内藤 濯 星の王子とわたし   は し が き [#地付き]内 藤  濯  もはや二十三年ほど昔のことである。  児童文学に堪能な石井桃子さんが、美しいフランス本を私のところにお持ちになった。英訳で読んでみたのだが、図ぬけて秀れた作だと思うので、いま私の関係している書店で本にしてみたい。で、もしお気が向くようだったら、日本語訳を試みて下さらないか、とおっしゃる。  おっしゃり方に、なみ大抵でなく熱がこもっているのに引かされて、石井さんがお帰りになるとさっそく、ページを繰りはじめた。そして何よりもまず、短い序文の結びとなっている一句「おとなは、だれもはじめは子供だった。しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない」というのにぶつかった。私は身のすくむ思いがした。おとなの悪さを、やんわりつついている志の高さに、頭があがらなかったからである。  問題の書はほかでもない。アントワヌ・ド・サン・テグジュペリの「星の王子さま」(ル・プチ・プランス)である。  サン・テグジュペリといえば、今はもはや故人で、七月三十一日が祥月命日《しようつきめいにち》に当たる。二十歳の頃から、航空に宿命的な情熱を傾けはじめた異常人だった。したがって、肉体を底の底までゆさぶった経験といえば、なん度とも数知れぬ搭乗機の不時着だった。見はてのつかぬほどまで拡がっている砂漠に向っての激突だった。  したがって「星の王子さま」は、ただの作家の作ではない。航空士といたいけな王子とが、一週間そこそこ、人間の大地を遍歴する記録ではあっても、つまるところは、人心の純真さを失わぬおとなの眼に映じた社会批判の書である。  正直のところ、私は石井桃子さんを介して、はじめてこの作の存在を知った。そして作者の無類な人間価値が、作の経緯となっていることに気づくと、昼となく夜となく、翻訳の仕事を進めながら、一方では、リズムに綾《あや》どられた日本語の発見を楽しんだ。  読んで読んで読みぬいて、この作の値打に浸《ひた》り社会批判のくだりで、自分自身の愚かさをつつき出されたあげく、それに苦しむほどの人には、私がこの作に心ひかれているわけを、たやすく察して頂けるだろうと独りぎめしている。  フランス文学と日本文学との間を行きつ戻りつしながら、童心のいたいけさを解きほぐしたこの小さな作のために、こうも心打たれることになろうとは、まったく思いもよらぬことだった。サン・テグジュペリのおかげで、私はすくなくとも、ただの理屈で自分を縛ることの悪さだけは、知ったらしいつもりでいる。  この小著は、サン・テグジュペリの生涯を追いながら、同時に私の心の中に住む「星の王子さま」を探し求めた私の生活の反映である。 [#改ページ] 目 次  星の王子周辺   嵐 の 避 場   少年時代(一)   少年時代(二)   砂 漠 愛   感情生活(一)   感情生活(二)   感情生活(三)   感情生活(四)   星めぐり(一)   星めぐり(二)   星めぐり(三)   二つの場面   王 子 の 死  作者の素顔   戦 前 戦 後   ブエノス・アイレスでのこと   オルコントでのこと   晩 年 と 死   サン・テグジュペリ年譜 [#改ページ]  星の王子周辺   嵐 の 避 場  サン・テグジュペリは、一九四三年、アメリカの客となっていた。故国フランスがナチスドイツの侵すところとなったことがもとで、亡命の身の上になったからである。直接に故国の急に馳せ向うことはできなくても、なんとかしてその威信を救うだけのことはしたかった。それにつけても、大西洋の遙かあなたに残っている友人たちの悲境を思うと、さすがに胸が疼《いた》む。わけてもユダヤ人で、若いころから心を許し合っているレオン・ウェルトが、フランスの暗雲に包まれて苦しんでいることに思いを馳せると、到底手をこまねいているわけにいかなかった。  そのあげく、「ある人質への手紙」(一九四三)という小冊子をレオン・ウェルトに書きおくって、何ものにも代えがたい友情のうちに、おそろしい戦争からの避場を見いだそうとしたのである。しかし、事はそれだけでは足りなかった。航空に一身を打ち込んでいる彼は、どうかすると、二度とこの世でくだんの友人と顔を合わすわけにいかなくなるかも知れない。だとすれば、言わず語らずのうちに築かれている友情だけではなく、たましいそのものまで、形見にして遣さねばならぬ。そう思ったあげく、レオン・ウェルトのために一つの物語を書いた。それが「星の王子さま」である。  この作のはじめには、短くとも深みのある「はしがき」が書かれている。 「レオン・ウェルトに——わたしはこの本を、あるおとなの人にささげたが、子供たちにはすまないと思う。それには、ちゃんとした言いわけがある。そのおとなの人は、わたしにとって第一の親友だからである。もう一つ言いわけがある。そのおとなの人は、子供の本でもなんでも、わかる人だからである。いや、もう一つ言いわけがある。そのおとなの人は、いまフランスに住んでいて、ひもじい思いや、寒い思いをしている人だからである。どうしても慰めなければならない人だからである。こんな言いわけをしても、まだ足りないなら、そのおとなの人は、昔一度は子供だったのだから、わたしはその子供に、この本をささげたいと思う。おとなは、だれもはじめは子供だった。�しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない�そこでわたしは、わたしの献辞を、こう書きあらためる——子供だったころのレオン・ウェルトに」  サン・テグジュペリは、何かの折りに、「あの人こそ私の友達だと言うことのできる人はまれだ」とも言ったし、「どこにも友達のいないところはない」とも言った。矛盾した物の言いようであるが、彼は手を替え品を替えて、繰り返してもいるし、筆にしてもいる。しかしこの場合の矛盾は、うわべだけのことに過ぎない。彼が、�人と人との結びつき�と呼んでいることと、�裏切られることのできないところに私のみとめる友情�とは、おのずから選を異にするのである。彼の遺作である大きな雑筆集「城砦《じようさい》」(一九四八)には、「友人とは、第一にあれやこれやと品定めせぬ人のことである。……浮浪人に家の戸をひらいてやる人のことである。そしてもしその浮浪人が、家のそとの道路で見た春げしきの話をしたら、それをこころでうける人のことである」と書かれている。レオン・ウェルトはこの点で、サン・テグジュペリと呼吸を合わせて、「山の頂きの空気を吸うようなの」が彼の友情だと、「知ったままの彼」(一九四八)という随筆の中で言っている。  レオン・ウェルトは、小説家でもあり、ジャーナリストでもあり、芸術批評家でもあって、どんな流派にも属していなかった。何ごとにも誠実で、人間としてのねうちを高めることには、何ごとによらず忠実に身を処する人だった。だから、さもしい行ないはもちろん、かりそめにも人間としての体面に無頓着な言動は、一も二もなくいやがった。したがって、勢いの赴《おもむ》くところ、すること為すことに、どことはなくそっけなさが感じられて、そのことが一方では、とかく交際関係をせばめがちだった。しかし、そういうたやすくは得がたい人柄が、サン・テグジュペリとは並みなみならぬ交わりを結ぶきっかけとなった。すでに「はしがき」で言った六つの性格、男らしくて物やわらかで、臆病でけなげで、とかく考え込みがちであるくせに、時にはにこにこするサン・テグジュペリの矛盾した性格が、レオン・ウェルトによって、矛盾ならざる矛盾となったと言えないこともなさそうである。  ある日のこと、二人と親しくしているある人が、サン・テグジュペリと知り合いになったらどうだと、レオン・ウェルトに言いだした。するとウェルトは、飛行家などと交際していったいどうなるのだと、どちらかといえば、すげない返事をした。それでも二人は、仲介に立った男の熱心な肝煎《きもいり》にひかされて、とうとう顔を合わせた。そして何かと言葉を交わすがはやいか、たがいに人柄もわかり、こころを許し合う気にもなった。思わず時を過ごしていざ別れるとなると、握手ももはや通り一遍の握手ではなかった。紛《まご》うかたもない友情がいわばちゃんと封印されたあげく、しぜん顔を合わす日がかさなる。共通の感情と、見解の一致とが、月日が経つにつれて、二人の間の友情をいよいよ濃《こま》やかにする。逢瀬がまた頻繁になる。時としては、「君に会いに行きたいが、何しろ財布が底をついてるんでね」といった電話が、サン・テグジュペリからウェルトにかかる。そのようなみじめさは、ウェルトもまた同じで、タクシイ代を友人にみつぐ余裕さえなかった。シャナレイユ通りといえば、パリの第七区にあって、当時サン・テグジュペリは、そこに住んでいたが、ウェルトの住んでいる第六区のアッサ通りまで、徒歩で行くことが一度や二度でなかった。  サン・テグジュペリは、道を右に左にたどって、アッサ通りのアパートに行くと、ながい時間すわり込んで、何くれとなくおしゃべりをし合う。アメリカシガレットを一本また一本とくゆらしていると、相手のウェルトは、マドロスパイプをぷかぷかと吹かす。テーブル星の王子とわたしの王子とわたしの王子とわたし、ブランデーの瓶と二つのグラスが置かれて者にアれていた。でも、時と場合では、医者の目をごまかしていた」とサン・テグジュペリは「ある人質への手紙」の中で書いているが、ウェルトが自分に向けられているこのくだりを、「知ったままの彼」の中に取りあげているところを見ると、二人とも医者の禁をやぶっていたことを、ちゃんと認めていたようである。  二人は、ながい時間、いったいどんな話をしていたのだろうか。「十年もの間、わたしたちはとくに文学の話をした覚えはない。したにしても、偶然なん分かの間そんなことになったというのが実状で、何も話が一つのことにきまっていたわけではなかった」とウェルトは書いている。という意味は、なにも文学一般の話をしたわけでもないし、あの作家がどうだの、この作家がどうだのといった話をしたわけでもないことになる。強いて言えば、二人が身を入れたのは、とくに哲学上の話だった。「ぼくたちはどちらも、パスカルに同じ信念をもっていた」ともウェルトが書いているところから考えると、二人はこころを一つにして、人間のほんとうの本質と高貴な運命の表現を、パスカルの「パンセ」あたりに探し求めていたのであろう。  といったわけで、二人の間には、友情も世間並みの友情ではなくて、至って少数の人に限られた友情が波打っていた。祖国の悲運を思う苦しさをまぎらす意味での友情の美しい交流があった。だから、レオン・ウェルトはサン・テグジュペリにとって、嵐の中のたしかな避場だった。そしてその避場から、意外にも物静かな調子で生まれたのが、「星の王子さま」だった。  人によっては、この物語を逃避の文学と言う。苦痛となっている当面の問題、つまり祖国の急に直接触れることをせずに、いわば散文詩風な美しい形で、物語の筋をはこんでいるからである。とはいっても、人知れずこころの底に燃えている確信なり憂愁なり希望なりは、象徴また象徴となって、読者のこころにせまる。それに見落してならぬことは、くだんの散文詩風の物語が、世に言う童話らしくても童話を超えた形と魅力をもっていることである。これこそは、この物語の特徴であるが、かような手法をえらぶことは、思い切り子供の時代をおくった経験があって、人知れぬ祖国をかえりみでもするように、子供だったころに逃げ隠れる人でなくては、能くしがたいことであう。作者の一生を目のあたりに見てきた人たちの言うところをもとにしても、「若き日の手紙」(一九五三)とか、「母への手紙」(一九五五)とかいう内輪の書を読んでも、作者が子供時代との接触を忘れずに、それを新鮮ないのちの糧《かて》とした人の一人だったことはあきらかだ。「わたしのふるさとは、わたしの子供時代である、ある一つの国が、わたしのふるさとであるように」と作者はつよく言っている。   少年時代(一) 「星の王子さま」が架空の物語でなくて、作者の生活体験で裏づけられていること、この作の中身を解きほぐすには、何よりこのことを頭に置くことが大切である。  中心人物の王子が、家ほどの大きさもない小さな星から、人間の土地に落ちてくることになっているので、読者はとかく幻想が生んだ作にしがちである。  が、事実は必ずしもそうではない。  フランスの北から南へ、淙々《そうそう》と流れているローヌ河をはさんで、段々畠もどきにひろがっている丘の上の都市のリオン、「星の王子さま」の作者アントワヌ・ド・サン・テグジュペリは、一九〇〇年の六月、あの美しい町で生まれた。  ル・マンといえば、フランスの東南部にある小さな町である。アントワヌはそういう町で、一九〇九年から数年少年時代を過ごした。気分次第で、勉強したりしなかったりする子供だったという記録があるところから察すると、何をするにも、気儘勝手な子供だったらしい。  近くのアンベリウという町には飛行場があって、一日になん度か、モーターの爆音がル・マンの上空までひびく。それが聞こえると、アントワヌはじっとしていられぬ。当時飛行界の第一人者として知られていたジュール・ヴェドリーヌというパイロットにねだって、はじめて空を飛ぶ楽しさを知った。高いところから人間の土地を大きく見おろした印象が、よほどつよかったらしく、かよっていたノートル・ダーム・ド・サント・クロワという学校のマルゴッタという先生に一つの詩を書きおくったが、いま残っているのは、はじめの三行きりである。   翼が夕風に吹かれてふるえていた   モーターが歌ってるように、寝入ってるたましいを揺り動かしていた   太陽の光りが青ざめた色でぼくたちをかすっていた……  それをきっかけに、アントワヌの心には、航空熱が深く根をおろしたにちがいなかった。何年か経った後のこと、なん人かの友達と、とある喫茶店に集まって、行く先ざきのことを話し合ったことがあった。アントワヌは、だまってみなの話に聞き入っていると、友達の一人が声をかけた。 「おいアントワヌ、いったい、どんなことしたいかい、きみは?」  こちらはからからと笑いだした。そして友人たちが訊けば訊くほど、ますます笑う一方だった。だが、とうとうしまいに、こう言って話を交わした。 「いやよそう。そんな話。もしこうだと言ったら、きみたち、窒息しないとも限らんからな」  少年時代すでに、彼は自分の将来をちゃんと見通していたのである。  リオンからほど遠からぬところにサン・モーリス・ド・レマンという村がある。そこには、古くから伝わった大きな屋敷があって、アントワヌ・ド・サン・テグジュペリは、「ぼくのこころの中に、のどかな糧《かて》を徐々に蓄《たくわ》えた古い家」と呼びながら、折りあるごとになつかしんだ。「人間の土地」(一九三九)といえば、アントワヌが十五年にわたる航空の体験を随筆風に書きつづった作だが、彼はそのなかで、「およそ家のたぐいなさは、人を雨風にさらさせなくしたり、暖めたりすることでもなければ、そこに壁があるということでもない……つまりはこころの奥底に、鬱蒼《うつそう》とした木下闇《このしたやみ》を形作ることで、そこからは、さまざまな夢が泉の水のように湧き出るのだ」としみじみ言っている。  つい話が前後したが、アントワヌが生まれたとき、サン・テグジュペリ家は破産の憂き目に会っていた。父のジャン・ド・サン・テグジュペリは、リオン地方の保険監督官というさほど引き立たない仕事で家を支えてきた。だから、一九〇四年病死したとき、いくらも財産を残さなかった。  でもさいわい、未亡人の両親が助力を惜しまなかったために、遺児たちは、プロヴァンス州のラ・モールにあった祖母の屋敷で、喪《も》にこもった年のなかばを過ごした。晴れた日は日ざしの豊かな地方で、アントワヌは折りあるごとに、「埃《ほこり》までがよい香りをさせた処だ」と言ってなつかしんだ。その年の夏になって、トリコオ夫人という大伯母の好意で、未亡人になった母親は、五人の子供連れで、その家に移り住んだ。それがサン・モーリス・ド・レマンの屋敷である。子供五人のうちの年かさが、七つのマリィ・マドレエヌ、つぎが六つのシモーヌ、つぎが四つのアントワヌ、つぎが二つのフランソワ、ガブリエルが末っ子で、やっと一つになるかならない赤んぼだった。  そういう母親は若い身そらで未亡人になりはしたが、顔の表情にも、起居振舞いにも、暗い影一つ見せなかった。それどころか、身についた深い信仰のおかげで、口もとにはいつも、物やわらかな微笑が浮かんでいた。子供五人の世話は焼けても、それがほっそりした肩の重荷になっているようには見えなかった。財産というほどの財産をもっていなくて、母や伯母の助力で家計を立てていたことはたしかだった。しかし、もって生まれた一種の無頓着さから、物質方面の事をあまり気にせずに、子供たちに求めた事といえば、明けても暮れても、こころの訓練きりだった。それに、いざこざをいやがること、これも未亡人にとっては一つの取り柄だった。  日が落ちる。暮れの色が静かに谷間に流れ寄る。流れを包む。空へのぼる。あたりの山なみが静まり返る。松やユーカリの林には、音一つせぬ。風がそよとも吹かぬ。夜になると、あたりが一ように森閑《しんかん》とする。  しょんぼり建っている大きな邸宅には、よい戸がみなおろされている。夕食が終って、家の人たちが客間へ行くと、ランプがはこばれる。どっしりしたランプで、その光りが、客間の壁に、棕櫚《しゆろ》の葉のような影をゆらめかせている……  サン・テグジュペリの研究者として聞こえているマルセル・ミジョの記録をこんなふうにたどると、私の記憶はしぜん、「星の王子さま」の美しいページに繋がる。  ——ほんの子供だったころ、ぼくは、ある古い家に住んでいたのですが、その家には、なにか宝が埋められているという、言い伝えがありました。もちろん、だれもまだ、その宝を発見したことはありませんし、それを探そうとしたこともないようです。でも家じゅうが、その宝で、美しい魔法にかかっているようでした。ぼくの家は、その奥に一つの秘密を隠していたのです……  そういえば、サン・モーリスの城館は、様式というほどの様式のない建物で、前庭の右手に礼拝堂があり、その入口の戸の上には、Eamus et Nos〔われらまた、そこに行かん〕というヨハネ黙示録の一句が金言となって、石彫りになっていた。そのうえ、そこから数歩はなれたとこには、古井戸があって、ひび割れた灰色の縁石が青い苔に蔽《おお》われている趣《おもむき》には、どこからどう見ても、世ばなれた風情があった。だからそこに、何かの秘密が隠されていると言えないこともなかった。  後年、一人前の航空士となったアントワヌは、サハラ砂漠の一角に不時着したことがある。彼はそのとき、砂と星との間に迷い込んで、ただ呼吸する楽しさよりほかには、何一つ意識しない人間に過ぎなかった。ところで、はじめ彼は、襲ってくるその楽しさがなんであるかわからなかった。そこには、声も姿もなかったが、しかし、だれかが目の前にいる感じがした。だれかの友情がごく近くにあって、しかもそれがすでに、なかば寄せられているような感じがした。やがて彼はそれとわかった。そして目を閉じながら、思い出の蕩《とろ》けるような楽しさに、思い切り浸り込むのだった。  ——どこかに黒い樅《もみ》と菩提樹でいっぱいな広庭があった。それから、ぼくのすきな古い家があった。その家が遠くにあろうと近くにあろうと、ぼくの肉体を暖めようと、ぼくを雨風にあたらなくしようと、そんなことはどうでもよかった。ここではただ、夢が役割を果たしてくれれば、それでよかった。つまり、その家が目の前にあって、ぼくに一夜をおくらせてくれるだけでよかった。ぼくはもう、砂地に擱坐《かくざ》したあの肉体ではなくなっていた。そしてぼくには、自分がどこにいるか、わかっていた。つまり、あの家の子供だった。そしてその子供は、その家の匂いの思い出と、玄関口のひやりとした空気と、あの家の中でさざめき合った声々とで、胸がいっぱいだった……(「人間の土地」)  星でいっぱいな夜空を、縦横自在に飛びまわったあげく、はてしない砂地に寝ころんで夜明けを待っていたおとなは、こうしてわけもなく、かつての子供を取りもどしたのである。  そういえば、サン・モーリスの城館で日をおくるようになったことは、サン・テグジュペリ一家の子供たちにとって、大きなよろこびだった。夏の晴れた日などは、ひろびろした芝生や、菩提樹の奥まった物かげを、思うさま駈けまわった。だからくだんの広庭には、男の子たちの叫び声が、一日じゅうひびきわたった。遊びが面白いので、女の子のシモーヌまでが、よろこんで仲間入りした。お転婆だったのである。  兄弟のなかでいちばんはしゃぎ屋で、いちばん思い切ったことをするのは、なんといってもアントワヌだった。遊びの音頭を取るのは、いつも彼で、気儘勝手に遊びに段取りをつけたかと見るまもなく、出しぬけに、もうやめようと言いだす。だが、どんなに気が変っても弟のフランソワとは妙に調子が合う。二人の間には、取っ組み合いがいかにも面白そうにはじまって、それが庭から家の中にまでもち込まれる。そして時には、食事のさいちゅうに、食卓の上の勝負にさえなることがあった。  というと、子供のころのアントワヌは、どうやら乱暴一方だったようだが、物事のはずみとでも言おうか、いざとなると、気前のよい子供になることがあった。  ある日のことだった。 「いいお天気ね。遊びに行かない。山に?」と、シモーヌがアントワヌに言った。 「うん、行こう」ということになって、二人は嶮《けわ》しい小路を攀《よ》じのぼったり、茨《いばら》で足を引っかいたり、どこを歩いているかわからなくなったりしたあと、家に帰るために汽車に乗ろうとしていたときに、シモーヌはどこかで懐中時計を失くしたことに気がついた。  失くしたのが、伯母の贈り物の金時計だったので、シモーヌは、ただもうおろおろしている。でも、なんとかして探してくるから家に帰っておいでと弟が言うので、シモーヌは今にも泣きだしそうな顔になりながら、とぼとぼとステーションのほうへ歩いて行く。一方アントワヌは、路をあともどりして、先ほど走りながらおりてきた小路をまた攀じのぼる。歩くにつれて石がころころと転がる急な坂をもう一度くだると、こんもり茂った森の空地に出る。見るとそこは、正午に昼食をしたところである。一応ほっとしたが、あちこち探しているうちに、日が暮れる。星が光り出す。くたくたに疲れ果てる。そして夜おそくなって、さいわい通りかかったがた馬車が、路ばたに倒れている男の子を助けあげる。  家にはこばれて人ごこちがついたアントワヌは、きょとんとした顔で姉に言った。 「おねえさん、ぼく困っちゃった。見つからなかったよ、おねえさんの金時計。でもいいや、一所懸命探すだけのことはしたんだから」  さっぱりとそう言うのがアントワヌだった。一ぷう変った子供だったと言えばそれまでだが、どこまでも感じやすい子供らしく、物ごころがつくかつかないうちから、詩を書きはじめたのが、またアントワヌだった。  夜の十一時。家の中はどこもしんとしている。そこへサン・テグジュペリ夫人の部屋の戸をたたいて入ってきた子供がいる。アントワヌだった。 「おかあさん、詩が書けたんで、聞いてちょうだいよ」 「でも、今夜はもうおそいから、あしたまでお待ち」 「まあそう言わないで。すてきなのができたんだから」 「じゃまあ、読んでごらんなさい、そこで。ずいぶん気がはやいわね」   少年時代(二)  そんなわけで、アントワヌは、何ごとにかけても、型やぶりで我儘だった。他人の反対に出くわすのが、辛抱しきれないたちだった。いきおい、そういう利かん気の子供に苦しめられるのは、だれよりも母のサン・テグジュペリ夫人で、どうにも歯の立ちようがなかったらしい。とは言っても、世に言うところの利己主義が、そうしたとは言い切れなかった。つまるところは、もって生まれたちぐはぐな性格がそうしたので、そしてそのことが、彼を並みひと通りでない存在にしたらしかった。  そんなところから、何ごとにも寛大な母親と、気儘勝手でも、一方では人なつこい子供との間には、馴れ合いとも言えそうな気もちが動いていた。五人の子供を一ように愛している母親ではありながら、相手がアントワヌとなると、どうやら特別に可愛がっているように見えた。アントワヌもアントワヌで、赤ん坊のころからはやくも、母親を独り占めする|こつ《ヽヽ》を心得ていたらしかった。それでいて、たちの悪さをはたの人に感じさせなかったのは、すでに言った気前のよさが、彼の人となりに何かしら大きなものをもたせていたからであろう。  年かさの姉のマリイ・マドレエヌは、小鳥と花が殊のほかすきな娘だった。とある木の技にとまっていた美しい小鳥が、男の子たちとお転婆のシモーヌのはしゃいだ声におどろいて、森のほうへ逃げて行く。それを見ると、つい涙ぐんでうつむくし、散歩していて、今にも萎《しお》れそうな花を見ると、摘むのをおよしとシモーヌに言わずにいられないほど、感じのこまかい娘だった。そういう天性に煩《わずら》わされたためでもあろうか、はかなくも二十三の若さであの世の人になってしまった。  二つちがいの弟のフランソワ、これがまた、人なつこくてそれに生まじめで、アントワヌが何ごとによらず、打ち明けて物を言う相手だった。そういう弟の耳には、広庭の樅の木立を吹きぬける風が、音楽になって聞こえたように、あたりを飛ぶ蠅の羽音までが、紛うかたもない音楽だった。それほど鋭い感受性にめぐまれた子供だっただけに、「詩」に親しみがちなアントワヌには、一も二もなく分身の一人となった。  第一次大戦が起こったころ、二人はスイスのフリブールにある聖ヨハネ学院にまなんでいた。ところが、かねて関節リウマチになやんでいたフランソワは、心臓病を併発したために、サン・モーリスに連れもどされた。危篤の知らせがあって、アントワヌが病院に駈けつけると、フランソワは苦しい息の下から、「兄さん、おかあさんを呼んで。ぼく死にそうだから」と言う。となりの部星にきていた母は、胸もつまりそうになって入って行く。するとフランソワは、「おかあさん、心配しないでね。ぼく、いろんなことを見たり聞いたりしたけど、いやな事だらけで、辛抱しきれそうもなかった……。もっといいだろうな、これから行くとこのほうが」とつぶやくように言った。  二つとない分身と思っていた弟のそういう臨終を目のあたりに見たアントワヌは、最後の小説風な体験記録「戦列パイロット」(一九四二)の中で、かつての苦痛をまったく反射的に思い出している。  ——ぼくが十五のとき、ぼくの弟が、なん日か前から、助かりようがなさそうだと言われていた。ある朝四時ごろ、附き添いの看護婦がぼくを起こしにきた。………ぼくは急いで服を着て、弟のそばに行く。神経の発作で、弟は痙攣《けいれん》を起こしている。もの一つ言わぬ。発作の間じゅう、なんでもないと言ってでもいそうに、手を振る……。しかし、ひとしきり発作が静まると、弟はぼくにわけを言う。「こわがらないでね……ぼく苦しかないよ。痛かないよ。この力じゃどうにもならないのさ。ぼくのからだが、こうするんでね……」  作者は続いてこう書いている——人は死に出くわすとき、死はもう存在せぬ。……死につかまって、だれが自分のことなんか考えるものか。  残してきたバラの花のことが気になって、遠くの星へ帰って行くことに肚をきめた王子が言う——「ね、遠すぎるんだよ。ぼく、とてもこのからだ、もってけないの。おも過ぎるんだもの。……でも、それ、そこらに放り出された古い|ぬけがら《ヽヽヽヽ》とおんなじなんだ。悲しかないよ、古い|ぬけがら《ヽヽヽヽ》なんて……」  この場合の王子が、いたいけなフランソワでないとだれが言えよう。死を決した王子の前には、死はもはや、存在しなかったのである。フランソワも王子も、たしかに死に向って歩いていた。しかしその道は、さびしくても暗くはなかった。目の前に見る死は、もちろん痛ましい。しかし、作者がその少年時代の思い出から呼び起こした死からは、何かしら光ったものが感じられはしないか。  少年時代の思い出といえば、サン・モーリス・ド・レマンの城館には、ポーラというオーストリア生まれの家庭教師がいた。これも人なつこい、まめに働く女で、子供たちを我が子のように可愛がった。子供たちのほうでも、みなポーラになついて、よそ者あつかいしないどころか、家族の一員も同じだった。子供たちといっしょになって遊びはするし、我儘をされても、いやな顔はしないし、屋敷のまわりをみなと手をつないで散歩はするといったふうだった。そうして夜になると、ポーラは遊びでくたくたになった子供たちをいたわるように、いろんな話をする。あきずに話をする。というのは、生まれ故郷のチロルが、どこへ行っても山と森で、話という話の生まれるのは、とかく山々の峡間《はざま》や、ほの暗い森の奥だったからである。  子供たちは、みな一ように悧巧だった。頭が冴えていた。年に似げなくものわかりがよかった。ところでアントワヌはそのうえ、豊かな想像力はもっているし、それに不思議なこと風変りなことの面白がり屋だったので、話上手なポーラには、若くて亡くなったフランソワをなつかしく思うにつけても、つい涙するほど楽しい思い出をもち続けていた。  それかあらぬか、後年ひとかどの航空大尉になったアントワヌは、高度七百五十メートルでアラス上空を飛んで、ドイツ軍の高射砲と対決する段となった。作家が、この場合は、まちがいなく行動の人となったのである。  ところで、七百五十メートルは、禁止高度である。だから平原に標的を提供するのも同じだ、もう見まちがいなんかない、落下傘で飛び降りることさえ不可能だ。仕事がもはや、苦い薬でしかないことが、火を見るよりもあきらかになった。思わず、まるで子供のように顔をそむける。とたんに少年時代をなつかしむこころが、かまわず頭をもたげる。敗戦のなさけなさをまともに見させられている今は、それが唯一の慰めである。したがって、「年取ったのがいけなかった。まったくそうだ。子供のときこそ、ぼくは幸福だったのだ」とつくづく思う。  事がこうなると、昔はよかったとだれもが言いがちな現実が身にしむ。遠くのとおくに少年時代をちらつかせている過去の生活が、洗いざらい末ひろがりに見えてくる。 「大尉どの! 敵が左のほうで猛射しております!………あっ、ひどくなってきました……」  ひどくなってきたかも知れない。