内田康夫 天河《てんかわ》伝説殺人事件(上) 目 次 プロローグ 第一章 五十鈴《いすず》を持っていた男 第二章 『道成寺《どうじようじ》』の鐘《かね》の中で 第三章 吉野《よしの》奥山に消ゆ 第四章 霊気満つる谷 第五章 悲劇の連鎖 第六章 留置人・浅見光彦 プロローグ  お手伝いの須美子《すみこ》が呼びに来た時、浅見光彦《あさみみつひこ》はダイニングルームでただ一人、遅い朝食のトーストをパクついていた。 「坊っちゃま、大奥様がお呼びですよ」  浅見は一瞬《いつしゆん》、喉《のど》にパンの耳が支《つか》えた。 「何の用だろう?」 「さあ、存じませんけど、きちんとして来るようにとおっしゃってました」 「きちんとして……」  浅見はいやな予感がした。また何かバレたか——と、あれこれ思い浮かべてみたが、ここのところは浅見家の名を汚《けが》すような、さしたるミスは犯していないはずであった。 「とにかく行ってみるか」  紅茶で口をゆすいでから、立ち上がった。  須美子は「汚《きたな》い」と露骨《ろこつ》にいやな顔をしてから、「セーターにパン屑《くず》がいっぱいついていますよ」と言った。 「あ、ありがとう」  浅見はパタパタと胸をはたいた。 「あーあ、しようがないわねえ、さっきお掃除したばっかりなのに」 「悪い悪い」 「それから、どうでもいいですけど、口の脇《わき》にジャムがついてますよ」 「どうもどうも」  まったく口うるさい女だが、浅見は感謝しなければならない存在だと認めている。  ダイニングルームを出かかる浅見を追い掛けるように、須美子は言った。 「大奥様は応接間ですよ」 「応接間? じゃあ、お客か?」 「ええ、三宅《みやけ》様です」 「なんだ、失《う》せにけりの三宅老か。また縁談かな?」  浅見はいっぺんに気が重くなった。客が三宅だと、また話が長くなりそうだ。 「失せにけり」は能《のう》・謡曲《ようきよく》のフィナーレにつきもののような決まり文句である。三宅が帰ると、思わずほっとして「失せにけり」と謡《うた》いたくなる。それがそのままニックネームになった。躾《しつけ》の厳しい母親の雪江《ゆきえ》未亡人も、このニックネームだけは気に入って、三宅が帰ったあと、「やれやれ、やっと失せにけりだわ」などと使っている。  三宅|譲典《じようすけ》は浅見の父親が存命中、謡《うたい》と仕舞《しまい》の仲間であった人物で、東京帝国大学時代からの親友といっていい。 「きみのおやじさんが首席で、私はビリだったよ」  そう言うのが口癖《くちぐせ》だ。映画、演劇、落語、謡曲と道楽ばかり多くて、大学の成績はさっぱりだったが、そのお蔭《かげ》で自ら芸能関係の評論を書き、ことに能楽の世界ではちょっとうるさい「顔」だそうだ。  自分が劣等生だったせいか、浅見家の不出来な次男坊が気に入って、しきりに縁談を運んでくる。  浅見も、三宅には父親に似た親近感を抱いていて、そういうお節介にも、それほどいやな気はしない。  無造作に分けた、厚みのある白髪。グレーのスーツに、ちょっと濃いめの紺地《こんじ》に赤い斜線をほどよくあしらったネクタイ。まったく、いくつになっても青年のような洒落《しやれ》っ気の抜けない人だ。 「いらっしゃい」  浅見が入ってゆくと、三宅はソファーに深ぶかと身を委ねたまま、屈託のない笑顔を向けて「今日は縁談じゃないよ」と機先を制した。 「それは残念です」 「そうかね、じゃあ、今度は縁談を持って来ようか」 「いえ、それには及びません」 「ははは、どうも敬遠されるなあ。しかし、そろそろ身を固めてもらわないと、おふくろさんはご心配でしょう」  雪江のほうに視線を送った。 「いいええ、この子にはもうサジを投げておりますから」  雪江は微笑を浮かべて、ほんの少し頭を下げてから、ジロリと浅見を睨《にら》んだ。折角《せつかく》、縁談を持って来てくださるのに、何ていう言い種《ぐさ》です——という目だ。 「あの、そうしますと、ご用件は?」  浅見は慌《あわ》てて三宅に言った。 「ああ、じつはね、きみに仕事をお願いしたいのだが、引き受けてもらえるかな」 「仕事といいますと?」 「旅行関係の出版をしているところからの話なんだけれどね、謡曲の舞台になっている史蹟《しせき》めぐりの本を出したいというのだ。早い話、旅行ブームにあやかって、目先の変わった本を作ろうということだね。私に依頼があったのだが、この歳ではちょっときつくてね。それに、いまさら老人の視点で書いたって、どうせロクなものにはならんだろうからと思って、ふときみのことを考えついたというわけだよ。どうかね、お願いできるかな」 「はあ、それはありがたい話ですけど、しかし、僕は謡曲のほうはあまり詳《くわ》しくありませんが」 「なに、詳しい必要はないさ。要するにそういう場所へ行って、観光ガイドブックを書けばいいのだから。それに、きみのおやじさんはずっと謡《うたい》をやっていたのだから、門前のなんとかで、少しは知識はあるのだろう?」 「はあ、それはまあ『失せにけり』ぐらいのことなら……」 「光彦」  雪江は目を三角にしたが、当の三宅には、雪江がなぜ叱《しか》ったのか、まるで通じない。 「それじゃ、やってくれるね。先方にもすでに伝えてある。車も時間もたっぷりある、有能なライターだと紹介しておいた」 「ははは、有能なライターに時間がたっぷりあるというのは、少し矛盾しています」 「なるほど、それもそうかな」  三宅は大きな口を開けて豪快《ごうかい》に笑ったが、雪江は、偉大なるヒマ人の息子に眉《まゆ》をひそめながら、仕方なく「ほほほ」と笑った。 「まったく、あの子には困ったもので」  浅見が部屋を出て行ったあとで、雪江は赤面しながらこぼした。 「世間でいわれているのとは逆に賢兄愚弟《けんけいぐてい》とでも申しますのでしょうか。その典型のようなものですもの、世間さまはきっとお笑いになっているのでしょうねえ」 「そんなことはありませんよ」  三宅はソファーに凭《もた》れていた上半身を、グッと乗り出して、真顔で反論した。 「それは、ご長男の陽一郎《よういちろう》君は警察庁刑事局長という、押しも押されもしないエリートですが、光彦君には光彦君のよさがありますぞ。第一に彼の感性の豊かさと、人間的な優しさは得がたいものです」 「そうおっしゃってくださると、少しは慰めにはなりますけれど」 「いやいや、私はおべんちゃらで言っているのではないですからな。光彦君は浅見——ご主人の、というより、あなたのいいところを受け継《つ》いだと見ておるのだが、違いますか?」 「わたくしのですか? まあ、わたくしが光彦に似ておりますでしょうか?」 「ははは、何だかお気に召さないようなおっしゃり方ですな。しかし、光彦君の繊細《せんさい》な感性は、まさにあなたの芸術的な才能を受け継いだものだと思っておりますよ」 「まあ、そうでしょうかしらねえ」  雪江は「芸術的な才能」と言われて、相好を崩《くず》した。雪江は少女時代から歌やダンスの才能があったし、中年過ぎてから始めた絵画でも、かなり評判がいい。その部分を擽《くすぐ》られると、他愛なく喜んでしまう。 「しかし、光彦君は早く嫁を貰《もら》うべきでしょうなあ。その点だけが問題です」 「でもねえ、あの子を貰ってくださるようなお嫁さんがいらっしゃるかしら?」 「ははは、貰うのは光彦君のほうでしょう」 「いいええ、光彦にはそんな大それた力量はございませんわよ」 「やれやれ、どうもあなたは手きびしいことをおっしゃる……そうですなあ、あのお嬢《じよう》さんなんかはどうかな」 「どちらのお嬢様ですの?」 「水上《みずかみ》家の秀美《ひでみ》さんです」 「水上様とおっしゃると?」 「ほら、水上流宗家《すいじようりゆうそうけ》の水上家ですよ」 「まさか、ご冗談《じようだん》を、ほほほ……」 「いや、冗談ではありませんよ。あのお嬢さんも二十三か四か、そのくらいになったんじゃないかな? そろそろ急がないといけないお年頃でしょう」 「それはそうでしょうけれど、いくらなんでも、水上流ご宗家のお嬢様と、うちの光彦とでは、月とスッポン、提灯《ちようちん》に釣《つ》り鐘《がね》ですわよ」 「そんなことはありませんて……そうそう、釣り鐘で思い出しましたが、いかがですか、十一月の追善能《ついぜんのう》に出掛けてみませんか」 「追善能っておっしゃると、和春《かずはる》さんの追善ですの?」 「そうです、七回|忌《き》だそうです」 「早いですわねえ、もうそんなになりますかしら」  水上家の嫡男《ちやくなん》・水上和春が四十三歳の若さで急死してから、すでに六年の歳月が流れたということか。 「しかし、今回の追善能は、どうやら宗家の引退表明になるのではないかと思えるフシがあります」 「まあ、そうですの? ご宗家が引退なさるのですか?」 「ええ、どうやらそのつもりのようです」 「そうですの……」  雪江は感慨《かんがい》無量だった。夫の秀一《しゆういち》と三宅が年に何度か、宗家の和憲《かずのり》じきじきに指導を受けていた日々のことを想《おも》った。 「でも、ご宗家は一昨年、古稀《こき》のお祝いをなさったばかりではなかったかしら? 年齢的にはまだ充分、舞台の務まるお歳かと思っておりましたのに」  知人が第一線を退くことを見たり聞いたりするのは、自分の老いを知ることであって、一抹《いちまつ》の寂しさを禁じ得ない。 「ご本人はまだ正式に発表したわけではありませんがね。しかし、周辺の噂《うわさ》から推察すると、それとなく引退の準備を始めているのは確かなようですよ。それに、今度の番組が『二人静《ふたりしずか》』ですからね」  三宅は言った。 「それ、どういうことですの?」 「宗家が『二人静』を舞うというのは、引退の表明でもあると、私は考えているのですよ」 「ああ、そういうことですの」  雪江も三宅の言うとおりかもしれないと思った。  能の『二人静』は静御前《しずかごぜん》の霊魂が菜摘《なつみ》女に乗り移り、二人の静御前がまったく同じ扮装《ふんそう》で同じ舞を舞うという物語だ。一子相伝——という意味あいを含《ふく》んでいると想像することもできる。 「そうすると、ツレは和鷹《かずたか》さんがお務めになりますの?」  雪江は訊《き》いた。『二人静』の「ツレ」とは菜摘女を指す。それに対して「シテ」は静御前の亡霊。シテはもちろん主役だが、ツレもほぼ同等の技量と風格を備えた演者によらなければならない重要な役柄《やくがら》である。  水上和憲が引退能を舞うといい、しかも『二人静』だというのなら、シテは和憲、ツレは当然、水上家|唯一《ゆいいつ》の男子である和鷹が務めるであろうと思う。 「いや、それがどうも、そうでないらしいのですな。まあその、背丈の違いということもあるし……」  三宅は妙に歯切れの悪い口調で言った。 「まさか、秀美さんがツレを務めるということじゃないでしょうね?」  雪江はふと気になって、言った。 「いや、どうもそのまさからしい」 「まあ……それじゃ、和鷹さんの立つ瀬《せ》がないではありませんの」 「そうとも言えませんよ。和鷹さんはキリで『道成寺《どうじようじ》』をなさるのです」 「ああ、そういうことですの」  それならば立派に名目は立つ。  とはいえ、宗家が最後の舞台に『二人静』を選んだというのは、背丈の違いすぎる和鷹が相手役を務められないことは、最初から分かりきっているだけに、なんとなく、和鷹を疎外《そがい》したような印象は拭《ぬぐ》えない。 「どうです、追善能《ついぜんのう》、出掛けてみませんか」  三宅はもろもろの意味を込めて、誘《さそ》った。 「そうですわねえ、じゃあ、切符お願いしようかしら。和鷹さんの『道成寺』、拝見したいし……」  雪江はわざと、『道成寺』のほうに魅《ひ》かれるような言い方をした。 第一章 五十鈴《いすず》を持っていた男 1  その男の「死」は東京新宿の高層ビルの前で、衆人環視の中で起こった。  十月も中旬を過ぎると、夕暮れの訪れが早い。その日は朝から天気がよく、退社時刻の午後五時を過ぎても、まだ上空にはたっぷり明るさが残っていたけれど、高層ビルの谷間には、もうねずみ色の夕方の気配が漂《ただよ》って、勤め帰りの人々の足を急がせる。  その男には連れはなかった。背中を少し屈《かが》めぎみに、そそくさとした足取りでビルの中から現れ、石畳の広場を横切り、ビルの敷地のはずれにある階段に足を踏《ふ》み出した。  階段は二十人程度なら、横一列に並べるほど幅の広いものだが、高さはわずか五段しかない。ここから先はビルの敷地であることを示す、境界線の役割を果しているのかもしれない。  少なくとも階段の上までは、その男は、三々五々、家路を急ぐ人々の中の一人のように見えた。  だが、階段に第一歩を踏み出したところで、男はふいに胸の真ん中辺りを押さえて立ち止まった。後から来た若いサラリーマンがあやうく突き当たりそうになったくらいだから、いかにも唐突《とうとつ》な停止だった。  男は流れる人波に逆らう一本の動かない棒杭《ぼうぐい》のように佇立《ちよりつ》していた。通行する人々にとっては、邪魔《じやま》な存在だったに違いない。脇《わき》を避けて通る彼等の、露骨《ろこつ》に非難を込めた視線がいくつも男につきささった。  その悪意に満ちた視線の矢に射殺されでもしたように、男は苦痛に歪《ゆが》む顔で天を仰いだかと思うと、次の瞬間《しゆんかん》、崩《くず》れるように人波の底に沈み込んだ。  男の体は階段を転がり落ちた。オレンジとアイボリーの市松《いちまつ》模様に敷かれた舗道まで転がって、無様《ぶざま》に仰向けに倒《たお》れ、そのまま動かなくなった。  眼は驚いたように見開かれ、口は何かを訴えるようにカッと開かれていた。  男が倒れた時、掌《て》に抱かれていた桐《きり》の箱が投げ出され、階段の下まで飛んでいった。はずみで箱の蓋《ふた》がはずれ、中から飛び出した金属製の物体が、「リリーン リリーン」という美しい音を響かせながら、舗道を五十センチばかり転がった。 「キャーッ」とか「ワーッ」とかいう叫びが周囲で起きた。  人波はサッと引いて、男の周囲に輪を作った。輪は幾重《いくえ》にも重なり、さらにその外側を通りかかった者が、次々に立ち止まり、輪の中心に何があるのか覗《のぞ》き込もうとする。  前列の野次馬《やじうま》の中には、男の不気味な様子から、一歩でも遠ざかろうとする者もいるし、後ろからはもっと中へ行こうとする者もいる。そういう野次馬同士のあいだで、押したり押されたりの騒《さわ》ぎが始まった。  これだけの人が周囲にいるというのに、とっさに駆け寄って助け起こそうとするような、勇気のある人間は滅多《めつた》にいないものらしい。男はずいぶん長いこと、路上に放置されたままになっていた。  それでもようやく、恐る恐る近寄った若い男がいた。 「死んでる!」  その男が叫び、反射的に身を退かせた。 「うっそー……」  背後の女性が半分、笑いかけた顔を強張らせて、言った。テレビのビックリカメラだとか、変わり者のパフォーマンスが、むやみやたら人を驚かせて喜ぶ、困った風潮がある。彼女もまた、単純にひっかかって、笑い物にされることを警戒していた。 「いや、ほんとに死んでるよ」  若い男はもう少し近づいて、断言した。それでようやく、いたずらではないことが、野次馬どもにも分かったらしい。 「救急車だ」「いや、一一〇番しろ」  いろいろな叫びが飛び交い、何人かの人間が、いま出てきたばかりのビルの中へ走り込んで行った。  階段の下の男はピクリとも動かなかった。死はまさに突然、男を襲《おそ》い、決定的なものであったようだ。  救急車が到着するまで、ものの五分間程度であったろう。しかし、近くで男の死に顔を見ている者にとっては、おそろしく長い時間が経過したように思えた。  救急隊員がすぐに男の死を確認した。変死者の処理となると、もはや警察の管轄《かんかつ》に属する。隊員たちはそのままの状態を維持して、パトカーの到着を待った。  パトカーは二分後にやってきた。  警察官は私服が四人と制服が五人。救急隊員の報告を聞くと、死んだ男の周辺には制服の警察官が立って、野次馬を半径五メートルほどの円の外側に下がらせた。  ポッカリあいた空間の舗道に、男の死体と桐の箱と、奇妙な金属製の物体が転がっていた。 「これは?」と、警察官がその物体を指差して、野次馬に訊《き》いた。 「その人の物らしいですよ」  野次馬の群の中から、最前の勇気ある若い男が教えた。 「その人が転んだ時、手の中から落ちたみたいです」 「すると、おたくさん、この人が死ぬところを目撃してたのですか?」  刑事が近づいて訊《たず》ねた。 「ええ、まあ、たまたま通りかかったもんですから」  若い男はいくぶん迷惑《めいわく》げな表情を作って、それでも好奇心のありそうな様子で答えた。 「ほかには、どなたかいらっしゃいませんか?」 「私も見ていました」 「私も」  合計三人の男性と二人の女性が名乗りを上げた。男が倒《たお》れた時点では、実際には、周辺に少なくとも十数人はいたはずだが、あとは関わりあいになることを敬遠して、尻込《しりご》みしている。  刑事たちは手分けして、それぞれの目撃者から談話を訊き取りしていた。  救急隊員のリーダーが、警察官の指揮を取っている刑事に近づいて、耳打ちをした。 「あの、この人の死因ですが、毒物によるものである疑いがありますよ」 「ほんとかね?」  刑事は顔色を変えてパトカーに走った。  それから二十分後には、応援の警察官が私服、制服とりまぜて殺到《さつとう》した。鑑識の作業服を着た連中もかなりの数だ。検視官と警察医もむろんいた。  ロープが張りめぐらされ、現場一帯は警察の厳重な管理下におかれた。  死んだ男は地味な紺色《こんいろ》のスーツを着ていた。胸の内ポケットに十万円少しが入った財布《さいふ》があり、その中から名刺が十枚出てきた。そのうちの八枚は同じもので、どうやらそれが死んだ男のものらしい。  名刺には「愛知県|豊田《とよた》市——」の住所と、「H」という家電メーカーの営業所名、それに「所長代理 川島孝司《かわしまたかし》」という名前が印刷されている。  先程、名乗りを上げた五人の目撃者は、新たにやってきた刑事たちに、さらに詳細《しようさい》な事情聴取をされた上、住所まで控えられた。どの顔も、要領よく逃げた連中を羨《うらや》み、正直に関わりあいになったことを後悔しているような表情を浮かべていた。  死体はやがて運び去られたが、周辺での事情聴取は続いた。  死んだ男がビルの中から出てきたことは、何人かの目撃者の証言を得ることができたので、明らかになっていた。  そして、彼は階段の上までは、こういう運命を予測させるような、何の兆候《ちようこう》も見せずにやって来たのだ。そこから一歩、階段を降りかかったところでおかしくなった。 「サドンデスですよ」  ゴルフ好きらしい男が、そういう表現をしてみせた。洒落たことを言ったつもりなのだろうけれど、刑事のひと睨《にら》みを受けて、興醒《きようざ》めした顔になった。  川島という男が、ビルの中のどこで何をしていたのかが、警察がまず最初に特定しなければならない事柄であった。  このビルは地上五十二階、地下四階の巨大高層ビルである。地下四階は動力室など、ビルの管理関係に使用されている。地下二階と三階は駐車場。地下一階には飲食店、理髪店や雑貨店などがある。  地上部分は、一階はロビー、エレベーターホールとサロン、喫茶店。二階に紳士婦人服、皮製品など高級商品を扱う店舗が入っているほかは、三階から上はほとんどがオフィスである。  ただし、五十一階と五十二階には、展望のきく高級レストランやサロン風のバーなどが収まっていた。  一つのビルとはいえ、これだけの巨大さとなると、死んだ男がそれらのどこから現れたかを特定する作業も、なかなか容易なことではない。  まず、オフィス関係に当たったが、すでに退社時刻を過ぎていることもあって、はっきりしたことは分からないが、どうもそれらしい男が立ち寄った形跡《けいせき》はないらしい。  また、飲食関係も、これまたはっきりした回答は得られない。何しろ客の数は多く、しかも雑多だ。それに、単にロビーなどにいて、誰かと会っていたというような人物だとすると、目撃者はいよいよ探しにくい。  その間に、警察は男の所持していた名刺の「H」の豊田営業所に連絡している。 「おたくの会社に川島さんという人はおられますか?」  警察からの問い合わせに対して、最初に電話口に出た若い男は「はい、おりますけんど」と、のんびりした口調で答えたあと、意外なことを言った。 「いま、大阪のほうへ出張しております」 「えっ? 大阪? 東京の間違いじゃないのですか?」  問い合わせした刑事は驚いて訊《き》いた。 「いえ、大阪です」  おかしなことを言うな——と言いたげに、応対する若い男の声はブスッとした感じになった。 「じつはですね、川島孝司さんの名刺を沢山持った男の人が、東京の新宿で亡くなったのですがねえ」  警察官は、一語一語、はっきり区切るように言った。 「はあ?……」  相手も驚いたにちがいない。にわかには信じられない様子だった。  それから「森川《もりかわ》」と名乗る所長が電話口に出た。こっちのほうはさすがに世慣れた、落ち着いた話しぶりだったが、それでも川島の突然の死——しかも、場所が大阪でなく東京であったことに得心がゆくまで、手間がかかった。  数度にわたる遣《や》り取りがあって、ようやく、どうやら警察の言っていることが事実であるらしいことを信じてくれた。 「とにかく、身元確認のために、誰か来てもらいたいのですが」  説明に手間どったぶんだけ、警察官はつっけんどんな語調になっていた。 2  森川所長と部下が一名、それに死んだ川島の家族が新宿署に到着したのは、午後十時を少し過ぎた時刻であった。愛知県の豊田市という遠方からやって来たにしては、かなりの速さといっていい。  川島の家族は妻のなみ子、長女の智春《ちはる》、長男の隆夫《たかお》の三人で、遺体との対面の際、なみ子ははじめ、茫然《ぼうぜん》自失の態だったが、突然遺体の胸にとりすがって、悲鳴のような声で泣いた。それに較べると、娘と息子は涙は流したものの、存外しっかりと事実を受け留めている様子で、頼もしい感じがした。  新宿署の応接室に五人の関係者を入れ、事情聴取を始めた。  彼らが何よりも驚いたのは、川島の死因が病死でなく、毒物を服用したためであったということだ。 「毒を飲んだのですか?」  五人が五人とも、ほとんどいっせいに、刑事に視線を向け、口走った。 「そんなばかな……」  妻のなみ子がつけ加えた。 「いや、事実です」  刑事は冷ややかに言った。 「ご主人は青酸性の毒物を服用して、死亡したのです」 「でも、主人が自殺するなんて、そんなこと考えられませんよ」 「いや、自殺だとは言っておりません」 「えっ? じゃあ、他殺……殺されたのですか?」 「その疑いが強いと考えています」  刑事は川島が死亡した時の状況を説明して聞かせた。 「解剖所見《かいぼうしよけん》では、ご主人はどうやらカプセル入りの毒物を飲まされ、現場にさしかかった時にカプセルが溶け、その場で急死することになった模様です」 「でも、そんな……いったい誰が、どうしてそんなことを?」 「まだ分かっておりません。川島さんが誰と会ったのかも捜査中です」  刑事は川島が持っていた他人の名刺を出した。いずれも名古屋市にある電機関係の会社の人間であった。 「この名刺の人物はご存じですか?」 「ああ、その人はお二人とも名古屋の業者の方で、一昨日、わが社に見えたのですよ」 「そうですか、それでは今日の事件とは無関係ですね。それにしても、誰かに会っているはずなのですがねえ」  刑事はしきりに首をかしげた。 「そのことについてなのですが」  と営業所長が言った。 「昨日の段階では、川島君は大阪に出張すると言っていたのですが、なぜ東京にいたのでしょうか? そこのところがどうも、よく分かりません」 「そのようですなあ。しかし、分からないのはむしろわれわれの側です。したがって、そういう点について、みなさんからいろいろと事情をお訊《き》きしなければなりません。今夜は東京に泊まっていただくことになります。ご希望ならば、この近所に宿を取って差し上げますが」 「いえ、それはわが社の本社のほうで手配を完了していてくれました」  所長が言った。 「そうでしたね、おたくは本社が東京でしたね。そうしますと、川島さんは本社のほうに立ち寄るとか、何か連絡されたというようなことはなかったのでしょうか?」 「それらしいことは聞いておりません」  所長は憮然《ぶぜん》とした顔で言った。 「ところで、川島さんが亡くなった時、こういうものを所持しておられたのですが」  刑事は例の金属製の物体と桐箱をテーブルに載《の》せた。 「これについては、ご存じですか?」  五人の眼が「物体」に注がれた。しかし、しばらく眺めたあと、それぞれが顔を見合わせて、一様に横に首を振った。  物体は銀色に光っている。全体としては三角形のものだが、三つの突起部分の先端は球形になっていて、中は空洞、しかもその中に小さな金属の玉が入っている。  球形の部分には横一文字に切り込みがつけられ、「物体」を振るとリーンリーンという妙《たえ》なる音がした。  つまり、これはどうやら鈴の一種と考えてよさそうだ。 「鈴ですか?」  音を聞いて、営業所長もそう言った。ほかの全員も同じように思ったらしい。 「そのようですねえ。妙《みよう》な形をしていますが、そうとしか考えられません」  刑事は言って、もう一度、リーンリーンと「鈴」を鳴らした。 「この鈴みたいなものが、何か事件と関係があるのですか?」  所長は訊《き》いた。 「いや、そういうわけではありません。ただ、妙な物だということ以外、べつに怪しむ要素は何もありませんよ」 「パパはお土産にでもするつもりで買ったのじゃないかしら?」  智春が言った。 「しかし、それにしては桐箱を包装紙に包まず、剥《む》き出しの状態で持っておられたというのがですね、ちょっとおかしいわけでして」  刑事はやはり、明敏《めいびん》に不自然さをキャッチしている。 「ご家族の方も、この鈴——みたいなものを見たことはないのですか?」 「ええ、ありません」  智春が代表格で答えた。母親はもう涙のほうは涸《か》れはてたが、ショックで口もきけない様子だ。  それはそうだろう、つい今朝がたまでは元気そのもので、「行ってくるよ」という声もまだ耳に残っているような夫と、変わり果てた姿で対面したのだから。  もっとも、智春だってショックでないわけでも、悲しくないわけでもない。しかし、ここは母親に代わってしっかりと事態を把握《はあく》しなければならないと、精一杯、気を張っているのだ。  奇妙な形の「鈴」には智春もまったく見憶《みおぼ》えがなかった。第一、これを「鈴」と呼ぶべきなのかどうかさえ、智春には分からない。ただ、振ると鈴のような澄んだ音色が聞こえるから、たぶん鈴なのだろうと推測しているにすぎない。  結局、刑事は諦《あきら》めて、鈴を単なる遺品として、遺族に渡した。  智春は刑事から「鈴」を受け取る時、無意識のうちに捧《ささ》げ持つようにした。そうして、ほんの少し動かしただけで、鈴は妙音を発した。 (ああ、これがパパが最期の瞬間《しゆんかん》に手にしていた品なのだわ——)という想《おも》いが、強く湧《わ》いてくる。  握りしめると、まだ父の掌《て》の温もりが伝わってくるような気がして、智春の目から新しい涙があふれてきた。  刑事の質問は、「鈴」から離れ、べつの問題に移っていった。  川島孝司は、いったいどういう理由で、大阪に行くと言っていながら、反対方向の東京に現れたのか?  あのビルに何の用事で訪れたのか?  そこで誰と会ったのか?  いつ、どのような方法で、どういう理由で毒を飲まされたのか?  いくつもの「?」が五人の関係者にぶつけられたが、五人はまるで痴呆《ちほう》のように、質問ごとに「知りません」「分かりません」を繰り返すばかりだ。  その間に、「H」社関係の情報を収集した結果、川島が予定どおり大阪へ行っていたことが分かった。川島は午前八時頃に家を出たあと、新幹線で大阪へ行き、予定どおりに用件を済ませ、昼過ぎには引き上げている——ということだ。どうやらその足で、名古屋を通過して東京へ向かったらしい。 「東京行きのことは聞いてないのですね?」  刑事は森川営業所長に訊いた。 「はい、まったく聞いておりません」 「というと、会社には無断で出張したことになりますな」 「まあ、そうとも言えますが……」  所長は苦い顔をした。 「ところで、大阪へはどんな用件で行ったのですか?」 「じつは、うちの営業所と大阪支店とのあいだで、ちょっとしたトラブルがありまして、その調整に行ってくるというような話をしていました」 「トラブル? それはどういったことなのですか?」  トラブルと聞いて、刑事はすぐに食いついてきた。 「いや、これは社内的な問題です。事件とは関係ありません」 「関係があるかないかは警察が判断します。とにかく、この際はなんでもいいですよ、事件と関係がなさそうなことでも、トラブルといえるようなものがあるなら、聞かせてください。それとも、秘密にしておかなければならないような問題なのですか?」 「いや、そういうわけではありません」 「だったら教えてくれませんか」 「はあ……」  森川はしぶしぶ言った。 「じつは、大阪支店の営業マンが、うちの管内の問屋さんと接触《せつしよく》しまして……つまり、テリトリー外の領域に進出してきたわけです。で、そういうのは同じ社同士といえども、具合が悪いわけでして、その点について、事情をはっきりさせてもらうために出向くと言っていたのです」 「ちょっと待ってください。いまのおっしゃり方だと、所長さんは川島さんが出張したことについて、第三者的な言い方をしているようですが、所長さんがそういう指示を出されたのではないのですか?」 「はあ、私はたしかに所長ではありますが、豊田営業所に着任して日も浅いわけでして、当面、ややこしい問題は、ほとんど川島君に任せておりました」 「そうすると、川島さんは、勤務年数はかなり長いのですか」 「ええ、入社してまもなく、現在の豊田営業所に勤務するようになりました。もともと地元の出身で、人脈も豊富でしたから、おのずから販売力もありましたので、本社も全幅《ぜんぷく》の信頼を置いていたようです。いずれは私に代わって、豊田営業所の所長になるべき人材でした」 「だとすると、そういう信頼を裏切ったりするような、つまりその、会社に対する背信行為をするような人ではなかったということですね?」 「当然です」  所長は家族の手前もあるのか、やや憤然《ふんぜん》とした演技を見せて、断言した。 3  警察を出ると、森川所長と所員の鈴木《すずき》、それに川島家の三人は新宿のホテルに入った。森川と鈴木は同じ部屋、智春と母親はツインの部屋に入り、隆夫はシングルルームを取った。  警察での事情聴取を終えた頃には、すでに夜は更《ふ》けていた。母親はバスを使う気力もないと言って、早々にベッドに横たわった。智春はシャワーを浴び、ベッドの上で、例の「鈴」を手にして、ぼんやりと眺めた。  見れば見るほど、奇妙な形をした「鈴」であった。  親指と人差し指、中指の三本で、三つの鈴のあいだを結ぶ、やや湾曲したブリッジの部分を摘《つま》むようにして持つと、しっくりと手の中になじむ。それが正しい持ち方なのかどうかは分からないが、そうして持つのが自然なように思えた。  手をほんのわずか動かしただけで、鈴は玄妙《げんみよう》な音を出す。三角形をかたちづくる位置関係に何かの仕組みがあるのだろうか。それによって、それぞれの鈴から発する音が、たがいに干渉しあい、微妙《びみよう》なハーモニーを作り出すのかもしれない。  何にせよ、この一風変わった形状に、何らかのいわれがあることだけはたしかに違いない。  どういうわけだろう、鈴が鳴ると、智春は不思議に安らいだ気分になれた。  それは母親も同じ気持ちらしく、目を閉じたまま、「いい音ねえ」と言った。 「なんだか、死ぬ時にそれを持っていれば極楽へ行けそうな感じだわね」 「いやだ、変なこと言わないでよ」  智春は母を叱《しか》った。しかし、心の内では、この鈴を持って死んだ父親は、本当に極楽へ行けたのかもしれない——と、なかば本気で思った。 「パパは、東京で、誰と会ったのかねえ」  ずいぶん時間が経《た》って、もう眠ったものと思った母親が、ふいに言い出した。 「そんなこと、分からないわよ。警察が調べてくれるんじゃない」 「もしかすると、女の人じゃないかねえ」 「ばかなこと言わないでよ」  智春は呆《あき》れたように否定したが、内心、ドキリとした。そういう発想がまるでなかったわけではない。父親は四十九歳。意識したことなどなかったけれど、客観的に見れば、ミドルエイジの魅力《みりよく》を充分に持った、一人の男性には違いないのだ。  しかも、会社にも家族にも嘘《うそ》をついてまで東京に出たということからいって、「出張」の目的がそういう不純なものでなかったとは、断言しきれない。 「あのパパにかぎって、そういうおかしなことはしない人よ」  智春は自分の自信のなさを隠すために、急いで言った。 「そうだわよねえ……そうよねえ」  母親は安心したのか、今度こそ、寝息を立てて眠りに落ちた。  智春は眠れなかった。枕元《まくらもと》に置いた「鈴」が視野いっぱいに大きく映っている。それを眺めていると、何かこの世の物ではない、異次元の世界の物体に思えてくる。 (そうか、UFOとそっくりなんだわ——)  智春は気がついた。いや、実際にUFOを見たこともないし、もともとそういうものを信じないタチだが、雑誌やテレビで興味本位に採り上げているUFOの絵とよく似ていると智春は思った。  智春は「UFO」を連想したのだが、少し科学的知識がある者なら、それはUFOよりも宇宙ステーションといったほうがピッタリの形状であることに気づくだろう。じつは智春もそう思ったのだ。ただ、彼女の知識ではUFOと宇宙ステーションの区別がつかないだけのことである。  翌朝、智春はホテルのレストランで、弟にその発見を話して聞かせた。 「そんなこと、おれ、気がついていたよ」  弟の隆夫はあっさり言った。 