内館牧子 愛してると言わせて 目 次  一〇一回目のプロポーズ  真夏の夜の屋形船  父親譲りの美学  憧れの人  島田正吾さんのこと  とり肌が立つ  夢の大相撲ゲスト席・その1  夢の大相撲ゲスト席・その2  気分転換  大相撲と男女平等  あれも愛これも愛  貴花田・りえ婚約騒動  クリントン効果!?  ただれた愛欲生活  悪夢の結婚報道  イヴはサタンの日?  キャベツの兄サン  ネオ・ジャパネスク  オバサン度チェック  陰で支える女  ひらり風スパゲティ  上手なプレゼント  皇太子  外国人横綱  「木曜日の女たち」  人柄のよさの証拠!?  あっという間の六、〇〇〇枚  二人の小三郎  内館流人生の三箇条  気配りの女  十八人のピンクレディ  結婚スピーチ  私に足りないもの  ロッコー小林の始球式  無口なパリ  フランス語合宿  和食の夢  パリのトイレ事件  感動の成田空港  花の命と女の命  ローマの二枚目  仕事は宗教?  大至急返答せよ  エステがはやる理由  怪獣は今も生きている!?  ああ、小林旭さま  「大相撲ダイジェスト」余話  日独安全タダ論  脚本 内館牧子  やっぱり地味なくらしが…  単行本あとがき [#改ページ]   一〇一回目のプロポーズ 「ベティちゃんの地味なくらし」が一〇一回目になった。  二年前、この連載のお話があった時、編集者はおっしゃったのである。 「ま、とりあえず三十回くらいをメドにお考え頂いて」  私は連載なんてしたことがなかったし、エッセイの書き方もよくわからないし、何分にも性格も暮しも地味なのでオドオドと言った。 「もし評判が悪かったら、十回でも三回でも遠慮しないで打ち切って下さい。三十回って言った以上、申し訳ないからなんて思わないで下さいね」 「わかりました」 「ホント、私の暮しなんて何もないから、あんまり書くことないんですよね。大丈夫かなァ、三十回も……」  こんなやりとりがあってスタートした。「地味なくらし」というタイトルも私がつけたもので、それは私の生活のまんまだから……という思いがあった。中には本気で怒る読者の方もいて、 「吉田栄作や宅麻伸と並んだ写真なんか雑誌に出て、何が地味なくらしですか。それはイヤ味というものです。アンタは地味な暮しを売り物にしている派手な女よッ!」  と手紙を頂いたこともある。  まったくもう、違うんだってば。美男俳優と並んで写真に出るのは記者発表の時と雑誌取材の時だけ。そんなものは一年三六五日における大相撲六場所みたいなものである。あとはほとんど家にいて、そこらにあるTシャツにジーンズ、ノーメイクでシコシコと原稿を書いている地味暮しである。  ある時はもっとスゴイ手紙があった。 「俳優さんと写っている雑誌を見ましたけど、髪はメッシュだし爪《つめ》も真っ赤だし、ぶっとんだわ。フン」  ほっといて頂きたい。力士だって毎日は地味な浴衣《ゆかた》でも、本場所には化粧廻しをする。それはダイヤがはめこまれていたり、裏はキラキラの西陣だったり、その派手なこと。メッシュは私の化粧廻しであり、日頃地味に稽古《けいこ》に励んでいる人ほど、本場所では派手になるのである。ホント、私って相撲におきかえると何でこうたちどころに何でもわかってしまうのかしら。  こういうお便りを頂くのも、読者の方々が読んで下さっている証拠であり、おかげで三十回から五十回の延長になった。本当にうれしかった。  私はこのコラムをとても楽しんで書かせて頂いている。この二年間に結婚したわけでもなく、出産したわけでもなく、生活サイクルは何の変化もないのだが、不思議なことにこの連載を始めてから、「暮す」ということが面白くなってきた。イヤなことがあっても元気がでるようになってきた。  たとえば以前、ハンドバッグを丸ごと盗まれた話を書いた。それまでの私ならば、 「ああショック……。運が悪いわ」  と愚痴を言いまくって、落ちこんでいただけである。ところがこういう何かコトがあると、今では必ず思う。 「クーッ! 頭に来たッ。『ベティちゃん』に書いてしまうからなッ」  で、書く。これも不思議なのだが、原稿用紙を前にすると、あれほど頭にきていたことが滑稽《こつけい》に見えたり、バッグを盗まれてショックだったことより、その時、力になってくれた友達のありがたさが身にしみたりしてくるのである。そして原稿を書き始める頃には、 「ま、これはこれで面白かったよね」  となり、書き終える頃には、 「イヤァ、何ていうかこういうめにあって、私は絶対によかったんだわ。今まで気づかないことに気づかされたもん。イヤァ、よかったよかった」  となる。ウソではない。読者の方で、 「毎日がつまんないなァ。毎日が地味だなァ」  と思っているなら、ぜひ私と一緒に「〇〇ちゃんの地味なくらし」という日記をつけることをおすすめする。〇〇にはご自分の名前を入れて、すてきなノートに毎週書くのである。〆切りは私と同じで毎週水曜日にする。気持が整理されて、優しくなったりして、暮しの小さなことが面白くなる。週一回暮しのエッセイを書かねばならぬとあれば、夫のシャツの口紅も、仕事の大失敗も、面白がらなければしょうがないとおわかり頂けると思う。腹がすわってくる。ホントである。 「でも、発表の場もないのに書くのは虚《むな》しいわ」  とおっしゃる方もあろう。それはよくわかる。それなら私が編集長に「地味なくらしエッセイコンテスト」をやって頂けないかとかけあってもいい。エッセイコンテストをやれば張りが出る。編集長のお返事はわからないが、かけあうことはお約束する。  こうしておかげで五十回から一〇〇回に延長された。私はこれで打止めにしようと決めており、編集長にも八十回頃から申し上げていた。読者の方もあきるだろうし、それを無視して続けるのは節操がないと思ったのである。すると先日、編集者からファックスが入った。 「懸案の連載継続の件ですが、水戸泉も優勝したことですし、ベティちゃんファンもおりますし、ぜひよろしくお願い致します。連載継続が水戸泉の大関盗りにきっとつながると信じて、何とぞよろしくお願い致します」  私をくすぐり、かつ「心の夫水戸泉」を引きあいに出すこのうまさ。私はこのファックス一枚で、節操なくケロリと一〇一回目のプロポーズを受けてしまったのである。  どうぞまたしばらくおつきあい下さいね。  (注) 本書は、「ベテイちゃんの地味なくらし」というエッセイを一冊にまとめたものである。   真夏の夜の屋形船  八月のある夕暮れ、私は柳橋から屋形船で隅田川《すみだがわ》を下り、東京湾に出るという「川遊び」に誘われた。これを計画したのは「ライターズ・カップ」というゴルフコンペ定例会の事務局で、その名の通り、脚本家《ライター》とテレビ局のプロデューサー、ディレクターたちで作っている会である。  私のゴルフはとても人前では披露できないものなので、コンペには一度も出たことはなかったが、屋形船で夏の夕暮れを楽しむというのは悪くない。これはぜひ参加しようと決めた。決めてすぐにNHKの金沢プロデューサーに言うところが、私の思慮深さである。何しろ、原稿の〆切りが迫っている。 「ね、金沢さん、これはぜひ参加しようと思うんですよ。だって、ホラ、屋形船は両国橋とか永代《えいたい》橋とかの下を通るわけだし、今度のドラマの取材としてはピッタリでしょ。これは何としても一度は経験しておいた方がいいと思うんですよね。やっぱり、ホラ、何ていうのかしら、ドラマに厚みが出るじゃないですか。ねえ」  屋形船で酒盛りをしたところでドラマに厚みなんぞ出るわけもないのである。まして両国橋や永代橋などの付近は「ひらり」の準備段階でスタッフとさんざん歩きつくしている。屋形船で橋の下を通ったところで今さら「取材にピッタリ」なわけもない。  でも、金沢プロデューサーは人間が大きいので、それとも私には何を言っても無駄だと諦《あきら》めたのか、ニッコリと、 「それはいいですね。ぜひ取材されてドラマに生かして下さい」  とおっしゃったのである。  次に私はハタと考えた。張り切って出かけても知らない人ばかりだったらつまらないなァ……と。そこで仲良しの脚本家たちに電話をかけまくった。困るのは仲良しのほとんどが「遅筆」なのである。ホントに年中、ウンウンとうなっては〆切りを守れない人たちばかりなんだわ。でもやっぱり彼らがいないとつまらない。私は幹事でもないのにせっせとダイヤルした。 「行きましょうよォ。机に向かってれば書けるってもんじゃないんだからサァ。川風に当たってお酒でも飲めばいいセリフがドカドカ浮かぶわよ。ね、行こ行こッ」  もう長いことホテルにカンヅメになっている人まで誘い出したのだから、私は「客引き」としてはかなりの腕である。  ここでどんなメンバーが集まったか書きたいのだが、そんなわけでどうも書きにくい。〆切りを前にこっそり来た人たちもいそうなんだもの。事実、ある脚本家は私の顔を見るなり、 「内館さん、ごめんッ!」  と頭を下げた。何ごとかと思ったら、 「昨日、NHKで金沢さんに会って思わず俺言っちゃったの。明日、屋形船で内館さんと会いますよって。言ってからシマッタと思ったんだけど、金沢さんニコニコしてるんだよ。ホントに前から知ってたの? それとも知ってるふりをして、内心引きつってたんじゃないかと思ってサ」  こういうことがあるからプロデューサーに隠れて何かしてはいけないのである。私は「…ひとりでいいの」を書いていた時、隠れて四回も大相撲に行き、四回ともテレビにうつってしまったのである。NTVでアシスタントディレクターが、ふと画面を見て、 「あッ! また内館さんがいる」  と叫んだ時、小山プロデューサーは、 「ウソだろ。今日は葬式だって言ってたよ」  とつぶやいた後で気づいたそうな。 「そういえば、今場所すでに三人死んでる。死にすぎだ。クソーッ、だまされたッ!」  以来、小山プロデューサーは本当にお葬式があっても国技館に行っているに違いないと疑う。こういう痛い経験が私を思慮深く、真っ正直な人間に成長させてくれたのだと思う。  こうして赤い提灯《ちようちん》の揺れる屋形船に脚本家やテレビ関係者が三十人ほど集まった。そして、夕暮れの隅田川を走り始めたのである。ところが、 「きれいだねえ」 「あのビルは何だろう」  などと声があがったのはせいぜい最初の十五分間。窓からの川風を受けながら、お酒片手に久しぶりの人たちと会えば風景どころではない。早い話が相手の顔とグラスしか見ていないのである。これでは船がずっと柳橋に止まっていても誰も気づかなかったろう。  それでも私は「ドラマの厚み」がふと頭を横切《よぎ》り、一度だけ窓辺を見ながら某プロデューサーに聞いた。 「ここ、どの辺でしょうね」  某プロデューサーは答えた。 「サァ、どこだろ。そんなことよりビール? 焼酎《しようちゆう》?」  それにしても楽しい三時間であった。人との出会いというのは、どれほど暮しを楽しくしてくれることか。脚本を書くという仕事は毎回ご一緒するスタッフが違う。私で言えば、ある時期は週に三回もTBSの遠藤プロデューサーと会い、次はNTVの小山プロデューサーと会い続け、今はNHKの金沢プロデューサーと一日に一度は連絡を取りあう。そして、いずれも仕事が終われば次の機会まではパタリと疎遠になる。時々「元気?」と電話をしあうくらいである。  今回の屋形船には、やはりある時期みっちりと会っていたプロデューサーやディレクターが、たくさんいらしていた。久々に会うと、その時期のことがよみがえる。 「あの仕事は楽しかったね。またやろうね」  とグラスを合わせる。  出会いと別れを繰り返す仕事であるだけに、会っている時期は本当に一生懸命に接しなければ……と思わされる宵であった。   父親譲りの美学  先日、私はデートをした。オシゴトなんか全然関係なく、ホントのデートである。場所は西麻布《にしあざぶ》のひっそりした住宅地にある小さなイタリア料理店。相手は私より少々年下の、これがなかなかカッコいい男なのである。  白い秋の花が一輪さしてある小さなテーブルで、私たちは向かいあった。 「久しぶりだね。元気だった?」  彼が静かな低音で聞く。 「ん、元気よ。ちょっと冷房病で疲れやすいけど」  私はちょっとはかな気に微笑《ほほえ》む。  しばらくたって料理が運ばれてきた。食べている私を、彼は涼し気な瞳《ひとみ》でじっと見つめ、そしてポツンと言った。 「アナタって魅力的だよね」  ウソではない。ホントにこう言ったのである。きっと作り話だと思う人が多いだろうから本当だという証拠に、無断で相手の名前を書いてしまおう。講談社の雑誌「ホットドッグ・プレス」の副編集長のヨシヒサさんである。どうだ、参ったか! と言いたいところだが、実は参ったのは私の方である。私は内心思っていた。 「ヤダわ。ヨッちゃんたらやっと私の魅力に気がついたのね。でも西麻布のこんなひっそりとした店で告白するなんて、さすが『ホットドッグ・プレス』の副編だけあるわ。マニュアル通りってのがいいわァ」  ところが、「魅力的だよね」の後に言葉が続いたのである。 「ホント、アナタって六年前に初めて会った時から全然食べっぷりが変わらないもんね。僕、食わない女って全然魅力感じないタチなんだ。今夜、アナタとメシだって思って、これは二人でバカスカ食うぞって思って、昼から何も食わないで備えていたんだよ。だけど夕方、死にそうに腹減っちゃって、それでもキャラメル一個で飢えをしのいだの。魅力的だなァ、その食べっぷり」  まったく、私の立場はどうなる。冷房病で疲れやすい体と、はかな気な微笑をどうしてくれる。  私は父が「食べ方」に非常に厳格であったため、「きれいに食べる」ということだけは厳しくしつけられた。 「食べ方で育ちがわかるんだよ。嫌いな物は箸《はし》をつける前にそう言って、一度手をつけた物は最後まできれいに食べなさい」  これを小さいときから三六五日言われてきたので、食べ残さない癖がついてしまった。特に魚などを食べ散らかすと「みっともない」と怒られる。幼い女の子にはイワシ、ニシン、サンマなどはやっかいな魚であるが、怒られるよりはマシと、私は細い骨などはみんな飲みこんで、皿の上をきれいにしていた記憶さえある。  この幼児体験のおかげで、ホントに私は今でも食べっぷりがいい。「きれいに食べる」というのは早い話が「全部食べる」のが一番簡単だからである。  かつてOLをやっていた頃、ランチは会社支給の幕の内弁当であった。昭和四十年代半ばであり、今に比べれば相当にひどい内容である。一番ひどいのはゴハンで、アルマイトの弁当箱に洗い米を入れ、弁当箱ごと何千個も一度に炊く。当然、ホカホカふっくらとはいかず、芯《しん》のあるまずいゴハンであった。あげく、現場作業マンもOLも同じ量の弁当が機械的に配られるのである。いわゆるドカベンで、半端な量ではない。OLたちはまずそうに少しずつ食べ散らし、事務の男子社員でさえ残す人の方が多かった。それを私はいつもペロリと一粒残さず食べていたのである。確かにおいしいとは思わなかったが、他のOLのように箸をつきさしていじり回して残すのは、父譲りの美学が許さなかった。でも、あの食べっぷりのおかげで、私は社内結婚ができなかったのだと固く信じている。「あんなに食う嫁サンじゃ食費が大変だ」と敬遠されたに違いない。  西麻布でヨッちゃんと食事してからしばらくたったある晩、今度は脚本家の井沢満さんと夕食を一緒にした。  井沢さんは本当に食が細い。連続テレビ小説を書いている時など心配になって電話をし、何を食べたか聞くことがよくあった。すると言う。 「えーと、今日は苺《いちご》を三粒とコンソメをカップ半分と……あ、それとポッキーを二本」  私はそれが一日の量と知り、仰天して怒鳴ったことがある。 「死んじゃうわよッ。何考えてんのよッ。そこらにある物、今からでも口の中につっこみなさいッ!」  すると彼は言う。 「食べたくないんだよ。大丈夫、点滴打ってるから」  こんな井沢さんと久々に会って食事をしたら、これが人が変わったようによく食べる。苺三粒の男が次から次へと皿をきれいにする。それも私より早く、あっという間にたいらげる。私はすっかり嬉しくなっていた。井沢さんはどの皿もピカピカにして言った。 「そうなんだよ。やっと体調が戻って何でもうまいんだ。もうアナタと対等に食べられるよ」  そして、最後にお茶漬《ちやづ》けが出た時、私は彼の皿に漬け物が手つかずで残っているのに目を止めた。 「これ、ちょうだいね」  私は彼のタクアンを箸でつまみ、サラサラとお茶漬けを食べた。タバコをすっていた井沢さん、ガクッとテーブルに伏した。 「僕、まだまだだよなァ。アナタと対等なんて自惚《うぬぼ》れてたよ。相手の皿に手を出す発想はなかった……」   憧れの人  この「ベティちゃん——」というコラムを続けていると、私のミーハーぶりが際限なく暴露されるようでホントに困るのだが、実は私、作家の五木寛之さんにずっと憧《あこが》れていた。  何しろ根が「追っかけ」なもので、OL時代のある日、突然会社の硬式テニス部に入ってしまった。テニス部員がそっと私に囁《ささや》いた一言のせいである。 「牧チャン、会社のテニスコートの隣りのマンション、あそこに五木寛之が住んでるんだって」  この一言で、私はその日のうちに入部した。もともとはヨット部員だったのだが、土日のうち一日はサボってテニスコートに通いづめ。ハッキリ言ってテニスなどどうでもいいのである。毎週通いつめれば、一回くらいは外出する五木さんをお近くで拝見できるかもしれないという、ただそれだけのことである。  まじめにボールなんぞ追っていては五木さんのお姿を見逃すかもしれないと思い、私は足が痛いの手が痛いのと言ってはテニスをせず、いつも審判をやっていた。テニスの審判というのはコートに面した高い高い椅子《いす》に座るので、五木さんのマンションが見えやすい。私は適当にいい加減な審判をしながら、マンションばかり見ていた。  ところが一年間通いつめたのに、五木さんは全然外に出ていらっしゃらない。朝から晩までテニスコートにいるのだから、十回くらいはお見かけしてもいいと思うのだが、一回もない。そんなある日、先の友達が手を合わせた。 「牧チャン、ごめんッ。あのマンション、五木寛之と関係ないんだって。違ったの。ごめんね」  私はその一言で、その日のうちにテニス部をやめてしまった。  あれから十五年ほどたったつい先日、角川書店の編集長から電話があった。 「内館さん、TBSラジオで『五木寛之の夜』っていう番組があるんだけど、知ってる?」  当然知っている。私は日曜の夜中、よくこの番組を聞いていた。 「あの番組にゲストで出てくれないかな。五木さんがテレビドラマでヒットを飛ばしているアナタに来て欲しいっておっしゃってるんだ」  ヒットを飛ばしたのは全くもって私のせいばかりではなく、制作スタッフや出演者によるところの方がずっと大きいのだが、ここでそれを言って相手の気が変わっては困る。私は内心TBSの遠藤プロデューサーやNTVの小山プロデューサー、それに出演者に謝りながら、さも一人でヒットを飛ばしたような顔をして、ある夜、収録スタジオに出かけたのである。  控え室に入るや、五木さんが私を見て立ち上がった。 「初めまして。内館さん、お忙しいところよくいらして下さいました」  私は挨拶《あいさつ》も忘れて、思わず「ワ! 本物の五木寛之だ……」とつぶやき、角川の編集長に上着のすそを引っぱられてしまった。だって、あれだけ通いつめても会えなかった五木さんが、立ち上がるのよ。その上、「内館さん」なんて言うのよ。すごいよねえ。挨拶どころじゃないよねえ。世の中ってホント、希望を持って生きればいつか必ず叶《かな》うものなんだなァって、元追っかけギャルはしみじみと思ってしまった。  そして、収録が始まった。内容はどうやってドラマを発想するかというもので、私も気取って答えたりしていた。ところが、この番組ではゲストが一番好きなレコードを一枚かけるというコーナーがある。五木さんが問われた。 「レコードは何を持ってきて下さいましたか」 「はい。鳥羽一郎の『兄弟船』を」  五木さん、しばし絶句し、そしてやっと口を開かれた。 「それ……演歌ですよ」 「はい。私、鳥羽さんの大ファンで、とにかく演歌が好きなんです」 「ちょっと待って下さい。トレンディと呼ばれるドラマを書いているアナタが……演歌ですか」 「はい。演歌です」 「信じられないなァ。ウソかホントかテストしてみよう。どうして鳥羽一郎っていう芸名か知ってますか」 「はい。鳥羽のご出身だからで、本名は木村っておっしゃるんです」 「じゃ、彼の弟を知ってる?」 「はい。山川豊さん。所属は東芝EMIで、先頃『夜桜』という新曲をお出しになりました」 「おそれ入りました」  で、番組の後半は「ドラマ」だの「人間」だのという話はどこかへ吹っ飛び、ひたすら演歌の話になってしまったのである。五木さんは「艶歌の竜」という人物も書いており、ご自分で作詞もなさるので私ごときとは演歌に対するレベルが違う。それだけに五木さんの演歌論はとびっきり面白く、私は番組ということも忘れて、つい夢中になってしまった。  帰りに五木さんは優しくおっしゃって下さった。 「とても楽しかった。またいつかお声をかけさせて下さいね」  私のミーハーをこんな優しい社交辞令でカバーして下さるなんて……と感激していたら、一か月後、五木さんは本当にまたご自分の番組に呼んで下さったのである。それが九月十二日にNHKのBSで七時間にわたって放送された「五木寛之の世界」の一コーナーである。  私は社交辞令だと決めこんでいた自分を恥じながら、やっぱり世の中って悪くないなァと思っていた。   島田正吾さんのこと  先日、NHKの「ひらり」のスタッフと島田正吾さんの一人芝居「白野弁十郎」を観に行った。  島田正吾さんはご存じの通り、今はなき「新国劇」で故・辰巳柳太郎さんと人気を二分した名優で、「ひらり」には主人公石田ひかりちゃんの祖父役で出演して下さっている。「ひらり」の試写の時にも記者団から、 「石田さんはラッキーな人ですね。島田さんと共演できるなんて、これはどんなに大きな財産になるかわかりませんよ」  と声があがったほどで、ひかりちゃんは、あのキラキラした目で答えた。 「はい。とても幸運でとても幸福なことだと思っています」  その島田正吾さんは現在八十六歳。そして八十二歳の時に、一人芝居「白野弁十郎」をやってみたいと思われたそうである。  もともと「白野弁十郎」は島田さんの師にあたる故・沢田正二郎の当たり役であった。フランス文学の「シラノ・ド・ベルジュラック」をもとにした作品で、鼻が異様に大きく、容貌《ようぼう》が酷《ひど》いために愛する女にも想いを告白できないシラノ。そればかりか、友人も同じ女を想っていると知り、恋文を代筆したりして仲をとりもつ悲しい男である。  島田さんは八十二歳の時に、師の当たり役をご自分で三場に脚色し、舞台に立たれた。約一時間四十分をたった一人で演ずるというのは並大抵のことではない。それも八十二歳といえば、「近頃は物忘れがひどくてねえ」ですべて許される年齢である。  ところが島田さんは平然と演じ続け、この三月には「シラノ」の本場パリで小屋を超満員にし、フランス政府からフランス芸術文化勲章を授与されている。  パリの舞台に立つことのなかった故・沢田正二郎に島田さんは心の中で語りかけたそうである。 「先生、あなたのなしえなかった夢を、八十六歳の弟子が実現させましたよ」  そのパリ以来の舞台が池袋の芸術劇場で行なわれるというので、NHKスタッフと私はドキドキする思いで出かけたのである。  実は私にはドキドキしているもうひとつの理由があった。小川昇さんとおっしゃる照明マンの照明を見たかったのである。  小川昇さんは九十三歳の現役である。大正十五年に故・沢田正二郎が初めてこの「白野弁十郎」を演じた時の照明マンであるという。私はこの話を新聞で読んだ時にとり肌が立った。九十三歳の現役が、大正十五年の初演と同じように照明を当てるなんて、これは信じ難いほどすてきなことである。小川さんはもちろん、パリ公演にも同行されている。  八十六歳と九十三歳のコンビが、今は亡き師への想いを胸に舞台を作り続けているなんて、何とすごいことだろう。それも「参加することに意義がある」というものではなく、国内の劇場はもとより、パリでも超満員にし、勲章まで受ける高レベルの作品に仕あげているのである。  実際、舞台は想像をはるかに越えてすばらしいものであった。「ひらり」ではいかにも下町のおじいちゃんを演じ、杖《つえ》をついて歩く島田さんがまるで青年のように軽やかに動く。セリフの調子も「ひらり」とは全然違うトーンで、改めて名優というのはたいしたものだと、私は圧倒されてしまった。  小川さんの照明はとても優しく、とてもやわらかく、芝居の効果をあげることはあっても、邪魔になるということが全然ない。よくコンサートや芝居で照明効果が強烈すぎて、照明だけが一人歩きする場合がある。度を越した照明に観客は「ワッ!」と驚き、それはそれで面白いのだが、主役であるはずの音楽や芝居を一瞬忘れさせてしまう。専門外のことなので断言はできないが、こういう照明を私はいいとは思えない。あくまでも主役を盛りたてる「効果」であるはずなのだから。  こうしてスタッフも私も舞台にとても満足し、終演後、楽屋に島田さんを訪ねた。メイクを半分落とした島田さんは黒いトックリセーター姿で、大喜びして迎えて下さった。こういう服だと驚くほど若い。失礼を承知で言わせて頂けば、黒いセーター姿には男の色気さえ感じられて、私と女性カメラマンは妙にドキドキしてしまった。  そして、思いがけぬことにそこで小川さんを紹介されたのである。お目にかかれるなんて思ってもみない方であった。小川さんは美しい白髪で、スラリと背が高く、グレーのスーツを上品に着こなしたダンディな方であった。  私たちはまたもドキドキして、 「お目にかかれて嬉しいです」  というのが精一杯。  それにしても、どうしたらこんなにすてきな八十六歳や九十三歳になれるのだろう。生まれた時はみんな赤ちゃんで、みんな中学生をやり、みんな三十歳、四十歳となっていくのに、どの時点で差がつくのだろう。その差は何が原因なのだろう。むろん環境や経済的なことも影響するだろうが、決していい環境にいない人だって、ものすごくすてきな男女はいる。  たぶん、すてきな高齢者というのはいつでも「明日」を夢見ている人たちだと思う。毎日、新聞の死亡欄を見て、 「俺《おれ》より若いヤツがまた死んだ……。次は俺だ。どうせ俺も長くはない……」  と思っている人に男の色気など匂《にお》いたつわけがない。  八十二歳で明日を夢見て、「白野弁十郎」を演じようと、ごく「日常的」に思う心の何とすてきなことか。   とり肌が立つ  先日、ある出版物に短い原稿を書いた。しばらくすると担当者からすべてファックスカタカナにしてくださいが入った。 「原稿の中に『女』という言葉が二回出てきていますが、それを『女性』と直させて頂いて構いませんか」  私はあわてて担当者にファックスで返事をした。 「絶対に『女性』という言葉に直さないで下さい。私は『女性』『男性』という言葉が嫌いで、とり肌が立つくらい気持が悪いのです。どうしても『女』がダメなら『女の人』と直して頂く分には構いません。今までも私は文章の中で『女性』という言葉は使ったことがありませんし、普段の会話でも使いません。気持が悪いのです。どうぞおくみ取り頂いて、『女性』とは絶対にしないで下さい」  すぐに担当者から電話があった。 「わかりました。『女』のままで結構です」  ホッとした。もしも、どうしても「女性」でなければ困ると言われたら、その原稿は引きあげてしまうしかないなと思っていた。  担当者は何も言わなかったが、彼女の気持もわかる。「女」というとやや下品で、ややフェミニズムの臭みがあって、やや突っ張っていると思ったのではなかろうか。が、私は逆に「女性」という言葉にそれを感じる。「女」より「女性」の方に男との壁を作っている匂《にお》いを感じる。とりすましているのに淫靡《いんぴ》な匂いもするし、なのに無表情な言葉だとも思う。たとえば、 「ね、どんな男性が好き?」  と聞かれると、私は何か気持が悪い。  それよりも、 「ね、どんな男が好き?」  の方がいい。早い話が理屈ではないのである。これもいい言葉ではないが「生理的」に気持が悪いのである。  ふと考えてみたら、他にも幾つか生理的に嫌いな言葉があった。これらを私は日常会話でも、文章でもまず絶対に使わない。  ひとつは「彼氏」という言葉。これは嫌い。大っ嫌い。「彼」ならいいのだが「氏」がつくと突然下品になる気がして受けつけない。どうしてわざわざ「氏」をつける必要があるのか、どうしてもわからない。  もうひとつは「両想い」という言葉。これは大嫌いというほどではないが、私自身は使いたくない。芸のない言葉だなァと思う。「片想い」というのはとてもきれいな言葉で、きれいな語感である。だからといって両方が想いあえば「両想い」というのはあまりにも安直である。語感にも品がない。  むろん、この二つは脚本のセリフとして使ったことがある。私個人が嫌いでも、若い人の会話としては「今を生きている言葉」だからである。 「ミチ子ったらサァ、いつの間にか、テツオと両想いになっててサァ、今じゃ完璧《かんぺき》に彼氏だよォ」  これをたとえば、 「ミチ子はいつの間にか、テツオとお互いに想いあうようになっていてね、今じゃすっかり恋仲なのよ」  では「今」のリズム、「今」のスピードが出ない。生きていないのである。  そしてもうひとつ、大嫌いなのが、「生きざま」という言葉。これは日本語として間違っていると私は思っている。「ざま」という言葉は、もともと醜態を意味する語である。辞書を開くと「さま」は「ちゃんとした体裁。はずかしくないかっこう」とあるが、「ざま」には「人のようす、かっこうをあざけり、ののしっていう語」とある。「さま」が「ざま」になると正反対の意味を持つのだから日本語は面白い。  だから、その人の人生を肯定的にとらえる場合、「生きざま」という日本語は成立しないのである。が、これは知識層と呼ばれる方々も割と平気で使う。テレビや雑誌で、 「彼の生きざまには、私、感動しましたわ。立派ですわねえ」  などとコメントしている有識者を見ると、頭脳の「ざま」を疑いたくなる。わざわざ「生きざま」なんて言わなくても、「生き方」と言えばいいではないか。  もうひとつ。「エッチする」という言葉も好きになれない。これが使われ始めた頃、私は面白い言葉だと思っていた。その底には「今に消える流行語だから」という気持があった。たかが流行語、そんなものはバブルだから目くじらたてるほどのことはない。ところが困ったことに、これは消えずに定着し始めた。そうなると話は別である。私は許せなくなる。  この「エッチする」は確かに使いやすい。「セックスする」ではミもフタもないし、「寝る」の「抱く」のという類も使いにくい。「エッチする」は軽くて、逃げ道があるから使いやすい。  たとえば、女の子から、 「ねえ、抱いて」  と言って断られたら、これは結構恥しい。がしかし、 「ねえ、エッチしよーよォ」  と言って断られたら、 「えー、ヤなわけェ。ショックー」  で逃げられる。内心恥しくても体裁はとりつくろうことができる。そう考えると、他にいい言葉がないせいもあって定着しつつあるのは致し方ないが、それにしても日本語としてはあまりにもお粗末。流行語なら許せるが、これを「言葉」として平然と使いたくない。 「|両想いの彼氏《ヽヽヽヽヽヽ》と|エッチする《ヽヽヽヽヽ》ことは、|女性《ヽヽ》としてステキな|生きざま《ヽヽヽヽ》よ」  こんなことを言う人がいたら、私はきっと寝こむだろう。   