[#表紙(表紙2.jpg)] 落語特選(下) 麻生芳伸編 目 次   まえがき  汲み立て  星野屋  反魂香《はんごんこう》  中村仲蔵  文違《ふみちが》い  黄金餅《こがねもち》  今戸焼《いまどやき》  松曳《まつひ》き  心眼  三軒長屋  二階ぞめき  富久《とみきゆう》  一目上《ひとめあが》り  木乃伊取《みいらと》り  蔵前|駕籠《かご》  夢金  悋気《りんき》の火の玉  王子の幇間  片棒  居残り佐平次   あとがき [#改ページ]   まえがき 「おゥ、冗談言うねえ。こちとらァ、赤《あけ》え血の流れている人間なんだァ」  この世の中に日々生きている以上、だれしも大なり小なり、社会の〈柵《しがらみ》〉に翻弄《ほんろう》される。だが、それに耐え、従っていては人は息がつまり、萎《しぼ》んでしまう。それに妥協し、媚びていては時代に流され、自分自身を失なってしまう。  それを押し止め、ぎりぎりのところで撥ね返えそうとする——抵抗精神《レジスタンス》を背骨《バツクボーン》にしているのが、落語である。  その抵抗心は、社会の表面《うわべ》の胡麻かし、体裁《ていせい》——本質を見抜く知恵を磨き、錬《きた》え、きびしい現実に対応する逞ましさを育《はぐく》んだ。  落語が今日まで多くの人びとに愛好され、普遍性をもっているのは、この抵抗精神と人間の〈個《パーソナリテイ》〉を大切に守り抜き、つねに人間を対手《あいて》に、人間を描き、語り続けてきたからだ。  人は、社会の〈柵《しがらみ》〉の中で、所詮、堅いことばかり言っては、生きて行けない。そこで、生き延びて行く縁《よすが》——知恵として、人生をおもしろ、おかしく生きて行くことを選んだ。それが〈遊び〉の世界だった。  そして、噺家が江戸時代に、世の中の悲喜こもごもの人間模様を巧みな話芸で、長屋の八っつぁん、熊さん、家主、店の若旦那、奉公人、遊女、遊客等の切実な生活感情、思考を織り込んで、かくありたい、という願望と真情を落語という〈世界〉の中に映し出した。それを聴く人びとは、ひととき現実を忘れ、心をくすぐられ、生きている歓びを感じ、ときには涙を流した。  言うまでもなく、江戸時代は士農工商と身分によってはじめから住み分けられ、生き方がかちっと規制されていた。とはいえ、落語の中に登場する長屋の住人たちは、その埒外《らちがい》におかれ、規制は末端まで行きわたっていなくて、その分だけ人びとは自由に、自力で生きるしかなく、貧しかったが、それを弾みにして精一杯……思いどおりに行かず、ハメをはずし、しくじるのが落ちだったが、そうした営みが許され、笑い、たのしむ社会もけして悪いものではない。  オーソン・ウェルズが映画「第三の男」の中で、自ら創作した名セリフがある。 「イタリアでは、ボルジア家の治下の三〇年間、戦争や恐怖や殺人や流血があったが、一方ミケランジェロやレオナルド・ダ・ビンチや文芸復興を生んだ。……スイスは同胞愛だ。五〇〇年間の民主主義と平和を保ったが、何を生んだ? それは鳩時計だ」  それに編者《わたし》はこう付け加えたい。 「日本では、江戸時代、徳川幕府の二六〇年の封建身分制度があったが、その埒外にあって抵抗しながら、八っつぁん、熊さんのような、おもしろおかしいこの上ない生き方が生まれた。そして、江戸の人びとはまた落語という、すばらしい話芸を創り出した」  本書のために、表紙カバーに三谷一馬画伯が珠玉の〈絵〉を書き下してくださり、また永い間、小生を�傘下�で育《はぐく》み、見守ってくださった小澤昭一さんが〈解説〉で飾ってくださったことは、身に余る光栄で、体躯《からだ》が火照《ほて》るような想いに包まれている、感激である。有難うございました。  また十代から古今亭志ん生、桂文楽を生《ライブ》で聴いた世代として、このような〈活字落語〉というかたちで全六巻のシリーズに纏《まと》められたことは、望外の幸甚である。  今後、ここに収録された演目が噺家によっていつまでも高座で演じられ、また読者によって読み継がれて行くことを心から祈っている。 [#地付き]編者敬白 [#改ページ]   汲み立て  江戸っ子の芸事好きは、「小言幸兵衛」の家主はじめ「四段目」のでっち[#「でっち」に傍点]小僧に至るまでたいへんなものだが、「寝床」の旦那のように義太夫、「蛙茶番」になると店内《たなうち》に舞台まで作って素人芝居を演《や》る。こうなると好きを通り越して、芸事|三昧《ざんまい》も本格的だが、なかには道楽に、町内の清元や小唄の稽古所へ通う連中もいて、それも一所懸命やろうというひとは、男の師匠に付くが、女の師匠に付くひとは、どうも芸事以外が目的で弟子になることが多いようで……。  そういう連中を経師屋連《きようじやれん》、張子連《はりこれん》と称し……芸よりも師匠をはり[#「はり」に傍点]にいく、よからぬ弟子で、なかには蚊弟子《かでし》というのがいて、夏、蚊のいる時分は夜なべが出来ないので、遊び半分に稽古所へ……涼みがてらに唄を習って、蚊がいなくなる時分には、秋口になって仕事も忙しくなるので、みんな通わなくなる。これを蚊弟子という。なかには冬まで居残りをするやつがいる。藪《やぶ》っ蚊っていうやつで……。  ひどいのは、狼連《おおかみれん》といって、師匠が転んだら食おうという……物騒な弟子もいたりする。  師匠が女で、器量がいいと、目の色変えた男連中が寄ると触ると、はり[#「はり」に傍点]合う。 「この間《あいだ》から様子を見てると、あの喜三《きさ》っぺには四度《よたび》も稽古をしてやって、おれには一度しか稽古してくんねえ。どうも変だ」 「そう言えば、近ごろ、どうもおれにも当たりがよくねえんだよ。源さん」 「辰公、毎晩、横町の師匠ンとこへ行ってんのか?」 「行ってるとも、おらァ怠けやしねえ。たいていは行ってるが……ちっともおめえと会わねえじゃねえか」 「うんうん……おれは宵のうちに行くんだ」 「あ、そうか。おれは遅いんだ。それでおめえとかけちがうんだな」 「なんだ、おれァおめえがまるっきり見えねえから、よしちゃったんだと思ったんだ」 「よすもんか。行ってるよ」 「なにを稽古してるんだい?」 「『将門《まさかど》』よ」 「え? 『将門』?」 「なんだ、知らねえのか? ※[#歌記号、unicode303d]嵯峨《さが》や御室《おむろ》の花盛り、浮気な蝶の……って、あれだァ」 「おかしな声を張り上げるない。そんなことァおめえに聞かなくったってわかってらァな。おめえ、この春、あすこの師匠が看板を出したときに、入門《あが》ってすぐ稽古をはじめたのが『将門』じゃァねえか」 「そうよ」 「もう夏じゃァねえか、まだ習《や》ってんのかい?」 「そうよ」 「ことしの春から、この夏場までもち越すとは、少し長《なげ》ェな」 「長ェったって……へへへ、おれも感心してるんだ。こんなに長ェもんかと思ってね」 「てめえで感心してりゃァ世話ァねえや……どういうわけでそう長ェんだい?」 「どうも……もの覚えが悪いからなかなか先へ行かねえんだなあ」 「先へ行かねえったっておめえ、春から習《や》ってんだよ」 「そのうえ、おめえも知っての通り、おれは声がよくねえからなあ」 「おめえの声は人間に遠い声だ」 「よせやい。それで、節《ふし》がうまくいかねえのよ。調子に外れて、三味線に乗らねえからな」 「じゃあ、いいところはねえじゃァねえか」 「まあ、早く言えば……」 「遅く言ったっておんなじだよ……はじめのほうは出来上がったんだろ?」 「まだちょいとあやふや[#「あやふや」に傍点]だな」 「中程は?」 「ふわァッとしてね」 「しまいは?」 「まだ習わない」 「なあんだい、じゃァ形なしじゃあねえか」 「どうも喉《のど》のぐあいが悪《わり》いから、師匠がそう言った。『おまえさんは吹っ切るとよくなるよ』って……」 「いまのうちに吸い出し膏薬《こうやく》でも貼んねえ」 「ばかにするねえ。脹物《できもの》じゃァあるめえし、喉へ吸い出しを貼るやつがあるもんか……このごろは、おれは、声が悪《わり》いから、唄のほうは見込みがねえと諦めて、三味線のほうへ切りかえた」 「おめえが? そりゃァよしたほうがいい」 「なぜ?」 「だって、三味線なんてのはな、かわいい女が弾くとか、男でも乙な野郎が弾くとか、色気のあるもんだぜ。てめえが三味線抱えてる図《ところ》は、鬼が棕櫚箒《しゆろぼうき》を抱えたようだよ」 「鬼が棕櫚箒とは情けねえな。鬼が十能《じゆうのう》てえのは聞いているが、棕櫚箒はひでえな」 「ほかに呼びようがねえんだよ」 「だけどもね、辰ちゃんの前だけれども、三味線は得だぜ」 「なにが得だい?」 「唄の稽古のときは、真ン中に見台という邪魔物をはさんで、師匠と差し向いで習《や》らァな。そこへ行くと、三味線となりゃあ、見台を傍《わき》へすーっと退《ど》かして、膝と膝がつき合せになる」 「お調べがむずかしいな」 「咎人《とがにん》じゃァねえや……そればっかりじゃァねえぜ。わからねえところがあると、指をこうおさえて教えてくれらあ。へへへ……おんなし月謝ならおめえ、指へ触ってもらったほうが安いじゃァねえか」 「あれっ、変な勘定ずくではじめやがったんだな、どうも。それで三味線を習《や》ってんのか」 「うん、けど、この間、膝で師匠がおれを突いて睨《にら》んだぜ。『辰っつァんと一緒にはじめた子供でさえ、とうに二段も三段も上げちまったのに、まだ一段も上がらないとは、まァ、なんて情けない人でしょうね』って……『へえ、自分も情けないと思います』ってそう言った」 「なんだい、素直な野郎だなあ。で、なにを稽古してんだよ」 「あの、『一《ひと》つとや』……」 「一つとやァ?」 「あァ、※[#歌記号、unicode303d]一つとやァ、ッて……あれ」 「ばかな……なんだい、あれァおめえ、ちっぽけな子供だって弾くじゃねえか」 「それがむずかしいんだ」 「ほんとうに情けねえやつだな。おめえは二十六にもなって、六つか七つの子供にも先を越されて……自慢にならねえや。どういうわけで駄目なんだ?」 「どうも三味線てえやつは、指のほうを見ていりゃァいけなくなっちまうし、撥《ばち》のほうへ目をつけりゃァ上がお留守になるし、上を見りゃァ撥が留守になるし、なかなかむずかしいもんだ……この間、おれァ師匠に、撥でひっぱたかれた」 「そんなひでえことォしなくっていいじゃねえか。おめえは道楽で習《や》ってるんだから、いくらなんでも、撥でひっぱたくてえのは、少し乱暴じゃァねえか」 「もっともおれが悪かった」 「どうして?」 「なにね、そのとき、師匠が洗い髪だったと思いねえ」 「つまらねえことを言い出すなよ。洗い髪なんてどうだっていいやな。ひっぱたかれたわけはどうなんだ」 「それが、そもそもの発端よ」 「敵討だなあ、発端とくると……どうしたい?」 「色が白くって、薄化粧して、師匠は毛の性《しよう》がいいから、洗い髪にして、うしろへすーっと垂らしているのが、畳《たたみ》二|畳《じよう》ぐれえひきずって……」 「そんな長《なげ》ェ毛があるか」 「まあ、このくらい大袈裟《おおげさ》に言わなくっちゃァおもしろくねえや」 「つまんねえところへ景気をつけるない」 「紺しぼりの浴衣《ゆかた》に、お納戸献上《なんどけんじよう》の幅のひろい帯を締めてね、『さあ、辰っつァん、いつも二人でやっていては思うように覚えられないから、今日はあたしが前で聞いていますから、あなた一人で弾いてごらんなさい』とこう言うんだ」 「ふゥーん」 「『どうかお願いします』ってえと、師匠が見台を傍《わき》へ退《ど》かして、三味線を構えて、立て膝をしたんだけど、いい腰巻を締めてるんだ」 「腰巻なんざあ、どうだっていいやな」 「白|縮緬《ちりめん》の浜の一番という上等品だ。蚤《のみ》の糞《ふん》なんぞ一つもついていねえや。上のほうに金巾《かなきん》だの晒し木綿《もめん》はついちゃあいねえだろうと思……」 「そんなことどうだっていいやな」 「立て膝をしてるもんだから、風につれて端のほうがぺらぺら、ぺらぺら動《いご》くんだ。……それからね、おれが屈《こごん》で下から、ふーッと吹いた」 「ばかな真似するない」 「いくら吹いても、布《もの》がよくって重《おも》てえからなかなかこれが持ち上がらねえ。……それから、もういっぺん、試しにぷーッてんで、癇癪《かんしやく》持ちが火でも起こすように夢中でやってると、頭のほうがお留守になったからたまらねえや。そばにあった撥を取ると、いきなりぱッと来たから、『一本、参った』と頭をおさえた」 「なんだい、剣術だな、まるで……」 「『なにをするんですね、悪ふざけをするにもほどがありますよ』と、顔色を変えて怒ったから、『どうも、まことに相すみません』てんで、おれァ七つお辞儀をした」 「だらしのねえ野郎だね、こいつァ」 「もっとも、ひっぱたかれてもしょうがねえや」 「あきらめがいいな」 「お開帳をただ拝《おが》もうと思ったから、罰《ばち》(撥)があたるのもあたりめえだ」 「ひっぱたかれて、落とし噺をしてやがる、この野郎ァ」 「おう、どうしたい? みんな」 「おうおう、鉄ッつァんじゃねえか……上《あが》ンねェね」 「うん……また、あいかわらず師匠の噂で持ち切りだろ? へへ、無駄だから、よしなよしな」 「なんだい、無駄だってのァ」 「おれは、もう稽古に行かねえやい」 「どうして、鉄っつァん。師匠をしくじったのか?」 「そうじゃねえ。おめえたちはまだ知らねえのか?」 「なにを?」 「師匠にはちゃーんと決まった男がいるんだよ」 「おい、ほんとうかい? おう、知らなかったなァ」 「だから無駄だって言うんだ。おらァもうあきらめた」 「あきらめたァ? で、だれだい、その決まった男ってえのァ」 「建具屋の半公だよ」 「あの、色の生《なま》ッ白《ちろ》い、にょろっとした、あの野郎か……」 「そうよ」 「そんな筈はねえと思うがな」 「なぜ?」 「なぜっておめえ、師匠があんな半公みてえな野郎を相手にするわけがねえじゃァねえか。ま、師匠の情人《いろ》になろうというんなら、男前は二の次だが、まァ色の浅黒い、苦み走った乙な男で、喧嘩に強《つお》くて、度胸があって、達引《たてひき》がある、男の中の男というようなものでなければ、とても師匠の相手にはなるめえ」 「へーえ、そんな弟子がいるのかい? 源さん」 「ああ、いるとも」 「だれだい?」 「いま、おめえの前にいるじゃァねえか……」 「だれだろうね?」 「まあ……おれだ」 「なにを言やがンでえ……へへへ、男前は二の次だってやがる。さすがに気がさすとみえて二の次……二の次も三の次もあるかい。色の浅黒いって、おめえのァ浅黒いんじゃねえ、どす黒いんじゃあねえか。喧嘩に強いって、なにが強いもんか、こないだ、縁日で突き飛ばされたらおめえ、尻餅ついたじゃねえか」 「あのときは腹が下《くだ》っていたからだよ」 「下《しだ》らなねぇ野郎だなあ」 「洒落にならねえよ」 「そんなことはどうだっていいやな。半公と師匠の仲はどうなんだ?」 「そうよ。この間のことだが、おれが『師匠、おうちですかい?』と格子を開けたんだ。師匠の声で、『どなた?』と言うから、『へえ、わっちです』『あら、鉄っつァん、お入ンなさい』と言うが、障子《しようじ》を開けるに開けられず、暫時立ち往生……」 「師匠の家《うち》じゃァねえか。立ち往生するこたァあるめえ」 「ところがそうはいかねえんだ。半公の野郎が主人《あるじ》然として、高慢な面《つら》ァして、師匠と火鉢を間にはさんで、師匠がこっちにいて、半公が向うにいて、真ン中に火鉢だ。おもしろくねえじゃねえか、半公向うの師匠こっち、真ン中に火鉢……師匠こっちの、半公向うの……真ン中火鉢……」 「もうわかった。いつまでいったっておんなしだい、こん畜生っ」 「すると、師匠がお茶ァ注いで、『お茶をお上がんなさい』てんで出してくれたんだ。そいから、『へえ、ご馳走さま』と言って飲んでいると、半公の野郎が蓋物《ふたもの》を出しやがって、『一つおつまみなさい』って言《や》がン。『ありがとうございます』ってんで、見ると、甘納豆が入《へえ》ってる。つまんで一口食ったところが、こちこちしてやがってなんだか旨《うま》くもなんともねえんだ。半公の野郎は、向うの別の容器《いれもん》からそいつをつまんじゃァ食ってやがる……」 「甘納豆なんかどうでもいいや。で、どうなった?」 「やがて、半公のやつが、つゥーと立って縁側へ出たんだ。すると師匠が『ちょいと半ちゃん、お手水《ちようず》なの?』って、廊下へ出て、ぴたっと障子を閉めて、二人でもって、こちょ、こちょ、こちょ、なんか言ってやがる。どうもこれはただごとじゃァねえなと思うから、おれが、そーっと這って……」 「うん、廊下の話を聞いたか?」 「いや、半公の食ってた甘納豆を一口食ってみた」 「そんなものを食ってる場合じゃねえじゃねえか」 「半公の食ってるほうが甘くって、柔《やアら》けえんだ。あんまり旨《うめ》ンで、それからおらァ、夢中でみんな食っちまった」 「話はどうしたんだ?」 「半公の了見はよくねえよ」 「なんか悪い相談でもしてたのか」 「まずいほうをひとに押しつけるたあ、とんでもねえ」 「甘納豆なんざあどうでもいい……肝心の話は?」 「聞きそこなっちまった」 「ばかだね、こいつァどうも」 「おうおう、与太郎がいい塩梅《あんべえ》に来やがった……おい、与太」 「やあ……大勢集まってるな」 「こっちィ入《へえ》れ……おめえ、いま師匠の家《うち》にいるんだったな」 「うんうん、いるよ。女中さんがね、病気になってお家《うち》へ帰っちまったから、手伝いに行ってるんだ」 「てめえはいまあそこにいるんじゃあ知ってるだろうが、師匠ンとこへ泊まりに来る男がいるだろう?」 「ああ」 「だれだ?」 「うふっ、あたい」 「なに言ってやがるんだ……てめえのいるのはわかってるが、ほかに男が来るだろう? 半ちゃんがちょいちょい行くだろう」 「へーえ、よく知ってるね。うん、来るよ」 「師匠と仲がいいだろう?」 「仲がいいよ。でも、こないだ喧嘩した」 「なんだって?」 「なんだか知らないがね、半さんがお師匠《しよ》さんの髪の毛を掴んで、ぽかぽか殴った」 「ひでえことをしやがんな、畜生、てめえ、黙って見てたのか?」 「う、ううん、『およし、およし』って止めたんだ。そしたら、『てめえの出る幕じゃねえッ』てね、横っ腹蹴とばされて目ェ回しちゃった」 「だらしのねえ野郎だな、こいつァ」 「気がついたときは、もう喧嘩はおしまい」 「あたりめえだよ。いつまで喧嘩してるかい」 「暮がたになって、半ちゃんが謝ったよ」 「なんて?」 「『おれが気が短《みじけ》えから、あんな手荒なことをして、済まなかったなあ』って……」 「師匠は怒ってたろう?」 「う、ううん、『おまえさんが気が短いことを知ってながら逆らって、ぶたれたのは自業自得《じごうじとく》でしかたがない。嫌な人にやさしくされるよりも、好きな人にぶたれたほうがうれしいよ』って、そう言った」 「ちぇっ……それからどうした?」 「そしたら、半さんが『おれも虫のいどころが悪かったんで、つまらねえことに腹を立てて済まなかった』と、仲直りにお酒を飲みはじめた」 「うん」 「で、半さんが、『与太公、てめえは早く寝ろ』って言うから、『おれは眠くない』って、そう言った」 「ふーん、感心だな」 「そしたら、お師匠さんが、『そんなことを言って、また半さんが癇癪《かんしやく》を起こすといけないから、いい子だから与太さん寝ておくれ』って言うんだ。半さんの言うことは聞けないが、お師匠さんの言うことに逆らっちゃァ悪いと思ったから、『じゃあ寝ます』と寝たけど、眠くねえから、大きな目をあいて様子を見ていた」 「よしよし、えれえ」 「『おまえさん、悪いのはあたしだよ』『いや、おれのほうさ』とか、いつまでもおんなしことばっかり繰り返してんだよ」 「ほう、ほう、それからどうした」 「そのうちにほんとうに眠くなって寝ちゃった」 「寝ちまっちゃしょうがねえ」 「それからね、夜中に小便がしたくなったから起きた」 「なるほど……」 「すると、今度はまた喧嘩してたよ」 「へーえ、執念深えやつだな。また髪の毛を持って蹴とばしたりしてたか?」 「こんどは蚊帳の中で、取っ組みあってた」 「おーい、だれか受け付け代わってくれ、おらァ一人で受け切れねえから……」 「ばかだな。くだらねえことを言ってやがらあ。惚気《のろけ》の中売りをはじめやがって……おい、与太、おめえ、どこかへ行くのか?」 「これからね、涼みに行くんだ」 「生意気言ってやがらあ。てめえなんか涼みに行く面《つら》じゃねえや」 「柳橋からお舟に乗って、涼みに行くんだよ」 「ふーん、洒落たことを言ってやがる。だれだ、行くのァ?」 「お師匠さんとあたいとね、半さん」 「うんうん……それから?」 「そいだけ」 「なんだなァ、それならちょいと声をかけてくれりゃいいじゃねえか、こっちだってつき合おうじゃねえか」 「だけど……そ言ってたよ」 「なんだって?」 「あのゥ、『有象無象《うぞうもぞう》が来るとうるさいから……折角の涼みがなんにもならないから内緒にしておきよ』って……」 「なんだ、その有象無象ってえのは? いまさら口をおさえたって間に合うもんか……だれだ、その有象ってえのは?」 「あの人」 「だれだ、鉄公か?」 「うん」 「それだけか?」 「それから、あの人」 「辰公か?」 「うん。それに、あの人も……」 「留公か」 「そう……あとは、おまえが無象」 「なにを言やがンだ、こん畜生めっ」 「遅くなると怒られるから行くよ。さよなら」 「あれっ、行っちまいやがった。畜生め……おうおう、有象、こっちィ出ろ……おれが無象だ、畜生め。……おい、聞いたかい、太《ふて》ェことを言うじゃねえか」 「けッ! あきれ返《けえ》ってものが言えねえ。ふざけたことを言やがる。有象無象だってやがる」 「くやしいっ。はじめどんなざま[#「ざま」に傍点]をして来やがったんだ、あの師匠は。『あたくしは町内にお馴染もございません。みなさまのお力でなんとかして頂きとうございます』ってんで、挨拶に来て、頭ァ下げられたから、それじゃなんとかしてやろうじゃねえかってんで駆けずり廻って、弟子をつけて、師匠だとか蜂の頭だとか言ってられんのは、おれたちのおかげじゃァねえか」 「それはそうだとも、なあ」 「そうして骨を折ったてのァ、なんの理由《わけ》でみんな骨を折ったんだ。な? うーん……なんだ、うまく行きゃァ……なんとかならねえかという了見で、みんなだって世話ァしたんだ、そうだろ?」 「いやァ、おれァそんなこたァねえ」 「嘘ォつきやがれ、こん畜生め。……ま、そりゃァどうだっていいけどもよ。え? それならそれで、さてこういうことになりましたんで、みなさん、どうかいままで通りにご贔屓《ひいき》に願います、と言われりゃァ、こっちだっておめえ、しょうがねえ、我慢もしようじゃねえかよ、え?」 「そんなこと言われたって、おれは我慢できねえ。このまんま打《う》っ捨《ちや》っちゃおかれねえや。みんなで揃って、あすこの家を叩っ壊して、火ィつけろい」 「なあ、有象無象が来るとうるせえまで聞かされりゃあ、もうたくさんだ。だいたい師匠があれだけになったのも、こちとらが寄ってたかってしたんだ。なあ、そうだろう?」 「そうだとも……師匠のところをぶち壊してやろう」 「待て待て、怒るのはもっともだが、そんな乱暴をしたってしょうがねえやな」 「しょうがねえったって、黙っていたんじゃあ、まるっきり間抜けになっちまうじゃあねえか」 「だからよ、涼みに行ってるから、船のそばへ行って邪魔してやろう」 「泳いで行って水でも掛けるのかい?」 「河童《かつぱ》の敵討ちじゃァあるまいし。そんなことをするんじゃねえ。これから、おれが舟を用意するから、鳴り物を集めるだけ集めろ。音のするものならなんでもいい。半公の野郎がのど自慢で、師匠の三《い》味|線《と》で端唄《はうた》なんかやるにちげえねえから、こっちも舟へ乗ってって、むこうの舟のそばで、鳴り物を揃えてな、ばか囃子《ばやし》をしようじゃねえか。向うは騒々しくって、うるせえってんで、逃げるにちげえねえから、またあとをどこまでも追っかけてって、ドンチャカ、ドンチャカやって邪魔してやるんだ。そのうちに、半公が怒って面《つら》でも出しゃァがったら、師匠の見ている前で袋叩きにしてやろうってえ寸法だ。どうだい?」 「なるほど、そいつあいいや。よし、早速、支度に取りかかろう」  みんなで示し合せて、柳橋から舟に乗って隅田川へ繰り出したが、師匠のほうはそんなことをちっとも知りません。 「ほんとにまァ、舟はいいわねえ。暑さ知らずでねえ……ちょいと与太さん、お燗《かん》ができたら、こっちへ持ってきておくれ……船頭さんもこっちィ来て、一杯おやんなさい」 「へえ、ありがとうござんす。いえ、もうここで結構でござんす」 「まあ、いいじゃァねえか。師匠もああ言ってるんだから遠慮なくこっちへお入ンなさい……ああ、ほんとうにいい涼みだ」 「ねえ、半さん、なにかお唄いよ」 「え? おれがかい? よそうよ」 「どうして?」 「なんだかどうも、咽喉《のぞ》の調子もあんまりよくねえようだな」 「折角《せつかく》、三《は》味|線《こ》を持って来ているんだからさァ、なんかお唄いなね」 「うーん、そうだなァ、じゃなにか……『戻橋』でもやろうか?」 「最初《はな》っから?」 「最初《はな》っからはなんだかどうも、涼みに来たような気ンならねえから……あすこがいいや、あの、※[#歌記号、unicode303d]たどる大路か……」 「あァあァ、三下《さんさが》りからね」 「うん、じゃァ……おゥ、与太郎与太郎、なんだぜおう、その食ったもの、汚ねえからそっちィ片付けとけよ」 「じゃ、いいわね」 「※[#歌記号、unicode303d]たどる大路ィに人影もォォ……お、与太郎、おう、徳利《とつくり》ィ早く出さねえと煮え燗なっちまうぞ……おい、船頭さん、いいから遠慮しねえで、こっちィ入ってなよ、暑いからよ……※[#歌記号、unicode303d]灯影もォ見えェずゥ、我が影をォもしや人ォかと驚きてェ……かつぎィ見おばァしのぶゥ月……」 「さあ、はじまった、はじまった。いいか、こっちもはじめるぜ。それっ」   どどんどんどんどんどん   ちゃんちきちゃんちきち   ぴきぴっぴ、ぴきぴっぴ   どこどんどん どこどんどん   すけてんてんてんてん 「おいおいおい、船頭さん、な、な、なんだ、あの騒ぎは?」 「へえ、隣りの舟でばか囃子をはじめましたんで……」 「これじゃあ涼みにならねえや。おい、舟をどっか、上手《うわて》のほうへやってくんねえ」 「へえ、よろしゅうございます……しかし旦那、いま時分、ばか囃子をするとは変わっていますね。花時分ならばよく囃子もしますが……ばかばかしい連中でどうも……へえ、この辺でよろしゅうござんすか?」 「ああ、ここならよかろう。おかげで唄がめちゃくちゃになっちまった」 「しょうがないねえ。じゃあ、気分を変えて、都々逸《どどいつ》でもおやんなさいな……じゃあ」 「※[#歌記号、unicode303d]人のォ噂ァもォ……七十四日ァ、明日はァ浮名のォ……たてェじィまァいィ……」   すけてんてんてん   どこどんどんどん   ぴきぴっぴ、ぴきぴっぴ   どん、どこどんどん   ちゃんちきちゃんちきち 「な、な、なんだ。またはじめやがった。うるせえなっ」 「与太さん、よそのお舟、覗くんじゃないの、およしったらっ」 「いやァ……ははは、お師匠《ツしよ》さん、おもしろいよ。有象無象《うぞうもぞう》がまっ赤ンなって、太鼓や鉦《かね》を叩いていらあ……やーい、有象無象っ」 「なにを言やがるんでえ。てめえじゃあ相手にならねえ。半公がいるだろ、半公を出せ、半公をっ」 「なんでえ、半公を出せだと……よし、出てやらあ」 「およしったらさ、相手は大勢なんだから、おまえさん、怪我でもしちゃつまらないからよしとくれよ」 「そうはいかねえ。出ろってんだから、出ねえわけにはいかねえや。打《う》っ捨《ちや》っといてくれ……さァッ、おれが出たが、どうしたってんだ?」 「あァ、面ァ出しゃァがったな……やい、この野郎」 「なんだ?」 「なんだァ、てめえがなにをしようとどうしようと、そんなことァこっちァ構ったことァねえが、それならそれで『このたびは、こういうことになりましたんで、みなさまがた、いままで通りよろしくお願い申します』と、なぜ、一言ぐらい挨拶をしねえんだ。蔭でこそこそ泥棒猫みてえな真似ェしやがるからこっちァ癪にさわるんだ。面ァみやがれ、この張ッつけ[#「張ッつけ」に傍点]野郎め……てめえもなんとか言ってやれ、おい」 「え?」 「なんとか言ってやれよ」 「うん……まあ、おれの師匠をよろしく頼まあ」 「頼んでどうする……おめえもなんか言ってやれ」 「言ってやろうか」 「言ってやれ、言ってやれ」 「やい、半公、この野郎、てめえなんざあ、なんだ、男だろう?」 「あたりめえじゃあねえか。もっとしっかり言ってやれ」 「やい、半公、てめえは太ェ野郎だ」 「なにが太ェ?」 「なにが太ェったって……三味線じゃねえぞォ……てめえもてめえなら、師匠も師匠だ。師匠なんざあ、まったくいい女だ」 「そんなとこで褒めるなよ。もっと、しっかり悪口言ってやれ」 「やい、この野郎、てめえなんざあ屋根船へ乗って、旨え酒飲んで、旨えものを食って、でれでれしやがって、畜生め、うまくやってやがら。あ、どうもおめでとう」 「ばかっ、めでたかァねえや」 「そっちはよかろうが、こっちは、この暑いのに、太鼓ォ叩くなんて……とほほほ……こんな情けねえ……」 「泣くなよ。みっともねえ」 「なにを言ってやンだい。師匠をどうしようとこうしようと、てめえたちにとやかく言われる筋合はねえや。くそでもくらえ」 「くそをくらえ? おうおうおう、おもしれえや、くそをくらうから持ってこい! くそを!」  そこへ、すーっと肥船《こいぶね》が一艘入って来た。 「どうだね、汲み立て、一杯《いつぺえ》あがるけえ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]江戸の真夏の昼下り——「酢豆腐」[#「「酢豆腐」」はゴシック体]同様、町内の若い者が寄り集っての暇潰《ひまつぶ》しのおだ[#「おだ」に傍点]話……あくせくと働く人間は�仲間外れ�にされ、芸事や遊びに現《うつつ》を抜かす人間が歓迎された、江戸人の享楽志向が横溢している。ことに〈稽古事〉は、町内の娘の舞踊の流行にはじまって、本篇の類《たぐ》いの音曲、遊芸の稽古所が町内の到る所に出来て、町人のレジャー文化を開花させた。それは遊芸(芸能)の白拍子から出雲阿国までプロによって行われてきた歴史が、宝暦のころから素人の手中となり、その芸能のアマチュアリズムの浸透は今日の各種ワークショップ、カラオケの流行、その他一般のお茶、お花、書道、ピアノ、バレエ、絵画、外国語会話等々を習得する日本特有の〈習い事〉の基盤にもなっている。  江戸時代、夏の避暑は唯一、�夕涼み�であった。手短なところで往来、路地の縁台《えんだい》や、人目を避けては社寺の木陰などで団扇《うちわ》を手にして涼んだが、蚊が多いので、蚊のいない川風に吹かれて涼む橋の上が最適で人が大勢集まった。最も贅沢なのは船での、酒肴、音曲付きの�夕涼み�で、それをまた当て込んで、隅田川には西瓜《すいか》売りの舟や声色を聴かせる流しの舟などが寄って来て賑わった。  この噺のばあい、最後《フイニシユ》を盛り上げるために(とくに性《セツクス》と尾籠《びろう》な話材《ネタ》は笑いを昴揚させる)肥船(汚穢船《おわいぶね》)がすーっと寄ってくる。夜では必然性がないので、設定を日中にしているが、船での納涼は夜間こそ情緒があってふさわしい。まして女師匠との|合乗り《デート》ならば……。  前半は音曲噺「稽古屋」。サゲの部分の原話は、滝亭鯉丈《りゆうていりじよう》の「花暦八笑人」(文政六年刊)にある。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   星野屋  浅草の駒形《こまかた》に、乾物|問屋《どんや》で星野屋。ここの主人の金兵衛さんは、粋な人で、外で遊んでばかりいるので、おかみさんは悋気の角を生やしている。そこへおせっかいな下女がたきつける……。 「ご新造《しんぞ》さん、大変でございます」 「なんだね、この下女《こ》はまあ。たいそう真っ赤な顔をしてるじゃないか」 「だって、お湯ゥへ行って、お湯ゥの中へ入ったっきりで、出ることができないんですよ」 「どうしたの?」 「どうしたって、きまりが悪くって上がれないんですよ。わたしがお湯ゥの中へ入ってますとね、流しに留桶《とめおけ》を控えて、番頭《ばんつ》さんに背中を流させている女は、銀杏返しに結《い》った、ちょいと若く見えてまァ二十三、四ぐらいかと見えますが、ほんとうの年齢《とし》は二十七、八ぐらいかと思う、薄手な、鼻筋の通った、口元の可愛らしい、目元に愛嬌のある、透きとおって見えるような肌の、髪の毛のつやつやした、どうもたいへんいい女なんですよ」 「その女がどうかしたの?」 「だから、ちょうどあの太ったおきんという魚屋の女房が入って来たから、訊いてみると、『おまえあの女を知らないのかい、知ってると思ってたけど。あれはおまえンとこの旦那が五年越し囲っている女じゃァないか』『ちっとも知りませんよ、どこにいるの?』『あの弁天山の後ろの、五重の塔の下に茶店を出している、鈴篠のお花って言うんだ』とこう言うんですよ。つい鼻の先の弁天山の後ろへ置いて、それでどうもしゃあしゃあ、まじまじと旦那が知らぬ顔をしていらっしゃるんですから、ほんとうにくやしいったらありゃしません。ご新造さんは、ほんとにお人《ひと》がいいんだから……」 「そんなこと、表へ、べらべら喋るんじゃありませんよ。みっともないからあっちへおいで……え? 旦那がお帰りだよ。あっちへ行って……」 「いま、帰りました」 「お帰りなさいまし」 「あの、留守にだれも来なかった……?」 「どなたもお見えじゃございません」 「あ、そうか……あのね、どうでも構わんがね、女中をこの部屋ィ入れちゃァいけないよ。あいつ、どうもお喋りでいけない……どうも」 「別にいいじゃありませんか。女中《あれ》はばかにわたしのことを心配してくれるんですから」 「どうしたんだ、おかしな顔をして、え? おい、お茶ァ入れてくれ」 「わたしのような婆ァの傍でお茶を召し上がったっておいしくないでしょうから、弁天山の茶店へ行って召し上がったらいいでしょ」 「なにをつまらぬこと言って。……なんだ、覗いてげらげら笑うな、む……おまえなにか下女《あいつ》につまらぬことをたきつけられたんだな。きよや、なにかと目くばせをして。そんないやな仕打ちぶりをされるとおれが困るよ」 「困るたってなにもあたしにお隠しなさることはないじゃァありませんか。じつはこれこれだとおっしゃってくだされば、わたしだってもののわからない女でもございませんし……」 「なにを?」 「なにをたって……弁天山の茶店の、名前も知ってますよ、鈴篠のお花」 「なんだそれは」 「ああとぼけていらっしゃるんですから、ほんとうにどうも憎らしいこと。あなた五年も囲っておきながら、なぜわたしに打ち明けてくださらないんです。どうせ近所にいるんだからいいじゃァありませんか。あなただっていろいろ御用もあり、お気くたびれも大変でしょうから、たまにはお気保養をなさるのもいいですが、お隠しなさるのはよくありませんよ」 「なにを……あたしはおまえさんにものを隠すなんて……隠す……隠す必要がないン……隠してることァないんだ……」 「じゃあ、弁天山の茶店を出している、鈴篠のお花という女《ひと》はどういう女《ひと》なんです?」 「そう改まっちゃァ困るね。あれはね、幸い話が出たから言うがね。あれは、あたしが世話してる女じゃない。あれはね、番町の……ま、お聞きなさいってんだ。番町の川田さんが世話ァしていた女なんだ、で、こんだね、お国詰めになってね、川田さんが国ィ帰《かい》るンだ。……ついては、『星野屋、あの……わしは帰国《た》ってしまうけども、あとへ残ったお花と母親《おふくろ》、どうか女世帯だから、雨降り風間のときは、どうか見舞いに行ってやってくれ』『え、承りました』……旦那はいなくなってしまった。まあ、あたしも頼まれたことだから、まあ、ちょいちょい見舞いには行った。……大風の吹く日があったんだよ。えェ?……行くってえと雨になって、嵐だ。ほォら、ね、帰ることが出来なくって、泊ったのが、ま、変なことになって、こうなったんだがね。ま、これはね、あたしの言訳のようになるけれど……こうしよう、おまえに知れたのが幸いだよ。……ええ? じゃね、ちょうどいい機会《きつかけ》だ、あたしがね、行ってね、金でもやって、別れてくるから……きっぱりと」 「それじゃァ、あたしが行って……」 「おい、おい、おい。いけないよ。おまえが金を持ってって、『手を切っておくんなさい』なんて、そんなばかげたことが言えるもんか。向うは茶店の女だよ。立派な家《うち》の女房が出かけて行けば、『いえ、わたしはお金は要りませんから旦那をおくんなさい』などと言うよ。そう向うから意地に掛かって出られると、百両で手の切れるところが五百両になられちゃァ困らあ。だからなに、おれが行って手を切って来ればわけはないよ」  旦那は、絹紬《けんちゆう》の羽織を着て、懐中にいくらか金を持って、駒下駄がけで、弁天山のお花の宅へ……。 「お花、在宅《うち》かい?」 「あらまァ、旦那、さあ、どうぞお上がりください」 「母親《おふくろ》はどうした?」 「おッ母《か》さん、いまお湯から帰って来て、あの、疲れたとみえて、二階へ上がって寝てるんですよ」 「あ、そうか。いえ、なにも起こさなくてもいいんだよ。……きょうはね、おまえに少し話があって来たんだけども……」 「なんですね、旦那?」 「なんだってどうも、おれンとこの女房くらい世の中にわけのわからねえ女はねえ。もっとも世間知らずだからね、午《うま》の日にはちゃんとお茶を飲まないという願掛《がんか》けをするやつだ、あんまり頭が回らねえんでしょうがねえ。だけど、どうしたことか、おまえとの仲を知って、たぶん下女かなにかがたきつけたんだろうが、手を切ってくださらなければ、わたしは身を投げますてえんだ。おれは星野屋の養子なんだよ。あいつは家付きの娘だ。これを楯にしてうるせえんだ。まさかそんなら死ねとこっちは言えねえから、じゃァおれが手を切ってくると言い切って家《うち》を出たんだ。というのも、あいつも商売先の旦那がたにも会っているから、もしおれの品行のことでも喋られると、面目を失うことになる。そこでおれもフツフツ生きてるのが嫌になった。で、いっそ首をくくるか身を投げるか、腹を切ろうかと覚悟したんだ。ついちゃあ、今日おれは沢山《たんと》の金は持って来ない。ここに五十両ばかりしきゃない。ふッと家を出たんだから、とてもこれじゃァ足りまいが、これでまァおめえもとの茶店を出すとも、または人力車でも拵《こせ》えて、それを貸して歯代を取って、おっかあと二人でどうやらこうやら暮らしていて、思い出す日には線香の一本も手向《たむ》けてくんなよ」 「なんだってあなた、死ぬの?」 「そうよ、いま言うとおりのわけだから」 「……あたしはね、あなたが死んじまったあとで、また旦那取りもできなければ、茶店へ出るのも外聞が悪いから、おまいさんが死ぬのなら、あたしも一緒に死にますよ」 「え、死ぬ? おまえもかい。そうかい、そりゃありがたい。これはどうもおれの口から二十も年下のおまえンとこへ来て、心中をしてくれとも言いにくいから、いまのように言ったんだが、おまえがそう言ってくれれば、こんなにうれしいことはない。一緒に死のうじゃないか。それじゃ今夜、八つ(午前二時)を合図におれが来るからな、いいか? 吾妻橋から身を投げよう、そうして向島へ流れて、雁木《がんぎ》のところへ死骸が二つ繋がれて流れ着くなんてえのは、ちょいと粋《いき》だぜ」 「そううまく行くかしら……」 「おい、おっかあにこの手紙に金を添えてやっておいてくんな」 「旦那、どこへ行くの……」 「ちょいと鳶頭《とび》の重吉のとこへ寄って暇《いとま》乞いをして、更《ふ》けてから来るから、開けといてくんなよ。抜かりのねえように、いいか、頼んだぜ」  八つの鐘がボォーンと鳴った……。 「トントントントン……」 「はい、開いてますよ……おっかさんに知れるといけないから……さ、お入ンなさい」 「支度はできてんだろうな」 「ええ、お金はね、あの……仏壇の引出しに入れておきました。旦那、ご酒《しゆ》でも上がって……」 「そんなことはしてられねえ、更《ふ》けるといけねえ」  旦那はお花の手を取って家を抜け出し……吾妻橋まで来ると、ぽつゥり、ぽつゥり、と大粒の雨が降ってきた。あたりはしーんとして、隅田川は上潮南《あげしおみなみ》で、橋杭へどぶゥん、どぶゥんと打ちつける水音だけが聞えてくる。 「さ、いいかえ、覚悟は」 「いいかえったって、むやみに飛び込んじゃァいけませんから、まァお待ちよ」 「早く飛び込もう」 「飛び込むたって、もし下に船でもいて、怪我でもするといけませんよ」 「怪我ったって死ぬんだよ」 「死ぬにもまァあなた、なるたけ端《はじ》のほうからそろそろ入って行こうじゃァありませんか」 「そんな悠長なことを言っちゃァいられねえ……あァ、人が来た、先ィ飛込《いく》ぞっ……」  ……ドブーゥン…… 「あ、あ、あ、旦那、旦那っ……まあ、気が早いじゃないかね、もう、飛び込んで……旦那!……しょうがないね、まあ……」  上手のほうを見ると、屋根船が一艘、すーゥー…… 「……一中節の『紙治』だねェ……※[#歌記号、unicode303d]さりとは狭いご了見……死んで花が咲くかいな。楽しむも恋、苦しむも恋。恋という字に二つはない……まったくだね、死んで花が咲くものか。ああァ……(橋の下を見ながら)旦那ァ、あたし、おっかさんがいますからね。あの……死ぬの止しますから、あの、失礼します」  お花は家へ帰って、煙草を一服|喫《の》むか喫《の》まないうちに、表の戸を叩く者がある。 「はい、だれだい?」 「重吉だよっ」 「まァなんだね、胆《きも》を潰《つぶ》したよ。重さんかい……開いてるよ」 「おゥ、お花さん……いまここィね、星野屋の旦那が来なかったか?」 「あァ……い、ァ、いいえ……」 「そうか、うーん……妙な話だなァ。雨はぽつぽつ降ってきたし、今夜っくらいもの寂しい晩はねえじゃねえか。おれァ喰らい酔ってたんだが、なんだか知らねえが、寝苦しくって寝つけねえんだよ。……あっちィごろごろ、こっちィごろごろしてるうちにね……でも、まあ、とろとろ[#「とろとろ」に傍点]っとしたんだね。……ドブーゥンという水音。『はてな、裏の井戸ィいたずらしたんじゃァねえかな』と思ってね、ひょいっと上を見ると……台所の引窓がね……ヒョッ、ヒョッヒョッと開くじゃねえか。と……水がぽたりッ、ぽたりッと、ひょいっと上を見るとね、星野屋の旦那だよ。