南條竹則 酒仙   第一回     一  時は二十世紀末、平成の御世《みよ》。  春とはいってもまだ肌寒《はだざむ》い、早春のことであった。  恐れ入谷の鬼子母神から言問《こととい》通りを鶯谷《うぐいすだに》の方にたどって、とある交差点を下谷病院の方向に曲がる。庚申塚《こうしんづか》の角を小路《こみち》に折れて、つーっと行くと、質屋、仕出し屋、ふぐ提灯《ちようちん》の店などが立ちこんでいる。そのあたりに、『暮葉《くれは》』と書いた表札の出ている小さな門を見つけたら、木戸を開けて、両側を高垣《たかがき》で囲った細い私道を入っていくと、私道の奥にはまた木の門がある。その門を開けると、意外や、中は豁然《かつぜん》とうちひらけ、竹藪《たけやぶ》にかこまれた庭園の中に豪壮なお屋敷があらわれる。  江戸時代に建てられたそのお屋敷を、土地の人間は根岸御殿と呼んでいた。御殿の当主は大旦那様《おおだんなさま》と呼ばれる。齢《よわい》三十になろうとする当代の大旦那様——暮葉|左近《さこん》は酒飲みだった。  暮葉の家は御開府以来江戸に住み暮らす旧家である。日本橋で大店《おおだな》を張っていたが、二百年ばかり前、しずかな根岸の里にこの屋敷を造った。家は町人ながら、商いで巨万の富を築き、一時は江戸経済の黒幕としてひそかに八百八町を支配していたともいわれる。だが、そんな富貴の家門も今や風前の燈火《ともしび》であった。  それはすべて酒のせいだ。  暮葉家が日本橋で豪商として栄えていた時分、代々の当主は下戸でしまりのよい人間ばかりであったという。  ところが、現在の当主左近から数えて七代前に異変が起こった。隔世遺伝の気まぐれかうわばみの|タタリ《ヽヽヽ》かはわからない。酒といえば正月の屠蘇《とそ》と神田明神様《みようじんさま》の甘酒くらいしか知らなかった当主暮葉|左兵衛《さへえ》は、中年に至って升酒《ますざけ》の味をおぼえ、生涯《しようがい》大酔した。以来、一族は代を重ねるごとに酒量がふえて、身すぎ世すぎの才覚と情熱はそれに反比例してすぼまってゆく。ことに過去三代においてそれが顕著であった。左近の曾祖父《そうそふ》暮葉左平次は、御一新をうかうかと酒中の夢にすごした。祖父左吉は詩酒を好み、人格高潔な粋人だったが、性お人好《ひとよ》しで人にだまされ、莫大《ばくだい》な財産を消尽した。父|左之介《さのすけ》は敏才だったが、飲みすぎて早死にした。そして当代——左近の代に至って、暮葉家の経営はついに|にっちもさっち《ヽヽヽヽヽヽヽ》もいかなくなったのだった。  この日、左近は家に代々つかえてきた忠実な執事の、これが最後の会計報告に耳を傾けていた。執事の口から巨大な数字が続々ととび出すにつれて、酒杯を片手にそれを聞く左近の顔は蒼白《そうはく》になった。  膨大な債務と絶望を残して会計報告が終わると、老執事は主人の前にハタとひれ伏し、目に涙を浮かべた。 「申しわけございません。坊っちゃん。てまえが……てまえがいたりませんために、御家《おいえ》の財産をこのようなことに……」  老人はオイオイと泣き出した。 「いいんだよ。爺《じい》や。おまえが悪いんじゃない。このバブルですっからかんになった人間は、日本にゴマンといるよ。そもそも、僕の代になってうちの経営が傾いてきたから、おまえが起死回生を計って資産の運用に奮闘してくれたんだもの。それにしても株を買うのがちっとばかり遅かったね。証券会社にはだまされた……いや、仕方ない。バブルだバブルだ」  左近は懐《ふところ》からさほど厚からぬ紙包みを出して、老人に退職金だといって手渡し、忠勤な老僕に暇をやった。  バッタのようにお辞儀をして泣く泣く去ってゆく執事を、これも年老いた女中頭が庭の門まで見送る。 「ケッ、まったく男はだらしないねえ」  よちよちとあぶなっかしい足取りで台所に戻った老女中は、そう言いながら椅子《いす》に腰かけてハイライトを一服つけると、フウッと煙を吐いて、ゲホゲホと咳込《せきこ》む。 「だから、あたしが言ったじゃないか。地道に高利貸しでもしてればいいものを、株だの土地だのに手を出すんだから。まったく、男はみんな博打《ばくち》が好きなんだねえ……」  そう言って、また咳込む。しばらくして煙草《たばこ》がチビルと、キュイッとねじり消して、立ちあがった。 「さて、あたしもお暇《いとま》をするかね」  荷物はもう宅配便で送ってある。着替えて主人に挨拶《あいさつ》をすると、左近はこちらにもやはり少しばかりの退職金をくれた。 「それじゃ、坊っちゃん、くれぐれもお身体《からだ》をお大切に。さようなら」  老婆《ろうば》がお屋敷の私道から往来に出ると、店屋の若い衆が「お婆《ばあ》ちゃん」と声をかけた。近頃《ちかごろ》老婆は自分の身体が利《き》かなくなったので、近所の若い者になにかと用足しをいいつける。そのかわりにタバコ代もはずんでいるから、みんなよくなついていた。 「おや、お婆ちゃん、行っちゃうの。さみしくなるねえ」 「うるさいババアが減っていいやね。ひっひ……」  老婆はひとりうそぶいて、大通りに出るとタクシーを拾った。 「さて、お小遣いもいただいたし、小腹が減ったから、|おすもじ《ヽヽヽヽ》でも食べにいこうか。運転手さん、ほんとに近くで悪いんだけどねえ、高勢《たかせ》へやってちょうだい。あ……あれはバブルでつぶれたんだっけか。それじゃ香味屋《かみや》へ行こうかしら。昔、荷風先生が連れてってくれたっけねえ……」     二  さて、こうして最後の奉公人も屋敷を出た。  ひとりぼっちになった左近は、執事の作った決算書をもう一度にらむと、「ううむ」と歎息《たんそく》して、杯に酒をついだ。  かかえ込んだ負債が六十億。やり手の事業家でも頭をかかえる金額だ。ましてや、暮葉家歴代の当主の中でも一等世事にうとく、酒を楽しく飲むことしか芸のない左近に返せる金額ではない。財産は売り尽くし、もしくは抵当に入っている。屋敷も明日は債鬼に明け渡さなければならない。  お先真っ暗とはこのことだ。だいいち明日からどうやって酒を飲めば良いのだろう?  仕方がないので、安直に|けり《ヽヽ》をつけることにした。  まさかに財政がかくもあえなく破綻《はたん》するとは知らず、今年桜の花見には家に酒客を呼んで、盛大な宴を張るつもりであった。そのために取り寄せた本場の老酒《ラオチユウ》の瓶《かめ》が二十瓶ばかりある。年代を経た高級品で、資産価値があるため、瓶はすべて税務署に差し押さえの札をはられていた。  左近はこれをえっちらおっちら風呂場《ふろば》に運ぶと、片っ端から口をあけて、湯船に酒をとくとくとこぼしはじめた。 「酒池肉林というのを一度やってみたかったんだ。肉林はないが……まあ我慢しとこう。過ぎたるはなお及ばざるがごとし、だからな……」  やがて大理石の浴槽《よくそう》に、濃い飴色《あめいろ》の紹興酒が満ちる。甘い、芳醇《ほうじゆん》なかおりがあたりに漂う。風呂を弱火にたいて少しだけ燗《かん》をすると、香りはいっそう濃密に立ちのぼった。  左近は服を脱ぎ、ぬる燗をした美酒の風呂につかって、右の掌《てのひら》、左の掌にすくった酒をゴクゴクと飲みはじめた。美味《うま》い。出入りの酒屋が苦労して仕入れてくれた特級品の状元紅《じようげんこう》だ。飲むほどに憂《うれ》いは忘れ、心はのびやかになってくる。 「そうか、おれには身寄りはないが、ここでこのまま酔蟹《よつぱらいがに》になったら、飲み屋のおやじやおばばだけは、少しは悲しんでくれるだろうな。みんなに何か形見を残してやりたいもんだ。……といっても、今は人にやる物も残っちゃいない……エイ、気は心だ。おれの遺言書はこんな風に書こうじゃないか——   一つ、並木橋の『赤とんぼ』には俺《おれ》の微笑《ヽヽ》を贈る。   『雪国』のおばばたちには、俺の悪態《ヽヽ》を   梯酒《はしござけ》の途中にわが「眠りの館《やかた》」たりし   『ワインケラー・翠《みどり》』には俺の|いびき《ヽヽヽ》を   俺の千鳥足《ヽヽヽ》は『天芳』が持っていけ。   『ふくべ』は俺の|泥酔い《ヽヽヽ》を形見に取るがいい。   『リキ万』には俺の|レバー《ヽヽヽ》を遺《のこ》そう……」  てなことを考えているうち、酒の酔いに頭がぼんやりとして、冬の朝、女中たちが忙しく立ちはたらいている時、自分は羽根布団《はねぶとん》にくるまって、台所で味噌汁《みそしる》を煮るコトコトいう音を聞いているような心地よさがほやほやと立ちこめてきた。左近はまさに溺死《できし》酔漢たらんとしていた……     三  ところで、くだんの根岸御殿の土蔵のわきに一堂の祠《ほこら》があった。お稲荷《いなり》さんを祀《まつ》った古い祠で、お屋敷が建つ前からそこにあり、つかわしめの狐《きつね》が棲《す》んでいた。  暮葉の家では、当主が代々信心深かったため、この土地に引っ越してきて以来二百年間、毎朝あぶらげのそなえものは欠かしたことがなかった。左近の代になってからも、例の煙草|呑《の》みの女中が、時にはくわえ煙草をしながら、供物《くもつ》を運んできた。夏はあぶらげにそうめんがつき、正月には数の子に柚子《ゆず》をしぼってかけたのが添えられる。おかげで狐は何不自由なく、|のここん《ヽヽヽヽ》として暮らしていたが、それが半年ほど前から、おそなえがめっきりおろそかになってきた。老女中は老齢《とし》でだんだんこまかい仕事がおっくうになり、かといって家運が傾いた今は、若い女中も雇えなくなったからだ。とくにここ一カ月ばかりは屋敷の内外がバタバタとして、お稲荷さんのことなど誰もかまっていられなかった。  どうもようすが変だ、と狐は心配していたが、この日、老酒の風呂におぼれる左近のていたらくを見るに及んで、暮葉家の滅亡は明らかになった。それでは早速、住み換えの算段をはじめなくてはならない。  鬼子母神のちょうど真裏に、土地神が不動産屋を開いている。そこは人間ではなく妖魅《ようみ》・神仙《しんせん》の地権や借家権を扱うところである。狐は物件さがしにそこを訪れた。 「こんちは——」 「おや、暮葉のこん坊」 「土地神さん、近頃景気はどうです?」 「おかげさまで、まァソコソコにさ。人間どもはやれバブルだ不景気だと騒いでいるが、神界にはそんなもの関係ないからね。こん坊、おめえも元気にやってるかい?」 「いや、それがサ。うちの暮葉の身代も馬鹿《ばか》旦那がとうとうつぶして、お屋敷も明日は立退《たちの》きってことになってサ。旦那は世をはかなんで、お酒の風呂を沸かしてね、それにつかって酔っぱらい死《じ》にだ。まァああいうお目出度《めでた》い人は勝手に死ねばいいんだが、困るのはこちとらだよ。この御時世だろ、お屋敷が誰の手に渡るのか知らないが、あとから来るヤツはどうせ、あんな古屋敷なんか建物も庭もなにもぺっちゃんこにつぶして、殺風景なビルを建てるサ。さもなきゃ土地を転がすまでサラ地にしといてペンペン草の生えほうだいだ。当今の人間ときた日にゃ、お稲荷様の御霊験もなにも敬うこっちゃないからね。二百年住みなれたおいらの寝ぐらも風前の燈火さ。つきましては、どこか良い棲家《すみか》を紹介してもらえませんかね。ここにお稲荷様の紹介状もちゃんと持ってきたよ」 「そうか、そりゃ大変だな。あのな、こん坊、今ちょいとお客さんがいらしていてな」 「そうかい。いいよ、かまわねえ。そんなら、ここで待たしてもらうよ」  すると、奥から声がかかった。 「あの、失礼ですが」と言って、土地神の客人が店先に出てきた。 「アッ、はじめまして。わたし、蓬莱《ほうらい》の鉄拐《てつかい》仙人の弟子で芳香仙子《ほうこうせんし》と申します。失礼ながら、ついお話が耳に入ってしまいました。あなたの御主人、今お酒の風呂で煮込みになっていらっしゃるとか——」 「は、はァ」と狐。 「こちらさんはナ」と土地神が紹介する。「漢土《もろこし》から有名な鉄拐仙人の代理で、別荘地をおさがしにいらっしゃったお方なんだ。今、あちらの仙界はだいぶ御繁盛とみえてな。大和の国にセカンド・ハウスを建てるのが大《おお》流行《はやり》なんだそうだ。ことに、あちらには温泉が存外少ないんで、湯の神様の払い下げ地が大人気なのよ。仙人さま、こちらはお稲荷様のつかわしめで、近所のお屋敷に住んでるこん坊といいます。お屋敷がホロビルんで、新居をさがしにきたんで——」 「そうですってね。狐さん、わたしネエ、お酒の風呂に入る人ってまだ見たことがないんですよ。日本へ来た良い土産話になります。ぜひそれを見物させていただきたいんですが」 「おやすい御用だ。いらっしゃい。今頃|奈良漬《ならづ》けになってるでしょうよ」  物見高い仙人の弟子は、狐に案内されて根岸御殿にやってきた。  二人は内庭に面した風呂場の窓を開けて、中をのぞくと、左近は老酒風呂に口までつかり、ブクブクとあぶくを出しながら、臨終《いまわ》の酒を味わっていた。もう上と下のまぶたはひっつき、林檎《りんご》のように赤い顔をしている。お迎えが近いのは明らかである。 「まだ生きてますね」と芳香仙子が言った。 「もうじきですよ」と狐。 「あの人、良《い》い顔をしてますねえ。わたし、ああいう酔っ払いの顔って好きだな。なんていうか、こう、屈託がなくて、はればれとしているじゃありませんか。ああいう人の生肝《いきぎも》なんか、食べてみたら美味いだろうな。うちのお師匠さんも酒好きですが、酒飲みの肝臓は最高のフォワ・グラだっていつもおっしゃってますよ。それでも、同じ酒飲みにも上等から下等まであるそうでして、あの人なんかはさだめし上の上じゃないかなあ……」  仙人になる者は必ずしも人間ばかりとは限らない。虫や鳥獣、魚や蛙《かえる》、花樹草木、一塊《いつかい》の山石や文福|茶釜《ちやがま》などでも、長い間|日月《じつげつ》の霊気にさらされ、きびしい修行をしさえすれば仙界の住人になれる。この芳香仙子は本性が野獣《けだもの》らしく、左近の脂《あぶら》ののった腹を見ているうちに、思わず舌なめずりをした。 「あんなもんで良かったら、召し上がってください。どうせ、おっ死《ち》ねば焼くばかりですから」狐は屋敷を見捨てているので気前が良い。 「それじゃ——」と芳香仙子は両手と首をニューッとのばし、窓からさし入れた。 「なむあみだぶつ……ちょうだいします」  酔っぱらいを湯船からへそのあたりまでひきあげ、肝臓のあたりにかぶりつこうと牙《きば》を剥《む》きだした瞬間、 「こらっ!」とおっかない声がしたので、あわてて手も首もひっこめる。狐も思わずふるえあがる。ふりかえると、ざんばら髪に無精髭《ぶしようひげ》、乞食《こじき》のような風体で、鉄の松葉杖《まつばづえ》をついた仙人がしかめ面《つら》をして立っている。これぞ蓬莱八仙の一人、鉄拐|李《り》である。かたわらに土地神もいる。 「役立たずめ、わしの用事をうっちゃらかして、こんなところで油を売っておるか!」  仙人が一喝《いつかつ》すると、ははーっと弟子は平伏した。芳香仙子はあやまりながら、奇体《きたい》なものがあるのでちょっと見に来ただけですと弁解した。 「ナニ、酒の風呂とな。この中か。ふーん、わしもちと見物していこうか」  鉄拐李は壁をスッと通り抜けて風呂場に入った。芳香仙子に手をはなされて、またも湯船に滑り込んだ左近は、もう頭の天辺《てつぺん》まで酒に浸《つ》かり、ソロソロおだぶつ。  仙人は左近を見ると、「ほう、これがその馬鹿者か」と笑っていたが、そのうちにフト首をかしげた。 「ふーむ」と言って片手をのばし、息たえだえな若者を浴槽からすくいあげる。 「これは気になる」  しばらくして仙人は左近を小脇《こわき》に抱えて庭に出てきたので、芳香仙子は驚いた。 「お師匠さん、そいつをどうなさるんです?」  仙人は、「玉泉洞《ぎよくせんどう》に行くぞ!」と一言。  一陣の風とともに、師弟はたちまち姿を消した。  あとには、狐と土地神だけがポカンとした顔で残された。     四  鉄拐仙人が左近を助け、仙界へ連れ去ったのにはわけがある。  酒に沈んだ左近の眉間《みけん》に、俗眼には見えない、ある|しるし《ヽヽヽ》があらわれていたのだ。  それは、仙人にとっても、またこの世の誰にとっても、すこぶる重大な意味を持つしるしであった。だから仙人は酔漢を抱えて、西嶽佳佳山《せいがくかかざん》にいる道友《どうゆう》の仙洞に急いだのだった。  鉄拐李の道友・抱樽大仙《ほうそんたいせん》の住む玉泉洞は、酒仙たちのたまり場である。  佳佳山は大地の酒気が凝結してできた山であり、山のここかしこからにじみ出る酒気が日月の霊気に感応し、自然酒の泉となって流れている。玉泉洞の洞内には、そういう酒泉のうちでももっとも風味絶佳な泉がこんこんと湧《わ》いている。だから今日も、鉄拐を入れて俗に酔八仙といわれる呂洞賓《りよどうひん》、漢鍾離《かんしようり》、韓湘子《かんしようし》、藍采和《らんさいわ》、張果老《ちようかろう》、曹国舅《そうこくきゆう》、何仙姑《かせんこ》らをはじめ、神仙界の左党があつまっていた。  鉄拐が左近をかかえて、つかつかと入ってくるのを見ると、「やあ、鉄拐」と赤《あか》ら顔の、愛想の良い抱樽大仙は声をかけた。 「なんだ、その男は。俗人じゃないか」 「ちょっと、こいつの額のところを見てもらいたい」  左近の眉間を一目見るなり、抱樽大仙は言った。 「ふむ……ちょっと待てよ。酒鏡にうつしてみよう」  玉泉洞にはたくさんの酒泉が湧いているが、それらの泉の酒は玉の樋《とい》をつたってあつめられ、洞の中央にある大きな水盤に流れ込んでいる。〈酒中有真〉と銘刻されたこの水盤の酒は、鏡として用いれば、隠れたものを顕《あらわ》にうつしだす霊妙な力を持っていた。両仙人は酒の面に左近の顔をうつしてみると、眉間に三つ、たてひとすじに並んだ星の形がくっきりと浮き出していた。 「うむ。これはまさしく酒星のしるしだ。この男、どこで見つけた?」  抱樽大仙は声をはずませて、言った。  そこで鉄拐はくわしくわけを話した。  千年に一度、身に酒星のしるしをおびた人間が生まれることは、佳佳山や蓬莱・崑崙《こんろん》の仙人なら誰でも知っている。酒星のしるし——それは、千年紀が生命と活力の盛りを過ぎて、天地《あめつち》に滅びの影がさす時、世界を救う人間として選ばれる救世主のしるしである。仙人たちがいささか興奮したのは、それゆえだった。 「そうか、このまえはたしか西方に生まれたが、今度は倭国《わこく》か。どうもこのところ救世主は中国に生まれないで周縁《まわり》にばかりあらわれるようだなあ」  抱樽大仙は死にかけている左近に仮死の秘術をほどこしながら、言った。 「まあ、そりゃあ色物だからな」と鉄拐。「それで、こいつをどうしようかね。酒星のしるしをおびた人間は、いずれその使命を果たすまで、酔って酔って酔いまくらなければならん。このまま仙界に置いてやっても良いが、それでは現世との因縁がうすくなって、衆生《しゆじよう》を救うことは難しくなるだろう。かといって、この男——このおめでたい顔を見るからに、とても人並みに生活できる人間ではない。せちがらい俗世間に放り出したら野垂れ死には必定だぞ。困ったものだ」  抱樽大仙は少し考えてから、言った。 「『皇帝《カイサル》のものは皇帝に返せ』というじゃろう。人間《じんかん》のものはやっぱり人間に置いておくのがよかろう。さいわい、倭国には金樽《きんそん》教という酒徒の主宰する教団がある。この教団の教主は、昔わしのところで修行したこともある、杜哲《とてつ》という地仙だ。あいつにしばらくあずけておくことにするよ」  そこで鉄拐仙人は左近を大仙にまかせ、色っぽい何仙姑と一杯やりはじめた。 [#改ページ]   第二回     一  ここは南総里見城跡。  鏡湾を眼下に見渡す城山の山蔭《やまかげ》には、鬱蒼《うつそう》と笹藪《ささやぶ》がひろがっていた。  田圃《たんぼ》の果ての田舎道から、ふとゆかしげな路傍の石仏にひかれて、この笹藪に通ずる小径《こみち》をたどった者は、やがて昼なお暗い笹の間を径ともなき細径がもつれあい、からみあう、八幡《やわた》の藪知らずに迷い込む。ひとたび出口を見失えば、終日迷いつづけることさえもあろう。  だが、ある口伝にしたがってこの迷路の中の、さだめられた道筋を進んでゆくと、ほどなく城山の北の断崖《だんがい》を目前に、暗い石礫《こいし》の原にたどりつく。そこには室町風の五輪塔と八つの石塔が並んでいる。土地の故老は、これを、八犬士の墓と呼ぶ。  世の常の人には知られていないが、苔《こけ》むした石塔のうしろには、秘密の岩窟《いわや》の入口がかくされていた。岩窟の奥に踏み入ると、ところどころに徳利《とつくり》の形をした石筍《せきじゆん》が生えている無数の岩穴が蟻《あり》の巣のように入りくんで、昏《くら》い迷路をつくっている。  この岩窟にひそかに出入りする一群の人々があった。それは秘教金樽教の信徒たちだった。  かれらは岩穴の奥に湧く霊泉の水を用い、人知れず酒を醸《かも》しているのであった。醸した酒は樽《たる》に詰めて保存しておく。酒には米や麹《こうじ》、醸造の仕方のちがい、新酒から十年・二十年の古酒にいたる年代のちがいによって、さまざまな種類がある。樽の数はかぞえきれない。それらの樽が四通八達した横穴に果てしなくうち並んでいる。この天然の巨大な地下酒倉は、〈酒城《しゆじよう》〉と呼ばれていた。  酒城の奥処《おくか》に、ぽっかりと広大な地底空間がひらけている。そこには金樽教の神殿があった。  金樽教の教主・杜哲は、今内殿にまつられた御本尊・|聖なる徳利《ヽヽヽヽヽ》の前に跪坐《きざ》して、ふるえる右手に小杯を持ち、一心に祈りながら、巫女《みこ》がつぐ神酒をあおっていた。  教主杜哲は冬の間をこの酒城に過ごすようになって、はや三十年をかぞえる。  三十年前、はじめてこの安房《あわ》の地を訪れた時、かれは一介の道士にすぎなかった。  そもそも、かれは幼少より酒仙の道にあこがれ、漢土より仙界に渡って酒気霊妙な佳佳山に修行したのだが、仙骨が足りないため、ついに道果は得られなかった。  志半ばにして下山を余儀なくされた時、師匠の抱樽大仙は杜哲に一巻の経を授けた。それは『酒徳経』という、三皇五帝以来の酒聖の教えを記した書である。大仙は杜哲が一人前の仙人になるのは無理とみて、かわりにこの経の教えを俗間《ぞくかん》にひろめ、もって衆生を導くことを命じたのだ。  そこで杜哲は弘法《こうぼう》の旅に出た。教本を手に東西をさすらい、ある時、大和の国安房の城山にやって来た。  その頃、城山の酒城は、〈隠れ杜氏《とうじ》〉——すなわち密造酒の造り手たちの巣窟《そうくつ》だった。利を追う者も、そうではなく純粋におのれの酒の味を追求する者も、古来、東国で大規模な密造を行わんとするものは、権力の手をのがれて、最後はこの広大な地下迷宮に行きつくのが常であった。酒城には大勢の密造者がよりあつまり、一種の自治組織をつくって暮らしていた。それは、単にこの迷宮が身をかくすに都合が良かったからではなく、岩間に清澄《せいちよう》な霊泉が湧き、洞内の温度、湿度などが醸造に適しているからであった。  杜哲は酒仙になろうとしたくらいだから、酒の匂《にお》いには敏感である。この地にくると、すぐ酒城を見つけ出した。そして仲々良いところだと気に入り、しばらくここに住んでいるうち、隠れ杜氏たちが|聖なる徳利《ヽヽヽヽヽ》と崇《あが》めるもののあることを発見した。  それは水晶でつくられた四合ほども入る徳利である。酒城の住人は、洞内に昔からある徳利明神社に祀《まつ》られたこの徳利に、数々の驚くべき神通《じんつう》があることを語った。杜哲は一度その神通をまのあたりにして、ひそかに思うところあり、ふたたび西嶽佳佳山にのぼると、抱樽大仙にこのことを報告した。  大仙は話をきくとたいそう関心を示し、自ら酒城を訪れて調べてみると、はたして徳利は貴い神器であった。そこで大仙は、杜哲に徳利の守護をまかせることにし、秘宝を守るための仙術をさずけた。  杜哲は仙骨こそ足りなかったが、人が良く、他人を感化する才能があった。かれは酒城に根をおろして聖なる徳利を守りながら、無思想な隠れ杜氏たちを教えみちびき、『酒徳経』の精神にもとづいて、飲酒の蘊奥《うんのう》をきわめるという崇高な目的を持つ教団・金樽教をつくりあげたのだ。初めは数少ない酒徒の集まりだった教団も、歳月を経るうちに、信徒数万をかぞえる大秘密組織となった。信徒は世界各国に散らばっている。  杜哲は現在、一年のうち半年は東西を周遊し、各地にいる同門の酒徒をたずねて歩く。また、宗派を異にする酒杯の徒とも数多く盟友関係をむすんだ。  ただ、毎年酒を醸す冬から春にかけては、この酒城にこもっているのだ。     二  古来、房州安房の地は、酒霊の力|強盛《さかん》なる土地として世界の神仙に知られていた。昔から聖酒の秘儀をさぐろうとする者は、みなひそかにこの地を訪れているのだ。  弘法大師空海もその一人であったという。  酒城には、こんな話が伝わっている。  昔、大師がこのあたりを旅した時、喉《のど》がかわき、とある山家《やまが》で一杯の水を求めた。ところがその家の主は大酒飲みの|どろんけん《ヽヽヽヽヽ》で、昼日中から酒かっくらってクダを巻いていた。 「水はねえが、酒ならある」とお大師様に徳利をさしだした。 「愚僧は酒はたしなまぬのじゃ。本当に水はないか」と大師。 「ねえったら、ねえ」 「あれにみえるは、あれは井戸ではないか?」 「ありゃ酒の井戸だ」 「庭のあそこにこんこんと湧き出ているのは、あれは泉ではないか」 「ありゃ酒の泉だ」 「そうか」と言って大師は去った。 「ざまァミロイ」と主人がまた酒を飲んでいると、ハテ、妙だ——ついでもついでも徳利が空《から》にならない。脳天気な酔っぱらいは、こいつは世話がなくていいや、とさんざん飲んで酔いつぶれた。  さて夜半に目がさめてから、——酔いざめ千両の水を飲もうと、井戸水を桶《おけ》にくんで飲んだら、|酒だ《ヽヽ》!  びっくりして庭にとび出し、泉の水をすくったら、|酒だ《ヽヽ》!  アリャリャリャリャリャッとおどろいていると、井戸から、泉から、徳利から酒がざァざァとあふれ出て、あたりは酒に沈んでしまった。酒は山から谷間をごうごうと流れ、平野を越えて海にそそいだ。鯛《たい》の浦の鯛は、だから今でも酒のかおりがする。安房のとこぶしは、生で食べてもほんのり頬《ほお》が赤らむという。  真水のように澄んだ酒は七日七晩しおからい大海原をうるおしつづけた……。  その時の徳利が徳利明神の御神体であるというのだが、杜哲は、この伝説は一種のアレゴリーだと思っていた。山家の酒飲みおやじ、これはすなわち酒神で、弘法大師に飲酒の奥義《おうぎ》を示したのだ。大師が教えをすばやく悟ったので、天地がこれを嘉《よみ》し、安房の国を美酒《うまざけ》に満たしたのだ。  聖徳利の由来には、いま一つの異説がある。それは、こういう話である。  その昔、印度|天竺《てんじく》に心から酒を愛した聖王がいた。  この王は、数多いバラモン教の神々の中でも、ひたすら酒神ソーマ一柱を信仰していた。なぜなら、バラモンの神々はヴィシュヌ、インドラ、ヤマ、アグニ、ルドラ、ヴァーユ、サヴィトリ、マルト神群などあまたおわすといえども、ソーマなしではいかなる神もその神力を発動することはできない。バラモン教の祭式においては、ソーマ草からつくった聖酒を祭火にそそいで諸神に捧《ささ》げ、しかるのち人々が残りの酒で酒盛をする。されば飲酒こそバラモン教の根幹であり、ソーマこそ諸神の神的威力の源である。  このように悟得した王は、王家に代々伝わる水晶を二つに切って、一|対《つい》の徳利と杯をつくらせた。それを、白雪のようにきよらかな石の廟《びよう》に祀った。王は毎日この廟にこもり、酒神に灌奠《かんでん》の儀式をささげた。酒徳により天下を治め、民に平和と繁栄をもたらさんと願ったのである。  ところが、王がこのようにソーマ一柱を崇敬したことは、ヴィシュヌやインドラを主神とする神殿の僧たちの不満をかった。かれらは有力な大臣をそそのかし、大臣は兵を挙げて反乱を起こした。国は襤褸《らんる》のごとく乱れ、廟も破壊と盗難の憂《う》き目にあい、聖なる徳利と杯もいずこかへ消えてしまった。  徳利はその後さまざまないきさつを経て唐の国へ渡った。それを留学僧酒海|和尚《おしよう》が偶然手に入れ、大和の国へ持ち帰った。それがすなわち、酒城の聖なる徳利だという。  一方、杯はアフガンからペルシアへ渡り、ナイシャプルという都の賢者のものになった。  この賢者は天文占星の術にすぐれ、勅命をうけて暦法を制定したので、国王から褒美《ほうび》に異国の杯をもらったのだ。以来、かれはこの杯に満たした紅《あか》い酒におぼれて暮らした。  そして死ぬ間際《まぎわ》、このような遺言を残した。 「わしが死んだら、わしの死骸《むくろ》は葡萄酒《ぶどうしゆ》で洗い、葡萄の葉を巻きつけて、どこか園生《そのう》の薔薇《ばら》の葉蔭《はかげ》に埋めてほしい。墓ができたら、そのうえにこの杯から紅の葡萄酒をそそいでおくれ」  賢者の弟子たちは言われた通り、墓を薔薇園の一隅《いちぐう》につくった。花の季節であった。風が吹き、墓のうえに紅い薔薇と白い薔薇がハラハラと花びらをこぼした。一番弟子がくだんの杯から墓の土に酒をそそぐと、風がさっと渡って、杯はフワリと浮きあがり、夕空に光りながら西の方《かた》へ飛んでいったという——  杜哲は、こちらの言い伝えにはおそらくいくぶんの史的事実がふくまれているだろうと思っていた。  だが、伝承はいかにもあれ、聖徳利の霊験があらたかなことにかわりはない。  金樽教の信徒たちは、春ごとに醸した新酒を聖徳利に満たし、徳利の祝福を受けた酒をもう一度樽にもどすと、樽の酒はすべてこの世ならぬ不思議な香味をおびる。みなはそれを、めぐる春の恵みと称《たた》えて味わいながら、飲酒道の修行に励むのである。  金樽教とは、かような教団であった。     三  さて、教主杜哲が今宵《こよい》一心に祈っているのは、他《ほか》でもない。  彼は毎朝起きぬけに杯占いをする習慣だった。杯占いというのは、粗い素焼きの大杯で濃い濁り酒を飲み、杯の底に残った澱《おり》のかたちで占うのである。数日前これをしたところ、遠方より客人きたる、という卦《け》が出た。  果たしてその日、客人は訪れた。彼の恩師|抱樽大仙《ほうそんたいせん》が、死んだようにぐったりした若者を抱えてあらわれたのである。 「大仙さま」  杜哲は意外なことに驚き、平身して拝礼した。 「杜哲、ひさしぶりだな。相変わらず良い酒を醸しているようだ。うまそうな匂いがしておる」 「おそれいります。お師匠さまには、赤いお鼻もつやつやと御健勝の御様子、うれしく存じます」 「うむ、酒は百薬の長じゃからの」 「ところで、お師匠さま、今日わざわざのおこしは、何かわたしめに御用でございますか」  杜哲は左近をチラと見て、言った。 「じつはな、杜哲、この男をあずかってもらいたいんだ」  大仙はかかえていた左近を徳利明神の祭壇の前におろした。杜哲は怪訝《けげん》な顔でそれを見ていた。 「その男、死んでいるのではありませんか」 「いや、これはまだほんとうに死んではいない。あの世のトバ口《くち》をウロウロしているところを、わしらがつかまえて術をほどこした。だから、こやつの魂魄《こんぱく》はいまだ肉体にとどまり、復活を待っておるのじゃ。杜哲よ、聖徳利の力でこれを生き返らせてもらいたい」 「ですが、お師匠さま、復活の秘儀を行うことは、生死のけじめをあいまいにするので禁じられているのではございませんか。死者が救世主だというなら別ですが……」 「この者の顔をよく見よ」  大仙は左近の眉間《みけん》を示した。いわれてみると、さほど法力のない杜哲の目にも、酒星のしるしがうっすらと見える。ハッと杜哲はその場にひれ伏して、拝んだ。 「わたしに、このお方を蘇《よみがえ》らせよ、とおっしゃるのですか?」 「そうじゃ。おまえならできるであろう。いや、どうでもやってもらわなくては困る。おまえは縁あって聖徳利の祭司をつとめているのじゃからな。この男、酒池におぼれ、深酒をしすぎて死んだようになっておるが、聖徳利の霊力によって清浄な酒気をそそぎこめば、また息を吹き返すだろう。その時、この男の中にある不純な酒気は抜け、酒仙として尸解《しかい》を果たすことができる。聖徳利の秘蹟《ひせき》によって尸解するのじゃから、徳利《とつくり》真人《しんじん》と名のらせるがよかろう。  そういえば、二千年ばかり前にゴルゴタの丘で尸解を果たした小僧がいたな。あいつも酒仙で救世主じゃった。あれがベツレヘムで生まれた時、あんな夷狄《いてき》の地にも仙骨のある子供が生まれたというので、わしは呂洞賓《りよどうひん》たちとつれだって見にいったんじゃ。そうしたら、土地の者に東方の賢者とかいわれてこそばゆい思いをしたっけ。この男も、あれとまあ似たようなものじゃ。うまく儀式を行ってくれ。救世主がよみがえったら、そのあとはおまえにまかせる。この男が救世のつとめを果たすまで、おまえとおまえの教団とでこの男の面倒を見ておくれ」  杜哲《とてつ》は内心えらいことになったとあわてたが、師命とあっては断るわけにもゆかない。大仙のいいつけどおりにすることを約束した。  抱樽大仙はそれからひとしきり色々な指図をしたあと、玉泉洞《ぎよくせんどう》に帰って行った。     四  かくて救世主復活という大秘儀実行の責任を負わされた杜哲教主は、入念な準備ののち、今宵いよいよ儀式をとりおこなうことにした。かれは儀式に入る前に神酒で身と心を清め、なにとぞ成功させたまえと徳利明神に祈っているのだった。  かれのうしろには、三人の異相の人物が坐《すわ》っていた。秘儀に際し、自らの知恵と法力をもって金樽《きんそん》教主を助けるために駆けつけた西方の三博士である。  エルサレムからやってきた樽元教の律法博士ソロモン・イブン・ノンドル。  ローマからきた天酒教の法王ノミケリウス三世。  バグダッドからきた清酔教の教主《カリフ》アッバース・イブン・アルガブガブ。  かれらは宗派こそ異なるが、いずれも高徳の酒徒たちであり、杜哲が外遊先で知り合った飲み仲間だった。法力にいまひとつ自信のない杜哲は、今宵の儀式のため、かれらに協力を要請したところ、三人とも二つ返事で馳《は》せ参じてくれた。世の多くの宗派はいがみ合い、互いに血で血を洗っているが、酒杯の徒の友誼《ゆうぎ》に厚いことはかくのごとしである。  三博士のうしろには金樽教の高弟たちがずらりと並んでいる。教主と三博士は巫女《みこ》にお酌《しやく》してもらうが、他の信徒たちは皆手酌でしぼりたての神酒《おみき》を飲みながら、一心に祈っていた。  やがて教主は祈祷《きとう》をやめた。クルリと信徒たちの方をふりかえり、常にましてブルブルとふるえる右手を上げて、 「これより復活の秘儀に入る」と宣した。  信徒たちの間をざわめきが走った。かれらの誰一人としてまだ見たことがない——いや、教主自身すらまだやったことのない——西方渡来の儀式が今始まろうとしているのである。  準備はすみやかに行われた。  教主をはじめ、金樽教の信徒たちはみな葬儀《とむらい》の白無垢《しろむく》をまとい、神殿の中庭に出る。庭の中央に築かれた黄金の酒神壇には二基の石棺が並んでいる。その一つに左近が寝かされている。教主は聖なる徳利をうやうやしく運び、三博士と共に壇上に立った。  乙女たちが行列をつくって、綱で車を引きながらしずしずと庭の中央へすすみ出た。車の上には、歳《とし》格好が左近とちょうど同じくらいな男の信徒が寝かされている。  やがて、   メシヤは死んだ、メシヤは死んだ。  と悲しげな声があちこちで発せられた。  復活の秘儀は、その名の通り、神の死と復活を擬《ぎ》したものである。西方古代の民は、〈自然〉の〈形代《かたしろ》〉である神の死と復活を演じて、冬枯れた大地が春に再生することを祈った。オシリス、アティス、アドニス、ナルキッソス——これら死してよみがえる神々は、いずれも春の象徴である。今、杜哲たちが行っているのは、それと原理を同じくする儀式であった。車に寝かされて死者を演じている男は、救世主の形代である。かれは復活のまねびをして、春ならぬ救世主をよみがえらせようというのだ。救世主《メシヤ》こそ宇宙の春だからである。だが、よみがえりの前には、まず死と弔いがなければならない。今は葬送の行進を行っているところだった。  車が粛々《しゆくしゆく》と酒神壇の前に運ばれると、みんなは声をひそめた。これからいよいよ復活の場面にうつるのだ。  形代は石棺の上に寝かされ、杜哲と同じ身形《みなり》をしたもう一人の司祭が壇上にあがった。司祭はもうひとつの聖徳利を持って、形代のうえにかがみこむ。それと同時に、杜哲は本物の聖なる徳利をつかみ、左近のうえにかがみこんだ。  二人の司祭は、同時に中世の聖句を唱えた。   いん・たべるなあ・くあんどお・すむす   ねえ・すきああむす・くいど・しっと・ふむす   酒場の中にいるときは   墓場のことは忘られるべし  救世主と形代の口に徳利の酒がぽたぽたと垂らされた。  形代はむっくりと起き上がった。  だが、左近は微動だにしない。 「失敗だ……」  杜哲ががっくりうなだれると、ノミケリウス法王がかれの肩に手をやって、言った。 「大丈夫だ。もういっぺんやってみよう。いにしえのエレウシスの祭儀はたいそうにぎやかなものだったと『エレウシニア』には記されている。やはり酒霊を動かすには、しんきくさい儀式ではだめなんだ。