[#表紙(表紙.jpg)] 息子の唇 内田春菊 目 次  息子の唇  救われるために  レース  若妻にやる気をなくさせる方法  弱っている日に夢に出る  太れ僕の料理で君よ  働く妻にやる気をなくさせる方法  私の鏡で見てごらん  才能のないやつは死んだほうがいい  長い影  妊《みごも》りの水 [#改ページ]    息子の唇 「あーそういうのよりね、そういう目印より、なに通り、ってのわからないすか。そのほうが助かるんだけどなー。そういう目印ってのはほら、すぐ変わっちゃうでしょ。通りの名前だったら変わらないんだよね」  その運転手は、これこそがタクシーに乗るときの秘訣《ひけつ》ですよとでも言わんばかりだったので、私はうんざりした。運転もしないし土地勘もない私にとって、こういう運転手ほど嫌なものはない。どうして東京のタクシーの運転手は客に道を説明させるのを当然だと思ってるんだろう。 「たいへんだね、こんな暑い日はね。ぼく、ヤクルトあげようか」 「うん」 「ありがとうは」 「ありがとう」 と一応言わせたものの、揺れる車内でまだ赤ん坊の娘をあやしながらヤクルトを開けてやんなきゃなんないのは私だ。ああ、めんどくさい。 「ほらこぼした! も〜、気をつけて飲んでよー」 「ごめんなさーい」  でもこぼすよな、普通。だからいらないんだってばヤクルトなんて。不況と言われるようになってからタクシーの運転手はやたらおやつをくれる、変な感じだ。そうじゃない頃はあんなに冷たかったくせに。同じ人たちなのだ、あのつっけんどんでぶしつけで不機嫌だった。 「うちも息子と娘なんだけどねえ、もう金|喰《く》い虫よ。娘は留学してて、もうすぐ帰ってくるんだけどねえ、夏休みで。学費がすごいの。息子はなかなか定職につかないし、まだなんか学校行きたいとか言ってるし」  始まったよ。子ども連れで乗ると必ずやられるんだ、自分の子どもの話。こっちは、 「ねーねーかーちゃん、コンボイってなんだか知ってる?」 「ゴリラでしょ」 「トイザらスのコンボイはねえー、透明で目が赤いんだよ」 なんつー話に相づち打たされてる真っ最中なのに、運転手の話まで聞いてやんなきゃいけないのだ。 「円高だからまだいいんだけどねえー、日本人の学生には奨学金出ないってんだよ。日本人は金持ちだからなんだって。冗談じゃないよねえ」 「はあ」 「かーちゃーん、チータスとねーえ、ハウリンガーはねーえ」 「夏だからもうすぐ帰ってくるんだけどね。帰ってくるのはいいけど飛行機代もばかにならなくて」 「おおかみなんだよ」 「あーもーだまってなさい!」 「安い飛行機って危ないらしいからねー」 「ダイバーっていうのもあるの」  だまりゃしない。  でも本当は私は運転手に言ったのだ。  このしゃべり続ける初老の男の頭の中は、ふだんは育児に追われて家に閉じこもっているはずの主婦に世間の風を当ててやり、その上子育ての先輩としていろいろ教えてやっているという驕《おご》りでいっぱいなのだ、なんと迷惑な。  私は運転手の思っているような女じゃない。仕事で忙しいため、機会があるたび息子とは話がしたいと思ってる。大人にとっては何の意味もないおもちゃの話だっていいのだ。他人の子どもの話なんかより息子の話を聞いてやりたいのに。 「かーちゃん、かーちゃんてばー」 「こないだも娘がね」  あーあ、運転手に、 「今息子と話をしてるのでだまっててもらえませんか。一応こっちが客なんだから」 って言えたらどんなにすっきりするだろう。 「でもね、娘はいいのよ。問題は女房なんだなあ。あのね、奥さん、だんなのパジャマって乾燥機入れてる?」 「は?」  突然の質問に混乱した。 「うちね、入れちゃうんだよね、でね、ジャージなんだけどね、最近のジャージって混紡っての? 中が化繊でしょ?」 「あ、ああ、フリース」 「何? プリーズっての? あのやたら毛玉の出るやつ。あれ乾燥機なんかに入れられた日にゃねえ、もー鳥肌みたいになっちゃって」 「あの、フリース……」 「プリーズじゃなくてもね、乾燥機入れられちゃうと縮むからね、入れないでくれって言ったことあんだけどね、だめなんだ。入れちゃうんだなあ。もうぼけてんのかなあ、あいつ外で働いたことないから」 「かーちゃーん、誰がぼけてるのー?」 「静かにしてなさい」 「でもねえ、息子のはねえ、ダンバナまで一枚一枚せんたくばさみで下げて、アイロンまでかけてんだよ? あんなうすっぺらい布にいちいち手間ひまかけてるくせに、なんで外で働いて稼いでる私のパジャマがねえ、乾燥機なんかなあと思うと、納得いかないんだよねえ。男なんだからさあ、ダンバナだって乾燥機で、くしゃくしゃのままでいいんじゃねえかって思うんだけどねえ」 「あの、バンダナ……」 「だいたい男がねえ、ハンカチ持ち歩くなんてのは、結婚してからでいいのよ。あたしんとこはハンカチじゃないけどね、タオル。もうぜーんぶタオルだなあ、汗っかきだから。車の方はウエスっていってね、奥さんなんか知らないだろうけどぼろきれがあんのね、あれとぞうきんと両方。でもそういうのは自分でやってんのよ。仕事関係はまだね。家でゆっくり寝るときくらいあんたさあ、ちぢんでなくて、毛玉の出ないパジャマ着たいじゃないの」 「ぼくのねえ、パジャマ、ボンバーマンなんだよ」 「ん? そうなのか。ボンバーマンってなんだい? ぼく」 「かあちゃんときれを買いに行ってボンバーマンにしたんだよ。でもねえ、おとうさんのはしましまのきれなんだよ」 「え? ぼくんとこのパジャマはおかあさんが縫ったのかい?」 「ぬったんじゃないよ、色はそのままでつくったんだよ」 「そうかい、すごいなあ。今どきパジャマなんてみんな、買った方が早いって思うのになあ」 「でもミシンはあぶないからね」 「ああ、ああ、赤ちゃんいるんならあぶないよなあ。奥さん、まめですねえ、子どもさん小さいのにお裁縫まで」 「はあ……」 「うちのも奥さんみたいな人を見習ってくれるといいんだけどなあ……そうだ、奥さんこれからお帰りなんですよね、お急ぎですか?」 「は?」 「あんね、うちそこ、ちょうどそこまがってすぐなのよ。なんか冷たいもんでも出しますからさ、ちょっと女房に言ってやってくんないかねえ」 「えっ、……そんな」 「頼むよ奥さん、これも何かの縁だって思うんですよ。今どき奥さんみたいな人めったにいないしね、まあいないからうちのなんか高くくってんだけどさ、ここでちょっとガツーンと言ってやりたいのよ、あたしも。ねえ、メーター止めますからさ、ちょっとだけお願いしますよ。ああ、奥さんは何も言わなくていいのいいの。ただいてくれれば。ねっ。人助けだと思って」 「…………」  もはや何も言い様がなくなってしまった。私がどうがんばってもきっと、この運転手は自分の素敵な思いつきをあきらめたりはしないだろう。 「かあちゃん、どこ行くの?」 「ああぼくね、ちょっとおじさんち行こう、なっ。アイスクリーム出してもらうから」 「アイスクリーム?」 「…………」 「かあちゃん、アイスクリームだって」 「……よかったわね」  運転手の家は思ったより遠かった。とことん私を暇な主婦だと思い込んでいるのだ。   「あら、どうしたのあんた。お客さん?」 「ああ、ちょっとだけね。まあいろいろあってさ。ちょいの間だから、このぼくにアイスクリーム食べさしてあげてよ」 「かあちゃん、ちょいのまってどこ?」  意外にもそこはマンションの10階だった。運転手の妻はあらあらあらとつぶやきながらリビングの洗濯物を取り込み始めた。 「あー、いいのいいの。それはいいの」 「だってあんた、お客さんなんて思わないもんだから」 「いやそれは干してあったほうがいいの」 「何言ってんのよ」 「いいんだってば。その話をしにきたんだから。だからいいからほら、アイスクリーム。早く」 「何言ってんだかわかりゃしない……」  彼女は台所らしきほうへ消えた。私はただぼうぜんと立っていた。 「ねえかあちゃーん」  息子が手を引っ張る。娘は私にしがみついたままだ。 「はいはい、アイスクリームね」 「わーい。ありがとう」 「いただきます、は」 「いただきまーす」  運転手の妻は私のほうを見ない。 「おいしい?」 「うん!」 「そう、よかった。こっちに、すわって食べたら?」 「はーい」 「おまえ、何やってんだ、お茶も出さないか」 「あらあらあら、はいはいはい」  出される麦茶。コップに視線を落とした私は、あることに気づく。 「あのー……」 「はい?」 「おむつ、かえてもいいでしょうか」 「はいはいはい、どうぞどうぞどうぞ」  運転手の妻はたんすからバスタオルを出し、畳の上に敷いた。 「これでいいでしょうかねえ。おー。よしよし。いくつでちゅかー?」 「春に一歳になって……」 「ねえ。こんな頃があったのよねえ。もう忘れちゃったわあ。あ、ゴミ袋あげましょうねえ。あ、いいんですよ、捨てますから」 「すいません」  娘が麦茶に手をのばす。あごにハンドタオルをあて、飲ましてやる。 「あらコップで飲めるの、ジュースのほうがいいかしらねえ、ちょっと待ってね」 「あ、いえもうおかまいなく、この子、お茶好きなんです」 「ぼくジュース飲みたいなー」 「こら。何言ってるの」 「そうよね、ぼくも飲みたいよねー、いいんですよー。ちょっと待っててねー」  ジュースのコップが二つ並ぶ。 「おばちゃんち小さい子いないからねー、大きなコップしかないのよー、大丈夫かなー?」 「大丈夫だよ」 「すいません」 「いいえー。こーんな小さい子、いいですねえ。こういう頃がいちばん可愛いのよねえ」 「なあ、ぼくお利口さんだもんなあ。いろんなこと知ってんだ、このぼくは」  運転手が手をのばして息子の頭をなでる。  誰も本題に触れない。  私が言い出すべきなのだろうか。  言い出すまで帰れないのかもしれない。 「あの」 「はい?」  運転手の妻は笑顔でこっちを向いた。 「突然おじゃまして、すいません」 「いいええ。でもねえ、洗濯物が干したままでほほほ……」 「あの、その洗濯物のことなんですけど」  運転手はそっと席をはずした。私は内心あわてたが、ここでやめるわけにはいかない気がして続けた。 「洗濯物が、ですね」 「は? 洗濯物が? 何か?」 「あのー、ご主人の」 「はあ」 「パジャマを、乾燥機に……」 「はあはあ」 「入れないで、干して、いただきたいとのことです」 「はあ。主人の、パジャマをですか」 「そうです。何でも、乾燥機に入れると、毛玉がついて、縮むとか」  運転手の妻は、こぶしを口に当てて、視線を落とした。 「それは……それはできないんですよねえ……」 「は。なぜですか」 「うーんと……あのね、奥さん、奥さんところ、ご主人、パジャマどんなの使ってらっしゃいます?」 「え。うちですか。……こう、ふつうの、半そでの……」 「半そでで。まあ、夏ですからねえ」 「あ。そう言えば……ジャージってじゃあ、冬の? パジャマのことなんですか?」 「それがね、ちがうんですよ。あの人ねえ、夏でもジャージの上下で寝るんです。奥さんとこ、あれでしょ? ボタンの、布の、でしょ?」 「はあ。そうです」 「パジャマはねえ、かあちゃんがつくったんだよ」 「まあ、お手製ですか。いいですねえ、まめでいらっしゃるのね」 「いえそんな……」 「うらやましいわあ。私ね、嫌いなんですよ、ジャージのパジャマ」 「はあ……」 「何度か頼んだことあったんです。普通のパジャマを着てくれないかってねえ。せめて、夏だけでも布のパジャマにしてくれないもんかって思いましてねえ」 「はあでも……暑くないんでしょうか、ねえ」 「あの人ね、寝るときだけ、すっごく寒がりなんですよ。もう、一人だけ。寒い寒いって、みんな汗びっしょりなのにね。だから、一人別の部屋で寝てくれって言ってるんですよ。私と息子はクーラーかけて寝たいからね。でも、だめなの。そんなこと言って、どこに寝るんだ、って。毎晩これ見よがしにタオルケット巻いてね、芋虫みたいんなって寝てるんですよ、この真夏に。もう目ざわりでしょうがないんですけどねえ。まあ寝ちゃえば見えないわけだから我慢して」 「はー……」 「でもね、その、寒い寒いって着てるはずのジャージがですよ、洗濯しようとすると、ものすごく汗くさいんですよ。あの人の場合バスタオルもそう。バスタオルなんて、風呂《ふろ》あがりに体の水分取るだけだと思うでしょ? それがね、もう信じらんないくらい汗くさいの。あれは、風呂あがりに、風呂のせいで汗かいて、水分と同時にその汗もふいてるのね。もー、それだけ汗かく方なのに、なんで寒がりなんだって。体じゅうに脂肪くっつけてるくせにねえ、あれは何のためにあるんでしょうねえ。なんでも脂肪って体を熱くしないと燃焼しないんですって。ってことはあの人はあの脂肪を手放したくないんですよねえ。けちなんですかねえ。バスタオルはまだいいの、タオルだからね、でもね、ジャージはね、もうね、洗っても洗っても、汗の臭いがしてね。私ね、だから毛玉になるとわかっててもね、部屋に干す気になれないんですよ。あの人、太ってるから、サイズもLLでしょう。あんな大きくて重くて汗くさいもの、もーね、干すときにねー、くらーい気持ちになるんですよ。ジャージはほんとは平ら干しでしょう? 知ってらっしゃる? あらごめんなさい、お裁縫なさるからご存知ですわよねえ、ハンガーにかけるとハンガーのあとがねえ、ついちゃうじゃないですか。でもあの人そんなこと知らないから。あんなもん平ら干しにするとこないっていうの。あの人ったらねえ、洗濯とかぜんぜんだめだから。娘が生まれたときなんかね、あたしちょっと寝込んでたんですよ、息子も娘も難産で、娘のときはとうとうお腹切ったから……でねえ、ベビー服なんて洗濯してくれるのはいいんだけど、男用の真っ黒くてぶっといハンガーで干してんのーも〜、どうやってこのちいちゃい服にこのハンガー突っ込んだのよ、ってあきれちゃってねえ。こういうことはあたしでなきゃだめなんだなあと思いましたね。あの人はほら、鼻も悪いし。汚れ物とかね、臭いじゃわからないんですよ。食べ物なんかもね、賞味期限見て決めるの。臭いじゃわかんないからって、これ大丈夫か、っていっちいちあたしんとこ持って来てなんなんでしょうかねえ。鼻悪いから食べ過ぎて太るんでしょうかねえ。そういうことに無神経っていうかね、量で満足しようとするから。息子はね、やせ型なんですよ、いえあの、このとおりあたしも太っていますから、だれに似たってことじゃないんですけど、現代っ子ってことなんでしょうかしらねえ、そりゃもう細くって。いつももっと食べなさい食べなさい言うんですけどねえ、食が細くってねえ。子どもの頃からそうだったんですよ。あたしなんか息子の残したものまーいにちまいにち食べてるうちにこーんなに太っちゃったんだから。ねえ、ぼく。ぼくもスマートねえ。おとうさんもそうなのかな?」 「おとうさんはね、おでぶさんなの」 「まあ、やっぱりねえ。なんでですかねえ、男の人って太るもんばっかり食べるじゃないですか。あたしがテレビとかで勉強してね、体にいいもの作ってやっても食べるのは息子だけでねえ。こんなもんで働けるかって。夜中にラーメン食べに出かけちゃったりするんですよ。ほら、タクシーの運転手なもんだから、夜中の穴場を知ってるわけですよ。息子にも自慢げに『うまい店おしえてやろうか』なんて言って。でも息子ったら興味ないの。あの子の世代はなんですか、食に興味ないみたいですねえ。最初は食べ物残すのが気になってしょうがなかったんですけど、あたしも。もう慣れましたね。そういうもんなんだって。それであの子は健康な上にスマートなんだから、逆に見習うべきなんだって。そうお父さんにも言ってるんですけどねえ、なんか、気に入らないみたい、ほほほほほ」 「はあ……」 「でもねえ、こういうもの作ると喜ぶからってねえ、つい揚げ物とかしょっちゅう作ってあげちゃうんですよねえ。いや、息子も食べるの。大丈夫なんですけどね、食べてる量がちがうのね、きっと。あたしも残るとつい片付けちゃうほうだから、やせないやせない。揚げ物はねえ、冷凍するってわけにもいかないですからねえ。フライなんか冷凍で売ってますけどねえ、やっぱしとんかつの冷凍っていやじゃありません?」 「そうですねえ」 「奥さん揚げ物とかなさる? スタイルよくていらっしゃるのねえ、育児中なのにえらいわあ。ダイエットしてらっしゃるんですか」 「いえ、特に……」 「揚げ物なんかは」 「ああ、あまり……」 「そうなんでしょうねえ。最近はほら、油の匂いがどうとかってね。匂いのしない油ってあるじゃないですか。わたしあんなこと、あのコマーシャル見るまで考えたこともありませんでしたよ、最近の人は揚げ物の匂いがやなんですねえ。それとほら、残った油使って石鹸《せつけん》作るんですって? うちそんなことやったら家じゅう石鹸になっちゃう。タクシーの運転手やめて石鹸屋始めなきゃなんないわ、もうねえ、ほほほほほほほ」 「そんなにいっぱい作んなきゃいいんじゃないの?」  息子が口をはさむ。 「ぼく作ったことあるよ」 「なあに? ぼく石鹸作ったの?」 「かあちゃんと作ったよ。いっこだけ作れば、せっけんやさんにはなんないんじゃないの?」 「ああそうねえ。やっぱしいろいろ作ってらっしゃるのねえ、えらいわあ」 「いえそんな……幼稚園の課題かなんかだったんです」 「ああそうー、最近は男の子でも家庭科とかやるんですよねえ、日曜大工だけじゃなくてねえ。うちの息子もね、料理うまいんですよ。娘はやんないの、息子はたまにつくってくれるんですよ。凝っててねえ。あれで商売できるんじゃないかって思うくらい。あたしなんかぶきっちょだけどねえ、あの子は何でもできちゃうの」 「ぼくもなんでもできるよ」 「そう、えらいねえ。洗濯もねえ。私なんか田舎育ちだから、ほんとは洗濯物って外に干したいんですね。でもここ、10階でしょ? 風がひどくて、もう何分かに一回、飛んでってないかって見にいかないといけないんですよ。まだ飛んでったことはないんですけどね、下にはね。ベランダの内側にはしょっちゅう落ちちゃう。だからすぐ泥だらけになっちゃうの。ベランダの内側もお掃除するようにはしてるんですけどね、風強いから、どんどん砂が飛んできちゃって。この季節になるとねえ、ぼく、何が飛んでくると思う? せみよ、せみ。窓開けると死んだせみがごろごろ。ぞっとしちゃう。ほんと、おふとんも毛布も安心して干せないの。でもね、あの人はね、高いとこに住むのが好きなんですよ。あたしは嫌い! 大っ嫌いなの。地震が恐くて。マンションは平家より安全だってあの人言うんですけど、そんなの地震来てからしか、わかんないじゃないですか。とにかくひどくゆれるんですもんねえ、小さいの来るたんびにもうこの世の終わりみたいな気がしてるのに、いくら建物が丈夫でも、大きいの来たらあたしなんか心臓マヒ起こして死んじゃいますよもう。なんで高いとこがそんなに好きなんですかねえ。旅行に行ってもタワーとか、ロープウエイとか高いとこばっかし登りたがるから、あたしもう最近は買い物してるから行ってきてって言うようにしてるんですよ」 「はあ」 「でもね、ほんとに子どもだけにはね、好きなことやらせてやりたいと思うんですよ。手に職つけてね、娘はね、だから留学をね。最近はほら女の子のほうがそういうのはね。息子まで行くって言い出したらあたしなんか寂しい気もするんですけど。まああの子は、のんびりやですから、マイペースでね、主人が元気で働いてるうちはね、ゆっくり考えてもらってもいいんじゃないかってね。今あせって就職しても大きな会社がころーっとつぶれちゃったりするでしょう、ね〜もう予測できませんもの。お父さんの前じゃ言えないんですけどね、ほんと言うとタクシーの運転手なんてーって思ったこともね昔はあったの。でもねえ、あんな大きな会社に頼り切ってひどいことになってる人たちにくらべたら、つぶしがきくっていうんですか、あらほほほほ、いいんですよおほかに言い方ありませんものねえ。でもね、タクシーもほんと、乗る人減っちゃって! ひどいですよお。息子にまではやっぱしやらせたくないですねえ……あの子は気が優しいから、酔っ払いなんか乗せたら大変、考えるだけで可哀相になっちゃう。かえって娘のほうが向いてるかもしれない、ほら、最近は女の運転手も多いでしょう。英語も出来るんだったらねえ、よその国の人もガイドなんかしていいかもしれませんよね。娘はあの、こう言っちゃなんですけど中学ごろからちょっとあの、ぐれましてねえ、ほほほほほ。高校危なかったんですよ。やめたいなんて言い出しちゃって。成績悪くない子だったのに。だから、それじゃあんましもったいないっていうんで、語学留学? 今はほら、英語ペラペラですからねえ。お父さんたら娘に英語習って喜んじゃってもう。英会話学校行く必要なくなった、なんて。いつ行く気でいたんだか知らないけど」 「おい」  運転手が廊下から声をかけた。 「あんまりお引き止めしてもなんだから」 「あ、そうですね、はいはい。じゃあぼく、また遊びに来てね」 「うん」  息子はそう言ったが、二度と来るわけがない。   「すいませんでしたね、奥さんね」  運転手はそう言い残して走り去った。メーターは確かに途中で止められてはいたが、タクシー代はただではなかった。寝てしまった娘の重さと荷物の重さが疲れた私におそいかかる。  やっと部屋に戻り、エアコンのスイッチを入れる。夕方とは思えない暑さだ。運転手のマンションの方が、この部屋より広かった気がする。娘は留学、息子は無職。妻は専業主婦のくせに、うちより広い部屋でだんなと二人ぶくぶくと太ってる。 「結局しあわせなんじゃないの」  私が声に出して言うと、息子が聞き返した。 「かあちゃん、しあわせなの?」 「あたしじゃないよ、さっきの運転手さんちのこと」 「また遊びに行くの?」 「行かないよ」 「行かないの?」 「行くわけないじゃない」 「どうしてー?」 「どうしてもよ。ほら早く、靴下脱いで洗濯機に入れなさい」 「ぼくの靴下は、乾燥機に入れてもいいの?」 「ああ乾燥機ね……どれ見せてみ」 「にゃにを?」 「靴下。ああ、これはね、乾燥機入れていいの」 「そう?」 「緑色のお星さまのついたのとか、パンダちゃんの靴下はね、乾燥機入れないの」 「どうして?」 「化繊だから、入れると髪の毛とかがいっぱいついちゃう」 「ふーん」 「さあごはんにしようか。何食べたいのかな?」 「ぼくの好きなものー」 「やめてよ、その言い方」 「好きなものならなーんでも食べるんだよ」 「食べ物の名前を聞いてるの!」  そう言いながら、それでも息子の食べそうなものばかり買ってあるのだった。   「今日ね」 「ん?」  夫に言いかけて、ちょっと迷った。 「知らない家に急に遊びに行くことになっちゃってね」 「知らない家? なんで?」 「運転手さんちでアイスクリーム食べたんだよ」  息子が言うと、夫はやっとテレビから視線を離してこっちを見た。 「運転手さんってなんだ?」 「タクシーの」 「何? 知ってる人だったの?」 「知らない家って今、言ったじゃない」 「なんで知らないのにタクシーの運転手の家にあがりこんでんの?」 「頼まれたから」 「頼まれたってなんで?」 「そこの奥さんと話をしてくれって」 「何それ……カウンセリングみたいのやってってこと?」 「そういうんじゃなくて……ただ、単に」 「友だちいないって?」 「そういうんでもなかった……なんかうっかり、頼まれちゃったの、それで」 「それでって……それで子ども二人連れて知らない家に行ったってこと? それ、変だよ?」 「そうなんだけど……」 「なんかあったらどうするのよ」 「そういうとこでもなかったんだけど」 「でも知らない人なんでしょ? 充分変だよ」 「うーん……そうなんだけど、あれはねー……、むずかしいよ。行くより断るほうが百倍大変だったよ……」 「暇そうに見えたんだよ」 「うんうんうんうん、ほーんと、そのとおりよ。あたしね、だんだん頭がぼんやりしてきてねえ、なんだかねえ、自分はほんとは暇で暇でしようがない、たーいくつな主婦だったのかも知れないなって思っちゃったものねえ、途中で。ほんとはそうなのかもしんないってねー……うんうんうん……」  夫はあきれて黙ってしまった。娘は私と彼の顔を交互に見つめているようだった。息子はもうほかのおもちゃに興味がうつってしまっていた。    数日後、仕事で運転手のマンションの近くを通ることがあった。確かにこの辺だった、とさんざん見回したがそのマンションはついに見つからなかった。    そのまた数日後。やめてくれと何度も言ってるのに、私の職場にまたもや若い男の部下が配属されてきた。 「彼は、たぶん大丈夫だから。今までのようなことにはならないよ」  上司の言葉は何を意味しているのかはっきりとはわからなかった。 「私、自信ありません。だめだと思ったらすぐに私の下からはずして下さい」 「だれがダメ出しするの?」 「私ですね。もうだいぶわかってきましたから」 「努力もしてみてよ、頼むよ。なんだかんだ言って、君にも原因があるのかも知れないでしょ」 「誰かが、そう言ってるんですね」 「そういうわけじゃないけど」 「努力します」  今まで、私に甘えようとしては失敗し、当てが外れたような顔になっては離れていった男の新人たち。  私に小さい息子がいるということを、どうしてか彼らは自分に当てはめたがる。ぼくみたいな若くて可愛い男が部下にいて嬉《うれ》しいでしょ、と常に態度が言っている。なぜなんだ。あんたは、私の息子じゃない。仕事が順調に行ってるときだって気になるのに、ちょっと注意でもしようものなら、周りに人がいないときを狙って、「僕のこと、叱《しか》りましたね」と表情で私を責めたおすのだ。モデルはジェームス・ディーンか? その八の字の眉《まゆ》。私より背が高いくせによくそんなに器用に上目遣いでこっちを見れるもんだわ。うんざりだ。あの顔。仕事する気なくす。ここは職場ですよ、と言ったこともあったが、 「そうです。ぼくなりにがんばってるつもりでした」 と唇をかまれた。その芝居じゃ、小学校の先生もだませないぞ、と皮肉な気持ちになった。 「私じゃだめです。他の人の部署へ」  頼むたびに、説明に困る。あちらが当然のように甘えてくるので、はた目には私が甘やかしてるように見えるらしい。  ときどき、自信がなくなる。本当は私が甘やかしてるのではないか、と不安になる。あのいやな顔をするような男に、息子も育っていくような気になる。そして、気が重くなる。あんなのしか来ないんだったら、部下なんて、あたしにはいらない。   「あ、どうも、よろしくおねがいします」  その子は、きちんと体の両わきに両手を当てたまま、頭を下げた。細かいところまでよく気のつく、良い子だった。好感が持てた。ここまでは、よくあることだった。だから、今度は考えた。  きっと、あたしの方にも問題があるのだろう。毎日息子や娘の世話をしていて、抱きしめたり、意味のない話につきあったり、着替えや風呂《ふろ》、そんな接近した関係の甘い匂いをぷんぷんさせながら会社に来ているのかも知れない。息子の幼稚園の行事で会社を早退したり、娘の病気で休んだりする。会社では切り替えてるつもりでも、じっさい、仕事の空気を乱しているのは私自身なのかも知れない。用心して、距離を。充分な距離を。  でもやっぱり、良い子だ、という印象は変わらなかった。なので、歓迎会で隣に座って話し込んでしまった。さらに、同じ方向だというので、一緒に歩き出してしまった。  もしかしたら、これではいけないかもしれない。この子は周りから、あの女上司には注意だぜ、なんて言われてるかも知れないのだ。親切心からね。私は、なるべく職場らしい匂いを取り戻しながら夜の街を彼と歩いた。時計なんかも見たりした。 「あら。私、ちょっと車で帰るわ」 「あ。そうですか。おひきとめしてすいませんでした」  そんなこと言われたら、 「途中まで乗ってく?」 と言ってしまうよ、女上司としては。  行き先を言って答えた運転手の声を聞いたとき、不吉な予感がした。  まさかね。そんなまさか。  だってあの運転手のマンションは見つからなかったではないか。あれは暑さのあまり、私と息子が見た蜃気楼《しんきろう》だったのだ。いや、私だけが見たのかも知れない。息子はよく私に話を合わせてくれるから、なかったことでもあったことになっていたりするのだ。 「大丈夫ですか?」  私が黙っていたせいか、声をかけてくれた。 「ああ、大丈夫ですよ」 ときっぱりした口調で返事をするはずだった私の唇は、なぜか彼の唇のほうへ近づいていき、そのままそれに触れてしまった。彼は、驚いた様子もなく、ただ私にされるままになっていた。私は目を開け、彼の反応と、運転手の背中を交互に見ていた。彼の唇は子どもの頬のように柔らかいと思った。 [#改ページ]    救われるために  もう二度とそんなこともないだろうという気分の中に永いこといた。息の仕方を忘れるくらい潜り続け、陸上の景色なんか思い出さなかった。私をいきなり引き上げたものは何だろう。腫《は》れ上がった目で肺呼吸を思い出しながら見守った男の顔に、いつのまにか感情移入してしまっていた。何も起こっていないのに、あらゆることを想像しては動悸《どうき》が速くなり、呼吸が荒くなり、新陳代謝が高まる。そして頻繁に排泄《はいせつ》が起こり、食欲はなく、体重が落ちてきた。落ちた重みのぶんだけその男のことを考えていると計算した3キログラムは、生まれそうな胎児だ。その子の名前を仮に猫とする。猫が鳴いたような名前なのだ、私にとって。    猫と初めて会ったのは、突然暑くなった夏の初めのある日だった。お互い頭を下げただけだった。私は手にほおずきの枝を持ち、日傘をさしていた。猫は灰色のシャツに黒いパンツ。ひだり耳のピアスのことはそのときは知らなかった。猫は深々と頭を下げ、運動の得意な少年たちのような挨拶《あいさつ》をした。あとで、それほど動くのがうまい人ではないのもわかったが、そういう挨拶のほうがうまくいく場だということを知っていたようだ。  二度目に会ったときは、河原に座り込んでいた。今度は驚く程寒い風が吹いていて、猫は火に当たるかわりみたいにしょっちゅう煙草を吸っていた。私は用もないのに猫の後ろをうろうろ歩き回り、覗《のぞ》き込み、けげんな顔もされ、それでもそんな自分をそのままにしていた。それがその日の私の仕事だった。  そしてそのときに何か、いかにもなことを彼が言ったのだった。 「若者らしいこと言うなあ」 と私はつぶやいた。  自分で言ったのに、若者らしいってどんな意味だろう、と思った。何か、有り体に言えないことをその言葉と置き換えてしまったのだ。私が本当に言いたかったのは何なのだろう。それはそのあと少しずつちらついてはくるのだが、私は見ない振りをしていた。その答えが出そうになるのを感じる度に、咲きかけた花は臆病《おくびよう》なヤドカリに姿を変え、すばやい後ずさりで貝殻の中に身を隠す。私はなるべく猫の横顔から目をそらす。嫌な予感のする度に、遠くを見るようにつとめたのだ。  私は男の物欲や野心、虫の良い考え、残酷さにこれ以上傷つきたくなかった。そういうタイプではない、と思っていたかった。だんだんとたまっていく悲しい要素に、目をつぶっていたかった。  昔から、もうこれくらいつけあがったら誰だって怒るだろう、というようなことは何度もあった。もちろんその度にその男と別れた。別の考え方もあったのではないか、などとは誰も言えないくらいまで我慢はしたつもりだ。