びっしょり濡れてる。こいつがね、竹ィつかまって『重吉……重吉』……」 「えっ、もうかい?」 「なんだ、その、もうかいってえのは?」 「いいえ、まあ、どうも驚いたわね」 「うん、おれも驚いた。『旦那じゃァありませんか』と言うと、『重吉や、おめえが世話してくれた、あのお花。じつは、あの女と、今夜、一緒に死のうと吾妻橋まで行って、おれが飛び込んで、あとから、あいつが飛び込むだろうと思うと、あいつは助かって家へ帰りやがった。あんな不実な女と知らずに、おれはいままで世話ァしてたのは、おれァ悔しい。あいつを生かしておかない、日毎夜毎、化けて出て、取り殺す』ってんだ。そりゃァまァおまえは取り殺されたってしかたがねえが、ああいうもの堅い旦那だから、そのたんびにおれンところへ寄られちゃァ困るよ」 「あらまあ、びっくりしたねえ……それからどうしたの?」 「おらあ、おっかねえから、頭から蒲団をかぶって、しばらく経ってから、夢じゃあねえかと、そっと、また、枕元を見ると、旦那の姿はねえが、びっしょり畳が濡れている。それから、まあ、怖さを忍んで、おまえのところへ知らせに来たんだが、おれが世話した女といやあ、おめえよりほかはねえ。おまえ、なにも隠しちゃァいけねえぜ。旦那とおまえ、心中に行ったんだろう?……いいえ、いけねえってえことよ。おれが、いま、話をしたら、おまえの顔の色が変って、いま、なんと言った? なにが、もうかい[#「もうかい」に傍点]だ……とんでもねえことをしてくれたな。さあ、隠さねえで言ってくんねえ」 「困ったね。重吉さん、じつはね、少しばかり行ったの」 「冗談言っちゃァいけねえ。心中に、少しばかり行くやつもねえもんだ」 「こっちだって、いきなり旦那が死ぬって言い出したから、年じゅう世話になってるし、いやだって断われないじゃァないか……つい、つき合いにさァ」 「心中に、つき合いってのがあるけえ」 「まあ、重吉さん、たいへんなことになっちまったね。まったくわたしが悪いんだよ。悪いんだけれども、わたしだって、おっかさんはあるし、いろいろ思いすごしをして、死ぬのは大変だと思って、よして帰ってきたの。ねえ、ちょいと……あの旦那がそういうぐわいじゃ、困るわねえ……なんとか、幽霊《だんな》の出て来ない工夫はないかねえ」 「そうさな。そりゃァまァ、おまえが改心して、旦那に詫びごとをしたらいいかも知れねえ。それも、ただじゃあいけねえ。おめえのその緑の黒髪を根からぶっつり切ってしまいねえ。その毛をおれが握って幽霊《だんな》の出て来るのを待って、『さ、旦那、お花はこの通り、この世を思い切髪になりました、もう一生ほかの男の側《そば》へも寄りません。雄猫一匹でも膝の上へは載せません。生涯|尼《あま》になって旦那の菩提《ぼだい》を弔《ともら》い、母親《おふくろ》を見送るまで仕えます。どうか堪忍してください』って、幽霊を成仏|得脱《とくだつ》させるってえのはどうだ?」 「それじゃァ、あたしが髪の毛を切ったら、きっと幽霊が出なくなる?」 「そうよ。おまえの髪自慢は旦那もよく知っておいでだからな」 「じゃァ少し待っておくれ」  お花はひと間へ入って、髪の毛を根からぷっつり……手拭で、あとを姉さん被りにして、戻って来た。 「重吉さん、さ、この通り切ったから、これを持って、おまえさんから、幽霊の出ないように仕切っておくれ」 「どォれ……へへへ、よく切ったね。見事なもんだ。これで旦那ァ浮ぶよ、うん。……すぐ、浮ぶよ……旦那、もう、浮んでもようござんすよ」  表戸をがらりと開けて、旦那がぬっと入って来た。 「えへへへ……重吉、おれは、いままで表で聞いていたが、おめえの怪談噺はよっぽど怖かったぜ」 「あらッ!……まあ、重さん……なに言ってんの……旦那いらっしゃるじゃァないか。……まァ! 旦那ァ、ご機嫌よろしゅう……」 「旦那……こういうことを言う……こういうやつだ……ま、黙って黙って、あっしが話をします。やいっ、てめえくらいどじ[#「どじ」に傍点]なやつはねえぞ。はははは……いいか、旦那がおいでなすって、『おれはお花に惚れてる』と、ええ? 『どうかお花を時期をみて、家ィ入れてやりてえ』と、こう言う……『あいつの元の商売《しようべえ》が商売だから、気心がわからねえ。どうしたらよかろう』ってえから、『旦那、こうなすったらようございましょう』と、おれと旦那が書いた狂言で、さっき旦那のあとからつづいて飛び込めば、下には、ちゃんと蒲団を敷いた船をつないであって、まちがって川へ入《へえ》っても、てめえを殺す気遣いはねえ。ほかに三艘の船が橋間に舫《もや》っていて、腕っこきの船頭が待機しているんだ。旦那は、もとより木場の生まれで、泳ぎの名人だ。てめえが飛び込めばすぐ小脇にかかえ旦那が泳いでいるうちに、船頭が船ン中へ引き揚げて、水なんざ飲ませるンじゃねえ。一緒に飛び込めば、心底《しんてい》見えたって、いまのおかみさんを追い出して、てめえが星野屋の二度添いになれたんだ。このご新造になり損ないめ!」 「そうだったの。知らないからさァ。じゃァ旦那、こうしましょう、もういっぺん吾妻橋へ行きましょう」 「重吉、みなよ、この調子だ」 「あきれたやつでござんすねえ。どうぞまあ、旦那、その代りこれで勘弁しておくんなさい。こいつは、髪惜しみで、鬢《びん》の毛の一本も髪結いが抜こうもんなら、『元のとおり植えてお返し』なんていう女でございます。……やい、お花、てめえは、旦那と縁が切れた上に、その頭髪《あたま》じゃあ、母親《おふくろ》を抱えて、明日からどうやって暮らしていくんだ? 髪の毛がなきゃあ、女で候《そうろう》と、世の中に通用しねえぞ。茶店へも出ることはできねえ。くりくり坊主になるよりしかたがねえんだ。さっぱりと坊主になったら、いままでのよしみ[#「よしみ」に傍点]に、木魚の一つぐれえ買ってやらあ。ぽくぽく木魚のあたまを叩いて、念仏でも唱えて暮らしていろい。ざまァみやがれっ」 「へん、そんな毛が欲しかったら、毎日取りにおいで……相手が旦那に重吉さんだから、おおかたそのくらいのことだと思ったよ。ひとおもしろくもない」 「おや、生意気なことを抜かしやがる。切った毛が毎日ピョコピョコ生えてたまるかい」 「ふんっ……それをほんとうの毛だと思ってんのかい……(被っていた手拭を取り)この通りさ、おまえの持ってんのは髢《かもじ》だよ」 「えッ? こん畜生めっ。旦那……あ、あっしとこいつと馴れ合って?……冗談じゃない……こん畜生、お花っ、こんなもの(髢)いらねえやいッ」 「重吉、もうやめろ。野中の一軒家じゃない。気をつけて口をきいておくれ」 「まあ、旦那、もう少ししゃべらしておくんなさい……やい、このあまっ、よくもひとを騙しゃあがったな。てめえは、きっとそんな了見のやつだと思ったから、旦那がさっき、おめえにやった金はな……」 「金は貰ったよ。その金がどうした?」 「あれァ、贋金《にせがね》だ」 「まあ、あきれた。なにからなにまで手を回してやりゃあがったんだね」 「ありゃ、旦那がな、芸者や幇間を集めて遊ぼうってんで……両替屋の真似をしようって……『おれが金を撒くからてめえたちゃァ拾え』ってんで、あいつを撒くんだ。みんな欲ばってるから拾うだろ……と、よくよく見ると、これが玩具《おもちや》だろ。……『旦那、これは玩具でござんす……』『さ、本物と取り替えてやろう』と、洒落に拵《こしら》いた玩具の小判なんだ。てめえが遣うだろう、へへ、てめえはふン縛られる、贋金遣い……磔《はりつけ》ンなるんだ」 「どこまで企《たく》んで来やがって……おっかさん、さっき貰った金は、あれは贋金だってさあ。贋金なんぞ持っててもしようがないから出しておくれよ」 「なんだね、騒ぐにゃあ及ばないよ。さ、早くお返し申しな、手から離れりゃあかかわり合いにはならないんだから……」 「さあ、持ってけっ」 「出しゃァがった、うふふふ……旦那、こいつらァほんとうに赤児の腕を捻《ねじ》るようなもんです。贋金だってったら、えへへ、出しゃァがった……おい、これが贋金か……おい。いいか……ピィィンと、この音をきけよ。ははははっは、贋金ならてめえが遣うより旦那のほうが先に縛られちまわァ、はははァ」 「あらまァ、畜生め、おっかさん、いまのは本物だってさあ」 「あたしもね、そうだろうと思うから、ここに三枚くすねておいた」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]心中未遂事件は「品川心中」[#「「品川心中」」はゴシック体]「辰巳の辻占」とめずらしくないが、こちらはお花(妾)の心を試そうと、旦那が仕掛けた狂言心中だったが……果して、お花が真心のある、従順な女なのか、したたかな遣手《やりて》なのか、結局、最後までわからない。その隙《すき》を狙ってお花の母親が見事な結末《フイニシユ》を決めた。ばかを見たのは旦那のほうで、お花からはしっぺ返しを受け、女房からはやり込められて、居場所がなくなり……養子の身上の哀れを嘆き、最初、思いついたように、首をくくって(泳ぎは達者なので)一人寂しく自害するしかない——笑うに笑えぬ落語である。  原話は『初音草噺大鑑《はつねぐさはなしおおかがみ》』(元禄十一年刊)の「恋の重荷にあまる知恵」、喜久亭寿暁《きくていじゆぎよう》のネタ帳『滑稽集』(文化四年)には「女郎買五両|楠《くす》ね」とある。  底本《テキスト》にしたのは、三遊亭円朝口演速記。元々は人情噺、別名に「入れ髪」「三両残し」 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   反魂香《はんごんこう》  陰陽というものは、なんにでもございます。  人間にも陰陽がある……これは昔の譬《たとえ》ですが、俗に屈《かが》み女に反り男なんて申しまして、女は常に陰の存在《もの》として、少し屈み加減、男は陽の存在《もの》として、ちょっと反り身になっているほうが形がよいとされました。最近は洋服を着るようになって、陰陽なんてものもすっかりなくなりました。  水死をすると、陰が陽に返って、陽が陰に返ると申しますが、あの、水死仏のことをどういうわけか土左衛門と言います。これは男女共に土左衛門、男はまあ土左衛門でもいいが、女で土左衛門はおかしい、お土左《どざ》とかなんとか言いそうなもので……。  この土左衛門というのは、どういう由来かと聞いてみますと、なんでも寛政のころの力士に、成田山《なりたやま》土左衛門という相撲取りがいて、この人が色が青白く、恐ろしく腹のふくれて、水死人によく似ているところから、水死人を土左衛門と言うようになったそうでございます。  そこで、女は陰の存在《もの》ですから陽に返って、必ず上を向いて流れる。男は陽の存在《もの》で陰に返りますから下を向いて流れて参ります。  ある和尚に聞きましたら、仏説では、女は罪深い存在《もの》ですから、死んでも万人に顔を晒《さら》すのだそうですが、またある人に聞きましたところ、男は睾丸《きんたま》の重みで下を向くのだという……、それじゃァ疝気持ちは底を流れそうなもんだ。じゃあ、男は睾丸の重みで下を向くのなら、女はどういうわけで上を向くンですと訊くと、女はお尻の重みで上を向くんだ、とおっしゃいましたが、女だってお尻の大きい人ばかりいるわけじゃあない……。  この陰陽は、手の掌《ひら》を返すなかにもあると申します。伏せた手が陰で、上を向けた手が陽……それですから、幽霊は陰気ですから、手を下へ向けます。上へ持ってってごろうじろ、狐拳を打つようになる、そうかといってあまり下へやると名主さまのようだ。ちょうど胸のあたりへやりまして、両手を伏せて『怨めしい』……。手をあお向けに出すと『強飯《こわめし》ィ……』、なんか貰いたそうでぐわいが悪い……。  鳴物の中にも陽気なものと、陰気なものとがあるようで、三味線は陽気、木魚は陰気、太鼓は賑やか、鐘は騒々しい……それも使いかたによって、いろいろで陽気なものが陰気にもなれば、陰気なものが陽気になります。同じ木魚でも念仏堂へ行きまして、大勢でワアワアやっておりますときは陰気どころではございません、酔ったかたなどは踊り出したりします。また三味線とても用いかたによっては、夜更けて爪弾きかなにかで、乙な文句の端唄かなんか聞いてごろうじろ、思わずほろりと来て、あんまり陽気なものじゃァございません。また鳴物の中でも半鐘というものはずいぶん喧《やかま》しいもので、どうも夜更けていくら一ッ鐘や二ッ鐘で火事は遠いといっても寝つかれません。  同じ鐘でも陰気ではありますが、夜更けて叩く看経《かんぎよう》の鉦《かね》というやつ……。 「あー、うるせえなあッ、折角、いい心持ちに寝ようと思うと、毎晩カンカン鉦を叩きやがって、畜生め。なんだろうあいつァ、長屋の者がみんな寝られやァしねえ。ついこの間、引越して来た、どこかの浪人者らしい。おれがひとつ掛け合ってやるか……おォう、ごめんねえ……おい、隣りのおじさんっ」 「はい、どなたでござるな……表の戸は開いておるでな」 「おい、ほんとうに冗談じゃァねえぜ、夜になると、カンカンカンカン、鉦ェ叩くんだからなあ」 「ほゥ、これは、これは……隣家の熊殿か。見苦しゅうはござるが、まずまずこれへお上がりなされ。夜中にわかのお越し、なんぞご用でもござるかな」 「ちえッ、いやに落着いて気取ってちゃ困るじゃァござんせんか。ほかじゃねえが、毎晩毎晩、おまはんは、いまごろになるとカンカンカンカン鉦を叩くんだい。騒々しくって長屋じゅうの者がみな寝られねえんだ。どうかそいつを止めて貰《もれ》えてえんで……たって叩かなけりゃァならねえんなら、真っ昼間、叩いてくんねえな」 「いや、これはまことに面目次第もござらぬが、わずかのことであるから、いま暫《しば》しご辛抱を願えんか。この香盒《こうごう》の中にある香を焚《た》き捨つるその間……」 「なにをしてんだい? そんなら昼間やったっていいじゃねえか、駄目なのかい?」 「いや、ごもっともでござるが、白昼にてはその効なく、また仏のためにも相成らず、いまも申し上げる通り、いま暫らくの間ご辛抱を願いたい」 「なんだかよくわからねえが、いったい、そりゃどういうわけなんで……」 「それでは、長屋の衆のご疑念をはらすために、ひと通りお話を申し上げる。某《それがし》ことは因州《いんしゆう》鳥取の藩士で島田重三郎と申す者、江戸勤番の折、ふと朋友に誘われて、かの吉原へ足踏みをいたしまして、そのころ、三浦屋の高尾という、全盛極まりなき花魁《おいらん》に初対面をいたした」 「おい、初対面をしたなんて、ずうずしいことを言やがって、三浦屋の高尾ってなあ、大名道具だ。そこへおまはんなんざァ行ったって、もてる[#「もてる」に傍点]気遣《きづけ》えねえだろう」 「それが相縁奇縁と言いますか、初会の折から、高尾が拙者にぞっこん打ち込んでな……」 「うふゥ、冗談じゃァねえぜ、黙ってりゃァいい気になって……ぞっこん打ち込んでってえのは、惚れたってえことかい? 夜中に真面目におのろけは恐れ入ったぜ。それからどうしたってんだい、なるたけお手柔かに願いますぜ」 「いかなる過世《すぐせ》の縁《えにし》やら、互いに真《まこと》をあかしあい、末は夫婦と言い交し、末の松山末かけて互いに心変らじと、拙者よりは先祖伝来の貞宗の短刀、これには千羽鶴の彫刻がしてある。高尾よりは香盒を送って寄こしたが、これには紅葉の高蒔絵《たかまきえ》が施《ほどこ》してある高価な品。中に入っておるのがこの名香、即ち魂|反《かえ》す反魂香、世にも貴き香である。それを起請代わりとせしところ、その後高尾は、仙台侯に身請けされたが、拙者に操立つるため、威勢《いせい》に従わぬ、それがために、三股川にてお手討にあいなった。儚《はかな》き最後を遂げしゆえ、拙者も不憫《ふびん》に思い、毎夜|回向《えこう》のその折にこの名香を一つずつ火中に入れて焚《た》くときは、高尾の姿が現われて、過ぎし昔を語り合う、お耳ざわりはかようなわけで、この反魂香もあとわずかゆえ、なにとぞいま暫しご容赦を、長屋の衆にもよろしくお伝えを願いたい……」 「へーえ、そうだったったんですかい。そういうこととはちっとも知らなかった。だけど、おまえさんがこの年になって、毎晩、カンカン南無阿弥陀仏……って唱《や》ったって、死んじゃった高尾にはわかンねえでしょ?」 「いや、それが、姿を現わせるのだ」 「姿を? ほんとうかい? どうして?」 「この取り交わしたる反魂香を火中にくべると……香を焚くと……その煙《けむ》の中から高尾は現われる……」 「ほんとうかい? おっかねえだろうね、斬り殺されちまったから、血だらけになって……」 「そんな姿じゃ出ない……廓にいた全盛そのままの姿……」 「そうかね。じゃ、ここで、ひとつ、その反魂香ってのをくべてみてくれ」 「いや、これはな、掛け替えない香であるから、そうむやみに焚くことはできない」 「そんな意地の悪いこと言わねえで、あっしにだけ見せておくんなさい」 「さよう申されても……しからば、疑念をはらすそのために止むを得ぬこと、一粒焚きましょう。決してご他言くださるな」  浪人は香盒の中から一粒取り出して、仏壇に向い、ちょっと回向をして香を焚くと……煙の中へ朦朧《もうろう》として高尾太夫の姿が現われて、 「そちゃ、女房、高尾じゃないか」 「おまえは、島田重三さん、取り交わせし反魂香……あまり焚いてくださんすな……香の尽きるが、この世の見おさめ……」 「わしゃ、焚くまいと思えども……隣家の熊殿の疑念をはらすそのためじゃ、許してくれ……(合掌)頓証菩提、高尾……頓証菩提、南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」 「もういいよ、へへへ、驚いたね。あァ、おびび[#「おびび」に傍点]のびっくり、おかか[#「おかか」に傍点]の感心……おまえさんがこんな落ちぶれた境涯になっても、ああいうきれいな高尾が、『おまえは島田重三さん……』とくりゃ、もっともだもっともだ。たくさん香を焚いて逢いなせえ……おいらンところにも、おさき[#「おさき」に傍点]って、いい女房がいたんだ。なにもこれが仲人があって貰ったという仲じゃねえんだが、あっしにゃァ過ぎもんだ。このおさきてえ女は、もとはといえば、表の質屋に奉公してたんで……おいらが仕事から帰ってくると、寒中に井戸端で菜漬を洗って、手の先まっ赤にしてやがってよ、余計なお世話かも知れねえが『さぞ冷とうございましょう』って声かけてやった。すると、『どなたもそうおっしゃいますが、そんなに冷とうはありません』と平気な顔してるじゃねえか。おいらァ、これだ、と思ったね。女房の悪いのは一生の不作っていうけどねえ、寒中に水を冷てえとも思わねえ、こんな女は滅多にいるもんじゃねえ」 「いかにも、さようでございますな」 「そんなわけで夫婦《みようと》になってからの、仲の良いことといったらなかったね、いっぺん、おまはんにも見せたかったね」 「いえ、拝見せずとも結構で……」 「友だちが女郎買に誘いに来たって、くそくらえって追い返してね……ところが、いいことは長くは続かないやね、一緒になって二年とたたなかったなあ、ある日、頭が重いと寝こんで、医者に見せても何の病いかわからねえまんま、息ひきとっちまったのが三年前だ」 「いやはや、実にどうも、ご愁傷様……」 「今ごろ、くやみ言ってもらっても追っ付かねえ。それから、世話するものはあっても、かかあは持たねえ、いまだにやもめ[#「やもめ」に傍点]暮らしでいるんだよ。へへへへ、済まねえが、ひとつその香を半分ばかり分けてくれよォ。死んだものはかえって来ねえが、おれも煙の中からかかあの姿を見てえものよ」 「いや、慰みごとには焚かれません」 「慰みごとたァなんでえ。おいらだっておさきに逢いてえ気持はおんなじだ。そんな意地の悪いこといわねえで、半分おくれよ」 「これは他人の手には渡すわけにはいかん」 「いかん? じゃァ四半分……」 「いかん」 「ししし、し四半分……」 「だめだ」 「どおしてもくんねえのか……しみったれめっ……だから侍《さむれえ》はきらいなんだ、勝手にしやァがれっ」  熊さんは夜中もかまわず、そのまま薬屋へ駆け込んで、ドンドン店の戸を叩き、 「おい、開けてくんねえ、おい、薬屋ァ、ちょっと開けねえと、ぶち壊すぞ、大変《てえへん》だ大変《てえへん》だ、大急ぎだ」 「おいおい、だれか店の者、お客さまだ。開けて上げな、薬屋というものは、どんな真夜中でも起きなくてはいけない。急病人でも出来たんだろう、起きて上げな」  店の者は不承不承に起きて、灯火《あかり》をつけ、戸をガラガラと開けると、途端に拳骨《げんこつ》がぽかりっ。 「痛っ、痛いじゃァございませんか、これはあたしの頭で」 「あッ、そうか。おめえの頭かァ、戸にしちゃいやに柔らけえと思った」 「ご冗談で、こんな柔らかい戸はありません」 「おれはまた戸が膿《う》んでるのかと思った。真っ平ごめんよ」  と、熊さんはいきなり尻をまくって、どっかと坐りこんだ。 「あの、火の中ィ入れると出るだろう」 「えェ?」 「火の中ィ入れると、こう……出るだろう」 「ああァ、花火?」 「花火じゃねえ……こう、煙が出て、煙の中から……こう、前帯を締めて、仕掛けを着て、頭がこう……立兵庫《たてひようご》ってえやつさ、簪《かんざし》ィこんなに差してやがって……長ェ煙管を……こう、こっちの手をこう懐中《ふところ》ィ入れて……反り身になって、『おまえは、島田、重三さん』ってえのをくれよ」 「へえー、なんです、それは?」 「そちゃ女房、高尾じゃァないか、とくらあ」 「へえー、妙な薬ですな、なんてえ名前のもので?」 「その名前《なめえ》は、そのなんだァ……取り交わせし……なんだっけなァ……、ェェ取り交わせし、忘れたァ」 「あァ、あなた薬の名を忘れた? お忘れになったら、これにみんな薬の名前が書いてございますから、ごらんなさい」 「あァそうかい、ェェとなんだ、実母散《じつぼさん》とさん[#「さん」に傍点]なんてえのがつくんじゃァねえ。なんでえこいつは」 「へえ、それは目の薬で、上に目が書いてございます」 「そうかその次はなんだ、清風湯妙振出《せいふうとうみようふりだ》し……そんなものじゃァねえ。なんだいこの相撲こうやく[#「こうやく」に傍点]てえのは、相撲の顔役かい?」 「いえそれは、相撲膏《すもうこう》でございます」 「ェェ伊勢《いせ》の浅間《あさま》の万金丹《まんきんたん》、越中富山《えつちゆうとやま》の反魂丹《はんごんたん》……待てよ、反魂丹?……取り交わせし反魂丹……そうだ、こいつこいつ、ばかにしやがって、こん畜生……」 「おわかりになりましたか」 「とぼけやがって、べらぼうめ。あるくせにごまかしゃァがって」 「いえ、ごまかしゃァしません」 「その反魂丹てえのをくんねえ」 「へえ、どのくらい差し上げます」 「一貫ばかりくんねえ」 「へえへえ、畏まりました」 「だいぶ急いでいらっしゃるようで、途中でお落としになるといけませんから、大きな袋へ入れてお上げ申しな」 「へえ畏まりました……ェェお待ちどおさまでございました」 「おうおう……どうも世話かけたなあ……ずいぶんあるじゃねえか、こんなに袋にいっぺえあるのに……隣のお武家は、しみったれじゃねえか。それにしても、隣の浪人はいいことを教えてくれたな、こんなこたァちっとも知らなかった。ありがてえなあ……なにしろ、あんな女房は二人といねえ。また、あのかかァがばかにおいらに惚れていやァがったからな、死ぬときにそう言ったよ。『あたしゃ、おまえさんのためにもっと尽くしたかった。それが心残りで死ぬに死ねないよ。できることなら魂だけでも、おまえさんと片時たりとも離れずに……』てなことを言やがったっけ、うふふふふ」  ワンワン ワンワン、ワンワンワン……。 「しッ、畜生、畜生っ」  熊さんは長屋へ帰って来て、火鉢の中の炭団《たどん》をほじくり出して、二つ三つ炭をつぎ足して、 「あっそうだ、隣のお武家のとこじゃ仏壇へ灯明《あかり》をつけていたっけ、一つつけるかな……よしよし、これでよし」  仏壇の前へこの火鉢を持って行くと、 「こいつァ火がおこらねえや、炭が湿《しめ》ってると見えるな、火鉢の抽斗《ひきだし》に扇子があったっけ……おっそろしく破れていやァがるな、まァ、ねえよりましだ」  と、バタバタバタ火をおこし、 「ありがてえな、三年|前《めえ》に別れたかかあに会えるのだァ。この薬を焚いたら、煙の中にすーっと女房が出てきて、なんてえ言うだろうな。うれしそうにおれの顔を見て、にこっと笑うだろうなあ。おれはそうなると気取るね。……『そちゃ女房おさきじゃァねえか』『おまえはやもめ[#「やもめ」に傍点]の熊さん……』とくらァ、ありがてえ、うふゥ……だいぶ火がおこってきたな。どうだ……ひとつくべてみるか……」  火の中へ薬を放り込んで、扇子でせっせと扇いだが、煙ばかりで音沙汰なし……。 「おや、こいつァ変だぞ。隣の浪人とこの煙はもっと白かったがなあ、やけに黒いじゃねえか、こっちは。まあいいや、はじめてだから少しじゃ利かねえかな、奮発して、半分ぶち込め……そうだ、鉦を叩くのを忘れてたよ」  仏壇の下から鉦を取り出し、カンカンカン、薬も半分ばかり火の中に入れると、黒煙はもうもうと立ちのぼった。 「かかァのやつ、早く出て来いったって、こいつはいきなり無理な話だあ、十万億土って遠いとっから出て来るんだ、三年ぶりに会うんだから、かかァのほうだって仕度に手間がかかるよ。顔を洗って、鼻の頭かなんかィ白粉《おしろい》をこう塗《なす》ってね。口ィ紅かなんかくっつけちまやがってね。縫い直しでもなんでも、半纏《はんてん》のちょいと仕立て直しンなった乙なものを着て、それから来《こ》ようってんだな。無理はねえ。……じゃあ、もうひとっくべ……くべて……どうだ……いねえや、出て来ねえや……出て来ねえけれども、家《うち》のかかァってえのがそそっかしいところもあるからね。ことによると、後ろに立ってやしねえか?……おれァいやだよ……おい、ねえ、そうなってくるとおれァ驚くよ……(きょろきょろ見まわし)後ろにはいねえようだな。……それでは、もうひとくべ……どうだ、このくれえくべたらいいだろう? これで出て来いよ、……はァはァ、出て来ない? こりゃどういうことになってやがんだろうねえ。隣の浪人ンところはこんなにくべねえうちに、朦朧《もうろう》と出て来たんだがなあ……早くしねえと夜が明けちゃうよ……ェェじれってえ、こうなったら面倒臭えから、みんな入れちまえ……袋ごと放り込んじまえ……」  袋ごと放り込んで、バタバタ扇いだから、家中黒煙に包まれた。 「こりゃァけむい、けむい。ゴホンゴホン、あァ苦しいったまらねえ、早く出てくんなくちゃ困るよ。早く出ろっ……ゴホン、ゴホン、こう煙くっちゃァ出て来てもわかりゃァしねえ、……ゴホン、ゴホン……出て来るまで、こっちのいのちが持たねえぞ」 「熊さん、熊さん」 「おやおいでなすったよ。うふゥふ、煙の中から出ねえで、表から来やがった。うふっ、気取ってやがらァ」  熊さん、立ち上がって、表の戸をガラリ、 「そちゃ、女房おさきじゃァないか……おや、だれもいねえじゃねえか」  すると裏口でドンドン……。 「熊さん、熊さん」 「あん畜生っ、表じゃァ目立つてんで、こんどは裏口へ回ったな」  裏口へ行って、戸をガラリと開けて、 「そちゃ女房おさきじゃないか……」 「なに言ってんだよ、あたしゃ隣のおたねだよ」 「おさき[#「おさき」に傍点]はどうした?」 「おまえのとこの煙のせいで、長屋はおさき[#「おさき」に傍点]まっ暗だよ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]「反魂香」は、漢の孝武帝が李夫人の死後、香を炊《た》いてその面影を見たという伝説の香。その香に現われる花魁の高尾太夫は俗に�仙台高尾�と言われる初代また二代といわれる名妓。伊達政宗の孫に当たる綱宗が万治三年(一六六〇年)神田川の開鑿工事中に吉原へ伽羅《きやら》の下駄を履いて通い、三浦屋の高尾を、身体と同じ重さだけ小判を積んで身請けをしたが、本篇の主人公、島田重三郎に操《みさお》を立ててなびかず、隅田川の三股(日本橋中洲)で吊し斬りにした。この綱宗の不身持が公儀に知れて、若くして隠居させられ、幼君をめぐって御家騒動となるのが「伊達騒動」「伽羅先代萩」等の講釈、歌舞伎狂言の実録になっている。  そんなことは知っちゃァいない隣家の熊さん、冥界の女房を呼び出そうと、越中富山の食傷、腹痛に効く丸薬の反魂丹を燻《いぶ》して、まぜっ返す……従来のサゲは、戸をドンドン叩く隣家の女房に「そちゃ女房、おさきじゃないか」「なにを言ってんだよ。隣のおたねだがね、先刻からきな臭いが火事じゃァないかい」という〈とたん落ち〉。本篇は、「おまえのとこの煙のせいで、長屋はおさき[#「おさき」に傍点]まっ暗だよ」という〈地口落ち〉と〈間抜け落ち〉を兼ねる——本書編集協力者、佐久間聖司さんの発案《アイデア》を新たに採った。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   中村仲蔵  初代、中村仲蔵の実話に基づく噺。  中村仲蔵は、元文元年(一七三六年)に江戸に浪人の子として生まれたが、幼くして両親を失い、中村座の長唄の地方《じかた》の養子となり、七歳で舞踊の志賀山流の家元、中村伝次郎の弟子となり、仲蔵を名乗った。  中村座へも子役として出勤……最下級の下立役(稲荷町《いなりまち》、中通り、相中《あいちゆう》、相中|上分《かみぶん》、名題下《なだいした》、名題と身分、役付が厳重に守られている封建的な門閥社会にあって、仲蔵のように下立役から名題まで出世した役者はなく、幕末に市川小団次が一人いるだけの異例の存在。  その陰には、五代目市川団十郎に「芸気狂い」と認められるほどの芸熱心さと人気があった。仲蔵は二十九歳で名題昇進、名題役者になると屋号を呼ばれて、俳名が付く。仲蔵は屋号を栄屋《さかえや》、俳名を秀鶴《しゆうかく》と称した。  名題昇進の翌年の明和三年の夏のこと。市村座で「忠臣蔵」の上演が決まった。「仮名手本忠臣蔵」は、ご存知のように名狂言、�独参湯《どくじんとう》�と言われ、いついかなる時代でも大当りをする。  名題になった仲蔵に、何役が配役されるか、待っていると、「五段目」の斧《おの》定九郎、一役が回ってきた。  その当時の、定九郎は名題下の役で、脚光を浴びるようないい役ではない。  与市兵衛のあとから、山賊の扮装《なり》で……縞の平袖という|[#「糸+囚/皿」]袍《どてら》に丸ぐけの帯を締めて、顔も砥粉《とのこ》を塗《ぬ》って、髭ェつけて、山岡頭巾《やまおかずきん》をかぶって、山刀を一本腰へぶち込んで、紐つきの股引をはいて、素足に五枚草鞋を履いて、のそのそと出てきて、 「おォい、とっつァん! 連れになろう」  と、花道で見得を切り、 「あとの宿場《しゆく》からつけて来た。金の高なら四、五十両……二、三日こっちへ……ァ、貸ァしィてくゥれェ」  という名題役者の演《や》る役ではない。  江戸時代の芝居は、午前七時に開幕。 「忠臣蔵」の場合だと、「大序《だいじよ》」が一幕目、それから二段目の「松切り」、三段目の「殿中の喧嘩場」、四段目の「判官の切腹」と見世場が続いて、これで正午《ひる》になる。この四段目の上演中は、�出物止め�といって、茶屋のほうもお客の誂えた飲食物はいっさい客席へ運び込まない。  この四段目の「判官の切腹」の場が終わると、いっせいに客席へ誂えたものが入れられて、お客のほうはお昼の食事にとりかかる。五段目の舞台なんか見るより、ひと息入れて飲んだり、食べたり、しゃべったり。舞台のほうは与市兵衛がとぼとぼ出て来て、そのあとから定九郎が現われて、与市兵衛を殺し、懐中の五十両を奪って退《さ》がろうとすると、猪《いのしし》が出てきて、これに追われて架稲《かけいね》の間に隠れてしまう。二度目に定九郎が現われるときは、勘平の鉄砲の流れ弾《だま》に当たって絶命してしまう。勘平は、名題役者、何の某《なにがし》という人気役者が登場するから、それまでは気ままに食事ができるというので、この幕は�弁当幕�と称していて、……仲蔵に付いた役が、この定九郎、たった一役……だった。 「こんだの狂言……なんでしたね」 「おきし、見てくんなよ。おれンところィ五段目の定九郎……一役もって来たぜ。いま、おいらァ考《かんげ》えてるんだ。とても市村座じゃァ出世ができねえからねえ。名題になってこんなみじめな思いをするのァいやだから、上方《かみがた》へでも行こうか、さもなけりゃァ宮地ィでも落ちようか……と思ってねえ。おいらだって緞帳芝居へ行きゃァ、少しゃァ役が付くんだよ」 「そうですかねえ、名題下の役……定九郎をおまえさんのところへ持って来たのも、あたしの考えじゃァなんかこりゃァ……魂胆《こんたん》があるんじゃァないかと思うんですがね。てえのが、名題になったおまえさんに、定九郎一役ってえのは、いままでにないような……いい定九郎を工夫してね、ご見物にも幕内《まくうち》にもあたしたちにも、見せてもらいたいと思いますがねえ。おまえさん、なんとか工夫して、いい定九郎を演《や》ってくれませんかねえ」  女房のおきしというのは当時、長唄の三味線弾きで名人と言われた杵屋喜三郎の娘で、仲蔵を見込んでくれたという、幕内に通じた出来た女で、それとなく仲蔵を諫《いさ》めたり励ましたりした。  これから仲蔵は、日ごろ信仰している柳島の妙見様へ、一七日《いちひちにち》の間、日参をした。  一心に拝んだ満願の日。  ぼんやりと割下水《わりげすい》のとこまで来ると、どうも空合いがだいぶ悪い。これは一雨《ひとあめ》ありそうだが、早く家へ帰らなければと、急ぎ足で報恩寺橋まで来ると、ぽつッ、ぽつッと降り出した。傍《かたわら》に蕎麦屋があったので、急いで軒下へ入ると、ざァーっと来た。しかたがないので、なかへ入って、 「あァ困ったなあ、もう初日が迫っているのに、いまだに工夫がつかない、どうしたものか……」  と、食べたくもない蕎麦を口へ運んでいると……、 「許せよ」  ガラリッと、表の腰障子が開いた。 「ああァ、ひどい降りだ」  破れた蛇の目傘ァたたんで、土間へ投げ捨てて……、 「いやァどうも、濡れたァ、濡れた……」  と、髷《まげ》の雫《しずく》を手で払い、濡れた袂《たもと》を絞る……と、乾いた蕎麦屋の土間に、時ならぬ絞り模様が出来た。  見ると、年ごろ三十二、三。背の高い、痩《や》せぎすで、色の抜けるように白い、髭《ひげ》の跡を青々とさして、月代《さかいき》が生えている。黒羽二重のひきとき[#「ひきとき」に傍点]と言う、袷せの裏をとったものを着て、これへ茶献上《ちやけんじよう》の帯、蝋色艶消《ろいろつやけ》し大小を落とし差しにして、着物の裾をはしょり、茶のきつめの鼻緒の雪駄を腰へ挟んで、濡れた着物からたらたらと雫が流れ落ちている。 「うーんッ……これだッ。……うーんッ、これだ。いい、こしらえだなァ。あァ、定九郎はこれにしよう。着物がこう、体へ纏い付いているところなんぞどうも、なんともいえないな、どうも。いい、いいっ……」 「なんだ、貴様。さきほどから拙者のほうを見て、なんだ、いい、いいっとは?」 「あ、どうも……失礼をいたしました。たいへん、お武家さま、濡れましてございますなあ」 「うーン……傘があったから濡れたよ。破《や》れた傘ァ貸しゃァがった、小旗本とあなどってのう」 「さようでございますか。へえ、ちょっとこのお傘を拝見さしていただいてよろしいでございましょうか」 「そんな壊れた傘をどうする?」 「いえ、ちょっと拝見をしたいので、よろしいでございましょうか……有難うございます……あァなるほど。たいそうよく破れておりますなあ、どうも……お召しになっておりますのは……黒羽二重でございますな、へえへえ。茶献上の帯……だいぶこれも山が入っているご様子……」 「なんだ、貴様は……おれの身装《なり》ばかりじろじろ見て、無礼なことを申すと許さんぞ」 「いえいえ、どうぞご勘弁を願います……あのう親方、代金《だい》はこれへ置きますよ……どうも失礼をいたしました」  仲蔵は、雨も小やみになったので、急いで妙見様へとって返してお礼参り。 「役の工夫がつきまして、ご利益《りやく》でございます。ありがとう存じます」  ついでに御籤《みくじ》を引いてみると、『人人《じんじん》の人《じん》』……『天地人』の中で、『人』という字が三つの珍しい札で、……後にこれが仲蔵の紋になって、源氏模様で人という字が三つ重なった紋章。  その時代の名題役者は、衣装、鬘《かつら》、小道具など全部、自分持ちで拵えるのが慣例《ならわし》で、古着屋へ行きまして、黒羽二重……もう羊羹《ようかん》色になっていて、丸い鷹の羽のぶっ違い。これは拝領の着物が古くなったという心持ちで、茶献上の帯を締めていたが、舞台では映えないと、白献上にして、蝋色艶消しの大小は、朱鞘《しゆざや》のほうが色彩的に引き立つと変えて、雪駄を腰に挟んでいたが、山崎街道に出る山賊が雪駄を挟んでいるのは変だから、これは福草履に代えてみた。  月代《さかいき》の生えている鬘には、熊の皮を張ったが、本来、月代は後ろへ向けて毛を張るのだが、頭髪を左右に振ったときに、含ましておいた水が少しでも遠くへ、飛沫《しぶき》が飛ぶように工夫して、毛を前へ向けて張って……入念に準備し、万事整えた。  それから与市兵衛を演《や》る役者を招んで、 「さて、この度《たび》はこういう段取りで、定九郎を演《や》ってみる趣向だから、どうぞお力添えを願います。ついては初日の開《あ》くまでは、どうかこのことは他言はご無用に願います」  これから地方《じかた》の囃子、竹本、鳴物等々……すっかり狂言方にまで祝儀を行き渡らして、これも初日が開くまでは伏せておいて頂きたいということを頼み込んだ。  そして、九月一日、猿若町の市村座で「仮名手本忠臣蔵」の初日の幕が開いた……。  大序、二段目、三段目、そして四段目の切腹の場と舞台が進行して行くと……仲蔵は、名題と言ってもまだ一部屋を一人で使うことが出来ず、四人の相部屋の、一番奥、上座の鏡台前へ座を占めて、顔を塗りはじめた。手足、胸……全身を真っ白に白粉《おしろい》を塗ったから、傍《はた》の役者連中は、 「おやおや? 五段目の定九郎だろ? 赤っ面《つら》じゃァねえのか。ええ? 今日は真っ白だ。へーえ、真っ白な定九郎……ふふふゥ、芸気狂いがまたなにかやるのかな」  と、怪訝《けげん》な目でうかがっている。  いよいよ出番が迫ると、仲蔵は、鬘をかぶり、衣装や大小を小脇に抱えて、そのまま三階から湯殿へ降りて行った。ここですっかり衣装を付けて、ころ合いを見計らって、頭から手桶の水を五、六杯、ざァーッと浴びて、ぽたぽた、ぽたぽた、水のたれるまま揚幕へ……。 「五段目」の松の吊り枝、浅黄幕の舞台へ、勘平と千崎弥五郎と二人が出て、台詞《せりふ》のやりとりがあって……※[#歌記号、unicode303d]さらば、さらばと双方へ……と左右に別れ、袖に退《さ》がると、チョーンという柝がしらで、浅黄幕がぱらッと振り落とされる。  野遠見の山崎街道のこしらえで、正面に稲むら、架稲があって、下手に松の立木が二、三本……。竹本が済み、下座の弾き流しで花道へ与市兵衛が出て来て、七三のところでちょっと台詞を言って、また竹本になって本舞台へかかって行く……。  そのとき、揚幕のうちから、 「おーい、とっつァん……」  と、一声かける。  ちゃりっと揚幕が開く。  四斗樽《しとだる》の中へ破《や》れた蛇の目の傘が漬けてあって、それを取り出して、半開きにして、花道へタッ、タッ、タッと駆け出して行って……与市兵衛を下手へ往《い》なしておいて、傘をいっぱいに開いて……、  やあ、からりッ  と、見得を切った。  客席は�弁当幕�で、みんな飲んだり食ったり忙しい最中で、舞台のほうはろくに[#「ろくに」に傍点]見ない。褞袍《どてら》を着たやつがもそもそ出て来て、爺ィさんとごちゃごちゃ演《や》るだけで、あまりおもしろくない場面なので……。  ところが、定九郎が出て来たが、いままでとはまるっきりちがう。上のほうが真っ黒で、下のほうが真っ白で……これが疾風《はやて》の如く飛んで来て、破れた蛇の目の傘をいっぱい開いて、水をぼたぼたと垂らして、……やあ、からりッ……と、反《そ》り身になって見得をきったから、客席はびっくりして、呆然として、声も出ない。手にしたものを下へ置いて、舞台に魅入られて、息をのんで見入っている。 「よッ、栄屋ッ」 「日本一っ」  と、声がかかるところだが、観客はしーんッとして、 「ううーん」  と唸っているだけ……満員の客席はざわめき一つない……。舞台の上の仲蔵は、 「こりゃァ演《や》り損《そく》なったな。……もう江戸の檜《ひのき》舞台は踏んでいるわけにはいかねえから、きょうが名残の最後の定九郎。こうなった限りは、やるだけのことはやってみよう」  と、傘をたたんで傍《かたわら》に投げ捨てる。  ここらが、のちに名人となる人の面目躍如たるところ、たたんだ傘は投げても、決して芝居は投げやしない。  ……腰の一刀を引き抜いて、与市兵衛と立ち廻りをしながら、向うの財布を口にくわえて、ずぶりッ……と突き刺して、ツゥツゥツゥツゥと押してって、左足をぽーんと上げて蹴り倒しておいて、端折《はしよ》っている着物の裾で段平《だんびら》をすうーッとふきながら次第次第に顔を上げて見得になる。  所作の名人といわれた仲蔵の、そのかたちのいいことといったら……ここでまた見物が、 「ううーんッ……」  刀をぱっちり鞘《さや》に納めて、月代をぐうッと手で押えると雫がたらたらッと流れる。見物がまた、 「ううーんッ」  財布の紐を首からかけて、その中へ手を入れて金勘定をし、にっこり笑って、 「五十両ッ……」  財布へくるくるッと紐を巻いて、懐中に入れる。  与市兵衛の死骸へ気がつき、足で転がす……※[#歌記号、unicode303d]死骸をすぐに谷底へ、はね込み蹴込み泥まぶれ、はねは我が身にかかるとも、知らず立ったる向うより……。  という竹本につづいて、ここから早笛という鳴物になって、定九郎は落ちている傘を取って、ぽーんと右手で片手開きにし、肩へひっかけ、花道へかかるが、ひょいと向うを見る……猪が来たという思い入れで、後へ退《さ》がって、傘をたたんで、ぽーんとそこへ放り出し、大小を腰から抜いて、架稲、稲むらへ入る……。  二度目に出て来るときは、卵の殻の中に蘇芳紅《すおうべき》を入れて、これを口の中へ含んで、稲むらから裏向きに出て来て、猪の行手を見送っているところへ、ダァーンッという鉄砲の音で、そこへ倒れ込む。そのとき、卵の殻を噛み砕いた。  ※[#歌記号、unicode303d]チリチリチリ、チチチ……チ、チ、チ、チ、チ……チチチーン。  正面を向いて起き上がると、白塗りの黒羽二重の衣裳、白献上の帯に朱鞘の大小、月代の鬘……口中から流れ出た血が踏み出した右の股のところへかかる。これから股をひろげて、向うからなにかに引き戻されるように、ぐうーッと苦しみ悶える。  