鎌倉誘惑夫人 南里征典 著  目 次 第一章 鎌倉恋愛貴族 第二章 肌の背信 第三章 紫陽花《あじさい》寺《でら》の殺人 第四章 ミモザ夫人の願望 第五章 狙われた女 第六章 深夜の美人看護婦 第七章 夏宮病院の秘密 終 章 窓から七月の海が見える 第一章 鎌倉恋愛貴族    1  秋津則文《あきつのりふみ》が、今まさに結合したばかりの仙道香津美《せんどうかづみ》の女体にみっしりと励《はげ》みはじめ、汗で濡れ輝く雪のような乳房に唇を寄せた時、枕許《まくらもと》の電話が鳴りはじめたのであった。  ——ルルルルル……ッ。  鳴りつづける電話に、 「ちょっと、タイム。誰からだろう」  秋津がのびあがって、受話器を取ろうとすると、 「いや。離れちゃ、いや」  仙道香津美が、そう言ってしがみついてくる。 「だって、電話なんだよ。ほら。取らなくっちゃ」 「放っとけばいいわよ。そうしたら、留守かと思うじゃない」 「居留守は使えないよ。ここはホテルなんだぜ。フロントからかもしれないじゃないか。ね、ちょっとだけ」  伸びあがって受話器を取ろうにも、腕の長さだけでは足りない。どうしても、結合を解くしかなさそうである。  秋津が香津美に言いきかせて、結合を解こうとすると、彼女は悩ましい声をあげて、女としての当然の猛抗議をつづけた。 「いやあん、だめだめ。抜《ぬ》くなんて、絶対に、許さないから」  それもそのはず、仙道香津美はたった今、濡《ぬ》れあふれた女芯に秋津の猛々《たけだけ》しいしるしを受け入れ、見事なプロポーションの両下肢をしっかりと巻きつけて、さてこれから……という昂《たか》まりの声を撒《ま》き散らしはじめていたところである。 「ねえ、ほら、真面目にやって」  電話は、鳴りつづけている。  秋津は枕許の電話の音が気になって、仕方がない。女体に繋《つな》がったまま、どうしたらあの受話器が取れるかと考えながら、香津美の中に抜き差しをつづけているうち、やがて根負けしたように、電話はプッツンと途切れてしまった。 「ほら、ごらんなさい。間違い電話だったのよ」  ホテルの部屋に、間違い電話というのは、あまり聞いたことがないが、切れたなら切れたでいい、と秋津は思って、香津美の若々しい女体に今度は集中して、励みはじめた。  しかしその瞬間、電話は再び、猛然と目ざめた番犬のように吠《ほ》えはじめた……いや、鳴りはじめたのであった。  ルルルルッ……と、それはさっきより一段と、けたたましく鳴り響いているようである。  今度こそ、居留守をつかうわけにはゆかない。 「ね、ちょっとだけ。すぐに、納《おさ》め直すからさあ」  秋津はそう言い聞かせた。  香津美も今度ばかりはしぶしぶ、 「本当よ。すぐに戻ってきてよ」  遠くに旅行をするわけではないが、旅立つ者に念を押すように女孔をきゅっと締めて、それから思い入れたっぷりに、結合を解いた。  秋津は、受話器をとった。 「もしもし……」 「ずい分、電話を取るのが遅かったわね。居留守でも使うおつもりだったの?」  受話器の奥からへんに色っぽい、でもどこやら皮肉っぽい熟女の、うつくしい声が響いた。 「あ、綾香《あやか》さんか。どうしてここがわかったの?」 「鎌倉山の家を覗《のぞ》いたら、いないんだもの。見当をつけて二、三ヵ所、電話をしまくったのよ。そうしたら、五番目にあたったわ、そこが」  電話は、鎌倉でも一、二を競う大病院、夏宮《なつみや》総合外科病院の院長夫人、夏宮綾香からであった。 「何か、用事?」 「用事がなければ電話をしてはいけないの?」 「そうは言ってないけどさあ……こっちは今、ちょっと取り込み中なんだよ」 「あ、わかったぞお。取り込み中って、女でしょ? そこに誰かいるのね。誰?」 「詮索《せんさく》はしっこなしにしようよ。……で、用事は?」 「いいわ。私も野暮《やぼ》は申しません。今朝九時、轢《ひ》き逃《に》げされた例の大原憲司《おおはらけんじ》君が、とうとう手当ての甲斐《かい》なく、亡くなったの。その件で、あなたに折り入って相談があるのよ。ジャスト一時間後に、私、そのホテルのフロントに寄ります。ぐたぐた言わずに、表で待っててちょうだい」 「大原君が……? とうとう……だめでしたか」  その轢き逃げ事件は、三日前に起きていた。発見して被害者を助け、病院に担ぎ込んだのは、秋津と夏宮綾香である。だから事件の当事者、といえなくもない。その思いがけない訃報に、驚いていると、 「いいわね、ジャスト一時間後よ。それまでに女と別れて、服を着がえて、ちゃんと帰り支度をしておいてちょうだいよ」  夏宮綾香は、熟女らしい押しつけがましさでそれだけを一方的に伝えると、漸《ようや》く電話を切った。  秋津は一瞬、切られたその受話器を手にして見つめたまま、 (ちぇッ。いつもながら、わがままな奥さんだな……)  と、ぼやくように呟いた。  その時、横あいから、 「誰からの電話……?」  香津美が、覗き込んできた。 「夏宮病院の事務長からさ。三日前、海岸道路で轢き逃げされて入院していた知り合いの患者が、亡くなったという知らせなんだ。香津美には関係ないから、気にしなくていいよ」  院長夫人とは言えないから、あたりさわりのないところで、事務長と言ってごまかした。  そう言いながら、秋津はようやく受話器を元に戻した。  一瞬、宙を見つめた。ベッドに起きあがったままの眼の高さから、ちょうど、窓ガラス越しに江ノ島の海がきらめいて見えた。  沖合いに、二、三隻のヨットが浮いている。東浜の近くでは、色とりどりのウインド・サーフィンが見えた。海は今、それ自体、初夏の薄曇りの陽を浴びて、鰯《いわし》の群れがひしめき泳いでゆくような漣《さざなみ》を騒がせ立てて、物憂《ものう》い午後の凪《な》ぎの中にあった。 「ねえ、ぼんやり考えごとなんかしちゃって、どうしたの。私の中に戻ってくると言ってたはずでしょう。ねえったらあ」  香津美がふくれっつらをして、催促《さいそく》した。 「あ、ごめん、ごめん。忘れてたわけじゃないんだ」  秋津は両腕で香津美の裸身を思いっきり引き寄せ、キスをした。今、報告を受けたことをあれこれ心配していても仕方がない。それより、綾香が来るまでに一時間あるのなら、この中世東洋美術専攻の女子大生、仙道香津美の身体を思いっきり賞味したほうが得策のようである。 「あら、すごーい。みなぎったままだわ」  抱き合って接吻《せつぷん》をしているうち、裸の腰にたぎりたったままの秋津自身を感じ、香津美が驚いたように甘い声をあげた。  秋津則文は、湘南台大学で東洋美術を教える三十二歳の青年講師である。だがおよそ、真面目な学究肌の学者とはいいがたい。鎌倉山に親譲りの宏大《こうだい》な地所や家があることをよいことに、助教授、教授という大学内や学界内のタテ社会で出世することなど、眼中になく、趣味のピアノ調律師の腕を生かして、学校のない日は気ままにピアノを調律してまわったり、古美術商相手に鑑定《めきき》の真似事をやったり、仏像ブローカーをやったりして、どちらかというと自由奔放、放蕩無頼《ほうとうぶらい》な独身生活を送っている。  自分ではこれという生き方を決めないところが、きわめて今日的だと思っている。ファジーなんて流行語は好きではないが、秋津は大学を出てもう十年間、とっくの昔からファジーで、フリーで、気ままで、曖昧模糊《あいまいもこ》とした生き方をしているのである。  女性美に対しても、彼が中世の仏像や仏画、十四世紀鎌倉の禅宗《ぜんしゆう》美術に対して並々ならぬ情熱と好奇心を持つと同様、ひたむきで熱心である。  もっとも、今、相手にしている仙道香津美は、彼が教鞭《きようべん》をとる湘南台大学の学生ではない。教え子に手をつけるような安直な趣味は、彼にはない。香津美は若宮大路に店をだす、鎌倉彫《かまくらぼ》りの老舗《しにせ》「慶運堂」の次女であり、鎌倉の古刹《こさつ》古塔めぐりをする相棒である。  秋津は不意に、中断されたままだった香津美の秘所がどんな具合だか、目で確かめたくなって、香津美のすらりとした両脚を割って肩にかつぎ、太腿《ふともも》の間に上半身を入れて、奥の女性自身に接吻しにゆく。 「ああん……またなのう……」  香津美が、うれしそうな声をあげて賑《にぎ》わった。 「秘められた千手観音の珠《たま》は、何度でも拝《おが》めって言うからね」  香津美の肌は白い。濃い草むらが、割れ目から炎のように渦巻《うずま》いて、秘丘を覆《おお》い、白い腹部へ這《は》いあがっている。鉱脈をさがすようにその性毛を舌でかき分け、敏感な真珠を舌の先で探しだすと、 「あ……」  と、短い笛のような声が湧《わ》いた。  それがしだいに糸をひくように高くなり、香津美は太腿を震《ふる》わせて、ベッドにずりあがった。あ……あ……と、シーツを両手で掴み、頭を支点に腰を浮かそうとする。  弓なりになった香津美の全身が、細かく震え、揺れはじめ、甘い泣き声が連続する。頃あいを見て唇をはなし、かわって秋津は掌《てのひら》で恥丘《ちきゆう》全体をふっくらと包み、のびあがって今度は乳房を吸いにゆく。  この仙道香津美と知りあって、もう三年になる。しかし、身体の関係ができたのは、つい半年前からである。  香津美は東京のお茶の水女子美術大学に通いながら、毎月第一と第三日曜日に地元で開かれている鎌倉市カルチャーセンターの「古寺|巡《めぐ》り」コースの教室に通っていた。  鎌倉は、歴史のある古い寺院が多いことで有名だが、地元の人々は案外、知らない面もある。そこで鎌倉五山をはじめ、古寺古刹を歩いて回りながら、その歴史や美術的価値を系統的に学習しようというのが、その教室の目的で、地元鎌倉市内をはじめ藤沢、辻堂あたりの主婦や若い女性が、けっこう大勢、参加していた。  秋津則文は、市役所の文化財課に友人がいて、その友人に頼まれ、カルチャーセンターの講師も引き受けさせられていたのである。  最初の頃、香津美のことは、四、五十人はいるその教室の受講生の一人であり、鎌倉彫の老舗の娘らしい、という程度のことをおぼろげに知っていただけであった。  それが半年前、突然、男と女の仲になったのは、ほんの偶然からである。  昨年の十月から十一月にかけて、秋津は「日本|古塔《ことう》巡礼」という論文を仕上げるため、奈良の法隆寺の五重塔や、京都の東寺五重塔、滋賀の石山寺多宝塔など、全国の有名な「塔」という「塔」を、すべて見て回っていた。  その時、奈良の比較的知られていない興福寺の三重塔を見るために、日曜日に同寺を訪れ、南円堂の白い土塀に沿って塔のほうに近づいた。一番、よく見える角度にきた時、そのほんの少し先に立って、蒼穹《そうきゆう》にくっきり聳《そび》えているその塔を見あげている一人の若い女の後ろ姿を発見して、あっと思った。  同じ興福寺でも、五重塔は有名である。また奈良のこの界隈《かいわい》には、北葛城《きたかつらぎ》郡|当麻《たいま》村の当麻寺の三重塔や、花に包まれた室生寺《むろうじ》の五重塔などが、一般的にはとても有名である。  それに比べ、秋津が足をむけたその三重塔は、さほど知られているわけではなく、観光客もあまり訪れないところなのであった。  それなのに、先にきて、塔上に九つの宝輪《ほうりん》をきらめかせているそのひなびた三重塔を見あげている女を、秋津は一瞬、信じられない目で見つめた。  その女も、やがて塔を見終わってふりむき、歩きだそうとした時、そこに立っている秋津を発見したらしい。眼を見開き、信じられない、といった表情でしばらく身動きをしなかった。  が、次の瞬間、お互いの顔に懐かしさと喜びの表情があふれた。 「やあ、何だ。仙道くんじゃないか」  女は白いブラウスに、ジーンズをはいてジャケットを片手にもち、肩にカメラを吊《つ》るしていた。 「まあ、秋津先生。……こんなところで会うなんて、どうしたんでしょう」 「興福寺の神様のお導きかもしれないね」  仙道香津美は奈良を二日間、一人旅をし、その夜、鎌倉に帰る予定だったらしい。  ちょうど、二日間の一人旅で人恋しくなっていたところだったのかもしれない。  その日は午後、秋津と行動をともにすることになった。当麻寺と室生寺まで足をのばし、夕方、秋津はそれからの自分の予定を告げた。 「これからぼくは京都にむかう。あした、伏見区の醍醐《だいご》寺の三重塔と、南区九条町の東寺三重塔を研究しにゆくつもりなんだが、一緒にゆくかい」  香津美は、ネッカチーフの裾《すそ》をひるがえし、 「一緒に行きたいわ。塔について色々、教えて下さい」 「もう夜になる。京都に泊まることになるよ」 「お邪魔じゃなかったら、ご一緒します」  香津美は、眼をそらさずにそう言った。  その夜、二人は銀閣寺の近くの小さな宿に泊まった。  食事のあと、先に秋津が寝具に入っていると、 「何も知らないんです」  浴衣《ゆかた》姿に丹前を着たまま、ちょこんと枕許に座って、香津美はそう言った。  たしかに、香津美は何も知らなかったし、処女だった。秋津はできるだけ優しく愛撫したつもりだったが、最初の晩は香津美に、奇妙な重苦しさと苦痛しかもたらさなかったようである。    2  ——それ以来、つづいている。  鎌倉に戻って、二人の関係はいっそう深まったし、香津美の身体もずいぶん開発され、感覚も深まってきたようである。 (あの日、白いブラウスを着てジーンズをはいていたカジュアルっぽい二十歳のアンノン族が……今はもう鮎《あゆ》のように跳《は》ねてるぜ……)  秋津は香津美の成長ぶりを楽しむように、乳房に唇をつけたまま、跳ねまわる身体を押さえて、右手を下腹部にのばし、草むらの中を触った。  指が草むらを分けてクレバスに沈むと、そこは蜜《みつ》が濃くうるんでいて、ぬかるみである。  濃い果汁のぬかるみのなかに指を沈め、ゆるく動かしながら、乳房を吸いつづけると、喘《あえ》ぎ声は、すすり泣くような声にかわって、いっそうオクターブが高くなる。  香津美はとぎれとぎれに、 「いやいや……」  と言って首を振ったり、 「だめだめ……もう、だめってば……」  というような声を放った。そうかと思うと、まるで正反対に、ねえ、ねえ……早く……と、つぎの展開への進行を促す言葉さえも、あられもなく洩《も》らしたりしていた。  自分の身体が、収拾がつかなくなりはじめている。  支離滅裂なことを口走りはじめている。  そうなるともう、決め込む時である。秋津は求めに応じて身体を起こした。  濡れた、あたたかい世界へ、埋没してゆく。 「ああ……」  香津美は衝撃を感じたようにのけぞった。  身体を弓なりに反らせ、腰をしなわせる。  秋津の巨《おお》いなるものは今、三分の一ほど香津美のなかに埋もれかけている。  しかし、香津美の女性自身はまだ固い果肉の趣きがある。若々しい女芯の通路を抜き差しすると、軋《きし》むような反応を覚える。  香津美の構造部分は、どちらかというと秋津のものに対して狭隘《きようあい》であり、男の侵入を拒《こば》み、押し返そうとするような果肉の作用をみせるのであった。  少ない回数ではない。密かなる出会いは、もう数えきれないくらいである。濡れあふれていても、なお、男の侵入を拒むような反応を見せるところが、いかにも若々しく緻密《ちみつ》な、香津美の身体であることを味わわせてくれる。  しかし、怒張した冠頭部が、蜜液でなめらかになった狭隘部を突破すると、押し返してくる力は急にゆるやかになり、反対に洞窟《どうくつ》が広くなって、周囲の果肉が急に賑わいたちながらうごめき寄り、訪問者を掴みとって奥に引き込もうとする作用にかわる。  そうしている間も、香津美はかたちのいい顎《あご》を反《そ》らせて、糸を引くような細くて鋭い声を発しつづけていた。  秋津は腰をたわめて、みっしりと漕《こ》ぎはじめた。香津美の引締まった果肉のなかへ生命の塊《かたま》りを出没させるにつれ、香津美はシーツを掴んで、顔を左右に打ち振り、泣き叫ぶような声をあげはじめた。 「どうしてなのう……ねえ、どうしてなのう……どうしてこんなに——」  不意にブリッジを作ってそりかえったかと思うと、腰をどたっとシーツに落としたりし、いやいや、もういや、と頭を左右に振ったりする。そのたびに、黒いロングヘアが、顔に乱れかかって覆ってしまう。 「いやいや……こんなことしてると、私が私でなくなるわ……恐《こわ》いわ、こんなの、いやよ」  いやいや、と言いながら、しかし香津美は決して、その情況が、いやではないようなのである。  たまゆらのよろこびに浸《ひた》っているのである。  秋津は、動きつづけた。香津美は小さな嵐の瞬間と、小さな陶酔の平穏な瞬間とを交互に繰り返し、急激な快楽が盛りあがらない間は、なまあたたかい快楽の海にうっとりとただよっている。  そんな時の香津美の顔が見たい。長い黒髪が半分以上、横なぐりに乱れかかっていて、表情が見えない。秋津は納めたまま、片手をのばして髪を払いのけ、鉱脈を探すような手つきで鼻や眼、唇を払いだす。  髪を払った唇が、半開きになって喘いでいる。指でその唇を撫《な》で、口の中に指を入れた。むりやり、歯を割って口腔に入れて出し入れすると、そこでも犯しているような気分になった。 「ああん……ああん……」  六ヵ月前、苦痛しか訴えなかった処女は、今やもう完全に処女ではなくなっていた。  抽送を重ねるうち成熟した感覚が煮つまりはじめ、嵐の予感が近づいていた。香津美は眉根を寄せ、切羽詰まった状況を表す言葉を吐きちらした。  それは、いくいく、とも聞こえるし、イッちゃう、イッちゃう、とも聞こえるし、死ぬ死ぬ、とも聞こえる。そんなふうな具体的な表現は、実は秋津が教えたものである。 「過激な快楽が盛りあがってきたら、身体を動かしてごらん。どんなふうにでもいいから、男を盗む動かし方をしてごらん」  そうも教えたことがある。男を盗む動かし方、というのがわかったかどうかはわからないが、香津美はでも、けなげに腰を使ってきた。 「あ、だめだめ……あたし、いっちゃうよう、いっちゃうよう」  今がまさに、そうである。漂っていた快楽と陶酔の極致から不意に荒波に押しあげられたように、香津美は軍鶏《しやも》のように、激しく身体を撓《たわ》めて、挑んできた。応えて秋津が熱い果肉を割《わ》り裂《さ》くように、動きを強めると、香津美の女体の奥で小さな轟《とどろ》きが湧きおこり、それは次第に大きくなって全身を掴み、 「ああーんッ! わたし、どうしよう!」  たちまち、香津美はオーガズムの波に飲み込まれてしまった。    3  湘南ホテルの前で仙道香津美と別れた時、秋津則文は、見送る香津美の熱っぽいまなざしの中に、生臭い女の顔をみた。  香津美はいつからああいう眼をするようになったのだろう、と思った。  はじめて男を知った頃の香津美の目は可憐であったが、今はそうではなくなりかけている。たった半年の間に、あんなにも女は変わってくるのだろうか。 「あの娘、あなたを裸にしてなめるような眼で見つめていたわ」  車が走りだすと、軽くステアリングを握った夏宮綾香がそう言った。 「あなたに、ぞっこんみたいよ。ああいう素人の娘さんに手をだすと、気をつけないとあとが恐いから」 「人妻は恐くないのですかね」 「ああ、私は大丈夫よ。別居同然でも夫がちゃんといると、あまり無茶なことはできないものよ。せいぜい、趣味の合う男を見つけては、適当につまみ喰いして愉《たの》しむくらい」 (おれはその、つまみ喰いされる男か……)  と、秋津はうっそりと笑った。  車は、海岸通りを稲村ケ崎のほうにむかって、走りだしていた。夕暮れ前の朱鷺《とき》色に輝く海を眺めながら、 「先刻は知らせを聞いて、驚きましたよ。残念でしたね、大原君……」 「ええ、何とも言えない気持ち。轢き逃げ犯は、まだつかまっていないし、遺族の方に顔むけできない気持だわ」 「でも、勤務中の事故じゃない。彼はもう帰宅途中だったんだから、雇い主だからといって、院長夫人がそう気になさらなくてもいいんじゃないかな」 「それは、そうね。そういうふうに割り切ればいいけど……轢き逃げの背後には、何だかうちの病院をめぐる何か大きな事件が隠されているような気がして、仕方がないのよ」 「ほう。どんな……?」 「それはまだわからないけど……今日、ゆっくり相談したいというのは、そのことなのよ」  夏宮綾香は、そう言った。  秋津には、綾香が何を訴えようとしているのかは、まだわからなかった。しかし、大原憲司という一人の青年の死亡の通知が、胸にこたえていることは事実だった。  気にするな、といっても気になる。あの時、もう少し早く、海岸道路を通りかかれば、大原をバス停で見つけて車に拾いあげ、家に送ってやることもできたし、そうすれば事故にも遭遇しなかったはずである。  忘れもしない。つい三日前の、雨の晩のことだ。  江ノ島の行きつけの店で磯料理を食べての帰途、秋津と綾香はこの海岸通りを稲村ケ崎から鎌倉のほうにむかって走っていた。  海岸道路には、雨が激しかった。雨は海からの風に煽《あお》られて横殴りに吹きつけていて、路面に白い雨足がはじいていた。七里ケ浜の信号近くまできた時、視界さえもさだかではないその前方を、レインコートを着て傘をさした黒っぽい人影が、バス停のほうから反対側に、道を横切ろうとしていた。  秋津は何となく危ない予感がして、スリップを警戒するように、スピードを落とした。すると、その人影が横断歩道の半ばまで差しかからないうち、対向車線を走ってきた黒い乗用車が、雨《あめ》飛沫《しぶき》を白い炎のように巻きたてて、スピードもゆるめず、秋津たちの傍《そば》を猛烈な勢いで走り抜けた。  一瞬、交錯したヘッドライトの眩《まぶ》しい光線と闇と雨飛沫の煙幕の中に、人影が視界からふっと、消えていた。  ワイパーが動いてフロントガラスの雨をはじいて一掻《ひとか》きした刹那《せつな》、通りすぎようとして、それが見えたのであった。  横断歩道の路面に、ぱったり倒れているレインコートの男がいる! その傍に黒いコウモリ傘がひしゃげ、男の姿は路面に奇妙な形に、ねじれているではないか。もがいているというよりは、それはもう転倒して、気を失っている恰好のようであった。 (——轢き逃げだ……!)  とっさに気づいて、急ブレーキを踏んだ。  一拍置いて、やっとその事態に気づいた綾香が、恐怖に駆られて、きゃあッ、恐い……と、間抜けなくらいの大きな悲鳴をあげた。  秋津はかまわず、急ブレーキを踏んで車を停め、ドアをあけて、急いで雨の中に飛びだした。  道は暗く、対向車も途絶えていた。  路面に倒れている男に駆け寄り、抱《かか》え起こした。 「おい! 大丈夫かッ!」  男は、額から血を流していた。全身を強く打っているようだが、まだ生きていた。呻《うめ》いている。腹を押さえて、苦しそうだった。  救急車を呼ぼうにも、すぐ傍には電話はない。自分の車で、病院に運びこんだほうが、手っ取り早いようであった。 「おい、綾香さん。手伝ってくれッ。この男を病院に運ぶ」  秋津はその時まで、男が夏宮病院の事務員だということは、知らなかった。雨の中を綾香が駆けつけてきた時、 「あッ、大原君じゃないの! どうしたのよ、大原君……!」  秋津に抱き起こされている男を見て、綾香が驚いて、そういう声をあげた。 「大原君、しっかりして! 誰に轢かれたの? 誰にこんな酷《ひど》いことをされたの?」  綾香によると、被害者は夏宮病院の医療保険請求士、つまりは事務員五年目の大原憲司だというのであった。  しかし、大原は虫の息で、すでに朦朧《もうろう》状態だった。何かしきりに唇で呟《つぶや》いていた。それはよく聞くと、 「クガさんは……クガさんは……」  と言っているようであり、また奇妙な呪文《じゆもん》のように、「トータル・リコールを思いだしてくれ……トータル・リコールを思いだしてくれ……」  とも、呟いているのであった。  秋津にも綾香にも、その意味はわからなかった。  ただ一つ、わかったのは、クガさん、というのは、二人ともが知っている久我俊之のことかもしれない、という見当だけであった。 「ともかく病院に運びましょう。手伝って下さい」  そうして、気をつけながら二人で車にのせ、若宮大路の夏宮総合外科病院に運び込んだのが、その晩の九時頃のことであった。  病院では、被害者は救急処置室に入って手厚い治療を受けた。その甲斐あって、瀕死《ひんし》の重傷ながら、三日間、生き永《なが》らえることができ、今朝あたりは、小康を保って快方にむかっている、とさえ聞いていたのである。 (しかし、やはり、駄目だったか。いったい、誰に轢き逃げされたんだろう……)  秋津は綾香が運転する車に揺られながら、そう呟いた。  秋津たちは事故のあと、その轢き逃げ事件を警察に届けた。しかし、雨とヘッドライトが眩しくて、車種はよくわからなかったし、ナンバーも見えなかったので、轢き逃げ犯はまだつかまってはいない。  そのことも、秋津の心を少し重いものにしていた。 「大原君の通夜や葬儀のほう、大丈夫なんですか?」 「身内の方《かた》がやってらっしゃるわ。病院からも手伝いを差しむけているし……私が出しゃばることもないと思うの」 「それもそうですね。従業員だからと言って、院長夫人が陣頭指揮をとって、葬儀委員長を勤めることもないわけだ」 「通夜や葬儀の時には、顔をだすわ、もちろん」 「久しぶりにご夫妻|揃《そろ》ってね」 「私たちのこと、イベント夫婦って、いいたいんでしょう」 「冠婚葬祭の時しか、夫婦揃っては現われない。ふだんは別居同然。あなたもひどい亭主をもって、不幸なひとだな」 「他人事みたいに、言わないで。あなたにも、責任があるんだから」  綾香の左手がのびて、秋津の太腿をつねった。  秋津は反対に、その手を握り返した。 「で、今からどこにゆくんです?」 「あたし、おなかぺこぺこなの。大原君のお通夜は明月院で七時からだし、まだ時間があるでしょう。主人は病院から直行するんですって。——どこかでお食事してゆきましょ」 「ああ、いいですね。ぼくもおなかぺこぺこだ」 「誰のためにぺこぺこになったの。憎たらしいことを言う人だわ。あっちのほうも撃ちつくしてしまったんじゃないの?」 「いいえ。可憐《かれん》な女子大生一人、満足させるくらい、実弾は撃《う》たなくってもすみますよ」 「じゃ、峰月庵に寄りましょう。あそこなら、ゆっくり食事しながら、お話ができるわ」  やがて車は、鎌倉の街に入り、若宮大路から鎌倉駅の先で左折して、扇《おうぎ》ケ谷《やつ》の住宅街に入り、峰月庵の内庭にすべりこんだ。  峰月庵は扇ケ谷の屋敷街の中にある、ごくふつうのお屋敷のような食事処である。    4  気持ちのいい店であった。  縁側から、夕暮れの赤っぽい光が、庭の芝生に射している。黒瓦格子造《くろがわらこうしづく》りの民家ふうの渋い店構えをもつ峰月庵はまた、庭園が広い。和風庭園を見渡すガラス戸を引いた離れの室内は、さらに素晴らしく、茶釜《ちやがま》のたぎる囲炉裏《いろり》、野の花を活《い》けた壺が白い障子に映えて、北鎌倉にふさわしい店である。 「あなたは車を運転していないんだから、どうぞ」  綾香がビールを差しだした。 「あなたも、いかがです?」  秋津は院長夫人に、返した。 「そうね。車をここに置いていっちゃおうかしら」  綾香はおいしそうにビールを飲んだ。  テーブルには黒い二重がさねの京料理ふうの、野だて重箱に入った茶懐石料理が並んでいる。筍《たけのこ》、豌豆《えんどう》、栗などを炊きこんだ六菜《ろくさい》の季節弁当もあるが、そちらは綾香にまかせて、秋津は黒鯛をはじめとする相模湾の地魚の刺身をつつきながら、播磨路の吟醸酒「富久錦」を飲んだ。 「ところで、大原君のことですが、轢き逃げの背後が気になる、というのはどういうことでしょう」  秋津は聞いた。 「ただの轢き逃げじゃないかもしれないって気がするのよ。誰かが意図的に彼を殺害したのかもしれない。そうしてそれは、夏宮病院を包む何やら不可解な事件に発展するような気がするの」 「どうして、そう思うんですか?」 「だって、あのダイイング・メッセージ。どう考えても変よ。それに一週間前から私のところに、変な脅迫状《きようはくじよう》も舞い込んでたのよ」  大原憲司が事故現場で秋津に抱き起こされた時、無意識のうちに、「クガさんは……クガさんは……」と口走っていた言葉が、厳密な意味でのダイイング・メッセージ(死の直前の伝言)と言えるのかどうかは断定できない。彼はその後、三日間も生きていたからである。  しかし現場から病院に担ぎ込んでも、とうとう意識は戻らなかったのだから、広い意味では、俗に言うダイイング・メッセージと考えてもいいだろう。  彼はたしかに、「クガさんは……クガさんは……」という謎の言葉を残している。それに「トータル・リコールを思い出して欲しい……トータル・リコールを……」という言葉が、そのあとに続いていた。 「クガさんは、トータル・リコールを思い出して欲しい……」というのは、どういう意味だろう。 「トータル・リコール」で秋津が思いだすのは、昨年の暮れに公開されたポール・バーホーベン監督、アーノルド・シュワルツネッガー主演の映画「トータル・リコール」である。  これは、未来の人工都市となった火星で事件に会い、記憶を喪失《そうしつ》させられて地球に送り返された男を主人公とした、いわば「自分を探す旅」といったテーマの映画だったと記憶している。  大原が言いたかったのは、そのことだろうか。彼がその前後で言っていた「クガさんは……」というのを「久我」として考えるのなら、秋津も綾香もよく知っている人間、久我俊之《くがとしゆき》のことだと思われる。  久我俊之というのは、秋津則文の大学時代の友人で、稲村ケ崎でシーサイド・レストランを経営している三十二歳の男である。  三星重工業の取締役社長・久我|久常《ひさつね》の長男だから、本来なら社長|御曹司《おんぞうし》として、また財閥《ざいばつ》の若きプリンスとして、将来は大三星を担《にな》い、ひいては日本の経済界を背負って活躍すべき星の下に生まれている男であった。  しかし、五年前のちょっとした海難事故が、彼を不幸にさせた。相模湾の沖合いをヨットでセーリング中、天候の急変にあい、転覆《てんぷく》して遭難《そうなん》。友人のクルーザーに助けられて一命だけは取りとめたが、その事故の際、ヨットの帆柱に頭を強打したらしく、記憶喪失症に陥《おちい》ってしまった。  全身、濡れ鼠になって救助され、担《かつ》ぎこまれた病院が、地元の夏宮病院である。院長の夏宮聡太郎《なつみやそうたろう》が手厚い治療にあたり、入院三ヵ月で骨折や外傷などはすべて治って、奇蹟《きせき》的に生還した。外見からはもう、非の打ちどころのない元の健康体に戻ったが、ただ一つ、回復しなかったのが、彼が二十七歳のそれまでに所有していた記憶を、すべて失ってしまったということである。  もっとも、普通の市民生活には何ら支障がない。  退院後、身体は健康そのものである。  病院で意識を回復して以来のことは、すべて記憶していて、脳は正常に作動しはじめ、それ以来、普通の市民生活を送っているのである。  だが、大財閥・三星の将来の取締役社長が「過去の記憶を失っている」という異常な状態では、厳しい企業戦争を指揮して生きぬいてゆくためには不安であり、足許が危《あや》ぶまれる。さいわい、本人は自分が財閥の御曹司であることも、久我家の長男であることさえも、すっかり忘れてしまっている。  このさい、経営の第一線からははずそう。代わって義弟の継之進《けいのしん》を財閥久我家及び、大三星の後継者として位置づけ、俊之にはのんびり自分の好きな道で一生暮らせるような方途を、講じてやろう。  父、久我久常はそんなふうに考えたらしく、退院後、俊之は久我家からも会社の仕事からも外され、彼の好きな稲村ケ崎の海の近くにシーサイド・レストランを一軒建ててもらい、そこのオーナー兼シェフ兼マスターとして、気ままに暮らすことになったのであった。  今、久我俊之は、少しも自分のことを疑わず、一介の海辺のレストランのマスターとして、楽しく暮らしている。  彼はそれで充分、充ちたりているようであった。  三年前、店のレジを手伝っていた女性と結婚して、一児をもうけたくらいである。そのレジの女というのが、秋津の妹、暁子《あきこ》であった。  秋津は友人としての、また一介のレストランのマスターとしての久我俊之に充分、人間的な魅力を覚え、妹が結婚したいといいだした時、久我が記憶喪失症の人間であることをわきまえた上で、その結婚に賛成したのである。 「久我君は一生あのまま、記憶喪失症で終わるかもしれない。しかし、人間は悪くはない。まじめに働く男だ。それでよかったら暁子、彼をしっかり支えてやれ」  そう言って、妹を励《はげ》ましたくらいであった。  秋津は今、この判断は正しかったと思っているし、妹ともども、今の平穏な状態を喜んでいるくらいである。  しかし、その久我俊之の記憶喪失症には、何か謎があるということだろうか? それが、何かの脈絡で夏宮病院の事務員、大原憲司につながり、彼はその秘密の攻防をめぐって、轢き殺されたとでも、言うのだろうか?  秋津は、切子《きりこ》ガラスの杯《さかずき》をもつ手を宙に止め、ふっと庭を見つめた。にわかに久我俊之のことが心配になってきた。それというのも、妹の暁子を彼のところに嫁《とつ》がせているからでもあった。 「綾香さん。さっき、あなたは夏宮病院が脅迫されている、とおっしゃいましたね。それは、どんなふうに?」  秋津は、話題をすすめた。 「どんなふうって、ワープロ打ちの手紙が私の家の郵便受けにはいってたのよ。�夏宮病院の秘密を知っているぞ。夫の夏宮聡太郎によく伝えておけ。秘密をばらされたくなかったら、三億円、用意しておけ。そのうち、電話する�って」 「三億円ですって……? そんな無茶な——!」  夏宮病院に、そんな大金をゆすられるような重大な秘密があるのだろうか。心当たりは何かあるんですか、と秋津は重ねて聞いた。 「それが……私には見当もつかないのよ。病院のことは一切、タッチしていないし、夫は私に、何かを隠しているのかもしれない。そこへもってきて、大原君の轢き逃げとか、久我さんのことでしょう。それらを全部含めて、あなたにこれから調べてほしいの。もしかしたら、大原君の轢き逃げの背後には、何かしら放置できない、恐ろしいことが隠されているような気がするのよ」 「なるほど。あの轢き逃げはたしかに異様でしたね。ぼくもだんだん、事件のことが気になってきた。よろしい、調べてみましょう」  秋津は、そう言って綾香の頼みを引き受けた。  そうしてそれは、自分や綾香や妹を巻きこんでの奇妙な事件の展開になるかもしれない、という重い予感を孕《はら》んでいた。    5  月のない晩、暗い沖合から燃え渡ってくる篝火《かがりび》の焔《ほのお》のようなものが、その日の夏宮綾香にはあった。食事が済んだあと、綾香は無言で奥のバスルームに消え、シャワーの音をたてていたが、その音が熄《や》んだところをみると、用意されていた浴衣に着がえて隣室に入ったのかもしれない。  峰月庵を予約したのは、綾香のほうだし、二間つづきの離れで酒食を摂《と》るということは、隣に夜具の用意をしておくということが含まれていた。秋津が切子ガラスの酒器に残っていた冷酒を飲み干して、襖《ふすま》をあけると、驚いたことに、綾香はのべられた夜具の枕許に、つくねんと後ろむきに座っていた。 「あなた、いつあの娘に手をつけたの?」  あの娘、というのが、仙道香津美のことであるということに気づくのに一瞬、間があった。秋津は話題が大原憲司の轢き逃げのことから一転して、秋津の女性関係のことに移ったのにためらい、また綾香のような女でも、小娘のことが気になるのかな、と怪訝《けげん》に思って、 「どうして、そんなことを聞くんですか?」  できれば、そんな話題は遠去《とおざ》けたかった。 「気になるわよ。きれいな娘さんじゃないの。まさかあなた、処女をひらいたというわけじゃないでしょうね」 「もしそうだったら、不都合でしょうか」 「私はちっとも困らないけど、あなたのほうが困るんじゃないの。何か暗い感じがしたけど、男を惹《ひ》きつける眼をしていたわ。ああいう娘って、まっしぐらにのめりこんでゆくんだから、生命がいくつあっても足りないわよ」 (まるで、自分のことを言ってるみたいだ)  秋津は、苦笑した。夏宮綾香も、自分でいうほど遊び感覚で男を愉しむタイプではなく、どちらかというと、まっしぐらにのめりこむほうである。  秋津は無言で、浴衣に着がえた。  まるで家に戻った亭主のようである。  夜具にはいると、まだそこにつくねんと座っている綾香の手を引き、 「綾香さん……どうしたの、今日は」 「あの娘の眼の色が、まだ私の頭の中に残っているわ。あれは女の歓《よろこ》びを知りはじめたものの、ひたむきな眼の色よ」  秋津は起きあがって、綾香の肩を抱いた。接吻を交わし、二人とも夜具の上に斜めに倒れこんだ。 「ああ……則文……よその女を、抱いちゃいや」  綾香はようやく、物狂おしい接吻を返してきた。  秋津はその熱い女体を押《お》し伏《ふ》せ、腰紐《こしひも》を解くと、身につけていた浴衣を脱がせ、黒絹のスリップやショーツを脱がせ、白いたわわな乳房を露《あら》わにすると、そこを掌いっぱいに包んで、こねくるように揉《も》んだ。 「ああっん……則文!」  綾香が熱い声をほとばしらせて、秋津の頭を片手で抱きしめた。 (苦しいよ。もう少しゆるめてくれなくっちゃ)  綾香の乳房はほどよい形で、固締まりのお椀型に張っている。そこに唇を送りながら、秋津は綾香の肩から背中、胸、脇腹へと全身に手を這《は》わせながら、夫に背信されて悶々《もんもん》としている人妻の肌湿りの感触をたどった。  そのうち、掌がたどってゆく道すじの綾香と接した部分の肌が、じっとりミルクでも噴《ふ》きだすように汗ばんでくるのを感じた。そのねっとりした肌湿りの掌に吸いつく感じは、肉が詰まってぷりぷり弾《はず》んでいた香津美の若々しい肌とはまた違って、暗い焔のような情念をたたえていて、女臭い感じであった。  綾香の乳首は、陥没型であった。  そこに舌をあて、いつくしむように火を掘る。  乳首はたちまち、火を掘りだされて、火山のように起きてきた。 「あっん……」  乳首を吸うにつれ、綾香の女体がなまめかしく反り返ってゆく。  秋津は右手を股間にのばした。恥丘はふっくらと発達していて、繁茂《はんも》した秘毛が柔らかい。その森を分けて谷間にすすむと、指先きはじきに、とろけるようなバターの沼に到着した。  人妻、綾香はもう、潤《うる》み尽くしていた。  ぬかるみの中を愛撫する指は、ともすれば泳ぐ感じになった。ひとしきり、女の淵《ふち》を散歩したあと、秋津は女体をひらいて、身体を下腹部のほうに移してゆく。  綾香の内股は白くて、なまめかしい。全体に長身で、華奢《きやしや》で、ほっそりした身体つきなのだが、裸にすると意外に臀部《でんぶ》と太腿に、豊かな肉のまるみがあった。  秋津は両下肢を大きくあけた。いやん、という声が噴いて、閉じられようとする。  それをまた、大きくあけた。  綾香の森の奥に、湿った花が咲いていた。  桃色の花が、しずくに濡れて咲いていた。綾香の身体に合わせたように、つつましいがしかし、指で開くと、見栄えのする、咲きくずれた大きな暗い花だった。  綾香は目を閉じ、顔をそむけている。自分を解き放った、みだれた表情である。息遣《いきづか》いが、かなりあわただしくなっていた。秋津のくちびるが、花に到着する瞬間をいやいやと恥ずかしがりながらも、待ちわびている。  そんな表情であった。口唇愛《こうしんあい》がはじまったとたん、きっと大声をあげるだろう、と思っていると、その通りになった。  あたたかいぬかるみの中へ、秋津の舌が舞い降りると、綾香は火傷《やけど》をしたような声をあげた。肉びらをこじあけ、ぬかるみを捏《こ》ねるように、舌を働かせた。声はますます細く、高くなった。谷間の上部の敏感な真珠を舌がとらえた。  絹を裂くような声が湧き、綾香の裸身に突っ張るような力がこもり、かすかに震えて、大量の快楽を吸収するような姿勢になった。  綾香は、成熟していた。子供が二人いて、夫にはかまってもらってはいないのだから、当然である。たちまち快楽が盛りあがったらしく、悶《もだ》えはじめる。  言葉にだして、綾香は催促した。唇でなんかより、秋津の男性自身で早く充実した時間になだれこみたい、そうして欲しい、という催促であった。  突然、綾香が上体を起こした。呻《うめ》くような声を洩らして、強い力で秋津に縋《すが》りつき、押し倒そうとした。  秋津が身につけている浴衣を、綾香は剥《は》ぎとった。むしられた股間に、秋津の衰えをみせない雄渾《ゆうこん》なものが、現われたはずである。  秋津は仰臥《ぎようが》して、天井をむいた。  綾香がいとおしそうに、上半身をそこに伏せ、両掌をあてて握りしめてきた。数回、両の掌で包み、その掌を毛むらまで深くおろして擦りたて、唇を近づけてくる綾香の表情は、何かしら崇高な宗教秘儀でもおこなっているようであった。  宝冠部をすっぽり、綾香は飲みこんだ。  綾香の頭が、上下する。白い尻も、秋津のほうからはよく見えた。長い間、綾香はそれをつづけていた。  その秘めやかで物狂おしい挙措《きよそ》は、綾香が深窓の令夫人であるだけに、たとえようもなくお上品で、そうして淫《みだ》らで、秋津の心をそそった。 「綾香さん……ありがとう……もういいよ」  秋津は、奇妙な唸《うな》り声をあげて起きあがり、綾香の肩を掴んで反転させると押し伏せ、決め込みにいった。  秋津は雄渾なものをあてがう。蜜《みつ》ぬるむ女芯に、ほとんど有無をいわさぬ勁烈《けいれつ》さですべりこませ、インサートしていった。 「うぐっ」  というふうな、唾《つば》をのむような声がきこえ、そうして綾香は、最初の一突きで、「イクー」と叫んだ。  男にしろ女にしろ、人間は一日に何回、交合ができるのか秋津は考えたことがない。年齢や状況や身体条件、個人差などが大いに左右するだろうが、その日に限っていえば、秋津は実に、余裕のある豊饒《ほうじよう》さを味わいながら、綾香にしあわせのエネルギーを送りつづけることができた。  秋津は、充実していた。  秋津は、着実に動いている。 「ああ……則文……あたし、息ができない」  綾香は、奥へととどいた到着感と、女性自身がぴっちりという具合の容積の偉大さを、そんなふうに言って、吐息《といき》を洩らした。 「綾香さんのも、すてきですよ。あそこ、熱く燃えてるみたいだ」  秋津は通路を充《み》たしたもので、天井を突いたり、左右をこねくりまわしたり、円を描いたりした。 「あっ……いやいや……あっ……そんなふうになさらないで」  綾香はあたふたと言いながら、目をまわしたように、ずりあがってゆく。  秋津が抜き差しするたびに、一瞬一瞬、あらたな驚きと衝動と甘美さを覚えて、あたふたと、うろたえきっているようであった。 「則文……いやっ……あたしをふしだらにさせないで……あたし、もう、だめ……イッちゃいそうよ……イッちゃいそう」  夏宮綾香の構造は、緻密《ちみつ》である。  そのくせ、欲張りである。男性が通る通路は細くて、奥までつらぬき通すたびに、綾香は何度ものけぞって、華やかに乱れるのであった。  