つけあがり始めた男は、たとえどんなに若くても、絶対にもとへは戻らない。もしかしたらあとには引けなくなるように、私が仕向けていたのかもしれない。いつだか、二年もつきあった男に相当ひどいことをされたあげく、 「あんたが自分を強く見せるようにしているのが悪いんだ。金離れがよさそうで、何を言っても傷つかなさそうで、何したって大丈夫そうなんだ。あんたを見ていれば誰だってそう思う。そういうふうに見せるのがうまいのだから、悪いのはあんただ」 と言われたことがある。さすがに懲りてその次の相手からは、泣く程でなくてもわざと泣いたり、弱音を吐いたりするようにと心掛けた。そうでないとますますひどいことになると思った。  しかし、気をつけていてもなかなか結果は変わらない。きっと何かがそういうシステムになっていて、私はそれを望んでいないつもりでいるのに、どこか勘違いをしてて毎回その中に喜んで入って行ってるのだ、そうとしか思えない。私の知らない私はなぜそのシステムに入るのか。つけあがるタイプの男かどうか早めに試して、一生までは台無しにしないためだろうか。男をつけあがらせておいてひどい別れ方をすることが好きなのか。それとも他に何かがあるのか。わからない。それにこういうことを主観的には望んでいないため、毎回私は心からがっかりしているので、年々それに対する抵抗力がなくなっていく。こんなに永く一人でいたのもそのせいだ。もう誰にも触れられないで死んで行きたかった。あなたが? まさか! と何度も言われたが。あなたが? と言われる理由も自分ではよくわからなかった。  今のこの状態をそう言った人々に話したら、「やっぱりね」と言われるのだろうか。そんなにも、私の中にはこういうことに関する中毒性が見られるのか。    私は、男に自分の稼ぎを当てにされることが気に障るみたいだ。金を持っている女、とインプットされてしまうのが恐ろしい。いつなくなるかもしれないそんなものをもし、自分自身の存在より喜ぶような男にうっかり引っかかっていたら? ぞっとする!  こんなことを怖がるのは私が女だからだろうか。自分でも、どうも稼いでいるらしい、ということがうすうすわかっていても、その要素を自分の形容詞の中に入れることが出来ずにいる。お金が稼げるのが大人なら、私は人にまだそう呼ばれたくないのか。子どものままでいたいのか。稼ぐことについてくるやっかいないろいろから逃げ回りたいのか。  もう森の中で抱き合うようなことは出来ないというのに、男との間にどうお金を遣うのが良いのかまるで私にはわかっていないのだ。あまりにそれを考えるのがめんどくさいので、もう止めてしまいたかった。    誰かに惹かれてしまう理由はきっと自分の中にある。それがもしつまみ出せたら、もう振り回されなくてもすむはずなのだ。今回はなんとかこの気分から逃げ出そうとさんざんもがいたので、たぶんこのへんがポイントに違いない、と思えるものが見えてはきた。しかしそれはただ見えるだけで、取り除くことはもちろん、触れることも出来はしないのだ。  ちょうど矢の刺さった鳥の映像を、 「あーあー、あれ痛いよー、なんとかなんないのー?」 と言いながらただ見ているしか出来ないような感じだ。私に出来ることは、カメラのフィルターを替えて映像を違った印象にする程度。いっそ撮らなければ楽になるのであるが。    それは例えば彼の、人にあまりなつかない犬が走りよって来てくれるときのような笑い顔とか、淋《さび》しそうに眉《まゆ》を下げたあと視線を落とすタイミングとか、そういうことに気を取られていると毎回違う女を連れているとか、部外者にはどうでもいいことにいちいち目が離せない私を、もう自分ではどうにも出来ない。たぶん何かの形でピリオドが打たれるまで続くのだろう。  私はいつも、 「勘違いしないでください、おれ彼女います」 と言われそうでびくびくしている。もしも言われてしまったら、その言葉で死んでしまわないように言い返さなければならない。何がいいだろう? 「そんなの一発きめるまえに言えよ」 だろうか。    でもふつう、関係したあとには「彼女います」とは言わない。言わないとは思うが、法律で禁じられてるわけじゃないのでやはり心配である。  一回だけだ。時間がなくてショートヴァージョンでお願いした。それでも良かった。脱いだそばから「きれいだよ」とか言うようなありがちなタイプだったらどうしようと思ったが、幸いそんなことはなかった。  セックスする時いきなりキャラクターに変換がかかってしまう人間はけっこう多い。さっきと違う、普通にしてくれ! と内心思いながら、口に出すわけにもいかずに変になった相手に合わせてやり過ごすと、あとで何かに魂を売ったような暗い気分にとりつかれてしまう。  たかが疑似繁殖だ。避妊さえしてれば、その後の人生に関わってくることなんて実際は何もない。これでもうワンステージup仲良くなれたらいい、それくらいに思って欲しいのに、心外である。  ベッドに入っただけでモードが換わる人たちには、何かそうしたい訳があるのだろうか。酒を飲んで酔うとそうなる人がいるように、それをきっかけにして別の自分を出したいのか。とても困る。私はそんな触媒になるのはごめんだ。  猫はとりあえず、換わったりしなかった。私がもう二度と逢《あ》いたくはない種類の男になったりせず、彼のままだった。敬語で話し、礼儀正しかった。かといって行為が儀式のようだというわけではない。それは充分に野性的だった。私はまず後ろから抱かれ耳を噛《か》まれ、 「愛情表現?」 と小さく彼に質問する。 「噛んだりするの、好きなんすよ」 と言われた。  私が痕跡《こんせき》が残るのを気にすると、 「いいじゃないですか。いっぱい汚して行きましょうよ」 と、悪い子みたいに言った。  年齢の離れた男女はなぜ最初の交わりのとき、まるでお互いの年齢が入れ替わったかのように振る舞うのだろう。まるでそういう作法でもあるかのように経験が多いはずの年かさのもののほうは臆病になり、若い者は大胆になる。私が若いほうに回るときも同じだ、自然にそうなってしまう。  私は広げられる体が痛くて猫に心配された。いちど動きを止めてもらい、落ち着くまで待ってもらった。あのまま続けられていたら、そしてあの日たくさん時間があったら、私は歩いて帰れなかったかもしれない。年を取ると気分や体調が立ち上がるのが遅くなるのかもしれない。そのかわり調子がつかめてくると、経験の多い分エネルギーは一気に節約される。私の体はまるでインバータータイプの電気製品のようだ。でもまだ立ち上がってはいない。ショートヴァージョン一回だけで、二度目があるかどうかわからない。このまま終わってしまうかもしれないと思うと、気が狂いそうだ。どうしてこうなってしまうんだろう、細菌に感染したわけでもないのに。久しぶりだということは、これほどまでに弱みなのか。    さてあれから数週間が経ち、私は失望の中にいる。ふられたというより、みえみえにキープ扱いにされたのだ。自分自身が逃げていた、「若者らしい」という言葉の意味もわかってきた。それは、とにかく楽に得をしたいという幼稚な計算。  例えば、こっちが久しぶりに会って喜んでいる最中に、 「そういえば、ただで譲ってもらえるって言ってたあれ、どうなりました?」 と言ったり、遠くからかけてくれる言葉が、 「来てくれて嬉《うれ》しかった」 では決してなく、 「あれありがとうございました」 と手みやげに対する礼だったり、私が誰か別の人物のためにしてきた買い物の袋に何故か手を入れておどけたり……(そのとき私が「何してんの?」と聞いたら、「いや、ちょっと手入れてみようかと思って」と言っていたが、それが私には「自分には買ってくれないのか」という意味に聞こえてしまったのだ)。そして私は、自分がだんだん、釣り上げられたお財布みたいに思えてきた。  ある電話の最中に、何かをあげる話をしていたら、猫が、 「一つでいいですから」 と冗談《たぶん》を言ったので、私は、 「ふつうそうだよ」 の代わりに、 「若者らしいこと言うなあ」 と言ってみた。  そしたら、 「おれ、若者っすよ」 と答えが返ってきた。  何かの得になる人物とつきあいたいとか、仲良くなった相手がお金を持ってるに越したことはない、という言い方をするならば、それは程度の差はあっても、誰だってそうだ。わざわざ手ばかりかかる、何のとりえもない、経済力のない人物とすすんで仲良くしたい人は変わり者だ。しかし、どんなときにも性急さは嫌われる。私は彼にそういうことを感じてしまっている。  私は、すぐにつけ込まれるタイプなのかもしれない。もうこの女には何を要求しても大丈夫だと、早い時期に思い込まれていることは今回に限らない。人に感情移入するスピードが早過ぎるのだろうか。入れ込んだ相手と仲良くするためなら、どんな労力をも惜しまないように見える?  となるともしかしたら、私の素質はたいこ持ちのようなものに近いのだろうか。若く貧乏な頃を、人の助けだけで乗り切って来られたのはこの性格のおかげか。だとしたら年を取った今、私はやはりこういう「若者らしい若者」にいいようにされているべきなのだろうか。  しかし、 「ねえ、抱いて」 と思いきって言ったのに、 「抱いてってどういう意味?」 と聞かれた上、 「来月じゃ、だめっすかあ」 というのはひどい。あんまりだ。  友人に話したら、 「わー、それもうぜんぜんだめじゃない、だめだよそれ」 とはっきり言われてしまった。 「そうだよねえ。かっこわるーい。もー、超かっこわるいよ私」  私は嘆いた。 「まあ、人を好きになるってことはそういうことだったりするけどね。おれなんか、そんなのしょっちゅうよ」 「そうお?」 「そうだよ。でもまあ、その来月はってのはさ、なんか仕事の予定決めてるみたいじゃない。そういうふうに思ってるかもね。つまり、何か見返りがあるだろうっていうさ」 「その通りかも」  なんだかほんとにそうだ、としみじみ思ってしまった。  あの晩、別れるとき、猫は、 「いいかげんな男なんすよ」 と左下に視線を落とした。それは彼のくせで、わかりやすいシーンにたびたび出てくる演技だった。 「それはわかってたけど……」 というと、少し笑った。  タクシーをとめて見送ってくれるときに、 「すいません。……謝ることはないか……」 とつぶやいた。  笑って手を振った私だったが、彼が見えなくなると、私は女としては好かれていないのだ、としょんぼりして泣きそうになった。私はただの容《い》れ物で、中には甘いお菓子が詰まっていて、彼が欲しがっているのはお菓子のほうなのだ。  この人しつこくて、おれちょっと困ってるんすよ、という表情をみんなに見せてから、二人になったあと、改めて私を独りで帰らせる彼。  約束してから、何か変わったことがあったら電話してねと言っておいたのに、その日になって来なかった彼。  そんな彼を私は猫とたとえた。きまぐれで、気分が変わりやすい男なのだと思っていたから。  そして私は突然気づいた。以前にも心の中で猫とたとえた男がいたことを。そのときにもそれがあまりに苦しくて、私は今回と同じようにメモを取って、自分を救おうとしていたのだ。「あの少年は猫。ときどき幼児の顔にも、老人の顔にもなる猫」そんなふうな内容だった。その頃少しだけ今の猫より年が下だった。もう七年近く前の話だ。    初代猫も逢《あ》ったばかりのときはとても可愛くて、なんだか叙情的で、私に対してとてもけなげだった。彼の背景には中央線の匂いのする風が吹き、今の猫とよく似た寂しさを持っていた。しかしすぐにふてぶてしくなり、私がお金を出すときにしか嬉しそうな顔をしなくなり、そのわりには陰で私をどう使用しているものやら、みるみるうちに私の周りはもの欲しそうな顔をした何かの卵である若い女や、初代猫の情報欲しさにただ嗅《か》ぎ回る女や、攻撃をしかけてくる私と年頃の近い女などでいっぱいになった。それはある種のお祭りであった。一年くらい、そういう中にいただろうか。嫌になった私はもっと無邪気な相手を見つけていち抜けた。あとになって未練がましい電話を一度だけかけてきたが、私がそれに冷たくしたので、すぐに開き直って、そんなつもりじゃなかったんだけど? という態度になった。変わり身の早さも猫らしかった。黒っぽい服が好きなところまで似ている。前髪を垂らしているが、実はとても広い額をしているところまでも。  猫たちはすぐなつき、すぐにずうずうしくなり、いつでもえさをくれる相手をふやすことだけに熱心で、えさ場の突然の引っ越しにあわてる。  そして今また私は引っ越しのために荷物をまとめているところである。    ある日、私は男ともだちの下宿に来ていた。  誰だかわからないが、いつも親身になってくれる男だ。  彼は私に、 「飲むか」 と聞いた。  すぐ横に、彼がつくってくれたらしいスープの鍋《なべ》が、湯気をたてている。  私はもちろん一杯いただくことにした。ところがそのスープはおそろしく辛かった。 「からい、辛すぎる」  私はそう言って大きく息を吸い込んだ。みるみるうちに、涙がこみあげてきた。私はしゃくりあげ、子どものように泣いた。もうとっくにスープはほんとは辛くなんかないことに気づいていた。私の優しい男ともだちは、人前で泣くことが難しくなってしまっている友人のために辛くないのに辛いスープを出してくれたのだ。    目が覚めた。私は夢の中と同じ呼吸をしていた。胸と肩を抱きしめてくるぎくしゃくした波に体をまかせていると、涙がひとつ、ふたつ、こぼれた。  ずいぶん昔にもこんなことがあった。そのときはつきあっていた男が夢の中で死んだ。目が覚めたら私の頬は涙で濡《ぬ》れていた。私はそのまましばらくしゃくりあげ、この奇妙な経験が通り過ぎるのを待った。涙が止まり呼吸が戻るとともに、その男への気持ちが醒《さ》めて行くのを感じた。殺したのだ。私は彼に死んでもらうことに成功したのだ。そんなやり方で十代の私は、こびりついていた男を頭の中から取り除いたことがあった。今回は猫を殺したのではない。優しい男ともだちが私をなぐさめてくれたのだ。    ゆうべの私の頭の中には、払っても払っても猫のことが浮かんできて、そのせいで何時間も眠れなかった。あまりに眠れないので、もしこの後眠ることができたら、そのまま死んでしまうのではないかと恐ろしくなった。もう何年も会っていない二歳違いの妹と猫の似ているところが次々と思い出された。私と違っておっとりして、物事をあまり深く考えず、依頼心の強い一重まぶたの少女。私には少女時代はなかったが、彼女の一生はたぶん全部そう呼べる内容になるだろう。ぼんやりしているくせにいつのまにか誰かに助けられ、その人の手をしっかり握ってにこにこしている妹。  私はいつから彼女が嫌いになったのだろう。子どもの頃は可愛がっていたはずだ。何をやっても私にかなわなかった。私のあとを追いかけて来て、私に泣かされてばかりいた。子どもらしくないと叱《しか》られ、大人にいやがられていた私を慕ってくれていた。私が家を出てからは、おしゃれしたい日に服を借りにやって来た。ときには友人と二人でやってきて、その子まで私の服を着て街へくり出した。しかしもともと服の趣味が違う上、私より体も大きく太っているため、あまり似合わなかった。実際私の服で街へ出ても、胸のときめくようなことは何もなかったという。私は自分の給料で彼女に服を買ってやった。そしたら私より妹を可愛がっていたはずの母に、 「あんたが甘やかしちゃだめじゃないの」 と言われてしまった。次の給料では妹の服など買わないように制止されてしまったのだ。「妹を可愛がっている私」は、母にほめてもらえると思っていたので気落ちしてしまった。いつも何でも上手に出来ているはずなのに、母の愛情をなぜか妹に盗《と》られてしまう。家を出て働いて、良いお姉さんになって挽回《ばんかい》しようとしたのに、また失敗してしまったのだ。私は淋《さび》しかった。その頃の私にはまだ、服を買って欲しかったのは母のほうだということまでは見抜けなかった。母はいつも強がっていたし、母にお金を与えるのは父以外にいないものと思い込んでいた。その後、もっと彼女らから離れて住むようになり、一緒に買い物も出来ないので送金するようにしたら、母はとても喜んでくれた。今思えばそれはもう喜びすぎるほどだった。  子どもというものは、自分を食べさせてくれるために産むものだろうか?  少なくとも妹はその役目を逃れた。私はつい最近、仲良く二人で街を歩く妹と母を見かけてしまった。そこには、私が仲間に入れてもらえなかった楽しさがあった。 「年子の兄がいるんっすよ」  猫の言葉が思い出された。 「兄貴はおれより勉強が出来て」  今度は私の視線が下がった。 「それでも兄貴のほうが今の仕事うまく行かなくって、やり直すって家、出ちゃったんす」 「私は、仕事はうまくいってる。ほめられることも子どもの頃から多いはずなのに、いつも母を妹に盗られたっていう気持ちがあるの」 「うちのおふくろも同じこと言いますよ。たまに一緒に飲むんすけど、そういうとき。『あの子はあたしをあんたに盗られたって思ってるんだ』って」  私の頭の中では私の母が、妹に同じことを言っている場面がいやおうなしに浮かび、私の気持ちは沈んだ。 「あなたは家を出たりはしないの?」 「ええ」 「経済的なこと?」 「出ようと思えば出れるんすけど……」 「おかあさんが淋しいから?」 「そっすね」  なのに私の淋しさには気づかないのね、と私は思った。しかし、口には出さなかった。  あなたたちは私は何でもうまくやると思い込んでいる。だから私に服を買って欲しがったり、私にお金を払って欲しがったりするのだ。そのくせ抱きしめてはくれないのだ。私は稼ぎ続けなければ、愛されるどころか、口をきいてももらえないに決まっているのだ。  私を泣かせてくれたあの男は誰だろう。  あの男はいつか、私を抱きしめてくれるのだろうか。  誰かに似ていたのか。わからない。暖かい湯気だけがあって、彼の顔は見えなかった。目の前に座っていたのに、胸から上にはカメラが動いてくれなかったのだ。    猫との最後の日。私は約束を忘れるはずはなかったが、猫は忘れたふりで、のどを鳴らしながら現れた。みんなのいる楽しい場面が過ぎ、私と二人にさせられそうな匂いがしたとたん、時間のなさを訴え、私に背を向けた。 「えっと、じゃあ、今日はほんとうにありがとうございました」 「あの、ほんとうに忘れてたの? 今日のこと」 と聞くと、 「あ、いやあ、覚えてましたよ」 と後半が聞き取れない言い方で遠ざかりながら、 「あ、どうもありがとうございました、また」 と頭を下げた。 「ああ……」  そのとき私がさよならと言ったか、じゃあ、と言ったか、覚えていないが、気をつけていた。「また」という単語だけは遣わないように。一方的に終わりにすることを決めていたから。猫の気持ちなんて知らない。私が連絡しなきゃしないで、気にもしないでまたどこかにえさ場を作るはずだ、それでこそ猫だろう。  私はしばらく最後に会った猫のひとつひとつへの反芻《はんすう》に日々を費やす。年を取った私に残される一番残酷な結果を暗示させる猫と私の関係。  空想の中で聞いてみよう。 「どうして私のこと好きになってくれなかったの?」  何と答えるだろう。例えば、 「おれ、好きだなんて言われたことないっすよ」  その通りだ。言えなかった。 「言えませんでした」 「言わなきゃ、わかりませんよ。そういうふうに思ってるなんて」 「すいません。なんで言えなかったのか自分でもわかりません」  言うとつけ込まれそうな気がした、とは、いくらなんでも言えないだろう。 「でも私は、好かれたくて努力したつもりだったし、伝わっているのかも、と思えた日もありました。でも次に会うときは、あなたの気分がぜんぜん変わってしまっていて、いつもがっかりしていました」 「そうすかあ」 「私のこと、本当は嫌いだったんですか。断われなくて、セックスしたんですか?」  だめ。だめ。そんなこと、絶対聞けない。答えを聞いたら、自殺してしまう。    それでも私の気が狂いそうな日々は、親身になってくれる友人たちとの会話のおかげで思ったより短く終わった。 「用事があるときしか電話しなかったの?」 「なんとなくそうしてた。予定聞いて、空いてたら約束して」 「それ以外で電話できない理由が何か自分の中にあるんじゃないの」  私が勝手に、そういうものだと思い込んでいたことを簡単にくつがえす友人の言葉。そうだ、その通りだ、と私は秋より深く納得してしまった。  好きだとも言えなかった。声が聞きたいだけでは電話出来なかった。私の臆病《おくびよう》さが、猫の打算をますますあおってしまったのだ。     猫たちは、自尊心が傷つく可能性が多い心のせめぎ合いよりも、学生サークルのようなごっこ遊びが好きだ。そしてその小さな小さなお山の大将になることしか興味がない。だってそれが一番傷つかないやり方だから。    私なんかには、しっぽをどんなにしっかり掴《つか》んでも、そこからお尻《しり》だって引っ張り出せない。今えさにつられて来たかと思うと、次の瞬間には逃げ込んでいるところ。そこはきっと母猫のいる家。母猫は私みたいにしっぽのあたりをうろつくやつらにいつも目を光らせている。きっと誰も入り込めないのだ。  私はあまりにも若い男を好きになり過ぎた。そう感じさせない技術を最初だけ彼が持っていたせいもあるが、猫の中身はきっと幼児だ。本当の年齢よりはるかに若く、保護だけを望んでいる。いつか大人になるのなら、その日までの永い永い時を、自分だけを愛して過ごしていくのだろう。  また空想の中でだけ、最後の皮肉を言わせて欲しい。 「臆病過ぎるってことは、裏返せば計算高いっていうこと。あなたはほどほどに女にかまわれる方法を知っている。でもね、覚えておいて。運命はいつも、中途半端に才能のある人間に、一番残酷な結果を用意しているものなのよ」  さあ、猫はどう答えるのか。私には残酷な答えがいくらだって思い付く。でも、もうどうだっていい。猫にしたってたまたま私を選ばなかったというだけで、そこまで言われることもないだろう。リセット。さあ、これで終わりだ。    さて私はあの、急に寒くなった夏の日に戻るとしよう。軽く質問しただけなのに、淋《さび》しそうに眉《まゆ》を下げて自分の家庭について切ない話を始めた猫を思い出して、自分の男を見る目のなさでもあざ笑うことにしよう。あの男の中には私の気持ちを揺さぶる何かがあったのだ。どことなくぼんやりしていて、保護されるのに慣れている。そして自分を傷つけられるのを何よりも恐れてる。私はそんな彼を守ってあげたくなったのだ。すっかり鮮烈な出会いだと思い込んでいた。そして当てが外れたのだ。私にとってはものすごく久しぶりで、それが嬉《うれ》しくて、恐くて、大切に育てたかった。だけど、あっという間に終わってしまった。あまりにも勘違いで、恥で、滑稽《こつけい》で、自分がものすごい老いぼれに思えてしまう。猫の若さがうらやましい。こんな自分をもう止めたい。私はもっと利口になりたい。    今はもう冬。あの寒い夏の日は、もう二度と帰ってこない。私がもしも利口になれたら、それと引き換えにたぶん一生こないだろう。 [#改ページ]    レース  女が妊娠して五ヶ月にもなると、最近では、 「男の子か女の子かわかってるの?」 「ええ男の子なの」 というような会話が当たり前のように交される。超音波の診察で判明していない場合は、妊婦はじろじろと顔を見つめられ、 「優しい顔だと女の子、きついと男の子なんだって」 などと言われることになっている。    最初の妊娠の時、そうやって投げられたコインにされるたび、鹿島友美《かしまともみ》はいつも、くだらない、他に話題はないのかと内心馬鹿にしていた。彼女はレズビアンなのを夫に隠して結婚した女だった。生まれて初めての妊娠が判明したとき、レズでも妊娠するのか、と本気で驚いた。その上夫やその両親にやたらと感謝され、ときには福祉に関心のあるらしい誰だか知らない人にまで誉められたりもするので、すっかり恐縮してしまった。ちょっとやり過ぎたのかもしれない、まだ二十五歳、いくら自分で何かを成すことをあきらめたからといって、妊娠までしなくてもよかったのではないだろうかと。しかしそれも一瞬のこと。ひどいつわりがすぐに何も考えられなくしてしまう。その上眠くて眠くて、一日のほとんどはベッドの中だ。そんな生活をしていても、誰も友美を責めない。妊娠中の主婦はこれほど何もしなくてもいいものなのか、と思うとなんだかおかしくてたまらなかった。それまでの生活とあまりに違っていたから。    友美の最後の恋人は、ある劇団の脚本家だった。友美は彼女がいたからこそ、ほとんどまともな報酬も出ないその劇団で夜中まで働いていた。十歳も年上だったが、どことなく子どもっぽく、友美にとっては守ってあげたくなるタイプだったのだ。  よく、「書けないよー」と真夜中に電話で呼び出された。一人でいるとますます書けないから、何でもいいからそばにいて欲しいと言うのだった。 「ねえねえ、あの子ってこういうときどんなだっけ」 と役者の物まねをさせられたり、イメージがわきそうな曲をかけたり、ただ二人でぼんやりとお茶を飲んだり、そういうことを続けながら、ときには何日も泊まり込んで彼女の脚本が出来ていくのを見ていた。  脚本家が二度目の結婚をしたときも、友美のように関係が絆《きずな》になっているスタッフ(男も)が他にも数人いることを知ったときも、友美はあきらめなかった。なぜなら、それらの人間の中で自分がいちばん若かったし、美しかったから。  しかし、稽古《けいこ》場に姿を現わさなくなった恋人を心配して新居を訪ねたある日。インターフォンで友美を確認すると、彼女はいつになくだぶだぶのシルエットの服を着てドアを開けた。最初は寝間着かと思ったが、マタニティウエアであった。友美がそこから目が離せないでいると、 「ちょっと早いかなって思ったんだけどさあ」 「はあ」 「電車とかで席、ゆずってもらえちゃったりするんだよねえ」 「え……?」 「だから、マタニティ着てると。それと、おめでたですかー、って知らない人が声かけてくれたり親切にしてくれたりさ。なかなかいい気分なのよこれが。新しい展開。鹿島もどう? なんか、いいよ」 「…………」  友美の心の中の世界にひびが走り始めた。他の子に手を出したと聞いては歯をくいしばり、結婚したと聞いては待とう、と覚悟して過ごしてきたこの三年。すでにベッドをともにすることもなく、最近はただ彼女の役に立ちたいとだけ考え、走り回っていた。そのあげくがこれだ。鹿島もどう、だって? 誰とだ! あたしの世界の中ではその役はあんたしかいなかった。友美が創った、けして妊娠させてくれない恋人が中心のその世界は、あちらがはがれ、こちらが崩れ落ち、涙でぬれた顔で家にたどり着いた頃にはすっかりぼろぼろになってしまっていた。  人は台詞《せりふ》の字づらや役者の表情だけで物事を判断しているのではないのだな、と今さらながらに友美は思った。あの時の何とも言えない匂い、淫靡《いんび》に揺れた空気。その無神経さを思うと、彼女の脚本家としての評価を下げたくなってしまう。それとも、この際友美を追っ払おうと、友美の気持ちにとどめを刺そうとして、わざと……? それだけは考えないようにしていたが、そうなのかもしれない。どっちにしろ、私はもうあの人のそばには行けなくなってしまった……。  だんだんと友美は彼女をあきらめた。そして死んでしまおうと思った。死にたいなんて思ったことがなかったから、どうしていいのかわからなかったが、とにかくまず、酒を飲んで、飲んで、飲みまくった。これまでに経験したこともないほどの酔いが訪れると、声をあげて泣いている自分がいた。それから眠ってしまい、飛び起きて胃がばかになるほど吐いた。やっとそれが済むと、食事の用意。死ぬはずだったのに? 思わずにたりと笑った。こんなことでは死ねないんだわ、としみじみ思った。これはただ、私は生きているということを再確認するだけのお祭りだったのだ。  死ねなかった代わりに、結婚して逃げ出すことにした。稽古場にはあれきり行っていない。マタニティウエアでそこにやってくる脚本家、まるまるとしたお腹になっていく彼女、赤ん坊をこれ見よがしに抱いてくる彼女、そのどの彼女とももう、出会いたくなかった。こんな気持ちで、男を愛する演技なんて出来るのだろうか。いくら相手がしろうとでも、結婚を賭《か》けた芝居は成功するのか?  結果は大成功。拍手を浴びてカーテンコール、ヒロインは満足だ。早い結婚ね、と言われたが、ただ身を粉にして働いているというだけで可愛がられている三十過ぎの女のスタッフたちと同じ運命をたどるのだけはプライドが許さなかった。それに自殺の代わりに考えたことをだらだらと先延ばしにするわけにもいかない。きれいごとを言っても、結婚できれば大抵は食いっぱぐれることがないのが現実なのだ。いくつで結婚したって早くなんかない。友美はあの日の脚本家の台詞をよく思い出す。 「あたし病院行って初めて知ったんだけどさあ、高齢出産でも大丈夫とかなんとか言うじゃない? あれって結局お医者の手柄的な言い方! あたし調べたのよ。いちいち聞いたらたいがいの女はちゃーんと二十代で子ども産んでんのよ。希望を与えるのも結構だけど、なんだかんだ言っても、早く結婚して若いうちに産んだほうが簡単ってこと。希望を持てるお話ってのもさ、ほんとは、雑誌作ったりテレビやったりしてる女が、自分のためにその部分を誇張して話つくってましたって感じ?」  目の前にいるあなたこそが私の希望だったのに、とすがるような友美の視線に気付くこともなくまくしたてられた。  あの人の、私との恋の記憶はどこへいってしまったんだろう。  そんな日々はもう存在しなかったかの様な、あのときの口調。今にして思えば、あの時期の妊婦にはまだマタニティウエアなんか必要なかった。ただただ、脚本家は早々に「図式」の中におさまろうとしていたのだ。  あれからどれくらい経つのか、その後新作を発表したという噂は聞かない。友美がその世界の話題から目をそらして暮らしているからだろうか。いや、実はそうしていても嫌でも耳に入ってくるほどの話題作を出してくれるのを期待していたのだ。しかし、嬉《うれ》しい便りはいっこうに来ない。友美の結婚式に届けられたありきたりな祝電だけが、その人の最後の作品として空しく残った。    子どもを産むことによって誰もが面白みのない女に変わっていくのだとしたら、いさぎよく若いうちにその運命を受け入れよう。そう考えたから、友美は中絶を選ばなかった。喜ばれる嫁としてもせいいっぱい演技した。恋人の仕事場にいるときよりもっと、心を込めて。  ついに出産の日は来た。  3842グラムの男の子だった。 「若いうちのお産はいいわねえ。回復も早いし、男の子の生まれる率も高いっていうし」  姑はよく響く高い声で言った。  友美は顔だけ笑ってその言葉を頭の中でくり返していた。  友美は一人っ子だった。私は「なんだ、女か」とか「次は男ね」とか言われたのだろうか。言われたのかもしれない。友美の母はそれきり子どもを産まなかった。それも責められたのだろうか。もしすべての女が男の赤ん坊しか産まなかったら人類は滅びるはずなのに、どうして女の子より男の子のほうが喜ばれるんだろう。男の子は、セックスのとき女がオーガズムを迎えると出来やすいという話まである。