しかしアントワヌは、今や事柄のそと側にいるのではなくて、内側にいるのだった。こころの世界にいるのだった。あらゆる思い出と、あらゆる愛情とを味わうのになんの不自由もなくなっている。まっ暗がりの中に消え込んでいる少年時代が、いよいよ鮮やかに見えてくるのである。思い出にからむ憂鬱をもとにして、生活をはじめているのである。  ——どこからどう見ても、まぼろしではない。しみじみと心にせまる国にきているのである。それに、あたりが暮れようとしている。左手の夕立を呼ぶ雲と雲との間には、光りが大きく壁を突き立てたように射していて、それがいくつも方形にはめ込まれたステンドグラスのように見える。かつてのあの大きな家で気もちよかったものが、何もかも今にもこの手でさわれそうだ。実《み》をつけた李《すもも》の木がある。土の匂いがする。あの広庭のあの土だ。しっとりしたあの地面をあちこち歩いたら、さぞ気もちがよかろう。……あのねポーラ、ぼくは今、秣《まぐさ》を積んだ車のように、右に左にゆれながら、徐々に進んでいる。お前は、飛行機というものを、さっさと飛ぶものと思ってるにちがいない。だが、機械で動いてることを忘れたら、大地を見おろしているだけだと思ったら、野原を歩いているのも同じだ。  ところで、これはどうだろう。今ぼくが見おろしているのはアラスだ。もう都市でなくなってるアラスだ。戦火で赤々と燃えあがっているアラスだ——  といったふうに、昔と今の間を、足でなくここで行きつもどりつしていると、アントワヌはもはや、アントワヌでもサン・テグジュペリ航空大尉でもなくて、一人のおとなが、少年時代の思い出を、それからそれへと、辿っている存在でしかなかった。  ドイツ軍の猛烈な砲火と対決するというどたん場に立って、サン・テグジュペリは、おとなとその子供時代との間に、溝一つないことをはっきりと意識した。おとなの世界と子供の世界がちがった二つの世界ではなくなっていた。どこにも切れ目のない、ひと続きの存在で、それが始めから終りまで、彼のたましいを鍛えているのだった。もちろん、生活の事情には、大きな変化がある。しかし、生活の表面が変化するだけで、生活そのものには、なんの変化もないのである。 「ぼくのよろこびなり悲しみなりは、たしかに対象を変えた。しかし感情は、以前のままだ」とサン・テグジュペリが思う。そのとたん、またしてもポーラの姿が目先に浮かぶ。今はチロルの雪をかぶった山の家に帰っているあの家庭教師が思い出される。ドイツ砲隊の猛射を浴びてはいても、心はあの広庭の清らかな空気と同じように静かだった。マドレエヌのすきだったあの小鳥までが、どこかで鳴いているようだった。   砂 漠 愛  砂漠が子供を題材にした作の場面となることは、めったにない。花の咲いたのどかな庭とか、奥深い木立に包まれた館《やかた》とかいったところが、おそろしい砂地の大きなひろがりよりは、子供たちのあどけないこころにはふさわしい。だのにサン・テグジュペリは、行動の人としての体験から、星の王子を一も二もなくサハラ砂漠に連れて行った。言いかえれば、やむにやまれぬ砂漠愛の感情がそうしたのである。  サン・テグジュペリの生活に、砂漠の演じた役割は大きい。何より、モロッコ西南の突端カップ・ジュビイでの一年半にわたる廠舎《しようしや》生活、カナリヤ島からはこばれるやっと水らしい水を飲料にして航空また航空での起き臥《ふ》しは、苦痛の限りではあったが、それでも、たしかに実りの多い生活だった。  昼間の灼《や》けつくような暑熱が、まったく言葉にあまった。地平線上にのぼるにつれて、太陽が垂直にかんかんと照りつける。砂地が燃え立つようにほてり切っていて、大きな静かさが、カップ・ジュビイの上におしかかっている。生活という生活が、まるで熱さのために破壊されてでもいるようで、何一つとして動くものがない。人間も動物も、ひたすらに夕暮れを待っているらしく、廠舎の物かげを見ると、海のほうからはやく風が吹いてきて、からだの汗を洗い流してくれないものかと、首をながくしている。  そのうちに、やっと夕方になる。サン・テグジュペリは、ベッドの上に腰をおして、書き物をしている。かたわらの箱の上には、飼いならされた一匹のカメレオンが、色目をつかっているらしい尾長猿をからかっている。小さな砦《とりで》の石垣にひたひたと打ち寄せる浪の音、闇の中にひびく見張り番の几帳面《きちようめん》な呼び声、それだけが、砂漠のつかみどころのない沈黙をやぶる。サン・テグジュペリは、時折り頭をあげる。そして、カメレオンに目をやったり、天井を見あげたり、周囲を見まわしたりする。ちょっと何か考え込んでいるようだったが、やがてシガレットに火をつけて、手紙を書きはじめる——「おかあさん、ぼくはどうしたことか、修道者めいた生活をしているんです。……砂漠に面した砦、ぼくたちの廠舎は、そうした砦を背にしていて、何百キロかの間、砂原のほか何一つ見えません……。おかあさん聞いてください。あなたは、たいそう仕合わせな伜《せがれ》をおもちです。そしてその伜は、自分の行くべき道をたしかに発見したのです」  自分の行くべき道を発見したとは言っても、それはもはやサン・モーリスの館でのことでもなければ、フリブールの学校でのことでもなくて、サハラ砂漠の目ぼしい物ただ一つない廠舎でのことだった。事実そこには、板作りのベッドと、洗面器と、水差しと、それに一台のタイプライターと、航空機発着所の書類があるきりだった。  時としては、水蒸気でむしむしする夜が続く。そうした夜は、靄《もや》が地面から立ちのぼる。しめったシーツで包むように砂漠を一面に包む。廠舎のばらばらになった屋根板から、雫《しずく》になってこぼれ落ちる。そしてその湿気が、航空機のモーターと翼に意地悪くしみ込む。だからサン・テグジュペリは、機がひどく痛みはしなかったかどうかと気になって、毎日いわば機体検分のための飛行を敢えてしなければならなかった。いきおい彼は、砂漠の上空をいく時間もいく時間も飛んだ。時にはモール人を同乗させることもあったが、多くは単独に飛行しがちだった。乗機の投影だけが道連れで、それがまるで道しるべでもするように、先達《せんだつ》となる。それがまたサン・テグジュペリにとっては思いがけない魅力で、亀裂した高台や、砂地の波が地平線のはてまでひろがっている丘の上空を飛びに飛んだ。東の方へやや遠くわけ入るように飛んで行くと、昔の神殿の跡らしく、泥土の異様な斑点がいくつも盛りあがっているのに出くわすことがあった。地理学者たちは、それがなんであるか知らなかった。しかし彼は、回教国のなん人かの巡礼を相手にして、その秘密を解くことができた。身についた砂漠愛がそうしたのである。 「星の王子さま」の読みはじめには、�ぼくは六年前、飛行機がサハラ砂漠でパンクするまで……�とあるが、ルネ・ゼレルの研究によると、不時着の場所は、貝殻の砂地が柱のように盛りあがっていて、空からでなくては近寄れぬところだったという。「人間の土地」の�航空機と地球�という章には、それと対応するつぎのような一節がある。  ——ぼくはだれよりも先に、その貝殻の埃を、まるで貴重な黄金のように、手から手に移しながら、きらきらと光らせた。まただれよりも先に、あたりのしんとした空気をゆり動かした。  星が一つもう光り出していたので、ぼくは静かにそれを見あげた。この白い地面だけが、なん千万年も前から、星という星にささげられているのだ、とぼくは思っていた。  澄みわたった空の下の汚れ一つない大きなひろがり。ぼくはそうしたひろがりの、ぼくから十五メートルか二十メートルほどはなれたところに、一つの黒い小石を見いだしたとき、何かしら大きな発見にでもぶつかりそうな気がして、つよく胸を打たれた……  胸を轟かせながら、ぼくはその思いがけない見つけものを拾いあげた。するとそれは、かな物のようにおもくて、ひと雫の涙の形をした、拳《こぶし》大の堅くて黒い一つの小石だった。——  言うところの隕石《いんせき》がそれで、星の王子と同じように、とある星から落ちてきた石だったのである。  と思ったとたん、サン・テグジュペリの目先には、アラス上空の場合と同じように、子供だった頃が、ありありと浮かんだ。いつかは金髪の小さな王子を生む母胎となる子供の時代が浮かんだ。事実、星の王子は、六歳のこのサン・テグジュペリにそっくりだった。彼自身のたましいそのままの姿かたちだったのである。  そういえば、「およそ幼な児のごとくに神の国をうくる者ならずば、これに入ることあたわず」と福音書に言う。�おさなご�こそ、星の王子だということになる。こころの目がまだくもらずにいて、物ごとの裏を見ぬくことのできる純一な存在こそ、サン・テグジュペリのおもんじたおさなごということになる。「かんじんなことは目に見えない」と、「星の王子さま」の作者は、なん度ともなく繰り返している。いずれにしても、子供はおとなあっての子供ではない。おとながいてもいなくても、子供はどこまでも子供である。,  ある日サン・テグジュペリは、親友レオン・ウェルトの伜を乗用機に伴って、自分の育ったサン・モーリス城館の古い広庭の上空を飛んだことがある。もはや家族の人たちの手をはなれた家であったが、さもなつかしそうに指さして、「ほら、あそこだったんだよ」と言ったサン・テグジュペリのこころの中には、郷愁以上のものがあった。まったくの宗教的感情が動いていたのである。  どこからどう見ても、子供に目のない人だった。たびたび顔を合わしていた伯母の一人の話によると、彼が行動の人としてこの上もなく輝かしい日々をおくっていたころ、独特の深遠な話で我を忘れていた彼は、伯母の子供たちが目にとまるとすぐ、せっかくの話を打ち切って、シャボン玉遊びを楽しんだという。自分の子供時代の澄み切った泉の水をこころいっぱいに湛《たた》えていて、それが折りに触れては迸《ほとばし》ったのである。  一九三九年といえば、世界秩序の崩壊をすでに感じさせた年だったが、母に宛てた彼の手紙の中には、クリスマスの蝋燭《ろうそく》の香りをかぐと、澄み切った泉の水に行き会った気もちがするが、それにつけても、きのうきょうのこころのさびしさといったらない、喉《のど》が渇いて死にそうだ、といったような文句が読まれるし、また一方では、子供の時代から追放されるとは、じつに可笑しな追放だ、といったような痛切な文句も読まれる。  かような子供の時代への郷愁が、どうして砂漠愛の感情と結びついたか。 「ある人質への手紙」の中で読まれる文句を借りて言えば、サハラ砂漠での生活は、サン・テグジュペリにとって、いちおう孤独と窮乏の生活に過ぎないように思われた。いくら眺めてもながめても、一ような砂地が、見はてのつかぬほど、ひろがっているきりだった。がしかし、そういう砂地には、眼に見えぬ神々が、いろいろな方向と傾斜と目じるしを、まるで網目のようにひろげていることに、だんだん気がついてきた。するともはやそこには、一ようさがなくなっていた。何一つとして方向をもたないものはなかった。砂嵐の前の息づまるような静かさがある一方では、何一つ動くもののない真昼の静かさがあるといったように、静かささえも一ようでなかった。  それかあらぬか、王子は水が飲みたさに、はてしない砂漠の中を、なん時間か歩いているうちに、日が暮れて星が光りはじめる。とこうするうちに、でこぼこの砂が、月の光りを浴びているのを眺めていた王子は、「砂漠は美しいな……」と吐き出すように言う。  作者のパイロットが、それに応じて、打てばひびくように言う—— 「まったくその通りでした。ぼくはいつも、砂漠がすきでした。砂山の上に腰をおろす。なんにも見えません。なんにも聞こえません。だけれど、なにかが、ひっそりと光っているのです……」  ひっそりと光る砂漠の静かさ、そういう二つとない静かさが、サン・テグジュペリをたしかにその孤独から解放した。ところで砂漠の静かさとは、けっきょく、赤裸々の美しさである。そういう美しさが、子供の時代という赤裸々の美しさと結びついたのは、至ってしぜんなことだったのである。  あらためて言うまでもないことだが、サン・テグジュペリの場合、砂漠愛と航空愛とは、まったく一つのものだった。就学の年になって、海軍兵学校の入試に失敗したことは、むしろさいわいだった。一身を託すべきところが海ではなくて、空中だったからである。空中こそは、もっとも神秘不可思議で、打ち勝つのにも切り拓《ひら》くのにも、一筋繩では行かぬひろがりだったからである。カップ・ジュビィでの一夜、「この仕事を知らなかったら、今ごろはパリにいて、バアにも出入りしてるだろうし、ブリッジ遊びもしてるだうし、自動車の話もしてるだろうな」と、彼が吐息しながら言っているのを聞いた人があったという。  何はともあれ、サン・テグジュペリの「人」を作ったのは、まさしくサハラ砂漠だった。   感情生活(一)  サン・テグジュペリは、一九二九年、アルゼンチン航空会社を切り盛りすることになって、ブエノス・アイレスの人になった。ところで、そこでの第一の目ぼしい仕事は、海岸ぞいにマゼラン海峡を経て、最南端の港町プンタ・アレナスに達する新しい航空路をひらくことだった。  彼はその瀬ぶみをするためか、くだんの港町に飛んで行ったことがある。静かな夕方のことだった。着陸するなり、歩くともなく歩いて行くと、とある町角に泉があって、うら若い女たちが、静かに足をはこびながら、つぎつぎに水を汲みにくるのが、目にとまる。伏し目がちに行きつもどりつする姿が、たとえようもなく美しかった。泉を囲んでいる石にもたれながら、思いもかけなかった情景に見入った彼は、これまでになくみずからの孤独を感じた。ブエノス・アイレスにもどって、当時の情景を思い出すたびに、ますます孤独が身にしみて感じられるのだった。  それかあらぬか、およそ六年前、パリから末の妹のガブリエルに宛てて書いた手紙の中には、「美しくて賢くて、魅力たっぷりで陽気で、物静かでそれに操《みさお》正しい若い女の人に出会いたいとは思ってるが、どうも見つかりそうもない」といったような文句が読まれた。  おも苦しい孤独感がつのるにつれて、彼の結婚慾はいよいよ鋭くなった。やむにやまれなくなっていった。ふた月ほど休暇をもらって、ある日パリに帰って行ったことがあるが、夜おそく着いた彼は、すぐにもだれかと会いたくなって、手あたり次第に電話をかけても、留守また留守である。思いあまったあげく、「今は真夜中です。ぼくは帽子をベッドの上に投げだしたところですが、自分の孤独が身にしみわたります」と母に手紙を書く。「おかあさん聞いてください、ぼくが女性に何を求めるかというと、それはぼくの今のこの不安を和らげることです」とも書いた。落ち着きがなくなっていた彼は、幸福に満足している人たちを見ると、もう人間として伸びなくなっていると言わぬばかりに、そっぽ向いていた。  五年ほど経ったあと、ブエノス・アイレスのアパートで、独居の生活をしていた彼は、第二作「夜間飛行」の筆がとかく滞《とどこお》りがちで、憂さ晴らしの手紙を母に書きおくったが、その結びには、またしても、しかるべき配偶者を求めたいと思ってるという文句が読まれた。  ところで、そういう心境にあったサン・テグジュペリの前にあらわれた女性がある。コンスエロ・スンシンという女性で、「星の王子さま」の中心となっている一輪のバラの花、自分の美しさを鼻にかけて、おもわず王子の運命を左右するバラの花のモデルとなったという存在である。  サン・テグジュペリがコンスエロにめぐり合ったいきさつについては、いくつかの伝説がある。  ある日、若年の女性が、大部分は学生の聴衆を相手にして、結婚についての講演会をひらいたことがある。サン・テグジュペリは、友人に誘われて出かけた。耳を傾けると、けっきょく、結婚反対の話だったが、論旨の展開が奇抜で、�結婚は愛情を殺す�といったような、議論の余地はあっても、てきぱきした話しぶりに、サン・テグジュペリはこころをそそられた。のみならず、講演者の美貌を憎からず思っているうちに、彼女を引き合わす人があって、それをきっかけに、結婚まで事がはこんだというのである。だが、この伝説は疑わしい。  つぎの伝説の出所は、航空の方面だった。事はある日曜日、ブエノス・アイレスの飛行場で起った。ある若年の女性を同乗させて空を飛んでいると、モーターが故障する。だが、操縦者はいささかもあわてずに、軽業じみた妙技でみごとに着陸した。そのとたん、同乗していた可愛らしい女性は、おびえた様子もなく、それにこぼれるような微笑を操縦者におくったが、それがやがては、夫婦関係の結ばれる機縁となったという。この場合も、話ができ過ぎていてあてにはならない。  もう一つの伝説は、かなり小説じみてはいるが、事実に近いと言えないこともない。ある日の夕方、サン・テグジュペリはブエノス・アイレスのある料亭を出ようとしていると、両派に別れた植民地人の間の乱闘が町中で起った。プロヌンシアミエントという名で知られている南アメリカ革命の発端だった。サン・テグジュペリは、銃火を物ともせずにこづき合っている人たちのまん中で、美しい女が我慢づよく頑張っているのを見て取った。さすがの飛行家も、つい興奮して立ちすくんだが、よくよく見ると、それはバンジャマン・クレミウがつい近ご彼に紹介したばかりの女性で、その女性は銃火を冒《おか》すかわりに、飛行家の両腕の中に危難を避けたらしかった。  バンジャマン・クレミウといえば、文芸評論家として世に知られた人で、サン・テグジュペリとは、かねがね相識の間柄だった。アルゼンチン旅行の途次、サン・テグジュペリをブエノス・アイレスの寓居に訪ねたとき、孤独のさびしさになやんでいた飛行家は、遠来の友の厚情をこころからよろこんだ。あれやこれやと故国の話を聞くことが嬉しかったばかりではない。第一作の「南方郵便機」がフランスでなかなか反響が大きい、近々批評を書こうと思っているという話になって、作家としての彼の顔は、ひとしお明るかった。話がそれからそれへと続いて行くうちに、第一次大戦中、新聞報道の事にあたっていたとき、ゴーメス・カリヨといって日本にもきたことがあるというアルゼンチンの新聞記者と知り合ったが、その男が先ごろ病死して、あとに残った若い女性で才のはじけたのがいる、いちど会ってみてはどうだといった話が、しまいにはサン・テグジュペリとコンスエロとを結ぶことになったという。バンジャマン・クレミウという知名の文芸家が顔を出しているだけに、無下に伝説として退けるわけにいかない。  ところでコンスエロというのは、中部アメリカのサン・サルヴァドルで生まれた日、両親の家が地震でまる潰れになったあげく、通りがかりの印度人に引き取られて山中に連れて行かれ、山羊の乳で育てられたという女だった。それはそれとして、コンスエロ自身の話によると、くだんの印度人は魔法の名人で、コンスエロにいろいろな秘術を手ほどきした。あれやこれやと風変りな儀式に立ち会わせたが、それは彼女の勇気のほどをためすためだった。一輪の白い花を口にくわえて、とある深い井戸におろされたが、井戸から上に引きあげられたとき、もし花が萎《しお》れていたら、それは彼女がこわがったからだというのだった。ずいぶん突飛な話で、真偽のほどは疑わしい。こんなふうに、すぐばれそうな嘘をつくところに、コンスエロの癖があったことは、「星の王子さま」の中でバラの花が、「あたしのもといた国では……」などと、事実は花の種があったきりだのに、いかにも花が|いた《ヽヽ》らしく空とぼけて言うくだりがあることでも察しがつく。  物語の中には、くだんの花が咲きはじめる美しい一節がある。 「……芽がのびて小さな木になると、もうそれきりのびなくなって、花をつけはじめました。大きな蕾《つぼみ》が腰を落ち着けているのを、はたで見ている王子さまは、今にあっというほど美しいものが、見えてくるように思われてなりませんでした。でも花は、みどりの部屋にじっとしていて、なかなか化粧をやめません。どんな色になろうかと、念には念を入れているのです。ゆっくりと着物を着ているのです。花びらを一つひとつ整えているのです。|ひなげし《ヽヽヽヽ》のように、もみくちゃな顔になっては出てきたくないのです。照り光るほど美しい姿にならなくては、顔を見せたくないのです。ええ、ええ、そうですとも、なかなかのおしゃれだったのです」  これは、化粧に憂き身をやつしたらしいコンスエロの姿かたちそのままだとは言えないだろうか。サン・テグジュペリの一生をたどった人たちが、行きずりに書いているのによると、コンスエロは、小柄ではあるが美しいほっそりした顔だちで、表情ゆたかな目をきらきらと光らせ、英語とスペイン語を交えて話すフランス語のアクセントが、いよいよ女としての魅力を鮮やかにする。それにまた、はち切れるほどの若さが、夢と現実とのけじめをおぼろにする。そういうあらゆる習俗をはなれた美しさが、一も二もなくサン・テグジュペリのこころを動かしたあげく、一九三一年の春、フランスに帰って行ったとき、末の妹のガブリエルが嫁いでいる地中海沿岸のアゲーで、ついにコンスエロと結婚する始末になった。  サン・テグジュペリについての著書は、すでにかなり多数にのぼっている。だのに、事コンスエロとなると、多くの人がとかく口を噤《つぐ》みがちである。ピエル・シュヴリエといえば、サン・テグジュペリとその家族とに人一倍親しみをもった人でありながら、コンスエロについては、ただサン・テグジュペリとの出会いと結婚をあっさり筆にしているきりである。強いて言えば、ある一人が他の一人にたいして所有権を楽しむ、そういう意味の恋愛を嫌ったのが彼だったとか、通り一遍の夫婦を見ると息苦しく感じたのが彼だったとか、事をぼかして言っているきりである。サン・テグジュペリの友人で「サン・テグジュペリの五つの顔」というのを書いている医師のジョルジュ・ペリシエにしても、名うての飛行家の配偶者などはまったく知らないらしく装ってもいるし、「人によっては不快な感じをもたないものでもない」などと言って、知っているらしいいくつかの事を殊更筆にせずにいるようにも見える。おそらくは遠慮深さがそうしたのであろう。  事実、コンスエロだけについて書いた人は、まったくないと言っても言い過ぎではない。しかし噂をした人となると、到底一人や二人ではなかった。さらに悪口を浴びせた人となると、数え切れないほど多数にのぼる。サン・テグジュペリ論として読まるべき著書に彼女が姿を見せないのは、おそらく彼女をよく言いたくない気もちからであろう。それでも、彼女について知ることが、特に彼女を妻として選んだ「人」を知るのに必要なことは否めない。  一九四四年七月三十一日、サン・テグジュペリが地中海上空で行方不明になった後、世間ではまるで申し合わせたように、コンスエロのことを口にしなかった。これには、ひどく自負心を傷つけられて、なんとかして世間の沈黙をやぶろうと、もち前の性質をむき出しにして、いろいろと見せかけの仕草もしたし、桁《けた》はずれなしわざをしたのも彼女だった。  ある日彼女は、サン・テグジュペリ研究の第一人者マルセル・ミジョに向って言ったという。 「うちの人のことは、さんざ書いているのに、ちっとも書きませんわね、その女房のことは。でも女房だって、する事はしたはずですよ。あの人の一生のうちにはね」  コンスエロはそう言ったとき、悲しさと口惜しさとで顔をくもらせていた。一種の思いあがりから、なんとか自分のことを噂して貰おうとしたのだと思う人があったにしても、それをとやかく言うわけにはいかない。考えようでは、人間としてむしろあたりまえのことだからである。有名人の妻が、当の有名人の行動を自分自身のことにして、それを誇りにすることに不思議はない。彼女だけが夫と愛情をともにしたわけではなくても、すくなくとも彼女だけが、夫とその名を同じゅうしたからである。  人の妻である女のうちには、夫と、形と影との関係にある女たちがある。そういう女たちは、夫の仕事に携《たずさ》わりもしたし、何かと夫に助言もした。だから、妻であるのと同時に、秘書でもあった。ところでまた一方には、夫が過労の結果陥りがちな興奮と疲労を和《やわ》らげることだけに、気苦労してきた女性もある。そういう女性は、夫の性癖にも、無理な要求にも、ましてや横暴な仕打ちにも耐えしのんできた。人知れず息づまるような思いはしていても、それでも幸福な日々をおくってきた。愛する夫のうしろで、慎み深く自分を押し隠してきた。ところでコンスエロは、そういうふたいろの女のどちらでもなかった。彼女の場合は、そのいずれでもないところに彼女の異色があった。   感情生活(二)  サン・テグジュペリと親しくしていた人たちのうちには、何人《なんびと》の影響も彼に及んでいないと言う人がある。作家としての彼は、たしかにそうだった。彼の作をどんなにあさりまわしても、文学的あるいは哲学的な影響を何人かからうけた形跡はない。がしかし、人間としての彼となると、事情がちがう。彼の生活には、数年の間に変化がみとめられたが、それはさまざまな影響のもたらした結果にほかならぬ。アンリ・ギヨメのような僚友の影響、ついでは畏敬の的だったディディエ・ドーラのような、名うての先輩の影響がそうである。でも、なんとしても大きかったのは、コンスエロの影響だった。  そう言えば、いよいよ「星の王子さま」のバラの花が問題になってくる。コンスエロの行動と性格とが、あらまし「四つの|とげ《ヽヽ》をもった」バラの花で象徴化されているからである。  ——王子さまのその花は、ある日、どこからか飛んできた種が、芽を吹いた花でした。  ——その花は、王子さまがこれまでその星の上で見た花とは、似ても似つかない花でした。  ——王子さまは、この花あんまり謙遜ではないなと、たしかに思いはしましたが、でも、ほろりとするほど美しい花でした。  ——花は咲いたかと思うとすぐ、自分の美しさを鼻にかけて、王子さまを苦しめはじめました。  そういうバラの花の美しさは、けっきょく咲いているだけの美しさだった。うわついた美しさだった。そしてそういう美しさのうしろに隠れていたコンスエロは、静かに落ち着いているかと思うと、へんにあら立つし、物やわらかに振舞うこともあれば、怒りっぽく物を言いかけることもあり、衝動的で芝居気たっぷりで、その場その場の気分で動くきりの女だった。したがって、どんなに堅実な人も、どんなに確乎不動な人も、そのような女性からは、良かれ悪しかれ影響をうけないわけにいかなかったらしい。  ある日のこと、二人の間には、はげしい争いがもちあがった。過《あやま》ちはコンスエロにあったが、なかなか承服しようとせぬ。女にありがちなことだったのである。サン・テグジュペリは、一時の仲直りを避けたい気もちから、コンスエロの言うことにたやすくは道理をみとめようとはしなかった。が、まもなく、そうしたことをいけないと思った。なぜなら口の上での争いが、まったくの喧嘩沙汰になってしまって、コンスエロは怒り狂った子供のように、おいおい泣きはじめたからである。  事がこうなっては、隣り近所の人たちが寄りたかるおそれがあるので、サン・テグジュペリは泣き声を立てるなと折り入って妻にたのむ。だが相手は、泣きわめく一方である。どうにもならなくなった彼は、妻をベッドの上に押えつけ、そばにあった羽蒲団をつかんで頭におっかぶせる。相手はじたばたしている。手あたり次第引っかいている。噛みついている。あたりかまわず泣き立てる。サン・テグジュペリは、がっしり相手を押えていた。すると突然、泣き声が静まった。陰にこもった声になった。が、やけになった身振りはおさまらぬ。飛行士は抱きしめている手をゆるめて、羽蒲団をもちあげる。見るとコンスエロは、蔽《おお》いの|きれ《ヽヽ》を引き裂いている。口もとは、羽蒲団の綿毛だらけになっている。息がつまって物が言えぬ。サン・テグジュペリは、からからと笑いだした。そして、すこし経ったあとで、つぶやくように言った。 「そんな小さいからだから、よくもあんな大きい声が出たものだね」  そういうのが、二人の間に起った場面の一つだったが、もっとはげしい場面も、事実なん度ともなくもちあがった。かような結婚生活が、夫たる人に影響をあたえなかったら、それこそ不思議であろう。一九二五年、サン・テグジュペリが、パリから母に宛てて書いた手紙のうちには、「自分の身のまわりを知りぬくのには、多少とも不安であることが必要です。と思うとぼくは、結婚そのものがおそろしい。それも相手の女によりけりですけれどね」というくだりがあった。  いったい、どんな意味でそう言ったのだろうか。もちろんサン・テグジュペリは、世に言う平俗な結婚をおそれた。幸福と平静とを後生大事にする女性などには、まったくこころを動かさなかった。平静を必要とする人がとかく世にはありがちであるが、それと事かわって、不安を必要としたのが彼だった。たまにはそういうありかたにこころ平らかでないことがあって、つい平静な生活にこころひかれていそうな気振りを見せることがあるかと思うと、またしても不安なこころもちに浸るのが彼だった。多くの人が幸福と呼ぶありかたが、彼にとっては生活の滞りだった。不安な状態が不十分である場合、彼はそれを無意識のうちにも増大することに努力したらしかった。本能的にと言うことが当を得ないなら、必要にせまられた上のことだったと言ってもよかった。つまり、もって生まれた並みなみでない想像力と感受性とが、彼独特の感覚を拡大したのである。彼の健康に気をくばっていた医師のペリシエは、病気でもないのに、病気をなつかしがってでもいそうな彼に手を焼いたという。どこも悪くないのなら、なぜそうはっきり言ってくれないかと、向きになって物言うのが彼だったからである。  サン・テグジュペリの必要としたそういう不安は、コンスエロの向う見ずな行動でその度を越したあげく、間接に飛行家の壮挙を挫折させるという、思いもよらぬことになったひと齣《こま》がある。  壮挙とは、一九三五年の暮、当時輝かしい発展途上にあったエール・フランス航空会社に委嘱されて、印度支那に向っての長距離飛行を企てたことだった。  まったくの壮挙だった。腕利きの機関士アンドレ・プレヴォが同乗することになった。ところが、何ものに呪われたのか、まっ暗がりの空を飛んで、サハラ砂漠のリビヤの奥地にさしかかったとき、機は時速二百七十キロという高速度で、小高く盛りあがった砂地の斜面に激突した。