうあなたのような無礼な人とはお話したくありません」  憤然と席を蹴って宣言した。  「今後、いっさい近寄らないでください!」  かんかん[#「かんかん」に傍点]になって喫茶店をとびだしていく彼女を、神はニヤニヤ笑いながら見送った。        21  体育館のドームの下には、二百名ほどの生徒が集まっていた。思い思いの姿勢で床にすわりこんでいる。  全校生徒のうち、三分の一程度が、緊急生徒集会に参加しているようだった。それでも生徒会の不活発だったこれまでとくらべると、空前の大盛況といえた。  それにひきかえ、教師の姿はほとんど見られなかった。両側に作られた教師席は、椅子だけがむなしく並んでいる。  正面、演壇の上に「学園暴力追放!!」と垂れ幕がさがっている。  場内の雰《ふん》囲《い》気《き》は、熱気をはらんでもりあがっていた。  壇上に立っているのは、生徒会副委員長の木村紀子であった。マイクを両手に握りしめて気合のはいった演説を行なっていた。前髪が乱れて、汗ばんだ額にこぼれかかるのを、うるさげにかきあげる。  「……この数年間、博徳学園は、学内暴力に苦しめられてきました。暴力団まがいの非行グループが、大手をふって学内を横行し、暴力をふるってきました。悪質ないたずら[#「いたずら」に傍点]や恐喝で、怪我をしたり恐ろしさのあまり転校した生徒が大勢います。生徒だけじゃありません。乱暴されたり凶器で脅迫されたりして、学校をやめていった先生がたくさんいます。みんなまじめな生徒であり、優秀ないい先生がたでした。  いまの学校は、まるで西部劇のならず[#「ならず」に傍点]者が支配する町、ギャングにのっとられた今世紀初頭のシカゴみたいです。非行グループは、授業中の教室でお酒や睡眠薬を飲んで、暴れ騒いで、みんなに迷惑をかけています。いやらしい写真や雑誌や器具を持ちこんで、女生徒にいたずら[#「いたずら」に傍点]しています。止めようとすると、生徒はもちろん先生ですら、おどかされ乱暴されるしまつです。まるで学校全体が暴力教室です。こんな現状がいったいいつまでつづくんでしょうか? われわれはこのまま手をつかねて、暴力団をのさばらせておいていいのでしょうか?」  拍手が起き、声が飛んだ。  「暴力を許すなっ」  「学園暴力を追放しろっ」  「そうだ、そうだ!」  会場に足を踏み入れた青鹿晶子は、生徒たちの中に犬神明をさがした。少年の姿は、会場の前列寄りに見つかった。少年は彼女との約束をまもったのだ。  立てた片膝を抱くようにしてうずくまっていた。青鹿との約束は履行するが、集会には関心がないという全身の表情であった。  例によって、かたわらに小沼竜子が身をすり寄せていた。  演説に反応をしめしている生徒たちの中にあって、彼らふたりだけが異端の存在だった。  がら空きの教師席に腰をおろした青鹿を見つけて、田所が隣りに席を移してきた。  「木村紀子、なかなかの弁士ぶりですな」  と、田所がささやく。  「たいしたもんです。ありゃ女闘士になりますよ」  「どうして先生がた、こんなに少ないんですの?」  「それが羽黒グループのなぐりこみがあるという噂《うわさ》が飛んでましてね。君《くん》子《し》危うきに近寄らずってわけかな」  「まさか、そんな……」  青鹿は眉をひそめた。それが事実なら、情けないにもほどがある。  「そう。まさかとは思いますがね」  「みなさん、そのうちおいでになるんでしょ」  「でしょうな」  「……日本は法治国家です」  と、木村紀子が声をはりあげた。  「国民全員は、無法な暴力から法律でまもられているはずです。そのために警察という治安機関があるのです。デモ隊やゲバ学生をぶちのめすためにだけあるのではありません。それなのに、なぜわれわれ博徳学園の生徒たちだけが、暴力の恐怖に怯《おび》えながら、毎日をすごさなければならないのでしょうか? いったいこれは、だれの責任なのでしょうか?」  「教師の責任だ!」  「校長と教頭が悪いっ」  「なんてったって羽黒が悪いっ」  野次が場内に飛びかった。  「そういうおまえも悪いっ」  どっと笑声が湧いた。  「そうです。そのとおりです」  と、演壇の木村紀子が叫んだ。  「われわれ全員の責任です。卑屈に沈黙し、ギャングたちに抗議する勇気を持たなかったわたしたちひとりひとりに責任があります。とりわけ自分さえよければ他人などどうなってもいい、自分には関係ないというエゴイスト、やくざ[#「やくざ」に傍点]まがいの非行グループを英雄視して、べたべた[#「べたべた」に傍点]する一部の女生徒、こういう人たちがギャングを一層つけあがらせ、のさばらせたんです! こういう人たちは、ギャングどもの協力者であり、学園正常化を望み正しい秩序をとりもどしたいと願うわたしたちにとっては裏切り者です! われわれは、こういう人たちに徹底的に反省を求めようではありませんか!」  「そいつらの名前をはっきりいえっ」  「みんなの前で自己批判させろっ」  「裏切り者を粛清しろっ」  喊《かん》声《せい》がどよめいた。木村紀子が、犬神明と小沼竜子をあてこすっているのはあきらかだった。敵意の視線を、前列にいる犬神たちに向けながら、木村紀子はつづけた。  「このままでは、われわれの母校は、ならず[#「ならず」に傍点]者の巣、悪徳学園になってしまいます! 絶対にそんなことは許せません! いまこそわれわれは団結すべきです。団結の力で、学園の平和を回復すべきです。みなさん、われわれは心をあわせて、団結の力がどんなに強いか、ギャングどもに知らせてやりましょう! 団結の力はなによりも強いのです。一匹狼を気取ったエゴイストなんかには、とうていやれない大きなことができるのです。ギャングなんかひとり残らず叩きだすことができるんです!」  木村紀子は、自分の言葉に酔って、目に涙すらにじませていた。  「われわれが、なすべきことはなんでしょうか? いうまでもなく、学園全体を覆った無気力、あきらめ、ことなかれ主義の追放にあります。個人個人が自由な人間であることを自覚し、生徒としての正当な権利、だれに妨げられることなく勉学する権利を胸を張って主張することなのです。そのためには絶対に一致団結が必要です。自分さえよければいいというエゴイズムはわれわれが真っ先に叩きつぶすべき憎むべき敵です! それは生徒だけのことではありません。先生がたにしても同じことです!」  彼女は突如として、鋒《ほこ》先《さき》を教師にふりむけた。空疎な教師席に指先をつきつけ、声を張った。  「本日の緊急生徒集会に、大部分の先生が参加していません! それはなぜなのか。先生がたは、羽黒グループのなぐりこみに巻きぞえになることを恐れているからです! わが身可愛さに、先生がたはわれわれ生徒を見捨てたんです。先生たちは卑怯です! 教師の意気地のなさ、無気力さが、学内暴力をここまではびこらせたんです! こんなことで学内暴力追放ができるでしょうか。校長はじめ職員会は、なぜこんな事態になるまで、学内暴力団を放置していたんでしょうか。なぜ警察力を導入して非行グループを排除し、学園正常化をはからなかったのでしょうか。責任の大半は学校当局にあります! 管理能力の欠陥にあります! これまでいろいろ取り沙汰されているように、不正入学やワイロ、汚職などが、学内暴力団の横行とからんでいるのです。暴力追放を望むならば、まず博徳学園の体質そのものを改善しなければどうにもなりません。わたしは、暴力追放とあわせて学園体質改善のための学園改革要求決議を提案します」  予期せぬ弁士の展開に、あっけにとられたように沈黙していた聴衆の中から、さみだれのように拍手が湧き、しだいに大きな波及を呼んでいった。  教師たちは狼狽して椅子席から立ちあがった。  「やめろっ」  怒号が響きわたった。馬《うま》川《かわ》という体育教師が、椅子席を蹴倒すいきおいで、怒気をあらわに演壇の下にかけ寄った。  「やめろ、木村っ。壇をおりろっ、生徒集会はいますぐ中止だっ」  「なぜですか。なぜ中止しなければならないのですか。理由をいってください」  と、木村紀子が一歩も退かぬ気勢で、壇上からやりかえした。  「校長先生をはじめ学校側を中傷することは許さんっ。いいか……」  「中傷なんかしていません! 事実をいったまでです。集会の妨害はやめてください」  「集会は中止だ。中止だといったら中止だっ。校長先生の命令だぞっ」  「納得できません。それなら校長先生ご自身で理由を説明すべきです。第一、校長先生はここにいらっしゃらないじゃありませんか」  「それなら校長代理としていう! 生徒集会は中止しろ! 命令だ!」  「理不尽な命令は拒否します。校長先生がここにおいでにならないのなら、生徒全員で学園改革を交渉しにいきます!」  「なんだと、きさま……」  体育教師は真っ青になった。  「やれっ」  「いいぞ、木村っ」  「先公に負けるなっ、大衆団交をやれっ」  どっと声援と拍手が湧いた。  「馬方ひっこめ!」  「校長に忠義|面《づら》するなっ」  「ゴマすり野郎ひっこめ」  生徒たちが騒ぎだした。口々に罵《ば》倒《とう》し野次をとばす。体育教師の馬川は激怒の表清で演壇にかけ登った。やにわにマイク・コードのコネクターを引き抜いた。  わっといっせいに生徒たちが総立ちになった。怒号が渦巻いた。拳《こぶし》を突きあげて放つ叫喚が、うおーという喊《かん》声《せい》になって体育館のドームをゆるがせた。  「まずいな。あんなことをすると逆効果だ」  と、田所はしかめた顔を寄せてきて、青鹿の耳《みみ》許《もと》で、大声で叫んだ。馬川教師は、木村の演説が学校当局批判の過激なアジテーションになりはじめたので、校長への忠義立てから、解散を命じたのであろう。が、その結果は完全なやぶへびだ、と青鹿も思った。生徒を挑発し連帯感をあおりたててしまったのだ。  馬川が壇上で立往生している間に、意味不明の叫喚は、秩序を回復しはじめた。だれからともなく、シュプレヒコールが始まったのだ。  「暴力追放! 弾圧粉砕!」  「ワッショイワッショイ!」  腕を組みあわせた生徒たちは声をかぎりに合唱し、シュプレヒコールはドームの天蓋へふきあがっていった。  「羽黒を倒せ! ボスを倒せ!」  「羽黒を倒せ! 校長も倒せ!」  「佐藤を倒せ! 安保反対!」  「わっしょいわっしょい!」  「暴力反対! 弾圧粉砕!」  そのときだった。体育館の横手の入口が開き、数十名の生徒たちが野蛮な喊声をあげて乱入してきた。野球のバット、ゲバ棒、長い竹槍で武装した一団だ。手に手に得物をふるって、シュプレヒコールの生徒群の一画へ暴れこんだ。  人がなだれ、シュプレヒコールが崩れた。  「羽黒だあっ」  「羽黒のなぐりこみだあっ」  甲高い悲鳴がつんざき、事態をさとった群衆が逃げようと右往左往し、混乱がひろがった。  「野郎っ、ぶっ殺したるーっ」  「みんな叩っ殺せっ」  またたく間に、体育館のドームの下は、恐慌《パニック》状態におちいった。凶暴化した機動隊に襲われたデモの隊列さながら、悲鳴と絶叫をほとばしらせ人波が渦巻いた。われ先に出口を求めて逃げ走った。少数の教師の必死の制止も効果はない。恐怖につかまれて理性などけしとんでしまっている。転倒した人間の身体を踏みこえて出口に殺到する。  なぐりこみの暴徒は、逃げ遅れた生徒を手あたりしだいに叩きのめし、暴力行使の快感に酔っぱらったように暴れまわった。見さかいもなく乱打される凶器の下で、顔を血に染めた女生徒がうずくまる。無抵抗で逃げまどい、なぐり倒された生徒たちに、なおも仮借ない暴力がふり注ぐ。罵声と悲鳴がいたる所で交錯した。  収拾のつかぬすさまじい混乱だ。どうにも手のつけようがない。制止に声を嗄《から》す教師たちにまで暴徒は竹槍でなぐりかかり追いまわす。  兎面の黒田にひきいられた暴徒四、五名は、壇上の生徒会役員を襲撃した。バットや棍《こん》棒《ぼう》の乱打を浴びせ、壇上からなぐり落としはじめた。腰を強打された書記長が蛙《かえる》のような姿勢で転落する。顔を覆ってしゃがみこんだ杉岡由起が足を持ってひきずりまわされた。スカートがまくれあがり、ほっそりした脚がむきだしになる。パンティの下腹部をバットで残忍に突く。制止しようとした高田はたちまちバットの乱打を浴びて壇上から叩き落とされた。  マイクを握りしめ、蒼白な顔をゆがめて立ちすくむ木村紀子に、兎面が迫った。  クロは歯をむきだし、恐ろしく残忍醜悪な顔をしていた。狂暴な喜びで目が狂ったようにギラつく。手には鋭利な西洋カミソリが凶暴な光を放っていた。        22  壇上に倒れた少女の下腹部を狙《ねら》って突きだしたバットの尖《せん》端《たん》が、床板を撃った。杉岡由起の身体がすばやく壇上からひきずり落とされたのだ。  バットを手にした暴徒は、演壇の下に、気を失った少女の身体を抱きとめている犬神明を見た。犬神に少女をさらわれたと知って、そいつは咆《ほ》えたて、やにわに演壇をとび降りた。バットをふりかざしてなぐりかかる。口から泡《あわ》をふき、目が血走っている。理性の一片も失せていた。狂犬そのものであった。  犬神は無表情に右腕をあげ、手の甲でうなってくるバットの打撃を受けた。バットがつけ根近くで鈍い音を発して折れ飛んだ。わずかに身をひねって暴徒の突進を避ける。そいつは足がもつれて犬神の足もとで転倒した。  同時にふたつのことが起きた。  バットの折れ飛んだ長い部分は、水車のように回転しながら演壇に向かって飛んだ。狙い澄ました正確さで、木村紀子の顔にひらめこうとした兎《うさぎ》面《づら》の西洋カミソリをとらえ、手からはねとばした。  さらにもうひとつは、犬神の足もとで生じていた。転倒したやつが、手中に残ったバットの鋭くささくれた尖端を、顔に突き刺してしまったのだ。頬[#「頬」はunicode9830]にポコッとあいた裂け目から血が噴く顔をおさえて、そいつはころげまわっていた。  兎面の黒田はひきつった醜怪な顔を、壇下の犬神にふりむけた。形容に絶するほど、邪悪で獰《どう》悪《あく》な表情であった。  「犬っころっ、貴様ぁッ」  と、兎面は咆えた。小柄な体躯[#「躯」はunicode8EC0]に電流が通じたようだった。  「そこにいやがったかあっ」  それは歓喜の叫びだった。  「そこで待ってろ、野郎! 逃げるんじゃねえぞ。いま行くからな……」  「その必要はないぜ」  犬神は冷たい笑いを浮かべた。  「おまえの短い足じゃ、壇を降りるのに苦労するだろうからな。そこにいなよ」  彼は、むしろゆっくりした動きで、床に気絶した杉岡由起の身体をおろした。細心と見える手つきで乱れた衣服を直し、露出した太腿をかくしてやる。  後につづく動きは素早かった。しなやかな体躯[#「躯」はunicode8EC0]を一気に壇上にはねあげたのだ。  兎面は、西洋カミソリを拾わずに、手なれた大型のスウィッチ・ナイフをひらめかせた。  「野郎、待ってたぜ、このときをよ……」  と、兎面は腰を落とし、手をひろげたかまえでナイフを持ち直した。舌が出てきて口辺をなめずった。間《かん》歇《けつ》的な痙《けい》攣《れん》が短躯[#「躯」はunicode8EC0]を走りぬける。毒針を秘めた尾部を持ちあげた蠍《さそり》のように、手中のナイフが、ひくひくと微妙な恐ろしい動きを見せた。呼吸は荒く速かった。  「そのくらいにしとけよ、ちび公」  と、犬神がいった。その声は思いがけぬ明瞭さで響きわたった。  「おまえは、みんなに見られているんだぜ……あっちを見てみろ……」  いつのまにか、体育館の混乱はおさまり、しんとしずまりかえっていた。場内に残った四、五十名のだれもが呼吸《いき》を呑《の》んで、壇上に視線を向けていた。  校長以下教師たちがかけつけたのだ。  重い沈黙がドームの下に押しかぶさっていた。負傷者やクロの配下の連中ですら例外ではなかった。いずれも動きを止め、目を見張って固《かた》唾《ず》を呑む表惰を壇上に向けていた。  犬神は夢みるような静かな顔をしていた。そっとささやくようにつぶやく。  「おれは素手なんだぜ。みんなの見てる前でナイフを振りまわす気か? おまえはまちがいなく少年院送りになるぜ、ちび公」  兎面にだけかろうじて聴きとれる低い声であった。  「やめなさい、黒田」  沈黙を破って、校長が大声で呼びかけた。  「そんなまねをしてはいけない。黒田、ナイフを捨てなさい!」  兎面の全身がびくりと痙攣した。  「いい加減にせんかあっ」  校長の尻馬にのった体育教師が、しゃがれた怒声をはりあげた。  「黒田、校長先生のお言葉が聞こえんのかあっ」  「もう一度いう。ナイフを捨てなさい。いうことをきかないと、警察を呼ばねばならない。そんなことはしたくないが、しかたがない」  鞭《むち》のようなきびしい、威嚇を秘めた命令であった。圧倒的な権威がこめられていた。  「ナイフを捨てろといっとるんだ。早く捨てんかあっ」  と、体育教師が吠えたてる。  黒田の顔一面に、汗がどっとふきだした。水をかぶったように大量の汗で兎面がぬれ光った。呼吸が荒い音を立てはじめた。  「くそ食らいやがれ……」  うめくような声だった。  「てめえをぶっ殺したら、少年院でもなんでも行ってやらあ……」  目は完全に狂っていた。はっはっと火のように熱い息をついてあえぐ。  「そうかい。じゃ少年院へ行けよ。そして毎日反省日記でも書くんだな。あばよ、どぶねずみ[#「どぶねずみ」に傍点]」  犬神のおだやかな声には、痛烈なさげすみがこもっていた。じりじり[#「じりじり」に傍点]と壇のすみへ足をすべらせ、移動していく。  兎面は、犬神が逃げる気だと思った。逃がすまいとした。殺意で思考停止におちいっていた。あざやかにナイフをひらめかせて切りかかった。壇下の人々から叫びとうめきが漏れた。それほど黒田の攻撃は素早く巧妙だった。攻撃をかける蛇の鎌首のように目にもとまらぬスピードでナイフの長大な刃がひらめき、虹のような光の円弧を生みだしつづけた。  その都《つ》度《ど》、犬神のしなやかな上体はそりかえり、突きだされ、なぎはらうナイフの刃先を数ミリの距離でかわしつづけた。  第三者の目には、めまぐるしい攻撃をかける黒田の圧倒的な優勢にうつった。犬神は素手だ。あの恐ろしいナイフ攻勢に対抗するすべはない。  壇のへりに犬神が追いつめられたと見えたとき、  「犬神逃げろっ」  耐えかねて絶叫があがった。  だが、犬神の後退は計算されつくしたものだったのだ。恐るべき正確さで、突きだされるナイフの刃先を間一髪の差でそらしながら、犬神は兎面をさそっていたのだ。  が、兎面は犬神を追いつめ、勝利を手中にした確信に目がくらんでいた。犬神の肉体から血を噴かせる期待が兎面を血迷わせた。  「くえーっ」  全精力をふりしぼるような激しい叫びをはなって、兎面はとびかかった。  犬神の姿が限前から消失した。神《かみ》技《わざ》ともいうべきフットワークであった。一瞬にして体勢を入れかえ、兎面の背後に立っていた。  兎面が目標を見失ったとき、すでに足の下に壇はなかった。なすすべもなく前のめりに転落し、床に叩きつけられた。ナイフを握った右手の前《ぜん》膊《はく》部が最初に床に接し、垂直に上を向いたナイフの尖端に、落下加速度を加えた体重がのしかかり、苦もなく握りの部分まで胸の中央部へ埋まっていった。  場内は真空に似た静寂に満たされた。キイーンと耳鳴りの感覚に似ていた。  兎面は、小さなぼろきれ[#「ぼろきれ」に傍点]のようになって身動きもしなかった。大量の血が、生物のように身体の下からゆるやかに這いだしてきた。  犬神明は、なんの感動もあらわしていない顔で、演壇の下の惨状を見おろしていた。  「たっ、たいへん!」  「一一九番に電話だ!」  「救急車を早くっ」  スウィッチがはいった唐突さでわあん[#「わあん」に傍点]と叫喚がわきかえった。  犬神明は、ゆっくりと壇をおりた。床の血溜りの中の兎面には見むきもせず、出口に向かって歩く。群衆が割れて道を開ける。  体育館の外には、数百人を超す生徒が騒然とむらがっていた。犬神の姿を見るなり、にわかにしずまりかえった。息をひそめ、目を見開き、またたきもせず注視する。犬神の歩みにつれて、人垣が左右にわかれていく。  犬神明はなにごともなかったように平静な足どりで、キャンパスを横切っていった。        23  犬神明は、さながら凱《がい》旋《せん》将軍であった。  一般生徒は、まごうかたない英雄《ヒーロー》の座に少年をまつりあげたのだ。  なにしろ、たったひとりで、羽黒グループを粉砕したのだ。素手で凶悪な刃物気ちがいの黒田を鮮やかに翻《ほん》弄《ろう》し、墓穴を掘らせたのだ。  ナイフを前にして、いささかの恐れも見せなかった犬神。  あれこそ真の勇気だ。男一匹のすごい度胸なのだ。  羽黒グループにさんざ痛めつけられながら、最後まで弱音をあげず、耐えて耐えぬいた不屈の精神、ど根性。  犬神明こそ、真の男だ。  校内は、すさまじい興奮で湧き立っていた。  青鹿晶子は、犬神のやや通俗的なヒーロー化の過程を複雑な思いで受けとめた。  犬神明という孤高を愛する少年にとっては、決して本意ではないだろう。そんな気がしていた。  少年には、英雄気取りの虚栄とはまったく無縁のきびしいストイックな精神がある。彼が体育館で見せた行為に、人気取りの要素がひとかけらでも存在したはずはない。  生徒集会に参加したこと自体、彼の意志ではなく、青鹿の強制によるものだったからである。  ともあれ、黒田の凶刃から副委員長木村紀子を救った英雄的行為は、生徒の絶賛を博した。  興奮に熱狂した生徒の大半は、夜遅くまで学校を去りもやらず、帰宅を繰りかえし命じられてもなお居残っていた。  学校当局にとっては、もとより事態は別だった。それどころか、重大な不祥事であることはまぬがれない。  暴力沙汰で十数人の負傷者を出したのだ。  黒田ほか数人をのぞいて、軽傷程度ですんだのはまだしもだったが、救急車で救急病院に運ばれた黒田は、ただちに開胸手術を受け、生死の境いをさまよっていた。  警察が来て、事情を調べたりして、ごったがえす騒ぎは夜半までつづいた。  もっとも、犬神明に関して、問題は生じなかった。犬神は黒田に指いっぽん触れていない。校長はじめ大量の目撃者が、犬神の無過失を証言した。  たとえ、黒田が死亡することになったところで、黒田本人の全面的な過失によるものとされた。事情を調べた係官の口から、自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》という言葉が吐かれたほどであった。  青鹿の感じたかぎりでは、校長はしごく冷静な態度を保持していた。事態の深刻さにくらべて、さほどの打撃を受けた気配はなかった。もっともっと外聞を気にして当然、という気がした。  奇異な印象を受けたのは、青鹿だけではなかった。  「ほかの先生がたは、さすがは校長だけのことはある、すこしも動じないのは立派だなんてほめてるようですが……」  と田所教師がいった。  午後十時近く、緊急職員会議が終わったあと、青鹿と田所は連れ立って校門を出た。  夜気が膚寒い。  「ぼくは、そうは思わない……実は、校長と教頭のふたりが、してやったりとばかりに目配せしているのを見てしまったんですよ」  「まあ。なぜでしょう?」  「もしかすると、校長たちは、こうなることを予期していたんではないか……つまり、すべては羽黒グループを壊滅させるための布石にほかならなかった……」  喧嘩のプロと札つきの問題児、犬神明をあえて羽黒一党を抱えた青鹿のクラスに編入したのは、校長たちが打った、非行グループ壊滅作戦の一環だというのが、田所の推測だった。  「犬神が初めて来た日、青鹿先生とぼくが校長室に呼ばれた、あのときのことを憶《おぼ》えていますか? 教頭は、犬神が決して責任を問われたことのない喧嘩名人だといった。たとえば、相手が刃物で切りかかる。犬神が逃げまわっているうちに、相手はおのが手でわが身を傷つけてしまう……そのうえ、ちゃんと無過失の証人をつくることを忘れぬ抜け目なさ、法律をよく知っているおとな顔負けのテクニシャン。その犬神を利用して、頭痛のタネの暴力非行グループをつぶそうという狙いがあったとしか思えない」  「まさか、そんな……」  田所の考えは、うがちすぎだ、と青鹿は思った。  「しかしね、先生。今日の黒田は、まんまと犬神のペースにはまって自滅したんですよ。犬神はまさに喧嘩の天才です。これで羽黒グループは、完全に戦意喪失です。タガがはずれたようにバラバラになってしまった。校長たちの思惑どおりになったわけです。みずから手を汚さずとも、校内非行組織を解体できたわけですからね。おそらく校長は、困るどころか大喜びしてますよ」  田所は思いきった辛《しん》辣《らつ》な言葉を吐いた。  「それは思いすごしだと思います。いやしくも教育者ともあろうものが、そんな卑劣な術策を弄するなんて……あたくしには信じられません」  青鹿は吐きだすようにいった。本当は、信じられないのではなくて、信じたくないのだった。それはあまりにも不快な想像だと思った。考えるだけで、こっちの心にまで吐気をもよおさせる汚れが染みついてくるような気がした。  「では、なぜ校長は、あなたを通じて犬神を生徒集会に参加させたのでしょう? 羽黒グループのなぐりこみを事前に察知していたからではないか……その証拠に校長は集会に出席しなかった。大部分の教師たちもそうだ。羽黒グループになぐりこみの機会をあたえるためです。ぼくはいま、非常にいやらしい想像をしているのかもしれない。しかし、校長が平然としているのは、あらかじめ成《なり》行《ゆ》きを読んでいたからで、しかもまんまと図にあたったからだとしか思えないんです」  「もうおやめになって……」  青鹿の声は震えた。  