TITLE : 成城官能夫人 講談社文庫 『成城官能夫人』 南里征典 著    目 次 第一章 魔の刻 第二章 偽装離婚 第三章 ある日、突然に 第四章 黒い訪問者 第五章 蜜の疑惑 第六章 血の暗転 第七章 異人館の街 第八章 潜伏行 第九章 紅葉連山 第十章 夜の牙 第十一章 悪夢、やがて朝に 成城官能夫人 第一章 魔の刻 1  誕生日には何かが起きる。  そういう予感がしないではなかった。  亜希子(あきこ)の予感は、たいがいあたる。九月の初め、まだ夏の余熱をもつ庭の木立ちの青葉が、浴室のガラス窓に影を映(うつ)していた。風に揺れるその葉陰をみながら、亜希子はバスルームの鏡の前に立ち、ワンピースとスリップとパンティを脱(ぬ)いでいった。  午後四時である。その日は船山亜希子の二十七回目の誕生日であった。彼女にとって決定的に不幸な事件が起きたのは、まさにその誕生日なのであった。  亜希子が、成城学園の船山慎平(しんぺい)と結婚して、三年たつ。子供はいない。双方の誕生日には夫婦二人きりで、街に出て、ちょっと贅沢(ぜいたく)な食事をして祝うという習慣が、いつのまにか二人の間にはできていた。  今日も亜希子は、夫の慎平と日比谷映画街で六時に待ち合わせをしていた。映画を一本みて、それから銀座・並木通りの三笠会館にくりこもうという約束だったので、亜希子は早めに外出する心づもりで浴室に入り、シャワーを浴びて化粧に取りかかるところだった。  ちょうど、脱ぎ終わって素裸になり、タオルを片手にバスルームとの仕切りをあけた時、電話のベルが鳴りだしていた。 「困ったわ。誰かしら……?」  電話は、鳴りやまなかった。  服を身につけるのは面倒だったので、亜希子は大急ぎでバスタオルで胸だけを隠し、スリッパもはかずに廊下を急いだ。  電話台は、玄関の横にある。 「はい。船山でございますが」 「ああ、私だ。すまんが、急用ができちゃって、今夜の約束、だめになった。誕生日のお祝い、また後日にしてくれないか」  電話は、夫の慎平からであった。 「どうしても、だめなのお?」  亜希子は、思わず、甘え声をだした。 「うむ。これから、人に会わなければならないし、急な会議もできてしまった」 「そうですか。あたし、これからお風呂に入って、外出の支度をしようと思ってましたのに」 「すまんな。償(つぐな)いはまた考えるよ」 「残念だわ。じゃ、つきあい酒はほどほどになさって、早く帰ってよ」  落胆はしたが、夫を恨む気にはなれなかった。洋食器をアメリカやヨーロッパに輸出する船山貿易の青年社長といわれる船山慎平は今、円高経済情勢の直撃を受け、事業がなにかと大変らしい……。  亜希子は今夜の行事を諦(あきら)めて受話器を置くと、浴室に戻った。なにかしら期待していたものがプッツンと切れたようで、妙におさまりのつかない気分だった。  その気持ちを切りかえるように、彼女は姿見の前に立ち、ぱッと勢いよく胸に巻いていたバスタオルを取った。まだ子供を産んでいない亜希子の身体は若々しい。乳房がはずむようにあふれ、下腹部の濃すぎるくらいの茂みが、艶(つや)やかに鏡の中で光をはじいていた。  亜希子のヘアは広く繁茂してはいないが、濃く詰まった感じで、肌が白いため、漆黒多毛といった感じの、きわ立つ鮮やかさを見せているのだった。  その眺めになんとはなしに微笑し、タオルを片手に、バスルームとの仕切り戸をあけた時、表のほうで今度はオートバイのブレーキの音が響いた。 「あら、オートバイ……誰かしら?」  一瞬、耳をすませたが、チャイムが鳴るふうではなかったので、隣家への届け物かと亜希子は安心して浴室に立ち、ノズルを絞(しぼ)ってシャワーを浴びはじめた。  シャワートップから熱い湯がほとばしって、亜希子の白い、豊かな胸を叩きはじめる。亜希子はこの感覚が好きである。熱いシャワーのほとばしりを受けているうち、乳房のうえの乳頭がしだいに、硬い尖(とが)りをみせてくるのがわかる。  今夜のデートは壊(こわ)れてしまったが、久しぶりの誕生日の夜に交(か)わされるであろう夫との密度の濃い寝室への期待も芽ばえ、亜希子は立っていられなくなるのだった。  亜希子はやがて、洗い桶に腰をおろした。タオルを使わずに、シャワートップに手をやり、ほとばしる湯を乳房、腹部、太腿へとあててゆく。  湯はやがて茂みにむかってほとばしりはじめる。デルタ一帯が、砕け散る湯に反応する。湯の束(たば)が茂みの下の秘唇を激しく叩いた時、あっと細くて小さな声が、亜希子の唇から洩れた。  それは実際、思いがけない反応だった。左手の指が茂みの下にのびて、思わず身体をひらく。秘唇のあわせ目から湯に打たれて濃いうるみがあふれはじめ、亜希子は羞恥(しゆうち)に頬を染めた。 「あ、あああ……」  と、亜希子は声を洩らした。  誰にも見せたことのない、午後の一人だけの秘儀。その恥ずかしい状態に脳髄の奥をジーンとしびれさせていた時、背後で突然、ドアが開いた。  ぎょっとして、ふりむいた。 「誰?」——瞬間、あっと叫んだ。  男が一人、亜希子をみつめてそこに立っていたのである。 「まあ! 直彦(なおひこ)さんじゃないの!」  叫び、急いでタオルで胸を隠した。  浴室に入ってきた男は、大学四年生の船山直彦であった。慎平の弟なので亜希子にとっては義弟にあたる。  無言で、睨(にら)みつけるように浴室の壁にもたれて立っている直彦の姿が、どうも、ただ事ではない。 「見たよ、義姉(ね え)さんの秘密——」  直彦はどこか粘い眼をむけた。 「何をおっしゃるの。出ていって」 「ねえさん、そうむきになることもないさ。快感に忠実なのは人間の本性でね。ぼくだってあそこに熱いシャワーをあてると、ビンビンと感じて、男性自身が勇ましくなってくる」 「いやらしいことを言わないで!」  みると、直彦は額(ひたい)から血を流しているのだった。ヘルメットを小脇に抱えて、泥だらけのジャンパーにツーリングブーツ。乗っていたオートバイが、近くでトラックに接触されたらしい。路上に放りだされ、怪我をして家に転(ころ)がりこんできたところだという。  そういえば、亜希子の浴室に断りもなしに侵入してきた厚かましさとは別に、直彦は眉間(みけん)のあたりに妙に暗いものを漂わせ、「引っかけたトラックは逃げやがった。あの運転手、こんど見つけたら、叩き殺してやる!」  教養のある大学生にしてはふさわしくない言葉を吐き散らしながら、直彦はずるずると浴室のタイルの上に崩れこみ、大の字になって横たわってしまった。  亜希子とて、状況が判然としない。  時が悪い。場所も悪い。秘部にシャワーをあてていた恥ずかしい姿を見られたという、火の出るような羞恥心と怒りにまみれながらも、早く平常心をとり戻さなければ、と焦(あせ)るのだった。 「お医者さんを呼びます。さあ早く、お部屋に戻って」  亜希子は自分が素裸であることを思いだし、あわてて身体をバスタオルで包むなり、負傷して横たわっている直彦から泥だらけのズボンとジャンパーを脱がせて、抱きおこそうとした。  直彦の呼吸に酒の匂いを嗅いだ。 「まあ! 昼間からお酒を飲んでるのね。交通事故といっても、それじゃあ酔っ払い運転じゃありませんか!」  叱りつけるように言いながら、ブリーフの隙間に猛々(たけだけ)しい男性の欲望のしるしをみて、あわてて眼をそらす。 「ねえさん、おれのことはいい。放っといてくれよ。ひとりでシャワーを浴びるからさあ」 「このままでは、いけません。風邪をひくわ。今、お医者さんを呼びます」  亜希子がタオルで胸をかばって、急いで浴室を出ようとして背中をむけた時、突然、直彦が両手をのばして引き寄せ、顔を近づけてきたのである。  はじめは、ただ身を支(ささ)えただけかと思ったが、唇が近づき、接吻するつもりなのだと気づいて、あっと叫び、亜希子は直彦の身体を突きとばそうとした。 「なにをするの。はなして!」  直彦の唇がすっと押しつけられてきた時、亜希子はいやいやをするように激しく首をふった。が、激しい抵抗をすればするほど、かえって胸のバスタオルがほどけ、乳房も股間も露(あら)わになるようで、亜希子はほとんど、困惑してしまう。 「直彦さん! 悪戯(いたずら)はいけません。主人に言いつけますよ」 「大丈夫だよ。兄貴は今夜、帰ってはこないんだ。ねえさんと約束していた例の誕生日祝い、都合(つごう)がわるくて、中止するそうだよ」  行事が中止になったことは電話を受けて、知っている。でも、今夜は帰宅しないということは、どういうことか? 「それは、どういう意味?」 「ねえさん、会社は今、大変なんだよ。倒産するかしないかの瀬戸際らしい。今日もおれ、用事があって会社に寄ってきたんだ。そうしたら、兄貴は会議とか金策とか銀行対策とかに走りまわって、必死だったよ。そういうこともあって、兄貴のやつ、今、とても平常な神経ではないらしい。会社内に、愛人も作っているんだ——」  会社、というのは亜希子の夫、船山慎平が取締役社長をする日本橋の船山貿易興産である。戦前、慎平の父の代に設立された中堅の貿易商社であり、主にアメリカやヨーロッパに焼きものや洋食器を輸出して着実に業績をのばしてきた名門の個人商店であった。  そこに慎平が愛人を……?  まさか——。  亜希子は、激しい衝撃を受け、なにかしら割り切れない思いを深くした。  収(おさ)まりのつかない気分でもあった。 「わかりました。会社や愛人の話はあとでききます。直彦さん、とにかくその腕をはなして」  亜希子がバスタオルで胸をかばって立ちあがり、背中をむけようとした時、今度は直彦も立ちあがって後ろから不意に、強い力で抱きしめてきたのだった。  あ、と亜希子はのけぞった。  首すじが一番、敏感なのである。  そこに、唇を押しつけられていた。 (本気なんだわ、この人!)  驚いて、いけません、と叫んだ時、直彦の手が前にまわされて乳房を圧し、もう一方の手が太腿を割って、一番、心配していた部分にまわされてきた。 「やめて。なんてことするの!」  横暴である。わがままである。  そんなところが、直彦にはあった。  その横暴さをこれ以上、許してはならないと、亜希子が身をひねろうとすると、指は確実に茂みのほうへ這(は)いすすみ、やがて秘唇に触れてしまった。  そこはもう、さっき、熱いシャワーのほとばしりを受けて、沸騰するような熱を蓄(たくわ)えていたのだ。分け入って、そこを直彦の指がまさぐりはじめたのだった。 「やめて。叱られます。大変なことをしているのよ、あなたは」  秘唇に分け入り、あふれてきた蜜液の中を直彦の指がかきまわすにつれて、亜希子は腰が崩れそうになる灼熱感に耐えた。  世の中は不倫ばやりだそうである。  金妻(きんつま)族とか、ときめき族とかいって浮気をしない人妻は、一人前の人妻ではないかのような世相だが、亜希子は決してその風潮にくみするほうではない。むしろ、結婚した以上、夫への貞節は守るべきだという、ごく普通の、慎(つつ)しみ深い考え方の持主である。  だから、こういう事態はきわめて、困るのだ。 「義姉(ね え)さん、許してほしい。あなたが会社で秘書をしていて、兄貴と結婚する前から……ぼくはずっと、あなたに憧(あこが)れてたんだ。ぼくが長男で、兄貴より先に会社を継いでいたら、当然、ぼくだって、あなたを奪う権利があったはずなんだ……」  直彦は厚かましいことをしながら、ばかに純情なことを囁(ささや)く。 「そんな……無茶なこと、おっしゃらないで」  亜希子は顔をそむけたが、柔肌(やわはだ)を抱きしめられて秘部に指を使われているうち、全身が糸を抜かれたような気怠(けだる)さに見舞われはじめていた。  亜希子の夫、船山慎平は、親譲りの名門貿易会社を経営する二代目の青年社長であり、いわば、絹のハンカチ族といってよかった。それに比べ、その会社の秘書をしていた亜希子は、美貌と人柄のよさを見込まれ、慎平の妻に迎えられたわけであり、いわばシンデレラガール、といってよかった。  そこで、亜希子をみる義弟の直彦の視線や態度に、心なし傍若無人(ぼうじやくぶじん)さがあるのは、やはり船山貿易の家にうまれたという誇りのせいだろうか。  良くいえばお坊っちゃん。悪くいえばわがままで、横暴。その上、いま直彦が妙に暗い表情をして挑(いど)んだりしているのは、その肝心の船山貿易が倒産の苦境にあるという危機感が、背後に影響しているからかもしれない。  そんな暗い欲望の対象にされては大変だと、身を固くする亜希子の耳に、直彦はさらに意外なことを告げた。 「義姉さん、兄貴の愛人、知ってるかい?」 「知りません」 「秘書の宮村京子(きようこ)。おれはそう睨(にら)んでいる。今夜の義姉さんとの誕生祝いをキャンセルしたのも、会社の仕事にかこつけて、その愛人のところに泊まるためなんだよ」 「なにをおっしゃるの。そんなことはあたし、信じません」 「嘘じゃない。本当だよ。おれ、銀座で兄貴がその女と歩いているところを度々(たびたび)、見たんだ。義姉さんが可哀想だよ」 「話はあとでききます。とにかく、その腕をはなして」  いやッ……と、亜希子がつよく腰を反(そ)らそうとしたはずみに、不意に、直彦の唇が舞い降りていた。  亜希子は呻(うめ)いて、直彦が押しつけてきた唇を離そうとしたが、二人の身体は密着したままであり、亜希子にはもう、どうすることもできない。  浴室のガラス窓に、明るい陽が跳(は)ねていた。庭の木の葉が、色濃く揺れている。だが、亜希子には今、そういう平和な外界が、まるですべて、突然に別世界の色彩に塗りこめられてゆくように思えた。  直彦は亜希子に、思いがけない愛の告白をし、その上、夫に愛人がいることなどを密告したあたりから、最初の猛々しさより、どこか妙にセンシブルな雰囲気を漂(ただよ)わせ、抱きすくめるにしても、やみくもに秘部に指を使うよりは、やさしく接吻することで心の証(あか)しを示そうとでもする態度に出てきたのであった。  一瞬、亜希子は押しつけられた唇を眼を閉じたままにして受けた。直彦の歯がかすかに鳴って、恐ろしく震えているのがわかったからである。 (なあんだ、初心(う ぶ)なんだわ。この人はいま、昂(たか)ぶっている。あまり無茶に抵抗するより、ここはそっと気持ちを鎮(しず)めてやり、それからそっと、逃げればいい……)  亜希子は少し安心した。それで、直彦をなだめるように優(やさ)しく背中に手をまわし、舌が吸われてゆくのに、しばらくの間、まかせていた。  そして一瞬、これ以上のことは、もう絶対に許されないのだ、という思いで、「ねえ、直彦さん。これでもう、気が済んだでしょ。部屋に戻って」  直彦の胸を突き放してしまった。  さほど強く突き飛ばしたつもりではなかったが、直彦は酔っていたし、交通事故で怪我(けが)をしていたし、足許(もと)に石鹸があったことも災(わざわ)いし、あっと叫んで、壁に手をつきながら彼はタイルの上に倒れてしまったのである。 「まあ、直彦さん! 大丈夫?」  打ちどころでも悪かったら大変だと、自分の仕打ちに驚いて、亜希子は急いで抱き起こそうとした。今しがたまでの接吻が、まるでなにもなかったことのような顔をしている自分自身にも、驚いていた。  そうだ。あまり深刻に考えないほうがいい。直彦もほんの出来心だったのかもしれない。接吻など、なにもなかったと思えばいいのだ。 「どう? 大丈夫……?」  直彦は、ブリーフのまま、わがままな子供のように裸で仰むけに大の字になっていた。直彦のブリーフが、欲望のしるしをみせて猛々しく尖(とが)っているのを見て、亜希子はあわてて目をそらし、 (そうだ。今のうちにお医者さんを呼ばなくっちゃ!)  亜希子が背を向けてバスルームを出ようとした瞬間、背中に激しくはじけ散る熱い湯のしぶきを感じた。  きゃあッ、とふりむくと、そこに、直彦がシャワートップを握って、ばかに威勢よく笑っているではないか。 「まあ! 義姉さんをびっくりさせるものじゃありません」  びっくりしたのは、ぶちまけられたシャワーだけではなかった。いつのまにか直彦は、ブリーフまでも脱いで、猛々しい男性自身をむきだしにしていたのである。  眼にして、あッと叫んだ。  顔を伏せたが、もう遅かった。  亜希子は、もう見てしまったのである。  男性の欲望のしるしを、そのようにむき出しにしたままの姿を眼前にしたのは、亜希子にはうまれて初めてであった。  夫の慎平は、そういう無神経な行動はとらない。むきだしの振るまいに及んだことは、一度もなかった。  少女時代なら、そういうものを目撃すると、いやらしいと思っただろう。娘時代なら、露悪趣味だと嫌悪と身ぶるいを感じたはずだ。けれども、男の味を覚えてしまった人妻が、それを目にするのはどのみち、大変な印象なのである。  眼にして、あっと叫び、タイルにうずくまりそうになった時、直彦がシャワーを浴びせかけつづけていた。  亜希子はへたへたと、その場に跼(かが)み込んでしまった。  直彦が勝ち誇ったように、なにかの秘祭でもやるように、シャワーをあびせかけつづける。ニュージーランドの名門ラグビーチームの試合前行事に、ウォー・クライというのがあり、戦いに臨(のぞ)むまえのインディアンのような奇声をはりあげるのだが、直彦はいま、そんな奇声をはりあげて、亜希子の前を跳ねながら、首すじ、肩、胸、腹へと、ホースの蛇口をもって熱い湯をかけつづけるのだった。  熱い湯が乳房にあたった時、亜希子はあッと、声をあげた。慎平との三年間の結婚生活で、亜希子の性感はかなり開発されたとはいえ、まだ性の極致をきわめたとは言い難かった。世間がいうほどの、あの目くるめくエクスタシーというものを、亜希子はまだ、本当のところは想像でしか知らないのだった。  だが、乳房を上手に吸われたり、刺激されたり、熱い湯をかけられたりすると思わず声をあげてしまう体質ではある。 「やめて……お願い」  バスタオルはどこかにはじけ飛び、髪はぐっしょり濡れてしまった。  跼(せぐく)まって、手で防ごうとした。  両手で乳房をかばって湯の束を防いだ時、ほとばしる湯の先端は思いがけないところにむけられていた。先刻も、そこに自分で熱い湯をほとばしらせていたところを、直彦に目撃されたのだ。股間の茂みの中に突如、熱いしぶきがほとばしり、突きあたってきた時、亜希子は眼がまわりそうになった。  瞬間、なにかが生命の中で、きらめいたのである。白熱した光が頭ではじけ、それは世にいうエクスタシーというものをほんの一瞬、亜希子に連想させた。  直彦は、先刻の秘祭を目撃することで、亜希子の一番感じやすい部分と、方法を、すでに確実に盗んでしまっていたのである。 「お願い! もう! やめて……」  言葉がおわらないうちに、直彦がホースを握ったまま亜希子の肩におおいかぶさってきて、右手のシャワートップを太腿の間の秘唇にむけ、至近距離で、湯の束を激しくほとばしらせてきた。  亜希子は全身の力をふりしぼって、いけません、と叫んだ。  力一杯、叫んだつもりでも、その声は、浴室の壁に力なく響いただけであった。直彦はもう、亜希子の拒否の叫びも、耳にはいらないふうであった。 2  花色のスポンジのマットが倒された。  亜希子は、その上に押し倒されてしまった。 「いけないわ、こんなこと。あなた、大変なことをしているのよ」 「義姉(ね え)さん、許して下さい」  押し伏せるというよりは、祈るように直彦が乳房に顔を埋めて、少年のように囁(ささや)いた。 「さっきも言ったように、兄貴と結婚する前から、ぼくはずっと、秘書時代のあなたに憧(あこが)れていたんだ。ぼくは来春、アフリカに発(た)つ。もう二度と、こんなことはしない。結婚式の時の白いウエディングドレス姿のあなたをみていた時、ぼくは一度でいい、あんな美しい人をこの腕に抱けたら、と思いつづけていたんだ。ねえ、たった一度の秘密。二人でその秘密を守ってゆけばいいじゃありませんか」  直彦は、法科を出た兄の慎平とは違い、大学は工科を専攻していた。父の会社は兄が継ぐので、別の方向に進もうと考えたらしい。来春、卒業するとあって、就職も内定していた。  その会社は大手の三河島播磨系の会社で、電気通信資材を扱い、海底ケーブルを敷設(ふせつ)する仕事をしていた。直彦も就職早々、来春にはアフリカのケープタウン沖に計画されている海底ケーブル敷設工事に派遣されるとかで、これからの新しい人生には一応の期待と情熱を燃やしているようだ。  だが、一度、就職すると、その会社の技術者はモロッコやスペイン沖など、始終、世界の辺境ばかりを回らなければならない。その前に一度、アメリカやヨーロッパを一周してきたいといって、夫の慎平に旅行費用を無心していたことはきいている。  ところが、肝心(かんじん)の船山貿易が円高で経営危機に陥り、そんな援助はできないと、今日も慎平に断られ、それで直彦はすさんだ気分になって、昼間から酒を飲んで帰ってきたと語るのだった。  ——でも、それは直彦の側の都合ではないか。  ——そんな虫のいい欲求不満を持ち込まれても困る。 「直彦さん、堪忍(かんにん)して。これまでのことは本当に、主人にも誰にも言いません。秘密にしましょう。もうこれぐらいでやめて……お願い」 「秘密。……秘密にしますから」  直彦のみなぎったものが、亜希子の腿(もも)の間で行き場を失い、直彦は焦(あせ)っていた。何度も割りこもうとしたが、亜希子はそのたびにはねのけていた。  三度目に、攻撃して果たせなかった時、直彦は突然、力をゆるめて、タイルの上に仰むけになって、やけっぱちな姿をとって仰臥(ぎようが)してしまったのだった。 「くそおォッ。やっぱり駄目だ。兄貴の顔がちらつく。ぼくは兄貴には一度も勝てないんだ。兄貴は父の会社を継ぎ、美しい嫁さんをもらうし、青年社長として格好よく生きているが……ぼくは……ぼくは……モロッコかスペイン沖で海底ケーブルを敷くしかないんだ!」  亜希子はそういう直彦がふと、不憫(ふびん)に思えてきた。  いや、それだけではない。亜希子が、はっと胸を衝(つ)かれたのは、驚くべきことに、直彦はその時、太い腕っぷしで顔を隠して、泣いていたのだった。 「くそおッ。ぼくは兄貴には一度も勝てないんだ。兄嫁に……こんなことをして……みっともない。くそオッ」  拳(こぶし)を固めて、タイルを叩いた。  大学ではラグビーの名選手だという逞(たくま)しい肉体をもつ二十一歳の青年が、裸で仰むけになったまま、自分の思い通りにゆかない世の中を嘆いている姿は、考えてみれば、ソフトクリーム世代といわれる今ふうの甘えん坊が、駄々をこねているようにも思えた。  けれども、さっきまで亜希子を犯(おか)そうと、襲いかかっていた若者が突然、裸のまま仰むけになって泣いている姿は、亜希子には異様だった。  たいした財閥ではないが、日本橋に貿易会社をもつ、そこそこ中流の船山家の長男と次男の間に、どのような葛藤(かつとう)が渦巻き、それに対してこの直彦がどのように傷ついてきたのか、亜希子には、わかりようもなかった。  慰めようもない。肩で大きく息をしている直彦の下半身には、驚くべきことに、それでもまだそこだけ闘争心をたぎらせたように、猛々しい欲望のしるしが屹立(きつりつ)しているのだった。 「風邪をひくわよ。直彦さん、早くお湯を使ってお部屋にはいんなさい」  亜希子はようやく、平静になった。 「いいよ。放っといてくれ」  若者は冥(くら)い声で怒鳴(どな)った。  放っといてくれ、といわれても、このまま、突き放して亜希子が浴室を出ていってしまうと、この若者は深く傷つくかもしれない。それはある場合、一生、癒(い)やされないくらいの屈辱とコンプレックスとなって、この若者の人生に深い刻印を押してしまうことになるのではないか。  本来、それとて直彦の自業自得といえるのだが、でも亜希子は、心根の優しい女なのだ。なんとか、自分も、直彦も傷つかない、そして両者が救われる、この場のうまい収束方法というものはないのだろうか。  亜希子は今はもうすっかり落ち着き、人生の先輩として、また性の先駆者として、まるで他人のように、直彦のその屹立した部分を見つめることができるようになっていた。  その部分は、逞しいが、幼い。まだ旅は浅く、みずみずしい男性自身であった。  美しい、とさえ思った。ふっと、それに唇をつけてみたいという衝動にかられた。  なぜか、わからない。誕生日祝いの行事を、夫の慎平に一方的に破棄された腹いせだろうか。夫の慎平に愛人がいるときいたことによる気持ちの変化だろうか。その気持ちのもってゆき場のなさが誘う誘惑だろうか。  それとも、青春の重荷を背負って悶々としているらしいこの若者への不憫(ふびん)さだろうか。そういった感情のもろもろがないまざって燃えた、ほんの一瞬の、ゆらめくようなたまゆらの炎だった。  考えてみれば、この年頃の青年は、欲望がつよいと聞く。本能を放出しなければ、狂いそうなほどの苦しさに襲われるという。 (直彦も今、苦しんでいるんだわ)  亜希子は決して淫(みだ)らな女ではない。人妻としてごく慎ましい方である。でも、テレビの深夜番組やものの本で、ソープランドの女性がどういうことをするかぐらいは、知っている。  閨房(けいぼう)では、夫の慎平に対してさえ、そういう振るまいに及んだことは一度もない。でも、人生のことを何も知らない「若者」に対してなら「姉」のような寛容さで、やれるのではないか。 (指でなら、いいかもしれない) (それとも、唇までなら、まだ罪ではないかもしれない……)  ちらと、そういう大胆なふるまいに及ぶ自分の姿が、頭を掠(かす)めた。掠めただけで、まだ決意したわけではないが、それだと一番良い収束方法であるような気がした。  おずおずと手をのばし、そっと触れてみた。  ぴくん、と逞しいものが震えた。  猛々しい素振りは、驚くくらいだ。 「じっとしてらっしゃい。義姉さんが放出してあげます」  最初は、指を使うことにした。  亜希子の白魚のような美しい指先がおずおずと触れるたび、直彦は顔を覆(おお)って呻(うめ)いた。 「義姉さん、ありがとう」  直彦の素直な感謝の言葉をきいた時、亜希子の中で、ふっと、唇を寄せてみたいという次の誘惑が芽ばえた。  亜希子が最初から唇を寄せなかったのは、そんなことをすれば、こんどは自分の気持ちが、どこまで持ちこたえられるか、不安だったからだ。  けれども、今は違う。そうすることで、若者の性の欲望の処理を、ほんの少し手伝ってやっているのだと考えれば、気持ちが軽いのだった。  擦りながら、そっと、唇を寄せた。  茂みの根元から若々しい秘部の香りがした。 「いつもはどうしているの? オナニー? それとも女友達とふだんから、セックスしているの?」 「女友達なんかつまらないよ。義姉さんに比べたら、ブスばかりだ。デートクラブの女性を買った時でも、ぼくはいつも義姉さんの顔ばかり思い浮かべて、セックスやってるんだ」 「そう。うれしいわ」  亜希子は素直な気持ちで、勇壮にみなぎったものを、唇に含んだ。  含んで、舌を閃(ひら)めかす。裏側をなぞり、喉(のど)の奥まで入れると、あまり大きくて、むせ返りそうになった。 「放出して……いいのよ」  大胆なふるまいに及び、大胆なことを言える自分が、亜希子にはなぜか見知らぬ女のように思えてきた。 「ぼく、放出するなんて、もったいない。——ねえ、義姉さんッ!」  叫んで、いきなり、直彦は亜希子を押し倒して上にまたがってきた。  素股(すまた)という方法も、聞いたことがある。それなら罪にはならないはずだ。  亜希子はもう、抗(あらが)わなかった。股をぴっちりと、閉じた。直彦のものが、太腿の間に押し入ってきた。  現に、直彦は青年特有の荒々しい態度とは裏腹に、欲望のしるしをどこに納めていいのかとまどうように、亜希子の腿の内側や、見当はずれのところに突きあててくるのだった。 「いいこと。そのままを守るのよ」  亜希子は、直彦の両手をきっちりと掴んだ。こうして相手の腕さえ掴んでおけば、最悪の事態だけは避けられると思った。 「いいのよ。放出して……」  優しく耳許で囁いた時、亜希子は、あ、と叫んだ。  男性自身の先端が、ふっと、亜希子の秘唇にあたったのである。  まさか、と亜希子は思った。  まさか這入ることはあるまい。  男性自身の先端が、秘唇にふれ、激しく行き来したが、その瞬間まで亜希子はまだ、素股という方法で収束できると、安心していたのである。  亜希子の知っている限り、男性の性器は、夫が指をそえてあてがうものだと信じていた。ときには、亜希子が指をそえて導いたりしていた。  だから、指を使わずに、男性自身がひとりでに体内にはいってくるなど、亜希子の常識ではとても考えられないことだった。  けれども、直彦のものは少し様子が違う。亜希子は、場合によっては角度と、受け入れ側のあふれ具合と、男性自身の雄渾(ゆうこん)さの度合によって、そういうことが起こり得るということを、まるで知らなかったのだ。  あら、とびっくりしたのは、直彦の雄々しいものの先端が、きわどい角度で膣(ちつ)の入り口にむかって、まっすぐ侵攻を開始していたからだ。  いけない、と亜希子は急いで股を、ぴっちりと閉じようとした。その瞬間、直彦の膝によって、その太腿がぱッと、大きくこじあけられようとした。  それを防ごうとする短い決闘がつづいた。 「お願い。無茶なことはしないで!」 「うん、しないよ。このままでいい……ねえさん、ぼく、しあわせだよ」  亜希子はそれで、安心した。直彦の両腕は封じているので、彼は自分でそこに指を使うわけにはゆかない。  ところが、そうやっている間にも直彦の男性自身は、茂みの下の秘唇のあわせ目にふたたび、直角に突きあたり、あやうく熱いクレバスを押し分けようとしてきたのである。  亜希子の体質は、もともと潤沢である。その上、あのシャワーの秘儀であった。あふれてくる蜜液が、股をつたって流れているのさえもわかるのだった。  ——あッ! だめええッ!  と叫んだのは亀頭がほんの少し、秘唇の中にはいるのが、はっきりとわかったからだ。 「お願い。そこまでにして!」  亜希子は今、自分が重大な岐路に立っているのだと思った。今ならまだ、罪の門から引き返せるのだと考えた。  このまま、直彦を迎えてしまえば、大変なことになってしまう。これは、なにかの間違いなのだ。悪夢なのだ。幻(まぼろし)なのだ。自分はそこらの不倫妻のように、激しい刺激を求めたり、性の陶酔を求めるために直彦を放出に導こうとしているのではない……。 「ああ……いけない……だめえッ!」  叫んで腰をわずかにもちあげた瞬間、亜希子は急に不思議な脱力感に襲われていた。亜希子がくらくらっと、めまいを覚えて眼を閉じたのは、直彦の逞しいものがはっきりと、奥まで進入を完了したことがわかったからである。 「ああ……とうとう……」  と、いう深い失墜感がきた。  あたしたち境界を越えてしまったんだわ……。  亜希子は眼を閉じたまま、夢遊病者のように直彦のなすがままになった。  こみあげてくる快感を、必死で意識しまいとした。  が、下半身の奥に芽ばえ、疾(はし)ってゆく快美感を感じまいと、歯をくいしばったのは、せめてその意識の一線だけは越えたくはなかったからである。  だが亜希子の抑制も、途中までだった。直彦の逞しいものが、敏感な部分に押し入り、確実に、着実に、子宮底を突きあげるたび、あああッと、亜希子は目まいがしそうなほどの、みずみずしい快美感を覚えていた。  そしてそうなると、これはもう完全に合意であり、共犯者であった。「ううッ」と、直彦が最後に激しく爆発し、陶酔を浮かべて、ぐったりと果てた時、「義姉さん、うれしい。ぼく、なんだか、夢をみているようだ」  亜希子の身体に折り重なるように伏せたまま、かれは呻くように呟(つぶや)いた。 「言わないで。なんにも」  亜希子は突き放すように言い、顔をおおった。  亜希子は、息を鎮(しず)めながら、こういうことは、二度ともうしてはならないと考えた。  さいわい、直彦は来春には、海底ケーブル敷設工事で、アフリカのケープタウン沖に派遣される。そうなれば、めったに顔をあわせることもなくなるだろう。  直彦も、たった一度の秘密にしようと言ってくれている。それなら、夫にも世間にも、知られずに済む。  そう考えると、少しは気持ちが楽になるのだった。 「ほんとうよ。ね、約束して」  亜希子は最後に身を起こし、直彦をのぞきこむようにして、しっかりと言いきかせた。 「秘密。私たちのこと、絶対に秘密よ」 「もちろん、約束しますよ。ぼくだってこんなことをした以上……兄貴に……あわせる顔がない」 「それから——」  と、亜希子は念を押した。 「一回こっきりにして。お願い」  浴室のガラス窓に、初秋の夕暮れの赤っぽい光が射していた。夫に背を向けられた亜希子の二十七回目の誕生日は、こうして暑くて長いルビコンの河を越えてしまうことで、奇妙な秘祭を終えたのだった。 第二章 偽装離婚 1  船山貿易の本社は日本橋にある。  退社時間を二時間も過ぎていた。 「そこまででいい」  船山慎平は窓際から言った。 「ご苦労さん」 「はい」  秘書の宮村京子が卓上のワープロから、汗ばんだ顔をあげた。  そこは日本橋人形町二丁目にある船山貿易本社の社長執務室である。京子は秘書机に坐っていた。機能的なスチールデスクの上には、英文タイプやワープロ、電卓などが所狭しと並んでいるが、今も京子は輸出業務文書の口述筆記をしていたところである。 「今、中断するのはもったいないですわ。私は大丈夫ですから、最後まで叩いてしまいましょうか。もう一息でサンフランシスコ代理店への確認書、仕上がりますのに」 「いや。急ぐことはない。やればやるほど、赤字がたまる。ばかばかしい限りだな、宮村君。 ——疲れた。お茶をくれないか」  船山慎平は、室内を歩きまわるのをやめ、どっかりと椅子に坐った。  長身で、筋肉質な体躯をもつ船山慎平は、三十五歳である。青年社長といわれるにふさわしい覇気(はき)と端正さを漂わせているが、このところ、その顔にも肉体にも、重い疲れが澱(よど)んでいる。  原因は、昨年来の円高であった。あまりにも、急激であった。日本の集中豪雨的な輸出競争力の伸びと、貿易黒字。かたやアメリカの対日赤字の膨張と、欧州の経済斜陽の怨念が一気に噴きだしたように、集中砲火的に円が狙われ、暴騰したのである。  一ドル二百二十円から二百円の大台を割るのは、あっという間だったし、百八十円の生命線を割るのさえ、またたくまのことだった。慎平は、先進国蔵相会議やサミットに期待をかけたが、それも空(むな)しく、今はもう絶望的な、百五十円台をゆききしている。  円が一割あがるたび、輸出業者は一割損をする。それが半年間に三割も四割も上がったのだから、中小業者は会社を維持してゆけるわけがなかった。  新潟県三条市あたりで生産される洋食器を中心に、有田や萩など、日本の伝統的な焼きものや、岐阜県関市の刃物などをアメリカやヨーロッパに輸出する貿易代行業をやる船山貿易興産はその荒波の直撃をうけ、ほん弄(ろう)され、今や沈没寸前なのである。  自動車や電気製品、エレクトロニクスはまだいい。企業も大きいし、蓄積もあるし、競争力もある。が、焼きものや玩具、被服、刃物などを扱う中小業者はどこも苦しい。それに対して、政府は何もしてくれない。考えてみると、腹立たしい限りであった。 「熱いお茶より、冷たいものがよろしいかと思いまして」  宮村京子が、アイスティーを注いで卓上にさしだした。慎平は疲れたような眼でその白い指先をみつめ、乳房に眼をやり、それから顔をあげた。  京子が恥ずかしそうに笑った。 「いやですわ。そんなにお見つめになって」 「宮村君。今夜、あいてるかい?」 「用事は、別にございませんが」  京子は微笑した。 「それじゃ、どうだろう。つきあってくれないか。久しぶりにどこかで食事でもしようじゃないか」 「わあ、うれしい。社長も少しは息ぬきをなさらないと」  睫毛(まつげ)が長く、黒目がちの眸(ひとみ)。襟足(えりあし)ぎりぎりまでカットしたウェービーボブの髪型は、流行らしい。京子はまだ二十三歳である。それにしては輸出入業務のあらゆる商業英文をこなしてくれるので、慎平はずいぶん、助かるのだった。  今日も一日中、「標記のことに関する」「当地実業界では」「……を享受(きようじゆ)する」「前述のことすべてが」「まえに申し述べたような次第で」等々、外国代理店への丁重な信用状や緊急書状を作成してくれたのである。  販路の開拓や、円高にともなう為替差損を少なくするための、値上げの意向や打診。「できうれば」「貴市場に関する希望」……こういうばか丁寧で小難しい商業英文に、慎平はもうほとほと、うんざりしている。  それがいったい、何になるのか。企業努力をして外国市場に製品を売れば売るほど、赤字はふくらむばかりである。  それで今も今、「御地での建値(たてね)を至急テレックス乞う」という一文でもって、やりかけの仕事をすべて、投げすてるように打ち切りにしたのだった。 「じゃ、私、支度をして参ります」  言い残し、京子は化粧を直すために、手洗いに立った。  ぴっちりしたタイトスカートなので尻の形がよく見える。小気味よく揺れるものを見送りながら、船山慎平はなぜか急に、妻の亜希子のことを思いだした。  そういえばこのところ、円高対策や赤字補填(ほてん)対策に追われて、帰宅しない日が多い。亜希子とはゆっくり話すことも、顔をあわせる時間もない。夫婦生活にいたっては、いまや間遠になっていた。  今、慎平は家庭人としてやるべきことをやる心の余裕など、正直のところ、どこにもありはしないのだ。今日も亜希子の誕生日だったので、せめて二人きりの恒例行事ぐらいはと思い、朝、家を出る時、日比谷で落ちあおうと告げて出てきたのだが、会社に着くと、もうそれどころではなくなっていた。  会社は、戦場であった。金策や債権者との応対に追われているうち、亜希子との行事をこなすどころではなくなってしまった。  今ごろ、亜希子はむくれているかもしれなかった。  慎平は心配になり、受話器をとりあげ、成城学園に電話を回した。  亜希子は、家にいた。  だがその声の様子が少し変だった。 「はい。船山でございますが」  初めは、いつもの声であった。 「ああ、私だ——」  慎平の声をきいたとたん、亜希子は一瞬、息をのむ気配(けはい)をみせたのだ。 「まあ、あなたでしたの」  と、ようやく、とってつけたような平静な声になったが、何かを隠しているような印象であった。慎平はそれで、 「どうした? 具合でも悪いのか?」 「いいえ。どうも致しませんけど」 「それならいい。急に病気にでもなったのかと思ったよ」 「病気だなんて……まあ」 「すまんが、実は、今夜も帰れそうにない。会社は今、なにかと大変でね」 「聞いております。あまり、ご無理をなさらないで」 「うん。——大門さんが今夜から伊豆にゴルフにゆくんだ。明朝、コースをまわるそうだから、あと一押し、念を押しておこうと思ってね」  大門というのはメーンバンクの重役である。そういえば、金策であることが亜希子にもわかるはずであった。 「どうぞ、楽しんでらっしゃい」  受話器を置いた時、ちらと怪訝(けげん)な思いがした。どうぞ、楽しんでらっしゃい、とはどういうことか。  今まで亜希子は、一度もそういう言葉使いをしたことがない。ちらと、黒い影が心にひっかかったが、慎平はそれを忘れることにした。  それより、今夜もおれは亜希子を裏切ろうとしている、という自責の念のほうが強いのである。このところ毎日、亜希子の顔をみるのが、辛(つら)い。あすにも会社が倒産して、身ぐるみはがれ、路頭に迷うということを、どうして正直に打ちあけられよう。  おれ一人ならいい。蒸発して、タクシー運転手でも、トラック運転手でもして食える。だが、弟たちの生活はまだかかっているし、まして野の百合のように無垢(むく)な、と慎平は見ている亜希子をつれて、どうして泥だらけの蒸発行ができよう。  慎平は窓際に立ち、すっかり昏(く)れきった空を見た。ビル街にネオンが点滅している。日本橋一帯は、株式の坩堝(るつぼ)である兜町や、大手証券会社や一流会社がたち並ぶ室町一帯をひかえ、経済の中心地である。  しかし、表通りとは違い、慎平の会社のある人形町、蠣殻(かきがら)町、小舟町界隈(かいわい)には、古い問屋や商店や民家がごちゃごちゃと並び、新しいビルの陰に古いビルがうずくまっているといった按配(あんばい)で、新旧雑多な町である。  だが、この街の匂いが慎平は好きである。戦前、父の船山浩之進がここに事務所をひらいて以来、船山家の根城(ねじろ)となった商売の街だからである。  しかし、もしかしたら、この街とも別れる日が近いかもしれない……と思うと、慎平の胸は錐(きり)でも刺し込まれるように鋭く痛むのだった。 「お待たせいたしました」  宮村京子が身支度を終えて戻ってきた。塗り直した唇の色が鮮(あざ)やかだった。 「じゃ、ゆこうか」  慎平は立ちあがった。電気を消し、二人が窓明かりの中で軽い接吻を交わそうとした時、電話が鳴りだした。 「私が出ます」  身構えた慎平を制し、抱擁(ほうよう)をほどいて宮村京子が受話器をとりあげた。 「はい、船山貿易ですが」  少々お待ち下さい、といって京子が受話器をさしだした。 「虎ノ門の弁護士事務所からです」  安心し、慎平は受話器を取った。 「やあ、おれだが——」 「がんばってるな。家に電話をしたらそちらだときいたもんで。こんな時間まで、まだ仕事かい——」  白枝庸介(しらえだようすけ)という弁護士は、大学時代の友人だった。  虎ノ門に事務所をひらいて、民事や刑事、経済問題まで幅広い活動をしており、息のかかった経営コンサルタントや調査機関にまで顔がきくので、慎平は先日、船山貿易の経営危機の回避策について、それとなく相談していたのである。  要するに、「今のぼくは、前進するか撤退(てつたい)するかの瀬戸際に立たされている。その判断を近日中にきめたい。相談にのってくれ」というものであり、経営分析や将来の見通しについて、白枝の率直な意見を聞こうと思ったのである。 「きみに頼まれていた件、だいぶ周辺データを集めたよ。それについて報告したいことがあるし、きみに忠告したい事もある。今夜、一杯やらないか」  白枝は、気軽に酒を誘った。 「今夜か。うむ、ちょっと——」  慎平は、京子に声をかけていたことを、すこし後悔した。 「用事があるのか?」 「用事というほどではないが、先約があってね。急ぎの報告なら、そっちをキャンセルするが」 「いや、それには及ぶまい。船山貿易も今日あす、転覆(てんぷく)するわけのものではあるまいからな。どうせおまえ、そこにいても借金取りに追われてるんだろうから、昼間でもいいぞ。明日、都合のいい時に事務所に寄ってくれないか」 「わかった。午前中に駆けつけるよ」  経済に詳しい弁護士の忠告といっても、一発逆転の秘訣(ひけつ)や解決策があるわけではなし、どうせ長々と経済情勢の分析をきかされるだけなら、なにも今夜でなくても、良いわけである。 「さ、ゆこう」  慎平は京子の腕を抱いて社を出た。  社員はほとんど退社して、ビル内はひっそりしていた。そうでなくても、半数は一時休暇(レイ・オフ)で自宅待機してもらっているのである。  外は、夕立ちがあがった後だった。  京子は腕をまわして、慎平の肩に頭を傾けてきた。 2  銀座の店は、混んでいた。  慎平は今、贅沢(ぜいたく)が許される立場にはない。京子もそれは諒解(りようかい)してくれていて、そこは七丁目の大衆的なビヤホールであった。  だが、大手ビール会社直営の店なので、西ドイツのミュンヘンあたりを思わせる造りの古くて大きな店である。メニューもドイツ風料理をはじめ、安くて豊富であり、手軽に飲みながら、食事をするには都合のいい店であった。 「きみ、恋人は?」 「意地悪なこと、お聞きになるのね。今夜もこうしておつきあいしているのに」 「そうかな。きみほどのいい女なら、きっと、男友達が沢山(たくさん)いるだろうと思ってね」 「決まった愛情の対象という意味ではいません。ボーイフレンドという意味なら、二、三人はいますけど」 「そこさ、恐いのは。セックスフレンドも、軽くボーイフレンドというから、いまどきの若い人たちは恐ろしいよ」 「あら。社長もその主義のくせに」 「うむ。それは、ま、そうだが——」  慎平は、サラリーマンたちで混む店の騒音と、薄い酔いの中に気分を浸(ひた)しながら、この宮村京子と、男と女の関係になって、どれぐらいたつのかな、と考えた。  一年、いや一年半か。一度、販路開拓と代理店契約のため、アメリカ西海岸を回り、カナダにはいる二週間の旅行をしたおり、英会話のうまい京子を同行して、旅の半(なか)ばでつい、そうなってしまったのである。  だが、そうなったからといって帰国後、二人の間にさしたる変化はなかった。京子は聡明(そうめい)な女なので、会社では有能な秘書であり、慎平には愛する妻と家庭があることをわきまえた上で、常に一線をおいて、いわば不倫の情事を楽しんでいるのだった。  慎平も頻繁(ひんぱん)に求めたりはしない。  仕事中は、秘書と社長であった。決して、男と女の生々(なまなま)しさは出さない。その点、今ふうの言葉でいえば、シティー感覚に徹したきわめて軽ーい関係を成立させているといえるのだった。  むろん、慎平にはほかにも社用で流れこむ酒場の女性と寝た経験もある。つながりのある女もいる。だが決してごたごたを家庭には持ち込まない。  そういう点でも、慎平は現代のビジネス社会の、ごく普通の男である。日本人一般のタイプといってよかった。 「ねえ、社長。最近、家をあけてばかりいるでしょ。あの美人の奥さん、心配ないのかな?」  京子が、大きなジョッキの陰でくすんと笑って、悪戯(いたずら)っぽい眼で睨(にら)んだ。 「中年男を説教するのか。残念ながら、うちの亜希子に限っては——」  言いかけたとき、ちらと、社を出る前の電話の声を思いだした。まさか、と頭をかすめた不安の影を払いのけた。  まさか、うちの妻に限ってそんなことはない、と思いがちなのも、これまた日本人一般の考え方である。 「そうね。奥さんに限って、そんなことはないわね。——あたし、少し酔ったのかしら」  店内の喧騒(けんそう)な話し声。ジョッキのふれあう音。むっとこもった煙草の煙。ほんの一刻(いつとき)、会社のことを忘れることのできるその群集の中の気軽な酔いの中で、慎平はふっと思った。  妻、亜希子のことではない。自分のことをである。  このまま、おれがもし、誰にも告げずに見知らぬ世界に蒸発してしまったら、どうなるだろうか?  はじめは、ほんの軽い思いつきだった。  だが一度、心をよぎった思いつきが、じわじわと根をはりはじめ、考えてみると急にその思いつきが素晴らしいことのように思え、人間の心の中で重い現実感を伴(ともな)ってくる、という場合がよくある。 (このまま、どこか見知らぬ世界に蒸発してしまったら、どうなるか?)  慎平の場合、急に思いついたことではない。今の円高時代、洋食器の輸出代行業は、展望が拓(ひら)けない。やればやるほど赤字と、負債がふえる。それなら一度会社を整理してしまって、再出発を期すほうが賢明な方法ではないのか。 「なにを考えてらっしゃるの?」  京子が頬杖をついて、眼を燦(きら)めかせる。  慎平はふと、訊いてみたくなった。  ばかげたことを、と思ったが、もう訊いてしまっていた。 「宮村君。つかぬことをきくが、きみ蒸発したくなることはないかね?」 「蒸発……? まあ」 「その顔では、なさそうだね」 「いいえ。煩(わずら)わしい現実の何もかもを捨てて、蒸発する人の気持ち、私にもよくわかりますわ」 「きみは若い。頭ではわかっても、本当のところはわかるまいね」 「社長には、わかるんですか?」 「うむ。そういうことができたらいいだろうなあって、時々、思うことがあるよ」 「本気ですか?」  びっくりして、京子が身を乗りだす。 「いいや、冗談さ。世間話だがね」  慎平は軽く言いつくろいながら、そうだ、この機会に聞いておくことも悪くはないと思った。 「冗談ついでにきくがね。もし……もしもだよ、宮村君」 「ヘンに怖(こわ)い顔してらっしゃる。社長いやよ、そんな顔。いつもの慎平さんに似合わないわ」 「もし私がどこかに蒸発するといったら、きみは一緒についてくるかね?」 「社長がですか? まあ!」 「いや、もしもの話だ。もしそんなことになったら、きみはついてきてくれるかね、と訊いてるんだが」 「いやですわ。縁起でもない!」  慎平は軽く、突き放されたような気がした。  なるほど京子は、まだ若い。将来への希望も、野心もあろう。おれの切羽(せつぱ)つまった気持ちなど、わかるはずはないし、もし本気で頼んだりしたら、そんな逃避行の道連れなどまっ平だと、冷たく断るに違いなかった。  これが、たとえば人生の辛酸をなめた酒場の女とかだったら、反応が違うはずだ。ちらと慎平の脳裏に、幾人かの女の顔が浮かんでは、消えた。 「社長は、お疲れになっているのよ。蒸発だなんて、そんな縁起でもないこと、考えないで、ほら、もう一杯、お飲みになったら?」 「うむ。いまのは本当に冗談さ。どうだい、もう一杯ずつ飲んだら、ここを切りあげないか——」  切りあげて、さて、どこにゆくかは二人の間でもう諒解が成立しているのであった。  宮村京子の肌は白かった。  九月とはいえ、夏の間、サンオイルを塗って海で焼いてきたので、水着から露出した部分は、まだ銅色に陽焼けしていた。水着に隠されていた部分だけが白磁のようにまっ白で、その対比が生々しい色気をそそるのだった。  いま、京子は慎平の前に、一糸まとわぬ姿をさらしていた。赤坂のラブホテルの一室であった。風呂あがりの肌が染まって、京子は慎平の接吻を受けながら、下半身をなやましくベッドの上でうねらせてくる。  銀座のビヤホールで適度な酒も入れたので二人の間には勢いがついていた。慎平は身を起こし、乳房を吸いにゆきながら、右手を京子の下腹部に進めた。  茂みの下は、すでに熱く潤(うるお)いはじめている。秘唇のまわりを探ると、ああッと京子が弾(はじ)けた。が、女性の最も女性であるべき部分の楽しみは先にのばすことにして、慎平はまず乳房に取りかかっていた。  京子の乳房は円錐形に盛りあがり、弾力がある。乳輪は淡い赤紅色。その乳輪には、白いぶつぶつがいっぱいあって、興奮してくると、そこからムスクか麝香(じやこう)のような匂いを放つ。  きゅっと尖った乳首を吸い、掌で乳房全体を下から上に圧しあげると、京子はたちまちたかまってくるのだ。 「すてき……社長、すてきよ」 「その社長というのはよそうよ」 「ああッ、慎平さん」  京子は顔をのけぞらせ、オフィスではきいたこともないようなハスキーな声で、呻(うめ)いた。  乳房全体が、露出した性器だった。 「きみのここ、敏感なんだね」 「そうなの……最近。あ、そこッ」 「身体つきも、すっかり女らしくなってきて、いい感じだぞ。先刻(さつき)ははぐらかしていたが、本当に恋人でもできたんじゃないのか」 「意地悪、おっしゃらないで」  会社では有能な秘書。でも、ベッドの中では赤裸々な歓(よろこ)びのさまをさらして、いっこうに恥ずかしがらない京子に、新人類といわれる世代の、最近の若い女性一般の弾(はず)みを感じて、慎平のほうが圧倒されそうなのである。  京子には今、会社とか家族とかの心配はまるでない。が、慎平にはこうしていてもそれが念頭を去らない。  考えてみれば、会社は倒産の危機に陥(おちい)っているというのに、女性とラブホテル入りするなど、不謹慎のそしりをうけるかもしれない。だがそれは違うのだ。慎平は今、社員にも妻にもむけられない心の鬱屈(うつくつ)を、美しい女体にむけて燃えあがることでしか、地獄の日々を忘れる方法がないのである。  慎平は乳房から白い腹部のほうへと唇を移していった。結婚したことも、むろん子供をうんだこともない京子の腹部は、美しい皮膚をしている。ふっくらとして息づく腹部に舌を這(は)わせながら、慎平は京子の茂みのほうへと、攻撃のへさきを移していった。 「あ、そういうふうにはいや!」  突然、京子が跳(は)ねた。慎平が京子の両下肢を大きく分けて、性器の方に頭を埋めようとした瞬間である。  京子は意外な激しさで太腿を閉じて身体をよじり、拒絶の態度をあらわにした。 「恥ずかしがることはない」 「だって、あたし……そんなこと」  奔放(ほんぽう)なようでも、やはり知的女性としての慎(つつし)みをすぐには脱ぎ去ろうとはしないところが、宮村京子らしいのである。  本当は、この京子だってクンニリングスは大好きなのだ。でも、谷間をまともにむかれるのには、やはりこうした抵抗をする。  気取りとはまた違った、本能に起因することかもしれない。それをはねのけて太腿を分け、強引に押し入るのがまた、何もかも忘れてそのことにだけ熱中したい時の男性の最高の楽しみなのである。 「あッ……いやいや……」  慎平はもう太腿を分けて、唇を茂みの中に寄せていた。恥丘(ちきゆう)に鼻を埋めると、生ぐさい女の体液が匂った。京子は体臭のきつい女ではないが、興奮すると、秘唇のあたりからも動物的な匂いを発してくる。  京子の陰阜(いんぷ)は、こんもりと盛りあがって、きれいに刈り込まれたブッシュにおおわれていた。ヘアの一本一本はそれほど長くはないのだが、恥丘のたかまりに密生し、それが滝のような亀裂の両側にも、なだれをうつように生えそろっていて、獣じみた眺めだった。  強そうで、好色そうなのである。  それをみると、京子という女が、しぶとい野心を秘めた女だということが、よくわかる。  慎平は泉を汲(く)むように、クリットを舌で刺した。刺して、転がす。カバーの部分を指先で押しわけて、ローズピンクの肉の芽をむきだしにした。  芽はふくらみ、吸いやすくなる。  口に含み、きゅっきゅっと吸った。 「ああ、ああッ」  京子はするどい声を洩らした。 「そんな、ひどい」  息のつまったような声だった。  あとは、「あ」という母音と、小さな破裂音の、長い長い連続だった。  京子は白いあごをみせて、髪をかきむしり、激しくのけぞった。  こんなサービスをするのも、女房でもないのに、肉体の奥までさらけだしてくれる有能な美人秘書への、男の思いやりというものである。 「ダメよ。ダメ……ああ」  京子は咽喉(の ど)をしぼった。 「あたし、変になっちゃいそう」 「いいとも……変になれば」 「だって……そこ、きつい」 「きつすぎるかな」 「変になりそう。もう少し……下のほうが落ち着ける。谷間のほう、お願い」  京子は、過敏すぎる苦痛を訴えた。  なるほど、芽の部分は敏感すぎるので、長時間ではハードかもしれない。  慎平は京子の頼みを入れて、ゆるゆると谷間のほうへ舌を降ろした。  舌先に、柔らかい秘肉の感触と、茂みの感触がふれ、そこはもう、蜜液をあふれさせていた。  京子はいまや女性のもっとも恥ずかしい部分を、奥まで男にあけ渡してしまったことになる。指先で秘唇のあわせ目をあけ、柔らかいビーフに吸いつくように、秘唇の奥に切るように舌を躍(おど)らせるたび、京子はああッと反(そ)りつづけた。  谷間からキラキラと、あふれるものが滲(にじ)みだしていた。あふれるものは尻のほうへ粘い汁となって流れていた。  慎平はふと、そうやっている自分の姿に、手負いの獣が息もたえだえに、谷間の霊泉にたどりつき、そこで泉を飲みはじめている姿を重ねてみた。  不思議なことに、慎平は妻の亜希子に対しては一度も、こんなことをしたことがなかったのである。  妻に対しては、なぜか、こういうえげつない性技をふるまうことに、いつも躊躇を感じる。面映(おもは)ゆいのである。恥ずかしいのである。惚れて貰った女房である。それだけに、慎平は亜希子を心の部分で、魂の部分で、愛しているのかもしれなかった。  性というものは、もともと重いものを引きずっている。男と女の間で、ぬきさしならぬ絆(きずな)をともなってくる。だからこそ、外で女性を抱くのは、軽い遊びとプレイに徹しなければならないのだ。反対に、生活を共にする妻という存在の女性は、こういうことをして戯(たわむ)れる相手ではないのである。  慎平は、そう考えている。  この宮村京子に対しては、スポーツのように割りきっているので、こういうことも熱心にやれるのである。 「喉が……かれたわ」  ひとしきり、口唇愛を見舞われた京子が、息を乱して起きあがった。 「今度はあたしに、やらせて」  京子が、そっと指をのばしてきた。  慎平のものはむろん、すでに雄渾(ゆうこん)に高まっている。そこを握った京子が、やけどをしたようにびくっとふるえ、 「ああ、すてきにみなぎってる」  顔を伏せてくる。頬ばり、吸った。みずから高まってゆくようである。  そう、これでいい。こういうふうにプレイとしてやるセックスなら、欲望を吐きだし、日常の鬱屈や疲れを、忘れさせてくれるのである。  慎平は京子の口唇愛にひどく感謝するように髪をなでてやり、それから起きあがって、最後の攻撃へとむかった。  京子の中に位置をとる。正常位である。やはりこれが一番、安定感があるし、女性の表情が楽しめる。  すすんだ。京子のその部分は、うねうねとくわえこんだ男性自身にからみつき、しめつけて、自分で調節して登頂へのフィニッシュをきめこみにゆく。  ああッ……抽送(ちゆうそう)が深まるにつれ、京子はせりあがり、慎平の肩や背中に爪をたて、力一杯、膣口をとじてくる。  やがて、京子の長い女の闘争が終わった。  唇を半びらきにして、京子の白い腹がまだけいれんしている。  汗ぐっしょりだった。 「とどいたのかな?」  慎平はでもまだ京子を放そうとはせず、心ゆくまで犯しまくりながら、くそ、いまの経営危機から、なんとか、おれ自身の活路をひらいてやるぞ、と低く呻くのだった。 3  翌朝、船山慎平は虎ノ門にむかった。  白枝弁護士事務所は、田村町に近い小路の一画の雑居ビルに、その看板をあげていた。はやっているらしい。慎平がドアをあけて入ると、すでに来客があったが、白枝庸介はやあ、と人をそらさない顔をあげた。 「用事はすぐ済む。奥の部屋で待っていてくれないか」  慎平は奥の応接間に通された。  壁に懸かっている房総の海岸を描いた風景画を見ているうち、庸介が入ってきた。 「ゆうべは、お励みだったのか?」 「いや。金策で走り回ってたんだ」 「どうだか。眼のふちが黒い。あまり亜希子さんを裏切るもんじゃないぞ」  この白枝庸介には、亜希子と結婚する時、世話になっているので、慎平は頭があがらないのだった。  慎平の父、浩之進は彼が船山貿易を受け継いで間もなく、病没したが、母の民江は三年前まで健在だった。母には縁戚筋の銀行家の娘を、慎平の嫁に迎えようというもくろみがあって、見合いまでさせたが、慎平は当時、会社で働いていた津島亜希子をどうしても妻に迎えたかったのである。  当然、対立した。仲を取りもってくれたのが、この白枝庸介だった。  庸介の父は、昔から虎ノ門に事務所をもつ弁護士で、船山家も父の代から何かと世話になっていた。慎平と庸介は、だから二代目同士だった。で、母の民江も、白枝庸介の説得と仲介には折れざるを得なかったのである。  そういうこともあって、庸介は日頃から、ひどく亜希子をかばう。亜希子の味方づらをして、時には小憎らしいところさえあった。だがそれも、自分たち夫婦への友情からだと思えば、怒るわけにはゆかないのだった。  慎平はソファに坐った。 「で、出来たのかい? 報告書」 「うむ。船山貿易の経営分析と診断。傘下(さんか)の経営コンサルタントからやっと届いたが、状況はいたって厳(きび)しいな」  見てくれ、といって白枝はぽんと分厚い書類を卓上にのせた。  慎平はそれをパラパラとめくった。  見なくても、わかっている。そこに書かれていることは、恐らく現況下では船山貿易の将来は、きわめて絶望的という診断と宣告のはずであった。 「白枝君——状況は、ま、当然、ここに書かれている通りだ。それでもおれは為替(かわせ)差損をなんとか借金で埋めて、持ちこたえてきた。しかし、それももう限界に近い。その上、展望があるのなら、まだ持ちこたえもするが、一ドル百五十円台にまで突き進んだ円高がどこまでゆくのか、末恐ろしいし、第一、うちと取引のあるお得意たちが、つぎつぎに倒産している。したがっておれのところだけがいくらがんばっても、経済環境としては、もうどうにもならないところにきているんだ。だからこそ、どうすればいいのか。その結論をだそうと思って、相談にきているんじゃないか」  慎平はポケットからハンカチをとりだし、額(ひたい)の汗をぬぐった。 「そういうことなら、ますます将来の展望は厳しいな。どうやら、決断した方がいいようだぞ。それも一日も早く決断した方が傷を深めなくてすむ」  白枝庸介は冷酷なことを言った。