やがて、膣《ちつ》の奥から固くてこりっとする、マッシュルームの頭のようなものが降りてきた。子宮|頸《けい》である。男根を迎えうつ、という感じで、秋津のたかまりの先端にあたるたび、マッシュルームはぐるぐるっと、うねくる。  こつん、ぐるぐるっと、軟体動物のようにうねくる。 (綾香はいま、汗みどろになって、女の闘争をしているのだな)  秋津は、そう思った。たまゆらの快楽を追う二人は、夕暮れ前の獣になっていた。  何度か、秘宮の奥で秋津のものがマッシュルームの頭とぶつかりあい、綾香はもう収拾のつかないエクスタシーの海に漂《ただよ》いはじめていた。何度か激しく女芯《によしん》を収縮させて、けたたましい鳥のような叫び声をあげ、クライマックスを迎えていた。    6  その夜、北鎌倉の明月院で大原憲司の通夜が行われた。  鎌倉の寺はほとんど後ろに山を背にして、谷戸《やと》とよばれている谷あいに、堂塔のいらかを並べている。明月院もその典型で、東の明月山に月がのぼる時、谷あいの堂塔のいらかが銀色に光って照り返し、もっとも美しい、とされている。  夜七時半頃、秋津が訪れた時、むかいの明月山に月が出ていた。参道の両側のアジサイはまだ蕾《つぼみ》から五、六分咲きで、満開にはなっていなかった。  大原憲司の通夜は、本堂で行われていた。大原の身内よりも、夏宮病院の従業員が大勢、来ていた。ほとんど、夏宮病院の「病院葬」のようなものであった。  院長の夏宮聡太郎が、明月院の住職と知りあいだとかで、通夜の会場も立派な場所を借りているわけであった。 「どうぞ、ご焼香の方はこちらへ」  大病院勤務の、二十九歳の医療保険請求士に、どのような社会的立場や、交際があったかは知らないが、焼香客はけっこう多かった。正直のところ、意外に多い、といってよかった。  それだけ、不慮の死を遂《と》げた従業員に対して、院長の夏宮聡太郎が気を使って、会葬者を病院関係者全員に広げているのかもしれなかった。  焼香の順番を待ちながら、秋津は本堂を眺めた。院長夫人の夏宮綾香が、黒い喪服を着て、ハンカチを膝の上に握りしめて、静かにうつむいていた。  時折、嗚咽《おえつ》を洩らしてさえいるその白い寂然とした顔は、深い悲しみの色を濃くしていた。たった二時間前、男を貪《むさぼ》って乱れきっていた人妻とは思えないほど、貞淑《ていしゆく》そうで物静かで、上品であった。その横に座っている肩幅の広い、坐高の高い中年男が、夫の夏宮聡太郎である。坐高が高いということは、身長が高いということである。  事実、彼は長身で、押しだしのいい恰幅《かつぷく》のある外科医であり、病院経営者であった。私生活上の艶聞《えんぶん》をのぞくと、社会的にはむしろ、名医として信頼され、この地域でも人望が高い。  夏宮病院は、綾香の祖父、守広《もりひろ》が創立したものである。二代目の院長までは、祖父の直系であった。つまり、綾香の父、堅一郎《けんいちろう》は祖父の長男であった。しかし堅一郎には男児が生まれなかった。長女の綾香が、婿《むこ》を取ることになった。そこで選ばれたのが、東京の名門医科大学を卒業して、夏宮病院に勤務していた堅一郎の愛弟子《まなでし》であり、腕のいい外科医であった聡太郎であり、綾香が二十二歳の時に、二人は結婚したようである。  最初は、仲のいい夫婦であった。しかし二年もしないうちに、隙間風《すきまかぜ》が立ちはじめたようである。聡太郎の外泊が多くなり、東京に愛人を囲っているらしい、という噂《うわさ》が立ちはじめたのは、三年ぐらい前からである。  ちょうど、夏宮病院が大発展して、東京の世田谷に分院を建てた頃からであった。その仕事で、聡太郎は週に三日は東京に通うようになったのだが、三日が四日になり、一週間、まるまる帰ってこないこともあったりして、しだいに綾香との間に亀裂《きれつ》が深まったようである。東京の世田谷とか青山とかのマンションに、看護婦あがりの女を囲っているらしい、という噂は、鎌倉まで知れわたっていた。 「隠しだてはしないよ。きみも慣れてきたようじゃないか。きみとは離婚はしないよ。二人とも、うまくやってゆこうじゃないか。ぼくにとって、家庭や夏宮家をおさめてくれるきみはどうしても必要だし、大切だからね」  聡太郎としては、何かと跡取り娘であることをひけらかして、高飛車にでる綾香の態度が気にくわなかったのかもしれないし、婿として病院経営の才腕をふるって、病院を大発展させたのだから、自分の素行《そこう》ぐらいにいちいち、文句を言うな、というところかもしれない。  これに対して、綾香がどう思っているかは、正確にはわからない。しかし少なくとも夫の愛情に満足していないことは、秋津を求める昼間のようなふるまいを見れば、明らかだろう。  今、通夜の席におとなしく、仲《なか》睦《むつ》まじそうに並んでいるように、公式の席にでる時に限って、二人とも仲のいい夫婦になる。従業員の結婚式に出席する時、媒酌人《ばいしやくにん》をつとめる時、あるいは通夜や葬式など、冠婚葬祭の時だけは仲のよい夫婦として揃うので、陰ではイベント夫婦とよばれているらしかった。  秋津は、遺影の飾られた祭壇の前に、静かに並んでいる夏宮夫婦を眺めながら、そういうことを思いだしていた。  焼香客の列が動いて、秋津の番になった。  秋津は抹香《まつこう》を二指でつまみあげ、火の中にくべた。 (ま、夏宮夫婦の秘事はどうでもいいか。それより、大原憲司を轢き逃げしたやつは、どこの、どいつだ。彼はなぜ、何のために殺されたのか。夏宮病院の秘密というのはいったい、何だ? 脅迫者というのはどこにひそんでいるんだ?)  秋津は焼香しながら、そんなことを考えていた。綾香に頼まれたことをおれは、あしたから調べはじめるだろう、と思いながら、秋津は焼香し、大原憲司の霊に瞑目《めいもく》合掌《がつしよう》した。 第二章 肌の背信    1  縁側から初夏の陽《ひ》が射《さ》していた。  その明るい、すてきに残酷な朝も、夏宮綾香は床からなかなか起きあがれなかった。  夫はゆうべも、帰ってはいなかった。  もう間違いなかった。外に女を囲っているのだ。それで綾香にはこのところ、熟睡というものが訪れず、一人で目覚める、頭の重い朝がつづいている。  身体の芯に妙に、火照《ほて》るような燠《おき》が潜んでいて、それが全身を気だるくさせていて、身体が鉛《なまり》のように重かった。  庭に面した八畳の部屋は、雪見|障子《しようじ》の外が濡れ縁である。濡れ縁にもガラス戸があって、その広いガラス越しに櫟《くぬぎ》や栃《とち》、楢《なら》などの庭の落葉樹がいっせいに芽吹き、初夏の若葉を繁《しげ》らせて、木洩《こも》れ日が妖《あや》しいくらいにみずみずしい。  風が立つと、若葉が揺らいだ。苔湿《こけじめ》りの地面に、木洩れ日が射し込んで揺れ戯《たわむ》れた。その木洩れ日は、今、綾香が布団にはいったまま開いている枕許《まくらもと》の画集《がしゆう》の中にも揺れ戯れていた。  画集は、閨中枕文庫と副題のある「春情秘|巻《かん》」という春画の本で、画家は細田|栄之《えいし》という江戸時代の浮世絵師であった。その枕文庫は明治の頃の、秘密出版の複製画集のようであった。  たぶん、祖父の守広あたりが、好事家《こうずか》だったようだ。鎌倉でも古い病院の一つに数えられる夏宮病院を開いた綾香の祖父、夏宮守広は、仏画や刀剣、浮世絵の収集を道楽にしていたらしく、その手の古美術品が蔵いっぱいに収《しま》われていた。それは父の堅一郎に引継がれ、父も病院経営の合い間、こまめに仏像や仏画を手入れしていたが、綾香がその堅一郎から歌麿や英泉や栄之の肉筆の枕絵を見せてもらったのは、結婚する少し前である。  堅一郎としては、美術品に托してそれとなく娘に、性教育をしたつもりだったのかもしれない。  綾香はすでに、女子大時代からボーイフレンドとの男性経験があったから、描かれている世界に対しては、少しも驚かなかった。  しかし、その多彩で自由奔放な男女の体位の数々には驚かされ、それに、女の官能のきわみを追求した質の高い美術的価値には、いつ見ても眼を瞠《みは》り、眼を奪われる思いがした。  夫の聡太郎と結婚してしばらくは、枕文庫を開くことはなかった。  現実の生活が充《み》たされていると、代償行為は必要ないのである。  綾香が眠れない夜や、一人で眼覚めた朝、何気なく父の遺品を取りだして見始めたのは、夫の聡太郎が家をあけはじめてからである。  今朝もまた、綾香はそれを開いていた。  綾香は、数多い浮世絵師の中でも、一般にはあまり知られてはいないが、栄之《えいし》が一番好きである。  歌麿や写楽とともに寛政期(一七八九〜一八〇一年)の浮世絵黄金時代を担った絵師で、しかもその後、北斎、豊国とともに文化、文政(一八〇四〜一八三〇年)時代を生き抜いて細田派という門派をなした一代の巨匠といわれるのが、この細田栄之である。  その代表的な秘画集「春情秘|巻《かん》」は、絹本仕立一尺物|極彩色《ごくさいしき》の十二図で、四季それぞれの風景や道具立ての中に、さまざまの男と女が性の交悦を結ぶ肉筆秘蔵画が、綿密に摸写《もしや》されたものだが、それを限定複製画にしたものが、綾香の家にいつの頃からか伝わっていた。  今、綾香が開いているのが、それである。  綾香はとくに、夏の秘景が好きである。  こういう絵があった。まず一枚は、あやしげな光を放って蛍が群れて飛ぶ夜、池のほとりの石灯籠《いしどうろう》にもたれて、夏着物の盛装をした美しい女が、若い男と抱擁しあっている。それも着物の裾《すそ》が大きくはだけられ、猛々《たけだけ》しい男のしるしが濡れあふれた女芯に深々と挿入されて交悦する姿を、しかも女のほうが、片脚《かたあし》を石灯籠に高々ともちあげて懸《か》け、そうして男を迎《むか》え入れているという、大胆な立ち割り体位として描かれているのである。  題は「蛍狩りの女」とあった。男の首をぐいと抱きしめて、情交に耽《ふけ》っている女の、切れ長の眼の表情が、蛍の光のようで、今にも失神しそうな、危なっかしくて凄絶《せいぜつ》な情感をかもしだしている。  こういう絵もあった。同じ夏の構図で、右の「蛍狩りの女」の左手に配置されたもので、「蚊帳《かや》の後家」。池の向こう岸では蛍狩りの女が、あられもない立位で男と交合しており、それを眺めながら、こちらも寝室の蚊帳の中に入った美しい未亡人が、若い役者の男と人眼を忍ぶ密会をしている。  良家の未亡人は、人に見つからないよう、顔を隠すように蚊帳の中に入っているが、身内に燃えさかる情感は抑えようがなく、下半身はまる裸で蚊帳の外にだして、男を誘っており、若い役者男がその未亡人に、後背位で挑《いど》んで交媾《こうこう》している、といういささか異様で大胆すぎる構図であった。  ほかにも春夏秋冬、さまざまな男と女の交悦図が、赤裸々に描かれていながら、それでいて、どれも構成がしっかりしていて、絵がきれいで、少しもいやみがない。  綾香がこの栄之を好きなのは、清長、歌麿、栄之と、現在でも�浮世絵美人画三傑�といわれるほど、女性の風俗画が巧みでありながら、もともとは「細田民之丞時富」という、将軍直参五百石取りの立派な武士であった点である。  栄之は、武士を捨てて絵師になったせいか、その芸術の奥に一本、きりっとした線が通っていて、どの春画も一点一画、おろそかではない気品のある、完成度の高い、画風をみせているのである。  いずれにしても、空閨《くうけい》の人妻には、刺激が強すぎる絵であった。  じっと見ていると、くらくら目まいがするような絵であった。  綾香は枕文庫を閉じ、眼を閉じて頭に映った男女の秘事に、脳が灼《や》けただれるような思いとともに、下半身が熱く火照って、秘部がひとりでに濡れているのを憶えていた。  思わず、そこに手をあてがい、潤みのとば口にある真珠を押して、あ、という声を洩らす自分に、 「いやだわ……わたしったら」  頭を振って起きあがろうとした時、表でチャイムの鳴る音をきいた。  来客のようであった。  ばあやの梅崎郁代《うめさきいくよ》が、応対している。  綾香は起きあがって、鏡にむかい、ヘアブラシを取りあげて髪を整えた。鎌倉彫りの三面鏡に映っている三十三歳の人妻の顔は、色白ながら寝不足で、内に熱い情感を湛《たた》えたまま充たされず、はれぼったい気がするのに、眼だけがいやに光っていた。  日曜日の朝で、家の中は森《しん》としていた。  ここは、鎌倉・扇ケ谷の屋敷街の一角である。三百坪の土地に百坪近い二階建ての家は、綾香とばあやが子供二人と暮らすには、広すぎるような気がした。  夫の聡太郎が帰ってこない日は、とくにそう思えた。  綾香が渡り廊下を歩いて、居間のほうに行くと、 「お嬢様……お届け物が届いております」  ばあやの梅崎郁代が、キッチンから顔をだした。  先刻のチャイムは、配達員だったのだろうか。  梅崎は今でも、綾香のことを奥さま、と呼ばずに、お嬢さま、と呼ぶ。それは綾香が、夏宮病院の跡取り娘で、梅崎は綾香が生まれる前から、住み込んでいたからである。 「届け物……? 誰から」  綾香が聞くと、 「花束でございます。駅前の花善《はなぜん》からですが」 「あ、そう。ずい分、早い配達ね」 「水切りをしようと思いましたが、メッセージカードがはさまれておりましたので、そのままにしてあります」  そう言って、梅崎は玄関脇の控《ひか》えの間から、花束をとりだしてきて、綾香にさしだした。 「わあ、すてき。誰からかしら」  花束は薔薇《ばら》や百合やカスミソウのはいった、大きな花束であった。  綾香はそれを受け取り、セロハンテープで貼《は》られていたカードをはずして、あけた。 「あら、変ね」  差出人の名前がない。メッセージには、 �大原憲司君の死を悼《いた》み、謹《つつし》んでこの花束を霊前に捧《ささ》げるものです。次の犠牲者をださないよう、気をつけて下さい。なお、いつかも警告しましたように夏宮病院の秘密を外に洩らされたくなかったら、早急に三億円用意するよう、院長に念を押しておくこと。夏宮病院の秘密を知る者より�  ワープロ打ちで、そうあった。 (また、例の脅迫者だわ……)  綾香はそう呟《つぶや》いて、宙に眼をむけた。  メッセージに書かれている大原憲司というのは、十日前、七里ケ浜の海岸通りで轢き逃げされた夏宮病院の医療保険請求士のことである。  第二の犠牲者をださないよう気をつけろ、ということは、この花束の送り主こそ、轢き逃げ犯人、またはその犯罪の実情を知っている者——ということになるのだろうか。  綾香がそんなことを考え、薄気味わるいわ、と呟いた時、 「……お嬢様、何か心配事でも?」  ばあやの梅崎が、気遣わしげに聞いた。 「ええ、ちょっとね。差出人の名前がないので、変だと思ったのよ」 「そうですね。それを届けてくれた花善さんも、少し変だ、と申しておりましたが」 「花善さんでも、差出人はわからなかったの?」 「何でも、東京の花屋さんが受け付けた花束宅急便とかで、駅前の花善さんはそのメッセージをFAXで受け付け、料金分の花を見つくろって、うちに届けただけのようですよ」 「あら、そう。それならわかるはずないわね。これ、気持ち悪いから適当に処分して、ちょうだい」  花束を梅崎に渡しながら、綾香はさりげなく言った。 「あ、そうそう。ばあや、あなた、主人の別宅、知っているでしょう」 「はあ。東京の分院なら、お嬢様も知ってらっしゃるとおり、世田谷の、馬事公苑《ばじこうえん》の近くですが」 「分院じゃないわ。女と住んでるところよ」  夫の聡太郎に女がいることは、もう確実であった。最初の頃は、看護婦あがりの女を囲っている、という噂だったが、今はそうではない。  何でも銀座に葵《あおい》ギャラリーという小さな画廊を経営している三十歳くらいの、美しい女と世田谷のどこかで同棲《どうせい》している、という噂を、どこからともなく、綾香は聞いていた。  その女の名前が、篠山信子《しのやまのぶこ》というのも、胸に刻《きざ》んでいた。  しかし、今まではそれを無視し、無視することで、心の平静さを保っていた。  でも今日は突然、夫が女と住んでいるところに押しかけてみよう、不意討ちしてみよう、と綾香はそう思ったのである。  今日は日曜日だから、分院も休診日のはずであり、夫は女の部屋にいるに違いなかった。 「ね、おっしゃいよ。私に隠すなんて、ばあやらしくないわよ」 「はい。すみません。お嬢様。緊急な用事以外は教えないように……と、院長にくれぐれも固く口止めされていたものですから」 「私にとっては、今はその緊急な時なのよ。さあ、おっしゃい」  いつになく、厳しく問い詰める綾香の剣幕に負けて、梅崎はやっと、その住所というものを吐《は》いた。  そこは、世田谷区桜丘二丁目の桜マンション四〇五号室というところらしかった。馬事公苑の分院からも、あまり遠くなさそうである。 「ばあや。私、ちょっと東京に行ってくるわね。子供の世話とお留守番、お願い」 「お嬢様……まさか、院長のところに?」 「そうよ、私は聡太郎の妻ですからね。たまには監督しにゆく権利ぐらい、あるでしょう」  どうか無茶をなさらないで下さい、とおろおろするばあやを尻目に、綾香は朝食もそこそこに、着更えをすると、急いで化粧にとりかかった。    2  午前十時に、家を出た。  綾香はマイカーを運転していた。真紅のBMWだった。日曜日の道路は比較的、すいていた。  浄明寺から朝比奈の切り通しを通って、東京方面へむかう道をとった。ハンドルを握って、軽快に運転しながら、綾香は最近の夏宮病院をめぐる不穏な動きを、考えていた。  明月院での大原憲司の葬儀が終わってから、一週間が経つ。大原を轢き逃げした犯人は、まだ見つかってはいない。  調査を依頼していた秋津則文からも、今のところ、何も連絡がはいらないところをみると、これという収穫はないのかもしれない。  いったい、夏宮病院の秘密、とは、何なんだろう。名外科医として名高い夫の夏宮聡太郎が、誤診とか手術ミスとかをやらかして、それを世間に隠している、といった種類のことだろうか。  それとも、夏宮病院が経理上、脱税とか保険医療費の不正請求をやっている、というふうなことだろうか。  綾香は病院経営や、実際の診療にはほとんどタッチしていないので、皆目、見当がつかなかった。  夫の聡太郎のことを考えていると、いやでも、この数年の夫婦生活の捩《よじ》れに、思いがおよぶ。  綾香は、夏宮病院の長女なので、跡取りであった。父の堅一郎は、自分の片腕となってくれている勤務医のうち、名門医大卒業生で、腕の立つ外科医の聡太郎に白羽の矢をたて、病院の後継者にするため、綾香と見合いをさせて、結婚させた。  いわば、聡太郎は入り婿であった。それを不満だと思っているふうではなかった。数年間は、仲がよかった。だが、父の堅一郎が亡くなって、院長の肩書がついて実権を握るにつれ、聡太郎はしだいにわがままになり、週に一回ぐらい、家をあける日が多くなった。  もっとも、その頃の外泊は、まだ女性関係ばかりとは限らなかった。本宅と病院とは離れている。聡太郎には急患の手術もあるし、鎌倉在住の財界人や文化人など、多くの有名人の担当医もしているので、いざとなったら、病院に泊まり込みで、臨終の主治医を務めることもしばしばだったのである。  だが、三年前、東京に分院を開いてからは、それが尋常《じんじよう》ではなくなった。分院の仕事で聡太郎は週に三日は、東京に通うようになったのだが、その三日間とも、女のところに泊まっているという噂が広まり、綾香との間にしだいに亀裂が深まっていったのである。  今日、梅崎から聞きだした桜丘二丁目のマンション、いわゆる「別宅」に女を住まわせているという噂を、綾香はこれまで無視してきた。  そんなことで嫉妬《やきもち》をやいたりすることは、夏宮病院の娘としての誇りが許さなかった。それより、夫の不行跡を無視し、自分も不倫ぐらいやり返すことで、何とか心の平衡《へいこう》を保ってきた綾香だが、このところ、周囲の情況はそういうことでは済まなくなりつつあるようなのである。  夫に女がいる——というだけなら、浮気症の夫を持つそのへんの人妻の悩みと、あまり変わらない。だが綾香の場合、大病院の跡取り娘としての責任があるし、その病院に何らかの秘密があって、脅迫されたり、現に事務員が一人、轢き逃げされたりしているのである。 (ふらふらと他《よそ》の女のところに、入りびたっている暇なんか、ないでしょうに……!) (どんな女だか、今日こそしっかり、見届けてやるわ!)  夫を寝盗られた女としての、嫉妬の炎もむらむらと湧くのである。    3  桜丘二丁目には、十一時半に着いた。  東京の世田谷には桜丘、桜と桜の名前のつく町名が二つ、隣接しあっていて、通りに面して桜が多い、と聞いていた。その通り馬事公苑の周辺には緑が多く、桜丘には道路の両側に桜が多く茂っていて、若葉を五月の陽光にそよがせていた。  聞いていたマンションは、そんな桜の並木通りに面した六階建ての、新しいマンションであった。  綾香は表で車を駐めると、フロントに入った。  三人も乗ればもう満員という感じの、小さなエレベーターが奥にあったので、それに乗って、四階にむかった。  四階で降り、通路を歩いて四〇五号室を探しながら、綾香はしだいに心を武装した。  四〇五号室の前に停まって、チャイムを押した。  不意討ちをする、という殺気が指先に集まって、かなり強い勢いで押したかもしれない。  はじめは返事がなかったが、三回目に押した時、中で女の返事が聞こえて、スリッパの音が響き、ドアがあけられた。 「どなた?」  女の顔が覗いた。  三十歳くらいの、薄化粧をした細面の、想像していた通りの、美しい女だった。 「どなた様?」  女は一瞬、返事をしないまま立って、まじまじと自分を見ている綾香の顔を見返しながら、怪訝《けげん》そうにもう一度、そう聞いた。  ドアチェーンはいまだつけられたままだったので、 「葵ギャラリーの篠山さんのおうち、こちらですね?」  綾香は、以前から頭に刻みつけていた女の名前を素直に、すらすらと口にだした。 「私が、篠山ですが……おたくは?」  綾香は少し、微笑を返した。 「はじめまして。私、銀座の葵ギャラリーを二、三度、覗《のぞ》いた者ですが、ジョルジョ・コレットのリトグラフを買いたいと思っている者です。桜丘のおたくにゆけば、コレットのリトグラフがたくさん置いてある、と聞きましたので、日曜日を省《かえり》みず、拝見したいと思って訪問しました」  綾香はすらすらと、長たらしい口上をのべた。高飛車に出ると、女はドアチェーンをはずさないかもしれなかったので、一計を案じて、絵画購入者を装ったのである。 「どなたかのご紹介でしょうか?」 「はい。鎌倉の夏宮病院の院長先生から、お話を聞いておりました。私、畑中と申します。コレットの絵なら、何でも無我夢中で追いかけているものですから」 「そうですか。じゃ、どうぞ、おはいり下さい。コレットの絵なら、五、六点ぐらい置いております」  篠山信子は、やっとドアチェーンをあけて、綾香を通した。  訪問者が女だったので、それ以上の警戒心を見せなかったのかもしれない。  綾香が上《あ》がり框《かまち》で、靴を脱いでいると、 「あなた、畑中さんという方、知ってる?」  信子が奥にむかって、そんな声をかけているところをみると、夫の聡太郎は今、そこにいるようであった。  入ったところは、カーペットの敷かれた小綺麗なリビングだった。壁際に、幾枚かの絵がたてかけられていた。油絵ではなく、ほとんどフランスの新進作家たちのリトグラフだった。  綾香は、それらの絵には一瞥《いちべつ》もくれず、奥の寝室とおぼしきところへむかって、つかつかと歩いていった。  篠山信子が呆気《あつけ》にとられて見送るほどの、殺気と勢いであった。  綾香が襖をあけたそこは、案の定、寝室だった。寝乱れたままのベッドの上に、むっくりと起きあがったばかりの、パジャマ姿の男が一瞬、驚いたように綾香を見つめていたが、 「お……おい……!」  さまにならない凍《こお》りつくような声をあげた。 「なんだ、綾香じゃないか。どうしたんだ、朝っぱらから」  パジャマ姿の男というものは、だいたい、一切の社会的権威の埒外《らちがい》にあって、サマにならないものである。  まして、愛人のところで、眼を覚ましたばかりの中年男というのは、もっとぶざまで、本人は倖《しあわ》せそうでも、他人から見るとサマにならない——。 「やっぱり、ここでしたのね。まあ、何ですか、その格好は」  高飛車な綾香の口調に、やっと聡太郎の妻であることに気づいた篠山信子が、それでも綾香を無視して、「あなた、どなたです。この人——」  聡太郎のほうをむいて、聞いた。 「見てのとおりだ。おれの家内だよ」 「まあ、奥さんなの。ジョルジョ・コレットの絵を買いたいだなんて、嘘をつくのがお上手な方だわ。泥棒みたい」  ぼろ雑巾《ぞうきん》でも見るような眼で見て、吐いて捨てるように言ったので、綾香はカーッと頭に血がのぼった。 「泥棒とは、何ですか。泥棒猫は、あなたのほうでしょう。少しは、恥を知りなさい!」  自分でも声が感情的になっていて、情けないと思った。 「おっしゃいましたわね。私のどこが、泥棒猫なんですか!」 「ここに、こうして私の夫を盗んでるじゃありませんか」 「私は少しも、盗んではおりません。先生は私の病気を癒《なお》してくれた生命の恩人です。でも、ここにいて下さいと私のほうから頼んだ覚えは、一度もありません。私たち、愛しあっているのよ。先生はここが一番、居心地がいいとおっしゃって、お泊まりになるのよ。私たちどこかのイベント夫婦とは違って、誰よりも一番、固く結ばれてるのよ。ご自分の不貞をよそに、権高《けんだか》でわがままばかり言うどこかのお嬢さんより、私のほうがよっぽどいい、と先生はおっしゃってるわ」 「まあ、恥ずかしげもなく、ぺらぺらとよく喋《しやべ》る女だわ。鉄面皮な女とは、あなたみたいな女のことね」  篠山信子にまくしたてられ、かっと逆上しながらも、たじたじとなる部分もあって、綾香は亭主泥棒を無視することにして、 「あなた、さあ、帰りましょう。あなたにしっかり、尋《たず》ねたいことがあります。さあ、早くお着更えをなさって——」 「待ってくれよ。今日は日曜日じゃないか。分院のほうで回診があるんだ」 「それなら、分院にゆきましょう。こんな女のところにいるなんて、許せません」 「おいおい、どうしたんだい、綾香。いつものおまえらしくもないぞ。私たちが今まで、無事平穏にやってこれたのは、きみに誇りがあったからじゃないかね。いつものきみの誇りと自意識と自尊心は、どこにやったんだい」  形勢不利を逆転するように、聡太郎は反対に、綾香にむかって哀れむような眼を、投げかけてきた。 「誇りとか自尊心というより、事件が起きてるのよ。大原君は轢き逃げされるし、夏宮病院の秘密をばらされたくなかったら、三億円用意しろ、と……今日も、私のところに脅迫状が届いてるのよ。あなた、こういうことについて、どう釈明するおつもりですか」  綾香が姿勢をたて直して、ぴしゃりと言うと、 「まあ。落ち着け。そういうことは、ここで話すべきことじゃないだろ。いずれ、鎌倉に帰ってゆっくり話しあおうじゃないか」 「今日はどうしても、一緒に帰らないおつもりですか?」 「そうだよ。私は置き物じゃないよ。力ずくで運ぼうなんて、きみらしくもない」 「その女とは、これからもここで、暮らしつづけるつもりですか」 「それは、わからんさ。今のところ、分院生活ではこの信子にお世話になっている。きみからも、よろしくお礼を言ってくれよ」 「何が、お礼ですか!」  綾香は再び、むらむらと怒りを覚えたが、つとめて冷静さを装おうとして、 「この女は、あなたの患者だった人ですか。あなたは患者にまで、手をつけたんですか」 「つまらないことをいちいち、問いつめるんじゃないよ。信子は仕事のしすぎで、急性肺炎で世田谷の分院に入院したこともあるさ。その意味では医者と患者だったかもしれないがね。しかし、それ以前に、信子はきみの妹の学校友達なんだぞ。分院を創立した時には、花束をもってまっ先に駆けつけてくれた人だ。——さ、もう詮索はいいだろう。そろそろ、帰ってくれないか」  結局のところ、聡太郎には、どこにも動じたところが、ないようであった。厚かましいというか、ふてぶてしいというか。怜悧《れいり》な外科医というより、それは、型枠にはまらない生き方をする芸術家のような、自由信奉者のつもりのようであった。 「ほら、先生もああ言ってらっしゃるでしょう。あなたが首に綱をつけて一緒に帰ろうと思っても、それはむりというものよ。今日はおとなしく帰ったほうがよさそうね。——さ、ドアはあいているわよ」  篠山信子にまで、そう言われて、綾香はますますかっとした。こんな女にばかにされるいわれはない、と思った。しかし現実問題、ここで取り乱して、掴みあいをするのは、もっとみっともないことだと、自分に言いきかせて、感情を押さえた。  当面の夫の女、篠山信子という女が、どんな女であるか見定めただけでも、来た甲斐があったと、思うべきであろう。 「いいわ。今日は私はこれで、帰ります。でも、このままのあなたたちなんか、許しませんからね。覚えてらっしゃい!」  紋切《もんき》り型の捨て台詞《ぜりふ》しか言えない自分が、ほとほとなさけなかった。  ともかくそう言い残して、綾香は信子の部屋を荒々しく飛びだした。  エレベーターを使って、マンションの表に出、そこに停めていた車に駆け込んでも、綾香の気持ちは収まりがつかなかった。  荒っぽく車を、スタートさせた。どこかでお茶でも飲みたい、と思ったが、通りには手頃な喫茶店というものは、どこにも見あたらなかった。 (そうだわ。こんな不愉快な街をうろうろすることもないわ。早く鎌倉に帰って、若宮大路の妹のところに寄ってみよう)    4  道が少し混んで、鎌倉には二時に着いた。  若宮大路には日曜日の人出が多く、充ちてくる潮のようにうねって流れていた。  綾香は、鶴岡八幡宮の近くの駐車場に、BMWを乗りすてると、表通りを駅のほうに少し歩いて、妹への手土産にするためのケーキを買い、小町通りにむかった。  綾香は二人姉妹である。妹の美由季《みゆき》は三つ違いだが、綾香とは肌合いが違って、自由奔放だった。病院を継ぐ必要もなかったから、大学時代から演劇の世界に足を踏み入れ、結婚もしないで、勝手気ままな生き方をしていた。  今はひとくちでいえば、新劇の女優である。  もっとも、年中、舞台活動をしているわけではないから、女優くずれ、といったほうが正しいのかもしれない。一応、東京の劇団に所属はしているものの、昨年の秋から鎌倉駅近くの小町通りの一角で、〈仮面貴族〉というピアノバーを経営しながら、配役が割り振られた時だけ舞台に立つ、という気ままな生き方をしていた。 〈仮面貴族〉は、こぢんまりした店だが、奥にセミグランドピアノを据えて、美由季はそこで酒売りをしながら、ピアノを弾いたり、シャンソンを歌ったり、パントマイムをやったりするのを、楽しみにしているようであった。  その店は二階建ての借家で、下が店、上が住居になっていた。  住居へつづく二階への昇り口は、裏路地に面していた。  ドアをあけ、狭い階段をトントンとあがった。  美由季の部屋は、六畳一間にベッドや箪笥《たんす》や鏡台や何もかもがあるといった、狭苦しくて雑多な部屋である。  何を好んで、こんなむさくるしい生活をしているのだろう、と、堅気の主婦である綾香などには、とても理解の及ばない世界である。 「美由季、いる?」  ドアをあけて顔をだすと、美由季はまだ、ベッドに寝そべったまま、本を読んでいた。 「はい、モンブランのケーキよ。いつまで寝てるの、起きなさい」 「だって、ゆうべは徹夜マージャンしてたのよ。今日は日曜日でしょ。お店は休みだから、夕方まで寝ていたいわ」  美由季は、寝床の中で半身だけ起こして、あくびをしながら、だるそうに答えた。ベッドにはもうひとつ、枕があり、その枕はへこんでいて、ついさっきまでそこに男が寝ていたことが、はっきりと分かる雰囲気だった。 「いやだわ、男の匂い……誰だったの、そこに寝ていたの」  綾香は、妹の寝乱れ姿に情感を煽《あお》られたかたちになって、しょうがない子ね、と舌打ちしながら、尋ねた。 「誰だっていいでしょ。私のボーイフレンド、もう起きて、出ていったわ」 「まさか、秋津則文じゃないでしょうね」  湘南台大学で美術史の講師をしている秋津則文と、美由季とは高校が同窓で、よく扇ケ谷の家にも遊びに来てたので、いやな予感がして、そう訊《き》いた。 「違うわよ。則文さんは姉さんの当面の彼でしょ。男まで姉さんのお古《ふる》を貰《もら》おうとは、思わないわ」  美由季の返事をきいて、少しはほっとした。 「じゃ、誰なのよ。おっしゃいよ」 「誰だっていいじゃないの」 「よくはないわよ。あなたはまだお嫁入り前だし、私の妹でしょ。つきあっている男の人ぐらい、姉として当然、知っておきたいわ」  姉さん風を吹かしながらも、その実、ギラギラする眼で寝床の枕を見ている綾香に、 「今日の姉さん、何だか変よ。義兄《にい》さんに浮気されて、頭がどうかしてるんじゃないの」 (そうかもしれない。朝っぱらから栄之の枕絵を見ていらい、私ったら、男と女のことになると、いやに敏感になりすぎているのかもしれない)  綾香はそれより、妹のところに立ち寄った肝心の用件を思いだした。 「あ、そうそう。ちょっと美由季に確かめたいんだけどさあ。あなた、篠山信子って女、知ってる?」 「知ってるわよ。本郷女子大仏文科の同級生よ。今、彼女、東京で画廊やってるけど、信子がどうかしたの?」 「どうかしたもないでしょ。じゃ、あなたももしかしたら、ぐるだったんじゃないの?」 「何の、ぐるなの?」 「主人とあの女との仲よ。ずっと前から知ってたんでしょ?」 「そんなに前から知ってたわけじゃないわよ。つい今年になって、信子に打ちあけられて、私もびっくりしたところ。姉さんはいつ知ったの?」 「いつって、今日、はじめて自分の眼で確かめてきたところよ。世田谷のマンションに押しかけてみたの」 「へええ、凄《すご》い。それじゃあ、修羅場《しゆらば》じゃないの。義兄さんもいたの?」 「いたわよ、ぬけぬけとしてたわ。ねえ、美由季、篠山信子って、どういう女だか、教えて」 「どういう女って、東京の山の手の普通のお嬢さん育ちの女よ。ただ彼女、一度、結婚に失敗して婚家を飛びだしているから、気が強いところがあるのかもしれないわ。画廊をはじめたのは、その後のことなのよ」  美由季によると、篠山信子は、三軒茶屋の家具商の娘で、本郷女子大を卒業したあと、銀座に日本支社のあるフランスの美術品輸入会社に就職し、そこの日本人プロモーターと一時、結婚していたらしい。しかし、三年前に性格の不一致で離婚し、のち、美術商の経験を生かして独立、銀座に小さな画廊を開いたのだという。 「へええ、そんな女なの。じゃあ、生まれや育ちが貧しくて、性格がねじくれた子ってわけじゃないのね」  それなら、篠山信子は最近、表面化しつつある事件の背後にいる女、というわけではないのだろうか。  綾香は、もしかしたら、今日、東京から花束を届けた人間は、夫が今入りびたっている女ではないか。あるいはその女と関係がある人間ではないかと思って、篠山信子を確かめに行ったのである。  客観的にいって、どこかの大病院の院長が、妻以外の女に入れこみ、交際したり、同棲したりしていれば、その愛人なり背後にいる男なりが、何がしかの院長の秘密を握って、後日、脅迫者に変貌する、ということは充分、考えられるからである。  しかしどうやら、今回に限っては、この推測はいささか、穿《うが》ちすぎだったようだ。  篠山信子が、聡太郎のただの浮気相手なら、むしろ、安心したといっていい。  綾香は、まだ寝呆《ねぼ》け顔の自堕落《じだらく》な妹の部屋に、いつまでも長居するのもどうかと思い、 「じゃ、お邪魔したわね。そのケーキ、今すぐたべないんなら、冷蔵庫に入れといてちょうだい」  そう言って出ようとした綾香は、入口のところで、ハッとして何かを思いだし、 「あ、そうそう、わかったわ!」  と、突然、そう言った。 「え? 何が……?」 「枕の男。さっきまでそこに、あなたと寝ていた男《ひと》、誰だか当ててみましょうか」 「当たるもんですか」 「あたるわよ。鎌倉不動産の天野《あまの》さんじゃないの」 「え? 割と近いセンいってるぅ」  美由季が、顔に垂れていた長い髪を、さっとうしろに撥《は》ねて、曖昧な笑みを浮かべた。 「少し考えたら、わかるわよ。だって美由季ったら、このお店をだす時に、私のところには何一つ、相談に来なかったわ。ところで、〈仮面貴族〉くらいのお店を開くには、相当なお金がかかったはずよ。そのスポンサーは誰かなって、考えた時、鎌倉不動産の天野さんのことを思いだしたんだけど……ねえ、当たったでしょ?」  天野|佑吉《ゆうきち》という男は、若いくせに不思議な能力を持っていて、鎌倉一帯の不動産を動かしているおかしな男である。  若宮大路の一角に、開成ビルという六階建てのビルがある。天野佑吉は、その開成ビルの三階に、鎌倉不動産の看板を掲《かか》げていた。  彼はここ数年、事業税として年間二百二十万円前後の税金を納《おさ》めているが、実際に彼が得ている利益は、年間一億二千万円から三千万円はあった。帳簿に記載されない闇金融と、闇不動産で得る利益なのであった。  天野はもともと、没落貴族の末裔《まつえい》である。戦前まで葉山と鎌倉に豪邸や別邸を構えて、東京で事業をしていた天野|公爵《こうしやく》の末流で、東京の名門私大を出、三十歳までまじめに、一流銀行に勤めていた。  三十歳の時、銀行で不祥事《ふしようじ》を起こした。それは目白支店次長時代である。池袋のクラブの女性に深入りした。女は悪い女ではなかったが、背後に暴力団の組織があって、「おれの愛人に手をつけたな」と、例のごとく脅《おど》され、暴力団系のビル建築資金に過剰融資したことが発覚して、銀行をクビになった。  もっとも、それからが彼本来の天分が花開いたのだから、人生は皮肉である。鎌倉方面にも開発やマンション建設ブームが訪れ、放置していた幾つかの彼の土地は、引く手あまただった。  上手に切り売りして、入手した五千万円くらいの金を資本金に、金融業をはじめた。それが雪だるま式にふえて、現在、彼がどれくらいの金を持っているのか、誰も知っている者はいなかった。  彼はその上、一方では余力のある土地を少しずつ切り売りすることで、不動産業者に顔が効き、また鎌倉の古い友人たちも多いので、口きき屋をしたりして、闇の不動産収入も莫大《ばくだい》なものがあるようであった。  彼はすでに、銀行員として成功して得る以上の代価を懐《ふところ》に収め、まだ四十代の前半の若さなので、ますます意気盛んに古都の闇の帝王としてはばたこうとしていた。  女優くずれの酒場の若ママと、闇の独身不動産王——何となく絵になりすぎる組み合わせだと思って綾香は鎌倉でも名物男の、その、天野佑吉のことを不意に思いだしたのである。  天野は、独身の遊び人だと聞いている。  秋津則文とも、仕事仲間兼、友達のようであった。 「ね、白状しなさい。美由季の男って、今のところ、天野さんなんでしょ?」  問い詰めると、美由季は白状した。 「姉さんったら、わりと勘《かん》がいいのね。そのとおりよ、負けそう」 「それはいいけど、気をつけなさい。天野さんって、得体の知れないところがあるでしょ。美由季が熱をあげる男としては、不適切よ」 「熱をあげてるわけではないわ。今のところ、私にとっての便利な、ミツグ君なのよ」 「しょうがない子ね。ミイラ取りがミイラになっても、知らないから」  言い置いて、綾香は二階の美由季の部屋を出た。  初めから終わりまで、何とはなしに妹の寝乱れた姿と、男枕に、情感を煽られたかたちになった。  階段を降りて表に出た時、天野と妹に対して奇妙な嫉妬が湧いてきた。しかしその嫉妬は、筋違いもはなはだしい、と自分を叱りつけるように、綾香は思った。  七年前、当時、一流銀行員だった天野佑吉に求婚されて断わったのは、綾香のほうである。その時の綾香には、夏宮病院の跡取りという自分の立場もあり、外科の名医である高橋聡太郎と結婚するほうが、輝かしく思えたのである。  その夫が今、自分を裏切って、東京で女と棲《す》んでいるからといって、急に昔の自分に片思いを寄せていた男を懐かしく思いだすなんて、身勝手である。  若宮大路を歩きながら、綾香はそういうことを考えた。理性ではそう分かっていても、美由季のベッドのもう一つの枕をみた時、女の情念が平静ではいられなかったのは、確かだった。  綾香は、駐車場のほうに歩きながら、そうだ、秋津則文に電話をしてみよう、と急に思いたった。秋津に会うと、今朝からずっと続いているこのもやもやした、残酷な気分が吹っ切れるかも知れない。    5  電話をかけると、秋津則文は家にいた。 「あ、いいですよ。今日はずっと鎌倉山にいますから、いつでもいらっしゃい」 「どこかで、食事しない?」 「面倒ですね。うちに来て下さいよ」 「じゃ、三十分くらいで行くわ。待ってて」  ——綾香は車に戻って、峰月庵で野立弁当の三重がさねを買い、それから車でまっすぐ、鎌倉山にむかった。  鎌倉山一帯は、今や高級住宅街といっていい。一面の崖や雑木林が切り崩されて、宅地造成が行われ、これ見よがしの高く塀をめぐらした家が桜並木に沿って、立ち並ぶようになった。  しかし、鎌倉の西に広がる山地であることには変わりないし、今でも仏法寺が谷《やつ》東側の、極楽寺奥の院へぬける尾根路とか、幾つかの名もない寺の周辺とか、丘陵のあちこちとかには、深い自然や雑木林も残っていれば、遠く相模湾や江ノ島を見おろす眺望《ちようぼう》のいい場所や峠道《とうげみち》もある。  秋津則文の家も、そんな見晴らしのいい尾根路の近くにあって、一面の雑木林と杉木立の中に、古刹かと見まがうような塗り塀と山門ふうの冠木門《かぶきもん》をもち、自然の林をそのまま庭に取り入れた、風雅で豪壮な屋敷である。  鎌倉山の山寺の男、と自分でも笑うくらい、石組みのある庭は、苔で蒼光りしていて、さつきやつつじの刈り込みが、こんもりと形のいい花山をつけ、どこかで水の落ちる音や、筧《かけひ》の音がしていた。  秋津は日曜日で、大学は休講日なので書院造りの奥の座敷で、中世禅宗美術の調べものでもしていたらしく、綾香をみつけると濡れ縁に立ち、 「やあ、いらっしゃい」  垣根ごしに、手招きをした。 「玄関からはいらなくていいですよ。その柴折戸《しおりど》を開けて、こっちから通ったほうが早い」  指示されて綾香は庭づたいに奥座敷の濡れ縁にまわった。 「まあ、あがんなさい。見晴らしだけはいいですが、ほかには何もないところだから」 「佐野さんにはご挨拶しなくていいのかしら」 「いいから、いいから」  佐野さんというのは、秋津の家のばあやのことである。秋津は三十二歳にもなって、まだ結婚もせず、この広い屋敷でばあやと二人で、気ままな暮らしをしていた。  そのありようは、どこやら、彼がその学問において研究している〈中世|隠遁《いんとん》者美学〉というものを、現代に眼のあたりにしているような気がした。  