[#表紙(表紙.jpg)] キオミ 内田春菊 目 次  あたしの欲しいもの  勃たなかった男  シタダシレッテル  バージン  スローロリス螺旋  夜の足音  キオミ [#改ページ]   あたしの欲しいもの  あの人が好き。だけど寝るのはめんどくさい。  寝るにしては今あたしは太ってる。理想体重までまだ4キロもある。こないだからいろいろやってたけどいっこうに減らない。裸になって座ったら絶対お腹が目につくはず。暗くしてくれる人ならいいけども、そんなのその時になんないとわからない。「暗くして」って、頼んだらいいかしら。ダメだ。触られたら太ってるのなんてすぐばれてしまう。自己管理の出来てない女だと思われてしまう。それにあの人ってば、あたしよりはるかにやせている。自分よりやせてる人と重なるのはみじめだ。ずっと前だけど、上になったとき、「重い」と言われたことがある。イヤだった。もうあんな経験はしたくない。上になんかなれないと言ったら大丈夫かしらでも。この歳で騎乗位出来ないなんて言ったら、かえって嫌われてしまうかもしれない。下着だって……そうだ、下着の趣味が合わなかったらどうしよう。こんなのつけてんのか、って驚かれたらイヤだ。無難なの買いに行きたいけど仕事で今そんな余裕、ない。下着ってだいたい急いで買ったりするとろくなものに当たんない。歳とともに体がだんだん柔らかくなって来たせいか、うかつな物使うとすぐに体形が崩れるような気がする。実際言われたことはないけど。ないも何も、ここ二年くらいあたしはそういうことをしていない。だから太ったのだ。ああ、もしかしたらそれがいちばんまずいことかもしれない。セックスに対する勘のようなものがすでに衰えているかも知れない。相手をちょっとその気にさせるようなことなんて言えなくなっていたりして。去年までは確かに、「梶原さんてもてるでしょう」なんて男子社員から言われてた。あたしは「やだーなんでえ、ちっともそんなことないのよお。だいいち仕事が忙しくってホホホ」なんて余裕だった。だって内心「少なくともあんた程度じゃ男を意識したりしないわ」なーんてつもりでいたんだから。あーん。過去の栄光? やだ。そんなことないわ、そんなことはないはずよそうよ自信を持たなくちゃ。自信がないと態度に出るわ。ああでもこのお腹。それより二年よ、二年のブランク。あたしったらこないだまでどうやって男と寝ていたんだっけ。思い出せない。だってだいたいこっちが好きになる前に相手が誘ってくれてたんだもんね。なのに今度はどう。なにしろ相手は妻帯者。あたしのことなんてこれっぽっちも意識してないかもしれないのよ。キー。あーもうなにが悲しくてこの歳で妻子持ちに惚《ほ》れなきゃなんないのよ。ばかばかしい。止めたい。でももう難しいかもしんない。くすん。こないだの社員旅行なんてパスするべきだった。あの人がたまたま出向で来てて……、むこうがはるかに年上なのに部長から高柳くんをよろしく頼むよなんて言われちゃってたもんだから、そうなのよ、あの人ったら年上のくせに妙にけなげなのよ。「よろしくお願いします、梶原さん」って言ったあの最初の雰囲気に負けちゃったのよ。普通あのくらいの歳の男は年下の女にあんな態度取らないわ。自分は威張ったままで、陰ながら恥をかかせないようにしてくれるはず、ってふうに出るのが多いのよ。そしてあたしはそんな男が大嫌い。ここんとこ年下とばっかつきあってたのも、そういう男にうんざりしてたからよ。同い年くらいでもそういうのが多くて……あたしはもう二度と、年下以外は好きにならないんじゃないかと思ってた。なのにあんな年上の男を好きになってしまった。どうしよう。やりかたがわからないわ。  社員旅行の時だって、あの人だけはしゃいでなくて。お酒は沢山飲んでるはずなのにあの人、どうしてあんなに普通でいられるのかしら。周りの同世代の人たちはとっくに酔っぱらいになっていたのに。 「高柳さんてなんかむちゃくちゃお酒、強くありません?」  あたしが聞いてもぜんぜん静かな顔で、 「ああそうかな、うん、飲むの好きだから」  かなんか言ってんの。その後ろでカラオケやチークを強要する他のおやじたちと、対比がはっきりし過ぎだったわ。あれで、もっとこの人のことを知りたいって思っちゃったんだわ。少し前のあたしだったら絶対、「ねえ、外、歩きません?」って誘い出してたと思う。でも出来なかった。あたしが歳取ったから? それとも相手がいい歳で妻子持ちだから? こうやってどんどん臆病《おくびよう》になっていくのかしら。好きになる気持ちは同じはずなのに、悪い結果ばっかり頭に浮かんでしまう。「君、どういうつもりなんだ」とか言われたらどうしよう。「勘違いしないでくれ」なんて言われたらどうしよう。そんなの耐えられない。でも好き。好き好き好き。あれから昼間もあの人のことばかり見ていた。旅行を楽しんでいるのかいないのか、いつも静かに煙草をふかしている。たまには話しかけたりもしてみたが、あまり話しかけるとあたしの気持ちがばれてしまいそうで恐かった。相手はとっくに大人だもの、へたなことをすると見すかされてしまう。気持ちに気づいて、むこうから誘ってくれるなら嬉《うれ》しいけど、そうじゃなかったらあたし、恥ずかしくてもう生きていけないわ。 「ねえ梶原さんて彼氏、いるんですかあ?」  二度目の宴会で隣に座ってきた川野から聞かれた。こないだまであたしはこの若い男にちょっとだけ興味があったので、何度かそれらしい軽口をたたいたりした覚えがある。でも今はそれより気になる高柳さんが反対側の隣にいるのだ。こいつ、よけいなこと言ったりしないだろうな。 「彼氏? 今はいないよ」  あたしは平静を装って答えた。高柳さんには聞かれてもいいし、聞かれなくてもいいと思った。なんつっても妻子持ちだから、へたに「あたしフリーです」って顔してもめんどくさがられるかもしんない。 「へえ、彼氏いそうなのに。ほんとにいないんですかあ」 「さあ」 「でも好きな人はいたりして」  あっまずい。なんてことを。 「さあね」  あたしはドキドキした。あわてていつもの、 「仕事が忙しくて、それどころじゃないんだよね」  を出してやっと落ちついた。 「ふうん。そんなもんかなあ。彼氏いると、よけいがんばって仕事できるってことはないんですかあ」  あっ図星。ここんとこあたしの頑張りようはほとんど高柳さんのおかげなのだ。 「ああそうかもね。彼氏ねえ。出来たら欲しいけどね」 「僕、立候補しちゃおうかなあ」  止めて。いやじゃないけど社員旅行の宴会で口説くなんてそんなださいこと。そんなことされたら、たとえ相手が高柳さんだってあたし、気持ちが冷めるかも。  だいたいどうしてみんな社員旅行や海外旅行先で今までなんとも思ってなかったような相手とどんどん関係しちゃうの? あたしあれだけはわかんない。勤め始めてから今まで、こういう旅行の宴席に疲れて部屋に戻ったりしただけで、同時刻にそこにいなかった誰かと「出来てた」と、何度|噂《うわさ》されたことか。それがかえって面倒くさいばっかりに、なるべく宴会には終わり近くまでいるようになったあたしなのだ。そういえばこういう傾向、修学旅行の頃からあったかも。今までたいして仲の良くなかった男女が突然新婚さんノリになっちゃったりしてさ。なんでみんなそんなに旅行先で突然恋人になるのが好きなのよ。旅行先でできちゃうんじゃなくて、恋人になってから二人で旅行すればいいじゃないのよ。わざわざ人が見てる団体旅行でそんなことしなくたって……あっそれにこの場面、もしかしたら高柳さんに聞こえてるかもしんないやだーだっさーい! 恥ずかしー。やめてー。 「立候補って何、それ。じゃあ選挙で決めなきゃねえ、だって」 「あっやっぱりほんとは男いっぱいいるんら! やっぱしねえ。もてそうだもんらあ梶原さん」 「酔ってるわねあんた」 「酔ってなきゃこんなこと先輩に言えないっすよう。ねえ梶原さん。梶原さんはどんな男が好きなんですかあ。自分努力しますから」  こいつ体育会系だったのか。でなきゃヤンキーかしら。酒飲むと頭悪そうになるやつって、こないだまで可愛《かわい》かったんだけどなあ。あたしは笑ってごまかすことにした。 「ははは。あ、高柳さん何飲んでんですか。ビール?」 「ん。いや、ビールはお腹がふくれるから、もう酒にしてる」 「あ、そうですか。どうぞ」  お酌する手が少し震えたような気がする。  まだ何もしてない男のことを考えてふとんのなかでむずむずするのもよく考えたら恥ずかしい。口に出して名前を呼んでみちゃったりなんかしちゃったりして。さすがに社員旅行先ではやらなかったが、もう今夜、あたしは高柳さんをおかずに抜く気でいる。高柳さんはあのとき、どういうふうにするんだろう。最近若いのとばっかつきあってたから、年上の男のセックスの情報が少ない。想像がつかない。あの人の声。遣う言葉。手の大きさ、体の厚み。そんなことくらいしかネタがないのにそれでもあたしはしようとしている。右手の指はもうその近くへ。自分でももう、純情なのか不純なのかわからない。こんな、生活の中で誰かが見せる「かけら」でマスターベーションが出来るようになったのはいつからだっただろうか。昔は男の子たちが、顔写真一枚で抜けるのを、すごい、と思っていた。なのに自分もだんだんそれに近くなってきている。一人でするだけで関係が済んでしまったことさえある。実際に関わるとめんどくさそうな男をちょっと好きになったんで、思い浮かべて一人で抜いて、あとは結局何もなかった。しかし、こうして若い男の子たちが、実際には会ったこともない女をおかずにして抜いているんだとしたら、それでも性欲が残ってて実際にもどんどん口説けるタイプの子ってのは、なんてパワフルなんだろう。あたしはこうしていってしまったらその人の顔を見るのが恥ずかしい。その上で関係してしまうこともあったけど、それにはとても勇気が必要だ。自分が勝手に考えてた世界が恥ずかしいし、当然出てくる現実とその世界との差に対応するのに時間がかかる。そういうことに慣れている男の子のイマジネーションにはとてもかなわない、それと、「マスターベーションくらいしても当然」という考えの歴史の長さにも。  そんなことを考えながらもうあたしは摩擦し始めている。あたしの頭の中で高柳さんはあたしの首筋に唇をはわせる。若い男の子みたいには、乳房を強くつかんだりしないだろう。妻子持ちだから、「こんなこと、いけない……」とか言っているかも知れない。「ううん、いいの、抱いて」とあたしは答える。あたしからもそういうこと言わないと、バランスが取れないと思う。ああでもほんとにこのへん、どうしたらいいのかよくわからない、妻子持ちの年上なんて何年も関係してないのだ。年下の子たちのときみたいに、「好き」「好きならしよう」ってかんじにはいかない。どう言ったらしてくれるんだろう。うう。とか考えてるあいだに良くなってきてしまった。何か「これで気持ちよくいってもいい」シーンを考えなくては。あん。だめこのままだといっちゃう、ちょっと待て。はあ。あっでも、オトナだからあそこ、舐《な》められちゃうかもしんないあーあーあー。  いってしまった。うかつだったそのくらい最初から考えておくべきだったわ。しょうがないか、ずっと年下ばっかだったから、想像力が足りなかったのよね。次からそのくらいは考えてやろう。うん、そうしよう。ああでも明日会社で会ったらどんな顔しようきゃー。  と言いつつ別に何も起こるわけじゃない。「きのうあなたのことを思ってマスターベーションしました」と顔に書いてあるならともかく、あたしは今日も何もなかった顔でサクサクと仕事をこなす。こんな自分が憎たらしくもある。ここであたしが妙にミスが多かったりしたら、「どうしたんだね梶原さん」「あたし、あたし……実を言うと高柳さんのことで頭がいっぱいで仕事なんか出来ないんですう!」「そ、そんな、梶原さん!」なんて展開もあるかもしれないのに、もう、そんなことすでに、ない。くそう。すっかり仕事が出来る体になってしまっている自分の身が恨《うら》めしい。 「梶原さん、一緒に昼メシ、行こうか」  ああ、嬉《うれ》しい。なのに顔に出さないあたし。 「はい、お供いたします」  だから止めろっちゅうのそういう言い方を! って自分に突っ込んでどうするのよ。 「高柳さん、あまり召し上がらないんですね」  言ってからしまったと思った。こないだまで若い男とばかりつきあってたって言ってるようなもんだったかしら。 「うんまあ、酒のみだからかもしれないね。そんなに食べないんだ」 「そうか……あたし最近太っちゃって。うらやましいですよ」 「そう? そうは見えないけど」  高柳さんがわたしの体を話題に! あたしは思わず小さくなった。 「いやほんとですよ、もう最近、体を気にするようなこともないもんですから……」 「そう。こないだ若い男の子から、迫られてたじゃない」 「え?」  誰? ああ、あいつ! 川野! 高柳さんたら聞いてたんだ! 嬉しい。なのに顔に出ないあたし! 「あーもしかして社員旅行のときの川野くんですか? そういえば酔っぱらってそんなこと言ってましたね。彼は、いつもああなんですよ。しょうがないですねえ」 「そう? なんかいっしょうけんめいだったみたいだけど」  やんやん、高柳さんてばそんなことを……、 「そうですかあ? だったらまあ嬉しいですけどねえ、わかんないですよあんなに若い人のことは」  お願い、気づいて。 「そうかな。若くても若くなくても、人を好きになる気持ちは同じなんじゃないか」  そう! そうなんですよ高柳さん!  でも話はそこで終わってしまった。  その夜。あたしの指はまたあたしのそこを這《は》う。  あたしのこと、もてる女だと思ってくれたのかしら……。良い意味で? でもそうじゃなければ、なんにもなんない……。 「君のこと、だれにもとられたくない」 「あん、高柳さん……」  なんちて! あーでも、逆に誰にでも色目を遣う女だと思われてたらどうしよう……そんなことないの、そんなことないのよ……今、あたしのからだは、高柳さんだけを待ってる……でもそんなこと、言わなきゃ誰も気づくはずないわよね……言わなくちゃ……でもどうやって? なんて言ったらいいの? あたしがこんなにあなたのことを好きだなんて、夢にも思ってないんでしょうね、高柳さん……あん……良くなってきちゃった。ん。だめ。そんなに舐めちゃだめ。高柳さんのが欲しい。やだあたしったらいやらしい言い方! やーんどうしよう高柳さん入れてーあーん……。  いってしまった。  眠い。最近また仕事、忙しいからな……高柳さんだって仕事以外のこと考える余裕はないわねきっと。ああでも、高柳さんとしたいな。こうやって一人でいろいろ考えてるのは恥ずかしいったらありゃしない。してしまったほうがどんなにか楽になるだろうかと思うわ。  高柳さん、単身赴任って言ってたっけ。そういう状態ってあの年頃だとどうなのかしら。たまってるとか、あるのかしら。まさかね若い男じゃあるまいし……あの人だって、ほかのおやじたちと比べてもなんか淡々としてるもの。あたしのことなんか、女として意識したことなんてないんだろうなあ。くく。なんか、泣けてきちゃった。もういいや、寝よう。明日の仕事にひびく。でもこんなときに仕事のこと考えてるから歳とったっていうのよねえ。若い頃は一晩中でも、好きな人のこと思っていられたもの。待てよ。若い頃はおかずにして抜いたりはしなかったか……。あーあ。もー疲れてきたぞ。好きな人をおかずにして抜く。こんなのが恋か? 恋って言えるのか!? 「それはあんた、好きな人をおかずにして抜くって言い方じたいがすでにまずいんじゃないの?」  正論を吐《は》いたのは女ともだちのようこだ。 「そうかもしんない。今言われるまで気がつかなかったけど」 「だいたい本気でその人と取り組む気はあんの?」 「あると思う……あるとは思うんだ、でもなんだか考えるとめんどくさい気もするの。妻子持ちでしょ。あんましどろどろすんのみっともないでしょ。長引いて婚期を逃すのもやでしょ」 「まだ逃してない気でいるわけね」 「逃しちゃいないわよ。だってこないだだって年下の男に飲み会で口説かれたばっかしよ。こっちが歳とってても相手が若かったらいいのよ結婚なんて」 「そういうもんだったの?」 「そういうもんだわよ。でも今はもう若い男に興味ないの。そういう気持ち消されちゃった。あたしったらいったいどうしちゃったのかしら、こないだまで年下ばっかしで、相手の若さ記録更新! とか言ってたのに」 「それも結婚出来ない相手と」 「そうなのよ、でもそんなのいいの。どうしてだかしんないけどあの人に関してはそんなの関係ないのよ」 「でもそんな淡々とした人だったらさ、わざわざ不倫しようなんて思ってなかったりして」 「そうなの」 「どっちにしろあんたのほうがもっとわかりやすい態度に出ないとなんともなんないんじゃないの?」 「そうかも……ほんとにそうかもしれない。でもそんなことして嫌われたらどうしよう。せっかく今いい感じなのに、避けられたりしたらもう! あたし生きていけないよう」 「何言ってんのよ、初めてじゃないんでしょ」 「でもあんな人はあたしにとって初めてなんだもん」 「一度思いきり、その人がじぶんちで良いパパしてるところでも想像して頭を冷やしなさいよ」  良いパパ?  あたし、そんなの平気だもん。  自分の父親が浮気ばっかししてたせいか、あたしはそういう図では動じないのだ。あたしの父親だって、家にいるときは良いパパだったわ。でも外に女が絶えなかった。かと言って離婚にもならない。そういうこと。それとこれとは違うのよ。 「そうか、好きな人が出来たのか。オレ、ずいぶん連絡しなかったからなあ」 「何言ってんのよ。あんたのことなんか最初から待ってないわ」  そうよもう年下には興味なくなったの、と言おうとしてやめた。 「ねえそれどんな男? もうやったの?」 「してないよ。好きになっただけ」 「へー珍しいじゃん。じゃオレとやる?」  そのつもりだった。なんにしてももう、そういうことから離れ過ぎてるのは確かだから。久しぶりに逢《あ》おうと言われたときから、こいつで一発練習しようと思っていたのだ。二年のあいだに、どれくらい成長したかにも少し興味があった。 「いいよ、先に風呂《ふろ》入って」 「一緒にはいろ」  いろいろと観察もしたかった。どこをどうすれば良かったのか、ちゃんと見えるところで試したい。 「ちょっと太った?」 「あ……少しね」 「もう歳だからなあ」  むか。  でもあたしやっぱり太ったんだ。でもこいつはずけずけ言うほうだから……高柳さんはこんなこと言わないと思う……言われなくても、太ってるのは同じか……痩《や》せなきゃな……。 「でもあんたこそ、太ったかも」 「そう? さわってみな、オレの体」  堅い。ついでに下半身も堅い。こいつは昔からいつもこうやって若さを誇示する、憎たらしい男だった。 「いつまでも自分だけは若いつもりでいるのね。あんたが歳をとっていくことだけがあたしの老後の楽しみだわ」  そう言いながら、石鹸《せつけん》の泡をつけて体をなでてやった。久しぶりに触る、男の皮膚。 「史雄」  忘れかけていたその名前。あたしは史雄の堅いそれを思いきり舐《な》め回した。 「なんだよ。興奮してんの」 「してる。すごい、久しぶりなの」 「処女膜生えてたりして」  それに近い気分だった。ここはやっぱり、こいつじゃなくて高柳さんにするべきだったかも、と少し思った。でもそんなことを今さら考えてもしょうがない。だいいち高柳さんとこうなる見込みは今のところないのだ。なんだか悲しくなってきた。 「何考えてんの。わかった、好きな男のことだろ」 「ちょっとね」 「忘れさせてやるよ」  そんなことも言うようになったのか。感心しているあたしの足を湯船の中で抱えあげ、史雄はいきなり奥まで入れてきた。はあ、とかわりにため息が出ていった。でもいきなり入れるなんて。高柳さんならこんなことはしないだろうな。あたしは目を閉じた。高柳さんに貫かれている、と想像するために。  それでも行為はすぐに終わった。昔から勢いだけで済ますやつだったが、変わってなかった。 「あいかわらず若いよね」  あたしは皮肉を言った。 「元気いいってこと?」  通じなかった。  でも昔は若い男のこういうところがけっこう好きだったのだ。わがままで、いいかげんで、こわいもの知らずなところが。  また逢おう、と言われたけれど、たぶんしばらくは史雄とは逢わないだろう。あたしはまた、高柳さんの横顔をときどき見つめる日々に戻った。そして冷静に考えようとした。どうしてこの人が好きになったのか。誰かに似ているから? 何かしてくれそうだから? あたしはもしかしてこの人と結婚したいのか? それともつきあいたいだけ? 一生懸命考えたけど、うまく結論は出なかった。そりゃそうだ。結論が出るのは終わってしまった恋だけだもの。 「高柳さんは単身赴任なんですよね。家事はどうしていらっしゃるんですか?」 「週末は女房が来るから。それまではいいかげんだな」 「あたしで良かったらお手伝いしますから、いつでも言ってくださいね」  あたしはそう言って、自宅の電話番号を教えた。少しでもきっかけになれば嬉《うれ》しいと思ったのだが、電話番号を教えたばっかりに、ますます苦しい目に遭うことになってしまった。かかってくるあてもないのに高柳さんの電話を待ってしまうのだ。あたしは毎日、高柳さんどうして電話くれないのおとのたうち回った。ばか? かもしんない……だめだ。やっぱり彼と寝よう。ちょっとくらい恥ずかしいこと言ってでも、してもらおう。高柳さんと関係しないと自分がだめになってしまう。今までこんな状態もまたよしと思うようにしてきたけど、あたしはもう思春期のガキじゃない。  というところへやってきた、高柳さんと一緒の出張。それも二人きり。一泊だけのこの機会を、絶対逃すわけにはいかない。  新幹線で隣の席に座るだけでもうどうにかなりそうだった。あっと言う間に着いてしまう距離なのに、もしかして何か起こるのでは、と期待してしまう自分が恥ずかしかった。トイレに立ったらあとから彼が来て、トイレの中でそういうことになったりして……とか、膝掛《ひざか》けの毛布を借りたら、中に彼の手が伸びてきたりして……といくらでも考えられた。あたしはもしかしたら濡《ぬ》れていたかもしれない。いろんな話をしたような気もするが、どうでもいいような話ばっかりだった気もする。とにかくあたしは完全にあがっていたのだ。こんなことで彼を誘うことが出来るのだろうか。  それでも目的地に着き、仕事相手との打ち合わせに入ると急に落ちついて来た。こういう時にもまた、あたしはかなり、仕事に生きる体になっているんだと思う。以前はただ嬉しかったが、今は少し悲しい。相手の方たちに飲みに誘われ、少しつきあってから別れた。 「もう少し、飲んでから帰ろうか。疲れてない?」 「はい」 「あまりこの辺くわしくないんだけど、どこでもいいかな」 「どこでも」  あたしは高柳さんの目をじっと見つめた。 「高柳さん、なかなか電話してくださらないんですね」  あたしはけっこう飲んでいた。高柳さんは、あたし以上に飲んでいるはずなのに、あいかわらず静かだ。 「え? ああ、じゃあ今度させてもらおうかな」 「奥様毎週いらっしゃってるんですか」 「うん、まあ。ときどき来ないときもあるけどね」 「そういうとき……」 「まあそういうときは自分でなんとかしてるよ。僕だって昔は一人暮らししてたんだから」  そういえばこの人は自分のことを僕と言う。 「そんなこと言っちゃやだ」 「え?」 「自分でなんとかするなんて言っちゃやだ」 「やだって……何? じゃあどうすれば良かったの?」 「電話してください。待ってるんですあたし」  あたしはわざと小さい子どものような言い方をした。 「酔った? 帰ろうか」 「酔ってないもん。本気で言ってるんですってば、高柳さん」 「そうか、わかった。じゃあ今度電話するよ。約束するから、今日はもう帰ろう」  なんだかうまくあしらわれるような気がしてきた。 「女の子誘ったりはしない人なんですね」  自分で女の子と言ってしまって、あたしはちょっと顔を赤らめた。もう女の子って歳じゃない。 「女の子大好きなんだけどね。だってほら僕、家庭あるから」 「そんなことわかってます」  あたしは彼の腕に手を掛けた。逃げられるかもしれないと思ったが、彼はその手に自分の手を重ねてくれた。胸がときめいた。 「今日は帰ろう。もうこんな時間だよ」  ホテルの部屋は離れていた。階まで違うなんて、このまま部屋に帰ったらこれきり? あたしは部屋の鍵《かぎ》を握りしめた。 「あ。僕はこの階だった」  降りようとした背中に思わず声を掛けた。 「行っちゃうの?」  彼がゆっくり振り向いた。 「寄ってく?」  あまりにもさりげない言い方だった。  部屋に入っても、あたしはなんだか緊張して小さくなっていた。さっきの「寄ってく?」があまりにも普通だったので、誘われたという感じがしなかった。もしかしたらあたしはただ、おともだちのようによばれただけなのかもしれないと思った。 「ビール飲む?」 「はい。いただきます」  高柳さんは冷蔵庫からビールを出して、ホテルのグラスについでくれた。さっきあれだけ彼にしなだれかかったりしていたのに、あたしはすっかりお行儀良く両足をきちんとそろえて座っていた。部屋に入れてはもらったけど、この後そういうきっかけは来るんだろうか。あたしはグラスのビールを少しだけ飲んだ。 「梶原さんは彼氏いるの?」 「いえ……今は」  高柳さん、こないだの川野との会話、聞いてなかったんだろうか。でも川野があたしを口説いてるとこは聞こえてたみたいなのに。そうか、最初のところは聞いてなかったんだわ。 「なんかそういうの、めんどくさくなっちゃったんです。男の人って、仕事の邪魔する人が多くて……そうでない人もいるんでしょうけど……」 「邪魔するってどういうふうに?」 「本人は気づいていないんです。本人に言っても無駄なんですけど、でもこっちにしてみれば邪魔されてるんです。残業をいやがったり、そんなに稼いでどうするつもり? って皮肉言われたり……」 「男より稼ぐようになっちゃったってことなのかな」 「そういうこともあるのかもしれません。でもそんなの、今だけの話かもしれないでしょう。女はどうしても、結婚・出産となると条件が変わってくるし……だから、今は仕事に打ち込めるけど、先はどうなるかわかんないでしょう」 「そうかもしれないね。うちは、女房働いてないから、よくわからないけど」 「だから今のあたしの仕事を見て、男よりバリバリやってるとか、稼いでいるとか、そういうふうにとられても……でも、とられるんですよ」 「君と結婚したいということなんじゃないのかな。遠回しになってるだけで」 「でも今の状態であたしの仕事を邪魔されるのは逆効果なんです。出産がいちばん大変だから、その時が来ても仕事を失わないように今、基盤を造っているところなんですから……」  話しながらなんとなく、あたしはなぜ高柳さんを好きになったのかがわかるような気がしてきた。ちっとも色っぽい話にはなってきてないのに、なんだか彼を一生懸命口説いているような気がした。 「同じ年くらいの男の人がいちばんややこしいんです。何かにつけて自分と比較してくる。なのに同僚としての連帯感は薄い。ただ嫉妬《しつと》だけの対象なんです。歳の近い男はずいぶん早くに、つきあえない感じになってきちゃいました。とても淋《さび》しかった」 「こないだの川野くんは、年下なんだろ? だったら……」 「相手によるんです。かなり歳が下でも、つきあうと亭主風吹かせたがるのがいるんです。つきあってみないとわからないんです」 「まあそういうのは、歳とは関係ないのかもな」 「そうなんです。だからだんだん、億劫《おつくう》になってきてしまって」 「そうか……梶原さんのことだから絶対だれか、つきあってる男がいると思ったよ」 「今はいません。男ともだちならいるけど……好きなのは……」  ついに言いかけてしまった。でもその先が出ない。あたしは両手で顔を覆った。 「言えない」 「梶原さん」 「はい」 「ここに朝までいても、大丈夫?」 「はい」  返事はしたものの、またさりげなさすぎて、口説き文句だと気づくのに時間がかかった。 「そうか、よかった」  高柳さんはゆっくり立ち上がって、あたしの両手を取った。そのままその手を背中にまわし、あたしの頭をつかんで唇を重ねてきた。 「あ」  あたしの体に電気が走り抜けた。言葉が静かな人のわりに、情熱的だった。それでなくてもあたしはこういうとき、頭をつかまれるのに弱い。だめだ、この人におぼれる、と思った。今までつきあってきた若い男たちと全然違う。 「高柳さん。あたし」  これだけはちゃんと言わなくちゃ。あたしはあせった。 「高柳さんのこと、好きになっちゃったの」 「僕もだ」  そう言って彼はあたしを強く抱きしめた。 「抱きたい」 「抱いて」 「でも僕は」 「お願い」  迷惑はかけないから、とは言えなかった。彼がどこまでを迷惑と感じるのか、まだあたしにはわからない。そのかわり「簡単でいいですから」という言葉が頭に浮かんだ自分が少しおかしかった。好きになった人だから、抱かれるだけでいい。気持ちよくしてくれそうだから好きになったんじゃない。実際、若い男の子たちのセックスはみなとても簡単だった。でも好きな子のは気持ちいい。つきあいが長くなるとだんだんお互いの体のことがわかっていくけど、いきなりああしてこうして、というふうには考えないのが普通だ。でも高柳さんは、予想以上にていねいで、情熱的で、達者だった。あたしがおかずにした晩のあたしの想像はまるで及ばなかった。完全に降参。  