[#表紙(表紙.jpg)] 乃南アサ 暗  鬼 [#改ページ]   暗  鬼      1  夜半まで屋根を叩《たた》いていた雨は、明け方には止んだらしかった。日が昇る頃には、この数日間というもの、つねに低く垂れ籠めていた鬱陶《うつとう》しい雲はようやく流れ去り、久しぶりに透明な青い空が広がった。庭の木々や草花は、つやつやと緑色に輝き、辺りには初夏の匂《にお》いが満ちた。  目の前をみつばちが飛び交うのをよけながら、法子《のりこ》は鼻歌混じりで庭の物干し場に洗濯物を干していた。 「奥さん」  大きなシーツを広げて干しているとき、ふいに声が聞こえた。 「悪いね、奥さん。家賃なんだけどさ、もう少しね、待ってくれませんかね」  法子は最初、自分に話しかけられているとも思わず、知らん顔をしていた。奥さんと呼ばれることに、まだ慣れていないのだ。 「今日は、やっと、ほら、晴れたから。洗濯物もよく乾くだろうよねえ。ねえ、奥さん。奥さん」  何度も呼ばれて、ようやく自分が話しかけられているらしいと気付き、法子はあわててシーツの横から顔を出した。植え込みの陰に、カーキ色の作業ズボンをはいて、白いよれよれのポロシャツを着た、貧相な男が立っていた。 「あれ──奥さんじゃないの」  すると、相手の方でも驚いた顔になった。歳の頃は六十過ぎといったところだろうか。全体の半分ほど白髪《しらが》になっている髪は、元々は五分刈りのようなスタイルだったのかも知れない。それが中途半端に伸びて、全部の髪が立って見えた。面長の顔は色つやも良くなく、頬《ほお》から顎《あご》にかけて深い縦じわが入っている。法子はその男に見覚えはなかった。男も怪訝《けげん》そうな顔で、じっと法子を見る。 「あんた──今度、来た人?」  法子は笑顔を浮かべて良いものかどうかも分からず、警戒する気持ちで「はあ」とだけ答えた。客ならば、玄関に回ってくれれば良いではないか、何故《なぜ》、こんな庭の片隅に立っているのか、それが分からなかった。 「あの、義母《はは》でしたら──」 「あんた、和人《かずひと》さんの嫁さん?」 「──そうですけど」  法子は不審を前面に出した表情で、わずかに眉《まゆ》をしかめた。見知らぬ男に「あんた」などと呼ばれる筋合いはない。だが男はまじまじと法子を見つめ、「はあ、あんたが」と呟《つぶや》いている。 「ご用件でしたら、母屋の方に行っていただけません? 義母もおばあちゃんもいますから」  かなり嫌悪感を出した言い方をしたつもりだったが、男はまるで意に介していない様子で「いや、いや」と手を振る。それから「あのさ」と言って近付いてきた。暗い瞳《ひとみ》の、貧相な顔つきの男は、口元に手を添えて、もう一度「あのさ」と囁《ささや》く。法子は、すっかり怖《お》じ気づいてしまって、思わず数歩後ずさった。素足につっかけたサンダルが小石を踏み損ねて、がくりと体勢を崩しそうになる。 「聞いてくれよ、あんたに言っておかなきゃならないことがあるんだから」 「ですから、御用でしたら母屋に」 「違う、あんたにさ。あんたに、言っておきたいんだよ。聞いて欲しいんだ」  男は真剣な表情でおずおずと近付いてきた。その足にはほとんど力が入っていない様子で、真っ直ぐに歩くことさえおぼつかない感じがする。法子は、この男はどこか悪いのだろうかと思った。 「聞いておかなきゃ、ならないことなんだって。あんたが知っておかなきゃならないことなんだって」  相手が病気なのなら、それほど恐れることもないかも知れない。だが、男の表情には病から来るとも思えない、異様な雰囲気が漂っていた。 「何ですか、言いたいことって。私、あなたのことなんか知りませんけど」 「いいんだ、知らなくていいんだよ。とにかく、言っておかなきゃ──」  男はシーツのすぐ前まで来て、そこではっと表情を強《こわ》ばらせた。どろりとしていた虚《うつ》ろな目に驚愕《きようがく》とも恐怖ともつかない光が宿った。そして、一点を見つめたまま、よろよろと進めていた足を止める。法子は、彼の視線をたどって振り返った。 「ああ、お義母《かあ》さん──」 「困るわ、こんな場所に勝手に入って来られたら」  公恵《きみえ》は、いつもの静かな表情のまま、男を見つめて極めて穏やかな口調でそう言うと、法子の肩にそっと手をかけてくれた。そして「ねえ」と言うように微笑《ほほえ》みかけてくる。その目は法子を気遣い、いたわり、慈《いつく》しんで見えた。法子はその目に励まされて、改めて男を盗み見た。 「この方──家賃が、どうのって、仰《おつしや》ってるんですけど」  男はひどく怯《おび》えたような表情になり、今や唇さえも震わしている。そして「ああ、ああ」としわがれた声を出した。 「うちのお嫁さんを脅かさないでくださいな。お家賃のこと? おくれるのね?」  公恵の声は高く澄んでいて、発音もとても明快なものだった。相手を詰問しているという口調でもなく、たしなめるように柔らかい。それでも男は、怯えた目でしばらくの間、公恵と法子を見比べていたが、やがて数回口をぱくぱくとさせた後で、ようやくがっくりとうなだれた。 「──すいませんがね。来月には必ず、まとめて払いますんで」  法子の耳元で、公恵が微《かす》かにため息をつくのが聞こえた。 「分かったわ、じゃあ、来月ね」  法子はそっと男を見ていた。男は、顔を上げようともせず、うなだれたまま「すいません」を繰り返していた。 「それより、お身体の方は? 最近は、少しは調子はよろしいの?」  公恵の声はあくまで落ち着いて柔かった。男は全身をぴくりと震わして、下からのぞき込むような顔で公恵を見た。 「きみ──ああ、奥さん。あの──」 「早く、お元気にならなきゃね。美里さんを大学に行かせてあげたいんでしょう?」 「──ええ、すんません。じゃあ」  法子は、いかにも余裕のある表情の公恵と、よろよろと繁みの向こうに消えていく男とを不思議な気持ちで見比べていた。目映《まばゆ》い陽射《ひざ》しはくっきりとした樹陰を作り、その中に消えていく男の後ろ姿は肩の骨も浮き上がって、波打つポロシャツの裾《すそ》も頼りなく、まるで幽霊のように見えた。 「あの人──裏木戸の方から入ってきたんですね」  ようやくため息混じりで囁《ささや》くと、隣の公恵は諦《あきら》めたような笑みを作ってゆっくりと頷《うなず》いた。それから何事もなかったかのような涼しい顔で、足元の洗濯|籠《かご》をのぞき込み、すっと腰を屈《かが》ませる。 「さあ、手伝うわね、さっさと干してしまいましょう」  法子は慌てて自分も手を動かしながら、公恵の横顔を眺めていた。さっき、男は公恵に向かって「きみ」と言いかけた。あの風貌《ふうぼう》からして「君は」などという言葉を使うとも思えない。彼は、義母を名前で呼ぼうとしていたのだろうかと、ふと思った。 「どなたなんですか?」  公恵は心持ち眉《まゆ》を上げて、晴れやかな顔で「え?」と言い、「初めて会ったんだった?」と意外そうな表情になった。 「じゃあ、驚いたでしょう」  公恵はそこでくすりと笑い、「本庄屋さん」と答えた。 「本庄屋さん?」 「氷屋さんなのよ。今は、お店は閉めてるんだけど」  さすがに公恵は手際が良い。法子がのんびりと手を動かしていたときとはまるで違うスピードで、雨の間に山ほどたまっていた洗濯物はまたたくまに竿《さお》にかかって、多少湿気を含んでいる風にはためき始めた。 「あの、うちが貸してるんですか?」 「もう、長いお付き合いなのよね」  そこで、公恵はふいに手を休め「ねえ」と言った。 「あの人、法子さんにおかしなことを言わなかった?」 「おかしなこと?」  法子はつい今し方聞いた男の声を思い出した。陰気くさい、力のこもっていない声。彼は、何を言いたかったのだろうかと思う。 「家賃のことだけ? 言ったのは」  法子は咄嗟《とつさ》に「ええ」と答えていた。余計な心配をかけたくはなかったし、結局、なにも聞いてはいない。 「お義母さんと私を間違えたみたいで、急に『奥さん』なんて呼ばれたものだから、もう、それだけでびっくりしちゃって」  法子が答えると、公恵は丸い瞳をくるりと動かして「そう」と言った。それからややあって、にっこりと笑う。そんな仕草や表情を見る度、娘時代の義母はさぞかし可愛らしい少女だったに違いない、と法子は思う。今年で五十歳になるはずだったが、未だに女学生のような雰囲気をまとって、彼女は実に若々しく見えた。 「これからもね、あんまりまともに相手にしない方がいいわ。ご本人には気の毒だけど、病気してから、どうもおかしいのよ。昔は、そんな人じゃなかったんだけど。働き者で、陽気でね」  彼女が説明してくれている間、法子はひたすら頷《うなず》いていた。それなりに長い付き合いならば、公恵を名前で呼んでもおかしくはないのかも知れないと思った。あまりに真剣に相槌《あいづち》を繰り返していたせいか、公恵は「怖がらなくて大丈夫よ」と、くすくすと笑った。 「無理もないわね、家に来て、まだ二ヵ月ですものね」  小物かけに色とりどりの靴下を干しながら、法子もにっこりと笑った。そう、二ヵ月だ。桜が終わった頃に嫁いできた法子は、ようやくこの家で初めての新しい季節を迎えようとしている。 「嫌でもそのうちに覚えていくわ。特にご近所のことなんか、急いで覚えることなんか、一つもないんだからね」  鼻歌混じりに洗濯物を干し続ける姑《しゆうとめ》は、法子にとっては理想的な姑だった。明るく、優しく、まるで意地悪なところがない。法子は和人と結婚して以来、彼女に褒《ほ》められたり慰められたりすることはあっても、嫌みを言われたことも小言を言われたことも、ただの一度もありはしなかった。 「お義母さんは、どれくらいで全部に慣れました?」  一度母屋に戻り、もう一つの洗濯籠を抱えて戻ってくると、公恵は近くの花壇に屈《かが》み込んで、アサガオの伸び具合を眺めていた。その後ろ姿に話しかけると、姑は振り返りもせずに「何が?」と言った。 「この家のしきたりとか、家風とか、ご近所とのこととか──それから、お店のこととか。志藤《しとう》の家の嫁っていう立場に」  公恵は背中を向けたままで「そうねえ」と言う。それから、屈んだ格好のままで横に移動して、丹念に他のアサガオも眺めている。 「すぐ、だったわよ」  法子の視界からは、庭の木立や青空が徐々になくなり、綺麗《きれい》に洗いあげられた洗濯物ばかりが広がっていく。なにしろ九人分だ。二、三日も雨が続けば、山のようにたまってしまう。乾燥機もあるにはあるのだが、やはり洗濯物は「殺菌消毒の意味もあって」太陽の光の下で乾かしたいというのが公恵と、そして公恵の姑にあたるふみ江の考えだった。お日様はありがたい、何よりもありがたい、というのが、ふみ江の口癖だ。 「すぐ、か──」  広々とした庭には、四季折々の草花が植えられ、様々な樹木が繁っている。こうしているだけで、うっすらと汗ばむ季節だったが、木立を抜けてくる風は、ひんやりとして心地良かった。雨に洗われた葉の緑も、いつになく瑞々《みずみず》しくて、法子は故郷のことを思い出した。東京に嫁入りするとなると、まず自然環境が悪くなるだけでも、馴染《なじ》むのに時間がかかると思ったのに、予想に反して故郷が恋しくならないのは、この庭に緑が満ちているからに違いなかった。 「そうよ、すぐ、すぐ」  公恵の返答はいかにものんびりとしていて、気楽なものだった。法子は、固く絞った雑巾《ぞうきん》で次の物干し竿《ざお》を拭《ふ》きながら、改めて家族との同居も悪くはないと思っていた。一人で夫の帰りを待つよりも、こうして賑《にぎ》やかに過ごせる方が楽しいし、退屈もしない。 「心配なんか、いらないわ。だぁれも法子さんを一人になんかしないから。私達は、みぃんな、家族なんだからねえ」  歌うような口調で言われて、法子はくすくすと笑ってしまった。朗らかで無邪気な姑は、こちらに丸いお尻を見せて、とにかく懸命に花壇を眺めている。洗濯物を干し終えると、法子は義母と並んでしゃがみ込んだ。彼女からアサガオと教わった植物は、法子の知っているアサガオとは葉の形が違っていた。 「変わってますね、これもアサガオ?」  公恵はにこにこと笑いながら、その葉をそっと撫《な》でる。 「アサガオとは言うけど、ナス科らしいのね」  法子は「ふうん」と頷きながら、花壇を一通り眺め渡した。数メートル先には五十センチ程に伸びて青々と繁っている雑草みたいなものが生えていた。 「あれも、育ててるんですか?」  法子が指さすと、公恵は顔を上げてその草の方を見て、「そうよ」と言った。 「あれはね、ハシリドコロっていうの。法子さん、気が付かなかったかしらね。あなたがお嫁に来た頃には、綺麗に咲いてたんだけどな」 「そうなんですか?」 「地味なお花だけど、私は好き。来年、見られるわ」  午前中の陽射しの中で、つい半年前まではその存在さえも知らなかった人と並んで花壇を眺めるのは、考えてみれば不思議なことだった。嬉《うれ》しそうな顔で花々を眺める公恵の横顔は、若々しくて美しかった。 「お義母さん、お肌が綺麗ですよねえ」  思わず言うと、公恵は「そう?」と瞳を輝かせた。 「ヘチマ水のお陰かしら。毎年ね、作ってるから。法子さんも試してみる?」  志藤家の人達は、花をめでるばかりでなく、ミョウガや紫蘇《しそ》、ナス、トマトなどの食用になるものも育てている。本当の意味でこの家に馴染むためには、自分も少しでも植物に詳しくならなければならないと、法子は心|秘《ひそ》かに思いながら「ぜひ」と頷いた。      2  志藤家は都下の小金井《こがねい》市で、「イチフジ精米店」という、戦前から続いている古い米穀店を経営している。現在は当主の志藤|武雄《たけお》と、息子であり法子の夫の和人の二人が古い構えのどっしりとした店を守っていた。米屋とはいっても、扱う品は米ばかりではなく、洗剤や調味料、灯油などの燃料、ペットの飼料なども扱っており、営業品目はかなりの数になる。家族の花好きが高じてか、園芸用土や肥料、植物の苗まであって、店先はなかなか賑《にぎ》やかなものだった。  もともと法子と和人は見合いで知り合った。  法子の家は山梨県の、長野県境に近い小淵沢《こぶちざわ》から少し入ったところにあり、父は酒問屋を経営している。そんな父の元に、義理のある知人から縁談が持ち込まれたのだ。  本人の第一印象は悪くなかったが、法子は最初、和人があまりに大家族で暮らしていることに大きなためらいを感じた。両親と弟妹に加えて、祖父母と曾祖母《そうそぼ》までがいる、本人も含めると八人家族だというではないか。しかも、結婚後も家族と同居するのが条件だという。 「そんな家の長男なんかと結婚したら、それこそろくなことにはならないわよ」  母は言下に、こんな見合いは断るべきだと主張した。法子も同感だった。義理のあるところからの紹介とはいえ、今の時代に、そんな大家族に嫁ぐなど、考えも及ばないことだった。 「どうして好きこのんで苦労すると思う? お姑《しゆうとめ》さんがいるだけでも大変だと思うのに、小姑《こじゆうと》からお姑さんの、そのお母さんから、果ては九十幾つのお婆さんまでいるっていうんでしょう? 冗談じゃないわよねえ」  だが、口ではそんなことを言いながら、それでも何となく法子の気持ちをぐらつかせたのが、やはり、身上書と共に持ち込まれた和人の写真だった。写真を見る限りでは、彼は、まさしく法子の好みのタイプだったのだ。父の立場を考えなくとも、即座に断るにはどうしても惜しい、そんな気にさせる写真だった。  ──会うくらいならば損はない。  これ程までに自分の心を惹《ひ》きつける人ならば、せめて一度くらいは会ってみたい、その上で「ああ、残念だったわね」と笑い話にするのでも構わないと、そんな気分だった。  だが、初めて和人に会った時、法子は本当に一目|惚《ぼ》れしてしまった。和人の声も、笑顔も、陽焼けした腕までも、すべてが好きになってしまった。だから、会ったばかりの彼から「ぜひ一度、家に来て欲しい」と言われた時にも、ほとんど夢見心地だった。たとえ多少、不利な条件であろうとも、彼を他の女性には渡したくない、このまま破談にしてしまうのは、あまりにももったいない気がした。  もしかすると、これまでにも家族のことが理由で破談になったことがあったのか、和人は短い雑談の後で言った。 「法子さんが考えているのと、絶対に違うはずなんです。何も見ないうちから結論を出そうなんて、しないで下さい。とにかく一度僕の家族を見て、その上で結論を下してくれませんか」  自分に向かって熱心に語りかける和人は真面目《まじめ》そうで爽《さわ》やかで、実に魅力的に見えた。法子は半分ぽうっとしていて、気がついた時には、思わず頷《うなず》いてしまっていた。  ──まず家族に会ってくれと言うからには、彼の方でも私を気に入ってくれたっていうこと?  そう思っただけで、法子はもう嬉《うれ》しかった。早くも彼の言葉を信じたいと思い始めていた。 「あなたの不安は僕が解消します。もしも、気に入らない部分があれば、それを直していくのは僕と、僕の家族の役目ですから」  和人は続けてそう言った。その声は落ち着いた低音で、口調は穏やかそのものだった。法子は、ずっと彼の声を聞いていたいと思った。  ──待って待って。すぐに飛びつくような真似《まね》をしちゃ駄目。第一、条件は最悪なのよ。向こうから頭を下げて来るようにしなきゃ。 「──お目にかかるだけなら、いいかなあと、思います。結論を急がないと言っていただけるのなら」  その段階で、実は法子は、早くも彼との人生を夢想し始めていた。彼との縁を、とにかく、たった一度会っただけで終わりにするなんて、彼を他の女に取られるなんて、絶対に嫌だという思いばかりが育ちつつあった。 「急ぎません。一生の問題ですから、法子さんの納得がいくまで、いくらでも努力するし、待ちます」  和人は、日本人離れしているほど彫りの深い顔だちで、肌は浅黒く日焼けしており、にこりと笑うと、その口元からは行儀良く並んでいる白い歯がこぼれた。真一文字の眉《まゆ》の下には、少し奥まったところに涼しげな瞳《ひとみ》があり、形の整った鼻は貧相でも猛々《たけだけ》しくもない。  ──この人と結婚したら。  あの唇に触れることになるのだと思っただけで、法子の心臓は勝手に高鳴った。見合いはその時が初めてではなかったが、キスする時の自分、相手の下着を洗う自分を想像して、それが嫌悪感につながらなかったのは、初めてのことだった。  ──それに、彼も私が気に入ってくれたのなら、いつか説得して別居出来るかも知れないじゃないの。今時、そんな大家族で暮らすよりも、若い夫婦でプライバシーを守りたいって、彼に納得させればいいんだわ。 「絶対に気に入ってもらえると思うんです。ぜひ一度、会ってみて下さい」  和人はそれほど長身ではなかったが、均整の取れた体躯《たいく》はよく引き締まっており、法子はその中でも、特に彼の手が好きだと思った。彼の手は、繊細さを残しながら貧弱ではなく、堅実そうな印象を与える。  ──あの手にならば、触られても嫌ではない。  その時点で既に、法子の頭の中では、ありとあらゆる想像が広がっていった。交際が深まり、さらに今、共に暮らすようになってみると、和人は、あまり言葉の多い方ではないことがよく分かる。けれど、特に家族に対して語ったときには、彼は実に饒舌《じようぜつ》で熱心だった。そして、二回目に会った時には、法子は約束通り、小金井の家に連れていかれた。  あの時の不思議な感激は今も法子の中に鮮烈に残っている。和人の家は、東京とは思えない程の静かな場所にあって、広々とした土地の周囲には背の高い樹木が生い茂り、その木々の向こうに厳《おごそ》かとも思えるくらいに重厚な佇《たたず》まいを見せていた。 「前に建て直したのが、僕が生まれる少し前だったそうです」  和人は嬉しそうな顔でそう言った。門の脇《わき》には大きな欅《けやき》の木があって、家族がその土地に住み着いてから長い年月を経ていることを語っていた。広い庭には、沈丁花《じんちようげ》やつつじの植え込みが続き、大きな梅と椿《つばき》は花を咲かせていた。さらに松や木犀《もくせい》、泰山木などの木々の向こうに広い花壇があった。冬枯れの季節だったが、かなり広い範囲に、福寿草が黄色く愛らしい花を咲かせていた。その向こうには大きなビニール・ハウスさえもあった。 「皆、花が好きなんです。もうすぐ水仙《すいせん》が咲くはずですよ。それが終わる頃には、桜が咲く。うちのは山桜と枝垂《しだ》れ桜なんですが」  和人は人なつこい笑顔で説明してくれた。ここからは見えないが、庭を回ったところには美しい蓮《はす》を咲かせる池もある、裏手に回って座敷の方は、もう少し手入れの整った日本庭園になっているのだと聞かされて、法子はすっかり驚いてしまった。大家族なのだから、それなりに大きな家なのだろうとは思ってはいたが、和人の家の立派さは、法子の想像をはるかに越えていた。  さらにその直後、法子は今度は彼の家族の熱烈な歓迎にすっかり戸惑わされた。 「いらっしゃい!」 「まあ、お写真なんかよりも、ずっと綺麗《きれい》な方じゃないの!」 「待っていたのよ、さあさあ、疲れたでしょう。あら、細くて綺麗な指をして!」 「お兄ちゃん、緊張してる!」  和人の両親と妹、祖母の四人が玄関先に立ち、満面の笑みを浮かべて待っていたのだ。和人の言葉通り、彼らは実に朗らかで、一様に誠実そうな顔立ちだった。上品ぶることも高慢なところもなく、気さくであたたかく、そして控え目でさえある。彼らに迎え入れられて一時間もたたないうちに、法子は和人の家族が好きになり始めていた。そして、何よりも法子を感激させたのが曾祖母《そうそぼ》の存在だった。 「目も耳も達者なんだけど、足が少し不自由なものだから。食事は家族と一緒にすることもあるんですが、大ばばちゃん──僕らはそう呼んでるんですけど、やっぱり静かに暮らしていたいんでしょうね。ほら、僕らはいつもやかましいから」  曾祖母の部屋は、母屋から渡り廊下を伝っていく離れにあった。ヱイという名の老婆は、今年で九十八歳になるという話だった。和人に誘《いざな》われて離れに行くと、彼は障子の前で一度深呼吸し、控え目な声で「大ばばちゃん」と声をかけた。「はあい」という返事は、それほど弱々しくもなく、むしろ力強く聞こえてきた。  障子を開けると、水墨画の掛け軸をあしらわれている床の間のある広々とした和室の片隅に、ピンクのホットカーペットらしい物の敷かれている一角があり、その上に小さな老婆がちょこりと座っていた。法子は、地味な和服に身を包んだ、そのあまりにも小さな姿に一瞬戸惑い、どう声をかければ良いものかと迷った。 「大切なお客様なんだ。前に話しただろう? 橋本法子さん」  和人が言うと、無数の深い皺《しわ》に囲まれた小さな顔が動いた。そして法子を見上げ、くしゃりと笑う。真っ白い半襟が、目に鮮やかだった。身の回りの世話が行き届いているのだと、その清潔そのものの白さが語っていた。 「そう、来たの」  曾祖母はそう言うと、膝《ひざ》の上にのせていた、小さな身体とは不釣り合いな程大きく見える、実際は普通の大人と同じくらいの大きさの手をゆっくりと上げ、法子を手招きした。法子は素直に老婆の前に座り、慣れているとは言い難い姿勢で初めまして、と挨拶《あいさつ》をした。すると、老婆は骨と皮ばかりの乾いた手を伸ばしてきた。法子は反射的に心持ち頭を下げ、半ば身を乗り出して、薄い皮膚を通して血管の浮き上がっている彼女の手が頭の上にのるようにした。  曾祖母は柔らかく法子の頭を引き寄せた。法子は戸惑いながらも身体を傾かせ、やがて小さな頼りない膝の上に頭をのせる形になってしまった。自分よりも、よほど小さな老人の膝の上に頭を乗せる為には、法子は完全に寝転がらなければならなかった。 「ようく、来たね。ようく、来た」  ヱイの手は、柔らかく法子の髪を撫《な》で始めた。固く、節くれだっているはずの老婆の手は、法子の額にかかっていた前髪をかきあげ、ぽん、ぽん、と静かにリズムを刻んだ。 「いい子だ、いい子だ」  しわがれた低い声が呟《つぶや》く。香を焚《た》きしめているのか、不思議な香りが老婆を取り巻いていた。初めて会ったばかりの人の膝に頭を乗せたまま、法子はすっかり混乱しそうになっていた。心の奥底からは、泉のように感動が湧《わ》き出した。胸が震える気がする。この安らぎは何なのだ、この懐かしさは何なのだろうと思った。 「法子は、いい子だ。和人の宝物になる子だねえ」 「そうだよ、大ばばちゃん。彼女は、素晴らしい人なんだ」  横から和人の声がした。法子は当惑し、感動し、そして陶酔しかかっていた。何よりも、百歳に近い年齢の人が、自分の頭を撫でてくれているという、それだけでも不思議な感激があった。このまま甘えて、すうっと眠ってしまえそうな、あたたかい幸福感が心を満たしていった。 「和人の宝は、この家の宝。宝は、磨くとね、もっと光るよ。もっと光る。皆で、みぃんなでね」  子どものように小さな身体だったけれど、ヱイという人は、法子よりも七十年以上も生き続けていること、法子などが太刀打ちできるはずもないくらいに包容力があり、あたたかい瑞々《みずみず》しさを保ち続けている人であることが、直接伝わってきた。髪を撫でられながら、涙ぐみそうになる感激の中で、法子は出来ることなら、ずっとこの人の傍にいたいと思った。  そうして、縁談は前向きに進んでいった。最初、法子の気持ちが変わったことに困惑し、一時の気の迷いに惑わされてはならないと主張した母を説得するのには、多少の時間とエネルギーを要したが、結局は母も法子の希望を受け入れてくれた。とにかく和人に恋をしてしまったのだし、何より、玉の輿であることは間違いがない。「叩いて埃の出ない家はないものね」と母はため息をついた。 「じゃあ、八人家族の家に、嫁入りするわけ?」  そんな頃、法子は東京で働いている友人に久しぶりに会って、自分ももうすぐ東京に行くかも知れないと話した。大熊|知美《ともみ》という中学の時からの友人で、地元に残って山梨の短大に行った法子とは違って、彼女は大学の時から上京して、現在は外資系の企業で働いていた。 「いくら、いい人達だって、そんなの見せかけだけかも知れないじゃない。そんなにうまい話なんて、あるはずないわ、裏があるんじゃないの?」  久しぶりに会った友人にそう言われても、法子の決心は少しも鈍らなかった。 「でも、私が東京に行けば、知美とも、もっと頻繁《ひんぱん》に会えるようになるじゃない?」  法子は悪戯《いたずら》っぽい笑顔で知美を見た。東京の片隅で小さなアパート暮らしを続けている彼女と比べれば、同じ東京暮らしとはいっても、これからの法子の生活は、知美になど想像も出来ないくらい優雅なものになるに違いないのだ。しかも、妻の座という特等席を手にいれて。 「無理じゃないの? 今時、そんなに大きな家のお嫁さんなんかになったら、自由な時間なんか取れないに決まってるって」  知美は面白くもないといった表情で、まるで法子の夢を壊そうとでもするかのように、そんなことを言った。法子はふと、知美は自分の好運な縁談に嫉妬《しつと》しているのだろうかと思った。 「でも、和人さんは、私の自由は尊重するって言ってくれてるもん。知美にだって、そのうち分かるわよ、遊びにくれば」 「まあ、私が遊びにいかれるようなお家だといいんだけどね」  皮肉っぽく笑っている知美に対して、法子はむきになるように「大丈夫だったら」と繰り返した。心配性なのか嫉妬しているのかは知らないが、友人とはいっても各々の人生を歩む。 「そこまで言うんなら、私に反対する筋合いはないけどね。あとは、法子の幸せを祈るだけだわ」  結局最後には、知美は半ば諦《あきら》めた表情になって、そう言った。何に対してかは判然としなかったけれど、法子は「勝った」と思った。  交際が始まると、和人は店の休みの日には必ずといって良い程、自分の車を繰って法子のもとを訪れ、会えない時にはまめに電話を寄越した。法子は少しでも彼と彼の家族のこと、中でも曾祖母のことを知りたいと思うようになった。 「大ばばちゃんはね、もう九十八年も人を見てるから、誰のことでも一目で見抜く力を持ってるんだ。おかげで、近所でも大ばばちゃんに相談ごとを持ちかける人が多いんだ」  和人は、そんな曾祖母が法子を気に入ったことが、実は何よりも嬉しいのだと言った。自分の目に狂いはなかったということだし、家族に祝福される人と出会えたという、何よりの証拠にもなるということだ。ある時など、彼は「ああ」と天を仰ぐように深々と息を吐き出し、「僕は幸せ者だ」と呟いた。 「もしも、君が家に来てくれたら、僕はもう何もいらないくらいだ。大ばばちゃんも言っていた通り、君は僕の宝物なんだから。僕は、宝物を大切にするだけ、その宝を光らせるだけを生きがいにしたい」  二十六年間の人生で、こんなにも褒《ほ》めそやされ、熱望され、崇拝されたのは、まさに生まれて初めてのことだった。法子は自分も感動し、ここまで望まれて嫁いでいける自分こそ幸福だと思った。すべてがうまくいく。何と素敵な人生なのだろう。  正月早々に見合いをして、ほんの二ヵ月程の間に、法子は自分が見合いで和人と知り合ったことさえ忘れかかっていた。きっかけはどうであれ、彼とは出逢《であ》う運命だったのだ。彼の、そのひたむきな態度こそが、恋心の現れに違いないのだと確信した。そして、いつしか彼の家族さえも、法子にとっては大切な存在に思えるようになっていった。いつ訪れても常に笑い声が絶えず、法子を早くも家族の一員として迎えようとしている人達は、法子が知っている中でもっとも純朴で善良な家族に見えた。ましてや、彼らは和人の家族なのだ。自分の愛する人の家族を大切に思わないはずはないと、法子はごく自然に思えるようになっていった。  だが、結納の日取りが決まった頃に、小さな波乱があった。  それまで法子が訪れても、一度も姿を見せたことのなかった和人の弟に、実は少しばかり知能の障害があること、さらに祖父が、数年前から寝たきりの状態であることを告げられたのだ。 「そんな大切なこと──どうして話してくれなかったの?」  法子はショックを隠すことも出来ず、半ば呆然《ぼうぜん》となった。いつも笑っている家族の中で、弟と祖父の姿が見えないのは、それぞれに忙しいからに違いないと、その程度にしか考えていなかったのだ。頭の中を、一気に様々なことが駆け巡った。介護の問題。嫁の負担。肉体的重圧──。 「最初に言ってしまったら、君は僕とのことを今みたいに考えてくれていた?」  和人は、その時初めて見せる不安気な表情で言った。法子は腹の底から絶望と怒りがこみ上げて来そうなのを懸命にこらえながら、「無理だったと思う」と正直に答えた。当たり前ではないか。苦労するに決まっている。和人は深々とため息をつきながら、「そうだろう」と呟《つぶや》いた。だが、今となっては、そんな表情を見るのでさえ、法子には辛《つら》かった。何よりも、和人を傷つけたくなかった。 「誰だって、寝たきり老人の家になんか嫁入りしたくないと思うよね。おまけに、少し知恵の遅れている弟がいるなんて知ったら、あれこれと考えるに決まってる──いや、考える前から嫌になる──分かってるんだ」  そこは、甲府《こうふ》の先のレストランだった。いつものようにドライブをして、自宅まで送ってもらう途中でのことだった。法子は「そんなうまい話があるはずがない」と言った知美の言葉を思い出していた。やはり、彼女の言葉の方が正しかったのだろうか、自分はただの世間知らずだったのだろうかと、動揺と共に絶望感が広がっていった。 「でも、君の目で見て、どうだった? うちは、誰かが我慢していたり、介護で苦労していたり、何か無理をしているような、本当は疲れているような、そんな雰囲気があったかい?」  和人に言われて、法子は一瞬考え、弱々しくかぶりを振った。そういえば、皆で雑談している時にも、祖母のふみ江は一人でぱたぱたと動き回っていた、妹の綾乃《あやの》も、ちょこちょこと席を外すことが多かった。それは覚えている。だが、彼女達はいつでも明るく、朗らかだった。だから、法子は何の不審も抱かなかったのだ。 「そうなんだ。誰も、それを辛いことだとは思っていないんだよ。お祖母ちゃんも綾乃も、好きだから自分が動いているんだ」 「でも、一家に二人もそういう人がいたら、それだけで他の家事は大変になるわ──私は別に家事が嫌いで言ってるんじゃないの。でも──」 「君に面倒はかけないよ。約束する」  和人の顔には悲壮感さえ漂っていた。 「言ったろう? うちは、とにかく笑いの絶えない、明るくて楽しい家族でいることだけを望んでるって。うちは君の見た通りの、ああいう家族なんだ。分かってくれてるだろう?」  法子は、和人の真剣な表情を正面から見ているのでさえ辛かった。わがままを言っているのは自分の方なのだろうかとも思った。 「分かってるわ──皆、とてもいい方達だって、よく分かってる。でも──」 「誰か一人でも不満を抱く者がいたら、全員で考える。勿論《もちろん》、君についても、同じなんだよ。君に苦労させるために、嫁に来てくれって言ってる訳じゃないんだ。絶対に」  和人は真剣な表情で言った。それでも、絶望の淵《ふち》に立たされかかっている気分の法子が、はっきりとした返答を出来ずにいると、彼はその時初めて法子の手を握ってきた。法子の心臓はきゅん、と縮み上がった。 「言ったよね? 君は僕と、僕の家族の宝物になる人なんだ。誰も君を悲しませたり苦しませたりなんか、したくない。絶対に、そんなことはしない。実際、今でも月に一度ずつ、ハウスクリーニングの業者が来てくれているし、ヘルパーも来る。家政婦は使ってなくても、買い物だって、いつでも親父がおふくろを車に乗せて行ってる。自営業だからね、時間は案外自由に使えるんだよ」  それから和人は具体的な生活のことについて、細々と話し始めた。弟の世話は和人の妹が、祖父の世話は祖母が、それぞれ中心になっているのだから、むしろ法子は知らん顔で良いとさえ言われた。結局、法子は和人のその言葉を信じるより他になかった。いずれにせよ、貧しい家ではないのだ。必要ならば、業者を頼むことも、人手を何とかすることも不可能ではない。法子としては、それを期待するより他はなかった。それに、気分としては、もう嫁ぐつもりになっていた法子には、今さら後退すること自体が考えられなかった。前進するしかないのだ。この輝かしい人生を。第一、父や母にだって心配をかけたくない。  そして四月、法子は和人と結婚した。意外なことに、和人の方には他の親戚《しんせき》は全くいないのだそうで、結婚式に集まった親類縁者は法子の家の方ばかりだった。      3  志藤家に嫁いでからの日々は瞬く間に過ぎた。最初、結婚してしまったら本性を表すのではないか、急に意地悪になるのではないかと恐れていた家族への心配も杞憂《きゆう》に終わった。法子は家族の誰からも大切にされ、毎日賑やかに暮らしていた。そんな折、和人が「里帰りしてくれば」と言ってくれた。結婚して三ヵ月近くが過ぎ、志藤家の生活にも慣れたつもりだったが、やはり法子は嬉《うれ》しくて飛び上がりそうになった。 「ゆっくりしておいで」  実家に戻る日の朝、和人はそう言って手を振って店に出かけていった。公恵は法子の両親への土産《みやげ》を用意しておいてくれたし、駅までは義妹の綾乃が知恵遅れの健晴《たけはる》の手を引いて見送りにきてくれた。 「楽しんで来てね」 「ばいばーい」  電車がホームを滑り出すまで、義理の妹弟に手を振られて、法子はほんの少しの後ろめたさを感じなければならない程だった。けれど、彼らの姿が見えなくなると、法子の気持ちはすぐに実家に向かった。 「どうして、うちの塀の上に空き缶をのせて行く奴がいるのかな」  それが、父が法子を見て最初に言った言葉だった。それが父の照れ隠しであることくらい、すぐに分かる。法子は「本当にねえ」と答え、つい笑ってしまった。久しぶりに帰った実家は、法子が寝起きしていた頃と何一つ変わっておらず、母も兄も、つい昨日も会ったようなさりげない表情で法子を迎えた。 「やっぱり、ほっとするわね」  法子は母と並んで台所に立ちながら、深々と深呼吸をした。「そうでしょう」と、母も嬉しそうに笑った。第一、この家は静かだった。九人家族の、しかも時折奇声を張り上げる健晴のような存在のいる家から比べれば、実家はほとんど静寂に包まれているといって良いくらいだ。  法子はつい、自分がもはや橋本という姓ではなくなっていること、今は志藤の家の一員として暮らしていることなどが信じられない気持ちになった。もしかすると、この数ヵ月のこと、和人と結婚して新婚旅行はヨーロッパに行き、それから東京の和人の家族と一緒に暮らし始めた、それらのすべてが夢か幻だったのではないかと、そんな気さえしてしまった。  数日の間に、法子は家族で食事に出かけ、兄と映画を観にいき、母とも買い物にいった。そうこうするうち、予定の日数は瞬く間に過ぎてしまった。 「何だか、帰るのが面倒になったな」  明日はもう志藤の家に帰らなければならないという日、法子は短い午睡から目覚めた後、縁側に立って大きく伸びをしながら呟《つぶや》いた。初夏の午後の庭先には、目映《まばゆ》い木漏れ日が溢《あふ》れていた。背後から、「そりゃあ、ここにいれば三食昼寝つきだものね」という母の声がする。 「いいわよ、帰ってきたって」  母の冗談に法子はにやりと笑いながら「まさか」と答えた。 「帰ってなんかくるものですか。幸せいっぱいの新婚生活を捨てて」 「あらあら、そうですか。薄情な娘だこと」 「そうですとも。お母さんはあれこれ心配してくれたけど、全部、取り越し苦労だったわね。私、和人さんの家の人達、皆のこと、大好きだもの」  母が複雑な表情で頷《うなず》き、法子が志藤の家族の誰彼のエピソードを披露《ひろう》しようとしていたその時、リビングのテレビからニュースの声が耳に飛び込んできた。 〈──今日午前十一時頃、東京都小金井市でプロパンガスが爆発し、店舗兼住宅一棟が大破、炎上して、火は二時間後に消し止められましたが、焼け跡からその家に住む家族四人とみられる焼死体が発見されました──〉  小金井市と聞いただけで、法子は思わず耳をそばだてた。 「爆発炎上したのは、小金井市中町二丁目の、無職・岩井英志さん方で、今日午前十一時頃、どかん、という大きな音が響き、炎を吹き上げたということです」  中町二丁目と聞いたところで、法子はぎくりとなった。慌ててテレビの前に駆け寄るのと、母が「ちょっと、ちょっと法ちゃん」と言いながらテレビをのぞき込んだのとが同時になった。 「──岩井さんは妻の雛子《ひなこ》さん、長男の友孝さん、長女の美里さんの四人暮らしですが、四人の行方が分からなくなっていることから、焼け跡から発見された四人の遺体が岩井さんと家族ではないかとみられています。小金井警察署の調べによりますと、岩井さん宅は以前は製氷業を営んでおり、その店舗部分に引かれていたガス栓が開かれており──」 「この家って──」  法子はテレビの画面に映し出された映像を食い入るように見つめながら、思わず絶句しそうになった。 「近所の家?」 「近所なんていうものじゃないわ──志藤の家が貸してるところよ」  テレビには、確かに見覚えのある風景が映し出されている。法子は実家に戻ってくるつい数日前の夕方、あの辺りを和人と散歩した時のことを思い出した。あてもなくぶらぶらと歩き回るうち、今は営業していない様子の、古い商店の前を通った。  ──前はさ、氷屋をやってたんだ。今の主人の親父さんの代からの縁で、ずっとうちが貸してるんだけどね。  和人の話を聞きながら、法子はいつだったか、庭の繁みに立っていた男を思い出していた。ここが、あの男の家だったのかと、改めて家を見回した。  間口三間程の、総二階建ての小さな家だった。ペンキも剥《は》げ落ちて、すっかり色のさめてしまった木の窓枠と、埃《ほこり》だらけのガラス戸を眺めながら、法子は「ここが」とため息をついた記憶がある。あの貧相な男が息をひそめて暮らすには、あまりにも似合っている気がした。  志藤家は、他にも数ヶ所の地所を持ち、アパートを経営したり、人に貸したりしていた。財産家の家に嫁いだとは思っていたが、徐々に明らかになってくるその財力は、法子の想像を越えるものがあった。それまで、それらの土地家屋のうちの、どこにあの男が住んでいるのかは知らなかった。  ──そうはいっても、ただ同然で貸してるんだと思うよ。もう何年も家賃は据置のはずなんだ。  和人は苦笑混じりに言って、「すっかり古ぼけちゃって」とその家を眺めていた。戸の上には、やはり色あせた看板が出ていた。本庄屋という文字は比較的明確に読めたけれど、「氷」というブルーのペンキで書かれた文字は「ヽ」の部分が剥げ落ちていて、しかも輪郭が曖昧《あいまい》に残っている程度で、ようやく「水」と読めただけだった。ガラス戸の向こうに白ちゃけたカーテンを引いている店は、ひっそりと静まり返っていた。 「恐いわねえ、ガスは本当に」  母は深刻そうにため息をつき、片方の手を頬《ほお》に添えたままの姿勢でテレビを見ている。 「──雛子さんと二人の子どもはいずれも布団に入ったままの状態で死亡したものと見られ、周囲の状況などから、警察では英志さんがガス栓をひねり、無理心中をはかったところ、何らかの火が引火して爆発・炎上した疑いが強いとみて、今後捜査する方針です。また、爆発の際の爆風で、付近の家数棟に窓ガラスが割れるなどの被害が出ており──」  あの男の仕業だろうか、病魔に取り憑《つ》かれた結果、こんな凶行に及んだのかと思うと、薄気味悪くて全身に鳥肌がたつ。まさか、自分の知っている場所でこんなに悲惨な事故が起こるなんて、その報道を実家のテレビで見るなんて、信じられない思いだった。 「法ちゃん、志藤のお家に電話してみたら?」  母に促されて初めて、法子はそうだったと思い出した。ガス爆発ということならば、志藤の家にだって、当然その音は聞こえただろう。何しろ年寄りのいる家だ、その音にショックを受けている可能性だってある。法子はあたふたと電話に飛びつき、婚家の電話番号をダイヤルした。 「志藤のお宅で貸している家だったら、色々と面倒になるかも知れないわねえ。あんた、今日のうちに帰った方がいいかしら」  コール音を聞いている間、母は、そんな法子を見上げながら心配そうな顔をしている。やがて、受話器の向こうから義母の声が聞こえてきた。 「あら、法子さん。どうしたの?」  公恵は、いつものおっとりとした口調のままで「明日だったわね、帰ってくるの」と続けた。法子は半ば拍子抜けした気分でテレビを観たことを言った。 「あら、ニュースでやってた? そうなのよ、すごい音だったの、どっかぁんって」  もう少し慌てているだろうかと思ったのに、彼女の声は相変わらずだ。 「あの、私、何だったら今日中に帰りますけれど。おばあちゃん達は、大丈夫でしたか?」  本当は帰りたくはなかったが、こんな事故が起これば仕方がない。法子は、部屋の時計をちらりと見上げながら、「最終になら乗れると思うんです」と続けた。 「あら、いいわよ。せっかくお里帰りしたんだもの、ゆっくりしていらっしゃい。そんなに大変なこともないから、大丈夫よ。うちは相変わらず、皆元気にしてるから」  法子は、自分の中に野次馬根性が芽生えているのを感じながら、半ば不満気に「そうですか?」と聞き返した。 「どうせ、明日には帰ってこなきゃならないんでしょう? 法子さんの気持ちは嬉《うれ》しいけどね、お父さん達が動いてくれてるから、大丈夫よ。こういうことはね、男の人達に任せていれば、いいんだから」 「でも、お店の方は──」 「大丈夫よ、そんなに心配しなくても。でもね、和人はやっぱり淋《さび》しいみたいよ。法子さんに早く帰ってきて欲しいみたい」  その言葉を聞いて、法子は何だか肩すかしを食わされたような気分になりながらも、思わず笑顔になった。ふだんは無口な和人が、自分を思って淋しがってくれていると聞くと、やはり嬉しい。 「まあね、顔には出さないようにしてるつもりらしいけど。隠してるつもりなのは本人だけで、皆、気がついてるのよね」  受話器を通して、義母の明るい笑い声がころころと聞こえてくる。とてもではないが、半日前に近所でガス爆発が起こり、しかも縁のある人が死亡したなどとは思えない落ち着きようだ。ただの顔見知りではない、店子《たなこ》ではないかと思うと、法子の中に小さな引っかかりが出来た。 「とにかく、法子さんはそんなこと気にしないで。せっかくお里帰りしてるんだもの、何の気兼ねもしなくていいんだから。それで、明日になったら、元気に帰ってきてちょうだいね」  それから公恵は法子の母と話したいと言った。法子は受話器を母に回しながら、テレビに映し出されていた映像のことを思い出していた。母は「あらあら」とか「まあ」とかを繰り返して、受話器を握ったまま会釈《えしやく》している。結婚以来、母は野菜などをこまめに送ってくれている。志藤の家からは新潟米をいつも送っていたから、母は結婚当初よりも随分態度を軟化させていた。  ──本庄屋。氷屋。  再び縁側に出て、法子はぼんやりと風鈴を見上げていた。繁みの奥から、「奥さん」と声をかけられた時のことが蘇《よみがえ》る。あの時、彼は何を言いたかったのだろう。 「お葬式は、志藤の家で出すことになるかも知れないって」  電話を切った母の声が背後から聞こえた。法子は頭の片隅に、本庄屋の貧相な顔を思い浮かべたまま、わずかに口を尖《とが》らせた。 「だったら、大変じゃないねえ。ゆっくり帰ってくればいいなんて、お義母《かあ》さん、遠慮なさったのかしら」  母はわずかに小首を傾《かし》げて「どっちみち、今日明日は無理なんですって」と言った。 「解剖とか、そんなのがあるらしいのよ。早くて明後日だろうから、今日は何もすることはないらしいわ。まあ、葬儀屋さんの手配くらいはあるんだろうけど、手は足りてるんだものね」  法子は、後ろ手を組んだまま身体を捻《ひね》り、母に向かって小さく頷《うなず》いた。早く帰ってこいと言われれば、意地悪されている気分にもなるのだろうが、あまりゆっくりしてこいとばかり言われるのも、まったくあてにされていないようで情けない気持ちになる。 「まあ、私がいたって、することもないだろうしね」  心の中に浮かんだ小さな不満を自分自身で宥《なだ》めるつもりでそう言うと、母は「まあね」と答えただけで、もう他のことに気を奪われている様子だった。 「迷惑な話ねえ、無理心中なんて。そんな家、爆発しなかったとしても、もう借り手もつかないじゃない」  法子は台所に行き、母と二人分の水|羊羹《ようかん》を取り出してきて、再び母の横に座った。 「でも、どうしてうちがお葬式を出さなきゃならないんだろう」 「五十年近いお付き合いなんですって。親戚《しんせき》同様だったから、それくらいはしてあげなきゃって、そう仰《おつしや》ってたけど」  母の言葉を聞きながら、法子は何となく割り切れない気持ちになっていた。本庄屋が親戚同様の付き合いだったなどという話は、和人からも聞いたことはないはずだ。それどころか本庄屋の話題自体、家族の間では出た記憶がない。公恵は「相手になるな」とまで言っていた。  ──あの人、何を言いたかったんだろう。 「お葬式のことはね、大おばあさんの、ご指示だそうよ」 「──大ばばちゃんの」  法子は母の瞳をじっとのぞき込み、それから小さく頷いて見せた。母もそれに合わせて、「ね?」と言うように頷く。 「大ばばちゃんの、ね」  それならば、それがいちばん良いということだ。ヱイがそう言うのならば、そのようにする。それが、何かの問題が生じた時の志藤家の解決方法だということを、法子はこの三ヵ月の間に学んでいた。つまり、ヱイは未だに志藤家に君臨し、もっとも重要なことを決定する権利を持っているということだ。そして、家族の意見がどんなに乱れても、ヱイの一言が最終決定を下し、家族は見事なほどに落ち着きとまとまりを取り戻す。 「それなら、それがいいんでしょ」  それが、法子も加えて九人にもなる大所帯が常に円満に暮らしていかれる秘訣《ひけつ》なのだろうと、母にも話して聞かせたばかりだった。 「大した方なのねえ、だから、ご近所でも頼りにされるんでしょうね」  母に言われて、法子は何となくくすぐったい気持ちになった。自分の曾祖母《そうそぼ》ではないが、それでも一つ屋根の下に暮らし、今は家族となっている老人のことを実の母に褒《ほ》められるというのも不思議なものだ。 「私の目から見れば、ごく普通の可愛いお婆ちゃんなんだけどね。神通力でもあるのかしら」  水羊羹を喉《のど》に滑り込ませながら、法子は何となく判然としない気持ちのまま、ため息をついた。 「近所からだって、色々な人が『大ばばちゃん』『大ばばちゃん』って逢《あ》いに来るんだもの。