綾香があがると、秋津は冷蔵庫からビールを取りだして、コップを並べ、 「さ、飲もう。誰か相棒がこないかなと、待ってたんだ」 「私で悪かったみたいね。慶運堂《けいうんどう》のお嬢さんなら、もっとよかったでしょうに」 「それはいいっこなし。綾香さん、何だかバタバタ駆け込んできたみたいだけど、今日はどうしたの?」 「そうそう則文、聞いてよ。今日は朝から、仏滅。ひどいんだから、もう!」  綾香は朝、脅迫文のついた花束が届けられたことや、夫の浮気の現場に押しかけて、篠山信子という女とやりあってきたことなどを、洗いざらい話した。 「少しでも轢き逃げ犯に近づこうと思って……これでも私なりに動きはじめてるのよ。則文のほう、何かわかった?」 「今、おたくの病院の経営状態などを洗いながら、少しずつ、調査に取りかかっているところです。そうすぐには、病院の秘密——というやつはわかりませんよ」 「そうね、調べてくれてありがとう。これ以上、大原君みたいな犠牲者が出なければいいけど」  綾香は、ビールをコップ二杯、たてつづけに飲んだ。  すると、少し気分が寛《くつろ》いで、華やいできた。 「ああ、いい風。ほっとしたわ」 「ここは女の駆け込み寺……ってわけか。綾香さんとも、一週間ぶりだな」  言いながら秋津の腕がのびて、綾香は不意に、引き寄せられた。 「ああん……乱暴なんだから」  抗《あらが》いながらも秋津の腕の中にすっぽりと入った綾香は、目まいがしそうなほどの歓びに包まれた。  それは、やっと安心できる男の腕に抱かれたという安堵感《あんどかん》と、夫に仕返しをするための、身内から震えてくるような不倫の誘いへのときめきであった。 (そういえば、朝から私の身体は熱いトタン屋根の上の猫になっていたんだわ……)  横抱きにされたまま秋津の熱い唇が、綾香のそれにあわされて、舌が跳《は》ねあった時、綾香は気絶しそうになって、深い溜《た》め息《いき》をついた。  接吻しながら、秋津の手が乳房にのびてきた。  ああ、と綾香は眼を閉じた。 (いらっしゃい。私を荒々しく抱いて、私の不安を何もかも灼熱《しやくねつ》の焔《ほのお》の中に溶かして……)  とても甘い、めくるめくような接吻だった。綾香がすっかり身体をゆだねきって、喘ぎ声を洩らすうち、秋津は綾香の身体を畳の上に押し倒して仰むけにし、耳から首すじへと唇を這わせてゆく。  ワンピースのジッパーが引かれ、肩から脱がされてゆく。スリップもブラジャーも脱がされ、上半身が裸にされて空気に晒《さら》された時、血流がざわめきたつ熱い乳房に、秋津の手が置かれ、裾野から押しあげるようにして捏《こ》ねられ、乳首を口に含まれるのがわかった。  苺《いちご》のような尖《そそ》り立《た》ちを吸いたてられるうち、そこから冥《くら》い炎のような甘やぎが生まれ、ざわめきが生まれ、 「ああ……ああ……則文っ……!」  綾香は身体の中から、力が抜けてゆくのを感じるのと反対に、男の頭をひしと両手に抱いて、胸に押しつけていた。  ぷるんと、小ぶりだが形よく盛りあがった綾香の乳房が撓《た》わまされ、捏ねられるたび、身体のもっとも深いところに、性感が響いてくる。 「お願い……明るすぎるわ、雨戸を閉めて」 「何を言ってるんですか。相模湾を見おろすこの山上の明るい縁側がいいんですよ」  木立ちの中から吹き込んでくる緑色の風にまみれ、残っていた布きれを全部、脱がされると、青畳の上に綾香の仄白い裸身が、蠱惑《こわく》的に浮きあがる。  秋津の腕がその裸身にまわされ、乳首を唇に含みながら、右手だけ下腹部にのび、股間にのびてくる。  綾香は、太腿を閉じ合わせた。  秋津の膝が、その太腿を割り開き、指が茂みの上で渦巻き、女芯へとすべりこんでくる。  綾香は、自分のその部分が、ひどく潤《うるお》っているのを感じた。潤みは熱をもっていて、早く充たされたいと願っていた。  秋津が円を描くように揉み込み、ラビアを割る。あっと、声を洩らして、綾香は脚の力を抜いた。指が潤み具合を探るように、ねとつきの中を捏ねまわして、侵入し、浅く抜いたり、深く入れて、抜いたりした。  粒立ちの多い湾内を、さぐられると、 「あうっ」  麻痺する感覚。噴きあげる快感。 「ああっ……則文、そこ、いいわ」  頭の中に、栄之の枕絵が浮かび、いつのまにか自分があの絵の中の女のようになった気分で、綾香は火のように喘いで、腰を突きあげるようにして、小さく動かした。  秋津の指は、花びらのふちを上縁から下縁まで撫でさすり、谷間に芽立ちはじめた真珠をさぐりだして、つまんで、押したりした。  膣口がこねられて広がり、花びらがその中にひたされて、甘美に巻き込まれたりした。肉真珠を巧みに指先でさぐりだしながら、二指でそのクリットがはさまれ、リズミカルに愛撫されたりした。 「あ、あ、ああ……」  いつしか綾香の洩らす声は、切なくて甘い喘ぎ声に変わっていた。  秋津によって、左の乳首を吸われている。突起していた。綾香は声を洩らし、身をよじって、秋津の頭と肩と全身を、抱えようとし、しがみつこうとした。  弓のようによく撓《しな》う裸身は海老《えび》のように反ったり、暴れたりしていた。 「ねえ、ほしい」  はしたないことを、とうとう口走った。 「早く私を、いっぱいに充たして……」  朝、寝床の中でみた栄之の枕絵は、充たされない人妻には刺激が強すぎた。  それいらい、綾香の身体の奥で澱《よど》んでいた熱い熱塊が、今、からだの中心部から出口を求めて、どよめき昇ってくる。それを鎮《しず》めるには、今はもう猛々しいもので一気に、貫いてもらうしかないと思った。  しかし、秋津は、まだ望みを叶えてはくれない。  あまり何度もおねだりするのは、はしたないから我慢した。  ひとしきり、乳房を愛撫した秋津の唇と舌は、今度はゆっくりと、胸から下腹部へと下降してゆく。 「あっ、そんなの恥ずかしい。いやよ」  秋津の両手が太腿をぐいとむいて、女の谷間に顔が埋められようとした時、綾香は激しく身をよじって、そうされまいとした。  しかし、秋津はもう位置をしめている。 「すてきですよ、綾香さんのここ……」  綾香は大きく開脚されて、覗き込まれている。  あまりにも広げられたため、花びらが粘《ねば》つきながら、ゆるく口を開いて、吐蜜《とみつ》しているのが見えるのではないか、と心配した。 「い、いや……見ないで」  秋津が指で片側の花びらを広げる。  鶏《にわとり》のとさかのように、峰をなして尖《とが》った内陰唇がめくられて、ねばついた蜜液に濡れ光っているのではないかと思った。  秋津は両手の親指を、女裂の左右に置いた。そして今度は、遠慮なくグイッと外側に内陰唇をこじあけた。 「あっ!」  濡れ粘る秘粘膜がむきだしにされ、そこにぺろりと舌が押しつけられ、舐《な》めあげられる。とたんに、身体の深い芯から、熱いものがどっと湧きあがる。 「あッ……あッ……許して」  綾香は、堪《こらえ》きれない昂《たか》ぶりの声をあげて、腰を左右にくねらせた。狂おしげにひくつき、収縮する秘粘膜に、舌のしたたかな嬲《なぶ》りを加えた秋津が、今度は真珠のほうに舌を移す。  真珠の上に、舌は上手に舞《ま》い戯《たわむ》れる。  柔かく肥大し、充血した部分に、彼の舌の感触が自由奔放に走り、戯れる。そうして唇にはさまれて吸われた時、 「ああ——ッ……死にそうよ」  綾香は眼を閉じた。呻きが吹きこぼれた。肢体《したい》が熱くうねりはじめた。性的感覚を求めることだけに、意識が集中してゆく。甘美な世界へ魂を誘惑する刺激が、下半身にじい〜んと響き、そこから全身に魔的な快楽《けらく》が舞いあがってゆく。 「もう……お願い……ちょうだい」  悲痛な声で、もう一度ねだった。 「ねえ……ねえ……ねえったら」  甘えるように言いながら、身体を波のように喘がせるうちに、秋津が起きあがって、たくましい男性自身をみっしりと、埋め込んできた。 「ううッ」  綾香は思わず、息がつまるかと思った。  埋め込まれた瞬間、いきなり電流に触れたような衝撃が神経を襲い、稲妻のように五体を駆け巡ったのだ。  鋭い快美感が、全身に流れた。 「ああ……だめ……こんなところで……まっ昼間から……」  まっ昼間ではなく、ようやく午後四時の陽が傾きかけた杉木立ちの、薄湿りの匂う畳の上で、綾香はもう、不倫のけものになってゆく。 「おおっ……おおっ……!」  秋津がみっしりと抽送するにつれ、綾香は忘我のうちに叫んでいた。甘美で刺激的な、大きな果肉を口いっぱいに押し込まれたような、愉悦が舞い立ち、秋津がゆっくりと動きだすにつれ、快感の奔流が、子宮から脳天へと鋭く噴きあがってくる。 「ああ……則文……あたし、どうにかなっちゃう」  綾香は、悶絶するような声をあげていた。頭の中に、栄之の枕絵の女の顔が浮かんでいた。その顔が、桜丘の篠山信子の顔と重なったりした。夫が、あの女と枕絵のようなことをしていると思うと、くらくらと目まいがするほど、腹が立った。  でも……でも……綾香は、自分が今、その夫を裏切ってよその男を相手に、同じようなことをしているということには、思い至らなかった。  ともかく、綾香はそのひととき、たまゆらの焔に熱中し、身を焦《こ》がしていたのである。  ——だから、その時、庭の外の雑木林の中から、カメラの望遠レンズのフレームが、キラッと光ったことに、綾香も則文も、当人たちは少しも気づいてはいなかった。 第三章 紫陽花《あじさい》寺《でら》の殺人    1  午後の海は暗く荒れていた。  灰色にくすんだ波が盛りあがり、浜に押し寄せる。波頭はそそり立ち、こらえきれなくなると、一挙に崩れて砕《くだ》け散《ち》る。泡立った潮が渚《なぎさ》にひろがっては、また引いてゆく。  鉛色の雲が、沖合いの空に低く垂れこめていた。カモメの群れが沖に吹き寄せる風に乗って宙に舞っている。  白いフランス窓から、そういう梅雨どきの海が見えた。秋津則文は、窓辺近くのスツールに腰かけ、黒ビールをちびちび傾けながら、墨絵のような六月の暗い海を見ていた。 「シケているな。もう三日目になる」  カウンターの中で、マスターの久我俊之が呟くように言った。 「うむ。今夜あたり、もっと荒れるかもしれないな」  秋津は雨に煙る海に目をやりながら、浮かぬ顔をしてタンブラーを、手の中でもてあそんでいる。  遠くに江ノ島の島影が霞《かす》んでいた。いつもなら、ウェットスーツに身を固め、イルカの群れのように波間に漂っているサーファーたちの姿もない。  雨が降りしきる海辺にも、人影はなかった。 「こういう時化《しけ》の日って、マスターはいやなことを思いだすんじゃないのかい」  秋津は、カウンターの中の男に、訊いた。久我俊之は、大学時代からの仲間で、以前は俊坊と呼んでいたが、今は一応、マスターと呼ぶことにしている。 「いやなことって、何をだい?」  久我がダスターでグラスを磨《みが》きながら、わりと呑気《のんき》な声で聞き返した。 「沖でのヨットの事故のことさ」 「それが……おれはホントに、何も憶《おぼ》えてないんだよ」 「信じられないなあ。本当に、あの事故のこと、きみは何も憶えてないのかい?」 「嘘を言っても、しょうがないだろう。みんなから同じことを聞かれるけど、本当におれは、何も憶えてないんだよ。ただ、こういう海が荒れる日って、何となく頭痛がして、気分が重苦しくなるけどな」  それはそうだろう、と海を見ながら、秋津は思った。  そこは稲村ケ崎のシーサイドレストラン「ネイルズ」である。広い窓ガラス越しに、海を眺めながら食事ができるドライブインふうな趣向が受けて、季節を問わず、結構、客が多い。  ワインやリキュール類も飲めるよう、海寄りの一角は「酒場」になっていて、カウンターの前に、黒いスツールが並べられていた。  マスターの久我は、店のほうは女房の暁子に委せて、たいてい、このカウンターの中にいる。たまに訪れる秋津も、たいていはこのカウンターに座った。  洋酒コーナーは、なかなか凝《こ》っている。カウンターの材質は船材で、洋酒棚には帆船の模型や船具などが飾られ、その一画はどこか大きなクルーザーのキャビンにはいっているような按配《あんばい》なのである。  マスターの久我俊之は、秋津と同じ年の三十二歳だが、ちょっと変わった経歴の持主である。その前歴たるや、シーサイドレストランの経営者どころではないのである。  ありていに言って、日本を代表する超大企業、三星重工業の取締役社長、久我久常の長男であった。本来なら、社長御曹司として、また財閥の若きプリンスとして、将来は日本の経済界を指導し、大三星を担い、経済界で活躍すべき星の下に生まれている男であった。  ところが、五年前のちょっとした海難事故が、彼の人生に大きな変更を余儀なくさせ、今はただの海岸レストランのオーナー兼マスターである。その上、記憶喪失症という境遇をも背負っていた。  しかし、彼自身は、今の境遇に充分、満足しているようである。自分が何者であるかを知らなければ、それはそれで、いいのかもしれない。  秋津もあえて、彼の前身を教えてはいなかった。知らないほうが、彼はしあわせなのかもしれないのではないか。  ただ、ヨットの事故のことは、時々、質問したり、語り合ったりしている。  秋津自身、学生時代は湘南のヨット青年だったからである。  しかし、久我俊之は、自分が遭遇し、幾人もの死者を出したヨット事故のことは、本当に何一つ、憶えてはいないようであった。 (それにしても……)  と、秋津は三杯目の黒ビールを飲み干しながら、考えた。  記憶を喪った人間の心象風景というのは、いったいどういうものなのだろうか。たとえば久我は、自分の生まれ育った東京の久我家のことを深夜、深層心理の奥からふっと、思いだしたりはしないのだろうか。約束されていた三星重工業の社長の椅子について、誰かからこっそり耳打ちされて、考えたりはしないのだろうか。  もっとも、もともと久我は、良家育ちのお坊ちゃんにありがちな、おっとりしたタイプである。物欲や我欲があまり強くなかった。こうして、海の見える店のマスターに収まっていれば、それはそれなりに絵になっているし、現実問題、ふつうのサラリーマン以上に、経済的に恵まれた、裕福な立場なのである。 (もう、心配ないのかもしれないな……)  秋津が週に一回くらいの割で、湘南台大学で講義を終えた帰り道、この店に立ち寄ってビールを飲みながら、ダベったりするのは、久我俊之に、妹の暁子を嫁がせているからでもある。  結婚して三年目になる暁子は、勝ち気な美人ママとして、シーサイドレストランを切りまわし、亭主を上手にお守りしながら、結構、客に人気があるようであった。 「じゃ、ゆっくりしていってくれないか。酒屋が来ているので、おれは仕入れのことで、ちょっと失礼する……」  久我俊之が呼ばれて、エプロンをはずしながら、カウンターから奥へ消えた。  秋津が首をまわすと、ちょうど、暁子がカウンターの客に、ドライカレーを運んでくるところであった。  暁子は二十八歳である。どちらかというと、こういう店の若ママにふさわしい華やかな顔立ちと、気っぷのいい性格をしている。 「暁子、ちょっと」  秋津は呼び止めた。 「え?」  近づいてきた暁子に、 「俊之さんのほう、様子は変わらないかい?」  耳許で、そっと聞いた。 「ええ、ちっとも変わらないわ。この仕事が楽しそうよ」 「何のほうも、問題ないんだな」 「何のほう……って?」 「夫婦生活のことだけど」 「まあ、兄さんったら」  と、怒って、ぶつ真似をして、「ええ、もちろん、ちっとも困らないわ。普通の人よりずっと元気みたい。私、またできちゃったみたいなのよ」  できちゃったみたい、というのは、子供のことらしい。三番目の子を妊《みごも》ったというのであった。 「そうか。それはよかったね、おめでとう」  と秋津がお祝いを言った時、レジの傍で電話が鳴りだしていた。 「あら、可奈子がいないわ」  暁子がレジのほうに駆けてゆき、受話器を取りあげた。しかし、すぐに、 「はい、少々お待ちください」  受話器を手でふさぎ、 「兄さん、お電話よ」 「あ、おれか——」  秋津が誰からだろう、と思いながら立ちあがった。レジのほうに歩こうとすると、 「あ、そこのコードレス電話を取って」  秋津はカウンターの片隅にあるコードレス電話の受話器を取った。 「はい、秋津ですが」 「あ、私、香津美よ」  受話器からは、若い女の声が響いた。  電話は、鎌倉彫りの老舗「慶運堂」の娘、仙道香津美からであった。 「やあ、香津美か。よくここがわかったな」 「鎌倉山のお家に居なかったんだもの。あっちこっち、探しまわったのよ」 「例の件、わかったのかい?」 「ええ、少しね。それを早く報告しようと思って」 「よし、会おう。今、どこだ?」  仙道香津美は、若宮大路の友達の家から電話をかけていると言った。それなら、いつものホテルで落ちあおう、ということになって、三十分後、秋津は江ノ島の湘南ホテルに行くことを約束した。  事件のことで香津美から、ちょっと報告を聞くことがあるのだった。  秋津は黒ビールをあと一本だけ飲んでから、「ネイルズ」を出た。  酒を飲んだので、車は駐車場に置いたまま、江ノ電で江ノ島に向かうしかなかった。  傘をさして歩きだすと、海岸通りの雨は、少し小降りになっていた。    2  藤沢行の江ノ電は、比較的|空《す》いていた。  シートに座って、移りゆく夕暮れ前の海を眺めながら、秋津は夏宮病院をめぐる事件のことを考えていた。  大原憲司の轢き逃げ事件から、三週間がすぎていた。警察の調べでは、轢き逃げ犯人は、まだつかまっていない。院長夫人の夏宮綾香の話によると、夏宮病院には引きつづき、「秘密を洩らされたくなかったら、三億円用意しろ」という脅迫電話が来ているそうで、その犯人や「夏宮病院の秘密」というものについて調べて欲しい、と頼まれ、秋津はそれとなく動いているところである。  ふつう、大病院の秘密といえば、隠された誤診事件とか、医療費の不正請求とか、脱税とかである。秋津はそう考えて、まずそういう方面からの探りを入れているが、今のところこれという確証は掴めなかった。  いっぽう、轢き逃げされた大原憲司は、何しろ、「クガさんは……クガさんは……」という例の謎のダイイングメッセージを残している。  死ぬ間際に大原が言い残したクガさん……というのは、当然、記憶喪失症の久我俊之のことであろうと推測される。  久我はたしかに、瀕死の重傷で夏宮病院に運ばれ、集中治療を受けたわけで、夏宮病院との接点は、そこにある。  それで、夏宮病院の秘密というのも、もしかしたら医療過誤や経理上の問題ではなく、大三星の御曹司、久我俊之のヨット事故と数人のクルーの死亡、そうして久我本人の記憶喪失症に関して、何がしかの秘密が隠されているのではないかということに気づいて、このところ、ちょくちょく、久我の様子を探るために、「ネイルズ」を訪れたりしている秋津である。  しかし、今のところ、その方面でもこれという手掛かりがないのであった。  もしかしたら、秋津の見当違いの思い込みかもしれなかった。  さいわい、秋津のガールフレンドの仙道香津美の姉、美根子が、東京・丸の内の三星重工業本社に勤めているので、香津美を通じて、久我家のことにそれとなく探りを入れている。  先刻、秋津にかかってきた電話も、その件である。  秋津が、仙道香津美に頼んでいたことは、二つある。ひとつは、久我俊之がヨット事故で第一線を退《ひ》いていらい、義弟の継之進が久我財閥の後継者となって彼の地位を継いでいくことになっているようだが、その路線は軌道に乗っているのかどうなのか。またその義弟というのはどういう人物なのかを、それとなく聞いておいてもらうことである。  もうひとつは、五年前のヨット事故の時、同乗していた大型ヨットのクルーのうち、四人が死亡しているが、二人、助かった人がいると聞いている。その二人とは、どういう人間なのか、これも久我家に近い人から聞きだしておいてもらおうと、頼んでおいたのである。  二十分で、江ノ島湘南ホテルに着いた。  フロントで部屋を予約し、一階奥の喫茶室に待っていると、仙道香津美が十分も待たずに、車でやってきた。  仙道香津美は、お茶の水女子美術大の四年生であった。秋津が講師をする鎌倉「古寺巡り」教室の生徒でもある。  香津美は向日葵《ひまわり》の模様を配したジャケットに、白のキュロットという、カジュアルっぽい恰好をしていた。雨傘をたたんで傍《かたわ》らに置きながら、テーブルの向かいの椅子に座って、長い脚を組んだ。 「どうしてお部屋にまっすぐ、行かなかったの?」 「うむ。話を先に聞いておこうと思ってね」 「私と愛し合うのは、ほんのついで、と言ったところかしら。いやだわ、そんなの」 「今すぐ部屋にゆくよ。報告だけ聞いておこうか」  香津美は、久我俊之のあとを襲う三星重工業の後継者について説明した。  久我|継之進《けいのしん》という弟が、俊之のあとがまに座る男だが、彼は俊之とは腹違いだそうである。 「ほう、継之進ねえ。久我君に腹違いの、そういう弟がいたというのは、そもそも、どういうことだい」  秋津が聞き返すと、 「ええ、久我久常の愛人のお子さんで、俊之さんとは、たった一つしか年が違わないみたいね。本来なら、俊之さんが座るべき本社総合統括部長の地位を、いま、その人が代わって継いでるみたい。あと二、三年もすると、専務取締役に昇格して、十年後には代表取締役社長になるそうよ」 「ふーん、社長の愛人の息子で、腹違いの弟か。何だかお家騒動のような、いやーな構図だな。で、弟のほうの母親というのは?」 「久常のお気に入りの愛人だった女性で、円山須磨子《まるやますまこ》という女性らしいわ。以前、本店役員室の秘書をしていた人で、いま、鎌倉に住んでるみたいよ。まだ四十代の若さで、とても美しい人みたいだけど」 「ほう、その女も鎌倉に住んでるのか。なんだか穏やかじゃない雰囲気だなあ」  穏やかじゃないとしても、それは大三星財閥の跡継ぎの問題であって、それがどういうふうに、夏宮病院の秘密につながるのか、秋津にはさっぱり見当がつかなかった。 「それから、ヨット事故で生き残った人たちだけど、二人とも鎌倉の人じゃなくて、東京の人よ。ここにメモしているけど、詳しく説明する……? それともあとにする……?」  ポシェットから手帳を取りだしながら、香津美が意味ありげな眼をむけている。  近ごろの若い娘は恐《こわ》いし、あまり無視すると、怒られそうである。 「あ、あとにしようか。部屋はいつかの部屋を取ってるからね。香津美とも久しぶりだな。さあ、ゆこう、ゆこう」 「やだわ。まるで、お祭りにでもゆくみたい」 「だって、そうじゃないか。久しぶりの二人の火祭りだよ」    3  火祭りの部屋は、四階であった。  ここからも、海が見える。秋津が先にバスルームからあがって、ベッドで待っていると、やがてシャワーの音が熄《や》んだ。  仙道香津美がバスタオルを胸に巻いて、寝室に入ってきた。双《ふた》つの胸のふくらみが、タオルに圧迫されて苦しそうに並び、深い谷間をつくっているのが、そそる眺めだった。 「私、あなたに仕込まれていらい、だんだん悪い女になってゆくわ」  香津美は、ベッドの端に腰をおろした。  秋津が手枕をしたまま、何も答えなかったので、香津美はいささかむくれ、 「ねえ、どうしたのよう」  上から顔を近づけ、唇を押しつけてきた。  秋津は眼を閉じたまま、それを受けた。重ねて、舌を絡《から》ませあいながら、秋津は勢いよく香津美の女体を抱き、くるっと身体を入れかえた。  上になって、接吻をやり返しながら、香津美のバスタオルの結び目を解いた。  夕暮れ前の部屋の薄明かりの中で、乳房が鮮《あざ》やかな盛りあがりをみせていた。秋津はふくらみを、手でなぞった。裾野から上にむけて、押しあげる。値踏みする感じの手つきになった。  秋津は、その乳房に高い値段をつけた。鎌倉彫りの老舗の娘は、ふつうなら身持ちが固く、保守的なはずなのに、香津美は情熱的で、高感度だ。乳房の頂点の苺《いちご》の実を、掌《てのひら》に包まれて転がされ、みっしりと揉まれるうちに、香津美はあえやかに口をあけて、熱い息を吐き、苦しそうに喘《あえ》ぎ声を洩らした。 「この前より、うんと発達したようだね、ここ」 「ゆうべは、もっと張っていたわ。あなたがほったらかしにするんだもの」  秋津はわれながら、自分の血の中にある不良の部分を、罪作りだと思った。無類なフェミニストでありながら、無類にふしだらで、女好きで、平行してつきあっている女性すべてには、手がまわらない。つまりは結果的に、冷たい仕打ちに終わるのである。  苺が尖りたってきたところを見はからって、秋津はそこを唇に含んだ。乳房に接吻し、吸いたてながら、肌湿りを楽しむように、右手を香津美の胸から下腹部にのばしてゆく。  指が、草むらに触った。恥丘はこんもりとしていた。香津美の旺盛な欲望を、そこに貯《た》めこんだような肉づきだった。  手はその欲望の丘をくだった。房々した草むらの繁りを分けると、不意に蜜の湧きでる熱い溝《みぞ》にすべり込んだ。  香津美は驚いたような、大きな声をあげた。乳房を吸われていた時は、ただうっとりしていたのに、今度は全然、違った反応である。 「ああん……ひどく感じるわ……濡れてるでしょ」  鎌倉の古寺巡りをする女子大生香津美は、潤沢《じゆんたく》な女であった。秋津は、潤沢な女が好きである。  秋津が、女芯のねとつきの中を掻きまわすにつれ、 「ああ……ああ……そんなふうにしないで……」  香津美は、腰を持ちあげて迎え、ブリッジを作りながら、四肢をふるわせた。  秋津は、その見事な反応に、興味をそそられた。指で蜜液を汲みあげて、入りあいのはざまに膨《ふく》らみはじめた肉の芽を探し、その露頭部にまぶしつけ、蜜まみれにしながら、膨らみを育てた。 「あッ……あッ……あッ……」  どうやら、クリット感覚に心を奪われているらしい香津美の耳朶《じだ》を、不意に急襲した。口に含み、それから不意に舌先を鞭《むち》のようにしなわせて、耳孔の中にすべりこませた。  耳の孔《あな》は、女性の最大のウィークポイントである。そこを襲われたので、香津美は、 「わあッ……!」  と、はじけるような声をあげた。 「いやいや……耳の孔って恐いくらいに、くすぐったいし、感じる」  頭をゆすって、逃げようとする。  秋津はかまわず、耳孔を攻めながら、膣にずっぷり埋めた右手の指を活躍させた。そんなふうに三所攻め、四所攻めを敢行するうち、香津美はとうとう、ベッドの中でのたうちまわる、といった状態になった。  秋津はそうなると、ますます張り切ることになる。香津美の秘境をじかに目撃訪問しながら、探検したくなった。 「あそこに……キスするからね」 「あ、それって、……いやいや」  身を固くして、身を縮めようとする香津美の両下肢をむりやり開き、秋津はいつもの愉しい癖で、顔を秘所に埋め込んだ。  香津美の内股は白くて、なまめかしい。その内股を両手でむぎゅうっと掴んで広げて、毛むらの下の赤い流れに舌をおくって、ぺろぺろと舐《な》めあげた。 「ああん……いやあんっ」  香津美はうれしがりながらも、はなはだ矛盾した、変な感想をのべた。  赤い滝の流れのような秘唇は、サーモンピンクに濡れ輝いて、秋津の舌先にとろりとした味覚を伝える。舌でぺろりと割られるたび、内陰唇がわななきながら、貝肉のようにひらいて、吸いついてくる。  秋津は、勝手放題なことをしたくなった。茂みの下のクリットを優しくキスしながら、中指をそろそろと、すべりこませて、活躍させはじめた。  第二関節のあたりまで、ずっぷりと埋めたところで、探るように指を動かすと、鮹《たこ》の頭のようなものがあたる。その鮹のあたまは指を奥に入れまいとするように、通路に立ちふさがっていて、その隙をすりぬけて中指を奥まですすめた瞬間、ひくひくっと、捕まれる感じが訪れた。  掴まれる感じは、肉の環《わ》のようだ。  肉の環の締まり具合を楽しみながら、抜き差しすると、手前の瘤《こぶ》が怒って蠢《うごめ》きだして、ぐるぐるっと蠢く。 「あっ。そこ——」  香津美の女体が跳ねた。 「そこ……そこよ……とてもいいわ……ああ、うれしいっ」  香津美はよく、うれしい、という女である。  香津美にとっての「うれしい」は、どうやら、一般的にいえば「いい」とか、「感じる」とか、「いきそう」とかいう言葉のようである。  秋津は、さらに展開を進めた。鮹の奥にすすめた中指の先で、鮹を手前にひっかくようにして、傍《かたわ》ら親指や掌全体でクリットや恥丘を圧迫するように、バイブレーションをつけてやった。 「あン……それ……それって、とてもいいわ」  香津美が泡《あわ》を吹いたような声をあげているのは、鮹のあたまを手前に引っかいているからであった。そうやっているうち、鮹はますます膨れあがってくるようであった。  その感触を楽しみながら、外の親指は円を描く。クリットを上手に親指の腹でこねくってやる。その相互運動に圧迫を加えると、膣口部を内と外から、はさみつけているような具合になって、 「ああ……ああ……ああ……うれしいッ」  香津美はよく、うれしい、という女だ。しあわせな女である。  香津美は、腰を突きあげてきて、鼻声になった。軽くブリッジを作った瞬間、小さな慄《ふる》えが腰にはしったところをみると、軽い頂上感が掠《かす》め通りすぎていったのかもしれない。  香津美は、どさっと腰を落とした。  秋津はまだ許さない。カサノバみたいに、肉のあわいにせりだしているクリットのフードを剥《む》き、口に含んで、きゅっ、きゅっと吸った。 「ああ……やめて……やめて」  香津美は、ベッドを両手でばたばたと叩《たた》いた。 「いやいや……もうやめて……感じすぎるわ……わたしを辱《はずか》しめて喜んでるんでしょ……そんなことされると、わたし、変な女になるわ……淫乱《いんらん》になっちゃうわ……やめて……やめて」  たてつづけに、言葉が飛びだしてきた。  そうして、それだけにとどまらなかった。 「ようし、私も愛してあげるわ」  やがて、香津美は起きあがり、上体を伏《ふ》せて秋津のみなぎったものを、握りしめてきた。  やはり、元気な女子大生である。秋津は、フェラチオを仕込んだ憶《おぼ》えはないが、ビデオか何かで知ったのだろうか。顔を近づけ、唇にふくんだ。みなぎりたちを舌でなぞり、それから驚くほど深く、頬張《ほおば》ってきた。  鎌倉彫りの老舗の娘とも思えない、トレンディな、大胆さである。頬張り、口腔の中のものをあやすにつれて、香津美の長い髪が揺れる。背中からヒップにかけてのカーブが、若々しい牝獣のようになまめかしく、秋津は、その髪を優しく撫《な》でながら、充実した灼熱の瞬間というものを感じていた。  それは、生きている刹那《せつな》の歓びというものかもしれなかった。  一年前の夏、大和路の南円堂の白い土塀の傍で、興福寺の塔を見あげていた時、白いブラウスにジーンズをはいて、まだ処女だった女が、僅《わず》かの期間にこのように変貌する、というのが信じられないような気もしたし、また、面白い人生の断面でもあるような気がした。 「香津美、もういいよ。おいで……」  秋津は香津美の身体に手をかけ、くるっと腰を回して、自分の身体の上にのせた。 「女性乗位。やったことある……?」 「わあ、私……そんなこと……知りません」 「知らなくっても、できるんだよ。そのまま跨《またが》って、そっと腰をおろしてごらん」  香津美は恥ずかしそうに、秋津の上にまたがってきた。そうして指をそえて、みなぎったものを、つないできた。 (やろうと思えば、ちゃんとできるじゃないか……)  秋津の逞《たくま》しい男性自身は、濡れあふれたものの中へ、挿入されてゆく。  その瞬間、香津美はあっと弾《は》ぜた。  上半身でのけぞる感じである。  秋津は下から、カウンターパンチを浴《あ》びせた。 「わっ……わっ……意地悪……!」  弾ぜながら、腰をむぎゅっと、押しつけてくる。  秋津の雄渾《ゆうこん》なものは、硬《かた》いくらいに締めつけられて、狭隘部でひねられ、折れそうなくらいの衝撃を受ける。 「香津美……ちょっと、痛いよ。もう少しお手やわらかに願いたいね」 「だって、憎たらしいんだもの……この男の人のお道具って……」  香津美はまるで、男性自身に恨《うら》みでもあるかのように、上から腰を押しつけてくる。  秋津もそれに、合わせて動いた。  下から突きあげるにつれ、香津美は「うぐっ」とのけぞり、華やかに乱れはじめた。この分だと、正常位で繋《つな》ぎ直すまでに、だいぶ、道草をくいながら遊べそうである。  快美無究《かいびむきゆう》の時間がはじまっていた。  花を見、また花を見、覚えずしてきみの家に到らん、といった状況であった。  香津美の女体に励みながら、秋津は、近いうちに大三星重工の社長の愛人で、継之進の母親だという円山須磨子という、鎌倉在住の女のことを調べてみよう、と考えていた。    4  翌日も朝から雨であった。  扇ケ谷の家で、夏宮病院の院長夫人、綾香は、窓からその雨を見ていた。  少女時代は雨がとても好きだったが、大人になってからは、雨が無性に嫌いになった。庭の楢《なら》や楓《かえで》の黒い幹につたう冷たい雨のしずくを見ていると、外泊の多い夫のことや、この三週間のいやなことを思いだして、気が滅入《めい》ってくるのである。  その日も、そうであった。朝からの雨で洗濯物が乾かないと、ばあやの梅崎はこぼすし、予定していた庭の花壇の手入れも出来ずに、くさくさしていたお昼少し前、その電話が鳴ったのであった。  ちょうど、若宮大路のガラス工芸店に用事を思いだし、その用事を済ませがてら、買い物をしてこようと思って、綾香が外出支度に取りかかっている時、居間のほうで鳴る電話の音に気づいて、綾香は受話器を取った。 「もしもし……夏宮ですが」 「しばらくだな、奥さん」  中年男の声が、いきなりそう言った。 「この間は鎌倉山のほうで、お楽しみのようだったね」  鎌倉山のほうでお楽しみのようだったね、というのは、秋津則文の家での密会のことだろうか。  不意を衝《つ》かれて、初めて聞く中年男のだみ声でもあったので、 「どなたでしょうか?」  綾香は警戒しながら訊いた。 「どなた……って、名のるほどの者じゃねえけどよ。院長夫人にはもう何度も、メッセージを伝えているはずだがね」  あっと、綾香は思った。夏宮病院の秘密を洩らされたくなかったら、三億円用意しろ、と先日も大原憲司の霊前に供えるための花束に、メッセージ・カードを貼りつけてきた人間が、この電話の男ではないのか。 「この間、おかしな花束をお送りいただいたのは、おたくですか」 「そうさな。花束も送ったし、メッセージも送ったかな」 「いったい、私に何の用事でしょうか」 「おっと、そう怒っちゃいけないね……」  と、男は押しかぶせるように言った。 「今もご挨拶《あいさつ》したように、鎌倉山でのお楽しみのほどをたっぷり写真に撮《と》らせてもらっているんだ。あの写真を鎌倉駅頭でばらまかれたら困る院長夫人がどこかにいらっしゃるんじゃないかと思ってね。その院長夫人に、ちょっと用事があるってわけさ」 「前置きはいいから、用件をおっしゃい」  綾香は、やや喧嘩腰になった。 「じゃあ、言うよ。用事というのは、他でもない。この間から懸案《けんあん》になっている大原憲司の轢き逃げ犯人と、夏宮病院の秘密。……そいつを教えてあげようと思ってるんだが、知りたくはないかね」 「大原君の轢き逃げ犯を知っている、とおっしゃるのですか」 「ああ、知っている。場合によったら、真犯人の名前を教えてもいいよ」 「ばかに気前がいいわね。これは何かの取引ですか。秘密を教えるかわりにお金を用意しろ、とでもおっしゃるのですか」 「そうさな、お金は欲しいが、今日のところは要求しないでおこう。それよりどうだ、教えてもらいたくはないのかね」 「もったいぶらないで、教えたらどうです?」 「電話ではだめだね。今、おれは鎌倉に来ているんだ。どこかで、落ちあおうじゃないか」 (いったい、何者なんだろう?)  綾香は、その提案に少し警戒した。  いくら観光客が多いとはいえ、鎌倉という保守的な街では、綾香の顔はよく知られているし、喫茶店で妙な男と会っているところを、人に見られたくはなかった。といって、人眼のないところでは、相手がもし凶暴な男だったりしたら、身にふりかかる危険をも、予測しなくてはならない。 「どこに行ったら、教えていただけるのかしら?」 「そうだな。六月末の梅雨時といえば、紫陽花《あじさい》が見頃じゃないか。午後一時、浄智寺の山門で待ち合わせ、というのはどうかな」 「明月院ではなく、浄智寺ですね」 「そうだよ。紫陽花は明月院ばかりじゃない」 「山門に行けば、教えてくれるんですね」 「ああ、教えてやるよ。おれはレインコートを着ている。寺の山門なら、怪しまれなくてすむだろう」 「おたく、何とおっしゃるんです?」 「名前なんか、どうでもいいじゃないか。山門にゆけば、わかるさ。じゃ、午後一時だ、いいな」  電話は、そう言って一方的に切られた。  綾香は受話器を握ったまま、一瞬、迷い、思案していた。  見知らぬ男の呼び出しを受けて、のこのこと約束の場所に行ったりしていいのだろうか。今の男の言い分は、本当に信用できるのだろうか。  そういう疑念と不安がよぎる一方、しかし大原憲司の轢き逃げ犯は、突きとめたいし、夏宮病院の秘密というものも知りたかった。  浄智寺の山門なら、さほど危険な場所でもないので、行ってみよう、と決心をした。  綾香は、急いで三面鏡の前に戻って、口紅を整えた。それから外出支度をすると、十二時少しすぎに家を出た。  若宮大路で先に用事を済ませるため、マイカーのBMWを車庫から出した。  鎌倉ガラス工芸で、頼んでおいた創作ガラスの一輪挿《いちりんざ》しや酒器類を受けとると、綾香はそのまま車を、巨福呂坂《こぶくろざか》のほうにむけた。  浄智寺なら、近くの建長寺の広い駐車場に車を駐《と》められる。  扇ケ谷から巨福呂坂を抜けて、亀ケ谷坂に出ると、空が少し明るくなった。建長寺の駐車場に車を駐めて、傘をさして歩くと、雨は少し小降りになった。  鎌倉街道を東慶寺のほうにむかって、少し歩くと、左手の山あいに浄智寺がある。  臨済宗円覚寺派、金宝山浄智寺は、十三世紀の終わり頃に創建された典型的な禅宗の寺である。  近くの建長寺や東慶寺と同じように、谷戸と呼ぶ谷あいに堂宇《どうう》を並べ、背後に竹や杉の多い寺域をもって、禅刹《ぜんさつ》にふさわしい閑寂《かんじやく》なたたずまいをみせている。  裏庭には桐《きり》に似た白雲木《はくうんぼく》が亭々と聳《そび》え、隧道《ずいどう》を抜けると、洞窟に弥勒菩薩《みろくぼさつ》の化身といわれる布袋尊《ほていそん》がまつられている。  表の道から、山門にむかう道に入って、綾香は思わず佇《たたず》んだ。小雨にけぶって山門の両側に、紫陽花がひっそりと満開なのであった。  なるほど、電話の男が言ったとおりである。  鎌倉の紫陽花といえば明月院が有名だが、紫陽花はなにも明月院に限ったことではない。極楽寺の切り通しの近くにある成就院には、山門への坂道の両側に、豪壮な紫陽花の群落が茂っているし、綾香はもともと観光コースにのっていない成就院の紫陽花のほうが好きだったが、この浄智寺の木立ちの中の、幾つかの群れの、ひっそりした紫陽花の花の群れも、風情がある。  約束の時間にはまだ間があったので、綾香は傘をさして佇んだまま、しばらく小暗い木立の下の、満開の紫陽花に見とれていた。  紫陽花は、たしかに雨季の花である。雨が一番よく似合う。  重苦しい感じのする谷戸の多い鎌倉の、降ったり熄んだり、灰墨色の空の下で、紫陽花の花がたわわに咲き乱れているのをみつけた時のほっとした気持ちは、たとえようがなくこころが安らぐものである。  そこにだけ赤や紫やピンクの色彩が集まり重なりあって、天上の楽《がく》の音色をおっとり地上に降りそそがせ、結晶させたように、たわわに揺れているようである。  何でも紫陽花の花言葉は、「高慢」とか、「美しいが香も実もない」とか、「心変わり」とか言うそうである。この面ではあまり、評判がよくない。花の色が白からうす緑になり、しだいに色を深めて青や紫に変わる。薄ピンクから、紅色になるのもある。その「移り変わり」「うつろう」色彩の変化をこそ、綾香は好きだが、一般にはその点で「移り気」とか、「浮気女」とかに形容されて、あまり珍重されず、さげすまれてきたのかもしれなかった。  でも綾香は、誰が何といっても紫陽花が好きだ。大輪も、中輪も、小輪だっていい。杉木立ちの茂みの中にひっそりと咲く山紫陽花もいい。  むかし、竹久夢二と並んで一世を風靡《ふうび》した叙情派画家で高畠華宵《たかばたけかしよう》という人がいた。「華宵好みの君も往《ゆ》く」と、昭和三年に大ヒットした「銀座行進曲」にも歌われたくらい、女性の服装や髪形や風俗に、竹久夢二以上に、当時の世相に影響を与えた大正、昭和にかけての叙情挿絵画家だが、綾香は少女時代、母の文箱の中に、華宵が描いた便箋《びんせん》の表紙絵をみて以来、紫陽花の虜《とりこ》になってしまった。  華宵は、雨に濡れそぼって咲く紫陽花をバックにした、女たちの絵を多く描いた。紫陽花のブルーがトーンで、若い娘の着物でも洋服でも、みんなブルー一色で描くことが多かった。  母の文箱の中にあった、便箋の表紙絵も、雨に濡れそぼっている紫陽花と、傘をさしてそれを眺めている美少女の姿を描いたものだった。幼い頃、その便箋の表紙絵をみているうちに心を奪われてから、綾香は毎年一回は、梅雨どき、鎌倉の寺のどこかの紫陽花を見にゆくことにしている。  高校時代のある夕暮れ、学校でいやなことがあって、どしゃ降りの中一人で、傘をさして明月院を訪れたことがある。雨が激しかったので、さすがに観光客は一人もいず、参詣人もいなかった。山道脇の紫陽花の中に入って、傘で無理無体に紫陽花の花を押しのけ押しのけ登ると、長い茎《くき》は柔軟に押し分けられながらも、不意に乱暴に傘や顔にはねかえって、叩きつけられたり、足に踏みにじられて倒れ伏す花もある。ざわめき怒り、ひそひそと仲間同士で乱暴な少女に抗議の声をあげ、かと思うと、高声で自分を笑っているような花もあって、何やら夕暮れの花の魔界に迷いこんだような妖しい気分になって、わあわあ泣いたことがある。  あの時、なぜ自分が花を虐《いじ》めるような、あんな乱暴なことをしたのか、学校での「いやなこと」というのが、何であったかはもう忘れてしまっているが、大輪の紫陽花の群落の中で、不意に感じた「物の怪《け》」の世界に分け入ったような身震《みぶる》いだけは、今でも忘れられない。  鎌倉に紫陽花が多いことに、綾香は一つの解釈をもっている。源氏の盛衰や鎌倉幕府の崩壊など、人間の栄枯盛衰《えいこせいすい》をみてきた古都の花としては、「はかなさ」や「うつろい」を刻々と映《うつ》す紫陽花は、ぴったりの花ではないか。人間の営みや、人生や、天地自然の大原則の中で変化し、「移ろい」、「滅びて」ゆかないものはない。紫陽花は、まさにその「移ろい」や「儚《はか》なさ」や「滅び」を映す鏡である。  傘をさして佇んだまま、考えるともなくそんなことを考えながら、雨にけぶる紫陽花のうつろいの美しさに、しばらく酔っていた綾香が、傍を通りすぎた女学生たちのグループの高らかな笑い声に、はっとして我に返った。  