これは仲蔵が、初めて血を吐いて死ぬところを見せた演出で……また、見物は割れ返るように、 「うわァーッ」  十分に苦しんで、右足を引いて下手へ向いて、せきば[#「せきば」に傍点]という所作で、仰向けにどーんッと舞台へ倒れる。  客席はもう、わッわッと、勘平が出て来てもまるっきり目を向けず、勘平のほうがまごつく始末……。  定九郎の懐中へ手を入れて、金があったという思い入れ。勘平はびっくりして下手のほうへ逃げにかかるが、また思い直して引っ返し、金包みを出して、 「天より我に与えし金。ちえェェェかたじけなしィィ……」  竹本が、※[#歌記号、unicode303d]と、押し頂き……押し頂き……チンシャン  ※[#歌記号、unicode303d]猪《しし》より先へ一散にィ、飛ぶがァ……ごと……チリチリン……くゥ  下手のほうへ勘平が、たたたッと駆け出す。と、首にかかっている紐に引かれて定九郎が、ぐうーッと起き上がった。目をぱっちりと開き、口をあんぐりと開《あ》いて、その顔のまた怖いこと……仲蔵は演り損なったと思って、恨めしいと、かァーッと睨《にら》みつけるから、余計に怖い。子供などは「ぎゃァ」と泣き出す始末。  勘平が財布の紐に気づいて、小刀を抜いて、ぷつっと紐を切る。と、猿返りをして、定九郎がとーんッと倒れる、同時に、ちょーんッと柝の音、ちょん、ちょんちょんちょんちょん……。  幕は閉まったが、見物はまだ、わッわッ、わッわッという騒ぎ。  仲蔵は急いで湯殿へ行って、紅を落し、白粉を落し……。 「あァ……えらいしくじりをしたもんだ。見物にはいけなかったが、楽屋ではなんとか言ってくれるか……」  と、部屋へ戻ったが、だれも口をきかない。褒めようにも、あまり度外れていいんで、みなあっけにとられて、ただ黙っている。 「あ、いけねえ。やっぱり……もう駄目だ」  鬘、衣裳を相中の役者に預け、急いで化粧をおとして楽屋を出た……。 「おい、いま帰ったよ、おきし」 「あら、お帰ンなさい。どうしましたえ……今日の……ねえ、おまえさん」 「……駄目。ものの見事に演《や》り損《そく》なった」 「そうお」 「客はおまえ、悪落ちがして、さんざんな目にあった」 「まあ、……あたしはうまくいくだろうって……おまえさんの出たあと、妙見様へ無事に勤まりますようにってお詣りしてたんだけど」 「その妙見様にも見離されちゃァ、もう駄目だ。おれァ、これから上方へ帆《ほ》を掛けるよ」 「そう。しょうがないねえ。あたしはおとっつァんの長唄の真似事をして、お飯《まんま》はなんとか食べられるから、安心してね。三年や五年……そのうちまたなんとかなるからさあ」 「すまねえな、役者稼業はつくづく辛いもんだ」  おきしはすぐに酒の支度、涙の顔を見せまいと、そっと差し出した膳には尾頭付き、赤の御飯。仲蔵は喉へ通らない。  そのうち、時刻も経って、人に顔を見られるのもいやだと、一切の支度は品川の宿でしようと、わずかの荷物を振り分けにして、脚絆甲掛、頭へ手拭で姉さん被り。  葭町《よしちよう》の自宅を出て、親父橋を渡り、江戸橋の手前まで来ると、床屋があってその前で、 「おじさん、どうしたい? 昼間ァいなかったじゃァねえか?」 「おれァ、市村座の初日、『忠臣蔵』よ」 「どうだった?」 「よかったのなんのって」 「そうだろう? こんどの由良之助はたしかにいいだろうと……」 「由良之助じゃァない。定九郎だよ」 「へーえ、あ、そういやァ、こんだ栄屋が演《や》るってんだが、だってえ……」 「それが、いままでとまるっきり違うんだよ。仲蔵はいい役者だねえ」 「どう……いいんだよ?」 「おらァいつもあの芝居《しべえ》見るたびに、おかしい……とは思ってたんだが、仲蔵はさすがだね。斧定九郎てえのは九太夫の伜だよ。五万三千石の家老の伜が山賊ンなるてえのは、どうもおかしいと思ってたら、仲蔵はものの見事に絵解きをして見せてくれたよ。黒羽二重の一重、これへ白献上の帯、朱鞘の大小、……水のしたたる浪人姿。あれなりゃおめえ、祇園、島原で遊びすぎて、金がねえから人殺しをするってえのは、よくわかるよ。それが破れた蛇の目傘ァ肩に担いで、かァーッと見得を切ったとこなんざァ、まるで錦絵から抜け出たようで……ああいうものを見てね、初物《はつもの》だから、七十五日、おいらァ生き延びるよ。ああ、よかったよ」  という話をしているのが仲蔵の耳に入った。 「……あああ、ありがたい、広い世間にたった一人、おれの芸をいいって言ってくれた客がいた。これを女房に置土産にして……それから上方へ……」  と、取って返し、葭町の家へ戻ると、 「あら、どうしたの? おまえさん」 「なに……どなたか見《め》えてんのか?」 「そうなんだよ。おまえさんと行き違いに、師匠のところから伝助が来て、おまえさんにすぐ来てくれと言うんだよ」 「おうおう、栄屋さん、来てみたところが、どこへ行ったかわかんないって、おかみさんが言うんで、弱ったなと思ってたんですが……どこへ行ってたんで?」 「え?……ええ、いえなに、へへ、近所のお稲荷様へちょっと、お詣りを……」 「へえ? 近所のお稲荷へ行くのに、脚絆甲掛で……? そのままでいいから、あたしと行きましょう。師匠の家《うち》へ……」 「おう、待っていた。仲蔵っ」  と言う、師匠の中村伝次郎のまえへ出て、 「どうも、師匠、このたびは申しわけございません」  と、深々と頭を下げた。 「なに、申しわけねえ?」 「定九郎を、あのように勝手なことをして……申しわけがございません」 「なにを言ってるんだよ。仲蔵、おめえのために、とんだまあ……おれまで鼻が高《たけ》えんだよ。おまえの定九郎なあ、市村座ァ、明日《あした》っからおめえ、爪も立たねえような大入りだァ。この芝居は幾日《いつか》何十日続くかわからない。江戸の盛り場所という盛り場所っから、みんな総見をするという言い込みがあって、さあ場割に大変だァ、表方《おもてかた》はえらい騒ぎだよ。ええ、よかったねえ。おめえのおかげでほんとうに、おいらまで鼻が高《たけ》え。……これは、煙草入れだが……これをおまえに上げるから持っとくれ」 「へえ、ありがとうございます。じゃあ、あの定九郎は、演り損なったんじゃァないんで?」 「ばかなことを言うな。おまえのやった定九郎は、後の世に残る手本だよ」 「へえ、ありがとうございます。あたしも……これで上方へ行かずに済んだ」 「呼びにやったのは、これから内祝に、一杯、飲んで……」 「いえ、それならば、家へ帰って女房に……酒はいつでも飲めますから……これでお暇を……」 「おいっ、おきし、おめえなあ、師匠からこんなものを貰っちゃって……上方へ行かなくてもいいんだよ……これもみんな……おまえのおかげ……かかあ大明神さまさまってのはこれだ。ありがと……」 「なんだね、おまえさん。芝居から帰ってきた、と思ったら、演り損なったから上方へ行くって、家を出てってさァ、途中で帰って来て……こんだァ伝助さんと師匠の家へ行き、また家ィ帰って来るてえと、あたしを拝んだりして……ほんとうに煙にまかれるよう」 「煙にまかれる? あああ、貰ったのァ……煙草入れ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]歌舞伎の名狂言『仮名手本忠臣蔵』〈五段目〉の山崎街道の斧定九郎役を中村仲蔵が革新的な工夫をした。その工夫が大衆に喝采された、伝統の創造の誕生の瞬間が明らかにされる。  八代目林家正蔵が独自の随談を展開して、一席の噺に纏め上げた。実話を基にした〈芸道物〉〈芸談〉の類《ジヤンル》の地噺なので、≪解説≫は不要。  正蔵は上演する小屋を中村座としているが、「歌舞伎年表」によって、市村座、初日は明和三年(一七六六年)九月一日とより史実に近づけた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   文違《ふみちが》い  江戸時代、品川、新宿、板橋、千住を四宿《ししゆく》と称した。四街道筋の親宿として要衝《ようしよう》であった。  新宿は、甲州街道の第一の宿場町。  この宿駅は、幕府が信州|高遠《たかとお》藩内藤若狭守の下屋敷の一部に町屋とともに馬継ぎの施設を設けたため、内藤新宿と呼ばれた。  参勤交代で往来する大名は、高遠藩内藤氏、高遠藩諏訪氏、飯田藩堀氏の三大名だけだったが、奥多摩と秩父の石灰や綿、また西方の農家から米、野菜、薪炭などの集散地として繁栄し、ここで集められた物資は馬で江戸へ運ばれた。  また往来する旅人相手の茶屋や旅籠屋が五十軒以上も立ち並び、ここで働く飯盛女(遊女)が大勢いて賑い、品川に次ぐ岡場所となっていた。  ※[#歌記号、unicode303d]四谷新宿|馬糞《まぐそ》の中で あやめ(遊女)咲くとはしおらしい……  という「潮来節《いたこぶし》」の替え唄が流行した。 「どうも困ったじゃあねえか、お稲。くわしいことが手紙に書いてねえからわからねえが、どういうわけなんだ?」 「どういうわけだって、半さん。おまえさんも知っての通り、わたしのおとっつァんはほんとうのおとっつァんじゃない、六つのときから育ててくれたけど。生みの親より育ての親ってえ言うけど、そのおとっつァんのためにわたしはこの新宿に売られて来て、こういう勤めをしているのに、そのうえ育てた恩を着せて、五両貸せの、十両貸せのって、のべつの無心、それじゃァ生涯わたしの身抜けが出来ないから、今度はなんとかはっきり決まりをつけてしまおうと思うんだよ。まあ、年期《ねん》があけて、おまえさんと夫婦になっても、あのおとっつァんにのべつ強請《ゆす》られては、おまえさんに気の毒……いいえ、いまはいいたって、それが長い年月になれば、わたしもどんなにおまえさんに気の毒だか知れない。どうにかならないかと思っていたら、こんども三十両の無心だろ? そんな大金はとても出来ないと言ったら、今度だけはなんとか助けてくれ。その代わり親子の縁を切ってもいいから、三十両だけはなんとか都合してくれと、こう言うんだよ。おまえさんにねえ、お金の心配をさせても気の毒だと思うけども……そういうことなら、なぜおれのところへ言って寄こさねえと、あとで言われてもなるまいと思って手紙を出したんだよ。……で、どうなの? お金のほうは?」 「どうも弱っちゃったなあ。おれもなんとか拵《こせ》えようと思ったんだが、十両だけできて、不足額《たらずまい》だけども、なんとかこれで工夫はできないかい?」 「そりゃわたしだっていろいろ都合しているんだが……じつはね、おまえさんの懐中《ふところ》を痛めたくないから、わたしのところへ通ってくるね、角蔵《かくぞう》てえやつがあるんだよ。そいつが今夜来るだろうと思うんだが、そいつが来さえすれば、どうにか跡金《あとがね》の十両か、まァ二十両はいつでも持っているからね。金のことで遂にはおまえとわたしの仲も気まずくなるといけないから、それでわたしはいろいろと心配しているのさァ……」 「ェー……お稲さんへ」 「あいよ、なんなの? 喜助どん、いいや構やしないよ。うちの人だもの、半ちゃんだから……だれかお客が来たの?」 「角蔵さんがお見えになりました」 「あら来たの? まァそう。来やがったのあいつ……いいえ、いま噂をしていたんだ。……ちょっと、いい塩梅だよ。その角蔵てえ田印《たじるし》が来たんだよ。……どこへ入れたの、お座敷は?」 「ェー……三番でございます」 「三番はいけないよ。あまり近すぎるよ。五番のほうへ廻しておいておくれよ。……じゃァ半ちゃん、少し一人で飲んでいておくれ」 「うん、金が欲しいと思うところへそいつが来るなんてえのは、芝居でするようだなァ。早く行って来ねえ」 「なにを言うんだよ。おまえさんは、すぐにちんちん[#「ちんちん」に傍点]なんだから……立ち聞きなんぞしちゃァやだよ。金を取るには少し甘いことも言わなくちゃならないがねえ、おまえさんと来た日にゃァほんとうにすぐ怒るんだから……あとでおまえ怒ったりなんかしちゃァいやだよ。いいかい?」 「ああ、そんなこたァねえから、とにかく、早く行ってみねえ」 「じゃァね、ちょっとの間だから待っておくれ」  お稲は廊下へ出ると、厚い草履をつっかけて、わざと足音をバターリ、バターリとさせて筋向いの座敷へ……。 「角《かく》さん、来たのかい? どうしたの? 呆れ返ったねえまァ……生きてたの、おまえさんっ」 「へっへへへ、ばかめ吐《こ》いてやがら……生きてたかってやがらァ。へへへへ、おらが面《つら》ァ見さえすりゃァ甘ッたれやがってへェ……生きてるからおめえがとけェこうして来てべえに……まあ、ちょくら此処《こけ》へこう、こけへこう」 「なんだい、鶏《にわとり》だねまるで、コケッコウだって……おまえさん、あたしゃ死んじまったもんだと思っていたよ。なんべん手紙をやったって返事一つ寄こさないんだからねえ、こんな不人情な人はありゃしない」 「そりゃあ三本はおらがとこへ届いているだが、こんどのことと言うものは並大抵のことでねえ。村のもめごとが持ち上がっただ。それを収めるにも角蔵でなければなんねえ。ようやく話がついたと思うと、すぐ鎮守《ちんじ》さまの祭りだ。それについて、ばか囃子の小屋の掛けかたもおらが指図しなければ、だれもわかんねえというでねえか。そもそもばか囃子ちゅうものは……」 「なに言ってるんだよ。いまさらばか囃子の講釈なんぞ聞いたってしょうがないやね……いいんだよ。なにもとぼけなくったって……たんと浮気をしてお歩きよ」 「ばかこけ。われを差し置いて浮気が出来るか出来ねえか、考《かんげ》えてみるがええ」 「そんなこと言うだけに面《つら》憎いんだよ。そんならなぜこの間、大美濃《おおみの》へ遊びに行ったんだい?」 「あり?……あれなにけ、おめえ知っとるけ?」 「なんでもお見通しさ。蛇《じや》の道は蛇《へび》、あァ、あたしのほうはちゃァんとご注進があってね、おまえさんがなにをしているか、ちゃァんとわかってるんだよ。ふん、そうして浮気をする暇はあっても、あたしンところへ手紙一本書く暇はないんだからね」 「いやァ……そうおめえ、へッへッへ、言われちゃァおらも困るべえに、そりゃァ……別に浮気ちゅうわけじゃねえで……ありゃあ交際《つきあい》で行っただよ。一晩ぐれえは交際ならしかたなかんべえに……なにしろ上《かみ》の村の杢太左衛門《もくたざえもん》が一緒に行ってくんろちゅうで、そんで、おらもやだっちゅうわけにはいかねえで交際《つきあう》ことになっただ。すると、下新田《しもしんでん》の甚次郎兵衛が『ま、こんで祭りも何事もねえで、えかったなあ、若《わけ》え者頭《もんがしら》だけで行くべえでねえか』ちゅうことになって、杢太左衛門と、甚次郎兵衛と、三人で行っただ。そんとき、おらの相手に出た女子《あまつこ》の面ァちゅうのはねえ、まァ長え面ちゅうが、あんだなまァ長《なげ》えのは見たこともねえね。あっははは、上ェ見て真ン中見て、下ァ見るうちに上は忘れべえちゅうほど長え面でなァ、馬が丸《まる》行燈銜《あんどんくわ》えたようで……」 「そんな長い顔があるかね。ふん、呆れたね、あたしンとこへ来ちゃァ向うの悪口を言う。向うへ行きゃァあたしをなんと言ってるかわかりゃしないよ、この人は……ちょいと、ちょいと喜助どん、ここへ来てごらん。この角蔵さんてえ人は、ちょいと見たところは野暮《やぼ》に見《め》えるだろ? ところが、それが野暮じゃあないんだよ。うわべは野暮に見せて、芯《しん》は粋《いき》なんだからね。うわべ野暮の芯粋てんだよ。だから女の子がうっちゃっておかないんだよ。それで方々の女ばかり騙《だま》して歩くんだからね、こんなほんとうに、罪つくりはありゃしないよ。憎らしいっ」 「痛えでねえか、人の膝なんぞ抓《つね》って……よせよ、よせっちゅうに……へへへへ……若《わけ》え衆《し》が見てるっちゅうに、小っ恥《ぱず》かしいでねえか」 「へへへ、どうもお仲のよろしいことで……」 「喜助、困るなァ、われがそこにいては、少し邪魔になることがあるだ。あっちへ行ってくんろ」 「どうも恐れ入りました。大変に気の利かないことで……お邪魔になってはなんとやらでございますから、わたくしはご免|蒙《こうむ》ります」 「なんぞまァ、旨《うめ》えもんを持って来い。おめえに任すべえ。あとでこけェ来て、おめえもまた飲んだらよかんべえに」 「ありがとう存じます。ではお誂えは……へえへえ、見計らいまして……へい、承知いたしました」 「喜助、そこをぴったり閉めて行けよ……お稲、われは困ったもんだなあ。二人差し向《むけ》えのときはなにを言ってもかまわねえが、喜助という他人が一人おれば、口を利くにも気をつけねえでは駄目だ。おらはええ、おらはええが、われの勤めの邪魔になるべえと思って心配ぶつだ」 「それだからねえ、おまえさんは、あたしの思う半分でもないてんだよ。おまえさんのことは、あたしゃァ隠したことはないんだよ。おまえとあたしの浮名てえものは、この新宿中で知らない者はないんだから……それをおまえさんが隠すなんて、ほんとうに水臭いよ。あたしがこんなに心配して痩《や》せたのが目に入らないのかねえ」 「だれが痩せた?」 「あたしがさ」 「なーに、この前《めえ》よりゃあ、ちょっくら太ったな」 「あんなことを言ってる。人が痩せたと言えば太ったって……ほんとうに憎たらしい……あたしなんぞこのごろは寝《ね》る目《め》も寝ないで廊下をお百度踏んでいるから、こんなに痩せちまったんだよ」 「いくらお百度を踏んだっても、用があれば来られねえ」 「おまえさんのためにお百度を踏んでるんじゃあないよ。あたしのおっかさんがね。明日にも知れないという大病なんだよ」 「なんだと、かかさまが塩梅《あんべえ》が悪《わり》いだと? そらァおらァ知らなかった。たまげたな、われがかかさまなれば、おらがためにもかかさまだ。年期《ねん》があければ夫婦《ひいふ》になって、肥《こ》い桶《たご》の底を洗いあうという間柄だ。大切なかかさまでねえか。医者どんに診せろ」 「おまえさんに言われるまでもないよ。お医者さまには診せてあるんだけれどもねえ、もう年も取っているし、なかなか治《なお》らないんだよ。普通のお薬じゃいけないから唐人参《とうにんじん》を服《の》ませたらって言うの」 「うん、服ませたらよかんべえ」 「服ませたらッたってね。それが高価《たか》い薬なんだよ。おっかさんにもしものことでもあったら親不孝になるから、どうしたらよかろうかと、おまえさんのところへ手紙を出しても来てくれず、あたしはもう心配し抜いていたんだよ」 「そうか、その金は、おらが出してくれべえ、幾らだ、金高は?」 「二十両なの」 「うん? 二十両っ……そりゃまたえかく高価《たけ》えでねえけ。おらが村だらば一分《いちぶ》も買えば、馬に二駄《にだ》ぐれえあんべえに……」 「いやだね、この人は。そんな人参とはちがうんだよ。人参といっても、朝鮮から来る人参で、少しばかりでも二十両するんだよ」 「えかく高価《たけ》え薬があるもんだね」 「二十両、持ってるだろ?」 「ねえ」 「あらっ……ないって、お金がないの?」 「ねえ」 「まるっきりないの?」 「そりゃァねえことはねえけども、この二十両は、上《かみ》の村の辰松《たつまつ》が手付を打って馬ァ買っておいただから、この金渡して馬ァ引っぱって行くだが、われがにこの二十両貸せば明日馬ァ引っぱって帰ること出来ねえだ。おらの金じゃねえから駄目だァな」 「へーえ、そう。じゃァ、馬を引っぱって帰《かい》りゃァおっかさんが死んでもいいのね? まあ、おまえさんぐらい不人情な人てえものはないね、呆れ返ったね……あたしのおっかさんを殺すつもりなんだろ、人殺しっ」 「あンとまァ、ばかなことォ言わねえもんだな。あンだ、人殺しとはっ」 「そうじゃァないの、おっかさんが死んでもいい……」 「死んでいいてえことはねえが……」 「それじゃァあたしに、お金をくれたっていいじゃないの」 「だって、おめえにこの銭をやれば、馬が受け取れねえで、おらァ辰松に合わす顔が……」 「なにを言ってるんだ、呆れたよ……あたしはもうね、おまえさんてえ人にはつくづく愛想が尽きた。年期《ねん》が明けたら、夫婦《めおと》になるという約束したこともなんにも反故《ほご》にして、夢と諦めてくださいね」 「そんだにおめえ、なにも怒《いき》ることはあんめえに……あンでだ?」 「ふん、なんだったって、おっかさんと馬と一緒にするやつがあるかね。そういう人とは夫婦ンなって末《すえ》始終、あたしはどんな目に合わされるかわかったもんじゃない……」 「そう一途《いちず》に怒《いき》っちまっては手に負《お》えねえ……困ったな」 「いい加減におしよ。いままでのことはみなこれまでの約束として、これから先、年期《ねん》が明けてどこへ行くとも、おまえさんにぷっつりとも言わせないから、そのつもりでいておくれよ、角さん」 「いやいや、そんだなことでおらァ言ったじゃねえに……まァ、そう怒《いき》るでねえちゅうに……さあ、怒《いき》るでねえ……うん、そうだ。この二十両は、おめえに置いてくべえ。置いてくから持ってけ」 「いりませんよ……」 「いらねえって言わねえでよ。出したもんだから取ったらよかんべえに……そんだにおめえ、怒《いき》るでねえちいに、まァ……なるほど、おらが悪かった。おらが悪かったから、この通り……謝《あやま》るべえ。謝るから、この金遣うがいい。謝るから、持ってけちゅうに……」 「なにもおまえさんに謝らしたり、お金を貰ったりするような、わたしゃそんな甲斐性ある女じゃあないけど、おっかさんは病気だし、お金は出来ないし、なにもかもうまくいかなくて、むしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]するもんだから、それでおまえさんに当たり散らしたんだけども、じゃあ、このお金を、少しの間貸しておいておくれ」 「そんな、貸すの貸さねえのって、水臭えことを言うもんでねえ。われがものおれがもの、おれがものわれがものだ。年期が明けたら夫婦《ひいふ》になるべえちゅう間柄でねえけえ」 「そうだったねえ。それじゃァお願いだから……階下《した》へ使いの者が来ているから、すぐにあたしが届けるからね。ま……少しの間一人で飲んでいておくれ……喜助どん、どこへ行ったんだろうねえ。いままでここにいろいろ話をしていたのに階下《した》へ行ったのかしら……喜助どんを寄こすから少しの間待っていておくれよ」 「いいよ。早《はえ》えほうがええ。早く渡してこうよ」 「じゃァそうさせてもらうよ。済いませんねえ。すぐだから、待ってておくれよ」  角蔵を座敷へおいて廊下へ出ると、今度は足音のしないように、そうーっともとの座敷へ……。 「ほんとに嫌だよ、半ちゃん。あんなとこから覗いたりして……あたしゃ気が差して話もろく[#「ろく」に傍点]にできないじゃないか」 「へへへ、勘弁してくれよ。お稲。おれも覗いちゃ悪《わり》いと思ったんだが、どんなやつか、まだ見たことがねえから、ちょいと障子の穴から覗いて見たけども、どうも大変な面《つら》してやがるな。角蔵ってのかい? ありゃ? 鼻の穴ァまともに上ェ向いてやがる。煙草をのむと煙《けぶ》がまっすぐのぼって行きやがる。どうも呆れたもんだ。それになんだい、年期《ねん》が明けたらひいふ[#「ひいふ」に傍点]になるってやがら……二十両の人参ってったら、えかく高価《たけ》え、一分《いちぶ》も買えば馬に二駄《にだ》もあるってやがる。間抜けな野郎じゃあねえか。しかし、おめえはてえした腕だなあ、あいつと肥《こ》い桶《たご》の底を洗いあう約束するところなんざ……おらァ、あぶなく吹き出しそうになったぜ」 「いやだよ。笑いごとじゃないよ。あんなことでも言わなければ、金を持って来やァしないやね。だから、勤めはいやだと言うんだ。察しておくれよ。ほんとうにおまえの懐中《ふところ》を助けたいと思うからこそ、いやな気休めの一つも言わなくちゃァならないんだから、これを思ったら、半ちゃん、生涯見捨てられないよ」 「ばか言え。そんな気持はこっちにはねえが、おめえのほうにあると思うと心配だよ」 「いい加減におしよ……それじゃァね、ここに二十両あるから、この二十両へおまはんの十両足して三十両、いま帳場に坐り込んでいるおとっつァんときっぱり決まりをつけるから、その十両ちょっとこっちへ出しておくんな」 「じゃァなにか……二十両で話がつくめえかな……」 「そんなこと言わないで……三十両と切り出したのだからお出しよ」 「だけどもよゥ、じつのところを言うと、おれは、この銭がねえと困るんだ。だから、今日のところは、その二十両でなんとか話をつけてくれ」 「あたしもねえ、なんとかおとっつァんと縁を切っちまいたいんだからさ、きっぱりと。どうしても三十両渡してしまいたいんだよ。後生だから出しとくれな。ねえ、出しとくれってのに……駄目? どうしても?」 「いや、どうしてもってえわけじゃァねえけどもよゥ。なろうことなら助かりてえからよ。おれもこの銭がほかにちょいと入用だから……そうしてもらいてえ」 「そう、わかりました。やっぱり駄目? ふーん、あーあ、あたしゃやっぱり生涯あのおとっつァんのために苦労するようになっているんだねえ……もういいよっ」 「なんだなあ、おめえ、そんなに拗《す》ねるこたァねえじゃァねえか……怒ったのか?」 「怒ったわけじゃないけど……あんなおとっつァんにつきまとわれた日にゃァあたしとおまはんと夫婦になったって、どうせうまくなんかいきっこないと思うから、それでおまえさんに頼んでいるんじゃないか……ようござんすよ、あたしさえ辛い思いをすれば済むんだから……」 「そんなおめえ……泣くなよ。……じゃあいい、いい……やるから十両、持って行きねえ」 「もういいわ、いらないわよ」 「そんなおめえ、いらねえなんて言わねえでよ。出したもんだから……なあ、出し渋ったのは、たしかにおれが悪かった。だから、謝るから持ってけよ。なあ……機嫌を直して、謝るよ」 「おまえさんに謝らしたり、お金を貰ったりするような、そんな甲斐性ある女じゃないけれど……じゃァね、済まないけど貸しておくれよ」 「貸すも貸さねえも……水臭え……じゃおい、ちょっと待ちな、それからここに別に二両あるから、こいつをおとっつァんに渡して、なにか旨《うめ》えもんでも食って帰れって言ってやれ……なーに、いいってことよ。どうせ半端になっちまった銭なんだから……」 「まァ、済まないねえ。おまえさんは実があるねえ……じゃ、階下《した》で待ってるから、これを渡して早く帰しちまうから……」  お稲は金を懐中にして座敷を出て、今度は裏梯子を駆け降りて、廊下づたいに表梯子をまた上がって行って、表座敷の障子を開けると……。  年のころ、三十二、三歳。色の浅黒い、目のぎょろッとした、鼻筋のつーんと通った、眉《まみえ》の濃い、苦み走ったいい男で、茶微塵《ちやみじん》の結城の着物に博多の平行帯《ひらぐけ》をきゅッと締めて、その上に西川手《にしかわで》の古渡《こわた》りの絆纏を羽織り、眼が悪いと見えて紅絹《もみ》の布《きれ》でしきりに目を拭いて、ときどき嘆息《ためいき》をついている。 「芳《よ》ッさん、済まなかったわね、待たしてね」 「おお……お稲か……いろいろ気を揉《も》まして済まねえ」 「そんなことはいいけどもさァ、お金がねえ……なかなか出来ないもんだから、あたしも気を揉んだんだよ。やっとのこと、いままとまってねえ、拵えてきたんだよ。それからあの、三十両と別に二両あるからねえ……おまえさん、少し旨いもんでも食べて、元気になっておくれ」 「ありがとうよ。この恩は忘れない」 「なんだって水臭い。女房に向って、そんな礼を言う人があるかね」 「いや、なんの仲でも銭金《ぜにかね》は他人というぜ。まァ、おめえのお陰でおれァ目が助かる。改めて礼を言うよ」 「そりゃあいいけども、目のほうはどんな様子なの?」 「うーん……どうも、思わしくねえんだ」 「見たところはなんともないようだけどもねえ……もう少しこの行燈《あんどん》のほうを見てごらんよ。こっちを向いて……おかしいねえ?」 「外《おもて》から見るとなんでもねえようだが、医者が言うには、こういうのがいちばん質《たち》が悪いんだそうだ。外《おもて》の悪くなってるほうが、かえって療治しやすい。下手をすると、瞑《つぶ》れることがあるから、医者が早く手当てをしろと言うんだ」 「そうかねえ、素人だからそんなことはわからないけれども……なんてえ目なの?」 「え? うん……その……な……内障眼《ないしようがん》とかいうんだそうだ」 「内障眼?……聞いたことがないけど、治るのかねえ?」 「医者の言うには、真珠《しんじ》という薬を付けると、確かに治ると、請けあってくれたんだ。おめえのお陰で銭は出来たし、なんともありがてえ。じゃ、こいつを貰って、おれは早速、医者へ行って来るから……」 「あら、ちょいと芳ッさん。すぐに帰っちまうの? いいじゃァないのさあ。今夜は泊って行ってもいいじゃァないの」 「いや、それがいけねえんだ。医者が言うには女のそばに寄ってもいけねえと言うんだ」 「なにも泊って寝るぐらい寝て行ったって……わたしだってまだ話したいことがいろいろあるんだから……あんたの寝顔が見たいじゃない」 「いや、おれもいろいろ話があるが、目というものはほんとうに一刻を争うてんで、瞑れちまった日にゃあしょうがねえから、今夜は帰《けえ》してくれ。おれァすぐ、医者へ行くんだから」 「そんなことを言わないでさ、ねえ……泊ってって、お願いだからさあ」 「そんな無理を言うなよ。病気が治《なお》りゃァどうにでもなるんだから……なァ、帰《けえ》してくれ」 「どうしても帰るの?……折角お金を拵えたのに……あたしだって拵えるにはずいぶん気を揉んだんだよ。そのお金が出来りゃあ、持ってすぐ帰っちまうなんて、そのお金を……じゃ返してよ」 「じゃあなにかい、泊って行かなけりゃァくれねえってのか?……ふーん、そうかい、じゃ、金は……折角だからお返《けえ》し申しやしょう。どうもお邪魔でござんしたね」 「ちょいと、ちょいと、芳ッさん、どうしたの? いきなり立ち上がったりして……怒ったの?」 「なにを言ってやんでえ、怒りたくもならァな。おめえだってあんまり話がわからねえじゃねえか……おれのほうで、よし泊ると言っても、早く病気を治してくれ、目は大事なもんだから早く医者へ行けというのが人情じゃねえか。それを泊って行かなきゃ銭はやらねえ……ふん、そんな未練のかかった銭でな、おらぁ目が開いたところで後生が悪いや。そんな銭ァいらねえやっ」 「そんなつもりで言ったんじゃあないよ。ねえ、いまのは冗談だから……」 「冗談にもほどがあらあ」 「済いません。堪忍してください、あたしが悪いんだから。ね、芳ッさん、機嫌を直して、お金を持ってって……」 「いや、いらねえ。もう銭なんかいるもんか。目なんぞどうなったって構うこたァねえ」 「……そんなことを言わないでさァ……ねえ、あたしが謝っているじゃないの、悪いからさ……そんなに怒らないで、芳ッさん、持ってっておくれよ、後生だから……」 「なにもおめえに謝らしたり金をもらうような、そんな甲斐性ある男じゃねえが……おれも目が悪くってもうむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]してしようがねえんだ」 「……済いません。おまえさんが病気なのにあたしが逆《さか》らって悪かったから、堪忍して……じゃ、すぐ帰るわね。お医者さまへすぐにおいでよ。ちょっとお待ち、いま、だれかに送らせるから……ちょっと、喜助どん、あの、うちの人が帰るんだから……済まないが、目が悪いんだからそこまで手を引いてやって……ちょっと待って、これはうちの人から、まァ、煙草でも買っとくれな。いいから取っておいて……」 「そりゃどうもありがとうございます。では遠慮なく頂きます……へえ、お手をとります。へえへえ、お危《あぶ》のうございます……お目がお悪いそうで、ご不自由でございましょうな」 「どうもね……目の悪いなんてものはほんとうに意気地のねえもんでね」 「ええ、お気をつけになりまして……一段、低くなりますから……」 「あァ、わかったよ」 「芳ッさん、あたしが心配してるんだからね、手紙でもいいから、すぐに知らしとくれよ。いいかい?」 「ああ、そうするよ」 「身体を大事にしておくれよ……」 「おめえも身体を大事におしよ……」 「ちょっと杖を……こちらでございます……お頭《つむり》をどうぞお気をつけになりまして……」 「いや、喜助どん、いろいろ済まないね」 「どうぞ、お気をつけて……」  ガラガラガラッ、どーんッと潜り戸を閉める。芳次郎は、杖をついて出て行った……。  お稲のほうは張店のところへ行って、鬼簾《おにすだれ》を上げて芳次郎のうしろ姿を見送っていると……、二、三間先まで行くと、軒下からすうっと駕籠屋が出て来て、 「へい、お待ちしておりました」 「静かにしねえ。話ァ長引いてね。遅くなったから、早くやってくんねえ」  ぽーんと杖を放り出して、駕籠へ乗り込むと、四ッ谷の方へ……。 「あら、あんなところへ駕籠屋を待たしておいてどうしたの? 駕籠を乗りつけては、気がひけるって、遠慮をしたんだね。気の毒だねえ。ふふ、あの人にお金の心配をさせちゃって可哀相なことをしたねえ……」  お稲は、芳次郎といままで話をしていた表座敷へ戻って見ると、芳次郎が坐っていた座布団のところに手紙が落ちている。 「……あら、芳ッさんだよこりゃ、手紙を落としてった。目が見えないもんだから……困るねえ。もう追っかけてっても間に合わないだろうねえ。なんの手紙だろう?……『芳次郎さま参る、小筆《こふで》より』……あら、やだよまァ、女の手紙だよ。いやだねまァ……はァーい、いま、行きますよォー。……女の手紙なんぞ持って……あら、あら、きれいな筆跡《て》だね。『一筆しめし上げ参らせ候。先夜はゆるゆるおん目もじいたし、やまやま嬉しく存じ参らせ……』あらいやだ、こんな女と逢ってるのかねえ……なんだねえ、女のそばへ寄ってもいけないなんて言ってる癖に、だから男てえものは油断が出来ないよ。えェ……『おん目もじいたし、やまやま嬉しく存じ参らせ候。その節お話いたせしとおり、わたしの兄の欲心より田舎の大尽へ妾《めかけ》に行け、それが嫌なら五十両寄こせとの無理難題、親方に話をし、二十両は整え候も、後金三十両に差支え、余儀なくおん話し申し候ところ、新宿の女郎お稲……』あらいやだ、あたしの名が出ているよ。なんだね? 『新宿の女郎お稲とやらを騙し拵えくだされ候……』あらいやだよ、目が悪いのじゃァないんだね、この女にやる金なんだね。道理で、外《おもて》から見てなんでもないようだってったら、内障(内緒)眼だって言《や》がる……ばかにするにも程がある。『もし左様なこと義理|詰《づ》めとなり、そのお稲とやらを女房にお持ちなされ候かと、それのみ心にかかり参らせ候。行末頼りなきわたし故《ゆえ》、なにとぞお見捨てなきように神懸け念じ参らせ候。まずはあらあら目出度く、かしこ』……なにがめでたいんだいっ、畜生めっ……はァーい、いま、行きますよ、うるさいね。畜生っ……芳ッさんばかりはこんな人じゃないと思っていたのに……」  半七のほうは、部屋でいらいらして……。 「ああ、なにをしてやんだなァ、銭をやったら、それぎり鉄砲玉で、さっさと帰《けえ》ってくるがいいじゃねえか。いつまでくだらねえことをぐずぐず言ってやがんだろう? どうだい、まあ、おとっつァんの前へ行くってえのに、あわてやがって、煙草の箱へつまずいて、転《ころ》がして行きゃあがった。困ったもんだぜ。これじゃァ年期《ねん》が明けて夫婦になったって案じられるぜ。なんだろう? 煙草の箱からはみだしてやがる。辻占だのくだらないもん……あれっ、手紙が出て来やがった。男の筆跡《て》だな。なんだと、『お稲さまへ、芳じるしより』……ふん、いやに色男ぶってやがらあ、芳じるしだってやがる。へへへ、ここに半ちゃんてえいい人のあるてえことを知らねえんだからなあ。もっとも、この里《さと》はこれで保《も》つんだ。こういう間抜けなうぬぼれ野郎が来ゃがるから……どれ、読んでやろうじゃあねえか……『おん前さま、いつもいつもご全盛にお暮らしなされ、陰ながらお喜び申し上げ候。それに引き代え私こと、この程よりの眼病にて打ち伏し申し候』……ああ、なるほどねえ、目が悪くっていま行かれねえかなんか、断りの手紙を寄こしたんだ。女郎のところへ断りの手紙を寄こすなんて、またご丁寧な野郎がいたもんだ……『医者の申すには、真珠とやらの薬を付けぬ上は目も瞑《つぶ》れ候とのことにて、その価三十両……』おそろしく高価《たけ》え薬だね、どうも……『三十両に差支え、是非なくご相談申し候ところ、馴染客にて日向屋の半七……』あれ、なんだ、おれの名が出てやがる。『日向屋の半七を親子の縁切りと偽り……三十両拵えくだされ候よし』うーん、畜生めっ、あいつばかりはそうじゃねえと思ったら、とうとういっぺえ引っ掛った。油断ならねえもんだな。『ェェ……いずれ晩ほどお目もじの上、万々お話し申し上げ候。草々。芳次郎より、お稲どの』……畜生めっ畜生めっ、よくもおれを騙しゃあがったな。いまいましい……だれだ? 障子の外に立っていやがるのは? お稲か? こっちへ入《へえ》れっ」 「静かにしておくれよ。入れって言わなくても、あたしの部屋だから入りますよ」 「ばかにしやがるないっ」 「ほんとにばかにしてるよ。なにさ、色男《いいひと》ぶって、ぽんぽん言っておくれでないよ。なんだい、ひとの煙草の箱なんか放り出して……大事なものが入ってんだからね」 「で、で、大事《でえじ》なもんの入《へえ》ってるとこを開けて悪かったな。おうおう、なにつっ立ってるんだ。そこへ坐んねえ。坐れってんだ。そりゃあ女郎は人を騙すのが商売かも知れねえが、騙すにも騙さねえにもほどがあるもんだ。ふん、おめえなんざァ、大《てえ》した女郎《じようろ》だ。いい女郎だよ」 「ふん、こんな女郎を騙してどこが面白いんだ……うるさいね、人間はね、虫の居どころのいいときばかりはないんだよ。あたしゃあ、いま、むしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]してるんだから……」 「なにを言ってやんでえ。こっちのほうがよっぽどむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]してらあ。ふん、ふざけやァがって……なにがおとっつァんだ。いいおとっつァんだ。おとっつァんのところへ沢山《たんと》行ってろい。ふん、色男のあることは、ちゃーんと知ってるんだ」 「色女のあることも知ってるよ」 「なに言ってやんでえ。こっちは十二両騙された」 「こっちは三十二両騙された」 「いい加減にしろ、人の真似ばかりしやァがって……その上、目が悪いまで聞かされりゃ沢山だ」 「目が悪いと思ったら、悪くもなんともないんだ」 「なにを抜かしやがる。てめえなんぞ、こうしてくれらあっ」 「痛いっ、ぶったね。あたしだってぶってやりたいやね、あの野郎……さァ、思い切りぶっとくれ。あたしの身体《からだ》じゃァない、年期のある間は金で買われた身体だ、好きなだけおぶち……」 「なにをッ、こん畜生め」 「またぶちァがった……殺すともどうとも、勝手にしろっ」 「殺さなくってどうするものかっ」 「殺せ、殺せ、殺しゃあがれっ」  五番の部屋のほうで、手を叩く……。 「おいっ……だれかいねえけ。おい、だれかいねえけえ?」 「へーい、……お呼びでございますか」 「おい、ちょっくらこう、ちょっくらこけえこう」 「へえへえ」 「喜助どん、いま、向うの座敷でえかくたたかれて喚《わめ》いているのは、ありゃお稲でねえけ?」 「へえ、たいへんな騒ぎをお耳に入れまして、まことに恐れ入ります」 「恐れ入るの入らねえのって……いま、おらがここで聞いていれば、色男に金を貰ったとかどうとかしたって、揉めてるようだが、われ、向うへ行って止めてやったらよかんべェ」 「へえへえ」 「あの金は、色男でもなんでもねえ。ほかの客人でごぜえます。かかさまが塩梅《あんべえ》が悪いちィから二十両恵んでやりやした金で、決して色男がくれたもんではねえ、と言って、早く行って止めてやれ」 「へえ、畏《かしこ》まりました。では、早速……」 「あ、あ、ちょっくら待て……だめだ、だめだ。そう言ったら、おらが色男《いろ》だちゅうことが、ばれ[#「ばれ」に傍点]てしまわあ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]新宿遊廓がめずらしく舞台になっていて、その多彩な配役《キヤステイング》の人間模様が絶妙。新宿で実際にあった逸話を落語化したらしい。 「素見《ひやかし》千人客百人、間夫《まぶ》が十人|地色《じいろ》(恋)一人」という廓の華やかな時代が彷彿《ほうふつ》とする絵巻。  噺の中で、半七が「芝居でするようだなァ」と、セリフを吐くが、まさに全篇、ひと幕の芝居を観ている心地になる。 「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰《なぐさみ》があるものなり」  近松門左衛門の芸論であるが、廓内ではすべて芸——演じる世界であって、遊女の芸は手管であり、客の芸は自惚《うぬぼれ》であり、互いの虚々実々の応酬で、恋愛遊戯《ラブ・ゲーム》に一時《ひととき》、耽《ふけ》る……金銭を賭かけた、真剣勝負でもあったろう。  遊女のほうは勿論《もちろん》、商売人《プロフエツシヨナル》、客をおいしい口説文句でまるめ込み、いい気持に誘い込む——言葉だけでなく、声の調子を変化させ、目配ばせ、手の仕草……全体で表現(訴え)する。(文字では表現できない!)客のほうもまた、「他人《ひと》は客、我《われ》は間夫《まぶ》だと思う客」という川柳のごとく、遊女《おんな》の言葉を嘘だと知りつつ、騙された振りをして、ひたすら好い男を演じつづけ、金で買った敵娼《あいかた》をわがもののように楽しむ——それが廓の約束事であり、舞台で役者が台本どおり美男美女を演じることと同質ではないか。〈粋〉というものである。少しでも我を出し、疑いを抱くと……とたんに男女の仲は縺《もつ》れ、脆《もろ》く崩れてしまう。——舞台が台なしになってしまう。〈野暮〉というものである。気持よく陶酔してしまう舞台は、名セリフの連続だ。その心地よさを維持するためには、その�約束事�を守り、耐え忍び、協力し合うことなしには到達できない。  編者《わたし》も一度でいいから、言ってみたい! 「なにもおまえさんに謝らしたり、お金を貰ったりするような、わたしゃそんな甲斐性のある人間じゃあないけど……」  廓の文化を伝える�古きよき時代�の遺産。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   黄金餅《こがねもち》  下谷山崎町は、明治五年に下谷万年町と改称された。現在の台東区北上野一丁目と東上野四丁目の一部にあたり、かつては江戸市中でも指折りの貧民窟《スラム》だった。  