「だが、まだ羽黒本人が残っているんですよ」  と、田所はきびしい表情でいい継いだ。  「羽黒はボスの身でありながら、生徒集会襲撃に加わらなかった。冷やかに騒ぎを傍観していた。犬神の真の力量をじっくり見定めていたんです。ぼくは羽黒の慎重な性格を知っている……羽黒はこのままおとなしくひっこむようなやつじゃない。羽黒は暴力団のせがれです。面子《メンツ》を立てなければならないんです。そうでなければ、やくざの世界では生きていけないんです。  羽黒と犬神の闘いは、これから本番がはじまるんです。おそらく凄《せい》惨《さん》な殺しあいになるだろう。子どもの喧嘩とちがうのです。どちらかの死で終わる。野蛮で残忍な決闘になるのです。だが、校長は決して、それをとめようとはしないだろう……」  「もうやめて、たくさん!」  青鹿はいいすてて走りだした。田所の呼び声にも足をとめようとはしなかった。  やり場のないいきどおりで身体が震えた。口では否定したものの、田所の推測を内心では認めていた。  やりきれない思いだった。校長の陰険なやり口を心の底から憎いと思った。が、それにもまして、犬神が哀れでならなかった。なにも知らず、卑劣な校長どもに利用されて、生命の危険にまでさらされている少年が哀れだった。  なんとかしなければならない。だが、どうやって……  はっきりと筋道をたてて考えることができない。焦慮で身体が熱くなった。  そんなとき、耳許でいきなりクラクションを鳴らされて、青鹿は思わずとびあがった。  歩道ぎわに、国産中型車がとまっていた。その車のいたずら[#「いたずら」に傍点]だったらしい。  むしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]して、どなりつけてやろうと思っているところへ、ドライバーが窓から首を突きだした。そのベルモンド崩れみたいな顔に見憶えがあった。昼間会った神《じん》というルポライターだった。  「いまお帰りで? 家までお送りしましょうか、先生」  と、トップ屋は愛想よくいった。  「また、あなたなの? あまりしつこくつきまとうと、警察を呼ぶわよ」  青鹿は嫌悪をこめて鋭い声をだした。  「いままでずっと、先生を待ってたんです。腹が減ってかなわない。どうです、これから食事に行きませんか?」  けろりとしていた。なんと図《ずう》ずうしい男だろう……猛然と腹が立ってきた。  「冗談じゃないわ。さっさと行ってよ。行かないと大声で人を呼ぶから」  ルポライターはつるり[#「つるり」に傍点]と顎《あご》をなで、赤ん坊みたいに罪を知らぬという目つきをした。  「さっきは、学校で大騒ぎがあったようですな。興味深く見物させてもらいました」  するっと話題を変えて青鹿の気勢をそぐ。彼女はあっけにとられた。このトップ屋、いったいどこにもぐりこんで見ていたのだろう。  「車で家まで送りますよ、先生」  「ごめんだわ。あなたみたいな送り狼の車に乗れるもんですか!」  「そんなに簡単に手はだしませんよ。こっちも用心深いんでね。嘘《うそ》じゃない」  ひとを馬鹿にして、と彼女はかっとなった。  「なにいってるの、狼のくせに……」  「そう、その狼の話がしたいんですよ。先生だって興味があると思うがなあ」  ルポライターは、だらしなくにやにや笑った。自信たっぷりの笑顔だった。が、いまの青鹿は正常な精神状態ではなかった。仔《こ》持ちの牝猫のように気が立っていた。青鹿の目はぎらぎら輝いた。  「行かないと、大声をだすわよ」  「へ、本気ですか」  「いまにわかるわ……」  青鹿が深ぶかと息を吸いこむのを見て、ルポライターの目がまるくなった。  「だれか来てえっ」  破裂するような大声がとびだした。  「痴漢よっ、痴漢でえすっ」  爆音がはじけ、あっという間にかたわらの車が消え失せた。恐るべき逃げ足の速さだ。平凡なブルーバードに見えたが、|SSS《スリーエス》だったらしい。まさに羊の皮をかぶった狼だった。  胸がすっとしたが、そのあとかけつけてきた人びとにいいわけ[#「いいわけ」に傍点]をしなければならなかった。        24  が、それくらいでひっこむような腰の弱いトップ屋ではなかったようである。  青鹿晶子が帰宅するのを見はからったように電話がかかってきた。  アパートの管理人がねむそうな顔で知らせにきた。  「さっきはたまげましたよ、先生。まさか本気で悲鳴をあげるとは思わなかった」  「また、あなたなの……」  腹の底からうんざりした。ダニみたいな男だ。  「ダニみたいな人ね。いい加減にしてよ」  「ところで狼の話なんですがね」  「狼なんてくそくらえ[#「くそくらえ」に傍点]だわ」  青鹿は乱暴な言葉を送話口に投げつけた。  「あなたもそうだわ」  「冷たいなあ」  「知らなかったの? あたしは氷みたいに冷酷な女よ」  「しかし、犬神明だけは特別ですか?」  「あなたの知ったことじゃないでしょ」  言葉が終わらぬうちに、ガチャンと送話器を架台に叩《たた》きつけた。  なぜトップ屋が、犬神明の名を知っているのかと気づいたのはそのあとである。  すると、にわかに胸騒ぎがしてきた。トップ屋はなにかを嗅《か》ぎつけているのだろうか。トップ屋の意図をもうすこしさぐりだせばよかった。  考えなおして、トップ屋がもう一度かけてくるのをしばらく待ったが、ピンク色の電話機はひっそりだまりこくっていた。どうやらあきらめたらしい。  ぐずぐずしながら、ゆっくり部屋へひきあげた。ネグリジェに着替えて床についたあとも、へんに目がさえて寝つけない。  少年は、いまごろどうしているのだろう。  あの贅《ぜい》沢《たく》だが寂しいマンションの部屋で、ひとり孤独をかみしめているのだろうか。両親も暖かい家庭もなくひとりぼっちで……  少年は孤独な魂の持主なのだ。だれも彼をかまってやろうとしない。彼を理解しようという親切心もない。  だけどあたしはちがう。あくまでも彼の味方になってやるのだ。そうだ、少年は愛情に餓《う》えていたんだわ。母性的な暖かい愛情を必要としているんだわ……  青鹿は感優的になり、目尻に涙がこぼれ伝うのを感じた。枕を湿っぽくして眠りにはいりかけたときだった、あの遠吠えを耳にしたのは。  夜具をはねのけて身を起こした。動悸がむやみに激しくなった。熱湯のようなものが、身体をつらぬき走った。  近隣の犬たちが、けたたましく騒ぎだした。驚き怯《おび》えた吠《ほ》え声がかしましい。目をまるくし、体毛を逆立てた犬たちの様子が目に見えるようだった。  そうだ。これは狼の遠吠えなのだ。野性の挑戦、失われつつある自然の復権を主張する叫び声なのだ。虜囚の身を拒み、自由を呼びかける自然の精霊、狼の唄《うた》であった。  だから、犬たちは、人間に隷属することで自由民の誇りを捨て、安穏を得た彼らは、狼の声を耳にするだけでみじめにうろたえ、恐れおののくのだ……  青鹿は部屋の窓を開けた。やや、ひしゃげた形状の月が中天にかかっていた。その空の下、犬どもの叫喚が湧きかえっていた。  せつなく胸をかきむしるような、哀調をおびた美しい遠吠えは間近にあり、なおもつづいていた。  それは仲間に呼びかける唄であった。その声音は、青鹿の心の深《しん》奥《おう》にうったえかけ、目に見えぬ糸をひくように、彼女を抗しがたい力で動かした。  彼女は夢遊病者のように他律的な動作で、部屋着を肩に羽織り、部屋のドアを開け、夜の中にさまよいでていった。  夜の闇は、いつもと異なっていた。  雑《ざつ》駁《ばく》な大都会の汚濁と、よどんだ澱《おり》があとかたもなく消え失せていた。  さながら、時の流れが逆転したかのようであった。それは、黒濁し腐臭を放つ運河が、太古の清らかな水流を回復した、そんな変化を想わせた。  不思議な時の精霊が、音もなく通りすぎたあと、大気は猥《わい》雑《ざつ》な汚染を残らずぬぐい去られ、清《せい》冽《れつ》な香を放っていた。  せせこましく建てこんだ家並は姿を消し、すべてが数千年の過去をよみがえらせた。  彼女は、自分が無《む》垢《く》な魂を持った原始人になるのを感じた。文明の虚飾をことごとくはぎとられ、無力な素っ裸の原始の女にかえるのを感じた。思いあがった人間中心主義の文明の殻を失い、自然への畏敬の念に満ちた、つつましやかにへりくだった太古の人間になった。  彼女は、夜の闇の中で、遠吠えに導かれて進んでいった。夢遊病者の足どりであった。  聖なる動物、かつて山民たちの深い尊崇を集めた神の使いは、小高い岩頭の上にいた。腰を落とし前脚をそろえてすわり、とがった細長い鼻面を天に向けて口をすぼめ、毛深い頬をふくらませ、朗々と歌っていた。彼らの守護神である月に向けて、切々と思いのたけを訴えていた。  青鹿は足をとめた。  なんのへだてもなく猛獣を身近にしている恐怖はなかった。感動と畏敬の念で満たされ、彼女は巨大な野獣の姿に魅入られた。  狼は遠吠えをやめ、彼女を岩頭から見おろした。青く目を光らせ、動ずる色もなく凝視した。堂どうとしていた。野性の美と威厳の化身。  青鹿は手をさしのべて、無心の童女のような巨《おお》きな動物に近寄っていった。狼にさわりたかった。  狼は穏やかに彼女を見つめていたが、彼女の接近は許さなかった。石像のような姿勢がわずかにゆらぐと同時に、闇に溶ける影のように消失した。  幻とおなじであった。凝固した姿勢のまま一瞬後には大気中に溶けこんでしまったのだ。  彼女はふりしぼるような叫びをあげた。  まったく唐突に、世界が常態に復した。  原始の夜の息《い》吹《ぶ》きは失せた。  狼のすわっていた小高い岩頭と見えたのは、コンクリートの塀《へい》際《ぎわ》に積まれたヒューム管の集積にすぎなかった。黒ぐろとした影を路上に落とし、むなしく月光を浴びているばかりだった。街灯の白い光が点々と輝いている。  夢を見ていたのだろうか。  青鹿は重い吐息をついた。膚寒い夜気が足《あし》許《もと》から這《は》いあがってくる。  魔法が解けたのだ。  夜の大気には、都会の騒音が漂っていた。とりとめもない、二十四時間とだえることのないざわめき……  夢から徐々に覚めてくる思いで、青鹿がきびす[#「きびす」に傍点]を返したとき、街灯の光を背負って人影が見えた。タバコの赤い火《ほ》口《くち》が明滅した。  「すてきな夜ですね、先生」  と、人影はいった。  青鹿晶子は無言でルポライターを見返した。  「あれ[#「あれ」に傍点]を見ましたか?」  と、神《じん》はまじめな顔でいった。  「あれは、たしかに狼でしたよね?」  青鹿はなにもいわなかった。  「まさか、東京のどまん中で狼に出会《でく》わすとはね。先生は、あまり驚いていないようですが」  青鹿はだまっていた。  「なぜだか、あててみましょうか? 先生は前にも狼に出会ったことがあるからだ」  「…………」  「先生を痴漢から救ったのは狼だったんだ。そうでしょう?」  青鹿はかたくなに、沈黙をまもりつづけた。両手で部屋着の前をかきあわせ、いぶかしむような目を、ルポライターの顔にあてていた。  「そして、いま先生は狼に向かって、犬神さん[#「犬神さん」に傍点]と名を呼びかけた。まるで、よく知っている親しい人間に向かって呼びかけるように……きわめて奇妙なことだ。そうじゃありませんか?」  「…………」  「犬神というのは、先生の教え子の名前だ。これはいったいどういうことなのか、説明していただけませんか、先生?」  「…………」  「無言の行ですか? 先生はご存じかどうか知らないが、犬神とは狼のことなんですよ」  青鹿は終始無言のまま、ルポライターのかたわらをすりぬけ、歩き去っていった。  「気をつけなさい」  と、ルポライターは、その後ろ姿に呼びかけた。  「先生は、狼にとり憑《つ》かれている。やっかいなことになりますよ」  やはり青鹿は答えず、ブルッと肩先をふるわせ、足を速めた。  「犬神か……」  ルポライターはつぶやき、くわえタバコをプッと吹き捨て、頭上の月をあおいだ。奇妙な薄笑いで、大きな唇をゆがめていた。        25  夜空の月は、しだいに痩[#痩はunicode7626]せほそった。下弦の月が鋭い鎌のような形をとり、やがて夜空から姿を消した。新月である。  博徳学園には、奇妙な平穏状態がつづいていた。羽黒一党がぴたりと鳴りをしずめたのが、その原因である。  その間、校内で羽黒グループによる非行は一件も生じなかった。もちろん犬神明もリンチにあわなかった。  たしかに歓迎すべき状態ではあったものの、この小春|日和《びより》に似た突然の平穏に、教師をふくめて、だれもがなにかしらとまどっていた。  この平穏が、いったいいつまでつづくのか、だれにも見当がつかなかったからだ。  キャンパスを、白球を追うトレパン姿が走り、音楽教室からは二部合唱が響いてくる。きわめて正常な学園風景である。  「どうも気になるな」  職員室の窓ごしに、校庭に目をやりながら、田所教師がつぶやいた。その背後では、青鹿晶子が机に山と積んだ答案用紙を採点していた。  「この平和がいつまでもつづけばいいんだが。なにか超大型台風がやってくる、嵐の前の静けさといった感じがしませんか?」  と、青鹿に話しかけた。  彼女は無言のまま、採点の手を休めなかった。いまは授業中のため、職員室はがらんとしている。ふたりとも、この時間は授業がない。  「羽黒はずいぶん長い間、学校へ出てきませんね?」  と、田所。  「今日で八日になりますわ」  青鹿は言葉すくなにこたえた。  最近、田所と口をきくのがなぜか億《おっ》劫《くう》でならない。犬神や羽黒にかこつけて、なにかと話しかけられるのがわずらわしいのだ。  そっとしておいてほしいと思う。  「羽黒のやつ、いったいどんな気でいるんだろう?」  「…………」  「で、犬神のほうは、どんな具合です?」  田所は校庭から目をそらし、青鹿の横顔に視線を向けた。  「どんな具合って……まじめに授業を受けていますわ」  青鹿は気のない返事をしながら、たまたま採点中の答案が、犬神のものであることに気づいた。田所ものぞきこんで、ほう、と嘆声をあげた。  「犬神君、満点だ。英語の課目に関してはえらく達者ですね。なにかわけでもあるのかな?」  少年の英語力は抜群だった。教室で手をあげることはやらないが、指名すればかならず正解を答えた。あるいは、幼時から英語になれているのかもしれない。発音など青鹿より正確である。  「さあ、どうでしょうか……」  少年のことを田所と話したくなかった。  「青鹿先生、どうかなさったんですか?」  と、田所は語調を変えていった。  「ここのところ、ひどく無口になったし、心ここにあらずといったふうに、ぼんやりしているし、まるで人が変わったみたいですよ」  「あら……そう見えます?」  「ええ。まるで、なにかにとり憑かれたみたいです」  青鹿はぎくり[#「ぎくり」に傍点]とした。田所の指摘はあたっている。たしかに自分はどうかしているのだ。  四六時中、犬神のことが念頭からはなれない。まるで恋をしている少女のように、つねに少年の存在を鋭く強く意識していた。  しかし、恋ではないと思いたい。二十四歳の離婚歴を持つ女教師と、十六歳の教え子の色恋沙汰なんて、考えただけで歯が浮いてくる……  顔が赤らむのをおぼえて、青鹿は頬[#「頬」はunicode9830]杖をついて上気をかくそうとした。田所のさぐるような視線を感じて身がすくんだ。  「犬神明か……」  田所は、彼女の心中を見抜いたようにつぶやいた。  「十年も教師をやっているが、彼のような少年は見たこともない。ふてぶてしいかと思えば繊細で、大人もかなわないほど世故に長《た》けているかと思えば、みずみずしい少年らしさものぞかせる。およそ冷淡な外見のうちに、意外なほどの熱情を秘めている。彼は雪をいただいた活火山だ……人知れず熱い思いを抱いて、それを他人にさとられまいと努めている。ひとり孤高を保ち、他人とのかかわりあいを拒絶するのは、ポーズにすぎないのかもしれない。本当は、暖かい情愛に餓えている……犬神には、青鹿先生あなたのような女性のいたわりと思いやりが必要なのだと思いますよ。彼の心の奥底まではいっていって、孤独から救いだしてやれるのは、先生だけだと思います」  田所はしんみりといった。  「でも、あたくし、彼に近寄るなといわれてしまったんです……」  と、青鹿はいった。田所の言葉にいたく心を動かされていた。  「ほっといてくれといわれました。好意の押売りはごめんだと……彼はあたくしなんか相手にしませんわ」  「それは口先だけですよ。本気ではないでしょう。とにかく、犬神が問題をかかえていることはたしかです。彼の性格形成に重大な影響をあたえている、事件のようなものがあるはずです。彼がどんな育ち方をしたのか、それがわかれば、ひとつの糸口になると思うんだが……」  「実は……」  と、ついつりこまれて開きかけた口を、彼女は急いで閉ざした。彼女が考えていることは、とうてい口外できるような性質のものではなかった。犬神が狼人間かもしれない、そんな非常識なことを、だれに向かって話せるだろう。青鹿自身の正気を疑われるだけだ。  「なんでもおっしゃってください。ぼくでお役に立つことだったら、なんでもします」  田所は熱意を顔に輝かせた。彼女が返事に窮しているところへ、教頭があわただしく職員室にはいってきた。  「おふたりとも、ちょうどよかった。ちょっと校長室まで……」  と、声をかける。  (クロが死んだ!)  そのニュースは、電光の速さで全校に伝《でん》播《ぱ》した。  (クロの野郎、とうとうくたばりやがった)  (いままで、人工心肺でやっと生きてたんですって)  (心臓移植をやる以外に、助かる方法はなかったんだってよ)  (黒田みたいなワルに心臓をやるやつがいるもんか!)  (そうだ。あんなやつ、生きてたってしようがないもんな)  (いい気味、せいせいしたわ)  (ねえ、このこと羽黒が知ったらどうすると思う? 犬神君に仕返しするんじゃないかしらり?)  (一の子分を殺《や》られて、だまってるわけはねえよな)  (きっと羽黒、犬神を殺るぜ!)  (犬神は不死身だぜ。そうあっさり殺られたりしねえよ)  (体育館でよ、クロのヤッパ、犬神の身体にかすりもしなかったもんな。すげえ身のこなしよ。あれ、スウェイ・バックてんだろ! すっと身体をそらせてよけるやつ。カシアス・クレイばりだったよな!)  (だけどよゥ、羽黒はよゥ、クロとちがうぜえ。段ちがいよ)  (羽黒は、拳法と剣道やってて、わざと段位はとらねえけど、四、五段の相手とやっても負けないんだってよ)  (それはな、拳法や空手の有段者は、素手でも凶器とみなされて、罪が重くなるからさ。だから、羽黒はわざと段をとらないんだよ)  (とにかくさ、羽黒が日本刀持って暴れだしたら、犬神だってかないっこねえよな。いくら不死身といったって、限度があらあな)  生徒の関心は、黒田の死がもたらす結果に集中した。異様な興奮が教室を支配し、授業が満足にできないほどだった。  特に、犬神のいるクラスは騒然としていた。教師の再三にわたる制止も、なんの効果もあらわさなかった。日頃もっともおとなしい生徒ですら、教師の注意を無視した。  ただひとりだけ、噂《うわさ》の焦点に立つ犬神明だけが、例によって超然としていた。まったく無関心な態度であった。  それがまた、生徒間の激しい論議をさそった。  あれは、本当に平気なのだろうか。うわべだけわざと強がっているんじゃないのか。  (これが平気でいられたら、人間じゃねえよな)  (犬神だって内心はブルってるはずだよ)  (だけどさ、犬神はものすごく度胸がいいからな)  私語の十字砲火が、どの教室でも授業中たえまなくつづいた。  羽黒の意趣は、もっと深いところにあって、それは教師の青鹿が原因だとする説もひろがっていた。羽黒は担任の青鹿をものにしようと狙《ねら》っていたのに、転校早々犬神に横どりされたからだというのである。青鹿は犬神のすごくデラックスなマンションに行って、毎晩やって[#「やって」に傍点]いる。青鹿はいま犬神の子を妊娠してるそうだ。  このあいだ青鹿が痴漢に襲われたというのは嘘《うそ》で、本当は犬神が姦《や》ったんだそうだ。それで羽黒は頭に来て、犬神と青鹿をふたりともぶっ殺す気でいるらしい。羽黒が学校を休んでいるのは、犬神たちを日本刀でぶった斬る練習にはげんでいるからだ。自宅の地下室で、犬を叩き斬って腕をみがいているそうだ……  臆測やロから出まかせの虚報が乱れ飛んでいた。教師ですら例外ではなかったほどである。  六時限目は、青鹿の英語の授業であった。生徒の興奮はさらにたかまっていた。黒田が生きている時分でさえ、これほど授業に困難をおぼえたことはなかった。だれもみな気が狂ってしまったようだった。  ベルが鳴るのを待ちかねて、青鹿が教室を出ようとしたときだ。いきなり突拍子もない絶叫があがった。  「羽黒だっ、羽黒が来たあっ」  教室は、電撃を受けたような反応をしめした。スウィッチを切ったような真空の静寂。  青鹿の手から、テキストや出席簿がすべり落ち、床に乾いた音をたてた。  顔から音を発して血の気がひくのを感じた。その瞬間、だれもが脳裡に、同じひとつの光景を視《み》た。抜きはなたれた白刃を手に乱入してくる羽黒の姿だ。化石した目がいっせいに戸口を向いた。  氷結した緊張の中、戸口がきしりながら開いた。  姿を見せたのは、高田をはじめとする生徒会役員たちであった。  異常な雰囲気にぴしゃりと顔を打ちのめされたように、彼らは棒立ちになった。  「す、すみません……」  高田が狼狽してどもった。  「ぼ、ぼくたち、犬神君に用事があって」  「は、羽黒は」  と、青鹿はかすれ声を出した。  「ど、どこにいるの」  どもり[#「どもり」に傍点]が伝染していた。しかし、だれも笑わない。  「えっ、羽黒がいるんですか」  高田たちは、さっと顔色を変え、きょろきょろ周囲を見まわした。  「どこですか、どこにいるんですか」  結局、羽黒なぞいないとわかり、一時に緊張がくずれさった。  「だれだ、デマをとばしやがったのは」  「おどしやがって」  緊張が解けた反動で、教室には爆笑が渦巻いた。たがいに指をさしつけあってげらげら[#「げらげら」に傍点]笑った。  「猿《さる》田《た》だ猿田だ」  「とんでもねえ野郎だ、人騒がせしやがって」  「ひっぱたけひっぱたけ」  「袋叩きにしろ」  「ごめん、悪かった、つい出来心で冗談を」  「この馬鹿。ごめんですめば警察いらない」  デマをとばした犯人が生徒たちに追いまわされてどたばた[#「どたばた」に傍点]逃げまわり、騒然となった。  毒気を抜かれてぽかん[#「ぽかん」に傍点]としていた生徒会役員たちは、ぎこちなく犬神の席に近づいていった。犬神は無表情に彼らを見返した。  「犬神君。われわれで話しあって、決めたことがあるんだけど、聞いてくれないか?」  と、高田が口火をきった。  「今日から学校の行き帰り、ぼくたちできみを……その、護衛したいんだ」  「護衛?」  「そうなんです。あたしたち当分の間、犬神君を護衛することに決めたんです」  と、木村紀子が早口にいった。顔が赤らみ犬神の目を避けていた。  「羽黒が、おれを殺しにくるといけないからか?」  犬神があっさりという。  「そうなんです。もとはといえば、こんなことになったのは、あたしたち生徒会役員にも責任があるから……」  「すると、あんたもおれを護衛して家から学校へ送り迎えしてくれるってわけか? 幼稚園の保母さんみたいに」  犬神は無遠慮に木村紀子をじろじろ[#「じろじろ」に傍点]眺めながらいった。  「オシッコもさせてくれるのかい? そいつはどうもご親切に」  注視していた同級生たちがげらげら[#「げらげら」に傍点]笑った。木村紀子は頭のてっぺんまで真っ赤になった。  「そんな……気を悪くしないでください。護衛なんていいかた、ちょっと大げさだったんですけど、あたしたちがいっしょなら、羽黒だって手をだしにくくなると思って……」  「柔道部や剣道部も、声をかければすぐ有志が集まる。とにかく、犬神君に手出しはさせない。いくら羽黒だって、われわれががっちり団結すれば、めったなことはやらないと思う」  と、高田が闘志を見せていった。  「また団結の力か? よしてくれ。そんな話は聞きたくもないね」  「あなたがそういうだろうってことはわかっていたわ。でも、あたしたち本気なのよ。みんなで力をあわせて、犬神君を羽黒からまもりぬくわ」  木村紀子はいって、生徒会役員たちの同意を求めた。口々に賛同の声があがる。杉岡由起は目に懇願の光をたたえて、犬神を見つめていた。  犬神の顔に血の色が動いた。  「いい加減にしろっ」  彼はいきなり咆《ほ》えた。  「団結の力だとっ。笑わせるな! おまえらみんな羊じゃないか。メエメエ啼《な》くしか能がないくせに、大きなことをいうな。猛獣が襲ってきたら悲鳴をあげて逃げまわるくせしやがって、なにをいってやがるんだ!」  教室はしんと静まりかえった。犬神が初めて見せた怒りに度《ど》肝《ぎも》を抜かれていた。  「あまったれるな! おい、ほんとにあまったれるんじゃないぜ! おれは、これまで自分ひとりの力を頼りに生きてきたんだ。親に甘やかされた苦労知らずのぼんぼん[#「ぼんぼん」に傍点]とはわけがちがうんだ。自分の始末は自分でつける。だれの力も借りない。他人の救《たす》けをあてにしたりしない。他人だけが頼りのおまえらにいったいなにができる。思いあがるのもいい加減にしろっ。腰抜けの羊どもが!」  目から稲妻がほとばしりでた。  