「UFOじゃなくて、宇宙ステーションみたいな恰好《かつこう》だよね」 「あ、そうか、あれは宇宙ステーションていうのね」  母親は食欲がないと言って、部屋から出てこない。営業所の二人は、少し離れた席で、黙々《もくもく》と食事をしている。その他のホテルの客たちは、楽しそうに談笑している。 「信じられないな」  智春は言った。 「何が?」 「パパがもう、この世にいないっていうことがよ」 「ああ」  隆夫も頷《うなず》いた。 「ずっと、平らな道が続いていると思っていたら、突然、足元に落とし穴があったみたいな感じだよね」 「そうね」  今度は智春が頷いた。なかなかいい譬喩《ひゆ》だと思った。  隆夫は十五歳。まだ中学三年である。智春はまもなく大学を卒業するが、隆夫は高校から大学へと、これからが大変な時期だ。 「これからどうなっていくのかなあ」  智春は心細い口調になった。 「なんとかなるよ。おれ、頑張《がんば》るからさ」  隆夫はトーストを頬張《ほおば》りながら、言った。声変わりが終わったのは、ついこのあいだみたいに思っていたのに、もう亡き父のあとを継いで、いっぱしの一家の主らしく、責任感を窺《うかが》わせるような口振りである。(へえーっ)と、智春は目を見張って、弟を眺めた。  食事が終わってまもなく、刑事がやって来た。 「必要な調べは完了しましたので、ご遺体のほうは、いつでもお引き取りになって結構です」  司法|解剖《かいぼう》が終わった——とは言わない。 「ひとまず、ご自宅のほうへ帰られ、葬儀をなさったらいかがでしょうか」 「そうですね、そうさせてもらいましょう」  営業所長が家族を代弁して言った。 「こんな場合ですから、少し慌ただしいようですが、今夜はお通夜、明日、葬儀ということでいかがでしょうかね?」  母親に訊《き》いたが、返事は智春がした。 「はい、それで結構です。お願いします」 「警察のほうに来ていただきたいのですが、事件を聞きつけたマスコミ関係の連中が大勢やってきていますので、遺体|搬送車《はんそうしや》は警察で手配して送り出します。みなさんはご自宅のほうへまっすぐお帰りになったほうがいいでしょう」 「はあ、そうしていただければ助かります」  所長は警察の親切な計らいに感謝した。それは智春たち遺族も同じ気持ちだった。警察なんて、あまり付き合いたくない相手だと思っていたけれど、まんざら悪い連中ではなさそうだ。  営業所の二人と川島家の姉弟は、昼少し前の新幹線に乗った。母親だけは遺体搬送車に添乗《てんじよう》して、すでに東名高速道を走っているはずであった。  列車の中で、智春はまた「鈴」を取り出して眺めた。持ち歩く際に音がしないよう、ティッシュペーパーで幾重《いくえ》にもくるんでおいたのを、注意深く広げる。 「ほんとに、見れば見るほど不思議な恰好《かつこう》してるわねえ」 「ああ、変わってるね」  隆夫は姉の手から「鈴」を取った。リリーンという音がびっくりするほど大きく、響きわたった。  車内はそれほど混んでいなかったけれど、いくつかの視線がこっちに向けられた。姉と弟は首をすくめ、小さくなった。 「珍しいものをお持ちですねえ」  斜め前隣のシートにいた紳士が、にこやかに振り返って、言った。  姉弟は顔を見合わせた。 「ご信仰ですか?」  紳士は言葉を続けた。 「は?」  智春は彼の言う意味を量りかねて、首を傾《かし》げるようにした。 「いや、天河《てんかわ》神社をご信仰かと思ったものだから……そうすると、あなたは芸能関係の方ではないのですか?」  智春の顔を見つめている。 「芸能関係?……いいえ、とんでもない」  智春は、もし父親のことがなければ、思わず吹き出すところだった。 「いや、これは失礼」  紳士は詫《わ》びて言い、「女優さんかと思ったものですから」と付け加えてから、元の姿勢に戻《もど》った。  姉弟はまた顔を見合わせた。紳士の言ったことが、何のことやらさっぱり分からなかった。ただし、「女優さんかと思った」という部分だけは克明に記憶された。 「女優かよ、この顔が」  隆夫は姉をからかって、智春の脇腹《わきばら》をつっ突いた。父親の死という悲しい現実を忘れようとして、はしゃいでみせているようにも思えた。 「ばかっ……」  智春は小さく弟を叱《しか》ったが、紳士が言ったもう一つの言葉のほうが気になった。  ——テンカワ神社——  紳士はそう言ったのだ。「テンカワ」は「天川」と書くのだろうか。いずれにしてもそういう名前の神社があるらしい。  ——ご信仰ですか?——  とも言った。そうすると、この「鈴」はその神社に関係があるのだろうか?  智春は立って行って、紳士に声をかけた。 「あの、ちょっとお訊きしますが」 「はい?」 「この鈴ですけど、そのテンカワとかいう神社と関係があるのですか?」 「ああ、それじゃ、そのことを知らないで、鈴を持っているのですか」  紳士は呆《あき》れたような笑顔を見せて、 「そうですよ、その鈴は『五十鈴《いすず》』といって、元来、天河神社のご神体なのです。天にサンズイの河を書いて天河神社。あなたがお持ちのはまあ、それをかたどったレプリカというべきものでしょう。一般にお守りとして売られているのは、ずっと小さいミニチュアサイズですが、それは大型だし銀製だし、特別に製《つく》られたものと考えられますね」 「天河神社というのは、どこにあるのでしょうか?」 「奈良県です。奈良県の吉野《よしの》の奥ですよ」 「奈良県……」 「古来、芸能の神様として知られているのですが、ご存じないですか?」 「ええ、知りません。はじめて聞きました」 「そうすると、その鈴は?……」  紳士は怪訝《けげん》そうな顔になった。天河神社の所在どころか、名前さえ知らないような娘が、天河神社の特製のお守りを持っていることに疑問を感じたのだろう。 「ある人からもらったのですけど、詳《くわ》しい説明を聞かなかったのです」  智春は慌《あわ》てて言い訳をして、お辞儀《じぎ》をすると、自分の席に戻《もど》った。 「どういうことかしら?」  智春は弟の顔を見ながら、言った。 「パパがそんな、天河神社だとか、そういうところへ行ったって話、聞いたことがないわよね」 「うん。第一、もし家の中で持っていれば、この音だもの、気がつくに決まっているじゃないか」 「そうよね……だとすると、誰かにもらったっていうことか」 「ああ、それも、昨日だね」  姉弟はギョッとして、たがいの顔を見た。 「じゃあ、もしかすると、これをくれた人が……」  犯人——と言いそうになって、智春は口を閉ざした。 第二章 『道成寺《どうじようじ》』の鐘《かね》の中で 1  和鷹《かずたか》はその朝、珍しく起き抜けにシャワーを浴びた。それも、水のままで浴びた。 「気分|爽快《そうかい》だな」  言葉どおり、爽《さわ》やかな表情で食卓についた時、秀美《ひでみ》は兄が今日の舞台に、なみなみならぬ意欲を燃やしていると感じた。きちんと七・三に分けた髪型。生《き》なりの、ざっくり編んだセーターの襟元《えりもと》をひきしめる、白地に紺のストライプが入ったワイシャツ。見慣れているはずなのに、今朝はまぶしいほどの兄であった。 「朝から張り切って、舞台までに疲れちゃうわよ」  秀美は兄のためにコーヒーを注《つ》いで上げながら、言った。  追善能《ついぜんのう》の開演は午後一時、和鷹の『道成寺』は番組の最後だから、おそらく四時近くになりそうだ。 「宗家《そうけ》はまだ?」  和鷹はコーヒーに口をつけた恰好《かつこう》で、目を奥の方角に向けて、訊《き》いた。 「お祖父《じい》様は仏間にいらっしゃるのじゃないかしら」 「ああ、そうか。僕もお父様にお線香を上げてこなくちゃいけなかったかな」 「あとでいいんでしょう、出がけでも」 「うん、そうだね」  しばらく、会話が途切《とぎ》れた。テーブルについているのは、兄と妹だけだ。母親の菜津美《なつみ》も祖父の支度《したく》に掛かり切りなのだろう。 「昨夜|遅《おそ》く、宗家に呼ばれて、蛇《じや》の面を許されたよ」  和鷹は厳しい目をして言った。 「僕は般若《はんにや》をつけるつもりだったのだけど、宗家は蛇の面にしろとおっしゃる」 「蛇の面て、あの雨降らしの面のこと?」 「うん、そうだ」 「雨降らしの面」と異名のある蛇の面は、室町《むろまち》時代の作と伝えられ、どういうわけか、その面を使うと必ず雨が降ると言われる。  その形相のあまりの恐ろしさに、太閤秀吉《たいこうひでよし》がお留《と》め面にせよと命じたという言い伝えもあるほどの傑作《けつさく》だ。  古来、「雨降らしの面」は、水上流宗家《すいじようりゆうそうけ》が『道成寺』を舞う時にのみ着用する習わしになっている。しかし、実際に用いられることは無いに等しい。文化遺産的価値の高い「お留め面」であることもその一因だが、『道成寺』それ自体が動きの激しい曲目で、老齢の宗家|和憲《かずのり》が存分に演じきるには、ややハードなこともあると言われる。  それを和鷹は、宗家の口から着用を許された。そのことの持つ意味は大きい。 「ほんと、おめでとう」  秀美は思わず口走るように言った。 「ありがとう」  和鷹は眩《まぶ》しそうに妹を見たが、それほど嬉《うれ》しい顔つきではなかった。 「僕にはちょっと荷が重すぎると、お断りを言ったのだけどね」 「どうして? そんなの余計な謙遜《けんそん》だわ。お兄様のそういうところがいけないのよ」  秀美はつい、兄を叱《しか》るような強い口調になった。和鷹が無用の謙遜をしたい気持ちは、秀美にも分からないではなかった。だからこそ、もどかしい想《おも》いが突き上げてくるのかもしれない。  水上《みずかみ》和鷹は宗家・水上和憲の息子・和春《かずはる》のただ一人の男子である。つまり御曹司《おんぞうし》だ。  色白の細面、憂《うれ》いを帯びた切れ長の目、まるで平安朝の貴族を想わせるような風貌《ふうぼう》に、若い女性ばかりでなく、雪江《ゆきえ》のような年代の人や男性たちの中にも、幅広く崇拝者がいるという。それなのに、いわゆる御曹司らしい、物怖《ものお》じしない風格だとか、押し出しのよさだとかいったものに欠ける。むしろ、どことなくいじけたような、時には卑屈に近い控えめな様子さえ窺《うかが》えるのである。  そういう和鷹の性格は、彼が自分の出生の秘密を知った時から始まった。  和鷹と秀美の父・水上和春は六年前に心臓の発作で急死した。まだ四十三歳という若さであった。  和春には男女一人ずつの子がいる。長男は和鷹、長女は秀美である。  しかし、和鷹は戸籍上は水上和春の長男と記載されているが、和春と菜津美夫人のあいだに生まれた子ではない。  和春と菜津美が結婚した七か月後に、和春がそれまで付き合っていた女性が男子を出産した。それが和鷹である。  和春の急死によって、水上宗家の血を引く唯一《ゆいいつ》の男子である和鷹が、ゆくゆくは水上流宗家の名を継《つ》ぐのは当然のことと、世間一般では考えられた。  ところが最近になって、宗家の内部事情に詳《くわ》しい関係者のあいだで、後継者《こうけいしや》問題をめぐって、やがて水上家ではひと波瀾《はらん》ありそうだ——という噂《うわさ》がひそかに囁《ささや》かれていた。  和春・菜津美夫妻には男子はなかったものの、秀美という娘がある。この秀美の存在が、彼女の成長とともに大きくクローズアップされてきたのだ。  菜津美未亡人はもちろんだが、宗家の和憲がほとんど溺愛《できあい》といっていいほど秀美に愛情を注いでいる。だから、水上流二十代目は秀美が継《つ》ぐことになる可能性がある——というのが噂の内容だ。  能楽の家元を女性が継ぐということは、どの流派にもいまだかつてない。まあ、常識的には秀美に婿《むこ》を取るということになるのだろう。しかし、ことによると、そういう慣例も無視して、何が何でも秀美本人を跡継ぎにしてしまうことだって、考えられなくはない——と、まことしやかに囁く者もいた。  噂は元来、無責任なものだが、この場合はまんざら根拠《こんきよ》のないことではなかった。それは何よりも、水上秀美のたぐいまれと言っていい、能楽《のうがく》の資質にある。事実、血筋というのだろうか、秀美は天性の才能に恵まれ、謡《うた》うことも舞うことも、ひょっとすると和鷹を凌駕《りようが》するのではないかと評判されるようになっていた。  能の舞には男と女のハンディはかなりあるものとされている。仕舞《しまい》程度のことは女性でもそれなりにさまになるが、シテを務めるとなると、体格的にも迫力の点からいっても、男性にはかなり見劣りがする。  しかし秀美は和鷹よりは僅《わず》かに足りないものの、一六四センチの身長がある。肩幅も女性としてはガッチリしたタイプだ。  元来がアルト系の声で、謡も堂々としていて、並み居る弟子《でし》たちの誰にもひけをとらない。  何よりも舞のセンスが優れていた。これはやはり天賦《てんぷ》の才というしかないだろう。事実、秀美の舞は和憲や和春がことさら依怙贔屓《えこひいき》して、懇切《こんせつ》に教えたというわけではなく、いわば幼い時からの見よう見真似《みまね》で会得《えとく》した面が多いというのだから驚く。 「秀美はうまいね」  祖父の和憲や、生前の父親に稽古《けいこ》をつけてもらったあとなど、和鷹が感心して言うほどであった。二人は異母兄妹だが、幼い頃からほとんど一緒に育てられたから、表面上は本当の兄妹と変わりない。 「ほんと? お兄様にそう言ってもらえるなら、ほんとにいいセンいってるのかもね」  秀美は褒《ほ》められると、素直に喜んだ。その頃は、彼女自身にはプロとして舞台に立つなどという意識はなかったから、気楽に舞えるのだし、それがまたのびやかな芸に結びついていた。  高校三年の終わり近くまではそんな状態だった。高校はいわゆるお嬢《じよう》さん学校といわれる『S女子学院』で、秀美は高校を出たらそのまま、エスカレーター式に大学部まで進むつもりだった。  その矢先、秋が深まろうとする台風の夜、父親の和春が急逝《きゆうせい》した。  和春の突然の死は、水上家にさまざまな波紋を生じさせることになった。秀美にとっても、一生を左右するような変化をもたらしたのである。 「おまえ、芸大へ行きなさい」  新しい年の初めに、祖父の和憲は自室に秀美を呼び入れて、そう命じた。これまで稽古をつける時でさえ、秀美だけにはいつも柔和な和憲が見せたこともないようなきびしい様子だった。 「芸大? どういうことですか?」  秀美はびっくりして訊《き》き返した。両親にはもちろん、宗家である祖父に対しては、これっぽっちも逆らうような言動をすることは許されない——というのが、昔からの水上家の家風だけれど、今度ばかりは素直に聞いていられない気がした。 「音楽部で能楽《のうがく》の勉強をしなさい」 「能楽? どうしてですか?」 「どうして? 何を言っておるんじゃ。能楽師の娘が能楽を学ぶのに何の不思議もないじゃろうが」 「でも、私はフランス語のほうをやりたいって思っているんです。それに、能楽はお祖父様やお兄様に教えていただけるじゃありませんか。お兄様だって、大学になんか行かないで、お祖父様とお父様に教わったのでしょう?」 「いや、これからの指導者は、狭い知識だけでなく、広い視野に立つことが必要になってくるはずじゃ」 「指導者だなんて、そんな難しいこと……」 「とにかく、いいからそうしなさい」  祖父は鷹《たか》のように鋭い眼をして、言った。  その瞬間《しゆんかん》、秀美は(もしや——)と思い当たった。祖父が孫の和鷹をあまり好きでないらしいことは、秀美にもうすうす察しがついていた。  和春の妻——つまり秀美の母親・菜津美は、和春よりもむしろ祖父の和憲のほうが気に入って、息子の嫁にしたという経緯《いきさつ》があったらしい。  ところが、菜津美には男子が生まれずに、外の女性に唯一《ゆいいつ》の男子が誕生した。  思えば、その時から和鷹の悲劇が始まっていたのだ。 「お祖父様はそうおっしゃるけれど、私には指導者になれるような、そんな立派な才能はありませんよ」  もし、自分が祖父の思いどおりに能楽の道に進めば、必ず、水上家の跡継《あとつ》ぎ問題に波瀾《はらん》を招くであろうことを、賢明にも、秀美は察知していた。 「そんなことはない。おまえは和春以上の天与の才能に恵まれている。その才能をあたら埋《う》もれさせてしまうべきではないのだ。とにかく芸大に進みなさい。いいね」  和憲は断定的に言った。  結局、秀美は祖父の言うがままに芸大に進学し、邦楽科で能楽を専攻した。  和春の七回忌に和憲が追善能を催すと言い出したのは、秀美が芸大の大学院で修士課程を終えた祝いの席でのことだった。  そこには水上宗家一門の主だった者が、ほとんど勢揃《せいぞろ》いしていたといっていい。もちろん、和鷹もいたし、菜津美未亡人も、秀美も同席していた。 「それはよろしいですなあ」  分家筋の長老の一人である高崎義則《たかざきよしのり》が言った。 「まだ半年以上もありますから、盛大な会を準備できるでしょう」 「うん」  和憲は満足そうに頷《うなず》いて、 「番組は、『二人静《ふたりしずか》』がいいだろう」  と言った。  誰も異論を唱える者はいない。『二人静』はストーリー性には乏しいが、静御前の亡霊が現れるという哀切な背景を持ちながらも、華麗《かれい》で優雅な演目である。  能楽の演目には、シテ(主役)の役柄《やくがら》「神」「男」「女」「狂」「鬼」に応じ、大別して五つのタイプがある。  神——『脇能《わきのう》(神事物)』 鶴亀《つるかめ》、高砂《たかさご》、養老《ようろう》などの法楽物《ほうらくもの》  男——『二番目物(修羅物《しゆらもの》)』 敦盛《あつもり》、清経《きよつね》などのように、修羅道《しゆらどう》に落ちた武将の幽霊が、旅僧の回向《えこう》によって成仏《じようぶつ》するというパターン  女——『三番目物(鬘物《かずらもの》)』 羽衣《はごろも》、井筒《いづつ》、二人静など、王朝文学の女性の恋物語を優美に舞う  狂——『四番目物(現在物、狂物《くるいもの》)』 安宅《あたか》、道成寺《どうじようじ》、蝉丸《せみまる》などのような現実(といっても多分に伝説的だが)の事件に取材したもの  鬼——『五番目物(切能《きりのう》、鬼畜物《きちくもの》)』 鞍馬天狗《くらまてんぐ》、紅葉狩《もみじが》り、羅生門《らしようもん》など、伝説上の鬼畜|退治《たいじ》や調伏《ちようぶく》を扱ったもの 『二人静』は三番目物の中でも、とりわけ華麗な演目といっていい。  物語の筋は次のようなものだ。  吉野・勝手《かつて》神社の七草神事に供える若葉を摘みに出た乙女は、帰り道に臈《ろう》たけた女に出会った。女は「吉野の社家のひとびとに、私の霊を弔ってくださるようお伝えください」と頼む。乙女は驚き怖れながら、「あなたのお名前は?」と問う。女は名乗る代わりに、「もし、このことを疑う者がいれば、私はあなたにとり憑《つ》いて、名を名乗るでしょう」と言って消えてしまう。菜摘みの乙女は急ぎ帰り、神主にこのことを伝え、「まるで嘘のような話です」と言ったとたん、物狂おしい様子になって、「私は判官殿のお供をして吉野まで参った静です」と言う。  静にとり憑かれた乙女が、神主に頼んで、宝蔵にある昔の装束を出してもらい、それを着ると、本物の静御前の霊が現れ、乙女とともに舞いはじめる。  この二人|揃《そろ》っての舞が『二人静』の圧巻《あつかん》である。二人の静は一挙手一投足にいたるまで、同じ動作で舞わなければならない。  したがって、シテとツレは背恰好もタイプも同じ、舞の癖《くせ》も同じであることが望ましいわけだ。  高崎老人は、そのことを気にした。 「宗家と和鷹さんの組合せですと、いくぶん不釣《ふつ》り合いかと思いますが」  控え目な言い方をしているが、実際には、いくぶんどころか、まったく不釣り合いだ。和鷹は一七二センチの上背だが、和憲は一六三センチ。年齢的にいっても、舞のスジからいっても、バランスがよくないのは歴然としている。 「ツレは秀美がやればよい」  和憲は事も無げに言った。 「えっ? 秀美さんが?」  当の秀美も驚いたが、居並ぶ連中が「あっ」と思った。 「秀美ならわしと背恰好も同じようなものだし、舞もそれほどいかつくはならないだろう」 「それはそうですが、では和鷹さんはどうなさるおつもりですか?」  さすがに、温厚な高崎老人も、和鷹の立場を思って、それは承服しがたい——という言い方をした。和鷹は俯《うつむ》き、一門の者たちのあいだには気まずい空気が流れた。  秀美は震えるような想《おも》いで、祖父の非情を睨《にら》みつけた。その視線の先で、和憲はさりげなく言った。 「いや、和鷹には『道成寺』をやってもらう」 「なるほど、『道成寺』ですか。それは結構なことですなあ」  高崎老人は芝居がかって膝《ひざ》を叩《たた》き、感服してみせた。全員がホッと胸を撫《な》で下ろし、秀美も祖父の深慮《しんりよ》に思いが及ばなかった自分の浅はかさを恥じた。  秋の追善能《ついぜんのう》の演目が『二人静』と『道成寺』に決まったのは、そういう経緯《いきさつ》によっていた。 2  追善能が行われた当日は、東京地方はよく晴れ、休日のせいか、スモッグもなく美しい秋空であった。 「雨降らしのジンクスは破れたわね」  玄関を出たところで空を見上げ、秀美は兄の幸運を祝って、晴れやかに言った。 「うん」  和鷹も素直に笑顔を見せた。「雨降らしの面」は桐箱《きりばこ》に入れ風呂敷《ふろしき》に包んで、和鷹の胸に抱えられている。  門内にハイヤーが二台待っていた。一台は宗家のためのもので、兄妹よりやや後れて菜津美未亡人と、もう一人、広島という分家の若い者を供に連れて出る。  和鷹と秀美の兄妹だけを乗せたハイヤーは、ひと足先に渋谷|南平台《なんぺいだい》の能楽堂《のうがくどう》へ向かった。  演能の日は、男子も女子も袴《はかま》を着用して楽屋入りすること——というのが水上家の仕来《しきた》りになっている。まだ若いハイヤーの運転手は、和鷹はともかく、女性の袴姿を見て目を丸くしていた。ひょっとすると宝塚と間違えたかもしれない。  まだ開演まではたっぷり時間があるというのに、能楽堂が近づくにつれ、秀美は緊張感が高まるのを覚えた。こんなことは秀美には珍しい。 『二人静《ふたりしずか》』のツレは、秀美にとっては初めてといっていい大役である。演じることそれ自体には自信があっても、宗家の舞と較《くら》べて、あまりにも見劣りするようでは困る。自分だけの恥にとどまらず、孫娘をツレに選んだ宗家の名を汚《けが》すことにもなるからだ。 「うまく出来ればいいのだけど」  秀美はいくぶん甘える気持ちもあって、兄に不安を洩《も》らした。 「秀美なら大丈夫だよ」  和鷹は妹の肩を叩《たた》いて、励ました。 「宗家が秀美を選んだのは、それだけの理由があってのことだろうからね」 「そうかしら」  秀美は首を傾《かし》げた。 「やっぱり、ツレはお兄様になさればよかったのよ」 「いや、僕はだめさ。身長が釣《つ》り合わないし、それに……」  言いかけて、やめた。 「それに、何なの?」  秀美は気になって、訊《き》いた。和鷹は言い淀《よど》んでから、 「宗家は、僕が嫌《きら》いなんだ」 「そんな……」  秀美は非難する目を和鷹に向けた。  和鷹は祖父のことを「宗家」と呼ぶ。妹の秀美が「お祖父様」と呼ぶのとでは、はっきり一線を画した立場をとっている。  何も知らない頃は、秀美は兄のそういう態度は、芸道に対する厳しい姿勢から出ているものとばかり思っていたのだが、事情を知るようになってから、和鷹が「宗家」と呼ぶたびに、寂しい気持ちになる。 「そんなことはないわ。お祖父様は、お兄様に『道成寺』をお譲りになったじゃないの」 「ああ、それは表面だけを見ればたしかにそうだけれどね。しかし、宗家にしてみれば、『二人静』を演じることによって、秀美への愛情のほうがはるかに大きいことを示したい気持ちなのさ」 「それはお兄様の僻《ひが》みよ」 「僻みか……」  和鷹は苦笑した。 「たしかに、僕は僻み根性の塊《かたま》りみたいなものかもしれない。小さい頃からずうっと、僕は違うんだ、みにくいアヒルの子なんだって意識していたのだから」 「そうなの? そんなに、小さい頃から、そういう……そのこと、気にしていたの?」 「そりゃそうさ」 「じゃあ、私はばかだったのね。ちっとも知らなくて、我が儘《まま》ばっかり言って」  その我が儘を、いつだって嫌《いや》な顔ひとつしないで聞いてくれたのは、和鷹にそういう負い目のような意識があったせいなのか——。 「いや、秀美だけが僕にとっては救いだったのかもしれないよ」  和鷹は優しく言った。 「少なくとも、秀美だけは分け隔てなく、僕を認めてくれていたのだからね」 「あたりまえだわ、そんなこと」  秀美は憤然《ふんぜん》とした口調になった。  しばらく会話が途絶《とだ》えた。休日の道路はふだんと違うところが渋滞していて、車の進行が停《と》まった。  やがて車が走り出すのと一緒に、秀美は少しトーンを抑えて言った。 「一つだけ、いつも気になっていることがあるのだけど、訊《き》いてもいいかしら?」 「ん? 何だい?」 「怒らないって約束して」 「何だ、ずいぶん大袈裟《おおげさ》だな。いいよ、何を訊かれても怒らないよ」 「ほんとにほんとね? それじゃ、訊くけど……あの、お兄様の本当のお母様は、どこにいらっしゃるの?」 「…………」  和鷹は顔色を変えて、黙《だま》ってしまった。 「やっぱり……」  秀美は悄気《しよげ》た。 「訊いてはいけなかったのよね。ごめんなさい」 「いや、いいんだ、怒ってはいない」  和鷹は呟《つぶや》くように言った。いったんは強張ったかに見えた表情も、すぐに平静を取り戻《もど》していた。 「母のことは、何ひとつとして僕も知らないんだよ。名前も、どこの人間なのかも」 「えっ? ほんとに?」 「ああ、ほんとだよ。誰に訊いても教えてくれない」  戸籍上は和鷹は和春・菜津美夫妻の実子ということになっている。秀美が、長いこと、そういう複雑な事情のあることを知らなかったのは、そのためなのだ。 「ただ、お父様が、おまえが一人前になったら教えてやるとおっしゃっていたのだけれど、そのまま亡くなってしまった」  と和鷹は言った。 「でも、誰かが知っていることは、たしかなのでしょう?」 「ああ、たぶんね。お母様はどうか分からないけれど、宗家は知ってると思うよ。もしかすると、高崎の大叔父《おおおじ》様だって知ってるかもしれない」 「だったら、早く訊かないと、永久に分からないままになってしまうわ」  宗家も大叔父の高崎義則も高齢である。秘密を抱えたまま、あの世に行ってしまったら——と、秀美は思った。 「そうなったらそうなったで、僕は構わないと思っている。僕は知らなくても、母は僕のことを知っていてくれるのだしね。もしかすると、いつも僕の舞を観にきてくれているかもしれない。そう思うだけでも、何か満ち足りた気分になってくるんだ」 「可哀相《かわいそう》なお兄様」  秀美は溜《た》め息《いき》をついた。 「ははは、そんな、可哀相はないだろう」  和鷹は笑った。 「生まれはどうであれ、僕は水上流宗家の家に育って、ゆくゆくは家元の地位を約束されているのだからね。こんなに恵まれた人生なんて、そうザラにはないと思って、天に感謝しているよ」  兄が本気でそう思っているのかどうか、秀美には判断がつかない。たった二つ違いの兄だけれど、子供の頃から精神的な重荷を背負っているのだから、苦労の度合いには天地の開きがある。 「私、たとえどんなことがあろうとも、お兄様の力になってあげるわ」  秀美はきっぱり言った。祖父も母も、それに、分家の誰であろうと、庶子《しよし》であるという理由で和鷹を軽んじるようなことがあれば、断固として兄の味方になろう——と、心底、秀美は思うのだった。  唇を真一文字に結んだ妹の横顔を、和鷹は気弱い微笑を浮かべて見つめていた。 3  たっぷりゆとりを見て出掛けたつもりだったのに、雪江が能楽堂《のうがくどう》についたのは、開演まで十分少ししか余裕《よゆう》がなかった。能楽堂前の広場は人波で混雑していて、前方へ進むのにもひと苦労であった。  入り口のところに三宅《みやけ》が迎えに出ていて、こっちこっちと手招いた。 「いい席を取っておきましたよ」  自慢げに言って、先に立って歩いた。どういうわけか、この能楽堂では予約席の制度がなく、早い者勝ちに席が決まってゆく。  昔の、本来の能楽堂は、当然のことながら建物それ自体が能楽堂であったのだが、現在の能楽堂はコンクリートの近代的なビルの中の大ホールに、特別な形態を備えた「舞台」として、能楽堂を再現したものが多い。ここも例外ではなかった。  一般の大ホールと変わらないような客席の正面に、能楽堂そっくりの、屋根つきの舞台が建っている。左端の揚《あ》げ幕から橋懸《はしがかり》を渡り、舞台にいたるまでの能楽堂の形式が、そのままステージになっている。古来は屋外にあった本物の能楽堂の前半分が、そのまま舞台として再現されていると思えば、だいたい間違いない。  こういう形式のステージであることは、能楽という舞台芸術に、芝居《しばい》や歌舞伎《かぶき》などとはまったく異なった、一種、不可思議な雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出す効果になっている。  というわけで、能楽のステージは橋懸から本舞台までを入れると、およそ三十メートルに及ぶ横長のステージである。そして、右端は謡方《うたいかた》の席で終わっている。  つまり、本舞台はホール正面の右端に偏《かたよ》ってあるわけだ。  したがって、いわゆる「カブリツキ」はホール中央ではなく、右端寄りの部分になり、そこを中心に「いい席」が決まってゆく。  三宅はそこに自分と雪江の席を確保しておいてくれた。  この日は宗家と孫娘の『二人静《ふたりしずか》』と、御曹司《おんぞうし》が難曲中の難曲といわれる『道成寺《どうじようじ》』を舞うというので、能楽堂は満席の状態だった。入りきれない客が表で係員と押し問答していたほどだ。雪江は三宅の努力に大いに感謝した。  雪江たちのいるブロックの最前列には、水上家の関係者が席を占めている。渋い藤色の紋付に黒帯姿の菜津美未亡人が立っていて、新しく入ってきた客の中に親しい顔を見つけると、丁寧にお辞儀を送る。雪江にも親しげな笑顔を向け、たぶん「ようこそお越しくださいました」とでも言っているのだろう、唇を動かしながら会釈をした。  ホールを見渡すと、客のほとんどは中年以上である。女性のほうがやや多いかと思えるけれど、男の客も少なくない。  若い客は少なく、もっとも下でも十五、六歳、さすがに幼児連れの客はいなかった。  何人かの顔見知りもいて、雪江は挨拶《あいさつ》を交わした。そういう珍しい顔に出会うのも、観能の楽しみの一つであった。  最初、高崎義則が『頼政《よりまさ》』を舞った。分家の長老ということもあるのだが、本来からいえば、『頼政』は宗家が舞うべき、格調の高い番組である。  頼政とはヌエ退治で知られる源三位頼政のことで、頼政は宇治平等院の合戦に敗れ自害し果てた。しかし、その幽魂は成仏できずにさまよっている。旅の僧の前に姿を現した頼政の亡霊は往時の合戦の模様を語り、涙を新たにするのである。旅僧は頼政のために祈り、頼政の霊は僧の回向を感謝しながら消えてゆく。まことに追善能に相応《ふさわ》しく、しかも難曲中の難曲といわれる演目である。それを分家筋に譲ってまで、和憲が秀美との『二人静』を舞いたかったというのはよくよくのことだ。  それだけに、この日の『二人静』は絶品であった。宗家のシテはむろんのこと、秀美のツレもみごとな出来映えで、観客を魅了《みりよう》しないではおかなかった。 「宗家は、やはり、秀美さんへの想《おも》い入れを断ち切ることができないのですな」  三宅が雪江に囁《ささや》いた。  二人の静御前が寸分の狂《くる》いもなく、息のあった舞を見せるクライマックスに入ると、緊迫《きんぱく》した雰囲気《ふんいき》がホールにみちみちた。  宗家が若やいだ艶《つや》のある舞を見せれば、秀美は若さをオブラートに包んだような、円熟した観さえある舞を見せた。  二人の静が橋懸《はしがかり》に消える前から、自然発生的にホールに拍手《はくしゆ》が沸いた。  幽玄《ゆうげん》を貴ぶ能楽で、こんなふうに拍手が沸くことは珍しいことだし、あまり歓迎されないのだが、そういう仕来《しきた》りを超越して、観客は宗家と孫娘の舞に堪能《たんのう》したのである。  十五分の中入りがあって、第二部は門下の四人による仕舞《しまい》から始まった。仕舞というのは、能楽のサワリの部分を直面《ひためん》で舞うものである。若い門人たちの修業の成果を披露《ひろう》するのと同時に、観客を次の番組に誘《さそ》う先触《さきぶ》れの役割を果たす効果がある。  仕舞を終えた四人と謡方《うたいかた》がいったん退場し、舞台がカラになった。  客席にはひとしきりしわぶきなどが起こり、本日最大の演《だ》し物に期待する雰囲気が整ってきた。 4 『道成寺《どうじようじ》』は他の番組と異なって、能が始まる前に鐘《かね》を吊《つ》るす作業がある。  前にも述べたように『道成寺』は分類すると「四番目物」「狂物《くるいもの》」「現在物」に入る。しかし、一般的には番組の最後——キリ——に行われるのがふつうだ。  いわゆる「切能《きりのう》」というのは「五番目物」「鬼畜物《きちくもの》」のことを指す。なぜ最後に演じるかというと、その代表的な『土蜘蛛《つちぐも》』を例に取ると分かり易《やす》い。 『土蜘蛛』はその名のとおり、土蜘蛛の化身が登場するオカルト劇である。クライマックスになると、土蜘蛛は三度から五度にわたって蜘蛛の糸を投げかける。その結果、舞台は惨憺《さんたん》たる状態になって、もし、そのあとに番組を控えているとなると、観客の前で掃除をしなければならないわけだ。  そういうわけで、作り物や仕掛けを必要とする演目は最後に「キリ」として行うことになる。  この『道成寺』もまた、大掛かりな仕掛けが施《ほどこ》される番組の一つだ。  予鈴が鳴るわけでもなく、舞台の背景に描かれた松の木の、少し右にある切戸《きりど》から、いきなり、舞台に紋付袴《もんつきはかま》姿の男たちがゾロゾロと現れた。