それからあたしはどうしたか。最初の晩から、朝まで一緒に過ごす度胸はやはりなく、深夜に自分の部屋へ帰った。高柳さんはいてもいいよと言ったけど、はじめからそんなこと出来ない。  一人になると急にどきどきした。不倫を始めてしまったという感じはまだなかった。妻帯者と最後につきあったのはいつだっただろう。でも、高柳さんみたいな人、一人もいなかった。彼があたしの体にしたことを思い出すと胸が熱くなった。明日からちゃんと、迷惑かけない顔で仕事しなくちゃと思った。  翌日、新幹線の中で彼は優しかった。オレの物になったという態度でなく、いたわるような言葉を掛けてくれるのが嬉しかった。この人を相手に選んでほんとに良かった。 「社のほうに出たらそのまま代休が取れるけど、梶原さんはどうするの?」  部屋が荒れているのが少し気になったが、このまま高柳さんと一緒にいたかった。 「できれば高柳さんと一緒にいたいです」 「僕もだ」  そしてまた、あたしたちは一緒に夜を過ごした。高柳さんは少しだけ、奥さんの話をした。  会社で毎日|逢《あ》えるのはわかっている。でも部屋に電話がかかってこないのは淋《さび》しい。あいかわらずあたしは「どうして電話くれないのお」と部屋でゴロゴロ転げ回っている。そして淋しさのあまりだれかに電話してしまう。 「いいじゃないのそんなの、毎日逢ってんだから」 「ようこ。冷たい。だって夜は長いのよ。声だけでも聞きたいってことだってあるじゃない」 「あっちの電話番号は聞いてないの」 「聞いてないわ。いつ奥さんが来るかもわかんないし」 「ほらあ、不倫だから」 「今の、不倫ぽかったよね」 「電話してしてってあんまり言うと、迷惑がられるかしら」 「相手はオトナなんだから」 「声だけでも聞きたいってのは、ないのかしら」 「明日になれば逢うしって、自分をコントロールするんじゃない?」 「いやだ。あたし出来ない。今からでも逢いたい」 「仕事に差し支えるってば」 「ああ。そう言われてみれば、年下の男たちは今のあたしみたいだったのかもしれない。あたしはこういうことを、�仕事の邪魔�だと考えていたのかもしれないわ」 「勉強になってるじゃない」 「そうかもしんない」  でもくやしい。これって、むこうには家庭があってこっちにはないっていうハンデなのかしら? くやしいから男ともだちに電話してやる。 「何のろけの電話かけてきてんだよ」 「いいじゃない別に。あんただって彼女いるんでしょ」 「いたって腹立つだろ」 「ねえ、奥さんがいてもそういうものかしら?」 「何が」 「奥さんがいてもあたしが何かすると嫉妬《しつと》してくれるかしら?」 「そりゃするでしょ。人間なんて、みんな自分のことは棚に上げてるもんだよ」 「そうか……」  あんな人でも嫉妬してくれるのかなあ。そりゃよく、言葉では「梶原さんはもてるからなあ」とか言ってるけど、どこまで本気で言ってるんだか。だいいち、家庭があるのにはかなわないよね。ああやっぱりだんだん不倫臭がしてくるあたし。いやだ、そういうんじゃないんだけどなあ。ただ、電話をしてくれないのがくやしいのよ。それだけなの。  くやしいから、今夜もおかずにして抜いてやることにした。あたしはまだ、高柳さんとのセックスでいってない。すごくうまい人だから時間の問題だとは思うけど、まだ緊張している。この歳になって、いってないのにいったって、嘘《うそ》をつくのは嫌だ。男の人はみんな、女がいかないと自分がいたらないからだと思いこむけど、そんなこと全然ない。相手に気を遣っているうちは、絶頂感が得られるほど自分の快楽には集中できない、少なくともあたしは。でも、自分でするときはあっと言う間にいく。あたしの小さいペニスは、ちょっと頭をなでてやるだけでぶるぶるふるえ出す。足をまっすぐ伸ばしてひざに力を入れていると、すぐお迎えが来てしまう。高柳さんはあのとき、足を伸ばさせるやりかたを知っていたのであたしはとても驚いた。そのうちきっといかされてしまう。史雄のときは一度もいったことがない。あいつはききわけがない男だから、あたしはいつも嘘をついていた。でもあいつとはそれでよかった。あのいい気になっている表情があたしは好きだったのだ。あたしにはそういうところもある。史雄のことも思い出してはずいぶん一人でした。あのちょっと芝居がかったところが気に入っていた。ろくでなしだけどいいおかずだった。高柳さん、あなたのほうがあたしには珍しい。ようこにも「守備範囲が広いわねえ」って言われた。でも今はこんなに、どうしようもないくらいあなたのことが好き。高柳さんも一人ですることがあるのかしら。あたしのことを考えてしてくれてるかしら。いくときに名前を呼んでくれるかしら。同時にして、同時にいったらテレパシーが飛んでいくかしら。 「なんか梶原さん、すごい話してません?」  川野が口ごもっている。あれからこいつにも彼女が出来て、何も考えずにやりまくっているうちに妊娠させてしまった。中絶の相談にあたしが乗ってやったので、今では何でも話せるいいともだちだ。 「そう? だってあんただってときどきは一人で抜くでしょ」 「そりゃするときもあるけど、梶原さんはだって女でしょう」 「うん」 「女の人って、彼氏とする以外のときはあんまし自分の体触らない人が多くないすか」 「よく知らない。そういう話できる女ともだちって少ないから。自分の、ほんのまわりしかわかんないわ」 「オレそういう話聞いちゃうと、困っちゃうなあ」 「おかずにしていいよ」 「えっだってオレ今、彼女いるし」 「彼女とおかずは別でしょ」 「そういう言い方が、男だっていうんですよ」  別に男の真似しようと思ってこうなったんじゃない。気づいたら自然にこうだったのよ。 「高柳さんも、一人ですることあるの?」 「ん?」 「一人でする?」 「ん、するよ。きのうもしたよ」  彼は少し恥ずかしそうに言った。 「あたしのこと考えてしてくれた?」 「考えたよ。君のこと考えるだけで勃つよ」  私はからだの芯《しん》がじんとしびれた。 「嬉《うれ》しい」  あたしは彼にしがみついた。 「あたしも、高柳さんのこと考えて、してる」  彼はしばらくだまっていた。 「そんなこと言われたのは、初めてかもしれない」 「だから、たまには電話して」 「電話?」 「電話でも、したいの」 「そうか。君は電話でもしたことがあるのか」 「ふふふふ」 「誰としたんだ。言ってごらん」  高柳さんがあたしに嫉妬《しつと》している。 「もう忘れちゃったわ」 「誰としたんだ」  そう言いながら彼はあたしの中へ入って来た。そして激しく動いた。 「言ってごらんよ」 「いや……ほんとにもう、忘れちゃったんだってば……」 「忘れるくらいしたのか。え? 忘れるくらいしたんだな」  彼のがあたしの中をかきまわしている。 「だめ……それ以上したら……あたし、いっちゃうかもしんない」 「いきなよ」 「だってあたし、大きな声出しちゃうもの……あっ、あっだめ! 許して、お願い許して!」  彼は許してくれるどころか、足を閉じさせてその中を思いきり何度も突き上げた。 「いく……」  そのとたん、口を手でふさがれた。でも彼は突き上げるのをやめない。その状態にあたしはひどく興奮し、ついにあたしの中に大きな波が起こった。 「うう!」  しばらくして彼はあたしのお腹の上に射精した。あたしは頭がぼんやりした。 「なんか、すごい……もうだめ、あたし」  体に力が入らなかった。なのに彼はぴんぴんしている。 「こんなじじいを相手に」 「うそ。どこが」 「もっといろんなことしてきたんだろ? 君は経験ありそうだから」 「うそ。こんなの、初めてだよ。あたし、いっちゃった」 「今までいかなかったんだろ」 「今までは緊張してたの。そんなに、ほかの女の人ってすぐいく?」 「うん、そういう子もいる」  それはうそよ、と教えてあげたかった。いくふりなんて、いくらでも出来る。でもあたしは高柳さんにはうそをつきたくなかったのだ。ほんとにいかせる実力のある人に、へたなうそをつきたくない。おだてておいたほうが可愛《かわい》い史雄とは違う。  高柳さんはあたしのことに対しても、熱くなったり、ときどき冷めたりしているのがわかる。喜んだり、はしゃいだり、そしてときには後悔している。「会社の同じ部署……こういうのは初めてだからなあ」とひとりごとを言っている。でもそれはあたしも同じなの。同じ会社で、同じ部署で……奥さんも子どももいて、とってもめんどうな人だわ。でももっとあなたといろんなことをしたい。始めちゃったこのことを、うやむやにしたくない。あたしは今あなたがいちばん好き。きっとあなたもそうだと思うわ。 「あの人のほうが先に、あたしをやっかいな存在だと思い始めたらどうしよう」 「もうそんなこと考えてるの」 「あたしは会社を辞めないわ。あの人は出向だし単身赴任だから、あの人のほうが会社から出ていくと思う」 「奥さんとの関係がどうなるかだわよね」 「あたしにはそれは少ししか想像がつかないの。でもあたしも男ともだちと全部つきあわなくなる気はないし。条件は近いと思うわ」 「そうかしら。相手はもう十何年も一緒にいて、子どももいるのよ。だいぶ違うと思うけど」 「結婚したくなったら別の男とするわ」 「彼としたいとは考えてないの?」 「今はそんなこと全然考えない。それを考えると楽しくなくなるじゃない? 今はただ、彼といろんなことがしたいだけ」 「いろんなことって、セックスでしょ」 「まあね」  純粋に彼のセックスに興味があるってことは、変わってるかしら? 結婚も、プレゼントも、何も要らない。だってあたしはそれだけ自分で稼いでいるもの。仕事の邪魔をしない人とセックスがしたい。それだけなのよ。 「二人で逢うときのお金だって、あたしが出してもかまわないの。だってあたしは独身だもの。あたしのほうがお金は自由になるのかもしれないのよ」 「あたしはそういうふうには考えられない。男が出来るとこの人ともしや、って思う。やっぱり結婚したいわ」 「あたしだって、したくないわけじゃないわ。でも今は」 「今はなに?」 「彼の体が可愛い。それだけ。きっと今夜も思い出して抜くわ」 「やめなさいってばその言い方。だいいち何も出ないのに何を抜くのよ」  ほんとだ。あたしは何を抜いてるんだろう。でも、「抜く」って言い方がいちばんぴったりくるのよ。きっと目に見えない何かを抜いているんだと思うわ。 [#改ページ]   勃たなかった男  突然こんな用件で夜中に電話してすいません。うん、やっぱり「こんな用件」というようなものだと思いますよ。気にしないようにすれば、気にしないことも出来るっていうか。でも、私にはどう考えてもわからないんですよね。なんで彼があんなに変わっちゃったのか。  私、彼とは友だち同士だと思ってたし、親友とさえ思ってて、今まで沢山の事話したし、いろいろ相談に乗ってもらってたの。だから私のほうも彼の友情に応えるように振る舞ってたつもりだったんですよ。なのに今彼、私と共通の知り合いに、 「おまえは俺とあいつのどっち側につくんだ?」  と聞いたりしてるらしいの。どっち側につくも何も私たちライターって、みんな一人一人で仕事しているわけじゃないですか……変ですよね。でもなんかあっちは一方的に私を敵だと思ってて、共通の知り合いが自分の味方をしてくれるかどうかがすごく気になるらしいんですよ。私にそれを話してくれるような人間は、みんな、 「何言ってんだろうね、あいつも」  って言ってはくれるんですけど、でもなぜこうなってしまったのか、私にはほんとにわかんないんです。  順を追って話してもいいですか。すいませんね長くなるのに。でも、あとから考えるといろいろ気になることもあって。えっとね、最初は出版社のパーティーで会ったんですよ。そうそう。声を掛けてくれたのは彼のほうでした。私も、ライターも編集者もやってる彼の名前は知ってたから、 「わー、こんないい男だったんだ」  と言ったら、照れてた。私、それまであまり同業者の友だちがいなかったから嬉《うれ》しくてね。彼は草サッカーのチームの監督なんかやってて、試合見においでよって誘ってくれたんですよ。そんでそこのチームのメンバーも同業者多くて、友だちそれでいっぺんに増えちゃって。あの頃は何かっつーと彼らと集まって飲んでましたよ。そのうち私、その中のある男の子とつきあい始めたの。今はその子、ほかの女の子とつきあってるから、迷惑かけないように仮にAくんとしますね。えっ誰だか知ってる? そっか。いやまあいいですAくんで。名前言うと生々しくなるかもしんないし。  Aくんのこと、私とても好きだったんですけど、Aくんは他にもボーイフレンドのいる私のことをあまり信じてくれなくてねー。そばに座ってる男全部と関係してるとでも思ってたみたいで。私はボーイフレンドを一人に絞ることが出来ないほうなんで、今は、しかたなかったかもな、とは思いますけどね。え? そりゃそうだ? そのときはでも、私なりにAくんは大切にしてたつもりだったんですよ。でもそのうちAくん、飲み会のときに、私は一人で参加してんのにわざわざほかのガールフレンド連れて来たりして。やだったなあ。彼女、酔っぱらって、 「ねえ、あたしAくんのことずっと好きなのにやってもらえないのー。どうしたらやってもらえるの?」  と私に聞いたりするんですよ。もちろん知らないで言ってんだけど……。  すると、あの彼が、そう、問題の彼です……彼がAくんと何か真面目な顔で話をしてたの、その晩。あとでわかったんだけど、 「彼女がかわいそうじゃねえか、おまえ、やってやんなくていいのか?」  というような内容だったんだって。そしてその深夜、いやもう早朝か、早朝にはAくんと彼女、二人、私の目の前でAくんの部屋に入って行っちゃって。私の目の前でですよ。私もまだ酒入ってたし頭に来て、他の男の子の部屋までついてって、そこから、 「その子とセックスしたら、あたしもこの子とするからね」  って電話してやったんですよ。じたばたしましたよ。うん、いいの、私けっこうみっともないことするの好きなんですよ。そしたらまあ、演技かもしれないけど、電話の向こうでAくんの息がだんだん荒くなってきた。胸が張り裂けそうっていうのはああいうのを言うんですね。泣きたかったですね。私? しませんでしたよ。部屋の主の子、とっくに寝てたもん。寝たふりしてくれてたのかもしれないですけどね。Aくんとはそれきりです。  結局問題の彼がAくんに余計な忠告をしてくれたせいで、わたしゃそうやってこっぴどく振られちゃったってオチになるんですけど、まあ偶然なんでしょうけどね。でもね。よく考えたらその前に彼は私に、 「おまえAとつきあってんだろ?」  とさんざんカマ掛けたりしてたんですよ。私はずっととぼけてたけど、この人なんでこんなに人が誰とつきあってるか知りたがるんだろう、って不思議に思ってましたよ。  でもまあ、その後すぐ海外取材とか行ってたもんでAくんのことからはけっこうすぐ立ち直れたんですよ私。つきあってる人間が自分だけじゃないとやだって人もいますからね。で、しばらくしてBくんって子とつきあい始めました。  つきあい始めてしばらく経ったころ、ふと気が向いて彼の部屋に遊びに行ったんですよ。そう、問題の彼のほう。そのとき彼ったら、私が、 「これから行っていい?」  と言っただけで、 「悪いけど、俺、おまえとはしないよ」  って言ってましたよ。変でしょ。  でもまああんまり気にせずに行って、そんで、 「今つきあってる子、かわいいのー」  とか言って、名前は言わなかったけど、Bくんのことさんざんのろけてたの。  そういう話のあとすぐ、 「ねえ、しようよー」  なんて言った私も私だとは思います。 「おまえ、今その口で男のことのろけてたくせに……」  ってあきれられました。まあ当然ですね。でも、彼は結局OKで、 「俺、思い切ったことできないとやだから、シャワー浴びるよ」  と言うんですよ。何だろそれ、って思ったけど、彼はそれだけでなく、 「一緒に浴びる? シャワー浴びながら後ろからつるって入れるのもいいか」  って言うの。本気みたいだったけど、普通第一回目のセックスからそんなことする人いないじゃないですか、だからああ冗談だろうなと。私は出かけてくる前にお風呂《ふろ》に入ってきたし、そんな凝ったことする気もなかったんで、彼がシャワー浴びるのを一人で待ってたんですよ。  しかしまあ、始まってみたら「思い切ったこと」というのがどういうことなのか、私はもっとちゃんと聞くべきだったなと後悔しちゃいました。もうなんていうの、私の体で、ありとあらゆることを最初っから試そうっていうのか? って感じで。まあこっちがしようって言い出したわけだからなーと思ってがまんして、なるべく協力しようとしたんだけど、さすがに彼が、 「後ろからでいいだろ」  と言ったときには、 「やだ」  って言っちゃったんですよ。だって一番最初っからバックなんてねえ……そんなこと要求されたの、生まれて初めてでしたもん。体位変えてじゃないんですよ。初めて入れるときからですよ。  でも、一番大切なのはもっと別なことだったの。実は、ぜんぜん勃たなかったんです。何してもだめ。これも、私にとっては生まれて初めてで、ショックだったです。でも彼はもっとショックかもしれないじゃないですか。すげーあせりましたよ。ほんと、口でしたりとか、いろいろしたけどだめだった。ど頭からシックスナインまでやったりして……あんなこと最初の男としたの初めてですよもう。そうそう、だから、後ろからなら出来るかもしれないという話になったんですけども、でも、そんなのってないじゃないですか。なんか、あたしを何だと思ってんの、って気持ちになったんですよー。自分が入れればいいのかおまえは、っていうような……こっちはだめなら添い寝してお話しようよ、って気分にもなったんですけど、なんか引っ込みつかなくなってるっていうか。ほんと、困っちゃいましたよ。  結局やっぱりだめだったんで、彼は私を指と舌でなんとかしようとしたの。私はもうそこまでしてもらわなくてもいいやって気になってたんですけど、悪いから、しばらくやらせといて適当なとこでいったふりしましたよ。そうしないとおさまりがつかなかったもん、絶対。  なのに彼は、 「もういいの? まだしててもいいよ」  みたいなこと言うんですよ。私は内心「どひー」と思いましたよ。だってちゃんといったふりしたんだから。 「え、だってもういったからいいよ」  と言いましたよ。そしたら、 「だって女の人って何回でもいくでしょ」  って言うの。私は、あっこりゃいかん、こいつ重症の「ひいひい言わせたい病」だって思っちゃってねー。もう説明する気もなくなっちゃいましたよ。だってこれ、初回なんですよ。あーもう何言ってもだめだろうって思って。 「いやもう、満足したから」  とか嘘《うそ》言って。もちろん、いってもいないのに私くたくたで。もうさわられたくないって感じだったし。  疲れましたよ。その頃仕事がけっこう忙しかったせいもあって、まあ忙しいのにそんなことしてる私が悪いんですけど、結局あたしそれで尿道炎起こしちゃったんですよ。これは彼には言ってません。それにその上、それからすぐ取材で地方なんか行っちゃったもんだからどんどんひどくなって、最後にはおしっこするたび血がぽたぽた出て来ちゃって、痛みもそうとう辛かった。でも、彼ほら勃たなかったわけじゃないですか。勃たなかった上に尿道炎起こさせたなんて知ったら、よけいショックだろうと思って。で、黙ってたんですよね。まあ何とか治ったし。なかなか病院に行けなかったんですごい時間かかったんですけどね。  その後地方から帰ってきて……何がきっかけでああなったんだったかなあ。電話でけんかになっちゃったんです。こっちもちょっと恨んでたんだろうなあ。よくもまあ病気になるまでいじりまわしてくれたよって。 「あんたねえ、今までどんな女とつきあってたのか知んないけど、あそこまで最初から普通、しないよ」  って言っちゃったんですよね。そしたら彼すんげえ怒って。なんかいろんなこといっぱい言ってたけど、結論としては俺は最近勃たないことが多いんだ、と。で、 「勃たない自信があるから、いろいろしないとますます勃たねえんだよ!!」  って怒鳴ってましたよ。なんかすごい開き直りでしょ。なんでしょう「勃たない自信」って。そうそう、そう言ったんだもんほんと。でもね、理論はめちゃめちゃでもね、とにかく怒鳴るんですよ。いつのまにか私の方がすごい悪人にされちゃってんの。私、悔しくて涙出てきちゃってね。 「だってあたし最初っからあんなことされたことないよ!」  とか泣いて怒鳴ったの。 「初めからバックでさせろとかさ、人を何だと思ってるのよ!」  って。そしたら少しむこうもおさまって、 「それ、昔も女から言われたこと、あるわ……」  だって。じゃあなんで同じ事またやるんでしょうね。わかんない人ですよ、まったく……。その上、自分から怒鳴り始めたくせに、 「こういうのって、電話でやってるときりないから、続きは今度会ったときにしようぜ」  って。それきりしてませんよ、そんな話。面と向かって怒鳴られるのやだもん。それに、すげー気にしてんだなっての、わかっちゃったしね。その後は、 「またしよーねー。あたしはいつでもいいんだよー」  って、そればかり言うようにしてました。いや、もうする気はなかったです。ただ、そう言わないとバランス取れないじゃないすか。むこう? むこうは、 「いや俺もういいよ、キスくらいならいいけど」  とか言ってたかな。まあでも、イヤそうではなかったですね。だからまあ、そういうのをお約束っていうか、ご挨拶《あいさつ》がわりにしてたんですよ。  しばらくしたらBくんとも別れて、え? 金に汚い子だったんですよ。年下だからこっちが出すのはいいけど、やたら出させようとするところあって。それもそういう女のストックを何人も作ろうとしてたりね。陰ではそれをさんざん自慢してたらしいし。まあそれはいいんですけど、そう、Cくんって役者とつきあい始めたの。は? 多いですか? そんなにしょっちゅうじゃないですよ私。努力しますよ一応。ほんとですよ。でね、Cくんがね、やっぱり彼の草サッカーのチームの子だったんですよ。言いにくいですね。草サッカーって。まあいいや、で、みんな、あいつら仲いいよな、くらいは感づいてたみたいだったんですけど、これがまた。  サッカーの合宿みたいのしたときに、問題の彼がまたCくんにちょっかい出してんの。 「ふつうの女は男とつきあったら、やられちゃったの世界だけど、あの女はカマキリだぞ。おまえ、喰《く》われちゃうよ」  とかあたしのこと言ったんだって。なんなんでしょうねー。Cくんはそんとき、 「なんかそれ、オレがもう絶対つきあってるって話になっちゃってるじゃないすか」  って言ってとぼけたらしいんですけど。Cくんだってほら、一応役者だから、スキャンダルわざわざ起こすのやですからね。まあ、AくんよりCくんのほうがこの頃ははるかに私のこと信じてくれてたわけで、良かったですよ。いい気味。でもなあ。何の権利があって何度もそんな、人の恋愛を妨害するようなことするんだか。  Cくんからは、 「あの男、あんたのこと好きなんじゃないの? やってやればいいのに」  って言われちゃうし。  Cもねえ……またこいつが同じく駆け引きの大好きな男だったんですよ。他の女の影ちらつかせるのがいいと思ってんの。私のことなんかもう本人が言って歩いてるようなもんだったんですよ。私の同業者で、まあ私よりもっと有名で、Cくんが好きな作家の奥さんでもあるっていう女性から聞いたんだけど、あたしのこと、「あの人と仲いいの?」ってたずねたら、変なとぼけかたしたからおかしいなって思ったって。知らせたい人にはわざとやるんですよ、そういうの。結局それでCくんの、古い方の彼女が手首切っちゃったの。ひっかき傷程度ですけどね。あれで救急車呼んだってんだからむこうもすごいですよ。あのときはマスコミは押さえられたらしいんですけど。まあ私のせいって言えば言えますよ。でもさ、ふたまたかけてたCくん本人から、 「あんたが追いつめたんだよ!」  って怒鳴られることはないんじゃないでしょうか。どう思います?  最後には、 「あんたがあいつにあやまれ! あいつだけじゃなく、オレとの関係言いふらしたやつらみんなに、迷惑かけましたって、頭下げて回れよ!」  まで言われたんですよ。私、完全に頭に来ちゃってね、 「何であたしのせいにされなきゃいけないの? 今まであんたが彼女にどんないいかげんな嘘ついてたかくらい、あたしにだって想像つくよ。悪いけどそれで小説一本書けるよ。書いたげようか?」  って言ってやったんですよ。そしたら、 「あんた、バカ? だれがおまえみたいな無名ライターの書いたもんなんか本気にするかよ。やれるもんならやってみろ」  って言われたんですよ! そう、そいで、あれ書いたんです。すごい短時間で書きましたよ、あれ。あ、面白かったですか? ありがとうございます。作品になってた? ちゃんとそうしましたからね。それまで小説なんか書いたことなかったんで、自分では全然自信なかったんですよ。でも彼が、そうあの問題の彼が、面白いから大丈夫だって……あの作品を支えてくれたのは彼でした。俺が保証するから、俺の雑誌に載せなって……あんな騒ぎになるとは、思わなかったんですよ。あの本も予定よりずいぶん売れたらしいし……。あとから考えたことになりますけどね、私が思ってたよりずっとCくんが役者として有名だったっていうことと、それとまあ、自分でいうのもなんだけど、私の書いたものが意外に面白かったっていうか、結局事実にも近かったってことだと思うんですよ。でもあれはフィクションとして書いたものですからね。その後に来たインタビューとかでも、私はいっさい実名なんか出してないんですよ。でもCくんのほうはほら、出版にはしろうとだから、そんなところはぜんぜん見てなくて、とにかくオレは活字で攻撃されたと、そこだけ受け取っちゃったんですよ。  もちろんこっちもインタビューがいっぱい来たり、ワイドショーまで来てね、くたくたになっちゃった。でもとにかく書いた責任だけは取ろうと思って、 「フィクションです」  って言い続けたんですよ。それだけ。なのに向こうは「オレのこと書いて有名になりやがって」ってそれだけしか見てなくて。もちろん文章の良し悪しなんかわかるタイプの子じゃないんですよ。 「あんた、何考えてんだ。自分のやってることわかってんのか」  って電話が何度もかかってきました。あれで、まいっちゃった。だからあのあと子宮筋腫で入院しちゃったんです。  その後も編集長の彼のほうへ取材の電話がいっぱいかかってきたそうなんですよね。彼はちゃんとわけを話しててくれたはずなんだけど、どういうわけか今度はスポーツ新聞や週刊誌が、 「Cの恋人ライター、中絶!?」  って書き出したんです。もう何がなんだか私にもわかんなかったですよ。って言っても私は手術してすぐだから、まだその頃その辺の記事は読んでなかったんですけどね。母が、私の体にさわるといけないって、見せないようにしてたんですよ。だから、私がそれを含めてその辺のいきさつを初めて聞いたのはやはりその問題の彼、からだったんですよ。  その日、彼は暗い顔でやって来て。私の母が席を外すまで、何もしゃべらなくてね。何だろうと思いましたよ。で、二人になってからやっと小さな声で、 「Cのことなんだけどよ」  って……すごい、困ったーって感じで言うんですよ。 「俺んとこの雑誌、俺が編集長やってるとこね……あいつのインタビュー、入ってたんだよ。前から約束があって、台割切ってあったんだけどよ……そしたら、予定した日に来なくてよ。電話かかってきて……それもわざとなかなか連絡とれないようなやり方でよ……ぎりぎりになってインタビューじゃなく、エッセイにしろって言って原稿持ってきやがったんだよ。困っちゃってよ……もう差し替えきかなかったんだよ……」  って。 「それさあ……おまえのことなんだよ、書いてあんの……」 「ああ、そう」  って私、言うほかなかったですよ。Cくんに文章が書けるとは知らなかったけど、まあ、そういうこともあるかもしれないな、くらいにその時は思って。で、 「それって、面白かった? ちゃんと、雑誌側として載せて正解なものだった?」  って聞きました。そうだったら、それは編集長としての彼の判断で載せたものなわけだし、私がどうこう言う問題じゃないですからね。そしたら彼は、 「いや、それが……わかるだろ、とにかくあいつらしいもんなんだよ」  って言葉を濁すだけなんですよ。 「おまえがやったんだから、オレにもやらせろって押し通されちゃってさ……参ったよ。ほら、こないだおまえのこと、入院してるって言っただけで、中絶なんて書かれちゃったばっかしなのにさ」 「えっ、そんなこと知らなかった」 「あっそうだったのか……何か、そういうことになっちゃっててさ……ほんと、やんなるよ……」  私は、そのときは彼に同情しました。両方と知り合いだと、そうなのかもしれないな、って。だから、 「面白いものだったら書かれるあたしだって本望だけど、面白くないんだったら、あんたも編集長として、大変だね」  って言ったんですよ。そしたらちょうど母が帰ってきたんで、彼、また黙っちゃった。そしてそのまま、そいじゃまたとかなんとか言って帰っちゃったんです。母は、 「何なのあの人、暗い顔で手ぶらで来て。ほんとにお見舞いだったの? あたしにはろくにあいさつもしなかったよ」  って不思議がってました。  やっと退院したその日、ちょうど彼の作っているその雑誌が出る頃だったんで、コンビニで見たんですよ。あ、見ました? あれ。ねー。すごいでしょー。私もちょっと驚きましたよ。