横山源之助著『日本之下層社会』(明治三十二年刊)によれば、 「東京の最下層とは那処ぞ、曰く四谷鮫河橋、曰く下谷万年町、曰く芝新網、東京の三大貧窟即ち是なり。  一と度足を路次に入れば、見る限り襤褸《ぼろ》を以て満ち余輩の心目を傷ましめ、彼の馬車を駆りて傲然たる者、美飾静装して他に誇る者と相比し、人間の階級斯くまで相違するものであるかを嘆ぜしむ。就て其の稼業を見れば人足日傭取最も多く次いで車夫、車力、土方、続いて屑拾、人相見、らをのすげかへ、下駄の歯入、水撒き、蛙取、井掘、便所探し、棒ふりとり、溝小便所掃除、古下駄買、按摩、大道講釈、かっぽれ、ちょぼくれ、かどつけ、盲乞食、盲人の手引等、世界有らゆる稼業は鮫河橋万年町新網の三ヶ所に集まれり。  要するに戸数多き上より言へば、鮫河橋は各貧窟第一に位し、新網は表面に媚を湛へて傍に向いてぺろりと舌を出す輩多く、万年町の住民は油断して居れば、庭のものをさらへゆく心配あり、路次の醜穢なるは万年町最も甚しく、而して鮫河橋新網相似たり」  と記述されている。  下谷山崎町の九尺二間の棟割長屋に、西念という坊主が住んでいた。  坊主といっても、毎日市中を歩いて、家の門《かど》に立って、あーっと唸《うな》っているうちにその家の宗旨を見て、法華宗とわかると、首に掛けている頭陀袋《ずだぶくろ》に井桁《いげた》に橘《たちばな》が付いて南無妙法蓮華経《なむみようほうれんげきよう》と書いてあるほうを出して、 「南無妙法蓮華経……南無妙法蓮華経……」  と、題目を唱えて、いくらか貰って……。  門徒宗とわかると裏の南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》と書いてあるほうを返して、 「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」  と、念仏を唱えては、お布施を貰って歩く……。  いわゆる乞食坊主。独身者《ひとりもの》で六十に近い、どことなく愛嬌があって、ありがたそうな風貌をしているので、同じ恵む人も一文のところを二文出してしまう。毎日雨風をいとわずほうぼう貰って歩き、その金を長年、貯め込んで、かなり小金を持っている様子。  この西念がちょっと風邪をこじらせて寝ついて四、五日修行にも出なくなった。そこで、隣の金山寺味噌《きんざんじみそ》を売る金兵衛が様子を見に……。 「どうしたい、悪いのか? おい、……おい、西念さん」 「……はァい。……金兵衛さんかえ」 「おめえ、寝てるのか? 起きなくてもいいよ。熱臭《ねつくせ》えぜ。昨晩《ゆうべ》、ひどく唸《うな》ってたが……どうでえ? ちょっと今朝見舞おうと思ったが、商売《あきねえ》に早く出たもんだから遅くなった、医者にかかったか?」 「いや、医者にはかかりません」 「なぜ?」 「医者ィかかれば薬礼《やくれい》をとられます」 「あたりめえだ。身体には代えられねえじゃねえか。それじゃァ買薬でも飲んだかい?」 「いえ、薬なんて飲みません。�薬|九層倍《くそうばい》�って……儲けられちゃいますから……」 「それじゃ、治りゃァしねえぜ」 「いや、あたしは一人でいろいろ療治をしています」 「どうしてる?」 「水を飲んじゃ厠所《はばかり》ィ行きます」 「それで?」 「病《やまい》が下《くだ》りゃしないかと……」 「冗談言っちゃァいけねえよ。西念さん。昔から水を飲んで病いが治った者はねえよ。それより、なんでも口に合うものを食べるほうが、元気がつくぜ」 「ありがとう存じます。ご親切に……」 「なんか食《く》いてえものはねえのか?」 「へえ、餡《あん》ころ餅が食べたいと思って……」 「そうかい。いいよ。おれが買って来てやろう」 「ありがとう存じます。どうぞひとつお願い申します」 「どのくらいありゃァいいね」 「へえ、一貫ばかり」 「ずいぶん買うんだなあ。そんなに食えるもんか」 「そのくらいなきゃァ足りません」 「じゃ、銭を出しな」 「え?」 「餡ころ餅を買って来てやるから、銭を出しな」 「ェー銭を出すくらいなら頼みゃしませんよ。おまえさん見舞いに来たんだら買ってくださいよ」 「なるほど、西念さん、銭を残すことばかり考《かんげ》えて……まァいいや、一つ長屋にいる身寄り頼りのない者同士、買って来てやるよ。待ってなよ」  金兵衛は表へ飛び出して、店に行き……一貫の餡ころ餅というと、竹の皮包みにひと抱えもあって……それを持って帰って来た。 「さあさあ、西念さん、おまえの言う通り買って来たから、お上がり」 「ありがとう存じます」 「見てないで、食べなよ」 「いえ、まァよろしゅうございます」 「よろしゅうって?」 「金兵衛さん、家《うち》へ帰って一服してください」 「だって、折角買って来てやったんだから、一つぐれえ、すぐ食べたらいいじゃねえか」 「へえ」 「同じことでもものを買って来てやって、見てる前《めえ》で食べて、旨いとかおいしいとか言われれば、買って来た者も心持ちがいいもんじゃァねえか、そう遠慮しなくったって……」 「いえ、遠慮してるわけじゃございませんけど、あたしは他人《ひと》が見てるとものが食べられない性分なんで……」 「あ、そうかい。じゃ病人に逆らってもいけねえから帰るよ……また用があったらちょっとお怒鳴《どな》りよ。隣のよしみだ、声を掛けてくれればすぐ来るからね」 「あなたは、めずらしい親切なかただ。どうもいろいろとありがとう存じます」 「なに、あいにくこっちも独身者《ひとりもん》、かかァでもいりゃァおまえさんのとこィ寄こしておくが、そうもいかねえ。身体の悪《わり》いときは独身者《ひとりもん》くらい心細いものはねえ。苦しくなったらいつでも呼びなよ、いいかい……」 「へえ、ご親切に……」 「それじゃァ、ゆっくりお上がりよ」 「へえ、ご馳走さま……」 「ちぇっ、しみったれ坊主。おれが買って来てやったんじゃねえか。金さんも一つお上がンなさいぐらい言うのがあたりめえじゃねえか。一貫の餡ころ餅を一人で食う気でいやがら……なにをしやがるか」  金兵衛の家の壁に小さな穴があいていて、そこから隣の様子を覗いて見ると、西念は起き上がって床の上に餡ころ餅を包んだ竹の皮をひろげて、しばらくじっと考え込んでいたが、そのうちに指で餡を掻き出して、餡と餅とを別々にしはじめた。  それから懐中《ふところ》へ手を入れて、もじもじやって……出したのが鼠色になった汚れた胴巻。真ん中がふっくり膨《ふく》れて、蛇が蛙を呑んだよう……西念が辺りを見回しながら、その胴巻をきゅうッと扱《こ》くと、中から二分金二朱金小粒が、ざァーと出て来た。およそ五、六十両はある。 「うわッ、ずいぶん蓄《た》め込みやがったねえ。あれみんな食うものも食わねえで蓄《た》めたんだよ……あれっ、どうするんだ? おやおや、妙な真似をしやがるな」  西念は餅の中へ、その金を次々に残らず包み込んでしまった。 「お、おゥ、あれを長屋中へ配るのかなあ。おれのところへは余計にくれるだろうな、餅ァおれが買って来たんだから。長々ご厄介になりました。これは形見の�金餅《かねもち》�でございますと洒落《しやれ》るつもりだな……おや? そうじゃァねえ、餅を頬張《ほおば》って、ぐぅッと呑み込んじゃった。……あっ、水を飲んじゃあ、目を白黒させて、冗談じゃァねえ。金を食ってやがる……もう身体は死んでるが、金に気が残って死ぬことが出来ねえんだ。なんてえあさましい野郎だ。おい、よせ、みんなは無理だ。少しおれに残しとけ、やめとけ。あっ、胸へつかえて苦しみやがった……」 「おいっ、西念さん、大丈夫かい?」 「うゥー……」 「おゥおゥおゥ……だから言わねえこっちゃねえンだ。欲張ってみんな呑んじゃって……吐きな、吐きなよっ。二つでも三つでも吐きねえっ、おれの手の上に……ええ? 汚したってかまやしねえ、いっぺん金にまみれてみてえと思ってたんだ、おゥおゥ……」  金兵衛は西念の背中を擦《さす》ったり、身体を乱暴にゆすったりしたが、そのまま息絶えてしまった。 「……いけねえ、死《まい》っちめえやがった……勿体《もつてえ》ねえことをしやがったな、天下の通用金を呑んじめェやがって……いま食ったばかりだから、取れねえかな……これなァ。この拳固《げんこ》は入らねえ……棒で尻から突ッついてみるかな、心太《ところてん》みてえにうまくはいくめえ、腹を断《た》ち割ればそっくり出るが、それじゃ寺で受け取らねえ、困ったな。こんなことが長屋のやつらに知れた日にゃたいへんだ、西念の死骸《からだ》ァ奪《と》り合《あ》いになってなくなっちまわァ。うーん、こいつぁ誰にも渡せねえ、おれの大事《でえじ》な金《かね》の仏だ……そうだこいつを焼場へ持ってって焼いて、骨《こつ》を上げるときにそっくり取っちゃえ……西念さん、こんな死にざまをしたからにゃあ成仏もできめえが、おれを恨んじゃ筋違いだ。なあ、金は生かして遣うもんだ」  金兵衛は井戸端へ行って、乾してある四斗樽《しとだる》を運び込み、それへ西念の死骸をやっとのことで押し込んで、辺りを片付けて、家主《おおや》の家へ……。 「家主《おおや》さん」 「おォ、なんだい金兵衛」 「隣の西念さんが、死《まい》っちゃった」 「ええッ?……そりゃァ可哀想に、そうかい。病臥《ね》てるってえから行ってやろうと思ってたところだ。早速行って見てやろう。さぞおまえも一人で困ったろう?」 「ええ、おれが見舞に行って、餡ころ餅が食いてえってから、おらァ一貫ばかり買ってやったら、そいつを一人で食っちめえやがって、病人じゃァなくたって一貫の餡ころ餅を食えばおかしくなるのに、全部、食っちまって苦しみ出しやがったんだ……それでいま急に様子が変って息を引きとっちまったが、死水はあっしがとってやりました」 「あ、そりゃァよくしてやったな」 「それで西念さんは、苦しい息のうちで『あたしは身寄り頼りのない独身者《ひとりもん》、行くところがない身上《みのうえ》だから、あたしが死んだら、どうか火葬にして金兵衛さんの寺へ葬ってくれませんか、これが唯《ただ》一つのお願いです』っていまわの際に頼まれちゃった。あっしもしかたがないから引き受けたけどね」 「そうかい、そりゃァ親切なことだな。これもみんな他人《ひと》のためじゃない、おまえにきっといい報いがある。情けはひとのためならず……どれ、わたしもいま行こう」 「おやおや、すっかり片付いているな。金兵衛、おまえ、死骸《ほとけ》をどこへやった?」 「ええもう、棺へ納めてしまいました。家主さんの前にあらァね」 「これかい? なんだい、こんな小汚い樽に入ってんのかい?」 「うん、早桶がねえもの、しょうがねえや」 「そりゃァ手回しが早えな。よく一人でやったな。おうおう大層頑丈な桶だ……はてな、山形に吉という印《しるし》……金兵衛、この桶、どっから持って来た?」 「へえ、井戸端に転がってたのを持って来て入れました」 「こりゃァ、おれンとこの菜漬《なづけ》の樽だよ」 「そりゃァ済みません。寺へ持ってくまで貸しておくんなさい、空いたら洗って返します」 「ふざけちゃァいけねえ、死人《しびと》を入れたものを洗って返されてたまるものか、香典代りにやっちまうよ。しかし、よく白布《さらし》があったな」 「へえ、あっしの褌《ふんどし》の洗い替えです」 「褌はひでえな、この桟俵《さんだら》ぼっちはなんだい?」 「編笠の代りなんで」 「しょうがねえな……それはそうと、長屋の者に知らせなくちゃァいけねえ……おう、ちょうどいいところに羅宇《らお》屋が来た。おい、杢兵衛《もくべえ》さん、おまえ、月番か? よし……いま西念さんが死んだんだが、おれの家へ寄って、婆さんに二貫ばかり貰って、樒《しきみ》を一本に線香を一|束《わ》、土器《かわらけ》を一枚と白団子を買って来てくれ。それから茶碗へ飯《めし》を山盛りに盛って箸を二本差して持って来てくれ。それから長屋中を回ってな」 「へえへえ、畏まりました」  杢兵衛が供物の誂えに行っている間に、長屋の者も追々《おいおい》集まって来て……。 「家主さん、どうも……西念さんはとんだことでございました」 「おい、みんなこっちへ入っとくれ、お線香上げとくれ。みんなも一つ長屋の交際《つきあい》だ。葬式《とむらい》の手伝いをしてやんな……ええと、寺はどこだい、金兵衛」 「ェェ麻布|絶江釜無《ぜつこうかまなし》村の木蓮寺《もくれんじ》ってんですがね」 「麻布絶江? 下谷からずいぶんあるなァ。明日《あした》の朝の払暁《ひきあけ》に、差担《さしにな》いで持って行くか?」 「明日の朝持ってくてえと、その日|一《いち》ンちみんな商売休みンなっちまうからねえ。この長屋の者《もん》は一ン日仕事休んだら食うことできやしねえ。死んだ仏のために、こんだ生きた仏が食えなくなっちゃっちゃァどうしようもねえからね。今夜のうちに持ってってやろうじゃねえか……なあ、みんな」 「これからかい? 遅くなるだろう?」 「遅くなったってどうにかなるよ、今夜のうちなら……どうするィ?」 「じゃァ、今夜にしてもらおうじゃないか」 「それじゃァご苦労だが、今夜、担ぎ出すことにして……担ぐのは最初今月の月番と来月の月番の二人で差担いで担いでくれ、長い道程《みちのり》だから順繰りに交代で担いでもらうが……今月は羅宇屋の杢兵衛さんで、来月は?」 「下駄の歯入屋の善兵衛さんだよ」 「へえ、ようがす……。よくおめえとおれで担ぐもんだなあ」 「そうだよゥ、こないだ糊屋の婆ァの死んだとき、おまえとおれで担いだなあ」 「これで二度目だぜ」 「二度あることは三度あるてえから、次は、だれだろうなあ」 「家主さんじゃァねえか」 「冗談言うな」  それから通夜を済ませ、長屋の者が十人ばかり、向う鉢巻印袢纏もいれば、褞袍《どてら》の上へ荒縄で締めて尻っぱしょりをしたのもいれば、女房の赤い足袋を履いているのもいる。みな思い思いの提灯を手に——お盆提灯もあれば、ぶら提灯もあれば、弓張提灯もあれば、中には酒屋の提灯を点《つ》けているのもいる。  西念の死骸を入れた樽を縄っからげにして、天秤で担ぎ出す……。  下谷山崎町から山下の通りへ出て、上野の三橋《みつはし》を渡り、御成《おなり》街道を真っ直《つ》ぐに五軒町の堀様と鳥居様の御屋敷前を、筋違御門《すじかえごもん》から大通りへ、神田須田町、新石町《しんこくちよう》、鍛冶町、今川橋、本白銀町《ほんしろがねちよう》、石町《こくちよう》、本町《ほんちよう》、室町から日本橋を渡りまして、通《とおり》四丁目から中橋、南伝馬町、京橋を渡って真っ直ぐに尾張町、新橋を右へ折れ、土橋を渡って久保町へ出まして、新《あたら》し橋の通りへ出て、愛宕下の天徳寺を通り抜けて、神谷町《かみやちよう》、飯倉《いいぐら》六丁目から坂を上がって飯倉|片町《かたまち》、おかめ団子という団子屋の前を通り越して、麻布の永坂を下《お》りまして、十番から大黒坂を上がって、一本松から麻布絶江釜無村の木蓮寺へ、やっとのことで担ぎ込んだ。 「やァや、みなさんご苦労さん、くたびれたろう」 「いやァ、なかなかくたびれた。あんまりみんながワッショイワッショイ騒ぐんで、芝の京極橋《きようごくばし》の辻番に叱られちまった」 「どうして騒がずに来られるものか」 「これから、この寺の坊主に掛け合うからみんなは一服やってておくんなさい。ええ、汚ねえ寺だァ。檀家が貧乏で寺が汚ねえから揃ってやがら……門が閉まってやがんだよ。いま木蓮寺の和尚を起すからね……おーい、開けろっ、門を開けてくれゃァーいっ」  ドンドン、ドンドン……。 「なんだなんだ、酒屋の御用聞きか? 一升や二升の酒で夜逃げなんぞせんぞ。帰って主人《あるじ》にそう言え」 「おい酒屋じゃァねえ。おれだよゥ、下谷山崎町の金山寺屋の金兵衛だよ」 「うん、ちょうど酒ェ飲んでるところだ。金山寺ィ持って来たのか」 「なにを言ってやがんだな、おれだよ。金山寺屋の金兵衛だよ」 「金兵衛がいま時分、なにしに来たんだ」 「なにしに来るやつがあるもんか、葬式《ともらい》だよ」 「なに? 金兵衛が死んだのか?」 「縁起の悪いことを言うなよ。金兵衛は達者だ、ぴんぴんしてらあ」 「がっかりさせんな。待てよ、金兵衛は独身者《ひとりもん》じゃァねえか」 「だから、おれが心やすい仏に頼まれて、葬式《ともらい》を持って来たんだ。ぐずぐず言わねえで、早く門を開けろ」 「乱暴しちゃいけねえ。その門は開かねえんだ。こないだの嵐でぶっ倒れたから、突支棒《やつ》が掻《か》ってあるんだ。強く叩くと門がひっくり返《けえ》る」 「あぶねえなどうも……じゃ、どっから入《へえ》るんだ」 「そりゃァ、別に入《へえ》るとこといってねえんだがな。右のほうへ行くってえと、銀杏《いちよう》の木がある。その前の塔婆垣《とうばがき》の破れてるところがある。その下のほうを見るってえと、犬が出たり入ったりしてるとこがある。そっから一匹ずつ潜《もぐ》って入って来い」 「なんだい、一匹ずつ潜れって、犬じゃねえや」 「あの世へ往《い》ぬ(犬)のはこの仏だけでたくさんだ。おれたちゃ往ぬわけにゃいかねえ」 「寺も寺なら、和尚も和尚だ」 「仏も仏なら、施主も施主だ」 「あ、ここだ、ここだ。さあさ、塔婆垣をぶち壊せ、杢兵衛さん、おまえ月番だから、先へ入ってくれ」 「わたしは肥《ふと》っているから、後《あと》にしましょう」 「肥《ふと》ってるから入りねえな、後の者が楽だから」 「なんだい……入るのか? 冗談じゃねえやほんとうに……」  わいわい塔婆垣を壊して、棺《ひつぎ》の樽を本堂へ担ぎ入れて、庫裡《くり》へ行って見ると、和尚は経机を膳の代わりにして、くさや[#「くさや」に傍点]の干物のむしりかけと徳利を置いて、茶碗酒をあおっている。 「やあ、和尚、いいご機嫌だね」 「おっ、これはだれかと思ったら、金兵衛、久しぶりじゃァねえか。して、仏というなァなんでえ」 「いやァ隣の野郎が急に死《くたば》っちまってよ。寺がねえから、この寺へ葬《ほうむ》ってやろうと思って、しかたなしに担ぎ込んだってわけよ。和尚、どうか頼まァ」 「では金兵衛、百ヶ日|仕切《しきり》で幾ら出す?」 「そうさ、天保(銭)五枚出そう」 「五枚はひでえや、せめて飲代《のみしろ》にもう一枚|奮発《はず》んでくれ」 「まけときなよゥ」 「駄目だ。いやなら他寺《ほか》へ持ってきねえ」 「そう足許をつけ込まれちゃァしょうがねえ、まァ六枚出すが、ひとつ頼むよ」 「じゃあ、仏さまァ本堂へ持ってっといてくれ、いま行くから」  和尚は面倒臭そうに、不承不承立ち上がって、戸棚を開けて袈裟衣《けさごろも》を出そうと思ったが、とうに衣は叩き売って飲んでしまってないので、大きな麻風呂敷を戸棚から引き摺り出して、破れたところへ頭を突っ込んだから……鬼灯《ほおずき》の化物みたいなかたちになり、払子《ほつす》がないからはたき[#「はたき」に傍点]をぶらさげて、のそのそと本堂へ現われた。  祭壇の阿弥陀さまからなにから金気《かねけ》のものはみんな売ってしまったから、音のするものは皆無。踏台へ腰をかけて、前の小桶に丼鉢《どんぶりばち》、湯呑をならべて……けち[#「けち」に傍点]な古道具屋が夜店を出したような塩梅。香《こう》がないから傍《そば》の煙草盆の火に煙草の粉と番茶の粉を燻《く》べるので、煙《けむ》いと臭《くさ》いで、もうもうとして……その中で和尚は大欠伸をして、 「ああああ……」 「和尚しっかり頼むぜ」  ジャランボロンー、ガン、チーン……丼鉢、湯呑を叩き……。 「南ァ無ー阿弥ィ陀ァ……金魚、金魚|三《みー》金魚、初《はな》の金魚良い金魚、中《なか》の金魚出目金魚、あとの金魚セコ金魚、天神天神|三《みー》天神、端《はし》の天神鼻っ欠《か》け、中の天神セコ天神、鉛の天神良い天神、虎が啼く虎が啼く、虎が啼いては大変だ……ァ、犬の子がチーン……汝《なんじ》元来ひょっとこの如し。※[#歌記号、unicode303d]君と別れて松原行けば、松の露やら涙やら、あじゃらか、なとせの、きゅうらいす、てけれッつのぱァ……施主の衆、ご焼香を……」 「なんだい和尚、あれが引導《いんどう》か、なんだか知らねえがおかしなお経だなァ、まァいいや、ご苦労だった……さてみなさん、ご遠方のところをご苦労さま、お茶の一杯《いつぺえ》でも差し上げなきゃいけませんが、貧乏のことでなんにもねえんで、しょうがねえからね、お帰りに新橋辺りで茶飯でも夜鷹《よたか》蕎麦《そば》でも屋台があるから、手銭《てせん》で遠慮なしに沢山《たんと》食って帰《けえ》んねえ」 「なんだばかばかしい、手銭でものを食うのに遠慮するやつはねえ。さあさあみんな帰《けえ》ろうぜ」  と、長屋の連中は中《ちゆう》っ腹《ぱら》でどやどや帰って行った。  あとに残った金兵衛、天保銭六枚払って、和尚から焼場の切手(鑑札)を貰って、樽へ連雀を結《つ》けて、木蓮寺の台所へ行って鰺《あじ》切庖丁を捜して、これを手拭でぐるぐる巻いて腰へ差し、樽を背負って一人寺を出るころには夜もだいぶ更けてきた。  麻布絶江から相模《さがみ》殿橋《どのばし》を渡って右へ曲り、日切《ひぎり》地蔵の大久保彦左衛門の墓地の前へ差しかかった……ここは昼間も往来が途切れる寂しい道で、いやに冴えかえった月がまるで書割のよう……。 「ああ、恐ろしく寂しいなァ、こんな時分に仏を背負《しよ》って通るなんてなあ、あんまり気味がよくねえが、これで焼場で牛蒡《ごぼう》抜きに西念の金を抜きとってしまやァ、金が生きようってもんだ。家主には当分江戸を留守にします、と古道具をバッタに売り、いまのひでえ所を這い出して、どこかへ表店でも出して商売《あきない》をして、女房を持って、小僧の一人も置いて……ェーありがてえな、かかあが『ちょいと、あなた、ご飯《ぜん》をお上がンなさい、もしあなた、ちょいと……いけません、あなた、こんなとこで……お月さまが見てるわよ』なんてやがって……それにしても寂しいな、なんだか白いものが……畜生ッ、あー驚いた、白犬が出やがった……」  また突き当って右へ曲り、白金《しろかね》の清正公《せいしようこう》様の前から、瑞聖寺《ずいしようじ》の前を真っ直ぐに|桐ヶ谷《きりがや》の焼場へ辿り着いた。 「おいおい、開けてくれ」 「どっから来た?」 「麻布の木蓮寺からだ」 「あいあい、いま開けるよ……なんだ、いま時分、菜漬ェ持って来たのかい?」 「なに仏だ。手ェ貸して下ろしてくれ」 「ひでえ葬いだなあ。早桶じゃァねえのかい」 「早桶がねえんだよゥ」 「貧乏|葬式《どむれえ》だな……並焼かなんかで」 「いくらでも構わねえから、安く焼いてくれ」 「勝手なこと言うな、まあ置いてきねえ」 「直ぐに焼いてくれ」 「直ぐはいけねえよ。順繰りだ。まだこんなにあるだろう?」 「順繰りも団栗《どんぐり》もあるかい、この野郎。急いでるんだからすぐ焼けってんだ。焼かねえと、てめえを焼くぞ」 「弱った野郎だなあ。明日の朝早く焼いとくよ」 「そうか、済まねえ。烏《からす》かァでもって取りに来るからな、焼けてねえと承知しねえぞ」 「わかった。よく焼いとくから……」 「よく焼いちゃァいけねえ。この仏の遺言だ。ほかはよく焼けてもいいが、腹は生焼《なまやき》にしてくれって、あまりよく焼いてあとで遣《つか》えねえと困るからね」 「腹ァ生焼? むずかしいこと言やがる。そんな注文受けたこたあねえから、うまくいくかどうか、わかんねえよ」 「そこを何とか頼むぜ。なあ、いい焼き加減で頼むよ」 「そんなら、明日早く骨上《こつあ》げに来なせえ」  金兵衛はいったん焼場を出て、新橋で一杯飲みながら、夜明けを待って……。 「おいおいッ、焼けてるか、焼けてるか」 「なんだ、焼芋《やきいも》でも買いに来たようだな、……しょうがねえなほんとうに……こっちィ入《へえ》れ」 「焼けてるか?」 「焼けてるよ」 「どこにある?」 「そこの火屋にある……骨壺ォ持って来ねえのか?」 「そんなものいらねえよ」 「骨ェ入れるもんがなきゃ困るだろう」 「いいんだよ。ほんの胴巻でいいんだ」 「なに言ってるんだ、骨《こつ》だよ」 「ああ骨《こつ》か? 骨は袂《たもと》へ入れる」 「おめえよっぽど変なやつだな、骨を袂へ入れてどうするんだ」 「さあさあ骨はどこだ、おい、どこだよ」 「騒ぐなよ、火屋にあるよ。おれがいま、先ィ骨《こつ》を分けてやるから待ってなよ」 「いいんだ、おれがやる、おれがやる」 「大丈夫か?」 「仏の遺言だ。この仏は、めっぽう恥ずかしがりでな、他人《ひと》に骨を触《さわ》らすのはいやだって……だからいいんだよ。向うへ行ってな、こっちを見ると目の玉を火箸《ひばし》で突っつくぞ」 「おいおい、そんなに掻回すと骨《こつ》が砕けちまわァ」 「面《つら》ァ出すなって言っただろっ、向うへ行ってろっ、こっち見ちゃ都合が悪いんだから……おいおい、こんなによく焼いちゃっちゃ駄目じゃねえか、ほんとうに。腹ンとこ生焼けにしろって、そ言ったじゃねえか……むこうを向いてろよ、向うを……」  だんだん竹の箸で掻回すうちに、なにやら鍛冶糞のような固まりが現われたから、てっきりこれと、腰の鰺切庖丁を出して、突いてみると、山吹色の金《かね》がぱらぱらと出て来た。 「やあ出た出た出たァ、ありがてえありがてえ」  と、掻き集めては袂へ押し込んで、夢中で羽目《はめ》を破り、藪の中へ飛び出た。 「おいおい、どこへ行くんだ。気でも狂ったか、骨《こつ》はどうするんだ」 「そんな骨はもういらねえ、犬にでも食わせろ」 「焼賃は置かねえのかえ」 「焼賃も糞もいるもんか、泥棒っ」 「どっちが泥棒だい」  この金をもって金兵衛が目黒に餅屋を開いて、たいそう繁昌をした……という、江戸の名物「黄金餅」の由来の一席。 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]以前は五代目古今亭志ん生しか演《や》らなかった噺。  西念が臨終に貯め込んだ金を餅に包んで呑み込んでしまう。家主が来て死骸《ほとけ》の供物に、茶碗へ飯を山盛りに盛って箸を二本差したものを供える。これは生前、腹いっぱい白米の飯を食えなかった死者に、せめて死んだときくらい充分に食べさせようとした供養の習慣であった。当時、西念ばかりでなく、だれもがそのような人生を送っていた、象徴であった。  志ん生は、この噺を演りながら、屈託なく笑っている人びとに、高座から、 「西念みたいに食うものも食わないで倹約して、金を貯め込んだって、金はあの世にゃァ持って行けねえんだ」  と、人間の儚《はかな》さを示唆している……ように、編者は想えてならなかった。武家の血筋に生まれ毅然とした志ん生のように、贅沢三昧、自由奔放に生き、日常を目一杯、楽しんでいた人にとっては、尚更、その想いは強かったのではないか。  他の演者が写実《リアル》に演ったら、凄惨で、悪夢のようなとても聴くに耐えない内容だが、志ん生が演《や》ると、カラッと突き抜けたような透明感のある噺になった。志ん生の演目でも第一、二位を占める人気があった。それは志ん生の不屈のヴァイタリティの、困窮《こんきゆう》をものともしない逞しさに裏打ちされていたからだ。落語はただ�笑い�だけでなく、人間の真実を抉《えぐ》り出す、�かなしみ�も秘めている。  落語はまた、いい加減なところが魅力で、はじめから他の芸術作品のようなテーマや構成に配慮がなく、大雑把で、辻褄《つじつま》が合わなかったり、省略、逸脱《いつだつ》、曖昧《あいまい》なことが多い、その不思議さが妙味だろう。  とくにこの噺は、西念の死骸の金を金兵衛は手に入れる、その結末に、勧善懲悪もなければ、因果応報もなく、ただ、「黄金餅」を開業して、名物になった……とだけ、ことわる。——聴衆に、暗い、悲嘆な想いにさせたくない、という後味への配慮とも思われる。本来ならば、西念の金が全部、二分金、一分銀の小粒であったために、火葬ですべて熔解してしまう——という〈虚無〉の落ちが妥当だろう。その点、「らくだ」[#「「らくだ」」はゴシック体]の結末のほうが秀逸である。  余談だが、この噺の聴きどころは、例の下谷山崎町から……麻布絶江釜無村まで、樽(死骸)を担いで行く、道順の語り口にある。浪曲の道中付けや「曾根崎心中」の観音廻りのように聴いていて快い、人気がある。  編者もかつて、友だち三人と連れだって、東上野の地下鉄・銀座線の車庫辺からくり出して、上野〜日本橋〜新橋の休日の歩行者天国の中を麻布の絶江坂の碑まで約十キロを歩いたことがある。三人ともただてくてく歩いて、最後にひと言「くたびれた」と言うだけの、「落語散歩」には格好のハイキング・コースである。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   今戸焼《いまどやき》  ただいまは、男女同権なんてえいい世の中でございますが、昔は、たいへんこの女のかたはやかましいことを言われまして「三界《さんがい》に家なし」なんて乞食みたいなことを言われているかと思うと、「外面如菩薩内心如夜叉《げめんによぼさつないしんによやしや》」……面《おもて》は菩薩だけども腹の中は夜叉だてえ、これは昔お釈迦様がそう言ったんですから、苦情があったら印度のほうへ持ってってもらうんですな。  それに戒《いまし》めとして「七去、三従」なんて言って、三従てえのは女のかたは幼にして親に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従い、まことにお気の毒で、のべつ従わなけりゃァなりません。  ですから女のかたは昔は鼈甲《べつこう》の櫛《くし》なんてえものを頭へのせました。つまり女というものは亀の子みたいにのべつ首を引っ込めていろ。それがいまセルロイドやなにかのってますから、すぐ燃え上がっちゃったりする。  七去てえますと、舅・姑に仕えぬものを去るべし、悪《あ》しき病《やまい》を去るべし、盗心を去るべし。不貞なるを去るべし。これは貞操観念ですな。三年添って子なきを去るべし……なんてわからねえことを言ってあります。多弁なるを去るべし……これはお喋りですな。女ばかりじゃあない、男でもあんまりべらべら喋るやつに悧巧なやつはない。まあ、噺家は別ですけども。これを止めちゃった日にァしょうがねえ、噺家に講釈師に漫才に弁護士なんてえのは、いくらか喋るからお鳥目《ちようもく》を頂けるんですから、ま、大目に見ておいてもらいますが……。  しかるべき男は、急所で口をききますな。もう台所へ出てきて、 「そうガスを使われちゃァしょうがないね、いまばかに料金が高《たけ》えんだから……」  なんて怒鳴っている男にあんまりえらい男は少ない。  つまり商売に頭が働かないから台所のガスのほうへ頭が働いてくるんですから、こりゃあんまり感心しない。  悋気嫉妬《りんきしつと》を去るべし。これは俗にやきもち[#「やきもち」に傍点]というやつ。  旦那が家へ帰るのが遅いと、奥さんの頬っぺたが脹らんでしまって、こういうところへ帰ってくる旦那は、暗剣殺《あんけんさつ》へ向って飛び込むようなもので……。 「おい、いま帰ったよ」 「お帰りあそばせ……」 「どうも困るねえ、……あたしは遊びに行ったんじゃない、用達に行ってるんですよ」 「わかっておりますわよ」 「なんてェ顔するんだい」 「どォーせ、あたしの顔はこういう顔ですよ」 「ご飯を食べるかねえ」 「清《きよ》や、ご飯だとさ、お膳を出してやんなさい」 「きみ、奉公人じゃないよ、あたしは。よろしい、表へ行って食《く》うから……」  折角、帰った旦那が家を飛び出てっちまう。これはわるい妬《や》きかたですな。  おなしお妬《や》きになりましても、ご夫婦のご情愛ですから、今晩あたりは浮気夫も帰るってのは、奥さんとすれば第六感で感じますから、ふだんよりいささか長めにお風呂をお召しになりの、濃厚にお化粧《けえけえ》をほどこしの、お召し替えになりので、旦那のお帰りを待つ。  お帰りになるとたんに玄関へお出迎えに出て、 「お帰りあそばせ……」  と言うときの、この目付きが難しい。甘えるような訴えるような潤《うる》んだような……噺家《あたし》がやると近目《ちかめ》が眼鏡《めがね》をなくしたようになっちまいますが……こんな目付きをしておいて、旦那の顔をじィーっとにらんで、首っ玉へかじりついて頬っぺたなめちゃう。……こうされれば、もとからいやで夫婦になっているわけじゃあありませんから、 「今夜はどこへも行かないから……」  なんて……。  女のかたのお娯《たの》しみとなると、まず第一番が芝居、あとは食い物《もん》ですなあ。芋《いも》にこんにゃくに唐茄子《とうなす》なんて、たいして入費《にゆうひ》のかかったものはない。  男の道楽は、それからそれへと飲み歩いて、花柳界で銭を遣ったりなんかすりゃあ、これはたいへんな散財になりますが、女のかたはいくら悔しがってもそうは金は遣えませんからなァ。 「竹や、昨夜《ゆうべ》うちの人が帰って来ないの癪《しやく》にさわるわねェ。忌々《いまいま》しいから八百屋へ行って、唐茄子十貫目買っといでェ」  そんなに買ってきたって食い切れるわけのもんじゃァない。  まず第一番が芝居てえことになってますが、もっともお芝居は寄席のほうと違いまして、この舞台に背景てえものがございます。これが場面場面で変わってそれに役者が出て来て、これがいろいろ顔へ紅粉《こうふん》を粧《よそお》う。つまりメイキャップってえやつですな。色の黒い役者は白粉《おしろい》で白くしますし、鼻の低いやつは盛り鼻《ばな》なんてえ調法《ちようほう》なもんがあって、これを高く見せます。噺家《われわれ》みたいに目尻のさがってるやつは目吊《めつ》りてえのをかけて吊《つる》し上げちまう。頬のこけてるのは含《ふく》み綿《わた》てえのを突っ込んで、こいつをふくらがします。頤《あご》の長えやつは削《そ》いじまう、てえわけにはいかねえけども……。  見た目がきれいですから役者てえとなんだかきれいなようで、噺家《はなしか》ってえとあんまりきれいでねえようですが、これでも毎日湯へ入《へえ》ってるんですから、なにもナフタリンを撒くほどのことはないんですが、それだけ役者てえものは、このきれいてえことについて婦人から信用がある。その証拠に羽子板でわかりますな、菊五郎と羽左衛門の二人《ににん》立ちの羽子板は売れるけども、可楽と志ん生なんて、これは売れやしませんよ。  第一、芝居へ行くときは、婦人は服装から違ってくる。一番いいお召しものを召して帯も上等なやつを締め込んで、自動車やなにかで飛ばして行く、寄席のほうは残念ながらそういかない。 「あの奥さん、今晩寄席へいらっしゃるんですか?」 「ええ、日が暮れたらね、演芸場へ行って笑ってこようと思ってんのよ」 「浴衣《ゆかた》出しますか?」 「いいえ、寝間着《ねまき》でいいわよ」  ひでえことになる。これだけばかにされてるんですから。  そのかわり芝居を観に行って役者のきれいな顔ばかり見ていい心持ちンなって家《うち》へ帰ってごらんなさい。家ィ帰《けえ》ると、てめえんとこの旦那の顔がはっきりしねえことンなるから、あたしゃいい気味《きび》だと思ってんだ。 「どうして家《うち》の人はこう色が黒いんだろうねえ。どおでもいいが黒すぎるねえ。がっかりしちゃうよ、まったくゥ。こんな黒いのといっしょになるぐらいなら赤道越えて嫁へ行っちゃったほうがいい」  こりゃあおだやかじゃあありません。  そこへいくと、寄席のほうへいらっしゃれば、まあこういう顔ばかり見てお帰りンなるんですから、この顔が目に馴染んじまいますからな。お宅へ帰ると、旦那様の顔がたいへん立派ンなってきますから。 「ほォんとに家《うち》の人は様子がいいよ、ええ? 男らしくってきりィっとしていて、まァ噺家とは大違いだねえ。うふゥ、あたしうれしくなっちゃったァ。こういう人といっしょになって幸せだ」  なんてたいへん家庭が円満になってきますから、まァ月のうちに奥さんは五、六たび寄席へ寄こさなくっちゃいけねえんだそうですな。子供衆を見たってそうです。きれいな子を見ると、 「君ンとこの子かい? いい子だなァ、色が白くって、目がぱっちりしていて、口元が締まってて、大きくなるといい男ンなるねえ、役者だねえ。新派かなァ。映画俳優のほうが、君、出世が早いよ」  なんてえことンなる、いいのは。わるいのはこうはいかない。 「君ンとこのォ……えれえもん拵《こせ》えちゃったな、こらどうも。君に似ても細君に似てもたいした品物はできねえと思ったが、おッそろしい目が窪《くぼ》んでるじゃねえかァ。これァ目玉があぶなくなくっていい、奥のほうで光ってるんだから。穴ぐらから覗いてるような目付きをしていやがる。口が大きいね。ものを零《こぼ》しませんよ、この子は。粗相はねえなァ。鼻の穴が上ェ向いてるじゃねえか。大きくなっても煙草ォ吸わねえほうがいいなァ。煙突《えんとつ》みてえにみな煙が上から出ちゃうから……しかし見飽《みあ》きのしない顔だね、この顔はァ。どう見ても、……ほっほほォ……面白《おもしれ》え顔てえんだなァ。大きくなったら、噺家におしよ」  ってひどいことォ。引き物ァみんな噺家ンなっちゃったりなにかする。  しかしまァ、ご亭主が競馬だの競輪に行った留守におかみさんが芝居を観にいらっしゃるなんてえのは、これはお互いが娯しみをするんですからよろしゅうございますが、ご亭主は朝から晩まで真っ黒ンなって働いてンのにかかわらず、その留守におかみさんが一人で芝居を観に行っちまったなんてえのァ、ちょっとおだやかでありませんからなァ。 「おいいま帰《けえ》ったよ。いねえのかなァ。お隣かな?……うちのどっかへ行きましたか? 隣もいねえや。……前の家も締まっていやァがる。長屋のかみさんが揃って買物に行ったわけじゃあねえだろうな。……そうだよ、このごろ寄ると触るとべちゃべちゃ喋ってやがった、あれ芝居《しべえ》へ行く相談していやァがったんだな? うちのときた日にァ、芝居へ行ったって、最初《はな》っから尻《けつ》まで観ていやァンだからなァ。そうしちゃあ明くる日、脚気《かつけ》ンなった脚気ンなったって騒いでいやァがらァ。忌々《いめいめ》しいったってねえや、まったく。仕事場から帰《けえ》って来て、てめえでもってこうして、戸締りを開けてよ、見ろやい、埃《ほこり》だらけだァ、掃除もしずに出て行っちめえやァがったんだな? 火鉢《しばち》に火《し》がねえ、火がねえから湯も沸いてねえや、ものは順にいっていやァがる。これじゃ煙草|喫《の》むこともできねえじゃァねえか。しかたがねえからこうやってなあ、台所《だいどこ》へのそのそ出てきて七輪《しちりん》に向って、火消し壺の蓋ァとって、消し炭をたたっ込んで、これで火ィつけて湯ゥ沸かして飯を食うくれえなら、かみさんなんてえものはいらねえんだ。変な女房を持つと六十年の不作て、昔の人ァうめえこと言ったねえ。一|生涯《しようげえ》の不作だなあ。いまさらンなって取り替《か》いようったって、間に合やしねえや、こっちァ頭が禿《は》げちゃったから。都々逸《どどいつ》なんぞもうめえ文句があるねえ。『よせばよかった舌切り雀、ちょいと舐《な》めたが身の因果《いんが》』って、えれえもん舐めちゃったよ、こりゃあ。……これを思うと、友だちのかみさんは羨《うらや》ましいなあ、半公ンとこの女房見ろやァ、もっとも齢《とし》も違うがなあ。……五、六日|前《めえ》だったよ、『おい兄貴、おれが世帯持ってから一度も家《うち》ィ寄らねえなあ』『ああ、間《ま》がねえからよゥ。じゃァ今日、寄らしてもらおうかなァ』『そうしてくンねえ、ふたりで一杯《いつぺえ》飲むからよゥ』ってえから、おらァあとからくっついて行くと、あいつが表から、『おゥ、いま帰ったぜェ』って、かみさんが、『あァ、お帰ンなさァい』ってえ……座敷を泳ぐようにして出て来やがって『疲れたでしょうねェ…ェ』ってやァン。毎日出かける仕事だよ、改めて疲れることァねえが惚れた女房に『疲れたでしょう』なんて言われりゃあわるい心持ちァしねえや。『お風呂ィ行くの、それともご飯たべちゃうのォ』『うゥん、腹がへったから飯《めし》を食っちゃおうじゃねえか』『じゃ浴衣と着替えるといいわ』って浴衣ァひっかけさして、脱いだ半纏叩《はんてんはて》えて、衣紋竹《えもんだけ》へぶらさげやがって、あいつが長火鉢の前へあぐらァかくと、膳の支度がしてあって、布巾《ふきん》がかぶさってらあ。片っ方《ぽ》の端《はし》が持ちゃがってるねえ。言わずと知れた燗徳利《かんどつくり》だ。布巾をとると、いきなり燗徳利を銅壺《どうこ》ン中へ突っ込みやがって、『あたし、今日魚屋さんへ行ったら旨《うま》そうな鮪《まぐろ》があったの。お刺身に作らしといたんだから、おまいさん旨いか不味《まず》いか食べてみてくンないか』、あいつが一と口食いやがって、『うゥん、これァ乙《おつ》だなァ、中とろで旨えぜ、脂《あぶら》がのっててェ』『まァ、うれしかった、あたしァおまいさんに不味《まず》いって言われたらどォーしようかと思っちゃったのよ』って……色っぽいね、あのかみさん。……あいつもかみさんに惚れてやがっから、『おゥ、おめえもひとつ食えよゥ』『いいえ、あたし家《うち》にいンの、あんた仕事へ行って体躯《からだ》が疲れる、たんと栄養をとらないといけないわ。ビタミンBが少なくなると脚気ンなる兆候《ちようこう》があるから』『いいから、おめえも食えよゥ』『うゥん、あたしァあとで頂くわよ』って、じゃれてやンの。こっちァ見ちゃァいられねえ、ばかばかしくってェ。『おゥ、おらァどうなるんだ?』つったら、『あァおめえいっしょに来たんだったなァ』。こっちの行ったの忘れていやァったあいつァ。『ふざけちゃいけねえ、おれだって女房持ってるんだよ。ばかにしてもらいたくねえな』ってんで、ぷィと家《うち》へ帰って来て、表から『おォう、いま帰ったぜ』ったら、あいつァ『もォー、お帰りかね』っていやァがる。あの『もォー』って声がおらァびりびりっと腹へ響いたねえ。……亭主の帰《けえ》って来るのに『もォー、お帰り』って言い草ァあるかいったら、『だっておまいさん、牛《うし》(家)の人だから』っていやな洒落だなァおォい。……『湯ィ行くから、手拭い取れよ』ってったら『あらおまいさん、湯へ入《へえ》ンの?』って不思議そうな面《つら》ァしてやがる。『あたりめえよ、おれだって湯ィ入《へえ》ろうじゃあねえか』『湯銭《ゆせん》くすねたのを持ってンでしょうね』って透《す》かさないねえ。わずかばかりの湯銭がねえとァ言えねえや。『じゃあ、このシャボン持ってくぜ』ったら『あ、それ大きいからこっちの小さいのを持っといで』、あいつといっしょンなってから、おらァ大きいシャボン使ったことねえなあ。のべつ神経衰弱なシャボンばっかり使わしていやァる。だから湯ィ行ったって、泡《あわ》がたたなくて骨が折れて仕様《しよ》ァねえよゥ。……でも湯から上がって来ると、ちゃんと膳に支度がしてあって、布巾がかぶさってェ、片っ方《ぽ》の端《はし》が持ち上がってらあ。やっぱり燗徳利があるんだなと思ったから、腹ン中でそう思ったねえ、持たなきゃァならねえのは女房だと。布巾をとって見ると、燗徳利はありがてえが、どんぶりばかりで中身はなんにも入《へえ》ってねえン。