傘下のデータバンクや経営コンサルタントを動員しての材料を握っているので、彼は冷酷に、客観的にものが言える。 「うーむ。やはり、そうか」  慎平は腕組みをして、呟いた。  そうか、というのは、会社整理のことである。  白枝は、結論はそれしかないというのであった。  船山貿易興産株式会社は、伝統のある名門商店だが、その実態は社員百三十人の中小貿易商社である。もちろん、個人企業を形式上、株式会社組織にしたものであり、全株を彼が掌握していたから、会社をつぶすも生かすも、彼の一存でできる。  少なくとも一年前までは、親の代からの信用と、輸出環境の堅調さで、波にのり、彼の会社は発展していたのである。  はじめは四十人だった社員を二倍、三倍にふやしたのは慎平だし、含み資産にするために個人名義で伊豆や御殿場(ごてんば)に別荘地を購入したり、成城学園の家も、土地を広げて新築したりしたのである。  だが、突如、襲ってきた円高には抗すべくもなかった。経済環境の急変だけは、個人の努力ではどうすることもできないのである。  会社の整理自体は、自分に適応能力がなかったと諦めることもできるが、辛いのは、自分の決意とは無関係な社員やその妻子たちを、路頭に迷わすことである。最終的には、社員には迷惑がかからないよう、在庫品など会社の資産処分を考えているが、問題は慎平が愛する妻、亜希子のことであった。  取引銀行や他の債権者たちが、いち早く船山貿易の苦境をかぎつけ、それぞれの債権確保のため、融資金に対する担保の提供を禿鷹(はげたか)のように迫りだしている。それも不気味であった。 「担保といったって、たかが中小貿易商社だ。会社のビルや敷地ぐらい、とっくに根抵当(こんていとう)にはいっている。彼らの狙いは、おれの自宅の土地や建物と、御殿場や伊豆にある別荘なんだ」  慎平は状況を説明し、吐きだすように言った。慎平の評価では、成城学園の土地、建物は少なくとも二億八千万円はくだるまいし、別荘地も二つあわせて五千万近くにはなるだろう。 「ふーむ。それがまだ無傷か。しかしよくこれまで銀行や債権者たちが、それを担保に取らなかったな?」  白枝は不思議がった。たしかに、最近の金融ビジネスの常識では考えられない幸運さである。 「なあに、銀行は今、金がだぶついているんだ。それに、のれんの信用だよ。船山貿易という親の代からののれんを信用して、景気のよい時は、銀行だって債権者だって、ぜひどうぞ、とひく手あまたで貸していた。だから、おれの個人保証一つで、どうにでもなったんだ。しかし一度傾くと、彼らはまったく手のひらを返してしまう。くそったれ」  慎平は呪(のろ)うように、吐きだした。 「さて、そこだが——」  白枝がきいた。「きみの債務と資産の具合は、どうなっているんだ?」 「うむ。おれの個人保証で銀行から導入した分だけでも、二億八千万円はある。その上、サラ金まがいのファイナンスからの借入れもあるから、会社をつぶせば、担保にだそうがだすまいが、おれの家や土地は、すべて差し押さえられる。その結果、他の債務やなにかで、おれも家族も丸裸で放り出されることになろう——」  船山慎平は、力なく答えた。  それは目に見えていた。慎平自身は男だから身体一つでどうにでも生きられるし、対抗することもできるが、美しい妻の亜希子が禿鷹のような取立屋どもに襲われ、犯されたり、拉致(らち)されたり、売春組織に叩き売られたりする幻影が、慎平の脳裏(のうり)を灼(や)いた。  まさか、とは思う。取立屋どももまさか、そういうあくどいことまではやるまいが、しかしサラ金の取立屋どものやりくちは凄(すさま)じいのである。 「だからといって、このどたん場にきて、あわてて資産を妻の名義に変えたって、債権者が詐害行為とか破産宣告の申し立てに出れば、名義変更は取り消されるときいている。第一、妻への贈与となるから、贈与税だけでも大変だ。とても、亜希子はそんな大金は払えないし、どうにもならんじゃないか」  慎平はいまいましげに吐きだした。  なるほど、と白枝庸介は弁護士の顔つきに戻り、ソファから立ちあがって腕組みし、部屋をぐるぐると歩きだした。そして立ちどまり、突然、切りだした提案に、慎平はぎょっとした。 「おい、船山君——」  と白枝は言ったのである。 「きみ、離婚した方がいいな」  え、と慎平は声をあげた。 「離婚しろだって?」 「そうさ。それしかないな」 「ばかをいえ。このおれに離婚しろというのか?」  慎平は、この野郎、と気色(けしき)ばんだ。 「そうさ。きみは、亜希子さんを愛してるんだろう?」 「うむ。愛している。心から愛している。おれは切羽つまって浮気などもしているが、本当はあいつを心から愛してるんだ。それを、離婚しろというのは、話があべこべじゃないのか」 「いや、あべこべじゃない。いいか、冷静にきいてくれ。今のうちに法的に離婚して、きみの手許(てもと)にいま残っている無傷の資産は、すべて慰謝料として亜希子さんのものにしてしまえば、民法ではいくら禿鷹(はげたか)のような債権者どもも、離婚した妻の資産まで、寄こせということはできなくなるんだよ」  なるほど、と慎平は虚を衝(つ)かれた。  もしそれが真実なら、いい考えである。禿鷹から身を守るための、絶妙すぎる考えであり、方法ではないか。 「じゃ、一種の偽装離婚か?」 「ま、そういうことになるかな。きみだってただ行き詰まって、倒産するのはいやだろう。いずれ再起するための手だてを、今のうちに打っておけばいいんだ。いや、その必要がある。奥さんに残す三億円の資産が、つまりは他日を期す際の軍資金にもなるはずじゃないかね」  白枝庸介は、そう説(と)くのだった。  偽装離婚——。  言ってみれば、そうなる。  弁護士白枝は、それを勧(すす)めるのだった。 「しかし、そんなにうまく偽装離婚が成功するかな。債権者にばれたら、いったいどうなるんだ?」  慎平は、おずおずと訊いた。 「そこさ。問題はそこだな。偽装離婚だということが発覚したら、詐害行為とみなされて、個人資産は金融機関や裁判所や、禿鷹どもに没収される。しかし、本当の離婚だとみなされたら、他人や法的機関がつけ入る隙(すき)はないし、没収されはしない。夫婦別れの場合の財産分与と慰謝料は、妻の損害に対する賠償だから、税法でいう“利得”にも当たらないから、相続税等の類(たぐ)いの税金も、一銭もかかりはしないのだよ」  うーむ、と慎平は唸(うな)った。  今考えられる状況では、たしかに一番よい財産保全の方法であり、そして妻を守る方法のようである。 「しかし、亜希子がどういうか」  慎平には、それが心配であった。 「この際だ、冷酷になるんだ、冷酷に。そこをうまくやらなければ、この企(くわだ)ては成功しないぞ。亜希子さんには、絶対にこれが馴(な)れ合いの偽装離婚だということがさとられてはならないんだ」 「じゃ、理由がいるな。相当の」 「うむ。理由がいる。ただの浮気ぐらいじゃ駄目だ。そこで、きみに愛人がいるとする。悪質な女だ。しかもきみはその女に惚れていて、二人で逃亡行でもやらかす。——と、まあ、それぐらいの状況が整えば、いくら亜希子さんだって、怒り狂って離婚調停に応じるだろうし、まわりもまた納得(なつとく)する」  特に周囲。債権者対策。それが肝心だ。そういう客観的な状況を整えておけば、第三者にも偽装離婚だということは、ばれない。いずれにしても妻は真相を知らず、夫に裏切られたとして絶望し、悲嘆のどん底に沈んでおく必要があるのだ——。  さすがは百戦練磨の弁護士だった。  白枝は、敵をあざむくためには、まず身内をあざむく必要があるとして、慎平に愛人の部屋を用意することや、逃避行までも、すすめるのだった。  その時、ちらと慎平の脳裏(のうり)にある疑惑がかすめた。白枝のやつ、ばかに熱心におれに離婚をすすめやがる。こいつ、もしかしたら亜希子に気があるのではないか?  亜希子は、あの美貌である。  白枝が何かと、亜希子の味方をし、接近していることは知っている。  たとえ偽装離婚であれ、慎平と亜希子が法的に離婚してしまえば、亜希子は事実上、誰はばかることのない独身女となる。その上、亜希子は心理的にかなり動揺するであろう。白枝としたら、なにかと相談にのるふりをして、そこにつけこむ隙があるのだった。  おれの財産を奪うことさえもできる。 (いや。まさか……)  友人を疑うとは、どうかしている。  白枝はおれたちの苦境を見かねて、友情から、弁護士として適切な助け舟をだしてくれているのだ。 「わかった。きみの忠告、実にいい考えだと思う。なんとか、その離婚作戦という方法で、今後のことをよく考えてみるよ」  船山慎平は昼近く、虎ノ門の弁護士事務所を出た。  慎平は偽装離婚を真剣に考えるようになった。  白枝弁護士に焚(た)きつけられたからばかりではなかった。慎平自身が考えても、今の苦境を切り拓(ひら)くにはそれが一番よい方法だと思えたのである。  その日、会社に戻っても、慎平は執務机に坐って、そのことばかりを考えつづけ、仕事に身が入らなかった。 「社長。埠頭(ふとう)倉庫から電話が入りました。三条市からの洋食器百二十ケースが、滞貨しています。それに、有田の秀蘭社の化粧皿七十ケース、柿右衛門窯(がま)の白磁の花瓶三十ケース。それぞれ梱包(こんぽう)明細書を作成していますが、船積み、どういたしましょう?」  秘書の京子の尻が揺れる。電話が鳴りつづける。仕事は容赦(ようしや)なく続く。  だが、卓上に散らばる輸出申告書、インボイス(送り状)、パッキングリスト(梱包明細書)など、山積した仕事を処理すればするほど、現況下では為替差損によって、ますます赤字と負債が累積(るいせき)してゆくばかりであった。  努力がそのまま、赤字になる。  ばかばかしい限りではないか。 「くそッたれ。こんなこと、いつまでも続けていられるか!」  慎平はついに、吼(ほ)えるのだった。 「まあ、社長。どうなさったの?」  びっくりした京子を尻目に、夕方、慎平はむすっとして一人で社を出た。  これがもし、外部の力によって会社の乗っ取りを企まれたとか、株の買占めなら、慎平は断固として戦う。  また、自己努力の足りなさや、営業方法のまずさから業績が行き詰まったのなら、断固としてその現実と戦い、企業をたて直す。これは、経営者として当然の責務である。  しかし、事情が違う。烈(はげ)しい円高による為替差損だけは、自己努力ではどうにもならないのだ。また、円レートが昨年秋の水準に戻る見通しは、もはや絶望的である。このままでは、傷口が深まるのみであった。とするなら、ここはやはり、いったん会社を閉鎖し、他日を期すほうが賢明だし、男の勇気というものではないか。  慎平は街を歩いた。傷ついた獣が、彷徨(ほうこう)する、という感じだった。一人で酒を飲んだ。銀座や六本木の華(はな)やかな場所は避けた。神田のガード下の焼鳥屋ののれんをくぐった。むっとこもった焼鳥のタレの匂いと、サラリーマンや労働者の匂いにひたって、一人、黙々(もくもく)とチューハイを重ねながら、慎平にはもうそれしか方法がないと思えてきたのだった。 (銀行の負債総額四億二千万円。これは、ビルやその敷地を処分すればおつりがくるし、社員にも充分な退職金を準備できる。在庫を処分し、取引関係にもきちんと精算し、迷惑をかけない。問題は、法外な利息ばかり請求してくる禿鷹のようなサラ金数社に、どう対抗するかだ)  偽装離婚。それしかない!  慎平が焼鳥屋を出たのは、夜九時だった。  まっすぐ成城の家に戻った。 「お帰りなさい」  ドアをあけて亜希子が出迎えた。 「まあ、酔っ払ってらっしゃる!」  慎平は、鞄(かばん)を受け取った亜希子の腕を掴み、獣のような冥(くら)い眼で睨(にら)んだ。 「まあ、どうなさったの?」  いつにないことである。  ただの酒の勢いとは思えない。  驚く亜希子の手を掴み、慎平はいきなり一階の奥の寝室に彼女をつれ込んだのである。 「ねえ、どうなさったの? 今夜のあなた、ほんとうにヘン。お風呂は?」  亜希子は慎平の勢いにのまれながら、怪訝(けげん)な思いできいた。 「風呂なんかどうでもいい。おい、亜希子……ぜんぶ脱げ。脱いでそのきれいな裸をおれに見せてくれ」  慎平は命令するように言った。  眼がすわっている。妙なすわりかたである。強引な要求であった。ふだんにないことであった。  荒れている。さからわない方がいいのかもしれない……と、亜希子は命じられるまま、身につけていたものを全部、脱ぎながら、ちらと不安になった。  もしかしたら、昨日の直彦とのことが発覚したのではないか。  発覚したのなら、不倫妻を裸で立たせて、検査でもするような眼で眺めて、折檻(せつかん)でも、復讐でもしたい衝動に駆られる。それは夫の立場として、充分に肯(うなず)けるところであった。  けれども、慎平の様子は、どうもそういう具合でもなさそうだった。慎平の妙に物狂おしい眼に灼(や)かれて、亜希子はなんとはなしに身体が火照(ほて)り、うろたえてしまうのだった。  寝室の灯かりは絞ってあった。  亜希子は、組み敷かれてしまった。 「ああ……」  慎平の舌が、乳首をなぶりはじめている。  小さな果実といった感じの亜希子の乳首は、たちまち硬く尖って疼(うず)き始める。昨日、義弟の直彦に吸われて、罪の味を覚えてしまった乳首であった。  そこに今、慎平の愛を受けている。  こんなことをされていると、不倫が、発覚しないだろうか。いや、もう、発覚しているのかもしれない。だから慎平は、荒れているのかもしれない。怯(おび)えが湧(わ)くぶん、亜希子も平静さを失ってゆくのだった。 「あッ……」  と悲鳴をあげたのは、乳房から下腹部へと攻撃を移していた慎平が、突然亜希子の両下肢を大きく広げさせ、茂みの中に頭を埋めてきたからである。 「まあ、あなた!」  亜希子はうわずった声をあげた。  慎平はこれまで、一度もそういう露骨な攻撃に及んだことはない。慎平が外でどういうことをしているにせよ、亜希子たちの夫婦生活は、どちらかというと、平凡で、平坦で、平和で、寝室でのラーゲや愛撫のやり方も、ごく普通の形が多かったのである。  それなのに今、夫は物狂おしそうに亜希子の秘園に、頭ごと埋めこんでこようとしている。  慎平の唇は、もう亜希子の下腹部をつたって、秘毛の中にくぐりこみ、両下肢を大きく広げさせて、泉を汲(く)みはじめているのだった。 「ああ、いや」  慎平の尖った鼻が秘毛の中をくすぐる。唇が秘唇に届いた時、亜希子はいやいや、とのけぞった。そこも昨日、義弟の直彦のものを受け入れ、罪の味を覚えてしまった秘唇であった。  その花園に、夫の舌が遊んでいる。舐(な)めている。神様は義弟にあんなふしだらなことを許したこの私に、罰をお当てになるのではないだろうか。  戦(おのの)きが、そこから湧いてきた。慎平の舌は、花びらにそっと触れ、それからまた太腿や内股の付け根のあたりをさまよう。彷徨(さまよ)った舌先が不意に秘唇に近づくにつれ、亜希子は自分の身体が、震えはじめるのを感じた。  鋭く、舌先が秘唇をえぐった。  とろみのある泉が音をたてて鳴る。 「ああ……」  とたんに、亜希子は甘い呻(うめ)き声を洩らした。花びらのふちをすうっと撫でて、慎平の舌が、今度は、もっとも敏感な小突起にたわむれる。 「なんだか、あたし……」  亜希子は思わず呟(つぶや)く。甘い痺(しび)れが腰のあたりから這いのぼってきて、全身に広がる。秘唇からは、とめどなく愛液があふれはじめていた。 「あなた、もう」  亜希子は切羽つまった声で訴えた。  柔らかく緻密(ちみつ)に折り重なったそこは、はっきりと貫(つらぬ)かれたいと欲している。  だが舌先が、また花芯を見舞う。刺し、裂け目を深くなぞることで、慎平はまるで自分の一番大切な宝石をひたすら愛玩(あいがん)し、磨(みが)いているような感じなのだった。 「ああ……堪忍(かんにん)。来て……お願い」  こらえかねたような呻きが、喉からほとばしった。あとからあとから潤いが増す。太腿を震えがはしる。羞恥(しゆうち)と罪の意識と快楽。不思議な陶酔感が、亜希子の頭をじわっと灼く。 「すてきだよ、亜希子」  呻くように、慎平が言った。「きみは美しい。ここも美しい。おれは絶対に、放しはしないぞ。絶対に——」 (おかしなことをいう)  亜希子はぎょっと、水を打たれたような気分になった。放しはしないとはどういうことか。今さら、恋人とか愛人ではない、結婚して三年にもなる、れっきとした妻に対して言う言葉だろうか。 (この人、私を誰かと間違えているんじゃないのかしら……?)  そういう猜疑(さいぎ)がよぎった。 (いやいや。やはり私の不倫が露見したのに違いない。それで慎平は、ほかの男に渡しはしないぞ、といっているのではないか)  亜希子はわからなくなる。けれども腰全体から噴きあがってくる官能の炎は、これまでになかったほど、凄(すご)い。亜希子は手をのばして、慎平の髪に指をさし入れ、かき回した。  これは処刑ではないかと思った。慎平は私に火あぶりの刑でも科すように、いつまでもいつまでも、私を苦しめているのだ。亜希子はそう思うのだった。  実に皮肉な状況であった。躯(からだ)は早く貫かれたいと思っているし……でも、もっと舐(な)めてもらいたいと思っているし……でも、その秘唇はつい昨日、義弟の直彦を受け入れてしまったところでもあるし……亜希子の気持ちは、千々(ちぢ)に乱れてゆくのであった。  罪の原点。そんなところを、夫の神聖な唇に委(まか)せては罰があたる。不倫の痕跡。まさかそんなものがあるとは思えないが、そうされていると、何かの変化が見つかるのではないか——。  乱れ、引き裂かれる気持ちだった。  そしてそういう心の折り合いのつかなさや引き裂かれるような気持ちは今、慎平にも同じことがいえるのだった。  慎平は亜希子の、濡れて鮮やかにきらめく花紅色の花びらを美しい、と思った。  離したくはない、と思った。  胸に、なにかの炎が燃えている。  鬼火のような青白い炎が燃えている。  それは、この美しい女を他人のものにはしたくはないという、切羽つまった気持ちだった。  いくら偽装とはいえ、円高に伴う当面の財政的危機を回避して亜希子を守るための方便とはいえ、法的に離婚してしまえば、肝心(かんじん)の亜希子はもう、完全に独立した女になる。  もう自分の妻ではなくなるのだ。  他人になってしまうのだ。気軽に命令もできなくなるし、一心同体でもなくなる。それなら、なんのために三年前、親兄弟の反対までおし切って、華々しい結婚式をあげたのかわからなくなる。  そういう、未練とも業火(ごうか)ともいえるものが、今、慎平の中で猛(たけ)っていた。  だから自然、行為は荒々しいさまを呈するのだった。  慎平はやがて、亜希子の両膝のうしろをすくいあげるようにして、脚を二つ折りにした。そのまま大きな角度をもたせて、犯すように重なってゆく。 「亜希子。——おれはきみが好きだ。本当だ。きみを……きみを誰にも、どこにもやりはしないぞ」 「ああ……私もよ。慎平さん」  今までにない、思いがけない言葉をきいて、亜希子はそれを自分への愛の証(あか)しだと受けとめた。それに、夫のがこんなにも大きくて、逞(たくま)しかったのかと驚いていた。  同じものでも、受けとめる女性自身の生活の変化や、感覚の深まりで男性のものは、どうにでも鮮烈な印象に変わるものらしかった。やはり不倫。直彦と一線を越えてしまった経験が、こういう悪魔の感覚をもたらすのだろうか。 「亜希子……おれはきみが好きだ」 「ああ……あなた。あたしもよ」 「離しはしないよ」 「あたしもよ」  その時の言葉を客観的にきけば、船山夫婦にはすでに、大いなるすれ違いがあったことになる。だが、当の二人はまるで、そんなことには気づかないのだった。  なにしろ、ふだんにはない荒々しい行為がすすんでいるのだ。慎平の腰が烈しく、一定のリズムを刻(きざ)みはじめている。亜希子はもう口をきける状態ではなくなっていた。 「ううッ……」  瞼(まぶた)の裏が赤く燃える。身体中がどろどろに溶けてゆく。慎平と結婚して初めてといっていいほど、急速に昂(たか)まってゆく快感の中で、声がほとばしった。 「ああ……あなた、来て……」  突然、慎平の腰が撓(しな)った。  二人は同時に、大きく弾(はじ)けていた。  それからの一週間、奇妙な日々がつづいた。  晩夏とも、初秋ともいえる九月下旬の季節の移ろいのように、船山夫婦の間には不意に灼熱の狂的な時間が訪れたかと思うと、忍びよる秋の気配(けはい)のような冷え冷えとした、荒涼の気が充(み)ちてきたりする。  理由は、慎平の偽装離婚の企(たくら)みであった。またそれを切りだしかねている鬱屈とした気分にあった。  亜希子もまたそういう事態が周囲で起きているとは想像もできないから、慎平の面上に時折、去来する狂的な眼差(まなざ)しと虚(うつ)ろさの中に、自分の不倫が発覚したのではないかと怯(おび)えたりして、二人の心情はどうしてもすれ違い、溝を深めてゆくのである。  さいわい、義弟の直彦は、アフリカ沖に敷設(ふせつ)する海底ケーブル工事の研修とかで、あの翌日から箱根の寮に泊まり込みで出かけて、留守であった。  その点が、亜希子の気持ちを幾分、楽にしていた。  でも、それにしても慎平の態度はどこか尋常(じんじよう)ではない。酒を飲んで帰宅する日が多くなった。そのくせ、外泊はしない。家に帰っても入浴、食事、テレビと、ごく日常的なことをやるにはやっているのだが、どこか心ここにあらず、といった異様な雰囲気が漂うのである。 「ねえ、あなた」  亜希子はテーブルに頬杖をついた。 「うん?」  慎平は夕刊をひろげている。  すでにあの日から、五日が経っている。 「会社、お忙しそうね」  亜希子は食事の後片づけを終えていた。  たまには夫婦らしい会話をしたいと思った。 「円高、大変なんでしょ?」  慎平の身を気づかうようにきいた。 「うむ。かなり追い込まれている」 「あなた、やせたみたいよ。あまりご無理なさると、お身体に毒よ」 「うむ」  と、慎平は曖昧(あいまい)にうなずき、 「しかし、そうも言ってはおれないさ。仕事も、われわれのことも、あっちこっち、生命がけってやつだ」  それから、不意に亜希子を寝室に誘うのだった。どこか、亜希子の肉体に憑(つ)かれているようなところがあった。 「あ、それは、いや」  亜希子には、いやな体位が一つだけある。アヌスを夫の眼にさらす後背位だけは、どう考えても犬畜生のようで、虫酸(むしず)がはしるのだった。  今まで、一度もそれは許したことがない。  だが、その夜の慎平は、そういう要求までだして、容赦しないのだった。尻をぐいと掴んで、亜希子の背中におおいかぶさってくる。 「ああッ、やめて。お願い」  亜希子がいやがると、慎平はますます図にのって、肩から背中へと唇を這わせてゆく。背の窪みから尻の割れ目へと舌がゆっくりと滑(すべ)りおりてゆく。 「いや。くすぐったい」  亜希子は、腰をよじった。けれども慎平は両手で押さえつけて、尻の小さな窪みに舌を触れさせる。 「やめて。いやっ、やめてったら」 「じゃ、こっちのほう」  亜希子の腰をもちあげ、舌先を鋭く双丘の奥の秘唇におくる。ルビーの沼に、舌が届く。あふれ出る愛液を、音をたてて吸うのだった。  と思っているうち、不意に上体を起こして、慎平は自らの熱い昂まりを秘唇におしあて、ゆっくりと力強く、うしろから押し入ってくる。 「あ……ああ」  慎平の手が下腹部に回され、クリットをまさぐる。思いがけない姿勢で、思いがけず逞(たくま)しいもので貫かれながら、片手で肉の芽をいたぶられているうち、亜希子もあやしく昇りはじめる。 「どうだ。いいか?」  慎平が露骨な言葉をかけて、腰を打ちつけている。 「ああ……あたし、なんだか……」  最初は後背位をいやがっていた亜希子の乱れようが、慎平にはたまらなく欲望をそそるらしいのである。  そういう亜希子を見ながら、慎平はどう言って偽装離婚のことを切りだそうかと考え、焦っている。  離婚を宣告する。  それだけのことならたやすい。  だが慎平自身、こうやって亜希子を抱いていると、この美しい牝獣のような亜希子を手放したくはないと、ますます未練が湧いてきて、なかなか言いだしかねるのだった。  離婚する。  亜希子は、独立する。  その状況になってもなお、二人の心は結ばれているかどうか。  それを考えると、慎平は辛(つら)い。切ないのだった。むかしも愛していたし、今も愛している。これからだって……しかし自分は亜希子に心の絆(きずな)をつないでいても、亜希子は自分の心情をわかってはくれないだろう。  いや、それどころか、自由の身になった亜希子は、色々な男に誘惑されるのではあるまいか。いやそれどころか、偽装離婚自体に疑いをもたれて、禿鷹のような取立屋どもに襲われ、亜希子の身は危険な状況におかれたりするのではないか。  慎平として一番困るのは、真実を亜希子に告白できないことであった。二人の資産を保全し、あわせて将来のきみとの再出発と、ゆたかな生活を築くために、ほんのわずかの間、形式的に離婚するだけだと、真実を告白したら、この野心的な企て自体が、成立しなくなる。  なぜなら、亜希子がもし真実を知っていると、禿鷹のような経済調査機関の人間に押しかけられ、厳しく問いつめられたら、ぼろをだしてしまうに違いなかった。  いや、発覚するしないに拘(かか)わらず、夫婦の間で共同謀議がこらされた上での「一時離婚」なら、「偽装」であり、「詐害行為」となる。  しかし、二人の間でその謀議の事実がなければ、「偽装」ではない。正真正銘の「協議離婚」とみなされる。  だから、亜希子には教えられはしないのだ。  彼女は本当に、夫に裏切られて悲嘆にくれる女になりきらねばならない——。  だがそうなると、その弱味につけこんで、男たちが亜希子に群がってくるに違いない。  それを考えると、心が猛るのだった。  修羅と化すのであった。  慎平は悶々とする。今、抱いている亜希子が他の男に抱かれている姿を想像するだけで、脳を白く灼かれる。  そのぶん、動きが激しくなるのだった。 「ああッ……いい」  亜希子が烈しくのけぞった。  慎平は、その白い躯の奥深くに、熱い体液を烈しく爆発させた。  亜希子は、傍のシーツにぐったりとなった時、やはり夫には女がいる、と思った。この数日間の、様々な体位。夫はよその女とこういうことをしているのに違いない!  亜希子は、そういうことを考えていた、相手の傷にさえも気づかず。だから、その数日間の夜々、慎平と亜希子は不幸にもすれ違っていたことになる。  同じ寝室で、二人はそれぞれ違った秘密を抱いて、抱きあい、そしてその夜も疲れはてて、背中合わせに眠りにつくのだった。  外で、台風の接近を告げるような冥(くら)い、熱い風が吹き荒れていた。そしてそれは、この夫婦にもやがてやってくる激しい嵐を予兆しているようであった。 第三章 ある日、突然に…… 1  九月二十日、土曜日——。  それは突然、やってきた。 「え?」  亜希子は驚いてしまった。 「離婚ですって?」  二の句が継げなかった。 「理由をおっしゃって下さい」  詰問口調になったのは、慎平の表情があまりにも真面目で、深刻で、およそ悪ふざけや、冗談を言っているとは思えなかったからである。  船山慎平が偽装離婚を決意した日であった。が、切りだされた亜希子のほうはむろん、事情も知らされずに一方的に突きつけられた、理不尽(りふじん)な離婚話であった。  亜希子の眼からすると、その夜の慎平は、たしかに初めから様子がおかしかった。疲れたような足どりで蒼(あお)い顔をして帰宅し、肩に冷ややかなものを漂わせてリビングの椅子に坐るなり、 「話がある。そこに坐ってくれ」  そう命じたのである。 「話って?」  亜希子が前に坐ると、いきなり、 「頼む。離婚してくれ」  そう切りだしたのである。  前置きもなにもなかった。亜希子には、返事のしようもなかった。まさに青天の霹靂(へきれき)とは、こういうことではないかと思った。 「どうしてでしょう? どうして突然そんなことをおっしゃるのか、理由がわかりません。わたしが、不貞でも働いたというのですか」  亜希子は、むきになった。  亜希子にも多少の負い目はあるが、義弟の直彦とのことは、まだ露見していないはずである。直彦はあれ以来、家には寄りつかない。亜希子の顔を避けているようなところがあった。  直彦は今、来春派遣されるアフリカ行きの準備に忙しいのだ。露見しているはずはなかった。  また、たとえ露見したとしても、あれは出会いがしらの交通事故のようなものだし、亜希子は犯されたも同然だったのだから、それを理由に一方的に、離婚を宣告されるいわれはないと思った。 「私が不貞を働いたとでもいうのですか」  追い討ちをかけてみた。 「いや、なにも、そんなことを言ってるんじゃない。だが、とにかくおれたち、離婚するしかないんだ。わかってほしい」  慎平は、苦しげな表情をした。 「わかってくれ、では判りません。離婚するなんて、女にとっては大変なことよ。嘘や冗談で言いだせることではないでしょう。それなりの理由が、あるはずです。はっきり、おっしゃって下さい」  腰をすえると、女は強い。問い質(ただ)す眼を逃れるように、慎平は蒼(あお)い顔をして横をむき、煙草に火をつけた。 「ねえ、きかせて。私に子供が生まれないことが、不満なの?」 「いや。そんなことではない」 「じゃ、なんなのよ」 「理由は……ない。とにかく黙って、離婚届にハンコを押してほしい」 「無茶だわ。それじゃあ……あんまりだわ!」  亜希子は勢いよく立ちあがって、リビングから応接間に駆け込んだ。  結婚して三年。慎平に望まれての恋愛結婚であった。これまでのところ夫婦の間に、波風ひとつ立ったことはない。子供こそできなかったが、二人の間は近所でも評判になるほど、円満だったのである。  それを、慎平は突然、覆(くつがえ)そうという。亜希子としたら、納得(なつとく)がゆかないし、承服のしようがないのである。  亜希子は一人で応接間に坐った。心臓が躍りだすほど動悸が激しい。気を鎮(しず)めるように、眼を閉じた。すると飾り時計の音だけが、カチカチと急に地球の鼓動のように、大きくきこえてきた。  やがて、慎平がウイスキーのボトルを抱えて、応接間に入ってきた。飾り棚からグラスを二つ取りだし、向かいに坐ると、ウイスキーを注いだ。 「一杯、飲(や)らないか」 「酔っ払って、離婚の話をしようとでもいうのですか」  睨(にら)んだ亜希子の眼を逸(そ)らすと、慎平は気まずそうにグラスを取りあげた。 「こういうことは、急に切りだすことではなかったかもしれん。驚かせて、すまなかった。だがこういうことは、いずれ、はっきりさせなければならないんだ。わかってほしい」 「私には判りません。こういうこととは、どういうことですか。離婚するためには、どちらかに不貞があるとか、性格の不一致とか、性的な欠陥とか、ちゃんとした理由があるはずです。私の性格が、お嫌いなのですか? それとも私のセックスのやり方が下手で、気に入らないのですか? それとも、もう私の顔など見たくもないというのですか」  そういえばこのところ、慎平の様子はただ事ではなかった。酒を飲んでの深夜帰宅や外泊。それにあの、熱病にかられたように私の身体を求めてきた寝室でのふるまい。慎平はたしかに、何かに苦悩していたようである。  慎平が経営する会社は、輸出業なので、円高の直撃を、もろにくらったことはわかる。会社経営が思わしくなく、金策に四苦八苦しているらしいことも知っている。心配してもいたのだ。  だから、帰宅が遅いことや、酒や妻の肉体への惑溺(わくでき)も、その心労の反動だと、亜希子は思っていた。  だが、こうした突然の、離婚話などを切りだすところをみると、会社経営の苦しさに追いつめられて、慎平は案外、外で愛人をつくり、その女と、抜きさしならない状況に陥っているのではあるまいか。  そういえば直彦も、慎平には愛人がいると焚きつけてもいた……。 「ねえ。はっきりとおっしゃって下さい。あなた、もしかしたら、愛人がいるんじゃありませんか?」  直彦にきいていたことは、伏せたまま訊いた。  短い沈黙が落ちた。キーンと、金属音が耳の傍で鳴るような静寂であった。  そして、しばらくして、 「——亜希子、許してくれ。もう隠すことはないな。おれには愛人がいる」  慎平は、堂々とそう言ってのけたのだった。  おれには愛人がいる——。  慎平の言葉は、あからさまに、堂々としすぎていた。  やはり、と亜希子はするどく胸を刺された。直彦が告げていたことは、本当だったんだ。 「よくもまあ、そんなことがぬけぬけと言えますわね。愛人がいるんですって? どこの女です?私をすてて、走りたいほどのいい女なんですか?」  亜希子は、切り口上となった。 「すまん。できたことはもう仕方がない。おれはその女をすてることができないんだ。愛している。一緒に暮らす約束までしているんだ——」 「まあ!」  亜希子は息が詰まり、眼の前にまっ赤な火の玉が噴きあがったような、怒りを覚えた。 「よくも、ぬけぬけと——」  恥知らずなことをおっしゃいますわね、と亜希子は居直った。 「ゆうべまで、愛しているとか、きみを放さないとかおっしゃってたことは、あれはみんな嘘だったのですか。寝言だったのですか」 「すまん。なんと言われてもいい。とにかくおれたち、そんなわけで離婚するしかないんだ。わかってほしい」 「言っておきますけどね、夫の側に愛人がいたり、不貞を働いたりして、一方的に妻に離婚を申し渡すことなど、今の日本の法律ではできないんですよ。過失責任制度といいましてね。あまり私を、虚仮(こけ)にしないで下さい」  亜希子はそう言い残し、勢いよくソファから立ちあがった。これ以上、押し問答をしても埒(らち)があくとは思えなかった。それに何より、気持ちが動転していて、夫の前にじっと坐ってはおれなかったのである。  夜の街にでも飛びだしたかった。どこかスナックにでも飛び込んで、強いお酒をあおってみたい、と思った。 「おい。どこにゆく——」 「離婚する女でしょ。どこにゆこうと私の勝手じゃありませんか」 「まだ、話はすんではいない。離婚するといっても、きみをこの家から追いだそうというんじゃないんだ。もう少し落ち着いて、話をきいてほしい」  それから慎平が切りだした提案に、亜希子は正直のところ、自分の耳を疑った。離婚はするが、この家を出てゆくのは慎平であり、亜希子ではない。亜希子には慰謝料として、自分の身代(しんだい)のすべてを残す。この成城の家屋敷のすべてと、伊豆や御殿場の別荘のすべてを残す。  慎平は、そう言うのであった。 「そんな。それじゃ、あなたは——」  亜希子は、ほとんど、茫然とした。慎平は裸一貫で、この家を出てゆき、女のアパートに転がりこむとでもいうのか。  成城のこの家は、もともと慎平の親の代からの家である。亜希子は望まれて、慎平の嫁としてこの家に入ったのである。  離婚される、ということは当然、この家から追いだされることだと判断していた。またその前途への不安も、女としては当然、大きかったのである。  それを慎平は逆だという。  自分から出てゆくのだという。  どういうことかと、亜希子はふらふらとソファに坐り、お酒を下さい、とかすれた声で言った。  亜希子はウイスキーを飲んだ。  気持ちを鎮めるためだった。  でも強い酒は、胸をかっと焼いた。  その耳に、慎平の声が入ってきた。 「亜希子、つらいと思うが、わかって欲しい。とにかくおれは、事業に失敗したんだ。近いうちに不渡りをだして、会社が倒産するのはもう眼にみえている。円高が原因とか、政府の経済運営が間違っているなどと、大げさなことを言うつもりはない。とにかく失敗は失敗だ。おれはいずれ会社を畳んで、なにもかもやり直す。零(ゼロ)からやり直す。きみと別れて、ここを出て、その新しい女と何もかも、人生をやり直したいんだ——」 (そんなことは聞きたくありません。もう何もおっしゃらないで——)  亜希子は、二口目のウイスキーを斬(き)るように、喉に流しこんだ。胸がさらにかっと燃えた。朦朧(もうろう)としてきた視野に、応接間のシャンデリアがばかに眩(まぶ)しくきらめき、亜希子には今の話も、この部屋も、なにもかもが現実とは思えなくなるのだった。  飾り棚には、明(みん)の青磁(せいじ)が静まっている。李朝の壺もある。染付唐草(そめつけからくさ)や竜涛文の皿もある。マントルピースの上には、唐三彩(とうさんさい)の壺があった。  どれも本物である。値打ちがある。  船山貿易の先代の収集品であった。  庭は静まっていた。庭園灯に樹々や庭石が映(うつ)しだされている。でも窓からみえる夜空は、いやに暗い。  慎平は本当に……本当に……この家も何もかもすてて、私の傍から出て行ってしまうというのだろうか。 (あなた、出てゆかないで!)  縋(すが)りつこうとする気持ちが、斬るように湧いてきた。  でも取り乱したくないという気持ちが、亜希子のなかで、それに交錯(こうさく)した。  それになにも今夜、結論をだすこともないではないか。亜希子が精一杯、今にも張り裂けそうになる気持ちにじっと耐えている時、慎平が立ちあがって上衣を着る姿が、視野に揺れた。 「亜希子、よく考えといてほしい。おれは今夜から、この家を出てゆく。荷物はいずれ、取りにくる。今日あすとはいわないが、いずれ一週間以内には弁護士の白枝を通して離婚の手続きいっさいを取るつもりだ。それまでにきちんと心の整理をつけておいてくれ」 「まあ!」  亜希子は叫んだ。 「待って!」  亜希子は立ちあがり、応接間を出てゆこうとする慎平に追いすがった。  だが、遅かった。玄関までだった。  ぱたんとドアが閉められ、慎平は出ていった。亜希子はドアにとりすがったまま、ずるずると重く崩れた。  夜が深まってゆく。風の音が湧いたようだ。樹々がざわめいている。  亜希子は長い時間そのままの状態でいた。  慎平が出ていってしまうと、急に家が広くなったように感じられた。屋内の静寂が、急に滝のように音をたてて襲いかかってくる。  成城学園の一等地にある百坪近い邸宅。贅沢(ぜいたく)といえば贅沢な、中流家庭。そのなにもかもが、今夜を境に幻のように壊(こわ)れてしまい、砕け散ってしまうと考えると、急に言い知れない恐怖感が亜希子の全身を包んできた。 2  ネオンが熟(う)れきっていた。  新宿・歌舞伎町は夜が盛(さか)んだった。  慎平は、その街をあてどなく歩いていた。  亜希子に離婚を通告して、成城の家を飛びだしてきた直後である。  心に、吹きすさぶものがある。  慎平は今、群衆にもまれてただ歩きたかった。離婚宣告、あれでよかったのかどうか。亜希子の衝撃は相当のようだったが、本当にあれでよかったのかどうか。  慎平の気持ちは弾(はず)まない。亜希子のために、すべてを捨ててきたのだ。愛する妻のために、億という財産をすべて渡して、家を出てきたのだ。そう思えば、今どき、珍しい潔(いさぎよ)さと、男らしさではないかと、妙にストイックな昂揚感にかられたりもする。  現に、亜希子を会社倒産とともに路頭に迷わせたくはない。それが偽装離婚の第一の目的である。だが、慎平自身にも計算がある。その行為は同時に財産保全対策にもなるのだ。  今、債権者に取られてしまえば、慎平と船山家は一切(いつさい)を失うが、亜希子に譲っておきさえすれば、ほとぼりがさめた暁、いずれ慎平の手許に戻ることになる。  いわば、財産の預託制度。それを銀行や証券会社にではなく、愛する亜希子の腕の中に託すのである。  しかし亜希子は、その真情も、真相も知らない。裏切られたと思って、苦しむだろう。  またそれが偽装離婚であることが、客観的に露見しないために、これから慎平は次々に必要な手を打たねばならないのであった。  まず愛人。誰かと半同棲じみた生活をする。  逃避行も企てねばならない。それをこの一週間以内にてきぱきと準備しよう。  そのための女は、今日の夕方、電話をして歌舞伎町のスナックに待たせてもいる。  だが今、慎平はどうしてもその女のところにまっすぐ、赴(おもむ)く気持ちにはなれないのであった。  だから、街をさまよっている。亜希子の悲嘆を考えると、身を切られるように辛いのだ。その悲嘆が大きければ大きいほど、慎平がもくろむ偽装離婚は、ますます真実味を増すことになる。 (許してくれ。亜希子)  夜空にむかって、呟いた。  ほんとうに、声をだして、呻くように呟いた。 (許してくれ。ええ! 亜希子!) 「許すわよ。あたし」  いつのまにか、見知らぬ女が寄り添って歩いていた。区役所通りだった。 「ねえ、おにいさん。あたし、ゼーンブ許すからさあ。つきあってよ」  近くのキャバクラかデートクラブの女らしい。もう少し酒の勢いがあったら、慎平は約束していた女のところにゆくよりも、見知らぬこの女との一夜に、泥のようにのめりこんでいったかもしれない。 「すまんな。今夜は、ちょっと」 「だめなのお。ちぇッ、どケチ!」  女は凄い捨(す)て台詞(ぜりふ)を残して、区役所通りの路地に幻のように消えてゆく。 「呆絵夢」。待ち合わせをしていた店は、コマ劇場の前の地下スナックであった。偽装離婚のアリバイ。白羽の矢をたてていた女は、その店の薄暗いカウンターに待っていた。  渡辺夕貴(ゆき)。二十四歳。OLあがりの銀座のホステス。若い天使はハーイと勢いよく手をふり、 「遅かったわねえ。こっちよ」  夕貴は怒っていた。  むりもない。二時間遅れであった。 「夕方、急に用事があると言って呼びだしたくせに、二時間も遅れるなんてどういうこと。こうみえても私、忙しいのよ」  円(つぶ)らな瞳に、野性味が宿る。  怒るといっそうそれが燦く。 「まあまあ、そう怒るな」  慎平はカウンターに坐り、バーテンから水割りをもらって、まだ振っきれない気持ちを抱きながら、さて何から切りだそうかと考えていた。  この夕貴とは、五年ごしの交際である。気心は知れている。眼鼻立ちがくっきりして、派手な性格だが、根は素直な、汚れのない気性を持っている。  銀座のホステス、といっても、以前は船山貿易に勤めていたOLだった。  知りあいに誘われて会社勤めの傍(かたわ)ら夜は銀座のクラブにアルバイトに出ていた。いわば、昼夜二部制。その手の女性の常で、アルバイトがいつのまにか本職になり、会社勤めより楽をして稼げる本格的な銀座のホステスになってゆく。  そこまでは絵にかいたようなコースだった。が、先月、彼女が勤めていた「眉」が代替わりのために閉店した。夕貴はそれで一時休暇(レイ・オフ)をくらって、今は仕事にあぶれているらしい。  ほかの店に移るにもまだ決心がつかず、ぶらぶらしている時期であった。そこで慎平はこの渡辺夕貴に、一連の偽装工作のための「女アリバイ」役として、白羽の矢をたてたのだった。 「まだ仕事の目処(めど)、つかないのか?」  飲みながら、顔をむけた。  夕貴は憂鬱そうに答えた。 「ええ、知りあいのママから誘われてるんだけど、そこ嫌いなお店なの。せっかくの休暇、もう少し遊んで、生命の洗濯をしようと思ってるのよ」 「きみのマンション、西荻窪だったかな」 「そうよ。二DK。狭いからどこかに移りたいと思ってるんだけどさあ。何しろ、先立つものがねえ」 「部屋代は?」 「一ヵ月、十二万円」 「今月からその部屋代、もとうか」 「えッ?」  夕貴は、素(す)っ頓狂(とんきよう)な顔をむけた。 「持ってくれるというの?」 「ああ。部屋代も、生活費ももっていい。きみにもし、妙な男がついているようなら、この話はなかったことにするが」 「男なんか、いないわよう」  夕貴は、むきになって否定した。 「じゃ、社長。いえ……慎平さん。私と愛人契約を結ぼうというわけ?」 「なるほど、愛人契約か、いい言葉だな。そう思ってもらってもいい」  夕貴なら、と慎平は思った。銀座の女といっても、一流ではない。スポンサーがいるふうでもなさそうだ。もともとは日暮里(につぽり)の下町生まれで、板金工(ばんきんこう)を父親にもつ庶民的な娘である。 「返事は?」 「もち、OKよ。助かるわあ!」 「それじゃあ、決まった。ゆこうか」  慎平は夕貴の腰を抱いて店を出た。  夕貴のマンションは、西荻窪の住宅街の中にあった。  新宿からタクシーでそちらにむかう間、慎平の胸にはまだ嵐が吹きあれていた。さまざまな思いが去来してしかたがない。夕貴は、事情を何も知らないから弾(はず)んでいるが、慎平はまだ、心を完全に整理したとはいいかねるのである。  亜希子の気持ちも心配だが、それより、自分の人生も心配である。今日も一日、日本橋の会社で忙しい仕事に追いまくられ、金策や会議や債権者対策に走りまわった。銀行への根廻し、サラ金への利息の償還、洋食器産地への手形決裁と、それの遅れへのお詫び。倉庫代の支払い、有田や萩の窯元(かまもと)からの請求……一つの企業を動かすというのは、特に局面が思わしくない場合、なんとまあ、雑多な仕事が多いのかと改めて吐息がでそうなくらい、白刃の上を渡るような雑用の山であった。  考えてみれば、会社経営者というものは、損なものである。社長とよばれる言葉のもつ意味は、現代ではもうまさに、責任ばかり大きくて、むしろ憐(あわ)れみさえ含んだ言葉であるような気がする。  社会には、さまざまな人間がいる。  成功し、社長になったり重役になったりする人間もいれば、万年平社員か、それに近い立場で穏(おだ)やかな人生を送る人もいるだろう。  大企業のエリート社員もいれば、町工場で汗を流して働く人々もいる。誰もがそれぞれの宿命と局面と責任を背負っているが、できうるならば、なまじ出世して責任が重くなるより、平社員かそれに近い中間管理職として送るほうが、この豊かになった日本の社会では、どれほど気楽で、恵まれた人生かしれないと思える。  船山慎平はふっと、たとえば競馬場でレースが終って舞い散る馬券の下に、たくさんの人々がうごめいている情景を思いだすたび、ああいう場所の、ああいう時間の中にこそ、人生の縮図と、明暗と、吹き溜まりをみるような思いがする。会社も、家庭もすてて、たとえばのんびりと競馬場通いができれば、どんなにかいいだろうという思いは、案外、潜在的願望として、ずっと以前から慎平の中にひそんでいたのかもしれない。  およそ、船山貿易の二代目社長にはあるまじき心境だが、人間には、誰にだって、そういう気楽な、そしてやや狂的な流浪願望というものがあるのではないか。  といって今、成城の家屋敷を妻に譲り、裸一貫となって、家をとびだし、これから自分の会社さえも整理しようという人生の将来に、安定があるのかといえば、まるでそうではないのである。むしろ、危険と破滅が、待ちかまえているのかもしれない。そういう意味もふくめ、これは紛(まぎ)れもなく一つの賭けではないか。  考えてみれば、自分は人生の「実験」をしているのかもしれない。これからの毎日、起こりうる一つ一つの局面が、まるで想像がつかないのである。  船山慎平は夕貴のマンションの部屋に着いても、そんなことを考えつづけていた。だから、二DKの、そこそこ小綺麗(こぎれい)な女の部屋に落着き、こういう場合の男と女がやるであろうごく普通の道すじを通りながらも、まるで自分が、見知らぬ国に迷いこんできた旅人であるかのような気がするのだった。 「ねえ。ベッドはそこよ。先にはいってて」  夕貴は若さの盛りにある。なんの憂いも、てらいもない。てきぱきと慎平にシャワーを浴びさせると、奥の寝室に追いやって、愛人契約の第一夜とやらを迎えようとするのだった。  シャワーの音が熄(や)んで、夕貴が寝室に戻ってきた。  バスタオルを胸に巻いている。ふたつの胸のふくらみが、タオルに圧迫されて苦しそうに並び、深い谷間を作っている。 「お待ちどおさま」  慎平はベッドに腰かけて、ウイスキーを飲んでいた。夕貴がそのグラスを取りあげ、首に腕を絡(から)めて、慎平の膝の上に腰をおろしてきた。 「あまり酔っ払わないでね。今夜は私たちの、初夜なんだから」 「愛人契約にも、初夜というものがあるのか」 「あった方がロマンチックでしょう。女はいつも、そんなふうに考えたいの」  夕貴は自分が花嫁にでもなったような恥じらいを浮かべて、くちづけにきた。重ねた。舌が跳(は)ねた。躍(おど)った。  夕貴の甘いため息が洩れた。夕貴はそうやって接吻に応(こた)えながら、右手で慎平のみなぎったものを握りしめてきた。 「わあ、みなぎってる!」  およそ初夜の花嫁らしくはない。  慎平も、およそ逃亡第一夜らしくはない。  三十五歳という年齢は、考えてみれば、中途半端な年齢である。本当なら、人生において一番、充実して力が漲(みなぎ)ってくるはずの世代である。それなのに、慎平は今、どことなし逃亡者の心境である。  慎平は夕貴をしっかりと横抱きにした。バスタオルの胸をはだけた。乳房が現れた。そこを指で弾(はじ)いた。感じるわあ、と鼻声ではずみながら、そよぎかかってきた夕貴の白い肩に、紅いスタンドの灯影(ほかげ)が揺れた。  薄あかりの中で、乳房が鮮やかな盛りあがりをみせていた。慎平はもう何も考えず、ふくらみを手でなぞった。裾野(すその)から上に押しあげる。値踏みする手つきだった。  慎平は、その乳房にも高い値段をつけた。愛人契約にはもってこいの女である。揉(も)まれるうち、夕貴は昂(たか)まってきて、ベッドに寝かせて、と促(うなが)した。  慎平はそのまま、夕貴の身体をベッドに押し倒した。仰向けに横たえても夕貴の乳房は裾崩れをみせず、迫力のある標高を保っていた。  慎平は上体を重ねた。夕貴は慎平の首に両手をまわし、小声できいた。 「奥さん、いいの?」 「初夜の花嫁が、何てことをきく」 「だって、心配だもん」 「心配はない。今夜、大喧嘩してきたんだ。それで、決心した。あいつとは性格があわん。断固、別居する」  慎平は、断固として宣言した。  これも、絶対に必要な措置である。  第三者にも、はっきりそう宣言しておかねばならないのだった。 「別居……! へええ」  夕貴は驚いた。円(つぶ)らな瞳をパッとあけて、まじまじと慎平をみた。  慎平は、だが、別居するとは言ったが、夕貴に対しては離婚する、とは言わなかった。もしこの夕貴が本気になって、後日、結婚でも迫ってきたら、大変である。  防波堤は築(きず)いておかねばならない。夕貴とはあくまでも愛人契約を通していけばいいのだ。 「そうか。それで慎平さん、私の部屋に転がり込んできたってわけか」  クスン、と夕貴は笑い、「いいわ。私、この部屋で養ってあげる」 「部屋代は払うよ。生活費もだ」 「全部? 本当? わあ、うれしい」  夕貴は大いに弾んでみせた。  慎平は、股間のヘアをさすった。勢いよく繁茂した茂みの感触がきた。さわさわと鳴る。ひとしきり楽しんだあと、慎平の指は秘唇にくぐり込んだ。  そこはもう蜜液があふれていた。  潤沢な女を慎平は好きである。  慎平は乳房に接吻しながら、指先を秘唇に沈めた。蜜液のなかを充分にかきまわす。その泉を汲(く)んで、入りあいのクリットを濡らし、肉の芽にまぶしながら、愛撫をすすめる。 「ああッ……すてきよ」  夕貴は、内股をふるわした。 「そうやられていると、狂いそう」  耳たぶを接吻してやる。 「ああッ」  夕貴は耳のあたりも敏感らしい。  耳の穴に舌をさし入れると、震えがひどくなった。そんなふうに三所攻め四所攻めをしているうち、夕貴はますます喘(あえ)ぎをつよめ、のたうちまわる、といった状態になった。 「ああッ……いきそうッ」  するどく、腰を浮かせて弾(はじ)けた。  早くも軽い峠を通過したらしい。 「あたしも、愛してあげる」  やがて夕貴は起きあがり、上体を伏せて、慎平のみなぎったものを握りしめてきた。腰が大きく浮いた。慎平自身に顔を近づけ、唇にふくんだ。  含み、先端を舌で舐める。それから驚くほど深く、頬ばってきた。  頬ばり、口腔の中のものをいたわるにつれ、夕貴の長い髪が揺れる。背中から尻にかけてのカーブが、牝獣のように美しかった。  こうして、こんなふうに、だんだん夕貴との間に、既成事実を作ってゆく。夕貴のマンションの部屋代や生活費をだす。酒場女のところに入りびたるだらしない男という姿を、徹底的に演出しなければならない。  そのうち、会社の整理さえつけば、ほとぼりがさめるまで、旅に出たほうがいいかもしれない。大阪か神戸方面へでも、逃避行をつづけるか。せめて半年間は、亜希子の前からも、債権者の前からも、東京からも、姿を消したほうがいい——。 「あたし、倖せよ」  慎平のみなぎったものから口をはなし、それを握りしめたまま、夕貴はそっと頬を寄せてくる。 「これから、ずっと一緒ね」  夕貴は雄渾(ゆうこん)なものを愛撫しながら、それを独占できるのだということを、確かめているような素振(そぶ)りだった。 「そうだよ、夕貴と一緒に暮らす。そのうち、気がむいたら、どこかに、旅行でもしようじゃないか」 「つれてってくれるの?」 「うむ。どこがいいかな?」 「そうねえ。そのうち、考えておくわ」  慎平は、ころあいを見はからい、本格的に挑むことにした。  やや小柄な夕貴の身体は抱きやすい。手をかけ、くるっと腰をまわして自分の腹の上にのせた。 「女上位。その方が夕貴らしいぞ」  夕貴は物狂おしく慎平の上にまたがってきた。指を添えてみなぎったものを繋(つな)いだ。夕貴はああッとのけぞり、慎平が下から強いやつを打ち込むたび、夕貴は夢のように何度も弾(は)ぜつづけた。 3  慎平が出ていって、三日間がたつ。  亜希子は、虚(うつ)ろな日々を送っていた。  ゆうべも、亜希子は寝つかれなかった。  なぜ慎平は突然、離婚を切りだしたのだろうか。  円高で、会社経営が思わしくなく、何もかもをやり直したい、と慎平は言った。  いわば、再出発する、と彼は宣言したのである。  が、それなら夫婦が力をあわせて、やり直すべきではないか。さいわい、成城の一等地に新築のマイホームもあるし、土地もある。評価額三億くらいには、なるかもしれない。どうしてそれを資本に二人が力をあわせて、一からやり直そうといわないのか。  あるいは、会社の負債はそれではきかないのかもしれない。資産も担保に入っていて、このままでは家も土地もとられてしまうのかもしれない。  でも、それだって、一緒に力をあわせれば良い。なんといっても、自分としては慎平を愛している。別れたくはない。家屋敷や財産が、問題なのではない。裸一貫でもいいから、いつまでも船山慎平の妻でいたい——。  亜希子の心は、そう叫んでいた。  でも……でも……一方的に離婚を宣告されたことの理由に、もし自分の不貞があるとすれば、亜希子としても、強いことは言えないのだった。たった一度の過(あやま)ちとはいえ、義弟の直彦との間違いは、たとえそれがまだ秘密にされていて、夫や世間の知るところではなくても、およそ潔白とはいいかねる。もし夫が知れば、それ一つだけでも、充分、離婚の理由には相当するのだった。  寝つかれないまま、亜希子は輾転(てんてん)とした。  そうだ、誰かに相談しようと思った。  とにかく誰かに相談して、事態を切り拓(ひら)かねばならない。そう焦(あせ)り、相談するとすれば誰がいいかと、幾人かの顔を思い浮かべた。  亜希子は、瀬戸内海に面した四国・香川県詫間(たくま)町の出身である。高松の高校を卒業したあと、神戸の短大を出て上京し、縁故のあった船山貿易に入社した。東京には、短大時代の友人も住んでいるし、高松育ちの親戚の叔母もいるし、慎平と結婚する前、交際していた男性もいる。  そうだ、とまず思いあたったのは、慎平の親友、白枝庸介だった。  あの人なら、弁護士なので、心強いと思った。慎平との結婚の際も、骨を折ってくれたことがあるので、亜希子の気持ちを訴えれば、きっと慎平を改心させてくれるのではないか、という期待を抱いたのだ。  翌日、亜希子は虎ノ門の白枝弁護士事務所を訪れた。  白枝はやあ、と懐(なつか)しそうな顔をむけ、いつもの切れ味のいい身ごなしで、二階の特別応接室に案内する。 「船山君のことで、何か?」  亜希子はこの数日間の事情をすべて、打ち明けた。 「ねえ、慎平の気持ちをなんとかもとに戻すことはできないのでしょうか?」 「やはり、そうでしたか——」  白枝は、腕を組んで、困りましたね、と呟いた。 「やはり、女か」  沈痛な響きさえもあった。 「いえね、薄々(うすうす)は心配してたんですよ。親友として私も、何度も忠告したことがあります。でも彼はきいてはくれなかった。船山君は、いま、会社経営に疲れて、どうも、人間が変わってきたようだ。秘書に手をつけたり、銀座の女に入れこんだりしている。ものは考えようです、あんな男、この際、いさぎよく諦(あきら)めたほうが亜希子さん、あなたのためになるのかもしれませんね」  そこには亜希子の期待した返事は、まるでなかった。  亜希子は白枝の言葉にただただ、びっくりしていた。それどころか、白枝は慎平のことを更に悪(あ)しざまにいい、諦めろと勧(すす)めるのである。 「とにかく船山君は、変わってしまいましたよ。親の反対を押し切ってまで結婚したあなたという恋女房がいながら、浮気ばかりしている。その上、最近は会社も家庭も捨てて、女と関西方面に駆け落ちするとか、洩らしているようですよ。亜希子さん、そんな男にいつまでも未練をもっていたら、あなたのためにはなりませんよ」  亜希子には、返す言葉がなかった。  そうでしょうか、と俯(うつむ)いて亜希子は膝上のハンカチを握りしめた。 「ま、気を落とさないことです。なあに、今は女性上位時代といって、離婚も花盛りじゃありませんか。幸い、船山君はあなたに成城の家屋敷や別荘を残すといっている。え、何億という財産ですよ。こんなうまい話、いえ、有利な条件、いったい、どこにあります?」  白枝は、離婚をまるでけしかけるように説得するのだった。  いつのまにか白枝は、ソファに坐っている亜希子の後ろに回っていた。肩に手を置いた。亜希子の鼻孔に、柑橘(かんきつ)系コロンの甘い香りが流れこんだ。 「ま、これからのことは万事、この私に委(まか)せておいて下さい。及ばずながらお力になりますよ。ねえ、亜希子さん、本当に気持ちを大きくもって——」  亜希子は、崩れるような気持ちを抱いて立ちあがり、そこを辞した。  街は、亜希子の気持ちのように白く乾いていた。  九月末であった。初秋というにはまだ暑い。だが、空にかかる鰯雲(いわしぐも)やビル街を吹きぬける風には、どことなし秋の気配が濃くなっていた。  亜希子は、虎ノ門から地下鉄に乗った。渋谷に出て自由が丘に向かった。  駅の近くの商店街に、叔母の岸本衿子(えりこ)がブティックを開いている。  電話で、用件は伝えてあった。 「まあ、離婚ですって!」  迎えた衿子は、びっくりしていた。 「ここでは、ゆっくり話もできないわね。さ、奥にいらっしゃい」  岸本衿子は、ブティックの奥の事務室に亜希子を通して、飲みものを作った。店は流行(は や)っているようだ。伊予商人の血をひく叔母は、センスもいいし、なかなかの美人だし、商売がうまいのである。 「ねえ、いったいどうしたのよお。慎平さんに愛人でも出来ちゃったの?」 「ええ。いるみたいなの」 「そりゃあ、さあ、慎平さんは会社を経営してるから、お得意さんをバーやクラブに案内するでしょう。親しくしている女の一人や二人、お店に作っておかなければ、不都合なのよ。それをいちいち、あなたが怒って嫉妬したり、離婚をいいたてたりするのは、大人(おとな)気(げ)ないと思うわ」 「叔母さん。それは、違うのよ。離婚は、むこうから切りだしたのよ。彼、会社をたたんで、愛人と駆け落ちしようと考えてるみたい」 「へええ。慎平さんがねえ——」  衿子は、とたんに亜希子の顔をしげしげと見つめ、「でも、ヘンね。亜希子。あんたの方でも何か仕でかしたんじゃないの?」 「え?」 「浮気とか不倫とかさあ。それが慎平さんに、ばれたんじゃないの?」  亜希子は、たじたじとなった。 「いいえ。私のほうには——」 「何もないというの? ほんとうに亜希子のほうには、思いあたることはないの?」  亜希子は、俯いてしまった。  正面からそうきかれると、断じてないとは言いかねる。人妻がほかの男を愛した、いわゆる不倫ではないにしろ、直彦との間違いは、明らかに不貞のひとつである。  あれは、不可抗力だったではすまされない。  この日本では、不幸なレイプ被害者でさえ、それを理由に離婚される女性だって多いのだ。 「ねえ、何かがあったんでしょう? 正直に打ち明けてごらん。力になるから」  衿子に問いつめられて、とうとう亜希子は直彦との間違いを打ち明けざるを得なかった。  この叔母なら、何でも話してもいいし、味方になってくれるのである。 「ほーら、ごらんなさい。