よくも死ななかったと思ったほどの大事故だったが、夜が明けて見ると、機体は不思議にも顛覆《てんぷく》せずに、砂地に食い込むなり、これもおどろくべき高速度で這いずったのだった。  事がこうなっては、もうどうにもならない。機体の応急修理をすることなど、考えることさえ無駄である。石の上に浮いている朝露で、からからになった喉をしめしても、ただしめしただけのことで、今にも肉体を木ぎれ同様にしてしまいそうな渇きを鎮めることにはならない。なんとか救援のチャンスにありつくこともあろうかと、六十キロも八十キロも砂地を歩くという、とても人間わざとは思われない大きな苦難にぶつかった。  でもさいわい、アラビアの隊商が通りかかって、サン・テグジュペリとプレヴォは不思議にも正気づいて、この地上の人間らしく息をしていることに気がついた。どこかで雄鶏の鳴いているのが聞こえたからでもあったが、また一方では、コンスエロの顔が、目先にちらついたからでもあった。  そういえば、一九三二年の暮、南アメリカを去ってパリの人になっていたサン・テグジュペリは、これという地位にありつけなくて、糊口《ここう》の道にも窮するほどだった。はじめカステラーヌ通りの見るかげもない小さなアパートに住みついたが、貸間代が滞りがちだったためか、引っ越しに引っ越しが続いて、数カ月後には、第七区の裏町シャナレイユ通りのアパートらしくもない建物のいくつかの部屋で、島流し同然の日々をおくっていた。  友人たちは、やりっ放しの彼の生活ぶりにおどろいていた。どの部屋も、書物と、書類と、シガレットの吸殻と、歯ブラシと、睡眠錠とでいっぱいだった。床板の上までがそうだった。そしてそういう雑多なものがころがっている傍には、穴のあいた靴下と、縁のほつれた服と、汚れた洗濯物とが、うず高く積みかさなっていた。それにほとんどいつも、部屋の中がうすら寒かった。暖房代が滞りがちだったからである。執達吏の催告も引っきりなしで、彼にとっては、まったく|うだつ《ヽヽヽ》のあがらない毎日だった。  いきおい、不眠の夜が続く。大空のひろがりをじかに見あげたら、胸の結ばれもほどけそうだとでも思ったのか、建物の都合がつくごとに、とくに屋根裏部屋をえらんで住居にした。文字通りがらんとした部屋で、ちゃちなソファ・ベッドと、いくつかの椅子のそなえがあるきりだったが、晴れた夜には、屋上の人になって、思うさま星空を見あげることが、二つとないこころやりだった。  時折り彼は、「マルセイユあたりまで飛んで行けたら」と友人に言って、一日飛行を楽しむことがあった。大地をはなれた瞬間から、彼のこころは不思議に和《なご》やかになった。空間と時間とが航空機の速度でかき消されると、サン・テグジュペリは、よし束の間でも、生活のうららかさを取りもどしたという。   感情生活(三)  ブエノス・アイレスからパリに帰って、サン・テグジュペリが物質的に不如意な日々をおくらなければならなくなったことは、すでに言った。  そういう生活の窮境をぬけ出すことがねらいだったかどうかあきらかでないが、彼は「フランス航空の消長」と題する一文を書きあげて、それをしかるべき大新聞に発表しようとしていた。事は縁あって、エール・フランス航空会社の重役の一人であるアレーグル氏の知るところとなった。サン・テグジュペリといえば、すでに世にひろく知られている作家である。そういう人の書いたものが、世間の評判になることはあきらかだ。したがって会社の将来に新しみを添えることになると考えたアレーグル氏は、一書をしたためて、サン・テグジュペリに印度支那長距離飛行をゆだねた。一九三四年四月のことである。  普通の人とは事かわって、精神的不安に生活の意義を見いだしていた彼は、アレーグル氏の書に接して、もうここらで、かなりながい間続いた不安に、一応句切りをつけるべきだと思った。だから彼は、ともかくも、エール・フランスの委託に応じた。朝な夕な物質上の満足一つに気をとられているパリ人多数の生活態度にあきて、その鬱積した空気からのがれることが第一だと思ったからでもあった。  カサブランカ、アルジェ、チュニス、ベンガジ、カイロ、アレクサンドリヤ、ダマスカス、ベイルート、イスタンブール、アテネ、ローマ、そういう地中海地域の主要都市での巡回講演、それがみな航空本位の講演で、提供された長距離飛行にはそういう条件がついていた。ふだん臆病になりがちだった彼も、ひとたび航空が問題になると、人間の偉大と向上とが話の中心になって、不思議に熱を帯びる。エール・フランスからの呼びかけに応じたのは、物質上の不如意を埋める気もちが動いていたためだったことはたしかだったが、それよりは、彼の身についていた純一な行動慾が、おもな役割を演じたうえのことだったにちがいない。  ちょうど長距離飛行が火の手をあげた時代で、発動機が軽快で強力になったうえに、機体の流線型のスマートさが、またとくに人目をひいた。「シムーン(熱風)」型の機体がすなわちそれで、むっつり屋ではあったが、かねがねサン・テグジュペリの人柄と行動に好感を寄せていたディディエ・ドーラが企画に乗り出してきてくれたために、事はいよいよ実行のはこびになった。  年内にサイゴンに達しさえすれば、かねて積みかさなっている負債などは、なんとか償却されそうである、と思ったサン・テグジュペリは、バック通りとサン・ジェルマン大通りとの角にあるポン・ワイヤル・ホテルに準備のための事務所をもうけた。そして妻のコンスエロとなん人かの友人たちが、そこに屯《たむろ》した。ところが、事務所とは言っても、三日の間というもの、ただもう騒々しくてごった返しで、重要な長距離飛行の準備をしている気配はみじんもない。なんとしてでも成功を収めなければならないというような根性の燃えあがりも感じられないし、航空士と機関士とが、とくに事と取り組んでいるようにも見えない。喫茶室とミュージカルスの溜り場とが同居したような恰好である。気を張っている人の顔が一方につくねんと控えているかと思うと、一方では、今にも冗談を飛ばしそうな顔をしている人がいる。コンスエロはと見ると、どうしたのかひどく興奮していて、肩をそびやかしたり、大げさな身振り手振りをしたりしながら、話でもない話をしかけている。妙に喧嘩腰になりながら、むやみやたらに夫をじらしている。ジャン・ルカスといえば、サン・テグジュペリにとっては、サハラ砂漠の哨所《しようしよ》ポール・エチエンヌ以来の仲間で、今はパリにきて働いていた。考え深い、おっとりした男で、航空の事になると、細大もらさず心得ているところから、生半可な準備では目前の壮挙が切りぬけられないことを見ぬいている。だから、机の上にひろげられているなん枚かの地図の上にうつむいて、越えて行く岬をそれからそれへと指折りかぞえている様子を見ていると、あすの試験の勉強に一心を打ち込んでいる学生も同じだった。  それと向き合ってせっせと仕事していたサン・テグジュペリは、すこし息を入れて、肩の張りをはねのけたいらしい様子だった。だのに、コンスエロは、とあるベッドの上に寝そべって、無駄ごとをしゃべりちらしながら、続けさまにシガレットを吹かしている。とある椅子に腰をおろしているかと思うと、やたら身振り手まねして、またぞろ横になる。見るに見かねたルカスが、「いい加減になさい」と怒鳴らんばかりにつめ寄る。するとコンスエロは、猛然ルカスに飛びかかって、相手の頬を平手打ちにする。サン・テグジュペリにも、とかく、そんなふうな仕向けをしたことがなん度かあったのである。ふだん物静かなルカスも、事がこうなっては、かっとならずにはいられぬ。コンスエロをがっしり小脇に抱え込んだと見る間もなく、小娘でも相手にしているように、したたか臀部を引っ叩くのだった。相手のコンスエロは、立ちあがるなり、うそぶくように言った。  ——かなわないわね、お前さん、男の人なんだから!  このくらいな体刑を食わしたほうが、見せしめになっていい、とかまわずルカスが言う。すると、サン・テグジュペリはほっと吐息しながら頭をゆすった。  ——うん。だけどぼく、あいつの夫なんでね。  いざ出発という間際に、こんな打擲《ちようちやく》さわぎがもちあがっては、なんとも辛抱のしようがない。さすがのサン・テグジュペリも、ひどく神経を痛めて、二昼夜ほどおちおち眠れなかったという。そしてそのことが、知らずしらずのうちに、長距離飛行失敗の原因にならなかったとは言えなかった。  息がつよくて興奮しがちではあっても、時と場合では、感情的にもなり、甘ったるくもなり、あどけなくもなる女、コンスエロはけっきょくそんな女だったが、夫としての責任感を忘れないサン・テグジュペリは、妻のそういう性格がひどく気になって、しまいには、ほろりとすることさえあった。支払いが三月も四月も滞ったために、電気もガスも電話も、供給を断たれるという窮境に立たされたとき、コンスエロは、夫の胸に顔を寄せて言った。  ——気を落さないでね、あたし働くわ。  アントワヌはまさかと言わぬばかりに微笑した。  ——嘘言ってると思うの?  ——いや、そうじゃない。だけど、いったい何するんだい?  ——わからないけど、なんでもするわ。  そう言って、夫の胸もとからはなれると、きっとした口調で言った。  ——するわ、家のうちのこと。  アントワヌは、相手の顔に見入った。両手を取って、ほっそりしたつけ根をながめるなり、静かに頭を横に振った。  ——でも、そんな小さい手首ではね。  するとコンスエロは、取られた両手を振りほどき、両腕を十字に組んで言った。  ——キリストさまだって、小さい手首をもってらしたはずよ。  アントワヌは、妻を両手でかかえ、抱きあげて立たせながら、つぶやくように言った。  ——赤ん坊だな、お前ったら。  サン・テグジュペリは、とはいっても、コンスエロがどこまで本気なのか、わからなかった。一応は神妙そうでも、中身を割ってみると、する事なす事が芝居気たっぷりで、周囲の人の気をひくことにこだわっていそうに思われてならなかった。するとそのとたん、サン・テグジュペリの目先には、むしろ笑止きわまるかつての夫婦生活のひと齣《こま》が浮かんだ。  ある日のこと、コンスエロの姿がふと見えなくなった。一日たっても二日たっても、行方がわからないのである。サン・テグジュペリはひどく心配になりだして、妻が行っていそうなところには、どこにも電話をかける。だが、かいもく見当がつかぬ。一人きり食堂の椅子に腰をおろして、捜索を警察にゆだねようと思っていたとたん、とつぜん電話のベルが鳴る。はっとして受話器を手に取ると、コンスエロの声が聞こえてきた。  ——よしとくれ、心配さすのは。後生だから、帰ってきておくれ、とにかく。  ——いやよ。  ——しかし、お前がいったいどこにいるか、それだけは言っておくれよ。  ——サン・マルタン運河のそばにいてね、水に飛び込もうとしてるところなの。さよなら、おしあわせでね。  本気でこう言ったのでないことは、あきらかなことで、小さな星に咲いていたバラの花が、むりに咳などをして王子と別れる場面が、読者には思い出されよう。  コンスエロにこんな仕打ちをされて、サン・テグジュペリは激昂しないわけではなかった。しかし、かりにも妻とした女性に、かような恋の戯れをさせた自分をむしろ口惜しく思った。リビヤの砂漠で死ぬ思いをしたとき、彼はこころの底からコンスエロに思いを馳せた。だが必ずしもそれは、のぼせたあまりの彼女の行動が、飛行の失敗に多少とも影響を及ぼしたと感じたからではなかった。というよりはむしろ、自分が航空の犠牲となった後の彼女が、寄るべない身の上になることを身にしみて感じたからだった。危いところを助かった彼は、カイロから母に宛てて、「コンスエロのようにあなたを必要とする女を、この世に残しておくのはおそろしいことです」と書いた。「ぼくが帰ってきたのは、多少ともコンスエロのためですが、しかしおかあさん、ぼくがこうして帰ってくることができたのは、まったくおかあさんがいらっしゃればこそです」とも書いて、サン・テグジュペリは、母と妻とを同じ一つの感情の中に生かしたのだった。   感情生活(四)  サン・テグジュペリは、かりにも妻とした女性に、思わず「恋の戯れ」をさせた自分を口惜しく思ったにちがいなかった。心と心の交流につよい要求をもっていたにしても、戯れとしての恋などには見向きもしなかった彼だったからである。  そんなわけで、サン・テグジュペリの結婚生活には、どこからどう見ても、きちんとしたところがなかった。落ち着きがなかった。それでも、それが思わぬ刺激となって、何かと筆をとる楽しさはあった。右手のペンが動くに連れて、左手では濃いコーヒー入りの茶碗が、ほとんど引っきりなしに口にはこばれる。アメリカシガレットの煙りまでがそれにからまる。そんなふうに仕事するとなると、物音一つしないことが、彼には妙にありがたくなかった。ざわついた、さもなければ動きのある環境が、筆をとる彼にはむしろ必要で、コーヒー店ででも、汽車の中ででも、なんの頓着もなく書きまくった。時としては、コンスエロが傍にいて、出端をくじくことがあった。すると彼は、つと座を立って、こころを許し合っている友達のところに出て行く。むしゃくしゃしている胸の中をぶちまけるためだった。でも、とこうしているうちに気が静まるなり、気儘勝手な女がつくねんとしているアパートのほうへ踵《きびす》を返すのだった。  そんなわけで、コンスエロとの間に調和の欠けたことが、サン・テグジュペリにとっては、�人格の逸脱�とならないわけにいかなかった。女性と愛情との判断に暗影を投ずるきっかけともなった。「城砦」といえば、サン・テグジュペリ最後の大きな雑筆集であるが、そこでは、女性を容赦なく物質あつかいにして、愛情の美徳について語るとなると、まったく没交渉な存在でしかない。漠然と詩化されたり、精神のあらわれを阻害するかのごとく思われたりするのが女性なのである。  ところで、はじめサン・テグジュペリは、結婚が女性にとって必要な事だと考えた。愛はその対象を見いださねばならぬ、現実の存在に愛をかたむけ、求めるものを惜しげなくあたえることのできる人だけが救われると考えた。だからといって、サン・テグジュペリはまかりまちがっても、肉の快楽におのれを放棄することが、言うところの恋愛だなどと考えはしなかった。恋愛の本質的な存在理由は、母親となることを措《お》いてほかになかった。サン・テグジュペリの目に映じた平和は、けっきょく、サン・モーリス・ド・レマンの館に起臥した五人の子供だった。秋のとり入れを思わせるのどかさだった。きちんと整った家だった。したがって、そこにはある種の禁慾的精神がなくてはならなかった。かりそめにも家の妻である女は女らしく、愛慾を抑えて自分自身の幸福をはからねばならぬ。さもなくて愛慾をその赴くままに委せたら、ついには深淵に陥るおそれが多分にあると言うほかはなかった。  時によっては、感覚的な愛情が真の愛情を殺すといって、つめたい目で見ることがないではなかった。敷藁《しきわら》の上に寝ころんでいる家畜に過ぎない人間行為などに、恋愛の偉大さなどのありようがないと、ずばりと言ってのけるのが、「城砦」の首長でもあり、サン・テグジュペリでもあった。 「城砦」の首長の詩的な言葉は続く——一日また一日と伸びて行くことのできる女、内心の中庭を往ききして、みずからを整える女、おのれ自身に限られた場所で、咲きひらくおのれ自身の花を見いだす女、春の美しさに気をとられずに、春に包まれた花の装いに眺め入る女、そんな女だけが救われるのである。 「城砦」の首長の身になって、愛情の世界の深さを懸命になって掘り下げているサン・テグジュペリは、女性を所有することが、女性を愛するゆえんでないことを知っていた。「愛情と所有の迷妄《めいもう》とを混同してはならぬ。なぜなら、そこからは、苦痛以上の苦痛が経験されるきりだからだ。俗説とは逆に、愛は人を苦しめはせぬが、所有の本能は、愛とは反対に人を苦しめる。だから所有することは、つまるところ、憎しみをもつことと二つのものでなくなる。ほんとうの愛は、何一つとして報いを期待せぬところにはじまらねばならぬ。さもない限り、愛は愛でなくて、エゴイズムだと言うほかはない」  したがって、サン・テグジュペリは、コンスエロの欠点に苦しまぬわけにいかなかった。彼女は夫のこころの中を知ってはいたが、弁解しようとはせずに、世間の悪口に楯突いたきりだった。それでもサン・テグジュペリは、コンスエロの起居振舞いに責任を感じた。年を取るにつれて、しだいに父親らしい感情をもつようになったとでも言おうか、やんちゃではあっても可愛がられている子供、サン・テグジュペリはコンスエロを、そんな女として取りあつかっていた。  死の直前、サン・テグジュペリは、夕暮れごとにコンスエロに口ずさませるつもりで、主への祈りを書きまとめた。コンスエロは、好んでそれを人に見せていたという。  ——主よ、たいして気苦労なさるには及びません。ただこのわたくしを、あるがままのわたくしになさってくださいませ。わたくしは、小さな事柄になると、うぬ惚れのつよそうな様子をしています。ですけれど、大きな事柄にかけては、腰の低いわたくしです。わたくしは、小さな事柄にかけては、利己主義者らしい様子をしています。ですけれど、大きな事柄になると、何もかも、このいのちさえ投げ出すことができます。小さな事柄になると、純潔でない様子をすることがたびたびです。ですけれど、純潔であってこそ、わたくしは幸福です。  主よ、わたくしの夫は、このこころの中にあるわたくしを読み取ることのできる人です。どうぞいつもいつも、そういう女にわたくしをなさってくださいませ。  主よ、主よ、どうぞわたくしの夫をお救《たす》けくださいませ。と申すのは、ほんとうにわたくしを愛している人だからです。わたくしの夫がいなかったら、みなし児も同じわたくしだからです。ですけれど主よ、わたくしの夫をわたくしより先に、あの世へ行かせてくださいませ。と申すのは、そのような様子をしているようだからです。ちゃんとしたからだをしていても、わたくしが家の中を騒々しくするのを聞かなくなりましたら、それこそたまらないほど身悶えする人だからです。主よ、何より夫になやましい思いをさせないようになさってくださいませ。いつもいつも、あの夫の家を騒々しい家にさせてくださいませ、時にはこのわたくしが、何かを叩きこわさねばならぬことになりましても。  お手を垂《た》れたもうて、わたくしを貞淑な妻になさってくださいませ。主人がさげすんでいたり、主人を嫌ったりしている人たちに会わないようになさってくださいませ。でなかったら、主人は不幸な身の上になります、わたくしのこのこころの中で生きている人でございますから。  主よ、わたくしどもの家をおまもりくださいませ。アーメン! あなたさまのコンスエロ。——  かような主への祈りを、コンスエロに口ずませたサン・テグジュペリの心中は、複雑でもあったし、悲痛でもあった。結婚生活の不調和をすべてみずからの責任に帰した高邁《こうまい》な人間価値が、否応なしにこの主への祈りを書かせたのである。  とはいっても、一般の女性は本来の性質上、男性の精神生活の障碍《しようがい》だと思いつめたらしく、結婚後およそ七年経ったある日の朝、サン・テグジュペリは食事をしながら、コンスエロに向って一年間の休暇を求めた。語気は静かだったが、日曜日にそこらの並木路を夫と腕を組んでとぼとぼと散歩する中流人の妻、お前をあんなたぐいの女にしたくないと言った。自分には、もって生まれた航空熱と並行して、作家としてやむにやまれぬ衝動がある。だからそれを実行に移すのには、家庭からの解放が必要だとも言った。でも、世間で言う別れ話を持ち出したわけではなかった。「山々の青々した風景に眺め入るためには、頂きに通ずる岩と岩との間で、息を入れるほかはない。それと同じように、愛を身につけるためには、愛にも休暇があるべきだ」と思ったうえのことだった、と人はいう。  といったわけで、コンスエロに求めた一年の休暇は、いつのまにか五年になった。その間にサン・テグジュペリは、モロッコのカサブランカから、アフリカのバマコにかけての空路をひらいた。パリの有力な新聞に委託されて、マドリッドにも飛んだ。そして空からの印象をじっくりと書いた。のみならず、ニュー∃ークからマゼラン群島へ飛ぶ途中、グアテマラに墜落して、何日かのあいだ、昏睡状態を続けるほどの重傷を蒙《こうむ》った。それがやっと回復したとたん、ナチスドイツの侵略戦が勃発する。だが、ペタン元帥を主軸とする仮政府は、ただ手を拱《こまね》いているきりである。その腑甲斐なさに憤然とした彼は、敢然ニューヨークに亡命した。  そしてセントラル・パーク・サウスの新築アパートの二十一階に居室を見いだすと、夜ごとに空いっぱいの星を見あげることができて、絶えて久しくも自分らしい自分を取りもどした。それでもはるかな故国に残してきたコンスエロに思いを馳せると、さすがに胸が疼《いた》む。レオン・ウェルトのために「ある人質への手紙」を書き終った彼は、かねての腹案だった「星の王子さま」を一気に書きまとめたが、王子はそこで、うっかりバラの花を棄てた浅はかさを口惜しがっている。 「ぼくはあの時、なんにもわからなかったんだよ。あの花の言うことなんか取りあげずに、することで判断しなけりゃあ、いけなかったんだ。ぼくはどんなことがあっても、花から逃げたりしちゃいけなかったんだ。ずるそうな振舞いはしているけど、根はやさしいことを汲み取らなけりゃいけなかったんだ。花のすることったら、とんちんかんだから。だけどぼくは、あんまり小さかったから、あの花を愛することがわからなかったんだ」  王子にこう言わせている彼は、形のうえではコンスエロを棄てていても、心の中では、はてしない哀憐の情をもち続けた。その証拠に、亡命先のニューヨークからコンスエロに宛てて書いた手紙のうちには、「バラの花はきみだ。どうかするとぼくは、必ずしもきみを大切にしなかったようだ。がしかし……」という文句があった。それをもとにして察すると、サン・テグジュペリのこころの中では、愛情と友情とが美しく混線していて、肉体の愛などの顔を出す余地がなかったようでもある。サン・テグジュペリが子供に目がなかったことはすでに言った。しかしコンスエロとの間には、子供ができなかったのである。  およそ愛情には、ほかのあらゆる感情と同じように、いろいろな段階がある。さまざまなつよさがある。したがって何人かの一生のうちには、多くの人が経験することのない純潔な愛を感ずることがないとは言い切れない。サン・テグジュペリは、二十三歳の夏、何らたくらまずに、そういう経験にぶつかった。むんコンスエロを識るずっと以前のことだった。  ルイズ・ド・ヴィルモランというのが、当の女性だった。ルイ・ル・グラン学院でその兄と同級だったために、サン・テグジュペリはパリ近くのヴェリエール・ル・ビュッソンにあったヴィルモラン家になん度ともなく足をはこんだ。七人兄弟の一家で、ルイズはいちばん末の娘だった。後に女流作家としてその名を知られたほどの女性で、サン・テグジュペリは、顔を合わすなり、才走った相手の起居振舞いにつよくこころをひかれた。しかし相手は、サン・テグジュペリのこころを酌んでいるようではなかった。それでも、交わりが続いているうちには、いつともなく婚約まで事がはこんだ。だが、ヴィルモラン家の人たちは、いつのまにか青年の行動に物足りなさを感じだした。野人礼にならわずとでも言おうか、する事なすことがとかく投げやりで、それに、少年時代からの桁はずれな行動が、つい顔を出したがる。のみならず、飛行機操縦の慣わしから、両手の爪が汚れているうえに、着ている服には機械油がにじみ込んでいる。そんなことが思わぬ故障となって、せっかくの婚約が無になってしまう。そのあげく、襲い寄った精神的危機が、サン・テグジュペリの生活に、むざんな曲り角をつくる破滅になった。その結果、若年者としての誇りが傷つけられたばかりではなかった。骨の髄まで叩きのめされるほどの悲境に立たされたと言っても言い過ぎではなかった。「南方郵便機」といえば、この事があって五年ほど後に書かれた彼の第一作であるが、それには、当時の精神的苦痛が、まざまざと刻み込まれている。  戦列パイロットであるジャック・ベルニスには、二つの生活方向がある。航空の道をひたむきに進むか、それとも、幼な友達だった女性のジュヌヴィエーヴを一生の伴侶にしようかと思い迷っている。ところで、若年者にありがちなまっしぐらな情熱が、けっきょくジュヌヴィエーヴへ導く。だが、一日また一日と時を過ごしているうちに、当の女性がエゴイストで無趣味で、自分自身の安楽を図るために、ベルニスの一生を犠牲にしようとしていることに気がつく。事の裏がこうわかってみれば、もう何もない。美しかった夢が消えて、航空の道にもどった彼は、繋《つな》ぎとめていたひとすじの蜘蛛《くも》の糸が切れでもするように、飛行機事故で落命する。物語は、「……パイロット死亡、機体破壊、郵便物無事」というので終る。サン・テグジュペリはここで、ベルニスの死が無用でないことをそれとなく仄《ほの》めかしていはしないか。パイロットは、いのちをうしなった。しかし、自分自身の人間価値をみごとに取りもどしたのである。  よほど年が経った後のこと、ルイズ・ド・ヴィルモランは、昔の婚約期のあるひと齣《こま》を、うら若い娘の夢でも物語るように筆にしたという記録がある。が彼女は、サン・テグジュペリのこころに残した傷の深さに気づいたことがあったかどうか。婚約がやぶれて七年経った後のこと、オペラ劇場のある舞踏会で、サン・テグジュペリが彼女の姿をかいま見たとたん、危く失神しようとしたことを、彼女は何かの折りに耳にしたかどうか。それはそれとして、「人間の土地」には、バークという黒人奴隷についての話がある。サン・テグジュペリは、サハラ砂漠の生活をこころよく身にしみ込ませている人間とバークを見たらしく、「ながいこと高貴な恋愛を経験した人のうちには、それを奪い去られると、自分独りきりの気高さにあきることがある。すると平ったい気もちになって、凡庸な恋愛を自分の幸福にする人がある」と書いているが、ルイズはこの数行を読んで、自分とのかつての経験を筆にしたのだと思ったかどうか。といったふうにサン・テグジュペリの感情生活をたどると、コンスエロただ一人が、バラの花のモデルではなかったような気がしてくる。   星めぐり(一)  サン・テグジュペリは、いくらも友人らしい友人をもっていなかった。貪るように友情を求めた彼だったのに、あたえられたのは、意外にも孤独だった。人間同士の間の友人とは、おそらくよそでは開くことのない戸を、心から相手の身になってひらく少数の人のことでしかない。何人にもひらかれる戸、世に言う仲間とは、けっきょくそんなものだ、というのが彼の考えだった。したがって、友情はなんとしても親密な人間関係を予想する。と思うと、サン・テグジュペリは、一九三六年、リビヤの奥地で通りかかった隊商に一命を救われるまで、一度もほんとうの友人にぶつからなかった。「ぼくは、そんなわけで六年まえ、飛行機がサハラ砂漠でパンクするまで、親身になって話をする相手がまるきり見つからずに、一人きりで暮らしてきました」と物語のはじめにあるのがそれである。  親身になって話をする相手にめぐり会うこと、これこそは、孤独になやんでいたサン・テグジュペリにとっても、その分身とも言うべき星の王子にとってもぬきさしならぬ問題だった。  ところで、「星の王子さま」の中心思想は、本能的に物事の裏を見ぬく童心のこだわりなさを、手を替え品を替えて追求するところにある。物語のはじめには、象を呑みこなしているうわばみの画をかいた子供が、うまくできたあまり鼻高だかとおとなに見せて、「これ、こわくないか」と訊《き》くくだりがある。すると、とかく形にとらわれて物事を批判しがちなおとなは、「なんで帽子がこわいものか」と、すげなく言ってのける。物事をまるごと肌でうけ取らない——突きつめて言えばうけ取れない——おとなのたよりなさに呆れるほかはないのである。  それでも、子供はあとに退《ひ》かぬ。  どうやら物わかりのよさそうな人に出くわすと、いつも手もとにある例の画を見せる。ほんとうに物のわかる人かどうか、知りたいからである。ところが、その人の返事は、相も変らず「そいつぁ帽子だ」だった。そこで子供は、相手のわかりそうなことに話をもって行く。つまり、ブリッジ遊びや、ゴルフや、政治や、ネクタイの話をしたのである。するとそのおとなは、「こいつぁ、物わかりのよい人間だ」と言って、こころから満足する。  サン・テグジュペリはこうして、多少とも冷笑的に、近代人の人間像をえがき出したのである。彼の目に映じた近代人とは、一にも二にも物質的で、目前の利益にしか興味をもたぬ人のことである。したがって、近代人とは、童心を見うしなったおとなと言うも同じで、なんの反省もせずに「帽子がなんでこわいものか」と言い捨てて、恥を恥とせぬおとなでしかないことになる。  言いかえれば、おとなとは、こころの新鮮さをうしなって、印象と判断のしぜんさにそっぽ向かれたあげく、物事の物質的なねうちしか知らなくなっている人でもあり、�詩�の美しさの慾ばなれした意味を解しない人でもある。あるいはまた、内面生活の働きをうしなった人でもある。サン・テグジュペリは、おとなのわかりそうな事だといって、政治をもち出したが、それは、多党政治などという現象があるのでもわかるように、人間を党派で分離させ、むざむざ人間愛を弱めるのが、政治だからである。ブリッジ遊びやゴルフはどうかというと、なんといっても内面生活と無縁な社会のなぐさみごとで、小さなばかげた楽しみにかじりついているだけのことである。  星の王子は、子供だけに、何もこんなにややこしく事を考えていたわけではない。しかし、無意識のうちにも、物事をまるごと肌でうけ取る人にめぐり会いたいのである。だが、王子の住んでいる小さな星には、バラの花だけが根づいているわけではない。バオバブという悪草の種子がやたらに芽を吹くので、バラの花が傷《いた》まないように、王子は毎日、それをぬき取ることで苦労しなければならぬ。だからバオバブは、考えようでは悪性の情熱と言うのも同じで、払いのけるのに手おくれしたら、広庭を荒れ放題にするばかりでなく、星全体を破裂させぬものでもない。王子のなやみが、まずここにある。  もう一つのなやみは、王子が念入りに面倒見ているバラの花にある。