夢の大相撲ゲスト席・その1  大相撲九月場所の中日八日目、私はNHKの放送席に、ゲストとして石田ひかりちゃんと二人で座った。 「ひらり」の金沢プロデューサーから、 「内館さん、大相撲関係のナニカがちょっと入るかもしれませんので、八日目は体をあけておいて下さい。まだハッキリしないんですけど、ま、とりあえず」  と言われたのは何をかくそう、かなり直前である。金沢さんはあまり早くから言うと私が舞いあがって原稿どころではなくなることを計算したに違いない。今回初めてご一緒したプロデューサーなのに、本当に私の性格をよくつかんでいる。もっとも女友達に、 「アータの性格なんてつかむもつかまないも、簡単だもん」  と言われてしまったけど。金沢さんは私の舞いあがり防止のために、二重に予防線を張りめぐらし、 「大相撲関係のナニカ」とあいまいに言い、その上「まだハッキリしないんですけど」とぼやかしている。ホントに金沢さんって冷静かつ優秀なのよねえ。でも甘いね! 私は「ナニカ」の一言で、すぐに心の中で、 「ワワッ! これは絶対にゲストだッ」  とわかったもんね。普段は頭はぼけているが、私は大相撲がからむと何でもたちどころにハッキリする。  私は全然気づかないふりをしながらも、もうその日以来、頭は「ゲスト」の三文字のみ。マーケットでネギや大根を買っている時も、見栄を張るようだがデートをしている時も顔がヘニャヘニャとゆるんでたまらない。大根を手に取ってはヘニャら、男友達とヤキトリを食べてはヘニャら。さぞみんな薄気味悪かっただろうと思う。  何しろ当日、相撲中継の全スタッフを前に、思わず、 「朝ドラを書くことより、ゲスト席に座ることが夢でしたッ!」  と挨拶《あいさつ》し、スタッフは爆笑。同行してくれた金沢さんは冷汗をふいていたが、私はそのくらい嬉しかった。  ところで、優秀な金沢さんは初日が始まる頃にやっと明言した。 「ゲスト席にお座り頂くことが決定しました。午後二時に国技館に入って下さい。車を差し向けましょう」  ホントに金沢さんってスゴイ。「車を差し向ける」というこのアイデア。車なんか差し向けられては、私は朝から行けない。そこをちゃんと読んでいるのである。「この相撲ミーハーは、ほっとけば朝九時から行くだろう。そんなことされちゃ、原稿が遅れて困るんだよ。いささか出費だが、車を差し向けるに限る」と思っていたに違いない。  私は毎日毎日、どうしたら車をお断りして朝から国技館に行けるか、そればかり考えていた。  大相撲は朝から観ないと意味がない。客もポツンポツンとしかいなくて、照明も薄暗く、館内に相撲甚句が流れている朝から観なければ、相撲を観たことにはならないと思っている。だから「二時にお車で国技館入り」なんていう恥しいことは死んでもできない。大相撲は総武線で両国駅まで行き、混雑を予測して帰りの切符も買って、朝から観るというのが正しいのである。そして、お昼は館内の食堂でチャーシュウメンというのが正しい。それ以外は「曲がったこと」である。  私は朝から行く理由をあれやこれやと考えた。たとえばこう言う。 「『ひらり』に出てくる力士は序ノ口もいるし、ここは取材をかねてやっぱり序ノ口から一度観ておいた方がいいと思うんですよね」  そして、これはダメだと気づく。 「一度観ておく」も何も、金沢さんは私がいつも朝から行くのを知っている。よし、これならどうだ。 「本番であがってしまうといけないから、早めに行って放送席を下見しておきたいんです。ホラ、受験生も必ず校舎を下見するでしょ」  これもダメだと気づく。下見なら三十分も早めに行けば十分で、朝っぱらから五時間も何を下見するというのだ。そして考えに考えて、思慮深い私はついに正しい道を発見した。 「原稿を一日早く出しますから、大相撲は総武線で朝から行きますね」  これである。こういう真っ正直な王道で迫られては、いかに優秀なプロデューサーでもダメとは言えまい。そして私は鬼のように原稿を書いた。大相撲がからむといつもの十倍くらいの力がわき出てくる。  金沢さんは予想していたらしく、 「ごゆっくりご覧下さい。一日楽しんで来て下さいよ」  と言ってくれた。ところが問題はここからである。朝から行くと言ったら、NHKの相撲スタッフがのけぞったのである。 「あの……内館さん、今まで何十人ものゲストをお招きしていますが朝から来た人はいないんです。そんなに早く来て頂いても放送席が開いてないんですよ」  スタッフは明らかに迷惑そうであった。が、ここで引っ込む私ではない。 「放送席が開いてなければ、そこら辺に座ってますからお構いなく」  お構いなくと言われても、スタッフは本当に困っただろうと思う。が、とうとう私は朝九時に両国駅で入場券を受け取る約束を強引に取りつけてしまったのである。メチャクチャもいいところである。この場をおかりしてNHKの相撲スタッフに深くおわび申し上げ、心から御礼申し上げます。  そして、当日の朝九時、ついに私は一人で両国駅に降り立ったのである。以下次号!!   夢の大相撲ゲスト席・その2  前回に引き続き、大相撲九月場所で石田ひかりちゃんと放送席に座った顛末《てんまつ》記である。  朝九時過ぎ、私が一人で国技館に入ると館内に相撲甚句が流れ、呼び出しさんが土俵を掃き清めている。照明も薄暗い。これがいい。この時点から私は静かに呼吸を整え、「今から相撲を観るのだ」と、身も心も真っ白にするのである。これが大切である。  ところがつい真っ白にしすぎて、お腹がすいてきた。思えば朝、コーヒーを一杯飲んだだけで飛び出してきたのである。私は館内の売店で、缶ウーロンとチョコレートを買った。すると包んでくれた若い女の人がニッコリして言った。 「内館さん、心の夫の水戸泉が勝つといいですね」  私の驚いたことといったらない。この人はきっと「週刊テレビ番組」の愛読者で、「心の夫」について書いた「ベティちゃん」を読んでいたのだろう。そして私の顔も写真で見て知っていたに違いない。見栄を張るようだが、私は缶ウーロンとチョコレートにしてよかったと胸をなでおろした。ワンカップにコロッケパンなんぞ買っていた暁には今後、どんなに気取ったセリフを書いても、それを耳にするたびにコロッケパンが彼女の脳裏に浮かぶだろう。  朝九時には放送席はあいていない。NHKのはからいで、私は向正面のラジオ中継席に座らせて頂いた。もちろん、マイクもデスクもカバーがかぶっており、まだ眠っている状態である。  こうして私は、序ノ口の最初の一番からほとんど席を立たずに、一人で観続け、午後二時にスタッフと打合せに入った。  私も初めて知ったのだが、中継というのは実に綿密に演出が考えられている。つまり、茶の間の客が一番見たいところを、ピシッと見せる演出である。それがA4の紙一枚にみごとにわかりやすく一覧表になっている。たとえば八日目でいうと、時津洋と琴稲妻戦のところで「新序出世披露」のVTRを見せるとか、玉海力と栃乃和歌戦の前に、十両勝敗の電光掲示板を写すとか、茶の間の客がちょうど見たがるあたりの頃あいを計算している。そして、武蔵丸と琴の若戦のところには「貴入場」と書かれており、カメラは貴花田を狙《ねら》うことが決まっている。私は中継というのはただ土俵と花道を適当に写していればいいのだと思っていたので本当に恥しかった。  何よりも感動したのは小さなA4の紙一枚で、すべてがピシーッ!! とわかるようになっていたことである。対戦力士の過去の勝敗から、どこで天気予報を流すかから、東西リポーターの動きから、すべてが紙一枚でわかってしまう。スポーツ中継というのはこんなにも陰の努力があったのかと思い、私は感動のあまりそのA4の紙を大切に頂いてきた。  そして打合せが終わり、いよいよ放送席に入るという時、声をかけられた。 「ヨオ! 内館さん、『ひらり』頑張れよ」  振り向くと陣幕親方である。私の「心の情人《アマン》」である。憧《あこが》れの人の一声で私はあがりまくって、のどがカラカラにかわいて、まっすぐに歩けない。金沢プロデューサーが心配して、缶ウーロンを買ってきて下さったが、手にびっしょりと汗をかいてどうにもならない。  あげく放送席に入ったらワナワナと震えが襲い、呼吸困難になってきた。 「か、か、金沢さん。す、すみませんが缶ウーロンをもう一本お願いします。わ、わ、私、もうダメ」  ひかりちゃんは隣りでケロッとして、 「アラ、内館さん、どしたんですか」  などとのたまっている。どしたもこしたも、私は死にそうなんだよッ!  こうであるからして、放送席で何を話したのか、私は今もってほとんど覚えていない。読者の中島進さんから先日お便りを頂き、「放送中に『水戸泉は私の心の夫です』と言い出さないかと心配でした』とあって、私は吹き出したが、家族友人もそれのみ心配していたのである。女友達は、 「心の情人《アマン》は陣幕で、心の弟は豊ノ海とか、しゃべりまくるんじゃないかと心配で相撲どころじゃなかったわ」  と電話をくれたほどである。  そして途中からひかりちゃんと私は向正面記者席に移った。ここは気楽である。A4の紙でいつカメラが私たちをとらえるか全部わかっているから、その時だけ気取っていればいい。ひかりちゃんも私もリラックスして、カメラがこない時は単なるミーハーである。  そして、私は公共放送のNHKである以上、絶対に「心の夫」だけを応援するのはやめようと思っていた。それに関してはほぼ百点満点の出来だと自負したとたん、突然カメラが私たちに向いた。A4の紙には書いてないのに、突然来たのである。予定通りにはいかないところが中継の面白さなのだが、勝ったものの、水戸泉の膝《ひざ》を心配して泣きそうになっている私の顔がバッチリと写ってしまった。ひかりちゃんに至っては「写ルンです」で水戸泉を撮りまくっているミーハーの最中である。特定の商品を絶対に出さないNHKなのに、はからずも「石田ひかりも愛用の写ルンです」を示してしまったことになる。こんなミーハー二人に「ひらり」を任せて大丈夫かと全国の人々は心配されたに違いない。  帰り道、金沢プロデューサーが、 「もうこんな思いは二度としたくない……」  と汗を拭いてつぶやいたのが「ゲスト席騒動」のすべてを物語っている。   気分転換  タクシーに乗りながら、何となく運転手さんと雑談をしていた。 「お休みの日は何をしているんですか」  私が聞くと、三十代後半の運転手さんの声が突然生き生きし始めた。 「そりゃァもう、ドライブだよ」  のけぞったのは私の方である。 「あのォ、お休みの日にわざわざハンドル握るんですか」 「ハンドルったってアンタ、仕事で握ってるハンドルじゃないからサ」 「そりゃそうですね。じゃあマイカーはジープとか、何か面白いワゴンとかですか」 「イヤ、セドリック」 「セド……って……このタクシーもセドリックじゃなかったかしら」 「そだよ」 「仕事も趣味も同じ車で、気分転換になります?」 「なるよ。だって仕事で走ってんじゃねえもん」 「あ、そうですね。そう。どこか遠出するんですか?」 「遠出はしない。東名なんか混んだら悲惨だからよォ、近場《ちかば》をドライブするのが一番好きなんだ、俺」 「は……近場」 「そだよ。赤坂とかよォ、神宮の方とかよォ、いいよなァ。これからは落ち葉なんかもきれいだし」 「あのォ、今、この車も赤坂の方に走ってますよねえ」 「そだよ」 「車も同じで、道も同じじゃやっぱり気分転換にならないんじゃないかしら。それに赤坂や神宮のあたりだって混むことは同じだし」 「お客さんもわかんない人だね。仕事じゃねえから違うって言ってんでしょ。違うの、全然」  そう言われて突然、ずっと以前に読んだ新聞のコラムを思い出した。ニュースキャスターの田丸美寿々さんがとても面白い文を書かれていたのである。  手もとにそのコラムの切り抜きがないので記憶をたどると、田丸さんの気分転換はマイクを握って司会をすることだという。友達や仕事仲間が集まってパーティなどをやると、必ず彼女がマイクを握って、 「では次にご登場願いますのは……」  と司会をしているという。彼女は「何も仕事を離れたらマイクなど握らなくても……」とご自分の気分転換法を苦笑しながら、歌手の細川たかしさんのことにも触れていた。  細川さんの気分転換はカラオケだという。私は雑誌でも読んだことがあるのだが、細川さんは仕事で歌った後、「気分転換のために」とカラオケパブに行き、マイクを離さずに歌いまくるとか。  運転手さんと話をしながら、田丸さんと細川さんのことを思い出し、それなら私の気分転換は何だろうと考えてみた。考えてみて、タクシーの座席で私は苦笑した。  私の気分転換は「手紙を書くこと」なのである。  それも目上の方へのものとか、お世話になった方へのお礼状などではなく、ごく親しい友達に宛てる手紙。早い話が要件など何もない。私は電話が億劫《おつくう》なタチで、電話より手紙の方がずっと気が楽で気分転換になる。その上、その手紙はいつも使っている二百字詰の原稿用紙に書くのが一番好き。目上の人には失礼になるが、友達なら許される。  私の二百字詰原稿用紙というのは、オレンジ色の罫《けい》で、「MAKIKO」と左隅に小さく名前が入っていて、これが結構気に入っている。考えてみると、私はいつでもどこでも暇さえあれば、このお気に入りの原稿用紙で手紙を書いている。あの揺れる新幹線の中でも平気で書く。たとえば、 「今、新幹線で三島近くを走っているんだけど、私、急にアータに腹が立ってきたわけよ。この前サァ、アータ、私に言ったでしょ。あれって見当違いもハナハダしいと思うんだよね」  このノリである。こんなものは電話一本ですむし、何もわざわざ新幹線の中で書くこともないのである。ところが書いている。相手とおしゃべりしている気分で、時には十枚くらいびっしりと書く。そして……書いた手紙の大半は出さないのである。書いたことで気分転換になって、出すのはどうでもいい。ひどい時は書きながら「この手紙、きっと出さないな」と思っている。それでもどんどん手が動く。  端《はた》から見れば、タクシードライバーのドライブも、キャスターの司会も、歌手のカラオケも不思議な気分転換法である。脚本家がいつも使っている原稿用紙で手紙を書くというのも妙だと思う。それでも確かに運転手さんが言うように「仕事じゃねえからどっか違う」のである。  何が違うんだろうと思って、ハタと気づいた。同じことをやっていても「気分転換」の方は何も「めざしていない」から楽しいのだと。同じ原稿用紙に書いても、脚本や企画書だと当然めざす「志」がある。これが「仕事」というものかもしれない。運転手さんにしても窓外の景色を見ながら走る赤坂と、客を乗せてひたすらめざす赤坂では全然違うのだろう。重さが違うのだろう。  タクシーを降りて、女友達の待つレストランに着くと、先に来ていた彼女は夢中で小型のファミコンゲームをやっている。私に気づくと嬉しそうに言った。 「気分転換にいいのよ、これ」  彼女の本職は、コンピューターソフトのシステムエンジニアである。   大相撲と男女平等  先日、私のエッセイ集「あなたが好きだった」を読まれたという読者からお手紙を頂いた。私の書いたエッセイの中に、気になったものがあったという。三十代の主婦で、とてもいい文章の丁寧なお手紙であった。私は直接お返事を出そうと思ったが、お手紙の中に「内館さんのご本は多くの人たちが手に取り、読んでいます。その影響力も強いでしょう。だからこそ、もしご存じないのだとしたらと思い、駄文を書かせて頂きました」とあった。私の文に影響力などあるはずもないが、彼女が気になったという私の一文を読んでいる方が全国にいる以上、私個人の意見をこの場で書く方がいいかもしれないと思い直した。  彼女が気になったという一文は、一九九一年二月にスポーツ雑誌「ナンバー」に私が書いたエッセイである。私はその中で「女を土俵にあげろという女の官房長官は間違っている。まげを結っている相撲界に、平成の男女平等は通用しない。女はカヤの外でいい」と書いた。誤解のないように申し上げておくが、これは個人内館牧子の私見であり、これを朝のドラマでひらりに語らせる気などは毛頭ない。ドラマは私物ではなく、まして自分のイデオロギーを登場人物に語らせる場ではない。もしも語らせる場合、それとまったく同じだけのパワーを持たせた反対意見をぶつからせ、結論は視聴者それぞれにゆだねる方法を取らねばならぬと私は思っている。土俵問題だけでなく、あらゆるすべての考え方に対してである。  彼女の手紙内容をかいつまんで書く。 「内館さんは女性官房長官を誤解している。以前、ワンパク相撲の地区大会で女の子が優勝したのに決勝に出られなかった。国技館の土俵にあがらせないと言って相撲協会が拒否した。初めから『女の子は参加できない』と言えばいいのに、『女が優勝するものか』と協会はタカをくくっていた。その時、女性議員が力を尽くしたがダメで、ついに彼女は『もし私が官房長官になったら土俵にのせるか』とつめ寄ったそう。協会は『女が長官になれるわけはない』とせせら笑ったらしい。彼女は決して浅はかな男女平等論で言ったわけではなく、無名の一少女が傷ついた痛みをずっと忘れなかった上での発言である。そこに私は感動する。内館さんはこの経緯をご存じなくて、彼女を誤解しているのではないか」  こんな内容の丁寧なお手紙であった。実は私はこの経緯はもちろん知っていた。知っていてなおかつ「ナンバー」に書いたのである。  相撲の歴史は『古事記』にある通り、タケミカヅチノミコトとタケミナカタノカミが勝負し、領土を争う力比べをしたことに始まるという。当時の力比べは一種の神占いであったとも伝えられている。その当時からの形を、基本的に変えずに受け継がれてきたものは、「文化」であると私は思っている。「文化」という意味では歌舞伎の女形も、宝塚の男装もまったく同じである。そこに平成の男女平等論は通用しない。  そしてもうひとつは、大相撲というのはもとは「神事」である。「女は不浄」という、今では考えられない時代錯誤の思想にのっとっているが、神事は宗教がベースであるから、これは時代錯誤も何もない。神をたてまつる掟《おきて》なのである。私個人は「女は不浄」とは全然思っていないが、そういう神事の掟の前では理屈や道理は通用しない。宗教というものはそういう世界である。「国技館の土俵は神が棲《す》む聖域で、不浄な女はのぼれない」と、神事の決めごととして定められている以上、それを肯定するか否かしかない。許せなければ近づかないに限る。 「女を土俵にのぼらせろ」というのは、キリスト教の教会でアーメンととなえるかわりに「南無妙法蓮……」と言わせろというぐらい、その神事のルールを改訂せよということなのだと私は思う。  ワンパク相撲に関して言えば、お手紙に書かれているように「女の子は参加できない」と言うのではなく、「地区大会には参加できるけど、国技館の土俵にはのぼれないんだよ」と丁寧に話し、相撲の歴史を語るべきであったろう。それを幼い少女が納得できるかどうかはともかく、「原点は神事」という意識を主催者側がきっちりと持っていたなら、それを心から説明すべきであった。  当時の新聞報道によると、官房長官は以前にも男しかプレーできない名門ゴルフ場に「女も入れろ」とかみついたという。これと同じレベルで「土俵にのぼらせろ」と言ったなら浅はかである。  ついでに言うと、私は私立のゴルフ場が「男のみ」と決めたなら、何もそこでプレーする必要はないと思う。そんなものは差別でも不平等でもなく、個々のゴルフ場のルールであり、デパートやホテルには「レディースクラブ」などという男子禁制がいくらでもある。むろん、女に不平等の歴史が長かった日本であるだけに、ナーバスになるのはわかるが、目くじら立てるほどのことではあるまい。男女差別、不平等というのは、たとえば同じ仕事を同じだけこなしても、女というだけで賃金条件が違ったり、昇進の道が閉ざされていることを言うと私は思う。  もうひとつ、土俵で内閣総理大臣杯を渡すのは本来は当然ながら内閣総理大臣の仕事である。地方場所では政務次官が、東京場所では官房副長官が渡すことが多く、女性官房長官が渡したがったのは、イヤがらせのために、単にシャシャリ出てきたに過ぎない。野暮の骨頂である。  彼女がシャシャリ出た時に、どうして総理大臣は、 「俺の仕事だ。俺がやるから引っ込んでろ」と言えなかったのか。まったく、どいつもこいつも野暮だなァ。   あれも愛これも愛  のどが痛いな……と思ったら、あれよあれよという間に熱が出て、三日間ほどダウンしてしまった。  夕方、ヨロヨロと起きあがり、何かあったかいものを作ろうかと思った時、電話が鳴った。女友達からである。 「え? 風邪《かぜ》なの? 何か食べた?」 「これから作ろうかと思って……」 「ダメよ。寝てなくちゃ。今、私まだ会社だけど、何か食べるもの持っていくからそれまで寝てて」  そして夜八時頃、彼女がやってきた。 「遅くなってごめんね。セブンイレブンしかあいてなくてサァ、でもあそこ色々あるのよ、ホラ」  ドカドカと出したものはサンドイッチ、おにぎり、サラダ、おでん。デザートにお団子である。普通なら風邪の友達に向かって「食べる物持っていくわ」と言えば、手製のスープだったり、あったかいおかゆだったりするものだが、私の女友達にそういう健気《けなげ》な手合いはいない。でも、セブンイレブンのおでんにサラダという発想を、私は結構気に入っている。その上、 「あったかいものがいいと思ったの。だからたくさん食べてね」  と優しい言葉で、発泡スチロールのおでん丼をすすめてくれたりするから涙が出てくる。  そのうちに私の風邪見舞だということも忘れて、ソファにでんぐり返り、女性週刊誌を読みながら、 「ねえ、お団子用に渋いお茶いれてよ。できれば玉露がいいわ」  などとのたまってくれた日には、涙を通りこしてほとんど愛してしまう。  私がガウン姿でお茶をいれていると彼女が突然、ゲラゲラと笑い出した。何ごとかと思ったら、女性週刊誌の見出しを示して言った。 「ねえ、見て見て。これ、すごい見出しだと思わない?」  見ると、ある女優が好きな男のもとへ通い、彼の下着を洗たくして愛が深まりつつあるという記事である。その見出しが、 「下着洗たく愛」  これは確かに名文句である。私が感心しながらお茶の続きをいれていると、彼女は「ヒェー」と叫び、また私を呼んだ。 「見て見て。これもすごいわよ。イヤァ、よく考えるわよねえ」  私はまたお茶を途中にして週刊誌をのぞきこんだ。ある男のタレントと女のアナウンサーのゴシップ記事である。記事によると、彼女の方が心変わりして彼はイライラしているらしい。テレビ局で会った時、彼は「オイッ、お前」と叫んで彼女を呼び止めたという。この記事の見出しが、 「苛立《いらだ》ち愛」  さすがに二人で感心してしまった。ホントに、東スポと女性週刊誌は見出しがうまい。先の「下着洗たく愛」を別の女性週刊誌では、 「ホテルでH速攻愛」  と書いている。この二つの見出しを見ただけで、内容を読まなくてもわかってしまうから、みごとと言う他ない。  私が感動の嵐に包まれながら、お茶の続きを再びいれていると、突然彼女が、 「ギャオー」  と叫び、ソファでのたうって笑っている。今度は何かとのぞくと、 「ドロ沼の不倫愛」  とあって、イギリスのチャールズ皇太子とダイアナ妃の記事である。 「泥沼の不倫愛なんて、別にそれほどの見出しじゃないじゃない?」  私が言うと、彼女はおかしさのあまり涙をこぼしながら叫んだ。 「ここよッ、ここ読んでェ!」  見るとダイアナ妃の写真の横に、一行の説明がある。 「夫が打撲傷になるほど、どついたダイアナ妃」  これには風邪も熱も吹っとぶほど笑いころげた。「どついた」という関西弁を、イギリス王室の妃殿下の写真説明につけるセンスは秀逸である。  何度も中断させられ、いい加減ぬるくなったお茶を飲みながら彼女は言った。 「私、下着洗たく愛は趣味じゃないから、せめてお正月に向かって『お雑煮作り愛』っていうのやろうかしら」 「それより『セブンイレブンおでん愛』の方が、身のほどに合ってるわよ」 「ま、それもそうだわ。うちの会社にね、『蜂蜜レモン愛』が昔いたわ」 「何、それ」 「接待でいつも二日酔の彼に、毎朝手製の蜂蜜レモンを届けてね、ついに結婚した」 「私『ひらり』の中で、毎朝みそ汁作ってタッパーにつめて届けるOLを書いたわ」 「密封容器愛だ」 「薬味のネギなんかも会社の給湯室で切って、みそ汁に入れるの」 「ネギきざみ愛」 「アータ、どうでもいいけど止まらなくなったんじゃない?」 「アハハ。ねえ、私メンドくさいからここンちでお風呂《ふろ》に入って帰るわ」  オイオイ、風邪見舞でしょ! と思いつつ、私は「風呂たき愛」をやる。そしてやがてお風呂からあがってきた彼女に「冷たいウーロン愛」である。彼女は髪などふきながら私に聞く。 「クリスマス、どうするの?」 「今さらァ。『ひらり』書くイヴよ」 「ホ。『恒例ハイミス独り愛』だ」  言いたい放題を言って、彼女は帰って行った。私はクシュンとくしゃみをしながら、今一番欲しいのは、金沢プロデューサーの「〆切り延ばし愛」だと思っていた。   貴花田・りえ婚約騒動  それにしても「貴花田・宮沢りえ婚約」のニュースはセンセーショナルであった。  その夜、私はNHKで打合せを終え、十一時近くに自宅に戻った。電話が鳴ったので取ると、弟からである。弟は別件で電話をしてきたのだが、切る時に言った。 「ところで貴花田と宮沢りえが結婚するんだってな」 「アータねえ、何バカなこと言ってんのよ。そんなことありっこないでしょ」 「ホントだって。『ニュースステーション』で言ってたよ」 「え……ウソ」 「ウソじゃねえよ。言ってた」 「何かの間違いよ。今までNHKにいたけど、誰もそんなこと言ってなかったわよ」 「でもホントだよ。あれ? 貴花田じゃなくて舞の海だったかな」 「舞の海とりえ!? まさか……」 「待てよ、違ったかな。そうだ、水戸泉だった」 「水戸泉? え……ウソ……」  弟はゲラゲラ笑い出した。 「お前ってホントに昔っからバカだよな。バカをからかってるとあきねえよ。じゃ、俺忙しくて、これ以上バカの相手できねえから切るよ」  これである。弟の電話が切れるや、今度は女友達からである。 「ねえ、貴花田とりえって結婚するのよ!」 「ホントなの?」 「ホントよ。『ニュースステーション』で言ってたもん」 「信じられない……。そんなことってあるんだ」 「何よ、あなた知らなかったの?」 「知らなかったわよ。今、弟が電話で言ってたけど」 「ナーンダ。あなたに聞けばもっと詳しくわかるかと思ったのに」 「何で私が詳しいのよ」 「だって『ひらり』書いてるんだもの。ひらりの作者が詳しくないなんて恥しいわよ。しっかりしてよ」 「ひらり」と何の関係があると言うのだ。電話を切るや、またベルが鳴った。某有名人からである。 「ちょっと、貴花田とりえが結婚するのよッ」 「そうだってね、びっくりしたわ」 「何よ、知ってたの?」 「ん、今聞いたとこ」 「何だ、つまんない。私が今まで知らせた人は誰一人知らなくてサ、『ヒョー! ウソォ!』ってパニックになるのよ。人をパニックにするこの快感! 何だ、知ってたのか」 「ホントに信じられないわ。私が思うに、これはね……」 「悪いけどアナタの感想聞いてる暇ないの。切るわ。これからもう二、三軒に電話して知らせるから」  知らなきゃ怒られるし、知ってりゃ怒られるし……。彼女が切るや、また鳴った。これも某有名人である。 「何よ、あれッ。許せないわッ」 「あなた、貴花田のファンだった?」 「ファンじゃないわよ。でも許せないわよッ。何あれッ」  彼女は「許せない」と「何あれッ」を交互に十五回くらい叫ぶと、ガチャンと切ってしまった。すぐにまた鳴った。今度は相撲など全然興味がなさそうな女友達である。 「ねえ……牧子さん……」  何やら声がやたらと暗い。これは貴花田の話じゃないなと思った矢先、彼女は暗ーくつぶやいた。 「貴花田とりえのことでショック受けちゃった……」 「へえ、あなたまでショックなの?」 「じゃなくて、私、貴花田とりえの年齢をたしてみたの。そしたら二人あわせて三十九歳なの。私は一人で三十九歳よ……」 「あ……」 「私……ショック……じゃね……」  暗ーくつぶやくと、彼女は電話を切った。すると今度はファックスが送られてきた。近くに住む女友達である。 「牧チャン、電話がつながらないからファックスにしました。貴・りえの結婚は絶対に相撲協会が仕組んだのよ。あの二人が結婚すれば、ものすごく立派な男の子が生まれると思うもの。その子を力士にすれば相撲協会は安泰でしょ。すごくいい方法だと思うわ」  これが、これが世界をとび回って仕事をしている第一線のキャリアウーマンのファックスである。ああ……。  それにしても、私の女友達ってどうしてこうバラエティに富んでいるのだろう。何かコトが起きると、彼女たちがいっせいに電話をかけまくってコメントするから大騒ぎである。もちろん、当然のことながら私も一枚かんでいる。  夏の参議院選挙の時などは、政見放送を見るたびに電話が鳴り続けた。政治姿勢に対するコメントもあれば、候補者の服のセンスやヘアスタイルに至るまでビシビシ言う。これが意外と女の本音が出ていて、面白い。だから私はコトが起こるたびに仕事にならない。コトが起こるたびに電話代がはねあがる。  翌日、女友達と近くのマーケットに出かけたら入口でワゴンセールをやっていた。ワゴンの中はみかんである。そして、 「祝!! 貴・りえ婚約大特売」  と横断幕がかかっていた。どうして二人の婚約が「みかん大特売」なのかと思っていたら、同じことを感じていたらしい女友達が店員に聞いた。店員は胸を張って答えた。 「みかんは丸い。丸いは白星。だから、貴花田なんです」  ところが彼女はめげない。 「みかん色の白星なんて変よ。どうせならアナタ、卵の大特売にしてよ」  ああ、平和な世の中はステキだ。   クリントン効果!?  私の女友達は何かコトが起こるといっせいに電話をかけあって、大騒ぎになるということを前回書いた。「貴花田・りえ婚約」で大騒ぎになった矢先、またもコトが起きたのである。  アメリカ大統領にクリントン氏が当選した夜、うちの電話は鳴りっぱなし。「ウチダテサンの女友達って、政治にもご関心があって偉いのねえ」などと感心しないで頂きたい。話はこれからである。 「ちょっとォ、牧子サーン。よかったわねえ。クリントンが当選して」 「何で? 私、知りあいじゃないわよ」 「何言ってんのよ。クリントン夫人の名前、ヒラリーって言うのよ。ニュースでヒラリーって言うたびに、誰だって『ひらり』を思い出すわよ。『ひらり』を見たことない人だって一回くらい見てみようかと思うわよ」 「そんなこと思う?」 「思うわよ。誰だって思うわよ」  どう考えても誰も思いそうにないが、彼女は自信たっぷりに電話を切った。すると、すぐまた別の女友達から電話が鳴った。 「ヒラリーとひらりって、とても偶然とは思えないわ。アナタ、クリントンの勝利を確信して夫人の名前を調べてたの?」 「まさかァ!」 「そうよねえ。でもサ、日本テレビでもTBSでもフジでもヒラリー、ヒラリーって言って『ひらり』の宣伝してくれてるようなもんだわ。これで視聴率六〇パーセントくらいいくかもよ」  ホントにシロウトさんは言うことがデカくて泣けてくる。しばらくしたらまた鳴った。 「ちょっとォ、牧ちゃーん」 「アータもヒラリーのこと?」 「そ。今サ、友達と話してたんだけど、クリントンの当選で一番得をしたのは、NHKと明治製菓よね」 「何で明治製菓が出てくるの?」 「知らないの? クリントンの娘の名前、チェルシーっていうのよ」 「あッ、明治のキャラメルの名前」 「そうなのよ。今サ、ずっとしゃべってたの。森永製菓とか雪印提供のニュースでは、絶対に娘の名前を言わないんじゃないかって」 「ねえ、アータたちってそんなことずっとしゃべってたの?」 