やっぱり、あんたのほうにも何かがあったのね。だからこそ、慎平さんは離婚を言いだしたのに違いないわ」  と言いかけ、衿子は遠くを見る眼つきをしたあと、急に真面目な顔になった。 「ふーん。義弟との間違いか。亜希子、そりゃあ駄目よ。タチが悪いわ。夫の知らない人との不倫なら隠せもするし、遊びと割り切れるけど、義弟とは深刻よ。慎平さんはきっと、それを知ったのに違いないわ」  不倫の報酬——。  言われてみれば、そうである。  衿子が言うとおり、義弟との間違いなど、その不倫の中でも、最もタチの悪い不貞といえる。万一、慎平が事実を知れば、それ一事だけでも、近親憎悪が手伝って、亜希子を許せるはずはないとも、思えた。 「でも……そのことは……ばれたはずはないんだけどなあ」  亜希子は、小さく呟(つぶや)いて、吐息(といき)をついた。 「ばれるとかばれないとかの問題じゃないでしょ。不倫をした以上、ツケが回ってくることを、ちゃんと覚悟しなくっちゃ」  病身の夫を支えて、生活力のある岸本衿子は、そういうことを言いながらも、秘密の愛人をもっている。すべて世故(せこ)に長(た)けた人生の先輩としての、太々(ふてぶて)しさが窺(うかが)えるのだった。 「ま、とにかく人には言えない秘密の一つや二つ、誰だって持って生きてるわよね。でも、慎平さんはそれを公然と言いたてたり、あばいたりしないだけ、大人だと思うわ。成城の家屋敷から、別荘まであんたに残すなんて、見あげた度胸じゃないの。たいしたものよ。どうやら、亜希子のとる道は、一つしかなさそうね」  ここでも、結論は同じだった。離婚の申し入れを受けるしかない、と衿子は、さばさばとけしかけるのだった。 「亜希子、くよくよすることは何もないわよ。今は離婚全盛期。あんたはまだ若い。二十七でしょ。子供もいないし、これからどうにでも翔(と)べるじゃないの」  男と山手線の電車は、一つ乗り遅れても、次から次にくるものよ——と、衿子は彼女らしい面白い表現をした。 「それに、そんな莫大(ばくだい)な慰謝料を貰えるんじゃ、女の花道じゃないの。気軽に考えなさい、気軽に。あたしを見習って、少しは翔(と)んでみたらどう?」  これで二人。相談しようと思ってやってきた相手は、白枝弁護士も、身内であるはずの叔母の衿子までが、さばさばと決心しなさい、と主張するのだった。 「今はそんなことで、めそめそするような時代じゃないわよ。慎平さんにも女がいるのなら、解決しっこないわね。せっかく莫大な慰謝料をくれるというのなら、むこうの気持ちが変わらないうちに、さっさと貰っといたほうが得よ」  どやされるように言われてみると、そうするしかないのかなあ、と、亜希子も妙な気分になる。  収(おさ)まりのつかない気分を抱いて、自由が丘のブティックを出た。  東横線で渋谷まできた時、ふっと気持ちが動いた。  結婚前、交際していた小野寺秀雄という男性が、この近くの宮益坂(みやますざか)の自動車販売会社に勤めている。  それを、思いだしたのだ。電話番号も、覚えていた。受話器をとりあげ、なかば無意識に、会社にダイヤルをした。 「小野寺係長は昨日から大阪に出張中です。どちらさまでしょうか?」  女子社員に不在を告げられた時、亜希子は正直、ほっとしていた。  あの人にも相談してみよう、という思いから電話をしてみたのだが、もし今、小野寺に会うと、夫に去られ、混乱しきった今の自分の心境では、どういうことをやらかすか、心配であった。  むかし、肉体関係もあった恋人である。求婚もされていた。それを断って、慎平を選んだ亜希子なのである。 「危ない、危ない」——亜希子は自分に言いきかせて、家路についた。 4  眠れない夜がつづいた。  八方ふさがりであった。  亜希子が救いを求めようとしていた弁護士の白枝も、叔母の衿子も、離婚を受諾するほうが得策である、いや、それしかないと勧(すす)めるのだった。  だが、亜希子としては、そうおいそれと離婚などしたくはない。慎平から通告されたそれは、突然の突風、まるで交通事故のようなものであった。  なんと言っても、自分としては慎平を愛している。別れたくはない。家屋敷や財産を残されても、離婚してしまえば、なんにもならない。裸一貫でもいいから、いつまでも船山慎平の妻でありたい——。  亜希子の心は、まだそう叫んでいた。  だが弁護士の白枝からはあれ以来、折りをみては電話がかかってくる。 「船山君から署名捺印(なついん)した離婚届用紙を預かっています。いかがです? 亜希子さんのほう、まだ決心はつきませんか?」  慎平から通告されていた一週間は、まるで地獄のような日々であった。が、暦(こよみ)だけはたちまち過ぎた。悶々としながら亜希子はその一週間がすぎても、まだ離婚に同意する返事をしなかった。 「いやです。絶対にいやです。もう少し、考えさせて下さい。私、とても離婚など、決心がつきません」 「どうも、何ですな。いくら延ばしても、解決のメドはたちそうにありませんね。ぼくが調べたところ、船山君はもう西荻窪で愛人と同棲しているんですよ。いつまで待っても、成城には帰ってきそうにはありませんね。それをけしからんとして、亜希子さんの方から正式に、家裁に訴えるようでしたら、むろん、私もそれなりの応援をいたしますが」  家庭裁判所、ときいて亜希子は慄(ふる)えあがってしまった。  それは困る、と思うのだ。  家裁に訴え、調停員に駆け込めば、事情を説明しなければならなくなる。夫の側の一方的な不貞なら、法律は味方してくれるが、現実問題、亜希子にも落度がある。義弟との不倫の事実は存在するのだし、隠しようがないのであった。  たとえ、社会的にそれが判明しなくても、それを隠して調停員に面とむかって、自分は潔白であると言いはるだけの鉄面皮(てつめんぴ)さを、亜希子は持っていなかった。  発覚すると、慰謝料まで失う。  そう考えると、どうにもならないのである。  亜希子のこれからの人生の展開を考えるなら、莫大な慰謝料を貰って、離婚に同意することの方が、どう考えても、得策であることがわかる。  さらに一週間延ばして貰った十月の二週目、白枝から三度目の電話がかかってきた時、亜希子はついに、泣く泣く離婚に同意せざるを得なかった。 「わかりました。一切(いつさい)を、白枝さんの弁護士事務所にお任せいたします」  それだけを、簡潔に言った。  こうして十月十三日、月曜日。  船山慎平と亜希子との離婚調停が成立した。  まさにスピード調停といっていい迅速さだった。  弁護士の白枝が離婚届の用紙を卓上に差しだした時、亜希子は捺印する自分の指先が、震えているのをみた。  たった一枚の紙切れ。突風のように襲ってきたこの紙切れに、たった一個のハンコを押すだけで、三年間の愛も夫婦生活も、なにもかもが消えてなくなるという事実が、信じられない思いだった。 「これでさばさばしましたね。亜希子さん、なあに心配することはない。これからのことは万事私に委(まか)せておきなさいよ」——白枝の声を、でも亜希子はほとんど、耳にしてはいなかった。 第四章 黒い訪問者 1  朝、眼を覚ます。  傍に夫がいない。  広いベッドの空白が、こんなにも残酷なものだとは、亜希子は思いもしなかった。これまでは慎平が遅い時も外泊した時でさえも、軽い嫉妬や腹立ちの気分に見舞われこそすれ、こういう孤独感に襲われたことはなかった。  ああ、私は一人なのだと思う。この広い屋敷でたった一人で暮らしているのだと思う。そうすると、それがとても残酷なことのように思えてくる。  離婚調停が成立して一週間がたつ。  亜希子には虚(うつ)ろな日々が続いていた。  大きな邸(やしき)を貰っても、牢獄である。  一日中、気分が灰色だった。何もする気が起きない。掃除、洗濯、庭の草むしりに鉢ものの手入れなどで気を紛(まぎ)らしていても、牢獄に入っているような虚(うつ)ろな気分は、変わらなかった。  その日も午前中、寝室を掃除している時、玄関でチャイムが鳴った。  亜希子は掃除機のスイッチを切り、寝室を出た。  玄関のドアには、鍵とドアチェーンをかけている。一人暮らしになって以来、用心をしているのだ。  ドアスコープを覗(のぞ)いて、訪問相手を確かめるのも、習慣になっていた。  地味な背広をきた男が映っていた。 「税務署の者です。失礼します」  亜希子はドアをあけた。男は、三人も立っていた。 「ちょっと、家を拝見させて下さい」  どやどやと男たちは玄関ホールに入り、靴をぬいで勝手に屋内にはいってきた。勢いに亜希子はのまれ、 「あの……税務署の方が、どういうご用件でしょう?」  三人の男は無言である。亜希子を無視して、屋内を歩き、壁や天井や家具や備品などを点検している。 「用件をおっしゃって下さい」  それでも男たちは答えない。傍若無人(ぼうじやくぶじん)である。  一人が飾り棚の李朝の壺や明時代の壺を手に取った。 「ほう。値打ちものだな。船山のやつ、考えやがった。陰謀だよ、これは」  もう一人の男と眼を見交わす。 「そうだ。陰謀だな、これは。その奥さんに、白状させるしかあるめえな」 「口を割らなければ、身体にきくか」  身体にきくか、ということの意味がわかって、亜希子はかっとなった。 (税務署の人間なんかじゃない!) 「あなたがた、失礼じゃありませんか。警察に電話しますよ!」  亜希子が激しく問いつめた時、脂(あぶら)ぎった顔の中年男が、じろっと亜希子の顔を眺めた。それから全身を、裸にするような眼で眺める。 「ほう。噂どおりの美人だ。脱がすと、もっといいかもしれねえな」  亜希子は、つーんと頭に血がのぼった。 「あなたたち、失礼です! 税務署の人間というのは嘘なんでしょ!」 「そうさ。嘘かもしれねえな。ドアチェーンをあけさせるには、そう言うしかなかったってわけだ」 「おれたち、奥さんにちょっと聞きたいことがあってね」  黒ジャンパーの男がにじり寄った。  得体のしれない侵入者たちである。  一人が亜希子を監視し、あとの二人があちこち屋内を点検する。 「オーケー。他には誰もいません」  一人が、相棒に言った。「玄関の鍵。それから、カーテン」  言われた男が、玄関に立った。ロックをし、ドアチェーンをかけた。 「これは、何の真似(まね)です。警察を呼びますよ!」  無視されて亜希子は怒った。電話台のほうに走ろうとした。背後に立っていた男が、すばやくその腰を掴んだ。ナイフが首筋に押しあてられていた。 「奥さん、電話なんかしちゃ駄目だよ。お互い血を見たくはないからね」  耳許(もと)で囁(ささや)くように言った。亜希子はあまりの無体さに、息がつまった。 「奥さんに確かめたいことがあるんだ」  一人の男がソファに坐った。じろっと睨(にら)みあげる。リーダー格らしい宗田と呼ばれる中年男だった。 「離婚されたそうですね?」 「答える必要がありますか」 「答えて下さい。そうでなければ、若い二人が何をやるかわかりませんよ」 「そんなこと、区役所で調べれば、わかることじゃありませんか」 「そうでしたね。調べましたよ。離婚届はちゃんと出されている。——しかし、この離婚、奥さんと船山が示しあわせた猿芝居じゃありませんか」 「猿芝居? どういうことです?」 「偽装離婚ではないかと、われわれはきいております」 「おっしゃる意味がわかりませんが」 「いいですか。われわれは船山貿易に多大な貸付けのある某金融機関の者です。最近、船山貿易が会社を閉鎖するという噂をききました。調べてみると現にその準備に入っている。さらに驚いたことに、船山貿易の社長である慎平氏とあなたが離婚したという噂をききました。まさに、寝耳に水でした。調べてみると、これも驚いたことに、事実だ。スピード離婚だ。こうなると、われわれは立腹せざるを得ない。激しい憤激を覚えています」 「話の意味が、ますます判りません——」 「つまりねえ」宗田が不意に左肩を突きだし、やくざめいた口調になった。 「目的はこの成城の家屋敷や伊豆、御殿場の別荘だ。おれたちは、それを差し押さえるつもりだった。それなのに、船山慎平はあんたと離婚して、資産のすべてを慰謝料としてあんたにやったとすれば、おれたちはそれを取ることができなくなる。それで、怒ったわけだよ。その美しい顔をしている裏で、あんたと船山は示しあわせて、おれたちをペテンにかけようとしている。え、そうじゃないのかね?」  亜希子は、目の前が暗くなった。  言いがかりもいいところである。  自分たちの離婚が、もしそんな陰謀や、お芝居の類(たぐ)いなら、どんなに気が楽だろう。 「違います。とんでもありません!」  亜希子は、そう叫んだ。  男たちは、露骨な態度に出た。  亜希子を取り囲みはじめ、一人が乳房を、ぐいと掴んだのである。  あつかましい手だった。乳房に男の手がのび、うしろから抱きすくめられている。  首筋にナイフがあてられていた。  亜希子の全身を黒い戦慄が走った。 「なにをなさるんです。やめて。警察を呼びますよ!」 「呼びたければ、呼べばいい。大方、もう手遅れだろうぜ。真相を喋らせるには、手段は一つしかない。奥さんのこのきれいな身体に、吐いてもらおうってわけだよ」  囁(ささや)いた男が亜希子の耳朶(みみたぶ)を舐(な)めた。 「人を……人を呼びます!」 「この家は、もう点検ずみさ。あいにく、この家には誰もいない。あんたの声も、外には洩れないようにしてあるんでね」  人を喰ったような返事がきた。ナイフがピタピタと、亜希子の首すじを叩いた。もう一人の男の手がワンピースの裾にのび、パッと裾をめくった。  きゃッ、と悲鳴をあげた。そのはずみに亜希子の腰が抱えられた。二人がかりで床に押し倒されてしまった。  亜希子は逃げようとした。押さえられた。前にまわった男の手が股間にのびた。部屋着の裾をめくった。布地の上から茂みのあたりを撫で回した。 「さ、真相を吐くんだ。それとも、おれたちの野太いのをぶちこまれたいか」 「知りません。夫には愛人ができたんです。私も不義密通をやりました。それが露見して、私たち、破局を迎えたんです。私たちの離婚は、あなたがたには、まったく関係がありません!」 「ふん。愛人に不倫か。絵にかいたようなことを言いやがる。そんなものは世の中に掃(は)いてすてるほどある。見えすいた猿芝居だろう。寺島、やれ」  宗田と呼ばれる男が命じた。  亜希子はなすすべがない。二人がかりである。服を脱がされようとしていた。身をよじった。尻が浮いた瞬間、股間にのびていた男の手によって、パンティーがくるくるっと、むしられていた。  ワンピースの裾がめくれ、亜希子の恥部が、露出したのだった。 「誰か……誰か助けてえ!」  叫んだ。だが、家は広いので外にはきこえない。その口にパンティーが丸めて押し込まれた。うぐっと、亜希子は首を振って、吐きだした。  亜希子は夢中で身体を床にうつ伏せにした。精一杯の抵抗であった。だが次の瞬間、あっと叫んだ。  亜希子の背中のファスナーの止め口にナイフがあてられていた。止め口が弾けとんだ。服は裾までひき裂かれてしまった。  亜希子の裸身が、露わになった。  真紅のカーペットの上である。乳房をかばった。股間のヘアが、空気にさらされているのがわかった。  男どもの間に、どよめきが起きた。 「やめて! なにをするの!」  亜希子は、床にうつ伏せになった。  ひっくり返された。  乳房と秘部に、指が送られた。  指はもう、秘裂の中にくぐりこもうとしている。 「奥さん、本当のことを聞きだすまでおれたち、帰れやしないんだよ。犯(や)られる前に、真相を吐いたらどうだね」  思いもしなかった現実が、目前にせまっていた。  亜希子は声が枯れてしまった。男たちは亜希子の身体を押さえ、股間を押し広げようとしている。いやッと亜希子は激しく男の手を払い、太腿を閉じた。  だが暴力的な勢いは、やまない。男の手は悪魔のようだ。茂みが撫でられ指がクレバスに分け入ってくる。これは、ひどすぎる。  無体すぎる、と亜希子は思った。  男たちは金融機関の者だと名のったが、まともな銀行員が、こんなことをするはずがない。これは悪質な取立屋か何かだろうか。 「あなたたち、何者です。訴えます。正体を名のって下さい!」 「気丈だな、奥さん。いい見物(みもの)だ。こういう女は、実にやりがいがある。ひろげるんだよ、ここを」  男が、平気な顔をして、亜希子の茂みを平手で叩いた。ナイフが、乳房に当てられている。  あばれると、乳房のふくらみにナイフの刃がめりこんできそうだった。 「吐かないんなら、吐かないでいいんだよ。楽しみがふえるってわけだ。どうだ、奥さん。オナニー、やってもらおうじゃないか」  男たちは、図にのってきた。 「知りません」 「オナニーも知らないのか。お上品ぶりやがる。こうやってやるんだよ」  男の指が、クレバスを分けた。  赤い粘膜に空気がふれるのがわかった。その瞬間、亜希子の眼の前で火花が渦巻いた。気持ちの上でも、そうであった。だが、現実に、烈しい閃光が室内に渦巻いたのである。  あっと、叫んだ。ストロボが焚(た)かれたのである。写真を撮(と)られたのだと気づいた。男たちに押し倒され、秘唇をいたぶられている自分の恥ずかしい姿を、写真に撮られたのである。 (ひどい! なんてことを!)  亜希子は、逆上してしまった。 (やはり、悪質な取立屋だわ。写真まで撮って、私を脅そうとしている) 「卑怯(ひきよう)です! あなたたち!」  亜希子は声を張りあげる自分の気丈さに驚いていた。女は誰だってこういう場合には、必死で抵抗をする。 「卑怯でもなんでもいい。真相を吐いたら、解放してやると言ってるだろ。写真だって、街中にばらまかれなくてすむ。どっちが賢いか、考えればわかることじゃないかね」 「真相、真相とは、何のことです。私たちの離婚が偽装離婚なら、どんなにいいでしょう。離婚された私の悲しみが、あなたたちにわかりますか!」  離婚され、落ち込んでいる女をこれ以上、いじめなくても良いではないかと叫びたかった。 「ふん。強情(ごうじよう)な女だ。やれ」  宗田は、非情にも命じた。  亜希子には、いま自分の身に起きていることが、すべて現実のものだとは思えなかった。  悪夢だと思いたかった。  悪夢であってほしかった。  だが、現実に、亜希子の身体に男たちはのしかかっているのだった。  凶暴な牙をむいて、男たちは自分を犯そうとしているのであった。  亜希子は犯されることの恐怖よりも、男たちへの憎しみが湧いた。さらには自分を、こういう運命に落とし込んだ慎平を憎んだ。 「警察に訴えます」  呪うように言った。  のしかかった男が笑った。 「訴えたけりゃあ、訴えな。反対に詐害行為と財産隠匿のための偽装離婚の疑いで、あんたのほうこそ警察に取り調べられるのがおちだ。おれたちはそれを調べるための正当な権利を、ちょっとばかり、行使してるってわけでね」  警察は、民事に介入しない。だがそういうことのわかる亜希子ではなかった。男たちの言うことがまるで、本当のように思えた。警察が頼りにならないとすると、私は犯されるだけだろうかと、恐怖の思いに慄(ふる)えた。 「お願い! もうやめて!」  最後の力で、身をよじった。太腿をパッと割られた。男が一人、両下肢の間に入ってきた。黒々と濡れ光る仰角のものが視野に揺れた瞬間、亜希子はああ……と、深い絶望感に襲われた。 「やめて。それだけは、お願い!」  だが男は、容赦しなかった。  一人は、位置を決めている。亜希子は抗(あらが)うことの無駄を悟(さと)った。殺されるよりは、屈辱を受けたほうがまだましかもしれない。そう思った。  あたってきた。仰角のものが秘唇をめざす。うごめく。クレバスとラビアがいたぶられ、亜希子はもう半ば、観念するように、眼を閉じた。 「どうだ。奥さん。今なら、まだ間にあう。真相を吐きさえすれば、腰を引いてやるんだが」 「何度きかれても、同じです。真相なんか、ありません。私たちは協議離婚した。ただ、それだけのことです」  亜希子にはそれ以外、答えようがない。事実、亜希子にとっての現実は、それ以外の何ものでもないのである。  だが、男たちは偽装離婚だと見ている。今に吐くとみている。それだけ、暴力は苛烈さを増す。 「しぶといあまだな。しっかり、よがり声をあげさせろ。寺島、遠慮することはない。やれ!」  宗田の声が、頭上に響いた。  亜希子は観念し、眼を閉じた。  男の先端が、秘唇に分け入る。太いものがくぐりこんできた。  いやッ、とやはり最後の最後のところで、亜希子の本能が激しく腰をひねらせていた。はずれた。殴られた。腰をまた、ぐいと押さえつけられた。 「しぶといあまだ。寺島、だらしがないぞ。しっかりやれ」  今度は男も必死だった。みなぎったものを一直線にさしこんでくる。  ああ、と亜希子の唇から呻きが洩れた。そこにもう押し込まれていた。眼を閉じた。涙が頬をつたわった。 (この男たち、今に復讐してやるわ!)  亜希子は、心の中でそう誓った。 2  船山直彦は、ふっと足を止めた。  成城の家の前である。屋内から異様な気配が伝わった。女の悲鳴とも、呻きともつかないものが聞こえた。  玄関のドアには鍵がかかっていた。  直彦は裏にまわった。勝手口のドアをあけて入った。応接室のほうで、男女の獣じみた気配がする。(もしや義姉(ね え)さんに……?)  異変では、という予感がはねた。  直彦は今、ケーブルの敷設工事の事前研修会から戻ったところである。朝のうち、都心部ホテルで解団式を終え、家に久しぶりに戻ってきたところであった。  気配のするほうに急いだ。  応接間のドアをあけた。  目撃した光景が信じられなかった。  亜希子が見知らぬ男たちによって、犯されていた。  男は、三人がかりである。亜希子はもう男を容(い)れて、のけぞっていた。白い首が反(そ)り、唇から、悲鳴とも呻きともつかない重い声をほとばしらせていた。  理由はわからない。だがこれは、理不尽(りふじん)である、と直彦は思った。それに何より、愛していた義姉である。その義姉に危害を加えている男ども——。  怒りと逆上感が、直彦を襲った。 「きさまらは、何者だ!」  怒鳴って、飛びこんだ。  犯している男の尻を蹴った。  男がつんのめって、ふり返った。  亜希子を押さえつけていた男も、カメラを構えて撮りまくっていた男も、この新たな侵入者にぎょっとなって、ふりかえった。 「義姉さん。こいつらはいったい、何者なんだ!」  亜希子はほとんど、正体をなくしていた。裸身をかばって逃げようともしない。直彦はピアノの傍にあったゴルフクラブを掴んだ。 「あたしを……あたしを……」 「貴様ら、義姉さんを泥だらけにしやがったな。殺してやる!」  直彦は亜希子の姿を、見るに忍びなかった。  その分、怒りがにわかに焔を孕(はら)んで、爆発した。  ゴルフクラブを一気にふりあげた。亜希子から飛びはなれ、あわててズボンをひきあげようとしていた男の頭を、横からはたきつけた。ぎゃあっと悲鳴が湧いて、男の身体が吹っとんだ。 「おい、待て。おれたちは——」  何を言いやがる、と直彦は容赦せず、遮(さえぎ)ろうとした男の肩にも打ちおろした。返すクラブで、逃げようとした中年男の頭をうしろから、殴りつけた。  三人の取立屋どもにとっては、たしかに不意討ちであった。応戦のしようがない。ふだんなら、暴力沙汰にはなれている連中でも、女性を襲っている最中、不意に踏みこまれたのでは、喧嘩にはならないのであった。 「危(やば)い。退(ひ)け、退け!」 「警察に届けるなら、届けたっていいんだぜ。警察は強姦とは見ないだろうよ。女が自分からしがみついて腰を使っているところを、このカメラでちゃんと撮ってるからな」 「くそ。待て!」  追おうとした直彦を亜希子がするどく呼び止めた。「直彦、ほっときなさい!」  三十分後、部屋に重い沈黙が落ちていた。  亜希子は、ソファに横になったまま動かなかった。  涙があふれてきた。悲しみはなかった。嵐のように過ぎていった今の出来事については、なにひとつ、まとまった考えは浮かばない。  直彦に見られたことを、恥ずかしいとも思わなかった。直彦に助けられたことは、有難(ありがた)いことには違いなかった。  だが、何かが釈然としないのだ。自分を犯した男たちは何者だったのか。偽装離婚の真相を吐け、と猛っていたが、彼らが言っていた偽装離婚とはいったい、どういう意味なのか。 「義姉さん、風邪をひくよ」  部屋の外から、直彦がばかに遠慮がちに声をかけた。「はいっていいかな?」  直彦は三人の男を叩きだしたあと、亜希子が身づくろいを直し、気持ちを鎮めるまで、その部屋に入らないで、リビングのほうに遠慮していたのだった。  三十分たっても、亜希子が応接間を出てこなかったので、心配してドアの外に現れたにちがいなかった。  亜希子は返事をしなかった。身づくろいは、もうとっくに直している。だが身体が重い。ソファに横たわったまま頭がぼうっと混乱していて、そのくせひりひりと生傷の痛みに頭は加熱したまま、返事をする元気もないのだった。 「ねえさん、聞いたよ。兄貴と離婚したってことも、兄貴がこの家を出て女のところに住んでいるってこともね。今の連中、それに関係したことかい?」  直彦がそっとドアを押した。  亜希子は答えなかった。 「おれ、申し訳ないと思っている。もし、いつぞやの義姉さんとのことが原因で、離婚ということになったのならお詫びしなければならない」 「そのことは、もう言わないで」 「それにしても兄貴のやつ——」  直彦は亜希子から眼をそらし、呪(のろ)わしげに呟いた。「義姉さんをこんな目に遭(あ)わせておいて、いったい何やってるんだ。女のところに入りびたるなど、何考えてやがるんだ!」 「いいのよ、もう。あたしたちのことは放っといて」  亜希子の口調には、どこかすてばちな響きがまじっていた。直彦をみつめた亜希子の眼に、ふっと、思いがけず、妖しい焔が揺れた。 「あなた、いつぞや私を愛していると言ったわね。あれ、本当?」 「ぼく、嘘なんか言いませんよ」 「そう、うれしいわ。直彦、今なら、抱いてもいいのよ。大っぴらに」  直彦はうろたえ、顔をそむけた。 「私がレイプされていた姿を見たんでしょう。遠慮することはないわよ。私はもう離婚して、独立した一人の女よ。さあ、抱きたかったら遠慮なく私を抱いてごらんなさい」  直彦は狼狽(ろうばい)から覚(さ)めきらない。  しばらくの間、ほの暗い眼で亜希子を見つめていたが、やがて弱々しく頭を振り、直彦は無言で、部屋を出ていった。  ほどなくして、裏のガレージのあたりで、車の発車する音が響いた。 (ほら、ごらんなさい。レイプされた女を抱く勇気もないくせに!)  亜希子はわけもなく微笑を浮かべ、勢いよく浴室に立った。  電話が鳴ったのは、夕方である。  レイプから三日がすぎていた。  亜希子は、受話器を把(と)った。 「ぼく、小野寺ですけど」  受話器に、男の声が響いた。  あら、と亜希子は息を飲んだ。  宮益坂の自動車販売会社に勤めている小野寺秀雄からであった。 「いつか、会社にお電話をいただいたそうですね」  むかしの恋人である。一ヵ月前、慎平と離婚するかどうかで悩んでいたおり、相談をしようと、渋谷から電話をかけたことを憶(おぼ)えている。  その時は、小野寺は出張中で不在だった。それで、かえって安心したことを亜希子は昨日のことのように憶えている。 「せっかく電話をもらったのに、留守にしていて済みませんでした。この秋、大阪のほうで新車の特別販売プロジェクトを組んでましてね。一ヵ月、東京をあけてたんです。帰京して卓上の留守中電話メモの中に、あなたの名前をみつけて、びっくりしました」  小野寺は亜希子を人妻だと思っているので、ていねいな言葉使いをした。 「お元気そうね。声に艶(つや)があるわ。ずいぶん、張り切ってらっしゃる」  亜希子は精一杯、心をたて直した。 「どうしたんです? 亜希子さん、声の具合がおかしいですよ」 「ええ、ちょっとね——」 「病気でも?」 「病気といえるかもしれないわね」 「どういう意味です?」 「あたし、離婚したのよ」 「離婚? へええ!」  小野寺はたいそう驚いたようである。 「船山貿易の社長夫人に収まったあなたがねえ。しかしまた、どうして?」 「ええ、ちょっと。いろいろ事情があったのよ。電話では、話せないわ」 「じゃ、お茶でも飲みませんか」  さりげなく言われた時、亜希子は一瞬、息が詰まる思いがした。  離婚され、レイプされ、落ち込んでいる自分であった。そこに思いがけない電話である。誘いである。亜希子の心は、激しく動揺するのだった。  小野寺はもう結婚しており、家庭もある。でも、お茶ぐらいなら、不倫にはならないはずだ。それに、と亜希子は考えた。これは、いい話し相手かもしれない。亜希子は自分の離婚をめぐる状況に疑惑を抱きはじめているのだ。  偽装離婚とはいったい、どういう意味なのか。世慣れた小野寺にきけば、あるいは、わかるかもしれない。 「いいわ。いつ?」  努(つと)めて、明るい声で言った。 「なんなら今夜でも、結構ですよ。ちょうど残業もないので、六時には新宿に出ることができますが」  結局、そういうことになった。  六時。中村屋のカフェテラス。  亜希子は、約束をとり交わした時、自分の心の奥深くで、三日前のあのレイプ事件の生傷が、まだ血を流しつづけているのを感じていた。  誰かの胸に思いっきり抱かれたいと思った。抱かれることで、一日も早くそれを忘れたがっている気持ちがひそんでいることを感じていた。  亜希子は電話を置くと浴室に立ち、早めに、支度に取りかかった。 3  亜希子は、新宿に出た。  約束していた店は、三越通りの明るいカフェテラスであった。昼間なら一枚ガラスの広い窓を通して秋の陽射(ひざ)しが射し込む。だが、夕方六時ともなると、窓外の舗道を洪水のように流れる若者たちの風俗を眺めて、楽しむことのできる店であった。  亜希子は窓際の椅子に坐った。  明るいパープルカラーのワンピースが、彼女をぐっと若く見せていた。テラスの椅子に坐って、長い脚を組んだ亜希子の姿は、ファッション雑誌のモデルのようにすっきりしている。  出がけに、そう心掛けてきたのだ。  化粧も念を入れた。服も選んだし、靴も選んだ。今夜から、自分が何かしら大きく、変身するような予感が、亜希子をしきりに捉(とら)えている。  小野寺秀雄は約束の時間にやってきた。彼は眩(まぶ)しそうに亜希子をみた。 「美しくなったね」  まんざら、お世辞でもなさそうだった。  そういう小野寺も、疲れのない身だしなみをしている。会社では中堅になり、若さと落ち着きがうまく溶けあって自信にみちた営業マンである。 「これでも、苦労したのよ。いろいろ事情があって」 「そりゃあ、離婚するくらいだから波風はあったでしょうよ。それが女を美しくさせる。電話の声の様子では、落ち込んでいるのかと心配していると、とんでもない。華麗に変身しちゃったみたいだ、亜希子さん」  小野寺は、何も知らない。あたしがレイプされたことまで知ったら、どんな顔をするだろう。亜希子は、それを考えると、おかしくなった。それぐらい、彼女はレイプのことを、もうやりすごそうとしているのだ。 「出ましょうか?」  コーヒー一杯で、テラスは切りあげることになった。「どこか静かなところでゆっくり飲みたいな。亜希子さんとは久しぶりだし」  小野寺は先に立って伝票を取った。  亜希子も場所を移すほうが、助かると思った。  素面(しらふ)でむきあっていると、妙に固くなって、話すことも話せない。人間はもともと、気まずい話になると、対面話法より、カウンターみたいなところに横に並んで、同じ方向をむいたまま素知らぬふりをして話すほうがやりやすいように、できているようだ。  街は、もう夜に入っていた。ネオンの下に、大勢のアベックや若者たちが歌舞伎町のほうに流れている。  亜希子は、さりげなく小野寺の腕をとった。すると、小野寺がぐいと腰を抱いてくれた。ウエストの、くびれた部分がきゅっと抱き寄せられて、亜希子は軽い目まいを覚えた。  亜希子はもう、昨日までの亜希子ではなくなりつつあった。離婚、そしてレイプとたてつづけに襲ってきた嵐が、それをかいくぐったとたん、彼女の中の何かを確実に、そして根深く変えつつあるようである。  いや、まだすっかり変わったわけではない。だが、今夜を境に、何かが音をたてて変わってゆくような予感がしてならないのであった。 「乾杯!」  グラスがさしだされた。小野寺がそれをさしあげ、冷たいバーボングラスの陰で、澄んだ眼をむけている。 「何のための乾杯かしら?」  亜希子はカウンターで、微笑した。水割りのグラスを握った指先の、マニキュアの赤が鮮やかだった。 「ぼくたちの再会を祝して」 「そうかしら」  亜希子は笑った。「本当はあたしの離婚祝い。そして、女の再出発のために、と言いたいんでしょう?」 「それでもいいよ。亜希子さんの、華麗なる転進のために」 「ありがとう」  グラスがカチン、とはねあった。  亜希子はひとくち飲み、冷たいグラスを頬に寄せた。結氷したガラスのしずくが、顔に心地よかった。  気持ちのよいパブであった。「シャンテ」。区役所通りの真新しいバービルの二階にあった。カウンターでボトルカードをさしだしたところをみると、小野寺は常連かもしれなかった。  亜希子にとって、この小野寺は最初の男である。オフィスラブというのではない。小野寺幸江という亜希子の短大時代の同級生が、神戸から東京に出てコンピューター会社に勤めていた。  小野寺は、その幸江の二つ違いの兄だった。亜希子が船山貿易に勤めて半年くらい経ったころ、幸江の紹介で二人は交際しはじめ、一年目の冬、信州のスキー場に行って、雪のホテルで二人は、結ばれたのだった。  肉体関係は一年半ほどつづいた。だが亜希子は、肉体的には奥手(おくて)だったらしい。その頃はまだ、ふとんの中でも忘我の境地というものには至らなかった。  船山慎平に求婚された時、この小野寺をさっぱり振って慎平になびけたのも、二人の関係がまだ、どろどろにはなっていなかったせいもある。 「きみはまだ、青い花だよ」——その頃、小野寺は口ぐせのように言っていた。パブの賑(にぎ)わいと煙草のけむりの中で、亜希子はなんとはなしに、そういう数年前のことを思い返し、微笑を浮かべつづけるのだった。 「三年間、か。待てばよかったな」  小野寺がグラスを置いて、ポツンと言った。彼はたしかに、むかし、亜希子に対してひたむきだったのである。 「ばかおっしゃい。離婚なんて、予見できることではなかったのよ。あたしだって、まだ離婚したという事実が信じられないくらいなんだから」 「人生、一寸先は闇。恐ろしいね」 「ええ。ホント!」 「どうして離婚したんです?」 「どうしてって、いろいろあって——」  亜希子はまだその理由を明かす気にはなれなかった。  せっかく、少しずつお酒がまわって、気分がなごんできたところである。もう少し、はじめて出会った恋人同士のような気持ちでいたい。 「恨んでるんでしょ? 私のこと」  考えてみれば、三年前、自分はこの小野寺を裏切ったのである。小野寺の立場に立てば、憎い女だったかもしれない。  朦朧(もうろう)としてきた頭で、そんなことを考えた。  亜希子は少し、酔ってきたようだった。  パブは混んでいた。別世界にいるように楽しかった。現実が遠のいて、若返ったような気がした。肩と肩がふれあう。響く。自分が、ひどく淫蕩(いんとう)な女になりつつあるような気がする。  小野寺秀雄は、あまり深酒をしない男である。だが、調子をあわせて楽しく酔う、という一種の技巧をむかしから身につけていた。そうした小野寺を亜希子は頼もしいと思っていたものだ。 「ねえ、答えなさいよ」  酒癖の悪い女が、絡(から)むような口調になったことに、亜希子は気づかない。 「何を?」 「さっきの返事」 「何だったかな」 「恨んでるんでしょ、わたしのこと」  先刻、そう訊いた時、小野寺は短い沈黙ののち、それから上手に別の話題にはぐらかしてしまったのである。 「恨んでるでしょ? 私のこと」  亜希子はもう一度、訊いた。 「そうでもないさ。人それぞれ、人生を選ぶ権利がある」 「強がりでなければ、うれしいわ」 「ぼくだってあの後、結婚をして、いまでは家族がいる。いつまでも振られた女を追いかけるほど、未練っぽい男じゃなかったって、ことかな」 「そう、おめでとう。おしあわせな家庭なんでしょ」 「さあ、どうだか。一家を背負って苦労している安サラリーマン。それに比べ、離婚して財産もある優雅な若い未亡人。亜希子さんが、羨(うらや)ましいよ」 「そうかなあ」 「そうですよ」 「そう思うなら、思ってもいいわ」 「そっちは、これから花盛りってわけだ。亜希子さん、これから翔(と)ばなくっちゃあ」  小野寺が太腿に手を置いた。  内側をそっと、撫(な)でてくる。  二人はカウンターに坐っていた。男の手の動きは、他人には見えない。亜希子は、太腿のきわどいところにのびてきた小野寺の手を、きゅっとはさんだ。拒絶からというよりは、むしろ、逆の意味であることがわかるようなはさみ方だった。  亜希子はそういうことを平気でやる自分が、信じられなかった。  小野寺は続けていた。「……さっきの話だけど、亜希子さんに振られたこと、恨んでいないし、憎んでもいない。それは嘘じゃない。ただハッキリ言って、くやしさだけがありありと残っている。せっかく、これから一人前の女にしようと思っていた矢先に、他人に盗(と)られたっていう口惜しさがね」 「へええ。セックスのこと?」 「そうですよ。男なら、誰でもそう思う」 「女性とは、ずいぶん、違うのね」 「違うのかなあ。同じだと思うよ。だって亜希子さんは、ぼくに処女をくれたけど、まだ極(きわ)めていなかった。これからしっかり仕込んでやろうと思っていた矢先に、さっさと逃げられた。くそったれ、と思ったね」 「今からでも遅くないかもよ」  亜希子は、微笑を浮かべて言った。  二人は九時半に、そのパブを出た。  どこでもよかったのかもしれない。  だが小野寺は、吟味した。その界隈(かいわい)で一番、凝(こ)った京都風の造りの「嵯峨野」という和風ラブホテルに入った。  竹林がしつらえられ、筧(かけい)に水が落ちている。亜希子は男と腕を組んで平然とそんなところに入ってゆく自分の大胆さと勇気が、今まで、どこに潜(ひそ)んでいたのだろうと不思議な思いにも駆られたし、怕(こわ)いような気もしてくるのだった。 「ここなら、少しは落ち着けそうだ」  小野寺は、泊るつもりなのだろうか。  そんなことをさせては悪い——。  相手の家庭を思いやる余裕さえも出てきているのだった。  部屋に入ってすぐ、亜希子はうしろ手でドアを閉め、両腕を小野寺の肩に搦(から)めた。テストーニの白いエナメル靴をつま先だてて、何もかも忘れるように、小野寺にキスを求める。  唇と唇が重なった。舌が撥ねあい、躍った。甘い溜息が洩れた。揺らすように下腹部を押しつけた時、出がけにふりまいてきたギ・ラ・ロッシュの香水が、亜希子の首すじに匂った。 「バスは?」 「家ですませてきたけど」 「もう一度、使いなさい。ぼくが入れてきましょう」  小野寺は部屋に落ち着くと服をぬぎ、さっさと浴室に立った。動きにむだがない。湯の音の中で小野寺は先にシャワーを浴びているらしく、 「来ませんか?」  ドアを細めにあけてきいた。 「いいえ、あたし、湯の中ではのぼせるのよ。あとで入ります」 「ちっとも、変わってないなあ」  亜希子は小野寺のあとで、風呂に入った。もったいないほど、湯が溢(あふ)れている。小野寺の思いやりに違いなかった。亜希子は丹念に身体を洗い、素肌の上に浴衣(ゆかた)をきてあがった。  座卓の前で、小野寺がビールを飲んでいた。亜希子も、もっと酔いたかった。やはり勇気が必要だったし、心の中の邪魔なものを残らず追い払ってしまいたかったのだ。  現実のわだかまりが、少しでも残っていると、それが完全に燃えることを妨(さまた)げるに違いない。今の亜希子は、アルコールによって、何もかも忘れ、淫蕩な女になりきる必要があるのだった。 「あたしにも、注(つ)いで」  亜希子は小野寺の傍に坐り、ビールをもらった。正面に襖(ふすま)があり、その隙間からのべられた夜具が見え、それが亜希子の気持ちを騒がせた。  こうなると、もう言葉はいらないのかもしれない。亜希子はビールを一杯思いっきり飲み干すと、斜(なな)めに小野寺の胸に、身体を傾けた。見知らぬ男たちに汚された三日前のあの事件を、一刻も早く忘れたがっている心のありようを、亜希子は見ていた。  小野寺が、その肩を抱いた。  唇をあわせてきた。抱きすくめられて、亜希子の浴衣の裾が乱れ、白い脚が露(あら)わになるのがわかった。  横抱きにされたまま、浴衣の合わせ目から小野寺の手が乳房に届いていた。 「……ちょっと、待って」  亜希子は、微(かす)かに、抗(あらが)うように言った。 「離婚したばかりなのに、平然とこういうことをしている。変に思っているでしょう? わたしのこと」 「いいや、ちっともそうは思いませんよ」  小野寺は、それから、妙なことを言った。  女には二種類ある。離婚や夫の不行跡などで、逆境に陥り、苦労を重ねれば重ねるほど、その滓(かす)が身に沈澱し、世帯やつれして見る影もなくなる女と、逆境に陥れば陥るほど、反対にそれをバネにして金粉を蛾(が)のようにまき散らして、輝いてゆく女とである。  亜希子はどうやら、その後者かもしれない、と小野寺は言うのだった。 「それにまだ若い。二十七歳か。これからが、女盛りだ」  そう言われてみると、亜希子は自分でも、なんとなくそうかもしれないと思えてくるから不思議だった。  小野寺に抱きしめられると、亜希子は胸が震えた。異常な興奮、といっていい。しだいに動物的になる自分を感じていた。繰り返し唇を合わせながら小野寺の手が亜希子の胸のふくらみを揉(も)み、太腿のあたりを愛撫する。  浴衣の下は素裸だった。身体がよじれるにつれ、裾が割れてゆく。脛(はぎ)が現れ、太腿が覗(のぞ)く。小野寺の手が太腿の内側をつたって茂みの下に送られた瞬間、あっと亜希子は悲鳴をあげ、なぜか小野寺を突き飛ばそうとした。 「いやっ!」  なぜ、突き飛ばそうとしたのかわからない。茂みの下が、自分でも驚くほどあふれているのがわかった。それを知られるのが恥ずかしいというのでもなかった。やはり、レイプされたことを思いだしたからだろうか。レイプされながら、途中から烈しい快感に襲われてイキそうだった自分の身体を、亜希子は思いだし、呪わしく思ったのかもしれなかった。  それを思いだしての拒絶反応だったかもしれない。だが小野寺は、そうは取らなかった。亜希子の最後の恥じらいと取ったようである。彼は平然と、 「凄い。さすがだ。恐ろしく全身が敏感になっているよ」  小野寺の指は、もう太腿の奥をたどり、秘唇に触れていた。あふれる熱い沼に沈んでゆく指の感触に、小野寺は明らかに亜希子の三年間の結婚生活の年月と、その爛熟を感じていたのかもしれなかった。  それもむろん、無理はないところである。人妻になり、そしてその夫とも別れたばかりの、亜希子の身体の変化をこそ、小野寺は楽しんでいるのかもしれなかった。 「お願い。おふとんに運んで」  亜希子はもう、息苦しくなっていた。目まいがしそうだった。ふとんの中で思いっきり乱れなくては気がすまないような気持ちになっていた。 「何もかも忘れさせて」  夜具に運ばれた時、亜希子はそう口走っていた。小野寺はその言葉に、亜希子の逆境の辛さを感じこそすれ、まさか、レイプまでされて泥だらけになった心理まで含まれているとは、想像さえしていなかっただろう。 「しあわせだよ。亜希子さんを、また抱けるなんて」 「いやいや。何にも言わないで」  夜具は気持ちよかった。シーツに糊(のり)がきいている。浴衣の紐(ひも)がほどかれ、肩からぬがされ、一糸まとわぬ亜希子の身体が、そこにくっきりと現れた。  亜希子の肌は白く、腰は締まっている。身体つきは、ふっくらしていた。二十七歳にしては首筋から肩にかけてのなだらかな肉づきは弾(はず)んで、女友達からもセクシーだとよく言われる。  それが、この数日の間に、変化してはいないか。レイプされた女というものは、隠しても隠せない痕跡が、どこかに残っているのではないか。  不安だった。怯(おび)えをのこす身体へ、浴衣をぬいだばかりの小野寺の腕がまわされてきた。ふたりはもつれあって敷布の上で、重なりあった。  小野寺はもう無言だった、唇をあわせ、太腿が亜希子の両下肢を割ってきた。陰阜のあたりが小野寺の太腿に押され、じわっとその下から愛液があふれだすような震えがはしった。 「ああ、しあわせよ、小野寺さん」  亜希子は小野寺の身体に、蛇のように両腕を回してからみついた。  小野寺はだが、あわてない。久しぶりの亜希子の躯(からだ)を賞味するように、隅々を唇であたってゆく。首すじから肩、胸のふくらみへ。そして乳房の頂点で唇はしばらく、とどまる。そこはすでに充分手で揉まれていたので、乳頭は固く尖りきっていた。  そこを吸われる。あッと、声が高まる。じいーんとしびれる。亜希子はもう半ば、夢うつつであった。  ひとしきり、乳頭の味をたしかめた小野寺の唇と舌は、今度は亜希子の胸の側面に移動してくる。腋(わき)の下が大きくあけられ、腋窩(えきか)を吸われた時、 「ああッ」  と、亜希子ははじけた。だんだん、怖いくらいに性感が深まってゆく。つい三日前、いや、一ヵ月前の慎平との平和な夫婦生活では一度も、覚えなかったような領域であった。 「やはり、凄いね、夫婦生活は。もうぼくが開発する余地はないようだ」  小野寺が最後の茂みの下で、舌先を羽毛のようにそよがせながら、うめくように言った。でも、それは小野寺の誤解である。こういう感じ方は、今夜がはじめてなのである。  小野寺は姿勢をとり直した。こんどは左手で亜希子の肉体をぐいと抱きよせ、最後の攻撃に移る前に、もう一度、秘唇の奥を指でたしかめようとするように、クレバスを分けてきた。  指がくぐりこんできた時、亜希子はもうそこが虹色の花のようにひらき、待ち望んでいるのを感じた。 「ああ。欲しい……来て」  亜希子は、吐息をついた。  小野寺は応(こた)え、獣の姿勢をとった。  亜希子の身体を、二つに折る。両下肢を大きく割り、そこにみなぎったものをぐいと押し込んできたのである。  小野寺の強い、猛々しいものが濡れ色の唇を深々と分けて、つらぬいてきた時、亜希子はああッ、と叫び、首をのけぞらせ、脳裏に一瞬、眩しいマグネシウムの火が燃えたのを見た。  小野寺は、ゆっくりと動いた。  亜希子は、夢うつつであった。  陶酔がはじまっていた。  重い酔いに似た感覚である。頭のほんの一部分だけが冷(さ)めており、小野寺を奥深くまで迎え入れながら、その冷めた部分で、亜希子はちらと、不安というものを意識していた。  故(ゆえ)しれない不安だった。これで三回目。慎平以外の男に、身体を移したことになる。だが前二回は、直彦であれレイプ犯であれ、押し込まれ、襲われたという他動的なものであった。  自分から選び、運んだのは、これが初めてである。自分がだんだん、見知らぬ女になってゆくような気がする。どこまで変身していくのか。それを考えると、亜希子は末恐ろしくなるのだった。  しかし、その頭の中の冷めた部分もすぐに熱湯によって溶けだしてゆく。小野寺の動きによって、間もなく消えてしまった。甘美な感覚が理性を押し流し、思考力を麻痺(まひ)させたのである。  以前の小野寺からも、むろん夫の慎平からさえも得られなかった恍惚感が、熱っぽく、荒々しく亜希子の全身を訪れていた。  これが、男というものなのだ、と亜希子は行為の奥に、一種の感動さえも覚えざるを得なかった。 「ああッ」  気が遠くなるような蜜の中で、亜希子は歓喜に悶え、何度も何度も、われを忘れたのだった。 4  嵐のような情事が終わった。  ふたりは、汗びっしょりでまどろんでいた。眼がさめたのは、寒くなったからであった。掛布ははだけられ、裸同然の身体から、汗が冷えてゆく寒さで眼ざめ、亜希子は身を起こした。  小野寺は、シーツにうつ伏せになってまどろんでいた。亜希子はその裸の背中に、唇をつけた。女として初めて最高の歓びを与えてくれた男に対するいとおしさであった。  小野寺は、眠ってはいなかったらしい。気配で身を起こし、枕許の煙草に手をのばした。  ふたりはシーツに腹ばった。亜希子は、情事が目的で小野寺に会いにきたのではないことを思いだした。  話しだす機会を窺(うかが)っていると、小野寺のほうから糸口をだしてくれた。 「聞いていいかな?」  彼は遠慮がちにきいた。小野寺のこういう優しさが好きである。 「亜希子さん、どうして離婚したんだい?」  亜希子は話してみようと思った。隠してもはじまらない。それに、小野寺に自分たちの離婚をめぐる疑惑を、聞いてもらいたいからこそ、今夜のデートに応じたのではないか。  亜希子は、包み隠さずに話した。  慎平の会社が危機に陥り、愛人狂いしているらしいこと。自分も一度、義弟と過(あやま)ちを犯したので、離婚を告げられた時、防ぎきれずに、あっという間に協議離婚が成立してしまったことなど、洗いざらいぶちまけるように、小野寺に話した。 「ほう。それは大変だったね」  と一応はねぎらい、「それにしても電光石火だ。すごい離婚劇だな」 「そうよ。突風みたいだったわ」 「ふーん、突風か。そして今は、台風一過ねえ。もっとも、そのおかげで、ぼくはまたこうして亜希子さんが抱けたわけだが」 「ねえ。偽装離婚って、どういうことだかわかる?」 「偽装離婚?」  小野寺ははて? という顔をした。  亜希子は、自分の家を訪れた経済調査員という人間から、そうきかされたことを話した。むろん、相手が取立屋であったり、レイプされたことなどはおくびにもださなかった。 「ずいぶん、疑っていたみたいなの」 「なるほど——」  小野寺はむっくりと起きあがった。  シーツの上にあぐらをかく。肩に浴衣をかけ、腕組みをして宙を睨み、 「その話、ちょっと気になるな」  と、小野寺が呟いた。 「どう気になるの?」 「なにしろ、電光石火の離婚調停だったでしょう。その調査員の言い分も、かなり正鵠(せいこく)を射ているような気がするんだ」 「ということは、夫がもくろんだ偽装離婚ということが、真相ではないか、というの?」 「もしかしたらね」 「いったい、その偽装離婚というのはどういう意味なの?」  亜希子は、息苦しくなった。にわかに胸騒ぎがたかまり、きっとなって小野寺に説明を求めたのだった。  しばらくの沈黙のあと、 「なるほど、考えやがったな——」  と、小野寺は言った。「船山慎平氏の立場としたら、なるほど、そういうことをやる手段もあったわけだ」  小野寺は説明した。  船山慎平が会社整理にあたり、自己の資産にかかわる成城の家や別荘など数億円の財産を禿鷹どもにむしられないため、妻と離婚し、慰謝料という形で妻にあげてしまえば、債権者や取立屋はそれを取ることができない。つまり、船山は再起のための軍資金を、愛する妻、亜希子に預けたのではないかと——。  亜希子には最初、意味がよくわからなかった。  が、離婚直前の慎平の挙動や、取立屋の執拗な質問などを考えあわせると、小野寺の説明がにわかに現実味を帯び、正しいことのような気がしてきた。  そしてその瞬間、亜希子はぎょっとなった。  とすれば……慎平は今でも本心では私を愛しているのかもしれないではないか!  愛しているからこそ、私を路頭に迷わせまいとした。そして数億円の財産を私に預けようとしたのだろうか。  それは、今まで亜希子がまったく考えもしなかった地平であった。しかし、もしそれが真実だとするなら、慎平は身勝手すぎる、という腹立ちめいた思いが、次にやってきた。 「それならそれで、最初から私に相談してくれればよかったのに」 「いいや。それは違うんだよ、亜希子さん。あらかじめ夫が妻に相談したり、説明したりすれば、共同謀議となって、その偽装離婚は詐害行為とみなされる。妻はあくまで、何も知らないままでいないと——」  なるほど、私は何も知らなかったからこそ、あの取立屋の厳しい査問にもがんとして、もちこたえたわけだ。  が、別の角度から考えれば、亜希子は防波堤にされたことになる。わら人形になったことになる。そう考えると、慎平のやり方は、ますますひどい仕打ちだ、と亜希子には思えてもくるのだった。  亜希子の頭は混乱した。 「それに、その義弟というのも、ちょっと、ひっかかるな。たとえばね、船山氏はあなたとの離婚を考えていた。だが、夫からの一方的な離婚宣告では、民法上、通用しない。そこで、弟をけしかけてあなたと肉体関係をもたせる。それで立派に離婚は成立する」  あッ、と亜希子は思わず、悲鳴をあげそうになった。  男というものはずいぶん、色々な角度から物事を考えるものだという、小野寺の意見に対する率直な驚きでもあったし、そしてそれ以上に、直彦が浴室で挑んできたことまでが慎平のさしがねだったとすると、これはますます許せない、という思いであった。  そうだ。これは一度、しっかり直彦に確かめなければならない——。  亜希子が混乱した頭の収拾をつけかねている時、 「でもね、亜希子さん。ものは考えようだ。どっちみち、あなたはもう離婚した。それは、事実だ。そしてそれによって現に、億という財産が転がりこんできた。ごくふつうの、家計のやりくりをする貞淑な妻なんかより、はるかにいい身分になったというべきではないかな」  過去のことはもう考えるな、と小野寺が抱きすくめてきた時、亜希子の脳裡にちらと慎平の面影がよぎり、激しい罪の意識と、とまどいが見舞った。が、さっきのあの燃えようからいって、亜希子にはもはや、抗すべくもなかった——。 第五章 蜜の疑惑 1 「お帰んなさい」  夕貴(ゆき)が鞄(かばん)を受けとった。  船山慎平はわが家にでも帰ってきたように、後ろ手にドアを閉めた。  夕貴が激しく接吻を求めてくる。 「今夜は早かったじゃないか」 「ええ。九時半に帰ってきたのよ。お店、ひまだったし」  夕貴は化粧をまだ落としてはいなかった。接吻を交わしている間、アイシャドーを塗った瞼(まぶた)と長い睫毛(まつげ)が、期待にかられたようにふるえていた。 「お風呂、わいてるわよ」 「うむ。もらおうか」  西荻窪の夕貴の部屋であった。  慎平が成城の家を出て、一ヵ月がたつ。慎平の会社は、もう少しで解散のごたごたが片づく。片づいたら関西方面にでも移って、しばらく潜伏するつもりだが、それまで、慎平は毎晩、この西荻窪の夕貴の部屋に帰ってきているのだった。  夕貴の部屋は狭いが、二人暮らす分には不足はしない。どうせ、仮のねぐらである。慎平に拘(かか)わる家具や調度といったものは、見事なほど、一切(いつさい)ないのだった。  身軽なものだ。慎平は服をぬぎ、ハンガーにかけると、風呂に入った。  湯気(ゆげ)がこもっていた。湯かげんは熱かった。慎平は熱い風呂が好きだ。夕貴はそれを、心得ている。  慎平は湯の中に身体を沈めた。喉(のど)の奥から太い息が、ひとりでに洩れた。慎平は、眼を閉じた。  妙なものだ。漂泊者の気分である。  それなのに、女の部屋にいて、三度の飯を食っている。贅沢(ぜいたく)な境遇というべきかもしれない。が、それももう少しのことだという気がする。東京をあとにすると、どのような生活が待っているかしれたものではないのだった。 「ねえ。はいっていい?」  夕貴が声をかけている。  男と一緒に風呂に入るのが好きな女である。いいよ、と慎平は眼を閉じたまま、返事をした。  夕貴が入ってきた。慎平は眼をあけた。慎平の視線が、夕貴の裸身を撫でるように這(は)う。夕貴は、露骨な慎平の視線を、柔らかくたしなめるような眼をみせて、笑った。  夕貴の裸身はあまり大きくはない。小柄だが、メリハリがある。尻と乳房はくっきりと、鋭角的に張りだしていた。股間の茂みも淫蕩(いんとう)な感じを漂わせて、旺盛である。  バスタブの縁(ふち)をまたぐとき、夕貴の股間の奥のはざまが、ルビー色に光った。女性の亀裂が一瞬、眼の前で鮮やかに閃(ひらめ)くさまは、欲情をそそる。  慎平はバスタブの中で夕貴の身体を受けとめて、膝の上に坐らせると、右手を股間にのばした。藻(も)のように漂う陰毛の下のクレバスをさぐると、そこはもう湯の中で熱く開き、濃いうるみをたたえはじめていたのだった。  そこを愛撫する。ああッと声を洩らし、夕貴が首に両腕を回してきた。 「いやん。感じるわよお」  こうやっている間、慎平は平和だ。  今夜も女体に溺(おぼ)れようとしている。  今にバチがあたるかもしれないが、慎平としては今のところ、自分が作りだしたその状況の中にまっしぐらにのめりこんでゆくしかないのであった。 「ねえねえ、あがって」  夕貴が、やがて促(うなが)した。 「あたし、洗ってあげる」  慎平は、バスタブの縁に腰をかけた。  自然、みなぎったものが、湯気の中でそそり立つという具合になる。  夕貴はあがって洗い場にかしずき、股間に石鹸をたっぷりとつけた。見事に泡立つ。その泡を両手ですくって、上手に直立したものを洗いたててくれるのだった。  慎平は、されるままにした。楽しい。幸福である。夕貴はそこに、お湯をかけた。泡が洗い流されると、そのあとから黒光りするものが、全身を現してくる。 「ねえねえ。男の人って、どうしてこんなに大きくなるの?」  夕貴は洗いたてながら、不思議そうにきく。 「小さいままでは、女性に対して失礼じゃないか。何しろ女はみんな、けだものの口みたいなものを持っているからな」 「けだものの口だなんて、失礼ね」 「神様に文句をいえよ」 「でも、不思議だわあ。用事がなくなると、ちゃーんと、小さくたたまれて、可愛ゆーくなるなんて!」 「大きいままでは、満員電車の中で不都合をきたす」 「あ、そうそう。電車といえば——」  夕貴はそれから、面白いことを話した。夕貴が処女を失ったのは、OL一年の時だそうだ。それまで、夕貴は男のものをとっくりと見たことはなかった。初体験をした翌朝、電車の中で夕貴は目まいがしそうだった。シートに坐っていると、目の前にサラリーマンがたくさん、吊革にもたれて立っている。自分の眼前で、ズボンに隠されてあんなに大きい男のものが、並んで立っていると思うと、恥ずかしく、頬がほてって、一生懸命、顔を伏せて、卒倒しそうになる気分を耐えていたというのだ。  そんなことを話す時の夕貴は、実に可愛い。明るくて、こだわりがないのだ。慎平も疲れを忘れる。この女となら当分、うまくゆきそうである。 「夕貴、もういい。ベッドにゆこう」  二人は、ベッドにもつれあって倒れた。慎平は夕貴の背中に片手をまわし、もう一方の手で乳房をもみしだいた。彼女の大きくて弾むような乳房は明るい灯にさらしたほうが見栄(みば)えがするし、興奮するにつれ、乳頭が尖ってくるさまが、おもしろいのである。 「部屋をもう少し暗く」 「どうしてだい。さっきは風呂の中で全身を拝ませてくれたくせに」 「今、トイレに入ったでしょ。あれ、オシッコじゃなかったの。あんまり濡れてたから、あそこ、拭いてきたのよ」 「ほう。自然湧出……?」 「そう。とてもひどいの。だから、恥ずかしい」 「そんなことはないさ。すてきだよ。アラビアの女のようじゃないか」  中東のハレムの女は、愛する男がくる夜、一人で部屋に待っている間に、静かに俯(うつ)むいているだけで、膣の中に熱い蜜液をあふれさせているそうだ。  また、そういう訓練がなされている。女性もそういう能力を秘めている。夕貴の女性的な可愛らしさや従順さは、そんなハレムの女さえも、思わせるのだった。  慎平が乳房を揉むと、夕貴はもうそれだけでたまらない、というふうに声を喘(あえ)がせ、自分から慎平の身体に覆(おお)いかぶさってきた。乳房が彼の胸板に押しつけられてくる。また接吻だ。  彼女の手が、慎平の昂(たか)まりきったものに触(さわ)っている。その触り方が、風呂場とは違う。早くも自分の好きな部分にあてがい、挿入したがっているようである。 「だめだよ。まだ——」 「だってえ」  夕貴は、不思議な女である。  若いのに、本行為のほうを好む。  ふつうなら、接吻や乳房への愛撫や首すじや耳朶(みみたぶ)。そして性器や、全身への愛撫といったふうに、回り道を好む女性が多い。特に若い女性は、そういう具合に、セックスをプレイやタッチ気分で楽しむ傾向が強いのだが、夕貴は反対なのだった。  まわり道を、かったるいという。せっかく燃えあがった気分を、回り道をしているうちに、冷(さ)ますのがもったいないという。その点、年齢と経験を充分に深めて、膣だけで感じる熟年女性と似たところがあった。  慎平は、応じてやることにした。  慎平が身を起こし、夕貴の身体を押し伏せて挑む姿勢をとると、夕貴はもうそれだけで、目まいを起こしたような眼になっていた。  