そうやって、色々な人の話を聞いてやって、あれこれと考えてるから惚《ぼ》けないのかしらね──でも、それにしたって、どうしてお葬式まで出してやる必要があるんだろう」  その時、玄関の開く音がして、近所の顔見知りの声が聞こえてきた。「はあい」と返事をしながら、母はいそいそと玄関に向かった。法子は、ぼんやりとあの男のことを考えていた。家賃も滞納していたらしい、体調もすぐれなかった様子だ。人生に絶望して無理心中しなければならない理由がないとは言えない。それなのに、何となく気持ちに引っかかりが残った。      4  法子が志藤の家に戻ったのは、翌日の夕方だった。昨日のことがあるから、家はさぞかし慌ただしくなっているだろうと覚悟していたのに、小金井の家は、いつもと変わらない落ち着いた佇まいを見せていた。ふと、ガス爆発の現場に立ち寄ってみようかとも思ったが、やはり気味が悪い気がして、それはやめにした。 「淋しかったわ、法子さんがいなくて」 「家族が一人でも欠けると、やっぱり変なものよねえ」  玄関に入るなり、まず迎えに出てきた公恵とふみ江が声を揃《そろ》えて言った。法子は、いつもながら満面の笑みを浮かべている二人に軽く頭を下げながら、「ああ、帰ってきてしまった」と思った。嫌というのではないが、そう思った。それにしても、彼女たちは嫁と姑とは言いながら驚くほど仲が良い。少しの間でも離れていたせいか、二人並んで、いそいそと法子の荷物を運んでくれる後ろを、わずかな疎外感を覚えながらついて居間に行くと、和人を除く家族全員が待ちかまえていた。 「和人はきっと今ごろやきもきしてるわね」 「そりゃあ、そうでしょう。結婚して初めて、こんなに離れてたんだものねえ」 「お兄ちゃん、お昼頃からそわそわしてたわね」  綾乃まで加わって、にこにこと笑われて、法子は思わず頬《ほお》を赤らめた。 「あ、私、大ばばちゃんにご挨拶《あいさつ》しないと」  いくらざっくばらんな家庭でも、やはり夫の家族に冷やかされるのは照れくさい。法子はそわそわと腰を浮かそうとした。まずは離れに行って曾祖母のヱイに帰宅の挨拶をし、それから祖父の松造にも声をかける。それが、外出から戻った時のしきたりのようなものだった。ところが、公恵が「あ」と言った。 「大ばばちゃん、今、お客様なの」  綾乃がわずかばかり早口で言った。とにかくヱイの元には来客が多い。百歳に近い老婆の知恵を借りようというのだろうか、多い時には一日に数人の来客があった。 「じゃあ、おじいちゃんに」  法子が頷《うなず》きながら言うと、ふみ江が「はいはい、おじいちゃんにね」と言って一緒に立ち上がった。寝たきりの祖父に用事があることなど滅多になかったが、ふみ江は家族の誰かが松造に近付こうとすると必ず同行する癖があった。  松造は、数年前に脳梗塞《のうこうそく》の発作を起こして、右半身が不随の状態だった。ふみ江も共に寝起きしている部屋は、南向きの日当たりの良い位置にあって、松造が発作を起こした時に改装して部屋の半分が板張りになっている。病人の為の介護用ベッドを置く為だったが、その大きなベッドがかなりのスペースを占めても、部屋にはまだまだゆとりがあった。 「おじいちゃん、法子さんが戻ってきたのよ」  ふみ江が声をかけると、松造はゆっくりと法子の方を見る。白く光る髭《ひげ》に囲まれた口元がゆっくりと「おかえり」と動いた。明確とは言い難い発音だったが、ふみ江は嬉しそうな顔で何度も頷いている。世話の行き届いている病人は、ほんの少し薬臭かったけれど、鮮やかなバラの模様のタオルケットをかけられ、襟元には水色のタオルもかかっていて、とても明るく、清潔に見えた。 「明日ね」  ふみ江はベッドに近付き、松造の手をゆっくりとさすりながら柔らかく微笑《ほほえ》んでいる。 「お帽子を買いにいこうと思ってるのよ。おじいちゃん、お帽子好きでしょう?」  うう、とも、ああ、ともつかない曖昧《あいまい》な返事。それでもふみ江は嬉しそうに笑って法子を見上げた。 「昔っからね、お洒落《しやれ》な人だったの。だから、夏になる度に、新しいお帽子を買ってくるの。ねえ、おじいちゃん」  ああ、うう──。法子は、看病疲れも見せずに微笑んでいるふみ江に頷き返しながら、どうして彼女はこんなにいつも幸福そうなのだろうと思った。夫が寝たきりの状態になっているのに、七十歳を迎えた彼女は、いつでもとても満ち足りた表情をしている。  居間に戻ると、さっそく義父が「ところで」と声をかけてきた。 「どう、橋本のお宅は変わりはなかったかい」  法子としては、少しでも早く本庄屋のことを聞きたいと思っているのに、家族は誰も、そんな事件には何の興味もないように見えた。法子は内心ではやきもきしながらも、取りあえずはにっこりと笑い、鞄《かばん》から土産《みやげ》物を出した。健晴が「お土産、お土産!」と騒いでいたからだ。慣れてきたとはいえ、彼の不鮮明な声が大きく響くたびに、法子はどきりとさせられる。 「はい、たぁくんにも、お土産ね」  幼児に見せるのと同じ類《たぐい》の笑みを浮かべながら包みを取り出すと、健晴はまた大きな声を出してはしゃぐ。 「お土産、お土産! 僕の!」  家族からたぁくんと呼ばれている義弟は、法子が心配していた程の重度の知恵遅れではなかった。一応の会話も出来るし、排便や洋服を着ることなどは自分で出来る。言うなれば四、五歳程度で止まっている、という感じだ。本当ならば、高校三年生の年齢だったが、彼は今は養護学校へも行かず、ずっと家にいる。 「嫌だ、たぁくん、お行儀悪いなあ、もう」  隣で綾乃がにこにこと笑いながら、懸命に包みを解こうとする彼を手伝ってやっている。法子は、柔らかい微笑みを浮かべたまま、少しの間、姉と弟を眺めた。幼い頃から、この二人はずっとこうして寄り添ってきたのに違いない。駄々っ子でわがままな部分のある健晴は、家族の誰よりも綾乃に対して、一番素直だった。 「それで、本庄屋さんのことですけど」 「お父さんやお母さんは、お変わりはなかった?」 「あ──はい」  夕食前だというのに、健晴はすぐに土産物の菓子を頬張《ほおば》り始めた。 「昨日のテレビも母と観ていたんですけど──」 「久しぶりに会って、安心なさったんじゃないのかね」  どうもタイミングを逸《そ》らされている気分になる。それでも、気遣ってくれているのは有難いのだ。法子は問われるままに実家の近況を報告した。父のこと、母のこと、兄のこと。にこにこと笑いながら嫁の実家の話を聞いてくれているという点では、法子は彼らに感謝しなければならないと思う。だが、とにかく本庄屋の話を聞きたかった。 「母も心配していたんですけど」 「お母さんが? 何を」  やっとタイミングが掴《つか》めた。法子は身を乗り出さんばかりにして「本庄屋さんのこと」と言った。 「お葬式をうちで出すって、本当なんですか?」  だが、家族は誰も特に表情も変えることなく、誰もが一様に頷《うなず》いただけだった。 「他に身寄りもないみたいだったから、仕方がないっていうことになってね。大したことはしてあげられないだろうけど、そうでもしないと──」  義父の武雄は、そこまで言ってくるりと公恵を見る。 「一応はご縁のあった人達なんだし、な」  公恵はそこで大きく頷いて「寝覚めが悪いでしょう、そうでもしないと」と言った。それは、そうかも知れない。五十年近くも付き合いがあったのならば、その気持ちも分からないではなかった。 「どうして無理心中なんかしたんでしょう」 「さあ。よその家のことは、よく分からないからねえ」  武雄の口調は曖昧《あいまい》なものだった。そして、また公恵の方を見る。公恵は武雄に目で頷いてから、小さくため息をついた。 「あんなにめちゃめちゃになっちゃったんだから、遺書を遺《のこ》していたって、見つからないでしょうしね」  法子は昨日のニュースで見た映像を思い出した。あれから夜まで、法子はテレビのチャンネルを換え続け、少しでも多くの情報を得ようとした。少なくとも四、五回は同じ映像を見たし、今朝の新聞にも大きな記事が出ていた。 「気の毒ですねえ。何も無理心中なんか」 「仕方がないんじゃない? そういう運命だったんでしょう」  案外淡々とした口調で呟《つぶや》いたのは松造の部屋から戻ってきたふみ江だった。松造に話しかける時とも、家族の誰と話す時とも全く雰囲気の違う、それはひどくよそよそしい口調に聞こえた。  ──だって、親戚づきあいしてたんじゃないの? だから、お葬式まで出してあげるんじゃないの?  法子の中に、昨日と同じような小さなひっかかりが出来た。それに、いつも朗らかで善良そのものの彼らにしては、どうも雰囲気が違う気がする。 「あの、今夜は──仮通夜《かりつや》、ですか?」 「一応はそういうことになるんだろうけど。今夜のところはね、まだ病院で預かってもらってるの。明日、葬儀屋さんが受け取りにいくんじゃないかしらね」  公恵の声は相変わらず高く陽気で、まるでペットでも預かってもらっているような口ぶりに聞こえる。法子は彼らの誰一人として、店子《たなこ》にあたる本庄屋の不幸を悲しんでなどいないのだと確信した。おそらくヱイの一言で、取りあえず葬式だけは出してやることにしたのだろうが、心がこもっているわけではない。義理か見栄か、そんなところだ。 「でもね、お寺さんを頼もうにも、宗派のことだって、うちのお父さんが何となく聞いたことがあるような気がするっていうだけで、うろ覚え。はっきりしないのよ。困っちゃうわ」  その声は、ちっとも困って聞こえない。法子は、具体的な葬儀の相談をしているとも思えない雰囲気の中で彼らの会話を聞いていた。 「お父さん、やっぱり、無宗教にしてもらった方がいいわよ。ね、そうしましょう」 「だって、もう葬儀屋に頼んだろう?」 「お父さんの記憶が違ってたら、後々大変なことになるでしょう? 親戚だって見つかるか分からないんだもの。無宗教で頼みましょう、ね」 「じゃあ──電話しておくか」 「そうして。お父さんは、どこか抜けてるところがあるんだから。その方が安全だわ」  公恵が言ってのけると、家族はころころと声を合わせて笑った。  この数ヵ月の間に、法子も学んでいた。義父の武雄という人は、恰幅《かつぷく》の良い外見からはとても想像出来ないのだが、たいへんに気の弱いところがあった。何をするにも公恵に判断を仰ぎ、よくよく相談した上で実行に移さなければいられないようなところがあるのだ。その気の弱さや小心さを、家族はよくからかって笑った。 「もしも、後でとやかく言われるとしたら、矢面にたたなきゃならないのはお父さんなんだからね。そんなの、嫌でしょう?」  公恵に言われると、義父は顔を赤らめたまま「まあね」と言う。法子は、そんな義父の素直なところにも、いつも驚かされていた。法子の父など、母や兄などにそんなことを言われたら「馬鹿にするな!」と怒鳴るところだ。だが武雄は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら、すごすごと電話をかけにいった。  やがて、居間の前の廊下を人の通る音がして「お邪魔しました」という控え目な声が聞こえてきた。ヱイの元を訪れていた客が帰るのだ。彼らは、大抵、ヱイ以外の家族とはそれほど話をしようとはせず、何かの用件が終わると静かに帰っていく。法子が、それではヱイに挨拶《あいさつ》にいこうかと考えている時、客と入れ代わりに和人が帰ってきた。玄関まで迎えに出ると、彼はわずかに眩《まぶ》しそうな顔で法子を見上げ「やあ」と言った。 「嬉《うれ》しいくせに、格好つけちゃって」  後ろからついて来ていた綾乃がにやにやと笑いながらからかった。健晴だけは、知能が低いせいだろうか、表情が薄い感じがして雰囲気が異なるが、和人と綾乃はよく似ている。 「嬉しいに決まってるだろう? 大事な嫁さんが帰ってきたんだから」  靴を脱ぎながら、涼しい顔で妹に言ってのける和人を、法子は心の底から愛《いと》しいと思った。実家から離れるのは、やはり少し淋《さび》しいが、それでも和人と暮らせる嬉しさの方が、申し訳ないけれど、ずっと勝っている。 「たいへんだったわね。実家でも心配してたのよ」  彼に近付いてそっと囁《ささや》くと、和人は小さく頷《うなず》いた。その瞳に沈痛な表情を読みとることが出来て、法子はようやく少し安心することができた。他の家族はけろりとしているが、和人はやはり心を痛めている。家を貸していた人々の不幸な死を、敏感な心で受け止めているに違いない。 「近所が建て込んでなかったのが不幸中の幸いだよね。あれで隣近所まで火が移ってたら、もっと大変なことになった」  彼の言葉に、法子は深く頷いた。和人は、少しの間しみじみとした表情で法子の顔を見つめ、それからにこりと笑って「後でね」と囁いた。とにかく、夫婦の部屋に戻るまでは、法子達は手を触れあうことすらなかなか出来なかった。  数日ぶりの大家族の食卓は、やはり賑《にぎ》やかなものだった。健晴は時折奇声を上げるし、あちこちで違う会話が飛び交って、収拾がつかない感じがする。 「アサガオの種が、そろそろ出来てきたわね」  公恵がにこにこと笑いながら言った。 「じゃあ、明日からでも少しずつとっておこうかしらね」  頷きながら答えたのはふみ江だった。「ヒルガオも、もう終わりよ」と綾乃が口を挟む。 「ゲンノショウコが、そろそろ咲きそうね」 「じゃあ、センブリもそろそろかしらね」  何日かに一度は、こういう会話が聞かれる。その度に、法子は家族が雑然と生やしているように見える庭の植物に注意を払い、その名前をよく知っていることに驚かされる。  けれど、とにかく今夜の主人公は法子だった。 「お友達とは会えた?」 「お父様の腰痛は、どうだった?」 「車を買い替えるって、お父さんは、何に乗ってらしたんだったかな」 「ねえ、お兄さんは、縁談はまだないんですって?」  ありとあらゆる質問が飛んできて、それに答えている間にも話題はどんどんと流れていく。世代の違う人々は声のトーンも口調も様々で、法子は食べるのと喋《しやべ》るのとで精一杯だった。その間も、いつもの通り、ふみ江は途中で何度か席を立ち、松造の様子を見にいっていた。  狭い家ならば、食堂の隣の部屋に病人を寝かせておいて、食卓の風景を見せてやることも可能なのだろうが、この家は逆に広くて、ふみ江達の寝室からは幾分離れていた。 「大ばばちゃんのお部屋、もう電気が消えてるわね」  何度目かに席を立って戻ってきたときにふみ江が言った。それから、にっこりと笑いながら法子を見る。 「ご挨拶《あいさつ》は、明日でいいわよ。昨日みたいなことがあって、大ばばちゃんも疲れてるのかも知れないから」  法子は、ヱイに帰宅の挨拶が出来なかったことを申し訳なく思いながら小さく頷いた。葬式を出してやれとまで言うからには、ヱイにはヱイなりの色々な思いがあるのに違いない。あの小さな身体を横たえて、浅い眠りの中で何を思っているのだろうと思うと、気の毒な気がした。  夜も更《ふ》けて、ようやく家族が各々の部屋に戻ると、法子と和人も二階の夫婦の部屋に引き上げた。 「ありがとう」  風呂《ふろ》上がりの彼からは石鹸《せつけん》の良い香りがする。そのパジャマの肩に頬《ほお》をつけて、法子はうっとりと目を閉じた。 「久しぶりに母たちに会えて、やっぱり嬉しかったわ」  和人のあたたかい手が法子の手を握ってくる。それから二人は長い口づけを交わした。 「君も、入ってくるといいよ。疲れてるだろう? 布団、敷いておくから」  法子はにっこりと笑って頷き、それからいそいそと着替えを用意した。早くも押入を開け、布団を敷き始めている和人に軽く手を振り、とんとんと階段を降りて浴室へ行く。今夜はもう、他の家族は全員風呂から上がっているはずだった。  何のためらいもなく脱衣所の扉を開けると、だが、湯を使う音が聞こえてきた。法子は目の前の脱衣|籠《かご》を見た。脱ぎ捨てた服のいちばん上に、木綿の小さな下着がのっていた。急いでそっと脱衣室から出ようとしたとき、浴室から微《かす》かな笑い声が聞こえてきた。媚《こ》びを含み、艶《なまめ》かしく聞こえるその声は、綾乃に違いなかった。 「駄目だったら、もう。いい子にして」  法子は振り返り、改めて脱衣籠を見た。綾乃の下着とパジャマの下に、確かにもう一組のパジャマがある。よく響く、くすくすという笑い声を聞きながら、法子はそれが健晴のものであることを認めた。      5  翌日、法子は公恵に伴われて新宿《しんじゆく》のデパートに喪服を買いにいった。  結婚するときに、喪服くらいは作っておこうかという話も出たのだが、前もって用意するというのは不幸があるのを待っているようでよろしくない、ことに、高齢の家族がいる家なのだからということになって、その類は用意していなかった。  義理というほどの縁もなかった人々の葬儀だし、家族の反応からしても、法子までが出席する必要もないだろうと、朝の段階ではまだ法子はそんなふうに考えていた。ところが、洗濯物を干しているときに喪服の話になったのだ。公恵から「用意は出来てるの?」と聞かれて、法子は初めて自分も本庄屋の通夜《つや》と葬儀に出席しなければならないらしいと知った。それでも、わざわざ喪服を新調するまでもないから、法子は貸し衣装でも公恵のお古でも構わないと主張した。 「そんなの駄目よ、駄目、駄目。買いにいきましょう」  だが、公恵は丸い目をくりくりと動かして、「急がなきゃ」と言うと、洗濯物を干す手を早めた。さっきまで、鼻歌混じりで花壇を眺めていたとは思えない程の勢いだった。法子も慌ててそれを手伝い、それから掃除も急いで済ませた。 「やっぱり、用意しておくんだったかしら。実家の母とも相談して考えたことだったんですけれど──まさか、こんなにすぐに必要になるとは思わなかったですし」 「お嫁入りするときには、そういうことまで考えるものなのね」  義母の口調は穏やかなものだった。慣れた足どりで人混みを歩きながら、彼女はついでに靴とバッグも買おうと言った。 「せっかくだから、この機会に揃《そろ》えておいた方がいいわ。それに、気楽といえば気楽じゃない? 身内の不幸だったら、こんなにのんきにお買い物になんか歩いていられないもの。ああ、法子さん、パールは? ネックレスはあるの?」  それから公恵は実に精力的に、要領よくデパートを巡り、あっという間に全ての買い物を終えた。服を選ぶ時にも、靴やバッグの時も、公恵はにこにこと笑いながら「いいわね」「素敵よ」などという程度の感想を言うだけで、法子の好みのものを選ばせてくれた。  ──よかった。お義母《かあ》さんの趣味を押しつけられるかと思ってたのに。  その上、今回は志藤家として必要なものを買うのだからと、公恵は法子に財布を開けさせなかった。法子は恐縮しながら、どの売場でも大して値札も見ずにカードを出す義母の気前の良さに、また感心した。 「ああ、よく歩いた。喉《のど》が渇いたわね」  帰る前に一息入れようということになって、山ほどの買い物袋を提げて喫茶店に入ると、法子はまず深々と頭を下げて礼を言った。 「嫌だわ、改まって。法子さんはもう、うちの娘なのよ」  公恵は心の底から嬉《うれ》しそうな顔で、そう言った。嫁ではなく、娘、という言葉に、法子は一瞬どきりとなった。嬉しい反面、実家の母に申し訳ないような、後ろめたい気もする。 「やっぱり、二人で歩くと楽しいわねえ」  買い物好きの公恵は、普段からちょこちょこと出歩くことが多い。法子などは、都会の人の多さだけで疲れたのに、彼女は特別疲れた顔も見せず、むしろ生き生きとして、法子以上にタフに見えた。法子は、やはり実家の母とは随分違うと思った。法子の母も、人混みを何よりも嫌う人だった。 「お義母さんて、ご実家はどちらなんですか?」 「東京よ。地元」  公恵はオレンジジュースに差し込まれているストローに軽く口をつけ、よく冷えた液体を少しだけ吸い上げた。 「やっぱりお嫁入りして、最初に喪服を作る時は、おばあちゃんが買い揃えて下さったんですか?」  法子はアイスティーにミルクをたっぷりと流し込みながら、俯《うつむ》きがちにジュースをかき混ぜている公恵を眺めていた。彼女は少し考える顔をして、それから首を振った。 「私は、自分で買いにいったと思うわ、確か」  法子は、意外な思いで「一人で?」と聞きかえした。ふみ江だったら、今の公恵と同じように、きっと公恵を伴って歩いただろうと思ったのだ。公恵は、そんな法子の思いを察したのか、愛敬のある目をくるりと動かし、同時にストローでジュースをかき混ぜた。水滴のついているゴブレットの中で、氷がちりん、と音をたてた。 「おじいちゃん──大おじいちゃんがね、亡くなったときだったの。だから、それどころじゃなかったのよ」  法子は「ああ」と納得して大きく頷《うなず》いた。 「大おじいちゃんは、おいくつで亡くなったんですか?」 「当時にすれば、長生きの方だったのかも知れないけど、七十くらいだったわね」 「じゃあ、その時、大ばばちゃんは──」  公恵は、「当時から、もう立派な、おばあちゃんだったけど」とくすりと笑った。 「でも、今と比べれば若かったわねえ」  自分もアイスティーを飲みながら、法子は頭の中で簡単な計算をしていた。連れ合いが七十歳くらいだったということは、ヱイも同じくらいだったということだろう。すると、ざっと計算しても、およそ三十年前ということになる。  ──三十年。  三十年前、ヱイは既に老人だった。七十と聞いただけで、今の法子には既に立派な老境という感覚がある。改めて彼女の長い人生にため息が出た。 「さあ、元気が出たところで、帰りましょうか」  もっと昔の話を聞いてみたい、その頃の志藤家のことを知りたいと思ったけれど、公恵は「今日はまだまだ忙しいから」と、さっさとジュースを飲み終えてしまった。法子は慌てて自分もストローに口をつけた。本当は足がだるくて、もう少し休みたいところだったが、姑よりも疲れた顔をすることも出来なかった。  帰宅して、公恵が買い揃《そろ》えてくれたものを身につけて居間に行くと、仕事に出ている武雄と和人以外の家族は、全員が集まってきて「似合うわ!」を連発してくれた。 「ねえ、たぁくん。お義姉さん、綺麗《きれい》だねえ」  綾乃に手を握られ、健晴さえも、「きれいー。きれいー」と笑う。法子は、ふと、昨晩のことを思い出した。この二人の密着の度合いは、法子の想像をはるかに越えている。そこには、何だか生臭いイメージがつきまとった。 「お、ねえしゃん、黒い服! 真っ黒!」  だが、健晴が無邪気な声を上げるのを聞いて、法子は慌ててその考えを振り払った。こういう弟だからこそ、綾乃は尽くしているのだ。それだけのことだ。  ふみ江は、「パールがいいわね、とにかく」と目を細めている。靴とバッグばかりでなく、法子は結局、自分が持っていたパールよりも一回り粒の大きなネックレスから、イヤリング、数珠、袱紗《ふくさ》に至るまで、本当に一揃いを買ってもらった。喪服とは言いながら、こんなにもまとまった買い物をして、法子はやはり気持ちが浮き立った。 「君は、黒が似合うね」  日も暮れかかった頃、法子はその服装で通夜《つや》に臨《のぞ》んだ。店から直行していた和人と顔を合わせると、彼も嬉《うれ》しそうな顔をした。そこで法子はかなり大勢の未知の人達に、和人の嫁として紹介された。武雄は葬儀委員長をしていたから、祭壇の脇《わき》にいたが、法子の姿を認めると軽く手を上げて笑ってくれた。 「たぁくんやおじいちゃんのこともあるから、お通夜は私が代表で、一人で行ってくれないかって言われたの」  和人と並ぶと、法子はまず小声で説明した。最初は、全員で出席するものとばかり思っていたのに、夕方になってから法子はそのことを聞かされたのだった。和人は表情を変えることもなく「さっき店に電話があったよ」と答えた。 「おふくろ、君には張り切って見せてたらしいけど、結構疲れたみたいだ」  そう言われて、法子は少々申し訳ない気持ちになった。炎天下にあれだけ動き回れば、疲れないはずがない。 「まあ、いいんだよ。君に喜ばれたくて仕方がないんだから」  だが、和人はそう言って柔らかく微笑《ほほえ》んでくれた。法子はまた、自分は幸せな結婚をしたと心の中で呟いた。嫁を喜ばせたくて張り切る姑など、そうはいないに違いない。  それから、少しの間、今日の買い物の報告をしていると、商店会の関係の人達が和人を呼びにきた。彼は「ああ、そのことだったら」などと言いながら席を立ち、あれこれと法子には分からない話をしながら、どこかへ行ってしまった。法子は一人でその場に残された。 「結局は、無理心中っていうことで落ち着いたらしいね」 「警察も、もう手を引いたってね」 「血迷ったんだな、氷屋は」  見知らぬ人々を観察しながら、あちこちに目を動かしていると、周囲から、そんな囁《ささや》き声が聞こえてきた。法子は自然に声の方に神経を集中させた。 「死ぬんだったら、一人で逝《い》きゃあ、よかったんだよ。何も、子どもたちまで道連れにすることは、なかったんだ」 「息子のことも、気がかりだったんだろうけどな」 「もう少し、しっかりした息子だったら、氷屋もそこまで思い詰めることもなかったかも知れないけどね。あれじゃあ」  棺におさまっている遺体を前にして聞くには、あまり愉快ではない話らしい。法子は、パイプ椅子《いす》から立ち上がると、四つの棺と四つの写真が並び、隙間《すきま》を花々が埋めている祭壇に向かった。予定通り、無宗教ということになっているから、特に式次第があるわけでもなく、人々はぱらぱらと集まって、思い思いに手を合わせる。  ──哀れな最期。哀れな人達。  他に言葉も見つからない。せめて、成仏して下さいと念じ、簡単に手を合わせると、法子は自分とは縁のなかった人々の遺影を見つめるのもためらわれて、そのまま俯《うつむ》きがちに会場の外へ出てしまった。 「二階に行ってみるかい? 近所の人達が集まってるけど」  立ち話をしていた和人が足早に近づいてきた。法子は柔らかく首を振って、「少し、疲れてるから」と言った。 「そりゃあ、そうだね。昨日、帰ってきたばかりなんだものな」  和人は大きく頷《うなず》き、武雄のところへ断りにいった後「さあ、帰ろう」と言ってくれた。 「息子さんて?」  夏の夜道をゆっくりとしたペースで歩く途中、法子は和人を見上げて聞いてみた。やはり、さっき小耳に挟んだ噂話《うわさばなし》が気にかかる。彼は小さくため息をついた後で、「色々とさ」と口を開いた。 「問題の多い家だったみたいだ。息子っていうのは、僕らよりも二つ下だったんだけど、昔は暴走族まがいのことをしていて、高校も行かなくて、結局最近は何もしていないみたいだった」  法子は、本庄屋に庭先で声をかけられた時のことを思い浮かべていた。あの暗い表情、まるで力のこもっていない後ろ姿は、確かに、全てに対して希望を失っている人の姿だったかも知れない。自分のことだけでなく、家族のことでも、彼は絶望していたのだろうか。 「それにしたって、奥さんや娘さんまで道連れにするなんて──もう少し、他に方法は考えられなかったのかしらね」  ぼってりと暑く膨らんでいた空気も少しは冷えて、人通りも絶えた宵の道を、法子は珍しく和人と腕を組んで歩いた。宵闇《よいやみ》に喪服で歩いているのだから、目立つこともないだろう、和人も嫌がらずに法子に腕を貸している。こうして、二人だけで過ごせる時間が、やはり法子には貴重でならない。なるべく時間がかかるように、わざとゆっくりと歩を進めながら、法子は大きくため息をついた。 「誰かに相談してもよかったじゃない? ご近所の人達みたいに、大ばばちゃんのところに来たってよかっただろうに」  和人の夏服の生地を通して、彼の筋肉のついた腕が熱く、固く感じられた。法子は、本庄屋のことを話しつつ、この人が私の夫なのだ、これが夫の腕なのだと思っていた。 「お家賃をためてたから、来られなかったのかしらねえ」 「どうかなあ」  亡くなった人の話をしているというのに、法子の気持ちは和やかで満ち足りていた。法子は、和人の結論を急がない性格が好きだった。彼はいつも考え深く、決して早計なことは口にしない。同い年なのに、やはり法子よりも大人に見えるのは、彼が長男で、しかも武雄を助けて店を切り盛りしているせいかも知れなかった。誰にも邪魔されず、こうして二人で静かに話せる時が、法子はいちばん幸福だった。 「ねえ」 「うん」 「見て、みたいんだけどな。本庄屋さんの跡」  街灯の下で、彼は「あそこを?」とわずかに眉《まゆ》をひそめた。夏の虫が鳴いている。和人の瞳は、街灯の明かりを受けて、きらきらと輝いて見えた。 「──やめた方がいい。水色のビニールをかけられてるから、何も見えないよ。それに、気持ちのいいものじゃ、ない」  少しの間、彼の瞳をのぞき込んで、法子は小さく「そうね」と呟《つぶや》いた。確かに、通夜の帰りに立ち寄るというのも不謹慎な感じがする。信じてはいないけれど、何か出て来そうな恐怖もあった。 「落ち着いたら、また何か建てるの?」 「どうかな。しばらくは、更地にしておくと思うよ。せめて、ある程度は周りの人達の記憶が薄れるくらいまで」  家から目と鼻の先まで戻っていながら、見知らぬ路地を曲がりたがり、わざと回り道をして、結局法子たちは小一時間も歩き回って帰宅した。 「月夜の散歩かな」  先に戻っていた武雄に少しばかり酔っているらしい口調で言われて、法子と和人は顔を見合わせて笑った。ところが、その和やかな空気が薄れる間もなく、法子は明日の告別式は一人で出席して欲しいと言われた。 「一人で、ですか?」  法子は、きょとんとして家族を見回した。当然のことながら、法子は告別式こそは志藤家の全員が参列するものとばかり思っていたのだ。だから、通夜には法子と和人だけで良かったのだと考えていた。 「いくらうちで費用を出したからって、これみよがしに全員が顔を出すのも、かえって嫌みになるんじゃないかと思ってね。だから、法子さんに我が家の代表ということで」  武雄は「勿論《もちろん》、僕はいるけれど」と赤い顔で言った。店を閉めるわけにもいかないし、松造と健晴のこともある。足が萎《な》えてしまっているヱイのことも放っておくことは出来ないだろう。葬儀委員長と司会を兼ねている武雄は、参列というのとも意味あいがことなる。すると、自由に動けて融通がきくのは法子だけということになるという説明は、確かに筋は通って聞こえた。だが、今夜と違って和人も来てくれないとなると、やはり心細い気がした。 「さっき紹介した連中もいるし、親父だっているから、心配はいらないよ。ね、我慢してくれるね」  和人は、いつもとまるで変わらない穏やかな表情で言った。法子は彼の誠実そうな眼差《まなざ》しから視線を外してしまった。心の中で小さな不満が疼《うず》いた。  ──だったら、さっき言っておいてくれればよかったのに。  二人きりで歩いていた時に、そう言ってくれれば良かったのだ。和人だけから言われれば、法子はほんの少し拗《す》ねた真似も出来ただろう。そして、結局はわずかに膨れ面になりながらも「分かったわ」と答えられたと思う。実際、義理で葬儀に参列するくらい、大したことではないのだ。 「ごめんなさいね、嫌な役目だとは思うんだけど」  そう言ったのはふみ江だった。公恵を始めとする他の家族も、実に心苦しいといった表情で法子を見ている。哀願するような、法子の反応を探るような目に囲まれて、法子は、自分は彼らに信頼されていないのだろうかと思ってしまった。たかだか葬儀くらいのことで、彼らは何故《なぜ》そんなに気を遣うのだろうかと思うと、その方が不思議だった。 「ねえ、どこ行くの。どこ? どこ?」  健晴だけが素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を出した。法子は芽生えそうになっている苛立《いらだ》ちをそっと鎮め、ふっと笑って見せた。 「逆に、私みたいにご縁のなかった人間が行く方が気楽なのかも知れないし、その為に用意していただいた喪服ですものね」  公恵は一瞬慌てた表情になり、何か言おうとして口を開きかけた。法子はそれを制するように、すぐに次の言葉を続けた。 「どんどん使わなきゃ、勿体《もつたい》ないですよね。あんな、高いお買い物をしていただいたんですから」 「ねえ、法子さん──」 「気にしないで下さい。私がいちばん暇で身軽なんですから」  出来るだけ愛想良くは言ったつもりだった。だが、健晴を除いた全員が、ほっとして良いものかどうか分からないという、複雑で曖昧《あいまい》な表情になった。嫌みを言ってしまっただろうか、皮肉と受け取られただろうかと思ったが、口から出た言葉は、ひっこめようはなかった。      6  寝返りを打った拍子に目がさめた。 「暑いわね、さすがに」  深々と息を吐き出し、手探りで隣の布団に眠っている和人の腕を探そうとした。暑くても、触れていたい。「眠れないのか」とでも言ってもらいたかった。半ば夢うつつの状態で、法子は和人の布団に手を伸ばした。ひんやりとしたシーツの感触が手に触れた。  ──和人さん?  闇《やみ》の中で、法子はゆっくりと瞬きをした。彼がいない。気が付かなかったが、手洗いにでも起きたのだろうか。もう一度、大きく深呼吸をして寝返りを打つと、法子は、耳だけで、広い家の様子を探ろうとした。手洗いは階下にも二階にもある。その水の流れる音でも聞こえないだろうかと思った。だが、辺りは静寂に包まれている。再びまどろみ始めながら、法子は手洗いの扉の音、水の流れる音が聞こえるのを待った。  ──遅い。  ごく弱いエアコンはきかせているはずだが、東京の夜はやはり暑い。少しうたたねしかかると、法子はまた寝苦しさに寝返りを打った。そして、改めて和人の布団に触れた時、ようやくはっきりと目がさめた。ひんやりとしている。手に触れたシーツには、和人の体温は残っていない。  ──トイレじゃないの?  布団が冷えるくらいまで戻ってこないということは、随分時間がかかっているということだ。法子は急に不安になって、枕元《まくらもと》の時計を見た。午前二時を回っている。  法子はそっと起き上がり、さらりとした感触の畳を踏んで部屋を出た。寝室よりも確実に二、三度は気温の高い空気がまとわりついてきた。長い廊下は、突き当たりの小窓から外の明かりが入って、青白く照らし出されて見えた。  ──こんな夜中に。  階段に向かって少し進むと、健晴の部屋の前を通る。法子は、無意識のうちに素足をしのばせながら、健晴の部屋から規則正しいいびきが聞こえてくるのを確認した。さらに進むと、その隣には綾乃の部屋がある。法子は、その部屋の前で足をとめた。ドアがわずかに開いたままになっている。 「──綾乃ちゃん?」  法子は囁《ささや》くように声を出した。エアコンを入れているのなら、ドアを開けていては冷気が逃げてしまう。 「──起きてるの?」  返答はない。法子は何気なくドアの隙間《すきま》を広げて、中をのぞいてみた。これまでに、二、三回しかのぞいたことのない部屋は洋室で、雨戸のない部屋は、レースのカーテンを通してやはり青白く見えた。法子はその部屋の奥に配置されているベッドを、少しの間ぼんやりと見つめていた。そこには、法子が顔を覗《のぞ》かせている扉からではなく、一条の光が投げかけられていた。  ──いない?  日中と変わらずにベッド・カバーをかけたままのベッドは、横になった気配すらなく、整然としていた。その中央に、黄色い光の筋が走っている。 「────」  法子は、その光を目で追った。光は、ベッドが置かれているのとは反対の壁から洩《も》れている。法子は一度廊下に顔を出し、何の物音も聞こえないことを確認した後、そっと綾乃の部屋に入った。手探りで歩いて行くと、壁だとばかり思っていたところが引き戸になっている。光は、その戸の隙間から洩れているのだ。さらに、隙間からは健晴のいびきがより大きく聞こえてくる。  ごう、ごう、といういびきを聞きながら、そっと隙間に顔を近付ける。耳の奥で鼓動の早まるのが聞こえた。  オレンジ色のベビー・ランプに照らされた、子供部屋と変わらないような玩具《おもちや》の散らばった部屋が見えた。その部屋の中央で、健晴が眠っていた。法子は息をのんで、その姿を見た。彼は二組敷かれている布団にまたがる格好で、全裸で大の字になって眠っていた。  ──どうして。  法子の中で、また浴室での声が蘇《よみがえ》った。綾乃の含み笑い。媚《こ》びを含んだ、粘りつくような笑い。普段の綾乃からは、想像もつかない、性的な香りを含んだ声だった。  ──どういうことなの。  彼らは眠る時にも一緒なのだろうか。だが、弟を全裸にして眠らせるというのは、不自然過ぎる。また生臭い想像が膨らんで、法子は慌ててかぶりを振った。そんな汚らわしい想像をする自分にさえ嫌気がさす。  今にも背後から肩を掴《つか》まれそうな気がする。見てはならないものを見てしまったと思った。今、綾乃の姿はそこにはない。法子は、慌てて戸の隙間から後ずさると、急いで綾乃の部屋を出た。  二階のどこにも、和人と綾乃の姿はなかった。法子は、手洗いもベランダも客間も、全てを忍び足で歩いて彼らの姿を探した。  ──じゃあ、下にいるの? 何をしてるの、こんな時間に。  良からぬ想像が頭の中で膨らみそうになる。法子はそれを振り払うようにしながら、階段を降りた。ただ、寝付かれない兄妹が酒でも酌《く》み交わしているだけかも知れない。だが、階下も闇《やみ》に包まれ、しんと静まり返って、人のいる気配すらなかった。咄嗟《とつさ》に、義母達を起こそうか、和人がいないと声をかけようかと思った。だが、なぜだかそれはためらわれる。頭には、大の字になって眠っていた健晴の姿が焼きついていた。  法子は自分の鼓動の音を聞きながら、恐怖と不安で足が震えるのを感じた。居間の前の廊下はひんやりとして、一ヵ所だけ、足の裏で小さく板目の鳴る場所があった。泥棒であるはずはないのだ。家にはセキュリティー・サービスが入っている。外部からの侵入者がいた場合には、すぐに警報が鳴ることになっている。  ──どこにいるの。何をしてるの。  なぜだか大きな声は出せなかった。出してはならないと、法子の中の信号が告げていた。  日中はガラス戸が連なっているから、素通しの状態になっている廊下も、今は雨戸を閉め切って、余計に暗く、長く感じさせる。法子は、公恵達の部屋に行ってみようかと迷いながら、渡り廊下の方を見た。その時、離れの方がぼんやりと明るいのに気がついた。  ──大ばばちゃん? こんな時間に、起きているのかしら。  少しの間、闇にひそんであれこれと考えた挙げ句、法子はそっと渡り廊下を歩き始めた。廊下を進むと、明かりはヱイの寝室に続いている、もう一つの部屋の方から洩《も》れているのだということが分かった。 「──っていうことなんでしょう?」  突然、話し声が耳に飛び込んできた。法子は全身をびくりと震わせ、その場に立ち尽くした。  ──お義母さん? 「そりゃあ、そうだ。だから、大丈夫だっていってるんだよ」  低く押し殺した声が答えている。法子は、その声の主が武雄であることを即座に聞き取った。 「まさか、爆発するとはねえ」 「警察は、間違いなく、もう手を引いたのね?」  公恵の呟《つぶや》きに続き、今度はふみ江の声だ。「そうよね」と答えているのは綾乃に違いない。小さな声で「ああ」と答えているのは和人だった。その上、「ああ、うう」という声まで聞こえる。松造の声に違いなかった。つまり、健晴と法子を除いた全員が、離れに集まっているということではないか。  眠気はすでに吹き飛んでいた。法子は、それ以上には部屋に近づかないようにして、代わりに、全身の神経を耳に集中させた。頭の中が目まぐるしく動く。 「とにかく、明日で全部が終わるんだから」 「ああ、お父さん、明日の原稿は覚えたの?」 「大丈夫だってば、心配性だな」 「だって、子どもの頃からでしょ? いざとなると、頭の中が真っ白になっちゃうんだから。ほら、小学校の時──」  目眩《めまい》がしそうだった。何の話をしているのか、すべてを聞き取ることは出来ない。ただ、穏やかな抑えた笑い声が聞こえてくるだけだ。「分かったよ、もう」という義父の声は、まるで拗《す》ねている子どものような響きさえ持っていた。どういうことなのか、まるで分からない。  ──警察って何なの。明日のことって、氷屋のこと? うちでは、ただお葬式を出してあげるだけじゃないの? 「あの子は──あの子は?」  その時、低い声が聞こえた。その呟《つぶや》くような声は、間違いなくヱイのものだった。部屋を密やかに包んでいた騒《ざわ》めきが消えた。 「知らないね? あの子は知らないね?」 「知らないさ。大丈夫だよ」  宥《なだ》めるように言ったのは和人だ。法子は焦《あせ》り、腹の底から怒りとも恐怖ともつかないものが湧《わ》き起こりそうになるのを抑えるだけで精一杯だった。  ──何が大丈夫なの。私は、何を知らされていないの。 「今は? あの子は、どうしてる」  ヱイの声は、心なしか気ぜわしげに聞こえた。いつもゆっくりと、呟くように話すヱイが、こんな夜更《よふ》けに家族を集め、彼らの上に間違いなく君臨していることが法子には改めて恐ろしく、不気味に感じられた。 「よく眠ってるはずだよ」 「あの子は、家の宝だ──あの子を失ってはいけないよ」  じっとしていても汗ばみそうな夜だった。それなのに、法子は背筋がぞくぞくと寒くなるのを感じた。実際、両腕から首筋にかけて、鳥肌がたっている。思い切って、「何の話?」と聞いてみようか。突然、障子を開けたら、彼らはどんな顔をするだろうかと思う。だが、今の法子には、とてもそんな勇気はなかった。 「この家を救うのは、あの子なんだ。あの子は、家の宝だ」  唾《つば》を飲み込む音さえも、耳の中で大きく響く。法子は首筋から冷たい汗が伝うのを拭《ぬぐ》うこともせず、闇の中に佇《たたず》んでいた。身体が奇妙にふわふわしていて、まるで、悪い夢でも見ているような気分になっていく。 「大丈夫だよ。法子は」 「でも、案外鋭いところもありそうよ」  和人の声に続いて聞こえたのは綾乃の声だ。 「明日のことだって、何となく、おかしいと思ってるみたいな感じだったじゃない。まだまだ、安心は出来ないわよ」 「そりゃあ、私達みたいなわけにはいかないでしょう、そう簡単には」  ふみ江が宥めるような口調で呟く。そして、「ねえ、おじいちゃん」と続けると、松造の、ああ、うう、という呻《うめ》きにも似た声がそれに答えた。 「本当の家族になるまでには、時間がかかるわよ」  公恵の声には「ああ、まあな」と武雄が答えている。 「家を──家族を、守るんだよ。あの子は守れる子なんだ。和人、出来るね?」 「大ばばちゃん、心配しないでよ。法子はきっと、立派な家族の一員になるよ」  ──何なの、この家は。何なの。  これまでの数ヵ月間の、明るく穏やかな生活が、音を立てて崩れていく気がした。常に上機嫌で仲が良く、誰が聞いても驚く程に法子に対して優しくしてくれる人々。燃え上がるほどの激しさではないにしても、誠実に法子を愛し、共に年齢を重ねようとしてくれている和人。ふみ江の、公恵の笑顔。綾乃の人なつこい可愛らしさ。それらのすべては嘘だったのだろうか。  がくがくと足が震えるのを抑えることも出来ず、法子は息さえ殺して、とにかく物音だけはたてないように、必死で廊下を戻り始めた。念のために、ふみ江の部屋も覗いてみたが、案の定、松造のベッドも空《から》っぽだった。  ──何ていう夜なの。どういうことなんだろう。  のろのろと階段を上がると、また健晴のいびきが聞こえてくる。法子は、薄気味の悪さに薄闇の中で顔をしかめながらそのいびきを聞き、やっとの思いで部屋に戻った。微《かす》かに流れているエアコンからの冷気が、法子の冷たい汗を余計に冷やした。頭が混乱している。  ──明日。警察。大丈夫。  彼らはそんなことを言い合っていた。  ──まさか。  ふいに、とんでもなく恐ろしい想像が頭をもたげてきて、法子は薄い羽毛の肌掛けにしがみついた。寝ぼけているのかも知れない。そうだ、あまりの暑さに、寝ぼけたのだ。  だが、何とか横になって目をつぶっても、さっきの健晴の寝姿が浮かび、ヱイの嗄《しわが》れた声が耳について離れない。法子は、もう一度おずおずと和人の寝床に手を伸ばし、本当に彼がいないことを確かめた。夢ではないと、彼の寝床の冷たさが語っていた。      7  翌日は、前日にも増して暑さの厳しい日で、午前中から温度計の目盛りはぐんぐんと上がっていった。 「どうしたの、顔色が悪いよ」  朝、店に出る前の和人が不思議そうな顔で法子を見た。法子は全身から冷たい汗が吹き出しそうになりながら、懸命に笑顔を作って「そう?」と答えた。 「いつもと変わらないわ」 「なあに、具合が悪いの?」  すかさず公恵が身を乗り出してくる。法子はますます身を固くして「平気です」とだけ答えた。 「疲れたんじゃないの? 帰ってきてすぐ、こういうことになったから」  今度はふみ江が心配そうな顔で法子を見た。新聞を読んでいた武雄も、健晴の食事の世話をしていた綾乃も、同時に法子を見た。  ──見ないで。私を、見ないで。  法子は俯《うつむ》きがちに食事をしながら、ひたすら笑顔を作ろうと努力した。けれど、昨日までのように、素直な笑みの浮かぶはずがない。  昨夜は結局、午前三時を回った頃に、和人はようやく戻ってきた。階段を昇る足音が小さく聞こえてきただけで、法子は恐怖のあまりに声を上げてしまいそうだった。だが、必死で歯を食いしばり、全身を強《こわ》ばらせて、とにかく眠っているふりをした。 「おやすみ」  部屋に戻ってきた和人が耳元で囁《ささや》いた時にも、思わず彼の顔をはねのけたい程だった。そして「どういうことなの!」と叫びたかった。だが、和人一人の行動が怪しいわけではない、この家全体が奇妙なのだと思うと、突然騒ぎ始めても、かなうはずがないと思った。法子一人、孤立無援の状態で敵地に乗り込んでいるのと同じことだ。こんなに広い家で、少しくらいの悲鳴を上げたところで、とても隣近所までは聞こえるはずがない。庭の木々が、風の騒《ざわ》めきに溶かし込んでしまうに違いなかった。やがて隣で規則正しい寝息が聞こえ始めた後も、法子は闇《やみ》を睨《にら》み、突然|湧《わ》き起こった疑問を整理しようと、必死で頭を働かせた。  ──氷屋。無理心中。ガス爆発。葬儀。  結局、法子はついに一睡もしないままで朝を迎えた。 「大丈夫かしら、今日の告別式は、やめにしておく?」  そう言ったのは公恵だった。法子は急いで顔を上げ、顔を強ばらせたまま「大丈夫です」と答えた。耳の奥には、昨夜、ヱイの部屋から聞こえた武雄の「大丈夫」という声が残っている。 「無理することないのよ。何だったら──私が行くから」 「大丈夫ですったら!」  思わず苛立《いらだ》った声を上げると、公恵は驚いた顔になって法子を見つめた。他の家族も、目を丸くして法子を見つめている。 「──眠れなかったのかい」  すでに喪服を着ている武雄が、何かを探るような目つきで言った。心臓が冷たくなりそうな感覚の中で、法子は懸命に首を振った。 「よく眠ったつもりなんですけど──何か、嫌な夢を見て──ああ、エアコンを、きかせすぎてたのかも知れません。それだけですから。ああ、ねえ、和人さんは、寒くなかった?」  わざと言うと、和人は「え?」と言った後、少しばかり慌てた様子で「ああ、エアコンね」と頷いた。法子は無理に強ばった笑いを浮かべ、「寒かったわよ、絶対」と言いながら、必死で箸《はし》を動かした。 「食欲もほら、ありますから。大丈夫ですから」  とにかく外へ出たい。そして、家族に見とがめられない場所で、誰かに連絡を取りたかった。その相手も、昨夜のうちに決めてある。結婚式以来、連絡を取っていない大熊知美以外にはいなかった。 「気分が悪くなったら、すぐに帰ってきていいのよ」 「この暑さだから、無理をしないでね」  出がけにも公恵とふみ江に言われて、法子は二日目の喪服姿で家を後にした。どうしても足早になりそうだったが、振り返ると二人が並んでこちらを見ていたから、出来る限りゆっくりとした足どりで、靴音を響かせて歩いた。  葬儀は通夜《つや》よりは整然とした形式で進められた。無宗教ということもあって、神父や僧侶《そうりよ》が呼ばれているわけでもなく、会場には静かな音楽が流れているばかりで、線香の煙も読経の声もなかった。武雄が生前の氷屋の家族、一人一人についての紹介を行ったあと、参列した人達は祭壇に並べられた四つの棺の前に花を捧《ささ》げた。それから、本庄屋と縁のあった人々が数人、弔辞を読み始める。すすり泣く人がいないわけではなかったけれど、肉親と呼べる人達の存在しない式典は、どこか空々しい雰囲気があった。 「氷屋もさ、恩を仇《あだ》で返すようなことになっちまったな」 「それにしたって、イチフジさんは大したものだよ。なかなか出来ることじゃないよ」  今一つ、荘厳さに欠ける雰囲気の中で、参列者は口々にそんな話をしあっている。