今度はわしの言ったとおり、東方風に派手にやるぞ」  三博士はふりかえると、教主に代わって信徒たちに指図をした。 「爆竹をならせ!」 「銅鑼《どら》と鉦《かね》と太鼓を持って来い!」 「御《お》神輿《みこし》と山車《だし》と芸者踊りを出すぞ!」  パパパパパンッと爆竹が鳴り、チン、ドン、ボワーンと銅鑼・鉦・太鼓が鳴り響く。祭ばやしの笛が奏《かな》でられ、三味線は鳴り、騒然たる音楽の中で、形代は神輿にのせられ、エイサ、エイサ、とかつがれて、いま一度中庭をめぐる。弔いの乙女たちは派手な芸者姿に着がえ、陽気なふしを歌いはじめた。  ※[#歌記号]メシヤは死んだ メシヤは死んだ   お酒を飲んで死んじゃった  チン・ドン・ボワーン。  パパパパパンパパパッ!  ドッシャン!  ぴいぴいひゃらひゃら。  チントンシャン。  盛大な騒ぎの中で、神輿は酒神壇に投げ上げられる、壇上に待ちかまえていた律法博士とカリフは、裾《すそ》をからげ、腕まくりをして、それぞれ形代と左近を抱きあげ、|かんかんのう《ヽヽヽヽヽヽ》を踊りだした。  ノミケリウスが酒碗《しゆわん》を箸《はし》でたたきながら、大声で歌う—— 「ソレ、    ちんちき、ちんちき、ちんちきちきちき    酒場の中に入ったら    墓場のことは御破算じゃ。    ちんちき、ちきちき、ちき、つん、  これでどうだ!」  法王は杜哲から聖徳利を奪うと、さかさにして左近の顔にびしゃびしゃと酒をぶっかける。  すると、青ざめた唇《くちびる》に血の気がよみがえり、ムニャムニャとうまそうに神酒をなめはじめた。 「ああ、美味《うま》い迎え酒だ……」  左近は夢うつつにつぶやいた。     五 「救世主は蘇ったぞ!」  杜哲が叫び、信徒たちはワッと歓声をあげた。それまでに倍してにぎやかな奏楽が鳴りわたり、あちこちでポカッ、ポカッと酒樽《さかだる》を割る音がする。信徒たちはめいめい酒を碗ですくい飲みし、あたりはたちまち大宴会となった。 「なんだ、こりゃァ何事だ?」  左近はむっくり起き上がると、目をしばたたいてあたりを見まわした。自分は老酒《ラオチユウ》の風呂《ふろ》で死んだはずだが、このにぎやかな騒ぎはなんだろう?……葬式にしてはやけに景気がいい……  西方の三博士がすすみでて、うやうやしく拝礼した。 「おお救世主《メシヤ》よ」三人は口をそろえて言った。 「救世主《メシヤ》?」 「あなたさまのことです」 「ぼく?」 「さよう。あなたは千年に一度、世を救いにあらわれる救世主なのでございます」  左近が唖然《あぜん》としていると、 「嘘《うそ》ではありません」と教主も口をはさんだ。  博士たちは、読経《どきよう》をするように三人声を合わせて言った。 「おお、酒《しゆ》の御友、酩酊《めいてい》の守護者、覚醒《かくせい》の撃退者、酔いどれの盾、泥酔《どろよ》いの塔、至醇《しじゆん》至芳の酒仙徳利真人さま。てまえどもはあなたの無事御尸解を祈るため、西方から渡ってまいりました。過日、てまえども酒霊のしもべに酒天使のお告げがくだりました。この春の宵《よい》、かぐわしき春風の御使《みつか》い、徳利真人が尸解登仙する。汝《なんじ》ら、行って聖《きよ》き御子《みこ》にお酌せよ、と。それではるばるやってまいりました」  左近は「ふあい」と目をぱちくりさせて、三博士のそれぞれに異なった風体と容貌《ようぼう》を見較《みくら》べる。 「あんたたちは一体どなたです」  三博士は次々に名をなのった。 「わしは律法博士ソロモン・イブン・ノンドル——グラナダの酒哲サムエル・ハナギドの末裔《まつえい》であります」 「わたしはノミケリウス三世。地上にはじめて麦酒《ビール》をもたらした酒王ガンブリヌスの血をひいております」 「わたしはアッバース・イブン・アルガブガブ。アラビアの酒の詩人アブ・ヌワースの子孫でございます」 「なんだか、みんなお宗旨が違うみたいだな」 「なにをおっしゃる」と三博士。「うわべのことはどうでも良うございます。天下は酒《しゆ》の前に一つでございます。霊妙な酒気は天地《あめつち》にあまねく満ちております。真の酒杯の徒には宗派も民族の別もございませんぞ」 「そうか、そうか。それは道理だ——しかし、ここは一体どこです。どうもぼくは二日酔いで、頭がまだ眠ってるんだ」 「さよう」と三博士は声をそろえて、「救世主《メシヤ》が御尸解あそばした地は、酒気あふるる日本国|安房《あわ》のくに徳利大明神の霊地にあらずして、どこでございましょう。大和の国は酒界の要所でございます。梅の花が咲くといっては酒を飲み、桃の花が咲くといっては酒を飲み、桜の花が咲くといっては酒を飲み、月が清いといっては酒を飲み、雪が降ったといっては酒を飲み、嬉《うれ》しい時は酒を飲み、悲しい時は酒を飲み、ゆく年を忘れるとて酒を飲み、来る年を祝うとて酒を飲む。森羅《しんら》万象を酒の契機といたす、気高い文化を|※[#「酉+(囚/皿)」]醸《うんじよう》せる国。人前でもぐずぐずに酔いくずれるをいとわぬ赤心の国。世界広しといえど、かようの国がまたとありましょうか。すでに数千年以前から、天下の名立たる酒聖たちは遠く東方のこの島に酒霊の秘蹟を求めて訪れ来《きた》っております。このたびは真人さま、めでたき霊地にて御登仙、いやさかにございます」  三博士はそういうと、めいめい手にした徳利と杯で左近に酒をついだ。  律法博士は石榴《ざくろ》の汁に混ぜた葡萄酒《ぶどうしゆ》を。  法王は褐色《かつしよく》の芳醇な麦酒を。  教主は黄金色にかがやくアラキ酒を。  左近はなんだかわからないままに、それらを全部一息で飲みほす。 「ああ、惚《ほ》れぼれする飲みっぷりだ。これでわれらもはるばる来たかいがあった」  三博士は喜びあって、拝礼し、うしろにさがった。  杜哲がすすみ出た。 「救世主《メシヤ》よ、では、秘儀のつづきを」  左近の前に銀の盥《たらい》が運ばれてきた。盥にはあたためた酒が入っていた。 「それでうぶ湯をお使いください。あなたは一度死んで、今あらたに赤子として生まれてきたのです」  左近は言われるままに裸になってうぶ湯を使い、襁褓《むつき》にくるまれる。  すると今度は、ふくよかな頬《ほお》をした豊満な肉づきの乙女が、大きな蓮《はす》の葉を持ってきた。蓮の長い茎の先を左近にくわえさせて、葉のうえに樽からひしゃくで酒をそそいだ。蓮の茎には穴が通してあった。左近の口に酒が流れ込んだ。 「お飲みください。この|碧※[#「竹/甬」]《へきとう》杯は聖母の乳房のかわりです。幼児《おさなご》が母の乳を受けるように、聖徳利に清められた神酒の灌奠《かんでん》をうけるのです」  左近は酒がめっぽう美味だったので、何も考えずにゴクゴクと飲んだ。  すると不思議なことが起こった。聖なる徳利の酒を飲むうちに、それまでの宿酔いはきれいに醒《さ》めはて、そのかわりに新しい、別の酔いが五体をめぐりはじめた。  それは、たとえていうと、こんな感じだった。  今までの左近の酒は、憂《う》き世の人間の酒としては、しごく朗らかな部類であった。しかし、それでもまだ不純な酒気が残っていた。世俗の汚《けが》れを脱していなかった。汚れとはかなしみである。かなしみをふくんだ酒は、言ってみれば麻酔のようなもので、飲んでいるうちは楽しいが、酔いからさめると横隔膜のあたりに何かモヤモヤと悲愁が漂っているみたいな、フッ切れないものが残るのだ。  聖徳利の酒が与える酔いはちがった。  飲むほどに酔うほどに、臍下丹田《せいかたんでん》のあたりからかぐわしいぬくもりが身体《からだ》の中にわきあがって、身体が羽のように軽くなる。そして過去も未来もいつしかけじめがなくなり、われと他者《ひと》との境もあいまいになる。世を捨てるとも世に捨てられるとも、どうでもよくなる。酒が切れてもどうでもいい。液体の酒はなくなっても、気体の酒は永遠に三千世界の隅々《すみずみ》までを満たしていることを実感する。  そしてこの夢のような意識の中で、ふと気がつくと、すがすがしい青空の下、匂《にお》い立つ草の上で越天楽《えてんらく》を聞きながら愁《うれ》いなく飲んでいる自分の姿が見えた。  それで左近はハッキリ悟った。おれは徳利の秘蹟を得たのだ。いつまでもいつまでも酔うているのがおれの属性なのだ——  ハタと気がつくと早朝だった。左近は東京へ向かう自動車に乗っていた。かたわらに教主がいた。 「あっ、おれは……」 「いいんじゃ、いいんじゃ。あなたさまはこれから徳利真人として生きるんじゃ」  車は高速をおりると、吾妻《あずま》橋をわたって、馬道《うまみち》から言問《こととい》へ抜けた。やがて浅草千束町の、とある路地の入口にとまった。 [#改ページ]   第三回     一  その家は路地の角から二軒目にある、古い黒板塀《くろいたべい》の平家だった。  門柱に、消えかけた字で『形影庵《けいえいあん》』と書かれた表札がかかっている。前栽《せんざい》の椿《つばき》が花の莟《つぼみ》をふくらませている。  教主は格子戸《こうしど》をガラガラとあけて、玉石のうえをわたり、玄関に入った。左近もあとにつづく。上がると、とっつきの間は十畳の茶の間だった。古い調度と炬燵《こたつ》がおいてある。 「むさくるしいところで申しわけありませんが、これで住んでみると仲々良いところです。しばらく、この家を我が家と思ってお使いください。今、家政婦《ヽヽヽ》に話をしておきますでな」  教主は奥の障子をあけると、暗い廊下に向かって声をかけた。 「影ちゃんや、哲《てつ》だよ。ひさしぶりだな。新しい御主人を連れてきたよ。お名前は暮葉左近さまというんだ。お世話をよろしく頼むよ」  あたりはしんとして、返事はない。人のいる気配もなかった。左近は不思議に思って、たずねた。 「誰に向かって言ったんです?」 「影女《かげおんな》ですよ」 「影女?」 「さよう、『物怪《もののけ》のいる家には、月夜の晩、障子に女の影がうつる』という|あれ《ヽヽ》ですよ。この家に昔から住みついておるんです。たいへん人見知りをする妖怪《ようかい》でしてな、滅多に姿を見せることはありませんが、それでいてさびしがり屋で人間が好きなのです。独身者《ひとりもの》がこの家に住むと、夜中など、こちらの見ていないうちに掃除、洗濯《せんたく》なぞいっさいやってくれます。幽明を隔てる者ゆえ料理だけはいたしませんが、汚れた皿は洗ってくれます。いたって親切な女じゃ。酒飲みには理想の家政婦じゃろう。あなたにはまたとない召使いと思いましてな、この家を選んだのですじゃ」 「ありがたいな。僕は生まれてからずっとうちに女中がいたんで、一人暮らしは苦手なんです。でも、お給料はどうしましょう」 「ははは。御心配なく、妖怪ですから、そんなものは要りません。ただ、朝おめざめになった時、また外出から帰った時など、家の中が片づいておりましたら、『影ちゃん、御苦労だったね』と一言声をかけてやってくだされ。古女房をいたわるようにな。そうすればあれは喜んでお世話をします。じつを申しますと、わしも若い頃《ころ》、このうちに住んでいたことがございましてな。影女とは昔|馴染《なじ》みですから、遠慮はいりません。ただ、やさしい気持ちをもってつきあってやって下され。それから、酒と肴《さかな》の用意ですが、これに関しては、わが教団から若い者を一人まわしましょう。膳部《ぜんぶ》として使ってくだされ。あなたさまの飲み代《しろ》は、一切わたしがひきうけますから、御心配なく」 「ありがとう。夢のようだ」と左近は言った。「しかし、どうやってこの御恩に報いればいいんでしょう? みなさんは僕を救世主だとおっしゃいましたが、僕には信じられない。救世主なら、世の中のために何かしなければいけないんでしょう? どうすればいいんです? やっぱり磔《はりつけ》にならなくちゃいけませんか?」  教主はニッコリと笑った。 「酒徳を積むのです。救世主《メシヤ》の御業《みわざ》は人智《じんち》を越えたもので、わしには今は何も申し上げられません。ただ、『飲むべし』『酒徳によって世を救うべし』という根本経の教えをまもるが肝要じゃと思われます。徳利《とつくり》真人《しんじん》さま、しあわせなお酒をたんと召しあがってくだされ。世の中をあくせく動きまわって立ちはたらくのだけが救世ではない。昔、伴天連《ばてれん》の|りどびな《ヽヽヽヽ》信女は、身を悪病にむしばまれ、血と腐乱の中に横たわりながら、信仰の力で時の世を救ったと申します。あなたは、酔って酔って酔いのうちに天命を果たしてくだされ。いずれ、すべてが明らかになる時が来ましょう」  教主はそう言って帰って行った。     二  左近は慣れない家にひとりになると、急にさみしくなった。 「影……」と暗い廊下に声をかけてみたが、あたりはしんとして、何の気配もしない。  ぽつねんと座敷に坐《すわ》り、ひとり顎《あご》など撫《な》でていたが、手持ち無沙汰《ぶさた》でしかたがない。とりあえず、家の中をひととおり見ることにした。  さほど広いうちではない。Lの字の廊下をはさんで、十畳の部屋が二つと、三畳の控えの間がついた八畳。それに台所、風呂、便所がついている。庭は二つあり、奥の座敷に面した庭は広く、杉塀で囲ってある。飛び石に池水。塀際《へいぎわ》には杉や竹、紅葉が植わっている。物干台への階段がかかっている裏庭には、八手《やつで》と無花果《いちじく》の木が生えている。  おそらく、もとは待合《まちあい》か何かだったのだろう。根岸御殿とはだいぶちがうが、酒飲みがごろ寝をして暮らすには恰好《かつこう》のつくりだった。  家は空家だったようだが、家具はそろっているし、掃除も行き届いている。  奥の床の間に、「歳月消磨詩句裏/河山浮動酒杯中」という掛軸がかかっていた。左近はその字をながめているうち、ふと表札の『形影庵』はしんきくさい、『紹興庵』にかえてやれ、と思いついて硯箱《すずりばこ》をさがした。  と、「ごめんください」という声がして、玄関にドヤドヤと人が入ってきた。四斗樽が三つ運びこまれた。 「あ、酒樽はもそっとこっちにうつしとくれ。はい、それでいい。結構結構。はい、御苦労さん」  酒屋の配達に指図を取っているのは、年齢不詳の小柄《こがら》な男だった。行李《こうり》を背負い、手に風呂敷《ふろしき》包みを下げている。  男は左近の顔を見ると、かしこまって挨拶《あいさつ》した。 「初めまして。わたし、膳部のどぶ六と申します。金樽《きんそん》教主さまから言いつかりまして、旦那《だんな》さまのお酒のお世話をしにまいりました。ふつつかものではございますが、よろしくお願い申し上げます」 「おう、あがんなさい」と左近は言った。 「おそれいります」  どぶ六と名のる男は以前《まえ》にもこの家にきたことがあるのか、勝手知ったる顔で茶の間をスッと通りぬけ、廊下の角の三畳間に荷物をおろした。 「旦那さま、こちらをわたしの寝間にさせていただいてよござんすか?」 「ああ、いいよ。好きにしなさい」 「では、そうさせていただきます。それから旦那さま、こちらのお台所《だいどこ》には大きな床下がございましたね。そこで白馬《にごりざけ》をつくっていいでしょうか」 「うれしいね。おまえさん、酒がつくれるのかい」 「はい。名は体をあらわすの諺《ことわざ》どおりで。これでも、わたし金樽教主さま直伝で、濁り酒、白酒、甘酒、赤酒、葡萄酒もつくります。ときどき、おためしになってみてください。それから、うちでお酒をめしあがる時は、わたくしが酒の肴をおつくりいたします。急のことで今は何も用意してございませんが、晩はひとつ|あんこう鍋《ヽヽヽヽヽ》でもいたしましょう」 「心強いな。ま、かための杯といこうか」  二人はさっそく樽をあけ、升酒《ますざけ》で乾杯した。どぶ六は風呂敷を広げた。 「あの、何もありませんが、お中食《ひる》に塩にぎりを持ってまいりました。こいつでもつまみになすってください」  形良く小さくにぎった飯が笹《ささ》の葉に包んであった。桜の花の塩漬《しおづ》けがそえてある。  左近は粒の立った白米の握り飯を一口かじると、「おお、うまいおにぎりだ」と言った。 「旦那、これで一杯飲んでみてください。……どうです、イケマスでしょ。清酒と米の飯ってのは案外相性の良いものですよ」 「ほんとうだ。同気相求むる、だな。われわれも相性が良さそうだねえ」  二人は升を手に、ははははと笑った。  その頃、上野の聚楽台《じゆらくだい》から東の方をながめていたのは、抱樽大仙《ほうそんたいせん》である。  大仙は、遠く浅草千束町のあたりから、一条の酒気が芬々《ふんぷん》と立ちのぼるのをみとめて、「よしよし」と満足げにうなずいた。 [#改ページ]   第四回     一  かくして、よき酒と酒の友とつまみを得た徳利真人暮葉左近が、酒徳を積むために飲んで飲んで飲みつづけているうち、春|爛漫《らんまん》、梅に鶯《うぐいす》のなく頃とはなった。  左近は、昼、近所の古本屋で買った幸田露伴《こうだろはん》の『幻談』という小説を、縁側に寝ころんで読んでいた。  この『幻談』というのは江戸時代の釣《つ》りの話である。侍が釣船に乗って隅田川《すみだがわ》から海に出てゆく。しかし一尾も釣れぬうちに日は傾いて、黄昏《たそがれ》の光の中に水の面をながめていると、プカプカと漂ってきたものがある。釣竿《つりざお》が流れてきたのだ。一目見て上等な竿とわかる。引っぱると、その釣竿の根本を土左衛門《どざえもん》がにぎりしめていて……という怪談だが、その話のはじめの方に、夏釣りの友に飲む酒には、泡盛《あわもり》とか柳陰《やなぎかげ》とかいうものが好まれました、というくだりがある。左近はこの個所が読後も妙に心にのこった。柳陰とは何だろうと字引を引いてみたら、味醂《みりん》と焼酎《しようちゆう》を合わせたもので、夏場に冷やして飲む酒とある。なるほど、涼味を楽しむ飲物なのだ。涼味といえば、夏、練れた上等の泡盛を玻璃《はり》の杯からすすったなら、胃の腑《ふ》に涼しい風となって渡るだろう——  かれはむしょうに泡盛が飲みたくなった。 「おい、どぶ六」 「何です、旦那」  どぶ六は台所で晩酌《ばんしやく》のつまみを用意しているところだった。 「泡盛が飲みたくなった。どこかこの辺に、美味《うま》い泡盛を出す店はあったかな」 「そうですなァ」とどぶ六は考えこむ。「昔は東京の町には、安くてまっとうな泡盛を飲ませる店が結構あったもんだが、いつのまにか姿を消しちまいましたねえ。いや、東京ばかりとも言われねえ、沖縄《おきなわ》にもうまい泡盛はとんとなくなったそうです。聞くところによりますと、近頃の泡盛はステンレスの容物《いれもの》で寝かして、壜詰《びんづめ》して売ってるそうですね。どうりでこのせつの酒は粗いはずだ。やっぱりアレは古瓶《ふるがめ》にいれて何年も寝かしたものじゃありませんとネ。しかしそういう酒を出す店がなくなっちまった……  おっ、そうだ、そうだ。そういえば、吉原《よしわら》の近所に『龍宮《りゆうぐう》』っていう店がありましたっけ。婆《ばあ》さんが一人でやってるつぶれかかったような店でしてね。わたしもまだ入ったことはありませんが、店の前はよく通るんだ。琉球《りゆうきゆう》泡盛の赤|提灯《ちようちん》を出してました。あすこはひじょうにクラシックな店ですよ。ためしに行ってみちゃあいかがです?」 「そうしよう。でも、おまえさんのつくってるつまみはどうする?」 「なに、今晩は山かけにしようと思ったんだが、芋はまだすっちゃいません。鮪《まぐろ》は|づけ《ヽヽ》にしておきますさ」  そこで二人はぶらりと町へ出た。  千束町は飲み屋の多い、仲々住みやすい町である。一杯飲み屋、お茶漬け屋、お好み焼き、割烹《かつぽう》、天麩羅《てんぷら》、牛鍋《ぎゆうなべ》屋など色々な種類の店がある中に、吉原の近くへゆくと、昔はひょうたん池のまわりに並んでいたという煮込み屋の流れをくむ赤提灯がまだ残っている。  煮込みといっても、博多《はかた》のもつ鍋などとはちがう。あくぬきした牛の臓物を串《くし》に刺し、串ごと薄味のだし汁にほうりこんで煮込むのだ。客は、大きな菜箸《さいばし》で好きな串を小皿にとり、七味か醤油《しようゆ》をかけて食べる。串には肉の部位により、丸串、四角串、三角串などあって、それぞれ値段がちがう。亭主は勘定の時、客の皿にたまった串の数をかぞえて計算する。  こうした店では、煮込みのほかは、塩豆とつけものくらいしかつまみはないが、夏の夕暮れなど、焼酎のハイボールで一杯やるにはそれでも十分だ。  左近はこんな煮込み屋が何軒もかたまっている横丁を通って、お地蔵さんの小径《こみち》を抜け、千束通りの四つ角に出た。  どぶ六の言った店は角店《かどみせ》だった。浅草千束通りも近頃はだいぶ高い建物が目立ってきた中に、そこは四つ角一等地の相当な面積を占めながら、高層化時代にさからうがごとく、でんと大地に坐りこんでいる平家だった。  入口に『琉球泡盛』の提灯がともっている。  戸を開けたが、中には誰もいなかった。  古い木のカウンターの上には、前の客が使った皿や箸がおきっぱなしになっているから、営業はしているようだ。おかみが席をはずしているのだろう。 「こんばんは。おーい」どぶ六が奥に声をかけた。 「留守かな。しようがねえな。いや、奥でテレビの音がしてるから、留守ってことはありませんよ。旦那、ちょっと待っていましょう」  左近は坐って店の中をながめた。 「ほほう、植木市のポスターがはってある。ほおずき市と朝顔市のもあるな。去年のやつだ。三社祭に酉《とり》の市、羽子板市まであらァ。ここのおかみはお祭好きだな」 「そうでしょう。それにしても、こきたない店ですねえ。あそこの壁にかかっているの、ゴミかと思ったら、ありゃクバの葉っぱだね。檳榔樹《びんろうじゆ》ってやつですね——真っ黒けで炭みたいになってるよ。籐《とう》の編笠《あみがさ》も真っ黒けだ。ひでえなあ」 「うん、店は仲々スサマジイが……だがごらん。泡盛は本物のようだ。そら、そこに古瓶がゴロゴロしている」  左近は奥の畳の上をさした。 「化けそうな古瓶ですね」 「古瓶が化けたら何になる?」 「さあ、薦《こも》をかぶってますから、|おこもさん《ヽヽヽヽヽ》になるかな」  二人がのん気に店の批評をしていると、奥のテレビの音がプツッとやんだ。ゴソゴソと音がして、小太りの婆さんが出てきた。 「いらっしゃい。すみませんね。今、『鬼平』をやってたもんでね」     二  ぷっくりと下ぶくれの福々しい顔をした婆さんは、干葡萄《ほしぶどう》のような目をショボショボさせた。 「泡盛ですね」と言ってカウンターの上を拭《ふ》く。 「煮込みは召しあがります?」 「もらいましょう。あとミミガーも」  婆さんは、カウンターの中に置いてある大きな瓶の蓋《ふた》をあけると、瓶の中に入っていた柄《え》の長いひしゃくを出して、泡盛をすくって|からから《ヽヽヽヽ》にうつした。丸い陶器の|からから《ヽヽヽヽ》をつと傾け、ガラス杯の縁までいっぱいに酒をつぐ——こぼれそうでこぼれないギリギリの線まで。寸分の狂いもない手つきは、数十年の年季《ねんき》を感じさせるとともに、一種|爽快《そうかい》な気合いがこめられていて、見る者の酒欲をそそった。  そのあとにラムネがくる。ポンとガラス玉を落とすと、壜の口から泡があふれだして、カウンターを濡《ぬ》らした。 「なんです、このラムネは」と左近がきいた。 「泡盛を、これと一緒に召しあがっていただくんです。ラムネと一緒に飲むのが一番健康にいいのよ。泡盛はね、酔うために飲むもんじゃアありませんからネ。健康のために飲むんですから。うちじゃ、必ずそれを取ってもらうんですよ。今ミミガー、お出ししますネ」  と言って豚の耳のゆでたのを切りはじめた。  左近は、よそではそんな飲み方をしたことがない。とりあえず、コップについだラムネはチェイサーにすることにし、泡盛に口をつけた。 「これはうまい」と思わず感嘆した。 「ほんとだ。こいつはイケル。旦那、これは水みたいな喉《のど》ごしですね」 「そうでしょ」とおかみが言った。「なんたって、この泡盛はモノがちがいますもン。うちじゃ、開店した時から、まったく同じ品物をだしてますもン。良いお米だけでつくった品物ですからネ」  よく世間には、泡盛はくさいとかきついとかいう人がいる。そういう人はえてして泡盛を焼酎のできそこないだと思っていることが多いが、この『龍宮』の酒は、そんな認識がまちがっていることを自《おのずか》ら証明していた。たしかに酒精《アルコール》の度数は強いが、歳月に玉のごとく磨《みが》かれた酒は、スーッと何の抵抗もなく喉を通る。ほのかに甘い麹《こうじ》のかおりがする。焼酎を鄙《ひな》の早乙女《さおとめ》とすれば、こちらは宮中の貴女であった。 「なるほど、これはたしかに夏の釣り向きだな」  左近は一人納得して、壁の品書きを見る。 「泡盛三百五十円」と朱書してある、その左にミミガー、スヌイ、チャンプル、クーブイリチ、と沖縄のつまみが並んで、そのあとは生姜《しようが》、油揚、冷奴《ひややつこ》、胡瓜《きゆうり》、梅干とつづいている。泡盛の卵酒というのもある。  品書きのおしまいに、「古酒《クース》七百円」と書いてあった。 「おばちゃん、古酒《クース》てのを一杯ちょうだい」 「古酒はネ、勘弁してください」おかみは手を振った。 「なんで? 飲ましてくれないの?」 「これはお祭の時しきゃ出していないんですの。こんな品物、そうそう出しきれないんですもの」 「お祭というと、三社様とか酉の市とか——」 「はい」 「その時に来なくちゃ飲めないわけか」 「はい」 「そこのところを、なんとか、一杯だけ」 「勘弁してください」 「だめかい?」 「すいませんねえ」 「そうか……仕方がないな」  だめと言われれば、余計に飲みたくなるのは人情だ。この店では、ふつうの泡盛がこれほどうまいのだから、年代物の古酒ともなればさぞかし——左近が残念無念な顔をしていると、どぶ六が耳打ちした。 「大丈夫、大丈夫。旦那、ここはあたしにまかしといてください」  七輪《しちりん》にかけた煮込みをかきまわしている婆さんに、どぶ六は猫《ねこ》なで声をかける。 「ところでおばちゃん、このお店はもう商売をやって長いんだろうね」 「そうよウ。うちは戦前から。昔からのお客さまがたくさんいらっしゃるのよ」 「どうりで、お店に風格があるわけだ」 「いいえ、古くて汚いばっかりですよ」 「いやいや、歳月を経たもののもつ風韻がある」 「お世辞ばっかり。でもネ、これでもわざわざ遠いところから来てくださるお客さんがいてね。せんだってもネ、ずいぶん古いお客さんがひさしぶりでいらして、溝《みぞ》の口《くち》から自動車でおいでになったって言ってましたよ」 「そりゃあ、おばちゃんに一目会いたいばかりに来たのさ」 「そんなこと、ありませんよウ」 「いやいや……しかし、戦前に沖縄料理は珍しかったでしょう」 「そうよ。うちでも初めは沖縄の料理そのままを出していたけどネ、ここの土地柄《とちがら》には仲々なじまなくてネ、いろいろやって今のようなメニューになったんですよ」 「おばちゃんは沖縄の人なの?」 「いいえ、あたしは浅草っ子。この場所で生まれたんですもン。うちの親はここで料理屋をやってたんですがね。あたしの死んだつれあいが那覇《なは》の辻《つじ》の人で、一緒に沖縄料理の店をはじめたの」 「やっぱりそうか。いやね、南国美人にしては色が白いなと思ってたんです」 「あら、琉球美人は結構色が白いのよ」 「いやあ、だって、おばちゃんは抜けるように色白だもん。若い時はだいぶ男を泣かせましたね。浅草小町って言われなかった?」 「あら、お客さん、どうして知ってんの?」  婆さんのふくよかな頬《ほお》がポッと紅葉の色に染まった。オオこれはあざやかな手際《てぎわ》だ、と左近はどぶ六の口説《くぜつ》に感心し、古酒一杯のほのかな期待をいだいた。  と、いきなり引き戸がガラッと開いて、いいところに水をさしたのは、革ジャンパーを着た、色の浅黒いあやしげな男。     三  男はどことなく険《けん》のある雰囲気《ふんいき》だった。 「飲んで来た人はおことわりですよっ」と婆さんが機先を制する。 「いや、飲んじゃいないよ」男はそう言って、木の丸椅子《まるいす》に坐《すわ》った。 「焼酎をくれ」  とたんに、婆さんの目がキラリと光った。 「うちには焼酎なんか置いていませんよ。焼酎が飲みたい人はどっかよそへ行っとくれ!」 「いやいや、冗談だよ。へっへっへっ」  男はぬぐったら|ぬめり《ヽヽヽ》が垂れおちそうな、いやらしい調子で笑った。 「泡盛をもらおうか」  婆さんが不快そうに泡盛とラムネを出すと、男はつがれた酒をスーッと飲みほす。 「もう一杯」 「うちは二杯までですよ」  すると男はジロリと上目づかいににらんだ。 「そうか——そんなら、もう一杯はこいつじゃなくて、もっと上等な酒をもらおうか」 「古酒《クース》なんか出せませんよっ」 「古酒か——古酒も良いが、もっともっと上等の酒が置いてあるはずだ。隠してもだめだよ。おれは人から聞いてきたんだ。ここんちの泡盛が美味いのは、その極上の酒が少しずつ混ぜてあるからなんだってな。だがおれは、極上の酒を生《き》のままで飲みたいんだ」 「何言ってんの。お客さん、酔っぱらってるね!」  婆さんは相手にせず、というふりをしたが、その表情は緊張《こわば》っていた。怪しい男は空《から》のグラスを手の中でこねくりながら、粘っこい声でドスを利《き》かせた。 「おれは|ニライカナイの酒《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》が飲みたいんだよ、おばちゃん」  おかみはハッと身をひいて、持っていたおたまを胸前《むなさき》に構える。  二人は一瞬にらみ合ったが、男はくわっと口を開いて、婆さんに襲いかかった。こなたはサッと身をかわし、やっやっとおたまで十字を切ると、ばおーんと妖音《ようおん》がして、あたりはもうもうたる白煙につつまれる。  煙がおさまった時、店はさまがわりしていた。  古ぼけた木の椅子とカウンターはあざやかな紅の珊瑚《さんご》にかわり、螺鈿《らでん》と鼈甲《べつこう》細工の棚《たな》には、つの貝、しゃこ貝、鸚鵡《おうむ》貝の器が並んでいる。真珠・黒真珠・宝貝・珊瑚珠の玉環が花綵《はなづな》のように壁をいろどり、巨《おお》きな紫水晶を削ってつくった瓶に満ちているのは、これぞ極楽郷ニライカナイの神酒か。  白髪《しらが》の婆さんは、丈なす黒髪、蛾《が》のような眉《まゆ》、玉の肌《はだ》に金襴《きんらん》の衣裳《いしよう》をまとった、目もさめるばかりの神女《しんによ》に変身した。 「浅草小町だ……」 「おばちゃん、妖怪だったの?」とどぶ六。 「馬鹿《ばか》をお言い」神女は怒った。「妖怪とは失礼な。あたしは龍宮のつかい。龍宮城の酒保司《しゆほつかさ》で、天下の良民に乙姫《おとひめ》さまの愛の酒を味わっていただくため、下町の泡盛《あわもり》屋に身をやつしているのだ。この男の言うとおり、うちの泡盛には貴いニライカナイのお酒がほんの少し混ざっているの。辛《つら》い浮世で苦労をする人たちに、南海極楽郷の銘酒をかおりだけでも味わってもらおうといって、やさしい乙姫さまがおはじめになった慈善事業なのです。だから、うちの泡盛を飲むお客さんは、みんな心がほのぼのとして、幸せに長生きするのよ。それにしても、まさかこんな妖怪に秘密を知られるとは思わなかった。こら、おまえ、正体をお出し」  神女が手にした黄金のおたまで怪人を打ちたたくと、男は大きな縞柄《しまがら》の海蛇《うみへび》になった。 「わっぷ……」とどぶ六がむせる。 「酒の席では、こんなこともあるさ」左近は泡盛をすすった。 「おまえ、うちのお酒のことをどこで聞きつけてきたんだい」  おかみがたずねると、海蛇は舌を吐きながら話した。 「それよ、じつはこのあいだナァ、久高《くだか》島の沖でおれが昼寝をしてるとな、水の上から何やら人間の話し声が聞こえてきたのよ。  どんな話をしているのかと思って水面に出てみたら、こりゃア驚きだネ。見たこともない大きな蛤《はまぐり》が波の間に浮かんでいやがった。俗に貝の船っていうやつだな。貝殻《かいがら》はパックリとひらいて、貝の中にはきれいな数寄屋《すきや》造りの家があり、花咲く庭があって、庭のはずれで人間たちが釣《つ》りをしている。  釣りっていっても大名の釣りだ。貝船の縁に釣竿《つりざお》を二本くくりつけて、海に釣糸を垂れている。それを、白髪まじりのじじいが、てめえは籐の椅子に坐って、ながめるだけだ。  じじいの左右にはとびきり別嬪《べつぴん》の姐《ねえ》ちゃんたちがはべっていた。一人の姐ちゃんは、じじいが持つ銀の杯に黄色く透きとおった酒をついでいる。もう一方の姐ちゃんは、ときどき重箱からじじいの口に肴《さかな》を運んだり、大|団扇《うちわ》であおいだりしている。  この三人のうしろには、きっと老人《じいさん》の召使いなんだろう。貧相な、ねずみみたいな面《つら》つきの男がつっ立っていた。そいつが椅子のうしろで言うには、 『御前《ごぜん》、わたしの眷族《けんぞく》から情報《しらせ》が入りました。浅草には、泡盛にニライカナイの酒を混ぜて飲ませるところがあるそうでございます。どうなさいます。調査に行ってまいりましょうか』  御前と呼ばれた偉そうなじじいは言った。 『ふん、わしは蒸留酒なんかに興味はない。そんなものは、そのへんを泳いでいる海蛇にでも飲ましてやるがよい』  すると召使いは一瞬くやしそうな顔をしたが、「しからば」と言って、まるでおいらが聞いているのを知ってるみたいに、船べりに寄って大声で叫んだ。 『聞いたか、海蛇。浅草だぞ! 楽園のお酒が飲みたかったら、浅草へ行ってみるんだな! 千束通りの龍宮という店だぞ!』  おいらは、それで矢も盾もたまらなくなった。海蛇族は海の酒豪だ。おいらはその中でも“南洋第一海量王”でとおっているウワバミ様だ。ニライカナイの酒といえば龍宮の至宝。それが飲めると聞いたからには、あに千里の道も遠しとせんや。心配する女房のいけんもきかず、この浅草まではるばる来たってわけよ。人魚姫じゃあないが、足もないこのおれが人間に化けてここまでくるのは、並大抵の苦労じゃなかったぞ。……さあ、そういう次第だ。ニライカナイの酒を飲ませろ」 「いやなこった」と龍宮のつかいはアカンベーをする。「大事なお酒をおまえみたいなガラの悪い奴《やつ》に飲ませられるものか」 「飲ませないなら、ただじゃおかねえ」 「へんだ、イラブ汁にされないうちに、とっととお帰り」 「なにを!」  海蛇は鱗《うろこ》の生えた巨大な尻尾《しつぽ》をぴしゃんとカウンターにたたきつけたので、皿の豚耳《ミミガー》は宙に踊り、左近の酒杯の泡盛がこぼれた。おかみはヒャアッと悲鳴をあげる。  左近はやむにやまれず立ち上がった。  酒飲みなら、誰でも一度はこんな経験があるものだ。争い事は好まぬが、かかる火の粉は払わにゃならぬ。その時、左近は下腹から何か熱いものがたぎってくるのを感じた。背中をカッと火がつらぬく。と、気がつくと、かれは背にひとふりの宝剣を負っていた。鞘《さや》から抜くと、剣は燃える炎のように輝いた。 「神剣だ。旦那《だんな》」どぶ六が叫んだ。「むかし、軒轅黄帝《けんえんこうてい》の時代に、酒の席を理不尽に乱す者がいる時、聖者の手に酒気が凝《こ》りかたまって正義の神剣が生じた、と『酒徳経』にあります。それです。旦那、それで悪者を懲《こ》らしめてください」 「うむ」  徳利《とつくり》真人《しんじん》は海蛇とにらみあう。 「やるか」と海蛇。 「ゆくぞ!」  牙《きば》と剣を激しくうちあわせること三合。だが相手は、きこしめした酒仙の敵ではなく、左近は神剣の腹で海蛇の頭をしたたかに打ちすえた。 「アイタッ!」ともだえる海蛇。  左近は諭《さと》した。 「おまえが乱暴するから、せっかくの泡盛がこぼれたじゃないか。酒は楽しく飲まなきゃだめだぞ。何のための酒だ。今はみね打ちにしてやったが、このうえダダをこねやがると、ブツ斬《ぎ》りにして鍋《なべ》に入れるぞ!」 「おそれいりやした」  海蛇は縮みあがり、たちまちどじょうのように細くなった。「お先に」と言って、戸の隙間《すきま》からつるつると逃げ出す。 「待てっ」とおかみは扉《とびら》を開けて、背後から岩塩をぶつけると、「ぎゃっ」と悲鳴がきこえてきた。     四 「厭《いや》ねえ。近頃《ちかごろ》は変なのが多くて。でもたすかりました」と龍宮のつかいは言った。「乙姫さまの大切なお酒をあんな奴に飲ませるわけにはいきませんものねえ。店のコケンにかかわるところでしたわ。お客さん、恩に着ます」 「いやいや」  左近は照れくさそうに笑った。燃える神剣は、とうにかれの丹田に引っ込んでしまった。 「お礼に今夜は、パーッと宴会をしましょう。もうニライカナイのお酒も飲み放題よ。待ってね、今芸者衆を呼びますから……あ、千束通りの『龍宮』だけど、きれいどころを片っ端からよこしてちょうだい」 「どこに電話したんだい?」 「もちろん本物の龍宮ですよ。ひょうたん池と龍宮城はつながってるんです。池はおおかた無粋な人に埋め立てられちゃったけど、淡島さまのところにはまだ水が残っていますから」  言ううちに、「お今晩は」と戸を開けて、鯛《たい》や平目やしまあじや伊勢《いせ》海老《えび》など、海の売れっ子たちがゾクゾクとやってきた。 「おねえさん、今宵《こよい》はお呼びいただきまして、ありがとうございます」 「たいちゃん、ひらめちゃん。じつは、さっき悪い男が来てね、こちらのお客さんに助けていただいたの。