忘れずに水をかけてやったり、風にあたらないように、おおいガラスをかぶせてやったりしているのに、事もあろうにバラの花は、口やかましく物を言いかけるのである。自分の美しさを鼻にかけて、おためごかしをするのである。吹けば飛ぶような弱々しいこころをもっていながら、四つの|とげ《ヽヽ》を勿体《もつたい》そうに見せかけて、人を人とも思わぬ振舞いをするのである。そういう様子を目の前にして途方に暮れた王子は、なんとかして花のこころを知ろうとするが、どうにも手のつけようがない。それでも王子は、なんとしてでも、何人かと心を通じ合わずにいられぬ。でも、どうしたらいいかとなると、かいもく見当がつかぬ。大切なことは目に見えないということが、まだはっきりとはわかっていないからだ。だからこそ、王子はとかく憂鬱な日をおくりがちで、ただ夕日の悲しい美しさを眺めながら、わずかに心を慰めている。モーツァルトの小さなセレナードを思わせる一節—— 「ぼくね、日の暮れるころが、だいすきなんだよ。……だって、悲しいときって、入日がすきになるものだろ……」  あれやこれやと身のまわりの問題を考えあぐんだあげく、王子は意を決して、住んでいる小さな星と、そこに咲いているバラの花とに別れる。旅に出て、「親身になって話をする相手」を探そうとするのである。  どうしたら、バラの花のこころがわかるか。  王子の星は、あまりにも小さい。だから、王子よりほかにはだれ一人住んでいなくて、問題をほどきようがない。友情という友情を身をもって経験した人でなくては、王子の友達にはなれないのである。 「ぼく、友達を探してるんだよ」と、砂漠で出くわした狐に、なんでもなく王子が言う。しかし、だれもが王子の友達になるわけにいかぬ。王子と同じ言葉を話さなければならないし、王子と同じ目で世界を見なければならぬ。童心をもつことが、何より大切である。ところで、王子がその星をはなれて、あちこちと旅をしている間に出くわしたおとなたちは、王子の味方になることもできなかったし、王子と友情で結び合うこともできなかった。というのは、おとなたちの生きている動機が、あまりにも功利にこだわっているからだった。無償を糧にすること、それこそあくまで、子供の精神でなくてはならぬ。 「ぼくたち子供は、物その物、事その事を大切にする」と作者すなわち王子が言う。言葉をかえれば、相手の身になることである。自他のけじめを超えて、対象と一つになって生きることである。ところで、王子はいくら旅を続けても、この人はというほどの人に出くわさぬ。他人の苦しみとなっている問題に耳を貸そうとしないのだから、王子とバラの花との問題などには、まったく無頓着《むとんちやく》である。王子の失望は大きい。  すると、いったい王子は、どんな人たちに出くわしたのだろうか。六人といっても、まったくひねくれた六人で、国王と、うぬ惚れ男と、呑み助と、実業屋と、点燈夫と、地理学者とがそれだった。そしてどの人と別れるときも、王子はいつも、「おとなって、ほんとにへんなものだなあ」と吐き捨てるように言う。なぜなら、どのおとなもすべて共通の心理で動いていて、自分自身の事一つにこだわっているからである。めいめいが、支配権とか、さもなければ事業とかいう宿命に足を取られているからである。一にも二にも自分自身だけを後生大事にしているからである。  国王はといえば、堂々とした玉座の上に腰をおろして、威張りくさっている。臣下がただの一人もいないのに、笑止にも支配権を振りまわしている。そこへ顔を出した王子は、今に何かの指図をしてもらえるだろうと思ってはいても、取りどころのない空虚なことを、聞かされるばかりで、人間らしい取りあつかいなどは、うけられそうにもない。臣下がいようといなかうと、そんなことはどうでもいい。やくにも立たぬ支配権を後生大事に握っているきりである。国王の肚《はら》の中を見ぬいた王子は、なにより夕日の美しさを眺めたいので、お日さまに沈めと命令なさってくださいと言う。国王はたしかに虚を突かれた。が、そのぶざまさを押し隠そうと、なんとかしてその場を切りぬけようとあせる。そこらをあさりまわせば、いくらも転がっていそうな人物だからである。つまるところは、これという取りどころのない自分を墨守《ぼくしゆ》することに懸命な存在である。  第二の星に住んでいるうぬ惚れ男がまた、国王とさほど代り映えのせぬ存在である。骨の髄まで滑稽ずくめで、顔いっぱいにやにやしている。人に感心されて、パチパチと手を叩いてもらうことだけが、この上ない楽しみである。こちらが手を叩くと、相手がそれにつれて帽子をもちあげる。王子は一時これは面白いと思ったが、なんの意味もないことがすぐにわかって、相手を正気でない存在だと思い込む。サン・テグジュペリによれば、虚栄とはうぬ惚れと言うだけでは足りない。まごうかたもない狂気の沙汰である。  虚栄と反《そ》りの合わないのが傲慢《ごうまん》だと、サン・テグジュペリは言う。傲慢とは、神にさからって人間精神を立て直すことでもなければ、気儘勝手な統治意志でもない。みずからの所有している権力をそのあるがままにみとめ、それをすすんで他の所有にする野心さえもち合わせていない存在にほかならぬ。  ところで、そういう野心をもっていそうもないのが、王子の出くわした国王でもあり、うぬ惚れ男でもあった。  第三の星の住人である呑み助となると、いっそう手におえない、しかも不気味な存在だった。官能のみで生きている男だったからである。彼と王子との間の対話が、まったくのどうどうめぐりでしかない。 「きみ、そこで、なにしてるの?」 「酒呑んでるよ」 「なぜ、酒なんか呑むの?」 「忘れたいからさ」 「忘れるって、なにを?」 「はずかしいのを忘れるんだよ」 「はずかしいって、なにが?」 「酒呑むのが、はずかしいんだよ」  他の人格を否定するばかりでなく、自分自身までも拒否するのが、呑み助である。自分自身の良心を、ぎりぎりのところまで追い込もうとあせりながら、かえって自分を破壊するのが彼である。国王やうぬ惚れ男と同じように、自分自身からそとへ出ようともせぬ。もっと悪いことには自己反省をしようともせぬ存在である。したがって、王子との間に、話のやり取りなどの成り立ちようがないのである。   星めぐり(二)  こんなふうに書いてくると、世にはサン・テグジュペリを、何かしら融通《ゆうずう》の利かない、固苦しい一方の人だったようにうけ取る人があるかも知れない。もっとも彼は、詩人のレオン・ポール・ファルグなどとは、よく酒亭に出入りした。そして若い頃からの桁はずれの性質が頭をもたげて、天井燈がやがて消えそうな時刻になるまで、話のやり取りに我を忘れることがあった。だからといって遊興三昧《ゆうきようざんまい》な人だったとは、けっして言えない。どんな場合にももち前の判断が光っていて、高いところから自分を見おろすことのできる節度の人だったのである。  王子が思いがけなく呑み助と顔を合わすのも、サン・テグジュペリの身についた節度が、おのずから仕向けたことだったにちがいない。清らかさをほかにしては、幸福がなかったのである。もしそうでなかったら、彼の分身である王子が、砂漠のしっとりと光る静かさにこころ打たれたはずもなかっただろうし、単純な世界を足でなくこころで歩く経験をしたはずもなかったであろう。  そういえば、行動の人としてのサン・テグジュペリは、一にも二にも節度で生きた。コンスエロとの場合にしても、ルイズとの場合にしても、相手がどんな仕向けをしようと、つねに節度をもって対した。相手の理不尽《りふじん》な行動に出くわして、神経を逆立たせるよりも、憐憫《れんびん》の情に押されてほろりとしたのが、サン・テグジュペリだった。だから、彼が、呑み助の無節度を王子の旅のひと齣としたことに不思議はなかった。  第四の星に住んでいる実業屋は、赤黒い顔をした男で、禿《は》げ頭を、いく冊もの大きな帳簿のうえに傾けている。陰にこもった声が聞こえてはいても、「なにしろ、忙しくってね、いそがしくってね」と、カタルにでもかかったような言葉でかき消される。王子のたずねかけることに耳を貸す気にはなっても、相手の顔をちらとも見ようとせぬばかりか、気晴らしになりそうな文句を口にしようともせぬ。それでも王子は、赤黒の実業屋が忙しくしているいわれをぶちまけない限り、第四の星から立ち去る気になれぬ。と見ると、大きな帳簿の載っかっているテーブルのあちこちには、金いろの星がかず限りなく光っている。王子は実業屋がこれに気を取られているなと察して、「そのたくさんの星、どうするの?」とかまわず訊く。 「どうもしやせん。もってるだけさ」と、実業屋は呑み助と大同小異の返事をするきりで、人間らしさなどは、いささかも感じられぬ。  王子には王子なりに素直な論理があった。そこから実業屋というおとなは、王子という少年にじわじわと戒《いまし》められた。 「ぼくはね、花をもっていて、毎日水をかけてやる。火山も三つもっているんだから、七日に一度|煤《すす》払いをする。火を吹いていない火山の煤払いもする。いつ爆発するかわからないからね。火山や花をもってると、それがちっとは、火山や花のためになるんだ。だけどきみは星のためになってやしない……」  サン・テグジュペリは、ときとして、修道院生活の物静かさにこころひかれることがあった。それでいて、所有財産にたましいを奪われて、自分自身を、自由と富の独占者と思い込んでいる我儘勝手な連中に楯突くことがあった。といっても、彼が見くびったのは、人間の財宝そのものではなくて、ひとえに財宝を積むことに急で、精神的|陶冶《とうや》にまったく無頓着な金融家にほかならなかった。  だから星の王子は、精神的活動に無縁な実業屋とすげなく別れて、第五の星へ足を向ける。  第五の星は、星のうちでいちばん小さな星で、人形芝居にあらわれそうな小さな点燈夫が、ただ一人住んでいるきりだった。  小さい星だけに、回転が速い。だから二十四時間に、四千百四十度も入日が見られようという風変りな星だった。いきおい点燈夫の仕事も、並み大抵でなかった。街燈に火をつけたかと思うまもなく朝になっているし、火を消したかと思うまもなく、はやくも夜になっているからだった。 「この人の仕事には、なにかしら意味がある。街燈に火をつけるのは、星を一つ余計に|きらきら《ヽヽヽヽ》させるようなものだ。でなかったら、花を一つぽっかり咲かせるようなものだ。この人が街燈を消すと、花もつぼんでしまうし、星も光らなくなる。とてもきれいな仕事だ。きれいだから、ほんとうにやくに立つ仕事だ」  朝になると火を消す、夕方になると火をつけるのは、まったく規則にはまった仕事である。しかしそういう仕事の詩的な意味となると、それがわかるのは、王子を措《お》いてほかにはない。なぜなら、物事の隠された意味を知ることができるのも、王子だからである。点燈夫はといえば、火を消すのもつけるのも、命令だよと、口癖のように言う。命令を忠実にまもるという固定観念にすがって生きているのが彼だからである。したがって彼は、形のうえの現実にへばりついている職業の愚かさを肉体化している存在に過ぎない。それでも王子は、彼から何ものかを期待していたらしいので、うぬ惚れ男とか実業屋とかいうおとなの場合よりもっと気を落しそうである。彼の操作する街燈は、すくなくとも夜の暗さを照らすことができた。しかし点燈夫自身はあたえられた職業の愚かさに打ち負かされたのである。息つくひまもない燈火の明滅は、たしかに美しかった。詩的だった。しかし彼自身の存在は、人と人との繋《つな》がりとはまったく無縁だった。  それなら第六の星を家としている地理学者はどうだったか。王子は第五の星を去って、彼と顔を合わせたとたん、一応は捨てたものでなく思った。海や川や、砂漠のありかを知っているのだと思えば、人間と繋がりのある事物の所有者と向き合っていることになるからだった。しかし何がな話を交わしていると、相手の知っているところは、「死んだ学問」だった。手にしているノートを大ぜいの前でそのまま読みあげるたぐいのうつろな学問だった。何ものにも導くことのない論理のための論理だった。どんなにごたいそうな顔はしていても、その口にするところは、空の空な論理でしかなかった。  したがって、くだんの学者は、訪れる人を「人」として見てはいない。探検家としてでなければ、旅行者として見るに過ぎぬ。だから、ともかくも興味をもつのは、探検家なり旅行者なりが、何かの報告をしてくれる場合きりである。それでも王子は、地理学者に限って、変人呼ばわりをせぬ。それとなく、王子のこころの世界に関わり合いのあることを口にするからだった。 「ぼくの星には、花も一つあるんです」 「わしたちは、花のことなんか書かんよ」 「どうして? とっても美しいんですよ」 「でも花というものは、はかないものなんだからね」 「はかないって?」 「そりゃ、�そのうち消えてなくなる�という意味だよ」 「そのうち消えてなくなるの、ぼくの花?」 「うん、そうだよ」  と言われて、王子ははじめて、遠くに残してきた花がなつかしくなる。一人ぼっちにされて、さぞさびしいだろうと思う。だがまた一方、「地球を見物しなさい、なかなか評判のいい星だ」と言われるままに、王子はわれわれのこの地球に足を移すのである。  ところで、いくら評判のいい星だと言われても、王子はそこに住んでいるわけではない。だから他人の国である。異国である。これまで出くわしたほかのすべての�おとな�と同じように、王子は孤立した星に住んでいるのである。そこで作者は、この二十億という多数の人が住んでいる地球とはいっても、肉体も精神もまとまりのない人たちが、ばらばらに住んでいるきりだと考える。めいめいが自分自身のうちに閉じこもっていて、ほんとうにはこの地球に住んでいるわけではない。相手の身になり切るという童心を見うしなっているために、社会を形作っているとはいっても、笑止にも形のうえだけのことだった。社会意識などは、ただのひとかけらももち合わせがないのである。  そういえば、わけても実業屋は、社会意識とはまったく無縁の徒で、美しいものを楽しむこころのゆとりももっていなければ、自分自身の殻《から》からぬけ出る根性ももち合わせていない。「ただの一人だって愛したことがない」と王子が苦情のありったけをぶちまけても、びくともせぬどころか、心の空虚を埋めるために、事柄の符牒《ふちよう》に過ぎぬ数字に夢中になっているのが、実業屋なのである。サン・テグジュペリは、人間がこんなにしみったれた日常事にあくせくすることも、自分の運命をこんなにも功利的な現実に託することもうけ入れることができぬ。星とか花とかいうものが、美しい詩的な姿かたちであることは打ち消されぬ。しかしそれこそは、無償の活動を生む源《みなもと》であって、自分の殻などに閉じこもることをいさぎよしとせぬ人でなくては、親しむことのできぬ現実でなくてはならぬ。だが、王子にしてもサン・テグジュペリにしても、この地上でいくらもそんな人に出くわさなかったのではないか。  作者はこの物語のうちに、さまざまな人物を登場させたが、それらは異常な人物ではあっても、必ずしも風変りなことに重点が置かれているわけではない。むしろ、作者の目にうつったままの人間社会の代表的な見本として、手あたり次第に並べた人物と言ったほうが正しいかも知れぬ。いずれにしても、作者が厭世《えんせい》的な眼で、この世界を見ていることはたしかだ。人間の社会は作者を深く失望させたが、作者はその思うことのすべてを、星の王子に言わそうとはせぬ。ひたむきな物の言いようをするには、王子があまりにも清純な存在だからであろう。  作者は航空家として、体験に体験をかさねただけに、ありとあらゆる視界を知った。肉体も精神も、あらん限りの苦痛に耐えた。したがってその判断には、いささかの狂いもない。「地球はそうやたらにある星とはちがう」と皮肉まじりの機智を飛ばしている裏には、幻滅と悲痛とがつよくからまっている。地球の表面にざわついている人間の大多数は、ほんとうの人間ではない。星の王子の言う|きのこ《ヽヽヽ》に過ぎぬ。寄生的存在に過ぎぬ。何をするにもてんでんばらばらで、ただ自分自身と自分自身の利害ばかりに屈託している手合いに過ぎぬ。いくつかの形をもった利己主義を、大量に複製しただけのことである。 「地球は、そうやたらにある星とはちがいます。そこには、百十一人の王さま(もちん黒人の王さまもふくめて)、七干人の地理学者と、九十万人の実業屋と、七百五十万人の呑んだくれと、三億一千一百万人のうぬ惚れ、つまり、かれこれ二十億人のおとなが住んでいるわけです」  印象の暗さに耐えられなくなったらしく、「昔、電燈が発明される前には、六つの大陸全体に、四十六万二千五百十一人の点燈夫が、地球を照らす役目をわかち合っていました」と作者は追っかけて言う。  しかし、そう言ったすぐあと、作者のモラリスト精神が頭をもたげたとでも言おうか、思わずかような爽やかさを投げやりにしたことを後悔する。二十億人のおとなといえば、一応はその壮大さにこころ打たれぬものでもないが、じつは調和のある統合体を形作っているわけではない。人間のこの大地も、作者は空の高みから見おろして、その荒涼さにおどろいたことが屡々《しばしば》だった。したがって、人類という人類が、この地上でさほど重要な地位を占めているとは思われないのである。世のおとなたちは、この地上に広大な場所を占めているものと思い込んでいる。しかし実のところ、人間の生活は、はかなくてせま苦しい。この大地は、いくら広大でも、ただ人間のみの大地ではなかったのである。 「もしこの土地に住んでいる二十億の人間が大きな集会でもするように、もし、こころもち列をつめて立ったら、長さ二十マイル、幅二十マイルの広場にらくに入ります。太平洋のどんな小さな島にでも、人間全体が積みかさなっていられるはずです」  この世界のどこにでもいそうな人間のタイプを、つぎつぎに戯画化《ぎがか》したサン・テグジュペリは、ここでずばりと人間のありかたをえがきだして、かまわず人類の株を落してしまっている。われわれ人間もこうなると、この上もなくにせ物の装束をしていることになる。しかも、人間一人ひとりの性癖といえば、その本然の姿を押し隠すことでありそうである。  サン・テグジュペリの陰鬱な厭世観を正当化する要素がもう一つある。生きているとはいっても、たがいの間に、しっかりした精神的交流がないために、愚かさからぬけ出せないことがそれである。  王子が地球に足をふみ入れると、だれ一人いないので、びっくりする。星をまちがえたのではないかと落ち着かずにいると、月の色をした環《わ》が、砂の中に動いている。蛇である。 「ぼく、なんという星に、落ちてきたのかしら」 「地球だよ、アフリカだよ」 「じゃ、地球には、だれもいないんだね」 「ここは砂漠だよ。砂漠にゃあ、だあれもいないさ。地球は大きいんだ」 「人間たち、どこにいるの? 砂漠って、すこしさびしいね」 「人間たちのところにいたって、やっぱりさびしいさ」  人はだれも、その運命とつかみ合いをしているが、ふだんそれに気づきもしないで、宿命的な環が、しつこく人間にからみついているのである。作者はすでに、「人間の土地」の中で、「花畑に新しいバラの変種が生まれると、園丁たちはだれも、じっとしていられなくなる。その花を別のところにもって行く。手入れをする。大切にする。しかし、人間のためには、しかるべき園丁がいないのである」と言って、人間の宿命をなげいた。そんなわけで、もうなん百年かこのかた、うぬ惚れ男がうぬ惚れ男のあと継ぎをし、呑んだくれが呑んだくれを相続しているのである。   星めぐり(三)  星の王子が、砂漠で最初出くわした蛇も、なんでもない小さい花も、人間という人間にさほど好感をもっていない。蛇が謎めいたことばかり言って、王子を当惑させるなら、小さい花もまた、土地に深く根をおろしていないのが人間なので、たいそう不自由しているなどと言う。なんとかして、人間らしい人間に出くわしたいと思いなやんでいる王子は、思いきって、とある高山にのぼる。地球の全体と、そこに住んでいる人たちをみな、ひと目で見わたそうとするのである。しかし、王子の眼にうつる風景のあらあらしさといったらない。童心を忌《い》み嫌ってでもいるらしい社会相が大きな柵となって、王子の前に立ちはだかっているとしか思われないのである。  王子は親身になって話せる相手を求めている自分のこころが、今にも何人かに酌《く》み取ってもらえそうな気がしていた。しかし、何が王子の眼にうつったかといえば「まるで刃を突き立てたような、尖《とが》った岩」でしかなかった。しかもそういう岩のただなかには、いささかも、いのちの動きがない。人間世界の愚にもつかぬ姿だったのである。  それでもやはり、王子は何がな話をしかけたくなる。敵意をもっているらしく見えても、あらあらしい風景の奥には、貴重な宝が隠されているかも知れないからである。何をおいてもまず「こんにちは」と話をしかける。すると木霊《こだま》がさも親切そうに「こんにちは……こんにちは……」と答える。話の取りつきが絶好である。時を移さずに返事してもらえるのである。実業屋の場合とは、わけがちがう。がしかし、さらに話をしかけると、すぐに返事はしてもらえても、王子はただもう当惑するほかはない。返事の正体が木霊だからである。奥深くひろがっている砂漠が、王子の言葉をそのままおくり返すだけのことだからである。王子のこころの結ぼれとなっている謎の解決は、けっきょく自分自身のこころのうちに見いだすほかはない。しかし、まだそれとは知らずにいる王子は、「ぼくの友達になってね、ぼく一人なんだ」と追っかけて言う。でもそれはもはや、物を言いかけるのではなくて、ただの独白である。したがって、木霊のほうでもまた、王子を納得させでもするように、「一人なんだ……一人なんだ……」と繰り返すきりである。王子の失望がさらに新たになる。「なんて変な星だろう。からからで、とんがりだらけで、塩っ気だらけだ。それに、人間に味がない。ひとの言うことを鸚鵡《おうむ》返しにするきりだ……。ぼくの星には、花があった。そしてその花はいつも、こっちからなんにも言わないうちに、ものを言ってたんだがなあ……」と考えながら山をおりる。  といったわけで、王子が人間の土地からまず何を知ったかといえば、自分自身と面と向うよりほかには、心の空虚を満たす道がないということだった。他人をあてにしてはならないということだった。それはそうでも、山をおりて、ながいこと砂原を歩いて行った王子は、バラの花がいっぱい咲きこぼれている庭にぶつかって、ひどくさびしい気もちになる。なぜなら、遠くに残してきた花は、自分のような花は世界のどこにもない、と言ったからだった。だのに見るとただ一つの庭に、そっくりそのままの花が、五千ほども咲いているのである。欺《あざむ》かれた王子は、あまりの口惜しさに、草のうえに突っぷして泣く。  するとそこへ、狐があらわれる。束の間のあらわれではあるが、乾き切っている砂地にも、いのちが息づいていたのである。  狐ははじめ、王子がこれまで出くわした「おとなたち」以上に、事をわけた話をしてくれそうもない。なぜなら狐の世界が、異様に限られた世界だからである。 「あんたの星の上にゃ、|かりうど《ヽヽヽヽ》がいるかい?」 「いないよ、そんな人」 「そいつぁ、面白いね。じゃ、鶏は?」 「いないよ、そんなもの」 「いやどうも、思い通りにゃゆかないもんだなあ」と言って、狐は溜息をつく。  といったわけで、狐の世界は二つにわかれている。鶏の代表する善の世界と、狩人の代表する悪の世界とが、それである。がしかし、王子がしつこくなん度も言いたいことを言っていると、その心にまといついている疑問が次第にほどけてくる。善悪を超えた愛の世界が、狐のふくみのある言葉で、王子のこころの中に、あたたかく影を投じたのである。 �飼いならす�、これこそは、狐が事の秘を解こうとして、王子に向って呼びかけた言葉である。狐にとっては、飼いならすことのみが、生活を浮き彫りにし、生活に方向づけする行動である。 「おれ、毎日同じことして暮らしてるよ。おれが鶏を追っかけると、人間のやつが、おれを追っかける。鶏がみんな似たり寄ったりなら、人間のやつが、また似たり寄ったりなんだから、おれ、少々退屈してるよ」  と言って、狐は自分の日常生活のくだらなさを訴えているが、サン・テグジュペリによれば、これこそはあきらかに、一般人間生活の象徴化である。平板さの連続でなければ、同じ一つのことの繰り返しに過ぎない。とはいっても、愛が生活に居場所を見いだすことになれば、何ごとも新たになる。なぜなら、行動がはっきりした目あてをもつことになるからだ。 「だけど、もしあんたが、おれと仲よくしてくれたら、おれはお日さまにあたったような気もちになって暮らしてゆけるんだ。足音だって、きょうまで聞いてたのとは、ちがったのが聞けるんだ……」  サン・テグジュペリにとっては、人間の幸福はその言動に基づくのではなくて、同胞《どうほう》とのしっくりした繋がりに因るのである。「飼いならすっていうのは、仲よくなるっていうことさ」と狐が言う。王子が出くわしたおとなはすべて、この点で狐に責められるほかはない。おとなたちはだれも、仕事をもってはいた。しかし、仕事が他との結びつきとなっていたかというに、そうではなくて、自分自身のことに立ちもどるきっかけとしかならなかった。「ある一つの職業の偉大さは、何よりもまず、人と人との結びつきであるかも知れない。ほんとうの贅沢《ぜいたく》は、この世にただ一つしかない。人と人とをばらばらにせぬ贅沢がそれだ」と、サン・テグジュペリは「人間の土地」の中で言っている。国王にしても、地理学者にしても、幸福になれるはずがなかった。というのは、会いにくる人たちと結びつく心得がないからだった。国王は臣下を手なずけることを知らずに、ただ頭ごなしにしているきりだった。実業屋がまた、その名の通りの実業屋で、目につくたくさんの星を、ただ自分のものにしているきりだった。  飼いならすとは、相互依存のきずなを作り出すことでもある。「あんたがおれを飼いならすと、おれたちは、おたがいにはなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、かけ替えのないものになるんだよ……」と狐に言われた王子は、とある庭で行きずりに見たいく千ものバラの花が、ただ咲いているきりであるのとは事かわって、遠くに残してきた一輪のバラの花が、この世に二つとない花であることに気づく。花が王子を必要としているなら、王子もまた、花を必要としているからだ。王子と花はそうして、たがいに飼いならされたのである。花がいくら自分の美しさを鼻にかけていても、何人の厄介などにならない様子はしていても、二つの存在の間には、ちゃんとした生命の繋がりがあった。王子が水をかけたり、衝立《ついたて》で風にあたらないようにしたり、おおいガラスをかけてやったりしたればこそ、バラの花は生きいきと咲き続いているのである。したがって、二つの存在の間には、軋轢《あつれき》がありそうに見えても、意志の疏通もあったし、しみじみと打ち明けて物を言うこころのゆとりもできていた。いよいよ別れのときがくると、狐は王子にぶちまけて言う。赤裸々《せきらら》な砂漠での経験が、おごそかに物を言わせるのである。 「こころで見なくちゃ、物ごとはよく見えないよ。かんじんなことは、目に見えないのさ」  とかく形にとらわれがちで、形の背後にある真実を見落しがちなおとなには、まったく無縁な世界の声である。しかし、あくまで童心の透明さで生きている王子にとっては、くもり一つない声だった。  王子は、狐のこの言葉をなん度も繰り返しながら、旅を続ける。星めぐりしてきた旅の経験で、狐の言葉を肌でうけ取る用意が、いつのまにか、できていたのである。とはいっても、狐はほかの星に欠けていたことを、ずばりと言ってのけただけのことだった。国王の言う臣下とは自分の前にきて腰をかがめる人を措いてほかにはない。実業屋とは、星の数を勘定することしかできぬ人のことである。うぬ惚れ男とは、ただお辞儀されることだけに気をつかっている男のことである。サン・テグジュペリによれば、そんな人たちはすべて、人間らしい人間ではない。人間としていちばん大切な精神生活が、薬にしたくもないからである。  生きとし生けるものの|こつ《ヽヽ》を、おおよそ身につけた王子は、狐と別れて、飛行士のところに行く。でこぼこの砂が月の光りにぬれて、何かがひっそりと光っている夜である。飛行士は、もういく日も、砂漠のただ中に一人ぼっちになっていて、それに貯えの水が底をついている。王子はそれを見て、どこかに井戸を探しに行こうではないかと言う。こんなはてしない砂漠だのに、井戸などのありようがないと思いはしたものの、狐と友達になれて嬉しいと言っている王子の気を落すまいと、いっしょに歩き出す。しかし、王子の求めている水が、言うところの水ではなくて、友情の水であることには気づかないのである。  まさに物語の頂点で、二人はもはや、はなれがたい間柄になっている。  まず子供がおとなの手を取って歩く。続いておとなが、子供を両腕でかかえて歩く。同じ一人の二つの影である。見ると、王子は疲れたらしく、すやすやと眠っている。美しい寝顔である。飛行士は、この美しさも、王子の忘れずにいる一輪の花のなすわざだと考えながら歩いて行くうちに、夜がしらじらと明けて、ついに井戸を発見する。  しかし、くだんの井戸は、サハラ砂漠にありそうもない井戸だった。サハラ砂漠の井戸は、ただの穴が砂地に掘られたきりだったのに、どうしたことか、そこらの村にあるような井戸そっくりの井戸だった。でもあたりには、村なんかただ一つもない。夢の中にいるような気もちになった飛行士は、「へんだな、みんな用意してある。滑車も、釣瓶《つるべ》も、綱も……」と王子に向って言う。そして引きあげた釣瓶を、王子の唇に寄せると、王子は目をつぶったまま、さもうまそうにごくごくと飲む。ところでこの場合、井戸とはいっても、水とはいっても、現実の井戸でもなければ水でもない。友情の視野におのずから浮かんだ井戸だったのである。疑いもなく、精神的な水だったのである。「目ではなにも見えないよ。こころで探さないとね」と、サン・テグジュペリは王子に繰り返し言わせている。 �人はパンのみにて生くるものにあらず�というのは、古い言い草であるが、作者が新旧の観念を超えて、不可見の世界に向っての精神の飛躍を、作の中心にしたことは、あらためて言うまでもない。