それでいくと妻が男の子を産むと、夫は性の能力を誇れることになる。人類って、なんて下品なんだろう。友美は夫との行為でそうなったことはなかった。そんなものだと思っていたし、期待もしてなかった。なのに友美の体はせっせと男の子を作って産み出したのだった。  赤ん坊は思ったより手がかからなかった。果てしなく世話をしていなければならないものと、友美が思い込んでいただけなのかもしれない。本当に息をしているかどうか、ベビーベッドを覗《のぞ》き込むことがよくあった。それほど、その男の子はよく眠る子だった。  おむつを開けると、頼りなくはかなげな性器が頭を垂れている。友美がその昔、狂暴な武器だと思い込んでいた男性器。あんなにまがまがしくておぞましい、無神経な剣だったのに、目の前にあるのは、堅くなるあの芯《しん》が入っているのかどうかも怪しい小さな薔薇《ばら》色の蛇腹。先端はストローを抜いたあとのか細い紙袋のようだ。いつしか友美は男性器を嫌悪し拒否するしかなかった自分が思い出せなくなっていた。確かにいたはずなのに、毎日毎日、何度も黄色い乳のかすにまみれる赤ん坊の無防備なそれをきれいに拭《ふ》いてはおむつに収めてやる、そんな生活の中で少しずつ忘れていってしまったのだ。    三年が経って、彼女は二度目の妊娠をした。みんなが祝福するが、一人になれば友美はまたぼんやりしている。自分で入った輪の中でただじたばたとその場をなんとかするだけの、運動するリスのような日々。子どもはすくすく育ってはいるが、それが二人に増える感動は特になかった。 「妹か弟が、お腹の中にいるんだよ。生まれたら仲良くしてね」  第一子に言い聞かせる口調も淡々としたものだ。口に出すことによって気分を盛り上げたりはしなかった。  妊娠四ヶ月のある日、ふとつけたテレビに昔の恋人が出ていた。反射的に一度消し、またつけた。ワイドショーの小さなスナップだった。それも彼女の仕事ではなく、その夫である青年が、彼女の昔からの知り合いの女優と浮気をしているという話。友美は初めて、「鼻で笑う」という行為が、自然に起こるのを感じる。しかしその嘲笑《ちようしよう》はすぐに自分に戻ってくる。彼女を脚本家として大切に思い、また、その肩書きに対して興奮もしていた若い友美。その安い骨董品《こつとうひん》のような自分の昔の像の置き場はこの家にはどこにもない。  不安になった友美は膨らみかけた腹部に手をやる。唐突に第一子が、 「すじしいね〜」 と聞き取りにくい発音で気候に感想を述べた。 「そうだね。もう秋だもんね」  そう答えたとき、友美の中に初めて「この子、可愛い」という言葉が浮かんだ。今までも漠然と感じたことはあったが、ここまではっきりとは意識しなかった。偶然かもしれないが、子どもとは、気落ちしている母親に優しく声をかけてくれたりもする存在だったのだ。  その翌日、友美は近所のスーパーで何年ぶりかに毛糸を手に取った。ふと、息子に帽子を編んだらどうだろうと思ったのだ。 「ねえねえ、あったかいお帽子、編んであげようか」 「おぼうし?」 「そう、この毛糸でつくるんだよ」 「ちくるの?」 「そうだよ」 「ほんと? ちくって。ちくってちょうだい」  編み物なんてもうずいぶん永いことやっていない。うまくできる自信はなかったが、この子だったらどんなものでも喜んでくれるだろう。いい思いつきだ。なんだか気持ちがはずんで、友美は毛糸と編み棒と、編み物の本を買い求めた。  人は妊婦を絵に描くとき、編み物をさせることが多い。妊婦にはなぜ編み物が似合うのか。時間がありあまっているからだろうか。友美も最初の妊娠のときはそうだったが、つわりがひどくて何かしようという気にはならなかった。それに、生まれてくる赤ん坊についてそこまでイメージが広がらなかった。今も編んでいるのは目の前にいる息子のものだ。まだお腹の中の子のほうにまで考えは及ばない。  しばらくして、あまり編み目の揃っていないでこぼこな帽子が出来上がった。息子にかぶせると、だいぶ大きかった。しかし、ずり下がってくるその帽子を手でおさえながら、喜んで飛び跳ねている彼を見ているうちに、これはこれでよかったのだという気になってきた。 「おそろいでマフラーつくろうか」 「ちくって、ちくって」  マフラーは帽子よりうまくいった。ふたつを身につけて息子が走りまわると、 「あらまあ、お母さんに編んでもらったの、いいわねえ」 と声をかけられた。へたくそだからこそすぐに手編みとわかってもらえるのだった。  それから友美はひまさえあれば編み棒を動かしているようになった。小さな一目一目の積み重ねがちゃんと何かの一部になっていく。毛糸はあの残酷な恋人のように、人が費やした時間や気持ちを一方的にぶち壊したりしない。遠い道のりのようでも、編んでいれば絶対に完成につながる。そう考えると、気持ちが安らかになるのだった。 「こんどはなーに?」 と息子も楽しみにしてときどき覗き込み、また絵本やおもちゃに戻る。おだやかな時間が過ぎていく。お腹の中の子どもは息子のときよりたくさん動いている気がする。    その日、友美は珍しく本を開いていた。編み物以外の本を読むのはひさしぶりで、集中するのに時間がかかった。すると、息子が悲しそうな声で叫ぶのが聞こえた。 「あみものしてよ!」 「え?」 「あみものして、あみものよ!」  しばらくして意味がわかった。編み物をしているときなら、息子から話し掛けられてもすぐに返事することが出来るのだが、本を読んでるとそれが出来ない。息子は淋《さび》しくなって、読書をやめ、お話ししながら出来る編み物に替えて欲しいと言っているのだ。思わず笑いがこぼれた。 「わかったわかった。ちょっと待ってね」  しおりを挟んで本を閉じると、息子が嬉しそうな顔をした。毛糸を取りに立ち上がろうとして、そのまま動けなくなった。  遠い昔の記憶が友美を支配していた。  五歳くらいだっただろうか。その頃友美の母はレース編みに凝っていた。流行っていたのかもしれないが、豊かでないその家に全然似合わないのに、彼女はありとあらゆるものをレースで覆い尽くした。友美は母のレース編みが好きではなかった。毛糸だったら自分のものを編んでくれる母が、レースでは全く別の世界に行ってしまうからだ。部屋からもわが子からも喜ばれていないのを知ってか知らずか、それでも彼女は次々と大作を生み出した。ドイリー、テーブルクロス、ついにはダブルベッドのカバー。床に置かれたままになっていたレース針を友美が踏んで怪我をしても、その勢いは変わらなかった。  友美にとっては、レース針が足に刺さったことは恐ろしい記憶として残った。子どもの柔らかい足に刺さるのは簡単だったが、先の部分がカギになっているのでなかなか抜けなかったのだ。どうやって抜いたか定かではない。医者に運ばれた覚えはないから母が力まかせに抜いたのかもしれない。  その頃友美の母は気がたっていた。友美の父が浮気して、家にほとんどいなかったのだ。レースで覆われた家は、本当は優雅でも幸せでもなかった。  友美は母がときどき、 「友美ちゃんってそういうところ、パパにそっくりね」 と悪意を込めて言うのが悲しかった。  あるときたまたま家にいた父と母はついに大げんかを始め、父は母に平手打ちをくわせて出て行ってしまった。友美はタオルを水でぬらし、母の頬に当てた。 「友美ちゃん、ママ、このおうち出ていくから」  母は泣きながら言った。 「友美も行く」 「友美ちゃんはここに置いていくわ。あなた、パパにそっくりだもの」  友美はなんとかして母を引き止めたかった。何か彼女の気をひくいい話題はないかと必死で考えた。そうだ! 「ママ、今編んでいるレース、あれ、出来てからにして!」 「…………」  母はしばらく黙っていたが、そのまま家にいてくれた。よかった、と友美はため息をついた。  なのにずいぶんあとになって、 「友美ちゃんたら、レースが編みあがったら出ていっていいなんて言うんだもの。あたしよりレースのほうが好きなんだから」 と笑いながら言われてしまったのだ。違うのに、違うのに! と友美は泣きそうになったが、うまく言えなかった。そして、そのままになってしまった。母よりレース編みのほうが好きな子どもにされてしまったまま、友美は大きくなったのだ。  今、友美の息子が「あみものしてよ」と言ったのと、あのときの友美は全く同じだ。そして、母親ならそんな子どもの気持ちがわからないはずはない。なのに、なぜ友美は母に受け入れてもらえなかったのだろう。 「どうしたの? ママ、どうしたの?」  息子の声が聞こえる。 「いたいの? いたいの? どこ? 『とんでけ』してあげる!」  知らないうちに涙がこぼれていたのだ。    友美が編み物を始めたのは小学生の頃だった。教えてくれたのはもちろん母だ。ろくなものは出来なかったが、楽しい思い出だった。母に編んでもらったピンクのベレー帽が大好きで、いつもかぶっていた。  あの役に立たない、自分を傷つけただけのレースはただあの人の心を癒《いや》すためだけに編まれていたのだ。嫌な現実を忘れるために。そんな編み物は悲しい。私はそんな編み方はしたくない。  友美はその後も息子のものだけを編んだ。二人目が生まれたら、彼のためだけの時間はなくなってしまうのだ。ときどき、わけのわからない不安や悲しさにおそわれて、涙を流しながらそれでも編み続けた。陣痛が訪れたのも、編んでいるときだった。  生まれたのは、女の子だった。友美はびっくりした。なんとなく今度も男の子のつもりでいたのだ。  女の子は小さくて、柔らかかった。声も細く、よく泣いた。 「妹はよく泣くね」  友美が言うと、息子は手を伸ばして、 「よしよし、いいこ、いいこ」 と女の子の小さな頭をなでた。 「やさしいおにいちゃんだね。ママ、うらやましいな」 「あれ? ママも泣いてるの? よしよし、いいこ、いいこ」  息子に頭をなでられ、ますます涙がこぼれた。こんなに泣くのは妊娠や出産後のホルモンなどのせいなのだろうが、友美はもうそれらにされるがままになっていることにした。横で見ている夫の視線だけが少し気恥ずかしかった。   「どうしてる? 鹿島が子ども二人も産んでるなんてねえ。すごいよねえ。うちの劇団でそこまでいってるの、あんただけだよ」  あまり嬉《うれ》しくない相手から電話がかかってきた。愛嬌《あいきよう》とまめさだけがとりえの、四十近い元同僚だ。なんでこんなのが女優志望だったのだ、と誰もが疑うぶさいくな女だった。 「結婚生活、どう? あんた早かったもんねえ。なんでそんな早く結婚したの?」 「うん、子ども、欲しかったんだー」  友美は自分でも考えてもいなかった答えが口から出るのを不思議に思った。 「えー!? 子ども欲しかったん? 知らんかったわ。そうなんやー……」  驚くのをきっかけに関西なまりに戻るところも昔のままだ。友美は、懐かしいというよりいやな予感がした。そして、それは的中しつつあった。 「そういえばなあ、ほら脚本家の、あの人だってあの年で子ども産んだんやもんなあ。知ってるー? あのあとどうなったか」 「あのあとって? どこまでがそうなんだかわかんない。浮気でもめてるとかなんとかワイドショーでやってたのは見たけど」 「あ、それいつ頃?」 「妊娠中だから……半年ちょっと前?」 「あーはいはい。あんときは被害者モード入ってたんよね。子ども生まれたばっかやのにって。でも違うん。あのあとわかったんはね、あの人のほうが先に浮気してて、その中にあの女優もいて、ほら、両刀やったやんか、で、女優のほうがだんなにも手ェ出したんよ」  この女にも脚本家がバイセクシャルだったことはばれていたのだ。 「なんでそんなことになったの? その女優もバイだったから?」 「そのへんははっきりしてないんだけどー、ワイドショーでは、目の前で赤ちゃん可愛がるの見て悔しなってー、家庭こわしたろかってなったって。わからんわ。ワイドショーて話カワイソー系にすんの好きやからね。うちらから見たらあの人に引っ掛かる自体なあ、超ヤバめやんかあ。子どもとか関係ないわ、あんだけやりまくっとったら。うちらぜんぶきょうだいやったもんなあ」 「きょうだい?」 「今さらとぼけんでも。うちも、鹿島もみんなきょうだいやよ。違うのもおるけど。きょうだい劇団て、よう言われてたわ」 「きょうだいって、同じ人とつきあってるのを、そう言うの?」 「……あー、……最近はあんまそんなんゆわへん? 鹿島、若いからなあ」 「ねえ、なんで同じ人とつきあうときょうだいなの? なんでそう言うの?」 「えー、なんでやろ。改めて聞かれると……なんでやろね。そういうもんやと思てたわ、考えたことなかった」 「そう? 知りたいなあ。ねえ、なんでか聞いてみて? みんなその言い方遣ってるんだったら、誰か知ってるんじゃないかな」 「うん、わかった。聞いとくよ。って誰に聞けばいいんだか……酒はいったときしかダメかもな、じゃあ、そういう時に。あ、電話や。またかけるわ。ほんじゃ」  そうか、きょうだいか、きょうだい、きょうだいねえ、と友美は繰り返した。面白くなってきて、今度は友美が昔の知り合いに電話をかけ始めた。 「えー、どうだろ。セックスすると、血がつながるんじゃないの?」 「そんなわけないじゃん、たかがセックスくらいで」 「昔の人はそうは思わなかったんじゃないの? 知らないけど」  男のほうが知ってるかもしれない。おそるおそる男ともだちにも聞いてみた。 「やくざとかがモトネタじゃないの? 義兄弟とかさ」 「でも、それって盃《さかずき》をかわしたりして、そうなるんでしょ?」 「結婚式でもかわすじゃん、盃」 「そうだけど……なんか、釈然としないなあ……」  思いきって、夫にも聞いてみた。夫は、何を言い出すんだという顔でしばらく友美を見ていたが、ふと思いついたようにこう言った。 「昔はさ、お兄さんが先に結婚してさ、その人がもし戦争とか何かで死んだら、残された嫁が弟と結婚しただろ。だからじゃないかな」 「え? だってその人たち、もともときょうだいじゃない」 「だから、その裏返しで出来た言葉じゃないかってことだよ。ぜんぜん他人だけど、同じ女とセックスしてればきょうだいだって。それだけ、昔は男子死亡率が高くて、嫁の譲り受けが多かったのかな。もしそうだとしたらの話だけどさ」 「はあ……そうかそうか、そうかもしれない」  何の裏付けもないのに、友美はなんだかわかった気がして嬉しくなってきた。その上、あの脚本家は男も女も見境なく巻き込んで、そのきょうだいとやらにしていってたのかと思うと、おかしくってしょうがない。もと同僚の話し振りからして、他のきょうだいたちももうそんな彼女を完全に面白がっていたのだ。きょうだいだって! あたしは彼女のオンリーワンになりたくて、いつか彼女があたし一人を選んでくれるという願いを込めてあの劇団でがんばってたのに、その頃みんなは「あたしらみんな、きょうだいだからねえ」なんて言ってたんだ。なんてあたしはズレてたんだろう。あたし一人だけが奇妙な望みに振り回されていたんだわ。  友美の望みは、本来ならさほど奇妙なものではないと考えられる。しかし、ある団体内においてはそうなることもある。それに友美が気付くことが出来たのは、彼女自身が、一人っ子で淋《さび》しく育った家庭から出て、子どもを二人産み、子どもたちの中にきょうだいという要素をつくり出したからかもしれない。  友美は本当に一度も、きょうだいという、その俗語のほうの音を聞いたことがなかったのであろうか。もしかしたら彼女の耳は、その言葉を受け入れなかっただけなのではないだろうか。 「ママ、きょうだいってぼくといもうとのことでしょ」 「ん? そう、そうだよ」  友美は夫と顔を見合わせて笑った。    そろそろ春がやってくる。もう毛糸を編むのも終わりだ。 「ママ、ぼくうさぎさんのおぼうしほしいの」 「そうねえ、でもこれから編むとしたら、毛糸のお帽子じゃ、頭が暑いかもよ」  友美はベビーカーを押して、手芸用品売り場を歩き回った。 「こっちこっち。ねえ、こっちの糸で編んであげるよ。好きな色、選んで」 「なーに?」 「これは、毛糸じゃなくてコットンの糸なの。これだったらお帽子編んでも暑くないよ。このへんから選んでちょうだい」  春夏用の涼し気な糸が、優しい色合いで並んでいる。息子はピンク色の糸を手に取り、妹にも渡している。赤ん坊はピンクの玉を嬉しそうに受け取り、迷わずあーんと口を開けて頬張ろうとする。 「こらこらっ、だめだよ。ママにちょうだい。あーもう、あげたら食べちゃうってわかってるじゃないの」  取り上げられたおもちゃを慕って娘は泣いてしまった。しかたなく、そばにあった似たようなピンクの糸の玉を渡す。そちらのほうはセロファンでくるんであるので、少しくらい遊ばせても汚れないはずだ。娘は喜んでかぶりついている。 「はいはい、今のうちに早く選んでちょうだい」 「うーん、どっちにしようかなあ」  ピンクか白か迷っている。 「じゃあぼくが白でいもうとはピンクね」 「これは……」  ただおもちゃに渡したのよ、と言いかけて気づいた。娘に渡したセロファン包みの糸は、レース糸だったのだ。 「これはちがうの?」 「ううん……」  息子の問いに、どちらともとれる返事をしながら、友美は彼の選んだ白いコットン糸を買い物かごに入れ、ピンクのレース糸の玉をあむあむと口で遊ぶ娘のベビーカーを押して、ゆっくりと向きを変えた。そのまま、あみ針の並ぶ棚に行き、幼い頃の自分の足に突き刺さったあの細くて銀色に光るレース針を手に取った。    早春のある日、うさぎの耳のついた息子の帽子のあと、バラのモチーフを飾った、ちいさなピンクのレースの手袋が編みあがった。友美がそれを渡すと、彼女の娘はただ嬉《うれ》しそうにしゃぶっていたという。 [#改ページ]    若妻にやる気をなくさせる方法  十歳も年下のお嫁さんなんですって?  田舎から出て来たばかりなんですって?  何かの卵なの? あ、そう。  なれる見込みはあるの?  ふーん。ま、ね。なれる人ってのは、どんな事してたってなれるものなのよ。  それよりも、中途半端におだてあげて、だらだらといつまでもその気でいられる方が迷惑なものよ。  もうかなりおだててしまったかもしれない? それは仕方ないわね。結婚前ですものね。これから手綱を引き締めていけばいいのよ。結婚生活が始まったら、夢だけではやっていけないってことを教えてあげなくてはね。  まず、お料理ね。若い人は何かと手際が悪くて時間がかかるものよ。手際はいい? あ、そう。料理の本を買ってきて新しいものに挑戦している? 体にいい料理を考えたりも?  ふーん……。張り切ってるのね。  でもね、それがいけないのよ。  男の人って、結構そういうの迷惑だって、はっきり言った方がいいわよ。  だって、好きな食べ物ってだいたい決まっているじゃない? それをかわるがわる食べているってのが普通の形でしょ。そのサイクルを壊された上に、いちいち褒めてあげなければならないなんて、苦痛よ。  新しい料理が出てきたら、思い切りけげんな顔をなさい。 「なにこれ」 とおっしゃい。彼女が張り切って説明し出したら、断固たる態度でそれをさえぎってから、 「あのさー、いつも食べてるもんを、いつものローテーションでつくってくれればいいんだからさー」 と言って、料理に手をつけないこと。  そうやっていつものローテーションをたたき込んでも、それでもまだ張り切っていて、やたらと量が多かったり、盛り付けが過剰だったりすることがあるわ。  迷惑よね。  もちろん、幼児のように汚なく食べ残すのよ。  唐揚げにサラダが添えてあったとしたら、必ず、サラダの水分でぐずぐずになった方を残すのよ。  そして、その濡《ぬ》れた唐揚げが再度食卓に上る様だったら、絶対に手をつけてはだめ。何度か繰り返すと、彼女はきっと唐揚げとサラダを別々の皿に出してくるわ。  そしたらかんかんに怒るのよ。 「こんな盛り付けで食えるか」 と食卓をひっくり返さんばかりにね。  料理が温かくない場合も同じ。こんな冷めたものは食べ物じゃないと言って怒り狂うの。  お魚なんて特にそう。必ず焼き立てを出させること。それに、大根おろしもおろしたてでないとね。  その辺は対応している? そうね、手際は良いと言っていたものね。だったら、これから帰るという電話は止めるのよ。連絡しないで、できるだけ遅く帰るの。黙って外泊するのもいいわ。うっかり電話してしまったら、言った時間より一時間以上は遅い帰宅にすること。  文句を言われるですって? 言うわけないじゃない。何のための若妻なのよ。有無を言わせず自分の形に教育するために、それだけ年下の妻をもらったのでしょう?  子どもだって妻だって、早期教育が一番。結婚して三ヶ月目までには暴力を振るっておくのがいいわね。そのあたりまでにやっておかないと、人に相談されてしまうわよ。田舎から出てきて友だちも少ないうちに。そして、あなたの友だちに対等に口をききださないうちにやっておくのよ。  そうそう、お魚。お魚を焼いている時に、友だちを連れて帰ってくるのよ。そして、 「なんだこんな生ぐさい家にして」 と文句を言うの。焼き立てのお魚を要求しておいてから、煙に文句を言うことが大切よ。  少しおとなしくなってきたら、昔の女の話を聞かせましょう。 「偶然駅で会っちゃった」 なんていう内容がいいわね。 「結婚したんだー、って言われたよ」 と含みを帯びた口調でね。その次の日あたりから、帰りは遅くすること。それと同時に、 「昔一緒に住んでた女が『あたしの置いてった台所用品とかあるから、三万円振り込んで欲しいんですけど』って、うるさいんだよ、おまえ、振り込んどいてよ」 というような話も並行させるといいわね。女としてあなたを独占できるなんていう間違った思い込みは早いうちにぶち壊しておくべきだわ。この先永いんだから、何があっても文句を言わないようにしておかないといけないわ。 「俺今まで、やろうと思った女やれなかった事ないからさ。どんな手使ってでもやるんだよな」 というような話は、何の脈絡もなくするのもいいわね。  しかし、もしその時に彼女が 「実はあたしも」 なんて言ったとしたら、その場で殴りとばすこと。  それから胸ぐらをつかみ上げてひきずり回し、昔のアルバムを出させて、男と一緒の写真を全部びりびりに破くの。ついでに、男からもらった時計や本などをずうずうしくまだ持っているようなら、それも全部出させてごみ袋に入れてしまいましょう。  こういう事は、早い方がいいのよ。  あなたの家に嫁に来た女なんだから。過去も未来も消してしまうのよ。そしてその後、未来は、あなたにお伺いを立てた上で書き込んでいってやるという訳よ。  昔の男の話なんて間違ってもさせては駄目。ほんのさわりでも出たらすぐに殴るか、怒鳴るか、黙り込んでしまうかすることね。そしてそれから一ヶ月以上は口をきかないこと。自分が悪いんだから、その位してやっていいのよ。口をきかないことを定例化していけば、本当に便利よ。無断で外泊しても理由なんて言わなくていいし、口なんてきかなくたって食事は出てくるわ。お風呂《ふろ》の用意だって、むこうが声をかけてくれる。黙ってたって楽な暮らしが出来るのよ。 「どうしてしゃべってくれないの」 と彼女が言ったら、 「おまえはうるさいんだよ」 とだけ言えばいいわ。夜中にベッドの隣りであてつけがましく泣いていたら 「揺らすなよ、もう」 と鬱陶《うつとう》しくてしようがないって感じで言って、背を向けるの。  そうそう、間違ってもベッドでサービスなんてしてあげちゃ駄目よ。  相手が若いから、最初は楽しいでしょう。一応試したい事だけはやっておくといいわ。お口でご奉仕させておいて、革ベルトで叩《たた》いた? それはいいわね。でも、噛《か》まれない様に気をつけないとね。  叩いたり縛ったりをときどきやっておくと、主従関係を確立させるのに役立つわ。  関係が出来上がったら、何もやってやる必要なんてない。気が向いた時にフェラチオだけやらせて、体には指一本触れなくていいのよ。  たまに入れたくなる? それは、別にいいんじゃないの。避妊の必要もないし。若いからまだ子どもを欲しがらない? それではわざと避妊に失敗した振りをするのがいいわね。もちろん普段から子どもに対する抱負などを語って聞かせておくこと。  それでも堕《お》ろすと言い張ったなら、もう気を遣ってやる必要なんてないわ。手術直後から、 「それ、辛くしなきゃうまくないじゃないかよ」 と言ってワサビや七味を山程食べ物に入れ、彼女の体を責め立てましょう。こっちが食べ物を買ってきてやったんだから、おいしく食べる権利があるのよ。  もし手術の翌日までベッドから出ないようだったら、 「まだ寝てんの?」 と不機嫌な口調で言いましょう。 「まえ一緒に暮らしてた女は、手術の直後から家事やってたぞ」 とせかすのよ。もし気が向いたら、手術の直後でも関係なくセックスするのもいいわね。平気平気相手は若いんだから。それでまた妊娠でもすれば、そのうちあきらめて産むわよ。  何かになりたいから子どもはまだなんて、喰《く》わせてもらってる立場なのにずうずうしいじゃないの。産めないって言うんなら、何度でも中絶すればいいのよ。自分が悪いんだから。避妊なんてしてやる必要はないわ。何かになれる人は、子ども産んだってなるに決まっているんだから。  だからあなたは、出来るだけ彼女の仕事を邪魔した方がいいわ。  仕事には、必ず男がつきまとうわ。女だけの場所に出かけて行くのは許してもいいけど、男がいそうな所だったら、絶対に妨害するべきだわ。特に夜出かけるなんてとんでもない。必ず夕食の時間には全てを終わらせ、食事の仕度をして待っているべきだわ。  わざと会社を早退して家に帰り、彼女の勤め先に電話を入れるのもいいわね。 「俺家に帰ってきちゃったから、おまえも帰って来てメシつくってよ」 って。  逆らえるわけないじゃないの。何のために十歳も若い妻をもらったのよ。大丈夫、「夫が病気で」と言って帰って来るわ。妻としてあたりまえよ。  その上それを二度三度繰り返せば、もうそれだけで彼女は勤めをクビになるし、全てはあなたの意のまま。こんな小気味のいい事もそうそうないわよ。  人間を支配し、言いなりにし、好きなように動かす。素敵だわ。風呂や食事の準備がしてあって、こっちは何もサービスしてやる事はない。やりたい時だけ口の中で射精して、浮気だってし放題。でもね、養ってやってるんだからもっと尽くさせてもいいはずなのよ。  だから彼女が自分より稼げそうな仕事を見つけてきたら、どんな事があっても阻止しなければね。まず黙り込むの。食事中だったらそれきり手をつけないことね。そのまま黙って外出するのもいいわね。 「そんなに家に居るのがいやなのか」 とか、 「また夜出るのか」 と暗い暗い声で言ってうつむき、そのまま石のようになってしまうの。絶対彼女はあきらめるわ。いいえ、あきらめるまでやるのよ。何のための主従関係なの。あなたはご主人様[#「ご主人様」に傍点]なのよ。  彼女がどうしても働きたいのなら、そのうち分相応な仕事を見つけてくるでしょうよ。ウェイトレス等の、時間の決まった仕事がいいわ。その位の仕事なら、夕方には家に帰って来れるし、給料だってあなたのお小遣いに丁度いいじゃない。  給料日には、あなたがそれを何に遣うかをすっかり決めておきましょう。翌日には彼女の一ヶ月の労働は全てあなたの欲しい物に変わっているって寸法よ。ご主人様としてこんなに気持ちのいい事はないわよ。  お店のお客に食事に誘われたりしたら、もちろん行かせちゃ駄目よ。他に誰が一緒だったって、絶対許さない事。話が出たときには聞き流しておいて、当日彼女が 「じゃあ今夜行ってくるから」 と言った時に初めて 「行くな」 と言い渡すの。 「だってずっと話してあったじゃない」 などと口答えするようなら、 「命令だよ」 とか 「だんな様の言う事が聞けないのか」 とか言ってやるのよ。だいたい最初っから、そんなものに行かせてもらえると思ってる方が間違ってるの。話を聞き流していたのは、怒りの表現である、て事くらい、わかっていない方が頭がおかしいわ。  だから、否定や禁止はぎりぎりまで待って、どたん場で。その方が彼女は大恥をかき、二度と大それた事を考えなくなるわ。  おとなしくウェイトレスだけやって、あなたのお小遣いを健気《けなげ》に稼いでいればいいのに、不相応な欲なんか出しちゃいけないのよ。  他にも、自分は決してサービスしてもらえない立場だってことを叩き込んでおいた方がいいわね。養ってやっているだけで充分感謝するような性格に教育するのよ。サービスは、浮気相手だけでいいじゃない? そっちはあなたの心の獲物なんだから。  そうね、例えば日曜日に、 「今日どっか出かけない?」 と彼女が言い出したら、 「疲れてんだよ。今日はどこも出かけたくない」 と言っておいて、彼女があきらめて洗い物でもしている間に、一人で黙って出かけてしまうのはどうかしら。  彼女が楽しみにしているテレビ番組の始まる直前におつかいに出すのもいいわね。好きなタレントの出番の直前でわくわくしている時なんか絶対やるべきだわ。ビデオの予約? ビデオは彼女が結婚の時持って来たものなの? そんなの、わざと止めてしまうのよ。あとで、 「あ、止まってた? オレ知らないよ」 って言えばいいわ。ビデオが彼女の物だってそんなの全然関係あるものですか。彼女は嫁なのよ。彼女の物はもう全て、あなたの所有物なのよ。  なんで同情なんてする事があるの?  誕生日にセックスしてやった? ああ、どうしてそんなもったいないことを! また、もしかしてこれからやっていただけるんじゃないかなんて虫の良い思い込みなんかされたらどうするの。  大丈夫? 本当かしら。  それより掃除をしないですって? 猫のエサ場の周りが汚ない? あなた、猫なんて飼ってたの?  それはいいわね。猫も利用するのよ。  彼女とは全く口をきかない時に限って、猫にはたっぷり声をかけ、 「さあもう寝ようなー」 とやさしく撫《な》でながら、一緒にベッドに入るの。彼女はきっとあなたの後ろ姿を見ながら涙を零《こぼ》すでしょうよ。どう? いい思いつきだわ。  猫以下って事にしておけば、大それた事も考えなくなるでしょうよ。  え? 最近キッチンのお酒が減っている?  ……そうね、それは無視するべきね。  指摘したら、泣かれたり、話し合いにされたりしてしまうわ。そんな面倒な事! 放っておきなさい。    さあ。  最近どう?  彼女、おとなしくつつましい妻やっている?  何かになるのはちゃんとあきらめたのかしら?  何ですって。家出した。  離婚届と手紙を置いて?  どういうことかしら。自分の立場、わかってるのかしら。  捜して思い知らせるのよ。あなた、貯金残ってる? そうでしょうそうでしょう。あの女が持ち逃げしたに決まってるわ。  実家に電話して居場所を問いただすのよ。あいつらが知らないわけはないわ。  離婚なんかしてやることない。  ひきずり出して殴るのよ。殺したっていいわ。  もう一度あなたにひれ伏させ、奴隷の身分に戻してやるのよ。 [#改ページ]    弱っている日に夢に出る  こういうふうに何か考え込んでいるときは必ず家族の夢を見るんです。  もう何年も何年も会っていない妹、母、それから育ての父。実の父は出てきません。顔もわからなくなっているからでしょうか。育ての父は、似ている男を見るだけでも未《いま》だに嫌悪感をもよおします。