今夜はあたしのおごりだから、うんとサービスしてあげてちょうだい」 「おや、これはまた美味《おい》しそうなお姐さんたちだねえ」 「あら、けんのんけんのん。お刺身にしちゃァいやよ。お客さん、今夜はなまぐさぬきであがってくださいましな」 「なまぐさなら煮込みがあるわよ」  龍宮の芸者たちは三味線《サンシン》を弾いて歌った。座敷がないので、みんなは珊瑚のカウンターの上で踊りだす。そのうち、幇間《たいこもち》のハコフグが、「いや、おくれまして……」と頭をかきながら入ってきた。  左近とどぶ六はハコフグにのせられて『ハイサイおじさん』の踊りをはじめた。  しまいにへろへろに酔いくずれた二人を、放生池の泥亀《どろがめ》が家まで送っていった。 [#改ページ]   第五回     一  それから数日後、ニライカナイの酒のかおりもまだ鼻先から消えやらぬ頃、『紹興庵』に潮の匂《にお》いのする封書がとどいた。  開けてみると、先日の泡盛屋の一件で、乙姫さまから直々《じきじき》の感謝状に商品券が同封されていた。 「何です、商品券って? 鼈甲のかんざしでもくれるのかな」とどぶ六。 「いや、ちがうな。ビール券のようなものだ。『竹葉《ちくよう》券』と書いてある。ナニナニ……『本券を小岩の楊州《ようしゆう》飯店へ御持参ください。貴方《あなた》好みの極上の竹葉|青酒《せいしゆ》を存分にお飲みいただけます』ふん、小岩か——」左近は頭の中に東京の地図を描いた。「ちと遠いなあ。しかし竹葉青酒か——乙姫さまのおすすめとあれば、どのみち上等な酒であることはまちがいない。どぶ六、今晩は中華にするぞ」 「ああい」  というわけで、二人は総武線の浅草橋に向かった。  帝都の東端、江戸川のむこうに千葉県が見える——恋ははかない小岩の町は、そんな辺境にありながら、無人化する都心よりもかえって下町の気風を受けつぎ、今日も酒客でにぎわっている。  国電の駅からは少し離れた柴又《しばまた》街道沿いに、柿《かき》の木の蔭《かげ》にうずくまっている平家立ての建物があった。表に「腸詰・ビーフン・肉粽《にくちまき》」の看板が立っている。そこは、知る人ぞ知る台湾料理の老舗《しにせ》楊州飯店だった。  店の中には、四人掛けの四角いテーブルが二つと、さほど大きくない円卓が一つ。あとは調理場の前のカウンター席が三つきり。主人の楊氏とおかみさんの二人で経営している、何の飾りもない店だ。壁には、楊氏が若い頃|描《か》いたというピカソ式の油絵が数枚かかっているほかに、十年前の雑誌に載った腸詰の紹介記事、プロ野球の呂明賜《ろめいし》の色紙、『糖尿人間と酒男』なるあやしげな映画のポスターがはってある。  今日は昼過ぎから、ただ一つの円卓を囲んで、十人のにぎやかな宴会が行われていた。本名はさだかでないが、|でふ氏《ヽヽヽ》のあだ名で通っている常連客が予約した大|午餐会《ごさんかい》だった。でふ氏は自称小説家で、この夏小説が賞を取ったら、賞金で満漢全席の宴を開くと友人に宣言した。そのための下|稽古《げいこ》を盛大にやるというので、かれの友人たちは腹をぺこぺこにすかせ、気合い十分でのぞんでいる。  一同は鼈《すつぽん》の生血を入れた紅葡萄酒《あかぶどうしゆ》で、まず乾杯した。テーブルには塩玉子、鯔《ぼら》の胃袋の塩漬《しおづ》け、海亀の卵の高梁《こうりやん》酒漬け、家鴨《あひる》の冷肉に腸詰、白菜の漬け物といった前菜が並んでいる。 「みなさん、今日はわたくしが細心の献立をたてましたから、お楽しみに」  でふ氏は家鴨の塩玉子の黄身を小匙《こさじ》ですくいながら、そう言った。と、そこへ魚翅《ふかひれ》のスープがきて、座が盛りあがる。スープには解《ほぐ》してない極上の魚翅と蟹《かに》の卵が入っていた。  つづいてとろけるような豚足の煮込みが青菜にのって出てくる。 「でふさんは、香港《ホンコン》で熊《くま》の掌《て》は食い飽きてるから、豚足が一番いいね」  楊氏は自ら給仕しながら冗談を言った。  お次は大正海老のチリソース煮。唐辛子のかわりに沖縄のコーレーグスを使ってみたという。思いきって辛口である。海老の下に敷いてあるそうめんに味がしみこんで、なんともいえず美味《うま》い。海老より先に台がなくなった。  辛いものの後は、蟹と白菜のクリーム煮が出る。  餅《もち》のようにやわらかい牛筋《グーキン》の煮込みが入っている春巻。  大きなどんぶりで来たのは、豚の脳味噌《のうみそ》の茶碗蒸《ちやわんむ》しだった。脳味噌というと不気味なようだが、食べると案外白子のように淡泊な美味である。 「ぼくの食べられるものがない」  誰がだましてつれてきたのか、一座の中で一人だけ肉と魚がきらいな|きい《ヽヽ》さんという客は憮然《ぶぜん》とした。 「大丈夫、今野菜がくるよ」  でふ氏の言うとおり、次にきたのは袋茸《ふくろたけ》と銀杏《ぎんなん》の炒《いた》め、茄子《なす》の甘酢あんかけだった。  そのあとは台湾名物“花枝丸”——すなわち、烏賊《いか》のすり身の揚団子。  揚豆腐の牡蠣《かき》ソース煮——海老の卵をまぶしたもの。  また|きい《ヽヽ》さんのために、さっぱりと“翡翠白玉《ひすいはくぎよく》”。 「この料理名には故事がある」でふ氏は、ここで要りもしない蘊蓄《うんちく》をたれた。 「昔、ある美食家の王様が山珍海味に食べ飽きて、料理人に新工夫をもとめた。料理人は何かかわったものをこしらえようと頭をひねったけれども、良いアイデアが浮かばない。ボヤボヤしてると首を刎《は》ねられちゃうので、エイ、ままよ——ほうれん草と豆腐の炒めをつくって出してみた。すると王様は、生まれてから贅沢三昧《ぜいたくざんまい》に明け暮れて、そんなつましいお惣菜《そうざい》の味なんか知らなかったので、大変に喜んだ。 『この料理は何というのか』と料理人にたずねた。  料理人は、サァ困った——ほうれん草と豆腐だなんて言ったら、やっぱり首を斬られちゃうだろう、てんで、こう答えたんだ。 『この緑のものは翡翠、白いものは白玉でございます』  これが翡翠白玉という名の起源でござる——と、これはみんなおやじさんの受け売りですがね」  やがて、本日のメイン・ディッシュがれいれいしくテーブルに運ばれた。それは三枚の大皿にうずたかく盛りあげられた、大ぶりな南洋|海参《なまこ》の胡椒《こしよう》味煮込みであった。  幹事が今日の宴会の予約をする時、予算を言うと、楊氏は何が食べたいですかとたずねた。でふ氏は一言「ナマコ」と答えたので、主人は極上の海参を仕入れた。良い素材は、なるべくシンプルな味つけで、たらふく食べさせてやるというのが開店以来一貫した楊氏のポリシーである。それで、黒灰色の海参の大攻勢となった次第だ。  海参が中華料理のうちでも最高級の材料であることは、一同百も承知だったが、泰山のごとく膨大なソレは食べても食べても減らなかった。黒ダイヤならぬ黒タイヤの山に見えてきて、みんなはしだいに嫌厭《けんえん》の色を浮かべる。調理場では、楊氏がいつ次なる鼈のスープを出そうかと、こちらの様子をうかがっている。 「誰です、こんなにいっぱいナマコを注文したのは」  |のたい《ヽヽヽ》と呼ばれる気難しそうな男が言った。  でふ氏に視線があつまる。 「おとうさん、あなた、責任を持って食べてくださいよ」  丘君と呼ばれるふとった男が、海参の皿を回転台の上からおろして、でふ氏の目の前に据《す》えた。でふ氏はムムッとうなる。かれはふと、先日読んだ物語を思い出した。  それは唐の『宣室志《せんしつし》』という書物にある「消麺虫《しようめんちゆう》」という話だった。  昔、呉郡《ごぐん》の陸《りく》|※[#「禺+頁」]《ぎよう》という人は麺が好物だったが、どういうわけか食べても食べても身体《からだ》が痩《や》せる。じつはこの人の腹の中には、長さ二センチばかり、色青く、かたち蛙《かえる》に似た〈消麺虫〉という虫が棲《す》んでいて、これが麺を食べていたというのだ。 〈消ナマコ虫〉はないものか知らん、とでふ氏は歎息《たんそく》して腹を撫《な》でた。  結局、海参の大半は箸《はし》をつけられずに残された。責任者は残り物を折に詰めてもらって、持ち帰る。これから二、三日、でふ氏の家では三食海参づくしだ。  宴客は店の主人の料理をほめてゾロゾロと帰り去った。  楊氏は客を送り出すと、ピータンの瓶《かめ》の前に立って、歎息する。  一席の宴会を無事に終えた安堵《あんど》のため息であろうか。否《いな》、かれの顔には失望があらわれていた。せっかく手間ひまかけてこしらえた海参料理の人気が、はかばかしくなかったからだ。それに楊氏は、今日の宴会のために干海参《いりこ》を特別のルートで仕入れた。ちょっとやそっとの量では卸してくれないから、山のように買い込んである。それを、これからどうやってさばいたものか——  楊氏の店は時々食通が宴会をしにくるが、ふだんはラーメンや餃子《ぎようざ》のお客ばかりなのだ。  こちらも消ナマコ虫が欲しいところだ。  しばし熟考の末、「本日のサービス品」の緑板に、〈ナマコとうずら玉子煮込み——六百円〉と白墨で書き加えているところへ、入ってきたのは左近とどぶ六。     二 「いらっしゃい、何にします」  二人の坐《すわ》ったテーブルへ、楊氏は品書きを持ってくる。  左近は〈当店のおすすめ〉と書いてある腸詰と花枝丸《いかだんご》をとりあえず注文した。それから、「こういうものをいただいたんだが」と言って、乙姫《おとひめ》さまの竹葉券を見せる。  楊氏は調理場の方をふりかえって、洗い物をしているおかみさんに声をかけた。 「はっちゃん、竹葉酒、まだ冷蔵庫にあったっけ」 「あるよ」  おかみさんはガラスのデカンタに入れた竹葉酒を持ってきた。左近とどぶ六はさっそく乾杯した。  透明な薄翠色《うすみどりいろ》の酒だった。杯についだとたん、竹の香りがふくいくとわきあがった。  竹葉青酒は古来中国山西省に伝わるリキュールの一種である。  中華の酒は、大別して三つに分けられるといってよい。一つは、米を主原料にした醸造酒で、黄酒といい、紹興酒がその代表である。これの年代物を老酒《ラオチユウ》といい、瓶に入れて十八年寝かしたものを状元紅《じようげんこう》、十五年寝かしたものを女児紅《じよじこう》という。いま一つは、麦や高梁を原料にした蒸留酒——これは多く透明なので白酒《バイチユウ》、俗に白乾児《パイカル》と呼ばれる。茅台《マオタイ》酒、西鳳酒、五糧液などが有名だが、白酒は土地ごとに無数の地酒があり、品質もピンからキリまである。これらの他、白酒をベースにして薬草や動物の骨などをつけこんでつくる薬酒があり、五加皮、虎骨酒、三鞭酒などがその代表だ。  山西の竹葉酒は、高梁からつくった白酒に竹の葉を漬けて風味を加えたもので、色は薄翠色、香り高く、甘い。そして強い。この酒の起源はおそらく遠い昔にさかのぼるだろう。昭和の末|頃《ごろ》、中国で貴人の墳墓が発掘され、副葬品として古い酒瓶《さかがめ》が出てきたことがある。瓶の蓋《ふた》を開けてみると、中の酒はあらかた蒸発していたが、それでも底に薄翠色の液体が少しばかり残っていた。酒気はとんでいたが、かすかに竹の香りがしたという。あれなども竹葉青酒の仲間ではあるまいか。  左近は以前横浜で、大木という漢学者の友人とともに、この山西の竹葉青酒を賞味したことがあったけれども、今口にしている酒は、それとは全然別物だった。  酒精の度数は、ふつうの竹葉青酒よりも低い。だが、香りははるかに高い。口に入れると、竹の匂いのする綿菓子を頬張《ほおば》ったような感じがした。かおりが舌から口蓋《こうがい》、鼻頭にわきあがって、ほろほろと溶けくずれてゆく。幼い日の慕情のごとくほのかな甘味が、竹の葉の苦味にからんでいる。 「さすが、乙姫さまのおすすめものだ」  感嘆していると腸詰が来た。きざみ葱《ねぎ》が添えてある。  中華の腸詰もこれまた種類が多く、土地土地によって風味は千変万化である。日本でよく見かけるのはサラミ状に固く乾燥させたものだが、楊州飯店の腸詰はそうではなくて、やわらかいソーセージだった。噛《か》むと肉汁が口の中にじわっとひろがり、五香粉の芳香が鼻にぬけた。 「こちらも絶品ですな」とどぶ六。「腸詰といえば台南の黒橋碑という店が有名だが、この腸詰は黒橋碑より美味いんじゃないかな。おや、花枝丸も出てきましたよ」  楊氏自慢の花枝丸は、烏賊のすり身に背油《せあぶら》と特製のスープを混ぜて揚げたもので、中の方はトロトロにやわらかい。どぶ六がかぶりつくと、プチュッと肉汁が左近の顔にはねた。まるで小籠湯包《シヤオロンタンパオ》を食べるようだ。身の中でサクリと歯にあたったのは、慈姑《くわい》だった。  どぶ六は感動して涙を流さんばかりだった。 「ああ、旦那《だんな》。わたしもこれくらいのつまみを作れたらなあ。ひとつ、この作り方を教えてくれないかしら。でも、どうせ肝心なところは秘伝なんだろうなあ……」  客人たちが素直に感動しているので、腕自慢の楊氏は気を良くしてやって来た。 「お客さん、どうです、その竹葉酒」 「いや、ステキだなあ、この酒は。それに腸詰と花枝丸も逸品だ」  左近がほめると、亭主はますますニコニコする。 「じつはここだけの話ですがね、その竹葉酒は崑崙山《こんろんざん》の仙酒なんだよ。お客さん、乙姫さまの御紹介だから、そのお酒ができるところへ連れていってあげましょうか」 「そいつは是非お願いします」  すると楊氏はかたわらにブラ下がっている腸詰をグイと引っ張った。ばおーんと妖音《ようおん》がして、店の壁に扉《とびら》が忽然《こつぜん》とあらわれた。  扉を開けると、その向こうは江戸川区の裏路地ではなく、珠樹玲瓏《しゆじゆれいろう》として翠微《すいび》を隔《へだ》つ仙山の景色だった。 「どうぞ、こちらが崑崙山です」  楊氏は手で扉の外をしめした。左近とどぶ六はおそるおそる外に足を踏み出す。  清涼な風が頬をなでた。 「ひょう、仙界だ。裏口から直行とはオドロキだね」 「だって旦那、お酒のあるところはどこでも仙界とつながっていますよ」 「どぶ六、おまえいいことを言うじゃないか」 「へへっ、すいません、孫悟空が三蔵法師に法を説くようなもんで」  かたわらの樹《き》の下に二台の自転車が置いてあった。 「はっちゃん、ちょっとお客さんとあっちへ行ってくる。はっちゃんの自転車も借りるよ」  楊氏はそう言いおいて、紙につつんだ腸詰を自転車の籠《かご》に入れると、さっそうと出発した。     三 「じつはね」と道々楊氏は語った。 「うちへくるお客さんにこの山の仙人がいるんだよね。あたしのつくる腸詰がお気に召して、うまいから、三日おきに二十本ずつ出前しろとおっしゃるのよ。そんな、崑崙山なんて遠いところへ出前に行けないよ、と言ったら、あたしのために近道をつくってくれたんだ。さっきのドアですよ。それでこうして配達にいくんだけどね。  仙人は代金をお金で払うのが面倒臭いんで、裏の竹藪《たけやぶ》に酒竹《しゆちく》が生えているから、阿堵物《あとぶつ》のかわりに酒を好きなだけ汲《く》んでいけ、というわけ。酒竹というのは、天然の竹葉酒がとれる竹なんですよ。それで、まあ物々交換をしてるんだ。お客さんに出したのが、その竹葉酒。よく売れてますよ」  話をきいているうち、とある霊山の麓《ふもと》に着いた。  そのあたりには一面真竹の竹藪が広がっていた。三人は自転車をおりて、竹藪に入った。  あたりは森《しん》として虫や鳥のなく声もしない。楊氏はふと足をとめ、耳をすました。左近たちも耳をすましてみると、静寂の中に、時おりどこかからシュワ、シュワという音がきこえてくる。 「こっちですよ」  楊氏は方向を定めてスタスタと歩きだした。ついて行くと、シュワ、シュワという音はだんだん近づいてくる。やがて、シャンペンとサイダーを合わせたような、甘酸《あまず》っぱい香りがしてくる。 「ほら、あすこ」  指さしたところを見ると、竹藪の一角の竹が、そこだけ数十本切り払われて、そのひとつひとつの切口から、乳白色の卵の白身のようなものがどくどくと湧《わ》き出している。竹株の根元にかたまった液体の一部分は、紫水晶のような美しい色をしていた。  音の出所はこれだ、と思って見ているうちに、二、三の竹株から白い泡《あわ》がシュワッと吹き出す。  おやじは持ってきた酒壺《さかつぼ》に、慣れた手つきでその泡を掬《すく》った。 「飲んでごらん。できたてでおいしいよ」  左近は泡を手にすくってみると、泡は掌《てのひら》の上で薄翠色の液体になった。竹葉酒だ。真新しいせいか、店で飲んだものよりも味と香りが濃い。  楊氏は語った。 「昔から、日本でもお酒のことをササというでしょ。中国でも杜甫《とほ》の詩に『巌蜜、松花熟して、山杯、竹葉春なり』とあるし、白楽天も『甕頭《ようとう》の竹葉、春を経て熟し』とうたっている。酒に竹葉という名前をつけたり、竹を飲み屋のしるしにしたり、酒ができた時竹を立てて祝ったり——竹と酒になにかと縁があるのは、昔の人がこの酒竹を知っていたからなんだよ。  現在山西省でつくっている竹葉酒というのがありますがね。あれももともとは、酒竹の酒を飲んだ人が考えたものなんだ。その人は若い時仙界にまよいこんで、この酒を飲んだんだね。後で下界に戻ってから、またあれを飲みたいなあと思ったんだ。でも、俗界には酒竹が仲々生えていないから、飲みたくても手に入らない。それで、こんな味だったっけ、あんな味だったかなあ、と思いだしながら、白酒に竹の葉っぱを漬けて、似たようなものをつくったんだよ。でも、しょせん本物にはかないませんよ」  竹株からはとめどなく酒があふれた。数本の竹を味|較《くら》べしてみると、竹によって酒の風味が微妙にちがう。濃いのあり、薄いのあり。中には酸っぱいやつもあり、シャンペンのように炭酸のきつい酒もある。 「これを使いなさい」  楊氏がぐい飲みを貸してくれた。左近とどぶ六はあっちの竹、こっちの竹から酒をすくっては、堪能《たんのう》するまで飲んだ。 「あれ、誰か酒を汲みにきたな。うちのお客さんかな」  楊氏が言った。  果たして、一個の大きなひょうたんが竹藪の竹の間をこちらに向かって飛んで来た。ひょうたんはひときわ太い酒竹のところでフワッと止まった。栓《せん》がひとりでに抜けて、あふれる酒を小さい口からグビグビ吸い込むと、また栓がしまり、いずこかへ飛んで去った。 「あれは崑崙の仙人のひょうたんですか」 「そう、うちのお客さん、猪脚老人《ちよきやくろうじん》のふくべですよ」 「猪脚老人? 変わった名前ですね」 「仙人の中でも変わり者でね。豚足が大好きなんで、みんながそうあだ名するのよ。大体、仙人ってものはみんな長生《ちようせい》のためとかいって菜食主義だけど、この人は特別でね。殺生戒《せつしようかい》を破るのなんか|へいちゃら《ヽヽヽヽヽ》なんだね。時々ああやってひょうたんを飛ばして、この酒を汲むんです。これから腸詰を配達に行くから、御紹介しましょう」     四  猪脚老人の洞《ほら》は、竹藪から程遠からぬ崖《がけ》にあった。 「まいど。腸詰をお届けにあがりました」楊氏が入口から声をかけると、 「おう、はいんなさい」と返事があった。  洞の入口の細い通路を抜けると、中はいきなり厨房《ちゆうぼう》になっていた。鉄の大|鍋《なべ》がいくつも並んでいて、白髭《しらひげ》の老人が豚足を煮ている。まわりには、さまざまな|だし《ヽヽ》を入れた瓶や、調味料・香辛料の壺がところせましと並んでいる。  猪脚老人は白髪|白髯《はくぜん》の小柄《こがら》な仙人だったが、声は太く、肌《はだ》はテラテラと脂《あぶら》がのっていた。腸詰をわたすと、喜んでそれを片隅《かたすみ》の釘《くぎ》に掛けた。楊氏は左近とどぶ六を紹介する。老人はまた鍋をかきまわしながら、ふむ、ふむ、とそれを聞く。やがて、洞の奥に向かって呼びかけた。 「小倩《しようせい》、小倩や」 「はあい」と声がして、奥から一人の仙女が出てきた。十八くらいの睫毛《まつげ》の長い美しい娘だった。すらりとした身体に薄い羽衣をまとって、花が舞うように歩いてきた。 「楊さんがいらしたぞ。お客人をお連れだ。せっかくだが、わしは今豚足を煮ているところでな。これから肝心の味つけにかかるんで、手がはなせないんだ。おまえ、かわりにみなさんをおもてなししておくれ。俗界からきた方々だから、景色の良いところを御案内しなさい。それから、みなさんおまえと同じでお酒飲みだから、『仙桃亭《せんとうてい》』にでもお連れして一献さしあげたらいいだろう」 「はい」  小倩と呼ばれる娘は、三人の客人をおもてに連れ出した。可愛《かわい》い唇《くちびる》をすぼめてひゅっと口笛を吹くと、小さな雲が飛んでくる。みんなはそれに乗った。 「仙桃亭は群玉山《ぐんぎよくざん》にあります。少し遠いけれど、雲を飛ばして、景色でも見ながらいきましょう」  出かけようとすると、 「お待ち」  老人が洞から出てきて、小倩に何かキラキラ光る物を持たせた。仙女はうれしそうにそれを受けとる。お小遣いらしい。  雲は飛び立った。 「親切なお師匠さんですね」と左近は言った。 「ええ、仙界の好好爺《こうこうや》と言われてますもの。でも、豚足のことになると目の色がかわっちゃうの。今度、上海《シヤンハイ》で“世界豚足フェア”というのが開かれるんですけど、お師匠さんはそれの品評会に出品するんで、今研究に夢中なんです。なんでも、琉球《りゆうきゆう》の|あしてびち《ヽヽヽヽヽ》が強敵らしいの。みなさん、あとで洞に戻ったら、きっと新作の豚足煮込みを食べさせられるわ。でも、くれぐれもまずいなんて言っちゃだめよ。金丹にされちゃうから。今お師匠さんは、キウイ味の煮込みに挑戦していますの」  やがて雲は景色の良い山におりた。 「ここはそのむかし軒轅黄帝《けんえんこうてい》が修行した黄山です。ちょっと散歩していきましょう」  白雲がゆったりと寝そべる青空の下に、そよそよと和《なご》やかな風が吹いて、気持ちのよい散歩であった。あたりには珍しい草花が生えていて、孔雀《くじやく》や鸚鵡《おうむ》、その他見たこともない鳥が木の枝や花の間に遊んでいた。 「るるるるる!」と鈴を振るような美声をはなって、浅黄色の鳥が近くの枝からとび立った。 「今ないた鳥は八音鳥です。あそこにつがいで飛んでいるのは相思鳥、あれは李白《りはく》が好きだった白《はく》|※[#「閑+鳥」]鳥《かんちよう》、あ、あれがこの山の名物|黄鳥《ヽヽ》ですわ」  しばらく歩くと喉《のど》がかわいてきた。一同はまた雲にのり、仙桃亭を目ざした。  雲は山々の景色を見るために、空の低いところを飛んでゆく。そのうち、異様な獣脂の匂《にお》いが立ちこめる場所に出た。グツグツとものを煮る音が聞こえる。 「旦那、あれ!」  どぶ六が叫んで指さした方を見ると、大釜《おおがま》のような火山の火口いっぱいに、どろどろの煮込みが煮えている。油の浮いた、どす黒いつゆの中にブクブクと泡が立って、得体の知れぬ動物の骨が浮きあがったり、もぐったりしている。その中に米粒のような白い点が、ヒヨヒヨといったりきたりしている。  うじ虫かと思ったが、よく見ると人間だ。|のし《ヽヽ》をしたり、平泳ぎをしたり、難しい顔で浮かんだりしている。 「あれは何です?」左近はたずねた。 「ああ、あれは〈神肴《しんこう》〉です。乾坤《けんこん》の肴《さかな》ですわ。あれには天地創造以来のあらゆる動物が煮込んであるんです」 「泳いでいる人がいますが?」 「あれは〈絶対精神〉先生ですわ。その話をすると長くなりますから、あとでゆっくりお話ししましょうね」  火口から遠ざかると獣の匂いは次第にうすれた。また、かぐわしい草の匂いにかわる。そうこうしてやっと群玉山に着いた。ここは、その名のとおり翠《みどり》、薄翠、深翠の玉《ぎよく》で出来た山だった。山肌一面にひろがる濃淡の紋様が千字文《せんじもん》のようでおもしろい。  峠に旗亭があり、『仙桃亭』と書いた酒旗が立っていた。店に入ると、髪を丸髷《まるまげ》に結った年増《としま》の女将《おかみ》がひまそうにしていた。 「あら、小倩ちゃん、いらっしゃい」 「おねえさん、お客さまをお連れしたわよ」 「まあ、ありがとう、うれしいわ。うち、ひまなんですもの。まあ珍しい、俗人じゃない。あら腸詰のおじさん。あなたのお友達だったの? それじゃ、初めての方がいるなら、こちらの方がいいわね」  一同は露台の特等席に案内された。そこからは、遠く山の麓に、西王母《せいおうぼ》が春に衆仙を招いて蟠桃会《ばんとうえ》をもよおす瑶池《ようち》が見える。  女将はつまみを盛った豆《たかつき》と籠を運んできながら、あらためて挨拶《あいさつ》した。 「いらっしゃいまし。京姑《きようこ》と申します。何もありませんが、ゆっくりおくつろぎください」 「京ねえさんは、西王母さまの従姉妹《いとこ》なのよ」と小倩が言った。 「おほほ、柄《ガラ》の悪い親戚《しんせき》なんですの。小倩ちゃん、あなた、何飲む?」 「うーんと……桃のお酒がいいな」 「あらそう。こちらの殿方たちは」 「ぼくらも一緒でいいよ」 「それじゃ、杯を余分にあげるから、分けてめしあがってね」  女将はめいめいに小さなガラスの杯を配った。それから、碗《わん》ほどの大きさの器を持ってくる。器は桃の核《さね》を二つに割ったような形をしていた。中には、桃の香りのする透明な酒が入っていた。  小倩は白い腕をあらわにして、器からめいめいの杯に酒をついだ。 「それじゃ、乾杯!」 「うーん……飲みやすいね」  喉がかわいているし、さっぱりした味なのでスイスイいける。やがて器が空になると、女将はおかわりを持ってくる。空いた器には清水を満たした。 「これは〈桃核杯《とうかくはい》〉っていってね。三千年に一度実る蟠桃の核なの。こうして水を入れてしばらくおいとくと、お酒になるのよ。ですから交代で水を入れて召し上がってね」 「ところでこれは何です?」  どぶ六はさいぜんから、豆《たかつき》に盛ってある薄黄色い沙《すな》のようなものが気になっていた。 「煮白石《しやはくせき》よ」 「煮白石?」 「粗い白沙《しらすな》を油で煎《い》りながら塩味をつけてあるの。ふつうは豚の油でつくるけど、うちは精進料理だから胡麻《ごま》油なの。しゃぶってごらんなさい。のみこんじゃだめよ」  どぶ六は怪訝《けげん》な顔をして沙をひとつまみ口にほうりこんだ。舌の上でしばらくころがして、ぺっと吐き出す。 「うーむ。イケル。ちょいと肉桂《にくけい》のかおりがするのがオツだね。おみやげに少しもらって帰ろう」  左近と楊氏も煮白石に手をのばした。  豆《たかつき》は二つきていた。もう一つの豆には粗塩が、籠には生栗《なまぐり》と青梅が入っていた。 「今日は肉芝《にくし》があるかしら」と小倩は訊《き》いた。 「あるわよ。活《い》きのいいのが入ってるわ。ねえねえ、小倩ちゃん、あたしね、肉芝のお料理で新しいのを発明したの。あなたためしてみない?」 「いいわ。どんなお料理?」 「それはできてのお楽しみ」  しばらくすると女将はしゃぶしゃぶの鍋を運んできた。鍋には真っ赤なスープが煮え立っている。ぷんと山椒《さんしよう》の香りが立った。 「だいぶ香辛料がきいてるようだね」  楊氏はそう言って、れんげにスープをすくって、なめた。 「うーん。唐辛子に山椒、胡椒《こしよう》、|豆※[#「豆+支」]《とうち》、肉桂、八角《はつかく》、枸杞《くこ》、棗《なつめ》、老酒《ラオチユウ》といったとこだね」 「お待ちどおさま」  女将は赤い肉のようなものを盛った大皿をテーブルに置いて、めいめいに小碗と箸《はし》をくばった。 「小倩ちゃん、たくさん食べなさい。あんたは若いんだから、お肉を食べなきゃだめよ」  肉芝とは菜食の仙人が珍重する、形や色、味までも牛肉にそっくりな蕈《きのこ》の一種である。女将の考えた料理とは、煮立った辛いスープにこれをサッとひたして、|の《ヽ》の字を描いてから食べようという、いわば仙家版しゃぶしゃぶだ。薄切りにした蕈を箸でつまむと、鮮血様の紅液がしたたった。  小倩は一口食べると目を細め、花のような笑顔になった。 「おいしい。おねえさん、おつゆの味が肉芝《これ》にぴったり。おいしいわ」 「あーら、あたしって、何てお料理が上手なのかしら」 「おほほほほほほ」と女仙たちは笑い合った。  左近と楊氏もさかんに|しゃぶしゃぶしゃぶ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と泳がせて、パクつく。  どぶ六は、辛いものがあまり得意でないので、おそるおそるつゆにつけて食べてみたが、やはり口の中が火事になった。目を白黒させていると、女将はそれに気づいて、 「あら、たれが辛かったかしら。ちょっと待って、お口直しを持ってくるわ」  葛《くず》に砂糖をかけたようなものを出した。 「これは瑶池でとれる藻《も》でね、|ぱるもぐれあ《ヽヽヽヽヽヽ》というの。南方粘菌|菩薩《ぼさつ》の好物なのよ。これを食べると長生きするんですって」  どぶ六は、その葛のようなものをすすりこんで、口の火事がようやくおさまる。 「どれ、一口」と楊氏が味見をした。「ふうん。悪くないね。タピオカゼリーに似てるけど、もっと味が上品だね。うちでも今度出してみようかな」  楊氏はノートにメモを取りはじめる。  一同が珍しいつまみと酒に堪能した頃《ころ》、小倩は、 「ところで、さっきのあの人ですけど……」と語りはじめた。     五 「〈神肴〉の中で泳いでいる人、あの方は〈絶対精神〉先生だって申しあげましたわね。じつは、去年の秋、こんなことがありましたの。  劉伶《りゆうれい》さんといえば、近頃仙人になった竹林の七賢の中でも大酒飲みで有名ですが、あの方がある日|蘇州《そしゆう》のお酒に酔っぱらって、酒瓶《さかがめ》の中で寝ているうちに、瓶ごと日本に売られちゃったんです。  近頃は空瓶なんかでも古いものなら商品になるので、日本の商社が買いつけたのですが、劉さんの寝ている瓶は、まわりまわって、横浜の中華街にある料理屋に買われました。そのうちでは、上海|蟹《がに》の季節が来たので、酔蟹《よつぱらいがに》をつくるために空瓶を買ったんです。  酔蟹というのは、御存知の通り、生きた蟹を老酒の瓶の中で溺《おぼ》れ死にさせてつくります。こうすると、蟹の肉にお酒がしみて透きとおった飴色《あめいろ》のゼリーのようになります。チュッとすすると、芳《こう》ばしくてなんとも結構なお味です。とくに蟹みそと卵は、こうして味をつけますとたとえようもなくおいしいものです。蟹はなんでもできますけれど、十月頃、旬《しゆん》の上海蟹でつくった酔蟹が最高の美味とされて珍重されています。  劉伶さんは、目がさめるとトンデモナイところにきてしまったので、びっくりしました。厨房のかげに隠れてようすをうかがっていますと、料理人が瓶を洗ってお酒と蟹をその中に入れました。そこで劉さんは、自分も蟹に化けて瓶の底にへばりついていました。  そうしていると、時々人が酒のしみた蟹を取り出しては、そのあとにまた老酒と蟹を足してくれます。劉さんは生きた蟹と喧嘩《けんか》したりしながら、てきとうに酔蟹をつまみ食いして、老酒をチューチュー吸っていました。つまみはあるし、酒はあるし、いうことがありません。『蟹のはさみを片手に持って、酒の池を泳げば、それで一生を終わるに十分だ』といった人がいますが、たしかにこいつは極楽極楽と瓶の底に暮らしていました。  劉さんには二千年の酒歴がしみついています。だから、その瓶でつくる酔蟹はふしぎに香りがこうばしくなりました。料理屋はおかげでその秋たいそう繁盛しました。ただ、料理人たちは、この瓶に入れた老酒がいやに早くなくなるのをふしぎに思っていました。それに劉さんは、瓶に少しの間でも酒が切れると、術を使って店の者に|タタリ《ヽヽヽ》ます。そのうち、あの酒瓶には妖怪《ようかい》蟹がすみついているという噂《うわさ》が、誰言うとなく流れました……  ところで、東京に小川さんという若い哲学の学者さんがいました。この人はもとマルクス経済学とかいうものを研究していましたが、〈走酒派〉と見なされて学会から仲間外れにされたので、哲学に転向していました。この小川さんが、ある晩|蒲田《かまた》のチャイナ・ハウスというお店で紹興酒を飲んでいたところ、毎日横浜に酒を仕入れに行くマスターから、妖怪蟹の噂をききました。  小川さんは俗人ですが、鍾馗《しようき》さまの血をひいているらしくて、妖魔もおそれる力があります。というのは、この方は邪眼《じやがん》を持っていて、ギラリとにらまれると鬼もふるえあがり、たいていの小妖怪は立ちすくんでおしっこをもらしてしまうほどです。 『その妖怪蟹のみそをぜひ食べたいな』  小川さんはそういって、翌日鳴り物入りで中華街にやってきました。  劉さんは、小川さんが桜木町の駅におりた瞬間から、おっかないものが迫ってきたのをさとりました。本体にかえって逃げ出そうとしましたが、まだ仙人になって間がないうえ、あまり長く蟹になっていたものですから、元に戻る術を忘れてしまいました。それで、あわてて中華街の入口に結界を張りましたが、そんなものが通じる相手ではありません。小川さんは、蟹みそを食べたい一心で魔王のようになって、フン、と結界を破り、くだんの店の調理場へズカズカとあがりこんできました。  瓶の蓋《ふた》をあけると、『コレかっ!』といって、劉さん蟹を邪眼でニラミこんで、甲羅《こうら》をあけて食べようとしました。  ところが、間一髪のところに——友達というものはありがたいものです——竹林の阮籍《げんせき》さんがかけつけてきて、どうかその蟹の命をお助け下さい、と懇願しました。すったもんだしたあげく、結局、劉伶さんの命を助けてもらうかわりに、小川さんに仙界を案内してあげることになって、こわいお人は崑崙山《こんろんざん》にやってきました。  その時、うちのお師匠さまは人がいいもんですから、頼まれてわたしを小川さんのガイドにつけたんです。かわった物が見たいというので〈神肴〉に案内したら、小川さんは勝手に火口へ下りていって、あの煮込みをぺろっと一口食べちゃったんです。 〈神肴〉は天地が晩酌《ばんしやく》するためにつくってあるつまみですから、人間はおろか仙人だって箸をつけてはいけないものなのです。それで、煮込みの番人がカンカンに怒ってとんで来ました。  わたしは責任上|平謝《ひらあやま》りにあやまりましたが、番人は聞く耳を持ちません。小川さんは番人をドーカツしようとしましたが、相手は〈神肴〉をまもるために玉皇上帝から授けられた伏魔平妖の鉾《ほこ》を持っているので、今度ばかりはさすがにニラミが利《き》きませんでした。番人は贖《あがな》いをしろと言ってきます。そのうち、お師匠さんがやってきて番人と交渉しましたが、あいつは小川さんがつまみ食いして神威をけがしたことを独鈷《とつこ》にとって、どうしてもこのおとしまえにわたしを差し出せといいだしたんです。  というのも、〈神肴〉は別名〈五虫鍋〉といいまして、あの中には、原虫類からはじまって、貝類、魚類、両棲類《りようせいるい》、爬虫類《はちゆうるい》、昆虫《こんちゆう》、哺乳類《ほにゆうるい》と高等動物にいたるまで、すべての動物が煮込まれているんです。もちろん、人間だって二、三匹入っていますわ。  ですが、このところ世の中が惰弱になったせいか、より進化した動物がさっぱりあらわれません。そこで番人は、人間よりも高等な存在である仙人を煮込んで煮込みの格を上げたいものだと、かねがね狙《ねら》っていました。それにあいつは根がスケベですから、このわたしを裸にむいて、目の保養をしながらトロトロに煮込もうというんですわ。  うちのお師匠さまもこれには困りはてていると、小川さんが一計を案じて、あの〈絶対精神〉先生の御登場となったわけです。  なんでも、十九世紀のドイツにヘーゲルという人がいて、〈絶対精神〉の哲学とかいうものを教えていたんですって。  この人の教えによりますと、万事は有よりはじまって、有は無を定立し、有と無の統一は成を定立し、成は質を、質は量を、質と量の統一は実体を定立する。さらに実体は因果を、因果は相互作用を、因果と相互作用の統一は概念を、概念は理念を、理念は自然を、自然は精神を——このようにして、窮極的には〈絶対精神〉が定立される。〈絶対精神〉は自然的および精神的宇宙の全体を包括する全一者であり、歴史はその自己表現にすぎないということです。  たぶん、ヘーゲルさんは陰陽の教えを聞きかじったんだと思いますけど、それにしても、ばてれんの学者さんって、たいそうなことを考えだすものですね。  さて、あの煮込みの中で泳いでるお方は、小川さんと大学の同僚だったんですが、石よりかたいカチカチのヘーゲル主義者だったんですわ。  小川さんは哲学者になっても相変わらず走酒派で、難しい問題に突きあたったら、判断せずしてお酒を飲め、と教えていました。その考えを『アポリアで一杯』という論文にまとめて、学会で発表したら、例の同僚の先生は、こやつ、哲学を愚弄《ぐろう》するかといって噛《か》みついてきて、二人で大|立《た》ち廻《まわ》りになりました。以来この二人は犬猿《けんえん》の仲でした。  小川さんは、仇敵《きゆうてき》がヘーゲルを崇拝するあまり、学会では〈絶対精神の権化《ごんげ》〉とあだ名されているのを思い出して、悪いことを考えたんです。 〈権化〉というのは、そのものになりきっているということでしょう。そういたしますと、この先生は〈絶対精神〉になりきっているんですから、進化の窮極段階にあり、人間よりも仙人よりもずっと偉い存在だということになりますでしょう?  