なんという強烈な誇り、なんという強大な自信!  傍観していた青鹿は舌をまいた。しびれるような衝撃が腰のあたりにうずいた。  生徒会役員たちは圧倒され、言葉もなかった。  「頼むから、おれをほっといてくれ」  不意に、犬神は声を落として穏やかにいった。激情はすぐにあとかたもなく消え去り、夢みるような平穏な表情が顔を覆っていた。  「羽黒がいくらがんばっても、おれには手を出せない。おれは逃げ足が速いんでね」  重い沈黙を残して、少年は教室を出ていった。すかさず小沼竜子が後を追った。戸口で足をとめ、教室の一同に薄笑いを見せて、走り去った。        26  「あの子ったら、まだ尾《つ》けてくるよ、ウルフ」  と、竜子が肩ごしに視線を投げていった。  「わりとしつっこいわね。木村紀子」  「しっっこいのはおたがいさまだろう」  と、犬神は口をゆがめた。  「おまえだって、いつまでおれにつきまとう気だ?」  「当分の間ね。だけど、あたしは木村紀子とはちがうわよ。ウルフの護衛をする気なんか、てんでないんだから。やばくなったら、さっさとトンズラかいちゃうわよ」  「羽黒が出てきたほうがいい。おまえより羽黒のほうがましだ」  「心配しなくても、羽黒はウルフをほっときゃしないわよ。それよか、木村紀子、羽黒が襲ってきたら、本気で身体を張って、あんたを逃がす気かしら? ウルフどう思う?」  「おれの知ったことか」  「木村紀子、ウルフに生命を救けられたんだもんね。ウルフに惚れたのかもしれないよ。あの子、まじめだから、きっと思いつめてるわよ。どうする?」  「うるせえな」  「可愛いじゃないの。ウルフもすこしは気があるのとちがう? クロがあの娘《こ》の顔をスダレみたいに切りきざむのをとめたんだからさ。おかげでクロはあの世行き……ね、ウルフ、もし、あたしだったら救ける?」  「指いっぽんだって動かすもんか」  「じゃ、青鹿だったら?」  「なぜそんなことをきくんだ?」  犬神は鋭く少女を見た。少女は薄笑いを浮かべていた。  「ただきいてみただけよ。ウルフ、あんたって、えらそうな口をたたくわりに、気が弱いんじゃないかと思ったの」  少女は犬神に答えるひま[#「ひま」に傍点]をあたえなかった。  「じゃ、バァーイ」  手を振ってみせ、ひらひらと走り去っていった。  「フーテン女!」  少年はとまどいを罵言で表現し、私鉄の駅構内へはいっていった。振りむくと、木村紀子は依然として尾行をつづけていた。少年は憤《ふん》懣《まん》をこめて舌打ちした。  木村紀子が、鷺の宮のマンションにまで尾いてくるにおよび、少年の苛《いら》立《だ》ちは怒りに高まった。  紀子は、エレベーターに乗った。犬神の部屋の前までやってくる気なのだった。  彼は待ち伏せて、エレベーターを出てくる少女をつかまえた。いきなり手をのばし、肩をとらえる。少女は驚きの小さな悲鳴を漏《も》らした。  「いったいどういう気なんだ」  少年は歯を食いしばるようにしていった。  「いけすかないやつだ。そんなにまでしていやがらせがしたいのか? くそっ、どいつもこいつもおれをつっつきまわして面白がりやがる……おれがきさまら人間になにをしたというんだ。なんの恨みがあるんだ。いってみろ……」  目を憤怒に燃やし、少年はあえいだ。  「くそったれ。おい、なんとかいってみろ!」  少女は、涙をいっぱいためた目で彼を見上げた。なんの弁解もしようとしなかった。それを見るなり、彼の怒りは急速に消え、いいようのない慚《ざん》愧《き》と自己嫌悪が胸に残った。少女の肩をはなし、後退って廊下の壁によりかかり、額《ひたい》を押しつけた。  少女が喉《のど》のつまるような声でなにかいいかけようとした。  「わかっている。なにもいうな」  少年は壁に顔を押しあてたまま、少女の言葉をさえぎった。  「おれはどうかしているんだ。いまおれがいったことを忘れてくれ。きみを傷つける気はなかったんだ……」  少女はとまどっていた。犬神の態度の急変が理解できなかった。  「どうかしたの?」  と、気づかわしげにきく。  「なんでもない。だが、こんなことはもう二度としないでくれ。おれにかまわないでくれ。きみのためなんだ。きみはおれに救けられたことに恩義を感じてるのかもしれない。だが、そんなことは忘れろ。おれに近づくな。さもないと、きみは不幸になる。きみだけじゃない、だれもかれもみんな……」  少女はその語調に、苦悶のうめきを聴きとった。彼の不幸を感じとって、少女の胸は深い同情にみちあふれた。彼の悲しみをわかちあいたい強い欲求で、少女の身体はわなないた。  「犬神さん……」  「帰れっ」  少年は身をよじるようにして鋭い拒絶をこめて叫んだ。  「帰れよ。帰れったら!」  少女は平手打ちを食ったように後退り、うなだれ、肩を落とした。  やがて、エレベーターのモーターがうなり、くだっていった。  少年はのろのろと自室にはいった。  空虚な部屋が彼を迎えた。  冷たくひえきっていて、埃《ほこり》の匂いがした。  だれも彼の帰りを待つ者はいない。胸をはずませて彼を迎えてくれる者はいない。  今晩ばかりではない。次の日も、その次の日も、際限もなく、永久に。  そんな日は決してこないのだ。それはほかならぬ少年自身が選んだ道であった。  少年は、空虚な部屋の真ん中に立ちすくみ、両掌で顔を覆った。  「つらいよ、かあさん。つらすぎるよ……こんなことが一生つづくのかい? それなら、おれはいったいなんのために生きているんだ?」  悲痛なうめき声が指の間を漏れた。  「これが狼の生きる道か? なぜ犬どものように、人間と折り合って生きていけない? 教えてくれよ、かあさん……おれはもう耐えきれないんだ。こんな気持で生きていたって、なんになるんだ……いっそのこと、死んじまったほうがましだ」        27  このままでは、羽黒と犬神の間に、流血沙汰は避けられない。なんとかして、争いを止めなければ、と青鹿晶子は思った。  ともかく、羽黒に会ってみよう。羽黒を説得できないまでも、なにか次善の策を見いだせるかもしれない。  校長たちはまったく頼りにならぬとあれば、担任教師の自分が努力するほかはない。  それで、青鹿は羽黒の家庭訪問を決心したのである。あまり気持のいいことではなかったが、これまでに羽黒が彼女に対して反抗的な粗暴さをしめした事実はなかった。それが青鹿を勇気づけていた。あとになってみれば、いかに他愛ない自己過信であったかわかったのだが。  暴力団東明会会長、朝《あさ》田《だ》剛《ごう》造《ぞう》の自宅は、石神井《しゃくじい》公園の近くにあった。  朝田が半身不随になってから、会長代理となった羽黒武雄は、息子|獰《どう》とともに、朝田の屋敷に移っていた。羽黒獰に母親はいない。父親の武雄は、妻の容色が衰えたとき容赦なく叩き出してしまったのだ。やくざにはよくあるケースである。  屋敷は、丈高いコンクリート塀にかこまれていた。表門はおそろしく頑丈そうな樫板でできており、寺のそれに似ている。  コンクリート塀の上には有刺鉄線が張りめぐらされている。暴力団ボスの自宅だけあって、なぐりこみに備えているのであろう。  表門についたインタフォンの押ボタンに触れ、来意を告げると、くぐり戸が開いて、門衛が顔を出した。警官に似せた制服がなんとも奇異な印象だ。  門衛は鋭い目つきで青鹿を上から下まで観察し、おもむろにうなずくと、くぐり戸を通ることを許した。すぐにカンヌキをおろす。  青鹿をそこに待たせておいて、門の内側にある番小屋にはいり、内線電話の送受器をとりあげた。  もうひとりの門衛が、腰掛にすわったまま青鹿をデリカシーのない目で眺めていた。番小屋がポリスボックスそっくりなのが滑稽だ。  邸内の林と池の向こうにある日本建築の平屋が母《おも》屋《や》であるらしい。右手に鉄筋三階の建物が見える。  電話をかけ終わった門衛が番小屋から出てきた。右頬にてらてら[#「てらてら」に傍点]赤黒く光る刀傷が無気味であった。警官そっくりの制服を着ていても、やくざ[#「やくざ」に傍点]独得の剽《ひょう》悍《かん》な雰囲気はかくせない。  「あのう、羽黒君は……」  青鹿がいいかけるのを、門衛はぶっきらぼうにさえぎった。  「ついてきなさい」  だみ声でいい捨てて先に立つ。筋骨たくましい中年男だ。  かなり広い池では、ときおり、鯉《こい》がはねて水音を立てている。林の中の道を、男は黙々と広い背中を見せて歩いた。青鹿も無言で後につづいた。  母屋の横手の渡り廊下に、男がふたり立って、青鹿を眺めていた。組員であろう。黒い背広を着ていた。もみあげ[#「もみあげ」に傍点]が長く、陰惨な三白眼だ。  男たちは、もの珍しげに青鹿を見ながら、ささやきあい低い笑声を立てた。  門衛は、青鹿をコンクリートの建物に導いた。アパート風の造りだ。  「あの、羽黒君は、ここに……?」  やや不安がきざして、青鹿は質問した。やはり男は答えず、無表情な背中を向けたまま、階段を昇りはじめた。ついていくほかはなさそうだった。  踊るような足どりで階段をかけ降りてきた若者と踊り場ですれちがった。立ちふさがるように足をとめて、若者はにたにたしながら、青鹿を見た。  「だれだい?」  と、きく。  「学校の先生だ」  門衛はむっつりとこたえた。足はとめなかった。若者はどいた。  「先公にしちゃ、いいタマだな」  好色な表情で、昇っていく青鹿の足を踊り場から見あげた。  「いい足をしてやがら。たまんねえな」  と、卑猥な文句をロ走る。  門衛は足をとめ、若者をじろりと見おろした。  「先生は、獰さんに会いにきなすったんだぜ」  若者の脂ぎった顔から笑いが消えた。肩をすぼめて、なにやら口ごもる。会長代理羽黒のせがれだけあって、獰は若年ながら、上位の階程を占めているようであった。  門衛は、三階のスチール・ドアを開いた。はいれと顎《あご》をしゃくる。  「そこで待っていなさい」  「あの、羽黒君は……」  男はついに返事をせず、ドアを閉めて立ち去った。  青鹿はひとり、無人の部屋にとり残された。不安がつのり、心細くなってくる。しかたなく、そこにあった椅子に腰をおろした。  殺風景な部屋である。革張りの長椅子、テーブル、床の絨《じゅう》氈《たん》、それだけだ。花瓶、絵など心をなぐさめるものはなにもない。荒涼としていた。  これが羽黒獰の部屋なのだろうか。なんとはなしに、殺伐とした羽黒の心情と共通点があるように想えた。  しかし、いったいいつまでここに待たせておく気なのか。羽黒は本当に在宅中なのだろうか。門衛はその質問にどうしても答えようとしなかったが……  青鹿はたまりかねて立ちあがり、ドアに近づいた。  が、ドアは開かなかった。いつの間にか錠が外側からかかっていた。  閉じこめられた!  一時に頭から血が逆流した。夢中でノブをひっぱりドアのパネルを叩いた。開かないとわかると、青鹿の目は、罠《わな》におちた牝鹿のそれに変わった。悔恨の念で、頭の一部が焼けるようにうずいた。相手がここまで無法だとは思わなかったのだ。彼女がここへ来たことは、田所教師にすら告げていない。  青鹿は、部屋のすみにある、もうひとつのドアを見つけ、ためしに行った。期待はしていなかったが、そっちには錠がおりていないことを知った。押し開ける。  うわずった声が彼女の口を漏れた。  羽黒はなんの表情もない顔で、青鹿を凝視した。右手には拳銃が握られていた。  羽黒は学生服ではなく、黒ずんだ背広を着ていた。足許に旅行ケースを置き、石燥のように暗い部屋に立っていた。  右手の自動拳銃がメカニックな冷たい輝きを照り返していた。微動もしない巨大な手に握られた拳銃は、おそろしく危険そうに見えた。  青鹿はむろん息を呑み、捧立ちになっていた。  「クロのことは、お竜から電話で聞いた」  と、羽黒はうつろな感情のない声でいった。  「そのことできたんだろ?」  青鹿はなんといっていいかわからなかった。  「クロのことなんか、なんとも思やしねえ。いつかはああなるだろうと思ってた……だからクロの仕返しをしようというのじゃねえ」  「彼を……犬神さんを殺す気なのね」  青鹿はかろうじて口を動かした。  「そのピストルで……」  羽黒は、そういわれてはじめて気づいたように、手中の自動拳銃を見おろした。  「ちがう。これを使う気はねえ」  ゆっくりと銃口を下むきに内ポケットへ落としこむ。どう見ても、十五歳の少年には見えなかった。このうえなく凶暴でしたたかな、成獣の牡《おす》を青鹿は感じとった。  「あ、あたしは、あなたと犬神さんの争いをとめようと思って……」  「むだなこった。こいつばかりは、だれにもとめられねえんだ。犬神の面《つら》を最初に見たときから、おれにはわかってた……」  「顔が気に入らないから殺すなんて、あなたは気が狂っているんだわ」  青鹿は叫ぶようにいった。  「先生にゃわからねえよ。面が気に食わねえから殺すというんじゃねえ。腹の底からつきあがってくる衝動なんだ……たとえばよ、ゴキブリを見つけたら、どうでも踏み殺さねえと気がおさまらねえやつがいる……理屈じゃねえんだ。そうしなきゃいられねえからだ。おれの場合もおなじことよ」  「犬神さんはゴキブリじゃないのよ。人間なのよ。そんな理由にもならない理由で人殺しをしたら、どうなるかわかっているの?」  羽黒は青鹿のいうことを聞いていなかった。  「どうやったら、無抵抗主義の犬神に、やる気を起こさせるか、おれはずっと考えてた」  「どうしてもやめない気なら、あたし警察へ行くわ。殺しあいなんか、絶対にさせないわ!」  青鹿は、はいってきたスチール・ドアに向かって歩いた。断《だん》乎《こ》として命令する。  「ドアを開けてちょうだい。あたしは帰ります」  「その答えを、おれはやっと見つけたぜ」  「聞こえないの。いますぐドアを開けなさい!」  羽黒はうつろな表情で近づいてくると、長い両腕をのばし、青鹿の身体をかこいこむように両掌をドアのパネルに突いた。無気味な表情を浮かべた顔が間近にせまり、身がすくんだ。  「なにをするのよ!」  「犬神は一度、痴漢野郎から先生を救《たす》けた。木村紀子をクロから救けたようにな。今度だって、先生を救けねえはずはねえだろう……」  「あたしをどうする気」  羽黒は彼女の身体をつかむと、くるりとふりまわし、無造作に長椅子へほうった。青鹿は両脚を跳ねあげてクッションの上ではずんだ。両腿が開いて、奥の白い布で包まれた部分がのぞいた。  「先生が悪いんだぜ。わざわざやってこなきゃよかったんだ……」  羽黒はぎらぎらと光る非情な目をすえて近づいてくると、はね起きようとする青鹿の両手首をいっしょくたに左掌でつかんだ。ぐるっと彼女の身体をうつ伏せにまわし、右手をのばして腿の肉をつかむ。        28  殺意は、最初の一《いつ》瞥《べつ》で生じた。  羽黒獰は、犬神明を最初に見た瞬間から、彼の存在を抹殺せずにはいられぬ強迫観念にとりつかれたのだ。それは一種神秘的で呪《じゅ》術《じゅつ》的な根深い妄念だった。  その瞬間、羽黒は総毛立ったのである。底深い慄《ふる》えの感覚が、繰りかえし襲いかかった。彼が初めて経験する未知の感覚であった。  ある意味でそれは、若い男女を突如として見舞う、熱病に似た〈一目惚れ〉、あの不意打ちの感覚に酷似していた。むろん、それには甘い恋の歓喜、やるせない胸のうずきなど完全に欠落していたが、その他の、狂ったような高揚感、日常感覚の崩壊、鋭い針先のように凝固する期待、自己を別人に変えてしまうものへの恐れと当惑、異常な酩《めい》酊《てい》感などの属性においては、もののみごとに一致していたといえるのだ。  その瞬間、羽黒は自分がみるみるうちに変貌していくのを知った。精神の深奥の闇に、とてつもなく精気にみちた、圧倒的に邪悪で凶暴な、真っ黒な怪物がむっくり身を起こすのを感じた。  そいつは、強大な爪と牙で武装した、ものすごい筋肉をそなえ、底なしの活力に満ちあふれる、怪獣のような肉食獣のイメージであった。殺《さつ》戮《りく》を求めてたけり狂う、飽くことを知らぬ破壊欲の化《け》身《しん》、その貪《どん》婪《らん》な飢餓感、犠牲の柔らかい肉体を引き裂き、暖かい血まみれの内臓をかきだし、ガツガツと貪《むさぼ》りたいという欲望があまりにも強烈なので、羽黒は震えたのだ。  恐ろしい邪悪で甘美な歓び、破滅的な魅惑をともなった悪寒のため、彼はとめどもなくわななきふるえた。  犬神明を殺す。それはもはや、絶対の至上命令と化して羽黒に迫った。それ以後の彼の行動は、不吉な暗黒の衝動にかりたてられるあやつり人形のそれだった。  羽黒は悪《あく》霊《りょう》と化したのだ。  その夜、十一時すぎ、犬神明は外で食事をすませて、鷺の宮のマンションへ戻った。  空虚な夜だった。スモッグが大気に充満し、月も星も見えなかった。もっともいまは新月なのだ。夜空に月が姿を見せる時期ではない。  いつもは自分で食事をつくるのだが、今夜はその気になれなかったのだ。心が沈んで、空虚だった。なにもする気になれなかった。すべての人間とのかかわりあいを拒絶する、依《い》怙《こ》地《じ》な気持だけが頼りだった。  マンションのロビーの郵便受けにはいっていたのは、例によってダイレクト・メール、宣伝ビラだけだった。内容を見もせずに、ロビーのトラッシュ・ボックスに捨てた。彼に手紙をくれる人間はだれもいない。たとえその気があったにしても、彼が決して返事をよこさないことを知っているので思いとどまってしまうのだった。それに彼は、自分の住所をだれにも教えていなかった。  彼は、静かな無人のロビーをゆっくり横切り、待機していたエレベーターに乗った。モーターがうなり、少年を八階に運ぶ。  いつものように、マンションはひっそりと静まりかえっていた。だれも人が住んでいないようだった。無人の荒野だ。孤狼のすまいにふさわしかった。  少年はドアの鍵《かぎ》をはずし、暗い室内にはいった。錠がおりていたので、とっさに侵入者の存在に気がつかなかったのだ。彼らしくもないことだった。  部屋の照明をつけず、ソファに身を埋めた。なんの理由もなく、不安が湧いてきた。なにかひどくまちがったことをしでかしたような不安だった。  青鹿晶子のことが脳裡に浮かんだ。いつかこの部屋を訪れた彼女の記憶がよみがえった。彼女の体臭が匂った。恐怖の汗の匂い。無断侵入をこらしめてやろうと、手ひどく脅かしたからだ。  そしてもみあったときの、彼女の情熱的な体臭の変化。それは強く、誘惑的に匂った。女が男を求めたときの匂いだった。少年はとまどった。動悸が速まり、へんに息苦しさをおぼえた。自分の上にのしかかる、熱く柔軟な肉体の重みの記憶が、少年をいまさらのように興奮させていた。にぶく脈|搏《う》ちながら起きあがってくる感覚が下腹部にあった。  あれが、いまだったら……  少年は吐息をついて、拳《こぶし》をかたく握りしめた。青鹿の体臭はますます生なましく漂ってきた。現実に彼女が室内にいるように……  顔を強く打たれたように、少年ははっと目を見開いた。瞳が光った。  幻覚ではなかった。空気の中に、人間の匂いが漂っていたのだ。空気のかすかな流れが、匂いの微粒子を運んできたのだ。少年は野獣のように鼻孔をぴくぴくさせて、注意深く空気中の匂いを嗅いだ。  音もなく立ちあがり、寝室のドアに向かって歩く。  寝室のドアは、ほんのわずかな隙間をつくっていた。ドアに行きつくまでに、少年は匂いの正体をさとった。身をこわばらせ、ドアをひき開けると、壁の照明スウィッチに手をのばした。  室内に光があふれた。少年は、憑《つ》かれたように硬く光る目を、ベッドのこんもりと盛りあがったシーツのふくらみにすえた。  「いま帰ったの……」  と、睡《ねむ》そうな声がいった。  「知らないうちに眠っちゃった。ウルフの帰りがあんまり遅いんだもん……」  シーツの端が持ちあがり、可愛らしい挑発的な顔がのぞいた。まぶしげに目をしばたたかせた。  「どうやってはいった?」  少年は、低くおさえつけた声音を出した。  「ドアに鍵がかかっていたはずだ」  「管理人にキイを借りたのよ」  小沼竜子は、ぱっちりと目を開けて狡《こう》猾《かつ》そうに、戸口に突っ立っている犬神を見ながらいった。  「管理人は、知らない人間に、キイを渡したりしない」  「あらそう? でも簡単だったわよ。ウルフの恋人だといったら、ニタニタいやらしく笑いながら貸してくれたわ」  と、竜子は薄笑いを浮かべていった。ベッドから起きあがる気配も見せない。  「帰れ」  少年は、脅迫的なしゃがれ声を出した。目に怒りの火が燃えだした。  「いますぐ、出ていけ」  「そうはいかないわよ」  「出ていかないんなら、力ずくでもほうりだすそ」  「力ずくで……やってごらんよ」  と、少女は思いきり挑発的に笑った。  「やめといたほうがいいと思うけどね」  もう我慢できなかった。少年はベッドに走り寄るなり、シーツをつかんで一気にはぎとった。  少年は電気に触れたように反応した。  シーツの下から現われた竜子の身体は、まったくの全裸だった。妖精じみたしなやかな肉体がまともに彼の目を射たのだ。  明るい灯光は、全身くまなく肉体のすみずみまで照らしだした。両膝をかるく立てているため、淡い恥毛に飾られた襞《ひだ》の軟体動物に似た光に、少年の目は一瞬激しくひきよせられた。  彼は反射的に、シーツをその濡れた光に投げつけた。シーツは狙いをはずれて上半身にかかった。  竜子はゆっくりとシーツをおしのけて身を起こした。こわばった顔をそむけ、恥辱と怒りに身を震わせている少年を、ねばりつくような瞳で眺めた。  「だからいったのに……」  竜子は悦に入った含み笑いを漏らした。  「あんまり、あわてないでよ、ウルフ」  「おまえが、なにをたくらんでいるのか、おれは知らない。知ろうとも思わない」  少年は歯の間から苦労して押しだすような、粗《あら》あらしい声でいった。苦しみもだえるうめきに似ていた。そむけた顔と首の筋肉は、おそろしく緊張し、こわばっていた。  「だが、ここはおれの部屋だ。勝手にはいりこむ権利はだれにもない。頭のイカれた女に踏みこまれ荒されてたまるもんか。出ていけ。服を着てすぐに出ていけ!」  凶暴な怒りが少年の肉体の中で煮えたぎっていた。竜子はあわてもせず、シーツを拾い身体に巻きつけた。恐れ気もなかった。  「あわてないで、といったでしょ、ウルフ」  「おれを本気で怒らせる気か……」  「あたしが、ここへなにしに来たと思ってるの? あんたに教えてやりたいことがあるからよ」  「…………」  「青鹿のことよ」  「…………」  「青鹿は、いま羽黒といっしょにいるわ」  「…………」  「なぜだときかないの?」  少年は沈黙をつづけた。  「青鹿が、いまどんな目にあっているか、知りたくない?」  「…………」  竜子はシーツをはねのけた。  「こんな恰好にされてるかもね」  キラキラとよく光る目で、少年の顔色をうかがった。  少年は黙りこくって、重い呼吸の音を響かせていた。顔は木《き》彫《ぼり》の面のように、いっさいの表情をなくしていた。  「青鹿はね、ウルフ、あんたのために、羽黒と談判に行ったのよ。ずいぶん馬鹿げたまねをしたんだわ。雉子《きじ》も啼かずば射たれまいに、ってやつよね。もちろん、羽黒は青鹿をおさえておいて、ウルフをおびきだすのに使おうって気だわ。  「…………」  「青鹿は羽黒に強姦されるかもね。もう、やられちゃったかもよ。羽黒は前から青鹿に目をつけて、狙ってたんだから……」  「くだらない」  と、少年は吐きだすようにいった。  「そんなことぐらいで、おれが頭にくるとでも思ってるのか」  竜子は、彼がまっすぐ電話に向かって歩き、送受器をとりあげるのを見た。  「羽黒はとんでもない思いちがいをしてる。おれがカッとなってとんでいくと思ったら大まちがいだ」  少年は竜子に顔を向け、歯を見せた。  「青鹿なんか、おれにとってなんでもないんだ。警察へ電話をいっぽんかければすむことだ。それで羽黒は少年院送りになる。万事落着、めでたしめでたしさ」  「ねえ、本気なの? 青鹿がどうなってもかまわないというの? 羽黒のところには、餓えたケダモノみたいな、暴力団の若いのがゴロゴロしてるのよ。青鹿は美人だし、何十人もかかってまわされたら、死んじゃうかもしれないわよ。死ななくても、青鹿きっと自殺するわ」  「おれの知ったことじゃない」  少年は冷やかにいいすて、ダイヤルに指を当てた。  不意に竜子がけたたましく笑いだした。いきおいよくベッドに倒れこみ、身体を震わせて笑いにむせんだ。  「嘘よ……みんなでたらめよ……口から出まかせをいっただけよ……ああおかしいったらありゃしない……」  少年は、送受器を架台に戻した。  「そんなこったろうと思ったぜ。羽黒は利口だ。青鹿をどうしようと、おれがなんとも思わないってことを知ってるはずだ……」  自分に向かっていいきかせるようだった。  「ああ面白かった。胸がすっとしたわ」  竜子はベッドをすべりおりると、さっさと服をつけはじめた。  「ウルフが青鹿のことを、なんとも思ってないことがよくわかったわ。気分よくなっちゃった……今夜はおとなしく帰ってあげる」  その言棄に嘘はないようだった。服を着終わると、あっさり帰りかける竜子に、犬神明のほうがあわて気味に声をかけた。  「おい、待てよ……」  「なあに?」  竜子は目に光を躍らせて振りむいた。ゆっくりと微笑が浮かぶ。  「あたし、ここにいてもいいのよ」  「なんでもない。帰れ」  少年は顔をそむけた。少女は朗らかに笑って部屋を出ていった。  ドアが音をたてて閉まった。        29  「まさか!」  と、犬神明は声に出してつぶやいた。  