彼らにしたところで、大半は商店会の店主仲間か、近所のお得意様ばかりで、故人に縁のあるというよりは、志藤家と縁のあるという人達ばかりのようだった。法子は、ぼんやりと彼らの会話を聞いていた。 「余裕があるから、こういうこともしてやれるんだろうけど、人が好いよね、イチフジさんも」 「あれだってよ、氷屋。家賃だって、ここ半年くらいため込んでたっていうよ」 「じゃあ、踏んだり蹴《け》ったりっていうところか」  白い花で埋まった祭壇には四つの棺が並んで、その数の多さもまた、普通の葬儀とは異なる雰囲気を醸し出していた。心から哀しむ人もいない中で、誰が探し出したのか、生前の本庄屋の家族の写真が虚《うつ》ろな表情で人々を眺めている。  ──本当は、どうだったの。教えて、あなたたち、殺されたんじゃないの?  寝不足のせいか、神経ばかりがぴりぴりと張りつめている。法子は、ひたすら彼らの遺影を見上げていた。実際、四つの棺を前にしてみると、昨夜の考えは法子の妄想だったのではないかという気がしてきた。暗闇の中で、一人でパニックに陥って、ひどく取り乱していたから、そんなことを考えてしまったのかも知れない。こうして現に骸《むくろ》となってしまった家族を前にすると、そんな大それたことなど簡単に出来るはずがないではないか、とも思う。第一、動機が分からない。 「相当、具合が悪かったんだろうかね、氷屋は」  背後で誰かがそう言った。大きく引き伸ばされている本庄屋の写真は、先月、法子が庭先で会った男とは同一人物とは思えないくらいに精悍《せいかん》で逞《たくま》しい顔つきをしていた。 「ここ五、六年くらいだろう? 急に病気がちになったのは」 「親父さんが死んでからだな。あの頃はほら、商売がえを考えてるなんて、結構張り切ってた、その矢先だよ」 「ああ、覚えてるわ、それ。何だか、お金を出してくれるところが見つかったとか、そんなことを言ってたの」 「それ、イチフジさんのことじゃないのかね」  聞けば聞くほど、法子は昨夜の全てが妄想だったのかも知れないと思えてきた。結局のところ、自分はよそ者にすぎない。近所の人々は、法子よりもよほど志藤家のことをよく知っている。彼らが噂《うわさ》する志藤家の人々は、法子が実感しているのと同じ、善良で誠実な仲の良い家族だ。  ──でも、この人達も知らないことがある。  目をつぶれば、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうな感じだった。それでも、神経ばかりがぴりぴりと張りつめて、法子を眠らせまいとする。  ──でも、じゃあ、昨日の相談は何だったの。何故《なぜ》、うちの人達が警察のことまで気にするの。何故、皆お通夜《つや》にもお葬式にも出ないの。寝覚めが悪いからじゃないの? せめてもの償いのつもりで、それで葬式を出してやってるんじゃないの? 「あの前の日にね、見たのよ」  急にはっきりとした声が聞こえて、法子はびくりとなり、意識が遠のきそうになっていたことに気付いた。俯《うつむ》いていたせいで、首に汗がたまっている。 「前の日よ、氷屋がイチフジさんの裏木戸から出てくるところ、見たの。ああ、氷屋もご隠居さんのところへ行ったんだと思ったんだけど。でも、ほら、声はかけない方がいいかなって思ったのね。まさか、その次の日にこんなことになるなんて思わなかったしねえ」  聞き覚えのある女性の声が、早口にまくしたてている。その声は、やはりヱイの元を訪れる客の一人に違いなかった。顔ははっきりとは覚えていないが、法子は少なくとも四、五回はその声を聞いている。  ──あの男も来ていた。  法子はつい振り返って声の主を見てみたい衝動にかられた。  昨日、法子は和人に聞いたはずだ。そんなに悩んでいたのなら、本庄屋もヱイに相談してみればよかったのにと。その時、和人は何も答えなかった。 「──信じないから、いけないんだ」  今度は男の押し殺した声が囁《ささや》いた。法子は、またもや頭が混乱しそうになった。昨夜から、どうも人々の会話の意味が分からない。  ただでさえ、前々から不思議に思っていることがある。  人々は、そんなにもヱイの元を訪ねて何をしているのだろう。早い人ならば十分程度で帰ってしまうのだから、それほどの相談ごとでもないと思うのに、何故、彼らはそれ程までにヱイを求めるのだろう。 「では、最後にもう一度|黙祷《もくとう》を捧《ささ》げまして、岩井英志さん、雛子さん、友孝くん、美里さんのご冥福《めいふく》を心から祈念いたしたいと思います。何かのご縁で、こうして同じ町内で長い年月を過ごした私達の、そして、本日ここにお集まり下さいました方々の、それぞれの追悼の心が、岩井さんご一家の魂を少しでも慰めることが出来、安らかにお眠りいただけるよう、祈りの心で導いて差し上げられることを信じます」  武雄の、荘厳とも言えるほどの声が響くと、人々の囁きも途絶えた。昨晩、公恵に「大丈夫なの」と言われていたとも思えない程、その声は落ち着き、哀しみに包まれた葬送の集いを演出するには実によく似合っていた。 「黙祷!」  人々と共に起立して、法子は深く頭を垂れた。  ──教えて。あなた、本当に自殺したの? あなたが、あなたの手で家族を殺したの? あなたは、私に何を言おうとしていたの。  今となっては、本人に確かめる術《すべ》もない。法子は固く目を閉じ、ひたすら哀れな氷屋の一家に話しかけた。あなた方は殺されたのではないのかと。  それから、四つの棺は火葬場へと向かった。法子は義父に無理をしない方が良いと言われ、霊柩《れいきゆう》車の列を見送る側に回った。冷房のきいていた会場から出ると、空には夏の雲がもくもくと湧《わ》き、一気に汗が吹き出してきた。 「イチフジさんの、お嫁さん?」  立ち話をしたり、各々に帰路につく人達に混ざって、のろのろと数珠をバッグにしまいこんでいると、ふいに声をかけられた。それだけで、法子はどきりとして鼓動が速まった。顔を上げると、四十前後に見える女性が、不安そうな表情でこちらを見ている。 「ちょっとうかがいたいの」  女は、素早く周囲に視線を走らせた後で、ひどく秘密めいた口調でそう言った。法子は、曖昧《あいまい》に「はあ」と答え、その女を注意深く見つめた。 「お宅に、百歳くらいのおばあさんがいらっしゃるんですって?」 「──おりますが」 「初めてうかがって、すぐにお目にかかれる?」  法子は小首を傾《かし》げながら、相手の女性の言葉の意味を探ろうとした。彼女が何を言おうとしているのか、よく分からなかった。 「あの、何か御用ですか?」  取りあえずはそう聞き返すと、彼女は一瞬驚いた顔になり「えっ、だって──」と言いかけて、それから数回瞬きを繰り返した。 「あの──おばあさんのところへ」  そうだ。この人からどういう用件か聞き出せば、ヱイへの来客の意味が分かるかも知れない。法子は、どういう方向に話を持って行けば不自然でなくそれを聞き出せるだろうかと、目まぐるしく頭を働かせた。 「結構、色々な方がみえるものですから、忙しいんですが」  すると、その女は「やっぱり」と言って瞳を輝かせる。そして、ますます法子に身を寄せてきた。葬儀に参列していた人の群れは、もう四方に散っていて、法子はその女性と二人だけで取り残された形になっていた。 「秘密は守りますから、ねえ、うかがわせていただけないかしら。ぜひ。私もどうしても、お力をいただきたいの」 「力っていっても──」  白いハンカチを取り出して、わざとらしく額を抑えていると、女は苛立った表情になって「ねえ」と眉《まゆ》をひそめた。 「お願いよ。よそでは絶対に手に入れられないっていうんでしょう?」  ──手に入れる?  法子は俯《うつむ》いて迷うふりをしながら、女が「秘密は守りますから」と言うのを聞いていた。辺りには蝉《せみ》の声が満ち、世界中の全ては、太陽に焼き尽くされて真っ白に見える気がした。      8 「待って、待って、待って」  息をついだ瞬間、目の前で知美がひらひらと手を振った。法子は、息を吸い込んだまま、正面から知美を見つめた。 「落ち着いてよ、法子の言ってること、めちゃめちゃよ」  法子は苛立《いらだ》ち、泣き出したい衝動に駆られながら、恨めしい気持ちで「だって」と顔をしかめた。だが、もう一度何か言おうとする前に、知美はさらに「待って。ね?」と言う。そして、小さなポーチから煙草とライターを取り出すと、わざとらしいくらいにゆっくりとした、慣れた手つきで煙草を取り出した。 「だって──」 「だから、待ってったら」  虎《とら》ノ門《もん》の、ビルの地下にある喫茶店だった。法子は、斎場で話しかけてきた女を適当な言葉ではぐらかして、その足で駅に急ぎ、朝から決意していた通りに知美に連絡を取った。結婚前には、やっかみ半分とも取れる感想を述べていた彼女は、職場にかかってきた突然の電話に驚いた様子だったが、それでも法子が会いたいと言うと、あまり長い時間はとれないが、と言ってくれた。 「気持ちは分かるけど、法子、自分が何を言ってるか分かってるの? あんたの言ってること、ただごとじゃないのよ」  地下鉄の何番の出口から外へ出て、何銀行の角を曲がり、どういう看板の出ているビルの脇《わき》の階段を降りれば良いか、彼女は電話口で要領よくてきぱきと指示してくれた。それに従ってようやく見知らぬ街《まち》にたどりついた法子は、そこに自分とはまるで縁のなかった生き方をしているたくさんの若い女性たちを見た。 「つまり、こういうこと? その、氷屋の一家は、実は無理心中なんかじゃなくて、法子の旦那《だんな》の家族が殺したっていうことで」  法子は「しいっ!」と鋭い音を歯の隙間《すきま》から出し、慌てて周囲を見回した。だが知美は「分かってる」と言うように小さく頷き、表情を変えずに言葉を続ける。そんな仕草も、いかにもこの街に馴染《なじ》んでいるようで、法子はつい気後れしそうになった。 「その家族の中でも、九十八歳のひいおばあちゃんが特に怪しいっていうことなんでしょう? 全ての指示はその人が出してて、しかも、麻薬だか覚醒《かくせい》剤だかの密売をしてる可能性がある」  法子は下唇を噛《か》みしめたまま頷いた。知美はそれを確かめるように頷き返す。 「──その上、旦那の妹と、十八になる知恵後れの弟は、姉弟以上の関係だって。そういうこと?」  再び健晴の寝姿が蘇《よみがえ》る。全裸で、二組の布団にまたがって。そして、深夜の廊下で耳にした家族の声と「法子は知らない」という言葉。つい昨晩のこととも思えないくらい、それらの印象は朧気《おぼろげ》で、ひどく現実離れした曖昧《あいまい》なものだという気もする。 「本当なの?──本当だとしたら──どういうところに嫁にいったのよ、もう」  煙草の煙をふうっと吐き出し、知美は小さく舌打ちをした。それから少しの間、親指の爪を噛んで、しきりに考えをまとめようとしている。その仕草は、法子が机を並べて勉強していた高校の頃と変わらなかった。 「──証拠は?」  顔を上げた時、彼女は落ち着いた顔で言った。法子は彼女のコンタクトレンズを入れた瞳《ひとみ》に見つめられ──何しろ、度の強い眼鏡をかけている彼女ばかりを、法子はずっと見てきている──力なく頭を振った。 「その──ひいおばあちゃんのことと、妹達のことは、この際置いておきましょうよ。一つずつ考えなきゃね」  コンタクトレンズを入れていると、こんなに瞳は煌《きらめ》くのだろうかと、法子はつい無関係なことを考えた。それくらい、彼女の瞳はきらきらと輝いて、何かとても素敵なことを考えているようにさえ見える。法子はふいに、奇妙な淋しさが湧《わ》いてくるのを感じた。 「とにかく、いちばん問題なのは、その氷屋? 無理心中した一家のことよ。もしも本当なら、法子の旦那の家族は、一家|揃《そろ》って人殺しっていうことになっちゃう」  背筋が冷たくなる。法子は、張りつめた神経を休める方法も分からないまま、さっきから数え切れないくらいに深呼吸を繰り返していた。寝不足の上に、この暑さの中を動き回ったせいか、どくどくと鼓動が速まっていた。 「──確かに聞いたのよ。昨日の夜中、皆でひいおばあちゃんの離れに集まって、警察も手を引いたからとか、私には気付かれてないからとか、相談してたの!」 「でも、警察は無理心中だって言ったんでしょう? それで落ち着いたんでしょう?」 「そうだけど!」  知美は憂鬱《ゆううつ》そうに口をとがらせ、ちらりと周囲に目配せをした後で「落ち着いて」と囁《ささや》いた。 「じゃあ、どうして? どうして、法子の旦那の一家が、その氷屋を殺す必要があるの?」 「──分からないけど」 「普通に考えて、ねえ。家を貸してやってて、しかも家賃を滞納してる一家を、大家が殺して、何の得がある? 生命保険でもかけてあったとか?」 「────」  その辺りになると、法子には何も分からない。だが、法子には確信があった。人々が寝静まる時間に、いつもは八時過ぎに休むはずのヱイまでも起きていて、一家全員が揃って何かを相談するなんて、それだけでも普通のことではない。法子さえいなければ、彼らはもっと早くそのことを話せたはずだ。だが、法子に知られたくなかったからこそ、彼らはあんな時間に起き出したのに違いない。 「いい人達なんでしょう?」 「そうよ──いい人達だわ──よすぎるくらい。明るくて優しくて楽しくて」 「法子の目から見て、そういう人達が、皆で人殺しなんかすると思う?」  そう言われてしまえば、法子はノーと言わざるを得ない。いや、出来ることならはっきりと、ノーと言いたかった。この三ヵ月、法子は一日も早く彼らに馴染むことばかりを念じてきたし、それは、考えていたよりもずっと楽しく、素敵なことに思われていた。それくらい、法子は和人の家族が好きだった。 「あんた、疲れてるんじゃないの? そうじゃなかったら、久しぶりに実家に帰って、おばさん達に会って、里心がついたとか」 「そんなんじゃないわ。私だって、出来ることなら信じていたいのよ」  法子は泣くに泣けない気持ちで知美を見た。恥ずかしい話を聞かせてしまっているのかも知れない、自分の惨めさを見られるだけかも知れないと思う。だが、今、この広い東京で信じられそうな相手は、目の前の知美以外にいないのだ。 「本当にね、この三ヵ月間、嘘《うそ》みたいにうまくやってきたのよ。大家族に嫁ぐなんて大変に決まってるって、皆に言われたけど、こんなに素敵じゃないかって、私、嬉しかったの。それなのに、もう、何が何だか分からなくなりそうで──」  つい、俯いてしまうと頭の上で知美のため息が聞こえた。それから「だったら、信じたら」という声がした。 「警察だって馬鹿じゃないのよ。ちゃんと調べた上で、無理心中だって断定したんでしょう? 法子が家族の内緒話を聞いた程度で疑うよりも、ずっと確かなはずよ」  知美の声は落ち着いて、冷静だった。法子は相変わらず速まっている鼓動を耳の奥で聞きながら、彼女の冷静さを羨《うらや》ましく思った。 「いい? 完全犯罪となったら、人一人殺すのだって、そう簡単じゃないと思わない? それを、一家皆殺しにするなんて、毒薬でも飲ませない限りは──」 「それよ! そうしたら、大ばばちゃん──ひいおばあちゃんは、何か怪しい物を売りつけてる可能性があるってことになったわけでしょう? ほら、つながるじゃない。氷屋は、その秘密を握ってたのよ、それで、口を封じる為に──」  知美は難しい表情で考え込み、視線を宙に浮かせて一人で頷いている。それから、一つため息をついて、小首を傾《かし》げて法子を見た。 「でも、氷屋の死体は解剖してるはずでしょう? 死ぬ毒を飲ませたっていうんなら、解剖して分かるはずじゃない。第一、死因だってガス心中だったんだし」 「────」 「しっかりしなさいよ。どうも、あんたの言うことの方がおかしい気がするわ。どうかしちゃったんじゃないの? 何の不満もないお家にお嫁にいって、幸せぼけ?」  法子は、情けない気持ちで知美を上目遣いに見た。彼女は相変わらずきらきらと輝く瞳で、幼い子をたしなめるような表情でこちらを見ていた。 「どうしてもおかしいと思うんなら、確固たる証拠を掴《つか》まなきゃ。もしも、法子の言う通り、ひいおばあちゃんや妹さんたちがおかしいっていうんなら、たとえば、秘密を握った氷屋に、それをネタに強請《ゆす》られてたっていうことなんか、考えられるとは思うわね。だから殺されたっていうんなら、説明もつく。でも、だったら、その秘密を探るなり、証拠を掴まないことには、ね? いい加減な当て推量で警察になんか行ったら、それこそ大変なことになるわよ」  知美の言うことは、いちいち筋が通っている。それは、法子も頭ではよく分かっていた。 「第一、法子の勝手な誤解だったら、どうするの? 大切にしていたお嫁さんに疑われたなんていうことになったら、せっかくうまくいっていたものが、全部駄目になっちゃうのよ」  だが、頭では分かっていても、法子の本能が告げているのだ。危ない、おかしいと、あの家は何かが変だと告げている。 「──信じてくれないの?」  絶望的な気分で知美を見ると、彼女は柔らかく微笑んで軽く頭を振った。 「だから、そうじゃないってば。慌てたら駄目っていうことよ。もしも、法子がもう少し調べて間違いないって思ったら、その時は私も協力する。氷屋のことでも、ひいおばあちゃんのことでも、もっとはっきり分かったら、その時は二人で考えよう、ね?」 「調べてって──どうすればいいのか、分からないよ」 「とにかく、観察することよ。一つ屋根の下に住んでるんだもの、おかしいところがあれば、すぐに気がつくはずよ。向こうがどんなに隠そうとしたってね」  結論を急ごうとする心は、疲れも手伝ってぐずぐずと崩れ始めていた。和人が、公恵や武雄が、ふみ江やヱイまでが、皆で一緒に本庄屋を殺害するなんて、所詮《しよせん》は馬鹿げた妄想かも知れない。あまりにも現実離れし過ぎている。 「とにかく冷静になること、ね?」  最後に、知美はそう言って微笑んだ。法子は力なく頷き、必ず近いうちに連絡をすると約束させられた。もう一時をだいぶ回っていた。昼休みを利用してきたのだという知美は、腕時計を見てから「また怒られちゃう」と笑って会社に戻っていった。  ──冷静になること。証拠を掴むこと。  初めて利用する駅には、不思議な匂《にお》いが満ちている。地下鉄特有の、埃《ほこり》と鉄錆《てつさび》と湿気と、それに乗り降りする人々の体臭や疲れ、人々が靴音を響かせた年月などの全てが混ざっているような匂いだった。法子は、生ぬるい風に吹かれながら切符を買った。まずは銀座《ぎんざ》線を赤坂見附《あかさかみつけ》で丸《まる》ノ内《うち》線に乗り換え、新宿に行く。そこから中央線に乗れば、やっと小金井に帰り着くというわけだ。  ──一つ屋根の下にいるんだから。きっと気が付く。  ついさっき、知美に言われたことが頭の中で渦巻いていた。けれど、もしも法子の懸念が的中しているとすると、法子は殺人者に混ざって生活しなければならないということだ。目の奥が痛む。瞬きをすると、涙が目に沁みた。  ──とんでもない家に嫁いでしまったんだろうか。  今日、知美はそんなことは言わなかった。だが、法子はいつ彼女が「だから、言ったじゃない」と言いはしないかと、内心でひやひやしていた。自分がひどく愚かで惨めに思えてならなかった。  電車は、生ぬるい空気を巻き上げながらホームに滑り込んできた。法子は人に背を押されながら、混雑する電車に乗り込んだ。さらに赤坂見附で電車を乗り継ぎ、プラットホームの反対側に滑り込んでくる丸ノ内線を待つ。  ──証拠を握るまで、私はあの家から出られないんだろうか。  だが、何の証拠を握れというのだろう。ただでさえ、法子の頭は既に相当混乱している。電車を待つ人の最前列に並んで、法子は鈍く光る線路を眺めていた。ヱイの力、綾乃と健晴のこと、本庄屋のこと、全てが絡み合って、まるで整理がつかない。  新宿に着いたら、そこから中央本線に乗って、そのまま実家まで戻ってしまいたい。つい、そんな気にもなった。頭の片隅には、和人の柔らかい笑顔が思い浮かんでいる。こんなに愛しく思っている、こんなに好きな笑顔の裏に何が隠されているのかと思うと、もう絶望しかないとさえ思った。  ──でも、誤解だったら? 要らないいざこざを起こすだけ。そんな馬鹿げた誤解をする嫁を、あの人達は許してはくれないかも知れないのよ。  荻窪《おぎくぼ》行きの丸ノ内線が滑り込んできた。法子は一つ息をつき、顔を上げた。結局は、あの大きな家に帰るより他にない。知美の言う通り、確固たる証拠を掴《つか》むより他にないのだ。  減速し始めている電車に向かって、一歩踏み出そうとした時だった。突然、強い力が背中を押した。 「────!」  どん、という衝撃を感じた瞬間、身体のバランスを崩し、法子は思わず悲鳴にならない声を上げた。心臓が縮み上がり、次の瞬間には張り裂けそうになった。頬《ほお》にかかった髪をかき上げる余裕もなく振り返ると、目の前に綾乃がいた。 「驚いた。喪服の人がいるなぁと思ったら、お義姉《ねえ》さんなんだもの。どうしたの? お葬式は?」  綾乃は、不思議そうに小首を傾げ、にこにこと笑っている。法子は頭のてっぺんから汗が吹き出すのを感じながら、その笑顔を見ていた。      9  夕暮れが迫る時刻になって、法子はのろのろと台所へ降りていった。綾乃に付き添われる形で帰宅してから、気分が悪いと言って部屋にこもってしまっていたのだが、そろそろ食事の支度を手伝わなければならない。 「どうしてまた、急に銀座になんか行きたくなったの?」  帰宅して早々に、法子は公恵に聞かれた。 「でしょう? 私も、びっくりしたわ」  綾乃も頷《うなず》きながら法子の顔をのぞき込んだ。法子は、ただ気晴らしをしたかったのだと、言い訳にもならないことを言ってごまかした。そして、公恵達の関心を逸《そ》らす意味でも、葬儀の後で近づいてきた女の話をした。 「大ばばちゃんに会いたい、秘密は守りますからって、まるで意味の分からないことを言われたんですけど」  法子が言うと、公恵と綾乃は一様に無表情になり、それから、そんな話にはまるで興味も関心もないという様子で「そう」「へえ」と言っただけだった。 「何かしらねえ、どんな人だった?」  法子から顔を逸らして、公恵は確かにさりげなさを装って見えた。法子は、そんな公恵から目を放さずに、斎場で近づいてきた女の人相|風体《ふうてい》を説明した。 「心当たり、あります?」 「ないわねえ、四十歳くらいなんでしょう? 法子さんにも、見覚えのない人だったんでしょう?」 「昨日のお通夜《つや》では、見かけなかったと思うんですけれど」 「そんな人が、大ばばちゃんに何の用があるっていうのかしらね」  綾乃までが、とぼけた顔でそう言った。法子は、二人が徹底的に隠すつもりらしいことを知り、それ以上に深く追求すると、自分の身が危険にさらされる気がして口をつぐんだ。そして、二階の部屋に引き上げてしまったのだ。  ──この家は普通じゃない。それだけは、確かなのよ。  台所に行くと、それまで聞こえていた話し声がぴたりと止んだ。公恵と綾乃が、それぞれ流しとガス台の前に陣取って、黙って手を動かしている。 「あら、気分はどう? 休んでいてよかったのに」  手伝います、と法子が声をかけると、公恵は初めて法子に気づいたように顔を上げて、にこりと笑った。綾乃も妙に愛想の良い顔で笑ってみせる。だが、その笑顔は妙によそよそしい、白けたものに見えた。そこへ、居間からふみ江も現れた。 「どれ、私もお手伝いしましょうか」  彼女はさりげなく法子を見て、すっと視線を外してしまった。法子は、じわりと心臓を掴《つか》まれたような嫌な緊張感に襲われた。心の中に晴れようもない霧のようなものが広がっていく。 「じゃあね、おばあちゃん、キヌサヤの筋をむいて」  綾乃は法子の方を見もせずに、ザル一杯のエンドウ豆をふみ江に手渡す。ふみ江は「はいはい」と答えてそれを受け取ると、法子の横をすり抜けて食堂のテーブルについた。カウンター越しに、小さく鼻歌を歌いながら豆の筋を取り始めるのが法子からも見えた。その表情は、昨日までのものとは絶対に違っていると思う。いくらリラックスして見せていても、彼女の横顔は明らかに強《こわ》ばっており、法子に対する警戒が漲《みなぎ》っていた。  法子は手持ち無沙汰《ぶさた》のまま、めまぐるしく頭を働かせていた。綾乃が台所に立つなどということは、法子が嫁入りして以来、ほとんどなかったことだ。公恵が無言で料理をするのも、ふみ江さえも手伝いに来るのも、全てがこれまでと違っている。となると、彼女達が完全に法子を意識し、邪魔にしているとしか思えない。  公恵がふいに振り向いた。 「皆で寄ってたかって支度するほど、今日はご馳走《ちそう》じゃないわ。だからね、法子さん、休んでいらっしゃい」 「そうよ、たまには私が手伝うから」  綾乃もいそいそとした表情で法子を見る。二人の顔には、相変わらずはりついたような笑みが浮かんでいた。法子は小さく頷き、そっと台所を出た。その間も、背中に痛いほど視線を感じずにいられなかった。  ──化けの皮がはがれてきた。  縁側に腰を下ろして、夕暮れの風に吹かれながら、法子は彼女達はもはや味方ではないのだと感じていた。あの女のことを言った時から、法子の立場は完全に彼女達を脅かす存在になったに違いない。こうしていても、台所からは何か密《ひそ》かな話し声が風のように伝わってくる。  ──いいわよ、相談しなさいよ。私をどうするか。皆で決めればいい。  神経ばかりを尖《とが》らせて、ただ縁側にいるのも落ち着かなくて、法子はサンダルをひっかけて庭に出た。遠くで雷が鳴っている。見上げれば、西の空から灰色の雲が迫りつつあった。  庭のそこここから、夏の虫の声がした。短い夜の鬱陶《うつとう》しさを増長するような、じい、じい、という声は時雨《しぐれ》のように足元から法子を包んだ。庭は広々として、時折吹いてくる風に、木々の梢《こずえ》がざわめく。なのに、法子はひどく風通しの悪い場所に立たされているような気がしてならなかった。たっぷりとスペースを取ってはあっても、ここは檻《おり》と変わらないのではないか。放牧されている羊は自分達を自由だと思い込んでいるかも知れない。だが、結局、一定の区域から外へは出られない。自分もそれと同じなのではないだろうか。  とうに洗濯物のとりこまれた物干し場の方に回り、法子はいつも公恵が屈《かが》み込んでいる花壇の前に立った。確か、法子が里帰りする前まで葉が繁っていた辺りの土がむき出しになっていた。少し前まで公恵が真剣に眺めていた花の季節も終わっている。法子は、アサガオと教えられた葉に何気なく手を伸ばした。 「触っちゃ駄目っ!」  ふいに鋭い声がした。法子はびくりと身体を震わせ、慌てて振り向いた。 「触っちゃ、駄目なんだぞ」  薄暗がりの中に数本の白い横縞《よこじま》が浮き上がって見える。健晴のブルーと白のストライプのTシャツが、わずかに揺れながら近づいてきた。彼は法子の隣まで来ると、ひどく真剣な表情で花壇を指さした。 「これ、触っちゃ駄目なんだから」 「どうして?」  法子は大真面目《おおまじめ》な顔で法子と花壇を見比べている健晴の瞳をのぞき込んだ。法子よりも身長の高い義弟は、少し考える顔になり、それから得意そうに胸を反らした。 「毒だから」 「──毒?」  法子はまじまじとアサガオを見た。 「だって、アサガオでしょう?」 「違うよ、ナスだもん」 「ナス?」  そういえば、アサガオの葉とは、どうも形が違うと思った。それに、蔓《つる》を巻かないのは不思議だと、前から思っていた。 「食べるとね、ばかになるんだから。だから、食べたら駄目、触っても駄目なんだ。ばかになるんだからな」  法子は人知れず生唾《なまつば》を飲み込んでいた。毒、という言葉が頭の中でかけ巡った。 「たぁくん、それ、誰から言われたの?」 「みんな」 「たぁくん、食べたこと、ある?」  健晴はむっとした顔になって「ないぞ!」と口を尖《とが》らせた。 「食べたことある人、知ってる?」 「知ぃらない。でも、知ってる」 「どういうこと」 「だって、売ってるんだもん」 「これを? どこで?」 「知ぃらない。お店屋さんかなあ」  法子は、義弟の要領を得ない答えを聞きながら、頭の中で素早く一つの推理を組み立て始めていた。 「ねえ、たぁくん」 「ああ、かみなり様だぁ。ゴロゴロ、いってる」 「たぁくん、大ばばちゃんが売ってるの?」  思いきって口にしてみると、それはもう確固たる事実としか思われなかった。だからこそ、引きも切らずに来客があるのに違いない。皆、この毒を欲しがってヱイを訪ねてくるに違いないのだ。法子は、その恐ろしい想像に身震いしそうになりながら、義弟の柔らかい腕に触れた。むっちりとしていて、まるで筋肉の発達していない腕は、男の腕とも女のものともつかない感触があった。 「たぁくん。教えて。大ばばちゃんが、売ってるんじゃないの? この毒を、ねえ」 「毒じゃないもん。ナス」 「そうね、ナスね。毒のあるナスなんでしょう?」 「ばかになるんだぞ。ばかナスだ、ばかナスだ」 「ばかって、どういうことなの。ねえ、たぁくん、大ばばちゃんが、それを売ってるんでしょう?」  必死で健晴から聞き出そうとしていたときだった。頭上で雷の音が響き、一際生ぬるい風が吹き渡った。法子は、額に粘りつくような風を感じながら何気なく振り返って息を呑んだ。いつの間にか、そこに武雄が立っていた。 「健晴、お姉ちゃんが呼んでるよ」  武雄は、低く落ち着いた声で言った。法子の手の中から、するりと健晴の腕が抜けた。 「お姉ちゃん?」 「そうだ。健晴はどこに行ったんだろうって、心配してる。さあ、大変だ。すぐにお姉ちゃんのところに行かなきゃな」  武雄の言葉が終わるか終わらないうちに、健晴は「お姉ちゃーん!」と大声を出し、大きな頭をぐらぐらと揺らしながら、ひょこひょこと走り始めていた。Tシャツの白いストライプが遠ざかっていく。法子はその後ろ姿を眺め、同時に、義父の手の中で何かが鈍く光っているのを認めた。その瞬間、それがナイフであることに気がついた。  ──殺される?  法子は思わず、その場に立ち尽くした。夕闇《ゆうやみ》はいっそう深まり、同時に黒い雲も立ちこめていて、武雄の表情を隠す。だが、法子には彼がかつて見せたことのない程に冷酷な表情を浮かべて立っているのを感じることが出来た。そう、感じるのだ。彼から漲《みなぎ》る不信感と強烈な悪意が、真っ直ぐに伝わってくる。 「何でも口に入れようとするから、そう言ってあるだけのことなんだ。健晴の言うことなんか、信じないだろうとは思うがね」  武雄の声は落ち着いていた。そして、ずいと一歩近づいてくる。片手をズボンのポケットに入れ、彼はまっすぐに法子に向かってきた。 「まさか、信じないだろう?」 「ええ、ええ。たぁくんには気の毒ですけれど、アサガオのことをナスだなんて言うんですもの──可哀相ですよね」  法子の声は完璧《かんぺき》にうわずっていた。 「法子さん、あんた、うちの──」 「──いけない。お夕食の支度を手伝わなきゃ。お義父さん、すみません」  法子は、おずおずと二、三歩後ずさり、それから小走りで母屋に向かった。手足はぎくしゃくとして、もう少しで転びそうだった。      10  それから数分後、激しい夕立が降り始めた。 「ひどいや。ガレージから走ってくるだけで、こんなに濡《ぬ》れちゃった」  家族の中で最後に帰宅した和人は、髪から滴《しずく》をしたたらせながら、笑って駆け込んできた。法子は武雄のことや健晴のこと、ナスのことを聞いてみたいと思いながら、彼のその無邪気な笑顔を見ると何も言えなくなった。 「夏は、米の売上が減る季節なんだ。暑い時には、みんな素麺《そうめん》とか蕎麦《そば》とか、冷たくてつるっとしたものを食べたくなるからね」  着替えの最中にも、和人は法子の表情にも気付かずに、一人でそんな話をする。 「まあ、いいんだよ。うちは素麺も冷や麦も扱ってるしね。でも面白いよ、ペットフードの売上まで落ちるんだから。犬や猫も、夏バテするのかな」  シャワーを浴びて、さっぱりとした服に着替えた和人は、そこでようやく法子の方を見た。 「──どうした?」 「────」 「ああ、氷屋の葬式だったんだものね。疲れただろう、すまなかったね」  法子は弱々しくかぶりを振り、すがりつきたい思いで彼を見た。今すぐ、心の中にわだかまっているすべてを吐き出したかった。だが、この人だって本当に味方かどうか分からない。和人はふっと笑みを浮かべて、柔らかく法子を抱き寄せた。 「分かるよ。他人とはいったって、一度に四つも棺桶の並ぶ葬式を見たら、そりゃあショックだ」  耳元で囁《ささや》く声を聞きながら、法子は和人だけは無関係であって欲しいと思った。彼は、自分の家族が何を企《たくら》み、何をしたか知らないのではないか。そうでなければ、こんなにも無邪気に、優しい表情を浮かべられるはずがない。 「ねえ──あのね」  思い切って口を開こうとしたとき、どすどすと階段を駆け上がってくる足音がして、健晴の「ご飯だよー」という濁声《だみごえ》が響いた。法子は言葉を呑み込んでしまい、身体を強《こわ》ばらせた。家族と食事など、したくない。彼らの顔など見たくないと思った。 「やれやれ、腹ぺこだ。さあ、行こうか」  和人は、法子が何か言おうとしていたことも忘れて、さっそく部屋を出ようとする。法子は、それに従うことができなくて、少しの間、夫婦の部屋に立ち尽くしていた。 「──どうした?」  部屋を出ようとしていた和人が不思議そうな顔で振り返った。法子は必死であれこれと考えた。これで気分が悪いとでも言えば、公恵達はますます法子を警戒するに違いない。それでなくても、彼女達は法子が何かに気づいていることを知っている。  ──あの人達につけ入られたら駄目。逆に隙《すき》を見つけるのよ。 「行こうよ、飯」 「ああ──ええ」  法子は急いで部屋の電気を消し、わずかに目を細めて和人に従った。まるで敵陣に一人で乗り込むような気分だった。  だが、階下へ降りてみると、公恵やふみ江の表情は既にほぐれていた。武雄は和人にビールを勧め、健晴はつまみ食いをして綾乃にしかられている。いつもとまるで変わらない、夕食の風景だった。 「さっきは驚いたよ。急に走り出すから、どうしたのかと思った」  法子の顔を見ると、武雄は鷹揚《おうよう》な笑顔で言った。法子は引きつった笑いを浮かべ、「すみません」と小さく謝った。 「いやね、温室を見せようと思っただけなんだ。法子さん、まだゆっくりとうちの温室を見ていないだろう」 「あれ、そうだったかな」  和人はきょとんとした顔で父親と法子の顔を見比べた。法子は相変わらず硬い笑みを浮かべたまま、やっとの思いで頷いた。和人はそんな法子を見て、それから再び武雄を見ている。その時、頭の後ろからすっと血の気が退いた。和人と武雄との間に交わされた、ほんのわずかな視線に、特別な意味が含まれていることを法子は悟った。  ──何かの意味があるんだわ。「温室」っていう言葉に、何かの意味がある。だから、和人さんまで、あんな目をした。  法子には分かった。彼らは密《ひそ》かに視線を交わし合い、法子には分からない方法で暗号を送りあっているのだ。和人だけは味方であって欲しいというのは、法子の勝手な、虚《むな》しい祈りに過ぎない。第一、彼だって、昨晩の密談に加わっていたではないか。 「こうして夕立が降れば、少しはしのぎやすくなるかしらね」 「かえって蒸すんじゃない?」  家族の何気ないやりとりを聞きながら、法子はますます緊張し、それから密かに家族の視線を探り始めた。さりげなさを装いながら、だが、確かに彼らは奇妙な視線のやり取りをしている。言葉を交わすのとは無関係に、彼らの視線は落ち着きがなく、時には粘りつくような、奇妙な雰囲気をまとっている。  ──言葉の要らない人達。仲の良い家族。  その中で、法子は完全に孤立し、焦《あせ》り、そしておびえていた。嫌悪感が全身に満ちる。法子は彼らとは違っていた。どことは言えないが、彼らの密着の度合いは、どうも法子とは無縁のものとしか思えない。  とにかく、自分の態度の変化を気づかれてはならないという一心で、法子はその夜、砂利のようにしか感じられない食事を、必死で口に押し込んだ。  本庄屋は殺された。それも、志藤家の人々に殺されたのだ。ヱイが指示を与えたのに違いない。何故《なぜ》? 氷屋が何かの秘密を握ったからだ。その秘密とは何なのだろうか。綾乃と健晴のことだろうか。だが、あの二人に何かがあるなどというのは、それこそ法子の勘ぐりに過ぎないかも知れない。いや、あの二人とは関係ない。問題は、馬鹿になるというナスのことにちがいない。健晴は、確かに「毒」という言葉を使ったではないか。  いくら考えまいと思っても、法子の頭からは、その思いが離れなくなった。考えれば考える程、疑惑は確信へと深まって行く。  ──でも証拠がない。どうしたら証拠を掴むことが出来るんだろう。  彼らが人殺しをしていて嬉しいはずがない。法子の人生は、そこで大きく躓《つまず》くことになってしまうのだ。それでも、本当のことを知りたかった。こんな思いを抱いたままで、この先一生、彼らと暮らしていかれるはずがない。  だが、翌日からも、表面上はいつもと変わらない日々が過ぎた。家族は明るく、朗らかで、法子に対しても優しかった。それでも、法子には彼らの態度、言葉の裏に一つ一つ、違う意味が含まれているとしか思えなかった。何とか証拠を掴みたいと思いながら、その方法も分からずに、法子は一人で苛立《いらだ》った日々を送った。夜も熟睡出来ず、睡眠時間は日毎に短くなっていった。 「やっぱり、法子の妄想じゃないの?」  翌週になって、法子は再び知美に会いにいった。今度は誰かに後をつけられることを十分に覚悟して、昔からの友人に会うのだと本当のことを言って出てきたから、法子は彼女と向かい合いながらも、常に周囲に神経を張り巡らしていなければならなかった。 「そんなはず、ないわ。あの日の帰りだって、私、赤坂見附でホームから突き落とされそうになったんだから」  法子は必要以上に声をひそめ、知美に顔を近づけて話した。知美は怪訝《けげん》そうな表情のまま、信じて良いのかどうかも分からないといった風情で、ただ「ホームから?」と眉をひそめた。 「あの日は、誰にも言ってなかったのよ。それなのに、つけてきたのよ。前の晩に、私が立ち聞きしたことを気づいたんだわ」 「考えすぎなんじゃないの? 第一、落ちなかったんでしょう? ちゃんと生きてるんだものね。ただの偶然っていうこと、あるんじゃない?」 「何、言ってるのよ。田舎《いなか》じゃないのよ。一時間に何本もない電車じゃない、何線に乗って、どこの駅に降りて、そんな偶然があるはずないわ」  どうしても早口になってしまう。法子はますます身を乗り出して、必死で訴え続けた。 「とにかく変なのよ。表面上は、前と変わらなく見せてるけど、私には分かるの。あの人達、私が心配でたまらないのよ。警察に駆け込むんじゃないか、誰かに話すんじゃないかって、ひやひやしてるんだわ!」  知美は半ばうんざりした表情で、それでも辛抱強く法子の話を聞いていた。 「それで、証拠らしい証拠は? 何か見つかったの?」  比較的低音の、落ち着いた声で言われて、法子はようやく一息つき、すっかり氷の溶けてしまった水を口に含んだ。 「健晴っていう弟がいるって話したわよね? あの子が、ちらりと言ったの。花壇のアサガオを見て──それがアサガオだっていうのは、義母《はは》から教わったんだけど──馬鹿になる毒だって」 「何よ、それ」  知美はますますわけが分からないという顔になった。その日は土曜日で、街は休日を楽しむ人達でごった返していた。法子は、賑《にぎ》やかな店の片隅で、どこかから自分を見つめている目があるのを意識しながら、知美に話し続けた。 「義父は、健晴の言うことなんか信じるなって言ったわ。でも、その時なんか、足音もたてずに後ろに立ってて、ナイフを握ってたの!」  急に知美が笑い始めた。法子はぽかんとなって、しばらくの間けらけらと笑っている友人を見つめていた。 「信じないの?」 「だって──信じられるはず、ないじゃないよ。じゃあ、ご主人のお父さんが、法子を殺そうとしてたっていうの?」 「分からないけど──でも、持ってたのよ」  法子は焦燥《しようそう》で身をよじりそうになりながら、両手で握り拳《こぶし》を作って知美を見ていた。彼女さえも信じてくれなくなったら、それこそ法子はこの世から抹殺されてしまいそうな気がする。 「その、馬鹿になる毒って、どういうことよ。そんなアサガオ──」  なおも笑いながら知美はそこまで言いかけ、そこで口を半分開いたまま表情を強《こわ》ばらせた。法子は、咄嗟《とつさ》に自分の背後に誰かが迫ってきたのかと思って、ただ壁が広がるだけの背後を振り返ってしまった。知美は少し考える顔になり、ついさっきまでとは打って変わった真剣な表情で法子の瞳《め》をのぞき込んできた。 「ねえ、それ──チョウセンアサガオのことじゃないの?」 「チョウセンアサガオ?」  今度は法子がきょとんとする番だった。だが、そんな法子にはお構いなしに、知美は急に真面目《まじめ》な顔になり、爪《つめ》を噛《か》み始める。 「聞いたことない? そういう種類のアサガオがあるらしいの」 「馬鹿になるの?」 「違う、トリップするのよ」 「──トリップ?」  法子は、知美の言葉の意味が完全に分からなくて、なおも彼女を見つめていた。トリップという言葉から連想するものといえば、法子には麻薬とか覚醒《かくせい》剤とか、そんな言葉ばかりだ。 「でも、トリップするっていったら、大麻とかケシとか、そういうものじゃないの?」  知美は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、少しばかり面倒臭そうな顔になって首を振った。 「他にもあるのよ、色々と。私、聞いたことあるわ、チョウセンアサガオって青い花の咲くアサガオで、覚醒剤と似たような作用があるって」 「──青かったわ。花は、綺麗《きれい》な青だった」 「やっぱり! それよ。きっとそうだわ」  法子は、絶望的な気分になって知美を見ていた。知美はさっきまでとは別人のように瞳をきらきらと輝かせ、興奮した表情で、一人で「なるほどね」などと呟《つぶや》いている。法子にも、彼女の考えていることは察しがついていた。つまり、志藤の家では、覚醒剤代わりになるものを栽培して、それをヱイが特定の人々に売っていたということだ。そう考えれば、葬儀の時に近づいてきた女の言葉の意味も分かる。 「──本庄屋の人達は、そのことに気がついたっていうことかしら」 「可能性としては十分ね」  何という家に嫁いでしまったのだろう。法子は途方に暮れながら、ひと事とはいいながら、何となく楽しそうに見える知美を恨めしい気持ちで眺めていた。 「法子の言うこと、信じることにするわ。だとしたら、あんた、相当にヤバいわよ。そういう商売をしてる一家だったら、裏にどういう関係が出来てるか分からないもの」 「──やめてよ、そんなこと言うの」 「だって、本当のことよ。こりゃあ、玉の輿《こし》どころか、とんでもない泥沼にはまったって感じねえ」  知美は、新しい煙草を取り出しながらそう言った。法子は、情けなさと恥ずかしさとで、満足に知美の顔を見る気にもなれなくなっていた。ふと、離婚したら彼女は誰よりも祝福してくれるのだろうかと思った。      11  静寂を破って、ふいにカラスの鳴き声が響いた。それは、いかにも唐突で、ある種、切羽詰まって聞こえないこともない。  法子は枕元《まくらもと》のデジタル時計に首を巡らした。もう夜明けなのかと思ったのに、だが、時計はまだ午前三時前であることを示している。都会の夜の明るさを物語っているのか、それとも彼らの身の上に、闇《やみ》の中に飛び立たなければならない程の差し迫った状況が生まれたのか、カラスは数羽で互いに呼応しあい、どこかへ飛び去っていく様子らしい。  背後からは、和人の規則正しい寝息が聞こえていた。可哀相な夫は、最近は法子以上に疲れている様子だった。恐らく、彼は法子の見張り役を仰《おお》せつかっているのだろう。法子の中で、他の家族と彼とを切り離したい思いがあるのと同様に、彼にも法子を妻として守りたい思いと、家族と同様に警戒しなければならない葛藤《かつとう》があるのかも知れない。せめて、そう思いたかった。 「夏休みには、夫婦水入らずで、どこかに行きたいと思わないかい。たまには僕らも二人だけで過ごしたいものね」  今夜、彼は寝る前にそんなことも言った。法子は彼に優しくされるほど、淋《さび》しさと悲しさが募る思いだった。  ──全部、私の誤解なのかも。  そういう想いが浮かばないこともない。こうして闇を見つめていると、この数日の出来事の方が馬鹿馬鹿しい幻のような気もしてくるのだ。そう簡単に殺人など犯せるはずがないと思う。健晴の言ったことだって、義父の言葉通り、果たしてどこまで信じられるものかも分からないのだ。  ──違う。誤解なんかじゃないわ。この家の人達は夜中に何かを相談していた。チョウセンアサガオのことを知られて、それで、氷屋の一家を殺したのよ。  あの女の言葉が、それを裏づけている。知美の記憶に間違いがなければ、チョウセンアサガオは幻覚などの作用をもたらすはずだという話だ。  ──第一、綾乃は私を狙《ねら》っていた。  最初は、ただ声をかけられたのだと思っていた。少しばかり法子を脅かす為に、勝手に動き回っても、おまえの行動は把握しているんだぞと暗に知らせる為に、そうしたのだと思っていた。だが、考えているうちに、法子ははっきりと彼女の殺意を感じるようになっていた。  ──それに、お義父さんだって。あの手に光ってたのは絶対にナイフだわ。ふだん、そんな物を持ち歩くはずがない。  たまらなく不安だった。法子は夏の夜に鳥肌をたて、自分の二の腕を抱きしめなければならない運命を呪《のろ》いたかった。今となっては、健康そうな和人の寝息までもが、法子を無言で脅かしている。法子はますます追い詰められた気持ちになっていた。  オオヨシキリだろうか、またもや鋭い鳥の声が静寂を破った。法子は全身をびくりと震わし、その瞬間、自分が微睡《まどろ》んでいたことに気づいた。半分ぼんやりとした頭に、新聞配達らしいカブの音も響いてくる。本当の朝が近づいていた。  ──良かった。今夜は無事に済んだ。  そう思った途端に睡魔が襲ってきた。つい、うとうととしかかった時、今度は階下で微《かす》かに雨戸を開ける音がし始めた。  ──もう誰かが起き出している。  法子は、少しの間、睡魔と戦いながら階下の音に耳を澄まし、それからやっとの思いで重い身体を起こして服を着替えた。動かなければ眠ってしまいそうだったからだ。  廊下に出ると、そこにも夜明けの薄明かりが広がり始めていた。夏の匂《にお》いが満ちていて、法子はふと幼い日の夏休みの頃を思い出した。素足に運動靴を履《は》き、朝露で光る雑草を踏んで歩いた頃のことだ。足首に、少しばかり土でざらついている冷たい草を感じ、胸一杯に朝の空気を吸い込んだ。法子はいつでも兄と手をつなぎ、前日に仕掛けた餌《えさ》についているカブトムシやクワガタを捕まえたり、時には少し足を伸ばして、川エビやサワガニまで捕りにいったりした。  日中の暑さが嘘《うそ》のように、広い家の中はひんやりとしていた。階段を降り始めると、新鮮な空気が流れているのが感じられて、既に窓が開け放たれていることを告げている。法子は、あまりおずおずと見えないように、しかし注意深く、ゆっくりと階下へ降りていった。 「──おはよう、ございます」  最初にのぞいた台所には、人影はなかった。法子は玄関の前に出て、そこから居間、応接間、客間へと続く廊下の端に立った。背後に伸びる廊下は、普段は健晴が遊び場所にしたり洗濯ものを畳んだりするのに使う十二畳程の和室と武雄夫婦の部屋、さらに納戸へと続いている。居間の前の廊下は客間を囲む形で右に折れ、松造とふみ江の部屋と、もう一つの座敷へと通じる。離れへ続く廊下は、応接間の前で直角に交わっていた。それらの長い廊下は、既に全ての雨戸が開けられて、ガラス越しに離れまでを見渡すことが出来た。 「──おはよう、ございます」  今度は居間に向かって声をかけた。そこも、まだ柔らかい薄闇《うすやみ》に包まれて人影はなく、壁にかけられた振り子時計は四時半をさそうとしていた。  誰が雨戸を開けたのか、既に起きているのは公恵だろうか、ふみ江だろうかと考えながら、もう一度廊下に出ようとしたときだった。視界の端で何かが動いた。法子は反射的に戸の陰に身を隠した。それから少し間を置いて、改めてそっと首を伸ばす。ガラスを通して、離れの障子が開いているのが見えた。その細い隙間《すきま》から、ヱイがわずかに腰の曲がった姿を見せた。  ──歩いてる。  