だからこそ王子は、呑み助の家に足をとどめなかった。何ごとの解決にもならなかったからである。実業屋の家にも、ぐずぐずしていなかった。財宝が人間のたましいを満たしてはくれないからである。国王がまた、王子を満足させるわけにいかなかった。他人を支配することが、問題ではないからである。支配力は、この世にただ一つしかない。こころの支配力がそれである。自分自身の上にのぞむ支配力がそれである。星の王子の支配力こそ、ほんとうの支配力で、支配するとはいっても、ひとえに愛情によっての支配である。そしてその求むるところは、目に見えない透明な世界よりほかの何ものでもなかった。  精神的な渇き、これこそはサン・テグジュペリのこころのいしずえだった。彼が一生を通じて、行動の人だったことは否めない。しかしそれは、自己を知り、世界を知らんがための手段にほかならなかった。「戦列パイロット」の中では、「真のひろがりは見られるものではなくて、ただ精神のみがつかむ」という一句が読まれる。それが「星の王子さま」の場合は、「砂漠が美しいのは、どこかに井戸を隠しているからだ」とか、「家でも星でも砂漠でも、その美しいところは目に見えない」とかいう言葉になっていて、行動の人としてのサン・テグジュペリには、深遠な精神の裏づけがあったのである。彼はその点から、功利的な気苦労にまだ虐《しいた》げられていないのが子供なので、子供こそ内的現実の探求に一身をゆだねている生命の象徴だと見る。星の王子は、寒さも飢えも金銭も気にせぬ。年を取るべきでないと思っているようにさえ見える。はてしない空間がまた、なんの障害にもならぬ。ひとえに精神的なものを探し求めているいたいけな存在だったのである。  サン・テグジュペリの身についていた純粋さなり子供らしさなりは、事につけ折りに触れてしぜんに顔を出した。  一九三九年の暮、シャンパーニュ州のオルコントで、軍操縦士指導の任に服していたときのこと、サン・テグジュペリは、将校集会所の一隅で、蝶々をとらえている男の子を、しきりに画にしていた。それを見た僚友《りようゆう》のオシュデというのが、「なんだってそう始終画にするんだい、男の子と蝶々なんかを?」と訊くと、「現実の夢を、追っかけるのが面白いからだよ」と彼はさりげなく答えたという。それはそれとして、ニューヨークにおくった彼独特のヒューマニズムを刻み込んだ作「戦列パイロット」には、今にも泣き出しそうな顔をしている子供の画が見られた。ところでくだんの子供は、雲の上に乗っかって、戦火で赤々と燃えあがっているアラス大寺院を見おろしながら、手のくだしようがなくて困り切っているらしい様子だった。  できがどうであろうとかまわず、彩筆をふるったのが、「星の王子さま」にはさまれているかずかずの水彩画である。あれはあれでいいかと問いかける人があると、「いやどうしてどうして! ぼくのこころの中は、もっともっと悲しいんだ」と、サン・テグジュペリは顔を暗くして言ったという。夕日のさびしさに眺め入っている王子の姿を思い浮かべてそう言ったのだろうと思う。   二つの場面  この物語には、訳書にして二ペーシほどの小さな場面がいくつかはめ込まれていて、それが物語を�芯《しん》�のあるものにしている。王子が入日の美しさに眺め入っている場面がその一つであるが、書き落したくない場面がもう二つある。,  一つは王子が鉄道のスイッチ・マンに出会う場面である。 「なにしてるの、ここで?」 「旅客を千人ずつ、荷物にしてえりわけてるんだよ。おれのおくりだす汽車が、旅客を右にはこんでいったり、左にはこんでいったりするんだ」とスイッチ・マンが答える間もなく、特急列車が、ごうごうと転轍《てんてつ》小屋を震わせて走る。  みなはひどく急いでいるが、いったい何を探しているのかと王子が首をかしげる。「機関車に乗ってる男が、それ知らないんだよ」と相手がそっけもなく答えるとたん、また別の特急が、こんどは逆の方向へ走りぬける。  さっきのがもうもどってきたのかと王子がたずねる。すると相手のスイッチ・マンは、そうではない、すれちがっただけのことだ、人間というやつぁ、いるところが気にいるなんて、ありゃしないよ、と吐き出すように言う。  そこへまた、三番目の特急が、相も変らずごうごうと音を立てて、韋駄天《いだてん》走りに通りぬける。王子はそれを見て、はじめの旅客を追っかけてるのだと思う。だがスイッチ・マンは、そうではない、あの中で眠っているのでなければ、あくびしているきりである、そこへいくと、窓ガラスに額《ひたい》を押しあてている子供たちは、何かを求めているだけに幸福だ、と意味ありげに言う。  スイッチ・マンの諷剌めいたこの言葉は、赤黒い顔をした実業屋の生活振りとしぜん繋がる。 「ぼくの知ってるある星に、赤黒っていう先生がいてね、その先生、花の匂いなんか吸ったこともないし、星を眺めたこともない。だあれも愛したことがなくて、していることといったら、寄せ算ばかりだ。そして日がな一日、忙しいいそがしいと口癖に言いながら、威張りくさってるんだ。そりゃ人じゃなくて、キノコなんだ」と王子がまっ赤になって言う相手と、しぜんに繋がるのである。ずばりと言ってのければ、行動のすべてを特急列車に委《まか》せきっているキノコに過ぎないのである。寄生的存在に過ぎないのである。サン・テグジュペリは、ここでもまた、童心と無縁の、おとなののろ臭さに楯突いているのである。  ほんとうに忙しく仕事をしている人だったら、それを人前で吹聴《ふいちよう》する暇をもたないのが、むしろ人間の常道であろう。ところで、窓ガラスに額を押しあてているきりで、何一つしないかのように見える子供がかえって、意味のある時をおくっているのだった。  そういえば、筆者はしぜん、「商船テナシチイ」などという詩味たっぷりな劇で、日本でも盛名を馳せたシャルル・ヴィルドラックの小品「トンネル」というのを思い出す。同じく汽車の窓ガラスに額を押しあてて、けんめいにそとを眺めている少年が主題となっているからである。  うねうねと続く畑また畑、丘の斜面を隈取っているいくつもの小さな森、あたりまえな景色だのに、少年はさも嬉しそうに眺め入っている。  さらさらと流れている小川が見えてきた。岸には柳の並木が続いている。灰色の石の橋が見えてきた。そこへ、どこからともなく三人の少年があらわれる。釣竿を手にしている三人である。そのとたん、視界ががらりと変る。すぐにも画になりそうな景色である。そういう景色をそれからそれへとおくり迎えするうちに、少年のこころのきめが細かくなるにちがいない。だからこそ少年は、あくびしているおとなとはちがって幸福だというのである。  そういうきめの細かいこころがしかと身についたら、おとなになっても老人になっても、それが消えうせるはずはないと、作者はそれとなく言いたいのであろう。  もう一つは、泉の場面である。  王子は水を飲みたくなって歩いていると、丸薬を売っている商人に出くわす。一週に一粒ずつそれを飲むと、喉の渇きがけろりと癒《なお》ると、商人が言う。 「なぜそれ売ってるの?」  と王子が訊く。 「時間がえらく倹約になるからだよ。その道の人が計算してみたんだがね、一週間に五十三分倹約になるというんだ」 「で、その五十三分って時間、どうするの?」 「したいことをするのさ」  と言われた王子は、「ぼくがもし、五十三分っていう時間すきにつかえるんだったら、どこか水がこんこんと湧くところへ、ゆっくり歩いて行くんだがなあ」と思う。  ちょいとした場面であるが、ゆっくり歩いて泉へたどりついてこそ、水の清らかさが味わえるはずだのに、丸薬一粒で事を簡易化しようとする文化動向を、作者は呪わしく思ったのではなかったか。作者が亡命先のアメリカで、この作をなしたことを思うと、私にとっては、ただごとでなくなる。  一年あまり前のこと、ニューヨークの観光バスに乗ったわれわれの同胞である一人は、バスガールのアナウンスの�芯�のなさにおどいた。  ——右に見えますのが、ハドソン河にかかる新しい橋、総工費一憶八千万ドル、四年半の年月で完成。橋のながさは東岸第一。さて左に見えますのがエンパイヤ、エレヴェーターの速さは世界最高……  こんなふうに、何ごとも数字で物を説明しようとするのが、アメリカの文化動向だとすれば、物事の味をさげすむ�芯�のなさもやはり同類項になるほかはない。丸薬一粒で喉の渇きを鎮《しず》めようとする徒輩《とはい》は、人がなんと言おうとも、便利なるもの善なりと決めてかかって、不便なものの味、タクシイなどにも目をくれずに、泉をさしてゆるゆる足をはこぶ楽しさと無縁な点で、文化は文化でも、いびつな文化だと、星の王子はむかっぱらを立てていそうである。  不便なものの味といえば、かつて私の見たパリのシャトレー広場近くには、石油ランプといっても、切子ガラスや模様入りの金属細工の置ランプをずらりと並べた店があった。店の主人の話だと、電燈の光りはどぎつい、だからパリ人のうちには、ことさら石油ランプを客間の隅あたりにともして、夕暮れのひとときをやわらかい光りで楽しむ人がすくなくないということだった。星の王子が便利本位の丸薬一粒には目もくれずに、ことさら泉への道を悠々と歩こうとしたのも、つまるところは、�芯�のある生活を楽しむこころ意気がそうさせたのではなかったか。「おとなというものは、数字がすきです」と言って、この物語のはじめから、なん度ともなく、そういうおとなの生活の浅さを衝《つ》いたのは、ほかならぬサン・テグジュペリだった。   王 子 の 死 「星の王子さま」読後の印象は、さびしくとも暗くはない。巡礼のながい旅が終って、最後の大寺院の灰色の石に手を触れた感じがする。 「おもさの目に見えない道が、石を解放する。それと同じように、愛情の目に見えない斜面が、人間を解放する」というサン・テグジュペリのふくみをもった一句が、御堂の暗がりに、ほのかな燈明を点じたとは言えないものか。  それはそれとして、童心を見る作者の眼は澄み切っている。その新鮮さにも通じているし、そのいじらしさにもこころをひかれている。だから作者は、王子をながい間、騒々しい人間の世界に引きとめておくわけにいかなかった。事実王子は、砂漠の曙《あけぼの》に小さな姿を見せたかと思うまもなく、はるかな星に帰って行く。このあらっぽい地上を棲家《すみか》とする存在ではなかったからである。  砂漠におりてきた最初から、王子の運命は、いわば浮いているようなものだった。はじめに出くわした蛇は、「あんたがいつか、あんたの星が、なつかしくて堪らなくなったら、おれがあんたを、なんとか助けてやるよ」と謎のようなことを言う。いざとなったら、自分の体毒を王子に移して、肉体の世界を霊魂の世界にもどすつもりでそう言うのである。童心とは、ぶちまけて言えば、この地上に通りすがりのこころに過ぎぬ。だから、死が必然的にそれを奪い去るほかはない。ぬけ道などのありようがないのである。王子はそのことをよく知っていて、さも忙しそうに巡歴を終る。狐との話も、はやばやと片づける。「かんじんなことは目に見えない」と狐が言った貴重な言葉を、一刻もはやく飛行士に伝えずにはいられなくなったからである。  しかしそのとたん、見ると王子は、こわれた石垣の上に両足をたれて、蛇と話を交わしながら、あくる日ふるさとの星へ旅立つ打ち合わせをしているのである。と知った飛行士は、まるで赤ん坊でも抱くように、しかと王子を抱きしめる。だが王子のからだは、どこかの深い淵にまっさかさまに落ちて行って、引きとめるにも引きとめられないような気がするのである。飛行士には、すべて事情がわかった。けっきょく王子は、この地上に通りかかっただけのことだった。友情の楽しさをながくは味わっているわけにいかなかった。なぜなら、運命の大きな力が、王子をそのふるさとの星へ呼びもどしていたからである。  飛行士が王子と日をおくったのは、一週間そこそこだった。そのあとは、ふたたび孤独である。そして飛行士は、人間社会の砂漠にもどって、精神の声をむざむざ雑音でおおいつぶされるほかはなかった。繰り返して言うが、精神の声とはこの場合、透明な童心よりほかの何ものでもなかった。  サン・テグジュペリは、あこがれを同じゅうする人には、いくらも出くわさなかった。「星の王子さま」を書いた彼はもはや、生活の糧をただの人間社会に求めてはいない。彼はもっと遠くを見ていると言っても、もっと高いところに目を注いでいると言っても、言い足りない何ものかが残る。職業的な作家というイメージを消さない限り、彼を理解することはできぬと言った人があるが、まったくその通りだった。彼のこころの中にある思索家にしても、あるいは夢見る人にしても、書物から生まれたのでもなければ、理屈から生まれたのでもない。人間の世界からはなれて日をおくっている苦行者が彼だとでも言ったら、事の真相がつかめそうな気がしそうである。  一九三五年、パリからサイゴンに向ったとき、機が靄《もや》に包まれて目じるしをうしなった。ナイル河も、アレクサンドリヤやカイロの町の灯も飛び越したにちがいなかった。前方には、リビヤ砂漠が永遠の相をひろげている。でもその大きなひろがりを横切るだけのガソリンがなくなっている。後方には、もう一つの無限が、彼を包んでいる。つかみどころのない無限である。ナイル河を越えていなくて、速度も方向角もろくに計算していないのなら、半回転して、アラビヤのほうへ後もどりするよりほかに手はない。二つの無限の間に閉じこめられた彼は、二つとない孤独の中の存在でしかなかった。それでも、二つちがいの弟のフランソワの場合と同じように、死の世界にあって死を意識しないたぐいの幸福を身にしみて感じたのではなかったか。星の王子もまた、サン・テグジュペリの経験したそういう世界を目の前にして、まうえの空に光っているふるさとの星をしみじみと見あげたのではなかったか。 「星が光ってるのは、みんながいつか、自分の星に帰って行けるためなのかなあ。ぼくの星をごらん、ちょうど、まうえに光ってるよ……だけど、なんて遠いんだろう!」  しかし、王子が自分の星に帰るためには、至って遠い隔たりを凌《しの》ぎ越さねばならぬ。それは地理的な隔たり以上の隔たりである。精神的な空間である。王子は飛行士に向って言う。 「機械のいけないところが見つかってよかったね。これできみは、うちへ帰って行けるんだ。……ぼくもきょう、うちに帰るよ。でも、きみんとこより、もっともっと遠いところなんだ……。ぼく、とてもこのからだ、もってけないの。おも過ぎるんだもの」  しかし死のみが、人間という人間を、宿命の牢屋から解放することができる。  ところで子供の幸福は、この地上では不可能な夢ではないだろうか。というのは、人間の純一な世界が、この地上にはなくて、どこか遠いほかの世界でなくては見いだすわけにいかないのではないかと思われるからである。サン・テグジュペリにとっては、人間はだれも、星の王子と運命を同じゅうしている。巡歴の移り変りをたどると、王子は、これはと思う人を求めはじめた瞬間から、はやくも死にその将来をゆだねられていた。何ものにもとらわれない砂漠の美しさに親しみをもつようになってはじめて、死がまぎれもない解放となることができた。とはいっても、人間のどんなに高貴なあこがれも、けっきょく、裏切られるほかはない。なぜなら、王子の出くわした蛇が言うように、「人間たちのところにいたって、やっぱりさびしい」からである。  この場合のさびしさとは、人と人との間の繋がりが、とかく「神との交流」からはなれがちであることに帰する。この物語が愛の書でもあり、手きびしい社会諷剌の書でもあることは、国王とか、うぬ惚れ男とか、呑み助とか、地理学者とかいう桁はずれな人物が無遠慮にもち込まれて、いわば健康な冷笑で座を賑わしていることでわかる。こういう人物の行動を吟味しているうちに、自分自身の馬鹿らしさをつつき出されて、ひどく苦しくなったと言う人に、私は一人や二人でなく出くわした。たしかに作者独特のヒューマニズムがぐさりとこころに釘を刺したのである。そういう目前の事実に則《のつと》って考えると、サン・テグジュペリの座興的なすさびの反面には、憂愁と幻滅とがあった。だからこそ、星の王子はこの大地を掠《かす》めたきりで、そそくさとふるさとの小さな星に帰って行った。ながくは人間の世界に足をとどめているわけにいかなかった。暁の砂漠にほのぼのと姿を見せたのだったが、遠くの星へ帰って行くときもまた、まるで夢でも見ているように、声一つ立てなかった。つぶやきもしなかった。「一本の木が倒れでもするように、静かに倒れました。音一つ、しませんでした。あたりが、砂だったものですから」そしてやがて、風がその足跡まで吹き消す。物語は類を絶したはかなさで終るが、このはかなさは、一切が終ったはかなさではない。「いつかサハラ砂漠をお通りになるようでしたら、どうぞお急ぎにならないでください。そして美しい星が一つ、ちょうどあなたの頭の上にくるときを、お待ちください。そのとき、子供があなたのそばにきて、笑って、金色の髪をしていて、何を聞いても黙りこくっているようでしたら、あなたは、ああこの人だなとお察しがつくでしょう」と、物語が結ばれるともなく結ばれているくだりを読みぬくと、王子のたましいは、美しい微笑で肉体を暖かく包んでいるのである。何よりもまず行動の人だったサン・テグジュペリは、評論家アルベレスによれば、ヴァイオリンの演奏も楽しみ、彩筆にも親しんだ意味で、まごうかたもないアーチストだったという。 「人間の土地」のはじめに、作者はアルゼンチンの上空をはじめて飛んだ夜の景観が、いつも目先にちらつくと書いている。見おろすと、ともし火がぼっぽっと平野の中にちらばっていて、それが星のようにきらきらと光っている暗い夜のことだった。大海原《おおうなばら》のようにひろがっている暗やみの中にも、人間のこころが奇蹟のように息づいていた。一つの家では、読書したり、しんみりと話をしたりしていた。また一つの家では、なんとかして天地のひろがりを測ろうとしたり、アンドロメダ星雲の計算で、身を擦りへらしているかも知れなかった。冴えにさえた感覚が、人間の土地の実相をしかとつかんだのである。  といったふうに、美しい大地の眺めを、ただ見おろすのではなく、精神的風土を肌で感じた作者は、唯美的な気魄《きはく》としっくりした繋がりをもった行動の人だったのである。  フランスの一九三〇年代には、アンドレ・マルローとか、モンテルランとか、ドリュ・ラ・ロシェルとか、ジロドゥーとかいう一流のヒューマニストが肩を並べて、ひろく知識人の生活をゆすぶった。作家でありながら、作家としての仕事にこだわらないところに特徴があった。いったい筆をとる人を、職業人としたり非職業人としたりすることくらい、児戯に類することはないと言う人が世にはある。そういえば、厳密な意味で、作家という職業は存在しないのである。チェーホフは優秀な医師だった。したがって、優秀な職業人だった。それだのに今では、近代の優秀な劇作家として盛名を馳せている。だからといって、彼を文学の職業人だと言い切る人があったら、おそらくその人は、チェーホフの人間価値を見落している人であろう。作家と言われる人が、書くこと以外の仕事をしている例はいくらもある。サン・テグジュペリは、たしかにそういうたぐいの人だったのである。それにしても彼は、書くことが仕事の手はじめだった。ただし彼は、行動したあげく、いよいよ確信をもって、目前の世情を筆にしたのだった。書くのに必要な題材は、ことごとくみずからの行動の中に見いだすのが、彼の建て前だったのである。  といったわけで、サン・テグジュペリ特有のヒューマニズムは、あくまで行動の情熱から、人間価値を見いだそうとしたところにある。だから、「星の王子さま」から、童心の移り変りをたどるだけでは、作のよさを知ることにはならぬ。人間の一生を貫くはずの童心の純一さこそ、人間行動のまたとない道連れでありたいこと、あるいは、言葉の世界のややこしさを通りぬけて、死の眠りの深さを察すること、作は小さくとも、ねらいは大きいのである。 [#改ページ]  作者の素顔   戦 前 戦 後  一九三九年といえば、百年は続きそうだと言われた第二次大戦勃発の年であるが、フランス・アカデミイはこの年の二月に、サン・テグジュペリの体験記録「人間の土地」に小説大賞を授けた。まったく作為をはなれた作でありながら、アカデミイがこの挙に出たことは、ひろく世間の注目の的となった。これを機として、日蔭にあったとも言えそうな作者は、一挙に輝かしい光りに照らし出されたのである。  そのころ、作者はドイツの旅から帰ってきた。  ドイツは頽廃《たいはい》し切っている。いうところの全体主義が嵩《こう》じて、一般大衆は貧困に陥っている。といったフランスでの宣伝が、当の国に行ってみると、嘘八百で、話にもならないことが、はっきりわかった。どこへ行っても、食料が山のようだった。工場という工場が、たえず蒸気の白い煙りをあげながら、せっせと働いていた。若者たちが一団となって動きまわっていた。オットー・アベッツの招きをうけて見物したフューラーシューレが、国家社会主義人の養成に狂奔《きようほん》しているのには、思わず頭が痛くなった。それにまた夜になると、戦車のおもったい轟きが、家々をゆさぶっていた。  つねづね�人間の尊重�を叫び続けてきた彼にとっては、ただならぬおどろきで、こころが暗くなったことは言うまでもない。だが、祖国の土地をあらためてふんで、もっとおどろいたことは、フランスの指導階級が、安逸を事としているばかりでなく、ド・ゴール派とかペタン派とかいったように、派閥抗争の醜さを無用に繰り返していることだった。  そのとたん、サン・テグジュペリの目前からは、ありとあらゆる錯覚が忽ちのうちに消えてなくなった。そしてそれにつれて、精神の相続者がいなくて、精神の遺産になんのねうちがあるかとも思ったし、精神がほろびて、精神の相続者がなんのやくにも立たないことをしみじみと思った。昨今の私たちのなやみとなっている感懐そっくりとも言えそうだが、「人間の土地」の終り近くには、彼のそういう感懐の物すさまじい反映がある。 「イデオロギーを論じたところで、いったいなんのやくに立つのか。すべてのイデオロギーが立証されるのだったら、すべてのイデオロギーが対立することになる。そしてそのような論争は、人間を救われなくするほかはない。われわれの周囲を見ると、人間は到るところで、同じ要求をぶちまけているではないか。……ヨーロッパでは、これという感覚をもっていない二億の人間が、なんとかして生き返りたがっている。ところで、そういう多数の人間を偉大にするには、服を着せ、食をあたえ、彼らの要求という要求を満たすだけで足りると思い込んでいる。……彼らをまなばせることには事欠かないが、個々に教え導こうとはしなくなっている。専門学校の劣等生でも、自然ともろもろの法則については、デカルトやパスカル以上に知っている。しかし、精神上のことになったら、はたして同じように頭が働くかどうか……。みなには、ともかくも、生き返りたい要求がある。しかし、在るものは人をあざむく解決法きりだ。なるほど軍服を着せれば、人間が形のうえで元気づくことはたしかだ。そして戦争をたたえる歌もうたうだろうし、戦友の間でパンもわけ合うだろう。そうしたらそのとき、求めているものも見いだしているだろうし、万物共有の趣味も我がものにしていることだろう。だが、あたえられているパンがもとで、やがては死ぬのである。……だのに、何故あって憎み合うのか。ぼくたちは、連帯責任を背負って、同じ地球の上をはこばれているのだ。さまざまな文明が対立して、新しい綜合体の発生を助長することはいい。しかし、さまざまな文明がかみ合うことになったら、それこそ沙汰の限りではないか。……」  かような言説は、狂信者連の目をひらくこともできなかったし、思慮のないともがらの蒙《もう》をひらくこともできなかった。目先の利いた人たちの言説が、フランスでどんなに問題にされなかったか、それをかえりみることは、奇異でもあるが、また同時に、なげかわしくもある。一九三九年以前、フランスはもちん、ヨーロッパの運命も、どうかすると世界の運命も、両手に握っていた人たちは、このうえもなく権威をもった意見にも耳をふさいでいたし、身近なうえにも身近な情熱にも目をふさいでいた。ドイツ通でその名あったルイ・ジレーは、大戦の二年前、「ドイツの光りと影」と題する一書を世におくった。そのなかには、「突然の攻撃力と、前代未聞の激烈さと、おどろくべき迅速さ、ドイツ軍がそういう構成をもっていることはあきらかだ。だからわれわれは、数時間あるいは数日間に戦力をうしなうのである」という一節があるが、事はこの一句そのままに起った。しかし、フランスの陸軍大臣ダラディエは、ドイツの軍力に対抗する何ものをももっていなかった。だから、ジレーの言うところに答えて、「フランス人たちよ、君たちは世界第一級の軍隊を擁《よう》している」と、尤もそうに言ったきりだった。  あくる年の五月十日、サン・テグジュペリは、二十四時間の休暇をあたえられて、パリにいた。すると夜が白みはじめるころ、ひとりの友人が戸を叩くので目をさますと、ドイツ軍がベルギイとオランダに侵入したと言う。いよいよ戦いがはじまったのである。サン・テグジュペリは、大急ぎで所属部隊に復帰した。  それから数日経って、彼はふたたびパリにやってきた。すると全市が何ごともなさそうな空気に包まれているので、身の毛がよだつほどおどろいた。  思いもよらぬ戦争である。搭乗員の犠牲はどうするのだ。これではコップの水を山火事に投げ入れるようなものだろう、と考えたサン・テグジュペリは、避難民の浪を涙ぐんで高みから眺めていた。  正直に言って崩壊寸前の惨状である。パイロットたちの努力は水の泡だった。参謀部との連絡が断たれていたからである。中隊長アリアスが搭乗員に問いかけて敵情を知ろうとしても、もはやみなの士気を鼓舞するよりほかに策はなかった。  ひどい損害だった。三週間に搭乗員二十三人のうち十七人をうしなった。まるで蝋のように溶けてしまった、とサン・テグジュペリはあきらかに見てとった。  五月二十三日、事態がこんな具合なのに、アラス爆撃の任を帯びて出発した。オルリイ飛行場を飛び立つと、悪天候に見まわれて、護衛の戦闘機をうしなった。目的地近くで、重機関銃に撃たれて、ガソリンタンクが滅茶めちゃになった。  その日の夕方、ポルト・マイヨ近くの安料理店で夕食をしていると、親しくしている友人のジャン・シュナイダーというのが、護衛戦闘機に乗ったまま戦死したと聞き、サン・テグジュペリは、感動のあまり、どうやら気が遠くなりそうだった。そのあげく彼は、上空から見たアラスの戦火を、勢いにまかせて書きはじめた。「年取ったのがいけなかった。子供の時代こそ、ぼくは幸福だったのだ」と、「戦列パイロット」の中で読まれるあの一節がそれである。  友人たちは彼の身の上が気がかりになって、配置を変えさせようとつとめた。戦火からのがれて生き残る機会といえば、もはや三に一というていたらくだったからである。しかしその度ごと彼は、友人たちの計画にそっぽ向いていた。  六月一日の夜、なん人かの友人の発起で、とある料亭で夕食に招かれた。つい近ごろ、論功行賞にあずかった彼に、祝意を表するためだった。すると十時に顔を出した彼は、「みんな引きあげたまえ。パリはもうだめだ。さよなら」と言うなり、食事もせずに、通りがかりのタクシイに飛び乗って、ボルドオに向って南下している所属部隊に馳せ加わった。十三日の夜はツールで過ごして、大臣連と指導者階級の人たちと、近くで顔を合わせたが、責任ある人の暢気《のんき》さに、あやうく怒りをぶちまけるところだった。  ボルドオでは、混雑が絶頂だった。どこの通りにも、自動車がかさなるように並んでいた。臨時大使館になっている英国領事館には、近くイギリスに向う船の乗船券を手に入れようと、避難者がひしひしと押し寄せている。ところで、高級料亭の�シャポン・ファン�に目を移すと、フランスが崩壊寸前だというのに、国政に責任をもった人たちが、あやしげな女たちといっしょに美食にふけっている。それを見たサン・テグジュペリは胸がむかついて物が言えなかった。なぜなら、ヒトラーの攻勢がすでにはじまっていて、侵略の浪が、ベルギイからオランダにかけて、目まいがするほどの速度で押し寄せているまっただ中だったからである。  陸上でも空中でも、暴威に抵抗する何ものをももっていなかった。目前にせまっている敗北を避ける方法がまた、何一つなかった。したがって彼は、無秩序と無力と、無益な死に苦しむほかはなかった。くる日もくる日も、戦友たちと一命を危くすることで日を過ごした。一命を危くすることが、無益でもあり非常識でもあることを、よくよく知りながら日を過ごしたのだった。  死ぬことが、もはや彼には、なんの意味もなかった。壮烈なことでもないし、荘厳なことでもないし、悲痛なことでもなかった。もはやただ、無秩序のあらわれでしかなかった。地上では、あちこちの村が燃えているのである。女や子供や老人の群が、到るところの道路をふさいでいるのである。サン・テグジュペリは、あれはてた原野を目の前にして、今にも骨の髄まで打ち砕かれそうな気がした。  死ぬことは、すべての戦友にとって共通の運命だったのである。  しかしサン・テグジュペリは、かような危険きわまる生活に身を投じて、中だるみしていた成長を再びはじめた。無意味に歩いていた道が、のぼり坂になったのである。彼にとっては、生きることが、ただ生きることではなくて、徐々に甦《よみがえ》ることだった。できあがった人間のたましいを借り物にすることがあるとしたら、それこそあまりにもたやすいわざだったではないか。  とは言っても、サン・テグジュペリは、無能力なり無秩序なり死なりを、人間の宿命としてうけ入れたわけではなくて、身辺の悲惨な事態にも、戦友の無益な死にも苦しんだ。政治指導者や軍参謀の上層を占めている人たちに、怒りをぶちまけもしたし、手きびしい批判も加えた。明々白々の事態ではあっても、まだなんとか救いの手をのべる余地がありそうにも考えていた。だから五月のある日、彼はパリにきて、張りをなくした大統領ポール・レイノーに会見を申し入れた。レイノーはさいわい会見に応じた。サン・テグジュペリは折りよしとばかり、北アメリカに行かせてはもらえまいか、ルーズヴェルトに交渉して、なん台かの航空機をもちもどらせてもらえまいかと提言した。  