慎平は夕貴の体を、仰むけにした。  身体をひとつにすると、早くも夕貴は喘ぎはじめ、切羽つまった顫(ふる)えが、声に混じってきた。  そのまま、夕貴は登りはじめた。慎平は、ストレートの連打に移った。  本行為を好む夕貴のような女は、あまりテクニックを考えないほうがよいのだ。せいぜい、突きを入れながら乳房を揉み、白い頚(くび)、肩を軽く咬(か)む。  そうすると、夕貴のふるえがひどくなった。とにかく、奥のほうが好きな女である。深く先端が届くことを、好む女である。浅いジャブを使っていると「もっと深く」とか、「強く」とか「もっと奥に」と、夕貴は露骨な言葉を発して乱れるのだった。  可愛い顔をしているくせに、女性の最も女性たるべき部分で、世の中の倖せというものをすべて、感じとるタイプの女のようである。  ひと波、嵐がすぎ去ったあとがまた夕貴らしいのであった。 「そっとしてて……」  と、夕貴は言う。「お願い、まだはなさないで。もう少しすると、あれがくるから」 「あれって、何だい?」  夕貴は、うっとりしたまま、何も言わなかった。多分、余韻を楽しんでいるのだろう、と慎平は思った。  そうではなかった。慎平の男性自身のまわりの肉襞(ひだ)が、突然、ざわざわざわっ、と揺れはじめ、起きあがるように波立ってきて、そこは無数の羽毛がそよぎかかるようななだれを打って、慎平のものを烈しく押し包んできたのだった。 「あッ、きたわ……きたきた」  夕貴はのけぞり、恍惚(こうこつ)とした表情を浮かべる。 「いいのよ、これが。ああッ、あたし変になってしまいそう」  行為が終了したあと、二度目の激しいオルガスムが訪れたのだった。慎平は繋(つな)がれて、包まれたままになっていた。夕貴はもう一度、ひとりでに反りかえる感じになって、昇りつめてしまったのである。 (うーん、変わってる。洪水のあとにもう一度、洪水が押し寄せてくる身体の構造は、はじめてだ)  慎平は、摩訶(まか)不思議な顔になった。 「驚いたな。いつもかい?」 「いいえ。時々、なの。今夜は初めから、そういう予感がしてたのよ。慎平さんが帰ってくる前から、あそこ、濡れてたんだもん」  慎平は古い美術店で意外な掘り出しものに出会った思いで、身体をはなし、ベッドに腹這いになった。 「どうだい? 店は慣れたかい?」  日常的な次元に、話題はもどる。  夕貴がシーツに伏せて、息を鎮めながら答えた。 「楽なお店なのよ。駅前の、小さな小料理屋だから」  夕貴は銀座の「眉」が閉店した後、まだ銀座の店を決めてはいない。だがぶらぶらしていても仕方がないし、部屋にくすぶっての「奥さま稼業」は嫌いだそうで、知りあいに頼まれ、腰かけがわりに、西荻窪駅前の「卯月」という小料理屋に、パートで手伝いに顔をだしているのだった。 「今日の夕方、出勤前にヘンな男の人が、この部屋に訪ねてきたのよ」  夕貴が、報告した。 「男……? どんな?」  慎平は、心のなかで身構えた。 「宗田と名のってたけど、じろじろと部屋を眺めまわして、船山は毎晩、ここに帰っているのかと、しつこく訊いてたわ。どういうことかしらねえ」  宗田ときいて、慎平は不快な気がした。船山貿易に債権をもつ信栄ファイナンスの調査員である。調査員といえばもっともらしいが、要するに取立屋を擁(よう)した経済機関のボスであった。 「で、夕貴は、どう答えたんだ?」 「船山はあたしのカレですって、答えてやったわ。毎日、ここから会社に出勤してます。毎晩、あたしたち、愛しあってますってね」 「ご名答。それでいい。で、宗田はまだほかにも何かきいていたか?」 「私は出勤前なので忙しい、といって門前払いをくわしたのよ。そうしたら宗田という男、しれーっとした顔で、また出直す、と言って帰ったわ」  どうやら、おれたちのまわりを嗅(か)ぎ回っているようだな、と慎平が思った時、居間のほうでブザーが鳴った。 「今ごろ、誰かしら?」  夕貴が急いでガウンに身を包み、ベッドから起きあがった。慎平は、いやな予感がした。 「宗田だったら追い返してくれ。こんな夜間、取立屋の顔など見たくはない」 「オーケー。追い返してやるわ」  夕貴は勢いよく、飛びだした。  こういう時、水商売の女は、威勢(いせい)がいい。客扱いには慣れている。変な訪問者だったら、タンカを切って追い返すのである。  その夕貴がドアをあけ、 「あんた、誰……?」  応答する声がきこえた。 「兄貴、いるだろう?」  宗田ではない。妙な声だった。 「兄貴って、誰のことよ」 「おれは、船山っていう者だ。慎平の弟さ。兄貴はここに隠れているんだろう。はいらせてもらうよ」  直彦の声であった。慎平はいささかぎょっとなって、起きあがった。  弟がどうして、こんな場所まで探しだし、押しかけてきたのだろう。  やがて直彦が、夕貴の制止をふりきってずかずかとあがり込んできたらしく、荒々しく寝室のドアをあけた。慎平が起きあがるよりも早く、直彦は肩を怒らして押し込み、 「こんなところにいるのか。兄貴! 義姉(ね え)さんをいったい、どうするつもりだ!」 「直彦、酒を飲んでいるな!」 「飲みもするさ。四、五日がかりで、やっと、探しあてたんだぜ。兄貴、こんな女のところに転がり込んでいて、義姉さんをいったいどうするつもりなんだ!」 「あいつとはもう、離婚したんだ。おまえが心配することではない」 「そうはいかないよ。先週、義姉さんの身の上に、大変なことが起きたこと知らないのか」 「大変なこと? 何だ?」  直彦は、意外なことを告げた。成城の家に暴漢が三人も押し込み、亜希子を問い詰めて、レイプ同様の手段に訴え、泥だらけにしたそうである。  慎平は、突然、眼の前が暗くなった。亜希子にそんな危難が見舞ったことなど、はじめてきく。慎平は成城の状況などまるで知らなかったのである。  予想されなくはなかった。慎平と亜希子の電撃的な離婚に、もし疑いをもつ手合いがいるとすると、取立屋どもは亜希子を襲い、問い詰める行為に出るかもしれない。その状況を一応は想定したからこそ、慎平はあえて亜希子には真相を告げずに、抜き打ち的な離婚作戦を決行したのである。  それを、暴力的にレイプまでして吐かせようとしたとは、慎平の予想をはるかに越える苛烈さだった。予想外の早さであり、予想外の卑劣さであった。  くそっと思った。がばっと慎平は起きあがり、服を身につけはじめた。 「まあ! どこにゆくの?」  夕貴が、びっくりした顔をむけた。 「ちょっと、急用ができた。外出してくる」  そういい、傍(かたわ)らの直彦にむかって、 「おまえは帰れ、亜希子のことを教えてくれたことには感謝する。だが、この問題はおまえが出しゃばることではない。おれにはおれなりの考えがあってやってることなんだ。心配せずに、自分の部屋に戻れ!」 2  慎平は、部屋を飛びだした。  心が猛っていた。亜希子を襲った者どもの見当はついている。信栄ファイナンスの調査員たちだ。宗田康晴という男が、首謀者と思われる。  今日も西荻窪の夕貴の部屋を訪ねてきたというので、宗田に違いない、と慎平は睨(にら)んでいるのだ。  駅前まで小走りに急ぎ、ロータリーの乗り場でタクシーを拾った。 「調布まで、行ってくれ」  タクシーは走りだした。  宗田康晴が、調布の小島町二丁目に住んでいることは知っている。宗田という男は、もともとは総会屋のはしくれで、商法が改正されて活動が狭ばめられて以来、恫喝師(どうかつし)とか脅迫屋とかいわれるハイエナ稼業をしながら、「宗田経済研究所」という看板をあげ、いろいろな金融機関から請け負って、専門の取立屋をやっているのだった。  事務所は、笹塚にある。当然、若い者を大勢雇っている。自宅は調布にあり、愛人に駅前の小料理屋をやらせているという話だった。  タクシーは四面道から環八に出た。  タクシーは甲州街道を出て、烏山(からすやま)をすぎた。宗田のところに押しかけて、何をやろうという考えはない。真相を確かめ、もし本当なら、半殺しの目にでもあわせてやらねば気がすまない。二度と亜希子に手出しをするな、と釘をさしておかねばならなかった。  西荻窪から調布まで、さしてかからない。道も空(す)いていた。二十分で着いた。めざす家は小島町でもはずれの住宅街の中にあった。ヒバの生垣に囲まれたごく普通の古い平屋である。  宗田は、奇妙な男だった。ここも、サラ金の借金のかたに差し押さえた家の一軒らしい。サラリーマン夫婦を叩きだし、分捕ったその家に、いまは若い愛人を住まわせ、近くに店を出させて、自分も、この家で暮らしているという話だった。  門灯が点(つ)いている。ブザーを押した。返事はない。玄関に立った。  門灯以外、なかはしんとして、暗かった。留守らしい。慎平は舌打ちし、駅前にあるという店のほうにまわることにした。  踏切りの近くである。 「お染」は、まだやっていた。  のれんをくぐってドアをあけると、 「いらっしゃいませ」——妙に小綺麗な若いママの顔が浮かんだ。  ママがおしぼりをさしだした。 「はじめての方かしら?」 「うむ。だいぶ、冷えこんできたな」 「じゃ、熱燗(あつかん)?」 「いいな。それに、おでん」  孝子というらしい。紬(つむぎ)を着た襟足が白い。まだ二十代の、清潔そうな色香をもつ女である。宗田のような男が、どこで仕込んできたのか、恫喝屋(どうかつや)にはもったいないような女である。  客はまだ、二、三人いた。孝子は慎平に、徳利とおでんをさしだし、盃(さかずき)に酌(しやく)をすると、ゆっくり飲んでてね、と愛想笑いをにじませ、馴染(なじ)みの客のほうに戻っていった。  慎平は、盃を傾けた。鬱屈が去らない。くそ、と思う。宗田が成城の家に押しかけて亜希子に 辱(はずかし)めを加えたのなら、おれはこの女を襲って凌辱(りようじよく)してやるか、とさえも思う。  慎平とて、やわな男ではないのだ。中小貿易会社を経営してきた以上、いろいろな修羅場(しゆらば)もくぐっている。その会社さえ整理して、蒸発しようと考えている今、慎平には恐いものは何もないと言っていい。  それにしても、どうしているか、亜希子。慎平はふっと、亜希子に電話をかけてみたいと思った。  カウンターの傍に、電話があった。  何度も、受話器に、手がのびた。  だが、ためらいのほうが強い。電話をしたところで、亜希子が、そういう屈辱的な事件を、すらすらと喋るはずはなかった。むしろ、否定するに決まっている。  それに何より、せっかく偽装離婚を成功させたのに、今、なまじな同情から電話をしたり、接触したりすることは、計画を水泡に帰することに、等しかった。 (今が一番、肝心な時なのだ。落ち着け慎平。それより、宗田どもに反撃を加え、これ以上、つきまとうな、と釘をさすことだ!) 「あらあら、おかまいもしないで」  孝子が慎平のほうにきたのは、もう一時をまわった頃だった。  三人、残っていた客が引きあげた時、外まで送りに出た孝子が、表ののれんをおろし、灯を落として戻ってきたのだった。 「もう一本、つける?」 「でも、看板みたいだね」 「ええ、一時。でも初めての方を追いだすのは悪いわ。もう一本だけ、ね」  孝子は、熱燗をだした。 「ママ、この二階に住んでるの?」 「あたしを誘惑する気?」 「できれば、ね」 「まあ、厚かましい。初見で?」  睨んだあと、「こういう店って、たいてい二階に部屋があるわ。でも、ふだんは使わないのよ。近くに亭主が待つ家があるの」  やんわりと、制御機能をおく。 「そうか。亭主もちか。じゃ。これからせっせと通ってくることにするよ。今夜は、これ一本で」  慎平はとっさに、家に帰る孝子を待ち伏せしよう、と決心した。  宗田の家は、しんとしていた。  門灯だけが、庭先にあかるい。  なかは、いやに静かで、まっ暗だった。  宗田はまだ帰ってはいないらしい。  慎平が家の陰(かげ)に潜(ひそ)んで十分たった。  孝子が路地を曲がって、帰ってくる足音が響いた。秋の夜更けは冷える。孝子は紬(つむぎ)の和服の肩にショールを羽織って、急ぎ足だった。  孝子は、庭にはいった。  門灯に襟足が浮かんだ。  ほつれ毛の具合が、なまめかしい。  鍵をあけて、玄関に入る。居間や台所と思われるところに、あかりが点(つ)いた。今なら、ちょうどいい。押し込めば、宗田が帰る前に、孝子を押さえることができる。  慎平が生垣(いけがき)から身を起こそうとした時、路地のむこうからヘッドライトが射(さ)した。慎平は生垣に身を寄せた。白のカローラだった。路地を入ってきて孝子の家の五メートル先で停まり、男が降り立った。  背広を着ている。ずんぐりした猪首の五十男。脂(あぶら)ぎった顔。宗田だ!  宗田と孝子は、帰宅時間を示しあわせでもしていたようである。仲睦(むつ)まじさが窺(うかが)える。宗田は案外、孝子に惚れているのかもしれない。  宗田は、車庫のシャッターをあけ、車に戻っていった。バックしながら、車をガレージに入れる。入れ終えた瞬間を見はからい、慎平はその車庫の中に、ずかずかと入った。  宗田はライトを消し、エンジンを切ったところだった。ドアをあけ、出てきたところを狙った。慎平は、無言で正拳を腹に打ち込み、頭髪を握って車の屋根に、側頭部を叩きつけた。 「な……なにをしやがる!」  暗い怒声が湧いた。半開きの運転席のドアを、叩きつけた。もがいていた宗田の右腕がドアにはさまれ、骨の折れる鈍い音が響いた。 「おれは、船山だ。そういえば、訪問した意味、わかるだろ。一緒に来い」 「ふ……船山だと! どうしてこんな乱暴をする!」 「それは、あんたの胸に聞きな。叫ぶと、生命がないぞ」  慎平は宗田の左腕を捻(ね)じあげたまま運転席のダッシュボードをあけ、スパナを探した。スパナはなかったが、ぼろ布とともにナイフがあった。  ナイフを右手にとった。首に押しあて、宗田をひきずった。利(き)き腕はもう骨折している。左腕を逆手(ぎやくて)に捻じあげて、門灯のほうに歩かせた。 「乱暴はするな。おとなしくしてるじゃないか」 「叫ぶな。ふだんどおり、おとなしく家にはいるんだ」  チャイムを鳴らした。  玄関の明かりがついた。 「お帰んなさい」  迎えた孝子が、慎平に腕を捻じあげられた宗田に気づいた。 「まあ!」と叫んだ。 「大きな声をだすな。家を借りる。玄関に鍵をかけるんだ。言われた通りにしないと、宗田の生命がないぞ」  慎平は、宗田を家に押し込んだ。  孝子は命じられるまま、玄関の鍵を閉めた。おろおろと追いかけてきて、 「あんた、さっきのお客さんじゃないの。どういうこと、これは——」  咎(とが)めるように言う。無視して慎平は宗田を奥の間に押し込んだ。腰を蹴って突きとばした。宗田が畳に倒れた。寝室だった。ふとんが敷かれている。  ぱっと、燃えるように赤い紅絹(も み)のふとんだった。そこに頭から倒れた宗田の脇腹に、慎平は靴先を二度、三度、蹴り込んだ。  こういう段になると、慎平も容赦をしないのである。 「待て! 乱暴はするな」  孝子が、怯(おび)えた眼になった。 「二人とも、ここに坐って、素っ裸になってもらおうか」 「裸だと? ばかなことを言うな」  慎平の足が、宗田の脇腹にめりこんだ。孝子が悲鳴をあげた。孝子は膝のうしろを蹴られて、ぺたんとふとんの上に、尻をついた。 「き、きさま、仕返しにきたのか!」 「そうさ。自分の胸にきけば、わかるだろう。おまえは先週、手勢をつれて成城の家に押し込み、別れたおれの女房に手荒なことをしたそうじゃないか。好きな女に勝手なことをされて、泣き寝入りする男がいるか」 「おれは、何もしていない。嘘だ。それは何かの間違いだ!」 「言い逃れをするな。おまえらを蹴散らした弟から、ちゃんと報告をきいた。取立屋どもに女を凌辱させるなど、薄汚ないことをしやがる」 「何を言うか。亜希子とおまえはもう離婚したんだろ? それならその女がどうなろうと、おまえの知ったことじゃない。勝手な難くせをつけるな」 「ほざいたな。別れた女なら、泣き寝入りしろというのか。離婚は離婚。好きな女は好きな女だ。その女が暴行されたとあっては、許すことができん」 「そうか……割れたぞ。まだおまえがそんなに惚れてるのなら、やはりあの離婚は猿芝居の偽装離婚というわけだ。詐害行為で、訴えてやる!」 「ぬかすな。それとこれとは、話が違う。おれは亜希子のかわりに、仕返しにきてやったんだ。おい、孝子さん」  ひッ、と孝子は逃げようとした。その足をぐいと掴み、引きよせた。 「やめて!」  孝子は、本能的に身の危険を感じて、逃げようとした。  ふとんの上である。慎平はその足を掴んで、引き倒した。孝子は抗(あらが)った。のしかかって、鳩尾(みぞおち)に拳を入れた。孝子は白眼をむいた。鈍い呻きを洩らし、ぐったりして、動かなくなった。  慎平の胸に今、怒りが燃えている。やられたら、やり返す。こういう局面は、それでゆくしかないのだ。 「やめろ! 孝子に乱暴するのはやめろ!」  叫んで、掴みかかってきた宗田の脾臓に靴先を蹴り込むと、宗田の巨体はどうと倒れた。ほとんど、悶絶寸前である。それぐらいでは収まりきれない、暗く吹き荒れるものが、亜希子を汚されたことを知った慎平の胸に、いま、風の唸(うな)りのようなものをたてている。  襟首をぐいと掴みあげ、締めた。「どうだ。惚れた女を乱暴されるのは、おまえでもいやか」 「真相を話す。孝子をいたぶるのだけはやめてくれ」 「真相? 成城の家に押し込んで、亜希子を問い詰めたあげく、犯した。そのことに、裏の真相でもあるというのか」 「そうだ。あの押し込みは、おれたちの本意ではなかった。おれたちは焚(た)きつけられたんだぞ」 「焚きつけられた? 誰にだ?」 「おまえのところの秘書の、宮村京子にだ。あの女に、船山社長の奥さんをいじめて離婚の真相を探ってみなさい、と焚きつけられたんだぞ」  慎平は、いささか愕然(がくぜん)とした。  宮村京子は自分の秘書である。京子が、なぜそんなことを?  京子ならたしかに、内部事情には詳しい。慎平の蒸発願望も知っていた。  慎平の挙動を、あやしんだのかもしれなかった。だが京子が、なぜこんな宗田などに密告したのか? 「え、なぜだ。なぜ宮村京子は、おまえに密告したんだ?」 「そんなこときかれても、おれは知らねえよ。電話がかかってきたんだ。船山社長は偽装離婚をして、高飛びしようとしている。債権を焦(こ)げつかせたくなかったら、しっかりと裏を調べることね、とあの秘書は、そう入れ知恵をしてくれたんだぞ。自分の尻の火の不始末を、よそに持ち込むな!」 3  電話が鳴った。  京子が受話器をとりあげた。 「はい、協栄銀行さんですね。いつもお世話になっております。社長はただいま——」  眼だけをむける。慎平は急いで、両手で×の字をつくる。いないと断ってくれ、という合図であった。 「社長はただいま、外出しております。ご用件は?」  宮村京子は、テキパキと応答しながら、「はい。その件でございましたらうちの顧問弁護士の白枝のほうにつないでいただきたいと存じます。会社整理の件は、いっさい、弁護士事務所を窓口にしておりますから」  受話器を置いてから、京子が涼しそうな眼をむけ、ニコッと笑う。 「これで、よろしかったかしら?」 「うむ。上出来だ。門前払いをくわすのも、すっかり板についてきたぞ」 「はーい。秘書の務(つと)めでございますから」  翌日の午後——そうやって会社で仕事をしている分には、京子のどこにも、謀叛(むほん)気を起こしたようなところはない。京子はいつものように、慎平と実に呼吸の合う名秘書ぶりをてきぱきとこなしているのだった。  卓上のワープロに動く白い指や、うなじや、ふっくらした京子の胸許を眺めながら、慎平は、気持ちが落ち着かない。この女が自分を裏切って、偽装離婚のことを宗田康晴に密告したとは、とても思えないのである。  だが、確かめねばならない。慎平は今夜、京子を久しぶりに食事に誘いだすことにしていた。電話が鳴る前、そのことをほのめかすと、 「わあ、お誘い? うれしいわ」  反応も、いつもと少しも変わらなかった。「社長のお声がかかるなんて、久しぶりですわね」 「じゃあ、グルミオ。夕方七時、フランス料理でも奮発して、そのあと、ゆっくり——」  取り決めは、そう決まっていた。会社は、あと二日である。彼がこの社屋に顔をだすのも、あと二日である。会社整理の事務は、電話のとおり白枝弁護士事務所に一任している。  銀行や取引会社すじでの債権者会議も再三、開かれており、慎平はそういう席にもちゃんと顔をだし、円高に抗するうち、資金繰(ぐ)りが悪化して不渡りをだした以上、船山貿易は畳むと宣言し、債権者にはいっさい迷惑がかからないよう、在庫品や社屋やすべての含み資産を処分して、万全の措置をとる、と言明しているのだった。  その債権者との応待や、和議申請などの雑事は、弁護士の白枝庸介がすべて、引き受けてくれている。慎平は今、舞台の幕が降ろされる寸前の、奇妙に白熱してはいるが、どこか虚(うつ)ろなものが漂うエアポケットの中に入ったような気分なのであった。  午後三時をまわっていた。慎平は卓上を片づけ、席を立った。出がけに、 「ぼくはこれから、ちょっと、外回りしてくる」  言い残して、慎平は、オフィスを出た。このビルもあと二日で明け渡すのか、と慎平は表で一度立ちどまり、ビルを振り返った。奇妙な感慨であった。お城引き渡しの際のむかしの城主のような心境だった。 (これでよい。あとは潜伏して再起を期すのみだ。時間をかけて軍資金を準備し、戦略を練(ね)る必要がある)  慎平は日本橋の街を歩きだした。  日本橋の街は夕方から雨に包まれた。  窓ガラスに、雨のしずくが流れている。秋の冷たい雨だった。慎平は、その雨を眺めながら、ワインを傾けはじめていた。日本橋三越の一つ裏通りにあるグルミオという店である。  京子は、約束の時間にやってきた。 「濡れたようじゃないか」 「ええ。ちょっと——」  コートを脱ぎ、向かいに坐る。ブローした髪に、水滴がキラキラと真珠のように光っているのが鮮やかだった。 「もう、やってらっしゃるの?」 「うむ。君より先にきて、待っていようと思ってね。ハーフボトルをちびちびやっているところだ」  慎平はメニューをさしだし、 「何にする?」 「お肉なら、何でも」 「それじゃ、ここの自慢のやつを」  荒挽きコショウで焼いたステーキにシーフードサラダ。ロゼのワインを一本、追加し、今の境遇としてはささやかな贅沢(ぜいたく)を試(こころ)みる。  京子は首に巻いていたスカーフをはずしながら、挑(いど)むような眼をむけ、 「このところ、お見限りでしたのね」  怨(えん)ずるように言った。  慎平は京子が、まさかそんな眼をむけるとは思わなかった。 「うん。きみも知ってのとおりだ。社のごたごたがつづいていたが、ようやく片づきそうだからね」 「奥さんとは離婚なさるし、新しい愛人はお作りになるし、社長もなかなか公私多端ってとこかしら」  冷やかすような響きがあった。 「それは、皮肉かね」 「いいえ、本音ですわ。奥さんとの協議離婚が成立した時、私、びっくりしました。本当は私に次の出番の声がかかるんじゃないかと、ひそかにドキドキしておりましたのよ」 「ほう。まさか——」 「あーら、冷たいのねえ。これでも社長とは親しかったつもりだし、信頼をうけてたつもりよ。もし社長が新しい女のところに転がりこむような状況になったら、きっと私が掩(かば)うことになるのに違いないって、自負してましたのに」  聞きようによっては、そのあてがはずれて、恨んでいるようにもきこえた。額面(がくめん)どおりだとすると、宮村京子は、おれと夕貴とのことを嫉妬でもしているのだろうか。 「まさかねえ。あんなヘンな酒場女の部屋に逃げこむとは、私、思いもしませんでしたわ」  おやおや。夕貴のことを、やはり嫉妬しているような響きがあった。  だが、慎平は、京子が自分のことを愛情次元で考えていたなどとは、少しも思ってはいなかったし、今も思ってはいない。  この女には、何かの秘密があるはずだ。それをさぐる。それが今夜の慎平の仕事である。  注文した料理と、追加したワインがやってきた。  慎平は、京子のグラスにワインを注いでやった。  窓ガラスに、まだひっきりなしに、秋の夕暮れのつめたい雨のしずくが流れつづけている。それに眼をむけた京子の横顔が、なぜかふっと、淋しそうに見えた。 「呼んだのは、ほかでもない」  船山慎平は切りだした。 「倉荷証券、まだ見つからないのか?」  夕食に誘った本当の用件は、それである。 「ええ。見あたらないんです。銀行の貸し金庫の鍵は、ちゃんとハンドバッグの中に入れてましたし、会社の机にも、いつも鍵をかけて帰ってるんですけど、どこで盗まれたのか。どう探しても、見つからないんです」  京子は、無念そうに顔を伏せた。  窓外に雨はまだ降りつづいている。二人はワインを飲み、食事をしながら話しているが、話題の中味は、かなり重大なところにさしかかっている。  今、船山貿易は芝浦の富士倉庫株式会社の倉庫に、円高で輸出を見合わせていた洋食器や、有田、萩の和食器など、かなり莫大(ばくだい)なストックを抱(かか)えている。総額二億三千万円を下らないものである。その保管証拠として預かっているのが、倉荷証券である。  一枚ではない。保管した時期と、分量に応じて、幾枚かに分けられているが、いずれにしろ、その倉荷証券を所有しているものが、最終的に二億三千万円の滞貨の山を捌(さば)く権限をもつ。  慎平はこのところ忙しかったので、それを銀行の貸し金庫に預け、必要に応じて、秘書の宮村京子に出し入れさせていたが、先々週、京子は引き出してきたその倉荷証券の数枚が、会社内から紛失していることを発見した。  銀行に責任はない。紛失したのは、会社内であった。だが、警察には届けなかった。船山貿易としては、富士倉庫株式会社と利用契約を結んでいるので、現物さえ押さえておけば、倉荷証券がなくても、そのストックを自由に動かすことができる。慎平自身には、少しも痛痒(つうよう)を感じなかったからだ。  ただし、危険な隘路(あいろ)が一点だけある。もし万一、何者かが、夜間、富士倉庫にトラックで乗りつけ、鍵を破って現物を運びだしてしまえばお手あげである。通用する倉荷証券を船山貿易はすでに、もってはいないからである。  もっとも、その倉庫のストックさえ、本質的にいえば、すでに船山の所有ではない。厳密にいえば、白枝弁護士事務所と、管財委員会が責任をもち、いずれ債権者会議で分配するものであった。  だから、事実上、もう慎平の手を離れてはいる。白枝庸介には倉荷証券の紛失のことも報告しており、富士倉庫にも通報して、保管を厳重にするよう頼んでいるので、問題はないとして、警察には届けてはいないのである。 「何事もなければいいがね」 「ええ。あたし、責任を感じております。辞表を提出するといっても、会社があと二日とあっては、それも何だかマンガチックですわね」  京子は、淋しそうに笑った。 「うむ。きみの責任ではないよ。こういう時は、とかく思惑や利害が錯綜して、思わぬ行き違いが起きるものだ。誰か、関係者が在庫を確認するため、持ちだしたのかもしれない——」  慎平は明るくいい、京子に食事をすすめた。二人はそれから、黙々とナイフとフォークを動かした。 「いやだね、雨は……」  慎平は、窓外を眺めて呟いた。 「こんな晩はいくら飲んでも、身体が少しも、あったまりゃしない」 「そうね。私もロゼ、頂きます」  慎平は京子にワインを注いでやりながら、早く宗田康晴のことをききたいと思った。京子が自分を裏切って、偽装離婚のことを宗田に密告したのかどうか。  だが、そういう話題は、この手の店では無理かもしれない。むかいあって問いつめると、どうしても尋問(じんもん)するような口調になってしまう。  慎平は自制した。いずれ、どこかで久しぶりに身体を繋(つな)いだあと、探ってみよう。それとも、京子は今夜、おれと寝ることを拒否するだろうか。 「どうするんだね? これから」  慎平はさりげなく世間話に戻した。 「そうねえ」  京子は軽く肩をすくめ、 「退職金もたっぷりいただけそうですから、しばらくのんびりしますわ。再就職の道も、さいわい二、三の銀行筋や、取引先の会社から声がかかっていますから」 「そうだろうね。きみぐらい、美貌で有能なら、秘書のくちくらい、引手あまただろうからね」  皮肉ではなかった。宮村京子は本当に有能で、魅力的で、どこでも使える美人秘書なのである。  このまま切れてしまうのは惜しい、という未練心がかすめた時、慎平は今夜、ホテルへ繰り込むより彼女の部屋に押しかけてみようか、と思った。  宮村京子が、もし謎をもつ女なら、その部屋を見ておくのも悪くはない。生活の場なら、何がしかの手掛かりがあるかもしれないではないか。 「ところで、家はどこだっけ?」  そういう具合に、さりげなくきいてみた。 「あーら、やーだわ」京子が素頓狂(すつとんきよう)な声をあげた。「一度、送っていただいたことがあるじゃありませんか。忘れっぽいのねえ」 「ああ、井(い)の頭(かしら)線の駒場東大前。まだあそこに住んでるの?」 「ええ。木造のアパートに毛がはえたような小さなマンション。女の一人暮らしには、ちょうど手頃なんです」 「そうか。駅の近くだったね。どうだろう。今夜はきみの家に押しかけてみようか」 「まあ」  京子は、びっくりした顔をした。 「そんなことをなさって、いいんですか?」 「私はもう、離婚した身分だよ」 「だって、西荻に——」 「夕貴(ゆき)は拘束しあう仲ではない」 「気楽な身分ね。羨ましいわ」  妙に、大人びた感想をのべた。 「押しかけるのは悪いかな」 「いいえ、ちっとも。散らかしてますけど、よろしかったらどうぞ」  京子は意外にあっさりと、承諾してくれた。断られるかと思っていただけに、思いがけないなりゆきだった。  二人は八時半に、店を出た。タクシーに乗りこみ、慎平は京子の手を握った。京子も、ぐっと握り返してきた。 4  シャワーの音が響いた。  京子が、浴室に入っていた。  慎平は先に風呂を浴び、ベッドに腹ばっている。煙草に火をつけ、腹ばったまま、怪訝(けげん)な思いで京子の部屋を眺めているところだ。  京子がもし、宗田康晴が言ったように、慎平の偽装離婚のことを密告したり、成城の家を襲えと焚きつけたりしたのなら、どうしてこんなに簡単に自分を部屋に招くのだろうか。本当はホテルに入ることさえも、断ってもおかしくはないのである。  それなのに京子は、なんのためらいもなく部屋に入れてくれたのである。彼女のマンションは、駒場東大前の駅裏にあった。石段を降りたところにアパートや住宅がぎっしり並んでいる一画があり、京子のマンションも、あまり陽のあたりそうもないその低地の、小路の裏にあった。  木造モルタル二階建て。ふつうはこの手の建物はアパートというのだが、富士見マンションという名前がついている。浴室もあるので、やはり、アパートというよりはマンションなのかもしれない。それにしても、宮村京子のような知的で有能で、万事に派手がましい感じの女性の住まいとしては、思ったよりも質素で、キラキラとしたところが、どこにもないのだった。  部屋も、こぢんまりしていた。二DK。一応、洋室の体裁(ていさい)は整えていて、シングルベッドが窓際にあった。ベージュのカーテン、ぬいぐるみ、ドレッサー、趣味のいい化粧箪笥、三面鏡と、精いっぱい、若々しい女の部屋という感じで演出してあった。  シャワーの音が熄(や)んだ。  京子がバスタオルに身を包み、戻ってくる。京子は、すぐにはベッドには入らなかった。枕許に腰をおろし、バスタオルの端で髪を拭きながら、 「本当にいいの? 泊まったりして」  ふりかえって睨んだ。 「いいと言ってるだろう。私は今、風来坊みたいな人生のはざまにいる」 「西荻の彼女。いいのかなあ」 「今さら、そういうことを言うもんじゃないよ」 「わたしを抱くと、不幸が訪れるかもしれないわよ」 「どういうことだ?」 「社長は奥さんと別れた。奥さんは私のこと、恨んでるかもしれない。その上、社長はまた別の女性のところに転がりこんでいる。いろいろ、もつれてるって感じ」  世間の、生臭いことをもう充分、わきまえたような妙に大人びた声でそう言い、「危険な女って、世の中にいるでしょ。私、そんな女になるかもしれないわよ」 「その女を抱くと、男が次々に死ぬ。たしか、そんな映画が、むかしあったな。京子がもしそんな危険な女なら、なおのこと面白いじゃないか」 「そうね。社長も危険な男だし、私もそうなら、火事場のふたりって感じ」  京子が、そよぐようにもたれかかってきた。  ワインの酔いも、ほどほどに残っている。京子は喘(あえ)ぎながら、接吻を求めてきた。それを受けとめ、ディープキスを交わしながら、慎平は京子のバスタオルを取った。明かりに、京子のまっ白い乳房が弾むように現れた。  慎平は接吻で京子を高まらせたあと、押し伏せて乳房に唇を移し、乳首を吸った。 「ああッ。だんだん……」  ワインの酔いが煽(あお)っているようだ。京子は初めから女体を揺らすようにして、すばらしい感度をみせた。  慎平は、下腹部に顔を移した。茂みのあたりを軽くキスしたあと、亀裂に意地悪な指戯を見舞うことにした。  なんとなく、ただ一本の指をさしこむのでは満足できない気分が、今夜の京子に対して根を据え、唸(うな)りをあげているのだ。謀叛(むほん)を起こしたかもしれない女。その知的で危険な女をいたぶるように、最初は三本の指で花弁を挟(はさ)むようにして、亀裂のあたりをもてあそんだ。  花弁をひらく。にじみだす蜜液で、そこは花色に潤んでいる。親指の腹で花の芽を押し、人差指と中指で大陰唇と小陰唇をひらかせたり、不意に揉んだり、浅いところをかきまわしたりするうち、花園への乱暴な蹂躪(じゆうりん)が、よほど響くようで、京子は尻をシーツから持ちあげるようにして、身悶えした。 「ああッ……」  二度、三度、ヒップを持ちあげる。見ようによっては、それは、早く膣(ちつ)に指を入れてほしい、と催促しているような動きでもあった。  まだまだ。慎平はクリットをぐいと押し、指を二本、挿入することにした。いきなりではむりがゆく。まず人差指をラビアの中に入れ、心持ち、テコでこじあけるように上に動かしたあと、中指を重ねてすべりこませた。 「ああッ……」  京子が、シーツをひっかくようにして腰をもちあげ、身悶えした。  進入させてから、重ねていた指を横に揃える。京子は強く二本の指を締めつけてきた。 「はじめてよ。こんな感じ……」  京子は身体をくねらしながら、妙な声をあげた。慎平は指を膣の奥で立て、手前にひっかくように動かした。天井の粘膜の襞(ひだ)やザラザラがはっきりと指の腹にふれ、くりかえすうち、 「あっ。ああッ……」  京子はまた、ヒップを持ちあげた。 「その感じ……たまんない」  喘ぎながら言う。慎平は自信を深めて、膣壁の上下左右をいじめぬくように強く引っ掻(か)いたり、押さえたりした。膣壁そのものは、もともと鈍いものなので、それぐらいに強くやったほうが効果的な女性もいる。京子はそのタイプかもしれない。 「あ、ああッ!」  京子は尻を、軽くバウンドさせた。 「変よ、蛇が中で暴れてるみたい」  京子は泣きそうな声でいう。慎平は指で攻撃しながら、前屈みになって恥丘の秘毛の中を軽く咬んだり、腹部にキスを見舞ったりした。唇と指が魔法のように組み合わされて動きまわるにつれ、 「あーッ……」  京子はブリッジをつくるようにヒップを持ちあげ、中空に円を描いた。京子の最も敏感な部分に吸いつき、舌つづみを打つと、京子は、それだけでもう軽くのぼりつめてしまった。 「なんだか、遊ばれたみたい」  指戯だけでクライマックスに達したのが恥ずかしいのか、京子は、慎平の胸に顔を埋めて、息を整えている。  慎平は、まだ挿入を果たしてはいない。それは、あとまわしにしよう。それより、宗田のことをきいてみるタイミングをはかっている時、京子が胸を撫でながら言った。 「不思議な人ね、社長って」 「社長っていうのは、もうよせよ」 「はいはい。慎平さん——」 「それでいい。で、何が不思議?」 「評価額二十億円もの財産、それをぽんと奥さんに残して、風来坊のように家を出るなんて、大変な度胸。いえ、度胸じゃないなあ。不思議な人種を見るみたいね」 「おいおい、二十億円じゃないよ。成城のちっぽけな家屋敷なんか、せいぜい、二、三億。私の場合の慰謝料としては、やむを得んことだったんだ」 「あーら、社長! 今年の都内の地価の狂騰ぶり、ご存知ないの?」 「狂騰ぶりか。うん。少しは知っている。地上げ屋が暗躍して、恐ろしく値上がりしているそうだね」 「そうよ。成城はまさに、日本一の値上がり地帯。今年一年間だけで、軽ーく十倍にハネあがってるんですからね」  京子は何やら、探ろうとしているようだ。気をつけよう、と慎平は身体を起こして、枕許の煙草をとりだし、腹ばって火をつけた。  それにしても、京子の言い分は正しい。それはまさに、慎平も予期しないことであった。列島改造ブームが一段落し、世の中が低成長期に入るにつれて、地価は完全に鎮静化していた。  今年に入って、多少、動きだしたことは知っていたが、偽装離婚を考え、亜希子に財産を「預託」することを決意した当時、慎平は会社のことで手一杯で、水面下の地価の狂乱的な値動きまでは、掌握してはいなかったのである。  まるで、気づかなかったといった方が正しい。十月中旬になって、国土庁の地価公示価格が発表された時、慎平はあっと驚いた。なんと、慎平が妻に明け渡した家屋敷は、その基準価格にあてはめると、軽く二十億円以上にハネあがっていたのである。  しかも基準価格は、低目にみられている。実勢価格はもっと高い。そうなると、慎平は三十億円もの財産を、妻に慰謝料として渡したことになる。これは実際、予想もしなかったことである。  首都圏再開発、東京の高層化計画にともなう底地買いラッシュの余波を受けて、高級住宅街に怒涛が押し寄せてきたのだ。地価神話にふたたび火がついたのであった。 「ねえ」——京子がきいている。 「慎平さんと奥さんの離婚、債権者をかわすための偽装離婚ではないかという噂があるけど、ホント?」 「誰がそんなことを言ってるんだ」 「噂よ。社内でもずいぶん、聞いたわ」 「ばかなことを言うもんじゃない。あれが偽装なら、おれは女の部屋に転がりこんだりはしないよ。ちゃんと亜希子と連絡をとりあって、今でも毎晩、会ったりしているはずだろう」  慎平はそう否定したが、京子は豊かな乳房を押しつけ、のぞき込むようにしてきいてくる。 「西荻の夕貴さんって、どうも、アリバイ臭いわね。慎平さんが奥さんとの離婚を正当化させるために、隠れ蓑(みの)にしているんじゃないの?」  どうやら、宮村京子は探りを入れているようだ。  慎平は、ちらと不審に思った。 「夕貴の名前まで、きみはどうして知っているんだ?」 「そんなこと、すぐに耳にはいるわ」 「はいったとしても、きみが疑うのはおかしい。どうかしている。もしかしたらきみは、宗田という男とつながっているんじゃないのか?」  核心部分の質問は、そういう具合に、さりげなく投げだすことができた。 「宗田って、誰のこと?」  京子が少し警戒するのがわかった。 「恫喝師(どうかつし)だ。きみのことを知っていると話していたぞ」 「ああ、あのひとかしら」  京子が、思いだすように言った。 「社長の離婚のことで聞きたいことがあるって、何度も私に電話を入れてきた男がいたわ。一度なんか、会社の帰り道に待ち伏せされて、強引に喫茶店に引っぱりこまれたのよ。あんまりしつっこかったから、“そんなに知りたいのなら奥さんに直接、聞いてみなさいよ”って、突っぱねてやったんだけど——」  京子は、そんなふうに答えた。  なるほど、京子が、亜希子に直接、聞け、と突っぱねたことが、宗田らを成城の家に乗りこませたと解するなら、嘘はないことになる。宗田の言い分と、符節があうのだった。  だが、果たしてそうだろうか。  ただ、それだけのことだろうか。  どこか、うまくかわしたという印象を覚える。  その分、慎平は、京子というこの蜜のような女に、ますます疑惑を深めるのであった。  が、ここで押し問答をしてみたところで、京子が吐くとはとても思えなかった。慎平は、京子を小脇に抱いて乳房を揉んでいるうち、この女をつらぬきたい衝動が、ようやく勃然(ぼつぜん)と湧いてきたのである。 「あらあ、あたってる。凄(す)っごい。ねえ、さっきはお預けだったでしょう」  京子が手をのばして、慎平の凜然(りんぜん)としたものを握りしめてきた。  そういえば、さっきは本行為を果たしてはいない。京子は指戯と全身愛撫だけで、一度、軽いクライマックスに達しはしたが、それはまだ浅いところでの峠であった。結合を促しているのが、京子の指の動きのなかにあった。  慎平は、京子の太腿を叩いた。股をひらけ、という合図である。慎平の男性自身も久しぶりに、この疑惑の美人秘書の肉をつらぬきたくて、うずうずとのたうちまわりはじめたのである。 「うれしい。やっといただけるのね」  京子は、慎平を迎え入れる姿勢をとった。  慎平は、大きくひらかれた両足の間に、位置をとる。  ゆっくりと身体を重ねる。京子の指が動いて、慎平の男性自身を握り、入り口に導いた。  慎平は、腰をすすめた。京子の熱く濡れた襞(ひだ)が、柔らかく男性自身を包みこんでゆく。  男の尊厳はすっぽりと根元まで包み込まれた。柔らかい襞に、リズミカルに締めつけてくる力が生まれた。  いきなり、ああッ、という具合に、京子は乱れはしなかった。眼を閉じ、感触を楽しむように、京子はゆっくりと腰を使った。  その動きに合わせて、慎平もゆるやかで、的確な出没運動をおこなう。 「あーん……」  京子はシーツを握りしめ、漸(ようや)く、泣くような声を洩らしはじめた。叫びながら、腰を動かすのだった。  その時、慎平の脳裏にちらと意地悪な考えがよぎった。  前回、ホテルインした時は、京子の身体に情熱を叩きこむ、といった具合に激しく動いた。うしろからも攻めた。が、今夜はもういっさい慎平のほうでは動かず、その逆の方法をとってみようと思いついたのである。  結合したまま、慎平が協力しないと、京子は怒りだすかもしれない。この女が本当に自分を裏切った女か、どうなのかを確かめるためにも、それは面白いテストになるような気がした。  慎平に対する心が冷えて、むしろ敵対でもしているとすれば、しれーッと動かないでいる慎平に対して、この知的な女は、途中から侮辱(ぶじよく)されたと気づいて、腹をたてて、平手打ちでも見舞うかもしれない。  少なくとも、水をかけられたように冷却し、それ以上は、決して燃えあがったりはしないはずである。  慎平は、それを試みることにした。  京子を下にしたまま、枕許の煙草を取った。くわえ、ライターを擦(す)り、腰は一ミリとも動かさない。だが、女性の恥骨と男性の恥骨は、きついほどあたっているし、慎平の雄渾(ゆうこん)なものは、京子の奥深くに入ったままなのだ。 「どうしたの?」  パッと目をあけてきく。 「どうもしない。いい気分だよ」  京子は、腰をせりあげてきた。 「うッ」  京子は呻(うめ)いた。  新しい感覚に出会ったようである。  男性自身にきゅっと、奥深く掴まれる感じがきた。テストとしては、失敗するかもしれない。慎平に、そんな予感が見舞った。女の身体は男と違って、単純ではない。結合を果たしておきさえすれば、どのようにでも感じるし、性感を深めるし、千変万化するものである。  一度クライマックスに到達した女体は、のぼりつめやすい状態になっている。京子もそうかも知れない。 「変よ。じっとしてて」  うううッ、と京子は呻いた。  喘(あえ)ぎ声が高くなる。不思議な女である。慎平は意地悪くすべての動きをとめて、反応をみてやろうと冷ややかに構えているのに、京子はただそれだけで、腰をうごめかせ、喘ぐのだった。この方が喘ぎが激しい。  自分で性感を集中して、コントロールしたほうが燃える女なのかもしれなかった。知的な女に、よくあるタイプである。慎平は試みに、男性自身をピクンとさせてみた。 「うわッ……」  京子は結合した部分を押しつけて、叫んだ。  慎平は腰を使わないまま、更にピクン、ピクンと硬いものを律動させた。 「変よおッ。ああッ……あたし、勝手にはしってゆく」  京子は泣きだしそうな声をあげた。股を思いっきり広げて恥骨を押しあて、ぐぐぐっと子宮頚管を男性自身の先端にからみつけてくるような腰の持ちあげ方をし、烈しくうごめかせたとたん、 「うわッ……ゆくうう……」  京子は宙で腰を回転させて、爆発してしまったのだった。  三十分後。のろのろと身を起こし、京子はまた覗きこんできた。 「ねえ、後悔してないの?」 「きみとのことかい?」 「いいえ。奥さんに財産を全部残して家を出てきてしまったことよ」  後悔していないといえば、嘘になる。とくに地価が狂乱急騰のさまをみせてきた今、慎平の気持ちが落ち着かないのは事実だ。  第一に、焦(あせ)りが生じてきた。もし現実に二、三十億円にもなっていることを知っていたのなら、こんなばかなことはしなかっただろう、という焦りであった。それを処分すれば、会社は充分、存続することも、建て直すこともできたという後悔である。  第二に心配が大きくなった。信じ、愛し、それゆえにこそ「離婚」した亜希子は、そんな巨額の資産を守って、一人で生きてゆけるだろうか。すでに、宗田に狙われている。もっと多くの誘惑や危険が、亜希子に襲いかかってくるのではないか。  第三に、苛立(いらだ)ちがある。みすみす亜希子に譲ったものの値打ちが変わると、もったいないような気がして、ばかなことをした、という思いである。  だが、もう遅い。亜希子との離婚は法的に成立している。今さら、事情を説明して戻っても、亜希子が素直に迎えてくれる保証はなかった。  もっと時間を置いて、会社整理が完了し、潜伏し、冷却期間を置いたあとなら、あるいは、事情を説明すると、慎平の真情をわかってくれるかもしれない。  それまで、亜希子はもちこたえてくれるかどうか。もし、亜希子が誰かに誘惑されて再婚でもしようものなら、おれはみすみす三十億円を、その男にのし紙をつけて差しあげてしまうことになる。  蜜の疑惑。亜希子を襲った連中の狙いも、いま聞きだそうとしているこの京子の狙いも、あるいはすでに亜希子に言い寄っているかもしれない男どもの狙いも、慎平が成城に残してきた巨億の資産という、甘い蜜をめぐっての争いであるような気がしてきた。 第六章 血の暗転 1  レースのカーテンの引かれた窓に、午後の光が射していた。亜希子はそのカーテンに額(ひたい)を押しつけ、窓の外に眼を投げていた。指の間で短くなった煙草が、細い煙をあげている。 (どうしたのかしら、いったい)  亜希子の唇から小さな声が洩れた。  季節は、もう秋が深まっている。  身辺に、おかしなことがつづく。  宗田という恫喝師(どうかつし)の一味に襲われたあとも、怪しい人影が成城の家のまわりをうろついているのだった。さすがに、あの時のように押し込んできたりはしないが、時々、いやがらせの電話がかかってきたりする。  電話は男の声だった。「見えすいた偽装離婚に欺(だま)されはしないぞ。慎平は今、女のところに入りびたっている。あんたがあの男に惚れているのなら、今のうちに早く手当てしないと、手遅れになってしまうぞ」  親切といえば、親切な脅迫である。  なかには「殺されたくなかったら、早く慎平と復縁しろ。それがおまえの身のためだぞ。言うことをきかなかったら、ぶっ殺す」  妙な脅迫の仕方もあったものだ。第三者が結婚の邪魔をしたり、夫婦の仲を裂いたりするのはよくあるが、離婚した夫との復縁を迫るというのは、聞いたこともない。いずれにしても、おかしな電話ばかりであった。  なかには女の声で、「あんた、慎平の奥さんでしょ。私は慎平にいやがらせをされたのよ。もう少しで犯されるところだったわ。今にあんたを呪い殺してやるわ」  不穏な空気がつのる。それで今日、弁護士の白枝庸介に電話をしてみたのだった。白枝には、亜希子の離婚以来の身辺の不可解な出来事を訴え、相談したかったし、何といっても、偽装離婚といわれるものの真相を、糺(ただ)したかったのである。  が、白枝は事務所にはいなかった。折り返し電話をもらうよう頼んでおいて、亜希子は受話器を置くと、落ち着かない気分を鎮めるように、喫(す)えもしない煙草に火をつけたところだった。  そうだ! 慎平本人にも直接会って偽装離婚とかいわれるものの真相を、確かめなければならない。会社は整理し終えたという話だから、会社に電話をしてもつかまるとは思えない。愛人のところに入りびたっているというが、それはいったい、どこなのか。  亜希子は短くなった煙草を灰皿に捻(ね)じ消し、ソファに坐った。受話器を膝の上にのせ、ダイヤルを回した。  義弟の直彦は家を出て、麹町(こうじまち)のマンションに住んでいる。学生の身分で贅沢(ぜいたく)だといいながらも、慎平が二年前、ゴリ押しされて一部屋、買い与えていたものだ。  直彦は、その部屋にいた。 「あ、義姉(ね え)さん——」  いささか驚いたような声だった。彼は亜希子がレイプされた日、私を抱きなさいよ、と迫られて逃げだしたことがある。それ以来、バツが悪そうに怯気(おじけ)づいて、あまり近づかないのだった。 「直彦さん、教えてほしいことがあるの。慎平に愛人がいる、といってたけど、どんな人だか教えて——」  直彦は知っていた。おずおずと二、三人の名前をあげる。一人は、銀座のホステス渡辺夕貴、もう一人は会社の秘書宮村京子。ほかにも幾人かの女性の名前があがったが、亜希子に思いあたるのは、その二人だけであった。 「そう、ありがとう」  亜希子は受話器を置いた。  身内にかっと燃えあがる嫉妬の炎を感じた。  慎平が会社の秘書の宮村京子とも、つながっている、ということを知ったからである。渡辺夕貴というのは、銀座のホステスらしいから、たとえそこに慎平が転がりこんでいるとしても、腐れ縁としてあまり腹も立たないが、秘書の宮村京子にまで手をつけているというのは、許せなかった。  そういえば、いつぞや午後の浴室で直彦に挑まれた時、宮村京子の名前はその時も直彦の口から出ていたようだが、あの時は、不倫を防ごうとするのに精いっぱいで、京子の名前など、すぐに忘れてしまっていたのである。亜希子がいま改めて、京子を許せないと思ったのは、亜希子自身、結婚するまでは社長室の秘書だったのである。京子は、いわば亜希子の後輩だ。  慎平がその宮村京子にまで手をつけたというのは、なにかしら男の卑怯な手口をみるようで、亜希子のプライドを甚(はなは)だしく傷つけるのだった。  案外、自分たちの離婚の原因も、その京子という女にあるのかもしれない。慎平はその京子という女と別れられなくなり、自分にあのような電撃的な離婚の宣告をしたのではあるまいか。 「そうだわ。京子に会って確かめてみよう。場合によっては、面罵(めんば)してやることになるかもしれない——」  宮村京子のマンションが駒場東大前であることは知っている。亜希子は思いたつとすぐ行動するほうである。  これから家を出れば、夕方には京子のマンションに押しかけることができると思った。  亜希子は寝室にゆき、ワードローブの扉を開け、掛け並べてある服を見渡した。身体の線がくっきり浮きだす枯葉色のニットのワンピースを取りだした。  化粧はもうすませている。それも念入りに。  ワンピースに着がえて、ドレッサーの鏡に姿を映した。鏡の中の亜希子はOL時代のように、ぐっと若々しく見えた。  バッグを取りあげて出かけようとした時、電話が鳴りだした。取りあげると、弁護士の白枝庸介だった。 「あら」  さっき、折り返し電話を頼んでおいたのだ。偽装離婚の真相を確かめ、身辺のことで相談しなければならないので、白枝にも急いで会いたかったのである。 「どうしました? 身辺、少しは落ち着きましたか?」  白枝は、のんびりした声をあげた。  冗談じゃない。身辺は奇怪なことだらけだ。それを相談したい、と亜希子は用件をのべた。 「ほう。そんなに妙なことが起きてるのですか。よろしいですよ。今夜あたり、どこかで落ち合って、ゆっくりお話をお伺いしましょうか」  白枝は、赤坂のホテルの最上階にあるレストランを指定した。 「六時。いかがでしょうか?」 「わかりました。お伺いします」  結局、その夜は宮村京子のところに押しかけるのは後廻しになり、白枝に会うことになった。  約束の時間にゆくと、白枝庸介はその店に待っていた。  高層のスカイラウンジである。  赤坂のホテルの十二階であった。  亜希子が近づくと、やあ、こちらです、と白枝は明るく手をあげた。 「お元気そうで、何よりですね」 「そう見えますか? それが……私、ちっとも元気じゃないのよ」  亜希子は席にすわった。  白枝がウェイターを呼び、メニュー表を取り寄せながら、 「何か、ご注文は?」 「私、あまりお腹はすいてません」 「それじゃ、軽いものを」  白枝は自分で見つくろって料理を注文すると、ワインリストまで取りよせ、煙草をくわえたままめくって、白のモーゼルを注文している。  すべてに隙のない感じ。ナウい現代青年。三十五歳の若さで弁護士事務所をきりまわしているのだから、その落ち着きも、切れ味の良さも、あるいは当然かもしれない。 「で、ご相談というのは?」 「変なのよ。離婚調停が成立したあと、私の身のまわりで色々、おかしなことばかりが続いているんです」  亜希子は、最近の身辺のことをありのまま、報告した。むろん調査員にレイプされたことや、むかしの恋人、小野寺秀雄と寝たことは省いてである。 「ねえ。偽装離婚という言葉をあっちこっちできいたんですが、どういうことでしょうか。慎平は何かしら、私をたばかっているのではないかという気がして、ならないのですが」 「ほう、そんな噂が立っているのですか。へええ、知らなかった」  白枝庸介は、長い脚を組んで、煙草に火をつけた。  とぼけている、というふうには見えない。が、白枝の態度にはどこか、取ってつけたような落ち着きと、鷹揚(おうよう)に構えることで、何かをやりすごそうとしているような雰囲気が感じられた。  気のせいだろうか。それならよいのだが——。  料理が運ばれてきた。 「しかし、そんな噂、気にすることはありませんよ。ぼくは法律家ですからね。偽装とか真正とか、そんな曖昧(あいまい)な言葉は使いませんよ。すべてを法的にきっちりと判断してゆくわけですが、亜希子さんたちの場合、偽装もへったくれもない。ちゃんと双方が合意して、印鑑を捺(お)して、離婚届をだしている。役所がそれを受理している以上、真正そのものじゃありませんか」  ぐうの音も出ないくらいの、見事な返答であった。  それはまさに、その通りである。  だが、何かが、歯がゆいのだ。亜希子は、そんな公正無比な一般論を聞きに来たのではないのである。  慎平の気持ちや、電光石火のような離婚劇の裏には、何かの思惑があったのではないか。そういう点を糺(ただ)しにきたつもりである。  が、白枝はそれを「邪推」だという。そんな「邪推」とか、「思惑」とかは、離婚という厳正な「事実」の前には、いっさい拘(かか)わりがありませんね、と白枝にきっぱりと、竹でも割るように言われてみると、亜希子も、そうかなあ、という気持ちになるのだった。  窓から赤坂の夜景が見えた。  ピアノとエレクトーンの生音楽が耳に快い。亜希子はスカイラウンジの雰囲気に少し、酔った。  このまま、生臭い現実を忘れてしまいたいとさえも思った。が、白枝に会いにきたのは、そもそも、その泥臭い現実——偽装離婚をめぐる疑惑を晴らすためではなかったか。  弁護士の白枝は、亜希子たちの離婚は真正なものであり、疑惑は一点もないと一蹴(いつしゆう)して、亜希子の気持ちの寄るべなさをわかってくれようとはしない。 「それじゃ、どうして脅迫電話なんかがくるんでしょう。やはり何か、裏があるような気がしますけど」  亜希子は反発した。 「そりゃあ、ね」  と、白枝は少しもあわてなかった。 「船山貿易の閉鎖にともなうごたごた。こいつが亜希子さんたちの離婚の裏に、関連がないとは申せません。ぼくは仕事柄、会社更生法の申請や幾つもの倒産に立ち会ってきました。いずれの場合も、債権者はできるだけ傷を少なくしようと、当事者からより多く分捕ることを考える。船山貿易の場合、悪質金融業者は成城の個人資産のほうを狙っていたとさえいえる。なにしろ、今度の一件前後から、あそこは急激に値上がりしていますからね」  白枝は、そう説明した。「ところが船山君がすでに個人的な事情から離婚して、亜希子さんに、その資産をすべて渡してしまった。そうなると、彼らはそこを取れない。偽装離婚ではないかといきり立つ。当然、いやがらせもするかもしれませんよ」 「ええ、そうでしょう。そこがキナ臭いのよ。慎平は私をていのいい防波堤にして、自分の資産を守ろうとしているのではないのかしら?」 「いいえ。それは邪推です。そんなことを考えるほどの余裕は、離婚直前の船山君には、なかったでしょう。彼は何でも、秘書の宮村京子という女にひきずられたり、銀座の女のところに転がりこんだりしているそうじゃありませんか。女ですよ、女……」  白枝はあくまで離婚の原因を、船山の女性問題だと言った。  そうかしら、と亜希子はワインを飲んだ。テーブルには生ハムとサーモンの取り合わせや軽い肉料理が載(の)っていた。が、亜希子はあまり食欲がすすまなかった。 「しかし、いずれにしろ、亜希子さんの身辺には、不穏(ふおん)な空気が漂いすぎていますね。どうです? しばらく成城の家を離れてみては——」 「離れる、といいますと?」 「旅行か何か。不測の事態が起きたあとでは、遅すぎますからね」  不測の事態、ということにレイプ事件もふくまれているとすれば、もう遅すぎるという気がする。しかし、旅行、という言葉がふっと、新鮮にきこえた。  そういえば、神戸の短大の同窓会の通知がきていた。四国の詫間(たくま)にも、神戸にもしばらく帰ってはいない。家族や友人たちは、たまには帰って来い、とすすめている。 (そうだわ。このまま、私が成城にいれば、脅迫電話はつづく。また暴漢が押しかけるかもしれない。いっそ旅行でもしてみようかしら)  亜希子は、ふっと窓からみえる赤坂の夜景を、神戸の夜景に重ねて思いだしていた。 2  その夜、相談は一時間に及んだ。  亜希子としては結局、求めていた答えは得られなかったことになる。弁護士の白枝は、「亜希子さんが何も、心配することはない。気分転換に旅行でもしてみたらどうか」という慰めや励ましばかりで、偽装離婚の真相については何一つ、明かさなかったのである。  が、亜希子としても、最近の悩みを何もかも打ち明け、気持ちが少し軽くなったのは確かである。 「あ、そうそう」  帰り際、白枝が言った。「船山君から保険証書の名義変更の書類を預かっていました。今夜、お渡ししておきましょうか」  白枝はレジで金を払って出たあと、エレベーターのボタンを押しながら、 「ぼくの仕事場がこのホテルにあるんです。保険証書の書き換え書類、そこに置いていますから、ちょっと——」  ちょっと取ってきます、と言ったのか、ちょっと立ち寄って下さい、といったのか、正確にはわからなかった。  エレベーターは八階に着いた。  白枝は先に立って通路を歩いた。  なるほど、多忙で裕福な弁護士や政治家が、個人的なビジネスの部屋をホテル内にリースしているという話はきいていたが、白枝の部屋も、そういう具合のものかもしれなかった。  通路を歩きながら、その時まで亜希子は白枝に、何の疑いも持ちはしなかったのである。ワインの酔いも手伝って、ふわふわとしたカーペットの敷かれた通路を、なんとはなしに夢心地で歩いていたような気がする。  部屋は八階の一室だった。白枝はドアを少しあけ、どうぞ、と亜希子を招いた。亜希子は入った。  手前の部屋は、事務机やロッカーが配され、見事な「事務所」の形態を整えているが、奥の仕切りのむこうには寝室があることに気づいた。  しかも、この部屋自体、まぎれもなく、ホテルの一室である。そこに男と二人で入ったということの意味に初めて気づいて、亜希子は、ハッとした。  白枝は事務机から書類をとりだし、持ってきた。亜希子はドア近くの壁にもたれて立っていた。白枝がさりげなく片手でドアを閉めた時、亜希子はあっと小さな悲鳴をあげた。  退路がふさがれてしまったことになる。  壁に片手をついた白枝が、亜希子の肩にそっと手を置き、引き寄せ、唇を寄せてきた。 「いけません。白枝さん……」  亜希子は抗(あらが)った。声は途中で途切れてしまった。  唇がふさがれてしまったのである。  ううっと亜希子は呻いた。両手で白枝の胸を強く押し返そうとしたはずみに、バッグが床に落ちた。その音は、何か重大なことが起こるという予感と、緊迫感を孕(はら)んでいた。 