囃子《はやし》方と地謡《じうたい》、それに後見《こうけん》の人々である。全部で十四人、三間四方の舞台が狭く感じる。  それぞれが所定の位置に座を占めると、楽屋に通じる揚げ幕が上がり、四人の男が橋懸《はしがかり》に吊《つ》り鐘《がね》を運び出した。  吊り鐘は長い棒にぶら下がっている。三宅の説明によると、鐘の重量は六十キロ近くあるそうだ。鐘の丈が高いので、男たちは精一杯両手を伸ばし、棒を高々と差し上げている。なかなか楽な作業ではなさそうだ。  男たちは舞台のほぼ中央に鐘を下ろし、鐘を天井に吊るす作業にかかる。  鐘にグルグル巻きにした黒い綱《つな》を解き、例の長い棒の一本の先に綱を巻きつけて、天井の環に引っ掛ける。環は客席からは見えないようになっているので、あたかも天井の梁《はり》に綱をかけたように見える。  綱の先は右手奥の柱、下から五十センチばかりのところに取りつけた環に通して、後見の若い者が四人がかりで綱を引き、舞台の床上、約二メートルの高さの位置まで鐘を吊り上げる。  こうして舞台の準備は整えられたというわけだ。  舞台の人の動きがピタリと停《と》まると、いよいよ開演。揚げ幕が上がり、三人の僧が五メートルほどずつの間隔をあけて、しずしずと現れる。  先頭を歩くのがワキの道成寺の住僧で、直面《ひためん》である。金入|角帽子《すんぼうし》、襟《えり》は浅黄《あさぎ》、白綾白大口《しろあやしろおおくち》、紫水衣《みずごろも》、白無地|腰帯《こしおび》、小刀、金無地扇、刺高数珠《いらたかじゆず》——というのが流儀の装束《しようぞく》になっているが、素人《しろうと》が見る分にはそんな細かい部分にまでは目が行き届かない。  あとの二人はワキツレの若い従僧である。住僧とそれほど違った服装ではないけれど、まあ、いくぶん簡略なものかな——と感じる程度の差はある。  住僧は、新しい鐘《かね》が出来たので、それにちなんだ鐘供養《かねくよう》を営むという口上を述べる。そして二人の能力《のうりき》(労務に携《たずさ》わる身分の低い僧)を呼び、この鐘の供養はある事情があって女人禁制であるから、充分に注意するように、と命じる。 「畏《かしこ》まって候」といった応酬《おうしゆう》があり、五人の出演者はそれぞれ所定の位置に坐り、舞台に静寂《せいじやく》が漂《ただよ》う。  舞台上の実際の状況からいうと、鐘と人びとの距離は一、二メートルしか離れていないのだが、物語の筋では、彼等はまったく離れた場所にいることになっている。そういう約束事は、能では、いろいろな場面で付き物になっている。  それからまもなく、横笛の音に誘《さそ》われるように、前シテの白拍子《しらびようし》がやって来る。  前シテの面は「近江女《おうみおんな》」、優しく寂しげな風情《ふぜい》のある面である。  橋懸《はしがかり》の中ほどで、「これはこの国の傍《かたわ》らに住む白拍子にて候」と自己紹介をし、道成寺で鐘供養があるというので、行ってみるところだ——と説明を加える。 「行ってみる」と言ってから到着するまではほんのわずかだが、これも約束事の一つであって、彼女はあくまでも遠路はるばるやって来たことになっている。  ところが、来てみると、能力《のうりき》がいて、「ここは女人禁制だ」と言う。  白拍子がせっかく来たのだから——と迫《せま》ると、能力は折れて、それではひとさしだけならば舞ってよろしいと許可を与える。ずいぶん無責任のようだが、まあ、見て見ぬふりをして通行を許可した——といったところなのだろう。  やれ嬉《うれ》しやとばかりに、白拍子は舞台の奥に行き、後見《こうけん》に手伝ってもらって、烏帽子《えぼし》、舞姿に扮装《ふんそう》を凝《こ》らして、いよいよ舞を始めるのである。  舞は、はじめのうちは極端に動きの少ない、ほとんど静止状態で、それが舞台に緊迫《きんぱく》した空気を漲《みなぎ》らせる。  やがてゆっくりと動き始めるのだが、時折、獲物《えもの》を狙《ねら》う豹《ひよう》を思わせる、ハッとするような、奇怪な所作を見せて、この白拍子が只者《ただもの》ではないことを予感させる。曲と動作はしだいに早く、荒々しくなってゆく。  この時の舞と、小鼓《こつづみ》を中心にした乱拍子《らんびようし》の囃子《はやし》とのかけ合いが『道成寺』中の圧巻《あつかん》である。静から動へとはげしく変化する舞の中で、白拍子はやがて邪悪な本性を見せて、鐘の中へと飛び上がる。同時に吊《つ》り鐘《がね》が轟音《ごうおん》とともに落下し、白拍子をすっぽりと隠《かく》してしまう。  舞台の上には住僧や従僧、それに能力《のうりき》など、五人の出演者が出ているのだが、前述したような約束事によって、白拍子が舞を舞うところはもちろん、鐘が落ちる現場は誰も見ていなかった——という設定になっている。  能力の二人は轟音に驚いてひっくり返る所作を見せる。これからの二人の遣《や》り取りは狂言風《きようげんふう》になり、「なんだなんだ……」といった騒《さわ》ぎを表現する。  やがて鐘の落ちたことを住僧に知らせに行き、住僧が能力に「だから言わないことではない」といった叱責《しつせき》を加える。そして、女人禁制と言った理由について、長々と昔語りをするのである。 『道成寺』の物語は安珍《あんちん》・清姫《きよひめ》の物語があまりにもポピュラーだが、それは歌舞伎《かぶき》のために後年に作られたものであって、もともとの原形は宗教的な説話として語られたものだ。能の『道成寺』はその原形から取材したと考えていい。  住僧の話す昔語りがそれに近い。それは次のようなものだ。  昔、この辺りに住む真砂《まなご》の荘司《しようじ》という者に美しい娘がいた。荘司の家には旅の山伏《やまぶし》がしばしば訪れ、宿を借りていた。この山伏はかなりのハンサムであったらしい。  荘司は娘が可愛《かわい》いばっかりに、彼女がまだ幼い頃から、あの山伏どのがおまえの将来の夫になる人である——と冗談《じようだん》半分に言っていた。  娘のほうは、子供心にそれを信じてしまったから、やがて年頃になると、本気で山伏の妻になろうとする。しかし、山伏のほうはそんなことは知らず、ただひたすら修行に励んでいる。そのあげく、ついに我慢《がまん》がならなくなった娘は、ある夜、山伏の寝室に押し入って、「いつまで放っておくの?」と直談判に及んだ。返答しだいでは、ただではおかない——という迫《せま》り方であった。  驚いた山伏は、闇《やみ》にまぎれて宿を逃げ出してしまう。逃げに逃げて道成寺にやってきて、住僧に匿《かくま》ってくれと頼み込む。住僧はそれではと、鐘《かね》の中に隠《かく》す。  追ってきた娘は、山伏恋し、憎しの一念がつのって、ついに毒蛇《どくじや》に変身し、やがて鐘の中にひそむ山伏に気付いて、鐘にとぐろを巻き、口から炎を出して鐘を焼き溶かしてしまった——という話だ。  鐘楼《しようろう》を再建するにあたっては、そういう過去の因縁《いんねん》があるから、女人を近づけるなと言ったのだ——というわけであった。  それはそれとして、ともかく、落ちた鐘をふたたび鐘楼に吊《つ》るし上げようということになる。  三人の僧侶《そうりよ》が声を合わせて祈るうちに、なんとか鐘は引き上げられるのだが、中から現れるのは先刻の美しい白拍子《しらびようし》ではなく、邪悪な大蛇《だいじや》の本性を顕《あらわ》した、恐ろしい姿に変身している。  大蛇は鐘から出ると、なおも祟《たた》りを行おうとするのだが、三人の僧侶の必死の祈りによって、ついに「日高《ひだか》の川波|深淵《しんねん》に飛んでぞ入りにける……」となる。  これが『道成寺』の全編のおおまかなストーリーである。 『道成寺』の見せ場は、さっきの鐘が落ちるところと、鐘が上がった時に、白拍子が蛇(後シテ)に変身して飛び出すというケレンの場面といっていいだろう。  前シテの白拍子は、狂言《きようげん》や僧侶たちの遣《や》り取りの間を利用して、あらかじめ鐘の中に用意してあった「蛇《じや》」の面に付け替え、装束《しようぞく》も銀色のウロコ模様のものにあらためる。  蛇の面は、口が耳まで裂《さ》けた恐ろしげなもので、一見した感じは般若《はんにや》の面とそっくりである。しかしよく見ると、蛇の口には見るからに邪悪そうな舌があることが分かる。般若には舌はない。それが相違点だ。  和鷹が「最初は般若の面を使うつもりだった」と言っていたのは、蛇面の邪悪さには、「雨降らし」の伝説があるほど、不吉《ふきつ》なイメージが伴うからだ。しかし、観客にしてみれば、いわば水上宗家の「秘宝」ともいうべき「雨降らしの面」を目のあたりに出来ることにも、この日の期待が込められている。  この日、鐘入りのシーンまでの和鷹は、観客が圧倒《あつとう》されるほどの迫力《はくりよく》に満ちた舞を見せた。ことに白拍子がしだいに邪悪な本性を現すあたりは、悲壮感さえ漂《ただよ》わせて、それだけに、蛇に変身し「雨降らしの面」をつけたあとの舞に、いっそうの期待感が高まったのである。  さて、舞台の上では演技が進行し、僧侶たちの祈りの中、後見たちが綱《つな》を引いて、鐘がゆっくりと重たげに上がっていった。  そうして鐘が上がると、間髪《かんはつ》を入れず中から蛇女がスックと立ち上がる——はずであった。  だが、どうしたことか、ウロコ模様の装束に着替えた和鷹は、鐘の下にうずくまったまま、動こうとしない。  いや、正確にいうと、彼は鐘のどこかに身を支えられてしゃがみ込む恰好《かつこう》でいたらしく、鐘が上がった時、その支えを失って、わずかに左のほうにつんのめるように倒《たお》れ伏したのであった。  観客のほとんどは、最初、何の疑問も抱かなかった。そういう所作《しよさ》かと思って見ている者もいたし、『道成寺』に通じている者も、これは新しい試みでそうしているのか——と考えていた。  しかし、あまりにも長く静止状態が続くのと、舞台上の出演者たちの異常な様子に気付いて、ようやく、これは何か異変が起きたのだ、と騒《さわ》ぎ始めた。  ふつうのステージと違って、幕がないだけに、こういう時に能舞台《のうぶたい》というのは始末が悪い。舞台上の異変も混乱も衆人環視の中に晒《さら》されるわけだ。  ざわめきはたちまちホール全体に広がり、「ウオーン」という異様な響きに聞こえた。  水上和鷹は鐘の真下で、すでにピクリとも動かなかった。 「死んだのか?」という囁《ささや》きが、ざわめきの中で、新しいさざなみが立つように聞こえてくる。  死んだ——。  亡くなった——。  人々は驚きから恐怖、悲しみへとそれぞれがさまざまな想《おも》いを込めて、この椿事《ちんじ》を受け止めていた。  舞台の上の人々も、一瞬《いつしゆん》、凝固《ぎようこ》したように動きを停《と》めたが、気を取り直した後見が指示して、和鷹の体を運び去るように命じた。若手の謡方《うたいかた》が数人がかりで和鷹を持ち上げ、橋懸《はしがかり》を楽屋へと急いだ。謡《うたい》で語るなら、「失せにけり、失せにけり……」となるべきところである。  装束《しようぞく》はそのままだが、和鷹の顔から、いつのまにか面が取られ、蒼白《そうはく》の顔がチラッと観客に覗《のぞ》けた。手足はもちろん弛緩《しかん》し、眼もうつろ、口もだらしなく開かれて、すでに生命が終わったことを物語っている。 「死んだ」「亡くなった」という声とともに、そこかしこから嗚咽《おえつ》が洩《も》れた。中年の婦人たちが、ハンカチで顔を被《おお》い、太夫の死を嘆き悲しんでいるのだ。 「あんなに素晴《すば》らしいお方が……」  そういう声が、嗚咽の合間に聞こえた。若く美しく、将来を嘱望されていた水上流の総帥《そうすい》となるべき人物が、まことにはかなく舞台の露と消えたのである。 5  約五百人収容できる観客席は満員の状態であった。その観客の誰もが、御曹司《おんぞうし》・和鷹の急死を、かつて彼の父親の和春がそうであったように、心臓の発作などによるものであることを疑わなかった。  いや、観客ばかりではない、水上一門の人々は、舞台にいた者も、楽屋にいた者もそのことを連想したにちがいない。  驚くべきことだが、これほどの大異変でありながら、舞台の上は急速に平静を装いつつあった。やがて鼓の音が「カーン」と響くと、後見が直面《ひためん》で舞台に舞い進んだ。和鷹の代役として大蛇の化身を演じるのである。  三人の僧侶は大蛇の化身に向かって折伏《しやくぶく》の祈りを突きつける。 「謹請東方青龍清浄《きんぜいとうほうしようりゆうしようじよう》 謹請西方白帝白龍《きんぜいさいほうびやくだいびやくりゆう》……」  謡方が声のかぎりに祈るのが、あたかも和鷹の死を悼む読経のように聞こえ、舞台にも客席にも一種の悲壮感が漲《みなぎ》った。  その中で、菜津美未亡人がゆっくりと立ち上がり、観客の視線を横切る非礼を恥じるように、身をかがめながら、足早に退席していった。蒼白の横顔が印象的だった。  観客たちも席を立ち、右往左往する者はあっても、ホールを出ようとは誰ひとりとして思わない様子だ。「異変」に対して、単なる野次馬《やじうま》根性だけで居残った者もあったかもしれないが、大多数は心から御曹司の死に驚き哀《かな》しんだ。  日頃、動じないことでは、かなり自信のある雪江も、人並みに動揺した。いや、むしろ和鷹の生い立ちなど、裏の事情に通じていただけに、一入《ひとしお》、哀悼《あいとう》の気持ちが強かったともいえる。気丈なはずの彼女の頬《ほお》に、幾筋もの涙が流れた。  その点、三宅はさすがに評論で身を立ててきた人間らしく、これほどの悲劇的な大異変にも、パニックには陥らなかった。「事故」発生と同時くらいに席を立ち、雪江に「ちょっと状況を見てきます」と言い置いて、楽屋へ急いだ。  三宅ほど素早い対応ではなかったが、ほかにも楽屋へ向かった者は何人かいた。多くは水上宗家と何らかの関係のある親しい人々だったが、その中に二人の医師がいた。  たまたまその日、会場には二人の医師が観客として舞台の急変を見ていた。いずれも水上宗家とは直接の交際はないが、分家筋の先生について、謡曲《ようきよく》と仕舞《しまい》を習っている間柄である。その二人が、あい前後して楽屋に向かった。  客席と廊下は騒然《そうぜん》としていたが、それとは対照的に、楽屋の中は異様な静寂《せいじやく》に包まれていた。  部屋の中央に、座蒲団《ざぶとん》をいくつか並べてベッド代わりにした上に、和鷹の体が仰向けに横たえられていた。まだ後シテの蛇女の装束《しようぞく》のままで、身仕舞《みじまい》にさほどの乱れのないことが、いっそうあわれを誘った。  その周囲を幾重《いくえ》にも人々が囲んで、さして広くない楽屋は立錐《りつすい》の余地もないほどであった。  和鷹の傍《かたわ》らには和憲と秀美が坐っている。  和憲は背筋を伸ばし、膝《ひざ》に拳《こぶし》を置いて、和鷹の死に顔を睨《にら》み据《す》えるようにして、じっと動かない。  秀美は、和鷹の胸にすがり、顔面こそ蒼白《そうはく》だがまだ温《ぬく》もりの残る兄の体をゆするようにして、泣きじゃくっていた。  ほかの一門の人々も、長老から末席の者にいたるまでが、茫然《ぼうぜん》自失の態で、ある者は坐り、ある者は立ち、それぞれの恰好《かつこう》のまま、凍りついたように動かなかった。中には合掌《がつしよう》している者もいた。  この時になって、ようやく菜津美が楽屋に入ってきた。さすがに裾が乱れるほど気が急《せ》いていた様子だったが、目に涙はなかった。  人々の視線は菜津美の所作に集まった。誰もが、彼女の置かれている複雑な立場を思っているに違いなかった。  その微妙な雰囲気の中で、菜津美は和鷹が前シテの時に着ていた白拍子の打掛を取って、和鷹の亡骸《なきがら》をそっと覆った。楽屋にほっとしたような空気が流れた。  秀美は周囲の状況など、まったく目に入らない。  けさ、同じ車で楽屋入りした兄が——ついほんの三十分前に白拍子の装束《しようぞく》で颯爽《さつそう》と楽屋を出ていった兄が、もう二度と口をきくこともない物体になってしまったことが信じられなくて、彼女は泣くことだけしか、いまは何も思いつかない状態であった。  秀美に誘われるように、すすり泣く声がしだいに大きくなっていった。門下の人々の多くが、和鷹の死に対して、心からの慟哭《どうこく》を抑えることができなかった。  さすがの三宅も楽屋の異様な光景の前に、たじろぐ想《おも》いであった。 「ちょっと失礼します」  背後から声をかけられて振り向くと、初老の紳士が立っていた。 「私は医者ですが、ご容体はいかがです?」 「あ、お医者さんですか。どうぞお入りください」  三宅は言い、中へ向けて「お医者さんが見えました」と声をかけた。  群れている人々が左右に分かれ、遺体への道を作った。  しかし、医師は和鷹の死を確認したにすぎなかった。  心臓に耳を当て、瞳孔《どうこう》を調べてから、医師はしばらく心臓にマッサージを加えるなどの努力をしていたが、やがて、遺体を離れて静かに合掌《がつしよう》した。 「きれいなお顔をしておられますな」  医師は言った。  舞台を運ばれている際には、口から流れ出ていた涎《よだれ》などが目撃されたのだが、それらはきれいに拭《ぬぐ》い去られて、目も瞼《まぶた》を閉ざされ、一見したところでは、安らかに眠っているような顔であった。  その時、もう一人、観客の中にいた医師がやってきた。人々の背後から覗《のぞ》き込むようにして、「T大学病院の岸野《きしの》です」と名乗り、遺体の傍に近づいた。  最初の医師は「K病院の広田《ひろた》です」と応じて、二人のあいだで名刺が交換された。  岸野は広田より十歳ほど若い。先輩がすでに死を認定しているらしいことを知って、もはや遺体に触《ふ》れようとはしなかった。 「死因は何でしょうか?」  岸野は広田の意見を訊《き》いた。 「さあ、所見では分かりませんが、やはり心臓の発作でしょうか。しかし、ちょっと疑問な点もあるのですが……」 「といいますと?」  広田は岸野の耳元に口を寄せるようにして小声で言った。 「瞳孔の拡散が異常なほど顕著《けんちよ》でしてね。それに、結膜《けつまく》の鬱血《うつけつ》状態の割りに、ほかの表皮部分の血色がまったくありません」 「なるほど、そのようですね……ショック死の症状とよく似ているように思えます」 「常識的には、ですね」  広田医師は意味ありげな言い方をした。  岸野は広田の言わんとしていることを汲《く》み取りかねて、首をひねった。 「ちょっと、席を外しませんか」  広田は立って、岸野を誘《さそ》い、楽屋の外の廊下へ出た。 「解剖してみないと分かりませんがね、私は前にこれとよく似た症状を見たことがあるのですよ」 「はあ……」 「和鷹氏は、ひょっとすると、毒物を服用したのではないかと考えられます」 「毒物?……」  岸野は「毒物」と聞いて、動転した。 「大きな声を出さないで」  広田は急いで岸野を制してから、小声で言った。 「一般的に言って、ストリキニーネとかアコニチンなど、アルカロイド系の毒物を服用した場合には、ああいう症状を呈すと考えられますよ」 「そうなのですか。私は専門外ですので、詳《くわ》しくは知りませんが……しかし、舞台の上のあの状況では毒物の服用は不可能なのじゃありませんか?」 「いや、そうともかぎらないでしょう。鐘《かね》の中にいるあいだなら、何をしているのか、外部から見ることは出来ませんからね」 「もしそれが事実だとしたら、届け出が必要ですね」 「そうですね。ただ……警察|沙汰《ざた》にしていいものかどうか……」  広田が楽屋口を見返ったのと、宗家の和憲が青い顔をして現れるのとが同時だった。 「恐縮ですが、ちょっとあちらの部屋においで願えませんか」  二人の医師に懇願《こんがん》するように言った。  広田と岸野は顔を見合わせたが、たがいに頷《うなず》きあって、和憲に従った。  楽屋から廊下を十メートルばかり行った、宗家専用の個室に入った。  和憲は二人にソファーをすすめ、自分は立ったままで言った。 「申し訳ありません。お二人のご様子から、つい聞き耳を立てていました。何か和鷹の死因に不審な点があるようですが」 「はあ、じつは広田先生は毒物による中毒死の疑いがあるとおっしゃっておられるのですよ」  岸野は言いにくそうにしている広田に代わって、ズバリと言った。 「本当ですか?」  和憲はひきつったような表情になった。 「いや、確実にそうだとは言ってませんが、一応ですね、症状がそういう疑いがあるということでして……」 「しかし、和鷹がなぜ……いえ、そういうことはちょっと考えられませんが」  和憲は必死に抵抗しようという構えを見せた。 「それはもちろん、私の診断が完璧《かんぺき》だとは思っていません」  広田医師は、やや鼻白んだ顔になった。 「ただ、この場合、明らかに変死の状態ですからね。一応、多少なりとも疑いがあるならば、警察に届け出るべきなのです」 「警察……」  和憲は自分が窒息死しそうに、ゴクリと音を立てて、唾《つば》を飲み下した。 「そんなことにならないように、なんとかことを穏便《おんびん》にすませられるよう、ご配慮いただくわけにはいきませんでしょうか? いや、ぜひともそのようにお願いいたします」  言うなり、床にへたり込むと、文字どおりに土下座して平伏《へいふく》した。 「あ、そんな……」  広田も岸野も慌《あわ》ててソファーから飛び下りて、宗家の腕を取り、立ち上がらせた。  宗家は日頃の威厳ある様子を、どこかに置き忘れてきてしまったように、ただの哀れな老人にしか見えなくなっていた。 「お気持ちはよく分かりますよ」  広田は老人を慰めるように言った。 「いや、私が不審を感じたといっても、必ずしもそうだと断定できたわけではないのですからね。ただ、医者の職業上の義務行為として、こういうケースでは届け出の義務があるという、一般論を言っただけです」 「それを何とか穏便にです、穏便にお願いいたしたいのです」  和憲はまた床にひざまずきかける。 「弱りましたなあ……」  広田と岸野は老人の重量を持て余したように、中腰になった恰好《かつこう》で、どうしたものか——と視線を交わした。 「私のほうは、広田先生のように異常に気付いたわけではありませんので、問題は広田先生のご判断しだいということになります」  岸野は言った。半分は逃げ口上だったが、半分は宗家の苦衷《くちゆう》を察して、ことを穏便にしてあげようという方向へ、気持ちが向いているのだ。  下駄《げた》を預けられた恰好の広田は災難みたいなものだが、広田にしても、宗家のたっての頼みを無下《むげ》に断るわけにもいかないという想《おも》いは同じだ。それに、モタモタしていれば、救急車がやってきて、死体を運び出してしまうおそれがあった。  いや、実際、その時には救急車が到着して隊員が楽屋に向かっていたのである。その連中が楽屋に入る寸前に、二人の医師は和鷹の遺体の両脇《りようわき》に、まるで悪魔の略奪《りやくだつ》の手から死者を守るように坐り込んでいた。 「御苦労さん」  救急隊員のリーダーに、広田医師が落ち着いた口調で言った。 「しかし、残念ながらすでに死亡されたあとでした。死因は急性の心筋|梗塞《こうそく》ですね。死亡時刻は……」  広田は時計を見て、数分前の時刻を宣言した。それからおもむろに名刺を出し、岸野医師にもそうするように、目顔で合図した。  救急隊員は二人の医師がそれぞれ、大病院のれっきとした医師であることを知って、そのまま引き上げて行った。  表面的には、これで水上宗家の体面は損なわれることなくすんだ。しかし、二人の医師の不自然な動きを知る者には、何か不審なものの気配が感じられた。  三宅ももちろん、その不審に気づいた者の一人であった。 「おかしいですな、どうもおかしい」  客席に戻《もど》ると、三宅は小声で雪江に告げた。 「おかしいって、何がです?」 「死因がです。心臓発作ということにしているのですが、はたしてそれが事実なのかどうか、怪しいものです」  三宅は二人の医師が廊下に出て、ヒソヒソ話をしていた様子を怪しんで、それとなく注意を向けていた。 「その時に、若いほうの医者が『毒物?』と言ったように聞こえたのです」 「毒物?……」 「ええ、そうしたら、そこへ宗家が出ていきまして、何やら秘密めいた談合《だんごう》を始めたのですよ。どうも、印象からいうと、医者は何かの不審を察知して、警察に届けようとしていたのじゃないかと思えるフシが見えたのですがね。ところが、宗家が別室に連れ込んで、ふたたび出てきたとたん、医者は、和鷹さんの死因を『心筋|梗塞《こうそく》であった』と公式なかたちで発表しているのですよね。ずいぶんあっさりした豹変《ひようへん》ぶりで、何か裏がありそうな感じでした」 「裏があるって、どういう裏があるとおっしゃるのですか?」 「ああいう状況で死んだ場合、少なくとも変死扱いにして、警察に届けるのが当然でしょう。それを回避するために、宗家が二人の医師に口止めを頼んだのじゃないかっていう気がするのですがね」  三宅は「警察」を強調して言って、警察庁刑事局長の息子を持つ雪江がどう反応するか、興味深そうに待った。 「ですけど……」  と、雪江はしばらく考えてから言った。 「宗家がそうまでして、警察の介入を拒絶したい気持ちは分からないではありませんわね。警察が入れば角が立ちます。マスコミもいろいろ取り沙汰《ざた》することでしょうし。そのあげく、調べた結果、何でもなかったということですと、宗家にしてみれば、ずいぶん迷惑《めいわく》な話です」 「しかし、もし何でもなくなかったとしたらいかがです? このまま見過ごしてしまっていいものでしょうか? 水上流の内部には、とかくの噂《うわさ》もないわけではないのですし。事件性がないとは断言できないと、私などは思いますがねえ」  三宅はわざと、雪江の困惑《こんわく》を承知の上で、意地悪な言い方をしている。  実際、雪江は正義を行うべきか、それとも水上宗家の苦衷《くちゆう》を察してやるべきか、二つの選択の狭間《はざま》に立って、苦慮《くりよ》していた。 「こんな時、あの子がいればいいのですけれどねえ……」  なかば独り言を呟《つぶや》いた。 「光彦君のことですかな?」  三宅は待ってましたとばかりに言った。 「ええ、まあそうですけれど」 「お呼びになったらいかがです? 光彦君なら、角が立たずに捜査ができるし、それに、なんといっても彼は名探偵ですからね」 「三宅さん」  雪江は眉《まゆ》をひそめて言った。 「あなたがそんなふうに煽《おだ》てるようなことをおっしゃるから、あの子はますます妙なほうへ進んでしまうのですよ」 「そんなことはありませんよ。光彦君は根っからの名探偵の素質に恵まれた天才ですぞ。とにかく、この場には彼が必要です。ぜひ来てもらいましょうよ」 「だめです」 「そんな、あなたの頑固《がんこ》には感心しますが、この際はそんなことを言ってる場合ではないでしょう」 「そうではなく、あの子はいま東京にはおりませんわよ」 「は?……」  ここにいたって、三宅はようやく気がついた。 「あ、そうか、彼はいま関西ですな……」  自分が与えた仕事で、浅見光彦が能楽の史蹟《しせき》めぐりをやっていることを、完全に失念していた。 第三章 吉野《よしの》奥山に消ゆ 1  浅見光彦《あさみみつひこ》が東京を発ってから八日目に入った。十一泊十二日の日程だったから、全予定の約三分の二を消化したことになる。  今回ほど充実した仕事はかつて無かった。充実している上に楽しい。  浅見は能楽《のうがく》だの謡曲《ようきよく》だのにそれほど詳しいわけではない。子供の頃、父親やたまに「失せにけり」の三宅《みやけ》が訪れて、飽《あ》きもせず「われはこのあたりに住む女にて候」などとやっているのを、まったく無関心に聞いていた程度だ。  しかし、こうやって史蹟《しせき》をめぐり、それに因《ちな》んだ能謡のストーリーと照らし合わせてみると、歴史や絵空事が現実の世界に繋《つな》がっている面白さを味わうことができる。  たとえば、滋賀県|甲賀《こうが》町にある田村神社などといっても、聞いたこともないし、おそらく、こういうチャンスでもなければ、生涯訪れることもなかっただろうけれど、ここは坂上田村麿《さかのうえのたむらまろ》の武勇の物語を謡《うた》った、『田村』の史蹟である。  また、奈良県|天理《てんり》市の在原《ありわら》神社は、もちろん在原|業平《なりひら》の史蹟だが、有名な能の『井筒《いづつ》』の舞台でもあった。  前述した『土蜘蛛《つちぐも》』は、御所《ごせ》市|森脇《もりわき》にある一言主《ひとことぬし》神社が舞台になっている。  そのほか、当然のことながら、能の物語は近畿《きんき》地方——ことに奈良、京都に取材したものがきわめて多い。オーバーでなく、いたるところが能謡の史蹟といってもいいほどであった。  能の物語は九十パーセント亡霊や幽霊、化け物のたぐいが出てくる、ミステリアスな話ばかりである。しかも、ひとつとして同じ場所を題材に使っていない。つまり、いま風にいえば「トラベルミステリー」といった趣がある。 『能謡史蹟めぐり』という企画を考えた出版社は、なかなか目の付け所がいいと、浅見はあらためて感心したものである。  十一月八日、浅見は吉野《よしの》に入った。  吉野は歴史の古い土地である。『古事記』や『日本書紀』の応神《おうじん》天皇のあたりから、ぼつぼつ吉野の名が散見する。大化以降には離宮まで出来たという説もある。 「天智《てんじ》十年紀」に「大海人皇子《おおあまのおうじ》が吉野に入って仏道を修行した」という記述がある。壬申《じんしん》の乱の際、大海人皇子は大津《おおつ》の宮から僧衣をまとって逃れ、吉野入りした。  大海人皇子はその翌年、吉野で挙兵し近江《おうみ》朝廷を滅《ほろ》ぼして即位し、天武《てんむ》天皇となる。  爾来《じらい》、吉野は政治、宗教上の大きな出来事のつど、重要な拠点《きよてん》としてその名を歴史に止《とど》めることになる。  国道を右折して吉野川を渡り、七曲《ななま》がりの急坂を登ると吉野山の中心街に入る。窓を開けると、空気がひんやりと感じられた。  十一月も半ば近くともなると、吉野山は早くも冬の気配が漂《ただよ》い、訪れる客の数がめっきり減ってしまうのだそうだ。  吉野山での宿は「桜花壇《さくらかだん》」にせよ——という出版社の指定があった。  桜花壇というのは、吉野では随一といっていい、由緒《ゆいしよ》ある宿だ。  その名前のとおり、この宿の各部屋からは、谷越えの正面に、「中の千本」の桜が、まるでわがもののごとく一望できるという。かつては皇族方が泊まられることでも知られていた宿だそうだ。  桜の時季には、前年からの予約客で一杯になる。浅見のようないちげんの客は、もちろん泊まれっこない。こんな季節はずれでも、料金のことを考えると、ちょっと尻込みしたくなる。  その浅見がはじめて吉野を訪れ、いきなり最高の宿に泊まることができるのは、取材という仕事のお蔭《かげ》である。  同じ出版社で出している旅行雑誌に、旅館の紹介記事を書くことで、宿泊費をサービスしてくれるという寸法だ。  話に聞いたとおり、桜花壇はまったくいい宿であった。玄関を入った辺りはいかにも古びた印象だが、部屋の設備は、バス、トイレから空調施設まで、近代的な和風旅館の条件を備えている。それでいて、風雅な趣は損なわれていない。  障子《しようじ》を開けると、広々としたガラス窓のむこうに、桜の山が屏風絵《びようぶえ》のように展開する。ただし、いまはもちろん桜はすべて枯木である。ところどころに常緑樹がくすんだ色を残しているのが、かえって侘《わび》しいような、冬の風景だ。 「麓《ふもと》とでは三度は違いますねんよ」  お茶を運んできたおばさんがそう言った。巴御前《ともえごぜん》を老けさせたような、見るからに頑丈《がんじよう》そうな女で、笑顔を絶やさない代わりに、次から次へと、話題も絶えない賑《にぎ》やかな性格らしい。彼女の話によると、吉野山は雪もけっこう、多いのだそうだ。   あさぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪  浅見は百人一首の中の歌を想起した。吉野を詠《よ》んだ和歌は多く、百人一首にももう一首ある。   み吉野の山の秋風さ夜|更《ふ》けてふるさと寒く衣うつなり  季節的には、むしろこの歌のほうがいまの季節を歌ったものかもしれない。いずれにしても、寒さと侘しさを歌ったところが共通しているのは、ことによると、吉野の歴史的な背景のせいなのだろうか。  吉野は古来、花の名所として知られていたと同時に、政変のあるたびごとに、都を追われた人々の屯《たむろ》した場所でもある。  兄|頼朝《よりとも》に都を逐《お》われた源義経《みなもとのよしつね》が、静御前や弁慶《べんけい》、佐藤忠信《さとうただのぶ》ほか、わずかな従者とともに逃れてきたのも、ここ吉野であった。  吉野の寺々の宗徒は、はじめ、義経に加担して、一行を匿《かくま》ったのだが、やがて寝返りを打つ者が多くなった。  義経はこれ以上、ここに留まることは不可能と判断した。そして静を京都へ帰らせることにし、かなりの財宝に雑色《ぞうしき》などを数人つけて、別れを告げる。  静は義経と別れたあと、雑色たちに財宝を奪《うば》われ、吉野山に捨てられるという悲運に遭《あ》う。そうして、あげくのはてには吉野の宗徒に捕らえられ、勝手《かつて》神社の庭先で悲しみを堪《こら》えて舞を舞う。  この義経と静の悲劇は、史実と虚構をとりまぜて、『吉野静《よしのしずか》』『二人静《ふたりしずか》』『忠信《ただのぶ》』など、多くの謡曲に語られている。  また足利尊氏《あしかがたかうじ》に敗れた後醍醐《ごだいご》天皇が南朝を樹立したのも、ここ吉野であった。天皇はこの地で悲運のうちに崩御《ほうぎよ》、あとを継《つ》いだ後村上《ごむらかみ》天皇の時に、幕府軍によって吉野は焼かれ、南朝は吉野を逃れて、別の山中に新たに本拠《ほんきよ》を定める。  したがって、五十七年の南朝の歴史の中で、吉野山に南朝の本拠があったのは、わずか十八年にすぎなかったのだ。  これは浅見にとって、新しい知識であった。