「羽黒が青鹿を……そんなことがあるはずはない!」  しかし、声には確信が欠けていた。  小沼竜子のまいていった疑惑の種子が、彼の胸中に芽を吹き、奇怪な成長をはじめていたのだ。  竜子は、嘘だということを認めた。しかし、なぜ彼女は夜遅く、わざわざそんなでたらめを告げに来たのか。竜子らしい気まぐれから、自分をからかいに来たのだ。  そういえば、竜子は以前にも、気になることをしゃべっている。  (羽黒はきっと、いまごろ、あんたが我慢できなくなるような方法を考えてるわ。たとえば、ウルフが愛している人間を傷つける……)  (ウルフ、きっとあんたを殺すわよ)  あいつ、なぜあんなことをいいやがったんだろう。  少年は、デスクに両肘をつき、頭髪に指をもぐりこませた。へんに心が動揺していた。  想像力というのは、始末に悪いものだ。竜子がさきほど見せた、全裸の肢体にダブって、衣服をひき裂かれた青鹿晶子の姿が見えてきた。この部屋から帰りがけに、暴漢に襲われていた青鹿。押し倒されて、躍る太《ふと》腿《もも》の白さが夜目にあざやかだった……痴漢どもは青鹿の下腹部になにかをしていた……  少年の顔が緊張にゆがんだ。あの夜と同じ暴力の衝動がつきあがってくるのに耐えていた。  青鹿がなんだというんだ。あいつがおれになんの関係がある……  「おれの知ったことか。おれには関係ない」  彼は顔をあげ、壁に向かって声高に叫んだ。その声音のうつろな響きが気に食わなかった。  (それなら、心配ない。おれが愛してる人間なんて、この世にひとりもいないんでね。気の毒に、羽黒君は骨折り損だ)  自分の言葉が耳によみがえってくる。  「そのとおりだ。おれは青鹿なんか愛していない。これっぽっちもだ。青鹿がどんな目にあわされようと、おれは平気だ。あいつが死のうと生きようと、おれの胸は痛まない」  少年はがばっと椅子から立ちあがり、部屋中に響きわたる大声で、いどみかかるように吠えた。  「おれは一匹狼だ! おれが死のうと生きようと、世の中のやつらはだれひとり気にかけやしない。だから、おれは思いきりふてぶてしく生きてやるんだ! だれの力も借りず、救《たす》けも求めない。それで貸し借りなしだ。おれはだれも救けない。おれは拒絶する。おれはだれとも無関係なんだ!」  少年の髪はかるく逆立ち、目は光り、身体を震わせていた。  「先生、おれはあんたを救けないぜ! おれには関係ないんだ。あんたがどうなろうと、それは先生の自《じ》業《ごう》自《じ》得《とく》だ。そうだろ?」  少年が叫んでいるのは、自分の裡《うち》なる声を圧殺するためだった。彼が自分に対する説得を中断すると、すかさず裡なる声がささやきかけるのだった。  青鹿を襲った痴漢どもに、おまえはなにをした? おまえはなぜ、帰っていく彼女の後を追ったのだ……予感がしたからではなかったか……そしておまえは、人狼としての力をふるい、痴漢どもを叩きつぶした……なんの関係もない青廃をなぜ救ったのだ……  少年はついうっかりと、頭の中の声に耳を傾けてしまった。テレビかステレオをつけて最大の音量《ボリューム》にあげ、心をそらしてしまうべきだった。部屋をとびだして、どこかへ遊びに出かけてしまうべきだった。  木村紀子のときもそうだ……と裡なる声はささやきつづけた。  おまえはなぜ、クロに木村の顔を切り裂かせておかなかった……なぜクロをとめたのだ……クロにやりたいことをやらせておかなかったのだ……青鹿も木村も、おまえには無関係のはずだ……なぜだ……  裡なる声は執拗に彼を追いつめた。彼には答えようがなかった。彼は絶体絶命となり、悲鳴に似た叫びをあげた。  「おれは、だれとも無関係でいたいんだ! 本当に、ただそれだけなんだ。おれは自分の感情に負けたくない。残忍で凶暴な人間どもと同じ所まで落ちたくない。憎悪のどぶ[#「どぶ」に傍点]泥にまみれて、気ちがい犬どもと浅ましく咬《か》みあいたくない! おれは、友情や愛のしがらみ[#「しがらみ」に傍点]から、超然として生きたいんだ!」  それは不公正だ、といっそう鋭さを増して裡なる声は迫った。青鹿は羽黒に凌《りょう》辱《じょく》され、殺されるかもしれない。そうなれば、彼女はおまえのために死ぬんだ……おまえを救けようとして死ぬんだ……それなのに、おまえは青鹿のために指いっぽん動かさないというのか? そこで、手遅れになるのを呆然と待っている気か……  「あれは、竜子のでたらめだ! あいつはおれをからかいに来ただけだ」  だが、もし竜子が真実を語っているとしたら、どうなのだ……  「くそっ、なぜそんなことがおれにわかる!」  少年はかっとした。やり場のない憤りをこめて、部屋の壁に力まかせに右拳を叩きつけた。化粧塗が大きくはがれ、関節の皮膚が裂けた。  「畜生……畜生……」  彼は左手で右拳をつかみ、苦痛に顔をゆがめた。拳が砕けたような激痛に身をよじった。  本当は、羽黒と闘うことを恐れているんじゃないのか……いま闘えば、羽黒はおまえを殺すことができる……おまえは死ぬのがこわいのだ……タフなウルフ! 不死身の狼男!  おまえがイキがっているのは、月がまるいうちだけか……月が欠けるにしたがって、おまえの勇気は空気の抜けた風船みたいにしぼむのか……臆病などぶねずみになりさがるのか……不死身で苦痛を感じないときだけは威勢がいいんだな、狼男。おまえの本性は、意気地なしのねずみ野郎なんだ……みじめったらしいどぶねずみ、それがおまえの正体だ……カッコつけるな、ねずみ野郎! 一匹狼だなんて笑わせるなよ……  裡《うち》なる声は侮蔑をこめて潮笑した。自尊心をずたずたに引き裂き、彼が耐えることを許さぬ酷薄さであった。彼の卑劣な自己正当化を容赦なく糾弾してやまなかった。  少年は、首をたれて、裂けてふくれあがった拳を見つめた。  青鹿晶子のアパートの部屋は、冷たく空気がひえきっていた。  カーテンが閉めきられ、きちんと片づけられた手《て》狭《ぜま》な四畳半には、夜具も敷かれていなかった。留守なのだ。今夜彼女は部屋に帰らなかったのだ。  犬神明は、部屋の中央に立って考えていた。安物の錠を開けるぐらい、彼にとって造作もないことだった。しかし、錠をこじ開けることによって、一抹の期待は失せたのだ。  彼女が、今夜部屋にいてくれたらどんなによかったろう。  少年はゆっくりと狭い室内を見まわした。貧しい部屋だった。団地サイズの衣装ダンス、つつましい三面鏡、小さな書きもの机と本棚、紅と白のケシの花を生けた花瓶、ツボミが半分残っている。テレビはない。古い型の小型ラジオがあるだけだ。きっと雑音混りの音を出すであろう。  ポータブル・ケースにおさまったオリベッティのタイプライター。状さしには、古びた手紙の束がはいっていた。持物は乏しく、なんにもないに近い。だが、それらのいずれも、彼女が大事にしているものばかりであろう。  まるで、彼女の心の中に踏みこむような思いがした。そんなことをする権利は、彼にはなかった。だれにもなかった。  もしかすると、この部屋はふたたび主人を迎えることはないのかもしれない。  喉《のど》がかたくなり、胸をしめつけられるようだった。  壁際にハンガーでつるしてある衣服が、少年の目をとらえた。ピンクのやわらかい毛糸で編まれたカーディガンであった。  彼はおずおずと手を伸ばし、それにさわった。香料に混って、ほのかな体臭が漂ってきた。女の暖かい匂いだった。心を奇妙にうずかせる匂いだった。  少年はカーディガンに顔を埋めた。その膚触りと匂いが、魂の奥底にあるなにかをかきたてた。  少年の顔に苦《く》渋《じゅう》の色が消え、微笑が浮きあがってきた。心が決まったのだ。  (よし、やれ!)  彼はみずからに号令をかけ、あらゆる抑制から心身を解き放った。  (行け!)  彼は弦をはなれた矢だった。青鹿の部屋をぬけだした少年は、解放の喜びに満たされ、夜の獣のように閣を走った。        30  二十分後、犬神は、東明会会長朝田剛造邸の前に立っていた。五分ほどかけて侵入経路を検討してみる。  屋敷の横手の路に、青空駐車してあった灰色のブルーバードが、少年の注意をひいた。車の屋根に登れば、コンクリート塀の上部の有刺鉄線に手がとどく。  少年は助走なしで身軽にブルーバードの屋根にとびあがった。手を頭上にのぼし、有刺鉄線を握ろうとしたとき、心のうちのなにかが彼の行動を妨げた。  少年は有刺鉄線に触れかけた手をひき戻し、塀の上部にすばやく目を走らせた。夜行獣ほどに夜目が効く目で、四、五メーターはなれた塀の上に、黒こげになってころがっている小さな野良猫の死骸を見出した。その焼けこげた死臭が、少年の鋭敏な嗅覚に警報をもたらしたのだ。  高圧電流柵だった。  有刺鉄線をうかつにつかんでいたら、野良猫と同じ運命をたどっていたろう。暴力団ボスの自宅だけあって、襲撃に対して充分そなえが行きとどいている。  犬神は溜息をそっと漏《も》らし、車の屋根からとびおりた。あらためて塀際の車から二十メーターほど離れた。助走してスピードをつけ、身体をはねあげる。ブルーバードの屋根をスプリングボードがわりに蹴って、すさまじい跳曜を行なった。有刺鉄線をさかさまになって越える。三回転して、塀の内側の庭に着地した。ほとんど音は立てなかった。  前かがみの低い姿勢で、木立から木立をするするとぬっていく、無音の影のような動きだ。  池に接近したとき、犬が襲ってきた。夜間の侵入にそなえて、犬が放されていたのだ。しかも、ありきたりの猛犬ではなかった。  ドーベルマン・ピンシャー、地上最悪の犬だ。凶猛なこと比類なく、死だけがこの猛犬の攻撃をとめられるという。  無気味な緑色の目を燃やして、ドーベルマン・ピンシャーは吠《ほ》えもうなりもせず、まっしぐらに走り寄ってきた。六センチもあるすごい牙をむき、少年の喉を狙《ねら》って跳躍する。  この場合、彼のとる方法はたったひとつだった。目にもとまらぬ速さで腕をのばし、肘《ひじ》のあたりまで犬の喉の奥へつっこんだ。悲鳴を立てさせぬためだ。  ドーベルマン・ピンシャーは奇襲を食らって猛烈に荒れ狂った。牙《きば》をたてることができないので爪でかきむしろうとする。少年は犬の身体をがっちり抱きすくめた。メキメキと肋骨がへし折れる。  猛犬が窒息して争闘がやんだ。しばらくして、少年は左腕を犬の口からひきぬいた。犬の唾液と血にまみれている。ぐんにゃりなった死骸から身をはなして、立ちあがった。  ビシッと板を鋭くひっぱったような音がした。夜気を裂く音。  少年の左肩に深ぶかと食いこんだのは、短い矢であった。短い矢柄の尻についた三枚の矢羽根がビリビリ震えた。弓鉄砲《クロスボウ》の、菱型をした大物猟用の鋼鉄の鏃《やじり》が、少年の左|肩《けん》胛《こう》骨《こつ》の五センチほど下をつらぬき、とびだしていた。  少年はもんどりうってころがった。犬の死骸に折り重なって倒れ、失神したようにピクリとも動かない。  大型の強力なクロスボウを手にした制服の男が近づいてきた。鏃を背中から突きだしてころがっている少年を見おろす。気を許して同僚に合図するため、呼子を口にあてようとしたのがまちがいだった。するするとのびた少年の手が男のくるぶし[#「くるぶし」に傍点]をつかんで、あっという間もなくひきずり倒していた。  驚《きょう》愕《がく》の声を漏らしかけた男の喉に、少年の両手が巻きついた。  少年の目はつりあがって青い光を放っていた。口の隅から血の糸がたれていた。矢が肺を傷つけたのだ。ごふっと咳《せき》こんで、血の塊りを男の胸に吐きだした。  「女はどこだ……いわないと殺す……」  と、犬神は恐ろしい威嚇をこめてつぶやいた。  少年に喉をつかまれた男の顔はみるみる紫色に急変した。ガードマンの制服を着た頑強な体格の中年男だ。片頬の刀傷が生なましく赤く浮きだした。  ふだんは、しぶとい闘争力の持主だろうが、いまは、少年の鋼鉄の指につかまれて、なすすべもなかった。絶息寸前だ。  「しゃべるんだ……」  少年はいくらか指の力を抜いた。男の喉がヒーヒーと切ない音を立てた。死にかけた魚みたいに口をパクパク開閉して空気を貪《むさぼ》る。  「ち、地下室……」  男はようやく、しゃがれ声をしぼりだした。声帯がひしゃげてしまったらしい。  「が、学校の先生なら、地下室にいる……」  「羽黒のせがれもいっしょか?」  少年はすごみのある声で訊問する。  「そ、そうだ。助けてくれ、息ができない」  「地下室へ通じる秘密の抜け道があるはずだ。入口はどこにある?」  「そ、そんなものはない!」  「嘘をつけ。なぐりこみに備えた抜け道がないとはいわせない。正直にいわないと、首の骨をへし折る」  「そ、それをしゃべったら、おれの生命がない。裏切者として処刑されるのはいやだ……」  「よし。それなら、いまここで死ね」  少年の目がぎらっと光った。怒り狂った狼の目だ。  「わ、わかった、しゃべる、しゃべるから手をはなしてくれ。抜け道の入口は……」  と、男はあえぎながら、消え入るようにつぶやいた。聴きとりにくい。もう完全にギブアップという恰好だった。少年は両手を男の喉からはなした。  「はっきりいえ。入口はどこだ?」  男の右手がバネ仕掛のように動き、とびだしナイフの刃が少年の脇腹に突き刺さっていた。弱りきっていたのは擬態だったのだ。  「ざまあみろ、くたばりやがれ」  男は歯をむきだして笑いながら、満身の力をこめてナイフをねじまわし、えぐった。犬神の左手がのびて、男のナイフを握る右手首をとらえた。筋骨と腱をいっしょくたに、グシャッと握りつぶした。残る右手で喉をつかみ、絶叫をあっさり圧殺してしまう。  男の手首は、蜂《はち》の胴体のように細くくびれた。すさまじい握力であった。手首から先はブラブラになった。もう二度と使いものになるまい。  「いいか、おれは本気なんだ……」  少年は沈痛な声音でいった。眼光は錐《きり》のように男の目に食いこんだ。  「この次は貴様の首をひきちぎる。入口はどこだ?」  「い、井戸……台所の裏……」  男は身を震わせて失神した。今度は芝居ではなかった。念のため頸動脈を押しつけて失神が長くつづくようにしておき、男の身体と犬の死骸を灌木の繁みにひきずりこんでかくす。  それから、脇腹に刺さっているナイフを抜いた。シャツからズボンにかけて、どっぷりと血を吸って重い。苦痛をこらえる努力で、少年の顔は土気色になり脂汗で濡れそぼった。  矢羽根をつかんでひっばったが、大きな鏃《やじり》が邪魔して抜けない。少年はうめき声をあげて、肩の前方につきだしている矢をへし折った。  その間も、脇腹の傷口から、出血はつづいていた。足許の地面に血溜りができて、落下する血の滴《しずく》が飛沫《しぶき》をあげていた。  シャツの前をひきちぎり、傷口に押しこんで出血を止めた。はみだしかけた腸を押し戻す。  不屈の闘志で歩きだしたが、足はもつれ気味だ。無気味な脱力感を気力ではねかえす。  母屋の台所に近い竹《たけ》藪《やぶ》に身をひそめ、気配をうかがう。その目は、夜の狼の目に似て青く光った。  非戸の底に水はなかった。天《てん》井《じょう》の梁《はり》から釣《つる》瓶《べ》を吊《つ》ったロープは、空井戸に似合わず、太く真新しい。たしかに抜け道に通じている。  ロープを伝わって井戸の底に降りるのは、重傷を負った身にはなまやさしい仕事ではなかった。出血がひどくなった。肩からも出血している。シャツもズボンも血を吸って重く濡れそぼり、靴《くつ》の中にまで血が流れこんだ。  井戸の底に降り立つと、横穴が口を開いていた。コンクリートで固められたトンネルは立って歩けるほど天弁が高い。  トンネルにもぐりこむと、靴を捨てて裸足《はだし》になった。歩くたびに血でねばりついて異様な音を発するからだ。  出血多量と苦痛で頭がしびれてきた。こんな深《ふか》傷《で》を負ったのははじめてだった。ひどいへま[#「へま」に傍点]をやったものだ。異常に強靭な体力を過信して、注意をおこたったからだ。  ひょっとすると、死ぬかもしれないな、と不吉な想念が脳裡をかすめた。  少年は頭を強く振った。歯ぎしりして闘志をかきたてる。  主人を待っている、あの貧しい四畳半を想いだす。どうあっても、あの部屋に主人を帰してやるのだ。たとえ死んでも……  甘美な思いが心にわいた。これが生《い》き甲《が》斐《い》というものなのか。たったひとりの女のために生命を賭《か》ける。そうだ、あの空虚な部屋に膝を抱いてうずくまっていた日々のことを考えてみろ。おれはいまみたされている。かぎりなく充実した時間の中にいる。全能力を傾注すべき目標がある。この、どうにもならない苦痛さえ、生き甲斐の一部だ。そうだ、こんなことって、めったにあるもんじゃないぜ。  真っ赤な苦痛の靄《もや》をおしわけて、プライドがよみがえった。目が冷たく澄む。  力をふるいおこしてトンネルを進んだ。  地下道は分厚い鉄の扉でさえぎられていた。まるで大金庫のようだ。むろん錠がおりている。  犬神明は、ベルトにしこんだ二十センチほどの針金を抜きとった。ひらたくつぶした針金の尖《せん》端《たん》を鉄扉の鍵穴にさしこむ。  ロックが解けると、少年の顔にしぶとい笑いが浮いた。  そろそろと重い鉄扉を手前に引き開ける。  思いがけぬ広大な空間が眼前にひらけた。  そこは、地下射撃場だったのである。  二十五メーター射場には、固定標的が五射座ついていた。東明会組員の射撃訓練に利用されているのであろう。一方の壁際に、銃器ロッカーが並んでいた。  人影はなかった。犬神は射撃場を通りぬけスチール・ドアに近寄った。ふたたび針金をあやつってロックをはずす。音を立てずに十センチほど押しあけて、気配をうかがった。誰《すい》何《か》の声はかからなかった。  少年はめざす場所にたどりついたことを知った。        31  青《あお》鹿《しか》晶《あき》子《こ》はそこにいた。  コンクリート壁に埋めこまれた鉄環に、片手を手錠でくくりつけられていた、  コンクリートの床にじかにすわらされ、背中を壁にもたれている。横ずわりに投げだした脚《あし》は素足であった。白っぽいコートのボタンはひとつ残らずむしりとられ、前が開いている。首筋や足に生なましいかすり傷が赤かった。  血の気のない蒼白な顔には、苦悩の表情が刻まれていた。放心した目を足《あし》許《もと》の床にすえている。わずかの間に、げっそりとやつれてしまっていた。乱れた髪が痛ましげであった。  犬神はまったく音を立てずに、小部屋にすべりこんだが、気配を感じたのか、青鹿はびくりと身をすくめた。のろのろ顔をあげる。  信じられないという表情があふれた。思わず声を出し、手錠を鳴らして身を起こす。  少年は口に指をあて、黙れというゼスチュアをつくった。青鹿は反射的に自由な手をもたげ、口をおさえ、顔をひきつらせた。  少年の形《ぎょう》相《そう》は、あまりにも凄惨であった。全身血にまみれて、血の池から這《は》いあがった幽鬼を想わせた。  「怪《け》我《が》を、怪我をしたのね」  青鹿は押し殺した声を指の間から漏《も》らした。胸が早鐘を搏《う》ちだした。  「たいしたことはない」  「わ、罠《わな》なのよ。あなたをおびき寄せるための……」  青鹿はあえいだ。  「わかってる」  「どうやってここへ……」  「話はあとだ。手錠をはずす」  少年が近寄ってくると、むうっと血の臭気が青鹿の鼻をついた。吐気をもよおすほどの強烈な臭気だった。  血は、濃いペンキのように少年の衣服をこわばらせていた。とくに下半身がすさまじい。タールを塗りたくったキャンバスのようだ。たいへんな量の出血だ。全身の血という血が残らず流出してしまったようだった。  少年は足をふらつかせて青鹿に近づくと、壁で身をささえた。深呼吸を繰りかえす。顔は鉛《なまり》色だ。  「犬神さん、大丈夫?」  青鹿の顔も真っ青になった。  「手をこっちに出して……」  少年は身をかがめ、手錠の鍵穴に針金をさしこんだ。が、指がうまく動かなくなっていた。針金が指の間をすりぬけて、床に落ちた。  「犬神さん、あなたは大怪我をしているのよ。こんなことをしていると死んでしまうわ。ここから早く逃げて。警察を呼んできてちょうだい」  青鹿は涙をこぼしながらいった。  「だめだ、羽黒は本当の気ちがいだ。先生は殺されちまう……ここに残してはいけない」  少年は針金をあきらめた。指先の微妙な感覚が鈍っていて、精密な手錠の機構に歯が立たないのだ。  コンクリート壁から突き出ている鉄環に両手をかけた。深く息を吸いこみ、全力をあげてねじ切りにかかる。  傷口からの出血がはじまった。ふくれあがった筋肉が傷口を拡げた。ボタボタと重い音を発して床に血がはねた。  「やめて、そんなことしないでっ」  青鹿は、少年の身体にとりすがった。胸がはり裂ける思いだった。  「死んでしまうわ、こんなに血が……おねがい、やめて、もうあたしなんかどうなってもいいの」  涙声で哀願する。  「邪魔するな。一度やりだしたら、とことんまでやる。それがおれの主義だ。手をどけてくれ」  少年の声には、青鹿がはっと手をはなさざるをえない、きびしさと激しさがあった。  満身の力をこめて鉄環をねじまわす。底力のある咆《ほう》哮《こう》が口からほとばしった。  同時に、異音を発して、鉄環が壁からもぎとられた。真新しい断面を光らせて床に落ちる。  少年の口と鼻から、ピッと鋭い音とともに鮮血が噴出した。床へ身体がのめった。  「犬神さん!」  青鹿は、悲鳴のような声をあげて、少年の身体にとりすがった。  「死なないで! ねえ、死んじゃいやよ!」  「前にもいったろ、先生、おれは不死身なんでね……」  少年は血まみれの顔で女教師を見あげ、薄く笑った。  「隣りの広い部屋に地下道の入口がある……先生は抜け道を通って先に逃げろ」  「あ、あなたはどうするの?」  「おれはあとから行く。すこしだけ休んでから……先生、先に逃げてくれ」  「いやよ。あたしだけ逃げるなんて」  「ぐずぐずしてると、羽黒に見つかるぞ」  「あなたを捨てて逃げられない。そんなこと死んだってできないわ」  青鹿は断乎としていった。もはやひとかけらの恐怖も悲哀もなかった。しびれるような歓喜だけがあった。およそ場ちがいなとほうもない幸福感に包まれていた。もう死んでもいいと思った。少年は自分のために生命を賭けてくれたのだ。それは魂をゆり動かす、至福の歓びだった。  「聞きわけのない先生だな。これだから、女というやつは始末が悪い……」  「そんなことどうだっていいわ。さ、その手を、あたしの肩にかけて……」  少年は青鹿に助け起こされ、あえぎながら苦笑した。  「服が血で汚れるぜ、先生」  「服なんかどうだっていいわ」  「気前がいいんだな、安給料のくせに」  「安給料だって服ぐらい買えるわよ」  「早く結婚して、亭主に服を買ってもらえよ、先生」  「よけいなお世話だわ」  「なるたけ金持の亭主をつかまえるように祈ってるよ」  「生意気ね。すこし黙ってなさい」  「念のためにいっとくけど、先生を救けにきたのは、先生を愛してるからじゃないんだぜ。誤解しないでほしいな」  「なにいってるのよ。いま救けが必要なのはどっちなの?」  「弱ったふりをしているだけさ。先生のうるわしい母性愛を満足させるためにね」  「こんなに弱ってるのに、口だけは達者ね」  少年に軽口を叩くだけの余裕が残っているのがうれしかった。が、密着した少年の肉体は重く、燃えるように熱い。発熱しているのだ。  青鹿の膝はがくがく[#「がくがく」に傍点]震えだした。ひょっとすると、犬神は死にかけているのかもしれない。  「死なせないわよ。死なせるもんですか!」  つい口走っていた。力をふりしぼって少年の重みを受けとめ、少年がはいってきた戸口に歩いた。たかが数メーターの距離が数キロにも感じられた。息をはずませて、ドアにたどりつき、隙間を抜ける。  銃声が轟《とどろ》いたのは、そのときだった。  「羽黒!」  絶望のうめきが青鹿の口から漏れた。足ががくんとなった。  羽黒は、鷹《たか》に似た鋭い横顔を見せて立ちはだかっていた。  両足を開いて立ち、水平に突きだした右手はワルサーPPKを握っていた。  身体の前面は青鹿たちに向け、二十五メーター前方の標的に対しては横向きに立っていた。銃口と顔は標的に向いている。  銃口がたてつづけに炎を吐き、地下室は轟《ごう》音《おん》に震えつづけた。  標的の黒点が白くはじけていく。  ガウウンガウンガアン……と銃声が咆《ほ》えつづけ、弾倉に収容した八発を射ちつくすと、ワルサー自動拳銃の遊底は開いたままとまった。  羽黒は、ポケットから出した予備弾倉を、銃《じゅう》把《は》に叩きこんだ。あざやかな手つきだった。空弾倉を足許に捨てる。床には空《から》薬《やっ》莢《きょう》が散乱していた。  銃口がおもむろに向きを変え、棒立ちになっている青鹿たちに向いた。死の虚無の深淵が銃口の奥にのぞいていた。  羽黒のうつろな目も銃口に似ていた。  「おめえがくることはわかってた」  と、羽黒は石像のような顔でいった。  「待ってたぜ、犬神」  「おれもな」  と、青鹿の肩にすがっている犬神が応じた。  「いつ出てくるかと楽しみにしてたよ」  「射たないでっ」  青鹿は金《かな》切《きり》声《ごえ》をあげ、身体をまわして銃口から少年をかばった。  「射つんなら、あたしを射ちなさいっ」  「うるせえ。女の出る幕じゃねえ。これは、男と男の勝負なんだ」  「そのとおりだ。せりふ[#「せりふ」に傍点]は陳腐だがな」  犬神は冷やかにいった。  「だめよ! 犬神さんは大怪我をしてるのよ! 怪我人を射ち殺す気、そんなの卑怯だわ!」  青鹿は絶体絶命で叫びつづけた。  「犬神さんは死にかけてるのよ。そんな怪我人を相手にして、なにが男と男の勝負よ。