法子は、我が目を疑いたい気持ちで、ゆっくりと廊下を渡ってくるヱイを見守っていた。杖《つえ》も使わずに、彼女は腰の後ろで手を組んで、ゆっくり、ゆっくりと歩く。それは、いかにも自然で、当たり前な姿だ。毎日繰り返している動作としか思えない。そして彼女は、応接間の前で左に曲がると、そのまま法子が隠れている場所からは反対の方へ歩いていった。  ──歩けるんじゃないの。どういうこと。  法子は足音を忍ばせて、居間との境の引き戸から応接間へ、さらにその境から客間へとすすみ始めた。今、壁を隔てた廊下のどの辺りにヱイがいるのか、はっきりとしない。だが、とにかく彼女は自分の足で歩いてこの方向へ進んでいる。だから、法子は突き当たりの客間までたどり着くと、部屋の隅の襖《ふすま》に身を寄せて、全神経を耳に集中させた。 「──にしなさい」  低い呟《つぶや》きにも似た声が聞こえた。客間のさらに先の方からだ。 「暑いからってね、わがままを言うものじゃない」  ヱイの声に間違いなかった。法子は、襖にぴたりと身を寄せたまま、その襖をほんの少しだけ開いた。 「でも、お母さん──ふみ江はね、ふみ江は」  ざらざらとした聞き取りにくい声が話している。法子は、二の腕に鳥肌が立つのを感じながら、息をひそめて耳を澄ました。 「文句を言うものじゃない。ふみ江じゃなかったら、おまえみたいに役立たずになったお爺《じい》さんを、誰が面倒みてくれる、え」 「だけど、ふみ江は」  松造の声に違いなかった。発音は明確とは言い難かったが、十分に聞き取れる。  ──大ばばちゃんは歩ける。おじいちゃんは話せる──どういうこと。 「お母さん、いいのよ」  今度はふみ江の声だ。法子は自分の飲み込む生唾《なまつば》の音さえ聞こえてしまうのではないかと恐れながら、それでも襖に耳を寄せていた。 「好きでこうなったんじゃないんだものねえ。私だから、甘えられるんだものねえ」 「ふみ江ぇ、氷が食べたいんだよぉ」 「だからね、朝のお仕事が終わったら、あげますって。聞き分けよくしてちょうだい」 「何だね、松造。あんた、昔はもっときりっとして、何があったって、妹にそんな姿は見せなかったじゃないか。出征した時のことを思い出しなさい」 「無理よ、お母さん。しょうがないのよ、病気なんだから」 「母親のあたしが達者なのに、情けない子だねえ、まったく」  微《かす》かな含み笑い。 「つくづく、お父さんに似たんだね、松造は。お父さんも、しまいは弱虫だったから」 「じゃあ、私はお母さんに似たのね」  頭がくらくらした。法子は、思わず襖に寄りかかりそうになりながら、それでも彼らの会話の一字一句も聞き逃すまいと思った。  ──よく分からない。誰に似たっていうこと。どういうこと。 「アサガオのタネも、そろそろ取れるかね」 「そう、今朝だったら、少しは取れる頃ね。行きましょう。いい子でいてね。おじいちゃん」  微かに戸を閉める音。それでもまだ、「ふみ江ぇ」というくぐもった声がする。足音ともいえない気配が、廊下を戻ってきた。欄間から洩《も》れてくる朝の光で、ようやく薄ぼんやりと辺りを見回せるようになった客間にひそみ、法子は全身を強《こわ》ばらせたまま、その足音を聞いた。 「あの子は、あれを知ったのかね」 「健晴の言うことだから、信じないとは思うけど」 「健晴は何て言ったって?」 「ナスだって説明したそうよ。ばかになるナスだって」  低い呟きにも似た声と、ふみ江の相変わらず楽しくて仕方がなさそうな声は、法子のひそむ部屋の前を通り、さらに廊下を曲がって進んでいく。 「それは、あたしが教えたんだ。キチガイナスビってね、言うから」 「お母さんが教えたの? 健晴にしては、よく知ってると思ったわ」  法子は、その場にへたりこんだまま、しばらくは動く気にもなれなかった。  ──キチガイナスビ。  もっと話を聞きたい。畳に手をつき、やっとの思いで立ち上がると、法子は再び物音を立てないようにしながら応接間へ抜けた。だが、話し声はそれきり聞こえてこない。再びそっと外をのぞくと、渡り廊下を歩いていく二つの後ろ姿があった。 「法子さん?」  ふうっとため息をつきながら居間まで戻った時だった。そこに公恵が立っていた。法子は反射的に振り返って渡り廊下の方をうかがい、ヱイとふみ江の姿が見えなくなっていることを確かめた。 「もう、起きたの?」 「ええ──あの、目が覚めちゃって」  公恵は化粧気のない顔で、額にピンク色のカーラーをつけたまま、ゆっくりと法子に近づいてくる。 「何してたの」 「いえ、何も」  公恵の目は、まるでガラス玉か何かで出来ているみたいに見えた。法子は、半袖《はんそで》のニットから出ている腕が細かく粟立《あわだ》つのを隠すことも出来なかった。 「──どうしたの。朝から顔色が良くないわ」  公恵は法子の正面まで来ると、すっと手を上げて、法子の頬《ほお》に触れてきた。夏だというのに、冷たく乾いた手だった。法子は、ごくりと喉《のど》を動かし、その場に立ち尽くしていた。 「もう少し、お休みなさいな」  その口調は穏やかで静かなものだった。けれど、有無を言わさぬ雰囲気に満ちている。法子は、正面から見据えられて、逃げも隠れも出来ない気分になった。今すぐにでも、この家から飛び出したいと思った。 「あの──」 「そうなさい。まだ早いわ。それでなくても、最近の法子さんは疲れてるみたいなんだから」  公恵の手は、今度は法子の肩に置かれた。法子は全身に電気が走るような感覚を覚え、思わず身震いをした。 「──震えてるじゃないの。可哀相に、寒気がするの?」  言葉とは裏腹に、公恵の表情はまるで動かない。法子は冷たく感じられる唇を噛《か》みしめながら、結局階段の下まで送られて、のろのろと二階へ上がらなければならなかった。いちばん上まで上がって、そっと振り返ると、公恵はまだその場に立って法子を見上げていた。      12  薄い敷布団の上に座ってぼんやりしていると、うーん、という声がして、和人が大きく寝返りを打った。その瞬間に目が覚めたらしく、薄暗がりの中で身を起こしている法子を認めると、柔らかく微笑《ほほえ》みながら手を伸ばしてくる。 「もう、起きる時間?」  法子は、太腿《ふともも》の上に置かれた大好きな手を、情けない思いで見下ろしながら、何も答えなかった。和人はまだまどろみの世界にいて、法子が答えないことは気にならないらしく、もう一度、うーん、と声を出すと、微笑みを浮かべたまま再び眠りに落ちようとする。  法子は、彼の手から、そっと身体を外そうとした。だが、意に反して和人の手には力がこもり、今度は布団から身を乗り出してきて、さらに法子を抱き寄せようとする。 「──まだ、早いわ」  法子はやっとの思いでそう囁《ささや》いた。和人は目を閉じたまま、手探りで法子にしがみつき、今度は頭を膝《ひざ》に乗せてきた。そして、いかにも幸福そうに「法子」と呟《つぶや》く。 「もう着替えてるの」 「──目が、覚めちゃったから」  彼は「そう」と言いながら寝返りを打ち、その顔を法子の腹部に向けた。片手が法子の背中を撫《な》でる。法子からは、彫りの深い横顔と、丸い可愛らしい耳が見下ろせた。 「──大ばばちゃんは、歩けるの」  そっと呟くように言ってみた。だが、和人の動きに変化はなかった。手の動きも、呼吸も、まるで乱れない。 「──ねえ、おじいちゃんは、普通に喋《しやべ》れるの」  それでも和人は反応しない。法子は苛立《いらだ》ちが膨れ上がるのを感じ、彼の頭を自分の膝の上から押し退けたい衝動に駆られた。 「皆、何を隠してるの。ねえ、キチガイナスビって、どういうこと? あなたの家族は、私に何を隠してるのっ」  語気を荒らげて言ってしまうと、法子は彼の頭に手を置き、その下から膝を外そうとした。和人の腕に力が入った。法子は背中と尻《しり》を抱き寄せられる形になり、身動きが出来なくなった。 「放してっ」  恐怖に引きつりそうになりながら、法子は和人の横顔を見おろした。法子の腹部に顔を埋めていた和人は、そこでやっと力を緩めて顔を上げた。まだ、少しとろりとした目をしている。けれど、その表情はいつもと同じように穏やかで柔らかい。 「どうしたの、法子。寝ぼけたのかい」  法子は、心細さに涙さえ浮かびそうになりながら、その瞳をのぞき込んだ。子どものように澄み渡って、まるで陰りのない瞳をしている。 「──答えて。大ばばちゃんは、歩けるんでしょう? おじいちゃんだって、話せるのよね?」  和人はまじまじと法子を見ている。法子は、頭の芯《しん》が眠ったままのような、緊張しているのか弛緩《しかん》しているのか分からない状態で、その顔を見つめ返した。エアコンの風が周期的に顔を撫でる。 「大ばばちゃんは、歩けない。君だって知ってるだろう? それに、キチガイナスビって?」 「見たのよ! 歩いてたわ。歩いて、おじいちゃんの部屋に行った。庭で作ってるのは、キチガイナスビっていうんでしょう?」  和人はそこで身を起こし、法子の前にあぐらをかいた。法子はうつむいたまま、彼のパジャマの膝が自分の膝に触れそうな程に近づくのを見た。 「キチガイナスビなんて、僕は知らない。それから、大ばばちゃんが歩くっていうのも、知らない」 「でも、見たのよ!」 「じゃあ──」  そこで和人は大きく息を吐き出した。 「大ばばちゃんは歩いて、じいちゃんの部屋に行って、それで、どうした?」 「──喋ってたわ。何か」  両肩に手が置かれた。それからあくびを噛《か》み殺した声で「五時、か」と言うのが聞こえた。法子は自分もつられて枕元《まくらもと》の時計を見た。五時七分。ふだん起きる時間までには、まだ二時間以上もある。 「君は、それを見たのかい。大ばばちゃんが、じいちゃんと話してるところを」  法子は肩を掴《つか》まれたまま、力なくかぶりを振った。 「話してるところは──見てはいないわ」  絶望的な気分で前を見れば、そこには、まるで憐《あわ》れむような表情の和人の顔があった。その視線に出逢《であ》っただけで、法子は、自分がとてもいけないことをしてしまった気分にさせられた。 「大ばばちゃんの足は、もう十年以上も前から自由にならないんだ。それに、息子のじいちゃんが自分よりも先にあんなふうになったことを、大ばばちゃんは何よりも悲しんでる。せめて、普通に話せればいいのにって、いつも言ってるのは、君だって知ってるだろう?」 「でも──!」 「じゃあ、大ばばちゃんは君を見て、何て言った?」  法子は再びかぶりを振らなければならなかった。 「私──隠れたから。大ばばちゃんからは私は見えなかった」 「どうして隠れたの」 「だって──びっくりしたのよ。歩いてるのよ、杖《つえ》もつかわないで、しっかりと!」  急に抱き寄せられて、法子は抵抗も出来ず、彼の胸に顔を埋める形になった。 「夢でも見たんだ。そうとしか考えられないよ」  和人の押し殺した声は、いつになく深刻で、切なく苦しそうに聞こえた。 「君は見た、聞いたって言う。でも、昔のことはともかく、僕は大ばばちゃんが歩けることも、じいちゃんが喋れることも知らない。生まれた時から、ずっと一緒に暮らしてきてる僕がだよ」 「────」  抱きしめられたまま、法子は頭の混乱をどうすることも出来ず、ただ不安でたまらなくて、目を閉じていた。 「もしも、君が見たり聞いたりしたものが本当だとしたら、どうして僕にまで秘密にする必要がある? もしも、君が見かけたんだとしたら、どうして、大ばばちゃんもおじいちゃんも、君と話さなかった?」 「だから、私は隠れて──」 「家族じゃないか。隠れることなんか、何もないじゃないか。大ばばちゃんだって、じいちゃんだって、君が今朝、自分達の姿を見たとは言わない。だって、見てないんだ」 「見たのっ。見たのよ!」  和人の胸の中で、法子は苛立《いらだ》った声を上げた。和人は法子を抱きしめたまま、「落ち着くんだ」と囁いただけだった。 「──見たのよ、私、たった今。そして、お義母《かあ》さんに見つかったの。お義母さん、能面みたいな顔をして、まだ早いからって言ったわ。私をここへ押し返したの」 「おふくろが、そんなことするわけ、ないだろう? 寝ぼけたんだよ。そうじゃなかったら、夢を見たんだ」 「違うっ、夢なんかじゃないわっ!」  和人の手にますます力が入った。法子は、彼の大きな手が自分の頭をしっかりと抑えているのを感じた。その温もりこそは、法子の大好きなものだった。それなのに、今はその手にもっと力が加わって、法子を窒息させようとしている気がした。 「君のことだから、大ばばちゃんが歩けたらいいのに、じいちゃんは喋れたらいいのにって、そう考えてくれてたんだろう? だから、それが夢になって出てきたんだよ」  和人の声は、その手の力強さとは裏腹に、とても柔らかい。だが、そうではないと法子の心は叫んでいた。寝ぼけてなどいるはずがない。 「君が──心配だ。何だか、最近の君はおかしいよ」  おかしいのはあなた達でしょう、と言いたかった。けれど、その前に和人は大きなため息をつき、法子を抱き寄せる腕にはますます力がこもった。 「僕が気がついてないとでも思うのか? 実家で何かあったのかい」  法子は、彼の胸に顔を埋めたまま、弱々しく首を振ろうとした。けれど、額も頬《ほお》も、彼のパジャマに密着していて、ほとんど自由には動かない。 「帰ってきてからの君は、何だか本当におかしいよ。ねえ、何かあったんなら、話してくれよ。僕ら、夫婦じゃないか」  法子は自分の中に、急速に無力感が広がってくるのを感じていた。夫婦という言葉が、重くのしかかってくる。自分は絶対におかしくなどない。何かを隠し、策略を練っているのは、和人の家族に違いないのだ。だが、何を言っても無駄だ、彼らには通じないという思いの方が勝っていた。 「──寝ぼけた、のかしら」  投げやりな気持ちで呟《つぶや》くと、ようやく和人は法子から顔を放し、慈《いつく》しむような目で法子を見た。 「そうだよ。帰ってくるなり、通夜だ葬式だって引っ張り回されて、疲れたんだ。疲れ過ぎてる時には、よく眠れなくなるものだからね」  和人の腕から力が抜けた。法子は彼から身体を離し、小さくため息をついた。帰れるものならば、実家に帰ってしまいたい。母だって、いつでも戻っていらっしゃいと言ってくれていた。けれど、法子は絶対にこの結婚を失敗に終わらせたくないと心に誓った。意地でも、泣いて戻ったりしたくはなかった。 「ちょうど、疲れが出る頃だろうって、おふくろも言ってたんだ。結婚したての緊張が少しは解けて、その代わりに疲れが出るって」  和人の指が、法子の額にかかった髪をかきあげてくれる。その乾いた感触や柔らかい声は、法子の大好きなものだった。 「当たり前だよね、これまでの君の人生とはまるで違う世界に、一人で乗り込んできたんだ。疲れて当然だ」 「──そんなこと」 「君は、後悔してるの?」  唐突に質問されて、法子はぼんやりと顔を上げた。和人の真剣な顔が目の前にある。 「────」 「ねえ、そうなのかい? 久しぶりに橋本のお家に帰って、気持ちが変わったのかい?」  両親、兄、親戚《しんせき》の顔がちらついた。たった四ヵ月足らずで、この結婚が破綻《はたん》するとなったら、彼らはどれほど心を痛めることだろう。そんなことは、絶対に許されない。誰が許さないのでもなく、法子自身がそう思っていた。  いっそ、全てが妄想であってくれれば、疲れからくる悪夢だったのなら、それに越したことはないのだと、そういう気にもなる。とにかく、法子は和人からは離れたくないのだ。その思いだけは変わらない。 「──してないわ、後悔なんて」  結局、自分に言い聞かせるように、法子はゆっくりと呟いた。和人の安堵《あんど》のため息は、深々と長く、それに次いで「良かった」と聞こえた囁きは、心の底から言っていると信じられた。 「前にも言ったろう? 直すところがあるんだったら、それは僕の家族の役目だ。君を不安に陥れたんだとしたら、それは僕の家族の責任だ。何が、そんなに君を──」 「──私、二人だけで暮らしたい」  思いきって言うと、和人の瞳に絶望的な色が溢《あふ》れた。けれど、法子は彼にしがみつきながら「お願いよ」と言った。 「そんなに離れていなくてもいいの。とにかく、二人だけで暮らしたいのよ。誰にも邪魔されないで、二人だけで」  和人は呻《うめ》くような声を唇から洩《も》らし、法子の背を柔らかく撫《な》でた。 「僕の家族が、君に何かしたのかい。意地悪を言った? 嫌みなことでもした? それとも、口うるさく干渉したのかい」  法子は激しくかぶりを振り、必死で「違うの!」と言った。 「違うの! でも、二人になりたいのよ!」 「理由もなしにかっ」  それは、初めて耳にする和人の怒鳴り声だった。法子は大きく目を見開き、唇を震わして和人を見つめた。 「──頼むよ。分かってくれよ。君に嫌われたくない一心で、おふくろ達だって一生懸命なんだよ」  思わず涙がこみ上げてきて、法子は唇を噛みしめて俯《うつむ》いてしまった。和人のあたたかい手は、幼い子どもをあやすように、そっと法子をさすり続けている。 「──今度の休みに、少し遠出しようか。そうすれば、気分も変わる」  それから法子は和人の温かい唇を受けた。頭のいちばん奥で、もうこの家からは逃げ出せないのだろうかと思っていた。      13  その日の朝食の時に小さな変化が起きた。一家九人が、全員食卓を囲んだのだ。松造とヱイは、それぞれ和人と武雄におぶられて食堂に現れた。法子の発言が招いたことは確かだった。 「たまにはね、一家で揃《そろ》うのもいいものよね」  公恵の口調にも、これまでには感じられない刺《とげ》がある。愛くるしく、くるくると動いていた目も、今は五十代に差し掛かった女の、開き直ったような落ち着きに満ちていた。 「元々、これが正しい形なんだものね。うちは、八人家族なんだから」  綾乃の言葉を、ふみ江が「九人」と鋭くたしなめた。彼らは意識的に法子を追い詰めようとしている。家族の数を間違える者などいるはずがないのだ。  そして、奇妙に静かな朝食が始まった。法子は志藤家の全員に責め苛《さいな》まれている気がしてならなかった。ほら、動けないだろう、話せないだろうと、法子に見せつける為の大芝居なのだ。 「やっぱり、皆で食べる方がおいしいよね」  和人一人、にこにこと笑っている。法子は、まるで針のむしろだと思いながら、強《こわ》ばった表情を崩すことが出来なかった。 「おじいちゃん、何から食べますか」  右半身が不随だという松造は、弱々しい左手を食卓に向けて、味噌汁《みそしる》を指す。ふみ江は、「はいはい」と言いながら、自分の食事などそっちのけで松造の世話をしていた。 「おいしい?」  ああ、うう、松造の口から洩《も》れる声は、それだけだ。ヱイはヱイで、久しぶりに母屋に来たなどと言っている。 「流れる空気が違う。離れには、仏様の匂《にお》いがするけど、母屋は人間臭いね」 「そりゃあ、大ばばちゃん、離れに仏間があるからだよ。お線香の匂いでしょう」  そこで家族は穏やかに笑った。だが、笑いながら、彼らは確かに奇妙な視線の交わし合いをしているのだ。この馬鹿げた芝居には、法子を騙《だま》す以上の、何かの意味があるのに違いなかった。  ──騙されるものか。話せない真似《まね》、歩けない真似なんか、誰にだって出来る。  いつもと変わらずに大声を上げて、好き勝手に食事をしているのは、健晴一人だった。法子は、彼の頬《ほお》についている飯粒を取ってやり、それを自分の口元に運んでいる綾乃をちらりと見、政治の話をしている和人と武雄、ふみ江と松造、漬物《つけもの》の話をしているらしいヱイと公恵、彼らの全員をくまなく見渡した。穏やかな騒《ざわ》めき、見事に一つの色合いにまとまっている家族。彼らほど、よくまとまっている家族ならば、力を合わせて人を殺すくらい、実に簡単だろう。  法子は、全員を前にして罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけたい衝動を感じると同時に、この家に来て初めて、切実な孤独感に包まれていた。 「あまり、食べない子だね」  ヱイが、ゆっくりと箸《はし》を動かしながら静かな視線を向けてきた。老人性の白内障にかかっているらしいヱイの目は、無数の皺《しわ》に囲まれて、小さくしょぼしょぼとしている。法子は、その目に見据えられ、同時に家族全員の視線が自分に集中したことを感じた。 「夏バテ? 食べないと、ほら」  ヱイは、骨と皮ばかりの手に持った箸をわずかに振った。法子は曖昧《あいまい》な返事をしただけで、ペースを崩すことは出来なかった。 「法子はね、これから赤ちゃんを産んで、育てていかなきゃならないんだから」  背筋をぞくぞくとする感覚がかけ上がった。ちらりと顔を上げると、和人が嬉《うれ》しそうな顔で笑っている。その笑顔は、ひどく遠い、実体のないものに見えた。彼の子どもを産むことには、いささかの迷いも感じたことはない。それなのに、この家族の一員を増やすのだと思うと、全身に嫌悪感が広がっていく。 「最初は男の子がいいねえ。たまのような男の赤ちゃんが」  小さな小さなヱイは、家族の中で一際小さく、一人で納得したように頷いている。健晴が「赤ちゃん? ねえ、赤ちゃん?」と素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を出した。 「兆しはないの」 「ええ──まだ」  人前でこんな話はしたくなかった。こんな人々の血を引く子どもなど、欲しくはないという気がした。半分恨めしい気持ちで和人を盗み見れば、彼は「まだ早いよ」としか言わない。 「どれ、お茶を煎《せん》じてあげようかね」  ヱイは目をしょぼしょぼとさせながら言った。家族が一瞬黙りこんだ。 「血の道によく効くお茶があるから。煎じてあげよう」  俯《うつむ》きながら、法子は、家族全員の視線が自分の上に集まっているのを痛い程感じていた。 「──キチガイナスビですか」  思いきって顔を上げると、法子は家族を見回しながら言った。和人を始めとして、誰もが無表情で法子を見ている。一秒が一分にも感じられる程の沈黙が続いた。 「あれは、合わない」  一言、答えたのはヱイだった。法子は、ヱイの皺に囲まれた顔をまじまじと見つめ、それから慌てて俯いてしまった。誰もが口を開かない。重苦しい沈黙だけが続いた。 「じき、分かるから」  続けてヱイの声がした。 「そう、急ぐものじゃあ、ない。長い歴史を知るにはね、長い時間が必要なものだからね。法子は、少し急ぎすぎてる」  握りしめた箸の先が細かく震えていた。法子は、ヱイの分かったか分からないような言葉を聞き、また鳥肌を立てていた。 「血がつながらない者が一緒に暮らすんだもの、大変に決まってるわ」  ふみ江が静かな口調で呟《つぶや》いた。それを合図のように、再び微《かす》かな食器の音が立ち始める。 「一言で説明できる家なんて、世の中にはないよ」  またヱイが言った。法子は、もしかするとこの家の中でもっとも憎まなければならないかも知れない、すべてを指図しているこの家の長老を見て、思わず天を仰ぎたい気持ちになった。とても、こんな小さな人を憎むことなど、出来そうにないと思う。憎みたいはずがない。だが、全ての指示は間違いなくヱイから出ているのだ。 「まだ、何か言いたい顔をしているよ、この子は。でもね、時が来たら、自然に分かる。法子は、家の宝なんだから、皆が大切にしているからこそ、時間がかかるんだよ」  安心して良いはずはなかった。それなのに、法子はヱイを見つめているうちに、奇妙に心が和らいでいくのを感じないわけにいかなかった。それに、他の家族までもがヱイに惹《ひ》き寄せられるかのように彼女を見つめ、食卓は、いつもとは異なる厳粛な雰囲気に満ち始めているのだ。  ──すごい人なのかも知れない。ただ、百歳に近いっていうだけじゃないのかも知れない。 「──大ばばちゃん」  法子は、まるで救いでも求めるようにヱイを見た。ヱイは、しょぼしょぼとした目を法子に向けるでもなく、ただ小さく「うん」と言った。 「私、大ばばちゃんが歩いてるところ、見たんです。今朝」 「法子が見たと思うんなら、見たんだ」 「──はい」  それは、何とも奇妙なものだった。そんなことは大した問題ではないのだと、そういう気にさせられていた。自分が見たと思うのならば、それで良い。確かに、それはヱイの言葉の通りに違いないと思われた。  やがて、デザートを食べて、ふだんよりも幾分甘く感じられる麦茶を飲む頃には、法子の気持ちはすっかり落ち着いていた。  法子は花壇を横目で見ながら洗濯をし、二階の部屋に掃除機をかけた。その間も、最近には珍しく晴れ晴れとした気分で過ごすことが出来て、法子はくよくよと考えごとをしていた日々のことさえ忘れかけていた。そして、昼食の前に買い物にいくことになった時にも、不思議なくらいに普通の口調で「私が行きます」と言うことが出来た。公恵はにこにこと笑い、買い物のメモと財布を渡してくれた。  町は夏の盛りを迎え、昼前だというのに制服姿の子どもたちが見受けられた。法子は蝉の声を聞きながら、夏の陽射しの中を、淡いピンクの日傘をさして、のんびりと歩いた。スーパーでは、最近、顔見知りになった数人の主婦と会い、簡単な世間話もした。 「先日はたいへんでしたね」  レジで会計を済ませ、買ったものを袋に押し込んでいると、隣にまた顔見知りの主婦が立った。法子は、確か岡田といった同年代くらいの主婦を見て、簡単に微笑《ほほえ》んで見せた。 「ねえ、お宅、どなたかご病気でも? 勿論《もちろん》ね、おじいちゃまが寝たきりなのは知ってるんですけれど。ああ、ひいおばあちゃんでも?」  岡田はタオル地のハンカチで額を拭《ぬぐ》いながら、いかにも好奇心の強そうな細い目をちらりと法子に向けてくる。法子は、ただ「いいえ」と答えただけだった。 「あら、そうなんですか。どなたかのお具合が悪いから、お葬式にも出られなかったのかなと思ったの」  彼女の言葉が、法子の癇《かん》に障った。せっかく忘れようと努めていたことを思い出させようとしているような、嫌な感じがした。 「どうして?」 「だって──」  岡田は小狡《こずる》そうな目をますます細めて、曖昧《あいまい》な笑みを浮かべた。 「お宅、いつもそうしていらっしゃるから。ご近所の不幸の時には、必ず奥様やおばあさんもみえて。それに、氷屋さんも、よく話してたみたいでしょう? 『うちにもしものことがあった時には、イチフジさんが全部面倒を見てくれるはずだから』って」  法子は、にやにやと笑っている岡田の顔を少しの間見つめ、それからさっさと会釈《えしやく》をして店を出てしまった。心臓が高鳴っていた。暑さから来るもの以上の汗が頭のてっぺんから吹き出していた。  ──そうよ、何を忘れてたの。氷屋のことを考えなきゃ。  黒々とした影が、アスファルトの道路に落ちている道を、法子はとぼとぼと歩いた。朝食の時に、ほんの少しヱイと話しただけで、すっかり調子を狂わされていたと気づいた。蝉《せみ》が一匹、どこかの木の陰で鳴き始める。それにつられて、もう一匹の声も聞こえてきた。  ──騙《だま》されるところだった。あの雰囲気に丸め込まれるところだったわ。  そう考えると、ますますヱイが不気味に思えてくる。法子は、さっきまでの軽やかな気分から、まっ逆さまにつき落とされた感覚で、のろのろと志藤の家に戻った。背の高い木々に囲まれている家は、改めて外から眺めると、見るからに重苦しい秘密と、嫌な歴史に包まれているような気がした。 「誤解は解けたね?」  夜、帰宅した和人は二人きりになると、まずそう言った。法子は、曖昧に頷いただけで、笑顔を見せることは出来なかった。 「何か──まだ、言いたいことがあるのかい」  和人は心配そうな顔で法子を見つめてくる。 「家族のことは、時間をかけなければ分からないって言われたでしょう? だから──急がないことにしたわ」  法子は、それだけ言ってしまうと、一人で寝床に横になった。彼に嘘《うそ》をつくのは心苦しいことだと思う。けれど、最初に法子を騙したのは、和人達の方なのだ。だから、自分も決して本心を出すまいと、法子は自分に誓っていた。和人は安心した顔で「そうか」と呟くと、その日は法子に触れることもせず、静かに眠りについた様子だった。  だが、それから数日の間に、和人は二度程、深夜に起き出した。法子は常に神経を張り巡らしており、彼が少しでも動けば、すぐに自分も目覚めた。そして、必ず自分も後から寝床を抜け出し、様子を探りにいった。 「あの子は──」 「大丈夫、寝てるよ」  会合は、常に離れのヱイの部屋だった。寝室に使っている部屋の隣の仏間が会合の場所として決められているらしい。けれど、彼らの話し声は以前よりもずっと低く、押し殺されていて、渡り廊下の途中の闇《やみ》にひそむ法子までは聞こえては来なかった。  ──何の相談なの。  法子は常に苛立《いらだ》ちながら、結局、為《な》す術《すべ》もなく、一人で部屋に戻るしかなかった。  この分では、氷屋の一件は完全犯罪として終わってしまう。法子はせめて、庭で栽培しているものがどこにしまわれているのか、どういう保存をされているのか、それだけでも探りたいと思った。だが、広い家に一人になることは皆無と言ってよく、法子に自由に動き回らせる機会は、まるで巡ってはこなかった。  ──残るは健晴だわ。あの子から聞き出すしかない。  チョウセンアサガオのことも、健晴からもう少し何か聞き出せるかも知れない。知能の遅れている義弟だけが、今や、法子に本当のことを言ってくれる唯一《ゆいいつ》の頼みの綱かも知れなかった。だが、彼には常に綾乃が付き添っており、滅多に彼を一人にするということがない。法子は辛抱強く、そして注意深く健晴と綾乃を観察し、彼らが共に行動しない機会を狙《ねら》うことにした。 「お義母《かあ》さん」  ある日、洗濯ものを畳みながら、法子は公恵に話しかけた。隣の部屋からは、相変わらず綾乃と健晴の忍び笑いが聞こえている時だった。 「たぁくんのことですけれど」  慣れた手つきで、せっせと洗濯ものを畳んでいた公恵は、最近では法子への警戒もだいぶ解いたと見えて、普段の笑みを浮かべたまま「なあに」と言う。 「綾乃ちゃんと、くっつきすぎていません?」  法子が言うと、公恵は半ば怪訝《けげん》そうな顔になり、法子の言葉の意味が分からないという表情になった。 「仲がいいのはよく分かりますし、綾乃ちゃんがよく面倒を見てるのは、本当に感心するんですけど」  相変わらずのくすくす笑い。「駄目よ、もう」という綾乃の声は、淫《みだ》ら以外のなにものでもない。法子は「ほら」というように軽く顎《あご》をしゃくり、まじまじと公恵を見た。 「本人には、性欲という意識がないのかも知れませんけど──身体は大人の男になっていくんですし、あのままだと危険だと思います」  ところが、公恵は「そうお?」と言っただけだった。法子は、頭にかっと血が昇るのを感じた。綾乃だって、そういつまでも弟の為に犠牲にはなっていられないではないか。娘の幸福について、どう考えているのだと言いたかった。 「あの二人はね、小さい時から仲がよかったのよ。もう、誰が見ても褒《ほ》めて下さるくらいにね」  公恵はそう言って、嬉しそうに笑っている。法子は絶望的な気持ちになってため息をつき、腹の中では勝手にしろ、と吐き捨てるように思っていた。別にどうでも良いのだ。今や、法子は二人のことを心配しているとは言い切れなかった。とにかく、健晴が一人になるチャンスを窺《うかが》いたかっただけのことだった。      14  チャンスは、その二日後に訪れた。夕方、また雷が鳴り始めて、法子は一人で庭に出た。 「これでひと雨来れば、お庭も生き返るんだろうに」  誰が聞いているかも分からないから、わざと大きな声で独り言を言うと、法子はサンダルをひっかけ、出来るだけさりげなく、花壇の花々などを眺めるふりをしながら歩き始めた。ぶらぶらと庭を巡っていると、健晴がぱちん、と蚊《か》に喰《く》われたらしいところを掻《か》きながら、池の傍で遊んでいた。 「たぁくん、一緒に遊ぼうか」  法子は、出来る限り優しい声をかけて、その後ろ姿に近づいた。義弟は、細い木の枝を使って、蟻《あり》の巣を掘り返そうとしているところだった。 「じょーおーありを探すんだ」  健晴は、涎《よだれ》をすすり上げながら、法子に説明した。爪《つめ》を短く切りそろえられた指は、迫り来る闇《やみ》の中で、白いイモムシみたいに見えた。いくらすすり上げても、彼のしまりのない口元からは、涎が銀色の糸を引き、乾いた土の上に小さなしみを作った。 「ねえ、この前のナスなんだけどね」 「じょーおーありってね、飛べるんだって」 「たぁくん、あれがどこにあるか、知ってる?」 「冠、してるのかな」 「ねえ、たぁくん──」 「ハッチのお母さんみたいにさ」  健晴は、蟻の巣に夢中になっていて、まるで法子の話を聞く様子がなかった。法子は、何とかこちらに注意を向けさせたいと思い、少しの間は健晴の相手をして、ペースを変えなければいけないだろうかと考えた。 「ハッチって?」 「みなしごハッチ」 「あれは、蜂《はち》でしょう? これは蟻だから」  そこで初めて、健晴は顔を上げた。 「冠、してない?」 「していても、人間には見えないかも知れないわ」  健晴はぽかんとした顔で「ふうん」と言っただけだった。雷が鳴っている。早く聞き出さなければ、また夕立が来そうだった。 「ねえ、ナスね」 「ばかナス?」  法子は勢いこんで「そう!」と言った。 「どこにあるの? 生えてるのはね、花壇よね。それを、お母さん達はどこにしまう?」  健晴は少し考える顔をして、ずずっと一度涎をすすると、黙って離れを指さした。法子は「やっぱり」と呟いた。 「食べたらいけないんだぞ。ばかになるんだから」 「じゃあ、誰が食べるの?」 「神様が決めるんだ」  健晴は、妙に毅然《きぜん》とした表情でそう言った。法子は半ば呆気《あつけ》に取られ、健晴を見つめていた。 「こんなところにいたのかい」  その時、またもや武雄が近づいてきた。法子はうんざりしながら振り返り「おかえりなさい」とだけ言った。いつもそうだ。決して健晴を一人にさせまいとする。それは、今のように彼が何でも話してしまうからに違いなかった。 「法子さんを探してたんだよ。ちょっと来てくれないか」  だが、武雄は法子にそう言った。法子はわずかに痺《しび》れ始めていた足を伸ばして立ち上がり、小さく「はい」と言った。義父は、ゆっくりと頷《うなず》くと、法子を従えて歩き始めた。 「前にも言ったね。うちの温室を見せておこうと思ってね」  ──温室!  その言葉を聞いただけで、法子の中で急速に緊張が膨れ上がっていった。数メートル前を歩いていく武雄の後ろ姿を見つめながら、法子は逃げ出したい衝動と必死で戦わなければならなかった。 「待ってね、鍵《かぎ》をあけるから」  温室の扉の前まで来ると、武雄は法子を自分の前に立たせたから、法子は温室と武雄に挟まれて、すぐには逃げ出せない形になった。彼は、ズボンのポケットから大きな鍵の束を取り出した。法子は、キーホルダー代わりに使っているのが、折り畳み式のナイフであることを見て取った。  ──やっぱり。あの時もナイフを持っていた。  彼は、厳かな手つきで束の中から一つの鍵を選び出すと、改めて法子を見てから、厳重に施錠されている温室の扉を開ける。 「どうぞ」  低い声が響いた。日中の熱がこもって、温室内はむっとしていた。武雄は、法子を中に招き入れると、また丁寧に扉を閉めた。無数の鉢や大きなプランターの並ぶ空間は、不気味に静まり返っている。やおら、その屋根を叩《たた》いて大粒の雨が落ち始めた。  ──ここなら、悲鳴も届かないっていうわけ。  法子は抗《あらが》うことも出来ず、黙ってついてきてしまったことを後悔した。頭の中で、自分の身体から流れ出た血が、どす黒い流れを作る様が浮かぶ。何故《なぜ》、こんなことになってしまったのか、何故、殺されなければならないのか、混乱した頭ではまともな言葉さえ吐き出せそうにない。 「いつか、話さなければならないことだったんだがね」  再び武雄の低い声が響いた。片手が法子の肩にかかる。それだけで、法子は失神するのではないかと思う程の恐怖におののいた。 「触らないで!」  硬直していた全身が感電したように動いた。 「私のことまで、殺そうっていうんですか」  ばらばら、ばらばらと雨が屋根を叩く。どんな叫び声を上げたところで外には聞こえそうもなかった。薄闇《うすやみ》の中で義父の表情がわずかに動いたと思う。 「殺されるものですか! そう簡単に、殺されるものですか!」  それでも法子は大声を張り上げた。 「何を──」  法子は肩で息をしながら、じわじわと温室の隅に逃げ込んでいった。 「今度は、うまくごまかせるとは限りませんよっ。私、全部、友人に話してあるんですから。あなた達が氷屋さんを殺したことも、チョウセンアサガオのことも! 警察はごまかせたけど、私は騙《だま》されないって、話してきたんですから!」  義父の目が大きく見開かれた。法子は震える声で乾いた笑い声を洩《も》らした。ヒステリックな、嗚咽《おえつ》のような笑い声は自分のものとも思えない程に異様な響き方をした。 「もしも、私の身に何か起これば、彼女はすぐに動き出します。そして、あなた達も捕まるわ! そうよ、今度こそ、一巻の終わりよ!」 「法子さん、落ち着いて──」 「落ち着いているわよ! 何よ、私が何も知らないとでも思ってるんですかっ。皆が夜中に集まって相談しているのも、私、知ってるんですから!」  法子は温室の中を手探りで動きまわり、必死で武雄から離れようとした。とにかく、温室から逃げ出すのだ、そして、この家からも、もう逃げ出さなければならない。頭の中では、そのことしか考えられなかった。 「法子さん、聞いてくれないか。君をここへ連れてきたのは、ヱイばばちゃんの希望があったからなんだよ。大ばばちゃんは、そろそろ──」 「騙されるもんですか!」  言うが早いか、法子は武雄を突き飛ばしていた。闇の中で、ガチャンと植木鉢の落ちる音がした。無我夢中で温室の扉を押し開けると、激しい雨が顔を叩いた。それでも、法子はサンダルのまま、ころげるように母屋に向かって走った。  とにかく一刻も早く、ここから逃げ出すのだ。髪を乱したまま階段を駆け上がり、法子は嗚咽を洩らしながら、とにかく手当たり次第に荷物をまとめ始めた。 「どこ行くの?」  背後から声がした。法子は全身をびくりと震わし、その声の主が健晴だと分かると、そのまま彼を無視して手を動かし始めた。 「ねえ、おでかけするの?」  どんどん、と床を踏みならして、健晴は、なおも大きな声を出す。法子は内心でうんざりしながら「そうよ!」と答えた。相手は子どもと同じなのだ。彼につれなくするのは正しくない。だが、そんな義弟さえ、今の法子には不気味に思えてならなかった。彼も、この家の一員、この粘りつくような仲の良さを守り続ける家族の一員なのだ。 「逃げるの?」  ところが、健晴はいつになく落ち着いた口調でそう言った。法子はぎょっとなって、ハンガーにかけられたワンピースを持ったまま、改めて振り返った。 「──どうして?」  健晴の目の奥に、一瞬だけ青年らしい輝きが見えた気がした。法子は息を呑み、真っ直ぐに自分を見おろしている大人子どもを凝視した。  ──この子も、私を騙してる?  今、彼はまさしく焦点の合った目で、何かを訴えようとしているように見える。その目もとは確かに和人とよく似ていた。法子は思わず、二、三歩彼に歩み寄ろうとした。その途端、健晴の表情はいつものだらしない笑顔に戻ってしまい、濁声《だみごえ》が「わーい、わーい!」と響いた。 「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ、鬼さんこちら、手の鳴るほうへ!」  静脈の浮いた、筋ばった手をぱちぱちと叩いて、義弟は廊下を飛び跳ね始めた。口元にはしまりがなく、嬉しそうに笑う声と同時に涎《よだれ》が細い糸を引く。法子は途方に暮れて飛び跳ねる健晴を眺めていた。 「どうしたんだい、何ていう騒ぎなんだ」  階段の降り口のところに和人が現れた。法子は飛び跳ねる弟をちらりと見て、さらに感情のこもらない瞳を法子に向けている和人を、しばらくの間見つめていた。それは、まるで見知らぬ他人の顔に見えた。健晴は顎《あご》を涎で光らせながら、とろけそうな笑みを浮かべて「兄ちゃん、兄ちゃん」とまとわりつこうとする。その様子は、飼い主にじゃれつく仔犬のようなものだった。 「健晴、お姉ちゃんが呼んでるんじゃないのか? ちゃーんと夕御飯を食べたら、スイカをもらえるってよ」  和人に言われて健晴はびっくりした顔になった。そして「スイカ?」と聞き返すと、和人の返事も待たずに、どすどすと階段を駆け降りていった。階下から「スイカ! スイカ!」という怒鳴り声が聞こえてくる。法子は、背中から力が抜けるような気持ちで、ぐらりと壁にもたれかかった。 「どうしたっていうんだ。何をしてるんだ」  和人は、なおも無表情のままで近づいてきた。法子は、もはや彼を見つめ返す気力も失せて、呆然《ぼうぜん》と涙を流していた。 「──一人になりたいのよ」  やっとの思いで呟《つぶや》くと、和人は大げさすぎる程のため息をついた。 「まずいよ。何、言ってるんだよ。皆がどれくらい君に気を遣って、心配してるか分からないのかい」 「何を心配してるっていうのっ! 私がこの家の秘密を握ってるからじゃないの? それを、私が誰かに喋《しやべ》るんじゃないかって、それを心配してるんでしょうっ!」  法子は涙を浮かべながら声を荒らげた。 「皆の言ってることは、嘘《うそ》だらけじゃないの。どうして、大ばばちゃんが歩けることまで隠そうとするの、おじいちゃんのことも。どうして、麻薬なんか作ってるのよっ! この家の人達は、どうかしてる! 皆、どうかしてるのよっ!」  言いながら、法子はその場に泣き崩れてしまった。頭は割れるように痛かったし、身体に力が入らない。ただ、涙が出て仕方がなかった。 「落ち着いてくれよ──君は、そんな人じゃないだろう? いつでも落ち着いて、優しい人じゃないか」  頭の上から和人の声がした。それから、法子は脇《わき》から抱きかかえられて立ち上がり、夫婦の部屋に連れ戻された。 「薬を持ってくるよ」 「やめてっ!」  涙と汗、そして夕立の雨で濡《ぬ》れている顔をきっと上げ、法子は和人を睨《にら》みつけた。心臓の鼓動は速まり、肩で息をしなければならない程だった。 「──私に何を飲ませようっていうの。皆で作ってる毒草? 冗談じゃないわ! 私に触らないで!」  和人の表情が大きく歪《ゆが》んだ。けれど、法子は言葉を押し止めることも出来ず、後は意味の分からないことまでも怒鳴り続けた。 「──騙《だま》されるものですか」  息を切らしながら、法子は大好きな和人の顔を睨み続けた。和人は今や何をどうすれば良いのかも分からない表情で、ぽつねんと立っているだけだった。 「ええ、騙されないわ。私は氷屋みたいなわけにいかない。絶対に、あなた達の好きなようになんか、させないから!」  最後にそう怒鳴ると、法子は和人の背を押して部屋から押し出してしまった。それから、畳に突っ伏して泣き始めた。  ──騙されるものですか。思い通りになんか、なるものですか。  混乱した頭では何を考えることも出来ない。とにかく、宣戦布告してしまったことだけは、確かだった。やがて、どのくらい泣いたのか、気がつくと廊下を進んでくる足音がある。法子は畳に両手をついたまま、大きく目を見開いて廊下の方を窺《うかが》った。やがて、足音は法子達の部屋の前で止まる。 「──法子、開けるよ」  和人の控え目な声がした。法子が「いやっ!」と言うよりも早く戸が開けられ、和人と武雄が驚く程の素早さで滑り込んできた。法子が呆気《あつけ》に取られている間に、和人は背後にまわりこみ、法子の両腕を押さえつけた。 「乱暴にするつもりはない、薬を飲むだけだからね」  法子は抵抗する間もなく、大きな目を見開いたまま立ちはだかっている武雄を見ていた。武雄は、勝ち誇ったような奇妙な笑みを浮かべて立っていた。法子が突き飛ばした時についたのだろう、肩から腕にかけて、泥で汚れている。その手には、小さな湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》があった。 「──やめて」  やっとの思いでそれだけ言った時には、法子は既に茶碗を唇にあてがわれていた。頭と顎《あご》を押さえつけられ、奇妙な味のする液体が喉に流し込まれた。 「これで、気持ちが落ち着くから。元気も出るさ。だから、暴れないで、いい子にしてくれよ」  耳鳴りのする中に、和人の声が聞こえた。法子は涙を流しながら、結局のところ半分近くも、その液体を飲まされた。それから間もなく、法子は底なし沼に落ちるように意識が遠のくのを感じた。  ──お母さん、お父さん。  遠のく意識の中で、法子は両親を呼んだ。兄も呼んだ。けれど、それはほんのわずかな間のことだった。後は、上下左右も分からない、真っ暗な空間に放り込まれたような気分になった。      15  長い夢を見ていた。その夢が溶け出して色とりどりの糸になり、現実に流れ込んできた時、法子はようやく意識を取り戻した。夢の糸は四方に広がり、やがて霧になって薄れていった。意識が戻ったことは分かるのに、それでもまだ夢を見ている気がする。瞼《まぶた》を押し上げるだけのことに、渾身《こんしん》の力を込めなければならない、その理由が分からない。  法子は、ぼんやりと周囲を見回していた。  畳、柱、襖《ふすま》、天井──見えているものの意味は分かっている。けれど、それはひどく現実離れしたものにしか思えず、畳が畳である理由も、天井が天井でなければならない意味も分からなかった。  ──どこにいるんだろう。  重力の向かう方向も、上下左右の区分も分からなかった。やがて、もう少し意識がはっきりとしてくると、法子は自分が横たわっているのではなく、壁に寄りかかって座っているのだということが分かってきた。だから、目を開いて真っ先に畳が見えたのだ。 「さあ、顔を上げて」  声が聞こえた。スピーカーを通して聴くような、鮮明でよく響く声だ。法子は小さく咳《せき》をした。その咳も、自分がしたとも思えないくらいにやはり大きく、はっきりと聞き取れる。法子は重たい頭を時間をかけて持ち上げ、やっとの思いで前を見た。その途端に、再び口に何かをあてがわれた。 「飲んで。気分が楽になる」  法子は、その液体を喉《のど》を鳴らして飲んだ。ひどく喉が渇いていたし、それはほんのりと甘くて美味《おい》しかった。 「──よかった。だいぶ、落ち着いたみたいだ」  聞いたことのある声が呟いた。 「ああ、それはよかった」 「法子さん、分かるわね?」 「心配したよ」  法子は、時間をかけて自分に声をかける人々を見回した。人なつこい笑顔。愛敬のある丸い瞳《め》。日焼けした肌に、白くこぼれる歯。それは、法子を新しい家族として受け入れた人達、この四ヵ月間、共に暮らしてきた人達だ。 「気分は? どう」  和人が、法子の肩に手をかけた。法子は、徐々にはっきりとしてきた意識の中で、ただ一言、「疲れた」と言った。事実、ひどく疲れていた。身体中の関節がきしむような感じがしたし、指先一本ですら、動かす力も出なかった。 「無理もないよ。だって、このところ、君はまるで眠っていなかったんだから」  和人は悲しそうな顔で法子の顔をのぞき込んでくる。それに対しても、法子は表情を動かすのですら大儀で、ただむっつりとし続けるしかなかった。和人の横から公恵が顔を出した。 「ごめんなさいね、法子さんがこんなに悩んでいたなんて、気がつかなかったの。のんきに構えすぎてたのよね」 「僕が悪かったね。あんな夕立が来そうな時に温室になんか連れていったから、法子さんをすっかり慌てさせてしまった」  そう言ったのは武雄だった。彼は、ひどく恐縮した顔で、ずんぐりとした背中を丸めて正座していた。 「家族だと思って、つい言葉を省略していたのがいけなかったのね。きちんと話さなきゃならなかったのは、私達の方なのよ。やっぱり、お互いに妙な遠慮をしていたんだわ」  今度はふみ江が言った。法子は、何か感じるよりも前に、喉の奥に熱いものがこみ上げてくるのを抑えることが出来なかった。健晴が「法子ねえちゃん」と言った時には、涙が頬を伝って落ちた。 「ほら。だから、夜中に家族会議なんかよくないって言ったのよ。かえって、お義姉《ねえ》さんを傷つけることになっちゃったじゃない」  綾乃もそう言った。それから、彼らは口々に法子に対して謝罪の言葉を述べ始めた。そんなつもりではなかったのだ、いらぬ心配をさせまいと思ったのがいけなかった。家族として扱っていなかったのはこちらの方かも知れない、などなど、誰もが法子の孤独を哀れみ、自分達の罪の深さを悔いる言葉を口にした。