今は、紫陽花なんかに見とれている場合ではない。 (ちょうど、一時だわ……)  心を武装し直して、山門のほうに歩いた。  参道入口に、小さな石の反橋《そりばし》がかかっている。太鼓橋である。その脇にある井戸が、鎌倉十井の一つに数えられる甘露《かんろ》の井戸だが、池も井戸も濁《にご》っていた。  参道の入口から約百メートルで、鐘楼を兼《か》ねた山門がある。二階に梵鐘《ぼんしよう》が吊《つ》るされた中国風の山門である。  しかし、おかしなことに、山門の中に人影は見えなかった。 「あらっ、誰も居ないわ」  しばらく山門の中で、佇んで待った。  しかし、電話の男は、なかなか現われなかった。  傍らの庭で、たっつけ袴《ばかま》をはいた寺の掃除人風の人が、箒《ほうき》で楼門の周囲を掃除していた。 「あのう……山門に誰か男の人が、待ってませんでしたか?」  雨はすっかりあがったので、傘をたたみながら、聞いた。 「おたく、夏宮さんですか?」  意外にもたっつけ袴の男が聞き返した。 「そうですが」 「あ……ちょうど、よかった。預《あず》かり物をしています」  男は紙片を渡した。メッセージのようである。綾香が渡された紙片を開いてみると、ボールペンの走り書きで、 「この寺の奥の崖《がけ》に、『井の洞』という横井戸の洞窟《どうくつ》がある。その中で待つ。夏宮病院の秘密を知る者より」  ——と、そう記されていた。  綾香を、山門からさらに寺の奥へ誘《さそ》おうという魂胆のようである。 「おじさん、横井戸の洞窟って、どこにあるの?」 「ああ、崖のほら穴かいのう。そこの道を曇華《どんげ》殿を方丈の裏にまわって奥へゆくと、墓地がある。その墓地の横あいの崖にな、ぽっかりと暗いほら穴があいているから、すぐわかるじゃろう」  洞窟ときいて、少し薄気味悪かったが、ここまで来たら、もうそこまでゆくしかないと思った。  綾香は、教えられた道を歩いた。  浄智寺は、室町時代頃には、五百|羅漢《らかん》像を安置した三門、方丈《ほうじよう》、書院、外門《そともん》、行堂《ぎようどう》、維那寮《いなりよう》、僧堂などの塔頭《たつちゆう》がたくさん、壮麗に建ち揃《そろ》っていたそうだが、戦国時代から江戸時代にはいって、鎌倉が幕府所在地としての首都機能を喪《うしな》ってさびれ、多くの仏殿、僧院、塔頭が焼けたり、再建されても大正十二年の関東大震災で倒壊したりし、現在は幾つかの仏殿や客殿が残っているだけである。  客殿の裏にまわると、墓地があった。  周囲は源氏山の崖や森である。  崖下の道を奥へたどると、突きあたりの右手の崖に、なるほどぽっかりと、小さな暗い穴があいていて、「横井戸の洞窟」という立札が立っていた。  まわりには、人影が絶えていた。  洞窟の入口に、懐中電灯が置いてあった。小さな洞窟内に、照明装置などはないから、この懐中電灯を使え、ということだろうか。  入口に立つと、足がすくんだ。でも綾香は勇を鼓《こ》して、懐中電灯を握って照らし、洞窟に入った。  洞窟は大人が背を屈めずにやっと通れるという高さで、左右も狭い。岩の壁面には、中世の人間が鏨《たがね》で掘削したと思える鏨跡が荒々しくついていて、壁面全体が地下水でべったり濡れ光っていて、薄気味わるい。 (なぜこんなところに呼びだすのかしら……?)  綾香は背すじが寒くなった。奥にゆくのは、もうよそうと何度も思った。だが、もう少しで男が待っているところに行きつくかもしれないと思って、少しずつ歩をすすめた。 「誰かいるの? ねえ、返事をなさいよ」  綾香自身の声が、韻々《いんいん》と反響する。 (チキショー、人を恐がらせようと思ってるんだわ……)  綾香は勇気をふるい起こして、もう少し奥へ進んだ。  ほとんどもう突きあたりにきたと思ったころ、綾香はハイヒールが何かにつまずいてよろめき、  ——キャーッ!  と、倒れそうになって、悲鳴をあげた。  あわてて、側壁に手をやって身体を支え、かろうじて転倒を免《まぬが》れたのであった。 (何かしら、いったい……!?)  自分がつまずいたものを、踞《かが》んで懐中電灯をあてて、恐る恐る眺めた。  懐中電灯の穂先に照らしだされたものが、湿った隧道の地面に倒れている人間であることに気づいて、二度目の悲鳴が綾香の口からほとばしった。  倒れている人間は、女であった。 (どうしたのよう、こんなところで)  手をかけてゆすろうとした時、綾香はハッとして、手を引っこめた。  身体が固く、冷めたかったのである。 (——死んでいる!)  それは、女の死体であった。仰向《あおむ》けに倒れていた。胸に、ぐさりと深々とナイフが突きたてられていて、血が噴きだしているのであった。  綾香は息がつまりそうになった。  懐中電灯の明かりの中に、カッと瞳孔《どうこう》を見開いて、こと切れている女性の顔が、はっきりと映しだされた。  綾香は、三度目の悲鳴をあげそうになった。  見憶えのある顔だからであった。 (はて……誰だったかしら……?)  一瞬、考えた時、すぐに思いだした。 (そうだ……篠山信子じゃないの……!)  篠山信子……夫が入りびたっていた馬事公苑近くの世田谷区桜丘二丁目に住む女であった。銀座の葵ギャラリーの女社長という話だったが、どうしてこんなところに……?  綾香は、半ば頭が麻痺《まひ》しかけていた。  信じられなかった。頭をゆすった。恐る恐る、後退さりしようとした。この時、綾香の眼は、死体の胸のあたりにたくさん、散りばめられている紙片のようなものを発見した。  よく見ると、写真を引き裂いたもののようである。引き裂かれた写真は、ジグソーパズルのように、写された人間のそれぞれの断片であった。  気になって何気なく、その幾片かを手にとってみた。その断片は、どうやら男と女が裸で結ばれあっている姿を映したものを、千々に引き裂いたもののようである。  しかもそこに写っている顔の断片を、懐中電灯に照らしてよく見ると、見憶えのある男と女であった。見憶えがあるどころではなかった、女は自分の顔であり、男は湘南台大学の講師の秋津則文ではないか。  しかも、その写真の背景をみて、  ——あっ!  と、綾香は、またも声をあげそうになった。  先週、綾香が訪れた鎌倉山の秋津則文の家の、庭に面した奥座敷であった。 (そうか。謀《はか》られたんだわ。電話の男はそういえば、「いつぞやは鎌倉山でお楽しみでしたね」と、言っていたけど、私たち、盗撮されたんだわ……)  しかも、その赤裸々な盗撮写真が、どうしてこんな死体の上に散らばっているのだろう。  考えたところで、綾香の頭の中は混乱するばかりだった。焦《あせ》った。自分が映っているこの写真はすべて、取り去らなければならないと瞬間的に思った。  しかし、そこらじゅうに散りばめられた写真の断片は、一枚か二枚の情事写真を引き裂いたものではない。何十枚もに焼き増しした写真をちりぢりに引き裂いたもののようであった。  とても、すべては除去できない。どうしよう、と焦っているうちに、出口のほうで人声が聞こえたような気がした。  綾香の全身が凍《こお》りつき、硬直した。  冷や汗がどっと背中をすべり落ちた。  アベックらしい人声は、しかしさいわい、洞窟の中には入ってこないで、墓地を通って布袋尊洞窟のほうに、歩き去ったようであった。 (死体の傍なんかに、あまり長居していてはいけないわ……) (そうよ、写真なんか、放っときなさい。一刻も早く、ここを出て、立ち去るのよ!)  綾香は、背に追いたてられるような声をきいた。少しずつ、死体から後退《あとずさ》り、そうして出口の光にむかって、叫びたいような気持ちを怺《こら》えて、綾香は一目散に駆けだしていた。    5  いつ、街中に出てきたのか、憶えていない。  気がつくと車を鶴岡八幡の駐車場に乗りすて、綾香は若宮大路をはァはァと息を喘がせながら、歩いていた。  駅の近くから、小町通りに入る。新劇女優の妹が経営するピアノバー「仮面貴族」は、さいわい、ドアに鍵はかかっていなかった。  押して入ると、奥行きの深い酒場の中は薄暗く、ピアノの傍のカウンターだけ灯がはいっていて、妹の美由季が洗いものをしていた。  綾香は、まっすぐカウンターまで歩き、 「美由季……お水、お水をちょうだいっ」  そう叫んで、どさっとスツールに腰をおろした。 「まあ、どうしたの。姉さん、幽霊でもみたような、蒼い顔しちゃって」 「いいから、いいから、早くお水ちょうだいっ」  美由季がカウンターの中から、呆《あき》れ顔でコップに水を汲んで差しだすのを受けとり、一気に飲み干した。 「いったい、どうしたのよ……姉さん。まっ昼間から本当に幽霊を見たような顔をして」 「そうよ、見たのよ。幽霊よりもっと恐いものを……美由季、あなた、篠山信子のお友達だったでしょ。すぐ彼女のところに、電話してちょうだい」 「どうして私が信子に電話しなくっちゃならないの? 信子に何か用事でもあるの?」 「いいから早く、馬事公苑近くの彼女のマンションに電話してみてちょうだい!」  最後は、自分でも驚くくらい、激しい口調になっていた。  綾香としたら、あの洞窟の奥でみた死体の顔が、あとになって自分の見間違いだったのかもしれない、という気がしてきたのである。  それで信子の消息を一刻も早く確かめたかったのである。  肩をすくめて、美由季がタオルで手を拭きながら、カウンターから出てきて、レジの傍で受話器を取りあげて、プッシュしていた。  何度か、受話器を置いたり、かけ直したりしていたが、 「変ねえ。どこにも居ないわ」  やがて、美由季が受話器を置いて戻ってきた。 「馬事公苑のマンションにも、銀座の画廊にも、彼女はいないわ。画廊の従業員に聞くと、彼女、昨日からギャラリーを休んでるんですって。どうしたのかしら?」  やはり、洞窟の中の死体は、篠山信子に間違いなかったんだわ、と綾香は思った。身体が、ずるずるっと、奈落《ならく》の底に沈みこんでゆくような気分を味わった。  それというのも、綾香にも、自分を電話で浄智寺に呼びだして、あの洞窟に誘い込んだ、男の意図が漸《ようや》くわかってきたからである。  なぜなら、綾香と殺されていた篠山信子は、夫の聡太郎をはさんで、対立関係にあった。現に先日は、馬事公苑のマンションに押しかけていって、綾香は口論したばかりである。  まずふつうに、世間的にいって、信子を殺した犯人として一番、疑われやすいのは、綾香であった。しかも現場の死体の上には、綾香の顔が写った恥ずかしい写真がいっぱいばらまかれていた。  あの写真は、いかにも秘密の情事を写された院長夫人の綾香が、その写真を取り戻そうとして争いになり、ナイフで信子を一突きにして殺害した——というふうに見えるのであった。 (ああ……どうしよう。私は警察に疑われるに違いないわ……)  綾香には確実に、そういう予感がした。  その夜、夫の聡太郎が珍しく家に帰ってきた。  車庫に車をしまう音がして、玄関に足音が響いた時、綾香は幽霊でも出迎えるような気持ちで、鞄《かばん》を受けとった。 「まあ、珍しいこともあるものですわね」 「うむ。急患もなかったし、オペもなかったからね。一ヵ月ぶりに早く帰ることができたよ」  早くといっても、夜の八時である。 「馬事公苑のマンションには、お帰りにならなかったのですか?」 「どうしてそういうことを言うんだね。私が私の家に帰る。あたり前のことじゃないか」  聡太郎は綾香の皮肉を受け流して、さっさと廊下をリビングのほうに歩いて、飯はできているか、と訊いた。 「はい。今、整えます。お風呂がわいていますから、どうぞ」 「あ、そうだね。風呂に入ろう」  聡太郎は風呂からあがると、いつもの通り、ビール二本の晩酌《ばんしやく》をし、新聞を読みながら軽く夕食をとると、書斎に入り、十時にはもう、寝るぞ、と声をかけて奥の寝室に入った。  そこには、判で捺《お》したような日常性があった。毎週、二日間、世田谷の女のところに泊まってくる放埒癖《ほうらつへき》も、先週、そこに綾香が押しかけて一幕の修羅場が演じられたことも、夏宮病院が今、脅迫されていることも……いやいや、今日の午後、篠山信子の死体を発見した綾香の衝撃に拘《こだ》わる表情の変化も、何一つないようであった。 (夫はまったく、紫陽花寺の殺人には無関係なのだろうか?)  綾香が、解けきらない疑問を抱いたまま、信子のことで何か質問をしなければならないと思い、寝室に入って夫の枕許に正座すると、 「まだ、寝ないのか」  眼を閉じたまま、そう言った。 「何だか、気分が昂ぶって、眠る気にはなれません」 「それは私へのあてつけかね。かまわない私をなじっているのかね。どれ、私が眠らせてあげよう。こっちに来なさい」 「いやです」  綾香は言ってしまった。「そんなことじゃありません。あなた、信子さんが……」 「いやだとは、妙だ。どうしたんだ。おい。こっちに来なさい」  いつのまにか手を掴まれ、布団の中に引きずり込まれていた。夫はのしかかると、慄えをのこす綾香の躯《からだ》を抱き、浴衣の合わせ目から強引に手を入れて、乳房を掴み、乱暴に捏《こ》ねてきた。 「ああ……あなた……乱暴はいやいや」  身体が触れあって夫の手を感じているうち、綾香はある種の慣れあいと安心感と甘美さを感じ、今夜はもう信子のことは話題にすまい、と思った。  いつのまにか帯が抜きとられ、唇はあわせずに夫はいきなり乳房に重い顔を伏せてきて、乳首をねぶり、吸いたててきた。傍ら、右手を、昔の散歩道を思いだすように、下腹部にまわして、綾香の躯のすみずみに這《は》わせてきた。  毛むらが掌で掴まれ、ひとしきり、嬲られる。その下の女芯に夫の指がすべりこんできた時、綾香は、あッと息をつめた。  そこはひどく、敏感になっていたからである。怺《こら》えても蜜液が、滲《し》みだしていたかもしれない。  外科医の長くて細い指が、ピアニストのように、肉芽をいたぶる。茂みを分けて虹色の突起をいたぶっていた指は、やがて、二度三度、その下のむずがゆい部分に分け入ってゆく。  綾香は、夫の背信を心で怒りながら、そこがますますあふれてくるのを感じる。心で拒否しながら、体で欲しい、と思ったのは、早く夫の逞しいもので思いっきり貫いてもらえば、浄智寺の崖下のあの忌《いま》わしい光景を忘れてしまえるかもしれない、と思ったからである。 「ああ……あなた……あなた……」  夫はでも、焦らすように、久しぶりの綾香の躯を賞味するように、隅々まで唇であたってゆく。首すじから肩、胸のふくらみへ、そうして乳房の頂点で、唇はしばらくとどまる。  硬く充血して赤く苺のように硬起しているであろう乳頭の味覚を、ひとしきりたしかめた夫の唇と舌は、今度は綾香の胸の側面に移動してきて、脇腹から下腹部へ移動し、草むらの上を蝶のように舞い戯れたりした。 「ねえ……早く……お願い……」  恥も外聞もなく求める綾香の状態を察して、夫はやっと、勝ち誇ったように、獣の姿勢をとった。綾香の身体を乱暴に、二つに折る。両下肢を大きく割り、濡れあふれた女芯に、みなぎったものをぐいと、押し込んできた。  夫の強い、猛々しいものが濡れ色の唇を深々と貫いてきた時、綾香はああッと叫び、首をのけぞらせた。脳の奥のほうで一瞬、眩《まぶ》しいマグネシウムの火が焚《た》かれたのをみた。  夫は動きだした。綾香の頭のほんの一部には、まだ溶けきらないものがあって、洞窟の奥の光景と、これからの運命に怯《おび》え、心配している部分があったが、しかし、それさえも夫の動きが激しくなるにつれ、たちまち熱湯によって溶けだし、甘美な感覚の中に綾香は自分を投げだして、奔放に夫に応《こた》えている女体を感じていた。 第四章 ミモザ夫人の願望    1  その店は、とても不思議な店だった。  何を商《あきな》っているのか、外からは分からなかった。  駅前の大通りと並行している小町通りの、そのまた一筋裏通りの、檜葉《ひば》や柊《ひいらぎ》の生け垣や塀などがめぐらされた屋敷街のとある角に、白い洋館風の作りの店があって、「ミモザの館《やかた》」という看板がかかっていた。  白く塗られたドアは瀟洒《しようしや》で、西洋のちょっとした館ふう。道に面した窓も白く塗られていて、窓ガラスから店内が少しは透《すけ》て見えるのだが、何度通りかかってもその店が何を商っている店なのか、通りすがりの者には、すぐにはわからない感じであった。  雪ノ下の閑静な屋敷街のなかに、スナックやケーキ屋は似合わないし、酒場が突然、出現するわけでもない。しかし、「ミモザの館」という名前は、何とはなしに人をそそるし、窓からちらりと見える店の中には、黒いマヌカンがピンクの下着をつけていたりして、何やら妖しい雰囲気があるのであった。  秋津則文は以前から、その路地を通るたびに、気になっていた。通りすがりの窓から、店奥の黒いマヌカンにブラジャーをつけたりしている品のいい、瞳が大きくて妙に色香の匂う中年女性の顔がちらりと見えたりすると、年甲斐もなくどきんとして、胸が妖しく騒いだりした。  これは秋津としては、きわめて珍しいことである。夏宮綾香や、仙道香津美との交際を持ちだすまでもなく、女性にかけては普通の男以上に体験を豊かにしている秋津にしても、「ミモザの館」の前を通ると、初恋をした少年のように急に胸がドキドキと高鳴り、あやしく躍《おど》りだすのである。 「あの店、何を売ってるんだろうな。ブティックとはちょっと、わけが違うようだが」  ある日、仙道香津美に聞いてみると、 「あら、知らなかったの。あそこ、女の店なのよ」 「女の店って……?」  秋津にはまだわからなかった。 「ほらほら、下着のお店のことよ。女主人自身が、何でもランジェリー・デザイナーらしくて、女性週刊誌なんかに取りあげられていらい、東京あたりからも若い女性がわんさと買いに来てるみたいね」 「ふーん。下着専門店か。それじゃ、そんなにありがたがることもなかったわけか」  秋津は、少しがっかりした。俗物の男が想像するような、もっと秘密っぽいサロンふうの場所を想像していたのである。 「もしかしたら、あの女主人に興味があるんじゃないの?」  香津美に内心を見すかされて、 「ぼくにとって、あの路地のミモザ夫人は、ずっと以前から謎の女だったからね。そりゃ、売れっ子ランジェリー・デザイナーときいたら、ますます興味が湧《わ》くさ」  秋津と香津美がそんな話を交わしていた六月にはいって間もなく、香津美が何だかあわただしい様子で電話をかけてきて、面白いことを報告した。 「やっとわかったわ。則文さんって、凄い勘《かん》よ。ずっとあのミモザ夫人のことをマークしてたんじゃないの?」 「やっとわかったって……いったい、何のことだい?」 「ほらほら、謎だった三星重工業の社長、久我久常の愛人よ、東京から鎌倉に移り住んできて、それとなく記憶喪失症の久我俊之さんの様子を見守っている、とは聞いていたけど、どこで何をしている女なのか、見当がつかなかったでしょ。それが、あの——」  香津美がそこまで言った時、秋津にもやっと納得できて、 「ははーん、なるほどミモザ夫人がその女だということか。あの人はお屋敷街でひっそりと下着を商いながら、久我俊之の様子をさぐっている、というのかね」 「どうも、そうらしいのよ。ミモザ夫人というのは通称で、円山須磨子というのが本名。でも蓮華寺瞳《れんげじひとみ》っていうデザイナーネームをもっていて、三年前までは銀座でランジェリー専門店を開いてたんですって。それが鎌倉にきて、ひっそりとああいうお店を開いたのは、何だかわけがあると思うわ。記憶喪失症の俊之さんがやっている稲村ケ崎の〈ネイルズ〉にも時々、出入りしているみたいよ。ね、符節《ふせつ》が合うでしょ」  香津美は、そういうふうに報告した。  ミモザ夫人と呼ばれる円山須磨子が、本当に三星重工業の社長の愛人であるかどうかは、疑問が残るところだが、ともかくミモザ夫人はそれ自体で、神秘的な雰囲気をもつすてきな女性である。 「よし、行ってみよう」  秋津則文は、張り切ってそう考えた。  行ってみよう、というのは「ミモザの館」のことであり、接触してみて脈がありそうだったら、いずれ腕によりをかけてアタックしてみよう、と思ったのである。  秋津則文は、食欲をそそる新しい女性を見つけると、張り切る。それはほとんど狩猟者が獲物《えもの》を追う時の感じに似ていた。  その週の土曜日、湘南台大学での日本美術史の講義が早く終わったので、秋津は鎌倉駅で降りて、雪ノ下の住宅街の道にはいった。  見憶えのある小路を入り、通りがかりにさりげなく入った、という感じで、白い格子のガラスドアをあけて、「ミモザの館」に、初めてはいってみた。  いくら秋津が厚かましくても、さすがに、赤面した。全店、赤や黒や白やブルーの、さまざまなデザインのインナーやパンティが飾られ、肉感的な黒いマヌカンにつけられたブラジャーの、その片方だけがはずされていて、乳房が露わになっているのが立っていたりして、眼のやり場に困るくらいだった。  男の客など、一人もいなかった。  たぶん、誰もこないのだろう。  秋津は赤面しながらもまっすぐ、奥のカウンターのほうに歩いた。 「いらっしゃいませ」  カウンターの中で、髪を理知的に後ろで束《たば》ねた上品な女主人が微笑して迎えた。 「どなたかに贈りものでございますか?」  年齢はわからないが、色香の匂う艶《つや》とまるみのある声であり、表情であった。 「はぁ。——ちょっと、知りあいの結婚祝いのプレゼントでも見つくろおうかと思いまして」 「あら、奥さまじゃございませんの?」 「いえ、ぼくは独身ですから」  秋津は、しどろもどろの口調で答え、 「どういうものがいいんでしょうね。今の若い女性が好むものといえば」  相談するように訊いた。 「それなら、缶詰などは、いかがでしょうか?」 「は? 缶詰?」 「ええ。よく出ておりますが、こういうものでございます」  女主人はにっこりと笑いながら言い、青やピンクや黒など、色とりどりのシルクのパンティの詰め合わせを取りだして、ガラスの陳列棚の上に並べた。  秋津はその中から、香津美に似合いそうな缶詰を三つばかり選んで、包装紙に包んでもらい、その上にリボンをつけてもらった。 「ありがとうございました。また、お越し下さい」  女主人は微笑を浮かべて、表まで送りだした。  秋津はそれから、何回かその店に通《かよ》った。二回目からは、最初のような恥ずかしさはもう消えていた。香津美へのプレゼントが終わると、今度は夏宮綾香のものを探せばいい。そうしてそれが終われば、誰か別の女性へのランジェリーを探せばいい。そういう具合に、品物選びをしながら、女主人と話すのが楽しくなっていた。  ある日、同じ大学の女教授の誕生祝いに贈り物をするつもりで物色していると、黒いレースのついたパンティで、男性のブリーフと同じように打ち合わせ式の、穴があいているものが見つかった。 「おや……こういう露骨なものもあるんですか」 「はい。前あき式のスキャンティやショーツ、このごろずい分、若い人に好まれるんですのよ。いつでも、どこでも、脱がずにプレイできる点が、受けるのでしょうかねえ」 「プレイっていうと……あの……」 「ええ。男女が愛しあうことですわ。これですと、ほら、こういう具合いに」  手にとって見せたレースのパンティの、ちょうど前あき部分に中からミモザ夫人の、きれいなマニキュアをした美しい指が二本も、はっきりと飛びだして、なまめかしく出入りするのをみた瞬間、秋津はわけもなく興奮してしまった。 「じゃ、これにしましょう。アメリカの大学で博士号を取った物理学の独身女教授なんですがね。さぞ、びっくりするだろうな」 「あら、アメリカ帰りのお方なら、びっくりはなさらないでしょう。男の人がこの前あきパンティを贈《おく》るなんて、ずい分、思い切った求愛方法だと思いません?」 「はぁ。そういうものでしょうかね」  秋津がますます、しどろもどろしていると、 「それにしてもお客様って、ずい分、女友達が多いんですのね」  ミモザ夫人がそう言って、ふっと妙に色っぽい、嫉《ねた》ましそうな眼をむけた。  秋津は、ここぞとばかり、反撃に転じて、 「ええ。ぼくは女性が大好きなんです。三度の飯より、自分の生命より、女性と恋するのが大好きなんです。一度、ミモザ夫人みたいな方、誘ってみたいと思いつづけてるんですけど、叱られるかな」 「あら、私みたいなおばあちゃんでもよろしいんですの?」 「おばあちゃんだなんて、とんでもない。ミモザ夫人はまだ若いし、美しいし、熟《う》れ盛《ざか》り、輝き盛りじゃありませんか。——ねえ、一度、ピアノでも聞きながら、お酒飲みませんか?」 「あ、ピアノっていえば……小町通りの仮面貴族……?」 「ええ。あそこ、ぼくの溜《たま》り場《ば》なんです。よろしかったら、そのうち」 「あら、仮面貴族なら、私も時々、通ってますわ。今までどうして会わなかったのかしら」 「ああ、そうですか。ちょうどいい。今夜もぼく、そこにゆくつもりですけど、もしよかったら、店を閉《し》めたあとでも、おいでになりませんか?」 「今夜はだめですけど、あすの夜なら」 「ええ、結構ですよ、あしたでも」 「じゃ、あした、楽しみにしてるわ」  ミモザ夫人はあっさりと、デートを承諾したのであった。  そうしてその翌日の夜、九時頃、ミモザ夫人は小町通りの〈仮面貴族〉にやってきた。  そう大きくはない店だが、細くて薄暗くて、奥深いピアノバーである。秋津の高校時代の同窓生である夏宮美由季が、女優業の傍ら、シャンソンの弾き語りなどをしながら経営しているその店は、秋津の溜まり場の一つであった。  ミモザ夫人、円山須磨子も時々は、そういう都会的な風にあたりたかったのかもしれなかった。二人はカウンターに坐って、楽しく世間話をしながら、飲んだ。秋津は彼女が、三星重工業の社長、久我久常の愛人であるかどうかの詮索はしなかった。  それは、財界人の裏事情に明るい東京の業界紙の記者が友人にいるので、秋津はそちらに手をまわして、調査することにしていたのだ。数日後、入手した情報によると、円山須磨子はたしかに久我久常の愛人で、子供まで作っており、その子供が久我俊之の弟、継之進であることがわかった。  兄の俊之がヨット事故で記憶喪失症に陥って三星財閥の後継者の資格を失った今、継之進こそ次代の三星財閥を背負うべく、今や本社・統括部長を勤めて、飛ぶ鳥を落とす勢いなのだから、世が世ならその生母の円山須磨子は、大奥の「春日局」になり得る女のはずであった。  しかし、円山須磨子と久我久常の関係は、彼女が子をなしてから久我家に引き取られる際に、多額の金銭授受が行われて以来、疎遠《そえん》になっており、何らかの形で意思の疎通はあるにしても、事実上、男女の関係はもうないに等しいようだ、と友人の業界記者は教えてくれたのであった。  それで今、彼女は自立してランジェリー・デザイナーとして生きているようだ。しかし久我久常とまったく関係がないはずはない。それは、何なのか。今度の夏宮病院をめぐる一連の事件と、どう関係しているのか。  秋津はそういうことをおいおい、探るつもりであった。  しかし、須磨子が久我久常の愛人であったことがはっきりした以上、事を急ぐ必要はなかった。  慎重に、そうして着実に、男女の仲に持ち込むつもりだった。  秋津にとって幸運だったのは、たしかに須磨子はもう久常とは肉体関係はない模様であり、ほかに男がいるふうでもなく、現実問題、「空《あ》き家《や》」だったことである。  ミモザ夫人と呼ばれるお上品な物腰と誇り高い美貌の中にも、明らかに男欲しげな、秋津をむしろ誘うような態度を時々、露骨に示すほどである。  大三星の将来の社長候補と目される久常の次男の継之進の母親なら、その継之進をたとえ十八歳ぐらいの若さで産んだにしろ、円山須磨子はもう五十歳に近いはずであった。  ところが彼女には、少しもそういう感じがせず、まるで三十そこそこのように見える。三田佳子や山本陽子や十朱幸代ら、当代のいわゆる「いい女たち」が、みんなもう実年齢は五十に近かったり、それ以上だったりしているのに、現実には少しもそうは見えないのと同じように、ミモザ夫人、円山須磨子も、まだ二十八、九歳のように見える不思議に神秘的な若さと美しさに包まれた熟女であった。 (中身はさぞ、美味《おい》しいだろうな)  秋津は、いずれ熟した実は掌の中に落ちると踏んで、少しも露骨な誘いはかけず、珍しくおっとりとかまえていた。  そうして六月下旬のある金曜日——、きわめて自然な成りゆきで、そのチャンスがやってきた。  鎌倉の若宮大路の一角に、開成ビルというビルをもって手広く不動産事業や金融業をやっている天野佑吉の会社「鎌倉不動産」の創立十周年記念パーティというのが、その日の夕方六時から、横浜のポートグランドホテルで行われたのであった。  天野は闇金融でしこたま儲《もう》けて、何かと派手なことをしたがる男なので、地元鎌倉から場所を移して、横浜の一流ホテルの大宴会場を借り切り、大勢の知りあいや取引先関係者を集めてパーティを開くことに、無上の喜びを感じたのかもしれなかった。  秋津も招待状をもらって行ってみると、出席者は多士済々《たしせいせい》であった。鎌倉の市会議員や老舗の旦那《だんな》衆や名士たちがたくさん来ていた。不思議なことに、夏宮病院の院長夫妻の姿は見えなかった。夏宮綾香の妹の夏宮美由季はもちろん、夏宮病院の事務長などは来ていた。  だが、秋津が一番チャンスだ! と内心、手を打ったのは、「ミモザの館」の女主人、円山須磨子の顔をその会場で発見した時であった。  ホテルには、それぞれ部屋が用意されている。二人はグラスを持って、立ち話をした。  意思の疎通は、すでにできた。  二人はこれまでの経緯でもう充分、発火寸前だったのかもしれない。  会社創立記念パーティにイベントがはいって盛りあがる頃、 「ね、そろそろぼくの部屋で、ふたりっきりで飲み直しませんか」  と、秋津が誘って耳許で囁くと、円山須磨子は微《かす》かにうなずき、二人はこっそりと示しあわせて会場を出、秋津にあてがわれていた六階のツインの部屋になだれこんだのであった。    2  秋津則文の企《たくら》みは、成功した。  ドアを閉めてすぐ、むきあい、引き寄せると円山須磨子はくずれるように秋津則文の胸に、顔を押し伏せてきた。  その顔を片手ですくうようにあげさせ、唇を重ねる。 「ああん……」  と、円山須磨子は甘え声を洩らした。  拒んでいるふうではない。妖しく濡れた唇の奥の閉じられていた歯は、じきにあけられ、熱い舌が出会い、そよぐように舞う。須磨子はじきに、喘ぎ声をあげはじめた。接吻の間にも二人の脚が触れあって、そこから甘い響きが立ちのぼってきたからである。  軽い、そよぐような接吻をして、区切りをつけて顔を離そうとした時、不意に須磨子が両手をまわして、反対に秋津の頭を抱いて、力一杯、自分の方に引き寄せた。  当然、濃厚な接吻となる。須磨子の下腹部で盛りあがった恥骨の高みが、はっきりと押しつけられる感じになった。  やっと顔を離し、 「悪い人たちね」  ミモザ夫人と秋津は、見つめ合った。 「そうですね。まだパーティはたけなわだというのに」 「でも最後までいたって、他人の会社創立記念パーティなんて、つまんないものよ。二人だけの世界をつくるほうが、うんとすてき!」 「そうですね。あなたと二人っきりになったほうが、ずっとすてきだ」  二人はまだ離れずに、軽く抱きあったまま、そよぎあっている。秋津は両手で抱いた須磨子のウエストから臀部《でんぶ》への肉のカーブの感触を両の掌で楽しんでいた。  そうしてその片手が、ドレス地に包まれた豊かな乳房にのびた時、しかし、須磨子は上からその手を押さえ、 「だめ。お風呂を使わなくっちゃ」 「その前に、ミモザ夫人の、洗わないままの素肌に触れてみたい。ぼくの流儀はこうなんです。失礼!」  言い終わらないうち、秋津は乳房にではなく今度は反対に、須磨子の下半身の急所のほうに右手をのばした。赤いシルク地のドレスはさいわい、巻きスカートふうに前が打ち合わせ式になっていて、その打ち合わせの切れ込みの部分から奥に、するりと手をすべりこませていた。 「あッ、なんてことなさるの」  激しく狼狽《ろうばい》した声をあげ、須磨子は不意に恥丘に触られたので、反射的に股を閉じた。  しかし、怒りはしなかった。女性の本能的な防衛反応であった。  ふつうなら、こういう野卑《やひ》な奇襲をされると、下品、と言って、ハイソサエティの女は、怒りだすはずである。  ところが、相手に怒りださせないような雰囲気を、秋津はもっているらしい。その証拠にすぐに須磨子の股はゆるみ、少し両脚がひらいて迎える姿勢になったからである。  秋津の指はハイレグのショーツの上から、須磨子の陰阜《いんぷ》の高まり具合をたしかめ、クレバスのあたりをゆっくりと、愉しむように上下している。  するとショーツの布地はじきに、湿った感じを伝えはじめ、やがて花びらの形を、浮かびあがらせ、ぐっしょりとべとつく感じが伝わってきた。 「あなたって、本当にお行儀がわるい方ね!」  はすっぱにそう言う声も、心なし、潤っている。  須磨子が身をよじったはずみに、ハイレグのショーツの端を片寄せて、秋津はもう指を花びらの中にすべりこませることができた。  クレバスの両側に盛りあがった秘肉の畝《うね》にそって、軽く刷《は》くように指をすべらせながら、割れ口をくつろがせ、道を拡げた。 「ああ……ああ……そこ、みっともないことになってるから、おやめになって」  指を沈める。ぬっちゃり、と熱く濡れた蜜液の感触が、秋津の指先にまとわりついてくる。  二枚のびらつきを、丹念にたがやす。 「あ……あ……あっ……」  腰がふるえ、吐息が艶めいてきた。 「だめ……おやめになって……お願い……」  ミモザ夫人と呼ばれる赤いドレスの円山須磨子は、もう立っていられなくなったようである。 「……お願い。もう、それぐらいになさって。これ以上、私をみっともないことにさせないで」  秋津も密室にはいった途端、憧れのミモザ夫人の女芯にじかに触れることができて、何となく安心できる着陸地点を獲得した感じで、満足した。 「じゃ、バスを使ってきて下さい。ぼくはあとではいります」 「ありがとう。そうするわ」  そこでやっと抱擁を解くと、円山須磨子はややふらつくような足どりで、パーティ着のまま、クロゼットからハンガーを取りだすと、それをもって浴室に消えた。  秋津則文は窓のほうに歩いて、閉められたままのカーテンを引いた。窓いっぱいに、横浜の港の夜景が現われた。心なし、満足そうな口笛を吹いて秋津は、冷蔵庫から缶ビールを取りだし、タブをむしりながらソファに腰かけ、港の夜景を見ながら、今夜はとてもすてきな夜になりそうだぞ、と思った。    3  円山須磨子の入浴時間は、意外に長かった。  久しぶりに男に身体を委《まか》せるので、隅々まで洗って、女を磨いているのかもしれなかった。  秋津は缶ビールを一本あけたところで、いい気分の酔いも煽《あお》り、自分も風呂に押しかけてみようかと思った。  秋津が更衣室で脱いで、タオル一本をぶらさげ、バスルームの仕切りをあけて入ると、須磨子はシャワーを浴びていた。  須磨子は着やせするたちらしい。着物やドレスを着ている時はほっそりみえるが、こうして裸身をみると案外、肉づきのいい長身で、臀部《でんぶ》や太腿はボリュームをもちながら、全体としてはすらっと、すっきりしていた。  背中の線がとくにきれいだった。  これは背の高い女が一番、得をするところである。  秋津が傍にゆくと、 「わあ、びっくりしたわ」  振りかえった須磨子に、 「素晴らしい身体を拝まない手はないでしょう」  須磨子はもう恥ずかしがらずに、一緒にシャワーを浴び、そうして一緒にバスタブにつかった。  浴室の須磨子は、裸のミモザ夫人という名がぴったりだった。湯気で肌がほんのりとうるみ、乳房の実りも豊かで、乳首が苺のように赤く色づいてツンと、尖り立っている。 「そろそろ、白状なさったら、いかが。仮面貴族のママに頼まれて、私を誘惑なさったんじゃありませんの?」 「いいえ、ぼくはあなたが眩しかった。どうしても近づきたかった。今日のパーティで出会った時、これは絶対のチャンスだと信じて、それで……声をかけたんです」 「仮面貴族のママが、パーティ会場から消える私たちを、じいーっと見ていましたわ」 「気になりますか?」 「いいえ、ちっとも。私ね、今、空き家なの。正直のところ、殿方が欲しいって、ママにいつか打ち明けたことがあるのよ。そうしたら美由季ママったら、そのうちあなたにぴったり合う男性を探しておくわ——っておっしゃってたもの」 「彼女とは高校時代の同窓生なんです。腹の中がわかりあった同士ですから、パーティ会場から消えたぼくたちに気づいたとしても、きっと喜んでくれてるでしょう」  と、秋津は言ったが、 (そうだろうか? 美由季は喜んでいるだろうか?)  秋津はそうして首を振った。 (いや、そんなことはない。嫉妬しているに違いない。少なくとも姉の綾香には、必ず告げ口をするだろう……)  としたところで、それもこれも、たかが浮世のこと、たいしたことではないさ、と秋津は気だるく考えた。  秋津には、若い癖に、そういう世捨て人のようなところがあった。  言い方を換えれば、人生は一度しかないのだから、自分の好きなように生きて、楽しまなくては損だという、享楽主義者みたいなところがあった。  現実問題、秋津は独身なので、誰にも縛《しば》られない。今、一番大切なことは、このミモザ夫人と最高に充実した時間をもつことである。  秋津は、湯の中で肩が触れあっている須磨子を抱いて、キスを見舞った。秋津の下半身は雄渾にみなぎっていたので、須磨子の身体に触れそうであり、キスぐらいで我慢しているのが、息苦しいくらいであった。  秋津は抱擁を解いて、立ちあがった。  これ以上はない、というくらいに力をみなぎらせた秋津自身が、仰角《ぎようかく》にまっすぐ、ミモザ夫人のほうをむいた。  威風堂々と鍛《きた》えあげた豪根が、恥ずかしくない形状をとっている姿を女性にみせる時、男はばかに凜々とした気持ちになるものである。  ミモザ夫人は一瞬、まぶしそうな表情をみせた。顔をそむけるか、恥ずかしそうに面を伏せるか、あるいは軽蔑したような表情を作って嫌悪感を示すかの、いずれかだろうと思った。  だが、ミモザ夫人はかろうじて踏みとどまった。そのいずれの表情でもなく、じいーっと眩しそうな視線をそこにあてがったまま、やがて、浴槽の中に卒倒しそうになった。 「私にそれをみせて、自慢なさりたいみたいね。いいわ、そういうふしだらな男性には、あとでしっかりと思い知らせてあげますから」    4  ミモザ夫人は、先に風呂からあがった。  後ろで束ねていた髪を解くと、結構、長いワンレングスで、白い背中に散りかかっている。その髪を堂々とヒップに振りなびかせる、といったモンローウォークで、浴室から消えた。  少し遅れて秋津があがると、ミモザ夫人はもうベッドに入っていて、掛布をかけ、眼を閉じていた。  眼は閉じているが、心臓が激しく鼓動を打っているようで、掛布の胸のあたりがあやしく波打っていた。  枕許の灯を絞ったスタンドの灯《あ》かりに、寝顔が美しい。秋津はたまらなくなって掛布をはぎ、一気におおいかぶさった。  ミモザ夫人は掛布の下は、一糸もまとってはいなかった。秋津はその身体を押しいただくような姿勢で、乳房に取りつき、乳首を唇に含んだ。 「あン……」  と、少女のようにかわいい、絹糸のような声がこぼれた。  ミモザ夫人の乳房は、円錐形に盛りあがり、年を感じさせない。乳輪は淡い花紅色。その乳輪には白いぶつぶつがいっぱいあって、興奮してくると、そこから香水のムスクか、麝香《じやこう》そのもののような匂いを放ってくるのだった。  きゅっと尖った乳首を吸い、掌で乳房全体をゆっくりと下から上に圧しあげると、ミモザ夫人はたちまち感興を催し、たかまってくるようだった。 「すてきよ……秋津さん、すてき」  ミモザ夫人は顔をのけぞらせ、女の店ではきいたことのないような、赤裸々な声で呻く。  秋津は乳房をかまいながら、右手を下腹部から秘裂のほうにまわした。柔らかい、薄目のヘアの下のクレバスは、風呂あがりで熱くほてって、うるんでいた。両側に並びたつ畝《うね》のような花びらはわりと薄目で固締まりで、微妙なフリルの味わいをみせてくれる。  谷間の上部に潜む突起物を二指の間にはさみ、フードをむき、せりださせながらはさんで押したり、撫でたり、露頭部にバイブレーションをあたえたりした。 「あっ……いけません……それ、それって響きすぎるわ」  ミモザ夫人は、はっきりと自分の状態を表現した。 「困っちゃう……困っちゃう……お指のあたる角度が、とてもよくてよ」  ミモザ夫人は、乳首を男に含まれたまま、女の熱帯の秘核に秘術を尽くしたバイブレーションを受けて、たちまち全身を硬直させ、鳥のような声をあげて軽くイッてしまった。 「ああん……私ったら……恥ずかしいわ」  ぐったりして、うつ伏せになって顔を隠そうとするところを反対に、仰向けに戻し、まだまだこれから……というふうに、秋津は全身に唇の巡礼をほどこしてゆくことにした。  秋津は乳房から白い腹部のほうへと、ゆっくり唇を移してゆく。ミモザ夫人の肌は、白磁のように輝き、すべすべしながらもねっとりしている。ふっくらとした息づく腹部に舌を這わせながら、秋津はミモザ夫人の茂みのほうへ、ゆるゆると巡礼のポイントを移していった。  ミモザ夫人の恥丘のたたずまいは、小高くて、きわめて上品だ。ヘアはすでに見たように漆黒多毛というよりは、うっすらと煙がたなびいたような柔らかい繊毛《せんもう》である。女芯も黒ずんだ厚肉がぱっくり割れたというより、桜色のとても美しくて薄い唇が恥ずかしげに二枚、身を寄せるように合わさっていて、舌で開くと恥ずかしげに左右に、ぬっちゃりと開く、といった按配《あんばい》であった。  内陰唇だけ形容すると、それはまさに桜の花弁が二枚、ふんわりと合わさったようである。  でもその中央から、とろり、ぬっちゃりと、銀色の愛液のしずくが、はみだしている。  秋津は、その流れの中に舌を浸した。  肉びらを少しこじあけて、とろり、ぬっちゃりと、舌先を中に捻じこんだ。 「あん……」  ミモザ夫人の腰が震えて、ひくついた。  熟れた果肉をスプーンですくうような具合に、舌で蜜をすくって、上部の真珠に塗りつける。 「ああ……ああ……ああ」  何度もペイントするたび、真珠はてらてらと光りだし、ミモザ夫人の腰がゆらめきだし、迎え腰を作った。 「あーッ、もうおやめになって。いじめないで、奥にいただきたいわ」  ミモザ夫人は、かなり切迫した願望を口にした。  ミモザ夫人のありさまがかなり切羽詰《せつぱつ》まってきたので、秋津はとりあえず正常位でフォールに持ち込むことにした。  ミモザ夫人の谷間は蜜液で潤っていたので、通路はなめらかだった。  男性自身の冠頭部をひたし、それからぐぐーっと奥へ押し込むと、根元までずぼっとはいり込み、それから出口がやんわりと閉められてきて、ぬっちゃりと出し入れされる感じになった。  ミモザ夫人はたえず、「うっ」とか、「わっ」とか、「ああー」という声をあげた。 「あっ、そこ。