小川さんはそのことを番人の前でとうとうと演説しました。 〈神肴《しんこう》〉の番人は、玉皇上帝の御威光をかさにきて威張っているといっても、もともと学のないしゃもじの妖精ですから、百戦|錬磨《れんま》のぺてん師の舌先にかかっては、手もなくまるめこまれてしまいました。わたしのかわりにあの先生を煮込みのタネにするということで話がついたんです。  そこで小川さんは大学に行って、〈絶対精神〉先生をだまして仙界《こちら》へ連れてきますと、お尻《しり》を蹴飛《けと》ばして〈神肴〉の中にぶちこみました。それで万事めでたしめでたしとなったんですが——ただ、御覧のとおり、あの方、カタくて仲々煮えませんの。でも適当に煮込みをかきまわしてくれるので、番人は喜んでいます。  あら、みなさん、おねむになっちゃったの?」 [#改ページ]   第六回     一  仙桃亭《せんとうてい》から|猪 脚 老 人《ちよきやくろうじん》の洞《ほら》に戻ると、小倩《しようせい》の言ったとおり、老人は豚足の味見をさせようと手ぐすねひいて待ちかまえていた。左近たちはオーソドックスな醤油《しようゆ》煮込み、老酒漬《ラオチユウづ》け、辛子|豆板醤《トウバンジヤン》味、新作のキウイ味など各種の煮込みを食べさせられたが、もう酔っていてうまいもまずいもわからなかった。  ようやく仙界から小岩の楊州《ようしゆう》飯店に戻ると、夜が明けている。一休みして、楊氏に礼を言ってわかれ、浅草の家に着いたのは昼過ぎだった。  玄関の戸をガラッとあけると、沓脱《くつぬぎ》に見慣れない草鞋《わらじ》がある。障子の向こうから話し声が聞こえてくる。左近は上がり框《がまち》に片膝《かたひざ》をついて、その声に聴き耳を立てた。  声の主は老人である。何か講釈をしていたようだが、そのうちに歌をうたいだした。   胴を引き締め、体を磨《みが》く   ひょうたんの気持ちで   一日素直につとむ   人は締《し》め括《くく》りが大切で   胸のあたりに締め括りあり   千成《せんなり》も、一つ人の心かな。 「おまえさん、知っとるかい。ひょうたんというものはな、これは霊妙なモノでな、本来霊類としては、あの龍《りゆう》よりも霊格は高いんじゃ。  ひょうたんにはさまざまな神通がある。一つに、これを撫《な》でれば、病《やまい》の人間は病を忘れる。一つに、邪鬼を祓《はら》う。一つに、切り方次第で、十と八つのちがった形の器ができる。また、ひょうたんの中は別天地で、時の流れも俗世とは異なる。その証拠に、ひょうたんに新酒をいれておくと、時をうつさずして飴色の古酒になるのじゃ。  そら、もう一杯ついでおくれ。よしよし、いい子だ。そら、トクトクトク……いい音がするじゃろう。これは名馬の疾駆《はやが》ける足音。ひょうたんから駒《こま》とはこれを言うのよ」 「なんだろうな。まさかひょうたんの押売りでもあるまい……」  左近はサッと障子を開けると、後光のさすキンカ頭の老人が神棚《かみだな》の下にどっかり坐《すわ》っていた。左近愛用の脇息《きようそく》に肘《ひじ》をもたせ、右手に杯。その杯に、ツヤツヤと光る大きなひょうたんからお酌をしているのは、なんとこの家のヌシ・影女ではないか。左近もまだめったに姿を見たことがない、あの対人恐怖症の妖怪が昼|日中《ひなか》にお酌とは——影女は、それでも顔を見せるのだけは恥ずかしいとみえて、衣桁《いこう》に掛けた着物の袖《そで》から細い手ばかりを遠慮そうに出していた。なんのことはない。これじゃあ〈小袖の手〉だ——  老人は坐ったまま左近をジロリと見上げると、 「酔っておるか?」と言った。 「醒《さ》めてたまるか」と左近。「人の留守にあがりこんで、おまえさん、何者だ?」 「影ちゃんに酌なんかさせやがって」とどぶ六。  老人はそれには答えず、すずしい目をして言った。 「結構な御身分じゃのう。いい若い者が働きもせず酒をくらって」 「酒飲みが酒くらうのは天地の理《ことわり》だ。働かないのは、おれの勝手だ。文句があるか」 「あるサ。そんなのは堅気《かたぎ》の道ではない。昼間一生懸命働き、宵《よい》の一杯で一日の疲れをいやす。そのささやかな喜びが、まっとうな人間の酒じゃ。それを、貴様は一体何様のつもりじゃ」 「おれは、人呼んで徳利《とつくり》真人《しんじん》という」  カラカラカラ、と老人は笑った。 「人呼んで、とはごたいそうな。貴様みたいなひよっこが真人とは片腹痛いわ。徳利男《ヽヽヽ》が相応なところじゃ。これからそう呼びあらためい。よいか、徳利男、こんな怠け者の暮らしをして恥ずかしくないのか? 汗水流して生活する正直者に何と弁明する?」 「おれは酔うのにいそがしいんで、生活なんかしてるひまはないんだ。そんなものは素面《しらふ》の奴《やつ》にやらしておけ。おれにはおれの道があるのだ」 「悟ったようなことをぬかすな」 「じゃあ、てめえは悟ったのか? 悟りとは何だ」 「悟りとは涼しさよ。たとえれば、炎天下の大路《おおじ》から菩提樹《ぼだいじゆ》の木蔭《こかげ》に身を寄せた時の、スウッと汗がひくような涼しさじゃよ」 「そんなら悟りとは夏の湯あがりか。仏の道たァ冷奴《ひややつこ》に枝豆か」 「ばちあたりめ」  老人はサッとひょうたんを放った。このひょうたんは、仙界のふくべを老人が何百年もの間、毎日毎晩、撫でたりさすったり、頬《ほお》ずりしたりキスしたり、ふぐりの裏であたためたりして練りあげた神器である。敵になげつける時には金剛石よりも硬く、鬼神の頭もコナゴナに打ち砕いてしまうしろもの。だが、ひょうたんは左近の手におとなしくスッポリと握られた。 「ふむ。きさま、少しは酒徳をつんでおるようだな。一献させい」と老人は言った。  影女はスッと座をはずした。左近は坐って老人の杯にひょうたんの酒をつぎながら、 「おまえさん、一体何者なんだ?」  老人はクイッと杯を乾《ほ》すと、アーうめい、という顔をして、 「これ、何かつまみはないのか」  左近は顎《あご》をしゃくってどぶ六に合図すると、どぶ六は台所に行って、仙桃亭でわけてもらった煮白石《しやはくせき》を小皿に入れてきた。 「オツなものがあるじゃないか」  老人は石をしゃぶって酒をグビリとやる。やがて、あぐらを組みなおして語りはじめた。     二 「わしの名は酔悟大法師《すいごだいほうし》——またの名をひょうたん老人という。貴様を酒の風呂《ふろ》から救った鉄拐李《てつかいり》とは兄弟弟子にあたる酒仙じゃ。平素は西嶽佳佳山《せいがくかかざん》にむすんだ方丈の庵《あん》にこもって、酒を楽しみ、花鳥を愛《め》で、詩を友として風雅な日々をおくっておる。  そのわしが、このむさい、きたない、塵埃《じんあい》もうもうな東夷《とうい》の都くんだりまで出向いてきたのは、ゆゆしき事件が起こったればこそじゃ。これ、徳利男、おまえがのん気に竹葉《ちくよう》酒なんぞ飲みに出かけている間に、こちらでは大変なことが起こったぞ。金樽《きんそん》教の御神体が盗まれてしもうた」 「えっ、聖徳利が?」  左近も色めきたつ。 「そうじゃ。聞くところによると、ねずみのような顔をした男が信徒になりすまして酒城にもぐりこみ、みんなが酒を醸《かも》すので忙しくしているすきに、聖徳利を持って逃げたのだという。  金樽教主は、あわてて抱樽大仙《ほうそんたいせん》のところへ相談に行った。大仙は酒鏡で徳利の行方を霊査した。すると、御神体がとんでもない奴の手に渡っていることが判明したので、二人はスワ一大事と杜康《とこう》大老のもとへ上奏に参じた。  その結果、哀れ教主は責任を問われ、佳佳山の止酒房《ししゆぼう》に入れられてしもうた。わしは大老直々の命を受け、杜哲《とてつ》にかわり、おまえを指導しにきたのじゃ。  おまえも知っていようが、酒城のあるあの城山の地下は尋常の場所ではない。天地《あめつち》は大いなる酒霊におおわれているが、地球に地軸があり磁場があるように、酒霊もあるエネルギーの場をつくって大世界を律しておる。あそこは力の|へそ《ヽヽ》の一つだと思うたらよい。酒霊の巨大なエネルギーがあの地に集中しておる。聖徳利はその力をコントロールするために、あそこに祀《まつ》られていたのじゃ。それが、こともあろうに魔酒の徒に盗まれてしまった」 「魔酒の徒?」 「そうじゃ」 「そりゃ一体何です?」 「おまえ、魔酒の徒を知らんのか?」 「知らないなあ」 「やれやれ、杜哲はおまえになんにも話してきかせなかったようじゃな。それならば、徳利男、わしがこれからおまえにレクチュアをするでな。酒界の秘密を話してきかせる。よいか、耳の穴かっぽじって良く聞くのだぞ。それにもう少し酒を持ってこい」 「どぶ六!」 「ああィ」  どぶ六は竹筒に入れた竹葉酒を持ってきた。     三 「これからおまえに解き明かすのは、この宇宙の大秘密、大不思議じゃからな。心してきけ」とひょうたん老人は前置きした。 「まず、おまえが知らねばならんのは、そもそも、この世に何故《なぜ》酒があるのかということじゃ。それを説明するためには、まず宇宙の本質から説きおこさねばならん。  宇宙とはどのようなものか?  よいか、今ここにおまえがいて、わしがいて、空には雲が流れ、樽《たる》には酒が満ち、庭の紅梅は香りをはなち、夏ともなれば不忍《しのばず》のお池には白い蓮《はす》の花が咲く——かくのごとく目で見、耳で聞き、鼻でかぎ、手でふれ、舌に味わうことのできる世界を、かりに〈色界《しきかい》〉(現象の世界)と呼んでおこうよ。  色界はさまざまなあらわれの世界じゃ。あらわれと言うのは、文字通り、幻のように|あらわれる《ヽヽヽヽヽ》だけで、それ自体独立した実体を持っているのでないから、そう呼ぶのじゃ。  たとえば、こういうことを考えてみよ。  誰もいない山の中で一本の大木が倒れる。この樹《き》が倒れた時、果たして音はするであろうか?  もちろん音はする、とおまえは思うかな? それは単純な物質主義者の考えだ。誰もいない山の中には、その音を聞くものはおらんのだ。聞くものがいなかったら、果たして音がしたと言えるのかな?  よいか、〈音〉という現象は、それを聞く〈耳〉があってはじめて〈存在〉するのだ。独立して実存するのではなく、それを認識する他者にたよって存在する。他に依存して起《た》っている。その存在のあり方は夢や幻と一緒じゃ。  瑜伽禅定《ゆがぜんじよう》の修行をつむと、これと同じことが一切の現象にあてはまるのがわかる。すべては幻のごとく実体のないもの。砂漠《さばく》に落ちている麻縄《あさなわ》を旅人が蛇《へび》と見誤るようなもの。眼病を患《わずら》う人が虚空《こくう》に花を見るようなものじゃ。  しかり。一切は認識者〈われ〉の見る夢幻の世界にすぎぬ。  だが、よいかな。注意せよ。今わしは〈われ〉と言ったが、その〈われ〉はわしでもない、おまえでもない。  もしも世界が単純におまえの見る夢であったなら、世界はおまえの心が揺れるままに揺れ動くであろう。かりにおまえの意志が強ければ、おまえの望みは何でもかなえられるし、おまえの意志が弱ければ、おまえの恐れはことごとく現実となって襲いかかってくるであろう。一方、おまえはまったく意想外な事態や、自分とはまったく異質なものに出会うことがなくなるであろう。  だが、現実はそうではないな。それは、世界を夢見ている主体が、おまえやわしのようなちっぽけな〈われ〉ではなく、わしやおまえを通じて夢を見ているもの——わしもおまえも、共にそこから発している根本の〈自我〉——一切の有情《うじよう》、いな、神や人から草木金石にいたる万物がそこに根を持つ〈大我〉——すなわち、〈アラヤ識〉だからなのである。 〈アラヤ識〉とは何かということをもう少し説明しよう。  いま、おまえの〈意識〉の内容をふりかえって、よく吟味してみるがよい。ひっきょう、おまえにとって宇宙はそれにすぎないのじゃからな。  いいか、おまえの中には、眼識(視覚)、耳識(聴覚)、鼻識(嗅覚《きゆうかく》)、舌識(味覚)、身識(触覚)という五つの〈識《しき》〉がある。さらにそれらをつかさどる〈意識〉があり、その下に〈末那識《まなしき》〉すなわちおまえという〈個〉を仮構する〈我執〉がある。  この〈末那識〉のさらに底にあるもの——根底の〈識〉——これをいにしえの賢者は〈アラヤ識〉と名づけた。〈アラヤ識〉は個我の底にあり、個我が生起する場である。個我をふくめた一切の〈色〉(現象)はこの〈場〉に色界の種子が付着し、成熟して、さらにあらたなる〈色〉として生まれてくるものじゃ。この過程が〈色界〉を輪廻《りんね》させる〈識転変〉と申す過程じゃ。〈アラヤ識〉は識転変の生ずる場なのである。これはすべての生類、万物の根本じゃ。地上に湧《わ》き出る泉の水が地下でひとつにつながっているように、〈アラヤ識〉の深みにおりれば万物は通底しており、神も悪魔も、仏も羅刹《らせつ》も、おまえもわしも、ただ一つの〈大いなる我〉なのである。  なぜかというとな——  よいか、ここにひとつの平面がある。平面上には色々な点があり、線がある。点には点の生活があり、線には線の人生があろう。四角が円《まる》に思いをよせて、三角形が横恋慕てなぐあいに、点や線の喜怒哀楽が生起する場——それが、この平面じゃ。  それではひとつ次元を上げて、この平面の人生が生起する場を考えてみよう。その場とは何かといえば、それは、この平面を含む空間である。同じように、この空間の人生が生起する場は、空間に時間軸の加わった四次元時空体だ。  ところで時間とは、〈知覚の統一した連続〉に他ならぬから、これはすなわち〈自我〉を成り立たせる〈我執〉と同じものだ。四次元時空体は我執《ヽヽ》を軸とした空間の連続体——すなわち、〈個我〉そのものに他ならぬ。  してみると、どうだろう——〈アラヤ識〉は先に言った通り個我が生起する場であるから、それは当然、第五次元の因子を軸として統一された〈個我連続体〉ということになるではないか。空間に無限数の平面が含まれるように、無限数の個我がその中に含まれる。おまえも、わしも、猫《ねこ》も杓子《しやくし》も、三千世界のあらゆる個我がその中につらなっている。まさに〈大いなるわれ〉ではないか。いにしえの天啓聖典が『汝《なんじ》はそれなり』と言ったところのものではないか。  この〈アラヤ識〉すなわち〈大いなるわれ〉は、苦悩する存在である。  なんとなれば、それは無限の個我の連続体であり、宇宙に遍満《へんまん》し、宇宙そのものであるがゆえに、〈他者〉というものを知らない。だからいつもひとりぼっちじゃ。〈孤独〉に苦しんでおるのじゃ。  この〈孤独〉も、じつはさらに上の次元にゆけば解消される迷妄《めいもう》にすぎぬから、〈アラヤ識〉は、いずれなんらかの形でそれを克服するはずである。現に、〈アラヤ識〉の一部分はその悟りに達しておる。だが、他の大部分は無明の闇《やみ》に苦しみもがいておる。  だから、いつの日か〈大いなる克服〉が起こり、〈アラヤ識〉が〈孤独〉という迷妄から完全に救われるまで、かれはひとりで苦しみとたたかわねばならぬ。今まで幸せな人生という芝居をみていた人が、芝居が終わり、舞台の照明が消えて、ふと気がつくと、ガランとした劇場にただひとりのこされている——そんな淋《さび》しさと闘わねばならぬ。 〈酒〉は、この〈アラヤ識〉の孤独を慰《いや》すために神々がつくりたもうたものじゃ。  神々とは〈アラヤ識〉の上澄みであり、孤独と苦悩から解脱《げだつ》した一部分である。ソーマ大神やディオニュソス、杜康氏といった方々がそれじゃ。かれらは聖なる〈酩酊《めいてい》〉の力で孤独の影を追い払うために〈原酒〉を醸した。 〈原酒〉とは、いまだ現象化せざる酒の本質であり、大宇宙に遍在する酒霊である。酒霊はその存在によって、宇宙をここちよい酔い心地に保っている。そして酒霊の気は凝《こ》って〈酒界〉を生ぜしむる。天に天仙、地に地仙が棲《す》むごとく、酒界にはわれら酒仙が遊んでおる。  だからわれらのつとめは、清浄なる〈酔い〉を増進し、大宇宙一切存在の苦悩を和らげることにあるのじゃ。  わかったかな、徳利男よ。おまえ、頭は良いか?」  老人はそう言って、グビリと酒を飲んだ。 「わかった。それで魔酒とは……」と、徳利真人——徳利男はたずねる。     四 「それよ、魔酒とは地獄の酒じゃ。魔酒の徒とは、別名〈魔王の杯から飲んだやから〉といわれておる。  光があれば闇があり、日向《ひなた》があれば日蔭あり、犬が西向きゃ尾は東を向く——そのように、宇宙が陰陽の原理から成り立っておるのはわかるな。  ここに、酒界を創成した神々を陽《ヽ》とするなら、陰《ヽ》にあたる連中こそ、〈魔酒の徒〉・〈魔酒の醸し屋〉たちじゃ。かれらは〈アラヤ識〉の澱《かす》であり、言ってみれば神界のアナーキストじゃ。  さいぜんも言ったように、神々は〈アラヤ識〉の解脱の日を待って、それまでかれに慰めを与えておこうと考え、聖なる原酒を醸した。ところが、〈魔酒の徒〉は解脱の日が来ることを信じない。かれらは〈アラヤ識〉から慰めを奪い、苦悶《くもん》をつのらせ、狂気に追い込むことによって、〈アラヤ識〉の孤独を解消し、ひいては己の救済をもたらすことができると思い込んでおる。この目的を達するためには、かぐわしい原酒の霊気を破壊せねばならぬ。かれらは、そのための武器を発明した。  そもそも酒とは、みんなが楽しく酔えるように、と神々への祈りをこめて醸すものじゃ。  ところがここに悪《あ》しきやからがいて、天真な酔いへの渇仰《かつごう》を忘れ、〈効率〉とか〈利潤〉とか〈合理化〉とかいった汚いものを追い求める心——〈素面心《しらふごころ》〉——をもって酒を醸造すると、その酒は素面の気をおび、酒に似て酒ではない、べつなものに変じてしまうのだ。  この〈酒に似て非なるもの〉は、物質のレヴェルでは、ふつうの酒とかわりはない。これを飲むと、飲んだ者は、〈眼識〉〈耳識〉〈鼻識〉〈舌識〉〈身識〉の〈五識〉、さらに〈意識〉〈末那識〉まではふつうの酒を飲んだように酔いしれるけれども、その者の〈アラヤ識〉はかえって飲めば飲むほど、冷水に打たれたように醒《さ》めかえる。  わしらは、これを魔酒と呼んでいるのじゃ。  かようの魔酒が、もし天下にはびこれば、どうなる? 江湖《こうこ》の酒徒がそれと知らずにメーターを上げればあげるほど、〈アラヤ識〉の酔いはさめてゆくのだ。素面になった〈アラヤ識〉は、己の絶対の唯一性《ゆいいつせい》、永劫《えいごう》無限の孤独に直面するのだ。やがてこれに耐えられなくなった〈アラヤ識〉は、苦しみのあまり狂気におちいり、宇宙は混沌《こんとん》にかえるであろう。  そうした魔酒をつくりつづけているのが、酒造業者の三島|業造《ごうぞう》じゃ。おまえ、三島酒造は知っているじゃろ?」 「ああ、あのまずいウイスキーの会社」 「ウイスキーだけではない。あの会社は今やビール、ワイン、日本酒、老酒《ラオチユウ》、ジン、ウオトカ、ブランデーなど、あらゆる分野に手を広げておる。当然、自分の工場だけでは事足りぬから、色々な会社と提携して、すでに世界の酒造元の三分の一には、この会社の息がかかっているのじゃ。  三島酒造がこんなにさかえているのには、裏がある。この会社の社長三島業造は、もと一個の熱心な酒徒であったが、どうしたことか魔に魅入られて、地獄の眷族《けんぞく》に加わった。あいつの背後には、〈酩酊〉が悪しきものだなどと言い張り、飲酒の秘儀をほろぼさんとする国際邪教組織がついておる。やつらは愚かな禁酒運動をつづける一方で、三島を援助してよからぬ酒をつくらせているのじゃ」 「その三島とやらが徳利《とつくり》を盗んだわけだな」 「そうじゃ」 「でも、何のために?」 「人には自《おのずか》ら善なる性があって、正しい酒を求めるものじゃ。ほんとうの酒とまともに勝負をしたら、魔酒に勝目などあるものか。そこで三島は、邪教徒の財閥から流れ込む莫大《ばくだい》な資金にものをいわせて、東西のあらゆる銘酒の蔵元を買い占め、自分の支配下におこうとしておる。だが、それにはまだまだ時間がかかる。そこで、やつは酒霊の力を大本からうしなわせるために、〈聖酒変化〉を妨害しようとたくらんだ。それで聖なる徳利を盗んだのじゃ。  徳利男、よくきくのだ。天地がおまえを救世主に選んだのは、おまえに〈聖酒変化〉を行わせるためなのだぞ」     五 「聖酒変化? そりゃあ何です」と左近はたずねた。 「千年に一度、酒霊の力をよみがえらせるための秘儀じゃ。酒霊の力は、ほうっておけば時と共に衰える。なんとなれば、業《ごう》の深き色界は、〈アラヤ識〉の識転変によって輪廻しつづけているが、酒はもろもろの現象と異なり、本性清いもので業などを背負わぬから、ほっておけばしぜんに入滅し、識転変に与《あずか》ることはない。酒が——そして〈酩酊〉が——この世に存続するためには、誰かが輪廻の種子を運んで、転変を引き起こさなければならない。聖酒変化はそのための儀式じゃ。  この儀式には酒星がかかわる。酒星は、酒を表徴する天界の記号じゃ。酒——すなわち、酩酊の〈因〉を象徴している。  一方、酒の〈果〉にあたるものが酒徒の〈酔心《よいごころ》〉じゃ。酒飲みは、酒霊に植えつけられた〈酒〉という〈種子〉を、おのが〈酔心〉として成熟させる。この成熟した〈果〉を、なんらかの形で酒霊に返すことにより、酒霊は新たな存在の〈種子〉を受け、ふたたび〈酒〉という果を結ぶ。ここに、〈酒〉と〈酒徒〉の因果の円環が成立する。  聖酒変化はこの円環を結ぶために、酒星を介して、酒徒が己の酔心を酒霊に捧《ささ》げる儀式なのじゃ。そのためには聖徳利と聖杯が必要になる。この二つは、いにしえ、聖酒変化を正しく行うために、転輪聖王《てんりんせいおう》がこしらえた神器である。酒徒の酩酊を天界の酒と化して酒星に飲ませるための、いわば〈変換機〉なのじゃ。これがなくては聖酒変化は行いがたいが、今やその片方を悪人に奪われてしまった。  どうだ、いかにゆゆしきことか、これでわかったろう。  それだけではないぞ。じつは、わしが一番心配しておるのはな、もし三島がこのうえ聖杯までも手に入れたら、あやつは自分で聖酒変化を行おうとするかもしれん。そんなことをされたら一大事じゃ。  聖酒変化は、ひっきょう、酒飲みの心を新しい酒霊に醸《かも》すことにひとしい。だから、この儀式を行う者は、天地に選ばれた救世主、時の世にもっとも酒徳高き酒仙でなければならぬ。徳利男、だから杜哲《とてつ》はおまえに『酒徳を積め』と言ったはずじゃ。もしも三島のように邪悪な者が酒霊に〈種子〉をおくりこんだならば、その〈種子〉はすなわち〈邪悪の種子〉じゃ。秘儀はけがされ、天地をおおう酒霊は魔酒の悪霊と化し、取り返しのつかぬことになろうぞ。  次の聖酒変化が行われるべき時は、来《きた》る四月九日|柳宿《りゆうしゆく》の晩と迫っておる。この夜、酒星は百年ぶりで地上へ花見に降りてくるからじゃ。それまでに聖徳利を取り返さねばならん。そして聖杯を守らねばならん」 「ふん、わかった」左近は言った。「それで、聖徳利は敵さんが持ってるとして、聖杯はどこにあるんだい?」 「それじゃ。まだたしかめたわけではないが、ウエールズにあるらしい」 「ウエールズ? そりゃまた遠いな」 「うむ。二つの神器は、千年前の聖酒変化以来、長く行方知れずになっておった。聖徳利は杜哲が偶然酒城で見つけたが、それも最近のことじゃ。聖杯のありかについては、伝説はいくつもあるが、誰もたしかに知る者はいないのじゃ。  ただ、最新の情報によると、英国ウエールズの山奥にテイロ聖者の杯というものがある。これがどうも聖杯らしい。だが、わしもまだそれを見ておらんし、ありかも正確にはわからんのでな」 「調べる方法はないのかい?」 「うむ。玉泉洞《ぎよくせんどう》の酒鏡。抱樽大仙があれで今霊査しているが、このあいだ、うっかり者が水盤に粗塩《あらじお》のかたまりを落としてしまってな。塩気で鏡が錆《さ》びついて、調子が悪いのじゃ。聖杯が見つかるまで、今しばらく時間がかかるじゃろう。  わしは聖杯が見つかったら、また来る。徳利男、おぬしはそのあいだに何とかして聖徳利を取り戻す算段をしてくれ。  頼んだぞ。よいな。それでは、さらばじゃ」  ひょうたん老人は帰っていった。  左近とどぶ六は顔を見合わせる。 「旦那《だんな》、なんだかよくわからねえが、おおごとのようですね」 「うん。聞けば天下の一大事だ。どうしたものだろう」 「男は度胸だ。ひとつ、その三島業造って奴《やつ》のところへのりこんでみちゃあいかがです?」 「のりこんで、どうするんだい?」 「ヤァヤァ、われは徳利明神の御神体を取りかえしにまいった。悪あがきせず徳利をさしだせ——」 「それで、ハイさいですかと返してくれるもんなら世話はない」 「ごもっともで」 「さて、どうする?」 「こんなのはどうです? 鼠小僧《ねずみこぞう》に化けて屋敷へ忍び込み、徳利を盗みだす」 「ついでに千両箱を小脇《こわき》に抱えて屋根から屋根へ飛びうつるかい? 三島のうちが高層ビルのてっぺんだったらどうするんだ?」 「それもそうだ。絵にならねえや」 「困ったなあ」  二人は頭をひねった。 「まあ、ともかく、旦那、下手な考えやすむに似たり、だ。まずは景気づけにどっかへくりだしましょうよ」 「そうだな。それが一番先だ。小川先生とやらじゃないが、人間の知恵のはじまりはそこからだ」 [#改ページ]   第七回     一  ここは新橋。  左近とどぶ六は銀座八丁目に近い小さなビルの地下にあるショット・バー『ブランデンズ』でマティーニをすすっていた。  先刻まで、あまり上等とはいえない店で安物のカクテルやウイスキーを飲んでいたのだが、どぶ六がぶうぶう言うから、河岸《かし》を変えたのだ。 「うん、うまい。魔酒じゃない」左近は言った。 「なんです、旦那」 「あのじいさんが魔酒の話をしたろう。それで、ほんとにそんなものがあるのかしらと思って、さっきの店でためしてみたんだ。ちょうど三島酒造の新製品『琥珀《こはく》』が棚《たな》に置いてあったから、まずそれからはじめてな、それらしいのと、そうでないのと、いろんな酒を飲みくらべてみた。そうしたら、どうも、おれには違いがわかるような気がする。魔酒には独特のくさ味があるんだ。さっきの店で飲んだ酒、ありゃあ半分くらい魔酒だった」 「そうですか。なるほど。それで、あんな柄《ガラ》にもない、すかしたジャリの行く店に入ったんですね。でも、わたしは魔酒なんて、全然そんなことには気がつきませんでしたね。ただ、まずかったですけど」 「うまいまずいとは、また別の次元だな。|くさい《ヽヽヽ》んだよ」 「お客さん、何かにおいますか?」  店の主人がこちらを向いたので、「いや、いや」とあわてて打ち消した。  六十を越えた主人の静かな威厳が統治しているこの店は、正統派のショット・バーで、格好をつけない、真に洋酒を愛するものが集まるところだった。  店内は鰻《うなぎ》の寝床のように細長く、店の奥にはいくつか座席があるが、それ以外は立ち飲みである。酒はむろんショット売りで、葡萄酒《ぶどうしゆ》・麦酒《ビール》の類《たぐい》は少ないが、蒸留酒の種類はそろっている。愛書家の書庫よろしくあちこちの壁に吊《つ》った棚に酒壜《さかびん》がズラリと並び、ウイスキーだけでも二千種類を数える。  この日は空《す》いていた。  左近たちは店の一番奥、カルバドスやマールの棚があるあたりに坐《すわ》っていた。長いカウンターがそのあたりだけ鉤《かぎ》の形に曲がって、うしろの壁の羽目板には、舵輪《だりん》や盾を型取った英国海軍軍艦の紋章がかかっている。斜向《はすむ》かいで、若いサラリーマンがオールド・ファッションというカクテルを飲んでいた。これはバーボンに砂糖を入れてアンゴスチュラ・ビタースを加え、オレンジとレモンをしぼり、それをソーダで割って、チェリーを加えたものだ。 「このオールド・ファッションは、高見順さんが好きなお酒でしたね」と亭主は言った。 「長くこの商売をしてると、お酒にもいろいろと思い出がございます。吉田健一さんなんかは、うちにみえると、必ず緑のシャルトルーズで仕上げをしてゆかれましたね」 「おたくでは、むかし」若い客はおずおずとたずねた。「マスターの知らないウイスキーを持ってくると、お勘定がただになったっていうのは、ほんとなんですか?」 「いやあ、伝説ですよ」亭主は笑った。「ウイスキーの銘柄は星の数ほどございますから、すべてを網羅《もうら》するなんてことはとてもできません。うちも、有名な酒蔵の酒はできるかぎりそろえていますがね。わたしの知らない酒もまだまだありますよ」  そういう亭主の洋酒のコレクションは今も増えつづけて、棚に入りきれない壜が、左近の目の前のカウンターを占領しつつあった。それは主にジンやキュラソー、チェリー・ブランデーの類だが、そのなかに、一本だけやけに古めかしいラム酒の壜があった。レッテルに『CAPTAIN BARTHOROMEW'S OLD RUM バーソロミュー船長の古酒』と書いてある。酒は壜に三分の二ほど残っている。  左近はそれを指さして、言った。 「このラムは……?」  亭主は、「おっと」と手をのばし、素早くとりあげた。 「これはこちらにおいとかなくちゃ」  壜をうしろの棚に移した。 「それ、大事なボトルなのかい?」左近はたずねた。 「ええ、ちょっといわくつきの品物でしてね……このラムは待っている人がいるんです……どうして、そんなところに出ていたのかな……あとで奥の方にしまっておかなきゃ……」 「待っている人って?」 「ええ。ある船の船長さんがね、このラムをたいそうお好きなんですが、もうこれ一本しか在庫がないので、その方のためにとってあるんです」 「というと、キープしてあるの?」 「いえ、うちはショット・バーですからボトル・キープなんかいたしませんが……このお酒は大変お高いもんで、あの方ぐらいしか飲む人はいないんですよ」 「その船長さんてのは金持ちらしいね」 「ええ、金持ちといえば大したお金持ちです。でも、大変おさびしいお方なんです。長い間、七つの海をさすらっていらっしゃいましてね……お仕事が忙しいんで、うちへも七年に一度くらいしかお見えになりません。ですが、陸《おか》にあがった時は、きっとうちへお寄りくださいます。  あの方はあんまり長く船に乗っているもんですから、海の孤独にとりつかれて、陸に上がるっていうと必ず御婦人をくどくんです。見たところは、まだ四十そこそこのハンサムな外人紳士でしてね、ブラ下がりの女の子なんかコロリとやられちゃう、苦味ばしったいい男です。でもあの方は、そこらの尻軽《しりがる》娘なんかに興味はないんですよ。『もしも、ほんとうに心根の純な娘《こ》が——おれと永遠にそいとげると誓ってくれる真実な娘がいたら、おれはもう引退して所帯を持つんだ』といつも口癖のようにおっしゃっています。でもね、今日びそんな娘はいやしませんよ。恋愛のロマンチズムは地におちましたからね。あの方は陸へあがるたびに裏切られて、傷ついた心をいやしに、お酒を飲みにいらっしゃるんです。その時は、必ずこのラムをお頼みになります……」 「そんなにおいしいラムなんですか」どぶ六がたずねた。 「高貴なラムは、黄金の焔《ほのお》となって血の中をめぐる、と言いますから——」 「ふうん。もう一杯」左近はマティーニをおかわりした。  どぶ六は小声で左近の耳元にささやく。 「ねえ旦那、高いって、いくらくらいでしょうね。わたし、教主さまから軍資金をしこたま預かっているんです。ですから、ふところ具合は御心配要りませんから、景気づけにひとつ飲んでみようじゃありませんか」 「やめとけ。あれはふつうの酒じゃないよ」 「そんなら、なおのこと飲みたいじゃありませんか」 「人にはそれぞれ分というものがあり、酒にはその酒の選ぶ人がいるのだ。それにおまえ、今の話を聞いたろう。|あのお方《ヽヽヽヽ》とやらは七年に一度だけ陸に上がるんだ。そのたびに乙女の永遠の愛をもとめて、裏切られて嘆いて、また海に出る」 「それがどうかしたんですか」 「おまえ、衛星放送でワーグナーの楽劇を観《み》なかったかい? あのラムを飲みにくるお客さんはね、人呼んで〈さまよえるオランダ人〉というんだ」  と、そこへ新しい客が入ってきて、さいぜんまで若いサラリーマンがいた席に坐った。  世間には動物に似た顔というものがある。  馬面《うまづら》、猪首《いくび》、獅子鼻《ししばな》、鷲鼻《わしばな》、きつね顔やたぬき顔はよく使う言葉だ、犬、猫《ねこ》、兎《うさぎ》や猿《さる》、鶏、羊、タコや金魚に似た人なんてのもいる。しかし似ているといっても、それはたいがい、その人の風貌《ふうぼう》がある特徴において動物を想起させるという程度のものだ。  入ってきたその男の似より具合は、そんなヤワなものではなかった。頭の骨格から、眼《め》といい鼻といい、大きな前歯のつきだした口といい、アカラサマにロコツに鼠だった。耳がもう少し大きくて|チュウ《ヽヽヽ》と鳴けば、猫がとびついてくるだろう。  どぶ六は虫酸《むしず》が走って、「あいつ、サルモネラ菌がいそうだ」とつぶやいた。 「いらっしゃいまし」と亭主はコースターを出す。 「バーソロミュー船長のラムをくれ」  男はキーの高い声で言った。     二 「さあ、そんな銘柄がありましたかな……」  亭主がとぼけると、ねずみ顔はチラと上目づかいをして、 「うしろの棚の三列目にあるじゃあないか」  あとでしまいなおすつもりで一時《いつとき》うつしておいた、その場所を指さした。 「ダブルでくれ」  亭主は苦笑いして、しかたなくさいぜんのラムを棚からおろす。 「お客さま、このラムは年代物で、たいへんお値段がお高くなっておりますが——」 「ワン・ショットいくらだ」 「いつもこれをお飲みになるお客さまからは、スペイン金貨でお支払いいただいていますが……キャッシュでしたら、当店ではワン・ショット二百万円申しうけております」 「よし、それじゃダブルで四百万だな。五百万はずもう」  ねずみ顔の客は抱えていた鞄《かばん》からもどかしげな手つきで札束を出すと、テーブルの上にドサドサと積みあげた。 「キャッシュ・|アンド《ヽヽヽ》・デリバリーでいこうぜ」  亭主はしまった、という顔をしたが、もう遅い。いかに売りたくない酒といっても、商売は商売。こうなっては店としても飲ませないわけにゆかない。 「グラス——」硬い声で助手の若いバーテンダーに命じた。  どぶ六は五百万円の札束に呆《あき》れていたが、驚きは義憤に変わる。 「旦那、あれ、なんとかなりませんか。あいつ、札束でいきなり人の横面をひっぱたくような真似《まね》しやがって。あたしゃ見ていて業腹《ごうはら》ですよ」 「うむ。金を払って飲みたいものを飲むのは自由だから、他人がとやかく言うこっちゃない。あの男が自分の金で、本当に飲みたくて飲むんなら、天帝といえどもこれを妨げることはできないな。しかし……あの札の積み方が気に入らない。自分の金をあんなに邪険にするかしら……」  左近はそう言ってマティーニのグラスを握った。  その瞬間、——これはいかなる不思議であろう、グラスの中のオリーブが危険信号のように赤く点滅しはじめた。どぶ六がそれに気づいて、 「旦那、オリーブが光ってますよ」 「えっ?……おや、ほんとだ。どうしたことだ」 「酒徳経に、こんな一節がありますぜ。『金にあかせて非道な飲み方をするものがいる時、——ことに他人の金で、自分のふところを痛めないで飲んでるくせに、放埒無慚《ほうらつむざん》なふるまいをするものがいる時、酒霊の怒りは正義の宝貝《パオペイ》(秘密武器)と化し、酒仙の盃に顕現する』って。旦那、これがその宝貝だ。〈怒りのオリーブ〉ってやつですぜ」 「うむ、そういえばこのオリーブは『わたしをあん畜生の鼻面に投げつけてください』と言ってるようだな」  左近はオリーブの楊枝《ようじ》をつまむと、斜向かいの客に「もし、あなた」と声をかけた。  くだんの男はこちらをふり向く。  左近はニッコリ笑いかけて、光るオリーブを男の鼻先にほうりつけた。  と、オリーブは空中で、パン、としゃぼん玉のようにはじけ、チラチラ光る赤い塵《ちり》が、男の積んだ札束の上にふりかかった。それと同時に、稀代《きだい》のラムをつごうとした亭主の手が、ピタリととまった。 「お客さん、これは何です?」  亭主はラム酒の壜をさっと引っ込めると、テーブルのうえを指さした。ねずみ顔の客は言われて手元を見、「へっ」と絶句した——つみあげた一万円札が全部木の葉に変わっていたからである。 「なんですか、これは。狐《きつね》や狸《たぬき》の真似か。面白い冗談ですな。おや、葉っぱに何か書いてある」  亭主は葉を一枚つまんで、そのうえに虫食いで書かれた文字を読み上げた。   支払いは    他人《ひと》の金なり     偽大尽《にせだいじん》  ねずみ顔はぎゃっと仰天して逃げだした。亭主は助手に塩を撒《ま》かせる。 「やったやった。旦那《だんな》、やりましたね。小気味|好《よ》かったですね」  どぶ六ははしゃいだ。 「うん。でも、どぶ六。あいつはただ者じゃないぜ」 「え、それはまたどうして——?」 「酒城から徳利《とつくり》明神の御神体を盗んだのは、鼠《ねずみ》みたいな顔の奴《やつ》だったとじいさんが言ってなかったか。あれはきっとあいつのことだ」 「それじゃ、例の三島業造のまわしものでしょうか?」 「そうだ。