あれ、カタカナにしてあるだけで実名入りのただの悪口じゃないですか。私が抱いてくれって泣いて頼んだから抱いてやったのにってとこなんかあれ、ちょっと考えてもすごいですよ。あそこまでうぬぼれが強くないと役者ってやってけないもんなんですかねえ。そんな女いませんよ普通。文章も、本に載せられるような出来じゃないし。なんでこんな状態で載せたんだろうって誰だって思いますよ。全然作品になってないんで、またそのエッセイがまた週刊誌やスポーツ新聞に、 「Cくん反撃! オレはあいつにだまされた!」  ってふうに取り上げられてんの。そのたんびに編集長の彼は、 「俺取材断ったんだけどよ。ちょっと電話に出たときの応対でインタビュー受けたみたいに書かれちゃってんだよ」  と私に弁解してました。まあそのコメントも、病院で私に言ったのと同じで、 「ぎりぎりになって持って来られ、書き直しも要求もできなかった」  っていう内容だったんですけど、ねえでも、それって編集長のセリフですか? そう思いません? あとで私、彼に、 「ねえこれ、文章としてもなってないとこあるじゃない? 添削してあげれば良かったのに」  って言ったんですよ。そしたら、 「まあそれが、あいつの味だからさ」  って言われたの。それも、その時はなんかもう私には済まなそうな感じはまるで無くって。病院まで言いに行ったんだから、もうこいつには許してもらってるし、って感じが、なんかしたんですよ。そのとき、ちょっと変だなと思ったの。  そしたら、その彼の雑誌の次の号の読者ページを見ていたら、Cくんのエッセイについての投書が二つも載ってるんですよ。 「Cさんのエッセイ面白かった! やっぱり男の意見も聞かないと、事実はわかりませんよねえ」  という内容のと、 「Cさんのエッセイを読んでライターの恋人の方のほうが今どうしてらっしゃるのか心配になりました」  という内容のやつ。そしてその両方に、私の名前が実名、それもフルネームで出てるんですよ。ということはですよ、雑誌を作ってる側は、Cくんの作品はノンフィクションですって言ってるのと同じだってことじゃないですか。  なんか、私それ見て編集長であるはずの彼のこと、どう受けとめていいのかだんだんわからなくなってきてね。どういうつもりでいるのかなあって。母は、一人で怒ってましたね。 「あんた、利用されてるのに決まってるじゃないの!」  って。でも彼のこと親友だと思っていたし、思っていたかったんですよ。  そしたら、しばらくして、ぜんぜん別の週刊誌が、4ページあげるから、そのまた反撃を書きませんか、と言ってきた。  私はとても迷ったんですけど、もうこの際、ここでこの内容をうまく料理して笑えるもんにしてやれと思ったんですよ。え? それも読んでくださってたんですか? 面白かった? すっごい、嬉《うれ》しい! 全然もう反撃とかじゃないでしょ? そうそう、あれから私、また仕事増えちゃって。得しましたよ。やってよかった。それがですね、もう書いて原稿渡したあとだったんですけど、問題の彼にも一応報告しとこうと思って、 「こんど、別の雑誌にそのまた反撃書くことになったから」  って話したんですよ。そしたら、 「やったあ、今度こそ俺と関係ないぞ。ああ、気が楽になった」  って言うんで、 「編集長も大変でしたね」  って言ってあげたの。  そしたら彼、何て言ったと思います? 「いやあ、三日悩みましたよ」  は?  私は耳を疑いましたよ。  三日もあったの? って。  三日もあれば、どんな書き直しだって出来ますよ。  それとも、三日だけ悩んで、あとは平気だったって意味? ねえこれ、どう取ればいいんでしょうね。  それから私は、母に相談したんです。母はすぐ結論を出して怒り狂ってました。 「それはあんたとそのCって人のことを出せば、話題になって自分の本が売れるからやったのに決まってるじゃないの!」  って。私は、 「でも彼とあたしは、友だちなのよ」  って何度も言いました。でも、 「人が体こわして入院してるときに手ぶらでやってきて、自分の肩の荷を降ろすためだけに病人にやな事言って、その親に挨拶《あいさつ》もしないで帰るのが友だち!?」  って言われて、言い返せなかった。  でもとにかく、実名で記事にされたってことは確かなわけですよ。だから、そこはちょっとなあ、って思ってたんですけど、その後も彼は、 「体調が戻ったらまたうちにも書いてくれな。ちょっと、しんどいか?」  なんて言うんですよ。なんかなあ、この人ほんとに編集長? って気、しません?  私結局、あんまし口頭だと彼が何もかもなかったことにしてるんで、とうとう手紙書いちゃったんですよ。簡単なものだったんですけどね。 「私はそちらの雑誌にはもう書けません。でも、ほんとはそれ、わかってるんでしょ? 私おかげさまで最近仕事も増えてきてるし、まあ、もうそちらのお世話にならなくてもやっていけそうですから」  って、そういうのです。もちろん皮肉も入ってます。え? 全部皮肉だ? そうかもしれない。でも、彼にはこのくらい言わないとだめだと思ったんですよ。なんか、私がはっきり言わないうちはいくらでも甘えてきそうな感じがしてきて。  話は最初に戻りますけど、結局その手紙のおかげで今度はこの騒ぎですよ。  まず、次の月、彼の雑誌の編集後記に、 「某有名ライターから当雑誌に絶縁状届く。ガーン! そ、そんな……仕事一日手に付かず」  ってのがあるの。最初はまさか、私の手紙のことを言ってるなんて思いませんでしたよ。だって「絶縁状」ですよ。そんな強い内容でした? はい? 彼にとってはそう? そうなのかなあ……。私、まさかと思って、このことを話してた友だちとかに電話してみたんですよ。 「ねえねえ、これあたしのことなのかな?」  って。そしたら、 「そうなんじゃないの?」  とか、 「ほかにいないんじゃない?」  とか言われて。なんだろう大げさだなーっ、って思ってたら。  そのあともうどんどん、伝わってきたんですよ。出版社のパーティーがあるっていうと、彼から、 「ねえ、あの女来るの?」  って編集者に問い合わせははいるわ、共通の知り合いの連載が終わるっていうと、 「あの女から圧力かかったの?」  って担当者が聞かれてるわ。なんで、一介のライターふぜいが人の連載つぶす圧力持ってるなんて思うんですかねえ? ほかにも自分の雑誌と競合している雑誌に私が仕事するって話を聞きつけて、そこの編集者に、 「おたくもあの女にまるめこまれたの?」  ってそこまで言ってたって。本気で言ってんでしょうかねえ。  ほかにも、私がたまたま知り合いの撮ってたビデオにエキストラで出演してほしいって、彼に頼んでた件があったんですよね。それが不況のあおりで話がなくなっちゃって。そしたら、そのことまで彼、 「あの女、裏で手まわして俺の出番つぶしたんだぞ。俺らのこと、なんだかんだ言ってるけどよ、あっちこそ公私混同してるんだからな」  って言ってたって。なんかどうも、彼の好きな女優と一緒だってんで楽しみにしてたらしいんですけどね。話なくなっちゃったってのを知らせる余裕がなかったのは悪かったですけど、不況で起こったことまで私のせいにされちゃって。だいいち「俺の出番」ってねえ。本職の役者が言うならまだわかるけど、どういうつもりでいるんでしょう。  ほんと、そういう話が伝わってきた頃はね、落ち込みましたよ。彼との間の友情なんて、私が勝手に感じてただけだったんだなって。Cくんのことでいろいろ相談に乗ってくれてた頃の彼は、ほんとに優しい男だったんですよ。なのに今は、その頃のことまで、 「毎日毎日何時間も電話掛けてきて……こっちは忙しいなか聞いてやってたのに」  って言ってたんだって。そりゃあ、私は電話、長いですよ。今も相当長くなってますよね、すいません。でもね、彼のほうが女性問題とか、あと自分のライバルの悪口とかね、そんなこと話したい気分のときは、私だって何時間も彼の話、聞いたですよ。それが友だちでしょ。私だって、こんな、こっちだってしてやったのにみたいなこと、ほんとは言いたくないですよ。  彼は初めてあったときから、私の仕事が好きだって言ってくれてました。同い年なのに何冊も本出しててすごいって。嬉《うれ》しかった。知り合ってから彼の最初の本が出たので、みんなで飲み会しましたよ。私はお祝いだからって、ふだん着ないようなワンピースなんか着てってね。感激した彼に、キスされたりして。  そうだ。そういえば妙に飲み会のとき、飲み会だけでなく二人で飲んでるときもそうだったけど、「自分の女」みたいに私を扱う癖があった。まわりの人からよく「あ、あいつら出来てんだ」って目で見られてましたよ。大声で「おまえはまた、こら」とか言って、私の頭を抱きかかえたりするの。え? そうそう。おもにその勃たなかったあとですよ。だから私もなんか、せめて人前では彼にそういう態度くらい取らせてやろうと思ってましたね。っていうと生意気だけど、今までそこまで考えてなかった。酒の席ですしね。まあそういう癖でもあるんだろうと思ってて。私も人から、誰と出来てるとか言われてもわりと平気なほうだし……ああでも、大勢人がいるほどそうだったような気もするなあ。あと、どうも私のボーイフレンドっぽい男がいるときとか。え? 勃たなかったことの反動? そういうもんなんですかねえ。  あ!  そういえば彼、私のことを好きだって言ったことがありました。  ずうっと前、どのボーイフレンドの話だかもう忘れちゃったけど、 「彼ったら、あたしが、あたしのこと好き? って聞いても、ちょっとはね、としか言ってくれないの」  って相談したら、 「男としてはそのくらいしか言えないもんだよ。ちょっとはって言ってるってことは、相当好きって言ってんのと同じだぞ」  って言われて。そんで、そのまたぜんぜん別の日に私がふざけて、 「あんたあたしのこと好きなんでしょ」  って聞いたとき、そう、その勃たなかったあとですよ、そしたら、 「ちょっとね」  って……彼、私のこと好きだったんですかね? え? そうだろうって? は? 自分のものにしたかったんだろう?  ……だって……寝たわけでもないのに、なんで?  もしもし。もしもし。あ、こんばんは。はい、そうです。すいませんねえまた夜中に。あ? 聞こえにくいですか? ケイタイなんですよこれ……大丈夫? ええ今、窓に近づいたの。  いやーもう。参っちゃいましたよまたなんですよ。え? あ、違うんです。あの編集者の彼? いや、もうぜんぜん何してるか知りません。興味なくて。またってのはあの、何ですよ。こないだまた、勃たなかったの。今度は若いんですよー。だからまたショックで……え? 二十歳くらいかな。え? そりゃ犯罪だ? 女ロリコン? ひどいなー。私はいつもまじめですよ。ほんとですってば。  いやあのそう、同業者でね。あ、今小説もやってるから、そっちのほうのです。くっさいの書く子なんですけどね。可愛《かわい》いんですよ。え? それはいいから? すいません。そんで、なんかスランプだって言ってるから、一発励ましてやるかなと……は? そんな理由で、したりしません? 私だけ? そうかなあ。いやまあ、もちろん彼のこと好きですよ。酒? 酒ですか……少しは入ってたかな。一緒に遊んだのはまだ二度目でした。前は、麻雀したんですよ、ちょっとだけ。その前もなんかの飲み会で会ったけど、そのときはあんまし話しなかった。連絡先だけ聞いて、あとで電話で話すようになったんですよ。そう、うん、すっごく年下ですけどね、言いたいこと言う子で、話してて楽なんです。  でね、しようよって言って。しようとしたんですよ一応。前の彼みたいに、恐怖のセックスおたくフルコースはなかったです。少し乳首をどうにかしたくらいだったかな。そう。ぜーんぜん、勃たなかったですよ。口でしたり? しなかった。そいつ、見るからに風呂《ふろ》から遠ざかってたもん。え? いや私、セックスするだけだったらそれでも平気なんですよ。だってそういう機会ってなんかそんなので逃すのもったいなくないすか? あ、そう。まあキレイにこしたことないですけどねえ。私ら仕事にはまり出すとそんなこと言ってらんない日も多いじゃないですか。役者の子とか商売柄けっこういつもキレイでしたけど。でも私と数日一緒にいるときなんかそのままでしたけどね。でもあいつら嘘つきだから……あ、いいや、前の男の話はいいんですよ。その二十歳の彼がね、その若さで勃たなかったっていうのが。何なんでしょうね、それ。  それだけならまだいいんですけどね、その彼、やりかたが乱暴なんですよ。若いから? かもしんないけど……代わりに指でされたんですけど、だからこう、指、あれ二本くらいかなあ? それでこうどすどす突かれたんですよ。いや、ほんとですってば。最近そういう乱暴する男に巡り合わなかったもんで、私だって驚いたですよ。証拠もあるんですってば。いやあの、ちょうど生理始まっちゃったんですよ。ていうかあれはもう、始まってたんだろうな。気がつかなかったの、濡《ぬ》れてるのかと思って。いや、私も少し酒入ってましたから。だからかもしれません。そんでだから、大変ですよもう。彼、霜降りのTシャツ着てたんですよ。そう、下半身は裸。そしたら、そのTシャツ血しぶき浴びてんの。ほんとですってば、今度見せてあげますよ。現代美術みたいになってんですから。そう、あんまし恐ろしいことになっちゃったんで私のTシャツに着替えさせてあげたんですよ。うん、もう交換。だって洗うのもったいないじゃないですか。こんなこともう人生に二度とないと思ったですよ。  そんでまたそいつが生意気で。ちんちんびくともしなかったくせに、 「オレ、したくねーから勃たなかったんだよ」  って、開き直った。 「助かったよ」  ですって。前の男とずいぶん違いますけどね。ほかにつけ加えてたのがね、 「商売女だったらビンビンに勃つんだけどな」  って。あいつガキのくせに、風俗とかときどき行くらしいんですよ。で、そこだと、どんなすごいのが出てきても絶対勃ちまくりなんだって。なんか、悔しいですよそれ。そんなもんなんですかねえ?  え? 私のこと? ああ、作品読んでるって言ってましたけど。ん、好きみたい。そうでしょうね、そんな短期間でそこまで行ったんですからね。こっちだって、作品読んでなければ仲良くなるの遅くなるもんな。うん、お互いけっこう好きだったんじゃあないでしょうか。なのにねえ……そういうのは関係ないんでしょうかねえ下半身は。がっかりですよもう。なんか私って魅力ない? みたいな気になっちゃう。いや、今んとこその二人だけですけどね……あっ、そういえば、その若い子のほうも、こないだ麻雀したとき私に妙に軽口たたいてました。ちょっと待て、そんな口調でしゃべってたら、周りから完全に私と出来てるって思われるぞって感じでしたよ。ちょっと照れくさかったなあ、あれ。ねえでもこれってこないだの彼と共通してますよね。人前でなれなれしくする男って、セックスになったら勃たないんですかね? え? なれなれしいだけじゃないってどういうことですか? 私と仲が良いところをアピールしたい? アピールして何かいいことあるんですか? だってほんとに出来てるわけでもないのに、それってだって、ただの芝居じゃないですか。  もしもしー。どうもー。久しぶりですー。  元気でした? 今? 彼の部屋。え? あーあー、前のじゃないです。あの二十歳ぐらいのって言ってた子でしょ。え? 今何してるか知らない。仕事? してるんじゃないですか。最近見ないけど。雑誌多いですから。そう、たまーに電話ありますけどね。あっもうないか。あたし番号変えちゃったからなあ。なんか、めんどくさい電話多くなっちゃって。いや、そんなもんじゃないですか、こういう仕事ですから。え? 人による? ああ、そうなんですかねえ。人のことはわかんないや。まあいいんですよ前の男のことは。今のはね、えっとね、二十三か四。まだ犯罪? あっそうか、私も歳取ってるわけですからねえ。ほっといてくださいよもう。また勃たない話かって? そこまででもないんですけどー、今度の子はねー、自分が勃たなくなるってこと最初からわかってたの。だからそれが面白いなって。ん? でもまだ二回しかしてないんですよー。二回目はね、別に普通だった。一回目のときにね、 「僕、最初のときはいつも途中でだめになるんですよ、だからたぶん今回もそうなるかなと思います」  って。そうそう、そういう口調なの。ん? 物書きですよ、ちょっとジャンル違うけど。売れてる子ですよ。すごい忙しいみたい。  なんかねー、あとで聞いたら本人どうしていいかわかんなくて長くなっちゃっただけだったらしいんですけど、もう入れるまですんげえ時間かかったの、そう、一回目ね。キスしたあと、一時間くらい交互に乳首|舐《な》めてましたよあの子。気が狂うかと思った。乳首だけでいきそうになっちゃいました。あたしもう我慢できなくなって。 「もーやめてー。乳首だけでいかせようとしてんの?」  って言っちゃった。 「下、さわってごらんよ、すっごい濡れてるから」  って。ほんとにそうだったんで、彼驚いてましたけど。だってあんなに熱心に乳首舐められたらもう誰だってそうなりますよー。  でもまたそれからが大変。今度は乳首舐めながらずっとあそこ転がすもんだから、私、そのままいっちゃったんですよ。恥ずかしかったー。その上彼、女がいくところ見たの初めてだっていうんですもん。もう、顔、真っ赤ですよ。 「なんか、話には聞いてたけど、女の人がいくのってほんとにめったにないことだと思ってたんで、なんかもっとこう、半狂乱みたいになるのかと思ってました」  とか言われちゃってー。私、今後の彼の作品読むの恐い。うん、お互い読んでましたよ。お互い好き。でもよく聞いたら、彼のほうが私のこと熱心に読んでたみたいでしたけど。  彼がちゃんと入れたのは少しあと。私が落ちついてからでした。ちゃんとコンドーム付けてましたね。何かあるといけませんからって。そうそう、そんで予言した通り、途中で小さくなったの。なのでしばらく抜いて休んでて、それからもう一回したんだったかな。あ、そうだ、その間少し寝たんだった。早朝までずっと話しててそのあとだったもんですから。そんで起きてからもう一回したんだ。そのときはしぼみませんでした。  今? 今はね、彼だけちょっと打ち合わせに出てるんですよ。次に出す本の装丁の打ち合わせって言ってたかな。電話してていーい? って聞いたら、キャッチ入ってるから大丈夫ですよって。そう、だから二度目にしたのはゆうべです。今度はあんなに長時間じゃなかったですね、シンプルだった。一度目はいつ次の段階にいけばいいものかっていう迷い方してたらしいですね。それで指でいかせちゃうんだからまあ、ポイントは知ってるんですね。他に彼女? いるみたいよ。私と関係したのが嬉《うれ》しくてその彼女に言いたくなっちゃうなんて言うから、ひやひやしちゃう。前のCくんとの騒ぎの頃いろいろ読んでたらしくって、僕もつきあってんだぞって言いたくなっちゃうなあなんて言うの。可愛いですけどね。ちょっと恐いよね。彼女持ちは深入りしないほうがいいかもしんないね。若い子だし。うん、若いのはかまわないんですけどねえ。話戻るけど、やっぱ勃たなくなるのって若さとは関係ないんですかねえ。本人そうなるのわかってるし、休んだあとは元気だったから、以前のケースに比べたら気にするほどじゃあないんでしょうけどー。  別にそのくらいなら問題ないって? うん、まあ私もそう思うんですよ。考えてみたら前のボーイフレンドにも最初はそんな感じだったのがいた。でもね、昔はぜんぜんいなかったんですよ。いつまでたってもいかないやつとかはいましたけどね。勃たないとか、途中で勃たなくなるってのはいなかった。人からそういう話聞いても嘘《うそ》だと思ってたですもん。  どこが違うんでしょうね。でもとにかく、ほんの最近ですから、会う前に私の仕事を知ってる男ばっかりですね。あ、そういえば同業者とか、近い仕事の男ばかりだ。そうか、それがいけないんですねなんだか知らないけど。そうかそうか、わーい、ありがとうございました、相談して良かったー。  もしもし? もしもし? あたし。ひさしぶりですー。え? 元気そう? まかしといてくださいよ。セックスしてます? え? だめですよしなくちゃ。  こないだの電話のあとね、私思いだしたんですよ。もしかしたらあのとき、勃ってたものがしぼんだかもなっていう、昔のこと。いつだったかなあ。すんごい前ですよ。途中までしそうになったの。嫌いじゃなかったの、その子のこと。でも急になんか、今日はだめだ! って思っちゃって。何でだったのかなあ。下着がやだとか体が汚いかも、とかそんなだったと思いますよ。そんであたしそのとき、 「自分が何してるかわかってる?」  って言っちゃったんですよ。可哀想にねえ。あのとき絶対しぼんだと思いますよ私。それとね。え? まだあるのか? ありますけど何で? あと二回くらいありました。そのときのセリフは、どっちも同じ。どっちのときも、したくなかったんですよ、そいつと。部屋に遊びに来たいっていうから入れたら、勝手にもじもじし出したの。で、どっちのときも、 「帰れば?」  って言ったんですよ私。ひどいですねえ。絶対しぼんでたと思うな。若い頃ですよもちろん。うん、どっちもそのときの私にしたら年上。一人はそうとう上の妻帯者。立場、ないですよねえ。あれ、でもそっちの人とはあとからしたような気もするな。したんじゃないかな、たぶん。  どうしたんですか? 疲れました? は? よくパンツはいてるヒマあるねって? ほんとですねえ、自分でもいつパンツはいてるんだろうって思っちゃいますよ。  え? 今ですか? もちろんいますよ。あのね、四十代。え? うん、突然でしょ、何やってると思う?  ブー。会計士でしたー。驚きましたー? いいですよー。ぜんっぜん話合わないの。使ってる言葉もまるで違うしね。部屋に帰ってきて思い出してるともうおっかしくって、しょっちゅうひとりで笑い転げてるんですよ。これが同じ時代に生きてる人間同士だろうかって。私の仕事を彼はよく知らないし、私も会計士の日常なんて想像もつかない。脳みその中の、まるっきし違う部分を使いながら生活してるはずですよ。朝決まった時間に起きちゃったりしてるしさ、ああおかしい。え? 普通はそう? そうなんですけどねえ。もうそういう人たちと久しく仲良くしてなかったから。もう、二度と仲良く出来ないんじゃないかと思ってましたよ。  でもね、大好きなの。まだつきあい始めたばっかしなんですけどね、なんで早くこうしなかったんだろうかってくらい新鮮なんですよ。  え? 前の男? 私、それどんなやつだって言ってました? 二十三、四? あれ? それ前のかな? 前の前かもしんない。いや、待てよ……いいや、ごめん、わかんなくなっちゃいました。まあいいんですよ、前の男のことは。  今の人はねー、もー、すっごく可愛いの。なんでだろう、年上の男がこんなに可愛く思えるのは初めてなんですよ。何が違うのかは、まだわかんないんですけどね。とにかく可愛いんですよ、ちゃん付けで呼んでるの。家庭? ありますよ。うん。もう落ちついてる感じ。まあ実際どうかは知りませんけどね。別に興味はないです。  だってー、すっごく元気なんですもーん。してるとき、いつもすっごいですよ。そこだけ取り出したら、まるで前の若い子たちより今の彼のほうが若いみたいですよ。不思議ですねえ。ほんとに年齢じゃないのね。  うん、特別かもしんないんですけどね。身は軽いみたいだな。でもね、めんどくさがり。それとね、すげーわがまま。自分のことしか考えてない、人でなしなの。私どうも、そういう男が好きみたいなんですよー。でもそういうのがきっと、いつでも私に勃たせられる男かもしんないなって。じゃーまたこれから彼とセックスしに行ってきまーす。え? いつパンツはいてんだって? そうだなあ、仕事してるときははいてるんじゃないでしょうかねー。 [#改ページ]   シタダシレッテル  またつきあってる男に嫌気がさしてきた。ついこないだまで彼のことを考えるだけでどきどきしていたのに、今はただ気が重い。前のあたしたちはもっと、お互いいたわり合っていたはず。なのに今の彼はなんだか身勝手な人に思える。電話のたびに、 「だったらもう二人で逢《あ》うのはやめましょう」  というセリフが喉元《のどもと》まで出てくる。どうしたんだろう、あたし。彼のことあんなに好きだったのに。彼がすっごくわがままなことなんて最初から知ってたし、いつもあたしの話なんか、ほんとはぜんぜん聞いちゃいないことだってよくわかっている。それでも好きだったのに。  彼がわがままでも平気だと思ったのは、まだ入社二年目で自宅から通勤しているから。いくらわがままでもそのほとんどは彼のお母さんが吸収してくれると思った。一緒に暮らす気なんて、最初からない。あたしは一人が好きだし、ずっと一人でいたからこそ今の役職まで来れたのだ。彼はあたしの期待していたとおり、つかんでいた手を離すたびにゴムの弾力でお母さんの所へ戻って行った。だからあたしはいつでも一人になれたし、その分彼と一緒のときはうんと彼を可愛《かわい》がってあげられた。  社内では彼とのことは内緒にしなければならなかったが、そんなのあたしにとっては簡単なこと。しかし彼はそれがへたなのだ。たとえば彼と社の廊下で立ち話しているとき、どっちかの同僚が通りかかると、彼はあとで、 「あぶなかったね」  と甘ったるい声を出す。あたしが、 「そんな態度こそ見られたら危ないわよ、堂々としていればいいのに」  と言うと、 「僕が矢田さんと話しているときに堂々としてたらおかしいでしょ。なんでそんなこと言うの?」  と言い返される。その言葉の中には、「ほんとは僕とつきあってるの、人に言いたいんでしょ」という意味が見えかくれする。とんでもない。上司はあたしのほうなんだし、ずっとこのまま内緒のほうが有り難い。彼は知らないだろうが、他にも社内で内緒のままつきあって内緒のまま別れた男なんて何人もいる。今までの男はこんなに「内緒」ってことで盛り上がったりしなかった。もっと淡々と逢って、社内で自分たちが人からどう見えるだろうかなんて、話題にもしなかった。でも彼はなんだかおかしい。まだ何も起こっていないうちから、 「気をつけなくちゃね。見つからないように逢わなくちゃね」  とあたしに言う。それはちょうど秘密がばらされたくてうずうずしている女子高生が、聞こえよがしにひそひそ話をしているところのようだ。最初の頃はそれが少しは可愛かったのだが、だんだん不安になってきた。 「そんなにみんな人のことなんてかまっちゃいないわよ。忙しいんだから」  と言っても、 「だって、矢田さん女性管理職の中で一番有名人だし。だれが見てるかわかんないんだよ。まったく。ほんとにぼんやりしてるんだから」  とかえって叱《しか》られてしまう。半分は誉められている手前、あたしは強いことが言えなくなる。  でも、最近は何かというとこの話題なのであたしはすっかり疲れてしまった。彼があまりに何度も何度も、 「矢田さんがそういううかつなことをするから、あぶないんだよ」  とあたしの行動からそういう要素を熱心に拾うので、仕事が忙しいときなんかはぼんやりしてきて、 「そうか、あたしはほんとにそういう、人にばれるようなあぶないことばかりしているのか、じゃああたしは本心では彼とつきあっていることを人に言いたいと思っているのかしら」  と暗示にかかったようになってしまう。でもそのあと、何もかもめんどくさくなってしまって、 「だったらもうそれでいいよ、謝るよ。あたし、自分ではわかんないからもう逢うのはやめましょう、そうだそうだ、それがいいわ、はい、おしまい」  と言いたくなってしまうのだ。あたしはもう彼のことを好きじゃないのかしら。それとも今ちょっと疲れているだけなのだろうか。  彼とつきあいだしたのはちょうど一年前。会社の飲み会の帰りに、電車がなくなって困っている彼を部屋に泊めた日からだ。 「おふくろが心配するだろうなあ」  あたしのパジャマを着ながらつぶやく彼がおかしかった。 「電話したげればいいじゃない」  あたしが言うと、彼はもじもじした。 「でも、もう寝てるだろうし、電話すると女の人んとこに泊まるのばれちゃうし」 「へんな人……」  この子は今夜、あたしとセックスしないだろうなとその時は思った。ところが明かりを消して寝ようとすると、一人前にあたしのベッドへやってきたのだ。 「ママと間違ってるんじゃないでしょうね?」  とあたしは言った。 「そうかもしんない」  と言いながら彼はあたしの胸をさぐった。それから、そこをちょっとさわっただけですぐに入れてきた。似合わない大きさだった。すこし痛いくらいだ、と思ったとたん、大きく動き出した。あたしはびっくりした。彼はそのまま機関車のようにいっきに走り去ってしまい、あとには痛みだけが残った。 「ねえ……いつもこういうやりかたしてんの?」  あたしはおそるおそる聞いた。 「えっ……」  彼はしばらく黙っていた。聞いちゃいけなかったかしら、と少し思った。  それでも次にあたしの部屋に泊まったときの彼の進歩はめざましかった。ゆっくり時間をかけていろんなことをされたあたしはすっかり濡《ぬ》れてしまって、彼に早く入れて欲しいと思った。やっと入ってきた彼は最初に奥まであたしを突き刺し、それから少し戻して何度か動かした。そしてもう一度大きく回りながら奥まで入ってきたのだ。 「ああ!」  あたしは思わず声をあげた。どうやらビデオを見て勉強してきたらしい。やりかたがどうもビデオくさい。でもなんだかそれが可愛い、あたしを喜ばせるためにそんな努力をしてきたなんて。