ただの虐殺だわ!」  「犬神はかならずくるといったろうが、先生よ。こうなったら、犬神は逃げやしねえよ」  「犬神さんは、あんたなんかと闘わないわ!」  「その気になるさ。おれが先生になにをしてやったか聞けばな」  「やめて!」  青鹿は身を硬直させてうめいた。  「そうさ、犬神。おれは先生をやっつけたぜ。たてつづけに五回もな」  犬神は無言で羽黒の顔を眺めていた。  「やめて……」  「強姦したのよ。先生の腿《もも》のところに流れてるものを見てみな。なにしろ、たっぷりぶちこんでやったからな。いい味をしてたぜ。それに処女じゃなかったしな、よく練れてた」  青鹿はもう立っていられなかった。両手で耳を覆ってその場にうずくまった。苦悶するように小さく頭を振りつづけた。  犬神は支えを失っても崩れなかった。しっかりと両足を踏みしめて立っていた。感情をあらわさずに、羽黒を凝視していた。  「それくらい、たいしたことじゃないさ」  と、少年は落ちついた声でいった。  「狂犬に咬《か》まれたのは、先生の責任じゃない」  「そうかい。まだやる気が起きねえというのかい。それなら、若いのを二、三十人呼んで、おめえの見てる前で、先生をまわ[#「まわ」に傍点]させようか? 尺八の好きなやつも、裏門専門というやつもいるぜ。三、四日かけてたっぷり楽しませてやろうか」  「それにはおよばない。なんのために、おれがきたと思ってるんだ。おまえに勝手なことをいわせておくためじゃない……」  「いけない、犬神さん! そんな死にかけてる身体でなにができるというの!」  青鹿は跳ねおきて、少年の腕をとらえた。  「ねえ、闘わないで! あなたはもうできるだけのことを、あたしにしてくださったのよ。あたしなんかどうされたっていい、それだけはやめてちょうだい」  青鹿の目から、とめどもなく涙が流れた。血を吐くように必死の思いをこめて懇願する。犬神の顔は、夢みるように穏やかだった。兎《うさぎ》面《づら》の黒田を自滅させたときと同じ表情があらわれていた。  「どいてろ、先生」  静かな顔のまま、少年はいきなり強い力で青鹿をはらいのけた。青鹿の身体がすっとび、床にべったりすわりこんでしまう。  弱りきっていた身体のどこに残っていたのかと驚くほどの、犬神の体力であった。  「死にかけてるだと? この犬神ってやつは、そんなお上品な代《しろ》物《もの》じゃねえよ」  と、羽黒が陰気につぶやいた。  「殺しても死なねえ狼男……そうだろうが。シャツをぬいでみろ、犬神」  「…………」  「ぬいで背中を見せてみろよ」  「…………」  羽黒は無造作に発砲した。灼《や》けた弾丸は、犬神の頭をかすめ、カミソリのように鋭く頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》を切り裂いた。衝撃波がパアッと髪を舞わせる。  「次は、面《つら》のどまん中をぶち抜くぜ。いわれたとおりにしなよ」  少年は、血まみれのシャツをひき裂き、ゆっくりと裸の背中を向け、羽黒の目にさらした。  「思ったとおりだ。いつか記念に、背中にヤッパで刻んでやった犬の一文字、どこへ消えた?」  「おおかた、尻尾《しっぽ》を巻いて逃げたんだろう」  と、少年は平然と答えた。  「そうだろうよ。狼にかかっちゃあ犬もかたなしだからな……不死身の狼男か。おれはわざわざ神戸まで行って、てめえのことを調べてきたんだぜ」  「そいつは、ほんとにご苦労さん……」  少年はゆるやかに、羽黒に向きなおった。  「おれの目に狂いはなかったんだ……おめえはそれ以上のタマだった。ヤッパで斬られても、ハジキで射たれても、くたばるどころか、あっという間に傷口がもとどおりになっちまう、不死身の化《ばけ》物《もの》野郎……」  と、羽黒は単調な声でいった。銃口は巌《いわお》のように小ゆるぎもせず、犬神の心臓を狙いつづけていた。犬神の唇に苦笑がにじんだ。  「それほどでもないさ。このとおり、手ひどくやられちまうこともある。もうハチャメチャになってるさ。そのピストルで射つ気か?」  「きさまを仕止めるには、もっと確実にやらねえとな」  羽黒は、拳銃を腰のベルトの間にさしこみながらつぶやいた。  「そうか。だが、おれもなぐられるのはいい加減あきてるんだ。おまえは拳法の名人だそうだが、おれをなぐり殺すころには、よぼよぼの年寄りになっちまうぜ」  と、大儀そうに犬神。  「そんな手間のかかることはしねえよ」  羽黒は左手をうしろにまわすと、ベルトにはさんで背中に隠し持っていた、黒《くろ》鞘《さや》の日本刀をひきだした。  ゆっくり鞘を払って、青い稲妻の光を放つ刀身をむきだしにする。  「不死身の化物だってな、犬神。首をすっとばされても、まだ生きてるかどうかためしてやるぜ」  羽黒の精悼な体躯[#「躯」はunicode8EC0]から、面《おもて》も向けられぬ凄愴な殺気が吹きだしていた。  それにもまして恐ろしいのは、その笑顔だった。仮面のように無表情な羽黒が、いま舌なめずりして笑っていた。目には、紫色のぎらつく光がチラチラ明滅していた。  「甘いぜ、犬神。青鹿の先公を楯《たて》にとってりゃよかったんだ。死中に活とやらを求めそこなったんだぜ」  まさに血に飢えたしゃがれ声だった。あとにもさきにも、これほど邪悪で猛悪な、破壊欲の化《け》身《しん》を見たことはなかった。想像を絶した、まっくろな怪物が羽黒の皮膚の下に透けて見えた。  「斬るんなら満月のときにしてくれ。月が出てこないと、おれは調子が悪いんだ」  と、少年はあえぎながらいった。  「世《よ》迷《まい》言《ごと》をほざくなっ」  稲妻の弧を描いて刀身がうなった。犬神は後へとんだが、電光のフットワークは失われていた。肩口を刃が断ち割り、血煙があがった。  羽黒はすさまじいスピードでたてつづけに襲った。長大な刃が空気を切り裂く都《つ》度《ど》、少年の身体のどこかから血がしぶいた。  「クロを殺《や》ったときの元気はどうした? そらそらあっ」  羽黒は巧妙に犬神の動きを封じ、壁際に追いつめた。  「ちっとずつ切り飛ばしてやるぜ。最後に首を斬り落とす。最初はどこがいい? 右腕からいくか」  羽黒は呼吸さえ乱していなかった。獲物を追いつめた猫の悪魔的な余裕をのぞかせた。  ビュッと刀身がうなってとんでくる。犬神は絶体絶命だった。やにわに右手で刀をつかむ。  「阿《あ》呆《ほ》が」  羽黒は嘲笑して、ぐいと刀を引いた。その動きにつれて、バラバラとなにかが床に散った。切断された指だった。  青鹿晶子は床にすわりこんだまま麻《ま》痺《ひ》したようになって、このすさまじい光景を凝視していた。目をそらすことも、目を閉じることさえもできなかった。  ザザッと音を立てて、青鹿の前の床へ飛んできたものがあった。切り落とされた犬神の左手首から先の部分だった。  青鹿の全身の血が失われるような気がした。犬神明は死ぬ。それはもはや、確定した事実と思われた。彼は羽黒の凶刃にずたずたに切りさいなまれて死ぬのだ。  犬神の腿から血が噴出した。数メーターも飛んでざあっと鳴った。  犬神の身体はバランスを失い、半回転する。その無防備の背中へ、柄《つか》をも通れ、と羽黒は渾《こん》身《しん》の力で刀を突き立てた。刀の尖端が現われ、三十センチも刀身が犬神の胸から突き出た。  その瞬間、犬神の身体はぐんとエビのように跳ねて、羽黒の手から日本刀をもぎとったのだ。  殺人狂の笑いをへばりつけていた羽黒の顔が狼狽にゆがんだ。  犬神は床に片膝を突いた。刀身で胸板をつらぬかれたまま、肩ごしにゆっくりと顔を振りむける。  羽黒は絶叫をほとばしらせた。  少年の顔は、なにかしら異《い》形《ぎょう》のものに変わっていた。口が耳許まで裂け、牙は太くたくましい大型肉食獣のそれであった。  獣面にはめこまれた双眼は爛《らん》と燃えていた。  「刀を返してやる。さあ、受けとれ……」  それ[#「それ」に傍点]はいった。身を起こして、羽黒に迫る。  羽黒はふたたび絶叫をあげて後《あと》退《ずさ》った。彼は生まれて初めて、真に恐ろしいものと対面していた。呪《じゅ》術《じゅつ》的な恐怖が巨人の拳《こぶし》のように彼の心臓を握りしめた。  「刀を取れ……」  それ[#「それ」に傍点]はじりじり迫ってきた。胸部から生えたような異様さで、鈍く光る刀身が突きだしていた。  羽黒の弛《し》緩《かん》した口のすみから唾液があふれ、顎《あご》を流れ伝わった。意味のない発声が漏れた。焦点を失った目の瞳孔は拡大していた。  羽黒の魂の根源に巣食っていた呪術信仰が彼自身を破滅させた。彼は自分を悪霊だと信じていた。だれよりも強大で猛悪な怪獣に似た悪霊が彼の守護神だった。それが彼とあるかぎり、彼は比類なく凶暴で強大であった。が、彼の悪霊は眼前の獣面の存在に敗れた。敗北を知って悪霊は彼を見捨て、あとかたもなく消え失せた。憑《つ》きに見はなされたのだ。無防備な裸の自我はもろくも潰《つい》えた。  そのとき、羽黒は発狂していた。腰のベルトにさしこんだ拳銃さえ使おうとしなかった。鍛練によって習得した闘技のテクニックの片鱗もない動きでやみくもに突進した。両者の身体が鈍い音を発して激突する。  羽黒はぐうっと息をしぼりだし、身体を痙《けい》攣《れん》させた。血が締まりのない口からあふれでた。  がくっと膝が曲がり、身休が後方にかしいだ。血と脂にまみれた鋼鉄の刃が、羽黒のみぞおちから、ゆっくり抜けだした。  羽黒は、犬神の胸をつらぬいた刀に、みずからを縫いとめてしまったのである。  羽黒は、瞳から光を失い、仰向けに床にころがった。        32  羽黒は倒れた。  幅広い鋼鉄の刀身に、神経系の集中した内臓器をつらぬかれたため、急激なショック症状につかまれていた。  急速に体温が低下し、灰色を呈した皮膚は多量の発汗で濡れそぼった。致命傷でなくとも、多くの場合、この段階でショック死する。  しかし、犬神明はまだ立っていた。目には炎が燃えている。不屈の魂が燃焼しているのだった。  「しっかりするんだ、先生!」  彼は、床に茫然とすわりこんでいる青鹿晶子に叱《しっ》咤《た》を投げつけた。  「腰を抜かしてもいい。だが気絶だけはしないでくれ。しっかり目を開けるんだ! 目を開けて、おれをよく見ろ!」  青鹿は、金《かな》縛《しば》りにあったようだった。ゆがんだ顔に、涙が伝わった。唖[#「唖」はunicode555E]《おし》のように無意味な発声を繰りかえしながら、彼女はただ激しく涙を流していた。  はっきりとものを考えることができなかった。脈絡のない思考が無秩序にからみあい、頚の中が火のように灼熱し、その都度うめきが口を漏れた。  「救《たす》けてくれ、先生」  少年は、祈るような目を、青鹿のうつろな目にあわせた。彼女は発狂しかけている。あまりにも酸《さん》鼻《び》な光景が、彼女の精神の均衡を奪ってしまったのだ。  「先生の救けがいるんだ。このままだと、おれは死ぬ……わかるか、先生? 救けてほしいんだ……」  彼は、何度も同じ言葉を反復させ、彼女の心に浸透させようと努めた。  水が秒地を湿らすほどの緩慢さで、青鹿の目に光がよみがえってきた。  少年が、自分に救いをもとめていることを、彼女は理解しはじめた。  「その顔は……どうしたの……」  ようやく意味をなした言葉が青鹿の口をついて出たが、およそこの場にそぐわぬ質問だった。  「やっぱり、狼のマスクじゃなかったのね。それが、あなたの本当の、素顔だったんだわ」  彼女はちいさく笑った。  「あたしには、わかってたのよ、犬神さん。あなたは人間じゃなかった。狼男だったのよ」  自分はいったいなにをいってるのだろう、と青鹿は異様な驚きをおぼえた。言葉が勝手につむがれて、口からすべり出るのだ。自分で自分を制御できぬ、異常なもどかしさ、まだるこしさ。  自分が、ひどく場ちがいで悠長な言葉をならべている間にも、刻一刻と少年の生命は、体外に流出しつづけている、とわかっているくせに、どうすることもできない。  「救けてくれ、先生」  と、少年が辛抱強く繰りかえした。  「立つんだ。立ちあがってくれ……」  少年の目の磁力にひかれるように、青鹿はふらふらと床から身をひっぱりあげた。ほとんど無意識の動作だった。  「そうだ……こっちへ来て、この刀を抜いてくれ……」  少年は加速度をつけて、身体の正面を壁にぶちあてた。胸部に突出していた刃先が、コンクリート壁に圧迫され、背中に刀身が押し出されてくる。  麻痺していた苦痛感覚が爆発的によみがえり、少年はすさまじく苦悶し、身を痙攣させた。  「刀を抜くんだ。柄《つか》のところをしっかりつかんでひっぱれ」  と、大量の吐血の合間に濁った声をしぼりだす。  青鹿は、夢遊病者の動きで歩み寄り、グロテスクな角度で背中から生えている刀の柄を両手で握った。  「力いっぱい、ひき抜くんだ」  青鹿が、正常な精神状態にあったら、とうてい不可能な行為だったろう。が、いまの彼女は、少年の命令にしたがう自動人形に似ていた。  柄を両手でつかむと、異常な力を発揮し、ぐいっと一気に引いた。すでに、刀身に肉が巻きつきかけていたのか、ガボッと胸の悪くなる異様な音を発して、刀が全貌を現わす。いきおいあまって青鹿は床に尻もちをついた。  腰を落としたまま、呆《ほう》けた目つきで、まじまじと血脂にまみれた刀身を見つめていたが、いきなり悲鳴とともに放りだした。  ようやく事態がのみこめたのだ。  「い、犬神さん!」  恐怖と狼狽とで火のついた声をあげる。  少年は、壁面にそって身体を回転させ、青鹿に向きなおった。  青鹿は、その異形の獣面が、見なれた少年の顔に戻っていく過程を、まざまざと見定めた。  しかし、その顔にはまぎれもない死相が色濃く現われていた。全精力を最後の一滴にいたるまで使いはたしてしまったのだ。  不吉な疑惑が突風のように襲い、青鹿の心身をゆるがせた。  少年はもはや死んでいるのではないか。この無残に切りさいなまれた肉体は、すでに心臓の鼓動を停止しているのではないか。伝説の狼男は死によって人間の姿を回復するという……  彼女は死に物狂いで、心を凍らす想念を振りはらった。  ぐらっとゆれて、少年の身体が青鹿の胸に倒れこんできた。  「きっと、すぐによくなるわ……すぐにもとどおりになるわ。だって、あなたは不死身のウルフですもの。死ぬもんですか。これくらいで死んだりするもんですか!」  青鹿は叫ぶようにいった。彼女は祈った。生まれて初めて、心の底からの熱烈な祈りをささげた。病院へ着くまでに少年の生命が絶えることのないよう、狂おしいまでに祈った。  「病院へ行くのよ。先生が連れていってあげる……よくなるまで、そばについていてあげる」  青鹿は、少年の重みを肩に荷《にな》い、一歩一歩、力をふるいおこして歩きだした。鉄扉をめざして、よろめき進んだ。必死の思いが、常にない力を彼女にあたえた。  が、たどりつく前に鉄扉は大きく開かれ、男たちがなだれこんできた。東明会の組員どもであった。  もうひとつのドアも押し開けられ、やくざどもが足を踏みこんだ。そのほうの先頭に立っている中年男は、一目で羽黒の父|武《たけ》雄《お》と知れた。  顎《あご》に古い傷の走る顔は、鷲《わし》に似て猛だけしく、とりわけ目がすさまじかった。正視に耐えない獰《どう》悪《あく》な眼光を放っていた。  男たちは、口々に驚愕のうめきを発した。  地下室は、血の海という形容が誇張ではなかった。さしもの獰猛な男たちも度肝を抜かれて棒立ちになった。  「かっ、会長、獰《どう》さんが」  「獰《どう》さんが殺《や》られてる!」  「あの獰さんが、信じられねえ!」  と、口走りながら、突き刺すような憎悪の目を、少年を支えた青鹿に向ける。  「だれだ、殺ったのはっ」  「このあま[#「あま」に傍点]、てめえかっ」  血溜りの獰にかけ寄った数人が、名を呼びながら獰の上体をかかえ起こした。が、獰の目は死魚のそれのように、鈍い薄膜に覆われていた。  「だ、だめだ、息がとまってる!」  「もういけねえや!」  と、悲痛な叫びを絞りだす。ひとりが床から血で汚れた日本刀を拾いあげた。  「こいつで殺ったんだ!」  と、絶叫した。  わらわらと立ちこめる殺気を感じないもののように、青鹿は少年を肩に、戸口の男たちに向かって進みはじめた。  「待ちやがれっ、あま[#「あま」に傍点]、どこへ行く気だっ」  男たちはいっせいに短刀を抜き放って身がまえた。  「そこをどいてください」  青鹿は、短刀の光をまったく意に介さずにいった。彼女の目はまっすぐ羽黒武雄の目にあてられていた。他のやくざ[#「やくざ」に傍点]たちは目にはいらないようだった。  「あたくしは、博徳学園の教師です。怪我人を病院に運ばなければなりません。道をあけてください」  しっかりした声だった。  「だれが獰を殺った?」  と、羽黒武雄が初めて口をひらいた。声や表情に動揺した気ぶりもなかったが、異様なものが目を底光りさせていた。  「おまえさんか、それともその若造か?」  「だれでもありません。自分でやったのです。自分で自分を刺したのです」  「嘘《うそ》をいうのじゃねえ」  地鳴りのするような声だった。  「獰は、そんなへまはやらねえのだ」  「嘘じゃありません。この生徒の手をごらんなさい。これで刃物が握れると思いますか?」  青鹿は、指と手首から先を失った少年の両手に注意を集めさせようとした。獰がみずからを刺した状況を説明した。  「この生徒が大怪我をしているのが見えないのですか。あなたの息《むす》子《こ》さんがやったのです。わかったら、あたくしたちを行かせてください」  「すると、女の先生、あんたが獰を殺ったということになるな……」  羽黒武雄の顔と声は、無感動にさえ感じられた。  「なにをいうんです! あれは事故だったんです……」  「そんなことは信じられねえよ」  「あなたがどう思おうと、事実は事実です! ぐずぐずしているわけにはいかないんです。そこを通してください」  「行かせねえよ」  「なんですって……」  彼女は息を呑んだ。茫然と羽黒の冷酷な顔を見返した。  「獰を殺ったのが、そのくたばりかけた小僧だろうと先生だろうとかまわねえ。ともかく帰すわけにはいかねえのだ」  「この生徒が死にかけているのがわからないんですか」  青鹿は、羽黒の非情な声の響きに慄然として叫んだ。眼前の中年男がやくざ[#「やくざ」に傍点]であり、ことの理非をわきまえない、蠍《さそり》のように異質な心の持主だということを、突然さとったのだ。それは頭に直接衝撃を受けたような驚愕だった。  「知ったことか。うちの獰は死んだんだぜ。下《げ》手《しゅ》人《にん》にはかならずその償《つぐな》いをさせる」  「お願いだからどいてください。そんなことをいい争っているひまはないのよ。それがどうしてわからないの」  青鹿は絶望的な涙声で叫んだ。  「お願い、通して!」  「ならねえ!」  刺すような凄みのきいた一喝だった。  「あんたには、どうあっても本当のことをしゃべってもらうぜ。こうなったら身体にきいてやる。裸にむいて、鞭《むち》でひっぱたけば正直になるだろうよ」  「あなたはそれでも人間なの。人でなしっ、恥知らずっ、けだものっ」  青鹿は怒りに燃えて叫んだ。身震いするほどの激しい怒りだった。  「お上品なこった。さすがは学校の先生だ。さあ、この先生を裸にむいてやれ」  と、羽黒は実に冷酷な表情で手下どもに命じた。待ちかねたように、やくざどもが青鹿に襲いかかろうとした。そのときであった。青鹿の肩で失神していたはずの少年が、突如すさまじい反応を見せた。  指の欠けた右掌がひらめき、青鹿をつかもうとしたやくざの頬[#「頬」はunicode9830]げたを強打したのだ。頬[#「頬」はunicode9830]肉が、耳許までざっくり割れ、奥歯を裂けめからまきちらして、そいつは吹っ飛んだ。足蹴りが一閃し、もうひとりの下腹都に足首までめりこんだ。背骨の折れる無気味な音とともに、五メーターも身体が飛んでいき、コンクリート壁に頭蓋骨が激突した。  時限爆弾の爆発に似ていた。その速さ、猛烈さは人間|業《わざ》ではなかった。  「先生に手をだすんじゃないぜ」  と、青鹿を背後に押しやりながら、少年はいった。  「獰を殺《や》ったのはおれだ。先生は関係ない。わかったな……」  「犬神さん!」  青鹿は愕然として叫んだ。  少年の死人のように血の気のない顔に、あのしぶとい笑いがへばりついていた。すべての苦痛から超然とした笑いだった。彼は死すら超えていた。異常な生命力だけではなかった。なにものも彼を屈服させることは不可能だった。彼は不屈であるばかりでなく、不滅の存在であった。  いまこそ、おれは自由だ、と少年は心の中に叫んだ。おれはこれまで、生きるってことがどんなものか、どうしてもわからなかった。だからこそ闘いを避けつづけてきたのだ。いやしく醜い人間と同列になることは我慢ならなかったからだ。だけど、たったいま、おれの生き甲斐は明示された! こいつら邪悪な暴力の怪物、人間どもをたたきつぶすことこそ、おれの使命だ! 青鹿はこいつらを人でなし[#「人でなし」に傍点]と呼び、けだもの[#「けだもの」に傍点]と呼んだ。が、それはまちがいだ。なぜなら、こいつらはまぎれもなく人間そのものだからだ。人間こそ外《げ》道《どう》だ! おれはもう闘いを避けない。とことんまでやってやろうじゃないか!  いまこそ鎖は咬《か》み切られた!  とほうもない歓喜がこみあげた。  男たちは、電気にかかったように緊張し、必殺のやくざ[#「やくざ」に傍点]独得の剽《ひょう》悍《かん》なかまえで、短刀をおのおのの胸の前にかざした。  突然、音もなく地下の全照明が消えたのはそのときである。濃密な真の暗闇が充満した。   ウォ〜〜ウ〜ルルルルルオ〜〜ンッ  凄絶な狼の雄《お》叫《たけ》びが、地下の闇を底鳴りさせた。それは、やるせない憂愁にみちた遠吠えとはまったく異質の、雷鳴にも似た勇壮な咆《ほう》哮《こう》であった。  次の瞬間、闇は恐慌の悲鳴の渦《うず》と化した。  轟然と銃声が鳴り、銃口から噴きだすオレンジ色の火《か》箭《せん》が天井に向けて走り、夏の夜の稲妻のように一瞬闇を切り裂いた。  その光芒が、魔物のように荒れ狂う巨大な狼を写真のフラッシュのようにとらえた。  発砲したのは羽黒武雄だ。銃声がたてつづけに轟《とどろ》き、鮮やかな発火炎が、まっしぐらに躍りかかってくる巨狼を宙に刻印した。牙をひらめかせて跳躍した狼の姿は、恐ろしい悪夢の光景だ。  残像が消えぬうちに、サイレンのような恐ろしい悲鳴が響きわたった。  次のフラッシュは、鋭利な牙で切断された羽黒の右手ごと拳銃が床に落下し、そのショックで暴発した発火炎の閃《せん》光《こう》であった。        33  闇をつらぬく一条の光があった。  長い長い暗《あん》渠《きょ》の行方《ゆくえ》に、光を見出した感じ。それとも、それは漆《しっ》黒《こく》の闇にぬりつぶされた大天蓋にひとつきらめく星の輝きなのか。  光はみるみる拡大する。すさまじい速さで暗渠を運ばれる感じ。脱出感覚。  意識は傷ついた肉体を離脱し、時間を逆行する。それは果てしない時空間の旅だ。  |精神の旅《サイコ・トラベル》。  苦痛と歓喜の原泉。意識はその幼時期の一点への回帰をめざす。  彼は、光の裂けめの中へまっしぐらに突入する。母の産道を脱する感覚とのダブル・イメージ。  広大な光があふれる。  そこは、彼の魂の故郷である。  自我が目覚める。自分がなにに属するかという自覚。  あ〜〜ぁ〜お〜〜ぅ〜〜ぅ〜よ〜〜ぅ〜〜ぅあ〜〜ぁ〜お〜〜ぅ〜〜ぅ〜よ〜〜ぅ〜〜ぅ  もの悲しい憂愁にみちた叫び。  その叫びは、荒涼とした灰色のツンドラのかなたから響いてくる。  遠い地平にたたなわる山脈。それは三千メーターをこす峰々の連なりである。そして無数の氷河のきらめき。  ツンドラの平原のあちこちに、小さな木立や灌木の茂みがまばらに散っている。  冷たく静かな北極圏の世界。  しかし、いまは北極の短い夏のさなかであった。平原にはまばゆい光があふれていた。  彼は輝きわたる広漠としたツンドラを眺めていた。  五歳の夏の日。  少年の小さな肩に、暖かくやわらかな手がかけられていた。母親の手の感触。  その女《ひと》は、少年のかたわらに膝を折ってうずくまり、目を平原のかなたに向けていた。  彼女の目は、明るく澄み、宝石みたいに光っていた。  夏だったので、長袖のシャツを肘《ひじ》のところまでまくりあげ、ぴっちりしたスラックスをはいていた。ほっそりした美しい肢体の線が浮きでていた。  ふたりは、小高い丘の上で、期持に胸を躍らせて待っていた。  少年は何度も振りかえり、もの問いたげに母親の顔を見あげた。我慢しきれずにきく。  「いつ来るの? ねえママ、いつ来るの?」  「いま来ますよ……」  母親は辛抱強く答えた。ふたりはどれほど期待して待っていたろうか。  「ほら、見て! 来たわ!」  母親がさけび、指が少年の肩をつかんだ。  彼らがやってきた。  ふたりのいる丘のへり[#「へり」に傍点]に頭がうごいた。つづいて、細長いクリーム色の身体が現われた。  大きな毛むくじゃらの、目を光らせた野生の灰色狼たち。  彼らは立ちどまって、黄色い目でふたりを見つめた。  「こわいよ、ママ、こわいよ」  少年は突然、恐怖にとらわれて尻ごみし、母親の胸に顔を埋めた。母親の鼓動は力強く平静なリズムを刻んでいた。  「こわくなんかないのよ。だって、お友だちですもの」  母親はやさしく、確信をこめていい、少年の身体を狼たちに向かって押し出した。  少年はおっかなびっくり、それでも勇気をふるいおこして、足を踏みだした。  