そういうふうには、なさらないで」  秋津が斜めから捻《ひね》り込むような抽送をつづけると、 「あッ……あッ……それ……それって、変なところにあたって感じすぎます。須磨子、変になりそう」  ミモザ夫人は、たえまなく荒ぶった声をあげ、泡を吹いたような言葉を撒《ま》き散らした。  女性はだいたい、自分の感じる回路の幾つかを深く記憶しているものだ。しかし長い間、充たされていないとそれを思いだすこともなく、意識の表層には甦《よみがえ》ってこない。そこにある日、突然、待ちわびた異性の侵入を受けると、忘れていた回路を思いだしつつ、とくに斜めに穿《うが》たれる時の、めったにあたらない場所への直撃を受けると、まさに「痒《かゆ》いところに手が届く」感じになって、押さえようもない欣《よろこ》びにむせび泣くのである。  今のミモザ夫人が、そういう感じであった。  自分では制御できない官能の震えに、泣きわめいて、自分を掠《さら》った嵐に目茶苦茶に揉み込まれているような感じであった。  秋津は、深く預け入れてうごめかせながら、ミモザ夫人の耳許で囁《ささや》いた。 「ミモザ夫人って、すてきですよ。空き家にしておくのは、もったいない。これからも時々、訪問しますからね」 「ええ……いらっしゃい……うれしいわ……一回こっきりなんて、あたくしもいや。今度は、雪ノ下の私のお店で抱いて……二階にすてきな部屋を用意しているから」  秋津は侵入角度をかえながら、ダイナミックなストロークで動いた。傍ら、両手をミモザ夫人の臀部にまわして、豊かな白い尻をむぎゅっと掴みながら、愛液まみれのすべり込みを重ねた。  ミモザ夫人の女芯は、あふれていながら、時折、ひくひくと閉じたり締まったりして、掴みにやってきた。  その回数が、頻繁《ひんぱん》になった。 「あっ……あっ……あっ……」  と、絹糸のように細い高まりの声をあげつづけている。  秋津は仕上げにかかった。抽送しながら、桜色の美しい乳房の頂点の実に唇を被《かぶ》せ、吸いながら、あやし、タフボーイで深奥を突きまくった。  ミモザ夫人は、もう声も出なかった。  子宮をぐぐーっとおろしてきて、秋津の先端に密着させ、二度、三度、とどろきの声を放ったのであった。  ——その夜、秋津とミモザ夫人は、都合三回も交わった。眠りについたのは、もう深夜である。眠りにつく直前、そういえば夏宮綾香からは最近、電話がはいらないが、どうしているんだろう、と綾香のことがふっと、秋津の頭をかすめた。    5  夏宮綾香は、不安な日々を送っていた。  不安の原因は、わかっていた。外泊の多い夫、聡太郎の不倫の心配であり、夏宮病院が脅迫されていることであり、そうして何より、先日、浄智寺の境内の崖下洞窟の奥で発見した女の死体の上にばらまかれていた自分の交接写真のことであった。  土曜日のその朝、綾香が裏庭で洗濯物を干していると、 「ごめんくださーい」  と、表のほうで男の声がした。 「はーい」  と返事をして綾香が出てゆくと、玄関の前に二人の男が立っていた。 「夏宮病院の院長夫人、綾香さんでいらっしゃいますね?」 「そうですが」 「私たち、こういう者です。ちょっと失礼いたします」  黒っぽい地味な背広を着た中年男が、黒い警察手帳をみせ、そうしてその中から名刺を一枚とりだして、綾香に差しだした。  目を落とすと、それには、  神奈川県警鎌倉西警察署  警部 片岡繁信  と、あった。  綾香の心臓は、急に早鐘《はやがね》を打った。 (やっぱり来たんだわ……! あのことで刑事さんたちが来たんだわ……!)  自分は殺人容疑者にされるのではないか、と綾香の心臓は躍りだしそうになっていた。 「あの……警察のかたがどういうご用件でしょうか?」  それでも精一杯、平静を装って訊くと、 「ご主人は、ご在宅でしょうか?」  片岡という警部は意外に、のんびりした声であった。 「今日は世田谷の分院のほうに行っておりますが」 「ああ、そうですか。じゃ、奥様にお伺いすることにしましょう。お時間、かまいませんか?」 「はあ、何でございましょうか?」 「奥様は六月二十三日の午後一時頃、山内の浄智寺に参詣なさいましたか?」 (ああ……やっぱり、あのことだわ……!)  綾香は、目の前がまっ暗になりそうな思いに耐えながら、 「参りました。紫陽花《あじさい》を見がてら、親戚のお墓に供え物を持って参詣しました」 「それは、奥様お一人でお行きになったわけですか? それとも、誰かと待ち合わせか何か……?」 「いいえ、一人でした、雨も降っておりましたし、誰とも待ち合わせてはいません」  綾香がすらすらとそう答えると、片岡警部の顔に困ったな、という困惑の表情が浮かび、そうしてその眼がしだいに険《けわ》しくなった。  それは、あの日の真相を素直に述べる分には事件の捜査や処理を穏便に済ませる方法を考慮してもやるが、もし隠しだてをしたり、虚偽の申し立てをしたりすると、ただではおかないぞ、という脅しのまじった、衣の下の鎧《よろい》が見え隠れするような険しい眼であった。 「実はですな。昨日、浄智寺境内の奥にある〈井の洞〉と呼ばれる小洞窟から、女性の死体が発見されましてね——」  ドスをきかせた声で、片岡警部がいきなりそこまで言った時、キッチンのほうでカタン、と何かの落ちる物音がした。  ばあやの梅崎が聞き耳でも、たてていたのかもしれない。  綾香はあわてて、 「あのう……どういうご用件かは存じませんが、混み入ったお話なら、どうぞ応接間へお通り下さい」  二人の刑事を応接間に通した。  テーブルをはさんでソファに坐った片岡警部は、油断のない眼を走らせながら、先刻の話のつづきを容赦ない口調で述べた。 「その女性の死因は、刺殺でした。たまたま、洞窟にはいって死体を発見した物好きな見学者の通報により、私たちはその死体を検分しました。所持品のバッグに入っていた名刺や定期券などにより、被害者は東京の銀座に葵ギャラリーという画廊を開く篠山信子さん、と判明しました。——奥さんはこの篠山信子という女性を、ご存知ありませんか?」 「さあ、存じあげませんが」  精一杯、すっとぼけてみる。 「住所は、東京都世田谷区桜丘二丁目のマンションです。夏宮病院の東京世田谷分院のすぐ近くです。……と、こう言っても、まだ思い出しませんか?」 「さあ……そうおっしゃられましても……」  あくまで知らぬ、存ぜぬ、で押し通そうとしている綾香の顔をじいーッと、穴のあくほど見つめていた片岡警部が、ふいっとその眼をはずすと、尋問《じんもん》の作戦を変更した。  片岡は右手を背広のポケットに突っこんだかと思うと、小さな茶封筒を取りだし、それを傾けて卓上にパラパラパラッ……と、数枚の写真の断片をばらまいたのであった。  ひと目見た瞬間、あっと綾香は悲鳴をあげそうになった。 「これなら……見憶えがありますね?」  まっすぐ見つめて、片岡が聞いた。  綾香はどきどきしはじめた心臓の鼓動を押さえながら、覗き込み、つとめて平静に答えた。 「何でしょうね、これ」 「ご覧のとおり、写真です。それをビリビリと数十枚の細片に引き裂いたものです。おわかりになりませんか?」 「まあ……」  写真をよく見て、初めて気づいた、というふうに、綾香は声をのみ、顔を赤らめた。 「そうです。これは、奥さんの顔が写った写真です。そうしてこれは、ただの盗撮写真ではありません……」  言いながら片岡の右手が、卓上に散らばったコマ切れの写真を、ジグソーパズルを組み立てるように、一枚の構図に組み立てていった。  ものの二、三分もしないうち、そこに、一枚の絵ができあがった。男と女の交接写真であった。縁側をあけはなった書院作りの座敷の青畳の上で、全裸で抱きあっている綾香と秋津則文の交わりの写真構図が、ハッキリと完成したのであった。  恍惚とした女の顔——つまり、綾香自身の顔もよく写っている。 「失礼。……奥様があまりシラを切られるようでしたので、大変申し訳ありませんが、これをご覧に入れました。このコマ切れ写真の数々は、紙《かみ》吹雪《ふぶき》のように篠山信子の死体の上に散らばっていたのです。それでも奥様はまだ、篠山信子を知らぬ存ぜぬ、とおっしゃいますか?」  綾香は、ぐっと詰まった。  沈黙して、膝の上で組んだ手を、わなわなとふるわせた。 「え、おっしゃって下さい。あの日、奥さんは浄智寺に行きましたね? そうして、篠山信子という被害者と会いましたね? それは何ですか、約束だったのですか、呼びだされたのですか?」  片岡警部は、畳みかけるように訊いた。 「いいえ、約束なんかじゃありません。篠山信子となんかは、会っていません!」  綾香は不意に、叫ぶように言った。 「ほう、被害者とは会ってらっしゃらない。それなのに、被害者の死体の上に奥さんの秘密写真がいっぱいばら撒かれていた。これは、どういうことでしょうね?」  片岡は、ねちねちと言った。  綾香は再び沈黙した。  あの日の真相を言うべきかどうかを今、胸のうちで、必死で考えていた。 「われわれの捜査によりますと、被害者、篠山信子さんは以前、夏宮病院の入院患者だったそうですね。ご主人が世田谷分院をお作りになって週のうち半分を東京でお暮らしになって以来、東京のほうで……何といいますか……つまり、愛人関係に発展したそうですね。それで奥さんと篠山信子さんの間が険悪な様子になることは、誰でも容易に想像できることです。われわれが見るところ、あの日、奥さんは紫陽花を見に鎌倉を訪れた篠山信子を浄智寺の境内に呼びだし、何かの口実を設けてあの狭い洞窟に誘い込み、隠し持っていた果物ナイフで被害者の胸をひと突きにした、というふうに考えますが、いかがでしょうか?」  片岡警部はきわめて冷静に、理路整然とそう述べた。 「違います……!」  綾香は思わず、叫んでいた。「違います! そうではありません! 私は篠山信子なんかを呼びだしてはいません!」 「ほう。呼び出したのではない。すると何ですか……篠山信子さんのほうから、奥さんを紫陽花寺に呼びだしたのですか?」 「いいえ、それも違います。そうじゃない、そうじゃない! 私を呼びだしたのは……私を呼びだしたのは……」 「奥さんを呼びだしたのは、誰なんです? 誰かに奥さんは呼びだされたんですね? あの写真を脅迫材料か何かに使われて、呼びだされたんでしょう? ……え?」  片岡警部は重ねて、押し被せるように訊いた。  綾香は三度、沈黙しながらも、追いつめられたことを感じて、肩で喘いだ。 「……ねえ、奥さん、真実をおっしゃって下さい。われわれは何も、奥さんを真犯人だと断定しているのではない。しかし、奥さんが片意地をはって虚偽の申し立てをなさるようですと、重大な決意がある。われわれは今すぐにでも、裏に待たせている車で、奥さんを重要参考人として任意同行の処置を取りますよ。物的証拠さえもある。逮捕するかもしれない。え、どうなんです!」  取調室でもない、一般市民の応接室なのに、最後には軽くテーブルを叩いたその声には、ドスのきいた充分に脅しの効果があった。  綾香は、真実を申し述べる時が来た、と観念した。  病院事務員、大原憲司が轢き逃げされて以来のこの数週間、得体の知れない人間から、 「病院の秘密を知っているぞ。ばらされたくなかったら、三億円の金をだせ」  と脅迫されていたことや、不倫相手の湘南台大学講師の秋津則文とその事件を調べがてら、情事にのめりこんでいると、その情事の写真を盗撮された交接写真を鎌倉駅頭でばら撒かれたくなかったら、受け取りに来い、という電話がかかって、午後一時に浄智寺の山門に行き、そこで伝言をきいて墓地奥のあの崖下にゆき、「井の洞」に入ったことなどを、詳しく話した。 「……嘘は言いません。その洞窟の奥で、私はあの死体に躓《つまず》いたのです。それが、すべてです。ですから、私はあの洞窟にはいるまで、篠山信子が鎌倉に来ていることも知りませんでしたし、彼女が死体となって転がっていようなどとは、夢想だにしませんでした。私は誰かに……誰かに陥し入れられようとしているんです……!」  綾香はつとめて感情を押さえて、一気にそこまで喋った。 「それならどうしてすぐ、警察に通報しなかったのですか」 「自分が疑われると思ったからです」 「しかし、被害者の胸の上に、どうしてあんなに奥さんたちの秘密の写真が、破り捨てられていたんでしょうね」 「そんなこと、私にわかるはず、ないでしょう! それは刑事さんたちが早く犯人を掴まえて、調べることです。だいいち、七里ケ浜の大原憲司君の轢き逃げ事件の犯人は、どうなさったのです? まだ掴まらないんですか? すべては、あそこから始まっているんですよ!」  途中から反撃に転じた綾香の剣幕に、片岡警部たちは今度は、逆な立場になった。七里ケ浜の轢き逃げ事件と、浄智寺の殺人事件の担当者は違っても、「警察」の共同責任であることは免れない。 「わかりました。参考になる話を色々、ありがとうございました。今日のところはわれわれもこれで引きあげます。もちろん、七里ケ浜の轢き逃げ事件も、浄智寺の殺人事件も、われわれは全力をあげて捜査をいたします。また、何かありましたら、お話をお伺いしにお邪魔しますので、よろしくお願いします」  片岡警部たちは、最後は恭《うやうや》しく一礼して、引きあげていった。  しかし、それで警察が全面的に、綾香への疑いを解いたかといえば、そうではないような気がした。  綾香は、複雑な事件の黒い霧の中に巻き込まれていく自分を感じて、扇ケ谷の屋敷の庭先に立ったまま、深い溜息をついた。    6  秋津則文の座っている席の前方に、広く切られた硝子《ガラス》窓があり、その外に、初夏の柔らかい陽射しが明るく光っていた。  若宮大路には、今日も若い女の子たちが、群れ流れている。 「……そういうわけなの。則文さんのところにはまだ、警察の人、事情を訊きに訪れてはいないの?」  夏宮綾香の質問に、ふっと我にかえった秋津は、「いいえ、今のところは来ていません、そのうち、来るでしょうけどね。——それにしても、そんな殺人事件までが起きていたなんて知らなかったなあ。冷たいですよ。教えてくれないなんて」 「早く知らせなければ、と思ったんだけど、私、恐くって誰にも会わずにこの数日、家に閉じこもっていたのよ。ねえ、事件のこういう展開、どう考えればいいの?」 「院長の愛人の死……か。まったく本筋とは関係ないような、びっくりする出来事ですね」  秋津はそう言いながら、コーヒー茶碗を掻きまわし、ひとくち飲んだ。 「ねえ、私……これから、どうすればいい?」 「そうですね。綾香さんが脅迫者に呼びだされて行った場所で、殺人事件が発生しているということは、その脅迫者が殺人事件に何らかの形で関与している、と、思われます。あなたに罪を被せるためにやったとすれば、その男こそまさに、真犯人かもしれない。当面、そいつの出方を注目しながら、静観するのが一番、いい道かもしれませんね」 「でも、その脅迫者ったら、この数日、鳴りをひそめているのよ。また、電話をしてくるかしら?」 「してくると思いますね。その時は、ぜひぼくに知らせて下さい。それからあと一つ——ご主人の様子は、いかがですか?」 「篠山信子が亡くなったせいか、最近はわりあい真面目に、家に帰ってきてるわ」 「お二人の間で事件のことは、話しあったりはなさらないんですか?」 「病院が脅迫されていることについて、なぜなのかと私から尋ねても、自分もわからない、といって確たる答えはないわ。最近はほとんど、うるさい、仕事が忙しい、というばかりで、夫婦らしい会話もないのよ」 「警察がご主人に尋問したような形跡は……?」 「今のところないようね。いずれ、篠山信子との愛人関係について、突っ込んでくるでしょうけどね」 「いずれにしろ、ご主人の様子にも注意を払っておいて下さい。あなたは加害者どころか、被害者なのだから、ともかくじたばたしないで、気持ちを落着けて、脅迫者の次の出方を待つこと。ご主人の動きにも注意を怠《おこた》らないこと。そうして何か危険があったら、警察か、ぼくのところにすぐに知らせて下さい」 「わかったわ。そうします」  綾香は憂《うれ》いのある睫毛《まつげ》を伏せて、ふっと不安そうな瞳を、窓の外にむけた。  明るい紫陽花のワンピースを着た綾香の、その憂いのある風情のすべてが、どこやら銀色の霧雨に濡れ打たれる紫陽花のようだ、と秋津は思った。  綾香が紫陽花なら、「ミモザの館」の円山須磨子はさしずめ、ミモザの花か、麻薬をつくる罌粟《けし》の花だろうか。  寄る辺ない心の巡礼者を自認する秋津則文は今、不幸を抱えて悩んでいる一人の人妻の前に坐って、午後のコーヒーを飲みながら、しかし不逞《ふてい》にも心の中ではまったく別の、もう一人の女の妖《あや》しい肢体を思いだしたりしながら、それぞれ立場は違うが、熟女たちはみんな熱い戦争をしているようだ、などと勝手な感想を抱いたりしていた。 第五章 狙われた女    1  眼が覚めた時、おや、と思った。  夏宮綾香は下腹部の奥に、微《かす》かな異常を感じたのである。  強《し》いていえば、それは女芯の奥から生ぬるい体液が流れだすような感じであった。 (変だわ。どうしたのかしら……?)  綾香は重い頭を励まして、起きあがった。すると、だらしないことに、花柄のワンピースを着たまま、自分が布団の上に倒れ込むようにして俯《うつぶ》せに寝ていたことに、綾香は気づいた。  あらっと思ったのは、そのことだけではない。起きあがったはずみに、再び膣《ちつ》の奥からどろりとする液体が流れだす感じを覚え、その感触が何であるかに今度ははっきりと気づかされた驚きであった。  寝室には、綾香一人で寝ていた。  夫の聡太郎は、帰宅してはいなかった。  それなのに、身体の奥に伝わるこの感触は、どうしたのだろう。  夏宮綾香はゆうべ、自分が深酔いをして扇ケ谷の家に帰宅し、前後不覚になって、服のまま布団の上に倒れこんだらしいことを、思いだした。 (でも、まさか……?)  夏宮綾香は、部屋の隅に置いている鎌倉彫りの鏡台のところまで這《は》ってゆき、自分の顔を鏡に映した。寝乱れた髪と、化粧を落とさないままのみっともない寝不足の顔が、三面鏡に映った。  そうして動いたはずみに、太腿の奥に、再び、生ぬるいものが流れだした感じがしたので、綾香はあわててティッシュを取った。どろりとしたものを拭こうとして、ワンピースの裾をあげてみて、あっと驚いた。  なんと自分が、パンティさえもはいていないことを発見したのである。  びっくりして、まわりを見回した。バッグやブローチや腕輪が、ところかまわず散乱していた。それなのに不思議なことに、下着だけはどこにも落ちてはいなかった。  パンティをはいていないということは、女性として身につけていた最後のものを、どこかで取ってしまったということである。  下着をなぜ脱いだのか。  考えるまでもなかった。  男と交渉をもったということである。  それが、夫の聡太郎とか恋人の秋津則文なら、納得ができるし、問題はない。しかし、綾香にはその相手の男の記憶が、まるでないのだった。 (もしかしたら、私は誰かに犯されたのだろうか……?)  それさえも記憶にないので、はなはだ困った事態であった。その朝、綾香の記憶に断片的に残っていることは、妹が経営している小町通りのピアノバー〈仮面貴族〉や若宮大路のカラオケスナックを二、三軒、ハシゴをし、最後に由比ケ浜の「渚《なぎさ》」という店に立ち寄ったことまでであり、その先の記憶がプッツンと、途切れてしまっているのである。 (いけない、いけない。私は、とんでもないことをしてしまったのかもしれない……!)  夏宮綾香は、不意に、故しれぬ恐怖に駆られた。  日常生活の中で、何が一番恐いかといえば、自分の記憶が、失なわれることである。たとえ僅《わず》かの時間でも、記憶の陥没、欠落個所ができて、ゆうべ自分が何をしたのかをまったく憶えていない、ということに朝になって気づいた時、人間はたいてい大層な不安に陥し入れられる。  その記憶の回路の途切れた区間の中で、自分は人殺しをしたかもしれない。  どこかの店のものを、盗んできたかもしれない。あるいは人様には言えないような、ふしだらなことをしたかもしれない。  前夜、深酒をしてプッツンになり、朝、眼がさめてゆうべのことをまったく憶えていない時、寝床の中でまっ先に考えるのは、そういう自分の失態に対する不安や惧《おそ》れである。  しかも綾香の場合は、体奥から生ぬるいものが流れだしたり、パンティをはいていなかったりの、明らかな失態の痕跡が歴然と残っているのであった。 (いけない、いけない。こんなことを大病院の院長夫人ともあろうものが、やってはいけない。早くしっかりしなくっちゃ!)  綾香は朦朧《もうろう》とした頭を振って気分を引きたて、しゃっきりさせるために、急いで化粧室に入って顔を洗った。ブラシを取りあげて勢いよくブラッシングをし、肌に冷めたい化粧ローションを塗りはじめた。  日曜日の家の中は、静かだった。  自分の部屋に戻ろうとした時、台所でばあやの梅崎が洗いものをしているのに気づいた。 「ばあや、ゆうべ私、何時頃帰ってきたか憶えてる?」 「さあ、夜中でしたから、私もはっきりとは憶えていませんでしたが、一時か二時頃だったでしょうか。表に車の止まる音がして、門扉《もんぴ》がひらく音がきこえましたから、ああ、お嬢さんがお帰りになったんだな、と思いました」 「車の音……? 誰かに送ってもらったのかしら? それともタクシーだったのかしら?」 「さあ……私は寝ておりましたからよくわかりませんが……おやすみ、という男の人の声が微かに聞こえましたから、タクシーではなかったのではないでしょうか?」 「おやすみ、という男の声……? じゃ、それは誰だったのかしら?」 「お嬢さんは憶えてらっしゃらないのですか」 「ええ、恥ずかしいけど、深酒をしてプッツンなの……」 「まあ、呆れたひと。いけませんねえ、そういうお酒の飲みようは。万一、危ないことに巻きこまれたら、どうなさいますか」  梅崎に叱られて、自分の部屋に戻った。  カーテンをあけて、もう高くなった朝の陽射しを部屋に取り入れた時、三面鏡の台に置いたコードレス電話が鳴りだした。  綾香は、その電話を取った。    2 「あ……奥様ですか?」  受話器から若い女の声が響いた。 「そうですが」 「私、遠山です。遠山絹江です」 「あら、遠山さん。しばらくね」  遠山絹江というのは、以前、夏宮病院に勤めていた看護婦だった。三十歳ぐらいの、ほっそりとした色白の美人看護婦だったが、今年の春先、家の事情で勤務先を代わりたい、と言って、夏宮病院をやめたのだった。 「……それで、何かご用?」 「私、奥様にお詫《わ》びしなければなりません」  遠山絹江はいきなり、妙なことを言った。 「藪《やぶ》から棒に、何を言うの?」 「先生が……先生がゆうべ、私のお部屋で暴漢に襲われてお怪我をなさったんです。それで私……私……お知らせしなくっちゃ……と思って……」  綾香は一瞬、意味がわからなくて、 「先生って一体、誰のこと?」 「院長先生です」 「主人の聡太郎があなたの部屋に、泊まったというの?」 「は……はい。申し訳ありません。もうだいぶ前から院長先生は私のところにも……」  それでやっと、意味が少しはわかった。  でもそれは、とても意外なことだった。以前には噂があったが、聡太郎は最近でも自分の病院の看護婦に手をつけて、愛人にしていたのだろうか。  遠山絹江が夏宮病院をやめたのは、そのためだったのだろうか。しかも聡太郎がゆうべ、絹江の部屋で暴漢に襲われたというのは、一体、どういうことだろう。  綾香は驚きながらも、つとめて平静に、 「それで、夫の容態はどうなの?」 「はい。応急手当てをして、休んでいただいていますが、おなかを三ヵ所ほど刺されてらっしゃって……」 「生命には、別条ないのね?」 「はい。先生はご自分で診て、二、三日の安静が必要だな、とおっしゃっています」 「病院に運ばなくていいの?」 「院長が救急車で入院するのはみっともないので、もう少し様子を見てみよう、と先生は言ってらっしゃいます。でも、私の判断では、腹膜炎を併発《へいはつ》したり、輸血の必要が起きたりすると危ないので、救急車を呼んだほうがいいと思うんですが……」 「いいわ、私が言いきかせます。あなたのマンションを教えてちょうだい」  綾香は絹江のマンションの所在地を聞いた。  絹江は材木座の海を見おろす場所に建っている有名な、シーサイドマンションの六階に住んでいた。 「じゃ、三十分以内に行きます。主人はそれまで、動かさないで」  綾香は受話器を置くと、すぐに外出支度に取りかかり、車で家を出た。    3  外はよく晴れていたが、綾香の気持ちは晴れなかった。身辺に起きるあらゆることの脈絡がもつれ、心は千々《ちぢ》に乱れて、晴天どころかどしゃ降り気分だった。  ゆうべ、自分の一身上に起きたことさえわからず、もてあまし動揺していたところへ、今また夫の負傷受難の知らせを聞いたのである。いったい、私の身辺、どうなってるんでしょう、と綾香は扇ケ谷から材木座へ、若宮大路を車で走っていても、心が定まらない状態であった。  遠山絹江のマンションは、すぐにわかった。もう葉山に近いところの、海に面して建っている壮麗なリゾートマンションで、ふつうの看護婦が購入できるようなマンションではない。仮に賃貸であっても、やはり聡太郎が資金をだして調えたものだということが、ひと目でわかった。  さいわい、聡太郎の負傷は、絹江が心配したほどのものではなく、彼は思ったより元気だった。 「相当な見物《みもの》になるわね、これは」  夫の顔を見るなり、綾香はいきなり言った。 「夏宮病院の院長が、救急車で夏宮病院に担ぎ込まれる。お笑い草よ」  精一杯の皮肉を言いながら、綾香はでも、不意に涙がこぼれそうになった。  聡太郎を愛しているとか、いないとかではない。いつぞやの桜丘につづいて、聡太郎に手ひどく裏切られている現実を、今また、目のあたりに見せられたからでもない。  裏切りといえば、自分もずっと彼を裏切りつづけている。ゆうべもまた、そうである。そうして、それでいて二人はまだ夫婦である。  そういうありようをする自分たちの救いのなさへの、言いようのない不覚の涙だったのかもしれない。 「いやなことを言うな」  聡太郎は、蒼い顔をして天井をむいた。 「だって、このままでは、どうにもならないでしょう。外科医長にでも来てもらったの?」 「いや、自分で診《み》た」 「自分で診たとおっしゃっても、医者が自分を診たてることほど、危ないものはない、と言うわ。紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》と言うでしょ。あなたがいやがっても、救急車を呼びますからね」  看護婦の絹江は、小さくなっていた。  絹江によると、傷は三ヵ所であり、直腸に届くほどの深手ではなく、急所もはずれているが、止血剤と抗生物質の注射をしただけで、縫合《ほうごう》はまだしていないし、万一、輸血が必要な状態になると手遅れになるので、病院に運びたい、と訴えた。  綾香は、そうするしかない、と思った。 「それにしてもいったい、どういうことなの」  厳しい眼を絹江にむけると、 「申し訳ございません」  絹江は面を伏せ、外でお話いたします、と眼顔で合図した。  マンションの一階にコーヒー・ラウンジがあった。  二人は海の見える席に座り、綾香は絹江から事情を聞いた。  それによると、聡太郎が絹江に手をつけたのは、もう三年も前の当直の夜からだそうである。  絹江も聡太郎の不覊奔放《ふきほんぽう》さと名外科医の腕を尊敬して、好意を寄せていたので、彼の愛を受け入れ、いわゆる病院内の愛人関係になったようである。  しかし、それが人に知られるのが辛《つら》かったので、絹江は自主的に夏宮病院を辞めて、今年の春から葉山の公立病院に勤務先を変わっていたのだという。  それなら、聡太郎の愛人関係という意味では、世田谷の篠山信子との間より古かったことになるのではないか、と綾香は思った。  看護婦の愛人がいる、という以前から耳にしていた噂の女が、この遠山絹江だったのだろうか。 「それで、主人は扇ケ谷の家に帰らない晩、あなたのところにいつも、泊まったりしていたの?」 「いえ、お泊まりになるのは、時々でした……私はできるだけ、お帰しするようにしていたんですが」 「呆れたわね。主人は世田谷のほうにも愛人がいたのよ」  絹江は、俯いたきり、何も言わなかった。 「あなたを怒っても仕方がないことだものね。こういう場合、たいてい、男が悪いんだから。それより、主人が襲われたというのはいったい、どういう情況だったの?」  絹江は説明した。  それによると、彼女にもまったく意外な事件だったらしく、今でも一陣の黒い突風を見たような気持ちで、恐ろしさに慄《ふる》えているのだという。  ゆうべ十一時頃、寝室で二人でやすんでいる時、表のドア・チャイムが鳴った。絹江があわててパジャマを着てインターホンで応対に出ると、宅配便だという。  鍵をあけ、ドア・チェーンをはずして荷物を受けとろうとした時、デパートの小荷物のようなものを差し出しざま、ドアをあけて二人の男が押し入り、いきなり奥の寝室に駆け込んでいった。  絹江が悲鳴をあげているうちにも、寝室では争いになったようである。侵入者がナイフを構えて聡太郎に突っかかっており、聡太郎が何やら怒鳴りながら、避け、防戦しているところが垣間見えたので、絹江は大声で、 「誰か……! 誰か、助けてえ!」  そう叫びながら、廊下に飛びだした。 「人殺しイ……人殺しイ……!」  それが結果的には局面を救ったようである。  幾つかの部屋のドアがあき、侵入者はその声にあわてて、聡太郎に三刺しばかり与えただけであたふたと飛びだして、逃げていったというのであった。 「どんな男たちだったか、憶えている?」 「さあ、三十五歳前後の、若い二人組だったようですが、何しろ、ストッキングで覆面《ふくめん》をしていたものですから」 「その二人、何か言ってなかった?」 「あ……そういえば……」  絹江はいっとき、沈黙し、何かを思いだそうとしていた。 「そうそう……そういえば、�三星重工のトップの陰謀に加担しやがって……�とか、�思い知れッ�とか……言ってたようです。�名外科医のくせに、医者の良心はどうしたんだッ�とか……」  三星重工の陰謀……思い知れ……医者の良心はどうしたんだ……と頭の中で繰り返したが、綾香にはそのどれにも、思いあたるものはなかった。ただ、何とはなしに事件の背後に、復讐の匂いを感じて薄気味悪いものを感じた。 「あのう…それから……」  絹江が心配そうに言った。 「院長からは警察に届けるな、と言われているんですが、どう致しましょう?」 「聡太郎が、それを望んでいるのね」 「はい、治療は病院内で内聞に出来るので、届ける必要はないって」 「そう。じゃ、当分、そのままにしておきましょう。警察問題は、私のほうで考えます」  綾香はそう言って釘をさし、一瞬、放心したように、窓から海を眺めた。  海はお昼前の陽射しに輝き、ウインドサーファーの帆《ほ》が幾つも波をすべっている。 「あなた、葉山の病院のお仕事は?」 「今日は日曜日で、あしたは私の公休日です」 「じゃ、主人の看病、当分、あなたに頼むわね。救急車で運び込む間、あなた、つき添ってあげて」 (瀕死《ひんし》の重傷ならともかく、あれぐらいの傷で、夫を看病なんかしてやるものか)  綾香は心の中でそう毒づくことで、精一杯の抵抗をしていた。  綾香はそれから部屋に戻って、救急車の手配をすると、夫の枕許に立って尋問するような口調で言った。 「あなた、押し入ったという二人組には、憶えはないの?」 「あるはずないだろう。ああいう暴漢とは、住む世界が違う」  聡太郎は不機嫌そうに答えた。 「でも、よほど何か理由があるはずよ。あなたを殺そうとしたくらいですから、誰かに恨まれてるんじゃないの?」 「いやなことを言うな。私の身持ちは固いとはいえんから、どこかで女の恨みでも買ったのかもしれん。あるいは、この絹江のように私が手をつけた女の後ろにいた男が、それを根に持って恨むってこともあるじゃないか」 「犯人たちは三星重工のトップの陰謀とか、医者の良心はどうしたとか、そういうことを言ってたそうじゃないの。私にはわからないけど、何か難しい背景でもあるんじゃないの?」  綾香は畳みかけるように訊いた。しかし、聡太郎はにべもなく言った。 「三星重工云々なんか、私にもわかるはずないじゃないか。医者の良心とは、よく聞く言葉だ。医者は儲《もう》けすぎるとか、乱診乱療に傾きすぎている、という問題のたびに、それを問われる。大方は、世間のやっかみ半分の批判だがね。こっちが一生懸命、治療しても寿命には勝てないから、患者は生命を落とす時がある。そういう時、誤診をしたとか、処置の間違いをしたとか言って、逆恨《さかうら》みされることもある——ま、ゆうべの暴漢たちだって、大方、そういう連中だったかもしれないね」  聡太郎はベッドで眼を閉じたまま、不機嫌そうにそんなことを言った。 (そうかしら……? そういう問題かしら……?)  聡太郎は、自分が襲われたことの真相を知っていながら、隠しているのかもしれない、と綾香は思った。  綾香は、誤診や女性問題次元の犯罪では、ないような気がしてきた。  しかし、今の綾香には、いったい夫がなぜ襲われたか——まったくその理由が見当つかないのだった。  綾香は、最後に言った。 「難しいことは私にはわかりませんけど、祖父以来の夏宮病院の名前と品性を汚さないで下さい。そうでなくっても、大原君の轢き逃げや、篠山信子さん殺しなど、私たちの身辺にはおかしなことばかりつづいているんですからね。——いろいろ気をつけてくれなくっちゃ、困るわ」  そう言い残しながら、綾香は、その最後の言葉は自分自身にこそ言わなければならないことに、気づいてもいた。  遠くから救急車が走ってくるらしいサイレンの音が聞こえてきた時、あとの処置を遠山絹江に委せ、綾香はそのマンションを出ると、車に戻って小町通りの「仮面貴族」にむかった。    4  若宮大路の一つ裏通りの小町通りには、日曜日の人出が多かった。でもお昼前のピアノバー「仮面貴族」の表は、電光看板もイルミネーションも消えているので、寝呆けたようであり、ドアをあけてはいっても、中は薄暗くがらんとしていた。  意外にもママの美由季は、もう起きていた。バーライトのついたカウンターで洗い物をしていた美由季が、 「あら、お姉さん。こんなに早く、どうしたの?」 「ちょうど通りがかったので、寄ってみたのよ。ゆうべ私、何時頃ここを出たか憶えてる?」  綾香は、スツールに坐った。 「そうねえ。十一時頃だったかしら。十一時半頃だったかな」 「あら、そんなに早かったの。私はずい分、遅くまで飲んでたような気がするけど」 「それはここを出て、またどこかに引っかかってたからじゃないの。何しろ有隅《ありすみ》という男の人と、いい調子で酔っ払ってたんだもの」 「有隅……? どんな人だったかしら?」  綾香はタンブラーに勝手に水を注いで、ひとくち飲んだ。夫の負傷の知らせを聞いて以来、駆けずり回ってばかりいて、喉《のど》がからからだったのである。 「あら、憶えていないの? まあ、呆れた」  美由季が本当に、呆れたという顔をした。 「ねえ、教えてよ。有隅ってどんな人だったの」 「天野さんの知り合いだとかで、お姉さんが店に来る前からそこのスツールで、一人で飲んでたのよ。たまたま、お姉さんが来た時、隣が空いていたので、その空席にお姉さんは座った。お姉さん、すでに飲んでいたようだったけど、それから二人はたちまち、仲良くなっちゃって三十分後、一緒にここを出ていったのよ」  そう言われれば、まさにその通りだったような気がするが、綾香はその男のことを明瞭に思い出すことはできなかった。 「有隅という人のこと、天野さんに聞けばよくわかるかしら?」 「そうね。彼に聞けばわかると思うわよ」  天野佑吉というのは、闇金融で肥え太った鎌倉不動産の社長である。以前は綾香に熱をあげていたが、今のところ、美由季の隠れたスポンサーのようである。 「今日は日曜日だけど、天野さん、事務所にいるかしら?」 「いると思うわよ。事務所といっても、開成ビルは彼の住まいでもあるわけだから、ブザーを押せば五階の部屋にもつながるはずよ」 「じゃ、あとで行ってみるわ。——ところで美由季、コーヒーを一杯、淹《い》れてくれる?」  まだ頭が二日酔いで、ぼんやりしている。  濃いコーヒーでも飲んで、しゃっきりさせよう。 「いいわ。私もちょうど、飲みたかったところよ」  美由季がアルコールランプを準備しながら、 「でもどうして、そんなに有隅さんのことが気になるの?」  聞かれて綾香は、どきっとした。  まさか、朝、眼が醒めたら、自分がパンティをはいていなくて、身体の奥から男の体液が流れだしてきた……などと正直に言えるものではない。  綾香の心情としたら、自分の不行跡の相手さえもわからないでは、あまりにもふしだらすぎて、ひどすぎるので、相手の正体ぐらいは、この際、しっかり確かめておきたいのである。 「ちょっと、忘れ物を確かめたいと思ってね。送って貰《もら》う時、車の中にイヤリングを落としたような気がするのよ」 「あら、そう。それならいいけど、お姉さんにしては珍しく、後追いしていると思ったのよ。もしそれなら、よしなさい、と忠告しようと思ってね」 「どうして?」 「あまりいい印象の人じゃ、なかったもの」 「私が後追いなんか、するもんですか」 「そうよねえ。大病院の院長夫人ともあろうお姉さんが、あんなやくざっぽい男なんか、似合わないものね」 (そんなに悪い印象の男だったのだろうか?)  綾香の中で、いやな胸騒ぎがしだした時、 「ところで、お姉さん。秋津さんとは近頃、会ってないの?」  美由季がサイフォンからコーヒーを淹《い》れながら、訊いた。 「ええ。ちょっと私のほうが色々、取り込み中でね。お茶飲む時ぐらいしか会ってないわ」 「それでかしら」 「何か、あったの?」 「ゆうべは言いそびれたんだけど、秋津さんこの頃、ミモザ夫人とばかりデートしてるようよ」 「ミモザ夫人って、誰ァれ?」 「うちにも時々、お見えになる変に色っぽい女の人。ほら、そこの住宅街の中に〈ミモザの館〉という店があるでしょ。その下着ショップのママで、ランジェリー・デザイナーの円山須磨子という人よ」 「ふーん、そうなの。それでこの頃、冷めたくなったんだわ、則文って」  そうよ。ゆうべだって、秋津則文の家に電話をしたが、彼は留守で連絡がつかなかったことや、この数ヵ月のめまぐるしい身辺の変化や事件。そういったもろもろのことが原因で、ゆうべは家にじっとしていられず、友人がひらくスナックや、妹のところに飲みにきたりしたんだわ——。  綾香はようやく、ゆうべの自分の不行跡の心境を思いだしていた。  そうしてそれはいいのだが、有隅という男は、いったい何者だったんだろう。私の中で、その後の記憶がプッツンしているのは、もしかしたら、その有隅という男が、私に睡眠薬か何か変な薬を飲ませて、どこかに連れ込み、わるさをしたのではないだろうか。  ただの肉体交渉だけでも、女に薬を飲ませて征服するなど、卑怯《ひきよう》で卑劣なこととして怒るべきだが、その上、その有隅という男が、一連の事件に拘《かか》わりのある男で、何かの魂胆があって、自分に近づいたとするなら、もっと厄介《やつかい》なことになりそうな悪い予感がするのだった。 (そうだ。早くその有隅という男が、何者であるか確かめよう。場合によったら探しだして、ゆうべの情況を問い詰めなければならない……)  綾香はにわかに、急《せ》きたてられる心境で、 「美由季、ごちそうさま。おいくら?」  スツールから、立ち上がった。 「まあ、水臭い。コーヒーぐらい、奢《おご》るわよ」 「それじゃ、ご馳走になっておくわ。またね」  綾香は「仮面貴族」の黒いドアを押して外に出た時、それにしても秋津則文、ミモザ夫人と浮気しているなんて、許せないわ、と嫉妬の炎を燃やした。    5  同じ頃、秋津則文はミモザ夫人の部屋にいた。  その部屋は、恐ろしく官能的な部屋だった。「ミモザの館」の二階である。南側に窓のある女の寝室である。北側の壁に嵌《は》めこみの鏡があった。そこに、反対側においてある三面鏡が反射し、三面鏡の横の台に置いてある宝石の指輪やペンダントや、幾条もの真珠の首飾りの光が氾濫《はんらん》し、すべすべした贅沢《ぜいたく》な調度品には香料の匂いがしみつき、部屋じゅうにむっとする女の匂いがこもっていた。  秋津は今、日曜日の昼ひなかからシャワーを浴び、ミモザ夫人との情事になだれ込むために、鏡の前のソファに座って、濡《ぬ》れた髪をバスタオルでごしごし拭《ふ》いているところだ。  やがて、浴室のシャワーの音が熄《や》み、円山須磨子がこれも身体にバスタオルを巻いたままの恰好で、歩いてくる。 「あら、ワイン冷えてるのに、まだやってらっしゃらないの?」  秋津の横に座って長い脚を組み、卓上のワインクーラーに手を伸ばして、ボトルを取りあげる。 「さ、飲みましょうよ。喉が乾いたわ」 「モーゼルか。ぼくの好みだ、うれしいな」  二人はワイングラスに注ぎあって、日曜日の怠惰な昼酒を飲みはじめる。  須磨子は風呂上がりで化粧っ気を落としているが、それがかえって熟女のなまめかしさを引きたてている。張りのある大きな瞳と、肩に流れるような黒い髪が、とても表情豊かである。  二杯ぐらいたてつづけに干し、甘えるように、 「もっと」  須磨子が身体をもたせかけるように、秋津のほうに寄り添い、ワイングラスを差しだす。  秋津は注いでやった。ガラスの外側が結露するほどよく冷えたワイングラスを、指の間にはさんで渡す。  受け取った須磨子の白くて細いしなやかな指が、なまめかしかった。淡いピンクのマニキュアを塗った爪が、桜貝のような光沢を放っている。  鎌倉のカサノバ、と自分でも公言してはばからないほど、女体遍歴が生き甲斐の、湘南台大学東洋美術科講師の秋津則文は、須磨子の美しい指を追った。ワイングラスをはさんだ指のうちの一本を、そっと手にとって引き寄せ、口に含んで吸った。 「ああ! いい気分」  ミモザ夫人の首がのけぞる。 「目を閉じてごらん」  秋津は指を吸っていた唇をはなし、ワインを少し口に含み、須磨子のバスタオルを剥いて、乳房の頂点にそっと口づけをした。 「わあ、冷めたい」  乳房の頂点から胸の谷間へ、たらたらとワインのしずくがしたたってゆく。 「冷めたいけど、気持ちいい」 「これなら」  秋津は長い髪を指で傍らによけて掻き寄せ、白くのぞいた首すじにも、ワインのキスを見舞いつづけた。 「ああん……響くわ。首すじって、弱いのよ」  ますます首をのけぞらせる。  秋津はそうしてそんなことをやっていると、自分たちが昼間から放蕩と怠惰の限りを尽くす、ふしだらな鎌倉遊民のような気がした。  鎌倉遊民といえば、夏宮綾香も大病院の院長夫人でありながら、夫に裏切られた日々をむしろ愉しむように、半ば貴族的遊民化した日々を送っているうち、妙な事件に巻き込まれたようであった。 (轢き逃げとか脅迫とか、不気味な事件さえなければ、綾香は何不自由ない有閑夫人として安逸に暮らしているはずなのに……)  秋津は、早く事件を解決してやらねばならない、と思った。  しかしその癖、今この瞬間は綾香にではなく、ミモザ夫人に夢中になっている。  