「そうよ。ライバル企業にとっては死活問題だもん。じゃあね。お休み」  私は頭が痛くなってきた。娘がチェルシーだからといって、死活問題というほどのものでもないと思うのだが。  ヒラリーとチェルシー問題が一段落した数日後、再び電話が鳴り始めた。ちょうど、私も電話をかけようと思っていたところである。 「ねえ、クリントンのことだけど」 「私もクリントンのことで電話をしようと思ってたのよ」 「きっと同じことよ。さっきもしゃべってたんだけど、彼がカッコいいってことでしょ」 「そうなのよォ。どの週刊誌見てもすごくカッコいいのよ」 「みんな週刊誌見てショックで、ずっと電話で嘆いてるのよ」 「それで週刊誌の発売と同時にまた、電話がふえたわけだ」 「そうよ。ねえ、大統領や首相ってその国のイメージアップにもつながるんだもの、容姿って大切だと思うのよ」 「私だってそう思ってるわよ」 「何か日本の首相って、男のオバサンみたいなのばっかりがなるのよね。割烹着《かつぽうぎ》が似合いそうなのばっかり」 「佐藤栄作はすてきだったけどね」 「中曾根さんは眉《まゆ》の形に問題があったけど、身長が高かったからレーガンと並んでも、まあ見劣りしなかったし」 「私、ハンサムとは思わないけど、吉田茂とか池田|勇人《はやと》はやっぱり風格があったと思うのよ。世界の檜舞台《ひのきぶたい》に出しても恥しくない容姿だったと思うわ」 「うん。とりあえず政治思想は置いといて、容姿だけでいうとホントに暗くなるわ。日本にだってクリントンに負けないくらいの若い政治家がいるのにねえ」 「誰がいる?」 「石原慎太郎は?」 「ちょっとマバタキが多いけど、笑顔は悪くない」 「新井|将敬《しようけい》」 「カッコいいけど、セクシー度からいったらクリントンとは勝負にならない」 「小泉純一郎」 「ん。悪くない。でもセクシーっていったら橋本龍太郎の方が上かも」 「そうね。小柄だけど許せるわ。日本新党の細川さんはどうかって、さっき話してたの」 「政見放送のテレビでは今ひとつだった。でもスタイリストがついて洋服から髪型まで一変させればいいかもしれないわ」 「あとホラ、昔、女性厚生大臣だった中山マサさんの息子で郵政大臣だった人、中山……何ていったっけ?」 「あ、あの人は容姿抜群。日本人離れしたハンサムよ」 「一般人の日本の男ってすごくすてきになってるんだもの、やっぱりあんまりカッコ悪いのは人目にさらしたくないわよねえ。外電で世界中に写真が流れるんだし」  あっちからこっちから電話が入り、政治家の容姿について私たちは延々と話しあった。政治家はまず国を立派に治めることが第一であり、内憂外患にも凛々《りり》しく対処して頂かないと困る。がしかし、「日本の顔」として容姿にも気配りして頂かないと困る。それは生まれもった目鼻だちという意味ではなく、いい政治家は、やはり姿形に気品が出てくるという意味も含めての「容姿」である。   ただれた愛欲生活 「ひらり」を書くようになって、初めて六十代以上の方々からレターを頂くことが多くなった。もちろんすべてではないが、私へのお説教レターというのがかなり目立つ。  何とお説教されるかというと、大きくわけて二つ。ひとつは私の「恋愛観」に関してであり、もうひとつは私の「結婚観」に関してである。どうも「ひらり」の登場人物と私個人がピタリとダブってしまうらしい。「恋愛観」に関するお説教レターを総合平均して書くと、こんな内容になる。 「あなたは恋愛に関して非常に不謹慎であり、今からでも遅くはないと思ってすぐに手紙をしたためました。平凡な主婦のゆき子が別の男にときめいたりするのは、言語道断です。それを平気で書くというのは、あなたがそういう人間だからでしょう。私は今まであなたのドラマを見たことがありませんでしたが、孫に聞いたところ、何やら刺青《いれずみ》のヤクザの恋物語や、十歳も年下の男との恋物語、果ては上司と情交を重ねた女子事務員の話も書いていたそうですね。私は、あなたがただれた愛欲生活を送っていることを見てとりました。  内館さん、愛とはもっと高貴なものです。大きな喜びとなるものです。どうか女として本当の幸せに目覚めるためにも、そういう暮しから足を洗って頂きたいと思います。『ひらり』のゆき子にも、正しい幸せな道を歩かせて下さい。これだけ申し上げてもわからなければNHKに連絡します」  これは何人かのお手紙を合成したものだがウソではない。「情交を重ねた」「女子事務員」「ただれた愛欲生活」というのは原文にあった言葉である。 「上司と情交を重ねた女子事務員」というのはTBSの「クリスマス・イヴ」で書いた清水美砂さんの役だろう。 「刺青のヤクザの恋」はNTVの「……ひとりでいいの」で書いた美木良介さんの役で、「十歳も年下の男との恋」は同じく、かたせ梨乃さんの役どころを示していると思われる。  どうも六十代以上の方々の多くは、私がすべて自分の実体験をもとにしていると思うらしい。刺青のヤクザと恋をし、その一方で年下をかどわかし、あい間に上司と情交を重ねていると思われれば、確かに「ただれた愛欲生活」もうなずける。あげく「ひらり」では不倫とくるからNHKに連絡してでも、私に更生の道を教えたいと思うのは無理もない。  しかし、「ただれた愛欲生活」などというものは、ほんの一握りの恵まれた女しかできないのである。できるものなら私だってしたいが、原稿用紙に脳を吸われて、ただれた指に軟膏《なんこう》をすり込むのが、精一杯の生活である。  もうひとつの「結婚観」へのお説教は合成するとこんなふうになる。 「あなたは愛のない、暗い家族で淋《さび》しく育った方なのでしょう。ゆき子の中にはあなたの結婚観がすべて出ています。ゆき子が毎日の暮しにときめきを感じなくなったなどというのは、あなたが家庭、家族に関して忌《いま》わしい思い出があるせいだと察しております。  内館さん、家庭というのは本来はもっとあたたかく、愛情に満ちて楽しいものなのですよ。あなたはそれを知るべきです。何も恐れることなく、あなたも家庭を作ってごらんなさい。娘を持ってごらんなさい。結婚生活というものがどれほどあたたかなものか、おわかりになるはずです。今まであなたは男にいいめにあってなかっただけなのです。きっといい人と巡りあえますよ。その時は何も恐がらずに、まず飛びこんでみることだと、強くお勧めする次第です」  これには私も寝込みそうになった。私はいつでも家庭を作る気で、何も恐がってはいない。ただ、「こんな女を妻にしたらこっちが大変だ」と男たちが恐がっているだけである。中には「家庭のあたたかさ」について書かれた新聞記事や雑誌の切り抜き、それに「ぼくのおかあさん」などという子供の作文を同封して下さる方もいる。  NHKにもきっとそんなお手紙が多いだろうと予想し、早めにスタッフに、 「私、男にいいめにあってますから」  と言って爆笑されてしまった。  これらのお手紙は、私の現実生活とはかけ離れた想像の産物であり、正直なところ、のけぞることも多いのだが、読み終えるといつもあったかな気分になる。見ず知らずの私に、こうして誠心誠意お説教して下さる人たちがいる限り、世の中というのは悪くないと思わされるのである。   悪夢の結婚報道 「ひらり」の打合せでNHKに行ったら、スタッフの一人がニヤニヤと笑いながら言った。 「内館さん、何かと雑音が入るかもしれませんが、そこはそれ、何というか気にしないで気を確かに持って、ひたすら原稿を書いて下さい。ねッ」  私は全然わけがわからず、聞いた。 「雑音って……何ですか?」  スタッフは今度はムフフと笑って、それっきり何も言わなかった。  帰宅すると女友達からファックスが入っていた。それが何と! 「石田ひかりと水戸泉が結婚か!!」  という記事をスポーツ紙で見たという内容のファックスなのである。私の驚いたことといったらない。常日頃から「水戸泉は心の夫」と言い回っていた私である。優勝を機に、若い女に走るんじゃないかと、心の年上妻は心配していた矢先にこれである。それも相手があのひらりとは!! 悪夢だわッ。  こんなものはウソに決まっていると思いつつ、何しろ貴花田とりえカップルが生まれているんだからわかったものじゃない。今の世の中、ホントに何が起きても不思議はないのである。そのうちに、私は「これはきっと本当だッ!」と思ってしまった。本当なら、何といってもみっともないのはこの私である。いいトシして「心の夫水戸泉」なんてさわぎまくって、うっとりして、会ったこともないのにハラハラドキドキして。そのあげく、自分のドラマのヒロインに奪われたんでは立つ瀬がない。  私はファックスをくれた女友達に、電話で確かめてみた。(ホントに暇ね) 「電車の中で誰かが読んでたスポーツ紙に出てたのよ。たぶんウソよ」 「ホントだったらカッコ悪いなァ、私。心の夫なんて、ああ、どうして言いまくっちゃったんだろ。死にてー」 「そればかりじゃないわよ。アナタみんなに言ってたじゃない。『皆さん、一九〇キロ以下の男は男じゃありません。私の理想は水戸泉。顔も水戸泉。心も水戸泉。私の不幸は水戸泉のような人と巡りあえないことに尽きます』って」 「えー!? そんなこと言ってた?」 「言ってたわよ」 「……私なら言いかねない」 「ねえ、りえちゃんが婚約した時、たけしさんが失恋会見を開いたじゃないの。アナタもそれやれば」 「私ごときの失恋会見に、誰が集まってくれるのよ」 「そりゃそうね。しかしサァ、ひかりちゃんとアナタじゃ、勝負になんないわ」 「ね。ナマで会ってもホントにいい子なの。可愛いし、キラキラしてるし、明るいし、頭もいいし」 「若いし」 「お黙り」 「牧ちゃんってサァ、たとえ心の夫でも、夫には恵まれない星のもとに生まれてんのよ。カワイソ……」 「自分だってそうじゃないの」 「私は心関係は大丈夫よ。だって心の夫はハンフリー・ボガートだもん」 「ずるいよね。死んじゃってる人を心の夫にすれば、絶対傷つかないもん」 「そうよ。アナタも双葉山とか栃錦とか、死んだ人を夫にすればいいのよ。いくらでもいるでしょ、死んじゃった人で太めの男」 「太けりゃいいってもんじゃないの」 「あら、そ。だいたいねえ、生きてる男で、それも独身を心の夫に選ぶという根性が図々しいのよ」 「でもナオコの心の夫はリチャード・ギアだって言ってたわよ」 「あら、彼は結婚したからやめたって。それでケネディ大統領にしたって」 「ケネディ大統領!? 何で突然、リチャード・ギアからケネディになるの?」 「知らない。死んでるからじゃないの?」 「……ついていけない」 「でもサ、現実の夫婦ってときめかないものらしいね。会社の男の人たちが言ってるもの。ひらりの両親はまるでうちがモデルみたいだって。お互い、嫌いじゃないけどときめかないって」 「モデルなんていないの。でも、私がもし二十代前半で結婚していたら、そんな夫婦になってた気がして書いているの」 「私もたぶんそうなったと思う。でも、それでも夫がいるだけいいわよね。私ら、いないんだから、せめて心関係は派手に決めなくちゃァ!」  ホントに私の女友達はのどかな人が多くて、この私でさえついて行けない。  その後、水戸泉・ひかりカップルは、まったく根拠のないイタズラだとわかったのである。そんな時、「週刊テレビ番組」の最新号が自宅に送られてきた。ふと見ると、ひかりちゃんの談話が出ている。 「水戸泉関は『ひらり』の脚本家の内館さんが大ファンなんですよ。もしそんなことになったら、怒られますよ」  私は吹き出した。私がバカな女友達と「ひかりちゃんじゃ勝負にならないわ」などとため息をついていたのに比べて、何と私を思いやる答弁なことか。ホントに、ひかりちゃんはいい子だ。  それからしばらくたったある夜、私はNHKの廊下で、バッタリと彼女に会った。私はニヤリと笑って言った。 「『週刊テレビ番組』の答弁、読んだわよォ」  ひかりちゃんはケラケラと笑うと、三つ編みに結った髪を揺らしながら、スタジオへと走っていった。彼女の愛らしい表情と明るい笑い声と、そして揺れるおさげを見ながら、私はあの噂《うわさ》がデマで本当によかったと思った。やっぱり彼女が相手では勝負にならない。   イヴはサタンの日?  クリスマスが近づいてきた。  今さら「イヴは二人で」などというガキではない。ないが……しかし、イヴにいつもと同じように原稿を書いているというのは、あまりにも淋《さび》しい。淋しいが……しかし、今年のイヴはどうも私は一人ぽっちになりそうなのである。大人の女というのは色々あって、何というか、突然予期せぬ事態を招いたりするものなのである。どうせならクリスマスが過ぎてから、予期せぬ事態を招けばよかったと思ったがもう遅い。 「イヴは原稿かァ……」  と思った時、ファックスが来た。脚本家の井沢満からである。 「イヴを去年までは何とか運よくしのいできたけど、今年はついに一人ぽっちの僕です。かといって積極的にそのためのスケジュールを用意する気もないけど。食事くらいは誰かと仕組めるけどメンドくさい。成りゆきまかせのイヴでしょう」  私は目の前が明るくなった。そうだった。私には井沢満という強い味方がいたのだ。困った時の井沢満! これである、これである。私はすぐにファックスを返した。 「よしよし、イヴは私がつきあってあげる。私と過ごしたがってる男はもちろんいるけど、何でアータをひとりにしておけましょう。シャンペン持って行くからサ。待ってなさい」  すぐに井沢満から返事がファックスされてきた。 「ワハハ。笑ってしまうね。あの内館牧子がイヴにあぶれてるってさ、最高。誰かと別れたんだな、これは」  このファックスは私のプライドを大いに傷つけた。すぐに返事を送った。 「あぶれてなんかねーよ。アータが可哀相だからよ。私みたいないい女と別れる男なんているわけないでしょ」  すぐに返事がきた。 「僕だってアテはあるよ。『青春家庭』のご縁で土肥《とい》の人たちが�井沢満を囲む会�ってのをやってくれる。土肥には僕の署名入りの石碑ができるかもしれないんだよ。初めは石像って言われてさすがにこれはやめてもらった。でも何だかこうしてファックス書いてたら、イヴは淡々とやり過ごせそうな気もしてきたよ」  私は笑い転げて返事を書いた。 「アータって爺《じい》サンみたい。石碑だの、淡々とやり過ごせそうだのと、枯れたこと言うんじゃないの。この内館牧子が言い寄る男どもを振り切って、アータと過ごしてあげようって言ってんのよ。よし! イヴは二人だ。いいねえ、何か恋人みたいじゃん。ホントはあぶれ者の寄りあいって噂《うわさ》もあるけどサ」  すぐにまた返事が来た。ホントに二人とも原稿書けばいいものを! 「いいよ。うちにおいでよ」  しかし、土肥の方たちに申し訳ない気もして、私はまた返事を送った。 「じゃあ、イヴは流動的に約束しておこう。土肥に行きたくなったら行けばいいし、お互いキープってことにしとこうよ。これがあぶれ者の智恵ってヤツよ」  すぐにまたファックスが鳴った。 「うん、キープでもいいよ。どうせ捨てられるのはこっちサ。ただし、キャンセルは四日前に頼む。四日前って別に根拠はないけど、あぶれた時の心の準備期間ね。もし実現の場合は、簡便な食事と小さなケーキと、ローソクを用意して待ってるよ」  私は笑って笑って返事を送った。 「ブハハハ! おかしー! 簡便な食事だって。すっげえ爺サンくさいボキャブラリー持ってんだ。でもイヴにはピッタリだ。馬小屋で簡便に生まれた人の夜だからね。でも私、簡便ヤだよ。ゴージャスが好き。メニューは、 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰お寿子《すし》(アータが用意する) ㈪ビール(アータが用意する。キリンラガーにしてちょうだい) ㈫コーヒー(アータがいれる) ㈬ケーキ(アータが用意する。デコレーションはおいしくないから、普通のにしてちょうだい) ㈭シャンペン(私が持って行く。でも開けるのはアータね。あれ恐いから、私ヤ)」 [#ここで字下げ終わり] と書いて、私はこれのどこがゴージャスかと涙が出た。本当に私は根っから地味な女なのだ。何て可愛いのかしら。そして最後につけ加えて書いた。 「言っとくけど、ローソクって言わないでね。キャンドルでしょーが。ローソクは仏壇!ホントにアータって爺サンくさいからイヤになっちゃう」  しばらくすると返事が来た。 「あいかわらずわがままだよね。わかったよ。キリンラガー買っとく。言っとくけど他の銘柄が家の中にゴロゴロしてるんだよ。特別だからね。それと新しいコーヒーメーカーが複雑にバカで、よく使えないけどこれも学習しとくよ。ケーキはマキシムのをご用意しときましょう」  私は一人でムフフと笑った。よしよし、これでとりあえずイヴはキープできた。すると某女優からファックスが入った。 「イヴはどうするの? 私は運がよければ仕事。運が悪ければ……ああ、一人ぽっち。私は十二月二十四日を�サタンの日�と名づけました」  何という心強いファックス。美しい女優までがあぶれて、サンタの日ならぬ悪魔《サタン》の日と名づけているなんて。私はすぐに彼女にファックスした。 「井沢満をキープしたから、アナタもあぶれたらいらっしゃいよ」  即、彼女から巨大な字が届いた。 「行く行く! 仲間に入れてー!」  イヴはやっぱりサタンの日である。   キャベツの兄サン 「銀ちゃんはどうしてキャベツばかり食べているんですか」  最近、アチコチでよく聞かれる。「ひらり」を見ていらっしゃらない方のためにご説明すると、銀ちゃんとは主人公ひらりの叔父《おじ》。腕のいいトビ職で、四十三歳の独身である。石倉三郎さんがいかにも江戸前の気っ風のよさで演じて下さっている。  この銀ちゃんが家で酒を飲む時は、いつもいつもキャベツが肴《さかな》なのである。それもドンと丸ごと置き、一枚ずつぺりぺりと葉をはがして食べる。当然洗っていない。 「洗わないで大丈夫なんでしょうか」  これもよく聞かれる。ドラマの中で銀ちゃんは答える。 「てやんでえ、酒で消毒すっからダイジョブなんだよッ」  NHKの朝のドラマに対する反響というのは想像をはるかに越えて大きく、それだけに私もヒヤヒヤする思いもある。今にきっと「子供が銀ちゃんの真似をしたがって困ります。キャベツは洗ってからにして下さい」という手紙が来るのではないかと、正直なところ、半分くらいは心配している。  声を大にして言うが、キャベツは洗った方がいい。今回、書くにあたって色々と調べたのだが、キャベツは葉の裏に虫がついていることが多いそうで、肥料も水洗いだけではなかなか取れないという。有識者の見解によると、中性洗剤は体に害を及ぼすとかで、本当は一枚一枚の葉を塩で洗う方がいいらしい。どうぞ、世のお母さまがたは、洗ってからお子さまにお与え下さい。切に切にお願いするしだいである。  そして、もうひとつヒヤヒヤしているのは、キャベツを食べる時の銀ちゃんはいつも手枕《てまくら》で寝そべっているのである。事実、「ひらりも銀次もお行儀が悪いし、言葉づかいも悪い。NHKたるもの何を考えているのか」という声も新聞などに載っている。それに対し、銀次はドラマの中で答えている。 「俺よォ、寝そべってる時が一番いいこと言うんだよなァ。何つったって、立つと脳みそが足の方に下がっちまって、頭が働かねンだよ」  父親の金太郎も、深くうなずいて言う。 「俺もそれ感じることあるよ」  声を大にして言う。立つと脳みそが足の方に下がって思考力がなくなるということは何ら医学的には根拠のないことである。世のお母さまがたは、お子さまに寝そべって勉強せよとは言わないで下さい。  しかし、これでもNHKは細やかに配慮をしており、実は脚本の銀ちゃんは、もっとお行儀が悪かったのである。何しろ、私はト書きにこう書いた。 「銀次、冷蔵庫からキャベツを丸ごと出すと、新聞紙の上にドンと置く。そして一枚ずつバリバリと葉をはがし、口につっこむ」  ドラマの中の銀ちゃんはちゃんと平べったいザルにキャベツをのせて運んでくる。結構行儀がいいではないか。私のは新聞の印刷インクがくっついた葉っぱを、バリバリと食べる銀次だったのである。 「ひらり」では私の夢を書かせて頂いている。町も人もみんな夢である。もちろん、東京の下町は今でも山の手とは違う匂《にお》いがあるが、「ひらり」の舞台のままではない。それでもやっぱり世田谷《せたがや》区や大田区とは何か違う。私自身はずっと大田区で育ち、下町の人間ではないが、だからこそ下町の「何か」に憧《あこが》れ、「何か」を愛している。その「何か」を現実よりほんの少し隈取《くまど》りを濃くして夢を見たい。  今、どんな雑誌を開いてもおいしいレストランの案内記事があり、おいしい食べ物の紹介がある。シェフの名前にこだわる客もいるだろうし、何年もののワインにこだわる客もいるだろう。ひと口食べて口に合わなければ、つっ返す人も現実に知っているし、あるパーティで「これは冷凍の魚だな」と言い放ち、不機嫌になった男の人も知っている。おいしい物を食べたいとは私だっていつも思う。だけど、私は何を食べても「おいしい」と言える人になりたいと思う。一口食べて口に合わなくても、箸《はし》をつけたものだけはきれいに食べる人になりたい。たとえばおいしいものをたくさん食べていても、冷凍のサンマの焼きたてにジューッと大根おろしをのせ、きれーいに食べてしまう男がいたら、私はそれだけでその人を信じられる気がする。「味」以前に「食べ物」を愛する人が一番のグルメだと私は思っている。  そんな意味で銀次もまた私の夢である。七十五歳の金太郎が作った食事を、ブルドーザーのようにたいらげる。 「イヤァ、うめえッ。しかし、父ちゃんは料理がうめえよなァ。俺、世の中で一番うめえものって、ホウレン草のお浸しと、ニシンの焼いたのと、キャベツだなァ。イヤァ、うめぇッ。ごっそさん」  そんな銀次だが、もちろんおいしい物はたくさん食べている。食べていながらやっぱり何を食べても「うめぇッ」という男はカッコいいと思う。  先日、NHKのスタジオで石倉三郎さんにお会いしたら、そっと言われた。 「俺、町内じゃ『キャベツの兄サン』って呼ばれてるンスよ。この頃じゃ、家でも寝そべって『ワンカップキャベツ』ばっかりでね。イヤァ、しかし、キャベツってうめえよなァ」  私は銀ちゃんと石倉さんの区別がつかなくなってくる。「ひらり」は夢の人たちが住む夢の町が舞台だが、脳みそが下がらないように寝そべってキャベツを食べる男が、現実にいるような気がしてくるのである。   ネオ・ジャパネスク  NHKの「はんさむウーマン」という番組で、年末に「ネオ・ジャパネスク」をテーマに取りあげるという。若い女の人たちが「ジャパネスク」、つまり「日本的なるもの」を改めて見直して、暮しに取り入れ始めたあたりを取材するらしい。  私が「ひらり」の中でさかんに「ネオ・ジャパネスク」という言葉を使い、若い女たちが大相撲に夢中になったり、木遣《きや》りを習ったり、ということを書いているせいもあって、「はんさむウーマン」のプロデューサーから質問を受けた。 「今、本当にネオ・ジャパネスクなんでしょうか? 単なるファッションじゃないんでしょうか?」  日本的なものに対して、どこまで本当に若い女たちが興味を持っているのかは、私もよくわからない。数字として見たこともない。  ただ、日本的な精神文化はさておき、日本的な「物」に関していえば、これは目に見えて若い女たちの関心がひと頃よりは大きくなっていると思う。  その最も明らかなひとつの例は、骨董品《こつとうひん》店である。  骨董品といえば、かつてはお金持ちの老人しか縁のない、何やらカビくさいイメージがあった。ところが今、骨董品店には若い女客が必ずいる。それも、およそカビとは縁のない、イケイケギャル風の人たちも多い。私は以前から日本の古い茶碗や皿、タンス、布などが好きで、骨董品店をよくのぞく。それだけに以前と比較してわかるのだが、確かに若い女客はふえている気がする。  私自身は骨董品の価値などはまったくわからず、安くて気に入ったものがあれば買って、そしてごく日常に使う。お湯呑み、ごはん茶碗、徳利、小鉢、和ダンス、ソファカバーにしている古い久留米絣《くるめがすり》の布などで、これらが遠い江戸期や明治期のものだと思うと、何だかワクワクしてくるのである。いずれも全然高いものではない。専門家が見れば、傷があったり染が悪かったりで、二束三文のガラクタであろうが、私はそれでも十分に嬉しい。楽しい。友達にお茶を出す時、 「これサァ、江戸時代の茶碗なの。伊万里《いまり》よ」  などとサラリと言ったりすると二倍嬉しくなる。友達が、 「すっごーい。江戸時代!!」  などと驚いてくれたりすると三倍嬉しくなる。中には、 「江戸時代なわけないわよ。その値段じゃ買えっこないわ」  などと言う人もいるが、私は骨董品店のオジサンが「江戸」といえば江戸だと信じることにしているから、そんな言葉はどこ吹く風である。  そんなある晩、NHK近くの小さな骨董品店をのぞいて「やっぱり、風はネオ・ジャパネスクかも」と確信した。店内には若い女の人たちが五人もいたのである。その中の二人は、夢中で古い染付けの皿を選んでいる。小さな店なので、彼女たちの声が聞こえてきた。 「私、このお皿買う。一枚二万円はちょっと痛いけど、今年のクリスマスはアパートで一人だから」 「うん。買った方がいいよ」 「ね。これにケーキのっけて食べれば、ま、一人でも何とか我慢できる」 「うん。私はこの徳利買うわ。明治初期のものだって。この模様、たこ唐草っていうんだよね」 「それ、忘年会の時に使おうよ」  聞くともなしに聞いていると、二人は恋人もなく、クリスマスも初詣《はつもうで》も一人か、もしくは女だけという雰囲気である。彼女たちは二万円の皿と、一万二千円の徳利を買うと、木枯しの町に嬉しそうに出て行った。  女たちがこんな楽しみ方を覚えたとすると、「ネオ・ジャパネスク」は地道に根を張っていくのかな……と思える。一枚二万円という皿は決して安くはない。それもヨーロッパブランドの新品ではなく、言うなれば古皿である。それでも、古い皿が自分の一人ぽっちの淋《さび》しさを和らげてくれることに、彼女たちは気づいている。ホテルのアーケードで買ったヨーロッパブランドの新しい皿では慰めにならないことにも気づいている。そんな気がしてならなかった。  やがて私も店を出ると、クリスマスプレゼントを買おうと思い、小さなブティックに入った。包装してもらう時に、店員さんが聞いた。 「包装紙の色は何になさいますか? 浅黄色、蜜柑《みかん》色、萌葱《もえぎ》色、それに群青《ぐんじよう》色と墨色がございます」  これには驚いた。従来ならクリーム色、オレンジ色と言っていたはずである。若い女客が、「萌葱色ってどんな色ですか」と聞いていたが、こんな言葉の復活は今までありえなかったことである。  包装された品物を受けとって、私はまた驚いた。リボンではなく、水引きがかけられていたのである。  確かにこれらは「ネオ・ジャパネスク」というファッションかもしれない。今まで、ないがしろにされていた和風趣味がトレンドになっただけで、日本文化の見直しというほどのものでもないのかもしれない。  しかし、それでも私は古い皿に二万円払ったり、萌葱色という言葉を耳にしたり、ただそれだけでも十分に価値があると思う。それが少しずつ、少しずつ厚みになって、本格的に日本文化を見直す日が来るように思う。  年末年始、私も萌葱色の着物を着て日本酒でもあっためようか。どうせなら飲みすぎた時にはカッポレでも踊れると、これこそ「ネオ・ジャパネスク」の真髄なんだけどなァ。   オバサン度チェック  新年早々、私は考えている。  どうしたらオバサンくさくないオバサンになれるか?  これが年頭の大テーマである。というのも、私は若い主人公のドラマを書いているが、全共闘世代である。十分にオバサンである。がしかし、「オバサン」というのと「オバサンくさい」というのは厳然と違う。「中年」と呼ばれる年齢になれば、どんなにステキな女だって「オバサン」で、「オネエサン」ではない。「オネエサン」には見えなくなる。男とて同じで、これは致し方ない。ところが「オバサンくさい」となると話は別である。年齢が高くても「オバサンくさくない」という女は確かにいる。「オバサンくさい」のも安心感があって悪くはないと、私は正直なところ思っていた。  ところが先日、あるワイドショーを見て考えこんでしまったのである。まるで我が身を見せつけられているようで、私はソファにのけぞり、しばし起きあがれなかった。そしてのけぞったまま、年頭のテーマを確立したのである。  そのワイドショーは、歌手の舟木一夫さんの「追っかけオバサン」を特集したものだった。舟木さんは全共闘世代にとっては永遠のアイドルである。私自身、舟木さんとジュリーは、甘酸っぱい青春の思い出とダブる。私にとって忘れられない二大スターである。  ワイドショーでは、舟木さんのステージに押しかける中高年女性の実態を、過酷なまでに写し出していた。何しろ、私は鳥羽一郎さんの追っかけオバサンであるから、他人ごととは思えない。  その時、面白いことに気づいた。カメラは初めに劇場の前を写したのであるが、中高年女性が長蛇の列を作っている。ところが「中高年」と十把ひとからげに呼んでも、「中年」と「高年」では女たちの匂いが明らかに違う。お年を召した「高年」の方たちは、どこか可愛い。マイクを向けられ、舟木さんの魅力をたずねられると、照れて口元を押さえ、恥しそうに身をよじって答える。 「全部好きです。はい」  ところが私の年代は問題がある。中年と呼ばれる女たちは全然身をよじらない。全然照れないし、口元なんか押さえもしない。マイクの前に四、五人が出てきて、わめく。 「全部好きよッ、全部ッ」 「そりゃそうよねー。いい男ッ!」  と、これである。高年の方々より若い分、みんなおしゃれできれいなのだが、どうも可愛気がない。碾《ひ》き臼《うす》の如き腰に加えて、化粧がケバい。私は我が身の赤い髪と赤いマニキュア、それに昨今とみに力強くなってきた腰にさわりつつ、画面の中年女性は間違いなく私自身だと思った。  すると次に、レポーターが中年女性ばかりを十五人ほど選び、舟木さんに関するクイズを始めた。〇×式で答えさせ、全問正解の人だけが、本物の舟木さんとご対面できるという。結果、半数くらいがその栄誉を手にしたのである。ところが、これではおさまらないのが中年女性の特質である。猛烈な抗議が始まった。 「何よ、全員を対面させなさいよ」 「そうよ。一問違っただけで会えないなんて、冗談じゃないわよッ。ねえ」 「ちょっと、何とかしてよッ」  レポーターは圧倒され、とうとう十五人全員をご対面させたのである。本物の舟木さんが現われるや、歓声と嬌声《きようせい》の嵐。もう手は引っぱる、肩は抱く、確か頬にさわった人さえいたと思う。舟木さんは明らかにタジタジとなりながら、それでも笑顔で一人一人と握手をする。私はホントに我が身を見ているようでガク然とした。  ところが彼女らが最後に見せた表情はすごく可愛らしかった。舟木さんと握手した感想を聞かれた時である。全員が頬を紅潮させて、キラッキラした目で答えた。 「生きててよかったァ。幸せ」 「それからもずっと応援します」  もしかしたら、傍若無人なオバサンというのは正直で、まっすぐで、感激屋で、とても可愛らしい年代を言うのかもしれないと思うほどであった。  私は、好きな人の追っかけをやることは、陽気で楽しい趣味だと思う。分別のついた中年であっても、好きなものは好き。握手したいものはしたい。それでいい。私は今のところは、こっそりと一人で鳥羽一郎さんのコンサートに出かけているが、いつグループでペンライトを振らないとも限らない。事実、 「舟木さーん!」  