法子は、ひたすらしゃくりあげながら、彼らの言葉の雨に打たれていた。淋《さび》しかったのだ、この数日の自分は、とにかく淋しかったのだと気づいた。 「分からないことや、不安に思うことがあったら、何でも僕らに聞いて欲しいんだ。一人で悩まないで欲しいんだよ」  和人が切なそうな顔で言った。その頃には、法子は、畳は畳でなければならないと思えるようになっていた。天井は天井、襖《ふすま》は襖、何も変わったところはない。しかも、そこは夜中に家族が集まっていた部屋、離れの仏間だということもはっきりと分かった。 「きっかけは何だい? 何が君を不安に陥れた?」  法子は手の甲で頬の涙を拭《ぬぐ》いながら、和人を見つめた。 「──氷屋さんのこと」  和人はゆっくりと頷《うなず》く。他の家族も同様に、真剣な表情で法子を見つめていた。生唾《なまつば》を飲み込んで、それから法子はおずおずと口を開いた。 「この家の人達が──その──殺したんじゃないかと」  家族は一瞬息を呑んだ表情になり、数秒間、沈黙が流れた。次の瞬間、部屋には笑い声が爆発した。怒号が飛ぶか、驚愕《きようがく》の悲鳴が上がるかと予測していた法子は、波が弾けるような豪快な笑いの渦にしばし呆然《ぼうぜん》となり、やがてそれが笑い声だと分かると、互いの身体を叩《たた》きながら笑いころげている人々を、ぽかんとして眺めていた。 「殺したって、うちが、かい」 「氷屋さんの一家を、ですって?」  彼らは涙を流さんばかりに腹を抱えて笑っていた。部屋の空気は大きなうねりになり、温かくて柔らかい波が法子を包み込んだ。 「ねえ、法子。いくら何でも──まあ、いいや。僕らが氷屋を殺したのかと思ったんだね?」  和人は息をつぐのでさえ苦しそうに笑い、途中で咳《せき》こみながら「それで、どうして、殺す必要があると思ったの」と言った。法子は家族の顔色をうかがい、もはや嘘《うそ》をつくことも出来ない気分でおずおずと口を開いた。 「チョウセンアサガオのことで、あの人達に脅されてたんじゃないかって──」  ようやく笑いがおさまってきて、家族は、今度は一転してしんみりした顔になった。武雄が深々とため息をついて、「それは、私達の責任だね」と呟《つぶや》いた。 「大ばばちゃんが怒るのも、無理もない」  彼は淋しそうな、困惑した表情で言った。さっきまで笑いころげていた家族は悄然《しようぜん》となり、うなだれてしまった。法子は、彼らの突然の変化に戸惑いながら、自分がひどく気の毒なことをしている気分になった。普段は底抜けに明るい人達を、ここまでしょんぼりとさせてしまったのは、自分の責任に違いないと思った。 「法子さんは、この家の宝なんだって、あれほど言われていたのに、こんなに心配をさせてしまって──下手をすれば、この家を出ていくようなことになるところだったんだ。大ばばちゃんが歩いたとか、おじいちゃんが喋《しやべ》ったとか、そんなことを言い出してると和人から聞かされた時に、もっと真剣に考えるべきだったんだ。法子さんが、どんなに精神的に疲れていたか、何に怯《おび》えていたか」  家族一同が力なく頷いた。法子は、わずかに頭が混乱しそうになるのを感じたが、敢《あ》えて混乱の原因を探ろうとは思わなかった。なにしろ、今の状態が心地良く感じられてならないのだ。  武雄はしんみりとした口調で言葉を続けた。 「大ばばちゃんからは、言われていたんだよ。法子さんは、そんじょそこらにいるような、普通の娘さんじゃない。敏感で、特別な人だって。だから、大切にするように、和人の嫁さんとしてだけでなく、この家の宝として、決して傷つけたり不安にさせたりしないようにって、くどいほどに、言われてたんだ」  かつて、これ程までに特別扱いされたことなど、あっただろうか。法子は内心で驚きつつも、自分がガラス細工で出来ているような、繊細で気高い空気をまとっている気分になっていた。そして、以前、どこかで見た聖母像のように、彼らよりも一段高いところから、慈《いつく》しみに満ちた表情で微笑む姿さえが思い浮かんだ。 「まったく、その通りだった。その繊細さや純粋さを、私達はまるで理解していなかったんだ」  法子は、自分を鈍感とは思わないが、人から敏感などと言われたこともない。神経質だと思ったこともないし、普通の娘と違うと思ったこともない。ましてや繊細とか純粋とか、そんな言葉を面と向かって言われたことも初めてだった。それなのに、家族は今、法子を宝として扱わなかったことを畏《おそ》れ、法子を敬おうとさえしている。義父の顔は本当に悲しそうで、心の底から悔いている様子がありありと見て取れるのだ。 「でも、分かって欲しい。僕たちは、そうしてるつもりだったんだよ。大切にしている、つもりだったんだ。それが、裏目に出てしまった」 「夜中にね、相談していたのは──法子さんに聞かせたくない話だったことは確かなのよ。要らない心配をさせたくなかったばっかりに」  今度は公恵が口を開いた。彼女も武雄と同様、ひどく沈痛な表情をしている。歌が好きで愛敬があって、いつも楽し気に見える姑とは別人のように、彼女は唇を噛みしめ、その口調さえも不安におののいていた。 「でも、一つ聞いてもいいかしら。法子さんの言う、そのチョウセンアサガオっていうのは、どういうことなの?」  法子は必死で頭を働かせようとした。 「それは、どういう種類の草なの?」  今度はふみ江が言った。法子は混乱しながら「トリップするんでしょう」と呟《つぶや》いた。 「麻薬みたいに? そういう草を、家が育ててると思ったのかい」  和人が心底驚いた顔をした。法子は、大人にたしなめられる幼い子どもに戻った気分で、ただ上目遣いに彼らを眺め、小さく頷《うなず》いた。 「誰から、そんな話を聞いたの?」 「知美──高校の時の友達なんですけど」 「悪いけど──それは困ったお友達ねえ。よく確かめもしないで、そんないい加減なことを吹き込むなんて」  公恵の話すことがよく分からなかった。いや、言葉そのものは分かるのに、意味が入って来ないのだ。何を吹き込まれたというのだろう。何かが違っている。公恵は、小さく深呼吸をすると、ひたと法子の顔を見つめて「あのね」と言った。 「おいおい分かってくれればいいと思っていたから、法子さんには、これまで話さなかったことがあるの。それは、確かなのよ。こんな誤解が生まれるとは思わなかったから、そのうち、少しずつ分かってくれればいいと思っていたんだけどね」  法子は思わず生唾《なまつば》を飲み込んだ。だが、公恵の表情はとても穏やかで、余裕に満ちていた。彼女は、一度顔を巡らして家族を見渡し、それから呼吸を整えて法子を見た。 「この志藤の家は、昔からお米を扱ってきているけれど、もう一つ、他の仕事をしてきたの」 「他の仕事──」  誰もが真剣な表情で法子を見つめていた。法子は、壁に寄りかかったまま、全く力の抜けてしまっている背中に、わずかに力をこめ、姿勢をただした。 「戦前から──大ばばちゃんの、その前の代から。薬草を育てて、ご近所の方々を助ける仕事」  法子は曖昧《あいまい》に頷いたが、まだその意味はよく分からなかった。言葉が上滑りしているようで、まるで頭に入って来ない。 「お腹が痛い時も、風邪《かぜ》をひいた時も、神経痛にも中風にも、それから子どもを産んだ母親のお乳の出が悪い時にもね、色々な薬草を使って、なおしてきたの」  今度は少し分かってきた。法子は改めて、真剣な表情の公恵を見つめ返した。公恵の方でも法子の表情の変化を見取ったのかも知れない。急に晴れ晴れとした笑顔になって、「分かるでしょう?」と言った。 「植物には、それぞれ色々な力があるでしょう。それを、私達は用途別に育てて、必要があれば、ご近所の方々に分けてきたの。そして、喜ばれてきたのよ。でも、それは本当に、大ばばちゃんの前の代からの、いわば、ボランティアみたいなものなの」  公恵には悪びれた様子など欠片《かけら》もなく、嬉しそうに見えた。理想に燃える人の、清らかな微笑み──少なくとも、法子にはそう見えた。 「鎮痛作用のある草というのならば、あるわ。もう助からない病人のいる家では、そんなものも必要になる時があるのね。身内の方にしてみれば、病院ではなく、自宅のお布団で、畳の上で最期を迎えさせてあげたい、でも、苦しむのは見るに耐えない、そういう状況になることがあるの」 「────」 「でも、そんな草花を作っているからって、家はよそ様に恨まれたり、または脅されたりするような覚えは、ただの一度だってありはしないわ。勿論《もちろん》、本庄屋さんにしてもよ。あの人も、法子さんも見かけた時に気がついただろうけど、本当に身体の具合が悪そうだったの。だから、うちはいつでもお薬をあげていたわ」  法子は、ぽかんとしたまま、公恵の話を聞いていた。そのうち、胃の底の方から恥ずかしさが湧《わ》き起こってくるのを感じた。全く、自分は何と見当違いなことを考えていたことだろう。何という誤解をしていたのだろう。そう思うと、すぐにでも謝らなければならない気がした。      16  公恵は、それから庭の植物のあれこれについての説明をしてくれた。驚いたことに、法子が昔から知っている、例えばフクジュソウやスズランでさえ、特別な用法があるのだと知って、法子は疑惑とはまるで別の好奇心にとらわれそうになった。  ──でも、忘れちゃ駄目。それと、これとは問題が別よ。騙《だま》されちゃ駄目。  気がつくと、身を乗り出さんばかりに草花の話を聞いてしまっていて、法子ははっと我にかえった。その頃には、意識はすっかり明確になっていた。  また、相手のペースに乗せられるところだったかも知れない。そう思った途端、法子は急に心を閉ざし、さっき、宝とまで言われた時の嬉しさも忘れて、また表情を固くしてしまった。その変化に真っ先に気づいたのは和人だった。彼は「ねえ」と法子の肩に手を置き、法子の顔をじっとのぞき込んだ。 「まだ分からないことがあるのかい? まだ、僕らを信じてはくれない? 疑問に思うことがあったら、言ってくれよ。僕たちは、どんなことをしても君の誤解を解くよ」  彼の目は誠実な光に満ち、ひたむきで、情熱的だった。法子は再び涙ぐみそうになりながら、ようやく普通に回転してきたらしい頭を働かせた。頭を整理して、疑問を明らかにしなければならないのだと、脳味噌《のうみそ》に命じた。 「じゃあ──何で皆さんが警察のことまで心配していたんですか」  言いながら、声が震えるのが分かった。とんでもないことを口にしている。退《の》っ引きならないところまで自分を追い込んでしまっている気がした。だが、もう後へはひけなかった。もしも、和人の穏やかな瞳《め》に、ほんの少しでも動揺の色が見てとれたら、今度こそ法子は、本当に裏切られたと思うだろう。そこから先は分からない。だが、とにかく騙されるものか、丸め込まれるものかと、法子は自分に言い聞かせた。 「私、聞いたのよ。『まさか、爆発までするとは』とか、『警察は間違いなく手をひいたんだろうな』とか、そんなことを言ってたでしょう?」  自分の生唾《なまつば》を飲み込む音が大きく頭の中で響いた。法子は瞬き一つせずに、和人を見つめ続けていた。彼は、そんな法子に負けないくらいの力を瞳に込めて法子を見つめ返してくる。そして、一つ深呼吸をすると、他の家族などいないかのように法子の肩を抱き寄せようとした。 「こんなことを言うべきじゃないかも知れないけど──悲しいよ、法子。誤解を生んだのは僕たちの方だけど」  法子は、またさっきの恥ずかしさがこみ上げて来そうになるのを感じた。 「君を責めることは出来ないけど、でも、信じて欲しいんだ。僕たちが、そんなことをする人間だと思うかい? 信じられないかい?」  顔がかっと熱くなった。自分が選んで結婚した相手を信じられないなんて、何と浅ましく情けない人間なのだと、つい身を捩《よじ》りそうにさえなった。  ──でも、質問の答えにはなっていないのよ。駄目、情に流されたら。  法子は鼓動が速まるのを感じながら、頑《かたく》なに俯《うつむ》いていた。 「遺書がね、届いたんだ」 「──遺書?」  意外な言葉を耳にして、法子は小首を傾《かし》げながら夫の顔を見つめた。彼は大きく頷《うなず》き返し、「本庄屋のね」と続けた。 「わざわざ郵送にしたらしくてね。あの事故の後で、届いた。うちに迷惑をかけたことが詫《わ》びてあって──それから、どうして自分たちがあんなことをしなければならなかったのか、誰を恨んでるか、そんなことが長々と書いてあった。そして、最後には、うちがあそこの建物にかけていた火災保険のことまで気にして、色々と詫びてあったよ」  頭がぐらぐらしそうだった。けれど、法子は必死で彼の言葉を整理しようとした。 「保険会社ではね、ガス洩《も》れとガス爆発では、扱いが変わるらしいんだ。それに、どっちみち事故の原因が断定されるまでは動かないんだよ。そのためには、警察が現場検証をして、どういう決断を下すかを待たなきゃならない。あの夜は、正直に言うけれどね、保険金の相談をしていたんだよ──もしも、親戚《しんせき》も見つからなかったら、うちがその保険金からお墓くらいは建ててあげなきゃならないからね」  推測に推測を重ね、心を強《こわ》ばらせて築き上げた法子の妄想は、今や音をたてて崩れつつあった。何だ、そんなことだったのと言おうとして、だが法子はまだ納得しかねるように目を伏せ、最後にもう一度抵抗を試みようとした。  ──それだけで納得出来るの? 何だったかしら、もっと聞くべきことがあったんじゃなかった?  蓋《ふた》を開けてみれば、そんなに簡単な理由だったなんて、出来すぎている気がする。第一、何か聞き忘れている気がしてならないのだ。だが、それらは全て、一つの疑惑が生みだした幻なのかも知れないという気もした。この数日間、法子は完全に妄想にとり憑《つ》かれて過ごしていたのかも知れない。  和人はさらに言った。 「そんな話を夜中にするのかって、君は言うかも知れないけどね──出来ることなら、恨み言ばかりが書いてある遺書なんか、君に見せたくはなかった。それに、四人もの人が亡くなって、すぐに保険金の話をしているのかなんて、それこそ君に誤解されたくなかったんだ」  随分長い間、和人は法子を見つめ続け、それからふっと笑みを浮かべた。その微笑みにつられて、法子もつい固い笑みを返していた。強ばっていた頬が緩み、心の中に柔らかい風が吹き込んできた。 「よかった、法子さんが笑ってくれた」  公恵が弾んだ声を上げた。 「分かってくれたかい?」  室内の空気は穏やかに揺れて、凪《なぎ》の海のような伸びやかなものになった。誰もが心の底からほっとした顔で、慈《いつく》しむように法子を見つめていた。 「本当に──誤解なんですか? 麻薬みたいなものなんか、作ってないんですか?」  すぐに承伏するのも不安で、法子はもう一度そんな家族を見回した。だが、彼らの笑顔は変わらず、穏やかでありながらも揺るぎない確信に満ちていた。 「もしも──考えたくもないことだけど、もしも、僕たちが氷屋を殺さなきゃならないんだとしたら、僕が君と結婚する前にやってたとは思わないかい? あの家とは、五十年近い付き合いがあったんだよ。君に知られないようにするためになら、結婚前に何とかしていたはずだよ」  その言葉が、最後の砦《とりで》を突き崩した。そうだ、誰も好きこのんで疑いを抱いていたわけではない。彼らがこれほどまでに熱心に法子に説明してくれるのは、法子を失いたくない、手放したくない一心なのだ。  結局、法子は自分の中の誤解を捨て去ることになった。和人と、彼の家族は一様に幸福に満ちた笑顔になり、法子の勇気──家族に不安をぶつけ、真実を望み、さらに明らかにされた事実を受け入れ、自らの誤解を捨て去るという勇気を讃《たた》えた。 「分かってくれると思ってたのよ」 「赤飯でも炊《た》きたいところだね」 「これでお義姉《ねえ》さんは、本当の意味で私達の家族になってくれたっていう感じ」  法子は、彼らの賑やかな声に包まれながら、何という人達なのだろうと思っていた。こんなにひどい疑いをかけられていたというのに、彼らはまるで法子を責めようともしていない。誤解が解けたことだけを喜んで、こんなにも幸福そうに笑っているのだ。 「──すみませんでした。勝手な誤解をしてしまって」  再び涙ぐみながら、がっくりとうなだれると、家族は誰もが慌てて法子を慰め始めた。無理もないのだ、説明が足りなかった自分達がいけなかったのだ、自分達の配慮が足りなかったのだと、口々に言われ、手を握られたり背中をさすられたりして、法子はまだ少しの間、泣き続けた。こんなに良い人達と会えた自分は、本当に幸運なのだと、改めて感じていた。  その時になって初めて、もう午前一時を回っているのだということに気づいた。 「また、真夜中の家族会議になっちゃったね」  和人が照れ臭そうに笑った。法子は恐縮しつつ、これで本当に自分も家族の一員になれたのだなと思った。もしかしたら、今ごろ法子自身の疑惑にとり憑《つ》かれた亡霊が、渡り廊下の途中で、また彼らの様子を探っているかもしれない。ふと、そんな奇妙な想像が頭をもたげてきて、一人で笑ってしまった。家族は誰もが満足そうに、そんな法子を見守ってくれていた。  翌朝、再び家族と同じ食卓についたヱイは、法子を見るなり「いいね」と言った。 「それが、本当の法子の顔だ。昨日までとは、別人のような顔をしている」  法子は、嬉しさと恥ずかしさが半々の笑みを浮かべてヱイを見、ついで家族を見回した。昨夜のドラマチックな一夜を過ごして、家族は誰もが満足そうに、そして、これまで以上に楽しげな表情で法子を見守っていた。      17 「それで、納得したわけ?」  知美は、視線だけを法子に残し、ふっと横を向いて煙草の煙を吐き出すと、苛立《いらだ》たし気に眉《まゆ》をひそめた。あの、半分夢を見ているような不思議な夜から、既に三日が過ぎていた。その間、法子は家族の愛情を、それこそ全身で体感しながら、平和で賑《にぎ》やかな日々を過ごしていた。知美から電話が入るまで、彼女の存在すら忘れていたくらいだ。 「全ては法子の誤解だったっていう、そういうことで?」  初めて知美を呼び出した時と同じ喫茶店だった。法子は、にっこりと微笑んで頷いた。今日は、以前のように彼女を羨ましいとも思わない。格好をつけて気取っているけれど、所詮《しよせん》は小さなアパートで暮らしている、ただのOLに過ぎないのだと、法子は改めて彼女を見ていてそう思った。 「色々、心配かけちゃって申し訳なかったけど、そういうことなのよ。ごめんなさいね、人騒がせな真似《まね》をして」  知美は「ふうん」と頷き、面白くなさそうな顔で口を尖《とが》らせている。法子は、やはり彼女は法子の不幸を望んでいたのかも知れないと思った。  ──でも、悪いけど、そう簡単に、あなたが思うような悲劇なんか起こらない。人生なんて、そうそうドラマチックにはならないわ。  法子は、ほんのりと微笑みながら、まだ腑《ふ》に落ちない表情の知美を眺めていた。 「それよりもね、私、もっと不思議なことがあるのよね。今は」  法子は余裕のある表情で、まだ何か考えている顔をしている知美を見た。 「どうしてあの家の人達は、いつもあんなにも幸福そうにしていられるのかしら」 「──そう見えるわけ?」 「見えるわ。皆、不思議なくらいに純粋で、優しくて。私があんなにひどい誤解をしていたのに、それに腹を立てるどころか、反対に謝ったりしてくれるの」  そこで知美はぴくりと眉を動かし、それから短くなった煙草を灰皿に押しつけた。 「皆が言ってくれたわ。私は特別なんだって。あの家にとって、私は和人さんの妻っていうだけじゃなくて、宝なんだって」 「ねえ」 「私、そんなふうに言われたの、生まれて初めてよ。でも、百歳に手が届こうとしてるお婆さんから、そんなことを言われてごらんなさい? 不思議な気分になるのよねえ」 「ねえ」 「もう、大ばばちゃんたらね──え?」  知美は、少しの間考える顔をして、それから思いきったように法子を見た。 「ちょっと、出来すぎじゃないの?」 「──何が?」 「常識で考えてごらんなさいよ。ことがことなのよ。おやつをつまみ喰《ぐ》いしたとか、おねしょをしたとか、そんな子どもじみたことを言っているんじゃなくて、殺人よ」  瞬間、頭がくらりとした。法子は、それまで浮かべていた笑みが虚《うつ》ろになるのを感じ、吐き気さえしそうな程、頭の中がぐるぐると回るのを感じた。 「人殺しの疑いをかけられて、笑っていられる人間がどこにいると思う? 冗談じゃない、何を根拠にって、普通だったら顔色を変えて怒るところだと思わない?」 「でも──家族だから」 「家族だったら、よけいじゃない。一つ屋根の下に住んでて、そんな疑いをかけられたりしたら、それこそ激怒すると思うけど。何ていう嫁なんだっていうことになるのが普通だと思うわよ。それを、なぁに? 家の宝? そんなことを、ぬけぬけと口にするなんて、ちょっとおかしいとは思わないの? 第一、その、大ばばちゃん? その人が歩いてたっていう問題は、どうなったのよ。おじいさんが喋《しやべ》ってたっていうことは?」  この数日、思い切り羽ばたいていた翼を、一瞬のうちにもぎ取られた気分だった。法子は突然、額に冷たい汗が滲《にじ》むのを感じ、視線を虚ろに漂わせながら、夢中でバッグからハンカチを取り出した。知美は両手を組み合わせると、姿勢をただして身を乗り出してきた。 「法子──私はね、法子が不幸になればいいなんて、思ってやしないのよ。誤解だったら、それに越したことはないと思う。でも、何だか腑《ふ》に落ちないじゃない? その、氷屋さんの遺書っていうの、見せてもらったの?」  ますます汗が吹き出してくる。法子は、力なく首を振るしかなかった。そうだった、ヱイと松造のことがある。その問題は、全く解決されてはいなかったではないか。それに、遺書にしたって、確かに法子は実物を見せられてはいない。何故《なぜ》、そんなことを忘れていたのだろう。こんな、大切なことを。 「でも──じゃあ、どうしろっていうの? 他に出来ることなんか、もうないのよ──やっぱり私、また騙《だま》されてるっていうこと? あんなにいい人達に?」  法子は泣きそうになりながら知美を見つめた。知美は困った顔でため息をつくと、新しい煙草に手を伸ばした。 「それは分からない。分からないけど──これは、思ったよりも手ごわい人達なのかも知れないわね。まあ、皆で殺人を犯しているかも知れないような人達なんだから、田舎でのほほんと育ったような小娘の一人や二人、騙すくらい──」 「そんな言い方しないでよっ。いい人達なの! 誤解が解けるまで、徹夜したって話そうとしてくれる人達よっ!」  法子は、半ばむきになって声を荒らげ、ハンカチを握りしめた。知美は法子をちらりと見、それからテーブルに視線を落としてしまった。急速に、全身に疲れが襲ってきた。頭がすっかり混乱してしまって、もはや何から順に考えていけば良いのかも分からない。いや、考えたいことなど、何もないのだ。普通に平凡に、平和な日々を送れれば、それで良い。もう、何も考えたくなかった。 「落ち着きなさいって。誤解なら誤解で、それでいいんだから。結局、私には関係ないことなんだしね」  知美は煙草の煙と同時に諦観《ていかん》のため息を洩《も》らし、急によそよそしい顔になった。法子は恨めしい気持ちで彼女の横顔を眺め、やはり、こんな人になど相談したのがそもそもの間違いだったのかも知れないという気になった。大体、他人は人の不幸を喜ぶものなのだ。だから、あっさりと幸福になろうとしている法子の足を、知美は何とかして引っ張ろうとしているのに違いない、そう思いたかった。 「ねえ、法子」 「──いいわ。どっちみち、誤解であることは間違いないの」 「だから、その誤解っていうことだけどね。もう少し──」 「いいの!」  法子は、いつになく厳しい口調になると、きっぱりと知美をはねのけた。知美は半ば驚いた顔になったが、もう一度深々とため息をつくと、「法子がそう言うんなら」と呟《つぶや》いた。 「他人の私が、どうこう言う問題でもないのかも知れないけど」 「そうよ。やっと、順調にいき始めたところなんだもの。全ては誤解だった、それで、いいじゃない?」  努めて明るく、軽快に聞こえるように意識して笑ったつもりだった。だが、その声は上ずって、ひどく不自然に響いたのが自分でも分かった。法子は、ずず、と音をたててアイスティーを飲み干すと、「さて」と時計を見た。 「お昼休み、そろそろ終わりでしょう? 私も、買い物をして帰ろうかと思ってるから、そろそろ」  知美は、急にせかせかと動き始めた法子を静かな眼差《まなざ》しで見守っていた。その冷静ささえも、法子の癇《かん》を刺激する。冷たい額をハンカチで抑えながら、法子は、この混乱をどうすれば良いのかと考えていた。 「法子、あんた、もっと素直で、のんびりした性格だったじゃない? 何だか別人みたいに見えるわよ」 「そう? そりゃあ、高校を卒業して八年もたてば、少しは変わるんじゃない? 特に、ついこの間まで田舎《いなか》にいたから、余計にのろまに見えたんでしょう」 「もう──とにかく、何かあったら連絡してよ、ね?」  別れ際まで、知美は幾度もそう言っていた。法子は脳貧血でも起こしそうな気分のまま、硬い笑みを浮かべて彼女に手を振り、逃げるように地下鉄の階段を降りた。  ──大ばばちゃんは歩いていた。おじいちゃんは喋《しやべ》った。  電車に揺られながら、法子は考え続けていた。その問題は、何も解決していない。そういえば、あの朝だって、確かにヱイとふみ江はキチガイナスビの話をしていたではないか。キチガイナスビ、すなわちチョウセンアサガオの話をしていたのだ。  ──やっぱり、騙《だま》されてるの?  もう、何が何だか分からなくなりそうだった。これ以上、考えようとすると気分が悪くなる。あんなに優しい人達、あんなに懸命に誤解を解こうとしてくれた人達の、いったいどこに嘘《うそ》があるというのだろう。どこを疑えというのだ。  赤坂見附で丸ノ内線に乗り換え、さらに新宿で中央線に乗り換える間も、法子はぜんまい仕掛の人形のように、ただ機械的に動いただけだった。ふと、赤坂見附で綾乃に背を押された時のことまで思い出して、法子の頭は余計に混乱した。  ──そんなはずがない。疑いは晴れている。あれは私の妄想だった──でも、妄想なんか抱くだろうか? ああ、分からない。  知らない間に涙が溢《あふ》れていた。昼下がりの電車は案外すいていて、法子はドアの脇《わき》にもたれながら、黙って涙を流していた。目の前の乗客がぎょっとした顔で自分を見ているのに気がついて、初めて頬《ほお》を涙が伝っていることを知ったような有り様だった。例えようもない不安に駆られていた。いったい、これから自分は何を頼りに、どう暮らしていけば良いのか、まるで分からなくなっていた。 「どうしたの? ひどい顔色」  玄関に迎えに出てくれた綾乃が、まず驚いた声をあげた。法子は小さな声で「何でもないの」と繰り返したが、綾乃はすっかり慌てた様子で、大声で公恵とふみ江を呼んだ。 「──一人になりたいんです。お願いですから」  哀願する口調で言っても、公恵たちは激しく首を振ってそれを制した。 「そんな状態で、一人でいたってろくなことはないわ。ねえ、どうしたのか、何があったのか話してちょうだい」  公恵はいつになく厳しい口調で言うと、ふみ江と綾乃とで法子を取り囲むようにして居間へと連れていった。法子は涙が止まらなくなってしまって、しばらくは何を話すことも出来ずに一人で泣きじゃくっていた。 「──可哀相に、可哀相に。そのお友達にまた何かを言われたのね?」  法子の髪を撫《な》でながら囁《ささや》いたのはふみ江だった。法子は、何を答えることも出来ず、ひたすら泣きじゃくっていた。やがて、誰かがきつく手を握ってきた。その感触から、綾乃だろうかと思って顔をあげれば、そこには健晴の心配そうな顔があった。 「どっか、痛い? おなか痛いの?」  健晴の息は、アイスクリームみたいな匂《にお》いがした。法子は余計に悲しくなってしまって、ついに声をあげて泣き始めた。 「大ばばちゃんに、聞いていただきましょう、ね? 大ばばちゃんになら、きっと分かっていただけるわ」  やがて、三十分以上もそうしていたかと思う頃、法子は公恵に言われて無理矢理立たされた。綾乃に腕を掴《つか》まれ、渡り廊下を歩きながらも、法子はただ「いいのよ」と繰り返したが、綾乃は有無を言わさぬ雰囲気で法子を引っ張った。今、ヱイになど会いたくない、ヱイの話など聞きたくないと言いたかった。けれど、心のどこかではヱイに救って欲しい気持ちもあった。 「また、悪い顔になってきた」  離れに行くと、ヱイは特に驚いた顔もせずに法子を見た。そして、ゆっくりと手招きをする。法子は泣きじゃくりながら、子どものようにいやいやをした。 「悪い空気を吸ってきたね。誰かに、毒を吹き込まれてきた」  ヱイの口調は、いつもと変わらない静かなものだった。その声を聞いただけで、法子は日常とは異なる空間に身を置いたことを感じ、早くも気持ちの静まるのを感じることができた。 「そんなことでは、奇跡は起きないよ」  ヱイは、浴衣《ゆかた》地の着物を着ていて、丸まった小さな背をますます丸めてゆっくりと法子に向けて団扇《うちわ》を扇いでくれた。 「──奇跡?」  法子は、エアコンも入っていないのに、不思議に涼しく感じる部屋で、汗と涙で化粧も崩れたまま、ヱイを見た。ヱイは、まるでお天気の話でもした後みたいに、開け放った障子から空の方を眺めていた。 「大ばばちゃん、奇跡って?」 「奇跡はね、奇跡。法子は奇跡を信じるかね」 「──分からない。でも、信じないわ。見たこともないし」 「見たことのないものは、信じないかね。奇跡は」  そんな話を聞きたいとは思わなかった。それよりも、もっと根本的な不安を解消してもらいたい。 「ねえ、大ばばちゃんは、本当に歩けないんですか」 「この前、法子はあたしが歩くのを見たと言ったね」 「──でも、本当はどうなのか──何が何だか、分からなくなって」 「法子が見たのなら、本当だと、言ったでしょう」 「でも──本当は、どうなんですか。私が見たのは、夢か幻だったんですか? ねえ、大ばばちゃん」  だが、ヱイはしょぼしょぼとした目を庭に向けているばかりで、それ以上のことは何も言おうとはしなかった。法子は苛立《いらだ》ち、焦《あせ》りを感じながら、ただ黙ってヱイの前に座っていなければならなかった。いくら考えても、彼女の言葉の真意をはかることなど出来そうにはなかった。      18  それから小一時間もした頃、ヱイに来客があって、法子は母屋へ戻ることになった。廊下ですれ違った客は、ずっと俯きがちに歩いてきて、法子に顔は見えなかった。そして、法子の背後で、それまで開け放ってあった障子はぴたりと閉じられた。  ──大ばばちゃんから薬をもらう人。あの人は、何の薬が欲しかったんだろう。  気分的には、だいぶ落ち着きを取り戻してはいた。けれど、それは気持ちが楽になったというのとは違っていた。何も解決などしていない。ただ、奇妙に開き直ったような、白けた気分が法子を支配していた。 「大ばばちゃんは、力になってくれたでしょう?」 「大ばばちゃんの言うことは、まず間違いないのよ」  洗濯ものを畳んでいた公恵とふみ江は、廊下を進む法子を認めると、いそいそと立ち上がって近づいてきて、探るような笑みを浮かべて言った。さらに綾乃と健晴も、手をつないで「元気になった?」と近づいてきた。法子は、彼らを安心させる為だけに、取りあえずは愛想程度の笑いを浮かべ、「着替えてきます」と言い置いて、重い足どりで階段を上がった。  ──結局、何を救ってもらったっていうんだろう。あの人の言うことなんか、まるで分からないじゃないの。奇跡って、何のこと。  結局、ヱイは、後は黙って庭を見ていただけだった。だから法子も黙って庭を眺めていた。そうしていると、和人と見合いした時のことから、ついさっき知美に会った時のことまでが、順繰りに思い出された。成功も失敗も、幸福も不幸も分からない。ただ、嵐《あらし》のような半年あまりが過ぎたのだということが分かるだけだった。  ──これが一生続くんだろうか。やめるのならば、今のうちじゃないの?  普段着に着替えながら、法子の中で不思議な脱力感が広がっていった。先日までの緊迫した感覚は、すでに遠くに流れ去ってしまっている。残ったのは、あまりにも平和過ぎて、とろりと気だるく、どこか不自然にさえ感じられる生活だけだ。文句のつけどころもないくらいに仲が良く、明るく親切な人々との生活。非の打ちどころもない結婚。  ──でも、何となく違う。  たとえ、彼らが氷屋の事件とは本当に無縁だとしても、それ以外の何かのひっかかりが法子の中にあった。  ──それが、嫌なんだ。  家族がヱイを崇拝する口調、奇妙な統制の取れ方、それらが嫌だと思う。どこまでいっても法子とは相容《あいい》れない、何かの違いがあるのだと思った。これだけの大家族でありながら、常に心が一つであること、意見の食い違いも喧嘩《けんか》もなく、摩擦の一つも起こらずに暮らしていかれること、それ自体が、法子には理解出来ないことだった。親子も夫婦も兄弟も、まるで喧嘩をしないなんて。 「もう、びっくりしちゃったわよ。あの子、泣きながら帰ってきたのよ」  着替えを済ませて下へ降りると、途中から公恵の声が聞こえてきた。「何があったんだって?」と聞いているのは武雄だ。法子は階段の途中で足を止め、耳を澄ませて階下の気配を探った。 「和人に早く帰らせるか」 「そうしてあげてよ。もう、私達には、どうしたらいいのか分からないもの」 「家は、誰も泣かないからな」 「そうよねえ。泣く人なんか、いないんだものねえ」  法子は、ますます白けた気分になって、そのままゆっくりと階段を引き返してしまった。確かに、この家の人達なら泣くことなどないだろう。いつだって笑いっ放し、隣の住人が心中したって、それが自分達の店子《たなこ》だったとしても、彼らは自分達に関係がなければ平気なのだ。そういう人達なのだ。  部屋に戻り、独身時代にはよく聞いていたCDを流しながらぼんやりしていると、やがて和人が戻ってきた。法子は無表情で彼を見上げ、気のない声で「早いのね」と呟《つぶや》いた。 「君が、何か悲しんでるって聞いたから。どうした、何があったの」  法子は、小さくため息をつくと、「別に」と答えた。和人は控え目な口調で「本当に?」と聞き、法子の顔をのぞき込んできた。額に汗を光らせて、彼の周囲には夏の埃《ほこり》っぽい匂《にお》いが立ちこめていた。 「また、友達に会ってきたんだって? それが原因かい?」 「────」 「知美さん、だったっけ。喧嘩でもしたの?」  法子は、そこでようやく首を振った。何を言われても、一度沈み始めた心は、そう簡単に浮上するとも思えなかった。激しく泣いていた時の方が、まだ楽なくらいだ。今の法子には、泣く程の気力もない。 「何だか──嫌になっちゃった」  つい、ため息混じりに呟くと、和人の顔にみるみる驚きの色が浮かんだ。だが、法子はそれでも心を動かすことは出来なかった。 「──何だか、混乱しちゃって。何を考えて、何を信じればいいのか、分からなくなりそうなのよ。もう、いちいち考えをまとめるのが嫌になってきちゃった」  虚《うつ》ろな視線を漂わせながら、法子は投げやりな言い方をした。これで、和人が怒り出してくれれば良いのに、とも思った。 「ちょっと、待ってくれよ──誤解は解けたはずだろう? 君を混乱させるようなことが、まだあるっていうの?」  和人は完全に慌てた表情で、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて言った。法子は、祈りにも似た気持ちで、彼が怒るのを待った。だが、和人の顔からは血の気が失《う》せて、彼はただおろおろとするばかりだった。 「そんな顔、することないでしょう? 和人さんが悪いなんて言ってない、私が、きっと私の方がどうかしてるのよ」 「待ってくれ──待ってくれよ。どういうことなのか、説明してくれよ」  和人の声は震えていた。法子は、二人で向かい合っていることさえが苦痛に思えて、すっと立つと部屋を出てしまった。 「どこ、行くの」 「お夕食の支度を手伝わなきゃ」  法子は振り向きもせずに答えた。素足に廊下の感触は心地良かった。その乾いたひんやりとした感触だけが、この家からじかに伝わってくる現実だった。  背後から、ばたばたと和人の足音が追ってくる。だが、法子は表情一つ変えずに、さっさと台所へ抜けるとエプロンを身につけた。 「どうしたっていうんだ。何が、君をそんなにしちゃったんだ?」  和人の声は、苛立《いらだ》っているというよりも、何か切羽詰まった響きを持っていた。既に流しに向かっていた公恵が驚いた顔で振り返った。法子は何も答えず、ただ黙って自分も手を洗い始めた。 「そんなこと、いいから。どうして話そうとしてくれないんだ。君は、まだ心にわだかまりを抱いてるの? ねえ、法子」  泣くに泣けない気分というものがある。法子は、まさしくそういう気持ちになっていた。今更泣いたところで、状況が変わるわけではない。第一、涙を流すことがあったとしても、そんな心情を分かってもらえる家族ではないのだ。この人達に、涙は分からない。 「法子、話し合おうよ。黙ってちゃ、分かりあえないじゃないか」  それでも法子は黙っていた。まだ疑っているのかと言われれば、否定出来ない自分がいる。確かに、法子は家族を信じることに決めたのだ。それでも、まるですっきりしていない。どちらが良いとか悪いとか、もはやそんなことも分からない。 「法子さん──」  公恵が震える声を出した。法子は米を研《と》ごうとしながら、物憂く顔をあげた。だが、彼女の顔を見るなり、心臓がとん、と跳ねた。義母は唇を震わし、その丸い目にいっぱいの涙を浮かべていたのだ。 「どうして和人と話してくれないの? 原因は何なの、何がいけなかったの?」  法子はすっかり慌ててしまって、どこを見たら良いのかも分からなくなった。 「ひどいわ、法子さん。私達、家族じゃないの、何があったのかくらい、話してくれたって──ううん、話せないっていうんなら、せめて、本当の気持ちだけでも教えてちょうだい。そんな、辛《つら》そうな顔をしている法子さんを、和人や私達が黙って見ていられると思う?」  そこまで言うと、姑《しゆうとめ》は堪《こら》えきれない様子で、急にエプロンで目もとをおさえ、小走りに居間に行ってしまった。法子の頭は余計に混乱し、慌てて和人を振り返った。すると、いつの間にか様子を聞きつけていたらしい綾乃までが、和人の隣で目に涙を浮かべて法子を見つめていた。 「お義姉《ねえ》さん──辛いことがあったんなら私達にも言ってよ」  法子は、米を何カップ計ったかも忘れて呆然《ぼうぜん》となった。和人までが、唇を噛《か》みしめ、うなだれている。 「そうじゃないのよ、私はただ──」 「僕じゃあ、君の力にはなれないのかい」  居間からは、公恵のすすり泣きが聞こえてくる。ふみ江までが松造の部屋からやってきて、家族の顔を順番に見回し、最後にカウンター越しに法子を見て「どうしたの」と眉《まゆ》をひそめた。 「ああ、おかあさん。法子さんは、心を開いてくれない。法子さんには、私達の心は通じないんだろうか。分かってはもらえないんだろうか」 「──公恵」 「おかあさん、私のどこがいけなかったのかしら。ねえ、いけないところがあったら直すからって、法子さんに伝えて」  公恵は泣きながらふみ江に訴えている。法子は、困惑した表情で、自分まで徐々に涙を誘われ始めているふみ江を見、青白い顔の和人と綾乃を見、まさしく途方に暮れていた。自分一人の言動の為に、彼らをここまで悲しませているのだということが重くのしかかってきた。涙とは無縁のはずの人達なのに。 「泣かないで、泣かないで」  健晴がわけも分からずに泣いている家族を見て、自分も悲しそうな声を出している。和人は、握り拳《こぶし》を作って涙をこらえている様子だった。  ──こんなにも彼らを悲しませている。私一人が不安になったり、人の言葉に左右されたりしたせいで。  彼らにこれ以上の悲しみを与えてはならない。それだけは確かだった。知美の言葉に振り回され、情緒が不安定になっていたのは、単に法子のせいなのだ。それなのに、自分の気の迷いで、勝手に不機嫌になったり泣いたりしたことが、これ程までに彼らを悲しませるとは思わなかった。 「ああ、法子さんに私の心を見せてあげることが出来たら」  公恵は激しく泣きじゃくりながら、そんなことまで言った。ふみ江はすっかり困った様子で、ついに自分も泣き始めてしまった。綾乃は健晴を抱きながら、自分も涙を拭《ふ》いている。いつも明るい人々、滅多に泣いたこともない人々が、法子一人の為に、今や不幸のどん底にあった。 「──すみません。私の、わがままなんです」  気が付いたときには、そう言っていた。何としてでも、彼らを悲しませてはならないと思った。 「お義母《かあ》さん、すみません。私、こんなに皆を悲しませるつもりなんか、なかったんです」  法子は居間に行き、公恵の前に膝《ひざ》をついて謝った。 「法子さん──いいのよ、いいの。ただね、悲しくて。法子さんを一人で苦しませているのが私達だとしたら、どうしたらいいんだろうって──血がつながっていないって、何て難しいことなのかしら」  公恵は涙で濡《ぬ》れた顔を上げると、一度は無理に笑顔を作ろうとして、再びエプロンで顔を隠してしまった。そして、「ごめんなさい」とだけ言い残すと、ついに立ち上がって、自分達の部屋に行ってしまった。 「お義母さん──」  法子は、為《な》す術《すべ》もなく、ただ呆然《ぼうぜん》と義母の後ろ姿を見送った。 「気にしないで、ね。法子さんのせいじゃないんだからね」  ふみ江までが鼻を赤くして法子を見る。 「そうよ。お義姉さんのせいじゃない。私達がいけないのね」  綾乃も声を震わしていた。法子は、泣き続ける人々の中で、感動にも近い気分を味わっていた。彼らこそが善なのだということが、今度こそ、痛いほど伝わってきた。  自分は、何とわがままで気分屋なのだろう、こんなにも彼らを悲しませて平気でいられるなんて、何とひどい人間だったのだろう。こんな時に限って涙も出ない自分は、よほど薄情に生まれついたのかも知れない。そう考えると、法子は新たな絶望感に打ちひしがれた。 「私、何て言って謝ればいいのかしら。どうしたら、許してもらえるのかしら」  法子はすがりつきたい思いで和人に言った。彼は、淋しそうな顔はしていたが、それでも弱々しい笑みを浮かべ、瞳を潤ませたまま、首を振った。 「許すなんて。君は何も悪いことなんか、していないんだよ」 「違うわ。皆をこんなに悲しませて──私がいけなかったの。私の方こそ、打ち解けなかったのがいけないのよ。皆が、これ程までに心配してくれているのに」  そうだ。自分はもう志藤家の嫁なのだ。彼らは和人の家族であると同時に、自分の家族なのだ。法子は、自分自身に言い聞かせるように、和人とふみ江、そして綾乃と健晴を見回して言った。 「法子──ありがとう」  ついに堪えきれずに、和人の目からも涙が落ちた。法子は、頭の後ろから力が抜けるような感覚の中で、とにかく出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべ、和人に頷いて見せた。これほどまでに善良な人々を、自分の責任で二度と悲しませてはならない。それに、何はともあれ、もうこれ以上混乱するのは、つくづく嫌だった。それだけだった。      19  ──これが、嫁になるっていうことなんだ。  結局、大切なのは妥協すること。そう、これは妥協に他ならない。  安心と不安、弛緩《しかん》と緊張が交互に訪れる日々の中で、法子の神経は自分でも気づかぬうちに次第に追い詰められていた。疲れきった頭の片隅で、とりあえずそれだけは理解した。  妥協で結構、それで構わないではないかと思う。もはや、それ以上に必要なものはないという気がする。もう、一人で心を惑わされ、ジェットコースターにでも乗っているみたいに、上げられたり下げられたりするのはたくさんだ。そもそも、他人の家庭に入り込み、それまでの自分の人生とは全く異なる生活にとけ込もうというのだ。妥協しなければ、にっちもさっちもいかなくなるに決まっている。  ──とにかく、悪い人達じゃない。  おかしな疑念にとり憑《つ》かれるよりも、まずそのことだけを信じるべきだった。あんなに泣いて、法子の身を案じる人々を、もうこれ以上傷つけてはならない。法子はそれだけを自分に命じた。  そして翌日、法子は半ばぼんやりとした精神状態のままで、いつもの通りに九人分の洗濯と広い家の掃除をこなした。途中で、手分けをして動き回っている公恵やふみ江と日常の会話を交わしもしたし、綾乃とも芸能界の某の噂《うわさ》なども話し、時には健晴に意味不明なことを言われながら、半袖《はんそで》から出ている腕に涎《よだれ》をつけられて遊びもした。 「おねーちゃん、ばかナス食べた?」 「そんなの──食べないわ」 「食べない? 僕、食べちゃおうかなあ?」  健晴は、自らの涎で顎《あご》を光らせながら、身体を傾けてうふふ、と笑う。法子は「そうねえ」と答えながら、この子の将来は誰が面倒を見るのだろうと考えた。  ──でも、駄目。考えないことよ。考えないの。とにかく、今は綾乃がいるんだから。  昼食には武雄と和人を除いた全員で、ふみ江の部屋で冷やし中華を食べた。ヱイのことは、綾乃がおぶって運んできた。法子はふみ江を手伝って、松造にも食事をさせた。松造は、ああ、うう、を続けながら、食欲は旺盛《おうせい》らしく、朝晩丁寧にふみ江が磨いてやっている歯で、案外しっかりと冷やし中華を食べた。  そして午後、健晴と綾乃は昼寝をし、ふみ江も松造の部屋に戻っていた時刻、公恵が買い物にいっている間に、法子はヱイから「ご褒美《ほうび》」をもらった。ちんちん、という、いつものヱイの部屋のベルが鳴り、小走りに渡り廊下を歩いた末に、突然大きなエメラルドの指輪を渡されたのだ。法子は「まあ」と言ったまま、しばらくは息を呑んで、その大粒の宝石に見入ってしまった。それから、あまりに物欲しげに見えただろうかと慌てて、急いで「こんな物をいただく理由はありません」と言った。 「理由がないものかね。法子は、あたしたちの家族なんだから」  ヱイの痩《や》せ枯れた手に、小さな宝石箱の中で輝くエメラルドは、それだけでも重そうな印象を与え、いかにも不似合いだった。浴衣《ゆかた》の襟元から伸びる皮膚のたるんだ首は、だいぶ髪の薄くなっている頭を支えているだけでも大儀に見える。しょぼしょぼとした目を法子に向け、頬《ほお》にも深い皺《しわ》を幾本も寄せて笑うヱイは、どこから見ても痛々しい程に年老いていた。その年齢だけでも脅威に感じるのに、法子は老女を前にして、それ以上の何かを感じないわけにはいかなかった。  ──先代から薬草を作る人。近所の人々を助ける人。 「何を遠慮しているんだい。いいから、とっておきなさい。これは法子の物なんだから」  既に、宝石の美しさには魅入られながら、それでも心のどこかに重苦しいものが残っていた。 「さあ。いいから、ほら」  けれど、この老人を悲しませるわけにいかない。法子ははにかんだ笑みを浮かべて、結局おずおずと手を伸ばした。別にかまわないではないか。身内の、曾祖母《そうそぼ》からご褒美をもらうだけのことだ。 「すごいじゃないか!」  夕食の時に、和人にもその指輪を見せると彼は目を丸くしてエメラルドに見入った。 「でも、何のご褒美なのか、分からないわ」  法子は嬉《うれ》しさ半分、不安も半分といったところで、困った顔でにこにこと笑っている家族を見回した。 「私達によくしてくれているからよ」  ふみ江が納得したように頷《うなず》く。 「そんな──よくしていただいているのは私の方なのに」 「でも、法子さんの雰囲気にぴったりよ。それは、法子さんでなきゃあ」  公恵は、買い物から帰って、法子が指輪を見せた時から、まるで自分が褒美をもらったみたいにはしゃいでいた。 「宝石は、やっぱり人を選ぶのよ」  法子は、徐々に居心地が悪くなりながら、とにかく笑っていた。嫌みを言われるよりはましだ。あら、どうして法子さんに? などと、空とぼけた高い声で言われるよりも、ずっと良いに決まっている。  ──それにしても、いい人すぎない? 普通なら、嫌みが出ない?  だが、少しでも何かを考えようとすると、法子の中で警報が鳴るのだ。考えるな。妥協しろ。全てを受け入れて、この人達との生活にも慣れるのだと。 「お義母《かあ》さんも、こんなご褒美をおもらいになったことがあるんですか?」 「まさか! 永年一つ屋根の下に住んでたら、そんなことなんかないわよ」  公恵は愉快そうにくすくすと笑う。 