円山須磨子の乳房は、ふっくらとして雪が降り積もったように白い。そこを揉みながら、首すじから耳の後ろへと丹念にキスをつづけた。 「ああん、いたずらはよして。私、襟足が一番、ぞくぞくっとして、敏感なのよ」  敏感なところなら、なお攻めがいがある。  秋津が襟足の白い肌を舌で刷きながら、両手でみっしりと乳房を揉みつづけるうち、夫人はますます駆られたように肩を震わせて、顔を反らせた。 「ああん、何かあたるわ」  夫人はうっとりと眼を閉じて、右手を自分の腰の横にまわしてくる。そこで猛りたっている秋津の分身を握りにきたのであった。 「わあ。……けだものみたい」  白い指が猛《たけ》りを握って、擦《さす》ったりする。  その指は男性自身の、先端からシャフトまでをしなやかに撫で擦り、握ったり、根元の毛むらまで指をおろしたりして、いつくしんでいた。 「あらあら、ジュニアったら、どこかに入りたそうにしている」 「そうですよ。このまま、入れてみましょうか」 「こんなところでは、だめよ。お行儀がわるい。ベッドに参りましょ」 「そうですね。じゃ、ゆきましょうか」  若きカサノバとミモザ夫人の戦場は、すぐにベッドに移された。  秋津はこのところ、この熟女牝・円山須磨子の肉体に熱中している。彼女の背後に横たわっている三星重工業の経営トップの謎と闇を探る、というのがそもそもの接近の目的だったが、今やそれはそれとして、ミモザ夫人の肉体そのものにも、けっこう溺《おぼ》れている部分もあるのだった。  秋津はほどなく、ミモザ夫人が駆られている原因を、指先で確かめることができた。陰唇に沿わせて指を埋め込むと、そこはもうぬるぬるぐっしょりと、どうしようもないぐらいに濡れていた。 「ねえ……みっともないでしょう。則文と正午に会うと考えただけで、朝起きた時から、もうこうなっていて、パンティを三枚もはきかえなければならなかったのよ」  性器にさわられて、ミモザ夫人はひとまず、かえって落ち着いたらしかった。 「いやだわ……私……こんなに濡れるなんて」  ミモザ夫人は盛んに首を振った。  秋津はミモザ夫人を小抱きにしてキスをしながら、右手で女芯を探り、クリットへの波状攻撃を繰り返している。  熱い沼の中をくすり指が泳ぐにつれ、 「ああ……ああ……」  寝室の空気が淫らな色に染まってゆく。  指先は泳ぎ出て、二指で熱く膨《ふく》らんだ女陰の縁をはさんで、上下にしごいた。 「あっ……あっ……そんなあ」  秋津の指に熱いしたたりが、伝わって流れ、ミモザ夫人の下半身がうねくる。 「ぬるぬるしちゃって、ぶどうの剥《む》き身《み》のようですよ、ここ」 「あっ……あっ……いやっ……」  指戯がとても好きな夫人である。  いやっ、と言いながら、身体をふしだらに開いて、腰を弾ませて求めてくる。  秋津のほうが途中から、吐息をついた。  外見よりはるかに肉のついた豊満な太腿だった。その合流点を、薄い陰毛が飾っているのを眺めながら、秋津は不意にそこに顔を伏せる位置を取った。  膝に手をかけて左右に開くと、繁《しげ》りの谷の桜色の秘唇が、あやしげに秋津にむかって、にょきっと微笑む。  顔を近づけて、牝の匂いを嗅ぎながら、色の薄い陰唇の片側を指で開いた。秘められた桃色の肉がぬっちゃりと露出し、蜜滝が臀部《でんぶ》のほうに、とろりと流れた。  何度かそこに舌見舞いを送ると、ミモザ夫人はなやましい声をあげて、ぴくんぴくん、と腰を突きあげる。  ミモザ夫人は、ほっそりとした身体つきだが、胸の隆起や臀部などはまだ若く、みずみずしく張っている。全体に張るところは張り、へこんだところはへこんでいるという、鋭角的な身体つきであった。  下半身にゆくほど、成熟度が感じられる。  その熟れきった肉体をわななかせ、一度、クリットをねぶられると、高い叫び声をあげて達してしまったミモザ夫人が、不意に身を起こし、 「覚えてらっしゃい。今度は私がいじめる番よ」  ミモザ夫人の眼には、悪戯《いたずら》っぽい光がたたえられている。これから自分がいやらしいことをいっぱいするんだという思いと、その行為にいたく刺激を覚えている眸《ひとみ》のきらめきとがあった。  ミモザ夫人は、秋津の豪根を押しいただくようにして、唇にふくんだ。  上手に顔を上下させる。  含んで、顔を上下させるたびに、長い髪が魔性のように揺れて、白い肩にかかる。  今日、秋津が招待されてミモザ夫人の部屋に来たことには、目的があった。ミモザ夫人の部屋の電話に、盗聴器を仕掛けることだった。  だが、これはまだあとでいい。今はまだ、ミモザ夫人との愛情行為に、熱中することだ。  ひとしきり、口唇愛をふるまわれて満足した秋津は、 「ありがとう。須磨子さん、こっちにおいで」  起きあがって、手を掴んだ。 「いやん、もっと——」 「そう言わずに、さあ」  猛っていた秋津は、力ずくでミモザ夫人をベッドに押し伏せると、獣の姿勢を取り、猛々しくみなぎったものを、一気に収めにいった。 「ああーん。乱暴……」  と、言いながらも、ミモザ夫人はうれしそうにのけぞった。  底に届いた。  二人はもう、一体になっている。  ミモザ夫人は、秋津の頭をひしと抱きしめ、上体を反らせながらも、両足を双脚に搦《から》めつけて、全身で巻きつくようにして応える。  そんな具合の密着感の深い交合をつづけているうち、ミモザ夫人は幾らも抽送しないうちに、たちまちのぼりつめ、到達してしまった。  しかしそれで、終わったわけではない。頂上の次にはすぐまた次の頂上が、踵《きびす》を接してやってくる、というふうであった。  秋津はしがみつかれて息苦しくなったので、彼女の手足をほどき、上体を起こして腰を抱き、一点だけで繋がって、激しく律動した。 「あう……あう……あう……」  ミモザ夫人は両手でシーツの海をひき掴んで、のけぞる。  秋津は、その女体の深みを逞しいもので突きあげながら、手をのばし、乳房をたわめる。  蹲踞《そんきよ》の姿勢に近いくらいに身を起こして繋《つな》がっているので、秋津は両手を自由に使える。両方の手を股間にのばし、うっすらと上品な恥毛の下のクリットを挟み、愛撫する。そうやって谷間のあたりの皮膚を腹のほうへ少し引きあげると、クレバスが上にめくれて露わになり、そこに出入りしている部分が、はっきりと見えて、ひどく淫らであった。 「あ……あ……あたし……もう!」  何度目かに下から鋭く突きあげた瞬間、ミモザ夫人は、悲鳴にも似た声をあげて、昇りつめ、反りかえったあと、何度目かの頂上を極めて、死んだようにぐったりとなった。  それでやっと、秋津は身体を放そうとした。  すると、 「いやっ」  追いかけるように、肉の環《わ》がぎゅっと締まった。  驚いてそこをみると、はぜて開いた女の粘膜は、ただれたように赤く濡れ光り、肌の白さと、きわどいコントラストを作っている。  谷間の真珠が露《つゆ》を結んだ陰毛の中に濡れて輝いていたので、そこを撫でると、 「ああ……いやあ……そ、そんな」  男の熱い視線を浴びて、ミモザ夫人が呻いていた。  ぎゅっとまた、締めつけてくる。  そうなると、秋津のものは衰えを見せない。  白昼の二人は、とどまるところを知らない二匹の魔魚《まぎよ》になるのだった。  ——やっと、果ててまどろんでいた。 「稲村ケ崎の〈ネイルズ〉にも、よくお行きになるみたいですね」  秋津は腹這って、煙草を取り寄せる。  世間話のような調子で訊いた。 「ええ、毎週一回くらいは、行ってるわ。あそこ、シーフード料理がとてもおいしいのよ」 「そうですね。ぼくもちょくちょく行きます。あそこのマスター、変わってますね」 「変わってるって、どういうふうに?」 「何だか様子が変ですよ。自分の過去のことをほとんどしゃべらないでしょう。あれ、記憶喪失症というものじゃありませんかね?」  秋津は、久我俊之のことを何も知らないことにして、ずけずけとミモザ夫人に言葉を投げつけてみた。  すると、ミモザ夫人は、 「へええ、あのマスター、記憶喪失症ですって? 私、少しも知らなかったわ。そうは見えないけど。マスクは端正で、いい男じゃないの」  まるで、何も知らない、という表情だった。  しかし、彼女がそういう表情をしていること自体、何かを隠しているという証拠である。  なぜなら、須磨子は三星重工の社長、久我久常の愛人だった女である。そうして「ネイルズ」のマスター久我俊之は、今は記憶喪失症で隠遁《いんとん》しているが、れっきとした久我久常の長男なのである。  須磨子がそれを知らないはずはなかった。  知らないふりをしている裏は、何なのか……? 「ね、あなたって、夏宮病院の院長夫人と交際なさってるんじゃないの?」  反対に、須磨子が聞いてきた。 「どうしてそういうことをお聞きになるんです?」 「いつか〈仮面貴族〉で飲んでいる時、ふっとそれに気づいたのよ。�あら、今夜は姉さんと一緒じゃないの�と、美由季ママがあなたに聞いたことがあったわ。美由季ママって、院長夫人の妹さんでしょ。だから、もしやこの人、夏宮綾香っていう院長夫人とつきあってるんじゃないかなって、思ったんだけど」  須磨子も、探りを入れているようだ。  キツネとタヌキの化かしっこ。今のところは、そういう具合。秋津はなりゆきを楽しみながら、 「院長夫人とは、美由季ママを通して、何かと親しいですよ。でも、個人的な関係は何もありませんから、ご心配なく」 「そう、それならいいわ」  あっても別に、私は困りませんけどね……と言いながら、ミモザ夫人の手が秋津の股間にのびてきた。 「あら、拭かなかったのね。ごめんなさい……私が、拭いてあげる」  ミモザ夫人はティッシュを数枚、手に取り、秋津のものを拭いてくれた。  その日、秋津は須磨子が風呂に入っている間に、所定の目的を達することができた。部屋の電話機を持ちあげ、受話器の丸い蓋《ふた》をはずして、中に小さな切手大の盗聴器の発信器を取りつけ、蓋を元通りにすれば、それで工事は完了だった。  あとは半径三キロ以内のどこにいても、FMラジオで彼女の電話を盗聴することができる。  二十分後、風呂からあがった須磨子に、にこやかに別れを告げ、秋津は午後二時に、「ミモザの館」をあとにした。    6  天野佑吉が鎌倉不動産の事務所をもつ開成ビルは、若宮大路でも海に突きあたる寸前の、滑川の交差点の近くにあった。  夏宮綾香は午後、そこを訪れた。五階建てのあまり大きくはない、雑居ビルである。一、二階のオフィスは閉まっていたが、独身の不動産会社社長、天野佑吉は、五階を住まいにして、自由気ままな一人暮らしをしていた。  エレベーターで上がって、部屋のブザーを押すと、ドアが開いて天野が顔をだした。 「やあ、綾香さん。これは珍しい。はいりませんか」  綾香が今の夫、聡太郎と結婚する前、何度もプロポーズしていた男である。  綾香が結婚してからは、妹に鞍替《くらが》えして、今は美由季のパトロン兼情夫のようだが、綾香を見る眼の端に、今でも時折、純情なものが揺れる。 「いえ、ここでいいわ。天野さんにちょっと、尋ねたいことがあって、やってきたのよ」 「はい、何でしょう?」  天野はテラスでゴルフのティ・ショットの稽古でもしていたのか、トレーナー姿に首にタオルをかけている。 「有隅という人、知ってる?」 「ええ、知ってますよ。鎌倉の不動産仲間の有隅|喜八郎《きはちろう》でしょ?」 「あら、有隅さんって、不動産屋なの……?」  綾香は、意外な気がした。 「と言っても、ふつうの不動産屋じゃありません。去年まで東京の建設会社の傘下で地上げ屋をやっていた男ですがね。バブルがはじけて、東京が不景気になったので、こちらに来て古美術品ブローカーや旧家の土地転がしなどをやっている妙な男です」 (それでも病院とはおよそ世界が違う。そんな男が、どうして私に接近してきたのだろう……?) 「その男、天野さんみたいなプレイボーイ?」 「ぼくみたいなとは、ひどいな。ぼくは真面目ですが、やつはプレイボーイですよ。しかも東京では棹師《さおし》として上流夫人に取り入って、たくさんの女性をたぶらかし、ゆすり、たかりみたいな手で、甘い汁を吸っていたともいいますからね」  そんな男なら、ますます気をつけなければならないわ、と綾香は自戒した。 「その人、鎌倉の……今、どこに住んでいるの?」 「由比ケ浜の渚《なぎさ》ビル。……ほら、最近はやっている〈渚〉というカラオケスナックが二階にあるでしょう。あのビルの上層階がマンションで、彼はそこの五階に住んでいますよ」 「渚」というスナックなら、たしかにゆうべ、立ち寄った店だわ、と綾香は思った。そのあと、私はどこかに連れ込まれたのだろうか。 「そう。どうもありがとう」  綾香は礼を言って、立ち去ろうとした。 「でも、変だな。綾香さん、どうして急に有隅のことなんか聞くんです?」 「ううん、ちょっとね。気になることがあるの」  綾香は天野の質問を振りきって踵をまわし、エレベーターに乗って、一階に降りた。  開成ビルの後ろに、駐車場がある。  綾香はそこに真紅のBMWを駐めていた。運転席に乗ってシートベルトをつけ、エンジンを始動させようとした時、運転席の窓ガラスが突然、コツコツと叩《たた》かれた。  天野が何かの用事を思いだして、追いかけてきたのかと思った。  何気なくそちらを見ると、派手なオープンシャツに、ダックスのジャケットを羽織った男が、手にリボンのついた包み紙の函《はこ》を持って差しだしながら、窓ガラスをノックしている。 「窓をあけてくれ」  と、言っているようであった。  その顔をよく見た瞬間、あっ……と、綾香は声をあげるところだった。 (ゆうべの男だわ……!)  一瞬、はねあがりそうになった心臓を押さえ、綾香は窓をあけると、詰問するような口調で訊いた。 「あなた、有隅さんと言うのね」 「思いだしてくれたかい。そりゃ、光栄だな。——はい、これ、奥さんに」  有隅はプレゼントのように包装したケースを差しだし、 「ちょっと、あけてくれないか。海岸道路を走りながら、話そう」  綾香はこれから、渚ビルを尋ねて、この有隅という男を見つけだそうと思っていた矢先なので、断わる理由もなく、助手席のドアをあけた。  有隅は助手席に乗ってくるなり、 「ゆうべは、どうも」  ニッと笑い、化粧函を綾香の膝の上にのせ、 「プレゼントだよ。今すぐ、あけてほしいな」 「あなたからプレゼントなど貰ういわれは、ありません」 「まあ、そう言わずに」  綾香は仕方なく、あけてみた。  包装紙に包まれたパンティのカンヅメの中に、見覚えのあるきれいな花模様のパンティがたった一枚だけ、丸められて入っていた。 (まあ、やっぱり……!)  声をあげそうになったのは、それが紛れもなく、今朝から探していた綾香自身のパンティだからである。 「わかったかね?」 「やっぱり……犯人はあなただったのね!」 「犯人、という言い方はないだろう。令夫人があまりよがり回ってパンツをはくのを忘れて帰ったから、お届けしようと思ってさ、今日は朝から院長夫人を追いかけ回ってたんだよ」  棹師、というのは、男性の道具で女を操《あやつ》るジゴロのような職業の男のことを言うらしい。頭の片隅にあった天野の説明を、今の有隅の言葉使いの下品さの中に、カーッと思い出して、綾香はもうこんな男とは、金輪際、口をきくまいと思った。  こんな男に身を委せたらしい自分に腹が立って、情なかった。 「降りて下さい。あなたなんかとはもう、口をききたくはありません」 「おっとっと……、そうはいかないね。お土産の二弾目は、こいつさ」  パンティのカンヅメの次に、有隅が綾香の膝の上に、一巻のビデオテープのケースをのせた。 「何なんです? これ」  綾香は少し身を硬くした。 「見ての通り、ビデオテープさ」 「それはわかっています。どういう意味なんです?」 「鎌倉上流夫人|悶絶《もんぜつ》本番ファック巨編、とでもなろうかね。裏ビデオ業界に流せば、大方、そういうタイトルがつくだろう」  有隅の言っていることの意味が、半分くらい理解できた時、ガーンと綾香の背中を屈辱と嫌悪感と、恐怖がつらぬいた。 (もしかしたら、私の裸とファック場面を撮ったとでもいうのかしら……?) 「うそよ。うそに決まってるわ!」  綾香は、叫ぶように言った。 「うそだと思うなら、確かめようじゃないか。さ、車をだすんだよ」 「ど……どこに行こうと言うのよ」 「今、あんたはおれを探して文句を言うために、由比ケ浜の渚ビルに行こうとしていたんじゃないかね。それなら一緒に、そこに行こうじゃないか。スナックは昼間は、営業をしていない。テレビもあるし、ビデオデッキもある。そこで、このビデオテープの内容をしっかり確認しようじゃないか。そうすると、あんたも安心できるだろ。もしかしたらこれは、夏宮病院の院長夫人としての、これからの社会的生命の一大事に拘わることだぜ」  有隅の言葉を最後まで聞かず、 「生意気なこと、言わないでよ!」  言いすてるなり、綾香はアクセルを一気に踏み込んで、猛然と車をダッシュさせていた。  有隅の身体が、がくん、と座席の背もたれに激しく叩きつけられたくらいの衝撃だった。 「おいッ! おれを鞭打ちにさせるつもりかッ!」 「渚ビルに行くんでしょ。行こうじゃないの。このビデオをはっきり私に見せてちょうだい!」  綾香の中に、にわかに激しい感情が湧き立ち、彼女は日曜日の海岸通りを由比ケ浜にむかって、猛烈なスピードでぶっ飛ばした。  有隅の言い分が本当かどうか、それを一刻も早く確認しなければならない、という考えが、今の綾香の心を支配していた。  ほどなく到着した渚ビルは、海岸通りからちょっと入ったところだった。二階に登ると、ドアは凝《こ》った透《す》かし窓。有隅は、なぜかそのスナックの鍵も持っていて、ドアをあけると、 「さあ、はいんな。酒棚のボトル、何でもたらふく飲んでもいいから」  綾香のヒップを撫でるようにして、中に押し入れた。 「お尻に、さわらないでよ!」 「いい揺れ具合をしているからさ」 「お酒なんかいいから、早くそのビデオを見せてちょうだい!」  綾香がソファに座ると、有隅はすぐにビデオをデッキにセットし、スイッチを入れた。 「日曜日の二人っきりの裏ビデオ鑑賞会か。ふん……ったく、悪くないぜ」  テレビに映像が映しだされた。はじめはカメラが揺れていて、照度も薄暗くてよくわからなかったが、マンションの一室と思える部屋に、ベッドが現われ、その傍に立って男に衣服を脱がされている女の姿が映った。  その女の顔を見た瞬間、綾香は胸を鋭い錐《きり》のようなもので衝《つ》かれて、重い呻《うめ》き声をあげた。 (やっぱり……!)画像に映っているのは、紛れもなく綾香自身であった。  後ろ抱きにされた男から、乳房を揉まれながら、ワンピースを脱がされ、スリップもブラも、パンティも脱がされてゆく情景を、カメラは克明に正面から映しだしている。  上気しているその顔は、酔っているせいか。足許も覚束ないのは、深酔いしていることもあるが、それ以上に、なにやら媚薬《びやく》か睡眠薬でも飲まされていたのではなかろうか。  綾香には、どうしてもそう思えた。  とくに顔の表情が、自分でも信じられないくらい、だらしなく溶けきって淫蕩な顔になっている。全体に、でれっとして男にもたれかかり、しどけない淫《みだ》らさが滲《にじ》んでいる。  男は有隅喜八郎だった。  紛《まぎ》れもなくそのビデオは、ゆうべ、このビルの一室で行われた情事を、撮影したものと思える。いや反対に、この手のビデオを盗撮するために、綾香は有隅喜八郎に誘惑され、妙な薬を飲まされて、情事の部屋に連れ込まれたのかもしれなかった。  画像はベッドに紛れ込んだ二人の、息詰まるような結合の情況へと動く。 「——やめて……!」  途中で綾香は、思わずそう叫んでいた。  正面の綾香は、男を収めてから淫らな声をあげて、喜悦の表情でのたうちまわり、両足を男の脚に搦めつけて熱中しており、とても昼間、しらふで見られるものではない。  綾香の顔から、火が噴きだすような恥ずかしさが噴いた。 「やめてったら、やめて!」  二度目の叫び声で、ようやく有隅は振り返り、ニッと笑った。 「どうだい。いい眺めだろう」  そう言ってから、近づいてくる。 「こんなものを私に見せて、いったいどうしようと言うの?」 「わかってるだろう。これを業界に捌《さば》くと金になる。そうされたくないと思う人間なら、金をだしてそれを阻止するかもしれない。製作者としては、どっちでもかまわないわけだ。どっちが高い儲けになるか。それを考えて、高いほうを選ぶだろうな」 「もってまわった言い方をしないで。いったい幾らなの。言ったらどうなの」  綾香はお金には困らない身分だから、自分の裁量で動かせないくらいの大金なら、土地でも切り売りして調達するつもりだった。 「おっとっと……おれはまだそんなことを言ってるんじゃない。金は二の次、三の次でね。本当を言うとおれたち、夏宮病院の院長、夏宮聡太郎の首根っこを押さえる材料を、今、着々と調《ととの》えてるってわけだ。奥さんのプライバシーもその一つというわけでね」 「どういうことなの?」 「この手のテープを、しっかりおれたちが確保している以上、奥さん、あなたはもうジタバタできない。おれたちの言いなりになるしかない。おれたちの支配下に入って、これから、おれたちの言う通りにする。そういうことさ。それが、このビデオを撮ったおれたちの第一の狙《ねら》いってわけでね」  言いながら、いつのまにか有隅がソファに座って、綾香の肩に手をまわしていた。「見なよ。ほらほら、よがっている奥さんの顔——」  ふっと、耳に熱い呼吸がかかった。  有隅は乳房に手をあてて、揉《も》もうとした。 「やめて!」  綾香はその手を激しく振りほどいて立ち上がろうとした。しかしその前に、有隅の両手が身体にまわって、ボックス席のシートに押し倒されていた。 「何をするのッ! やめてちょうだい……!」 「まあ、そう怒るんじゃないよ。一回でも二回でも、同じだろう。おとなしくしていれば、怪我をしなくて済む。な……」  有隅の囁きとともに、理不尽な、ほとんど抗《あらが》うことのできないような強い力がのしかかってくるのを、綾香は覚えていた。  そうしてその時、店のドアが音もなく閉まって、カチッと鍵が掛けられたのがわかった。  その鍵は、外からかけられたようだった。  監禁、というものを綾香に直感させた。  あっ、と叫んだ。  しかしもう、遅すぎたようだった。 「やめて! 私をここから帰して!」  声だけが、空しく白昼の由比ケ浜の店に響いた。 第六章 深夜の美人看護婦    1  ——その知らせは、秋津則文をひどく驚かせた。 「え? いない……?」 「はい。奥様はお帰りになってはいません」 「いつから帰ってないの?」 「きのうのお昼前、おうちを出られたまま、夜になってもお帰りにならないので、私も心配いたしまして、八方手を尽くして探しているのでございますが……」  院長夫人、夏宮綾香が失踪《しつそう》したのだという。  夏宮のばあや、梅崎|郁代《いくよ》は、そう言って心配そうな顔をして説明するのだった。 「おかしいな。電話もはいらないんですか」 「はい。電話もないし、人づてに頼んでの伝言もありません」 「変だな。綾香さん、どこに行っちゃったんだろう」  秋津は今、扇ケ谷の夏宮家を訪れてその予想外のニュースを知り、これは背景に何かただならぬことが起きたな、と直感しているところである。 「昨日の昼前、家を出られたということですが、それは買い物か何かだったのですか?」 「それが、ちょっと変なんですのよ」 「どういう具合に、変なんです?」  梅崎はおかしなことを報告した。  夏宮綾香は失踪する前夜、正体不明になるほど深酒をして夜遅く、帰宅した。綾香はその夜、どこかで何か大切なものを紛失してきたらしく、それを探すのだと言って、きのうの昼前に、家を出たというのである。 「その忘れ物とか落とし物というのは、ハンドバッグとかサイフとかイヤリングとか……そういう類《たぐ》いのものですか?」 「それが……そうじゃないんですのよ。奥様は女として何か大切なものをお探しのようでした」 「はて……女として何か大切なもの……?」  身につけているもので、ハンドバッグとかサイフとか宝石以上の貴重品というものが、ほかにあるのだろうか。 「それは、何なんです?」  秋津が重ねて訊くと、梅崎は言いにくそうに顔を赤らめて、もじもじとしていた。 「おっしゃって下さい。ぼくもこれから、失踪した綾香さんを探さなければならない。手掛かりになることなら、何でも知りたい」 「そうおっしゃられても、梅崎も言いにくうございます」 「言いにくくても何でもかまわないから、おっしゃって下さい」 「じゃ、言いますが……ねえ、秋津さん、聞いて下さいよ……奥様はどうも前夜、パンティを身につけずにお帰りになったようなんです。それでいて、自分がなぜパンティをはいていないのか、その記憶がない。ばあや、あの花模様のパンティはどこにやったか知りませんか、と私にまで聞いて家じゅうお捜しのようでしたから、よほど気になさっていたようで」  パンティをどこか外に忘れてきた、ということは、綾香はどこか外でパンティを脱いだ。つまり男と性交渉をもった、ということを連想させる。  しかも、その性交渉を、どこで、誰と交わしたかの記憶がないので、彼女は、あわててそのパンティを手掛かりに、自分の記憶を探る旅に出たと思える。  旅、といえば大げさだが、心の旅路である。いわば、失われた自分の貞操を探すために、彼女は前夜の自分の行動を思いだしながら、それを頼りに、あわててパンティ探しの旅に出かけたようである。 「そうですか。じゃ、ぼくも綾香さんのパンティを探しに行ってみましょう」  秋津は大変真面目にそう言うと、梅崎に礼を言って、夏宮家の玄関を辞した。  二、三歩、庭に出て歩きだした時、秋津は急に思いだして、梅崎に尋ねた。 「あ、ちょっと……綾香さんが失踪したこと、ご主人は知ってらっしゃいますね?」 「いえ、それが……」  梅崎はまたまた、困った顔をした。「実は……ご主人もお帰りになっていないんです。これも秋津さんだから申しあげるんですが……何でも女のところで暴漢に刺されなさったとかで……今、夏宮病院に入院なさっています」 「え、入院……?」 (へえ、こりゃ驚いた。夏宮病院の院長が夏宮病院に入院するんじゃ、世話はない——)  と、最初は軽く思ったが、次の瞬間、異様な気がした。  夏宮病院の院長夫人が失踪し、その夫の院長が暴漢に襲われる……とあっては、何やらその背後に異様な集団がうごめいている気配がする。 「わかりました。綾香さんの行方、ぼくのほうでも探してみます。もし、お戻りになったら、大至急、ぼくのほうに電話するよう、お伝え下さい」  秋津はそう言って、扇ケ谷の夏宮家を辞した。  ともかく、綾香の失踪を追ってみよう。  正体不明になるほど酔っていたとするなら、どこかで酒を飲んだわけである。どこで飲んだにしろ、まず起点となるのは、たぶん、ピアノバー「仮面貴族」あたりだろう。  綾香の妹がやっている店だ。  秋津は、まず美由季の店にむかった。  小町通りには早くも人があふれていたが、「仮面貴族」はしかし、昼間なのでひっそりとドアが閉まっていて、鍵までかかっていた。ママの美由季は二階に寝ているはずなので、何度かチャイムを押した。  はじめは返事がなかったが、執《しつ》っこく四度目に押した時、店の中にごそごそと足音がして、ドアが半開きになり、 「どなた……?」  寝起きの不機嫌そうな、美由季の素《す》っ面《ぴん》の顔が半分だけ、覗いた。 「ぼくです。ちょっと——」 「ああ、秋津さん。どうしたの、こんな時間に」 「綾香さんが昨日から、家に帰っていないそうだ。心当たりを探しはじめてるんだけど」 「え……? 姉が帰ってないって……?」  美由季がびっくりして、あわててドアチェーンをはずし、 「ねえ、ちょっとちょっと、はいってちょうだい。どういうことかしら」  秋津を店内に通した。  自分も頭をしゃっきりさせるつもりなのだろう。美由季がカウンターでコーヒーを淹れはじめ、秋津はがらんとしたスツールに座った。 「姉は、いつから帰ってないの?」 「昨日の昼前、家を出たっきりだって、ばあやがそう話していたよ」 「昨日の昼前……といえば、うちに寄ったわよ。じゃ、あのまんま、どこかに行って失踪しちゃったのかしら」 「店に寄った時、どういうふうだったの?」 「そうね。何か忘れものをしたそうで……。前夜、ここのカウンターで知りあって一緒に飲んでいた男のことをしきりに、訊いていたわね」  美由季は、その時の模様を説明した。 「その男、気になるな。何という人……?」 「それが、有隅という名前を知っているんだけど……私にも詳しいことはよくわからないのよ。あ……ちょっと、待って。天野さんに聞けばわかるはずだから、電話してみるわ。姉もこの店を出たあと、たしか天野さんのところに行ったはずよ」  美由季はガスの火をつけっ放しにして、カウンターの片隅の受話器を取りあげて、プッシュした。 「変ね。いないのかしら」  何度、プッシュしても天野佑吉との電話は、つながらないようであった。 「仕事で、外に出ているのかもしれないわね。あとでまた電話してみるけど」 「ありがとう。天野さんの事務所なら、ぼくもあとで寄ってみよう。それより、ほかに綾香さんが立ち寄りそうなところは?」 「そうねえ。深夜、酔っ払って帰るほど飲む場所といったら、うちしか思いあたらないけどなあ」  秋津は差しだされたコーヒーを飲んでいるうち、そうだ、病院に寄ってみよう、と突然、思った。  そういえば、綾香の行方探しとともに、何といっても気になるのは、夏宮病院である。  以前から「秘密をばらされたくなかったら、三億円よこせ」と、脅迫されていたようだし、大原憲司の轢き逃げをはじめ、幾つかの事件はすべて、その夏宮病院の内部に原因があって発生しているようである。  それなら、病院を探れば、綾香の手掛かりが何か掴めるかもしれない。担ぎ込まれたという院長の怪我も、気になる。負傷の具合はどうなのか。もしかしたら綾香も、病院の内部に監禁でもされているのかもしれない。  それはちょっと、飛躍した想像だったが、ともかく覗いてみて損はない、と思った。さいわい、秋津は健康そのもので、医者になどこの十年間、かかったことがなかったので、夏宮病院のスタッフにほとんど知りあいはいないし、外の受付から入って仮病を使えば、うまくすると二、三日の入院ぐらいできるかもしれない。  そうだ、潜入するには入院がいい。秋津はそういう手段を使ってみようと決心した。 「じゃ、美由季さん、ご馳走《ちそう》さん。心配だろうけど、綾香さんはぼくのほうで探すから、あまり心配しないでほしい」  秋津は店を出ると、若宮大路のほうに歩いて、夏宮病院をめざした。    2  夏宮病院は、材木座二丁目にあった。  広い敷地に桜の老樹がいっぱい植わっていて、青々とした緑の枝を広げ、構内には鉄筋コンクリートの幾棟かの病棟が建っている。  外科外来診察室は、A号館の一階にあった。  秋津は受付を通して、待合室で待たされた。  考えてみると、秋津は夏宮家の姉妹や院長夫人綾香とはずい分長い間、親しくつきあっているのに、病院のほうに訪れるのは、大学時代に一度、盲腸を手術するために入院して以来であった。  ほとんど、見知らぬ世界といっていい。  呼ばれて診察室にはいった時、  ——まずい時に来たな……。  と、秋津は思った。  何とそこに、顔見知りの看護婦がいたのである。夏宮病院一の美人看護婦、という評判はいいのだが、何しろ秋津の高校時代の同級生なので、旅行者を装って仮病を使うのには、最もまずい状況である。 「あら」  その美人看護婦、春山敏恵《はるやまとしえ》が、秋津をみて何か言いだそうとしたので、秋津はあわてて、シッ、と眼顔で制して素知らぬ顔をして、医者の前の丸椅子に座った。 「どうなさいました」  外科医長という肩書のある老医師が、記入していた机の上のカルテから顔をあげて、くるりと椅子をまわした。 「胃が痛むんです……」  秋津は適当な病状を述べた。 「昨夜からシクシクと痛みはじめたんです」 「今度が初めてですか?」 「いえ……それが……二年ぐらい前から、午後三時頃になるといつも決まって、シクシク痛みはじめていたんですが、昨日からは特にひどくなって」 「はて、いけませんな。それは胃潰瘍《かいよう》か十二指腸潰瘍の疑いがありますね。午後三時頃というのは、ちょうど空腹時のことで、空腹時に荒れた胃壁に胃酸が沁《し》みるから痛むんです。ご職業は?」 「大学で国文学を教えています。家も学校も東京なんですが、この三ヵ月、鎌倉の建長寺に残されている占い碑文《ひぶん》や古文書の研究のために、こちらの旅館にカンヅメになっています」 「カンヅメになっての研究ですか。それじゃ、かなり無理をしていますね。痛むのは、きっと根《こん》を詰めているからでしょう。潰瘍が進行していると、ことだな。ちょっと、そこに横になって下さい」  外科医長は、後ろのベッドを手で示した。  秋津は立ちあがって、上衣やワイシャツや下着を脱ぎながら、 「夏宮院長は、今日は診療ではないんですか」  そう訊いてみた。 「院長をご存知なんですか?」  外科医長がやや驚いて、秋津を見つめ返した。 「はい。世田谷分院のほうで、いつもお世話になっているものですから」 「あ、なるほど。東京のほうでね」  外科医長はそこで言葉を区切って、重々しく言った。 「院長は今日は、東京のほうなんです。そのあと、学会の旅行があって、ここ二、三日はこちらの外科の担当をなさいません」 「ああ、そうですか。それは残念だな」 「私では不足ですか」 「いいえ、とんでもございません。たまたま、院長なら既往歴《きおうれき》もご存知なものですから」 「長びくようでしたら、分院のほうのカルテは、あとで取り寄せましょう。どれ」  秋津はベッドに横になった。看護婦の春山敏恵が秋津の腰の上に上体をかがめ、彼の膝を抱えるようにして、心持ち揃えて立てさせた。 「少し、ベルトをゆるめて」  外科医長に指示されて、看護婦が秋津のスラックスのベルトをはずし、スラックスのジッパーも半分までおろして、腹部をゆるめた。看護婦の手が、その一連の動作の中で二度ほど、ほとんど一瞬かすめるだけ、といった具合に、秋津の性器に触れた。 「どこが痛みますか?」  外科医長が、かがみこむ姿勢で、秋津の腹部や胸のあたりを、指の先で触診しはじめた。  秋津は、鳩尾《みぞおち》の左横のあたりが痛むことにして、そう答えた。 「はて、左横ですか。まん中の……このあたりじゃありませんか」  医長の指先は、鳩尾のまん中を押さえた。 「あ、そうそう。そこらあたりが時々……ええ、震源地はどうも、そのあたりのようです」 「ふむ。十二指腸に穿孔《せんこう》が出来ているのかもしれませんね」 「センコウって、何です?」 「穴です。壁に小さな穴があくことです。喀血《かつけつ》や下血《げけつ》は……?」 「喀血は二、三度。でも下血は覚えはありません」 「じゃ、写真を撮ってみましょう。みるところ血色はすこぶるよいので、さほど、血が流れ出ているはずはないんですがね。これを持参して、レントゲン室へ」  外科医長がレントゲン撮影指示表を作成し、秋津に渡しながら、 「春山さん、レントゲン室にご案内しなさい」 「はい」  ——廊下に出て歩きながら、クレオパトラのようなおかっぱ髪に、瞳の大きな春山敏恵が、 「まあ、呆れた。旅行者のふりをして仮病を使って、いったい、どういうこと?」  小声で聞く。 「ちょっと、入院したいんだよ。この病院のこと、調べたいことがあってね」 「調べたいって……どんなこと?」 「院長、入院してるんだろ? どこかで襲われたそうだね」  春山敏恵の顔が少し緊張し、 「あなた、入院したいと言っても、レントゲン検査の結果、どこにも異常がなければ入院なんかできないわよ。それより今夜、時間あく?」  アイシャドーを濃く塗って、強い個性のきらめきを持つ瞳をひたとあててから流し目をくれ、秋津を誘うように訊いた。 「用事がないわけではないけど、敏恵の頼みなら何とか、あけるよ。何時頃?」 「私、今夜は当直なの。あなたが知りたいことに答えられるかどうかわからないけど、時間をつくるわ。今夜十一時ジャストに、外科入院病棟の201号室に来てちょうだい。そこ、空き部屋だからドアに鍵もかかっていないわ。——こっそり忍んでくることよ。いい?」  そう歩きながら小声で、早口で囁きかけた。 「OK。美人看護婦とのデートを楽しみにしてるよ」  秋津が耳許で囁き返した時、春山敏恵の手がぎゅっと秋津の手を握っていた。    3  やはり、レントゲン検査の結果、仮病がばれた。  軽い神経性胃炎だろう、という診断が下され、薬を処方してもらって放逐《ほうちく》された。  入院はできなくても、春山敏恵といういい手掛かりを得たことになる。  その夜、秋津は約束の十一時近くまで、材木座の一杯飲み屋ですごし、十一時ちょっと前に、裏の通用口から病院にはいった。  病院は夜間も人の出入りがあるし、急患が担ぎ込まれることもあるので、裏の通用口はあいており、刑務所のように世間と完全に隔絶されるわけではないのである。  夜の病院は、寝静まっていた。  秋津は春山敏恵に指示されたとおりの、外科入院病棟に入って、エレベーターには乗らずに階段をあがり、二階の端にある201号室の個室のドアを探した。  鍵はかかっていないので、ドアはすっと開いた。  差額ベッドらしく、贅沢な個室だった。  部屋全体の電気を点けたままにしていると、外に灯かりが洩れて怪しまれそうなので、窓には二重のカーテンをして、ドア近くの電気だけをつけて、秋津はベッドに腰をおろした。  待つほどもなく、春山敏恵が現われた。 「明るすぎるわ。電気、消すわよ」  彼女は、白衣のままである。 「カーテンを閉めてるけど」 「二重カーテンでも、外からみれば灯かりは、わかるわよ。ベッドの枕許だけ、電気をつけるから、まっ暗闇にはならないわ」  敏恵は部屋の電気を消し、病床患者用の枕許の電気だけをつける約束をして、秋津の傍にやってきた。  敏恵はまっ暗闇の中で、秋津の傍に座ると、手を伸ばして枕許の患者用の電気をつけ、そのついでに身体をよろめかせたふりをしてもたれかかると、素早く秋津にキスをした。  秋津の身体に百ボルトの電流が走り抜けた。予想もしない、敏恵の電撃キスであった。 「枕許の電気は、もう少し明るくしようよ」  秋津がためらいながら囁くと、 「規則で、これぐらいになっているのよ。それに、こういうことって、最初は暗闇のほうがやりやすいでしょう。私だって、羞恥心《しゆうちしん》がありますもの」  そう言って、今度は秋津の首に両手をまわし、本格的な接吻に移行する。  秋津が何か言いかけても、それはすべて後回し、という感じだった。同じクラスの同級生というのは、懐しさも手伝って、会った瞬間から、もう幼馴染《おさななじ》みみたいなものなのである。  それに二人は、何年か昔、「そのこと」だけをやり残していた。  舌が積極的に侵入してきて、秋津の舌を求め、絡み、引きだす。  秋津は後頭部が快くしびれるのを感じた。  春山敏恵はとてもキスが上手だった。たぶん、医学的に人間の快感を引きだすコツを、覚えているのだろう。  思わず、白衣の上から乳房を掴む。秋津は糊《のり》のきいた白衣が、掌の中でとろけだすような感触を感じた。 「ああ……秋津さんと、何年ぶりかしら……一度、あなたとは結ばれてみたいと思いながら、なかなかチャンスがなかったわ」  今日、出会った千載一遇のチャンスはもう絶対に逃すものか、という意気込みが感じられた。 「ぼくは春山さんに一度、あそこの毛を剃《そ》られた時のことをよく憶えているよ。だって大学に入って三年目だよ。盲腸で入院したぼくの男のしるしを握って、ジョリジョリ麓の毛を剃るんだもの。ついこないだまで教室に一緒にいた同級生の美人女子生徒に握られていると思うと、どうにも止まらなくなって、ぼく勃起《ぼつき》しちゃってずい分、恥ずかしかった」 「そうそう。あんなに勢いのある殿方のお道具をもった患者さん、初めてだったわ。それ以来よ、秋津さん、欲しくなったの」  敏恵は正直にそう打ち明けて、喘ぎだした。  思わぬ深夜の同級生デートが、入院病棟の空き部屋で行われているという予想外の展開に、秋津も、院長のことや綾香のことを探索するより、当面、この美人看護婦とのアバンチュールを楽しむことのほうが仕事だな、と思いはじめていた。 「まだ医者と結婚する願望、捨ててはいないのかね」 「捨ててはいないわ。だって、それしかないもの。——私ね、高校を出て、経済上の理由で進学を諦《あきら》め、高等看護学校に進んだ時から、医者と結婚しよう、と決心したの」  敏恵は、体重を秋津に預《あず》けきっていた。  そんなふうだと、二人は学校の裏の小高い丘の芝生に腰をおろして、人生を語りあう清純異性交際のようにさえ、思えた。 「医者と結婚すれば、贅沢《ぜいたく》はできるし、人からも尊敬されるでしょ。平凡な家柄で、学歴もない女が恵まれた生活をするには、ほかに方法はないわ。シンデレラになるには、看護婦になって医者を掴まえるのが一番と思っていたのよ」 「思っていた……? 今はそうは思わないのかい?」 「だめね。医者とつきあっても、身体を遊ばれるだけで、結婚相手には考えてくれないもの。結婚相手となると、どこかよそのお嬢さんを貰っちゃうのよ、たいてい」  敏恵は下唇をかんだ。  この分では誰か医者とつきあって、捨てられたのかもしれない。 (まさか、院長ではないだろうな……?) 「ねえ、それより……」  敏恵は大胆にもズボンの上から膨らんだ秋津の欲望のしるしをとらえにくる。 「私が欲しい?」  挑発するように、そう訊く。 「欲しいね。きみも、そのためにぼくをここに呼んだんだろう」  秋津は両手をかけて、ベッドにゆっくりと押し倒した。 「あ、ちょっと待って、脱ぐわ。あなたは?」  敏恵は身体を起こすと、白衣を脱ぎはじめた。 「ぼくもそうしよう」  秋津は手早く脱ぎながら、敏恵の白衣の下からスリップに包まれた女体が現われるのを眺めていた。  敏恵はスリップの肩ひもをはずして脱ぎすてると、少しかがんでパンストを脱いだ。  残るはブラジャーとパンティだけである。それ以上、取るのは恥ずかしいらしい。そのまま、ベッドの上に横になった。  秋津はその女体に寄り添い、ブラジャーをはずした。  豊かな乳房が、解放された。  秋津はその乳房の頂点を口に含んで接吻しながら、片手をウエストにのばして腰の部分をおおっている最後の布きれを脱がせた。 「今夜はあなたが看護夫さんね。私はそうね、お行儀のいい令嬢患者……」  敏恵は脱がせやすいように、ヒップをあげて協力した。  黒い茂みが現われた。艶々《つやつや》とした縮れ毛が濃く、固詰まりに中心部に寄り集まっている。  ほんのり明るいだけの、枕許の患者用ランプに翳《かげ》る性毛が悩ましい。  秋津は同級生を早く味わいたくなって、両下肢を開かせ、恥丘に顔を近づけた。  秋津の息がくさむらをそよがせると、敏恵は心持ち、腰を上に持ちあげて、唇を迎えようとする。  陰阜のほうから盛りあがってきて、口唇愛を催促する女体は、初めてである。  