何しろ、浅見は南朝はずっと吉野にあったものとばかり思っていたのだから。  それでは、残りの約四十年と、さらにそのあとに続く「後南朝」といわれる、反中央政権が存立されたおよそ八十年のあいだ、その本拠はどこにあったか——という疑問は、もう少し先まで取っておくことにしたい。なぜなら、わが浅見光彦も、この時点では、まだその歴史についてはまったくの無知であるからだ。  浅見は一服すると、すぐに宿を出て、吉野の町を歩いた。とにかく、吉野は能謡|史蹟《しせき》の宝庫なのだ。  勝手神社は桜花壇から三分ほどのところにあった。一見したところ、ごくありふれた小さな神社——という印象であった。  総じていえることだけれど、吉野の風物は意外なほど素朴であった。天下に名だたる吉野山だから、さぞかし観光ずれして、俗化しているのではないか——という予想は、いい意味で裏切られた。  例の桜花壇もそうだが、旅館も店も古びた佇《たたず》まいのものが多い。名物や土産物にもそれは共通していた。  吉野の名物はなんといっても「吉野葛《よしのくず》」、そして桜。葛切《くずき》り、桜湯など、原材料をそのまま活かしたもの。花入り羊羹《ようかん》などのようにこの二つを巧みに混交《こんこう》した和菓子など、バラエティにも富んでいる。そして「柿《かき》の葉鮨《はずし》」というのも逸品《いつぴん》であった。  そういった物を売る店が、黒光りするような昔ながらの建物であり、大きな暖簾《のれん》などにも、歴史を感じさせる。  吉野には、武蔵坊《むさしぼう》弁慶が拳《こぶし》で五寸|釘《くぎ》を打ち込んだという「弁慶力釘」など、あやしげな史蹟もあるけれど、吉野朝廷跡、義経かくれ塔、西行庵《さいぎようあん》など歴史の温《ぬく》もりが伝わってきそうな、親しみ易《やす》い史蹟も多い。  勝手神社の境内《けいだい》で、父親と五、六歳の女の子が遊んでいた。 「パパが昔、ミコちゃんと同じくらいの頃と、ちっとも変わってへん」  そんなことを言っているところをみると、父親はこの土地の出身で、しばらくぶりの帰郷らしい。彼がそう言うのだから、二十数年間、吉野はさしたる変化もなしに過ぎてきたということかもしれない。  空気は冷たいけれど、吉野の山にはどことなく穏《おだ》やかな気配が漂《ただよ》っている。花の頃はなおさらであろう。忙しい現代人も、ここに来ればきっと、何かほっとするものがあるにちがいない。その昔、源義経や後醍醐天皇が戦い敗れてこの地に逃れた気持ちも分かるような気がする。  浅見は東京生まれで、吉野はもちろん奈良県にも縁故はないが、勝手神社の境内で、独りぼんやりしているだけで、まるで故郷にでもいるような安らぎを覚えた。 2  いつのまにか、親子連れの声が聞こえなくなったので、ふと視線を上げると、勝手神社の階段に、老人が一人、つくねんと坐っているのが見えた。  コートを着て、旅行バッグを膝《ひざ》に載《の》せている様子から、旅行者であるらしいことは分かった。  コートの袖口から黒っぽいスーツと真っ白いワイシャツの袖がのぞいている。しかし、レトロそのもののような中折れ帽子を目深にかぶり、俯《うつむ》きかげんに坐っている姿は、いかにも疲れきったような印象を受けた。  浅見は何となく気になって、老人の傍《かたわ》らに並ぶように坐り、声をかけた。 「ご旅行ですか?」 「ん?」  老人は帽子の庇《ひさし》の下から、チラッとこっちを窺《うかが》ったが、すぐに視線を地面に落とした。  その瞬間《しゆんかん》、面長できりっと引き締まった老人の面差しを、浅見はどこかで見た顔だな——と思った。 「ああ、独り旅ですよ」  老人は言った。  コートの襟《えり》を立て、頬《ほお》の辺りまで埋《う》まっているので、横顔もはっきり見えない。 「吉野は初めてですか?」  浅見はまた訊《き》いた。浅見はどちらかというと内気な性格である。こんなふうに、自分のほうから見ず知らずの他人に声をかけるなどということは、ごく珍しい。 「ああ、初めてですよ」 「いま時分の吉野は静かでいいですね」 「はあ、そういうものでしょうかなあ」  老人から返ってくる言葉は、どこまでもそっけなかった。 (人間|嫌《ぎら》いなのかもしれない——)  浅見はそう思って、語りかけるのをやめることにした。 「ロープウェイに乗ってきました」  ふいに、老人は言った。 「上から見ると、吉野の山は一面の桜なのですな」 「ええ、そうですね」 「これが一面の花の季節だと、さぞみごとなものでしょうなあ」 「はあ、そうでしょう」  今度は浅見がそっけなく答えたが、老人には気にならないらしい。 「ここで静御前が舞ったのですなあ」 「ええ」 「こうしていると、静の舞姿が見えるようではありませんか」 「はあ……」 「もっと早く吉野に来ればよかった」  老人はいよいよ相手を無視した呟《つぶや》きのような口調になった。 「これまで天河《てんかわ》には何度も来ているのに、どうして吉野に立ち寄らなかったのか」  老人の呟きには、自嘲《じちよう》と無念の想《おも》いが込められていた。 「テンカワとはどこのことですか?」  浅見は訊いた。どういう字を書くのかさえ知らない。 「ん?」  老人は浅見の存在など、まったく気にしていなかったように、またチラッとこっちを一瞥《いちべつ》して、沈黙した。  浅見も仕方なく、黙《だま》りこくった。気詰まりな時間が流れたが、不思議に、浅見は立ち去る気になれないでいた。老人に魅《ひ》かれるというより、見放すことができない、一種の不安のようなものを、無意識のうちに感じているのかもしれない。 「この道をどこまでも行くと、天河に行くはずですよ」  また、忘れたころになって、老人は言い、桜花壇とは反対方向を指差した。 「はあ、そうですか、近いのですか」 「ほっほ、近いといえば、近い」  老人は力感のない笑い方をした。青年の無知を笑うようでもあり、自嘲のようでもあった。  それからゆっくりと立ち上がった。 「ごめん」  顔を逸《そ》らしたまま頭を下げ、浅見に背を向けて歩きだした。疲れているわりには、背筋を真っ直ぐにして歩いてゆく姿は毅然として、なんとも美しい。 「失礼します」  浅見は坐ったまま、見送った。  老人は、「この道を行けば」と指差した方角へ向かった。  その夜の膳《ぜん》に、名物料理の吉野|葛鍋《くずなべ》というのが出た。例のおばさんがつきっきりで給仕をしてくれた。 「お客さんのほかには、若いご夫婦が二組いらっしゃるだけです」  給仕をしながら、おばさんはよく喋《しやべ》る。自分はもう三十年もここに勤めているとか、息子夫婦がそろそろ引退して、うちに来ないかと言ってくれるとか、いろいろな有名人がお泊まりになるので、楽しいとか……。  少し話題が途切《とぎ》れたかと思ったら、語調を変えて言った。 「そうそう、いまさっき、玄関におかしなお客さんが来ていました。なんでも、お祖父さんがいてへんようになったからいうて、探してはるんやそうですねん」 「いなくなったって、どういうこと?」 「なんや、よう知りまへんけど、家出しはったんとちがいますやろか。下の駅で聞きはって、ロープウェイに乗って吉野の山に登ったいうことは分かってはるのやそうやけど、ロープウェイで聞いても、タクシー会社に聞いても、お山を降りた様子もないし、どこの旅館を探してもいてへんのやいうて、えろう心配してはりました。もしかすると、自殺の恐れがあるとかいうて……」  浅見はギクリとした。 (あの老人だろうか?——) 「自殺の恐れがあるというのは、どういう理由なのか、言ってました?」 「いいえ、そこまでは言うてはりませんでしたけど」 「その人、東京の人じゃないかな?」 「はい、東京から見えた言うてはりました」  おばさんは怪訝《けげん》そうに浅見を見た。 「そしたら、お客さん、心当たりおますのでっか?」 「いや、そういうわけじゃないけど……ただ、なんとなく、そうじゃないかなと……」  浅見は言いながら、不安になってきた。 「この寒さだと、外をウロついていたら、凍死しちゃうんじゃないかなあ」 「まさか、凍死はせえへん思いますけど……お客さん、ほんまに知ってはるのとちがいますか?」  おばさんは勘《かん》がいいらしい。 「うん、じつは、勝手神社でご老人と話したのだけど、ロープウェイで登ってきたと言っていた。しかし、まさかあの人がそうじゃないだろうなあ」 「その人か分かりまへんで。歳はなんぼぐらいの人でしたん?」 「七十ちょっとっていう感じかな」 「それやったら間違いあらしまへんわ」 「そう簡単に断定しないでくださいよ」 「そうかて、もしほんまにその人やったら、はよ知らせてあげたほうがええのんと違いますやろか」 「知らせるといっても、僕はただ、ロープウェイで来たと聞いただけのことだからねえ。そういう旅行者は沢山いるのだろうし」 「それでも、間違ごうとってもええから、教えてあげたほうがよろしいわ」 「教えるたって、もう帰ってしまったんでしょう?」 「大丈夫、泊まってはる宿が分かりますさかいに。電話はわたしがしてあげます」  おばさんは胸を叩《たた》いて、慌《あわ》ただしく部屋を出ていった。 3  おばさんはまもなく、ニコニコ顔で戻《もど》ってきた。 「お電話したら、喜びはって、すぐに来やはるそうです」 「来るって……まだ食事中なのに」 「かましまへん、食べながらでもよろしゅうおますがな」 「おますがなって言われてもねえ……」  浅見はおちおち食事もしていられない心境であった。  おばさんの言葉どおり、ものの三分も経《た》たないうちに「客」はやってきた。番頭が「お邪魔します」と声をかけ、襖《ふすま》が開いた。 「さあ、どうぞどうぞ」  おばさんは勝手に客を呼び入れている。  客は意外にも若い女性であった。二十歳を少し超えたか——といったところだ。  女性としては大柄なほうだろうか。しかし、顔立ちもプロポーションもキリッと引き締まった印象だ。  祖父の家出という「事件」のせいか、顔色は冴《さ》えず、髪の毛のほつれにも気づかないほど、疲労|困憊《こんぱい》したように見える。そういうハンディを割り引けば、たぶんふだんの彼女は、相当に美しいに違いない。  ただしファッションにまで気を配るゆとりがなかったのか、地味なグレーのブレザースーツに黒い丸首セーター姿は、そういうものに疎《うと》い浅見の目から見ても、かなり時代遅れな感じだった。  娘は左手に抱えていたコートを廊下に置いて、部屋に入るなり、ピタッと正座して「お邪魔いたします」と額が畳につくほどの礼をした。  胡坐《あぐら》をかいて、あつあつの吉野|葛鍋《くずなべ》をつついていた浅見は、慌《あわ》てて坐り直して、丹前《たんぜん》の前を揃《そろ》えながら挨拶《あいさつ》を返した。  浅見もいまどきの若い者としては、まあまあ作法の出来たほうだが、客の女性にはかなわないと思った。背筋をすっと伸ばした姿が美しいし、手をついてお辞儀《じぎ》をする所作《しよさ》がまた、あざやかなものであった。  これが武道家同士なら、おそらく「むむ、できるな」といったところだろう。 「私は秀美《ひでみ》と申します」  娘は名乗った。浅見もうろたえぎみに「浅見です」と応じながら、「えっ?」と問い返した。 「あの、ヒデミさんというのは苗字《みようじ》なのですか?」 「いえ」  娘は恐縮して顔を赤くした。 「事情があって、苗字を名乗るわけにはいかないのです。申し訳ありません」 「そうですか。いや、僕のほうはべつにそれでも構いません」 「ありがとうございます。それであの、祖父のことをご存じだそうですが、お教えいただけますでしょうか?」  娘は真っ直ぐに顔を上げて、すがりつくように言った。 「いや、知っているといっても、僕はただ、勝手神社でたまたま会って、少しお喋《しやべ》りをしたというだけで、そのご老人が、はたして、あなたの言うお祖父さんかどうかは分かりませんよ」 「祖父……いえ、そのご老人は、どういう恰好《かつこう》をしておりましたでしょうか?」 「コートを着て……そうそう、いまどき珍しい中折れ帽子を被《かぶ》っていました」 「ああ、それなら間違いなく祖父です」 「しかし、ご老人なら、そういう恰好をしている人は多いかもしれません」 「お喋りをなさったって、どういうことを申しておりましたか?」 「大した話ではないですよ。吉野ははじめてだとか、テンカワには何度も来ているとかですね」 「え? 天河のことを言っていたのですか?」 「ええ、それから静御前の話をしてました。ここで静が舞ったとかですね」 「やっぱりそれ、祖父です……」  娘は溜《た》め息《いき》をついた。安堵《あんど》と不安がこもごも、彼女の胸に疼《うず》いている様子だ。 「それで、祖父はどちらのほうへ参りましたか?」 「テンカワのほうへ行ったのじゃないですかね」 「えっ? 天河へ?」  秀美ばかりか、おばさんまでが、ほとんど同時に言った。 「天川《てんかわ》へ行くって言いはったんでっか?」  おばさんが重ねて訊《き》いた。 「いや、そうはっきり言ったわけじゃないけれど、この道を行くとテンカワに行くと言って、そこのほうへ歩いて行かれましたからね。しかし、はたしてそのテンカワへ行かれたのかどうか、その先のほうは残念ながら見ておりません」 「そうですか……」  娘は唇《くちびる》を噛《か》んだ。失望感が露《あらわ》に見える。 「失礼ですが、どういうご事情なのか聞かせていただけませんか?」  浅見は訊《き》いた。 「はあ……でも、それはちょっと申し上げられません」 「しかし、お聞きしたところによると、何でも自殺のおそれがあるとかいうことではありませんか」 「ええ、それは、最悪の場合には、そういうこともあるかと……」 「だったらそんな悠長《ゆうちよう》なことを言っていられないのではありませんか? 警察には届けたのですか?」 「いえ、警察にはまだです」 「それは妙な話ですねえ」  浅見は眉《まゆ》をひそめて、娘を見つめた。 「自殺のおそれがあると言いながら、警察にも届けず、しかも若いあなたが一人で探しているのですか」 「自殺というのは、私が勝手に考えて、心配しているだけかもしれません」 「ふーん……」  浅見はいよいよ、この娘に興味を抱いた。それにしても、若い女性が一人で大騒《おおさわ》ぎをしていて、そのくせ名前も言わず、かたくなに秘密を守ろうとしている事情というのは、いったい何なのだろう? 「お客さん」  おばさんが真剣《しんけん》そのもののような顔で浅見を見て、言った。 「そのおじいさんは、ほんまに天川《てんかわ》のほうへ向かって行かれたのでっか?」 「だから、僕ははっきり見ていないと……」 「そうかて、もし天川へ行きはったのやとしたら、大変でんがな」 「どうして? そもそもテンカワというのはどこなの?」 「それやったら、お客さんは天川のこと、ちっとも知らんのですか?」 「うん、知らない」 「天川いうたら、天川村のことですやろ」 「テンカワって、天の川って書くの?」 「そうです。でも、『天川』と三本川で書くと村の名前やけど、『天河』とサンズイの河の字を書くと、天河神社のことになりますな」 「なんだ、ややこしいんだね」 「そうかて、天河神社は天川村にありますさかいに、同じことですわ」 「それで、天川へ行ったのだとすると、どうして大変なの?」 「そらあんた、天川いうたらここから三十キロもおますのでっせ。そんなお年寄りやったら、途中でどうにかなってしまうに決まってますやろが」 「えっ? 三十キロ……」  浅見は絶句した。 「ほんとに、祖父は天河へ向かったのでしょうか?」  秀美は泣き出しそうな顔になった。 「うーん……ともかく、いずれにしても、そういうことだとすると、のんびりしていられないですね。どういう事情か、警察に言えないようなことがあるにしても、ご老人の後を追ったほうがいい。僕の車で追い掛けましょう。その道は車でも行けるのでしょう?」 「そらまあ、あまりええ道ではないですけど、車で行けんことはありません」  おばさんは首をかしげながら、自信なさそうに言った。 「それじゃ、すぐに出掛けましょう。ちょっと着替えますから、玄関で待っていてくれませんか」 「ほんとに……あの、ほんとに行ってくださるのですか?」  秀美ははじめて、心の鎧《よろい》に隙間《すきま》のようなものを見せた。 「行きますよ、僕にも責任の一端はありますからね。あの時、ご老人の様子になんとなく気になるものを感じたのだから。もう少しお話をお聞きすればよかったのです」 「ありがとうございます」  秀美は礼を言って、急いで部屋を出た。一刻も早く、祖父を追跡したい気持ちがありありと見えた。 4  浅見は着替えを済ませ、玄関へ出てから、あらためて、地図と首っ引きで、番頭とおばさんに天川への道を聞いた。  ところが、地図を見ると、勝手神社のところは三叉路《さんさろ》になっていて、天川へ行くには、桜花壇側から行って、勝手神社を出はずれたところで左へ曲がらなければならない。  しかし、浅見はじつはそこまでは確認していない。浅見が坐っていた勝手神社の階段からでは、曲がり角はちょうど死角になっている関係で、あの老人がはたして、「この道を行けば」と指差した天川のほうへ行く道を選んだのか、それとも真っ直ぐ、吉野山の街中を通って、山を下る道を選んだのか、確信は持てなかった。 「もしかすると、真っ直ぐ行かれたのかもしれませんよ」  浅見は秀美を安心させる気持ちもあって、そう言った。 「でも、それならロープウェイかタクシーか、どちらかを使うと思うんです」 「なるほど……しかし、それは天川へ行く場合でも同じことじゃないのですか?」 「ええ、ふつうはそうでしょうけど……ですから、心配なのです」 「それもそうですね」  浅見も秀美の不安が理解できた。たしかに、老人がタクシーを利用しないで、山道を歩いて行くなどというのは、「ふつう」ではない。 「とにかく行ってみますか」  浅見は秀美の腕を把《つか》むようにして、ソアラへ向かった。 「あまりスピード出さんと、気をつけて行きなはれや」  おばさんは心配そうに見送っていた。  吉野山から天川村へ抜ける道は、文字どおりの隘路《あいろ》である。一応、ほとんど舗装されているのだが、屈曲が多く、途中に人家が少なく、真っ暗な道だ。 「お祖父さんはもっと早くに吉野に来ればよかった、とおっしゃっていましたよ」  浅見は忙しくハンドルを操作しながら、言った。 「天川には、どなたかお知り合いでもいるのですか?」 「いえ、そういうわけではありません」 「しかし、吉野にも寄らないのに、天川には何度も行っているというのは、どういうわけですか? 天川なんて、聞いたことがないのですが、有名なところなんですか?」 「天川村は知られていなくても、天河神社は有名だと思います」 「そうなんですか。すると、あなたもいらっしゃったことがあるのですか?」 「ええ、二度だけ」 「ほう……」  浅見には天河神社なるものがどういうところなのか分からないから、それ以上、どう言っていいのか言葉に窮《きゆう》した。 「天河神社は天河|弁才天《べんざいてん》といって、日本三大弁才天の第一位だそうです」  秀美は言った。浅見への感謝が、そういう説明だけでもしなければ申し訳ないという気持ちにさせたようだ。 「天河神社には、ふつうは下市口《しもいちぐち》から行きます。バスで一時間ちょっと、大峰山《おおみねさん》の登山口のほうへ入ったところです」 「大峰山っていうと、山伏《やまぶし》修行で有名な、あの大峰山ですか?」 「そうです」 「日本三大弁天様の第一位っていうと、二番目は鎌倉の弁天様ですか?」 「いえ……」  秀美は思わず、笑いを含《ふく》んだような声を出したが、すぐに、そういう場合ではないと反省して、硬《かた》い口調に戻《もど》った。 「二番目は厳島《いつくしま》、三番目は竹生島《ちくぶしま》です」 「ああ、そうなの」  浅見は思わぬところで恥をかいた。弁天様といえば、鎌倉の銭洗《ぜにあら》い弁天しか思い浮かばないというのも、情けない。  行けども行けども暗い道だったが、五キロほど走ったところで沢沿いにポツリポツリと人家があり、三叉路《さんさろ》にぶつかった。  地図で見ると、ここはどうやら、下市《しもいち》町の才谷《さいたに》という集落らしい。 「沢を下ると下市町に出ます。そこからも天川へ行く道はありますが、どうします? 下市口から行くのが本来のコースなのでしょう?」 「ええ、でも、祖父はこの道を行ったと思います」  秀美は沢を溯《さかのぼ》る方角を指差した。そっちのほうが近道であることはたしかだが、いかにも寂しい山道でもある。  浅見は少しためらったが、結局秀美の指差した方向へ進むことに決めた。  これまでよりもさらに坂も屈曲も多い道になった。もはや「深山|幽谷《ゆうこく》」の雰囲気《ふんいき》になってきた。幽霊を大の苦手とする浅見は、独りでは絶対に走りたくないと思った。  しかし、そういう山奥みたいなところにも人家があるから感心してしまう。 「ご老人が勝手神社を出たのが四時頃かな。あれから約三時間……ご老人の足で、せいぜい十キロぐらいがいいところでしょう」  小さな峠を越えたところで、浅見はいったん車を停《と》めて、言った。  積算キロメーターは、桜花壇《さくらかだん》を出てから、すでに十二キロを走ったことを示している。 「祖父は脚《あし》は丈夫なほうですから」  秀美は唇《くちびる》を噛《か》み締《し》めるような表情で、言った。 「そうですか、それじゃ、とにかくもう少し行ってみましょうかねえ」  これまでも超安全運転で来たが、浅見はさらにゆっくりと速度を落として、注意深く進んだ。  もっとも、まったく間違えようのない、細い一本道である。道路を歩いている人がいれば、見落とすことはあり得なかった。 「おかしいですね」  十五キロを超えたところで、浅見は車を停止させた。 「こんな遠くまで歩けるとは考えられませんよ。やはりお祖父さんは、吉野山のどこかで泊まられたのでしょう」  秀美は黙《だま》って、フロントガラスの向こう側をじっと見つめている。しかし、そこに広がっているのは、ヘッドライトも届かないような深い闇《やみ》だ。 「どこか、Uターンのできる場所まで行って、引返しましょう」  浅見は車をスタートさせた。道幅は狭いが、ところどころに擦《す》れ違い用に待避場所を作ってある。そこでUターンした。  それにしても、走りだしてまもなく、たった一台の車と擦れ違っただけというのは、この道がいかに利用度の低い道であるかを物語っている。 「もしかすると」と、秀美は沈痛な声で言った。 「祖父は山へ入ったのかもしれません」 「山へ? というと、どこの山ですか?」 「吉野の奥山です」 「奥山……どの辺りのことですか? もし心当たりがあるのなら、そこへ行ってみましょう」 「心当たりなんて……」  秀美は悲しい目を浅見に向けた。 「吉野の奥山に心当たりなんか、あるはずがありませんわ」 「しかし……どういう意味なのですか? どうもよく分からないなあ」  浅見は秀美の言っていることが、さっぱり伝わらないもどかしさで、いくぶんいらいらしはじめていた。 「祖父はきっと、この道を外れて、奥山へ死にに入ったのだと思います」 「えっ? 何ですって?……」  浅見は急ブレーキを踏《ふ》み、秀美の顔を覗《のぞ》き込んだ。 5 「もしも祖父が死んだら、私が殺したようなものです」  秀美は感情に抑制がきかなくなったのか、顔を覆《おお》って嗚咽《おえつ》と一緒に言った。 「死んだとか殺したとか、穏《おだ》やかじゃありませんね」  浅見はこういう場合にどう対処すればいいのか、困りはてている。ナイトらしく背中でもさすって慰めてあげるのがいいのかもしれないけれど、そういうキザなことには心理的な抵抗を感じてしまうタチだ。 「あなたの言うとおり、本当にお祖父さんが自殺なさるおそれがあるのなら、すぐに警察に届けるべきですよ」  浅見は少し言葉を荒げて言った。「警察」と聞くと、秀美はビクッとした。 「警察に頼めない理由というのは、いったい何なのですか?」 「体面です」  秀美ははっきり宣言した。いや、まさに臆面《おくめん》もなく——という感じだった。 「体面?」  浅見は呆《あき》れた。 「そんなもの……お祖父さんの命と体面と、どちらが大切なんです?」 「それは、両方ともです。たぶん祖父なら体面を重んじると思いますけど」 「驚いたなあ」  浅見は腹立たしい気持ちになって、車をスタートさせた。 「それに、あなたの言っていることはきわめて矛盾していますよ」 「矛盾?」  今度は秀美のほうが心外そうに、浅見の顔を振り仰いだ。 「そんなことはありません、あなたには私の家の事情がどういうものか、お分かりにならないのです」 「いや、そんなことは関係ありません」 「関係あります、ミズ……いえ、私の家では、体面を損なうことを死ぬより恥ずかしいことだと教えているのです」 「なるほど、いや、それは分からないわけではありませんがね」  浅見はいくぶん和らいだ口調になった。 「それはあなたの言うように、体面を重んじる家風というのもあるかもしれない。ひょっとすると、うちの母なんかも、どちらかといえばそのクチでしょう。しかし、僕が言っている矛盾という意味は、それとは別の観点から言うのです」 「?……」 「あなたはお祖父さんなら、命よりむしろ体面のほうを大事にするだろうと言いましたよね」 「ええ」 「それだったら、お祖父さんは自殺なんかするはずがないじゃないですか。自殺をすれば当然、警察や世間がその事件を暴き、あなたの家の、まさに体面そのものをズタズタにしてしまうわけですからね」 「あ……」  秀美は小さく叫んだ。 「そうでしょう? だから矛盾だと言うのです。もし、あなたの言うとおり、お祖父さんが家の体面を重んじる人なら、まず自殺などをするはずがありませんし、自殺をするような人なら、本当は体面なんか気にする人物ではなかったということになりますよ」  浅見が言い切ってから、ずいぶん長いこと秀美は黙《だま》っていた。 「そうですね」  やがて、曇った目を洗われたように、爽《さわ》やかな声で言った。 「そうですよね、祖父は自殺なんかするはずがないんですよね。もし身を隠《かく》したいのなら、ひっそりと、ただ隠れてしまうにちがいありません」 「そうそう、そうですよ。失せにけり失せにけり——とね」  浅見は笑いを含《ふく》んだ声で言った。とたんに秀美はキッとなった。 「そういう、茶化すようなことを……」  浅見はまたびっくりさせられた。まったく情緒不安定な娘だ——と思った。 「いや、そんなにムキにならないでください。これは能《のう》や謡《うたい》の文句なんですよ。いちばん最後に、消えにけりとか、失せにけりとか謡《うた》いながら、登場人物が去ってゆくのです」 「そんなこと知っています」 「あ、そうですか。じゃあ、あなたのお祖父さんも謡をなさるのかな? 僕の父が生前、下手なくせに謡に凝《こ》りましてね、休みの日なんか、一日中うなりつづけるのです。それで、最後の『失せにけり、失せにけり』を聞くと、家中、ほっとしたりしましてね」  秀美は黙《だま》りこくってしまった。  やれやれ——と浅見はお手上げの気分で、実際にハンドルからちょっと手を離して、そういうポーズを作った。 「お父様の謡のお声、亡くなったあと、懐かしくありませんでしたの?」  怒って、口をきかないつもりかと思った秀美が、ゆっくりとした口調で言った。 「いや、それはもちろん、あなたの言うとおり、懐かしかったですよ。ことに母なんかはその想《おも》いが強かったのじゃないかなあ。しばらくは、そら耳のように、父の声がこびりついていたみたいですから」 「そうでしょう……私も父の声が、いまでも耳に残っていて、悲しくなります」 「そうですか、あなたもお父さんが亡くなられたのですか」 「ええ、それに、兄も……」 「そうだったのですか、お兄さんも亡くなられたのですか」  浅見は、秀美が情緒不安定になるのも無理がない——と納得できた。 「それはなんと言っていいものか……どうも僕は、慰めを言うのが下手な人間で」 「いいえ、見ず知らずのあなたに慰めていただこうとは思っていません。それに、こんなご迷惑《めいわく》をかけただけでも申し訳ないと思っているのですから」 「いや、そんなことは気にしないでください。それより、自殺はなさらないにしても、お祖父さんの行方は探さなければならないのでしょう?」 「ええ、それはそうですけど……でも、私にはもうどこを探せばいいのか、ぜんぜん分からなくなりました」 「吉野にいらっしゃったことはどうして分かったのですか?」 「それは、祖父の口癖《くちぐせ》でしたから……引退したら吉野へ行きたいというのが」 「なるほど……ん? 引退というと、お祖父さんは何をなさっていらしたのですか?」 「それは……ある仕事です」 「どういうお仕事ですか?」 「演劇関係の、です」 「演劇ですか。そうするとテレビなんかにも出ておられたのかな? いや、勝手神社でチラッとお顔を拝見した時、どこかでお会いしたような気がしたのです」 「それは人違いだと思います。祖父は素顔でテレビに出たことがありませんから」 「じゃあ、舞台の俳優さんですか」 「ええ、まあ……」  秀美はあまりはっきりしたことは言いたくない様子だ。たぶん脇役《わきやく》専門の役者だったのだろう——と浅見は思い、突っ込んだ質問をするのを控えることにした。  ひとまず桜花壇《さくらかだん》に戻《もど》って、秀美は番頭やおばさんに礼を言った。 「そうですか、お祖父さんはいてはらしまへんでしたのか」  おばさんは気の毒そうに言った。 「まあ、そしたら、明日、明るくなってから探しはったらええですわ」 「はい、そうします」  浅見が旅館まで送って行くと言うのを、すぐそこだから——と、秀美は固辞して帰って行った。ついに、最後まで苗字《みようじ》を名乗らないつもりらしい。浅見もあえて訊《き》き出すことはしなかった。 「そうや、お客さんになんべんも電話が入っておりました」  秀美を見送ってから、おばさんが思い出して言った。 「僕に? どこから?」 「お宅からやそうです。お母さんと違いますやろか、お帰りにならはったら、すぐに電話するように言うてはりました」  考えてみると、東京を出て二日目に電話を入れたきりだ。何か急な用事でもできたのだろうか?  浅見は急いで部屋に戻り、自宅のダイヤルを回した。 「光彦、あなたいったい、どこをうろついていたのです?」  お手伝いの須美子《すみこ》が雪江《ゆきえ》に代わったとたん、いきなり叱《しか》られた。 「出先からはこまめに電話するようにと、いつも言っているではありませんか」 「すみません。つい忙しさにとりまぎれてしまいました」 「忙しいといっても、夜中まで働いているわけではないのでしょう。どこに泊まっているのかも分からないようでは、留守を預かる者は困るのです」 「はい、今後は気をつけます。でも、ここにいることがよく分かりましたね?」 「三宅さんから出版社に問い合わせていただいたのです。今夜の桜花壇だけは予約してあるとお聞きして、ようやく掴《つか》まえたけれど、何日もかかったのよ」 「そうだったのですか、三宅さんにもよろしくお詫《わ》びしておいてください。ではお休みなさい」 「お待ちなさい! あなたがどこにいるか確かめるために、わざわざ電話したわけではありませんよ」 「あ、そうなのですか」 「当たり前です」 「では、何かご用ですか?」 「水上《みずかみ》様のことで、あなたに頼みがあるのです」 「水上さんといいますと?」 「決まっているでしょう。水上流《すいじようりゆう》ご宗家《そうけ》の水上様ですよ」 「ああ、能《のう》のですか」 「そうです。じつはね、水上様のご長男がお亡くなりになったのです」 「えっ? ご長男ていうと、まだ若いんじゃありませんか?」 「そうですよ、二十六歳だそうです。舞台で、『道成寺《どうじようじ》』を演じていらっしゃった最中に亡くなりました」 「じゃあ、やっぱり心臓ですか? たしか、おやじさんも心臓疾患でしたね?」 「一応そういうことになっています」 「一応というと、本当は違うのですか?」 「分かりません」 「なるほど、それを僕に調べろとおっしゃるのですね?」 「まあね、それもありますけど、それだけではないのです。じつは、そのご葬儀のあと、ご宗家が失踪《しつそう》なさいました」 「宗家が失踪?……」  浅見は「あっ」と声を出した。 「そうか、あれが宗家だったのか……」 「何をうろたえているのです?」  雪江は叱《しか》ったが、浅見はかえって急《せ》きこんで言った。 「水上さんのところには娘さんがいましたよね?」 「お嬢《じよう》様はいらっしゃいますよ」 「その子、秀美さんていいませんか?」 「そうですよ、秀美さんですよ。三宅さんがね、あなたにどうかとおっしゃってましたけど、光彦にはもったいなさすぎます……でも、いまは秀美さんのことを話しているのではありません」 「いえ、そうじゃなくて、会ったのです」 「まあ、いつのまに……光彦、あなた秀美さんとお付き合いしているのですか? 油断のならない子だこと」 「違いますよ、ここで会ったのです。吉野でですね、ついさっきまで一緒だったのです。お祖父さんの行方を探して……僕がですね、勝手神社でお祖父さん——水上さんの宗家と会っていたのですよ」  混乱しながら、浅見はことのしだいを話して聞かせた。さすがの雪江も仰天して、「まあ、まあ」の連続であった。 「そういうことだったのですか、それじゃ彼女が家の体面だとか言うのも当然ですね。警察にも届けられなかったわけです。しかし、いったい宗家は吉野に何をしに来て、どこにいるのでしょうかねえ?」 「何を呑気《のんき》なことを言っているのです」  雪江は驚愕《きようがく》から覚めて、カミナリを落とした。 「考えている場合ではないでしょう、すぐに秀美さんのところに行って、善後策を講じなさい。すぐにです」 「分かりました、ではまた連絡します」  浅見は電話を切って、おばさんに秀美の泊まっている宿を聞くために、ダイヤル9を回した。 第四章 霊気満つる谷 1  川島智春《かわしまちはる》は近鉄吉野線を下市口《しもいちぐち》駅で降りて、駅前から出るバスに乗った。  乗客は十数人。ほとんどがおたがいに顔見知りらしい老人とおばさんばかりで、土地|訛《なま》りの強い言葉で、彼らだけに通じる話に花を咲かせている。  