あたしは彼の努力に応えるために、いっぱいいやらしい声を出した。  その次に逢《あ》ったときは、口でしてあげた。あたしの舌がちょっと触れただけで彼の息が荒くなった。あんまししてもらったこと、ないみたいだ。  彼はこれまで何人くらいの女とつきあったんだろう。今まではずっとあの、ただ入れて出すだけのセックスしてたんだろうか? そうなんだろうな……。  彼はそのあと、あたしが一人でしているところを見せて欲しいと言った。 「えー、恥ずかしいなあ。もっと暗くしてよ」 「恥ずかしいの?」  ちょっと意地悪くそう言いながら彼は明かりを消し、スタンドを近くに持ってきた。あたしは目を閉じた。自分のその部分がスタンドの明かりに浮かび上がっているかと思うと、それだけで興奮してきた。 「どこ? どこ触ってるの、見えないよ」 「ここ……」  あたしはそこを少し開いて見せてあげた。彼の顔が近づいてくるのがわかる。スタンドの明かりが温かい。 「このまま、いっちゃうかも」 「いってよ」  彼の声もうわずっている。 「いったら、入れてくれる?」 「うん」  そのすぐあとに、波はやってきた。 「あっ……いっちゃうよ、入れて」  あたしを押し広げて彼が入ってきた。 「ああっ。大きい」  波はあたしのからだじゅうに広がって、つま先から抜けていった。 「最近広がっちゃってるよあたし、きっと。だって大きいんだもん」  あたしは半分眠りながら言った。 「またそんな、うまいこと言っちゃって」  彼は笑った。 「ほんとだよ……大きいよ、とても」  あたしはうとうとした。彼の冷たい脚があたしにからみついた。こうしてじゃれあっているのが一番楽しいと思った。あたしはいつでもこれだけでいいのだ。  この一年、「これだけでいい幸せ」のためにあたしはもっと用心するべきだっただろうか。たとえば彼と一緒にどこかへ出かけたりするのは良くない催しだっただろうか。  いつかは会社と関係ない、あたしの友人のパーティーに彼と行った。 「可愛くしておいでね」  と言ったあたしの言葉通り、いつもより明るい色のスーツだった。彼は童顔だけど肩幅が広く、形のいいスーツがとてもよく似合う。  そのパーティーであたしは、彼とぼんやり音楽を聞いたり、彼を含めた友人たちとただおしゃべりしたりするつもりだったのだ。そしたら、あたしが思っていたよりずっと多く、あたしの会社と取引のある所の人たちが参加していて、なんだかとても忙しいことになってしまった。あたしの着ているワンピースにはポケットがないというのに、どんどん名刺がたまってしまう。こちらも名刺を出そうとしてもハンドバッグもいつもの大きなものしか持っていなかったので、それとともにうろうろするわけにもいかず、あたしの左手は名刺入れを持ったまま、すっかり使えなくなっていた。あたしは気が利かない彼がちょっと恨めしかった。あたしが誰かを紹介される度に彼のことも紹介しているのに、彼は食べ物や飲み物や、自分と年の近そうな女の子にばかり気を取られてすぐにあたしのそばから離れてしまう。あたしが連れてきたのになんでこんな思いをしなければならないのかしら、と彼を捜すたびにいらいらした。 「ねえ、あたしの名刺入れ持っててくんない? あたしの服ポケットがないの。さっきから手が使えずにいるのよ」 「ああ……いいけど」  彼は気がすすまないようだったが、それでもあたしの名刺入れをポケットに入れてくれた。あたしだってもう彼のそばにだけいたかった。なのにまた、誰かに声をかけられ名刺をもらってしまったのだ。  さっきまで隣にいた彼はもういなかった。すこし離れたところでビールを飲んでいる。 「ねえちょっと……お願い」  あたしは彼がどうしてそばにいてくれないのかと思った。 「名刺入れ、貸して? ねえ、ちょっと一緒にいて、得意先の人なのよ」  彼の腕を引いてもとの場所に戻り、やっと二人であいさつが出来た。 「ねえ、あたしもこんなふうだとは思わなかったけどさ、しかたないんだから、あいさつされたら協力して、ね?」 「協力って?」  彼はつっけんどんに言った。 「だから……そばにいてくれると助かるのよ」 「僕は矢田さんの名刺持ちなわけ?」  あたしははっとした。 「えっでも……あたしたちの会社の関係の人なのよ。あなただってあいさつしといたほうがいい方たちばかりじゃないの」 「そうかなあ……そりゃあ、矢田さんくらいになればそうなのかもしれないけど」  あたしはいやな気持ちになった。  その後も彼は二次会で、話が盛り上がっている場でわざわざ、 「僕、電車がなくなるから帰ります。安月給ですしね」  と言い出した。あたしはやっと落ちついて友人たちと話が出来るテーブルに付いたところでそんなことを言い出す彼にすっかり困ってしまった。それについさっきまで、あたしが紹介した友人と好きな映画の話なんかをしていたのにだ。 「もう少しいいじゃないの」 「いや、もう電車なくなりますから」  あたしは顔には出さなかったが、頭を抱えたい気分だった。しかたなく、 「あたし、送っていくわ」  と言って立ち上がった。一緒に来た年下のパートナーがみんなの前でここまで「帰る」と宣言しているのだ。「じゃあさよなら」と言うわけにもいかない。あたしはちょっとだけ期待したが、彼は「僕のことはいいですから、矢田さんはいらっしゃってて下さい」なんて言うそぶりもなかった。そりゃそうだ。あたしは試されたのだもの。友人たちの前で、自分の方に付いてくるかどうか彼は賭《か》けたのだ。 「タクシーで帰りましょうよ、おごるからさ……」  あたしは彼の腕を取って歩き出した。 「ねえ」 「なあに……?」 「僕のこと、誇示しようとしてるでしょ」 「誇示? どういう意味?」  彼が何を言おうとしているのかあたしにはわからなかった。次のセリフで、やっとわかった。 「僕って、今日矢田さんのアクセサリーとして呼ばれたのかなあ」  あたしは彼に深く失望し、一緒に来るべきではなかったと後悔した。あんた、自分でそれほどのルックスだと思ってるわけ? と皮肉な気持ちになった。プライベートのつもりが仕事のようになってしまったのは悪かったかもしれない。でもそれならそうと、どうして頭を切り替えてくれないのか。名刺入れを持たされたことはそんなに屈辱だったのか。あたしは彼にはあの場を利用して他の会社の人間と自分とのコネクションを作るくらいして欲しかった。なのに、彼が気にしていたものは古風な男のプライドだけだったのだ。  でもその夜の彼は優しかった。彼はあたしが自分と一緒に帰ってきたことに満足しているようだった。抱かれているだけでいい、とあたしはまた思った。それでなくても仕事でそんなにしょっちゅう逢えるわけじゃないんだもの、わざわざもめるようなところに出かけるのはもういやだ。どうせそんなに永くつきあうつもりはないのだから。  いくらあたしがセックスだけでいいと思っていても、つきあっていれば自然にまたどこかへ出かける機会はやってくる。次は、あたしの友人の出る演劇だった。どっちにしろあたしは行く予定だったので、彼にそう話すと、 「おれも行こうかなあ」  と言う。彼はいつのまにか自分のことをおれと言うようになっていた。 「行くんだったら一緒にチケットを頼んでおくけど」 「うん、行けると思いますよ」  あたしは招待状の返事に連れの分のチケットを売ってもらえるよう書いておいた。  期日が近づいてきた。あたしは電話で彼に確認した。 「しあさって、どこで待ち合わせる?」 「しあさってって、何だっけ」 「芝居じゃない」 「ああ……」  しばらくの沈黙があった。 「おれ、たぶん行けるとは思うんだけど」 「たぶんじゃないわよ」  あたしは静かに言った。 「あんたが行くって言ったからチケット頼んであるんだからね。今さら他の人を誘うわけにはいかないのよ」 「…………」 「今待ち合わせ場所決められないなら、当日の朝にでも電話ちょうだい」  こういうことが多くなってきたな、とあたしはため息をついた。一度約束したことでも、こっちが何度も何度も確認を取らなければならない。言いたくないけど、あたしの方が忙しいはずなのだ。なのに、彼はだからこそ余計にあたしより強い立場を取ろうとしているように見える。  芝居が済んだらすぐに帰ろう、とあたしは思った。あたしの方が知り合いに囲まれたりすると、見る見るうちに彼の機嫌が悪くなるのをあたしはもう知ってしまっている。あの子はあたしが大昔の少女みたいに、 「今日、彼氏と一緒だからー!」  と甲高《かんだか》い声で周り中に聞こえるように言って欲しいとでも思ってるのに違いない。どんな大切な人に声をかけられても、あいさつもそこそこに自分のあとを追い、腕にしがみついてくれないといやなのだ。  そのくせやっと二人きりになると、 「矢田さんは結局おれの上司なわけですからねえ」  と言い出す。そんなこと最初っからわかってるのに。  くたびれる。  いくら今んとこレギュラーなパートナーだからって、たかがセックスするだけのためにここまでいろいろ考えてやらなきゃいけないんだろうか。  昔のあたしはもっと男と別れるのがうまかった。なのに今はこんなにへただ。もうとっくに別れたほうが楽なところまで来ているのに、言い出すのがめんどくさい。  相手が年下だから? こっちから別れを切り出すと、なんだか一方的にもて遊んだみたいで気が引けるのだろうか。  あとで考えればこんな時期はあっと言う間だしなと思う。嫌でしようがなかった時間ほど、思い出すときには短い。だったらただ通り過ぎていく男のわがままくらい、少しの間聞いてやっててもいい。どうせ、だめだと思った男とはほっといてもいつかだめになる。  たぶん小娘だった頃のあたしは、今の彼と同じように大人の恋人をたくさん傷つけてきたはずだ。だったら今度は代わりにこっちが少しくらい傷ついてもいい。あたしの昔の男も、こんなふうに泣かされたのかもしれない、と感傷に浸るのもほんの少しならいい。  結局はそんなふうにあれこれと言い訳をしている。どうして昔のあたしはあんなに簡単に男と別れられたんだろう。ほんの半年や二、三カ月で、「もう逢《あ》わない」なんてどうして言えたんだろう。  わざわざそれを言ったばかりについてくるはずの雑事に手間を取られる時間が年々増えていくからかもしれない。そんなことで疲れるのはいや。フェイドアウトにしたほうが、今はとても楽なのだ。  その日の朝。彼は眠そうな声で電話をかけてきた。 「どうしたの? すごく眠そう」 「ゆうべ、ちょっと誘われて……朝まで飲んでた」 「大丈夫?」 「うん大丈夫……こないだほら、矢田さん『今からもう別の人誘えないんだからね』って言ってたじゃん。あれ聞いて、おれもああ、そうなんだー、って思ったんだ……」  まるでおれも大人になったでしょうと言わんばかりだ。あたしは少しびっくりした。そんなことさえ、言われなければわからなかったんだろうか? 「でももう少し寝たいから、出れば間に合う頃に電話くれる? 今日家、誰もいないから」 「わかったわ、起こしてあげる」  彼は前にもこう言って眠ったままついに起きなかったことがある。あたしは鳴り続ける電話機を持ったまま途方に暮れたものだ。大丈夫だろうか、と少し心配しながら出かける準備をしていたら、電話が鳴った。 「ああ。矢田さん。良かった、いらしたんですか」  休日出勤していた井上という同僚からだった。なんて事だ。あたしでなければわからないコンピュータのトラブルがよりによってこんな日に発生してしまったのだ。あたしは舌打ちしたが、行くしかない。幸い会社から劇場はそれほど離れていない。急げば、間に合うかもしれない。 「良かった。どうしても僕じゃわからなくて。ほんとにすいません。ゆうべ佐山がすぐわかるようにしてってくれてるはずなんですけど」  佐山とは、彼のことだ。あたしは今日ここへ来ることになったのは運命だと確信した。  なかなかコンピュータはもとへ戻らなかった。あたしはちょっと席をはずさせてもらい、会社のロビーの公衆電話から彼に電話した。何度も何度も呼び出し音が鳴って、眠そうな彼がやっと出てきた。 「ごめん、あたし急に会社に呼び出されてしまって。今、ちょっと仕事してるの」 「ええ?」  彼は腑《ふ》に落ちないという感じだった。彼が最後にいじったコンピュータのトラブルだということは言わなかった。あたしは、 「終わりしだい行くから、先に行ってて。受付で矢田の連れですと言えば、チケットを出してくれるわ。隣の席にしてくれてるはずだから。わかった?」 「……わかりました。先に行ってます」  あたしは電話を切って机に戻った。ふと気がついて、今度は劇場へ電話した。出演する友人の仲間を呼び出してもらい、矢田の連れが来たら、チケットを渡して下さい、料金はあとで矢田が支払いますと受付に伝言してもらった。  すべてが済んで安心できたせいか、その後、コンピュータはまもなくもとへ戻った。お礼にお茶でも、と言う同僚をなんとか振り切って、あたしは走って劇場へ向かった。受付にたどり着いたところでハンドバッグの中から「ピー」とただならぬ音が聞こえてきた。ポケットベルの電池が切れてしまったのだ。あわててスイッチを止め、財布を出した。チケットはまだ二枚ともカウンターの上にあった。 「もう一人の方はまだいらしてないようですけど」 「そうですか……もうすぐ来るはずなんですけど」  あたしは息を切らしながらチケット代を払った。彼を待っていたかったが、出演している友人にも悪い。 「じゃあ、先に入っています。すいませんが、連れをよろしく」  あたしはそのまま場内に入り、二つ並んだ空席の一つに座った。いつまでたっても彼は姿を現さない。あたしは芝居が頭に入らず苦しんだ。もう来るはず、もう来るはずと自分に言い聞かせた。しかし、とうとう終わりまで隣の席は空いたままだった。 「あ……」  気の遠くなるほど呼び出し音を聞いたあと、あきらかに眠っていた彼の声がした。あたしは心からうんざりした。 「寝てるんだろうとは思ったわ」  あたしは涙声になった。 「でも、もしかしたら何かあったかもしれないと思ったのよ。先に行きますと約束したら、普通は来てると思うでしょう」 「…………」 「それと、あたしのポケベルの電池が、ちょうどここに着いたときに切れたのよ。連絡出来なかったのかも知れないと思ったわ」 「ああ……ごめん」 「今日あたしと出かけるのをわかってて、朝まで飲んだのも自分でしょう? 行くって言ったのも自分でしょう? どうして自分の言ったことに責任が持てないの? だったらどうして約束するの? あたしは『連れの方どうしたんでしょうね』と言われながら最後まで待ってたんだよ。チケット取ってくれた人だって、嫌な気分だったと思うわ。だってあたしは、さっき出てますから、もう来るはずなんですけどって何度も言いながら待ってたんだもん」 「…………」 「子どものすることだよ」 「いやだったんだ」 「は? 何が?」 「矢田さんの……とか言って一人でのこのこ行くのがいやだった」 「…………」 「それで寝ちゃった」 「なんでいやなの? ねえ、だったらなぜ行くって言ったの?」 「あんたは正しいよ。ご立派だよ。それだけ出世してんだもんな、偉いもんだよ。でもおれはいやだったんだ。それだけだよ」  長い沈黙のあと、電話は切れた。  釈然としない終わり方だったが、これでもう逢《あ》うこともないだろう、と思うとほっとした。しばらくは淋《さび》しいけど、あんな、こっちには訳のわからないことでごねられるのはもうごめんだ。いつも出かけるときの費用は全部あたし持ちなのに、その上あんなことまで言われてはかなわない。  幸い机の仕切りが高いあたしたちの会社では、机が離れている彼とそれほど顔を合わすこともない。自宅ではしばらく留守番電話をかけっぱなしにし、他の友人と飲み歩き、時の過ぎるのを待った。彼とはそれほど話の合う間柄ではなかったので、思ったほど喪失感はなかった。  なのにある晩、マンションの入り口の前に彼が待っていたのだ。あたしはため息をついた。 「どうしたの?」  彼は黙っていた。 「近所の人がびっくりするわ。用がないなら、帰って」  そのまま抱きしめられた。卑怯《ひきよう》だわ、とあたしは思った。あたしはこんなことがしたかったわけじゃない。なのに、首すじに唇を押し当てられてからだが反応した。腕に鳥肌が立ち、ため息がこぼれた。 「やめて……」  やっとのことで彼を押し戻した。首に触れた彼の頬《ほお》は、氷のように冷たかった。  彼は黙って立っていた。いつまでもそうしているつもりかもしれなかった。あたしは今夜の自分の時間をあきらめた。ポケットから鍵《かぎ》を出して、ドアを静かに開け、声をかけた。 「入れば」  それを聞いて彼はやっと顔を上げた。 「とにかくその冷たい体をなんとかしたほうがいいわ」  あたしは彼に温かい紅茶をいれながら言った。 「いつからいたの? お風呂《ふろ》、入る?」  彼はなかなか答えようとしない。 「部屋に入ってもらったのは間違いだったかしら」  あたしはため息をついた。 「何も話さない気なら、おうちに電話して、迎えに来てもらうわ」  それでも黙っている彼に少しむっとしたあたしは、電話機に手を伸ばした。その腕を、彼がつかんであたしを押し倒した。 「なによ……」  黙ったまま、彼はあたしのスカートの中に手を入れ、ストッキングを引っ張り降ろそうとした。ビッと音をたてて、ストッキングが縦に裂けた。並の力ではなかった。少し危ないかもしれない。 「ちょっと……待ってよ……」  彼の目を見るのが恐かった。でもちらっとだけ見てしまった。前にも一度見たことがある、その目つき。あたしは観念した。彼はあたしをベッドに倒し、ストッキングをはぎ取ると、それを使ってあたしの両手をベッドの柱に縛りつけた。それからセーターをまくりあげ、ブラジャーを押し上げようとしたが、うまくいかないので手を回してホックをはずした。最近のブラジャーはアンダーバストがきつめなので、そう簡単には上がらない。彼は、やっと裸にした乳房を両手で思いきりつかんで、歯を立てた。 「痛いっ」  あたしは体をくねらせて逃げたが、彼は止めようとしない。噛《か》むだけでなく、思いきり吸い付いているのがわかる。あざだらけにするつもりなのだ。 「いや。やめて……」  あたしは泣き声を出した。 「だめだ」  彼は何かに酔っているようだった。 「おまえなんか、ただの女のくせに」  そう言いながらスカートも下着もすべてはぎ取り、あたしの両脚を思いきり開かせた。 「ただの肉のかたまりのくせに」  そのまま、彼は入ってきた。あたしはうめいた。 「やめて。こんなの、ひどいよ……やめて……お願い」 「うるさい」  彼は、最初の夜のようにめちゃくちゃに動いた。人形でも扱うみたいに、乳房をつかんで引き寄せて、あたしの奥まで入れた。 「いやー」 「ほらこの、大きいのがいいんだろ。いいって言ってみろよ!」  ひどい状態だったが、なんとかしなければならなかった。あたしは彼に早くいってもらうことにした。涙声で、 「ああ、いや、大きい、すごく太いのああ、もっと……」  と叫んだ。半分やけくその演技だった。 「いい、すごい、やっぱりあんたのじゃなきゃだめ……。さわって、ほら、こんなに濡《ぬ》れてる。ああっ」  それはほんとうだった。あたしのそれはお尻《しり》のほうまで流れてきていて、シーツを濡らしそうになっていた。彼は指でそれを知ると、いっそう息を荒くして動き、あたしはいきそうになった。この際もう、いかなきゃ損だ。 「あっ、いく、あ、いっちゃう、いかせて、お願い、いっぱいいかせて、あー!」  あたしの反応に興奮した彼もまもなくいってしまった。やれやれ、とあたしはため息をついた。彼はやることをやってしまうと、あたしの腕のストッキングをほどき、カップに残った紅茶を飲んで背中を向けてぐうぐう寝てしまった。洗面所に行き鏡を見ると、涙でマスカラがとけて目の周りが黒くなっていた。セーターをめくり上げると見事な桜吹雪。でもまあ、これ以上はけがもなく済んで良かった。恐かったけどけっこう興奮したし、まあ、一発もうけ、ということにしておこう。  翌朝あたしが新妻みたいに朝食を作ってやると、彼はすっかり気をよくしておとなしくしていた。出社するときあいかわらず、 「こんなとこ見られたら、同棲してんじゃないの? なんて噂《うわさ》になっちゃうよなあ。困るな。知ってるやつに会わないように気をつけなきゃ」  と言った。それでやっと彼が、ほんとは噂になりたがっているのに気づいた。あちこちでどんどん噂になって、どこにも身動き取れないくらいになって、まわりから「まだ結婚しないの?」なんてさんざん言われて、 「いやー、あいだけ噂になっちゃったらしょうがないよね」  なんて言いながら、うわべだけはしぶしぶ結婚してみせて、みんなからはしっかり祝福されたいのだろう。  あたしと結婚したいんだったらそう言えばいいようなもんだけど、それだと結婚を言い出したのは自分だってことになるし、言い出した責任も取らなければならない、なんて思っているんだ。なーんだ、そうだったのか。でもそれってもしかしたら昔から女の子のやり方だったんじゃないの? 悪いけどあたしは、自分自身では何も決めようとしない男なんかと結婚する気なんてない。  今のあたしにとって男は、とりあえずセックスの相手。それと、過去を思い出すときの節目。あの頃は何をしていたんだっけ、そうだ、あの男とつきあっていたんだっけか、と手帳を開く手がかりのようなもの。そういえば、ちょうど五十音の辞書やアドレス帳を逆から見ていくように、少しずつ狭かったその期間が広がっていく。「ら行」とか「ま行」とかの、ほとんどあっと言う間の数ページだった男たちとの記録が、だんだん「た行」や「さ行」のページみたいに厚くなる。いいことなのかも知れない。ただ別れるのがめんどくさくなっただけでなく、男に対するむやみな期待がなくなって、どこかしらきちんと歩み寄っているのかもしれない。  彼のことをあたしはまだ迷っている。誰かがあたしたちのことを噂にして、周りから話題にされて追いつめられたいという彼の望みは果たしてかなうのだろうか。あたしはどうでもいい。噂になってもならなくても、あたしは痛くもかゆくもないし、彼に対するあたし自身の気持ちが変わるわけじゃない。 「自宅にいるの、やめたほうがいいんじゃない? アパート借りて一人暮らしすればいいのに」  そうすれば彼の、世間に対する考え方が少しは変わるような気がした。 「えーだって、近くに実家があるのにもったいないじゃん」 「そんなもんですかねえ……」  その口調でもう一つ彼のことに気づいた。この子、貯金もなんもないのかもしれない。 「こないだ、ほんとにありがとうございました」  コンピュータを見てあげたあの同僚があたしに声をかけた。 「あの日、ほんとは約束してたんでしょ? 佐山くんと……」  あたしは驚いた。 「なんで知ってるの?」 「実は僕、佐山とけっこう仲のいい女の子とつきあってるんですよ。佐山、彼女には何でも話すらしくって……すいません、つきあってるの聞いちゃいました」 「あっそ。別にいいけど。お互い大人なんだしね」 「うーん。でもあいつ優柔不断だから、気をつけたほうがいいですよ」 「知ってる」 「平気なんですか?」 「平気だよ」 「そうか……矢田さんくらいになるとそうなのかもしんないなあ。じゃあ、ギャクタマ達成ですね、あいつ」 「は? 何それ」 「彼女には、矢田押し倒してギャクタマだ! っていきまいてるそうっすよ」 「ほう」  あたしは思わずじじいのように納得してしまった。そうだったのか。あいつ、あたしの稼ぎをあてにしていたんだ。あたしはしばらくいろいろと思い出したあと、声を立てて笑い出した。 「あっはっはっはっはっは」 「どうしたんですか、矢田さん」 「いやー、やっぱこういうのって人から言われないと気がつかないもんだよねえ。いやー、そう考えると噂になるってのも面白いもんだねえ、あははは。ひー。おかしー。ねえあたしって、そんなに稼いでるように見える? ねえ」 「そりゃそうなんじゃないすか?」 「いやー、でもねー、家なんかめちゃくちゃだよ、散らかってて。料理なんかしないし。それでもいいのかねえ」 「わかんないけど……金あればなんとかなることだってあるんじゃないすか?」 「ねえよ」  あたしは声を低くして言った。 「稼いでて、家事やって、貞操観念あって、昔ながらのやり方で年下の男の顔も立てろだあ? そんな何から何まで都合のいい女なんているか!」 「ちょっ、どうしたんですか矢田さん。飲んでませんよね? 大丈夫ですか。疲れてんですか」 「疲れてる」  あたしは肩をがくんと落とした。 「やっぱ、疲れてたんですね。働き過ぎですよ。体だいじにして下さい。そ、それでは僕はこれで失礼」  逃げられてしまった。しかしこれでナゾがとけた。あの野郎。どうするか見てろよ。  結局どうもしなかった。あたしは何も聞かなかった振りをしてうまく佐山と別れた。もう佐山とこれ以上無駄に時間をつぶすのはいやだったのだ。  しかし、愉快なこともあった。佐山がまた会社で噂になるとかなんとか言ってごねだしたとき、あたしはかまかけるつもりでわざとしょんぼりして見せ、 「結局あたしがあんたと同じ会社にいるのがいけないのね」  と言ってみたのだ。 「え……まあ、そういうことだね」  佐山はいばって言った。あたしはここぞとばかり思いっきり古風なしなをつくり、 「あたし、会社辞めて家庭に入ろうかなあ。ねえ、そうすればいいのかしら?」  と心にもないことを言ってみた。そのときの佐山の顔ったら!  あたしはあの顔であと一年は思い出し笑いできるだろう。あーおかしー。いい気味。あの、 「あたし家庭に入ろうかなあ」  を何度も何度も根気よく本気でやったらそれだけでも別れられたのかもしれないが、あたしはそこまで嘘《うそ》をつくことに熱心にはなれなかった。  そのかわりまだ佐山となんだかんだやってる間にさっさと他の男を作った。佐山はあたしの体をあざだらけにしたことでそれを防いだつもりだったのだろうが、甘い。他に男がいる話をしたほうが、その気になる男だってけっこういるのだ。佐山ってば自分自身だってそんな男のくせに、ほんと考えが浅いんだから。  今度の相手はよく行く飲み屋のウエイター。佐山と違って、あたしと話の合うタイプだし、もうしばらくは同じ会社の子はかんべん、だ。酒が入ってるから話も早い。 「ねえ、なあちゃーん。あたしのからだ、今すごいんだよー」 「なんすかそりゃ。矢田ちゃんなんかすごい話しようとしてる?」 「してる。聞きたい?」 「聞きたい」  こういうストレートさが、勤め人じゃない。あたしは嬉《うれ》しくなった。 「あのねー。こないだ夜中に帰ったらドアの前で、昔の男が待っててねー」 「おっ。もうなんか盛り上がってるじゃん」 「そーなのよ、そんでさードアの前でやられそうになっちゃったからさー、しょうがないから部屋入れたらー」 「入れられたわけね」 「そーそー」  あたしはころころと笑った。 「それもさー、ストッキング破られてそれで縛られて無理矢理」 「うそ」 「嘘じゃないのよ。からだキスマークだらけだよ」 「うそうそうそ」 「嘘だと思う?」 「うーん。ちょっと思う」 「賭《か》ける?」 「えー。賭けるってことはそれ、見せてくれるわけ?」 「そーだよ」 「なに賭けるの?」 「なあちゃんのからだ」  それで一丁あがりだ。いいなあ、簡単で。 「まさかほんとだとは思わなかったなあ」  なあちゃんはあたしのあざだらけの裸の胸をなでまわしながら言った。 「そう? 嘘なんてつかないよ」 「それにしてもそんな話して、今までずっと客として会ってた矢田ちゃんの部屋に入っちゃうなんて……」 「そんで体の中にも」 「さっきもそういうこと言ってたなあ」  うふふ、とあたしは笑った。彼の胸は分厚くて、胸も脚もすべすべだった。 「あたしはずっとなあちゃんの体に興味あったんだよ」 「そう? 本気にしちゃうよおれ」  あたしと彼は何十回目かのキスをした。 「でもこんなことしてて大丈夫なの? またその男が怒鳴り込んで来たりしないの?」 「相手にしないもん」  嘘。ほんとはまだ佐山ともつきあっている。でももう佐山とはほとんどセックスしていない。ただだらだらと駆け引きを試みる佐山に、あたしはもうすっかり欲情しなくなってしまった。あの夜みたいに激しい遊びでも出来ればな、とたまに思うが、佐山はもうそこまでする気はないみたい。 「なあちゃんと、出来て嬉しい」  あたしは彼と唇を合わせながら言った。 「そう?」 「うん、してもらっちゃった、わーいって感じ」 「明るいなあ」 「セックス好きだもん。これだけでいいの、あたし」  あたしは彼の胸にキスし、だんだん頭を下に降ろしていった。 「そんなこと言う女初めて見たなあ」 「そう?」  彼のはまた大きくなっていた。あたしはもらったばかりのプレゼントにほおずりするように、それを可愛がった。 「こんなくそ忙しい年末に」 「ん?」 「こんなことしてもらってるなんて、何年ぶりだろう」 「気持ちいい?」 「うん」 「もっと食べていい?」 「ああ。いいよ……んん」  ただはあはあ言ってただけの佐山と違って彼の反応は大人っぽかった。彼の低くて太い声が耳に気持ちよかった。あたしは興奮して彼をぺちゃぺちゃ舐《な》め回した。 「ああ、また入れたくなっちゃうな」 「そんなこと言われたら、あたしも」 「ん……早く入れたい」 「あーん」  あたしはたまらなくなって彼の上にかぶさっていった。あたしは一回目のときより濡《ぬ》れているみたいだった。手を添えないで乗っかっていっただけで、あたしのそこは彼のを少しずつ飲み込んだ。 「あ、入っちゃう、奥まで入っちゃう、ねえ、ここ」 「ん?」  