レイノーは、耳を傾けるともなく傾けた。気をせかしていたからである。パリの地区と街路と家とを一いち防ぎまもったあげく、南方へ難を避けようではないかと、マイクロフォンの前でフランス国民に呼びかける策で気をせかせている最中だったからである。だから彼は、不得要領な返事で言葉を濁した。  ——まあ、やってみますかな。  サン・テグジュペリは、と言った相手の心中を察した。これでは要求をはねつけられたも同じである。肚を決めた彼は、時を移さず所属部隊に帰った。犠牲となるも同じ出動命令を黙々としてうけ入れた。あらためて愛機に搭乗したが、その操縦装置と機関銃は、高空を飛んだために凍っている。両翼の下には、敗戦の惨状が手に取るように見える。燃えあがっている村々、いつ流れやむともわからぬはてしないシロップめいた黒い道路、避難民とごたごたになっている敵の戦車、それらがきりもなく、南に向って転がるように続いているのである。  2/33大隊がまた、基地をつぎつぎに伝って南に向って動いていた。オルリイのあとは、ナンジ、シャペル・ヴァンドモワーズ、シャトールー、ジョンザックと続いた。さすがの彼も、日ごとに身がすぼまる思いがした。残っている搭乗員たちは、絶えず飛行を続けていた。へとへとになった兵士たちは、立ちながら眠っていた。六月十七日、四発動機をそなえたファルマン機が、将校連をアルジェにはこんで行った。中隊長のアリアスが合流する命をうけたうえでのことだった。  それからなん日か経つと休戦になった。三分の二ほど侵略されたフランスの国土の上では、ともかくも戦いがやんだ。  アルジェに上陸すると、戦火がやんで静かさがもどってきていた。サン・テグジュペリは、なぜフランスが敗北したか、そのゆえんを、あれやこれやと考える時間が見つかった。が、いくら考えても、償われそうにもない敗北である。と思うと、ただの犠牲行為の愚かさが、いよいよはっきり目に見えてくる。一国民の無能力ばかりでなく、指導層の無気力と利己主義とが、事をかくあらしめたのである。かず知れない子供と女と老人とが、避難の道路の上で苦しんだり命を落したりしているのに、要路の人でありながら、安楽な日々をおくることばかりに頭を向けていた恥知らずの行動が、一国を恐しい奈落に追い落したのである。  それなら、彼自身はどうだったか。  一国の危機に身をもって携《たずさ》わった彼だった。ツールーズで難を避けているのを拒んだ彼だった。戦いをいやがっているのに戦った彼だった。なぜなら、「愛しているもののすべてが、脅かされている」からである。町や村を戦火から救うのと同じ意味で、人間の精神的なねうちを救うために、一命を危くした彼だった。だから彼はアルジェで、復員の日を今か今かと待った。  八月五日、サン・テグジュペリはマルセイユに上陸すると、すぐさまアゲーに行った。そして、年取った母をしっかりと抱いた。妹のガブリエルにも、義理ある兄のピエルにも、その子供たちにも再会した。プロヴァンス州の山河にも眺め入って、「埃りまでがよい香りのするこの世の二つとない一隅で甦る気もちが」した。オリーヴの木も見た。羊の群も見た。子供のころともう一度彼を結び合わせた家族生活にも触れた。アゲーの家族のルイ十四世風の古い家がまたなつかしかった。美しい入江の奥にあって、北風を遮《さえぎ》っている代赭《たいしや》色の岩に、夕日の照り光る美しさといったらなかった。それに昔をしのばせるその家はといえば、塁のようにどっしりした土台を、海に浸していた。そういう家で過ごした楽しい生活の思い出には、まったくきりがなかった。アントワヌはそこで、身うちの人たちと何くれとなく話を交わしたり、甥や姪たちと遊んだりしながら、しみじみと楽しいときを過ごした。夜になって、みなが寝静まると、彼は一人きり目ざめていて、ひらかれた窓から、夜の暗さに見入った。明るい空にいっぱいな星を眺めあげると、がさつなイメージがこころに浮かんでくる。砂嵐がはこんでくる狂ったような浪の轟き、ジュビィの廠舎では、そういう轟きをなんど耳にしたことだろう。あの同じ星が、その昔、赤裸々な砂漠の上空に輝いていた。ところで、サン・テグジュペリ彼自身がまた、あのころは赤裸々だった。彼のこころがまた赤裸々だった。きょうのこの夜と同じように、彼は一人きりで、沈黙の中に浸っている人間たちのほうへおりて行った。人間を知り人間の道しるべをするために、人間の土地までおりて行ったのである。  夜が明けると、三分の二まで吸いへらしたシガレットでいっぱいな灰皿と、コーヒーのように黒い紅茶の残りと、兄の書いたものでいっぱいな原稿紙が、ガブリエルの目についた。  ——なに精出していらっしゃるの?  とある日彼女がたずねた。  ——遺著を書いてるんだ。  と彼が答えた。  例の雑筆集「城砦」を書いていたのだった。  といった日々をおくることは、当時のサン・テグジュペリにはふさわしくなかったらしい。アゲーでの二カ月、と考えるだけでも、これといってきまった仕事をもっていなかった彼には勿体なかった。それはそうでも、プロヴァンスの田舎道を、がた馬車と馬とがさも暢気そうに通って行くのを、ガブリエルの家から眺める日々を思うと、彼は、生活の新しい足がかりが欲しくなった。でも、いったいどこへ行ってどうしたら、足がかりがつかめるか。  と自問自答しているうちに、何が彼の頭にひらめいたかと言えば、北アメリカに行って、文筆の仕事で自活の道を立てることだった。サン・テグジュペリ研究家の一人であるピエル・シュヴリエによれば、「もし後年、祖国解放のために軍隊が形作られるようだったら、いちはやく参加するだろう」と言いはしたが、彼がそのころ、そのような、あるいは起こりそうなことに頭を向けていたとは思われない。また一方、ヴィシイ政府から北アメリカに派遣されて、精神的な影響力とすぐれた知性をもとに、フランスの利益を図ろうとしたという説もある。しかしこの企ても、けっきょく、サン・テグジュペリのうけ入れるところとはならなかったらしい。  それはそれとして、サン・テグジュペリは、一九四〇年の八月五日、マルセイユに上陸はしたものの、文字通りに素寒貧《すかんぴん》の身の上だった。わずかに三フラン五十という一食の料にも足りない金子《きんす》を、ポケットにもっているきりだったらしい。その後およそどうして日を過ごしたかまったくわからないが、十一月五日、ヴィル・ダルジェという船に乗って、北アフリカに向った。そしてそこから月の十六日に、リスボンに着いた。リスボンといえば、ポルトガルの首府である。そこでどんな働きをしてどんな金銭の工夫をしたか、これもあきらかでないが、ともかくも北アメリカ行きの船賃を支払った。アゲーをはなれるとき、ヴィシイに行って一週間滞在したが、何を目的にした滞在だったか、これもはっきりしない。が、周知のドイツ党であるドリュ・ラ・ロシェルと再会したあげく、車をともにしてパリ入りをしたことはたしかである。リスボンへ発つ前、北アフリカで過ごしたなん日かの間に、テリイ神父に会った。パリで政治家のモンジイやウェルトといっしょに往来した間柄だった。ところで、サン・テグジュペリが、無理にも金策をして北アメリカにわたったのは、「祖国奉仕の誠意」に因ったのだと、テリイ神父が言ったという。  いずれにしても、祖国の敗北に一方ならぬ衝撃をうけた結果だったことはたしかで、彼は地上でも空中でも、ドイツ軍力の類を絶している事実を、身にしみて感じたのだった。それに、人口一億五千万のロシヤがヒトラーと手を結んでいて、ヨーロッパの覇者《はしや》として控えている。だのにフランスは、したたかふみつぶされて、孤独のみじめさをみすみす嘗《な》めさせられている。それなら英国はどうか。ドイツの攻勢が火蓋を切ったあと間もなく、フランスの土地にいた軍隊が、以前の所有だった島を取りもどして、情勢をうかがっている。海のうしろにいるので、ほかに何一つ手を打つわけにいかないのである。北アメリカはどうか。「われわれは、北アメリカからの援助を期待するわけにいかぬ」とサン・テグジュペリは「戦列パイロット」の中で叫ぶ。「彼らは援助の手をのばしもせず戦うこともせずに、思うがままに振舞ってきた海の向うの世界におさまっている。だのにフランスは、今にも崩壊しようとしているではないか」サン・テグジュペリは、もはや迷いをはなれて、思うままをぶちまける。「けっきょくわれわれは、何故あって戦うのか。デモクラシーのためか。もしデモクラシーのために死ぬのだったら、死ぬことに二つはないはずだ。だから、デモクラシーのための戦いだったら、敵も味方もありようがないのである」といったふうに事を考えていたサン・テグジュペリは、アメリカが参戦しない限り、ドイツの敗北など頭の中になかった。したがって、サン・テグジュペリと考えを同じゅうする勇気をもった人の多くは、しぜんドイツの勝利を信じた。一九四一年、ニューヨークでサン・テグジュペリと往来したピエル・ド・ラニュは、「彼は今もってフランスの勝利を信じていない。がもしそう信じている人があったら、その人は気の弱い人か、楽天的な怠け者だ。そう信じている人がなん人かいるとしたら、その人たちは、他とくらべて勇気のある人であるか、真実な人であるかどうか疑わしいようだ」と書いている。  そういったわけで、一九四〇年のアメリカにいたサン・テグジュペリは、もはや戦うことを欲していなかった。休戦中のアルジェでは、寸時もはやく復員の身の上になって、生まれた家に帰りたがっていた。ともかくも、一応アゲーの妹の家に行くとしよう。もはやそこでは、ドイツ兵の姿を見ることがなかったのだから、ヴィシイでは猶更のことだった。でも、自由地帯と占領地帯との間を通ったら、めずらしくドイツ兵のいく人かに出くわすことがあるだろう。ただしそれは、踵《かかと》に鉄を打ちつけた長靴が、パリの舗装道路をふみ鳴らすときで、そのときこそ、占領されたフランスで生活出来ないことがわかって胸が苦しくもなるだう。  と思ったサン・テグジュペリは、アゲーが自由地帯なので、やはりガブリエルの家に行って、静かな生活をおくろうかとは考えた。しかし静かさばかりでは、生きるわけにいかぬ。生きるためには書かなくてはならぬ。ところで、それを満たすには、アメリカを措いてほかにはない。いくつかの交際関係もあり、出版の面倒を見てもらえる人もあるからである。それにまた、「人間の土地」が「風と砂と星」という英語版になって、大きな成功をおさめている。だから、大西洋の向うの国に行けば、�フランスの町々のまっ暗な夜�をはなれて、働くことができるだう。  とは思っても、�奴隷状態の憂鬱な雰囲気と飢渇の脅威�を知ったばかりの国に、年取った母とコンスエロを残すことは、なんとしてもつらかった。「おかあさん、あの女がもしいつか、南フランスを凌ぎの場所にするようでしたら、どうぞあなたの生みの娘と思って、迎えてやってください」と母に手紙を書いた。しかし、事はサン・テグジュペリの思い通りになったかどうか。それにまたこの場になって、コンスエロの身の上を気にするいわれが、サン・テグジュペリにあったかどうか。人間の矛盾にどんなに慣れているわれわれではあっても、物質と精神との衝突から生まれるこの種の矛盾となると、なんとしても気兼ねをしないわけにいかぬ。サン・テグジュペリ自身にしてもおそらく同じ気兼ねをしたことであろう。   ブエノス・アイレスでのこと  一九二七年、カップ・ジュビィ航空機発着所長の職について、苦労の限りをつくしたあげく、ひとかどの航空士となったサン・テグジュペリは、二年後、アルゼンチン航空会社を切り盛りすることになって、はじめて南米ブエノス・アイレスの土地をふんだ。ジュビィを去って、数カ月後のことだった。  水に縁遠い砂漠を去るというので、ほっとした気もちはあっても、一方ではこころ残りがあった。もちん砂漠愛の感情はこころをはなれなかった。それでも、家庭生活の楽しさが欠けていて、時には、あらためてその楽しさに浸りたいあこがれが、頭をもたげることがあった。まずサン・モーリス・ド・レマン、ついではアゲー、それについでは、フランスののどかさというのどかさが、事につけ折りに触れては目先にちらついた。  ところで、ブエノス・アイレスに上陸したとき、サン・テグジュペリは、あたえられた仕事をどうさばくべきものか、かいもく見当がつかなかった。先輩格のディディエ・ドーラは、だれにも指図らしい指図をしなかった。パイロットなり機関士なりを、彼自身の立会いを必要とする場所へ行かせるのに、それに先だって意見の一致を求めようともしないのである。何ごとをするにもあやふやなので、サン・テグジュペリは、いらいらする一方だった。もちん何人かの僚友はいた。中には、以前からこころを許し合っているギヨメもいた。しかし、そういう連中は、空を飛んだり、とにかくどこかへ行って留守になったりしがちなので、サン・テグジュペリは、アルゼンチンの大都市の空気を吸いながら、どうしようもなかった。「なんていやな町だろう、味もなければ資力もない町だ。だから、けっきょく何一つない町だ」というのが、彼の口癖だった。もちろん、大げさに物を言ういつもの癖が、ここにも顔を出したことは否めない。町がだだっぴろいうえに、かず限りない建物が、数年のうちに、まるで菌のようににょきにょきと建ちあがったことに、おどろきもし気も悪くしたことはたしかだった。なんの様式もない大建築物、直角に交叉しているながい町々、独創性のない店の飾り窓、事実どこにも特徴がなかった。いきおい彼は、顔をくもらせながら、砂漠や、サン・モーリスのかげ深い広庭や、アゲーの赤い岩根や、パリの春げしきに思いを馳せていた。サン・ジェルマン大通りのマロニエの並木の美しさを思うにつけては、かつての生きる楽しさがおのずからこころに湧くのだった。「数千メートルに及ぶコンクリートの立方体が、こんなに立ちはだかっているのに、ブエノス・アイレスには、いったいどこから春が訪れるだろう」と彼は考えたという。  十日あまり待っているうちに、アルゼンチン航空郵便会社経営部長としての仕事がはじまった。憂鬱な日々をおくっていた彼の表情は、一挙に明るくなった。嬉しさと誇りとを胸に包んでいられなくなったのである。  フランスにいる母にも、なん人かの友人にも、すぐさま手紙を書いた。月々二万五千フランの手当をうけると、はっきり知らせた。母に宛てた手紙には、「ぼくがこんな地位についたので、おかあさんはさぞよろんでくださるでしょう。ご教育が立派に実を結んだのです。そんな教育をしてはいけないと、おかあさんに言った人が、だいぶいましたがね」という文句が読まれた。  そういえば、アントワヌの手紙の一つには、彼のうけた教育がどうのこうのと非難した人が、親類のうちにはいると書いたのがあった。そのままにはうけ取りがたいことであるが、しかしアントワヌが年二十九で、重要な航空輸送という企業を切り盛りすることになったのが、母の教育のおかげだと言ってのけたことは、その当を得なくはないか。だからといって、彼が母に向ってじかにそう言った場合、はたして正直だったかどうか。それよりは、母にそう言わそうとせずに、ただ母をよろこばせたがったと思うことのほうが、もっとまことらしそうである。彼は生みの母に、自分の息子にも自分自身にも誇りをもたせたかったのである。甘やかされ放題だった以前の少年が、今は立派な一人前の男になった。だがそれも、アントワヌがなんとかかんとか言ってお金をねだったとき、ゆったりした気もちで日々をおくらせようと思った母ごころが、ついアントワヌの求めをそのままうけ入れた結果だと考えたら行き過ぎであろう。そんなことでなしに、イスパニヤの混乱した大空に突入するに先だって、モントードランの冷えきった格納庫で、シリンダーを分解したパイロットとしてのきびしい生活、カップ・ジュビイのみすぼらしい廠舎や砂漠のただ中を本拠にしながら、太陽の執念深く照りつける光りやモール族の銃弾を物ともせずに、航空機の修理にあたった発着所長としての生活、僚友の面々と危険と困苦とを共にした生活、かつての安易《あんい》な生活とは似ても似つかなかったあらっぽい生活に委細かまわず没入したこと、サン・テグジュペリは、そういう過去の経験をかえりみながら、「人間は何かの障碍にぶつかって、自分の力量を知るとき、はじめて自分自身を発見する」と書いたのではなかったか。  ところでそういう経験は、過去の経験として終ったわけではなかった。  南アメリカの土地をふんだ彼は、あらためて千種万様な障碍にぶつかることになるのである。さまざまな困難にも打ち克たねばならぬことになるのだが、ただしその困難は、彼が三年以来、打ち克たねばならなかった困難とは、くらべ物にもならなくなるのである。ところで彼はすでに、子供だったころの何ら苦労のない生活を取りもどしたのである。何人にも何一つ求めなくて事すむ生活にめぐり会ったのである。以前はあちこちで借財して、やっと人間らしい生活をしたことがあった。ところが、アルゼンチン航空郵便会社の経営部長になった今は、二万五千フランの月収入を、どう使用していいかわからない身の上になったのである。「……ぼくは今、金をつかうのに骨を折っている。部屋には、ぼくのやくに立ちそうもないたくさんの品物が積みかさなっていて、今にも息がつまりそうだ」と女性の友人に手紙を書いたが、なにも冗談にそう書いたのではなかった。金さえあれば勘定もせずにどしどしつかうのが彼だった。プランヴィルといえば、航空郵便会社の本部長だったが、ある日夕食に招かれたとき、サン・テグジュペリは、車いっぱいの花をもってやってきた。途中で花いっぱいの車を押している花売女に出くわしたことが、そうさせたのだった。  サン・テグジュペリは、いきなり花売女に向って言った。  ——いくらだい、お前さんのその花?  ——どの花ですかい?  ——みんなさ。  ——この花、みんなですかい?  ——そうだよ、車もいっしょだ。  あまりのことにおどいた花売女は、このフランス人、気がすこしへんになっていはしないかと思った。しかしサン・テグジュペリは、相手がおどきあきれているのを見てとって、ポケットから金を取り出して、札《さつ》をかぞえた。  ——十分あるだろうね、花は?  人のよい女には、わからないことなのである。よくよく考えて、どのくらい花をもっているか、かぞえてみなければならないのである。ところで、車のねうちはどうだろう。どうにもこうにも、はっきりこうだとはわかりようがない。この車、新しくはない。嘘にも新しいとは言えないのである。しかしサン・テグジュペリは、そんなことどうでもいいといった顔で、なんでもなく花と車の代を払ったが、歩道のへりに取り残された花売女は、あきれてはいながら嬉しそうな顔をしていた。  やり口は異様でも、実はなんでもなかった。金銭になんの不自由もないので、気前がよかったのである。ところでその気前のよさが、やがては屈託《くつたく》のない明るさともなった。一にも自然、二にも自然、サン・テグジュペリはこの点で、しばしば人のこころを打った。  この事があって、いくらか時が経ったころ、サン・テグジュペリは、やはりブエノス・アイレスの波止場で、フランス人の人足に出会った。するとその男は、航空士をフランス人と見て辞儀をした。だからこちらも、辞儀を返して、何かと話をしているうちに、相手は、十五年ほど前、ひと財産作るつもりで南アメリカにきたのだとわかった。でも話を進めていると、相手はたちの悪い連中にだまされて、せっかくの貯金を巻きあげられ、今は涙の出るほどの生活を営んでいるという。  ——そんなわけなんで、今は国に帰るだけのお金を作るのに、ここで働いてるんでさあ。だけど、仕事はつらいですよ。慣れないうえに、もう働く力もなくなったんでしてね。  と言って、やせこけた両腕を出して見せた。  サン・テグジュペリは、道ばたの境界の石に腰をおろしている不しあわせな男をじっと見ていた。顔すじには苦痛の痕《あと》がありありとあらわれているし、どことなく落ち込んでくもっている目つきには、悲しさと口惜しさとが、ありありと読まれるのだった。  ——で、まだ家族がおありかね?  ——ええ、フランスに。なんなら、もういちど会いたいですよ。一人っきりここで、死んじまいたくないですからね。  サン・テグジュペリは、ちょっと考えて、相手の肩に手を触れた。そして、  ——ちょっと待ってくださいよ。  と言って、彼は立ち去った。急いでいる旅客にもそれからそれへと行き会った。荷物をはこんでいる人夫たちが、どこにも雑沓《ざつとう》していた。しかし彼は、それらの人たちには眼もくれずに、波止場にそって行った。そのうちに、とある事務所に入って行くと、受付口のうしろにいる事務員に声をかけた。  ——いつ発つんですか、フランス行きの船は?  ——あすの夕方四時、マルセイユ行きのマンドザ号です。でも、もう三等でなくちゃ、席がありませんよ。  ——それで結構。どうぞ切符を一枚。いくらです、料金は?  しばらく経ったあと、サン・テグジュペリは、相変らず境界の石に腰をおしている男のそばにもどってきた。そして手にもっている切符をわたした。  ——これでお発ちなさい、あした。  相手は立ち上がっていた。夢でも見ているように、目つきは先程よりもっと落ち込んでいた。  ——でも旦那、でも旦那……  と相手が口ごもっている間に、サン・テグジュペリは切符に路用《ろよう》の金を添えて言った。  ——あす夕方の四時、マンドザ号に乗るんですよ。達者でね!  まったく型やぶりな行動だったが、嘘いつわりのない思いやりが、しぜん彼にそうさせたのだった。  ところで彼は、ふと出くわした人にそんな仕向けをしているうちに、母との約束をうっかり忘れていたことがある。  一九三〇年のはじめ、彼は七千フランを為替《かわせ》にしておくるが、うち二千フランは自由におつかいください、残りの五千フランは、あの商いをしている人に返済して欲しいと母に書きおくった。商いをしている人というのがはっきりわからないが、ブレストで航空の上級講義を聴講していたとき、必要あって用立てしてもらった相手らしかった。なおその手紙には、今後月々三千フランほどおおくりするので、冬にはモロッコに行って寒さをお凌ぎくださいとも書いてあった。  ところが同じ年の暮になって、ツールーズの航空会社経営部長からの手紙が、ブエノス・アイレスに届いた。十二月六日の日附で、文面はこうだった。 「会社本部長からの依頼ですが、近親のお方が来訪されて近況をたずねられた旨、サン・テグジュペリ氏にお伝えください。察するに同氏は、二カ月以来、母上に音信なさらなかったのではないでしょうか。まったくのわたくし事で、口出しなどをする必要のないことながら、礼を失しない限り、同氏をお呼び寄せねがいます」  南アメリカでの生活の密度が、サン・テグジュペリに多少とも家族との通信を怠《おこた》らせたことはたしかだ。もちろん彼は、目のまわるほど忙しい身の上だった。飛行はするし、方々の飛行場を見てはまわる、そのための旅行もしなければならなかった。とはいっても、ながい間ブエノス・アイレスを留守にしたわけではなかった。旅から帰ってくると、彼はたっぷり時間をかけて、何人かの友人といっしょに、夜が更けるまで、酒亭でときを過ごした。だから週に一度は、なんとか時間をあけて、自分の事を気にしているやさしい母に、便りをしようと思えばできないわけはなかった。  生活の密度がどうのこうのと言っても、彼がすべきことをしなかった口実にはならなかった。多くの金額をうけることになったゆったりした生活が、サン・テグジュペリをジュビィの生活から急に遠ざけた。そしてそういう物質的に幸福になった生活が、遠くにいる近親の人たちを、忘れさせるともなく忘れさせたことは打ち消されぬ。ジュビィでのあらあらしい生活は、サン・テグジュペリを困難な生活に触れさせた。苦痛もみすぼらしさも味わわせた。そしてそういう経験から、彼は「人間」のありかたを知った。人間という人間の要求にも、以前よりは感じがつよくなった。人間相互間の繋がりときずなとが、サン・テグジュペリを人間の大きな共同体に引き寄せた。しかし、きずなはまだしっかりしていなかった。若年者の楽しい一方の生活、安易な生活の跡形が、まだ残っていた。だがそれも、新たな生活環境、わけても第二次世界大戦の勃発を俟《ま》って、ゆるぎない地歩を占めることになるのである。   オルコントでのこと  一九三九年八月二十六日、イール・ド・フランス号は、ル・アーヴル港の波止場《はとば》に横づけになった。おも苦しい顔をしたサン・テグジュペリは、物一つ言わずにいる旅客の群にまじって、パリに帰って行った。すると一週間後には、戦争がはじまった。九月四日、軍当局の命令で、サン・テグジュペリ航空大尉は、ツールーズの飛行隊に復帰した。  ツールーズといえば、サン・テグジュペリが、十三年前、そこの機械工場で働いたあと、モロッコのカサブランカとの郵便物飛行を確保したところだった。その後、なん度ともなく機を乗り入れたことがありはしても、何かと様子が変っていた。危かったこと、友達づき合いのこと、苦しかったこと、嬉しかったこと、気がかりだったことが、十三年もの間、それからそれへと積みかさなっただけに、人間として熟したことは、言うまでもない。彼は機械工場で働いていた頃とちがって、もはや灰色の寒い朝、旅行鞄の上に腰をおろして、がたがたと転がってくるバスを待っている青年ではなくなっていた。だから十三年前、新しい生活にがむしゃらに入り込んだ自分を、なんと痛切に感じたことだろう。これという懸念《けねん》はなくても、おもおもしい気もちで入り込んだものだった。思い返すと、いずれ航空の指導員にもなるだろう、ブレゲー機の操縦席に腰をおろすことにもなるだろうと期待していた。  ところがその場になってみると、当分じっとして待っておれというのである。いったい何を待つのか。まさか戦争の終るのを待てというのではあるまい。頼みにしている人たちは、彼の求めている援助をあたえるどころか、むしろ反対の手を打ちそうである。今は劇作家として有名なジャン・ジロドゥーはといえば、情報委員の任に服しているのを根拠にして、パイロットの彼を、その方面の仕事にあたらせようとする。あたら知性の人が、予備役同様の取りあつかいをうけるのである。だからジャムの壺が、宣伝の棚に乗っけられたのも同じで、戦争が終れば、パンの副食物になるのが必定《ひつじよう》ではないか。レオン・ウェルトは、もしそんなことになったら、転職命令書を引き裂くのがサン・テグジュペリだとも思ったし、「犬死になんかしてどうなるのだ!」ともじかに言った。するとサン・テグジュペリは、「そんなことしたら、友人のきみに失礼だ」とあっさり答えた。しかし突きつめて言えば、そんなことで、大切な旧友と議論したくないのが、彼の本心だったらしい。  悶々の日が続く。憂さ晴らしの手紙があちこちに出された。 「なんとでもして、戦闘部隊の一員でありたい。ぼくは日ましに息苦しくなる。この国のこの空気では、呼吸のしようがない。いったいぼくたちは、何を待っているのか。戦争をしなければ、ぼくはたしかに、精神的に病人だ。きのうきょうの国情について、言うことが山のようだ。でも、戦闘員としてなら言えることだが、旅行者としては、何も言えない。物を言うには、今が唯一のチャンスだ。ね、そうだろう」 「……ここではぼくを、航空ばかりでなく、大量爆撃操縦の助言者にしたがっている。だからぼくは息苦しいのだ。不幸なのだ。黙っているよりほか、どうにもしようがないのだ。ぼくを戦闘部隊の一員として出発させてくれ。きみがよく知っている通り、ぼくは戦争がすきじゃない。だからといって、銃後にじっとしてはいられぬ。危機に処するぼくのもち前をやり遂げぬわけにはいかぬ。なんとしても戦わねばならぬ。だが、まったく危険を避けて、ツールーズの上空を悠々と飛んでいる限り、そんなことを口にする権利はない。そんなことをしたら、それこそ唾棄《だき》すべき役目だろう。ぼくには当然の苦労をさせて、いろいろな権利をもたせてくれ。世間の�ねうちをもった人たち�が、安全な場所に置かねばならぬなどと主張するところには、知識人の胸がむかつくほど大きな過《あやま》ちがある。人は進んで事にあたってこそ、効果のある役目をはたすのである。�ねうちをもった人�たちが、もし土の塩だったら、その時こそ、土とまじるべきだ。ばらばらになっていて、�われわれ�などと言うわけに行かぬ。ばらばらになって、�われわれ�などと言う人がいたら、その人こそ卑怯者だ!」 「ぼくの愛するものは、みな脅《おびや》かされている。プロヴァンス州では、森林が燃えあがるとき、卑怯でない人はみな、バケツと鶴嘴《つるはし》を手に取るのである。ぼくは愛情と信仰をもって戦いたいのである。事にあたらずにはいられないのである。寸時もはやく戦闘部隊の一員として出発させてもらいたいのだ」  とはいっても、サン・テグジュペリの熱意は、年すでに四十に達して、いつとはなしに�蔭の一線�を感じだした健康の遮《さえぎ》るところとなった。そこへ大佐ド・ヴィトロルの干渉が顔を出して、戦列パイロットとしてではなしに、偵察パイロットとして、ツールーズからシャンパーニュ州のオルコントに移動した2/33大隊に加わることになった。  サン・テグジュペリがオルコントに着いたときは、一九三九年の十一月はじめで、村いっぱいのプラタナスの木が、秋の夜のひやりとした空気に包まれて、あたりの路や畑に、黄ばんだ葉をはらはらとちらしていた。村のうしろには、平たくてひろびろした原があって、航空機の離陸を都合よくしていた。そこに近寄って、機関銃をそなえた機体や、航空服を着た丈高の搭乗員を見るだけでも、サン・テグジュペリは、新しい生活の波が、どっと全身に流れ込むのを感じた。ほがらかなよろこびが、思うさま襲い寄ったのである。彼は仲間になろうとしている人たちと握手を交わす。すると相手もまた、彼と日々をおくることを誇りにしている。それにそういう相手は、まさしく軍人である。それに、これまで何かにつけて非難してきた軍人につきものだった欠点などは、もっていないのである。それどころか、大空を縦横に飛びまわった人でなくてはもっていないものをもっているのである。航空の愛をもっているのである。彼のもっているのと同じ理想をもっているのである。定期航空の仕事を営んでいたあいだ、人間の�芯�と呼んで、あだ疎《おろそ》かにしなかったものが、ありがたいことに、新しい戦争仲間の行動のうちに再び見いだされたのである。  