旅行者らしい客は、智春ともう一人、前のほうの席に坐っている若い女性が、もしかするとそうかな——というだけだ。季節はずれのウィークデーは、いつもこんな状態なのかもしれない。  地図の上で見るかぎりでは、愛知県の豊田《とよた》市からそれほど遠いわけではないけれど、智春にとって、こんなに長い距離を独りで旅するのははじめての経験であった。  見知らぬ人の中にいる時間が長ければ長いほど、孤独感とともに使命感のようなものがひしひしと迫《せま》ってくる。 (私は必ず、パパの死の謎《なぞ》を解いてみせるわ——)  智春は、目は窓外を流れる風景に向けながら、心の奥では絶えずその決意を確かめていた。  父・川島|孝司《たかし》の事件を扱っている警察の動きは、遺族にとって、ことに智春のように気の強い娘にとってはまだるっこしくてならなかった。  父の葬儀の跡片付けも終わらないというのに、東京から何度も刑事がやってきて、父親の日常のことや交友関係などについてしつこいくらい聞いてゆく。  ことに女性関係のことを、母親に向かって根掘り葉掘り訊《き》き質《ただ》すのは、娘にとってやりきれないことであった。 「うちの主人にかぎって、そういう女の人がいるはずはありません」  母親はそのつど、きっぱりと言うのだが、またしばらくすると、蒸し返すようにその質問を持ち出す。 「こんなことを言っては失礼かもしれませんがね、われわれの経験から言うと、どこの奥さんも、自分のご亭主だけはと信じているものなのですよ。しかし、木仏金仏石仏みたいな人が、思いもよらないような女性と付き合っていたりしましてねえ」  刑事は父親の東京行きを、浮気旅行と限定したいらしい。「事件のかげに女あり」というのが、彼の信念になっているみたいだ。  智春は刑事に、父親が持っていたという、例の三角形の奇妙な鈴を見せた。 「この鈴をうちの中で父が持っているのを見たことがないんですよね。おそらくあの日、東京で会った誰かに貰《もら》ったものだと思います。その人物がもしかしたら犯人なのではないでしょうか?」  刑事は鈴をひねくり回していたが、「分かりました」と言ったきり、すぐに鈴を返して寄越した。はたして真剣《しんけん》にその鈴を手掛かりに捜査を進める気があるのかないのか、はっきりした態度を示さなかった。  ——その鈴は五十鈴《いすず》といって、天河《てんかわ》神社の御神体ですよ——  新幹線の中で会った紳士の言った言葉が、智春の頭から離れない。 「とにかく、パパが鈴を貰った人物が誰にせよ、この鈴が天河神社っていうところから出発していることはたしかなんだから、天河神社へ行ってみるしかないわ」  智春は主張した。 「そうだよな」  弟は同調したが、母親はかぶりを振った。 「やめなさいよ、そんな危ない真似《まね》は」 「どうして? 何が危ないのよ」 「何がって、だって智春、パパは殺されたのよ。相手は殺人犯なのよ」 「ばかねえ、天河神社に犯人がいるわけじゃないでしょう」 「だったらおまえ、天河神社とかいうところへ行ったって、しようがないじゃないか」 「しようがないかどうか、行ってみなきゃ分からないわよ」 「そういうのは警察に任せておけばいいでしょう」 「だめよ、警察なんか天河神社に行くかどうかも分からないもの」 「それは行っても無駄《むだ》だからでしょう」 「だからァ、無駄かどうかだって、行ってみなきゃ分からないって言ってるじゃない」  いつまで議論しても、同じことの繰り返しみたいなものだった。  母親が危惧《きぐ》する気持ちも分からないではない。父親が死んで……それもおそらくは殺されて、その上、さらに恐ろしいことにでもなったら、気が狂《くる》ってしまうかもしれない。 「大丈夫よ。少なくとも、私には殺されるような理由はないもの」 「じゃあ、あれかい? パパには殺される理由があったって言うの?」 「そういう意味で言ったわけじゃないわよ。ただのもののたとえよ」  しかし、現実に父親は殺されたのだ。殺されるには殺されるだけの理由や動機があったに違いない。  それとも、人違いか何か、まったくいわれのない殺人だったのだろうか?  そういえば動機なき殺人だとか、通り魔だとか、理由もなしに無差別に人を殺したりする人間だっている世の中だ。 (でも——)と智春は、ただ一つの事実だけは、父親の殺される「条件」であり得ることを認めないわけにはいかなかった。  それは、「大阪へ行く」とだけ言って家を出た父親が、会社にも家族にも何の説明もなく、まったく逆方向の東京へ行ったことだ。 (どういうことだったのだろう?——)  いくら考えても分からない。東京へ行くなら行くで、当然、ひと言ぐらい断りを言うはずではないか。何か緊急の用件が生じたとかいう理由があれば、なおのことである。  そのことは、会社にとっても川島家の者にとっても、じつは重大な意味を持つ。もし出張中に事件に遭遇したのであれば、川島孝司の死は労災認定がなされ、それなりの補償を受ける可能性がある。しかし、大阪出張の延長上とも言える、いわば勤務時間中に会社に無断で東京へ行ったとなると、話は違ってくる。むしろ、会社に対する何らかの背信行為と見なすことさえありうるのだ。 「こんなことは考えたくないのですが、川島さんは、よその会社にスカウトされていて、その打ち合わせか何かで、密かに東京へ行ったのじゃないかと……」  新任の営業所長は警察に対して、そういう憶測《おくそく》を洩《も》らしたそうだ。父親の部下で、家族とも親しくしている水沢《みずさわ》という青年が、憤慨《ふんがい》しながらそう教えてくれた。 「パパがそんなことをするはずがないじゃないの」  智春はもちろん、母親もさすがに怒った。怒ると同時に、情けなくて涙が出た。 「こうなったら、何がなんでもパパの汚名《おめい》を雪《そそ》がなくちゃ……」  智春の決意はますます固まるばかりだし、母親の反対する姿勢も軟化した。  天河神社というのは、奈良県吉野郡|天川《てんかわ》村にあることは分かったが、旅行ガイドブックで調べても、天河神社のことはあまり詳《くわ》しく出ていない。人文社が発行している「観光と旅」に次のように紹介されていた。  天河神社  天《てん》ノ川《かわ》の東岸に、山を背にして社殿が建つ。天河|弁財天社《べんざいてんしや》ともいい、役行者《えんのぎようじや》が感得した弁財天を祀《まつ》ったのに始まるという。また弘法大師空海《こうぼうだいしくうかい》の大峰《おおみね》修行の根拠地《こんきよち》であったとも伝え、修験道《しゆげんどう》の隆盛とともに栄えた古社である。  社宝に、室町《むろまち》期以降の能面《のうめん》三十一面、能衣装《のういしよう》三十点、小道具十六点、文書百二十点があり、一括《いつかつ》して能楽《のうがく》関係資料として県の文化財に指定されている。能面の中には、永享《えいきよう》二年、観世元雅《かんぜもとまさ》が納めた面もある。  新幹線の紳士は「芸能の神様」とか言っていた。能面を納めたのは、そういうことからきているのだろう。観世が能の流派であることぐらい、智春だって知っている。  天川村は地図を見ても想像がつくくらい、山奥である。大峰山に近いのだから、自然の条件は厳しいに違いない。  智春はとにかく、冬が来る前に行かなければならないと思った。  バスはクネクネと曲がる細い道を、谷の中に誘《さそ》いこまれるように進んで行く。片側が崖《がけ》、片側が谷の道がどこまでも続いた。  結構、車の行き来があって、そのつどバスか先方の車かが停車し、相互に譲りあいながら擦《す》れ違う。  途中には長いトンネルもあった。よくもこんな山奥に舗装道路があり、人家があるものだ——とつくづく感心させられる。トンネルや舗装道路が出来る前は、いったいどれほど難渋《なんじゆう》したことだろう。それでも、その当時から人は住んでいたわけだ。  川合《かわあい》というバス停が終点で、そこまで乗った客は五人だけだった。  智春が席を立って、ドアに近づくと、前の席にいた旅行者らしい女性も立って、バスを降りて行った。  その女性はバスを降りると、さらにその先のほうへズンズン歩いて行く。いかにも物慣れた様子だ。ひょっとすると、地元の住人なのかもしれない。 「あの、ちょっとお訊《き》きしますけど、この道は天河神社へ行くんですか?」  智春は小走りに追いかけて、訊いてみた。  女性は振り返った。智春より少し年長か、もしかすると同じくらいかもしれない。無造作に束ねたようなヘアスタイルも、ポロセーターの上にローズピンクのトレーナー、それにジーパンにスニーカーというラフな恰好も、あまりにもさりげなさすぎる。どうやら、お洒落にはまったく構わない性格のようだ。  それに較べたら、自分のほうがずっと都会的なセンスを感じさせるわ——と智春は思った。白い襟足を覗かせた、モスグリーンのVネックセーターにタータンチェックのキュロットスカート——といういでたちは、首の長さや脚の長さを、充分に意識したファッションであった。 「ええ、そうですよ。私も天河神社まで行くところです」  女性は西のほう——九州辺りの訛《なま》りのあるアクセントで言った。 「あ、ほんとですか? でしたら、私も一緒に行っていいですか? はじめてなもんで、分からないんです」 「ええ、どうぞ」 「あなたは詳《くわ》しいみたいですね」 「まあ……私はこれで八度目ですから」 「八度目?……」  智春は感嘆というより、呆《あき》れたような声を出した。 「そんなに何度も訪れるほど、いいところなんですか?」 「ええ、それはまあ……」  女性は歩きだしながら、照れたように答えた。独り旅をしているくらいだから、あまり人付き合いが好きではない性格なのかもしれない。 「あ、私、川島っていいます。川島智春、智恵の智に春って書きます。愛知県の豊田っていうところから来ました」  智春は名乗った。 「私は須佐千代栄《すさちよえ》、須藤の須に佐藤の佐。それに千代に栄えるって書きます」 「珍しい名前ですね」 「ええ、千代栄なんて、オバンみたいでしょう。須佐っていうのも珍しいですけど」 「どこからいらしたんですか?」 「熊本です」 「熊本……ずいぶん遠いところから来たんですねえ」 「ええ、でも、同じ日本の中です」 「それはまあそうですけれど」  智春は思わず笑ってしまった。 「でもよかったわ、須佐さんみたいに詳《くわ》しい人とお知り合いになれて」 「べつに詳しくなくても、天河神社のよさはすぐに体験できますよ」 「そうなんですか? でも、私はぜんぜん宗教心がないですから」 「私だってはじめはそうでした。それに、天河って、宗教じゃないみたいなんです。なんとなく、居心地がいいっていうか、そういうのってあるでしょう? それなんです。それで何度でも来たくなるんです」  千代栄はかなりの健脚らしく、どんどん歩く。それでも三十分は優に越えた。 「こんなに歩くんですか?」 「ええ、ほんとはすぐ近くまでバスが来るんですけど、いまは川合までなんですよね。でも、もうすぐ、ほら、あそこです」  須佐千代栄は顔を上げて、行く手に見える黒ぐろとした杉木立の杜《もり》を指差した。 2  川島智春が天河神社を知らなかったように、一般の人間が天河神社も天川も知らなくて不思議はない。旅行好きの浅見光彦だって、知らなかったほどだ。旅行案内書にもあまり詳《くわ》しく書かれていないというのは、つまりポピュラーな観光地ではないからだ。  天川は十津川《とつかわ》の上流である。十津川はやがて熊野川《くまのがわ》になる——といえば、ようやくイメージが湧《わ》いてくるだろうか。  天川村付近はかつて大峰山修行のための、登山コースのひとつとして開かれたと言われている。天川の源流は大峰山系の主峰|山上ケ岳《さんじようがたけ》・弥山《みせん》で、弥山は現在でも山伏|修験道《しゆげんどう》のメッカである。  天河神社の成立は、多くの社寺の由来がそうであるように、伝説の霧に包まれている。  開祖は役行者《えんのぎようじや》(役小角《えんのおづぬ》)といわれ、役行者がこの地に来て、大峰山の修験道場を開き、弥山で国家|鎮護《ちんご》の神を祈祷《きとう》した際、最初に出現したのが弁才天《べんざいてん》であった。弁才天は女性であるために、これを天川に祀《まつ》り、つぎに出現した蔵王権現《ざおうごんげん》を山上ケ岳の本尊に祀ったのだそうだ。天河神社のことを「大峯《おおみね》本宮」と別称するのはそこからきているという。  役行者は空海《くうかい》とならぶ超人であった。いまでいうなら、さしずめ「エスパー」だ。空海・弘法大師《こうぼうだいし》の史蹟《しせき》がどこへ行ってもあるように、役行者のそれも、ちょっと興味を持って調べれば、あなたの身近なところにも、必ずあるに違いない。  とはいうものの、役行者伝説というのは全国いたるところにあって、論理的な根拠《こんきよ》としては説得力に欠ける。  もう一つ、空海が高野山《こうやさん》を開く直前の三年間、ここを根拠地に大峰修行をした際、琵琶山白飯寺妙音院《びわさんはくはんじみようおんいん》と号する、七堂|伽藍《がらん》を建立《こんりゆう》したのだともいわれるが、これも信憑性《しんぴようせい》に欠ける。  史実性がはっきりしているのは、醍醐《だいご》天皇(八八五—九三〇)の頃、僧正聖宝《そうじようしようぼう》(理源《りげん》大師)が大峰中興開山となったというあたりからで、聖宝が住んでいたのが現在の天河神社ではなかったか——ということらしい。  中世の頃は京都の貴族や僧侶《そうりよ》のあいだで、浄土《じようど》思想が盛んだった。その対象として大峰山系が存在したことは想像に難くない。大和《やまと》の南に千メートル級の山々に囲まれてある天川の地は、まさに下界と隔絶された異次元の世界という印象を与えたのであろう。  それは現代にも通じることだ。  吉野・下市口から登ってきて、峠を潜《くぐ》る長いトンネルを抜けた瞬間《しゆんかん》、明らかに外界と違った空気を感得することができる。  それは、いってみれば「山気」というべきものだろう。急峻《きゆうしゆん》な山の中の盆地《ぼんち》には、当然のように冷気が沈澱《ちんでん》するだろうし、鬱蒼《うつそう》と繁《しげ》る杉木立の呼吸する空気が、都会のそれと同じであろうはずもない。そして何よりも圧倒《あつとう》的な静寂《せいじやく》である。  天河神社を信じる人々は、そういう気配をひっくるめて、「気」と呼んでいる。 「天河の気に触《ふ》れるだけで、たとえようもない安らぎを感じるのよね」  須佐千代栄はそう言った。  天河神社は朱塗《しゆぬ》りの大鳥居《おおとりい》をくぐったところから境内《けいだい》になっている。しかし、「天河の気」はそういう小さく限られた地域に存在するのではなく、天川の谷間全体にある。天河神社でメディテーション(瞑想《めいそう》)に耽《ふけ》り、あるいは宮司が祝詞《のりと》を上げることによって、それを凝縮《ぎようしゆく》させて感得することができるのだと説明している。  正直なところ、智春には千代栄の言っていることがよく分からなかった。空気が違うのは当たり前のような気がするし、それをことさらに宗教的な意味あいで捉《とら》えてありがたがるのは、一種の思いこみでしかないのじゃないかな——と思ったりした。  鳥居をくぐると、砂利《じやり》を敷きつめた境内の道である。そのあたりから音楽が聞こえはじめた。 「あれは何かしら?」  雅楽《ががく》とも違う、むしろシンセサイザー系統の電子的な合成音だ。本来なら、そういう音は神社やお寺のイメージとはかけ離れた音楽のように思えるのだが、奇妙に、周辺の状況にマッチしている。 「宮下富実夫《みやしたふみお》っていう人が作曲した曲です」  千代栄は言った。さすがに過去七度も来たことがあるだけに、天河神社のことは何でも知っているような口振りだ。 「あれ、シンセの音みたいですね?」 「ええそう、たぶんシンセか何か、そういう楽器を使っているはずですよ」 「なんだか、由緒《ゆいしよ》ある神社とはそぐわないみたいですけど」 「そんなことないんじゃない? シンセどころか、ここの宮司さんはUFOを何度も見たことがあるそうですよ」 「UFOを?」 「弥山ていう山があるのですけど、そこの頂上付近がUFOとコンタクトできる特殊な空間らしいのです。宮司さんだけではなく、よそから来た人も何人も見たそうですよ」 「はあ……」  智春は消化不良を起こしそうだった。そのテの話をあまり信じる気にはなれない。  社殿の前に着くと、千代栄は手を洗い、口を漱《すす》いでから、きちんと柏手《かしわで》を打って、拝礼をした。智春は見様見真似《みようみまね》でそれらしくしてみたけれど、なんとなく違和感があって、なじめない。しかし、千代栄の真面目《まじめ》くさった仕種《しぐさ》をおかしいとは思わなかった。  境内《けいだい》に、茶店の縁台のようなものが並んでいて、そこに何人かの先客がいた。  思い思いに、社殿のほうに向かって坐り、じっと考えごとをしているような様子だ。千代栄もそこへ行くらしい。智春は慌《あわ》てて彼女のあとに従った。 「ほら、こうしていると、気持ちが落ち着いてくるでしょう」  二人並んで縁台に坐ると、千代栄は智春に小声で囁《ささや》いた。 「そうですね、ほっとするみたい」  智春もそう応じたが、ずいぶん歩いたのだもの、ほっとするのは当然だわ——という気がしないでもなかった。  三十分ほどもそうしていただろうか。千代栄はようやく瞑想《めいそう》を解いて立ち上がった。  社殿の脇《わき》に社務所がある。建物の角のところが広く窓を開けて、お守りやお札などを売っている。千代栄がそこに顔を見せると、巫女《みこ》姿の女性が懐かしそうに声をかけた。 「あら千代栄さん、来てたの?」 「ええ、いま着いたところ」 「ほんと、今度はいつまでいるの?」 「分からない、四、五日か、場合によったら一週間ぐらいいるかもしれない」 「じゃあ会社はサボり?」 「そう、半年分まとめて休むの」 「お友達?」  千代栄の後ろにいる智春を見て、訊《き》いている。 「うん、バスでね、一緒になって。川島さんていうの、川島智春さん。この人はね正木楠枝《まさきくすえ》さん。ほんとは宮崎の人で、私みたいに、一年に二、三度お参りに来てたんだけど、とうとう居ついてしまったの」 「そうなんですか」  智春はまた驚いてしまった。やはり、人間をそこまで惹《ひ》きつける何かが、ここにはあるということなのだろうか。  正木楠枝の背後を、いそがしく行き交う若い神職たちが、千代栄に気づいて「やあ」と声をかけてゆく。 「こんにちは」  千代栄もそのつど、笑顔で挨拶《あいさつ》をかえした。その様子から察すると、天河神社で千代栄はかなりの「顔」らしい。 「惜しかったわね、昨日まで潮恵津子《うしおえつこ》さんが滞在してたのよ」  楠枝はテレビドラマで活躍している、有名な美人アクション女優の名前を言った。 「ほんと、会いたかったなあ……でも、明日から三日間、薪能《たきぎのう》があるでしょう? それに合わせてスケジュールを樹《た》てて来たのよ」 「ああ、そうだったの。だけど、今年の薪能はちょっと寂しくなるみたい」 「どうして?」 「ほら、このあいだ水上和鷹《みずかみかずたか》さんが亡くなったでしょう」 「えっ? うっそ……」 「あら、知らなかったの? 舞台で『道成寺《どうじようじ》』を舞っている時ですって。心臓の発作らしいのよね」 「ほんと?……信じられない、あんなにすてきな人がもうこの世にいないなんて……」  能役者《のうやくしや》の突然の死に、千代栄はよほどショックだったらしい。しかし、智春にとっては、能のことには関心がなかったし、なんだか話題の外に置かれているような、宙ぶらりんの状態であった。  仕方なく、そこに広げられているお守りやお札を覗《のぞ》いていた。  ご本尊の弁才天《べんざいてん》は芸能の神様というだけあって、お守りやお札にもどことなく華やかさが感じられる。  ちょっと見ただけでも、並んでいる品物がふつうの神社やお寺とは少し違うような印象を受けた。  お札やお守りのスペースと同じくらいの面積に、いろいろな書物やカセットテープが並べられてある。祝詞《のりと》か何かのテープかと思って、目を近づけると、テープには『アスカ』『サイレントエコー』等々、変わったタイトルがつけられている。 「ああ、そのテープはね、いま流れている音楽が録音されているのよ」  千代栄が気づいて、教えてくれた。 「あ、これ……」  智春は『天河』というタイトルの本を手に取った。一辺が約十五センチほどの正方形の本である。その本の表紙にあのトライアングルみたいな形をした、金色の鈴の写真が載《の》っていた。 「五十鈴《いすず》だわ……」  智春は呟《つぶや》いた。気がつくと、売り場にはごく小さな、三センチ角ぐらいの五十鈴に鎖《くさり》をつけて、ブローチのようにしたお守りが並んでいた。やはりあの新幹線の紳士が言っていたのは事実だったのだ。 「あら、川島さん、五十鈴のことを知ってたの?」  千代栄がびっくりして言った。 「ええ、ちょっと」 「そうなの、五十鈴を知っていて、天河神社のこと知らないなんて、珍しいひとねえ」  千代栄は笑いを含んだ、急に親しそうな口調になっていた。 「知ってはいるんですけど、どうして五十鈴っていうのかとか、そういうことは知らないんですよね」 「ああ、それはね、この鈴の中には五十人の神様がいらっしゃるっていうことから、そう呼ぶのよ」 「五十人の神様っていうと?」 「イロハニホヘト……アイウエオでもいいけど、五十音の一つ一つに、神様が宿っていらっしゃるっていう考え方ね。ほら『言霊《ことだま》』っていうでしょう」 「そうなんですか……でも、不思議な形をしてますねえ。はじめ、これが鈴だっていうこと、気がつかなかったくらいです」 「この三角形にも意味があるのよ。三つの鈴から出る音が、それぞれ干渉しあって、パワーを産み出すの」  千代栄は小さな五十鈴のお守りの一つを手に取った。 「このお守りはご本尊の五十鈴のミニチュアなのよ。ご本尊のはもっとずうっと大きくて青銅製だし、これはちょっと小さいけど、いつも身につけていると、気持ちが落ち着くの。ひとつ買って帰ったら?」 「私、持っているんです」 「あ、そうなの。じゃあ、誰かのお土産か何か?」 「そうじゃないんですけど……ここにあります」  智春はバッグの中から、布にくるんだ五十鈴を出した。 「あらっ……」  千代栄はまた驚きの声を発した。 「これ、大きいほうね。ううん、大きいほうの中でも、特別に大きいんじゃないかな」  何も知らないはずの智春が、その特製の五十鈴を持っていることが不思議でならないらしく、ちょっと眉《まゆ》をひそめるようにして訊《き》いた。 「その鈴、どこで、誰にもらったの?」 「父が持っていたものです」 「お父さんが? お父さんは天河神社の信者の方なの?」 「いいえ、違うんじゃないかしら、誰かにもらったのだと思います」 「そうなの……あら、思いますって、お父さんに訊いてみれば分かるじゃない」 「父は亡くなったんです」 「え? あ、ほんと……ごめんなさい、知らなかったものだから」 「いいえ、いいんです」 「でも、変だわ。その大きさの鈴は、あまりたくさんは作られていないはずなんですよ。信者でもないお父さんが、どうしてその鈴を持っていたのかしら?」 「ですから、誰かにもらったのでは……」 「それもおかしいのよねえ。信者なら、その鈴を簡単にひとに上げたりしないはずですもの」 「そうなんですか……」  智春は深刻な表情になっていた。もし千代栄の言うとおりだとすると、この鈴を手にした人物はごく限られることになる。 「この鈴が、もともと誰のものだったかを調べることは出来るのでしょうか?」 「えっ? どういうこと、それ?」 「この鈴を持っていた人を探したいのです」  千代栄はじっと智春の顔を見つめた。  それからふと思い出したように言った。 「そうそう、今夜の泊まるところはどこか、決まっているの?」 「まだ決めてないんです。もしかしたら、吉野へでも行って泊まろうかと思ったものだから。天川には旅館はあるのですか?」 「あるわよ。私は天川に泊まります。そんなに立派じゃないけれど、民宿みたいなところに泊まるの」 「そこ、ご一緒してもいいかしら?」 「それはいいと思うわ。もしよければそうしなさいよ」 「そうします。ああよかった」  宿が決まれば、あとはゆっくり目的のことだけを考えればいい。 「じゃあ、これからいったん、宿に入りましょうか」  千代栄は言った。むろん智春に異存はなかった。 3  民宿と旅館の中間みたいな宿は、天河神社のすぐ近く、いわば参道の脇《わき》のようなところにあった。 「いらっしゃい、しばらくやねえ」  ふっくらした顔のおばさんが、大きな声で出迎えた。 「急にお友達と一緒になったのだけど、構わないかな?」 「ああ、そりゃ構わないどころやないわ。同じ部屋でいいのでしょう? だったらうちは大歓迎ですよ」  部屋に落ち着いて、お茶とお菓子でくつろぐと、智春はさすがに旅の疲れを感じた。 「ちょっと横になっていいかしら?」 「どうぞどうぞ。でも風邪《かぜ》ひかないように、掛け蒲団《ぶとん》だけでも掛けなさい」  千代栄は言って、自分で押し入れから蒲団を出してきてくれた。 「どうもありがとう」  智春はついさっき知り合ったばかりの女性と、こんなふうに一つ部屋で泊まることになった不思議さを思った。 (こういうのが天河神社のよさなのかもしれない——)  天井を見つめながら、思った。 「ねえ川島さん」  千代栄が言った。 「あなたいま、何かとても思いつめていることがあるんじゃない?」 「えっ?……」  智春は言い当てられて、ドキリとした。 「もし間違っていたらごめんなさい。もしかすると、あなたは死ぬほど強く、何かを突き詰めているんじゃないかしら、私はそう感じたんだけど」 「ええ、そうです」  智春は天井を見たまま、答えた。 「私、父を殺した犯人を探しているんです」 「えっ? お父さんを殺した……じゃあ、あなたのお父さん、亡くなったっていうの、それ、誰かに殺されたの?」 「そうなんです、先月、東京で」 「そうだったの……」 「父が殺された時、この五十鈴《いすず》を持っていたんですよね。でも、この鈴を父が持っているなんて、家の誰も、母も私も弟も知らなかったんです。だから、きっと犯人を探す手掛かりになると思って、とにかく鈴の出発点である天河神社に行ってみようと思って」 「それで、天河神社に来たの……驚いたなあ。そういう目的で天河神社を訪れる人なんて、いまだかつてなかったわね、きっと」 「これからだって、たぶんないと思います」  智春は微笑《ほほえ》んだ顔を、千代栄に向けた。 「そうね」  千代栄は、真剣《しんけん》な顔で頷《うなず》いた。 「でも、その五十鈴を持っていた人物が殺人の犯人だなんて、ショックだわねえ。天河神社の信者の中に、殺人犯がいるっていうことですものねえ」 「あ、でも、そう思っているのは私たち、家族だけで、警察はそんなふうには思っていないみたいですから」 「そうだといいんだけれど……でも、あなたの疑惑が正しいかもしれないっていう、そういう確率もあるわけでしょう」 「それはそうですけど、そういうことをどうすれば確かめられるのか、素人《しろうと》には分からないんですよね」 「さっき言ったみたいに、その大きさの鈴を持っている人は、一般の信者ではないはずだから、案外見つけられるかもしれないわ」  千代栄は思索《しさく》的な目を、どこか遠いところへ向けて、言った。  そのあと、智春は夕食までのあいだ、少しまどろんだ。須佐千代栄はいつのまにか出掛けていたらしい。  気配で目を覚ますと、窓明かりが消えていて、真っ暗な部屋にパッと電気が点《つ》いた。 「よく眠っていたわね」  トレーナーを脱《ぬ》ぎながら、千代栄は横になっている智春を覗《のぞ》き込むようにして言った。 「御飯のあとでお客さんが来るの、詳《くわ》しい人だから、五十鈴《いすず》のことなんか、いろいろお話を聞くといいわ」 「じゃあ、わざわざ頼みに行ってくださったの? すみません」  智春は千代栄がそこまでしてくれるとは想像もしていなかっただけに、他人の親切が身にしみて嬉《うれ》しかった。  それから交代でお風呂《ふろ》に入って、丹前《たんぜん》に着替え、夕餉《ゆうげ》の席についた。  食事は椅子式《いすしき》の食堂ですることになっている。お客は智春たちのほかには、三人連れの中年の女性グループがいるだけだった。テーブルは一つ置いた隣だったけれど、内容がはっきり聞き取れないほど、小さな声で話している。もしかすると、何かわけありの人たちなのかな——と思えるほどだった。  もっとも、智春と千代栄もそうそう大きな声で喋《しやべ》ったりはしない。天河は静寂《せいじやく》を尊び、音に敏感《びんかん》な人々のオアシスなのである。そういうきまりがあるわけでもないだろうけれど、はじめての智春でさえ、なんとなくその雰囲気《ふんいき》に同化してしまったらしい。  食事は精進料理みたいなものばかりかと、いささか心配していたが、そんなことはなかった。考えてみると、ひとつ山を越せば南紀の海岸に出るのだ。けっこう海の味も豊富にある。  独り旅で、おやつなんかも食べる機会がなかっただけに、智春は空腹だった。 「あなたって、よく食べるひとなのね」  千代栄は智春の健啖《けんたん》ぶりに驚いていた。 「もしよかったら、私のお刺身《さしみ》も食べて。目下、ダイエット中なの」  食事がすんで部屋に戻ってまもなく、千代栄の言っていた「お客」が来た。見るからに真面目《まじめ》そうな初老の男性で、髪の毛は胡麻塩《ごましお》、もみあげから顎《あご》にかけて、白いものの混じった髭《ひげ》を生やしている。 「福本《ふくもと》さんです」  千代栄が智春に紹介した。 「天河神社の社務所にいらっしゃって、お守りやお札の手配なんかを取り仕切ってる方なのよ」 「よろしくお願いします、川島智春です。わざわざ来ていただいて、すみません」  智春は福本と千代栄の両方に感謝をこめて頭を下げた。 「いやいや、すぐそこに住んでおるので、ついでに寄らせてもらっただけです。それより、須佐さんに聞いたのやが、何か、お父さんがその、殺されなさったそうですな」  福本は沈痛そのもののような表情で、気の毒そうに言った。 「それで、天河神社の五十鈴《いすず》が犯人を探す手掛かりになっているとか」 「ええ、でも、それは私の思いつきで、本当にそうなのか、分からないのです」 「とにかく、鈴を拝見しましょうか」  智春が鈴を出して渡すと、福本は厳しい目になった。 「ほう、この鈴ですか……」 「やっぱり、特別な鈴でしょう?」  千代栄が脇《わき》から気がかりそうに訊《き》いた。 「そうですな、この大きな鈴は芸能関係の、それも一流の人たちがお参りに見えた時だけにお渡ししている、特別な鈴ですよ」 「たとえば女優さんとか、テレビタレントとかですか?」 「そういう人もいますが、どちらかというと、歌舞伎《かぶき》、能楽《のうがく》といった、日本古来の芸能関係の人が多いですな。天河神社には観世元雅が納めた能面など、貴重な文化財があるくらいですので、能楽関係の人たちはことに信仰が篤《あつ》いのです。そういう人たちだけに、いわば限定してお渡ししているのです。ほら、ここのところに、通し番号の刻印が打ってあるでしょう」  福本は三つの鈴を繋《つな》いでいるブリッジの一か所を指差した。たしかに、そこには数字が刻んである。 「これより小型の鈴には、番号などは打っておりません。あくまでも、この鈴を持つに相応《ふさわ》しい人物のための、はなはだ稀少《きしよう》価値の高い五十鈴《いすず》なのです」 「じゃあ、その通し番号を照合すれば、誰の手に渡ったものか、分かりますね」 「まあそうですな。ただし、最初に持っていた人から、さらにほかの人に渡ってしまっていたということもあるでしょうがね」  福本は用心深い言い方をした。 「それでも、とにかく最初の人が誰なのか、調べていただけないでしょうか?」  千代栄は智春のために、身を低くして頼んでくれている。 「そうですな……」  福本はしばらく考え込んだ。相手はいわばVIPといってもいい、有力な信者である。その中から、ひょっとすると殺人犯かもしれないという疑惑《ぎわく》をもって、ある人物を特定するという作業が、はたして許されるものかどうか、悩《なや》んだに違いない。 「調べるにしても、あくまでも、単に鈴を最初にお渡しした人が誰か——ということだけですよ。どういう人物であったとしても、この天河神社の信者である以上、その人が恐ろしい殺人事件の犯人であるなどとは、絶対に考えられませんからな」  深刻な顔つきで言った。 「はい、それで結構です」  智春が言い、千代栄がそれをバックアップするように、深く頭を下げた。 4  福本が帰って行ったのと入れ代わるように、宿のおばさんが夜具をのべにきた。 「なんぞありましたんかいな? 福本さんがえろう難しい顔をしてからに、こっちが話しかけても上の空やったけど」 「ええ、ちょっとお願いごとをしたもんで、責任を感じておられるのだと思います」  千代栄が言った。 「お願いいうて、何ですの? 婿《むこ》さんでも頼みましたんか?」 「それだったらいいのだけれど」 「そうや、千代栄ちゃんも、のんびりしとったらあきまへんで。もうそろそろ大台に載《の》ってしまうんとちがう?」 「そう、さ来年です」  千代栄は悪びれずに言った。 「えっ? 須佐さんて、もうそんな……あの、さ来年は三十に?……」  智春はびっくりして、千代栄があまり喜びそうにない質問をしてしまった。 「そうよ、オバンなの」 「うそみたい。私と同じくらいかと思っていたんですよね」 「まさか、あなた、二十一でしょう?」 「そうですけど、あら、どうして分かったんですか?」 「なんとなくね、そういう勘《かん》ていうのかな、分かるのよ」 「やっぱり天河神社のお蔭《かげ》ですか?」 「さあどうかしら、違うみたい。ずっと前からそういう変な才能があったから」 「そうやねえ、千代栄ちゃんは、ここにはじめて来た時から、ちょっと変わってはるなあ思いましたんよ」  おばさんが証明した。 