そういや、どぶ六、『龍宮《りゆうぐう》』にきた海蛇《うみへび》、あいつもねずみに似た顔がどうのこうのと言ってたっけな」 「あっ、そういえば——」 「神出鬼没だなあ——三島ってやつは相当なタマのようだぞ」  左近はしばらく無言で飲みながら考えに耽《ふけ》っていた。 「おい、どぶ、おれたちもボツボツ帰ろう」 「わかりやした」  どぶ六は亭主に勘定をきいた。財布を開いた時、その表情が氷りついた。 「どうした」 「旦那……お札がみんな木の葉になっちゃった」 「しまった。おれも人のふところで酒を飲んでいたんだっけ!」 [#改ページ]   第八回     一  天地にあまねく満ちる酒霊は不偏不党・公明正大である。他人の金で飲むことを四の五の言うなら、まずそういう自分こそ自腹で飲まなければいけない。左近はこの理《ことわり》を忘れて不用意に酒霊の力を用いたため、金樽《きんそん》教主のくれた酒代は全部木の葉に化けてしまった。おまけに教主は今仙界の止酒房《ししゆぼう》に入れられているとあっては、あらためて飲み代《しろ》をせびることもできない。  無一文になった左近は、どぶ六のつくった酒を飲み暮らしていたが、それもやがて尽きた。しかたがないから、どぶ六と二人、屋根の上の物干《ものほし》にしゃがんで、 「ニャーゴ」  と猫のなき真似をしてみる。  物干からは、おとなりの鈴中さんのうちの二階の窓が、手をのばせばとどく距離にある。猫好きの鈴中さんが、煮干しを持って窓辺に出てきた。 「いやだ、猫かと思ったじゃないの。どうしたの、暮葉さん」 「じつはこれこれこういう次第で、カラッケツになりましてね。干上《ひあ》がっちゃって、洗濯物《せんたくもの》と一緒になっちゃった」 「マァお可哀《かわい》そうに。どう、うちに古い梅酒があるけど、よかったら召しあがらない?」 「ありがたいことです」左近は合掌した。  それで二人は、おとなりから頂戴物《ちようだいもの》の梅酒を台所で水にうすめて飲む。 「悲しいなあ、ねえ旦那」 「しかたがない。これも不徳のいたすところだ」 「酒《しゆ》よ、酒《しゆ》よ、なぜ旦那をお見捨てになったのですか?」 「縁起でもないことを言うない。梅酒も捨てたものでない。おれのヰタ・セクスアリスならぬヰタ・アルコホリスの書き出しは梅酒とビールの泡《あわ》ではじまるんだ」 「ははァ、旦那も小さい頃《ころ》は、梅酒の梅の実をかじって赤くなっていたくちですね。それはわかるが、ビールの泡ってのは?」 「うむ。小さい頃、おれの爺《じい》さんと婆《ばあ》さんは『むらさき会』という小唄《こうた》の会にはいっていてな。その会が、神田の花屋っていう料亭の二階で年中発表会をするんだ。おれは早く親を亡《な》くして、婆さん子だったから、そんな時はかならずついていくんだ。で、発表が終わって、そのうち宴会が始まるだろう。小唄なんか習ってるのは爺さん婆さんばっかりだ。そこに子供がおれ一人だから、まあ甘やかされほうだいよ。あっちの席では栗《くり》の甘煮をもらい、こっちの席では刺身の|つま《ヽヽ》のキュウリの花をいただく。栗の甘煮と玉子焼きがうまかったな、あのうちは。とくに玉子焼きは本物の江戸前の味でな。醤油《しようゆ》がたっぷりきいてるから、見た目にはずいぶん色の黒い、無器量な玉子焼きなんだ。でも、食べてみると、濃いだしに甘辛の味がうまく合っていてなあ——ああいうのには、このせつとんとお目にかからないなあ……」 「すみませんが、ビールの泡はどこへいきました?」 「それよ。その宴会で、おれは子供だからおさだまりのオレンジジュースを飲んでいるだろう。ところが、ある時日本橋の爺さん連が面白半分にビールの泡を吸わせてくれた。それ以来味をしめちゃってな。おれは小唄の会にいくと、百畳敷きのお座敷の中を、花から花へ飛びうつる蝶《ちよう》ちょのように、こなたから彼方《あなた》、彼方から其方《そなた》へ、みなさまのビールの泡を吸ってまわったわけよ。  今思えば、楽しい思い出だなあ……  おや、電話が鳴ってるぜ、どぶ六」 「はあい」  どぶ六は茶の間に行って、受話器を取る。 「旦那、|赤とんぼ《ヽヽヽヽ》のマスターからです」 「とんぼといえば、こないだ店を閉めたときいたが、どうしたろう」  左近は電話に出た。 『はい、暮葉です』 『ああ、暮葉さん。お元気ですか。いやね、じつはうちもとうとう店仕舞しましてね。それで、今残ったボトルを整理しているとこなんですが、どうです、お時間がございましたら、晩から飲みにいらっしゃいませんか? つまみもなんにもありませんが、氷ぐらいは用意しときますから』  行かないわけがない。     二  赤とんぼというのは渋谷並木橋にあった、左近がいきつけの飲み屋である。  金王神社の方から並木橋に向かっておりてゆき、明治通りに出るすぐ手前で右に折れると、いにしえの鎌倉道《かまくらみち》の名残という細路《ほそみち》がある。その路の角に鉛筆のような古ビルが、隣のビルとよっかかり合うようにして立っている。  ビルの一階に赤とんぼの絵を描いた看板が出ていて、扉《とびら》を開けると地下へおりる階段。階段を下りてゆくと、暗い小部屋にS字形のテーブルが一つおいてあり、テーブルから三十センチほど上のところに大きな電燈《でんとう》が吊《つ》ってある。そのまわりの明暗の境で悠然《ゆうぜん》と酒を飲んでいるのは、いずれも昨日今日飲みはじめたではない練達の酒客ばかり。ちょっと見には、何か幡随院長兵衛《ばんずいいんちようべえ》のような人でないと入れないような、オソロシゲな雰囲気《ふんいき》が漂っている。  壁にはマリリン・モンローのレコードが飾ってあり、柱には〈危険人物持込厳禁〉の札が下がっている。  ここは三十年来渋谷|界隈《かいわい》の夜の巨頭がつどう不夜城だった。  夜は夜中の一時から二時頃に開き、次の日の昼までやっている。興が乗って時間を忘れた客は、階段から朝刊が投げおとされるのを|しお《ヽヽ》に帰って行くこともままある。  左近は新宿とか渋谷とか東京の西のはずれに出ると、よくここに寄って、腕の良いマスターのつくるトム・コリンズやブラッディ・ブラッディ・マリーを飲みながら夜を明かした。といっても銀座線が動きだすのを待っていたわけではない。たまたま赤とんぼの隣のうちが豆腐屋だった。朝の六時頃、ここでできたての豆腐を一丁買って、まだあたたかい豆乳のようなやつに生醤油《きじようゆ》をかけて食う、こたえられない味をおぼえてしまったからだ。ところがこの店も、ビルが老朽化して取り壊しになるため、隣の豆腐屋もろとも、ついに閉店したのだった。  行ってみると、ちょうどマスターは酒の整理を始めたところだった。 「まあまあどうぞ、お坐《すわ》りください」  マスターは棚《たな》をさがして、「生田」と書いた札のかけてある古いウイスキー・ボトルを出した。 「これなんか、もう大分昔のボトルですがね。多少香りがとんでるかも知れませんが、ちゃんとフタをしてあるから、味はかわってませんよ。よろしかったら、召しあがってみてください」  S字型テーブルのうえには、棚からおろした酒壜《さかびん》がずらりと並んでいる。いずれも客の残していったキープ・ボトルだ。閉店の時お客に返そうとしたが、客は「また新しい店を開く時までキープしといてよ」といって、誰一人持ち帰ろうとしなかった。それでごっそり残っているのだ。  マスターは口のあいたボトルに、種類の同じウイスキーをつぎたして、順にマンタンにしてゆく。 「いやあ、これだけ酒が残っちまいましてね。捨てちまうのももったいないし——風のたよりにききますと、代官山の『金泉閣』の連中が、この不況で仕事がなくて、飲みしろに困ってるっていうもんですからね。寄付しようかと思って。多少気が抜けてるかも知れないけど、だいじょぶだろう」 「やさしいねえ、マスター。いい差し入れだね。旱天《かんてん》の慈雨だ」 「はは、夜中にこんなことをしていると、まるでアル・カポネの一味みてえだナァ」  とんぼのマスターは笑った。 「マスター、このボトルの生田さんてのは、どういう人なの?」左近はたずねた。 「生田さんですか。そうね、あの方は……うちも飲み屋を三十年もやってますと、いろんな人がおみえになったけど、その中でも、まず豪快な人でしたね。  あの方は並木橋で鉄工場を経営していましてね。毎日日銭がたくさん入るのをムンズとつかんで、まあ盛大に遊んでいらっしゃいました。仕事が終わると、店の若い衆なんかをひきつれて、鉄錆《てつさび》のついた仕事着を着替えもしないで、キャバレーにいきます。若い者が『社長、着替えていきましょうよ』なんて言うと、『バカヤロウ、見てくれで遊ぶなんざ田舎者のすることだ!』って怒られちまいます。  その頃は、キャバレーというものが全盛で、渋谷ではエンパイヤとかムーラン・ルージュなんていう店が一番の美女|揃《ぞろ》いでした。そういうところに行きますと、店では生田さんが来ようと来まいと、特等席を必ずキープしてある。生田さんはそこに悠然と坐ると、店のナンバー・ワン、ツー、スリー、フォー、ファイヴくらいがぞろっとまわりをとりかこみます。  まあ、そのくらいお金を使って遊びたおしたお人でしたけど、喧嘩《けんか》の方もめっぽう強くてね。並木橋は戦後暴れん坊の多いところでしたが、その中でも有数の猛者《もさ》でした。うちの前でやくざをつまみあげて、目黒川にたたきこむなんてのはザラでしたよ。  一度、こんなこともありました。  生田さんはいつものように道玄坂できこしめして、並木橋まで歩いてくるのがちょっとおっくうだったんでしょう、近くだけれどタクシーを拾いました。  そうしたら、そのタクシーの運ちゃんが、ガラが悪くて態度も悪かった。生田さんは乗るなりすぐムカッときたが、黙って渋谷警察まで乗って行った。警察署の前にかかると、『ここで止めろ』という。車がとまると、運転手に『いいものをやるから、こっちを向け』という。運ちゃんがふりむきますと、ごっつい、さざえみたいな拳骨《げんこつ》で、ポカリッ!  そのまま運転手をひきずり出して、警察署へ連れ込んで、 『おれは何丁目何番地のこういう者だが、この男があまりに没義道《もぎどう》なんでブン殴った。傷害罪になるかも知らん。逃げも隠れもしないから、後で家に連絡してくれ』  そういうと運転手に治療代だと三万円ばかり握らせて、そのままスタスタうちまで歩いていらっしゃいましてね。 『いやあ、マスター、またやっちゃった。おれも仲々人間が出来ないねえ』  と照れ笑いして、一杯。そんなですから警察でも有名人でした。  もっとも、さすがにお年を召してからは、そんなこともなさらない。いつも着流しで渋谷界隈を悠々と歩いていらっしゃいました」 「その人なら、一度ここで会ったような気がする」と左近。「あれは、五、六年前でしたかね。着流しで年輩の、貫禄《かんろく》のある——そうそう、あの人だ。お元気かなあ」 「それがね、暮葉さん」マスターは神妙な顔をして、言った。 「あの方は、人間六十をすぎたら、老醜をさらすのはみっともないからくたばれ、っていうのが持論で、それを自ら実行なさいましたよ。  あれはクリスマスの近い晩だったなあ……冬だというのにいつもの着流しでうちへおいでになって、他に客もいなかったので、僕と世間話をしていました。  そのうち、ふとこんな事をおっしゃいました。 『マスター、おれ、雪が見たくなったよ。どこへ行けば見られるかね』 『そうですね、新潟の方でしたら、今時分は積もっているでしょう』 『新潟まで、こっからタクシーに乗って行ったら、いくらぐらい取られるだろう』 『さあ、四、五万てとこじゃないですか』 『ああ、そんなもんかね』  僕はその時はべつだん気にもとめないで、そんな受けこたえをしてたんですが、思えば、あの日があの方の六十歳の誕生日だったんですね。  それから数日後、生田さんの家に新潟警察から呼び出しがかかって、息子さんがすっとんでいきました。  生田さんは、うちから新しいボトルを一本買っていって、明治通りでタクシーを拾って、そのまま新潟へいっちゃったんです。着流しで雪見酒としゃれこんだんでしょう。見つかった時は山で凍死していたそうです」 「そうか……」と左近はボトルをつくづくながめた。 「いい話だなあ」とどぶ六。 「世の中にはいさぎのよい人がいるんだなあ。おれなんか、よみがえったりして、恥ずかしいや」と左近。 「そのボトルは形見ですから、どうぞ最後の一滴まで飲んじまって下さい」     三  話し込んでいるうちに、夜は白々《しらじら》明けた。  左近とどぶ六は、マスターからおみやげにもらったウイスキーをブラ下げ、早暁《そうぎよう》の並木路を歩いていた。 「おい、どぶ六、おまえ気づかなかったか?」 「へ?」 「とんぼで御馳走《ごちそう》になった酒は、あれは魔酒だったが、魔酒であって魔酒でなかった」 「なんです? 謎《なぞ》かけですか?」  どぶ六はプラタナスの樹《き》から葉を一枚ちぎりとって、葉の柄《え》をタバコのようにくわえた。 「ちがうよ。酒の味の話さ。魔酒のくさ味が消えていたというんだ。あれはどうしてだろう。古ボトルだから臭いがとんだのかしら。それとも、あのマスターみたいにやさしい心で人に飲ませる酒は、魔酒でも魔酒でなくなるのかしらん」 「旦那、料理だって、一に真心、二に材料、三に板前の腕と言いますからね」 「それなら、たとえ魔酒が出まわっても、それを飲ませる人に真心があれば、酒の道はすたれないということだろうか。そうだといいがな……」  やがて街は目覚め、世の会社員たちが働きはじめる頃、二人は家に帰り着いた。 「なんか手紙がきているぜ。どぶ六、おまえ、ちょっと見てくれ」 「どれどれ」  手紙は三島業造からの招待状だった。 「ナニナニ、『拝啓|徳利《とつくり》真人《しんじん》殿』か——『憂《う》き世に春は廻《めぐ》り来て、人は碧草《へきそう》の晩《おく》るるを恐れ、楊花《ようか》の飛ぶを看《み》て春愁を覚える、置酒《ちしゆ》正に相宜《あいよろ》しき時節とはなり候《そうろう》。真人殿には御機嫌《ごきげん》いかがあらせられるや。小生、かねて酒仙の御高徳の噂《うわさ》を聞き及ぶ者にて、貧酒|粗肴《そこう》、一献まいりたく存じおり候。願わくは某月某日|午《ひる》、拙宅に御光来あらんことを。三島業造|頓首《とんしゆ》』  すごいね旦那、また御招待だ。捨てる神あれば拾う神あり——旦那、さすが酒徳ですね」 「のん気なことを言ってらア。こいつは敵さんからの挑戦状じゃないか。うむ……虎穴《こけつ》に入らずんばなんとやらというからな、受けて立ってやろうぜ」  かくて数日後、二人は麻布《あざぶ》の三島邸に向かった。  文無しなので例によって浅草から歩いてゆくが、徒手|空拳《くうけん》で敵地におもむくとあっても、お酒が飲めるらしいので自然足取りははやくなる。これまさに酒飲みの性《さが》であった。 [#改ページ]   第九回     一  麻布一の橋から芝へ抜ける大通りに、樹齢数百年の銀杏《いちよう》の樹《き》が|ぬっく《ヽヽヽ》とそびえ立っている。その巨怪な幹は、南方植物の気根のように瘤《こぶ》を突き出し、歪《ゆが》める異相《すがた》はさながら魔王の立ち往生を思わせる。樹の根元はコンクリ塀《べい》に囲い込まれ、注連縄《しめなわ》が張られて、いかにもせまくるしい祠《ほこら》になっているが、そのかみの蛇神《じやしん》崇拝の名残でもあろうか。生卵を供える者がたえない。  三島業造の邸《やしき》は、この大銀杏の近所にあって、優に数個の街区を占めていた。東京には、バブル時代、悪徳企業と地上げ屋が再開発の名目で微小な住民を追い立て、サラ地にした土地がありあまっている。三島は麻布のこの界隈にあったそういう敷地をまとめて買いとり、周辺に立ち残っていた家やビルも一掃した。かくて都会の真ん中に広大な荒野《あれの》は出現した。そこに、金の力のなしあたうかぎり贅美《ぜいび》を尽くし、数寄《すき》を凝らした大御殿を建立《こんりゆう》した。それが三島邸——左近の根岸御殿よりも数等立派な、現代の金殿玉楼である。  二人はえんえんと果てしなく続く土塀にようやく門を見つけると、番小屋にいる門番の老人に来意を告げた。門番は丁重に招じ入れた。車寄せを渡って、正面のアール・ヌーボー調な洋館に入ると、燕尾服《えんびふく》を着て出てきたのは、新橋のバー『ブランデンズ』でバーソロミュー船長のラムを注文したあの|ねず公《ヽヽヽ》である。  左近とどぶ六はハッとしたが、相手はすまして「いらっしゃいまし」と丁重に挨拶《あいさつ》した。 「お待ちしておりました。ただ今奥へ御案内いたします」  鈴を鳴らすと、紅《あか》と翠《みどり》のチャイナ・ドレスに悩ましい曲線もあらわな二人の美女が出てくる。 「金蓮《きんれん》、月娘《げつじよう》、暮葉さまだ。丁重に御案内しておくれ」  翠のドレスをまとった娘は歳《とし》の頃《ころ》二十三、四か。瓜実《うりざね》顔に鼻筋はとおり、二重まぶたの眼《め》は涼しげな品の良い顔立ち。紅いドレスを着た方はそれより少し若くて、ちょっと上を向いた可愛《かわい》い鼻に、うるんだ瞳《ひとみ》。ぽってりした口唇《くちびる》は幼子《おさなご》のようだった。  女たちは左右から客人に寄りそい、絹のようにやわらかな手で左近とどぶ六の手を引いた。 「こちらへ」  洋館の奥から長い渡り廊下を三つほど抜けて、廊下を折れると、その先に中国風の華麗な殿閣があった。その建物の中を通り抜け、また渡り廊下をつたってゆくと、水際《みずぎわ》に瀟洒《しようしや》な離れが立っていた。  女たちは庭に面した部屋の絹張りの椅子《いす》に左近とどぶ六を坐らせた。 「はじめまして。わたし、金蓮と申します」紅いドレスの美女が言った。 「わたしは月娘と申します」と翠のドレスの娘。「今日はようこそおいでくださいました。主人《あるじ》はじきにまいりますが、よろしければ一献さしあげる前に、お湯をつかっていただくようにとのことでございます」 「そうかい」 「では、湯殿へ御案内いたしましょう」  離れには大理石の浴場が隣接していた。浴室は昭和初期に流行《はや》ったような欧風のデザインで、ガラスの壁から木漏れ日のさす広い楕円形《だえんけい》の湯船には、麻布十番の鉱泉が引いてあり、コーラ色の湯が良い湯加減に沸いていた。浴室の両端に一つずつ長方形の湯船があり、そこには沸かさない冷たい源泉があふれている。左近たちは冷泉と沸かし湯を交互にたのしんだ。  湯から上がると、タオルの他にふかふかのガウンが用意してあった。それを着ると、女たちは二人の髪をドライヤーで乾かし、ていねいに櫛《くし》で梳《す》いてくれた。 「ほら、男前になりましたわ。それでは、これにお召しかえください。お客さまのお服はしばらくおあずかりしておきましょう。のちほど水辺に酒席を設けますので、お服が濡《ぬ》れてはいけませんから」  左近たちは、寛衣《ゆるぎ》を着せてもらうとゆったりした心地になった。  部屋に戻る。テーブルに酒肴《しゆこう》の用意がととのえてあった。 「主人はちょっと書き物がございますので、いま少しお待ちをとのことでございます」  月娘は左近にガラスの杯を渡し、「いかが」と言って酒をさした。酒は少し冷えていて、甘い。しかも後味は清涼である。甘口のシェリーに似た極上の香雪酒《こうせつしゆ》を、氷を入れた瓶子《へいし》で冷やしたものだった。  金蓮はどぶ六にお酌《しやく》する。  テーブルには美しい八つの絵皿にそれぞれつまみが盛ってあった。四皿は透きとおったつまみだった。羊の煮こごり——すなわち、羊羹《ようかん》——と、魚翅《ふかひれ》の煮こごり。鶉《うずら》の卵でつくった宝石のような水晶ピータン、鼈《すつぽん》の裙《はかま》——すなわち甲羅《こうら》のまわりの皮質——の煮込み。残りの四皿は、|豆腐よう《ヽヽヽヽ》、蓮《はす》の葉に巻いた鮒鮓《ふなずし》、大根の薄切りにはさんだ唐墨《からすみ》、わたりがにの酔蟹《よつぱらいがに》のみそである。  女たちはつまみをすすめた。  左近は羊の煮こごりを箸《はし》でつまむと、ゆれるゼリーのうえに春の光がキラキラと躍った。口の中で溶けてゆく芳味に陽《ひ》のぬくもりが薫《うつ》っているようだった。  豆腐ようの麹《こうじ》の甘さ、唐墨と蟹みその濃厚な味、鮒鮓の酸《す》っぱさ——  まだ主人もあらわれないうちから、つい酒がすすんだ。 「遅いわねえ、旦那《だんな》さま」金蓮がうれわしげな目をして言った。 「お客さま。すみませんね。金蓮、お退屈しのぎに一曲ひいてさしあげたら」 「そうね」と金蓮は三絃《さんげん》をとり、つまびきながら、美しい声で歌った。   河の南の岸辺でも 柳の枝よ   河の北の岸辺でも 柳の枝よ   日もすがら 行く人を送って手折《たお》る   別れがつらい 柳の枝よ   別離《わかれ》のお酒をのんだら 柳の枝よ   双《ふた》つの目から涙がこぼれた 柳の枝よ   あの人は 都でわたしを思い出すかしら   いつ帰ってくるのやら 柳の枝よ  涼しい風が渡り、青柳がなびいた。水のむこうに薄翠の梨《なし》の花がちらほらと散った。 「ああ、贅沢《ぜいたく》はやっぱりいいなあ……」  左近は祖父がまだ健在だった幼い昔を思い出し、心ならずも好《よ》い気分になってきた。  どぶ六は金蓮にたずねる。 「ねえさん、良い|のど《ヽヽ》だね。美人のうえに声楽家だ。どこでならったんだい?」 「学校で」 「芸者の学校かい?」 「ええ、まあそんなものですわ。わたしたち、三島の旦那さまがつくった温泉芸術大学の卒業生なの。わたしの専攻は芸能ですけど、月娘ねえさんは文学科なのよ」 「ほう、文学?」 「はい、演劇を少し——」 「わたしたち、奨学生で、旦那さまにたくさん奨学金をいただいてるんですわ。その返済の年季があけるまで、こちらで御奉公なの」 「そうかい、そりゃあ大変だな。でも若いから先々が楽しみだ。ねえさんは将来何になるんだい?」 「芸者ですから、まあ、ゆくゆくは人間国宝にでもなろうかしらと思って——」 「金蓮が人間国宝なら、あたしは文豪ね。樋口《ひぐち》一葉みたいになれるかしら」 「魚玄機《ぎよげんき》にはならない方がいいわ」  そんな話をしているところへ、もう一人の若い娘がやって来た。 「月娘ねえさん、旦那さまは石魚《せきぎよ》でお客さまをお待ちよ」 「まあ、そうだったの」  女たちは左近らを庭に案内した。     二  三島邸の庭には、麻布の川の水を引いてある。水はこの屋敷のため特別につくられた水門から、バイオ科学の粋を尽くした強力な浄化槽《じようかそう》を通って清冽《せいれつ》な水によみがえり、庭の大きな池に流れ込む。池には中国西湖のほとりから移植した柳が春の緑を映していた。  離れから池づたいにしばらく歩いてゆくと、岸辺にひとつの大石があった。石魚とはこれである。石は泳ぐ魚の形をしており、魚の背にくぼみがあって、そこに酒樽《さかだる》が置いてある。  石のまわりの岸は岩がなだらかな傾斜になっていて、座席が三つしつらえてある。  一人の男がその真ん中に坐っていた。歳の頃は六十三、四か、髪はなかば白髪《しらが》だが、眼光|炯々《けいけい》として、しかも表情は一見柔和な老人——それが三島業造であった。 「友あり、遠方より来《きた》る。またたのしからずや」と三島は言った。「徳利真人さま。ようこそおいで下さいました。何もおもてなしできませんが、ひとつこの老人の昼酒《ひるざけ》につきあってやってください」  二人は三島に挨拶して、すすめられるまま左右の席に坐った。女たちはさがった。 「素晴らしい庭ですね、三島さん。とても東京の真ん中の出来事とは思われない」  左近は池の柳を見ながら言った。 「いやいや、ただの成金趣味でお恥ずかしいかぎりです。まあ不細工なビルの天辺《てつぺん》に住むよりはましじゃろう。ともあれ、まずは喉《のど》をうるおしましょう。  おい、酒をまわしておくれ」  三島が石の魚に声をかける。すると、魚の頭のあたりに、可愛らしい男の子がひょこんと顔を出した。それまで陰に隠れていたらしい。子供は笹舟《ささぶね》に一杯の酒を載せて、水に浮かべると、ひゅっと気合いをかけて笹舟の尻《しり》を押した。すると舟は、|つっ《ヽヽ》と水を切り、めいめいの前に流れてきた。  三人は乾杯した。  酒はコクのある老酒《ラオチユウ》だった。まろやかな舌ざわりと栗《くり》のようにこうばしい香りは、加飯酒《かはんしゆ》の上物のようだ。  三島はひといきに乾《ほ》した杯をまた笹舟に載せて、水に浮かべると、舟は自然に石魚の頭の方へ戻った。子供はそれをとり、杯に酒を満たして、こちらへおくりかえす。 「へえ、これは面白い」  左近たちは面白がって、何度も子供と笹舟のやりとりをした。  石魚のちょうど尾のあたりに泉が湧《わ》きだしている。そこから湧いた清らかな水が、石のまわりをめぐっている。笹舟はそれで頭の方へ流れてゆくのだ。 「わたしがここに屋敷を建てたのは」と三島が言った。「この泉があるからなのです。目の前の水をすくって飲んでごらんなさい。仲々の名水です」  ためしてみると、水は冷たくてほのかに甘かった。 「ううん——」左近は感嘆した。  かがみこんだかれの目の前を、また笹舟がスッと通った。今度は石魚の頭の方からではなく、尾の方から流れてきたのだ。そのうえには山吹色の貝が三つ四つのっていた。蜆《しじみ》の酒漬《さけづ》けだった。 「つまみがきた——どうぞ、つまらない点心ですが、お好きなものがありましたら、召しあがってください」  笹舟は次々と流れてきた。女たちが竹籠《たけかご》を上手に上げおろしして、泉の湧口にそれらを浮かべている。舟にはひとつひとつちがうつまみがのっており、楊枝《ようじ》が刺してあった。  蜆の次には、鵞鳥《がちよう》の水掻《みずかき》の老酒漬けを盛った舟がくる。  次の舟は、大ぶりな川蝦《かわえび》の刺身に香菜をまぶしたもの。  そのあとは蒸し物だった。肉団子に米粒をまぶした珍珠丸子《ちんじゆわんず》。可愛らしい金魚の形をした蒸し餃子《ぎようざ》。肉を澱粉《でんぷん》の皮にくるんだ肉圓《バーワン》。それから小籠湯包《シヤオロンタンパオ》、とつづく。  小籠湯包とは、薄皮の中に具とスープが入っている点心で、噛《か》んだとたん、中のつゆが口いっぱいにひろがるのが身上だ。ふつう一口で食べられる大きさにつくるが、今流れてきたものはふつうよりも小さめに作ってあった。中味は海老《えび》、蟹、魚翅《ふかひれ》、貝柱、鰻《うなぎ》、石首魚《いしもち》、真魚鰹《まながつお》、高菜と東坡肉、牛肉のカレー煮、羊肉、鹿《しか》肉、兎《うさぎ》肉、鴨《かも》肉、雉子《きじ》肉、鶉《うずら》肉、南瓜餡《かぼちやあん》、胡麻《ごま》餡、小豆《あずき》餡、卵餡、それにさまざまな具の混ぜ合わせなどだった。  どこかで金蓮が三絃を奏《かな》でながら歌うのが聞こえた。   われは愛す 石の魚《うお》を   石の魚は 湖畔にあり   魚の背には 酒樽あり   魚をめぐる きよらな水   湖岸には |※[#「奇+支」]石《きせき》多く   石の下に 泉は湧く   酔えば水に顔をあらい   口を漱《そそ》ぐ このこころよさ   金も玉《ぎよく》も われは要らぬ   馬車 礼冠 欲しくはない   ただいつまでも 水のほとり   石の魚に 向かっていたい     三 「ああ、うまい酒だなあ」  左近は吐息をついた。 「三島さん、今日はほんとうにお招きありがとう。まさかおたくで、こんな良い酒が飲めるとは思いませんでしたよ」 「わが社の酒を飲まされると御案じなさいましたかな」  三島は食えないすまし顔で言った。 「暮葉さん、わしは仕事と私事《わたくしごと》は別のものとして割り切っています。売る酒は売る酒、自分の飲む酒は別です」 「でも、おたくの会社の酒も、聖徳利の御利益《ごりやく》でさぞかしうまくなったでしょうに」 「暮葉さん……いい春の日ですなあ。お互い下世話な話はよしにして、今日という日をほのぼのと飲み暮らしたいものだ」 「同感です。そうしたいものですね……」 「いや、それが何よりじゃ——おや、面白いものがきましたぞ。ちょっと見物しましょう」  三島が面白いもの、といったのは画舫《がぼう》だった。画舫というのは、お大尽が船遊びに使う、はなやかに飾り立てた船のことである。それが、もそろもそろと棹《さお》さして、目の前の池水に浮かび出た。  船の上には天井を張ったいくつかの部屋があったが、板戸はなく、部屋と部屋は羅幕で仕切られていた。やがて、真ん中の大きな幕がスーッと開いた。中には美装した五、六人の娘が楽器を手に坐《すわ》っている。  娘たちの楽団は一礼してのびやかな古楽を奏で、それを伴奏に金蓮が数曲歌った。  歌が終わり、客人たちが拍手すると、一同はお辞儀をして幕が引かれた。  しばらくすると、ふたたび幕があく。今度は楽団は脇《わき》に寄り、舞《まい》の舞台が用意されている。月娘と金蓮が衣装を変えてあらわれる。  月娘が口上を語った。 「これからお目に入れますのは、わたくしの創《つく》りました寸劇で、題して『呂洞賓《りよどうひん》、牡丹仙子《ぼたんせんし》に口説するの雑劇』でございます。酔八仙の一人呂洞賓に扮《ふん》するのはわたくし月娘。牡丹仙子は金蓮が演じます。つたない芸ではございますが、どうぞお酒の肴《さかな》に御笑覧くださいませ」  幕がスッと引かれて、スッと開く、下手から、紫紅の紗《しや》を肩にかけた牡丹仙子登場。舞台中央へ来て立ちどまる。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 牡丹「わたくしは洛陽《らくよう》の牡丹山に棲《す》む紅の牡丹の精でございます。今日はうららかな春の日。人間の乙女に化身いたしまして、満山に花ひらいた姉妹《きようだい》たちの顔を見に、山の上へのぼってきました。ただ今は家に帰るところでございますが、さきほどから、あちらの殿方は、わたくしの方を見ているようす」 [#ここで字下げ終わり] [#この行2字下げ]呂仙人、舞台下手に貴公子のいでたちで現われる。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 呂 「それがし呂洞賓、御存知|蓬莱莱《ほうらい》島の酔八仙の中でも、一番の人気者でござる。今日は、世上に名高い洛陽の牡丹を見にやってまいりました。    おや、あれに見える、あの娘はなんという美しさか。あのような美形を前にしては、モウ花を見る気もうせました。(牡丹仙子に近寄る)    これ、娘御、そこもとの名はなんといわれる」 牡丹「知りません。人の名前をきくまえに、御自分からお名のりなさいませ」 呂 「これはもっともじゃ。失礼をいたした。それがしは呂洞賓と申す者」 牡丹「わたくしに何か御用でしょうか?」 呂 「牡丹の花を見に来たけれど、花よりもきれいなものを見つけて、心迷いてござる。娘御、解語《かいご》の花とはそなたのことじゃ。何といわれる。さあ、名前を聞かせておくれ」 牡丹「嘘《うそ》をつくお方に名は言えませぬ」 呂 「ナニ、誰が嘘をついた」 牡丹「呂洞賓だと、嘘を」 呂 「嘘ではない。それがしは正真正銘の呂洞賓、字《あざな》は純陽でござる」 牡丹「なんと、それなら、なお呆《あき》れました。呂仙人といえば、仙界で知らないものはありませぬ。夫婦して山洞に住みながら、夜も床を共にせず、客人のごとく敬い合っていらっしゃるとか。その高潔なお方さまが、行きずりの小娘にかようの口説をなさるとは。さてさて、人間界に偽君子がいるのは知っていましたが、仙宮にも、偽神仙がいるとは知りませなんだ。呂仙人、申しましょう、わたくしの名は牡丹仙子でございます」 [#ここで字下げ終わり] [#この行2字下げ]クルリとふりかえりながら、紫紅の紗を被《かぶ》り、うずくまって牡丹花と化す。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 呂 「なんと、そなたは花の精であったか。(牡丹をうち見る)なるほど、これはきれいな花じゃ。してみると、花も女子《おなご》も美しさは同じ。一方に執着するのは俗眼の曇りじゃ。わしは神通無双の神仙といわれ、仙眼を持ちながら、わが眷族《けんぞく》の正体も見抜けなかったか。ほんに淫心《いんしん》とは恐ろしい。これからは放逸をあらため、正しい酒仙の道に戻って、澄んだお酒で心を洗うとしよう。   (牡丹花に向かって)これ、紅牡丹、紅牡丹、そなたのあてな化身を目にして、淫《みだ》ら心を起こしたは、ほんに拙者のあやまちじゃ。今より心をいれかえて、牡丹の花を愛《め》でながら、花見の酒としゃれようぞ。も一度、お前の花の笑顔を見せや」 [#ここで字下げ終わり] [#この行2字下げ]すると、牡丹は花ひらくように両手をひろげて立ちあがり、紫紅の紗をひらめかせて呂仙人のまわりを舞いつつ歌う。 [#ここから1字下げ、折り返して3字下げ] 牡丹「※[#歌記号]ああ、それならば呂仙人、     わたしも顔を出しましょう。     花をながめる風流な心のお人の杯に     牡丹はお酌《しやく》をいたしましょう」 [#ここで字下げ終わり]  二人、共に舞う。  ぱちぱちぱち、と左近たちは手をうった。 「いいぞ、二人とも、器量はいいし芸達者だ。ここの旦那はしあわせ者だ」  月娘《げつじよう》と金蓮《きんれん》はお辞儀をして、幕になる。やがて船はもそろもそろと去った。  三島はニッコリしてふりかえった。 「子供の遊びですが、お楽しみいただけましたか」 「楽しみました。いや、今日は素晴らしい宴だ」 「あなた、こんな宴を毎日開きたくはありませんか?」 「えっ?」 「暮葉さん、いや、徳利《とつくり》真人《しんじん》さま。じつを申すと、こうしてお呼びたてしたのは、あなたに御相談があってのことです」 「うかがいましょう」  左近は姿勢を正した。三島はおもむろに杯を乾した。 「じつは、うちの小者が、せんだって新橋で御尊顔を拝したと申しましてな。例のラム酒がどうとかいう一件です。あの男は酒好きのねずみで、田舎の造り酒屋で樽を齧《かじ》っていたのを、わしが取り立てて下男にしてやりました。見苦しい奴《やつ》だが、眷族が多いので情報が集まります。わしはあれに小銭を持たせて、東西の銘酒を探索させているのですが、このあいだ、稀代《きだい》のラム酒を見つけたとかいって、軍資金《のみしろ》を持って出ていきました。  いや、ぶしつけな田舎者なので、何か馬鹿《ばか》なことをして大恥をかいたようですな。あいつはすぐ金に物を言わせようとするから、こまる。暮葉さん、嘆かわしいことですなあ。ああいうものが増長するのは、いかにぶしつけな田舎者でも、札束を切ればこの日本という国では通るからだ。しかし高徳の酒仙がおられる席では、そういうわけにはいかなかった。あの無礼者には良い薬になったでしょう。それとともに、あなたの御通力のほどもわかりました。そこでお願いがあるのです。暮葉さん——どうです、わが三島酒造の顧問になってはいただけませんか?」 「なんですって?」 「まあ、ここではくわしい話もしかねる。あちらの屋根のあるところへ移りましょう」  三島がパン、パン、と柏手《かしわで》を打つと、二|艘《そう》の小舟が来た。月娘と金蓮が、傘《かさ》をかぶった粋《いき》な船頭姿で櫂《かい》を漕《こ》いでいる。  三島と左近は月娘の舟に乗り、どぶ六は金蓮の舟に乗せられた。  女たちは巧みに櫂をあやつって、舟は池の対岸目ざし、静かに動きはじめた。     四 「じつは——」  三島は舟縁《ふなべり》から手を出し、指先を水につけて遊びながら言った。 「わが社はこのたび葡萄酒《ぶどうしゆ》・日本酒をはじめ、醸造酒部門を拡大することになったのです。これから新製品をどしどし出していかなければならない。それには新しい銘酒の理念《ヽヽ》を生み出す頭脳がなくてはならん。また酒飲みの心をそそる宣伝も必要だ。飲酒の蘊奥《うんのう》をきわめた人がぜひ欲しい。そこで、あなたにお願いするのだ。どうか、わたしの相談役になっていただきたい。待遇は保証します。このような宴会が毎日開ける程度の報酬はさしあげましょう」 「そりゃあおいしい話ですな」と左近は言った。 「僕も贅沢《ぜいたく》は嫌《きら》いじゃない。好きな酒の道で高いお給料がいただけるなら、願ったりかなったりです。しかし、会社にお世話になるには、その会社の方針を知っとかないとね。三島さん、ひとつうかがいたいんだ。あなたは何のために酒をつくるんですか?」 「金もうけのためです」三島は冷然とこたえた。 「そんなら、僕はお役には立てない!」 「なぜです」 「利得のために醸《かも》す酒は、魔酒だからです」 「魔酒とは何です?」 「酒に似て非なるものです。アラヤ識の酔いをさます酒だと教わりました」  はっはっはっと三島は笑った。 「あなたはそんなおとぎ話を真《ま》に受けていらっしゃるのか。この世に魔酒なんてものがあるものですか」 「ありますさ。おかげさまで、最近見分けがつくようになりました。いや|飲み分け《ヽヽヽヽ》というべきかな。魔酒には独特のくさ味がありますな」  左近はそう言って、実例としていくつかの銘柄《めいがら》を挙げた。三島の目が驚きを浮かべ、異様に光った。 「いやはや、これは、おそれいった! さすがの御眼識だ。いや御鼻識《ヽヽヽ》と言いましょうかな。真人の号は伊達《だて》ではありませんな。それでは、ハッキリ申し上げる。たしかにあなたが〈魔酒〉といわれるものはある。それには〈ある種の特徴〉がある。だが、この世にその特徴を嗅《か》ぎ分ける人間がまたといようとは思わなかった。暮葉さん、あのくさ味に気がつくのは、本物の酒の味を知っている人間——さらにその中の千人に一人、万人に一人です。