敏恵は男に見られているその真下で、腰を持ちあげて、円を描くようにグラインドさせることで、自ら気分を昂揚《こうよう》させているようでもあった。  看護婦は始終、男や女の裸の下半身を扱っているので、よほどのことじゃないと、驚かないし、燃えないのかもしれない。  秋津は、舌をだして亀裂をぺろりと舐めた。 「わっ……」  うれしそうな声が湧いて、陰阜がぴくんと持ちあげられた。 「うっ」  秋津は鼻梁に恥骨のパンチを浴びて、激痛を覚えた。  思わず手で鼻を押さえて我慢していると、敏恵の腰はひとりでに宙に円を描くような動きをつづけている。 「ねえ……ねえ……もっと」  敏恵はじれてしまったような声で、つづきをうながした。  敏恵の茂みの下には、かなりの動物臭もあったし、これ以上、鼻をへし折られてはたまらないので、秋津は指をうずめて蜜壺をかまったあと、一気に組み敷いて女体を押し分け、みなぎったものをあてがった。 「ああ……もう、なの」  不満そうに、でもうれしそうに、敏恵の手がのびてきて秋津を掴み、導いた。濡れうるむ世界に挿入し、ゆるゆると奥へ進んだ。 「わっ……わっ……」  敏恵は身体を洋弓のようにしなわせた。 「ああ……いいわ……やっとやっと秋津さんとの念願が叶ったのね」  泣きそうな声で口走る。  秋津がゆっくりと動きはじめると、敏恵の身体が激しく震え、太腿がけいれんした。 「あ……だめだめ……声が出そう……もうすぐ夜警の巡回もあるのよ……ねえ、そこの毛布で私の口をふさいで……」  秋津が毛布で口をふさいでやると、美人看護婦はもう無言で、牝の闘牛のように、そのグラマーな身体をゆすって秋津をむさぼりはじめていた。  女性遍歴の多い秋津でも、入院病棟の夜の空き病室での看護婦との情事は、初めてだった。いつ見回りの看護婦や、ガードマンに発見されるかもしれない、というスリルと、相手が高校時代の同級生だったということも手伝って、秋津は珍しく快感が倍増するのを覚えた。  秋津が発射すると、敏恵は五回目くらいの呻き声と、嗚咽《おえつ》を洩らした。  秋津はズボンのポケットからハンカチを取りだし、自分の後始末をし、それから敏恵の後始末をしてやった。  しかし、敏恵は裸の身体をベッドの上に投げだしたまま、なかなか起きあがろうとしなかった。  秋津が身仕度を終えたころ、ようやく身体をふらつかせながら、起きあがった。  その様子から推測すると、かけ値なしに、相当深く達したようだった。 「春山さんって、男好きだったんだね」 「あなたこそ、凄かったわ。初めてなのに、私をメロメロにさせちゃって」  秋津は咽《のど》が乾いたが、我慢して横に座った。 「ところで院長の入院は、どんな具合なんだろう?」  ようやく本題にはいった。 「腹部を三ヵ所ばかり刺されて、昨日、救急車で担ぎ込まれたのよ。傷口を縫《ぬ》って消毒し、輸血処置をとって、今は休んでいらっしゃるようだから、大過はないみたいだけど」 「誰に刺されたか、知ってる?」 「天誅団《てんちゆうだん》と名のる二人組の男たちだったそうよ。材木座にある愛人の遠山絹江さんのマンションで寝ているところを、襲われたみたいね」 「遠山さんといえば、聞いたことがあるけど、夏宮病院の看護婦さんだったんじゃないの?」 「ええ、私の先輩だったわ」 「その看護婦が、院長と寝ているところに、暴漢を手引きしたっていうこと、ないかな?」 「それは、ないと思うわ。だって遠山さん、ずっと付きっきりで看護しているもの。彼女、きっと院長のこと愛しているのよ」 「天誅団って、いったい、何者なんだろう?」 「さあ、わかんないわ。院長は女癖が悪かったから、どこかで女の恨みを買って、暴力団につながりのある人が、腹立ちまぎれに仕返しをしているんじゃないかっていう噂よ」 (暴力団ねえ。はて……そうだろうか……?)  秋津はちらと、違うような気がした。 「この病院には何やら秘密があるようだけど、何か知らない?」 「秘密……? この病院に……?」 「そう。院長の診療行為とか、誤診とか、保険の請求点数の水増しとか、経営問題なんかで、何か人には言えない秘密があるんじゃないかね?」  秋津は、畳《たた》みかけた。 「そういえば……」  と敏恵は言いかけ、はっとしたように口を噤んだ。 「どうしたんだね。何か気になることがあるんだろう?」 「いえ、何でもないわ」 「おれときみの仲じゃないか。もう他人じゃなくなったんだよ。何か気になることがあったら、教えてくれよ」  ねえ、これからも仲よくしなくっちゃならないんだし……と言いながら、秋津はぬけぬけと両手で敏恵の肩を抱き寄せ、首すじにキスをした。 「そう言えば……」  敏恵は言い淀《よど》みながらも、「私は脳外科の手術には立ち会ったことはないんだけど……院長が執刀した手術で、何回か深夜に行われた脳外科の手術があったみたいね。いずれも、看護婦は今、愛人になっている遠山さんだけが立ち会い、助手が二人ぐらいの少数精鋭で……何となく秘密の手術だったみたいだけど……」 「それ、いつ頃のこと?」 「去年の夏頃まで……数回、行われていたみたいだけど」 「深夜の秘密の手術……か。オペはだいたい、平日の午後やるものだろう?」 「ええ、緊急のもの以外は、ふつうは月曜か水曜の午後一時からと決まってるわ」 (ふーん。深夜、行われた秘密手術……)  とても気になる、そして薄気味わるい話であった。  しかし、秋津にはそれが何を意味するのか。すぐには見当がつかなかった。 「ところで、院長夫人の綾香さん、ここに連れ込まれたりなんか、していないかな?」 「院長夫人が、どうかしたの?」 「失踪してるんだ。それで、探してるんだけど」 「それは、病院じゃないわよ。恐らく、院長を襲ったのと同じく、天誅団と名のる連中の仕業だとすれば、病院になんか運び込むはずはないでしょう」 「あ、なるほど……それはそうだね」  秋津は一本取られて、ぐうの音もでず、 「院長はこの病棟?」 「ええ。一階の特別室に入ってらっしゃるわ」 「押しかけて、深夜の手術について、話を聞くことはできないだろうか」 「今、何時だと思ってるの? それに遠山さんが付添ってるから、無理に押しかけても騒がれるのが関の山よ」 「うむ、それもそうだな。じゃ、きみに頼もう。その秘密手術めいたもの……というやつ、何だったのか、誰か立会った人を探しだして聞きだしといてくれないか」 「聞きだすなんて、むずかしいと思うわ。でも、何とかしてみる。その代わり、また電話してくれなくっちゃ、いやよ。私の公休日、来週は水曜日なの——」 「水曜日ね。じゃ、その前日にデートの約束の電話をするから、今のこと、よろしく頼むよ」 「いいわ。何とか——」  それからしばらくして、秋津は巡回のガードマンに見つからないように気を配って、こっそりと病院を抜けだした。    4  翌日、秋津は滑川《なめかわ》の開成ビルに行った。  天野佑吉はいた。昨日のうちに美由季から電話を受けて、綾香が失踪していることは聞いているらしく、 「彼女、おととい、うちに来たんだよ。ある男のことを尋ねてね。その男というのが、どうもたちの悪い男で……」  天野は一昨日の午後三時頃、綾香が尋ねてきたことや、有隅喜八郎という男について説明したことなどを話した。  それによると、有隅喜八郎という男は、綾香に酒場で親しく近づいて、どこやらに連れこんで男女の仲に引きずりこんだらしいのである。  その有隅という男は一見、紳士的で洗練された優男《やさおとこ》なのだが、暴力団にもつながりがある地上げ屋で、最近は鎌倉に居を移して、古美術品ブローカーや不動産屋の仕事をしているのだという。 「そんな不動産屋が、どうして綾香さんに興味をもったり、誘惑したりするんだろうね?」  秋津が聞いてみると、 「うん。それについてあとで思いだしたんだが、有隅の妹というのが、三年前の秋、夏宮病院に入院したことがある。その女は玲子とかいって、銀座のクラブ勤めをしていて、ミス銀座にも選ばれたことのある凄い別嬪《べつぴん》さんだったそうだよ。入院は、何でも交通事故のせいだったらしい。そのことと、今、有隅が綾香さんにつきまとったり、夏宮病院に仕返しをしようとしていることに、何やら関係があるのかもしれない、と、ふっと思い出したんだがね」  天野は、鎌倉でも流行《はや》っているほうの不動産屋なので、何かと世の中の裏情報に通じているようである。 「その玲子とかいうミス銀座は、夏宮病院で死亡してしまったのかい?」 「いや、亡くなったとは聞いてないがね。二ヵ月ぐらい入院したあと、ちゃんと元気になって退院したそうだよ」 「おかしいな。妹が怪我を治してもらったのに、どうして病院を恨むんだろう」 「一つだけ、考えられる。ほら、あそこの院長……綾香さんの亭主さ、女に眼がないだろう。もしかしたら、入院中の患者であるそのミス銀座に手をだして、孕《はら》ませるか何かして、兄貴を怒らせたのかもしれないぜ」 「なるほど——」  なるほど、そういうこともあるかもしれない、と秋津は思った。  しかし、秋津はそれだけでは頷《うなず》けない。むしろ、ゆうべ、敏恵から聞いた深夜の秘密手術、ということを思いだして、そのほうが何とはなしに気になった。 「とにかく、由比ケ浜の渚ビルというところに行ってごらん。そこの五階が彼の家になっているし、二階の〈渚〉というスナックバーのママが、彼の女らしい。綾香さん、もしかしたらそこに連れこまれているかもしれないよ」  天野はそう説明し、 「おれも一緒に行こうか?」 「あ、いいよ。おれ一人で行ってみよう」  秋津はその足ですぐに、由比ケ浜にむかった。  だが、渚ビルの二階のスナックは閉まっていた。  営業は、夜だけらしい。ガラスドアの外から覗《のぞ》いたが、中はまっ暗で、人っ子ひとりいなかった。  ビルには小さなエレベーターがついていたので、五階まであがってみた。  五階には四つの部屋があった。有隅、というネームプレートのある部屋のブザーを押した。留守らしく、五度押したが返事がなかった。  隣の部屋のドアが開いて、五十年配の主婦が、 「有隅さんは昨日から、留守ですよ」  うるさくブザーを鳴らさないでくれ、という不平顔をみせた。 「どちらにお行きになったか、ご存知ありませんか?」 「さあね、知りませんよ。お隣さんのことなんか」  諦めて、エレベーターに乗って一階まで降りビルを出ようとして、秋津の足がふっと止まった。  眼の前の駐車場に、表から一台の赤い車がすべりこんできたからである。  見憶えのある車であった。あの真紅のBMW……は、たしか夏宮綾香の車ではなかったか。  秋津はすばやく、物陰に隠れた。  BMWの運転席から一人の女が降りたった。しかし、綾香ではなかった。プリント地のブラウスにジーンズの若い女だった。渚ビルに入ってゆく。  秋津の視線が女を追うと、女は階段をカタカタと靴音をたててあがり、二階の突きあたりのスナック「渚」の前に立ち、キイを取りだしてあけ、店の中にすっと消えていった。  駐車場のBMWは、エンジンが切られないままであるところをみると、女はすぐに戻ってきそうである。 (店に、何か品物を取りにきたな……)  秋津の頭にある情景がふっと閃《ひらめ》き、彼は急いで駐車場に駐めている自分の車に乗ると、女の車を尾行しやすい位置にだして、待機した。  ものの十分と待たなくて、よかった。  女はやはり、「渚」のママだったらしい。  女は両手にいっぱい、ワインやウィスキーボトルや、食料品などを抱えてビルから現われ、それらの品物を車に乗せると、自らもすぐに運転席に飛び乗った。  エンジンの音が響き、車はすべりだした。  秋津も車をすべりださせ、赤いBMWが見える範囲で尾行をはじめた。  真紅のBMWは海岸通りに出て、逗子、葉山のほうにむかって走ってゆく。  滑川を通り、材木座や小坪を通り、逗子海水浴場の前をすぎると、葉山にはいった。葉山からは国道134号線に乗って、葉山御用邸の近くまで走り、やがて左折して、丘陵地帯にはいっていく。  車は、丘陵地に点在する瀟洒《しようしや》な住宅や別荘風の建物などがある地域にはいり、ある一軒の白い家の前に駐《と》まった。  遠くから眺めると、家は夏場だけ使われる別荘のようである。女は車を裏にまわし、やがて両手にいっぱい荷物をかかえて、玄関の方に現われ、その家の中に消えていった。 (……どうも、臭いな。あの女、「渚」のママだとすると、有隅の女ときいている。もしかしたら、有隅喜八郎が、あそこに潜んでいるのではないか)  そんな気がした。そうして、もしそうだとすれば夏宮綾香も、あの家に連れ込まれている公算が大きい。  それは、間違いない気がした。なぜなら、綾香の車と思われる赤いBMWを彼らが奪って、乗りまわしているではないか。  もっとも、同じ車種の車は多いので、あの真紅の車が綾香のものであるかどうかは、断定はできない。  秋津は、周辺の地形を見た。  家は、丘陵地帯の谷あいの、やや窪《くぼ》んだ盆地に建っている。そうしてその傾斜つづきの丘の上に、一軒のモーテルがあった。 「湘南ハウス」というそのモーテルは、たぶん南側の窓から海が見える位置に建っているのだろう。でも反対側の北窓からは、有隅喜八郎たちが隠れ潜んでいると見られる谷間の家を、観察できそうであった。 (よし。誰かと一緒に、あのモーテルに陣取ろう)  秋津の脳裡《のうり》に、一瞬のうちに、そういう作戦が決まった。    5  鎌倉山の家に戻った。  モーテルに張り込むにしても、誰か女を見つくろわなくっちゃならないし、双眼鏡など準備が必要だった。  その日は学校は休講日であり、秋津はフルタイム使える。美由季か敏恵か誰かから、家に電話がはいっているかもしれない、という予感がしたので、いったん鎌倉山に戻ったのである。  留守番電話を再生すると、案の定、伝言が入っていた。意外にも、それは仙道香津美からであった。 「何度電話してもつかまらないけど、どうしたのよう。ミモザ夫人の蝉《せみ》がミンミン鳴きました。大至急、電話ちょうだい」  ミモザ夫人というのは、円山須磨子のことであり、「蝉」というのは、先日、秋津がとりつけていた電話盗聴器のことである。  秋津はFMラジオでの傍聴を、香津美に頼んでおいたのである。秋津が使った盗聴器の受信範囲は、半径三キロ以内だが、それは同じ扇ケ谷の住宅街にある香津美の家なら充分、条件を充たしていた。  電話をかけると、香津美は大学が休みなので、家にいるという。 「じゃ、すぐにうちに来ないか。一緒にモーテルにゆこう」 「え? モーテル? 調子の良いことを言うのね」 「香津美とも久しぶりじゃないか。ずっと欲しかったんだよ」 「またまた、調子の良いことを——」  少しすねながらも、香津美はうれしそうに、 「じゃ、録音テープ、持ってゆくわね」 「ミモザ夫人の電話、録音してたのかい?」 「そうよ。ちょっとノイズが入ってるけど、何とか聞けるわ」 「じゃ、こうしよう。一時間後、葉山の〈湘南ハウス〉というモーテルで落ちあおう。御用邸の近くの高台にあるやつでね。おれ、先に行って部屋を取っておくから、香津美はまっすぐそこを尋ねてきてくれないか」 「湘南ハウスね。いいわ、探してゆくわ」  香津美とは一時間後に、そこで落ちあうことになった。  秋津は、双眼鏡や木刀やビニールロープなど、考えられる限りの必要なものを車に積んで、すぐに鎌倉山の家を出発し、途中、軽く食事をしてから湘南ハウスというモーテルにむかった。  湘南ハウスは、予想どおり、海を見おろす南向きの作りで、丘の上にあった。それなのに、秋津が海の見える部屋のほうではなく、反対側の「裏部屋」を指定したものだから、モーテルのおやじは怪訝な顔をして、鍵を渡してくれた。 「あ、あとでガールフレンドが尋ねてきますので、よろしく」  おやじは心得顔で、頷いた。  部屋は二階だった。窓をあけると、丘陵の裏側の谷間にむかって点在している幾つかの別荘や住宅が見える。  女が消えた白い家は、すぐにわかった。  双眼鏡で覗くと、至近距離である。  コテージ風の家で、窓は閉まっていて、カーテンがかかっており、裏庭に赤いBMWが停まっている以外、今のところ、これという動きはない。  程なく、香津美がやってきた。 「まあ、いきなりモーテルに来い、だなんて、どういうこと」  香津美はうれしさ半分、怪訝さ半分で、秋津を問い糺した。  秋津は、夏宮病院の院長夫人が誘拐《ゆうかい》されたことを説明し、今、夫人は窓から見えるあの家に監禁されているに違いない、と説明した。 「へえー、そうだったの。それで、秋津さんはここから見張ろう、というのね」 「うん。ごめん、香津美をだしにして。しかしモーテルに一人でもぐりこんでると、潜伏中の強盗犯人か変質者かと間違われそうでね」 「それはいいけど、こんなところで見張ってるだけで、何かわかるの?」 「さあな。すぐにはわからないかもしれないが、いずれ人の出入りがあったり、カーテンが開いたりして、かなりのことがわかると思うよ。それで、綾香さんがあそこに監禁されていることが確実になって、チャンスだと判断する時がくれば、ぼくは一人でも木刀さげて押しかけていって、奪い返すつもりなんだ」 「いったい、どういう連中なの。院長夫人を拐《さら》った連中って」 「それが……皆目、わからないんだ。天誅団とか言って、夏宮院長を襲ったりもしているから、夏宮病院に何か深い恨みがあって、いずれ身代金か何かを吹っかけるつもりで、院長夫人を人質に奪ったのではないかと思えるけどね」 「ふーん、天誅団か……? 随分、古風なネーミングね。でも……そういえば、そんな言葉、録音テープの中でも聞いたような気がするわ」 「え? 録音テープ……?」  秋津は一瞬、びっくりしたが、「あ、そうそう。ミモザ夫人の電話だったね。すぐ聞かしてくれないか」  香津美が持参したテープをラジカセにセットした。  スイッチを押すと、ノイズの混じった微かな電話の会話らしいものが聞こえた。 「……だめよ、継之進……そんな無茶をしてはいけません!」  ミモザ夫人、円山須磨子の声と思える女の声が、突然、甲高くなった。ほとんど、絶叫している声である。  相手の男が答えている。 「だって仕方がないだろう。兄貴をあのままにしていると、危いよ。天誅団という連中が夏宮病院の秘密を掴んで、脅迫しはじめてるんだよ。連中は無頼漢を使って、院長夫人を誘拐したくらいだから、今度は兄貴を拐《かどわか》し、院長にオープン手術でも強制するかもしれない。そうすりゃ、一発で五年前のおれたちの陰謀が露見してしまうよ」 「だから私が言ったでしょ。そんな恐ろしいことはやめなさいって……それを……あなたという人は……」 「今さら、そんなことを言っても、仕方がないだろう。このさい、兄貴にはハッキリと永遠に眠ってもらうのが、一番なんだよ」 「眠ってもらうって、どういうこと?」 「眠ってもらうのさ、永遠にね。そうすりゃあ、永遠に記憶が甦らないことになる」 「まさか、殺すなんてことを考えているんじゃないでしょうね、継之進ッ……だめッ……だめッ……そんなことしちゃ、いけませんッ!」  ミモザ夫人が、またもや金切り声をあげている。 「だって、天誅団と名のっている連中が兄貴の身柄を奪って、甦り手術を受けさせたら、やばいよ。その前に、こちらで処置してしまったほうがいいと思うよ」 「とにかくだめですッ。そんなことは許しませんからね!」  説教するように言う、そんなミモザ夫人の絶叫の声を残して、電話は終わっていた。  相手の若い男の声は、どうやら、久我俊之の腹違いの弟、久我継之進のようである。つまり、久我久常と円山須磨子の間に生まれた子供であり、現在の三星重工で飛ぶ鳥落とす勢いといわれる本社統括本部長のようであった。  秋津はふーっと天井を睨んで、腕を組んだ。  オープン手術とか、甦りとかいうのは、いったい何なんだろう。  今のところ、はっきりはしないが、夏宮病院にはやはり、脳外科手術に関する何らかの重大な秘密があるようである。  ともかく、シーサイドレストラン「ネイルズ」の久我俊之に身の危険が迫っていることは、間違いない。  知らせておいたほうがいいだろう。  秋津はすぐに、部屋の片隅にある受話器を取りあげ、稲村ケ崎の「ネイルズ」にプッシュした。  しばらく呼出音が鳴ってから先方の受話器が持ちあげられた。 「はい、ネイルズですが」  電話には、妹の暁子が出た。 「あ、暁子か。俊之さんの様子は、どうだい?」 「どうって? 相変わらずよ。毎日、のそのそ熊のように店を歩いて、マスター稼業をやっているわ」 「そうか。それを聞いて安心した。変わりはないんだな」 「別に。……どうしたの? 兄さん」 「いや、たいしたことはないんだが、ちょっと胸騒ぎがしてね。俊之さんのこと、しばらく身辺にはくれぐれも気をつけてくれ。場合によったら一週間ぐらい、店を畳んでどこか安全なところに避難したほうがいいと思ってな」 「——何か、あったのね?」 「うむ。おれにもよく事件の全貌は掴めないんだが、夏宮病院の院長夫人が誘拐されている。それに関連して、今度は俊之さんの生命も狙われているような気がするんだ。言えるのは、これだけだ。そこまでしかわからないが、勘弁してほしい。とにかく、気をつけるんだ。わかったね?」 「ええ、わかったわ」  暁子は、何やら決然とした様子で言った。 「教えてくれてありがとう、兄さん。私にはいつか、そんなふうな日が来るような予感がしていたのよ。いいわ、彼の生命と身柄は、私が守ります。今すぐ店を畳んで、江ノ島の知り合いのところに避難するわ。兄さんは、安心してちょうだい」 「頼むよ」  それだけを言い残して、秋津は電話をきった。  ふーっと、宙に息を吐いた。 (暁子なら人一倍、しっかり者で勝気な女だから、委せておいて大丈夫だろう) 「さて、おれたちは見張りに精出すか」  秋津は、そう言いながら窓辺に寄った。外に、夕暮れが訪れはじめている。谷あいの家々には、電気が灯りはじめていた。  しかし、めざす家はまっ暗なまま、寂《じやく》として動きがない。  赤い車はまだ裏庭に置いたままなので、動きはぴたっと、止まっているようであった。 (この分だと、持久戦だな……)  秋津はそう呟《つぶや》いて、 「香津美……きみはお風呂を使ってきなさい。こちらはぼくが引き受けるから」 「そう。じゃ、わたし、お風呂にはいってくるわ。久しぶりだから、よーく洗ってくるわね」  香津美は明るく言って、バスルームに歩いていった。  めざす家に動きがなければ、とりあえずはベッドになだれこむのも悪くないな、と秋津は不埒《ふらち》なことを思った。 第七章 夏宮病院の秘密    1  見晴らしは悪くなかった。  モーテルは、葉山の松林の丘の上にあった。  もう夜が深まって、カーテンの打ち合わせの隙間から、蒼白い月光が射し込んでいた。  仙道香津美は、素裸でベッドに横たわり、ヒップの張った放恣《ほうし》な姿態をさらして、ボリュームを絞った音楽を聴いている。  外は梅雨明けの浜風。部屋の中はロック。おまけに香津美の裸身ときては、一足早い湘南族の怠惰でセクシーな、リゾート気分というやつだが、それでも秋津則文はまだ頑固にベッドに背をむけ、カーテンの打ち合わせの隙間から、熱心に双眼鏡で外を覗いている。  秋津は、ある一軒の家を見張っているのだ。  裏窓から、その家が見える。  めざす別荘風住宅は、丘陵地帯の谷間をはさんで、少し遠いが正面に見えた。そのあたり、雑木林の斜面に、別荘や会社の寮やモーテルや住宅などが点在しはじめていて、白い家も、その一軒だった。  木造二階建ての家の前に、芝生と花壇のついた広い庭があり、駐車場に、夕方から院長夫人、夏宮綾香の愛車である真紅のBMWが駐められたままであった。  そうして、そこにあと一台、白いポルシェで二人組の男が到着して、家の中に消えてからもう二時間がたつ。 (間違いなく、あそこだ……)  秋津は、失踪した夏宮病院長夫人、綾香が有隅喜八郎らによって、その家に連れ込まれているのではないか、とみて追跡しているのである。  でも、秋津があまり窓外ばかりを注視して、自分をかまってくれないので、香津美はややむくれて、 「どう? 何か動きがあるの?」  ラジオのスイッチを消しながら聞いた。 「いまのところ、収穫なし。部屋の灯かりはついている。車はまだ、裏の駐車場に駐めたままだ。やつら、あんなちっぽけな家でいったい何をしてるんだろう?」 「院長夫人が連れ込まれていることは、確実なの?」 「いや、それがまだわからないから、こうして見張ってるんじゃないか。確証さえ掴めば、おれは今すぐにでも木刀でもぶらさげて、夜襲をかけるよ」 「今夜はもう、何も動きがないんじゃないの。ねえ、こっちにいらっしゃいよ」  仙道香津美が、悩ましい身体をうねらせて誘った。 「そうだな。朝方まで動きがないのなら、ちょっと愛情タイムを入れてもいいのかもしれないな」  秋津は、少し監視の手をゆるめても、大勢に影響はないだろう、と双眼鏡を傍らに置くと、ガウンをぱっと脱いで、ベッドにすべり込んだ。 「そうよ。そうこなくっちゃ」  香津美が枕を並べてくれて身をよじったはずみに、腋《わき》の下が露《あら》わになり、かすかな育毛《いくもう》が見えた。除毛剤をつけても、すぐにのびてくるのだという。道理で、股間の茂みも旺盛なはずである。  もう少し、こっちへいらっしゃい、と身をよじったはずみに、茂みの奥に赤いはざまが開いた。  静かに、抱きあう。  久々の軽いキスからのスタート。  くちづけをしながら、彼女の触れがいのある乳房に触り、揉んだ。  何度、触っても触りがいのある乳房である。  揉みたてると、香津美は、めまいを起こしたような顔になった。  腰をうねらせる。乳房を掌のなかに包みマッセルすると、肌は量感とぬくもりを押し返してくる。傍ら、反対側の乳首を口に含んで、左手を胸から腰へ、そうして下腹部のたおやかな丸みから秘毛のほうへ指をすすめると、茂みの下のあたたかく濡れた果肉が触れ、香津美があン、とのけぞった。  ぬかるみを少し耕すと、 「ね、ね。……入れて」  香津美が早くも手をのばしてきて、催促した。  秋津は、身を起こした。  香津美の両下股を大きくあけさせて、そこにキスを見舞いにいった。  ひとしきり、ぬかるみを舌先で捏ねくっておいて深追いはせず、繋ぎにゆこうとした時、香津美が珍しく上になる、と言いだした。 「ね、いいでしょ。私、上になりたい」 「ああ、いいだろう。香津美に似合うと思うよ」  秋津は、香津美を上にのせて、両下肢を押しひらいた。香津美が上にまたがったまま、指を添えたものを自らの蜜壺に、導き入れる。  秋津の灼熱がすべり込むと、 「おおーっ」と、香津美はのけぞって、ぐいと女孔で男性自身の根っこのぐりぐりを押さえつける。  ゆっくりと腰をうごかし、上下させる。  香津美としたら、驚くべき進歩である。 「おお……おお……おお——っ」  香津美は自分で動きながら感動し、茂みと茂みをこすりあわせて、身体を波打たせ、うねらせはじめた。  熱いうるみから、汁がしたたる。  香津美の身体は、うねりをつよめ、のけぞりすぎて後ろに倒れそうになるたび、手は秋津の両手を握ってバランスをとり、腰が奔馬《ほんば》のように躍った。  秋津は時に下から、香津美の豊かな乳房を握ってやり、両手でその柔らかい肉球を揉み、翻弄した。 「そうよ。強く……強く……掴んで!」  腹のうねりが、のたうつ状態になり、黒々とした恥毛を割って愛液が湧きだした。  秋津の下腹部が、女の蜜液で濡れてゆく。  秋津は乳房をこねくっていた両手を腰にまわし、ぐいと掴んで下から巨根をカウンターパンチ気味に打ちこむ。 「ああっ……」  香津美の首がのけぞって、白い喉がみえた。  叫んだり、呻いたりするたび、たえず薄く開いた女の唇の中で、赤い舌がカメレオンのように動き、乾いた唇をぺろぺろ、舐めずったりした。 「お願い」  香津美が短く言った。 「お願い……いって! いって!」  男を呑《の》みこんだ腰が、われを忘れて円を描いた。  香津美の腰はもう、奔馬のように躍っている。  クライマックスが近づいているようであった。  それを追いあげながら、秋津が下から打ち込むたび、 「おお、おお——ッ」  香津美はとうとう、物狂おしい声をあげ、嵐のような終局の波動に押し包まれていた。    2  ——終って、秋津はシャワーを浴びた。  香津美の成長ぶりに驚きながらも、満足している部分が多かった。女体の中で強い締めつけを受けた秋津の分身は、放出を終えたにも拘わらず、まだ熱い感覚を残して勃起したまま、シャワーの湯をはじいていた。  シャワーの湯を止めて、バスタオルを頭に被せた時、  ——トントン、  と浴室のドアがノックされた。 「何だい?」  ドアを開けて覗くと、 「大変よ、大変! ……出てきたわ」  香津美が、早口にまくしたてた。 「出てきたって、何が……?」 「ほらほら、あの家。外に人が出てきたのよ。今、車に何か積んでいるみたい」  香津美は窓から外を指さす。  秋津の代わりに双眼鏡での監視をつづけてくれていたらしい。 「なにい……それは、大変だ!」  秋津は急いでバスタオルで身体を拭きながら、窓際に取って返し、香津美が手にしていた双眼鏡を奪いとった。  双眼鏡のノズルを絞って眺めると、なるほど、一組の男女が、家から手荷物を運びだして、車に積んでいる。  男は、有隅喜八郎という男のようだった。女は、秋津が一度みた、由比ケ浜のスナック「渚」のママのようであった。  もう一組、若い男同士の二人が、別の車にこれも何やら荷物を運び込んでいる。 (やつら、遠出するつもりだぞ!)  今のところ、夏宮綾香の姿は見えなかったが、一緒に連れてゆく公算が大きかった。  また、移動中なら、綾香の姿を確認することができる。  そんな、気がした。  予感は、もう確信に近かった。 (こうしちゃ、おれない。さあ、急ごう) 「香津美、おれたちもあの連中を追跡しよう。急げ!」  二人は、大急ぎで外出支度に取りかかった。  二人が車に乗って、モーテルの表からすべりだし、目標の家の近くまで行って停車していると、やがてその目の前の道を、二台の車がすべってきて、通過していった。  先頭の車のリアシートには、たしかに夏宮綾香らしい女が、もう一人の女に手を掴まれるようにして、並んで乗っていたのである。 (もしかしたら、両手両足を縛《しば》られるとか、凶器で動きを封じられているのかもしれない)  ともかく、間にあってよかった。  あいつらを尾《つ》けよう。  秋津は、二台の車の後ろから、一定の距離を置いて、ゆっくりとスプリンターをすべりださせた。  先頭の二台の車は、繋がったまま、葉山御用邸の前の三叉路《さんさろ》を右折し、鎌倉のほうにむかった。  秋津も気付かれないよう、少し間を置いて右折した。  腕時計をみると、もう夜の十一時に近い。それでもその道は、幹線道路なので、けっこう車の通りが多いので、助かった。かなり距離をつめても、間に一、二台の他車を挟むと、気づかれる心配はなさそうだった。  いつの間にか小坪を抜け、鎌倉の材木座に出ていた。  鎌倉の町にはいるのかな、と思っているとそうではなく、海岸通りをまっすぐに走って由比ケ浜のほうへむかっている。 「どこまでゆくのかな、あいつら」  運転しながら、秋津は呟いた。 「まだ遠くまで走るつもりのようだわ。中央車線ばかりはしっているもの」 「追い越してみようか。そうしたら、前の車に乗せられている女が綾香さんかどうか、もっとはっきり確認ができる」 「それは危ないから、よしたほうがいいわ。私も先刻、ちらっと見たけど、あの人、間違いなく院長夫人よ。このまま、そっと尾けていって、彼らがどこで、何をしようとしているのかを、突きとめたほうがいいと思うわ」 「そうか。うむ、それが賢明というものかな」  車はやがて稲村ケ崎を抜けて、江ノ島に近づいていた。江ノ島の街並みにはいるのかと思っているとそうではなく、海岸通りを走り、やがて江ノ島の突端にむかう大橋にかかった。 「おや、橋のほうにまがるぞ。やつら、岬《みさき》をめざしているようだぞ」  先行車は予想どおり、江ノ島の岬に渡る長い橋を走ってゆく。 (やつら、岬のどこかに隠れ家でも持っているのだろうか。そういえば、岬の裏には辺津《へつ》の宮洞窟といわれる海蝕洞《かいしよくどう》が多い……)  秋津は、薄気味悪い思いを抱きながら、着実に尾行した。  橋を渡り切ると、正面が江ノ島弁財天の社《やしろ》へつづく参道。そうして左手がヨットハーバーへの道である。  どちらにゆくのかな、と見ていると先行車はすでに人っ子一人通らない参道をまっすぐ、登ってゆく。  昼間は人出で賑《にぎ》わう土産物店も、今はもうすべて閉まっており、通る人もいないので、車で尾行すると目立つ。  秋津は参道の手前で車を停め、急いで飛びだした。  参道は一直線なので、どこで停まるかは、視認できる。秋津は土産物店の軒下に身を寄せながら、小走りに車を尾《つ》けた。 (やつら、岬の裏側までまわるのだろうか)  裏側まで走られたら、徒歩で追跡するのはことだぞ、と心配していると、そうではないことがすぐにわかった。  参道の右側には、ホテルや旅館が並んでいるが、先行車は参道の途中から、ふいっと右折して視界から、消えたのである。  右折した地点は、すぐに確認できた。  そこまで走って、右手をのぞくと、崖に出る道があり、その突きあたりに灯の消えた大きな二階建ての和風旅館がたたずんでいた。  秋津もこのあたりの事情には詳しい。たしか「海聴楼《かいちようろう》」という大正時代からの大きな名門旅館だったと、憶えている。古い旅館なので、鉄筋コンクリートの近代ホテルに建てかえるために、今は営業を中止している、といったふうに見える。 (そうか。今は閉鎖されているその無人の旅館に陣取ろうというわけだな)  秋津が近づいて、なおも観察していると、話し声と足音が乱れ、やがて一階と二階の幾つかの部屋に、電気がぱっと、ついた。しかし、すぐにカーテンが閉められた。  秋津は、建物の陰にひそみ、ひとしきり、巨大な軍艦のようにうずくまっている旅館を観察した。  しかし、閉めきられたカーテンの陰になって、中の様子は窺《うかが》えない。  はいってみるか、と思った瞬間、秋津の脳裏にこのあたりの地形が閃いた。 (そうだ。あの旅館の裏はたしか崖になっていて、長い石段が海までつづいていたな。その崖下の海に、たとえばやつらがモーターボートでも待機させているとしたら、これはもう誘拐事件の典型的な構図ができあがるのではないか……?)  秋津は瞬間的に、人質を楯《たて》に身代金を奪って逃亡を図るやつらの作戦が、手に取るようにわかった。 (そうだ。夏宮病院と連絡をとってみよう。もしかしたら、やつらから身代金の要求が病院のほうに届いているのかもしれないぞ)  秋津はそっと土産物屋の軒下を離れ、車にとって返した。  車の運転席に、携帯電話をのせている。  飛びのってすぐ、携帯電話のプッシュボタンを押した。  幸運だった。数日前、夜の病院で懇《ねんご》ろにデートした看護婦の春山敏恵は、今夜も宿直らしく、病院にいた。  ナースステーションに、その電話はつながった。  春山敏恵がでたので、すぐに、 「……もしもし、おれだ。秋津だよ」  秋津が小さな声で話しかけると、敏恵はびっくりするような、大きな声をあげた。 「あ! 秋津さん! いいところに電話をもらったわ。今日は夕方からずっとあなたを探していたのよ」 「何かあったのかい!」 「あったどころじゃないわ。院長夫人を誘拐したという犯人の一味から、病院のほうへ三億円の身代金の要求電話がはいっているのよ」 (——やっぱり、そうだ)  と思いながら、秋津はでも、不審そうに訊いた。 「ほう、身代金をねえ……しかし、実家ではなく病院のほうへ電話をかけてくるとは、妙《みよう》だな」 「院長が入院してらっしゃるからよ。ほら、例の怪我で……その病室へ直接、電話がかかってきたみたい」 「どういうことだか、詳しく話してくれないか」  春山敏恵によると、その電話が最初に入ったのは、今日の午後一時のことらしい。  犯人は、電話を院長の部屋につなぐように指示し、院長が電話に出ると妻の綾香を預かっているので、銀行が閉まるまでに三億円を用意し、一億円ずつ段ボールに詰め込んで待機するよう、命令したという。  それが、第一回目の電話だった。  第二回目の電話は、夜の九時に鳴った。 「金は用意できたか?」  犯人は、そう聞いた。院長が用意して段ボールに詰めて待機している、と答えると、 「今夜の午前一時、江ノ島の橋のどまん中のあたりに目印の白い旗を結びつけておくからそこから欄干《らんかん》の下の砂地にむかって一億円入りの段ボール箱を一つずつ、三個とも落とせ」  という指示をよこした。  その際、犯人は、 「いいか、警察には絶対に告げるな。警察に告げると、妻、綾香の生命はないし、脳外科手術にともなう夏宮聡太郎、おまえの悪魔の所業と秘密を世間に公表する。妻を無事返してもらい、病院の秘密を、洩らされたくなかったらおれたちの言う通りにしろ」  と、命令したそうである。  春山敏恵は、入院している院長付の看護婦なので、そういう電話のやりとりや、院長が何をどう指示したかは、すべてわかる立場にいた。 「それで、院長はどう答えたんだ?」 「わかった、きみたちの言う通りにする。と答えてらっしゃったわ。そうして現に、今夜の午前零時に事務の人が、身代金を運ぶみたいよ」 「警察には?」 「今のところ届けてらっしゃいません」 「なるほど——そうだろうな。色々ありがとう。おれの方も密かに院長夫人の行方を探しているから心配しないでくれ。ただし、おれのことは院長に言う必要はないから、内緒にしておいてくれよ」  秋津は、電話を置いた。  秋津は腕組みをして宙を睨《にら》み、それから煙草にゆっくりと、火をつけた。  今の話、かなりの説得力と緊迫感をもつ。  今になって考えれば、天誅団と名のる一味が数日前、愛人の部屋で寝ていた院長、夏宮聡太郎を襲って、刃物で傷つけたのは、この三億円身代金要求と一連の脅迫をより効果的にするための、事前|示威《じい》行動だったのかもしれない。  とすると、誘拐団の有隅喜八郎や、あの二人組の男こそ、天誅団と名のる一味だったことになる。  それにしても、やつらの言う脳外科手術の秘密とは、何なのか?  秋津は煙草を少し吸っただけで、灰皿に揉み消した。病院の秘密というのは、まだわからなかった。しかし、誘拐団の作戦は、手にとるようにわかった。 (やはり、そうだ。やつら、橋の下で三億円の身代金を受けとると、すぐ傍に待機させていたモーターボートに段ボールを積み込み、岬の内懐の海聴楼裏の崖下にいったん、逃げ込むつもりだ。そうして警察が張り込んでいるかどうかを確かめ、アジトで身代金を山分けして、再び、何隻《せき》かのモーターボートにそれぞれ乗って、夜陰に乗じてどこかへ逃亡するつもりなのだ。その方法なら、たとえ岬への入口である一本の橋を警察が封鎖したにしても、やすやすと逃げることができる……)  ——さて、どうするか。  答えはもう、肚《はら》の中で決まっていた。  身代金受渡しの午前一時までには、まだ二時間もある。  よし、海聴楼に裏から忍び込んで、綾香の行方を探してみよう。 「香津美、おれはちょっと様子を見てくる。一時間たっても、もしおれが戻らなかったら、どこか手近かの警察に駆け込んでくれ。その時は、�誘拐された夏宮病院の院長夫人が、あの旅館に連れ込まれている�と、ハッキリ証言していいからな」 「そんなに物騒なの?」 「いや、なに。万一の場合さ。おれも充分、気をつけるから、そんなに心配することはあるまい」  車内に積んでおいた樫《かし》の木刀を一振、ひっつかんで秋津は車を出た。    3  同じ頃——。  海の音が聞こえる海聴楼の二階のある一室には、床に燃えるような真紅のカーペットが敷かれているだけで、テーブルも家具も何もない中に、ただ一人、全裸にむかれてぱったりと倒れている女がいた。  女は逃げないよう衣服をむしられ、軽い睡眠薬のようなものを打たれていて朦朧状態らしく、時折、両手の爪がもがくようにカーペットを掴むたび、そのカーペットがよじれて皺目を作るくらいで、顔をうつ伏せにしたまま、尻も腰も肩も、ぴくりとも動かない。  窓にかかっていた黒《くろ》天鵞絨《びろうど》のカーテンがそよいで、海からの粘っこい潮風が室内に流れこんで、女の素肌を嬲《なぶ》った時、ぴくり、と女の体が小ゆるぎした。  そうして顔があげられ、室内を見渡し、 「ここは……?」  女が夢うつつながらも、呟いた。 「どうしてわたし、こんなところにいるの? ねえ、誰か」  女の眼が宙にさまよった時、闇が吐きだした欲情の塊《かたま》りのような男の黒々とした影が、すぐ眼の前にあった。  男は胡座《あぐら》をかいていた。裸だった。さほど大男ではないのに、足長スタンドの光を背にしているので、逆光で黒々とした巨漢のように見えた。  下腹部には剛毛をたくわえ、それに飾られた場所には男の欲望のしるしが、猛々しい意欲の形をとっていた。  半覚醒状態の意識に、それが映像を結んだ時、女の唇から鋭い悲鳴が洩れた。女は自分が裸であることを知って、衣服を探そうとでもするように、激しく身をよじりながら、眼を宙にさまよわせた。 「ねえ。わたしの、お洋服——」 「やっと、眼がさめたかい。車の中では、ちゃんとお座りしてたのによ」 「着るものを……着るものを……返して下さい」 「そんなものは、いらねえよ。あんたが逃げないように、洋服はみんな引きむしってひとまとめにして、別の部屋に隠してあるさ」 「卑怯よ! どうして私にこんなことするの!」 「さあて、どうしてかな。もしかしたらおれ、どこかの人妻を好きになりかけてるのかもしれねえな。まだ時間はある。もう一回、仲よくしようじゃないか」  男の手が不意にのびて、女の手を掴んで、引き寄せた。 「いやったら! はなして!」  女は抗って、逃げようとした。  逃げるにしても裸なので、乳房やヘアを隠すために腹這って逃げるしかない。しかし、幾らも逃げないうち、不意にその足を掴まれ、引き戻されていた。 「まあ、そう嫌うなよ。葉山の隠れ家では仲間がいて仲よく出来なかったじゃないか。な……あと一回でいい。そうしたら、あんたを殺さずに逃がしてやってもいい」 「うそおっしゃい! 私を強引に拉致《らち》して、もてあそんだくせに。あんたなんか、警察に訴えて、絞首刑《こうしゆけい》にしてやるわ!」 「ほう、警察か。絞首刑か。おもしろい。そんなことを言いつづけるから、あんたを最後には殺すしか解決する方法がなくなるんだ。ばかな女だぜ、じっさい」 「勝手なこと、言わないで。いったい、私にどうしてこんなことをするのよ!」 「夏宮病院から三億円、奪うためさ。あんたは誘拐された人質ってわけだぜ」 「うそ! それは口実で、それだけではなさそうじゃないの!」 「そうさ。それだけじゃない。もう一回、やらせろ。そうしたら、何もかも話してやるし、最後には解放してやる」 「そんな約束、信じないわ」 「そうか。信じないか」 「信じるもんですか!」 「信じないでもいいから、やらせろ!」 「このど助平! 今に警察に突きだしてやるわ」 「言ったな。この、あま——」  男は不意に立ちあがって、手首を掴み、掴んだまま、のしかかってきた。 「ああ……やめてったら、やめて……!」  