『おめえ瀬戸物屋の店《みせ》じゃねえからなあ、こうどんぶり鉢を並べてみたって仕様《しよ》ァねえんだから、中身はねえのかい?』ったら、『いま時化《しけ》だよ』ってやがる。あいつといっしょになってのべつ時化だね、おい。『いくら時化だって塩っ気《け》がなきゃァ酒は飲めねえよ。香々《こうこ》でも出してくれよ』ってったら、『あァいよ』ってやがン、いやな返事だ、あの返事は。出してきたのを見ると、胡瓜《きゆうり》の香々だァ。胡瓜だって締まった胡瓜ならいいよ。ぶくぶくして腸沢山《わただくさん》。おまけにあいつがしみったれで、塩をかなじみ[#「かなじみ」に傍点]やがっから生漬《なまづ》けときてやがる。『おゥおめえ、これ生《なま》じゃァねえか』ったら『贅沢をお言いでないよ、螽斯《きりぎりす》をごらんよ』って言やがる……」 「ちょいと遅くなっちゃったねえ。うゥん。きっとねえ、あのォ、あとのひと幕だけ残してくりゃよかったけれどもねえ、やっぱり観たかったからねえ。よかったねえ、その所作《しよさ》ァ。うゥん、えへへェ……あの、いいえねえ、うちの帰《かい》ってきて、怒ってるだろうと思って、しかたがないからねえ、あたし謝っとこうと思ってンのよゥ」 「おまいさん、謝ってンの? それだから癖ンなるんだよ。亭主なんてものは月に五、六たび仕置きィしなきゃァいけないって、お治《はる》さんそう言ってたろう。あの人は乱暴だよ、ご亭主を煙管《きせる》でぶっちまうんだから。そうしたらおまいさんね、こないだ羅宇《らお》ォ折っちゃったんだとさあ。すげ替えも安くないじゃァないか、いまは。五十円取るとさあ。亭主ぶって五十円っ取られちゃ引合《あわ》ないって、こんだ品物替えちゃったの」 「何にしたの?」 「あァご亭主を壁へ押しつけといてね、山葵《わさび》おろしで顔をこすっちゃうんだって」 「泥棒猫だね、まるで。そんなばかなことはできゃしないよゥ。とにかく謝っておこうと思ってンのよゥ」 「ああ、そのほうが無事さァ。で、もしかいけないようだったら声をお掛け、あたしゃ飛んでってあげるから」 「あの、お寿司《すし》、だれが取ったの、お君さん? そいじゃ明日いっしょに勘定しますから、ごめんなさァい。……あ、お帰ンなさい。わるかったわねえ。火がなかったでしょう? ね? おまいさん、わるかったねえ、ちょいとォ……」 「…………」 「……どうかしたの? 心持ちがわりいの? どうしたのさァ、おまいさん、おまいさん」 「…………」 「……なにか咽喉《のど》ィひっかかってンの? ……どお……したてえのさァ、おまいさんっ」 「…………」 「わかった、怒ってンだろォ……? 怒ったってしょうがないじゃないか、あたしが遅くなっちゃったんだからさァ。だからおまいのほうが早かったら、なにか取ろうと思って来たの。……だけどもおまいさん、怒ってたほうがいいわよゥ。ふだんでれり[#「でれり」に傍点]ぼォ……っとしてる顔より、とても顔が締まってるわよ。もう一週間ばかり怒ってない?」 「そんなに怒ってたら、目がくたびれちゃうよ、おらァ。どこィ行ってたんだい?」 「芝居っ」 「軽いねえ、こいつァ。たいしたもんだよ。亭主が仕事ィ行って留守にかみさん、芝居《しべえ》見物か。……行くなじゃあないよ、行ったってかまわねえよ。手数のかからねえようにしてもらいてえねえ。仕事場から帰《けえ》って来て、こうやって湯ゥ沸かして飯《めし》を食うくれえなら、かみさんなんてものはいらねえンだから。芝居《しべえ》行ったっていいけども、あとがうるせえやァ。元《もと》さんは吉右衛門に似てますねって言やァン。三吉《さんき》っつァんは宗十郎に似てますね。……言われるたんびに、……肩身《かたみ》の狭《せめ》え亭主だっているン」 「だって似てェるからってねェ、だからさあ」 「褒《ほ》めんなじゃないよ。元さんは吉右衛門に似てよ、三吉っつァんは宗十郎に似てる。ものにはついで[#「ついで」に傍点]てえものがある。浮世にァ義理てえものがある。夫婦の仲には人情てえものがあるんだからなァ。何かお忘れものはござんせんか……ときやがらァ」 「いやだよ、おまえさんのことを褒めないって怒ってるの、そりゃ無理じゃァないがまさかうちの人をだれそれに似てェるって言えないじゃないか。だからねェ、よそのご亭主を褒めると向うのおかみさんたちが、おまえさんのことを褒めるだろうと思ってねえ。それとなく手を回しても向うが感じなきゃァしようがないや、あんただって似ているよ。あたしがいっしょにいるんだから……」 「ばかにすンない、こん畜生、催促されてから似ているってふざけるなよ」 「ほォーんとに、よく似てる。安心おしよ。似てるよ似てますよゥ」 「なに言ってやがンだい、似てるか……ほんとに似てンのかァ。へっへへェ、だれに似てんだよゥ。早く言って安心させろよ。だれに似てンだよっ」 「おまえさん、福助」 「あの役者のかァ?」 「なーに、今戸焼の福助だよ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]落語は、言うまでもなく男性の世界を話題《テーマ》に写し出している。若い衆は寄ると触ると、無駄話におだ[#「おだ」に傍点]をあげ、飲み食い、挙句に廓に遊びに行き……じィーッとしていない。女性は男の相手をする遊女か、女房であり、男の言いなりにはならないが、つねに男に奉仕する立場でしかない。  落語の中で、女性をうまく描いた噺としては「子別れ」[#「「子別れ」」はゴシック体]の熊さんの女房、「厩火事」[#「「厩火事」」はゴシック体]の髪結いのおさき、「芝浜」[#「「芝浜」」はゴシック体]の魚屋の女房が思い浮かぶが、いずれも働き者で男に尽す型《タイプ》である。  いくら男性中心社会とはいえ、男が遊んでばかりいては、女のほうだって耐えてばかりいれば、鬱憤《ストレス》もたまり、身が持たない……と、いらぬ心配をしていると、遂に本篇に、登場した! 亭主の留守に近所のおかみさん連を誘って、ちゃっかり芝居見物をしている。  長屋の女房は、亭主が仕事に……多くは遊びに……行っている間に、じっと家で待っている者は一人もいない。みな「子別れ」の女房のように縫物《ぬいもの》をしたり、「厩火事」のおさきのように髪結いに出たり、店《たな》の炊事《すいじ》、洗物、張物をしたり、しっかりと働いていた。働くということは、多額ではないにしろ、自分の自由になる金を得ていて、|遊び《レジヤー》の小遣いには困らなかったろう。寺社へのお詣りにかこつけて、芝居見物、飲食、買物などお手のものだ。——噺の中で女が寄席をあまり好まない事情《わけ》の説明もあった。  この噺は、八代目三笑亭可楽が得意とし、その高座を参考にしたが、あの垂れ眼で、少し顎《あご》のしゃくれた風貌で、独り長屋の台所で、渋《しぶ》団扇《うちわ》を手に七輪の火を起こしながら、うだつの上がらぬ亭主の愚痴をぶつぶつとこぼす情景に、可笑しさ、もの哀しさが漂っていて、絶品であった。  今戸焼は、『江戸名所図会』に〈今戸橋場の夕煙り〉と説明《キヤプシヨン》があるように、隅田川の川岸の今戸は素朴な瓦《かわら》や火鉢を作る窯場があった。そこで土産物の土人形を焼いていた。サゲの「福助」は、明治二十年ころ、後の中村歌右衛門が福助を名乗り人気絶頂の時代、足袋《たび》屋が福助を商品のキャラクターにして売り出した。その流行に今戸焼の土人形も出来た。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   松曳《まつひ》き  さる藩に粗忽の殿様と家来がいて……別名「主従の粗忽」という一席。 「これこれ三太夫、三太夫」 「ははっ」 「他《ほか》のことではないが、この庭の築山《つきやま》の赤松だが、だいぶ繁茂して、月を見るときに邪魔になっていかん。泉水の側《わき》へ曳きたいと思うが、どうじゃ?」 「恐れながら申し上げますが、あの松は、先代のご秘蔵の松でございますから、あれを曳きまして、もしも枯《か》れるようなことになりますと、ご先代さまを枯らすようなものではないかと心得ます」 「松が枯れたからと言って先代を枯らすと言うのはおかしな話だが、曳けば必ず枯れるということもない。枯れるか枯れぬかわからん」 「さようでございます。これは、その下世話《げせわ》の譬《たとえ》にも申しまする通り、餅《もち》は餅屋《もちや》と申しますから、これへ餅屋を呼んで、松が枯れるか枯れんか、とくと質《ただ》した上、申し付けてはいかがでございます?」 「うーん、なにか、餅屋というものが、この松の枯れるか枯れんかと言うことが、わかるのか?」 「いえ、その餅は餅屋という譬がございますので、餅屋……いや、これは植木屋でございます」 「さようか。今日は植木屋がだいぶ入っておるようじゃ。植木屋を呼んで問うてみようか?」 「それはよろしゅうございます」  殿様は、つかつかと縁端《えんばな》へ進んで、 「これ植木屋、植木屋はおらんか?」  垣根を隔てて、植木職人が一休みしていて、 「おいおい、兄ィ」 「縁側に立って、ここの大名《でえみよう》が呼んでンじゃァねえか?」 「兄ィ、行って来ねえ」 「だれか、代りに行け」 「兄ィ、おめえが行かなくてよ……おい、呼んでるよ」 「だから屋敷の仕事は嫌《いや》だってンだ。平身《へいつく》ばかりして、なんだって糞やかましいこと言やがる」 「おいおい、手招きして、こっちを呼んでるぜ」 「知らん顔してろ……こないだも花壇のうしろへ立ちやがって、植木屋、白い牡丹《ぼたん》がどう、赤いほうがどうだの、言うことがさっぱりわからねえ。こっちは、ただへえへえ言って、向うの言うことばかり聞いて、ときどきわからねえから、お辞儀ばかりして、汗をびっしょりかいちまって、かた[#「かた」に傍点]がつかなかった。おれァ嫌《きれ》だァ」 「だっておめえ、おとっつァんの代りに来てんだから、そんなこと言わねえで……」 「おっ、来やがった。へんてこなやつが……」 「殿様か?」 「殿様じゃァねえ。あの、お傍《そば》にいて、いつもぱあぱあ言うやかましい……なんとか言ったな?」 「三太夫」 「そう。田中三太夫」 「どうもあいつにこられちゃァたまらねえ。おらァ、隠れるから、来たら、居ねえって言ってくれ」 「これこれ、植木屋」 「へえー、なにかご用でございますか?」 「いや、他《ほか》のことではないが、いささか尋ねたき儀《ぎ》がある。今日は染井の植木屋八右衛門病気につき、その伜が参っておるということだが、そこにおるか?」 「うしろに小さくなってお隠れでござる」 「なぜ隠れておる?」 「おい、八兄ィ、もう駄目だ。出て来いよ」 「間抜けめっ、余計なことを言うない。……へえ、どうも……その、隠れてたわけじゃァねえんで、ちょっと用があって、うしろへひっ込んでたんで……ェェ、なにかご用で……?」 「なんじが八五郎か?」 「へえ、なんじが八五郎で……」 「他《ほか》のことではないが、じつはなにか御前《ごぜん》が御縁へならせられ、直々《じきじき》その方に尋ねる仔細《しさい》あるとのこと、御前体《ごぜんてい》へ罷《まか》りはじけろ。しかし御前において無暗《むやみ》に頭《どたま》むくむくおやかすこと相成らんぞ」 「はー、さようでございますえー……なにを笑ってるんだよ」 「言うことがわからねえじゃァねえか……」 「はじけろってえのが、ちっともわからねえ」 「どうでもいいから、はじけてしまいねえ」 「なんだい、どたまをむくむくおやかすてえのは?」 「てめえが助平だから、おやかすなと言ったんだろう」 「ばかにするない」 「なにをぐずぐずしておるか。早速、てまえの尻について、前へ罷りはじけろ」 「へえ、どこへでもはじけます」 「粗相《そそう》ないようにせよ」  三太夫が先に立って、庭を回って行くと、縁側に殿様が着座していた。 「下に居ろっ」 「……びっくりしたっ」 「芝の上に控えろ……頭《どたま》おやけておる」 「はー」 「頭《どたま》おやけておる……下げろ、頭《ず》が高いっ」 「ちっともわからねえ……へえー」 「ェェ、殿、申し上げます。そこへ植木屋八右衛門の伜、八五郎なる者が罷りはじけました」 「さようか。それへ控えおるは八五郎とか。近う進め」 「おい……もっと前へ罷りはじけろ。……はじけろ」 「股引《ももひき》をはいて座り込んだんで、はじけるにもどうするにも身体がすくんではじけられねえ」 「早くはじけんか」 「尻《けつ》押しておくんなさい……あ痛ててっ」 「静かにいたせ。手荒なことをいたすな。これ八五郎、もっと前へ這って出ろ、話が出来ぬによって……面《おもて》を上げい……顔を上げるのじゃ」 「へえ」 「なんだかだいぶ眉間《みけん》が赤くなっているが、うしろから押されて、額《ひたい》を擦《す》ったのか?」 「へえ……」 「他ではないが、その築山の赤松であるが、先代秘蔵の松ゆえ、それを泉水の側《わき》へ曳きたいと思うが、曳いて松は枯れるか枯れんか、どうだ? 鑑定をいたせ」 「こりゃ八五郎、直《じか》に返答を申し上げるのは甚《はなは》だ畏《おそ》れ多いことである。てまえがいちいち取り次いで申し上げる」 「これこれ三太夫、取り次ぐには及ばん。直《じか》に申せ」 「はっ……これ八五郎、返答を申し上げろ。言葉を慇懃《いんぎん》に申し上げろ」 「いんげん豆をどうするんで?」 「そうではない。丁寧に申し上げるのだ」 「どんなふうに?」 「ものの頭《かしら》には〈お〉の字を付けて、あとは〈奉《たてまつ》る〉と言えば、自然に丁寧になる」 「へえ、なるほど……上へ〈お〉の字が付いて、下へ〈奉る〉……おったてまつるかァ」 「なんだ、おったてまつるとは」 「ェェー、さて、恐れながら、お申し奉ります。ただいまお聞き奉ったところの、お築山のお松さまを、お泉水さまのお側へ、お曳き奉りますと、お松さまがお泣き遊ばすか遊ばないかということでございますが、それはその、てまえのほうでお掘り申し奉りまして、お油糟《あぶらかす》の五升もお盛《も》り奉り、小太《こぶと》い根へ鯣《するめ》をお巻き申し奉りまして、お曳き遊ばしますれば、お枯れる気遣いはございませんと心得ござり奉りますので、へえ、なんともはや、恐れ入り奉りました。まことにめでたく候かしく、恐惶謹言、お稲荷様でござんす……」 「なにを申しておるか、彼の言うことは、余にはさっぱりわからん」 「あたりめえでさあ。自分でしゃべってて、自分でわからねえもン」 「こりゃ三太夫、そちがとやかく申したのであろう? かようにいたせ。これこれ八五郎、堅苦しゅう申すから、わからんのだ。よい、無礼講じゃ、苦しゅうないから、そのほう朋友に話をするように、遠慮のう申してみよ」 「へえ、じゃあ、なんでございますか。わっちの言うことがさっぱりおわかりがねえから、遠慮なく、ふだん友だちにしゃべるようにってんですかい? じゃあ、ご免蒙って、おったてまつるは抜きにして、ざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]に……行くよ」 「これこれ、なんてえ口の利きようだ」 「三太夫、いちいち口出しをいたすな。八五郎、許す」 「ェェ、あの松を泉水へ曳いて、枯れるか枯れないか、とお尋ねですが、そりゃ、あっしも稼業《しようべえ》ですから、ひと月も前《めえ》から油糟の五升も奢り小太い根へ鯣を巻き付けて、こいつをこっちへ曳けば、大丈夫、枯れる気遣いはありません。きっと請けあいます」 「うん、枯れんか。よいよい。早速、曳け、うい[#「うい」に傍点]やつだ……なにか取らしたいが、なにかそのほうはどうじゃ……ささ[#「ささ」に傍点]はたべるか?」 「いくら植木屋だって、笹っ葉なんぞ食いません」 「いやいや、ささ[#「ささ」に傍点]とは酒じゃ、酒は飲むか?」 「え? 酒? 酒なら飲むのを通り越して浴びるねェ」 「おもしろいやつだ。そのほう一人ではあるまい?……三太夫、酒を取らせよ」 「御前体におきましては……」 「いや、苦しゅうない。これへ大勢呼んで、余も一献《いつこん》いたす。みな、これへ呼べ、これへ呼べ」 「恐れながら、かようながさつ[#「がさつ」に傍点]な植木屋どもを大勢お召しになりましては、それはあまり……」 「ねえ、殿様、この爺ィは、お宅の番頭さんですかい? なんだか知らねえが、うるそうござんすね、このひとは……なにかと言うと、すぐに尻《けつ》をつつきゃァがってね、ここンとこで、わけのわからねえことを、ぱあぱあ言ってやがる。よくこんなくだらねえ爺ィを飼っとくねェ」 「飼っておくとは、おもしろいことを言うやつじゃ……早速、酒宴にとりかかれ、これへ呼べ」 「殿様は話がわかるよ……おーい、みんな、どうしたんだ? なにをぐずぐずしてやがんだい。こっちィ来い。おめえたちに酒を飲ませるって言うんだ。安心して出て来いよ。こっちの爺ィはしょうがねえが、殿様はさばけてらァ。おれの友だちでえ」 「これこれ、友だちとはなんだ」 「三太夫、よいよい。控えておれ」 「三太夫、よいよい、控えておれってんだ。おーい、みんな、飲もうぜェ」  植木屋連中は、みなぞろぞろ出て来て、庭で酒宴がはじまり、殿様も一緒になって酒を飲んで、よろこんでいる。  田中三太夫へ、お小屋から急なお迎えが来て、御前を下がって、その場からいなくなった。  勤番なので、小屋には吉次に久兵衛という下男が二人いるだけ、他に家来はいない。 「ただいま帰った」 「三太夫様、お国表から至急の飛脚で、ご書面がただいま届きました」 「ああ、さようか。なにごとだろう? 茶を持って来い……ええ、なにごとだろう? ご書面は?……早く茶を持って来い」 「茶はいま、お手に持っておいでで……?」 「おっ、あわてておった……書状はこれか?」 「さようで……」 「これは変だな、文字がさっぱりわからんじゃァないか」 「それは、裏でございます」 「いや……なるほど、気が急《せ》いてるからな……ェェ、なになに……前文御用捨くださるべく候。国表においてお殿様お姉上様、ご死去に付き、この段ご報《しらせ》申し上げ……えっ、お殿様、お姉上様ご死去! こりゃあ、たいへんなことだ。あー……困ったことだ、殿においてはいま、植木屋どもを集めて、ご機嫌よくご酒宴を催しておられる。ご愁傷のことであるけれど、早速、申し上げねばならん……なに、それ……これでは出られん。服を改めるから……なにを出せ……それ……」 「なんでございます」 「それ、なんだ……上下《かみしも》、上下、早く出せ」  あわてて、上下を着《つ》け、再び御前へ出た。 「おお三太夫。なんじゃ?」 「へえー」 「なんじゃ、改まって……」 「恐れながら国表より至急の飛脚が……」 「なにごとか?」 「恐れながら、お人払いを願います」 「うん。さようか。これこれ、みなの者、遠慮して、そこを立て」  植木屋連中は、なにごとかと、みんな出て行った。 「近う進め、三太夫、して、なにごとか?」 「ははっ、なんとも申しようもございません。まことにご愁傷、お察し申し上げます」 「愁傷とは、なんじゃ?」 「ははっ、ただいま申し上げました儀で……」 「まだ、なにも言わんではないか」 「あっ、さようで……じつは、その、国表のお殿様お姉上様ご死去、とのご書面でございました」 「お姉上ご死去だ……さようか。なるほど愁傷じゃ、それは知らぬこととは申しながら、酒宴などしておって相済まんことを……」 「ご愁傷お察し申し上げまする。この上は組頭《くみがしら》へ申し渡して、上屋敷へ停止《ちようじ》を申し付けましょう」 「うん、さようじゃ。質素にせよと申せ」 「ははっ」 「これこれ三太夫、姉上ご死去は幾日《いつか》であったな?」 「ははっ」 「幾日じゃ?」 「ははっ、取り急ぎましたので、よく書面を見ずに参りました」 「すぐ見て参れ。粗忽《そそつか》しいやつだ」  三太夫は失態したと思ったから、頭に血がのぼって、肩衣《かたぎぬ》も曲がって駆け帰った。 「お帰りなさい。たいそうお早く……」 「あまり急いで、なにを見なかった……あわてるな」 「旦那様が、あわてておいでで……」 「先刻の書面はどうした?」 「てまえ、存じません。手紙は旦那様が読んでらっしゃいました」 「あれがないと、申しわけが立たん。そこらを捜せ」 「どこにもございません」 「書棚を開けて見ろ」 「書棚に入れるわけはございませんが……」 「これ、たわけ。いまここで読んでいたのに……けしからんっ」 「それでも、てまえは存じません」 「あー、困った、たいへんなことになった……あ、あった、あった」 「旦那様、どこに?」 「わしの懐中《ふところ》に入っておった……それを忘れるとは……あわてるな」 「それは、旦那様で……」 「ええと、なんとあったかな。……前文御用捨くださるべく候。国表において、ご貴殿《きでん》お姉上様ご死去……え? ご貴殿お姉上様……ご貴殿!?……おっ、これはたいへんなことができた、いや、お殿様ではない……ご貴殿というのをお殿様と読みちがえ、とんでもない間違いをした……てまえは小さい折柄、粗忽でならんと父上からよく注意されたが、武士がかようなことを間違えては申しわけがない。この上は潔く切腹いたして相果てる。そちどもはあとに残って始末をしてくれ。国表において、姉上が死去なされ、江戸表において、拙者が切腹するということは、なんたる因果因縁であろうか。しかし、形骸として、生き恥を晒すことは、拙者の矜持《きようじ》が許さん。情けないことだ。……なにを持って来い、俎庖丁《まないたほうちよう》を取り揃えろ……」 「それはとんだ間違いでございます、旦那様。むやみにご切腹なさらなくとも、お殿様へ、旦那様があわてて間違えたと申し上げれば、ひょっとして、百日ぐらいのご蟄居《ちつきよ》で相済めば、お命にもさわらず、このくらいめでたいことはございません。また、そうでなく、お殿様がご立腹のあまりお手討ちとか、ご切腹を申しわたされても、死ぬのは、いつでも死ねます。こういうときは、よくお考え遊ばして……」 「そちの言う通りであるな、死んだあとで�美しい死�なぞと言われたところで、あとの祭りだ。じつに死は易《やす》く生は難《かた》し。そちの申す通り、殿様に申し上げた上のことにいたそう」  と再び三太夫が御前へ戻って来たときは、しおれ果て、顔色も血の気がひいて、進みかねている。殿様のほうも、落胆してぼーっとしていた。 「おー、三太夫、待ちかねた。近う進め、……して、姉上ご死去は、幾日であったか?」 「ははっ……それが……とんでもないことを仕《つかまつ》りました」 「いかがいたした?」 「じつは、立ち帰って、書面をつくづく見ますと、お殿様ではなく、ご貴殿お姉上というのを、てまえがお殿様と読み違えたのでございます。とんだ間違いをいたしまして、なんとも申しわけございません」 「なんじゃ、間違いじゃ? 貴殿というのを読み違えた。けしからんやつだ。どうも粗相とは申しながら、武士がさようなことを取り違えて相済むと心得るか……」 「恐れ入りました。この上は、お手討ちなり、切腹なりとも仰せ付けられますよう……」 「手討ちにはいたさん。刀の穢《けが》れだ。切腹を申しつける」 「へえ……切腹仰せ付けられ、身にとってありがたき幸せにございます」 「これこれ、小屋へ立ち帰らず、余の面前にて切腹せよ」 「ははっ」  三太夫は肩衣を脱ぎ、腰の小刀を抜いて、腹へ突き刺そうと……。 「待て待て、三太夫、切腹には及ばん。よくよく考えたら、余に姉はなかった」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]殿様が登場する噺には「目黒のさんま」「妾馬」など名作がある。講談、浪曲などに出てくる殿様はほとんど名君で、家来は忠臣と決まっているが、落語のほうは世間知らずの好人物であったり、退屈まぎれに家来を困らせてよろこんだりする人間味がある。本篇は殿様も家来も共々粗忽者として登場する。——そこに落語と講談、浪曲の為政者、権威に対する処し方との違いがはっきりとわかる。落語は、殿様のことなど知っちゃいないのである。  植木屋の言い草じゃァないが、「言うことがさっぱりわからねえ。こっちは、ただへえへえ言って、向うの言うことばかり聞いて、ときどきわからねえから、お辞儀ばかりして、汗をびっしょりかいちまって、かた[#「かた」に傍点]がつかなかった。おれァ嫌《きれ》だァ」ということになる。 「目黒のさんま」「妾馬」[#「「目黒のさんま」「妾馬」」はゴシック体]の殿様にしても、「たらちね」[#「「たらちね」」はゴシック体]の鶴女にしても、庶民の視点からの空想の産物で、その生活感覚のちがいのちぐはぐさを笑いの種にしたに過ぎない。そこにはけっして羨望《せんぼう》の想いも、逆に敵対の気持もない、冷《ひや》やかである。賢いほどである。落語の生きながらえる行き方と生命がここにある。  前半の「松曳き」の植木屋と殿様の場面《パート》は「妾馬」「粗忽の使者」[#「「粗忽の使者」」はゴシック体]の趣向と同じで、後半の三太夫と殿様の場面《パート》と関連がない。おそらく別々の噺を合体させたと思われる。別名「粗忽大名」「主従の粗忽」という。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   心眼   盲人の夢姿を見ず 聾の夢音を聞かず  これは天性——生まれつき不自由な方のこと。  そこへいくと中年から見えなくなった方は、よく夢を見る、姿も見れば聞えもする。不自由になる以前に、見聞きしたものが、目に残り、耳に残っているから……。  中で一番困るのは、俄《にわ》か盲人。なまじ見えただけに先にいろいろ考えて、勘がはたらかないから何事にもまごつく、馴《な》れてしまえば、盲人のほうが目明きよりも勘がよい。というのは心眼といって、心の眼で見るために、雑念がなく、集中して見透すことができる。  目明きの人間は、心の中で感じようとするとき、目にいろいろなことが見えて、かえって気が散り、気が移る。その点、目の見えない方はまことに平穏無事、芸事なども盲人には名人が多く出るようで……。 「おや、おまえさん、どうしたの? たいそう早く帰って来て、横浜も思うようじゃァなかったと見えますね」 「はっは、どうも驚いたよ……どうも。おれも長くいるつもりで行ったんだけどいずこも同じだねェ。いいえねえ、夜ね、遅くまで流して歩ッてるんだけども、まるっきり療治《りようじ》がないんだよ。で、あんまりたいしたこともないから、そいからね、あきらめて帰って来ちゃった」 「それはいけなかったね、どこが景気がよくって、どこが悪いてえわけじゃァなし、一体に不景気なんだから。またおまえさん……景気のいいこともあるんだから、しかたがないからこっちでぼつぼつ稼ぐんですね。おやッ、どうかしたの? たいそう顔の色が悪いようだけど、心持ちでも悪いの?」 「なに別に気分は悪いこともねえ、心持ち悪いことはねえ。なにしろ歩きつけない道を横浜から歩いて帰って来たものだから、すっかり疲れてしまった」 「なんだって横浜から歩いて来たの、嫌《いや》だねえ。おまえさん、金さんに話をして、なぜ汽車賃だけ借りてこないんだね。そこが兄弟じゃァないか、どんなことをしたって立替えておくんなさるのに、なんだって歩いて……あァ、おまえさん喧嘩をして来たね? 金さんとまた言いあいでもして……ェェそうなんだろ?」 「うーん、……ああ、おれはなんでこんな不自由な身体《からだ》になったんだろう。……お竹、悔しいや……」 「なんだねえ、おまえさん、泣くほど悔しいことがあったら、連れ添う女房じゃないか、どんなことがあったか話をして聞かせてよ。どうしたんだよ」 「うん。……いま言った通り、どうもあっちも不景気なんで、毎晩十二時過ぎ、一時ごろまでも伊勢佐木通りを流して歩くんだけれども、療治がまるっきりない。だもんで、家へ銭《ぜに》を持って帰らないだろう。飯代《はんだい》も入れることが出来ねえだろう。すると、あの金公の野郎がね。『この不景気に、ど盲目《めくら》、食い潰《つぶ》しに来やがった』……『療治が下手《へた》だから揉《も》ませる客がありゃァしねえ、くたばり損いめっ』なんて言やがって……箸《はし》のあげおろしにおれのことを『ど盲目《めくら》、ど盲目』って言やがる。畜生め、悔しくって悔しくってたまらねえから、あいつの喉笛ェおれァ食《くら》いついてやろうと思ったけども、なにしろこういう不自由な身体だ、そんなことをした日にゃァあべこべにぶっ倒されてしまうし、いっそのこと悔しいから面《つら》当てに、軒ィでも首ィ縊《くく》ってしまおうか、身でも投げてやろうかと思ったけれども、おれが風邪《かぜ》ェひいて寝ても、おまえがふだん心配するんだから……もし、おれが死んだってえことを聞いたら、さだめしおまえが嘆くだろうと思って、死ぬにも死なれず……知らない道を聞きながら、おれァ横浜から、じつは、歩いて帰って来たんだよ」 「そりゃァ、気の毒な……大変だったろうに……」 「泣くなよ……これと言うのもおれが目が不自由なればこそ、そうやって他人《ひと》がばかにしやァがるんだからね。人間はね、一心になったら、どんなことでも出来ないことはないてえからねェ、おれは明日《あした》っから茅場町《かやばちよう》の薬師様へ一所懸命信心して、たとえ片一方《かたいつぽ》の目でもいいよ、片一方の目でもいいから、この目を見えるようにしておもらい申すつもりだ」 「どうも様子がおかしいと思ったから……きっとそんなこったろうと……けど、おまえさん、それはいけないよ。信心も結構だけど、金さんだってこれが悉皆《むず》の他人ならそんなばか気《げ》たことを言う気遣いもなかろうけども、そこが親身《しんみ》の兄弟だけに、遠慮がないから、金さんがそう言うんだろう。それをおまえさんがいちいち真っ赤ンなって腹を立てて……それじゃ、あまり大人気《おとなげ》ないじゃァないか」 「じょッ、じょ、冗談言っちゃァいけないよ。おまえはな、兄弟仲を悪くさせめえと、あいつを庇《かば》って、そんなことを言うが、金公なんてえやつァ大体もう、そんな人間じゃァないよ。おれァもう今度《こんだ》てえこんだァあきれけえっちゃった、あんな薄情なやつァないね。よく考えてみれば、あいつが赤ん坊の時分には、おれが背負《おぶ》ったり抱いたりして守りをしてやった。その仮りにもおれァ兄貴だ。その恩を忘れやァがって、いまおれがこういう不自由な身体になったからって、ど盲目呼ばわりするやつがあるかい」 「そうかえ、まァおまえさんがそう思いつめたものを、どう止めたからと言って止まるもんじゃない。けれど、あんまり心配をして、身体でも悪くしちゃァ元も子もないじゃァないか。じゃァ、あたしもおまえさんが信心をすると言うなら、及ばずながらあたしァね、自分の寿命を縮めても、おまえさんの目の開くように信心をするよ。そう怒らないで、今日は疲れてるでしょうから、床をとりますから、今夜は早くおやすみなさいな、ね、おまえさん……」  お竹が床を敷いてくれて、枕につき横になったが、癇《かん》がたかぶっているので、なかなか眠られない。そのうちに昼間の疲れが出て来て、とろとろ[#「とろとろ」に傍点]ッとまどろむ……。  翌日から杖《つえ》にすがって浅草|馬道《うまみち》の家を出て、茅場町の薬師様へ三七《さんしち》、二十一日の日参。一心に信心をして、ちょうど満願の当日。 「へッ、へッ、へ、薬師様。梅喜《ばいき》でござんす。今日《こんち》は満願でござんす、へッ。楽しみにして参詣《あが》りました。どうぞご利益《りやく》をもちまして、両方いけなきゃァ、ェェ片っ方でよろしゅうござんす……ェ薬師様、お忘れじゃございますまいなァ……ェェ梅喜でござんす。今日は満願でござんす。薬師様、あたくしの目は治らないんですか? ずいぶんお賽銭《さいせん》あげてますがねェ。お賽銭取りっぱなしですか?……ああ、駄目か……。へェ、よろしゅうござんす、へえ、じゃァあきらめました。こうしてください、あたくしもあきらめましたから、思い切りいいように、あたくしひとつ殺しちゃッてください。……さあッ、薬師様、あたくしをひと思いにひとつ殺しちゃってくださいッ、殺しやがれ」 「おい、そこにいるのは、梅喜さんじゃァないか。なんだい、大きな声を出して、おいおい、梅喜さんッ」 「へえ、どなたさまです? あたしをお呼びンなったのは……」 「どなたさま……? おい、おまえ、目があいたね」 「へッ?……なんです? あたくしが? 目……あッ、ああ、目があいた。やあ、見える。見える。薬師様のご利益、只今はとんでもないことを……まことに申しわけございません。薬師様、ありがとう存じます」 「結構だ結構だ。いやわたしはこの間からおまえンところへ迎えにやっても、ちょっとも来てくれない。そんなに忙しいのかと思ったら、なにか目のあくようにこの薬師様へ信心をしていると聞いたから、あァ無理なお願いをと思ったんだが、今日は八丁堀まで用達《ようたし》に来たから、この前やはり家内が薬師様のご利益で眼病が治ったから、ついでと言っちゃァ済まないがお礼詣りと思って来て見ると、どうもお前に後ろ姿が似ているから……声をかけたんだが、いやどうも人の一心というものは恐ろしいもんだなあ。しかしおまえのかみさんのお竹さんは感心だ。自分の寿命を縮めて、ともどもおまえの目の見えるように信心をしているという話を聞いたが、夫婦の一念が届いて薬師様のご利益を受けたのだろう。この先とも信心を怠《おこた》っちゃァいけないよ」 「ありがとう存じます。して、あなたはどなたさまで?」 「どなたって、おまえ今日や昨日の馴染じゃァなし、声でわかるだろう。わたしは馬道の上総屋《かずさや》だよ」 「へえ、上総屋の旦那、ああ、なるほど、目を瞑《つむ》って声だけ聞けば……ちがいありません。旦那ァ、そういう顔ですか?」 「なんだい、そういう顔てえなァ」 「旦那、つかんことを伺いますが、これからすぐにお宅へお帰りになりますか?」 「ああ用達も済んだし、これから家ィ帰るところだ」 「さようでございますか、恐れ入りますが、旦那、あたしを家まで一緒に連れてってくださいな」 「おい、変なことを言うじゃァないか。いままでなればともかくも、目があいたら、一人でさっさと帰れそうなもんだ」 「それがね、旦那、目があいて、やれうれしやと思ったら、さあァどこがどこなんだかまるで見当がつかなくなっちまいました」 「ははァ……なるほど、そう言われてみるとそういうものかも知れない。そいじゃァ、あたしが一緒に行くことにしよう」 「ありがとう存じます。……少々お待ちくださいまし……ああ、どうも立派なものでございますな、毎日お詣りに来てましたが、本堂がこんなに高いとは思いませんでした。おや、なんです。この大きな……こりゃ、なんです?」 「奉納提灯《ほうのうぢようちん》だよ」 「あ、これが、大きなもんですなあ……へェ、ではお供いたします……いやァありがたいなァ……これから家ィ帰ってねえ、家内がねえ、あたしの姿を見てねェ、どのくらい喜ぶかと思いましてねえ。あたくしは、早く……」 「おいおい、おい梅喜さん。どうでもいいがねえ、目ェあいて杖をついてるのはおかしいよ」 「へ? 目……? あッはははは、はは、そうですか、長いこと癖《くせ》ンなってるもんでござんすからね……しかし、旦那のまえでござんすが、この杖にも……長いこと厄介になりました。へッ、あたくし忘れないように、これ、家ィお祀《まつ》りいたしておきます……さァご一緒に参りましょう……旦那、旦那」 「なんだ?」 「あの、あれはなんで……?」 「あれは鎧橋《よろいばし》だ」 「へーえ、ずいぶん頑丈そうですね」 「ああ、鉄橋といって鉄でもって吊ってあるんだ」 「へーえ、いままであたしもあの橋の上を通っていたが、目あきはまたこの辺の心配がありますねえ、いつこの橋が落ちるかわかりません」 「そんな心配はすることはない。落ちやァしないから」 「……ああ、びっくりした、なんです? 旦那、いま前をすうッと行きましたね、なんです、あれは?」 「ありゃァおまえ、人力俥だよ」 「はは、そうですか。あたくしども子供の時分にゃ、あんなものはなかった。よくお竹がね、おまえさん俥《くるま》が危いから気をつけてって言うのは、あれでござんすか。あの上に乗ってるのは女のようですね」 「芸者だよ」 「あれが? そうですか、あたくしにはよくわかりませんけども、いい女のようですね」 「いい女ッておまえ、東京で、何《なん》の某《なにがし》と言う、一流の、指折りの芸者だ」 「つかんことを伺いますが、うちのお竹とどっちがいい女でござんしょう?」 「冗談言っちゃァいけない。比べものになるものか」 「へえー、お竹のほうがようございますか」 「おい、ずうずうしいことを言っちゃァいけないよ。いま行った芸者は東京でも指折りの芸者だ。おまえさんとこのお竹さんは、おまえさんの前では言いにくいが、東京で何人という指折りのまずい女だよ」 「そんなにお竹がまずうござんすか?」 「そうだね。よく悪口に人三化七《にんさんばけしち》なんてえことを言うが、おまえンとこのお竹さんは人《にん》なし化十《ばけじゆう》ってところで、まず人間には遠い面《つら》だな」 「はあァそうですかねえ。そんな女とも知らずに、長いこと夫婦ンなってたんだが、知らないてえものはしようがない。みっとものうござんすねえ」 「しかし梅喜さん、人は眉目《みめ》よりただ心、いくら顔かたちがよくったって、心だてが悪かった日にゃァなんにもならない。おまえさんとこのお竹さんは、心だてから言って東京で何人どころか日本に何人といって指を折ってもいいくらいのもんだ、じつに。話が出たからそう言うが、このまえ、嵐のときに、おまえに療治に来てもらったことがあるね。あのときお竹さんが裸足《はだし》になって、おまえの手を引いて、家まで連れて来て、また帰る時分に裸足で、おまえの手を引いて連れて行った。あとであたしは家《うち》のかみさんに、梅喜の女房というものは感心なものだ、あれを少し見習えよと、いつも叱言《こごと》の出るときには、きっとおまえのとこのお竹さんを引き合いにするくらいのもんだ。第一おまえさんに口返答《つう》を返したことがないてえじゃァないか。おまえも長年連れ添っているから性質もわかってるだろうが、不自由のおまえになるたけ心配をかけまいと、他人《ひと》の針仕事から手内職、寝る目もろくろく寝ないで働いているのは、じつに感心なものだ。ところで似た者夫婦なんてことを言うが、おまえさんとこの夫婦っくらい似ない夫婦はないね。いま言う通りおかみさんは、悪いけど見た目はまずい女だ。反対にまた、おまえさんはいい男ったって、役者だっておまえさんぐらいの男は、いまないと言ってもいいくらい美男だよ。……あ、そうだ、役者で思い出したがね、おまえ、山の小春を知ってるだろ?」 「ェェ存じております。春木家の姐さんでしょ? お療治に伺います。お得意でござんすから」 「あの小春にこの間会った。芸者五、六人呼んで飯《めし》を食って、お約束だ、役者の噂だ。あの役者がいい男、この役者がいい男、役者の噂……そこへ小春がつィと入ってきて、『おまえさんがたはいい男ってえと役者の噂をするが、世の中には役者ばかりがいい男じゃない。家ィ来る按摩の梅喜、あのくらいな男は、あたし、役者にでもないと言ってもいいくらいのもんだ』って、小春がたいへんおまえに岡惚れしてたぜェ。『あれで目があいていたら、あたしゃ放っておかないわ』なんて、おめえのことをたいそう褒めてたぜ」 「ああそうですか。なんですかね旦那、つかぬことを伺いますが、あの小春とうちのお竹とどっちがいい女でしょうね」 「またはじめやがった。一緒になりゃァしないよ」 「はァ、やはり小春のほうがようございますか……あ、旦那、ここは、たいへんに賑やかになって来ましたが、どこです?」 「浅草の仲見世だよ」 「もう仲見世、ちょっと待ってくださいよ。ここは毎日、通ってるんだから……やッやァ、なるほど、そうだそうだ、目を瞑ってみるとよくわかります」 「おいおい、杖でそう叩いちゃァ……みっともないよ。人が笑ってるじゃァないか」 「へッ、相済みません……へえーっ、賑やかですな……変った玩具《おもちや》が出来ましたなあ、ああなるほど……。へえ、これが仁王門《におうもん》ですよ、ごらんなさい。ええ? 旦那、ごらんなさい。鳩《はと》がいます鳩が。可愛いじゃァありませんか、ごらんなさいどうも……ああ、これがお堂だ……ねえ旦那、わたくしはね、いつもこのお堂の下からお詣りをしているんですがね、今日は目があいたから、ひとつ上へ上がってお詣りをしたいと……旦那もつきあってくださいな」 「あぶないよ、大丈夫かい?」 「へえ、大丈夫ですよ。……こうして見ると、どこも立派なもんですねえ。一寸八分の観音様がこんなお堂に入っている。姿は小さくとも知恵はあると見えますね。……どうもありがたいな、どうも……へい、このご恩は決して忘れません。いずれお竹が、お礼詣りに伺います。……南無大慈大悲正観世音菩薩《なむだいじだいひしようかんぜおんぼさつ》……こりゃァたいへんなお賽銭、えらいもんですねえ。ご利益《りやく》があるんで……あたくし一生働いたってこんなにお賽銭頂けやァしませんよ。へえ、旦那お待ちどおさま……旦那、旦那、不思議不思議、ねえ、ごらんなさい、箱ン中から人間が出て来ましたよ」 「箱ン中から人間が出て来るわけじゃァない。姿見だよ。おまえさんとあたしの姿が向うへ映ってるんだよ」 「へッ? これ、あたくし? はァはァ、なるほど……あ、あたしが手を動かせば向うも手を動かす、これがあたしですか、ああ、いい男だ」 「隣がわたしだよ」 「なるほど、旦那はこっちですか? あっははは、まずい面《つら》だ」 「なんだって」 「しかし旦那、がっかりしちゃァいけない。人は眉目よりただ心、心だてさえよきゃ……じつに感心」 「人の真似をしちゃァいけない」 「あっはははは、いやありがたいなあ、自分の姿が自分に見えるんだからな、いままでは自分で自分がわからないんだから、情けねえや……おや、旦那がいないねえ、この人混みだァ、どこへ行ったんだろうね。いまあんなことを言ったから、腹ァ立てて置き放しにして行っちゃったのかな? けど、もうここまで来れば、一人で帰れる。家《うち》は近いからね」 「ちょいと、そこにいるのは、梅喜さんじゃァないかい?」 「へえ、どなたでございます」 「まァ、なんだね、この人は、声でもわかりそうなもんじゃァないか……あたしゃァ山の小春だよ」 「へえッ? あァたが小春姐さん?」 「なにを言ってるんだね」 「ああ、なるほどいい女だ」 「まァ梅喜さん、おまえさん、ほんとうに目があいたのねえ」 「へえ、姐さん、よろこんでください」 「よかったねえ、うれしいじゃないか、ほんとうに。……いまね、上総屋の旦那とそこでお目にかかったんだよ。それで、梅喜さんの目があいたとおっしゃるから、あたしゃうれしくて、お堂にいるってえから、飛んで来ちまったの……ねえ、立ち話も出来ないから、どこかで、お祝いにひと口あげたいから、交際《つきあ》って頂戴」 「へえ、お供いたします」  浅草寺の富士下に「釣堀《つりぼり》」という待合茶屋があった。そこへ梅喜と小春の二人が入った……。  