顔が似ていなくても、つきあっているうちに同じように私を嫉妬《しつと》深く管理するようになっていった男を見かけたときも同じ気持ちになり、体が硬直してしまうのです。  今回まず母が夢に登場しました。母のために分譲住宅を買ったから、そこへ住まないかと私が持ちかける夢でした。ところが母は私の好意を無視して、賃貸住宅に住むと言い張るのです。そして、その家賃も私に出させるつもりなのです。私にはわかっていました。私が買った家は都心から離れているため、都会の生活がしたい母は気に入らないのです。家の権利書をびりびりに破いてしまった上に、私の方を振り向きもせず去って行こうとする母の後ろ姿を見ているうちに私は逆上しました。母の頭をつかみ、地面に何度も叩《たた》き付けました。母は何故か明治時代の女が着るようなロングドレスと大きな帽子を身につけていました。いつも豚のように太っていたはずなのに、たいそう細い腰をしていました。最後まで母の顔は見えませんでした。母は悲鳴もあげず、私にされるままになっていました。  それから育ての父でした。夢に出てくる父はいつも、わざとらしくものわかりのよさそうな笑みを浮かべているのです。それは、一貫して父の外面の部分でした。誰かが見ている時はあの顔なのです。母と私と妹だけになると、途端に本性を現して不機嫌になり、あの時お前はこんな余計なことを言ったな、あんなことも言いやがった、とねちねち責め立てるのです。責められるのはだいたい母と私で、なぜか妹はそこにいないのです。妹は叱《しか》ると幽霊のような恨みがましい表情になる割には涙も浮かべず、ただ貝のように押し黙ってしまうので気味が悪いのだそうです。その反応だけで叱られなくて済むのならどんなにいいだろうと私は思いましたが、そんな妹も、私が家を出たあとは、何かいやらしいことをしてないかしてないかと部屋じゅう父に付け回されたと言いますから、たいした差ではなかったのかもしれません。  そんな父が夢の中では絵に描いたような団欒《だんらん》の中にいるのです。これこそ和気あいあい、という演技の直中《ただなか》なのです。こんな場面を母はどう思っているのか私は知りたくもありません。なんだかんだ言って、母が私たち子どもよりも本当は父の方が好きだったのはもうわかってしまっていることだからです。私がびくびくしていることなんて気にもせず、きっと母は、本気で楽しいと思っているに違いありません。父はよその家庭の人間なのに、いや、だからでしょう。だからこそこんな家族ごっこのひとときが母にとって一番|嬉《うれ》しいのでしょう。くだらない、気が変わったらすぐにダメ出しが始まり、最後は暴力を振るうくせに、とふて腐れているのは私だけなのです。  あるときの夢の中では、父はその頃私が仕事場として使っていた部屋のドアの前までやってきました。私が中に入れてくれないと見ると、父は 「お前また妊娠してるんじゃないだろうな」 と言ったのです。  場所はそのたび違います。私が落ちて顔に大怪我をした二段ベッドの脇に父が立っていたこともありました。その場所でいつも父は、私がほんとに眠っているかどうか寝息を調べていたのです。その時も何かいかにもものわかりの良さそうなことを言い、私がベッドから降りてきたら捕まえるつもりでいたのです。  父も、昔の男も、まるで篭《かご》から逃げた小動物を呼ぶような顔で私を見るのは何故なのでしょうか。私はネズミやリスではありません。チーズを差し出されても、されたことは全部覚えています。なのにどうして、今にこにこすれば私をまた捕まえてペットに戻せるはず、といった顔をしているのでしょうか。  少し前、昔の男とうっかり出会ってしまったので、それを極力無視して友人たちと食事に向かおうとしたら、その男が当然のように私たちについてこようとしたことがあるのです。そのずうずうしさに、私も友人たちもすっかり驚いてしまいました。男は、自分が嫉妬のあげく私に暴力まで振るっていたことを私は友人に話していないはずだと思いたかったのでしょう。そして、そんな虫の良い考えがますます父にそっくりで、私は嫌悪感をもよおしてしまうのです。  そういえば珍しく昔の夫が夢に出てきました。  初めてかもしれません。玄関のドアを開けたら立っていたのです。どういうわけか、乞食《こじき》と見まがう姿でした。私は悲鳴をあげようとして、声が出ないことにあわてました。次の瞬間、恐怖で目が覚めました。  その男と結婚していたのは、もう二十年近く前のことです。お菓子のように甘く優しかったその男は、一緒に暮らして三ヶ月で暴力を振るうようになりました。私の家具を売った金や、わずかな貯金を全部遣われてしまったあとのことでした。  そのうち私は、先に逃げられなくしておいてから、本性を出すのが男というものなのだと学習しました。  ところが例外もあり、先の、友人たちと食事に行く時ついてこようとした男などは、自分の家庭があるのです。そこから、早朝であろうが私の予定を聞きもせず、呼びつけようとするのです。その男は他人がそばにいない時、ときどき自分のことを「おれ様」と呼びました。そして私を支配することで、おれ様としての自分を実現しようとしていたのです。  いったい私はいつの間に、男と奴隷の契約を結んでいたのでしょうか。  しかし、思えば育ての父にも家庭があったのでした。どちらの男も、年上の妻を持ち、家庭に於《お》いては小さくなっていたということです。  私は男をつけあがらせる才能を知らないうちに母から譲り受けていたのです。  私が、つきあっている男の話をすると、聞いた人は必ず 「信じられない、とてもそんな男には見えない」 と言います。私だって、そんなところなんて見たくもないのです。  男と知り合う時私はいつも、この男もまたあんなになってしまうのだろうかと心配になります。一瞬で変わってしまう男もいるからです。友人や、仕事相手でも似たような傾向が出てくる男もいます。仕事を教わっているうちに、 「もうこれで自分で出来る」 という自信をつけて振り向くと、 「なぜ俺の言う通りにしないのだ」 といった顔で立っているのです。教えてくれていると思っていたのは私だけで、相手は管理するつもりだったのです。  もちろん、そうならない男もいます。しかし、なる男の方が圧倒的に多いのです。その男たちはこんな考えを私の被害妄想だと言うでしょう。その度に男を替える私を見て、結局自分だけいい目を見てるくせにと言うのでしょう。私は何と言われても平気です。ただ誰かに自分を管理されることが我慢できないだけなのです。  さて、ゆうべは妹の夢でした。どこかのホールで、仲間うちでやっている他愛のないお芝居を見ていました。安い料金で借りた割にはそのホールは妙に広く、よって客席はがらがらでした。天井は好きな時に穴が開けられる仕組みになっていて、外から綿のような雪が降り込んでくるシーンがありました。それ以外は何ということもない芝居だったのですが、こういう場に慣れていない妹はすっかり興奮していました。帰ろうとすると、去年少しだけつきあった男とその仲間がいました。彼らが作った芝居だったのでした。彼は関係するとすぐずうずうしくなり、私を利用しようとしたので私は急いで思い切って、別れた男だったのです。なので、簡単にあいさつだけして通り過ぎようとしました。すると妹が私を、何か言いたげにねちっこく上目遣いに見ているのです。それでいて何も言わないのです。気付いてくれて当然でしょう、と視線で私を責めるのです。妹は芝居の制作者であるその男に、自分を紹介しろと態度で言っているのでした。私には日常でも、自分にとっては胸躍る世界なのだから、さっさと紹介してこの人たちと自分が会話するきっかけを与えろ、と。それでいて決して自分から声は掛けないのです。私がしてくれるのを待っている。妹は昔からそういう性格でした。仕事を手伝ってもらっていたとき、 「一回くらいテレビ局に連れてってくれたり……」 と、後の聞こえない言い方でおねだりされたことを今でも思い出すと虫酸が走ります。手伝ってもらっている間中、私の喜ぶことは何一つしない人間でした。そんな者を外のお供に連れて行きたい人間がいるでしょうか。タレントの友人が仕事場に遊びに来た時、すっかり舞い上がった妹は、彼に 「東京に来てなんかいいことあった?」 と質問され、満面の笑顔と弾みすぎてうわずった声で 「ぜんぜん!」 と答えていたのです。誰がそんな人間をテレビ局へなんか。私はそのことを夢の中で思い出してむかむかしていました。男は男で、何もなかったようなそぶりでまた私に遠回しに要求しようとしていました。  その男と先日会った時も、次々と無邪気を装った要求が提示され、私はあきれていたのでした。誰かを紹介して下さいとか、何かに呼んで下さい、私が「なんで?」と凄《すご》めばすぐに「やだなあ、冗談なのに」と逃げだせるような口調で、その要求はいくつも続いたのでした。  思い出しながら、私は黙っていました。  ついにどちらの要求も聞き流したまま、目は覚めました。 [#改ページ]    太れ僕の料理で君よ 「恐怖ってものはいつも、実は自分が予想していたことなのよ」  起き抜けに君がそんなことを言い出した朝は、幼稚園が弁当の日だった。ゆうべ息子から、ハムとみかんのサンドイッチにしてちょうだいとリクエストされていたのだ。 「例えばこの体温計を口から抜くとするでしょ」  君の口調がどうももごもごしていると思ったら、もうすでに婦人体温計をくわえ込んでいたんだ。 「抜いたときに真っ赤だったら、そりゃあ恐怖でしょ。私が寝ぼけて噛《か》み割って、口の中がガラスで血だらけで、その上、水銀だってとっくにもう飲み込んじゃってるって有り様よ」  そういえば君は以前に、朝っぱらから水銀が水銀がと叫んで僕を叩《たた》き起こしたことがあった。毎朝基礎体温とかいうやつを計る君を、なぜか僕はマリアのように限りなく優しい気持ちで見守り、異変があればすぐさま助けてあげなければならないらしい。起きて動き出す前にベッドの中で計らなきゃいけないって話だが、だったらその間にまた寝てしまわないように気をつけるのは君の仕事だ。自分が再び眠ったせいで噛み割ったのに、あんな大騒ぎにつきあわされてはこっちはかなわない。一体全体、基礎体温を計るってことはそれほどの偉業かい? そりゃあ君の言う通りにしただけであの可愛い息子が授かったのだろうし、僕がもう一人子どもが欲しいと言い出したからまた君は毎朝口をもごもごさせている訳だが、そのぶん僕だって先に起き出して朝食や弁当をこしらえているんだ。たかが二、三分君に時間を与えるためにね。こういうことにうとい僕でもどこかで割にあわないものを感じてもいる。体温計について考えられる恐怖? 朝からそんな話題はさわやかじゃない。特にこんな寒い日にはね。  僕は当てつけがましくゆっくり大きく伸びをしてから、あくびまじりに言った。 「口が血だらけで水銀も飲んでるって? だってそれはただの作り話だろ。そりゃ君は前に一度体温計を噛み割ったけど、ガラスが薄いのか割れ方が良かったのか、口の中は怪我なんかしていなかったじゃないか。水銀も、もしかしたら多少は飲んだのかも知れないが、枕の上に灰色のビーズみたいにころころ転がっていたのを見る限りでは、ささやかな量のようだった。それでも君はたいそう怖がり、僕の慰めにも耳を貸さず、こんどは電子婦人体温計なるものをさがし出して購入してきたよ、よく覚えてる。だってそれがどんなに便利で安全かをくり返し聞かされたからね。しかしほどなく電池が切れてしまった。幸せな時間は短いものさ。内蔵電池は簡単にときめきを与えてはくれるが、その実ふだんの生活には当てにならない流れ者の男のようなものなんだ。そんなわけで君は、今度はその電池をさがしに出かけなければならなくなった。電池が切れてしまったら、その棒はアイスキャンディーを刺すくらいにしか使えないからね。だが何故かその外出は先送りにされ、時は過ぎて行った。そして僕がある日の寝覚めに隣を見ると、君はいつのまにか近所の薬局で以前と同じ水銀婦人体温計を買い求め、口にくわえてぐうぐう寝ていた。つまり体温計と同時に、君の恐怖も電池切れしたというわけだ。その程度のことさ、朝一番に訪れるような恐怖なんてものはね。それを君ときたら」 「やめてちょうだい。私が言いたいのは、予想できる恐怖だけが恐ろしいということ。私、思いついたのよ。予想もできなかった事態が起こったら、それは恐怖以前の何かだってことを」 「言ってること、わからないよ。こんな起き抜けにはね。どういうわけか僕は君と暮らしだしてから年々血圧が低くなっていくんだ、永年看護婦をやっていた僕の母が驚くくらいにね。こんな朝にそこまで考えるのはどだい無理ってものさ」  君はもったいぶって体温計をくわえたまま、くぐもった咳《せき》払いを二度した。 「じゃあこんな寒い朝にますます寒いおやじギャグで妻を冷え性に追い込むあなたみたいな人にもわかるように言ってあげるわ。つまりね、口から体温計を抜いたときに真っ赤だったら怖いけど、そうねえ、例えばきみどり色だったら怖くないってことなのよ」 「怖かないよ。それはただ、君がガムを噛んでたのを忘れて寝てたってことだよ」 「…………」  君は絶句しながらも息は吸い込んでいたと見えて、わずか二秒後には挽回《ばんかい》し始めたんだ。 「ああもう、だー、かー、らー、最初のセックスのときにテレビつけながらやるような男と結婚するのは失敗だったのよ。あの日あんたはホテルの部屋にはいるやいなやテレビのスイッチを入れて。最初なのによ! そしてその上、“エッチなビデオ見ようかなあ、見てよこれ、『君の縄』だって。ははは、ははは”って帰国子女みたいな笑い方しちゃって何よあれ! 私が知らん顔してたらさすがにビデオ見るのは諦《あきら》めたみたいだったけど、あれはきっと時間がなかったからで、ほんとは見たかったのよ。最初のセックスの時にテレビつけたりビデオ見たりしながらやろうとする男ってなんで多いのかしら。目の前にある女の体に直面するのが恐ろしいのよ。この期に及んでもまだファンタジーに助けてもらうつもりなんだわバッカみたい!」 「結構な意見じゃないか。その男性経験の多さを生かして本でも出版したらどうだい。『私たち女をがっかりさせないために』。きっと売れるよ、君みたいなタイプの女に叱《しか》られたくてうずうずしてるある種の男たちにはね」 「まずあなたが買うんでしょうね。頼むわよ。部屋に一冊、会社に一冊、ベッドに一冊、トイレに一冊」 「嫌だね、そんな物でお尻《しり》を拭《ふ》くのは」  次の瞬間、婦人体温計の下半分がこっちへ飛んできた。君は悲鳴をあげ、もう半分の体温計をあわてて吐き出した。 「ぺっ! ぺっ! おえっ! おえっ! もう、どうにかしてよ! あなたのおかげでまた噛み割ったじゃないの! あたしが水銀中毒を起こしたら一体どうしてくれるのよ!」 「まず最初に何でも人のせいにするその口がひんまがるだろうよ、昔水銀だらけの魚を食べた猫の足みたいに。そしてそれは中毒というよりただの天罰、僕にとっては神様の思《おぼ》し召《め》しって所だね!」  僕はお得意の捨て台詞《ぜりふ》を残して、君をますます悔しがらせながらキッチンヘ。    さあ、息子のランチを作り始めるとしよう。  まず、まめに洗ってしまっておくには少し大きすぎる僕のまな板を出し、材料をのせる。サンドイッチ用パン、ハム、みかんの罐詰め。罐のプルトップを引っぱり上げ、ふたは『スチール』のごみ箱に捨てる。でもこのふただけどうもアルミで出来てるように思えるときもあるのだが、朝はそんなこと気にしちゃいられない。  パンを並べ、ハムを上にのせる。息子はマヨネーズが苦手だから、他には何もいらない。なんで苦手なのだろう、あんなに美味《おい》しいものを。僕なんかいつもたっぷり絞り過ぎて君から「デブのもと!」と指差され非難されているというのに。  ハムの上にみかんを並べる。春先にはこれがいちごにとって代わる。少し奇妙なメニューだが、これは僕の父から伝わる『半分フルーツサンド』だ。父はマヨネーズの海にいちごを泳がせてパンの船を浮かべていたものだ。パン屋だった僕の家でそれはまさしく人気商品だった。君も息子も「げー」というけどそれは君たちが田舎者だからだ。あの子だってマヨネーズが食べられるようになれば大喜びにちがいない。このハムとみかんのサンド、そしてハムといちごのサンドはそのメニューへの前奏曲というわけだ。 「その上あなたったらテレビのCMソングに合わせて腰を振ったりしたわ!」  僕がうっかり家に招き入れてしまった化け物が後ろから攻撃をくらわす。 「あたしがしっかり目を閉じていたのはそのセンスが恥ずかし過ぎて、顔なんか見られなかったからよ。わかってた? 恥ずかしいところが違うのよ!」  僕より血圧が低くて、朝はよく声が出ないはずだったこの嘘つき女はまだやめない。 「僕の大きいってよく言われるんだけど君もそう思う? なんて抜かしてたわ! こっちはなーんにも言っちゃいないのに!」 「あの子を起こして来てくれ」  このくそ忙しい朝に怒鳴り始める代わりに鼻と肩でため息をつきながら僕は言ってやった。 「あたしがちょっと待って、って言っただけで『痛い?』なんかも言ってたわ。たいした自信よ!」  君はこの時間、息子にランチを持たせてバスに乗せるほうが先決だということさえ忘れているらしい。今日の僕の捨て台詞はちょっと上出来過ぎたようだ。 「言っただろ。あの子を起こして来てくれ、時間がないんだ」 「あの日も時間がないって言ってたわね。あれは何かの予防だったのかしら。早く終わった男と思われたくない? それともあたしから早く逃げ出したい?」 「そのニューヨークのちんぴらみたいなイントネーションはやめろと言っただろ。いったいどこから感染してくるんだ。新装開店の日に『本日オープンよ』と言ったり、疑問形でない文や、きちんと記憶しているかどうか自信のない名詞を全部尻上がりに発音したり、聞き苦しいったらありゃあしないよ!」 「こういうのはあなたたちおじさんが、長い名詞の不自然な略称をまめに考えては口にして、この世で一番可愛がってるティーンエージャーの女の子たちに真似させ悦に入ってたのが初めでしょ? そうそう、あなたたちは何でも女の子に真似させるのが大好きなのよね。一人でも真似してくれてる子を見かけたら、今度は女の子たちがつくり出したものだということにして、やたらと騒ぎ立てるのよ。だけど、あたしたち大人の女が真似するのは気にいらない。あなたが今聞き苦しいと感じたのは、それを口にした私が思春期の少女じゃなかったから。少女が言ったのなら、あなたの耳には心地よく響いたはずだわ。あなたたちはただ少女と恋がしたいだけのために様々なことをでっちあげる。ただし伝染し過ぎて彼女たちの年齢層が小学生あたりまで下がってくると、今度は無視することによって絶滅させるようにしむけるんですってね。それは罪深さに気づいた? それとも相手が小学生だと、彼女らはまだ私たちの支配下にある?」 「時計を見ろよ! それ以上しゃべり続ける気なら、欠席の電話は君がするんだな!」  足音が遠ざかり、代わりに「起きなさい」という声が聞こえた。やれやれ、やっと重ねたパンにナイフを入れられる。こういう作業には落ち着きが大切だ。今日のパンはサンドイッチ用だから、切るのも簡単。耳を落として使うときには、特製の「耳フレンチトースト」の製作が待っている。僕のフレンチトーストは世界一評判がいい。息子は、ちょっと声をかけられた仕立て屋の職人にまで、 「お父さんのつくるフレンチトーストはものすごーくおいしいんだよ。ぼく、ぱくぱく食べちゃうんだよ」 なんて話すもんだから照れくさくてしようがない。しかし、そこで必ず、 「そうそう、お父さんはああいうデブのもとのような料理は大得意なのよ」 と水を差すのが君なんだ。まったくもって失敬にもほどがある。良質のバターと白いグラニュー糖、たふたふとした牛乳、どこが悪い! 見ろこの冷蔵庫を! いつのまにか牛乳はローファット、植物性マーガリン、砂糖つぼには茶色い砂糖だ! そりゃあミネラルは豊富かも知れないが、きび砂糖や三温糖じゃ、あの綺麗《きれい》な卵の黄色がにごってしまうじゃないか! バターだってね君、あれがあるからこそすべての焼き菓子は熱が冷めてもしっとりしていられるんだぜ。君はそんなふうだから、風が冷たくなってくるとストッキングを半日でだめにしないために手や足や足の裏にたくさんの油脂を塗りたくらなきゃならないんだ。馬鹿馬鹿しいと思わないか? 詰まるところ君の自慢は、牡蛎《かき》のフライを二個も食べると必ず胸やけを起こすご立派な胃袋ってわけさ。 「なんてこと! 朝からゲームはやめてちょうだい!」  また君の叫び声だ。 「がまんできないのよ、そのピザを要求するモンスター! そんなやつにピザなんか作ってあげてないで、ぶんなぐったりして通れないの?」 「だってズンビーニにはお手々がないじゃないの」 「どういうけんかなんだよ」  僕がランチボックスを持って現れると、君の怒りは再びこっちへ向けられた。 「あなたまで一緒になって毎日毎日ズンビーニばっかしやってるから、この子も朝から当然続きをやるつもりでこうしてマックをつけたりするのよ」 「それほどよく出来てるんだ、しようがないじゃないか。夢の中でまでテトリスやってた君にはかなわないよ。対戦式しかやらないくせに、酔っぱらった君には誰も勝てなかった。酒を飲んだ君はテトリスの女王だ。なぜ酔うと強くなるのか僕は知りたいよ。しまいにゃ社長の椅子を賭《か》けるとまで言い出すほどの酔っぱらいが、なぜあんなに強いのか」 「社長の椅子なんてもう要らなかったのにね」 「要らない椅子を譲っていただいて有り難き幸せだね」 「ぼく、ちょっとおトイレ行ってくる」 「うんちだったらちゃんと拭くのよ」 「うん」 「まったくどうして男ってちゃんと拭《ふ》かないのかしら。その上そのパンツを洗ってくれなんていうのが大昔はプロポーズの言葉だったのよね、ああおぞましい。そんな恐ろしい時代に生まれなくてほんとうに良かったこと!」  独り言にしては大きな声で、君はまだ続ける。 「嗅覚《きゆうかく》が弱いくせに、臭いものはみんな女に押し付けてくるのはなぜなの? 思想を持つ余裕のないタイプの女だって、たまには反吐《へど》くらい吐きたくもなるわ!」  僕は息子のためにドリンクヨーグルトを用意し、朝の果物や卵、ソーセージを皿に盛る。 「子どもを持つまで知らなかったわ、男はたとえ二歳児だって例外なく足が臭いのよ! それにトイレを汚すのは必ず男。なのに、どうしてそうじは女がしなきゃならないのかしら? こんな不思議は他にないわ!」 「いいかげんにしてくれよ、こっちはこれから朝めしなんだぜ」 「あなたこそ、青い鼻のズンビーニを『青っぱな』って呼ぶのやめてよ、食事中に! はなの意味が違うでしょ? あれ以来ぜんぶ二人して青っぱなだの縁っぱなだのオレンジっぱなだの赤っぱなで、聞いてるだけで気持ち悪くなるわ。もっと別な言い方を考えたらどうなの?」 「鼻の色で通れる道が違うんだよ」 「そんなこと聞いてないわよ!」 「青っぱながどうしたの?」  息子が濡《ぬ》れた両手をぶんぶん振りながら走って戻って来た。 「この子ったら、続きを人にやられてると思ってあわてて戻ってきたのね。もう! なんでちゃんと手を拭かないの?」  そう言いながらも、濡れた息子の手をわざわざタオルを出して拭くのは君、放っておけばいいのにと思うのは僕だ。文句は多いくせに結局息子には甘いんだ、おんな親ってやつは。 「もうゲームはだめだよ。ごはんの間はお休みっていつも言ってるだろ」 「終わったらやっていいの?」 「そんな時間ないわよ。あとは帰ってきてから!」  僕は息子と自分のための朝食をテーブルに並べる。いま君の分がないのは、いつも君がこれからまたベッドに入るからであって意地悪なんかじゃない。それらはちゃんとキッチンに残してあるんだ。  胃の弱い君は食べてすぐ寝ると必ず胃もたれを起こし、口のまわりに吹き出物をつくる。君のか弱さのすべては胃袋に集中しているらしい、僕なんか腹いっぱいのままぐうぐう寝たって平気だ。もっとも最近は、食べたあと三時間は君から眠ることを禁止されている。おかげでずいぶん体重が落ちてきたけどね。 「ほら消しなさい、ズンビーニ」  ちゃんと消すようにしないと、いつのまにか息子の右手にはマウス左手にはトースト、その半開きの口からはパンの屑《くず》がこぼれ落ち、画面ではせっせとズンビーニたちが旅をしていたりするのだ。その上僕までが「そっちは通れないだろ!」などと思わずアドバイスをしてしまって、君にまたまたいやみを言われてしまうのだ。 「じゃあテレタビーズ見てもいい?」 「ちゃんと食べるんだったらね」 「あたしは気がすすまない。だいいちこのリモコンがいつも偉そうに、まるでこの部屋で一番大切なものだと言わんばかりにテーブルのど真ん中に置いてあるのは我慢ならないわ。ザッピング出来る神経の持ち主! 信じられない」 「民放二局じゃしたくても出来ないだろうがね」 「どうせあたしは田舎者。国際結婚ありがとう!」 「ねえ、見ちゃだめなの?」 「もう付いてる!……ねえティンキーウィンキーなに食べてんの?」 「タビートースト」 「あなたに聞いてないわ」 「ぼくもタビートースト、食べてみたいなー」 「ポーちゃんて女の子なの?」 「君のほうがよほど食事の邪魔だよ」 「あたしはふだん見てないのよ」  君は息子のヨーグルトに手を伸ばし、ぐびぐびと音を立てて一息に飲んでしまった。僕は君ほど喉《のど》を大きく鳴らすことが出来る人間を他に知らない。君がキッチンで小瓶のミルクを飲んでいるとバスルームにいてもその音が聞こえるくらいだ。  少し乱暴に置かれたコップの振動で、棚の上のダンシングパラッパーが歌とともに肩を揺すって踊り出した。 「ああ驚いた。スイッチ切っといてって言ったじゃないの!」 「ぜんぶ飲んじゃったー」 「またついであげるわよ」 「そろそろ着替えの時間だぞ。急いで食べなさい」  そう言いながら僕はランチボックスをゴムバンドでとめ、ナプキンで包んでさらに布の袋をかぶせて息子のカバンに入れる。そしてガーゼでくるんだプラスチックのコップを袋に入れ、これまたカバンに突っ込む。君は息子に白いポロのボタンダウンシャツを渡し、制服のズボンやネクタイをその横に並べる。息子はそれを見て、口をとがらしている。 「お父さんのネクタイはほんものなのに、なんでぼくのはにせものなんだろう」 「何のこと?」 「ゴムのついたネクタイはほんものじゃないって最近気づいたのよ」 「君が教えたんだろ」 「そうだったかしら」  そうさ、君は息子にそういうことばっかり教え込む。朝からお気に入りのコロンを選んで、手首や耳の後ろから果物やお菓子の香りをさせながら出かける幼稚園児(それも男!)は彼くらいだろう。君はちゃくちゃくと息子を自分と同じタイプの人間に仕立て上げようとしてる。いつでも最大の関心事は異性のこと、たとえぺこぺこにお腹をすかしていても人の目を引く服を身につけ、隣に座った人間が異性なら、誰であろうと並んでいるだけで関係しているように見えてしまうそんなやつに! だって君は今でもそうだもの、結婚したって子どもが出来たって、そんなことで君のパワーは全然衰えたりしなかったよ! 「急ぎなさい。歯みがいて顔洗って、乳液つけないと、そのカサカサに!」  子どもの顔の乾燥くらい放っておけばいいのさ。香りのいい高価なボディミルクを買い与えるのも僕には納得がいかない。息子は調子を合わせて「いい匂い〜」なんて言いながら風呂《ふろ》上がりに使ってるけど、どれだけわかっているものやら。「そんなふうだからあなたには嗅覚が育たなかったのよ」? ああそうでしょう、そうでしょうよ。まだ鼻くそをほじって口に入れるような年頃からコロンだと? 僕は少なくともそんなちぐはぐな家には育たなかったね! 「急いで、もう時間よ!」 「奥様こそ、お着替えは?……ああ、そうか。今朝もバス停に連れて行くのは僕の役目ってことなんだね」 「いやみな台詞《せりふ》が何よりも上手な夫のおかげで婦人体温計をまっぷたつに噛《か》み割った朝に、にこにこしてよそのおかあさんたちと顔を合わせられるほど私、ずぶとく出来てないの」  画面ではテレタビーズたちが、CGのテディベアのタップダンスに大喜びしている。 「できれば買ってきて欲しいんだけど、『婦人体温計』。覚えられて?」  あわてて着替える僕の後ろで奥様がおっしゃっている。 「あいにくまだ薬局の開いている時間じゃないんでね。それに悪いけど僕は、婦人体温計はあそこに突っ込んで体温を計るものだ、とかあそこの大きな女がタンポンのスーパーサイズを使う、とかいう類《たぐ》いの勘違いをしたことがない男だ。わかるかい。女を知り尽くしてるって意味じゃないよ、まるきり逆だ。そんな空想をする手がかりさえない暮らしだったんだ、君に会うまでは。女性向けの雑誌すら手にすることが出来ない野暮なのさ。そんな僕が、薬局で『婦人体温計』を買い求めるだって? 死んだほうがましだね!」 「あそこってどこ?」  息子がゴムネクタイを頭にくっつけ、ブレザーに片腕を通しながら聞く。 「いいから早く着なさい! そのかっこう、酔っぱらいそのものよ!」 「お母さんどならないでよー、何でそんないらいらしてるんだよー」 「予想できる恐怖だったのよ。あのとき最初っからテレビつけるような男と結婚したらどういうことになるか! ずっと恐怖だったのにあたしはその中に飛び込んでしまった。ということは恐怖とはつまり、自分の責任? 我慢しなければならない? だったらあたしにとって、予想もつかなかった恐怖以前のことってどういうことなのかしら? それは例えばテレビやビデオに頼らないでセックスする男と結婚する? 少女との恋愛を夢見ない男と結婚する? そんなこと、ありえない!」 「ほら、もう行くぞ」  僕はまた息子が君に質問し出す前に、彼にコートを引っ掛けてドアの外へ押し出した。 「いってきまーす」 「……いってらっしゃい」  ドアの閉まる音、続けて君が議論をあきらめて内|鍵《かぎ》をかける音がした。 「やっと悪魔から逃れられた」 「お父さん、悪魔って誰のこと?」 「なんでもないよ」 「あっ、エレベーターのボタン、ぼくが押すー! ねえねえ、悪魔ってお母さんのこと?」 「お母さんはね、ときどき悪魔になるんだよ」 「でも、やさしいときもあるよ」 「そりゃそうだ」  エレベーターは僕たちを置いて上の階に行ってしまった。こんな朝は、出来れば誰とも同乗したくない。 「階段で行くか?」 「お母さん、やさしいときはケーキ焼いてくれるよ」 「そうだね。やさしいときにはね。ほら、エレベーターが来たからもう静かにしてなさい」 「おはようございます。寒いですわねえ」  よりによって最も会いたくない人物がそこにいた。何をそんなに話すことがあるのか、いつも玄関ロビーで誰かを捕まえてはながながと話し込んでいる主婦だ。僕も一度、彼女がどんなにこの玄関ロビーを綺麗《きれい》に保つために無償で働いているか、十数分にわたって聞かされたことがある。なんとか離れられたと思ったら、僕の車の移動中になぜか手招きをしてやって来る。何ごとかと窓を開けるとたださっきの話の続きだったのだ。あまりのことに僕は、 「おそうじ大変なんですね。こんどお手伝いさせてもらいますよ」 と言ったら、 「ああら大丈夫ですよー、わたしひとりで手は足りてますからー」  なんてこった! だったら、黙ってやってくれ!  