「当たり前やけど、いまよりずうっと若うて、あれは何年前やったかしらねえ」 「七年前かな……あら、そうだわ、あなたと同じ歳の時かもしれない」 「そうなんですか……」  不思議といえば不思議なことだ——と智春は偶然の一致に驚いた。  その夜、枕《まくら》を並べて寝ながら、二人はさまざまなことを語り合った。千代栄がじつは七つも年長だったことを知って、智春は気楽にものが言えるようになった。  話せば話すほど、千代栄は深い知識や、豊かな感性の持ち主であることが、少しずつ分かってくる。稚《おさな》く見えたのは、まるで化粧《けしよう》っ気がないような、構わない外見からそう感じるだけだ。人間がいかに外見や言動だけで相手を判断してしまうか——という、いい見本だと、智春は自戒する気持ちになった。  翌朝、六時ちょうどに、二人は天河神社に詣《もう》でた。「あなたは寝ていなさい」と千代栄は言ったのだが、智春もついて行った。  さすがに山の朝は冷え込みがきつい。霜が降りるのではないかとさえ思える寒さだ。  境内《けいだい》には神職の人たちはもちろん、一般の参拝者たちを含《ふく》めて、三、四十人の人が集まっていた。  人々は紫色に明け初めたばかりの空に向かって立ち、右手の五十鈴《いすず》をうち振って、リーンリーンという音を響かせながら、朗々《ろうろう》と祝詞《のりと》を捧《ささ》げる。  それはたとえようもなく不可思議な光景であった。五十鈴の音と朗詠《ろうえい》の声が周囲の峰々にこだまし、相互に干渉しあい、人の心に滲《し》み入り、震わせる。  朝の「礼拝」は三十分ばかりで終わった。太陽はまだ見えないが、ようやく明るくなった空に杉木立や山の稜線《りようせん》がくっきりとシルエットを描いていた。 「どうだった、感想は」  千代栄は白い息と一緒に言った。 「すばらしかった」  智春は溜《た》めていた感動を、そのまま声にして出した。 「でしょう、私が病み付きになるの、分かるでしょう」 「ええ」  人々は三々五々、参道を帰ってゆく。その中に福本の姿を見つけて、千代栄は駆け寄った。 「昨夜はどうもありがとうございました」 「ああ、いや」  福本は悩《なや》ましげな顔をした。調べ物の約束をしたことを、少し後悔している様子だ。 「面倒《めんどう》なお願いして、すみません」  千代栄はすぐに福本の気持ちを察して、謝った。 「まあねえ、正直言って気が重いのだが、仕方ないでしょう」  福本は苦笑して、 「あとで、またお宮のほうへ来ますな? その時までに、なんとか調べときます」 「じゃあ、十時頃、お邪魔《じやま》します」  千代栄と智春は福本に最敬礼して、宿の前で別れた。  約束どおり十時に行くと、福本はお客がきているとのことだった。 「なんだか、刑事さんみたいでしたよ」  お守り売り場の巫女《みこ》さんが、こっそり教えてくれた。 「刑事?……」  智春は、ほとんど本能的にいやな予感がした。  十分ほど待って、社務所の奥から二人の男が出てきた。その後ろには福本がつき従っている。早朝会った時よりいっそう難しい表情であった。  二人の男は福本に挨拶《あいさつ》をして、社務所の玄関を出てきた。その一人のほうの顔を見て、智春は「あっ」と言った。男は新宿署で事情聴取をした刑事だった。  ほぼ同時に刑事もこっちを見て、大きな口を開けた。 「あ、あんた、川島さんの……」  それから立ち止まって、福本と智春の顔を見比べながら、「そうか、やっぱりあんただったのか」と言った。 「しようがないなあ、あんた、こんなところまで来て、何か調べようっていうのかい? そういうことは警察に任せておきなさい。素人《しろうと》がウロウロ動き回るのは危険だし、われわれとしても迷惑《めいわく》なのですよ」 「そんな、ご迷惑をかけるようなことはしていません」 「現に迷惑をかけているじゃないですか。こちらの福本さんも、えらいことを頼まれたと言って、弱っておられたですよ」 「いや、そんなことはありません」  福本は慌《あわ》てて刑事を制した。 「ははは、まあいいでしょう。とにかく、お嬢《じよう》さんは帰りなさい。捜査のほうは警察がちゃんとやっているのだから」  憎たらしい言い方だったが、警察がちゃんとやっていることは、智春も認めないわけにいかなかった。一見、何もしないように思えた彼らが、こうして調べるべきことは調べているのだ。 「じゃあ、あの、五十鈴《いすず》の持ち主は分かったのですか?」  智春は訊《き》いた。 「ん? ああ、まあ、そういうことは教えるわけにいかんのですよ」  刑事は「ダメダメ」と手を振って、福本にも「いいですね」と念押しをして引き上げて行った。 「刑事さんもやっぱり五十鈴の持ち主のことを訊きに来たのでしょう?」  千代栄が智春の代わりに訊いてくれた。 「まあそういうことやが、しかし、困ったですなあ」  福本は胡麻塩《ごましお》頭を抱えるような恰好《かつこう》をして見せた。 「いったい誰だったのですか? 鈴の持ち主は」 「うーん……言ってはいかん、と言われておるのでねえ」 「でもお訊きしたのはこちらのほうが先なんですから」  千代栄は理屈にも何にもならないことを言っている。福本も当惑《とうわく》しきって、苦笑した。 「しかし、言えば、あんた、先方さんへ押しかけて行くのと違いますか?」  智春のほうを窺《うかが》うように見て、言った。 「いいえ、そんなこと……」  智春は強く否定して、 「じゃあ、その、五十鈴の本当の持ち主は、ちゃんと存在するのですね?」 「そら、いてます。いてますが、大変なお方ですさかいな」 「有名な人なんですか?」 「ああ、有名ですな。ただ有名なばかりでなく、芸術祭の奨励賞をいただくような、えらいお人です」 「どなたなんですか? 教えてください」 「そう訊《き》かれても、答えたらあかんと言われましたのでなあ……」  福本はそっぽを向いて、謎《なぞ》めいたことを言った。 「今夜の薪能《たきぎのう》に、お孫さんが来られへんようになったお方がいてはりますなあ」  そのひと言を残して、そそくさと社務所の中へ戻って行った。 「どういうことかしら?」  智春は千代栄を振り返って、訊いた。 「今夜の薪能に来られなくなったって言ったら、昨日お話しした水上和鷹さんのことじゃないかしら。亡くなった和鷹さんがお孫さんということは、つまり、水上和鷹さんのお祖父さんでしょう。ええと、たしか水上|和憲《かずのり》さんていったと思うけど」 「能の人ですか……」  智春は首をひねった。 「あなたのお父さんは能とか謡《うたい》とか、やってなかった?」 「いいえ、そんなのやっているなんて、見たことも聞いたこともありません」 「そうなの……じゃあ、いったいあの五十鈴は、どういう経路であなたのお父さんの手に渡ったのかしら?」  二人は顔を見合わせて、しばらく佇《たたず》んでいた。しかし、そんな謎がすぐに解けるはずもない。  どちらからともなく、二人は旅館への道を歩きだした。俯《うつむ》きぎみにゆっくり歩を運びながら、千代栄は心配そうに訊いた。 「あなた、どうするの? まだあの五十鈴の持ち主のこと、追い掛けるつもり?」 「そうするしかないと思います」 「でも、刑事は危険だって言ってたわよ」 「危険はないと思うんです。だって、その水上さんとかいう能の人、もうおじいさんなんでしょう。だったら、その人が犯人じゃないと思うし。その人に訊けば、鈴がどういうルートで父に渡ったかが分かるのですから」 「そう言うけど、水上宗家といったら、大変な名門よ。ちょっとやそっとじゃ近づくことも出来ないと思うけど」 「そうですよねえ……」  能楽師《のうがくし》の家——しかもその頂点に立つ人物の家なんて、智春には想像もつかない。 「それに、能楽の世界には厳しい掟《おきて》だとか、しがらみだとかいうのがあって、それこそ、陰謀《いんぼう》渦巻《うずま》くようなことだって起こり得るのかもしれない。早い話、観世元雅がそうだったのですもの」 「その人も殺されたんですか?」 「そうじゃないけど、でも、殺されたも同然の目に遭《あ》ったのよ」 「そうなんですか。観世元雅って、天河神社に能の面を奉納した人でしたよね」 「そう、世阿弥《ぜあみ》の子で、当然、観世流の総帥《そうすい》になるべき人物だったの。ところが、元雅の従兄弟《いとこ》にあたる音阿弥《おんあみ》という人を、将軍・足利義教《あしかがよしのり》が寵愛《ちようあい》して、邪魔者《じやまもの》の叔父・世阿弥を佐渡《さど》に流し、その一族も迫害したのね。それで、元雅は失意のうちに都を去って、途中、天河神社に能面を奉納したあと、伊勢《いせ》の北畠氏《きたばたけし》のところに落ちのびて、その地で死んでしまったの」 「じゃあ、水上家の中でも、そういうなんていうのか、勢力争いみたいのがあるのでしょうか?」 「かもしれないわね。だって、和鷹さんもこんなに早死にしたし、和鷹さんのお父さんも四十何歳かで、急死しているのよ。なんだか怪《あや》しいって、考えれば考えられないこともないでしょう」 「でも、それにしたって、そういう世界と父がどうして結びつくのかしら?」 「お父さんは、ほんとに能や謡《うたい》の世界とは関係なかったの?」 「ええ、ぜんぜん。会社の宴会なんかで、カラオケは少しぐらい歌ったかもしれないけど、それだって自宅では滅多《めつた》に歌を歌うのを聞いたことがないくらい音痴《おんち》でしたもの。謡だって、音痴じゃだめなんでしょう?」 「だと思うけど……私もあまり詳《くわ》しくはないのよね。ただ、何年だか前の薪能《たきぎのう》で和鷹さんの舞を見て、それからすてきだなあって憧《あこが》れて……でも、その和鷹さんも亡くなってしまったのねえ」  その舞姿を思い出したのか、千代栄は急にしんみりとして、言葉をとぎらせた。 「ひょっとすると、千代栄さんは、その和鷹さんという人を愛していたんじゃありませんか?」  智春はふと思いついて、言った。 「えっ? 私が? まさか……ただ憧れていただけよ。天河では一つの世界の空気に浸って、同じ人間同士っていう感じだったけど、もともとは遠い世界の人だもの」 「じゃあ、この天河に来ている時は、そういうお付き合いもできるっていうことなんでしょう?」 「え? それは……まあ、そういうこともあるかもしれないけど……」  智春の鋭い突っ込みに、千代栄は彼女としてははじめて、動揺《どうよう》を見せた。 (何かあったのじゃないかしら——)  智春はいっそう、その想《おも》いを強くした。自分と千代栄のことを考えても、天河では人間と人間を隔てる垣根《かきね》が無くなるのかもしれない。そう思えた。 第五章 悲劇の連鎖 1  浅見《あさみ》と水上秀美《みずかみひでみ》の「捜査」は朝食がすんでまもなく、始まった。  といっても、和憲《かずのり》がどこに潜《ひそ》んでいるのか、まったく見当がつかない。とにかく吉野のどこかにいることだけは間違いない——という、一種の信念のようなものだけで、二人は行動するしかないのだ。  旅館は、昨日のうちに秀美がひととおり探し終えている。とはいっても、はたして完璧《かんぺき》であったかどうかは疑問だ。  水上和憲はもちろん偽名を使って宿泊しているだろう。秀美自身、「吉田秀美」という偽名を使って宿泊しているのである。 「こっちに、嘘《うそ》の名前を言っているっていう後ろめたさがあるでしょう。そういうのって、何となく相手の方にも分かるらしいんです。ですから、ちゃんと答えてくださらないところもあって当然だと思います。桜花壇《さくらかだん》のおばさんみたいな親切な人ばかりじゃありませんもの」  秀美は言った。  昨夜、浅見が訪ねて行って、「あなたは水上秀美さんだったのですね」と言った時、秀美は一瞬《いつしゆん》、息を止めるほどびっくりした。ついさっき別れたばかりの浅見が、なぜ自分の名前を知り得たか?——という気持ちだったに違いない。  浅見は母親からの電話のことを言い、三宅譲典《みやけじようすけ》の名前を出した。 「そうだったのですか、浅見さんて、三宅さんのお知り合いの、あの浅見さんだったのですか」  秀美は直接には浅見家を知らないが、三宅と祖父の会話の中で、しばしば浅見の父の話が出ているのを聞いている。話に聞く「浅見氏」は、水上家にとっての恩人だったらしいことも知っていた。  浅見の父親は大蔵省の局長までいって、次官になる寸前、惜しくも早世した。  戦後の一時期、それまでのパトロンだった華族《かぞく》や財閥《ざいばつ》の瓦解《がかい》によって、能楽界《のうがくかい》は苦しい時代を迎えた。当時、まだ一主計官でしかなかった若き浅見|秀一《しゆういち》は、明日の糧《かて》さえ不安なほどの疲弊《ひへい》にあえぐ能楽界のために、国が手厚い保護の手を差しのべるべきであると主張した。  一億の国民が、食うや食わずの混乱した世相の中で、浅見主計官の主張は省内でも完全に無視された。上司は「頭がおかしいのじゃないか」とさえ言った。 「いまはとにかく、アメリカさんの言うとおり、民主主義の方向に走っていればいいんだ。日本古来の文化なんか、軍国主義の影のように思われている。能なんてものはきみ、それこそ封建思想と皇国史観の幽霊みたいに言われかねないぞ」 「いえ、お言葉ですが、こういう時代だからこそ、能楽や歌舞伎《かぶき》を大事にしなければならないと思うのです。進駐軍の言うがままに従って、伝統文化を守らないでいれば、日本の主体性そのものが滅亡《めつぼう》します」 「冗談《じようだん》じゃない、そういう古い伝統を一掃しようというのが、彼らの方針だよ。だいたい、能なんていうやつは鬼女が出てきたり、武将の幽霊が刀を振り回したり、要するに戦い敗れた者の怨念《おんねん》がテーマになっているのだろう? いわばアメリカに負けた日本人の怨《うら》みを見せつけるようなものじゃないか。そんなのを許すわけがない」 「いや、能は本来、日本人の情緒的な特性を表現したものです。つまり、能楽の神髄《しんずい》は日本人特有の諦観《ていかん》であり優しさなのです」  浅見主計官は熱弁を揮《ふる》った。しかし、いくら説得しても、省内ではまったく相手にもされなかった。  浅見秀一は、当時、連合軍司令部の情報宣伝担当官と接触《せつしよく》のあった三宅譲典を通じて、進駐軍の高級将校たちのための「慰安の夕べ」を催し、そこで能楽を観せることを実現させたのである。  その時の太夫《たゆう》を務めたのが、やはり同じ年代の若い宗家・水上和憲だった。  その話を、浅見は三宅の昔語りで聞いた。父親はそういう、自分の手柄話《てがらばなし》のようなものは、いっさいしない男であった。 「まったく、骨のある、偉いやつだったのだよ、きみのおやじさんは」  三宅は、五十歳を超えたばかりの若さで逝《い》ってしまった畏友《いゆう》の話をするたびに、目を潤《うる》ませる。  もっとも、浅見にしてみれば、父親の偉かった話を聞くたびに、「それに引き換え、おまえさんは……」と比較されるような、居心地の悪さを味わうことになるのだが……。  ともあれ、浅見の素性《すじよう》を知って、秀美はようやく纏《まと》っていた鎧《よろい》をすべて脱《ぬ》ぎ捨てた。そうして、追善能《ついぜんのう》の舞台で兄・和鷹《かずたか》を襲《おそ》った突然の死から、祖父の失踪《しつそう》に到《いた》るまでの水上家の不幸な事態について、あらましを語った。 「お兄さんの死因は何だったのですか?」 「心臓の発作でした」  秀美は何の疑いもなく、言った。浅見が母親から聞いたニュアンスとでは、彼女の認識はかなりかけ離れているらしい。しかし浅見は、それ以上は秀美を追及することはしなかった。 「手はじめに、吉野の食べ物屋さんを聞いて回りましょう」  浅見は提案した。 「どこに泊まられたか、それとも吉野山を下りてしまわれたかは分かりませんが、いずれにしてもお腹が空けば、何かを召し上がらないわけにはいかなかったでしょうからね」 「ああ、そういえばそうですね、食べ物屋さんに立ち寄った可能性のほうが強いですね。それに、あんなに吉野に来たかった祖父ですもの、吉野の名物を何か、食べたに決まってます」  しかし、浅見の折角《せつかく》の思いつきも、なかなか成果が上がりそうになかった。  前にも書いたように、吉野には名物の吉野|葛《くず》を材料にした食べ物が多い。それも、あまり仰々しい店構えではなく、ほんの茶店程度のささやかな店がほとんどだ。  一軒あたりのお客の数など、季節はずれのこの時期には大したものとも思えない。もし秀美の祖父らしい老人が訪れていれば、たぶん店の人間が憶《おぼ》えていないはずはないと考えられる。  だが、どこの店に訊《き》いても、それらしい老人のことは知らない——という答えが返ってきた。  中には、「いろんなお客さんが来てはるから、そういうおじいさんがいてはったかどうか、はっきり分かりまへんなあ」と言うところもあったが、中折れ帽子の老人というのは、かなり目立つ恰好《かつこう》である。それが記憶にないというのは、やはり来なかったものと思うほかはないだろう。  効率を上げるために、浅見と秀美は手分けして、浅見が道路の右側、秀美が左側の店を当たって歩いた。午前中には吉野山上にある街の、それらしい名物を食べさせる店は網羅《もうら》し終えた。  結果は収穫ゼロ。 「だめみたいですね」  秀美の表情に疲労感が漂っていた。一人で祖父の後を追って歩き回ったのだもの、いくら若いとはいえ、緊張と落胆《らくたん》の繰り返しは秀美にはかなりの重圧となっているに違いない。  いったん桜花壇に引き上げて、昼食を取ることにした。帰りがけに柿《かき》の葉鮨《はずし》を買ってきたのだが、秀美にはまるで食欲がなかった。旅館のおばさんが「お吸い物をどうぞ」と、サービスに運んできてくれた時には、秀美は窓辺の椅子《いす》に坐って、ぐったりと、向かい側の花も緑もない桜の山を眺めていた。 「だいぶんお疲れになったようですなあ」  おばさんは気の毒そうに言った。 「やっぱり見つかりませんのか?」 「うん、まだまだ。だけど始めたばかりですからね。午後からは名物料理の店だけでなく、喫茶店や土産物店にも当たってみるつもりです」  浅見はわざと陽気に言った。 「もういいんです」  秀美はポツリと呟《つぶや》いた。それから、やや語気を強めて、「きっともう、だめです」と続けた。 「だめいうて、何がだめですの?」  おばさんは不安そうな声になった。 「やっぱり、祖父は山に……」 「秀美さん!」  浅見は思わず叱《しか》った。 「つまらないことは考えないほうがいい」  それからおばさんに向けて、 「このあと、このお嬢《じよう》さんを休ませて上げてください。午後は僕だけで調べに行ってきますから」 「そうですなあ、それがよろしいわ。だいぶん疲れてはる様子でんものなあ」  おばさんは、任せておきなさい——と言うように、胸を叩《たた》いてみせた。 2  浅見が出掛けたあと、おばさんは浅見の部屋に蒲団を敷いてくれた。 「少しお休みになるとええのですよ。クヨクヨ考えてばかりいたら、ええことありませんからね」  おばさんは浴衣《ゆかた》を置いていってくれたが、秀美は衣服のまま、横になった。いくら留守だとはいっても、男性の泊まっている部屋で浴衣に着替えて眠るわけにはいかない。  横になったものの、すぐには眠れそうになかった。  秀美は自宅に電話を入れた。電話口には広島が出た。分家筋の若い内弟子で、宗家の付き人を務めていた。 「お母様に代わって」  秀美は言った。 「はい、あの、奥様もお電話をお待ちになっておられました」  広島は急いで菜津美《なつみ》を呼んできた。 「ああ秀美、あなた宿をチェックアウトしたの? さっき電話したら、もうご出発になりましたって言ってたけど」 「ええ、あの旅館は、朝お電話したあと、すぐ出たの。あの、何か、お祖父様からご連絡が入ったの?」 「いいえ、まだ……それより秀美、さっき、警察の人が見えたのよ」 「警察が?」 「ええ、お祖父様はどちらかって」 「えっ? お祖父様のことで来たの?」 「そうよ。あなた、まさかお祖父様のことを、警察にお話ししたりしていないでしょうね?」 「もちろん話してないわ。でも、警察が何でお祖父様のことを知っているのかしら?」 「いいえ、お祖父様が家出なさったことを知っているわけではないらしいわ。ただ、お祖父様に大至急、お訊《き》きしたいことがあるとか言ってたの」 「何なのかしら?」 「何なのか分からないけれど、私は嘘《うそ》をつくわけにいかないし、和鷹の突然の不幸に、身心ともに疲れたので、気分転換に吉野に参りましたと申し上げたの」 「あら、吉野にって、お母様はそう言ってしまったの?」 「だって、秀美がそう言ってたじゃないの。お祖父様は吉野へいらしたって」 「それは、たぶん——という意味だわ。現に、ずいぶん探したのに、まだお祖父様の居所が分からないのよ」 「でも、吉野山のロープウェイにお乗りになったことはたしかなのでしょう?」 「それはたしかみたいだけど」 「でしたら、やっぱり吉野じゃないの」 「そうだと思うけど……でも、警察が何の用事なのかなあ?……」  秀美は心配になってきた。もしかすると自分が昨日、祖父は自殺するかもしれないなどと、あちこちで言って歩いたのが、警察に伝わったせいなのだろうか——と思った。  しかし、「水上」の名前を言ったわけでもないし、そんなことは考えられない。 「何だかよく分からないけど、秀美、ひょっとすると警察は吉野のほうへ行くかもしれないわよ。面倒《めんどう》なことにならないといいのだけれど……」 「大丈夫よ、お祖父様は自殺なさったりするはずがないもの」 「ばかねえ、そんな縁起《えんぎ》でもないこと、言わないで。それより秀美、警察なんかに関わらないうちに、早く帰っていらっしゃい」 「大丈夫よ、それは心配ないわ。警察は私のことなんか知らないもの。でも、なるべく早く引き上げる」  そう言って電話を切った。  大丈夫——と言ったものの、秀美は不安がつのった。 (あの人、早く戻ってきてくれればいいのに——)  浅見光彦という、少しトウの立った青年の面影《おもかげ》を、心の中に浮かべた。坊っちゃん坊っちゃんした、ちょっと頼りない感じさえする浅見のことが、なんだかとても懐かしく思えてきた。  ところが、ちょうどその頃、その浅見は災難に遭遇《そうぐう》していた。 3  驚いたことに、吉野山には数多くの食べ物屋はあるのに、純粋に喫茶店またはスナックと呼べるような店は、たったの二軒しかないのであった。  その一軒の「弁慶《べんけい》」という店で、浅見はコーヒー一杯で少し長居して、女性の経営者と話し込んだ。といっても、水上宗家の消息が掴《つか》めたわけではない。「弁慶」のママはそういうお客はなかった——と言っている。  浅見はママが興に乗って喋《しやべ》るのをいいことに、吉野という土地柄や、そこに住む人々の様子などを知ろうと思ったのだ。  関西の人たちは、関東の人間と比べると、あけすけにものを喋ってくれるらしい。自分の身の上話など、関東では、よほど気を許した間柄ででもなければ、滅多《めつた》にしないものである。  しかし、桜花壇《さくらかだん》のおばさんがそうであったように、ここのママさんも、少し会話がほつれてくるにつれて、浅見が訊《き》いてもいないのに、自分の半生について、あれこれ語ってくれた。 「なんやかやあったけど、いまは結構、幸せみたいやね」  ママはあっけらかんとした口調で言った。  若い頃、結婚が破綻《はたん》して、それ以来男性不信になったこと。親兄弟に反対されながら、自分ひとり、吉野山に住みついて、この店を経営するようになったこと。最近になって、十いくつだか年上の、妻子のある実業家と男と女の関係になったけれど、べつに結婚を願ってなんかいないこと……。 「独りでやって行くんやと腹をくくってしもうたら、結婚やとか子育てやとかいうのんは、なんや知らん、ややこしゅう思えてきたんよね。ううん、私ばっかしと違うのんよ。私の親《ちか》しゅうしてる学校の先生かて独りやけど、仕事する上ではそのほうがかえってええ、言うてますのんよ。子供らにも、自分の子ォのつもりで気を入れることが出来るそうですねん。ほんまの子ォがいてたら、そうはいきまへんものなァ」  そのくせ、浅見がまだ独身だと知ると、そらいかんわ——と断定した。 「男はんは結婚したらよろしいがな。ううん、せなあかんな。いまの世の中、まだまだ男社会ですやろ。男はんは女房子供を養っていけるけど、女はそうはいきまへんものな。結婚して、子供を養うのんは、男はんの義務と違いまっか?」  ひどい論理だが、妙に説得力があった。妻子を養う甲斐性《かいしよう》のとぼしい浅見には、耳の痛い話だった。  その「弁慶」を出て、次のスナックに向かって歩きだした浅見の耳に、「あっ、あの人でんがな」という声が聞こえた。  なぜか浅見は自分のことのように思えて、何気なく声のした方角を振り向いた。  午前中に「聞き込み」をした柿《かき》の葉鮨《はずし》の店の亭主が、こっちを指差している。その脇《わき》には二人の目付きの鋭い男が立っていた。 (刑事——)  浅見はピンときた。  柿の葉鮨の亭主はバツの悪そうな顔をして、無意識のようにペコリと頭を下げて寄越《よこ》したが、同時に二人の男が大股《おおまた》で歩いてくる。 (まずいな——)  浅見は本能的に思って、さり気ない様子を装うと、彼らに背を見せて、少し早足になった。しかし、まさか駆け出すわけにはいかない。二人の男も走りはしなかったが、浅見が駆け出せば追ってきただろう。  走らなくても、まもなく二人の男は浅見に追いついた。 「ちょっとすみません」  男の一人が声をかけた。  浅見は自分のことか? という顔を作って立ち止まった。 「僕ですか?」 「そう、あんたですよ」  黒っぽい手帳を見せたのは、四十歳ぐらいの、浅見より少し背が低い、そのかわり肩幅のがっちりした、見るからに強そうな男だ。もう一人はまだ若い、おそらく二十代だろう。頬《ほお》に赤みのさした、少年の面差しが残る顔立ちの男だった。 「ちょっと訊《き》きたいことがあるのですが」  二人は浅見の前後を挟《はさ》むように立って、ごく自然に、道路端に誘導《ゆうどう》した。 「何でしょうか?」 「おたくさん、どちらから来ました?」 「東京のほうからです」 「東京のほうって、どこです?」 「北区です」 「北区のどこです?」  浅見は面倒《めんどう》くさくなって、多少、早口で|西ケ原《にしがはら》三丁目の住所を言った。 「名前は?」 「浅見といいます」 「浅見は浅い深いの浅に見るですね? 下の名前は?」 「光彦です」 「光るに彦ですか。いい名前だなあ」  口ではそう言いながら、(キザな名前をつけやがって——)という顔であった。 「失礼ですが、何か身分証明書のようなものをお持ちですか? 免許証でも何でもいいですがね」  浅見は仕方なく免許証を出した。刑事は浅見が言った住所と免許証を照合してから言った。 「ところであんた、朝から人を探して歩いているそうじゃないですか」  刑事は言った。 「ええ、ちょっとですね。知り合いの老人がこっちのほうに来たっていうもので、もしかしたら会えないかなと思って、あちこちで訊《き》いてみたんですが、なかなか会えそうにありませんね。吉野はこれで、結構広いみたいです」 「その相手の老人の名前は?」 「いや、もういいのです」 「あんたはよくても、こっちは知りたいのですよ。名前は何ていう人です?」 「吉田《よしだ》さんです」 「吉田、誰ですか?」 「吉田|隆之《たかゆき》さんです」 「住所は?」 「いや、もういいのですよ。警察に探していただくようなことではありませんから」 「住所はと訊《き》いているのです」 「だから、もういいと……先を急ぎますから、これで失礼」  浅見は軽くお辞儀《じぎ》をして、クルリと向きを変えた。その目の前に若いほうの刑事が立ち塞《ふさ》がった。 「警察の捜査に協力していただきたいのですが」  若い刑事は自然体で立って、浅見の出方に対して、いつでも対応できるように身構えている。 「捜査といいますと、何の捜査ですか?」 「ある殺人事件に関する捜査です」 「殺人?……」  浅見はギョッとした。すると、母親の雪江が電話で、水上和鷹の死因を言い淀《よど》んでいたのは、和鷹の死に「殺人」の疑惑があったためなのか。  しかも、警察が「殺人事件」と断定し、和鷹の祖父・和憲を追っているとなると……。 (そうか——)  浅見はいろいろなことが分かりかけてきたような気がした。秀美が身分をひた隠しに隠していること。祖父が自殺する可能性があるとか、それは自分のせいだとか、異常にヒステリックになっていること。それらはすべて「殺人事件」を背景に置いて眺めれば、納得がゆく。 (水上和憲が殺人事件の容疑者として追われているとなると、これは滅多なことは喋れないぞ——)  浅見は刑事の顔を見つめながら、目まぐるしく頭を回転させて、おもむろに言った。 「殺人て、誰が殺されたのですか?」 「そんなことはあんたに言う必要はありませんな」  背後から年配の刑事が言った。若い刑事が「殺人事件」と言ったことだけでも、まずい——と思っているらしい。(余計なことを言うな)という眼くばせを飛ばした。 「しかし、僕は殺人事件になんか関係ありませんよ」 「そうでしょうな。いや、そんなことはわれわれは言ってはおりませんよ」  語るに落ちる——と言いたそうに、刑事はニヤリと笑った。 「じゃあ、僕に何を訊《き》こうというのですか?」 「だから、あんたが探している老人のことを訊いているのです」 「そんなこと、刑事さんに話す必要はないでしょう」 「いや、話してもらわないと困りますな」 「なぜですか? なぜ僕なんかにそういう事件のことを訊きたがるのですか? そのご老人——吉田隆之さんだって、そんな事件には関係ないのですよ」 「われわれはですな」  刑事は面白がってでもいるかのように、言った。 「何もあんたに殺人事件のことを訊こうと言っているのではない。ただ、あんたの探している吉田とかいう老人の住所を教えてくれと言っているのですがね」 「だから、それはもういいと言っているでしょう。僕はあなた方に吉田さんの住所を話す必要もないし、勝手に話していい権利もありません」 「いや、この場合は権利ではなく、義務と言ってもらいたいですな。善良な市民は、すべからく、警察の捜査活動には協力的であっていただかなければなりません」 「それは警察としての願望でしょう。答えるか答えないかは、市民の自由意志に基づくものであるはずです」 「そういう理屈は、警察に行ってから喋《しやべ》ってもらうということになりますがねえ。それでもよろしいですか?」 「冗談《じようだん》じゃありませんよ」  浅見は眉《まゆ》をひそめた。 「僕が警察に行かなければならない、どのような理由があると言うのですか?」 「それはこっちで言いたい台詞《せりふ》ですな。あんたが、その吉田老人の住所を言えない理由はどこにあるのかね」 「それは言えない理由でなく、言わない権利ですよ」 「どうしてもと言うのなら、ひとつ警察に来ていただきましょうか。こんなところで話を訊《き》くわけにはいきませんからね」 「警察にといっても、刑事さんたちは東京のほうの警察でしょう?」 「よく分かりますな」 「地元の警察でないことくらい、誰だって分かりますよ。僕は仕事で吉野に来ているのだし、まだ何日かかけて、よその土地を回らなければならないのです。東京へはまだしばらく戻りませんよ」 「ははは、何も東京の警察に行こうと言っているわけではない。地元署でゆっくりお話をお聞きしようと言っているのです。さあ、それじゃ、とにかく行きましょうや。すぐそこにパトカーを待たせてあるし」 「断りますよ」 「ほう?」  刑事はジロリと、鋭い眼で睨《にら》んだ。 「抵抗しても無駄《むだ》ですがねえ。最悪、緊急|逮捕《たいほ》という手段もあるのですからな。手錠《てじよう》をかけられるのは、あんただって、あまり嬉《うれ》しくはないでしょうが」 「当たり前ですよ」 「だったら素直に来てくれませんか。いや、その前に、さっきこっちが訊いたことに素直に答えてくれるというのなら、また話はべつですがね」 「分かりましたよ。それじゃ言います」  浅見は「吉田隆之」の出鱈目《でたらめ》な住所を言った。 「そうですか、ここに間違いなく住んでいるのですな?」 「ええ、そうですよ。じゃあ、僕はこれで失礼します」 「そうはいきませんよ。あんたが嘘《うそ》をついているとは思わないが、一応確認しますからね、しばらく待っていてくださいや」  若い刑事が走って行った。待機しているパトカーから地元署経由で東京の所轄《しよかつ》にでも照会しようというのだろう。 「われわれもパトカーの傍《そば》で待つことにしましょうか」  残ったほうの刑事もそう言って、浅見の背中を軽く押してから、相棒の後を追うように歩きだした。 (まずいな——)  浅見はいよいよ窮地《きゆうち》に陥《おちい》ることを覚悟した。贋《にせ》の名前、贋の住所を言ったことで、刑事の心証は悪くなる一方だろう。  ただ、意外だったのは、刑事が秀美の存在に気付いた様子がないことである。  もし、道路の両側の店を交互に当たって、聞き込みをしていれば、当然、若い女性が祖父の行方を尋ね歩いていたことを知るはずだろう。  それにもかかわらず、彼らが秀美に気付いていないというのは、おそらく、刑事が吉野山での聞き込み捜査を始めてすぐに、浅見が柿《かき》の葉鮨《はずし》の店先を通りかかったために違いない。  そういう意味からいえば、自分が警察に捕まったことは、秀美の「逃走」にとっては幸運だったのかもしれない——と浅見は考えることにした。  まあ、早晩、秀美のことも彼らはキャッチすることになるだろう。しかしそれはなるべく遅らせたほうがいい。警察が祖父を追っていて、しかも殺人の嫌疑《けんぎ》がかけられているなどということを聞いたら、秀美は茫然《ぼうぜん》自失して、何を口走るか分からない。  問題は、浅見が時間|稼《かせ》ぎをしているあいだに、秀美がさっさと吉野山から逃げ出してくれるかどうかだ。 (なんとか、彼女にこの状況を伝える方法がないかな——)  浅見は刑事とアベックで歩きながら、しきりにそのことばかりを考えていた。  パトカーはなんと、勝手神社の前に停《と》めてあった。中に制服の警察官が二人いる。