上総屋の旦那は、先に梅喜の家へ行って目の開いたことを女房のお竹に知らせていた。  お竹は大喜びで、観音様のお堂の姿見の前へ来て見ると、梅喜の姿がない。それから高いお堂から富士下のほうを見ると、亭主の梅喜の後ろ姿によく似た男が芸者と二人連れで待合へ入って行った。あとを追って待合の庭の植え込みの陰に入って、座敷の様子を窺《うかが》うと……。 「梅喜さん、さあ、遠慮しないでもっと飲みなさいよ」 「いえもうなんでございます。どうもねえ、目があいて、ここで姐さんにご馳走になろうとは思わなかったなあ」 「ちっとも進まないじゃァないの。お椀《わん》が冷めてしまうわよ」 「へ、へえッ、姐さん、あたくしァもう、お酒は頂戴しません。ェェお猪口二杯でもう、いい心持ンなりました。姐さん、お椀というのはこれで……へい蓋《ふた》のある椀ですね、わたしどものお椀には蓋なんぞございません。立派なお椀ですね、では、頂戴します……ああどうも旨いなあ……旨いわけだ、中ァ魚だ。あたくしどもァ奢《おご》ったところで菜っ葉か豆腐ぐらいのもんです。前にある、これ、なんです?」 「それは鮪《まぐろ》の刺身だよ」 「へえー、このお刺身の色気は、あたしゃあ、どっかで見たことがござんす……ああ、そうだ奉納提灯とおんなしで……色気てえものは、まことにどうも……」 「艶消しなことをお言いでないよ」 「あッはは、相済みません」 「まァ梅喜さん、おまえさん、目があいてその代わり、これから罪つくりだよ」 「へえー、なんでございましょう」 「いえさ、あたしァねえ、おまえさんに長いこと岡惚れしてるんだよ。いくらあたしが惚れたって、おまえさんにゃァ、立派なおかみさんがあるからつまらないやね」 「へッ、立派なかみさん? いままで知らなかったから持ってたものの、よく聞いたら、人《にん》なし化十だってんですよ、あなた。目が見えれば、そんな女房と一緒ンなっちゃァいられませんよ」 「それじゃァおまえ、いまのおかみさんと別れるつもりかい?」 「ェェ、つもりもなんにも、化物みたいなのァ、みっともなくて、女房にしておくわけにはいきません」 「じゃァ梅喜さん。あたしを女房にしておくれでないか」 「姐さん、ほんとうですか? からかっちゃァいけませんよ。あたしゃァ、あなたのようなきれいな女が女房になってくれればねェ、あたしゃァうちの化けべそァ、いますぐ叩き出しちまわァ」  一杯機嫌の高調子。……それを植え込みの陰で聞いていた女房のお竹、いきなり座敷へ馳け上がって、梅喜の胸倉へ食《くら》いついて、 「やいっ、おまえぐらい薄情な人はいない、人に長らく苦労ばかりさせて、いまになって、目があいたら、あんな女房はすぐ叩き出すとは、悔しいっ、殺してやるッ」 「お、おっ……お竹……かっ。おれが悪かった、勘弁してくれ……おッ、苦しいッ……」 「ちょっとおまえさん、おまえさん……どうしたんだよ。……おまえさん、おまえ……」 「おい、おれが悪いって、謝ってるじゃねえか……お、お竹……おまえ、いま、おれの喉《のど》を締めやァしないかい?」 「なァに言ってるんだねェ、この人は。あたしゃァ台所で水仕事をしていると、おまえさんがあんまり魘《うな》されてるから、飛んで来たんだけど、おまえさん、なんか恐い夢でも見たんじゃァないの?」 「ええッ?……ああ、あ、夢か……」 「さあ、おまえさん、朝飯《あさごはん》を食べたら、昨晩《ゆうべ》の約束どおり、これから二人で茅場町の薬師様へお詣りに行き、おまえさんの目のあくように、ともども信心しようよ」 「お竹、おれァもう信心はよすよ」 「昨日まで思いつめた信心を、なんでおまえさん、今日ンなってよす気になったの?」 「へッへへへへ……盲目《めくら》てえものは妙なもんだ、眠《ね》ているときだけ、よォく見える」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]三遊亭円朝が晩年、弟子の円丸という盲目の音曲師から聞いた体験談を基に創作した夢物語。さすが作劇の名手、明治中期の横浜、鉄道、人力俥など時代風俗を織り込んだ斬新な感覚に独創性《オリジナリテイ》がある。目が見えるようになった梅喜が、浅草寺の本堂の姿見に自分の姿を映して、自身を確認する演出には驚嘆する。(この姿見は、当時、話題になったらしく、「王子の幇間」[#「「王子の幇間」」はゴシック体]の中にも登場する)  盲人をシテ役にした噺には、「按摩の炬燵」「麻のれん」「大仏餅」[#「「按摩の炬燵」「麻のれん」「大仏餅」」はゴシック体]「景清」「三味線栗毛」「言訳座頭」など名篇が多いが、夢の中とは言え唯一、色模様が挿入されている。  ただし、梅喜が目が見えるようになって、女房が醜女であることを聞かされて、現実に引き戻されて行く落差に真実感《リアリテイ》があり、それが新たな煩悩《ぼんのう》を生じることにもなるのだが……、その表現がお気づきのごとく、「人三化七」などという酷い形容をする。表現を変更するか削除すべきかと考慮したが、「三軒長屋」[#「「三軒長屋」」はゴシック体]の中にも同様の表現が登場する。当時、どうやら口の汚い(悪い)江戸っ子の常套語だったらしい。今日では死語なので、敢えてとどめておいた。  飯島友治氏は「盲人の演出は、単に目をつぶればよいというような簡単なものではない。見えない目の演技に描出される悲愴な表情、その特有の猜疑心《さいぎしん》、焦燥の念といった演出など、盲人の心情を確実に把握していなければ演ずることができない。なお、『心眼』という題名は禅の言葉に由来したもので、山岡鉄舟により禅的に開眼された円朝が、眼で見ずに、心の眼で見るというところから名づけたのである」と論評している。  八代目桂文楽が研鑽し、磨き上げた十八番《おはこ》で、あまり他に演り手はない。さらに盲人を扱っているので、今後、上演の機会は極めて少なくなる噺。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   三軒長屋   三軒長屋の真ン中に住むと魔がさす  三軒つづきの長屋があって、取付《とつつき》が鳶頭《とびがしら》の家で、勇み肌の火消しが稼業。鬼格子《おにごうし》で土間を広く取って、地形《ちぎよう》の道具、金で拵えたかと思うようなピカピカ光った長鉤《ながかぎ》などが掛けてある。ときどき若衆《わかいしゆ》が大勢集っては、木遣《きや》りの稽古をする。そのあと酒がはじまって、端唄や都々逸《どどいつ》でも唄って騒ごうという賑やかな暮らし。  真ん中は、三毛猫が一匹に下女が一人、鉄瓶《てつびん》の湯がちんちん沸いて、火鉢のそばには赤い布団が敷いてあって、その上に坐って、本二十匁の絃に台広《だいびろ》の駒をかけて、ちょっと一中節とか薗八《そのはち》でもやるというようなお囲い者……お妾《めかけ》さんで、ごくしっとりとした暮らし。  左の端が剣術の先生で、楠運平橘正国《くすのきうんぺいたちばなのまさくに》という人で、通って来る者は、短い袴に刺し子の稽古着、筋骨たくましく、血気盛んな男子《おのこ》ばかりで、「お面、小手!」で、一日中どたんばたんやっちゃあ、 「いや、宮本武蔵と佐々木巌流との試合はでござるの……」 「荒木又右衛門、伊賀の上野、鍵屋の辻の仇討ちのみぎりには……」  などと、殺伐とした話ばかりして、武骨で野暮な連中で穏やかなときがない。  こうした人たちに挟まれた真ん中の家は、まったく災難で、ひとつ縺《もつ》れるとなにかにつけて不都合が生じてくる……。 「姐《あね》さん、こんちは」 「あ、なんだい、辰公じゃァないか。おまえ、ちっとも顔見せなかったねえ」 「へッ、どうも済いません。なにしろあれ以来ねえ、敷居《しきい》が鴨居《かもい》で、どうも……あがりにくくなって……」 「いいやね、そんなこと気にしなくったって。まァ、ちょいちょいおいでよ」 「へえ。姐さん、あの……鳶頭《かしら》はいねえんですか?」 「仲間の寄り合いで、出かけたまんま、もう三日も帰らないよ」 「じゃァ品川かも知れねえ。鳶頭《かしら》は交際《つきあい》が多うござんすからね。まァ姐さんの前《めえ》で言うのもなんですが、鳶頭《かしら》ァあの通り、男ッ振りァいいし、銭放《ぜにつぱな》れがきれいで、女にやさしいてえから、どうもどこィ行ったって、もて[#「もて」に傍点]ますからね。ええ、品川の女なんぞも、鳶頭《かしら》にばかなのぼせようで、鳶頭《かしら》のほうでも満更《まんざら》じゃねえという……ンだから……」 「おまえ、なにかい? 夫婦《みようと》喧嘩させようてんで来たのか?」 「え? いえいえ、そうじゃねえんだが、鳶頭《かしら》が留守で困ったなァ」 「なにか仕事のことかい?」 「なあに」 「なんだい?」 「じつはね、二階をちょっと、お借りしてえと思ってね」 「駄目だよ。またつまらないことをするんだろう?」 「いえ、冗談言っちゃァいけません。博奕《ばくち》なんかじゃありませんよ」 「寄り合いかい?」 「いいえ、そうじゃァねえんで、ちょっと仲直りをしてえと思って……」 「なんだい仲直りって? また喧嘩かえ。大概《たいがい》におしな、いくら鳶の者だって、その喧嘩|早《ぱや》いのが能じゃなし。少しは考えなよ。相手変って主《ぬし》変らず。またおまえ、だれと喧嘩をしたんだ」 「いいえ、あっしじゃァねえんで……」 「おまえはなんだい?」 「あっしは仲人《ちゆうにん》なんで……」 「ふふふふ、こりゃァおもしろいや。おまえが仲人をするとは年代記ものだ……雨でも降らなきゃァいいが……いったい、だれが喧嘩したんだい?」 「へえ、久次《きゆうじ》の野郎と虎ン兵衛の野郎なんで……」 「なんだって喧嘩したんだい?」 「この間、松の湯でもって、久次のやつァ、常磐津《ときわず》なんか稽古しはじめてね、※[#歌記号、unicode303d]嵯峨や御室《おむろ》……かなんかを、まァ、湯ィつかりながら、いい心持ちで唄ってたんですよ。すると虎ンべの野郎も入《へえ》って来ましてねェ。あいつはまた尻癖《しりくせ》が悪《わり》ィもんですから、湯ン中で一発放ちやがったんで……。上へぼこぼこってんで、固まって、ちょうど久次のやつが唄ってる……※[#歌記号、unicode303d]外珍しき嵐山……かなんか言って、口あいた顎《あご》ンところでぱちィッとこれが開いた。さあ、それ……すっかり吸い込んじゃって、……『野郎! なんだっておれに屁なんぞ嗅《か》がせやんでえ』『なに言ってやんでえ、おれァ捨てたものをてめえが粋狂に拾って嗅ぐこたァねえ』『この野郎、ふざけんな、表へ出ろ』『なにを!』ってんで、洗場でもってね、これが小桶《こおけ》振り回して……もう取っ組み合いの喧嘩になった。あっしがちょうど二階にいたんで、『辰《た》っつァん、大変だ、下で喧嘩がはじまった。来てくれ』ってんで、あっしが間に入って……みんな喜んで、『ああ、いいところへ来てくれたい。辰っつァん、なにしろねェ、傍《そば》にも寄れねえんだ、お互いに、抜き身[#「抜き身」に傍点]同士の喧嘩』ってんで……」 「なにを言ってやがんだね、ほんとうに……」 「久次のやつが虎ンべのこめかみ[#「こめかみ」に傍点]に食《くら》いついて、肉を食い切っちまった」 「まあ、たいへんな騒ぎじゃないか」 「と思ったんだ。すると、久次のやつがプッと吐き出して『人間てなあ酸《す》っぺえもんだ』って言うから、よくよく見ると、虎ンべが頭痛がするんで、梅干《うめぼし》をこめかみ[#「こめかみ」に傍点]に貼ってた、それを食い取ったんで……」 「なんだいばかばかしい」 「それをあっしが止めたんですがねェ。それでもういいもんだと思ってるてえと、まァ友だちだの、小若《こわか》を集めましてね。『こんだの祭にはあの野郎ただじゃァおかねえ』腕を折っぺしょっちゃおうの、素《そ》っ首《くび》を引っこ抜いちゃおうのって、そんな相談してるってえことを聞きましたから、こいつァ大事《おおごと》にならねえうちに、まァ、ちゃんと仲直りをさしたほうがいいと、こう思いましてね、ええ。まァ、料理屋なんか借りるというのも大仰《おおぎよう》でいけねえ。なにしろ、それに先立つものがねえ……こんだの祭はあっしはね、派手にしてえと思って、股引、半纏、腹掛……そっくり新しいのを誂えちゃったもんですから、懐中《ふところ》都合が悪《わり》いもんでねェ……まァ、酒のところは識面談《しきめんだん》でことは足りたんですが、のせもの[#「のせもの」に傍点](肴)ってえまではいかねえんでねェ。そこらァ、まあ、持ち寄りでてえことで……さあ、そうなると、場所ですがねえ。いろいろまァ、みんなと話した揚句、『じゃ、表町の鳶頭《かしら》の二階は広いから、あすこを借りて手打ちをさせようじゃねえか』と、こういうことになったんですが、鳶頭《かしら》がいないんで……いけませんかね」 「そりゃ、そういうわけなら貸してやってもいいけどねえ……だけど困るんだよ、いままでとちがうからね」 「ええ?」 「ちょいと隣へ柔《やわら》かいのが越して来たんだよ」 「隣へ?……柔かいのってえますと、幽霊かなんか?」 「なに言ってんだよ。そうじゃない、お囲い者……お妾さんだよ」 「へえー、どこの?」 「横丁の伊勢勘のさァ」 「質屋ですかい」 「そうさ」 「伊勢勘じゃァ……三月《みつき》ばかりまえに嫁ェ貰ったばかりじゃァねえか」 「そりゃおまえ、伜のほうで、こっちは親父のほうだよ」 「あの、薬罐《やかん》かい? へー年甲斐もねえ擂粉木《すりこぎ》じゃァねえか、なんですかねえ、あの親父はまだそんな気《け》があるんですかねえ……ふゥん、あの親父が囲ってるんだから、禄な者《もん》じゃねえでしょう?」 「……それがそうでないんだよゥ、いい女、中肉中背、目はぱっちりとして鼻筋は通ってね。第一、声から……なにからいい声をしてるよ。で、なにを着たって似合うんだよ、ちょっとあれだけの女はいないね……いや、化粧のせいもあるだろうけどさァ。それにしても、いい女だよ。湯の往《い》き帰りなんか、あたしァたのしみにして見てるくらいだからね」 「ふゥん、女っ惚《ぽ》れのする女か……そんないい女をねえ……あの薬罐がねえ。で、その女は薬罐に惚れてんですかねえ?」 「なにを言ってんだよ。囲い者はお金だよ、金ずくだよ」 「なるほどね。……金せえありゃァ……そういういい女が自由になるんだ、ねえ……人間万事金の世の中というからな……そこへいくとこちとらァだらしがねえや、筑摩屋《ちくまや》の女中に蔵の側《わき》でくらいついて……横ッ面張り倒されてクラクラした」 「ばかだねほんとうに、そんなことするんじゃないよ、組の名前が出るじゃないか」 「へへへ、どうも済いません。ェェなにしろまあ、金せえありゃァほんとうにねえ、どんな贅沢も出来るッてえやつだ、ねえ」 「だから辰っつァん、そういうわけでねェ。なにしろねえ、うるさいんだよ。……いえね、こないだもさァ、赤筋の寄合いが、家《うち》であってさァ……で、話が済んだからもういいと思ってね、それからまァ酒を出したんだよ。ところが、みんなああいう手合だから、いつだってもう決まってらァね。喧嘩がはじまってさ、美土代町《みとしろちよう》と佐賀町とさ。それでまァ、横っ腹へ風穴開けんのなんのって大騒ぎしたろ……そうしたら、それを聞いて隣の女が、血のぼせがすんの、気のぼせがすんの言やがって、騒ぐんだよ。聞きゃァ聞き腹でねえ、こっちだっておもしろくないやねえ。……そういうわけだからさあ、他へ行ってやっとくれよ。酒はあたしが買うからさァ」 「弱っちゃったな、どうもなあ……駄目ですか?」 「おまえでも飲まなけりゃァ、まだいいんだけどもねえ。もう飲むとおまえたちは喧嘩だからねえ」 「え?……あっしが飲まなけりゃァ? そりゃァ大丈夫ですよ、あっしは。心配ねえすよ」 「なにを言ってやんだい。おまえがいちばん心配だ」 「いいえ、あっしは、酒を断ちましたから……」 「おまえが? 酒を断った? いつ?」 「ええッ、へへ……いつと言っても、十《じゆう》……四、五日まえに、断ちました」 「十四、五日まえ?……嘘をおつきよ、五日ぐらいまえだったよ。おまえ、豊島屋《とよしまや》の塀のとこでぐでんぐでん[#「ぐでんぐでん」に傍点]に酔っ払って、ひっくり返ってたろ。あたしがちょうど傍を通ったから、『辰公、いいご機嫌だね』って言ったら、『なに、この女《あま》っ』っ言《い》やがって、まあ、あたしもなにも判りゃしない、こんな気狂いからかったってしょうがないと思って帰って来ちまったけども……なんだい? ありゃァ?」 「ふふッふッ、あれですか?……青木屋の建前で、おれが酒ェ断ってるてえのに、みんながあっしの口を無理に開けて、酒ェがぶがぶ注《つ》ぎ込みやがって、とんでもねえ野郎たちで、大しくじりでさァ」 「なにを言ってんだよ。友だちのせいにするやつがあるかね……断った酒飲んでごらんよ。罰《ばち》が当たるよ」 「へえへえ、どうも、そう思いましたからね。そいつは大変だってんでね。深川の不動様へすぐ飛んでって、こういうわけだからって訳を話したら、不動様は『このたびは許してやるが、以後はならんぞ』とこうおっしゃって……」 「なにをばかなことを言ってやんだい……まァいいさ。その日、おまえだけ酒を飲まなきゃァ、貸してやってもいいが、いったい、いつやるんだい?」 「へえ、きょう、これから……」 「また早いんだね、……それじゃァみんなに知らしとき……」 「ええ、みんなはいま表で待ってるン」 「なんだい、手回しがいいね。あたしが貸さないって言ったら、どうするつもりだったんだい」 「いえ、へへへ。なんでもかんでもこっちは借りようと一本槍で来たもんですから……」 「なんだい、手回しがよすぎるよ。じゃァしょうがない、貸してやるけどさ、断わっておくけど、今日はいま、おまきのやつが身体《からだ》が悪いと言って、実家《さと》へ行ったんで、家にゃァ奴《やつこ》とあたしと二人きりだから、用は自分たちでよきゃァ、それさえ承知なら……」 「いいえ、そんなことは構わねえでください。大勢|人手《て》はありますから……」 「二階は散らかってると思うけど、そこは片付けて、くどいようだけど、静かにしておくれよ。おめえたちときた日にゃァ、話をしてんだか喧嘩だかわけがわからねえんだから、あんまりひっ騒《さわ》いで、近所にみっともねえから……」 「ええ、大丈夫で……もしも騒いだりなんかしやがったら、あっしがその野郎を、叩《たた》ッくじいて……」 「それがいけないんだよ。おとなしくしなくちゃァ……じゃァ、みんな、こっちィ入《い》れな」 「じゃァ……おうおうおう、入《へえ》れ入《へえ》れ、こっちィ……姐《あね》さんが貸してくださるとよ。さっさと入《へえ》れよ。ぐずぐずするな、間抜けっ」 「なんだねえ、間抜けだなんて……それがいけないよ」 「済いません」 「さあさあ、みんなお入りよ」 「ェェ、姐さん、こんにちは」 「おや、久次、久しぶりだね」 「ェェ、こんにちは」 「おお、虎ンべ、おっかさんは達者かね」 「ェェ、こんにちは」 「おや、徳さん」 「へい、こんにちは」 「あら、芳さん」 「こんちは」 「まあ、大勢、もう挨拶はいいからどんどん二階へ上がんな」 「おうおう、早く上がれ、早く上がれ……おうおう待て待て」 「へ?」 「留公っ、てめえなんだって二階へ上がるんだ」 「だって、へへへ、今日は仲直りだって……」 「聞いたふうなことを言うな。てめえたちはなにも二階《にけえ》へ上がって来るにゃァ及ばねえや。今日集まるのは役付きばかりだ。てめえっ達《ち》はまだ膝組みで酒ェ飲もうってのは早えや。てめえはお燗番《かんばん》に連れて来たんだ。階下《した》へ降りて働け」 「だがまァ、めでてえからちょっと……」 「生意気なことを言うな、おまえ。……上の者に逆らうんじゃないよ。まァいい、我慢して階下でお燗番でもしてな、ね? 人間は万々《ばんばん》出世だから、まァ長《なげ》えものには巻かれろだから、おとなしく、階下《した》で働きな」 「へえ、姐さんのようにそうやさしく言ってくださりゃァいいんですがね。……あの野郎ときた日にゃァ、役付きになったと思っていやに肩で風切ってやがっていやな野郎でござんすどうも。……姐さん、あっしは階下でお燗番でもしてるほうが気がおけなくってようがす」 「なんだい、あすこにある樽だの俵なんぞ」 「ありゃァ酒に炭で……」 「なんだい、炭ぐれえは家で達引《たてひ》かァな……そんなものまで持ってきて、あてつけがましいやね……」 「姐さんに心配かけちゃァ済まねえんで……」 「なにそんなこたァ構わない……それじゃ奴《やつこ》、おまえその炭俵を台所口へ持って行きな、燗徳利《かんどつくり》は五、六本あるから、それをお使い、盃も出して使うがいい」 「ありがとうございます」 「おまえ、炭の口を開けるなら、そこに出刃《でば》がある」 「なーに出刃にゃァ及ばねえ。手で縄を切っちゃった」 「乱暴だね、手掴みで炭を出して、まァ布巾《ふきん》で手を拭《ふ》いちゃァしょうがないね」 「奴《やつこ》、あすこから火種を持って来ねえ……姐さん七輪を借りますぜ」 「ああいいとも、渋《しぶ》団扇《うちわ》もそこにあるよ」 「ありがとうがす。……ああ、魚屋さん、ああ、誂えて来たんだね、刺身? じゃあ、こっちへ置いといて……奴、なにか被《かぶ》せときなよ、猫が来るといけねえから……」 「おまえ、煽《あお》ぐのはいいが……なんだよ、縁側のほうへ出してやんなよ。座敷へ火の粉の入らないように気をつけなくちゃァ駄目じゃァないか」 「へいへい、よろしゅうござんす。ええ、大丈夫、気をつけます……なんですか、鳶頭《かしら》ァまだ寄り合《え》えから帰《け》えらねえんですか? しかし、うちの鳶頭はどこへ行ったって評判がようがすねえ、ええ。まあ、こちとらまで肩身が広いや……それに、あっしみてえな三下|捉《つか》めえても、表で会うと『おう、兄ィ』なんて言ってくださるんで、こっちはきまりが悪くなっちまうくらいでござんして、貫禄《かんろく》があってそう言ってくれるんだから、自然と頭が下りまさあ……そこへいくと、二階にいるやつらなんざ、威張る一方なんだからくだらねえや……隣はなんですね、越して来ましたね、……うん。やっぱり人の家てえものは、住んでいなくちゃいけねえんだそうですね。こちとら空いてるほうが家は傷《いた》まねえんだろうったら、家てえものは人間が住まわなくっちゃ家が傷んでいけねえなんてこと聞きましたがね……ほう、庭の様子《もよう》なんぞよくなりましたね。垣根で囲って赤松のひょろ[#「ひょろ」に傍点]を五、六本植えて……石灯籠《いしどうろう》に豪儀と銭をかけましたねえ。……うん、小ぢんまりとしてなかなかいい石灯籠だねえ。雪隠のところから四ツ目垣にして、障子を貼り替えて……あ、あ、障子が開いた……あ、あ、あァッ、いい女……」 「なんてえ声を出すんだよ」 「いい女が出て来ましたぜ。隣の家から……」 「男てえものは女を見さえすりゃいい、いいっていうが……悪かァねえけれども、ありゃ化粧《つくり》だよ」 「つくり[#「つくり」に傍点]か刺身か知らねえが、いい女だねえ……何者なんで、白かえ。黒かえ」 「そりゃまァ、黒上がりと思うが、囲い者だよ」 「へえ、どこの?」 「伊勢勘の持ちものだよ」 「えっ、あの爺ィの?……うーん、ずうずうしい爺ィだ、歯もなんにもねえくせに……」 「歯がなくったって、金があらあね。おまえなんぞ、歯があったって、金がねえじゃァないか」 「ああ、なるほど……このおれの歯ならびのよさに惚れてくれる女だって世間にゃ……いねえかなあ。しかし、まあ、悔しいなあ」 「ちょいと、ちょいと、おまえ、さっきから、ばたばた団扇でやってるけれども、七輪を煽がないで、猫のお尻《しり》を煽いでるじゃァないか」 「ええっ? あっ、こん畜生、なんだって黙っていやがるんだ、奴《やつこ》……あっ、姐さん、お出かけですか?」 「あの、ちょっと、おまえたちがいる間に、あたしゃ、横丁の湯へ行って来るから頼むよ」 「どうぞ、ごゆっくり行ってらっしゃい。……おい、奴、姐さんの下駄を出しねえ……間抜け、綱《つな》を踏むない、あれっ鳶口《とびぐち》に触るない、間抜けな野郎だなあ、胴突《どうつ》きの道具へ手をつけるなよ、鳶頭《かしら》が帰《けえ》って来ると叱られるぜ」 「じゃあ、頼むよ」 「行ってらっしゃいませ……女というやつは、他の女を褒めると気に入らねえもんで、隣の女、囲い者だってえが、いい女だ。姐さんもいい女だけども、いくらいいと言っても、もう年だ。青物《あおもの》で言やァ薹《とう》がたってる。そこへいくと、隣の女はなんとも言えねえなあ。姐さんは化粧《つくり》だというが、いくら化粧《つくり》だって、土台《どでえ》が悪くっちゃしようがねえが、隣のァ若くていい女だよ。こっちはつい、大きな声を出したもんだから、顔を赤くして障子を閉めてしまったが……もういっぺん見てえなあ……そりゃァいいけれども、七輪の火がちっとも起こらねえ、あっ、口が向うを向いてやがる。……あっ、また障子が開いたぞ……ありゃァ、なんだい下女かい? あの年増にひきかえて、こりゃあまずい面《つら》だなあ。人三化七《にんさんばけしち》だね、ありゃ。お月見女だよ……顔が丸くって、鼻が団子で、頬っぺたァ赤くって柿だァ。頭の毛は芒《すすき》だよ。秋の月見は心持ちがなごむけれど、人間の面ァとなるとげんなりするぜェ。それにしても他人《ひと》の囲い者にでもなろうてえ女は、やっぱり人間の見立てだってうめえや。こういうもんを飼っておきゃあ、てめえが引き立つからなあ……一人で見るのは惜しいや……おーい、二階のやつらァ、首を出して見ろやーいっ、隣の家から化物《ばけもん》がはみ出しゃァがった」 「なんか階下《した》で、お燗番がどなってるぜ。……なんだなんだ?」 「裏ァ見ろよ。隣の庭へ化物が出て来たんだとよゥ」 「なるほど、まずい面ァしてる。髪の毛は玉蜀黍《とうもろこし》のように縮《ちぢ》れて、大きな尻《けつ》振り立てて駈け出しゃァがった。やーい、てめえなんぞ、駈け出すより転がるほうが早えぞっ、わーいっ」  と、二階の窓から首を出して、口の悪い連中が囃し立てた。下女は裏の雪隠から出て来たところだったが、出るに出られず、気まりが悪いので真っ赤になって、また雪隠へ逃げ込んだ、そのうちに二階で酒がはじまり、鎮《しず》まるまで出るに出られず、そこに潜《ひそ》んで、泣き入った……。 「なにをおまえ泣いてるんだい? お竹」 「おかみさん、もうお宅には辛抱できません。どうかお暇《ひま》をください」 「なにを言い出すの。おまえに暇とられたら、あたしが困るじゃないの」 「だって隣のやつらが、あたしを化物、化物ってからかうんですよ」 「だから言ったじゃないか……聞えたよ、みんな。なにを言っても構やァしないよ。表《そと》の厠所《はばかり》へ行かないで、家のへお入りというのに、つまらないことを遠慮して、そんなところへ行くからだよ。さっきもね、あたしが障子を開いたら、若い衆がいるようだから、おまえにもお出《で》でないと言うのに、おまえが出たから悪いんだよ。泣くのォおやめ、みっともない……あっ、旦那、おいでなさいまし」 「どうしたんだ、え? また叱言かい? およしよ、おい、おまえのように、言ったってなかなかきっちりものが出来るもんじゃないよ」 「いいえ、そうじゃないんですのよ。お竹がいま表へ厠所《ちようず》に出たところが、隣の鳶頭《とび》のところの若い者が大勢寄ってるんでしょ。お竹を見て、化物化物って言ったてんですよ。それでいま、お暇を頂きたいてえから、急にそんなことを言われては困るからと言っていたんですよ」 「そうか。いやァ、うっちゃっとけ、うっちゃっとけ……あいつらの言うことをいちいち気にとめちゃァいけない。口の悪《わり》い連中だからしょうがねえ、いまも、あたしが横丁を入って来ると、『やーい薬罐が通る、薬罐が通る』って、上で言っている。ひょいと上ェ見ると、みんなおれの頭を指差してドッと笑ィやァがった、そのくらいだ。あいつらの言うことは右の耳から左の耳へ聞き流しにしなければいけねえ」 「でもねえ旦那、あたくしもお願いをしたいと思っていたんですけども……どっか、他所《ほか》へ旦那、すいませんけど、ここの家を引越してくださいませんか」 「おまえまでがそんなことを言っちゃァ困るじゃないかねえ……そりゃ少し我儘てえもんじゃないのかい? え? 初めの家は近所の人出入りが多くて目についていやだから、もう少し静かなところへ越したいというから寺町へ越したら、こんどは鉦《かね》と木魚の音ばかり聞いて、これじゃァうなされて気味が悪いからもうちょっと賑やかなところへ越したいてえから、ここの家へ来たんだろう……まァま、なかなかね、人というものはそうそう思ったように行くもんじゃないよ」 「ですけども……旦那はよくご存知ないからそうおっしゃいますが、鳶頭の家へ若い衆が集まると、きっと喧嘩がはじまるんですの、さァ殺せ、生かしちゃァおかないとかで、どたばたはじまるんですの……こっちの楠さんの処じゃァお弟子が増えたとかで、夜遅くまで剣術のお稽古なんですの……壁へドスドス、ぶつかって、両隣で騒がれたんじゃァ、とても血|逆上《のぼせ》がして、ここにはいられませんわ」 「まあ、そうおまえなァ贅沢なことばかり言っちゃ困る。ま、これはなァ、大きな声では言えないが、じつはここの土地は、あたしンとこへ家質《かじち》抵当へ入っていてな、もう程なく期限が切れる。そうすりゃ、この三軒長屋はあたしの所有《もの》になっちまう。そうしたら両隣をいくらか金をやって店退《たなだて》をくわして、楠さんのほうは庭にして、鳶頭のほうを座敷に直して一軒にして住まわせるようにするから、そうすりゃ静かで、だいぶ広くなるから、まァもう少しの辛抱だ。石の上にも三年ということがある。横丁の易者ァごらんよ、溝板《どぶいた》の上へ七年も出てるじゃないか。……まァ腹がへった、お膳立てをして、お酒をつけておくれ」  こちらは納まったが、隣の鳶頭《かしら》の二階のほうは酒が廻ってきた。 「おゥ辰、こっちィ来い。……おい、一杯やれ」 「しようがねえなァ、そう酔っちまっちゃァなァ……どうだい? このへんでもうおつもり[#「おつもり」に傍点]にしちゃァ……おめでたく……久兄ィ」 「めでてえから、ひとつ大盃《おおきい》ので、飲めっ」 「飲めったって、どうもそうはいかねえんだよ。ええ? なにしろ、今日はおれは飲まねえって約束でもって、姐さんからこの二階を借りたんだから……まァ、河岸《かし》ィ変えたら、付き合うから、まァ、勘弁してくれ」 「なあに言ってやんでえ、おめえ、仲直りのめでてえ酒だ。おめえが仲人《ちゆうにん》で飲まなきゃしようがねえ。いいから飲みなよ。ェェ? なにかいおれの盃が受けられねえてえのかい?」 「いや、そういうわけじゃァねえんだい。いま言う通りよ、飲まねえてえ約束でおれが借りたんだい、なァ。まァ、おれの顔を立ててひとつなァ……なァ、おれの顔で借りたんだから」 「おゥ、そうかい。おめえの顔でこれを借りたってえのかい? この座敷を? お前はいい顔だなァ、ェェ、おい! そうじゃねえか、きょうこのごろ、役付になったからって大きな面をするんじゃねえぞっ、おい」 「なんだと?」 「なんだとはなんでえ! え、てめえなんぞ、おれにそんなことを言えた義理か。やいッ、いやに兄貴ぶるない。第一《でえいち》、ふだんから気に食わねえ」 「なにが気に食わねえ?」 「八年前の暮れから気に食わねえ」 「古いことを言やァがるな。八年前の暮れにどうした?」 「どうした? おめえ、忘れちゃァ済むめえ……ぴゅーっという北風と一緒に、おれンとこへ飛び込んできゃァがって、尻切れ半纏一枚で、合羽屋の二階にくすぶってやがって『兄貴、もうすっかり取られちまって、どうにもあがきがつかねえんだ。なんとかしてくんねえ』って、ひとを兄貴、兄貴と持ちゃげやがって……こっちも、だれが困るのも同じだと思って、可哀想だから家へ連れて来て置いてやった。さあ、一夜明ければ、獅子舞に出る。『どうだい、これから獅子を持って客のところを廻るんだが、てめえも手伝わねえか? どうだ、太鼓を叩けるか?』って聞いたら、『法華《ほつけ》の太鼓か、夜番の太鼓よりほかに叩けねえ』ってやがる。冗談じゃァねえ、初春《はる》獅子を出すのに、そんな太鼓を叩かれてたまるもんか。『じゃあ、与助(鉦)はどうだ?』って言ったら、『チョンギリは手が冷たくて嫌だ』って抜かしやがる。『それじゃ笛はどうだ?』と言うと、『法螺《ほら》は吹くが笛は吹けねえ』『てめえ、なにをやりてえんだ?』『おれ、獅子が被《かぶ》りてえ』と言やがる。『ふざけたことを抜かすな。獅子頭を被るのは真打ちの役だ。てめえなんぞに獅子頭を被せるこたァできねえ』『いや、なんでもやってみてえ、ぜひ獅子をやらしてくれ、頼む』ってえから、こっちァ、心得がちっとはあるだろうと思って、やらしてみたらそうじゃねえんだ。てめえァ寒いので獅子のあおりを体に巻いて暖まろうてえだけじゃァねえか。後ろから見た態《ざま》の悪いこと。こりゃどうも下町もうすみっともねえから、山の手のほうへ流しに行くってえと、子供が大勢で、『やーァ獅子頭の鼻から煙《けむ》が出る』って、おかしいなと、ひょいと被《かぶ》り布をまくって見ると、この野郎いつの間に買やァがったのか、焼芋《やきいも》を食ってやがる。麹町の旦那のとこへ行って、玄関の前で威勢よくやってくれと、二分ご祝儀が出た。と、てめえ、二分のご祝儀と聞いて、目がくらんじまって、ぐるぐるっと回って、玄関のところで遊んでいる坊っちゃんの額《ひたい》に、獅子頭の鼻づらをコツンとぶっつけやがったもんだから、坊っちゃんが、ワーッと泣き出しちまった。『坊っちゃん、済いません。獅子がいまちょっとふざけたんです。勘弁してください』ってんで、おれが坊っちゃんの頭を撫でてると、てめえ、『この餓鬼《がき》め、うるせえ』って言やがって、獅子頭《しし》の口から大きな拳固を出しゃァがって、坊っちゃんを殴りゃがった。もう、見ちゃァいられねえから、玄関の式台へてめえを踏み倒して、旦那にペコペコ詫《わ》びを言って……もう山の手はツケが悪いから下町へ下《おり》るんだって、日本橋へ来ると、魚屋の親方が呼び込んで、威勢よくやってくれ、一両祝儀をやる、って言うと、てめえ、二分でせえ目がくらんだところ一両と聞いて、ぐるぐるチャンチキリンリンリンと踊り込む途端に、穴蔵の片蓋《かたぶた》開いているのを知らねえで、獅子を被って穴蔵の中へ飛び込みやがって、野郎はどうでもいいけども、獅子は借物だから上げてやれってんで、ようよう引き上げた。てめえは無事だったが、獅子頭の鼻面《はなづら》を三寸ばかりぶっかきやがったもんだから、塗師屋《ぬしや》へやって鼻をつくろった。そんときの割前を、てめえ、まだ出しゃァがらねえ」 「なにを! 黙ってきいてりゃ、ぬかしたな、ほざきゃあがったな」  言うが早いか、辰公、いきなり傍にあった刺身皿を取って、ダァーッとぶっつけた……久次はひょいと首を縮めたので、皿は肩をかすって、後ろの柱へ、ガチャーンとぶつかって、皿はメチャクチャに割れ、刺身を頭から浴びて、鼻の頭へ海藻がぶら下がったり……ひっくり返る騒ぎ。 「やりゃがったなっ」 「やったがどうした」 「さァ、畜生! もう我慢できねえ。この野郎、さァ殺すなら殺せ」 「殺さなくってよーッ」 「待ってろ」  辰公はどたどたどたどた……二階から駆け下りて、台所の出刃庖丁を逆手に握ったところへ、鳶頭の姐御が帰って来た。 「おい、なにをするんだよ。そんなものを持って、ばかな真似をするんじゃないよ」 「姐さん、済みません。放しておくんねえ、満座ン中で野郎、は……恥をかかせやァがって、野郎生かしておかれねえ、一匹|取換《とつかえ》だ。さあ、野郎逃がすな」 「冗談じゃァないよ。だれか止めないか。仲直りに二階を貸したんじゃないか、喧嘩するために来たんじゃァなかろう?……おい、だれか、二階から下りて来て、押えなくちゃァ駄目だよゥ」 「殺すんなら殺せーッ」 「殺さなくてよーッ」  一軒置いた隣の剣術の道場では、 「さ、近藤、井上、待ちうけておった……早速お手合わせを願おう」 「いやァ……拙者、本日、疲れておるゆえ、まず明日ということに願おう」 「いや、これはけしからん。現在、太平の御代だによって、そのようなことを言わるるが、武士たるものが、戦場において、敵から勝負を申し込まれ、いざ一騎打ちという際に、疲れておるからよせと言えようか……いざ、支度めされい!」 「うむ、やむを得ぬ、しからば参ろう」 「さあさ、お相手を奉ろう」 「えいッ! お面ッ」 「お胴ッ」  ドスン、バタン……! 「さあッ、殺せッ」  ドタン、バタン! 「旦那、これなんですよ」 「なるほど、こりゃァひどい……こっちが喧嘩にこっちが剣術か、毎日というわけでもなかろう」 「いいえ、毎日のことですよ」 「こりゃァ驚いたな。竹や、棚のものを下ろしておきな……あッ、痛いッ、あー、御神酒徳利だ。こりゃどうも、大変な騒ぎだァ」 「ですから旦那、越してくださいよ。どうぞお願いですからさァ」 「まァまァ、わかったわかった。しかし、まァしばらく我慢をしていな。さっきも言ったように、こっちで越さねえでもいい。いまに二軒とも……鳶頭《かしら》って言ったって、たかが溝《どぶ》っ浚《さら》いだよ。剣術の先生なんて、手ェ振り棒振り剣術だよ。なあに、いくらか握らせて因果を含めりゃあ、向こうから喜んで引越していってくださる……そうしたら三軒を一軒にして住めるようになる。そうなりゃ文句はないだろ。もう少しの辛抱だよ」  伊勢勘の隠居は、妾と下女をなだめてその日は帰って行った。  さて、翌日、お竹は悔しいので、井戸端へ出たときに、この話を少し尾鰭《おひれ》をつけてしゃべった。……と、必ずどこにでも一人|鉄棒引《かなぼうひき》がいるもので、これを早速|鳶頭《かしら》の姐御へご注進したからたまらない。もとより男勝りのきかん気の女……鳶頭《かしら》が四日も帰って来ないのでたださえムシャクシャしているところへ、火に油を注がれたようなもの……カーッと癇癪《かんしやく》の虫がこみ上げて、いや怒ったのなんの……そのさなか鳶頭が帰って来た。  鳶頭のほうもさすがにばつ[#「ばつ」に傍点]が悪く、威勢よく格子を開けるわけにはいかないので、言わなくてもいい叱言《こごと》のひとつもくらわせる……。 「おい、奴《やつこ》、表を掃除しろい。なんでえこらァ、汚ねえじゃねえか。みっともねえや」 「奴、うっちゃっておきな。掃除なんぞしねえでもいいよ。どうせここの家は空家《あきや》になるんだから、うっちゃっておきな」 「なにを大きな声を出しゃァがるんだ。空家になるとはなんだ。間抜けめェ、気をつけろい」 「気をつけろって、大変な騒動が起ったんだよ。それも知らないで、どこをほっつき歩いてるんだい」 「なにを言ゃァがる。三日や四日家を空けたからって、変に気をまわすない!」 「鳶頭《かしら》、嫉妬《やきもち》じゃァない。あたしゃ悋気《りんき》なんかしない。おまえさんが一年帰らないでも出先がわかってりゃァ、ぐずぐず言ゃァしないが、鉄砲玉のように行先がわからないから、困るんだよ。家はひっくり返るような騒ぎが起ってるんだ。ここの家は店退《たなだて》を食ってるんだよ」 「ばかッ、大きな声を出しゃァがるな、店退だの地立《じだ》てだのッと、あんまり見得のもんじゃァねえ。けれどもここの家を借りるときに、�入用の節はいつでも明渡す�という店請け証文てえものが一本|入《へえ》ってるんだから、まだ行先がねえと、野暮なことも言えねえ。そりゃ、おめえ、空けねえわけにはいくめえ」 「それがねえ、家主からの店退ならわかるが、それがそうじゃないんだよ。隣の妾よ……伊勢勘のところから店退を食ってんだよゥ」 「なんだっておまえ、伊勢勘から店退を食う……筋はねえ……」 「筋がないにもなにも……それがしゃくにさわるんだよ」 「どうしたんだ?」 「じつはねえ、おまえの留守に若い者が来て、喧嘩の仲直りをさせるんだから二階を貸してくれってンだよ。いやとも言えないから貸してやったんだ……そうするとお定《さだ》まりだァね、酒ェ飲んで喧嘩をおっぱじめやがったんだよ……。一軒おいて向うの楠さんのとこじゃ、このごろお弟子が増えたんで夜遅くまで剣術の稽古をするんだ、両隣でこんなに騒がれたんじゃァ、血|逆上《のぼせ》がするとか気のぼせがすると言って、妾のやつが伊勢勘の薬罐を煽ったんだよ……すると、ここの三軒長屋てえものはなんだってさ、あの、伊勢勘の家へその……ほら、かじき[#「かじき」に傍点]に入《へえ》っているんだよ」 「なんだい、かじき[#「かじき」に傍点]てえのァ……刺身じゃねえか」 「じれったいね、なんだか抵当《かた》に金を借りて」 「家質《かじち》か?」 「そうそう、もうすぐに年限が切れて、そうすると、ここは伊勢勘の所有《もの》になるんだってさァ」 「ううん」 「そうしたら三軒長屋を一軒にして、あの妾を住まわせるって、言ってるそうだよ。あの妾があの薬罐を煽ったんだよ。薬罐がすっかり沸いちまいやがってさァ。それでね、なんか変なことを言ってやがったよ。『鳶頭だって言ったってね、たかが溝《どぶ》っ浚《つアら》いだ。剣術の先生だなんて言ったって、ありゃ手振り棒振り剣術だから、金をいくらか握らせりゃァ喜んで引越しちまう』なんてえことを、あの薬缶が言ってるそうだよ。ふん、なにを言ってやがんだ。まだ自分の所有《もの》に、はっきりなったわけでもないのに、下女に言いつけて、そんなことを近所隣へ言いふらされちゃ、みっともなくっていられやしないやね、こっちだって……鳶頭、おまえの男はすたったよ」 「ぎゃァぎゃァ騒ぐなよ。……じゃァなにか、たかが溝っ浚いと棒振り剣術使いだからいくらかやって追い出すと、伊勢勘の禿頭がそう言ったのか?」 「ああ確かだよ。あたし一人が聞いたんじゃァない。大勢証人がいるんだから……」 「よし、わかった。……羽織を出しな」 「羽織を?……しっかりおしよ。喧嘩に行くのに、羽織なんか着なくたっていいよ、火事|頭巾《ずきん》に手鉤《てかぎ》でも持ってって、あの薬罐頭をぶち殺しておやりよ」 「べらぼうめ、あんな家の一軒や二軒ぶち壊すのに、支度もなにもいるもんか……いいから、羽織を出しねえ」  鳶頭は羽織を引っかけて表へ出たが、隣の家へ行くかと思うと、その一軒先の剣術の道場へ……。  玄関構えで、正面には小さな衝立があって、槍が一本|長押《なげし》に掛けてあって、左右に高張提灯が並んでいる。端に大きな看板——「一刀流剣道指南処 楠運平橘正国」がかかっている。横へ曲ると武者窓が取ってある厳しい造作《つくり》で、高張の一つは退屈と見えて、胴が裂けて欠伸《あくび》をしている……。 「お頼み申します」 「どォーれ、いずれから?」 「あっしゃァ、一軒おいて隣の政五郎《まさごろう》てえもんでございますが……」 「おゥ、これはこれは……鳶頭でござったか」 「ェェ、先生がおいでになりましたら、ちょっとお目にかかって内々でお話申してえことがあるんで、お取次ぎを願います」 「おう、さようで。暫時お控えください……はッ、先生、申し上げます。