「亜希子さん、なにも心配することはない。あなたは華麗なる転身をしたんだ。船山君のことなどもう忘れて、ぼくにすべてをまかせなさいよ」  白枝が言い、耳朶(みみたぶ)を噛(か)んだ。耳のあたりが亜希子は一番、敏感なのだ。腰を抱かれていると、亜希子はしだいに下半身の力が抜けてゆくような気がした。  部屋の入り口で、立ったままだ。接吻されながらも、亜希子はなおも抗った。だが、撥(は)ねる舌の感触は甘く、脳髄がじいーんとしびれてくる。腰が抜けそうになる。  白枝がその腰をぐいと抱いた。亜希子の下腹部は引き寄せられ、白枝の股間に密着していた。陰阜(いんぷ)に、白枝のそれとわかる高まったものが押しつけられた時、亜希子は電気を通されたように、軽い目まいを覚えた。 「私、こんなつもりではなかったのよ。やめて。慎平に悪いわ」  かすれた声で言った。白枝は亜希子のそのこだわりを打ち消すように、耳許でささやいた。 「亜希子さん。ぼくはずっと前からあなたが好きでした。でも、あなたは船山君の奥さんでした。だから、遠慮をしていました。でも、考えてみれば、もう遠慮することはなにもないわけだ。あなたは離婚したんだ。誰にも束縛されない一人の女になったんじゃありませんか」  聞きようによっては、歯の浮くような口説(くど)き文句だ。  口説き文句というのは、たいてい第三者がきけば、歯の浮くようなものと相場がきまっている。  だが、当人がきけば、そうではない場合が多い。亜希子にとってはもともと、この白枝は慎平との結婚を仲介してくれた時から、頼もしいひとだと思っていたし、今度はまた離婚にともなう色々な面で、心から頼りにしている弁護士だった。  その白枝から、甘い言葉を囁(ささや)かれると、かりに人妻であっても、なびきそうになる部分もあるのだった。  それに、白枝の言うことは正しい。亜希子は、もう一人の女なのだ。離婚した女なのだ。  自制すべき理由は、どこにもないではないか。慎平のことが気にかかり、慎平を愛している気持ちに変わりはなくても、彼から受けた仕打ちがあまりにも酷かっただけに、心のどこかでは復讐してやれ、という気持ちにもなるのだった。  慎平の親友と肌を合わせる、罪におののく部分もある。が、その分、ふつうの浮気や不倫とは違った、魂が戦慄するような官能の震えが、身体の奥から湧きたってもくるのであった。  白枝は亜希子を抱いたまま、移動を開始した。ツインの部屋であった。事務所の奥が、寝室になっていた。  白枝は、すくいあげた亜希子の身体を、奥の寝室に運んだ。ベッドの上に投げだされ、白枝がかぶさってきた時、亜希子は小さな叫び声をあげた。 「ね、電気を消して——」  亜希子の全身が、小刻みに慄(ふる)えていた。  恐ろしいのではなかった。これまで味わったことのない異様な興奮が、身内から湧いてきたのだ。  いつのまにか、服を脱がされていた。亜希子はもう裸だった。ほの明るい光の中で、亜希子は白枝の丹念な愛撫に、しだいに我を忘れはじめていた。裸の白枝が右手を腰にまわして、ぐいと抱きよせる。唇があわさり、手が動く。白枝は、舌先を深く刺し込む濃厚なキスを亜希子に与えながら、右手を股間にまわしてきた。  茂みの下の秘唇に指先が届いた時、あッと亜希子は反(そ)り、脳がしびれたような思いで、腰をうねらせていた。  白枝の愛撫は丹念だった。決して粗暴ではない。といって、悠長でもない。固く尖(とが)った乳頭を吸い、コリッと軽く歯をあて、下腹部にまわされた右手が茂みの下をさぐって、確実に火のような性感を掘り起こす。  這いつくばって、そこに唇をあてたりはしない。重みと余裕のある動き。女性が最も触れてほしい部分を、隅々まで知っていて、的確にツボを押す。  そんなぐあいであった。  指の腹で、茂みの中の肉の芽をカバーの上から強弱をつけてリズミカルに押され、耳の孔の中に熱い舌をさし入れられたとき、 「わあッ」  と、亜希子は飛びあがりそうな、感覚に打たれていた。 「ねえ。お願い」  激しい声を洩らした直後、 「慎平には、内緒よ」  亜希子は、上ずった声で言う。 「ばかだなあ。言うはずはないですよ。それに別れた夫のことをまだ心配するなんて、どうかしている。ぼくがこうして、亜希子さんに何もかも忘れさせようとしているのに」 「だって……知られたくないもの。あなたとのこと、慎平にだけは、絶対に秘密にしたいのよ」 「そうします。約束は守ります。さ、気持ちを楽に、思いっきり乱れて」  逞(たくま)しいもので貫かれた時、亜希子はこらえ性のない声をあげた。甘美な呻き声といったものではなかった。  しまいには絶叫するのではないかと恐れて、枕を口にあてがおうとしたほどだった。  その枕を白枝がとりあげ、 「いや。すてきな声を殺すのはもったいない。亜希子さん、遠慮なく声をあげなさいよ」  白枝は、意地悪である。 「そんな……」 「いや。そのまま」  枕を亜希子の腰の下に敷いて、ゆっくりと動く。亜希子はめまいがしそうなほどの、ときめきを覚えた。  体奥から熱い愛液がほとばしりでて、震えだすほどの感動が、繋(つな)がれた部分から湧きあがってくるのだ。  白枝の腰が前後するたび、声が洩れてしまう。度々、奥まで届く感じに、息をのんだ。密着し、みっしりとくる充実感がたまらない。 「どう? いい?」 「え、ええ……」 「悩みごとなんか、みんな、みんな忘れて。人生、充実して生きなきゃ」  亜希子はでも、自分に言いきかせる。白枝は慎平の親友だ。その男とこんなことをしてはいけない。今夜のことは、一夜だけの夢なのだ。夢なら、一生忘れられないほどの夢をみたい。  淫(みだ)らでもいい。許されないものでもいい。熱く、永遠に忘れがたいほどの夢をみたい。  白枝が、亜希子の両下肢を大きく持ちあげ、肩にかつぐ格好をとった。  精いっぱい淫らがましい格好。ぐいと奥まで押しこまれた時、ぐるぐるッとさがってきた子宮頚管に、白枝の逞しいものが直突した。 「ああ……ううッ」  亜希子は白枝の厚い肩にしがみつき、無意識に蜜壺の入り口を強く引き締めていた。 3  枝が、弾(はじ)けた。  黄色い葉がぱっと肩に散った。  銀杏(いちよう)である。横断歩道橋を駆けおりてゆく瞬間だった。階段の途中に枝をのばしていた銀杏が、見事な金色に黄葉し、それを散らして駆けおりてゆく男を、待て! と船山慎平は追った。  歩道橋の先に、酒場や喫茶店やスナックなどが並んでいる。暗いネオンサインの煌(かがや)きがみえた。男は角の一軒の酒場に飛びこんでゆく。  笹塚の駅の近くであった。  甲州街道に面している。  慎平もそのドアを押した。 「いらっしゃいませ」  薄暗い酒場だった。カウンターがあり、ボックスがある。店内を見回したが、その店に逃げこんだばかりの男の姿は、もう見えなかった。 「今、男の人がはいりましたね?」 「あ、その方、トイレです」  おしぼりを一つ、カウンターの上に置きながら、若いホステスが笑った。 「飛びこんできて早々、ちょっとトイレをかしてくれって。おもしろいお客さんね。おつれさんですか?」 「いや、ちょっと——」  トイレまで、押しかけるわけにはゆくまい。今に出てきたところを、問いつめてやる。慎平は待ち伏せのつもりで、カウンターの端に坐った。 「おつれさんじゃないの?」 「うん。表ですれちがった時、古い友達に似ていたもんでね。ちょっと、声をかけようかと思って。水割り、もらおうかな」  煙草をとりだす。いつでも立てるようにスツールに浅く坐って、一本くわえて、火をつけた。  妙なことになった。身辺がにわかに慌(あわ)ただしくなったのである。芝浦の富士倉庫株式会社から電話が入ったのは、今朝のことである。船山貿易が保管をまかせていた大量の洋食器や和食器が、ゆうべ、ごっそりと盗まれたという知らせであった。  富士倉庫といえば、二週間前、船山貿易の倉荷証券が紛失していた矢先である。証券自体は関係者が確認のために、持ちだしたのではないかと考えられていたが、現物まで盗まれたとなると、もはや、計画的犯行を思わせる。  倉庫には、有田や萩焼の名品も含まれていた。末端価格で三億円近い物品である。それがごっそり盗まれたとなると、事は穏やかではない。  慎平は朝のうちに、芝浦に駆けつけた。富士倉庫の係員の話によると、侵入は夜間で、賊はトラックを数台、乗りつけた形跡があるという。  入り口の鍵がトーチランプで破られ、数人がかりで荷がトラックに積み込まれ、運び去られたらしい。幸い、慎平が倉荷証券紛失とともに頼んでおいた隠し撮りのモニターテレビに、数人の男の顔が映しだされていた。  ビデオを再生すると、その中に慎平の知った顔があったのだ。ほかでもない。宗田康晴だった。そしてその仲間らしい数人の男の顔が、くっきりと映(うつ)っていたのだ。  今、酒場に逃げこんでトイレに逃げた男も、そのうちの一人である。  男は、なかなか出てこなかった。  慎平はよほどトイレまで押し込んでみようかと思ったが、歩道橋の上ですれ違っただけの印象で、相手を強盗の一味ときめつけてしまうのは、危険だ。出てきたところを確かめてみようと、カウンターに坐り、差しだされた水割りに、口をつけた。 「遅いわね、おつれさん」  カウンターの中で、ホステスが笑った。「女性なら、アンネリーゼなんかの時、ちょっと手間がかかるけど、男の人なのにねえ」  くすん、と笑った。「それとも、大のほうかな?」  すっかり、慎平のつれと思いこんでいる。それなら、それでいい。慎平はバーの奥にある玉のれんのかかったトイレの入り口から、眼を離さなかった。  それにしても、と慎平は思った。首謀者は、宗田康晴。宗田といえば、いつぞや成城の家に押し込み、亜希子を襲った男だ。慎平は、それですぐ警察に届ける一方、今日の夕方、笹塚の宗田経済研究所を直接、訪れてみたのである。  宗田は外出中だった。警察の手配を知って、逃げたのかもしれない。それなら、調布の女の家に押しかけてみようかと思い、慎平が事務所を出て、歩道橋を渡りかけた時、すれ違った男が、ビデオに映っていた男の一人であった。  それが今、トイレに逃げこんでいる男である。  腕時計をみた。三分、たった。  男はまだトイレから出てこない。慎平は、それ以上はもう待てない、という気がしてきた。 「ちょっと、おれもつれション」  女の子に笑いかけ、慎平はカウンターを立って、トイレのほうに歩いた。  玉のれんを分け、ドアを押した。  通路の右手に、男女兼用のトイレがあった。化粧鏡の前にも男性用の場所にも、男の姿はなかった。  念のため、婦人用トイレのドアをノックしたが、返事はない。押すとドアは開いて、なかはからっぽだった。  しゅっと、慎平の頭に火花が散った。おかしい。男は、どこに逃げたのか。トイレの窓には、鉄枠がはまっており、そこから外に逃げられるはずはない。トイレはいわば、ゆき場のない密室になっていたのである。  そこから、男が消えたのである。  密室空間から男が消えたのである。 (変だぞ——)  慎平は、ふりかえった。  その瞬間、しゅっと陰がうねった。  物陰にひそんでいたらしい男が、何やら光る、刃物らしいものをかまえて、慎平にむかって突っこんできたのである。  白い閃光がひらめいたとき、慎平はその腕をつかんだ。刃先がわずかに脇腹をかすめたが、深くはなかった。  慎平は手刀で相手の刃物を、叩き落とした。襟首を掴もうとした。相手は慎平の股間に膝蹴りを入れ、うっと呻いて身を折った瞬間、パッと身をひるがえして反対方向に逃げだした。 「おい、待て!」  慎平は、男を追った。  男は、店のほうに逃げたのではなかった。通路を走り、トイレの反対側にある狭い階段を駆けあがってゆく。  従業員専用の階段と思える。慎平はその階段をあがった。店は一階だけである。二階は従業員の部屋なのか。とすると、男はこの店にも、何らかのつながりがあるのではないか。  二階に着いた。踊り場は狭かった。通路をはさんで、二つの部屋がある。一つは、キッチンと食堂らしい殺風景(さつぷうけい)な部屋であった。  ドアを押したが、誰もいない。もう一つの部屋のドアをあけた。四畳半くらいの狭い部屋だった。ふとんが敷かれていた。ふとんの中から熟(う)れたような男女の気配が漂ってきた。  女の喘(あえ)ぎ声が洩れていた。  ああッ……と叫び声に変わった。  男に組み敷かれている感じだった。  うぬ、と慎平は思った。  あの男はやはり店とつながっていて、ホステスと同衾(どうきん)することで、このとっさの場合、追手の慎平の眼をごまかそうとでも、しているのではないか。  慎平は踏みこんだ。  ふとんをめくった。  問答無用だった。  むっと、体液の匂いが洩れた。 「キャアーッ!」  女の悲鳴があがった。  女は全裸であった。  男との行為のさなかであった。  足を、男の背にからめていた。 「何をしやがるんだッ!」  男が女を抱いたまま、顔をねじむけ、慎平のほうをむいて怒鳴った。  男は、見知らぬ若者だった。追いかけていた宗田経済研究所の男ではなかった。  慎平は激しい戸惑(とまど)いに見舞われた。 「すまん。妙な男がここに、逃げこんではこなかったか?」  慎平は謝(あやま)った。謝るしかなかった。そして男のゆくえをきいた。 「そんな男、知らねえよ。おめえ、いったい、何者だ? なんで他人の部屋にはいりこむんだ!」  見たところ、窓も閉まっていた。  窓は、表の道路に面している。  男が他人なら、あわてて男女の部屋に逃げこんだとも思えない。だが、他人でないのなら、そこから表の道路に、逃げだしたと思える。 「すまなかった。——失礼!」  慎平は部屋を出、店に降りた。  これ以上、追っても益はない、そういう気がした。  店のホステスに、男のことや、この近くに事務所をもつ宗田経済研究所のことを聞いてみるしかない、と慎平は思った。  カウンターに戻ると、 「まあ、どうしたの?」  友子というホステスがきいた。  慎平の服の下の脇腹のあたりに滲(にじ)んでいるワイシャツの赤い血をめざとく見つけて、びっくりしたらしい。 「ちょっと、裏で何かにひっかかったらしい。たいしたことはない。おしぼり、乾いたやつ、ないかな」 「みんな、濡れてるけど」 「かまわない。一本、もらうよ」  刺された傷は、さほど深くはない。慎平はワイシャツと下着の下におしぼりをあてがい、ベルトをきつく締めあげ、それでもって応急手当てとした。 「おつれの方は?」 「それが、変なんだ。いないんだ。トイレから消えちまってるんだよ」 「消えた? へええ! ヘンなお客さんねえ」 「あの男、はじめての客だったのかい」 「そうよ。飛び込みの方。おしぼりと水割りをほら、カウンターの上にだしたまんま——」  みると、カウンターの中央にグラスとおしぼりが一つずつ、載ったままになっている。  それでみると、友子というホステスが、嘘(うそ)をついているとは思えない。とすると、男はやはり、慎平に追い詰められて、とっさの逃げ場としてこの店に飛びこみ、二階から窓をあけて、何らかの方法で外の通路にでも逃げだしたのかもしれない。 「宗田経済研究所の人、ここにくるかい?」  質問をかえた。 「宗田?」 「ほら、通りのむこうにある雑居ビルの三階に、小さな看板をだしているだろう。総会屋の事務所らしいんだけど」 「さあ、私は知らないわ。ママなら知っているかもしれないけど——」  友子が答えた時、カウンターのむこうで、電話が鳴りはじめていた。  取りあげたママらしい和服の女が、店内を見渡し、それから、 「ちょっと、お待ちください」  受話器を置いて、慎平のほうにやってきた。 「お客さん、船山さんとおっしゃいますか?」 「そうですが」 「お電話がはいっております」 「電話——?」  はて、と思った。  慎平がこの店にいることは、誰も知らないはずである。  慎平はさっき、宗田の一味と思われる男を追いかけて、この店に飛びこんだところである。  もしかしたら、逃げた男が、外から電話でもかけてきやがったのかもしれない。逆に、慎平を外に呼びだそうとでもしているのか。  慎平は、用心しながら受話器をとった。 「はい。船山ですが」 「あ、社長!」  慎平はますます驚いた。 「私です。宮村です」  ——これは、どういうことだ?  受話器からきこえてきた声は、秘書の宮村京子の声だったのである。  慎平はあたりを用心してきいた。 「驚かせるじゃないか。宮村君、どうして私が今、笹塚のこの店にいることを知ってるんだ?」  京子の声は、少し変だった。 「妙な男から、社長が今、そこにいるという電話が入ったんです。詳しい事情は、あとで説明します。社長……いえ、慎平さん……大変なことが起きそう。お願いですから、事情はきかないで、急いで私の部屋にきて下さい。お渡ししたいものがありますし、お話したいことがあります」  声に、切迫した響きがあった。 「何だい? 渡したい物というのは」 「それは……電話では言えません。とにかく、急いでいます。——お願い、何もきかないで駒場東大前の私のマンションに来てください」  ますます様子が変である。  とにかく行ってやらねばなるまい。 「わかった。すぐゆくよ」  慎平は受話器を置き、二人分の勘定を払って、店を出た。  道に立ったが、夕方のラッシュで、タクシーは拾えなかった。笹塚から駒場東大前までは、京王線と井の頭線で結ばれている。乗りかえ時間を入れても、電車でせいぜい二十分ぐらいの距離か。  電車に決めた。笹塚の駅に入った。混んでいる。ラッシュにもまれながら慎平の気持ちは穏(おだ)やかではなかった。満員の乗客に押されているうち、内ポケットの中に硬いものがはいっていることに気づいた。  さっき、トイレで襲われた時、叩き落とした相手の刃物を、男を追いかける前、とっさに拾って階段を駆けあがったのだ。捨てるところがなく、無意識のうちに、背広の内ポケットに刺し込んでおいたようである。  心配は、その刃物のことだけではなかった。今度の富士倉庫の騒動は、慎平が夕貴と大阪に出発する朝、電話がかかってきたのである。  事が事だけに、慎平はすぐ家を飛びだしたが、夕貴は西荻窪のマンションで心配しているかもしれない。それに京子が話したいこと、というのは、どういうことか。場合によったら、関西への出発を見合わせなければならないのかもしれない。  駒場東大前には七時半に着いた。  西口の石段を降りて住宅街に入り、京子のマンションの近くまできた時だった。慎平は、ふっと足を止めた。  マンションの外についている階段を黒い人影が、足早に駆け降りてきたところである。とっさに身を隠したのは、本能が働いたからである。  遊び人風の、得体の知れない男だった。肩に殺し屋のような冷ややかなものが漂っていた。慎平は男をやりすごしたあと、用心しながら、階段をかけあがった。  京子の部屋には電気がついていた。チャイムを押したが、返事がない。 「宮村君。私だ、あけてくれ」  ドアに手をかけた。すっと開いた。室内に京子の姿はなかった。  リビングから奥に歩いた時、慎平はあッ! と声をあげるところだった。  寝室。ドアの隙間から、それが見えたのだ。ベッドの上に、全裸の女の胸にナイフが突きたてられ、真紅の薔薇(ば ら)のような、血があふれていたのだった。  見た光景が信じられなかった。  慎平は茫然とし、足が慄えた。  握っていた寝室のドアの把手(とつて)を、あわてて離した。 「おいッ! 宮村君!」  それでも声をあげて寝室に駆けこんでみたのは、京子はまだ生きているのかもしれない、と思ったからだ。  が、抱え起こそうとした寸前、その手が止まった。瞳孔がひらいたままであり、反応もなく、もはや手遅れであることがわかった。 (どうやら、一足遅かったようだ)  それにしても、と思った。  たった三十分前、京子は笹塚の店に電話をかけてきたばかりなのに。  声の様子では、切迫した様子だったが、京子はいったい、なぜ、誰に殺されなければならなかったのか?  痛ましい。痛ましすぎる。胸のナイフを引きぬいて、慎平は激しく抱きしめてやりたいとさえ思った。  だが、それを辛(かろ)うじて押さえたのは、こういう場合、死体というものは、警察がくるまでは動かしたり、室内のものを荒らしてはいけないという、市民としてのごく常識的な判断が働いたからである。  見たところ、京子に抵抗した跡は窺(うかが)えないようだ。だが、室内が物色された痕が残っていた。  京子はいったいおれに、何を話し、何を渡そうとしていたのか?  慎平はだが、あまりこういう場所に長居してはならないと考えた。  急いで寝室をはなれ、リビングに戻った。机の上に置いてある電話機が眼についた。今すぐ一一○番しておくべきだと思い、電話のほうに歩きかけた時、表のチャイムが鳴った。  慎平は、どきっとした。  誰だって、こういう時に誰かに訪問されると、心臓がはねあがる。  チャイムは二度、鳴った。  慎平が返事をためらい、物陰に身をひそめた時、ドアが勢いよくあけられ、 「居留守を使っても、だめよ。京子さん、出てらっしゃい!」  聞き憶えのある声だった。机の陰から顔をだすと、バッグを抱え、コートを着た長身の女が立っていた。  その顔をみた瞬間、  ——あッ!  と、慎平は声をあげそうになった。  ——まあ!  双方とも、驚きの声を発していた。 「まあ、やっぱり!」  ドアのところで、凄(すご)い剣幕の眼をむけたのは、亜希子だった。  亜希子は、この部屋の住人、京子がすでに寝室で殺されていることを知らない。だから、夫の愛人のところに押しかけた人妻、といったふうで、凄い剣幕で喰ってかかるのだった。 「まあ、やっぱりここにいらっしゃったのね。どういうことですか。秘書と……」  聞きようによっては滑稽(こつけい)だが、考えてみればきわめて深刻な状況である。 「ちょっと待ってくれ。そうじゃないんだ。大変なことが起きてるんだ。あれを見ろ、あれを」  慎平はあわてて、寝室を指さした。  少し落着いてみると、情況はまことに異常であることがわかる。  離婚して間もない二人が、決して小さくはなかったそれぞれの動乱と遍歴を経て、思いがけず出会ったのは、殺人現場だったのである。  それも、殺されていたのは、慎平の愛人だった宮村京子だ。死の原因や、背景はわからないが、今、二人が置かれている位置の深刻さは、期せずして双方に諒解されたことである。 「まさか……あなたが……?」  亜希子が、寝室の光景を見たあと、驚愕(きようがく)し、たじろぎながら、疑い深そうな眼を慎平にむけたのも、やむをえないことだったかもしれない。 「違う違う。おれは今、発見したばかりだ。警察に一一○番しようと思っていたところだ。嘘はいわない」  亜希子の疑いも、もっともである。  船山慎平が痴情のもつれから京子を殺したのではないかという想定は、第三者なら、誰でもが抱く。亜希子さえも、そう思ったのかもしれない。  しかし逆に、亜希子が嫉妬から、離婚した夫の愛人を殺したのではないかという想定も、第三者なら容易に抱くかもしれないのである。  つまり、この瞬間、二人はへたをすると、同時に、容疑者にされかねない「情況」や「動機」を持つことに立ちいたったのである。 「信じてくれ。おれはさっき、笹塚の店で京子に電話をもらって、ここに駆けつけたんだ。すると、この通り、京子が殺されてたんだ——」  慎平は手短に、事情を説明した。  亜希子もまた、事情を説明した。  彼女によると、ここ数日、何回か宮村京子を訪問したそうである。むろん慎平との間を問いつめるためだった。  だが、いずれも留守(るす)だった。四回目にきた今夜、外から部屋に電気がついていることがわかり、駆けあがってチャイムを押すと、返事がない。それで、ドアをあけて怒鳴りこんできたところだという。 「とにかく——」  慎平は気持ちを鎮めながら言った。 「とにかく、おれたちがここにいるのは、どう考えてもまずい。死体や部屋に、少しでも触(さわ)るな。こうなると、おれたちが警察に届けるのも、考えものだな。——きみは先に部屋を出ていった方がいい。おれも五分後、ここを出る。どちらも、このことは知らなかったことにし、ここには来なかったことにしておこう。いいね。おれたちは何も見なかったし、何も知らなかったんだぞ——」  慎平はそう念を押した。  亜希子は茫然としたまま、頷(うなず)いた。  事が事だけに、彼女は頷くしかなかったようである。「——そうね。それが一番かもしれないわ」  亜希子にとっても、どうやら、偽装離婚の詮索(せんさく)どころではなくなったようである。 「さ、早く」  促(うなが)され、亜希子は部屋を出た。  慎平は電気を消した。五分後、慎平もそっと、宮村京子の部屋を出た。  どうするか——。  慎平は、電車で渋谷に出た。  頭はからっぽだった。幸い、京子の部屋を出てくる時、誰にも見られなかったという自信はある。  だが、これからどうしたらよいのか。それがわからない。こういう時、ふつうなら、正常な市民の義務として、宮村京子の死体を発見したことを警察に知らせ、それに至る経過を説明するのが、当然である。  それを怠(おこた)ったことへの、悔いがある。亜希子さえこなければ、一一○番していたのである。今なら、まだ間に合うかもしれない。何度も、警察に電話をしようかと思った。  が、亜希子とたった今、あのような約束をして、別れたばかりである。二人とも、殺人現場には来合わせなかったことにしようと——。 「チューハイ、一杯くれないか」  慎平は、渋谷駅近くのガード下の焼鳥屋に入った。大勢のサラリーマンたちにまじって、カウンターに腰かけ、チューハイを傾けているうち、少しずつ、気持ちが落ち着いてきた。  京子の死体は、いずれ管理人か知りあいによって、発見されるだろう。  ドアのノブも拭(ふ)いてきたので、指紋は残っていない。おれと亜希子は、何も知らなかったことにすれば、それでいい。事実、ふたりとも、殺人事件そのものとは、何ら拘(かか)わりがないのだ。  かりに疑いがかかったとしても、警察に出頭し、現場に入った理由を説明し、そのことは申しひらきすることができる。が、いったん、殺人事件のごたごたに巻きこまれると、どうしても亜希子との偽装離婚のことが問題になる。  宮村京子が殺害されていたのも、もとをただせば、案外、船山貿易の会社整理や倉荷証券、それに慎平の偽装離婚によって、宙に浮いた形の成城の巨億の資産をめぐる争いに、端を発しているかもしれないのだった。  とすれば、慎平のほうからそれを打ち明けるのは、どうにもまずいのである。  今、ここで偽装離婚が明らかにされてしまえば、これまでに亜希子に与えた仕打ちと、二人の苦労が水の泡となる。なんのために、亜希子がレイプまでされ、双方が辛い思いをして耐えてきたのかわからなくなる。  当分、潜伏するしかない!  慎平の結論は、そういう具合に決まった。いや、もともと、これから旅行をしてどこかに潜伏しようと考えて、その準備をしていたところである。まさに、その時期が、ちょうどやってきたのだ。大阪あたりにでもゆこう、と慎平はチューハイを傾けながら、そう決心した。  決心すれば、心は軽くなった。  慎平は店を出た。ガード下の公衆電話を取りあげ、ダイヤルを回すと、夕貴は、西荻窪の部屋にいた。 「どうしたのよお! 朝から飛びだしたまんまで。あたし、旅行の支度をしたまんま、待ってるのよ」 「悪い悪い。やっと仕事が片づいたところだ。これから、東京駅で落ちあおう。新幹線はもうないが、夜行があるはずだ。たまには夜行も、オツな話じゃないか」 「わあ、銀河列車。ロマンチック!」  慎平は八重洲口のある喫茶店を指定した。歩きだすと、その肩に、暗い空から雨がぱらつきだしていた。 第七章 異人館の街 1  新幹線がすべりだした。  東京駅発九時十七分のひかり二四三号だった。これでゆくと昼すぎの十二時半には、神戸に着く。  亜希子は窓際の席につき、文庫本を取りだした。彼女は今日は明るい枯葉色のブラウスにチェックのスカートという秋らしい格好をしていた。  午後一時から、神戸の短大時代の同窓会がひらかれるのだった。それに出席するためというのは口実で、亜希子はしばらく東京を離れ、一人旅がしたかったのだ。このところ、あまりにも異常な事態が身辺で起こりつづけていたからである。  第二の故郷である神戸で、一週間ばかり羽根をのばし、気がむいたら友人のいる大阪にも立ち寄り、四国まで足をのばして、ここ数ヵ月の東京でのいやなことを忘れたいと思った。 「失礼ですが、煙草を吸ってもかまいませんか?」  亜希子が文庫本から顔をあげ、車窓に走りすぎる東京の街なみをぼんやりと眺めはじめた時、横の乗客から声をかけられた。 「ええ。どうぞ——」 「や、助かりました。最近は嫌煙権をふりまわす方が多いものですから」 「私はいっこうにかまいません」  みるとビジネスマンらしい四十歳前後の、身だしなみのよい紳士だった。身体にぴったりした三ツ揃いの茶の背広。眼鏡をかけた理知的な顔はゴルフ焼けしていて、なかなかに押しだしのいい好男子だった。  男はポケットから煙草をとりだし、口にくわえた。ライターを擦って火をつけてから、 「どちらまで?」  さりげなく訊(き)いた。 「神戸までです」 「ほう。私は大阪までです。関西は久しぶりですが、御堂筋(みどうすじ)の銀杏(いちよう)が、そろそろ黄色くなっている頃ですかな」  なんとなく、そんな話となった。男は世慣れていて、ソツがない。喫煙の断りも、あるいは亜希子に話しかけるためのきっかけ作りだったように思えるが、さほどいや味な感じはしなかった。  だが、亜希子は正直のところ、一人にしておいてほしかった。考えなければならないことが、いっぱいあるのだ。  一人で旅をする。本来なら、解放感から心が浮きたってもよいはずであった。  でも、亜希子の気持ちはあまり弾(はず)まない。離婚した女の一人旅とあれば、いわば傷心旅行というような趣(おもむ)きがあるのも事実だった。  それに、なんといってもあの殺人事件。殺害されていた宮村京子の姿が、今もちらつく。事件から五日たつが、亜希子のところにはまだ警察から何の連絡もない。とすると京子との関連は掴まれてはいないらしい。それに、目撃者もいないとみてよかった。  その点、あの晩の慎平の判断は正しかったようだ。たとえ自分たちが犯人でなくても、警察沙汰になると、亜希子とて、京子を恨んでいたから、どんな扱いを受けるかしれたものではないのである。  ひかり号は車速をあげて新横浜を通過してゆく。横の男は一人旅の亜希子に興味をもったらしく、話しかけてきた。 「神戸は、お仕事ですか?」 「いいえ。ちょっと——」  亜希子は返事をためらった。 「そうですね。OLやキャリアウーマンの出張とは見えませんね。とすると、若奥様のちょっとした里帰りあたりですかな」  男はただ話し相手が欲(ほ)しかっただけのことかもしれない。悪意ある詮索というわけではないようだ。が、亜希子にとっては、話しかけられること自体が、いささか煩(わずら)わしかったので、 「短大の同窓会なんです」  素(そ)っ気(け)ない口調で、答えてやった。 「なるほど。学校が神戸だったんですか。じゃ、里帰りというのも、あたらずとも遠からずだな」  男は、世慣れた話の運び方をする。 「じゃ、ご郷里も?」 「いえ。郷里は四国の香川県です」  いったん会話が進むと、そうむげに冷たい応対をするわけにはいかない。最近の新幹線は、ビジネス特急という趣きがあって、隣席同士でも冷たい顔をするのが普通になっているが、旅行というものは本来こういう未知の人々との出会いにこそ、楽しみがあるともいわれる。 「香川? へええ。ぼくは愛媛(えひめ)です。宇和島ですがね」 「あら、ミカンと闘牛の?」 「ええ。香川はどちら?」 「多分、ご存知ないと思いますわ。三豊郡詫間町という田舎ですけど」 「タクマ……? ほほう!」  男は、ますます調子づいて、びっくりするような声をあげた。 「どうしてそう驚きになるの?」 「知ってますよ。詫間町といえば、たしか浦島太郎が生まれて、海にもぐったところじゃありませんか」  亜希子は驚いた。男の博識が大変なものだということに気づいたからだ。  たしかに亜希子が生まれた詫間町は浦島伝説をもつ半島である。日本の浦島伝説は、四国だけではなく奥丹後の網野町や京都府与謝郡の宇良神社、長野県木曽の寝覚(ねざめ)の床にも伝えられているが、一番はっきりした史蹟が残り、ほぼ間違いないとされている本家本元は、瀬戸内海に面した「浦島」。つまり荘内半島(詫間町)だと専門家はみている。  とはいえ、亜希子は少女時代にそういう伝説をきいて育ったぐらいで、宇宙開発時代の今、あまり興味がない。それより男が、そうした知識をもっていることのほうが、軽い驚きであった。  男は、アタッシェケースを膝の上に大切そうに置いていた。話が弾むうち男は名刺をさしだした。  東和大学講師、西脇潤三。 「あら、学者さんですか」  それなら博識ぶりもわかる。 「大阪へは研究か、講義に?」 「いいえ。ビジネスです。ある会社の経営診断を頼まれてましてね」 「ビジネス? でも大学の——」 「ええ。勤務先は大学ですが、非常勤講師ですからね。ふだんは新宿にオフィスを持っていて、そこで色々なビジネスをやっているんです」  西脇という男は、奇妙な男だった。  柑橘(かんきつ)系の上質なコロンの匂いをさせ、英国生地の上等の背広をきて、ブランドものの見事なネクタイをしているのに、自分のことを、「三流人間」だと自己紹介するのだった。 「ぼくはね、人生すべて三流に徹することにしてるんです。勤務先は、三流大学。それも教授ではなく、講師。教えている分野も、東京や大阪の立ち喰いのファーストフードブームがどう動くかなどという、世相経済学。いわば世俗にまみれた学際学で、一流の学問ではない。でもね、こういう生き方こそ実に便利で、講演は頼まれるし、原稿の注文は殺到するし、経営コンサルタントは頼まれるし、幾つかの会社の経営顧問は頼まれるし、一流大学の一流教授よりバカ受けするんです。年収も彼らより圧倒的に高い。年収が高いということは、つまりは、世間的地位も高いというわけで——まさに三流さまさまですよ」  西脇のいう理屈は、亜希子にはよくわからない。男の人生や闘争など、OL時代に垣間見(かいまみ)ただけである。でも、円高で輸出会社を整理した夫の慎平は、いわばその戦いに敗れた敗者という見方もできる。そして自分も今、のっぴきならない人生のはざまにいる。  そんな時、どこか人生を達観したかに見えるこの西脇という男の、奇妙な人生哲学というのは、たしかに一抹(いちまつ)、胸に沁(し)みるものがあった。 「一流であろうとすると、いつも下から追われているようで、厳しくて、辛いんです。実に辛い。二流の人は一流になろうとして、かえって焦(あせ)る。前後の競争に疲れる。もっと辛い。その点、はじめから三流の地位にドーンと居坐っていると、華々(はなばな)しい成功や虚名はなくても、人生実に楽だし、実利的だし、丈夫で長持ちする。ねえ、人生の達人になるということは、こういうことじゃありませんかね?」  同意を求められても、亜希子には人生の奥義など、わかろうはずはなかった。だが、何かがすうっと、胸を爽(さわ)やかに吹き抜けていったことは事実である。  人さまざまという。男には男の、女には女の、それぞれの、さまざまな生き方があるかもしれない。  だが概して、人間は目先のことばかりに、あまりにも、こせこせとこだわりすぎているのではあるまいか。この男のように、自分の居場所にドーンと居坐ってしまえば、案外、離婚だ、嫉妬だ、裏切りだと、かっかしていることがみんな、些細なことのように思えて、達観できるのかもしれない。  そんなことを考えながら、また文庫本に眼を落としたりするうち、ひかり号は名古屋をすぎていた。  それから新大阪につくまで、西脇は時々、色々なことを話しかけてきたが、亜希子はうわの空で返事をしていた。 「じゃ、またどこかでお会いしましょう。お気をつけて」  新大阪で、西脇は降りていった。  そこから新神戸までは、六甲トンネルをくぐって、あっという間だった。  新神戸には十二時半過ぎに着いた。  十一月の初めだが、東京よりも暖かい。亜希子はスーツケースをさげてホームを降り、エスカレーターで改札口のある階へ降りた。  降車客の列に並んで改札口を出ようとした時、あら、と亜希子はびっくりして振りむいた。肩を叩かれたので、見あげると、そこに弁護士の白枝庸介が立っていたのである。 「まあ! 白枝さん!」  驚きのあまり、二の句がつげない。 「どうしてこんなところに?」 「会えて、よかった。たぶん、この新幹線ではないかと思って、待っていたんですよ」  白枝は亜希子のスーツケースをとって、先に立って改札口を出てゆく。  彼もそういえば鞄(かばん)をさげて、コートを手にしているので、今のひかり号だったのかもしれなかった。  事情がよくのみこめない。どうして自分が「ひかり二四三号」で神戸にきたのを知っていたのか。白枝はそんな亜希子の当惑をよそに、駅のコーヒースタンドに誘い、 「ま、コーヒーでも飲みましょうか」 「でも、どうして?」 「なあに、簡単なことですよ。ある海運会社の係争でぼくもこのところ、毎週のように東京と神戸を往復してたんですがね。あなたが神戸にゆくかもしれないという話をきいていたので、今朝、成城の家に電話を入れたんですよ。そうしたら、留守番の直彦君から九時半ごろの新幹線にのるつもりで、あなたは家を出た、ときいたんです。それで、ぼくもあわてて——」  見当をつけた新幹線の自由席に飛びのったのだという。亜希子はふと、白枝の行動に、計画的なものを感じた。そういえば、自分に旅行するように焚きつけたのも、もともとはこの白枝であった。  としたところで、亜希子にはそれをどうこう言う権利はない。白枝の思惑がどうであれ、この男とは一度、すでに肌を許しあっているので、今さら目くじらをたてるのも大人(おとな)気(げ)なかった。 「で、今日のご予定は?」 「一時から同窓会に出るんです。そのあとは友達と二次会に流れると思いますけど」 「ホテルは?」 「六甲山ホテル」 「ええッ!」  と、今度は白枝が驚いてみせ、「ぼくもそこなんですよ。あそこ、ぼくの定宿(じようやど)なんです」 (ますます、くさいわ。狙ってきたな。神戸には今、便利なホテルがいっぱいふえているというのに——)  六甲山ホテルは以前、船山慎平が仕事で神戸にきた時、同行したことのある思い出の場所であった。だから、亜希子が神戸にゆくなら、きっとその古いホテルに泊まるであろうと、白枝は読んでいたと思える。  亜希子は、腕時計を見た。 「あらあら、同窓会に遅れるわ」 「会場は、どちら?」 「北野。すぐそこなんです」  送ろうと言う白枝の申し入れを断って、亜希子は席をたった。  神戸は五年ぶりだった。  三宮駅周辺や元町の繁華街はまだ訪れてはいないが、新神戸駅前に降りたっただけで、空気にピーンと港の匂いがして、亜希子には懐(なつ)かしい気がした。  駅前はホテル工事やビル工事が行われていて、雑然としているが、そこを降りきって北野への道を右にまがると、街並みは、すっかり落ち着いてくる。  亜希子が二十歳前後の二年間、通っていた甲南女子短大も、山の手にあった。寄宿舎も学校の近くだった。T……というある有名服飾デザイナーの旧私邸という建物が、異人館通りに面して建っていて、それを甲南女子短大が買収し、今は卒業生会館という名の寮として使っている。  今日の同窓会も、そこで行われるという案内を受けていた。  北野通りには、今日もハナコ族が多い。このあたり一帯は、坂の街、神戸の山の手に広がる異人館の街だ。  かつては、外国人居留地だったところで、明治から大正にかけて建てられた洋館が多く残っている。そのエキゾチックなたたずまいが受け、数年前からハナコ族や修学旅行生に人気が高く、観光のメッカともなっていた。  現在でも神戸には、三万八千九百五十人もの外国人が住んでいるという。神戸市の全人口が約百四十万人弱であることを考えると、これは多いほうである。またその多くは、今でも北野の異人館周辺に住んでおり、喫茶店やブティックも、異国ムード満点のデザインを凝(こ)らしている。 (それにしても、ずいぶん、変わったわ。むかしに比べると、見違えるようにきれいになってる……)  亜希子は、驚いてしまった。  敷石道がきれいに整備され、南欧ふうのマンションがふえ、ブティックや喫茶店がぞっくりとふえている。  いかにも若い女性たちが好みそうなロマンチックな街になっていた。むかし、亜希子が学校に通っていたころの、一種、古ぼけた暗い面影(おもかげ)はどこにもない。  会館では、すでに同窓会がはじまっていた。おもに神戸、大阪に住む女性ばかりなので、賑(にぎ)やかである。  亜希子が部屋に入ってゆくと、 「ワーッ、東京のシンデレラガールのご入来よ。みんな、拍手、拍手」  会場が、沸(わ)きたった。  思ってもみない歓迎である。亜希子は気分を良くした。 「お久しぶりねッ」  と、陽気に手を振った亜希子だったが、次の瞬間、あッと、残酷な現実に気づいて、蒼(あお)ざめてしまった。  みんなはまだ、亜希子が離婚したことを知らないのだ。だから、沸いているのだ。上京し、会社勤めをはじめ、社長室秘書から船山貿易の社長夫人に収まった出世ナンバーワンということで、シンデレラガールと見られたとするなら、これほど残酷な落差はなかった。  亜希子は急に、いやーな気分になった。  その悪い予感はあたった。  亜希子にとって、五年ぶりに出席した同窓会は、ますます楽しくなくなった。終始、針のムシロに坐らされたも同然だった。 「どう? お倖せそうやけど」 「うまくいってるんでしょ? 家庭も、ご主人の仕事も」  みんなからきかれると、事実を隠すことはできなかった。船山貿易が解散し、亜希子も離婚したことを告げるとみんなは驚き、それからしれーッとした顔になり、座が白けてしまった。  亜希子は、希望の星だったのかもしれない。同窓生は、この付近のご令嬢ばかりではなく、四国や九州、阪神間の地方出身者も多いのだった。  亜希子から楽しい話がきけないとわかると、次には、無視に変わった。女の二十六、七歳というと、ほとんどが結婚して一児を儲けたり、婚約が整ってこれから結婚するという年齢であり、みんなの顔は輝いていた。  また、そういう倖せそうな境遇にあるものばかりが集まるのが、たいてい、同窓会というものである。  出席するほうが間違っていたのだ。  亜希子のように離婚したばかりの女、というのは一人もいない。今の今までみんなからは、社長夫人に収まって羨(うらや)ましい、という見方をされていただけに、その惨(みじ)めさは厳(きび)しかった。  会は五時に、おひらきになった。  六時から近くの異人館通りの坂上にある「北野クラブ」で二次会に移る。バンドがあって、ディスコも社交ダンスもできて、贅沢(ぜいたく)な食事ができる「北野クラブ」など、短大時代には入りたくても入れなかった憧(あこが)れの場所だけに、山の手の令嬢たちは弾(はず)んで、賑やかに繰り込んでゆくのだった。  だが、亜希子は同行しなかった。一人だけそっと一行から離れ、北野通りでタクシーを拾った。 「六甲山ホテルへやって下さい」  惨めな、敗残者の気持ちだった。いくら離婚が女の勲章といっても、それは東京のキャリアウーマンや芸能人だけの話であって、地方ではまだまだ惨めな落後者とみられるのだ。  六甲山にむかいながら、亜希子は急に見知らぬ街にきた異邦人のような淋しさを覚えた。六時をすぎると、あたりは暗くなる。急な坂道が続き、急カーブが多い。車に揺られながら、亜希子はもっと賑やかな街なかのホテルにすればよかったと思った。  神戸には今では、三宮ターミナル、ニューポート、オリエンタル、タワーサイドホテルなど、新しいホテルがふえている。これに和風旅館やビジネスホテルを入れれば限りない数だし、更に建築中の大手ホテルが加わり、第三次ホテル戦争といわれているそうだ。  でも、亜希子にとって、六甲山ホテルは思い出のホテルなのである。  タクシーはそのホテルに着いた。  運転手に料金を払いながら、亜希子は寒気を覚えた。標高九百メートル近い六甲の山頂付近は、風がつよく、麓(ふもと)よりもぐーんと気温が低いのだった。  部屋は、五階だった。  窓のカーテンをひく。窓の外に、一千万ドルの夜景といわれる輝きが広がっていた。遠く紀州から大阪、神戸にかけての灯が、赤、緑、オレンジと、宝石をちりばめたように煌(かがや)いている。  灯の洪水は、そのまま六甲の山裾にまで及んでいた。亜希子は、この六甲山ホテルからみる阪神間の豪奢な、おびただしい灯群れをみるために、一人でここにきたはずであった。  それなのに、心は弾まない。  街の灯が急に今の自分の孤独感と、果てしない淋しさと寄る辺なさを際だたせてきたような気がした。 (こんははずではなかった——)  夜景をみているうちに、不覚にも涙が滲(にじ)んできた。  それは旅愁とは、およそ違うものだった。人生の深淵から突然、背に吹きあげてくる無明の闇風のような気がして、ぞおーッと背筋が寒くなった。  身体を暖めようと、バスの湯をだしに動きかけた時、フロアスタンドの傍の電話が鳴った。  フロントからかと思って取りあげると、 「おや、もうお帰りでしたか?」  あッ、と亜希子は声をだすところだった。  すっかり忘れていたが、白枝庸介の声であった。  そういえば、彼もこのホテルを予約しているという話だった。 「びっくりさせるのね。今チェックインしたところよ」 「それはよかった。ぼくも今、着いたところです。お食事は?」 「まだですが……」 「じゃ、ご一緒にワインでも飲みませんか。先にスカイレストランでお待ちしていますから、バスを使ったら、あがってきて下さい」  受話器を置いた時、名状しがたい安堵感が亜希子の胸にどおーッと、押し寄せてきた。  駅では先回りしてきた白枝の干渉が何となくうとましかったのに、今はもう一刻も早く会って、抱きつきたいような切なさを感じるのだった。  本当に、白枝がきてくれて良かったと思う。そうでなければ、六甲の山頂でたった一人で、どんなにか孤独で、惨めで、救いのない夜になったことか。  亜希子は大急ぎでバスを使い、化粧を直した。  スーツケースから着がえをだして、派手めなロングドレスを着ることにした。  姿見に映った亜希子は、つい先刻までとは違う女になっていた。やはり一人旅というものは、今の亜希子のような境遇だと、骨身に沁(し)みるほど淋しいものだ。  亜希子は鍵とセカンドバッグだけを手にして、いそいそと部屋を出た。  スカイレストランにあがると、白枝は先にきて窓際の席で待っていた。 「やあ、見違えるように美しい。外の夜景にぴったりですよ」  白枝は、料理とワインをとった。  ワインはバーガンディの赤だった。乾杯したあと、何気なく外をみた亜希子の眼に、さっきまで地獄の灯のように恐ろしく見えていた夜景が、急に華(はな)やぎと煌(かがや)きをまして、ロマンチックな絨毯(じゆうたん)のように見えてきたから不思議である。  六甲にきてよかったと思った。  夜景を見ながら飲んでいるうち、亜希子の気持ちは、少しずつほぐれてきた。が、まだ顔には昼間のショックの硬(こわ)ばりが残っていたのか、白枝が覗きこむようにして訊いた。 「どうしたんです? 顔色が冴(さ)えないですよ」 「ううん。ちょっとね」 「同窓会だったそうですが」 「ええ。辛(つら)かったのよ。みんな倖せそうだったけど、私だけ——」 「そうですか。お気持ち、わかります。男だって、同窓会などに集まるのは、だいたいみんな出世したり、成功した者ばかりで、人生の屈託を抱いているやつなんか、誰も来やしません。みんな自分の輝度を見せびらかしあうのが同窓会なんですから、周囲の眼なんか、気にすることはない」 「ええ、でも、いやな気分だった」 「忘れなさい。あなたは今や、三十億円の資産をもつ大富豪夫人になったわけだ。独身の、華やかな女ですよ。もっと、胸を張って」  白枝の励ましをきいていると、亜希子は不覚にも涙がでてきそうだった。  窓の左手に緑色の屋根をもつこのホテルの旧館がみえたので、なおさらだった。旧館は、今も営業している。慎平との婚前旅行は、その旧館に泊まったのである。  今は若い世代にクラシックホテルが静かなブームだそうだ。古い様式をもつクラシックホテルの落ち着いた雰囲気に魅かれて、ハナコ族までが戦前の面影を残す古いホテルめぐりをやっているらしい。  そういう意味では、このホテルもその部類に入る。とくに旧館は、昭和四年七月に建てられたというから、神戸の戦前、戦中、戦後の歴史の変遷を、文字通り山頂から眺めていたことになる。この新館とて、昭和三十年というから、日本の戦後ホテルとしては、草分けといっていいほど古いわけである。 「このワイン。とても、おいしい」  亜希子はいつもより酒量がふえていることに気づいた。 「ヌーボーというのは、今年穫(と)れた葡萄(ぶどう)で仕込んだやつですからね。日本でも新米とか絞りたての新酒(にいざけ)とかいって、新しいものを珍重しますが、年代ものを競うワインの世界も実は、同じです。去年、ウイーンに行ってきましたが、ちょうど新酒の季節で、ベートーベンが〈田園〉を作曲した家のある郊外の村々では、家ごとに飾り松が飾られていましたよ」 「飾り松を? どうして?」 「ええ。松を表の戸口に飾っている家は、新酒ができたので飲みにこい、というめでたい目印なんです。ちょうど日本の正月のカド松とそっくりでしたよ」 「へええ。戸口に飾るんじゃ、カド松ね。ウイーンにも日本と同じ風習があるとは知らなかったわ」 「冬でも枯れない常緑樹。松は洋の東西、祝い事に使われるんですかね」  冬が近づき、正月が近づいたせいか、そんな話になり、二人がスカイレストランを出たのは九時をすぎていた。五階でエレベーターを降りると、白枝は亜希子の腰を抱き、無言で自分の部屋に誘った。 2  白枝が、唇を求めてきた。  亜希子は、それをはずさなかった。  そこは五階の白枝の部屋だった。誘われた時、無言でついてきた亜希子の胸の奥には、淋しさを埋めようとする妖しい焔がもだえていたのかもしれない。 「狙ってたんでしょ。今夜のこと」  胸に顔を埋めて、囁いた。 「ぼくも会いたかったんです。仕事にかこつけて、神戸まで追いかけてきたのかもしれない」 「やっぱりね!」  胸を拳でコツンと叩いた。それから亜希子はその白枝の厚い胸板にいっそう顔を押しつけ、「……でも、いい。来てくださって、本当によかったと思ってるわ。ありがとう」  白枝が顎(あご)をすくいあげ、二度目の接吻を求めてきた。  二人は神戸の夜景のみえる窓ガラスの傍で、揺れるような接吻をかわした。  亜希子は身体が熱くなっていた。魂が蝶のように漂いだすのがわかった。今夜は何もかも忘れて、この白枝と燃えつきるしかないと思った。  唇を合わせ、長いキスをした後、白枝の唇が亜希子の首すじを這い、耳朶に触れ、熱い息を吹きかけてくる。耳の穴に舌を刺しこまれ、くすぐられると、腰が抜けそうな脱力感がきた。  白枝の手が、ロングドレスの背中のファスナーにのびた。ひきおろされて背中が割れた時、亜希子はもう立っていられなくなっていた。 「ベッドに運んで。ちゃんと」  要求できるようになっていた。 「バスは?」 「終えてるわ」 「ぼくも済んでます」  白枝のほうが、受け身になっている。  亜希子はベッドに横にされる感触を、旅先の、どこか夢うつつの中で感じていた。服が脱がされ、スリップも下着もむしられ、あらわに肌が晒(さら)されてゆくのを、少しも恥ずかしいとは思わなかった。  眼を閉じる。何かを考えようとしても、何も思い浮かばない。奇妙な安堵感と幸福感。愛情をたしかめあう行為への期待に、胸を熱くしているうち、白枝が逞しい裸身を掛布のなかにすべりこませてきた。  亜希子の豊かな乳房の盛りあがりを彼は麓(ふもと)から押しあげるようにして、揉(も)む。そのたびに隆起がうねり、くくッと波が走り、亜希子は息を洩らした。  乳房に、顔を埋めてくる。今夜も白枝は決して、性急ではない。幼児が甘酸っぱい乳首の匂いをなつかしむように、白枝はいっとき、そこに顔を埋め、乳頭を舌であやしたりする。 「ああ……」  乳首を口に含まれると、ずーんと矢のようなものがつきあげてきて、亜希子は思わず呻いた。固くとがった乳首を吸いたて、舌で転がしながら、もう一方の乳首を指先ではさみつけ、白枝は右脚を亜希子の腿にはさみつけてきた。  亜希子は、しあわせだった。  白枝の愛撫を受けている。いつの場合も、どんなに愛憎がもつれていても、どんなに不幸のさなかでも、女は男と肌をゆるしあい、確かめあっているさなかは、しあわせである。熱中する。生命に忠実なのだ。何もかも忘れてしあわせな気分にひたることができるのである。  白枝のふるまいは、亜希子がまだるっこしいと思うほど丹念である。右手は下腹部から茂みに、そして太腿の内側を撫でているが、まだ女の花芯には訪れてこない。  それでも、内腿のきわどいところを揉まれるだけで、気だるいような快感がこみあげ、亜希子はかすかに喘(あえ)ぎつづけるのだった。  白枝の唇が乳房の裾の方へ這ってゆく。いつのまにか腕を大きく押しあげられ、腋窩(えきか)に唇をあてられていた。 「あッ……いやッ!」  亜希子は、身を捩(よじ)った。  はじめは強烈なくすぐったさだったが、押しつけられて動きがつかないまま、そこを舌で征服されていると、鋭い刺激感が湧きあがってきた。  白枝の唇が、今度はゆっくり下半身に降りてゆく。腰から太腿、そして茂みから秘唇の方へと動くにつれ、亜希子はもう呼吸が乱れて息苦しくなった。  白枝は股間に屈(かが)み込んだ。  花弁を指でひらき、そこを覗き込む気配がした。初めてである。この間はそんなことはしなかった。 「いや。恥ずかしい」  膝を閉じる前に、頭を埋められ、花芯に唇がとどいていた。亜希子は小さな悲鳴をあげた。舌が秘裂をなぞり花弁を分け、深く刺しこまれたかと思うと、ふいに肉の芽を襲ったりする。 「ああッ」  亜希子は反(そ)った。漣(さざなみ)がはじまっていた。秘唇からそれは湧きたってくる。漣はやがて大きな波となり、怒涛(どとう)となってゆく。白枝の巧みな舌の愛撫に、亜希子の全身が熱くとろけはじめた。  亜希子は呼吸を乱しきっていた。声がでない。ピクン、ピクン、と腰がふるえ、肉のうちに波がさかまく。  ふっと、亜希子の中で自我がめざめた。白枝とは、二度目である。彼に一方的に奉仕させてばかりではいけないような気がした。 「ね、ね」  亜希子は身を起した。自分からすすんで、男の股間を求めた。夫の親友だった男の、それも男性自身にくちづけにゆくなど、思いがけない勇敢さだった。それだけ、積極的になってきたのかもしれない。欲望に、忠実になってきたのかもしれない。  自分から男を愉(たの)しもうとしている。  白枝が驚いた顔をした。亜希子は彼を仰臥させ、そこに顔を伏せた。白枝のものは逞しくみなぎっている。みなぎりすぎて、ピリピリ慄えていた。  指でふれると、指が熱くはじけそうだった。それを上手に口に含んだ。初めは浅く、次には深く飲みこんでゆくうち、自分がひどく淫蕩(いんとう)な女になったようで、みだらな気分が湧いてきた。  男の性器をさえ自由に愉しむことができるような芯の強さが、だんだん身についてきたのかもしれなかった。  白枝のファラロスは、姿のいい形をしている。亜希子はそれほど男性の数を知らないので、よくはわからないが、無茶苦茶に、大きいわけではない。でも、気品のある形だと思った。醜さやグロテスクさがなかった。  亜希子には、白枝の男性自身を、そんなふうに鑑賞できる余裕が、芽生えつつあった。  そうなるともう、昼間の同窓会で爪(つま)はじきされたことも忘れてしまう。東京での殺人事件のことも、忘れてしまう。どうでもいいことのように思えてくる。  倖せな結婚ばかりが、すべてじゃない。あたしはあたしで生きてゆく。男を充分、愉しみながら生きてゆく。今に、見ておいで……。  みんなを、見返してやるわ。 「ううッ」  白枝が呻いた。  無意識に根元まで操(あやつ)っていった亜希子の口唇愛が意外にツボをわきまえていたようで、感にたえないという顔を、白枝が浮かべた。 「驚いたなあ。あなたが、こんなことをやれるなんて」  はじめは、亜希子と慎平を取りまとめ指図する弁護士だったのに、今では青年のような純真さをみせている。主導権が、入れかわってきつつあるようだ。 「やれるわよ、私だって。何かのビデオを見たのを、盗んでるのよ」 「それにしても、うまい。天使だ。社長室秘書をしていた頃の亜希子さんからは、とても想像もつかない」 「あら、秘書はこういうことをしてはいけないの。それに私はもう、秘書でも人妻でもないわ。今は、ただの独身の、ふしだらな女よ」  ふしだらな女、という言葉は男にはよく効く。  それに、ふしだらな貴婦人となれば、もっとよく効く。  煽(あお)られたように白枝が身を起こし、亜希子の胴に腕を回して、挑んできた。  白枝の熱い塊(かた)まりが花芯にあてがわれ、力強くみっしりと埋めこまれてきた時、亜希子は深い感動を覚えて、のけぞった。ぴっちりと充たされた時、亜希子はそれだけでもう、ああと、声を洩らし、白枝の背中に腕を回していた。 「あなた……」  言ってしまった。 「いいわ。ああ、あなた……」  思わず、口をついてでてきた言葉だった。みっしりと亜希子の身体を充たしたものが、動きだした時だ。  白枝は、怒張したものをゆっくりと的確に、熱湯を押しつめてゆくような動かし方をする。  そのたびに、亜希子の身体に快美感がはしった。蕩(とろ)けるような、甘さだった。強烈な刺激とか、荒っぽい性感とはちがう。どこか頼りになる、ずっしりした存在感と波動が、快楽のうねりの中からあふれてくるのだった。  風変わりな体位をとっているわけではない。ごくまともな正常位だった。それなのに、響く。よく響くのだ。  つらぬかれるたび、みずからの感覚が上昇するのを、亜希子ははっきり、一段ずつ、捉えることができた。  白枝が動くにつれ、一段ずつ、押しあげられてゆく。 「ああッ。凄い」  亜希子は、首を振った。  すっかり乱れた髪の毛が、顔にかかる。  白枝が着実に抽送(ちゆうそう)をくりかえしながら、乳房の裾野を揉み、乳首に唇をおろしてきた時、新たな電流が走った。 「あなた! そこ、そこ、変よ。いいッ」  また、あなた、と言ってしまった。  亜希子はその言葉に、驚いていた。  人妻はよく、不倫のベッドでも、夢中になると、「あなた」とか、夫の名前を呼んだりする。日常性が、つい顔をだすのだ。が、亜希子が今、あなたと呼んだのは、夫だった慎平のことをさしているのではない。いま抱かれている白枝庸介にむかって、夢中でそう呼びかけてしまったのである。  それだけ、白枝の存在感が増してきたのだろうか。  あなた、という呼びかけはふつう、夫とか恋人とかに言われる呼称だ。亜希子にとって、これまでの白枝は、夫の親友であり、会社の顧問弁護士であり、頼もしい相談相手であった。  それが、二度目の肉体交渉を通じていつのまにか、亜希子の中で、そう呼ばせるような存在の男になりつつあるのだろうか。  わからない。亜希子には、なにもかもわからなかった。今はただ、この愛情行為に夢中になるだけでいい。  亜希子はしだいに我を忘れていた。  白枝が腰を両手で掴んで励みだした時、快美感は頂点に達しつつあった。  完全に、恍惚(こうこつ)の極(きわ)みであった。  いわゆる、忘我の境地とはこういうことなのだろうか。 「亜希子さん、きみはすてきだ。身体もいい。そこ、燃えているようだ。緊まって、熱いよ」  白枝が囁(ささや)いた。だが、亜希子にはきこえない。甘美感の中で、亜希子は何度もはしたない声で叫び、髪の毛が顔に覆いかぶさってくるのを、払うのも忘れてしまっていた。 3  静かである。  静かすぎて、亜希子は朝早く目を覚ました。窓の外には、六甲の山々がみえ、神戸市街が陽の底に沈んでいる。  窓をあけると、木立ちから小鳥の啼(な)き声まできこえてくるのだった。  見晴らしがいい。遠く紀州の山並みが靄(もや)にかすんで見え、海は朝の光にキラキラと輝いている。近くはコバルトブルーで、遠くは濃紺。それが陽にまぶされて一面、ブリキ色に鈍(にぶ)く照り輝いているのだった。  ベッドに戻ろうとした時、あッ、と亜希子は驚いた。  ガウンの下は、素裸だった。パンティーさえも身につけてはいなかった。まるめられた下穿(したば)きが、ツインベッドの下に落ちているのを見た時、亜希子は怪訝(けげん)な思いに見舞われた。  ゆうべ、白枝と身体を交わしたのは三つ隣の白枝の部屋である。白枝は二回にわたって満足させてくれた。  