たとえば、わたしとあなたのような……ですから、これは問題とするに足らない。ちがいのわかる人間がこの世にどれほどおりましょうぞ。また、今はわずかなりとそういう人間がいるにしても、世の中の酒が変わってゆけば、ちがいのわかる者はいずれ消え去る……」 「三島さん、そういう理屈を通して、あなた、お天道《てんとう》さまに恥ずかしくありませんか?」 「恥ずかしくない! わたしは時代の要求に沿った酒造りをしているだけだ。それを、あなたのような懐旧病患者は、魔酒だの邪道だのとおっしゃる。暮葉さん、そのようにかたくなな態度こそ、天道に逆らっているのではないかな? よろしいですかな、そもそも天は下等な類人猿《るいじんえん》から我々の祖先を分けへだて、進歩の道を歩ませて、偉大なる文明を築かせました。ときに、文明の屋台骨となるものは何でしょうな? そう、それは〈経済〉である。しからば、〈経済活動〉とは何ぞや? それは〈自然〉の商品化にほかならぬ。商品化とは、〈似て非なるもの〉をつくることです。されば、〈物自体〉はどこにも存在せずして、〈似て非なるもの〉ばかりが世の中に溢《あふ》れてゆく理屈だ。ほんものはな、暮葉さん、あかつきの夢の面輪《おもわ》のごとく、影の中に消えてゆくさだめなのだ。百年前、フランスの哲人ヴィリエ・ド・リラダン伯爵《はくしやく》は看破しました——科学文明が人間に与えた恩恵とは、人生の単純な、本質的な、自然なものを、貧乏人にはとうてい手のとどかぬ高嶺《たかね》の花とすることなのだ、とな。しかり、ほんものの水、ほんものの空、ほんものの酒——今日びそれらを手にすることができるのは、文明の築いたピラミッドの頂点に立つ一握りの選良のみである。庶民は普及品で我慢するがよい。いや——とうに庶民には本物と普及品の区別などつかなくなっておるのです。ちがいますかな?」 「ちがいますね。野《や》に賢人あり——庶民にだって本物のわかる舌はある。だからほんとうの酒はすたれないできたんだ」 「寝言をいってくれるな!」  三島は突然大声をあげた。それまでの落ち着きすました顔が一変し、忿怒《ふんぬ》の焔《ほのお》を背に負った仁王のごとき形相になった。だが、次の瞬間、かれは心のうちを露《あら》わしたのをあわてて押し隠すように、またもとの柔和な悪党|面《づら》に戻った。 「さあれ去年《ふるとし》の雪やいずこぞ……さあ、着きました。こちらの亭《ちん》で、もう一献さしあげましょう」     五  池の向こうには『流觴亭《りゆうしようてい》』という二階建ての亭が立っていた。そのまわりには、大小さまざまの太湖石《たいこせき》が巧みに配されて、さながら荒波に浸食された奇岩の趣を呈している。亭には、卓と円椅子《まるいす》をならべ、新たな酒席が設けられていた。  一同が席に着くと、六歳くらいのつぶらな瞳《ひとみ》をした少女が、台車のついた三脚卓を押してきた。そのうえには瑠璃《るり》の壜《びん》と瑠璃の杯が並んでいた。 「|ゆき《ヽヽ》や、御苦労だったね」  三島は目をほそめて少女の頭をなでた。 「お客さまにお酌をしておくれ」  少女が瑠璃の壜から透明な酒をついでまわると、一同は乾杯した。  わずかに冷やしたその酒は、日本酒の生酒——というより、どぶろくの上澄みだった。しかし、その清艶《せいえん》な味わいといったら! たとえれば、北国の少女の肌《はだ》の蒼《あお》さのような、あるいは妖精《ようせい》がまとう雪の薄紗《うすぎぬ》が、朝日のさしそめるとともに消えて、そのあとに淡い虹《にじ》の橋がかかるような——そのような、はかない、うつくしい、いとしい、かなしい味であった。 「まいったなあ」どぶ六は大粒の涙をポロポロとこぼした。「あたしもどぶろくづくりにかけちゃあ、ちっとは天狗《てんぐ》になっていたが、こんなのがあるんじゃ、看板をおろさなきゃいけない」 「こんなものは、ほんとうの酒にくらべたら——」  三島は一度杯を鼻先に持っていったが、その香りをかぐと、口もつけず苦い顔をして下に置いた。 「灰汁《あくじる》のようなものだ。これは先頃《さきごろ》、わが社が資本提携した蔵元『雪中花』の本醸造だが、現在《いま》の酒はてんで落ちた。わしが飲んだ『雪姫』はこんなものではなかった……」  老人の目に、遠い夢が宿った。 「のう、暮葉さんとやら、酒仙を名のるあなたなら、よもやお笑いにはなるまい。わしはこの歳《とし》になるまで、ついに恋というものを知らず過ごした。いや、恋を知らないのではない。俗人の恋をしなかっただけだ。わしが恋したのは、この世にただひとり——わしの育ての親・天下一の杜氏五代翁《とうじごだいおう》が醸した幻の酒『雪姫』だった。  暮葉さん、かぐや姫の伝説は御存知だろう。  伝説は、往々にして、事実を象徴的に語ったものだ。あの物語もそれにほかならぬ。竹から生まれた姫君とは、あれはじつは竹酒《ちくしゆ》の象徴なのだ。竹酒とは深山の霊竹に生ずる、世にまたとなき、香美なる竹の酒——だからこそ、やんごとない公達《きんだち》は、財宝《たから》の山を積んでも彼女を手に入れようとした。姫が月へ帰って行ったのは、時がたてば蒸発して天に帰る酒精だからだ。  竹酒に限らぬ。すべて至純の醸造酒には貴《あて》なる女《ひと》の魂が宿る。五代翁の醸す酒がそうだった。笛の名人|博雅三位《はくがさんみ》の笛に精霊が宿り、夜更《よふ》けにささやきあったように、翁が心魂こめて造った新酒の樽《たる》には、夜ごと玉の乙女が坐《すわ》っていたものだ。  わしはその乙女に会った。いや、それは夢と現実《うつつ》のけじめのない幼い記憶の欠片《かけら》にすぎんが——  ああ、思い出す。あの夜誰もいない夜更けに、夢を見て目覚めたわしをなぐさめて寝かしつけてくれた、あのうつくしい女《ひと》は幻だったのだろうか? 独り者の老人に育てられた孤児《みなしご》のわしが、さびしさのあまり見た幻覚だったのだろうか?  いや、そうではない。成長して、初めて『雪姫』を飲ませてもらった時、わしのまぶたの裏には、月影に浮かんだあのきよらかな面輪がありありとよみがえったものだ。  五代翁はいっこくな職人だった。金のために酒は造らなかった。だが、そのお方の純粋さに、世間はどう報いたかな? 戦争が始まると、国はアルコールや糖を混ぜたまがいものをつくれと強制した。平和になっても、敗戦で根性が腐り、舌の狂った愚民どもは、インチキな安酒にとびついて、翁のつくる酒を正当な値で買おうとはしなかった。蔵はつぶれ、翁はほどなく死んでしまった。酒造りは翁の命だったからだ。『雪姫』の製法は五代翁とともに滅んだ。おまえさんの好きなほんとうの酒は死んだのだ。   夢たをやかな美酒を醸すてふ       幻人の翁は逝《い》つた……  ああ、……わしは『雪姫』で初めて酔いというものを知った人間だ。それがわしの誇りであり、宿命でもある。あの雪姫——わしの夢の酒——わしの恋した酒の味をもとめて、どれほど多くの酒蔵をむなしくまわったことか。わしはもう日本酒が飲めなくなった。ああ、思えば、あの戦争が憎い……だが、昔を思うのはやめよう。世の中は、これがさだめだ。時の針を逆にまわすことはできぬ。ただひとつ、たしかな道は、力を得ることだ。天命に従い、文明の流れに棹《さお》さして、社会の頂点にのぼりつめることだ。世の中は金だ、金だ。金さえあれば、偽物《にせもの》が大手をふる世に、本物の酒を飽きるほど飲むこともできる。雪姫はもうこの世にないが、隣国には偉大な中華文明の美酒もある。きれいごとをいってもはじまらぬ。徳利真人、はっきり申すと、わしは愚民に偽物の酒を浴びるほど飲ませたもうけで、滅びゆくまことの酒を最後の一滴まで飲みたいと思うのだ」 「うむ……」と左近は重々しくうなずいた。悪党の言い分ながら一理あると思ったからだった。     六  金蓮《きんれん》と月娘《げつじよう》が新しい酒と夜光の杯を持って戻ってきた。 「何をそんな難しい顔をしてらっしゃるの? このあとにまた老酒《ラオチユウ》がきますから、その前に、これでちょっとお口を変えてみてください」  そういってついだ酒は、西域の葡萄酒・楼蘭《ろうらん》古酒だった。「蒲萄《ぶどう》の美酒夜光の杯/飲まんと欲して琵琶《びわ》馬上に催す」と唐の王翰《おうかん》がうたった酒だ。これは干葡萄からつくるもので、色は飴色《あめいろ》。上品な甘口である。  一杯飲むと、今度は辛口の白葡萄酒が別の杯につがれる。それと一緒にスープが運ばれてきた。銀の器につめたく冷やした鶏《とり》のスープ。その中に半透明の燕《つばめ》の窩《す》が盛りあがっている。窩といっても金糸燕《うみつばめ》が唾《つば》で海藻《かいそう》をかためて窩をつくる、その唾液《だえき》の成分を主とした、みぞれ雪のような粒々だった。  舌の上でほろほろ溶けてゆく燕の窩をころがしていると、大皿にのせた小豚の丸焼きが来た。金蓮と月娘が包丁を入れ、小豚の胴のところを切り分けてくれた。豚には骨がないかのようであった。  左近は皿にのった切り身を見て、ふしぎそうな顔をした。 「これは何だい? バウムクーヘンみたいだな」  たしかに、そいつは肉のバウムクーヘンと申せよう。ぱりっと焼けた小豚の皮の下に、色合いのちがう獣の肉が幾重にも層をなして詰まっている。真ん中は挽肉《ひきにく》のようだ。肉と肉の境界には香草がはさんであって、味つけがそれぞれちがう。 「いかが?」と月娘。 「うん、うまい。野味《やみ》だね」と左近。 「ねえさん、この豚皮の下に入っている肉はなんです? すごくこうばしいな」とどぶ六が言った。 「その肉は果子狸《かしだぬき》です」 「果子狸?」 「ええ、浙江《せつこう》の玉面狸《ぎよくめんだぬき》のことよ。おいしいでしょ? これはうちの料理人が思いついたアイデアなんです。彼女はこのあいだ、『トリマルキオーの饗宴《きようえん》』という西洋の宴会の本を読んでいたら、猪《いのしし》の腹の中に鶫《つぐみ》が入っている話が出てきました。面白いといって、それをうちでもやってみることにしました。でも、彼女が言いますには、大きな動物の中に小さな動物を入れるのは、凡庸な発想でまだ芸と言うほどのものではありません。そこで逆に、小さな動物の皮に大きな動物をつつんでみたのです。果子狸の下には、山猫《やまねこ》、鹿《しか》、猪、熊《くま》の肉が入っていますわ。一番内側に詰めてあるのは、象の|つくね《ヽヽヽ》です」 「こちらは、同じことを鳥でやったの」金蓮は鳩《はと》の丸蒸しを持ってきて、切った。 「この鳩には、外側《そと》から順に、雷鳥、家鴨《あひる》、鵞鳥《がちよう》、白鳥の肉が詰めてあります。真ん中に入っているのは駝鳥《だちよう》の卵の煮付け。お味からいうと、こっちの方が美味だと思うわ」  左近たちは早速鳥ももらって、こまやかな味のヴァリエーションに舌鼓《したづつみ》を打った。 「大したものだ。おたくの料理人は、さぞや名のある大家なんだろうね」  そう言うと、月娘はうれしそうに微笑《ほほえ》んだ。 「今、主菜ができましたら、御|挨拶《あいさつ》にまいります。ほめてあげてください」  やがて、庭の遠くの方からにぎやかな管弦の音が流れてきた。御輿《みこし》と楽隊が近づいてくるらしい。果たして、大勢の男たちが何か巨大なものを輿に担《かつ》いで来たかと見るまに、 「お待ちっ!」と亭の外の大テーブルにのせた。  左近たちは目を瞠《みは》った。それはちょっとした築山《つきやま》ほどもある、壮麗な揚物であった。 「お客さま、本日はようこそお越しを」  揚物の蔭《かげ》からすすみでて挨拶したのは、まだ十八、九そこそこの髪を短く切った少女だった。 「うちの厨娘《りようりむすめ》、雪蛾《せつが》です」月娘が紹介した。「今日の料理は、全部この子がつくりました。歳は若いけれど、小さい頃から仕込まれた料理の腕は誰にも負けません。とくにこの揚物は、彼女でなければつくれない神品《しんぴん》ですわ」 「これは本日の主菜で、『衆鱗拝龍《しゆうりんはいりゆう》』と申します。蓮根《れんこん》の澱粉《でんぷん》でつくった衣の中に、海の眷族《けんぞく》が龍王を拝んでいるところを描いてみました」  厨娘は自信ありげに、そう説明した。  一同は揚物の前に座をうつす。  左近は、間近からその巨大な酒肴《しゆこう》をしけじけと見た。  いわれてみると、蝋色《ろういろ》をした半透明な衣の下に、海中の光景が透けて見える。  白木茸《しろきくらげ》と枸杞《くこ》の実でつくったらしい紅色の珊瑚《さんご》の海。沖に揺れる緑の海葡萄。褐色《かつしよく》の海草の群れは干した百合《ゆり》の花だろうか。ところどころに佇立《ちよりつ》する奇岩は、貝柱と魚の肝でできているようだ。  見果てない広大な天麩羅《てんぷら》世界の中心に、峨々《がが》たる椎茸《しいたけ》の山がそびえている。高麗人参《こうらいにんじん》を刻んだ玉楼がそこに建っている。龍が山の洞門《どうもん》から身をなかば出して、双手《もろて》をのばし、天におどりあがろうとしている。龍の鱗《うろこ》のひとつひとつは小海老《こえび》の玉。腹は鱧《はも》の肉。眼は龍眼《りゆうがん》。髯《ひげ》は髪菜《はつさい》。龍爪《りゆうそう》は鮑《あわび》でできている。  洞のまわりには、鱚《きす》や白魚《しらうお》、烏賊《いか》、穴子《あなご》、女鯒《めごち》、車海老など、無数の魚介があつまって龍王を拝んでいる。  いつのまにか左近の魂は身体《からだ》を抜け出し、この海の中にひきこまれていた。魚になるのはこんな気持ちか——かれは尾鰭《おひれ》をヒラヒラ振って、揺れなびく海草の間を泳いでいると、もう長いことたよりのなかった幼《おさな》馴染《なじみ》が、海月《くらげ》になって漂ってきた。 「やあ、さっちゃん」 「たけおくん、久しぶりだね」 「こんなところで何してるんだい?」 「いや、僕はね、魚になりたてだし、海は広いから迷っていたんだ。君に会えて安心したよ」 「さっちゃんはグズだからなあ。ねえ、こんなとこでボヤボヤしてちゃ駄目《だめ》だよ。今、龍王さまが龍宮から御出陣なさるんだ。僕らはみんな、行って御武運を祈らなくっちゃ」 「出陣って、戦争でもはじまるのかい?」 「うん、蓬莱《ほうらい》島の八仙人が攻めてきたんだ。なんでも、〈八仙過海《はつせんかかい》〉の途中に落とした宝物を、海の眷族がネコババしたとかナンクセをつけてきたんだ。今、東海は焼きはらわれて大騒ぎだよ」 「なんだ、ヤボなことするなあ——酔八仙なら、海をお酒に変えればいいのに……」 「それは、さっちゃん、君の仕事だよ」 「えっ?」  そのとき海流が変わって、海月はサッと遠くへ流された。左近はあわててそのあとを追った。 「たけちゃん、ちょっと待って。待っておくれよう……」  ぼわーん!  にぎやかに銅鑼《どら》が鳴り、歓声がきこえて、左近は夢想から醒《さ》まされた。  大勢の子供たちが、銅鑼と鉦《かね》をたたきながら、色とりどりな花で飾った台車に古瓶をのせて曳《ひ》いてきたのだ。 「おう、うるさい子供たちだ」三島業造は微笑《わら》って、耳をふさぐ真似《まね》をした。「暮葉さん、じつは、お近づきを祝って、杭州《こうしゆう》から百年の紹興古酒を取り寄せました。あの瓶がそれです。紹興酒の百年物などさして珍しくもないが、これは特別の品でな、竹葉青《ちくようせい》という」 「竹葉青?」 「さよう。さきほどかぐや姫の竹酒の話をしました。竹藪《たけやぶ》では、まれに竹の茎に含まれる澱粉が発酵して、切株などから天然の酒となって湧《わ》き出すことがある。それを竹酒という。この竹葉青は、竹酒を|もと《ヽヽ》につかって、極上の米を発酵させてつくる緑酒です。またとない味わいがあります。むかし、わが国の漢学の泰斗《たいと》青木|正児《まさる》先生が紹興の宿屋で飲まれたものです。青木先生は『鰕球鶏腰』という海老の揚物を肴《さかな》に、一宵《いつしよう》を徹してこの酒を独酌《どくしやく》された。不遜《ふそん》ながら、今日は尊敬する先生の一人宴会の献立を真似してみました。わしの酒徳は青木先生には遠くおよばないが、良客を迎えられたことだけが自慢できます。  それ、おまえたち、遊んでいないで瓶をあけとくれ」  言われて子供たちが薦《こも》を剥《は》ぎ、瓶の蓋《ふた》をあけると、しっとりと練れた酒のかおりが四面にひろがった。  子供たちが夜光の杯を配る。歳嵩《としかさ》の男の子が竹の筒に酒をくんで、三島に渡した。  三島は手ずから筒を左近の方にさし出す。 「さあ、暮葉さん、百年古酒でかための杯といきましょう。なんのかのといっても、酒飲みの心は酒飲みにしかわからん。われわれは同志ではないか。二人組んで、たんとうまい酒に酔おうじゃありませんか」 「いやですね」と左近は言った。「酒は相手をえらびます。考え方の合わない人とは飲みたくないな」  三島はムッと目をむき、語調を変える。 「徳利《とつくり》真人《しんじん》、いやさ徳利男。空意地《からいじ》を張っても得にはならんぞ。あの晩以来、そちらが文なしで困っているのは知っている。今のおまえさんにこんな上等の酒は買えまい。聞くところによれば、おまえさん、この頃赤とんぼとかいう飲み屋でめぐんでもらった、貧乏人へのほどこしの酒を飲んでるそうだが、ええ、なさけない、なさけない! 安酒飲んでへどを吐くのが酒仙の道でもあるまい!」     七  すると左近はけわしい顔になり、立ちあがって叫んだ。 「三島業造! 語るにおちたな!」  電光|一閃《いつせん》の気合いに、相手は思わずたじろぐ。  左近は竹葉青の瓶に寄ると、古酒をひしゃくにザッとくんだ。 「おまえさんの言うことはわかった。なるほど、たしかに世の中は、御説のとおりなさけない世の中かもしれん。てめえ一人の楽しみを小鍋《こなべ》立てでつっつくのもよかろうさ。だけど三島、お前さん、贅沢《ぜいたく》しすぎて酒飲みの心を忘れたな。おめぐみの酒の何が悪い。おまえの知ったこっちゃないや。酒は酒、おれはおれだ。百年古酒がどれほどのものだい。見てな、おまえの自慢の酒の味見をしてやる」  そう言って、ひしゃくからいっきにスーッと飲んだ。古酒は濃厚な風味の中に百年の静寂をたたえていた。竹の麹《こうじ》独特の透きとおったかおりは、暗い水面に碧空《へきくう》を映すようであった。仙界の竹葉酒を飲んだことのない者なら、これぞかぐや姫の酒と言うにちがいあるまい。 「うん、たしかにうめえや。でもナ」左近は口をぬぐってひしゃくを置いた。「徳利真人さまは、嫌《きら》いな奴《やつ》とは死んでも一緒に飲まねえんだい。どぶ六、その杯をよこせ」  ハイ、とどぶ六は夜光の杯をほうりなげる。左近はそれをつかむと、ヤッと一跳び、太湖石でつくった一番高い山の上にとびあがる。 「おう、三島。修行が足りねえぞ」  と言って、足元にひろがる青柳《あおやぎ》の水辺と花咲く庭を、そしてそのむこうに西陽《にしび》を浴びて燦《さん》と屹立《きつりつ》する東京タワーをうちながめた。 「いくらてめえが栄耀《えいよう》栄華を鼻にかけたって、おれにはこの手があるんだ——いや、おれさまだけじゃない、酒飲みはみんなこの手が使えるんだぞ。いいか三島、あの空を見ろ。この花を見ろ。ふりかえって、宴を張ってるてめえ自身を見てみろ。てめえは何だ? 三島の旦那《だんな》? 春をひとりじめになさってるつもりかもしれねえが、そんなおめえさんをお道化《どけ》に見立てて飲んでるお方が、ここにいるのよ。よくきけ。心意気には金はいらねえ。おいらはここで、雀《すずめ》になって、手酌で空気の酒を飲んだって、この杯がひとつあれば、てめえらみんな酒の肴だ!」  かれは杯を空に高々とかざした。 「玉の杯片手に持てば  天地万象みな酒肴《さかな》  というじゃねえか。これが酒だい! ざまァみやがれ!」  三島はウヌッと歯ぎしりする。  その時、 「よう、大統領!」  いきなりあらわれて左近の肩をポンとたたいたのは、ひょうたん老人だった。 「ごきげんだナ。何を飲んどる? ナニ、空気の酒だ? なさけないな。江戸っ子の痩《や》せ我慢じゃな。どれ、わしがいいものをやろう」  老人は腰のひょうたんから左近の杯に透明な酒をついだ。  酒がひょうたんから流れでた瞬間、この世のものとは思われぬ芳烈な、つきぬくようなかおりがひろがった。かおりは太湖石の上から滝のごとく流れ落ちて、四面にあふれかえった。 「きついな。この酒は何だい?」と左近はたずねた。 「うん、仙界から帰る途中、酒をきらしたんでな、洞庭湖《どうていこ》に寄って、龍王の洞庭君に分けてもらったんじゃ。洞庭君の秘蔵酒『龍涎香《りゆうぜんこう》』じゃよ」 「なるほど、『龍涎香』とは——どうりで香りが高いわけだ」  杯からは靄々《あいあい》と霧が立ちのぼり、それが陽光の中に渦巻《うずま》き、五彩の瑞雲《ずいうん》のごとくきらめいた。左近はそこに鼻を近づけた。 「ああ、いいな。白酒《バイチユウ》はやっぱり香りだ」  香雲とともに生命《いのち》の水をサッと喉《のど》に流し込むと、よほどの美酒だったのだろう、たちまちかれの表情がかわった。百万ドルの笑顔とは、これを言うのか——一目見たら、男も女も老いも若きもみな惚《ほ》れこんでしまいそうな、くったくのない、ほがらかな顔。三千世界の憂悶《ゆうもん》を吹き飛ばす、しあわせな顔。天下一の酒飲みにしか、こんな顔はできない。天地がかれを救世主に選んだのも無理はない。  上機嫌《じようきげん》になった左近は、さっきまでの怒りを忘れて、足元の三島に呼びかけた。 「おい、ほんとにこれはイケルぜ。おめえも一杯どうだい? むっつりしてないで、あがって来いよ。富士山が見えてるぜ」  三島業造は息子のような歳の男に位負けして、腹わたが煮えくりかえった。石の上をにらみつけながら、ヒクヒクと口元をふるわせていたが、この時、月娘にボソリと言った。 「|あいつ《ヽヽヽ》を呼べ——」 「はい」  月娘はいやそうな顔で無線電話のボタンを押した。     八  のどかな光とかぐわしい酒気が満ちていた庭に、突如、まがまがしい気配がしのび寄った。  太陽は色ガラスがかかったように輝きを失い、ひゅうっ、と背筋を冷やす陰風が吹きぬける。池畔の柳は女の濡《ぬ》れ髪のようにおどろになびく。  左近とひょうたん老人は、何か恐ろしいものが近づいてきたことを悟った。  妖気《ようき》は池の彼方《かなた》から流れてくる。左近はそちらに目をやったが、邪悪な力が水面をおおい、視界が歪《ゆが》んでさだかには見えない。それでも、何かが——一|艘《そう》の舟が——こちらへすすんでくるのがわかった。  その舟に乗っている|もの《ヽヽ》がこちらをチラと見た時、左近は思わず石の上からころげおちた。老人も石からとびおりる。亭《ちん》の中では、どぶ六が真っ青になり、女たちも不快そうに顔をしかめている。ひとり三島だけが平然としているのは、やはり、悪魔に魂を売っているからであろう。 「なんだ、アイツは?」  老人は三島に言った。  フッフッと笑うだけで、答えない。  やがて小舟は岸に着いた。妖気はいちだんと強くなった。舟を漕《こ》いでいるのは、例のねずみだった。乗っていたもう一人の男がおりた。  それは、中背で小太りの、顔色の悪い男だった。眼鏡の奥に泣きべそをかいているような目は、いじめられっ子のそれにさも似て、魔性のものとは思えなかったが、男のまわりには、汚れきった気のかたまりが十重《とえ》二十重《はたえ》にとぐろを巻き、血膿《ちうみ》のような腐臭を発していた。かれが地面を踏んだとたんに、瓶の百年古酒はぷーんと臭気《におい》を放った。妖気にあたって、腐りはじめたのだ。こんな男と長く一緒にいたら、人間も生き腐れするかも知れない。 「御前、御用ですか」  男は左近と老人にいぶかしげな一瞥《いちべつ》をあたえて、三島にたずねた。 「そうだ。中村。このお客さんたちが、おまえと一緒に飲みたいといっている」 「この人たちが……」  中村と呼ばれる男は左近に近寄った。両手をのばし、「あんた……」と左近を抱きすくめんばかりであった。 「おれと一緒に飲んでくださるのかい……」  川の中でどろどろに腐った水死人に抱きつかれたら、たぶんこんな気持ちがするのだろう。左近は気が遠くなった。腰がくだけ、フラフラと倒れかかったのを、ひょうたん老人が走り寄って支えた。 「いかん、ここはひとまず逃げよう」  老人はぴゅっと口笛を吹いて雲を呼び、左近を抱えてそれにとびのった。どぶ六もあわててとび乗る。雲は韋駄天《いだてん》走りに浅草の方角へ去った。  月娘と金蓮《きんれん》はそれを見てがっかりしたようにため息をついた。さいぜんから、揚物が冷めるのにイライラしていた厨娘《りようりむすめ》は、魔人を横目でにらみつけながら、こっそり金蓮にささやく。 「粋《いき》なお客さんだったのに、厄病神《やくびようがみ》がきたものだから、せっかくのおつまみも食べないで帰っちゃったわ。やっぱり悪貨は良貨を駆逐す、だわね」  厄病神といわれた男は、東空を放心したように見つめて、「逃げちまった……」とつぶやいた。     九 「ああ、まいった、まいった」  ひょうたん老人は座敷にどっかと腰をおろすなり、扇子をあおいだ。 「まったく冷汗かいてしもうた。三島め、まさかあんな化物を飼っておるとはな……意外じゃった。危ないところじゃった」  ここは浅草。左近の紹興庵に命からがら逃げ帰った三人は、さっそく冷奴《ひややつこ》で飲みなおしをはじめた。どぶ六は、あんなおっかないもののことは早く忘れましょう、と言って、今お勝手でミョウガをきざんでいる。  左近は老人に酒をつぎながら、礼を言った。 「じいさん、助かったよ。いいところに来てくれて。ところで聖杯は見つかったかい?」 「うん、それじゃ。徳利男。聖杯のありかが判明したぞ」 「どこにあるんだ。ウエールズかい?」 「聞いて驚くな。聖杯は日本にあったぞ。おぬし、これから甲州に行くのじゃ」 「甲州?」 「そうじゃ。勝沼の近くに、くれない谷という谷間がある。そこは大昔から良い葡萄《ぶどう》がとれるところで、むろん、今でも日本では第一等の葡萄酒の産地じゃ。  ここには、|くれない《ヽヽヽヽ》姓を名のる酒造りの民が住んでいる。かれらは独特の習俗を持ち、外部の者とはあまり交渉もなく、隠れきりしたんの噂《うわさ》が絶えなかった一族じゃ。  この一族はきりしたんではないが、聖杯を崇《あが》める独特の信仰をもっていてな。それというのも、じつは、戦国時代に渡来した宣教師の中に、ケルト人の血をひく神父がいたのだ。かれは大和の地で真の神の霊感を受けたといって、修道会を捨て、自ら予言者となってこの地に骨をうずめた。その神父の予言によると、末の世にくれない谷で最終戦争《ハルマゲドン》が起こる。その時聖杯は七色の妙光を発して世界を救うという。  くれない谷では、聖杯をくれない一族の本家が保管しているというが、長い間誰もそれを見た者はいなかった。聖杯がこの谷にあるというのはただの伝説じゃろうとささやかれていた。  ところがな、このたび玉泉洞《ぎよくせんどう》の酒鏡で彼《か》のテイロ聖者の杯を探してみたところ、杯はウエールズにはなく、くれない谷にきていることがわかったのじゃ。  杯は長い間、ウエールズのワーン川の西、大山とよばれる山の麓《ふもと》の、とある居酒屋に守護されていたが、今世紀の初め頃《ごろ》に守護者の老人が亡《な》くなり、アンブローズ・メイリックという青年の管理に移譲された。この青年が杯を日本へ運んだのじゃ。かれはその帰路命を落とし、ために〈赤き殉教者〉と呼ばれた。さるウエールズの酒仙が書いた『秘めたる栄光』という本に、メイリックの事跡が記してある。それによると、かれは杯がイギリスの俗物どもに涜《けが》されることをおそれ、かつ酒天使のお告げで日本に救世主《メシヤ》の生まれることを知ったので、杯をこちらへ持ってきたらしい。テイロ聖者の杯は、今くれない谷の葡萄酒醸造の老舗《しにせ》・くれない酒造の蔵に保管されているが、かような経緯からしても、これが真の聖杯であることは、まずまちがいないとみた。  さあ、これからはいよいよおぬしの仕事じゃ。おぬし、早速くれない谷に飛んで、きたる酒星降臨の晩にそなえるのだ。  三島業造も強力な情報網を持っているから、いずれ聖徳利をたずさえて甲州へ向かうだろう。おぬしは、それまでにくれない酒造の主人とわたりをつけて、団結して聖杯を守り、聖酒変化の時にそなえよ。聖徳利は敵の手に渡ったが、天の酒を招来する大いなる力は聖杯にある。聖杯さえ守っておれば、三島を出し抜くチャンスはきっとくる。  徳利男、旅仕度じゃ。路銀はほれ、こいつを——」  老人はちゃぶ台のうえにちいさな黄金の布袋《ほてい》さまを出した。 「純金じゃ。これを売って金をこしらえろ」 「じいさん、あんたは一緒に来てくれないのかい」 「甘ったれるな。わしは他にすることがある。くれない谷でまた会おうぞ」 [#改ページ]   第十回     一 「うわあ、桃源境だ」  どぶ六は思わず叫んだ。  ここは甲州。勝沼の駅を下りると、丘から見渡す甲府盆地は桃の花の盛りだった。日本晴れの空の下、風景がぼうっと酔ったように色づいて、ことに遠く一宮《いちみや》のあたりには薄紅色の靄《もや》がたなびいている。  左近とどぶ六は勝沼駅のワイン・バーでくれない谷への道をきいた。それから、九十九折《つづらおり》の坂道をテクテクと歩きはじめた。  空気が甘く、暖かい。こんな日に花の下で飲む酒は格別だろう。  道の左右の葡萄園では、売店を立てて自家製の葡萄酒や葡萄液を売っている。店の前に高い棚《たな》を吊《つ》っているうちもあった。きっと秋になると、葡萄狩りにやってきた家族連れが、この棚の下に車を停《と》める。子供たちは頭のうえに鈴なりになっている葡萄を見て、早くも胸をワクワクさせることだろう。  駅から遠ざかるにつれ、ところどころに満開の桃の園が見えてきた。近くで見る花の枝は、あざやかな赤紫の振袖《ふりそで》を着たようだ。  どぶ六がこらえかねたように言った。 「ねえ、旦那《だんな》。せっかくきたんですから、どっかそのへんの桃の下で飲んでいきましょうよ。ほら、あすこに葡萄酒屋があります。あすこで地ワインの一升|壜《びん》でも買って、桃見酒を一杯ひっかけましょう」 「どぶ六、そうあわてるな。おれたちが行くくれない谷は桃の名所だそうだよ。どうせなら、あっちへ着いてからゆるりと飲もうや」 「旦那らしくもねえなあ。飲みたい時が美味《うま》い時ですぜ。明日の千両より今日の一両、夜半《よわ》に嵐《あらし》の吹かぬものかは、ですぜ」 「大丈夫さ。まだ日は高いもの。おれは尻《しり》を落ちつけて飲まないといやなんだ」  そんなことを言いながらしばらく行くと、橋のたもとにポツンと一軒、『陶物師《すえものし》岡田』と看板を出している焼物の店があった。店といっても今にも倒れそうな掘立て小屋で、軒先に台を出し、そこに大小の陶器を雑然と並べている。 「ほう、これは——」  左近は思わず立ちどまって台の陶器《やきもの》に見入った。壺《つぼ》や碗《わん》や皿が二足三文の値段で売られているが、それらは土といい、焼きといい、みな一見して筋の良い品物とわかる。しかし、よく見ると、ひとつもまっとうな形をしたものはなかった。いずれも歪んでいたり、ひびが入っていたり、焼く時に窯《かま》の棚板が倒れでもしたのだろうか、壺にぐい呑《の》みがくっついていたりする。  売り台の前に、八十歳か、九十歳か——とにかくおそろしく歳《とし》をとった老人が置き物のように坐《すわ》っていた。 「土もいい。焼きもいい」左近はつぶやいた。「でも、みんなつくりそんじだ」  老人は聞きとがめて、真っ白な眉毛《まゆげ》の下にギロリと大きな眼《まなこ》をひらいた。 「さよう、つくりそんじじゃ。造物主がつくりそんじた人間《ヽヽ》のようにな」   わが面《おも》なりのゆがめるを皆|嘲笑《あざわら》ふ悔しさよ。   陶物師《すゑものつくり》その手をば震はせにしか、かのみぎり。  老人はしゃがれ声で御詠歌をうたうように何かの詩を口ずさんだ。 「わしゃァ、つくりそんじじゃといってこわしはせん。壊される身になってみれば、ほんに辛《つら》いことじゃからのう」               徒《いたづ》らなりや   わがからだ並みのつちより取られしは。   妙《たへ》にくはしくわがかたち形づくりし者にして   われをふみつけ踏みつぶし並みの土にし返すとや。 「つくりそんじかどうかを、一体誰が決めるのかい」  老人はそう言うと、ラジオが切れたようにふっつりと黙り込んだ。  左近はキョトンとして、手にした陶器を台に返し、また道を急いだ。 「旦那、薄っ気味の悪いじいさんでしたね」  どぶ六は橋の上からうしろをふりかえった。 「うん。よほどどえらい芸術家なのかもしれん。それとも、歳でモーロクしているのかな」 「モーロクにきまってますよ」 「そうかな——」  橋を渡ると、まわりに桃の園がふえた。花見の客もいる。  わかれ道に出たので、そばの『丸藤』という旅館で道をたずねる。おかみが丁寧に教えてくれた。くれない谷はもうすぐそこだった。     二  日あたりの良い川筋に葡萄畑と桃林がつづき、葡萄酒の蔵がならんでいる。両側の山は中腹まで桃の樹《き》におおわれ、満開の枝に小鳥が歌う。この夢のような、やすらかな谷の一番奥に、明治初期の建築とおぼしい煉瓦《れんが》造りの洋館があった。そこはくれない一族の本家が経営する『くれない酒造』の建物だった。  煉瓦|塀《べい》に樫《かし》の門。門には、葡萄の房と牧神を浮彫したブロンズのノッカーがついている。ノッカーを鳴らすと、十五、六の愛くるしい少女が出てきた。左近は主人に取り次ぎをたのんだ。 「主人《あるじ》は今来客中です。しばらくお待ちください」  娘は二人を応接間に通そうとしたが、左近は、「いや、桃の下で待ちますよ」といって、葡萄酒とコップをもらい、庭の見事な桃林に出た。  庭はうしろの山につづいている。左近たちは斜面《なぞえ》を少しあがったところの、平らな石に腰かけて酒を飲みはじめた。  大壜でもらった葡萄酒のラベルには『ルバイヤートRubaiyat』と横文字で書いてある。コップにつぐと、立ちのぼる甘いかおりの中に、ひとしずく草の汁のような青い匂《にお》いが混じっている。それはこの谷間の葡萄園の匂いだ。酒の色は濃い紫で、陽に透かすと真紅に燃えあがる。素朴《そぼく》な味の、まさに葡萄を、葡萄そのものを飲むような酒だ。左近はどぶ六と二、三杯くみかわしてから、石の上に仰向けになった。  ポカポカと陽射《ひざ》しが暖かい。  目をあければ、青空に桃の枝がかがやいている。目をつぶってお日様の方を向けば、まぶたの裏に光がパッとひろがり、それがやがて血潮の色にかわってゆく。  うぐいすが鳴いた。 「極楽とはこのことだな。このまま羽化登仙《うかとうせん》しちまいそうだ」 「旦那はもうとっくの昔に登仙してますよ」どぶ六は手酌《てじやく》でやりながら、言った。 「どれ。もうちょっと酒を飲むか」  左近は身を起こした。  二人のいる斜面からは、花咲く谷が一望に見渡せた。  上から見ると、すぐ眼の下の桃林は窪地《くぼち》になっているのがわかる。来る時は気がつかなかったが、その低いところの中程に小さな丘があり、そこに三層の四角い石壇が築かれている。  左近はつぶやいた。 「あれはなんだろう。祭壇のようだが……」 「あれは〈酒神壇〉です」  すずしい声にふりかえると、白桃の枝蔭《えだかげ》に、花から化身したかと見える匂やかな乙女が立っていた。 「毎年、新酒を醸《かも》す時、あそこで酒神に祈りを捧《ささ》げるんです。お酒ができた時は一番に葡萄酒を捧げます」  娘は左近より少し背が高かった。スラリとした肢体《からだ》を清楚《せいそ》な洋服につつんで、手に籠《かご》を下げ、こちらに近づいた。 「お待たせしました。わたしが当家の主《あるじ》です。うちの葡萄酒の味はいかがですか?」 「すばらしい。あなたのように美しい味です」 「まあ」  ぽっと頬《ほお》をあからめた。  娘は石に腰かけ、籠から白布をとりだし、石の上にひろげた。うつむいた横顔を絹のような黒髪がかくした。 「何もありませんけれど、おつまみにと思って……」  籠の中から出してならべたのは、ブーダン(血の煮こごりの腸詰)にキャベツの酢漬《すづ》け、フォワ・グラのパテ、キャビア、オリーブ、チーズ、それに鰯《いわし》のスモークのサンドイッチ——。 「いかが?」とビスケットにキャビアをのせてくれた。 「あなたも一杯」左近は新しいコップを取って、葡萄酒をすすめる。 「それじゃ、少しだけ……」  三人は乾杯した。  左近は、くっきりした眉の下にきらめく瑪瑙《めのう》の珠《たま》のような瞳《ひとみ》をまぶしげに見ながら、 「お嬢さん、お若い御主人ですね。お名前は何とおっしゃるんです?」 「わたし、くれないぶどうと申します。お客さまは?」 「暮葉左近。こちらはどぶ六といいます」 「暮葉さんは、くれない谷へいらっしゃったのは初めて?」 「ええ、そうです。じつに良いところですね」 「ええ。ここも花の盛りはほんとうにきれいです。収穫《みのり》の秋もようございますけれど、やはり、春って素敵ですわ。お客さまも今時分一番たくさんお見えになるんです。ただ今も、神戸からいらした赤井さまというお客さまにうちの蔵を御案内したところなんです。  ねえ、暮葉さん、よろしかったら、あとで工場を御覧にならない?」     三  ひとしきり花を見てから、左近たちは石組みの蔵の中にある葡萄酒醸造場を見学した。