暇な女ってやつはみんなこうだ。誰かのために何かするにしたって絶対にひっそりとやったりしない。その前後には必ず大量のくだらないおしゃべりがべっとりと張り付いていて、それをまき散らすことなしには空き罐一個だって拾えない仕組みになってるんだ。「私は人の役に立っている」「私はよくやっている」と呪文《じゆもん》をとなえながらじゃないとやっていけないのさ。何故だか知ってるかい。可哀想だが僕は知ってる。しゃべらずにいられなくなるのは、それが金の出ない仕事だったり、やらなくても世の中の動きは何も変わらないような仕事だからなんだ。いくら頑張っても、誇りだけではお茶代も出ない、淋《さび》しいのさ。常に自分をほめてあげながらでないと馬鹿馬鹿しくてやってられなくなるから、噴水みたいにしゃべるんだ。 「ぼく、タビートースト食べたいなあ。お父さん、焼いてちょうだい?」 「ああ、そのうちね」  おお、神よ! こんな会話をこの主婦が聞き逃すわけがないではないか! 「あら! お父さんが作ってくれるのー? いいわねー、お料理上手なお父さんで」 「うん、お父さんのフレンチトーストはねえ、すっごくおいしいんだよー」 「あらまあ。お母さんも大喜びねえ」  息子よ頼む、姿を変えてやって来た悪魔の誘いに乗ってくれるな。 「お母さんはねー……」 「ほら、エレベーターついたぞ! バス停はこっちだろ!」  すぐに人のあとに付いて行ってしまうくせのある息子の手を引いて、僕は彼女と反対方向に歩き出す。息子は微笑む悪魔にそうとも知らずに手を振っている。 「バイバーイ」 「はい、行ってらっしゃい」  危ない所だった。まだまだ聞き足りない彼女の好奇の視線が僕の背中に突き刺さる。暇な女は嫌いだ。同じおしゃべりでも、いつもやることが山積みでしょっちゅういらいらしている君のほうがまだましさ。    バス停にはまだ誰もいなかった。 「早かったかな」 と思ったら、メモが張ってあった。 「どうしたの?」 「全員、風邪で休みだそうだ」 「みんなお休みなの?」 「ああ。急に寒くなったから、風邪引いちゃったんだろ」  僕のため息が白い筋になって流れて行った。よく考えたら今日は、休日にはさまれた、しかも弁当の日なのだ。 「母と子のきずなは、深くなるはずだよな」 「ねえねえ、お父さん。ぼくね、だいじなはなしがあるんだけど」 「何だい」  口に手を当てるポーズにつられて僕が耳を差し出すと、彼は確かめるようにささやいた。 「タビートースト、ほんとにつくってくれる?」  この幼稚園児は友人の欠席の理由なんかこれっぽっちも気に留めちゃいなかった。さっきから彼の頭はタビートーストのことでただただいっぱいだったのだ。 「ああ、いいよ。でもどうやって作ればいいんだろうね」 「あのねー、ララとティンキーウィンキーはねー、きかいのスイッチを入れてお皿をよういしてまってたんだよ。そしたらきかいからぽーんって出てきて、ララのお皿の上にのったんだけどー、ティンキーウィンキーのときはどーんどんでてきて、おうちの屋根からもでてきてディプシーがびっくりしてー、ポーはうきゃうきゃよろこんでー、そいでみんなでぜーんぶ食べちゃったんだよー」 「ああそうだね……でもあの機械は、うちにはないだろ?」 「じゃあでんきやさんで買ってきたらどう?」 「きっと売ってないと思うよ……うーん、じゃあケーキミックスを使うか?」 「ケーキミックス?」 「だってあれはきっとパンケーキみたいなものだよ。そうだ、まとめ買いをしていたワッフルミックスがまだあったかもしれない。あれを丸く焼いて……」  そこまで言って僕は、息子のせつなそうな表情に気づいた。 「……ああそうか、ほんとにトーストだと思ってるんだね、パンを焼いてバターを塗った」 「うん」 「そうか、じゃあパンを丸く切って……それだと小さいのしか作れないよ、それでもいいかい?」 「うん!」 「そうか……顔はどうしようかな。クリームで描くか? そこだけパンが白くなるように焼くのか? それだとちょっとむずかしいな……」 「はやく食べたいなー、タビートースト」  息子はもうわくわくしている。 「その前にこないだ買ったパラッパーのトースターでパラッパートースト焼いてあげよう」 「パラッパートースト?」 「そう。あのトースターでパンを焼くと、パラッパーの絵のついたトーストが焼けるんだよ。まずそれを食べよう。その間にタビートーストの作り方を考えるよ」 「うん! お父さんはトーストの天才だもんねー! ぼくねー、お父さんだーい好きだよ、おデブさんでも好きだよ!」 「そうかい嬉《うれ》しいよ。ははは、ははは。しかし、デブは余計だ」  そう言いながら僕は、幼稚園のマザーズデー・パーティーから帰って来たときの君の話を思い出していた。 「壁にね、子どもたちが描いたお母さんの絵が張ってあったのよ。たぶんテーマは、『一番好きなお母さん』。一緒にお風呂《ふろ》に入ってくれるお母さん、一緒に寝てくれるお母さん。運転しているお母さん。そうね、一番多いのはやっぱり『お料理しているお母さん』だったわね。ところがあの子、何描いてたと思う? 『お父さんのつくったごはんを喜んで食べているお母さん』よ。そんなお母さん描いてるのは彼だけ。あたしもう、涙流して笑っちゃったわよ」  バスがやってきた。 「おはようございまーす。あら、お一人だけですかー?」 「風邪でお休みだそうです」  僕は息子の担任であるその色白の先生にメモを手渡しながら言った。 「わかりましたー。それではお預かりしまーす」  バスはドアを閉め、僕に手を振る息子を乗せながら走り出した。まもなく彼は手を振るのをやめ、先生に何か話しかけている。タビートーストに関する抱負かも知れない。どうやって作るかな。いやまだ、パラッパートーストがある。あれで時間は稼げるのだ。問題は、顔をどうやって描くかだよな。うまく出来たら、彼の好きなハムとみかんを隣に添えてやろう。 「そうだ、そうだ、うん。あれは、ふただってスチールだとも。大丈夫だ」  僕はそうつぶやきながら、歩き始める。僕と君の会社に向かう道を、ゆっくりと。 [#改ページ]    働く妻にやる気をなくさせる方法  働く妻は料理をしない。自分が稼いでいるので、外食できる事を当然としている。働いてない妻たちはたまにファミリーレストランに行く程度の事で大喜びするのに、図々しい限りである。  しかしその怒りを単純に妻にぶつけるのは利口ではない。  まず妻に、自分は外食するのは苦手であることを告げる事から始めよう。そして、疲れているなら僕が食事を作るよ、と優しく提案するのだ。  面倒臭がってはいけない。君が食事を作ることは、すぐに近所で評判になる。男が料理するという事をなめてはいけない。すごいことをしてやっているのだから、妻は周りの人に君の業績を話して当然なのだ。  しばらくして妻が珍しく台所に立ったら、その努力の結果は、たった一言で褒めてやろう。  次回、妻が料理した時も、必ず前回と同じ一言を使用しよう。  その次も、その次も、必ず同じ一言だけを言うのだ。決して他の表現を一字も加えてはならない。絶対に同じ一言、三文字程度が最適である。これを永遠に続ける。  君が毎回同じ一言しか言わない事に気づいた妻はやがて、普通の料理を作るのをやめて、変わった料理に挑戦する様になるだろう。そこですかさず君は、調理用具専門店に行って、プロ用の高価な鍋《なべ》を妻の稼いだ金で買い与えるのだ。それも一つではいけない。必ず二つ以上買い、仕舞い場所に困るようにする。プロ用の鍋は取手もふたの持ち手も金属で、キッチンミトンがなければ料理できない上に、大変重い。置き場所もないので、今度は妻の稼ぎで大きな棚とキッチンミトンを買い、収納場所を増やすと見せかけて台所を狭くしてやるのだ。  妻は次第に料理を作るのをやめ、今度は子どものためのお菓子などを焼く様になるだろう。子どもならば、いくつも言葉を遣って褒めようとするからだ。この時を逃してはならない。マニアックなミキサー、下手に扱うと指が飛びそうな鋭利な替刃が何枚もついた、説明書を熟読しなければ触ることも恐ろしいフードプロセッサー、一瞬でメレンゲの出来る泡立て器、重くて女一人では持てないくらいのケーキのショーケース等次々と見つくろって、妻の稼いだ金で買い物を楽しむのだ。妻がだんだん気が重くなり、暗い表情を見せる様になっても、買い物をやめてはならない。親切で買ってやっているのだ。君は正義なのだ。  ある男の妻は、お菓子専用の職人用オーブンを買い与えられた所で音を上げ、一切台所に立たなくなったが、その代わりに夫に従順になったという。時々夜中に酒を飲んで一人で泣いているそうだが、そうでなければいけない。夫に従ってこそ妻なのだ。他の全ては犠牲にすべきである。  言い忘れたが、君が料理をし始めたら、洗い物、生ゴミ捨て、ガスレンジ周りの掃除などは、めったな事ではしてはならない。台所の悪臭は妻への攻撃の中でも最も有効な物の一つである。外から訪ねて来た人物は、必ずその臭く汚れた台所を妻の作業場だと思うのだから、妻の友人が来ない様にする効果もあるのだ。  そう、とにかく人が訪ねて来ないことが大切である。外からの視点が入れば、君の計画は失敗してしまう。まず部屋は、掃除が不可能な程散らかす。絶対に片づけようとしてはならない。片づけると見せかけて棚などを買い、ますます物を増やすのだ。妻の好きな本などは、二度と読めない様に一緒くたに箱に詰め込み、邪魔だったからと告げよう。妻が洋裁などの、稼ぎにならない不愉快な趣味に凝り出したら、ミシンや材料などが取り出せない様に、子どもを喜ばせる為と見せかけて、絵本についていたポスターなどを、妻の趣味の物の並ぶ棚に張り付けよう。  家中がゴミ箱の様になったら、妻の外出が多くなってくる事がある。次にはこれを阻止する方法を教えよう。  まずベビーシッターを馘《くび》にする。妻が理由を尋ねたら、使いものにならなかったと言う。次のベビーシッターが来ても、また馘にする。これを何度も繰り返す。もちろん、ハウスキーパーなどは絶対に雇ってはいけない。僕がやるから、と言っておいて、部屋を汚なくしていくのが大切である。ベビーシッターにいくら払ってると思う? という話も効果的である。彼らを全部馘にしておいて、徐々に「全部僕がやっているのに、君は外出ばかりしている」と愚痴を言い始めるのだ。  それでも聞かない様なら、ドアチェーンをかけて寝てしまおう。夜中に帰って来る妻の方が異常なのだから、そのくらいやっても良いのだ。どうしてチェーンを、と聞かれたら、子どもと一緒に帰ってきた時に自然とかけてしまっていた、と話し始め、それがどんなに大変かわかるかという話に変えてしまおう。  結婚した時に妻が運転免許を持ってなかったら、結婚後の免許の取得は必ずさせないようにする。もともとあまり女は車の運転にむいてない。 「君は運転なんかしない方がいいんじゃないかなあ」 と薄笑いを浮かべよう。 「社会の迷惑だよ」 などと言ってみよう。  それでいて一方で、妻の稼ぎを遣って車の台数を増やすのだ。五台にもなると、たまに 「私もやっぱり免許取ろうかしら」 などと言い出す場合がある。まめに聞き流し、何度言われても忘れたふりをしよう。  遂に妻が 「合宿免許なら取れるかもしれない」 と言ったら、すかさず 「浮気するから駄目」 と断言しよう。  外出させない為には、ペットを増やす事も効果的である。「僕が面倒を見るから」という事にしておいて、猫、犬、魚、ハムスター、うさぎなど、やたらと購入しよう。家中、ペットの臭いが充満すれば、人が訪ねて来なくする事にもつながり大変よろしい。うさぎなどはベランダでどんどん繁殖させ、糞《ふん》の掃除など絶対してはならない。野菜、ラビットフードなど山程買いだめし、家中散らかす。妻が「何とかしてよ」と叫び出したら、生返事をして聞き流し、忘れたふりをする。うさぎはよく増えるがよく死ぬから、死体は無雑作にビニール袋などに入れ、生ゴミと一緒にしておく。 「僕は動物好きなのさ」 「子どもの面倒を見る男は、ペットも好きなものだ」 と常にアピールしておけば、妻は次第にあきらめる。  あきらめさせる事が大切である。  妻の好物の食べ物などは、大の大人が数人いても食べきれない程妻の稼ぎで買いだめし、冷蔵庫の中でうならせておく。妻が外出し外で食事したら食事しただけ、腐っていくという訳である。  妻が新しいジャンルの仕事に手を出すのもよくない。トラブル、外出が増える。伝言を忘れたり、ねちねちといやみを言い続けて、もとの安定した仕事の世界に戻すべきだ。新しい場所を開拓すれば新しい出会いもある。それらから妻を遠ざけておくのだ。もしもそれに失敗し、新しい仕事が成功してしまったら、すかさず大きな買い物をしておく。不動産が一番良い。それと同時に妻にかける生命保険をまた一つ増やす。  不動産はいくらあっても良いし、生命保険はいくらかけてもかけ過ぎということはない。家が増えたらその度、大量の買い物をして家中物だらけにしておく。足の踏み場がなくなったらまた家を買う。妻の稼ぎは君が遣う為にあるのだ。借金してでも家を増やし、全部妻に払わせるのだ。働かせてやっているのだから、そのくらい当然である。  女が社会で働く事にはまだまだ障害が多い。君が料理をしたり、物を買う事によって彼女を助けているのだから稼げるうちに体をこわしてでも稼いでもらう。そして不動産や物を沢山君のために残すのだ。最終的に彼女の体が遣い物にならなくなるのはやむを得ない。  稼がせる為にはあまり何人も子供を産ませるのもよくない。稼いでいられるうちは働くべきなのだ。働きながら一人産むのだって恵まれている方なのだから、そうそう二人目を産ませてはならない。 「また仕事の予定を組むのが大変だよ」 「ねえ仕事は誰がするの?」 などと時々言って思い知らせる様にする。もちろんなるべく妊娠しないよう、子づくりには協力的であってはならない。逆に相手が疲れている時に積極的に交渉を持つようにする。断わられたら、 「じゃあ自分でするから資料になってよ」 と言って性器をいじりまわす。こうすれば眠れないし、妻には不快な疲れだけが残る。そのうち会話も 「資料資料」 とだけ言うようにして、下着に手を突っ込む。もし濡《ぬ》れていたら 「濡れ濡れ〜」 とはやし立てる。その場合は軽く歌うようにするのがよろしい。女はこういう子どもっぽくてムードのない言動にいちばんいらだつものだ。なるべくしつこく繰り返す。するとうまい具合に性交渉が減っていく。うんざりさせるのが一番効果的なのだ。  妻が酒におぼれる様になったら、不動産を増やす。酔ってからまれたら、知らんぷりして寝てしまう。相手にしてはいけない。  妻が寝る前に読書をするようになったら、ライトを片づけてしまい、「掃除しといたよ」と言う。  子どもが病気になったら 「君が外出してばかりいるから淋《さび》しいんだよ」 と言い、病院には連れて行かないようにする。小児科に連れて行くのを妻の役目にすれば、妻の外出を減らす事にもつながる。皮膚病などは、なるべく気づかないようにして、妻に手当てさせる。汚ないものを触るのは妻の役目とするべきだ。子どもの排泄物《はいせつぶつ》等も同じである。もらしたりしたらなるべく放っておき、妻に始末させる。万一気づいてしまったら、大げさに汚ながって、妻に押しつけるのだ。しかし外に対しては 「彼女は忙しいから、子どもは僕が育てているんですよ」 というアピールを欠かさない。外がわから目立つ所には、手を抜いてはならない。  トイレの掃除も必ず妻にさせる。掃除したら、すぐ汚すように。壁に小便を飛ばすのがよい。  休日は、すぐ外出して買い物をする。そうすれば妻が「掃除して」と頼む隙もなくなる。買い物をしてまた物を増やせば、家が散らかり、来客もなくなる。  インターフォンなどは、鳴っても絶対に出てはならない。宅配便だったら、不在の通知が残るのだから、それを見てから処理すればよい。他人に向けて門を開かない生活にすることが何よりも大切だ。でないと放蕩《ほうとう》な妻を追いつめるのが難しくなる。電話番号もなるべく人に教えない。妻が教えたら、いやな顔をする。妻が電話している時は、子どもを騒がせ、テレビの音量も下げない。テレビは数台置き、常に全部つけておく。責められたら 「子どもがいくつもついてるのが好きなんだよ」 と言う。子ども番組はビデオテープに全部|録《と》っておき、一つのテレビはそれをエンドレスで再生させておく。ゲーム機も数台置き、一度につけておき、ソフトも片っ端から彼女の稼ぎで購入して床にまいておく。子どもは次々と飽きてはソフトを取り換えるから、いつまでもテレビやゲーム機に子守りをさせておける。その間君は寝っころがって自分の好きな番組を見ていられる。それでも必ず外部には 「子どもは一日中僕が見て、彼女は外出しっ放しですからねえ」 と言い続ける。  その他にも、とことん金のかかる趣味を持つのが良い。もちろん全部妻の稼ぎで行ない、彼女には全面的に協力させる。生意気にも、 「私はこうしたいな」 と提案しだしたら 「そうだね、やってみようか」 と言い、聞き流し、忘れたふりをする。何度でも根気よく無視してやれば、いつか彼女はあきらめる。妻は夫のいいなりになる事に喜びを感じるようでなくてはならない。そのかわりこちらがやりたい時は、体をこわしていようが絶対に協力させる。人に弱音を吐こうとしたら、じわじわと責める。病院には決して連れて行ってはならない。病気は怠惰である。気が張ってさえいれば働けるはずなのだ。一瞬も休ませてはならない。働けるうちは働いてもらい、稼いでもらわなくてはならないのだ。  そして君は、彼女の稼ぎで飽食するがよろしい。体重は増やせるだけ増やそう。トドのようになった体でねそべってテレビを見ていよう。食べてすぐに眠ればいくらでも体重は増やせる。彼女が責めたら、 「君の世話が大変で、なかなか眠れないんだ。眠れないくらいなら太っていた方がましだよ」 と言い、生活を変えてはならない。  彼女も子どもたちも、なるべく同じように太らせるよう仕向けるにこしたことはない。太れば彼女の浮気の機会も減るはずだ。できるだけみっともない女にして、外出を減らさせるのだ。  そのために、食事は尋常でない量を作るようにする。食べ残した子どもは、口を極めて叱《しか》る。子どもはびくびくしながら食事するようになる。そうすれば彼女も食事を残したりしなくなるはずだ。  眠る時はなるべく離れ、背中を向けるよう位置を考える。  寝具は布団にして、指摘されるまで絶対に万年床にしておく。マットレスなどが必要以上にセットされた、ダブルサイズの高価な物にその都度買い換える。布団を上げるつもりも干すつもりもない事を態度で見せておくのだ。来客を防ぐのにはこれが一番である。たとえ妻が布団を上げようとしても、押し入れの狭いマンションでは、全部は片づけられない。  しかし、年に一回だけ、一ぺんに知り合いを招いて、盛大な宴会を催す。そしてその日に、君がどんなにまめな夫であるかを最大に演出するのだ。そうすれば、よもやふだんは全面的に人をシャットアウトして暮らしているなどと思う人はいない。妻がいやがるくらい準備に金と時間をかけ、過剰なほどやるのだ。妻の稼ぎでやるのだから、遠慮はいらない。ここでも思い切り買い物を楽しむ。翌日からの生活に支障をきたすくらい買い込むのだ。妻は内心いやがっていても、来客に餓えているから協力するはずである。客が 「素晴らしい宴会ですね」 と褒めても、決して 「彼女が稼いでいるおかげです」 などと発言してはならない。君を立派に見せるための宴会なのだから、なるべく妻はただの酔っ払いに見えるようにしておくのだ。妻がその宴会で料理の腕を見せようなどとたくらんだら、それとなく邪魔して、 「君はお客の世話をしていてよ」 と言うようにしよう。そういう時にはきちんと人を雇い、彼らにやらせるのだ。妻はただ怠けているように見えなければいけない。  宴会の際の食料は必ず買い過ぎ、余りに余るようにしておく。その始末のため、妻のその後の外出を防げる。妻の好物を中心に買い過ぎておくのがコツである。  妻が仕事部屋や作業場が欲しいと言い出したら、それに住居をつけられる規模の不動産を借金してでも買ってしまう。しかし最初はそこに住まいも入れてしまうつもりである事を妻に言ってはならない。 「今住んでる所はどうするの?」 と彼女が言い出して初めて、 「一緒にした方が楽だし、通うのばかばかしいじゃない」 と説明を始めよう。住居を一緒にすれば、彼女の外出を防げるのだ。とにかく彼女の行動は管理できるようにしておかなければならない。  盛り場からなるべく遠い所に住む事も大切である。遊び好きの彼女が淋しがって泣いても、ひるんではならない。彼女に車の免許を取らせないまま、車でしか外出できないような場所に住むのが最もよろしい。仕事の道具だけは買い過ぎる程買ってやるのがコツだ。家で仕事をさせ、なるべく外出させず、とにかく稼がせる。君の管理のもとでだけ外に出し、なんて理解ある夫なんだろうと外からは見えるように演出する。  だが海外旅行はなるべくしよう。海外では、そうそう一人で行動できない、つまり浮気は無理だ。君は彼女の稼ぎで旅行を楽しみ、彼女に遊ばれる危険もない。海外旅行の予定はどんどん勝手に決め、彼女が疲れていようが、子どもが小さかろうが絶対に決行しよう。子どもが小さいほど連れて行って記録を残す。君がいかにいい夫かの証明になる。妻の不安など気にとめてはいけない。子どもがいれば完璧《かんぺき》な浮気の防止につながるのだから、絶対に連れて行くのだ。  重ねて言うが、妻の金にならない趣味はどうにかして止めさせる事だ。何とかして仕事に結びつかせるか止めさせるか、どちらか選ぶべきだ。  洋裁の場合はこういう手もある。まず君の仕事に使う服の仕立てをいくつか頼む。働き者の妻ははりきって取りかかるだろう。 「こんな感じでいいかしら」 などと君の意見を聞くだろう。そこで絶対に、ちゃんと作品を見てはならない。 「いいんじゃないの」 と生返事をして、妻が徹夜でその数着を仕上げようとしたその早朝になって、 「ここ、もっと長い方がいいんだけど」 ととり返しのつかない点を指摘するのだ。妻は体じゅうの力が抜けるのを覚え、目に涙を浮かべるだろうが、それぐらいでなくてはならない。身の程を知らせなくては駄目だ。普段の自分の仕事以外の事で金を稼ぐという事がどういう事か。金にもならない趣味で漫然と時間を過ごすのがどれほどの罪悪か。  働く妻の為に子守りをしてやったり、料理をしてやっている君の時間を絶対に無為にしてはならない。その時間の全ては稼ぎに結びついていなければ許されないのだ。しっかり思い知らせるべきだ、稼がない時のおまえは女のクズなのだと。  それも稼ぎは去年より今年、今年より来年、来年よりさ来年の方が必ず多くなくてはならない。同じ稼ぎで満足されていてはたまらない。こっちは金を遣うのが唯一の楽しみなのだから、それは毎年大きくしてもらって当然なのだ。男が女に奉仕することをなめてもらっては困る。子どもだって育っているのだから、稼ぎも増えていかなくてはならない。そのためには、重ねて言うが、子どもの数を増やし過ぎてはならない。出産を機に仕事を辞められでもしたらどうする。  一番の秘訣《ひけつ》を教えよう。子宮の病気に追い込むのだ。難しくはない。あの症状どもはストレスと密接に結びついている。仕事を増やし、愚痴を聞かせ続ければじきにそうなる。まんまと大病に追い込めたら、本人が助けを求めるまで絶対に病院には連れて行かないことだ。子宮の病気の痛みは鈍い。腰でもさすってやってやり過ごしてやれば、体内では悪化して行くはずだ。手術なんてことになったら、取り出された病巣を見て、 「卵巣取っちゃったんだね」 と妻に告げよう。取ってなくても構いはしないのだ、卵巣が取り出されたと聞けば妻は、 「もう子どもはできないのだ」 とあきらめるのだから、関係なくてもそう言っておけば良い。  子宮を患った女は、鬱《うつ》状態になりやすくなり、酒におぼれる。優しく話しかけたりしてはならない。ただ黙って見ているのだ。不安の発作を起こすようになっても、いたわりの言葉などかけてはならない。それをきっかけに仕事を減らされでもしたらどうする。放っておくのだ。そうすれば勝手に自分で何とかするはずだ。要は子どもを増やすのをあきらめて、仕事に没頭してくれればいいだけの話なのだから、同情などしてはならない。なんだかんだ言って、飲み歩いている間に外で男とよろしくやっているはずなのだ。君は稼がせる事だけに頭を集中させた方がよい。  妻の稼ぎがある程度の額に達したら、迷わず君は自分の仕事を辞め、なるべく早く妻のサポートにつくと見せかけて、上司に頭を下げる生活からとっとと足を洗おう。妻の助けに回るのは男としての体裁は良くないが、実は大変楽な仕事だ。女は詰まる所、男に従属する様に出来ている。男をあごで使う事がうまい女はそうそういない。そうなりそうな気配がしたら、君は少しやり過ぎる位に機嫌を悪くしてみせ、数日黙り込むだけで良い。必ず彼女は折れ、君の好物の料理なんか作り出すはずだ。君はそれを見て例の三文字だけの感想を口にしたまえ。それ以上の感謝の言葉など、口がさけても言ってはならない。  人に頭を下げずに済む生活は素晴らしい。陰でヒモ呼ばわりされる位、何ともないじゃないか。君がヒモ呼ばわりされれば彼女が勝手に怒って弁解してくれる。何にしても彼女の稼ぎは全て君のものなのだから、気にする事は何もない。  子どもには 「お父さんだって働いてて大変なんだよ」 と言い聞かせておいて、自分のやりたい事だけやれば良い。機械が好きなら、彼女の仕事に勝手にどんどん導入してやろう。彼女の仕事のジャンルを、有無を言わせず機械を使う方向にねじ曲げ、機械に彼女の仕事を無理矢理あてはめさせるのだ。社会のほとんどは男が構成しており、男は大抵機械が好きである。君ははたからすごく働いている様に見えるようになるだろう。機械の苦手な彼女がノイローゼになっても気にする事はない。女は順応性の強い生き物だ。そのうち必ず慣れてくる、いや慣れさせるのだ、調教するのだ。  面倒な事は彼女の稼ぎで人を雇って彼らに全部やらせる。その中には君好みの若い女なども混ぜておこう。外出の多い彼女の留守に、もしかしたら良い事があるかもしれない。もし何かあったら、若い方に乗り換えるのだ。その為には仕事だけでなく、身の回りの世話や料理などもそれとなくやらせる。子どもがいる事はここでは強みになる。子どもを口実に、少しずつ全ての事をやらせるように仕向けるのだ。献身的になるよう、休みが欲しいなどと言わせない型にはめておく事が大切である。教育が進んで来たら、妻の外出になるべく付いて行かせる。浮気防止になり、いろいろと報告させる事が出来る。妻の外での行動も、上手に管理できるに越した事はない。よその男に貢がれでもしたら困るのだ。    さて、最近どうかね。  君の妻は大人しく君の為に稼いでいるかね。  何。男と逃げた。  子どもを連れ、妊娠もしていると。  それはけしからん。  すぐに彼女を訴え、慰謝料をしこたま請求したまえ。  離婚なんぞしてやる事はない。  全ては彼女が悪いのだ。  夫の為だけに稼ぎ、尽くしてこそ妻なのだ。  君の権利を主張しろ。どっちにしろ、浮気の証拠を掴《つか》まれているのはあっちの方だ。とんでもない女なのは向こうなのだ。  せっかく君が彼女にしてやった恩をあだで返す気なのだ。  早く弁護士を呼べ。思い知らせてやるのだ。  何を弱気になっている。  何。  彼女は自殺を図った事があると。  なぜ止めた。やらせれば良かったのに。  自殺しても大丈夫な位、生命保険をかけておかなくては駄目じゃないか。  子どもだって君が育てたのに。向こうはただ毎日酔っ払って男といちゃついていただけなのだぞ。  さっさと電話しろ。それから雇った女たちに、彼女の暴挙を伝えろ。女たちの中にスパイが居るかも知れない。今のうちに見極めておくのだ。  誘拐罪で警察に通報するのもよい。罪は全て向こうにあるのだから当然だ。  警察だ。  裁判だ。  世間の掟《おきて》を見せてやれ。 [#改ページ]    私の鏡で見てごらん  左|眉《まゆ》の下に傷。  大きな目。  深い二重|瞼《まぶた》。  緩やかな流れを持つ豊かな髪。  前髪が上向きに撥《は》ねる額。  冷たいようだが可愛い形の鼻。  山形の上唇。  自在に動く柔らかそうな口の端の皮膚。  はっきりした頬骨から結んだ細いあごの線の中に並びきれなかった大きな厚い歯。  間に隠れている堅くて長い舌。  その舌が私の耳の中で暴れまわり、私は自分では聞けない声を上げる。  少しして 「耳、急所?」 と聞かれたが、返事が出てこない。  からだの下にある真っ白いバスタオルは血に染まっている。  一番敏感な部分を知っている指が私の血を潤滑油として使っていた。 「あ、そこ、知ってるんだ……」  小さく声に出た。あまりに容赦しないその指をつかまえて、顔のそばに持って来た。やはり血だらけだ。 「ここ、殺人現場みたいになっちゃう」 「死体は?」 「あたしのことか。殺してくれる?」  彼のはまだ凶器になれずにいた。  私にとってそんなことは初めてじゃなかった。問題はそんなときどうするかだ。  そして彼が普通の声で 「勃《た》たないや」 と言うのを聞いた。  私はからだをずらして彼の脚の間に入り、そこを舐《な》めまわした。少し堅くなってきたので血でぬるぬるのスリットに飲み込ませながら彼の上にのしかかった。  ほんの少し動くと彼は 「いきそう」 とまた普通の声で言い、 「いく」 と言って、そのまま射精した。  私はそのあっさりした終わり方にあっけにとられた。同時に、まただ、とショックでもあった。最初は勃たなかった男が、私が舐めてから乗っかるとすぐ射精したという経験が二度続いたからだ。  私はすでに男たちにとって「乗っかられる女」なのかという考えが頭を支配した。そのまた前の男は、最後まで勃たない立場を選んだし、その前は……次々と思い出してはみたが、同じケースが二度続いた衝撃はやはり大きかった。  二日経ったとき、私のピッチ(PHS。ときにはビッチ)に間違いにちがいない番号が表示されていた。なのに、私は彼に電話したのだ。 「あ、どうもこないだはごちそうさまでした」 と言われ、思わず 「こちらこそ」 と答えてしまい、顔が赤くなった。 「……って番号、入ってたんだけど、違うよね」 「掛け返してみれば? 知ってる人かもしれないじゃん」  もっともだ。 「うん……」  馬鹿かと思われただろう。でも思われてもよかった。  あれから彼とのことばかり思い出していたのだ。あの小さな事故のように起こった行為の間にもうすでに、私にはこみあげてくるものがあり、それがさせた接吻《せつぷん》もあった。  だがまだ、自分でもはっきりわかっていなかった。  次に電話したときには、他の口実を設けて、また逢《あ》う約束をとりつけた。  ピッチが鳴るたびに彼の番号かどうかを自然に確認していた。  なのに私が、これは彼を好きになったのだと気づいたのはそれから一週間経ってからだった。  電話をし、 「あのー、言っておこうと思って」 と前置きして、 「好きになったので、仲良くしてください」 と申し込んだ。  彼は、 「あーそれはどうも」 と普通に言った。私は言葉に詰まった。 「照れくさいな」 「ほんとに照れてんの?」  