女は床に腹這って、身体を許すまいとして、抗ってはいるが、しかし、全裸同士である。  それに、すでにこの数日間の拘禁生活の中で数回、男には女芯を明け渡している。  最初は暴力ではなかった。酒の中に今と同じように何かの薬が入っていたと思えるが、ともかく肉体関係が成立してしまっている相手である。  女の抵抗には、限度があった。 「もう、いや、かんにんして……」  拒否する言葉が、震えを帯びてゆく。  上流夫人の毅然とした態度は、もうとっくに溶け崩れ突き崩されていた。  豊満な肉体が、後ろから抱かれ、両手で乳房を把まれ、捏ねあげられると、あやしげな気分が霧のように横殴りに頭に渦巻いてくる。 「やめてったら……チキショー!」  夏宮綾香は、ついに下品な言葉まで吐いた。  綾香が軽くのけぞった瞬間、その身体はくるっと仰《あお》むけにされて、真紅のカーペットの上に双脚があやしく開いて、悶えていた。  すかさず男の逞しい肉体が、襲い被さってくる。  接吻もせずに、男はいきなり獰猛な聳《そび》え立ちを院長夫人の熱くほとめく湿潤《しつじゆん》にあてがい、一気に貫いてくる。 「ああーッ!」  脳天まで貫かれるような声が、ほとばしった。  それから男は、もう一方的に動いた。男が物狂おしく動くにつれ、綾香の身体がぐらぐらと揺れ、頭がカーペットの床にことことと鳴った。  綾香が反るたび、黒髪が波打つ。髪とともに、乳房が揺れる。 「ああ……ああ……ああ……」  綾香の意識には、混濁した淫虐《いんぎやく》への酔いがぶり返してきて、乳房や腹部から汗を噴きだし、突き捏ねられる快楽を腰に深く包みこむように、白い双脚がうっとりした姿のまま、やがて輪になって男の背中にあやしく回されてゆく。 「うう……あッ」  男は何やら重大な刻を迎えて背を圧《お》されでもしているように、ほとんど一方的に突きたて、攻めたて、そうして獣のような声を放って、院長夫人の体奥にエネルギーを浴びせかけて果てた。  不意の静寂が、真紅の部屋に訪れた。  窓外に、一点の星辰《せいしん》が尾を曳《ひ》いて流れた。  のろのろと上半身を起こした綾香は、まだ下半身を繋いだままでいる男を邪険に突きとばし、きっと睨んだ。 「有隅喜八郎と言ったわね、あんた。約束でしょ、私を抱いたんだから、さあ、真相を話しなさいよ。どうして夏宮病院を執拗《しつよう》に狙っていたのか。その理由を正直におっしゃい!」  有隅喜八郎は、エネルギーを放出し終えて少し打ちしおれたふうで、のろのろと起きあがり、ズボンをはきはじめた。 「さあ、おっしゃいよ! どうして私を誘拐したりしたの!」 「そうツンケンするなよ」  ふてぶてしく言ってから、有隅は座り直した。「当然、仕返しさ。恨みのある夏宮病院にたっぷりと仕返しをしているところでね」 「私があなたたちに、いったい何をやったと言うの!」 「あんたはやってなくても、あんたの亭主がね、ひどいことをやっているんだ。人道にもとることをやってるんだ。おれの妹はそのために廃人同様になりかけてるんだぞ。本当はさ、奥さん抱いて、三億円奪う程度じゃ、まだ気が収まらねえんだぞ」 「わたしの夫が……? 聡太郎がいったい、何をやったというの? 人道にもとることって、一体、何なのよ」  問い詰めながら、そういえば、夏宮病院への脅迫がつづいていた時、相手は�秘密を洩らされたくなかったら、三億円、用意しろ�と、言っていたことを綾香は思いだした。 「ほら、言いなさいよ。夏宮病院の秘密って、いったい何なのよ!」 「そんなに聞きたいのなら、説明してやろう。いいか、あんたの亭主はな——」  有隅喜八郎は、不幸になった自分の妹と夏宮病院の関わりという視点で、一つの事実を話しはじめた。  ——有隅喜八郎の妹、玲子は、丸の内のOLだったが、アルバイトに夜は銀座のクラブに勤めていた。その店で、ある大手食品会社の社長御曹司に見染められ、プロポーズされて二年前、結婚寸前まで事が運んでいた。  女子大出の才媛で、その上、美貌なので、アルバイトホステスであるにもかかわらず、銀座でも売れっ子ホステスとして人気があったので、社長御曹司が惚《ほ》れ込《こ》んだのも、無理はなかった。ところが、水商売の女は駄目だと、父親や家族が反対し、婚約をめぐって紛《も》めているうち、大磯ロングビーチ近くのホテルの前で二年前の夏、交通事故を起こし、鎌倉の夏宮病院に運び込まれたそうである。  交通事故自体は、ホテルの駐車場に車を入れる寸前、対向車を避けようとしてガードレールにぶつかったくらいで、たいしたことはなかった。それでもハンドルで胸を強打したので、念のため、救急車で夏宮病院に担ぎ込まれたのである。 「ところが、だ。夏宮病院ではレントゲン検査の結果、頭を強打しているところに異常があると言って、入院二ヵ月。院長の執刀で脳外科の手術を受け、妹の玲子のやつは、退院した時はもう昔の美貌の面影はなく、精気を失い、おまけに記憶喪失症に陥っていて、社長御曹司との婚約なんか、いっぺんに吹っとんでしまったんだぞ。この意味、どういうことだか、わかるかい?」  有隅はいきなり、そう聞いた。 「どういう意味かって……わかりません。……私の夫が……夫が見たて違いでもしたというの?」 「単なる誤診なら、まだ許せる。そんなんじゃないんだ。村田という食品会社の社長一族が手をまわして夏宮病院に圧力をかけるか、大金を掴ませるかして、妹の脳にある特殊な手術をし、玲子を人工的に記憶喪失症という�半廃人�に陥らせてしまったんだ!」  有隅は、意外なことを言った。 「まあ……そんなことが……!」  綾香はびっくりして、息を呑んだ。 「人工的に……手術で……そんなことができるの……?」  綾香は院長夫人のくせに、病院のことや医学のことに関してはほとんど無知で、無頓着である。 「できるさ。脳の記憶回路の中にストッパーという小さなプラントを打ち込めば、記憶はプッツンと、遮断されてしまう。今の先端医学では、人間の脳の活動を生かすも殺すも、簡単なことだよ。ただ、それが医の倫理として許されているかどうかは、別問題だけどね」  有隅がそう言いつのる言葉が、ひとつひとつ礫《つぶて》のごとく耳を打っている時、綾香はあることを思いだして驚愕した。  そういえば……三星重工の社長御曹司である久我俊之が、ヨット事故のあと、夏宮病院に担ぎ込まれて奇跡的に生命をとりとめ、身体は回復したが、記憶喪失症に陥ったのも、その話とどこかで筋がつながっているのではないだろうか。  この有隅ら脅迫者たちが、以前から言っていた夏宮病院の秘密というのは、案外、そのことだったのではないだろうか。  綾香は、祖父や父が苦労して育てた伝統のある夏宮病院の中の、自分の与かり知らない闇の深部で、そんな人道上、許されるべきでないと思える医療行為が行われていたなんてことを、初めて耳にして激しい当惑と衝撃とショックを受け、そうして怒りを覚えていた。  しかも、それを夫がやっていたというのである。 (まあ、聡太郎ったら! いくら名医で、医学の進歩のためとはいえ、そんなことをするひとでなしだったのだろうか……!)  綾香は妻としての自分の無知さ、無責任さを痛感すると同時に、夫に対する怒りで、全身の皮膚がひりひりとひきむしられそうだった。  それとあわせて、夫が愛人に狂ったり、女遊びに夢中になったりしていたのも、考えてみれば、案外、そういう自分の先端医学のもつ非人道的な側面に、深い恐怖と悔恨を抱いていたのかもしれない。  女にのめりこむことで、彼はそれを忘れようとしていたのではあるまいか……? (いずれにしろ、医学の進歩のためだったのか、お金のためだったのかどうかは知らないけど、そういう医療は私は、絶対に許せないわ……!)  あらためて、綾香はそう思った。  そうして自分がもし、この脅迫者たち誘拐犯たちの魔手から逃れることができるなら、聡太郎とはもうきっぱりと離婚して、夏宮病院をもとの立派な病院に立て直さなければならない……と、思った。  満ち潮が近づいてきたのか、風が出てきたのか、どどーん、と、海聴楼の裏の海の音が土用波のように高まっている。    4  表は、見張りが厳しかった。  小路から覗いただけでも、海聴楼の玄関の傍らの闇のたむろするあたりに、二人もの男が潜んで、ガードを固めている。  秋津は木刀を握りしめて、思案した。 (やつらは身代金を奪って逃走するまで、用心深く人質をキープしておくつもりだな。この分では、身代金を奪うことに成功したところで、人質を返すという保障はないな。いやむしろ、人質の綾香に顔も事情もさとられてしまっているので、危険を感じて、殺してから逃亡するに違いない……)  そんな予感がした。  この予感は、狂わないような気がした。  それなら、なおのこと早く救出しなくては、綾香が危ない。 (急ごう。海聴楼には崖づたいに、裏口から入る手があったはずだ……)  秋津はそう判断して、見張りにみつからないよう、ツッ……ツッ……ツッ……と闇を拾って海聴楼にいたる小路を離れ、参道を逆に、弁財天正面の山門のほうに登った。  登りつめて、右折する。  竜宮城に似た弁財天の山門の脇から、右へ小道が分かれているのを、秋津は知っている。木陰のその小道を、崖のほうへ少し歩くと石段があり、その石段や崖道をくぐりながら進むと、傾斜地に沿って墓地がある。  昼間でも薄暗く、薄気味わるいところだが、夜はもっと気持わるい。ブルゾンのポケットに忍ばせていた懐中電灯を照らしながら、墓地の横の崖道をさらにくだって、見当をつけた旅館の裏手に出た。  左手は、海に面した急傾斜の崖である。  直下の海辺に、たしかに数隻の船らしいものが、眼下にみえた。やっぱり、一味が用意した現金受取りや逃亡用のモーターボートと思える。  今、秋津はそちらに用事があるのではない。通路の右手が直ぐ海聴楼の敷地であった。  そこからだと、海聴楼の敷地におりるには、フェンスが張ってあった。  鉄条網というわけではないので、越えられないわけではない。秋津はよじのぼって、そのフェンスを越えた。  敷地内にそっと着地したつもりだったが、かなり高い足音が響いて、びっくりした。  遠くで、人声がしたような気がした。 「おい。今、何か聞こえなかったか?」 「裏のほうだったな。どすん、と聞こえたぞ」  一人が様子を見に来ているようである。  秋津は急いで、物陰に隠れた。  用心深く、建物の壁に沿って裏口に近づこうとしている時、 「てめえ、どこから入りやがった!」  声はそれだけで、一瞬後、  ——ぶん。  木刀が、空気を鋭く断《た》った。  秋津はまっ向みじんに打ちおろされた木刀を、ひょう、と躱《かわ》して横に飛んだ。  それでも、ぶん、と二度目に空気を裂《さ》いた風鳴りが耳の傍で鳴った時、秋津の側髪がゆらいだ。躱わしたつもりだったが、それだけ木刀の切先《きつさき》は、身体すれすれに及んでいて、肩をかすめて流れた。 「ちっ」  秋津は二メートル半も横へ逃げ飛んで、月光を透《す》かして相手をうかがった。  相手は背広を着た三十前後の男だった。サングラスをかけている。堅気のサラリーマンには見えなかった。  秋津に、恐怖はほとんどなかった。秋津は大学の講師でフェミニストで、精神的遊び人だが、剣道六段でもある。武道をたしなみながら野放図な青春を送っている、と言ってよかった。  秋津が手に携《たずさ》えている木刀で相手と渡りあわないのは、木刀同士の衝突音は、カーンと乾いた甲高い音なので、それを嫌ったのである。  それよりも、一撃で倒す方法を探っている。 「海聴楼には、用心棒が何人いるんだ」  低い声で聞いた。 「うるせえ。てめえ、何者なんだ!」 「おれの女友達が、この旅館に連れ込まれたという知らせを受けたんだ。どこに隠されているか、知らないか」 「女だと……? きさま、ふざけるな!」  怒声を放って、三撃目の木刀が振りおろされた。  斬線《ざんせん》をよけて秋津は二度、三度、斜めに跳んだ。野郎ッ、野郎ッ、と風を切る音につづいて、木刀が地面を叩く音が聞こえた。  泥が跳ね、チッ! という呻き声があがった。両手に痺《しび》れを感じたに違いない。  瞬間、秋津は直線的に男にむかって踏み込み、その右肩にむかって大上段から一撃のもとに、木刀をしたたかな袈裟《けさ》斬り気味に叩きつけていた。  がくッ、と鎖骨が砕《くだ》け折れる音が響いて、呻き声が湧き、男は木刀を取りおとしてよろめいた。  すかさず二撃目を、脇腹に横から胴割り気味に叩きこむと、ぎゃあ、と悲鳴をあげて、男は身をよじりながら、闇の地面にぶっ倒れた。  秋津はすばやくそいつの襟首を掴み、旅館裏のガレージと見当をつけた大きな物置小屋みたいな建物の中に、引きずり込んだ。  表のドアを閉める。  男は一撃目の肩の打撃が相当痛いらしく、コンクリートの床にのたうちまわった。  秋津は懐中電灯をつけて、男の顔を照らしながら、男の傍に跼《しやが》んだ。 「痛いだろう。ひと思いに、殺されたいか?」 「く……く……くそっ。て、てめえ、てめえ、……」  男は額に脂汗を浮かべて、吼《ほ》えた。 「いま、この旅館に男は何人、いるんだ?」 「そんなこと、知るかッ!」 「夏宮綾香は、どこにいる!」 「そんな女は、知らねえよ」 「そうか。知らないか」  秋津は、男の襟首を掴みあげ、持ちあげて、二、三度、コンクリートの床に後頭部を叩きつけた。 「あんたを殺して崖から海に放り込むのは、簡単なことなんだぞ。それとも死体にして誘拐団の片割れとして、警察に突きだしてやろうか」  秋津は冷ややかに言いながら、携えていた木刀を横にして、男の喉首にあてがい、体重をのせて一気に足でその木刀を踏みつけた。 「ぎゃあ!」  蛙が死ぬような声が湧いて、男の黒眼がひっくり返るのがわかった。  秋津の体重をのせた木刀は、固く喉首に喰い込んで、男を窒息させつつある。 「このままだと、十五秒で死ぬ。どうだ、楽しいか」  少しゆるめてから、もう一度、足で踏みつけた。  頸骨が折れるような、鈍《にぶ》い音が響いて、 「ぎゃあ……!」  呻いてから、足をゆるめないままにして押さえつけると、 「た……た……た……たすけてくれッ!」  男は、両手でコンクリートの床を叩いて哀願した。 「ようし。助かりたいなら、答えろ」 「こ……答える。何でも答えるから、助けてくれッ」  秋津は木刀をそのままにして、膝で軽く押さえ、懐中電灯の先を男の顔にもう一度、あてた。 「院長夫人は、どこに隠している?」 「に……二階だ。二階の通路の奥に大広間がある。そこに……そこに……」 「よかろう。この旅館に、ほかに男は?」 「三人いる。おれを入れて男が四人と、女が一人だ」 「それが天誅団を名のっている一味のすべてか。ふざけてやがる。有隅喜八郎が頭目か?」 「そ……そうだ。有隅が頭目だ。おれが、実行部隊では、二番手となっている」 「なぜ、夏宮病院を狙った? 金が目的か?」 「違う! 金は行きがけの駄賃だ。それよりおれたちは復讐したかったんだ。夏宮病院の……夏宮病院の……夏宮聡太郎に復讐したかったんだ!」 「院長に……復讐……? ほう。妙なことを言うじゃないか。その理由を話せ!」  男は、田宮賢一郎《たみやけんいちろう》と名のった。やくざっぽい言葉つきだったが、それは浪人してからのことで、以前の彼は三星重工の社員だったそうだ。それのみではなく、久我俊之の友人のヨット仲間だったというから、秋津はいささか驚いた。  驚くべきことの第二点は、久我俊之のヨット事故による記憶喪失症が、実は作られた記憶喪失症であり、それも事故のあと、運び込まれた夏宮病院の脳外科手術に原因があると、田宮は言うのであった。  久我俊之といえば、三星重工の御曹司である。それだけではない。秋津にとっては、学生時代からの古い友人であり、しかも今は実妹、暁子を結婚させているので、義弟ということになる。  その義弟の久我俊之の、人権の基本に拘《かか》わることとあっては、すててはおけない。  秋津はいささか、カッとして、 「脳外科手術で記憶喪失症に陥らせたとは、どういうことだ。詳しく話せっ!」  秋津が問い詰めると、田宮はそれから、三星重工の取締役社長、久我久常の長男、久我俊之と、腹違いの弟、久我継之進の世継ぎ騒動めいた争いから、秘密の脳外科手術にいたる意外な内幕を、縷々《るる》、説明したのであった。  それによると、こうであった。  日本を代表する企業、三星重工の代表取締役社長、久我久常には、世襲制の社長の椅子をめぐって争う仲の悪い二人の息子がいた。  一人は、長男の俊之であり、彼は正統の後継者として帝王教育を受け、坊ちゃん育ちで別に弟を毛嫌いしていたわけではない。  しかし、一つ違いの弟の継之進は、久常の正妻たづるの息子ではなく、愛人円山須磨子の子供であり、生来、負けん気がつよく、自分が日蔭者の子供だということを知ってからは、なおさら、兄の俊之に対してことごとく対抗意識を異常にもやすようになった。  俊之が、ふつうの名門私大を並の成績で卒業したのに対し、継之進は本郷の帝大を首席で卒業するといった具合に、思春期から相当のライバル意識を持っていただけに、差別しては悪いという久常の思いやりで、継之進も大学を卒業すると同時に、俊之と同じ三星重工業本社に入社させた。 「おれは兄貴の俊之より、ずっと頭がいいんだ。ただ愛人の息子だからといって、冷や飯をくわされるいわれはない。おれこそ三星の将来を背負う若き帝王なんだ……!」  継之進は秘かにそういう自負をもち、必要以上に兄をないがしろにし、また酒席ではまわりにむかってことあるごとに、「いずれおれが将来の社長だ」と豪語するくらいの狷介な性格であった。  これに対し、俊之のほうはいたってのんびり屋で、三星に入社してからも社長室直属の秘書課をふりだしに、営業や総務をまわって、ほとんどマイペースながら、着々と会社の中枢機能を司る立場にいて、腹違いの弟の存在や敵意など、意に介さなかったし、眼中になかった。  ところが、継之進も入社して三、四年たつと、営業の第一線で頭角を現わしてくるとともに、「おれは社長の御曹司だ。いずれは役員室に入って、トップにたつ」「今のうちにおれに忠誠を誓っておいたほうがきみたちのためだぞ」とまわりに豪語して、いわゆる「継之進派閥」なるものを作るようになって、一大勢力にのしあがってきた。  久常はそれを知って、心配した。  二人の兄弟が争ったら、企業は危うくなる。  継之進を呼びつけて注意したが、彼の派閥作り癖と過度の上昇志向は、なおらなかった。  はじめはおっとりしていた俊之も、五、六年目になると、継之進を無視するわけにもいかなくなった。  彼も何かと継之進を意識して敵対するようになり、正統派、直系派閥と呼ばれるものを作りはじめ、この両派はことごとくいがみあうようになり、いわば、大三星重工がまっ二つに割れるような、お家騒動に発展しそうな雲行きとなった。  そんな時に発生したのが、湘南の海での俊之のあのヨット事故である。事故そのものは、純粋に海難事故のようであるが、クルーの中には継之進派の若手社員も乗っていて、荒天とヨットの傾斜を利用して、いっそひと思いに転覆させて俊之を溺死《できし》させようとしたのは、継之進派のクルーではないかという見方もあり、現に俊之がオールで頭を殴られるところを目撃した人間もいる。  しかし、その海上の一幕のパニック劇そのものが、問題なのではない。問題は、頭を打って救助され、意識不明のまま鎌倉の夏宮病院に担ぎ込まれてからの、院長夏宮聡太郎の処置と、院長を抱き込んである秘密治療を行わせた久我継之進の黒い策謀に、重大な疑惑があった。  それというのも、継之進は以前から何かの拍子に夏宮病院の院長、夏宮聡太郎が脳外科の大家であり、日本で数少ない先端医療の技術を実地に移している野心的な脳外科医であることを、知っていたようである。  そこで継之進は、俊之が意識不明で夏宮病院に担ぎ込まれたことを知ると同時に、鎌倉に駆けつけ、夏宮聡太郎と秘密裡に会談し、巨額の謝礼と、今後、三星財閥をあげて夏宮医療財団を応援するという念書まで交わし、夏宮聡太郎に、昏々《こんこん》と眠りつづける患者の久我俊之に対して、ある脳外科手術を希望したのであった。  それが「ストッパー手術」である。  人間の脳の中で司どられている記憶装置の中に、プラントを打ち込み、その人間の記憶装置が、それまで所有していた記憶を、すべてストップさせてしまう手術であった。  いわば、一人の人間を完全に記憶喪失症に陥らせ、半廃人にしてしまう手術である。  継之進としたら、その人間の生命を奪おうというのではない。  たかが「記憶」回路を、ちょっといじるだけである。  それなら、さほど重大な犯罪ではあるまい、と継之進は考えたかもしれない。現に、それを罰する法律はないかもしれない。しかも、その人間の「社会的生命」を奪うには、打ってつけの方法である。  つまり、それによって俊之は失脚し、大三星の社長職はいずれ、自分が受け継ぐことができるのである。  それで継之進と夏宮聡太郎は、密約した。  それが、俊之失脚の真相である。  田宮賢一郎《たみやけんいちろう》は、そういうことを話した。  秋津は恐るべき真相を知って、一瞬、言葉を失った。  崖に打ちつける波の音が高かった。 「それがあんたと、どう関係するんだ!」  田宮の言い分に、まだ分からないところがあった。  田宮は最後に自分の立場を話した。 「……おれも実は、三星の中で継之進派閥の社員に取り込まれていたんだ。その上、昔からの俊之のヨット仲間だ。正直に言うと、あのヨット事故を仕組んだのは、継之進に命じられたおれたち数人のせいなんだ。しかし、その策謀を知っているため、負傷して俊之と一緒に夏宮病院に入院した時、おれも同じ手術をされて、二年間、棒に振ったんだ。さいわい、おれの場合は軽度の措置《そち》で、よその病院でストッパーを抜いてもらって、元の身体に戻ったが、しかし、もう三星には戻れなかった。今でも時折、頭が疼く。おれを廃人同様にした夏宮聡太郎が憎い!」 「それは、逆恨みというものじゃないかね。むろん、あんたの恨みも少しはわかる。人道を無視した夏宮聡太郎は許せない。しかし、それ以上に、あんたはそもそも、お家乗っ取りを策した久我継之進を恨むべきじゃないのか」 「わかっている。いずれ、どこかで継之進一派の真相を話すつもりだった。しかし、その前に、夏宮聡太郎が許せない。あいつはな……あいつは、おれや有隅の妹だけではなく……」  田宮はこの際とばかり、言いつのった。  それによると、夏宮聡太郎は、他にも幾例か特殊な脳外科手術を行っているそうだ。  わかっているだけでも、久我俊之と同じように記憶喪失症に陥らせるための「ストッパー」手術が七例、家庭内暴力や校内暴力をふるう狂暴な性格の人間をおとなしくさせる「ロボトミー」手術が九例。会社や団体、政治的な世界で何かと反抗的な人間を従順にさせ、忠誠を誓わせる「性格改造ロボトミー」手術が九例。などなど、今の医学の倫理ではまだ、討議されていない、そうして認められてはいない脳外科手術を、夏宮聡太郎は秘《ひそ》かに夏宮病院の手術室ですすめていたというのである。  それだけ、彼は進んだ技術をもつ優秀な脳外科の医師だったわけである。  しかし、それは同時に、社会的には認められない残酷な人体実験の要素をも、孕んでいたのである。  しかし、彼は、「依頼金」なる法外な礼金をとって、そういう特殊医療に携わっていたそうである。いくら、家族や身内が求めたとしても、患者の生命に直接、拘わりがないレベルだからといって、性格や気質まで改造してしまう手術や、記憶喪失症に陥らせて、社会的生命を抹殺するがごとき手術は、これはやはり、現段階では許されていいことではないと思える。  秋津は、そう思った。 「天誅団」を名のった田宮や有隅たちの怒りも、少しはわからぬではなかった。  しかし、それにことよせて、聡太郎の所業とは直接、関係のないはずの院長夫人・夏宮綾香を誘拐し、もてあそぶことで復讐心を満足させ、あわせて巨額の身代金をせしめようとすることは、筋違いもはなはだしい、と秋津は思う。 「よーし、わかった。あんたにはここで少し、寝ていてもらうからな。おれには院長夫人を救う義務がある。少し痛いが、我慢しろよ!」  言い終わらぬうち、秋津の左拳が風を巻いて田宮の鳩尾に打ち込まれ、気絶させておいてから、秋津は木刀をひっ携えて、すっくと立ちあがり、その薄暗いガレージを出た。    5  月光が冴《さ》えていた。  崖下から、どどーんと波音が響く。  その暗い潮の音に似た怒りが、いま秋津の胸の中で荒れ狂っている。  それは、田宮から聞いたばかりの先端医学の奢りに対する怒りでもあった。  海聴楼の本館に取りつく寸前、闇からぬっと一人の男が躍りだし、 「てめえ、何者だッ!」  ギラ、と刃が光って、男は身構えた。  秋津は、無視して玄関に歩いた。 「野郎ッ、おい、待て!」  吸い寄せられるように刃が繰りだされた。 「くらえ!」  秋津の木刀が唸って、刃を叩き落とし、返す木刀で男の顎を下から叩きあげていた。 「ぐわっ……!」  男の影は、吹っとんだ。  その隙に本館に飛び込んだ。  今は営業されていない大きな旅館は、巨大な柱や梁を黒光りさせて静まり返り、懐中電灯をつけなければ、歩けないほどの暗さだった。 (二階と言ってたな)  靴をはいたまま正面の沓脱石《くつぬぎいし》からあがって、階段に取りつこうとした瞬間だった。  ここでも階段の陰から闇がうねって、男が躍りだし、猟銃の銃口を突きつけてきた。 「おい! てめえ、いつはいってきやがったんだ!」  阻止しようとして、銃身を逆さに握り直した。  いきなり発砲しなかったのは、秋津を甘く見たか、あるいは銃声が轟いて誘拐事件が外に洩れるのを、惧れたのかもしれない。  銃床を振りあげて、殴りかかったのである。  身体を躱わして、ひょい、とはずす。 「ほっ、チャーチル。凄えの持ってるじゃないか。薪雑棒のように振りまわすのは、もったいないというものだ」 「何を、この野郎……」  二撃目を振りあげようとした寸前、秋津の木刀が風を捲《ま》いて唸って、ぴしり、と男の腕を打ち、ついで胴を薙《な》ぎ払っていた。  男は猟銃を取り落として、突んのめって倒れた。  階段を駆けあがった。  廊下の突きあたりに、その大広間のドアはあった。  あと一人残っている有隅喜八郎にも、下の騒ぎは聞こえていよう。  綾香に、万一の危害を加えていなければいいが、と祈った。  用心しながら、秋津はドアをそっとあけた。すると、途端に内部から、 「来るな、近づくな。院長夫人を殺すぞ!」  有隅喜八郎の声が響いた。  飛び込んでみて、あっと驚いた。その大広間には、床一面に燃えるようなまっ赤なカーペットが敷かれているだけで他に家具調度の類いはなく、その中央に綾香が後ろ手にロープを巻かれ、口にさるぐつわを咬《か》まされて、全裸で立たされている。その綾香を楯《たて》にして、有隅喜八郎がナイフを彼女の首筋にかざして、後退りながら、怒鳴《どな》っているところであった。 「来るな! 近づくな! 近づいたら、この女を殺すぞ」  屈辱に耐えながらも綾香が、美しい眉《まゆ》をいとも哀《かな》しげにうねらせて、かっと眼を見開いて、秋津にむかって無言の救いを求めている。 「有隅さん、あんたらがなぜ夏宮聡太郎に仕返しをしようとしているかは、わかる。おれも今、話を聞いたばかりだ。しかし、奥さんには何の罪もない。はなしてやれ」  秋津は木刀をだらんと下げたまま、言った。 「何を言ってやがる。きさまに、美人の妹を半廃人にされた口惜《くや》しさがわかるか!」 「おれにも妹がいる。その妹は、記憶喪失症にされた久我俊之に嫁がせてるぞ。久我俊之だ。あんたも知っていよう。人間、記憶を失ったくらいで、死にはしない。何とも不自由ではないぞ」 「何だと……? 久我に……?」 「そうだ。知っていよう。彼の妻の暁子はおれの妹だ。久我が記憶を失っておとなしい、いい男になったから、人生の伴侶《はんりよ》にさせてやっているんだ。おまえの妹も廃人になったわけではないぞ」 「ほざくな。妹は玉《たま》の輿《こし》を失ったんだ。きさまとはわけが違う。その木刀を捨てろ!」 「いいから、いいから、奥さんを放せ!」  秋津が話しながら近づいているのは、有隅の背後のもう一つの控《ひか》えのドアが開いて、驚くべきことに、仙道香津美が猟銃を構えて、こっそりはいってきたのを、目撃しながら、「時間稼ぎ」をしているのである。  香津美は、階段の下に転がっていた猟銃を拾ってきたようである。 「今ならまだ、罪が浅い。奥さんを放せ」  うるさい! と有隅が怒鳴った。 「言うな! 近づくな! 一歩でも近づいたら、殺してやる」  有隅喜八郎が殺気だって、後退った。 「ばかだな。後ろを見ろ。あんたはもう、背中に猟銃を突きつけられてるんだぞ」  有隅が、ぎょっとして、 「何だと?」  振りかえった。  その瞬間、秋津は左手の懐中電灯を投げた。  後頭部に、命中した。  ぐらっときた有隅喜八郎の右肩に、すばやく飛びこんだ秋津の木刀が、打ちおろされていた。  有隅は呻き、綾香から手をはなして、ナイフを取りおとしてよろめいた。  秋津はたてつづけに、肩と脇腹に見舞って、有隅を床に倒した。 「さ、綾香さん、もう大丈夫です。急いで出ましょう。こいつらは警察を呼んで、大掃除させます。さ、表に車を待たせています!」  よろめく夏宮綾香を支えて外に出た時、午前零時の、初夏の生ぬるい風が江ノ島の岬全体を包んでいて、足許《あしもと》はまだ暗かった。 終 章 窓から七月の海が見える  午後の陽射しに、海がきらめいていた。  今日の相模湾は、七月の陽射しの下にどこまでも凪いでいて、鏡のように澄《す》んだ青空の下に、髪の毛一筋の境目をつくった水平線が、陽炎のように燃えたっており、波は手前に近づくにつれて皺目《しわめ》を大きくして、稲村ケ崎の浜辺にむかい、ざざざーっ、どぶん、とひねもすのどかに打ち返している。  開け放された白いフランス窓から、そんな梅雨明けの湘南の海が見えた。  その海を見ながら、秋津則文は「ネイルズ」の窓辺で、黒ビールを傾けていた。 「やっと、終わったな——」  と、秋津則文は呟いた。 「そうね。事件は、やっと終わったわね」  テーブルに頬杖をついて、仙道香津美が言った。  香津美はドライ・シェリーのカクテルグラスを右手に持ち、左手で頬杖をついて、やはり開けられた白いフランス窓から、幾分、憂欝《ゆううつ》そうに遠くの七月の海を見ている。 「でも、あまり気分のいい終わり方じゃなかったわね」 「ああ、正直に言うとね。あまり気分のいい事件じゃなかったな」  たしかにそうだ、と秋津は思う。  事件が解決したからといって、にわかに爽《さわ》やかな気分になれるものではない。  何といっても、事件の背景となっていた夏宮聡太郎博士の隠された脳外科手術への異常なる熱意が、何となく薄気味悪いものに思えて、後味が悪いのである。  人間を記憶喪失症に陥らせるなんて、まるで、現代の一幕の怪談を見せられたような、そんな気分なのであった。  事件はあのあと、秋津らの通報で誘拐犯たちがたてこもっていた江ノ島の「海聴楼」に警察陣が踏み込み、有隅喜八郎、田宮賢一郎ら男女五人が、院長夫人夏宮綾香誘拐や暴行、脅迫罪容疑で一網打尽《いちもうだじん》に逮捕され、一連の夏宮病院脅迫事件に関する余罪が追及されているところである。  しかし、不思議なことに、事件の核心ともいうべき夏宮病院の脳外科手術については、なぜか真相は公表されなかった。どこかの医師団体か医療行政の官庁が、圧力をかけたのかどうかは分からないが、人間を記憶喪失に陥らせる「ストッパー」装置の手術については、公序良俗に反する、という警察の判断で公表がさし控えられ、ともかく闇から闇に葬《ほうむ》られたのであった。 「結局、どしゃ降りの雨の夜、七里ケ浜で轢き逃げされた大原憲司の轢き逃げ犯は、院長の夏宮聡太郎だった、というあたりが、おれにはとても象徴的で、ショッキングだったね」  秋津は幕引きされた事件をふり返りながら、黒ビールをぐびりと、と飲んだ。 「そうね。自分の脳外科手術の秘密を隠すために、それを知られて外に洩らそうとする病院の事務員をどしゃ降りの深夜、院長自らが轢き逃げするなんて、どう考えても悪魔の所業か、錯乱した博士の仕業としか思えないような出来事よね」  頬杖をついて、仙道香津美もそう言う。  香津美は、ドライ・シェリーのカクテルグラスが空になったのをみて、ウエイターにおかわりを注文した。  大原憲司の轢き逃げについては、一連の事件の参考人として、警察に呼ばれていた夏宮聡太郎自身が脳外科手術の事情聴取の過程で、自ら犯人だと名のり出て、一部始終を供述したそうで、いわば、結果的には犯人が自首した形になっていた。  それによると、院長の秘密手術を何かの折に知った大原憲司は、若い事務職員らしい潔癖さで、院長をそれとなく諫《いさ》めようとし、またそれを聞き入れられないとわかって、被手術当事者である久我俊之の父親である久我久常あたりに話すことで、夏宮病院の秘密を明らかにして、院長に反省を求めようとしていたようである。  それを知って、怒りから錯乱した夏宮聡太郎が、あのどしゃぶりの海岸道路で大原を轢き逃げし、その事故現場を通りかかった秋津則文と綾香が目撃して、大原を助け起こして病院に運んだ——というのは、何ともはや、ドラマチックで、いささか皮肉ではある。 「しかし、それにしても……」  と、秋津は呟いた。  警察の取調べの結果を聞くまで、解せなかった疑問もあった。  それは、浄智寺奥の「井の洞」の中で殺害されていた篠山信子は、いったい誰によってあんな酷い目に会ったのか、ということであった。  ふつうに考えれば、院長の夏宮聡太郎が、愛情のもつれか何かで、邪魔になった愛人を殺害した、というようにも考えられるし、秋津はそう見ていた。世田谷に部屋まで買い与えて愛していた女を、愛情が醒《さ》めたからといって、すぐに殺すなんて、ふつうでは残酷すぎて考えられないことだが、何しろ夏宮聡太郎はこの数年、異常な行動を取りつづけていたことが判明している。  だから、その夏宮聡太郎犯人説、……と、そう考えて、考えられないわけではなかった。  しかし、それなら、あのジグソーパズルのように千切られた綾香と秋津の情事の写真は、どう考えればいいのか。  聡太郎が当時、あのような写真を持っていたはずはなかった。また、誰かに送りつけられて仮に持っていたにしても、篠山信子の死体の上にバラまく必要はなかった。  ひるがえって、鎌倉山の秋津の家での綾香と秋津の情事を盗撮したのは、あくまで夏宮病院を脅迫するために、院長夫人を尾行していた有隅喜八郎ら「天誅団」と名のる一味の、仕業だったはずである。  その写真が、篠山信子の死体の傍に散らばっていたというのは、やはり、何らかの理由で信子を殺害したのは、有隅喜八郎ら脅迫者の一味の仕業と考えたほうが妥当である。  秋津がやっと、そのあたりに結論を導きだしかかった時、警察の調べによって、やはりそれはその通りに証明された。  それによると、篠山信子は夏宮聡太郎の例の脳外科手術についても、うすうす知るようになったらしい。しかし信子は、聡太郎を批判しなかった。すでに彼を愛しすぎていたからかもしれない。医学の進歩のためにはむしろ、そういう研究や手術も必要かもしれないと受けとめ、聡太郎の内面にある孤独感を慰《なぐさ》め、癒《いや》すほうにまわって、愛し、包んでいたふしが窺《うかが》われる。  従って、夏宮聡太郎のまわりにつきまといはじめた有隅喜八郎ら脅迫者たちの言い分や存在が、きわめて卑怯であるとして、彼女には許せなかった。浄智寺の山道にあの紫陽花の花が咲いていた日、聡太郎をも脅迫していた有隅たちの電話を受け、信子は憤然として院長にかわって二百万円の現金を持参して、指示された浄智寺に赴き、有隅たちにむかって、院長にこれ以上、つきまとうな、あなたたちは卑怯だといって、喰ってかかったようなのである。  有隅たちはそれで、かっとして篠山信子と言い争っているうちに、ますます逆上して刺殺《しさつ》してしまった。その死体の処分に困っている時、洞窟の中に隠しておいて、かたや、夏宮綾香を浄智寺に呼びだし、綾香に罪を被せるために、例のジグソーパズルのような情事の写真を死体の上にばらまいておくことを思いつき、それを実行して、逃亡していたというのである。  その説明を聞いて、秋津も納得した。  篠山信子くらい気のつよい女なら、有隅たちに喰ってかかって、厳しく指弾したに違いなかった。  そのために、反対に不幸な目にあうなんて、篠山信子という女も不憫《ふびん》といえば、不憫である。 「暁子、黒ビールおかわり……」  秋津はあと一本飲んだら、終わりにしようと思った。たまには香津美を誘って、浜辺にでも出て、潮風に吹かれるのもいい。泳ぐのもいい——。  その時、妹の暁子が黒ビールを持参し、 「たまには兄貴に注ごうかな」  殊勝なことを言って、瓶を差しだす。 「兄さんに感謝するわ。あの電話の一報のおかげで、彼も私も、無事、ことなきを得て」  暁子がグラスにビールを注いだ。 「ああ、よかったな」  秋津が答えると、 「でもね。ひとつだけ、兄さんが知らないことがあるわ。私たち、兄さんに気を揉ませてはいけないからって、秘密にしていることがあるのよ」  暁子がいたずらっぽく笑い、カウンターの中の久我俊之のほうをちらっと見ながら、妙なことを言った。 「どういうことだい?」 「言おうかな、どうしようかな」  迷っていた暁子が、やっと踏んぎりをつけたように、 「これは、私と俊之さん二人だけの秘密として、ずっと黙っていようと思っていたんだけど、もう例のことが明るみに出た以上、打ち明けてもいいかもしれない、とも考えはじめているの」 「いったい、何のことなんだ。もったいぶらずに、はっきり言えよ」 「俊之さんのことよ。白状しちゃうとね……彼、もう記憶喪失症でも何でもないのよ」 「ええ——っ」  秋津はびっくりして、グラスを取り落としそうになった。 「どういうことなんだ。俊之君はあんなふうじゃあ、まだ——」  カウンターの中で黙々とバーテンダー稼業をしている久我俊之のほうを見ながら、一瞬、呆気にとられて、秋津が口を噤むと、 「彼、上手にお芝居をしているのよ」 「え? お芝居?」 「そう、彼は自分が夏宮病院で、どういう処置を受けたかを、今なら全部、知っているのよ」 「知っている?」 「ええ、そうよ。私がね、去年の六月、東京のある大学病院につれて行って、何でも脳外科の有名な先生という人のところに行って診せ、ストッパーを除去する手術を受けさせたのよ」 「え、おい、それは本当かい?」 「本当よ。ねえ、俊之さん」  暁子はカウンターのほうを振り返った。  すると俊之が、 「本当さ。打ちあけると、ぼくはもう普通人なんだよ」  そう言って、悪戯《いたずら》っぽく笑った。取りすましてはいるが、その奥にはどうやら照れ臭そうな雰囲気も匂う。 「じゃ、きみはもう正常な身体なのか? 頭脳も記憶も何もかも……」 「そうだよ。記憶はもうとっくに戻っているんだよ」  秋津は、久我俊之と暁子にずっと担がれていたような腹立ちを覚えて、テーブルから立ちあがり、つかつかとカウンターの俊之のほうに歩み寄った。 「それなら、どうしてきみは三星に復帰しないんだ? 少なくともきみは、大三星重工の次期社長なんだぞ。おれはもう病気が癒った、おれを陥し入れたやつがいる、と言って、丸の内の本社に乗り込んでいって、逆襲に出ればいいじゃないか」 「そんなことをして、何になるんだ? 三星の中でまた無用な後継者争いを巻き起こすだけじゃないか。おれにとってはばかばかしいことだし、むなしいことだよ」 「むなしいだと……? おい、きみ。大企業の代表取締役社長になることが、そんなにむなしいことなのか? おい、きみは少なくともその星の下に生まれてきたんだぞ」  秋津は自分が、少しむきになって喰ってかかっていることに気づいた。 「だからさ。その栄光の椅子に坐った暁《あかつき》の富も栄誉も何もかも、おれはもうすべて一度、体験したも同然なんだ。今となっては、そんなものにちっとも魅力を感じないね」  久我俊之は、今や、もう一介の湘南の海浜レストランのマスター然として、蝶《ちよう》ネクタイをして平然とそう言うのであった。 (こいつ、世捨て人にでもなったのだろうか?)  秋津はそう思い、 「おまえ、中世の隠遁者の美学でも気取ってるんじゃないのか?」 (日本の精神文化の源流にはたしかに、隠遁者の生き方と哲学こそ、あらゆる政治的策謀や、権力争いや現世の利欲争いをやるよりも、高貴な精神の営みであるとする考え方も、あるにはあるが……)  すると、久我俊之が、 「そういう秋津君、きみだって——」  白麻の布巾《ふきん》でグラスを拭きながら、涼し気な顔で言った。「すでにその若さで隠遁者じゃないのか。鎌倉山に住んでさ、親の遺産をもらって食うに困らないせいか、大学に籍だけ置いて、鎌倉恋愛貴族を気どって、カサノバやってる。それはきみ、ある意味で中世隠遁者の美学というやつだぜ」  秋津則文は、自分の生き方を、ふだんからそう思っていたふしもあるだけに、一本とられたな、という顔をして、海のほうを見つめた。  風が少し、出てきたようだ。  広い一枚ガラスの仕切りをあけて、外のテラスに出てみる。  深呼吸をした。湿った潮の匂いがした。そうしてあと一つだけ、気懸《きがか》りなことがあることに、気づいた。  それは、夏宮綾香のことである。  綾香は事件のあと、心の傷を癒やすようにいま、扇ケ谷の家で静かに暮らしている。その後、一度も電話がかかってこないところをみると、夫に裏切られ、自らも事件に巻き込まれて心に深手を負ったことが、よほどショックだったらしく、まだ心の整理がつきかねているのだろうか。 「妹の美由季さんの話では、綾香さん、あの院長とは離婚なさるそうよ。そうしたら、誰かまたいいお婿さんをとって、大病院を経営してゆかなければならないでしょう。ねえ、いっそ、この際、秋津さん、あなたがお婿さんになって、助けてあげたら……?」  いつのまにか、仙道香津美がテラスに現われて、秋津の横に立ち、手すりにもたれて海を見ながらそう言った。 「怒るぞ」  秋津はマジに恐い声で言った。 「おれに綾香さんの亭主に収まれ、だと……。おれが財閥の人妻を蕩《たら》し込んで、離婚した亭主の後釜に収まり、その医療財団と夏宮財閥を狙うような浅ましい男に見えるか」 「そんな意味で言ったんじゃないわ。怒ったのなら、ごめんなさい。院長夫人を励まして助けてあげられるのは、秋津さんが一番だと思っただけのことよ」 「ご親切はありがたいけどね、おれはその役じゃないさ。なあに、心配することはあるまい。ショックから立ち直ると、綾香さんは綾香さんで、また、ちゃんと生きてゆくさ」  秋津は、そう信じていた。  それはほとんど、間違いないことだった。  そうだとも、おれは夏宮病院の経営者なんかに収まるようなガラじゃない。願わくば、いつまでも木刀一本ひっさげて、酒と女を追う鎌倉のカサノバ、湘南恋愛貴族で生きてやる——。  そう呟いた秋津則文の瞳の中に、灰色の鴎《かもめ》が一羽、涼しそうに身を翻《ひるがえ》してよぎって過ぎた。鎌倉の海も、もうすぐ真夏のごった返す人波を迎えることだろう。 本書は一九九二年八月、小社より講談社ノベルスとして刊行され、一九九五年八月、講談社文庫に収録されたものです。