「だったら、お嫁にこられた当時とか」 「だから──」  公恵が奇妙に口をねじ曲げてしまった時、ふいに武雄が「しかしなあ」と大きな声を出した。法子は驚いて義父の方を見た。 「いいねえ、デザインもいい。それなら、一生ものだ」  武雄はしきりに頷き、「どれどれ」などと首を伸ばして宝石をのぞき込む。それは、昨日とはうって変わって、いつもの賑《にぎ》やかな食事の風景だった。  ──考えない。何も。  食事も終え、自ら買って出た後かたづけをする間も、法子はひたすら自分に言い聞かせていた。夏の水道水は、法子の故郷とは違って生ぬるかった。それでも水の感覚は心の安まるものがある。法子は、ざあざあという水の音を聞き、実家の両親と兄のことを思いながら、黙々と食器を洗った。 「嫌だ、観たいのがあるって言ってるでしょう」 「ちょっと待てって。逆転するかどうかの瀬戸際なんだから」  背後からは、居間でテレビを観ているらしい家族のやりとりが聞こえてくる。それは、法子一人を除いた家族、法子が嫁いで来る前の、従来通りの家族の姿だ。  ──そのうち慣れるわ。今は、これが私の家族。これからも、この人達が私の家族。  心のどこかで、まだ泣きたいような気持ちが残っている。だが、悲しいことなど、何一つとしてありはしないはずだった。今更、ホームシックとも考えられない。一人でのんびりと洗い物をして、ようやく居間に戻ると、家族はまだ全員が残っていた。法子は、ごく当たり前に和人の隣に腰を下ろした。 「しみじみ、思うね。法子さんが和人の嫁に来てくれて、本当によかった」  ふいに武雄が呟いた。 「本当よ。今時、こんなにいいお嬢さんが見つかるなんて、和人は本当に幸せねえ」  次に公恵が頷いた。法子は、何事かと思って義理の両親を見比べた。ところが、今度は綾乃までが瞳を輝かせて身を乗り出した。 「私、義理のお姉さんっていうものが、こんなにいいものだと思わなかったな」  法子が「どうして?」と言う間もなく、突然、家族が一斉に口を開いた。 「感受性が豊かだっていうことは素晴らしいことだね」 「おねーちゃんは、きれい」 「とにかく、優しいのよね、法子さんは」 「さりげないお洒落《しやれ》っていうものを、心得てるのね」 「日毎に輝いてきているっていう感じ」 「そうそう、内面からね。人柄が出てきてるんでしょう」 「ちょ、ちょっと待って下さい。あの──」  法子はしばし呆気《あつけ》に取られて、照れた笑いを浮かべるのも忘れるくらいだった。頭がかっと熱くなって、受け答えの方法も思い浮かばない。 「恥ずかしがることないよ、法子は僕の人生で一番の手柄なんだから」  和人は、家族の前にもかかわらず法子の肩に手を回す。法子は余計に赤面し、いったい何が始まったのだろうかと戸惑うばかりだった。 「そうだよ、法子さん。最初に一目見た時から、ああ、この人ならって思ったんだ」 「父さんもそう思うだろう? だから、僕が最初に会って、すぐに『決めた!』と思ったのも、分かるよね?」 「分かる、分かる。おばあちゃんにも、分かるわ」 「あら、お母さんなんか、お見合いの写真を見た時に、もうぴんと来てたわよ」 「私も、私も!」  家族は一人が言い終わらないうちに、すぐに次の誰かが別の褒《ほ》め言葉を用意している。 「目ね、目が可愛いのね」 「でも、僕は鼻がいいと思うな」 「性格が出てるのは、目元と眉《まゆ》かねえ」 「品が出るのは口元でしょう」  法子は、次第に頭がくらくらする思いで、「家の宝」だとか「最高の女性」だとかいう言葉にさらされ続けた。 「あの──皆、どうしちゃったんですか? 皆で何か企んでるの? 何か、からかおうとしてるんでしょう」  あまりに続く褒め言葉に、いつの間にか、法子は満面の笑顔になってしまっていた。けれど、和人を始めとして誰もが「まさか」と大げさに手を振る。 「いつか言おうと思ってたことばかりなんだ。ほら、コミュニケーションが大切だっていうことを、もう僕らは学んでるんだし」 「思ったことはきちんと口に出して言った方がいいっていうことだよ」 「そうよ。お義姉さんはもっと自分に自信を持たなきゃ、ね?」 「綾乃の言う通りだよ。綾乃なんか、好き嫌いの激しい性格だからね、最初、和人が結婚するって決まった時には、随分心配してたんだ」 「私にとっても、こんなに可愛い孫が増えたっていうことは、本当に誇りに思えることなのよ」  彼らの言葉はとどまることがなかった。法子は頬が紅潮し続けるばかりで、最初の頃に感じていた身の縮むような恥ずかしさも麻痺《まひ》し、やがて彼らの褒め言葉に陶酔し始めた。本当は、今夜は観たいテレビがあったのに、いつしか、そんなこともすっかり忘れていた。  法子さんは最高。生まれついての優しさを身につけている。第一上品じゃないか。誰だって欠点の一つや二つはあるものなのに、法子さんの場合にはそれすら魅力になっている。  全員の口が、法子一人に向かっていた。彼らの瞳は一様に熱っぽく輝き、一心に法子を見続けている。いつの間にか、法子はすっかり彼らのペースにはまって、自分から自分の魅力と思われる部分を口にし始めていた。 「私、昔からそうなんです。あんまり飽きっぽくないんでしょうね」 「ほら、やっぱり。だから、見ていて分かるもの、お洗濯物一つ畳むんでも、丁寧だものねえ」 「変なところで凝《こ》り性っていうか」 「素晴らしいことだよ、それは。法子さんが来てから、うちの洗濯物はクリーニングから戻ってきたみたいにぴしっとしてる」  法子は次第に熱に浮かされたようになり、いつしか自分の幼い頃からの話、それも人から褒められた時のこととか、美しい思い出になっていることばかりを話し始めていた。可愛い子どもだったのねえ、その頃の君を見てみたかったなと、何を話しても笑ってしまうような受け答えが戻ってくる。料理の味付けは勘に頼ると言えば、生まれついてのセンスと才能があるのだと言われ、自分のワンピース程度ならば縫えると言えば、手先が器用なのだと頷かれる。 「本当に素晴らしいわ。百点満点!」  ついに公恵がきっぱりとした口調で言った時には、家族から拍手が起こった程だった。法子は言葉の洪水《こうずい》に流され、翻弄《ほんろう》され、ほとんど溺《おぼ》れかかっていた。 「でも、困ります。そんなに褒めていただいたら、いい気になってしまいそうだわ。実家の両親にも叱《しか》られますから」  ほとんど謙遜《けんそん》して言ったつもりだった。何しろ、法子はすっかりその気になっていた。 「────」  今度は、誰も何も言わなかった。ほんの少しの間、静寂が法子を包み込んだ。顔を上気させたまま、法子は小さく深呼吸をした。 「どうだろう。明日から皆で旅行に出ないか」  急に武雄が声の調子を変えて言った。法子は半ば拍子抜けし、その一方で驚いて義父を見た。ふいに、家族の間で素早い視線が交わされているのを感じた。覚えのある感覚、法子を不安に陥れた感覚が背中を走った。 「そうしましょう、行きましょう」  やはり公恵が奇妙にきっぱりとした言い方をした。 「旅行って──明日、から?」 「そう、明日から。正確には、今夜のうちに」  法子は、一斉に歓声を上げる家族に囲まれ、つい後先も考えずに、自分も拍手をしていた。いつの間にか、手も脇《わき》の下もじっとりと汗ばんで、額からは汗のしずくが伝い落ちた。熱に浮かされ、言葉に酔わされたままの状態で、「どこへ?」と尋ねる。だが、はっきりとした返答は誰からも聞かれなかった。 「ねえったら、どうして急に?」 「さあさあ、支度しよう」 「荷造りして、戸閉りは手分けしてね」 「和人、店に貼り紙をしてきてちょうだい」  何の為に突然そんなことをしなければならないのか、法子にはまるで分からなかった。こんなふうに突然に、一家|揃《そろ》って出かけることがあるなどと、想像もしていなかったのだ。しかも、公恵や武雄までならばともかく、足の萎《な》えてしまっているヱイに半身不随の松造、健晴まで連れていくとなったら、大変な騒ぎになることは目に見えている。  ──でも、考えないことよ。何も。皆がそうするって言うんだから。  何かを期待するつもりは、既に失《う》せていた。せっかく旅行出来るというのに。嬉《うれ》しくないとまで言うつもりはないが、胸が躍るようなこととも思えない。ただ、一家総出で行くのだから、自分もそれに従うという、それだけの感覚だった。      20  旅を終えて小金井の家に戻る頃には、法子は骨の髄まで疲労|困憊《こんぱい》していた。歩けるのが不思議なくらい、それこそ自分の手足の運び方から視線の移し方、それに感情すら満足にコントロール出来ない状態になっていた。  ──ここが、私の暮らす家。私の世界。  永年住み慣れたという程でもないのに、車が路地を曲がり、やがて志藤の家の屋根が見えただけで、つい熱いものがこみ上げてきそうになった。そして、車を降りると真っ先に、つまずいて転びそうになりながら、庭に向かって駆け出した。  ──私達の庭、私が守る庭。  草花の一つ一つにでさえ、愛《いとお》しさに頬《ほお》ずりしたい衝動に駆られる。見慣れた庭のはずなのに、法子の目には、葉の一枚、茎の一本までが鮮やかに光り輝くように見えた。  家に入って雨戸を開ける時には、こもっていた匂《にお》いに胸を衝《つ》かれ、柱時計の音にさえ甘美な響きを感じずにはいられなかった。法子は、自分のそんな感覚に戸惑いながらも、今度は郵便受けにたまった新聞に気づき、奇妙な悲しさに襲われた。疲れているだけでなく、すっかり心のバランスを崩している。それだけは何となく分かった。  ──世界は動いている。私とは関係ないところで、私とは縁のない人達が。  新聞は三日分たまっていた。その日付を一つずつ確かめるだけのことが、何かの意味を持っている気がしてならなかった。何よりもまず法子には、あの夜中に出かけた日から、まだ三日しか過ぎていないということからして、信じられなかった。てっきり、もう一週間くらいが過ぎていると思い込んでいたのだ。 「間違いないのよね? 二晩、家をあけただけよねえ?」  法子は幾度となく和人に聞いた。 「そうだよ。もっとゆっくり出来れば良かったんだけどね」  和人はその度に穏やかに笑い、辛抱強く同じ言葉を繰り返してくれた。その都度、法子は安心して良いのか落胆するべきなのか分からない気分で、ただ力なく頷《うなず》いた。とにかく、法子の上だけ時の流れが間延びしてしまったようで、普通の一日が、二日にも三日にも感じられてならなかったのだ。時空の歪《ゆが》みにはまり込んだような不安は拭《ぬぐ》いようもなく、疲労ばかりが背中にへばり付いていて、現実感は完璧《かんぺき》に薄らいでしまっていた。 「法子さん、お茶が入ったわよ」  普段は配達に使っている大型のワゴン車から荷物を運び出していると、もう普段着にエプロンという姿に戻っている公恵が笑顔で呼びにきた。  ──いや。お茶なんかいらない。  疲れ果て、支離滅裂になりそうな頭の奥底で、小さな叫びが起こった。もう一人にして、少し休ませてと、法子の中の、もはや蟻《あり》んこ程度にしか感じられない、以前の法子が訴えようとしている。それに気づいただけで、法子は狼狽《うろた》え、落ち着きを失っておどおどとなった。 「もっともっと、あなたに色々な話をしたいのよ。だから、いらっしゃいな」  しかし、気がつくと、法子は素直に頷いて、いそいそと公恵に従っていた。自分自身の内の叫びは、耳を傾けても聞こえない程に小さかったのだ。それを敢《あ》えて聞こうというつもりにはなれなかった。面倒だったし、集中力が持続できそうにない。第一、こんなに優しい人達が、法子に話しかけようとしてくれる。誠実に、真剣に話そうとするのを、断る理由など何もなかった。 「──それでね、その時のおじいちゃんの活躍ときたら、もうたいへんな評判になったくらいなの」  武雄と和人は、明日の準備があるからと店へ行っていた。ヱイはいつもの通りに離れへ引っ込み、松造は自室のベッドに落ち着いた。綾乃は健晴と風呂《ふろ》に入っていて、法子は夕食の準備をしながら、ふみ江と公恵の話を聞き続けた。 「『そんなことじゃ、駄目だっ!』ってねえ、おじいちゃん、まわりにいる人達を怒鳴りつけてね。最初、皆は呆気《あつけ》に取られてたわ。でも、『何、してるんだ!』って、また怒鳴ったのよ。そうしたら、自然に皆、おじいちゃんの指図通りに動き始めたの」  戦後の混乱期を松造がどう乗り切ってきたか、ふみ江はほとんど手を動かすのも忘れて、ただ夢中で話し続けた。法子は熱っぽく語るふみ江に細かく相槌《あいづち》を打ち続け、いつしか感動に涙を流していた。とにかく、今となっては喋《しやべ》ることさえ出来ない老人が、かつては全身に生命力を漲《みなぎ》らせて輝いていた、その手で戦火から家族を守り、この家を守り抜いたという、それだけで涙が溢《あふ》れた。 「おじいちゃんて、すごい方だったんですねえ」 「機転のきく人だったのね。それに、時代の先を読む才にも長《た》けてたんでしょう」 「だから、おばあちゃんは、そんなおじいちゃんを今も大切になさってるんですね」  気がついたら口が勝手に動いていた。ふみ江はとろけそうな程に嬉しそうな顔をして、しつこいくらいに頷いている。そんな彼女まで、一途《いちず》に夫を愛し続ける妻の鑑《かがみ》に見えて、法子は心のどこかで戸惑いは抱きながら、ただ感動していた。身体は疲れきっているはずなのに、そんなことが出来るのも不思議なことだった。 「自分でお話しなさりたいでしょうねえ。私、おじいちゃんの口から、もっと色々なお話をうかがってみたいわ」  自分がそんなことを考えているかどうかも分からなかった。けれど、そういう受け答えが適しているのだ。だから自然に口が動いている。 「法子さんは、優しい子だわ、本当に」 「それに、もう分かってくれたんだわね。この家を継いで、守っていく本当の意味と、責任とを」  公恵にも言われて、法子はひきつった笑いを浮かべていた。 「法子さんは純粋な人だもの。うち以外の家に、こんな人がいたなんて、奇跡みたいなものよ」  意味とか責任とか、そんなことはよくは分からない。その上、純粋だなどと言われると、法子はまた頭がくらくらしそうになる。ただ、そんな状態の中で、一つだけ分かっていることがあった。自分はこの三日間、人生の中で最大の経験をしたのだということだ。混乱しているのは、寝不足のせい、単に疲れているせいだ。 「どうしたの? 急に黙っちゃって」  ふみ江に聞かれて、法子は慌てて首を振った。彼女の表情は柔らかく、精一杯に慈《いつく》しむように法子の目をのぞき込んでいる。法子の中で何かの信号が点滅し始めている。心配させてはならない、混乱させてはならない。文句は言わない、批判はしない。笑いを、常に、笑いを──。 「だって。おしゃべりに夢中になっちゃって、これじゃあ、ご飯の支度が全然出来ないじゃないですか」  両手を腰にあて、わざと眉《まゆ》をひそめて姑《しゆうとめ》達を見比べる。この家に嫁いで来て、法子がそんな格好を見せたのは初めてのことだった。 「あら、本当だ」 「あらあら、つい夢中になっちゃって、ねえ」  穏やかな笑い声が起きた。法子はほっと胸をなで下ろし、自分も声を出して笑った。点滅していた信号が静まる。これで良いのだ、こうして日々を過ごしていくのだと、法子は漬物《つけもの》を切りながら、幾度も幾度も呟《つぶや》き続けていた。  結局その夜も、和人と共に部屋に戻ったのは、やはり深夜になってからだった。ハンドルを握り続けだった和人は、すぐに健康そうな寝息をたて始めたが、法子はまるで眠ることが出来なかった。疲れているに決まっているのに、神経が異様にたかぶっている。背中に自分の鼓動が響き、全身が揺すられている気がしてくる。意味もなく涙が出て仕方がなかった。どこかが違っている、自分の中に新たな法子が生まれ、以前までの法子を駆逐しようとしているのが分かった。  ──最初はどうだった? 普通の家族旅行だと思ってたんじゃなかった? あの時の私、何を考えていた?  ようやく久しぶりに静寂に包まれ、一人で考えられる状態になって、法子は改めて考えてみた。こうしていても、つい昨日のことが三日も十日も前の出来事のような気さえしている。何とか頭を整理したい、この混乱から抜け出したかった。  出かけたのは夜明け前だった。わけも分からず家族に褒《ほ》めちぎられ、思わず夢見心地になった夜、ほんの数時間仮眠をしただけで、もう起こされたのだ。あの夜、法子はふらふらした頭で、つい不機嫌になりながら、とにかく和人に急かされて着替えを鞄《かばん》に詰め込んだ。  走り始めたワゴン車は菓子の匂《にお》いや煙草、膏薬《こうやく》の匂いなどが混ざりあい、もうそれだけで気分が悪くなりそうだった。しかも大人が九人も乗り込めば、相当に窮屈だ。いくら寝不足でも、とても眠いなどと言っていられる状況ではなかった。法子は終始無言だったと思う。健晴は時折|素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げるし、公恵は突然歌を歌い始める、車内には異様な熱気が満ちていた。そして、法子が幾度あくびをしていても、誰も「眠ったら」とか「静かにしましょうね」などとは言ってくれなかった。  ──何だか、皆が違う人みたいな気がした。何時間か前に、あんなに私を褒めたたえて、大切にしてくれた人達が、急によそよそしく感じられた。  和人が運転する車は闇《やみ》をつき抜け、夜明けを滑り抜けて、幾度か短い休憩をとりながら西へ向かった。そして驚いたことに、日も高くなった頃にようやく着いた先は、蓼科《たてしな》の志藤家の別荘だった。法子はその時まで、志藤の家が別荘まで構えているという事実を知らされていなかった。 「ここで九人が寝泊まりするの?」  けれど、別荘の前に立つなり、法子は和人にそっと囁《ささや》いたと思う。夫婦二人だけで来るには最高の場所に思えたが、九人もの大人が過ごすには、そこはあまりにも狭かったのだ。 「僕たちはここで、もっともっと、もっともっと話し合うんだよ」  あの時、和人はにっこりと笑ってそう答えた。その笑顔は、いつになく作り物めいて見えた。 「素晴らしい時が過ごせるさ」  彼は、さらにそうも言った。法子の寝不足の頭は、すっかり集中力を欠いていて、彼の言葉の意味を考える力さえ残ってはいなかった。ただ、どうせ素晴らしい時というのならば、取りあえずは静かな空間でぐっすり眠りたいと思っただけだ。  来る途中で買い込んだ食料を運び込んでしまうと、家族は少しの間、建物の傷みを探したり、周囲の雑草を払ったりして過ごした。法子は、綾乃に誘われて裏の雑木林に入り、そこで義妹に教えられるままに野草やキノコを採《と》った。  昼過ぎになると、家族は一部屋に集まった。そこは八畳程の洋間で、建物には台所を除けば、同じような広さの和室がもう一つあるだけだった。そして、皆でふみ江と公恵が用意した食事を食べた。法子が綾乃と採ってきたキノコと野菜が入っている鍋物《なべもの》だった。栄養があるからと、法子は最後の汁まで飲まされた。えぐみのある、決して美味とは言い難い味だった。 「ご苦労だったね、私の子ども達」  食事が済むと、それまで黙っていたヱイがゆっくりと口を開いた。法子は、なおさら眠気が襲ってきて、出来ることならばその場でも横になりたいくらいに全身がだるくなっていた。それなのに、全身がぴりぴりとしている感じで、隣に座っていた和人と腕が触れあうだけでも、電気が走るような感覚を覚えた。 「こうして、家族で過ごせること以上の幸せなんか、ない。私達は、ついにここまできたねえ」  家族は誰もが幸福そうな顔でヱイを見守っていた。全員、一言も発することなくヱイの小さな姿を見守っているのだ。法子は、その芝居じみた雰囲気に子どもっぽい滑稽《こつけい》さを感じ、笑いをこらえながら、とりあえず自分も彼女を見つめていた。気持ちをしっかりとさせていないと、すぐに周囲がぼやけて全ての物から色彩が滲《にじ》み出しそうな感じがした。 「私達の家は、特別な家だ。崇高で純粋で、選び抜かれた家なんだよ」  ヱイは小さく頷《うなず》きながら、一人で言葉を続けていた。小さな呟《つぶや》きのようでありながら、言葉は妙にはっきりと聞き取ることが出来、一字一句が生き物のように法子の耳に飛び込んできて躍るように感じられた。 「私達は、たくさんの悲しみを見てきた。たくさんの涙を流した。意味のない迫害にあって苦しんだ時代もあった。それが、ようやっと、ここまできたんだ。長い、長い間をかけてねえ」  その辺りまでは、はっきりと思い出すことが出来る。 「心を開く時がきた。家族の歴史を見つめなおして、初めて明日が見えてくる」  ヱイがそう言ったのも、きちんと覚えている。老婆の声はひどく厳かで、神秘的な色彩を帯び、自宅の離れなどで聞く時とは別人のように朗々と響いた。そして、彼女は滔々《とうとう》と家族の歴史を語り始めたのだ。  ──ええ、ちゃんと覚えてる。大ばばちゃんは明治二十八年生まれ。十四の時に東京に出てきて、それから大おじいちゃんと結婚するまで、浅草橋《あさくさばし》で働いていた。生まれたのは──そう、宮城。  だが、それからのことが、どうも曖昧模糊《あいまいもこ》としているのだ。一つ一つをたどっていけば、家族の歴史もきちんと頭に入っているとは思う。なのに、妙に間延びした感覚ばかりが波のように襲ってきた。  ──迫害を受けたって言ってた。それからたくさんの涙を流したとも。あれは、どういう意味だったんだろう。何故《なぜ》、この家の人達は迫害を受けなければならなかったの。  とにかく、法子の周囲には必ず家族の半分は集っていて、法子は一度として一人にさせてはもらえなかった。そして、彼らは口々に家族の歴史を語り、志藤の家が目指すものについて、彼らが守ろうとしてるものについてを語った。食事は常に山菜やきのこを利用したもので、法子は最初、幾度かキノコが身体に合わなくて嘔吐《おうと》した。そして、後は外へ出ることもせず、高原の空気を味わうことも許されずに、ひたすら彼らの話を聞き続けた。夜もほとんど眠ることが出来なかった。  ──それが、この大きな家を守る人間になる為の、志藤家の嫁になるための修行なんだと思った。完璧《かんぺき》な家族になる為、断ち切れることのない絆《きずな》を築く為の。  そしてついに、法子は雷に打たれるように全身でそれを感じる時があった。 「分かるね、法子」  ヱイが、たった一言呟いただけだった。なのに、法子は涙がとめどもなく溢れ、もはや、彼らは和人の家族というだけではなく、自分にとっても欠かすことのできない大切な存在であることが、理屈ではなく全身で理解できたのだ。  ──私は素晴らしい人々と出逢《であ》った。出逢うどころか、彼らの家族になった。  今、和人の軽いいびきを聞きながら、法子は一人で涙を流していた。その夜、久しぶりの我が家で、ようやく静かな眠りに落ちる直前に思ったことは、ただ、正しいことをしたい、ということだけだった。この家の為に、家族の為に、法子は自分の責任を果たさなければならない。彼らを守らなければならない。それだけが頭の中で渦巻いた。眠りは浅く、不安定で、法子は全身に寝汗をかき、ずっと夢を見続けた。      21  翌日から、再び日常の生活が始まった。家は朝から笑い声に溢《あふ》れ、和人も武雄も、溌剌《はつらつ》とした表情で仕事に出かけていった。ふみ江も公恵も機嫌が良い。健晴だけは少しばかり風邪気味だったから、綾乃がヱイの部屋を訪れて何かの薬草をもらってきた。  法子は、そんな落ち着いた人々に混ざり、一人だけ疲れも取れないままに、ただ意味もなく笑顔を浮かべていた。  ──私はこの家の人間。私は、皆の家族。皆を守り、この家を次の代につなぐ人間。  重たい瞼《まぶた》を押し上げながら、同じ言葉ばかりを心の中で繰り返し、法子はぼんやりと洗濯機の中で渦巻く水を眺めていた。洗濯機は小さな唸《うな》りを上げながら、涼しげな水を渦巻かせている。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうな気がした。 「法子さん、橋本のお母様からお電話よ」  ふいに公恵が法子を呼んだ。さっきから居間の方で、公恵が誰かと話し込んでいると思ったら、母からの電話だったのだ。法子は、うっすらと微笑んで義母から受話器を受け取った。公恵も、うっすらと笑っていた。 「法子? あんた、元気にやってるの?」  久しぶりに聞く母の声は、まるでプラスチックみたいに安っぽく、硬く聞こえた。法子は、心の片隅にちくちくとする、苛立《いらだ》ちにも似た不快感を覚えながら、努めて穏やかな声を出した。 「当たり前じゃない、どうして?」 「大熊さんから電話をもらったのよ。ほら、知美ちゃんから。ずっと電話してるんだけど、誰も出ないって。あの子と会ってるんですって?」  法子は焦点の合わない目を庭の方へ向けながら「まあね」と答えた。 「知美ちゃん、心配してたわよ」 「昨日までね、皆で旅行に行ってたのよ」 「あら、和人さんと?」 「まさか。皆で」 「────」  何とも不思議な気分だった。無味乾燥な機械の声を聞いているのと同じくらい、懐かしささえもこみ上げては来なかった。電話の向こうにいる人は、確かに法子の母だ。だが、母でありながら、過去の人になってしまった。法子は既にあの家から出てしまった人間だった。今、法子が懐かしく思うのは、志藤の人々、ヱイを長として連なる善良で誠実な人々でなければならない。 「じゃあ、元気なのね? 和人さんの家族と、うまくやってるのね?」  受話器の向こうの母は、何か慌てている様子でふだんよりも早口に話してくる。法子は半ばうんざりした口調で、もう一度「当たり前じゃない」と答えた。 「何を心配してるのよ」 「だって──知美ちゃんがね、あんたの様子がおかしいって言うもんだから。何か思い詰めているみたいな雰囲気で、取り乱してるって」 「嘘《うそ》よ。あの子、会ってみて分かったけどね、嫉妬《しつと》してるの。私が先に結婚したのが気に入らないのよ」 「何だ、そうなの──まあ、そういうこともあるでしょうけど」  それから法子は少しの間、実家の父や兄の近況を聞き、志藤の家族の話題もさりげなく披露《ひろう》した。腹の底では、知美に対する怒りが膨れ上がっていた。あの子は悪だ、法子の幸せを壊そうとする、この家の平和を乱そうとするものは、全て悪だった。 「それで、旅行って? どこへ行ってきたの」 「別荘よ。蓼科にね、別荘があるの」 「へえっ、志藤さんのお宅の? 個人の?」  受話器の向こうで、母は歓声にも近い声を上げている。法子は急に吐き気にも近いものを感じて、その話題は出したくないと思った。もうこれ以上、母の声さえも聞きたくはなかった。  その日の午後、知美から電話があった時には、法子は居留守を使った。 「良かったの? 大切なお友達なんじゃないの?」  公恵は、貼《は》りつけたような笑顔で法子を見て首を傾《かし》げた。法子は必要以上に激しくかぶりを振り、「いいんです」と笑いを返した。彼女は悪だという声が、絶えることなく響いている。彼女には近づきたくない、話したくないと、法子はその度に心の中で呟《つぶや》き続けた。だが、知美からはその日の夜も、翌日も、しつこく毎日電話がかかってきた。 「いくら何でも、そんなに避けるとおかしいと思われるよ」  三日もそんな状態が続いた時、法子はついに和人から言われた。法子はぎくりとなり、助けを求める気持ちで彼の瞳をのぞき込んだ。 「向こうは、何かを心配して電話を寄越してるんだろう?」  和人の目は、大丈夫だと言っている。その瞳は確信に満ちて迷うこともなく、以前にはそれほど感じられなかった、ある種の自信に溢《あふ》れていた。 「君が避ける理由なんて、何もないじゃないか」 「──そうよね。そうだったわね」  結局、それから数日後、法子は知美と会うことになった。ようやく決心して彼女からの電話を受け取った瞬間、知美は受話器の向こうで「どうしてたのよ!」と怒鳴ったのだ。そして、曖昧《あいまい》な返事をしている法子に向かって、是が非でも出てきて欲しいと強い口調で言った。  あれこれと思い悩んだ挙げ句、和人や家族にも励まされて、法子はその日、待ち合わせの場所に向かった。既に法子を待ちかまえていた知美は、法子の顔を見るなり「ちょっと、あんた──」と絶句した。 「どうしたの、その顔色」  そう言われて初めて、法子は自分の顔色が最近すぐれないことを思い出した。このところ寝不足が続いたのだと言うと、知美は疑わしそうな顔つきで法子の腕を取り、すたすたと歩き始めた。 「とにかく、どこかで落ち着こう。その顔じゃ、貧血でも起こされそうだわ」  それは知美の言葉の通りかも知れなかった。炎天下の繁華街を、法子は腕をとられたまま、抵抗もせずにふらふらと歩いた。ヒールの高い靴を履《は》くのも久しぶりだったし、どうも地に足がついていないような感じがした。 「心配したんだからね。何かあったんじゃないかって」  喫茶店に入るなり、知美はすぐに切り出した。法子は、ウェイトレスが置いていった冷水を一息に飲んでしまうと、ようやく呼吸が楽になって微笑《ほほえ》んだ。 「心配することなんか、何もないわよ。家族で旅行してたんだってば。ちょっと蓼科に行ってたの」  だが、知美は「ふうん」と言ったまま、テーブルに両肘《りようひじ》をついて法子を見つめている。その視線さえも痛く感じられて、法子はしきりに汗を拭《ぬぐ》った。心の中では、自分を励ますように呟いていた。  ──何とか、この場をやりすごすのよ、それに限る。どうせ、家族以外の者に、あの家のことを理解なんか出来るはずがないんだから。 「家族旅行で、寝不足? そんな顔色になるわけ?」 「──そういうわけでもないけど。色々と、ね、忙しかったの」 「何よ、薪割《まきわ》りでもやらされたの? ハイキングで遭難でもしたわけ?」 「まさか」 「あんたの顔色、そういう感じよ」  知美の口調は容赦なく法子に突き刺さってくる。法子は、「やましいところなどない、逃げる必要はない」と、心の中で呟き続け、ひたすら笑みを絶やさないようにしていた。とにかく、自分は幸せなのだ。志藤家の嫁になって、幸福な生活を送っている。それは断じて間違ってはいない。 「で、例の件は? 決着はついたわけ?」  知美に言われた時も、法子はひたすら自分に言い聞かせていた。大丈夫、心配はいらない。私には家族がいると。法子は出来るだけ落ち着いた声で「だからね」と彼女を見た。知美の瞳には、以前と変わらない、きらきらとした輝きが宿っている。それが、ひどく眩《まぶ》しく感じられた。 「誤解だったって、前にも言ったでしょう? 私の妄想だったの。疑心暗鬼にかかってたのよ」  心臓がどきどきする。自分の声が遠くに聞こえ、まるで芝居の台詞《せりふ》でも喋《しやべ》っているようだ。しかも、それは何年も前に覚えた、古い台詞のようだった。 「じゃあ、どうしてそんなに疲れてるわけ? 本当のところ、あんた、家族にどういう扱いを受けてるの」  知美はせわしない表情で苛々《いらいら》と法子を見ている。法子は一つ深呼吸をすると、右手をすっと差し出して見せた。 「見て。大ばばちゃん──ひいおばあちゃんがね、私が家族の一員として頑張ってる、よくやってくれるからって、くれたの」  そこには、大粒のエメラルドが輝いていた。知美は一瞬息を呑んだ様子だったが、それでも眉間《みけん》の皺《しわ》は取れず、以前の彼女のようにはしゃいだ声は上げなかった。 「口止め料か何かじゃないの?」 「やめてったら、もう。心配しすぎよ。言ったでしょう? 全部、私の誤解だったんだって」 「でも、違うっていう証拠も掴《つか》んではいないんでしょう? あんた、丸め込まれようとしてるだけなんじゃないの?」  ようやく汗もひいて、幾分開き直った落ち着きを取り戻すことが出来た。彼女は悪なのだ。耳を貸してはならない。法子は幾度となく自分に言い聞かせてきたことを思い出した。 「ひどいこと言わないでよ。まがりなりにも夫の家族よ。それもね、知美は知らないから、そんなことを言うけど、それはもう、素晴らしい人達なんだから」  知美は少しばかり驚いた顔になったが、それでも、その瞳から不審の色は消えなかった。焦《あせ》るな、相手にするな、聞いてはいけない。とにかくこれ以上、しつこく食い下がって来させない為には、少なくとも、自分が現在どれほど恵まれた環境に暮らしているか、どんな愛情に包まれているか、それだけを知らせるべきだ。法子は、今や自分だけでなく志藤の家全体にとって、最大の敵にさえ思えるようになってしまった旧友に、出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべて見せた。 「よその家に入ったことのない人には、この素晴らしさは分からないとは思うけど」 「当たり前よ、私はそんな結婚はしたくないもの。でもねえ、あんた。そんなに素晴らしい人達と暮らすと、そういう顔色になっちゃうわけ? 自分で気がついてないの? 紙みたいに白い顔して、おまけにげっそりやつれてるじゃない。その顔で、いくら幸せだ、素晴らしいって言われたって、誰も信じないわよ」 「だからね、旅行に行った疲れが残ってるんだったら」 「だって、別荘だったんでしょう? おばさんから聞いたけど、別荘を持ってるんでしょう?」 「そうよ」 「自分の別荘に行くだけで、どうしてそんな顔色になるのよ。リフレッシュしにいくんじゃないの? 普通だったら──」 「うるさいわねえ、もう」 「うるさくないわよ。あのねえ──」 「喋《しやべ》ってたからよ! ずっと、皆で喋ってたの!」  ついに堪えきれず、法子は声を荒らげていた。感情のコントロールがきかなくなりそうな予感がある。コーヒー・カップを持つ手は細かく震えていた。  ──駄目よ、駄目。聞き流すの、適当にあしらうだけでいいんだから。 「──法子」  知美は眉《まゆ》をひそめ、今度は打って変わって不安そうな表情になった。法子は慌ててハンカチで汗をおさえ、ミルク・ピッチャーに残っていたミルクを残らずコーヒーに流しこんでしまった。それから、もう一度、今度は相当に落ち着いて見えるように微笑んで見せた。 「そうよ、喋ってたの。今までの和人さんの家の歴史をね、ずっと、ずっと聞かせてもらっていたのよ。大ばばちゃんが東京に出てきた時の話から始まって、いつ結婚をして、出産したか。おじいちゃんは、いくつの時におばあちゃんと一緒になったか。おばあちゃんが行儀見習いに出されていたのはどんなところだったか。そして、子どもを産んで戦争があって──迫害を受けた時代があって──涙を流さなければならない時もあって──」 「そんな話を、夜も寝ないでしてたっていうの? あんたがそんな顔色になるくらいに? 一体、何日間よ。一週間? 二週間?」  知美は半ば呆気《あつけ》に取られた表情で法子を見ている。三日とは、答えられなかった。 「第一、その迫害とか、涙とかって、何?」  心臓がひやりと冷たくなった。あの別荘で過ごした時間、法子からの質問は一切受け入れられなかったことが思い出された。だから、法子は未だにその意味を知らされていない。法子だって、心に引っかかっていたはずだ。確かに迫害も、涙も、今の志藤の家にはふさわしくない言葉だという気がする。それは分かる。 「──そういう時代を経てきたっていうことでしょう。どこの家にだって、歴史はあるわ。いつもいつもサザエさんみたいな一家なんて、ないわよ」 「だから、どういう時代だったっていうの? そりゃあ、叩《たた》いて埃《ほこり》の出ない家はないだろうけど、あんた、迫害なんていう言葉、そう滅多に使うものじゃないじゃないよ」  知美の表情には明らかに苛立ちが見てとれた。彼女は、「さあねえ」と答える法子の顔の隅々までを眺め回し、やがて煙草を取り出しながら「あのね」と呟《つぶや》いた。 「私なりに、調べてみたのよ、チョウセンアサガオのこと。法子は違うって言ってたけど、私はまだ疑ってるわけ」 「あれは、私の思い違いだったって言ったじゃない。それに、チョウセンアサガオを栽培してたからって、別に法律に触れるわけじゃないのよ」  知美の顔がぴくりと動いた。 「あら、法子も調べたの」 「だから、あれは──」 「まあ、いいわ。とにかく聞いて。そういう、合法的なドラッグって、案外たくさんあるのよね。日本だったら、キノコにも多いみたいだし、手近なところではバナナなんていうのも、そういう使い方が出来るらしいわ」  法子は耳鳴りがしそうな感覚の中で、ぼんやりとコーヒー・カップを覗《のぞ》いていた。出来るだけ耳を傾けるな、知美の言葉に神経を注ぐなと、法子の中で誰かが指図している。だが、キノコがドラッグになるなどという話は、初耳だった。蓼科に行っている間中、ずっと食べていたキノコを思い出す。昔から、色の美しいキノコには毒があると聞いていた。綾乃が教えてくれたキノコは、それは美しいピンク色をしていた。 「何で、私がそんなことを言うと思う?」  知美はなおも言葉を続けた。眉が濃くて、幼い頃には少年みたいな顔立ちだった知美は、今も髪を短くして、OLにしては妙に凛々《りり》しい雰囲気をまとっている。 「私、昔バンドをやってた奴で、中毒になったっていう奴、見たことがあるの。彼の場合はシャブだったと思うけど──あんた見た時にね、咄嗟にそいつのことを思い出したのよ」  法子はぎょっとなって知美を見た。知美の表情は真剣そのもので、瞳はさらに輝きを増していた。 「──馬鹿なこと、言わないでよ」 「そう、言いきれる? 馬鹿なことって? 何か食べさせられたり、飲まされたりしてない? 自分では知らない間に、幻覚みたいなのを見なかった?」  頭がぐらぐらとして、今度こそ本物の耳鳴りがしていた。温室から逃げ帰った夜のこと、家族に囲まれて誤解を解けと言われた時のこと、そして蓼科でのことなどが走馬燈のように駆け巡った。  ──聞くんじゃない。聞いたら駄目よ。彼女は悪なんだから、私を不安に陥れようとしてるんだから! 「ねえ、どうなのよ、法子」  法子は、冷ややかに正面から知美を見据えると、わざとらしい程に深々とため息をついて見せた。 「悪いけど──帰るわ。用事があるの」  脳貧血を起こす手前のように、耳の中でごうごうという音がした。実際、目の焦点を合わせることも困難なくらいに、ふらふらとする。けれど、法子は蹶然《けつぜん》と立ち上がろうとした。 「私の家族をそこまで侮辱するなんて、知美の方がどうかしてるわ。どうして、人の家庭のことに首を突っ込もうとするの?」  知美は一瞬|呆気《あつけ》に取られた表情になり、ぽかんとして法子を見上げていた。 「待ちなさいって。どうしたの、ねえ」  テーブルの端に置かれていた伝票を、すっと引き寄せて、法子は改めて、知美の顔をじっと見据えた。 「心配しないで。私には私の幸せがあるわ。知美が心配してくれるのは嬉しいけど、でも、何度も言うけど、疑心暗鬼だったのよ」  すたすたと出口に向かおうとすると、知美は急いで後を追ってきた。取り越し苦労だったのなら、それに越したことはないのだと、彼女は半ば媚《こび》を売るような口調で言い、とにかく、そんなに怒らないでくれと言った。 「私は、ただ心配だっただけなのよ」  炎天下の街を人混みをかき分けて歩きながら、法子は固い笑みを浮かべて知美を見た。 「ご心配いただいて、ありがとう。でも、ほら、大丈夫だから」 「じゃあ、また会えるわね?」  知美は、なおもしつこく法子に追いすがってくる。法子は、内心で舌打ちをしたい気分で「いつでも」と答えた。何かの縁で、ずっと付き合いの続いている友人と、無理に絶交しようなどとは思わない。だが、それでも彼女は他人だった。法子の本当の事情など、どんなことをしたって分かろうはずもないのだ。 「電話するわ」  最後に、知美はそう言って、法子に小さく手を振った。法子は、その子どもじみたしぐさに奇妙な苛立ちを覚えながら、一人で駅への階段を上った。      22  冷房の効いている電車に乗り込むと、法子はようやく息をついた。知美の、あの輝く瞳から解放されただけで、「助かった」と思った。  ──あの子は悪。何も分かっていない、私達の家庭を脅かそうとする悪なのよ。  大体、自分が生まれ育った家庭、両親と兄弟だけの核家族しか知らない彼女には、大家族というものが分かっていないのだ。元はといえば法子だって同じだった。それが、初めて大家族の一員として暮らすようになり、実家以外の家族の姿というものを見せられた。そこで、どんな経験を積み、新しい絆《きずな》を生み出して行くかなどということが、彼女に分かるはずがない。  法子は額や首筋を伝う汗をしきりにハンカチで抑えながら、何とか苛立《いらだ》ちを静めようとした。知美の言葉など、何一つとして聞かないつもりだったのに、なぜだか彼女の言葉がひっかかってならない。そんなふうに動揺している自分にも腹が立つ。  ──どうして私がドラッグを与えられる必要があるっていうの。  だが、それでも奇妙に符合する部分があるのだ。確かに、蓼科の別荘での経験は異様だった。時間の流れも歪《ゆが》んでしまって、意識だけはっきりしているのに、酒に酔ったような気分になった。眠くてだるいのに、それでいながら起きていなければならなかった、あの状態は、やはり不思議な経験としか言いようがない。  走りだした電車の中で、法子は落ち着きを取り戻すと同時に、少しずつ新たな不安が広がっていくのを抑えることが出来なかった。あんなにも愛情を注いでくれる人達に対して、何というつまらない疑問を抱いていることかと思う。そんなことは考えるなと命じる声がする。だが、その疑問の一つ一つに答えてくれても良さそうなものではないかという思いが、少しずつ膨らんでいくことも否めなかった。家族なら、そうしてくれても良いではないかと思った。  ──何か食べさせられたり、飲まされたりしてない? 自分では知らない間に、幻覚みたいなのを見なかった?  あの時の知美の表情は真剣そのものだった。彼女は、シャブを打っていた友人に法子の顔が似ていると言った。自分はそんなにひどい顔をしているのだろうか。それでは、家族が法子に何かを食べさせたということだろうか。  ──聞いても答えてくれないわ。何も、答えてはもらえないんだもの。  それならば、自分で調べるまでのことだった。家族に対する信頼を強固なものにするために、知美の口から出任せの言葉を暴くために、法子は自分でそれを確かめなければならないと思った。  吉祥寺《きちじようじ》の駅で井ノ頭線を降り、JR中央線に乗り換えようとしたとき、法子はふいに思いついて、乗り換えに使うのとは別の改札口に出てしまった。この街には、公恵とも和人とも何度か来たことがあった。大きな書店もいくつかあるのを知っている。法子は、適当に見当をつけて街に飛び出し、いくつかの書店を見て歩いて、やがてある書店の書棚に「キノコ辞典」という本を見つけた。心臓が微《かす》かに高鳴った。  ぺらぺらとページをめくる。植物図鑑と同じようなもので、各ページには様々なキノコの写真と解説の文章が載っていた。あるページをめくった瞬間、法子の心臓がとん、と跳ねた。それは蓼科で、綾乃と一緒に採《と》ったキノコだった。 【ベニテングダケ】学名:アマーニタ・ムスカリア テングダケ科  径6〜15センチ、最大30センチに達する。傘は鮮赤色〜橙黄色《とうこうしよく》で、表面全体に白い瘡蓋《そうがい》状のツボの破片が散在しており、生態としてはシラカバ林に多く見られる。成分としてイボテン酸とムスシモルなどが含まれており、両成分が一緒になった場合には幻覚症状を誘発する。食用法としては鍋《なべ》ものなどにする他、煮汁をこぼし、水溶性のイボテン酸を排除する必要がある。他に、下痢、視力障害、昏睡《こんすい》などの症状を起こす毒性を持つ。  生食、焼き物、粉砕などの食用法をとった場合には、幻覚症状を発生させる。その症状としては、食後15〜30分程で眠気を生じ、その後、幻覚を見ると言われるが個体差が大きい。興奮状態は、4時間以上続くともされているが、24時間以内には完全に消滅するとされ、イボテン酸、ムスシモル共に毒性は低いので、生命にかかわるようなことはない。  ページを繰る手が微《かす》かに震える。法子は、同じ行を幾度も繰り返して読み、その一字一句を頭に刻みつけた。毒性、鍋物、煮汁──。眠気を生じる、四時間以上続く。  ──そんな。あれは、このキノコだったんだろうか。似てるけど、違うんじゃないの? だって、私がそんなものを食べさせられる理由がない。  必死で自分に言い聞かせた。そうだ、そんなはずがない。落ち着かない手つきでページを繰れば、他にも似たようなキノコはたくさん出ているのだ。皆で食べたキノコが、そんなに危険なものであるはずがない。あれは、よく似ている他のキノコに違いない。  法子は慌てて図鑑を閉じると、次に「薬草・毒草辞典」という本を見つけた。少しの間、迷った挙げ句、結局は手を伸ばしてしまう。おそるおそるページをめくれば、それには家の庭で栽培している、様々な植物がそこここに出ていた。チョウセンアサガオ、スズラン、ハシリドコロ、クリスマスローズなどなど。  口の中に苦いものが広がっていく。何か、見てはいけないものを見てしまった気がした。法子は、片手で辞典のページを抑えたまま、幾度もハンカチで汗を抑え、乱暴な程に辞典のページを繰り続けた。自分は、いかにも愚かなことをしている。あれだけ素晴らしい家族の、これ以上何を疑おうとしているのだという声がする。心臓があまりにも高鳴ってしまって、ついに息苦しくなり、法子は急いで本を閉じた。馬鹿馬鹿しい、こんなことに惑わされてはいけないと、自分に言い聞かせながら、逃げ出すように書店から出てしまった。  どこをどう歩いたか分からない。とにかく、やっとの思いで駅にたどり着くと、法子はJR線のホームへのろのろと上がっていった。頭はすっかり混乱し、あらゆる疑問が新たに渦を巻こうとしている。  ──考えないことだったら。何も考えないの。あの人達は私の家族。心の底から信頼できる人達なんじゃないの。  駅は混雑していた。やたらと賑《にぎ》やかで健全な色彩を放つ人々から、法子はなぜだか逃げ出したい一心だった。世間から逃げたい、誰の目も届かない場所へ隠れてしまいたいと、そればかりを思った。 「お友達は、どうだった?」 「ええ、相変わらず。何だかつまらない話ばかり聞かされちゃって」  家に戻ると、誰もがいつもの笑顔で法子を迎えてくれた。法子は、とにかく汗を流す為にシャワーを浴び、そしていつもの普段着に戻った。何を考えても仕方がない。全ては、妄想、疑心暗鬼なのだ。 「法子さん、ゴマ油とね、みりんが切れちゃってるんだけど」 「あら、お義母《かあ》さん、じゃあ買ってきますね」  こうして日々が過ぎれば、それで良いではないか。あんな、知美の言葉などに惑わされて本屋になど行ったのが間違いなのだ。法子は一度身につけたエプロンを外し、いそいそと買い物にいく支度をしながら「お菓子も!」とまとわりついてくる健晴にも笑みを送った。  そして、買い物を済まして家に戻る頃には、法子の気持ちはだいぶ落ち着きを取り戻していた。スーパーや途中の道で幾人かの顔見知りに会い、「やあ、奥さん」「あら、志藤さん」と声をかけられているうちに、迷いが吹っ切れたのに違いなかった。 「悪かったわねえ、少し休んでいらっしゃいな」  台所から顔を真っ赤にして出てきた公恵は、法子が手伝うと言うのを遮り、「疲れてるでしょうから」と笑ってくれた。 「遠慮することないのよ。この季節に一度でも出かければ、疲れるに決まってるんだから、ね」  公恵の表情はあくまで優しい。法子は、本当の母に甘える気分にさえなって、素直に頷《うなず》いた。こんな人達を、もうこれ以上は疑ってはならないと、やはり思った。  庭に水撒《みずま》きをして、それから少しの間、ヱイの部屋を訪ね、健晴とも遊ぶうちに、辺りは夕闇《ゆうやみ》に包まれ始めた。今日も一日が無事に終わる。こうしていると知美と会ったことの方が幻、遠い過去の出来事のようだった。  ──そうよ。何をおろおろする必要があるの。私には家族がついているじゃない。  嫌な緊張を解き、ほっと息をついた気分で和人や家族と共に夕食の席についた時だった。法子は、自分の前にだけ置かれている小さな器《うつわ》を見て息をのんだ。一見、何かのあえ物に見えるそれは、確かにあのキノコだ。 「──あの、これ──」  法子は、一気に不安が吹き上がるのを感じて、戸惑ったまま食卓を眺め回した。他の家族の前にそれがない。法子の前にだけ、あのキノコが出されているのだ。 「法子さん、好きみたいだったじゃない? だからね、摘《つ》んで残ったのを持って帰ってきて、干しておいたの。思った程残らなかったから、いちばん好きだった人に、ね」  家族は全員で法子を見つめていた。法子は、生唾《なまつば》を飲み、そっと席についた。「いっただっきまぁす!」という健晴の声が遠くに聞こえる。皆が一斉に箸《はし》を取る姿さえ、まともに見ることが出来なかった。