私はこんなことくらい平気で言うように見えるのだろうか。 「こないだ大丈夫だった? 身に覚えのないできものが出たとかない?」  彼は私の中で射精したけど、そのかわりさんざん私の血液にまみれた。もしどちらかに病気があったら、うつる条件は同じだろうと思った。 「ああ。とりあえずはないよ」 「一応あたし、病気は持ってないと思うんだけどさ」 「今んとこ病気とかそういうのに当たったことはないなあ。そろそろ悪運が尽きる頃かもしれないけど」 「こないだ電話で『ごちそうさまでした』って言われたとき、『こちらこそ』って言っちゃった。恥ずかしかったよ」 「アハハ。ごちそうだった?」 「うん。でもあのとき酔ってて細かいことあんまし覚えてない。今度もし機会があったら飲まずにしたいな。あたしそしたらも少していねいかも。って言っても、うまくなるわけじゃないんだけど」 と言ったら彼は 「おれは……」 と少しだけ間を置いて 「あんなもんです」 と答えた。なおさら好きになった。  何もしないうちから 「俺、うまいんや。才能ある言われる」 とか 「二十回くらいいく人っているよね。俺なかなかいかないしさ」 とかいう男を何人も知っていたから。  そして、次の時。彼は馴染《なじ》みの店をはしごして遅くまで飲み、 「今度は酒飲まないでしようって言ってたのに、また飲んじゃったよ」 と言いながら私と二人きりになった。  他の都会の子がよくするように、彼も部屋に入るなりテレビをつけ、ポルノのチャンネルに換えた。田舎育ちの私には気まずい習慣ではあるが、すでに慣れるしかないほど経験していた。  知らない女のあえぎ声が部屋に響き渡る。  自分の陰部のモザイクの揺れに目をやりながら声を上げている。 「ぜったい見るよな。なんでだろうな」  彼の言葉を私は聞き流していた。  行為に入る。初回をあまり覚えていなかったとはいえ、なんだか様子が違う。  私の部分を 「小さくて可愛いね」 と言ったり、中を広げて 「綺麗《きれい》な色だね」 と言ったりする。  交互に重なろうとするので 「恥ずかしいよ」 と言うと 「それがいいんじゃない」 と彼の上に乗せられた。  そのとき彼がよほど体を折り曲げないとお互いの部分に顔が届かないのに気づいた。 「あれ?」  私は顔だけ振り向き彼の顔にお尻《しり》を乗せたまま、いましがた恥ずかしいとか抜かしたその口で 「身長何センチ?」 と尋ねた。  数値を聞いて、そんなことも知らなかった自分にあきれた。もしかしたらこの人は、私が思っているのと少し違うタイプなのかもしれない。  私は彼を古い型にとらわれないおおらかな男だと勝手に思い込んでいた。だが今の彼のやり方は最も男として期待される、たとえば沢山の女にアンケートを取ったら上位に表れるような定番の形なのだ。ていねいに触り、上手に舌を使い、やさしい言葉をかける。加えて背が高い男は、それだけでも女を保護するような形を取らされるものだ。  乗っかり女の私はとまどった。  しかし彼はもっと困っていた。初回よりはるかに可能にならなかったから。 「入れたいのに勃《た》たなーい」 と彼は小さい子どものように言った。  彼がトイレに立つと、見知らぬ女のあえぎ声が大きくなったような気がした。 「だめだ」 とベッドの端に腰をおろした彼の背中を私は後ろから抱いた。 「寒いでしょ」 「あったかい」  そのまま接吻して舌をからませた。永いこと愛撫《あいぶ》された私はもう服を着てもいいくらいだったが、ふと思いついて彼の肩から胸の下へ死体のように滑り落ち、膝枕《ひざまくら》を借りる位置に頭を置いて彼のペニスに舌を伸ばした。  目を閉じていたので見えなかったが、たぶん彼はすぐそこでしゃぶりついている私の顔を見ていた。みるみるうちにそれは可能になり、その日の私に初めて挿入された。彼の言葉は伏線となったのだ。私は歓びの声を漏らし、耳に入れられた舌がその音量を上げた。  しかしまた彼は私から去っていった。きっと私が上げた声がこちら側からの定番を提示し過ぎたのだろう。  私はその姿勢のままひざを立てている彼の脚のあいだに体を下ろして行った。すぐに私は王の両脚のギロチンに首をかけられた女死刑囚になり、そのペニスに命乞《いのちご》いをし始めた。両手を彼のお尻に回して舌だけでお願いし続けると、情け深い王は罪人の首を刎《は》ねるのを止め、しかし助けると見せて、濡《ぬ》れた小さな傷の中に堅くなった剣を思いきり突き入れる。  私は彼が両脚をまっすぐ伸ばし、腕立て伏せの形でそれを奥までまっすぐに差し込むのを見ていた。 「……気持ちいい」  私が言うとまもなく暖かい白い血が首のあたりにまで飛んで来た。  翌日から私は熱を出した。やっと彼の細菌に感染したのだ。  二度目が済む前に好きになったことを告げておいてほんとに良かった。これから言ったのでは体目当てだと思われてしまう。  セックスだけが目的で女に呼ばれたことが過去に何度もあっただろうと私は勝手に想像し、彼に深い同情を覚えた。  それもあってその後しばらくは、永く一緒にいて話をする方を選んだ。彼は一番付き合いの永い店に私を連れて行って朝まで飲んでいた。あまり自分の話をしない彼の代わりに、その店の男の子がいろんなことを教えてくれた。  途中その子が 「いいですよねえ彼は、背も高いし、顔も濃い良い顔だし」 と言うので、私は思わず彼の横顔を見た。  その頃の私は彼の肌が乾燥していることばかり気にしていた。夏の日焼けが尾を引いていると聞いたので、それに効く化粧水を探したりした。  しかしその頃からやっと、この人の顔は一般的には二枚目というやつなのだということにうすうす気がつき始めた。  その次の時には私は酔っていた。性に合わないものを見て疲れたのだ。たくさんの男の汗や筋肉や死に様や大きな声や空回りの情熱。それを批判もせず見守る出番の少ない女たち。うんざりした。生まれてからずっと、私が避けて通って来た全ての物が結集しているような出し物。それが終わる時間にやってきた彼の古い男の部分に皮肉を込めて 「いっぱい見ちゃったよ、日焼けサロンやジムに行ってる熱い男たちの群れ」 と言うと、私の可愛い男は無邪気に 「興奮した?」 と聞いた。思い掛けない質問だったので戸惑った。私の中にああいう男性像に欲情する回線はあったのだろうか?  無いと思っていた。しかし現にそんな質問をする男と私は関係している。  もしかしたら、無いことにしていたのかも知れない。しかし単純にそうも言いたくない。考えているうちにますます酒はまわった。彼に 「次どこ飲みに行こうか」 と言われ、 「あたしね、あなたが好きな場所に連れてってもらうのもいいなと思うんだけどね。でもほんとに知りたいのはあなた自身のことなのね。だから早く二人になりたい」 と言った。  彼を知ることは自分自身の未知の部分を知ることと同義だった。  その夜彼は驚くほど堅かった。 「あたしに慣れてきたんだね、嬉《うれ》しい」 と舐《な》めまわした。行為の最中もいつも冷静なしゃべり方しかしない彼に 「声出して。気持ちいいよ」 と言ってみた。  この日私は最初っから、彼のを飲んでしまうつもりだった。私にとって、体内に彼を受け入れるならどこからだって同じなのだ。  出させるのが目的の方法に移行すると、彼は、 「いきそう。いってもいいの?」 と聞いた。私は器用に 「いいよ」 と答えて全部飲み干した。  翌日から彼は私に質問するようになってきた。それまでは話を聞き流しているだけに見える、そんな反応しかしなかった。  ただなんとなく二人で歩いたのも初めてだったし、別れるときはいつも怒ったような顔だったのに、その日は少し淋《さび》しそうに見えた。  次の電話で 「いい子にしてる?」 と言ったら 「なんだ、子どもみたいに。今日は女三人抱いたよ」 と言われた。  何も言えずにいるとしばらくして 「嘘に決まってんだろ」 と電話を切った。  その次から彼のペニスは突然長くなった。どこかに収納されていたのか。試験期間が過ぎるとほんとの大きさになる仕掛けだったのか。  彼はまた私を死刑囚の位置に置き、その長いぺニスで私の頬や唇をなぶり、それを見下ろしていた。  それから私を二つに折り曲げてすっかり根元まで差し入れ、指で球根を剥《む》くようにして敏感な部分を探し当てた。思わず開けた口にあの長く堅い舌が差し込まれ、それを伝って彼の唾液《だえき》が注ぎ込まれる。昂《たかぶ》った私はそれを音を立ててすする。  そしてその折り曲げられたからだのまま、彼の上に乗せられ、腰を掴《つか》まれ上下に揺さぶられる。私は小さな両生類になり、全身を彼に使用されている。最後に彼は私の尻《しり》を抱え上げ、外に射精した。冷静にも、私の服まで捲《まく》り上げて。  次の電話では 「いい子にしてる?」 の返事は 「あーかなりいい子だよ」 に変わった。  その次の私はまた酔っていた。  何かを彼に試したらしい。両|肘《ひじ》と両膝の皮膚が擦り剥けて痛い。  彼が後ろからしないのは、脚が長過ぎるせいか、顔が見えないと不安なのかのどちらかだろうと思っていたので、してほしいと言ったのかも知れない。  その次に逢《あ》ったとき、私は初めて化粧をしていなかった。頬ずりをすると彼のうぶ毛が気持ちよかった。髪を撫《な》でながら何度も頬を寄せ合い、瞼《まぶた》や額に接吻《せつぷん》した。 「あんたの昔のことをもっと知りたいな、と思うこともあるんだけど、知る自信がなくて」  私はちょうど彼に背を向ける形になっているときに言った。 「なんで?」 「知ると頭破裂しちゃいそうだから。今でもこんなに好きなのに」  言いながら自分で驚いたが、背を向けていたからこそ言えたのかもしれない。彼がどんな顔で聞いていたかわからない。私はただ、自分の思ったことを歪《ゆが》ませずに口に出せる勇気が欲しかったのだ。  そのあと私がそばに寄ると彼は私の手を取り、堅くなったところへ導いた。まだ新しいジーンズのそこが彼の形に象《かたど》られている。 「もうこんなになってるよ」 「ほんとだ」  ベルトをはずしながら 「舐めてほしい?」 と聞くと 「うん」 と小さく答えた。  ラッピングを解くと、いつもより男の匂いがした。シャワーを使う間も与えないくらい急に呼び出したからだ。ふだんとの違いに私は興奮した。  周りを唇で触れ、濡《ぬ》れた口の中に入れた。彼は声を出すことに少し慣れてきた。 「いってもいいの?」 と聞かれたが、何も答えずに飲み込んだ。  親しくなると時には当然だと思う質問には答えないこともあるのだ。 「私だけ食事しちゃった。おなかすいてるでしょ」 「朝めしか俺は」  私にとって口の中で射精させるのは比較的簡単なことだ。その技術に於《お》いて私は永い歴史を持っている。それだけに怠惰や征服の匂いのする男には敏感になった。  彼が気難しい奴隷の私をうまくこき使ってくれますように。  翌日、酔った日に酒場の男に連絡先を教えたらしく電話がかかってきた。電話番の子から聞いただけだったが、全く忘れていたため私は驚いて彼に電話で確認した。 「あたし、電話なんて教えてた?」 「教えてたよ。なんで教えるのかと思った」  彼の声は少し怒っているように聞こえた。嫉妬《しつと》? 「接客うまい人だったからよ。女ともだち連れて行く時に助かると思って」  そう言うと、彼の声は和らいでいった。  その後彼のなじみの別の酒場で一緒のとき、私はママに聞かれた。 「ねえ今、恋してる?」 「はあ」  私が使わない言葉だったがそのままぼんやりと肯定した。 「相手、彼?」 「はあ」  思わず隣を見た。彼はいつものように笑ってごまかしたりしなかった。  一番初めにそのママと会った時、 「あら今日何かいいことあったの? 目がいきいきしてるわよ。彼女と一緒だから?」 とずけずけ言われていた彼を思い出した。 「否定しなーい」 と私は笑った。  誰かを好きになると黙っていられなくなるのは彼も同じだ。私は嬉しかった。  それまでどんな場所に一緒にいても何故か私と彼はひとくくりに思われていなかった。二人ともおおらかで、関係していない誰とでも一緒に飲むタイプであり、まったく逆に誰といても関係があるようにも見える。木を隠すなら森と言うが、私と彼は並んだ二つの森なのだ。  人は都合のいいところだけを見る。彼に私を紹介された第三者は、彼とは関係してないはずだという目で私を見る。彼の前でいろんな男になれなれしくされる自分を、そろそろなんとかしたいと私は思っていた。  ときには可哀想なくらい私のパートナーと思われていない彼を、私がどんなにそうだと言っても、聞かない人の耳は聞こうとしない。  それは必ず男の耳だ。彼の周りに沢山の行きずりの女がいることを知っている彼の知り合いや友人。もう三年も決まった女がいなかったと彼は言う。決まった相手を作るわずらわしさとはどういうものか。 「女の子ってさ、自分の写真を持ち歩けとか言うじゃん」 「え。そう?」 「そう、俺すぐ忘れちゃうから文句言われてさ、いつも、『あたしがこんなに思ってるのにあんたは』って」  図式は同じだったらしい。私も 「俺はお前に貞操を守ってるのにお前という女は」 と言われた経験があった。だからこの人楽なんだ、と私は思った。約束や契約や何か有りものの形で「お取り置き」されるのは苦手な所がお互い似ている。  でもそれが人格の全部じゃない。手近で安易で肉じゃがな幸せは確かにご免だが、一生枯葉に打たれて暮らしたいわけでもない。  彼と私は、納まりのいいでこぼこを探し回るパズルのような今を楽しんでいるのだ。  たとえば結婚の嫌な面だけ挙げてみよう。それは責任、稼ぎの強制、束縛、平凡、義務。私だってみんな嫌いだ。彼はそれを受け入れなければならない歴史が永い「男(それも熱い?)」だから、私よりもっとそれらを拒否しているのかもしれない。  私もまた彼の中の、自分が見ていたいほんの一部分だけを拡大して彼だと思っている。  だけど彼はそんな私との関係を今いちばん面白いと言っている。それだけでいい気がする。  彼の脚は長いだけじゃない、それはひたむきな少年期に禁欲的に鍛え上げた美しい曲線を持つ。  その場で思ったことを言えるタイプの人には 「いいですねえ、端整で」 とか 「そんな彫りの深い顔に生まれてたら人生変わるだろうなあ」 と言われたりしている。それを隣で聞いている私は、男でも顔についてこんなことを言われる人間が世の中にはいるんだ、という驚きと同時に、まるで自分が 「あなたって面食いなんですね」 と言われているような気分になって恥ずかしくて俯《うつむ》いてしまう。  私が彼を好きになった最初の要素は、スパゲティをサーヴするのが上手いところだった。 「どうして俺のこと好きになったの?」 と聞かれたときには 「優しいから」 と答えた。まるで小学生の答えの様で恥ずかしかった。 「優しくて、でも自分をコントロールしようとしてて、それでちゃんと人のことも考えていられる人だから」 と付け加えた。 「そうなのか。わけわかんないとこがいいとか、ない?」  確かに彼の行動には一貫性がない。さっき右に行くと言った直後に左で小さな博打《ばくち》を楽しむかと思うと、次の日には右の道のはるか先まで行ってたりする。運命に振り回されるのが好きな女たちは、彼のそんな部分が魅力だと指摘するのだろうか。  しかし私は自分自身の気紛《きまぐ》れにしか振り回されない女だ。愚痴と涙をこぼしながらでも一人の男のあとを付いていけばいつかは食《く》い扶持《ぶち》にありつけると思っているタイプではない。  ある男の行動に腹が立てば遠慮なく別の男にも手を出すし、支えてくれる男より楽しませてくれる男を愛す。そのかわり思い通りにならないからと言っては繰り返し男に殴られてきた。  女を守るつもりでいる男は、結局支配下に置く気でいるのだ。私は男に守られたことなんてない。何か事故が起こったときも、傷つきながら自分で何とかしてきた。 「俺がその場にいれば」 なんてあとから言う男もいた。口だけだ、あんたはいなかった。そんなに都合良く誰かの危機に駆け付けられるものじゃない。女のピンチを救うのは男だというファンタジーはすでに私にはない。最近は逆に男は女が守ってあげるものだとまで思ってる。 「前の女の話を何度もしないで。あたし嫉妬深いんだよ」 「狭いな」 「もちろんだよ。了見狭いので有名だよ。わざとあたしを傷つけるんだったらきっとこっちも同じことすることになるよ。そんなのいやでしょ?」  これまで好き合ってるはずの相手と、わざわざ傷付け合うことが多かったのは、嫉妬する自分を隠していたからだと私は考えていた。しかしこれに対応出来る男はこれまでいなかった。私が嫉妬をストレートに出すとにたにた嬉《うれ》しそうな顔をしてますますそれをあおる言動に出る。もてる男という図式に入れてもらってただ喜んでいるのだ。くだらない駆け引き。私みたいな女に嫉妬の貯金をさせるほどまずいこともないのに。  珍しく彼に電話をしていない。その前日、私の都合のいい部分しか見ようとしない彼の友人の一人がまた彼の昔の女の話をしたからだ。  私がその話をやめさせようとしているところへ彼が割って入った。 「何してんだよ、まる聞こえなんだよ」 「その人の話は嫌だから、私の前でだけはやめといてって頼んでただけよ。私のいない所ですればいいでしょ。私だって彼の頼み、これまでいくつか聞いてきたわよ」  彼の友人はすっかり逃げ腰になってる。女には子どもの振りしてれば何でも許してもらえると思っているタイプの男だ。私にはそんなことは通用しない所をそろそろ見せておかなきゃやってらんなかった。  そのあと二人になっても私は荒れ続けた。今までの形をぶっ壊そうとしたのかもしれない。彼を床の上に押し倒して乗っかったり、四つん這《ば》いにさせてお尻《しり》の穴に舌を立て、ペニスを握りしめた。  それまで隠しておいた獣の声を上げた。  怒りが性欲に至るのは男だけではなかったのだ。私は暴走した。  これで終わりにしようとまでは考えていなかったが、そのまま電話していないのだ。忙しかったせいもある。彼のいない飲み会が偶然いくつか続いて予定されていた。  途中、彼から電話が入った。別の友人からリレーされてきた頼みだった。前もって聞いていたので私はすぐ対応した。  翌日その件で連絡の来る時間を彼に知らせると、彼はこう言った。 「その時間、俺ちょうど手が離せないな。じゃあしょうがないや、番号教えるから、むこうに直接電話してやってよ。くやしいけど。やきもち妬《や》くんだけど」 「ほんと?」  私の声は震えた。  気紛れかと思った。しかしその後も彼は 「次はちゃんと俺を通せよ」  と言ったり 「いい子にしててね」 と以前の私の台詞《せりふ》を使ったりした。いったいどうしたんだ? 「ねえ、最近モード変わったよね。どしたの?」 「そう? どんなふうに?」 「こないだから、やきもち妬くんだけどとか言ってくれるようになったじゃない。なんかあったの?」 「別にないよ」  訳を聞きたかったが、訳はないのかも知れなかった。 「俺セックスしたくなった」  彼は私のお尻に手を回した。後ろから下着に手を入れてもクリトリスを触れるほど長い彼の指。それが私の中を探ると、今までなかった不思議な感覚が湧き起こる。 「ねえ今何してるの?」 「食べてる」 「そうじゃなくて指。どうやってるの?」 「このへんに向けて触ってる。知らないの? ここ」 「知らなかった。あんたといると初めてのことが多いの」  背の高い人は声帯も長く、声の音域が広いことが多い。  彼の声はふだんは低いが、射精の直前は高くなる。この時は特にそうだった。 「いきそうだよ。中で出してもいいの? いくよ」  思春期の少年としてるみたいだった。  全部注ぎ込んだ後は低い声に戻り、 「今日は十五リットルでかんべんしといたよ」 と言った。  そういえばこないだは二十リットル出たと言ってた。私は彼専用のいけすだったのだ。 「腹の中で何億匹も跳ね回ってるよ」 「しっぽ長そうだね」  彼の小さな分身はとても泳ぎがうまい。今まで何度もその結果を知らされたが、実像を結ぶには至らなかった。 「子どもは欲しいんだよ。産んでよ」 「いいけど」  そしてホルモンの分泌をよくする食事。正面に座った顔を見てふと思い出した。 「ときどき面と向かって顔のこと誉められてるよね。男でもそういう人いるんだね、あたしは初めて知ったよ」 「言われ飽きた」  私は笑った。彼のこういうところが一番好きだと思った。 [#改ページ]    才能のないやつは死んだほうがいい 「ねー樫男《カシオ》はどーして今まで結婚しなかったのー?」 「白馬に乗ったお姫様が俺をさらいに来るのを待ってんの」 「アホか」 「ほんとだよ。俺、なんにも自分じゃ決めらんないの」  何言ってんだろこいつ、とあたしは思った。あたしは、ソナコ。基礎の礎に菜っ葉の菜に子どもの子。本名じゃないよ。源氏名っす。シゴトはいちおーカラオケスナックのコンパニっす。ホステスって呼ばれんのはヤなんだなー、なんかヤ。指名欲しくてとかー、そんでバンスとかあってー、給料引かれてー、でヒーヒー言ってる感じだからヤ。いちおーパーティーのコンパニで呼ばれることもあっしー、この仕事、本職って決めたわけでもないしー、ってかんじー? 樫男だって稼ぎは多かないけどヒモってわけでもなし。ヒモだろってゆーやつも、いるけどー。  で、ふだんカシのことをあたしは、けっこー頭いい子だと思っているのね、ジッサイ。でもでも、こーゆー会話のあと、たま〜に自信なくなる。もしかしてこいつ、秒単位でしかモノゴト判断してねーんじゃねーの、って。その場はちょっちいいこと言うんだけど、深く考えてないってゆー? 笑って暮らせるけど未来は無い? やっぱほんとなのかなあ、だってみんなカシのこと馬鹿だってゆーんだもん。目ェとろんとしてるとか。いや、やっぱ違う、違うよ! あたしにとってはあんなに何もかも見てるよーな、こわーい目なのよ。  だいたいさー、みんなもしかしてー、ニンゲンって少しずるいくらいじゃないと「賢い」とかって言ったげないぞってつもりでいるんじゃないのォ? わかんないなーそーゆーセンス。あたしなんか水商売永いからー、一瞬でも警戒させられちゃうとダメなのよね。目先の小金欲しいのねって思っちゃって。だってヤじゃんそんなの! あたしの目よりも先に金見てるってことだよ? そんな彼氏いやっしょ?  あたしさー、カシってそこをまずわかってると思うわけよ。それにさ、こーゆー商売って落ち込むこと多いんだけどカシは、すげーはげましてくれるしさー、笑かすのうまいのよ! 天才よもー! いちんちじゅうあたしを笑かすこと考えてるんじゃないかって思うよ……そう思うとしあわせになるの。ふわふわって。  でね、でね、なんでもしてくれるんだよお。今日カウンターから出なかったーって言うと、それだけで黙って足|揉《も》んでくれたりすんの。  わかるう? カウンターの中ではあたしら立ってるわけだから、そっから出なかったってことはずっと立ってたってことなのよ。あの子にはわかるんだ……。もー、シアワセなのあたし。このままあの子が必要になってなってなり過ぎて、ケッコンとかしたくなったらどーしよー? キャッ! いいのかなあ、しちゃっても。ねーねーねー、どう思う?    あたしね。  前はお客とかとつきあってたんだー。  すんごい、コーカイしてんの。フリンだからとかー、そーゆーんじゃなくてー……モノ[#「モノ」に傍点]にされるってゆーの? あ! もしかしてモノにするってそれから来てる? やだ信じらんない……まいいや。あの子の前の人さァ、も・スンゴーイ面食いでさー。あと若い子だーい好き。あたしとたった一コの違いでも若い方ジロジロ見てるうちに店終わっちゃうみたいなー、そんでブ男! マジマジマジマジ。超超超ブ男! ブ男ほど面食いってゆーじゃん? も、すごかったよ! ちょっとでもキレーな子入るとさー、 「あの子だれだれだれだれ、もしかして女優の卵?」 うちときどきそーゆーのくっからー、期待してんだよむちゃくちゃ。そんであたしとつきあってるくせにー、あたしの金でめしとか喰《く》ってるくせにー、あといろいろ買ってもらってお返しなしのくせにー、それをさー、あたし自身にだよ? もっと自分好みの女紹介させようって思ってんだよ? 信じらんない、ずーずーし〜! 超やな感じー。ってゆーか、人間と思えなーい、むちゃくちゃズル!  ほんとにもー超ブ男のくせにー、虫のいいこと考えまくりなんだもんさー。やだよねー、ホステスじゃねーやコンパニよかきゅーりょー安いセコリーマンってさ〜。だいたいカラオケスナック来てさー、超美人で若い女優の卵はいないかいないか、って目ん玉ひんむいてるやつってどー思うー? 頭悪すぎでしょー? あたしはさー、結局それって小金で良い思いしようってゆー? じょしこーせーは全員金出せばエンコーOKなはずだ的考えー?………バカだよね。バカ丸出しだと思うよ。でそんなブオヤジとつきあってたあたしも超バカ。わかってんだよ。でももういいの。カシはそんなんじゃないもん。だけど。こないだバッティングさせちゃいました、そのブーと。  わざとじゃないんす、意地悪でもないないない。すげー、カシには悪かったんだけど……でも話してあったからー、カシ対応バッチシでー。ブーあせりまくりだったよ。  あのブーさ、カシにさ、自分からコナかけてんの。バーカ。なんか感じたんだろうね、あたしとの空気。もーとっくのとっくに切れてんのに、そーゆーことだけは敏感なんだよ。あたしが嫌がることにはあんなに鈍感だったくせして。あーやだ。死ねってくらいヤなこといっぱいしてくれたくせに。だってこうだよ? タバコプーとかやりながらさ、 「あんた、ソナ指名してんの? あいつ、酒ぐせ悪いだろ」 とか言ってんだぜゲ〜! 「そうすか? 自分はそうは思わないすけど」 「あんた、どっかの組の人?」 「いや、そんなことないすよ」 「あそう」  そこでブーのもともと大きい鼻の穴広がる広がる。そっくりかえってこうだよ。 「ソナってさ、子どもいるんだよね。実家に預けっぱなしなんだけどさ」 「ああ、知ってますよ」 「え? あそう」 「俺になついてんすよ。言っとくけど、あんたには全然似てませんよ」 「ぬあっ?」  ブー絶句! いい気味! ヒューヒュー! スカッとしたあ〜。あのブー、 「ソナの子って俺の子だから」 って口ぐせだったからさー、バーカ。違うっつの。いくらあたしがバカでも子ども作るときくらいもそっといい男選ぶっつの。  でもそれ終わったらカシくたくたで〜。ブー帰ったからやっと閉店まで一緒に飲めると思ったのにー、 「すいません、今日、自分これからタクシーで帰りたいんすけど、金貸してもらえませんか」 って言うからー、万券二枚あげたー。あたしんち泊まるはずだったんだろうけどー、疲れちゃったんだろね……だってだってー、あいつそのくらいやってくれたと思ったもん………だよ、だよ。変じゃないよ。もしあたしだったら、あたしがカシの前の女と対決させられたら、あたしだったら、…………どうしただろう……。    前の女、一人だけ知ってる。二丁目の店の子。あたし、嫌いな女。その子のこと好きだったカシオのこと考えると、ドキドキする。自分だってカシが人生たった一人の男だってわけじゃないのに、でも、なんか、落ち着かない。わがままなんだろうけど、でもしょうがない。はっきり言って、その女の勤めてる店の方が高級店。本職のホステスだもん。あたしみたいにプーでバイトってんじゃないのよね。いつもすごいかっこして歩いてるよ。お金あるんだろな……たまに、あたしだって本職でやるってハラ決めて店替われば、って思うけど……。  でも、カシが言うんだもん。 「俺ら、今はこんなだけどさ、これから何にだってなれるんだよな。金なくてもそういうほうが俺は楽しい。だからソナコにもいかにもホステスって感じになって欲しくないんだよ」。  あれであたし、迷ってた毛皮、ソッコー買うの止めた。そんで、その場でカシに 「ねー、なんかおいしいもんでも食べにいこっかー?」 って言っちゃった。だってさー、そういう毛皮とか着てるあたしより、毎日楽しく暮らしてるあたしの方が好きだなんてさ、そんなこと言ってくれる人ほかにいないよ、シアワセー。ねーそう思うでしょー?  とりあえずあたしは今、カシと楽しく暮らしてればそれでいいの。カシがあたしのほんとの年知らないのとかー(だって聞かないんだもん)、あたしの方もカシの本職って何なのかいまいちよくわかんないのとかー、考えるとムズムズ系なことも二、三あるっちえばあるんだけどー、でもあたしのこと抱いてくれるときのカシの態度見たらもうだって、愛されてるとしか思えないもん。あたし、それだけでいいってカンジー。だってそーじゃん? ニンゲン愛じゃん。    なのに今日あたしは一人で、ヒール鳴らして馬みたいに歩いてる。  だまされた。  あの女、カシの友だちの彼女じゃなかった。  いつのまにか飲み仲間に混ざってて、あたしがお金払っても礼を言わなかったあの女。  カシと食べたものの話してたら、 「えー、あたしも食べたーい!」 って横から言ったあの女。 「あたしの友だちでソナコさんのファンいるんですよ〜。超へんなやつなんですよ〜、はっきり言って狂ってんですよー」 ってぬかしてくれたあの女!  あたしのこと何だと思ってんのかしら。年下だからってブリブリしてるだけで可愛がってもらえるとでも思ってんのかしら。カシ最初、友だちだから紹介するよって言ってたけど、その時期から考えて、あいつ、あたしのあげたお金とかであの女の知り合いの店のものとか買ってんだよね……なんで? なんでそんなことすんの? 許せない。  その上。  こないだの夜中の店でのあの態度は何? あの女、隣の席で別の男たちと盛り上がってこっちに来もしなかった。カシの友だちがあの女に会いたそうにしてて、それで、あそこにいるから行こうって話になったのに。 「早く来てー」 とか言ってたくせに。どーゆーつもり? つけあがってんじゃねーよ。  ねーあたしたち結局あの女のもてっぷりを拝ませてー、いただきにー、お邪魔したってわけー? どうよどうよ。どうなのよー。  なのにカシに 「なにあの子。あんたの友だちの彼女じゃなかったの?」 と言ったら、 「ちがうよ」 って言った………。  あたし、大ショック。なんなの? なんなのこれ? って気が重くなってきて、でもカシは、平気な顔してるし。今目に見えてるものが現実だったら、あたしは今まで何してたんだろって思った。 「なにそれ。カシ、知ってたの?」 「うん」 「………あたし、ゼッタイ彼女だと思ってたんだよ? だから安心して」 「つきあってんのかな、だといいなと思ってたけど」  え〜何それ〜ってあたしほんとは思いきり言いたかった。なんでそんな状態見るためにー、あたしがー、自分のお金出さなきゃなんないの? あの子たちの青春ってー、それほど上等な見せ物? だいいちさー、あれがむこうの彼女じゃないってことはー、あたしのカシに手出されるかもしんないってことじゃん! きのうあの子たちと飲んでたって報告されることも多いのに、あたしの見てないカシをあの女はいっぱい見てるのに、なんで? なんであたしがそんな女をご接待してさしあげて、勝手なこと言われてなきゃいけないの?  あたしはむかむかした。 「じゃああたし、考え直さなきゃなんない、あの人のこと」 「何て? 俺の知り合いだって?」 「あんたの知り合い〜?」  