感激したあまり、彼はオルコントから、ある友達に宛てて手紙を書いた—— 「仲間というものは、なかなかむずかしい問題をもち出す。第一には質についての問題だ。物事の品さだめをすることのできる方法はたくさんある。……人は一生涯、タンゴのすきな連中よりも、バッハのすきな連中を好んだものだった。ところで、今ぼくがいっしょに生活し、いっしょに戦っている仲間たちは、ぼくと同じ理由で戦ってはいない。文明を救うために戦ってはいない。と言うよりはむしろ、文明とはなんであるか、何を中身にしているかを、見直さなければならないのではないか」  遠まわしに書いてはいても、サン・テグジュペリが周囲に求めたのは、文明の�芯�をつかんで生きている人だった。�芯�のない人間は、サン・テグジュペリにとって、凡庸な人間と言うも同じだった。�芯�のなさは、凡庸に繋がり、無秩序に繋がり、不統一に繋がる。そんなあやふやな世界に、文明などという立派なものの成り立ちようがない。人は何かというと、�平和�を口にして、戦争を呪う。しかし、戦争も�芯�のある戦争だったら、そこからは案外、事なかれ主義とは相容れないほんとうの平和が生まれるのではないか。それにつけても、何よりおそろしいのは、人間接触の欠如だ。精神生活の沈滞《ちんたい》だ。  そんなふうに事を考えてきた彼には、意外に落ち着きがあった。偵察から帰ってくると、将校集会所に仲間と集まって、雑談を交わしたり、トランプ遊びをしたりするのが、ひどく楽しかった。時には、偵察に出て行った仲間の帰りがおそいので、心配しながらそれを待っていること自体に、共同体のよさがしぜん感じられた。そしてそこにも、生活の捨てがたい味があった。だからこそ夕方になると、いそいそと自分の部屋に帰って行ったのである。そしてオルコントに着くなり落ち着いたのは、農家の質素な部屋だった。  家は教会堂前の広場にのぞんでいた。大きな戸を押すと、かなりひろいポーチになっていて、家のおやじは、いい季節にはそこで家族といっしょに食事をする。右手に料理場、左手にサン・テグジュペリの部屋があった。  はじめの日には、お内儀《かみ》が影が戸をあけて、借主を部屋に案内した。サン・テグジュペリは、部屋をぐるりと見まわしたあと、ベッドをたたいて、その上に手提鞄を置いてひらいた。それからお内儀のほうに向き直ると、お内儀は相手の目つきを見ておどろいたらしい顔をした。  ——これっきりですがね、つかっていただくのは。  サン・テグジュペリは、にっこりした。それを見てお内儀の顔が明るくなった。三日以来、なにとはなしに心配しながら、航空士がくるのを待っていたからだった。水道番人でいきなり予備中尉に動員されたジューヴというのがやってきて、大尉の人が部屋を貸してもらいにくると言いにきたからである。  ——士官さんなんかに用はないですよ、わたしのうちじゃ。  するとジューヴは、成るほど無理はないといった様子をして、かぶりを振った。  ——まあ、会ってごらんよ、物を書く大したお方だから。  ——だから、どうだと言いなさるかね。  ——ド・サン・テグジュペリっていうお名前なんでね。  ——じゃ、どこかよそへ行ってもらいなさいよ。  と言われても、ジューヴは将校の居どころを変えたくなかった。航空大尉で大作家のサン・テグジュペリ先生が、ご入来だというではないか。  そのうちに、お内儀の前に姿を見せた当の航空士は、どっしりした人だった。無頓着でも、にこにこしている人だった。それに相手を立派なお内儀さんだと思って見ていた。不思議に垢《あか》ぬけしていて、それに肉づきのよい女である。身も心も健康そうな女である。家の中のことになると、一人で切りまわしていそうに見える女である。ある日のこと、サン・テグジュペリは手紙を書いて、それをポストに入れる前に、テーブルの上に放り出しておいたことがある。それをこっそり読んだお内儀は、自分の肖像をかいた下に、「ミネルヴァの顔をしてる女」と書いてあるのが目についた。お内儀は別になんとも思わなかったが、字引を見て、それが女神の名であることを知ると、親切で、思いやりがあって、それに勿体ぶらないサン・テグジュペリをいい人だと思ったあげく、思い切って言った。  ——なぜ、おいでなさらなかったんですかね、どこか立派なお屋敷に?  すると、にこにこしているサン・テグジュペリの顔がくもった。まなざしにも、つやがうせた。そして、気やすく言えることが言えなかった。  ——ぼくこれで、方々の屋敷に住んでたことがあるんだよ。一つの屋敷では、子供の時分と、それに始終ではなかったけど、若いころも暮らしたことがあったっけ、ねえさんたちとひとりの弟といっしょにね。木がこんもりと繁っていて、秋になると、葉っぱが黄いろくなるひろい庭があった。日が暮れると、ランプがいくつも廊下を通って行ったっけ。まるで束にした花のようだった。そしてランプの一つひとつが、棕櫚《しゆろ》の葉のような美しい影を、壁の上にゆらゆらさせていたものだった。それから大きな物置小屋があってね、雨のふる日は、そこがぼくたちの遊び場だったが、まったく子供たちの天国みたいだったよ。それに年の若い女の家庭教師がいてね、その女がぼくたちの面倒を見てくれてたが、その前には——もうだいぶ昔のことになっちまったけど——ポーラといって、とても話上手な女の人が、家庭教師のやくをしてたっけ。……その屋敷、どうなったかって? 売物になっちまったよ。なにしろぼくのおかあさんが、暮らして行けるだけのお金をもたなくなったんでね。それにこのぼくが、手に入ったお金、つかっちまう始末で、どうにもならなかったわけさ。がたがたになった屋敷でね、つくろいをするには、なん度も身代をつぶしたままでいなけりゃならないってこと、書きつづって本にはしたけどね。……いや、いい屋敷だったよ。それが今じゃ、夏の休暇の暑さ凌《しの》ぎの場所みたいなものさ。今のこの時代じゃ、あんなにがたがたになるのが、屋敷というものの運命かな! もうだいぶ前に、行ってはみたけど、入りはしなかった。そとまわりの灰色の石がこいにそって歩いてみたけど、せまい入口がきちんとしまっているきりで、ひどくさびしかった……  サン・テグジュペリは、お内儀に言いたいことを言えないものでもなかったが、けっきょく言うのをやめた。でも、ちょっと黙ってたあとであっさり言葉を返した。  ——やっぱりこの家に、いさして貰ったほうがいいよ。  そう言ったことに嘘はなかった。サン・テグジュペリは、オルコントの大屋敷などより、この農家にいるほうが好ましかった。偵察任務から帰ってきたとき、自然に浸り込んでいる百姓夫婦といっしょに、ときを過ごすのが楽しかったのである。�昼間のこころづかいで人品があがった気もちでいる�農家のおやじが、パンをみなに配っている間、サン・テグジュペリは、おやじの姪のあどけなさに見入っていた。およそ人間の気品というものは、人事をはなれて自然に近づけば近づくほどすっきりした味をもつとだれかが言ったが、オルコントの農家では、家そのものにも、そこに住んでいる人にも、そうした意味の気品が感じられるともなく感じられた。きのうきょうの世の中には、不義を押し隠すための貞操があるのと変に呼吸を合わせて、醜さに迷彩《めいさい》をほどこすたぐいの気品がなくもない。ところで、サン・テグジュペリが、オルコントの農家で感じ取った気品は、そういうどこかに臭みをもった気品ではなかった。どこまでもあけっ放しの気品だった。気品と言えば気品でなくなるたぐいの気品であるらしかった。  どこの国ででも、目先の事だけに気をとられて、昔になつかしみをもたない人の生活は浅い。ところで、オルコントの農家に生きている人たちは、一九一四年、ドイツ軍に血ぬられたフランスを肌で知った人たちだった。そしてその両親たちは、一八七〇年、プロシャの大軍に苦しめられた人たちだった。それにまた今は、イデオロギーを真向うに振りかざした有象無象に脅かされているのである。サン・テグジュペリは、朝夕面倒をかけている人たちのこころのうちを、何人よりも身にしみて感じていた。だがしかし、まかりまちがっても、それを顔にあらわそうとはしなかった。食卓でも、家の人たちと戦争の話などはしなかった。平和な空の旅のこと、砂漠のこと、アルゼンチンのこと、アンデス山脈のこと、僚友のギヨメやシャンプノワのこと、それこそ彼が好んで繰り返す話だった。  話がと切れると、サン・テグジュペリは、そばにいる小娘のセシールを膝に抱きあげるのだった。ちょうど四つになる小娘だった。たいそうおとなしい小娘で、サン・テグジュペリは、めちゃくちゃといっていいほど可愛がっていた。もはやなん度か言ったように、いつも子供に目のないのが彼だった。「ぼくは子供を見ると、まるで父親のように、取って置きの愛情を惜しげもなく投げ出すんです。小さなアントワヌが何人でも欲しいんです」と、彼は二十四のとき、母親に手紙を書いたことがある。だからアゲーに行ったときも、ガブリエルの子供である甥や姪たちと夢中になって遊んだ。ある日一人の友人が、彼といっしょにカマルグ州を旅行したとき、サン・ジル寺院の美しさに見入っている間、つい先ほどまでたかっている子供たちで騒々しかった広場が、サン・テグジュペリがどこかへ行ったために、急にしんと静まったのにおどろいたことがあった。だが、しばらくすると、サン・テグジュペリの顔があらわれる。見ると、とある菓子屋にたくさんの子供たちが入り込んでいて、あてがわれた駄菓子を食べ終ったところらしく、しきりに指をしゃぶっている。それをはたで見ているサン・テグジュペリの顔は、さも楽しそうに輝いていたという。戦争の間にも、アルジェやナポリの往来で子供たちに取り巻かれる。するとサン・テグジュペリは、小さなヘリコプターを紙で作って、それを家の壁にそって投げあげると、ぐるぐると渦巻《うずま》きながら空へ飛んで行く。それをうっとりと眺めあげている子供たちの顔の美しさといったらない。こちらはそれにこころを打たれて、いつまでも子供たちのそばにじっとしている。すると子供たちのほうでも、航空士にくっついている。友だちになってしまったのである。  小さかったセシールも、今ではもうちゃんとした娘になって、あの日の夕方、膝の上に抱きあげてもらったことを、思い出してはほろりとしていることだう。が、それはそれとして、あの思い出がこころの中にきざみ込まれている今でも、セシールはやはり、昔のままの小娘であってもらいたいと、サン・テグジュペリは思っていた。  日曜日のことだった。オルコント教会堂の鐘は、ミサの終りをつき鳴らしていた。信者たちは、いつもとはちがって、おしゃべりをしながら、教会堂のそとで、ぐずぐずしてはいなかった。雨が降り出したからである。百姓家のお内儀は、一方の手に蝙蝠傘《こうもりがさ》をもっていた。もう一方の手で連れられているセシールは、母の蝙蝠《こうもり》の方へ手をのばしていた。サン・テグジュペリは部屋の窓から、二人の様子を眺めていたが、むっとしている母と、涙ぐんでいる小娘の前に入口の戸がひらいたとき、ちょうどポーチの下に出てきた。  ——どうしたの?  とサン・テグジュペリは、涙をぼろぼろこぼしている小娘の顔の上に、ふとったからだを傾けながらたずねた。  すすり泣いているので、引きつった喉に声がつまって物が言えない。だから、母親が代って返事した。  ——蝙蝠を欲しがってるんですよ。でも、赤ん坊用の蝙蝠なんて、ありゃしませんからね。ねえ、そうでしょう、旦那さま?  ——ああそうか、そりゃあ知らなかった。  とサン・テグジュペリが疑わしそうな口調で言ったので、流れていた涙が、ほんのちょっととまった。  あくる日、サン・テグジュペリは、小さな蝙蝠傘を持って、また百姓家にやってきた。ヴィトリイ・ル・フランソワのバザーで買ってきたのだった。彼はいきなりそれをセシールにわたす。いちばんきれいなのが見つかったのだった。水が漏《も》らないようにした布地の傘で、その上には花と鳥の絵がかいてあった。  そうしたのは、サン・テグジュペリが毎日足をとどめて、料理場をのぞきこんだり、知り合いの人に声をかけて礼をしたりしていたポーチのところで、八年後に聞いた話だった。夏のことで、大きなテーブルがポーチに出されると、家のおやじが、シャンパンの栓をぬく。セシールがサン・テグジュペリのそばにいた。  ——あの蝙蝠、見せておくれよ。  とサン・テグジュペリがセシールに言った。  セシールは黙ってサン・テグジュペリを見た。サン・テグジュペリは気がかりになった。  ——あれもってるだろうね、あれからずうっと。  おやじが答えた。  ——避難先から帰ったとき、見つかったんだがね。布地が裂けちまったんで、投げ捨てっちまいましたよ。  ——ああそうか、がっかりしたね。残念だなあ!  見ると、セシールの目が、急に光ってきた。  ——あたし、あれまだもってますわ。  とセシールが言った。  ——いや、わっしあれ投げ捨てっちまったんでさあ、あの向うの、納屋のうしろに。  とおやじは、手を大きくひらいて言った。  ——そうなの。だけどあたし、あとでまた探しに行ったわ。  と小娘が言った。  おやじは、まさかといった顔つきをした。  ——でも、お前、それどこにおいたのかね。  小さな手が、大きな戸棚の上のほうに、ゆっくり向けられた。  ——あの上のとこ。  とセシールが言った。  おやじは、とある椅子の上に乗っかった。そして七年このかた、戸棚の上に眠っていた小さな蝙蝠傘を取り出すと、蜘蛛の巣と埃りだらけになっていた。  後になって、大作の雑筆集「城砦」を読んだ人は、サン・テグジュペリが亡命の地で、オルコントの小さなセシールを思い出していることに気づいた。というのは、「涙ぐんでいる小娘……悲しそうな顔のまぶしさ……もしぼくが、あのまぶしさをいやがったら、何とはなしにこの世界をいやがることになる……ともかくあの小娘を慰めてやりたいものだ……そうであってこそ、この世がなんとかうまく行くのだ」というひとくだりがあるからである。  日が暮れると、サン・テグジュペリは、自分の部屋にもどっていた。そしてそこでたった一人、夢に入った村が、しんと静まり返ったなかで、じっと物ごとを考え込んだり、書きものをしたりしていた。その折り彼は、レオン・ウェルトに宛ててよく手紙を書きおくったが、特に彼のこころの中が窺《うかが》われるのに、こんなのがある。 「ぼくは物ごとを、なんとなく君と同じように理解しているようだ。ぼくは自分を相手にして、ながながと議論を戦わすことがしばしばだ。ところで、ぼくはどうも公平でない。たいていいつも、きみのほうに道理があると思っている。だがまた一方では、ソーヌ河のほとりで、かちかちのソーセージと田舎パンをかじりながら、きみといっしょにペルノー酒を飲むのがすきだ。あんな瞬間がどうしてぼくに、まったく申し分のない満ち足りた味を残すのか、そのわけが言えないのだ。でもぼくは、なんとも言わなくていい。なぜなら、きみがぼくよりよく、そのわけを知っているからだ。ぼくはあれで十分満足していた。なんならもう一度、あの経験をしてみたいじゃないか。平和っていうやつは、けっして抽象的なものじゃない。危いことの終りでもないし、寒さの終りでもない。いや、そんなこと、どうでもいい事だろうじゃないか。でも、ソーヌ河のほとりで、きみといっしょに、かちかちのソーセージと田舎パンをかじる、そんなところに平和の意味があるのだ。ところで、かちかちのソーセージに、もう味がないことが、ぼくは悲しいのだ……」  サン・テグジュペリは、時には夜たいそうおそくまで書きものをしていた。だからしまり屋のお内儀は、よく電気のスイッチを切っていた。だからあくる日の朝、わたしをいやに思ってはいけませんよと、ずけずけとサン・テグジュペリに言っていた。「あんたの村じゃ、よく電気がパンクするんだね」などと言わせたくなかったからである。  サン・テグジュペリと内輪づき合いをしていた人たちのうちには、あの士官さんは眠りが深くて、それに寝ざめの悪さったらないと言った人がある。一九四三年、彼がアルジェに滞在したあいだ、彼を家にとまらせたジョルジュ・ペリシエは、「ぐっすり眠り込んで、何もかも忘れてしまうことにかけては、だれもあの男にかないっこない。あの男の目をさました経験がなくては、眠るっていうことがどんなことか、わかりようがない。なん度ともなく、叩き起こさなければならなかったが、むこうでは、ただもうやけに頑張り通しだった。不平そうにぶつぶつ言いながら、なんの返事もしないのがあの男だった」と、何かの折りに書いている。レオン・ウェルトがまた、調子を合わせてこう筆にしている。「ある日のこと、朝はやく出かけるというので、ぼくはあの男の目をさます役目を引きうけちまった。ところが、いくら声をかけても手ごたえがない。肩をつかんで軽くゆすぶる。でも、かすかな唸《うな》り声を聞かすきりだ。で、こちらは、しつこく起きろと言う。すると、喉をごろごろ鳴らすのが、かすかな唸り声に取って代る。遠い潮騒《しおさい》の音をうまくまねてでもいるようだった。やがて前腕によりかかって、怒りとおどろきとが張り合ってでもいそうな目つきで、ぼくのほうをちらと見る。そしてまたぞろ横になって、だれ一人入れそうにない、ひろびろとした夢の国へおもどりだった。はたで何事が起ころうとかまわず、夢をおもおもと抱えこんで、ぐっすり寝入っている無遠慮さには、だれもおどろいて物が言えそうもなかったらしい」 「戦列パイロット」の中で、サン・テグジュペリは、オルコントの部屋のことを、さもなつかしそうに思い出している。一九三九年のひどく寒い朝のこと、夜の気温がさがりぬいたために、田舎風の水がめの水が、かちかちに凍りついたほどだった。「だから、服を着るまえに、ぼくのする第一の仕事は、もちん、火を焚《た》くことだった。やっとのことで、ベッドをはなれる。そして火が燃えているうちに、手が切れそうなほどつめたい水で顔を洗う。ひげを剃る。服を着る。とたんにぼくは、母に頭をなでたり、頬ずりしてもらったりした子供だった昔が、やたらになつかしくなった。昔は昔で、今は今だ。思い切ったぼくは、歯を食いしばった。そして炉のところまで、ひと息に飛んで行って、そこへひと山の薪を放り込んだ。そして飛行機用のガソリンをそれに振りかけて、マッチを擦《す》った。たちまち火が燃えあがる。そこでぼくはもう一度部屋を横切って、もう一度べッドにもぐり込んだ。すると体温が気もちよくもどってくる。ぼくは、毛布と羽蒲団を左の目のところまでまくりあげて、炉の火を見まもってたものだった」  こう言えば、話がいささか大げさである。事実サン・テグジュペリは、時によると、興に乗じて話に綾を添えることがあった。「戦列パイロット」でもそれが感じられるが、彼が操縦している飛行機が長い白色の広帯をうしろに引っぱっているというくだりがある。上空の水蒸気が、飛行機の通過につれて固形化しただけのことだが、作者はそれを殊さら�花嫁のヴェール�などと呼んでいる。うしろから全速力で迫ってくる敵の戦闘機の群を、女性に思いを寄せている男の群と見立てただけのことだった。が、ずっとあとのページになって、作者は「引裾づきのきもの」などというイメージを、なんということもなしに浮かべたのである。いうところの飛行機雲をそう想像しただけのことで、そのようなものは、一度だって見たためしはないと言った。それにしても、詩的な表現であることはたしかで、オルコントの部屋で床をはなれるのがまた、同じたぐいだった。  それはそうと、農家のお内儀は、毎朝サン・テグジュペリの部屋の戸を叩いていた。どんどんと叩いていた。すると唸るようないびきの声が聞こえてくる。しばらく経って、部屋に入ってみると、ベッドの中から、不意を打たれた目つきが、お内儀を見ていた。やがてまた、唸る声が聞こえてきたので、見ると、すばらしく大きなからだが、つと壁のほうへ向き直った。お内儀は、かまわず炉に薪の火を焚いた。よく燃えている火が、やがて部屋中を暖めることだろう。そのうちにお内儀は料理場へもどって、湯の入った大きな水がめをもってきた。サン・テグジュペリが朝の身仕度をするためだった。お内儀は折りよしとばかり、もう一度飛行将校の目をさまそうとしてみた。するとまた、いびきが聞こえてきた。からだが向き直って、不意を打たれた目が、お内儀を見ている。これでは三度も四度ももどってこなければいけないのである。三十分ほども経ったころ、やっと部屋の戸がひらいた。するとサン・テグジュペリは、眠りでまだ顔ぶくれしたまま、お内儀を呼んだ。  ——お内儀さん、お湯が少々欲しいんだがね?  でも、水がめの湯は、冷えてしまっていた。   晩 年 と 死  サン・テグジュペリは、一九四三年、年すでに四十三に達していた。  ところで、西ヨーロッパ軍の牛耳《ぎゆうじ》をとっているアメリカ軍では、パイロットの停年を三十五歳にしていた。だからサン・テグジュペリは、いくら気があせっても、アラスの上空で、ドイツ軍の高射砲と対決したかつての経験を、無条件には再びするわけにいかなくなっていた。  たまたまその年の六月はじめ、ライトニング飛行中隊が、アルジェの基地メーゾン・ブランシュの上空を遊弋《ゆうよく》した。動力を整備することが目的だった。サン・テグジュペリはそのとき、ルーズヴェルトの北アフリカ特使ロバート・マーフィーに引き合わされた。そのあくる日、サン・テグジュペリは、長文の手紙をしたためて、2/33大隊全部に、あらためて作戦機能をあたえるよう懇請した。合流した二つの飛行中隊は、いずれもライトニング型の飛行機に装備されて、アメリカ軍の指揮のもとに、すぐにも戦いをはじむべきである、三九年から翌年にかけての戦いで身につけたあの団体精神が、寸時もはやく甦ることこそ、第一の問題だというのが、くだんの手紙で表明されたところだった。  のみならず彼は、それを機として、一国の要人にたいして私事を筆にする非礼を詫びながらも、自分自身の著書のこと、フランスでも北アメリカでも、それがすばらしく成功していること、三九年から翌年にかけての戦争に、パイロットとして参加したこと、北アメリカでド・ゴール派に加担することを拒んだために、ファシストの誹《そし》りをうけたこと、どんな悔辱も耐えしのんだこと、それらが手紙の書きはじめとも結びともなっている根性には、さすがのマーフィーも、うけ太刀になるほかはなかった。  祖国の急は、狂信者連の向う見ずの行動などで救われはせぬ。一日もはやく、堂々と戦争の任務に服することだ。そうしてこそ、さらに新しい「戦列パイロット」が書けて、死を無条件に讃えることもできるだろうし、本来の人間性も思うさま取りもどせるだろう。伽藍《がらん》のためなら人は死ぬ。しかし、石材のために死にはせぬ。年四十を越えて、「戦場の人とならない限り、ただ黙り込んでいるよりほかはない」と言ってのけたほど、いよいよ燃えあがった彼の意気は、ついにマーフィーを動かした。そしてまもなく、チュニス近くのラ・マルサを基地にしている部隊に加わって、そこからフランスの上空を飛ぶ第一の偵察任務につく運びになった。  それはそうでも、医師のジョルジュ・ペリシエは、サン・テグジュペリの健康がすでに下り坂になっているので、彼のえらんだ試練に耐えうるかどうかと危ぶんだ。だから、どんなに酸素補給をしても、四十男の高度飛行が危いこと、空中戦で高速度の方向転換を行なう場合、スピードアップが特に危いことを懇々《こんこん》と説いた。だが相手は強情にもそっぽ向いたままで、手がつけられぬ。いきおいペリシエは、こころならずも手をひいて、「なにしろ性分が性分なんでね」とつぶやくほかはなかった。  それはそれとして、願いがかなって機を飛ばすことができるようになった彼のよろこびは大きかった。すばらしい玩具を手にすることのできた子供のよろこびと、そっくりそのままだった。「戦争の道具を、思うぞんぶんいじりまわすんだからなあ」とペリシエに手紙を書いたということだけでも、危いことなどまったく眼中になかった証拠になる。  どこまでも人間らしい行動に生きること、年四十を越えて、いよいよみずからの天命を知った彼は、航空の仕事以外に、一人のモラリストとして言うべきことがいくらも残っていた。したがって、基地ラ・マルサを飛び立って、ナチスドイツにしたたかあらされた故国フランスの山野を見おろしたとき、人間建設のための大雑筆集「城砦」が、まだ全部築きあげられていないことにこころが向けられていたことはたしかだった。  それはそれとして、事実上彼は、戦列パイロットとしての地位と資格とを取りもどした。ひとわたり偵察飛行が終ると、たやすくは得がたい情報をもちもどった。それにまた、「近くにもあり遠くにもあるフランス」を再びまのあたりに見た。でもその大切な祖国から、いく世紀も引きはなされているような気がしたのである。やさしい感情のすべて、思い出のすべて、生きて行く道理のすべてが、眼下三万五千フートも隔《へだ》たってひろがっていた。太陽にくもり一つなく照らされていた。とはいっても、たとえば博物館のガラス張り陳列棚におさめられている古代の宝物以上に近づきがたかった。  五日ほど経ったあと、サン・テグジュペリは、二度目の偵察飛行のために離陸した。ところが不幸なことに、帰路の着陸が、あまりにもひまどった。機がとある葡萄畠の蔓《つる》に引っかかって、わずかながら損傷したのである。些細《ささい》なでき事ではあったが、それが口実となって、アメリカ軍はサン・テグジュペリに、ライトニング機の操縦を禁じた。  事はサン・テグジュペリにとって、ただならぬ打撃となった。なんとか穏便な取りあつかいをうけようと、いろいろに手を打ちはした。が、ききめがない。航空を中止されることがどんなに身にこたえるか、普通人には到底理解しがたいことである。地上に釘づけ同様になって、両翼を奪われたパイロットが、虚脱の感情が嵩じて、ついには、手足をもぎ取られた感じになることは言うまでもない。というのは、空中がパイロット自身、すすんではパイロット生活の一部分でもあったし、高空やモーターの強い推進力やただならぬ速度にささげられた一生でもあったからである。だのに、そういう生活環境からはねのけられた彼は、もはや手も足も出ない存在だった。一つの特権者集団に属している感情がなくなったなら、また一方では、パイロット特有の�秘伝的な資質�さえももたなくなったのである。  だから、ライトニング機操縦を禁止された後の八カ月が、サン・テグジュペリにとって、いまだかつて経験したことのない苦しさを極めた生活だったことに不思議はない。何もかもが、彼を敵としているような気がしてならなかった。フランスの上空を飛ぶこと、彼はそれを褒美でももらうようにながい間こころ待ちにしていた。だのにそれが、意外にも拒まれてしまったのだった。生まれた国にとっては危急な時期である。それだのに彼は、まったく無用な存在となってしまったのである。それにまた、ラ・マルサからアルジェにきてみると、フランス人相互間の政争と陰謀という、彼が何よりも嫌いぬいている空気の中にまたしても放り込まれたていたらくだった。  事実彼の一生は、感激と失望とのながい連続だった。ところで、アルジェでの日々は、幻滅また幻滅で、身もこころも傷つけられ通しだった。つぎの年の四月まで、ペリシエの家に寓居《ぐうきよ》したが、サン・テグジュペリの気まぐれに慣れているペリシエは、そんな場合、どんな仕向けをすべきものかちゃんとこころ得ていた。実のところ彼は、親しくしている友人たちにまで、不正な仕向けをすることがあったが、時にはそれが度を越して、どうにも手の下しようがなくなったことがある。ペリシエは名医だっただけに、相手の肉体の介抱ばかりでなく、精神の介抱までしようと骨を折った。しかし、けっしてなまやさしい仕事ではなかった。相手がさも恨めしそうに、楯突くのも同じ振舞いをするからである。だからペリシエは、昼だろうと夜だろうと、まったく時間に頓着なく、相手の泣きごとを聞く覚悟をしていなければならなかった。  そんなわけでサン・テグジュペリは、気分が落ち着かなくなったが最後、まったくの気やみ病人になってしまった。一九四三年の十一月、何かのはずみで、階段で倒れたことがあった。それ以来彼は、背骨が折れたと思い込んでしまった。ペリシエは診察したあげく、余ほど以前のリウマチが、倒れた拍子にこじれただけのことだと言った。だが相手は、頑として承知せぬ。  放射線学上、これはたしかに傷害の致すところだとペリシエに証明してかかろうとする。そしてあげくのはては、手あたり次第に、ありとあらゆる薬剤を服用するが、ききめなどのありようがない。いきおい悶々の日が続く。そして、前癌の症状だなどと手前勝手な結論をもち出す。でもペリシエはペリシエで、どこまでも根気づよく、エックス光線検査を二度も行なって、そんな症状がどこにもない証拠をこまごまと説明したあげく、やっと相手を納得させることができた。  そのころのサン・テグジュペリが、常軌を逸していたことは、言うまでもない。いろいろな人たちとの会見の約束を忘れることが、日ましにひどくなった。途轍《とてつ》もない空想に耽り込んだり、手製の舟形の小さな浴槽で、新案の流体力学理論に基礎づけたりしながら、むやみやたらに時を過ごした。  落ち着きのない日々は、ド・ゴール派の連中から目のかたきにされていることで、ますます耐えられなくなった。事実、ド・ゴールとサン・テグジュペリは、ただの一度も、顔を合わす機会がなかった。しかしド・ゴールは、サン・テグジュペリがニューヨークで�よくないフランス人�と取沙汰されているという噂をもとにして、好感をもってはいなかった。一九四三年、ド・ゴールはアルジェの大広場で、フランス思想について演説を行なったとき、第二流の作家の名はあり余るほど並べたのに、サン・テグジュペリの名には、ほんの一寸も触れなかったという。  といった片手落ちで、縺《もつ》れのほどけようがなかった。したがってサン・テグジュペリは、もはやアルジェをはなれること以外には、まったく手の打ちようがなかった。アメリカとか、イギリスとか、あるいは支那とかいったような、遠くのとおくの国に、航空の手をのばそうとまで言いだした。しかしその度ごと、予備パイロットとしてアルジェに留まるべしという、いつも同じ指図をうけるきりで、�航空軍人�の身分にはこころを残しながらも、「働こうとはしてみても、働くことそれ自体がなまやさしくない北アフリカのこのがさつさには、こころが腐ってしまって、どうにもならぬ。まるきり墓場にいるようなものだ。