ただいま、隣家の政五郎どのが参られまして、先生にお目にかかりたいと申します」 「うん、さようか。しからば、こちらへ通すがよい」 「どうぞこちらへお通りを」 「ごめんくださいまし……へえ、ちょっと伺わねえうちに道場の様子がすっかり変わりましてござんすねえ、どうも。……あァ、先生、どうもご無沙汰いたしまして……」 「よう、これはこれは、政五郎どのか。そこは端近《はしぢか》、いざまず、これへ、お通りくだされい」 「しからばごめん……と、言いたくなるね。先生のは、なにごとも芝居がかりでござんすね。じゃあ、まあ、ごめんなすって……」 「ご遠慮なく」 「先生、どうもご近所にいながらつい、貧乏暇なしてえやつで、ご無沙汰ばかりして申しわけござんせんで……」 「いやいや、てまえとても稽古繁多の折とて、存外無沙汰をいたしおるが……今日また何用あってご入来《じゆらい》にあいなったるか……」 「じつは、先生にちょいとね、折入って相談ごとがあるんで、まァ……まことに申しかねますが、ご門弟がたにちいっとの間|外《はず》していただきてえんでございますが……」 「おう、さようか。……いや、石野地蔵、山坂|転太《ころんだ》、北風|寒右衛門《さぶえもん》……そのほうたち、次の間へ退《さが》って休息いたせ」 「ははァ……」  芝居がかりだが、次の間などないので、井戸端へ行って日向《ひなた》ぼっこするしかない。 「して、どのようなご用件かな?」 「じつはね、隣の伊勢勘のことにつきましてね」 「なにか? 隣家の伊勢屋勘右衛門め、謀叛《むほん》の儀でござるか?」 「先生どうも、調子が高くっていけねえ。どうか内々のことなんだから少し調子を落しておくんなさい。ェェ先生のところでは、このごろ、お弟子さんが増えて、毎晩、夜稽古がはじまり、あっしの家《うち》では、若え者が二階に集まると、揚句の果てはいつも喧嘩になってどたばたやりますので、隣の囲い者が血|逆上《のぼせ》がするとか言って、隠居を煽《あお》ったもんとみえまして、あっしも知らなかったんだが、この三軒長屋てえものは、伊勢勘の抵当に入っていて、期限がまもなく切れて、抵当流れになる。そうしたら自分の所有《もの》になるから、両隣はたかが溝っ浚いの鳶頭《とび》に……先生、怒っちゃいけませんよ、禿頭の言ったことだから……たかが棒振り剣術|使《つけ》えだから、金でカタが付く、いくらかやって追い出して、三軒を一軒にして囲い者を住まわせようと……爺ィが言ってるそうなんで……」 「う、うーん、あの勘右衛門がさよう申すとな? 不埒千万《ふらちせんばん》なこと。たとえ町家たりとも楠運平橘正国が住まいおるならば城廓《じようかく》も同様、それを店退《たなだて》とは、城攻めに等しい。うん、まず表口を大手となし、裏口を搦《から》め手といたし、前なる溝《どぶ》を堀といたし、引き窓を櫓《やぐら》といたしておる。先方がさようなことを申すなら、当方にも覚悟がある。いや、加勢はいらぬ、地雷火を仕掛け、手勢をもって攻め滅ぼし、伊勢屋勘右衛門の白髪《しらが》首を討ち取って……」 「まァまァ、先生の言うことは、どうも大げさでいけねえや……戦《いくさ》じゃねえんだから……ご時節がら、そんなことをしたってしようがねえ。あっしにちょっと思いついたことがあるんで……後で驚くような……隠居の鼻をあかしてやろうと思うんですが、一人でやるのはおもしろくねえから、先生のところへご相談に伺ったんですが……済いませんが、先生、ちょっと耳を貸しておくんなせえ」 「よろしい、いずれへなり持ってまいられい」 「いいえ、別に持って行きゃァしませんがね。もっと、こっちへ寄ってくださいな。じつはね……」 「うんうん、計略は密《みつ》なるをもって良しとす……なるほど、うん、さようであるか」 「わかりましたか?」 「わからん」 「冗談言っちゃァいけません。わからねえで返事してちゃァ困ります」 「いや、これはとんでもないことをした。拙者、壮年のみぎり、武者修行をいたし、日光の山中において天狗《てんぐ》と試合をいたし、その折、木太刀《きだち》にて横面を打たれ、それ以来、左の耳が聞こえぬように相成ってござる」 「聞こえねえほうを出すこたァねえでしょう?」 「しかし、ひとにものを貸すには、まず不用のほうより貸すが得策《とくさく》……」 「冗談言っちゃァいけません……そっちならば、聞こえますか?」 「こちらならば、聞こえ申す」 「じゃァ前を通りますよ。ちょっとごめんなせえ……じつはね、先生、こういうことにしてえと思いますんで……ねえ……ようござんすか?」 「ふんふん、ふーん、なるほど……ふん、これはおもしろい、妙計である。うん、心得た。さっそく取りかかろう」  翌朝、楠運平先生、隣の隠居が出ないうちにと、朝飯が終るとすぐ、黒木綿の紋付に小倉の袴をはき、右手に鉄扇を持ち、朴歯下駄《ほうばげた》をカラカラ、妾の家へ……。 「頼もう、頼もう」 「だれか出て見ろ。表で大きな声がしているが……」 「はい……あのゥ、旦那、隣の先生が……」 「ああ、そうかい。こちらへご案内して……お竹や、座布団を持ってらっしゃい……さァさ、どうぞ先生、こちらへどうぞ……」 「ごめんくだされ。あなたがご主人でござるか? てまえ隣家に住まいをいたす、楠運平橘正国と申すいたって武骨者、以後、お見知りおかれ、ご別懇にお願い申す」 「これは申し遅れまして、どうぞお手をお上げくださいまし。てまえは伊勢屋勘右衛門と申しますまことに不調法者《ぶちようほうもの》、どうかお見知りおきを願います。引越して参りましてから、まだ先生のところへご挨拶にも伺っておりませんで、失礼をいたしておりますが……じつはてまえも隠居とはいいながら、店のほうが若夫婦だけでまだそう任せ切りというわけにもなかなか参りませんので、朝早く店へまいり、夜は遅く帰ってくるというようなわけで、それがために失礼をいたしておりましたが……しかし、お隣に先生がお住まい下さるのでなにかのときには……こちらは女ばかりで大変まァ安心なので喜んでおりまして、以後どうぞお心やすく願います」 「いや、これは恐れ入る。……いや、もうお構いくださるな。さて、ご主人、早朝から参上いたして、はなはだなんでござるが、折角お馴染にあいなったが、てまえ、近ごろ門弟も増え、どうも道場が手狭に相成ったゆえ、もそっと手広きところへ転宅をいたしたいと思い……じつは、お暇乞いかたがた、ご挨拶に伺いました次第で……」 「おやまァ、お引越しになるんでございますか? まァ折角、お馴染申しましたものをお名残惜しいことでございますな」 「ついては、まことに恥じ入った儀でござるが、てまえ長年浪々の身、貯え等もなく、なにかにつけて金子が入用、転宅の費用にさしつかえ、門弟どもの申すには、千本試合をいたし、そのあがり[#「あがり」に傍点]をもってこれに当てたならば如何《いかが》かと申すによって、当道場において三日ほど、千本試合を催そうと存じおるが……」 「へーえ、千本試合と申しますと?」 「いや、これはな、他流、他門のあまた剣客が参って試合をいたすのでござるが、そのときに、なにがしかをみんな持って参る。その金を集めて転宅をいたすのでござる。本来は、竹刀《しない》試合ではあるが、なかには真剣勝負になるものもござる。ほかの稽古とちがって、ずいぶん意趣遺恨《いしゆいこん》のある者がないとは限らん。もっとも、てまえとても、十分に注意はいたしておるものの、なにを申すにも大勢のこと、なかには斬り合いをはじめ、首の二つや三つ、腕の五本や六本は、お宅へ転げ込み、あるいは血だらけの者が、お宅の垣根を破って飛び込んでくるかも知れん。それ故、その三日間はどうぞひとつ、堅く戸を閉めて表には一切《いつせつ》出んようにして頂きたい。このお断わりに上がったような次第でござる」 「ははあァ、それはまたお勇ましいことでございますが……わたしどもは、お話を聞いただけで身がすくんでしまいます。まして、ここは女ばかりでございますから、その千本試合ということをお辞め頂くということにはいきませんか?」 「いや、拙者とても、ひっきょう勝手元不如意ゆえ、転宅の費用捻出のためでござる。金さえあれば、そんなことはしたくない」 「先生、まことに失礼ではございますが、そのお金というのは、よほどお入用でございますか?」 「いや、まず五十両あればよかろうと存ずるが……」 「五十両でございますか……へえへえ、なにとぞお腹立ちのないように願いますが……てまえは隠居の身分で……ま、いらない金というわけではございませんが、自分の好きに遣ってよいという金なら五十両ほど持っておりますので、それを一時お遣い……くださる、というわけには参らんものでございましょうか」 「いやァ、折角のご親切ではあるが、お断わり申そう。てまえ、無禄無庵《むろくむあん》の浪人、ご拝借いたしてもいつ返せるという当てがござらんので……」 「いえいえ、これはもうてまえのほうからお願いをしてお遣いを頂くのでございますから、もういつでも結構、先生のご都合のよいときにお返しを頂くように……如何なものでございましょうか」 「うーん、折角のお言葉、千万かたじけない。しからば金子、拝借いたそう」 「その代り、千本試合の儀は……」 「いや、拙者とても好むことではない。金子調達さえできれば……」 「さようでございますか? ありがとう存じます……おいおい、あの手文庫をな、こっちへ持って来て……それでは先生、五十両ございますので、どうぞお改めを願いまして……」 「いやァ、確かに五十両。しからばこれは暫時ご拝借いたす」 「それで、いったい、いつお越しになります?」 「ああ、明朝早々に転宅をいたそうと存ずるが……改めて、ご挨拶には参らんが落ちつき次第、引越先は知らせる。しからば、ごめんくだされ」 「では、ごめんくださいまし……驚いたねえ。どうも大変なやつだい。やりかねませんよ、千本試合。そんなものをやられてたまるもんか。まァ、五十両くらいで引越してくれりゃァ安いもんだァ。どうせいくらかやって店退《たなだて》しようと思ってたところだ。ちょうどいい。やけに目をむいておどかしやがったりして一時はどうなることかと思ったが、まァまァ、よかった……これで片っぽの剣術使いは片付いた」  入れちがいに隣の鳶頭がやって来た。 「へえ、ごめんくださいまし」 「さあ、鳶頭ァ構わず入っとくれ」 「どうも、旦那、ついご無沙汰申して済いません」 「いやァ、ご無沙汰はお互いだが、おまえさんところへはまだ越して来て挨拶にも行ってなかったが、ま、心やすだてということで勘弁してもらおうと思ってね」 「いえ、まァこうやって隣同士になりましたが、じつはお暇乞いに上がったようなわけで……」 「おやおや、どっかへ行くのかい?」 「へえ、こんど大きい仕事を引き受けましてね。ついちゃァ、職人だとか若《わけ》え者《もん》も大勢転がしておかなくちゃァならねえんで、もうちっと手広なところへ引っ越そうと思いまして……」 「ほう、そうかい。そりゃあ、まことにお名残惜しいが、仕事の都合で越すんなら、これァまァ結構だ」 「ついちゃあ、安く越せねえもんで、その銭をつくらなくっちゃァならねえんでね。花会《はなげえ》をやってみようと思いましてね。それも時節柄でござんすから、待合を借りたり、なにかするより、いっそのこと家でやったらよかろうというんで……」 「そりゃァ豪気《ごうぎ》だ。うん、おまえさんは顔も広いし、ずいぶん集まるだろう。ま、手拭の三本や五本はあたしもお付き合いをしよう」 「どうも恐れ入ります。なにしろ江戸の鳶の者四十八組の者が集まるから、大変《てえへん》な人数になっちまう。一日ではとても裁き切れねえ、二、三日はかかろうてえ……それも来る者に酒を一本一本|燗《つ》けて出し、一人前《いちにんめえ》ずつ料理を出すてえと……そんな小面倒臭えことは出来ませんしね。酒樽の鏡を抜いて、こいつを二本ばかり座敷の真ん中へすえて、柄杓を五、六本つけておく……酒の飲みてえやつは柄杓で汲んで、こいつをがぶがぶ飲む。肴のほうは、魚河岸《かし》から鮪《まぐろ》の土手を五、六本も転《ころが》しておいて、出刃庖丁と刺身庖丁をつけておく、肴が食いたかったらてめえで勝手に切って、醤油《しようゆう》をつけてむしゃむしゃ噛《かじ》らせようと……まァ、こういう趣向にしてえと思うんでげすが……。なにしろ命知らずの気の荒《あれ》えやつばかりが集まる。そこへ気狂え水が入《へえ》るんですから、喧嘩にならねえとも限りません。そうなれば、そこらにゃァ、出刃庖丁がある、刺身庖丁がある……お誂え向きってやつだ。てんでにそれを持って斬り合いをはじめりゃあ、血だらけになって、こちらへ転がり込んで来たり……まことに迷惑なことでござんすけれども、三日のあいだ戸締まりをして、外へ出ないようにして頂きてえと思いまして、じつはまァそのお願えに伺ったんでございます」 「なにうっちゃっておきねえ。そりゃァ結構だ。いいよいいよ。なあに近所はお互いだ、決して遠慮するこたァねえ。あたしもそういう威勢のいいことは大好きだ。うん。やるがいい……しかしなにか、鳶頭《かしら》、人死が出来ようね」 「ええ、そりゃァ出来ねえとも限りません」 「鳶頭……おまえ、そんなことをしなきゃァ引越しができねえのかい? え? 少し趣向が若すぎるんじゃないのかい? おまえの祖父《じい》さんの代からあたしの家へ出入りをしていた……おまえの代になってから仔細《しさい》あって出入りを止めたよ。しかしなにかあるときはおまえさんに頼もうと思っているんだ。その口で、旦那、実はこれこれでございますと、なぜあたしへ話をしてくれないんだ。おまえさん、たいそう纏まった金ならともかく、人死が出来るような騒ぎをして、一体いくら集めようてんだ」 「それァまァ……いろいろ入費を差っ引いて、五十両も残りゃァ御《おん》の字だろうと思ってるんでござんすが……」 「じゃあ、五十両あれば、そんな気狂いじみたことはしなくってもいいのかい? あ、そう……じゃァ、おまえさんにその金をあたしが上げるから……おいおい、手文庫を持って来な、……さ、五十両、持っといで。貸すんじゃァないよ、おまえにやるんだよ、返さなくってもいい」 「へえ……どうも、へへへへッ、なんだかこれじゃァ、旦那ンとこへ、ご無心に上がったようで……なんだかどうもきまりが悪いや。へへへへ……」 「では、鳶頭ァ、いつおまえ越すね?」 「へえ、金が出来りゃァもう……明日の朝、すぐ引っ越します。朝早いので別に改めてご挨拶に伺いませんが、落ち着き次第《しでえ》、またこちらへ伺うようなことにいたします。どうもいろいろありがとうございます。おかみさんもお達者で、お邪魔いたしました」 「おいおい、鳶頭《かしら》、お待ちお待ち……隣の楠さんのとこでも明日の朝早く引っ越すと言っていたが……いったい、鳶頭、おまえ、どこへ引っ越すつもりなんだ?」 「へえへえ、あッしが先生のとこへ越して、先生があっしのとこへ越します」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]上演時間にして約一時間の長篇である。「子別れ」[#「「子別れ」」はゴシック体](上中下)「らくだ」「妾馬」「大工調べ」「文七元結」「唐茄子屋」「山崎屋」「佃祭」「百年目」[#「「らくだ」「妾馬」「大工調べ」「文七元結」「唐茄子屋」「山崎屋」「佃祭」「百年目」」はゴシック体]等とともに十指に数えられる長い噺であろう。その他「お神酒徳利」「おせつ徳三郎」「ちきり伊勢屋」などがある。  この「三軒長屋」は、とくに登場人物も場面転換も多く……それを一人の噺家が演じるだけに、演者の力量が要求される大ネタで、その上、寄席や放送の�コマ切れ�の時間枠に収まりきれず、将来、ますます上演の機会はごく稀れとなり、本篇のように活字でしか目に触れることが出来なくなるかも知れない。  底本《テキスト》は、六代目三遊亭円生と四代目古今亭志ん生の速記を基にしているが、噺の展開を最近は損得ずくを価値判断の主軸にしているが、元来、人間は感情の動物である。長屋の騒動《トラブル》の発端は、下女のお竹が�人三化七�と若い衆にからかわれた意趣返しに、井戸端で鳶頭を�溝《どぶ》っ浚《さら》い�、道場主を�手振り棒振り�だと、陰口をきいたことに、隣家の鳶頭と先生が怒り、敵愾心《てきがいしん》を抱いたことにはじまった。伊勢勘の旦那は、大金を持ち、妾を囲う……許せぬ存在で、その弱みにつけ込んで脅し、痛い目に遭わせようというのが二人の魂胆で、金目的ではない。  伊勢勘はだいたい悪役で、質屋の因業《いんごう》主人《あるじ》で、卑劣で、不人情で、町内の嫌《きら》われ者であって、そうした対手に無理難題を突きつけ、計略《はかりごと》で、溜飲を下げようと、剣術の先生は見事効をそうして五十両を態《てい》よくせしめた。鳶頭のほうは、同じ型《パターン》の脅しを避ける演出上の配慮からか、旦那の態度が変転して、話のわかる度量を見せて、人情味もちらと表わす。演者はこのほうが演《や》っていて気分がいいだろうが、所詮騙しなのだから、敵対関係のままでないと後味が悪く、爽快感がない。サゲの洒落《ジヨーク》も生きない、と思うのだが……。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   二階ぞめき  ……絢爛《けんらん》眼を奪われる太夫道中の仲之町、格子戸の中に妍《けん》を競って客を待つ妓楼の賑わい、その裏通りで柄《がら》ゆきの変った下級女郎や住民が息づいている。ここでは按摩《あんま》が哀れ虎落《もがり》笛のような笛を吹き、蝋燭《ろうそく》の流れ買いが集めた屑蝋《くずろう》を黙々と蝋燭型に溶かしこんでいる。  人生すべてそういえるのだが、この二万七百余坪の四角い天地では、特にその禍福の懸隔が甚だしかった。  仲之町は吉原の背骨ともいわれ、寛保元年(一七四一年)以来、中央の道すじに桜を植え、ぞめき[#「ぞめき」に傍点]客はその両側を歩くようになった。おなじころ両側の引手茶屋の二階に軒提灯を吊し、花と提灯の間を歩くのだから、客の頭上はこの世で最高の華麗さに輝いた。唐では遊女町に花と柳を植え、花街または花柳苑と称したのにならったのだ。軒提灯の明るさは、これまた「不夜城」の名にふさわしかった。 [#地付き](稲垣史生『考証・江戸の再発見』より) 「若旦那、若旦那……若旦那ァ」 「なんだよゥ、番頭」 「若旦那、あたしの身にもなってくださいよ。あなた、毎晩毎晩遅く帰って来ちゃァ、表の戸をどんどんどん叩いて起すでしょ。大旦那がもう怒っちゃって……『伜がああじゃ、勘当しなくちゃァならない。世間に対してきまりが悪い、堅気の家《うち》の息子が夜遊びばかりしてちゃァ』って、それをあたしが番頭として黙って聞いてるわけにはいかないでしょ。え? だから……行くなじゃァないですよ。少しは家にいらして、偶《たま》に行くってことにしてくださいよ。偶に……」 「偶に? 嫌だね、おれはもう夜ンなると足がむずむずして、毎晩行かなきゃいられないんだよ」 「毎晩はいけません、若旦那。大旦那が言ってますよ。『伜のやつは、ああいうところへ行くようになってから、口の利きかたが乱暴になった。商人《あきんど》の家《うち》は口を丁寧にしなくてはいけない』って、若旦那、なんとかしてくださいよ」 「どうすりゃァいい?」 「では、若旦那、その妓《おんな》がそんなによけりゃァ身請けをして、どこかへ囲《かこ》っておくとかしたらいいじゃァありませんか?……それで大旦那に知れないように、昼間、ちょっと逢うとかなんとかすれば……?」 「おれは、妓《おんな》はどうでもいいんだよ。おれァ吉原ってえのが好きなんだよ」 「じゃァ、若旦那、吉原へ行ってぞめく[#「ぞめく」に傍点]のが好きなんですね」 「そうだよ。ひやかして歩くのが好きなんだよ。吉原を家にもってくりゃ出かけねえよ」 「そうですか。……じゃァ、お店の二階が広いんでございますから、二階を棟梁《とうりよう》に頼んで、吉原にすっかり拵《こしら》えてもらえばいいじゃないですか?……二階でぞめけばいいじゃァないですか」 「大丈夫かい? おれだって、毎晩毎晩あんな遠くまで行きたくねえや」 「そりゃァ、棟梁は腕がいいんだもの。頼めばきっといいのを拵《こしら》えますよ」 「そりゃァ面白いねェ」  番頭が出入りの棟梁に、若旦那の身が修《おさ》まるようにと頼み込んで、店の二階を吉原に改築した。棟梁も吉原の建築、様子を写しとって、遊女屋のように惣籬《そうまがき》で囲い、暖簾《のれん》を掛け、妓夫台《ぎゆうだい》を置き、くぐり戸を構え、行燈看板、提灯を飾り付け、毛氈を敷き、煙草盆など小道具まで整えて、……張見世をそっくり造った。 「若旦那、出来上りましたよ。見てください」 「そうかい、うまく出来たじゃねえか」 「それじゃァ、早速、ひやかしにひと廻り行ってらっしゃい」 「それじゃァ、その箪笥《たんす》に着物があるから出してくれ。着換えるから……」 「そのままでいいじゃァありませんか」 「そうはいかねえよ。着物を着換えて行かなくちゃァ面白くないんだよ」 「そういうもんですか? じゃァこれ、どうです?」 「おゥ、これはなァ古渡《こわた》り唐桟《とうざん》てな、こういうのを着なくちゃァひやかせねえんだよ。身幅も狭いだろう? 七五三、五分廻しってえンだ。こいつァなァ懐手《ふところで》してさッと歩いているてえと、内腿《うちもも》が見《め》えなくちゃァいけねえんだ。ひやかすにゃあ……ものは鉄火《てつか》に行かなくちゃァいけねえんだ。算盤玉《そろばんだま》の三尺を、ここできゅッと結んでおいてな」 「この着物の袂《たもと》は変わってますね」 「これァ平袖《ひらそで》ってんだよ」 「どうして袂がないんです?」 「そりゃァなあ、おめえ、吉原を歩いていて、ひやかし同士で突き当たったら、喧嘩が始まるよ。妓《おんな》が格子に掴まってみんな見てらァ、謝《あや》まるやつはいないよ、なあァ。だから、どーんと突き当たるとたんに、ばァばァーんと殴るんだ。……殴るか殴られるかだァ。そンとき袂があると、拳固《げんこ》がつかえちゃう。この野郎って殴ろうと思っても拳固がすぐ出ねえと、向うに先に殴られちまわァ。だからよゥ、いつでもかかっていけるように、懐《ふところ》ン中へ拳固を固めてもってるんだよ」 「えェー、おっそろしいもんですねェ」 「この手拭い、よく見てごらん。こいつァ�瓶《かめ》覗き�ってえんだ。え? これをこう……吉原被《よしわらかむ》りしてなあ」 「どうして?」 「夜露が毒だってやつよ」 「ここは二階だから、心配ないでしょ?」 「なに言ってんだ。ここは二階じゃァない……向うへ行ってひやかすつもりになんなきゃァいけねえんだからな……だれか来ても二階へ上げちゃァいけねえよ」 「へえ、畏まりました。じゃァ、お好きなように、どうぞ行ってらっしゃいませ」 「じゃァ、行ってくるから……」 「遅くなったって構わないんですから、どうぞ、ごゆっくり……あたくしはこれで階下《した》へご免蒙ります」 「……ェェどんな具合いかねェ。へェー、きれいだねェ。よく出来たねえェ。二階に吉原が出来りゃァこっちのものだ。……ええッ、どうだい、茶屋の行燈にちゃんと灯りが入ってらァ、いいじゃァねえかァ……え? 見世《みせ》張ってんな、妓《おんな》が……有難てえなァ、え? 妓夫台があって、若い衆《し》がいやァがる……え? ひとつひやかしてやるかなァ……。   ※[#歌記号、unicode303d]ェェーェェーいッ、  え? だれも、いねえェこりゃ、ね、こりゃ寂しいねェ、こりゃ……でも、こんな晩がねえ……とも限らねえンだね、うん。吉原てェところはよくあるんだよ。行ってるうちに……物日(紋日)になると、客はみんなどんどんどんどん登楼《あが》っちゃう。ひやかしももうくたびれちまって……帰《けえ》ってしまう、大引《おおび》け過ぎってえ時分だねェ、新内流しが遠くから聞こえてくる。按摩《あんま》の笛が横丁から聞こえてくる。あたりがしィーんとしているところを、ひやかして歩いてるってえのも、またいいな。……今夜はそういう晩だ。   ※[#歌記号、unicode303d]ふたァーつゥーゥうう、うゥ枕がァァァー、 『どうだい? 忙しいかい? え? なにォ、暇《ひま》ですゥ? なにォ言ってやンでえ。暇なことねえじゃァねえか。え? お客が放っとくだけのことじゃァねえか。なにォ言ってやンでえ。え? うゥん、え? 登楼《あが》ってくれ? 駄目、駄目だい。これからおめえ、ひやかすンだ。冗談言っちゃァいけねえや。また来るよ。ね、帰りに登楼《あが》るよ。うゥん。』   ※[#歌記号、unicode303d]おしゃァーべェリィ、ならばァーァァ…… 『ちッと、ちッ、ちッ、おゥ、と、ちッ、ちッ……』 『なァーんだよォ』 『ちッ、ちッ、いらっしゃいッ、いらっしゃいッ、話があるンだからさァ……』 『……いやァだァーよッ』 『まァ、そんなことォ言わねえで……いいじゃァねえ。……ねッ、ねッ、ちッ、ちッ、ちょいと、ちょいと……』   ※[#歌記号、unicode303d]なんのォー因果でェー、あの人ォーにぃー 『なんてえ妓《おんな》だい? なに、うん。たよりさん? ふゥん、顔を見せろよ、顔を……なんだい、たよりって顔じゃないよ。ご無沙汰して申しわけないって顔だ』   ※[#歌記号、unicode303d]晴れてェ雲間にィ…… 『おい、なにをするんだよォ、おッ、おいッ、いやァだってンだよ。……冗談言うねェ、おめえ、おれァひやかしィだってんだよ』 『でもさァー、お願いしますよォ、ねッ? あたしィ助けてくださいッ』 『やだよッ』 『登楼《あが》ンないとねッ、番頭ォが……』 『やだッてンだよッ』 『それがッ……』  こりゃァ忙しいなァ……こりゃ、忙しい、なにからなにまで自分で演《や》ンなくちゃァなんねェ。   ※[#歌記号、unicode303d]日ィびーィに、喧ン嘩ァァァー 『こんばんはァ』   ※[#歌記号、unicode303d]絶えェーェーやーァせぬゥーゥゥかァ…… 『ちょいと……ちょいとォ……』 『うゥ?』 『さ、一服おあがンなさいな、兄さん』 『おれ、かい? 済まねえなァ……』 『いいや、済まなかないよォ……あたしゃァ、おまえさんが好きだからさァ』 『うゥ?』 『もう今夜、遅いンだよ、ねェ、おまえさん、ねェ、ちょいと、兄ィさん。今夜ァ、登楼《あが》ってもらえない? え? いえ、無理に泊めちゃァ悪いンだけどもね。昨晩《ゆうべ》も一昨日《おととい》の晩もお茶ァ引いちゃって……ンだもの、ご内所にねェ、きまりが悪いンだよォ。だからこんな遅くまでここでお客ゥ呼んでンの。ね、兄さん、助けると思って、登楼《あが》ってくンな、ね』 『駄目なんだい。まだ吉原《なか》ァ廻るンだ』 『廻るったってもう、おまえさん、みんな寝ちゃってるよォ。ねェ、そんなことォ言わないで、登楼《あが》ってよ』 『やだよ』 『いいじゃないかねェ、……え? ちょいと、ちょいとォ、兄さん、ねェ、後生だから……え? 登楼《あが》ンないの? よすの? ひやかして行っちゃうの?……ふン、どこィ行ったって寝るとこなんぞ、ありゃァしないよッ。なんだいッ、ほんとうに、登楼《あが》れねえんだろ? 度胸ォねンだろッ』 『なに言ってやんでえッ、登楼《あが》れねえことねえやいッ。気に入らねえから、登楼《あが》らねえンだッ。こっちで気に入りゃァ身請けしてやらァ』 『なんだァッ? 気に入らないッ、大きな口をきくんじゃァないよ。なに言ってンだ、畜生ッ……どこが気に入らねえンだい。うゥッ、登楼《あが》りたくとも銭がねえんだろ? 銭なしッ』 『銭なしとォはなんでェッ。あるかねえかわかるけえッ?』 『わかるよッ、見りゃァわかるよッ、ほんとうに……。後生だから助けると思って登楼《あが》ってよッて妓《おんな》に言われりゃァ、男ってえものは登楼《あが》るもんだよ。え? なにしに来てるんだ。銭がねえんだろ? あったら銭を見せやがれッ、そうしちゃァ煙草のんで逃げちまいやがら、泥棒ッ』 『泥棒ッとはなんでェッ、畜生ッ。客を泥棒たァなんだァッ』 『なんだァッ、客だッ? ふざけたことォ言やがンなッ。客ッてえのは登楼《あが》るから客だッ、なに言ってやンでえ、ほんとうにッ、え? 野宿でもしゃがれッ、まごまごするな、畜生めッ』 『おゥ、おゥ、おゥッ、なんだァ、なんだァッ』 『なんだじゃァねえよ。こん畜生ッ』 『おゥ、よせやいッ。いけねえなァ、おめえ、なんでえ、妓《おんな》なんぞ対手《あいて》にして喧嘩なんぞ、するねいッ』 『だって、しゃくに触るじゃねえか、おめえ』 『しゃくに触るからッたって、そんなことぐずぐず言うなよゥ。え? そんなにおめえ、喧嘩ァしてえのかよゥ。喧嘩してえなら、おれが対手《あいて》ンなってやろうじゃァねえか』 『なァにをッ、対手ンなる? おゥ、売るのかい? 喧嘩ァ。買おうじゃねえか……あたりめえだァな、ほんとうにッ、もって来いッ』 『なにをッ?』 『もって来いってんだよゥ』 『さァッ……この野郎ッ』(と殴る) 『痛ェッ……こん畜生ッ。殴りやがったな、こん畜生ッ。この野郎ォッ!(と殴る)おれをだれだと思ってェやんだァッ。さァ、何人でもかかって来いッ、ほんとうにッ、え? おゥ、こっちァ命ィいらねえんだッ。さァッ、殺せッ、畜生ッ、殺せッ』 『なにを生意気なことォ言ってんだッ……』(と、殴りつづける) 『痛ェッ! こん畜生ッ』(と殴り返し) 『さァッ、殺せェーッ! 吉原《なか》で殺されりゃあ、本望だッ……殺しやがれッ! 殺せェーッ!』 「(二階のほうを見上げながら)伜のやつァ、偶《たま》に家《うち》にいると思うと、大きな声を出しやァがって、喧嘩ァしてやがる。……こりゃァ一人じゃァねえぞ? こりゃ、しようがねえな……おい、定吉《さだきち》ッ、定ァ」 「へえィ」 「二階でなんか大きな声ェ出して喧嘩してるな?」 「へえ?」 「おまえ、二階へ行って、やかましいッ、大きな声ェ出しちゃァいけねえって、言ってきな」 「ヘえィ」 「行ってきな」 「……あーッ、きれいだなァー、灯りがついて……、あッ、だれか?……頬被りして、……泥棒? 泥棒だッ。……おやッ? 若旦那だァ、なァーんだ、若旦那かァ、……一人で自分の胸倉ァ締めてやがン……。若旦那ッ、……若旦那ッ」 「さァッ、殺せッ! 何人でもかかって来いッてんだッ!」 「若旦那ッ、若旦那ッ」 「なにを生意気なことォ言いやがってッ……てめえなんざァ、おれがァ……」 「若旦那ッ、若旦那ッ……」 「なんだァ、肩なんぞ叩きやがって……おゥ、畜生ッ、なにをしやがんだッ……おや、定吉かァ?」 「へェいィ」 「悪いところで会ったなァ、……おゥ、定吉、おれにここで会ったってことォ、家に帰《けえ》ったら、親父《おやじ》に内緒にしてくれ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]店の二階の室内に吉原そっくりの張見世を造った。……いわば〈器《いれもの》〉を作った。それに〈魂〉を入れるのは、若旦那の空想に借りた噺家の芸——舌先三寸が、はじめてその〈世界〉を具現する、不思議な噺である。  噺家の、舌先三寸とは言うものの、今日のように、なにも経験を経ず、ただ芸として師匠より習得し、伝授されただけでは、どうしてもその迫真力《インパクト》が稀薄で、情感がない。その点、昔の噺家は、その〈世界〉に入れ込み、すべてを識り尽くし、身をもって体験し……その成れの果てに噺家になったような人が多かった。  この噺は五代目古今亭志ん生が得意としていたが、志ん生もまた、この噺を地で行くような半生を送り、それが血肉となって……志ん生のばあい、色事(女)よりも鉄火な無頼の出入りを好み、(若旦那を超越して)志ん生自身になりきった感があった。  それゆえ、目の前にいる高座の志ん生の背後に見える情景は、非現実な幻でなく、志ん生自身が感じ、味わった実際《リアル》の吉原の、煌々《こうこう》とした灯りと遠くから聴えてくる按摩の笛と犬の声と……、紅殻《べんがら》格子を通して、「ちょ、ちょ……いとォ……」という花魁のもの哀しい姿……であった。  私事だが、編者は昭和三十年代後半の秋のある夜、偶々、上野・本牧亭の講談の会で、助演《すけ》に出演した志ん生がこの「二階ぞめき」を演《や》ったのを聴いた。聴衆は二十人足らずであった。いつものざわついた賑かさはなく、あたりが水を打ったような静寂の中で、志ん生は一人、二階へ上がった若旦那のように……はなし出した……。——その煌々とした吉原の情景はいまも鮮明に記憶の中に生きつづけている。聴きおわって、表へ出ると、冴々とした月が昇っていた。その月明りを見上げながら、なぜか自分も吉原から素見《ひやかし》をしての帰り道のような気がしてきて、志ん生の唄った都々逸の文句を自然に口ずさみながら、附近《あたり》をふらふらと徘徊《はいかい》した。そして、うれしいような、かなしいような感傷に襲われて……気がつくと、頬に涙がつたわって流れていた。  なお、吉原被りの手拭いの�瓶覗《かめのぞ》き�は、「紺屋高尾」[#「「紺屋高尾」」はゴシック体]の久蔵の店で売り出した、それ[#「それ」に傍点]である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   富久《とみきゆう》  お馴染の幇間《たいこもち》の一席。  三代目柳家小さんのマクラから……お聴き願います。  ……稼業となりますとやさしいというものはただの一つもございませんが、いろいろ種類がございますうちに、なにがむずかしいと言って、幇間がいちばんむずかしいとか申します。  もっともわれわれ噺家から見ますと、一人のお客様の相手を致しますことですから、なんの仔細《しさい》もないことでございますが、ご洒家《しゆか》のお客様へ出ますと、自分が下戸《げこ》でもお酒のお相手をしなければならず、自分が上戸《じようご》でも下戸のお客のまえでは飲むわけにいかんという、まことにむずかしいものです。  ぜんたい幇間の本業というのは、お客のお供をして、正直な者が幇間ですけれども、ただいまでは芸人になりまして、何か桜川《さくらがわ》あるいは歌沢《うたざわ》とか称《とな》えまして、それぞれ芸名を付けますが、昔は、札差《ふださし》のかたが一人で遊びに行くのは、まことにいかんからだれか供に連れて行こう……と、この幇間に紙入れをそっくり渡しますから幇間が会計をやります。自分が一人で遊びに行って何十円というものが掛かりますが、幇間を連れて行くといくらか安く上がったという、それが幇間の働きでございます。ただいまではどうもそうでなく、世の中につれてでございますから、客が十円持っておれば残らず遣《つか》わしてしまうという、不人情のことになりました。お客様のほうでなるべく幇間を連れれば、昔は安く上がって残りは幇間の給金に遣《や》ったのであります。  浅草阿部川町に久蔵という幇間が、昔のことですがございました。幇間に久蔵と言うのは可笑しいようでございますが、俗名で稼業をしました時分でございます。  この人の一つの癖《へき》というものは、酒をひどく好みます。酒を始終飲んで酔っぱらって……さァ、今度はおしゃべりになる。眠くなるのはよくあるものですが、その晩のことは知らんことでも済ませますが、酒を飲むと機嫌の悪いほうですから、喧嘩をする。厭味を言う……そんな風でございますから、幇間には不都合な証拠でございます。あちらでもこちらでもそれをしますから、お客様は給金を遣《や》って、それでご馳走をして、それで喧嘩を吹っかけられて、再び買うものではございませんから、お客様残らずしくじってしまいました。  芸人にお客がなければしかたがありませんが、元の家にも住めません。女房は愛想をつかして出て行ってしまう、下女の一人も置きましたが家におりません。うって代って汚ないところへ這入って、髭面《ひげづら》でぼんやりしております。 [#地付き](「百花園」明治三十年四月刊より) 「久蔵さんじゃァねえか、こんなとこィいたのかい」 「おや、文《ぶん》さん、お久しぶりで」 「お久しぶりじゃァねえぜ、どうしなすッた、こんなとこで。大きな声じゃァいえねえが、たいそうまた汚ねえとこへ住んでるじゃァねえか」 「面目|次第《しでえ》もねえ……。いえね、かかァがああいうことになっちまってからというものは、お客というお客はこれみんなしくじり。ご近所には借金だらけの、いまじゃァあなた売り食いをしてるてえ始末で」 「そりゃ困ったことだねえ。ところで、よけいなこッたが、どうだい、元手入らずという仕事をやってるんだが、やっちゃァみねえかい」 「泥棒でげしょ?」 「泥棒とはご挨拶《あいさつ》だな。あたしもいつまで幇間をやってられなくて、知ってのとおりたいそうこの節は富《とみ》がはやるんで、じつはいま富の札を売って歩いてるんだが」 「あなたが富の札を? そりゃァまたあなたの身体にはまってますな。だいいち身装《なり》の拵えが粋で、それに威勢がいい」 「変なとこで世辞を言っちゃァいけねえ。どうだい、百枚売っていくらという割《わり》を貰うんだが、自分の売った籤《くじ》から当たりが出りゃァまた割が入るという寸法なんだ、売れるぜなかなか」 「へえ、けど、あたくし富というものを買ったことがないんで」 「なァに一分《いちぶ》で買って、運がよけりゃァ千両|富《どみ》が取れる。二番富が五百両。中富が三百両、二百両、百両といろいろある」 「一分が千両? たいした儲けじゃァありませんか。くだらねえ、売るよりは買いやしょう、何番が当たります?」 「そりゃァわからねえ」 「わからない? あなたまたずるいね」 「ずるかァないよ、当たりがわかるくらいならおれが買う」 「なるほど」 「こりゃァ深川の八幡だが、この札なんざァ木で鼻ァくくったような数だ、えてしてこんなのが当たるもんなんだ」 「何番てえんです?」 「松の百十六番」 「松の百十六番? 買いましょう」 「いいのかい、無理ィして」 「古川に水絶えず、一分ぐらいはあなた……、で、いつ当たります? 明日《あした》ですか」 「そうどうも急いじゃァいけねえ、まだ半月ばかり間《あいだ》がある。万が一に当たるかも知れないから、その札はなくしちゃァいけないよ。向うには台帳みたいなものがあって、それへ第何番、久蔵と、ちゃんと名前が書いてあるが、それが手形だ。そいつを持っていなければ金がとれないんだよ」 「へえー、なくすとどうなるんです」 「深川八幡のほうへ納まる」 「千両の金が納まるんですか。大変なもんだ……この札が千両と、なかなか大したもんだ」 「そりゃ当たれば、千両だが、当たらなければただの紙屑。でもなくしちゃァいけない」 「もしなくなると、胴屋《どうや》のかすりだ」 「胴屋のかすりてえことがあるもんか。寺社奉行の預りになる」 「へえェー、では、もし当たったら、別段にたいしたこともできないが、昔の好誼《よしみ》で、お礼に、金を十両、それから着物の表に羽織を……」 「そんなに頂くほど、お世話はしてないよ」 「遠慮するには及ばない。千両のうちの僅か十両くらい」 「もし、当たったらだろう? そんな心配はいらないよ」 「そう言わずに取っときねえ……まァ、なんにもないけど、汲み立ての水でも飲んでってください」 「冗談じゃァねえ。この師走の寒空だてえのに汲み立ての水は遠慮しとこう」  久蔵は、もう富が当たったような心持ちになって、大神宮のお宮の中へ富の札をおさめて、まず前祝いにと酒を五合買ってきて、お神酒を上げて、お下りをちびりちびりとやり始め、とうとうみんな飲んで、いい気持に酔ってしまった。 「(柏手《かしわで》を打って)天照皇大神宮《てんしようこうだいじんぐう》様、どうぞ富が当たりますようお願い申し上げます。あたくしはねェ、大神宮様のまえですけど、突き留め千両なんてそんな図々しいことは申しません。へえ、ェェ二番富の五百両であたくしは結構でございます。このたびの富が当たりませんと、源兵衛さんに申しわけがございません。五十両借りがございます。あのほうを何分《なにぶん》か利分をまけて貰いますつもりで、どうかお願い申します。それに久蔵もこんな家《うち》に住まっていたくございません。横丁の新道に二間半間口、奥行が五間ございまして、少しばかり庭がとれまして、ちょっと粋な家《うち》がございますが、四十五両ならば確かにまけるんでございます。あすこへ越しとうございますから、どうかお願い申します……ふふふ、有難てえな、こうなるとかかァを出さなけりゃァよかった。酒を食《く》らって威張《いば》ったんで驚いて出て行っちまいやがった。八丁堀の玉子屋へ嫁《かたず》いたというが、こっちに土台があるんだから、向こうへ掛け合い込むんだねェ、そうすりゃァ帰《けえ》(孵)ってくるだろう……いや、子供が出来たというから、戻らねえかしらん。なんとか女房を持たないとねェ、他人《ひと》が信用しませんから、あたくしゃ女房……女房てえことについていろいろねェ、考えているんですがねェ。どうもねェ芸者衆はあたしの商売を知ってますから、ばかにしていけません。花魁《おいらん》はだらしのないのがあっていけません。乳母《おンば》さんと子守《こもり》っ子は生意気なことを申し上げるようですが、あたしのほうからご免|蒙《こうむ》ります。お妾《めかけ》さんも悪くはないが、旦那がいるんだから罪になるね。堅気《かたぎ》の娘さんはむろん来ないね、赤ん坊じゃァ間に合わない……こりゃないね。……あ、あります。万梅《まんばい》のお松っつぁん。あたしゃ好きだね、主人思いで、人間が悧巧で、お客様を大事にして、お世辞がいいときている。もっともね、あすこのまた女将《おかみ》の仕込みがいいよ。『お立ちでらっしゃいますか、お危《あぶの》うございますよ。おみ折はあたくしが持って参ります。まッすぐお帰り遊ばせよ、ご心配をおかけンなっちゃいけませんよ、お近いうちにまた……』かなんかてえんで……、あたしァお松っつぁんに決めました。けど、こっちばかり決めたって先方《むこう》は決まらないよ。へい、大神宮様、どうぞひとつ何分《なにぶん》よろしくお願い申します……」  独り者の気散じ、前へのめると、ぐゥ……ッという高鼾《たかいびき》。  十二月の半ば、戸外《おもて》はぴゅうッという風……。  ジャンジャアン、ジャンジャアン。 「おう、ぶッつけてんなァ、熊公」 「この風だ、どっかで燃えなきゃ、おさまらねえ」 「ひとつ、屋根ェ上がって見つくれ。おめえ、何やらせてもドジだけど、火事見るのは上手《うめえ》や」 「よせやい、こんなときばかり、おれをあてにしやがって」 「二《ふた》つ半《ばん》だ、近くはねえだろ」 「ウウ、寒《さぶ》いや、こりゃあ」 「どうだ、どこらあたりだ?」 「待てよ……ええと、芝見当じゃねえかな」 「芝はどのへんだ?」 「そうだなァ、金杉《かなすぎ》でまえ……東へ振れてるねェ」 「知ってる家《うち》ァあるかい」 「ねえ」 「おれもだ……おお寒い、一杯呑んで寝ちまおうぜ。やい、早く下りてこい」 「すまねえな、いつもご馳走《ち》になって」 「誰もおごるとは言わねえや」 「ああ、そう。じゃ、小便して寝ちゃお」 「おい、待てよ。