あたしはおへその少し下を手で押さえた。 「この辺まで来てる」  彼はにっこり笑った。そして、 「そんなわけねえだろ!」  と言いながらあたしを突き上げた。あたしも笑いながら彼に抱きついた。ほかに何も考えなくていいこんな瞬間が、あたしはたまらなく好き。生まれつき持っているものだけで交わす熱い会話。あたしはやっぱりこれだけでいい人間なんだ。 「もう明るくなってきた……」 「寝なくて大丈夫かよ。矢田ちゃん今日も会社なんでしょ」 「そういえばそうだったわ」  翌日が休みでもないのに抱き合って夜明かししてしまった。でも今はまだ眠くない。 「会社で眠くなるかしら。でも、いいの。眠くても。今日とても嬉《うれ》しかったもん」 「ほんとは忙しいんじゃないの? ここに仕事みたいの置いてあんじゃん」  彼はあたしが作りかけていた、来年のシステム手帳を指さした。 「ああ、これ。これはただの手帳よ」  取り上げるとぽとりと何かが床に落ちた。なあちゃんが長い腕でそれを拾ってくれた。 「これ、なに?」  彼はその、小さなシールが並んだ紙をあたしに見せて言った。 「ああ、それはね……ページの右側に張るやつ。あいうえお順とか、一月、二月とか、張ってから書いとくの。そうすっとページがめくりやすいでしょ」 「ああ、シタダシレッテル」 「下が湿ってる?」 「それは矢田ちゃんでしょ」 「何よ急に」 「だからそのシールの名前だよ。たぶん、そんなふうな名前だったよ」 「シタ……?」 「舌、出してるからじゃないの、右側に」 「そうか、それだわ」 「は?」 「あたしにとってなあちゃんは、シタダシレッテルだわ」 「なに? 舐めて欲しいってこと?」 「ばか」  あたしは彼のほっぺたを軽くはたいた。 「男の人ってほんと、ぜんぜん女の話なんか聞いてやしないんだから」  あたしはそのシールの残りを一枚はいで、彼のからだに張った。 「でも、そこが好き」  また一枚。 「そういう男に、こっちを向いてもらうためにあたしはじたばたしてきたんだわ、そんで、向いてくれたらなんだかつまんなくなっちゃってたのかもしんない」  彼はどんどんシールを張っていくあたしをぼんやり見ていた。 「何してんの? またなんか新しい遊び?」 「そう」  彼の体にいっぱい付いた白い花びらは、またあたしの赤い花びらと重なる。もし、出来ることならいつまでもこうして重なり合っていたい。ただ自分の体に伝わってくるこの響きだけを目を閉じて感じていたいの。 「ああ……好き。あたしはこれが好き。もっと、もっとちょうだい。いっぱいちょうだい」 「矢田ちゃんの声、いいよ」 「ほんとう……嬉しい」 「矢田ちゃん色っぽいもんな。見てるだけでしたくなるよ」 「嬉しい」 「こんど店の中でしよ。隠れて。おれ、どこででもしたいよ」 「ああ、ああ、もっと言って」  あたしのあちこちから彼が入り込んでくる。あたしはからだを動かして、自分のそこから出てる恥ずかしい音を彼に聞かせてあげた。彼のからだから落ちた白い紙片はその動きにつれてベッドに散らばった。 「ああ。気持ちいい。いいの、すごくいいの」  あたしの心と体は今、一つになってる。なのに男はもうこんなことを言い出す。 「ねえ、セックスが好きなの? おれのことも好き? ねえ、好き?……」 [#改ページ]   バージン  また今日もあたしは起きあがれない。  ああ、お店に行くの、やだ。このまま、あの人のかわりにふとんを抱いて、ずーっとごろごろしてたい。  あの人と逢《あ》った翌日は、からだじゅうがあの人でいっぱい。いつもこんなよ、とっても重いんだもの。  きっと何かウイルスのようなものが、あたしの中に流れ込んできているんだわ。こうして彼が持ってるものに少しずつ感染してって、そのうちからだが変わってしまうのね。彼の言葉や、彼のしたことを反芻《はんすう》してると、今でもそれがからだの中をゆっくり広がっていくみたい。ゆうべ彼が軽く噛《か》んだ乳首や、舌を入れた耳なんか、とっくにやられちゃってるはず。  だるーい、起きたくない。シャワーを浴びるのもいや。彼を洗い流すくらいなら、このままウイルスに冒されてくずくずに腐っていきたい。  シャワーを浴びて帰らなくていいのか、と彼が聞いたことがあった。子どもがいないせいか、彼の奥さんったら嫉妬《しつと》深いんだってさ。 「浴びたら? あたしはいいや」  と答えたら、 「ほんとにいいの? からだじゅうにおれの唾液《だえき》がついてるよ」  と言われた。その言葉で、からだじゅうにざあっと鳥肌が立った。触られもしないのに細胞ぜんぶが興奮して、シャワーを浴びる気なんかすっかりなくしてしまったわ。あれが感染のはじまり? そうなのかもしれない。  最初に誘ったのはあたしだ。彼のからだを知りたかった。刃物みたいな声持ってるくせに、穏和なふりしてるんだもん。植物や土や川の話なんか出来ないような場面に放り込んでやりたかったの。  隣の部屋にはさっきまで一緒に飲んでたお店の子たちが寝てたけど、あたしはかまわず彼と重なり合った。中年男特有の戸惑いの表情。その分別をたたき壊すのがあたしは大好きなのよ。 「ねえ、原田さんと、したいの」  キスしたあとも彼は迷っていたので、あたしはズボンのボタンをさっさとはずしてやったわ。それからそこを手でさすりながら、シャツをまくり上げて彼の乳首にキスした。彼は今でもあたしが乳首を舐《な》めると不思議そうな顔をする、なぜだろう。  あたしの指のあいだでそれはもう嬉《うれ》しいくらいになっていた、触れる前からだ。彼は頭をあげて、下着の上からそこに軽くキスするあたしを、珍しい動物でも見るような顔で見ていた。そうか、あたしは珍しがられているのかもしれないな。でも、思ったとおり、息が荒くなってきてからの彼は凶暴な男の子だったわ。頭が壁に当たりそうなくらい突き上げられた。声が出ないように口を押さえつけて、よ。呼吸がうまく出来なくなって、あたしは殺されてるみたいだった。もちろんそれが良かったんだけどさ。頭がくらくらしたわ。 「人のことは言えないけど……今まで相当いろんな男とつきあってきたんだろうな。しょっちゅう誘われるだろ?」  って言われた。あたしは、 「まあホステスですからねえ。でも、原田さんだけ、よ」  と大嘘《おおうそ》をついた。  結婚してても、中年になってもそんなことが気になるものなのかな。あたしは彼の歳になった自分を少し想像してみたけど、うまくいかなかった。彼があたしのことを年下として扱わないからかもしれない。からだが歳を取っていっても、自分の中身がわがままな子どもなのを彼はとてもよく知ってる。臆病《おくびよう》な中年男の振りは最高にうまかったんだけどねー。  でも! 十日も電話をくれなかったりすると、やっぱり年寄りだ! と思う! だってあたしはすぐに我慢できなくなるもの。また逢えるじゃないか、なんて言われると、 「次なんていつだかわかんないもん!」  と泣き声を出したりする。子どもは待てないんだな、と思われてるかもしんない。でもあたし恥ずかしくなんかない。子どもだと思われてもかまわないわ。  電話でしたいって言ったのもあたしから。明日からしばらく逢えないって言われて、きっと我慢できないって思ったの。  彼が今までしたことがあるのかどうかわかんなかったけど、あたしは彼の耳元で、 「ねえ、電話してね。電話で、しようね」  って言ったの。そしたら彼が、 「きみはどこに住んでいたんだったっけ」  と言ったから、彼もしたいって思ってくれているのがすぐわかった。だって全然関係ない話を突然始めるのは、彼が照れているときの可愛《かわい》い癖なのよ。  やり始めるときも時間がかかった。電話のむこうで彼がすっかり酔って、甘ったるい気分になるまであたしは待ってた。 「したい?」  と言うと、 「うん」  と彼は答えた。そして、 「どうすればいいの?」  とあたしに聞いた。 「さわって……」 「どこを?」 「やん。自分の好きなように、して」 「きみは?」 「あたしも、さわってるよ」 「気持ちいい?」 「うん、気持ちいいよ」 「すごく大きくなってる」 「……そんなこと言ったら、欲しくなっちゃう……」 「入れたい」  耳がビクン、と反応する。下着の中に入れた指にあたしの性欲がからみついてくる。 「あたし、濡れてる……」 「舐めたい」 「あ!」 「ん?」 「いきそうになっちゃった……そんなこと言うんだもん」 「今下着の中に手を入れてるの?」 「うん」 「そうか……嫌がられるかもしれないけど、下着の上からしつこく触ってるのが好きなんだ……ずっと……」  あたしは目を閉じた。すごく、濡れてる。このままいっちゃうかもしんない。 「こんど、そうしてもいい?」 「うん。して。なんでもして」  それから彼は、もっともっとお行儀の悪い言葉をあたしの耳の中にたくさん入れてきた。あたしはいたずらされてる幼女みたいな気分になって、うめき声をあげた。右手の中指に取り憑《つ》いた彼は、あたしの敏感なところをいつまでもいじりまわした。 「入れて、今すぐちょうだい。お願い。あたし、いっちゃいそうなの」 「……したい」 「あッ、いく」  彼が、一番言ってはいけない言葉を発するのと同時にあたしはいってしまった。 「すごい声、してるよね……あたし耳からいっちゃったよ」 「そう?」 「原田さんはいかなかったの?」 「僕は酒が入ってるから……」 「あたしだけいかされちゃったのか」  なんだか恥ずかしかった。あたしだけがいっちゃったってケースはふだんほとんどないから、すっごく淫《みだ》らな女になったような気分だ。 「出るってのはわかるけど、いくってのは、僕は男だからよくわからない」  そんなことを言う彼がとても可愛かった。  なんとか起きあがれた。  シャワーのあとガーターベルトにストッキングを着ける。めんどくさいけど、あたしはこれでないとだめ。パンティストッキングって好きになれない。  原田さんが来ない日は時間の経つのがのろい。きのう逢《あ》ったばかりなのにもう逢いたい。 「瑠璃《るり》ちゃん元気ないじゃん」  同僚の葵《あおい》ちゃんが声を掛けてくる。 「だって原田さん来ないんだもん」 「きのう来てたじゃん」 「毎日でも逢いたいもん」 「恋してるわねえ」 「葵ちゃんはこういうのないの?」 「あたしはお客さんとは恋出来ない体質だからねー」 「彼氏学生だもんね」 「最近どんどん年下になってってるんだよねー」 「そのうち高校生とか中学生とかになっちゃったりして」 「けっこうそれもいいかなって」 「あたしも原田さんの前はほとんど年下だったけどな。あの人はねー、オヤジなんだけどなんか年下みたいなんだよね」 「なんで?」 「なんとなく。変わったことするとおろおろしてたりするし」 「あれのとき?」 「うん」 「それってオヤジだからじゃない? かえって、若い子って意地張って知ってる振りとかしない?」  そうだったっけ。年下かあ。もう忘れちゃったなあ。 「ねえ原田さんて、最初にしたのいくつ?」 「僕は、十七だなあ」 「あたしより遅いんだ」 「きみは?」 「あたし十五」 「さぞかし沢山の男としてきたんだろうなあ」 「また言ってる……」  あたしは原田さんの手を取って自分の腿《もも》の上に置いた。ほかのお客さんがこうするのは嫌いだけど、彼だけは別だ。でも彼は少し淋《さび》しそうな顔になった。 「今日はさ……来れるには来れたけど、も少ししたら帰んなきゃなんないんだ」 「そうなんだ……」  あたしは悲しくなった。逢えるだけでも嬉《うれ》しいけど、顔を見ると抱かれたくなる。このまま抱かれないで別れたら、あたしは今夜きっと、家庭の中にいる原田さんを想像してしまう。そんな自分もいや。 「ねえ。トイレ行かない?」 「え?」 「トイレで、しよ」 「えっ」  原田さんの視線が、店の中を急いで一周した。 「ここでなんて、そんな」 「いーの」  あたしは原田さんの手を取ってさっさと立ち上がった。トイレに一番近い席だったから、中に入ってドアを閉めるまでほんの一瞬だった。 「きみ。そんな」  言いかけた唇をふさいで、舌を入れてやった。からだを押しつけると、ちゃんと、もう、堅い。あたしはそれをズボンの上から握りしめた。 「元気じゃない」 「うん、でも、あ、だめだよ」  口ではそう言いながら、彼の手はあたしの腰から降りてきて、スカートの中に入ってくる。 「したい、くせに」 「したいけど、でも、ここじゃ」 「して。いいよ。すぐして」  原田さんの息が荒くなる。指はもう、下着の上からそこを触ってる。 「原田さんだと、あたしすぐ濡《ぬ》れるの」  あたしは洗面台に手を突いてお尻《しり》を突き出し、スカートをめくりあげた。 「……これは?」  原田さんはガーターベルトを見て不思議そうな顔をしている。 「ガーターベルトだよ……いつも着けてるじゃない」 「知らなかった……これはどうすれば……あ、このままでパンティが脱げるのか。いやらしいなあ」 「何感心してんの」 「いや。そうかいつもこんないやらしいものを着けていたのかきみは」  原田さんはあたしのお尻をなでまわした。あたしは原田さんのズボンのジッパーを下げて、あたたかいおもちゃを取り出した。彼はパンティに両手をかけて降ろそうとしている。 「いいよ、このままで」 「え?」  あたしは自分の下着のその部分だけ横に押しやって、彼のを中へ入れてしまった。パンティに触れたままの彼の両手に力が入る。興奮してる、彼。だって、いきなり奥まで。あたしは目を閉じたけど、彼は洗面台の鏡を見ているはず。激しく揺さぶられて、ヒールが不安定だ。思わず足に力が入る。 「うん……」  原田さんがうめく。足に力を入れると、あたしの中も狭くなるんだ。彼の動きが早くなった。あたしは冷たい洗面台に一生懸命つかまった。ふっと押し戻される感じがあって、彼のが出ていった。 「あ」 「ん?」 「パンティの上に出してしまった」 「ああ、いいよ、そんなの」  彼は洗面台の上のおしぼりであたしのお尻を拭《ふ》いてくれた。 「濡れてしまった」 「いいってば。大丈夫だから。それより、出よ」 「ああ、うん」  あたしはさっさとドアを開けた。だれにも見つからなかったと思う。彼はテーブルに戻ると、水割りを一気に空けた。 「のど渇いた? お水あげようか」 「いや、水割りでいい。ちょっと正気でいられない」 「こっち向いて」  あたしは彼の口元についている口紅を指でぬぐった。 「きみは落ちついているな。こういうこと、前もしたことあるの?」 「まさか。初めてだよ」 「それにしては……」 「水割り、濃くする?」 「うん、少し……」  原田さんは困ったような顔で水割りを飲んでる。この顔、好きだなとあたしは思った。 「気持ち悪くない?」 「何が?」 「濡れちゃったから……」 「ああ」 「気づかれないかな。ほかのお客さんに男くさい、とか言われないかな」 「もし言われたら、さっきトイレで精液を浴びたの、って言うから平気」 「おいおい……」 「なんでだろう。原田さんとは、人が見てるとこでもしたいくらい」 「しないでよ」  葵ちゃんがこっちを見ている。  原田さんを見送って店に戻ると、玄関に葵ちゃんが立っていた。 「瑠璃ちゃーん」 「なーに?」 「原田さんと。トイレでしたでしょ」 「ばれた?」 「いっしょに入るの、見てたもん」 「そっか」  見られたのが彼女で良かった。 「いいなー」  本気でうらやましがってるみたい。 「いいでしょ」 「良かった?」 「コーフンした」 「するよねえ。原田さんもコーフンしてた?」 「うん。すっごく」 「でも何もなかったような顔してたよね」 「ふふふ」  あたしたちは笑いながら店の中に入った。  それから何日か、原田さんは姿を見せなかった。会社に電話しようかどうしようか迷っているところへ、弱気が忍び寄ってきたらしい。あたしは熱を出して寝込んでしまった。声もうまく出ない。  電話だ。こんな状態なほど、嬉《うれ》しい。やっぱり原田さん。 「どうしたんだ、その声」 「きのうから出ないの。原田さんがあたしをひとりにするからよ」 「今日店に行けるから、同伴しようと思ってかけたんだが……」 「店は休む。ここに来てよ。風邪うつしてあげるから」 「なにか食べたいものは?」 「原田さん」 「風邪ひいてもそんななんだな」  しばらくして、果物を抱えて原田さんはやって来た。 「わーい。ほんものだあ、嬉しい」 「何か食べたの」 「ううん。食べたくない。原田さんなら食べる」  あたしは彼に抱きついた。 「ああ、熱い」 「熱いでしょ。治して」 「どうすればいい?」 「抱いて」 「そんなことして、大丈夫なのか」 「そんなことしに来てくれないから、病気になったのよ。して。きっと、あたしの中、あったかいよ」  原田さんはまじめな顔になった。それからキスしながらあたしのパジャマのボタンを一個だけはずし、右の乳首だけ出した。そこにゆっくり唇を持っていく彼の首すじを見て、あたしは濡れてきた。彼のやりかたを、あたしのからだはもうすっかり覚えてしまっている。そう、いつも、こうしてちょっと噛《か》んでから舌で転がすの。横になってからじゃなくて、立ったままでするのよ。 「ほんとに……大丈夫なのかな」 「大丈夫だもん。注射だもん」 「きみはほんとに……」  あたしは胸元にある原田さんの顔を見た。乳首に吸い付いてる男の顔って、なんでこんなに可愛《かわい》いんだろう。  それから原田さんはあたしを横にならせて下着の上から長いことその部分を触っていた。あたしはもどかしくてからだをよじった。 「ああん。お願い。もう入れて」 「あたたかいかな」 「あったかいよ……きっと」  やっと、はいってきた。 「ほんとだ、あたたかい」 「ああ……」 「あたたかくて、ぬるぬるする」 「いや……」  あたしは目を閉じた。彼はあたしの両足を思いきり開いて、あたしの中を大きくかきまわした。あたしはバターの入った容れ物みたい。お料理の前に、ようくかきまぜられているところ。 「ああ……こわれちゃう……」 「こわれない。百戦錬磨だ、瑠璃は」 「うそ……こんなふうに、したこと、ない」 「気持ちいい?」 「うん。気持ちいい。もっとして。いっぱいして」  自分でも声が大きくなってるのがわけるけど、どうしようもない。こないだは店のトイレだったから、声を出すのを我慢した。そのぶん、今日我慢できないのかもしれない。頭が熱でぼうっとしてる。しゃがれた声も、自分じゃないみたい。 「すごい声だね。大丈夫? つらくない?」 「ううん、うれしい……」 「瑠璃」 「なあに、道郎」  あたしは原田さんを名前で呼んだ。 「道郎。あっ」  彼はそれに反応するように突き上げてきた。もうあたしはわけがわからなくなって、何度も彼の名前を呼んだ。 「出すよ。外に出すよ」 「いや、なかに出して」 「だめだよ」 「いいの、お願い、頂戴」  でもやっぱり彼は外に出してしまった。 「もう。これじゃお注射になんないじゃん」 「いや。何があるかわからないから……」 「妊娠してやろうと思ったのにさ」 「冗談言わないでよ」  でも、あとで調べたらちょっと危ない日かも知れなかった。ああこわ。あたしはどうも、気持ちいいとこういうことがどうでも良くなってくるほうらしい。原田さんとしてたら、そのうちほんとに妊娠してしまうかもしれない。 「それもいいよなあ」 「なにが?」 「原田さんの子ども、可愛いだろうなって」 「…………」 「そんな顔しなくても大丈夫だよ。だって原田さん、用心深いじゃない」 「ああ……」 「抱いて」 「いや、今日は……そろそろ帰らなくちゃ……ちょっと疲れてるんだ」 「うそ。帰っちゃうの? 淋《さび》しい。逢《あ》いたかったのに」 「今日はほんと、ちょっとだめなんだ。ほら、元気ないだろ」  そういえば、触っても堅くならない。 「じゃあ、あたしに、させて」  あたしは原田さんの足の間にひざまずいた。 「ね」 「あ……うん……」 「横になって」  原田さんは診察台に乗るみたいにおそるおそるベッドに寝た。足のつけねからそうっとキスしていく。そこに届くころにはそれはいつものように堅くなって、あたしの唇を待ってる。うんと唇を濡らしてから、敏感なところに吸い付いてあげる。 「あ。うまい」 「何言ってんの」 「いや、うまいなと思って」 「変な人……」  あたしは子猫がミルクを飲むような音をたてて、彼を舐《な》めまわした。こうしてると、すごく興奮する。原田さんの出す声も好き。両手で頭をつかまれるのも好き。彼のならあたしは舐めているだけで濡れてくる。  彼があたしのを食べるときは、逆。思いきり脚を広げられて、しゃぶりつくようにされる。あたしはどうしようもなくなって、「やめてえ」と両手で顔を覆ってしまう。この人はあたしを恥ずかしい目にあわせるのが、こわいくらい上手。 「瑠璃は……経験豊富だから知ってるだろうけど……」 「え?」 「疲れてるときって、やたら勃《た》ったりとか、いろいろあるもんなんだ……僕の場合は……疲れてるときは早くなる……」 「そう。じゃあ、いくまでやってていいのね?」 「ん?」 「いつもだったら、大変だけど、早くなるんだったら、おしまいまで出来ると思う……」 「ああ……」  あたしは唇を丸めて彼のを口の中に入れた。それからまた口の中をようく濡らして、なんどか上下に動かした。ずっとこれだけでしてたいけど、動きが早くなってるときは歯が当たりそうになって危ない。だから、唇を当てるのは上のほうだけにして、首のあたりを指で握って動かしてあげる。 「あ、もう出そう」 「いいよ……して」 「あ、出る」  口の中にわき上がってきた。あたしはこぼれないように、ちょっと吸った。 「あ。ちょっと痛い」 「え?」 「歯が当たってる?」  そんな初心者みたいなこと、しないわ。どうしたんだろう。終わると敏感になるほうなのかしら。  あたしはなるべく早く彼から口も手も離して、そこをじっと見つめた。 「痛かったの?」 「うん、少し……」  しばらくするとそこからピンク色の液体が出てきた。その球体にあたしはそっと指を近づけた。指についたのは、精液の残りに血の混じったものだった。 「うそ! 血が出てる」  原田さんは黙っていたが、絶対驚いていたと思う。あたしがティッシュを渡すと、今度は混じりけのない真っ赤な血が一滴出てきた。 「あ、いや、病気じゃないと思う。大丈夫だから」 「病気じゃないって……」  原田さんは血をティッシュで拭《ふ》くと、 「ちょっとトイレ行ってみる。大丈夫だと思う」  と言って立ち上がった。 「きみのほうはいいの? 出さなくて」 「え? ああ、そんなのもう飲んじゃったよ」  あたしは手を伸ばして原田さんの血のついたティッシュを受け取った。少しだけれど、鮮血だ。 「大丈夫、ちょっと真ん中あたりがしみたけど、それだけだった。普通に用も足せたし」 「真ん中?」 「中のどっかがちょっと切れたんだろう」  そんなことってあるんだろうか? 「どうしたんだろう、あたし……そんなに何度も何度もしてるわけじゃないけど、普通と違うことはしなかったつもりなのに……」 「いや、おれのが弱いんだと思う」  弱い? あんたが? あたしはいつもの彼の激しいやりかたを思い出していた。  次に逢えるまでの一週間、あたしは好きな人を傷つけてしまったということが頭から離れなくて、よく眠れなかった。血を出した彼と彼のペニスが可哀想《かわいそう》でしょうがなかった。電話ではもうなんともないって言ってたけど、気をつかっているのかもしれない。 「ほんとにもう、大丈夫なの?」 「うん、ぜんぜん、なんともない」 「……疲れてたんだね……」 「まあたまに、ああいうこともあるやね」  キスしたら、なんだか初めてそうしたような気分になった。彼はいつものように、あたしの右の乳首だけ裸にして、そっと噛《か》んだ。 「あたし……生理始まりそうだから……したら始まっちゃうかも」 「ん?」 「ちょっと、見てくるね」  あたしはトイレに立って、ビデを使った。 「今は大丈夫そうだけど……」 「生理ってのは、僕は男だからよくわからない」  彼はあたしをベッドに押し倒して、すぐ入れてきた。まるで、したくてたまらなかったみたいに激しい。あたしをお腹の上に乗せて、下から何度も何度も突き上げた。 「そんな……いっぺんにしないで……こわいよ」 「いっぺんにしないでって、いっぺんも何も」  そう言って、ちっともやめてくれない。  あたしはまだ心配だったが、だんだん心配してる余裕もなくなってきて、思いきりあたしを揺さぶる彼を脚で強く挟んだ。  終わったら、彼のペニスが血だらけだった。 「あ、でもこれはこっちの問題じゃないな。瑠璃のだ」  シーツにもあちこち血がついていた。 「やっぱり始まっちゃったか……」 「そうか、瑠璃は処女だったのか」  あたしは自分の脚のつけねを見た。ロールシャッハテストみたいな形の赤い蝶が、そこを中心に羽を広げていた。あたしが黙っていたので、彼はひとりで、 「なんてことを言ってしまったんだ」  とつぶやいていた。それがおかしくて、あたしも、 「道郎ちゃんもきっと、処女だったんだね」  と言った。彼は、薄い唇でちょっと笑った。  あたしは彼の唇やまぶたに何度もキスしながら、血だらけになって抱き合うあたしたちっておかしいね、と言った。 [#改ページ]   スローロリス螺旋  どういったものをお捜しですか? ンなるほど。今何飼ってらっしゃるんですか。ンなるほど。ンなるほどモモンガですか。あれときどき飛びますよね。えカメレオンですか。これとこれ種類が違うんですね。むこうが二万三千円、こっちが三万三千円で……すねえ。え大きさには関係ないんですよ。種類が違うだけなんで、ええ。  これですか。これスローロリスの赤ちゃんなんですよ。二十万です。そうですね、その大きい方は十八万ですね。おもしろいですよこれ。ゆっくり動くんですよね。ええうちもこないだから入れ始めたんですけどね。動きがゆっくりなんですよね。ナマケモノの仲間ですからね。リスじゃないんですね。ロリスはロリスで他に仲間いるんですね。うちで入れましたのはスレンダーロリスとかね。そこ書いてあるでしょ。あその十六万のスローロリスはもう売れちゃったんですけどね。簡単ですよ。これはバナナあげてるんですけどね。この子はまだ赤ちゃんですから気をつけるのはヒーターだけですね。こういう小さいのはあるんですようちでも扱ってますけどね。それをカゴのここんとこへつけましてね。あったかくしといてあげると。猫ちゃんとかもそうでしょ。同じなんですね。まだこの子今日入ったばっかりだから寝てますけどね。さわってみますか。全然平気ですよ逃げませんからね。「ガシャン」逃げてもこうゆーっくりですからねすぐつかまえられますからね。ほら、この子はまだ来たばっかしだから噛《か》もうとしますけどね。大きい方はもう噛みませんねうちで慣らしましたからね。噛もうとしてもこうアーッとやるだけですからね。向かってきませんからね。向かってきてもゆっくりだからこわくありませんからね。ほらこういうふうに手のひらがあるんですねこれでしっかりつかまってるんですね。ん? そうですね爪《つめ》もありますね。人間の爪みたいですよね。かわいいでしょこれ。こういうのめずらしいですからね。飼ってても人に自慢できますからね。逆にリスザルなんかより動きがあれですからね。リスザルはもう速いですからね。これだったら一緒に遊べますからね。肩のへんにつかまらしたりしてねかわいいですよね。ゆっくりだから部屋に離してもすぐつかまりますからね。強いですよこれ。逆に犬や猫より強いですよこれ。バナナだけっていうんじゃないんですけどね。何でも食べますけどね今はバナナあげてますけどね。猿でもそうでしょバナナ好きなんですよね。あと便だけですね気をつけてあげるのはね。これ健康な便なんですけどね。コロコロしてね。これが何かペチャッとした感じになってきますとね。あっ調子悪いかなっということで。逆にうちアフターケアもちゃんとしてますからね。売ったら売りっぱなしということはしませんから。何でもご相談に乗るということでですね。まあ生き物ですからね。そこまで言ったら逆に生き物ですから絶対ってことはありませんからね。でも強いですよこれ。逆に犬や猫よりも強いですからね。何年生きるかですかへたすると犬や猫よりも生きますよ。ワンちゃんで十五年くらいでしょ。それより生きますよね。大きくなりますけどね。手足長いですからね。こう伸ばすと犬より少し大きいかなってくらいですね。この大きい方でもまだ子供ですからね。うちもこないだから入れ始めたんですけどね。  カメレオンですか。カメレオンにしますか。これコオロギ入れてますけどまだ食べませんね。ミルワームってあるでしょこれ。うちでも扱ってますけどね。これあげるだけでいいんですよ簡単ですけどね。これはもう慣らしてますから触われますよこれ。こっち触わってみますか。「バカ」頭んとこ平気ですよ堅いですからね、体このへんつかむと少しイヤみたいですね。でも堅いですけどね。つかんでも向かってきませんからね。口ガーッとやりますけどね。逃げていただければ間に合うって程度ですからね。 「ガシャガシャ」この子九官鳥まだ赤ちゃんなんですよ。大きいですけどね、ええ。  カメレオン触わってみますか。大丈夫ですよこれ。あとヒーターですね。水槽でもいいんですけどね下に砂しいてやってですね。こういうふうに木の枝入れたり葉っぱ入れてやったりしてですね。逆にこっちの方が飼うの大変ですけどね。水槽あるんだったらいいですけどね。あとミルワームあげてですね。ミルワームって知ってるでしょ。それあげてですね。  大きい方もかわいいでしょスローロリスね。こっちはもう慣れてますからね。昼間は寝てますけどね。慣れたら昼間でも結構動きますよ。