若い刑事は助手席で無線のマイクを握り、連絡していたが、浅見たちがそこに到着するのと同時に、颯爽《さつそう》としてドアの外に出た。 「所轄《しよかつ》で調べましたがね、あんたの言っていた住所には、吉田なる人物は存在しないようですよ。嘘《うそ》をついてもらっちゃ困るねえ」 「おかしいですね、何かの間違いじゃありませんか?」  浅見はとぼけてみせた。 「間違いかどうか、警察で調べましょうや」  背後の刑事が、トンと背中を押した。 4  パトカーは山を下り吉野川を渡って、吉野町の中心街に入った。町のほぼ中央に吉野警察署がある。吉野山一帯は、この警察の管轄《かんかつ》下にあるのだそうだ。  吉野署は警察署としてはそう大きくない。署員はせいぜい四十人足らず。しかもその内の十二名は十二か所の駐在所に分散しているから、署内はガラーンとしたものだ。擦《す》れ違う署員は軽く頭を下げて、東京の警視庁から来た刑事に対して、一応の敬意を払っている様子に見えた。  刑事課と鑑識課をひとつにして「捜査・鑑識課」というのがあるけれど、五名と一名、合計六名の小世帯だ。その捜査・鑑識課の隣にある取調室に入ると、刑事は浅見にそっけなく顎《あご》をしゃくって、椅子《いす》に坐るようにと言った。  刑事は二人とも名乗りはしないが、パトカーの中の会話から、中年のズングリした刑事は瀬田《せた》という部長刑事、若いほうは森本《もりもと》というヒラの刑事らしいことが分かっていた。 「あんた、ええと、浅見さんだったか。最初に言っとくがね、警察をナメてもらっちゃ困るんだよね」  瀬田部長刑事が浅見の向かいの椅子に坐って、ダミ声を作って、言った。 「べつに僕は警察をナメたりはしません」 「そうかね、それなら話は早い。おたがい忙しい体なんだからさ、ひとつ素直に喋《しやべ》ってもらいましょうや」  取調室の隅では、森本刑事がメモの態勢に入っている。 「じゃあまず、職業から聞きましょうか。職業は何をしてます?」 「フリーのルポライターです」 「ルポライターか、つまり、例のFFだか何だかいうやつの、誰と誰がくっついたとか離れたとかいう、ああいう取材をしているのかね?」 「いえ、僕はああいうたぐいのものは手がけていません」 「というと、どういうたぐいのものを手がけているのかね」 「まあ、これといって決まっていません。仕事があれば何でもしますが、ただし、ああいうのだけは断ることにしているのです」 「良心的なルポライターというわけですか。その良心的な人が、どうして嘘《うそ》をついたのかねえ」 「いや、嘘をついたわけじゃありませんよ。何かの間違いか、そうでなければ、たまたま僕の記憶が違っていたということなのでしょう」 「なるほど、記憶違いか……それじゃしようがないですなあ。今度は間違えないように答えてもらいたいのだが、あんたが探していた老人は、何ていう名前です?」 「ですから吉田さんですよ、吉田隆之さんです」  これは知人にそういう名前の人物がいるから、間違えようがない。 「住所は?」 「さっき言った所です。しかし、それは僕の記憶違いだったようですが」 「念のため、もう一度言ってくれませんか」 「何度|訊《き》かれても、同じですよ」 「それでもいいから、もう一度言ってみてくださいや」  瀬田部長刑事は机の上に低く身を乗り出すと、浅見の顔を下から舐《な》め上げるように見て、ニヤリと笑った。  浅見もそれに応《こた》えて、同じようにニヤリと笑い返した。内心、やられた——と思った。瀬田はこっちが二度と同じ住所を言えないのを承知の上で訊いているのだ。 「どうしました?」  瀬田は催促《さいそく》した。浅見はさっき言った住所を、うろ憶《おぼ》えながら繰《く》り返した。 「ほほう、妙ですなあ、さっきは三丁目三十四番地と言ったのに、今度は二丁目三十二番地ですか。どっちが正しいのです?」 「あ、さっきはそう言いました? じゃあ、たぶんそっちが間違いです。どうもすみませんでした」 「いやいや、いいのですよ。勘違《かんちが》いというのは誰にもあるものですからね」  瀬田は森本刑事に、東京に連絡して再度確認を依頼するよう、指示した。  森本は連絡に行って、すぐに戻ってきた。 「これが送られてきていました」  何やら、ファックスで送られてきたデータらしきものを持っていて、瀬田に渡した。 「ふーん、浅見さん、あんた、交通違反はチョコチョコあるようだが、べつに前科もないし、経歴はきれいなもんじゃないの」  瀬田はサーッとメモを読み下し、意外そうな顔で言った。 「当たり前ですよ、僕は真面目《まじめ》で小心かつ善良な市民ですからね」  浅見はせいぜい愛想のいい笑顔をつくろって、答えた。もっとも、顔では笑っているが、内心は穏《おだ》やかでない。  浅見が何より恐れるのは、自分の素性《すじよう》をつつかれることだ。明治|維新《いしん》以来、つねに日本のエスタブリッシュメントであった浅見家の一員が、警察の留置場にいるような仕儀《しぎ》になっては、はなはだ具合が悪い。 「あなたには、いまさら大きなことを期待しようとは思いませんけれど、せめて浅見家の恥になるようなことだけはしないでちょうだい。いいわね光彦」  ふた言めにはそう言う雪江夫亡人の顔が、出来の悪い次男坊の脳裏を去来する。そのたびに、愛想笑いを浮かべた浅見の頬《ほお》の筋肉は、ヒクヒクと痙攣《けいれん》するのである。  吉野署の刑事が東京への問い合わせ結果を伝えにきた。当然のことながら、浅見の言った住所はまたも出鱈目《でたらめ》だった。 「また嘘《うそ》だったようですな」  瀬田は怒るどころか、むしろ嬉《うれ》しそうに言った。 「これであんたを疑う根拠《こんきよ》は立派に揃《そろ》ったということになるなあ」 「それは論理的ではありませんよ。単に僕の記憶が間違っているのが、いよいよはっきりしたというだけのことですから」 「まあ何とでも言っているがいい。要するにわれわれとしては、あんたがちゃんと思い出してくれるまで、気長に待たせてもらうことにしますよ」 「それは迷惑《めいわく》ですねえ、僕の仕事のほうはどうなるのです? こんなひどいことをされたら、僕のほうで警察を、業務妨害で訴えなければならなくなります」 「面白いですなあ、やってみたらどうです」 「ではそうさせてもらいます」  浅見は席を立って、ドアに向かった。  またしても、若い森本刑事が、ドアの前に立ち塞《ふさ》がった。 「どいてくれませんか」  森本刑事はニヤニヤ笑うだけで、動こうとしない。浅見が横を擦《す》り抜けようとすると、そっちへ移動した。必然的に、浅見の腕が森本の胸の辺りを払いのけようとして、接触《せつしよく》した。とたんに、森本は「ウッ」とうめいて、右|脇腹《わきばら》を押さえた。 「浅見光彦、公務執行妨害ならびに傷害の容疑で現行犯|逮捕《たいほ》する」  瀬田が背後から怒鳴《どな》った。 「冗談《じようだん》じゃないですよ。僕は軽く触《さわ》っただけです。傷害なんか起こるはずがないじゃないですか」 「そういうことは、あとで医師の診断をまって判断すればいい。とにかく公務の執行を妨害しようとした事実は認められるのだから、同容疑で勾留《こうりゆう》する。森本君、手錠《てじよう》をかけたまえ」 「はい」  森本刑事は傷の痛《いた》みもなんのその、サッと手錠を出して浅見の手首に嵌《は》めた。あざやかなお手並みであった。 「ちょっと、待ってくださいよ」  浅見は情けない声を発した。 「こんな無茶をやって、許されると思っているのですか?」 「無茶はあんたのほうだろう。こっちが事情聴取をしているのに、突然、逃走しようとしたのだからな」 「逃走じゃないですよ。単に自分の仕事をしようとしただけじゃないですか」 「いや、本官にはそうは見えなかったな。あんたは事情聴取を避けるために逃走しようとした。しかも、二度にわたる虚偽《きよぎ》の申し立てをしたことから類推して、証拠《しようこ》を湮滅《いんめつ》する可能性が充分認められた。よって森本巡査があんたの逃走を阻止しようとしたのに対して、同巡査の左胸部を殴打《おうだ》、約一週間の打撲傷《だぼくしよう》を与えたと考えられる。どうかね、勾留《こうりゆう》すべき根拠《こんきよ》は充分あると思うがね」 「分かりましたよ、仕事のほうは諦《あきら》めます。その代わり、手錠は外してくれませんか」  浅見は観念して元の席に戻った。 「そうそう、そういうふうに分かってもらえれば問題ないのだ」  瀬田は森本に合図して、手錠を外させた。 「さて、改めて訊《き》くが、あんたの探していた老人の氏名ならびに住所は?」 「その前に刑事さん、いったいその老人が何をしたのか、それを教えてくれませんか。そうでなければ、僕のほうも素直には喋《しやべ》りませんよ」  浅見は腕組みをして、意志の強固なことを示した。 「またかね……あんたも相当な強情だな」  瀬田は呆《あき》れ顔で言った。 「まあしかし、いいだろう。さっき、森本君がチョコッと口を辷《すべ》らせてしまったことだしな。とにかく、ある殺人事件に関する参考人として、大至急、その老人の行方を知りたいのだ」 「それは分かりましたけど、その殺人事件というのはどういう事件なのか教えてくださいよ」 「うーん……まあ、それもいいだろう。すでに新聞やテレビでも報道しているのだからな。先月、新宿のオフィス街の路上で起きた殺人事件だが、あんたも知っているだろう?」 「えっ? 新宿ですか……」  浅見は完全に意表を衝《つ》かれた。 「そういえば、そんな事件がありましたね。たしか、高層ビルから出てきた男の人が、突然|倒《たお》れて死亡したとかいう、あの事件でしょう?」 「そうだよ、その事件だ」 「その事件と僕が探しているご老人と、どういう関係があるのですか?」 「そんなことは言うわけにはいかんよ。それより、あんたの探している老人の名前を言ってもらおうか」 「いいでしょう、言いますよ。水上和憲さんという人です」 「そうらみろ、やっぱりそうじゃないか」  瀬田は勝ち誇《ほこ》ったように言ったが、浅見も負けずに元気よく言った。 「じゃあ、刑事さんたちが探しているのも、水上さんだったのですか?」 「そうだ、水上和憲氏だ」 「それならそうと早く言ってくれればよかったのに」 「なにーッ」  瀬田は頭にきたらしい。 「そういうことを……よくも、いけしゃあしゃあと……それじゃ訊《き》くが、あんたが水上老人を探していた理由は何かね?」 「それはですね、ある人に頼まれたからですよ」 「ある人? ある人とは何者かね」 「まあ、水上さんのお身内の人とだけ言っておきましょうか。とにかく、その人が、ご老人が独りで吉野へ行ったので、心配だから探してもらいたいというので、それで探していたところですよ。いや、これは本当のことです。じつは、水上さんの跡継《あとつ》ぎの方が急死されましてね、ご老人はかなりショックだったらしいのです。それで、フラッと家を出られたものだから、お宅の方々は心配されたのじゃないですかね? とにかく、そういうわけですから、僕はそっちの事件のことは何も知りませんよ」  瀬田部長刑事はまだ不満そうだったが、浅見の言ったことは、基本的には嘘《うそ》でないことを認めたらしい。それはおそらく水上和憲の留守宅での事情聴取の様子と合致したためだろう。 「そういうことだったら、何でもっと早く正直に言わなかったのかね。そうしていればあんたもわれわれも……」  文句を垂れようとした時、突然、警察署の内外が騒然《そうぜん》としてきた。廊下を走る足音、何か叫ぶ声、サイレンを鳴らして出動するパトカー……。 「何かあったらしいな」  瀬田は言葉をとぎらせて、不安そうに眉《まゆ》をひそめた。  取調室だけがやけにシーンと静まり返って、周辺から取り残されたような不気味さが漂う。その中で、東京から来た二人の刑事と浅見が、外の気配に聞き耳を立てた。  ドカドカという足音が取調室の前にさしかかった時、瀬田がドアを開けた。 「何かあったのですか?」 「あ、そのことでお知らせにきたのです」  署員が瀬田の耳に口を寄せて、何事か囁《ささや》いた。 「何ですと?」  瀬田はキッとした目で浅見を振り返った。少し芽生えかけていた友好的ムードなど、かけらもない、怖《こわ》い顔であった。  それから瀬田は署員に向き直って言った。 「あんた、すまないが、その男を留置しておいてくれませんか」 「分かりました」  署員が頷《うなず》くと、瀬田は森本に向けて「行くぞ」と怒鳴《どな》った。森本はわけも分からないまま、瀬田のあとに従った。 「何があったのです?」  浅見は署員に訊《き》いた。 「いいから、留置場にきてもらおうかな」 「冗談《じようだん》じゃない。僕はたったいま、帰っていいことになったところですよ」 「いや、状況が変わったんや」  署員はブスッとした顔で言った。強張った表情であった。  浅見はピンときた。まさか——と思ったことを口走った。 「まさか、水上老人が死んだのじゃないでしょうね?」 「ん?……」  署員はギクリとして、浅見に身構えた。 「やっぱしあんた、知っとったんか」 「…………」  浅見は絶望的に沈黙した。 5   歌書よりも軍書に悲し吉野山  古来、幾百幾千とも知れぬ歌人や文学者によって詠《うた》われてきた吉野山だが、そういう詩歌をいくつ集めてみても、この美しい土地を背景に繰り広げられた戦いの歴史が描き出した「滅《ほろ》びの美学」を凌駕《りようが》することはできないという。  それほどに、吉野山には歴史の哀歓が色濃《いろこ》く投影されている。ことに、南朝の衰亡《すいぼう》や源義経と静の別離など、歴史上の悲劇を伝える物語が多い。  ところで、義経が吉野宗徒に追われて逃げたコースとほぼ重なっているのが、「上の千本」を縫うようにゆく「吉野・大峰ドライブウェイ」である。  その終点は金峰《きんぷ》神社で、この神社には吉野総地主神が祀《まつ》られている。  金峰神社社務所の裏手に「義経かくれ塔」というのがある。NHKの大河ドラマにも描かれた、義経主従の吉野脱出劇最後の舞台になったところだ。迫《せま》りくる追手から逃れるために、佐藤忠信が独り残って奮戦した話で知られる。  金峰神社までは車で行けるが、ここから先「奥の千本」から大峰山へ行く道は女人禁制ならぬ、車の入れない山道で、いまでも山伏《やまぶし》修行の入山口だし、大峰山登山ルートのひとつになっている。  水上和憲の遺体が発見されたのは、吉野・大峰ドライブウェイの道路|脇《わき》の崖《がけ》である。  ドライブウェイといっても、この道は車をビュンビュン、快適に飛ばすというわけにはいかない細い道路だ。おまけに九十九《つづら》折りの山道で、ひとつ運転を誤れば大事故につながりかねない。  その道路脇の急斜面に、水上老人の遺体は転落し、桜の古木の根方にひっかかって止まっていた。  発見者は地元のタクシー運転手で、麓《ふもと》の吉野駅から金峰神社までお客を案内してゆく途中だった。いわば観光タクシーだから、先を急ぐでもなく、下から順に「吉野神宮」「蔵王堂」「勝手神社」などを説明しながらのんびり登ってきた。  吉野・大峰ドライブウェイにかかって、この辺り一帯が「上の千本」といって、花の時季にはもっとも美しい——などと言って、何気なく崖の中腹を見た時、死体に気付いた。  最初、運転手は誰かがあやまって崖を転落したものと思ったそうだ。上から見たのでは、生死のほどもさだかではなかったが、かなりの急勾配《きゆうこうばい》だったし、確かめに行くのも危険な場所だ。  ともかく自分ひとりではどうしようもないので、お客に了解してもらって、いったん吉野山の駐在所に引き返し、通報した。  駐在の巡査は現場に赴《おもむ》き、町の連中に手伝ってもらって、崖を降り、「転落者」がすでに死亡していることを確認した。  駐在巡査は、東京から来た刑事が、「水上」という老人を探していることを知っていたから、ひょっとすると——と思って死体の洋服のポケットをまさぐってみると、名刺入れがあった。そして案の定、老人は水上和憲であった。  駐在の報告で本署は大騒《おおさわ》ぎになった。  東京から来た二人の刑事が現場に到着した時点では、すでに現場一帯は警察の管理下に置かれ、交通が遮断《しやだん》されていた。金峰神社へ行く道は二つあって、吉野・大峰ドライブウェイを通行止めにしても、観光シーズンでもないこの時期、実質的には支障をきたすことはない。  水上老人の死体から少し離れたところに、缶ジュースが落ちていて、缶から老人の指紋が採取された。  さらに、道路端から死体のあった場所まで、明らかに転がり落ちたと見られる痕跡《こんせき》があった。死体の手指の爪《つめ》には泥や枯れ草の繊維が入っていて、それは道路|脇《わき》の地面に残された引っ掻《か》き傷とも一致するところから、死にいたる直前、老人は本能的に転落を免れようとして、地面にしがみついていた状態が想像された。  駐在の報告では「老人は転落死した模様」ということだったのだが、老人には、転落の際に受けたとみられる擦過傷《さつかしよう》などがあった程度で、死亡原因になるほどひどい打撲痕《だぼくこん》や出血があった形跡《けいせき》はなかった。  死後経過時間が長いのと、気温の影響を考慮して、死亡推定時刻は昨夜の九時から十二時頃までのあいだ——とやや幅が広かった。 「死因は何だろう?」 「特徴的には、なんとなく青酸みたいな感じだが、口中はびらんしていないし……」  現場で検視に当たった捜査員も警察医も首をひねった。 「新宿のケースと同じだな」  瀬田部長刑事は森本刑事に言った。 「すると、やはりカプセルで服毒したものでしょうか?」 「たぶんそうだろう」  後の解剖で、瀬田のこの推測は裏付けられることになる。水上和憲の死因は青酸性の毒物による中毒死と判定された。しかも、食道までの段階では毒物の効果は見られず、胃の下部に到《いた》って爆発的にびらんが発生している。さらに、胃の中からほんのわずかだが、カプセルの残滓《ざんし》が検出された。  その状況は、まさに新宿の高層ビル前で起きた、川島孝司の事件の場合と酷似《こくじ》していたのである。  東京の水上家には瀬田が吉野署に引き上げてから連絡した。 「えっ、宗家が?……」  電話を受けた青年は驚愕《きようがく》のために口もきけない状態になった。  代わって電話口に出た菜津美も絶句した。 「そういうわけですから、大至急、ご遺族の方にこちらに来てもらいたいのですがね」  瀬田は励ますように、わざと乱暴な口調で言った。 「はい、すぐに参ります」  菜津美は答え、それから「はっ」と気付いて、言った。 「あの、じつは、娘が——秀美という娘が吉野へ行っているはずなのですが」 「え? 娘さんが? お祖父さんと一緒にですか?」 「いいえ、そうではなく、祖父の行く先がたぶん吉野だろうということで、探しに参ったのです」 「それはいつのことです?」 「はあ、一昨日ですが……」 「しかし、午前中に捜査員がお宅にお邪魔した時には、娘さんのことは言わなかったのじゃないですか? 自分は何も聞いておりませんがねえ」 「はあ、その時は、はっきりそちらに参ったかどうか分からなかったものですから……」 「まあいいでしょう。で、娘さんは吉野のどこにいるのです?」 「それが、昨日までは泊まっている旅館が分かっていたのですけれど、いまはどこにおりますものやら……いずれ連絡は入ると存じますが」 「そうですか……分かりました、こっちで調べてみましょう。もし連絡があったら、吉野警察署のほうに連絡してくれるよう、言ってください。あ、そうそう、それから、ちょっとお訊《き》きしますが、お宅ではお祖父さんの行方を探すために、誰かに依頼したようなことはありますか」 「いいええ、そんな、依頼どころか、今度のことは外部の方にはどなたにも話しておりません」 「なるほど、そうでしょうな」  あの野郎——と瀬田は思いながら電話を切った。 第六章 留置人・浅見光彦 1  留置場からは、外界の様子は一切、見ることができない。浅見《あさみ》は警察の中の微《かす》かな動きでもキャッチしようと、臆病《おくびよう》なウサギのように耳をそばだてていた。  おそらく吉野署のほぼ四分の三は出動したに違いない。ひと騒《さわ》ぎが終わったあとは、反動的に静まり返って、何の物音もしなくなっていた。  その異様な静かさが一時間も続いただろうか。  それから、ポツリポツリと捜査員が引き上げてきたり、ふたたび出て行ったりの、慌《あわ》ただしい気配になった。  変死事件に対する措置《そち》は、もちろんそれが殺人であるか、自殺であるか、それとも単なる変死にすぎないかによって異なるが、多くの場合は、現場で即断できないので、大事をとって最大限の陣容で臨むことになる。  ことに屋外での事件については、遺留物等の捜索《そうさく》には人海戦術が必要なので、機動捜索隊員などの応援を求めることになる。  おそらく、いま進行しつつある動きは、解剖結果などで、事件の性質を特定するまでの前段階といったところだろう。  このあと、もし殺人事件と特定されるようなことになるやいなや、捜査本部を開設したり、下市《しもいち》署など、隣接する警察署や奈良県警からの応援を要請するといった大騒《おおさわ》ぎが始まる。 (さて、どっちに転ぶのかな——)  浅見は鉄格子を睨《にら》んで、刻々進展しつつあるであろう、外の状況に思いを巡らせた。  とはいっても、いまはこうしてじっと待つしか、ほかにすることもない。  気になるのは水上秀美《みずかみひでみ》のことである。事件のことはすでに東京の水上家には連絡ずみだろうか? 秀美もそのことを知ったのだろうか?  しかし、秀美が祖父の死を知らされたとしたら、浅見がこんなところに閉じ込められているのに、何の連絡もないというのはおかしい。  彼女はまだ何も知っていないな——と浅見は思った。おそらく秀美はまだ桜花壇《さくらかだん》の部屋で休んでいるに違いない。水上老人の死が街の噂《うわさ》になり、桜花壇に伝わるまで、どれくらいの時間がかかるものか。それとも、テレビのニュースで流されるほうが早いのか。  いずれにしても、そのことを知った時の秀美の動揺が、浅見には気掛かりだった。  留置場に入って約二時間経過した頃、瀬田《せた》部長刑事が、森本《もりもと》刑事と制服の警察官二名を従えてやってきた。ドカドカという靴音からいっても、この男の意気が大いに上がっている気配は感じられた。 「おい、取調室に戻るぞ」  わめくように言って、自分はさっさと行ってしまった。残った森本と制服が浅見を囲むようにして取調室に向かう。手錠《てじよう》こそ掛けないが、逃走されることを極度に警戒しているらしい。 「なんだか、まるで殺人犯みたいですね」  浅見が冗談《じようだん》を言っても、ニコリともしなかった。  その理由はすぐに分かった。瀬田は浅見|光彦《みつひこ》なる人物を、本気で殺人の容疑者として調べるつもりなのだ。 「あんた、水上家に和憲《かずのり》氏を探すよう、依頼されたと言ったが、そういう事実はないじゃないか。そろそろ出鱈目《でたらめ》を言うのはやめにしたらどうだ」  瀬田はまず、比較的、穏《おだ》やかな口調で尋問を開始した。 「僕は水上家に依頼されたとは言っていませんよ」  浅見は言った。 「またそういう嘘《うそ》をつく。あんた、水上さんに頼まれたって、そう言っただろうに」 「いえ違います、お身内の方に頼まれた——と言ったのです」 「同じことじゃないか」 「違いますよ、かなりニュアンスは違うと思いますがねえ」 「いいかげんにしろ!」  瀬田は怒鳴《どな》った。 「じゃあ、水上さんの身内の、誰に頼まれたって言うんだ」 「それは言えませんよ。依頼人の秘密は守らなければなりません」 「ばかやろう、弁護士みたいなことを言うんじゃないよ。たかがルポライターのくせしやがって」 「ひどい言い方ですね。僕としては、たかがルポライター、されどルポライターと言いたいですよ」 「ふざけたことを言うんじゃないよ」  瀬田は威丈高《いたけだか》に言ってから、急に身をかがめて言った。 「ところであんた、家族は?」 「家族は……僕はまだ独身です」  浅見はいやな予感を抱いて、オズオズと答えた。 「ふーん、そうなの、三十三にもなって、まだ独身かね」  瀬田は浅見の微妙な変化を見逃さない。興味深そうな眼を斜めにして、こっちを見ながら言った。 「そうです」 「そうすると何かね、その北区西ケ原の住所に、独りで住んでいるってわけかね?」 「いや、そういうわけではありませんが」 「じゃあ、下宿か?」 「まあ、そんなところです」 「そんなところとはどういう意味だい?」 「居候《いそうろう》みたいなものです」 「ということは、親戚《しんせき》か何かか?」 「まあ、そうですね」 「どういう親戚だ?」 「どういうと言いますと?」 「だからだな、近い親戚とか遠い親戚とか、いろいろあるだろうが」 「どちらかといえば、近い親戚ということになるでしょうか」 「この野郎、はっきりしねえな」  瀬田は「おい」と森本に顎《あご》をしゃくった。 「本庁に連絡して、こいつの身元を洗ってもらってくれや」 「いや、それはやめてくださいよ」  浅見は制止した。 「その家の者には関係ないのですから」 「おまえがちゃんと答えてりゃ、こっちだってそんな面倒《めんどう》はしたくないさ」  浅見に対する瀬田の呼び方は「ばかやろう」「この野郎」「こいつ」そして、「あんた」がとうとう「おまえ」に降格した。 「分かりましたよ、ちゃんと答えますから、その家には連絡しないでくれませんか」  浅見は弱りはてて、懇願調で頼んだ。 「もう遅いんだよ」  瀬田は「ふふん」と、小気味よさそうに鼻先で笑い、もう一度、森本に合図した。  だが、森本が心得て取調室を出かかったところへ、吉野署の刑事がやってきた。 「水上さんの孫娘というのが出頭してきましたが」 「なに? そうですか」  瀬田は立って、森本に浅見の身柄《みがら》を確保しておくように頼むと、早足で刑事のあとに続いた。 2  秀美は自分が発狂しないでいるのが不思議な気さえした。  桜花壇のおばさんが部屋に飛び込んで来た時、秀美はまだ眠りこけていた。浅見が出掛けて行って、しばらくは寝つけないでいたけれど、それでもかれこれ三時間ほどは眠ったことになる。 「お嬢さん、いま、ちょっと気になる噂《うわさ》を聞きましたのやけど……」  蒲団《ふとん》の上に半身を起こした秀美に、おばさんはやや躊躇《ためら》いがちに言った。 「この先のドライブウェイで、おじいさんが亡くなってはったいうのです」 「えっ? 祖父が?……」 「いいえ、お嬢さんのお祖父さんかどうか分からしまへんけどな、それでもちょっと気ィになったもんやさかい……」 「それ、祖父かもしれません」 「まさか思いますけんどなあ……もし心配やったら、東京のお宅のほうに連絡なさったらどうでっしゃろ」 「そうですね、そうします」  秀美は声が震えてきた。  床の間の電話機に這《は》うように寄って、受話器を握った。  自宅の番号をダイヤルすると、また若い広島が出て、「あっ、お嬢様」と叫び、「奥様、お嬢様からお電話です」と呼んだ。ほとんど間を置かずに、菜津美《なつみ》が代わった。 「秀美、大変、お祖父様がお亡くなりになったらしいのよ」 「えっ? じゃあ、やっぱり……」 「やっぱりって、あなた、知ってるの?」 「ええ、いま、旅館の人が、もしかするとそうじゃないかって……」 「旅館て、じゃあ、また旅館に戻ったの? だったら連絡しなきゃだめじゃないの」 「違うの、べつの旅館なの、桜花壇て……そんなことより、ほんとなの? ほんとにお祖父様なの?」 「ええ、警察からの電話で、お祖父様の名刺を沢山持っているって……それに服装が、間違いないらしいのよ。それでね、これから斉藤《さいとう》と友井《ともい》を連れてそっちへ向かいます」 「そっちって、吉野に来るの?」 「そうですよ、吉野警察署に来るようにって……あなたもそっちへ行きなさい。こっちはこれから行っても夜遅くになるでしょうから、それまで一人で……大丈夫ね?」 「ええ、なんとか頑張るわ。それに、あの、ちょうど浅見さんのご子息さんがこちらにいらしていて、いろいろお力になってくださるから」 「浅見さんて、あのお祖父様がお世話になった、浅見さん?」 「ええ、偶然お会いしたの」 「だったら、たしかご子息は警察庁の偉い方だとか……」 「ああ、その方じゃなくて、弟さんのほうみたい」 「そうなの……でも、とにかく浅見さんのご子息なら、きっと頼りになる方だわ、それじゃ、くれぐれもよろしくお願いしてね。いいわね、しっかりしてちょうだい」 「はい、お母様こそね」  健気《けなげ》に言ったものの、電話を切ったとたん、秀美はクラクラッとなった。 「あっ、大丈夫でっか?」  おばさんが慌《あわ》てて抱きとめてくれなければ、坐ったままの恰好《かつこう》で、畳に倒れていたに違いない。 「あの方——浅見さんはまだかしら」 「ほんま、遅うおますなあ……」  おばさんは時計をみて、腰を浮かせた。 「これだけの騒ぎになっているのやさかい、吉野山にいてはるのやったら、気ィつかんはずない、思いますけどなあ」  浅見の帰りを待つべきかどうか、秀美は迷った。 「勝手に動いて、ご心配おかけするかもしれないけど、私、とにかく警察に行ってみようと思います」 「そうですなあ、そうなさったほうがよろしゅうおますな。そしたら、番頭はんに送って差し上げるよう、頼みますさかいに」  番頭の運転する車で、秀美は吉野警察署まで送ってもらった。電話のあと、ずっと体の震えが止まらない。警察署の玄関前に到着した時には、全身が凍りついてしまうのではないかと思うほど、寒気がしていた。  番頭が一緒に警察に入って、受付の職員に秀美のことを説明してくれた。番頭は好人物で、「一緒にいてましょうか?」と言ってくれたのだが、秀美は「大丈夫です」と手を振った。笑顔をつくろったつもりだが、それは表情になったかどうか、自信がなかった。  署長室の中の応接セットに案内された。署長は事件現場に行っていて留守だったが、そういう事情は秀美は知らない。  まもなく中年の私服の男がやってきた。 「水上さんのお嬢さんだそうですね」 「はい」 「私は東京新宿署の瀬田という者です」 「あの、祖父はどちらに?……」 「ああ、いまは病院のほうですが」 「病院? じゃあ、祖父はまだ?……」 「あ、いや、そうではなく、司法解剖をしましたので」 「解剖……」  秀美は血の気の引いた顔を、さらに青ざめさせた。 「あ、これはお嬢さんには刺激が強すぎたですかな」 「いいえ、大丈夫です」  秀美は自分を励ますように、「大丈夫」を繰り返した。 「お母さんに聞いたのですが、あなたは吉野におられたのだそうですね」 「はい、たまたま……」 「偶然ではないのでしょう? お祖父さんを探しに来ていたのでしょう? お母さんはそう言ってましたよ」 「ええ、まあそうです」 「ところで、あなたは浅見という人物を知りませんか?」 「浅見さん? 知ってますけど。じゃあ、浅見さんから連絡が入ったのですか?」 「いや、浅見はいま、留置場にいますよ」 「留置場に?」  秀美は唖然《あぜん》とした。警察に捕まっていたのでは、帰ってこないはずだ。 「どうして? 浅見さん、何かなさったのですか?」 「まだ取調べ中ですがね、一応、あなたのお祖父さんを殺害した疑いがあります」 「まさか……」 「いや、分かりませんよ。浅見はあなたのお祖父さんを追って吉野に来たと考えられるのです。しかも、言動に不審な点が多い。水上家にお祖父さんを探してくれるよう、依頼されたとか、出鱈目《でたらめ》なことばっかり言っておるのです」 「それ、出鱈目じゃありません。私が頼んだのですもの」 「ん? ほんとですか?」 「ええ、本当です。一緒に探していただいたりしていました」 「いや、それだって、怪しいものです。実際には、一緒に探すふりをしていたのかもしれない」 「そんなことはありませんよ。だって、浅見さんのお兄様は警察の方ですもの」 「警察の?……」  瀬田部長刑事は苦い顔をした。 「ほう、浅見の兄は警察官ですか。まあ、しかし、兄が警察官だからといって、弟が真面目《まじめ》な人間であるという保証はありませんからねえ。で、どこの警察ですか? その浅見の兄の勤務先は」 「どこって、東京です」 「東京のどこの警察署ですか? 本庁——警視庁ではないのでしょうな」 「そうじゃなくて……私は警察のことはよく知りませんけれど、ふつうのお巡りさんではないみたいです」 「ふつうのお巡りさんではない——というと、警部補だとか、警部だとか、警視……そういう階級ですか?」 「いいえ、ですから、そういう階級のない人だと思うのですけど」 「階級がなければヒラの巡査……」 「違うのです、もっと偉い人です」 「じゃあ、警視|正《せい》? まさか警視総監ということはないでしょう」  瀬田は不謹慎にも、あやうく笑い出しそうになった。 「そうじゃありません」  秀美は焦《じ》れた。 「そうじゃなくて、事務関係の警察の人がいるでしょう」 「事務関係?……ああ、あんたの言ってるのは、警察庁のことですか?」 「そうなのかもしれません」  秀美は曖昧《あいまい》に答えた。警察の階級だとか、職制だとかいうものがどういうものなのか、本当のところ、秀美はさっぱり分からない。いや、秀美にかぎらず、一般の市民は警察官の階級がどうなっているのかすら、ほとんど知らなくて当たり前なのだ。たとえば「部長刑事」と「刑事部長」とがゴッチャになっていたりする。ミステリーファンの中にすら、「部長刑事」のほうが「刑事部長」より偉いと思っている人だって、少なくない。  警察官の階級は、下から「巡査」「巡査長」「巡査部長」「警部補」「警部」「警視」「警視正」「警視長」「警視監」ときて、最高位は「警視総監」——つまり警視庁のボスである。  テレビドラマなどで「デカ長」というのは、いわゆる「部長刑事」のことで、正確にいうと「刑事課に所属する巡査部長」だ。  それに対して、「刑事部長」となると、警視庁や道府県警察本部の刑事部の長という職制上の名称であり、階級はふつう警視長が任官される。部長刑事から見ると、雲の上の人ということになる。また、刑事課長というのは、警察署の刑事課の長で、その警察署の規模によってマチマチだが、階級は警視から警視正までというのがふつうだ。  