工場は今壜詰に忙しく、若い娘が何人も立ちはたらいていた。門に出て来たあの娘もいる。一房の葡萄のように感じのよく似たかれらは、みんな姉妹《きようだい》で、くれないぶどうが総領娘ということだ。  大きな酒槽《さかふね》や、打栓機《だせんき》のライン、地下の貯蔵庫などを見てまわるうちに、左近はロゼや白葡萄酒が一本もないのに気づいた。 「ここには紅葡萄酒《あかぶどうしゆ》しかおいてありませんね。白はつくらないんですか」 「この谷の土でできる葡萄は白葡萄酒に合わないんです。それに、葡萄酒は命の水と申しますもの。血のように紅いのがよくはありません?」  くれないぶどうはニッコリとして、こちらを流眄《ながしめ》に見た。口元に微笑が初々《ういうい》しく咲きこぼれていた。 「は……なんて可愛《かわい》い……」  左近は生来女よりも酒を愛して、美人は酒の肴《さかな》と心得ている。今までどんな尤物《ゆうぶつ》を見ても心を動かされたことはない。ところが、この時、この娘には、ふしぎな心のときめきを感じた。  それを横目に見ていたどぶ六は、こっそり眉に唾《つば》をつける。  ひとまわりすると、女主人は、蔵の中に設《もう》けたコテッジ風の試飲室で限定醸造の古酒をおごってくれた。 「お客さまはどなたの御紹介でおいでになりましたの?」  ぶどうはうつくしい手で開けたばかりの葡萄酒の壜を傾けながら、たずねた。 「さあ、ひょうたん老人の紹介と申しましょうか……」とどぶ六。 「ひょうたん?」 「じつは、ぼくらは花見客ではない。聖杯のことで来たんです」  サッとぶどうの表情がこわばった。 「あなたは何者です。三島酒造のものですか?」 「いや、とんでもない。ぼくは徳利《とつくり》真人《しんじん》。聖徳利の秘蹟《ひせき》をうけた者です」 「徳利真人? 聖徳利? 聖徳利ってディーヴ・ブテイユLa Dive Bouteilleのことですか?」 「ディーヴ・ブテイユ?」左近がききかえした。 「ごめんなさい、横文字なんか使って。聖なる徳利をフランス語ではそう言うんです。むかし、パンタグリュエル王はその徳利から、『|飲むべし《トランク》』という御神託をさずかったといいます。あなたは秘蹟を受けたとおっしゃるの?」 「そうです。話せば長いことながら、僕は聖酒変化の儀式を行うために酒仙として尸解《しかい》しました」 「聖酒変化を? あなたが行うですって?」ぶどうは笑った。「聖酒変化の秘儀を行うのは聖杯の騎士のつとめです。あなたがそうだとおっしゃるんですか?」  左近は笑われて少しムッとした。 「さあ、そんなことはわかりませんが、ただぼくは聖杯を守るためにきたんだ」 「聖杯の騎士でなければ聖杯は守れませんことよ」 「そんなら、ぼくがその騎士かも知れない」 「御冗談を」 「冗談じゃない」 「失礼ですが、暮葉さん、あなたは聖杯の騎士には見えませんわ」 「ほう。そんなら、騎士とはどんな人です?」 「それは、そう——色白で、背が高くて、ほっそりしていて——」 「ぶどうさん、あなた、騎士に会ったことがあるんですか?」 「いいえ」 「それなら、なんでそんなことがわかるんです? 『三銃士』のポルトスみたいな太っちょのおっさんかも知れないじゃありませんか」 「暮葉さん、あなた、ひとの夢をこわすおつもり?」  くれないぶどうは柳眉《りゆうび》を逆立てた。|きっ《ヽヽ》とにらんだ瞳が燃え立った。 「ほかのことはいざ知らず、聖杯の騎士を冒涜《ぼうとく》するような言葉は、この谷ではつつしみなさい。あなたは御存知ないかも知れないけれど、このくれない谷の若い娘にとって、聖杯の騎士は〈理想〉なんです。わたしたちは子供の頃《ころ》から、この田舎で聖杯の言いつたえをきかされて育ちます。末の世に聖酒変化の儀式が行われる時、魔物が聖杯を狙《ねら》ってやってくる。でも、必ずどこかから徳の高い騎士があらわれて、悪に打ち克《か》ち、わたしたちみんなに幸せを与えてくれる——そういう話を聞いて育ちますの。わたしたちは幼心に、その騎士ってどんなお方だろうとあこがれをいだきます。きっと凜々《りり》しい、うつくしいお方にちがいない。今わたしたちのまわりには、そんな素敵な人はいないけれど、どこか遠くの国に素晴らしいお方がいて、いずれこの谷へいらっしゃる。そのお方は、もしかするとわたしに会うためにいらっしゃるのかもしれない——そんな風に想《おも》いはふくらむ。騎士は、わたしたちひとりひとりの夢の殿方なんです。  わたしの夢をちょっと申しましょうか——小さい頃、うちの父がわたしにアーサー王の円卓の騎士の物語を買ってくれました。その本には『聖杯拝受』の挿絵《さしえ》が入っていました。わたし、その絵に描かれた騎士ガラハッドが好きでした。翼の生えた天使の前にひざまずいて聖杯をうけとるその人は、まだ少年のようにほっそりして、なで肩で、指先は白魚《しらうお》のよう、女性のようなやさしい面輪《おもわ》に長い睫毛《まつげ》がふるえています。こんな方がいつかこの谷に来てくださるのかしら——そうだといい、ってずっと思ってきたんです。  それをあなた、花川戸の助六《すけろく》みたいな人がいきなりやってきて、自分が聖杯の騎士だとおっしゃっても、笑うしかありませんでしょう?」 「助六とは、豪儀なおほめ言葉で——」左近は深々とお辞儀をした。「だが、夢の話ばかりしていてもラチはあきますまい。ともかく、ぼくは聖杯を悪い奴《やつ》から守りにきたんです。一度聖杯を見せてくれませんか?」 「みだりにお見せするわけにはいきません」 「みだりに見るわけではない。これは大切な使命なんだ」 「さあ、どうですか——。悩みや苦しみをかかえて救いを求めるお人になら、聖杯はいつでもお見せします。でも、それ以外の人に見せるわけにはまいりません。以前にも、おろかな思いあがりで聖杯をどうしても見たいといってきた人がいました。勝沼からこちらへいらっしゃる時、橋のたもとに陶物師《すえものし》の看板が出ていたでしょう?」 「あっ——」とどぶ六は口をあける。 「あの店の岡田という老人——あの人は聖杯の神聖をけがそうとしたために身を滅ぼしたのです。以前は腕のいい陶工《すえつくり》でした……」  くれないぶどうの話によると、岡田はかつて甲州一の名工とうたわれる陶物師だった。かれはぶどうの遠縁にあたり、春秋に酒神壇で行われる一族の祭儀には欠かさず参加していた。  くれない谷の酒神神社は古くから聖杯を御神体として祀《まつ》っていたが、その御神体は、もとは信玄公ゆかりとかいう陶器《やきもの》の器であった。ところが、岡田がまだ若い頃、メイリックという青年がウエールズから秘宝の杯をくれない谷に運んできた。それはテイロ聖者の杯という、金銀に宝石をちりばめた立派なもので、以来、これが御神体と崇《あが》められるようになった。  岡田にはこれが面白くなかった。なんだって、日本人が異人の持ってきた杯なんぞをありがたがるんだ。それに杯には金《かね》の器なぞより、あたたかみのある焼物の方がいいんだ。ようし、いつかおれは焼物であんな宝石の杯に負けない素晴らしいものをつくってやる。  岡田はひそかにそう決心し、長い研究の末、酒糟《さけかす》を焼いた灰、葡萄畑の土、備前の土を混合して、驚くべき色合いの、世にも稀《まれ》なる大杯を焼きあげた。できばえのあまりの見事さに、それを見た人々は魂を奪われ、これこそまことの聖杯じゃ、至高の杯じゃとほめそやした。岡田は鼻を高くして、ある日、人々をひきつれてくれない酒造を訪れると、テイロ聖者の杯と自分の焼いた杯と、どちらが立派な器か品|較《くら》べをしようと言い出した。  くれない酒造の主人は仕方なく聖杯を出して見せた。すると、聖杯は人々の目の前でかくやくと光を放ち、岡田が焼いた杯はたちまちひび割れ、粉々になった。陶物師自身にも神を涜《けが》そうとした罰があたって、かれはその場に昏倒《こんとう》し、以来精神に異常をきたした。  岡田は元来大酒家だったが、このことがあって以来、日に三合の酒を飲むときまって乱心し、自分の焼いた陶器をすべてうち壊してしまうようになったのである。かれが壊さないのは、歪《ゆが》んだり、ひびが入ったりした、初端《はな》からのつくりそんじだけだった。それで土地の者は、岡田に「三合目陶物師」のあだ名をつけた…… 「こういう例《ためし》もございますから、火傷《やけど》をしないうちにおひきとりください」  くれないぶどうの態度がかたくななので、左近は攻め方を変えた。 「あなた、さっき三島酒造といったが、三島業造がここへきたんですか?」 「ええ。本人は来ませんが、わたくしどもと提携を結びたいといって、何度も使者《つかい》をよこしました。どうやらあの方も聖杯に御執心のようですわ。提携の話はきっぱりとおことわりしました。三島酒造は今ワイン部門拡大のために、お金に物をいわせて甲州の小さな蔵をどんどん買い占めています。噂《うわさ》によると、勝沼のワイナリーはあらかた三島酒造の傘下《さんか》に入ったそうです。でも、このくれない谷では、そうはいきません。くれない谷のわが一族には、先祖伝来の蔵を売り渡すような者はいませんもの」 「しかし、あの男を甘くみてはだめです。酒城から聖徳利を盗んだ奴だ。酒星降臨の晩までに、きっと色々おかしな手を使ってきますよ。あいつから聖杯を守るために、ぼくにも協力させてもらえませんか」 「御心配なく。聖杯はわたしたちがしっかり守ります。もうその話はやめにいたしましょう」     四  結局ろくな話もできずに、左近たちは追い返された。 「旦那《だんな》、ふられちゃいましたね」門の外に出ると、どぶ六が言った。 「まったく、ガラハッドが何だっていうんだ。どうして女は、ああ洋物に弱いんだろう——」左近はむくれていた。 「おや、めずらしい。旦那がおかんむりとは。さてはホの字ですな」 「よせやい、どぶ六。おれは酒仙だ。酒にしか興味がないんだぞ」 「君が僕の肌《はだ》にまとう衣だったなら——  さもなくば君は葡萄酒《さけ》で、僕は酒割る水で  おなじ一つ杯をうるおしたなら——」 「なんだ、それは。『閑情《かんじよう》の賦《ふ》』か?」 「いえ、あらびあ小唄《こうた》ですよ。旦那の今の心境だね。それはそうと、旦那、これからどうします?」 「仕方がない。どこかこの辺に宿をとって、また出直そう。あの丸藤旅館てのはどうだ?」  二人はくれない谷に来る途中道を訊《き》いた旅館に行ってみると、部屋が空いていたのでしばらく泊まることにした。  元は文人の別荘か何かだったらしい、手入れの良い庭のある、こぢんまりした静かな旅館だった。桃の季節というのに、他に泊まり客はいなかった。  浴衣《ゆかた》に着替えて鉱泉の風呂《ふろ》に入ると、じき晩飯になる。  わらびの胡麻《ごま》あえ、こごみの辛子あえ、蕗《ふき》のとうの天麩羅《てんぷら》、岩魚《いわな》の塩焼き、舞茸《まいたけ》の吸物といったお膳《ぜん》に、素焼きの銚子《ちようし》に入れた紅葡萄酒がついてきた。『ルバイヤート』の味だ。のんびりやっていると、襖《ふすま》があいて、胡麻塩頭の老人が挨拶《あいさつ》した。 「いらっしゃいまし。当旅館の主人でございます」  老人は丁寧に両手をついた。 「料理と酒はお口に合いましたかな?」 「うん、結構だ。おやじさん、この葡萄酒は何?」 「当館の葡萄酒は、くれない谷の『ルバイヤート』という銘柄《めいがら》でございます」 「くれない酒造の酒だね」 「はい。ここいらでは一番お味がよろしいですから……」 「ルバイヤートってどういう意味です?」どぶ六がたずねる。 「はい、これはペルシア語で〈四行詩〉の意味でございますが、日本ではオマル・カイヤームという詩人の四行詩がとくに有名なので、ルバイヤートといえば、ふつうそのことをさすのだそうです。それをこの葡萄酒の名前にとりましたのは、昔|日夏耿之介《ひなつこうのすけ》という先生が石川道雄・関川左木夫という二人のお供を連れてくれない谷にいらっしゃった時、御命名になったものです。興味がおありでしたら、うちにはそれに関する本もございますから、御自由にごらんください」     五  どぶ六は、翌日から事情偵察にくれない谷の蔵元を一軒ずつまわってみることにした。左近も一緒に行こうとしたが、「旦那は足手まといになります」と言われたので、宿に残って待つ。することもない。鉱泉に入り、休憩室の本棚《ほんだな》をあさった。  本棚には亭主の言うとおり、『ルバイヤート』に関する本が何冊かあった。左近はその中から原詩の翻訳と解説書二、三冊を借り出して、ひまつぶしに庭の木の下で読みはじめた。 『ルバイヤート』の作者オマル・カイヤームは、十一世紀セルジューク朝ペルシアの詩人である。生前のかれは詩人としてではなく、当代一の科学者として知られていた。三次方程式の解法を完成した歴史に残る数学者であり、国王マリク・シャーの勅命で正確無比なジャラーリ暦を制定した八賢人の一人でもある。詩はかれにとって無聊《ぶりよう》をなぐさめる手すさびにすぎなかった。  かれが生まれたのはナイシャプルという都である。伝説によれば、オマルは若い頃、都の有名な学塾でアブ・アリ・ハッサン、ハッサン・サバーハの二人と同窓だった。三人の若者は友情を結び、「我々のうちのだれかが出世したら、きっと他の二人の面倒を見ようじゃないか」と誓いを立てた。  三人はやがてそれぞれの道に進んだが、中でもっとも出世したのは、アブ・アリ・ハッサンだった。かれは宮廷に入り、王アルプ・アルスランに仕えて頭角をあらわし、「ニザーム・ル・ムルク(国家の管理者)」の尊号をたてまつられる大宰相となった。  ニザーム・ル・ムルクは昔の誓言を忘れなかった。かれはオマルに、ナイシャプル近在の封土を与えようといってきたが、脱俗の学徒として生きるオマルは、世事の煩累《はんるい》を嫌《きら》ってそれをことわり、かわりに毎年一万デナールの扶持《ふち》をもらって気ままに暮らすことにした。一方、ハッサン・サバーハは友に頼んで宮廷に仕官させてもらった。  ところがハッサン・サバーハはやがて恩人ニザーム・ル・ムルクを妬《ねた》み、その失脚を策したので、逆に宮廷を追われる。かれはその後シリアにおもむき、イスラム教イスマイル派の結社を組織する。アラムト山に砦《とりで》をつくり、麻薬《ハシツシユ》の魔力で信徒を洗脳し、死をもおそれぬ刺客に鍛えあげた。これを使って、敵対者は容赦なく暗殺した。かれの結社は〈暗殺教団〉と呼ばれ、ハッサン・サバーハは〈山の老人〉と異名をとった。〈山の老人〉のはなった刺客は、やがて、かつての学友ニザーム・ル・ムルクを陣地の天幕の中で暗殺する。  一方、オマル・カイヤームはひとり静かな土地に世の煩《わずら》いをさけて、紅《あか》い薔薇《ばら》、白い薔薇を愛《め》でつつ書を読んで暮らした。時おり気が向けば、葡萄酒の杯を片手に四行詩を詠《よ》んでつれづれをはらす。その詩が『ルバイヤート』であった。   朝毎に百千《ももち》の薔薇は咲きもせめ、   げにや、さもあれ、昨日《きのふ》の薔薇の影いづこ、   初夏月《はつなつづき》は薔薇をこそ咲かせもすらめ、ヤムシイド、   カイコバアドの尊《みこと》らのみ命をすら惜しまじを。  オマルの四行詩は、一生を学問にうちこんだ哲人の詩である。  あるいは宗門の教えに、あるいは星と数の世界に道を求めてみたけれど、自分はどこから来て、どこへゆくのか、花の春はなぜ過ぎ去るのか、という切なる問いへの答えは得られなかった。自分はもう、そんなむなしい探究をやめて、この命のあるかぎり酒に酔うことにしよう——かかる達観にもとづく酒ほがいの歌である。   ゆく末の憂ひ、過ぎし悔い、今日より拭ふ   さかづきを、いざ、よきひとよ満たしませ。   明日はとや、さなり明日はも我が身はや   昨《きそ》の日の七千年の数に入るべし。  かれの思想はイスラム正統の教えに反する部分があるうえ、本職の大詩人が山程いるペルシアでは、学者の筆のすさびとみなされたオマル・カイヤームの四行詩はいつしか忘れられていった。  その『ルバイヤート』が十九世紀になって世界的名声を博したのは、一八五九年——奇《く》しくもダーウィンの『種の起源』が出たのと同じ年、英国の好事家《こうずか》フィッツジェラルドが自由奔放な英訳を発表し、これがやがて大人気を呼んだためである。  フィッツジェラルドは『ルバイヤート』を訳すにあたって、原詩の精神に忠実に、その字句には必ずしもこだわらなかった。ペルシアの詩としてはやや文彩に欠ける単色な原作をいろどるに、爛熟《らんじゆく》した英国ロマン派の異国趣味の官能を以《もつ》てし、濃艶《のうえん》な色彩と、毒花のごとき異香に満ちた——しかもその魂はあくまで気高い——一巻の奇蹟《きせき》の翻訳をうみだした。原詩よりも、むしろこの英訳にこそ文学的価値がある、というのは大方《おおかた》の意見である。  アルゼンチンの博覧な読書家ホルヘ・ルイス・ボルヘスは言う——「手すさびに詩を書いたペルシアの天文学者と、東方・スペインの書物を(おそらく完全には理解できないで)読みふける変わり者のイギリス人——この両者の偶然の邂逅《かいこう》から、そのいずれとも似つかない驚くべき詩人が誕生するのだ」  この言に『ルバイヤート』の本質は要約されている。  そもそも、ペルシアは世界最長の叙事詩『|王の書《シヤー・ナーメ》』を書いたフィルドゥーシーをはじめ、ハーフィズ、サーディー、ルーミー、ニザーミー、ルーダキー、ウンスリー、ファッルヒー、ムイッジー、アズラキー、ラシーディー等々詩聖を枚挙するにいとまのない言霊《ことだま》のさきわう国、イスラム世界随一の詩の国である。一方、英国もまたチョーサー、シェイクスピアにはじまって、ミルトン、ポープ、バイロン、ワーズワース、コールリジ、キーツ、シェリー、ロセッティ、テニスンときら星のごとく大詩人を輩出した、西欧の詩宗と言えよう。だから、フィッツジェラルドによる『ルバイヤート』の訳は、ペルシアに生《な》った種が英国という土壌《どじよう》に芽ぐみ、〈西〉と〈西東〉の詩心が合体し、〈飲酒詩〉という一ジャンルにおいて、東方の巨人・漢文明の精華にも伍《ご》しうる香り高き薔薇として花咲いた、文明史的事件であった。 『およそ東西の飲酒詩を通観するに』左近が読んだある本の著者は書いている。『詩味の豊潤、酔心の清雅なるに於《お》いて唐詩に匹《かな》ふほどのものはなし。古ギリシアにアナクレオン派ありといふや? さあれ、その詠調の俗なるは唐山の列仙と比ぶべからず。中世飲酒歌謡《カルミナ・ブラーナ》ありといふや? そは不逞《ふてい》無頼の学童、酒場に放歌せるを書き散らしたるのみ。余おもへらく、独り高邁《かうまい》の哲理に於いてフイツ氏訳『ルバイヤート』のみ太白の詩境に迫るを得たりと。けだし漢宮奥院の扉《とびら》は、西方三教の密呪《みつじゆ》を合はせてからうじてこれを敲《たた》くべきか』 「なるほど……」  左近は一巻の詩集にまつわる数奇な物語に魅了された。あらためて蒲原有明《かんばらありあけ》、竹友藻風《たけともそうふう》、矢野峰人、森亮といった人々の手になる『ルバイヤート』の邦訳を読んでみると、それらはいずれもフィッツジェラルドの英訳にもとづくものだった。     六  どぶ六の偵察は仲々成果がなかった。毎日しこたま酔っ払って、おみやげに葡萄酒《ぶどうしゆ》を下げてくるばかりだ。  左近はもう一度くれないぶどうに会いたいと思うが、何の知恵もなしに行って、また冷たくあしらわれるのもいやだ。今はようすを見るしかない、と宿にこもっていた。  三日も経《た》つと、かれは本棚にあった『ルバイヤート』関連の本は読みつくしてしまった。気に入った四行詩《ルバイ》もいくつかおぼえた。もっと他にないかと思って棚をゴソゴソやっていると、宿の亭主がうしろからのっそりとあらわれて声をかけた。 「何かおさがしですか」 「いや、オマルのことを書いた本がもっとないかと思って……」 「これは御覧になりましたか?」  亭主は棚の一番上から、埃《ほこり》をかぶった一冊の古書を引きぬいた。  その本は和綴《わとじ》にして糸でかがり、帙《ちつ》に入れてあった。それで漢文の本かと思い、見過ごしていたのだ。題は『神酒|秘帖《ひちよう》』——著者は黄眠道人《こうみんどうじん》とある。 「へえ、面白そうだ。拝見していいですか」 「どうぞ、ごゆっくり」  おやじは背を丸めて帳場に戻った。 『神酒秘帖』は、それまでに読んだ本とはガラリと性格の異なるものだった。書き出しからして、いきなりこうだ。 『今よりおよそ千年前、西方ペルシアに聖酒変化を行ひし酒聖ありき。そは、ナイシャプルの天幕作りの息子オマル・カイヤームその人なりき……』 「あっ、聖酒変化のことが書いてある!」左近は目をみはった。 「そういえば、聖酒変化の儀式というのは、具体的にどうやるんだか、おれはまだ何も教わっていなかった」  こいつは大変と葡萄酒のマグナム・ボトルを開けて、二、三杯ひっかけた後、かれは居ずまいを正して先を読みすすんだ。 『聖酒変化の儀式は、今昔必ずしも一様にはあらざるも、聖王二つの神器をつくりたまひてのち、儀者は酒星の前にまかりいでて詩《うた》を歌ふこと、これその常法とはなりぬ。詩は陶酔《ヽヽ》の至純なる表現なればなり。陶酔なき詩は詩にあらず。言の葉の真は酒《ささ》の真に通ず……』  漢字がいっぱいの文語文で書かれたその本の内容は、要約すると次のような驚くべきものであった。  千年前、ペルシアの偉大な占星術師オマル・カイヤームは、占星術の奥儀《おうぎ》「見えざる矢」の術によって酒星と聖酒変化の秘密を知り、自ら聖酒の秘儀を行った。  聖酒変化は酒徒が酒霊に酔心を捧《ささ》げる儀式だが、それはいかにしてなされるか? 詩によって行われるのだ。翼を持つ言霊は天へも地へも自在に通行する。儀者はこれに陶酔を託す。オマルは己の清高な酔心を四行詩にあらわし、夜どおし酒星の前で歌った。酒星はこれを嘉《よみ》し、あらたな酒霊を醸《かも》したので、オマルは後世のため、その四行詩《ルバイ》を一巻の書物に書き残した。ところが、何も知らぬ後の文人たちは、オマルの詩を勝手に改竄《かいざん》したり、自分がつくった偽作を写本に挿入《そうにゆう》するようになる。これらの偽作は「さまよえるルバイ」と呼ばれるが、そのために『ルバイヤート』の本文は乱れ、しまいには偽作と真作のけじめもつかなくなってしまった。  しかるに天の配剤は、酒聖の真言をかかる嘆かわしい状態から救うため、一人の使徒を地上につかわした。時代は下って十九世紀、英国サフォークに生まれたエドワード・フィッツジェラルドという人物がそれである。  フィッツジェラルドは裕福な田舎地主だった。かれには天性大詩人の素質がそなわっていたが、自らそれに気づくことなく、郷里に沈潜し、生涯《しようがい》孤独のうちに、イスパニアやペルシアなど遠い異国の文《ふみ》をひもとくことを道楽としていた。  そんなかれに、ある時友人が図書館の片隅《かたすみ》で見つけた『ルバイヤート』の写本を貸してくれた。かれは数日、辞書と首っ引きでそれを読もうとしたが、そのペルシア語は難解で、かれの語学力では歯が立たなかった。ほうりだして寝てしまうと、その夜、光りかがやく一柱の天使が夢に立った。その天使は百の眼を持つ智天使《ちてんし》でもなく、燃える熾天使《してんし》でも、大天使ミカエルでもない。かれらが棲《す》む天球のさらに彼方《かなた》、いと高き酒天におわします大酒天使であった。 「兄弟《はらから》よ、この世界は今病んでいる」と酒天使は語った。 「西方に二千年続いた天地創造の教えは、進化論によってくつがえり、科学は人の安心立命を奪った。人の魂がかつてたよりし礎《いしずえ》は揺らぎ、民衆の心は無明の闇《やみ》に迷っている。  兄弟よ、迷いの時代にただひとつたしかなこと。それは、生命《いのち》の春は疾《と》くすぎゆくということだ。花の季節に遅れて何とする。酒を飲まずして何とするのだ。  よいか、オマルの四行詩には、この理《ことわり》が正しく記されている。おまえはこの『現世経《げんぜきよう》』を英語にうつし、迷える衆生《しゆじよう》を絶望から救うのだ」  ハッと目覚めると、部屋にはふくいくたる薔薇の香りと葡萄酒の芳香が漂っていた。フィッツジェラルドは不思議に思い、ナイトキャップのまま起き出して孤独な書斎に蝋燭《ろうそく》をともし、紅の葡萄酒を開けると、杯片手に『ルバイヤート』の一字一句をあらためて読みなおした。  すると! おお!  酒神の霊感がおりたかのごとく、否《いな》、酒聖の魂が千年の時を越えてかれにのりうつったかのごとく、それまで難解だった字句は自《おの》ずと意味明らかになり、それと共に、鳩尾《みぞおち》のあたりから涙のかたまりがこみあげて来て、歌の調べが脳裏に滾々《こんこん》と湧《わ》きあがったのだ!  かれはペルシア語の原文を見ながら、頭に浮かぶ英語の詩句を書きとめると、それらはすべて『ルバイヤート』の見事な訳詩になっていた。 『ルバイヤート』の翻訳は、こうしてはじまった。  やがて、フィッツジェラルドはあることに気づいた。ペルシア語の原典に、ところどころ、あたかも芳醇《ほうじゆん》な酒の中にそこだけ水が混ざっているかのごとく、詩興のふっつりととぎれる個所があるのだ。おかしい、これはどうみても酒聖の言葉ではない。きっと後代の偽作者たちが挿入した「さまよえるルバイ」にちがいない。  フィッツジェラルドは、『ルバイヤート』のテキストからこの不純物を取り除き、オマルの酔心を本来の気高さに再現することが自らの使命だと感じた。かれは酒神の霊感をたよりに真正のルバイをえらびだして訳す一方、原典の一部が失われたり改竄されたりしている場合は、真作の断片をつなぎあわせて新しい詩を創造した。かくしてできあがった一冊の訳詩集——それが英訳『ルバイヤート』なのだ。されば、その真価は単に詞藻《しそう》の華麗にあるにはあらず、オマルが後の世に伝えようとした酔心を正しく保てることにあるのだ—— 「これはすごい……」  左近はおやつの|ほうとう《ヽヽヽヽ》を食べながら『神酒秘帖』を夢中になって読んでいると、どぶ六が息せき切って帰ってきた。 「旦那《だんな》、大変だ。くれない谷の蔵元が片っ端から三島酒造に買い取られています」 「えっ。くれない酒造もか?」左近は顔色を変えた。 「いえ、あそこだけは別です。でも、他のところは全部、この一両日のうちに三島と契約をとり交わしてしまったそうです」 「うむ、敵は外堀を埋める作戦で来たか。いよいよ最終戦争《ハルマゲドン》の時は迫ったようだ。しかし、あの娘《こ》の話だと、くれない一族は節操がかたいということだったが、三島はどうやって蔵を買いとったのかな?」 「それが、おそろしいものをつれてきて、恫喝《どうかつ》しているそうで……」 「おそろしいもの?」 「はァ。そいつは一見何の変哲もない三十男ですが、その男がそばによると、酒飲みはみな毒気にあてられたように神気《しんき》が昏《くら》んでボーゼンとなるし、樽《たる》の葡萄酒はみんな腐ったり酢になってしまうんだそうです。三島の一党は、この怪物を切り札にしてムリヤリ契約を交わしているようで」 「それって、もしかしてアイツじゃないか……」 「そう、アイツですよ!」  二人は顔を見合わせた。 [#改ページ]   第十一回     一  あの悪質な奴《やつ》がいるとなると事は面倒だ。左近は伝家の宝刀黄帝の剣を操る稽古《けいこ》などしてみたけれど、アイツに通じるかどうかはわからない。他に打つ手を考える間もないうちに、いよいよ酒星降臨の晩は来た。  その夜、空には薄いヴェールがかかり、星々はそれを透《すか》してほのかに光っていた。  酒星もその片隅にかすんでいる。  海蛇《うみへび》座の頭の部分を漢土の呼び名では柳宿《りゆうしゆく》(やなぎ座)という。その上に三つの星がひとすじにならんでいる。これこそは天の酒旗——酒星にほかならぬ。「天もし酒を愛せずんば酒星天にあらず。地もし酒を愛せずんば地にまさに酒泉なかるべし」と李白《りはく》がうたった、あの酒星だ。三酒星は花の春を愛するので、百年に一度柳宿の晩をえらび、地上で花見をするならいだが、今宵《こよい》がその晩であった。  うっすらにじんだ月のあかり。山の斜面《なぞえ》の桃は、闇にかすかな紅のぼんぼりを灯《とも》した。山気《さんき》に精霊の息吹《いぶき》がこめ、くれない谷は夢幻の美しさをまとった。  左近とどぶ六は、ひょうたん老人がいつ連絡をとってくるかと数日来待ちくらしていたが、いっこうに音沙汰《おとさた》がない。この日は、これといった思惑も立たないままに、二人して飲みつづけているうち、だんだん気が大きくなって、なあにいよいよとなったら悪人と刺し違えて討ち死にだ、と威勢よく丸藤旅館をあとにした。  くれない谷に向かって歩いていると、突如陰風は吹きすさび、谷は哭声《こくせい》をあげはじめた。 「そろそろおいでなすったみたいだ」  左近は顎《あご》を撫《な》でた。  くれない酒造の門扉《もん》は開いていた。牧神のノッカーを鳴らしても、誰も出てこない。何か異変があったのかもしれない。 「やっ、遅かったか」  二人は心配して門内のようすをうかがう。  酒庫の方で人の声がする。左近たちは樽の蔭《かげ》に身を隠しながら、そちらに近づいた。  蔵の奥、白壁の試飲室の前に人だかりがしている。三島の|ねずみ《ヽヽヽ》がくれないぶどうと押し問答の最中のようだ。ぶどうのまわりには彼女の妹たちがあつまり、ねずみは眷族《けんぞく》をひきつれていた。小鼠《こねずみ》どもがツツッと床を走るたびに、娘たちはキャッと悲鳴をあげる。だが何といっても面妖《めんよう》なのは首魁《しゆかい》の大ねずみ。 「ねえちゃん、そんな強情を張らないでおくんなよ」  今宵は着流しの裾《すそ》から尻尾《しつぽ》を丸出しにして、キイキイと叫んだ。 「今夜は御前《ごぜん》の念願がかなうめでたい儀式の晩だ。おいらなんか嬉《うれ》しくって正体をあらわしちゃった。お互い、かっこをつけないで仲良くやろうじゃないか。なにも奪《と》ろうというんじゃない。儀式の間、ほんのちょっと拝借するだけだ。お礼もする。さあ、聖杯を渡しておくれよ」 「けがらわしい。どぶねずみなんかに誰が!」とぶどう。「神罰が下らないうちに、帰りなさい!」 「そうか、仕方がねえなあ……」ねずみは笑った。「ぶどうのおねえちゃんは美人すぎてプライドが高いや。おれのような下郎じゃ話にならねえとおっしゃる。ねえちゃん、あんまりお高くとまってると、酸《す》っぱいぶどうになるぜ。いいさ、そんなら、おっかない人に会ってもらうさ。  おおい、中村さん……」  呼ぶ声にこたえて、いずこから凝《こ》って出たのか、一隅《いちぐう》の暗影《くらかげ》にあの魔人が現われた。今宵かれの放つ妖気は以前《まえ》にもまして凄《すさ》まじく、中村がそばによると、ぶどうの妹たちはみんなバタバタと気絶した。 「中村さん、このおねえちゃんは強情でねえ。ひとつ、道理をよく言いきかせて、聖杯を借り受けてくださいな。まあ、あんたがお話しになれば問題はねえでしょう。おれは〈贄《にえ》〉の用意があるんで、こっちの方はまかせますから——」  ねずみはそう言いつつ、小鼠たちと共に蔵から出て行った。出がけに一匹の小鼠が、樽のうしろに隠れていたどぶ六を見つけて、噛《か》みついた。 「いててて!」と叫んだどぶ六に、ワッと他の鼠も群がる。どぶ六は悲鳴をあげて逃げ出す。  左近は息をひそめて見守っていた。 「あんた……悪いことはいわねえ、三島の御前に逆らうのはやめてくれ」  中村はそう言って、一人正気で立っているくれないぶどうににじり寄った。ぶどうは顔をしかめ、試飲室の扉《とびら》の前にあとずさった。 「おい、化け物!」  中村はふりむく。その時左近は背から黄帝の神剣を引き抜くと、とびだして魔人に立ち向かった。 「いつぞやは世話になったな。江戸の敵《かたき》を山梨だ。おれが相手になってやる。かかってこい」 「そうかい……」  中村がフッと息を吹きかけると、徳利《とつくり》真人《しんじん》はあえなく昏倒《こんとう》した。 「だらしのない飲み助《すけ》だな。これがあんたの騎士《ナイト》かい?」  ぶどうはゆたかな胸をそらせて、キッとにらみつけた。 「知りません! 失礼な! おまえ、わたしに指一本ふれたら、聖杯のありかはわかりませんよ!」  やさしく微笑《ほほえ》む時は魔もとろかせよう栗色《くりいろ》の瞳《ひとみ》が、今は剣のように鋭い。乙女の燃える宝玉のまなざしは怪人の胸を刺した。  すると相手は意外なほどたじろいだ。 「おまえは一体何者です? 鬼ですか? 魔物ですか?」  ぶどうは調子にのって一歩前に迫った。  下司《げす》なものと醜いものはちがう。下司は美を解さないが、醜いものはかえってまことの美の前にひれ伏す。中村と呼ばれる男は醜悪な生き地獄だったが、下司ではなかった。だから、神々《こうごう》しい美女の威厳にうたれた。べそをかくように口元を歪《ゆが》めて哀願した。 「なあ……ねえさん……そんな目で見ないでくれ。おれは鬼でも魔でもない……おれ……おれは……ただ酒が飲みたいだけなんだ……それなのに、人はおれを〈酒がまずくなる奴〉というんだ……」  ぶどうは相手の目の中に深いかなしみを見ると、瞳の剣をおさめて、言った。 「あなた、何か苦しみをかかえておいでのようね。聖杯は、この世の悩み苦しみを癒《い》やすために神がおつくりになったものです。救いを求める者は何人《なんびと》たりと拒みはしません。ねえ、わたしに、わけを話してみませんか?」     二  すると中村はウウッと泣き、やがて語りはじめた。 「ああ、あんたはこんなおれみたいな呪《のろ》われたものでも哀れんでくれるんだな。うれしいなあ、ありがたいなあ、あんたは巫女《みこ》さまだ。女菩薩《によぼさつ》さまだ。それなら、人も忌《い》み嫌《きら》う〈酒がまずくなる奴〉の身の上を聞いてください。  おれだってなにも好きこのんでこんな魔道に堕《お》ちたわけじゃない。おれだって、まっとうに育てられていれば、今頃《いまごろ》は楽しく家で晩酌《ばんしやく》していたかも知れないんだ。すべては、おれの生い立ちがいけないんだ。  酒飲みだったおれの父はおれが生まれるとすぐ死んで、母は他の男と再婚した。その男との間に、おれの弟を生んだ。  義理のおやじも酒飲みだったが、こいつは鬼のような男だった。生《な》さぬ子のおれを目の敵にして、物心ついた時から、酒の席におれを寄せつけなかった。『おまえの顔を見ていると、酒がまずくなる』と言ってな。そのくせ、弟だけは猫《ねこ》可愛《かわい》がりして、いつも晩酌するそばに呼んで、おちょこ一杯お相伴《しようばん》をさせたりしたんだ。  おれは生来酒のかおりが好きだった。弟が羨《うらや》ましくてたまらなかった。ある時、思いあまってこっそり台所の酒を飲もうとしたことがある。弟がそれを見つけておやじにいいつけた。すると、おやじは折檻《せつかん》だといって、いやがるおれの口をこじあけて酢を飲ませやがった。  おれは心底《しんそこ》おやじを憎んだ。次の日からおれは毎日、『おとうちゃんの飲む酒、まずくなれ、まずくなれ』と裏の天神様に祈った」 「なんていうことを……お酒を呪うとは……」くれないぶどうの顔が青ざめた。 「その時、おれは自分のしていることがどんなに恐ろしいことだかわからなかった。いつのまにか、おれの身体《からだ》に呪いの毒がまわっているのにも気づかなかった。おれはひどい親に育てられたせいで、すっかりひねくれた子供になったけど、それでも希望だけは持っていた。だって、おれだって大人になれば、誰はばかることなく、堂々とお酒が飲めるじゃないか。  成人式の日、おれは酒屋で一升|壜《びん》を買った。ああ、やっと思いがかなう——ふるえる手で碗《わん》に酒をついで、さあ飲もうとすると——なんと、おそろしいことに、その酒は酢になっていたんだ!  酢だ! 酢だ! 酒もワインも焼酎《しようちゆう》も、ビールもジンもウイスキーも、おれが飲もうとする酒はことごとく酢に変わった。ミダス王が手に触れるものはみな黄金と化したように、おれが杯に触れたとたん、酒はみんな酸っぱくなってしまうんだ。  いつしか、人はおれがそばにいるだけで酒がまずくなると言いはじめた。おれが暖簾《のれん》の前を素通りしただけでも、飲み屋は酒が饐《す》えるというので、盛り場を歩くと石を投げつけられた。  おれはとうとう郷里《くに》にいたたまれなくなって、東京に出た。大都会なら、ひょっとすると、おれにも飲める酒があるかもしれない。そう思ったんだが、やはり同じだ——都会なんていったって、要するに田舎のかたまりだ。おれは、どこへ行っても塩をまいて追い払われた。 『ちくしょうめ、ナメクジじゃねえや!』  こうなったら、酒なんか頼まれたって誰が飲んでやるもんか——おれは世をすねて禁酒教教団に入った。だが、教団はおれの悲しい性《さが》を布教に利用するばかりで、心の渇きは少しも癒やしてくれやしなかった。  そこへ、あの人があらわれたんだ。  ある日、久しぶりで教会へ行ってみると、牧師がおれを偉い人に紹介するという。おれは三島業造という人の屋敷へ連れていかれた。三島の御前はおれの話を聞くと、『かわいそうに』と涙を流して、御前の宝・聖徳利で清めたお酒をひとしずく飲ませてくれた。その酒もおれが杯にふれたとたん変わってしまったが、他の酒とちがうのは、酢にならなくて水にかわったことだ。その水にはかぐわしい香りが、高貴な女《ひと》の残香《のこりが》のようにかすかにまつわっていて、お酒の味というものがほんの少し想像できるような気がした。  