ゆっくり動きますからね放してても全然平気ですからね。リスザルなんか速くてつかまんないけどこれはつかまりますからね。モモンガも速いでしょ。すぐどっかいっちゃいますからねリスとかね。これだったら一緒に遊べますしね。 「ガー」あ、どもども。なに? イトメ? イトメおねがいします。五十円? あ五百円。五百円ねー。この子? スローロリスの赤ちゃん、今日入ったの。触われるよ。二十万。かわいっしょ。はい。はいまたね。「ガー」  どですかこれこのまま飼えますけどね。よかったらこれカゴつけますけどね。このまま連れて帰れますけどね。今すぐっていうんじゃなくてもね売約済にしといてもかまいませんけどね。ここにバナナ入れてね、何でも食べますけどね。慣れてきたらドッグフードかじりますけどね。こっちの方はもう食べてますけどね。ここ入ってるでしょ。「ガシャン」ね。モモンガもいいですけどね。うちの店でも赤ちゃんうまれましたけどね。こんな小さいの形おんなじなんですけどね。うん増えますよモモンガはね。  かわいいでしょ。目大きいですよね。逆に犬よりもかわいいですよ表情がありますからね。鳴かないですね。ほとんど声はないすよ。あった方がいい? 調子悪いのはね、そうすね普段ゆっくりですからね。でもまあ便を見ていただければわかりますからね。  二階ですか? いっすよ。 「ガシャンガシャンガシャン」それはー、カニクイザルの赤ちゃんですね。まだ小さいですけどね、サルの方が良かったんですか。別にカニあげなきゃいけないわけじゃないんですけどね。それも面白いですよ。かわいいですよ。  うんまあ二階はね。一階もほらそこでシャンプーとトリミングとやってますしね。うちの場合アフターケアしっかりしてますしね。なんでもご相談に乗ってますからね。  この大きい方のケージもうちで組んだんですけどね。ハウスも入ってまして中で寝れるようにもなってるでしょ。よかったらこちらもおつけしますけどね。大きい方がよかったらね。スローロリスの場合今ハウスに入ってますけど、こう手のひらであちこちつかまるのがね。かわいいですけどね。何年っていうか、こっちの場合もうオトナになってから入れましたからね。こっちはまだ赤ちゃんですけどね。強いですよ。犬や猫より強いですからね。まあ生き物ですからね。生き物ですから何にしてもゼッタイってことはないですからね。それいったらワンちゃんだってわかんないわけですけどね。  こっち触わってみますか。おっきい方もううちで慣らしてますからね。バナナ食べますよ。あげてみましょうかね。ね。表情かわいいでしょう。ゆっくり食べてますよね。よかったら都合のいい日をうかがってですね。お届けしても構いませんけどね。触わってみますか。こっちはもう慣れてますからね。噛《か》もうとしてもゆっくりですからね。手をひっこめていただければ充分間に合いますからね。まあほとんど向かってきませんけどね。向かってきてもゆーっくりですからね。こわくないですけどね。  逆にこっちの赤ちゃんの方簡単ですけどね。かわいいですしね。今日入ったばかりなんですけどね。めずらしいですからね。次来たときもうなかったなんてこともありますからね。「ガシャガシャ」今これ健康な便なんですけどね。まリスザルなんか調子悪くなくてもやわらかいのとかするんですけどね。こういうふうにコロコロしてですね。  リスザルは速いでしょう。飼ってるんすか? けっこう弱いですしね。お友達が飼ってるんすか。けっこう死んじゃいますしね。それ言ったらスローロリスは強いですからね。手かからないですしね。部屋ん中放してもすぐつかまりますしね。こういうの飼ってる人いないですしね。飼ってるの自慢できますからね。めずらしいでしょ。上野。上野にはいますよね。上野のはけっこう大きいすよね。手足のばしますとね子供よりちょっと小さいくらいすかね。小さなお子さんとかとも遊べますしね。 「ガー」いらっしゃいませ。トリミングできてるー? はいどうもありがとうございます。これはねー、スローロリスっていうんだよー。かわいいでしょー。触われるんだよほら。枝なんかにね、この手でつかまってるんすよ。 「ウワンウワンウワン」手のひらになってるでしょ。はいー。またお待ちしてまっす。「ガー」  ま今みたいにワンちゃんと部屋でいっしょじゃちょっとむずかしいですけどね。犬もいるんですか。柴ですか。はあ。猫も。外出てるんならね。  まこれー、ケージのあちこちにこう手でつかまってますからね。場所とらないですしね。バナナでなくても食べますしね。これドッグフード食べてますしね。ナマケモノの仲間ですからね、ゆっくり動くんですよ。この子みたいに昼間はだいたい丸くなってますけどね。夜行性ですからね。ま、だから昼間でも、なんかかけて暗くしてやればけっこう動きますよ。動くってもゆっくりですけどね。  顔かわいいでしょ。表情ありますしね。いいでしょ表情。こんなの飼ってる人いませんよね。うちでも最近入れ始めたんですよ。ええ犬や猫より長く生きますよ。  まあ生き物ですからね。生き物にゼッタイってことはないわけで。その点うちではアフターサービスきちんとしてますからね。なんでもご相談に乗ってますからね。売りっ放しってことはないわけですからー、ええー。その点はまあー、ご安心いただくということで。まあこの子のほうは赤ちゃんですからね。温度だけですねー。よろしかったらここんとこにヒーターおつけしますけどね、そしたらそのまま飼えますしね。まここ、店の中ですとこういうふうですし、この子今日ついたばかりなんで丸くなってますけどね、お部屋ですともっと動きますよね。  まーうちもあちこちにチェーン店ありますしね。いろんなもん入れてるんですよ。あそこに書いてあるのは。あ、それはワニの名前ですねメガネカイマンですね。もう売れましたけどねそれはね。ええいらっしゃいますよ。けっこうね。  あ熱帯魚も飼ってんすか。アロワナ入ってますけどね。あ二ひきいるんすか。シルバーですか。ああ。ワシントンうるさいすからね。ベタなんかどうですか。きれいなの入ってますよ。ブランデーグラスで一匹飼いできますけどね。きれいですよ。え。水槽十本以上あるんすか。90センチが三本。アロワナはもうどれくらい。40センチですか。アロワナ強いすもんね。他にどんなのいるんすか。オキシドラス。ああ。ナマズ好きなんですか。アストロ。うちもアストロこないだきれいなの入ってましたけどね。アストロ強いですしね。逆にカメレオンなんかより手かからないですね。マタマタもいたんですか。それはどこでお買いになったんすか。ああ、熱帯魚専門のね。うちなんかはいろんなの扱ってますからね。マタマタね。大きくなりますよ。カメはねけっこうね。ミドリガメなんかもミドリ色だからミドリガメって呼んでますけどね。あれ大きくなりますよね。正式にはミシシッピアカミミガメいうんですよ。このくらいなりますけどね。  やっぱそいだけいろいろお飼いになってんでしたらもうね。こういうのいいですよ。スローロリスっていってもまだだれも知らないですからね。絶対めずらしいですよ。ねえまだ飼ってる人ほとんどいないですからね。この大きい方もまだコドモですしね。もっと慣れてきますよ。もちょっと大きくなりますね。まあ大きくなってもゆーっくり動きますからね。すぐつかまりますしね。部屋に放しても全然平気ですからね。ほら顔見せてますし。手のひらがね、人間の手みたいですよね。爪《つめ》も人間の爪と同じ形ですからね。ひっかくっていうことがないですからね。ただときどき噛もうとして口あけてくる程度ですしね。それにしたってゆーっくりですからね。まあ充分逃げていただけるわけでこわくありませんからね。  こっちかわいいでしょ赤ちゃんですしね。あちらはもうオトナになってから入ったんですけどこっちは今日来たばっかりですからね。二十万っつってもへたすると犬や猫より長く生きますからね。かわいいでしょほら。今日来たばっかしだからこうやってまだ噛もうとしますけどね。すぐ慣れますからね。大きい方もうちで慣らしましたからね。リスザルなんかだと速いでしょ。これはゆっくりですからね、お子さんでも一緒に遊べますしね。大丈夫ですよ触われますよ。背中はもう全然平気ですね。手を触われるのはちょっといやみたいですけどね。噛もうとしてますけどね。これもすぐ慣れますけどね。  猫ちゃんなんかもうそうですけど夜行性でしょ。おつとめから帰ってきて夜遊べるってかんじですよね。明るくても慣れれば時間で動きますからね。昼間人がいないときは寝ててね。ちょうどいいんですね。鳥なんかだとおつとめから帰って来るときはもう暗くしてすぐ寝させてやんなきゃなんないでしょ。え。鳥も好き。鳥もいいですよね。朝おつとめに行く前にチュンチュンいって元気でね。  ほんとスローロリスは強いですしね。逆に鳥なんかはなんかの拍子にこう、あれですからね。こっちは犬や猫よりも長く生きますからね。うちも最近入れ始めたんですけどね。え。飼育例ですか。ありますよ。うちのほうほらチェーンがあちこちありますしね。最近っつってもほら上野。そっちのデータも入ってきますからね。ああそうすね少しはちがいますけどね。個人のかたと動物園とかはね。まあでもそんな変わりませんよ。え。カメ。カメですか。はあ。三匹。はいはい。エサ。これですけど。このままでいっすか。千三百円です。はいどうも。ありがとうございました。あの、またぜひ。ええ。考えてみて下さいね。ね。スローロリス。 [#改ページ]   夜の足音  それはある初夏の夜のことだった。  風が心地よく、明るすぎないその庭で、上品なパーティーが行われていた。私は柔らかい素材の、少し透けるワンピースを身につけ一人でいた。二人の連れは少し離れて料理を楽しんでいる。人々はみな楽しそうだったが、私は少しだけ退屈していた。幸い今、私の周りには人目がない。退屈そうにしてるのはパーティーの主人に気の毒だから、庭の隅へ逃げてきたのだ。部屋の中でぼんやりしていて、話の合わない人に声を掛けられるのもいやだった。  静かなその庭で、私は考えた。この時間を無駄にしない方法はないかしら。今しかできないような、そして今こっそり行えばとてもどきどきするようなことはないかしら。  そして、しばらく考えたあと、私はあるものを食べることにした。どうしてそんなことを思ったのかわからないし、どんな方法でそれを手にしたのかも覚えていない。出ていた料理がおいしくなかったわけではない。気づいたときにはおそるおそるそれをかじってみようとしているところだった。私が両手でしっかりつかんでいるそれは、なんと私自身の右足だった。爪先《つまさき》から土踏まずまでの部分で、土踏まずのあたりはちぎったようにぎざぎざになっている。こういうふうな状態になるためには、相当な努力と痛みがあったはずなのだが、私にはなぜかその記憶がない。かといって誰かに手伝ってもらったとも思えない。しかしとにかく思い通りの状態にはなっているのだ。せっかくだから深く考えずにこの不思議な経験にのめりこむことにしよう。私はそのぎざぎざの足の端にそっと歯を立てたが、そこの形が悪いので、口のまわりが血で汚れそうだった。味はまだよくわからない。もっとたくさんの肉をほおばりたいが、顔が血だらけになるのは具合が悪い。どうしたものだろう。  考えていて、少し我に返った。私はいったい何をしているのか。どうしてまた自分の足を食べたりしているのか。こんなことをして後悔しないのか。痛くないのか。人に見られたら何と思われるだろう。みんな悲鳴をあげて、私を狂人だと思うに違いない。なんとかこれがそこらへんの料理に見えるように、さりげなく食べなくてはならない。右足の先がなくなっていることにも気づかれてはまずい。  そこで私はなるべく足がスカートのすそで隠れるようなポーズを取り、手に持っているその足も、切り口からでなく指のほうからかじってみようとした。こうすれば血は地面に落ちてくれ、顔を汚すことはないだろう。しかし、こんどは堅くて食べにくかった。私の足の指は短く、小指なんかできもののようだと人に言われる。爪のしめる部分が多すぎるのかもしれない。それでは指をきれいに切り落としてその切り口から食べたらどうだろう。この状態で指だけ落としたら、脚をはずしたあとのカニの腹に似ているような気がする。薄暗いし、よほど近くで見ない限り、足だとは気づかれないのではないだろうか。  そこで肉切りナイフがどこかのテーブルにないか探すことにした。もしかしたらチキンでも切り分けたのがそこらにあるかもしれない。爪先の無い右足は少し歩きにくかったが、このくらいなら足を食べるということへの好奇心と引き替えにがまんできると思った。これから先、右足の半分がないことで困ることってどんなことがあるかしら。今気づかないだけで何かあるのかもしれない。それは大変なことだろうか。将来気づいてもなんとかなるだろうか。そういえば昔私のことを行動が先に走ってしまう性格だと言うひとがいた。でもいつも私は後悔なんかしなかった。後悔したって、何ももとどおりになんてなるわけない。起こしてしまったら、それからどうするかだ。私はなるべくふつうに見えるようにくふうして歩いた。思ったほど痛みは感じなかった。もしかして知らないあいだに麻酔でも使ったのだろうか。ひょっとしてあとから痛くなってきたりするのだろうか。でもとにかく今は痛くない。血は止まってないけど、だらだら流れているわけでもない。ただ歩くたびにスタンプのように赤い跡が付いている。なるべくならこれを誰にも見つかりませんように。でも私は心のどこかで少しだけ期待していた、誰かが私を見て騒ぎだしたらどんなに愉快だろうと。自分から目立つようにするわけにはいかないが、他人が勝手に気が付いてしまうのはしかたがないのだから。  ほとんどの人たちには見つからなかった。でも一人だけ、どこかの小さな子どもが私の血の足跡をじっと見ていた。彼は騒ぎだしてくれるだろうか。あの人の足がないと、彼の母に言うだろうか。肉切りナイフはなかなか見つからない。  そんな奇妙な夢を見て目覚めた。私は自分の右足の指を動かして、そこにいつもどおりそれがあるのを確かめた。パーティーの様子は、少し前に出席した友人の結婚披露パーティーに似ていた。その日は雨で庭には出られなかったが、会場の造りもそっくりだったように思う。自分の体の一部を食べようとする夢を見たのは初めてだった。生理の前だからかもしれない。私は生理が近くなると情緒が少し不安定になる。  しかしその月、生理は来なかった。数日後、私は薬局で妊娠判定薬を買った。二本のうち一本を試してみたが、結果は陰性だった。私は使用説明書をもう一度読んでみた。試すのが少し早かったかも知れないと思った。  恋人の蕗男《ふきお》に久しぶりに逢《あ》えたとき、私はふと、 「妊娠してるかもしれない」  と言ってみた。蕗男は、 「そうかあ」  と言ってしばらく黙っていた。彼はあまり感情を顔に出さない。喜んでいるのか困っているのか、顔を見ただけではわからなかった。 「でもまだ、はっきりわからないの」  蕗男とはもう五年もつきあっていた。避妊もだんだんいいかげんになってきていた。特に先月は、生理が終わって二週間目くらいに何も考えずにしたような気もする。一週間後、判定薬はきれいに陽性になった。 「やっぱりできてたよ」  私は蕗男の子どもを一度堕ろしていた。つきあって二年目。私も蕗男もまだ仕事のことしか頭になかった。中絶しても蕗男との関係がだめにならなかったのは、そのときの私を彼がとても大事に扱ってくれたからだ。でも今私は二十八歳。こんないいかげんな避妊のせいで妊娠したのに、もう一度堕ろせと言われたらそれでもうこの人とは終わりかもしれない。 「じゃあ籍、入れようか」  突然結論はやってきた。私はほんのちょっととまどったが、やはり嬉《うれ》しかった。私も彼もこのきっかけが欲しかったのかもしれないと思った。仕事のことは気になったが、中絶をしてまで今の状態にしがみつかなくてもいいような気がした。 「妊娠してたからなのかな。こないだ変な夢、見たの」  私は彼に足を食べる夢のことを話した。 「へえ。どんな味だった」 「わかんない。ちゃんと食べる前に目が覚めたの。せっかく食べたのに。でも、何だったんだろう。あんな夢初めてよ」 「お腹の子どもが自分を食べて育っているってことだったんじゃない?」  蕗男はそう言ったが、でも、どうして足なんだろう。考えても私にはわからなかった。私はその後腰がだるくなり、今にも生理が始まりそうな感じがして落ちつかなかった。しかしそれもつわりの一種なのらしかった。普段より眠い日が続いた。吐き気はしなかったが、コーヒーや濃いお茶は飲む気がしなくなった。私はなるべく体にさわらないように穏やかに暮らした。重い物は持たないようにし、食べ物にも極力気を配った。蕗男が求めてきても、 「まだこわいし、こんどは絶対大事にして産みたいから」  と断っていた。  ある日、蕗男の弟が遊びに来た。牧男《まきお》というその少年と会うのは久しぶりだった。蕗男よりひと回りやせていて背が高いが、年齢より子どもっぽい感じがする子だと思っていた。ところが前よりずいぶん大人っぽくなっている。私はなんだか珍しくて、彼をじろじろ見つめた。 「なんだよ。何見てんだよ」  牧男もあいかわらず私には遠慮がなかった。 「学校、行ってる?」 「とっくに出たよ、そんなの」 「えー、じゃあ働いてんの?」 「バイト」 「牧男くんが就職するわけないもんねえ」  突然、蕗男が、 「この人、ねえさんになるから」  と言った。急に身内の匂《にお》いがぷんとするようで、私は少してれくさかった。彼は弟に、私が妊娠していることも話した。牧男はただ、黙っていた。  夕暮れがせまっていた。蕗男の運転するトラックに、牧男と私の三人で乗り、長距離を走っていたのだ。ゆっくり食事する時間まではないけど、お腹がすいたし、サービスエリアの売店が閉まってしまう前に何か買って食べようと思っていた。牧男がトイレに行っているのを車の中でぼんやり待っていると、いきなり私に近い左の窓から足が渡された。切り落としたばかりの、膝《ひざ》から下だ。大きな男の足らしい。ウェスタンブーツを履いている。靴でわかりにくいが、右足だと思う。誰が何のために渡したのかもわからないのに私も蕗男も大して驚かない。ただ他人に見つからないほうがいいことだけはなんとなく知っていた。同じ人物の左足は、左ななめ向こうの大型車に支給されたらしい。少し困った気持ちになっているのは彼らも同じだろう。どうしたらうまく隠せるかと思っていたら、いつのまにか、揚げ物の好きな牧男が買ってきたフライドチキンの中に唐揚げになってまじっている。ほかの部分はなんとか隠せたのだろうか、箱の中にあるのは足首から先だけだ。ころもがしっかりからみついてはいるが、絶対にチキンではありえない放射状の形の足の骨が肉を割ってのぞいているし、見られたらすぐにばれてしまう。食べてればなんとかチキンに見えるかもしれない、食べないわけにはいかないだろうと私は思いきって手に取った。かかとのあたりをちょっとかじって、蕗男にも渡した。牧男は人間の足だと気づいていないらしく、蕗男がそれを渡すと疑いもせずにかじっている。でもほとんどはまた私の手元に戻ってきた。牧男とは口をつけた食べ物を回すほどの仲ではないと思っていたので、私は少し困ったが、もしかしたら彼も足に気づいたのかもしれなかった。しかたがない、また私が持っていよう。そのうち見つかってはまずい状態をなんとかやりすごせるかもしれない。三人の中で私がいちばん好き嫌いがないほうだし、責任持って食べよう。私は骨を少しずつこわしながら、ゆっくり食べた。しばらくして蕗男が、 「もう大丈夫だよ。食べなくても」と言った。見張りがいなくなったのらしい。 「気持ち悪いから、こっちを食べなよ」  彼はその言葉にねぎらいの意味を込めてくれていた。そしてチキンの胸の肉のかたまりを指さした。私はそれを指で縦に裂いて食べた。薄い味だと思った。 「こっちのほうが味が濃くておいしいよ」  誰の足だかわからないのが少しいやだったが、私は足のほうがおいしいと感じたのだ。  目が覚めたあと、さすがに気持ち悪くなった。足を食べる夢を二度も見るなんて。妊娠しているからだろうか? あれから一カ月半が過ぎていた。判定薬だけで、まだ産婦人科には行っていない。最近は体が妊娠に慣れたのか、つわりもなくなっていた。お腹も少しだけ出てきたような気がする。  なんとなく病院に行ったほうがいいなと思った。どうせいつかは行かなきゃならないんだから……。 「最終月経はいつだったんでしたっけ?」  超音波のモニターを何度ものぞき込みながら女医は不審そうだった。 「山崎さん。山崎さんは生理は不順なほうですか?」 「いえ、わりと決まって来ますけど」 「周期は何日ですか?」 「二十八日くらい……」  しつこく質問が続いた。私は不安になっていった。 「あの、妊娠してないんでしょうか」 「いや、妊娠はしてるんですけどね。赤ちゃんが小さいんです」 「小さいって……?」 「うまく育ってないかもしれないということです。今聞いた最終月経によると、もっと大きいはずなんです。受精の日がずれているだけかもしれないんですが」  診察台から降りて机に戻ると、女医は超音波写真を何枚か見せた。 「この大きさで今の週数だと、かなり小さいんです。本当ならこれよりふた回り大きくて、心臓の動きもはっきりわかるはずなんですよ」 「心臓の動きが見えないんですか」  私は以前中絶したとき、妊娠したばっかりの小さな胎児でも超音波画像で心臓の動きがはっきり見えていたのを思い出した。恐ろしかったが、こう聞かずにはいられなかった。 「それは、もう死んでいるかもしれないってことですか」 「まだわかりませんけどね。だから、生理が不順かどうか聞いたんです。思っている日よりあとで受精しているかもしれませんから」  そんなはずはなかった。でも、そうであって欲しかった。しかし、判定薬はきっかり普段通りに排卵があってそのまま妊娠していると言っている。判定薬がまちがった結果を出していたのだろうか? 「もし死んでいたら、どうすればいいんでしょうか」 「ふつうはそうなると流産になるんですけどね。もしこのままだと手術で出して、お腹をきれいに掃除しなくてはなりません。次の妊娠に影響してきますから。でもすぐは判断できませんから、来週またいらして下さい。一週間で育って来ているのが見えたら、ただ小さいだけかもしれません。でもその前でもお腹が痛くなったり出血があったらすぐ来たほうがいいですよ」  蕗男になんて言おう。でも、話さなければならない。会計のカウンターで料金を払いながら、この人混みの中に一人でいることがつらかった。病院の電話の前でもし泣いたら恥ずかしいと思ったが、こんな気持ちをとても会社まで持っていけなかった。蕗男は電話の向こうで驚いていたが、優しかった。私は自分の会社に欠勤の電話をしてから蕗男の部屋へ行き、彼が帰ってくるまで泥のように眠った。 「希望は捨てないでいよう」  帰ってきた蕗男は、私を抱きしめながら言った。 「来週にならないとわからないんだろ? 育ってるかもしれないんだろ」 「あたしも信じらんない。こんなにあたし、元気なのに」  でも、そういうものなのかもしれなかった。胎児は私の子どもだけど、やはり私とは別の生き物なのだ。 「でも、もし駄目でも、手術はもういや」  私は誰にともなくつぶやいた。麻酔の注射を打たれながら数を数える口が、だんだんおぼつかなくなっていく情けなさ。何もわからないうちに何もかもが済み、自分の体が大きな荷物になって手術台から抱えられていくみっともなさ。私はちょうどそこで麻酔から覚めてしまったのだ。聞いたところによると、気がついたら寝かされていた、というのが普通なのらしい。考えてみたらその状態で下着の面倒までみてもらっているのだ。自然流産なら、そんなことまでされることはないに違いない。 「もし死んでるのなら、自然に出て欲しい。あの全身麻酔はもういや」 「まだ駄目だと決まったわけじゃないよ」 「うん。うん。何かのまちがいだよね、今度は産むんだもん。きっと、来週病院に行ったらちゃんと胎児は育ってて、心臓もしっかり動いてて、なーんだと言って二人で笑うのよ。絶対そうよ」  しかし翌週を待たずに私は流産してしまったのだ。  その日の夕食後、腰がだるく感じて横になっていると、突然胎内からあたたかいものが吹き出した。あわてて飛び起きトイレへ行くと、当てていたナプキンは血ではなく無色透明ななまあたたかい水でいっぱいになっていた。不思議に思っていると、そのあとを追ってきれいな血がぽたぽたと出てきた。みるみるうちに貯まっている水は真っ赤になった。すぐに血はどくどくとかたまって出てくるようになり、私はそれをただ呆然《ぼうぜん》と見ていた。生理痛ほどの痛みしかなかったが、両手で包み込んでいた真っ赤なゼリーのかたまりが、突然離した手の間からこぼれ落ちるようなその状態に、気が遠くなりそうだった。恐ろしいことになってしまった。蕗男と病院に電話をしたいが、どうしたらいいのだろう。ナプキンを当てたくらいでトイレから出たら、床がひどいことになってしまう。でもそんなことを言ってる場合じゃないのかもしれない。私は泣きそうになった。電話の子機を持って来るべきだった。しかたなく、そばに下がっていた手拭《てふ》き用のタオルを二つに折って、足の間に挟み、電話のあるところまで中腰でたどり着いた。子機を握っても、今度はバッグから診察券を出さなければならない。ああ、私の左右の扉を押し開いてかたまりが一個、二個流れ出てくる。思わず流し台に下げていたタオルもひったくってそこに加えた。蕗男には悪いが、病院より先に彼に電話する気にはなれなかった。 「入院の準備をしていらっしゃってください」  と看護婦は言った。こんな状態で? それほどに女は気丈でなくてはならないのか。蕗男はいなかった。留守番電話に向かって、とにかく今の状況を話したつもりだが、うまくいったかどうか自信はなかった。それより私は、いったいこの足の間に何を当てて病院へ行けばいいのだ。誰か友だちに助けを求めたかったが、こんな状態ですがれるのは蕗男くらいしかいなかった。蕗男はどこにいるんだろう。病院に来てくれるだろうか。そうだ、病院の場所と電話番号を吹き込むのを忘れたかもしれない。もう一度電話したら、彼が出た! 「いたの!?」 「帰ってきてトイレ行って、トイレの中から鳴ってたの聞こえてたの。今出て留守電聞いてびっくりしてた。おれが車で病院連れてくよ」 「ほんと! じゃあ、あの……大人用の紙おむつを……買って来てくれない?」 「そんなすごいことになってんの!?……わかった、買ってくよ。がんばれよ! 気をしっかり持って!」  病院に着くと、看護婦はそれが決まりですとでも言うように、 「これにお小水を取って下さい」  と紙コップを差し出した。血しか取れっこない! 私は途方に暮れたが、反論する元気もなくコップを持ってトイレに入った。コップは真っ赤になった。紙おむつはすでに血のかたまりでどろどろだった。トイレの中には検尿コップを置くかごがあったが、これはもう尿とは言えない気がした。私は死人のような顔でコップを持って廊下に出た。 「あら、持って来ちゃったの? 置くところが……」  と言いかけた看護婦も、コップをのぞき込んで一瞬黙った。 「じゃあ診察しましょうね」  そして私の背中に手をそえて、診察室まで連れて行った。私はまだ何も言えなかった。蕗男のほうを振り向いて声を掛けたかったが、その余裕もなかった。  診察台に上がってもまだ血のかたまりは止まらなかった。宿直医は私の中に綿の丸い球を入れて、血を吸わせてから診察し、 「残念ですけど流産ですね。子宮口が開いているので、今処置してしまいましょう。そしたら明日の朝には帰れますから、そのほうがいいでしょう」  と言った。どうやら流産でも、お腹の中の掃除はするものなのらしい。 「筋肉注射だけ打ちますからね。軽い麻酔です。のどが渇いてきて、少しぼうっとします」  私は望み通り、全身麻酔でなく、何をされているかよくわかるやりかたで手術を受けた。アイスクリームショップのスプーンがアイスクリームをかき取るのと同じ動きで、お腹の中で何かが何度も何度も動いた。ワイパーのように行き来する鈍い痛みに私は長いことうめいた。  すべてが終わると深夜になっていた。私はまだ麻酔で頭がぼんやりしていた。 「大丈夫?」  蕗男の声が嬉《うれ》しかった。 「うん。ごめんね」  と言ったとたんに、感傷でのどがぎゅっと狭くなった。 「運が悪かったんだって、看護婦さんが言ってたよ」  蕗男らしいなぐさめ方だった。 「あたしも言われた……弱い細胞だったからだって。誰の責任でもないんだって」 「またつくろう。式あげてから」 「うん」  涙がこぼれた。私は蕗男がこんなに優しい男だったのを今まで知らなかった。 「ねえ」 「ん?」 「足を食べた夢の話、したっけ」 「いや……」 「足を食べたの、二度も」 「眠ったほうがいいよ」  そうかもしれなかった。話さないまま寝るのは恐い気がしたが、夢は見なかった。私は順調に回復した。  しかし、タオルを体から離したときに、一握りもある真っ赤な煮こごりが転がっていたときの恐ろしさはなかなか忘れられなかった。ゼリーを頭に浮かべていたのだが、はるかに堅いかたまりだったのだ。タオルを揺すっても、形は壊れなかった。トイレに流してしまったが、あの中に悲しい目をした曲玉《まがたま》が隠れていたのではないだろうか。  蕗男と私はささやかな式をすませた。住まいも一つになり、いつも一緒にいられた。 「もうあんな恐ろしい目に遭わなくてもいいのね」  布団の中で私はつぶやいた。 「よっぽど恐かったんだね」  蕗男は私を抱き寄せた。