なんであたしがそんなやつにおごんなきゃなんないのよッ! ってセリフまでは出てこなかった。こういう時、彼氏が年下だとキツい。おとな気ない、とか言われるんだ、あたし。稼いでるくせにって。なんか悔しくて、泣きそうになった。 「あたしさ、もうあの子いる時は行かないし、あの子来たら帰るよ」 って言ったら、カシ、黙ってた。  一応、 「そうか……」 って言ってたけど、 「意味わかってないでしょ」 って聞くと 「うん」。  もうやだ……あたしのこと、好きって言ってくれてんのにカシ……好きなのにわかんないの? もしかして、もしかしてあっちのほうを選ぶ気? あたしじゃないほうがいいの? こんなうるさいこと言う女やだ?  あたし、泣き顔にならないように思いきり不機嫌に言った。 「……自分で考えてよ」 「宿題?」 「そうだね」  で、帰って来た。宿題だってさ。のんきなこと言ってる……。いつだかあたしの喋《しやべ》り方は甘ったるくて、怒ってるのとかわかんないって言ってたっけ……わかってくれなかったのかもな。淋《さび》しいな。  ああ、カシオが遠くなる。今日からクリスマスくらいまで離れてく、あたしの愛する男。でもあたし、もうあいつの周りの女、ぜーん部信用しない! ぜってーしない! あたしの気持ちわかんないんなら、もう、カシとは、もう、もう、きっと…………逢えない、と思う。ばっくれて、あたしの稼いだお金でよその女にいい顔しようとする男なんてやだ、やだやだやだ! 信じらんない!  でも…………。  そんなやつ、ばっかしだ…………。  いっくらでも思い出せる。何かに誘ったら、さり気ない振りして(さり気なくなんかねんだよ!)男友だちに混ぜてどっかの女連れて来たやつ。他にも、パーティーで人多いからどさくさに紛れるとでも思ってんだか、途中から別の女と合流したやつ。なんでなの? あたしのこと嫌いなんだったら、そう言えばいいじゃん! おごってもらえんだったらあたしがヤでも来るってこと? バカ! セックスの時以外にはあたしをなめるな!  好きな男出来たらその周りの女は邪魔なんだよ、普通そうじゃねーのか! とぼけてんじゃねえよ! なんであたしが金払うのわかってて、誰だか知んないような女が混じってんだよ! そしてそして、金払うだけならまだいいよ! たとえばさ、カシがさ、 「ごめんな、おごらせちゃって」 ってひとこと言ってくれたらさ、あたしなんかもーゼッタイ 「うううん、樫男の友だちだもーん」 って言うよ!  でも、言ってくれなかった。それどころかあたしがそーゆーの不愉快だってのが、まったくわかってない。もしかしたら、考えたくないけどもしかしたらよ、そいつ、あたしが知らないだけでカシと何かあったかも知れないのに、そんな女に黙っておごらされて、ごちそうさまも言われないで、その上それがヤなカンジだってことが好きな男にわかってもらえない? そんなこともわかってもらえないなんて……どうして? あたしすんげえ不幸だよ。こんな不幸は他にないよ! 「それ、もし友だちの彼女だったとしてもおごってやることないよ。自分で払えって」  同じ店のカズちゃんがそう言ってくれたとたん、こらえてた涙がぼとぼととこぼれ落ちた。 「………そうらよね、あたし、あたしって、間違ってないよね!」 「そうだよ。甘えんじゃないって」 「あたしのこと、ものすごい金持ちだと思ってんのかな? そんなこと気にしないはずだって?」 「思いたいのか」 「いやだよう、もうつきあえないよ。あんなに好きだったのに。あたしのお金なんて、何とも思ってないんだ。落ちてるようなもんだって思ってるのよお、おーんおーん」 「そんなことはないんじゃない」 「ううん、あいつさ、あたしのあげたお金、友だちに『この金拾ったんだけどちょっとくずしてくんない』って言ったことあるんだよ。なんだよそれって。あたし最初本気にしちゃったもん、あたしのあげたやつじゃなくてマジで拾ったのかと思った、なんかちょっとショックだったよ。でもね、その前まではそんな冗談も言わないで、そこにあんの黙って持ってったりしてたんだよ。あたしも言えなくてさ。あー、あたしって、あたしってまたこんなのとつきあってる? ってちょっと悲しかった。でもさ、だんだんと面白いことや優しいこと言ってくれるようになって、あたしもそれでなごんで機嫌よく仕事出来てんなって思うし、だから今はあいつにお金かかるのはかまわないの。でもさあ、その周りの女には絶対いやなのよ! あたしの彼氏なのに………あたしが体張って稼いだお金なのに。一円だってやだ、もうこんなのやだ〜」  あたしは泣きわめいた。酔ってたと思う、いつのまにか二本目空いてたし。だってもう、とても正気でいらんなかった。 「あたしほんとはそれほどカシに好かれてなかったのかもしんない。あたしが勝手に……勝手に思い込んで……ウッウッ、どーせ、どーせあたしなんか、何のとりえもないし、バカだし、年寄りだし」 「ソナちゃん、悪い方に考えちゃだめだよ」 「だってだって……もしかしてあたしが……すぐお金出すから……だからつきあってるんだとしたら? もしそれがなくなってもつきあってくれると思う? ヒクッ、ねえ、もしあたしが貧乏になったら嫌いになるんじゃないかなあ」 「…………」 「あたしもカシオに嫌われるの怖かった……怖かったんだよお、うるさい女って思われんのが。かっこつけてお金出し続けたほうがいいのかって考えた。でもあたし、ほんとはそんなに金ないんだもん、無理は続かないよお、こんな仕事の金なんてえ〜あーはーはーん、もうおしまいだよお〜。あたしはほんとは好かれてなんかなかったんだー!」 「ソナちゃんてば。まだ話し合ってないんでしょ」 「だって、わかんないんだよ? あたしが嫌がってるの!」 「だから、言ってみってば」 「言うの? カシに?」 「それしかないじゃん」。  くらくらした。昔の男に似たようなことをしたときのこと、思い出した。  だってそいつ、みるみるうちにふて腐れたんだもん。  そいつの場合はフタマタ。わかってたからそれはいいとしても、あたしの店にむこうの女連れてきて飲み食いはするし、 「ねーこいつ今の店やめてーってゆーんだよ、どっか世話してやってよ」 とかゆーし、なんで? なんであたしがあんたの女のめんどーまで見なきゃなんないの光線とか全然効かないの。  たいがいの男って、自分の方が金出してもらってる立場でも女のほうはいろいろ我慢して合わせてくれるもんだって信じて疑ってないみたい。あたしも、まさかこれ、わかってないわけ? マジなわけ? って思いながらしばらく様子見ちゃうことになっちゃうもんだからー、 「あの〜」 とかとうとう言わなきゃなんない時にはもう手遅れだったみたいで。 「あのさ〜、悪いけどなんであたしがそんなことしなきゃなんないのかなあ」 「あー?」 「あたしさー、じゃああの子にあんたとのこと話していいのかなあ」 「……何おっしゃってんスか? あんた」  ほら、凄《すご》み出したよ。こうなったらもうだめ。あたしだってほんとは口達者だからさー、我慢してたこと全部出ちゃうっていうかー、だいいちなんで我慢してたんだかってなっちゃって。現実からのおみやげの玉手箱のふたはとっくに開いててー、ケムはそこらへん真っ白にしててー、あたしはすでに別人で、戻れなくなった。 「じゃあなかったことになってるわけだ、完全。うちの店で飲みまくってんのもじゃー何? あんたたち、いったいどこのどちら様なのかなー? じゃあいいのね、集金行ってもらうっしさ、これから。昔の飲み代から全部せーさんしとくよ」 「なんだァ? 何言いてーんだあんた」  あたし知ってた。むこうの女が 「ねーねー何でそんなよくしてもらってるん? あの人もしかしたらあんたのこと好きなんじゃないのー?」 って言ったとき、 「そーお? 何、おまえ妬《や》いてんの?」 「やだーん」 とかさ、やられてさ。あたしが見てるの知ってて。 「若い男好きなんじゃねーの? オバサンだからさ」 「そーなんだー、ババアって若い子好きだもんねー」 って聞こえてるっつの! 「………もうやめようよ。もっと若くて金持ちできれーな子とつきあえばいいじゃん、いればの話だけど。あたしはもうご辞退させてもらいますよ」  泣きたかったけど、こんなやつの目の前で泣くもんかって、我慢してた。  少しして、哀れむみたいに 「あんたもただの女だな」 って言われた。 「どういう意味?」 って聞こうとして、やめた。 「ただの女でけっこう。そんなて捨《す》台詞《ぜりふ》であたしのこと言い負かしたつもりなんだー。頭わるーい。俺様のご都合主義女でなくて申し訳なかったですねえ?」  そこまで言ったら、そいつはさすがに少し黙ってた。  しばらくして 「いいよ、もう」 って一人にされた。  そこはその男の部屋だったんだ。あたしは帰ったほうがいいのかどうか、ぼんやりしてた。子どもの頃に寝る時、もみがらの入った枕に耳を当てて聞いてた、ざっ、ざっ、ざって……あれみたいに、時計の秒針が音を立ててた。世界中でたった一人になったみたいだった。  そのあと、同じ店の他のホステスと、やられた。証拠はないけど、あのいちゃつき方、そうとしか思えない。ごていねいにわざわざ店に来て、 「あ、ソナちゃんですよね」 って言う店長に、 「いや、それが……アハハ」 わざとらしく、ちょっと笑って。  それから、その子を指名されて、あたしはごていねいにもヘルプで正面につかされた。そいつとその子の水割りを作るってのが、あたしの生涯最大のダーティービジネスだったと思うよ。 「ねーねー、俺の水割りにへんなもん入れないよーにね。毒とか持ってない? 持ってそーだかんなオバサン」  あたしを傷つけるために遣う金ならあるんだ、とあたしは煮えくり返った。あたしとのことも知ってるはずのその女と永いこと目の前でいちゃいちゃされて、その間も携帯鳴って、また別の女まで来て、勝手に店内自営ハーレム作ってんの。あたしを苛《いじ》めるためだけにね。もちろん一度だけだけどね。金続かなかったみたいよ、たーった一度。でももうその時の有頂天っぷりったらなかったよ。 「いやもう大変。俺ほかの客の視線、痛いっスー。俺って今、最もホットな話題? カカカカカ。『なんだあそこの席』って、みんな思ってるよなー」 とか言われて…… 「死ぬまでに何回おまんこするか知んないけど、たかだかそのうち数回ご一緒させていただいたくらいで、なんだかんだ言ってくるよーな女ってのもねえ」 って……脈絡なんてないの、あたしに言ってるだけ。あたしは黙って聞いてた。でも、 「やだもー、何ぶつぶつ言ってんのオ」 ってまた、目の前でキスとかされて………………ああ…………。  それ以上思い出したくなくてあたし、グラスを思いきり空にした。そして、立ち上がった。 「カズちゃん、あたし自殺する」 「何言ってんのよ!」 「だって、あたしが悪いんだもん。あたし、何度もこんなことあったの、今まで。前の店もそれで辞めたの。もう同じこと何度もくり返すのヤだし、それはあたしの頭が悪いからだし、バカは死ななきゃなおんないって言うし」 「それ笑うとこ? ソナちゃん! あんたいいから何か歌いな!」 「こんな気持ちで歌えるわけないじゃん、だってあたし歌手だよ? 歌って発散しよーってゆーシロートと一緒にされたくない」 「何言ってんのよ急に」 「だってあたし、クラブ歌手やってたんだもん。バンドもやってたし、本気だったんだよ結構」 「そうなんだ。そんなの知らなかったよ。ミョーにうまいかもとは思ってたけど」 「そーなんだよ。だからなんだろーけど、どっこ行っても、ちょっと一曲やるとあれやってこれやって、てさ、あたしはあたしの歌いたい歌しか歌いたくねんだっての! みんな、うるさいよ……あたしのこと何でもやってくれるって思い込んでるんだよ、どんなバカ女でも。なめられてんだあたし、完全に」 「そーなのー?」 「だってうるさいんだもん。あたしはあたしのために歌いたいのに、人にサービスさせられて。こっちが金出してるとこでなんで、そこのホステスの喜ぶ歌とか歌ってさしあげなきゃいけないのよ!」 「うまいから言ってんでしょ。だって歌手になりたかったんでしょ」 「それがサービスのつもり? あいつら」 「そーでしょ、だってあたしたちだってそーするじゃん。きゃーもっと歌ってーって」 「そりゃヘタクソに対するサービスだろ!」 「知らないわよ」 「あたし、シロートと一緒にされたくない。だってだってあたし、ほんとに歌やる気でいたんだよ」 「知らなかったのよ。みんな、知らないだけだよ」 「何にでもなれる気でいたんだ。何でも手出して。そのたびプロになればって言われるもんだからその気になっちゃって。でもなんでだろ、なんか足りないんだあたしきっと人間として。どうすればいいのかわかんなかった。で、なんだかいつもこういうコンパニに戻っちゃうんだ。気がつくとまたこの白パンはいて水割り作ってる。白パン長持ちするよ、黒と違って傷とか目立たないもんね、あたしもほんとはいっぱい傷ついてんだ、目立たないだけなんだよ。うまくやりたい、何かになりたいって気持ちだけは死ぬ程あるのに、ロングで見るときっと何か大きな大きな勘違いをしてるんだよ…………。あー、バカみたい。いつのまにかこんな年になっちゃって。若く見えるって言われるけど、死んでも田舎の同窓会なんか行けない。行けばゼッタイ自分がとっくにオバサンだったってことに気づいちゃうもん。そうなんだ、照明暗いとこで派手な化粧してれば逃げてられる。でも、……カシはほんとはあたしの素顔知ってる。もちろん言わないけど、老けてんなーって思ってるかもしんない。ほんとは何だってよーく知ってるんだよ。だからあたしは明るいとこではカシの目を見れない。怖い。だってね、そんでね、きっと今のカシが、若い頃のあたしと同じこと考えてるんだ。これから俺何にでもなれるって、こないだもそんなこと言ってたもん。一応あたしも仲間みたいな言い方してくれてはいたけどさ。あれ、気ィつかってるだけ。ほんとはどっかであたしが稼いだお金は自分に流れてきて当然って思ってるんよ。でなきゃこんなに出さして平気なんて変だよ、結婚してるわけでも一緒に住んでるわけでもないのに。子どもを育てる親みたいにさ、あたしのこと思ってんだよ。あの人俺の親だからって。そりゃあたし子どもいるけどさ、でももう耐えられないよ。まだまだ自分を何とかしたい、どっかいつでも子どもでいたいって、この年でもほんとは思ってんのに、カシに対してどうしてもあたしは大人にならなきゃダメなんだったら、そうなんなきゃ好かれないんだったら、もうあたし、あたしの人生終わりでいい。死にたい。お金ほとんどないけど残りは子どもとカシにあげるわ〜、あ〜ん、あ〜ん、あんあん」 「やめなさいよその長ゼリフ。最後泣き過ぎで何言ってんだかわかんなかったよ」 「だって好きな男がさ〜、あたしのことパートナーじゃなくてよ、お金くれてー、育ててくれる立場ってのしかあたしに与えてくれないのよ? 普通はその男の子ども産んで、それを二人で育てたいっていうのが希望じゃないの。なのにあたしはどうしてもそこへは当てはめてもらえない女なのよ〜お〜ん、お〜ん。これからもっともっと年とったらー、これがひどくなるだけに決まってんじゃん。もう何も仕事なくなってさ、あげるお金もなくてさ、今さら子連れでどっかのオヤジと結婚するなんてことも出来ないしさ、だったら今カシが好きで好きでこんなに好きなあたしのまま死にたいよー。ねーあたし間違ってないでしょ? ここで死んだ方がしあわせでしょ? 死なしてよー、今死なせてー!」  あたしは大声で泣き叫んだ。でも鍛えてあるからのどは痛くない。腹式呼吸だし。声量あるし。  ……ってとこまで覚えてる。  気づいたら、カズちゃんちで寝てた。ってのも変な言い方だけど、つまり、目が覚めたのだ。 「あたし……」  横ではカズちゃんがちゃんと寝巻きに着替えて、化粧も落としてすーすー寝てた。自分の両目が熱い。そっと触ると、スター・ウォーズに出てくる耳のとがった毛のない宇宙人みたいに腫《は》れあがってた。 「寝ちゃったんだ……」 「あんたの寝巻き、そこに出てるよ」  目を閉じたままカズちゃんは言った。 「死んだと思ったのに、寝ちゃってた……」  あたしはそう言いながら着替えた。 「歌やってただけあって、隣から静かにお願いしますって言われるほど声出てたよ。歌もっかいやったら?」 「……カズちゃんちって、いつもキレーに片付いてるねえ」 「人の話聞いてないな」 「いやほんとに、いっつもカンシンしてんだよあたし」 「ソナちゃんとこは地獄のように散らかってるからねえ。うち、フツーだと思うよ」 「そんなに散らかってる?」 「中学生男子の部屋って感じだよね」 「そうだったのか……だから連れてかれちゃったんだな、うちの子」 「は?」 「ほら親に子ども預けてるって言ったじゃん。結局預かってもらうことになったんだけどさ、最初は親があたしの部屋に来て、こんなところで育ててたら食中毒で死ぬとか何とか言って連れてっちゃってさ」 「ああ……わかるかも」 「そうお? 別に元気だったんだけどなあ。楽しくやってたし。邪魔って思ったこともなかったし」 「何食べさせてた?」 「何って、普通だよ。居酒屋行ったらとうふとか」 「赤ちゃんに?」 「何かおかしい?」 「あんた、やっぱしそういう育児とか家のこととかはダメ系の人なわけでしょ?」 「そうなのかな? 自覚なかった」 「だから金かかる男しか寄ってこないんじゃないのォ?」 「うわ。そこまで言う? あー 今日締め切りだった…………まあ、いいか。も少し延びるわ」 「何?」 「実話週刊誌にさ、おミズレポートみたいの書いてんの。絵も描いて。結構手紙とか来るんだよ」 「あんたいろいろやってるわねえ」 「そう言われ歴だけ永いんよね。一時は小説書けとか言われて、本気で作家になろうかと思ったよ。でもやっぱ、長いの書くの大変でさあ。あ、歯ブラシとかない?」 「洗面台の下にお泊まり用あるよ。いいじゃん、今からでも書けば」 「そうなんだけど……」 「小説だけはあれでしょ、年齢制限とかないんでしょ」 「らからさ、へらにないから、ろっかのおくさんとからさ、いつまれもしょうせつかのゆめすてらいとかさ、そゆのあるんらってよ。それも、なんらからーってかんり」 「歯磨きながら言ってもわかんないわよ」 「ぺっ」 「書けばいーじゃないの。あたしあんたの文章読んだことあるからゆーけど、あれプロになれるって。あたしは面白かったよ」  カズちゃんが本気で言ってくれるのはわかってる。でも、はっきり言って女性週刊誌くらいしか読まないカズちゃんの意見、きっとそーとーヤバいかもしんない。 「でもさ、小説書くったって、書きあがるまでは一円にもなんないんだよ」 「だから何なのよ」 「すげえ時間かかるし、その間にもし……」 「何よ」 「カシに別の女なんか近付いて来たりしたらあたし……」 「ソナちゃん」 「だってだって、それ考えるだけで落ち着いて書けないしー!」 「ゆうべもう死にたいとか言ってたの覚えてる?」 「…………ちょっとね」 「死んだ気になって書くってオチはないの?」 「だって……」 「だってじゃないよ」  あたしは深く息をした。視線を落としてしばらく考えた。 「あ!」 「何よ」 「やっぱだめだよ……書いてるあいだ、どう考えても生活できないもん」 「そんな何もかも止めて集中しなきゃ、小説って書けないもんなのー? あんた現にそのレポートは、ホステスやりながら、樫男くんともつきあいながら書けてんでしょォ? そんなに違うのー?」 「違うんだなそれが……あたしちょっと挑戦したけどさ、もーぜんぜんセカイ違うわけよ。だってブンガクだよブンガク。打ち合わせだって懐石だよ」 「カンケーないよそれ」 「そうかなあ。あたしけっこうビビったけど。タクシーだってさ、あたしを先に乗せてそれから編集者が乗って、あたしんち着いたらまたそれに編集者が乗って帰っちゃうんだよ!」 「どーゆー意味よ、あたしにはわかんない」 「フツーの週刊誌とかスポーツ新聞の人ってだってゼーッタイそんなことしないの。電車なくなるから帰んなよ、って声掛けてくれるテードかな、それだってそーゆーのって良い方」 「なによ良い方って?」 「それ以下の人って、電車なくなったらやれるかも、って思ってたり、知らんぷりしたりとかだよ。もーちっとも店の客と変わんない。あたしがおミズだからなのかなあ。たまーにタクシー券くれる人いるけど。またそれでタクシー乗ってもさ、運転手がゼッタイ『最近店の景気どう?』とか言ってあたしのこともの書き扱いなんてしないんだよねー」 「うーん。でも、そりゃそうかもって気も」 「そう? でもね、だったらあたしとしては、電車で帰ったほうがちょっちましかも。送ってくんないんだったらー」 「だからそういうことじゃないじゃん、今言ってんのは。そういうんじゃなくてさ、ちゃんと実のあるもの書けばって言ってんだからさあ」 「うん……」  だから思うんだ、あたしには何かが足りない。あたしのしたいことっていったい何なのか、あたしにはわかんない  途中までは、何やっても褒められる。あたしも嬉《うれ》しいから、がんばる。がんばってるつもりなのに、うまくいかない。あたしはもしかしたら何かすっごくゼータクなこと考えて、虫のいいこと期待してんのかしら? 自分ではわかんない。あたしは誰の言うことでもちゃんと聞いてる。担当の編集者とだって、その度ちゃーんと寝てた。今はカシだけだけど、昔はそんな体あたりな自分を頼もしく思ってた。途中知り合った別の女のもの書きで賞とか獲《と》ってる人が、 「編集者なんて男って思ってないしな。でもいるんだよねー、勘違いしてくんのが」 って言ってるのを聞いて初めて、あ、編集の人とは寝なくていいんだって知って、その後もときどきはしたけど、カシとつきあいだしてからは、やめた。バンドも、あの頃から自然消滅、っていうことはあれ? 待って? みんなやりたいからあたしの周りにいたってこと? そう言えば、新しく入ったギターの子に 「そのうち僕もお願いしますよ」 って言われたっけ……。そんでそれ無視してたらあの子、しばらくして辞めたんだ……。 「ね、カズちゃん」 「ん? 何? 今寝てたわ」 「あたしもしかしたら、どの男の言うことでも聞いてたから、よくなかったのかなあ」 「は?」 「あたし、男にはなんか、逆らえなくてっていうか、男のいうことはみんな、良い方にとってたみたいっていうか……」 「えーそんなこと、できんのお? なんか、それやってたらカラダ持たないって気もするけど……」 「持たなくなってきたのかもしんないの、だからカシオになってからは、こんなふうなのかも……」 「うーん、難しいな。起きてから考えるよ、起きたらもっかい同じこと……」  カズちゃんのセリフの最後はいびきに変わってしまった。  カシオ、今何してるんだろう。  携帯かけると、話し中だった。  こんな早朝に誰と話してんだろう。  彼はときどき電話中に 「あ、ごめん、電話だわ」 って言うけど、あたしがかけるときにはキャッチになってたことなんか一度もない。こんなに何度もかけてんのに……。  淋《さび》しい。  カシに抱かれたい。  何も考えなくていいのは、カシに抱かれてる時だけ。今度、カシに抱かれたら、そのまま死にたい。でも、そんな時は来るのかしら。このままあたしとカシはだめになってしまうのかしら。  あたしが何かになったら、プーのコンパニじゃなくなって何かになれたら、あたしがこんなオバサンでも、カシはあたしのお金じゃなくてあたし自身を好きになってくれるのかなあ。それともやっぱし、だめなのかなあ。考えてもしょうがないのに、考えると涙がぽろぽろこぼれた。腫《は》れたまぶたがもっと腫れて、人前に出れなくなっちゃう。あたしへたに、コンパニとかやれたり、男にかまわれるテードのルックスだから逆にヤバかったのかなあ。でもだったら、子どもいんのにさ、どうやって喰《く》ってけば良かったのかなあ。カシとケッコンしたいなあ。でもカシ、何してるのかよくわかんないしなあ。稼ぎも……わかんないけど、そんなありそうじゃないし、金遣い荒いもんなあ。あたしの宿題ちゃんと考えてくれているのかなあ。あー、目が、目がびしょびしょ、目が熱い。泣き過ぎで死にそう。今日店、休みで良かった、この目じゃシャドウ乗んない。もう死んでも、カシに愛されないんなら死んじゃってもいいんだけどでも、でも、やっぱりも一度抱かれたいなあ。  もしかしたら、本当に男に愛される女って、むやみに男の言うこと聞いたり、お金とかあげなくても抱いてもらえるのかなあ。うらやましいなあ。あたしもそんな女に生まれてきたかった。  ああ、樫男、樫男、でも今は、あんただけがあたしの夢で、希望で、喜びなのに。どうしてあたしじゃない誰かと話してんの? 何で連絡くれないの? もしかしてあんたも、他に誰かいるの?  やっぱ、死んじゃおうかなあ。考えるのめんどくさくなってきちゃった。あたしなりにがんばってきたつもりなんだけどなあ。  カズちゃんちで死んだら迷惑かしら。  あたしはゆっくり起き上がり、窓のそばに歩いて行った。ここ、何階だったんだっけか。死んでしまう自分を思うとまた、切なくて涙がこぼれた。俺のこと死ぬ程好きだったんかって、カシ思ってくれるかなあ。  窓を開けると五月の風が駆け抜けた。いいお天気。そういえばあたしカシと、昼間にどっか出かけたことってなかった。どっか行きたかったな、おべんと作ったりしてさ。もう遅いか。あ、そうだ、遺書書いてないや、どうしよう。書いたほうがいいのかな。でも、書くと悲しくなっちゃうかもしんない。今死にたいのは、絶望もしてるんだけど、まだいい思い出のほうが多いからなんだもん、書くとなんか変わっちゃいそう。いいんだ、今終わりで。しあわせなうちに。まだちょっとは、しあわせなあいだに。 [#改ページ]    長い影  この間まで一日中ブラインドを開けずに暮らしていた私が、今は朝から彼と二人で選んだカーテンを開け、今日のお天気を知っている。白いコットンオーガンジーの透き間から外を歩く人を見て、今日の彼に傘が必要かどうか考えている。  出かける彼に、煙草と携帯電話を忘れていないか声をかける。  食器を洗うのも、部屋を片付けるのも、今では何故あんなに億劫《おつくう》だったのか思い出せない。  眠れない夜は必ず死ぬ事を考えていたあの頃、ドアノブすらその為の道具にしか見えなかった。  走っても走っても足元が回るだけで、風景が変わらない事に、齧歯《げつし》類以外の動物は耐えられるものだろうか。  伸び過ぎた歯。  堅い物に齧《かじ》りつく事も禁止され、日に日に口数も減っていた。  それでもその場所を出るまで私は、「虚しい」という言葉を思いつかなかったのだ。  今朝も彼は、あの大きな手で私のふくらんだお腹を撫《な》でていた。  まだ半分寝ている状態で行なわれるそういうことにどれほど私が喜びを感じているか、きっと彼は知らない。  やがて子ども部屋からぺたぺたと湿っぽい小さな足音がやってくる。一つ、二つ。私がそれを聞いて母親の顔を作ったつもりでも、彼が何も身につけていないことはすぐに指摘され、小さな手が彼のお尻《しり》を叩《たた》いて遊ぶ。  妊娠した女の愛し方をよく知っている私の男は、子どもの扱い方もわかっていた。そこらに転がっている紙きれや、ひも、そんな他愛のないものを使って、いつも子どもたちに嬌声《きようせい》を上げさせる。根気よく繰り返される会話、振り回される小さな体。遠い昔に自分自身も感じていたそれら。私だってそういうものに飢えていた。泣きたいくらいにだ。なのにどうして今まであきらめていたんだろう。    暮らし始めた頃。  仮の住まいのクロゼットを開く度に彼の匂いがして、開ける手が止まった。二つの扉の間に、いつも逢《あ》いたかった男の周りの空気が保存してあることの不思議。私はこの匂いが欲しくて受精したのだ、夫でないこの男の子どもを。そしてすでに私の皮膚と脂肪の下で、それははっきりと自己主張をする時期を迎え、蜂のダンスのように動きだけの会話を試み続ける。  冷たい残骸《ざんがい》の山から出て、私と、この皮膚の下の人物も含めて三人の子どもの精神の健康を取り戻したかった。最初の夜、仮り住まいのベッドに寄り添って眠る子どもたちを見て、男は体内に隠してあった父親の要素を取り出し、それに「可愛い可愛い」、と何度もつぶやかせた。それからすぐに私を抱いたのだ。虚しい日々を永く過ごしたせいで、あまりに嬉《うれ》しいことがあると、もうこれで人生を終わらせていいのかもしれないと考える癖がついていた私は、彼に抱かれている間中、このまま死んでしまいそうで恐くて涙が零《こぼ》れた。  しかし、それが始まりだった。彼は私ほど思い詰める性質《たち》ではなく、何より私よりも若かった。彼の持つ独特な体力に私は憧《あこが》れと懐しさを感じた。  私は自分の父親の顔を知らない。ちょうど今の私の子どもの中の一人と私が同じ歳の時に、荷物をまとめて出て行ったのだ。それを見送ったのが最後、いつのまにか写真も全て焼かれていた。その後に家に入り込んできたのは単に母の愛人であり、嫌な思い出しか残してはくれなかった(吐き気がする程の記憶でも思い出と名付けて良ければ)。  父親とは、イメージの仕事だ。時には実体が邪魔なこともある。実体さえなければ、語り部である母親の趣味でそれはどんな像にでも創り変えられるのだ。  私は彼の中に父親を見ている気はなかったつもりだった。数日、異和感なく子どもたちと戯れる彼を不思議な思いで見守った。  初日は 「疲れたでしょ。これが三人になるんだよ」 と言うと、溜息《ためいき》をついて 「俺帰って来ないよ、家」 と答えていたが、次第に 「子ども出来ても絶対赤ちゃん言葉なんか遣わないぞと思ってたけど、あっさり遣ってるよ」 とつぶやく様になり、ある夜私が 「こんなにお父さんみたいになるとは思わなかった。そういうとこ、あるようには見えなかったよ」 としみじみ言うと、 「自分でもそういうのないつもりだったんだけど」。 「私、ときどき子どもたちに妬《や》きもちやいてるくらい」 「わかるよ。だからちゃんと可愛がってる。……そうだな、最初の晩、子どもら二人で一つのベッドで寝てたの見たとき、何かモード変わったんだな。ああ、ほんとに出てきちゃったんだなって思って。自分の子が生まれるったって、あんたと二人っきりだったら、かえって実感湧かなかった」。  そういうものなんだろうか。でも、なんだかとても嬉しい。 「ねえ、こっち向いて」  私より厚い唇、私より大きな歯。  長い舌。何もかも知っている指。 「おっぱい大きくなったね」 「うん。重い。お腹も、前より早いの、大きくなるの。あなたが大きいからかなと思ってたんだけど」 「そうなの」 「うーん……どうなんだろ、最初より二人目が早くお腹大きくなって早く生まれる、ってのも聞いた。私、二人目の時、七ヶ月まで誰も気づかなかったのにな」  そう言ってる間にも乳房は揉《も》みしだかれ、乳首も指や舌で転がされている。まるで「安定期に入ったら、母乳がよく出るように乳房と乳首のマッサージをしましょう」という妊婦向けの一文を彼は知っているみたい。でも、そんなはずはない。  私以外の妊婦は、乳首のマッサージ中に濡《ぬ》れてきたりはしないのだろうか? 乳房と乳首に、妊娠してから初めて関心を持つようなタイプの女の中にも、たくさん母乳が出る人はいるのか?  一人目が生まれた後、看護婦が施す乳首のマッサージのあまりの痛さに面喰《めんく》らった。