そのせいか、疲れきった亜希子は、そのまま、白枝のベッドで眠りたいと甘えたことを憶(おぼ)えている。  だが、「ホテルの予約は別々だったでしょう。二人が同じ部屋で朝を迎えたら、ヘンに思われますよ。それに、亜希子さんの部屋に、東京から電話でもかかってきたら、どうするんです? 朝まで留守だったら、やはり具合がわるいんじゃありませんか」  白枝に、そう叱られた。その口調に亜希子はちらと、白枝に突きはなされたような思いがしたものだ。  だが、もっともな理由である。大人の情事にはルールがあるはずなのだ。亜希子はそれ以上、甘えることをやめて、自分の部屋に戻って、一人でベッドにもぐったのである。  だから、その時はちゃんと、下着はつけていたはずである。それがない。これはどういうことだ。自分が熟睡している間に、白枝がもう一度、入ってきて愛情行為を仕かけた……?  まさか。それなら、白枝は自分をゆり起こしたはずである。亜希子は怪訝な気がしたが、あるいは酔っていたので、ゆうべは下着をつけないまま眠りこんでしまったのかもしれないとも思って、忘れることにした。  電話が鳴った。取りあげると、 「おはよう。朝食にゆきませんか。六階の食堂で待ってます」  白枝の、明るい声だった。安心した。そうだ、何も心配することはない。  洗面所に入って顔を洗いはじめた時、けれども亜希子は、あッと二度目の驚きに見舞われた。身体の奥深くから、太腿に男性の体液と思われるものが、どろどろッとあふれてきたのだった。 (ヘンだわ。あたしったら、乱れすぎて後始末さえ忘れていたのかしら。これからは、気をつけなくっちゃあ)  亜希子は身支度をして食堂にあがった。白枝が先にきていて、やあ、と爽(さわ)やかな笑顔で迎えた。 「よく眠れましたか?」 「ええ。おかげさまで——」  白枝は午後、東京に戻る予定だという。それまで二人で神戸の街を歩こう、ということになった。  食事の後、ふたりはタクシーで北野まで走った。 「ね。あなた、独身主義?」  亜希子がそう訊いたのは、北野の、白い異人館の前である。  唐草模様の門扉(もんぴ)を入ろうとしていた白枝庸介が、ふりむいた。鬱蒼(うつそう)と生い茂った楠(くすのき)の庭木に朝日が遮(さえぎ)られ、白枝の顔は半分、かげってはいるが、冴(さ)え冴(ざ)えと見えた。 「え?」 「どうして結婚しないの?」 「困ったな。——いきなり、そんなこときかれましても」  白枝は異人館の邸内に入ってゆく。  青い西洋瓦の屋根と、白亜の壁のコントラストが美しい館だ。明治三十六年に、アメリカ領事シャープ邸として建てられたもので、いわゆる「白い異人館」と呼ばれ、ひところ阪急電鉄の元社長小林秀雄氏の私邸になっていたともきく。  白枝は無言のまま、通路をあるいて本館の正面にまわる。亜希子は追いついて、建物を見あげた。そして亜希子はさっき、なぜ自分があんなことをきいたのか、不思議な気がした。  たしかに、白枝庸介はまだ独身である。慎平と同年の三十五歳で、羽振りが良く、虎ノ門に弁護士事務所をもっている男なのに、まだ独身だということは、一般的にいえば何とも納得できない。  そんな白枝のことを、あいつは女嫌いだ、もしかしたらホモかもしれんな、と慎平がいつか、話していたことがある。でなければ不能かもしれんぞ、と……。  でもそれは、二つとも亜希子の体験によって、否定されたわけだ。白枝は男性として健全であるばかりか、大変な能力の持主であった。  白い異人館の中に入って、二人は各部屋を見てまわった。古い欧州映画にでもでてくるようなクラシック建築の室内。ソファやピアノが配され、シャンデリアがあり、大きな暖炉がある。  二階までのぼった時、居住者夫婦の寝室のベッドまでが当時のまま保存されているのをみて、亜希子はなんとはなしに、顔を赤らめた。  烈(はげ)しかったゆうべのことを、思いだしたからである。  ふたりはバルコニーに立った。  南むきの明るい窓ガラスから、秋の陽射しがふりそそいでいる。そこからだと神戸の市街が一望できた。港やビル街が眼下にきらめいていて、亜希子は長崎のグラバー邸を思いだした。  古くから開港地となり、山の手に外国人が住んでいたという条件や構造が、神戸と長崎はよく似ている。 「さっきの質問ですけどね」  白枝庸介がふっと、思いだしたように口をひらいた。 「ぼくのように、法律の仕事をしていますとね、色々、人間の裏面ばかりみるんですよ。夫婦の愛憎や喧嘩や離婚。はては慰謝料や遺産をめぐっての醜い争いにも巻きこまれます。つくづく人間がいやになりますね。結婚して家庭をもつということが、どんなに面倒なことかって思うと、つい、結婚に踏み切るのが億劫(おつくう)になるんです」 「そう。わかるような気もするけど、贅沢(ぜいたく)な悩みね。今はまだ、若いから独身でもいいでしょう。それに、独身のほうが女性にもてるし。でも、いつまでもってわけには、ゆかないじゃないの?」 「それはそうです。ま、相手によりけりですよ。もし、亜希子さんのような女性が現れたら、文句なしに結婚しますがね」  亜希子は、どきっとした。  まさか遠まわしの求婚というわけではないだろうが、舞台装置ができすぎているのだ。ロマンチックな異人館の窓辺で、そんなことをいわれると、女心はつい本気になってしまう。 「それ、皮肉?」  自分は離婚歴のある女ですよ、と亜希子は言いたかったのである。 「皮肉じゃない。本心ですよ」 「でも、私のような女、であって、私じゃないみたいで、助かったわ」 「助かったとは、ひどい。本気ですよ。近いうちに、亜希子さんに求婚するかもしれません」  白枝は、遠くを見つめたまま、亜希子の腰に腕をまわしてきた。  それをやんわりとはずすように、行きましょ、といって亜希子は先に立って、バルコニーをはなれた。  胸の動悸が、激しかった。白枝庸介ほどの男から、もし本気でプロポーズされたら、女心は揺れるだろう。  亜希子の立場としたら、再婚相手としては申し分ない男性なのである。贅沢(ぜいたく)すぎるくらいである。  けれども、白枝は慎平の親友だ。  慎平とのことも、亜希子の中ですっかり解決しているわけではない。それに慎平が私に残した巨額の遺産。もし万一、この白枝が私と結婚することになったら、今や三十億円にも急騰した資産は、まるまる白枝のものになる。 (まさか。財産狙い……?)  いやいや、そんな勘ぐりは悪い。  亜希子の気持ちは、激しく揺れた。  ふたりは無言で、白い異人館を出た。  小路を歩いて、北野町のシンボルともいえる尖塔の風見鶏で名高い旧トーマス邸にむかう。  これも、明治四十二年に建てられた三階建ての建物で、異人館の中では唯一のレンガ建築である。  その寸前まできた時、 「ちょっと——」  白枝が、立ち止まった。 「え?」 「妙なことに気づいたんですが、亜希子さん、誰かに尾行されている覚えはありませんか?」 「尾行……?」  亜希子は、びっくりした。 「いいえ。そんな憶えはないけど」 「そうかな。そんならいいけど」  白枝は、うしろをふりかえった。  その時、ちらと、小路を人影がよぎったような気がした。人影はすぐ北野公園のほうに消えた。  尾行者がいる——。  白枝は、そう言ったのである。  亜希子には信じられなかった。 「まさか。気のせいでしょう。ほら、観光客もふえてきているし」 「そうかな。それならいいが、ぼくなんかも職業柄、民事で敗訴した連中に狙われたりするんですよ。——ま、様子をみるために、ゆっくり歩いてみましょう」  二人は旧トーマス邸を外から眺めるだけにして、北野天神の前で右にまがり、今度は下り坂を通ってラインの館の方にむかった。  おかしなことである。説明役は、亜希子だった。旅先でガイド役を買うとは思わなかったが、白枝は、何度も神戸にきておりながら、ハナコ族の趣味はないと、山の手など一度も歩いたことはないというのだった。 「ねえ、ほら。きれいでしょ。ラインの館。旧ドレウェル邸というんだけど、緑に包まれたベージュとココア色のツートンカラーのコントラストの美しさが抜群で、異人館随一といわれているわ。建築は大正四年。ラインの館という名前は、神戸市民からの公募によってつけられたものらしいわね」  という具合に、ふつうの観光客を装いながら、亜希子たちは異人館街を歩き、時々ふりかえったが、別段、尾行者らしい人影は見あたらなかった。  亜希子は少し、安心した。 (やはり、気のせいだったんだわ)  でも、さっきはたしかに気になる人影を亜希子も見たのだ。男だった。まさか神戸まで、偽装離婚や会社整理のごたごたが、尾を曳いてくるとは思われない。  考えられるのは、殺人事件との関係だ。宮村京子が殺害された事件のことで、刑事が自分を尾行している、ということなら、充分、考えられた。  亜希子は、小さな恐怖を覚えた。やはり、容疑者としてマークされているのだろうか。それに、朝、自分が下着を何もつけていなかったという事件を思いだした。考えてみれば、あれもたしかにおかしな出来事だった——。  亜希子はさっき、白枝に求婚めいたことを言われた心の動揺も手伝い、異人館の街を歩いていても気持ちが落ち着かなかった。 「ねえ、このへんではかえって目立つわ。行きましょ、繁華街のほうに」  亜希子は北野坂にむかった。  ふたりは北野坂をくだって中山手通りに出、三ノ宮まで歩いた。  フラワーロードはすっかりきれいになっていた。三ノ宮駅から港へむかってのびる幅五十メートルのメーンストリートだ。分離帯には花が飾られ、歩道には御影石(みかげいし)とレンガが埋めこまれ、市役所の脇には花時計もある。 「わあ、変わっちゃった。ここも」  さんちかタウンは予想以上に賑わっていた。白枝と腕を組んでウィンドーショッピングをしていると、まるで新婚旅行にきたような気分になった。  だがその日、白枝がぎょっとするようなことを言ったのは、元町までタクシーをとばして、南京町で昼食をとりはじめた時だった。 「安心しましたよ」  突然、白枝庸介がそう言ったのだ。 「え?」  亜希子はとまどった。 「尾行者の影が消えたこと?」 「いいえ、違います。実はね、亜希子さんが神戸にむかったということをきいた時、ぼくは疑ったんだ。船山君と一緒じゃないかと思ったんですよ。その予想がはずれ、別行動だということがわかって、安心したんです」  亜希子は、はっとなった。  尾行者の心配どころではない。白枝はもしかしたら、それを探りにきたのではないか。つまり、自分と慎平が示しあわせて東京をあとにしたのではないかと疑って、偵察にきた。ゆうべのあの激しかった愛情行為は、つけたしだったのではないのか。 「妙なこと、おっしゃるのね」  亜希子は胸を鎮めるように、ガラスドア越しに表の通りに眼をやった。そこは、南京町の一画だった。昼どきなので、通りには観光客だけではなく、近くのサラリーマンやOLも多く流れている。  チャイナプラザとよばれる中央広場の前の有名な豚まん店「老祥記」にはOLたちの長い行列ができていた。亜希子も並ぼうかと思ったが、あまり時間がかかりそうだったので諦め、ふたりは近くの中華料理店に入ったのだった。 「それじゃ、今でも私が慎平と連絡をとりあっていて、行動をともにしているかもしれない、と疑ってらっしゃるの?」 「いえ、その疑いが晴れて安心したと言ってるんです。離婚のことだけではない。もっと厄介(やつかい)なことが起きている。船山貿易の秘書だった宮村京子が殺害されたこと、知ってるでしょ?」 「ええ。新聞で読みました」 「あの夜から船山君は東京から行方をくらましてるんです。警察も、疑っている。まさかとは思いますが、彼には動機がある。ぼくも気になって、彼の行方を探すかたわら、それとなくあなたの挙動に注目してたんです」  それじゃあ、やはり……と、亜希子は胸に激しい痛みを覚えた。白枝はそのために神戸まできて私に接近し、ゆうべはあんなに優しくふるまったのか——。  亜希子は急に、白枝が見知らぬ男になったような気がした。どこか遠い異国の街に一人で、放りだされたような気がしてきた。  南京町は、元町通り一丁目の浜側にある。横浜の中華街ほど大きくはないが、中国風の楼門(ろうもん)が入口に建ち、中心部に広場があり、中国料理店やバー、レストランなども並んでいる。  白枝が話している。「……もう、気にしないで下さい。多分、彼は大阪方面にでも潜伏してるんでしょう。これから万一、彼から連絡があったら、私にご一報くれませんか。あなたは殺人事件とは関係ないと信じています。彼とはもう離婚しているのですから」  その日、白枝は一時過ぎの新幹線で東京に帰ると言った。亜希子は急に、白枝から突き放され、ほんとうに遠い街に一人で取り残されたような気がした。 第八章 潜伏行 1  午前二時——。  カタリ、という音がした。  眠りかけていた船山慎平は、薄く目をあけた。瞼(まぶた)の重い目をこすって、身を起こした。物音は、まだつづいている。裏の駐車場へ脱ける通用口付近からである。  船山慎平は毛布をはねのけ、ベッドから降りた。そこは仮眠室である。ベッドといっても、壁ぎわに作り付けの狭い二段ベッドがあるだけだった。  むかしふうにいえば、守衛。今はガードマンとか、ビル管理人とかいうのだが、要するに雑居ビルの電気空調設備の保守管理までをふくめての雑多な仕事をする夜警であった。  もぐりこんで、一週間になる。そこは大阪・ミナミの歓楽街の一画であった。千日前と道頓堀を結ぶ相合橋アーケードの近くにある堀川ビルというのが、それであった。  浪速ビルサービス会社が、夜間は船山慎平一人しか派遣していないくらいの規模だから、七階建ての小さな古ぼけた雑居ビルである。  が、テナントとしてバーや飲み屋をはじめ、貴金属商、時計商、高級婦人服卸(おろ)し商などの事務所も入っているので、盗難対策としての夜間は結構、骨が折れる。いま、その神経がピーンと、はねたのだ。  慎平は棚からハンドライトを取り、仮眠室を出た。ビルの暖房はもう切っている。夜更けの通路は冷えていた。  物音がしたほうに角をまがると、ハンドライトに照らされた階段付近で、ちらと人影が躍(おど)ったのを見た。 「誰だ?」  誰何(すいか)した。人影は不意に跳(は)ねた。通用口付近から脱兎のように、すぐ傍の階段を駆けあがってゆく。 「おい、待て!」  侵入者は一人だった。靴音が階段に響いた。革(かわ)ジャンパーを着た若者のようであった。  慎平が照らすハンドライトの光の穂先が、狭い階段のあっちこっちを揺れながら、照射した。すばしこいやつだった。二階から三階へ駆けあがってゆく。テナントの店や事務所はどこも鍵を閉めているので、エレベーターか階段しか、逃げ場はないのだ。  三階にきた。貴金属商のオフィスがある。そこなら、たしかに金目のものがたくさんある。狙いはそこだったのかもしれない。慎平は踊り場に立って、まわりを眺めた。貴金属商のドアが、ほんの少しあいていた。ぴんときた。やはり侵入者は合い鍵まで用意していたに違いない。それで、すぐに逃げこめたのだ。  慎平は用心して、ドアに身をすべりこませた。ライトを照らすと、たくさんのショーケースが光った。あるコーナーを曲がった瞬間、背後でカタン、と椅子が倒れる音が響いた。  慎平はライトを照らした。そこにひそんでいた侵入者が、出口のほうに走りだした。待て! と慎平は追いつき、背後から襟首を掴んだ。「この野郎、逃げるな!」  侵入者の腕を掴んだ。  頚(くび)を抱えこみ、羽交い締めにした。慎平はそうやって暴れる相手の腹に拳を一発、打ちこんだ。  うっと呻き、相手は身を折った。そのひょうしに、かぶっていた帽子が落ちた。長い髪が帽子の下から、ぱらりと肩に落ちてきた。帽子の下にたくしこまれていた髪は、女のように長い髪だった。  慎平はもがく相手の頚を抱えこみ、守衛室の方にひきずろうとした。 「きざなやつだな。今はヒッピーのような長い髪は流行(は や)らないんだよ。さあ、こっちへこい」  相手は引きずられまいとして、抵抗する。慎平はもう一発、相手の腹に拳を打ち込んだ。相手は呻いた。髪が躍った。慎平がその髪をつかんでもう一拳、見舞おうとした時、 「やめてよ!」  鋭い声があがった。女の声だった。  慎平は意表を突かれた。相手が暴れたはずみに、革ジャンパーの下で、柔らかくはずむ乳房が、掌の中でたしかに、重く躍ったのだ。  ライトを顔にあてた。女が、顔をそむけた。濃い口紅が、光をうけてぬめるような艶(つや)を放った。眼鼻立ちのくっきりした、意外に若い女の顔だった。 「女のビル荒らしとは珍しい。おまえ、一人か?」 「ビル荒らしなんかじゃないわよ」 「仕事はもう済んだのか?」 「仕事って、何よ」 「本職だろう。何を狙っていた?」 「違うってば。泥棒じゃないわ」 「どう違うんだ?」 「あたし、表で変な男たちにつきまとわれていたのよ。それで、駐車場から逃げこんで、このビルの中に身を隠そうとしていたのよ」  なるほど、裏の通用口は、ビル内に数軒ある酒場の従業員が後片づけを終えて帰るまで、ドアに鍵をかけてはいない。しかし、それは午前一時半までだ。そのあと、慎平はちゃんと、締めきったのを憶えている。 「でしょう。あたしがビル内に潜(ひそ)んでいるうちに、鍵かけられちゃって、出るに出られなくて、困ってたのよ」 「とにかく、こっちへ来い。話は守衛室できこう」  慎平は女の腕を掴んで、エレベーターに押しこみ、一階にむかった。  奇妙なことである。東京から大阪にきて、もう一週間になる。会社整理のごたごたと、殺人事件を逃れての潜伏生活が、ミナミの歓楽街の片隅ではじまっているのだ。  いわば、追われている身であった。その追われている身が、ビルの夜警となり、ビル内への不審な侵入者を掴まえ、追いたてている。二重の逃亡劇をみる思いだった。  女は、諦(あきら)めたように、おとなしく守衛室に入ってきた。  ビルの暖房はもう切ってあるので、石油ストーブが一つあるだけだ。  ストーブの傍に女を立たせ、 「盗品を検査する。脱げ!」  女はふてぶてしく、横をむいた。 「あたしを泥棒扱いにするの?」  見返した眼が、キラッと猫のようによく光る。  が、案外、可愛い顔をしている若い娘だった。 「あたり前じゃないか。深夜、無断でビル内に侵入していたんだぞ。泥棒でない証拠が、どこにある」 「ぜんぶ、脱がせるおつもり?」 「それは、場合による。まず、ジャンパーだ。上衣をとって、壁のほうをむいて、足を揃えて立て」  慎平は、ボディーチェックをするつもりだった。この侵入者は、三階の貴金属店を荒らして、裏から逃げるところだったのかもしれないではないか。 「女の管理人はいないの?」 「生意気なことをいうな。夜間のガードマンはどこも、男に決まってる」 「人権違反よ。空港では女性のボディーチェックは、必ず女性がするものと決まっているわ」 「あいにく、ここは空港じゃない。文句を言う権利が、あんたにあるか」 「じゃ、さわんなさいよ。遠慮なくしっかり、さわればいいわ」  女は、口紅を塗った唇をなまめかしく光らせ、キッと睨(にら)んでから、威勢よく皮ジャンパーを脱いだ。  慎平はジャンパーを受けとり、ポケットを検査した。  たいしたものは入っていなかった。煙草、ライター、札入れ、口紅、ハンカチ、ティッシュの類で、盗品はない。 「どう、盗品でも見つけた?」 「まだ、わからん。向こうをむけ」 「いいわ。セーターの上から触れられるなんて、気味が悪い。ゼーンブ、脱いでやるわ」  女は言いすて、くるっとうしろむきになるなり、あっという間にセーターを脱いだ。それからジーパンを脱ぎ、下着も、パンティーも脱いでしまった。  くるっと、正面をむく。  眼のやり場がない。  慎平は、戸惑った。  女は笑い、近づいた。 「さあ、検査をしなさいよ。ほら」  手を掴まれ、股間に運ばれた。  つやつやと光る、やや剛(こわ)い感じの密生した恥毛が、ざわざわと手にさわった。 「いや。そこまでしなくてもいい」  慎平はあわてて、手をはずそうとした。はずみに、突きだした双丘が腕にふれ、乳房を押す感じになった。 「まて、そこまでは——」 「どうして? 女がダイヤを隠すのはたいてい一ヵ所よ。ほら、検査しなさいよ」  慎平の手に、女の茂みがふれた。そこは汗ばみ湿っぽく火照(ほて)っていた。秘唇に手をあてがわせ、女は急に股をすぼめて、慎平の手をはさみつけた。 「どう? 何か隠している?」  女は慎平の頭に両手をまわし、引き寄せようとする。乳房が胸を押した。  慎平はやっとの思いで、言った。 「わかった、もういい。服を着な」 「私への疑いが解けたの?」  女は矢島晴美と名のった。  二十一歳だそうだ。昼間は千日前のデパートに勤めながら、夜は宗右衛門町のクラブに勤めている。今夜、店がひけて、相合橋を渡って帰りかけている時、アーケードの傍で五、六人の変な酔っ払いたちにからまれ、このビル脇の駐車場まで逃げてきた。それでも酔っ払いたちは探していたので、やむなくビル内に「一時避難」していたのであり、自分は決して、泥棒でもビル荒らしでもない——。  女は、そう説明するのだった。  慎平は夜警日誌をパタンと閉じた。 「わかった。早く服を着なさい」  晴美は、まだストーブの傍で裸で慄えていたのである。 「疑い、解けた?」  ジーンズをはきながら、訊く。 「解けたわけじゃない。だが、盗品を所持してはいない。あんたの申し条を信用するしかないじゃないか」  慎平は腹立たしそうに、呟いた。 「じゃ、警察には?」 「そんなに突きだしてほしいのか」 「そのほうがすっきりするわ。あなたのこと、訴えてやる。私を裸にして大事なところをかきまわしたでしょ」  女は、どこまで本気で言っているのか。警察に訴えるといいながらも、その眼は怒ってはいないし、むしろ、牝猫のように悪戯(いたずら)っぽく笑ってさえいる。  こんな妖精のような小娘とつきあっていると、慎平は芯が疲れる。  もう年なのだ。自分では若いと思っていたが、三十五歳といえば、世間的にいえばもう中年だ。慎平は収まりのつかない気分で腕時計を眺め、 「おい。いつまでぐずぐずしている。もう二時半だぞ。早く帰りたまえ」 「二時半? あーら、困った!」 「何が、困ったんだ」 「もう電車がないわ」 「あたりまえじゃないか」 「困ったわ。岸和田までじゃ、タクシー代が損だわ。——ねえ、ね、オジさん、ここに泊めてよ」  オジさん、には参った。それに晴美の言葉使いは関西弁ではない。歯切れのいい標準語だった。それも、ちょっとひっかかった。 (が、大阪に住んでいるからといって、みんながみんな大阪弁とは限らない。現にこのおれだって——) 「ねえ、泊めてくれなければ、警察に届けるわよ。あなた、泥棒でもない女に淫行を働いたのよ。職権乱用よ」  警察ときいて慎平はぎくりとした。  今、警察と関わりあいになるのをもっとも惧(おそ)れているのは、慎平自身であった。  慎平は今、逃亡者である。二重の意味の逃亡者なのだ。一つは倒産者、もう一つは殺人容疑者であった。 「わかったよ。そこの仮眠ベッドで勝手に寝てゆくがいい」  吐きすてるようにいった。 「一緒に寝ないの?」 「ばかを言え。おれは別に仮眠をとる。そのかわり、朝七時になったら、ちゃんと出て行ってもらうからな」 2 「織原はん。電話でっせ」  そう呼ぶ声は耳に入れていた。  が、慎平はとっさには、自分のことだとは思わなかった。宿直室で制服を脱ぎながら、帰り支度をしていると、 「織原はん、きこえへんのか。ほら、むこうで呼んではるやんか」  相棒の平野という男に肩を叩かれ、慎平はやっと自分のことだと気づいた。 「あ、こらすンまへん」  慎平はぺこりと頭をさげ、あわてて管理人室のほうに歩いた。  慎平が呼ばれてもすぐに気づかなかったのは、織原という変名で、ここに勤めているからだ。その変名が、まだ板につかないのであった。  紹介したのは、友人である。慎平は東京から大阪にきた当初、夕貴とともにビジネスホテルに転がりこみ、これから大阪で生活するための、アパートと仕事さがしをした。  日本の社会では、仕事一つ探すにも身許保証人がいる。幸い、大学時代の友人が、船場(せんば)で繊維関係の輸出入会社を経営していた。  むかしは、船山貿易とも取引があり、気のいい男だった。慎平はその浜崎康男と連絡をとり、事情を説明し、当分身を伏せる方法を相談したところ、ビルの夜警なら、世間に顔を晒(さら)すこともないだろう、ということで彼の世話になったのである。  浜崎が所有するビルを管理しているのが、浪速ビルサービス会社である。それで、慎平はその会社に籍を置き、現在、千日前の堀川ビルの夜警として派遣されているのだった。  慎平は管理人室で受話器をとった。 「はい。織原ですが——」 「やあ。板についてきたな」 「どちらさまでしょう?」 「おいおい。おれの声をもう忘れたのか。白枝だよ」  あッと、慎平は驚いた。東京の弁護士の白枝庸介であった。  慎平は急に、懐(なつ)かしさにかられ、 「なんだ、きみか!」 「浜崎君に問いあわせて、やっときみの居場所を突きとめたよ。連絡を待っていたのに、おれにまでナシのつぶてとは、ひどいぞ」 「済まなかった。落ち着いたら、そのうち連絡しようと思ってたんだが」 「居場所がわかって、安心した。実はおれ、昨日から関西に来ているんだ。至急、相談したいことがある。今日、時間はとれないか?」  白枝が、関西に来ているという。自分の居場所を、探していたのかもしれない。会社の顧問弁護士だったので、白枝とは、本当は常に連絡をとりあわなければならなかったのだが、宮村京子の殺人事件が介在したため、慎平はなんとはなしに怯(ひる)んで、白枝にさえも連絡を入れてはいなかったのである。  相談があるというのなら、大至急、会わなければならない。 「そうだな。今、夜勤が明けたところだ。じゃ、朝のうちに会おうか」  慎平は難波の新歌舞伎座横の、行きつけのある喫茶店を指定した。  大阪の朝は、活気がある。  地下鉄から吐きだされたサラリーマンやOLが、千日前の大通りを、それぞれの会社にむかって急いでいる。  その流れにさからうように、夜勤明けの慎平は御堂筋まで歩き、それから横断歩道を左に渡って、難波駅のほうに歩いた。  白枝庸介と約束している喫茶店「男爵」は、新歌舞伎座の横にある。大きな厚切りのトーストが二枚もつくモーニングコーヒーがうまいので、夜勤明けの帰途、慎平は毎朝のように、そこに立ち寄っていた。  人混みにもまれて歩きながら、慎平は、ゆうべの妖精のような女のことを思い返していた。あのあと、ベッドで寝息をたてはじめた矢島晴美の寝顔をみていると、慎平は一晩中、むらむらとしていたものである。  一度は、その裸を見てしまったせいもある。股間のヘアや秘唇の感触が生々しく掌に残っていたのだ。  が、それをやっと怺(こら)えることができたのは、慎平は今、潜伏者として万事に身を慎まなければならないことと、いまもぐっている千日前の裏町界隈(かいわい)は、いわばミナミの歓楽地帯で、欲望を処理する機会には事欠かなかったせいもあった。  矢島晴美は、朝七時にゆり起こすと眼をあけ、 「あらあ、アリガト。おかげでぐっすり眠れたわ」  ばかに爽(さわ)やかな笑顔をむけた。  宿直室をでてゆく時も、 「オジさん。おかげでタクシー代が浮いたわ。またどこかでお会いしましょ。バイバイ」  そう言って、笑顔で手をふって出ていったのだった。  こうして朝の光の中で思い返すと、あの女、闇夜に星光の尾を曳いて現れた妖精であったような気さえする。 「男爵」に入ると、挽(ひ)きたてのコーヒーの香りがした。  白枝は先にきて待っていた。やあ、と手をあげ、 「ほう、元気そうじゃないか」  しげしげと慎平を見つめる。  慎平はむかいに坐って、モーニングコーヒーを頼んだ。白壁とレンガ壁が奇妙に調和のとれた明るいクラシック喫茶室であり、最近の東京のばかに明るい喫茶店にはない落ち着きがあった。 「少し痩せたようだな」  白枝がいたわるように見た。 「痩せもするさ。毎晩、夜勤ばかりでモグラ生活。体調がまだ整わない」 「住まいは、この近くか?」 「うむ。浪速区湊町二丁目、この先の四ツ橋筋を横断して、湊町駅の陸橋を渡ってゆくんだ」 「じゃ、ここは通勤道か」 「ま。そういうことだな」 「しかし、元気そうで何よりだ。安心したよ。船山貿易の二代目社長として、本来は絹のハンカチ族のきみが、こうして苦労をいとわず、ビルの夜警などをしている。人生いたるところ、青山(せいざん)ありだな」  他人のことだから勝手なことが言える。  慎平はむかっとしたが、黙って運ばれてきたコーヒーの香りに顔を浸(ひた)した。 「で、相談というのは?」  慎平は、白枝に顔をむけた。 「うむ。東京の会社整理のほうは、あらかた片づいたので安心したまえ。債権者の中には、まだ文句を言っているのもいるが、ふつうの倒産の場合は一、二割も取れればいいのに、船山貿易の場合は、含み資産や在庫処分で八割以上も、返済してるんだ。完済といっていい。きわめて良心的だし、きみの人望は落ちてはいないよ」 「しかし、盗まれた有田や萩の在庫品は、まだ見つからないんだろう?」 「うん。その問題が残っている。警察の尻を叩いてはいるがな」 「警察といえば——」  慎平は思いきってきいた。 「宮村京子が殺されたという話を、ちらっときいた。殺人事件のほうは、いったいどうなっているんだ?」  東京で起きた事件なので、大阪では一行も報道されてはいない。いや、一人のOLが殺されたことなど東京ですら新聞の片隅のゴミ記事扱いだろう。  その後の経過を、慎平は知りたかったのだ。白枝は、実はその用件できたといわんばかりに、テーブルの上に身をのりだし、小声でその後の経過を説明しはじめた。  それによると、宮村京子殺しについては、目黒署に捜査本部が設けられ、怨恨(えんこん)、痴情のもつれ、強盗殺人の三つの見地から捜査が行われている。京子の部屋が荒らされ、貴重品などが紛失しているので、強盗殺人の線も洗われているが、警察が最も疑いを深めているのは、京子の交友関係。つまりは怨恨、痴情のもつれである。  京子は船山貿易時代、まわりの目を惹(ひ)くくらい、知的な美貌の秘書だったが、女子大時代、ある秘密の生活をもっていたそうだ。それは友人の幾人かと六本木の愛人バンクに所属していたという経歴であり、それにつながるかなり複雑な男性関係が、隠されていたらしいのである。  警察では今、彼女のそうした交友関係の洗いだしと、もう一つは、勤めていた船山貿易との関係も探っているらしい。しかも、そんな折、船山貿易の責任者であった社長の船山慎平が東京から失踪している。  これは、世間によくあるように、一般的な倒産会社の社長の蒸発とみられなくはないが、なんといっても船山は殺害された京子の直接の上司であったし、肉体関係もあったとみられているので、警察では今、重要参考人として船山慎平の行方を探している——。 「さいわい、警察はまだ、きみを指名手配しているわけではない。しかし重要参考人として、探していることは事実なんだ。おれのところにも、何度も刑事がきたんだぞ。ぐずぐずしていると、きみは本当に指名手配されるかもしれんぞ」  と、白枝は脅迫するように言った。  やはり、と慎平はぐっと肚(はら)に力を入れた。  いずれは追及されるとは思っていたが、案外、火の手が回るのは早いかもしれないぞ……。  白枝庸介が不意にきいた。 「きみ、本当に関係ないのか?」 「おれがやったとでもいうのか」  京子殺しのことである。 「そうは言ってないが、現場付近の路地から、凶器と思われる刃物が発見されたそうだ。それには、きみの指紋が残っていたそうだぞ——」  あっと、慎平は思いだした。コーヒーカップを宙に止め、心臓の動悸を鎮(しず)めようとした。  そういえばあの夜、慎平は笹塚の酒場で、トイレに逃げこんだ男から奪ったナイフを胸のポケットに入れていたではないか。京子の部屋に入り、死体を発見したあと、すっかり動転していたので、よく憶えてはいないが、亜希子と示しあわせて現場から出て急いで駒場東大前の駅にゆく途中、電灯のない暗い道端のポリバケツのなかに、何気なくそのナイフを捨てたようにも記憶している。  それが警察に発見され、京子を殺害した凶器だと、みられているというのか。しかし、おかしい。京子の胸にはあの時、別のナイフがはっきりと刺さっていたはずではないか。  慎平は、それを見ている。  で、慎平は何気なく、「白枝君。そりゃあ、変だよ。京子の胸に刺さっていたナイフはたしか——」  形状を言いかけ、慎平は重大なことを思いだし、あわてて、口を噤(つぐ)んだ。  危ないところだった。ナイフの形状など、言ってはならない。そんな目撃談なども、述べてはならないのである。 (自分と亜希子は、殺害現場には入ってはいないことになっているのだ。二人で、そう約束したではないか) 「ま、とにかく、おれは知らん。京子君の事件に関しては、まったく無関係だぞ。信じてくれ」 「なるほど、それならいいが——」  白枝がじろっと睨(にら)み、「万一ってことをおれは心配してたんだ。きみがもし、何ら関わりがないのなら、警察には一度、出頭しておいたほうがいいかもしれんな」 「いや。それは困る」  亜希子と約束しているのだ。現場にはどちらも、はいらなかったことにしておこうという約束を交わしていたし、偽装離婚のことを洗いたてられたら、詐害行為で訴えられてしまうかもしれない。 「白枝君。おれの立場も理解してほしい。今、警察に出頭すると、偽装離婚のことまで話さなければならなくなる。そうなると、せっかくのおれや亜希子の苦労が、水泡に帰するじゃないか。そもそも、きみが今度の偽装離婚をアドバイスし、お膳立てしてくれたんじゃないか。もう少しの辛抱なんだ。もう少しの——」  そうだったな、と白枝は、じろっと睨んで、腕組みをといた。  いやな眼だった。今まで、親友のこいつが、こんな眼をして、おれを睨んだことがあるだろうか。 「——わかったよ。きみの立場も、気持ちも理解できる。じゃ、もう少し、様子をみてみよう。きみに対する警察の容疑のほうは、できるだけおれのほうで防いでおくよ」  その朝、慎平は白枝とはそんな会話をして、別れた。  白枝はその日、東京に戻るということだった。以来、慎平はなんとなく白枝のことが気になった。 3 「くそっ。あの野郎」  慎平は、カウンターに突っ伏した。 「白枝のやつ、おれを人殺しのような眼で睨みやがった。あいつが今まであんな眼で俺を睨んだことがあるか。そもそも今度の偽装離婚と、それにつづくごたごたは、みんなみんなあいつが授けた陰謀だったではないか」  声にだして言っているのではない。白木のカウンターに酔いつぶれて、慎平はぶつぶつと心の中で、そう呟いているのだった。 「織原はん。織原はん——」  ママが肩をゆすっている。 「はい。お冷や——」  コップをさしだし、「しっかりしてくれはらんと、困るわあ。ほら、もう看板よ。浜崎はんはもうとっくに、お帰りになりはったのに」  法善寺横丁。むかしながらの小さな飲み屋が、小路の両側にぎっしりつまっている。「夢月」は、その奥まったところにあるわりと小綺麗な和風スナックだった。  白枝と別れた三日後である。ちょうど、非番の夜、慎平を浪速ビルサービスに押し込んでくれた船場の浜崎康男が呼びだしてくれて、二人で宗右衛門町を飲み歩いたのである。 「人生波乱ありは、いずこも同じや。わいもいつ、きみと同じような境遇にならんとも限らへん。こんな時こそ、持つべきものは友達というやんか」  船場生まれの、関西人ふうの腹の据(す)わった男だった。あくも強いが、友情にもあつい。その男の奢(おご)りでクラブを数軒、ハシゴし、そのあと、古い馴染(なじ)みのママだから介抱してくれるだろうと、法善寺横丁のその小さな店に、慎平を放りこんでくれたのだった。 「ねえ。どないしやはるの」  ママが肩をゆすった。 「ほらほら。お冷や」  差しだされたコップの水をやっと受けとり、慎平は夢中で飲みほした。こうした悪酔いの不快感を味わうのも、久しぶりである。 「それからな、織原はん」  ママが顔を寄せ、「お連れはん、待ってはりますよ」 「連れ?」  浜崎のことかと思っていると、そうではなかった。 「きれいなお方が、ほら、横に」  顔をむけると、色白の静かな美人が横に坐っていた。水色のセーターに、白のハーフコート。女は恥ずかしそうに、顔を伏せていた。  思いだした。浜崎の仕業(しわざ)である。 「テレクラもソープもいいがな。そればっかりじゃ、大阪の女は滓(かす)やと思われて、気色わるい。たまには素人筋の、いい女を抱かんかい」  ここに来る途中、浜崎は慎平にそっと、耳打ちしたのだった。 「何もかも根回ししているから、おまえは心配せんでええ。たまには生命の洗濯をしろ。心斎橋の老舗(しにせ)の高級婦人服店に勤めるマヌカンや。金のことも、心配せんでええで。その女、よう尽くしてくれるはずやで——」  その女が、慎平の横にひっそりと坐っているのだった。 「美和子です」  女は小声で言って、顔を下げた。  水色の薄手のセーターの下で、胸が豊かに盛りあがっている。タイトスカートからはち切れそうな、むっちりした腿がのぞいていた。  大柄で、なかなかの肉体美である。はじめは、慎平を正面から見られないらしく、顔を伏せていた。だがそれでも、女が美貌の持ち主であることは、充分に窺(うかが)い知れた。  色白で、弱々しいほどに品がある。金で男に身体を売る女性とは、とても信じられない。崩れた感じがどこにもないのだった。  昼間は心斎橋の高級婦人服店に勤めているという。いずれ、船場の社長で顔のきく浜崎が、取引先のオートクチュールの美人店員を手なずけ、なにかと自分の仕事に役立てているのかもしれなかった。 「ねえ、どないしやはるの?」  訳知り顔のママが顔を寄せ、そっと小声できく。「このまま、酔っ払ってばかりでは、浜崎はんに失礼やと思いますけど」  そう念を押されても、慎平には答えられない。アパートには、夕貴が待っている。もっとも夕貴は今夜も、部屋には帰っていないかもしれなかった。  慎平が東京から一緒につれてきた渡辺夕貴は、大阪にきた当初、旅行気分だったのに、慎平が湊町二丁目のむさくるしいアパートまで借りて生活するようになると、「あてがはずれた」と大いにむくれ、一時は、東京に帰ると言い張っていた。  が、慎平にはもう少し、偽装離婚のための、アリバイ作りに夕貴は必要だった。それで、なだめすかしているうち、夕貴は勝手に宗右衛門町のクラブに勤めはじめ、案外、大阪の水が肌にあっていたのか、このところ、部屋にさえ戻らない日が多くなっていた。 「カフス、落ちそうですわ」  美和子が白い手をのばし、慎平の袖口を直してくれた。慎平はその女性が必要以上になれなれしくもないし、かといって冷たくもないし、かといって催促がましく早く出ようともいわないところが、いたく気に入った。  慎平は、友人の好意に甘えることにした。  立ちあがった。 「大丈夫? 歩けます?」  美和子が心配そうにきく。 「ママ。もう一杯、お冷や。それから勘定」 「あら、勘定はええのよ。ここは浜崎はんのシマやから」 「そうか。じゃ、こっちも甘えておくことにして、お冷やを山盛り」 「山盛りじゃ、こぼれてしまうわあ」  コップに注がれた水を飲むと、気分が少しは楽になってきた。何より、横で一緒に立ちあがった美和子の存在が慎平の気持ちをひどくそそりはじめていた。 「じゃ、出ましょうか」 「はい」と美和子はコートの襟を合わせ、「私、意外と丈夫なんよ。肩につかまってもええわ」  そうなってしまった。  そうなることに何の構えも、てらいも、違和感も抱かせない鮮やかな、水のような女性だった。  近くの白い新装ラブホテルの部屋に落ち着くと、美和子は深酔いしている慎平のコートを脱がせ、上衣をとり、ネクタイまではずしてくれて、湯を張りに浴室に立ったのだった。  不思議な女だった。大阪の女性はふつうは、愛嬌にしろ善意にしろ親切にしろ、気取りがなく、人間味にあふれて威勢がよく、ときにはどぎつい印象を受けるものだが、美和子にはそれがないのだった。  控え目さは、地なのかもしれない。 「お湯。みたしてますけど」  やがて、顔をだす。 「ぼくは酔いすぎている。あなた、はいんなさい」 「じゃ、そうさせてもらいます。すぐあがりますから」  言葉通り、慎平が浴衣に着がえ終わって間もなく、美和子は、浴室から出てきた。  もうわるびれてはいない。タオルで前を隠そうともせず、慎平の前を静かに通り、はちきれそうに丸いヒップを見せつけるようにして、つぎの間の寝室に入ってゆくのだった。  そういえば、ハウスマヌカンときいている。高級婦人服店のモデルを兼ねた女店員。人前で身体の曲線を誇示(こじ)するのには、慣れているのだろう。  慎平は寝室に入った。美和子は有線のマッチングを絞っていた。慎平が傍に立つと、悪びれた様子もなく、慎平のほうに向き直り、唇をさしだす。  均整のとれた白い裸身に目を見はるうち、女の身体の量感とぬくもりが慎平の前面に密着していた。そよぎかかるように抱きつき、キスを求める。 「気分、少しは癒(なお)りました?」 「ああ、おかげで」  慎平はくちづけをしながら、美和子の湿った肌の感触と、花のような石鹸の香りを楽しんでいた。 「ぼくはあの店で、カウンターに突っ伏して酔いつぶれていたようだ。あんなに飲んだのは、久しぶりです。気がつくとあなたが傍にいた。いつからあの店にきてたんです?」 「まあ、何も憶えてはらへんの。大層なご機嫌やったわ」 「不機嫌だったはずだけど」 「あ、そうそう。えろう、荒れてはったなあ」 「何か、喋ってましたか」 「あの野郎、あの野郎……とだけ」 「だらしないと思ったでしょう」 「そんなことあらしまへん。私らかて、時にはあんなふうに酔うてみたいと思う時、あります。——でもよかった。気分、直って」  慎平は美和子を抱いて、ベッドインした。あらためて胸をまさぐり、太腿から草むらへ、手を移した。賞味しがいのある肉体だった。充実した乳房、締まった腰の形や白い背中やヒップのなまめかしく弾むような眺めは、そこいらの女にはない上品さだった。  慎平は乳房を口にふくんだ。含み、乳頭を舌先で転がす。 「ああッ……」  美和子はのけぞった。  慎平はすぐには挑(いど)まなかった。  美和子とこのまますぐに熱い時間になだれこむのが惜しい気がしたのだ。  逃亡者。そして潜伏者にはもったいないくらいの女性である。大事な宝石でもいつくしむように、美和子の肉体を賞味する。しっかりと実りのある乳房を、彼女はしていた。  身体をくねらすたび、張りのある双丘から胸の谷間、くびれた腰にかけての肌がなまなましくうねり、秘毛の陰影が灯かりに、見え隠れする。  慎平はそそられ、乳首を口に含んだまま、尻の丸みから秘毛のほうへ指をすすめた。茂みの下から温かく濡れた果肉が指先にふれた瞬間、ううッと、美和子はのけぞった。 「優しいのね」  喘(あえ)ぎながら、美和子は言った。「でも……もうほしいわァ」  慎平は、欲望にかられた。左手を美和子の腰にまわしてから、押しかぶさって、みなぎったものを美和子の股間に焦(じ)らすようにあてがい、乳首を吸いにいった。ほどよい大きさで乳頭は明るい清潔な色だった。  さほど男を遍歴したあとがない。乳頭を舌でころがすと、美和子はため息をついて反(そ)りかえった。  そのたび、慎平のみなぎったものが美和子の内股にふれ、茂みのあたりをゆききしている。美和子はそこに手をのばし、ね、ねと触れて誘う。  慎平は起きあがった。ベッドの上に中腰に立ち、横たわった美和子の顔の前に男性を突きつけた。美和子は手でそれをさえぎり、 「わあ、目がくらくらしそう」  と、まぶしそうに言った。 「慎平さんって、思ったよりエッチやわあ!」  手をのばし、みなぎったものにふれる。かしずき、上手に指戯を見舞う。  指だけではない。やがて美和子は髪を揺らして、口唇愛をふるまう。かしずいている美和子の肉体の白くて量感のある肉体そのものの存在が、慎平の気持ちをいたくそそり、いっそう欲望をふくらましてきた。  慎平は異常に燃えていた。  追いつめられて潜伏しているという気持ちが、強く作用しているのかもしれない。短い間でもいいから、現在の自分の立場を忘れたいのだった。  それは気の弱さというものではない。  もっと自分を危険に追い込んでも、へこたれはしないぞという、自虐的な快感も混ざっているのだった。  美和子は、われを忘れていた。夢中になって、奉仕してくれている。美和子の口唇愛は上手だった。  マヌカンにかしずかれ、みなぎったものを舐(な)められているうち、慎平の身内には耐えられないほどの快楽の波が盛りあがってきた。  慎平はいつになく、うおっと吼(ほ)えて美和子をベッドに押し伏せた。手をのばして、美和子の太腿の間へさわってみると、そこはさっき以上に温かい果汁をあふれさせていた。  美和子も高まっていた。慎平が位置をきめて、みなぎったものを押しあてた時、ああっと叫び、彼女は身をよじるようにして、熱い部分を押しつけてきた。 「あっ、すっごい」  美和子は、われを忘れたような声をあげ、指をそえて導いてくれる。  入った。美和子ははじけた。すばらしい反応だった。  美和子は最初から、陶酔感をもろにみせて、狂いまわる、という感じだった。外見もよくて、中味もいい、という女性は珍しい。美和子はそういうタイプかもしれなかった。  が、慎平は欲ばりである。美和子が昼間、マヌカンとしてブティックで働いていることを思いだした時、尻を抱いてみたくなった。モデルのポイントはたいてい、尻の形や量感をどううねらせるかにあるのだった。  ひとしきり、正常位で美和子の表情を楽しんだあと、慎平は放出するのが惜しい気がして、美和子にある姿勢を命じた。  美和子はすぐに察した。いわれた通りにベッドから降り、両足を床につけて、上体をベッドに伏せ、尻をさしだす格好をとるのだった。 「もう少し、脚をひろげて」 「わあ! こんなん、何かの、種付けみたいやわあ」  その夜、美和子が使った言葉のうちで唯一、下品な言葉といえば、それだけであった。尻をさしだした姿勢もまた悩ましかった。  白くて丸いヒップの感触を両手で確かめながら、慎平は美和子のなかに入ってゆく。動きだすと、美和子の果肉が慎平をきつく締めつけてきた。が、きつすぎはしない。慎平は、尻をしっかりと抱いた。  打ちつけるたび、美和子は登りはじめ、呻くような、泣くような声を洩らしつづけた。嗚咽(おえつ)がやがて高くなる。  ああッという破裂音に変わった。美和子は頂きにさしかかると、尻をいっそうこねるようにうごめかせるので、慎平のものはいろいろな角度で果肉をえぐることになり、耐えられない。  ううっと慎平は呻き、烈(はげ)しい放出へむかうと、美和子も一緒に昇りつめ、ああッと髪を振ってベッドに倒れた。 4 「お疲れさん」 「じゃ、頼んます」  大阪での生活がつづいた。  夜警やビル管理人の仕事をしながらも、慎平は気懸りだった。東京での京子殺人事件。捜査はいったい、どうなっているのか。くる日もくる日も、刑事が今に訪問するのではないかと慎平は内心、怯(おび)えているのだが、どういうわけか、音沙汰がない。  あるいは、捜査はもう別の方向に展開しているのかもしれない。もともと慎平は犯人ではないのだから、刑事がこないのが当たり前といえば、当たり前であった。  といって、身辺が平穏なのかというと、そうではない。おかしなことがつづく。慎平はこのところ、いつも誰かに、見つめられているような気がするのだった。  ビルの夜警をしている時、道頓堀で食事をしている時、朝夕の出退勤時、ふっと、どこからともなく自分を見つめている視線を感じたり、尾行者がいるような気がしてならないのである。 「はて、気のせいだろうか」  慎平がいま住んでいる湊町二丁目から、勤務先の千日前までは、歩いてほんの十四、五分の距離である。  繁華街や大通りはさほどではないが、昼番を終えての帰り道、四ツ橋筋を渡って元町公園をすぎると、あたりは急に淋しくなる。二丁目のアパートにたどりつくには、その手前にある関西本線の湊町駅近くの長くて高い陸橋をこえなくてはならない。  そのあたりにくると、夜間はもう無人だ。通りにも、引込線の保線区にも、人影はない。長い陸橋を渡りながら、ふと後ろをふりむくと、黒いトレンチコートを着た男がひっそりと尾(つ)けているような影を認めて、慎平はつい急ぎ足になってしまうのだった。  ある晩のことだ。奇妙なことが起きた。その日は夜勤だった。午前一時をすぎて堀川ビル内の見回りをしている時、地下一階にあるボイラー室の蛍光灯が消えていた。  慎平は、その地下室にはいった。スイッチを押したが、電気がつかない。  計器を確認するため、懐中電灯をボイラーにあてた時、背後の闇に人の気配を感じて、ふり返った。しかし一瞬後、後頭部に激しい衝撃を受け、床に倒れこんだ。死ぬのではないかという恐怖を覚えながら、慎平は気を失った。  意識を回復した時、自分がどのくらいの時間、昏倒(こんとう)していたのか見当もつかなかった。 「どないしたんや。織原はん!」  同僚の平野猛が抱えおこしていた。 「出勤すると、宿直室はもぬけの殻や。電気はついたまんまやし、暖房は入ってへん。どないしたんやろ思うてのぞいたら、このざまや。いったい——」  慎平は頭を振った。頭を殴られたようだが、さいわい、脳震盪(のうしんとう)だけだったようだ。 「すみません。深夜の巡回でボイラー室に入った時、いきなり鼠(ねずみ)が飛びだしたものですから、びっくりして」  壁に頭を打って倒れたらしいと、下手な言い訳をするしかなかった。  自分は狙われている——。  そういうことを、軽々しく第三者に言えるわけがなかった。  だが慎平は、ひそかに、確実に自分のまわりで何かが動きだしていることに気づきはじめていた。 第九章 紅葉連山 1  亜希子には、神戸滞在がつづいていた。  もう二週間目にはいる。初日こそ同窓会ショックで亜希子は激しく落ち込んだが、その夜の白枝との出会いと愛情交歓で、持ち返し、翌日からはほぼ快適な異邦人になることができた。 「あらあ! しばらく……」  そういう挨拶がつづく。この街には友人が多い。親戚も多かった。電話がかかってきたり、かけたりして、元町一番街でショッピングを楽しんだり、会社勤めをしている友人とビジネス街近くのフラワーロードでお茶を飲んだりした。また、これから結婚するという友人と、中山手通りで落ちあって、贈物を物色しながら、ぶらぶらと、トア・ロードを歩いたりしているうち、神戸の街がすっかり自分の街のように思えてきたりした。 「へええ! 六甲山ホテルにステイしてるの? 豪勢やわあ」  友人は目を丸くした。「お金、もったいないと思わへんの? 遠慮せんとええのよ。うちにきて泊まれば?」  亜希子をむかし風に、「離縁された女」とみればたしかに同情もひく。ありがたいとも思う。親戚からも、うちに泊まんなさいよ、といわれる。  だが、他人の家に厄介(やつかい)になるのは窮屈(きゆうくつ)である。  気分転換のための旅行なのだからと、亜希子は贅沢(ぜいたく)だと思いながらも、高い所から見おろす朝晩の眺望や、空気のすがすがしさは、何ものにも代えがたいと、六甲がすっかり好きになり、大阪で暮らしているらしい慎平のことを心配しながら六甲山ホテルに泊まりつづけていた。  その間に一度、亜希子は神戸港からフェリーに乗って、郷里である四国の香川県詫間(たくま)町を訪れもした。  しかし、久しぶりにみる郷里の野面(のづら)は、鈍色(にびいろ)の秋の薄日の下に寒々としていて、実家にたちよっても、すでに兄嫁夫婦が切りまわしている家庭には、亜希子の気持ちをくつろがせるところはどこにもなかった。  父はもう亡くなっているが、母親はまだ健在だった。でも、亜希子が離婚したことをきくと、おろおろと心配するばかりで、離婚した女を暖かく迎える空気は、どこにもありはしないのだった。古い言葉だが、女三界に家なし、という言葉の意味するものを、改めて確認しに行ったようなものである。  亜希子が、神戸に戻って、それでも辛(かろ)うじて気持ちをたて直すことができたのは、自分には成城に三十億円にも値上がりした資産がある、という事実をしっかりと考え直したからである。  そういうことは、神戸の友人たちにも、郷里の実家や友人たちにも、おくびにもだしはしなかった。もし一言でも洩らすと、きっと周囲はびっくりし、そして手の平をかえしたような応待になるはずであった。  それが、世間というものである。  そんな日が、つづいていた。  もうそろそろ、東京に戻ろうかと思いはじめたその週の月曜日の朝、亜希子は、九時に食堂に行った。  朝食は七時から九時半までだった。食堂は和食と洋食に分けられていたが、朝は和食を好んだ。白布をかけたテーブルが八つほど据えてあった。  先客が一人だけ、いた。四十歳前後の男だった。うしろ向きなので顔はわからなかったが、渋い背広姿である。  亜希子が隣のテーブルに坐った時、男の上体がテーブルの上を泳いで、何かを探しているようだった。それが、マッチと灰皿だということが、亜希子にはすぐにわかった。  皮肉なことに、男のテーブルにはないマッチと灰皿が、亜希子の目の前にあった。  亜希子はそれをさしだした。 「よろしかったら、どうぞ」 「あ、これはどうも——」  男はいささか慌(あわ)てたように、恐縮しながらマッチと灰皿を受けとった。  その瞬間、あーら! と亜希子は声をあげた。 「いつぞやの——」  浦島太郎さん、と言いかけて、あわてて名前を思いだそうとした。新幹線の中で、亜希子の郷里である四国・詫間町の浦島伝説について話していた男ではないか。 「やあ、これは」  男がびっくりして会釈(えしやく)をした時、名前を思いだした。  西脇潤三という大学講師であった。 「いやあ、驚きましたな」  西脇潤三が話しかけてきた。 「あれから、ずっと神戸ですか?」 「ええ。しばらく、こちらで——」  答えたが、亜希子のほうこそ、戸惑いが去らない。この人はたしか新幹線では大阪に仕事があるといって、新大阪駅で降りたはずである。もっとも、この男も仕事で東京と関西を始終、ゆききしているのかもしれない。  注文をとりにきたウェイトレスに朝食を頼み、西脇に訊(き)いた。 「大阪ではなかったんですか?」 「へえ。大阪での仕事は、もう終わりましてん。そいで、きのうから神戸にきとりますねん。売れっ子は忙しゅうてかないまへんわ。——あ、こらあかん。こちらで仕事をしてますと、つい、へたな関西弁になってもうて」  西脇潤三は、豪快に笑うのだった。  変幻自在な生き方をしている男のようである。いつぞやはレジメンタルのネクタイをしていたが、今日は縞(しま)の入ったシャツの襟元から、赤いアスコットタイが覗(のぞ)いていた。いかにも大学の教授か講師という感じである。  西脇はそのかたわら、新宿にオフィスをもって、自分の専門とする「経済流態学」や「世相経済学」のうち、おもにファーストフードの爆発的人気や、グルメブームなどを背景とする食品業界を分析し、色々なチェーン店や会社の顧問や経営分析を請け負って、活躍しているということだった。  いわば、雑学。世相の流れを掴み、金儲けになる商売を教える学問。一流になるより三流に徹したほうが人生の達人である、などと先日、車中で人生哲学を得々と、披露していたことを思いだす。  厭味(いやみ)ではなかった。案外、たくましく、ふてぶてしく世の中を渡っている男なのかもしれない。その西脇が、食事を終えて立ち去りかねたらしく、 「それにしても、お美しい方ですなあ。車中で、惚(ほ)れ惚(ぼ)れと見ておりました。同窓会、ときいておりましたが、あれは、まだなんですか?」 「いえ、もう済んだのですが——」 「ほう。それで……まだ神戸に?」 「ええ。いろいろありまして」 「なるほど」——西脇はあたかも人生の機微をすべて心得た達人であるかのように、優しい眼になった。 「道理で。芙蓉(ふよう)に露(つゆ)おく憂い顔。車中で一眼見たときから、これは何か事情がある人だと、痺(しび)れてしまいました。私、こういうタイプの人妻、大好きですねん」  聞きようによっては、ドキッとするようなことを、しゃあしゃあと言う。「いかがです? もしお暇がありましたら、あとでドライブでもしませんか? 六甲縦走もオツなもんでっせえ」  厚かましい申し入れである。本当なら、断ったほうが無難かもしれないと亜希子は思ったが、亜希子にも今日はこれといった予定もなかった。  そろそろ、東京に戻ろうかと思っていたので、朝食を終えたあと、部屋に大阪の電話帳を取り寄せ、幾人かの知りあいに電話を入れて、慎平の居所を探してみようかと考えていたところである。それがわかれば、帰途、大阪に立ち寄ってゆくこともできる——。  ——でも、六甲のドライブ。大学講師なら警戒すべき相手でもない。神戸を去る最後に、甘えてみようかしらという気持ちが、ふっと揺れた。  そうなると、流れはもうそちらに傾く。  三十分後、車はすべりだした。  西脇潤三が運転していた。  亜希子は、助手席に坐っていた。  六甲の山々はちょうど、紅葉がまっ盛りだった。松や杉などの針葉樹は蒼黒いが、その間に点々と混じる雑木林は標高九百メートルの夜と昼の温度差にしめつけられて、枝々の葉がまっ赤に燃えあがっているのだった。 「わあ、きれい」 「そうでしょ。六甲は夏も五月の新緑もいいですが、私は今頃が一番、大好きですね。どうです、燃えざかりでしょ。ちょうど、あなたみたいです」  国立公園六甲山は、明治時代に英国人アーサー・グルーム氏によって拓(ひら)かれた山として知られている。縦走ドライブウェーに沿って、六甲山牧場、植物園、ゴルフ場、摩耶山、再度山(ふたたびさん)などがあり、変化に富んでいて見あきない。  街から見ていた学生時代、六甲山は神戸のすぐうしろに、一枚の屏風(びようぶ)をたてたような高い山だと思っていたが、こうして尾根を走ってみると、山々は幾重にも折り重なって広々としており、沢あり谷あり牧場ありで、予想外に広大な感じであることに、亜希子はびっくりしていた。  それにしても西脇。燃えざかり、などと調子のよいことを言って、ドライブなどに誘っているが、仕事のほうは大丈夫なのだろうか。働きざかりの男の週日というものは、ふつう忙しいはずなのに。 「神戸へは?」 「ええ、よく来るんですよ。幾つかの食品会社の経営診断を預かってましてね。六甲に泊まっているのは、この山からミネラルウオーターを取って東京や大阪に出荷しているある飲料会社の再建工作を頼まれてるんです。六甲ミネラルという小さな地元会社があるんですがね。それを、東京のある大手が吸収合併しようとしているので、それを、なんとか撥(は)ねのけようと……」 「ミネラルウオーター?」  亜希子は驚いた。その手のものは、スイスかカナダから運ばれてくるものとばかり亜希子は思っていたのだ。最近は富士でも取っているときくが、この六甲山でも取れるのだろうか。 「えーえ、もちろん。富士山よりもこっちのほうが先輩ですよ。灘の生(き)一本という酒が、どうして日本一うまいといわれるか、知っていますか?」 「お米。それに杜氏(とうじ)の腕かしら」 「それもある。でも、まず水。六甲山は花崗岩(かこうがん)質なので、そこから湧きだす水がおいしい。それに、米は丹波の山田錦。酒専用米です。これに、丹波や北陸からの杜氏の腕前が加わると、天下一の味というわけですかな」 「それに、六甲おろしも?」 「あ、そうそう、阪神の歌ですな。その冷たい冬の六甲おろしが、仕込み中の酒をぐーんとうまくする」  なるほど、要するに、それほど六甲の水は美味(お い)しいという話なのだろうが、こうしてドライブしながら山容を見てまわるのも、仕事の一つというのだから、西脇という男、なかなか得体の知れない男だった。  不意に視界が翳(かげ)った。  急なカーブにさしかかり、生い茂った樹木が車の上にすべりこんできた。急カーブの路肩に、ガードレールに激突して大破したまま、放置されている乗用車がみえた。 「まあ、危ない!」  亜希子は息をのんだ。 「いつもやってますよ。ありゃあ、即死ですね。ここは初めての素人ドライバーでは危険すぎるので、旅行者は原則として運転してはならないと、警告されています」  西脇はそう言いながら、自分では平然とハンドルを捌(さば)いている。  次々に急カーブがつづく。日光のいろは坂どころではない。小さな、屈曲の多いヘアピンカーブの連続であった。 「あててみましょうか?」  西脇がその一つのカーブを切った瞬間、何気なく言った。 「え?」 「あなたの今のお立場」 「わかるんですか?」 「ほぼ、間違いないと思いますね」 「どういうふうに?」 「未亡人。それも、ほやほやの——」 「まッ」亜希子は怒った。 