と絶叫してペンライトを振るオバサンたちを、実は私は嫌いじゃない。  ただし、ただしである、「オバサンくさいオバサン」ではない方が、舟木さんだって嬉しかろう。私は画面を見ながら考えた。そしてオバサンを形成する四つの要素に思いあたった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰二重あご。 ㈪碾《ひ》き臼の腰。ウエスト七〇センチ以上。 ㈫チェックの服。気をつけて見ているとわかる。オバサンくさい人は割とチェックを多用する。胸元でボウを結んだブラウス、そして碾き臼の腰にチェックのスカートは定番。 ㈬白すぎる化粧。オバサンはなぜかマットなファンデーションをコテッと塗る。 [#ここで字下げ終わり]  私は我が身を厳しく振り返り、今年は「オバサンくさくないオバサン」になって、エレガントな追っかけをやろうと心に誓ったのである。  それにしても、画面で見る舟木さんは、全然オジサンくさくなかった。   陰で支える女  先日、新聞で面白い論争をやっていた。高校の運動部の女子マネージャーをめぐる論争である。  発端は「女子マネのあり方は性差別を助長している」と教師たちが指摘したことに始まる。それをきっかけに女子高生が「マネージャーの仕事にも、みんなの役に立っているという喜びがあるので、性差別なんて言わないで」と投書。すぐに女子大生が「雑用は女の仕事であるという意識が定着するのは困る。そうなると才能を発揮したい女性は圧迫されるので、女子マネのあり方はやはりひとつの性差別である」と反論した。それをめぐって新聞では色んな意見をもとに特集を組んでいた。 「雑用も立派な仕事です」という意見があった。  また「どんな世界でも華々しく活躍する人たちの裏には、必ず陰で支える『縁の下の力持ち』がいる。それを雑用という言葉で片付けず、誇りを持つべき」という意見もあった。  そして「世の中はまだまだ男性中心。女は男の補助的存在という論理は、女の側にも受け入れられやすいのではないか」と、女の意識に疑問を投げかける意見もあった。  私と同年代の主婦は「男が仕事をしやすいように環境を整えるのが女の役割、と決めて考えないでほしい」と書いていた。  実はこの私、威張るほどのこともないのだが、女子マネージャーでは先駆者である。まだほとんど女子マネがいなかった昭和四十年代初期、武蔵野美大ラグビー部のマネージャーであった。  これはちょっと威張ってもいいと思うのだが、私は決してマスコット的なマネージャーではなく、完璧なまでにその仕事を一人でこなしていたのである。  美大リーグ戦に向けて主将やコーチと相談してトレーニングメニューを作ることから始まり、練習試合のスケジュール調整、交渉、お弁当の手配、薬品の準備、レモンや水の運搬。もちろんスコアもつける。その他、毎日の練習には必ず参加して、練習日誌を細かく書く。寒い時期でも吹きさらしのグランドに置かれたベンチから動けない。夏には菅平《すがだいら》で行なわれる合宿の準備、手配、宿舎の部屋割り、練習試合の交渉である。もちろん、経理も全部見ていたし、OBへの案内や寄付のお願いもやった。秋の学園祭ではラグビー部は毎年ゲイバー「おかま」という店を出していたのだが、ゲイボーイたちの女装の手配やら、はてはメイクまですべて手伝う。ジャージの洗たくは部員自身がやっていたが、部屋の隅にはまだ着られるジャージが泥んこのまま山になっている。それを見れば、やはり放ってはおけない。練習のあいまを縫って、それらの洗たくをし、破れていれば針と糸を持つ。もちろん、部室の掃除もあるし、運動部全体の予算会議にも出る。その他、忘年会の仕切りやら、卒業生の追い出しコンパの準備までこなした。  学費を出していた親には申し訳ないが、授業などまともに出てはいられない忙しさであった。その上、よく考えてみれば、何も面白くない仕事ばかりである。これがテニスだとかゴルフだとか、自分自身が部員として競技できるものならトキメキもあろうが、ラグビーでは参加しようがない。  それなのにどうして私が、当時は珍しかった女子マネを志願したかというと、理由は簡単。  ひとつは、女ができないことをする男たちのそばにいたかったこと。私は「男ってすごいわァ」「男ってカッコいいわァ」と思うのが単純に好きなのである。それにはテニスやゴルフなどの女もできる競技ではなく、サッカーよりももっと肉弾を感じさせるラグビーがベストであった。  もうひとつの理由は酔ってみたかったのである。「男を徹底して陰から支える女」というパターンに酔ってみたかった。  そしてもうひとつは、カッコいいラグビー部員と恋におちるかもしれないという期待。  お粗末な話だが、私はこの三つ以外には何の理由もなかった。「雑用も立派な仕事」なんていうごたいそうな思いは持ちあわせていなかったし、まして「性差別」なんてとんでもない。私はいわば「性差別」に酔いたかったのだから。それに「雑用に誇りを持つべき」などと肩に力を入れるほどのものでもない。  卒業までマネージャーをやり続け、私は十分に満足していた。「男ってすごいなァ」と何百回も思わされたし、男を陰から支えるのも間違いなく女のロマンだと気づかされもした。  今回の新聞の論争もそうなのだが、私にはどうしてもわからないことがある。なぜ何もかも「性差別」といえ意識でとらえるのだろう。女子マネが「性別役割分業意識を助長させる」なんていう難しい発想がどこから出てくるのか理解に苦しむ。  はき違えてもらっては困るのは、女子マネは自分から志願するもので、そこに飛びこむという本人の意志が働いている。男が女に向かって「お前は女だからマネージャーでちょうどいいんだよ。雑用やれ」と命令した話は聞かない。すべて女自身が何かを感じて「やってみたい」と思って飛びこむことである。入社時点から給与や昇進に差がある企業の男女差別とはまったく違う。何もかも「性差別」の名のもとに、やってみたいと思う女の子にまで門戸を閉ざされる方が困る。 「男ってすごいわァ」と思える青春期を持ったことを私は幸せに思うし、それが「才能を発揮したい女性への圧迫」につながるわけもない。  何でもかんでも「性差別」ではかると、「性の差」を意識することから生まれる豊かさを失うことになる。   ひらり風スパゲティ 「ひらり」を書いて、何が一番上手になったかというと、これがスパゲティ料理である。 「ひらり」とスパゲティとどう関係があるのかと思う人も多かろうが、これには深い関係がある。  NHKの朝のテレビ小説というのは半年分の原稿量が二百字詰原稿用紙で約六、〇〇〇枚ある。六、〇〇〇枚を書くだけでも大変だが、収録がどんどん後から追いかけてくる。私は書くのが速い方だと思うが、それでも台本のストックはどんどんなくなる。まるでカーチェイスのような日々である。  こうなると食事の用意などをする余裕がない。料理というのは気持にゆとりがないと作れないものだとつくづく思う。たとえば大根をおろしながら「こんなことしてる間に原稿三枚は書けるわ」などと、せこいことを考えてしまうのである。  かくして私は、夕食はほとんど毎日スパゲティという情けない話になってしまった。スパゲティは簡単だし、味に変化もつけられる。時間もかからない上、具を考えれば栄養価も悪くない。もう毎晩毎晩、スパゲティにサラダという日々である。が、それではあまりに味気ないので、スパゲティに「ひらり」の登場人物の名前をつけた。 「よしッ、今夜は『ファルファレッテひらり風』にしよう」  と、こんな具合である。ホントに暮しの中に小さな喜びを見いだす私は、何て地味で、何て可愛いんだ。うっとり。  皆さんも、忙しい時にはぜひどうぞ。   ☆ファルファレッテひらり風  ファルファレッテとはイタリア語で蝶々を意味する。そう、ひらりひらりである。マーケットに行けば蝶々の形をしたパスタを売っているので、それを買ってくる。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰鶏肉を適当な大きさに切り、塩こしょうしておく。 ㈪鍋にバターをとかし、㈰を焼いてちょっと焦げめをつける。これにマッシュルームとグリーンピースを加えて炒める。 ㈫トマトを適当に切って㈪に加え、塩こしょうで味つけする。 ㈬ゆでたてのファルファレッテとまぜあわせて出来あがり。 [#ここで字下げ終わり] ☆レッドペッパー・ミノリンチーニ  こんなイタリア語はない。みのりをもじって私が勝手に作った。ニンニクと赤唐辛子のスパゲティである。健気《けなげ》で可哀相な女に見えて、実は毒のある言葉を吐いたりするみのり。食べてしばらくたってからカーッと辛さが広がる赤唐辛子は、まさしくみのりにふさわしい。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰赤唐辛子、ニンニクの薄切りを、たっぷりのオリーブオイルで炒める。 ㈪赤唐辛子によく火が通ったら、引きあげる。 ㈫ニンニクがこんがり色になったら、パセリのみじん切りを加える。 ㈬濃いめの塩でゆでたスパゲティに㈫をからめて出来あがり。 [#ここで字下げ終わり]   ☆バミセリ寒風山  パミセリとはイタリア語で髪という意味。細い細いスパゲティである。これはなかなか太れない寒風山にぴったり。バミセリは色々やってみたが、スープ仕立てにするのがおいしい。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰人参、じゃがいも、玉ねぎ、セロリ、キャベツを適当な大きさに切る。 ㈪サラダオイルでサッと㈰を炒め、ブイヨンを加えてひと煮立ちさせる。アクをとりながら、塩こしょうで味をつける。これを三十分ほど煮こむ。 ㈫ゆでていないバミセリを㈪に入れて、五分ほど煮て出来あがり。 [#ここで字下げ終わり]  グリーンピースを散らすときれい。   ☆フェットチーネ・藪沢夫婦  フェットチーネとは、きしめんのようなペタンコの手打ちパスタ。これは冷蔵庫に転がっている残り野菜を何でもトマトソースにぶっこんだもので、早い話が全然気合いが入ってない。倦怠《けんたい》気味の洋一・ゆき子夫婦そのもの。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰野菜を何でもいいから適当に切る。 ㈪サラダオイルを熱して、㈰とニンニクをぶっこんで、強火で炒める。 ㈫そこらで売ってるトマトソースを㈪にぶっこんで十五分ほど煮る。火を止めてから チーズを適当にふりかけ、塩こしょうも適当にして、スパゲティにぶっかける。 [#ここで字下げ終わり]  気合いが入らないと文章も気合いが入らないものだワ。ただし、このスパゲティは気合いを入れて作るとすごくおいしい。そう、夫婦と同じです。気合いが大事です。結婚したこともないのによく言うワタシ。   ☆キャベツ・ギンジーノ  当然、銀次の好きなキャベツの和風スパゲティである。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰キャベツを千切りにして、サラダオイルで炒める。しょうゆとダシ汁で味を整える。 ㈪辛子メンタイをほぐし、酒少々でのばしておく。 ㈫ゆでたてのスパゲティに㈪をからめ、その上に焼きソバのように㈰をのせる。のりとかつお節をかけて出来あがり。 [#ここで字下げ終わり]  この他にもインテリ小三郎にふさわしく、ペンの形をしたパスタのペンネを使ったものや、アツアツ夫婦にぴったりのラザニア梅若風や、色々と工夫してはスパゲティとパスタばかり食べている。 「ひらり」を書き終えたら、女友達数人でスパゲティパーティをやろうかと考えつつ、私は今夜もパスタをゆでる。   上手なプレゼント  バレンタインデーが近づいてきた。  バレンタインにチョコレートというのはお祭りだから、全然目くじらを立てることはない。「商業主義に踊らされている」とか「こんなバカなことをやっているのは日本だけ」とか、よく指摘されているが、同じアホなら踊った方が楽しいし、外国がどうしたとか知っちゃいないと私は思っている。  女の子たちが目の色を変えてチョコレートを選び、カードを書き、渡し方まで思い悩むというのは当然のことである。義理ではないチョコレート一枚を渡すことで、相手からどんな反応が返ってくるか、それは女の子たちにとって息をつめて待つ一時なのだから。こういう思いは、すべき年頃にしっかりしておいた方がいい。  ただ、プレゼントというのはバレンタインやクリスマスのようなイベントの時も嬉しいけれど、もっと嬉しいのが「何でもない日」の意外性である。  ある何でもない日、男友達から大きな宅配便が届いた。これが重くて一人では持ちあがらないほどである。私は玄関にハサミを持って行き、そこで箱を開いた。中には大きな栗かぼちゃが二つと、見るからに採りたてという感じのジャガイモと、玉ねぎがギッシリ。  私はびっくりし、大喜びして、その男友達に電話をかけた。 「ありがとう! どうしたの? あんなにたくさん、突然」  彼は面倒くさそうに、ぶっきらぼうに答えた。 「北海道に仕事で行ってたから」 「うれしい。北海道で私のこと思い出してくれたんだァ! ありがとう!」 「別にそういうわけでもないけどな。向こうで食ったらうまかったから」  彼はもっと面倒くさそうに言うと、電話を切った。私は栗かぼちゃを抱いて、一人で笑った。  また、バーゲンセールの会場から電話をかけてきた女友達もいる。 「牧ちゃん、オレンジ色のセーター欲しいって言ってたよね。メンズだけどすごくいい色があるの。『ひらり』の陣中見舞にプレゼントするわ。Vネックとタートルとどっちがいい? 言っとくけど超安物よ」  この電話も嬉しかった。二つとも「何でもない日」に、突然私のことを思い出してくれたという事実が嬉しいのである。こんな風にサラリと、あったかいプレゼントができる人間になりたいなァと思う。  私の女友達に、とびっきり「何でもない日」のプレゼントがうまい人がいる。藤原ようこさんというコピーライターで、イラストレーターの真鍋太郎さんの奥さまである。太郎さんは私が女性誌「アンアン」に連載しているコラムに、毎週イラストを描いて下さっている。その関係でようこさんにもお会いしたのだが、初対面の時から妙に気が合ってしまった。  真鍋夫妻は週末はいつも山に建てた別荘で過ごすという。ある時、その山から卵をお土産《みやげ》に持ってきてくれた。これがもうおいしいの何のって。目玉焼きを作ると、みかん色の黄身がぷっくりと盛りあがり、私は、 「イヤァ、何て元気な卵なんだッ」  と、フライパンを見ながら感動してしまった。困ったことに、この卵を食べるとスーパーで売っている卵が食べられなくなる。卵の味がしないのである。正直言って、「悪い癖をつけられたなァ」と思った。東京には売ってない卵だし、週末を見はからって、 「ねえ……また山に行くの?」  などと遠回しに言うのも品がない。さりとて、 「サァ、卵なくなっちゃったァ」  と電話するほど、その時はまだようこさんと親しくなかった。ところがある晩遅く、私が仕事から戻ると自宅のドアに何やらぶら下がっている。見ると山の卵とススキである。びっくりしていると、彼女の声が留守番電話に入っていた。 「牧子さーん、藤原ようこです。管理人さんに入口あけてもらって、卵と山のススキをお届けしました。元気な卵を食べて、元気に書いて下さーい」  以来、彼女は思い出したように卵をさり気なく届けてくれる。先日は山から戻るや、まずファックスが入った。 「帰り仕度をしていたら  ちいさな雪がコロコロと  本当にコロコロと音立てて  山をコロガッてきました。  チビの真珠玉が  寒さで凍えたみたいでした。  そういう山から  またタマゴ、持って帰りました」  コピーライターというのは、何とすてきな手紙を書くのだろうと思い、私はこのFAXをいまだに仕事部屋のコルクボードにピンで止めてある。  ようこさんは「山のお店で見つけたの。お肌がスベスベになるわよ」という電話の後で、突然「垢《あか》すり」を送ってきたりする。二百円の垢すり一個に四百円も送料をかけて送ってくれると、私は心の垢まで取れた気になる。上手なプレゼントというのは、本当に人の心をしなやかにする。  バレンタインにチョコレートももちろんいいけれど、「何でもない日」に何でもない物を上手に贈るというのは、とびっきりの技だと思う。  今年はわざとバレンタインをはずして、二月二十一日とか三月六日とか、なんでもない日にチョコレートを贈ってみようか。 「やっぱりアナタが好きだって、今頃になって気づいたわ。   牧子」  なんてメモをつけて。ワォ!  これでダメなら、もう女やめるッ!   皇太子  先日、とびっきり面白いことがあった。これが畏《おそ》れ多くも、皇太子が出席されたパーティなのである。  一月十五日の成人の日に、NHKが主催する「青春メッセージ全国大会」が開かれた。以前は「青年の主張」と呼ばれており、若い人たちの弁論大会である。私はこの大会に審査員の一人として出席した。  会場のNHKホールには地方予選を勝ち抜いて、四千人の中から選ばれた十一人が緊張したようすで開始を待っていた。雨だというのにホールは若い聴衆でぎっしりである。  その時、「キャー」「ピー」という大歓声と共に、それこそ嵐のような拍手が聞こえてきた。ちょうど開始寸前で、審査員も出場者も舞台の袖に控えていたのだが、思わず「何ごとだろう」と顔を見合わせるほどのすさまじい歓声である。 「ゲストの西田ひかるさんか、聖飢魔㈼が紹介されているんじゃないですか」  私はそう言った。が、どうもようすが違う。そっと緞帳《どんちよう》のかげからのぞくと、まさに皇太子がロイヤルボックスに着席されるところであった。客席の若い聴衆はアイドルに絶叫するのと同じように、もう大変な騒ぎである。その時、舞台の最前列近くにいた十代の男の子数人が、一斉にロイヤルボックスに向かって叫んだ。 「やったじゃーん!」  これにはのけぞった。たぶん、七年越しの恋を実らせた皇太子への「おめでとう」の意味であったろうが、それにしても「やったじゃーん!」である。若い人のドラマを書いていると、多少のことには驚かなくなるが、これには本当にのけぞった。  そして大会終了後、NHKホール内の貴賓室で、パーティが開かれた。もちろん、皇太子をお迎えしてである。出席者はごくごく少数で、十一人の出場者と審査員、それにNHK関係者で、せいぜい三十人といったところである。  私は十一人の若者たちが皇太子に対してどんな反応をするのか、実はひどく楽しみであった。彼らも年齢的には「やったじゃーん!」のグループと変わりない。が、当然のことながらロイヤルボックスの皇太子を遠くから見上げるのと、さほど広くない室内で間近かに言葉をかわすのとでは違うはずである。どう違うのだろう。私は興味|津々《しんしん》に十一人を観察していた。 「ただ今、皇太子殿下がお出ましになります」  おごそかに係員がそう言うと、予期せぬことに十一人に緊張が走った。私が意地悪く一瞬のうちに見ただけでも、一人の男の子はズボンで手の汗をふいた。一人の女の子は思わず大きく息を吐いた。そしてもう一人の男の子はスッと足をそろえた。これは正直なところ、意外な反応であった。ロイヤルボックスを見上げる時とは違っても、ここまで素直に緊張を見せるということを、私はまったく予想していなかった。  皇太子は一人一人の目を見て、非常に静かな口調で語りかける。 「いい弁論でしたね。あがりませんでしたか?」 「ご家族のどなたか応援に来ていらっしゃいますか?」  若者たちは「ハイ」とか「いいえ」とか短く返事をする。かなりかたくなっているのがよくわかる。ところが五人めくらいに話しかけられた女の子が、突然言ったのである。 「殿下、握手して下さい」  皇太子は笑顔で彼女の手を握った。そして、この瞬間からパーティのムードが一変した。誰の肩からも力を抜け、十一人は完璧に自分のペースを取り戻していた。  列をくずしてティーパーティが始まると、みんなが皇太子を取り囲む。そして質問攻めである。この質問がまた「やったじゃーん!」のノリで、私はのけぞりっぱなしである。 「あのォ、皇室の人ってェ、朝めしとか何食べてンすか。朝っぱらからフランス料理ですか」  ウソではない。皇太子はごく自然に笑って答える。 「そんなことはないですよ。私は和食が好きですから、朝も和食が多いですね」  また別の男の子が嬉しそうに言う。 「結婚決まってよかったスねえ」  皇室会議の前だったので、この件に関してだけは明確な答は避けられたが、皇太子は何をどう問われようとスパッと答えられる。言葉をかわしたばかりの女の子が、興奮さめやらぬようすで、私に囁《ささや》いた。 「あの人、結構いい人ですね」  私は飲んでいた紅茶にむせ返りそうになった。  そして、のけぞりの頂点は、パーティを終えて帰られる皇太子をお見送りした時である。若者十一人は整列していたのだが、突然ダーッと皇太子の車にかけよった。そして、菊の御紋章の車に向かって手を振り、一斉に叫んだ。 「お疲れさんでしたーッ」 「また会いましょーッ!」  私はのけぞるどころか吹き出した。どこの誰が、皇太子に向かって「お疲れさん」と言うものか。が、闇夜の中に小さくなっていく皇太子の車に向かい、ずっと手を振っている十一人を見ながら、「いい時間だったな」と思った。  彼らの言動を「非常識」と怒ることは簡単だが、間違いなく皇太子には彼らを「非常識」にさせるあたたかさと、最先端の若者たちを笑わせるユーモアのセンスがあった。皇太子自身が彼らを「非常識」にしたのだとしたら、何とすてきな皇太子かと思う。   外国人横綱  が外国人初の横綱になった。  朝日新聞にコメントを求められた時、私は言った。 「心技体を満足し、抜群の力と品格があれば、外国人でもいっこうに構わないと思っています。プロ野球の場合はアメリカから選手を何億円という契約金で連れてきて、ポンと四番に座らせたりする。でも相撲の場合はそうじゃありません。日本に連れてきて、日本人の新弟子と同じように一番下から始めさせています。兄弟子につかえることも、掃除も、チャンコ番も、すべて日本人の新弟子と同じにやらせている以上、昇進も平等です」  私は本当にそう思っている。同じ朝日新聞に、高橋義孝元横綱審議会委員長のコメントが出ていた。私の意見と矛盾するようだが、私はとても好きなコメントであった。 「私にとって相撲はスポーツではなく、まず祭事です。そして江戸前の古典芸能です。能の家元が外国人ではおかしい。でもは強いのだからしょうがないですね」  これを差別という人もいるだろうが、私はそうは思わない。私自身、大相撲は何よりも神事であるといつも思っている。神事である以上、プロ野球のように突然引っぱってきた外国人を、最初から横綱や大関にして土俵にあげるのなら怒る。日本の神事に、日本の道理をわかっていない外国人をタッチさせるのはそれこそ「不浄」である。しかし、私が高橋元委員長と唯一違う点は、外国人も新弟子としてつらい生活に耐え、心技体を身をもって学んでいくうちに日本人になっていくのだと思っていることである。彼らも本心では「俺はアメリカ人」だと思っているだろうし、基本的には母国を捨てる気はあるまい。捨てる必要もない。しかし、それでもあの半端でないつらい日々は、彼らを日本人にしていくのだと思っている。  やはり同じ朝日新聞に、上智大学の国際政治学者、猪口邦子教授もコメントされていた。 「表彰式ではアメリカ国歌も流せば、日本の容量の大きさを国際的に示すことになるのに」  こういうコメントに私は一番腹が立つ。相撲を単なる「スポーツ」ととらえればこういうコメントもありうるとは思うが、アメリカ人の小錦でさえ言っている。 「入門して今まで来てよくわかった。相撲は普通のスポーツではない」  日本の国技、神事にアメリカ国歌を流したらパロディである。何よりも、「外国の国歌を流すことイコール国際感覚」だと思っているのなら見当違いもはなはだしい。  大相撲における「国際化」のとらえ方というのは非常にデリケートな問題だと思う。  私自身は、外国人が横綱の条件を立派に満たしていれば、横綱に推挙されて当然と思う。しかし、私自身はそのことと国際化はイコールとは考えていない。もっと言えば、大相撲は国際化を積極的にめざす必要は何ひとつないし、大相撲関係者は現実に国際化を進めている意識は全くないのではなかろうか。私個人の推測であるがそんな気がする。  海外巡業はあくまでも興行であり、日本相撲協会のふところ事情の問題であり、あれが国際化だとは私は全く考えていない。海外のアーティストが日本市場がおいしいとわかれば、こぞって来日してコンサートを開くのと何ら違わないと考えている。  外国人力士の入門も、私は国際化とは全然思っていない。国際色が豊かになったとは思うが、それは日本人の新弟子の入門と同じである。たまたま外国人だから「国際化」と言われるが、単なる「新弟子」である。  私がそう思う理由の第一が、相撲社会の厳しさと、新弟子時代のつらさである。  外国人であろうと日本人であろうと、今風の男の子が耐えていくのは並大抵ではない。下の者に追い抜かれてみじめな気持になることもあろうし、肉体的限界まで自分を鍛えるつらさもある。上下関係も厳しいし、番付による差別も歴然とある。物のない時代ならともかく、これだけ物質的に豊かな今、何も相撲界でつらい思いをする必要はないのである。スター力士になれる保証はないし、一攫《いつかく》千金の世界でもない。親の七光りで幕下付出しからデビューできることもない。ひたすら自分自身の努力と頑張りにかかっているのであり、考えてみればこれほど割の合わない世界もない。  日本人でさえ日常的に着る人は少ない着物を着て、叩《たた》きあげられていく世界に、外国人も日本人もあるものかと思う。「神事をつかさどる男」になりきれなくて、途中で逃げ出すのも、外国人日本人問わずに多い。あの厳しさには耐えられない方が普通だと思う。  そんな中で高見山は耐え、小錦も武蔵丸も星安出寿《ほしあんです》も星誕期《ほしたんご》も耐えた。千代の富士や霧島が耐えたのと同じである。  外国人を新弟子時代から平等に扱ってきた以上、平等に横綱にするのは当然であり、それは国際化だのではなく、土俵の神に「選ばれた男」に過ぎない。   「木曜日の女たち」  ある日、一通の速達が届いた。  差出し人を見ると、三人の名前が並んで書かれている。 「劇団民芸 斉藤美和       南風洋子       塩屋洋子」  三人とも言わずと知れた、劇団民芸の有名な女優さんである。私はもちろんお名前も顔も存じあげているが、一度も仕事をご一緒したことはなく、一人の観客として舞台でのお姿は拝見していても、お目にかかったこともないのである。  封筒はぶ厚く、あげく速達である。私は性格が地味で、つつましいので、 「私、何か民芸に悪いことしたかしら……」  と、まず思った。しかし、民芸に知りあいは一人もいないし、悪いことをした覚えもない。いささか緊張して封筒を開くと、三通の手紙が出てきた。  三人の女優さんがそれぞれ書いて下さった手紙らしい。まったくわけがわからず読み進むうちに、私はうれしくなってしまった。斉藤さんは淡い花柄の便せんに、南風さんは和紙に、塩屋さんは真っ白な便せんに、ご自分の言葉で次のようなことが書かれていた。 「私たちは『ひらり』の大ファンです。眠い時でも八時十五分になるとベッドから這《は》い出し、テレビをつけます。こんな突然のお手紙にさぞ驚かれたことと思いますが、稽古場《けいこば》で『ひらり』の話に花が咲き、『よし、作者に手紙を書こう!』ということになってしまいました。私たちは今、『木曜日の女たち』という芝居の稽古中ですが、この芝居を観て頂きたいわねと、意見が一致し、失礼もかえりみずにお誘いのペンを取ったしだいです。内館さんとはお会いしたこともないのに不躾《ぶしつけ》ですが、『ひらり』の作者ならきっとこの芝居は気に入って頂けそうな気がしています。もしもいらっしゃれるようでしたら、ちょっと楽屋をのぞいて下さるとうれしいです」  こんな内容で、三通とも「ひらり」の感想がとても丁寧に書かれてあった。そして、招待券が同封されていたのである。  私は感激してしまった。老舗の民芸の大女優が、若輩者の私に軽やかにペンをとって下さったことも感激だったし、何だか女学生のような三人の雰囲気にも感激した。文面から稽古場での風景が目に浮かぶようである。 「ひらりの作者にお手紙出そう」 「あ、出そう出そう」 「じゃあ、三人が別々に書いて来てひとつの封筒に入れよ!」  なんて話して下さったのかな……と思うと、本当に嬉しい。私はこんな愛らしい女学生のような思いを、とっくにどこかに置き忘れてきたと、改めて思い知らされた気がした。そして、置き忘れやすいものほど、実はとても大切な心なのだということも。  こうして二月四日、私は新宿の朝日生命ホールで「木曜日の女たち」をじっくりと観せて頂いた。  お世辞抜きで、非常に面白い芝居だった。女なら誰でもわかる心理を、セリフの妙でつづっていく。劇的なストーリーは何もないのに二時間あきさせないのは、女の不安や悩みが実にうまく浮き彫りになっているせいだと思う。  舞台はパリ。六十歳の女三人が、木曜日ごとにアパートに集まってお茶を飲む。そして過去や未来のことを話しながら過ごす。ソニアは離婚経験者で四十歳になる息子を溺愛《できあい》している。マリーは夫をガンで亡くしたが、二人の娘と孫娘がいる。エレーヌは六十歳の今日まで独身で、マリーの夫の妹である。  この三人が、女の一生における過去と未来をごく日常的に、笑わせながら語るのだが、これがすごい。女の人生のテーマをほとんど網羅していると言ってもいい。三人とも六十歳という設定なので、若い女が語る絵空事とはまた一味違う。恋愛、結婚はもとより、不倫、中絶、離婚、ガン告知、更年期といった悩みを日常的な会話で語り、笑わせ、しばらくたって切なくさせる。おかしかったのは墓の話。三人で同じ墓に入って、死んでからもにぎやかにおしゃべりしようなどという話がユーモラスに語られる。ユーモラスだが、どこかで笑い飛ばせない切なさがずっと漂《ただよ》っている芝居であった。  演じた斉藤さん、南風さん、塩屋さんはプログラムの中で、六十歳の三人のことをこんなふうに語っている。 「木曜日なしでは生きていけないのよね、三人とも。次の木曜日がなきゃ」 「いずれ誰か欠けていくんでしょうけど」  そう、いずれ誰か欠けていくのが世の中なのだと改めて思い知らされる。失恋しようが、仕事で失敗しようが、結婚しようが、不倫しようが、時はまるで嵐のように過ぎ去り、いずれは「すべて夢の中」になる。そんな中に私たちは身を置き、目の前のことにカリカリ、キリキリしているのである。いつの日か、「あの頃はよかった。みんながいた」と思うのだろう。そう考えると、今、周囲の人たちを大切にしなければ……と思わされる。  芝居がはねた後、私は三人を楽屋にお訪ねした。 「ワア! ひらりちゃんがホントに来てくれた!」  華やいだ声で迎えられ、四人でサツマ揚げを肴《さかな》にワインを飲んだ。年齢も状況も違うのに、何だか初めてお会いした気がせず、あっという間に時間が過ぎ、あっという間にワインボトルがあいた。  やっぱり、生きていることはすてきだと思う夜だった。   人柄のよさの証拠!?  よせばいいのに、一瞬魔がさして、NHKのクイズ番組に出たのである。  だいたい、クイズというのは苦手でテレビでも見たことがない。それなのに受けたのは、「ひらり」で竜太役の渡辺いっけいさんとコンビだと聞き、これは優勝でもすれば「ひらり」のPRになると思ったのである。  もしも、次々と難問に答える私といっけいさんを見れば、全国の人々は思うに違いない。 