乳首にはいくつも小さな穴があるのだが、その穴の中には皮脂や何かがいっぱい詰まっていて、それを追い出してしまわないと、母乳の通り道として機能しないのだという。看護婦の指は容赦ない強さで乳首とその周辺をつまみ上げ、執拗《しつよう》にねじり上げた。そして一人目の子の授乳期が終わると、もとの大きさに戻った乳房の先には、「ああくたびれた」と言っているようなうなだれた乳首が残った。それは少し淋《さび》しげであったが、以前のほどほどに張りのあった形は、穴の中に詰まったものが構成していたのだ。それらを取り除き、乳の道が通った乳首は、おだやかな時はあからさまに萎《な》え、刺激には堅くなる様子がペニスそのものであった。  私は彼に最初に抱かれた日を思い出していた。私の右側の乳首を吸っていた彼がはっとした様に顔を上げ、 「甘い」 と言った事を。  その後すぐ私は断乳したが、彼が乳房を揉み出すと残りが分泌してしまうらしく、 「まだ出てるよ」 「ほら。甘いよ」 と何度か指摘された。  思い出しながら私は、 「母乳の出てる女とセックスしたことあったの?」 と聞いてみた。 「ねえよ」 「本当? 嬉しい。どんな感じだった?」 「なんか、複雑な……」 「ねえ」 「ん?」 「足で踏んで」 「足?」 「うん」  彼は不思議そうだったけど、私はそうされてみたかった。動物の仔《こ》は、乳を飲むときに乳房を前足で踏んで乳の分泌を促し、後ろ足で生存競争の相手である他の兄弟を蹴《け》る。彼を見ていると、私はそんなふうな足のする仕事のことを考える。彼の脚や足の指が、ある種の動物の様にとても長いからかもしれない。私と違って、中指が一番長くて、血管が沢山浮き出ている。彼の足の指を口に含むと、中ですごくよく動くような気がするのは、指が長いからなのだろうか。  水でふくらませた風船のようになった私の乳房を、彼の大きな足が踏む。長くて器用な足の指で乳首をつまみ上げる。踏まれる度に乳房はたわみ、体が揺さぶられ、私は声を上げる。  妊娠してから、前より彼からの刺激に体が応《こた》えるようになった気がするのだ。体の中に彼の分身が根を張っているからだろうか? つきあい出してすぐに妊娠してしまったからよくわからない。  妊娠が判ってまもない頃、お腹が張って苦しくて、座っていられなくなった時があった。卵巣が腫《は》れて腸を押していたのかもしれない。妊娠初期にはよくあるらしいが、子宮外妊娠の経験があり、その時まだ病院に行ってなかった私には恐ろしい症状であった。  彼は私に続いて友人たちとの席を後にし、私のお腹をさすりながら私を支えて歩いた。 「こうやって、体を伸ばしてると少しはいいみたい」 「病院行こうか?」 「でも、産婦人科がある所で、超音波の診察をしないとわからないし……結構冷たくされること多いし、こういうの……」 「横になってタクシーに乗ったら? 俺、いっしょに行くから」  彼はタクシーの中で、私の服の中に手を入れてお腹に触った。 「冷たいな」 「すごく、手が暖かく感じる」  少しずつ、お腹が温まっていく。  部屋のソファに横になる頃にはもう、私は彼が欲しくなっていた。  彼のジーンズのボタンを、一つ一つはずす。 「元気じゃねえか。一時はどうなることかと思った」 「優しくされたから、治ったの」 「普通だよ、俺」 「でも、大きな病気も入院もした事ないって言ってたのに。私には病院行こうって言ってくれたじゃない」 「したことないから、俺が見てもわかんないんじゃないかって思うんだよ」 「私、今までそういうこと言う人、逢《あ》った事なかった……。みんな、私は頑丈で、壊れないって思い込んでる人ばかりだった。弱ってても誰もいたわってくれなくて、淋しかったの」  嬉《うれ》しくて、溶けそうなくらい彼のペニスを舐《な》め回した。最後まで口でしてもよかったけど、やっぱり彼を体の中に入れて欲しかった。 「ちょっと恐いから、上になってくれる?」 「でも、奥まで入っちゃうよ」  妊娠前から彼は、無闇に奥まで突かないように気をつけているようだった。私の中の襞《ひだ》を、ゆっくりさぐるように往復して、時々根元まで沈めるやり方。でも一回だけ、勢いよく奥まで何度も突いたことがあった。そして私はその日に受精したのだ。中で射精されたわけでもないのに。  充分指でほぐされた部分に、ゆっくり彼が入ってくる。彼の指の太さに順応していたものが、今度は水辺のような音をたてながら、ペニスの大きさにまで広げられていく。 「形、すごく、よくわかる……」  柔らかな指を、カギにして入れられて、中を引っかかれているみたい。やがて、覆い被《かぶ》さってくる広い肩。彼とこうして抱き合うと、私の顔は彼の胸に隠れてしまう。背中に手を回しても、大き過ぎてうまく掴《つか》まれない。  長いペニスが全部私の中に埋まる。    お腹が目立つようになってくると、彼は奥まで入れなくなった。私の腰を支えて行ない、他の刺激を上手に使った。  私の方はまるでわかっていなくて、自分で自分を出血させたりした。嫌な話し合いが山ほど残っている自分にいらいらしていた日のことだった。彼の体から降りる時、鮮血が零《こぼ》れた。一方的に無茶をするには彼のペニスは長過ぎるということが、身をもってわかった。痛む程ではなかったし、出血はすぐ止まったが、私は反省した。彼を人形の様に扱った罰だと思った。なのにどうしても、気持ちが荒れると、眠っている彼の体に手を伸ばしてしまうのだ。  ダブルベッドにうつぶせに寝ている彼の足は、マットレスのはじっこにはみ出して引っ掛かっている。大きな親指。私の中に入れるには、指で思い切り広げなければならなかった。 「妊娠してるのに、そんなにして大丈夫なの?」  ある友人に言われ、私はあらためて考えてみた。 「大丈夫どころか……逆に、する度によく育ってるような気になるよ」 「…………」 「お腹の中で二人に増えるんじゃないかって思うくらい。彼も『栄養あげといた』って言うし」  風呂《ふろ》場から聞こえてくる笑い声。 「すっかりお父さんだね。意外だったよ」 「でも私も、最初の子ども産んだ時、『そんなタイプには見えなかった』って言われたよ。連れ歩いてて人さらいと間違われたこともあったし。誰が育ててんのって聞かれたし。二人とも、完全母乳で布おむつなのに」 「そんで、前のだんなさんが育ててるって図式にはまっちゃったのよね」 「あんたたちがみんなしておだてるからよ、迷惑だわ。本人すっかりその気になっちゃって。世界一いい夫のつもりでいたのよ。そのおかげで話し合いは泥沼」 「だって、うまくやってると思ってたんだもの。普通そりゃ、あんたみたいな女を見れば誰だって」 「自殺しかけるくらい、追いつめられてたのに」 「そういう風に見えないから」 「あの会話のない、物だらけの暗い部屋で。思い出すのも嫌。彼と暮らし出してからの子どもたちの言葉の増え方と表情の変わり様、ほんとめざましいのよ。私も驚いてるもん」 「あんたの世話だけでも大変そうなのにねえ」 「遊んでやってるだけじゃないんだよ。ふつうなら母親の方に押しつけることまでやってる。前の家で、あんなに恩着せがましくされていたこともいつのまにか済んで、寝かしつけてあったり」 「全然そんな風に見えないよね彼」 「見えなかったよ私も」  だからどうしてこんな展開になったのか、自分でもわからない。  妊娠したかもしれないと思っていた頃、二人の子どもが死んでしまう夢を見た。死に顔までは出て来なかったが、ある男友だちが、二人の死を告げに来たのだ。あまりの恐ろしさに目が覚め、あわてて二人の無事を確認した。その後もう一度、小さい子の方だけ死ぬ夢を見た。  理由は明確だった。今いる子どもとは別れなければならないのではないかという恐怖が見せた夢だったのだ。二度の夢のおかげで、私は自分が子どもたちとは離れられないことがよくわかった。  安定期を待って、家を出るつもりだった。会話もない家の中で話し合う気はなかった。きっと私が切り出せば、貝のように黙り込んだまま、ベッドにうつぶせになっている人物を、まず半日は見ていなければならない。いつでも重く嫌な話の日は、投げ出された二つの足の裏を永いこと見ていた。それは、話し合いとは言えない別の何かだ。いつもそうやって根負けしてきた。もう嫌だったのだ、そんな何もかもが。  なのに安定期に入ってまもなく、夫の母の容態が急に悪くなってしまった。私は神様を恨んだ。子どもたちを置いて一人で逃げ出したくなった。もしあの時彼が「どうすんだよ」とか言ったら、状況は変わっていただろう。だけど彼はこう言ったのだ。 「ハラ引っ込めて帰れ。もしものことがあったら、喪が明けるまでとぼけ通せ」。  半泣きだった私は、それを聞いて吹き出してしまった。 「生まれちゃうよ、途中で」 「だったらどっか温泉でも行ってそこで産んで、『預かってきちゃったー』って言って連れて帰れ。あとで自分の子だったって言やいいよ」 「そういう事言ってくれる人、他にいない」 「俺けっこう本気で言ってんだけど」  そして私も夫の母も、元気を取り戻すことが出来た。 「でも一時は、子どもは置いていかないと大変なのかな、って弱気になったよ。もちろんそんな事できなかったんだけど」 「そりゃあ、あんたのポリシーに反するだろう」 「うん」  彼の腕枕で寝ていると、幼い子どもに戻ったような気になる。  お腹の中の子どもが、携帯電話みたいに身震いしている。いや、とっくにそれより大きく育っているはずだ。電話でない証拠に、次には手や足を動かしているような感じが伝わってくる。力も強い。薄いぴったりした服しか身につけていない時は、お腹が揺れ動くのが見えることもある。  彼の手を取って、子どもが動いている辺りに当ててみる。こうしても、なかなかタイミング良く動いてくれないものなのだが、彼は永いこと手をそのままにしていたので、何度か子どもの動きが伝わったようだ。 「わかる?」 「この、ときどきピクンってなるやつ?」 「そう」  あなたが根気よく手を当てていられるような人だから私は嬉しい、と言いかけてやめた。私とのことを、話さなければならない人たちにきちんと通して行った彼や、私の知り合いにちゃんと挨拶《あいさつ》する彼に感心する度に、 「普通そうだろ」 と言われていたから。でも今まで、私にとっては普通じゃなかったのだ。起こったことはすべて私のせいにし、自分がしたことでも最後まで逃げ回り、何も決められず、人に頭を下げる事は嫌がり、面倒はみな私に押しつけ、外面だけが良い。そんな男ばかりだった。友人からも、 「あんたより稼いでないってのは共通するとしても、今度の人一番まともじゃん」 と言われ、私は答えた。 「うん。他に言いようがないから言うんだけど、なんか『男らしい』って思うよ」 「でも普通って言えば普通はそうなんだよ」 「そうかなあ。私は今までこういう人、見たことなかった。のらりくらりしていれば、私が何とかするだろうと思い込んでる男ばかりだったよ。そのくせいつのまにか、私がお金を稼ぐことを当然だと思って、その上にあぐらをかいてるの。私は、自分の方がお金を出すことを不幸だと思ったことはないのね。でも、女が一生働く不安を理解しようとしなかったり、私を管理しようとしたり、他の女にいい顔するために私のお金を遣ったりされると頭に来るのよ」 「普通来るよ」 「でも、そんなやつばっかしだったよ? 楽して男らしさを演出できそうに見える女がいたら、利用しようと思ってる男は多いんじゃないの? 私けして男の数少なくないから、わざわざそういうのばっかし選んだとは思えないよ。あとで人に話すと『えっあの人が? そんな所あるなんて信じられない』ってみんな言うもん。みんなけっこう虫のいい望みを隠してると思うよ」 「それは女もそうかも」 「ああ……」 「三高とか昔、鏡見ろよってやつほど言ってたじゃん」 「背は高いよ」 「いい男なんでしょ」 「最初気づいてなかったつもりだったけど、そう」 「どうせ稼ぐんだったら、若くていい男のための方がいいでしょ」 「うわー。でもそれはあるよな。男が美人の奥さん欲しがる気持ちとか最近わかるもん。もちろんそれだけじゃやだけど」 「ほらゼイタク」 「あ、ほんとだ。でもなんか、今|贅沢《ぜいたく》してるな私、って思うよ。私は結局、子どもが産めて、仕事して、好きな男といればそれだけでいいの。私に仕事がある日は私を助けてくれて、子どもがいても私を女として可愛がれる男と暮らせるなんて、こんな贅沢はないよ」  部屋のカレンダーには、彼と私の予定が書き込んである。小さな子どもが二人いてお腹が大きいと、彼がいない日は買物にも行けないことがあるけど、それでも私はそのカレンダーが好き。二人で頑張ってるって気持ちになる。不安なことはいくつか残っているから、たまにそれらが一斉に襲いかかってきて、泣いたりもする。でも私はもう、死にたいなんて考えない。    少しずつ涼しくなる日々。それでも妊娠している体は温度が高い。大きな乳房のすぐ下は、いつも汗をかいている。色の濃くなった乳首は丸くふくらんだままで、しぼむことはない。彼がそれを舌で転がしたり、赤ん坊みたいに吸ったりすると、体じゅうが喜ぶ。待ち遠しい人物の代わりにそうしている彼の顔を見つめると、背中に電気が走る。もう一つの乳首は長い指で触られている。彼の顔や体を見ると昂《たかぶ》るのは、それらにすっかり慣れたせいだろうか。  その部分を守るにはたぶん細すぎる布のまわりを、彼の指がさぐる。布の上から一番感じるところを確かめる様に押したり、その布を上向きに引っ張って、私に声を上げさせる。それからゆっくり布を脇によけて、指を沈めていく。また私の知らない所を中で刺激してる。何ヶ所もいっぺんに触られてるような感じ。 「どうして? ねえ、どうやってるの?」  答える代わりに乳首を転がす彼の舌が速くなる。濡《ぬ》れた指は敏感な小さな場所に移動し、規則正しく揺さぶる。駄目だ、このままだとまた入れる前に。 「待って、そんなにしたら……」  遅かった。上半身と下半身の刺激が、しびれる波でつながってしまった。声がふるえて、体が小さく痙攣《けいれん》する。私は彼にまだ何もしてあげてないのに。  やっと彼のペニスを下着から取り出す。ほくろの部分に、唇をあてる。ゆっくり舐《な》め上げて、濡らしていく。口の中に入れると、お腹の中の赤ん坊みたいに動く。これは、彼が眠っている時もそう。 「どうして寝てる時も動くの?」 と聞いたこともある。 「血が流れてんだから、動くだろ」 と彼は答えたけど、それだけとは思えない。まるで会話のようなのだ。起きてるのかと思って、何度か声をかけたりもした。でも、彼は目を閉じてじっとしているのだ。  喉《のど》の近くまで彼を飲み込んでいると、長い腕が伸びてきて、頭を掴《つか》まれる。こうしている時に彼の大きな両手で頭を揺さぶられると興奮してしまう。乱暴にして、と頼んだのは私。長いペニスで息もできない。  そして妊婦は二つに折り曲げられ、カーブを描いた矢印を少しずつ、刺し込まれていく。同時に食べ物みたいに皮を剥《む》かれた小さい所を、指で。 「そこ、色、黒くなったでしょう」  乳首と同じ色まで変化しているはずなのだ。 「わかんない。中は、ピンクだよ」 「それは……」  言葉に詰まる私。じっとしている胎児。今、彼が入れている所が、胎児の通って行く場所なのだ。私は彼を招き入れる様にそのあたりに力を入れてみる。彼が応《こた》える。私はもうそこのこと以外、何も考えられない。この人まるでこれをするために生まれて来たみたい、私は彼ほど上手な男を知らない。私の濡れた部分が大きな音をたててる。角度の強い彼のペニスは、時々お魚みたいに逃げてしまう。いつも私を上にのせて、両ひざを立てさせる時、 「こうすると、ぴったりくっつくような感じなんだ」 と言ってたのが、最近よくわかってきた。彼の形と、私の中の傾斜がぴったり合うのだ。ペニスが私から逃げ出すと、そのまま彼はそれを私に押しつけて、摩擦する。濡れたペニスは数回、敏感な部分を刺激してから、再び中に入ってくる。その度に、声が零《こぼ》れる。  彼を逃がさない様に、今度は私が彼に跨《またが》る。こうしている時は、私は彼の顔が見られるのだ。少し開いた唇。彼の両手が私の乳房を掴み、親指で乳首を押して、転がす。自然に腰がうねるように動いてしまう。また、あの波が来そう。やっぱり、来る。彼に告げると、下から突き上げられてしまって、我慢出来ずに声が大きくなる。背中を駆け上がって来る快感。私が激しく息をしても、彼はまだびくともしない。私は片足ずつ、ひざを立てる。それから、彼を飲み込んでいるそこを、上下に動かす。 「自分で動いてるの?」  悪い子みたいに彼が言う。 「そう」 「いかせて」  彼は私のその部分を見てる。私が動く度に、私に食べられて隠れてしまう所。両手で私のお尻《しり》を掴んで、私が腰を沈め過ぎないように上手に導いてる。そしてやっと彼は射精する。その顔を見たくて、私も顔を上げ、彼の前髪をかき上げる。彼のいく時の声と顔。水の中のお魚はそのあとも永いこと跳ねている。  彼に抱かれると、自分の体をはっきり意識し、私は生き物としての自信を取り戻す。一緒に暮らす前からそうだった。思いやりと体力のある、確実なやりかた。だから私は、不安になると彼を抱きしめてしまうのだ。    鏡にお腹を映してみる。妊婦独特の曲線、広がっている臍《へそ》。この中に彼の子どもがいる。自分の体が可愛がられていると、彼の子どもだということが何より嬉《うれ》しい。あたりまえのことかもしれないのに、今まで知らなかった。  判定薬が薄赤く染まった朝、まだはっきりと陽性とは言いにくかったのに 「妊娠してんじゃないの?」 と何度も言った彼に、 「嬉しい。大変な事になっちゃったかもしんない。でも嬉しい」 と抱きついた。 「私が結婚してるのに、あなた自分の子どもかどうか疑わなくてもいいの?」 と聞いたときも、 「だって、そりゃあ俺だろう」 と断言した。彼のそんな態度が私を支えている。彼の友人たちでさえ 「こいつの子どもなの?」 と聞く所から始めるのに。 「いいなあ。俺も子ども欲しい」 「どのくらいやったら出来るんですかね?」  口々にそう言われている彼。 「どのくらいやったらって……」  笑ってしまったが、そういう言い方をすれば、あれだけやれば出来るよな、とも思う。友人たちと話す彼の横顔を見つめている時間が好き。正面から顔を見て話をするのは、まだなんとなく照れくさい。  荷物も子どもも同時に抱え上げて、彼が夜の道を歩く。少し猫背の肩。遠くのネオンや電車を指さしながら、体勢を肩車に変える。もう一人の子が、うらやましそうに彼のあとを追う。少し離れて歩く、お腹の大きい私。こんな時間があったことを、私はずっと覚えていよう。 [#改ページ]    妊《みごも》りの水 「クラスメイト達はみんなクール過ぎてつまらないわ。私はもっとドラマチックな人と恋がしたいの」  テレビの画面の中であるアメリカのティーンエージャーが答えているのを聞いて、私は 「その通りだわ」 と深くうなずいた。  ここはホテルの一室。私は彼の帰りを待っている。まるで大金持ちみたい、私と彼はもう何日このホテルにいるのだろう。ドント・ディスターブをノブに吊《つ》るしても 「お掃除はいかが致しましょうか」 と言われる時間になると外へ出て、今日はどこでお昼ごはんを食べようかと歩き回る生活。そして日に日に膨らんでいくお腹。こんな暮らしをしていても彼は、 「俺達、これからどうなるんだろ」 なんてけして言わない。この人だからこうなったのだ、最近しみじみそう思う。    一番最初に会った時、私はスナックのママの役をもらっていた。店に入って来た、小学校の先生役の彼を見て 「あーら、いい男」 とアドリブをかました。第一印象は、「古いタイプの二枚目」。しかし、二枚目に新しいタイプなんてあるのか?  二度目。私は肉屋のおかみさん。裏のアパートに住むヒロインに、たくさんつくったおかずのおすそわけに行く。すると 「おばさん、私ね、彼が出来たの」 と差し出された写真の中に、彼がいた。  三度目。私にも企画の回ってきた映画を見に行った時。大けがをした有名な役者が、駆け出しの少年に主役を取られてしまうシーン。一瞬殴りかかりそうな表情を見せたあと、取材のカメラの前では笑って少年と握手してみせるその男は、彼だった。  四度目。ある銀座の劇場の控え室の廊下で挨拶《あいさつ》の順番待ちをしていたら、通りかかった若い役者と目が合って、会釈された。  そしてその直後。ドラマの打ち上げに出席したら、壁際の席に彼がいた。口をきいたのはその日が初めてだ。話すうちに、その前の四度の接点がパキパキと音を立てて合わさった。あの日からまだ一年も経っていないのに、私は彼と暮らしていて、もうすぐ彼の子どもを産むのだ。    「大きなお腹で街を歩くと、なんだか孤独なの」 「なんで」 「だってみんなお腹ぺたんこなんだもん」  彼と借りた小さな部屋には、まだ包丁もなかった。 「外食ってやっぱし塩分多いんだね」  むくんだ白い太腿《ふともも》。 「今日足、太いね」 「指で押しても、あとがつくほどじゃないんだけど」  やっぱり家でご飯を炊かなくちゃ、とつぶやきながら私は、少し前に見た夢のことを思い出していた。すでに赤ん坊は生まれていて、世話をしながらふと、 「あれ、この子そういえば男だっけ? 女だっけ?」 と思い、おむつの脇から指を入れて引っ張ると、女の子だった。そういう夢だ。まだMの字に広がっている脚の間の、やわらかそうな赤い肉。 「私、どんどん乳首黒くなる」 「そう?」 「そうだよ。見て」 「……ああ、そうかな」 「もうこのブラジャー苦しくなってきちゃった。収まんないの。はずすと垂れ下がるかんじ。ほら」 「ほんとだ」  彼の指が乳首に触れる。 「今の自分の乳首、好き?」 「大きいよ」 「俺は好きだよ」  乳首のまわりから中央にむかって、彼の指が動く。両方をそうされていると、頭がぼうっとして、ちょっと眠たくなる感じ。 「あなたが相手だと私、ときどき変わったこと考えるの」  目を閉じたまま私は言う。 「どんな?」 「あのね。たとえば知らない女の人の裸の写真を見るとね、あなたの指が彼女を気持ち良くしてる所が頭に浮かんで興奮するの。もちろん私そんなこと望んでないよ、でもなぜか想像しちゃうの。あなたの指なら、どんな女の人でもこんなに」  もう彼の指は、他の部分へ。 「感じさせるんだわ、って思うと……」  乳首に温かい舌が当たる。  彼の両頬に手を当てて、顔を見おろす。  両目を閉じている彼。 「顔見るだけで、感じちゃう」  舌でゆっくり彼の唇をなぞる。 「ねえ。ここに押し付けてもいい?」 「ん?」  下着を取って、ベッドの端に手をかける。体を少しずつ上げて行き、彼の顔に跨《またが》ってしまう。 「なめて」  彼の舌は、一瞬も迷わずにそこへ。下から上へ、すばやく濡《ぬ》れた摩擦が動く。こんな状況をすぐに受け入れてしまう彼に驚く。私はもうあと数秒ももたない自分を知る。 「ああ、だめ」  彼の髪を掴《つか》んだ指に力が入る。 「大きいのが、来るの」  何度も何度も震える体。私がいくとき、必ず彼は刺激しすぎないよう、少し止まって様子を見てくれる。  見おろしても自分の大きなお腹が邪魔して、彼の表情はわからない。少し息を整えてやっと、彼の手が私のお尻《しり》を抱えているのに気づく。体を下げて彼の下半身に顔を埋めていく。舐《な》め回す度に彼の体を私の髪がなぞる。いったばかりなのにやっぱり入れたい。彼を唾液《だえき》で濡らすとすぐにそこに当てる。指で広げなくてもつるつると埋まっていく。 「あたしのここ、柔らかくなったでしょう」 「うん」 「妊娠するとね……なるんだって」  彼がお腹にさわらない様に、深く入りすぎない角度をつくっている。そのまま動くと、斜めに押し広げられるそこがぴちゃぴちゃと音をたてる。レバーのお刺身に油をまぶしたようになってる、きっと私。  ゆっくり両ひざを立てると、いつも彼は私と自分がつながっている部分を見るために、顔を上げる。それが入っていくすぐ上には大きなお腹があることを、彼はどう感じているんだろう。  動いているうちに、彼はもう少し顔を上げて、乳首に舌を当てた。 「ああ」  私はもう妊娠してる事なんてすっかり忘れてる。覚えているのは彼だけ。彼は私のお尻を支えながら、射精する。私がぐったりして彼に覆い被《かぶ》さると、お腹を撫《な》でながら私の体を少し離す。 「きっと、窮屈だなあって思ってるぜ」 「ああ……」  やっと胎児の事だと気づく私。    立ち会いを言い出したきっかけは、何だったんだろう。 「俺、見れるんなら見ときたいな」  そんな事を言い出すなんて夢にも思わなかった私は、 「ほんとに?」 と言ったまま、両手で口を覆った。 「なんかきっと……たぶん……一度両親学級とかいうのに一緒に行っとくと、立ち会い出来る仕組みになってたはずだけど……」  彼は私のとまどいをわかっていないみたい。 「一応……いつあるのか今度……聞いとくけど……でも大丈夫? あれヘビイなんだってよ? それきりできなく[#「できなく」に傍点]なる人とかいるんだってよ? いやがる人の方が多いらしいのに……」 「前一度、ビデオで見た事あるよ」 「出てくるところも? びっくりしなかった?」 「うわーって思ったよ」 「ナマだともっとくるかもよ」 「じゃ、やめといた方がいいか?」  そう言われると又|淋《さび》しい。少し考えて、私はこう言った。 「私、すごく嬉《うれ》しいの。立ち会いしたいなんて、言われると思わなかった」 「…………」 「嬉しすぎて、どうしていいかわかんない」 「うん」  そして彼は、立ち会いの準備のための「両親学級」に来てくれた。 「それでは自己紹介と、ご主人の方から、立ち会いを考えた理由をお願いします」  助産婦さんにそう言われても、 「まだ決心したわけじゃ……」 とか 「迷ってます」 とか言う父親ばかり。中には 「今日そういう話だなんて今初めて聞きました。とにかく今日は一緒に出なきゃいけないんだからと引っ張られて来て……」 と言い出して妻をあわてさせる男もいた。妊婦の方も 「いちばん辛《つら》いところを見ててもらえれば、育児にも協力してくれるかと思ってー」 と言う人や、 「やっぱり二人の赤ちゃんですから、二人で迎えてあげたいと考えまして」 と言う人がいたが、 「彼の希望で」 と言った幸せな妊婦は私一人。  小さな部屋で二人で寝そべっているだけで、満ち足りた気持ちになってくる。  新聞を読んだりテレビを見たりしている彼のそばに行って、自分も横になる。彼のお尻にお腹が当たる。中の子どもが動き出すと 「来た来た」 と彼が口に出す。そのままいつまでもじっとしている私たち。いつか妊婦は眠くなり、春のような眠りに落ちる。  彼は一日に何度も私のお腹を触る。 「なんか、ほんとに楽しみにしてるってかんじだね」 「うん」 「してるのね」 「うん」  こんな時の彼は口数が少ない。少し唇をとがらせて、恥ずかしそうな顔をする。その顔を見ると、この人の子どもで良かった、と私はしみじみ思う。    チャイムが鳴って、彼が帰ってくる。 「飲み過ぎ。今日は勃《た》たない」  ベッドに横になるとすぐ、そう言ってスウェットのズボンを降ろし、ペニスに私の手を導いた。 「でも、大きくなってきたよ」 「ん。なめて」  頭を抱えられて、唇をよせていく。 「最近週イチだね」  そう言えば、以前は毎日のように抱き合っていた。何もない部屋の空間を埋めるかのように、いつも、いつも。 「でももう私、九ヶ月だし……」  言いかけると彼が、私に被さって来た。大きな胸をもっと大きな掌《てのひら》が揉《も》みしだく。白い乳が彼の指を濡らす。 「ほら、こんなに出てる」  その指を口の中に入れられると同時に、彼の舌が乳首を舐めまわす。左が満ち足りると、右へ。もう産むことしか頭になくてもいい頃なのに、声が大きくなるのを止められない。彼の指は私の足の間に降りていく。私も、スウェットのズボンを穿《は》いている。足を大きく開かされて、私はきっと解剖を待つ小動物のようになっているはず。  彼は乳首を舐めまわすのをやめないまま、そのあたりを指でなぞっている。彼がどのぐらいそのつもりだったのかわからない。まさか、スウェットの上から、そんな。なのに、私の両脚には力が入り、 「嘘。だめ私、いっちゃう」  生まれて初めての事に、涙がにじむ。 「あー……いく……」  我慢できなかった。頭が混乱した。妊娠九ヶ月になって、服の上からいかされるなんて何てことだろう。 「こんなの……こんな事、初めてよ」  荒い息のままで、私はつぶやいた。彼の手がお腹をいたわるように動く。 「パンパンだよ」 「いくとき、少し、張るの……」  堅くなったお腹を彼のあたたかい手が包み、撫でさする。    翌日になっても、その場面が頭から離れなかった。そして、その翌日も。  下着の上くらいならまだしも、スウェットの上からなんて。私は何度もその生地の厚さを確認したり、自分で触ったりした。  すっかり出産を待つ気分の中にいたつもりだったのに……。  なのに、今日もやっぱり彼に抱かれたい。 「抱いて」 と言って、冷たいお尻《しり》を抱えられている。  彼は枕を私のお尻の下に入れ、私を解剖するの。  酔っていると、少しだけ乱暴。  乳首を噛《か》んだりするの。 「痛い……」 と私が言っても、止めてくれないの。 「また、こんなに濡《ぬ》れてる。なんでなんだろう。大丈夫なのかな」 「破水じゃないだろうな」 「わかんない」  そうだったら私、絶頂と同時に産んでしまうのかしら。  彼の身につけているものを濡らしてしまいそうなので、手を伸ばして、脱がしてしまう。やっぱり、こんなに音がする。これがもし羊水だったら? 羊水はこんなにもぬるぬるしているのかしら?  彼は私がいくのを待ってる。  私がいくって言うと、すぐあとから追ってくる。  ぐったりと重ねる体の間で、胎児が身ぶるいしている。 「動いてるね」  彼が声をかけたのは、私か、胎児か。    私は彼に子どもを産みつけられた自分が嬉《うれ》しい。彼の子どもをこの世に出してやることのために、自分の体を使えるという事に幸せを感じている。    彼の黒いスウェットに、白い汚れがついている。 「ここ、何かついてるね」  私は指さし、 「夢精?」 と笑った。  彼はその部分を見下ろし、にこりともせずに 「これはあんたの[#「あんたの」に傍点]だよ」 と言う。真赤になる私。あの時、ほんとにそんなに濡れていたんだ。その白い部分が動かぬ証拠だった。 初出一覧 息子の唇……「すばる」一九九八年一〇月号 救われるために……「別册文藝春秋」一九九九年春号 レース……「文學界」一九九九年三月号 若妻にやる気をなくさせる方法……「すばる」二〇〇〇年二月号 弱っている日に夢に出る……「すばる」一九九九年九月号 太れ僕の料理で君よ……「すばる」一九九九年二月号 働く妻にやる気をなくさせる方法……「すばる」一九九九年一二月号 私の鏡で見てごらん……「すばる」一九九九年五月号 才能のないやつは死んだほうがいい……「すばる」一九九九年七月号 長い影……「すばる」一九九九年一一月号 妊りの水……「すばる」二〇〇〇年二月号 本書は、二〇〇〇年二月に集英社から刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『息子の唇』平成15年2月25日初版発行