何故《なぜ》、どうしてと、そんな言葉ばかりが頭の中を渦巻いた。 「──法子? どうしたの。食わないの?」  和人が隣からこちらを見た。その目は、どことなく不安そうで、探るような表情をしている。 「──どうして」  法子は唇を噛《か》みしめて、やっとの思いで声を出した。騒《ざわ》めき始めた食卓が、一瞬静かになった。 「どうして、私にこんなものを食べさせるの」  震える唇の間から、やっとの思いでそれだけを言った。その途端に涙がこみ上げてきた。 「私は、皆の家族じゃないんですか、私、まだ信頼されていないんですか!」  言った途端、法子はその場に泣き崩れた。頭の上から一斉に「何を言ってるの」「落ち着きなさい」という声がする。 「分からない、分からないわ──どうしてこんなキノコを食べさせるんですか。皆は、私が嫌いなんですか、私をどうしようっていうんですか」  泣きながら、法子は必死で訴え続けた。こんなに信じたいと思っている、こんなにも家族に馴染《なじ》もうとしている自分を、家族はまだ信じてくれていないのかと思うと、情けなくてたまらない。 「可哀相に、可哀相に。また、そのお友達に何か言われてきたんじゃないのかしらね」  ふみ江のわざとらしい声がする。法子は、食卓に顔を伏せたまま、激しくかぶりを振り続けた。 「誰も本当のことを言ってくれないじゃない。私の質問には、誰も答えてくれないくせに! 迫害って、何だったんですか、たくさん涙を流したって、どういう意味なんですか!」  だが、それに答えは返ってこなかった。ただ、隣から誰かが法子の背中をさすり続けるばかりだ。それは和人に違いなかった。法子は、和人に食ってかかりたかった。彼の胸ぐらを捕まえて、ありったけの不満をぶつけたかった。      23  その夜、法子は再び和人の運転する車に乗せられ、夜更《よふ》けの道を西へ向かうことになった。今度は公恵と綾乃の二人だけが一緒だった。車の中では、三人は終始無言で、法子にただの一言も話しかけてはこなかった。法子はぐったりと疲れた身体を車にもたせかけ、もうにっちもさっちもいかない気分で、流れ去る街灯や、見知らぬ町の、自分とは縁のない家々の明かりを、ぼんやりと眺めていた。空腹を感じてはいたのだが、もう、彼らの与えるどんな飲物も、どんな食べ物も受けつけたくはなかった。 「いい、法子さん。大きな真実の為には、小さな嘘《うそ》は許されるものなのよ。その真実を貫く為には、多少の犠牲はやむを得ないのよ」  蓼科の別荘に着くと、法子は再び八畳の洋間に入れられ、そこで三人に囲まれた。公恵の表情はいつになく厳しく、口調は断固としていた。別荘に着くなり、片時も法子の傍を離れず、法子の手を握り続けていた和人が、しっかりと頷《うなず》いた。 「君が身体で分かっていなければならないことだったんだよ。僕らだって、全員が経験したことなんだ。僕らの家族が、ずっと守り続けているものを、君には身をもって知って欲しかった」  和人の口調、その表情は、これまでに見たこともない程にある種の決意をみなぎらせ、法子を射すくめる程の力がこもっていた。 「お義姉《ねえ》さんなら分かるでしょう? 私達は、誰も望んでお義姉さんに嘘をついてなんかいない。必要なことの為の、これはステップなんだわ」  綾乃は早くも涙ぐみ、法子の、もう片方の手を握りしめながら言った。両手を和人と綾乃に握られ、正面には膝《ひざ》を触れあわさんばかりの位置に公恵がいる。三対一、これでは、何をどうしてもかなわない。 「私達が守っている真実は、理屈で左右出来るようなものじゃないの。だからこそ、私達はより絆《きずな》を強くして、全員の愛情と信頼と、そして協力の中でそれを守っているのよ。和人の嫁になったあなたにも、是非とも学んで欲しいことだったの」  公恵の表情は真剣そのもので、どこかに謎《なぞ》めいた雰囲気があった。法子は、好奇心をそそられ、無意識のうちにゆっくりと頷いていた。 「これから言うことを良く聞いて欲しい。君を不安にさせるつもりはないんだ。物事には順番がある、それだけなんだ」  幼い頃から、秘密は大好きだ。それに、もはや、彼ら以外に頼れる存在はない。彼ら以外に、法子に手を差しのべてくれる人達はいないのだ。その彼らが今、あらたな秘密を明かそうとしている。法子は生唾《なまつば》を飲み、ひたすら和人を見つめていた。 「君が食べたのは、ベニテングダケというキノコで、ごく軽い幻覚を起こす作用がある。けれど、僕らは決して無理な量を食べさせていないし、勿論《もちろん》、それには習慣性もない」 「知ってるわ──」  法子は弱々しく頷いた。書店で図鑑を立ち読みしたのだと白状すると、和人達もゆっくりと頷いた。 「じゃあ、話は早いかも知れない。キノコには、例えばドクツルタケとかタマゴテングタケとか、コレラと同じ症状を起こすような猛毒を持つものもある。そんなものを使えば、まず間違いなく死ぬだろうっていう種類のね」  それも、図鑑で読んだ記憶がある。法子は、黙って頷くだけで和人の話を促した。 「でも、僕らが使うキノコは、ごく限られてる。ベニテングダケの他にもセンボンサイギョウガサとか、アンセンボンタケとか、そういった類《たぐい》のものなんだけどね。それは、実は、素人《しろうと》じゃ見つけられないくらいに貴重なものなんだ」  彼らが採取するキノコは、幻覚症状を起こすものに限られているということだった。タイやバリ島などで、俗にマジック・マッシュルームなどと言われるキノコがもてはやされているという話があるが、センボンサイギョウガサなどは、国内で入手できる強力なドラッグだということだった。志藤家の人々は、そのキノコの在処《ありか》を知っている。そして、それを有効に使っているということだった。 「有効って──」 「待って。質問は、最後まで聞いてからにして欲しい」  和人にきっぱりと言われて、法子は慌てて口をつぐんだ。けれど、今度こそ、最後には質問を許されるだろう。その時になったら、ヱイの言葉の意味も、何もかも聞きたい。それまで待とうと、法子は思った。 「小金井のね、あの家で栽培している植物のほとんどは、勿論《もちろん》他の効能があるものもあるけれど、主体となっているのは、幻覚剤としての作用が強いものなんだよ」 「────」 「分かるかい、僕の言う意味」 「──ドラッグっていうことでしょう」 「そういう言い方も出来る。勿論、合法的なね」  和人は、厳かな口調で、いわゆるドラッグと言われる幻覚剤が、これまでにどれほど多くの人々を助けてきたか、人々から必要とされてきたかを語った。 「戦後間もなくね、ヒロポンという覚醒《かくせい》剤が流行《はや》ったことがあったの。戦時中から使われていたものだけど、戦争で疲れて、貧しくて、国中が混乱していた頃にね、一般人の間で流行ったのよ」  今度は公恵が口を開いた。ヒロポンという名称くらいは、法子も聞き覚えがあったから、法子は今度は公恵の顔に見入った。 「あれは、本当の覚醒剤だから、中毒になって苦労した人は後を断たなかったと思うわ。でも、うちでは習慣性のない植物を栽培していた。そのおかげで救われた人は、数知れない程だったのよ。だれだって、苦しい時代だった。ヒロポンなんかに手を出して、転落していった人は大勢いるはずよ。でも、私達が栽培していたキノコや植物のおかげで、ほんの少しでも現実を忘れて幸せになった人は、本当に多かったの」  法子は、思わず公恵の話に引き込まれ、半ば感動しながらその話を聞いた。現在だって、覚醒剤に対する取締りの強さは、相当なものがある。法子には経験はなかったが、覚醒剤がいかに恐ろしいものであるかは、その取締りの強さや覚醒剤の使用、所持などの容疑で検挙された有名人に対する報道の大きさなどからうかがい知ることは出来る。 「だから、僕らは今でも人助けの意味で、栽培を続けている。大切なキノコの繁殖地を守り続けてる。あくまでも合法的に、人々の心を救う為にね」 「中でもいちばん私達が大切にしてるのは、温室のサボテンなのよ。あれは、本当に貴重なものなの。私達の家、この家族を支えている、守神みたいなものなのよ」  今度は綾乃が口を開いた。いつも、健晴と遊んでいる時には無邪気な表情を隠さない彼女が、今夜は神々しいくらいに毅然《きぜん》としていた。  温室と聞いて、法子は遠い日の夕暮れのことを思い出した。あの、武雄に連れていかれた日から、いったい何日が経過しているのだろう。あの時、武雄はそれを見せようとしていたのだろうか。 「烏羽玉《うばたま》ともペヨーテともいう、刺《とげ》のないサボテンだけどね。綾乃の言う通り、あれは、まさしく宝だ」  法子は、新しく脳に流し込まれる知識を整理分類することも出来ないまま、それらに溺《おぼ》れそうになっていた。とにかく、キノコにしてもペヨーテにしても、法に触れる植物ではない。それも求める人がいるからこそ、植物に詳しかった志藤家の先祖が、その栽培に乗り出した、ということだった。 「君を傷つけるつもりなんかないことを、とにかく知って欲しい。僕らは、君が家に来てくれたこと、そして家族の絆《きずな》を強めようと努力してくれていることに、何よりも感謝してるんだからね」  それから二日間、今度は法子は明確な意識を保ち続けながら、あらゆる植物の話を聞かされた。とにかく、最後まで質問は控えること、一通りの説明を聞き終えるまでは、話題をそらさないこと、と言われて、法子はひたすら話を聞き続けた。夜になれば、和人と二人きりになれるだろうかと思ったのに、公恵も綾乃も同じ部屋で眠るから、結局、法子は一度として自分の意志で行動することは出来なかった。 「これは、ボランティア以外のなにものでもないのよ。今時、東京でそんな植物の栽培に乗り出している家なんか、他にはないでしょう。それで幸せになれる人達が山ほどいるからこそ、続けていることなの」  東京に戻る車の中で公恵に言われた時には、法子の気持ちは既に落ち着き、しっかりと頷《うなず》くことも出来た。それは、爽快感とは異なる、いわば諦観《ていかん》に似た落ち着きだった。疑問は何一つとして解明されていないのだ。氷屋の死のことだって、ヱイの言葉のことだって、法子は聞きたいことが山ほどあったと思う。だが、そんなことは、もうどうでも良いという気分になっていた。大きな真実の前には小さな嘘《うそ》も許されると公恵は言ったではないか。法子がこだわり続けていることがあるとすれば、それは、大きな真実の前の小さなつまずきに過ぎないのかも知れない、という気がした。 「良かった、待ってたの!」  帰宅すると、ふみ江が飛び出してきた。法子は、一瞬何が起こったのか分からず、ぽかんとして飛び跳ねているふみ江を見ていた。 「おじいちゃんがね、喋《しやべ》ったのよ!」  ふみ江は声を震わせてそう言った。「ええっ」「まさか!」という声が上がり、歓声が法子を包んだ。  ──おじいちゃんが喋るのは、前から分かってたことじゃないの?  法子は、下らない茶番劇でも見せられているような、奇妙に白けた気分で、今にも抱き合いそうな勢いで喜んでいる家族を眺めていた。公恵も綾乃も、そして和人も、靴を脱ぐのでさえもどかしそうで、ひたすら瞳を輝かせている。 「法子さんだわ」  ふみ江がひたと法子を見て、ゆっくりと呟《つぶや》いた。法子は靴を脱ぎながら、何を言われているのかも分からないまま、ふみ江を見た。少しの間、瞳を潤ませて法子を見つめていたふみ江は、急に顔中を皺《しわ》くちゃにして笑顔を作ると、「とにかく、会ってあげて」と法子の手を取った。ヱイとは感触のことなる、けれど、やはり乾いて柔らかい手に導かれて、法子は松造の部屋へ向かった。 「──おじいちゃん」  ベッドに横たわっていた松造に、ふみ江が声をかける。部屋には薬と蚊取り線香の匂《にお》いが満ちていた。法子は、ごくりと唾《つば》を飲み込みながら、顎《あご》に銀色の髭《ひげ》を輝かせている老人を見おろした。松造は、ゆっくりと首を巡らせ、順番に家族を見た後、最後に法子の位置で視線を止めた。 「──お帰り、法子さん」  松造は嗄《しやが》れた声で、だが、十分に聞き取れる発音で話した。  ──氷が欲しいんだよぉ、ふみ江ぇ。  法子は二の腕から首筋、頬《ほお》にかけて、ぞくぞくと鳥肌がたつのを感じた。 「──ただいま、おじいちゃん」  おそるおそる、話しかけると、松造は「ああ、お帰り」ともう一度言った。 「蓼科に、行ったかね」 「はい、また行ってきました」 「天気は、どうだったね」 「ええ、夕方になると霧が出て。でも、涼しくて気持ちが良かったです」  松造は満足そうに頷いた。そして、「蓼科は、いいね」と言った。 「奇跡よ。法子さんが奇跡を起こしたんだわ!」  ふみ江が震える声を上げる。法子は突然何を言い出したのかと思って、驚いてふみ江を見た。いつの間にか、和人に肩を抱かれていた。 「夢を見たんですって。夢の中でね、法子さんが、おじいちゃんに『たすけて、たすけて』って言ってたんですって。それで、おじいちゃんは必死で法子さんを呼ぼうとしたらしいの。そうしたら、口が動いたって、そう言うのよ」  嘘《うそ》だ。松造は前から喋《しやべ》っていた。法子はそれをこの耳で聞いている。それを忘れているはずがないのに、法子は頷きながらふみ江を見、改めて松造を見た。ベッドの上から、松造は真剣な表情で法子を見上げていた。 「夢でよかった。法子さんは、元気だね」 「──はい。おじいちゃん、元気です」  法子は、出来る限り優しい微笑《ほほえ》みを浮かべて松造を見た。こんな老人を苦しめる必要がどこにある。彼自身、自分の嘘を信じ込んでいるのかも知れないのだと、そう思った。 「ああ、大ばばちゃんの言う通りだった。法子さんは、この家を救う人なんだわ。これは、奇跡よ」 「法子は、自分の素晴らしさに気がついていないんだよ。でも、見てごらん、おじいちゃんがいちばんよく分かってるはずだよ」  清潔な寝具に横たわる老人は、喋れるようになっただけで、随分生き生きと見えるようになったと思う。 「おじいちゃん、これからは、色々なお話を聞かせてくださいね」 「ああ、聞かせてあげる。法子さんにね。法子さんに、話してあげよう」  ふみ江は、またもや感激の涙を流している。健晴までが、ベッドの脇《わき》で歓声を上げながら飛び跳ねていた。  ──いいじゃない、これで。私はこの家の人達を悲しませてはいけない。笑いを、笑いを。  腹の底の方で何かが蜷局《とぐろ》を巻いている。少しでもそれが動き出すと、すぐに吐き気や頭痛が襲って来そうな気がしてならない。 「でも、お話し出来るようになったからって、あんまりお小言は困りますよ」  法子の言葉に、家族は声を揃《そろ》えて笑った。後から帰宅した武雄さえも、法子の起こした奇跡を知ると、目を潤ませて「ありがとう」と言った。 「これは、大ばばちゃんにも相談して、法子さんにお礼をしなきゃいけないな」 「やめてください、お義父《とう》さん。私は、皆さんの家族なんですから」  法子は、大げさに顔の前で手を振り、急いで和人を見た。 「いいじゃないか、ご褒美《ほうび》もらえば」 「駄目よ、この間いただいたばかりよ」 「遠慮すること、ないんだよ。それこそ、家族なんだから」  家族なんだから──その一言が、法子の中に重苦しく響いた。だが、余計なことは考えないに限る。法子が少しでも混乱すると、この家の人達は、一家総出で動くのだ。そんな迷惑は、もうかけたくなかった。第一、面倒ではないか。だから法子は、ひたすら「これで、良いのだ」と思うことにした。とにかく、皆が喜んでいるのなら、奇跡などであるはずはないが、これ以上、松造が下手な芝居をせずに済むようになったのならば、それはそれで良いことなのだろうと思うことにした。      24  庭に水撒《みずま》きをしていると、松造がふみ江を呼ぶ声が聞こえてくる。「ふみ江ぇ、ふみ江ぇ」という声が、この家に響くようになってから、既に十日余りが過ぎていた。法子は、二度目に蓼科から戻って以来、公恵から教わって庭の草花の世話をするようになった。夏の盛りに太陽に照りつけられて、法子は随分日焼けした。  ──これが私の幸せ。これが、私の生きていく道。  時折、頭の中をそんな言葉がよぎる。それが良いことなのかどうかは、もはや問題ではなかった。ただ、こうして志藤の家を守ること、近い将来、和人の子どもを身ごもって、ヱイに玄孫《やしやご》を抱かせてやることが、現在の法子の大切な使命だった。 「もう、いい子にしなきゃ駄目って、言ってるでしょう。たぁくん!」  今度は綾乃の声が響く。それから、ばたばたと階段を駆け降りてくる音が聞こえた。健晴と綾乃は、相変わらずいつでも密着していて、こんなに暑い季節だというのに、常に身体を寄せあっていた。 「お母さん、たぁくんのこと、叱《しか》ってよ。私の言うことなんか、全然聞いてくれないんだから、もう」 「弟っていうのは、そういうものですよ。あんたに甘えてるのよ」  公恵の鷹揚《おうよう》な声も聞こえてくる。日々は、再び平和に過ぎ始めていた。何も考えなければ、全ての疑問を吹き飛ばしていれば、家族は皆が優しく、明るく、朗らかなだけのことだ。法子は一人、つばの広い麦わら帽子をかぶり、庭先に屈《かが》みながら、心の中が日照りのように乾いているのを感じていた。 「だって、お姉ちゃん、痛くするんだよう、お母さん」 「しょうがないじゃない、うんちが出ないんだから。指を入れて出さなきゃ、もっと苦しくなるんだからって言ってるのに、ちっともじっとしてないんだから」  自然に顔が歪《ゆが》んでしまう。そんな会話を耳にするのは、今や珍しいことではないのだが、法子にはどうしても、「そこまではできない」という思いが立つのだ。それは、まだ完璧《かんぺき》な家族になれていない証拠、彼らの全てを受け入れる態勢が出来ていない証拠なのかも知れない。だが、いったい、どこまで密着すれば良いものやら、法子にはそれが分からなかった。便秘の弟を気遣っているといえば、それは美談に他ならないが、何か、それ以上に奇妙な粘りけを感じてならなかった。 「お父さんの子どもの時にそっくり」 「お父さんも、そうだったの?」 「そうねえ、たぁくんの便秘症はお父さん譲りなのかも知れない。お母さんも、よく掻《か》き出してあげたものだもの」  心の中に小さなあぶくが浮かび上がる。それは、これまで抱いてきたものとはまた異なる、新しい疑問だった。法子は、今すぐにでも、それを口にしたい衝動に駆られた。だが、同時に「喋《しやべ》るな!」という、強い指令が電気のように全身を鋭く貫いた。喋るな、考えるな、質問するな。法子は反射的に身構える姿勢になり、少しの間は心臓を締めつけられる程の緊張状態におかれる。少しすれば、やがて穏やかな無気力が広がってくると分かっている。そう、考えたところでしようがない。全てをありのままに受け入れさえすれば、それで良い、という気持ちになるのを待つだけのことだ。 「痛いってばあ、もう! あああん、お母さん!」 「よしよし、じゃあ、おばあちゃんが見てあげようね。どれ」  そういえば、初めて綾乃と健晴が一緒に風呂《ふろ》に入っているのを知ったのは、いつのことだっただろうか。今となってはごく当たり前の、日常的なことを知っただけなのに、あの時の法子はひどく気まずい思いをし、どうしても薄気味の悪い想像を余儀なくされた。  ──そう、そんなことも、あったわね。  あまりにも混乱した時期が続いたせいだろうか、今となっては、それさえも懐かしい気がする。あの頃、小さなことにさえ一喜一憂していた法子は、もうどこにもいなかった。  家族は、全てにおいてそうなのだ。  綾乃と健晴ばかりでなく、この家では誰もがためらいもなく各々のプライバシーに入りこんでいるようだった。それが、最近になって分かってきた。  例えば、言葉は話せるようになったものの、半身不随だけは治らない松造を、武雄や和人、公恵が入浴させるのは分かる。足の萎《な》えてしまっているヱイについても、そうだ。自由に身動きの取れない人間を入浴させるのは、たとえ相手が小さな老婆だとしても、想像以上の重労働だし、男性に任せた方が、それは安心できるに決まっている。だが、入浴させる相手がふみ江となると、話は違ってくる。武雄や和人がふみ江と入浴することが、法子にはどうも分からなかった。何故《なぜ》、息子に嫁を取らせたような男が年老いた母と入浴するのか、その息子である和人までが祖母と入浴出来るのか。だが、彼らは当然の如く、そうするのだった。 「大きな風呂なんだもの、いいじゃないか。のろのろしてたら冷めちゃうんだし、順番を待つのだってたいへんだろう? 銭湯と一緒さ」  和人は、ごく当たり前の表情でそう言った。法子も、和人と入浴することはあった。その他にも綾乃や公恵と入浴することもある。けれど、健晴や武雄とは、どうしても一緒に風呂に入りたいとは思わなかった。 「──それが、当たり前なんだろうか」  ホースから撒《ま》かれる水は、太陽の光を受けてきらきらと輝き、小さな虹《にじ》を作り出していた。それをぼんやりと眺めながら、法子は人知れずため息をついた。  家族なのだと思い、彼らの為に生きると決心していながら、奇妙な疎外感だけは、どうにもぬぐい去ることが出来ないままだ。不満など、何もない。けれど、法子の中に、どうしても現状を納得出来ない、もう一人の法子がいる。生まれた時から守り続けている何かを、頑《かたく》なに保ち続けようとする法子がいた。 「今日も暑いですね」 「あら、いらっしゃいませ」  ふいに声をかけられて、法子はその時だけ立ち上がって頭を下げた。客は、汗を拭《ぬぐ》いながら渡り廊下を伝い、離れに向かうところだった。 「銀行に寄ってたものでね、少し遅れました」 「あら、そんなこと」 「でも、ご迷惑はおかけできませんからね」 「──はあ」  五十代、というところだろう。頭の禿《は》げ上がった男は、愛想の良い笑顔をふいに引っ込め、ほんの少しばかり怪訝《けげん》そうな顔になったが、「やっ、じゃ、また」と手を振ると、そのまま離れに行ってしまった。法子は、その後ろ姿にわずかに頭を下げ、またしゃがみ込んだ。  ──銀行。迷惑。  一日に何人か訪れる客の顔も、次第に覚え始めた。今の男は、線路を隔てて反対側の商店街にある、布団屋の主人だ。最初の頃は顔を伏せ、法子の方など見ないようにしていた客の何人かは、今の布団屋のように、法子を見ると嬉《うれ》しそうに会釈《えしやく》さえするようになってきた。志藤さん、奥さんと呼ばれて、はいと返事をするのにも、もう何のためらいもなくなっている。  ──そう。私は、志藤法子だもの。  和人は真面目でよく働いた。時折、配達の途中で家に立ち寄ることがあって、そんな時には、法子を部屋に押し上げて、ひどく慌ただしく法子を求めることもある。 「会いたかったんだ。どうしても」  熱い息で囁《ささや》きかけられる時、法子は自分が愛されていると実感した。家族に言われるまでもなく、法子自身が、一日も早い妊娠を望んでいた。そうすれば、今よりももっと家族の一員として落ち着くことが出来るだろう。子どもを通して彼らと血のつながりの出来た時こそ、全てのためらいを捨てて、本当の家族になれるのかも知れないという気もする。 「そうなったら、何も気にならなくなるんだわ」  つい、独り言が出てしまう。足元に濃い影の落ちる時刻に、法子は我が家にいて、家族に囲まれて、そして一人だった。 「どうしたの、ぼんやりしちゃって」  はっとして顔を上げれば、いつの間にか公恵が隣でにこにこと笑っている。 「嫌だ、全然気がつかなかったわ。蟻《あり》をね、見てたんですよ、ほら」  法子は自分でも驚くくらいに愛想の良い、そして元気な声で答えた。公恵は、法子の指し示す方向に顔を突き出して「あら、本当」と言ったが、急になにかを思い出したように、目をぱちぱちとさせた。 「電話よ。例のお友達から」  法子はぎょっとなって、機嫌の良さそうな顔の公恵を見た。彼女は、そんな法子の表情を十分に読みとるだけの時間をとったあとで、すっと口を閉じ、真顔に戻った。それからふっと微笑《ほほえ》みを浮かべる。 「電話、お縁側に持ってきてあるからね」  また、彼女が電話を寄越した。法子は急いで水を止め、濡《ぬ》れた手をひらひらとさせながら居間の前の縁側に向かった。今度こそ、動揺はしないという自信があった。 「ああ、良かった。あんまり長いから、そのまま忘れられてるのかと思ったわ」  受話器を耳につけると、すぐに知美の声が聞こえてきた。公衆電話からかけているのだろうか、背景にがやがやと雑音が入っている。法子は、久しぶりに世間の音を聞いた気分で、その音を心地良く感じた。 「ごめんなさいね、お庭にいたものだから」 「そんなに広いお庭なの」  知美の発音はいつもと変わらずに歯切れが良く、同時に彼女の顔や姿を思い起こさせる。法子は、けれど、不思議な懐かしさは感じたけれど、実に落ち着いて彼女の声を受け止めることが出来た。 「そんなこともないんだけど、お水を撒《ま》いてたものだから。ほら、ここのところ、夕立も来ないじゃない」  知美は、「そう」としか答えない。そして、すぐに次の言葉を続けた。 「この間は、私も言い過ぎたかなと思ってるの。これでも反省してるのよ。だから、ねえ、お詫《わ》びの意味も含めて、今度は少しゆっくり会えないかと思って。久しぶりに、夕御飯でも一緒に食べましょうよ」  法子は、急速に憂鬱《ゆううつ》な気分になり、知美の強引さを恨めしく思った。彼女の誘いを断りたいわけではない。いや、むしろ、都会の雑踏の中に身を置きたい気持ちもあるのだ。のんびりとウィンドウ・ショッピングでも出来たら楽しいだろう、親しい友人と他愛のないおしゃべりに興じながら、独身時代みたいにぶらぶら出来たら、どんなに気持ちが晴れることだろう。そう思わないはずはなかった。  けれど、そうしたい反面、法子は恐かった。出かけなければならないことが、家族から離れて、一人で彼女と向かい合わなければならないことが憂鬱だった。 「いつも時間を気にしなきゃならないから、結局何も喋《しやべ》れないじゃない? 急いで話そうとするから、誤解も生まれちゃうんじゃないかと思って」 「そうねえ」 「ね? 昼過ぎくらいに待ち合わせして、その辺をぶらぶらするのだって、いいじゃない。そうしながら、いろんな話、すれば」  その一言を聞いた時、法子の頭に小さく閃《ひらめ》くものがあった。 「だったら、ここへ来ない?」 「──お宅へ?」  知美の声が急に不安そうになる。それに反比例するように、法子の中にはうきうきとした気分が高まっていった。 「主人も、主人の家族も、絶対に歓迎するわ。勿論《もちろん》、お食事の他は二人で過ごせばいいんだし、部屋なんか、いくらでもあるんだから。私、どうも賑《にぎ》やかなところって苦手なのよね」  我ながら良い考えだった。彼女をこの家に呼ぶなどということは、これまでに一度だって考えたこともない。 「ああ、だったら、私のアパートに来る? うちなら一人暮らしなんだし、それこそ気兼ねなんかいらないわ」  知美の提案に、法子は慌てて「いいの、いいの」と言った。 「前から一度ね、ご招待したかったのよ。一応、ほら、新婚家庭でもあるんだし、どういう暮らしをしてるか、見せたかったの。うちだって、全然気兼ねなんかいらない家なのよ。ご馳走《ちそう》を作って待ってるから、ね」 「でも──」 「いいじゃない、そうしなさいよ」 「お邪魔じゃない? お嫁さんの友達なんかが遊びにいったら、いい顔なんかされないんじゃない?」 「それは、普通の家ならそうかも知れないけど、うちは大丈夫よ。賑やかなのは大好きだもの、皆で大歓迎するわ。ああ、何だったら、泊まっていかない? そうすれば、時間を気にしないで、それこそゆっくり喋れるじゃない」  法子は、いつになく熱心に知美を誘った。こんな風に彼女を誘ったことなど、高校以来の付き合いで、一度としてなかったかも知れない。知美は、随分ぐずぐずと渋っていたが、結局は「それなら」と、珍しいくらいに気弱な声で言った。そう言いながらも、まだ迷っている様子が法子にも伝わってきた。 「いつにする? うちは、いつでもいいのよ」  法子は半ば強引に、さっさと日取りを決めてしまうと、ついでに料理のリクエストまで取った。知美は、「好き嫌いはないの」と答えると、少しは嬉しそうな声になってきて、小金井の駅まで迎えに来て欲しいと言った。 「当たり前よ、迎えにいくわ。ああ、時間は? 何時頃がいいかしらね」  法子は受話器に向かってにこにこと笑い続けていた。電話を切る頃には、「うふふ」と声が出る程になっていた。これで、知美よりも精神的に優位に立って彼女と話せる。自分の土俵に誘い込めば、もう不安はないと確信していた。      25  その週末、知美は昼過ぎに小金井の駅に現れた。手|土産《みやげ》を提《さ》げて、白いコットン・パンツに華《はな》やかなプリントのシャツという出で立ちの彼女は、幾分緊張した表情ではあるけれど、勤めに行く時の服装とは打って変わって、まだ学生みたいに活動的に見えた。それに対して、法子は、その日は生成《きなり》の麻のワンピースを着て、いかにも涼しげに、そして若妻らしく見えることを心がけていた。「暑いわね」「本当にね」と言いながら、二人は並んで歩き始めた。 「例の家の前、通る?」  車の通りの多い街道《かいどう》を避け、わき道を並んで歩き始めると、知美はさっそく口を開いた。 「例の家って?」 「ほら、氷屋さんの前よ」  淡い水色の日傘の下から、法子はハンカチを握りしめたまま「ああ」と微笑《ほほえ》んだ。言われるだろうと思っていたことだ。だから、しっかり覚悟をしていた。 「見たければ、通るわよ。ビニールのシートをかぶせてあるから、何も見えないけど」  余裕のある口調で答えると、知美はわずかに口を尖《とが》らせて「何だ」と言っただけだった。 「いつまでも放ってはおけないから、早く建て直そうとは言ってるのよね。でも、それほど広い土地じゃないでしょう? マンションは無理だし、中途半端みたいで、悩んでるの」  法子の説明に、知美は「マンションねえ」と頷《うなず》いた。 「何だか縁起が悪いわよね。ちゃんと、お祓《はら》いでもしてもらったほうがいいわよ」  法子はあくまでも微笑みを絶やさず、「そうね」と言いながら、落ち着いた歩調で氷屋の方へ向かった。どうせ、そちらから回るのならば、家の裏木戸の方へ抜ける近道があるのだと説明すると、知美はまた「へえっ」と感心した声を上げた。やがて、道路沿いに植わっている大きな欅《けやき》の木の向こうに、その場にそぐわない水色が見え隠れし始める。法子はさすがに穏やかに微笑んでばかりもいられなくなって、とにかく落ち着いて見せることだけを自分に言い聞かせた。 「──これ、かあ」  氷屋の前にさしかかると、知美はしげしげと水色のビニール・シートを眺めた。法子は「そう、ここ」と言いながら、自分はなるべくその残骸《ざんがい》を見ないようにしていた。 「この人達が、あんなことさえしなければ、私だってあんな馬鹿な疑心暗鬼にはかからなかったのに。迷惑な話だわ」  ため息混じりに言ってのけると、知美がちらりとこちらを見ているのに気づいて、法子はまた微笑みを浮かべた。余裕を失ってはならない、自信を失ってはならない。 「まあ、そういう言い方も出来るかもね」  だが、知美は、案外あっさりと頷くと、大して興味もそそられなかった様子で、再び歩き始めた。法子は、半ば拍子抜けした気分になりながらも、けれど、内心ではほっと安堵《あんど》のため息を洩《も》らしながら知美と並んだ。 「それで、身内の人は出てきたの?」  彼女の言葉に、法子は柔らかくかぶりを振った。哀れな一家のために、志藤家では永代供養をしてくれる、宗派とは無関係の慰霊塔のようなものを探しているのだと説明しながら細い路地に入り、いくつかの小さな角を曲がると、家の裏口にたどり着いた。 「さあ、着いたわ」  法子は日傘を畳み、汗をおさえながら、知美ににっこりと笑いかけた。裏木戸に手をかけると、隣から「へえっ、ここ?」という声がする。 「これが裏木戸なわけ? 普通の家の門よりも、ずっと大きいじゃない」  知美はぽかんとした顔で門と、その向こうを眺めている。いくら見上げたところで、大きな木に囲まれているのだから、家の全体までは見えるはずがない。それでも、その土地の広さと屋根の大きさくらいは、十分に察することが出来るはずだった。 「すごい──聞きしに勝る、大邸宅じゃない!」  彼女は嘆息ともつかない息を吐き出し、またも「ここが」と小さく唸《うな》った。法子は、今度こそ勝ち誇った笑みを浮かべることが出来た。 「まわりに木が多いせいもあるんだろうけど、東京とは思えないくらい、クーラーなんか使わなくても意外に涼しいのよ」  知美は「そりゃあ、そうでしょうとも」と大きく頷いた。 「これじゃあ、電話で待たされるわけだわ」  彼女は奇妙な感心の仕方をして、改めて家を見回す。そして、もう一度「ふうん」と言うと、しげしげと法子を見た。 「こういう家に嫁いだんなら、無理もないわね」 「こういう、家?」  法子は怪訝《けげん》そうに小首を傾《かし》げながらも、努めて機嫌の良い表情を崩さなかった。家に入ってしまえば、こちらのものだ。もう、決して知美のペースにははまらない自信がある。何しろ家には味方がいる。 「今時よ、東京でこれだけの家を維持しようと思ったら、それだけで色々な思惑やら、噂《うわさ》やらが交錯するっていうことよ。それに、いかにも曰《いわ》く有りげなお宅じゃない」 「失礼ねえ。大きな家だから、そう見えるだけよ」  知美の毒舌には慣れている。法子はゆっくりと微笑みながら、裏木戸を引いた。 「陰謀、策略、そりゃあ、あれこれと渦巻くことでしょうよ。そういう暗雲っていうの? 家の上に渦巻いてるっていう感じがするわね」  知美はなおもそんなことを言いながら、物怖じもせず、すたすたと木戸を抜ける。法子は、見る人によっては、そんな風に感じるものだろうかと意外な気がして、けれど、それは全て家の古さと大きさから来るものだと考え直した。所詮《しよせん》、小さなアパート暮らしを余儀なくされている人間は、都会の大邸宅にそんな程度のひねくれた感想しか抱けなくなっているのに違いない。かつての級友に、ここで大きく水をあけられたことを、彼女だって感じていないはずがない。ただ「負け」を認めたくないだけなのだ。 「お義母《かあ》さん、ただいまあ」  玄関に回って大きな声を出すと、居間の方からぱたぱたとスリッパの音がする。そして、普段着よりも少しだけ気を使った服装の公恵が笑顔で出てきた。 「まあまあ、よくいらっしゃいました。暑かったでしょう」 「初めまして。大熊知美と申します。大隈重信のおおくまではなくて、巨大な熊の大熊なんですが」 「あらあら、まあ、面白いお友達だこと。とにかく、お上がりになって」  彼女は緊張した笑みを浮かべて、馬鹿丁寧に頭を下げている。法子は、そんな神妙な面もちの知美を見たことがなかったから、おかしくなってしまった。それから、彼女は次々に現れる家族と、彼らの笑顔、賑《にぎ》やかな笑い声に対して、ひどく戸惑い、すっかりペースを崩された様子だった。法子は、応接間で彼女と向かい合いながら、初めてこの家を訪ねた時のことを思い出していた。あの時の法子も、今の知美と同じに、和人の家族の明るさと気さくさに当惑し、感激したものだった。  ──それは間違いじゃなかった。絶対に。 「ちょっと、優しそうなお姑《しゆうとめ》さんじゃないよ」  二人きりになると、知美は声をひそめて身を乗り出してきた。 「それだけじゃなくて、おばあさんも、妹さんも、にこにこしていて、好さそうな人達じゃないの。あれ、別に、演技っていうわけじゃないんでしょう?」  彼女はすっかり感激した様子で、瞳をきらきらとさせている。法子は満足してゆっくりと頷《うなず》いた。 「私もね、初めて会ったときには猫を被《かぶ》ってるのかと思ったのよ。でも、一緒に暮らすようになってからも、ずっと同じ。まるで飾り気のない人達なのよね」 「あんな人達と暮らしてて、あんた、どうして疑心暗鬼になんかかかったんだろう」  知美は不思議そうな顔で口元をとがらせ、半ば法子を責めるような目つきになる。法子は苦笑し、麦茶を注がれて汗をかいているタンブラーを指で撫《な》でた。水滴がガラスを滑り落ち、レースのコースターに染み込んだ。 「今にして思えば、申し訳ないことをしたと思うの、つくづく」 「大方、幸せボケでも起こしたんでしょう。嫌だな、私までとんでもない誤解をしてたみたいで」  知美は、すっかりリラックスして、畳の上に足を投げ出し「ああ、涼しい」と深呼吸をしている。今夜は、庭でバーベキューをすることになっている。昨夜のうちに和人が炉を作っておいてくれたし、下ごしらえも済んでいる。公恵達は「家事のことなんかいいから」と幾度も言ってくれていたから、法子は安心して知美とのお喋《しやべ》りに興じることが出来た。 「やあ、いらっしゃい」  やがて、いつもよりも随分早い時刻に和人が帰ってきた。知美はまた緊張した顔になったが、少しの間、和人も交えて話をした後、また声をひそめた。 「結婚式の時と、随分印象が違うわね」 「そう? どこが?」  法子は不思議になって知美を見た。毎日顔をあわせている法子には、和人は別に変わったとも思えない。 「逞《たくま》しくなったっていうか、自信に満ちてるっていう感じ。まあ、式の時には緊張もしてたんだろうけどね」  確かに、そう言われてみれば、最近の和人は身のこなしから口調にいたるまで、とても落ち着いている気もする。前よりも良い印象を与えるのならば、それは良い結婚をしたという証拠だと思う。  ──つまり、彼は私を選んで正解だったっていうこと。私も──私も、彼と結婚して正解だったのよ。そうに違いないの。  やがて日も陰ってきて、少しは気温が下がってきた頃、家族は全員が庭に出て、バーベキューを始めた。松造は、ピクニック用の長|椅子《いす》に寝かされ、ヱイも白木のベンチにちょこりと座って、家族がとってやる料理を少しずつ食べる。暗くなってくると健晴はふみ江に付き添われて花火を始めたし、綾乃は公恵を手伝って次々と新しい肉や野菜を切り出して来、和人は火の番、武雄は珍しくビールを飲むという具合で、家族は各々が好き勝手なことを言い、笑い、食べ、飲んで、実に賑《にぎ》やかに晩夏の宵を楽しんだ。知美は家族の誰とも気軽に言葉を交わし、法子には真似《まね》の出来ない軽妙な冗談を飛ばして家族を笑わせた。テリトリーに一人の異分子が入り込んできただけで、なぜだか家の雰囲気は随分違って感じられた。 「大勢で食べると、本当に楽しいですねえ」  知美は盛んにそんなことを言いながら、次々に焼けてくる料理を頬張《ほおば》る。 「うちは、いつもこんななのよ。よろしかったら、いつでもいらしてね」  公恵に言われた時の彼女は心底|嬉《うれ》しそうだった。そして、いつしか和人に庭が見たいと言い出した。和人は気軽に「もちろん」と頷き、懐中電灯を片手に彼女を連れて闇《やみ》に消えてしまった。法子は、なぜだか自分の方がこの集団からはみ出てしまっているような気分にさせられた。家族は皆が知美に神経を集中している。彼女の冗談に耳を傾け、彼女の皿のあき具合を心配する。法子の友達だからこそ、皆は親切にしてくれているのだと、理屈では分かっていながら、それでも法子の中には淋《さび》しさが募っていった。孤独を感じる必要など、どこにもありはしないではないか、自分は家族の一員なのだと言い聞かせながら、それでも法子はひどく心細い気分にさせられて、その夜を過ごした。 「ああ、まだお腹が膨れてるわ。よく食べたなあ」  その夜は、客間に二組の布団を敷いて、法子は知美と並んで眠ることになった。全ての後かたづけを終えて法子が風呂《ふろ》から上がると、知美は法子が貸してやったパジャマを着て、早くもごろ寝をしていた。障子窓はまだ開けてあって、早くも秋の虫の音が聞こえ始めている暗い庭が広がっている。昔ながらの蚊取線香の匂《にお》いが漂い、渡り廊下の軒先に吊《つ》るしてある風鈴が、時折ちりん、と鳴った。 「東京でよ、こうやって窓を開け放って寝られるなんて、信じられないわ。こんなに広いお庭があって、涼しい風が入ってきて」 「さすがに、眠る時には閉めるわよ」  法子はくすくすと笑いながら、自分の寝室から持ってきた化粧水で顔を叩《たた》いていた。今夜は一人で眠ることになった和人は、つい今し方、法子を抱き寄せながら「つまらないな」と言ってくれた。その一言で、法子はさっきまでの孤独感を打ち捨てることが出来た。 「それにしても、賑やかなご家族ねえ。おじいちゃんも、大ばばちゃん? あの人達も、すごく元気だし」  法子は薄く笑いながら、化粧品を部屋の片隅に押しやり、自分も知美と並んで腹ばいになった。 「毎日が、お祭り騒ぎみたいなものよ」 「でも、おじいちゃん、良かったわね。ちゃんと喋《しやべ》れるようになって」  知美は煙草をくゆらせながら、満足気に呟《つぶや》く。法子は、自分も煙草が吸えたらこんな時には格好がついただろうにと思いながら、小さくため息をついた。 「──あれだけ文句の多い人が、喋れないふりをしてた時には、たいへんだったでしょうねえ」  法子は、ぼんやりと闇《やみ》を眺めていた。草の匂い、緑の匂いと共に、湿り気を含んだ土の匂いも漂ってくる。その空気の流れに、ほんの一筋程度、秋の気配が混ざり始めている気がする。 「喋れないふりって──」  知美がぎょっとした顔になったのが分かった。けれど、法子は真っ直ぐに闇を見つめていた。 「そうだった? そういえば、そんなこと言ってたんだった?」  法子は深々とため息をつきながら、半ば自分を嘲《あざけ》るように笑ってみせた。知美は急に真面目《まじめ》な顔になって、布団の上に起き直った。 「どういうことなのよ。もう、迷いは晴れたんじゃないの? あんたの疑心暗鬼だったんでしょう?」 「──晴れたわよ」  法子は、体内に危険信号が点《とも》りそうになるのを感じながら、なぜだかその信号を無視したい気持ちになっていた。あんなにも、自分の幸福な新婚生活を見せつけたいという思いが働いていたのに、今は、知美が思っている程に大家族は気楽なものではないのだと言いたい気持ちが強くなっている。客として、一度くらい覗《のぞ》いたくらいでは、本当の家族の姿など分かるはずがないのだと言いたかった。 「これだけの人数で暮らしてるんだもの。色々、あるわよ」 「だって、疑問は解決したんでしょう? 法子、そう言ってたじゃない。だから、私も安心しきってたのよ」  知美は急に真剣な顔になって、身を乗り出してくる。その瞳の奥には恐怖とも不安ともつかないものが揺らめいていた。彼女は一瞬背筋を伸ばして辺りの気配を探り、それから押し殺した声で早口に囁《ささや》いた。 「私、すっかり安心してたから、だから泊めていただくことにしたのよ。氷屋のことだって、チョウセンアサガオのことだって、本当は私はきっちりとした説明を聞きたかったのよ。でも、他人が根掘り葉掘り聞き出すのも良くないかと思って、法子が『解決した』って言うんなら、そうなんだろうと思ったんだから」  ついに、危険信号が体内に警報を発令した。喋るな、考えるな、質問するなという指令が体内を駆け巡る。法子は、ほんの少しの間、その指令に抗《あらが》うことを試み、次の瞬間にはいともあっさりと白旗を上げることにした。そんなことに背いても、何も変わらないことは分かりきっていた。 「──そうよ。解決したの」 「じゃあ、どうしておじいちゃんは喋れたなんて言うの? あんた、本当はまだ疑ってるんじゃないの?」  法子は急に疲れを感じて、布団の上に仰向けになってしまった。知美の、真っ直ぐに投げかけてくる視線を受け止める力など残っていない。余計なことを言ってしまったと後悔した。 「ねえ、あの人達、本当はお芝居してたんじゃないの? いつもは、あんなににこにこしてなんかいないんじゃない? ちょっと、法子」 「何、心配してるのよ。それこそ、余計な勘ぐりっていうものよ。さあ、寝ましょう、もう」  大きく深呼吸をして言うと、知美はそれきり口を噤《つぐ》んでしまった。随分長い沈黙の後、「あんたが、そう言うんなら」という呟きが聞こえたが、法子はもう目を閉じていた。ここは、自分のテリトリーだ。それなのに、彼女が来ただけでペースを崩して、余計なことまで考えそうになったことに腹が立ってならなかった。      26  翌日の午前中に、知美は家族に見送られて帰っていった。駅まで彼女を送ることになっていた法子は、知美と並んで、手を振る家族を眺めた。 「とにかく、あんなに素敵な人達なんだから、余計なことは考えないことよ」  二人きりになると、知美はぽつりと呟《つぶや》いた。法子はにっこりと笑って「大丈夫よ」と答えた。昨夜の会話を気にしているのか、知美の表情は、それほど晴れやかとも言い難い。ひと晩一緒にいただけで、そろそろ煩《わずら》わしくも感じ始め、面倒な存在だとも思うのに、一人の生活に戻ろうとする友人を見ると、法子は急に名残惜しい気持ちになった。 「いつでも遊びにきてね。外で余計なお金を使うよりも、うちでのんびりした方が楽しいでしょう?」  別れ際に言うと、知美は嬉《うれ》しそうに頷《うなず》いた。 「今度は、もっとお庭も見せてもらいたいわ。今回は、何だか、妙な遠慮しちゃったものだから」  彼女はえへへと笑い、手を振って改札口に消えていった。法子は、再び法子とは無縁の世界に戻っていった彼女の姿が見えなくなるのを確かめると、ほんの少しの淋《さび》しさを味わいながら、のんびりと帰路についた。帰ったらまず、家族に彼女を暖かくもてなしてくれた礼を言わなければと思い、途中でケーキと和菓子を買った。  家に戻り、門をくぐると、法子は小さなことに気がついた。どうしたことか、家中の雨戸が閉まっている。それを認めただけで、法子の心臓はきゅっと縮み上がった。また、蓼科に行くのだろうかと思ったのだ。  ──全員で移動するんだろうか。また、寝かせてもらえなくなるんだろうか。  だが、家族が行きたいというのならば、法子はそれに従うだけのことだった。 「──ただいま」  おそるおそる玄関を開けると、家はしんと静まり返っている。法子は少しの間、サンダルを脱ぐのもためらわれて、闇《やみ》に沈んでいる家の中を呆然《ぼうぜん》と眺めていた。奇妙な緊迫感が漲っている。蓼科に行くにしては、あまりにも静か過ぎた。 「──ただいま」  もう一度、呟く。すると、奥からこと、こと、という音がして、微《かす》かに廊下を進んでくる足音が聞こえてきた。現れたのはふみ江だった。 「ああ、おばあちゃん。どうしたんですか、雨戸なんか──」 「お玄関、鍵《かぎ》をかけてね」  ふみ江はまるで表情を動かさずにそれだけを言う。法子は慌てて踵《きびす》をかえし、日中は鍵をかけないことになっている玄関に鍵をかけた。背中に、痛いほどにふみ江の視線を感じる。早くも喉《のど》の奥がからからに乾いてきていた。 「あの、ケーキと和菓子をね、買ってきたんですよ。本当にうるさい友達ですみませんでした──」 「皆、待ってるのよ。早くいらっしゃい」 「──皆?」  ふみ江は何も言わずに廊下の奥に消える。法子は、自分も慌ててサンダルを脱ぎ、ふみ江の後を追った。まだ昼にもならないというのに、家は陰気くさい闇に支配されて、ついさっきまでの活気に満ちた明るさなど、どこにも残ってはいなかった。 「座りなさい」  離れに行くと、家族は全員が車座になって法子を待ちかまえていた。誰もが、かつて見せたこともないくらいの冷たい、固い表情で、部屋の前に立つ法子を見上げている。松造までが、部屋の隅に布団を敷いて寝かされていた。 「──あの」  法子は、ただごとではないと思いながら、和人の隣に腰を下ろそうとした。すると、和人が法子の背を押した。 「君は、真ん中だ」  和人の声は何の感情も含んでおらず、ぞっとする程冷たかった。 「どうしたっていうんですか? 私、何かしました?」  法子は、もう不安のどん底に突き落とされていた。誰彼となく家族を見回すと、腕組をしていた武雄が大きく息を吸い込んだ。 「おまえはまだ家族を信じられないのか」  武雄の声は、地獄の底から響いてくるように聞こえた。法子は、早くも泣きだしそうになりながら、畳に手をついて武雄を見た。 「どうして、そんなことを言うんですか? 私は、皆を信じています」 「だったら、どうしておじいちゃんのことを信じないっ」  法子は大きく目を見開き、恐怖のあまりに何を答えることも出来なくなった。 「聞こえたのよ。あなた、ゆうべ知美さんに話してたじゃないの。おじいちゃんは喋《しやべ》れたのに、無理をしていたんだって」  今度はふみ江が口を開く。法子は額がかっと熱くなった。頭のてっぺんから汗が噴き出す。 「あれは──」 「情けないわよ、法子さん! どうしてあなたは、そんなにも人を疑うのっ!」  公恵が金切り声を上げた。