「まあ、『ひらり』ってこんなにリコウな脚本家が書き、こんなにリコウな役者が演じているのね。何と高貴なドラマなんでしょ」  私は本当にそう考えた。この噂《うわさ》が全国をかけめぐれば、「ひらり」にとって最高のPRになるではないか。私がダメでもいっけいさんがいる。彼は見るからにリコウそうだし、二人で相談して答を出すのだから、私のバカさも絶対にバレることはない。  私はこうして、収録当日、まるで「ひらり」の広報部長のような気分でスタジオに入ったのである。同じフロアの一〇五スタジオでは「ひらり」の収録中で、ディレクターや出演者たちが、 「がんばってこいよ!」  と、声をかけてくれる。私は全然自信はなかったが、隣りではいっけいさんが、ホントにおリコウな顔で悠然とみんなの励ましにうなずいている。  チームは「出羽錦・大乃国組」、「ケント・ギルバート、ダニエル・カール組」、「鳥越マリ・佐藤しのぶ組」、それに私たちの四組。問題は全国から寄せられたもので、それに対して四人の「博士」が答える。博士のうち三人はウソの答をすることになっており、たった一人の正しい博士を私たちが当てるというやり方である。博士は高橋英樹さん、大桃美代子さん、矢崎滋さん、桂文珍さんの四人。私はスタジオ前の廊下で四人とすれ違っただけで、やっぱり出るんじゃなかったと大きな後悔に襲われていた。それでなくとも頭が鈍くてクイズは苦手なのに、あの四人ときたら、ホントにウソつき芝居がうまそうである。私のように地味で慎ましく、人を疑うことを知らない女に、ウソなど見破れるはずがない。 「いっけいさん、私、帰りたくなってきた」  いっけいさんは私の肩など優しく抱き、ニコニコと答える。 「大丈夫。遊びだから」  ホントにこの優しさで、竜太はひらりとみのりの両方をたぶらかしたのね。  ところが、リハーサルに入るや、私はとんでもないことを知らされた。何と一問目は一人ずつ答えるんだという。私は青くなって、いっけいさんに囁《ささや》いた。 「どうしよう。聞いてなかったわ。私、ヤダよォ、帰る」  彼は竜太の役そのままに、落ちついて静かに私を励ます。 「大丈夫。たいした問題じゃないよ」  言葉通り、リハーサルでは私はみごとにピンポーンだった。私は自分の頭のよさに改めて気づき、もしかしたらクイズに向いているのかもしれないと、自分の隠れた才能に目覚めた思いであった。  ところが大相撲には「稽古場大関」という言葉がある。稽古では大関のように強いのに、本場所では全然力の出せない力士を言う。地味な私はこれだったのである。本番が始まり、司会の古館伊知郎さんが問う。 「では内館さん。水泳の自由型はどんな型で泳いでも自由ということでそう呼びますが、歩いてもいいのでしょうか」  私はずっと水泳部で、きっとNHKは気をつかってこの問題を私にふってくれたのであろうに、稽古場大関の私は高らかに、全国放送で答えていた。 「はい。歩いてもいいです」  ブッブー!! バカを証明するブザーが全国に鳴り響いた。大相撲だって初日でつまずくと、立ち直るのに五、六日かかる。ところがクイズは四問しかない。立ち直る前に千秋楽である。それでも私はいっけいさんにおすがりし、第二問目からは真剣に取り組んだ。 「ホワイトチョコレートはなぜ白いのか」 「化粧品『ウグイスのふん』は、どうやってふんを集めるのか」 「雛《ひな》飾りの五人|囃子《ばやし》は一人だけ楽器を持っていないが、何をするのか」 「日の出、日の入りとは太陽がどの状態になった時のことをいうのか」  こんなわかったような、わからないような問題、私にわかるわけがない。いっけいさんと二人、ひたすら直感である。ところが、二人の直感というのが実によく一致する。それも早い。 「これ!」 「これ!」  二人とも何ら迷わないので、サッとボードに答を書き、サッと出す。ボードを出すのは自慢じゃないが私たちが常に一番早かった。  ところが五人囃子だけ当たって、あとは全部大ハズレ。ブービーに大差をつけられて、堂々の独走ビリである。 「ビリかよォ。バカだなァ」 「ひらり」の収録中の出演者にさんざんからかわれ、私といっけいさんは落ちこんだ。きっと全国の視聴者は思っただろう。 「『ひらり』って、あんなバカな脚本家が書いて、あんなバカな役者が演じてたのね。何てバカなドラマかしら」  全国の皆さま、違うのです。あれは私たちの人柄のよさの証拠です。ね、人を疑うことを知らない無垢《むく》な二人なの! と叫んだところで、もう遅いか   あっという間の六、〇〇〇枚  二月十九日、「ひらり」の収録が全部終わった。  それより一か月前の一月十八日、私は六、〇〇〇枚の原稿をすべて書き終えていた。  終わったから言うのではないが、本当にあっという間だった。昨年の今頃、私はこのコラムにさかんに下町のことを書いている。「仕事とは関係なく、浅草のホテルに泊まっている」などと書き、下町の食べ物屋さんの紹介や、浅草の銭湯体験記などを毎週載せている。  実はあれは「ひらり」の準備がスタートした直後で、下町体験をやろうと浅草のホテルで約二か月暮していたのである。正式な記者発表は五月であり、まだオープンにできなかった。  下町体験といっても、ホテル暮しで何がわかるという向きもあろうが、私にとっては本当に貴重な二か月であった。ホテルは眠るためだけのもので、お風呂は銭湯、食事は町の大衆的な食堂を食べつくした。朝早くから夜遅くまで、スタッフとどれほど下町を歩き回り、どれほどたくさんの人たちに会ってお話を聞いたことか。  九十歳を超えたトビ頭、質屋のご主人、元力士、銀行マン、若い下町娘、もんじゃ焼屋の女店主、どぜう屋の若旦那《わかだんな》、お祭り野郎たち、お茶屋さん、チャンコ店のご主人、元芸者さん。もうとても数えきれないほど、たくさんの人たちからお話をうかがった。脚を棒にしてホテルに戻り、銭湯に行く。疲れる毎日ではあったが、楽しすぎるほど楽しかった。  もちろん、「ひらり」というタイトルも決まっていなかったし、ストーリーも全然ない。ただ、下町の元気な女の子をヒロインにしようということ、相撲部屋をからめようということだけがスタッフと私の合意点であった。  下町を歩き、下町の人と会うのは脚本家にとっては「シナハン」と呼ばれるもので、シナリオ書きのための取材である。演出家にとっては「ロケハン」で、どういうところでロケをするか、町のようすはどうかという取材である。  ずっと以前、NHKの美術デザイナーさんの、忘れられない言葉がある。 「シナハンに僕らも一緒に行くわけですけど、それはデザイナーにとってはセットを作るための取材ですよね。ですから参考になりそうなところはスケッチしたり、写真を撮ったりもする。だけど、僕らにとってのシナハンは、そういう具体的なことを知ろうと思って行くわけじゃないんです。何というのかな。舞台地になる町の息づかいとか、人々の匂《にお》いとか、そういう雰囲気みたいなものを感じに行くんですね。脚本家や、演出家と一緒に色んなことを話しながら、町や人々の匂いを五感で感じようとする。それをちゃんとやっておくと、セットをデザインする時にやっぱり違うという気がしますね」  もう七、八年前に聞いた言葉なのだが、私は今でも忘れられない。これは脚本家にとっても同じだと思う。やっぱり、トビや力士や祭りが生きている町の匂いを感じることは、セリフを書く上でも非常に大切なことかもしれない。「匂い」というものは、決して具体的なものではない。が、それを感じていると具体的なセリフを書く時に、何か厚みや深みが与えられるように思う。  たった二か月の、あげくホテル暮しではあったが、それでも私は「通い」では感じとれなかったであろう「匂い」に触れた気がしている。  そして、シナハンのあい間を縫ってスタッフと打合せを重ね、登場人物やストーリーを練りあげていった。浅草のホテルを引き払う一週間前に、私は「ひらり」のストーリーをレポート用紙で一〇〇枚近く、びっしりと書いた。約一週間かけて書いたそれは、我ながら「よくやった!」と思う出来で、何よりも最終回までストーリー展開が見えたことが、私をすごく楽にしていた。この一〇〇枚さえひもとけば、ストーリーは行きづまることはない。何を書いていいかわからなくなって、うなされることもない。何しろ六、〇〇〇枚も書くのだから、このくらい綿密に計画しておかなければ、必ず途中で困るだろう。私はそう思い、意気揚々とホテルを引きあげ、自宅に戻った。  ところが、何ということ。この一月十八日にすべてを書き終えるまで、私はただの一回も、ただの一回もその一〇〇枚をひもとくことはなかったのである。  力士役の俳優さんたちはオーディションに合格すると同時に、相撲の稽古を始めたのだが、あまりの迫力に、それを見学しただけで、ストーリーが変わり始めた。そして石田ひかりちゃんをはじめとする出演者と雑談などをしているとまたどんどん変わる。その方々の雰囲気や匂いが、「こんなことも出来そう」とか「こうしたら似合いそう」とか、思わせてくれるのである。そのうち、収録が始まって、実際に動き始めた俳優さんを見たら、もうもう変わりっぱなしである。  結局、連続一五一回の第一回目から、あの一〇〇枚は根こそぎといっていいほど変わってしまったのである。それこそ「匂い」を無視して、机の上で練りあげたストーリーの役に立たなさを今回ほど実感させられたことはない。  また、橋田寿賀子先生に、書く前に頂いたアドバイスは大きかった。 「内館さん、出し惜しみしちゃダメよ。六、〇〇〇枚も書くんだと思うと、ついつい出し惜しみをして、話を長く持たせようとするものなの。でも、それはダメよ。どんどん出して行くの。後は後で、必ずもっといい話が出てくるものだから」  私の一〇〇枚は、間違いなく水増しのストーリーであった。 「転ばぬ先の杖」の一〇〇枚を捨て、先が見えぬままに六、〇〇〇枚を書くのは恐かったが、非常にときめくことであった。登場人物が作者の思いを無視して勝手に動く快感を、今回ほど味わったこともない。  いい仕事をさせて頂いた。   二人の小三郎  連続テレビドラマを書いていて、何が一番楽しいかと言えば、それは「打上げパーティ」である。何が一番淋しいかと言えば、それも「打上げパーティ」である。  いつも思うのだが、スタッフもキャストも脚本家も、そのドラマの収録が続いている間だけの「家族」である。終われば、みんな次の仕事に入り、バラバラになる。もちろん、いい仕事をした後は、口々に言いあう。 「また一緒にやろうね」 「うん。必ずよ」  誰もが本気でそう思い、本気で口に出すのだが、いつまた一緒にやれるかはわからない。 「いつかまた」、「いつかきっと」という具体性のない思いを胸に、誰もが次のスケジュールに追われていく。 「ひらり」は収録だけでも八か月間という長丁場であった。私は準備期間も入れると約一年間というもの、「ひらり」だけを考えて暮してきた。こういう長期の連続ドラマになると、本当に別れが淋しい。まして、出演者たちは毎日のように局で会う。石田ひかりちゃんは、鍵本景子ちゃんを普段でも「お姉ちゃん」と呼んでいたし、石倉三郎さんなどは全員が「銀ちゃん」と呼ぶ。橋本潤さんは「ロッコー」であり、渡辺いっけいさんは「竜太センセ」であった。力士役の梅響は「ヒビキ」であり、梅十勝は「トカチ」であった。市子役の浅井星光ちゃんに至っては、芸名を忘れるほど「イチコ」で通っていた。  ここまで「家族」になってしまうと、別れの淋しさはしんしんと襲ってくる。 「もう明日から一〇五スタジオに来なくていいんだと思うと……淋しい」  みのり役の鍵本景子ちゃんは言った。  むろん、誰の胸にも淋しさばかりではなく、解放感もある。すでに次の仕事へ心が飛んでいることもある。そんな思いと淋しさが隣りあわせになるので、打上げパーティはいつでも異様に盛りあがる。いつでも朝まで飲み明かし、歌いまくり、しゃべりあう。 「ひらり」に限らず、どのドラマの場合も、少しでもタッチした人はみんな出席して下さる。今回も梅若部屋の土俵を作って下さった木内さんをはじめ、どぜう料理の指導をされた「駒形どぜう」の店長までかけつけて下さった。もちろん、俳優さんのマネージャーや事務所の方々も見えるので、大変な人数になる。打上げパーティに出るたびに、こんなにたくさんの人の力を借りてドラマが出来あがっていくんだなァ……と、しみじみ思う。  私は抜けられない用があって、「ひらり」のパーティは夜中の0時半から参加したのだが、スタッフもキャストもほとんど全員が残っていた。夜中の0時半である。三次会である。これだから打上げパーティは楽しい。  私が会場に着いた時は、大変な熱気の中で楽太郎師匠と石倉三郎さんがステージでかけあいをやっていた。何しろ二人ともプロであるから、会場は爆笑に次ぐ爆笑。 「こんなのタダで聴かせてもらっていいのかなァ」  とアチコチから声がもれたほどである。  そして、夜中の一時過ぎ、島田正吾さんがステージにあがられた。 「皆さまへのお礼をこめて、小唄をご披露させて頂きます」  誰も予期せぬことで、もう会場は割れんばかりの大拍手と歓声。みごとなセリフ入りの、粋な祭りの小唄が終わってからも、みんな静まり返っていた。こういう時にスルリと淋しさがしのびこんでくるのは誰もが同じなのだろう。 「もう島田先生のこと『小三郎おじいちゃん』なんて呼べないんだね」  女性スタッフが言い、周囲がうなずいた。  結局、四次会が終わって私が自宅に帰ったのは朝七時であった。すっかり明けた空を見ながら、私は「小三郎おじいちゃん」の小唄を思い出し、亡くなった祖父を思っていた。  実は私はひとつだけ、プロデューサーにも内緒で「ひらり」に私情をからめている。打上げの挨拶《あいさつ》で初めてバラしたのだが、「小三郎」は母方の祖父の名前である。新聞記者であったが、大学時代から左翼思想の持ち主で、レッドパージで投獄されている。プロレタリア文学誌「種蒔《たねま》く人」の同人で、母の話だと実家にはいつもプロレタリアートたちが集まっていたという。  祖父はその後、新聞社をやめ、かなり長く市会議員生活をした後、自分で商売を始めた。母は言う。 「商売しながら、いつでもマルクス読んでたわ」  その話を思い出した時、インテリ質屋役の島田正吾さんに、いつもシェークスピアを読んで頂こうと思った。私の祖父小三郎がマルクスを片時も手放さなかったように、質屋の小三郎はいつでもシェークスピアを読んでいる。「これだ。この設定だわ」と私は小躍りした。祖父は八十九歳で亡くなるまで老眼鏡をかけることなく、いつでも本を読み、地方紙に原稿を書いていた。昔話など一切せず、死ぬまで「明日」を見ていた人だった。  こうして小三郎のキャラクターが祖父とダブって出来あがったが、私はそのまま名前も同じにしてしまった。今まで若い人のドラマしか書いたことのない私にとって、高齢者を書くのは初めてであり、大きな不安があった。同じ名前にすることで、私を愛してくれた祖父が守ってくれるかもしれないという思いもあった。  打上げの小唄を思い出しながら、シェークスピアとマルクスの二人の小三郎に守られたと思った。   内館流人生の三箇条  先日、ある月刊誌が私自身のことをルポ風に取りあげてくれた。私の周囲にも綿密な取材をし、分不相応なくらい立派な記事にして頂き、私は本当にうれしかった。何しろ十ページもある記事なんて初めてであり、ジャーナリストの多賀幹子さんが書かれただけあって、本当にいいのである。  この記事を読みながら、私は面白いことに気づいた。ジャーナリストがクールに私自身を見つめて下さったことで、私は自分でもまったく気づかなかったことを知らされた気がした。  私自身の「恋」についてである。多賀さんはこんな風に書かれている。 「ドラマの印象から、内館は恋愛についてはエキスパートのようだが、脚本家の井沢満は、内館は自分の恋愛には冷静だという。彼は内館からファックスを受けとったことがある。内容は恋愛相談。相手は〇〇で、経過はこう、結論として三つほど考えられると、箇条書きに整理してきちんと書き出してある。自分のことを実に客観的に理性的に観察している姿勢にすっかり感心したという。  仕事上のアドバイスを彼に求めることもある。仕事内容を説明し、どのように処したらよいのか、選択はA、B、Cの三つが考えられると、これまたきちんと箇条書きで並べてある。それぞれのメリットとデメリットについても詳しく添えてある。 �生きていくうえの運動神経が良い人です�  という言い方を井沢はする。  飲酒、異性、ギャンブルなどについて、極端にのめりこむことがない。バランスをとる舵取《かじと》りがうまい。決してぶきっちょではないのである。  しかも、井沢が付け加えるのに、 �人を見るとき偏見がなく、人生を楽しむプラス思考の人�  でもあるのだ。  もつれた恋のドラマを得意とする内館が、自分の恋には冷静に分析を施すというが……(後略)」  これを読み、私はうなった。この通りなのである。この通りなのに、この通りであることに私自身が気づかなかった。  言われてみれば、確かに私には「物ごとを選択する時の思考基準」というものがある。これは恋に限らず、すべての物ごとを考える時の基準である。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ㈰具体的な筋みちで考えること。 ㈪野暮な方向は避けること。 ㈫選択に迷ったら、とにかく積極的な方を選ぶこと。 [#ここで字下げ終わり]  またまた箇条書きになってしまったが、この三つはいつも気持の中にある。㈰と㈫は、大学時代にラグビー部のマネージャーをしていた時、監督から徹底的に叩《たた》きこまれた考え方である。武蔵野美大のラグビー部などは、六大学などから見れば赤ん坊のようなチームであるが、それでも私はマネージャーとして、常に選手がベストコンディションで戦える状態に持っていくことだけを、徹底して叩きこまれた。  美大という、一応はナイーブなアーティストの集まりであるため、精神的にデリケートな人も多い。彼らの精神と肉体のバランスをいつもさりげなく観察しながら、練習メニューを作り、試合を組む。たとえば強豪のA大学と練習試合をさせるのと、絶対に勝てるB大学とさせるのと、現時点ではどちらがチームにとってベターか。三六五日、そんなことばかり考えていた。  そういう時にはメリットとデメリットを頭の中で箇条書きにして、監督やコーチと話し合う。常に㈰と㈫の考え方で、チームにとってより有利な方を選択する。時にはあえて「後向き」の選択をすることもあるのだが、それも「今は少し後退した方が、むしろ積極的なのだ」という決断である。  私は自分でも気づかぬうちに、ラグビー部マネージャーの考え方が、人生の考え方に反映されていることに、改めて驚かされていた。その意味では私は全然ぶきっちょではなく、バランス感覚もある。 「野暮な方向は避ける」というのはマネージャーとは関係ないのだが、私自身の尺度として常に持っている。むろん、これは非常に難しく、野暮に走りっぱなしであるが、それでも「野暮は避ける」と心に誓っているか否かではかなり違っている。  たとえば映画「危険な情事」のヒロインなどは、私の尺度では野暮の骨頂である。不倫の相手に包丁をつきつけたり、妻にイヤがらせの電話をしたりするのは、何も本当の恋にのめりこんでいるからではなく、単に頭の悪い女なのである。パーに過ぎない。  いつだったか、私が恋愛エッセイの連載を持っている女性誌の読者から手紙が来たことがある。 「内館さんは、恋において野暮なことは避けたいと書いているが、それは間違っている。本当に男を愛したら、粋だの野暮だのという冷静な判断など出来なくなって当然です。それが男を愛するということです。内館さんは本当に男を愛することを知らないから、そういうことが言えるのだと思います」  これには苦笑した。  私は恋愛において、「理性がなくなること」イコール「愛の深さ」だとは全く思っていない。 「自分を失い、わけがわからなくならなければ本当の愛ではない」と思ったことは一度もない。自分を失わなくても、わけがわかっていても、深い愛は深い。相手の男だって、それは十分にわかるはずであり、わかる人を愛したいと思う。 「我を失う」という状態は確かに感動的であるが、やはり私自身は自分の精神をコントロールできる女に憧《あこが》れる。   気配りの女  先日、電車の中で大声で話している女の声が聞こえた。  まるで周囲に聞かせているとしか思えない大声であり、すぐ近くに立っていた私はもちろん全部聞いてしまったのだが、これが結構考えさせられる話であった。話していたのは四十代の女の人である。  彼女が、あるスタッフ数人と仕事をしたという。ところが、彼女が仕事をする前に、A子という同年代の女の人が同じスタッフと仕事をしていた。彼女はA子の仕事が終了した後に、パート㈼という感じで同じような仕事をしたらしい。  彼女は電車の中で大声で言った。 「私、スタッフに言われちゃったのよォ。『あなたもA子さんのように、少しは周囲に気配りして下さいよ』って」  彼女はタバコを指にはさむしぐさをして、笑って言った。 「私なんて、『オイ、ライター』って、これもンだからサァ。とてもじゃないけど気配りなんてタチじゃないわけよ。A子はその点、気配りする人なんだよねえ。私にはできないね」  そう言って、カラカラと彼女は笑った。  私はそばで聞いていて、恥しさと同情が入りまじったような、何とも切ない気分になっていた。というのも、彼女の気持がよくわかるのである。  たぶん、彼女は「A子さんのように気配りして下さいよ」とスタッフから言われた時にムッとしたと思う。A子と友人であるらしいし、それだけに比較された気もしただろう。他のことならともかく、四十代にもなった女が、たとえ冗談めかして言われたにせよ、「気配りして下さい」と言われるのはかなり恥しい。それを彼女もよくわかっている。わかっているが、 「私はA子とは違って、そういうつまらないことにこだわれないタチなの」という論理で、自分を正当化したい。だからこそ、友達に大声でしゃべり、「これもンだからサァ」とタバコの火を要求する仕草までしている。  彼女の大声を聞きながら、私は考えさせられたのである。つまり、彼女の、 「A子は気配り女だけど、私はそういうこと出来ないタチなのよ」  というセリフに含まれる「A子への侮蔑」の匂《にお》いについてである。彼女はもちろん、自分を少しは恥しがって正当化しようとしていると思うが、「気配り」ということに対し、明らかにある種の「よくやるよ」という、侮蔑の匂いがあった。  よく考えてみると、「気配り」というのはいいことである。まして四十代の女が「これもン」でタバコの火を本当に要求しているとしたら、野暮の骨頂。エレガントでないこと最大級。ところが、この「気配り」をはじめ、本来は「いいこと」なのになぜか「侮蔑」の対象になりがちな言葉がかなりあることに気づいた。  たとえば「まめ」。 「あいつはまめなんだよ。好きな女に電話しまくるしサァ。課長の家に呼ばれた後も、すぐ奥さんにお礼の手紙書くんだからよォ」  そしてたとえば「サービス精神」。 「彼女はサービス精神のかたまりだもん。だから受けるのよ」  そして「礼儀正しさ」。 「あいつは上司に受けるワケだよ。やたら礼儀正しいもんな。男が朝っぱらからニコニコと『おはようございます』とか言うもん、立派だよ」  と、こうなる。これらの言葉が本来は「いいこと」の意味を持つ証拠に、必ず彼らはその後に自己弁護の言葉をつけ加える。 「俺はあそこまでまめにはできねえな。俺、細かいことダメなんだ」 「私はサービス精神ってないの。心にもないことできないし、正直にしか生きられないタチなのよ」 「俺って大ざっぱだからよ。礼儀とか、そういう神経質なことに気配りできねンだよ」  面白いなァと思う。私も含めて多くの人の気持には「細かいことは気にしない」、「大ざっぱ」、「正直」ということがイコール「豪放」であったり、イコール「純真」であったりという肯定の思いがある。ところが、その一方で、「気配り」や「まめ」を一生懸命にやって、そして何かを勝ちとった人間に対しては腹が立つ。だから「自分はそういうみっともないことはしない」と叫んで正当化しないと、やっていられない。  やはり、四十代の女は気配りができて当然だし、それはみっともないことではなく、女として当然のエレガンスだろう。  この一月、作家の林真理子さんと金沢を旅した。彼女の案内で雪の町を回った時、ちょうどお昼になった。彼女はハイヤーの運転手さんに、懐紙で包んだお金をそっと渡し、言った。 「私たち、お昼を食べて来ますのでお待ち下さいね。雪がすごいし、運転手さんもどこかであったかいものを」  私はもう穴がなかったら掘ってでも入りたい気分であった。一日中つきあって下さる運転手さんにそっと志を渡すという気配りが、私にはまったくなかった。隣りに座っていながら、彼女がいつ懐紙で包んだのかも全然気づかなかった。林さんという人は、私の女友達の中でも際立って優しい心配りのできる人である。それも押しつけがましくなく、相手に負担をかけない言い方をする。みごとである。  自分を正当化せず、認めるところから始めなければいけないと、彼女を見ているといつも思わされる。   十八人のピンクレディ  仙台に行くために、東京駅の新幹線ホームに立っていたら、突然目の前にショッキングピンクの一団が現われた。それは何と十八人もの若い女の子たちで、たとえは古いが「月光仮面」の如く、まるで疾風《はやて》のように、どこからともなく現われた。  彼女たちはたぶん全員が二十代前半で、全員がショッキングピンクのセーラーハットをかぶり、ショッキングピンクのジャンパーを着て、ショッキングピンクのソックス姿である。そして淡いグレーの短いキュロットスカートに、真っ白なスニーカー。彼女たちはホームにピシッと一列に並び、入ってきた「やまびこ」にいっせいに頭を下げた。 「な、何なんだ! これは」  私はあっ気にとられて、十八人の「お辞儀する乙女たち」を見ていた。あっ気にとられていたのは私ばかりではない。ホームに立っていた乗客のほとんどが初めて目にした光景だったのだろう。上品な紳士も半分口をあけて、目を離せずにいた。  彼女たちはグリーン車の客が一人残らず降りるまで、じっとホームの床を見るスタイルでお辞儀を続けている。  やっと我に返った私は、彼女たちがショッキングピンクのクズ箱や、小さな掃除機を手にしていることに気づいた。口を半分あけていた紳士も我に返ったらしく、つぶやいた。 「お掃除お姉さんか……」  乗客が残らず降りるや否や、彼女たちはサーッと車内に入って行った。何だか私は砂時計を見ているような気がした。車内に入る時の速さといったらまるでショッキングピンクの砂が音もなく落ちるようなのである。  すぐに「やまびこ」の入口には「おそうじ中です」という看板がかけられ、ショッキングピンクの一団は、クズ箱や掃除機を手に車内にサーッと散った。私はそれを見ながら、「虫歯」のCMを思い出していた。手に手に槍《やり》などを持った、ちょっと可愛らしいバイ菌が人の口の中を走り回るようなのである。そのくらい、彼女たちの動きは機敏で、ショッキングピンクのユニホームはショッキングだった。  私は目をこらして、ホームから彼女たちを見ていたが、その働きぶりは拍手をしたいくらいみごとなものだった。何しろ若いから動きが速い。あれよあれよという間に座席カバーを取りかえ、肘《ひじ》カバーを取りかえ、灰血をきれいにし、ゴミを捨て、床にクリーナーをかけた。面白いことに、チーフ格のリーダーが車両の端で腕組みをして立ち、じっとみんなを見つめている。彼女はショッキングピンクのユニホームは同じだが、何もせずに厳しく目を光らせているのである。  何だかスポーツを見ているような、みごとな動きで車内清掃は終わり、また砂時計の速さと静かさで、十八人のピンクレディたちはホームに出てきた。そして再び一列に並ぶと、ホームの乗客に一礼し、サーッと階段を降りていき、消えた。 「やるもんだねえ」  ビジネスマン風の乗客二人が、顔を見合わせてつぶやいた。  一列になってお辞儀をしたり、寸分乱れぬようすなどを見た人の中には、 「何だか悪い意味で体育会的で、恐いものを感じるわ」  という意見もあろう。それは私もよくわかる。  が、そう思う前に私は拍手したくなっていた。彼女たちがJR東日本の社員なのか、それとも清掃専門会社の社員なのか、バイト学生なのかは知らないが、「清掃」のイメージをひっくり返してくれたと、正直なところ思わざるを得なかった。  何しろ速い。可愛い。あっけらかんとゲーム感覚である。 「清掃」というのは、頭と体と両方を使う仕事だと私はいつも思う。よく行くスーパーマーケットにはベテランの清掃係がいて、私はいつも舌を巻いている。六十五歳くらいの男の人なのだが、その手際のよさといったらない。客でごった返す時刻でも、人波を縫ってカゴやカートの整理のうまいこと、うまいこと。  ある時、あまりのうまさに私は注意して見ていたことがあった。その時に気づいたのだが、彼は「動線」を最小限度におさえている。つまり、自分が動く道順を短くし、無駄な動きによる疲労がこないように頭を使っているのである。アッチにカゴ置場があり、コッチに清掃道具置場があり、となれば当然「動線」はふえる。しかし、彼は客の散らかしたカゴを片づける動線上に、ゴミ箱を置き、清掃道具を隠している。同じラインを歩く途中で色んな清掃ができるように考えていることがよくわかった。  これはハッキリ言って、若い人には難しい。ベテランのプロの技である。しかし、ある夕方に見てしまった。その六十五歳くらいのベテランが、ガックリと疲れ切ってマーケットの裏に座りこみ、大判焼を食べていたのである。甘い物を食べたくなるほど体を使う仕事は、年配者にはつらいだろう。  私はピンクレディの動きを見ながら思っていた。「コバルト・ボーイズ」や「ゴールド・ミドル」といった集団も作ったらどうかしら。「コバルト・ボーイズ」は若い男の子の集団で、コバルトブルーのユニホームをおしゃれに着こなし、ひたすら力仕事部分を請け負う。「ゴールド・ミドル」は中年以上のベテランで、清掃の能率や動線を考え、腕組みして目を光らせる集団。むろん、ゴールドのユニホームである。  適材適所で、それにカッコいいと思うけどなァ。   結婚スピーチ  結婚式のスピーチというのは本当に難しい。先日、私は絵に描いたような野暮なスピーチをしてしまった。NTVの「……ひとりでいいの」でご一緒した小山プロデューサーが、三十六歳にして年貢を納められたのである。お相手はやはり「…ひとりでいいの」を担当してくれた美人スクリプターのマリちゃんである。  二人は水面下で秘かに愛を育《はぐく》んでいたらしく、婚約のニュースに誰もが絶句した。つきあっていることを知っている人は、ほとんどゼロに近かったのではないだろうか。  私は二人の結婚式でスピーチを頼まれた時、話したいエピソードがすでにちゃんとあった。二人の交際を初めて知った日のことである。  それはある結婚式でのこと。私の右隣りに小山さんが座った。私の左隣りには、「外科医有森冴子」の細野ディレクターが座っておられた。私は久々に会う小山さんに聞いた。 「どう? 身辺変わりなし?」  小山さんはすでにマリちゃんと結婚の約束ができていたのに、ものすごく淋《さび》し気に目を伏せ、言ったのである。 「何ひとついいことなんてないよ。淋しいものですよ、僕は」  その演技にコロリとだまされた私は自分の淋しさも忘れて、小山さんを励ましたのだからおめでたい。 「大丈夫よ、今に春が来るわ。どん底の後には春がくるのよ」  小山さんは小さく吐息などもらし、気弱な笑みを浮かべてつぶやいた。 「イヤァ、僕はずっと冬です……」  クーッ。今になっても腹が立つ。