ちなみに道府県警察本部の本部長は、一般的には警視監が務める。その中で出世コースに乗った幸運な者が、選ばれて警視総監になるというわけだ。目玉のギョロッとした警視総監が参議院議員になったように、警察組織の一つの頂点に立つ男である。  一つの頂点——という言い方をしたのは、警察組織にはもう一つのピラミッドがあるからだ。それが秀美の言葉を借りていうなら「警察の事務関係」を司《つかさど》る官庁で「警察庁」と呼ばれる。 「そうか、浅見の兄というのは、警察庁の人間なのですな?」  瀬田はようやく気がついた。 「警察庁で何をしているのかな? どこの所属か分かればいいのだが、警察庁ったって、人間が多いですからなあ」 「でも、浅見さんのお兄様なら誰だって知ってらっしゃるんじゃありません? テレビにもよくお出になってるし」 「テレビに? まさか警察の人間がテレビに出演するわけがないでしょう」 「そんなことはありませんわ。国会中継の時に、予算委員会なんかで、政府側の答弁によくお立ちになりますもの」 「政府側の答弁……」  瀬田はあっけに取られた。まだ暖房は入っていない部屋は、夕方になって寒いくらいだが、額に汗が滲《にじ》んできた。 「あの、浅見……さんのお兄さんというのはですね、もしかして、浅見刑事局長のことですか?」 「ああ、そうですそうです、刑事局長っていうんでしたね」  秀美はやっと話が通じて、ほっとした。それに引き替え、瀬田はこの信じられない苦境から、どう脱出すればいいのか、エドモン・ダンテスが巌窟《がんくつ》の牢獄《ろうごく》から脱出する方法を考えた時のように、絶望的に思い悩んでいた。 3 「ははは、浅見さん、どうもあなた、お人が悪いですなあ……」  瀬田部長刑事が、いかにもわざとらしい大きな声で、そう言いながら取調室に戻ってきたとき、浅見はもう何が起こったか察してしまった。しかし、瀬田のこの変貌《へんぼう》ぶりは、森本刑事には、下手くそな田舎芝居か、それとも瀬田の頭がおかしくなったようにしか見えなかったに違いない。  相棒の困惑を意識して、瀬田はわが身に降りかかった不幸な事態を解説するために、言葉を続けた。 「どうもねえ、浅見さんのお兄上が警察庁の浅見刑事局長さんだなんて……そういうことは早くおっしゃってくださらないと、どうもその、われわれのような下っ端は立つ瀬がありませんよ」  瀬田は言いながら、最後にはなかば本気で、恨めしそうな顔になった。森本刑事は「ゲッ」という表情を見せた。 「いえ、兄は兄、僕は僕ですから……」  浅見は浅見で、精一杯、身を縮めるようにしながら、頭を下げた。 「またまた、そういうその、なんですな、本官を困らせるようなことは、もうおっしゃらないでいただきたいものですなあ」  瀬田はドアを大きく開けて、まるでドアボーイのような仕種《しぐさ》をした。 「さあ、どうぞ署長室のほうにお越しください。もう、ここの署長さんも戻られる頃だそうですから」 「いや、僕はここのほうが居心地がいいのですが」 「お願いしますよ、もうこのへんで勘弁してくださいよ」  瀬田はとうとう溜《た》め息《いき》をついた。 「それにです、あちらに水上さんのお孫さん——ええと、秀美さんといいましたっけか——お嬢さんも来てますしね」 「あ、そうだったのですか。分かりました。ではお言葉に甘えて、出させていただきます」  浅見は瀬田の憂鬱《ゆううつ》がそのまま感染したように、およそ精彩のない顔つきで、取調室を出た。  署長室には現場から戻ったばかりの吉野署の署長が、ドアのところまで出て待ち構えていた。浅見にしてみれば、その向こう側にいる水上秀美のことが気になって仕方がないというのに、署長は通せんぼうをするガキ大将のように、浅見の前に立ちはだかった。 「いやあ、どうもどうも、浅見刑事局長さんの弟さんやそうですなあ。署長の田中です。ずっとこちらに見えておられたそうやが、そういうこととはちっとも知らんかったもので、失礼をいたしました」  署長は「知らなかった」ことを強調している。 「とんでもありません。お詫《わ》びしなければならないのは僕のほうです。瀬田さんの尋問に対して、頑強に黙秘していたのは僕なのですから……それであの、このことはですね、兄や、とくに母には内密にお願いできますでしょうか?」 「は? はいはい、もちろんそれはこちらもお願いしたいところですさかいな。そうでっしゃろな、瀬田さん」  署長は、この疫病神《やくびようがみ》を運んできた東京の部長刑事をジロリと睨《にら》んだ。 「は、もちろんであります」 「そういうわけですさかい、浅見さん、なにぶんご内聞にということで、おたがいの意見の一致を見たと、まあそのようなわけですかな。ははは……」 「はあ、そのようですね」  浅見も署長に付き合って、わずかに笑ってみせると、署長の脇を擦《す》り抜けて、秀美に近寄った。 「どうも、最悪のことになったようで……」  言いかける浅見の顔を見上げたとたん、秀美の眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。いままで堪えていた悲しみとショックとが、そのまま涙になって溢《あふ》れ出したように、声も立てず、秀美は泣いていた。  秀美が無意識に、浅見の胸の陰に隠れるようなポーズを取っているので、浅見は自然、俯《うつむ》いた秀美の両肩を、左右の手で支えるように抱いて、慰める恰好《かつこう》になった。 「お祖父さんのご遺体とは、もう対面なさったのですか?」 「いいえ、まだです」 「そうですか、それじゃ僕も一緒に参りましょう」  言って、浅見は瀬田を振り返った。 「あの、ご案内をお願いできますか?」 「はいはい、すぐにご案内しましょう」  瀬田を差し置いて、田中署長が答えた。  浅見と秀美を乗せた車の助手席には署長が同乗して、瀬田と森本はべつのパトカーに乗った。署長は警察庁のおエライさんの弟に、何がなんでも心証をよくしておこうという気になっている。  奈良県で発生した死亡事件の司法解剖は、ふつう橿原《かしはら》市にある奈良県立医科大学の法医学教室で行われる。吉野からは、決して近い距離ではないが、パトカーはサイレンを鳴らしっぱなしでつっ走った。  街を走るサイレンの音はしょっちゅう聞いているけれど、音源に身を置くことは、あまり経験できないし、したくないものだ。秀美はまるで自分の発している悲鳴が、暗闇《くらやみ》を駆けてゆくように聞こえて、ほんとうに錯乱してしまいそうな気がした。  病院の長く冷たい廊下を、白衣を着た青年のあとについて歩いた。  霊安室に入り、青年が遺体の上に掛けられた白い布をめくる、その瞬間まで、秀美はもしかして——という、一縷《いちる》の望みを捨ててはいなかった。  しかし、目を閉じ仰向《あおむ》いたまま動かない、灰色にくすんだ老人の顔は、まぎれもなく祖父のものであった。  秀美は今度こそ、声をあげて泣いた。その肩を押さえながら、浅見もポロポロと涙を流していた。  水上和憲と浅見は昨日、偶然、勝手神社で言葉を交わしたものの、それまでは写真で顔を見たことがあるかもしれないけれど、直接には面識はない。ただ、和憲がかつて父親の能謡の師匠であったことを知っている程度だ。  それだけの間柄だけれど、浅見は和憲の死によって、父親のイメージが投影されていた大切なスクリーンを、また一つ失った想《おも》いがした。  父親は浅見がまだ中学生の頃に死んだ。もう二十年も前のことである。正直いって、父親のことについては、浅見は厳格だったという記憶ばかりが先に立って、その人間像はひどく曖昧《あいまい》にしか掴《つか》めていなかった。  父親のことは、母や兄、三宅、そしてばあやなどから聞く思い出ばなしを通じて、いつのまにか、あたかも自分の体験のように認識されている部分がほとんどであった。  偉大な父親、偉大な兄、そして矮小《わいしよう》な自分——という図式が、つねに浅見の脳裏に焼きついていて、それを打破することなど、思いもよらなかった。  父親が死んだとき、浅見は泣かなかった。突然の死——ということもあったのかもしれないが、なぜか涙が出なかった。  母親は、人前で泣くなどというのは、きわめてはしたない——と思っている女だから、涙を浮かべたとしても、声をあげて泣くことはしない。  兄の陽一郎《よういちろう》もそうだ。その頃は兄は東大を首席で卒業して、すでに警察の幹部候補として入庁していた。父親の死によって、浅見家を背負って立たなければならない重圧を前に、泣くどころではなかったのかもしれない。  二人の妹のうち上の妹の佑子《ゆうこ》だけが心置きなく泣いていた。下の妹の佐和子《さわこ》は幼い頃から男の子のように気が強く、声をあげて泣くことはなかった。浅見も佐和子と同様、そうやって素直に泣くことのできる佑子を、不思議そうに傍観《ぼうかん》していただけであった。  浅見が父親のために泣いたのは、ずっと後になってからだ。三宅《みやけ》に就職の世話を頼みに行って、夕食に鰻《うなぎ》を御馳走《ごちそう》になった時、三宅の口から父親の言葉を聞かされた。 「そういえば、きみのおやじさんは、きみを尊敬していたっけな」  三宅はそう言った。 「尊敬——ですか?」  浅見は聞き間違いかと思った。 「ああそうだよ、尊敬していたのだと私は思う。おやじさんは、『光彦には、おれや陽一郎にはない才能がある』と言っていた」  それを聞いたとたん、浅見は癌《がん》を宣告された小心な男のようなショックを感じた。生きるということの偉大さを知ったと言ってもいいかもしれない。  兄と違い、三流大学をやっとこ卒業したものの、就職もままならない——という最悪の時期であった。コンプレックスの塊りのように、生涯、役立たずだと思っていた自分を「才能がある」と認め、期待してくれた人間が、少なくとも一人はいたという事実が、浅見を感動させた。  しかも、その「一人」があの、コンプレックスの原因そのもののような存在である父親であったのだ。  浅見は鰻をつつきながら、ポロポロと涙をこぼした。父親のためにではなく、ついさっきまでかわいそうだった自分のために泣いていた。  水上秀美の慟哭《どうこく》する姿に、浅見は妹の佑子の姿をダブらせていた。ただひたすら、純粋に悲しみ、泣けるというのは女性の——それも若い女性の特権なのかもしれない。  佑子も秀美のように美しく、頭のいい女性だった。その佑子は大学の卒業を目前にした前の年の秋、広島県で死んだ。(その妹の死がきっかけで、浅見光彦という探偵が生まれた事件のことは『後鳥羽伝説殺人事件』で紹介されている)  浅見は家族の死という大事件のたびに、それを踏み台のようにして、ひと回りもふた回りも大きくなってきた。  家族とはそういうものかもしれない。父親は息子に乗り越えられるために存在するというが、兄弟だってそうだ。兄弟は生まれて最初に遭遇《そうぐう》するライバル同士なのである。  かつての大家族時代には、子供はまず家庭の中で兄弟との戦いに慣れ、それから外に出て、近所や学校で新しい敵に遭遇する。一人っ子の家庭では、そういう前哨戦《ぜんしようせん》がないまま、いきなり外敵と戦うケースが多い。だから、いじめや喧嘩《けんか》で受けるダメージも大きいというわけだ。  水上秀美は、兄の死につづいて、いままた祖父の死に出会った。いずれも突然の、しかも異常な死にざまである。心の備えもなかった秀美に、いま出来ることといえば、そうやって泣くことしかないのだろう。  霊安室を出て、病院の長い廊下を歩くあいだも、秀美は放心状態であった。しかし、そうやって自分の心を、外界から切り離しておける状態は、そう長くは続かなかった。  ロビーに出たとたん、いきなりフラッシュが光った。  同時に、三人の男がマイクをつきつけるようにして、迫ってきた。 「水上さんのお嬢さんですね、ご宗家が亡くなったそうですが、お話を聞かせてくれませんか」  先頭にいた署長が「だめだ、だめだ」と押し退けるようにしたが、効き目はなかった。三人は署長の肩越しにマイクを差し出し、秀美の返事を求めた。 「宗家が自殺した理由は何ですか?」 「やはり、和鷹さんの急死がショックだったのですか?」 「亡くなったお祖父さんに向かって、いま何を言ってあげたいですか?」 「まず理由を聞かせてくれませんか」  次々に質問が浴びせられた。  病院のロビーである。幸い、外来の時刻を過ぎているとはいえ、周辺には入院患者や見舞い客たちが大勢いる。フラッシュが光ったので、何事か?——と集まってくる者もあった。 「だめだよあんたたち。記者会見なら警察のほうでするから」  署長はしきりに制止した。その姿に向けて、またフラッシュが光る。 「そう言わないで、ひと言だけ聞かせてくださいよ。署長でもいいですよ。そもそも、水上氏の自殺の原因は何だったのです?」 「祖父は……」秀美は呟《つぶや》いた。 「祖父は自殺なんかしていません」 「えっ、自殺していない? しかし死んだんでしょう? さっき服毒死って聞いたけど、違うの?」 「でも、祖父は自殺したりしません」 「へえ、自殺じゃないとすると、殺されたってわけ?」 「そうです、祖父は殺されたのです」 「ほう、穏やかじゃないですねえ」  三人の記者はますます気負い立った。 「署長、どうなんです? お嬢さんはああ言ってるけど、ほんとに他殺の疑いがあるのですか?」 「そういうのは現段階では、まだ答えられませんな」  署長は苦い顔をして、「あなたも余計なことは言わないほうがよろしい」と、秀美を窘《たしな》めた。 「でも、祖父の名誉のためにもはっきりしておきたいのです」  秀美は頑強に言い張った。 「ほう、お祖父さんの名誉のためですか」  記者は飢えたハマチが餌《えさ》を待っていたように、秀美の発した文句に飛びついてきた。 「それはどういう意味です?」 「殺されたのだと言うからには、犯人の心当たりがあるのですか?」 「いや、自殺と名誉の関係のほうを先に聞こうよ」  記者同士で言い争っている。  署長に加えて、瀬田と森本も前に出て、三人を押し退け、退路を開いた。浅見は秀美を抱えるようにして玄関を走り抜け、署長の車に飛び込んだ。 4  夕闇《ゆうやみ》が迫る中を、一行が吉野警察署に戻った時点では、すでに現場の実況検分と、周辺での聞き込み捜査は一応完了していた。解剖所見と併せて、初期のデータはほぼ出揃《でそろ》ったことになる。  浅見と秀美は応接室に案内され、そこでコーヒーを供されながら、事情聴取を受けることになった。 「さっきは突発的な状況であったさかいに、やむを得んことやったが、新聞記者だのマスコミの連中に対して、ああいう発言は控えていただかな、あきまへんな」  署長は秀美に釘《くぎ》を刺した。 「でも、祖父は自殺なんかじゃありませんから」 「いや、そういうことはですな、これから警察が捜査して決めることですさかい」 「そうおっしゃるけれど、あの人たちはまるで、祖父の死は自殺だというふうに決めつけているみたいだったではありませんか。それは警察がそういう発表をなさったからなのでしょう?」 「ん?……」  署長はたじろいだ。 「いや、そらまあ、警察が公式に発表したわけではありませんが、ニュアンスとして、そんなふうに伝わったちゅうことはあるかもしれまへん」 「でも、それでは困るのです。そんなデマがテレビや新聞で流されて、水上流《すいじようりゆう》の宗家《そうけ》が自殺するような人間だと思われては、祖父の名誉が失墜《しつつい》します。そんなことになるくらいなら、むしろ、祖父は殺されたのだと発表していただきたいのです」 「そんな無茶な……」  署長は手を焼いたように、肩をすくめてみせた。 「じつはですね」と浅見が言った。 「宗家が自殺をなさるような方ではないと言ったのは、僕なのです」 「浅見さんが?」  署長はしようがない——と言いたげだ。 「ええ、水上さんが家を出られた時、秀美さんは、お祖父さんが自殺されるのではないかと心配なさって、それで水上さんの後を追って吉野に来られたのです。しかし、水上宗家のお人柄から考えて、水上流の名を汚すようなことはなさらないと思って、僕は秀美さんにそう言いました。それはいまでも間違っていないと思いますよ」 「しかしですなあ、そういう重大な判断は、簡単に下せるものではありまへんで」 「それは充分、分かります。最終的には警察のご判断を待つしかありませんが、ただ、客観的にはそういった見方があることを勘案《かんあん》して判断材料にしてください。秀美さんも、それでいいですね?」 「ええ……浅見さんがそうおっしゃるのでしたら」  浅見を除く三人の男たちは、やれやれ——というように、顔を見合わせた。内心、美しい女性に全幅《ぜんぷく》の信頼を寄せられている、このハンサムな青年を小憎《こにく》らしく思っているのかもしれない。 「ところで署長さん、現段階では、警察の判断はどちらなのですか?」  浅見はあらためて訊《き》いた。 「うーん……正直申し上げて、まだどちらとも判断しかねとる、いうのが実情ですな。遺体の発見された状況も、いずれとも断定しかねますし、また、考え方ひとつで、どちらとも断定出来ると言うてええのです。そうでっしゃろ、瀬田さん」  一応、東京の刑事の顔を立てている。 「はあ、自分もそう思います。一つの仮説としては、水上和憲さんはあの場所まで歩いてきて、カプセル入りの毒物を缶コーヒーで服用、毒の効果が顕《あらわ》れるまで待っていたと考えられます。また、べつの見方をするならば、何者かが水上さんを車であの場所まで運び、車内で他の薬と偽《いつわ》って、同様手段で毒物を飲ませ、効果が出た時点で、崖下《がけした》に突き落としたとも考えられるわけです。共通していえることは、手指の爪で地面を引っ掻《か》いた形跡等があることから見て、崖上の道路から転落する時点では、水上さんは生きていたということです」  秀美が瞬間、顔を伏せたが、瀬田はそれを無視して言った。 「しかも、後者のような方法で殺害されたのであるとすれば、東京新宿で起きた事件の場合と、きわめてよく似た手口であり、同一犯人による犯行と見ることも可能です」 「そうそう」  浅見は思い出して、言った。 「瀬田さんたちが水上さんを追って吉野に来たのには、どういう背景があるのですか? つまりですね、水上さんと東京の事件とのあいだには、どういう関係があったのでしょうか?」 「うーん……それを話すのは、いろいろ問題があるのですが……」  瀬田はしばらく逡巡《しゆんじゆん》してから、諦《あきら》めたように言った。 「じつはですね、東京の事件の際、被害者が妙な恰好《かつこう》をした鈴を持っていたのです」  瀬田は胸の内ポケットから一葉の写真を取り出した。 「ああ、それやったら天河神社の鈴やおまへんか」  署長が写真を覗《のぞ》き込んで、言った。 「えっ、天河神社?……」  浅見は秀美と顔を見合わせた。瀬田は感心した口調で言った。 「そうです天河神社です。すると、浅見さんも天河神社をご存じだったのですか、さすがですなあ、自分はまったく聞いたこともなかったのですがねえ」 「いや、それは僕だって同じです。こちらの秀美さんに教えてもらったところなのです。日本三大弁才天の第一位なのだそうですね。僕は弁天様といえば、鎌倉の銭洗《ぜにあら》い弁天しか知らなかったのですから」 「あははは、銭洗い弁天はいい。浅見さんも結構、おかしなことを言いますねえ」  瀬田は嬉《うれ》しくなって、つい大声で笑ってから、周囲が白けているのに気付いて、「失礼」と悄気《しよげ》込んだ。 「そらまあ、私かてここに勤務してから知ったようなもんですけどな」  署長が気まずい空気をとりつくろうように言った。 「ここら辺りに住んでおる者なら、知らん者はおらんでしょうがなあ」 「それで、天河神社の鈴とおっしゃったのは、どういうことなのですか?」  浅見は瀬田に、催促するように訊《き》いた。 「自分もはじめて知ったのですが、この妙な恰好の鈴が、天河神社のお守りだというのですよ」  瀬田は、天河神社の特別製|五十鈴《いすず》のいわれと、その鈴が元来、水上和憲の所有物であったことを話した。 「それは私も見たことがあります」  瀬田の解説が終わるのを待って、秀美が言った。 「ずうっと小さい頃でしたから、はっきりとは憶《おぼ》えていないのですけど。たしか、鈴を私が玩具《おもちや》に欲しがって、叱《しか》られたような記憶があります」 「つまり、お祖父さんにとっては、大事な品だったわけでしょうね」 「そうだと思いますけど、でも祖父に叱られたのかどうか、そのへんもまったく曖昧《あいまい》なんです」 「しかし、その鈴をなぜ、新宿の事件の被害者が持っていたのでしょうか?」 「そこなのですよ浅見さん」  瀬田がようやく、わが意を得たり——と言わんばかりに、身を乗り出した。 「じつはですね、自分と森本君は、鈴のことを調べるために天河神社に行ったのですよ。そうしたら、そこに被害者の娘さんが来ておりましてね。なんと、鈴の持ち主を探そうとしておったのです。そのおかげで、われわれは、鈴に打ってある刻印から、鈴の持ち主が水上さんであることをキャッチできたわけでして、その点は非常に幸運であったと思っております。それはともかく、それでは鈴の持ち主である水上さんから事情を聞いてもらおうと、東京の捜査本部に連絡したところ、水上さんは家を出ているというのです。しかもなんと、すぐ隣の吉野に向かったらしいというのでしょう。これはまたツイてると思って……」  言いながら、瀬田は秀美の存在を思い出して、慌《あわ》てて口を押さえた。 「なるほど、そういうことだったのですか。道理でタイミングがいいと思いました」  浅見は苦笑しながら、質問の矛先《ほこさき》を署長に向けた。 「ところで、吉野山の事件現場ですが、道路脇ということでしたね?」 「そうです、吉野・大峰ドライブウェイいう道の脇です」 「その道を水上さんが歩いて現場まで行かれたとすると、当然、車と擦《す》れ違ったでしょうし、目撃者がいたと思われるのですが、その点はいかがでしょうか?」 「いや、それがですな、目下のところまったく目撃者が出てまへんのや。もっとも、あの道はいま時分の季節やと、夜間はほとんど車も通らなくなるさかいに、目撃者が出ない可能性もないわけではない、いうことも出来ますがね」 「それにしても、水上さんが吉野に来られたのは昨日の午後、まだ日の高いうちですから、亡くなるまでのあいだ、吉野山かその付近のどこかにおられたことはたしかです。それに、かりにそのドライブウェイは交通量が皆無《かいむ》だったとしても、そこへ行くまでのあいだは吉野山の街中《まちなか》を通って行くわけで、まったく目撃されないということは、まずあり得ないと思うのですよね」 「そらまあ、浅見さんの言われるとおりですなあ。瀬田さんも含めて、警察としては事件が発生する前から、吉野山上一帯で聞き込みをしているわけですが、浅見さんが水上さんを見送ったという勝手神社から先、ご老人らしい人物を目撃したという情報がまったく得られんいうのも、ほんまに奇妙な話でして。正直なところ、これがもし浅見さんでなければ、ほんまに勝手神社にいてはったのかどうか、作りばなしやないかと疑いたいところかもしれまへんな」 「一つ考えられることは」  と浅見は言った。 「ご老人は中折れ帽子を被《かぶ》っておられた——という点なのですが。それがきわめて特徴的であるために、目撃者がいないというのは不思議に思われているわけです。しかし、もしご老人がたまたま帽子を脱いでしまっていたとすると、かえって、それを特徴として聞き込みをしたことが裏目に出たという可能性もありますね」 「なるほど、それもおっしゃるとおりですな。そうなってくると、これまでの聞き込み作業が空振りに終わったとしても、不思議はないいうことになるかもしれまへんな」  署長も眉《まゆ》をひそめるようにして、頷《うなず》いた。  中折れ帽子というのは、いまどき、かなり珍しいファッションであり、人目につきそうだ。しかし、帽子を被っていない老人ということなら、珍しくも何ともない。もともと、吉野はどちらかといえば老人の客が多いところなのだ。 「まあしかし、いずれにしてもです、いま、わが署の刑事諸君が捜査会議を行って、データを詰めている段階です。まもなくその結果が出ることやさかい、もうちょっと待っとってくれまへんか」  しかし、結果はあまりパッとしたものではなかった。第一回目の捜査会議の結論は、自殺・他殺の両面で捜査を継続する——というものであった。 5  水上家の人々が東京の自宅を四時頃に出たとしても、吉野警察署に到着するのは、おそらく十一時頃になるだろう——ということで、浅見と秀美はいったん桜花壇に引き上げることになった。  東京から愛車ソアラで来ているというのに、またしてもパトカーで送ってもらわなければならないというのが情けない。 「疲れたでしょう」  浅見はグッタリしている秀美を労《いたわ》った。 「ええ、でも浅見さんこそ、災難でしたから、ずいぶんお疲れでしょう?」 「正直なところ、いささか参ったかな……いや、あなたのせいじゃないから、気にしないでください。運の悪い時というのは、何もかもが、悪いほうへ悪いほうへと動いてゆくものだから」 「ほんとですねえ……」  秀美は背凭《せもた》れに身を預けて、しみじみと言った。 「兄が亡くなってから、舞台は悪いほうにばっかり回ってゆくみたいです。この先、今度はどういう出来事が起きるのか、そら恐ろしいような気がします」 「そんなふうに悲観的に考えるのはよくないなあ」  浅見は兄が妹を諭《さと》すように言った。 「でも、ほんとにそうなんですもの。浅見さんが祖父は自殺しないっておっしゃったけど、警察の言うことをそのまま聞くと、自殺みたいに思えるし。何が真実なのか、分からなくなってきます」 「警察がどう言おうと……」  と浅見はバックミラーの中の巡査の目を気にしながら、小声で言った。 「お祖父さんは殺害されたのですよ」 「どうしてですか? どうしてそんなにはっきりと断言できるのですか?」 「それは……それは、まず第一には、あなたが言ったように、宗家であるお祖父さんが、水上流の体面を傷つけるようなことをなさるはずがないからです。あなただって、自分がお祖父さんになったつもりで考えてごらんなさい。苦しいから、つらいからといって、自殺なんかしますか?」 「でも、私は自信がなくなりました」 「そんなことでどうするのです」  浅見は叱った。 「あなたはやがて、水上宗家の後継者になる人なのですよ」 「そんな……嘘《うそ》ですよ、そんなことあり得ません」 「どうしてですか、お話を聞いたかぎりでは、あなた以外、水上家には宗家を継ぐべき人はいないじゃないですか」 「そんな単純なものではありませんもの。分家の人たちだっているし。それに、私は女ですし」 「女性が宗家を継いではいけないという決まりがあるのですか?」 「さあ、どうかしら?……でも、少なくとも、いままでにはそういう例はないと思います」 「前例はなくても、昔ならともかく、いまの世の中で女性を差別するようなことはないはずですよ。それに、秀美さんは堂々としているし、男性に負けない能を演じられるひとだと思うな。少なくとも、僕なんかよりはるかに立派だし、それでいて優雅さがあります」 「まあ……」  秀美は呆《あき》れた目で浅見を見つめてから、思わず白い歯を見せて笑ってしまった。笑いながら、ふっと涙ぐんだ。  浅見は窓の外に視線を向けて、秀美の涙に気付かないふりを装った。 「この事件……というのは、お祖父さんの事件だけではなく、新宿で起きた殺人事件のことも含めて、ずいぶん沢山の謎《なぞ》が出揃《でそろ》ったという感じがします。今日、分かっただけでも抱えきれないほどだ」  浅見は訥々《とつとつ》と、言葉を区切るような言い方をしている。 「お祖父さんの鈴を、なぜ新宿事件の被害者が持っていたのかということなんか、想像すら出来ないような謎ですよね。しかし、僕には、それらの謎のどれよりも分からない謎が一つあるのです」  秀美は浅見の言葉に惹《ひ》かれて、不思議そうな目を向けた。 「僕が勝手神社でお祖父さんとお会いした時ですが、ほんの少し言葉を交わした中で、お祖父さんはこんなことをおっしゃっていたのです。『もっと早く吉野山に来ればよかった』とね。天河神社には何度も行っているのに、吉野山には登ったことがない。そのことをとても悔《く》いておられるご様子でした」 「でも、そのことがどうして謎になるのですか?」 「秀美さんはそうは思いませんか?」 「ええ、べつに?……」 「しかし、折角《せつかく》ここまで来ていながら、花の吉野山に登ったことがないというのは、少しおかしいとは思いませんか? それも何度となく機会がありながら、ですよ」 「…………」 「お祖父さんは、勝手神社の階段に坐って、『ここで静が舞ったのですな』と、しみじみ言われた。勝手神社ばかりでなく、吉野山は能謡史蹟の宝庫です。まったく素人《しろうと》の僕でさえ、昔に想《おも》いを馳《は》せて感動することばかりだというのに、ご本職の、しかも宗家である方がなぜ——とは思いませんか?」 「ええ、そう言われてみると、そんな気もしてきますけれど……」  秀美は不安そうな目の色になった。  車はいつのまにか吉野山にかかって、じきに桜花壇の前に着いた。  浅見がパトカーから降りる姿を見て、まるで新婚亭主の帰りを待ち焦《こ》がれていたように、おばさんが飛び出してきた。 「どないしやはりました? パトカーなんぞで帰ってみえて……」  言いながら、続いて降りてくる秀美を見て、威勢のいい口調が止まった。 「やっぱり、祖父でした」  秀美はまずその報告をした。 「そうでしたん……まあ、なんちゅうたらええのやろ……」  おばさんはもう、半泣きの顔である。 「とにかく中に入りましょう。それに、軽く食事もしたいし」  浅見は言った。 「そうでっか、御飯、まだでしたんか。さあさあ、どうぞお入りくださいや。すぐに御飯のお支度《したく》しますさかいにな」 「私は食欲がありませんから」  秀美が断った。 「何をおっしゃいますやら、そんなこと言うてたらあきまへん。少しでもええさかいに、お腹になんぞ入れなんだら、体が持ちしまへんで」  浅見はちょっぴり感動した。吉野山に来て感じた安らぎは、風景ののどけさからくるものかと思っていたのだが、人の気持ちの優しさが空気のように漂《ただよ》っているせいかもしれない——と思った。  南朝の後村上天皇を追い出したり、源義経を襲ったり、静を辱《はずかし》めたりした吉野山の宗徒は、あれは本来の吉野の里人ではなかったに違いない。  吉野の里人はあくまでも穏和で、戦い敗れた者に優しかったのだろう。そうして南朝を迎え、義経を匿《かくま》った——。  とはいえ、その優しさが吉野本来のすがたであるとしても、宗徒に追われたり襲われたりした人々にしてみれば、その猛々《たけだけ》しさもまた吉野の実像として、おぞましいものに映ったはずである。  春|爛漫《らんまん》の花の色も吉野なら、冬ざれの険しい山道も吉野なのである。それはまるで、能の前シテと後シテの対比そっくりだ。優美な女性が蛇になり鬼になる。人間の二面性といってもいいかもしれない。  部屋に戻り、縁側の椅子《いす》に寛《くつろ》いで脚《あし》をのばしながら、秀美は窓のむこうの、一面の闇《やみ》の奥をぼんやりと眺めていた。ふだんは、男勝りの強さを見せるはずの彼女の顔に、陰鬱《いんうつ》な疲労感が滲《にじ》み出ている。  その秀美の姿にオーバーラップして、浅見は勝手神社で会った時の、それこそ戦い敗れ、疲れ果てたような水上和憲の姿を思い浮かべた。 「宗家は——あなたのお祖父さんは、安らぎを求めて吉野山に登ったのだと思います」  浅見はその感想を口にした。 「それなのに、こういうことになって……妙な言い方だけれど、きっと、お祖父さんは亡くなる寸前、吉野山に裏切られたみたいな気がしたでしょうね」 「裏切られた……」  秀美は闇を見つめた姿勢のまま、浅見の言葉を反芻《はんすう》した。 「そうですね、こうして真っ暗な吉野山を見ていると、闇の底に何か悪意の塊りのようなものが潜んでいて、突然、襲いかかってきそうな気がします。美しい花にはトゲがあるっていいますけど、ほんとなのかもしれませんわね」 「僕は、能の前シテと後シテを連想しましたよ」 「ああ……」  秀美は大きく頷《うなず》いた。 「そうだわ、ほんと、『道成寺』の前シテと後シテの変化を……」  言いかけた言葉が途切れた。浅見は彼女の横顔を見つめて、その続きを待った。  秀美はじっとおし黙って、何かを模索している。ひょっとすると、言いかけたことを忘れてしまったのでは?——と思えるほどの沈黙のあとに、言った。 「兄は、『道成寺』の後シテになったとたん、亡くなったんです」 「えっ?……」 「雨降らしの面をつけて……そういえば、どうしてお祖父様は、あの日、雨降らしの面をつけさせたのかしら?」  浅見には秀美の言っている言葉の意味が、まったく分からない。秀美も浅見を意識していない、ほとんど独り言のような語り口調になっていた。 「まさか……そんなことが……」 「秀美さん、どうしたのですか? 雨降らしの面がどうしたとかいうのは、それは何のことなのですか?」  浅見は急《せ》きこんで言った。  秀美は物憂《ものう》げに、ゆっくりと振り返った。 「浅見さん、祖父はやっぱり自殺したのかもしれません」 「えっ? どうしてですか?」 「祖父は、きっと、兄を殺したのです」 「なんですって?」 「兄を殺して、私に宗家を継がせたかったに違いありません」 「そんな……何を言い出すのです」 「そうなんです、きっとそうです。祖父は私のために兄を殺したんだわ」  秀美は眼を異様に大きく見開いて、椅子から立ち上がった。 「かわいそうなお兄様……」  秀美の唇が醜く歪《ゆが》んで、ふいに涙があふれ出た。  秀美はその涙を拭《ぬぐ》おうともせず、死にかけた蛾《が》が明かりを求めるような頼りない足取りで部屋に入り、そのままドアに向かおうとした。 本書はカドカワノベルズとして昭和六十三年四月に刊行されたものです。なお、本書はフィクションであり、実在の個人・団体等とは一切関係ありません。(編集部) 角川文庫『天河伝説殺人事件(上)』平成2年6月10日初版発行                 平成13年10月10日49版発行