狼たちも接近してきた。用心深い足どりでそろそろ近寄ってきた。  少年は緊張のあまり足をもつれさせて、狼たちの目の前でころんでしまった。  狼たちは鼻を鳴らしながら、仰向けに倒れた少年の身体をとりかこんだ。  彼らには、もはや恐れも警戒もなかった。毛深い頭をさげ、細長い鼻《はな》面《づら》を少年の顔によせて、母親の愛撫に匹敵するやさしさで挨《あい》拶《さつ》した。いっぱいに開《あ》けた顎《あご》で少年の頬[#「頬」はunicode9830]《ほお》をはさむ。  最初の出逢いは終わつた。  狼流儀の正統な儀式にのっとり、少年は彼らの仲間であることが認められたのだった。  母親はうずくまり、その光景を満足げに見まもっていた。美しい褐色の瞳には、不思議な勝利の輝きがいっぱいにやどっていた。  野生の狼たちは、その母親にも挨拶するために近寄った。頭をさげてお辞儀をし、しなやかな優美な動きで身体をひねって身を伏せた。片方の前脚を母親の肩にのせ、愛情のこもった目で彼女を見つめる。  ほどなく丘の上は、親子をとりかこんだ狼たちの熱烈な遠吠えの合唱でみちあふれた。はるか遠方のツンドラのかなたからも、別の群れの狼たちが朗々と答えた……  それからというもの、少年はいつも狼たちとともにいた。つねに一群の野生の狼が少年にしたがっていた。彼らはまるで少年に夢中であった。  少年は狼たちに同行し、平原をこえて狩りに参加した。獲物であるカリブーの群れを追った。  少年の異常に力強い足は、五歳の人間の幼児のものではなかった。タフで疲れを知らぬ長距離ランナーの狼たちに伍《ご》して、いささかもひけ[#「ひけ」に傍点]をとらなかった。  この五歳の夏こそ、少年にとって至高至福の生涯の一時期であった。  そうだ。少年には父親がいたはずだ。  顔中を黒く剛《こわ》い髭《ひげ》に埋めた男としかおぼえていない父親が。  しかし、狼たちは父親を好まず忌避した。  あれほど少年と母親を崇拝し、つきまとった狼群は、父親の姿を遠方に見るだけで一《いち》目《もく》散《さん》に逃走してしまうのだった。父親だけが、狼の仲間ではなかった。  父親は、ベニヤ板で小さな掘立小屋を建てた。資材は空輸された。近くの湖に水上機が着水するのだった。  両親がどのような理由から、北極圏の人里離れたツンドラ地帯で、少年を育てようとしたのか、もちろん五歳の少年の知るよしもないことだった。  そんなことにかかわりなく、少年は狼たちと暮らし、幸福そのものだった。  少年の関心のすべては、仲間の狼たちと、北極圏に住む野生動物に向けられていた。  平原を疾駆するカリブーの大群。美しい灰色熊のグリズリー。パルカ・リス。雷鳥。ウルヴリン。北極狐。からす。はたねずみ。  少年は、狼たちの狩りに同行したが、殺しには手を出さなかった。母親にかたく禁じられていたからである。空腹でもないのに、動物を殺してはいけないのだと教えられた。  小屋には食料がたっぷり貯蔵され、そして仲間の狼たちは、獲物の肉を少年にプレゼントしてくれた。新鮮な生《なま》肉《にく》を腹中におさめて運んできて吐きだすのだ。狼ほど気前のいい、親切な動物はまたといないのだ。  冬の訪れとともに災厄がやってきた。  ツンドラが固く凍り、湖も一面に氷結し、北風が遠い山頂から粉雪を運んできた。  狼たちの体表も分厚い冬毛に覆われた。長くきびしい酷寒の季節の到来である。草を求めて南下するカリブーの群れがひっきりなしにツンドラを横切っていく。狼たちにも荒野の放浪がひかえていた。  そんなある日、見知らぬ飛行機が飛来したのが、異変のはじまりであった。  それは、定期的に家族に食料や必需品を運んでくる飛行便ではなかった。  結氷した湖にまいおりた双発機は、見知らぬ男たちを数名吐きだした。  男たちは自動小銃で武装していた。彼らが何者であったか、いまになってもわからない。やにわに彼らと小屋にいた父親との間に射ちあいがはじまった。父親もライフル銃で応射した。  射撃戦がはじまったとき、少年と母親は小屋から一キロほど離れた場所で銃声を耳にした。  母親は、少年にその場に待っているように命じ、小屋のほうへ走っていった。彼女は狼のように足が速かった。  母親のしなやかな美しい姿を見たのは、そのときが最後だった。  やがて、飛行機が飛び去り、小屋は黒煙を吐き、炎につつまれた。  母親の命令をまもって、数時間を待った少年は、戻らぬ母親をさがしにいき、焼け落ちた小屋の残骸を見た。  両親の姿は見えなかった。  雪の上に血が染みていた。血痕は点々と湖につづき、そこで消えていた。  少年は、なにごとが起きたのか理解した。両親はなにものかによって殺害され、死体は飛行機で運び去られたのだ。  すでに夜が来ていた。北極のすさまじい酷寒の夜が。  少年は、百マイルにわたる無人のツンドラ地帯のまっただ中に、ただひとり着のみ着のままで遺棄されたのである。小屋も食料も、すべてが灰と化していた。  夜空に昇る巨大な月に向かって、少年はふりしぼるような叫び声をあげた。狼たちが、その悲しみの叫びに、いっせいに遠吠えでこたえた。  五歳の幼児は、恐るべき北極の冬のただ中で生きねばならなかった。人間の幼児だったら、その夜のうちに凍死していたろう。  少年の身体に、最初の獣人現象が生じたのはそのときである。  少年は、月に向かって吠えた。鋭い孤愁の悲しみを訴えつづけた。  それは狼の告別の悲歌だった。        34  ああ、狼が遠吠えしている、と青鹿晶子はぼんやり思った。  もちろん錯覚だった。遠方のサイレンの叫喚だった。  どこをどうやって、あの地下の暗闇から脱出してきたのか、あとになっても見当がつかなかった。  気がついたときは、少年の身体を両腕に抱いて庭に立っていた。自分の身体のどこからそんなとほうもない力が出たのか信じられなかった。無我夢中だったのだ。  そこは東明会会長朝田の屋敷の庭だった。  正気に戻ると同時に、腕の中の少年の身体が突如として数トンの重みと化した。膝がくだけて、少年を抱いたまま、へたへたとその場へくずおれてしまった。  熱気が背後から押し寄せてきた。日本風の屋敷が炎と黒煙をおびただしく吐いている。すべての灯火が消えた邸内は、火炎が光を乱舞させていた。  火事だとわかっても動けない。  少年を抱きしめて地上にすわりこんでいる青鹿に向かって、燃える屋敷のほうから敏捷な人影が走り寄ってきた。青鹿の肩をつかんでゆする。  「しっかりしろ、先生!」  と、どなりたてる顔に見おぼえがあった。  ああ、あのトップ屋の神《じん》明《あきら》だ……  青鹿は呆然と男の顔を見あげていた。神《じん》はやにわに彼女の腕から少年の身体をもぎとり、肩にひっかついだ。吹けば飛ぶような痩[#痩はunicode7626]身に似ぬ大力だった。  「こっちだ、先生、来なさい!」  神明は片手で彼女をひき起こすと、手首を握ってひきずるように走りだした。わけもわからず、青鹿もガクガクする足を踏みしめて走った。  人間ひとりを肩にかついでいるくせに、痩[#痩はunicode7626]せこけたトップ屋の足は飛ぶように速かった。屋敷のほうでは騒ぎたてる叫喚が響いている。  裏門までたどりつくと、ぶっ倒れている門衛ふたりの身体が目にはいった。散弾銃がそぼにころがっている。  足音で正気にかえったのか、門衛のひとりがのろのろ上体をもたげ、落ちている銃に手を伸ばした。  神明はかけぬけざま、陽気なかけ声もろともすばやく顎《あご》を蹴飛ばした。そいつは目を白く反転させ、あらためて気絶しなおした。  裏門の前にまわしてあったブルーバードSSSに少年の身体をかつぎこみ、青鹿を押しこむと、神明は車を猛然と発進させた。サイレンをけたたましくつんざかせてかけつけてくる消防車と次つぎにすれちがう。東明会会長の屋敷は盛大に燃えているらしい。青鹿は気にしなかった。ルポライターの予期せぬ救援すら念頭になかった。  車のリアシートで、青鹿は少年の頭部を膝の上にのせて茫然とすわっていた。  すでに生命の火は、少年の肉体から永遠に消え去ってしまったかのようだった。  血はすでに凝固していた。血液の大半は、体外に流出してしまったのであろう。青鹿の膝の上の顔は、石像のように硬く冷たかった。  青鹿は、掌《てのひら》を少年の冷たい顔に這わせ、頭を小刻みに振りつづけた。このうえなく貴重なものが失われていくのを感じていた。それは掌の中の水が、指間をすりぬけるように失せていくのだった。  このとりかえしのつかぬ喪失感。この痛手から、自分は二度と回復できないだろう。  もはや自分をいつわる必要はなかった。  青鹿晶子は、全身全霊をあげて、少年を愛しているのだった。この一瞬の底深い魂の結びつきを経験する、ただそれだけのために、青鹿はこれまでの二十数年間を生きてきたような気がした。        35  五百燭光の無影灯の下、手術台上に、少年の全裸の肉体が横たわっていた。  それは死体の蒼白さをそなえていた。それ以上にまったく血の気がなかった。十数か所もの創《きず》痕《あと》が醜い裂けめをつくっていた。生命の痕跡すら感じられぬ肉体は、もはや死体としか目に映らない。  手術台上の少年をかこんで、心電スコープや血圧計、人工心肺などの機器が林立し、白づくめの術者、看護婦がいそがしく動きまわっている。  少年は仰向けのまま気管チューブを插入されていた。チューブの先はバッグにつながれている。助手の手の操作にしたがい、バッグは露出した肺のようにふくれたりちぢんだりした。  両腿の付根が切開され、大腿動脈と大腿静脈がむきだしになった。  「カテーテル」  血管の断面から、カテーテルが插入される。吸引器が単調にうなっている。  「ソルコーチフを二筒注射」  術者が命ずる。  人工心肺が作動をはじめていた。しかし、大腿動脈からの補助循環は思わしくなかったようだ。  「開胸して、完全循環にきりかえる」  と、顎までかくれた大きなマスクの上の目をぎらりと動かして術者がいった。  「メス」  メスが走り、胸骨の白い骨膜を露出させた。電気|骨《こつ》鋸《のこ》の鋸歯がきしみ[#「きしみ」に傍点]をあげる。  開創|鉤《こう》が創《きず》口《ぐち》を左右に開いて固定する。カテーテルが心房へつながれた。  「ヘパリン」  血液凝固阻止剤が注入される。  「血液はどうした?」  と、術者がたずねた。  「四本だけです」  と、婦長がこたえる。  「それじゃ、足《た》りん。十本は、いるといったろう」  「AB型なのでストックが……」  「血液銀行はどうしたんだ。すぐ取りよせろ」  「在庫がないそうです。いまさがしています」  「それじゃ、間にあわんぞ!」  術者はわめくような声をだした。  「だめだ、だめだっ、もういかん!」  「サイナリズムはまだあります」  と、助手がいった。心臓がまだ動いているということだ。  「むだだ!」  と、術者は吐きすてるようにいって、マスクをむしりとった。  「動作なし、反射なし、熱反応なし、脳波消失、瞳孔拡大固定、自発呼吸なし。つまり、脳死だ! 条件は全部そろっている。脳機能は絶対回復しない!」  外科医の口調はかみつくようだった。  「しかし、心臓《ヘルツ》が……」  「心臓がどうしたというんだ! わずかながらまだ動いている、ただそれだけのことだ。奇跡的に生きのびたとしても、植物人間になるだけなんだ。生をよそおっている死人になるんだ。おまけに輸血用の血液も絶対的に足りない。これ以上なにをしようとむだだ」  重苦しい沈黙が手術場を満たした。助手も看護婦も無言で外科医を見ていた。彼の次の言葉を固《かた》唾《ず》を呑んで待っていた。  「手術《オペ》中止……」  と、外科医はからみつく沈黙を振りきるようにいった。  それは死の宣告であった。        36  轟《ごう》々《ごう》と地軸をどよもして、烈風が咆《ほ》え猛っていた。面《おもて》も向けられぬ雪嵐《ブリザード》だった。  ランドを吹き渡る風が、悲痛な哀歌をかなでている。  ブリザードの中を、犬神明が歩いていく。青鹿晶子は少年を追っているのだが、どんなに急いでも、追いつくことができないのだ。  早く追いついてひきとめなければならない。でないと、取りかえしのつかないことになってしまう。  大声をだして呼びとめようとしても、風のすさまじい叫喚に声をかき消されてしまうのだ。それが身を切られるように悲しく、もどかしかった。  と、彼女の必死の思念が通じたのか、少年は足をとめて肩ごしに振りかえった。力強い眼光が青鹿の目を射た。  行ってはだめ、と彼女はけんめいに呼びかけた。そっちへ行くと、もう二度と帰れなくなってしまう……  少年は答えなかった。目には訣別の色があった。行ってしまうつもりなのだ、と彼女は絶望に身《み》悶《もだ》えした。少年は不浄の人間世界を見捨てる決心なのだ。  すると、少年の顔が、あの異形の獣面に変わっていった。  彼は決然と青鹿に背を向けると、渦巻く雪煙の中に姿を没していった。最後の瞬間、その姿は完全な狼のそれに変身をとげているようだった。  少年は、青鹿のついていけない他の世界へ立ち去ってしまったのだ。  青鹿は苦悶するように息をついた。  夢を見ていたのだ。  自分がベッドに寝ていることだけはわかる。だが、場所がどこなのかわからない。  身体がへんに重くて、自分のもののようでなかった。  記憶がすこしずつ戻ってくる。  あのあと、病院からパトカーで運ばれて、警察の一室で、係官の事情聴取を受けた。犬神明のそばにつきそっていたかったのだが、事情を説明しないわけにはいかなかった。  そのうちに、奇妙な倦怠感と脱力感に襲われ、悪寒がして完全に気力がなくなってしまった。  椅子から立つこともできなかった。  電話が鳴って、係官が送受器をとりあげ、なにやら話をしていた。そのあとで、係官が犬神明の死を告げたのだった。それからの記憶がまったく欠落している。失神したのだろうか。  それがどうしたのだ……と彼女はうつろに、熱もなく思った。  救急病院に運びこんだとき、少年はすでに死体と化していた。自分にとって、すべてが終わってしまっていたのだ。  心がひからびてしまっていた。悲しみもなげきもはるかに遠かった。  目の焦点があって最初にうつったのは、壁際のソファに腰をおろしている、中年の婦人であった。立派な身なりをしていた。仕立てのいい服は、黒ずくめのマキシだ。喪服の女だと、青鹿は思った。自分も喪服を着なければならない。  意志の強そうな、はっきりした輪郭の美しい顔にはまったく見おぼえがなかった。婦人は、身じろぎもせずに、ベッドの青鹿を見まもっているようだった。  青鹿が目をひらくのを見定めたように、婦人はおもむろに椅子を立ち、ベッドに歩み寄ってきた。  「三日間ですよ」  と、見知らぬ婦人は低い静かな声でいった。  「三日間も眠りつづけていたのですよ。四十度近い高熱がつづいて……」  すこしもぴんとこなかった。  「ここは……」  と、重い口をやっと動かした。  婦人は医師と設備の優秀なことで有名な病院の名をいった。しかし、なぜ自分がそんな所にいるのか見当もつかなかった。  そういわれてみると、おぼろげな記憶がよみがえってくる。  「よっぽどまいっていたのね。可哀《かわい》そうに」  と、婦人が同情をこめていった。  あなたは? という目で青鹿は婦人を見返した。口をきく気力がなかった。  「わたしは、山本勝枝という者です。犬神明の伯母の」  青鹿は、無感動にうなずいた。  「しらせを受けて、急いでアメリカから戻ってきたのです。あなたとお話したくて、気がつくのをずっと待っていました」  山本勝枝と名乗った婦人は、顔を寄せて近々と青鹿の目をのぞきこんだ。  「ほんとに、たいへんな目にあいましたね」  深いいたわりと憐《れん》愍《びん》のこもった声音であった。  突然、青鹿の目に涙があふれた。大きく見ひらかれたまま、盲《めし》いたような目から、生きもののように涙が枕につけたこめかみ[#「こめかみ」に傍点]にすべり落ちていった。  泣きたいのではなかった。単なる生理現象にすぎなかった。しかし、婦人はいたく感動したようである。  「もうすこし元気になったら、またお話をしましょう」  婦人はバッグを開《あ》け、とりだした絹のハンカチに青鹿の涙を吸わせながら、そっといった。  「明のことで、先生に聞いていただきたいことがあるのです……」  青鹿はなにも答えようとはしなかった。足音を忍ばせるように立ち去った婦人と入れかわりに、看護婦が病室にはいってきた。  青鹿は天井に目をすえ、うつろな思いを追っていた。  いまさら、死者の話をして、それがいったいなんになろうか。自分が高熱にうなされて昏睡している間に、過ぎ去った三日間。  その空白の間に、犬神明の肉体はひとつかみの灼《や》け焦げた骨灰に変わってしまったのだ。  少年の葬儀に出席することもできなかった。  だが、もとよりそんなことに意味があるわけではない。病院へ向かう車中で少年の冷たい死に顔を膝にのせたとき、自分にとっていっさいが終わるのを知ったのだから。  青鹿晶子は、魂を抜かれた人間だった。  なにごとに対しても無関心無感動の、離人症に似た状態におちていた。  その夜、彼女はべッドを降り、素足のまま病室をぬけだすと、病院の屋上へ昇っていった。  青鹿の行動は、夢遊病者のそれに似ていた。ただ、これから自分がしようとしていることだけ、はっきり認識していた。  死ななければならないと思ったのだ。それは明白な決定事項だった。犬神明が死んだからには、自分も死ぬのだ。  廊下でも階段でも、看護婦に行きあわなかった。屋上へ通じるドアの錠もおりていなかったから、彼女は難なく屋上にたどりついた。なにものも彼女の行為をとめることはできないのだ。  吹きさらしの夜の屋上に青鹿は歩み出た。寒気はきびしかったが、気にはならなかった。自分が裸足《はだし》で寝巻一枚であることも意識になかった。すべての知覚が麻《ま》痺《ひ》して、自動人形になったみたいであった。  屋上は広々として、静かだった。換気小屋の装置が穏やかなうなりをたてているだけだった。  夜空はよく晴れわたり、星々が氷柱《つらら》の切っ先のようなとげとげしい光を放っていた。地平線近くに、上弦の月がずり落ちかけていた。  青鹿は、屋上の金網の柵に手をかけた。八階の高処からの垂直の落下。失敗の懸念はなかった。  青鹿の瞳孔は拡大していた。死にのぞんですら、なんの感情もわかなかった。  青鹿は、腰までの金網柵をのりこえ、空間と向きあった。このまま、わずかに重心を前に移せばすむのだ。造作もないことだった。それが、人生最後の仕事になるのだ。  そのとき、彼女の聴覚をとらえたものがあった。  遠《とお》吠《ぼ》え。  この世のものと思えぬ、神秘な憂いをこめた野性の遠吠え。  青鹿は動作をやめ、耳を傾けた。  哀調をおびた、友をもとめる荒野の呼び声。  忘れようにも忘れられない、狼の歌であった。  胸を硬く凍《い》てつかせた氷がゆるむように、なつかしさ慕わしさがじわじわと湧きいでた。  鈍く停止しかけていた心臓がにわかに血を暖め、脈|搏《う》ちだした。  仮面に似た青鹿の顔がくずれた。かたい唇がやわらかくゆるむ。  五分後、ルポライター神《じん》明《あきら》が屋上に姿を現わしたとき、青鹿は身動きもせず、金網の外側にもたれていた。  「あのひと[#「あのひと」に傍点]が来たわ」  彼女は、童女のようにあどけない表情と声でいった。  「あたし、見たの。病院の庭まで来たわ。あたし、あのひとを見たのよ」  神明は無言で彼女の身体に手をまわし、金網の内側に抱きとった。その身体は、冷たく凍《こご》えるようだった。  「ここは寒い。部屋に戻ろう」  と、彼はおそろしく優しい声でいった。  青鹿は素直に病室へ連れ戻された。ベッドにもぐりこむと、あっという間に寝息を立てはじめた。寝顔は、安心しきったようにおだやかだった。  神明はしばらく寝顔を眺めていたが、やがて溜息をついて病室を出た。一階ロビーに降りる。  ひっそりと静まりかえった無人のロビーを横切り、公衆電話に近寄った。硬貨を入れ、ダイヤルをまわす。  呼び出し音がとぎれて相手が出ると、声をしのばせて送話口にそっと声を吹きこんだ。  「思ったとおりでした。自殺をやらかそうとしたんです。病院の屋上から飛び降りょうとしてね……」  電話の相手の声が高まった。神明はちょっと送受器を頭からひきはなし、渋面をつくった。ふたたび送話口に口を寄せる。  「もちろん、なんとか止めるには止めましたがね。いまのところは落ちついています。しかし、この先、何度でもおなじことを繰りかえしますよ。窓に鉄格子のはまった部屋にとじこめて、見張りをつけなきゃならない……そんなことができるとしてですがね。いいですか、本気で死のうと決心した人間を、止める方法はないんです。思いとどまらせるには、生きる望みをあたえてやらなければならない。だれにそんなことができるんです?」  電話の声は沈黙していた。神明は言葉をついだ。  「青鹿先生は、心から犬神明を愛していた。いってみれば、一生に一度しかない、信じられないような愛しかたでね。だれもが経験することじゃないんです。めったにないことだが、愛する者を失って傷心のため死ぬ人間もいるんです。しかも、犬神明は青鹿先生を救けるために死んだんですぜ。先生は彼を死なせたのは自分だと思ってる。傷心と罪悪感の二本立てなんです。彼女に耐えられるわけはない。青鹿先生を救けることはだれにもできやしない。犬神明が生きかえらないかぎりね……」  神明は言葉を切って、深く息を吸いこんだ。  「いいでしょう。先生を見張りましょう。しかし、自信はないですね。金のためにやるんじゃないですぜ、山本さん。なぜこんな仕事をひき受ける気になったのか、自分でもさっぱりわかりませんよ」  電話を切った神明は、壁に肩で寄りかかった。ポケットからハンカチをひきだし、掌を丹念にふいた。タバコをつまみだして口につっこむ。ひどい渋面だった。  「深入りしすぎたな」  と、つぶやく。  「おれの悪い癖さ」  それから、発達した犬歯をのぞかせて、にやりと笑った。  「こいつばかりは直らない。宿命というやつだ」        37  二日後の夜、青鹿晶子は、原宿の山本邸を訪れた。  例によって、ドイツ・シェパードのフォスが威勢よく吠《ほ》えたてて迎えてくれた。戸崎という中年女が青鹿を招じ入れた。  以前来たときとすこしも変わらなかった。大きく変わったのは青鹿自身であった。  戸崎は、蒼白くやつれた青鹿の顔を見ても、表情ひとつ変えなかった。だれを愛したこともなく、愛されたこともないという顔をしていた。  天井の高い古典的な応接間で、山本勝枝が待っていた。青鹿を抱きかかえるようにして、ソファにすわらせ、隣りに腰をおろす。  「だいぶお元気になったようね」  「はい。もうよくなりました……」  が、青鹿の顔にも声にも精気がなかった。皮虜の色には血の気が感じられなかった。山本勝枝はいたましげに、青鹿の蒼白な顔を見つめた。  「学校をお辞めになるとか?」  「今日辞表を出してまいりました」  青鹿は、なぜそれを、という目をした。  入院中に心が決まっていた。博徳学園という学校には、もう愛想がつきていた。それどころか、教師という職業に意欲を失ってしまったのだ。あるいは、生きることに対して、というべきであろうか。  なにごとに対しても根気が失せていた。だれの顔も見たくなかったし、だれとも口をききたくなかった。  それで、校長をはじめとする教師たちの慰留にも耳をかさなかった。田所教師に対してさえ同じ態度をとった。  犬神明のいない学校には、なんの未練もなかった。彼が現われる以前の自分は、まるで存在しなかったのとおなじだった。  「で、これから、どうなさるおつもり?」  と、山本勝枝がきいた。  「わかりません。しばらくの間、なにもしないで、ひとりで考えてみようと思います」  なんのあて[#「あて」に傍点]もないのだった。考えることなどありはしない。  「そう……ご家族は?」  「おりません。両親とも死にました。きょうだい[#「きょうだい」に傍点]もいません。あたくしひとりなんです」  青鹿は寂しい笑顔を見せた。  若いメイドが飲物をのせたワゴンを押して現われた。無言のまま、音もたてずに立ち去る。  「お飲みなさい。気分がよくなりますよ」  と、山本勝枝がいった。ブランディのようだった。なにもほしくなかったが、さからわずに飲んだ。アルコールの刺すような味のない、奇妙に暖かい味わいだった。  「メタクサというのです。ギリシャのブランディです。ブランディらしくないブランディでしょう? でも、どんな最高級ブランディもこれにはかないません」  山本勝枝は、青鹿をじっと見つめながらいった。  「青鹿先生、あなた、アメリカへ行く気はありませんか?」  と、いきなりいった。  「アメリカへ?」  「そう。わたしがいっさいのことをお世話しましょう。費用も持ちますし、向こうで仕事を見つけられるように援助します」  思いがけない申し出であった。  青鹿はブランディ・グラスを手にしたまま、茫然と山本勝枝を見返した。  「ね、そうなさい。環境が変われば、あなたの気持も変わります。思いきって、生活をがらりと変えてしまうことです。いつまでもくよくよしているのはよくありません。たいへんよくありません」  「でも……なぜそんなに親切にしてくださいますの? あたくしなんかに……」  山本勝枝は、青鹿の入院経費を全額払いこんでいるのだった。東洋一の一流病院である。彼女の一月の給料は二日分にも満たないのだった。なぜそんなに好意をしめしてくれるのか、腑《ふ》に落ちなかった。  