あの名演技はプロデューサーにしておくのは惜しいわッ!!  すると、左隣りの細野さんが私に話しかけてこられた。 「内館さん、元気そうだね」  すっかり小山さんにだまされている私は、同じように小さく吐息などもらして答えた。 「元気ですけど……小山さんと私にだけ春が来なくて」  細野さんは声をひそめて囁《ささや》いた。 「もう知ってる人も多いけど、小山はマリちゃんと三月に結婚するよ。今は春|爛漫《らんまん》ですよ」  私のぶっ飛んだことと言ったらない。目は点になり、全身が一瞬にして化石になっていた。やっと我に返って右隣りをうかがうと、小山さんはずーッと演技者のままで、切なく肩を落としてお料理を食べている。が、一瞬のうちに私は細野さんの言うことが真実だとわかった。俳優ではない小山さんは、隅々まで演技が行き届かず、肩はしょんぼりしていても目は笑っていたのである。私はホントにどうしてくれようかと思った。このままではおくものか! この地味で心優しい私をだましたあげく「どん底の後には春がくるのよ」などと励ますことまでさせたのである。  普通ならここで「ちょっと、小山さんッ! 聞いたわよッ」と右隣りにかみつくのだが、私はそういうバカなことはしなかった。もっといたぶって楽しもうと思ったのである。私は淋し気に言った。 「ね、小山さん。いつの日か、私たちにも花咲く春が来るのかしら」  何も知らぬ小山さんはますます演技に磨きをかけて、全身に淋しさをにじませ、でも目だけは笑って答えた。 「内館さんには必ず春が来ますよ。でも……僕は淋しいままサ、一生」  ホントによく言う。「ウソつきはプロデューサーの始まり」ってホントね。 「でも小山さん、ホントは春がそこまで来てるんじゃないの?」 「何を言ってるんですか。この顔が春の来た顔ですか?」  とうとう私の堪忍袋の緒が切れた。 「もうッ! たった今、細野さんに全部聞いたわよッ」  今度は小山さんの目が点になった。というのはウソで小山さんはヘニャラーと頬をゆるめて、 「バレたんならしようがないな」  と、披露宴のお開きまで、ずーっとマリちゃんのことをのろけまくったのである。  そして先日、小山さんの式が近づいたある夜、うちに一枚のファックスが入った。見ると小山さんからで「ひらり」をほめちぎっている。完璧にお世辞とわかるほめ方である。私はピンときた。スピーチで「右隣り」の件を言われると恥しいから、ほめて点を稼ごうとしているに違いない。そうはいくか! これもネタにしてくれる!  私は式場で小山さんのファックスを読みあげた。 「私に言って欲しくないことがあるので小山さんはこんなファックスまでくれました。ここまでよくほめるものです。ちょっと聞いて下さい、『ひらりは内館さんのパワー、才能、情熱が結実し、誠におみごと。えげつなさで人を引くのではなく、ストレートに、前向きに、現実的に、力強く、明るく正しいドラマで、まさに内館さんの横綱級の大技です。立派』と、こうです。ここまでお世辞を言っても小山さんはバラされると恥しいことが……」  と言いかけ、私は焦った。会場がシーンと静まり返っている。このバカなファックスにみんな笑うと思ったのに、誰一人笑わない。シーンである。 「ジョークに受け取ってもらえなかったんだ……」  と気づいた瞬間、私はもうパニックである。やっとの思いで「右隣り」のエピソードをバラしたのだが、「自分をほめた女」に場内は静まり返っている。 「野暮なことは嫌い!」なんて豪語するのはもうやめた。孫の代まで笑われる大野暮をやってしまった。もう二度とスピーチはやらない。   私に足りないもの  前回に引き続き、NTVの小山さんの結婚式の話である。前回、私は野暮の骨頂とも言えるスピーチをしてしまったと書いたが、実はもうひとつ、孫の代まで恥しいことをやってしまったのである。  結婚式は三月二十日で、土曜日で春分の日。つまり祝日である。私は今でもOL時代とあまり変わらない暮しをしており、朝九時頃から仕事を始めて夕方六時には終える。「ひらり」のように追われる仕事の最中は夜も机につくが、普段はそういうことはあまりない。  それだけに、完璧にOL型だと思っていたのだが、自分でも気づかぬうちにOL時代とは違ってしまった一点があることに気づいた。  土・日、祝祭日に鈍くなっていたのである。つまり、休日の感覚に鈍い。  OL時代はもうひたすら、休日だけを指折り数えていたので、休日に対してはものすごく敏感であった。特に祭日はいわば拾い物の休日なので、忘れるわけがない。  ところが、脚本を書く仕事を始めてからというもの、休日は〆切り日をにらみながら自分で作れる。どうしても観たい映画が「本日まで」とあれば、「今日は仕事は休み」と自分で決めて、サッサと映画に行ける。自由業というのはカレンダー通りに働く必要は全然ないのである。  小山さんの結婚式の前日の金曜日、私は銀座の大きな文房具店で、豪華な御祝儀袋を買った。袋に見栄を張るわけではないが、三十六歳で年貢を納めた男にはこのくらいが似合う。それはもう鶴やら亀やら松竹梅やらがやたらとくっついていて、金銀の水引きがレーザー光線のようで、何とも豪華|絢爛《けんらん》にケバい。  私は普段、キャッシュをほとんど持ち歩かないので、豪華絢爛ケバ袋をレジに出した時、「銀行に寄らないと、袋の中に入れるものがないわ」と思った。思ったらすぐに寄ればよかったのである。ところが祭日の感覚に鈍いもので、「明日は土曜日でキャッシュコーナーはあいてる。そうだ、結婚式に行く前に寄ればいいんだわ」と思ってしまった。何しろ、心の夫水戸泉が五連敗の泥沼。心の年上妻としては、銀行に寄るより一刻も早く帰って、テレビで声援したかったのである。  そして結婚式当日、自宅近くの銀行に寄ったらお休みである。私は「あら、店内改装かしら」と思ったのだから、結婚式にふさわしくお目出たい。次にJRを渋谷《しぶや》で降りて、駅近くの銀行を二軒回ったがシャッターが降りている。それでも私は「土曜日って銀行はお昼からだったかしら」と思ったのだから、ますますお目出たい。  こうして地下鉄銀座線で赤坂見附に向かいながら、私は「そうだ、土曜日は全銀行の半分しか開いていなかったんだ」と気づいたのである。気づくも何も、そんな規則はまったくない。よくもこれで「ひらり」に銀行マンの父親を登場させたものである。  赤坂見附駅付近は銀行が集中している。私は駅前の東海銀行に行った。閉まっている。さすがにおかしいと思い始めた。「きっと銀行組合の創立記念日か何かで休みなんだわ」と思い、すぐに駅ビルに走った。ビル内にキャッシュコーナーがあったのを思い出したのである。町の銀行は休みでも、駅ビルの銀行は駅ビルが休まない限り、休まないものだと思いこんでいた。  ところが休みである。さすがに茫然《ぼうぜん》と突っ立っている私に、店員さんが声をかけた。 「今日は祭日ですからお休みです」  全身の血が一度に逆流した。結婚式まであと二十分しかない。私は外に飛び出し、タクシーに手をあげた。すると運転手さんが言ったのである。 「確か、祭日でもあいてる銀行を見たことがあるよ。この先で」 「ホント!? すぐに行って下さいッ」  運転手さんは赤坂の通りを走り回り、何軒もの銀行の前につけたのだが、全部閉まっていた。 「イヤァ、カン違いだったな。祭日じゃない日に見たのかもな」  運転手さんのことは責められない。思えばタクシードライバーも休日はカレンダー通りではないのだ。  私はこうなったら出席者の井沢満さんに借りるしかないなと、タクシーの中で腹をくくっていた。  ところがイザとなると言えたものではない。控え室でみんなが華やいで歓談している最中に、いくら私でも井沢さんを物かげに引っぱりこみ、 「お願い。お祝いのお金貸して。豪華絢爛な袋だけはあるの」  とは言えない。この期に及んでも、男に対してはカッコつける私の愚かさよ。  とうとう、あの鶴やら亀やら松竹梅やらの豪華絢爛ケバ袋はカラっぽのまま、私のハンドバッグから出ることはなかったのである。  その夜、恥をしのんで小山さんの自宅にファックスを入れた。 「……そんなわけで、品物でお祝いしたいと思います。何か足りない物がありましたらおっしゃって下さい」  すぐに小山さんから返信が届いた。 「笑いました。本当にあなたって人は必ずオチがつくね。足りない物は何もありませんからご心配なく。それより明日から妻とヨーロッパです。では元気に新婚旅行に行って参ります。バイバーイ」  一度でも私と仕事をご一緒したプロデューサーは、私のドジには慣れているが、ここまでアテにされていないとは思わなかった。  考えてみれば、足りない物がありすぎるのは私の方だった。注意が足りなく、落ちつきが足りなく、キャッシュが足りなく、あげく夫まで足りないのである。   ロッコー小林の始球式 「ひらり」で阪神タイガースファンの外科医・小林雅人を演じてくれた橋本潤さんから、ある日ハガキが届いた。小林は「六甲おろし」ばかり歌っているので、ドラマの中では「ロッコー小林」と呼ばれていた。 「内館さん、僕は四月十日の阪神タイガースの開幕戦で始球式をやることになりました。ロッコー小林、最後の大仕事であります」  私は二十年以上前からプロ野球は一切見ない。野球と名のつくものは高校野球も一切見ない。大相撲を愛するあまり「野球と相撲と両方見るのは節操がないわよ。早稲田と慶応と両方を愛するようなものよ」とメチャクチャな論理で、それ以後、野球は一切見ていない。そのくせプロレスは熱狂的に見続けているのだから、いい加減である。  しかし、野球を見ない私には「開幕戦の始球式」というのがどれほどスゴイことか全然わからず、「ふうん」の一言でハガキを引き出しにしまった。  ところが、このニュースを聞き知った「ひらり」のスタッフたちが、みんなムッとしているのである。 「開幕戦の始球式なんて人生にあることじゃないよ。頭くるなァ、ロッコーめ」 「阪神は今年、久々に甲子園で開幕戦だろ。ギッシリのアルプススタンドで始球式なんてムッとくるよなァ」  私はスタッフに聞いた。 「ねえ、そんなに嫉妬《しつと》するほどスゴイことなの?」 「スゴイよ。ロッコーなんておそらく毎日、投球練習してるよ」 「そう言えば、ハガキは墨で書かれていて、字に気合いが入ってたわ」 「だろ」 「開幕戦の始球式って、相撲で言えばどういうこと?」 「アナタに説明するのはホント理屈じゃないよな。まァ……何ていうか、横綱の土俵入りでロッコーが露払いするようなもんって言えばいいのかなァ。ま、ちょっと違うけど、スゴさは同じだよ」  私は「露払い」と聞いて、ロッコーの大役がどれほどのものかイヤというほどわかった。私は相撲に置きかえれば何でもたちどころにわかってしまう女なのである。と同時に、露払いという大役にロッコー小林を選んで下さった阪神タイガースに、心からお礼を申しあげたい気持になっていた。  実はロッコーが「ひらり」に登場するや、大阪の皆さんからたくさんのお手紙が寄せられたのである。新聞に投書も出ていたが、江戸前の「ひらり」に突然、浪花《なにわ》の男を登場させて大阪をバカにしているという声である。まして声高に「六甲おろし」を歌う男なんて、これはもう巨人ファンの東京人が、阪神タイガースをバカにしているとしか思えないというものも少なくはなかった。  これらの声は私自身の思いとあまりにかけ離れていて、実は仰天したのである。私は大阪がとびっきり大好きである。もう何年も前から、インタビューなどでは必ず答えていた。 「世界中の都市の中で、東京を一番愛しています。二番目はパリでもニューヨークでもなく、大阪です。東京以外に住みたいのは大阪で、もしも大阪で長期の仕事があったら、私は大阪にアパートを借りて暮したい」  大阪という都市のどこが好きかといって、東京に絶対に迎合しない個性の強さがいい。地方都市が東京化してくる傾向がある中で、大阪はどこまで行っても「西の横綱」を張り通している。東京という「東の横綱」の下で「東の大関」に甘んじようとは絶対にしない。そこがいい。  私は大阪人も好きである。私の友人が大阪のバーで「闘魂こめてー」と巨人軍の歌を歌い、大阪人から叩《たた》き出されたエピソードがある。もし、大阪人が東京で「六甲おろし」を歌っても、江戸っ子は叩き出すことはまずしない。私は大阪という町、大阪人という人たちの持つ熱さのようなものに、たぶんどこかで憧《あこが》れている。  そんな思いがあって、私は「ひらり」の中にロッコー小林を登場させた。江戸前文化の中に、突然異質な浪花文化が殴り込みをかけたら、どんなに緊張感が出るだろうという思いがあった。  ドラマの中で小林が使う大阪弁や、小林の大阪人気質は、現実の大阪とは違うという指摘も、大阪から届いた。が、ひらりや銀次らが使う江戸弁、江戸っ子気質も現実の東京とはいささか趣きが違っているのである。私はひとつのユートピアとして、「両国五丁目」という夢の町を作り、江戸気質を現実よりも隈取《くまど》り濃く書いた。その意味とまったく同じように、ロッコー小林も現実の大阪よりも隈取り濃い浪花っ子として登場してきたといえる。  私は大阪には縁がなく、実際には大阪を知っている人たちにブレーンになって頂き、大阪弁も橋本潤さん自身が江戸前の隈取り濃さと対比しながら、考えてくれた。大阪や阪神をバカにするどころか、ドラマのラストでは小林が江戸前の竜太を叩《たた》きのめして、恋の戦争に勝っている。これは私の中では初めから決めていたことであった。  とはいえ、そんなことはドラマの結末を知らぬ皆さんにはわからぬことであり、「大阪をよくも」と怒るのも無理はない。それだけに、今回の阪神タイガースの決断は嬉しかった。ロッコーの純粋な愛情をわかって頂けたとホッとしている。  今季、私は阪神タイガースの試合だけは見ることにした。   無口なパリ  私は今、非常に無口になっている。無口にならざるを得ない状況に置かれており、どうしようもないのである。  実はパリにおり、これもパリのホテルで書いている。フランス語は「ヴァン・ブロン(白ワイン)」しか知らないので、無口にならざるを得ないという悲しさ。  私のプレスマネジメントをやってくれている進藤万里子は、村上弘明さんや仲村トオルさんの専属スタイリスト。私とは中学の同級生である。彼女は長いことパリに住み、パリで仕事をしていたので、フランス語はペラペラである。私の今回のパリ行きに関しても、彼女が何から何まで世話してくれた。  ところが、彼女は思いもかけぬことまで世話してくれたのである。私が日本を発つ直前に、彼女は言った。 「牧チャン、パリでフランス語の個人レッスン受けた方がいいわ。優秀な女子大生に話をつけておいたから、さぼらないでレッスンしてね」  私は内心、焦った。フランス語は大学時代もやらず、ABCすらわからない。一か月程度の滞在で会話ができるようになるはずもない。が、これもチャンスだし、何ごとにも軽さが必要だとばかり、私は軽やかにその申し出を受けたのである。  が、これは甘かった。フランス語の難しいことと言ったらお話にならない。その上、先生のアストリッド嬢は日本語が全然できない。彼女は英語で私にフランス語を教えるのである。正直言って、とんでもないことになってしまったと思った。  それでもパリに着いた翌日から、私はアストリッドのアパルトマンに通った。定期券を買ってメトロを乗り継ぎ、我ながら涙ぐましい勉学心である。  というのも、フランス人はフランス語を話せる人間には態度がコロリと変わることを到着初日から認識してしまったせいである。万里子も仕事があって、私と一緒にパリに来たのだが、ホテルでもカフェでも画廊でも、私と万里子に対するフランス人の態度が全然違うのである。  たとえばホテル。私の泊まっているホテルは十八世紀の建物で、「古きよきパリ」の匂《にお》いがする小さなところである。入口にはレセプションがあって、無愛想なムッシューが座っている。いささかバカにしたような目で、最初は私と万里子を見ていた。ところが万里子が囁《ささや》くように美しいフランス語を話すと知るや、コロリと態度が変わった。万里子にばかりか私にまで、ニッコリして、 「オヤスミナサイ」  などと言ったりする。私は心の中で「最初から愛想よくしろッ!」と毒づくのだが、日本語でなら啖呵《たんか》もきれるがフランス語は「ヴァン・ブロン」オンリーである。煮えたぎる思いを隠して、こっちもニコニコと、 「ハイ、オヤスミナサイ」  などという口惜しさ。私はアストリッドにしっかりとフランス語を習おうと、この時、心に誓ったのである。  アストリッドはモンパルナスのシックなアパルトマンに住み、弁護士をめざしている。大学の法科の学生で、美しい上に知的な二十二歳であった。  窓からはモンパルナスの街が見え、柔らかい四月の雨に煙っている。「何だか映画を観ているみたいだなァ」と私は窓辺でうっとりしていたのだが、 「ではレッスンを始めます」  というアストリッドの声で、神妙に机についた。彼女は英語で言った。 「フランス人の子供が初めて英語を学ぶ時に使う絵本で勉強しましょう。マダム・マキコ、いいですね?」  私はもうひとつ知っているフランス語で神妙に答える。 「ウイ」  絵本を開いて情けなくなった。幼児用のレッスン書なのでほとんどが絵である。文字といえば、 「これは何ですか?」 「これは本です」  などと書いてある。「マダム」と呼ばれる年齢になってから「これは本です」をやろうとは思いもしなかった。  ところが情けないのは絵本ではなく私自身である。「LIVRE(本)」というフランス語が難しくて発音できない。カタカナで書けば「リーブル」だが、「RE」が絶対に「ル」には聞こえない。のどの奥から出てくるような音にならぬ音なのである。日本人はみんな「R」の発音に泣くと聞いてはいたが、何とも不思議な、妙な音である。当然、「LOUVRE」も「ルーブル」などと言っても、フランスでは全然通じない。 「これは犬です」、「これはドアです」、「これは靴です」とたどたどしく口に出しながら、私は心の中で「犬か猫か見りゃわかるでしょッ」と思うのだが、生徒たるもの、そういう態度では上達しない。私は幼児のように「これは犬です」と繰り返した。  アストリッドは教え方がうまい上に、生徒の気持をはかることも上手で、私のうんざりを察すると、サッと今度は私を質問者の側に回す。 「これは何ですか? と言ってみましょう。ハイ、Qu'est《ケ》 ce《ス》 que《ク》 c'est?《セ》」  私は「そういえば東京に『ケスクセ』というバーがあったな」などと思っているのだから、上達も何もあったものではない。  そして私は明日、アストリッドの実家に泊まりに行く。フランス語しかできない人たちの中に単身乗り込むのかと思うだけで、武者震いがくる。   フランス語合宿  パリに着いて一週間がたつが、私は昨日、フランス語を教えてくれている女子大生アストリッドの実家に泊まりに行ってきた。  私はフランス語はABCもわからず、パリに着いて初めて、ゼロからアストリッドに習っている。当然、大騒ぎである。それなのに、彼女は軽やかに英語で言った。 「私の実家に一泊してよ。パパとママと弟がいるから、みんなでおしゃべりすればマキコのフランス語の実践になるし、遊びがてら来てよ」  実践も何も、一回だけレッスンを受けた後であり、ABCも満足に言えない。家族みんながフランス語を使う中で、私はどういう態度で過ごせばいいのか。考えれば気が重くなるが、一言もしゃべれぬ東洋人の来客に気を使うのは、彼女の家族の方だろう。が、アストリッドはニコニコと誘ってくれる。私は「遊びがてら」に乗って、大胆にも一泊させて頂くことにしたのである。  朝九時、私とアストリッドはサンジェルマン駅から地下鉄に乗った。彼女の実家は地下鉄と快速電車を乗り継いで、サンジェルマン駅から約一時間ほどの郊外にある。地下鉄に乗るや、アストリッドは私に言った。 「マキコ、レッスンしましょう」  オイオイ、まだ朝の九時だよ! と言いたくてもそんなフランス語が口から出てくるわけもない。私はフランス語の絵本を開きながら、地下鉄の中で礼儀正しく講義を受けた。 「コレハ魚デス。コレハ花デス」  よりによって、とんでもないハンサムな男の人が、隣りの座席に座っている。そしてニヤニヤと笑って私のフランス語を聞いている。私は絵本をめくりながら、さり気なく日本語で言った。 「私は水戸泉が趣味なの。アータなんかに笑われたって平気なんだから。体重一九〇キロ以下は男じゃないわ」  大和《やまと》撫子《なでしこ》の微笑《ほほえ》みで言ったので、ハンサム男はほめられたと思ったらしい。とろけるような笑みを私に向けた。どこの国でも、ハンサム男というのはうぬぼれが強い。  郊外の駅で降りると、今度はバスに乗る。アストリッドは地下鉄の切符もバスの切符も、全部私にフランス語で買わせる。実家に着いた時にはいい加減くたびれ果てて、ひと眠りしたくなっていた。  が、地獄はこれからであった。家族は留守で、私とアストリッドの二人きりである。彼女は英語で言った。 「今から絶対に英語を使わないでね。ここにいる間は、すべてフランス語よ」  そう言われても、私は「コレハ花デス」しか言えないんだってば。 「マキコ、何か飲む? コーヒーとお茶とコカコーラがあるわ」  もちろんフランス語であるが、「コーヒー」とか「お茶」くらいは聞きとれる。時計は朝の十時半である。それから昼すぎまで、もう息もつけぬほどレッスンである。おかげで上達したの何のって。と言ってもせいぜい、 「コレハ私ノ帽子デス。アレハ母ノ上着デス」  くらいのものだが、ABCすらわからなかった私にしてみれば、ほとんどフランスを制覇したような気分である。  ランチを食べる頃、アストリッドの弟が帰ってきた。レミイという名の彼は、水戸泉が好きな私から見ても、みごとに美しい少年であった。十六歳だというが、映画「ベニスに死す」に出てきた美少年そのものである。彼は英語を勉強している最中とかで、さかんに私に英語で話しかけてくる。私は英語も全然うまくないが、それでもフランス語ばかり聞かされている耳には、何とわかりやすいことか。 「午後からは町の大聖堂を見に行きましょう」  アストリッドが言った。私は「大聖堂」というフランス語の、「カテドラル」を耳にキャッチし、外出するんだなとわかった。これでしばらくは休める。この言葉ほど嬉しかったことはない。が、ここからがもっと地獄であった。  町を歩くとカフェがある。アストリッドは私に言う。 「カフェに入ったつもりで、コーヒーをひとつ頼む言葉を言ってみて」  しばらく行くと、今度は駐車場がある。彼女は車を指さして私に聞く。 「これは花ですか?」  私は「花なわけねーだろ。見りゃわかんじゃねーか」と言いたいのをグッとこらえて、言う。 「イイエ、花デハアリマセン。コレハ車デス」  立派な大聖堂の奥には、美しいフランス庭園があった。私と彼女は、並んでベンチに腰かけた。赤やら黄色やら、色とりどりの花々が咲き乱れている。これでやっと休めると思いきや、彼女は「赤」「黄」「紫」などと色の名前を私に発音させる。「赤」は「ルージュ」と日本人はカナをふるが、発音は全然違い、そう簡単に言えるほどナマやさしくはない。  夜は公認会計士のパパと、超美人のママと、美少年の弟と、全員で夕食を頂いたのだが、パパに皇太子の結婚のことを聞かれた。どうもテレビのニュースでやっていたらしい。「テレビジョン」と「マサコ」という言葉だけはしっかりとキャッチできた。日本語ならいくらでも言えるが、フランス語である。私が答えたのは、 「マサコかしこい。マサコ美人」  ああ、我ながら泣けてくる。しかし、突然の東洋人を心からあたたかく迎えてくれて、最高の一夜であった。  ところが翌朝も八時四十五分からレッスン、私はこれは「遊びがてら」に名を借りた「フランス語合宿」だと、やっと気づかされたのである。   和食の夢  パリは連日、とても不安定なお天気が続いている。だいたいが毎日のように雨なのだが、時おり雨雲が切れて、明るい春の陽が射してくる。そうなると雨あがりの街は本当にきれいで、柔らかな新芽がふいたマロニエの街路樹などは、息を飲む美しさである。  そんな雨あがりの午後、私はサンジェルマン通りに面したカフェで、この原稿を書いていた。ガラス張りの窓辺の席なので、雨あがりの街が見え、道行くパリジャンやパリジェンヌが見え、いくらながめていてもあきない。  お昼になると、私は白ワインとフランスパン、それにハンバーグを頼んだ。昼間からワインが飲めるのも外国ならでは……である。私はグラスを傾けながら、あかず街をながめていた。  四月中旬の今、日本人観光客は非常に少ない。ほとんどいないと言ってもいいくらいで、モンマルトルでも、サンジェルマンでも、シャンゼリゼでも、日本人に会うことはめったにない。ワインを飲みながら街を見ていても、日本人は一人も通らない。  その時、初めて東洋人らしき男の人が一人歩いて来た。背が高く、帽子をかぶっているが、どうも日本人らしい。 「あ、日本人だ。しばらくぶりに見たわ」  と思っていたら、その日本人が、カフェの窓辺から見ている私に気づいて立ち止まった。そして、びっくりしたように口が、 「ウチダテサン!」  と動いた。同時に私も店内で叫んでいた。 「あッ! 山崎さん!」  こともあろうに、彼は浅野ゆう子さんのマネージャーだったのである。私は以前に一度お目にかかっただけだが、窓ごしに大喜びで手招きした。 「入ってきて! お茶しましょう!」  山崎さんは驚いてカフェに入ってきて、私の隣りに腰をおろした。 「イヤア、びっくりした。日本人に全然会わないのに、こんなところで内館さんに会うとは」  ゆう子さんが仕事でパリに来ていることは聞いていたが、まさかサンジェルマンの通りすがりに、山崎さんが私を見つけるとは思ってもみなかった。私はフランス語合宿にアゴを出した直後で、ペラペラと日本語が話せるのにホッとし、一度しか会ったことのない山崎さんなのに嬉しくてたまらない。  その時、オーダーしていたハンバーグが運ばれてきた。ちょっとナイフを入れただけで、私は食べるのをあきらめた。ハンバーグがレアだったのである。表面をサッと焼いただけで、中は真っ赤なナマである。私はステーキでもシャブシャブでも、ナマはまったく受けつけない。ほんの少しでも赤味があるとダメである。ステーキの場合は必ず焼き方を指示していたが、ハンバーグは甘く見ていた。  が、一口も食べないのも腹が立ち、無理に食べてみた。しかしやっぱりダメである。すると、山崎さんが時計を見て立ち上がった。 「僕はこれで。まだここにいますか?」 「ん。もうしばらくね。サヨナラ」  山崎さんは出て行ったが、二十分ほどたったらゆう子さんと一緒に戻ってきた。私はハンバーグを一口食べただけで下げてもらい、何か別のものをオーダーしようと思っていたところであった。山崎さんは店に入ってくるなり、私に聞いた。 「あのハンバーグ、まさか全部食べないでしょう?」  私は「読まれていたか」と思い、苦笑して答えた。 「ダメ。一口だけ」 「でしょう。そばで見ていて、ずい分肉がナマで、赤いなァと思っていたんです。だから昼めし、食べ直さないかと思って戻ってきたんだけど」  ゆう子さんも隣りで言った。 「今から中華を食べようとしてたんです。ご一緒しませんか、前にも行った店ですけどすごくおいしいんですよ。エビワンタンとか色々あるし」  言葉を最後まで聞かずに、私は立ち上がっていた。「エビワンタン」と聞いただけで嬉しくなってくる。  サンジェルマン教会近くにあるその中華料理店は、小さな店だが混んでいた。見ると客は圧倒的に中国人が多い。誰しも行きつくところは、母国の味なのだろう。  私は生肉とブルーチーズ、それにミルクだけはダメだが、外国旅行で和食が欲しくてのたうつことはまずない。だからどこに行ってもその国のものを食べる。エジプトやギリシャでは独得の香辛料に少々参ったが、頑張ってその国のものを食べ通した。それも日本人向けの味つけをする一流レストランなどではなく、その国の人たちが行くような大衆食堂で食べることが多い。それは決してやせ我慢しているわけではなく、せっかく外国旅行をする以上和食を食べては意味がないと思うからである。  と、私が偉そうに述べると山崎さんは言った。 「僕はダメ。どこに行っても和食がないと全然ダメです」 「そりゃ私だって和食が好きよ。でも叫びたいほどじゃないわ」 「僕はその国のものも食べるけど、やっぱり和食がいいなァ。今朝も、ゴハンに味噌汁《みそしる》におしんこに、それとシャケの焼いたのと海苔《のり》とトロロと……」 「ウワァ! 山崎さんやめて! それ以上言わないでェ!」  やっぱり私は叫んでいた。偉そうなことは言うものではない。今夜はおしんことトロロの夢を見そうだ。   パリのトイレ事件  パリに来て二十日間になったが、どうも日本で聞いていたのと違うなァ……と思うことが少しずつ出てきた。  どれもこれも天下国家を揺るがすレベルの話ではなく、小さなことなのだが、どうも違う。たとえばマナーに関しても、日本で語られているのとは違うのである。  先日、サンジェルマンのレストランでトイレに入ったら、日本人の女たちがトイレの出入口に一列に並んでいた。それも出入りの邪魔にならぬように、壁に沿って静かに立っていた。  日本では今、デパートでも劇場でもこの並び方が非常に多い。トイレの個室のドア前に並ぶことは、少なくとも私の住む東京ではあまりない。個々のドア前に並ぶと、運不運があり、後から入ってきた人の方が早く順番がきたりするからである。出入口の壁に沿って並び、前から順にあいた個室に入る。これは実に効率がよく、運不運を呪《のろ》うこともなくいらだちがない。「日本人は何でも効率だ」という人もあろうが、トイレの順番は効率がいい方がいいに決まっている。つべこべ言われる筋あいはない。  この並び方が普及しはじめた時、私はフランス人女性が雑誌でコメントしたのを覚えている。彼女は日本で長く暮している人であった。 「日本人のマナーもこれでパリと同じになります。とてもいいことですね。昔からパリではトイレでは一列に並んでますよ」  私はこのコメントを読んだ時、結構恥じた。確かにパリ風に並べば、運不運を呪って目が三角にならずにすむだけ、エレガントである。やっぱりエレガンスを大切にする国は違うなァと私は感心し、そのフランス人女性の誇らし気な表情も納得できると思った。  ところが、いざ私がパリに来てみると、そんな並び方をしている女たちを見たことがない。私が行かないような超高級レストランにはいるのかもしれないが、国民のマナーというのは大衆レベルではかるはずであり、雑誌のフランス人女性は、パリの一般人を自慢していたと記憶している。  で、先のレストランで日本人ギャルたちは整然と並んでいた。そこにパリジェンヌが二人入ってきた。彼女たちは、日本人ギャルを無視して個室の前に立ち、サッサと入っていく。日本人ギャルがあっ気にとられていると、今度は三人だか四人の、フランス人中年婦人が入ってきた。彼女たちは個室の前にも並ばない。隣りあった個室の中間にウジャウジャと立ち、先にあいた方に突進する。まったくもって無法地帯である。日本人ギャルの一人が、「並んでちゃいつまでも入れないわね」と言い、ワァッとドア前に突進した。まったく「悪貨は良貨を駆逐する」とはよく言ったものである。  この話をパリ生活十年という日本人女性にしたら、彼女は首をかしげた。 「雑誌のコメントがおかしいわ。パリの人たちには元々『並ぶ』なんていう意識はないのよ。何をするのでもまず自分のことしか考えてないもの。それはもう徹底してるわよ。雑誌にコメントを寄せたフランス人女性は、日本で暮して、日本人がキチンとしているから恥しくなって、ウソを言ったのかもね」  そして先日、一週間ばかりイタリア各地を回ってきたのだが、ここでも日本に伝えられているマナーとの差を見つけた。  