嬉しいはずなのに、体は堅くなった。 「まだ、だめか……」 「ごめんなさい。大丈夫なのは頭ではわかってるのに」 「しょうがないよ。もう、寝よう」  蕗男はけっして私を責めたりせかしたりしないのに、受け入れられない自分がもどかしかった。  目が覚めたら、体が重かった。薄暗い中に、何か白いものが浮かんでいる。はっきりは見えなかったが、私にはすぐわかった。足だ。足だけが闇《やみ》の中にいる。蕗男! なんということだ、彼はいない。いや、いた。部屋の隅に座っているのが見える。どうしてあんなところに? 顔に視線を集中させた。違う。蕗男じゃない。それは牧男だった。どうして? ここにいるはずないのに……。私はあわてて起きあがろうとしたが、体は鉛のように重く、びくともしなかった。足はそのあいだに私のそばから離れて、牧男のほうに歩み寄ろうとしている。古くもないのに一歩一歩、畳がぎっぎっと音をたてる。牧男、危ない! 私は心の中で叫んだ。しかし、なぜか牧男は足のほうをおだやかな顔で見ている。足のほうも彼の周りを親しげに、なつかしい話でもしている人のように歩き回っている。そのとき私は、牧男の顔が妙に若いのに気づいた。これは、現在でなく、もっと昔の彼なのだ。 「どうかしたの?」  蕗男の声で目覚めた。自分の唇が何か発音していた覚えがあり、それが蕗男に聞かれたかもしれないと思った。なぜか私は顔から血の気が引くのを感じた。 「牧男って言ってたよ、今」  やはり聞かれていた。私は、自分でもわからないくらいあわてた。必死でそのことが不自然ではなかったことを蕗男に説明しようとしていた。 「夢に出てきたの。牧男くんがそこに座ってたの! そいで、そこに足が近づいてったのよ!」  声が震えた。 「また足なのか……」  蕗男は悲しい顔になった。私ははっとした。それで私はどういうわけか忘れていたそのことを今やっと思い出したのだ。 「ごめんなさい、あたし……」 「どうしたの。夢のこと謝ってもしょうがないでしょ」 「だって蕗男の足が」  不自由なことを忘れていたのよ、という言葉が続かなかった。彼の弟の牧男は、健康な長い足を持っていることも続けて思い出したからだ。私は自分の中の暗黒を感じながら、結婚式のときの牧男の初々しいスーツ姿を思い出していた。牧男と初めて関係を持ったのは、それよりずいぶん前のことだった。靴下を脱がせて、足の指まで舐《な》め回した。彼は赤ん坊みたいな声をあげて笑い転げた。そうなのだ。私は貞淑な妻でも、可哀そうな妊婦でもなかった。私の妊娠に興奮した牧男は、何度そこを突っつくために私の部屋に来たことだろう。その最中に、 「これってオレの子かもしんねえんだよな。なあそうだろう」と何度言われただろう。体の芯がうずくようなそんなことを思い出しながら、なぜか私は涙をぽろぽろとこぼした。 「泣くなよ。もう何も考えないで眠ろうよ」  蕗男はそんな私を優しく抱きしめた。  二年後、牧男は電車のドアに足をはさまれ、引きずられて頭を打って死んだ。通夜の日、私は化粧でなんとかしようとしてもひび割れてゆがんだ彼の死に顔を長いこと見ていた。そしてトイレの中でその顔を思い出して自慰をした。喪服のままパンティに手を突っ込んでいる私を、牧男にも見せてやりたかった。彼はきっと興奮してトイレの中で私を犯してくれるはずだった。甘い憎しみの記憶とともに絶頂感が訪れ、私は声を殺して泣いた。  二人の部屋に帰って来ても、私は自分の喪服に塩を振る気になれなかった。蕗男は喪服についた塩を払い落とすと、不自由な右足を引きずりながら部屋に入って行こうとした。私はその姿を見て突然欲情し、後ろから彼に抱きついた。 「今、して。喪服のままでして」  蕗男は驚いていた。 「どうしたの。疲れてるんじゃないの」 「そんな優しいこと、もう言わないで。あたしたちはもっと憎み合わなくちゃいけない。そうしないと子どもが残せないのよ」 「何を言ってるんだかわからないよ」 「いいの。わからなくても」  私は彼の喪服のズボンのベルトをはずし、堅くなっているそれをつかみ出してべろべろと舐め回した。蕗男はうめき声をあげ、まもなく私にのしかかって来た。彼に牧男が宿るまでさほど時間はかからなかった。私たちはこの世の終わりが来るかのように何度も抱き合った。翌日も、いっぱいした。生活に必要な時間以外は、ただ抱き合っていた。そのまま何日そうしていただろう。次の生理がいつ来るはずだったのかすでにわからなくなっていた。もちろん私は妊娠していた。  妊娠してますます私は蕗男を求めるようになっていた。ある時はあのタオルの上の血の煮こごりの夢にうなされて飛び起き、寝ている彼のそれを思いきり舐め回した。そして下着を脱いで彼の顔にまたがった。彼はもがきながら堅くなった。私はそれを自分の中に突き立て、自分の体の中をかき回した。 「恐いよ。ねえ、そんなことして大丈夫なの?」  そう言いながら蕗男は私の要求に必ず応え、決して萎《な》えるときはなかった。  こんな生活でも今度は流産することはなく、妊娠は無事安定期に入ったが、それでも私はまだ蕗男をかき回し棒としてこき使っていた。私はまるで蕗男の体の中の精液を全部出させてやる気でいるみたいだった。そしてそれでも飽きたらず、彼のいない時は自分で自分を慰めた。私の中の暗黒は、蕗男と、その子どもと、牧男の亡霊の三人がかりでも埋められないのだ。きっと一生私はこの渇きの中でもがいていなければならないのだ。  気がつくと、いつかの夏の夜の庭だった。あいかわらず部屋ではパーティーが行われていた。私は小さい子どもの手を引いて、ゆっくり庭を歩いていた。やっと歩き始めたその子は、暗い茂みを見つめていた。ざわざわという音に混じって、聞き覚えのある声がした。 「子どもに会いにきたんだ」  茂みの揺れる大きさが、彼の身長を感じさせた。 「あたしにはあんたが見えないわ」  と私は言った。 「そうか。見えないのか」  声は残念そうに言った。 「これでも見えない? これでも?」  そいつはざわざわと動き回った。子どもは私の手を強く握りしめた。 「見えないわ」  私もほんとは少し残念だった。 「でも見えなくてもいいの。あたしはもう、あんたを恨まなくても生きて行けるようになったのよ」  私がそう言ったとたん、子どもが突然私の手を振り払って声のほうに歩き出した。私はまた子どもを失うのではないかと戦慄《せんりつ》した。しかし子どもはすぐに立ち止まり、戻って来て私の足にしがみついた。 「ちぇっ、こっちに来んのかと思ったのに」 「だって、あたしの子だもん」  私は満足だった。 「いいよ、じゃあオレもう行くよ。顔は見たし」 「もう行くの?」 「なんだよ。淋《さび》しいの?」 「そんなことないけど」 「正直に言えよ。淋しいくせに」 「あんたはちっともかわんないのね。死んじゃったくせに」  そいつはなつかしい声で笑った。 「笑ってんの。生意気ね。死んでるくせに」  そう言いながら、私も笑ったつもりだった。なのに涙がこぼれた。子どもが不思議そうに見上げていた。 「泣いてやんの」  彼も少し涙声だった。私も彼も、ここで別れたらもう二度と逢《あ》えないことがわかっていたのだ。 「もう来れないんでしょ。なんでもいいから話をしてよ」 「別にないよ。死んだんだもん、オレ」 「今のことを言えばいいでしょう。子どもの顔見た感想とか」 「かわいいよ」 「もう。他にないの!」 「どうしろってんだよ」 「だって、だってもう……」  遠くから蕗男の呼ぶ声が聞こえる。もう行かなくちゃならない。 「行くんだろ」 「行くわよ」 「もうやってやれないから、またオレの死に顔おかずにでもして一人でやってろよ」 「何よ、ばか。あんたみたいな男は、幽霊になっちゃってるくらいがちょうどいいわ」  最後の憎まれ口に小さく笑う声が聞こえた。それが最後だった。  眠りながら泣いている私の顔を、蕗男が昔の優しい目でのぞき込んでいた。私は目を開け涙をぬぐいながら起きあがった。 「心配した? ごめんね」 「また、恐い夢? 足が出たの?」 「ううん。夢の中でお腹の子どもに会えたの。感激して泣いちゃっただけ」  蕗男はしばらく黙っていたが、ちょっと笑って、 「そうか。どんな子だった?」  と聞いた。 「なんかあまえんぼで、あたしの足にしがみついてた。かわいかったよ、すごく」 「そうか。おれも見たかったなあ」  蕗男はそう言って私のお腹をさすった。中で子どもが応えるかのように私を蹴《け》った。私はもうそれきり、足の夢も血のかたまりの夢も見なかった。 [#改ページ]   キオミ  決定的となったその電話のあとしばらく、あたしはただぼんやりと座り込んでいた。今さら泣こうとしてもきっかけがつかめない。だいいち晋《しん》がいない。晋の前で泣かなきゃ何にもなんない。なのに晋は、出張だと嘘《うそ》を言ってどこかへ行ってしまった。堕ろすことを考えるのさえ恐ろしい妊娠四カ月の体をかかえて、あたしは「オレ子ども大好きなんだよね。子ども欲しいから結婚すんだかんね。そのへんちゃんと考えててくんないと困るよオレ」という晋の言葉を思い出していた。もうお腹の中で五センチくらいになってて指もまぶたも出来ているのよ、ってちゃんとどっかの雑誌に出てた胎児の写真も見せてたのに! 超音波写真だっていつも見せて、ここが心臓よ、可愛いねってあんなに……なのにどうして!?  そういえば入籍したてのときにも似たようなことがあった。式と披露宴まではあんなにはしゃいでて、みんなのまえで「キオミをしあわせにする!」って言ってキスまでしたのに、旅行から帰って区役所に行って入籍したら、その帰り道急に無口になった晋。なぐさめてもなぐさめてもだめだった。最後には小さい声で、 「オレこれから一生おまえのことやしなっていかなきゃなんないんだよなあ」  って言った。そしてそれきり会社に行かなくなってしまった。あたしはすごくいやな気分で毎日を送ったわ。会社の人たちは何も知らずに「新婚旅行疲れですかあ? がんばったんだなあ」なんて言ってたけど、こっちは目の前真っ暗だった。前の会社にバイトでまた入れてくれと頼んだのも、生活の不安よりも晋の沈んだ顔を見て一日が過ぎていくのが耐えられなかったから。せめてもの罪ほろぼしと思ったのか晋は毎日あたしを迎えに来てくれたけど、ただ黙って歩いて、そして黙ったまま夕飯を食べて帰った。まてよ、今考えるとあたしの代わりにご飯を作ったりするのはプライドが許さなかったのかも。そのたび外で食事をしていたから、そんな状況なのに経済的にはすごくぜいたくをしていたことになるのよね。でもあたしは恐くて晋にそんなこと言い出せなかった。言ったらおしまいな気がした。あまり話はしなかったけど、なぜかよくセックスしていた。でもある日、バックでしていた彼が膣外射精のためにペニスを抜いた瞬間、あたしの腰の動きがついていって、もういちど彼のペニスを飲み込んでしまった。そしてあたしは妊娠した。 「おまえがあんなに腰を振るからだよ……なんとかなんないの?」  彼のせりふを聞いて、あたしはついに泣き出した。すでに始まっていたつわりがシンクロして、泣きながらげえげえトイレで吐いた。晋は黙っていた。トイレから出てきてうがいをしようとしたら、今度は洗面所で吐き気がして「ウエッ」と大きな声が出てしまった。 「やめろよ、こっちまで気持ち悪くなるじゃん」  その晋の一言で、とうとう頭に来た。顔を上げると、目も頬《ほお》も真っ赤に充血しているのが鏡に映って見えた。あたしは黙って奥の部屋へ行き、バッグに着替えを詰め込んだ。 「……何やってんだよ」  晋が不服そうに声を掛けた。 「あたし、家に帰る」 「なんで」 「家で相談してくる」 「やだよ。行くなよ」 「いま、なんとかしろって言ったじゃん!」  あたしは思わず大きな声を出した。 「やめろよ、キオミ」  晋はあたしの腕を思いきりつかんだ。 「痛いな。放してよ!」 「やめろって言ってるだろ」  もみあううちに、晋の右手があたしの乳房をつかんでるのに気づいた。 「ちょっと、何してんの」  晋はあたしの乳首をやっつけようとしている。無理矢理シャツがまくりあげられ、ブラジャーがはずされ、左の乳首に当てた舌を思いきり激しく動かされた。晋の右手の指はもうパンティの中でうごめいている。あたしは観念した。濡《ぬ》れているのは、妊娠して分泌が多くなっているせいだ。でもきっと晋はあたしがすぐさま欲情したと思ったのだろう。いかにも、これが欲しかっただけのくせに、というような余裕の身ぶりで、あたしにしゃぶらせた。のどの奥まで突っ込まれても、不思議と吐き気はしなかった。晋の好きなバックで最後を決めるとき、晋は「いいんだよな、もうなかでしても」と言った。  それからしばらく晋は落ちついていた。何かを取り戻したような表情になって、会社へも通いだした。それと引き替えにあたしはつわりで動けなくなり、こっちが頼んで入れてもらったというのに、バイトも辞めることになってしまった。 「もうこれで、あの会社へは戻れないな……」  涙ぐむあたしを晋は、 「いいじゃんか、キオミはこれからおかあさんになるんだから」  と励ましてくれた。 「名前考えようぜ。なんか、かっこいいのにしよう」 「あたし、まだそんな気になれない」  それよりあたしは、晋に抱いて欲しかった。まだはっきりと頭で考えられない不安が性欲に変わっていくのが自分でも不思議だったが、何も言ってくれなくていいからして! と叫びたいくらいだった。それとなく誘ったけど、 「だめだよ妊娠してんだから。妊娠したてのときがいちばん危ないんだろ」  と言って抱いてくれなかった。 「いいの、したいの。体がそう言ってんだからさ」  と言っても、 「だめだよオレが恐いもん。三原家の初孫流産されたりしちゃ困るし」  と言うのだった。じゃあ、あのあたしが出ていくって言った日のあれはなに? とあたしは言いたかった。深く入ると言われているバックであんなに突いたくせに。 「だって、こないだ……」  あたしは言いよどんだ。 「しょうがねえなあ。フェラチオだけならさせてやるよ」 「…………」  冗談でなく言ってるらしいその態度にあたしはしばらくあきれたが、結局負けてしまい、しかたなく晋のパジャマのズボンを下ろした。歯が当たらないように唇を丸め、一心に顔を上下する自分がむなしかった。晋は気持ちよさそうな演技をする気遣いもなく、排泄《はいせつ》するかのように黙ってあたしの口の中に射精した。あたしは生臭さに涙ぐんだ。つわりで苦しんでいるのを知ってて、なんで外に出してくんないの、とむっとしたが、晋の機嫌を損ねないよう一気に飲み込んだ。飲み込んだあとも吐き気がこみあげてきて、あたしは思わず口を手で押さえた。すると晋が手を伸ばしてティッシュの箱を引き寄せ、二、三枚抜き出したので、あたしはてっきり労をねぎらって口元を拭《ふ》いてくれるものと思い、「ありがと」と言ってしまった。ところが彼は自分のペニスだけをさっとぬぐい、そのあと箱をあたしに渡すそぶりすらなかった。あたしは心からしらけた。なのに晋は余裕の笑みを浮かべ「気が済んだ?」と言った。それはこっちが言いたいせりふだった。  そのあと晋はすぐに眠った。あたしはフェラチオで興奮して濡《ぬ》れた自分を一人で慰めたが、すっきりしなかった。あの日みたいに、頭がぼうっとして何もかも忘れるくらい突きまくられたかった。 「オレも父親になるんだよな。父親らしくもっと胸板厚くしようかな」  そんなことを言って、晋はエキスパンダーを買って来たりした。 「なんでこれが父親らしくすることになんの?」  と聞くと、 「これから子ども抱き上げたり、子どもに体当たりされたりすんのに、薄い体じゃさまんならないじゃん」  と答えた。 「そんなもんなのかなあ」  なんか腑《ふ》に落ちなかったが、とにかく晋が張り切っていることは確かだった。ほかにも、 「あっこの俳優、すげえ若くて子どもつくってんだよな。そんでそのままアメリカ行っちゃって、ずっとほったらかしだったんだよな。オレよりも七つも若くてオヤジになってんのかあ」  などと、いろんな俳優やタレントがいくつで父親になったかをことあるごとに気にしたりしていた。  晋には昔からこういうところがあった。ちょっと髪を切りに行くだけなのに、雑誌を開いては「こんどこの頭にしようかと思うんだけどさあ」とどこかの俳優を指さしてあたしに相談した。オレ異常に頭伸びんの早いからと二週間に一度必ず美容院に行くくせに、そのたびに何か変化を加えたいのらしかった。最初は真面目に聞いていたあたしも、途中からうっとうしくなってある日とうとう「どうでもいいんじゃないの」と言ってしまった。そのときの晋の顔を今でも覚えている。あわてて「だって晋、かっこいいから何でも似合うもん」とつけ加えたが遅かった。「オレさあ、今の美容師に出会うまですんげえ苦労重ねて来たんだよね、悪いけど」と、何度も聞いた話がそのいちばん長いヴァージョンで始まってしまった。そして晋の髪はちょっとしたくせの加減でスタイリングがとても難しいこと、染めもしないのに少し栗色なこと、へたな美容師にうっかり変な頭にされたこと、美容院では今でも学生に間違われることなど、もう暗記してしまっててかわりにあたしが話すことだってできるそれら、そういえば晋とまだ肉体関係が出来る前から繰り返し聞かされたそれらを、また長い時間をかけておとなしく聞かなければならなかった。あたしはいつも不思議だった、どうして晋がこの話にこんなに情熱をかたむけるのか。晋は自分の髪はしょっちゅう切らなければならないと言い張っているが、あたしにはそんなに伸びるのが早いようにも見えないし、くせだって(いつも晋はほらここここ、ここが変なほう向いてるだろ、と指さすけど)全然見分けられない。「変な頭にされた」ときだって「切りすぎた」ときだってあたしはそれを見ているのだが、どこがそうなのかやっぱりわからなかった。  そういえば髪だけじゃなかった。晋はちょっと見にはけしておしゃれしているような感じはしないが、実は晋にしかわからない細かい細かい理論があって、あたしはそっちも暗記してしまっていた。股上《またうえ》の長いジーンズを、ぴったりベルトで締め上げて穿《は》くのは、そのほうが脚が長く見えるから。晋はあたしにまでルーズなボトムを身につけることを禁じる。たとえば買い物に行って、これいいなあ、とゆったりしたパンツなんか見てると、「おまえは脚が短くてちびなんだから、そんなの似合うわけねえだろ」と頭からけなして試着もさせようとしない。一度、ちょっと着てみるだけだよって試着したら、カーテンを開けるなり「似っ合っわっねえー!」と大声で言われ、笑われ、あきらめるしかなくなった。それから青や緑のシャツはだめ。顔にそれらの色が反射すると、色白な晋は病人みたいに見えるからなのだそうだ。でも、遠目にもあざやかな真紫のセーターや、真っ赤なシャツには全く抵抗がないのらしい。もしかしてこの人、なんだかんだ理由をつけて派手な色を身につけていたいだけなんじゃないかしら、というほどはっきりした色を平気で着る。でもいちばんお気に入りなのは白いシャツ。なんだ、シンプルじゃんですって? とんでもない。小さなシミでも付けたら最後、すぐ捨ててしまうのだ。ジーンズも同じ。だってジーンズなのよ? なのに、ちょっと色落ちしてきたから捨てたって平気で言う。「あれ、気に入ってるって言ってたじゃない」って驚いて聞いても、「だってもう古いんだもん。いいよ、また買うから」普通ジーンズって穿き古して味が出そうなもんなのに、こんな晋がなんでジーンズが好きなのかよくわからない。きのうなんかあたしにまで「そのパンツもう古いから捨てろよ」って言ってた。「いいよこれ、気に入ってるし普段着だもん」と言うと「だってもう色落ちてんじゃん、友だち来たときみっともないから新しいの買ってよ」。なんか、もしかして晋ってうちにいくらでもお金がある気でいるんだろうか。これから子どもだって生まれるのに、ずっとこのままなんだろうか。 「オレのいとこにさあ」  ある日晋が遠くを見るような目で言った。 「医薬品の仕事してるのがいるんだよね。オレより五つくらい上の。その人アフリカに出張が決まっちゃったの。で、そんときつきあってた人と急いで結婚して子ども作ってそのままアフリカ行っちゃったんだよね。だから奥さん一人で留守番して子ども産んで、一人で育ててんの。なんか、すごいだろ、それって。すごいよなあ。自分の知らないところで子どもが生まれて育っていくってさあ、男のロマンじゃん」 「えーそんなの、かわいそうだよー」 「なんでよ」  晋は不服そうだった。 「だって生まれる瞬間とか見れないんだよー」 「生まれる瞬間? なんでそんなの見なきゃなんないの?」 「なんでそんなこと言うの?」 「だってあそこから出てくんだぜ? オレ考えただけでもゲロ吐きそー」 「…………」  あたしは絶句した。なのに晋は、ひどいことを言ったことに気がついていない。のどがしめつけられて、涙がぽたぽたこぼれ落ちた。それでも彼はあたしのほうを見ない。あたしはついに声を絞り出して言った。 「あたし、堕ろす」  晋はびっくりして振り向いた。 「何言ってんだよ急に」 「堕ろすって言ったのよ」 「何でそんなこと言うんだよ」 「あそこから出てくるの嫌なんでしょ。ゲロ吐きそうだって言ったじゃん!」 「だってしょうがないだろ。オレは男なんだもん!」 「しょうがなくないよ! なんでそんな言い方しなきゃなんないのよ!」 「うるせえなあ。なんでいちーちおまえの顔色うかがって口きかなきゃなんねーんだよ。せっかくオレがアフリカのいとこの話してたのにおまえが気分悪くなるようなこと言ったんだろーが。おまんこから出すのが嫌なら帝王切開でもなんでもすりゃいいだろ!」 「あんた……自分でものすごいこと言ってんの、わかってんの!? あたし産まない! 実家に帰って堕ろす! あんたのおかあさんにだって電話してやるから!」 「!」  殴られた。  立ち上がったとたんだったからだろう、その衝撃に立ち眩《くら》みが重なって、目の前が暗くなった。足がもつれて、壁にごん、と頭が当たった。よろめいて座り込んだその周りに、晋が積み上げていたCDががちゃがちゃと音を立ててなだれ落ちた。殴られたんだ、妊婦なのに! こんなひどいことを言われた上に殴られた……屈辱で涙があふれた。泣かないと自分の体が危ないとも思った。あたしは声をあげて泣きじゃくった。あんたのおかあさんに電話するってのがいけなかったんだ、それはわかっていた。晋は自分の悪事が母親にばれるのを何よりもおそれていたから。でもあたしはおどしただけ。あんな人に電話なんかするもんか。わかってる。キオミさん、晋は優しい子なのよ、あの子は未熟児で生まれて何度も死にかけたの。いじめないでね、晋はどうしていいかわからないだけなのよ……言われることは全て想像がついた。その上、だって今度の妊娠ってあなたが強引に望んだんじゃないの? とまで言われるかも知れない。晋は自分が責められないためには、あたしの腰の動きまで母親に報告する男だ。あたしはもうわかってしまっている。冗談めかして話した晋の欠点も、「あなたが悪いんでしょ?」という話に変えて言い返されてしまったのも一度や二度じゃない。こんなときにだれがあんな人と話なんか! 「……泣くなよ……」  晋が小さく言った。 「おなか痛い、おなか痛いのー!」  嘘だった。 「……寝ろよ」 「動けなーい!」 「じゃあ、そこに寝ろよ」  晋は黙って枕《まくら》と毛布を持って来た。あたしはそれにくるまり、小さくしゃくりあげていたが、しばらくして眠ってしまった。 「まいっちゃったよ、何でも妊娠を盾にされんだからよ」  ふと目覚めると隣の部屋で晋の声が聞こえた。誰かと電話でしゃべっている。それもあたしの悪口だ。あたしは顔から血の気が引いた。お義母さんだろうか。 「だいたい誰のせいでこんなことになったと思ってんだよな。結婚してくれ攻撃もすごかったけどよ、自分で勝手に妊娠してぎゃーぎゃー騒いでよ。失敗したよ。おまえと結婚するべきだったよ」  女! 「え? 何言ってんだよ。離婚はやなんだよ。オレ一度結婚したら離婚はな……あ? 起きた?」 「誰と話してんの?」 「ん? 高校時代の友だち。ああ、ああ、また連絡するよ、そいじゃな」 「なんて人?」 「佐藤だよ。知ってっだろ。久しぶりにかかってきたからよ。さっ、風呂《ふろ》にでもはいっか」  晋が風呂場に行ってから、あたしはリダイヤルボタンを押した。知らない番号。「かかってきた」のも、嘘だ。あたしはその番号を手帳にメモした。  妊娠三カ月の定期健診。超音波写真には、丸まった手足も見てとれる、赤ん坊の影がはっきり映っていた。 「ねえ、見て見て。先月はただの丸い影だったのに、もうすっかり人間だよ。手も足も見えるよ。ねえなんか可愛《かわい》くない?」  晋はしばらくそのプリントをながめていた。 「この頭の形がなんか晋に似てたりして。ウフフッ」  晋はにっこり笑って言った。 「これ写真たてに入れて会社の机に置いちゃおうかなあ」  あたしは嬉《うれ》しくなった。 「やっだー、親ばか!」  そんな言葉をつかうのも心が弾んだ。そして晋は翌日、本当に会社にその写真を持って行ってしまった。 「晋ったら。晋ったら。やっぱりほんとは嬉しいのね」  その日は心なしかつわりも軽い気がした。電話の鳴る音も耳に優しい。ママかしら、ううん、もしかして晋かも? 「もしもしー?」  どちらでもなかった。信じられないほど長い沈黙のあと、電話は切れた。 「いやあウケちった。すっかり人気。子どもの写真」  上機嫌で帰ってきた晋に、無言電話の話はしにくかった。 「えーやだー、人に見せたのー?」  あたしは明るさを装った。 「すごいよもう。知らなかったけどオレって結構もてんのな。なんか女の子とか嫉妬《しつと》しちゃってさあ」 「へえ」 「ほんとに三原さんてお父さんになるんですねーだって、ふーんとか言ってんの。だれが嘘んてつくかよなあ」 「じゃあその女の子にはあたしが妊娠してるって、話してたんだ」 「ん? ああ、なんか人に話してるとこ勝手に聞いてたみたいよ。オレのこと、好きなんじゃねえの? くっくっくっ」  晋は心底嬉しそうに笑った。  そうだ。あの女に決まってる。  晋が出張と偽って一緒に消えた相手。そしてあたしの悪口を言っていた相手。あたしは手帳を引っぱり出し、あの日リダイヤルボタンが表示した電話番号を押した。 「ただいま留守にしております……」  本人でなく、留守番電話に組み込んである機械的な声が出た。発信音のあと、あたしはだまって電話を切った。留守だ。それだけの事実しかなかったが、相手はこいつだとあたしは決めていた。一週間の出張だと言った晋。妊娠したあたしを置いて、一週間も他の女と過ごすつもりの夫。 「えっ? 神戸に出張じゃないんですか!?」  晋もまさか会社の友人から電話が入るとは思わなかっただろう。もっと驚いたのはその友人、近藤だ。 「えっ? いや、あの、有給で、あの、すいません、奥さんのつわりがひどくて入院するからって聞いてたんで……ほんとにすいません!」  近藤は自分が悪いわけでもないのに必死で謝っていた。あたしと晋の結婚式のあと、一度だけここにも遊びに来たことのある、気の小さな男の子だった。 「あたし入院なんかしてません!」  あたしはあたしで彼が悪いわけでもないのに大声を出した。 「いやほんとです、すいません、なんかのまちがいだと思います、ほんとに申し訳ありません、あのポケベル鳴らしてみます」 「ポケベル……ですか?」 「ええあのポケベル、あそうか、おとといからいないんですよね、じゃあ電源切ってるかもしれませんね、ああまたぼくなんか余計なことを。すいません、ほんとにすいませんでした」  思えばあのときもっといろいろ聞くべきだった。あんまり驚いてどなってしまったから、聞くきっかけを無くしたのだ。会社の女で同時に休んでいるのがいるはずなのだ。そいつがあたしのおなかの中の写真まで見ているはずなのだ!  あたしは電話に飛びつき、晋の会社に通じる短縮ボタンを押した。心臓がのどまであがってきているような気がしたが、自分よりあがっている近藤の声を聞くと次第に落ちついた。 「三原さんの奥さん、さ、さっきはすみませんでした」 「あの、主人のことなんですけど」 「あ、それなんですけど、やっぱしあの、出張でした、ぼ、僕が勘違いしてたんです、すっ、すみませんでした」  ポケベルの電源は入っていたのらしい。これはもう、何を聞いてもだめかもしれない。慎重にやらなきゃなんない。 「あの、じゃああたし、出張先の電話番号を知りたいんですけど」 「あっそれは、僕ではちょっと、わからないんです。すみません」 「近藤さん」 「はい」 「あたしが妊娠してること、ご存知でしたよね」 「えっ、あっ、……はい」 「主人が、あたしの超音波写真、会社で人に見せてませんでした?」 「あああ、ああそれは、あの事務の林さんが見たって言ってたやつかな?」 「すいませんけどその林さんてかたにかわっていただけませんか?」 「えっとそれが、林さんもおとといから休みで……あっ」 「ありがとう。それだけ聞けば十分」 「あー奥さん。お願いです三原さんに言わないで下さい」  近藤は泣き声を出した。 「すいません謝りますから。ごめんなさい許して下さい」 「じゃあたしの言うこと聞いてくれる?」 「はあ」 「今日、あたしと会って」  近藤があまりに思い通りに動くので、あたしは少し気味が悪かった。家まで来させたのは、晋のアルバムから林という女を見つけ出せるはずだと思ったからだが、まさか近藤のほうから言い出すとは思わなかった。 「三原さんて社員旅行のとき、やたら林さんと写真撮ってもらってましたから、写真いっぱいあるんじゃないでしょうか」ときたもんだ。