「それは……」  山本勝枝はブランディ・グラスをテーブルにことり[#「ことり」に傍点]と置き、ソファの背に頭をあずけて目を閉じた。  「今度のことは、すべてわたしの責任だからです。明をひとりで放っておいたのは、わたしのまちがいでした。あなたは明のために、たいへん不幸な目にあわれた。わたしは、その償いをしたいのです」  「それはちがいます。あたくしの責任なんです。あたくしが教師としていたらなかったから……」  青鹿は抗弁しようとした。ふいに喉《のど》が板のように固くなり、声がつまった。  「あなたの罪ではありませんよ、青鹿先生。あなたは犠牲者です。わたしにはよくわかっています」  と、勝枝は目を閉じたままいった。顔には強い憂悶の表情が刻まれていた。  「ともかく、ご好意はとてもうれしいのですけど、あたくし、アメリカへ行く気はございませんの」  と、青鹿はこわばる舌に苦労しながらいった。  「日本を離れる気持になれないのです」  「それは、なぜ……」  「あたくし、明さんが、まだ生きているような気がするんです」  山本勝枝は目を開け、まじまじと青鹿の顔を見つめた。  「こんなことをいうと、気が狂っていると思われるかもしれませんわね。明さんは死んでしまって、とっくにお葬式まですんでしまったんですもの……新聞記事も読みましたし、警察の方からも聞きました。でも、あたくしには信じられないんです。たとえ、どんな証拠があっても……遺骨を見せられても」  山本勝枝の眉はひそめられていた。青鹿はむしろ、明るい微笑を浮かべた。  「気ちがいだと思われてもかまわないんです。あたくしが入院中、明さんがやってきました」  「明が?」  鋭い声だった。青鹿はうなずいた。  「狼の遠吠えで、あたくしに呼びかけました。あたくしに死ぬなといいにきたんです。狼の遠吠えって、ご存じですか? 身体が震えるほど、妖《あや》しく美しく神秘的なんです。犬の遠吠えとはまったくちがいます……」  山本勝枝の顔に、激しい驚愕の表情があらわれた。肘掛を固くつかんで、身を乗りだした。  「明を見たの?」  「見ました。狼の姿をしていました」  「先生は、知っていたのですね」  緊張にはりつめた声音であった。  「ええ。明さんは、人間のかたちをした狼でした。あたくし、知っていました」  山本勝枝は大きな震える溜息をついた。ゆっくりと全身の力を抜き、肘掛椅子の背に身を倒した。  「世の中には、信じられないような事実があるものです。明は、伝説でいう狼人間、狼男だったのです。生まれたときから、とても風変わりな赤ん坊でした。歯がすっかり生えそろっていて、全身毛むくじゃらで、手の甲から顔まで深い毛につつまれていました。一か月ほどで毛は抜け落ちましたが、あきらかにふつうの赤ん坊とちがうところがありました。決して泣かないし、生後一週間で、もう這《は》いまわることができたんです。一か月後には、もう立ってそのへんをかけまわっていました。おそろしく丈夫で、力が強いんです。大人でもかなわないほどでした」  山本勝枝は、宙の一点に視線をすえて語りつづけた。  「明はアメリカで生まれたのです。わたしの弟と日系アメリカ人の女性との間の子どもです。母親は日本人移民の三世で、ロイス・イヌカミという非常に美しいひとでした。わたしの弟の徹《てつ》也《や》は文化人類学者で、米国スタンフォード大学の客員教授でした。そしてロイスは、弟の教え子の女子学生だったのです。  明がまだ幼いころ、両親は息子を連れて、アラスカへ行きました。人里はなれた北極圏へ幼児を連れて、なにをしに行ったのか、わたしには見当もつきませんでした。ツンドラに小屋をたてて住むというのです。エスキモーさえいないところです。飛行機であらゆる資材を運ばなければなりません。  そこは、|荒野の狼《ステッペン・ウルフ》がうろついている場所でした。一番近いエスキモー部落でさえ百マイル以上もはなれているんです。でも、弟たちは夏から住みついて越冬する気でした。無謀なことです。人間が生きていける世界ではないのです。そして、悲劇が起きました……」  山本勝枝は言葉をとぎらせ、深く息を吸いこんだ。青鹿の身体に微妙な震えが生じ、肌を粟《あわ》立たせた。  「火事で小屋が焼けたのです。極寒地での火災は致命的です。食料と燃料を根こそぎ失った人聞は一晩でも生きのびる望みはありません。親子三人とも行方不明になりました。その日のうちに凍死したにちがいありません。ところが、奇跡が起きたんです……わずか五歳の幼児が、恐ろしい冬を生きのびて発見されたのです。  明は狼の群れといっしょにいました。狼が明を保護し、冬じゅうずっと養ってきたのです。飛行機で猟をするウルフ・ハンターが明を見つけました。その明は伯母のわたしの手に戻ってきました。けれども、弟夫婦の死体はついに発見されませんでした。  明を人間の生活にひき戻すのは、たいへんな苦労が必要でした。狼の群れと暮らしているうちに、完全な狼そのものになりきっていたからです。狼少年そのままです。生肉以外は受けつけないし、服を着せてもすぐに引き裂いてしまうのです。言葉も忘れていて、狼みたいに吠えるんです。それに、ウルフ・ハンターが仲間の狼を殺したので、人間をひどく憎んでいました。すぐに逃げだそうとするのです。鍵をかけた部屋に閉じこめておかねばなりませんでした。  人間らしい生活に戻ったあとも、容易にだれにも気を許さず、他人とうちとけようとしない子になりました。自分は人間ではなく、狼だと信じていたのです。それは事実でした。明は狼人間だったのです。  満月の夜、明が変身するのを見たとき、わたしは心の底から恐怖をおぼえました。伝説の狼男のように狂暴な殺人鬼でないとわかっても、恐ろしさに変わりはありませんでした。自分の身内から怪物が生まれたのです。わたしは気が狂いそうでした。耐えられないほど恥ずかしいことだと思いました。神を怨《うら》み、いっそのこと死んでしまえばいいと思いました。怪物を生んだのは、母親のロイスの汚れた血のせいだと思い、憎み呪《のろ》いました。  明が狼人間なのは、生まれつきのものなのか、それともアラスカで狼の群れと暮らしたせいなのか、とずいぶん思い悩んだものです。たぶん、生まれながらの狼人間で、両親もそれを知っていたのです。だから、明を狼のいるアラスカへ連れていったのです。  明はとても利口な子でした。わたしのいいつけ[#「いいつけ」に傍点]をまもって、自分の秘密を他人にさとられまいと注意していました。明が殺人鬼どころか、争いごとを好まない、おだやかな性格の子だとわかって、わたしも安心しました。たとえ狼人間でも、やはり血をわけた肉親です。情愛がわいてくると、不幸な運命の星の下に生まれた明が不《ふ》愍《びん》でならなくなりました。せめて、明の好きなように生きさせてやろうと思うようになりました。  なぜか、明は小さいときから、乱暴者に目をつけられるところがありました。どこにいても、かならず喧《けん》嘩《か》を売られるのです。もちろん明は子どもの姿をしていても、とても強くて、怪力のプロレスラーにだって負けないのですが、身をまもるために心ならずも喧嘩を吹っかけた相手を傷つけてしまうこともありました。  それに、明は不死身の狼人間ですが、いつでも不死身というわけではありません。新月をはさんだ一週間ほどは、人間なみに弱くなってしまうのです。怪《け》我《が》をすれば血を流すし、死ぬことだってあるのです。理由はわからないけれど、月の満ち欠けに影響されるのです。  そしてアメリカは、荒っぽくて暴力主義の人間が多い国です。建国以来、力は正義なりという信条をつらぬいてきた国なのです。だれでも気軽に武器を買えます。暴力的な人間が男らしいといわれるのですから、たいへん野蛮な国です。毎日喧嘩を売られているうちに刃物で切られピストルで射たれたことだってあります。そんなことから、不死身の狼人間の正体がわかってしまうかもしれません。運悪く新月のころに起きたら、殺されてしまうかもしれません。それで、明もアメリカに厭《いや》気《け》がさして、父親の国日本へ行くといいだしました。五年前のことです……  でも、日本へ帰っても結局はおなじことでした。喧嘩好きの乱暴者はどこにでもいるのです。それが人間というものの本性なのです。  結局、狼は人間の凶暴な世界では生きていけなかったのでしょう……闘いを避けては生きていけない、それが人間の残忍な社会の法則なんです。いやでも殺しあいをしいられるのです。米国籍を持つ明は、数年たったら徴兵でベトナムへ送られ、殺しあいを強制されていたでしょうから……」  山本勝枝の目に、不意に涙が光った。  「明は狼人間として、どんな人間よりも立派に死んだのです。生まれて初めて愛したひとのために、従《しょう》容《よう》と死んだのです。ですから、青鹿先生、あなたはかりそめにも死のうなどと考えてはいけません! 明はあなたに自分の生命をあげたのです。だから、あなたは生きつづける義務があります。そう思いませんか……」  青鹿は、いいしれぬ感動に胸をみたされ、言葉もなかった。  「これで、わたしの話は終わりです」  と、山本勝枝はいった。声には疲労があらわれ、にわかにいくつも年をとってしまったようだった。  「わたしは疲れました……とても疲れました。わたしは明が好きでした。うちとけない、ひとづき[#「ひとづき」に傍点]の悪い子でしたが、しんはとてもやさしい子でした……|黄金の心《コラソン・デ・オロ》を持っていました。明と心をふれあうことのできたあなたをうらやましいと思います。自分のために生命を捨ててくれる者を持つというのは、だれにでもあることではありません……アメリカ行きの話は、よく考えておいてください。向こうには、ウルフマンと呼ばれる人たちがいます。狼たちを研究するために、狼と生活をともにしている人々です。明は狼の分身でした。アメリカへ渡れば、あなたも明の分身と逢うことができますよ……」  なんと答えていいのかわからなかった。好意が暖かい湯のように全身を浸すようだった。  「決心がついたら、すぐにおいでなさい」  と、山本勝枝はソファに身をうずめたままいった。青鹿は頭をたれ、部屋を出た。  むっつりした表情の戸崎が送りに現われた。この中年女が、犬神明の正体を知っていたことはまちがいなかった。だからこそ、少年に近づくなと青鹿に警告したのだろう。が、いまは戸崎はよそよそしい顔で一言も口をきこうとしなかった。  バウバウと野太い声で吠えたてながら、ドイツ・シェパードのフォスが、青鹿を追っ払いにきた。相変わらず獰《どう》猛《もう》な、いかにも強そうな面《つら》がまえをして、自信たっぷりだった。  青鹿が鉄柵の門に近づいたとき、にわかにフォスの態度が急変した。吠えたてるのをやめ、その場に凍りついた。ぴんと立っていた両耳が伏せられ、頭にぴったりはりついた。居《い》丈《たけ》高《だか》な態度はあとかたもなく、驚愕と恐怖の表情が、犬の顔にくっきり現われた。鼻《はな》面《づら》に無数のしわ[#「しわ」に傍点]が寄り、唇がまくれあがって牙《きば》がむきだされた。  尻尾が股の間にかくれると、意気地ない悲鳴をあげながら、一目散に逃走していった。  戸崎が鋭い声でフォスを呼んだ。  猛犬を突然襲った恐怖は、ただごととは思えなかった。  青鹿は戸崎を振りむき、中年女の顔にくっきり刻まれた恐怖と疑惑を読みとった。  「まさか……まさか、明さんが……」  と、戸崎は急迫した声音で口走った。  青鹿の身体に電流が走った。        38  「やあ、青鹿先生」  と、鉄柵の向こうで、屈託のない声がした。青鹿ははじかれたように鉄柵にかけ寄り、門の外側に駐車した車にもたれている痩[#痩はunicode7626]せた男を見た。  「おむかえにきたんです」  と、神《じん》明《あきら》はくわえタバコのままの笑顔を見せた。あけっ放しの笑顔だった。  「家まで送りましょう」  青鹿の身《み》裡《うち》から緊張が去っていった。  戸崎は、あんぐり口を開けて、度肝を抜かれたように神明を凝視していた。信じられぬという目つきだった。  青鹿はかすかに身ぶるいして門をぬけ出た。  「お乗りなさい。今夜はすごく寒い」  と、神明がブルーバードのドアを開ける。青鹿はちょっとためらい、ひどく大きな目でルポライターの顔を見ていた。  「心配することはない。山本女史に頼まれているんでね」  神明は眉《まゆ》をつりあげてにやりと笑った。青鹿は無言で、ナヴィゲーター・シートに身体をすべりこませた。そのままひっそりとすわり、口もきかなければ呼吸すらしていないように静かにしていた。  神明はブルーバードをゆっくり発車させ、表《おもて》参《さん》道《どう》に出、原宿駅の前を通り抜けて、オリンピック公園の間の道路を走った。  「山本女史のいうとおり、アメリカへ行ったらどうです、青鹿先生」  と、車をあやつりながら、神明はいった。  「ウルフマンの仲間入りをするんです。狼に憑《つ》かれた女にはちょうどいい。このまま、日本にいても、つらい思いをするだけだ」  青鹿はなにもいわなかった。やつれた顔は白く硬く、異常に大きく見ひらかれた目は、夜の闇の一部分のように暗かった。  「なぜ、先生が日本を離れたほうがいいのか、それをいまから教えてあげますよ」  溜息をついて、神明はいった。  「バックミラーをごらんなさい。さっきからずっと尾《つ》けてくる車があるんです。病院にいる間から、先生を見張っていた連中です。なんの用事があるのか、ひとつたしかめてみようじゃないですか」  青鹿はだまっていた。なんの関心もないのだった。ミラーに目をやろうともしなかった。  神明は車を走らせつづけ、世田谷《せたがや》の暗く淋しい雑木林の中の泥の道へ車を乗り入れた。  「どうです。こわいですか、先生?」  神明は静かな声でいった。青鹿は無言でゆっくり頭を振った。  「ま、たいしたことはないですよ」  彼はつぶやき、車をとめた。カーライターでタバコに点火する。  ほどなく後方の暗闇に車のぎらつくライトが現われ、ブルーバードを追いぬきざま、前方をふさぐように急停車のブレーキをきしませた。  神明は、大きな唇の端にだらりとタバコをぶらさげたまま、ドアを開け、車を降りた。  前方の車の両側のドアが同時に開かれ、ふたりの男がとびだしてきた。黒い背広を着た連中だった。それぞれの手に拳銃をかまえていた。  神明は平然とした表情で男たちをむかえた。男たちは夜気に真っ白な息をせわしく吐きながら、二丁の拳銃を押し立てて近づいてきた。  「静かな夜だな。ピストルをぶっ放すと、ずいぶん遠くまで聞こえそうだ」  と、神明が落ちついた声音でいった。  「おどれらに用がある。車の中の女もだ」  「いっしょに来てもらおうか。このハジキはモデルガンじゃねえんだ」  男たちは用心深く、銃口を神明に向けながらすごみをきかせた。背の高いほうは関西なまり[#「なまり」に傍点]だった。緊張しているのか、背広姿なので寒いのか、ふたりとも震えている。  「東明会の者か? こないだは大変だったな。会長の屋敷は丸焼けになるわ、警察の手入れを食うわ、羽黒会長代理のせがれ[#「せがれ」に傍点]はくたばるわ、羽黒は右の手首から先を失くすわ、とんだ災難だったそうじゃないか。やくざ[#「やくざ」に傍点]が指をつめるのは知ってるが、手首までつめたというのはめずらしい」  と、神明は、拳銃が目にはいらないような顔でいった。  「やかましい。よくしゃべる野郎だ。てめえをしょっぴいてこいとおっしゃるお方が、てめえの来るのをお待ちになってる。そのお方の前でも、その調子でぺらぺら[#「ぺらぺら」に傍点]しゃべってもらおうぜ」  と、関西弁でない背の低いほうの男が威嚇をこめていった。寒さのため舌の根がこわばっている。  「気がむいたらな。そのお方ってのはだれだい?」  と神明がたずねる。  「来りゃわかるわい」  関西弁がいらだたしげにいった。  「そりゃそうだが、行かないといったら?」  「おどれらを、ここであっためたってもええんやで」  「とんまな野郎だ。わざわざこんな淋しいところまで、てめえのほうから案内しやがって」  二人組の顔に凶悪な笑いが浮かんだ。  「こらトップ屋。女をちいっと痛めてやろうかい。どうせ、生かしておけねえ女やさかいな、いて姦《こま》したろか」  ふたりはぴったり並んで立ち、拳銃の先を神明の身体に押しつけようとした。  「そうかい?」  神明の動作は目にもとまらなかった。両手を伸ばすなり、両方の小指をそれぞれの拳銃の銃口にすっぽり押しこんだのだ。  「射ってみろ。銃身が破裂して、おまえらの顔が吹っとんじゃうぜ。こっちはせいぜい小指二本だ。射つ気もないのに、ピストルを突きつけるときは、あんまり近寄っちゃいけないね」  と、くわえタバコのまま、にやっと笑う。  「おまえら三《さん》下《した》だな。こっちはもっと手《て》強《ごわ》い連中とわたりあったことがあるんだ」  やくざ[#「やくざ」に傍点]どもは狼狽し、額を汗に濡らした。引金を引く決断がつかないうちに、神明はやにわにタバコを関西弁やくざ[#「やくざ」に傍点]の右目に吐きつけた。火《ほ》口《くち》が命中し、ぱっと無数の火の粉を散らす。ぎゃっと悲鳴が漏れた。一瞬にして拳銃は両方とも神明の手に移っていた。  「気に食わないおどし文句を吐いたからだ」  と、神明は両手に拳銃を握って、おだやかにいった。  「女をどうとかするといったな。もう一度いってみろ。松葉杖が必要になるぜ」  関西弁でないやくざ[#「やくざ」に傍点]が、だらしなく両手をあげた。顔から白い湯気をたてていた。  「おれはいわなかった! 射たないでくれ」  恐怖に震える声だった。  「たのむ、やめてくれ。女に手出しする気はなかったんだ、本当だ……」  「糞、勝手にしくされ」  右目をおさえた関西弁やくざ[#「やくざ」に傍点]が自暴自棄のうめきをあげた。左目からもぼろぼろ涙をこぼしていた。  「帰って羽黒にいえ、今度はもっとまし[#「まし」に傍点]なのをよこせってな。本格的にお相手してやる。おれだって気が荒くなることだってあるんだ」  「ど畜生、おぼえてけつかれ……」  「この次は、もっと気のきいたせりふ[#「せりふ」に傍点]を考えてこい。あばよ、三下」  神明は、拳銃をアンダースローで雑木林の中の闇へ思いきり投げ捨てると、車に戻った。ブルーバードをバックさせ、尻を雑木林につっこんで方向転換した。やくざ[#「やくざ」に傍点]どもは手出しをしなかった。威勢のいい排気音を残して、発進させた。  青鹿晶子は依然としてひっそりとシートに身を埋め、無言ですわっていた。怯《おび》えた様子はなかった。  「どうです、青鹿先生。日本を離れたほうがいいという理由がわかったでしょう?」  神明がハンドルをあやつりながら、重苦しい声音でいった。顔は渋面になっていた。  「東明会の羽黒は、決して先生を放っておかない。せがれ[#「せがれ」に傍点]の獰《どう》を殺され、東明会自体、壊減的な大打撃を食ったんです。青鹿先生を恨《うら》むのは逆恨みにちがいないが、やくざ[#「やくざ」に傍点]には面子《メンツ》というものがあるんです。面子をつぶされては、やくざ[#「やくざ」に傍点]の世界では生きていけないんだ。  しかも、東明会のバックには、日本一の暴力団山野組がひかえている。先生を始末しなければ、今度は羽黒自身が山野組に始末されてしまう。だから、羽黒は必死で先生をつけ狙《ねら》いますよ。さっきのやくざ[#「やくざ」に傍点]のひとりは関西弁だった。おそらく神戸の山野組の組員なんです。お笑いみたいな三下だったが、次はもっと手強いのがやってくる。先生が日本にいるかぎり、絶対にあきらめない。アメリカへ行きなさい、青鹿先生」  「あなたも狙われていますわ」  と、青鹿ははじめて口を開いた。  「あなたはどうなさるのですか?」  「ぼくなら大丈夫です。荒っぽいことには慣れてるんでね」  神明は声をたてて笑った。  「どういうわけか、ぼくのことをただじゃおかねえといってる連中は山ほどいるんです。いまさら一口ぐらい増えても驚きゃしない。生命保険にははいってないしね、だれも困りませんよ」  「それは、あなたが不死身だからですか?」  と、青鹿はしずかにいった。うつろなやさしい声だった。  神明はちらっとすばやい横目の一《いち》瞥《べつ》を青鹿に走らせた。  「さっきフォスが……犬があなたを恐れたときに気がついたんです。フォスは犬神明を死ぬほどこわがっていたそうです……彼が狼人間だったからです。あなたもそうなのでしょう?」  今度は、神明がだまりこくる番だった。  「東明会の地下室から、あたくしたちを救い出してくださったのもあなたです。病院であの夜、狼の声であたくしに呼びかけ、自殺を思いとどまらせてくださったのも……そうなのでしょう?」  「だとしたら……ぼくを怨みますか?」  神明の声は緊張にはりつめていた。  「いいえ……」  青鹿はゆっくり頭《かぶり》を振った。顔にやわらかい微笑があらわれた。  「でも、なぜ……?」  「ぼくのやったことは、犬神明のしたこととおなじです。狼からの贈り物なんです。暗い夜に、悲しい泣き声が聞こえれば、黙ってはいられない。それが狼の魂なんです。人間には聞こえない泣き声でも、狼には聞こえるんです。人間だってその気になれば聞こえるんだが……しかし、人間はみずから耳をとざしてしまっている……」  フロント・グラスになにかがぶつかった。点々と白い染《し》みが増えはじめた。  雪だった。  「あたくしが狼だったら、こんなときに遠吠えをするでしょうね」  青鹿は想いをこめてつぶやいた。  「あたくしが狼でなくてとても残念ですわ」  神明は、ワイパーのスウィッチを入れ、動かした。闇をつらぬくヘッドライトの光《こう》芒《ぼう》の中に、雪片は際限もなく湧き出て、舞い狂った。  「あたくし、アメリカへ行きます……」  と、青鹿はいった。ぐったりと力を抜いてヘッドレストに頭をあずけ、乱舞してやまぬ雪の中に、雪原をさまよう美しい狼の群れの幻想を追った。 [#改ページ]  出さなかった手紙・あとがき・その他  だれにも話したことはないけれど、僕はしばしば衝動的に未知の人に手紙を書きます。名宛人は作家のこともあるし、科学者であったリマンガ家であったりします。  たいていの場合、その手紙は投函されずじまいになるのですがその理由は、僕が内気だからであって、なまじ返事でも来ようものなら、身の置き所がないだろうとまさに身のちぢむ思いで想像するからです。  最近、そういった投函しなかった手紙で、めずらしく破棄されずに残ったものを発見しました。その手紙を、あえて名宛人の承諾を得ることもせず、内気を克服してここに掲載する気になったのは、まことに突発的な暴挙というほかないのであるが、この〈出さなかった手紙〉が名宛人の憂鬱《ヒポコンデリー》を深めることのないよう祈りたい気持ちであります。    その1 出さなかった手紙  拝啓、大江健三郎様。  正直いって、自分がなぜこの手紙を書こうとしているのか、はっきり呑みこめていないのですが、あなたの著書に接する都度、むずむず[#「むずむず」に傍点]するようなある種の感銘を受けることはたしかなので、あるいはこの手紙を書くことにより、感動の根っこを確認したいという手前勝手な理由のためかもしれません。〈持続する志〉を読み、以前に出版されたエッセイ集〈厳粛な綱渡り〉と読みあわせるとき、つくづくあなたの真《しん》摯《し》さを思い知らされ、心やましさをすら感じてしまいます。  あなたがときとして過度に感傷的であったり、情動に衝き動かされるままに叫び声をあげてしまうことは、あなたが自らを偽ることのできぬ正直な人間であることを証明しているにちがいありません。  しかしながら、あなたの主張に真実、共感を禁じえないのに、なんとも形容しがたいもどかしさを感じてしまうのです。  あなたは、作家の感性というものを武器に強権に挑《いど》もうとしておられる。そして、あなたが、ヒロシマを、人種差別を、人間が人間に対して加える暴虐を問題にするとき、全人類的な規模での連帯を語るとき、あなたの心中には、輝かしい幻想に満ちた人類愛の勝利をささやきかける、ストー夫人の〈アンクル・トムズ・ケビン〉が奴隷解放に果たした役割りとでもいったイメージがちらついてくるのではないかと思われてなりません。  あなたの説得に感動しながらも、はらいのけるすべもなくからみついてくるもどかしさは、あなたが、現代の神話ともいうべきヒューマニズム幻想にがんじがらめになっているのではないかという疑惑に通じます。  人類は、その徳性において、すでに明瞭なる自己破産を迎えているのではありますまいか?  生物学的にいっても、字義どおりの〈弱肉強食〉を行なうのは、ほかならぬホモ・サピエンスという高等猿類だけだそうであります。人類は、愛しあうことよりも、憎みあい殺《さつ》戮《りく》しあい破壊しあう作業のほうが、じっさい性《しょう》に合っているのではありますまいか?  あなたが熱情をこめて、〈連帯〉を語るほどに、どうしようもなく野蛮で凶悪な人間どもの咬《か》みあいを意識せずにはいられないのであります。世界の人種・宗教間の相《そう》剋《こく》、マイノリティ問題に目の焦点を合わせるほどに、人間同士の完全な相互理解の困難さを痛感せずにはいられません。  人類はもう駄目だといってしまえば、これはミもフタもないけれど、この不完全きわまる種《しゅ》であるところの人類が、いかにして自らを超えていけるのかとなると、もはや神仏の救いを待つほかはないように思えます。  この矮《わい》小《しょう》な一惑星上に、ありとあらゆる人種・宗教・社会体制・国家エゴイズムの相剋が、確執が、血で血を洗いながらこったがえしつつ、四十億に程近い人類が四半世紀で人口倍増という物凄い状況をつくり出していく……あなたは身の毛がよだたないでしょうか?  