「カレは元気ですわよ」 「なるほど、カレですか。ご主人とは呼ばないんですね。すると、別居中か離婚騒動の渦中。あるいは離婚したばかり。正解は、そのへんかな。カレは元気でも、あなたは傷心旅行をしている——」  亜希子は感心してしまった。  よくもまあ、ズバズバと当たる。足許をすくわれたような気がした。でも亜希子は、クスンと笑った。 「違いましたか?」 「いいえ。その通りよ」  亜希子が苦笑したのは、未亡人ときいて、OL時代のある大胆な女友達のことを思いだしたからだ。  山根百合子というその友人は、一人で東北の温泉旅行をしている時、OLのくせに「私未亡人でございます」といって通したところ、各地で中年男性に次々に口説かれて、まるまる一週間、男に不自由しなかったばかりか、旅館代までゼーンブ浮かすことができたという。  男というものは、なぜか未亡人ときくと、触れなば落ちんと感じて、どうしても誘いたくなるらしい。その友人はその心理をうまく掴んで、OLの給料ではとてもできない豪勢な大名旅行を満喫してきたというのだった。 「まあッ、呆(あき)れたひと!」  その時、亜希子はそう言って、本当に呆れてしまったが、今、自分自身が他人からみると、その友人と同じような立場に立っていることに気づいた。  未亡人と離婚妻では、むろん意味は違う。が、どちらも結婚経験があり、そして今は夫がいない、という意味では同じである。卑俗にいえば、空家。この西脇が自分をどうみているかは、亜希子にもよくわかるのだった。  亜希子は、謎のような微笑を浮かべつづけた。この男は、私を誘おうとしている——。  西脇潤三は、着実に運転した。  亜希子をのせたスプリンターは、六甲の山並みを西へむかって走りつづけた。縦走ドライブウェーであり、谷底を通らないので、山頂地帯を行く道路は、常に陽が明るかった。  その明るさが、亜希子を救った。  しだいに、気持ちが晴れてくる。白枝が告げていた尾行者のことや、慎平の行方が気にならないといえば、嘘になる。が、刑事らしい影はその後、見えなかったし、慎平は慎平で、大阪あたりで元気に暮らしているのなら、あまり心配することもないのかもしれない。  神戸にいると亜希子はかえって、慎平の存在をすぐ身近に感じることができるのだった。 「あなたのような美しい人にめぐりあえて、ぼくはうれしい。男にとって美しい女性とめぐりあうということは、ただそれだけでも、仕事にも励みになるんです」  西脇は亜希子が赤面するようなことを、しゃあしゃあと言った。 「まあ、お上手だこと」 「いや、ほんとうですよ」 「本気にしませんわ」 「あなたには気品と色っぽさが溶けあったきわどい魅力があります。成熟した本物の女性の魅力とでもいうのでしょうか。男だったら、誰だってドキリとさせられます」 「まあ、大変……」  亜希子は笑った。だが、悪い気持ちではなかった。女は、お世辞でもいいから、ほめられると無条件に、嬉しくなるものらしい。  それに、西脇の言葉にはまんざら、お世辞だけではないようなところもあった。亜希子は、ふと人妻であったことを忘れて、すべての男から愛されるだけの資格を持つ正真正銘、ひとりの女になったような気持ちになった。  途中、摩耶山にも立ち寄った。  釈迦の生母摩耶夫人を祀(まつ)った壮大な伽藍(がらん)がある。寺院はまだ移築造営中で石段が長い。安産の神様らしいが、今の亜希子には縁がない。少し、淋しくなったので、亜希子は石段の途中で引き返すことにした。  それから西脇は、有馬街道の手前を左折して再度山のほうに回り、外人墓地に案内した。神戸の外人墓地は幕末に兵庫区にあったものを中心に、新しく市内の外人墓地をすべて集めたもので、公園のように広く、園内の展望台に立つと美しい墓地公園が一望できる。  墓地は、カトリック、プロテスタント、回教、ユダヤ教など、宗派別に整然と区画されていた。展望台に立ち、その一つ一つを指さし、説明していた西脇のコロンがふっと匂ったと思ったら、強い力で抱きよせられそうになっていた。  何という厚かましさ! 亜希子はあわてて、西脇の胸を押し、唇を遮(さえぎ)った。 「いけません。不謹慎です。ここは厳粛な墓地じゃありませんか」 「あ、そうか」西脇はさして、悪びれもしない。 「なるほど、厳粛な墓地でしたな。じゃあ、ぼちぼち参りましょうか」  およそ陳腐(ちんぷ)な駄洒落(だじやれ)だが、亜希子は噴きだしそうになった。この男を憎めないと思った。厳粛であるべき外人墓地で眠る御霊(みたま)に対しては悪い。でも正直、亜希子は西脇のそういう天衣無縫(てんいむほう)さがおかしく、なんとなく心を許してしまっていたのかもしれない。 2  それからほどなく、西脇が中山手通りの一つ裏通りにあるシティホテルの地下駐車場に、すいすいと車を乗り入れた時、あッ、と亜希子は驚いてしまった。  街裏なので、ラブホテルかもしれない。それにしてもこのひと、六甲山ホテルに泊まっているのに、どうしてこんなところに誘いこむのか——。  不意に、笑いかける。「ぼくはねえ、六甲山ホテルのような気取ったところは、正直いって性にあわないんです。女性を口説くのは、街の匂いがむんむんするようなところがいい。許して下さい。さ、降りましょ」  ぬけぬけと言って車を降りる。  亜希子は、度を失ってしまった。  強引である。本当なら、失礼ね、と言って、ビンタの一つでもくらわせるべきである。ぷいと無言で車を出て、ドアを叩きつけ、表通りに逃げだすべきである。  それはわかっている。頭では、わかっているのだ。それなのに、磁石に吸いつけられたように、動けない。  助手席のドアがあけられ、手をひかれていた。よろよろと、亜希子は降りたが、足がもつれそうになっていた。  こういうところが、人妻は実に危ないのだ。いや、亜希子はもう人妻ではない。離婚妻である。男の眼から見ると、いっそうきわどい。本人自身、きっぱりとはねつけるべき軸と、寄る辺をもたないのである。  西脇はいつのまにか、亜希子の腰を抱いていた。亜希子はしなだれかかるといった具合に歩いている。そうしなければ、足がもつれそうなのだった。  フロントでキイをもらった。西脇はエレベーターのボタンを押した。  ドアが開いた。乗った。  亜希子の心臓の鼓動が、痛いほど激しくなっていた。胸が苦しくなるので何度も溜息をついた。  このままでは、この男を受け入れてしまうことになる。そう思うと、自分はもう歯止めがきかなくなってしまうのではないかという、惧(おそ)れがきた。 「許して下さい。ぼくの流儀、あなたを傷つけているのかもしれない」  エレベーターが閉まった時、西脇の唇が、耳に触れた。  亜希子の身体を慄(ふる)えが疾(はし)った。  いまなら、まだ間にあう。  いや、ここまで来たからには……。  おばかさん。そんなこと言ってると今に、大怪我をするわよ、亜希子。  ——廊下を歩きながら、亜希子はもうひとりの自分と、支離滅裂なやりとりを交わしていた。だが、その時はもう部屋に入っていて、男がドアを閉めていた。  これでもう完全な密室であった。旅先で知りあった男と、亜希子はそういうあり方をする自分が、信じられなかった。なぜか、六甲で赤々と燃えていた紅葉を思いだした。 「奥さん……」  男の囁く声を、亜希子は聞いた。長身の男の胸へ抱きよせられ、いやいやとかぶりをふった時、唇を強く押しつけられていた。  揺れるように腰を抱かれ、男の舌が、巧みに侵入してきたとき、亜希子はくるしそうに目を閉じて眉根を寄せた。身体から力が抜けて、彼女はぐったりとなってゆく。  亜希子は、これまで自分のことを、慎ましい女だと思っていた。初めて出会った男と、見境いもなく寝るようなタイプではないと信じていた。  それがなぜか、変わりつつある。一人の男とのハードルを越えることが、さほど困難をともなうことではないという現実を、生々しくわきまえる女になりつつある。  恐ろしい変貌である。恐ろしい女になりかけている。そういう惧(おそ)れがある半面、なに、どうってことはない。私も今ふうに、一人前にプレイができるようになっただけのことではないか、と思ったりもする。 (そうだ、亜希子。そう深刻に考えることもないんだわ。プレイと思えばいいのよ、プレイと……)  奇妙に明るい解放感がやってきた。  事実、独身になり、金も時間もある今の身分なら、自分を束縛するものはもうなにもないはずである。  気をつけることといったら、相手を選ぶことだ。危険のない、そして自分好みの、渋くて重厚な紳士なら、なにもカリカリと、甲羅を逆だてることもないではないか。これから、ますますそういう人生を築いてゆけばいいんだ……。 「あ、だめ……」  亜希子は唇を離すと、西脇の胸に頭を押しつけた。  西脇の手が亜希子の胸のふくらみから腰へ、さらに太腿へと移ってスカートの奥を、めざしたからである。 「シャワーを浴びて。ね……」  亜希子は、西脇の手をふりほどき、バスルームに入った。よろめくような足どりだったので、壁に手をついて歩いたくらいだった。シャワーを浴びている間も、揺曳(ようえい)感は去らなかった。  湯を熱くした。少し頭を、シャッキリさせようと思った。が、熱い湯を浴びていると、ますますのぼせてきて、身体が熱くなるばかりで、考えることは何ひとつ、まとまらなかった。  その時、 「はいっていいですか」  西脇の裸身がガラス戸に揺れた。 「いけません。待って!」  亜希子は、かろうじてそう叫んだ。 「どうしてです? あなたの見事なプロポーションを見たい。恥ずかしいことはない」  亜希子は、それでも拒んだ。 「待って。それだけは許して。今すぐ、あがります」  旅先で知りあった初めての男と、ホテルに入る。それだけでも亜希子にとっては大変な冒険である。眼をつぶって、崖から飛びおりるくらいの、勇気が必要だった。裏返せば、亜希子はすでに、踏み絵を踏んだのである。  それを、男と一緒に風呂にはいってじゃれあったりすれば、遊戯に堕(お)ちてしまう。情事をそういうふうにはしたくはない、という気持ちがまだ亜希子の中に残っていた。要するに、亜希子はまだ慎しみ深い女なのである。  西脇は諦(あきら)めたように、ガウンを羽織っている。亜希子は急いでバスタブのなかに裸身を沈めた。  考えなければならないことがいっぱいあるのに、頭はからっぽだった。  走馬灯のようによぎる。倒産の悲劇から資産を守るための、離婚を仕かけた慎平に対する愛情。いや、憎しみも加わっているので、深くよじれあった愛憎といっていい。それに加え、神戸にきてからは、自分に求婚めいた態度さえみせた白枝庸介に対する感情もそこに複雑な影を落とすのだった。  白枝に対する気持ちも揺れている。一度は愛、とよべる感情を抱いたのに、彼が自分を監視するために神戸に来たのだと気づいた時は、憎しみに変わった。でも今は、違う。考えてみれば、白枝の立場としては、亜希子が殺人事件の容疑者となっているかもしれない慎平と、同行しているのではないかと心配し、それを探りにくるのは、当然かもしれなかった。  彼はあのあと、もしかしたら大阪に寄って慎平と会ったのかもしれない。そういう具合に、彼は二人のことを心配してくれているのだ。そう思うと、彼とのあの目くるめく情事の記憶が、生々しく疼(うず)くのだった。  白い異人館で、彼が求婚めいた言葉をかけたことも、嘘ではなかったような気がする。白枝が東京へ帰ってしまうと、亜希子は急に、彼を恋しいと思うようになっていたものだ。  でも、だからこそ、危ないと自分に言いきかせてもいる。あの夜、白枝には燃えすぎた、という後悔がある。あの男に傾斜しすぎると危ない、という本能的な警戒心がなんとはなしに亜希子の中に芽生えはじめていた。  なんといっても、慎平の親友ではないか。離婚問題にも親身に相談にのってくれた。裏を返せば、秘密を白枝にすべて握られてしまっているのである。  そんな男に、結婚の幻想を抱くなんて危ない。白枝に傾いた振り子を、反対方向に振り戻すためには、今、この見知らぬ旅先の西脇と親しくなるのも、なにかの役に立つような気がするのだった。  亜希子は、乳房から脇の下にタオルを使う。肌が、脂をはじいた。朱に染まっている。洗いたてる指が下腹部に降り、何気なく茂みの下に触れた。  秘唇から、熱いものが湧いていた。  身体は、もうひらいていたのだ。  あたしを裏切って……。 (いいわ。ゆくしかない)  亜希子は、勢いよく浴室から出た。  亜希子が先に浴衣に裸身を包み、ベッドに入っていると、待つほどもなく西脇が浴室からあがって、掛布の中にすべりこんでくる。 「ばかだなあ。慄(ふる)えてますね」  西脇は、余裕のある態度だった。 「だってえ……」  それ以外、どういえばいいのか。西脇の唇が亜希子の首筋を這い、耳朶に触れ、熱い息を吹きかけられると、亜希子の身内に腰が抜けそうな、鋭い快感がこみあげてきた。  掛布がはだけられた。西脇の手が、浴衣の帯を解いた。亜希子は一瞬、息をつめた。浴衣の前を左右に開かれると、白い肌が露わになった。  西脇は浴衣の前をはだけ、袖は抜かないまま、亜希子の白い身体を慈(いつく)しむように扱う。乳房に唇をあて、吸い、下腹部へ、茂みへと、舌先を移してゆく。  亜希子は、眼を閉じていた。半ば、うっとりしている。全身の力をぬき、ぐったりしている。それなのに、息ができない。呼吸を乱していた。  西脇の動きが、決してハードでないだけに、なおさら抑制しようとする気持ちの下から、漣(さざなみ)が湧きたち、甘美な官能の波が湧きたってくるのだった。 「思った通りだ。すてきですよ、あなたの身体。肌も若々しいし、腰のくびれが何ともいえない。こういう体、男性を狂わせますね」  亜希子にはきこえない。睫毛(まつげ)が慄える。京人形を、それも熱い血脈をもつ京人形を裸にして楽しむような西脇の舌と指が全身を這うにつれ、そこから湧いてくる焔(ほのお)のような官能のゆらめきに、こんなに安心して身をまかせている時間はなかったような気がする。  女の身体は、微妙である。  男と繋(つな)がれさえすれば、歓喜を極(きわ)めるように表現されることが多いが、必ずしも、そうではない。とくに初めて接する男たちによって、陶酔の頂点を完全に極める女というのは、特別の体質を除いては、ごく稀(まれ)である。  最初は、羞恥心、緊張感、それに妊娠の不安やエイズや、その性交渉がその後の自分の人生に与える影響といった、もろもろの不安が女にブレーキをかけるのだ。緊張感が強すぎると、かえって心が燃えたっていても、精神的な部分で満足する場合が多く、身体そのものの陶酔とは別のものとなってしまう場合もある。  亜希子が特に、そうかもしれない。奔放な自分にはなりきれないし、解放感も完璧ではないことが多い。よほど酒の力を借りればよいのだが、そうでない場合は、精神的な恍惚感で満足する。それを、性的満足と解釈していたのが、初期の亜希子だった。  ところが、この場合は最初から、様相が違っていた。まだ前戯の段階で、亜希子はしだいにわれを忘れはじめ、悶えながら叫び声をあげたのだった。 「あッ」  太腿が大きく押し分けられた。西脇が、秘唇をくちづけにきた。  敏感な部分への接吻によって、亜希子は性感の頂点に達したのだ。初めての男に、そこまで許してしまったということ自体に、すでに奔放な情況が訪れていたのかもしれない。  亜希子の身体に、火がつくのは早かった。西脇はなかなか技巧的で、丹念な愛撫をつづけた。  すでに、亜希子のツボも心得たふうだし、亜希子の側にも、われを忘れて燃えてみたいという積極的な意志が働いていたのかもしれなかった。  その意志が、奔放にさせたのだ。  甘美な呻き声がつづいた。亜希子は身をよじり、のたうち回るといった按配(あんばい)になっていた。  西脇がいつ、フォールにもちこむ姿勢にはいったのかさえ、亜希子にはわからなかった。気がつくと、片脚を肩の上にかつがれ、身体を斜めに大きくひらかれた格好で、それがはじまっていた。  最後の頂上攻撃である。挿入は、奇妙であった。斜めに、秘唇のヘンなところをくすぐり、えぐりながら、たくましいものが押し入ってくる。  ああッと、亜希子はのけぞった。  顔が横に、ガクンとなる。眉根にタテ皺が刻まれ、苦しげな表情となる。  耐えられない。いいと思う。奇妙な甘美感だった。水蜜桃をくちいっぱいに頬張らされたときのような蕩(とろ)けるような感じなのだった。  西脇が片膝で重心をとり、亜希子の右脚を大きくあげた姿勢で動きだすと、互いの粘膜がよじれあい、溶けあい、電気のようなしびれをひっきりなしに起こすのが、はっきりとわかる。 「ああん」  声がこぼれた。 「変よお。なんだか、変よお」 「感じる?」 「すごーく」 「あなたの身体がいいんだ。こうやっていると、捩(ねじ)れたプロポーションがますます官能的だ。実にいい。それに……そこ。ううッ……食虫花だ」  亜希子の裸身を、荒々しく抱き寄せた。耐えられなくなったように、正常位に戻す。繋(つな)いだままだ。ふーッと、肩に大きな呼吸がかかる。  亜希子は、男の肩に顔を寄せて、うっとりと眼を閉じた。 「こんなに美しくて、しかも男を歓喜させる女性の身体は、初めてだ。あすから、また仕事に精がでる」  どこまで本当なのか。  得体の知れない男だった。ぬけぬけという。でも、いい。この快楽だけは本物だ。 「うれしいわ……」  亜希子の身体の芯でゆらめきたっていた焔が、もう一度、パッと燃えあがりそうな予感がした。亜希子はもう我慢ができなかった。結ばれたまま、積極的に男の唇を求めていった。  男が、腰をうごめかせた。ますます猛(たけ)りたつ。このまま別れてしまうのは、心残りだ。本能の悦楽を極めなければ男と知りあったことが無意味になる。亜希子の心境は、もうそこまで踏み込んでいたのだった。  西脇が励みだした時、亜希子の脳裡に、紅葉連山がちらと映った。六甲の奇妙な快感ドライブは、ようやく頂上を迎えようとしていた。  このたまゆらの一瞬に関する限り、亜希子には、離婚の失意も、殺人事件のことも、成城に残している巨億の資産をめぐってうごめいているかもしれない醜い策謀のことも、何ひとつ念頭にはなかったのである。 第十章 夜の牙 1 「夕貴のやつ、遅いな」  船山慎平は腕時計をみた。  約束の時間を三十分もすぎていた。  そこは道頓堀の戎橋(えびすばし)の橋の上だった。  たまには外で飯でも食おうと誘うと、夕貴は美容院に寄ってくる、といって七時半の約束だったが、この分ではすっぽかすつもりなのかもしれない。  慎平の大阪潜伏はつづき、不審事から三日経っていた。ボイラー室で殴られた傷は、さしたることはなかった。医者に見せたが、後遺症はないということで安心した。その夜、慎平は非番で、戎橋(えびすばし)の上で久しぶりに夕貴と待ちあわせをしていたのである。  夕貴はこのところ、宗右衛門町のクラブ勤めがおもしろいらしい。その夜も店を休みたくはないと洩らしていた。そんな具合なら、来ないなら来ないでいい。  慎平は橋の手すりにもたれて、夜風に吹かれていた。心斎橋のアーケード街は、人混みでにぎやかだ。その人波は戎橋の上を流れて千日前のほうにゆく。時折、酔った若者たちが大声をあげて、後ろを通りすぎた。 (どうするか。この先——)  慎平は橋の手すりにもたれ、河面(かわも)に眼を投げた。河面に射す赤、青、オレンジのネオンの彩(いろど)りが、今の慎平の孤独感を際(きわ)だたせる。  じっと見つめていると、不意にそこに、亜希子の顔が浮かんできたのだった。  亜希子が、道頓堀の河面のゆらめくネオンの中で、笑っている。淋しそうに笑っている。やつれているようにも見えた。だが、その笑顔の上に、真紅のネオンの漣(さざなみ)が立つと、突然、亜希子の顔は男をくらいつづける魔女のようにケタケタと笑いだし、おい、と呼ぶと、すうっと道頓堀の灯の中に、消えてゆくのだった。  一別以来、亜希子とは会ってはいない。それも、気懸(きがか)りである。三十億円の資産を預けている。その亜希子はもう、ほかの男と寝ているのではあるまいか。  一度、成城の家に電話を入れたところ、留守番の直彦が出て、亜希子は神戸、四国方面へ旅行しているという話だった。神戸は亜希子が学生時代をすごした所だ。  同窓会にでも出たのかもしれない。いずれにしろ、どのような情況が亜希子に訪れるにしろ、その最後のところでは慎平は亜希子を信じている。信じたいと思っている。亜希子がたとえ、どのような男遍歴をしようとも、最後はこの自分の腕の中に帰ってきてくれると信じているので、多少の男出入りくらいは、亜希子ほどの美貌なら当然、考えられるし、それさえも慎平は女の勲章だとして、一番最後の局面では大きな懐(ふところ)の中で許すつもりだった。  いや現に、慎平の方とて、身辺が潔癖(けつぺき)だとはいえない。愛が、もし肉体を超(こ)えるものなら、慎平は、自分も亜希子も、さまざまな荒波や異性遍歴さえものりこえ、克服(こくふく)して、いずれは再び、相寄る魂となり、結ばれるのではないかと信じている。  慎平が亜希子を信じる、というのは、そういう意味を含めてのことだ。それが、本当の成熟した男と女の愛ではないかと思う。  そうでなければ、はじめから、巨億の資産を亜希子に託して、たった一人、人生の旅に出たりはしない。いずれにしろ、亜希子の身に、生命に拘(かか)わるようなことが何事もなければいいが、と念ずるのみであった。  手すりにもたれ、道頓堀の河面にゆらめくネオンをみつめながら、そんなことを考えていた慎平は、 「オジさん。橋の上から、身投げでもするおつもり?」  突然、後ろから肩を叩かれた。  ふりむくと、毛皮のハーフコートを着た、若い娘が立っていた。 「この間は、どうも——」  ペコリと頭をさげる。  その妖精のような顔をみていて、しばらくして、やっと思いだした。いつぞや、ビル荒らし容疑でつかまえた、矢島晴美ではないか。 「なんだ。きみか——」 「何してんの? こんなところで」  慎平はびっくりしている。 「身投げ志願かもしれんな」 「わかった。待ちあわせね。相手は奥さん?」 「それが、まだ来ないんだ。呆れたやつだ」 「じゃ、私とつきあいなさいよ」  矢島晴美は、気さくな娘である。 「ねえ、おごってよ。私、腹ペコ。グルメしたい」  中年男は、こういう妖精のような小娘に弱い。いま、神戸にいるかもしれない亜希子のことや、自分が大阪までつれてきた夕貴のことなどを考えていた慎平だが、すっぽかした女なんか捨てちゃいなさいよ、と妖精のような小娘にいわれると、慎平とてそれ以上、橋の上で夕貴を待つ気にもなれなくなるのだった。  晴美を伴って、道頓堀に流れこんだ。  この界隈(かいわい)も、慎平が知っている昔とは、すっかり変わっている。慎平はむかしから、船山貿易の先代社長であった父・浩之進につれられてよく大阪に来ていたから、二十年も昔の道頓堀界隈の光景をさえ、きのうのことのように鮮やかに思いだすことができる。  浩之進の話によると、芝居と食い倒れの街・道頓堀には、昔は芝居茶屋というのが、中座前、角座前などに四十軒もあったそうだ。  それが、映画、演劇の斜陽にあい、今ではわずか二軒を残すのみとなったのである。かわってハンバーガーや若者むけのファッションを売る店がぞっくりとふえ、キンキラキンのグルメビルがやたらに目立つ。 「なに、食べたい?」  歩きながら晴美にきいた。 「なんでもいいわ。グルメビルに入っちゃえば、欲しいものすぐ、目につくと思うけど」 「キンキラキンの店はいやだな。そうだ、まむしにしよう」 「まむし?」  ぎょっとしたところをみると、お里が割れたことになる。晴美はやはり、大阪の女ではないのだ。 「東京ではウナギの蒲焼き。でも関西ではまむしというんだ。セイロで蒸(む)すから、そう言うんだがね」  さいわい、めざす店はまだ中座前に残っていた。「いづもや」。高校時代、船場(せんば)に取引でゆく父・浩之進につれられて大阪にくるたび、慎平は「いづもや」のまむしが無性に好きだったのでよく訪れていた。  ここも、「くいだおれ」や「かに道楽」と共に生き残っているほうだが、今はもうまむし専門店というわけではなく、なんでも屋の大衆割烹(かつぽう)に変わっていて、いささか淋しい思いがする。  とにかく入って、小座敷にあがり、河面に面した席についた。  朱塗りの重箱に入ったまむしが運ばれてくると、晴美は弾(はず)んだ。 「へーえ、まむしか。私、東京からきて、まだ半年なのよ。プランタンに勤めはじめて、まだ三ヵ月。原宿族のような格好をしているから、ここでは目立つのかなあ」  自分で目立つと言っていれば、世話はない。  晴美は、旺盛な食欲をみせ、ビールや日本酒さえも、よく飲んだ。昼はデパート、夜はクラブ勤めといっていたが、こうして夜も遊んでいるところをみると、クラブ勤めというのも、いい加減なものかもしれない。  慎平は、なんとなく、のどかな気分になってきた。日本酒をかなり飲んだので勢いがついてもう一軒ゆこう、と晴美を誘い、道頓堀から太左衛門橋を渡った。  宗右衛門町通りの、太左衛門橋の角に「ろっこん」という店があった。黒塗りの店構えをみて、大阪の築地ともいえる黒門市場を連想していると、のれんにはその通り「魚市場」と書かれていて、魚がうまそうなので、入ってみた。  東京でいえば、炉ばた焼ふう。店は地下一階だが、中は広い。カウンターや座敷には、OLやサラリーマンがいっぱいだった。着物姿の若いママが、入荷したばかりの魚を手桶に入れて現れ、 「なんでも、お好きなものを」  魚はさすがに新鮮だ。東京ではお目にかかれない魚が多かった。「やから」「うおぜ」「くちご」など、近海ものをお造りにしてもらった。  今夜は酒がばかにうまい、と慎平は思った。道頓堀の河面の中で、亜希子の顔を見たせいだろうか。すでに亜希子と、言葉さえも交わしたような気さえする。  ハーフコートを脱ぐと、晴美はセーターの胸が豊かだ。長い髪をかきあげながら、晴美は熱心に魚をつついている。座敷に横坐りに坐っているので、スカートからはみだした長い脚が、眩(まぶ)しいくらいだった。 「今夜は、どこかのビル荒らしはしないのか?」  晴美を冷やかしてやる。 「まだ疑ってるの?」 「疑われるようなことを、きみはしてたんだぞ」 「やーだ。あの時は酔っ払いを撒(ま)くためにビルに逃げこんだと話したじゃないの」  慎平はまだこの娘に気を許してはいない。あのあと、テナントの貴金属商や婦人服卸商から盗難届は出てはいないが、あの夜、もしかしたら晴美は、目的をもって堀川ビルに忍びこんだのかもしれないのである。  それに、戎橋の上で、ひょっこり肩を叩く。偶然、出会ったというには、できすぎている。慎平は三日前、ボイラー室で何者かに殴られたことと思いあわせ、今夜、この妖精のような女の正体を探るまでは放しはしないぞ、という気持ちになりかけていた。 「オジさんこそ、得体のしれない男やわ。その若さと、恰幅(かつぷく)の良さでビル管理人。なんだかいわくありげ。晴美、興味もったな」 「その……オジさんはよせ。これでもまだ若いつもりなんだぞ」  慎平は不服を洩らし、調子をあわせるように、「おれも晴美の身体にいたーく興味をもってるところだ。いつぞやは、ちょいの間、観音様に触(さわ)らせてもらったがな」 「もっとゆっくり触りたい?」 「触りたいね」 「いいわ。今夜、ゆっくり拝ませてあげる」  二人は徳利を四本もあけ、いい気分になって外に出た。  慎平には今、大阪の灯がなぜか急に身に沁みてしかたがない。宗右衛門町でかつて華やかだった東洋一のグランドキャバレー「メトロ」や「富士」は、もうない。そのかわりに新しいバービルがぞっくりとふえ、かつては堺筋から御堂筋までの間が、いわゆる宗右衛門町の「歓楽街」だったのに、今では御堂筋を突破して久左衛門町の通りまでぎっしりネオンがつらなっている光景に、年月の移り変わりと、大阪の活気をみて、慎平は目をむくのだった。 2  新歌舞伎座の裏手であった。  四ツ橋筋に面して、密集したラブホテル街があった。いわば、ミナミの歓楽街の奥座敷か。都市構造は、どこも同じらしい。慎平と晴美は、そのラブホテル街の路地奥の「ノア」というのに入った。  慎平が風呂からあがると、晴美はベッドの上で変な格好をとっていた。  ヨガでもやっているらしい。両下肢を開いて、そのあいだに折った上体を入れて頭をシーツに押しつけ、ウンウンと唸(うな)っているのだった。  裸なので、ド迫力がある。 「準備体操のつもりなのか?」 「私の癖(くせ)なの。男の人とセックスする時、こうして身体を揉みほぐしておくと、すごーく感じるのよ」  いい心掛けかもしれない。慎平は裸になってベッドに乗ると、まだその格好をつづけている晴美の股間に、みだらがましく指をさしこんだ。  晴美の恥毛は、濃いほうだ。その草むらを分けて、指を深く挿入させてゆくと、ワーッといって、晴美は身体のバランスをくずして、ベッドにひっくりかえってしまった。 「ひッどい! 精神を統一していたところなのに」 「おれたちの身体を統一させようじゃないか」 (やはり、欺(だま)していたな。この美しい小悪魔め!)  慎平は晴美を抱きながら、心の中でそう呟いている。  晴美がシャワーを使っている間に、晴美のバッグを覗いたら、名刺入れの中に、彼女の名刺が入っていたのだ。  それには「西脇経済研究所、統計アシスタント、星野晴美」と、あった。  西脇経済研究所が、どういうものか慎平は知らない。事務所の住所は東京・新宿となっていた。いずれにしろ、矢島という姓も偽名なら、勤めているプランタンというデパートの話とか、半年前から大阪に来ているというのも、すべて嘘である。 (もしかしたら、東京からおれを尾行してきた女なのではないか……)  それなら、あの夜、堀川ビルに忍びこんでいたのも計画的接近といえる。今は素知らぬふりをしておくことだ。何を企んでいるのか、今にわかる。当分、この女と愛情交歓を交わしながら、観察してゆくことにしよう。 「ねえ、あそこ。拝まないの?」 「そうだったな。拝む約束だったか」  慎平は身体をずらして、折りたたむように晴美の両下肢をその上体に重ねると、草むらを分け、唇を当てた。 「うわあ。とろけそう」  晴美は何も知らぬげに声を洩らし、顔を反(そ)らした。 「そこ、きつい」  晴美が囁(ささや)いた。  大きく両下肢を開いて、女芯を男にあけ渡している。慎平はその股間に顔を伏せ、茂みの中の真珠を攻撃しているところだった。 「そっと」 「こうかな?」 「外側から、つまむようにして」  晴美はやってみせた。右手を自分の大事な箇所に添え、人差指と中指で、ピンク色の肉の芽を莢(さや)ごと、ラビアで包むようにして外側から、そっとはさみつけている。  晴美の秘裂はやや長めで、真珠は谷間の入りあいに位置していた。だから秘唇で両側から真珠を深々と包みこむことができるのだった。包みこみ、左右から押さえつけ、わずかに指を動かして刺激をするだけで、つよい性感があるらしく、ああッと声を洩らして、晴美はのけぞったりしていた。  なるほど、晴美の真珠は敏感すぎて指や舌で直接、刺激を受けると、かえって苦痛を覚える体質かもしれない。  それならと、慎平は身体を起こし、晴美と並んで横たわると、教わった通りの手つきで、芽を包み、晴美の濡れた果肉のあたりを刺激してみた。あーッとするどい声をあげ、目を閉じて晴美は身体を反らせつづけた。指示した部分を摘ままれるたび、晴美は白い腹部を突きだして、驚くほどの勢いで反り返るのだった。 「変でしょ。私って」 「そんなことはない」 「そこ。感じすぎるの」 「ヨガのおかげかもしれんぞ。さっきのようなヨガの体位だと、自分で顔を股につけて、大事な場所を、舐(な)めることができるじゃないか」 「そんなこと、したこともないわ」 「今度、してみろよ」 「やってみるかな」 「きっと、いい見物(みもの)だぞ」 「——ねえ。入れて」  晴美は不意に催促した。  慎平は晴美の上に身体を移した。  そうして、晴美と顔がそばであったときには、吸いこまれるように挿入されてしまっていた。晴美が指で導いたのだろうが、慎平が気づかない間の、電光石火の早業だった。  収縮する。入ったところの、入り口のあたりにきゅっと、すぼめられるような収縮感があった。収縮感はやがて、掴まれる、という感じでうごめいた。  とたんに、晴美の顔がくしゃくしゃになった。悲鳴ともとれかねない叫び声をあげて、晴美は腰をくねらせた。  晴美のその部分は、俗にいうキンチャクに近い武器なのである。慎平が、ゆっくりと腰を動かすにつれ、晴美は声を高めた。入り口で掴まれていた部分を押し込むことで突破し、慎平のものが深々と奥にとどいたとき、晴美は、 「ああーッ」  と、のけぞってしまった。 「晴美、ゆくぞッ」  声がひとりでに洩れていた。  吼(ほ)える、という感じだった。  慎平とて獣になりたいときがあるのだ。  晴美の奥深くで、爆発した。 「ああッ、すてき!」  晴美も、一気にのぼりつめてゆく。  繰り返し、晴美の全身が痙攣(けいれん)した。  彼女は、悲鳴をあげて、汗まみれの顔を枕から落とした。女そのものになりきっていた。両手がのびきって、シーツを掴んでいた。  そのまま、重なって眠りに落ちた。汗をふくのもけだるくて、重なったまま、うつらうつらしていたことを憶えているが、いつのまにか眠りこんでしまったらしい。  どれぐらい寝ていたのか、憶えていない。  慎平がふと、眼をさましたのは、寝室の外のドアのあたりで、何か物音がきこえてきたからである。  物音は、ノックの音だった。 「誰か、叩いてるわ」  晴美が、眼覚めて頬のあたりを硬(こわ)ばらせた。  慎平は、上体を起こし、手早く、シャツとズボンを身につけて、寝室を出た。 「どなた……?」  慎平は、ドアの内側から、外にいる人間に声をかけた。 「すみません。支配人の原田と申します。前のお客さまが忘れ物をしたという電話がはいったものですから」 「それで……?」 「はい。ちょっとお部屋を検(あらた)めさせていただきたいのですが」 「まだ使用中だ。泊まりの料金を払っている。失礼じゃないかね」 「はい。申し訳ございません。前のお客さまは、三面鏡の抽出(ひきだ)しの中に、指輪を忘れたとおっしゃるんです。すぐすみます」 「仕方がないな。どうぞ」  慎平はドアをあけた。  入ってきた男は支配人などではなかった。黒いトレンチコートを着て、帽子をかぶっている。男の手にはハンカチで包まれた拳銃のようなものが握られており、慎平の脇腹に押しつけられていた。  突然の訪問者に、慎平は色をなした。しかし、抵抗しない方がいいかもしれないと判断した。  この数日間の慎平の予感は、やはり正しかったのだ。この男、いつぞやの夜も、浪速区湊町の陸橋の上まで尾(つ)いてきた男ではないか。とすると、東京からずっと、身辺につきまとっていた尾行者がいたというのか。 「静かに。ここで面倒を起こして、警察沙汰になるのを好む人ではないでしょう。奥にゆきましょう」  男はドアを閉め、慎平をソファのほうに押した。 「誰なんです。あんたは——」  男は答えなかった。ソファに坐り、ポケットから煙草を取りだし、くわえて傍若無人(ぼうじやくぶじん)にライターをする。 「失礼だぞ。他人の密室に押しこむとは」 「一一○番しますか?」  男は、冷ややかに笑った。 「あなたは、一一○番などできない人間のはずだ」 「私に、何の用事があるんだ」 「わかりませんかね」 「わかるはずはない」 「あなたは、このままだったら、愛人殺しの犯人として逮捕されますよ」 「愛人殺し……?」 「その通り。秘書殺しかもしれませんね。宮村京子さんの事件です」 「なぜ、そんなことを!」  慎平は、急に生傷に手を突っこまれていじられたようにカッとし、むらむらと怒りを憶(おぼ)えた。  男は、室内だというのに、傍若無人にコートを着て帽子を目深(まぶか)にかぶったままだ。いたぶるように慎平を見ている。  慎平はよほど立ちあがって、殴りつけてやろうかと思った。他人の部屋にしかも密室にどかどかと不法侵入しているのだから、たとえ怪我をさせても、非はむこうにあるはずだった。  しかし、格闘沙汰になって、警察が入りこんだりすると、一番困るのは、慎平自身なのであった。 「ばかも休み休みに言え。私は京子の事件など、何も知らないぞ」  売り言葉に買い言葉であった。「いったいきみは、何者なんだ!」 「私のことより、ご自分のことを心配しなさい。ただの否定の言葉だけで通用する事柄ではありません。問題は殺人事件ですよ」 「しかし、おれは本当に何もしていない。何も知らないんだ!」 「まあ、お静かに——」  男は慎平に、「ここは、ラブホテルです。私も隣に、女性を待たせている。あまり、声を荒げては、周囲にご迷惑がかかるでしょう」  ますます、人をくっている。  慎平は逆上しそうになった。 「きさま。何の権利があって、おれに難くせをつける!」 「駒場東大前。京子の部屋を思い出して下さい。私の知りあいが、あなたが秘書を刺し殺すところを目撃しているんです」 「おれはやっていない。嘘だ!」 「目撃者がいる以上、抗弁しても無駄ですよ。あなたはあの部屋に入ったじゃありませんか」  そういえば、この男、京子の部屋の前でも見たことがある。慎平が階段に取りつこうとした時、その階段を降りてきたのだ——。 「あれは……京子に呼ばれたんだ。行ってみただけだ。その時、京子はもう寝室で死んでいたんだぞ!」  こいつこそ、犯人ではないか? 「ほら、吐きましたね」  男は、微(かす)かに笑った。  あッと、慎平は狼狽(ろうばい)した。  あの部屋に入ったことさえも、本当は言ってはならないし、気づかれてはならないことなのだ。  隠し通すつもりだったではないか。亜希子とも、そう約束している。それをこの男、巧妙な誘導尋問で——。  もしかしたらこいつ、本物の刑事ではないか。だが、捜査官がこういう密室に無頼漢のように拳銃様のものなどを突きつけて、押しこむはずはなかった。 「きさまは、誰なんだ——。名前ぐらい、名のったらどうだ」 「名のるほどのものではない。あんたは、京子の部屋にいたことを警察に告げられると、破滅する。それを救ってやろうと思って、ここに来たんだ」 「どういう意味だ」 「取引をしないか」 「取引?」 「証文を書いてくれればいい」 「証文? どんな証文だ」 「今、おれがその文句をいう。その通りに便箋に書いてくれればいい。晴美、紙とペンをここにもってこい」  晴美、と男が無造作に言ったので慎平が驚くと、晴美はいつのまにか身支度をして、傍らに立っていた。  バッグの中から便箋とペンを取りだしている。  そうか、と慎平は唸(うな)った。こいつらはぐるだったんだ。 「晴美? ……き、きみは!」  だが、慎平は我慢した。  今ここで、逆上して格闘騒ぎでも起こすと、ホテル従業員から警察に通報されよう。それは、偽装離婚という事実もある手前、何としても避けねばならない。それに、男の言う取引とか証文というのは、何なのか。 「きこうじゃないか、証文」 「いい心掛けだ。晴美、紙とペンを船山さんに渡せ」  テーブルの上に便箋がのった。 「いいか。ゆっくりと言うから、その通りに書け。これはあんたの奥さんにあてた手紙だからな。できるだけ甘ったるく書くんだぞ」 「奥さん? 亜希子のことか?」 「ほかにもいるのか?」 「あいつとはもう離婚している」 「そうだよ、そのことさ。だが亜希子は最近、偽装離婚だと気づいて、真相を糺(ただ)そうとしている。あんたに未練もあるらしい。いや、真底、惚れているのかもしれん。だから、念書がいる。そこで、あんたがちゃんと答えてやる。それがこの証文さ」 「いいから、言ってみろ」 「言うぞ」  男は一区切(ひとくぎ)りつけ、代言人のような言葉使いになった。「——亜希子、よくきいてくれ。自分はもう夕貴とこれからずっと長く、大阪で暮らすつもりだ。きみとは偽装離婚という噂も立っているようだが、噂は根拠のない嘘だ。信用しないでくれ。自分はもう二度と、きみのところに戻る意志はない。きみはきみで、私が残した三十億円の資産を大切に抱いて、早く好きな男と結婚でもして、人生をやり直して欲しい。きみが早く第二の出発をして、倖せになることを私は心から祈っている……」  そこまで書いて、 「おい」  慎平のペンが、ぴくりと止まった。 「おい、それじゃあ——」  慎平はそれを直感したのだ。「亜希子に、男ができたとでもいうのか?」  あたり前じゃないか、慎平! 「答える必要はない。あんたはその通りに書けばいいんだ」  男が拳銃の銃口をむけた。 「答えろ。亜希子が好きになった男というのは、どこの、どいつだ! 相手は誰だ!」 「さあね。あの美貌だ。寄ってくる男は多い。寝たのも、もう一人や二人ではないかもしれんな」  幾分、予想していたとはいえ、こういう男から、こういう局面で露骨な言い方をされると、慎平は眼の前が暗くなる。慎平の怒りがついに爆発する時がきたようだ。 「こんなもの、書いてたまるか!」  慎平は、便箋を破りざま、ペンを男の頬にむかってするどく投げた。よけたはずみに男は、体勢をくずした。立ちあがった慎平は男の股間に蹴りを飛ばした。顔面に風を巻いて慎平のストレートが炸裂(さくれつ)した。  男は、ソファから床にひっくりかえった。晴美の悲鳴が湧いた。吼(ほ)えて男は拳銃を構え直した。だがそれがモデルガンであることを見ぬいたからこそ、慎平はこの場の反撃に出たのだ。  起きあがろうとする男の顔に、二撃目の蹴りを入れた。晴美が電話のほうに走った。慎平は晴美の鳩尾(みぞおち)に拳を打ちこんだ。二人とも叩きのめすと、慎平は上衣とコートをつかんで部屋を飛びだした。  部屋代は払っている。長居は無用だった。ホテルを飛びだすと四ツ橋筋の広い通りに、眼を射るがごとき眩(まぶ)しい車のヘッドライトが洪水のように、流れていた。 3  一台の黒い、受話器がある。  慎平はいま、それを見ている。  何度も手をのばしては、引っこめる。  深夜だ。亜希子はもう東京に帰っているはずだ。寝ているだろうか。東京の亜希子に、慎平は電話をしたくてたまらないのである。 (亜希子に好きな男ができたらしい。そいつは誰だ。真偽を確かめねば……)  多少の不倫や男出入りは許すとは思っていても、亜希子にもし本当に好きな男ができたのなら、局面はころっと変わる。残酷に変わる。慎平はその場合、亜希子に対する、今でもしっかり愛していると信じている気持ちを引き裂かれるだけではなく、その上、巨億の資産までまるまる、亜希子とその男に奪われてしまうのである。  荒れざるをえない。自分で仕組んだことだ。天罰かもしれん。しかし、天罰というもので片づく問題ではない。慎平はボトルを抱え、だから畳にあぐらをかいてウイスキーを舐めながら、引き寄せた受話器を見ている。  そこは、浪速区湊町二丁目の自分の部屋だった。  夕貴は、まだ帰ってはこない。  新歌舞伎座裏のラブホテルの事件から一週間が経っていた。あれ以来、身辺にこれという異変は起きないが、それだけにかえって、東京に残した亜希子のことが、気がかりなのだった。  とうとう手がのびた。目の前に置いた送受器。思い切って成城の亜希子の家に、ダイヤルをまわした。  発信音が鳴っている。十回まで数えて出なければ、切るつもりだった。事実を知るのが、恐ろしいのだ……。  ヘンな感情。五回まで数えた。と、その時、むこうの受話器が持ちあげられたのである。 「はい、船山です」  驚いたことに、亜希子はまだ、船山姓を名のっているのだ!  慎平にとってそれは、思いがけない衝撃だった。  籍を抜いたというのに、習性なのか。それとも、おれが帰ってくるのを信じて待っているのか。亜希子に愛人ができたというのは、脅迫者のデマだったのか。 「もしもし、船山ですが……」  亜希子がふたたび、呼びかけている。 「——おれだ。慎平だよ」  とうとう、言ってしまった。 「まあ、あなた!」  悲鳴のような声があがった。 「びっくりしたわ!」  とっさにはそれ以上、声がでないらしく、心臓の鼓動をおさえているような雰囲気が伝わったあと、 「お元気?」  短い言葉で、そうきいた。 「ああ、元気だ。そっちは?」 「なんとか——」  言って、「今、どこなの?」 「大阪。病気など、していないか?」  夫婦なのに、夫婦ではない。会話も、実に奇妙なやりとりにならざるを得ない——。 「何とか、元気でやっているわ。でも変なのよ、あたしのまわり。色々と変なことがつづくし、気持ちは落ち込んでるし……私、白枝さんと結婚するかもしれないわ」 「なにィ! 何だとお」  慎平は、驚きの声をあげた。  ——白枝庸介だとお!  どうしてそいつの名前がでてくるんだ! 「おい、待て」  と、慎平は急(せ)きこんで叫んだ。 「それは、どういうことだ? 白枝のやつが、求婚でもしているのか?」 「電話では詳しいことは話せません。私、もうだめになりそう。一度、東京に戻ってきて。お願い! 相談したいことがあるの。ねえ、私を助けると思って!」  亜希子の周辺、穏やかではないとみえる。  声に悲痛な響きがあった。 「うむ。しかし、例の——」  殺人事件……と、言いかけた時、慎平は背後で、ドアが開く音をきいた。  夕貴が、戻ってきたらしい。  偽装離婚のことはまだ伏せられているし、慎平が亜希子と親しく電話をしているところを、他人に見られてはまずいのである。  慎平は急いで、親しい男友達にでも電話していたふうを装(よそお)い、「じゃあな。また、電話をする」  あわてて電話を切り、煙草を取った。  夕貴が傍にきて、坐った。 「あら、どうしたの? 煙草をもつ手が震えている」  夕貴が、不思議そうに見つめた。 「ウイスキーは飲むし、電話はあぐらの中。部屋は散らかし放題。いったい、どういうこと? まるで、アル中が留置場の中に入っているみたい」  慎平は壁に、背をもたせかけた。 「アル中で、悪かったか」 「荒れてるわね、このところ。むかしの慎平さんじゃ、なくなったみたい」 「夕貴こそ、可愛げのあった夕貴ではなくなってきたみたいだぞ。今夜だってずいぶん、遅いじゃないか」 「お客さんと食事してたのよ。あーあ、くたびれちゃった」  夕貴は両足を投げだし、スカートをたくしあげて、パンストを脱いだ。素足を気持ちよさそうに伸ばす。  その素足の白さが、慎平の眼をいたく刺激した。  夕貴は、胸も腰も丸味をおび、ますます成熟した女になってゆく。  眩(まぶ)しいくらいだ。 「私にも、飲ませて」  夕貴はボトルをグラスに傾けた。 「ねえ、どうするの?」  一口飲んで言った。「私、マンションに移っていいかしら?」  そういえば、このところ、夕貴は、このむさ苦しい部屋を出て、森の宮のほうに見つけた新しいマンションに移りたい、と洩らしていたのだった。  移る、ということは、当然、この夕貴にも男ができたということに違いない。 「そうか。部屋まで見つくろってくれるいい男でも、つかんだのか?」 「もしかしたら、ね」  夕貴は小悪魔的な笑顔をみせた。  怒ることはない。この女とも、潮どきかもしれない、と慎平は思うのだった。  夕貴はだんだん、独立し、成熟した女になってゆく。弾むような性格が、本来は湿潤で、人間関係の入りくんだ大阪のミナミの風土に、かえって、カラッと合うらしい。金づるの男も幾人か、つかんだようだ。  大阪の商売人肌の小金持ちにとっては、東京の銀座からきた夕貴のような歯切れのいい女は、かえって食指が動く存在なのかもしれなかった。夕貴もまた、東京ではうだつがあがらなかったので、こちらのほうが、居心地がいいのかもしれなかった。 「移りたければ、移るんだな。おれは夕貴を、これ以上、縛(しば)ったりはしないよ」 「ありがとう」夕貴はいい、「でも、どうしたのよう? 今夜はばかに突っけんどん。何だか怒ってるみたい」  そう、怒っているのかもしれない。慎平の気持ちはいま、飢えた狼のように、ギラギラしているのだ。夕貴のことではない。亜希子のことを、だ。  いつぞや、ラブホテルに押しかけた脅迫者の言い分だけではなく、現実に今夜、亜希子から、「白枝さんと結婚するかもしれない」と、ぬけぬけと伝えられると、慎平の気持ちはもはや平静ではいられなくなる。  亜希子がもし、白枝庸介と結婚するようなことになると、慎平は、文字通り三十億円の資産をまるまる白枝に分捕られてしまうことになる。そういえばそもそも、今度の偽装離婚の企みを焚(た)きつけたのは、弁護士の白枝だったではないか——。  何かが、釈然としない。  胸に、黒々とした疑惑が渦巻く。  どす黒いその疑惑を胸に抱いたまま、慎平はごろんと畳の上に仰むけになり、両手で手枕をつくった。 「ホント、どうしたの? 今夜は。求めないの?」  夕貴がおかしそうに見ている。 「夜勤つづきで、少し疲れたようだ。夕貴、毛布をかけてくれないか」  夕貴が、毛布をかけてくれた。その甲斐々々(かいがい)しい姿を見ながら、夕貴ともそろそろ終わりだな、と慎平は考えていた。  東京に残している亜希子の身辺が、それほど急激な変化に見舞われているのなら、慎平も急いで、東京に戻らねばならないわけだ。夕貴は大阪に残していっても、このまま、しぶとく、翔(と)びながら生きてゆくだろう。  そう思うと、夕貴への愛惜の念も湧く。占有した部分の感触を、もう一度確かめたいとも思う。  慎平が獣のように勢いよく身を起こし、夕貴の身体を抱くと、夕貴は暴漢に襲われでもしたような悲鳴をあげ、物狂おしく背中に腕をまわしてきた。  ——翌日から慎平は、大阪撤退を考えながら、仕事をした。浪速ビルサービスには、船場の浜崎康男から因果を含められているので、遠慮することはない。あと二日で土曜日なので、きりのいいところで辞表をだそうと考えていたある晩、事件が起きた。  会社でではない。帰途である。  その夜、昼勤を終えて夜九時頃まで、法善寺横丁で一杯ひっかけ、ほろ酔い気分でアパートに帰る途中だった。  四ツ橋筋をすぎ、元町公園の傍を通って関西本線の陸橋のほうへ歩くと、もう人通りはない。長い階段をのぼりつめて陸橋の上に出た時、それが見えた。  人影がもつれあっていた。  陸橋の途中であった。  男と、女のようである。  女が、男に襲われでもしているのだろうか。  慎平は階段をあがりきったとたん、その、激しくもつれあった人影を目撃し、走った。 「やめて!」  女の叫び声がきこえた。 「誰か、助けてえ!」  赤いコートがひるがえっていた。  夕貴がいつも着ているコートだった。それに、声の感じも夕貴そのものだった。  夕貴が襲われている!  慎平はそう見て、駆けた。  男と女がもつれあっているのは、陸橋のまん中あたりであり、そこそこの距離がある。  陸橋の上には風があった。眼下の保線区には白いサーチライトが照らしているだけで、人っ子一人見えはしないのだ。 「誰か、助けてえ!」  女は、なおも悲鳴をあげている。  欄干に押しつけられ、男がその上に覆いかぶさるようにして、揉(も)みあっているのだった。コートも割られているので、もしかしたら立ち割りでもしているのか。それとも、女を下の線路に突き落とそうとでもしているのか。 「やめろ! その女を放せ!」  馳けつけて、慎平は怒鳴った。  男の襟にうしろから手をのばした。  くるり、と男がふりむいた。 「走らせて、気の毒だったな」  声が響いた。男はむきなおると、ニヤリと笑った。全身が引き締まっていて背が高い。いかにも職業的な訓練を窺(うかが)わせる体躯だった。  その顔が保線区の照明に下からはっきりと浮かびあがった時、あッ、と慎平は息を飲んだ。  あいつだ! いつかラブホテルに押し込み、慎平に妙な証文を書かせようとした得体のしれない脅迫者だ。 「き……きさまは!」 「そうだよ。いつかの仕返しだよ」  言い終わらぬうち、男の右手が動いた。白いものが光った。ドスだった。  一瞬、躱(かわ)したつもりだが、脇腹の皮膜を破られていた。くそッと憤怒にかられ、ドスを奪おうと体当たりした時、二撃目が太腿に送られていた。  深々と、肉をえぐられた。だが、太腿なら致命傷ではない。えぐって抜いたドスを、男が三撃目にむけて構え直す前に、慎平は股間を膝で蹴りあげ、顎(あご)に頭突きを送っていた。  男の顎が揺れた。ドスを握った右手が欄干の手すりにあたり、撥(は)ねた。手首を掴み、もう一度、叩きつけた。  ドスが、足許に落ちて転がった。 「野郎ッ」  吼(ほ)えた男の股間に、二度目の膝蹴りを入れた。男はうっとうめいて、前屈(かが)みになった。頭髪を掴んで引きずり倒そうとした時、男は猛烈な力でしがみついてきた。  揉みあいになった隙に、女がぱっと横に飛んで、路面に落ちたドスを拾っている。サーチライトに映った顔は、夕貴ではなかった。  いつかの、矢島晴美だった。 「くそッ。あんたか!」  晴美は、夕貴と同じコートを着て、声も髪型まで似せて、夕貴を装(よそお)っていたのだ。そして二人は、ぐるになって待ち伏せていたのだ。  女に気をとられた一瞬、態勢が変わっていた。男が身体ごと突っこみ、慎平の襟首を掴んで欄干に押しつけた。 「橋本さん! ほらッ!」  晴美が、ドスを渡している。  男が受けとり、切先(きつさき)を喉に押しつけ、 「船山慎平。あんたはここで死んでもらうことになっているんだ! 少しでも動くと、ぶっ刺すぞ!」  首すじに刃先があてられていた。  男は襟首を掴み、欄干に慎平を押しつけ、のけぞらせていた。 「貴様ら、待ち伏せしていたのか!」 「そうさ。晴美、早くやれ」  男が女に何かを命じた。晴美が用心しながら近づき、慎平の内ポケットに、書類のようなものを突っこんだ。 「冥土(めいど)への切符までくれるとは、親切じゃないか」 「こちらの都合というやつだ。今のは倉荷証券だ。そういえば、わかるだろう?」  倉荷証券……?  あの、紛失していた……!  次の瞬間、慎平は、慄然(りつぜん)とした。  もし、おれがこの陸橋から墜落して死んだとしたら、どうなるか?  ポケットには紛失していた倉荷証券が入っている。その上、殺害された宮村京子の愛人だった男である。  もし京子を殺害した犯人がいるとすれば、次には慎平を狙えばよいのだ。自殺と思われる情況の中で、慎平を殺害しておけば、倉庫破りの罪も、京子殺しの罪も、なにもかも慎平にかぶせることができるわけである。  なぜなら、慎平には京子を殺害する動機があった。痴情のもつれ、と世間はみる。現実にあの時間、京子の部屋を訪れており、死体も発見している。その上、倉庫が破られた翌日、慎平は早々と大阪へ高飛びしている!  何もかも、符節があうのだった。  こいつら、おれを本気で殺そうとしている!  おれをここから突き落とせば、自殺したように見える。事業に失敗し、愛人まで殺し、切羽つまったと……。  くそ。慎平の身内に憤怒が燃えた。  殺意。それも、あまりにも露骨な嵐のごとき殺意。  他日を期しての、お互いを信じあうことを前提として組みたてた亜希子と自分の、偽装離婚の背後に、あるいはそのどまん中に、これほど露骨な殺意の劇が仕組まれていたとは、慎平には予想もしないことであった。 「良さん、早く!」  晴美がけしかけている。 「人が来るわ。早く」 (ううぬ。この野郎ども——) 「晴美、見張れ。人を通すな」  言い終わらぬうち、ぐいと男の手に力が入り、欄干の外に突き落そうとする意志に、鋼鉄のごとき殺意がこもった。  烈しい揉みあいとなった。が、偽装自殺を見つくろうため、一思いにドスで刺せなかったのは、襲撃者側の弱点だった。 「人殺しィ……!!」  突然、大声で怒鳴った慎平の声に、男はあわてたのである。突き落とす暇はないとみて、男は血相をかえ、ドスを逆握りにしてきた。男の手首を握り返しざま、慎平は最後の力をふり絞って股間を蹴りつけ、正拳を顎に叩きこんだ。男の顎が揺れた。  男は吼(ほ)えた。野郎、と突っこまれたドスは、慎平の脇腹を深々とえぐっていた。くらくらっときた。  何かしら黒々とした闇の、大きな翼のようなものが全身に舞いおりてきたような衝撃を感じた。 「良さん、人が来る!」  意識の遠くで、二人が遠ざかる足音がきこえた。  かわりに別の足音が近づいてくるのもきこえた。 「血ィ流しとるでえ。どないしたんや」中年男が駆けつけてくれたのを、微(かす)かに憶(おぼ)えている。「こら、あかん。動いたらあかんでえ。救急車や。今、呼んでくるさかい」  男は駆けだしていった。  慎平は欄干につかまり、ずるずると地面に跼(かが)みこみながら、眼の前に闇が迫ってくるのをみた。 (東京へ……亜希子の許へ……早く戻らねば……)  虎落(もがり)笛(ぶえ)のように、その意識だけが空転していた。 第十一章 悪夢、やがて朝に 1 「亜希子さん——」  囁(ささや)き声がきこえる。 「ねえ、亜希子さん。そろそろきかせて下さいよ。返事、まだですか」  白枝庸介の声である。それはわかっている。彼が何をきいているかも。だが、夢の中の亜希子には、口が凍ったようにイエスもノーも、返事ができないのである。 「待って下さい」——やっと、亜希子は喘(あえ)ぐように言う。「慎平に……慎平に相談してからにして下さい。許可を得なければ、とてもそんな重大なこと……」 「また、そんなばかなことを言う。船山君はもう、いませんよ。彼はもうとっくに、大阪で死んでるんですよ。連絡ひとつ、ないのがその証拠じゃありませんか。さあ、諦(あきら)めて」 「違います! 違います!」  夢の中の亜希子は、必死に叫ぶ。「慎平は生きています。死んでなんかいない。帰って! 白枝さん帰って」  叫び声をあげて、眼がさめた。  自分の叫び声で、亜希子は眼を醒(さ)ましたのである。  深夜であった。壁時計をみると、午前一時である。亜希子はのろのろと、ベッドに身を起こした。  窓から、月光が射していた。  そこは、奥伊豆の別荘だった。  神戸から東京に戻って、しばらく成城に落着いていたのだが、成城ではあいかわらず奇妙な電話がかかってきたり、屋外で見知らぬ男たちが測量士を装って土地を計測しはじめたり、いつか襲われた宗田康晴の配下の、顔に見憶えのある男がうろついていたりして、亜希子はまた落着きを失い、この別荘に逃げこんできたのである。  亜希子はガウンをかけ、起きあがって、窓から外を見た。今見た夢が、生々しい。慎平からは一度、成城の家に電話があったきり、連絡がとだえている。白枝にきいても、慎平は大阪に行ったきり消息不明なのだという。  慎平からかかってきたいつぞやの電話が気になる。 「その結婚話、断じて断るんだ。いいな!」  そう言い残したきり、切られた電話の声が亜希子の鼓膜の奥にいつまでも残響を結んでいる。  でも、二度とかからない電話。あのあと、慎平の身に何かよからぬことが起こったのではあるまいか。  気になっても、亜希子には慎平がどこから電話をかけてきたのかもわからず、どうすることもできない。かたや白枝からは思いがけない結婚の申し込みを受けていた。  どこか予感されなくもなかったが、亜希子にとってはやはり、その求婚は思いがけないことだった。  白枝に対する返事を一日のばしにのばして、今、亜希子は身辺不穏な成城を逃れて、奥伊豆の別荘に逃げこんで五日目を迎えているのだった。 (それにしても、慎平の不吉な夢、正夢でなければいいが……)  亜希子はふと、眼下に眼をやった。樹間を白く照らして割ってくるヘッドライトに気づいた。 (こんな時間に、誰かしら?)  あの道はこの別荘につづいている。  訪問者であることに間違いない。  午前一時すぎだというのに、誰なのかしら……。亜希子が髪をあたって身づくろいをした時、表で自動車の止まる音がした。  亜希子は急いで、ガウンの紐(ひも)を結んだ。  チャイムが鳴った。出てみると、立っていたのは、白枝庸介であった。 「まあ、白枝さん!」 「夜分、訪れてすみません」  白枝は一礼して玄関に入った。  靴を脱いであがるなり、居間のほうに歩き、ぐるっと別荘の中を見回す。  さほど、大きな建物ではないし、また白枝が来たのも、初めてではない。それにしても、様子がおかしい、と亜希子は思った。 「何か、急用でも?」 「ええ。ちょっと——」  白枝は別荘の中に、亜希子以外には人がいないのを確かめ終わると、コートを脱ぎ、リビングの椅子に坐った。 「悪い知らせです」 「え?」  亜希子は、むかいに坐った。 「どういうことでしょう?」 「簡単に言います。——一週間前の夜、大阪の浪速区にある元町病院に、刺されて重傷を負った一人の男が、救急車でかつぎこまれました。太腿や腹部を、鋭利なナイフのようなもので、かなり深く刺されており、出血多量で瀕死(ひんし)の状態だったらしい。病院で輸血をして一命はとりとめ、入院させていましたが、男は意識を回復しても、自分の名前を名のりませんでした」 「はい。それで……?」  だんだん、いやな予感が強まる。  胸にふくらんできた黒い雲は、もしかしたらその男、慎平ではないかという胸騒ぎであった。