今、日本のイタリア料理店でスパゲティを頼むと、多くの場合はフォークと大きなスプーンが出てくる。このスプーンが普及しはじめた時、色んな雑誌に書かれていたものである。 「イタリア人はスパゲティを、大きなスプーンの上でクルクルとフォークに巻きつけて食べます。日本人はウドンやソバを食べる時も、スパゲティを食べる時も、同じように口にくわえますが悪いマナーです。一口分をフォークに巻きつけ、下に落ちないようにスプーンでカバーする。これが本場のマナーです」  ところが、ローマでも、フィレンツェでも、ミラノでも、ベニスでも、スプーンが出てきたことは一度もない。大衆的な食堂でも、五ツ星の超一流レストランでも一度たりともスプーンは出てこなかった。どの店でも陽気なイタリア人たちは男も女も大口をあけてスパゲティをくわえている。どう考えても、ウソの情報が日本に定着したとしか思えない。  そして、イタリアから再びパリに戻ってきた夜、私は日本料理店で夕食を食べた。その時、何気なく見るとパリジェンヌ四人が、味噌汁《みそしる》を飲んでいた。驚いたことに、四人ともスプーンで一口ずつ飲んでいる。ご丁寧に汁椀《しるわん》を向こう側に傾けて、洋風スープを飲むのと全く同じマナーである。日本人ウェイターがちょっと「本場のマナー」を教えてあげればいいのに、誰も何も言わない。美しい金髪娘たちは、ワカメをスプーンにすくいあげるのに必死である。何しろワカメは長いし、ヌルヌルしているし、やっとすくいあげても、口に持っていく前にポチャンと再び汁の中に落ちたりして、見ていても気の毒であった。  最近は、どこの国の和食店でも外国人がとても上手に、日本人と同じマナーで食べているから、彼女たちは特殊なのかもしれない。しかし、若い彼女たちの読むような最先端の雑誌で、もしかしたら、 「本場のマナーは味噌汁をスプーンで一口ずつ飲む。今までのマナーは違う」  と書いたのかもしれない。世界中のあらゆることに関する情報は実に多いが、どうも鵜呑《うの》みにしてはいけない気がしてならぬ。   感動の成田空港  一か月ぶりに日本に帰って来た。イヤァ、日本はいい。やっぱりいい。何しろ日本語が通じる。  日本に帰る前日、パリのホテルで荷作りしていると電話がなった。取るとパリで友達になった日本人女性からである。彼女の夫はオペラ座の近くで免税店を経営している。電話の向こうで、彼女は言った。 「牧子さん、明日は空港までどうやって行くの?」 「ホテルでタクシー呼んでもらうの」 「荷物、多いんでしょう?」 「ん……。ノミの市でたくさんガラクタを買っちゃったから結構あるけど、何とかなるわ」 「ねえ、うちのお店の男の子をホテルに送りこむわよ。彼を車で行かせるから、空港まで送ってもらって」  ゴールデンウィーク中であり、免税店は超多忙の時なので私は幾度も断った。が、彼女は、 「私の厚意を素直に受けてよ。日本に帰った時は私がお世話になるから」  と言い続ける。私は涙が出る思いで、その厚意をうけることにした。  そして翌日。ホテルのロビーに、彼女の店の男の人が来てくれた。これが何とフランス人である。店には日本人の従業員がたくさんいたので、私は頭から日本人が来てくれるものと思いこんでいた。 「ボンジュール、マダーム」  彼はにこやかに言った。そして私が挨拶を返すより早く片目をつぶって、カタコトの英語でつけ加えた。 「ボクハ英語ヲ話セマセン。フランス語シカ話セマセン」  青くなったのは私である。ホテルから空港までは道がすいていても四十五分はかかる。私の英語は小学生並みだが、それでもフランス語よりはずっと意志が通じる。彼が英語を話せないと聞いて、私は頭がクラクラしてきた。フランス語しか話せない男と、日本語しか話せない女が、二人きりで四十五分間もどうやって間をもたせればいいのか……。  クラクラする頭を抱えながら、とにかく私は助手席に座った。  ああ……ひたすら沈黙である。お互い、絶対に口を開けない。もうひたすらの無言。行けども行けども無言。恋人でもないのに見つめあってニッコリするのも妙だし、私は窓に張りついて外の景色を見ていた。  ところがこともあろうに渋滞に巻きこまれてしまった。車はビタッと止まって動かない。私たちの口はもうずっとビタッと止まって動かない。さすがに息苦しくなって、私は英語で言った。 「私はパリにいる一か月間、女子大生にフランス語を習ってたのよ」  彼はあいまいに笑う。やっぱり通じてないらしい。私はおかまいなしにフランス語の単語を並べた。 「ボンジュール、ボンソワール、メルシー」  彼も沈黙から救われてホッとしたのだろう。 「スバラシイ! マダーム」  フランス語でそう言って拍手などしてくれる。何しろビタッと車が止まっているのでハンドルから手をはなしても全然平気なのである。今度は彼が日本語で言った。 「コンニチハ。サヨウナラ。アリガトウ」  今度は私が、 「まあ、すばらしいわ。ムッシュー」  などと日本語で叫んで手を叩《たた》く。そしてお互いにニッコリと見つめあう。が、後が続かない。もう全然話すことがない。車はビタッと動かない。ボンジュールとコンニチハで四十五分ももつものではない。再びの沈黙である。  私は覚えている限りのフランス語を思い出してみたが、こんな場で使用に耐えるものではないのである。何しろ「コレハ花デス」「コレハ私ノ帽子デス」の類である。こんなことを言うくらいなら、黙っていた方がマシかもしれないと思い、私はまたじっと黙りこくった。彼も一切口を開かない。  車は全然動かず、私たちは黙って前を見ている。お互いに相手が気まずいだろうと思うから、ついチラッと見合う。そうすると必ず目が合う。反射的に二人してフニャーと笑う。私はとうとう恥も外聞もかなぐり捨てて、対向車を指さしてフランス語で叫んだ。 「アレハ車デス」  彼は心の中で「バカ、当たり前だろうが」と思っているであろうに、「スバラシイ! マダーム」と微笑《ほほえ》む。いい人である。  やっとドゴール空港に着いた時は、二人とも万歳を三唱したい気分であった。彼は税関手続から搭乗手続までフランス語ですべて仕切ってくれ、私が搭乗口に消えるまで、ずっと見送って手を振ってくれた。言葉は全然通じなかったけれど、何だか胸の奥があったかくなるのを私は感じていた。もしかしたら、言葉が通じないからこそ一生懸命に、態度や目で厚意を示そうとする彼だけに、胸があったかくなっていたのかもしれない。  成田空港に着き、タクシーに乗ると運転手さんが話し始めた。 「今日はあったかいけど、昨日あたりまで寒くてねえ。ゴールデンウィークは毎日雨っすよ。ま、春のお天気はわかんないやね。突然夏みたくなったりもするからねえ」  感動した。こんなに難しい日本語が私は全部理解できて、あげく返事までしているのである。  日本語さえ通じれば、私はもう何も望まない。一か月のパリ休暇で、私はまた一段と地味な女になった。   花の命と女の命  私はこと花に関しては、猛烈にケチである。花が好きで、花が大事で、花だけはどうしても無駄に扱えない。 「独身の女はね、花と男は絶やしちゃダメよ」  いつもキザっぽくこう言ってはばからない以上、私の部屋には男はともかく、花はまず絶えたことがない。  が、花というのは高いのである。もちろん自分でも買うし、頂くこともあるが、高いだけに最大限長持ちさせようとする。それに生きているものなので、少しでも息があると何とか延命を考え、絶対に捨てられない。  先日、タモリさんの「笑っていいとも」に出演した時、思いがけないほどたくさんの花を頂いた。スタジオに並んでいるアレンジメントやロビー花を見ながら、私は本番生放送ということも忘れ、口走っていた。 「タモリさん、この花、全部持って帰ります。私」  客席からドウッと笑いがきて、タモリさんもあっ気にとられて言った。 「これみんな持って帰るんなら、トラックを頼まなきゃダメですよ」 「でも、もったいないから持って帰ります」 「こんなに置くとこあるの?」 「マンションのロビーとか……」  そして、私は本当に全部持ち帰ったのである。パチンコ屋さんの開店祝いのような花輪は紙製なので置いてきたが、他は全部持ってきた。巨大なロビー花からは、カトレアとかバラとか、できる限りを抜いて抱いた。プレスマネジメントをやってくれている万里子が、 「牧チャン、みっともないからやめてよ」  と袖を引っぱったが、知っちゃいない。私は「笑っていいとも」のスタッフ三人に助けてもらって、すべてをタクシーに積みこんだ。運転手さんがびっくりして、 「お客さん、座るとこありますか」  と言ったが知っちゃいない。私は花のすき間に何とか座りこんだ。マンションに着くや、すぐに管理人室にかけこみ、叫んだ。 「お花があるの。手伝って下さーい」  管理人の奥さんも花好きで、それにテレビを見ていたので、すぐに巨大な手押し車を押してタクシーのところまで飛び出してきてくれた。  女優の松下由樹さん、富田靖子さんからのみごとなアレンジメントは、マンションのロビーに飾られた。管理人の奥さんはとろけそうに喜んで、 「ロビーがパアッと明るくなるわァ」  と何度も言ってくれる。私は手押し車に他のすべてを積み、自分の部屋まであがった。ここからが大仕事である。花を長持ちさせるためにやらねばならぬことがたくさんある。  私はまずバスタブに冷たい水を張った。普段、お風呂に入る時と同じくらいの量の水を張る。そして井沢満さんが贈ってくれた黄色いバラ五十本をその水の中に漬《つ》ける。これは花首までバラの全身を漬けるのである。「びっくり水」という言い方をするらしいが、私は「花の行水」と呼んでいる。こうして三十分から一時間、冷たい水に漬けておくと、これが信じられないほど長持ちする。だまされたと思ってやってみて欲しい。行水はバラによく効くというが、私はバラだけでなく、花びらが極端に弱い花以外はほとんど行水をさせている。水あげが悪くてクタクタした花でさえ、ウソのようにピンとなる。  バラを行水させている間、今度はアレンジメントの花かごのチェックである。花かごにはオアシスと呼ばれる緑色のスポンジ状のものが置かれ、水をしみこませてある。それに花を突きさしてアレンジしているのが多い。切り花は温度があがると弱るので、オアシスの周囲に氷を置く。  それがすむと洗面台に水を張って、百本以上もある切り花の茎を、水の中でナナメに切る。そして花びんに水と氷を入れ、そこにいける。以前、長持ちさせるには砂糖を入れるといいとか、ほんの少し食器洗いの洗剤を入れるといいと聞き、試してみたが氷が一番いいようである。  そして何日かたって、花が元気がなくなってきたら、花首だけを切って茎を捨てる。大きなガラス鉢に冷たい水を入れ、またも氷を入れ、そこに花を浮かべる。こうするとまた、二、三日は長く楽しめる。  以前はドライフラワーにこって、枯れる寸前に花を逆さ吊《づ》りにしたこともあった。が、実家にいた時に、私が自分の部屋から出てきた瞬間、弟が叫んだのである。 「ワッ! 化け物が出てきたと思った。オイ、花の逆さ吊りだけはやめてくれよ。お前、ホントにあばら屋で、包丁といでイッヒヒって笑ってるババアみてえに見えるぞ」  そう言われてやめた。当時は結婚適齢期の最中にあり、なかなか結婚できないのはイッヒヒのせいかもしれないと思ったのである。ま、イッヒヒをやめても結婚できずにいるので、あまり関係なかったかもしれぬ。  やはり生きている花は、最大限長く美しく、ナマのままで楽しむのが一番いい。私は仕事もやらずに花の長持ちに手をかけるので、どこかのCMではないが「花の命は結構長い」のである。  しかし、さすがに「笑っていいとも」で頂いた花の量は半端ではなく、私は疲れ切って自分自身にまで手がかけられず、その夜はそこらにあるハンドクリームか何かを顔に塗って寝てしまった。こういうことをしていると「女の命は結構短い」のである。   ローマの二枚目  パリから帰って早くも一か月近くになるが、友人知人からの電話の挨拶《あいさつ》に、ひとつのパターンがあることに気づかされた。 「向こうでいい男とめぐりあった?」  必ずと言っていいほど、こう聞かれる。これはもちろん、相手は本気でそう聞いているわけではなく、「どう? 忙しい?」くらいの挨拶と同じ意味で言っていることはよくわかる。ところが、この一か月というもの、来る電話、来る手紙、来るファックスの非常に多くが、この言葉で始まっているのである。初めのうちは私も答えていた。 「私は日本人の男が一番好きなの。それで、力士みたいな巨漢が好きだって、知ってるでしょ。この私がスマートなフランス人やイタリア人に、クラクラするわけがないじゃないの」  しかし、本当に来る日も来る日も、挨拶がわりに「いい男、いた?」と聞かれているうちに、答えるのがバカバカしくなってきた。そしてそのうちに、これは結構面白いテーマだなァと思い始めてきた。  もしも、私が出かけた国がフランスやイタリアでなかったとしたら、ここまで挨拶がわりに言うだろうか。私は地球上の国を片っ端から思い浮かべてみたのだが、「いい男、いた?」と聞かれそうもない国々というのが、確かにある。そして、私の独断だが、聞かれる国の両横綱はどう考えてもフランスとイタリアなのである。  私の短いフランス、イタリア滞在から第一印象的に断言すると、イタリアの男の容姿は平均点世界一ではなかろうか。日本人の女が好みそうな雰囲気を総じて持っている。私は外国人の男にはうっとりしないタチなのだが、そんな私から見ても、イタリア人の一般人の男たちというのは、かなりカッコいい。サングラスの似合いっぷりなどは、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするほどで、こういう男に弱い日本人女性は多いだろうなァと、私でさえ思う。  そしてイタリアのある都市で、私は日本人の女性ガイドに言った。 「何か……町中の男たちがハンサムでセクシーね」  彼女はもう十五年近く、イタリアで暮しているのだが笑って答えた。 「私もこっちに来た時はホントにそう思ったの。だけど長く暮しているとわかります。日本人は、単にイタリア人を見なれていないだけなのよ。だから誰を見てもハンサムに見える。日本人の男のことは見なれているから、一目見ただけでハンサムかそうでないかがわかるでしょ。日本だって、本当のハンサムなんて非常に低い確率ですよね。イタリアもまったく同じです。見なれてくるとよくわかるけど、本当のハンサムは日本のそれと同じに低い確率ですよ」  私はこの言葉に虚をつかれ、そして、感動した。本当にそうだと思う。  何でも大相撲にたとえてしまうが、現在九百人以上いる力士の中で、本当にノーブルなハンサム力士というのは、琴の若ただ一人かもしれない。舞の海もすてきだし、若ノ花もすてきだが、それは見ためより彼らの内容がモノを言っている。切れのいい取り口やチャーミングな笑顔で語る談話の面白さや。  ガイドの彼女は言った。 「先日、日本人の女子大生たちがディスコへ行きたいと言いましてね。私は案内しました。もちろん、踊っている男はイタリア人ばかりです。私は椅子《いす》に腰かけて、帰りの時間まで待っていたんですけど、彼女たちはイタリアの男たちとカップルになって踊ったりし始めたの。別に危ないムードは何もなくて、至って健全でした。ところがチークタイムになって、イタリア人男性に抱き寄せられてチークダンスを踊ったとたん、一人の女子大生が失神してしまったんですよ」  私は耳を凝って、聞いた。 「失神? 男が何かセクシーな動きを彼女にしたわけですか?」 「全然。ごく普通に、日本人の男がやるのと同じように抱き寄せて踊って、彼女の耳元に何か囁《ささや》いただけだそうです。日本の男と同じです」  ところが彼女は膝《ひざ》からガクガクとくずれ落ち、気を失ってしまったんだそうである。ガイドさんは続けた。 「簡単なことなんですよ。ハンサムなイタリア人の腕の中にいるという陶酔がまずあったわけです。そして見上げれば彫りの深い、セクシーなマスクがじっと目をそらさずに自分を見下ろしている。そこにダメ押しで、聞きなれないイタリア語の囁きですから、ロマンチックのあまりに失神しちゃった。見なれた私から見れば、彼はハンサムどころか十人並以下でしたね。それに目をそらさずにじっと女を見るというのは、こっちでは誰でもやるんです。全然、特別な意味なんてないんですよ」 「なるほどねえ。その囁きだって、もしかしたら『ねえ、俺、ずっと便秘してるんだけど、いい薬ない?』って言ったのかもしれないしね」 「そうなんですよ。だけど聞きなれないから、何を言われてもロマンチックに、愛を囁かれたように聞こえるんです」  何とも恐いことである。彼女は笑って言った。 「まだまだ日本人は一部の外国人に弱いですよね。日本人男性だって、こっちの女を見ればみんな美女に見えるらしいけど、本当の美女の確率は非常に低い。見なれた目にはほとんどが不細工です」  改めて思うが「いい男、いい女」というのは中身の力も大きい。一か月やそこらの滞在で、「いい男」にめぐりあえる確率は当然低いのである。   仕事は宗教?  高校時代の男子同級生から電話があり、ゴルフに誘われた。私はすぐに断った。ゴルフはさんざんやったが、まったく素質がないと気づき、やめてしまったのである。  同級生は残念そうに言った。 「俺、久々のゴルフだから同級生コンペで盛りあがろうと思ってたのに」  私は驚いて聞き返した。 「ゴールデンウィークはゴルフツアーだって言ってなかった? ハワイだかグアムだかに行くって」 「それが突然仕事でサ、ゴールデンウィークは休みなし。トラブル処理はすぐにやらないと信用問題だからサ、休んでるわけにいかねえもンな」 「ゴールデンウィーク、休みゼロ?」 「何だかんだと会社に出て、結局二日くらい休んだかなァ。ま、いいんだよ、家で邪魔にされるより会社の方が」 「よくそう言うけどサ、男の人」 「イヤ、休みたいよ。休みたいけど、アンタのように一か月も休暇とったら、会社に机なくなっちまうよ」 「だって私は四年間、休みなしだったんだもの」 「だけど俺、一か月も仕事離れてられないな、たぶん。何だか拠《よ》りどころがなくなるっていうか……何かうまく言えねえけどサ。恐いよ」  企業の中間管理職にある同級生の「拠りどころ」という一言を聞いた時、私は唐突にローマの骸骨寺《がいこつでら》を思い出していた。  パリで一か月暮している間に、私は一週間だけイタリアの各都市を小旅行した。ローマで泊まったホテルは、骸骨寺という奇妙な名前の寺院の近くにあった。私はその名に興味を持ち、ある夕方に骸骨寺の中に入ってみたのである。  びっくりした。骸骨寺について何の知識もなかっただけに、腰がぬけるほど驚いた。寺院の内装がすべて聖職者の人骨で飾られていたのである。天井の壁は美しい白い石でモザイク画になっていたのだが、その白い石はよく見るとすべて人骨であった。寺院の中は五つの部屋にわかれており、どの部屋もみごとなまでの人骨モザイク。そして各部屋には修道僧の聖衣を着た骸骨が横たわり、それを守るように同じ聖衣の骸骨が何体か立っている。  改めて思ったのだが、人骨というのは本当にさまざまな形をしている。指の骨は細くて美しいし、ノドの骨はハート型に近い。胸の骨はゆるいカーブを描いている。それらを一片たりとも無駄にしないように、びっしりと埋めこんだのだから、実に美しいモザイク画である。  この寺院は、キリスト教の中でも戒律が厳しいといわれるカプチーノ派のもので、修道僧たちはコーヒー色の聖衣を着ている。コーヒーの「カプチーノ」はここから呼び名がついたという。  確かに、私は最初、人骨の内装にはドギモを抜かれた。狭い了見を承知で言うが、「悪趣味」とさえ思った。  しかし、圧倒されるような人骨モザイクと、カプチーノ色の聖衣の骸骨を見続けているうちに、これが「拠りどころ」というものかもしれないと思い始めてきた。「拠りどころ」つまり「宗教」である。聖職者たちの骨を使うという発想そのものが、いかに彼らにとって宗教が心の支えであるかを物語っていると私は思う。おそらく、天に召されていく聖職者は、喜んでモザイクの一片になることを望んだと思うし、現に今生きている修道僧たちも、さほどの違和感は持たないのではあるまいか。宗教との縁が薄い日本人には理解しがたいことだが、宗教というものは、ここまで「心の拠りどころ」になりうるのであろう。  むろん、これと企業戦士を同格に扱う気はない。特に一時代前の企業戦士と現在とでは違ってきている。「過労死」という悲惨な事実に対する撲滅運動も盛んになっている。それでもやはり、企業で自分が必要とされ、そこでの仕事が心の拠りどころと思う日本人は少なくない気がする。  以前、あるテレビ番組で興味深いドキュメンタリーをやっていた。海外に単身赴任しているお父さんたちが、正月を二日間だけ家族と日本で過ごし、一月三日に再び外国へ戻って行く。そのお父さんたちが成田空港でマイクを向けられ、語る。 「向こうでみんなが待ってますし、仕事もこれ以上放っておけませんので」 「短い正月休みで情けないですけど、向こうに仕事が山積してますから」  こういうコメントを聞いて、スタジオの外国人コメンテイターが言った。 「僕の国ではこんなことはありえない。こんなに仕事をして何になるんですか。だから日本人は働きすぎと言われるんです」  私はその時、違うと思った。みんなが休んでいる正月三日に、家族と別れて単身外国に戻る男たちに、ある種の恍惚《こうこつ》感が確かに見えた。そして私個人は、そういう恍惚感を持つ人がいるのは当然だと思うし、肯定もする。  非常に乱暴な言い方だが、宗教を持たぬ日本人にとって、仕事はひとつの宗教に近いように思う。宗教の厳しい戒律にひれ伏す人に、ひとつまみの恍惚感はあろうし、それは休日まで捧げる犠牲にひそむ恍惚感と、どこかで似ている。  外国人が「日本人は働きすぎだ。休め」というのは大きなお世話で、それは彼らに祈ることをたまには休めというのに近い。  後日、先の同級生は現地工事先から絵はがきをくれた。消印は同級生コンペを予定していた日だった。   大至急返答せよ  先日、テレビ局のプロデューサーとお会いした時、視聴者の方々からのお手紙を手渡された。  お手紙を下さった方々にはいつも申し訳ないと思うのだが、返事がまったくといっていいほど書けない。テレビ局や出版社に届いた私宛の郵便物は、すべて確実に手渡して頂いており、私はもちろんすべて読む。中には、 「本当に読んだという証拠に、同封のハガキに〇印をつけて返送して下さい」  などというのがあったりして苦笑させられるが、〇印ハガキが返送されなくても、本当にすべて目を通している。わざわざお手紙を下さることを、私は本当にありがたいと思うし、反応があるということはドラマの不評、好評にかかわらずうれしいものである。  そして先日、プロデューサーからズシリと重いお手紙を手渡された。開いてみて驚いたのだが、何と便箋《びんせん》二十五枚である。きれいな文字でギッシリと二十五枚書かれている。  読み終えた時、私は行間からあふれるパワーに圧倒され、のどがかわき、思わず冷蔵庫から麦茶を出していた。  内容は「脚本家になりたいが、どうしたらいいのか。大至急教えて欲しい」というものである。そして、自分がいかに脚本家という仕事に夢と情熱を持っているかがギッシリと書いてあった。  私のところに寄せられるお手紙の多くは、この「脚本家になる」ための問い合わせである。「大至急教えて欲しい」と言われても本当に困る。脚本家や俳優や歌手などは国家試験で資格を得る職業ではないだけに、方法などは「あって、ない」ように思う。逆に言えば「ないようで無数にある」とも思う。結局はよくわからず、こんな返事をもらったところで答にもなっていまい。  ただ、私個人の体験だけから言えば、脚本家になるにはとりあえず養成学校に行くのがいいと思う。今、全国にはたくさんのシナリオスクールがあり、デパートや新聞社が主催するカルチャー教室にも、シナリオ講座というのはたいてい入っている。  映画、テレビドラマの「脚本」、ラジオドラマの「脚本」、舞台に使う「戯曲」には、それぞれ書き方のルールがある。もちろん、そのルールを頑固に守る必要はないのだが、それでもそのルールを知っている必要はある。以前に頂いたお手紙に、 「俺は型にハマったことが嫌いなので、小説形式で脚本を書きたい。セリフやト書きにとらわれたくない。そういう俺はどうやったら脚本家になれるでしょうか」  というのがあった。が、セリフとト書きで書かれているのが脚本であり、小説を渡されてもすぐには撮れない。それは原作としては通用するだろうが、脚本家がセリフとト書きに直さなければ現場は動かないのである。また、先の二十五枚のお手紙には、 「ところでト書きって何ですか。どうやって書くのですか。脚本家はセリフも書くのですか。それともセリフは俳優が自由に言うのでしょうか。私は脚本家が自分の天職だと思っていますので、大至急教えて下さい」  とあった。ハッキリ言って、こういうことも知らずに「脚本家が天職だ!」と叫ばれても困るのである。むろん、最初は知らなくて当然であるから、その最低限のルールだけは養成学校で習った方がいい。  脚本家はストーリーもゼロから作るし、セリフもト書きも全部書く。それが「脚本家」という人たちの仕事である。ラジオドラマの場合は効果音の指定も書くし、シーンの転換法も目で見えるテレビや映画とは違う。そういう技術的なことはすべて学校で習うのが一番近道である。  またある時は、ぶ厚い原稿のコピーと一緒に怒りのお手紙が来た。 「色んなコンクールに応募しているのですが、全然通りません。でもすごく自信のある作品です。コンクールというのは審査員がろくに読んでいないと思う。内館さん、読んで下さい」  私は原稿やプロットを送って頂くと、読まずにすぐにプロデューサーから返送して頂く。私ごときがその原稿に対して責任ある答を出す立場にはないし、自信もない。ただ、その原稿をプロデューサーにお渡しする時に見て驚いた。原稿用紙の使い方がデタラメだったのである。第一ページの一マス目から、最後の五〇〇ページの最終マス目までギッシリと文字で埋まっている。セリフやト書きの判別もつかず、段落もない。あげく、応募枚数は「二百字詰原稿用紙で二五〇枚まで」と規定されているのに、五〇〇枚ある。これではいくら本人が「自信作」と言おうが、コンクールに通るわけがない。どのコンクールでも審査員はキチンと読んでいる。が、脚本の場合は最低限の書き方のルールを知らないと損をする。ルールを修得した後は自分しだい、としか言いようがないが、私に「大至急返答せよ」と書く時間があれば、養成学校の申込書を書いた方がいい。  それにしても、脚本家というのは端で考えるよりずっと地味で、気持の安まらない仕事である。それでも私はこの仕事が好きなので苦にならないが、原稿用紙のマス目を埋めるだけの毎日である。芸能人と接触があるからといって、派手な仕事ではない。  そして、芸能人も決して派手ではない。いい仕事をし続けるために、彼らが続けている陰の努力や苦悩を知ると、仕事というのは本来地味なものだということが、痛いほどわかるのである。   エステがはやる理由  ある日、高級エステティックサロンから招待状が届いた。それは都心のビルの中にオープンしたばかりの店で、大手の大衆的エステではない。招待状には顔と背中、脚などの手入れのスペシャルコースに無料で一回ご招待すると書いてあり、所要時間は一三〇分、正規に支払えば一回三万円である。  二時間以上もかけて、プロの手でゆっくりと手入れをしてもらうのは最高であろうが、無料だからといって出かけていくのはいかにもせこい。野暮である。私は全く行く気はなかった。  するとしばらくたったある日、女友達から電話が来た。彼女は女性誌の編集者である。 「ね、高級エステの招待状、届いたでしょ?」  電話を取るや、彼女はそう言った。 「届いたわよ。あれ、誰にでも配られてるんでしょ」 「違うわよ。私がちゃんと広報の人に言って、アナタと私のところにも特別に送るようにしてもらったんだから」 「え? そんなスゴイものだったんだ」 「そうよ。ね。行ってみようよ」 「でも何かタダに乗るのって、野暮じゃない?」 「そんなことに野暮も粋もないわよ。アナタってホント、変なとこ見栄っぱりよね。一回招待するから、それでよければ自分でお金を出して通って欲しいってのが、お店の望むとこなのよ。あっちだってビジネスよ。行こ行こ」  それもそうだと思い、私は彼女と二人で、ある土曜日、出かけたのである。予約は前もって彼女が入れておいてくれた。本当に私の女友達は心強い。  エステなんていくら高級でもすぐにガウンに着替えるんだし……と思い、私は着古したアロハにジーンズをはき、裸足にスニーカーで愛車のハンドルを握った。顔もすぐにクレンジングされるんだからとノーメイクの洗いっぱなし。まあ、さすがにこのトシになるとノーメイクは少々恥しく、サングラスでボロかくしをして出かけたのである。むろん、友達もTシャツにスパッツ、ノーメイクで現われた。  が、これは失敗だった。一歩店内に足を踏み入れるや、「ここは高級だったんだ……」と、私と友達は同時に冷汗をかいた。客はすべて美しくメイクして来ており、服もさり気ないが、いかにもお金のかかっているような女たちばかり。またエステティシャンたちが、みんな上品で美しいときている。 「お待ち申し上げておりました。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」  などと言うのである。どっちを向いても裸足にスニーカーもいなければ、Tシャツにスパッツもいない。私は友達と囁《ささや》きあった。 「マズったね。高級だってこと忘れてたわ」 「ん。急いでガウンに着替えちゃお」  ところが、美しく上品なエステティシャンは言った。 「それではガウンにお着替え頂く前に、店内をご案内申し上げます」  ああ、裸足にスニーカー、Tシャツにスパッツの私たちは店内を一巡させられたのである。さすが「高級」だけあって、その間に若い女の子とはほとんどすれ違わない。三十代から五十代の女たちが多い。彼女たちはもちろん普段着なのだが、着こなしもメイクも手を抜いていないのがわかる。常日頃から手を抜かない姿勢が、女に自信と美しさを与えるのだと、私は改めて感心していた。  それから個室に入り、エステティシャンが至れり尽くせりで手入れをしてくれる。東洋医学のツボを取り入れたマッサージやら、高級美容液をふんだんに使ったパックやら、それはもう眠ってしまうほど気持がいい。  私はごく普通レベルのエステサロンには時々行く。その理由はただひとつで、気持がいいからである。自分で肩をもんでも気持がよくないのと同じで、他人の手で手入れをされると本当に気持がいい。店では当然「やせるため」や「若返るため」のコースもすすめる。が、それは私は一切やらない。それらは機械を使って体に圧力を加えたりして、とても気持よさそうには見えないのである。「やせる」にはスポーツが一番だし、「若返る」ことにこだわりすぎるのは物欲し気でいけねえ。  気持のよさと贅沢《ぜいたく》感だけを考えた時、その高級店はさすがであった。まるで魔法の指を持っているのかと思うほどの、ここちよいマッサージである。贅沢な気分にひたれることも加えると、一三〇分の三万円は高くないかもしれないと思わされていた。  終わってから休憩サロンに行くと、先に終了していた友達が、ガウンのままボーッとしている。私を見るとボーッとしたまま言った。 「気持よかったわねえ……。何かまだ半分眠っているわ。だけど悪い癖がつきそう。週に一回、ここに通わなければ生きていけない体になったらどうしよう……。