法子は息を呑み、心臓が凍りつきそうになった。 「ひどい人ねえ、私達はいつだって、あなたのことしか考えていないっていうのに」 「見損なったわ、お義姉《ねえ》さん!」 「僕は、そんな女と結婚した覚えはないぞ!」 「あなたが人を信じないから、あなただって信じてもらえないのよ!」 「どうして、僕たちを信じないっ」 「お姉ちゃんは悪い人だぞっ」 「大体、あなたこそ嘘《うそ》つきじゃないの。信じてる、家族だと言いながら、いつだって私達を疑ってるくせに」  四方八方から怒声が飛んだ。 「法子は、俺《おれ》を嘘つきだというのか。法子が、奇跡を起こしてくれたんだとばかり思っていたのに」  松造までが呻《うめ》くように言った。彼は枕《まくら》に乗せた顔をこちらに向け、どろりとした目でこちらを見ている。法子は、松造を正視することも耐えられず、かといって他にどこを向いて座れば良いのかも分からないまま、ただ途方に暮れていた。何が始まったのか、何が、彼らをここまで怒らせてしまったのか、まるで分からない。ただ一つ、昨夜の知美との会話を盗み聞きされたことだけは確からしかった。 「あの、ですからゆうべは──」  法子はおろおろとなり、すっかり気持ちも動転したまま、とにかく何かを言わなければと思った。声が震える。 「久しぶりにお友達に会ったから、気持ちが緩んだとでも言うつもり?」 「僕らが彼女を歓迎したのは、誰の為だと思ってるんだ」 「法子さん、あなた、家族と友達と、どちらを選ぶの」  再び家族から声が上がる。 「まさか、友達なんていうんじゃないでしょうね」  法子は全身に汗をかきながら激しくかぶりを振った。彼らがこんなにも感情的になっているのを見たのは初めてのことだった。たった一人を相手にしたって、そのエネルギーは相当なものだと思うのに、八人に束になられたのでは、とてもかなわない。 「落ち着いてください、皆、何か誤解してるんだわ。私は、そんなに怒られるようなことなんか、何も──」 「だったら、どうしてあんなことを言えるのっ。しかも他人の、あんな娘に!」 「どうして僕たちの誠意を裏切るんだ」 「法子さんは人の気持ちも分からないような、そんな子だったのっ」 「違います、違います、違います!」 「何が違うんだっ!」 「ですから──」  声を震わし、必死で言葉を探す間に、「違わない!」という声が全員から乱発された。法子はついに目を固く閉じてしまった。首筋を冷たい汗が伝い落ちるのを感じた。 「法子、おまえは最低の人間だ!」 「裏切り者!」 「人間のクズ!」 「嘘《うそ》つき!」  それから家族は、法子がいかに意志の弱い、甘ったれた考えの持ち主であるか、精神が腐敗しているか、無神経か、偽善者か、冷酷か、臆病《おくびよう》か、素直でないか、猜疑《さいぎ》心が強く腹黒いか、勤勉でないか、思いやりに欠けるか、利己的か、俗悪で下品か、総じて、人間としていかに最低であるかということを、激しい罵倒《ばとう》を交えて手当たり次第に言い始めた。  ──そんな、そんな!  法子の中で、これまで育んできたプライドと全ての価値観ががらがらと音をたてて崩れそうになる。法子はわけも分からないまま、その怒声にまみれ、必死でおのれを保とうとした。このままでは頭がおかしくなりそうだった。 「──じゃあ──じゃあ、どうしろって言うんですかっ。私にどうしろって言うんですか、何の真似《まね》なんですか、どうして、そんなに酷《ひど》いことばかり言うんですかっ!」  たまりかねて、こちらも大声を出す。そうでもしなければ、全員の怒りの言葉に押しつぶされそうだからだ。だが、所詮《しよせん》は一人の声、かなうはずもない。 「何ていう口の利《き》きようなの、何、それっ」 「法子、僕たちがこんなに君を心配しているっていうことが、君にはまだ分からないのか」 「あんたなんか、真実に近付く資格もない。どうして素直に謝ることが出来ないのっ」  法子はいつしか涙を流し、それでも家族全員に怒りの矛先を向けた。本能的に、自分を守らなければと思った。この人達はおかしいのだ、かつてはあんなにも法子を褒《ほ》めちぎってくれたことだってあったのに、急に態度を変えてこんなにも法子を責めるなんて、ひどすぎる。 「私が何をしたっていうんですかっ! 私の疑問に答えてくれていないのは、皆の方じゃないですかっ!」  畳に両手をついて、渾身《こんしん》の力を込めて大声を張り上げると、一瞬、部屋はしんと静まり返った。法子は、今こそ反撃のチャンスとばかりに、頭に思い付く限りの言葉を並べ立てた。 「じょ──冗談じゃないわっ。私はいつだって、和人さんの妻として、志藤家の嫁として、精一杯のことをしているつもりですっ。キノコを食べさせられた時だって、この家がどういう仕事をしているか知った時だって、私が一度でも怒ったことがありましたか? いつだって、少しでも早く家族として馴染《なじ》めるように、皆とひとつになれるように、私、いつだって努力しているじゃないですかっ。それなのに、何だかわけの分からないことを言い出したり、こんなふうに皆で私一人を取り囲んで責めるなんて、あんまりだわっ! 皆でこん──ひどすぎる! 私に何をしろっていうんですか、どうしろっていうの!」  沈黙はまだ続いた。法子の気持ちは焦《あせ》りを増し、半ば自棄《やけ》を起こしそうにさえなっていた。 「何ひとつ本当のことを教えてくれないくせに! どうして質問したらいけないのっ。分からないことは聞くべきじゃないの。それなのに、この家はどうなってるのよ、ええっ? おかしいわよ。皆、おかしいわ!」 「言うことは、それだけか」  和人の押し殺した声が聞こえた。法子は、大声を出したおかげで余計に頭がくらくらしてしまって、ついぼんやりと夫の顔を見た。 「君は根本的に間違ってるな」  和人の口元がゆっくりと動く。法子の頭は混乱を通り越し、妙にしんと静まり返った。 「性根《しようね》が腐ってるわね」  公恵が法子を見つめたまま呟《つぶや》いた。 「君が、これまでどういう人生を歩んできたか、その都度どんな間違いを犯してきたか、徹底的に考えようじゃないか。そうすれば、僕たちの言っていることの正しさが分かる。君が間違っていることが証明される」  法子は、今や全身から力が抜けてしまい、口をだらしなく開けたままで和人を見つめていた。間違っている? そんな生き方をしてきただろうかと思う。だが、初めて会ったときから大好きだと感じた和人の顔は確信に満ち、まるで迷いがなく見えた。 「それがいいわ。さあ、言ってごらんなさいよ。法子さん、あなた、どういう生まれだったかしら」 「最初から、覚えている限りのことを言うのよ。さあ、あなたのいちばん古い記憶は何かしら」  公恵とふみ江の声が交互に聞こえた。家族はさっきまでの怒濤《どとう》のような勢いをしずめ、今は静かに法子を見つめている。法子は、朦朧《もうろう》としそうな意識で、問われるままに改めて自分の生年月日を答え、いちばん古い記憶は幼稚園に行く兄を追いかけている風景だと言った。 「わがままな子だったのね、その時から」  綾乃が吐き捨てるように言った。法子はきっと綾乃を睨《にら》みつけた。 「どうして、そういうことになるのよ。あなたにそんなことを言われる筋合いはないわ」  ところが和人が猛然と反撃に出てきた。 「何、言ってるんだ。綾乃の言う通りじゃないか。君は幼稚園についていきたいと聞き分けのないことを言って、まわりを手こずらせたんじゃないか。それがわがままじゃないのか?」 「──そんな。子どものすることじゃない」  その途端に再び家族からは怒声が飛んだ。因縁《いんねん》が強いのだ、血が悪い、女としての本能だ、その時から既に悪は芽吹いていた。法子は必死で支えようとしている自分が根底から覆されようとしているのを感じた。危険が身に迫っている。 「さあ、それから? 三歳の時のあなたは、他にどんな思い出を持っているのかしら」  ふいに静寂が戻り、ふみ江の声がした。法子は、せめて幼い頃の甘い思い出に浸りたい気持ちにさえなって、必死で頭を働かせた。 「そう──そうだわ。私ね、小さい時から動物が大好きで──」  法子は思い出す限りの幼い日の記憶を手当たり次第に話し始めた。家族は、法子の話を聞く時だけ奇妙に静まり返り、それから突然に猛然とその思い出を破壊しにかかる。 「もう、嫌です! 何を話したって、結局皆で寄ってたかって貶《けな》すんじゃないのっ!」  たまりかねて叫べば家族には冷笑が浮かんだ。 「やっぱりね」 「人に話せないような思い出しかないっていうことよね」 「いったい、どんなことをしてきたのやら」  彼らの言葉に反発し、新しい思い出を探り出す。すると、家族は嬉々《きき》として、寄ってたかって法子の人生を徹底的に侮辱し、法子が美しいと感じたもの、好きだったこと、正しいと信じていた事物の全てを否定してかかった。そして、再び「それから?」と言うのだ。それは波のように果てしもなく続いた。      27  永遠に終わらない、地獄のような時が流れているとしか思えなかった。雨戸を閉めきっているとはいえ、夜が来て朝になり、再び夜を迎えたことくらいは、その気配から分かった。  ──もう、やめて。  一定の波を持った家族の攻撃は絶えることなく続いた。部屋には汗まみれの異様な匂《にお》いが満ち、誰の顔も脂《あぶら》で光っていた。  法子は、既にもう何時間も、十何時間も前から意識が朦朧《もうろう》としていて、何を言われても言い返す気力など失いきっていた。プライドはずたずたに切り裂かれ、全ての価値観は木っ端みじんに打ち砕かれて、自信とか意欲とか、法子が法子であった理由とか、そんなものの全ては、風に舞う塵《ちり》のように消え去っていた。  ──私はつまらない人間だったんだ。こんなにも無能で、愚かで、自惚《うぬぼ》れだけで生きてきた。  だからこそ、家族はこんなにも怒ったのだと思った。欺瞞《ぎまん》に満ち、真実を見極める目を持たないからこそ、彼らは絶望し、怒っているのだ。そうに違いなかった。法子の中で、急速に死への欲求が高まっていた。自分の人生も、体内を流れる血も、そして生命さえも、もう、何の意味も持たない無駄なものに過ぎない。 「何か、言うことはないの」  気絶寸前の状態で、法子は遠い声を聞いた。法子は涙も涸《か》れ果てた状態で、うつろにかぶりを振るだけで精一杯だった。 「──私なんか、死んでしまえばいいのに」  自分の声さえ遠く聞こえる。 「こんな──こんな、つまらない人間なんか、生きている価値はないんだもの。私なんか、死んでしまえばいいんだわ」  涙も出ないはずなのに、乾いた嗚咽《おえつ》ばかりが洩《も》れた。頭の中は既に真っ白で、このまま死ねるのならば、その方が楽だとも思われた。 「その、『私なんか』っていうのが、いちばんいけないんだ。何故《なぜ》、そこまで自分に執着する? 何故勝手に自分の生命を縮めようと思う?」  ふいに肩に温もりを感じた。嵐《あらし》のように耳の中で響き続けてきたこれまでの声とはまるで調子の異なる、柔らかい声だ。法子はやっとの思いで顔を上げ、目の前に和人の顔を見た。 「そんな君でも、僕は選んだ。君はもう、勝手に動いてはならないんだよ。だって、僕らは家族なんじゃないか。何をするのも一緒だろう?」  和人の声は、この上もなく優しく、柔らかく、暖かかった。法子は呆然《ぼうぜん》と夫の顔を見つめ、そして、彼の限界のない愛情の深さを心の底から感じた。 「──和人、さん」  彼の顔も脂ぎって光って見えた。けれど、確かに笑っている。その目が許すと言っていた。 「──こんな私でも? 皆は許してくれるの? 何の取り柄もない、こんなに醜い、汚れきった私を?」  和人がゆっくりと頷《うなず》いた時だった。ぱたん、と音がして、室内が明るくなった。法子は、ゆっくりと顔を動かした。もう、視線だけを動かすことなど不可能な程に疲れきっていた。 「おまえは、私の子。私の親。私の孫。私の血を受けたものになるよ」  そこにヱイが立っていた。法子は、逆光の中で、彼女が真っ直ぐにこちらに向かって歩いてくるのを見た。 「奇跡は起こる。おまえが心を開けば、私達はより強い絆《きずな》を作り、おまえの上にも奇跡を起こす」  全身が震えた。真っ白だった頭に閃光《せんこう》が走り、法子はただ呆然とヱイを見上げていた。こんな感動を、これまでに経験したことがあっただろうか。法子が、ついに心の壁を破ったとき、再び奇跡が起きたのだ。法子は、赤ん坊のように手放しで泣いた。大ばばちゃんが立った。大ばばちゃんが歩いた。それこそが、法子が生まれてこの方、唯一《ゆいいつ》行った価値あることだと思った。 「ああ──ああああ──ああ──」  惚《ほう》けたように泣き続けていると、「分かったね?」という武雄の声がした。法子はヱイの方を見たまま、全身の力を弛緩《しかん》させて、ただおろおろと泣いた。 「よかった。法子ならば、きっと分かってくれると思った」  和人に抱きしめられて、法子はただ「ああ、ああ」と泣き続けた。家族は誰もが法子と共に泣き、法子を抱きしめ、法子の頬《ほお》を撫《な》でた。自分と異なる体温、異なる皮膚の感触が、四方から伸びて法子を慰める。その心地良さ、あの暖かさに、法子は恍惚《こうこつ》となっていった。  大きな盆に盛られた大福餅《だいふくもち》のようなものが運ばれてきた。法子は和人に抱かれたまま、その盆を見た。 「今こそ家族の絆を深める時、今こそ、真実に目覚める時。そして、全ての壁を取り去る時だ」  ヱイの声が響いた。家族の手が伸びてきて、それを一つずつ取っていく。法子も、その盆に手を伸ばした。さっきまでの熱狂の時は去り、今度は厳粛な空気が流れた。法子は泣きながら、家族と共にそれを食べた。大福に見えたものは、温室で栽培している、あのペヨーテというトゲのないサボテンだった。  ──家族になる。一つになる。  意識が朦朧《もうろう》としてきた。目の前を色彩が飛び、天上の音楽とも思えるものが耳の中で鳴り響いた。生まれてこの方、ずっと法子の身体に押し込められていた全てのものが、独自に動き始め、外部に流れ出ようとする。脈拍も呼吸も荒くなり、法子の中で確実に何かが変わり始めていた。 「法子──法子」  誰かの手が伸びてきて法子の服を脱がせようとする。背中のファスナーを外された瞬間、法子は自らの背中から白い翼が伸びるのを見た。 「ひとつなんだ、みんな、ひとつだ」  誰かが言った。その時には他の手が法子の下着を脱がせていた。法子は、夢中になって他の誰かの服を脱がせていた。ひとつになるのだ、全てを共有し、全てを受け継ぐ。その為に、服など着ている理由はなかった。  綾乃が裸で踊っている。健晴が、同様に裸になって綾乃に従っていた。和人は公恵の服を脱がせていた。公恵は、和人の裸の胸を撫《な》で、うっとりと微笑《ほほえ》んでいる。法子は、誰かに横たえられて、踊る綾乃を見ていた。自分も踊りたい、彼女と一緒に、健晴と一緒に、踊りたかった。 「ああ、お義父《とう》さん──」  顔を上げると武雄の顔があった。武雄の呼吸は法子以上に荒く、瞳《め》は異様な程に輝いている。 「さあ、ひとつになるぞ。私の血を受けるものは、家族の血を受けるもの。大ばばちゃんからの血、おじいちゃんの、おばあちゃんの、公恵の血」 「──お義父さん」  再び顔を動かすと、和人が綾乃に馬乗りになっているのが見えた。兄妹は、互いの肉体をもっとも深い部分で確かめあっている。同様に、法子も武雄とつながるのだということが、とてもよく分かった。そうすることで、法子は本当の家族になるのだ。 「血は濃くなければならない。薄まることは許されない。だから、法子は私の血を受け、家族となる。汚れを祓《はら》うためにも、選ばれた人間となるためにも」  公恵とふみ江が並んで笑っている。彼女達も一糸まとわぬ姿になって、やはり裸になっているヱイを挟んで座っていた。法子は、何と美しい人達なのだろうと思った。性別も年齢もない。ここにあるのは、真実の家族の姿、本当の家族の姿だ。  ──家族って、こういうものなんだわ。  武雄が自分の中に入ってきたのが分かった。法子は、家族に見つめられ、和人に微笑まれて、武雄の血を受けた。嬉《うれ》しさのあまりに、狂喜の声が口から洩《も》れる。けれど、どんな声を出そうと、どんな姿を見せようと、もはや家族の前で何の気兼ねもいるはずはなかった。 「法子は私達の家族」 「法子は志藤の家の人間になった」  家族から歓声が上がった。法子の頭の中で、立ち上がったヱイの姿が蘇《よみがえ》った。松造が喋《しやべ》った時のことも、綾乃と健晴が絡み合っていたことも、全てがくるくると回った。法子は混乱の中で室内を見回し、汗を滴らせる武雄を見上げ、黙って見守るヱイ達と、絡み合っている綾乃と健晴、そして、やはり横たわったままふみ江に裸体をさすられている松造を、公恵と抱き合う和人を見た。武雄に組み敷かれたまま、手を和人の方に差しのべると、彼は、その手を力強く握ってくれる。 「父さんの血を受けるんだ。僕らに流れているのは皆、同じ血なんだから、選ばれた血を、受けるんだ!」 「恥ずかしくないのよ! 汚くない、美しいことなの!」  今度は公恵が叫ぶ。法子は幾度も頷《うなず》いた。夫の父、愛すべき家族と交わる幸福に酔いしれた。時間の経過も、天も地も、もはや何の意味ももたなかった。 「私達の肉体はひとつ。私達の精神はひとつ。私達は、隠すこともごまかすこともいらない。皆、ひとつの血でつながった家族なんだわ!」  それから、法子は狂ったように和人と交わり、健晴と交わり、そして綾乃とさえ互いの裸体を抱きしめあった。欲情というには、それはあまりにも激しく、純粋で、そして美しかった。もう、本当に一人ではない。自分は家族の一部になったのだということだけで、感動はいつまでも鎮まらなかった。これこそが本当の家族なのだ。法子を産み、育ててくれた実家の人々など、ただの詭弁《きべん》の家族に過ぎない。彼らは欺瞞《ぎまん》に満ちた生活を送るだけの、陳腐な存在に過ぎないのだと思った。      28  言葉は何の意味も持たなかった。疑問を抱くこと、言葉によって追求しようとすることほど、愚かしく醜いことはなかった。それを、法子は知った。言葉を使わず、行為のみによって、頭にではなく全身を構成している細胞の一つ一つに、それを伝えてくれたのは、法子の真の家族だった。法子は満ちたりて陶酔し、全く無防備な状態で安心した。  ──血のつながる人達。もっとも強い絆《きずな》によってつながれている人達。  全てが終わったとき、法子はそれを知った。彼らに責め苛《さいな》まれた記憶などは、もう遥《はる》か遠くに霞《かす》んでいた。分かるのは、今こそ本当の家族として受け入れられたということだけだった。 「自分がどういう状況に置かれたか、分かるかい」  潮が退いていく倦怠《けんたい》感を心地良く味わっていると、和人が囁《ささや》きかけてきた。絆を深めるための、美の饗宴《きようえん》は既にだいぶ前に終わり、法子は和人と二人の寝室に戻ってから、もう一度彼と交わった。そして二人は抱き合ったまま、綿のように、泥のように眠りの世界へ引きずり込まれつつあった。 「分かってる──よく分かってるわ」  心地良い気だるさに身を任せ、目を閉じたままで法子はうっとりと呟《つぶや》いた。 「私達は家族。本当の家族になったの。そういうことでしょう?」  ようやく瞼《まぶた》を押し開けると、和人の微笑《ほほえ》んだ顔が隣にあった。法子は一つ深呼吸をして、うっとりと微笑み返した。 「もう、大丈夫よ。何があっても私は揺るがない。だって、私には家族がいる、あなたや、皆がいるんだもの。私は私であって、もう以前の私ではない──そういうことよ」  そして、法子は眠りに落ちた。こんなに心地良い、母親の胎内にいるような温かい眠りは、生まれて初めてのことに違いなかった。  やがて、どれくらい眠ったのか、ふいに柔らかいものが法子の唇を塞《ふさ》いだ。まどろみの中で、法子はそれが誰かの唇であることを知った。 「──朝?」  誰にともなく呟く。「もうすぐね」と答えた声は和人だった。法子は目を閉じたまま、うっすらと微笑み、彼に裸の身体を寄せた。 「気分は、どう」 「──いい気持ち。とても」  法子はうっとりと答えた。夢も見ずに眠っていた気がする。いや、何かの夢を見ていたのかも知れないが、それは全て、この志藤の家の家族のことだったと思う。そんな夢さえも、法子は皆と共有している気がしてならなかった。 「知らなかったの──私、自分がどんなに愚かしい家に育ったのかと思ったわ。これこそが、本当の家族なんだとしたら、私の実家の人達は、なんて不幸なのかと思った」 「だけど、これは選ばれた人間同士でなければ分からないことなんだよ。誰にでも分かる、誰にでも出来ることじゃないんだ」  その難しい壁を自分は突破することが出来た。そう思うと、法子はわずかに浮かんだ両親への思いも消し飛び、再び幸福の甘い蜜《みつ》にとけ込んでいく気がした。 「急に皆に取り囲まれた時には、本当にどうなることかと思ったのに」 「君を本当に目覚めさせる為の、大切な儀式だったんだ──誰も、君を苦しめたいなんて思ってやしないよ。でも、ああしなければ、君はこれまで持ってきた、間違った自己を捨て去ることが出来なかった」 「いいのよ」と囁《ささや》いて、法子は再び微笑んだ。辛《つら》い、苦しい時は、もはや過ぎ去った。そして、その後の偉大で感動的な場面ばかりが法子の中には残っている。 「皆が通過しなければならないことなんだものね」 「ああ。そんな思いをしたのは、君だけじゃない。僕らは、これまでにも同じ方法で家族を増やしてきた」 「お義母《かあ》さんや、おばあちゃんも、私みたいに受け入れられてきたんでしょう?」  法子はうっとりと和人を見上げた。和人は柔らかい眼差《まなざ》しで法子を見つめていたが、やがて「いや」と呟いた。 「母さんも、おばあちゃんも、皆、同じ血の流れを持つ人達だ」  法子は、少しの間、その言葉の意味を理解できずにいた。自分だって、皆と同じ血を分けてもらったはずだ。 「君と同じように、僕らの家族になったのはね、綾乃なんだよ」 「綾乃ちゃん?」  和人の裸の胸が大きく上下に動いた。法子は、もはや何を言われても動じない自信があった。家族のことだ。全ては自分と同じ血を持つ人達のことなのだ。 「綾乃は、僕の妹になる前はね、他の家の娘だった。君が橋本の家に生まれて育ったのと同じようにね」  法子は何も言わずに彼を見続けていた。だとすれば、綾乃にとってこんなに幸せなことはない、ということだ。彼女もまた、選ばれた存在であり、この誇り高い家に望まれたということに違いない。 「僕たちは自分達の血のつながりと、その血の濃さを何よりも尊んでる。けれど、あまりにも血が濃いと、それなりの問題も出てくる。そのために、君と綾乃は是非とも必要だった」 「──私と、綾乃ちゃん?」 「僕には君が、健晴には綾乃が」  それは、そうだろう。家族として繁栄を続ける為には、子孫を生むことが何よりも必要だ。 「おふくろ達はね、中でも選ばれた人達なんだ。親父とおふくろの代までが、もっとも純粋な血を持ってる。だからこそ、君には親父の血が必要だったんだ」  何を言われているのか、寝起きの頭にはよく分からなかった。けれど、法子は無条件に頷《うなず》いていた。そんなことは大したことではない。とにかく、今こうして一つの家族でいられるという事実以上に貴重なことなど、何一つとしてあるはずはなかった。 「その話はね、大ばばちゃんから聞くといいよ。きっと、ちゃんと説明してくれる」  和人は、再び法子の身体をまさぐりながら囁《ささや》いた。法子は身をくねらせながら、素直に頷いていた。ヱイに分からないことは世の中にはない。家族の中でもっとも大切にしなければならない人、今こそ歩き、法子を救ってくれた人の言葉ならば、どんなことでも受け入れられると思った。 「長い歴史の中には色々なことがあるものだよ。人として真実に近付き、選ばれた道を歩める人間は実に少ない」  その日の午後、法子は離れに呼ばれてヱイと向かい合った。法子は、ヱイが一度立ち上がり、自分で仏壇の下の引き出しから何かを出すのを黙って見守っていた。ヱイが歩いたのは、まさしく夢ではなかった。 「お聞き。私には、四人の子どもがいた。長男、長女、次男、次女。順番に生まれた子ども達は、長女と次男が小さな頃に死んだ」  法子は、ヱイを見、それからちらりと仏壇を見て、こっくりと頷いた。元々、何と位牌《いはい》の多い家だろうと思っていた。 「その二人は、生まれつき身体が弱かった。天に召されたのは、それは天の思《おぼ》し召しだからね、私は随分泣いて、そして諦《あきら》めた。近所では、この家は呪《のろ》われているという噂《うわさ》が流れた。だから、次女は行儀見習いに出した」  法子は、そして行儀見習いに出された次女が再びこの家に戻ってくるまでの歴史を聞いた。彼女は幼い頃から外に出されて、そして、長男の許嫁《いいなずけ》としてこの家に戻ってきたという話だった。二人の子どもを失った頃には、ヱイたちは小石川《こいしかわ》に住んでいたのに、それから幾度か転居を繰り返していたということだった。 「じゃあ、おばあちゃんは──」  法子は息を呑んでヱイを見つめた。ヱイは、垂れ下がった瞼《まぶた》の下の目をしょぼしょぼと瞬かせ、ゆっくり頷いた。 「私は、その時に自分の愚かさを知った。呪われているのではない、私達の血を純粋に保つ為の、これはこの選ばれた家の運命なのだということを、その時こそ知ったんだよ。そして、ふみ江を松造の嫁として、再び家に入れたんだ」  ──そうだったの。だから、おじいちゃんはあんなに安心して、甘えられるのね。妹なの。  法子は感動しながらその話を聞いた。何と素晴らしい血の守り方、その絆《きずな》の強さなのだろう。互いの血こそが、共に相手を求めて、そしてつながりを求めたのだ。  ヱイは、息子と娘が結ばれたことにより、五人の孫を得た。けれど、一人は生まれる前に亡くなり、二人は脳に障害を負っていて、やはり急逝《きゆうせい》した。ヱイの気持ちは、大きく揺れた。果たして自分達は選ばれた人間なのか、それとも世間で噂するとおりの、呪われた血筋なのかと迷った。 「松造達は、その二人を大切に育てた。いい孫だったねえ。一度も喧嘩《けんか》したこともなく、悪さをしたこともなく、ね。姉はいつでも弟をいたわって、よく世話をした。弟は姉を頼りに思い、その傍《かたわ》らでは男として、姉を守ろうともした」  その姉弟こそが、公恵と武雄ということだった。松造夫婦も、ヱイも、一時は二人がこの家から独立し、各々の家庭を築くことを勧めたという。だが、家族の絆は断ち難く、彼らは、世界中の誰よりも理解しあっている姉弟で、この家を引き継ぐと決心していたということだった。 「──その時から、すばらしい家族だったから。選ばれた人達だったから」  法子がぽつりと呟《つぶや》くと、ヱイはにこりと笑った。一人の人間には、たどっていけば何十、何百人の血が流れ込んでいるか分からない。生きている人間は気付かなくても、汚れもあれば、闇《やみ》もある。互いの血を濃くしていく中で、その汚れを洗い落としていくことこそが大切なのだというヱイの説明は、本当によく理解できた。 「私達の家はね、そうして純血を守り、選ばれた血になってきたんだよ。私と大じいさんがそうだったようにね」 「──そんなに長い歴史があるんですか」  だからこそ、この家族はどこのどんな人々よりも絆を強めてきたのだった。だが、それが子どもに悪い影響を及ぼすことも否めなくなってきた。健晴が生まれた時に、家族は相談をした。純血を守り、この家族の絆を緩めることなく、良いものは受け入れていかなければならないと。 「それで、綾乃ちゃんと私が」 「綾乃はね、あの子は十二歳の時に来たんだ。自分で望んでね、親の反対を押し切って」  法子は、ヱイがわずかに顔を歪《ゆが》めたのを見た。いつも穏やかで、威厳に満ちたヱイの顔が無数の皺《しわ》の中に埋没した。 「馬鹿な親だよ。私達は、私達と同じように血の絆を望む人達には、分けて上げる気持ちを持っているんだ。ああ、私達は何でも分けるよ。望まれるなら、庭の薬草でも、せっかく探してきたキノコでも、何でも分けて上げている」  ヱイの口調は熱をおび、法子はその厳しい口調に姿勢をただして聞き入った。それは、その通りだ。だからこそ、法子達は暇をみつけては花壇や温室の手入れをしている。全ては親切心からに他ならない。これこそが、真実の人間愛に他ならないのだ。 「あの子の親は、ある日、言ってきたよ。『娘を悪魔の手先として引き込んだだけじゃなく、今度は何も知らない娘さんまで、地獄に落とそうというのか』ってね。何も知らないくせに、汚れた、濁った血の人間は、そんなことしか言えないんだ。綾乃があんな親から生まれたのは、まさしく奇跡としか言いようがないね」  法子は幾度も頷《うなず》いた。そして、そんな親から生まれた綾乃を心の底から哀れに思った。まだ、法子の、山梨の両親の方がましかも知れない。もしも、実家の親がそんな侮辱的なことを言い始めたら、法子は全身を盾にして、この家族を守るだろう。彼らを遠ざけ、二度と余計なことを言わないように──。 「あの──何も知らない娘さんって」  ヱイは、膝《ひざ》の上で両手を組んだまま、黙って顎《あご》をしゃくって見せた。 「私、ですか」 「あの男は言ったねえ。真っ青な顔をして、昔とは別人みたいにねえ、見る影もない姿になって、その先に立ったんだ。『綾乃は、知っていて入ったんだから、仕方がない。いつか、年頃《としごろ》になれば気がつくと思っている。だが、こんな家に嫁いできた娘を哀れだとは思わないのか』ってね。本庄屋はね、自分がキノコを欲しくてたまらなくて、いつでも綾乃を使いに寄越してたんだ。あたしたちが作る薬は、溺《おぼ》れる人間には渡せない薬だ。なのに、あの男は薬に負けて、溺れて、そして、仕事も出来なくなった」  法子は、身体が細かく震えるのをどうすることも出来なかった。そういうことだったのか。今こそ、真実を知ったと思った。 「だから──だから、私がいない時に、あんなことを」  ヱイはにっこりと笑い、それからすっと真顔に戻って法子を見つめた。 「おまえが大切だったからねえ」  法子は、思わずヱイの小さな身体にしがみついた。今の法子ならば、間違いなく家族の行動に協力するだろう。それなのに、法子が目覚めていなかったばかりに、真実を知らなかったばかりに、家族にだけ辛《つら》い思いをさせたのだと思うと申し訳なさで胸が張り裂けそうだった。 「ありがとう──ありがとう、大ばばちゃん。私を守ってくれたんですね」 「法子はいい子だからねえ、この家の宝になる子だから」  ヱイは、ゆっくりと法子の髪を撫《な》でてくれた。法子は、昨日とはまた異なる感動で胸が熱くなっていた。 「大丈夫よ、大ばばちゃん。今度は私がいますから。私がきっと、皆を守りますからね」  小さく痩《や》せ枯れたヱイにしがみつきながら、法子は幾度も呟《つぶや》いた。家族こそが全て、この家にさえいれば、法子は全てに対して無防備でいられる。そんな素晴らしい世界を守り抜かなくて、何を守るものがあるというのか。それにしても、綾乃は何と哀れな娘なのだろう。  法子は離れから戻ると、まず綾乃を探した。昼寝する健晴に添い寝していた綾乃は、法子を見ると嬉《うれ》しそうに「お義姉《ねえ》ちゃん」と言った。この前まで「さん」づけだったのが「ちゃん」になったことで、綾乃は精一杯の表現をしているのに違いなかった。 「知らなかったの、ごめんなさいね」  法子は綾乃に寄り添い、綾乃の髪を撫でた。綾乃の瞳がわずかに揺れる。それさえも、ひどくいじらしく見えて、法子は思わず綾乃を抱きしめてしまった。 「辛かったでしょう? 愚かな人達とはいえ、あなたを産んだ人達なんだものね」 「いいの──お義姉ちゃんなら、分かるでしょう? この家の人達こそ、私の本当の家族なんだもの。私、家族を守りたかったの」  綾乃はそっと呟いた。法子はしっかりと頷き、自分だって、もしも綾乃の立場にたてば同じことをしただろうと言った。綾乃は嬉しそうに笑って、法子にしがみついた。 「大好きよ、お義姉ちゃん」 「私もよ、家族だもの」  法子はあきることなく綾乃の長い髪を撫で続け、彼女に代わって健晴を団扇《うちわ》であおいだ。穏やかな、優しい午後だった。      29  知美から連絡があったのは、秋風が立ち、空が高くなった頃だった。彼女は先日の礼を言い、また遊びにきたいと言った。 「いつでも歓迎よ。どうぞ」  法子は愛想の良い声で答えた。近ごろの法子の日々は、以前にも増して楽しく、順調で、そして輝いていた。実家からは、時折電話が入る。その時だけ、不思議なくらいに憂鬱《ゆううつ》になったが、受話器を戻してしまえば、それまでだった。法子には常に温かい家族がいた。 「それがね、友達が一緒なの」  知美の声は弾んでいる。法子は愛想の良いままで「あら、そう」と答えた。 「農学部出身のヤツなんだけどね。お宅の花壇の話をしたら、是非とも見せてくれないかって言うのよ。それで、連れていきたいんだけど」  途端に法子の中に不安が渦巻いた。夏から秋にかけて、法子は新たな知識を身につけていた。花壇や温室の薬草は、この家の貴重な収入源になっている。実に様々な薬草があったが、やはりもっとも財政を潤しているのは幻覚剤としての作用を持つ植物に他ならない。 「彼にね、お宅のお庭の話をしたの。たまたまね、一緒に図鑑を見てた時なんだけど、そういえば、法子のお宅で見たような気がするっていうのが、結構あったのよ。そうしたら、ぜひとも見せていただけないかって。彼ねえ、今は普通のサラリーマンしてるんだけどね──」  知美の声には、いつにない弾んだ、奇妙な色彩があった。法子は、その男が、知美にとって特別な存在であることを感じた。 「だからさ、ぜひとも見せてやってほしいのよ、ね? 大丈夫よ、口は固い方だと思うし、あの──」 「いいわよ、ご一緒に、どうぞ」  法子は同じ調子で答えた。久しぶりに、身体の中で危険信号が点滅している。それは、家族を守らなければならない、自分達の世界を脅かすものは、どんなことをしてでも排除しなければならないと告げていた。  電話を切ってから、法子はまず電話の内容を公恵に相談した。公恵は無言のままで法子の話を聞き、最後に「分かったわ」と言った。それから、ふみ江と松造の部屋に行く。綾乃と健晴も呼ばれた。店にも電話をする。家族は、実に静かに、そして素早く行動した。 「まだ、どういうことになるかは分からない。でも、万一に備えて、準備はしておいた方がいいからね」  夕食の時に、武雄が言った。和人は、夕方には東京を発《た》ち、今ごろは一路蓼科に向かっているはずだった。  武雄の言葉、和人の行動が何を意味しているのか、今の法子にはよく分かっていた。この世界には、家族になりうる者と、どんなに努力してもなり得ない者とがいる。まず、それを見極める必要があるということだ。 「知美さんっていう人は、大丈夫だと思うの。健康そうだし、一人暮らしなんだから」  公恵が考え深げに呟《つぶや》いた。法子の考えでも、そして家族の意見でも、知美は家族として受け入れられそうな存在だった。彼女がそのつもりにさえなれば、無限な心の広がりを持つ志藤家の人々は、心から彼女を歓迎するだろう。だが、男は問題がある。家族に血を分けるもの、そして、純血を保つものは、武雄と和人以外には不要だ。その男には、資格がない。 「氷屋の土地ねえ、あそこ、やっぱりアパートにしましょうか。商店街からも外れてるし、お店は、もういいんじゃないかしらね」  ふみ江がふいに口を開いた。 「そうすれば、知美さんを住まわせてあげられるでしょう。いくら何でも、この家に住まわせるわけにはいかないからねえ」  法子はふみ江の思慮の深さと、その優しさに感心していた。そうだ。そうなれば、知美だって勤めなどにいかなくて済むようになる。永年付き合ってきた友人と、そんな形で結ばれることがあるとしたら、それは法子にとっても誇らしいことに違いなかった。それにしても、彼女は何と幸せなことだろう。たまたま、法子の友人だったというだけで、彼女は家族として受け入れられる好運を得た。  ──でも、これだけははっきりさせておかなきゃ。私は、あくまでも志藤家の嫁。あの子とは、格がちがう。  法子の頭からは、知美が連れてくるという男の存在などとうに消え去っていた。自分達を脅かす存在ならば、いち早く排除するまでのことだ。それ以上に考える価値など何もない。  ──私は守る。この人達を傷つけない、絶対に、悲しませない。  その夜、法子は武雄と入浴し、そのまま武雄夫婦の部屋で一夜を過ごした。和人が留守なのだから、その方が淋《さび》しくないだろうと公恵が言ってくれたのだ。 「早く子どもを授かるといいね」 「皆が待ってるのよ。皆が望んでる子よ」  公恵と武雄に交互に言われながら、法子は彼らと比較した時の自分の肉体の若さと瑞々《みずみず》しさを感じていた。そして、改めて、自分こそがこの家を引き継いでいく者なのだと確信した。丈夫で健康な子どもを産みたい。何人でも産みたい。法子は心の底から望んでいた。そして、さらにこの家に笑い声が溢《あふ》れて、賑《にぎ》やかに暮らす光景を思い浮かべた。  ──皆の子。私達、全員の子。  武雄の腕の中で、法子はそれを念じ続けた。一日も早く、元気な男の子を産んで、志藤家の嫁としての一番の重責を果たしたかった。  そして翌日、知美は佐伯《さえき》という男を伴ってやってきた。法子達は以前にも増して彼女達を歓迎し、愛想良く、オープンに家中を案内した。知美が言っていた通り、佐伯は花壇の植物に並々ならぬ興味を抱いたらしく、花壇の前から動こうともしなくなった。法子は、隣で知美が退屈そうにしているのを認めると、すぐに彼女を部屋に誘った。 「いいよ、彼には私がご説明しよう」  武雄がにこにこと笑いながらうなずく。知美は、窺《うかが》うような目で佐伯を見ていたが、すぐに「そうね」と頷いた。 「アルバムを整理してたらね、高校の時の写真が出てきたのよ。知美も写ってるのがたくさんあるわ」  法子はにこにこと笑いながら知美に話しかけた。元来、植物になどそれほどの興味を持っていないはずの知美は、すぐに「見せて、見せて」と言い始めた。 「もう、草花のことになると目の色が変わるんだから。人間よりも植物の方が好きなんじゃないかしら」  彼女は、言葉とは裏腹に、嬉しそうに瞳を輝かせて言った。 「でも、素敵な彼じゃない」 「浮き世離れしてるっていうか、人間に対してはまるで無頓着《むとんちやく》なのよ」  知美はさらにそう言った。そして、ゆくゆくは結婚を考えても良いと思っているのだと頬《ほお》を赤らめた。法子はゆっくり相槌《あいづち》を打ちながら、彼女を応接間に誘った。  やがて、一、二時間もした頃、公恵が困惑した表情で応接間に顔を出した。 「知美さん、今ね、佐伯さん、お帰りになったの」 「ええっ。一人で、ですか?」  知美は驚いた顔を上げ、まるでわけが分からないという表情になった。 「急用を思い出したって仰《おつしや》ってね、知美さんを呼びましょうかって申し上げたんだけど、せっかくお邪魔しているんだから、そのままにしてやってくれって言われて」  公恵は困ったような、それでいて柔らかい表情で微笑《ほほえ》んでいる。そして、法子と目が合うと、いっそう優しい笑顔で「ねえ。残念ねえ」と言った。法子はほんの一瞬だけ、心臓がきゅんと縮み上がるのを感じ、それからゆっくりと頷き返した。全て、終わったということだ。 「お夕食でもご一緒にと思って、用意していたのに」 「もうっ、自分勝手なヤツなんだから!」  知美はすっかり機嫌を損ねた様子で、ぷうっと膨れ面になると、それから慌てて公恵に頭を下げた。勝手に帰ってしまった恋人の非礼を詫《わ》びる彼女の横顔には、既に決まった相手のいる、ある種の落ち着きを窺《うかが》わせるものがあった。 「気にしないで。きっと、本当に大切な用事だったのよ」  法子はほんのりと笑って見せて、そしてアルバムのページを繰った。そこには、何も知らずに無邪気に笑っている、セーラー服を着たかつての法子がいた。      30  法子が体調の変化に気づいたのは、それから一ヵ月も過ぎて、秋も深まった頃だった。 「二ヵ月ですって」  産院から帰宅して家族に告げると、彼らは歓声を上げて喜んでくれた。ふみ江などは嬉《うれ》しさのあまり目を潤ませて「よかった、よかった」を繰り返す。法子は、優しい気持ちになって、そんな家族を見回した。 「身体を大切にしなきゃね」 「そうよ。もしものことがあったら、それこそたいへんだもの」 「元気な赤ちゃんを産んでくれよ」  家族は銘々《めいめい》に思いついたことを言い、きっと元気な子に違いないと頷《うなず》きあっている。名前も考えなければならないだろう、子ども部屋はどうしようか、産着《うぶぎ》や玩具《おもちや》の話まで出て、法子達は声を上げて笑っていた。誰かが、子どもが生まれたら、庭の隅に何かの木を植えようと言い出した。 「いい考えだね。何の木がいいだろう」 「昔だったら、それこそ女の子の場合には桐《きり》を植えたものだけど」 「木を植えるって──あの──裏の、土の色の変わってるところに植えるんですか」  ふいに乾いた声が響いて、法子達は一斉に顔を上げた。虚《うつ》ろな表情の知美が、色のない唇を噛《か》んで立っていた。 「知美、起きても平気なの?」  法子は笑顔で彼女を見た。朝食の後、彼女は気分が悪いと言い出して、再び部屋にこもってしまっていたのだ。知美は固い表情のまま、わずかに頭を傾けた。 「皆が笑ってるのが聞こえたから──それに、お洗濯ものを干さなきゃ」  無表情のままでそれだけを言うと、彼女はふらふらと部屋を出ていった。法子は、一瞬他の家族と顔を見合わせて、小さくため息をついた。ほんのひと月の間に、あんなにも変わってしまうなんて、皆が予想しないことだった。 「仕方がないわ。心に鬼が住み着いてるんでしょう」 「完全に、疑心暗鬼にかかってるのね」  公恵とふみ江が諦《あきら》めた笑みを浮かべる。 「時間の問題よ。お姉ちゃんだって、あんな顔をしていた頃があったじゃない」  綾乃に言われて、法子はああ、そうだったかと思い出した。そういえば、そんなこともあった。あの頃の法子といったら、いもしない鬼を恐れ、ただの夜の闇《やみ》にさえ怯《おび》えていたものだ。そう、そんなこともあった。 「時間の問題、ね」  法子はゆっくりと頷いて、自分も庭に向かった。背後から「気をつけてよ」「無理をしないで」という声がかかる。振り返って、にっこりと笑うと、家族は全員が、満足気に頷き返してくれる。  ──私の赤ちゃん。皆の、赤ちゃん。  まだ、まるで膨らんでいない腹をさすりながら、法子は庭に出た。案の定、知美は裏庭の片隅にいた。以前よりも幾分小さくなったように見える背中を見せて、彼女は膝《ひざ》を抱えてしゃがんでいた。 「どうしたの、そんなところで」  後ろから声をかけると、彼女はぎょっとした顔で振り返る。 「別に──ただね、どうして、ここだけ色が違うのかなあって、いつも思うものだから」  それから、知美は「ねえ」と言いながら、半ば怯えた目で法子を見た。法子は小首を傾《かし》げ、柔らかく微笑《ほほえ》みながら眉《まゆ》をわずかに動かした。 「おめでた、なんでしょう?」 「そうなの、二ヵ月ですって」 「あの──」  彼女の目はうろうろと宙をさまよっている。そして、幾度か法子の上で止まり、また逸《そ》れる。法子は「どうしたのよ」と笑いながら、彼女の肩に手を置いた。 「和人さんの──彼、との子よね」 「当たり前じゃない」  法子は、思わず声を出して笑ってしまった。 「そう──よね」  この家に来て、まだ日の浅い彼女は、今は一階の座敷に寝起きしている。佐伯という男と共にこの家に来て、その翌々日にも彼女はここへ来た。彼女は玄関口で、青白い顔で佐伯がいなくなってしまった、どこかへ行ってしまったのだと言った。その夜以来、彼女はこの家に住み着いた。本人には、その理由が完全には分かっていないだろう。ただ、法子達が一緒に住もうと言っただけのことだと思っているに違いない。  だが、法子にはよく分かっていた。今、彼女は、時間に対する感覚をまるで狂わせてしまっている。何しろ、彼女は法子が受けたものよりも、ずっと強力な毒草を絶えず取らされているのだ。その結果、彼女は体調を崩し、現実と幻の間を往復し、そして、外へ出て働く気力を失っていた。 「彼──戻ってくるかしら」  知美は落ちていた小枝で、土をわずかに掘りながら呟《つぶや》く。法子は一つ深呼吸をして、彼女の背を軽く叩《たた》いた。目は、彼女の手元に集中していた。だが、枯れて乾ききった小枝は、土を掘るところまでもいかず、ほんの少し力を入れただけで、ぽきりと乾いた音をたてて折れてしまった。 「考えすぎないことよ。結論の出ないことをあれこれ考えても、仕方がないわ」  知美は力なく頷《うなず》き、やがて、肩を震わせて涙をこぼした。乾いた土の上に、小さな黒い点が出来た。 「私達がいるじゃない、ね? 知美を一人ぼっちになんか、させやしないわ。私達だって、心配に決まってるじゃない? うちから帰っていった人が、それきり消息不明になったなんて、ただごとじゃないと思う。たった一度、お目にかかっただけだけど、素敵な人だったことはよく分かるもの。だから、ね、一人で悩まないで」  法子の言葉に、知美は何度も頷き、そして、さらに激しく肩を震わせ、涙を流した。 「皆、こんなによくしてくださるのに──私、駄目な人間だわ。皆を、何となく疑ってた。おかしいなんて、思ってたの」  彼女は声を詰まらせながら言った。法子は、彼女の背中を辛抱強くさすり続けた。 「誰にでもあることよ、不安にならないはずがない、心配に決まってるものね。私達のことなんか、気にしないでいいのよ」  法子はさらに囁《ささや》いた。顔を歪《ゆが》めて涙をこぼしている知美の向こうに、闇《やみ》の中で笑っている鬼が見える気がした。あの鬼を取り除かなければならない、あの鬼から知美を守るのだ。そうすれば、彼女は素晴らしい家族になり得るはずだった。 「そうだ、今度、蓼科の別荘に行かない? そろそろ紅葉が見頃だと思うのよ、ね?」  法子は知美を支えながら、ゆっくりと立ち上がった。知美は鼻をすすり上げながら「蓼科?」と言う。法子は、ゆっくりと、優しい口調で別荘の話をしてやった。 「本当にいいところよ。私は、もう少ししたら悪阻《つわり》も始まるだろうし、安定期に入るまでは難しいかもしれないけど──でも、よかったら、和人さんや綾乃ちゃん達と、皆で行っていらっしゃいよ。絶対に気持ちが休まるわ」  知美はわずかに驚いた顔になったが、それでもおとなしく法子に従った。並んでゆっくりと歩きながら、法子は彼女の体温を感じていた。もうすぐ、彼女も法子達の体温を感じることだろう。そして、本当の家族になっていく。 「空気も違うし、それこそ、自然に囲まれて、本当に心が安らぐわ。そうなれば、知美だって少しは体調がよくなるかもしれない。何しろ、お医者様だって、どこも悪くないって太鼓判を押してるんだから」 「私──いつ、お医者さんに行ったんだったかしら」 「なに、言ってるの。先週、日赤に行ったでしょう?」 「──そうだったかしら──そうね、行ったのね」 「そうよ、そこでお医者様に言われたんじゃない。心配いりませんよって」 「そうね、そうだった」  法子は、知美と連れだって、ゆっくりと庭を回った。心の中では、土に戻りつつある知美の恋人に別れを告げ、「邪魔をしないで」と囁きながら、彼女の腕をもって歩いた。  すべて、うまくいく。そして来年、梅雨《つゆ》の晴れ間をぬって夏の雲が広がる頃、法子は母になるだろう。家族の愛に包まれて、この志藤の家の血をより濃く、純粋なかたちで受け継いだ、素晴らしい子どもが生まれるに違いない。  ──皆によく似た、私の赤ちゃん。  ひとりでに笑顔になりながら、法子はゆっくりと歩いた。何か言いかけて顔を上げた知美は、そんな法子の笑顔に出逢《であ》い、一瞬戸惑った表情になって、それから弱々しく顔をそむけてしまう。  知美が何を疑っているのか、法子には十分に分かっていた。だが、子どもの父親が本当は誰なのか、そんなことは何の問題にもなりはしなかった。要は、この家族の絆《きずな》を守り続けていくこと。そして、子どもを一人っ子などにしないことだ。その為には、知美にも協力してもらう必要もあるかもしれない。近い将来、彼女は喜んで法子の子の兄弟を産もうと言うに違いなかった。そして、家族はますます繁栄していくだろう。 「きっと、素晴らしいことがあるわ。これから、まだまだ」  無意識のうちに自分の腹を撫《な》でながら、法子は歌うように呟いた。秋の風はすがすがしく、金色の糸を引いて吹きすぎて行くように見えた。  初 出 一九九三年 角川文庫 〈底 本〉文春文庫 平成十三年十一月十日刊