すると、御前はおっしゃったんだ。 『甲州のくれない谷にテイロ聖者の杯というものがある。それは、この聖なる徳利にもまさって神秘な力を持つ聖杯だ。聖徳利と聖杯の二つがそろったなら、わしは世の左党のため恵まれぬ酒飲みのため、奇蹟《きせき》を起こすことができるのだ。おまえのようなものにも酒を飲ましてやれるのだ』  おれは御前の崇高なお心に感激して下僕《しもべ》となった。そして聖杯を探すお手伝いにやってきたんだ。  そんなわけだ。お願いです、巫女さま、だからこの呪われた哀れな男のために聖杯を貸してやってください。このとおり、おがみます、巫女さま」  くれないぶどうは話を聞くうちに、怖《おそ》れと嫌悪《けんお》の表情は消え、慈愛のまなざしになって中村を見た。 「悲しいお方」と彼女は言った。 「あなたは愛にめぐまれなかったために、この世でもっともおそろしい罪——酒霊を冒涜《ぼうとく》する罪を犯したのです。いかなる罪を犯すとも、心から悔い改めて酒《しゆ》に祈れば、その人は救われる。ただ、酒霊に対する罪を犯した者だけは、永劫《えいごう》の飢渇《きかつ》地獄に堕ちるといわれている——でも、聖杯の愛は無限です。あなたにもお酒の味が味わえないことはありませんわ」 「ほんとうですか!」 「ほんとうです。この世にひとつだけ、あなたのような人にも飲めるお酒があります」 「それは聖杯の酒ですか?」 「そう——そのお酒はとても強いから、聖杯でなければ、容《い》れることはできません」 「巫女さま、それをおれに飲ませてください!」中村はガバとひれ伏した。 「飲ませてあげる。ついてらっしゃい」  ぶどうはやさしく手招きをして、酒蔵の奥に進んだ。闇《やみ》の中に隠されたとある鉄格子《てつごうし》の扉を開けると、そのむこうは果てしなく続く階段だった。ぶどうと中村はひんやりした石段をのぼりはじめた。     三  くれない谷の奥、くれない酒造の蔵の隣には、桃山の中にそこばかり四囲《あたり》と異なる硬い岩肌《いわはだ》を露出して、谷の支配者か守り神然と峻険《しゆんけん》にそびえたつ一座の岩山がある。石の階段はこの岩山の内部を麓《ふもと》から穿《うが》っていた。段の左右は奥深い蔵になっており、四季を通じて冷涼な岩棚《いわだな》に数知れない葡萄酒《ぶどうしゆ》の樽が貯蔵されている。下にある樽は新しく、上にゆくほど古さびた巌《いわお》のような樽になった。安土《あづち》時代以来ひそかに禁断の紅《あか》い酒を醸《かも》してきたくれない酒造の遠い歴史が、ここに保存されているのだ。  中村が石段をのぼると、かれがその前を通った樽は次々に断末魔の悲鳴をあげた。  ある樽はきしみ、ある樽は泡《あわ》を吹き、ある樽は木の接目《つぎめ》接目から、うめくような、すすりあげるような陰惨な声を発する。それらが密閉された石窟《いしぐら》の天井に、この世のものとも思われない〈死〉の歌を交響させた。 「酒がみんな死んじまう。いいんですか?」と中村は言った。 「かまいません」  ぶどうは後ろをふりむきもしない。  石段をようやくのぼりきると、上には礼拝堂があった。一面を彫刻で埋めた岩壁に酒神の祭壇が祀《まつ》ってある。祭壇の向かいには拱廊《アーチ》型の窓扉があり、外は谷間を見下ろす露台につづいている。ここは岩山の頂上近くだ。  ぶどうは祭壇に燈明《とうみよう》をともし、祈りを捧《ささ》げた。ふりかえって、中村に言った。 「ここに、わたしの言った葡萄酒があります。それは、このくれない谷にしかない〈いやはての葡萄酒〉。そのお酒はわけへだてをしない。富める者も貧しき者も、強い者も力弱い者も、美しい者も醜い者も、そのお酒はすべてのものの渇きをいやしてくれる。どんな天変に会おうとも、いかなる妖気にあうとも、少しも味が変わることはない——あなたは、それをお飲みになりますか?」 「飲みたい! 飲みたい! 巫女さま! 飲ませてください! 女菩薩さま! 女神さま! おがみます! おれにそのお酒を飲ませてください!」 「いいでしょう。でも、そのまえに一つお訊《き》きしなければなりません」 「なんです、何でもこたえます!」 「あなたは、そのお酒の味を知ったら、これからはお酒を、お酒を、お酒を飲みつづけ、二度と水を飲まないことを誓いますか?」 「二度と水を飲まない……?」  中村は考え込んだ。かれは相手の言わんとすることを探るように、くれないぶどうの栗色の瞳を見つめた。だが、そこにはしずかな慈愛が湛《たた》えられているだけだった。 「誓いますか?」  くれないぶどうは小声でくりかえした。 「水がなくては人間は生きていけない……だが酒が飲めないなら、生きていても仕方がない。巫女さま、もしあんたのそのお酒が飲めるなら……酒の味を味わえるなら……おれは誓います! おれは今後酒を、酒を、酒を飲みつづけ、二度と水は飲まないことを!」 「わかりました……それなら、いやはての葡萄酒をさしあげましょう」  ぶどうは祭壇のわきの岩壁に埋めこまれた扉を開いた。その中には鉄製の函《はこ》がおさめられていた。函を開けると、赤い金《かね》の函が入っている。さらにそれには木函が入っている。その中に、布につつんだ杯がしまわれていた。 「テイロ聖者の杯です」ぶどうはおごそかに言った。  杯は舟型の鉢《はち》のような形をしていて、短い柄《え》と台がついていた。金、銀、銅、青銅、白金、さまざまな金属と合金の線が杯のうえにうつくしい絵模様を描いてからみあい、そのあいだに無数の宝石が散りばめられている。柄と台には見事な七宝細工がほどこされている。  ぶどうはこの目のくらむような宝物を祭壇に置いて、祈りはじめた。   願いまつる   天《あま》つ酒神《さけがみ》   この者にいやはての恵みを垂れたまえ   くれないなるぶどうの血は   甘き水を飲まざる者の渇きを癒やさん  壇上にあやしい酒気が凝《こご》り、一滴また一滴とどす黒い血がしたたるように、何かが聖杯の底にたまった。それは溶けた闇のような液体だった。漆黒の液体が杯の半ばを満たした時、ぶどうは聖杯にくちづけて、ふりかえった。 「さあ、お飲みなさい」  中村は自然にひざまずいた。さしだされた聖杯を、ふるえる手でつかんだ。過去、幾多の人間がそうしてきたように、かれはいやはての一盞《いつさん》をひと息に乾《ほ》した。 「お酒の味がわかりましたか——」ぶどうは聖杯を受けとると、やさしくささやいた。 「ありがとう……ありがとう、巫女さま……わかった……おれはずっと前、生まれる前にこの味を知っていた……これが酒の味だったんだ……」  言いながら、その場にくずれて、深い眠りにおちいったように見えたが、すでに息はなかった。酒の味を知った男は床に身をまるめ、母の乳房を吸いながら眠り込んだ赤ん坊のように、満ち足りた表情であった。 「いやはての葡萄酒か……ぼくも飲みたいな」  ぶどうはふりかえった。そこに左近がいた。 「暮葉さん、あなた、大丈夫?」 「なに、平気です。それより、ぼくにもそのお酒を飲ませてくれませんか」 「このお酒を? 気はたしかですか?」 「たしかですとも。ぶどうさん、その酒が聖杯の秘蹟でしょう?」  ぶどうはハッと顔色を変えた。 「ぶどうさん」と左近はつづけた。「神秘の奥義《おうぎ》に西も東もない。東夷《あずまえびす》の酒仙にだってそのくらいのことはわかるんです。テイロ聖者の杯を日本へ持ってきたのは、メイリックという若者でしたね。かれはその帰路命を落とした。しかしそのことはかれの不運《ヽヽ》ではなくて、あらかじめ約束された報償《ヽヽ》だった。なぜなら、かれもまた聖杯の騎士だったからです。世間によく知られている聖杯伝説——ランスロットの子ガラハッドが聖杯を拝受する、あの話はじつは物語の前段にすぎない。隠された物語の後半では、騎士は聖杯の中をのぞいて、いいがたき神秘に打たれて死ぬんです。ひっきょう、聖杯の秘蹟とは、|死と殉教の陶酔《ヽヽヽヽヽヽヽ》なんだ。  ぶどうさん、ぼくは今宵《こよい》聖酒変化の秘儀をつとめなくてはならない。ガラハッドというガラじゃありませんけど、聖徳利の秘蹟を受けた者として、聖杯の秘蹟を要求します」 「だって、死んでしまったら秘儀も行えないわ。あなたはこの男のようになってもいいんですか?」  ぶどうはやすらかな顔で横たわっている中村を指さした。 「いいとも。ぼくは人がこういう顔になる酒を飲んでみたいんだ。オマル・カイヤームも言ってるでしょう——」   ……死《しに》の御使《みつかひ》、烏羽玉《うばたま》の美酒《うまき》をもちて寄り来《く》とも、   その日、汝《なれ》そをくちに受け、たぢろぐなゆめ。 『ルバイヤート』の一節を口ずさむと、それが彼女の心の扉を開いたように、ぶどうはすなおな瞳で左近を見た。 「暮葉さん、あなた、ほんとうに酒仙なの? 聖徳利の秘蹟を受けたんですの?」 「そうです。ぼくは杯と契《ちぎ》りを結んだ。生きていようと死んでいようと、ただ酒だけを飲んでいたいんです」 「わかりました」  くれないぶどうは決然と聖杯を祭壇に置いた。  すると、ふたたび、どす黒い酒が聖杯に満ちた。 「ひざまずいて——」  ぶどうは聖杯にくちづけながら、かがみこんで杯のもう一方の縁を左近の唇《くちびる》に寄せた。聖杯を授ける者と受ける者の手が、宝玉の冷たさのうえに重なった。左近の顔に漆黒の髪がおおいかかり、闇の酒は黒髪の闇に溶けた。左近は酒を澱《おり》まで飲みほした。 「いかが——?」 「重い酒だ……でも、こんなに甘い酒はない。それに、こんなに甘い酔い心地も……」 「このお酒の酔いは永遠につづくのです」  左近はうっとりぶどうを見つめていた。ぶどうは恥ずかしそうにその手から聖杯を奪って、 「あなた、ほんとに飲みっぷりがいいわ」と微笑《ほほえ》んだ。「あなたみたいな人に飲んでもらえば葡萄酒も本望です。暮葉さん、あなたもやはり聖杯の騎士なんですわ」  と、階段を駆けあがる音がして、身体中を鼠《ねずみ》にかじられたどぶ六が、ぜいぜいあえぎながらとびこんできた。 「大変だ。旦那《だんな》、外がえらいことになってます」 「なに!」  左近たちは露台にとびだした。 [#改ページ]   第十二回     一  外に出たとたん、強烈な葡萄のかおりが鼻を打った。  見れば、驚くべし! 眼下の窪地《くぼち》に紅い奔流がごうごうと渦巻《うずま》いている。 「キャッホー!」という奇声とともに、またひとすじ、山の斜面からあらたな真紅の河が谷底に流れこむ。斜面にはいつのまにか篝火《かがりび》が燃え、数知れない葡萄酒の樽《たる》が積みあげられていた。三島の一味が近辺の蔵元を買い占めて手に入れた酒蔵の樽という樽をあけ、葡萄酒を谷に流しこんでいるのだ。  やがて谷間の奥は渺茫《びようぼう》たる葡萄酒の湖《うみ》に沈んだ。  ただ、小高くなった酒神壇のあたりだけが湖面に出ている。すべての葡萄酒を谷底に流し終えると、三島業造の手下どもはおりてきて、酒湖のほとりに立ち並んだ。その数|雲霞《うんか》のごとくであった。 「なんてもったいないことをしやがるんだ」  左近はつぶやいた。 「あれは贄《にえ》よ」とぶどうは言った。「葡萄酒のかおりで酒星を呼ぼうというんだわ。そうしないと、酒星はどこへ花見におりるかわからないから——」  たしかに、谷を満たした葡萄酒の芳香は、空の星をも呼び寄せるかと思われるほど強烈だった。  湖上に酒気が帷《とばり》のごとく立ちこめている。  と、その帷の彼方《かなた》から、こちらへ近づいてくる影があった。  人だ。人が酒の湖を歩いて渡ってくるのだ。  それは三島業造だった。  三島は血色良く、髪も黒々として、二十歳は若返って見えた。聖|徳利《とつくり》をたずさえている。この晩のために、くる日もくる日も聖徳利の霊酒に五臓を洗い、神通《じんつう》を身につけたにちがいない。天の美禄《びろく》の玄妙な霊力が、悪人をして神のごとく湖上を歩かしめるのだ。  三島は紅の湖のさなかから、満谷《まんこく》に谺《こだま》する声で叫んだ。 「徳利真人、どこにいる! 酒星降臨の時はきたぞ! いざ、聖酒変化の儀をつとめよう! もうこそくな真似《まね》をしている時間《ひま》はない。わしは徳利を持ってきた。おまえも聖杯を持って来い。わしとおまえと、いずれが酒霊の心にかなうか。二人して酒星の前に出て決着をつけよう!」  三島は紅のしぶきをはねあげ、ヒラリと酒神壇にとびあがった。 「のぞむところだ」と左近も叫ぶ。 「ぶどう!」  くれないぶどうの目を見ると、ぶどうは黙ってうなずく。  左近とぶどうは共に露台から身をひるがえし、酒神壇に舞いおりた。     二  二人が壇上におりると同時だった。  壇に忽然《こつぜん》と神仙の群れが出現した。  桃色の衣をまとい、手に手に楽器を持った乙女たちが三層の酒神壇を埋《うず》める。左近たちがおり立った最上壇には、とくにかぐわしい絶世の美形がズラリといならんでいた。その中央に、衣冠を正した礼装の老人が坐《すわ》っている。  左近はその顔を見るや叫んだ。 「丸藤のおじさん!」  老人はそ知らぬ顔をして、言う。 「わしの名は葡萄真君《ぶどうしんくん》。くれない谷の谷神である。聖酒の儀の主宰として参上つかまつった。聖杯と聖徳利をわしにあずけよ」  ぶどうと三島は神器を老人にわたした。 「今より酒星の席をつくる。おまえたち、場所を開けておくれ」  乙女たちは壇の端にサッと寄る。老人が上座を指さすと、錦《にしき》の円座が三つあらわれた。 「おまえたちは、こちらに坐れ」  老人は下座に二人の歌い手の席をつくる。左近と三島はそこに坐った。 「娘や、おまえは酒をさすのだ」 「はい、お父さま」くれないぶどうは言った。  葡萄真君は声高らかに告げた。 「さて、今宵は千年に一度の聖酒変化の儀を行う晩じゃ。聖徳利の持主・三島業造、聖杯の騎士・徳利真人、二人とも、酔っておるか?」 「おうよ」  左近と三島は声をそろえた。 「このたびは、神器が二人の持主の手にわかれ、おまえたち二人が秘祭をおこなうという異例の仕儀とあいなった。こんなことは前代未聞じゃ。おまえたちの間にどういういきさつがあるのか、わしは知らぬ。だが、二人ともこうしてまかり出たからには、しっかりつとめてくれよ。酒星が来たら、詩《うた》をうたい、言霊《ことだま》の力を借りて、おまえたちの酔心を捧げるのじゃ。くれぐれも言っておくが、詩《うた》はまことの陶酔に満ちた詩、まことの酒飲みの心をあらわした詩をうたわなければならんぞ。そうでなければ酒星は喜ばん。詩が酒星を喜ばせれば、聖酒変化がはじまるだろう。そうすれば、宇宙はふたたび新しい酒に満ちよう。千年紀の春がまためぐりくる。春! 春! 春! ああ——花の春は須臾《しゆゆ》の間に去る。かなしいことぞ。だが、新しき酒霊に満ちた心の春は、この春が逝《ゆ》くともつづこうぞ。すべてはおまえたち次第だ。しっかりたのむぞ。  それでは酒星を呼ぶ!」  老人が天を一指すると、乙女たちは楽を奏《かな》ではじめる。チントンシャン・ツンチンと粋《いき》な弦の音につれて、   ※[#歌記号]酒はよきもの うまきもの    憂《うれ》いを払う玉箒《たまはばき》  空から鼻唄《はなうた》まじりにおりてきたのは、三人の酒星であった。 「おこんばんは!」 「よろしくう」 「やあ、葡萄真君、また遊びにきちゃった」 「酒星正神様。よくおいでくださいました。まずはおくつろぎになってくだされ」  葡萄真君は立って三人を坐らせる。真ん中の席に悠然《ゆうぜん》と腰をおろしたのが一番星、その名を忘憂物《ぼうゆうぶつ》。左右に二番星・開愁眉《かいしゆうび》と三番星・銷憂薬《しようゆうやく》が並んだ。 「うーん、いい匂《にお》いだ」 「桃の花も葡萄のかおりも、あちきらは大好き」  三酒星はうちならぶ花のかんばせをながめて、言った。 「いやあ、今年もこの谷の桃の花は美人ぞろいだ」 「目の保養とはこのことですワン」 「いや、善哉《ぜんざい》、善哉」  オホホホッと笑いあって、扇をつかった。 「今日はたしか聖酒変化の晩だろう」  忘憂物は二本指で顎鬚《あごひげ》をさすった。 「葡萄ちゃん、用意はしてある?」 「ははっ」  葡萄真君はくれないぶどうに「聖杯をお渡しせよ」とささやく。  ぶどうは忘憂物に聖杯を渡した。それから、聖徳利を手にとり、さっそくお酌《しやく》をはじめようとした。  開愁眉がそれを止めて、 「お姐《ねえ》ちゃん、あわてないあわてない。空《から》の徳利を傾けたって酒は出ないよ。あちきらの飲むお酒は特別製でござんすわいなァ」 「まず詩《うた》をうたってくれなくちゃ」 「士大夫《したいふ》のお酒には詩《うた》がつきもの」 「誰が歌うかい?」 「二人の者、どちらから始める?」葡萄真君は下座にたずねた。 「わたしからいきましょう」と三島が言った。「わたしは漢詩の言霊を|よりしろ《ヽヽヽヽ》にして、わが心を酒星にささげます。よろしいですか」 「よかろう」  三島は李白《りはく》の詩を吟詠した。桃花の精の管弦楽は、即興でかれの歌にうつくしい伴奏をつけた。   両人対酌 山花開く   一盃一盃 また一盃   我酔うて眠らんと欲す 卿|且《しばら》く去れ   明朝 意あらば 琴を抱《いだ》いて来《きた》れ  歌がはじまると、酒星はぶどうをうながして酒をつがせる。聖徳利からはとくとくと飴色《あめいろ》の老酒《ラオチユウ》が流れ出た。 「うん、良い酒だな」 「やっぱり李白の詩は風流だ」 「そうねえ」  三人は杯を一巡した。 「そっちのおにいさん。こんだあんたが歌ってね」と開愁眉が言う。 「徳利真人、何を歌う?」葡萄真君はたずねる。 「きまってる」左近はニヤリと笑った。「オマル・カイヤーム先生に助けてもらいますさ」  左近は丸藤でそらんじた『ルバイヤート』を朗読すると、声はひとりでにめずらかな調《しら》べにのって、花精が奏でる異国の諧調《かいちよう》と響き合った。   歌の一巻樹《ひとまきこ》のもとに、   美酒《うまき》の壺《もたひ》、糧《かて》の山、さては汝《みまし》が   いつも歌ひてあらばとよ その沙原《すなはら》に、   そや、沙原もまたの天国。  今度は、聖徳利から紅の葡萄酒があふれる。 「おお、こちらは『現世経《げんぜきよう》』だ」 「葡萄酒になったわ」 「うん、これも香りが高いぞ」 「さあ、あんたも負けちゃ駄目《だめ》よ」酒星は三島をうながす。  これより二人の歌合戦がはじまった。  三島 春風東より来《きた》つて たちまち相過ぎ、     金樽の緑酒は微波《さざなみ》を生ず。     落花紛紛としてやうやく多きを覚え、     美人酔はんと欲して 朱顔は|※[#「酉+宅」]《だ》す。     青軒の桃李 能《よ》く幾何《いくばく》ぞ、     流光 人を欺いてたちまち|蹉※[#「足+它」]《さだ》す。     君よ起《た》つて舞へ、日は西に夕《ゆ》く。     当年の意気 肯《あへ》て傾かしめざれ、     白髪糸の如くなりては 歎ずるも何の益《かひ》ぞ。  左近 げにやイラムの薔薇の園、消えてあとなく、     ヂャムシッド「日の王《きみ》」が七輪《ななわ》の杯《つき》の行方知らねど、     葡萄の蔓《つる》に紅玉の実りは絶えず、     年ごとに水際《みぎは》の園に花は咲く。     ダビデのくちは解《と》けずとも、ペーレヴィの     古くにことば、高き音《ね》を、『酒、酒、酒、     赤き酒よ』と、さ夜うぐひすは薔薇に告ぐ、     薄黄に萎《な》えし花の頬《ほほ》、からくれなゐに染むるがに。     されば、さかづき満たすべし。春の火の     火中《ほなか》に投げよ、汝《な》が冬の悔いの衣を。     「時」の鳥、天翔《あまが》ける、その道のりの     みじかきに、見よ、早や鳥は空にあり。  三島 君見ずや 黄河の水 天上より来《きた》る、     奔流して海に到り またと回《かへ》らず。     君見ずや 高堂の明鏡 白髪を悲しむ、     朝《あした》には青糸のごとく 暮には雪となる。  左近 泥沙坡《ナイシヤプル》とよ、巴比崙《バビロン》よ、花の都に住みぬとも、     よしやまた酌《く》む杯は甘《うま》しとて、苦しとて、     絶間あらせず、命の酒うちしたみ、     命の葉もぞ散りゆかむ、一葉《ひとは》一葉に。  三島 瑠璃《るり》の鍾《さかづき》、琥珀《こはく》色濃く     小さな槽《さかぶね》 滴《したた》る酒は 真珠《ルビー》の紅《くれなゐ》。     龍を烹《に》 鳳を炮《や》き 玉脂《ぎよくし》は泣く、     |羅 《うすぎぬ》の幃《とばり》 繍《ししう》の幕 香風を囲む。     龍笛を吹き、|※[#「(口口)/田/一/黽」]鼓《だこ》を撃つ。     皓歯《かうし》は歌ひ、細腰は舞ふ。     まして 青春の日もまさに暮れなんとして、     桃花は乱れ落ち 紅雨のごとし。  左近 さはれ、ああ、春は逝《ゆ》く、薔薇《さうび》とともに。     青春の香|焚《た》きし「書きもの」は閉づ。     木の枝に歌ひける鶯は、ああ、     いづこよりいづち飛びしと誰か知る。  歌につれて、聖徳利からは飴色の酒とくれないの酒がかわるがわる湧《わ》きだす。いずれも天来の妙香を発し、その味わいはたがいに甲たりがたく乙たりがたい。酒星たちは御満悦である。 「春の歌では五分五分だな」三島は左近に言った。「どうだね、ここらでひとつ、題を出そうじゃないか。〈月〉という題を出してもよいかな?」 「好きにしろ」  三島は李白の『月下独酌』を歌いだした。   花間《くわかん》 一壺《いつこ》の酒、   独酌し 相|親《したし》む無し。   盃を挙げて明月を邀《むか》へ、   影に対し、三人となる。   月は既に飲《いん》を解せず、   影は徒《いたづ》らに我身に随ふ。   暫《しばら》く月と影とを伴ひ、   行楽 須《すべか》らく春に及ぶべし。   我歌へば月は徘徊《はいくわい》、   我舞へば影は凌乱。   醒時《せいじ》 同じく交歓し、   酔後 各各分散す。   永く無情の遊を結び、   相期す 雲漢《うんかん》|※[#「しんにゅう+貌」]《はる》かなり。  地上の風雅をきわめ、最後は天の星となった李太白の神韻は、さすがに詩仙の名に恥じない。流れ出た老酒は月光のように澄んだ高逸《こういつ》の美醪《びろう》だった。酒星たちはやんやと喝采《かつさい》した。左近はルバイヤートで応戦したが、ここはすこぶる旗色が悪い。   されど見よ、わななける篠懸《すずかけ》越しに、   よきひとよ、上りゆく月、われらをながむ。   いくたびか、上りつつ、その葉のひまに   眺むらむ——われら、その一人はなくて。  左近は形勢の不利をさとり、 「今度は、こちらに題を出させてくれ。〈智慧《ちえ》〉という題で行こう」  そう言って歌いだした。   われ、鑰《かぎ》を見出さざりし扉あり。   透見《すきみ》することを得ざりし幕《とばり》あり。   「我《われ》」「汝《なれ》」のかりそめのしばしの言《こと》も   ありしかど、——やがてまた、「汝《なれ》」「我《われ》」は無し。   如何なれば斯《か》く果てしなく此れを追ひ   彼れを究《きは》むと、これ努め、論じくらすや。   さち多き葡萄の酒をおなじくは飲みてぞうたへ、   哀しく尋《と》めてはつはつに苦《にが》き木《こ》の実を獲んよりは。   賢《さが》し教《をしへ》に智慧の種子播《たねま》きそめしより   われとわが手もておふしぬ、さていかに、   収穫《とりいれ》どきの足穂《たりほ》はと問はばかくのみ——   『水の如《ごと》われは来ぬ、風の如われぞ逝く。』  今度は、渋さの中に深く果てしない滋味を秘めた葡萄酒が、汲《く》めども尽きず聖杯をうるおした。  だが三島は不敵に笑った。 「ふん、中華文明をナメちゃいかんな。智慧の詩なんぞはいくらでもあるわい」  かれはそう言って、白楽天の『対酒』を歌った。   巧拙 賢愚 相ひ是非す   何如《いかん》 一酔《いつすい》 ことごとく機を忘るるは。   君は知らん 天地中の寛《ひろき》と窄《せまき》とを   |※[#「周+鳥」]鶚《てうがく》 鸞凰《らんわう》 各自《それぞれ》に飛ぶ。   蝸牛《くわぎう》角上 何事をか争ふ   石火光中 寄するこの身ぞ   富に随ひ貧に随ひ 且《しばら》く歓楽せよ   口を開いて笑はざるは これ癡人《ちじん》なり 「こういうのもあるぞ」といって今度は韓愈《かんゆ》の詩を歌いはじめた。   一生を断送するは ただ酒あるのみ   百計を尋思するに閑《かん》に如《しか》ず……  ところが、そのとたん、聖杯に口をつけていた忘憂物は|ぶっ《ヽヽ》と口の中の液体を吹き出した。 「うっぷ、水だ!」 「下戸の詩をうたったな!」 「下戸が気取って書いた詩をうたったな!」 「せっかくのお酒が水になったじゃないの!」  忘憂物がハックシュ、と大きなくしゃみをすると、三島業造は酒神壇から吹きとばされて、酒の湖に落ちた。 「中華に溺《おぼ》れたか——」葡萄真君《ぶどうしんくん》はつぶやいた。     三 「やーい、馬鹿《ばか》め」  その時、岩山の上の露台から叫んだ者がある。 「半可通とはおまえのことよ。韓愈がじつは下戸だったのを、おまえ知らんかったな」  ひょうたん老人・酔悟大法師の声だった。どぶ六が礼拝堂の露台から儀式の行方を見守っていると、そのとなりにいつのまにか老人が立っていたのだ。老人は驚くどぶ六の方を向いて、クックッと笑いながらささやいた。 「三島は漢文ノリの奴《やつ》じゃから、きっと漢詩で攻めてくると思ったんじゃ。それで偵察に行ってみるとな、案の定、庭で独酌しながら、李白の詩を訓読なぞしておる。わしはあいつが小便に行ったすきに、あいつの『中華飲酒詩選』に下戸のざれ詩《うた》を書き加えておいたんじゃ。まんまとひっかかったわい」 「コソクだ——!」どぶ六は呆《あき》れた。「長生きするのも考えもんだ。年寄りってのは恥を知らねえや——でも、これで旦那《だんな》の勝ちかな」 「そうじゃ、この世は結果がすべてよ——おおい、徳利《とつくり》男、おまえの番だぞ……」  ライヴァルは脱落して左近の独壇場となったが、なんとしたことか、詩が出てこない。左近は頭の中が空白になっていた。 「そっちのおにいさん、どうしたの、はやく口直しの歌をうたってちょうだい」 「はやく、はやく」  酒星たちはじれったそうに身をふるわせた。 「徳利真人、どうした? 早くしないと酒星がつむじをまげるぞ」  葡萄真君が小声でせきたてる。 「それが……じつは、詩をあれしか覚えていなかった」 「なに!」と葡萄真君は眉《まゆ》をひそめた。 「暮葉さん!」とぶどうがつぶやく。 「旦那!」とどぶ六。  ひょうたん老人が声をかけた。 「おおい徳利、おまえ、なんでもいいから、自分の酒への思いを歌ってみろ! 相手はどうせ酔っぱらいじゃ。おまえの心が通じさえすればよいのじゃ!」  左近はうむ、と目をつむり、酒、酒、酒の一文字を念じた。  記憶に残るあの酒、この酒——生まれてからの酒の思い出が次々によみがえり、楽しかったあらゆる酒席が、走馬灯《そうまとう》のように脳裏をかけめぐった。かれの心の画面は清澄《せいちよう》にかがやく酒杯の渦《うず》となった。しかし、それをどうやって歌ったらよいのかわからない。  酒星たちはしびれをきらし、ツイと立ちあがった。 「うむ、このたびの聖酒変化は失敗か」葡萄真君はうなった。  と、その時。  左近の心の画面の遠くに一点の光があらわれ、こちらへ近づいて来た。  あれはなんだろうか……  光の点は次第に広がって、その中に浮かびあがったのは、子供の頃《ころ》の情景だった。死んだ祖父が晩酌《ばんしやく》をする時、よく口ずさんでいた古い唄《うた》がきこえてきた。   かりくす めうす いねぶりあんす      くあむ ぷらえくらあるす……  生涯《しようがい》酒を飲みとおした左近の祖父は、死ぬ直前まで晩酌のビールは欠かさなかった。  左近は祖父がビールを飲みはじめると、寄っていって、泡《あわ》をおねだりする。祖父は幼い孫を膝《ひざ》にのせ、「左近や、おまえも酒飲みになるな」とうれしがっていたものだ。 「calix meus inebrians quam praeclarus(かりくす めうす いねぶりあんす くあむ ぷらえくらあるす)……いいか、左近や、おぼえておくんだぞ。これは酒飲みの心の唄だ。遠いむかしの偉い詩人が、羅甸《らてん》語というゆかしい言葉でつくった唄だ。その原歌はヘブライ語だったというが、わしはよく知らん。この歌の意味は、日本語でいうとこうなるのだ。   我が酔ひ痴《し》れの杯よ   おんみは光りかがやける  これはな、お酒を飲んで酔えば酔うほどに、杯は光りかがやく——酔っておまえの心が酒に洗われるとな、魂は光りかがやき、その光が杯に映《はえ》ることを言っているんだ。いいか左近、お酒を飲んだら、酔わなくちゃいかんぞ——酔わんような酒を飲むんじゃないぞ——」  心の画面になつかしくあらわれた祖父は、左近にそう諭すと、消えた。 「そうだ、じいさんのこの唄をうたってみよう」  左近は座を立ちかけた酒星に、「もう一曲歌わせてください」と叫んだ。  酒星たちは不機嫌《ふきげん》な顔で坐《すわ》りなおした。  左近はうたった。その歌はしみじみと心にしみる子守り歌のようなしらべであった。   かりくす めうす いねぶりあんす    我が酔ひ痴れの杯よ——    血にも涙のにじみ入る    永遠《とは》にさみしきものの目に    おんみは光りかがやける   かりくす めうす いねぶりあんす    くあむ ぷらえくらあるす  酒星たちはハッと目をみはった。 「まあ、なつかしい、『酔い痴れの杯』じゃないの」 「葡萄真君、知ってるかい、この歌を?」 「いいえ」葡萄真君は首をふった。 「むかし、ヘブライの王サウルはよく鬱《ふさ》ぎの虫を起こしたんだ。あいつは頭が良すぎたんで、時々“全一者”の悲しみが頭に伝染《しみ》こんだのさ。そんな時、ダビデが琴を弾いてこの歌をうたうと、憂鬱《ゆううつ》はてきめんにおさまった。これは憂《うれ》いを忘れさせるものの歌——」 「あたくしらの歌ですからね」  忘憂物がクイ、クイ、と手招いたので、くれないぶどうは聖徳利を持ってすすみ寄った。  酒星は右手に聖杯を持って鷹揚《おうよう》にかかげる。乙女がそのかたわらに立ったとたん、徳利は突如|燦然《さんぜん》と光りはじめた。ぶどうはまばゆさに思わず顔をそむけたが、聖なる徳利は聖杯に吸いよせられるように傾いて、杯中に皓々《こうこう》たる光の酒がながれだした。それと同時に、聖杯にうめこまれた無数の宝石が、光を透《とお》してきらめきわたる。紅蓮《ぐれん》の焔《ほのお》の色、群青《ぐんじよう》の空の色、海の碧《みどり》、東雲《しののめ》の紫、金、銀、琥珀《こはく》——七色の光彩の綾《あや》のなかから、やがてきよらかな白光が一様に滲《にじ》みだし、こんこんと聖杯からあふれでた。  酒星たちは「おお」と感動して聖杯に抱きついた。かれらは愛《いと》し児《ご》を抱くがごとく、母の乳房《ちち》にすがるごとく、せつなげに、愛《かな》しげに聖杯をなでさすり、頬《ほお》をすりよせ、宝石《いし》にくちづけ、杯の縁を波打たせながら、たえいるばかり恍惚《うつとり》と光の酒をすすった。 「ああ、うまいなあ………」 「お酒はなんてうまいんでしょう………」 「お酒はやっぱり、これでなくちゃあ………」  もうろうと立ちあがって葡萄真君の方に進みでた。 「いやあ、酔った酔った」 「葡萄真君、今年も堪能《たんのう》したよ」 「あの歌い手は何というの?」 「あれなる者は、酒仙徳利真人にございます」と葡萄真君はこたえる。 「そうか。おい、あんたさん。徳利真人」忘憂物が左近を招きよせると、 「良かったわ。お酒飲みの心をいつまでも忘れちゃだめよ」開愁眉がかれにやさしく聖杯を手渡した。 「われらが今、新しいお酒を醸《かも》してやるからネ」銷憂薬は天を指すと、足元がフラッとよろけた。  三酒星はオットットッ、ともたれ合い、そのままスルリと一条の光芒《こうぼう》に合し、夜空に飛び立った。  終わった。  儀式は終わった。  あたりに一瞬沈黙がおりた。  だが、その沈黙は続かなかった。  フツフツと沸くような不思議な音が、どこからともなく聞こえてきたからだ。  あれは宇宙が酒に醸される音だ。  聖酒変化が始まったのだ。  ピカッ!  天頂に光が一閃《いつせん》し、みんなは夜空をふり仰いだ。その瞬間、おぼろ夜は一面|拭《ぬぐ》ったかのごとく澄みわたり、透明な星空の彼方《かなた》にかがやく巨大な〈存在〉があらわれた。 「天使じゃ!」葡萄真君が叫んだ。 〈存在〉はたくましい肩にかついだ壺《つぼ》を傾け、荘厳《そうごん》な声で宣《のり》した。 「われは酒天使えぶりおおすす。酒星正神の命により、今|天壺《てんこ》を開ける」  壺の蓋《ふた》は取り去られた。たちまち、銀の砂のごとく燦爛《さんらん》ときらめく酒が、天の川にふりそそいだ。 「ああ、天の川が酒になる——」  天を仰ぐ者は口々に叫んだ。  光の酒は銀河を満たし、満天にあふれかえった。月も星座も洗われて、みがきあげたように輝き、柳宿《りゆうしゆく》のうえに戻った酒星は、酒中の珠《たま》のごとく霊光を発した。天の酒はそれでも尽きなかった。やがて杯盤からあふれるように、地上に銀色の慈雨が降りはじめる。左近も、ぶどうも、どぶ六も、すべてのものが、身のうちにえもいわれぬ喜びを感じた。それは澄みきった新酒のもたらす春の生命《いのち》の躍動だった。 「ひゅううううううううっ」  妙《たえ》なる笛の音に似た美声が満谷に響きわたる。見ると、さっきまでしらふだった葡萄真君が、いつのまにか酔っぱらって、仙家おとくいの高嘯《うそぶき》をはじめたのだ。  それを合図に、桃の精は算を乱して踊りはじめた。酒湖のほとりで秘儀を見守っていた者も、われさきに紅の酒に飛び込む。酒のかけあい、飲みっくらがはじまる。  左近は入り乱れる群衆の中で、はぐれそうになったぶどうの手をとった。  やがて天を聾《ろう》するへべれけな歌声の大合唱がわきあがった。音頭《おんど》をとっているのは、酒湖から這《は》いあがった三島業造だ。  さあ、もうこうなれば、酒仙も下戸も、魔酒のやからもへちまもへったくれもない。果てしない祝宴がはじまったのだ。男も女も、老いも若きも酔いしれるばかりだ。あいつもこいつも、猫《ねこ》も杓子《しやくし》も、虎《とら》も鼠《ねずみ》も、桃も葡萄《ぶどう》も、正体なく酔っぱらい、踊り狂った。  しかも、それはこのくれない谷ばかりではなかった。この夜、生きとし生けるものはみないいがたき恍惚《こうこつ》を味わい、〈アラヤ識〉は無限の孤独の中で、かぐわしい夢を見はじめたのである。     四  玉泉洞《ぎよくせんどう》からこの様子を酒鏡で見ていた仙人たちは、歓呼して祝杯をあげた。  ふだんは優雅に飲んでいるかれらも、千年に一度、新しい酒霊が乾坤《けんこん》をうるおして天地が酔い狂う今宵《こよい》ばかりは、こなたも負けてはいられないと杯盤|狼藉《ろうぜき》の酔態をさらす。  奇術が得意な韓湘子《かんしようし》は十八番《おはこ》の術でところかまわず牡丹《ぼたん》の花を咲かせる。玉泉洞はどこもかしこも花でいっぱいになる。その上を張果老が驢馬《ろば》にさかさまに乗ってかけめぐる。  何仙姑《かせんこ》は肩に花籠《はなかご》を担《にな》って、召しませ花をと歌いながら、他人《ひと》の頭を踏んで歩く。  藍采和《らんさいわ》は檀板《びんざさら》をやけのやんぱちでブッたたき、呂洞賓《りよどうひん》は宝剣をふりまわす。  抱樽大仙《ほうそんたいせん》は詩興風発して古詩をよみ、それを鉄拐李《てつかいり》が杖《つえ》で洞《ほら》の入口の岩に刻んだ。刻まれた文字は、ひとりでに金色《こんじき》の光をはなった。  さて読者よ、あなたも酒徳を積んで、いずれ仙界を訪れたなら、この銘刻を見ることもできましょう。西嶽佳佳山《せいがくかかざん》玉泉洞の入口に今も燦然と輝いている、その詩句は次のようなものであるとか——   只持玉杯片掌中   天地万象皆良肴   酔心妙光杯清清   千年酔裡夢境遊   玉の杯片手に持てば   天地万象みな酒肴《さかな》   わが酔ひ痴れの杯の   光は澄みてかがやかに   われら千年酔ひて夢見む [#地付き]たまあむ・しゅど  [#改ページ]  作中に引用した『ルバイヤート』の訳詩は、以下のものを使用させていただきました。 蒲原有明『有明集』(易風社)所収『ルバイヤット』より 森亮『晩国仙果』㈵(小沢書店)所収『ルバイヤット』より 『竹友藻風選集』第二巻(南雲堂)所収『ルバイヤット』第二版より 作中ひょうたん老人のうたう唄は、多年神田明神様境内でひょうたんを商ってこられた金子岩信氏作の御歌であります。 その他、本作品執筆にあたり、以下の書物を参考にいたしました。 欧陽晶宣編『八仙伝奇』『八仙的故事』(中華民国・可筑書房) 袁枚『随園食単』青木正児訳(岩波文庫) 青木正児『中華飲酒詩選』『酒中趣』(以上筑摩叢書)『江南春』『中華名物考』(以上平凡社・東洋文庫)『華国風味』(岩波文庫) 中沢新一編『南方熊楠コレクション』㈵—㈸(河出文庫) 『リグ・ヴェーダ讃歌』辻直四郎訳(岩波文庫) ニザーミー『四つの講話』黒柳恒男訳(東洋文庫) アーサー・マッケン『秘めたる栄光』平井呈一訳(牧神社) この作品は平成五年十二月新潮社より刊行され、平成八年十月新潮文庫版が刊行された。