月一二万で、年に一四四万になるのよねえ……」  ボーッとしている割には計算が早い女である。彼女はリクライニングシートの椅子に身を埋ずめ、ボーッとしてまた言った。 「何か、こういう高級店に出入りできる自分というのに酔っちゃうわ……」 「あら、でもこの招待状、もらいものじゃないの」  私が言うと、彼女は突然、起きあがった。 「もう! 現実に引き戻さないでよ。せっかく忘れてたのに」  エステがはやる理由がよくわかる。   怪獣は今も生きている!?  角川春樹監督の映画「REX」と、スピルバーグ監督の「ジュラシック・パーク」を続けて試写で観た。二本とも恐竜映画である。  私は実は「REX」にはダイアローグ・ライターとして参加している。つまり、シナリオを書くわけではなく、出来あがったシナリオのセリフ部分だけを、シナリオライターと一緒になって検討して考えていくという役割である。 「REX」のメインライターは丸山昇一さんで、私の大好きな作家のお一人。もちろん、丸山さんのダイアローグ(セリフ)のすばらしさは、以前から誰もが認めるところである。今さら別のダイアローグ・ライターが参加する必要は全然ないのだが、ある日、角川監督から、突然、うちに「REX」の準備稿が届いた。そしてプロデューサーから電話があった。 「シナリオはほぼ完璧にあがっていますが、少しでもよくしたいということで、もう十回以上、丸山さんが手を入れています。全然『REX』とは関係のない内館さんに、まっさらな状態で読んで頂き、ダイアローグという形で参加できないかと監督も丸山さんもおっしゃっているのですが」  私は本当にびっくりした。と同時に丸山昇一さんという方はスゴイなァと思った。誰が考えても丸山さんと私では格が違う。格下の私に、軽やかに、ダイアローグで参加しないか……などと、普通は言えるものではない。この大作映画を少しでもよくしようという思いに私は感動していた。が、準備稿の台本は面白かったし、私が「少しでもよくする」ための力になれるとはとても思えなかった。何しろ私はSF、SFX、ミステリーというのは全然ダメなのである。嘘《うそ》みたいな、夢みたいなロマンにはついていけない悲しい性分なのである。  これは当然、お断りしようと思った。それに私は「怪獣」と「恐竜」の区別がつかない。こういうタチの者が参加しても力などになれるわけがない。私は翌日、プロデューサーにお断りの電話を入れた。すると、監督に会って直接断って欲しいとおっしゃる。確かにそれが礼儀だと思い、私はある日、角川監督にお会いしたのである。  監督とは以前にご挨拶をしただけで、ちゃんとお話ししたことはなかった。まして、お断りするというのはいつでも一番難しいことである。私は角川書店の有能な編集者二人に同席してもらうことを考え、援護射撃をお願いした。そして、当日は指定の場所に、約束より三十分早く着くようにしようと考えた。そして監督が入って来られたらサッと立ちあがり、「このたびは本当に残念です」と言おう。機先を制すのだ。私はこのアイデアに我ながらうっとりし、その夜は安心して眠ったのである。  で、当日。私は何と四十分も前に着き、勝ち誇った気分でドアを開けた。開けた瞬間、すでにソファに角川監督が座っていらした。そしてサッと立ちあがり、 「内館さん、このたびは快《こころよ》くお受け頂いてありがとう」  と、手を差し出したのである。私は何が何だかわけがわからぬまま、目の前の手を握り返していた。勝負は一瞬のうちについていた。監督は私に椅子をすすめるや、「REX」についての熱い思いを語り始めた。私はといえば、どうしてこうなったんだろうと、そればかり考えているお粗末。  約束の時間の十五分前に、編集者二人が入ってきた。彼らも計算したのだろうが、十五分前では勝負にならない。監督はすぐに二人に言った。 「快く引き受けてもらったよ」  パニックになったのは二人である。援護射撃のために、前日、私とさんざん電話で作戦を話しあったのだから。  こうして私はダイアローグ・ライターとして参加させて頂いた。「ひらり」を終えた後なので完全に休暇中であり、時間は十分にあった。  丸山さんのシナリオは面白く、私の出番はないに等しい。  が、たったひとつ、これはダイアローグと何の関係もないところで、私は役に立ったのである。監督も丸山さんも、そして出演の渡瀬恒彦さんも恐竜についてものすごく詳しい。そのため、私のように全然わからない人には、やや説明不足のところがあったのである。私は幼稚園児以下の質問を監督にあびせ続けた。 「この怪獣の卵についてですが」 「内館さん、恐竜です」 「失礼しました。卵はホラ穴の中にあったのはわかるんですが、怪獣は今も生きていて卵を産んだんですか」 「内館さん、恐竜です」 「失礼しました」 「恐竜はとっくに死に絶えてるよ」 「え? じゃ何でこの卵、今も生きてこんなとこに転がってるんですか」 「あのねえ。参ったな」  何しろこのレベルである。監督もこういう人間がいることに気づかれ、あのシナリオは高度過ぎたと思われたであろう。私がお役に立てたのは、この一点のみである。角川・丸山・渡瀬の夢多き「REX」であることは間違いない。「REX」についても「ジュラシック・パーク」についても感想は控えるが、「REX」の赤ちゃん恐竜の可愛さは「E・T」をはるかにしのぐ。  それにしても、私の肩書きは「初心者向け恐竜チェック係」となるべきであった。   ああ、小林旭さま  生きていると、いいことがあるんだなァと思う。週刊誌で小林旭さんと対談してしまったのである。  脚本家というのは特定の俳優さんの熱烈ファンであることを言ってはいけないのかな……と思ったりもするのだが、脚本家になるずっとずっと前から、私は熱烈なアキラファンであったのだからお許し頂きたい。  以前、私は全身にジンマシンができて、顔は三倍にふくれあがり、手足の指はウインナソーセージのようになったことがあった。全身が真っ赤にただれ、高熱と吐き気で本当に死ぬのではないかと思う症状が続いた。ところがその症状の最もひどい日に、小林旭さんのコンサートがあったのである。今までジンマシンなど出たこともなかっただけに、私は前もって最高の席を買っていた。  当日は朝からひどい吐き気で、熱も四十度近い。三倍の顔では歩くのにもバランスがとれず、つかまらないと一歩も進めない。両目のまぶたは垂れ下がり、指でこじあけないと目が見えないという惨状。私はベッドの中で、コンサートに行けないくやしさに涙を流していた。  ところがどうしてもあきらめきれないのである。毎日、病院に通っていたので、一応は担当医に、聞いてみた。 「今夜、コンサートに行ってはダメでしょうか。タクシーで行ってタクシーで帰りますので」  医師はすぐに答えた。 「ダメ。途中で死んじゃうよ」  さすがにあきらめざるを得なかった。ところがコンサートの時間が迫ってくると、どうしてもあきらめられない。死んでも行きたい。チケット発売と同時にプレイガイドに走ったというのに、ベッドに伏してなどいられないのである。  私はキリッと起きあがった。不思議なことに「行くッ! 死んでもいいッ!」と腹を決めたら、なぜかヨロヨロしないのである。私は根っからミーハーに生まれついているらしい。外出する私に家族が大反対したかというと、これが誰もしなかった。こういう時にだけ異常な根性を見せる私を、みんな知っているのである。母などは、 「必ず行くと思ってたわ。途中で死んでもいいけど、その顔は他人に不快感を与えるから、目だけ残して隠して行くのよ」  と言った。こういうことは普通、実母は言わないと思うのだが、うちの実母は言うのである。弟は、 「その顔じゃ死んだ時に身元の割り出しに手間どるから、身分証明書になるもの持って行けよ」  と親切なんだか不親切なんだかわからない忠告をくれた。私は本当に家族の愛に恵まれない女なのである。地味で素直な私は、忠告通りに運転免許証をバッグに入れ、帽子をかぶり、マスクをして、サングラスで完璧に顔を隠した。ウインナの指には手袋をした。そして本当に出かけてしまったのである。  タクシーの中では高熱で体中が燃えるようだし、寝込んでいたので足元もおぼつかない。しかし、死ぬのならせめて一曲でも聴いてから死にたいと、本気で思っていた。  ところが「病いは気から」というのは真実である。旭さまがステージにそのお姿を現わすや、私は高熱も足元のヨロヨロも吹っ飛び、誰よりも大きな拍手をウインナの手で送っていたのである。帰りのタクシーの中では「ついて来るかァい」と鼻歌まで歌っていたのだから、我ながら恐ろしい。  そして、これは本当に本当なのだが、その夜を境にジンマシンはどんどん治り、二日もしないうちに完璧に元気になっていた。何も知らない担当医は、 「ずっと安静にしていたからだよ。治り始めたら一気でよかったね」  とご機嫌であったが、何の何の、百日の安静より惚《ほ》れた男の一曲である。  そしてすっかり治ったある日、女友達数人が全快祝いをしてくれた。その中の一人だけが全然楽しそうでなく、私のことをにらんでばかりいる。私はとうとう聞いてみた。 「ねえ、何かイヤなことあったの?」 「牧チャンに頭に来てるのよッ」  他の女友達がゲラゲラと笑い出した。 「私たち、みんなで賭《か》けたのよ。アナタがあの顔で、あの症状でも、旭のコンサートに行くか行かないかって。この人だけが『行かない』に賭けてサ、一人で大負け。ここの支払いは全部この人ってワケなのよ」 「牧チャンが絶対に行くことくらい、普段の熱烈ぶり見てればわかるじゃないのねえ。何しろ横浜市|旭《あさひ》区を、わざと横浜市アキラ区って言う人だもん」  大負けの彼女はプンプンにむくれて、私に聞いた。 「あれ、わざとだったの? 私は単に漢字が読めないバカ女だと思って、いつか傷つけないように訂正してあげようと思ってたのよッ」  まったく他人の死ぬや生きるやの病気をネタに賭けて、あげくバカ女とくるから私は家族ばかりか、女友達にも恵まれていないのである。  こんな熱烈ファンであったので、対談なんて、今まで地味に思慮深く、つつましく生きてきた私への神さまのご褒美としか思えなかった。  対談を終えてから、私はいつかドラマでご一緒させて頂きたいと思い、そう言ってみた。すると旭さまはニヤリと笑って私の肩を叩《たた》いた。 「よし、いい脚本《ほん》を約束してくれたらな」  やっぱり私は地味に努力するように運命づけられているらしい。   「大相撲ダイジェスト」余話  突然、テレビ朝日から「大相撲ダイジェスト」にゲストで出ませんかと電話があった。解説の北勝海親方とご一緒だと言う。  今、私は新番組の準備に入っているが、いつも新しいドラマを考えている時はあらゆることを失礼している。新しいドラマのことだけを考えるようにと、自分に命令するためである。しかし、「相撲」と聞けば、それだけで私の頭は正常に働かなくなる。 「自分に命令するのは、名古屋場所から戻ってからにしよう」  勝手にそう決めて、お受けしてしまった。そしてイソイソと名古屋まで出かけたのである。やはり、これはお受けしてよかった。相撲ファンとして勉強になったことこの上ない。何がと言って、まずひとつは「ダイジェスト」の山崎正アナ、松苗慎一郎アナとずっとご一緒に観戦できたことである。  今さらながら、スポーツアナの勉強ぶりには舌を巻いた。お二人が、 「宝物だよ」  と言って見せて下さったのが全力士のデータカード。これは私も早速まねをしようと思っているが、相撲ファンの方は作ってみたらいかがだろう。  ちょうどVHSのビデオテープくらいの大きさのカードを、一人の力士に一枚ずつ作る。そこに過去の勝敗、決まり手をすべて記入。記入欄が足りなくなったら、同じ大きさの薄い紙でカードを作り、ドンドン貼《は》っていく。お二人は過去十年分くらいを貼り足しており、これを開けば力士の変化がすぐにわかる。たとえば、ある力士が急に強くなったとする。カードを見れば引き技が減って、組んで勝つことを覚えたのだとわかる。こういうことがわかると、相撲はますます面白くなるはずである。そして、お二人はまずどんな質問をしても、右から左に答えてくれる。仕事と言ってしまえばそれまでだが、私はファンとしてアマチュアだと思い知らされた気がした。  もうひとつよかったことは、「ダイジェスト」のプロデューサーやディレクターの、相撲を観る目のあたたかさである。そしてきめ細かさである。たとえばスタッフの一人はが勝った一番を見て言った。 「は勝った後で、絶対に転がっている相手に背中を見せないんだよね。勝ち名乗りを受けるために自分の土俵に戻る時、かならずバックで戻る」  私は今までまったく気づかなかった。確かに他の力士は相手が土俵を割るやスタスタと背を向けて、東なら東土俵に戻る。ところがこの日もは、転がっている時津洋に静かな目を向けたまま、後ずさりする形で、自分の土俵に戻って行った。  たぶん、は敗れた力士に対して、サッサと背を向けることは礼節を欠くと思っているのではなかろうか。だとしたら、は日本人よりずっと大和魂《やまとだましい》を持っている。横綱として、精神面の充実を物語るひとつの証拠である。  こういうあたたかな、きめ細かい見方を知ると、単純に「外国人力士は横綱にしたくない」などと言うのは恥しくなるはずである。私は巨漢力士が好きで、技のデパートのような小兵には今ひとつのれないと決めてかかっているのだが、これも恥しいことだと思った。小兵は死にものぐるいの動きで活路を見出すわけであり、きめ細やかに見ていけばきっと「の後ずさり」のようないいものを感じるはずである。 「小兵は嫌い」は、やはりファンとしてはアマチュアであろう。  そして、もうひとつよかったのは北勝海親方の、力士としての心情が聞けたことである。終了後、夕食をご一緒したのだが、本当に何でも話して下さった。 「はたいしたものですよ。僕もずっと『一人横綱』でしたから、それがどれくらい大変なことかよくわかる。場所が始まると、まず考えることは『十五日間、絶対に途中休場なんかできないぞ』っていうことなんですよ。ケガや病気が怖いんじゃなくて、僕が休んだらお客さんに横綱土俵入りを見てもらえないわけでしょう。わざわざ来てくれるお客さんに、土俵入りを見せられないのは横綱として申し訳ない。もちろん、勝ち続けることは第一条件ですけど、横綱の責任というのはそればかりじゃないんです」  現役時代、インタビューにも最低限のことしか話さなかった北勝海親方だが、とても理路整然と話し、その上、かなりユーモラスでもある。 「現役時代は話したくなかった。話すことで自分の体から何かが逃げていく気がするんですよ。愛想よくはできないけれど、そのかわり相撲はキチッと勝って、それで責任を果たしますからという気分でしたね」  どんな話をしても、少しお酒が入っても、北勝海親方の口からは「責任」という言葉が出てくる。 「横綱になった時、嬉しさよりも責任を感じる気持の方がずっと強くて、手放しでは喜べなかったな」  私は聞いてみた。 「貴ノ花、横綱になるのはまだ無理なんじゃないですか?」  北勝海親方はスパッと答えた。 「大丈夫。若も貴も相撲に貪欲《どんよく》だし精神面も弱くないですよ。大丈夫だと思うね」  そして、ふと漏《も》らした。 「しかし、相撲っていうのは本当につらい。僕、もう一度現役に戻れって言われたら、とてもできないな」  私はここまで精根を使い果たす力士という人たちが、もっと好きになった。それだけにファンのプロになりたいと、改めて思うのである。   日独安全タダ論  ある日、女友達の買い物につきあった。彼女は気に入った服が見つかり、ショーケースの上にバッグを置いて私に言ったらしい。 「試着してくるから、ちょっとバッグ見ててね」  ところが私にはそれが聞こえなかったのである。私も靴を見るのに夢中で、彼女がショーケースの上にバッグを置いたことさえ気付いていなかった。私はバッグをそこに置いたまま、店内のあちこちを歩き始めた。  やがて試着した彼女が出てきて、似合うの似合わないのとさんざん話し、それから続けざまに彼女は三着を試着した。私は彼女がバッグを試着室に持って入ったものと思いこみ、彼女は私がバッグを持っていてくれるものと思いこんでいた。店は都心の大通りに面しており、入れかわり立ちかわり客が入ってくる。かれこれ三十分以上もかけて、彼女は一着を選んだ。そして私に言った。 「バッグ、ありがとう」  驚いたのは私である。察して彼女も青くなった。すぐにショーケースの前に走ると、バッグは置かれた時のままにあった。二人でドーッと力が抜けた。何しろショーケースは出入口のすぐ近くにあり、バーゲンの時期なので客でごった返している。いつなくなっても全然不思議はない。私はそのままの状態で置かれていたバッグを見ながら、パリでの出来事を思い出していた。  この四月、私は一か月ほどパリにいたわけだが、その時、パリに住む日本人たちからさんざん注意されたのである。 「貴重品には気をつけてね。日本人は『安全と水はタダ』っていう意識があるから困るの。確かに日本は治安がいいし、水道の水が飲める。でもここは日本じゃないの。安全と水はお金を出して買う国なの。パリだけじゃなくて、アメリカだってイタリアだってそうよ。注意してね」  そして、同じように何人もの日本人に言われた。 「安全がタダって思ってるのは日本人とドイツ人くらいだろうな」  そしてある昼時、私とプレスマネジメントをやってくれている万里子は、 「ねえ、ラーメン食べたくない?」  となったのである。「ラーメン」というのは、思い立ったら我慢ができない食べ物である。私たちはすぐにパリ市内の小さなラーメン屋さんに入った。  私たちが座ったのは出入口のすぐ横の席だった。私たちの席から順に、奥に向かって三つの四人掛け席が並んでいた。そして私たちの席以外の二つは空席だった。  しばらくすると外国人が五人入ってきた。夫婦二組と男の人が一人の計五人である。そして、夫婦二組は一番奥の席に、余った男の人はその隣りの、つまり私たちの横のテーブルに座った。 「外国人もラーメンが好きなのね」  万里子と話したので、ハッキリと覚えている。それからほんの三十秒か一分かたっただろうか。ラーメンに箸《はし》をつけた私たちのところに、日本人店員が走って来た。 「今、隣りのテーブルに座った男を知りませんかッ」  ふと見ると、男は消えていた。それと同時に夫婦二組の一方の、貴重品を入れたバッグが消えていたのである。被害者は「安全はタダ」と思っている同胞、ドイツ人夫婦であった。すぐに警官が来た。夫婦は顔面|蒼白《そうはく》で、まったく血の気がなかった。それもそのはずで、警官に答えている言葉に私たちも完全に食欲を失っていた。 「バッグの中には貴重品が全部入っています。パスポート、現金、キャッシュカード、それに今日帰るので二人分の航空券……」  すべてである。根こそぎ盗まれたのである。飛行場に行く前に軽いランチを……と思った矢先の被害であったのだろう。日本人店員は私たちに聞いた。 「どんな男でしたか」 「覚えていません。五人連れの外国人だとばかり思っていましたので」  私たちはそう答えるしかなかった。それくらい、男は夫婦二組と連れのように密着して、自然に入ってきたのである。男はフランス人だったのかもしれないが、チラと見ただけでは私には区別もつかなかった。警官は夫婦と日本人店員に言った。 「たぶん、店に入る前からマークしていたと思います。旅行者はすぐにわかりますから、後を尾《つ》けて、あなたたちが店に入る時、連れのように一緒に入ってきたんでしょう」  話のようすでは、ドイツ人妻は椅子に座るや、バッグを椅子の背に引っかけたらしい。犯人はそれを見ると同時に立ち上がり、サッとバッグを持って逃げてしまったのだろう。たぶん、夫婦四人はメニューを見るのに夢中だったのだと思う。  ほんの一分かそこらの出来事だというのが、私たちには信じられなかった。日本人店員が私たちに言った。 「注意して下さい。そんなバッグの置き方は危ないですよ」  私も万里子も四人掛けのあいている椅子に、バッグを置いていたのである。そういう置き方も、椅子の背に引っかけるのも、日本ではごく普通のことである。日本も犯罪が増えてはいるが、やはりまだまだ安全である。  私はショーケースの上に残っていた友達のバッグをみながら、「安全はタダ」のドイツ人夫婦が、パリのすべてを嫌いにならないといいが……と、ふと思っていた。   脚本 内館牧子  向田邦子さんが飛行機事故で亡くなられて、今年の八月二十二日でもう十二年になる。  十二年前の一九八一年、私はまだ会社勤めをしていた。その年の三月に「ドラマ」という雑誌に応募した脚本が佳作を頂いたものの、脚本家として仕事ができるなどとは全く思ってもいない頃であった。  私は自分自身のデビュー作を聞かれると、 「ラジオは書いていますが、本格的なテレビドラマの脚本デビューは、八八年十一月の『バラ』という作品です」  とお答えしている。  テレビドラマデビューしてから五年もたっていないことになるが、どう考えても「バラ」なのである。これは日本テレビの水曜グランドロマンで放送され、主演岸恵子、菅原文太、監督恩地日出夫という、超豪華メンバーのデビュー作であった。  むろん、その前に映画「BU・SU」を書いている。しかし、たくさんの映画賞を受けた「BU・SU」には、私の脚本のセリフもコンセプトも全くといっていいほど生き残っておらず、あれを脚本デビュー作というのは詐欺に等しい。「バラ」の前に、NHKの「中学生日記」も書いている。ただ、「中学生日記」の中学生たちは、全員がシロウトの中学生たちであり、それだけに臨場感はあるのだが、私の思う「テレビドラマ」というくくり方からは少しはずれるような気がした。  私は「バラ」のお話を頂くまでの間、テレビドラマが書きたくてたまらなかったのだが、全然仕事が来ないのである。プロデューサーや監督と話し合いながら脚本を一人で書き、俳優さんが演じて下さるというドラマを夢見ていたのだが、企画書を書く話さえない。  女友達にとうとうある日、言われた。 「自分から持ち込まないと、あなたになんか一生仕事は来ないわよ」  持ち込みというのは少々見栄が邪魔をしたが、私は当時テレビ朝日でやっていた刑事ドラマ「特捜最前線」にストーリーを持ち込んだ。プロデューサーを存じあげていたのである。彼はストーリーを読み、 「面白いね。脚本にしてごらん」  と言って下さった。私は脚本家デビューの日がいよいよ来た! と思い、夢中で書いた。プロデューサーと話し合いを続け、五回ほど直したある日、言われた。 「申し訳ないけど、このレベルでは放送できない。たぶん、これ以上直しても、よくなるとは思えないんだよ。ストーリーは面白いから、誰かプロの脚本家に書いてもらってもいい?」  私はやはりプロからはほど遠かったのである。プロデューサーは優しい人で、力を落としている私につけ加えた。 「君に脚本家として素質がないって言ってるわけじゃないけど、ただ、刑事ドラマにはむかないかもしれないね」  その作品は、第一人者のプロがみごとに面白く書いて下さって、私の名前は「原案」として画面に出た。  女友達はみんな「一回でめげるな。また持ち込め!」と言うのだが、とてもそんな気力はない。また夏が来て、風鈴はチリンチリンと鳴るのだが、仕事の電話はチリンとも鳴らない。  そんな時、NHKのプロデューサーから突然チリンと鳴った。 「向田邦子の『男どき女どき』を朗読ドラマにしたいんだけど、やってみない? 本の朗読が中心だから、脚本というよりは構成だけど」  これは本当に面白い仕事であった。スタッフと舞台地の秩父《ちちぶ》をシナリオハンティングしたのも初めての経験なら、岸本加世子さんをはじめとする俳優さんが、私の書いたセリフを言って下さるというのも初めての経験であった。  私は朗読の間に、私自身が作った短いオリジナルドラマを挿入する構成を立てた。向田さんが亡くなってから四年後の一九八五年のことであり、ナレーションはすべて「向田さん……」という呼びかけで書いてみた。これは、私自身が憧《あこが》れていた向田邦子への、私自身の呼びかけであったと思う。  この「男どき女どき」は二十分ドラマが連続五回であり、第一回目には画面に初めて「構成 内館牧子」と出たのである。一番喜んでくれたのはたくさんの女友達である。 「これで今に脚本の仕事がくるわ。何てったって画面に名前が出ないことにはアナタなんて生きてることさえ、誰も知らないんだからサ」 「アチコチに電話かけて、PRしといたわよ。だから明日の第二回目からはもっとみんな見るわよ」 「友達の名前が画面に出るって、いい気分だわァ」  ところが、なぜか第二回目からは私の名前が画面に出なかったのである。構成というのは一回目しか出ないものなのかもしれないが、理由はよくわからなかった。全五回が終了すると、女友達からたくさん電話が来た。 「番組の途中で出るかもしれないと思って、トイレにも行かずに見てたのに……」  ニュース速報じゃあるまいし、と笑ったが、私はこんな女友達に支えられて、今日まで歩いて来ることができたのだなァと、しみじみ思う。それと同時に、幸運なことに「脚本 内館牧子」とクレジットされる場を与えられている現在が、贅沢《ぜいたく》に思えてならぬ。何があろうと手は抜けないと思う。  八月二十二日の命日には、名前のない「男どき女どき」のビデオを見ようと思っている。むろん、トイレにも行かなかった女友達みんなとである。   やっぱり地味なくらしが…  最近、ジムで筋力トレーニングを始めた。今まではジムの中にあるプールで泳いでいただけで、マシンの並ぶトレーニング室には入ったことがなかった。ところがある日、ほんの気まぐれでトレーニング室をのぞいてみたのである。午前中ということもあって、トレーニングしている人が少なく、インストラクターも暇だったのだろう。私の姿を見るや、ニコニコと近づいてきた。 「体力測定をやってみませんか」  私はこれも気まぐれで、 「そうですね。体力落ちてると思うから、一度やってみます」  と答えたのである。インストラクターは、まず私を身長計にあがらせた。 「えーと、一六七・五センチ」  インストラクターは口に出して言い記録すると、次は体重計の前に私を引っぱって行った。 「ヒェー!」  叫んだのは私である。口には出したくないほど体重がふえていた。 「この体重計、こわれてません?」  私が言うと、彼女はケロリと答えた。 「正しいです」  私は目の前が真っ暗になった。身長が一六七・五センチもあるから、何となくスマートな気でいたけど、アタシは単なる大女だったのね……。  落ちこむ私をインストラクターは、マットの上にあおむけに寝かせた。妙な機械を持ってきて、足首やら手首やらをはさむ。 「内館さんの脂肪値を計ります」  しばらくすると、機械からピューと紙が出てきた。紙には数字がプリントされている。インストラクターはじっとその数字を見ると、死刑を宣告するような口調で言った。 「内館さんの年齢ですと、中性脂肪値は二五が平均です。でも、内館さんの数値は……です」  ……のところは、ここには書きたくない。夢にまで見そうな、おぞましい数値だったのである。若い人のドラマを書いているから、何となく若い気でいたけど、アタシは単なる中年のオバサンだったのね……。 「では、これから体力測定に入ります。まず自転車を二十分、こいで下さい」  私は言われるままにこいだ。これはどうということもなかった。ただ、一定の速さでコンスタントに二十分こぐと汗びっしょりになる。その上、負荷がつくようになっているので、ペダルは段々重くなっていく。こぎ終えた時には脈拍数が一一〇にあがっており、私にとっては平泳ぎで一〇〇メートル泳ぐより、運動量が多い気がした。すぐにまたピューと紙が出てきた。 「ヒェー!」  叫んだのは私である。紙には、 「消費カロリー、ビール小びん本分」  とプリントされていたのである。これだけ体を使って、汗びっしょりになって「ビール小びん本分」のカロリー消費である。常日頃、私は、 「ビールなら一ガロンでもOKよ」  と言っている。これでは単なる大女、単なる中年のオバサンになって当然である。その後、腹筋やら背筋やら、色んな測定をさせられたのだが、終了時にはヨタヨタになっていた。体育会出身のつもりでいたけど、体力測定だけでヨタヨタとは、アタシもヤキが回ったものね……。  気まぐれで計ったこの結果に、私は強烈なショックを受けていた。こうなると元体育会の性《さが》が頭をもたげてくる。 「よしッ。明日から毎日筋力トレーニングをやろう!」  私はキリリと自分に誓ったのである。そして、その足でサイクリングパンツ型のスパッツと、ウォーキングシューズと、リュックを買った。ジムは自宅から歩いて十五分のところにあるので、ウォーキングシューズをはき、リュックには着がえをつめて、歩いて通おうと思ったのである。私は地味で思慮深い割には、形から入るタチなのである。  こうして、毎日は無理だが、少しでも時間があればジムに通う日々が続いている。  それにしても、リュックは正解であった。ジムの帰りに、安いマーケットで買い物をして背中にしょって帰るのである。昨日などは大根、玉ネギ、長ネギ、ジャガイモを買いこみ、腰が立たないほど重かった。歩きながらふと見ると、ショーウインドに私の姿がうつっていた。リュックから大根やネギが顔を出し、それはもうひどい姿である。トレンディと呼ばれるドラマを書いているので、何となく自分もトレンディな気でいたけど、アタシは単なる買い出しオバサンだったのね……。でも何か、やたらと似合うわ。アタシってやっぱり地味なくらしが似合うのね……。  というわけで、この「ベティちゃんの地味なくらし」は、今回でめでたく最終回となった。当初は三十回の予定であったのに、たくさんの皆さまの応援のおかげで、何と一五〇回もの長きにわたって、派手にページを頂いてしまった。  約三年間の連載中、どれほどたくさんのお便りが届いたことか。この場をお借りして、心からお礼を申し上げたい。ありがとうございました。  と言っても、完全に終了するのは淋しいので、イレギュラーでまた書かせて頂きたいと願っている。  大根やネギのはみ出たリュックを背負った私を見かけたら、いつでも声をかけて欲しい。その時は必ず、 「ヨッ! スタイルよくなったねッ」って言ってね。きっとね!   単行本あとがき  ベティちゃんシリーズのエッセイ集も、これで三冊目になりました。 「私は地味なくらしをしてるから、そんなに書くことがあるかなァ……」  と、おっかなびっくり書き始めた連載が、三冊分の本になるほど続くとは、正直なところ、思ってもみませんでした。そして、何よりも思ってもみなかったことが、三冊のそれぞれの題字を仲良しの友達が書いてくれたことです。  一冊目の「ベティちゃんの地味なくらし」は脚本家の井沢満、女優の藤真利子。  二冊目の「ベティちゃんの心の情人」は脚本家の冨川元文。  今回の三冊目は作家の林真理子。  そして、最初は担当編集者として出会った角川書店の豊嶋和子さんとも、いつの間にか仕事を越えて、とびっきりの友達になってしまいました。彼女や装丁の田澤麻利さんの力がなければ、とてもこんなにすてきな本にはなりえませんでした。これほど華やかな「友情出演」を頂いて、私の「地味なくらし」も、友達関係だけは間違いなく「派手なくらし」だと思います。幸せだなァと思います。  私には「愛しているもの」がたくさんあります。その中でも特に愛しているものに、「愛してるわ」と、一度だけ言わせて下さい。  友達に、  東京に、  仕事に、  生きることに、  そして、あなたに。  ありがとう。  愛しています。     一九九三年十二月  取材先のモロッコ・カサブランカにて [#地付き]内 館 牧 子