それにしても、ライトニング機を飛ばして、戦闘任務に服した日々は、なんというあっさりしたことだったろう!」と、折りに触れては不平をぶちまけたものだった。  それはそうでも、鬱積した雲がちって、どことはなしに青空がのぞくような気もちになることがないではなかった。そうなると、ペリシエは彼を休暇中の小学生徒にたとえた。得意の紙作りのヘリコプターをそれからそれへと空へ飛ばす、それを取り巻いて眺め入っている腕白小憎たちの嬉しそうな顔が、目先に浮かぶこともあった。さも面白そうに、ペダルをふみながら、ピアノの鍵盤《けんばん》の上に、オレンジを転がすこともあった。とんでもない謎をもち出して、相手を面喰らわすこともあった——「まあ、鏡をのぞいて見たまえよ。視覚的に言うと、きみの姿かたちは、鏡の面と対称的になっている。そしてその鏡の面には、世に言う対称軸並みに、特有の方向があるわけじゃない。ところでだね、きみの手の右と左が鏡にうつると逆になるのに、きみの頭と足は、そんなことになることなどありっこないじゃないか。いったいどうして、そんなことになるのかな」とかなんとか言って、相手を煙に巻くこともあった。  そういえば、将軍のシャッサンとか、当時アルジェに着いたばかりのアンドレ・ジイドなどを相手に、将棋遊びをすることが、人一倍すきだった。それにしても、彼を打ち負かすことはたやすくないと、ジイドが言っていた。アルジェ大学のある教授と、長時間にわたって数学の研究に没頭することもあったが、研究が進むにつれて、電話で仕事の結果を伝えたり、計算でいっぱいなノートを手にして、教授の家にいきなり入り込んだりするのが常のことだった。「あなたのお友達は、天才でいらっしゃいますよ。フェルマーの定理を解いてみるようにおっしゃるべきではありませんか。十七世紀以来、あの定理の解明に成功した人って、ただの一人もいませんからね。あの人なら成功しますよ、きっと」と、ある日、くだんの教授が将軍シャッサンに言ったことがあった。  話をするとなると、航空士の枠に入れるわけにいかないほど、幅がひろかった。天文学の話をしているのが、いつのまにか、社会学にとんで行くし、生物学やマルクス主義が、神秘哲学にとび移るし、バッハの音楽が、ヴァン・ゴッホの絵画へたやすく脱線した。のみならず、さまざまな話が、一転して独語《どくご》となることも、一度や二度でなかった。矛盾をおそれることがまた彼の特徴で、矛盾に陥りがちな話相手には、かまわず沈黙を求めて、何ごとも理解第一だと言ってのけた。ある夜のこと、ペリシエといささか激しい議論をしたあと、星の王子の絵姿をかいた紙をペリシエの部屋の戸の下にしのばせたが、両腕をのばしている王子には、「ごめんね」と言わせていた。この文句はそのまま、後年「星の王子」の王子とバラの花との対話のうちに、ちらと顔を出している。  サン・テグジュペリは、アルジェの寓居に、厚っぽい五冊のノートをもってきていた。書き終るにはまだほど遠い「城砦」がそれだった。戦争が済んだら大いに書くつもりだとは言っていたにしても、書きあげる予感はもっていないらしかった。この作の話になると、「これはぼくの遺著だよ」とよく言っていた。  結果から見て、遺著だったことはたしかにしても、何かにつけておもしのかかった周囲の事情が、彼にそう言わせたことも、打ち消されない。あてがわれた部屋が灰色で陰気で、彼はそこで「信仰のない独房じみた日々」をおくった。階段でころんで骨折さわぎをしたのも、つまるところは、鬱積した空気のしわざで、こころにまかせかねることがある度ごと、彼はペリシエの家政婦であるセヴリーヌを呼んだ。そして、干《ほし》無花果《いちじく》や、|なつめやし《ヽヽヽヽヽ》や、オレンジをもってこさせた。サン・テグジュペリに、母親らしいほど親切をつくしはするが、時によると、妙にむっとしたり、がみがみ小言を言ったりすることがあった。したがってサン・テグジュペリは、「あれ、ぼくの母親で継母だよ」と言ったものだった。セヴリーヌには、ポーラほどの辛抱づよさがなかった。主人の友達の我儘と桁はずれを常のことにする年齢をとっくに通り越していたからである。  時たまサン・テグジュペリは、フランスからやってくる人たちに出くわすことがあった。その度ごと、敵に占領されている祖国の様子が知りたくてたまらなかった。はるかあなたの国で日をおくって、かずかずの危険を冒しながら、ここまできた人たちに、圧制下にある兄弟たちの希望と苦痛を聞かしてもらいたかったのである。しかし、暗々裡《あんあんり》に戦っている人たちの勇気と犠牲とを思い起こすにつけては、それが彼のこころの力づけともなったし、涙を誘われるきっかけともなった。が、また一方では、悪意と中傷と怨恨《えんこん》とのために、こころ深く刻み込まれている苦痛苦悶の痕が、何ものをもってしてもかき消されなかった。目に見えないこの傷はなんとしても塞《ふさ》がらないだろう。それよりもっと悪いことは、そういう苦痛が、やがては彼の思想そのものとなり、瞑想という瞑想の源ともなりそうに思われることだった。  落命の数日前、サン・テグジュペリがこっそり泣いているのを見た僚友は、涙の真実さにこころを打たれたと言う。彼は彼自身に涙したのではなかった。人間について泣き、人間ゆえに泣いたのである。じっさい彼ほど、時代の人間を不憫に思った人はなかった。「ぼくは一生懸命ぼくの時代を憎む。今のこの時代では、人間は喉が渇いて死にかけている。ぼくのこの世代では、人間が人間としての�芯�を失くしてしまっている。それがぼくは悲しいのだ。……ぼくたちはおどろくほど去勢されている。ぼくはどうやら、まっ暗な時代のほうへ歩いているような感じがする」というのは、一九四三年の七月に書かれた「ある将軍への手紙」の中で読まれる痛切な声である。  時代の特徴である精神力の枯渇《こかつ》が、サン・テグジュペリにとって、傷心の源だったことは言うまでもない。「一つの問題しかない。世界を通じて、ただ一つの問題しかない。人間にあらためて精神的な意味をもたせることがそれだ。あらためて精神的な不安を抱かせることがそれだ。人間の上に、グレゴリヤ聖歌らしい何ものかを、雨とふらせることがそれだ」とサン・テグジュペリは繰り返して言う。彼の作は、生活それ自体と同じように�上昇�の一語に約《つづ》まるが、どんな場合にも、からだをもって事にあたったヒューマニストとしての面目が生きいきと浮きあがったのである。  一九四四年の春、季節が冬の暗さを脱したのにつれて、サン・テグジュペリの身辺もまた、明るくなった。地中海連合航空隊長イーカー将軍の寛大な肝煎《きもいり》で、およそ一週間ナポリに滞在しているうちに、2/33大隊に配属され、絶えて久しくも、ライトニング機に搭乗することになったというのがそれである。  もち前のほがらかさがもどってきた。そしていつのまにか、骨折の物憂さも忘れたし、胃癌の予感なども、どこかにおき忘れた様子だった。戦線に復活した祝いとでも言おうか、サルディニヤ島のアルゲロに着いて何日か経ったあと、サン・テグジュペリは饗宴の席を設けて、同僚の将校たちを一人残らず招いた。十頭の羊が焼肉にされ、二百三十リットルの葡萄酒が樽ぬきにされるほどの盛宴だった。招かれた客は、声を合わせて歌った。サン・テグジュペリ自身も常になく大張り切りで、来客の渦を縦横に泳ぎわけながら、はしゃぎまわった。彼独特の微笑が浮かび通しだった。しかし集まった面々は、苦痛に苦痛をかさねた彼の一生を知っていた。  六月になって、飛行中隊はサルディニヤを去ってバスチアの南にあるボルゴを基地とした。春が過ぎて夏になった。南方のぎらぎらした太陽が、海に突き出ている岩塊に照りつけていた。乾からびた松の落葉が、歩むにつれてきしめく。サン・テグジュペリは、アメリカ軍の夏の制服を着込んでいた。着込んでいたのではなくて、むし引っかけていた。襟《えり》はくつろげたままだし、胸のポケットには、シガレットの箱や、ライターや、いく冊もの手帖がつめ込まれていた。シャツはといえば、時にはちぎれていることがあったし、ぼろぼろになったズボンを締めている太いバンドが、瘠《や》せほそった腹部に食い込んでいるように見えた。そんなふうに身なりなどを気にしなくなったことは、生活の変化がしぜん仕向けたことだったと言えなくもないが、事をもっと突っ込んで考えると、こころのどこかに、現実逃避の感情が思いのほか鮮かにその芽を吹いていた結果だったのではないか。  イーカー将軍の特別な取りなしで、サン・テグジュペリに許された五度の偵察飛行は、奔走につぐ奔走の苦心はあったにしても、空を飛ぶもって生まれた高度の情熱が何より効を奏して九度目になった。一九四四年七月三十日の夜といえば、生い立ったプロヴァンス州上空の飛行をあくる日にひかえた夜だったが、僚友たちは彼のためにサブレットというパーゴラに集まって、大いに飲み大いに踊った。コルシカ島の若い女たちも、四方八方から馳せ加わって、少壮の航空士たちと腕を組みながら、歓興の限りをつくした。だのに主賓のサン・テグジュペリは、あらぬ方にうつろな眼をやりながら、踊ろうともしなかった。苦痛に苦痛をかさねた世界に、もはや愛着を感じなくなっていたからであろう。  寓居に帰った彼は、シガレットに火を点けて、グルノーブルからアヌシイにかけての地図をひらいた。むろん、あくる日の偵察飛行に備えるためだった。この地方の空は、すでに一度飛んだことがあった。なぜならその方面に、生い立ったサン・モーリスがあり、ほとんど同じ道筋に、コンスエロと結婚したアゲーがあるからだった。  アヌシイ湖といえば、一九二三年の夏、筆者も湖の奥のタロワルという静かな村の小さなホテルで、一週間あまり過ごした思い出がある。  筆者の傭ったモーターボートが、瑞々しくマロニエの葉をかさねているアヌシイ公園の一端をはなれたのは、夏ながら日本の秋を思わせるほど美しく晴れた日の朝だった。ボートは、さざ波の上を音もなく辷《すべ》っている白鳥の列をわけて進んだ。空も青かった。水も青かった。水をめぐる山々も青かった。太陽の光りまでが、青く澄み切っているように見えた。アヌシイ城の四角な塔が、うしろにだんだん小さくなって行くと、封建時代の古いどっしりした城が、左手の山の中腹に見えてきた。山の一部が湖に落ち込んだらしい形をしている岬が、城に続いて見えてきた。タロワルはその岬のすぐ向うの、円い入江の奥に、いく列かのポプラをすくすくと突き立てながら、深い落ち着きを見せている村だった。  サン・テグジュペリは、筆者が水の青さにひき入れられるような思いをした年からおよそ二十年を隔てて、あの青水晶の粉を湛《たた》えたような湖の上空を飛んだのである。それだけに、筆者は、あの美しい湖の上を飛んだサン・テグジュペリの沈痛な顔が、思い出の奥からにじみ出る。  マルセル・ミジョの言うところによると、サン・テグジュペリは、そういう湖の上空で、およそ二度ほどつらい思いをした。一度目は発動機の故障だった。二度目は、酸素が吸入器からぬけ出したことだった。危く失神しようとした彼は、急降下して呼吸可能な空気の層に達することができた。だのに、九度目の偵察飛行をあすにひかえた日の午後は、もはやそういう危いことなど、まったく頭の中になかった。鞄をひらいた彼は、そのなかに原稿や覚え書きのかずかずを、きちんとおき並べたが、そのうちのいくつかは、まだページの書き込みもしてなかった。「城砦」の原稿はとくに手にとって、顔を輝かしながらしばらくのあいだ手ばなさなかった。そういえばある日のこと、彼はペリシエの手からくだんの原稿を、急に取りもどして、「正直なところ、これがぼくには、いちばんよく書けたものだよ」と言った。なん日か前のある日には、僚友のダロズというのに、「これにくらべると、ぼくのほかの作は、ほんの手習いさ」と言ったことがある。  それはそれとして、原稿をもとのところにおいた彼は、手帖の一つのページをめくった。それからこんどは、テーブルの上から、偵察命令書を手に取って、目を通すともなく通したあと、数行の文句を書き加えたが、それには精神的な遺産相続者が名ざされていたという。  一から十まで始末がついて、サン・テグジュペリのこころは安らかになった。服を脱ぐと、ベッドに横になって、またシガレットに火を点ける。煙りを深く吸い込む。天井を見あげながら、時おり瞼《まぶた》をふさいで、何かしら考え込む。ながい間じっとしているうちに眠くなる。そしていつとはなしに、深い眠りに落ちた。  あくる日の朝、サン・テグジュペリが基地に着いたとき、太陽が空にのぼりかけていた。暑い一日になりそうな日ざしだった。蝉のするどい声が、澄みわたった空気いっぱいに聞こえていた。サン・テグジュペリは、ルルー大尉に偵察飛行についての最後の情報を求めた。中隊長のガヴォワルが近寄ってきて、サン・テグジュペリの手を握ったあと、重い航空服を身にまとったり、高度飛行になくてならぬ気密服を着込んだりする手助けをした。  いよいよ出発のときになって、サン・テグジュペリは何となくつらそうに機上の人になった。がっしりした肩幅、おもったい飛行服、かさねがさねの傷痕、大気の暑熱、それらが一つになって、せま苦しい操縦席を息もつきかねるほどの苦行の場所にした。しかし、ひとたび座席にがっちり身を落ち着けると、サン・テグジュペリはもち前の微笑を取りもどした。モーターが廻転しはじめる。とたんに、彼の顔が明るくなった。金属の震動が彼のこころのなかに浪をひろげる。それにつれて、サン・テグジュペリは、搭乗機の生命と自分の生命とが絡み縺《もつ》れるような気がした。  機上の彼は、�さようなら�と言うように手を振った。やがてライトニング機は滑走路に乗った。すると突然、モーターの鋲が解かれでもしたように、機が走りだした。埃りの雲をあとにしながら躍りはじめた。明るい大空をさして突進した。  機は機首を上にして、急速に昇って行く。モーターのうなる音が、青空にひろがる。その音がまた、さっさと遠ざかって、弱まった反響も、やがて遠くに消えて行った。一時途絶えていた蝉の声が、またかしましくなったからだった。  雪をかぶったアルプス連山が目の前に見えてきた。雪の白さが、灰色の土と青みがかっか土から浮きだしていた。またたくひまに、山も雪もはるか下に見おろせた。前方には、レマン湖が金属板のように光っていた。左手に、まっ青なアヌシイ湖が見えた。機が方向を転じたのをきっかけに、カメラのシャッターが切られた。  リオン東方偵察——命令にまちがいはなかった。そのリオンは、あの向うの右手にあった。言うまでもなく、サン・テグジュペリの生まれた町だった。とはいっても、育ちあがったところではないので、別に愛着を感じはしなかった。でも、もっと近くの、こんもりと繁っている林のうしろには、サン・モーリス・ド・レマンがあるはずだが、いくら見ても見えなかった。思い出でいっぱいなあの古い家があるはずだのに、見えなかった。砂漠のただ中や、アラスの上空といったように、危険が身にせまっている時には、いつも考えることを忘れなかったあの古い家だったのに……。  リオン東方偵察——そうだ。もうこれで済んだ。機首を基地へ向け直すはこびになった。それにしても、暗闇の中に生きているフランスを見おろして、もう一度この空をはなれなければならぬ。フランスの山と町と村、そこでは、四年このかた、四千万の男と女と子供とが解放の日を待っている苦しさに、ちょいとでも思いを寄せねばならぬ。二度と経験しそうもない瞬間だった。  サン・テグジュペリは、身をかがめるようにして人間の運命を思った。もはや二十年近く、彼は空の上から人間を見まもってきた。翼と翼との間にただ独りいて、人間という人間の行動を吟味してきた。人間の成長をそこなったビールスをあばいてもきた。しかし今日になってみると、彼はもはや、人間について何一つまなぶところがないような気がするのである。人間が人間の運命を裏切っているからであろう。  航空士の前には、ふたたび海が見えてきた。真昼の太陽に照りつけられて、きらきらと光っている。眼をさすような明るさに浸った水平線が妙にぼやけて見えるのに、真下のプロヴァンスの海岸は、はっきり浮き出て見える。サン・テグジュペリは、からだをやや前に乗りだして、身うちの人たちが住んでいるプロヴァンスの海岸をつくづくと眺めた。あの暗い森林のどこかには、蝉がかまびすしく嗚いているモールの広庭が隠れていることだろう。打ち寄せる浪でまだら色になっている赤い岩塊のへこんだところには、サン・テグジュペリが子供のころ、妹のガブリエルといっしょに楽しく日を暮らしたアゲーがうずくまっている。おもえば「城砦」の多くのページが、そこで書かれたのだった。そこはまた、サン・テグジュペリがコンスエロと結婚したところだった。結婚はしたものの、事志とちがったとでも言おうか、習俗を破って一年間の休暇を求めた相手の女のいるところだった。思わす彼の口からは、主への祈りがささやかれた。  ——ああ主よ、わたくしはわたくしの役目を忘れました。大切でない女なんて、この世にいはしません。泣いているあの女は、人間ではなくて、しるしだけの人間です。人間らしい人間にならないところに、あの女のなやみがあるのでした。  飛行機がすでにあとに残したプロヴァンスの一隅には、窪地《くぼち》の側面に鳥の巣のように建っている山荘めいた家があって、ひとりの老母が伜を待っていた。空の高みから聞こえてくるモーターの唸りは、何かの便りをもってくるだろうか。きのうのこと、アントワヌは名宛の人が到底うけ取るはずがないとは知らずに、走り書きの便りを書いた。「おかあさん、ぼくのこと、どうぞご安心ください。ぼくのこの手紙、お手もとに届くようにしたいものです。ぼく、至極元気です。まったくです。でも、もうじつにながいことお目にかからないので、気が沈みます。おかあさん、ぼくはおかあさんのことが気がかりです。今のこの時代の情けなさったらどうでしょう!」  サン・テグジュペリは、モーターの圧力を下げた。機が下降しはじめた。機はやがて、仲間が帰来を待っている基地に着くだろう。とはいえ基地には、一抹の不安が漂っていた。なぜなら、サン・テグジュペリが、とかく敵の戦闘機を鼻であしらったり、放心状態に煩わされて、なん度ともなく一命を危くしたりしたことがあったからだった。  離陸後二十五分ほど経ったころ、レーダーは、機がフランスの海岸を越えたと報じた。作戦室の時計を見ると、九時五分前だった。  午後一時になったが、機はまだ帰ってこなかった。モーターの燃料は、二時間半でなくなるのが普通だった。作戦室では、午後中待った。沈黙がおも苦しくなるにつれて、不安と緊張が増大する一方だった。みなはいったい何に希望を繋いでいたのだろうか。スイスかフランスに着陸したのだろうか。それとも、抗独派の収容するところとなったのだろうか。基地ではみなが希望を繋いではいたが、しかしそれが誤りであることを知っていた。  今日になってもまだ、サン・テグジュペリの死の事情は知られていない。事故の犠牲となったのだろうか。それとも敵機に撃墜されたのだろうか。航空士についても、搭乗機についても、なんの跡形も残っていないのである。  一九四八年、サン・テグジュペリの著作出版者でもあり友人でもあるガストン・ガリマールが、ドイツから一通の手紙をうけ取った。エース・ラ・シャペルの牧師であるヘルマン・コルトからの手紙だったが、牧師はフォン・リヒトホーフェン元帥の指揮下でパイロットをつとめたあと、一九四四年、ガルダ湖畔の参謀部で大尉職に就《つ》き、アヴィニョンとベルグラードとの間に駐屯している部隊の航空報告調査の任にあたった人だった。  ヘルマン・コルトは、戦後偶然ある新聞で、サン・テグジュペリ最後の出動についての記事を読んだとき、同じ日にコルシカ海岸近くで撃墜された航空機に関する情報が目についたので、それを私用の手帖に書き取ったことを思い出した。「撃墜された偵察機が炎上しながら海に落ちる」のを見たという航空将校フォッケ・ウルフの報告が記事となったのだった。時刻と場所とを照らし合わせると、事の真実をつかんだ記事らしかった。フォッケ・ウルフ機は、ライトニング機以上の速度をもったもので、およそ五千メートルの高度で、コルシカ島アジャクシオの沖合を偵察中だった。コルトの説明によると、サン・テグジュペリは、偵察飛行の帰途、高度からはぐれたために、コルシカ島に下降しようとしていたとき、撃墜されたらしかった。時もとき、太陽の光りをまともにうけて目がくらんだために、敵機のくるのが見えなかったこともあるらしかった。あれやこれやで、コルトの手紙はこう結ばれていた。「私は社会の除《の》け者めいた振舞いをするのではありません。何はさておき、サン・テグジュペリ飛行中隊の方々に、私の敬意をお伝えねがいたい。もし飛行中隊の方々が、サン・テグジュペリのような方々でしたら、私のこの敬意を鼻であしらうようなことはなさらないでしょう。なぜならこの敬意は、フランス人の血が脈管に流れているために、ドイツも口惜しがっているドイツの以前の航空士がささげる敬意だからです。私の母がロレーヌ州サールブールのフランス婦人だからです」  さて、事をどう考えねばならぬだろうか。ここには�戦闘�の問題はない。というのは、サン・テグジュペリの航空機が、武装されていなかったからである。また一方、事の起こった前日、アメリカのパイロットであるメレディスというのが、同じ時刻に、同じ条件のもとに撃墜されたという事実がある。したがって、二つの事件の間に、あるいは混同があったかも知れぬ。ヘルマン・コルトによれば、ドイツの方の情報を蒐《あつ》めた書がワシントンのどこかにあるとかいう。それを見れば、一日を隔てて二つの事の起こったいきさつが、はっきり書きしるされていないとは限らないだろう。しかし、そのような詮索は、もちん徒労である。筆者は事ここに到って、サン・テグジュペリが、何ごとによらず強い責任感をもって貫いた人だったことをもとにして、最後の偵察飛行をあすにひかえた夜、僚友が集まって踊りまくっているのを知らず顔に、あらぬかたへ眼をやっていたことが、ただならぬ死の前奏だったのではないかと真剣に思う。筆者は何も、そういう説をなす人に行き会ったわけではない。しかし、そう思うことこそ、サン・テグジュペリの「人」を高めるゆえんではないだうか。 [#改ページ]   サン・テグジュペリ年譜 一九〇〇年  六月二十九日、リオンに生まる。保険監督官ジャン・ト・サン・テグジュペリの第三子。 一九〇四年  父他界。兄弟姉妹五人、マリイ・マドレエヌ、シモーヌ、アントワヌ、フランソワ、ガブリエル、母に伴われてリオンをはなれ、はじめ母方の祖母の所有するラ・モールの邸宅、ついでサン・モーリス・ド・レマンにある伯母トリコオ夫人の邸宅に移り住む。 一九〇九年  夏、一家はル・マンに移る。十月七日、ノートル・ダーム・ド・サント・クロワ学院に入る。一九一四年まで同枚にとどまる。 一九一二年  航空士ヴェドリーヌにねだって、アンベリウ飛行場で、はじめて空を飛ぶ楽しさを知る。同日、航空の詩を書き、フランス語教師マルゴッタ先生に賞讃される。はじめてヴァイオリン演奏の指導をうける。 一九一四年  弟のフランソワと、ヴィルフランシュ・シュール・ソーヌのモングレ学院に入る。三カ月後、両人ともに、スイス、フリブールの聖母マリヤ校に転ずる。 一九一七年  弟のフランソワが心臓リウマチに冒されたためにフランスに帰る。まもなくフランソワ他界。十月、パリに来たって、先ずボッシュエ中学の寄宿生、ついでサン・ルイ中学に入学して海軍兵学校入試の準備をする。 一九一九年  六月、海軍兵学校入試失敗。美術学校建築科に記名登録。 一九二一年  四月二日、ストラスブール第二航空連隊で兵役に服する。航空機操縦の練習開始。六月十七日、モロッコの首府ラバト駐屯の航空第三十七連隊に転じ、航空士民間免状をうける。 一九二二年  一月二十三日、エークス・アン・プロヴァンス州イストル陸軍航空学校練習生となる。二月五日、陸軍航空操縦士に任ぜられ、十月十日、予備少尉任官。 一九二三年  一月、パリ郊外ブルジェで航空事故、幸いにして損害軽微。 一九二五年  従妹イヴォンヌ・ド・レストランジュの家で、後の航空僚友ジャン・プレヴォを識る。 一九二六年  四月、ジャン・プレヴォの斡旋で、雑誌「銀色の船」に最初の作「航空士」発表、後第一作「南方郵便機」の草稿となる。四月、フランス航空会社に入る。十月十一日、ボッシュエ中学の前校長シュドゥル神父の仲介でラテコエール航空会社に雇用される。いくばくもなく、ツールーズの航空会社経営部長ディディエ・ドーラにみとめられ、数カ月後その機械工場に働く。 一九二七年  春、ツールーズ・カサブランカ間の郵便物空輸を確保する。十月十九日、航空機発着所長として、サハラ砂漠の南端カップ・ジュビィに派遣される。夜間、第一作「南方郵便機」を書く。 一九二八年  十一月、航空士ヴィダルの急を救う。同年、「南方郵便機」世にあらわれる。 一九二九年  三月、フランスに帰って、NRF社(後のガリマール社)と執筆の契約を結ぶ。九月、ボルドオを出発してブエノス・アイレスに赴く。十月十二日、アルゼンチン航空郵便会社経営部長に任ぜられる。ブエノス・アイレスからプンタ・アレナスに至る航空路をひらくことが当面の問題。そのために何度ともなく偵察飛行を行なって、着陸基地をあちこちに設ける。当時第二作「夜間飛行」を書く。 一九三〇年  六月十三日から二十日にかけて、アンデス山脈の上空飛行中、吹雪に襲われて行方不明となった僚友ギヨメ捜索のため、連日山脈の上空を飛ぶ。十一月、コンスエロ・スンシンを識る。 一九三一年  一月、パリに帰る。アンドレ・ジイドに「夜間飛行」の原稿を読んでもらう。三月、南フランスのアゲーでコンスエロと結婚。その頃、法律上手形清算の事起って、ディディエ・ドーラ、経営部長の職を去る。サン・テグジュペリもまた、連帯責任上、行動をともにする。五月、こころを新たにして、フランス南アメリカ間の航空路をひらく。十二月、第二作「夜間飛行」が、アンドレ・ジイドの序言つきで、フェミナ賞をうける。時を移さず英訳され、アメリカ人の手で映画となる。 一九三二年  ラテコエール航空会社の呼びかけに応じ、水上飛行機試乗。 一九三三年  五月、フランスの全航空会社、エール・フランスの名のもとに合同。ディディエ・ドーラを敵とする工業技師の反対で、ラテコエール会社所属の操縦士となろうとしているところを阻まれる。十一月、サン・ラファエル湾で墜落事故。 一九三四年  四月二十六日、エール・フランス会社の宣伝役を引きうけ、巡回講演のために各地旅行。七月、サイゴンへ特派。モーター故障のため、河口に着水する。パリで映画のため、「南方郵便機」をアレンジする。 一九三五年  地中海方面巡回講演。四月、「パリ・ソワル」紙の企画に基づいて、およそ一カ月モスクワ探訪。十二月二十九日、わすか二週間の準備の後、ブルジェ基地を飛び立って、パリ・サイゴン間の航空記録樹立を試みる。夜間、搭乗機リビヤ砂漠の砂丘に激突する。 一九三六年  一月一日、同乗の機関士プレヴォと共に、隊商の救うところとなり、アレクサンドリヤに連れもどされる。八月、「アントランシジャン」紙に特派され、内乱取材のため、スペインのカタロニヤ戦線に赴く。 一九三七年  二月七日、カサブランカ、トンブクトゥ、バマコ、ダカル、オラン、アルジェ間直結の航空路をひらくために出発。六月、スペイン内乱を取材のため、「パリ・ソワル紙」に特派されて、マドリッドに行く。 一九三八年  一月、「イール・ド・フランス」号に乗船して、ニューヨークへ出発。二月、ニューヨークからマゼラン群島に向って長距離飛行中、グアテマラ出発に際して、乗機落下して地上に砕ける。重傷の結果、数日間人事不省に陥る。三月、数日間ニューヨークに滞在、「人間の土地」を書きはじめる。 一九三九年  二月十六日、「人間の土地」世に出る。三月、自動車でドイツに旅する。四月、「人間の土地」がフランス・アカデミィの着目するところとなって、小説大賞をうける。六月、「人間の土地」が「風と砂と星」という標題となって英訳され、ベスト・セラーとなる。八月二十六日、大戦勃発の予感にせまられ、急遽フランスに帰る。九月四日、ツールーズに召集され、パイロットの指導にあたる。十一月三日、グアテマラで重傷を蒙った結果、戦闘参加不能と宣言され、シャンパーニュ州オルコント駐屯の偵察隊附となる。 一九四〇年  五月十日、ドイツ軍侵入。五月二十二日、アラス上空偵察飛行。六月二日、戦功表彰をうける。六月十七日、所属部隊の全将校アルジェに移動。八月五日、復員となってマルセイユに上陸。アゲーの妹の家に行って「城砦」執筆。十月、レオン・ウェルトの家で二日を過ごし、「城砦」の冒頭を読む。十一月五日、モロッコ経由ポルトガルに出発。十一月十六日、リスボンに着く。 一九四一年  一月、ニューヨークの客となり、セントラル・パーク・サウスの二十一階に住む。「戦列パイロット」を書きはじめる。 一九四二年  二月二十日、「戦列パイロット」が「アラスの攻撃」の標題のもとに合衆国で公にされる。六カ月の間、ベスト・セラーの第一位を占める。同年、�馬鹿者ヒトラー�の数語が削除されて、フランスで公刊される。翌年、占領軍に忌諱されて発売禁止。十一月六日、連合軍北アフリカに上陸。十一月二十九日、ニューヨークのラジオで、全フランス人の一致統合を呼びかける。 一九四三年  二月、「ある人質への手紙」刊行。四月六日、「星の王子さま」発表。五月十六日、すでに規定の航空年齢を超過したにも拘わらず、アメリカ大統領ルーズヴェルトのおん曹子の斡旋によって、アルジェリア駐屯の原隊に復帰。いくほどもなく、サルディニヤのアルゲロに移動する。六月二十五日、少佐に昇進。七月三十一日、第二回の偵察飛行に際し、軽微な事故を起こした廉《かど》で予備役編入。やむを得ずアルジェに帰臥し、親友の医師ジョルジュ・ペリシエの家に寓居。再び航空将校の職に就くため百方奔走しながらも、「城砦」の執筆を続ける。 一九四四年  五月、五回以上の偵察飛行を行なわない条件で原隊に復帰する。七月十七日、コルシカ島バスチアの南ボルゴに移動。七月三十一日、グルノーブル、アヌシイ地方偵察の目的で午前八時半離陸したまま行方不明。 一九四八年  三月、「城砦」刊行。 [#地付き]〈了〉 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年四月二十五日刊