つい先刻、亜希子は悪夢にうなされたばかりである。 「病院では、何か事情があるのだろうと察し、警察に届けました。係官がその傷害事件について事情聴取しましたが、関西本線の陸橋の上で、女性が襲われていたので、助けようとしたら反対に暴漢に刺された、とだけ述べ、その際の争いで頭を殴られたり、刺されたりして意識を失い、自分の名前も前歴さえも忘れてしまった、と申し述べているそうです」  白枝は淡々と報告した。 「まあ!」  亜希子は、息をのんだ。  大阪の、その病院に担(かつ)ぎこまれた男は、記憶喪失症を装ったらしい。  本当の記憶喪失症なら、陸橋上での傷害事件そのものでさえ、憶えていないはずだ。警察では、身柄は病院に保護しているのも同然であり、容態はまだ芳(かんば)しくない。それに、犯罪前歴者や粗暴犯、暴力団関係者ともみえなかったので、事情聴取も深追いはせず、容態が回復してから、詳しい事情をきこうということになり、陸橋上の事件そのものの、目撃者探しにあたるだけで、男はそのまま、元町病院に入院させていたらしい——。 「ところが」  と白枝は説明をつづけようとする。 「待って」  と、亜希子は遮(さえぎ)り、お茶を入れに立ちあがった。  亜希子は、その話をききながら、息苦しくなってきたのだ。キッチンに立ち、ふっと、窓外に眼をむけた。  青白い月光に照らされた雑木林に、一人の男の貌(かお)を置いた。もしかしたらその男、船山慎平ではないか。  お茶を淹(い)れてテーブルに戻っても、亜希子は何度も口に出かかっていた名前を、やっとの思いで耐えていた。  白枝の話が、まだつづいていたからである。 「病院の措置(そち)は迅速(じんそく)で、的確だったので、男は回復にむかっていたそうです。ところがその男、三日前の深夜、出血と傷の痛みが止まったことをよいことに、医師にも看護婦にも内緒で、病院を脱けだしてしまったらしいのです。つまり、病院脱走。事件そのものへの警察の介入、もしくは追及を逃れて病院を脱けだしたのではないかと医師たちは話しているそうです。それで、警察もいま、あわてて探しているそうですが、それ以来、所在不明となっています……」  白枝はそこで、一息ついた。 「ちょっと」  亜希子は心を引き締め、冷静にきいた。「白枝さんは、どうしてそんな大阪のことを詳しく、ご存知なの?」 「大阪の船場(せんば)にいる浜崎康男という友人から、知らせを受けたばかりなんです。そちらに、船山慎平は帰ってはいないかという電話が入って……」  慎平の名前が、やっと、そこで初めてだされたわけである。が、亜希子はもうとっくに、それを前提に聞いていたような気がするし、白枝もまた、それを前提として話していたような感じがあった。 「気になることは——」  白枝は、つづけた。「もしその男が船山君だとすれば、彼はなぜ、病院を脱走したかです。看護婦の話によると畜生、畜生、と何やら怨嗟(えんさ)の呻(うめ)き声を洩らしていたそうですので、復讐でもしようと考えていたらしい。復讐といえば、ぼくやあなたも、その対象になります。なぜって、ぼくたちはこうして、彼を裏切っていますし、結婚しようとしている……」 「ちょっと待ってよ——」  亜希子は小さく叫んだ。「結婚のことは、まだご返事してません。私はまだ船山を愛しておりますし、彼のことが忘れられません」 「いずれにしろ、同じだ。そんな心象次元のことではない。ぼくたちはもう赤坂でも神戸でも、ここでも、何度も愛しあった仲じゃありませんか」 「やめて——」  亜希子は耳をふさぎたくなった。  もし、病院から脱走したその男が、慎平だとすれば、かなり残酷な運命が彼を見舞ったことになる。刺されたというのも、ただ通りすがりの女性を助けようとしたためではなく、慎平は何者かに故意に襲われたのではあるまいか。 「ぼくが想像するに、彼は今、狂犬のようになっていると思われます。何をするかわからない。彼は今、大阪から東京に潜(もぐ)りこもうとしているのかもしれない。それで、急いでやってきたんです。亜希子さん、船山君を一歩も近づけないで下さい。もし万一、電話か何かあったら、ぼくにまっ先に教えて下さい」  白枝は、そう言ったのだった。  亜希子はでも、一刻も早く、慎平に会いたいと思った。  亜希子が窓際に立った時、白枝が後ろにたって、肩に両手を置いた。 「やめて——」  亜希子は、肩に置かれた白枝の手をはずし、身を固くして外の月光に見入った。 「亜希子さん、ぼくは……」  白枝は、かすれた声で言った。  異様な気配に亜希子ははっとした。 「言いにくい。でも、言ってしまおう。船山君を見舞った事件が何であれ、ぼくの気持ちは変わらない。いや、こうなったらなおさら、ぼくはあなたを守ってあげます。そのためには、結婚するのが一番だ。だから、はっきりと態度を固めたほうがいい」  白枝は一気に、そこまで言って、亜希子の腰に、両手を回したのだった。 (やはり、あの夢は現実だったんだわ……) 「いずれにしろ」  と、白枝は耳許で囁いた。「船山君がどうあろうと、どのみち亜希子さんにはもう関係がないことです。あなたはもう彼とは離婚して、独立した女性だから、自由なのだ。好きな道を選べばいい。その好きな道というものの中で、ぼくと結婚することがあなたにとっては一番の選択ではないかと、おすすめしますね」 「やめて下さい。今夜はそんな話、ききたくはありません」  亜希子は冷たく言って、身体を放そうとした。だが白枝ははなれない。  窓から、雑木林が見えた。  蒼白い月光が冴(さ)えていた。  凄絶(せいぜつ)なほどの冴えかただった。 「ねえ、返事をきかせて下さい」  白枝は亜希子の肩をつかみ、自分のほうにむき直らせた。  強い力だった。次の瞬間、亜希子の上体は白枝の胸に抱き寄せられ、あっというまもなく唇を奪われていた。  いやッ、と抗ったが、しっかりと抱擁されていた。それ自体はどうってことはない。すでに白枝とは、赤坂でも神戸でも身体を合わせているのだ。  が、これまでとは違った異様な決意といったものが白枝の態度の奥に感じられ、またこれまでとは違った異様な拒絶感といったものが亜希子の中にうまれ、亜希子は緊張し、歯の根が合わないのだった。  白枝の唇が、再び襲ってきた。頭を掴まれ、固定されているので逃げられはしない。亜希子の唇を割って入ってきた白枝の舌が、彼女の舌を吸いあげた。  亜希子の全身に不覚にも、鋭い戦慄が走った。その亜希子の手を、白枝がつかんだ。 「あッ!」  亜希子は唇を吸われたまま声をあげた。引き寄せた亜希子の手を、白枝はいきなり自分の股間に触れさせた。  そこはみなぎっていた。あつかましく、どぎつく脈打ち返していた。 「信じて下さい。ぼくは船山君の危急をきいて、夜分を省(かえり)みず飛んできました。亜希子さんのことを考えると、じっとしていられなかった。安全を確かめたかった。ここは嘘をつかない。もうこんなに燃えてるんです」  ——ばか、ばか、ばか! (こんな時だというのに、やめて)  亜希子が胸を押し返そうとすると、白枝はぐい、とその腰を抱きかかえ、亜希子の身体を軽々とかついだ。  白枝は奥の寝室に運ぼうとする。  亜希子は必死で抗った。 「お願い。やめて」  亜希子は訴えた。「今夜は、そんな気分に、なれません」  ベッドにおろされた。  亜希子は、いやいやをした。  白枝は、ガウンに手をかけた。  のしかかられ、ガウンをはぎ取られてしまうと、全裸に近い。ブラジャーやパンティーをむしり取られた時も、亜希子は腰をひねって両足を縮め、腰を折って重ねるという動作をとったが、それが許された精一杯の抵抗だった。  侵入者のレイプではない。すでに馴染(なじ)んだ男である。布きれをすべて取られると、白枝の熱い体温が直接、肌に触れている。亜希子はいっそう固く目を閉じ、泣きだしそうな顔を、枕に押しつけようとした。 「どうしたんです? 今夜は」  白枝は、愛撫をつづけた。  これは、残酷すぎると亜希子は思った。愛撫というものは、愛するものから受けるものである。私はこの白枝を本当に愛しているのだろうか。これまでは、愛しているように思っていたが、こうして慎平の危急を聞くと、そちらのほうに激しく心が騒ぐ。  居ても立ってもいられないような気持ちになる。白枝への感情が、愛の錯覚、または蜃気楼(しんきろう)のような幻ではなかったかと、亜希子にはだんだん、その実相がみえてくるような気がするのだった。 「そんなに固くならないで。ぼくが余計なことを知らせたのがまずかったのかな。伊豆まで車を飛ばしてきたぼくの気持ちも、わかって下さい」  白枝の息が、顔にかかった。唇が、首筋に触れた。唇と舌が刷毛(はけ)で掃(は)くように、首筋を往復している。  亜希子は、声を洩らした。感じまいとしても、その微妙な感触は、性感を掘りおこされてしまう。乳房と首筋のあたりが、一番敏感なのである。 「お願い。もう、やめて下さい」  白枝の唇が、今度は亜希子の乳房を螺旋(らせん)状に回転しながら、ゆっくりと登ってゆく。  やがて頂点に到達すると、唇は軽くはさむようにして、桃色の蕾(つぼみ)を吸いとった。吸い、転がし、刺す。かたわら、右手は茂みのほうに動いている。  秘唇を柔らかく触れられ、真珠を軽くつままれたり、ラビアの奥に指をさしこまれたりすると、強烈な性感が湧きあがってくる。  亜希子の頭の中に、白っぽい光が湧いて熱くなり、閃光がはじけているような感じだった。その空(から)っぽの頭の中に、赤くて甘い霧がなだれこんできたような気分だった。こうなっては、もう、言葉で防ぐしかない。 「お願い。今夜はやめて。絶対にいや」 「ぼくは今夜こそあなたがほしい」 「それじゃ、レイプと同じだわ」 「同じでいい。そのほうがいい」 「待って。もう少し」 「今さら、おかしいよ」 「でも、私は今夜はいやなの、どうしても。ねえ、だから——」  私は白枝を拒(こば)もうとしているのだという気持ちと、いや、白枝を拒むなんておかしい、身体は欲しがっているのだという気持ちとが、今、亜希子の甘く痺(しび)れてゆく性感をはさんで、激しく闘っているのだった。 「いや……」  白枝の愛撫がつづいている。  いやいやをしながらも、亜希子の身体が反応する。とうとう亜希子は、激しく首を振り、両手で顔を覆ってしまった。  まるで処女が犯されるような反応。  いまさら、白々しいと、自分でも思う。でも本能的に出た行為だった。  顔を隠すことに、どれほどの意味があろう。それはわかっている。でも、亜希子は声を殺し、息を殺さなければならないと思った。  慎平が大阪で襲われ、病院に担ぎこまれ、そこを脱走したという知らせをきいたばかりで、亜希子は動揺しているのだ。そんな時、ほかの男とこんなことをしてはならない。頭ではそう思う。その拒否が、白枝にはかえって刺激になるらしく、やめようとはしない。  亜希子はもう、ひらかれていた。  両下肢の中に、男が位置をとる。  白枝の怒張したものが、徐々に侵入してくるのがわかった。  意志ではどんなに拒んでも、そこはもうあふれているのだ。軋(きし)みもしないし、痛くもない。亜希子は息をとめて、全身を硬直させていた。枕を顔の上に置いて、表情を見せまいとした。でも、声が洩れてしまうのだ。  白枝がゆっくりと動きだすと、烈しい快美感がせめのぼってきて、声をだしてしまう。白枝が動きだすにつれ、亜希子は自分が豊潤すぎるくらいの蜜に濡れていることを、思い知らされていた。  亜希子は初めて、埋め込まれた白枝の量感を残酷なものだと意識した。それはまた、慎平を裏切っていることの量感をも、残酷に思い知らせていた。 (どうしてるんだろう? 慎平は)  そんな思いが、亜希子の脳裏に、ちらちらと閃光のようにはしる。(今ごろ、殺し屋を逃れてどこかを逃げ回っているのだろうか。それとも、もう東京にきているのだろうか) 「亜希子さん、枕をはずしなさい。窒息しますよ」 「いや、いやッ」 「ばかだなあ。苦しいくせに」  白枝はみっしりと動いた。  亜希子の、反応を示してはならないという戒(いまし)めは、もはや通用しなくなっていた。  枕で隠しているため、顔が苦しかった。苦しくなるほど、息が乱れているし、声をあげてもいるのだった。  急に汗が噴きだし、亜希子の顔と胸に流れた。背中までぐっしょりと濡れてしまっていた。  いつもよりも、全身に力がはいっていたということになる。  パッと、枕が飛ばされた。  あッ、と亜希子は顔をふった。  まっ赤な顔になっていた。  情欲したような顔であった。 「ああッ」  亜希子は、両手を白枝の背中にまわし、反(そ)りながら叫んでいた。 「ああッ、あたし……なにもかも……どうかなりそう」 2  浴室から、湯の音が響く。  白枝が昼風呂を使っているのだ。  白枝はゆうべの深夜の訪問以来、亜希子の別荘を去ろうとはしなかった。二、三日、暇ができたので、ゆっくりくつろぐと言っているが、亜希子にはふと、自分を監視しにきたのではないか、という気さえした。 「本当に、お仕事、いいの?」  亜希子は、ドア越しにきいた。  洗濯機を回している時である。 「ああ、事務所の者にまかせている。亜希子さんの返事をきくまでは、ゆっくりしていきますよ」  もしや、と亜希子は思った。もしや慎平がここを訪れるのを、白枝は見張っているのではないか?  そんな気がする。もしそうなら、警戒しなければならない。白枝を何となしに警戒する気持ちが、ゆうべから亜希子の中に、しっかりと芽ばえはじめているのだ。  その時、電話が鳴りはじめた。  亜希子は急いでリビングに走り、受話器を把(と)った。 「はい、船山ですが」  小声で返事をする。  もしや慎平では、と思ったからだ。 「もしもし……ぼくです」  慎平ではなかった。  だが、もっと意外な男であった。 「小野寺です。憶(おぼ)えてますか?」 「まあ、小野寺さん!」  思わず大声になりかけて、亜希子はうろたえて受話器を手でかばった。  憶えているどころではない。初恋の男。そして離婚した直後も、新宿のラブホテルで亜希子がはじめて、肉体的に燃えた相手ではないか。 「びっくりしたわ。どうしたの?」 「用件だけ言います。そこに、白枝という弁護士がいるでしょう?」 「ええ、います。それが——?」  思わず、小声になった。 「ちょっと、お話があります。その男に気づかれないように、麓(ふもと)まで降りてきて下さい。ぼくは今、伊東の駅前の喫茶店にいます」  異様な気がした。小野寺は、悪戯(いたずら)に人をかつぐような男ではない。白枝の耳が憚(はばか)られたので、亜希子は小声で喫茶店の名前をきき、三十分後にそこにゆく、と約束した。  小野寺はなぜ急に、電話をよこしたのだろう。  自分が一碧湖の近くの伊豆の別荘にいることまで、どうして知ったのか。それに、白枝について報告したいこと、というのはどういうことか。  亜希子は、にわかに胸騒ぎを憶えた。大急ぎで外出支度をし、裏口から駐車場に降りた。  駐車場から車をだそうとした時、エンジン音で気づいた白枝が、浴室の窓から顔をだした。 「どこにゆくんです?」 「ちょっと、お買物。伊東まで。すぐに戻ります。ゆっくりしてて」  アクセルを踏んだ。後ろで白枝の眼が、青白く光ったような気がした。  亜希子は車のスピードをあげた。  なんとはなしに、自分や白枝や、慎平をめぐって、予想もしない恐ろしい事態が急速に動いてきつつある、という予感に胸が慄(ふる)えた。  喫茶店は、すぐにわかった。  小野寺は窓際の席に、待っていた。 「お呼びたてして、すみません」 「突然で、びっくりしたわ」  亜希子がむかいに坐ると、 「少しやつれましたね」  小野寺は近々と、いたわるようにして見つめ、意外なことを切りだした。 「亜希子さん、気をつけたほうがいい。今、あなたの別荘に押しかけている弁護士。あいつには裏がある。甘言にのって、結婚などしてはいけませんよ」  単刀直入にいわれて、亜希子は、え、と驚き、 「どうして?」 「これを、見て下さい」  小野寺がさしだしたのは、週刊誌の記事であった。一人の転落弁護士の犯罪が、特集されていた。といっても、そこに書かれている人物は、なにも白枝庸介本人というわけではなかった。 「これが……何か?」 「黙って、眼を通して下さい」  その記事には、時価三百億円といわれる東京・赤坂のキャバレー「ロイヤル」の跡地売却話にからんで、東京弁護士会に所属していた元弁護士ら二人が、都内のある大手不動産会社を相手に、約五億円を詐取し、東京地検に逮捕された事件を報じ、地上げ屋まがいの巨額詐取にかかわっていた弁護士の転落話が特集されていた。  逮捕された木本光雄というその弁護士は、名門私大の法科を出て弁護士を開業、土地問題がらみの民事訴訟で手腕を発揮するかたわら、自分でも「平和商会」という不動産会社を設立。社長に友人の経済学者西脇潤三という男を据(す)え、法曹人としては考えられないくらいの、事業家肌の経営をやっていたという。しかし一度、大型の土地取引に失敗したあと、借金地獄に陥って、今度の不動産詐欺まで引きおこすに至ったというのである。  亜希子は、それを最後まで読まないうちに、耳の奥にキーンと鳴る鋭い金属音をきいた。  そこには、白枝庸介のことは、一行も載(の)ってはいなかった。だが、西脇潤三という名前には、たしかに一度、痛烈な、そして余りにも鮮かな記憶があった。  亜希子が、神戸に行った時だ。新幹線で偶然、一緒になったと思っていたが、あれは偶然ではなかったのではないか。亜希子はあの時、グリーン車にのっていて、座席指定ではあったが、車内はがらがらに空いていたので、狙って坐ろうとすれば、あの男も亜希子の傍に坐ることができたわけである。  その上、神戸の六甲山ホテルでもまた会い、六甲ドライブまでして、とうとう……誘惑されて、神戸のシティホテルで激しいひとときをすごした男ではないか。  あの男が、「平和商会」の社長。いわば、悪質地上げ屋グループのボスまがいの男であったとすれば、白枝庸介とも当然、どこかでつながっているのではないか。  亜希子は、本能的にそれを感じた。  なぜだかは、わからない。小野寺もそれを察して、わざわざ忠告しに来てくれたのだろうか。  亜希子は、運ばれてきたコーヒー茶碗に手をつけた。  とっさに、小野寺には何を、どうきいていいのか、わからなかった。  窓外の白い陽射しが、急に金属的な光沢をまして、ぎらついてきたような気がした。 「変な男ね」  亜希子は呟(つぶや)いた。「この西脇潤三という男、一度、会ったことがあるわ。たしか大学の講師をしながら、西脇経済研究所というものを主宰しているときいたけど」  小野寺はこたえた。 「ええ、専門は流態経済学という新しい世相学ですが、得体の知れない男なんです。今度の赤坂の事件では、黒幕と噂されるだけで逮捕されてはいませんが、その西脇と白枝庸介とは、ある民事の係争を引き受けて以来、何かと密接な関係にあるようです。それでぼくも、今度のあなたたちのこと、どうにも気になって——」 「でも、どうして?」  亜希子はきいた。「どうして小野寺さん、私のためにそんな忠告までしてくれるの?」 「そうマジにきかれると、照れちゃうなあ」  小野寺は顔を伏せ、コーヒーカップをスプーンで、かきまわした。 「いつぞやほら、新宿であなたたちの偽装離婚のことを聞いたでしょう。ぼくだって、あなたに興味と未練が残っています。惚れているのかもしれない。それで気になって、偽装離婚の正体というものを調べたんです。すると、仕掛けたのは白枝庸介。しかも今、白枝はあなたに接近し、深い関係にある。ヘンだな、と思って、あの弁護士のことを調べているうち、色々な人脈が出てきて、こりゃあ危いな、ということに気づいたんです」  亜希子は、溜息を洩らした。  小野寺の親切はありがたかった。  でも亜希子には、当面する自分たちの事態や、白枝の位置、陰謀というものの正体が、まだよく飲みこめないのである。 「……ぼくにも、詳しいことはわかりません。白枝庸介自身は、悪徳弁護士ではない。むしろ、二代目の坊ちゃんかもしれない。しかし、たとえば、白枝は何かの弱味を、西脇や木本に握られていたとする。そのため、なかば脅迫されて、円高で苦境に陥っていた船山さんの会社を乗っ取る計画の一翼を担(にな)わされていた。つまり、船山貿易がもつ日本橋の老巧ビルや地所、そして時価三十億円に値上がりした成城の家屋敷を乗っ取る計画の一翼をです。白枝の役割りは、さほど悪どいことではない。船山慎平に偽装離婚を焚(た)きつけ、あわよくば、亜希子さん、あなたを誘惑する。もっとうまくゆけば、あなたと結婚してしまう。そうすれば、かつて船山さんが所有していた成城や伊豆の資産はまるまる、白枝のものになってしまい、いわば、一味はそれをどうにでも処分できるじゃありませんか」  もういい。もう言わないで——。  亜希子は、視線を窓外にむけた。  駅前に、白い陽が射していた。  海をすぐ傍に控えているので、伊東駅前は夏場は混むが、今は閑散としている。  亜希子は窓から、駅前の風景を眺めながら、胸が今、キーンと、一本の焔のように燃えているのを感じた。 (どういう理由にせよ、白枝は私を欺(だま)していたんだわ!)  コーヒー茶碗を握る手が慄えた。 3  新宿のバー街に近い通りだった。  立ちくらみがしたのは、電話ボックスを出た時である。僅かな瞬間だったが目まいを覚え、船山慎平は電話ボックスにつかまって、身体を支えた。が、身体は大地に吸いこまれるようにぐんぐん、地面に崩れてゆく。 「ちょっと、どうかしたのお?」  女の声がした。慎平の後に電話ボックスに入り、ダイヤルを回そうとした視野に、ガラス戸の外で倒れる男の姿を見て、びっくりして飛びだしてきたらしい。  慎平は、ゆっくりと首を振った。 「いいえ。どうもしません」 「まあ。お腹から血を——」  かなり熱があることが、身体を駆けぬけてゆく悪寒(おかん)でわかった。病院を脱走し、大阪から東京まで新幹線にもぐり込んで、なんとか戻りはしたが、新宿にきて、成城の亜希子に電話を入れた。ところが受話器を、誰も取りあげはしなかったのである。  何度も電話をした。同じだった。高熱と悪寒(おかん)。亜希子はどこへ行ったのか。くいしばった力も、とうとう、そこでぷつんと切れたように、電話ボックスの外に出たとたん、激しい目まいがしたのである。 「まあ、熱がすごい!」  女は、慎平の額に(ひたい)手を触れ、 「いけない。大変な熱だわ。あんた、行くところあるの?」 「旅館か、ホテルを捜している」 「おかね、持っているの?」 「いまは、ない。しかし、電話さえつながれば……」 「どうせ、そんなことだろうと思った。いらっしゃい。こんなところで、みっともない。さあ」  腕をとって、肩にかけた。 「どこへ?」 「どこでもいいじゃないの。放っとくとあんた、死んじゃうわよ」  タクシーに乗せられた。どこをどう走ったかは覚えていない。気がつくと、六畳一間のアパートに運びこまれ、ふとんの中に寝かされていた。  その上、悪寒がつづく身体を、女は裸で温めてくれていたのだ。ふとんの中で、ぐらつく頭を支えているのが、乳房だとわかって、慎平はだるい唇をふるわせて、礼を言った。 「迷惑をかけて……すまん」 「そうね。大迷惑よ」  女は、くちは悪いが気立ての優しい女のようである。それに仕事も、おおよそは見当がつく。 「おかげで、今夜は稼(かせ)ぎにもゆけやしない。でもさあ、あたしが勝手にやっていることだから、あんた、恩に着ることはないわよ」 「なんとお礼を言ったらいいか」 「礼なんか、いらないと言ってるでしょう。怒るわよ。セックスなしで、男を裸にして抱くの、私だってはじめてよ。ちょっぴり、感動もんね。たまには、こういうこともあっていいわ。どう? まだ、寒い?」 「ああ、おかげで。なんとか」  女は裸の四肢をしっかりと搦(から)めて、暖かく抱いてくれた。セックスなしの女の裸身が、こんなにもありがたいことを、慎平は初めて知った。  慄えながら、夜が更けてゆく。  翌日も、熱は下がらなかった。だが悪寒は去り、起きあがれないほどではなくなった。腹部の傷は縫合されており、幸い、内臓には損傷はなかったので、外傷部分さえ具合が落着けば、すぐにも立ちあがれる。それでも、女は外出を許さず、昼間は手料理をつくり、慎平を介抱(かいほう)してくれるのだった。  窓から、木造モルタルのアパート群がみえる。新大久保のあたりか。二日間、名前さえも知らないその女の部屋に匿(かく)まわれ、傷の手当てを受け、食事をふるまわれているうち、熱も下がったし、体力もついてきて、慎平はすぐにもそこを出てゆきたいと思った。 「だめよ。私の留守の間に外出しては——」  その日、女は昼頃、買い物に出かけた。 (そろそろ、ゆくべきだな)  慎平は、女に感謝の念を置いて、立ちあがった。 4  白枝庸介は、別荘を去ろうとはしなかった。  亜希子は伊東駅前で小野寺と別れて別荘に戻っても、最初の日、小野寺から得た知識や、白枝たちの企(たくら)みについては、素知らぬふりをして通すことにした。  それによって、反対に、白枝たちの企みをそれとなく観察することができる。また現実問題、亜希子としては、何といっても、慎平に早くここにきてもらいたいのだ。決着は、彼のいる眼の前でつけてやりたいのだ。  そう考えている。だがそれは同時に、白枝が最(もつと)も警戒しているところであって、彼は亜希子を慎平から切りはなすために、ここに居すわっているのである。  白枝はだがあの日以来、亜希子の態度の変化に何かを感じとったらしい。さすがに、最初の夜のように、挑(いど)んでこようとはしない。あくる日曜日の午後、 「亜希子さん。あなたはぼくに何かを隠していますね?」  白枝はテニスから戻り、じろっと睨んだ。 「私? なんにも——」 「おととい、伊東に出たのは、船山と連絡を取ったのじゃありませんか?」 「いいえ」亜希子は逆に、「彼、もう東京に戻っているのですか?」 「知りません。伊東には、何しに行ってたんです?」 「お買物よ」 「そんなふうには見えなかったが」 「どうして疑うんです?」 「電話が鳴った。そしてあなたは飛びだした。外から呼び出されたに違いない。誰が呼びだしたか、おおよそは見当がつく——」 「それが、船山だというの?」 「そうです。やつが病院を脱走してこの近くまで、きたのに違いない。それであなたと連絡をとった。え? 違いますか?」  白枝の眼に、青白いものが光った。彼は歩み寄って、亜希子の腕を、ぐいと掴んだ。 「私が外で誰と会おうと、勝手じゃありませんか!」 「そういうわけには、参らない。やつが東京にもぐりこんだら、ぼくやあなたは、危険な状態におちいる。ぼくはそれを防ぎたいんです」 「うそおっしゃい!」  亜希子ははじめて、激しい言葉使いをした。  もう、真相を糺(ただ)すべきかもしれないと思った。 「白枝さん、あなたは私をだましていましたわね。あなたは、経済マフィアの西脇潤三たちと組んで、私たち夫婦を破滅させ、船山貿易のビルや成城の家屋敷、この別荘までを乗っ取ろうという企みに、加担してるんです。違いますか!」  一気に、そこまで言った。さすがにきびしい口調で、亜希子は白枝を問いつめた。 「はて、何のことだろう?」  白枝は一瞬、窓の外をむいて、とぼけた。 「白ばっくれるのは、もういい加減になさい。これは何です!」  亜希子は、小野寺から受けとってきた週刊誌をテーブルに叩きつけた。 「赤坂のロイヤル跡地をめぐる地上げ屋グループの犯罪。暗躍した弁護士。むろん、あなたのことは載ってはいません。でも、あなたはこの連中と、どこかでつながっています。いえ、はじめからこの連中とぐるだったんです。どうです、白状なさい!」 「ほう、妙なことを言う」  白枝が立ったまま、煙草に火をつけた。 「誰に聞いたんです? そんなこと——」  焔が噴きだすような眼であった。 「誰でもいいでしょ。事情に詳しい方です。私はもう、欺(だま)されませんよ。帰って下さい」 「なるほど——」  白枝の眼が、ますます、油を帯びた。「帰れというんですか? このぼくに。そうまで言われるんなら、仕方がない。真実を話しましょう。ぼくはその連中と無関係とはいわない。だからこそ、あなたたちを守ろうとしてるんです」 「守る? さんざん喰いものにしようと企みながら、よくも白々しいことが言えますわね。恥知らず!」 「何といわれてもいい。たしかにぼくは連中に船山亜希子を抱きこめといわれている。しかし、ぼくはむしろ、あなたをその連中の毒牙から守ろうとしているんです。嘘はいわない。ねえ、亜希子さん」  白枝がまたもあつかましく、抱擁しようとした。 「やめて!」  亜希子は身を揉んだはずみに、白枝を突きとばしていた。よろめいて、リビングの椅子をひっくりかえした白枝が、テーブルにもたれて起きあがり、青白い眼をむけた。 「ほう。これは驚いた。ぼくを突きとばして、あなたは無事ですむとでも思っているのですか?」 「あなたがいやらしいことをするからです! 天罰よ、帰って」  亜希子は、ひらき直った。 「今のことではない。ぼくを突き放したら、あなたは危ない。これまでだってずっと、ぼくはあなたをかばってきたんだ。あなたは一度、悪質取立屋の宗田らに襲われたはずです。あの連中、放っておくともっとあなたを泥だらけにして、人妻売春グループにでも叩き売ろうとしてたんだ。それをぼくは、必死でかばってきた。これからだって」 「まあ! あなたは……あなたは宗田らとも関係があったというの?」 「そうですよ。ぼくはこれ以上、いやがらせをするなと、連中をあなたから引き離したんです。これからだってあなたを放っておくと危ない。ねえ、だから——」  あつかましい。この期に及んでもなお結婚を迫ろうとしている。もっともそれが白枝の任務だとするなら、彼はどこまでも喰いさがるだろう。 「いやです。お断りします。私はまだ、慎平を愛しております」  亜希子は、キッパリと言った。 (そうだわ。慎平が襲われたというのも、この連中の企みなんだわ)  そう思うと、卑劣さに腸が煮える。 「帰って下さい。出ていって。もう二度と、私の前に現れないで!」 「なるほど——」  白枝が睨(にら)んだ。その眼の奥に、男の嫉妬の炎が揺れた。「じゃ、こういうものを街にばら撒(ま)かれても、あなたは困りませんか。ぼくじゃない。連中がやろうというんですがね」  白枝は、ぱっとテーブルの上に数枚の写真を叩きつけた。カラー写真。五枚もあった。  あっ、と亜希子は悲鳴をあげた。  一つは、成城の自宅で宗田らにレイプされていた写真。もう一つは、ホテルの一室。裸の亜希子が恥ずかしい格好で男を迎え入れている。部屋の具合から、神戸の六甲山ホテルであることがわかった。眠ったままの亜希子を犯している男は、見知らぬ男だった。 (あの時……)と閃(ひらめ)めいた。  朝、眼覚めた時、下着をつけていなかったことを思いだした。すると私はこの白枝と寝た時、ワインの中に睡眠薬でも入れられて、泥のように眠らされていたのか。そこを、深夜——。 (それなら、白枝が協力したに違いない! なんて卑劣な男!)  写真から眼をあげた時、亜希子の瞳に憎悪の炎が燃え立っていた。それは殺意といってもよかった。  その眼がテーブルの上の果物ナイフにそそがれ、自分の手がそちらへのびているのを、亜希子は気づかなかった。  テーブルに広げられたレイプ写真は、あまりにも露骨だった。怒りが湧いた。殺意が湧いた。身体を許しただけではなく、一度は信じ、愛したこともある白枝から受けたその裏切りは、あまりにも酷い——。 「白枝さん」  亜希子は、静かに言った。 「よくも、よくも……」  声がつづかなかった。  白枝が亜希子の手に握られているナイフを見て、ぎょっとした。 「よくも今まで、骨の髄まで私を欺していたわね! 許せません」  亜希子は逆上していた。夜叉(やしや)のような顔になっていた。 「殺してやる! 殺してやるわ!」  ナイフをふりあげた。 「やめろ!」  白枝が叫んだ。  振りあげられたナイフが、白枝の胸に突き刺さる寸前、白枝は身を躱(かわ)して、その手首を掴んだ。 「ばか!」怒鳴った。「人殺しまでするつもりか、亜希子さん! ナイフをすてるんだ!」 「放して! その手を放して。あなたなんか、殺してやる!」  亜希子はもがいた。本当に殺意が燃えていた。二人はもみあったまま、椅子を倒し、テーブルにどーんと、ぶつかってゆく。 「やめろ! ナイフを捨てるんだ」 「いやよ。いやよ、放して!」  亜希子の髪が乱れて、ぱっと顔にかかって、光った。  その時である。表で自動車の駐(と)まる音がしたのだ。ドアがあけられ、どかどかと、足音が響いて、数人の男が別荘の中に駆けこんできた。  揉みあっていた亜希子は、そちらをみて、あっと叫んだ。  見憶えがある。  西脇潤三と宗田康晴。ほかに二人、見知らぬ男が立っている。 「白枝さん、そのざまはなんです。あんたにまかせていては、間尺(ましやく)にあわない。事態は急を告げている。船山がもう東京に潜入しているんだ。その女、私たちに委(まか)せなさい」 「しかし、無茶なことは——」 「この期に及んで、なに言ってるんです。あんたがいつまでもそんなぐあいに色男ぶってるから、そんな羽目になるんだ。たかが人妻に、殺されそうになって!」  宗田の声が割れ鐘のように響いた。 「橋本ッ、車につれこめ!」 (まあ! この男たち……)  亜希子は、呆然となった。  とっさには、何をどうしたらよいか亜希子には思い浮かばなかった。  逃げようとしたはずみに、亜希子は背の高い、見知らぬ男に背後から抱えられていた。  口にさるぐつわをかけられ、手足を縛られた。亜希子はそのまま、数人の男たちによって、表に駐まっているワゴン車の中に連れ込まれたのである。 5  慎平は、壁にもたれていた。  マンションの入り口を見張っているのだ。夜、九時をまわっていた。矢島晴美は、もうすぐ帰ってくるだろう。  そこは、高田馬場のはずれだった。  病院から脱走し、慎平が東京に戻って三日がたつ。傷はまだ痛むが、自分が襲われた陰謀の謎を探るには、もはや悠長なことをしてはおれなかった。  今日の午後、新大久保の女の部屋を出て、成城の家に寄ってみると、家は留守だった。伊豆の別荘かと思い、そちらに電話しようとしたところ、はじめてきく男の声から反対に、電話が入ったのである。 「ぼく、小野寺と申します。急いでいますので事情は省(はぶ)きますが、奥さんが大変です。今日の午後、伊豆の別荘から、西脇や宗田や白枝らによって、車でどこかに運び去られましたよ!」  声は切迫していた。慎平は受話器を持ったまま、ぎょっとした。親切に教えてくれた小野寺という男に、慎平は怪訝(けげん)なものを感じはしたが、「車は、品川ナンバー83の768×。グリーンのワゴン車です。都内の、どこかのアジトに亜希子さんを運びこんだと思えます。彼女の安全が心配です。ぼくも協力しますから、船山さん、至急、心当たりを動いて下さい」  電話は、そう言って切れた。  話の中味に、信憑性(しんぴようせい)があった。  それで、慎平はすぐに動きだしたのだ。首謀者の西脇といえば、大阪で接触した矢島晴美の名刺にあった「西脇経済研究所」の主宰者に違いない。その住所、電話番号はメモしていたので、それを手掛かりに、新宿に急いだ。  貸しビルの事務所を探しあてると、大阪で出会った女、矢島晴美が一人で電話番をしているのが、窓ごしにみえた。そこで、デパートの配送センターの者だといって外から電話を入れ、住所が不完全で荷物が戻っていると言って慎平は晴美の住所を聞きだしたのだ。  高田馬場のマンションの表通りに、車のヘッドライトが光の矢の束(たば)のように流れている。やがて、その晴美のマンションの表に、一台のタクシーが駐まった。慎平は晴美をつかまえて、亜希子の居場所や陰謀の内幕を吐かせるつもりである。  タクシーから降りたった女は、矢島晴美に間違いなかった。  大阪ではボーイッシュな作りで、妖精のような感じだったが、今はワンピースに赤いコートだ。年齢も、結構、くっているのかもしれない。  晴美がエレベーターに乗りこんだ時、慎平は足音もたてずに近づき、一緒にエレベーターにとびこんでいた。 「あなたは——」  ふりむいた晴美の眼が、急に見ひらかれた時、慎平は晴美の脇腹にナイフを押しあてていた。 「話がききたい。部屋までゆこう。騒いだらどうなるかわかっているな」  晴美は叫ぼうとした。だが、エレベーターは閉まっている。五階まで昇る間、慎平は片手で晴美の口をふさぎ、抵抗ひとつ、許さなかった。  矢島晴美は、騒がなかった。  廊下は静まりかえっている。  人影もなかった。慎平は晴美を抱えるように部屋の前に立ち、ドアの鍵をあけさせた。 「逃げようとしても、だめだぞ。一緒にはいるんだ」  ふてくされたように晴美は入った。  慎平はうしろ手に、ドアを閉めた。  ドアロックをおろした時、 「あたしを、どうしようというの」  晴美が暴れた。入ったところのたたきで、まだ靴を脱いではいなかった。なりゆきによっては、すぐにでも逃げだそうというつもりなのだ。 「話をききたい」  慎平の腕が、動いた。  晴美の両手を、壁に押しつけた。  両手首を握り、はりつけのように身体ごと壁に押しつけているので、晴美は身動きがとれない。 「おれは大阪で、あんたたちに殺されそうになった。だがこうして、東京に戻ってきた。これは遊びじゃないってことが、わかるな」 「だったら、何だと言うの!」 「亜希子が伊豆の別荘から、西脇らにどこかに連れ去られたらしい。どこに運ばれたか、居場所を言え!」 「知らないわ。そんなこと」 「あんたが知らんはずはない。西脇らのアジトはどこだ!」 「殺されたって言いませんからね」  晴美はそっぽをむいた。その顎に風を巻いて、拳(こぶし)が打ちこまれていた。ごつん、と晴美の頭が壁にあたり、悲鳴がわいた。 「おれは女をいじめるのは好きじゃない。だが、あの陸橋でのあんたの仕打ちは憶えているぞ。殺人未遂どころか、あれは殺人の意志そのものだった。これぐらいで済むと思うか」  慎平の拳が再び、固められた。  顔面を狙うとみせかけ、鳩尾(みぞおち)に激しいブローを打ち込んだ。くう、と女は苦鳴を洩らして、身を折った。 「どうだ。効いたか」  もう一撃、拳を固めたとき、 「待って!」  晴美が叫んだ。 「あたしを殴らないで!」 「殴りたくはない。おれに手間ひまをとらせるな。怪我ですめばいいが、加減を間違えると、生命を落とすぞ」  慎平は、自分の不幸をすべて、他人のせいにしたがる人間ではない。自分が見舞われた今度の恐ろしい殺人未遂劇、そして血を流した受傷も、考えてみれば、自分がそもそも、偽装離婚などということを企んだことの酬(むく)いといえば、そう言えなくはないのである。  あの時は白枝にそそのかされたにせよ、藁(わら)をもつかむ思いだったにせよ、愛している亜希子のためになればと考えたにせよ、詮じつめれば、彼女の心情を犠牲にしてまで、自分の資産を守ろうとしたのではないか。  そのために慰謝料として亜希子に渡したつもりの、いわば宙ぶらりんとなった巨億の資産をめぐって、それを奪取しようとする欲望や愛憎が渦巻いたとすれば、かなりの部分、責任は自分にもある。  しかし、だからといって、慎平をこのように亡(な)きものにしようと企んだ悪意の存在には、頬かむりをすることはできないのである。  その悪意は、当然、亜希子の上にも襲いかかっているはずだ。慎平は、彼女の安全を図(はか)らねばならない。奪い返し、事件の核心をつかむまでは、相当の暴力をも辞さないとする風の唸り声を、胸の奥にきいていた。  晴美はしかし、しぶとい女だ。多少の暴力にはひるまなかった。慎平の手が跳ねた。コートのボタンが跳ねとび、ワンピースの前面がナイフで裂かれた。ナイフはスリップもブラジャーも裂いたので、晴美の白い肌と、乳房が現れたことになる。 「言え! 亜希子はいまどこに隠している! おれを殺そうとした陰謀は、どう仕組まれたんだ。宮村京子を殺したやつは、誰だ! おれたちの偽装離婚につけ入って、西脇や白枝や宗田らは何を、どうしようとしているんだ! 知っているんだろう、言え!」  慎平の怒りは一気に爆発していた。  怒りの手が、晴美の乳房をつかみ、ぐいと押した。  晴美の顔が、人形のようにのけぞった。  慎平は手を休めなかった。つかんだ乳房を揉み、晴美の股間の陰阜(いんぷ)を、膝で力いっぱい押しつけた。かたわら、赦(ゆる)しのない右手が晴美の首すじに届く。  そんな具合に身体ごと壁に押しつけられ、妖精のような細い首すじに鋼鉄のごとき掌の輪をあてがわれて、悶絶寸前に晴美がやっと洩らした事実は、次のようなものである。もっとも、これとて、ほぼ慎平が想像していたことであって、それを吐いたからといって、西脇グループの一員としての晴美の立場が危うくなるといったことではないので、晴美はとうとう、恩着せがましく告白したのかもしれない。  こうだ。——船山貿易が円高の輸出差損から資金繰りに苦しくなり、不渡手形をだし、苦境に陥った時、「西脇経済研究所」の西脇は、白枝からその情報を得た。円高回避のため、船山慎平が会社を畳もうとしていることを、西脇らは知った。その時、西脇、白枝、宗田らで、今度の陰謀が図られたのだという。  ひとつは、船山貿易は相当、名の知られた会社だし、一定の資金さえ集められれば、当面の難関を突破して会社は立派に再建できる。だが、船山は、会社を「潰(つぶ)す」ことを念頭において再出発を期しているため、この際、「船山貿易」を乗っ取ってしまおう。会社整理を引き受けた白枝弁護士事務所で全株を買いうけ、次の代表取締役を作りさえすれば、「会社」は別人物によって、継続できるではないか。  代表取締役には西脇潤三が坐り、そのグループで運営する。しかし、再建には資金がいる。その資金源として狙われたのが、船山個人がもつ成城の家屋敷や伊豆の別荘である。  さいわい、成城の一等地は、都心地価狂騰のあおりで、十倍近くにもなり、二、三十億円にもはねあがってきた。これをせしめるには、船山を偽装離婚させ、その妻・亜希子を誘惑し、白枝が彼女と結婚することで、個人資産を乗っ取ることである。  もし、それが叶(かな)わなければ、最終的には何らかの口実を設けて、「権利譲渡証」に、亜希子の承諾印を捺(お)させるだけでいい——。 「ねえ、そういうことよ。だから、白枝が亜希子に近づいたのよ。あの二人、もうとっくに出来あがって、結婚の約束までしているわ」 (結婚の約束? 亜希子が?)  まさか! 慎平はかっと頭に血がのぼり、亜希子が白枝に犯され、もてあそばれている情景が、脳裏を灼(や)いた。  だが、冷静に尋問をつづけた。 「宮村京子を殺したのは、誰だ!」 「あたし……知らない——」  晴美は乳房を揉まれ、微(かす)かな喘(あえ)ぎ声を洩らしながら言った。 「否定してもだめだ。あんたの相棒のあの殺し屋だろう。橋本とかいう」  そうであるに違いない、と慎平は見ている。あの日、駒場東大前の京子のアパートですれ違った男は、大阪まで現れたあのトレンチコートの殺し屋に、そっくりだった。つまり、実行犯はあいつだ——。 「え? そうだな!」 「知ってるのなら、あたしに聞くこともないでしょ」  晴美がふてくされたように答えた。事実を認めたことになる。 「あと一つで、終わりにしよう。亜希子は今、どこにいる?」  慎平は、晴美の首を締めあげた。ぐいぐいと締めた。  晴美の顔が、蒼黒くなった。 「言え! 亜希子は今どこにつれこまれてるんだ!」  慎平の語気に、殺気がみなぎった。  くう、と晴美は号(な)いた。 「苦しいッ……放して!」 「言うか」 「言う。言うから手を放して」  晴美はとうとう、ぐったりした。小さな声で吐いた。——北区道潅山下の自宅。西脇はそこに貸しビルをもっていて、そこに亜希子をつれこんでいるらしい。  あまり、爽(さわ)やかな気分ではない。暴力に対しては無力なはずの女に、それを加えたあと味の悪さが、高田馬場から道潅山下にむかう慎平の胸に、砂のような感触を残した。しかし、亜希子に対しても万一、同じ性質のものが加えられているとすると、容赦もできないわけだ。慎平は途中、上野に寄って腹拵(はらごしら)えと、幾つかの準備をほどこし、西脇所有の自宅兼貸しビルの所在地を調べ、時間を見はからってタクシーでそちらにむかった。  深夜から雨になった。  雨は吹き降りだった。ビルの入り口の門灯の明かりに、ビニールの雨合羽(あまがつぱ)をきた慎平の姿が浮かんだ。大粒の雨がその雨合羽の肩にはじけていた。  慎平は入り口のブザーを押した。  すぐには返事がなかった。そこは道潅山下の一つ裏通りの古ぼけた大きな雑居ビルであった。三階までのテナントはすべて閉まっており、四階以上にこのビルの主である西脇潤三や、管理人夫婦の居住区があるときいている。  三度目にブザーを押した時、 「どなた?」  インターフォンから返事が返った。 「電報でーす」  船山慎平は、きわめてクラシックな方法を使った。深夜の訪問者はたいてい、電報配達員か、警察官か、強盗でしかない。  やがて、シャッターの内側に足音がきこえ、通用口の嵌(は)め込みドアがあけられた。管理人の妻らしい中年女の顔が覗(のぞ)いた時、慎平はもうするっと、ドアの内側に入っていた。 「あんた、電報配達員?」  不審気な顔をむけた女の鳩尾(みぞおち)に、慎平は拳(こぶし)を打ちこんだ。女が唸(うな)ってうずくまり、コンクリートの土間に倒れて気絶したのを身定めて、慎平は奥へ走った。  エレベーターのボタンを押す。  乗った。このビルの構造は、晴美に詳しくきいているのだ。西脇潤三は、五階の居住区に若い愛人とともに寝泊まりをしているらしい。  ビルには地下駐車場や、裏には閉鎖した板金工場や倉庫などがあるらしいので、亜希子はいずれどこかにつれこまれているはずだが、慎平はまず首謀者の西脇を急襲するつもりだった。  エレベーターを五階で降りた。  そこはすでに居住区だった。通路には赤いカーペットが敷かれ、幾つかの部屋はドアや襖(ふすま)で仕切られていた。廊下の端には、筧(かけい)や小さな竹林や灯篭(とうろう)が配され、ビル内料亭にでも入ったような恐ろしく贅沢(ぜいたく)な居住空間だった。  西脇はここに愛人を住まわせ、テナント料をそっくり愛人への手当てとしている。そのため、愛人も働きがいがあるし、本人は一銭も腹が痛まないとあって、実に当世風の、頭のいいやり方といえた。西脇自身も週の半分はここで暮らし、新宿のオフィスとともに、もろもろの仕事の牙城(がじよう)としているらしい。  その部屋は、奥にあった。金泥塗りの襖だった。耳をすましたが、話し声はきこえなかった。  静かに襖をあけた。室内に、なまめかしい真紅のふとんが敷かれている。枕許にほの紅い行灯(あんどん)がともされ、部屋を明るませていた。  男と女の寝顔が見えた。男は中年だが、女はまだ若い。二人とも絡(から)みあって熟睡しているようだ。  慎平は靴のまま室内にあがり、なまめかしい真紅の掛けぶとんを、ぱッとめくった。男女は全裸だった。女の股間には、ティッシュがはさまれていた。凄まじい情事のあとだったようだ。  男が眼をさまし、次に女が眼をさまし、とろんとした眼で慎平を見ていたが、それが侵入者だと気づいて、悲鳴をあげ、女は男から飛び離れた。 「西脇だな、あんた」  慎平は男の枕を蹴りとばした。  西脇の頭が、すとんと落ちた。その側頭部を蹴りつけた。西脇がふとんから転がりながら、頭部への打撃よりも、心理的な驚愕から叫んだ。 「な……なんだ、おまえは!」  雨合羽のしずくが、ふとんの上にぽたぽたと落ちた。強盗ッ、強盗ッ、と男が叫んだ時、慎平の拳が顎に打ちこまれており、その声を封じた。  女が腰を抜かしたように動けない。枕許の電話機にのろのろと女の手がのびようとしたので、慎平は電話機を蹴りとばし、動くな、と命じておいて、 「おれは、強盗ではない。船山慎平という者だ。あんたが大阪の陸橋の上で、配下に命じてどういう仕打ちをしたか、憶えておろう」  殺人未遂。その淵から這いあがってきた慎平としたら、多少の暴力と疾風迅雷の襲撃は、これをおかしいとするにはあたるまい。  当事者なら、なおそう思うはずだ。西脇は、自分が殺されるとでも思ったらしく、ふとんの上を醜くあとずさりしながら、唇をふるわせた。 「おれに……おれに、何の用事だ。金なら……金なら、やるぞ」  慎平は雨合羽の下から、携(たずさ)えていたロープを取りだし、束(たば)ねた部分で顔面を殴りつけた。西脇が跳ね飛んだ。その首にロープを巻きつけた。締めると、西脇は蒼(あお)くなった。 「こ……殺すつもりか!」  嗄(しやが)れた声が洩れた。 「亜希子は今、どこにいる!」  慎平は静かにきいた。 「亜希子とは、誰のことだ」 「白ばっくれるな。おれの妻だ。あんたらが伊豆の別荘から、このビルに運びこんだときいている。どこに隠している。言え!」 「おれを……おれを殺すつもりか」 「お望みなら、そうしてやる。だがおれは、くるってはいない。亜希子を、愛している。亜希子が、たとえあんたらにどういう処置を受けていようと、おれの腕に取り戻したい。それだけだ。わかるか」  静かに言った。冷え冷えとした声だった。  雨合羽のしずくが、西脇の顔にもぽたぽたと落ちた。慎平の声と様子が異常に静かなだけに、よけいに西脇は恐怖を憶えたらしい。  身体をぶるっと慄わせ、もがいて逃げようとした。きゅっと、慎平はロープを絞った。手足をばたばたさせて、西脇は助けてくれッ、と叫んだ。 「言え、亜希子はどこだ。言わなければ、殺す!」 「このビルの地下室だ! 地下に広い駐車場がある。そこに……そこに……」  よし……これでもう、用はない。拳を二度打ち込んだ。顔面と鳩尾に打ち込んだ。西脇は呻いて、ぐったりとなった。  慎平は、これからの行動に邪魔をされたくはないので、裸の男女を縛りつけておき、二人とも、鳩尾に靴先を蹴りこんで気絶させた。西脇はいずれ殺人教唆(きようさ)、営利誘拐の首謀者として突きだしてやる。  慎平はエレベーターにのり、地下駐車場へ急いだ。  エレベーターは地下に着いた。  広い地下駐車場となっている。  蛍光灯が数台の車の屋根を明るませていた。亜希子はその車の中のどれかに入れられたままなのか。それとも管理事務所か、うしろの倉庫なのか。  慎平がもう一巻きのロープを携えて角をまがった瞬間、空気を裂く気合がはじけて、男が突っこんできた。  侵入者に気づいて、待ち伏せがいたらしい。刃物が手に光っていた。慎平は充分、警戒していたので躱(かわ)し、ロープの束を男の顔にはたきつけた。  男が二、三歩突んのめり、体勢をたて直した。ライトに顔が浮かんだ。いつか大阪の陸橋で待ち伏せていた男だった。 「あんたか。橋本といったな」 「まだ懲(こ)りずに来やがったか」  橋本は腰を落として、ドスをかまえ直した。さまになっている。雇兵らしい。慎平がロープの輪をしごいて、片手に太いやつを取りだした時、もう一人の男が横から慎平に突っこんできた。  慎平は体を開き、男の顔面に左肘を打ち込んだ。眼に入った。男は叫び声をあげて、腰から落ちた。  橋本がその隙(すき)を逃さなかった。体当たりする勢いだった。突っこんできた橋本の、ナイフを繰りだした手首をロープで強打し、腹を蹴りあげた。橋本は身体を二つに折り、片膝を床に突いた。その頭を横なぐりにロープではたきつけると、橋本の身体は壁ぎわまで転がった。  先刻のナイフの男が、立ちあがろうとしていた。距離はなかった。慎平は男の眼を狙って、ロープを横に振った。男はそれをナイフを持った手で払った。ロープが男の手首に絡みついた。慎平はロープを力まかせに引いた。男の身体が傾いた。慎平の鋭い蹴りが、男の脛(すね)に入った。男は踊るような格好で、床に転がった。  その瞬間だった。また起きあがろうとしていた橋本のほうへ、駆け込もうとした慎平の背後から、突然、自動車の排気音が湧いたのである。  異様な気配だった。  殺気だった気配だった。  ふりむいた。ヘッドライトが眩(まぶ)しかった。駐車場の片隅から、ヘッドライトをぎらぎらさせて、一台のワゴン車が突っこんできたのだ。 「くそッ。轢(ひ)き殺す気かッ」  慎平は床で二、三回転した。  かろうじて車を躱した。キキーッと、タイヤの音を軋ませて、慎平の身体すれすれを、ワゴン車は疾駆した。  轢きそこね、ワゴンは突きあたりでまた突然、バックしてくる。  さほど広くもない駐車場なのに、空きスペース一杯を縦横に使って、ワゴン車が猛牛のように、慎平にむかって突っかけてくる。慎平は二、三回、床を転がったはずみに手にふれた鉄棒を拾い、くそおッと吼(ほ)えた。  ワゴンが二度目に突っかけてきた時、慎平は必死の思いでフェンダーに飛びのった。  鉄棒で運転席の窓ガラスを叩き割った。運転席の男が、驚愕して瞳孔をひらいた。驚くべきことに、それは白枝庸介の顔だった。  割れたガラスの破片をあびて、かれは血だらけだった。その首すじを鉄棒で打った。白枝はハンドルにしがみついた。  車はコンクリートの柱に激突し、止まった。慎平は飛びおり、運転席のドアをあけ、白枝の身体を床にひきずりおろした。 「ま……待ってくれ!」  白枝は床を這って逃げようとした。  その肩に鉄棒を叩きつけた。骨が折れるような音が響いて、悲鳴が湧いた。 「おれは暴力をふるうのは嫌いだ。また、そんなことで解決できるような問題ではない。しかし、おれはきみを信じていた。そして裏切られた。こうでもしなければ、気がすまん。舌を切らんように、奥歯をしっかり噛みしめろ」  言い終わらないうち、風を巻いて慎平の拳が白枝の顎に炸裂(さくれつ)した。白枝の身体は吹っとび、壁にはねて、床にくずれた。 「ま、待ってくれ。説明する。これには、わけがあるんだ——」 「わけは、もう調べがついている。要するに、おまえらは円高で苦境に陥ったおれの会社の足許につけこみ、おれたちにクサビを打ち込んで夫婦別れをさせ、会社も、資産も乗っ取ろうとしたんだ。え、そうだろう!」 「待て。待ってくれ。おれはきみを裏切るつもりはなかった。おれにも事情があって、やむを得なかったんだ」 「ごたくはもういい。秘書の宮村京子は、なぜ殺されたんだ!」 「言う、言うから助けてくれ」 「話せ!」 「彼女はもともと、六本木時代から西脇潤三らとつながっていて、何かと協力させられていたようだが、埠頭(ふとう)倉庫の在庫品運びだしの秘密を知って、西脇を裏切ろうとした。おれたちの陰謀を、きみに告げようとしたんだ。おれは殺すまでもないと、ずいぶん引き止めたんだが、そこの……、橋本のやつが無茶をやらかして、罪をきみにかぶせようとしたんだ——」  この白枝とて、弁護士である。西脇に相当の弱味を握られていたのか。それにしても、駒場東大前で冷たくなっていた宮村京子が、哀れであった。  自分に、事実を告げてくれようとしたのかもしれない。慎平の胸に憤怒が湧いてきた。  実行犯、橋本も、警察につきだしてやる。 「亜希子は、どこだ!」 「車内だ。ワゴンの」  白枝が血だらけの顔をゆすった。  なにい、と慎平はふたたび、驚愕した。こいつは亜希子をのせた車で、このおれを何度も、轢き殺そうとしてたんだ——。  憤怒にかられ、白枝を殴り倒した。  慎平は跳ね起き、ワゴンの後部ドアに走った。 「おい、亜希子!」  ドアをあけると、亜希子は縛られ、さるぐつわをかけられたまま、ワゴンのライフスペースの中に転がされていた。 「おい、大丈夫かッ!」  亜希子は、頭をゆすった。  ううッ、と声が洩れた。  さるぐつわで、声が出ない。  飛びのった。さるぐつわをはずした。 「あなた!」  やっと、叫び声が洩れた。 「ありがとう。私……私……」 「話はあとだ。もう安心して、気を楽にしろ」  慎平が、亜希子の手を取って外に飛びだそうとした時、ワゴンの外に、もっと大勢の男たちの足音が殺到していた。この貸しビルにたむろしていた連中が、橋本らの危急を知って、駆けつけてきたらしく、獰猛(どうもう)な獣たちの気配と、じりっじりっと包囲しようとする殺気とが、地下駐車場に充満した。 「くそおおッ。おれだって——」  慎平が亜希子をつきとばし、鉄棒をしっかりと握り直した時、更に意外なことに、駐車場全体にパッと煌々(こうこう)とした光が射し、ラウドスピーカーの大音声がはじけたのである。 「暴力はやめなさい。警察です。婦女誘拐、殺人容疑できみたちを逮捕する。全員、武器をすてなさい!」  侵入路から装甲車が一台、すべりこんできた。装甲車の中から機動隊員が次々に飛び降りてきた。西脇の配下たちがあわてて散りはじめ、制服警官たちがそれを追った。  慎平が亜希子を抱え起こした時、傍に駆けこんできた一人の男がいた。 「間にあって、よかった。西脇らのアジトを突きとめて、警察を動かしました。さあ、あとは警察にまかせて」 「あなたは?」 「成城の家に電話を入れた小野寺です。伊豆からずっと、亜希子さんを掠(さら)った車を追ってたんです」 「そうですか。どういう事情だかわかりませんが……心から、感謝します」 「ぼくのことは通りすがりの者と思って下さい。とにかく、亜希子さんが無事でよかった。船山さんもこれに懲(こ)りて妙な偽装離婚など撤回することですよ。じゃ、ぼくはこれで——」  街に夜明けが訪れていた。  雨は上がっていて、アスファルトの道が光っている。道はまっすぐ、ビルの谷間や商店街をつらぬいている。商店街のシャッターがまだ降りたままのその夜明けの街を、二人の男女が無言で歩いていた。  無言がつづいていた。船山慎平と亜希子であった。地下駐車場の争闘が終わり、亜希子を拉致(らち)していた連中は全員、警察につかまり、現場でのあらかたの事情聴取が終わったところである。  いずれ、詳しい話は、正式に警察に出頭して尋問されることになろう。どう差し引いても、慎平と亜希子は被害者なので、多少の暴力沙汰の譴責(けんせき)は受けるにしても、供述調書への署名捺印(なついん)で釈放されるはずであった。  これで、宮村京子殺しも真犯人が見つかり、解決するわけだ。船山貿易の在庫品強奪事件も、西脇や宗田らの仕業(しわざ)であることが判明したわけだ。  だが、解決しない問題があと一つ、残っている。それは、一番、重大な問題だ。慎平と亜希子自身のこれからのことである。  船山慎平の一方的な離婚宣言に端を発した二人の波乱と、巻きこまれた運命と、局面ごとのあからさまな異性遍歴は、決して小さなものではなかった。どういう形であるにせよ、二人がそれらを許しあい、あるいは黙認しあい、新しい地平と生活にむかうには、まだまだ時間がかかると思われる。 「きみには、悪いことをしたと思っている。ぼくの一方的な思惑(おもわく)から、勝手に離婚宣言をして、ずいぶん、苦労をかけたようだ」  慎平はやっと亜希子の肩を抱いた。 「いいえ、おっしゃらないで」  亜希子は小さく身震いし、苦しそうな声をだした。「私こそ、愚かだったのよ。私のためにという……あなたの真心がわからなくて」  亜希子は、慎平が出ていったあとの激しい動揺や憎しみを思い出した。あのあとの幾人かの男遍歴や、心の旅路。それは慎平には、そっくり打ち明けてはならないことかもしれない。  私たち、これから、やり直せるかしら……?  二人が表通りの角に立った時、やっと上野のほうから一台のタクシーが走ってきた。  慎平は手をあげた。 「で、これからどうするの?」  亜希子がきいた。 「とにかく、一度、成城の家に戻ろう。もっともあそこは、もうおれの家ではないわけだ。きみがもし入れてくれればの話だが」  亜希子は、やっと笑った。 「どうせほかに行くところはないんでしょ。仕方がないわ。入れてあげる」  二人は、タクシーにのった。  タクシーは、走りだした。  過去をふりむくな——。  走りだしたタクシーの前面に、霧が晴れ、光が射しはじめていた。その曙光は、憎しみや反感より、和解と信頼への確かな手掛りが、二人の前途に射し染めはじめているようにも、見えた。 「まあ、あなた。脇腹から血が……」  慎平はシートにもたれたまま、いつのまにか亜希子の匂いに包まれて、気を失ってしまっていた。この数日の極度の緊張と疲労から、飢えた獣のごとく眠りを貪(むさぼ)りはじめていたのだ。 *この作品は、一九八六年九月から八七年二月まで、「デイリー・スポーツ」紙に連載した「人は獣を飼う」を改題、加筆訂正したものです。 講談社ノベルス版 一九八七年六月刊 講談社文庫版   一九九二年三月刊 成城官能夫人(せいじようかんのうふじん) *電子文庫パブリ版  南里征典(なんりせいてん) 著 (C) Seiten Nanri 1987 二〇〇一年一〇月一二日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。