晋が、つきあった女との写真をやたら残したがるのはあたしがいちばんよく知っている。何よりも自分の写真がいちばん好きな晋だが、自慢出来そうな容姿の女との写真はとにかく沢山残す。結婚したときさすがに処分したらしいが、昔は秘密のアルバムにキスしている写真や、ベッドで一緒の写真ばかりを分けてあった。そういうものがあることをちらちらさせて、今同時につきあっている女たちが嫉妬《しつと》しあうようにしむけるのが、結婚前の晋の何よりの楽しみだった。 「そうだと思うわ。じゃあこの人ね?」  社員旅行の写真にいちばん登場する女はすぐに割り出せた。髪が長くて目の大きい、甘ったるい感じのする二十代後半くらいの女だった。写真によってブラのひもやスリップのすそのレースがちょっとずつ見えている。晋の大好きなタイプ。 「でもなんでそんなこと自分から言うの? 近藤さんさっき、絶対晋に言わないでって泣いてたじゃないの」 「この……社員旅行のときから三原さん……林さんとなんかすごく仲良かったんです……ほんとは僕……ずっと奥さんが可哀《かわい》そうで……」 「…………」 「あの超音波の写真も、三原さん林さんにしか見せてないです……林さんすごく怒ってて……」 「そんなもん見せるなって? そりゃあ、当然よね」 「いいえ……そうじゃなくて……三原さんが可哀そうだって……」 「はあ? どういう意味?」 「えっとあの……三原さんは、毎日奥さんに、あたしは妊娠してるんですからねって言われてて可哀そうだって言うんです……超音波の写真も会社の机に飾って、あたしのことを思いやりながら仕事しろって押しつけられて、そいで持って来たって……」 「うそ!」 「あっすいません……それは林さんが……きっといろんなところで話が変わっているんです……僕はなんか、そういうのを林さんに言われてしまうタイプっていうか、なんか僕には話しても大丈夫だって思ってるらしくて……すごくいろいろ言うんです僕に……」 「なんでそんな話になるのお!?」 「あっだから僕……ずっと変だなって思ってたんです……適当に聞いてましたけどずっと……なんか奥さんそんな人じゃなかったって……だから今日、なんか胸のつかえが取れたっていうか……」 「…………ひっどーい……」 「すいません……」 「近藤さんは悪くないわ」  言ったとたん、涙がぽろぽろとこぼれた。 「あっ奥さん泣かないで下さい、ごめんなさいやっぱりこんなこと言うべきじゃありませんでした、三原さんにも言われたんです。オレの女房を可哀そうだと思うなら最後までとぼけろって。僕が悪かった」  晋らしい開き直りだった。晋は何でも、ばれなければなかったことに出来ると思っているのだ。あたしは聞かないほうがしあわせだったのだろうか。今にも泣き出しそうな近藤の顔を見ながら、あたしは必死で身の振り方を決めようとしていた。ふと見ると、近藤の両手が、畳の上のあたしの手を握っている。そしてその腕が少し不自然に足の間に寄せられているのを見て、気づいた。こいつ、勃起してる。気づかれないようにと思うあまり、及び腰になってそれを両腕で守っているのだ。あたしの涙は止まった。 「近藤さん」 「はい」 「めまいがするの。ベッドに横にならせて」  近藤の体が、ビクンと跳ね上がった。 「どうしたんですか急に……? 大丈夫ですか?」  近藤はまだ男の子の振りをしていた。ブリーフの中ははちきれそうなくせに、とあたしは意地悪く近藤の腕に妊娠で大きくなった乳房を押しつけた。 「あっ……」 「うーん、気持ち悪い……」  わざとよろめき、ベッドの手前でしゃがみ込んだ。 「あっ、しっかりしてください。奥さん。大丈夫ですか」  あたしはもうすっかりこのお芝居が面白くなっていた。股間《こかん》を守りながらあたしを助け起こそうとする近藤の腕をすり抜け、わざとズボンにしがみついた。若い男の匂《にお》いがプンとした。 「あっ」 「あっ」  あたしもわざとらしく声をあげ、いかにも意外という表情であとずさりしてやった。 「近藤さん……」 「えっあの……どうかしたんですか、大丈夫なんですか奥さん」  近藤はまさか勃起してることを指摘まではされないだろうと思っているのらしい。あたしは作戦を変更した。 「あっ……大丈夫……でも、ベッドに横にならせて、すいません、お願い」  近藤はあたしを助け起こし、あたしたちは抱き合うような形を取った。そのままあたしだけベッドに置こうとした近藤の背中にあたしはしがみついた。唇のすぐ前に彼の耳があった。あたしは思いきり息の成分を多くした声でそこに、 「勃ってる」  とささやいてやった。近藤の耳が真っ赤に染まった。続けて、 「いいよ……しても」  と言ったあと、耳の中に舌を差し入れた。熱い息が首筋にかかったかと思うと、近藤はあたしの唇に吸い付いてきた。  態度からももちろんわかってはいたが、そうとう女を知らないようだ。かれこれ五、六分もべちゃべちゃ舌をからませるだけで胸さえ触らない。まさか、この子初めてじゃないよね? と少し心配になってきた。  やっと、乳房を揉み始めた。 「大きい……」  と小さな声でつぶやいた。 「乳首もすっかり大きく黒くなってるのよ。恥ずかしいな、あたし……」  あたしは自分でブラウスのボタンをはずした。近藤にまかせていたら裸になるのは何時間後だかわからない感じだった。 「あ……きれいなブラジャー……」  そういえばあたしは、昼間近藤が来ることに決まったあと、下着も服も綺麗《きれい》にしておいたのだ。 「はずせる?」 「ええ……なんとか……」  近藤は晋の五倍の時間をかけてホックをはずした。裸の胸を見られる瞬間、あたしは思わずあっと小さく声を出した。 「ほんとだ……乳首、大きい……」  近藤は舌を突き出して、そうっと左の乳首を舐《な》め上げた。 「強く、しないでね、強くすると痛いの……普段より敏感になってて……ああ……」  晋のときは言ったこともないせりふだった。晋は最初こそ乳首に触れるが、そのうちそんなことなんか忘れて突いて突いて突きまくって自分だけさっさと終わってしまう。近藤はゆっくり優しく乳首を舌で転がした。どうやら童貞じゃないようだ。でももう片方を指でつまんだりしない、と思っていたら舌をすべらせて来て右を舐めだした。あたしは思わず身をよじった。口に含まず、舌を出したままでいつまでも舐めている。すごくいやらしい、子どもみたいな顔してるくせに。そしてまた左に。近藤の舌はいつまでもそれを繰り返した。あたたかいなめくじがからみつくようなその感触に、あたしは鼻にかかった声をいっぱい出した。近藤のペニスがあたしの足に当たっている。握ってあげたいけどまだ、上半身しか触られてないのに、と迷ってしまう。でもあたしの胸はもう近藤の睡液でぬるぬるだ。きっとあそこも同じようになっているはず。 「いやあん」  ついにあたしは耐えられなくなった。 「乳首だけでいかせるつもり?」 「すいません僕……赤ちゃんいるのにと思うと、どうしていいかわかんなくて……」 「大丈夫だよ」  そういいながら、あたしは自分でパンティを脱いだ。 「触ってごらん……濡れてるから」  近藤の手を握って、そこにみちびいた。 「ほんとだ……」  近藤の指はちゃんと敏感な部分を知っていた。その上ちゃんと、下から上にさすり上げてくる。同時に乳首も舐められ、あたしはもう入れて欲しいくらいだった。 「ねえ……あっ……けっこう慣れてるよね……?」 「えっ? そうですか? いやあんまし……知らないです。ただ、痛くしないようにってそれだけ思って……」 「でも……ああん……そんなていねいにされたらあたし……あっそんな……」  近藤の舌がみぞおちまで下りてきた。 「だめ、だめ、そんなことまでしちゃだめよ。あたし、いいってば。あたしがしてあげるから」  ある予感にあたしはあわてた。そんなこともう何年もされてない。されたら、取り乱してしまう。もっとして欲しくなってしまう。近藤との関係が止められなくなってしまう。 「させて。奥さん。僕、あんまし自信ないんですよ。赤ちゃんが可哀そうで、入れられないかもしれない。入れても、初めてだとだめになること多くて……だから、せめてさせてください」 「だってあたし、そんな。あたしがしてあげるってば」 「奥さんがしたら僕、すぐいっちゃうかもしんないし、だめです。したいから……させて」  次の瞬間、あたたかいなめくじはあたしの間にヌルリとはいりこんだ。 「あっ」  あたしは思わず両手で顔を覆った。だめ、もうだめだ。あたしはこれに弱い。それにさっきの指の動きで予想した通りの、確実な刺激。そのいちばん敏感なところの守りを少しずつはぐように、下から上へ押し上げてくるその濡れた生き物の感触。思わず膝《ひざ》に力が入り、あたしの脚はぴんと伸びた。もしかしたらこのままいってしまうかも知れない。すると近藤は、それをそらすかのように、あたしの両足を思いきり開き、今度は舌を堅くしてあたしの中に入れたり出したりするのだった。 「いやああ。もうだめ。入れて」  あたしは泣き声を出した。 「もうちょっと……」  近藤はまた敏感な部分の刺激に戻った。両足を伸ばさせたまま、そこだけ指で開いて、その部分をしっかり舐め回している。止めない。いつまでも止めない。こいつ、あたしを絶対舌でいかせる気なんだわ。なんで? 最近の若い子ってこんなことするの? うそ……いきそう…… 「あーん、いっちゃうう……」  言ったとたん近藤の舌の動きが倍になり、期待した以上に大きなそれがそこを中心に広がった。 「いやああ、いく、いくの! あああ! だめえー」  快感のすぐ下の空洞がたまらなく淋《さび》しい。 「お願い入れて、今入れて、来てえ、一人にしないで!」  近藤は急いでそれに応えてくれた。あたしの中は近藤でいっぱいになり、快感は奥までそれが広げていってくれた。 「あああん、大きい」  あたしは近藤の背中に爪《つめ》を立て、脚で彼の腰にしがみついた。これは晋の好きなやり方だった。晋は、あたしが体じゅうで彼を欲しがっているようにして見せないと機嫌が悪くなる。普通にしてたらわざわざ男の背中に爪なんか立てることはない。でもそのほうが興奮するのは、近藤も同じだったみたい。まるでメロドラマみたいに「奥さん、奥さん」と言いながらあたしを突き上げている。奥さんと呼ばれながらやられるのがこんなに興奮することだったなんて。近藤自身も、自分が口にしている奥さんという単語に酔っている感じ。そのくせ近藤は突き上げながら熱心に乳首をなめたり、指を横から差し込んであそこを刺激したりするので、あやうくもう一度いくかと思った。 「ああ、僕、もうだめかもしれない」 「来て。あたしもう十分よ。気持ちいい、すごく。中に出して」 「でも、それじゃ」 「いいの。頂戴。今して。お願い。ああん」 「あ。出る」  近藤はちょっと泣きそうな顔になり、小さく声をあげた。そして妊婦のあたしの中にいっぱい出した。  終わったあとに髪をなでられるのも何年かぶりだった。 「なんか、近藤さんって、すごい……あたしまだぼーっとしてる……」 「すいません、どうしていいかわからなくて。赤ちゃん、大丈夫だったでしょうか」 「大丈夫。もうすぐ安定期だもん。それに、ずっとしてなかったし……」 「…………」 「なんだかんだ言ってね。結局避けられてたのね、あたし……」  近藤は黙ってあたしの髪をなでた。さっきとは違う快感が体に広がった。 「でも僕、嬉《うれ》しかったです」 「あたしも。近藤さんがいなかったらどうなってたかわかんないもん。死にたくなったかもしれない」 「そんなこと言わないで下さい。もとはと言えば僕が余計なこと言ったから」 「余計なことじゃないわ、ほんとのことよ」 「三原さんにはどう言ったらいいでしょうか」 「とぼけ通しましたって」 「それでいいですか」 「そのほうがいいのよ。あの人はそういうのが好きなの」  近藤は淋しそうな顔になった。あたしは彼の耳元で「でも、あなたのほうが良かったわ」とささやいてあげた。その晩、あたしたちは何度もした。  四日後、どこで買って来たんだか、神戸みやげを手に日焼けした晋が戻って来た。そしてさっそく、 「いやーもう外回りばっかで焼けちゃったよ。あ、そう言えば近藤のバカが勘違いして電話してきたんだって?」  と先制攻撃をしかけた。 「そうなのよ、何かと思ってびっくりしちゃった」  あたしはもうそんなの平気だ。あのあと毎日近藤はこの部屋に来てあたしを粘液だらけにして行った。ありとあらゆることをしてあたしを感じさせた可愛《かわい》い彼。今朝なんかお風呂《ふろ》に入って余韻を消すのが淋《さび》しくてしょうがなかったわ。 「なんかあの子ぼーっとしてるじゃない? 会社の中のことよくわかってないみたいだよね。もしかしてお荷物?」  目の前にいない人物を必要以上に悪く言って、相手を笑わせ油断させるのは、晋から学んだやり方だ。なのに晋はあっさりそれに引っかかった。すぐにいつもの嬉しそうな笑顔になり、得意げに言った。 「そーなんだよ。ガキだしよ。こんど連れて来て謝らせっからよ」  あたしはどきどきした。これは晋の直感が言わせているのかも知れないと思った。二人の顔をそろえさせて様子を見る気なのだろうか。 「いいよ、そんなの、うっとうしい。妊娠してる女とか、珍しがってじろじろ見そうじゃない」 「ああ、そうかもな。妊娠してるって言うと『あっ、じゃあセックスしたんですね!』とか言いそうなタイプだよな」 「やあよ、そんなの。やっと安定期に入ったっていうのに」 「そういえばおまえ母親らしくなったよな。やっぱそういうのって芽生えてくるもんなんだな」  ほんとうは近藤といっぱいセックスしたから気が済んで落ちついただけ。あたしのお腹の中はもう、晋の作った胎児より、近藤の出した精液の量のほうが多いくらい。晋は女は妊娠すれば自然に母性が出てきて子どものことだけ考えるようになり、性欲がなくなると思いこんでるのだ。おめでたい男。あんたの浮気相手が近藤にいろいろ漏らしてるとも知らないで。いい気味だわ。そうだ、思い出した。そういえばあの女。 「ねえ最近、無言電話あるんだよ」 「うそ」 「あっ最近はないか。最後にあったのはねえ。……そーだ、あたしがこの前の前病院に行った翌日だからー」 「なんだよ最近って、えらい前のことじゃん」 「んーでも、ほらあんとき超音波の写真、会社に持ってったじゃなーい。その日の夕方だったからー、よく覚えてんの。なんかまわりざわざわしてたよ。どっかの会社かなんかみたいなの。変だよねー。普通、無言電話って自分ちからかけるじゃない? だからよく覚えてんだー」  嘘。周りがざわざわなんて真っ赤な嘘だった。まあでも晋の顔色の正直なこと。ぼーっとして、気づかずにあたしの前でワイシャツを脱ぎ、小麦色の胸を見せてしまっている。ばーか、だれが外回りで胸まで日焼けするかっつーの。 「グアムだったらしいですよ。ポケベルはだれかが預かってたみたい」  近藤からそれを聞いたのはその二日後だった。 「えー!? グアムー!? 何それ! あいつらなに様?」  あたしは腹が立つのを通り越してあきれた。 「それ、林があんたに言ったの?」 「うん。もう何かすごくなってきて。同時に休み取ったのみんな知ってるのに、あたしずっと好きな人と一緒にいたのって言ってた。ばれたくてうずうずしてるって感じ」  それが晋の手なのだ。あたしは結婚前の自分を思って胸がしめつけられた。晋は、あたしを恋人として紹介する相手と、しない相手を計算高く分けていた。あたしがステディだと言って欲しい相手に限って、友だちですと紹介するのだ。あたしはじりじりして、彼と同じ腕時計を買ってこれ見よがしに身につけたり、絶対身内しか知らないような話をわざと振ったりした。でも彼がそう言ってくれなきゃ何にもならない。あたしは陰で何度も悔し涙をこぼした。絶対勝ってやる、ぜったい晋と結婚するのはあたしだと毎日日記に書いた。でも結婚しても晋のすることは同じだった。あたしは心配そうに見上げる近藤を抱きしめた。 「大丈夫、あたしにはあんたがいるもん」  近藤はあたしの唇に自分の唇を優しくかぶせてきた。そして確かめるように何度も角度を変えながら押し当てた。このあとの快感を思うと全身に鳥肌が立った。乳首にむしゃぶりつく近藤の顔を見ているともうそれだけで濡《ぬ》れてくる。晋は相変わらずあたしの体には指一本触れなかった。あたしをもう、子ども製造器とでも思っているのだ。  出産の時期が近づいてきた。いくら晋から気持ちが離れているとは言っても、まさか近藤に立ち会ってもらうわけにもいかない。 「晋さんは……立ち会わないんじゃないの? 当てにしないでいたほうがいいよ」  ママは最初からそう言っていた。でもあたしは出来れば立ち会って欲しかった。それを最後の望みとも考えていた。晋はあたしががまんしているのをいいことに、一週間に一、二度、外泊するようにまでなっていた。もちろん日曜日なんてほとんど一日じゅう家にいない。帰って来た日はあたしの大きなお腹を見て暗い目をする。実家はたった三駅先だというのに、「実家に帰って産むんだろ? 用心して早めに行ってたほうがいいぞ」とあたしを追い出そうとする。近藤とあたしはすでにいっときも離れられない。 「こんな話ほんとはしたくないけど……もう最近僕も参ってしまって……『三原さんかわいそう、オレは何もしてないって頭抱えてる』って……あの女、自分も子どもを産む体だってことがまるでわかってないよ! どなりたいのをがまんしてるんだよ、いつも……。どうするのキオミさん? 僕が立ち会ってもいいんだよ?」  こんなときはほんとうにどうしてこれは近藤の子どもじゃないんだろうと涙が出てくる。まだママには話してはいないが、晋と別れることも考えてはいた。興信所に一本電話さえすれば、晋の浮気の証拠をそろえるのなんて簡単なことだった。無言電話もたまにかかってきた。耳を押しつけると、誰かが入浴しているような音が聞こえたこともある。晋の入浴中にせっせと無言電話をする女。あたしは結婚前の自分や、近藤に抱かれる前の自分を思い出していた。そんなのいらないよもう、あんたにあげる、と言いたかった。晋と結婚すればいい。そしてさっさと妊娠して、あたしと同じ目にあうといいんだわ。  立ち会い出産したい、という申し出は「冗談でしょ」のひとことで却下された。わかってはいたが、つらかった。「別れようか」と言ってみた。「ああ、知ってるよ。マタニティブルーって妊娠初期と出産前にあんだよな。だから早く実家に行けって言ってるじゃん」  晋の浮気を見て見ぬ振りをした期間の結論がここにあった。別れよう。興信所の電話番号はすでに控えてあった。依頼の問い合わせのあと、ママに電話した。ママはとにかくいらっしゃいと言ってくれた。それから近藤に電話をしようとしたら、電話に出た女の声が一瞬戸惑った。こいつ、林だ。あたしの声を覚えてるんだ。とっさに、近藤を指名するのを思いとどまった。 「三原でございますが」  これで最後の、思いきり妻らしい声を出してみた。 「なんだ」  晋は普段より不機嫌な声で出た。 「ねえ、今電話にでた人、なんて人?」 「え? だれだったかなあ。わかんないよ。事務の子だよ」  晋は思いきりとぼけた。 「なんか感じ、悪かったあ」 「用はなんなの」 「たいしたことじゃないんだけどお、なんか急にお産が心配になってえ」  晋のいらついた顔が目に浮かぶ。 「そういう話は家で聞くから!」  晋はさっさと電話を切った。ふん。もうこれであんたとも最後だわ。  数分後、様子を察して近藤が電話してきてくれた。あたしは自分がこれからしようとしていることを話した。「なんか僕、どきどきする」近藤はあくまでけなげだった。  ところが甘かった。予定は大幅に狂ってしまった。味方になってくれるとばかり思っていたママが、あたしを説得しだしたのだ。 「あんたは若いからそんなことを言うけどね。晋さんはけして珍しい人じゃないよ。パパだって似たようなもんだったのよ。生まれれば変わるから。今別れてどうすんの」  あたしはもどかしかった。あたしと晋はもうだめだということを必死で説明した。近藤のことを言いたかったがまだ言うわけにはいかない。 「だからそんなのよくあることなんだってば」 「嘘《うそ》! 嘘よ! なんでそんなのがまんしなきゃいけないの! あたしがどいだけヤな思いしてきたかママにはわからないのよ!」 「わかるよ。だからパパだってそうだったって言ってるじゃないの」 「じゃあ妊娠したとき、堕ろせって言われた?」 「言われたよ」 「!」  ショックだった。それは長女のあたしのことだ。 「パパもノイローゼみたいになっちゃってさ。いなくなったりしたよ。女の人のとこ行っちゃってね。それでもあんたは専業主婦でしょうが。あたしは働かなきゃ暮らしていけなかったのよ」 「嘘! 嘘よ、パパがそんな……」 「だからそんなの珍しくないんだってば」  ママがその言葉を口にする度に、あたしは大きく膨らんだ下腹がしくしく痛んだ。何か嫌な予感のする痛みだったが、今はそれどころじゃなかった。どうすればこの気持ちをわかってもらえるんだろう。ママの時代にはたとえ当たり前でも、今あたしは嫌なのだ。  あたしはついに決心した。 「ほんと言うと、もう、晋よりあたしに優しくしてくれる人がいるの」 「……男?」 「そう。その人と再婚したいのよ!」  声が震えた。 「そりゃあ、あんたのほうが珍しいわ」 「止めてよ! そんな言い方!」  下腹に力が入り、胎児が重く感じる。あたしは両手で下腹を抱えた。 「大きい声出すと生まれちゃうよ。でもあんた、それは晋さんの子どもなんでしょ?」 「そうよ」 「そんなのうまくいくわけないって、止めなさい。大変なことよ。あんた、今離婚したらその子の父親はいなくなるのよ」 「すぐその人と結婚するもん!」 「何言ってんの、法律で女は半年再婚出来ないでしょうが」  忘れてた! そうだったんだ! あたしはあわてた。そのとたん、脚の間にあたたかい水がざあっと吹き出した。 「うそ! おしっこ出ちゃった!」  ママも驚いた。 「何言ってるのそれは破水よ! 病院に電話するからタオル当ててなさい!」  破水? 出産!? まだ先のことだと思ってたのに! ママとタクシーで病院に駆けつけてまもなく、陣痛が始まった。もちろん晋はつかまらない。近藤に電話も出来ない。だんだん痛みがひどくなる。このまま産むの? あたしこのまま産むの? ママと同じがまんを繰り返して暮らしていかなきゃなんないの?  やっぱり女の子だった。3812グラム。長かった。何度も弱気になって、お腹切ってえと叫んだ。産声を聞いてあたしも泣いた。 「大きい女の子だねえ。声が大きくて、男かと思っちゃったよ」  ママも目に涙をためていた。 「晋に連絡は?」 「まだだけどね……大丈夫大丈夫、女の子だし、晋さん顔見たらすぐもとに戻るって」  もとって、どの辺のことなんだろうか。晋のすることは結局、結婚まえからどこも変わってなんかいないのに。でも今はただ眠い。うまく考えられない。とにかく寝る。決めた。  翌日、会社で知らせを受けた晋があわててやってきた。まだ面会時間にもなってないのに病室までやってきてきょろきょろしている晋は子どもみたいだった。 「あらまだ面会時間じゃないんですよ」  看護婦の一人が声を掛けた。 「すいません、きのう生まれたんですけど、仕事で来れなくて……」  晋はすっかり萎縮《いしゆく》していた。仕事、ね。あたしは黙ってその様子を見ていた。まだ眠かったがひどくお腹が空いていた。 「あらそう、まだお顔見てないのね。じゃあちょっと待っててね」  看護婦は出ていった。赤ん坊を連れて来てくれるつもりらしい。あたしもきのうちょっと顔を見たきりだったから、どきどきした。晋は黙ったままあたしのほうをちらちら見ていた。  赤ん坊はベビーベッドに乗ってやってきた。 「ひゃあ」  晋は声をあげた。 「なんか、でかいな」 「大きかったのよ」 「難産だった?」 「うん」 「そうか、大変だったな……」  晋のしおらしい横顔を見て、あたしはなんとなく気が済んだような気分になった。  お昼近くに授乳指導が始まった。乳首に吸い付く赤ん坊の顔を見おろして、あたしは近藤のことを思った。  深夜、近藤の部屋に電話をして、あたしは晋と別れられなかったことをわびた。 「どうすればいいのか僕にもわからないけど、今はただ回復することと、赤ちゃんのことだけ考えたほうがいいよ」  近藤はあくまで優しかった。電話を切り、ふと思いついて晋にかけてみた。呼び出し音が七度鳴り、電話に出たのは林の声だった。あたしは黙って電話を切った。  赤ん坊の名は由佳と付けた。出生届はママが出してきてくれた。退院してもあたしはすぐには晋のところへ戻らず、だらだらと実家で暮らし、時折近藤に電話をした。晋はときどき来ては赤ん坊を不思議な顔で見つめていた。まだ実感は涌《わ》かないようだった。相変わらず「オレもオヤジになったんだからこれからは……」と公約だけは並べていたが、あたしは聞き流していた。ママは「ああ見えても晋さん、もうとっくに由佳にはまってるよ。これから会社から帰って来る度に寝てるのを起こしたりして大変だよもう」と言っていたが、あたしにはそうは見えなかった。ときどき晋は、ほんとのことも言っているのかも知れないなと思うことがある。由佳のためにこうする、ああすると果てしなく並べている約束のうちの二つ三つは本気で守る気なのかもしれない。でもどれが本物の約束なのか推測する気はあたしにはもうない。  あたしが晋のもとへ帰ると、トイレのペーパーが三角に折ってあった。部屋は嫌味なくらいに綺麗《きれい》だし、冷凍庫には手の込んだシチューやミートソースが並んでいる。 「なんか会社のやつらがぞろぞろ世話焼きに来てくれてさ。あ、蒲田とか近藤とか。女の子は掃除して冷凍もん分けてくれるし、助かっちった」 「へえ、良かったね」  あたしは洗面所の脱衣かごにベージュのパンティがわざと放り込んであるのをもうとっくに発見していたが、黙っていた。しばらくして、洗面所に行った晋が「うおっ」と声を上げるのが聞こえてきた。 「どうしたの?」 「うん。ゴキブリ」  確かに嫌なものを見た顔になっていた。 「ベージュの?」  あたしは聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。 「えっ?」 「ううん、何も言ってないよ。ねー、由佳ちゃん」  由佳は嬉《うれ》しそうににこにこしていた。そしてその夜、初めて声を立てて笑った。  ママのいない部屋での育児は大変だった。晋は、気が向くと由佳をお風呂《ふろ》に入れてくれたり、おむつもかえてくれるが、たいがいは、「なあーメシまだ?」と不機嫌そうにしていた。由佳のことは可愛《かわい》くてしかたないらしいが、めんどくさい世話はあまりしたくないのらしい。とくにうんちのおむつは見たくもないらしく、それらしい臭いがするとあたしに知らせもしないでトイレに逃げてしまう。 「一言声かけるくらいしてくれたっていいじゃないの!」と言うと、「だっておまえ、すきがあればオレにやらせようと思ってるだろ。一回でもやればこっちのもんだと思ってるもんね」とすねた子どものようにあたしを指さした。  それでも由佳が帰ってきてから、毎日早めには帰ってくるようになった。由佳が可愛いからか、パンティまで置いていく相手に嫌気がさしたからか、それはあたしにはわからない。きっと晋自身にもわからないだろう。でも、あたし自身はまだときどき近藤に電話をしている。だから晋が「こんどの日曜さ、会社のやつらが由佳見に来たいって言ってんだけど」と言い出したときにもすぐに近藤と連絡を取った。 「三原さんが、おまえも来いって言うから断るわけにもいかなくて……ごめん、きっとお邪魔することになるよ。それとも当日病気の振りしようか?」 「ううん、いいの。来てよ。顔が見たいの」  あたしはうきうきした。  ところが当日、近藤の表情は暗かった。不審に思っていると、最後に入って来た女を見て、晋まで同じ表情になった。それで、やっとわかった。林だ! 呼ばないのにくっついて来たんだ! あたしは必死で平静を装った。負けてたまるものか。  勝負はしかしあっけなかった。林は由佳の顔を見るなり黙り込んでしまい、 「急用を思い出してしまって。お先に失礼します」  と言って帰ってしまった。あたしは、 「あら、お紅茶だけでも召し上がっていらしたら?」  と思いきり奥様奥様した声を掛けてやったが、林は振り向きもしなかった。 「どうなさったのかしら……」  晋は黙っていた。近藤も黙って、由佳の顔を見つめていた。それが、林の最後だった。あとで近藤に電話で聞いたところによると、結婚すると言って辞めていったのらしい。でも会社の中のだれも結婚式に呼ばれはしなかったのだ。  あたしの敵は去った。近藤とはたまに電話では話すが、さすがに逢《あ》ってセックスする暇はない。それでも毎日乳首に吸い付いている由佳を見ると近藤のあたたかい舌がなつかしい。晋は相変わらず、女としてあたしを見ることはない。まあいっか、おだやかな日々だ、とあたしは納得することにした。 「トイレ行くから、見ててね」 「時間かかんの?」 「うん、ちょっと」  こんなことを頼めるのも今は晋だけだ。気分が良かったせいか、珍しくすぐ出た。嬉しくて報告しようと晋を見ると、由佳の股間に顔を埋めている。次の瞬間、おむつがはずされているのに気づき、体が凍りついた。今度は新しい敵を私自身が自ら産んでしまったのだ。訳もなく、後ろでママが見ているような気がした。 この作品は一九九五年二月、ベネッセより単行本として刊行されました。 角川文庫『キオミ』平成10年4月25日初版発行          平成13年5月25日7版発行