核拡散は決定的だし、生物学兵器は人類皆殺しの規模でひそかに用意されているでしょうし、この凄《すさ》まじい状況は、はっきりレミング的死の暴走を意味しているように思えてなりません。 (中略)  大江健三郎様。  疑いもなく、あなたはもっとも真摯な、最良の良識派であり、現代の知性の代表者のひとりだと思うのですが、その非力さかぼそさは、私を絶望させます。  良心的な人々の叫びが、かつて一度でも世界の動向……巨大な慣性に衝撃を与え、進路をひずませたことがあったでしょうか? ヒットラーは敗れたが、それはヒューマニズムの勝利を意味するものではなかった。それは国家群のバランス関係にわずかな変化をもたらしただけで……さもなければフランコ独裁が生きのびるはずはなかった。  神聖化されたヒューマニスト、アブラハム・リンカーンがもっとも現実的で冷酷な政治家でしかなかったように(ケネディもそうでしたが)、現実世界を動かすものが、幻想的な正義や理念でないことを、すべての子どもの柔かい頭に叩《たた》きこんでおくべきであります。彼ら自身がむごたらしい終末へ向かって行進するレミング人間にすぎないことを、骨の髄まで思い知らせてやるべきであります。地球という惑星上に異常発生した高等猿の一匹にすぎないと明確にさとらせてやるべきであります。  わたし自身について語ることをお許しください。あの六〇年安保の激動のさなか、雨に濡《ぬ》れそぼり、息をひそめて、なにごとかを待っている大群衆の中のひとりの学生がわたしでした。もの恐ろしい異様な予感に浸りながら、わたしは自分がみすぼらしいレミングの一匹にほかならないことを自覚したように思います。  異様にぎらつく目をした機動隊員への怒りと憎悪を超えて、人間であることへの悲しみをおぼろげに感じとったとき、なにものかが自分の裡《うち》で変質するのを知りました。それは単に挫折感というものではなかったように思います。すべての人間の心にひそむ無明の闇を垣《かい》間《ま》見たような心地がしたのでした。(過度に感傷的なため中略)  人間の心の中には、あの熱狂的な、戦いの高揚感への愛好が、黒いケダモノみたいに潜んでいるのではありますまいか。  ある一握りの凶猛な連中が、羊のごとき平和愛好者の民衆を無理やり戦場にひきだすのでは絶対にありません。平和を愛する反戦的兵士が、ひとたび戦友の無残な死を目撃するやいなやすみやかに、〈敵〉への獰《どう》猛《もう》な復讐心で武装するとすれば、それはいままで平和愛好者の仮面をつけていたにすぎないではありませんか。  わたしは毒をこめて、この手紙を書いているようです。あなたの裡《うち》にある幻想的ヒューマニズムへの確信を揺がせるべく、けんめいにどなりちらしているみたいです。人類間の断絶を、幻想で埋めようとする〈持続する志〉がわたしを烈しく苛《いら》立《だ》たせているからかもしれません。(中略)  大江健三郎様。  なにも人間同士、ベタベタ愛しあわなくてもいいじゃありませんか。他人に関心を持ちすぎないようにしようではありませんか。相手をそっとしておこうじゃないですか。  ひょっとすると、殺しあいや戦争の元凶は、人類の近親相姦的な〈愛〉なのではありますまいか? ほんとにひょっとすると、戦争とは、小児病的な情痴犯罪の大がかりなやつではないでしょうか?  人類が減亡の危機を回避するためには、植物的になるほかはないように思えます。その意味で|花の子どもたち《フラワーチルドレン》という社会運動はまことに暗示的であります。  〈花のように植物的になること〉  このレミング的破滅状況を停止させるためには、人類総員が馬鹿と阿《あ》呆《ほう》の大集団になってぼんやりひなたぼっこ[#「ひなたぼっこ」に傍点]でもしているほかはないように思われます。(以下略)  ひどい文章です。ほんとにイモですね。こんなものを掲載して、大江健三郎さんにはまことに申しわけないと身が細る思いです。でも、この手紙を書いたころから(一九六八年十一月)、僕はようやく自分の進路を発見したようなのです。翌一九六九年、僕は長編〈狼男だよ〉を書きあげました。この作品は従来、僕が書きつづけていたものとははなはだしく毛色が異っていたようです。その点、〈ロマン主義者の虎〉──平井SFの構造──という評論を書いてくれた畏友|荒《あら》巻《まき》義《よし》雄《お》さんにも、平井和正よ、どこへ行く! と、嘆息されてしまったくらいです。  しかし、いみじくも荒巻さんが指摘したごとく時代錯誤的前近代的心情的反現代科学技術文明のロマン主義者たる僕としては、どうしても〈ウルフガイ〉という超自然的心情的英雄を必要とする時点にさしかかっていたのです。SF仲間がはやしたてたように単に前門の虎を後門の狼に乗りかえただけではなかったのです。(この切れ味の鮮やかな小論を紹介できないのを残念に思います。そのころは、俗流バラ色未来学の全盛期でした。なにしろにぎにぎしく万博がはじまろうとしていたのです)    その2 遠い幻影──第九回日本SF大会パンフレットに寄稿した一文  七〇年安保は、どうやらウヤムヤになってしまうらしい。まさに十年一昔である。六〇年安保──SFマガジンがひっそりと出発した年だ。この年、僕の内部でなにかが崩壊した。挫折といってもいいかもしれない。それは人間に対する絶望感だったようである。僕は、はじめて、人類というのはできそこないではないかと真剣に考えはじめたのだ。  つまり、僕の内部に、明確なSFへの志向を生じさせたのは、六〇年安保だったのだ。  中央大学ペンクラブに所属し、それまで普通小説をけんめいに書いていた僕は、翌年、はじめてSFめいた小説を叩きだした。僕の裡《うち》に渦をつくっていた暗い情念そのままの、ペシミスティックな未来小説だった。  現在のように無数のファンジンがひしめく時代ではなかった。中大ペンの白門文学も、SFは相手にしてくれなかった。宇《う》宙《ちゅう》塵《じん》なんて同人誌の存在も知らなかった。発表誌を持たぬまま悶《もん》々《もん》としていた僕にとって、マガジンの第一回SFコンテストは、渡りに舟だったのである。  その未来小説〈殺人地帯〉──未発表──は、お情けみたいな奨励賞というのをもらい、以後僕は急速にSFへの傾斜を転がり落ちていった。宇宙塵から誘いがかかったのを幸い、夢中で〈レオノーラ〉、〈革命のとき〉、〈虎は目覚める……〉など、初期の陰鬱な作品群を生みだしつづけた。SFマガジンがそれらを片っぱしから買ってくれたせいもある。  自分に才能があるとは、すこしも思わなかったし、作品に商品としての価値があるとも思わなかった。僕は裡に鬱積した情念を、SFに託して吐きだしたかったのだ。  その意殊で、僕は最初からSFファンの異端者だったようである。そのころから育ちはじめたファンダムに対しても、心から馴染《なじ》めないものを感じていた。僕は、陰影に欠ける明朗な愛好者の道は大嫌いだった。SFは、僕にとって重苦しく深刻な圧迫感を持ちはじめていた。いまやおのれの全存在を賭《か》けるべきものとなっていた。  はっきりいって、ファンダム及びファンのお祭りであるSF大会は、僕にとり無縁と感じられた。SFは、僕の闘争の相手であり、本気で体当たりすべき一種の〈敵〉だったからである。  現在まで、僕は小説をふくめて数多くのマンガ原作、シナリオを手がけたが、SFをはなれた作品は、一編も書いたことがない。なぜだかわからないが、僕は自分自身を、獲物を迫う猟師のように感じることがある。SFは得体の知れない、すてきな獲物なのだ。虎狩りのハンターが他の獣を顧《かえりみ》ないように、僕が執拗な関心を抱いているのは、SFだけなのだ。  時代は移った。七〇年安保は幻想にすぎなかった。この夏には、第九回SF大会と、国際シンポジウムが開催される。SFは隆盛の一途をたどっているかのようだ。  とまれ、撲の裡には、この十年来の嵐がいまだに続いている。僕は自分の獲物を追うだけで手いっぱいなのだ。この文を読む若い人々にとって、六〇年安保は遠い幻影にすぎないだろう。SFとペシミズムはまるっきりカンケイないであろう。  TOKON5、おめでとう、という気持ちは僕にはない。悲鳴でもあげたほうがましである。    その3 人類公害──世界SF全集ハインライン編月報より  この夏、国際SFシンポジウムが開かれたとき、どういうわけか事務局入りして、慣れないことばかりやっていたのだが、べつにその報告をする気はない。われわれクジラおじさんと呼んだ海洋生物学者マクベイ氏が、ひょっこりホテル・ニュージャパンの事務局を訪れたときのことを書きたいのだ。  なにしろ忙しいのと、こっちがさっぱり英語を喋《しゃべ》れないのとで、話はチンプンカンプンだったのだが、クジラおじさんがたいへん熱情的に、愛すべきクジラやイルカなど|未来のお友だち《フューチャー・フレンド》の虐殺を即刻中止すべきだと語っていることだけ理解できた。  クジラおじさんが持参したステレオ・テープには、海中で録音したザトウクジラ三頭の合唱が収音されており、その神秘の魅力にはたいそう感激した。なにしろ人類の見さかいのつかない暴虐ぶりにはげんなり[#「げんなり」に傍点]しているので、クジラおじさんのキャンペーンに賛意を惜しまなかった。  それ以来、人類公害説が僕にとり憑《つ》いてしまったのである。ホモ・サピエンスこそ地球上に生じた最大の公害というわけだ。発生以来というもの人類がどんなに悪事ばかり働いてきたか、これはもういくらでも論証できる。人類とその忠良なる共犯者の犬は、全地球生物に呪殺されて当然である。  かくなる上は、全人類三十六億、腹を切ってお詫びすべきだとクジラおじさんにいおうと思ったのだが、先に述べた事情がからんでままならなかった。そのかわり星《ほし》新《しん》一《いち》さんが、切腹とは自己を公害と認めて責任をとることであると見解を述べてくれた。いいだしべえ[#「いいだしべえ」に傍点]でもあるし、まっ先に腹を切らねばならないのだが、切腹が一番痛くて苦しい死に方だという記事を読んだ覚えがあるので、なんとか都市ガスか睡眠薬あたりでごまかせないだろうかとめめしいことを考えている矢先、三島由紀夫氏がみごと腹かっさばいて果ててしまった。  三島氏はかつて、SFこそ近代ヒューマニズムを克服せよと叫び、われわれSF作家を啓発してくれた人である。真の天才三島氏がついに文学を否定して死んでしまったので、文学者は大ショックを受けているが、もちろん近代ヒューマニズムを克服したSF作家の僕は平気である。自己の立場を再認識したにすぎない。ついでにいえば、氏の切腹に諫《かん》死《し》の傾向が色濃いのがもの足りない。後につづいて人類全員腹を切れと迫ってほしかった。やはり氏は人間を信用していたのであろう。  しかし、人類という高級猿には、どうにもならぬ獰《どう》悪《あく》さがあることは事実である。オーストリーの動物学者コンラート・ロレンツの研究を読むと、そのあたりの事情がよく呑みこめる。人類は猛烈に怒りっぽく野蛮きわまる生物であって、しかも攻撃性の抑制機能がほぼ全面的に欠損しているらしい。それが、他の猛獣がけっしてやらない、同種同族間の無制限な殺しあいを平然とやってのける理由なのだという。  僕がSFを書きだして以来、一貫して追及してきたテーマが、この人類にひそむ凶暴な攻撃性だった。すなわち仏教でいう無《む》明《みょう》の闇である。たまたま、それをSF的な手法で虎に具象化したところ、仲間のうちから〈虎憑き〉とか〈虎キチガイ〉と呼ばれるようになってしまった。もちろん、これは僕の動物学の知識の欠如から生じた誤りであって、本来の猛獣は人類にくらべたら、はるかにしおらしくつつましい動物なのである。  とくにはなはだしいのは、狼に関する誤解であった。狼を奸《かん》侫《ねい》邪悪、酷薄残忍|貪《どん》欲《よく》な凶獣とする固定観念は、どうやらグリム童話〈赤頭巾〉によって、幼児期に植えつけられたものであるらしい。  事実はまったくその逆で、ダンテが〈平和なき獣〉と呼んだ狼が、人間と同じく社会的動物であり、それぞれの個体が緊密な愛と友情で結ばれてい、温和で親切ですごく気前がよくて礼儀正しく、慈悲深く博愛に富んでいて、共食いなどせず、いわんや人を襲って食ったりせず、種《しゅ》の異なる人間の幼児ですら愛育する、たいへん立派で気高いところさえある動物だと知ったときの驚愕。  これは、なにかの陰謀だったのだ。疑う余地もなく、人類は自己の邪悪な気質を直視することを好まず、それを他に転嫁したのだ。スケープゴートをでっちあげるのは、人類十八番の手である。  そうなのだ。人類は自らに向けるべき憎悪と侮辱を気の毒な狼にむけたのだ。  極悪非道な悪役の狼像は、実は人類の自画像だったというわけである。これほど不愉快な話はない。  しかもなお、人類は狼迫害の手を休めず、賞金首にして、狼を絶滅の淵に追いつめているのが現状である。狼《ウルフ》ハンターは、無実の狼たちを飛行機で追いつめ、なんらの反撃の懸念もなくライフルで射ち殺してしまうのである。この卑劣さに対してはただ、自分が人類の一員であることを恥じいるだけだ。ぜひとも人類全員に切腹してもらいたい。  人類が、かつてない強大な牙《きば》──絶滅兵器を手に入れ、同種内攻撃によって、地球全生物を道づれに、滅びの道をたどっているいまこそ、侫《ねい》獣《じゅう》と呼ばれる狼たちがその強力な牙を乱用することを防ぐ、絶妙な抑制のメカニズムの秘密を解明し、みずからも身につけることを急がなければならないのだが、もう手遅れかもしれない。  僕としては、人類告発の狼男シリーズを書くより、やはり切腹すべきだと思っている。本当は、北極圏の荒野に生き残っている狼たちの前へ出かけて、お詫びのしるしに食ってくれと懇願したいのであるが、人間とちがって食人の習慣を持たない彼らにことわられてしまうであろう。    その4 あとがき  ようやく本来のあとがきを書きます。以上長々と書きつらねましたが、この〈ウルフガイ〉という長編小説が、どのようにして作者の精神的トンネルをくぐり抜けて出てきたか、理解していただきたかったからです。僕はいまや、狼の熱烈なシンパであります。太古、狼と人間は、肉食性の社会的動物の種としての競合者であったらしいのですが、その優勝劣敗が確定した現在、もう一度、人道と狼道の再評価をしなければいけないと信じています、力は正義なり、勝てば官軍の、人間流の生き方は遠からず地球を死滅した惑星に変えてしまうにちがいありません。  とはいえ、作者のストレートな主張を、あとがきの中で独善的にりきんで開陳してみても滑《こっ》稽《けい》なだけですから、このへんでやめておきます。以下、ウルフガイに関して読者から僕に寄せられた代表的な質問に対する回答を、二、三書いておきましょう。(なお作品集〈エスパーお蘭〉のあとがきに対して多数のおたよりを頂戴し、たいへん感謝しています。漏《も》れなく返信をさしあげたつもりですが、遺漏がありましたらお許しを)  ㈰ 長編小説〈狼男だよ〉について。  一人称〈俺〉小説の〈狼男だよ〉は続編を書こうと計画しています。〈リオの狼男〉なるタイトルを与えようと思っています。目下生き埋め中の悪漢ウルフに厚い友情を抱いてくださる読者諸氏には申しわけないのですが、後述の理由でポチポチとしか書けませんので、どうか気を長くお待ちくださるよう伏してお願い申しあげます。  ㈪ マンガの〈ウルフガイ〉について。  マンガの〈ウルフガイ・坂口尚・絵〉は、一九七〇年の九月から約九か月間、少年週刊誌ぼくらマガジン(廃刊)に掲載されました。この小説を忠実にコミカライゼーション[#「コミカライゼーション」に傍点]したもので、ストーリーは同一であります。  ㈫ 大河小説〈ウルフガイ〉について。  第一部〈狼の紋章〉についで第二部〈狼の怨歌〉が刊行されます。これも傑作という噂《うわさ》があるようです。ご期待ください。  ㈬ 作者の新しい持病について。  一九七一年夏、作者は突如、電撃的心臓発作でブッ倒れました。奇《く》しくも八月十三日の金曜目、仏滅、旧盆の入り、火星大接近という五重の大凶日でした。一日平均八十本のチェーン・スモーキングを医者に厳禁されたところ、ゲシュタルト崩壊を生じ、人格に変動が起きたようなのです。ニコチンレスのニュー平井和正[#「ニュー平井和正」に傍点]をどうぞ暖かく迎えてやってください。伏してお願い申しあげます。  以上で、あとがきは終わりです。    その5 献辞  この大河小説をして作者に書かしめるきっかけをつくった少年マガジン元編集長内田勝氏に。あなたのご助力によってこの小説は生まれました。 [#改ページ]  解 説  六年前、横溝正史さんの原作「犬神家の一族」を映画化しようと企画した折、犬神一族という、決して表面に出ようとしない集団が実在すると知って驚いた。この一族は、全員が霊能者で空中を歩いたり、千里眼であったり、現代人には信じ難い超能力の保持者であるという。ただ、世間とは係りを持たないという掟《おきて》があるようだが、一族の末端から世に出た一人が三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎だという話もある。原作によれば、信州財界一の巨頭、犬神財閥の創始者犬神佐兵衛の出生と過去は、全く世間に公表されていない。第一、犬神という妙な姓からして、本当のものかどうか疑わしい、と書かれている。小説という形を借りているけれども、正にこのことが犬神一族の、秘密の一端に触れる結果になった。犬神一族は、架空の存在ではない。日本の古代国家が成立する以前、犬神氏は大神氏と呼ばれ、超能力者の集団として大和朝廷に恐れられていた。大和朝廷は天皇御一人が霊能者であったが、大神氏は一族全員が霊能者であった為である。だが、古代国家群が一つに統一され、強力な政権が出来あがると、大[#「大」に傍点]神氏は点を加えた犬[#「犬」に傍点]神氏に落としめられて、蔑称される一族になった。以来、犬神一族は表から姿を隠したのである。犬神一族の神は狼である。狼を祭る神社で有名なのは秩父の三峰神社で、役《えんの》行《ぎょう》者《じゃ》が山伏の修験場とした。役行者として知られる役《えんの》小《お》角《づぬ》は古代随一の霊能者で、山伏の元祖である。山伏を国語辞典から引用すると、  ㈰山野に野宿すること。㈪山野を歩き仏道を修業する僧。㈫修《しゅ》験《げん》者《じゃ》  となっている。日本の古代神道と渡来の密教が混交一体化した宗教で霊能者の集団として知られているが、山伏という漢字自体に秘密が隠され、山野を駆ける伏とは、人偏に犬、即ち犬神一族の末流をくむ者と思われる。狼を祭る民族は世界に散らばるが、狼《オオカミ》は大《オオ》神《カミ》の具象化として崇《あが》めていたのが犬神一族である。修験道の開祖|役《えんの》小《お》角《づぬ》は、「犬神家の一族」の犬神佐兵衛と同じく、その出生は謎に包まれている。推論を押し進めて言えば、役小角は犬神一族の頭領であったかも知れぬ。「自動書記」という言葉を発案したのは平井和正さんで、いま「魔界水滸伝」を執筆中の栗本薫さんも、この「自動書記」によって助けられることがあるという。「自動書記」とは、小説家が背後霊団や神によって啓示を受け、筆の書き進む状態だが、半村良さんも同様らしく、何がSF的といっても、これほどSF的なことはないと私に断言した。実は私自身、俳句を作る上で、よく吟行と言って、郊外や名所旧跡を見学しながら作句するのだが、自分が普段まったく使わない言葉、例えば「遊《ゆ》行《ぎょう》」とか「入《にゅう》寂《じゃく》」と言った仏教用語や、「ひたぶる」とか等の古語まで、勝手に口から飛び出して来る。例えばみちのくの月山を観ての作句だが、   月浄土ひたぶる山を遊行せり     春 樹  この様なことを、古来から「言《こと》霊《だま》」と言うのだが、「自動書記」も「言霊」と同じことを指している。横溝正史さんの「犬神家の一族」のモチーフも多分そうなのであろう。平井和正さんが、現在死力を尽くしてお書きになっている「幻魔大戦」は正にそうだし、そう言うことを気が付かずにお書きになった「ウルフガイ・シリーズ」も、又、然《しか》りなのだ。本編の主人公犬神明は、当人が犬神[#「犬神」に傍点]一族であることを明[#「明」に傍点]らかにしているのだ。  動物文学ともアニミズム小説とも呼ばれる「南総里見八犬伝」は、天保十二年(一八四一年)の完結までに滝沢馬琴が二十八年かけて書き上げた雄大な伝奇小説である。里見義実の娘伏姫と猛犬八房の間に生まれた仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳をそなえる八犬士が活躍のすえ主家を再興する物語だが、この小説も作者滝沢馬琴が「自動書記」によって書き上げたように思われる。悲劇のヒロイン伏[#「伏」に傍点]姫は勿論山伏と同様、犬神一族の霊統をひき、人にして犬、つまり、犬神明と同じく狼少女であり、猛犬八房は狼男である。そして、伏姫から生れた八人の犬士は、八人の狼少年ということなのだ。この小説には、「竜」「狸」「猫」「虎」等の様々な動物が登場し、いわば古代国家争乱の原形がここに書かれている。こうして見ると、「ウルフガイ・シリーズ」もまた、現代版の「里見八犬伝」と言えそうだ。犬神明の友人|神《じん》明《あきら》は狼男だし、犬神明に恋する青鹿晶子は鹿人間、そして主人公を助ける林《リン》石《シー》隆《ルン》と娘|虎《フー》|4《スー》、虎《フー》|2《リャン》は虎人間である。大和朝廷成立以前、神と対話し、自然と物語り、動物達と共存して来た犬神一族は、正に神の如き存在だったが、その子孫犬神明の不幸は、野蛮な現代に生れてしまったことだ。  二年前、「悪霊島」の映画化にあたって、監督として参加した篠田正浩さんは、  「日本人には二つのタイプがあり、一つは先住民族の繩文人、そしてもう一つは、渡来民族の弥生人だ。江戸期に入って開花した歌舞伎と滝沢馬琴の南総里見八犬伝は、いわば繩文人のエネルギーの結晶だろう」  と初対面の時に私に語ったが、日本人を繩文人型と弥生人型に区別する考え方は一見乱暴に聞こえるが、実は私も全く同じ考えだっただけに正直言って驚いた。「南総里見八犬伝」が繩文人のエネルギーの結晶であるならば、「ウルフガイ・シリーズ」も平井和正さんの繩文人的エネルギーが開花した、伝奇小説の傑作と言えそうだ。  私は十八の時から、自分の読んだ本を全てチェックし記録に残している。そのノートによれば、平井さんの作品に初めて触れたのは、十年前の昭和四十七年八月十八日、本書の「狼の紋章」である。そして今、その解説を平井さんからの指名を受けて書くと言うのも正に奇《くし》き因縁と言わねばならない。その後、「悪夢のかたち」「アンドロイドお雪」「サイボーグ・ブルース」「悪徳学園」「メガロポリスの虎」と立て続けに読みふけっていった。  角川文庫版への初登場は、昭和四十九年八月三十日、「サイボーグ・ブルース」で、続いて同年九月三日に、「虎は暗闇より」が出版された。五十七年一月現在、文庫本の点数は三十一点七百十三万部にのぼっている。個人的に言って、私が一番心残りなのは、「狼のレクイエム」以後「ウルフガイ・シリーズ」がストップされてしまったことだ。青鹿晶子は一体どうなるんですか、平井さん。昭和五十年七月一日をもって、犬神明は突如われわれの前から消えてしまった。それこそ神隠しにあったみたいに。まさか、そのために「レクイエム」とつけたわけではないでしょうね。  初めて平井さんにお会いした時も、巷間伝え聞いた気難しい作家という印象は全くなかったが、七年前、私が社長に就任して間もない頃、一年ほどのインターバルがあってお話した時、変身したのではないかと思うほど、平井さんの性格が一変していたのには驚いた。高橋佳子さんという霊能者との出逢いが、平井さんの人生を大きく変えてしまった。平井さんと私には前生の因縁があると高橋さんがおっしゃったが、彼女の言によれば、私はアトランティス時代の神官であり、その頃、平井さんと係りがあったという。そのせいかどうか、私は平井さんとお会いしていると話が実によくはずみ、不思議と気分が爽やかになる。五年前、私が野性号㈼世で、フィリピンのルソン島アパリから鹿児島を目ざして黒潮の航海に出発する時、高橋佳子さんからの伝言という形で平井さんからメッセージを受けとった。私はその言葉にショックを受け、その後幾度も幾度もそのことを噛[#「噛」はunicode5699]みしめて出発した。そして、現実に、自分の生命を賭しての冒険に勝利を得た時、その言葉が正しく事実であることを体験したのだ。メッセージはただ一言、  「神、われと共に在り」  平井さんの「幻魔大戦」の中に、こんな文章がある。ヒロイン井《い》沢《ざわ》郁《いく》江《え》が無名塾の塾生松岡に向って、  「松岡クン、天命を信じたら? 使命があったら、死のうとしたって天が死なせてくれないもの」  「幻魔大戦」の主人公|東《あずま》丈《じょう》は、「光のネットワーク」によって、天命を持つ者は神に護られていることを説く。人間は業《カルマ》によって宿命や運命が決っているかのように思われがちだが、実はそうではない。宿命や運命を超えるものが天命である。天命を見つけた者は、肉体としての死に恐れをいだかない。私は、現代人には想像がつかないほどの死に幾度も直面して来たが、遂に死神に捕えられることなく、天命に導かれ、現在に至っている。平井さんの予言によれば、私と平井さんの結びつきはこれからだ。大長編「幻魔大戦」もさることながら、「ウルフガイ・シリーズ」の完結を読者の一人として待っています。 [#地から1字上げ]角川 春樹