久蔵の野郎ォなァ……」 「奴がどうした?」 「何だか金杉あたりにいい旦那があったが、しくじった[#「しくじった」に傍点]って、さんざんこぼしてたじゃねえか」 「ああ、ああ、おれも愚痴をきかされたことがあるぜ」 「火事見舞に駆け付けりゃあ、詫びが適《かな》うかもしれねえぜ」 「そうか。ひとつ、起こしてやるか」 「……久さァん、いるんだろ?」 「へぇ?」 「火事だよッ」 「間にあってます」 「押し売りじゃねえや、起きねえ、火事だ」 「よござんす。焼けて困るもんはありゃしねえ、家は家主のもんで、蒲団は損料屋のもん……火事があったほうがぽかぽかあったまって、ありがてえ」 「暢気《のんき》なことを言ってらあ、火事は芝見当、金杉でまえなんだ」 「そこまであったまりにゃあ行けねえや」 「久さん、金杉に旦那がいたんじゃなかったのかい」 「金杉? そうそう、いたいた、いましたとも。いい旦那だったねえ、田島屋さん。あすこさえしくじらなきゃあ、今頃こんなとこでくすぶってなくともよかったんだ」 「どうだい、行ってみちゃあ。ひょっとすると詫びが適《かな》うぜ」 「ああ、火事見舞、熊さん、いいこと教えてくんなすった、ありがてえ」  久蔵は、酔いもさめ刺子《さしこ》なんて気の利いたものはないから、汚れた褞袍《どてら》に縄だすきをかけ、これに足袋|裸足《はだし》で横っとびに跳んで行った。 「ありゃありゃありゃありゃ、やァい。うえェい、こりゃこりゃこりゃこりゃい……あァあ、有難てえ、間に合った……へえ、こんばんは、お騒々しいこって、旦那はどちらに……? へえ、こんばんは」 「だれだ? おゥ久蔵か、よく来てくれた」 「へえ」 「おまえ、浅草から駈けつけたのか?」 「さいで」 「よしッ、いままでのことは忘れてやる、出入りを許してやる」 「有難う存じます。……それがこっちの付け目で」 「なんだい?」 「いえこっちのこッて。旦那、働きましょう。なにかお大事なものがあったらお出しなすって……」 「おいおい、久蔵はとても重いものはいけねえ、なるたけ軽いものを持たしてやれ」 「いえ、軽いものなんてあなた、火事のときの力は別でございますから、芸人はしておりましても、こんなときてえものはまた三人力ぐらいは出ますもんで。……この葛籠《つづら》を」 「これは掛物が入ってるから重いよ」 「いえ、こんなものぐらいあなた、あい済みません、この上へその火鉢をお載せなすって。へい、いえ、まだ載りますとも、それからその針箱を、へい、こりゃァあい済みません。あ、火鉢ン中にその鏝《こて》をどうぞお差しんなって、ついでにその瓢箪《ひようたん》を」 「おいおい、大丈夫かいそんなに背負《しよ》って?」 「なに火事のときの力は別でございます。旦那のまえですが三人力ぐらいは出ようってえもんで……芸人はしておりますが、いざお家の大事だなんてえときァ持てる力をふりしぼり……そのウッ……ッ、ちょっと載せ過ぎたな、旦那ァ、あい済みません。その瓢箪をお取んなすって」 「瓢箪ぐらい取ったっておまえ……」 「いえ、瓢箪を取ったなというところで、心持ちがまたちょっと違いますんで。へい、どうもあい済みませんッと……、あのゥ、少ゥし重いな、ついでにその鏝を取っていただきたいんで、あ、済みません。なァにこういうときてえものは……ッと、先日、腰を痛めまして、あい済みません。火鉢をおろしていただきますてえとまた……」 「冗談じゃねえ、だから言わねえこっちゃァねえ。そんなに背負《しよ》えるもんか……そら、いいかい?」 「へえ、よろしゅうございます。それさえおりればもうこっちのもので……おかしいな? こんな筈じゃァねえんだが。旦那、恐れ入りますが、その葛籠をひとつ」 「うるさいな、手数がかかってしようがねえ、おめえが来たために、かえって用がふえた。ほんとうに厄介な男だ……そらきた、おろしたよ」 「へえ、有難うござんす……へへへへ、どうも恐れ入りますが、その箱の蓋を開けて、中のものを出して……」 「だから言わねえこっちゃァねえ。それじゃァしまいになんにも背負わないことになるじゃァないか。……おや、湿《しめ》り(鎮火)ましたか、どうも有難う存じます。おかげさまで、危ういところでございましたが、どなたさまも、どうもお互いさまにおめでとうございます。ご苦労さまで……。おい久蔵、荷物はもういいよ。湿ったそうだ」 「湿りましたか、ああくたびれた」 「まだなんにもしてやァしないじゃァないか。……棟梁《とうりよう》、はい有難う。おかげさまで消えたそうだな。はいはい、番頭さん、店の者も大働きだったな、はい、ありがとう。久蔵、おまえはもういいから若い者に任せて、そうだ、おまえはみなさんと顔見知りが多いから、お見舞のほうのお名前をね、その帳面へ付けておくれ。落ちなく付けるんですよ」 「へい畏《かしこ》まりました。では、あたくしはひとつ帳場ンとこへ坐らしていただきまして。あ、お志津さん、そのお水を少しここへ入れてください。へえ、どうも済みません。ありがとうございます。(硯《すずり》の墨をすりながら)あちらはご町内のかたでいらっしゃいますか。こりゃァどうもみなさんお揃いで有難う存じます。あ、旦那、黒川の旦那がお見えンなりました、へい、有難う存じます、いい塩梅《あんばい》に早いとこ湿りまして、へえ、おや、吉国さんに土屋さんです、有難う存じます。片山の高坊? さいですか、いえ、こりゃァどうも見違えましたねェ、ご立派になって……それだけこっちは年ォとっちまったんだ。へい、どうぞお宅様へよろしくおっしゃっていただきます。有難うございました。万定《まんさだ》さん、有難う存じます。おかげさまで、一時はあなた火の粉《こ》をかぶりましてね、へえまったくどうもそのゥ。それはどうも、有難う存じました。……旦那ッ、ご本家からお見えンなりました。こりゃァどうもお早々《はやばや》とお見舞で、……へ? さいですか、それでは頂戴いたしておきます。旦那ァ、石町さんからお見舞を。お重詰に、ご酒《しゆ》が二本、おや、一本はお燗《かん》がついております、有難う存じました。どうぞご本家の旦那様にもよろしくおっしゃいまして、へえ、有難う存じます。……旦那、どういたします? これ。さいですか、ではこちらへ置いときます。旦那、ご本家からお重とご酒が届きました。一本は冷《ひや》ですが、一本はお燗がついております。どういたしましょ? さいですか。へ、ではこちらへ、こういうふうに、ちゃんと置いておきます。……加賀屋さんでらっしゃいますか、どうも有難う存じます。お宅へお帰りンなりましたら、この春の花見には、久蔵たいへん失礼申し上げましたとお詫びをおっしゃっていただきます。旦那様にくれぐれもよろしくお伝えくださいまし。有難う存じました。……旦那、一時はまったくどうなるかと思いましたが、おめでとう存じます。あの、ご本家からお重とご酒……」 「あんなことばかり言ってやがる、飲みたいか、飲め飲め、けど、たんとは飲むなよ」 「へ? いただいてよろしゅうございますか。あい済みません。えへ、いただけた義理じゃァござんせん。よくわかっておりやす。なにしろお酒でしくじったてえやつですから。へえ、駈けつけまして、その時にゃ、かっかいたしておりまして……いまンなって急に寒くなってきたようで……風邪でもひくと、このなんですから……(重箱の蓋をとり)旦那、どうも、さすがは石町の旦那だねェ、急に弁松《べんまつ》へそういったって間に合わないから、本町の四っ角で夜明かしの旨いもの屋を総仕舞にするというのは気が利いてるねェ。このおでんねェ、串ィ刺してあるところなんざァ乙でげす。お店《たな》の若い衆がお湯ゥの帰りに食《あ》がるんだから旨いや……まだ暖《あ》ったこうござんすよ。その下がと、あ、目刺しが焼いてあります。なんご[#「なんご」に傍点]の腸抜《わたぬ》きときましたね(一口たべ)、こいつァ乙だ。うッ、おあきさん、あい済みませんが、ひとつ湯呑を貸してください。へい、それで上等、あい済みません」 「大きな湯呑を持って来たな。大丈夫か?」 「おや、番頭の佐兵衛さん。お久しぶりでございます。お酌を……あい済みません」 「おい、湯呑を下へさげるやつがあるか。上へ持ち上げるもんだ」 「いえ、上へあげると注ぎが悪うございますから……(飲み)へえ、ようやく酒の味がいたしました。いままで水ばかり飲んでおりましたから。へえ、またこのお燗をしたやつは格別な味でござんす」 「今日はほどほどにしておけよ。酒でしくじったんだからな、おまえは」 「いえ、これに一杯や二杯ぐらいではなんのご心配はいりません。佐兵衛さん、胡麻《ごま》じゃァありませんけど、あたしァあなたのおかげで、どのくらい助けられたか、感謝してもしきれない……半年まえ、夏の暑いときに、こちら田島屋の旦那に一杯やっていけと言われて、台所で頂戴しましたが、ついつい飲み過ぎて、あたしがなんか毒づいて、佐兵衛さんに叱られて、土蔵に莚《むしろ》を敷いて寝かされて、目が醒《さ》めて見れば、身体が荒縄で縛《しば》られて、そのときは酷《ひど》いことをすると思ったが、あとであたしは涙が滴《こぼ》れました。それもみな佐兵衛さんのお指図で、有難うございました。いくら芸人でも面目ない、きまりが悪いことは知っております。ほんとうに申しわけなく思っております。……今夜はまた結構な火事のおかげで……いえ、火事も無事になぐれて、ほんとうにおめでとう存じます。でも、火事と聞いて駈けつけて、旦那からお出入りが許されて……こんなうれしいことはありません(飲む)……おや、金十《かねじゆう》さん、有難う存じます。あたくしですか? へえ、今夜駈けつけましたんで、旦那にようやっとお詫びが適《かな》いました。へえ、もう気をつけます。金十さん(帳面に付ける)、渡辺さんで? どうぞご隠居様によろしくお伝え願います。(飲む)山喜さん? あ、山喜の旦那だ。こりゃァどうもご遠方から、有難う存じます。(注ぐ)いえ、ただいま二杯目をいただきましたから。へえ、もう、これでもうお仕舞ちゃんちゃんに。(飲む)おあきさん、済みませんねえ。そのご酒を奥へやッといていただきます。こっちのはお燗がついてますんでね。そいから、これがお重箱、気が利いてらァね、ねえ、石町さんはまた。(飲みかけて)む、ウゥむにゃむにゃ……」 「そのね、どうでもいいが、飲むとかしゃべるとか、どっちかへ片っぽづけたらどうだい」 「あい済みません。へい、これでもうほんとうにおつもりに。……あッ、おあきさん、それをどこへ持ってくの? じゃァわたくしがひとつ何を、お蔵《くら》へ持って行きましょう」 「なにを……そんなことをしなくてもいい。おいおい、箱を蹴とばしちゃァ困るじゃァねえか。床の間のほうへ押っつけておきねえ」 「ェェよろしい……」 「よろしかァねえ、おめえは酔ってるからよしなよ」 「いえ大丈夫、お吸物膳二十人前? 心得た」 「それァおまえ、二十人前揃ってるんで、おれが秘蔵にしているんだ、おまえ手をつけなさんなよ」 「大丈夫大丈夫、ェェ大丈夫……よッ、しっかり、心得た……」  がらがらァ……がッちゃん! 「あァ、しまったッ」 「それっ、真っ二つになっちまった。ばか野郎っ」 「あははは、めでたい」 「なにがめでてえんだっ」 「二十人前真っ二つ……四十人前にふえた」 「ばかっ、なにがふえただァ。酔ってるからよしなってえんだ。もういい、邪魔にならないところで寝てしまえ」 「へい、まことにあい済みません。じゃァあたくしはお先にご免|蒙《こうむ》ります……」  久蔵は帳場格子の中へ入って、肱《ひじ》を枕にぐゥっと高鼾……。  火早《ひばや》い晩とみえて、またジャン/\、ジャン/\。 「おや? またぶッつけてるじゃァないか。番頭さん、だれか大屋根へ上がってますか、どっちだい見当は、北? なに浅草? 浅草はどの辺か訊いとくれ、鳥越《とりこえ》の方角? 番頭さん、鳥越見当にはお取引きのお店はなかったかい? そうか。……あ、久蔵ン家《ち》は阿部川町だったな、起してやれ起してやれ」 「おゥ、久蔵、起きろッ」 「へえ、どうもいろいろご馳走さま……」 「まだ飲むつもりだ。おい、火事だよ、久蔵」 「しめしめ……」 「なにがしめしめだァ。おゥ、おまえ、阿部川町だろ、えッ? 鳥越いまわり[#「いまわり」に傍点]だとよ」 「あ、さいですか、へ、それではあたくし、失礼いたします」 「おいおい、久蔵に蝋燭《ろうそく》を五、六本持たしてやれ、提灯をつけて行かなくちゃァいかねえ」 「へッ、有難う存じます。じゃ旦那、あたくし行って参りますから……」 「早く行け、行け……」 「どうも驚いたね、どうも。ひと晩のうちに火事のかけ持ちてえなァはじめてだ。……しょい……こらしょッ、しょい、こらしょッ、しょいこらしょッ……」 「あらよッあらよッ」 「威勢のいいお兄《にい》さんだね。そッ、そッそッ……これァこっちの火事のほうが大きそうだな、よっぽど汚ねえ家が多いとめぇて、煙が黒いや。そッ、そッ、そッ……」 「あらよォ、あらあらァ……ッ」 「あァ今晩はッ、あッ、今晩はッ……火元はどこです……?」 「おめえンとこの隣りだ」 「おいッ、隣りとくると……ああ糊屋の婆ァだ。爪の先ィ火をとぼして、始終けちけちしゃァがって、その火からぽォッ……」 「ぼんやりしてどうした? こっちへ入れ……てめえの家が焼けたか? そりゃァかわいそうなことをした。よしよし、家《うち》へ見舞に来て留守中焼けたというのは気の毒だ。心配するな、うちにいな」 「へッ、有難う存じます。旦那、どうぞよろしくお願いいたします……」  そこは芸人の有難さで、芝の旦那の家に厄介になった。  半月ばかり経ったある日。 「旦那、お早うございます」 「なんだい、久蔵。……おゥ、そうだ、おまえの家のことを忙しいのですっかり忘れてたが、これに帳面を拵えて初筆《しよふで》に金一両とわたしの名前と仕切り判を押しておいたから、これを持って、話はしてあるから最初に深川の豊島屋へ行って、これこれと言えばいい。それから両国へ行って柴崎さんのとこへ行って、ひと廻りして来れば五両か六両になる。それで家は持てるだろうよ」 「へえ、有難う存じます」  旦那の拵えた帳面を持って、深川の豊島屋へ行くと、一両出してくれて、ご馳走になって、八幡様のところへ来ると、ぞろぞろ人だかり……。 「おや? 年の暮れにお祭りかい?」 「富ですよ」 「富ッ……? ああ、おれも一枚買ってたが、暮れンなってから家が焼けるようじゃァ当たりっこはねえ。……もし、だいぶ済んだんですか? へェェ、中富も二番富も? さいですか、ちょっと伺いますが、その中に松の百十六番てえのはありませんでしたか? へえ、みんな千台《せんだい》? おや今度が突き留めですか」  わァわァ言っている境内が、水を打ったようにしィーんと鎮まり返る。  突き留め千両取りとなると、人の気が寄って箱の中の札が音をさせて動くというくらいの緊張が奔《はし》る。箱の両側へ稚児《ちご》が出て来て、がらがらッと振って札を掻き廻し、よく響く鈴のような声で「今日《こんにち》のォ」というと、かちり、柝《き》が入って「突きィ留めェー」とひとっ調子張り上げる。  三尺七寸五分という長い錐《きり》で、箱の穴へ……。 「御富《おんとみ》突きまァーす」  一瞬、だれもが固唾《かたず》をのむ。 「松の百十六番……松の百十六ばァーん」 「あァ……当たったっ」 「おゥ、ひっくり返っちゃった、おい、おい、しっかりおしよ……あ、久さんじゃねえか」 「へッ、大丈夫でござんす、どうぞご安心なすって、大丈夫で……文《ぶん》さん、当たったねェ」 「当たったァ。おい久さん、おまえ、突き留めだよ。おまえの来るのを待ってたんだ」 「火事で焼けてねぇ、どうにもしようがねえんだ。済まねえ、すぐに金を貰い……」 「あッ、すぐ取って来てやらァ。取って来てやるけど……今日はよしたがいいだろ、え?……お立替料一割、ご奉納金一割、二割、引かれるよ」 「ああいい、いいよ、二割なんぞいい。二割引かれようが五割引かれようが、十割引かれようが……」 「おい、十割引かれたら取るとこはねえじゃねえか……ああ、おめえが承知ならいいや、取って来てやろう。札をお出し……」 「あァ札?……札は、ぽォッ……」 「なんだい? 札はぽォッてなあ、え? 火事で焼いたッ? あの札をかい?……あッ、久さんそれァ駄目だ」 「なにが駄目なんで……」 「札ァ焼いちゃ駄目だ」 「そんなばかな話はねえじゃねえか、文さん。おめえが売ったんだろ? あたしが買ったんだ。松の百十六番。同《おんな》し札が二枚あるわけがないでしょ、売った者《もん》と買った者《もん》がここにいるんじゃありませんか」 「そりゃそうだよ、そりゃそうだけども、肝心の証拠の札てえものがなくちゃ駄目だよ」 「駄目? どうしても? なにもあっしァねェ、千両貰おうってんじゃないんですよ。じゃまけようじゃありませんか、五百両にまけよう……」 「いや五百両だって二百両だって駄目だよ」 「そいじゃ、そいじゃこうしてください、あたしゃ家さえ持てりゃァいいんですから、十両にまけましょう」 「十両が五両でも……鐚《びた》一文駄目だよ」 「そんな……いらねえやッ。胴屋のかすりだ」 「な、なんだい」 「なれ合ってやがって……おれぐらい情けねえ者はいねえや。ジャン、と言うからお客様の店《たな》へ行って詫びが適《かな》い、よかったと思ったら、こんだおれの家が焼けてしまう。家がどうにかなりそうになって、富が当たったら札がねえ。よくもなァ、首くくりの足ィ引っぱるようなことォしやがったな、畜生めっ。覚えてやがれ。おれは先ィ死んで、てめえェ、取り殺すからッ……」 「おい、そこへ行くのァ、久蔵じゃァねえか」 「……(しょんぼりして)あッ、鳶頭《かしら》ですか」 「おい、しっかりしろよゥ。おめえくれえ暢気《のんき》な男ァねえな、おい。火事だってのにおめえどこへ行ってたんだ。あの火事のときィ、一人で困ってるだろうと、奴《やつこ》を連れて飛んで行ったところ、家に錠《じよう》が掛ってて開かねえから、叩っ壊して中へ入《へえ》ってみると、別に金目のものもねえが、布団と釜、そいつを出させて、家《うち》にあるから、取りにおいでよ」 「へッ、有難うござんす」 「おい、しっかりしろよ。おい……さすがは芸人だな、え? 大神宮様のお宮、立派だねえ。あんまり立派だから、おれが家《うち》へ持って来た」 「こン畜生っ」 「おい、なにするんだッ……離せっ、おゥ、痛えっ」 「この泥棒っ」 「なにを言やがんだ、この野郎、いつおれが泥棒を……ばかァ、放さねえか、まァ家《うち》まで来ねえ……おい、おみつ、久蔵が来た。蒲団と釜ァ出してやれ」 「まァどうしたんだえ? 鳶頭《かしら》ァ」 「久蔵ンところの蒲団と釜ァ出してくれ……さァ、持ってけっ」 「こんなものいらねえやい」 「あっ、放り出しやがった」 「大神宮様を出せッ、大神宮様をッ」 「それ、大神宮様だァ」 「こ、こン中にあればよし、もしなかったら……」 「何だよ……おい久蔵、よく見ろよ、なに一つあとから手はつけてねえんだぜ」 「(お宮の中を開けて)あッたッたッたッた……」 「なんだ? おッ、おい、しっかりしろよ。どうしたんだ」 「あい済みません、有難う存じます」 「どうしたんだ? 急に」 「鳶頭《かしら》、胸倉ァ掴んだりして……申しわけありません。じつは、この札ァ千両富に当たりまして、この札がないと金が貰えません」 「えッ、当たった。めでてえな……おっかァ、久蔵に千両富が当たったとよ。運のいい男だな、この暮れンなって千両当たるってえのも、豪気《ごうぎ》だなァ。これもおめえが大神宮様を祀って、ふだん正直|者《もん》だからよ。正直の頭《こうべ》に神宿るてえなァこのこったァ……こんなめでてえこたァねえな、で、久さん、千両取ったらどうするィ?」 「へえ、これも大神宮様のおかげでございます。ご近所のお払い(お祓い)をいたします」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]冒頭の三代目柳家小さんのマクラで、幇間《たいこもち》の本来の由来が明かされる。最初は札差の遊興に付いて行き、会計、渉外、秘書係を勤め、芸人的な役割はその後付加されたと識《し》らされる。また久蔵という、芸名を名乗らない事情は、師匠及び置家をしくじった前歴のためで、いわば野《の》幇間《だいこ》。従って店に出入りし、旦那の雑用を万端引き受け、火事見舞に駈けつけ、来客の帳付けをしたりすることになる。  ご存知のごとく、三代目柳家小さんの久蔵は酒乱の気《け》があり、喧嘩を売り、狂暴性が隠されているが、八代目桂文楽の型は人当りがよく、あくまでも平身低頭で、酒を飲むとただだらしがなくなるちがいがある。本篇は文楽の型《タイプ》に軸を置いた。それに引きかえ、旦那のほうは久蔵が火事で焼け出された事情もあってか、久蔵を自宅に住まわせ、奉加帳まで回してくれる。「つるつる」「王子の幇間」[#「「つるつる」「王子の幇間」」はゴシック体]「愛宕山」「太鼓腹」などの旦那のように横柄で、幇間を弄《もてあそ》ぶようなことなく、人情で対応してくれる、いい時代が写し出される。  しかし、そうした目に見える人情でなく、久蔵に火事見舞に駆け付けるように促《うなが》す近所の人びとの呼びかけや、久蔵の留守中に家が火事になったとき、若い衆を連れて火事場へ飛んで行き、家の錠を壊して、中のものを運び出してくれた町内の鳶頭に最後に救われる。ふだんはとりたてて表情に出したりしないが、陰でつねになにくれとなく気を配っている、そうした人情が隅々にまで浸透していた。  それにしても、落語の登場人物は富を買うと、その他の「御慶」「宿屋の富」「水屋の富」[#「「御慶」「宿屋の富」「水屋の富」」はゴシック体]も一番富の千両がみな当る、当選率一〇〇%である(落語ファンの読者《あなた》もあやかって、宝籤が当るといいが……)。久蔵に千両富が当ったのは、�日ごろの行い�ということで、昔の人びとは納得した。そこが〈古典〉の古典たる所以《ゆえん》である。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   一目上《ひとめあが》り 「ェェこんちは……こんちは、いますかね? ご隠居」 「はい、どなただよ……おや、八っつぁんかい。おめずらしいね。こっちへお入り」 「へい、ありがとう存じます」 「お天気がよくって結構だね。春はそんなに忙しくもなかろうから、今日はゆっくりしておいで」 「へえ、今日、仕事が半ちくになっちまったんで、休んじゃったンですがね。で、家で、ずらりぼらりしていても、おもしろくもなし、茶ァ飲んでいても、家《うち》の茶が……隠居のまえで白状しますけれども、家の茶は番茶《ばんちや》でしょう。番茶てえやつはガブガブ飲んで、腹ばかり張って、小便《しようべん》ばかり出やがってしょうがねえ。そこへいくと、お宅で出る茶はいいお茶で、甘《あめ》えような苦《にげ》えような茶でがしょう。それにおまえさんとこは、空っ茶ってことはない。いつもお茶碗……じゃない、なんだっけね。お茶托《ちやたく》でもねえ、なんとか言ったけね、お茶……お茶桶《ちやおけ》じゃァねえ、鉢でもねえ、なんと言ったっけね」 「お茶うけか」 「そうそう、その桶でも受《う》けでも大した違《ちげ》えはねえや。とにかく、お茶のほかにお茶うけがあらァね。ひとついいほうの茶をいれてもらいましょう。番茶なら家《うち》でもありますからね。いいほうをね。空っ茶じゃァいけねえ、お茶うけはあるでしょう。ほら、いつもの羊羹《ようかん》?」 「今日は生憎《あいにく》ないよ」 「おやおや、ねえもんはしかたがねえ。じゃァカステラ?」 「ないよ」 「えッ、今日はねえんですかい? じゃァ、最中《もなか》?」 「ないよ」 「なにもないの。買っておけばいいじゃァねえか。あきれ返《けえ》ったもんだね。いくらけち[#「けち」に傍点]でもお茶うけぐらい買っとけばいいのに」 「いま婆さんが湯に行ってるから、帰って来たらなんでも買いにやるから、そう、愚痴を言うもんじゃァない」 「そうですかい。それは済いません。じゃァ婆さんが帰《けえ》ったら、どうせ買うなら、おれは甘《あめ》えもんよりさっぱりしたもんがいいね。ひとつ鮪《まぐろ》の赤身を一両ばかり、狸婆《たぬきばば》ァに言いつけて……鮪をひとつ」 「おいおい、いくら居ないからって家《うち》の婆さんを狸婆ァってえやつがあるかい。口の悪い江戸っ子とはいえ、面と向って言うやつがあるかい」 「いえ、いつも居ねえところで言ってるもんで、ご隠居の前《めえ》なら気がつくめえと思ってつい」 「あたしのかみさんだよ。忘れるやつがあるかい。……まあ、久しぶりのことだし、あたしもご相伴をするから、婆さんがもうすぐ帰って来るから、支度をさせて、鮪をご注文どおりご馳走しよう。……じつはこのところ退屈してたんで、ゆっくり遊んでっておくれ」 「そう来るだろうと思ったんだ。こう念を押しておけば、いくらおまえさんがけち[#「けち」に傍点]でも……、まァ鱈腹《たらふく》食い倒して、腹がはち切れそうになったら、お暇しようと、こういうぐあいにしますから……どうか、よろしく……」 「まァ遠慮なく、話し相手になっとくれ」 「ところでご隠居さん。そこの床の間に掛物《かけもの》が掛って、なんか高慢な面《つら》をしているが、どうですえ、もうちったァきれいな、ちょっと見て見心《みごころ》のいいやつを掛けちゃァ……あんまりこいつァ汚なすぎるねえ」 「いや、おまえの目から見れば汚ないかも知れんが、この古いところに価値がある。汚ないところに味わいというものがある。よほど渋味があって、こうして眺めているのがまことに楽しみなものだ」 「へえー、おまえさん、ちょいちょい掛物を舐《な》めるんだね。道理で端のほうが剥《は》げていて変だと思ったよ」 「舐めたのではない、眺めて楽しむのだ」 「へえーそうですかい。味わいがあるの、渋味があるのと言うから、舐めて楽しむのかと思った」 「こりゃァまァ、あたしの独楽《どくらく》だよ」 「ええ、ええ、ね。どくらく[#「どくらく」に傍点]ってえと、地獄の向こうにある?」 「そうじゃァない。ひとりで楽しむから独楽と言うんだ」 「へえェ……。なんかこう書いてありますね」 「へえー感心だね、どなたが描いたかわかるかね」 「そりゃわかりませんよ。なんというやつが描いたかなんて……」 「やつは乱暴だね。画は探幽、芭蕉翁の讃《さん》だ」 「へえー、その絵は笹っ葉の塩漬でしょう?」 「笹っ葉の塩漬なんかじゃない。これは雪折笹《ゆきおれざさ》だ」 「ああ、そうですか」 「ご存知か?」 「ええ、知ってますとも、雪折笹に群雀《むらすずめ》、如何《いか》に年期が増せばとて」 「それは投節《なげぶし》だ」 「ちがいますか?」 「これは堪忍の心持を書いたものだ」 「へえー、上のほうに書いてある能書はなんです」 「能書というのはおかしい、翁の讃だ」 「へえー、なんと読むんで」 「�しなわるるだけは堪《こら》えよ雪の竹�」 「へえー、なるほどね」 「わかったかい?」 「わからねえ」 「なんだい、わからねえで感心するやつがあるか」 「ェェこれァ、なにがどうなったんです?」 「これはな、雪が積って竹をこう倒している図なんだ、な? 竹を倒している雪は溶けてしまえば跡形もなくなってしまって、倒された竹は元の通りになる。してみれば、ものは堪忍が肝心だという、意味が表わされているんだ。�しなわるるだけは堪えよ雪の竹�」 「ああなるほど、へえ、こいつはすばらしいもんだね、見事なもんだね、日光の日暮《ひいぐ》らしの門だ」 「なんだい、日光の日暮らしの門てえのは」 「褒《ほ》めたんで」 「妙な褒めかたをするね、それじゃァ折角褒めてもかえって他人《ひと》に笑われる」 「へえー、なんと言えばいいんで」 「こういうものを見たときは、結構な讃《さん》でございます。いい讃だと言って褒めるもんだ」 「なるほどね。おまえさんが持っていりゃァいい讃で、女の年寄りが持ってりゃァ婆さん」 「婆さんって言うやつがあるか。いい讃……そうすると、人がまァおまえさんをあの人は見上げたって言うよ」 「あっしは、あれェ履きにくくっていやだよ、庭下駄だろ?」 「庭下駄じゃァない。あの人はものを識っているというので、たいへんおまえさんを見直すね。おまえさんのことをみんななんと言う?」 「みんなは、がらっ八《ぱち》って言わァ」 「がらっ八なんてのァ有難いこっちゃァない。仮にこういうものをいい讃ですね、と言って褒めると、おまえさんのことをがらっ八と言っていた人も八っつぁんと言うようになる」 「へえェ。じゃァ八っつぁんと言ってる人は?」 「八五郎殿だとか様だとか言うだろう」 「へえ、八五郎殿だの様だの、たいしたものだねえ」 「他人《ひと》から敬《うや》まわれる」 「なるほど、お賽銭を上げて手を合せ……」 「それは拝むんだ。人が重んずるようになる」 「ちげえねえ、釣鐘を持ち上げるんだ」 「それは重いんだ。人が尊《とうと》ぶということだ。おまえの言うことはみんなとんちんかんだ」 「じゃ、殿だの様だのの先はどうなります?」 「しつッこいね、そう根掘り葉掘り聞かれちゃァ困るね。その先はないよ」 「じゃァ殿だの様がドンづまりの突き当たりかい。てえとしかたがないから逆戻りして、元のがらっ八かい」 「ものがわかれば、そんなことはない」 「じゃァ、これからあっしァ、がらっ八がらっ八ってばかにしているやつのとこへ行って、いい讃だって褒めて、ひとつ驚かしてやろう」 「おいおい、待ちな。いま婆さんが帰って来て、おまえにご馳走するから、ちょっと待ちな」 「いいよ、ちょっと町内をひと廻りして、いま教わったとおり、ひとつぶっつけておかねえと明日《あした》ンなると忘れますから、急いでやっつけて……その間にご隠居さんとこで、鮪を誂えて支度が出来た時分に、八五郎殿になって戻って来るってえ寸法にしやしょう。じゃあ、ちょっと行ってくらあ」 「気が付かなかったねえ。結構な讃でございますと言やァ、八五郎殿だの様だのになっちまう。わけはねえや……さて、掛軸のありそうな家は……なにしろ、この町内は貧乏町内だから、気の利いた掛軸のある家なんぞまるでねえ。情けねえや……おお、そうだ、易者の先生のとこに床の間がある。こいつはいいや……こんちは、先生」 「はい、どなた? こっちへお入り」 「へえ、ごめんなさい。先生、ご在宅ですか?」 「おお、珍しい、だれかと思ったら八五郎さんか、こっちへお入り、どうしたい、八五郎さん」 「へえ、八五郎さんか。まだ讃を言わねえうちに、さんになっちまやァがった。この調子なら、すぐ八五郎殿に」 「なにを言っているんだ。入口はこっちだよ。構わずお入り」 「ごめんなすって……じつは先生のお宅の床の間の掛軸を見に来たんですが……そこの掛軸……おや、先生ンとこの掛軸は鯱《しやち》こばった字が書いてありますね。先生が鯱こばってるから字まで鯱こばってやがる。先生、あの鯱こばった字ィなんて書いてあるか、あっしには読めねえから、ひとつ読んでおくんなさい」 「ときどき、家へ来てはおまえさんは妙なことを言うが……これはな、滑稽《こつけい》なこと、愉快なことが書いてある」 「へえ、どんなことが書いてあるんです?」 「こう書いてある。�仁《じん》に遠き者は道に疎《うと》し、苦しまざる者は知に于《うと》し�と書いてある」 「へえ、ニョゴニョゴニョゴ、ニョゴニョゴ、ちっともわからねえ」 「はははァ、おわかりにならぬか、これはこういう意味だ。忠孝仁義ということをご存知だろう。仁義の道を知らぬ人間は、人道にはずれている。人間の道にはずれた人間である。また苦しまざる者は知に于《うと》し、苦労をして来ない人間は知恵がない愚かである。まあ早く言えばばかである、とこういう意味だ」 「へえー、どこが滑稽か、あっしにはわからねえ。ずいぶんむずかしくて、さっぱりわからねえ」 「そりゃァ、おまえにわからないのは、もっともだ」 「だって先生、滑稽で、愉快なことが書いてあると言ったでしょう」 「これは棒読みすると、滑稽になる。おわかりになるかどうか……ごらんよ、|遠[#レ]仁者疎[#レ]道《じんにとおきものはみちにうとし》、|不[#レ]苦者于[#レ]知《くるしまざるものはみちにうとし》で、遠《えん》の字が上《かみ》になって、仁《じん》の字が下《しも》になっているだろう。この遠《えん》の字はおとも読む、そこでこれを上から棒読みにするとおにはそとふくはうち[#「おにはそとふくはうち」に傍点]となるのだ」 「ははァ、こいつは結構な讃でござんすね」 「讃というやつがあるかい。これはな、連詩と言って、詩だな」 「四だァ? 嘘でしょう、三でしょう。どうでも四なんですかい?」 「詩だね」 「し[#「し」に傍点]と来た日にやァ、ぼくめん[#「ぼくめん」に傍点]次第《しでえ》もない」 「なんだい? ぼくめん次第と言うのは」 「面目次第を逆さにしたんで」 「つまらないものを逆さにするな、おまえさんは妙なことばかり言うなあ」 「どうも失礼しました。また伺います。さようなら……」 「なんだいばかにしやがる、隠居は三だって言うし、易者の先生は四だって言やがる。ありゃァ字ばかり書いてあるから四《し》と言うのかな? 絵と字と両方書いてあれば三四と言えばいいんだ。ところで、どこかねえかな、し[#「し」に傍点]を用いるところは……と、ええと、ああいうものをぶる下げてる家はねえかな……あ、あるある、表の医者のとこにあるよ……先生、こんちはァ」 「おお、珍客到来だな」 「先生、欲張っちゃァいけねえ、巾着《きんちやく》頂戴なんて」 「そうではない。珍しい客だから珍客と言うんだ」 「へえー、珍しいのは巾着で、ちょくちょく来ンのァ蝦蟇口《がまぐち》で」 「なに言ってんだ。どこか患ったのか?」 「いえ、生憎《あいにく》、丈夫だよ」 「丈夫に越したことはない。今日はなんの用だ?」 「先生のとこに掛物があるでしょ?」 「そりゃァあるよ」 「ちょいとそれをあっしに見せてください」 「粗末な、ごらんに入れるほどのものもないが、そこにあるよ」 「ああ、なるほど、お粗末だね」 「これはご挨拶だ。粗末とはこちらで言うこと。ちと大幅《たいふく》だが」 「ああ大福だ。こりゃ大きいや。中に餡こが入《へえ》ってますか?」 「大幅ってえのは、大きな軸のことを言うんだ」 「へえー、なんて書いてあるんです。どうか先生、ひとつ読んでくれませんか。あっしが片っ端から褒めるから……」 「いやァこれが褒められるとは、じつに不思議だァ」 「なんです、不思議だって?」 「まァおまえさんには褒められない」 「いやァ褒めるんだよ。いいから読ンどくんなさい」 「�仏は法を売り、祖師は仏を売り、末世の僧は経を売る。汝《なんじ》五尺の身体《からだ》を売って、一切衆生の煩悩を安んず。柳は緑花は紅のいろいろか。池の面に月は夜な夜な通えども、水も濁《にご》さず影も宿さず�」 「南無阿弥陀仏……」 「混《ま》ぜっ返しちゃいけない」 「ェェわかりました。こいつはァどうも結構な四だ」 「これは一休禅師の悟《ご》だよ」 「四じゃねえのかい。こいつは驚いた……さようなら」 「なんだばかばかしい。三だと言やァ四だと言うし、四だと言やァ五だと言う。一つずつ上がって来やァがる。するてえとなんでも一つずつ上がって行きゃいいんだな。三から四、四から五、こんど順に行きゃァ六だな……よしよし、一目っつ上がって行きゃァいいんだな……あははァ、そうとは気がつかなかったねえ」 「おう、がらっ、どこへ行くんだ?」 「おッ、がらっ八ががら[#「がら」に傍点]だけになっちまやァがった……おう、半公。おめえンとこに、凹《へこ》の間があるか?」 「凹の間?……そんなものはねえ」 「凹んでるから凹の間だよ。わからねえのか。そこンとこへなんかぶら下がってるものがあるだろ?」 「え? ぶら下がっているもんだって言やァがる。情けねえ野郎だァ。軸かァ?」 「軸だァい、軸軸ゥ」 「なんだい、じくじくって、腫物《できもの》がつぶれたのか。……で、どうしようてんだ」 「おれがそれを読んで褒めてやろうてんだ」 「生意気なことを言うな。友だちが集まって噂をしてなんて言ってるか知るめえ。世の中にてめえくれえわけのわからねえやつはねえ、それが軸を見たってわかるわけがねえ」 「なにを言やァんだ。褒められるとも……聞いて驚くなこん畜生っ」 「じゃァ、こっちへ入《へえ》れっ」 「上がるとも泥棒、え? どこにあるんだ」 「こっちィ来ねえ、これだ」 「ああなるほど、こいつは絵だな?」 「そうよ」 「絵とくりゃ、こっちのもんだ。字じゃァどうもいけねえけど、絵なら読める」 「なんだい、絵が読めるってなァ」 「こりゃァ、船へ大勢乗ってらァ。渡し場かい?」 「渡し場じゃァねえや」 「だっておめえいろんな人がいるじゃァねえか。恐ろしく頭の長《なげ》えやつがいるね。餓鬼の時分に寝かしようが悪かったんだな。脇にいやに大きな腹ァ出してるのがいる、十日も通じがつかねえのか」 「そりゃ金山寺の布袋《ほてい》和尚だよ」 「金山寺の、太《ふて》え和尚!?」 「布袋様だ」 「へえー、この頭の長えのは?」 「これは福禄神《ふくろくじん》だ」 「ああ百六十ゥ……」 「百六十じゃァない。福禄神」 「男ばかりの中に女が一人だけいるね、大勢で口説こうてんだろう?」 「そりゃァ弁天様だよ」 「この上に書いてあるのは能書か」 「ばかだなこの野郎は、能書じゃァねえ、これは歌だ」 「へえー、なんてえ歌だ」 「�なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな�……�ながきよのとおのねふりの�ってえから、人間がおっ母さんの胎内にいるときのことを言うんだな。�みなめざめ�ってえなァ、オギャアと生まれたときのことを言うんだ。な? �なみのりふねの�というのは、人間の一生は波の上へ船が浮いてるようなもので、浮き沈みはあるけれども、しまいはよく終りたいと言うので、�おとのよきかな�と言うんだ」 「へえー、流行《はやり》唄か」 「これは、春には縁起をかついで、どうしたってなくちゃァならねえもんで、上から読んでも下から読んでも読声《よみごえ》が同じなんだ。�ながきよのとおのねふりのみなめざめなみのりふねのおとのよきかな�ごくめでたい歌だ」 「こいつは、結構な六だな」 「ばか言え、こりゃ七福神だ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]隠居と八っつぁんの問答——素朴で、懐しい寄席落語の定番。かつては題名も縁起がよいので、寄席の初日、前座の開口一番、正月、祝儀などでよく演った。  題材も江戸の文化、教養にふれ、風雅で、品もある。〈耳学問〉としても格好の、身近な書画……それも多種あって、サゲも「いい六だな」「なァに、質の流れだ」「これは御一新の七卿落ちだ」ほかに「古池や蛙《かわず》飛び込む水の音」で、「これは芭蕉の句(九)だ」というのもあり、自在に伸縮できる。  また回文——上から読んでも下から読んでも同意の構成になる、和歌、連歌、雑俳などの〈言葉遊び〉も見事なもので、江戸の文化の水準《レベル》の高さがしのばれる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   木乃伊取《みいらと》り 「旦那様、若旦那のおいでになっているところがやっとわかりました」 「そうかえ、佐兵衛さん、どこにいたんだえ」 「吉原の、角《かど》海老《えび》……とか申す楼《うち》に、お遊びになっているということを、やっと突きとめたんでございますが……」 「呆《あき》れたもんだ。え? 今日で四日になるじゃないか」 「だれかお迎えにやりたいと存じますが、ああいうご気性のかたでいらっしゃいますから、また変にこじれたりして、かえってその依怙地《いこじ》になられてお帰りがないと困りますから、てまえがお迎えに参ろうかと存じますが」 「そうしてくれれば有難いが、じゃァすぐに行ってくれるか」 「へェ、吉原などというところはよく存じませんが、とにかくこれから参ってみることにいたします」 「それじゃご苦労だが、なにぶんよろしく頼むよ」 「へい。承知いたしました」  と、番頭の佐兵衛が若旦那を迎えに行ったが、その晩は帰って来ない。ことによるとなにか話が縺《もつ》れて、明日の朝は帰って来るだろうと待っていたが……昼になり夜になり、二日|経《た》ち三日過ぎ、五日待ったが帰って来ない。 「どうも呆れたもんだ。番頭のやつは、きっとあたくしがお連れ申しますなんて出て行ったが、伜と一緒になって遊んでいやァがるに違いない。じつにどうも、呆れてものが言えない。こんどはね、おまえがなんと言っても伜は勘当する」 「そんな、短気なことを……一人しかない伜を勘当できませんよ、あなた」 「できるもできないもないやね、帰って来ないものは……」 「番頭を迎えにやって帰らないから、それで勘当するというのは少し無茶じゃァありませんか。だいたい佐兵衛は、あたくしはふだんから気に入りません。口では堅そうなことを言っておりますが、芯《しん》はどういうものか疑っておりましたら、やはりこんなことに……どうもあの番頭は親身《しんみ》なところがございませんから。鳶頭《かしら》に頼んだらどうでしょう?」 「うゥん、そうだな。あの男なら大丈夫だろう」 「鳶頭《かしら》ならたしかでございますし、派手な付合いもいたしておりますし、ああいう場所《ところ》の振り合いもよくわかっておりましょうから」 「いいところへ気がついた。うんうん、早速、鳶頭を呼びにやろう」 「ああ、来たか? こっちへ通してくれ……よゥ鳶頭ァ、忙しいところを呼び出して済まないね」 「どうも旦那、元旦の朝にちょっとご挨拶に上がったっきりで、つい新春《はる》のことで、飲んでばかりいるんで、どうもごぶさたをして済みません」 「いやァ……じつはな、鳶頭《かしら》を呼びにやったのは、ほかじゃァないが……」 「へえへえ、よろしゅうがす、わかっております。あのゥ蔵のほうでござんしょ? 気にしてえたんでござんすよ。やっぱりねェ、仕上げるところは仕上げておかなくちゃァいけねえもんでがすから、ええ、よろしゅうござんす。これからすぐ左官屋のほうへ話をして、早速職人を差向《まわ》します。足場ァ組まして、すぐ仕事にかからせやすから……」 「おい、いや、その……蔵のことじゃァないんだ」 「蔵のことじゃァない……ああ、貸家のほうでござんすか。あれァやっぱり根継《ねつ》ぎをしなくちゃァいけませんで、へえ。もう少しはよかろうてえ間《うち》に、家をいためちまっちゃァ、なんにもなりませんからねェ。いまの間《うち》に根継ぎをしたほうが、とあっしも思ってたんで、へえ。わけァねえンでござんす。あいつァこのきりん[#「きりん」に傍点]てえやつで捲きまして……。ようがす、大工《でえく》のほうへなにして……すぐに……」 「まァまァ、おまえだけ一人でしゃべってちゃァ、なにがなんだかわからなくなる。仕事のことで呼びにやったんじゃァない。じつは、困ったことが出来たんだ」 「……? なんで……」 「じつは、家《うち》の伜が……」 「そうですか……亡くなったんで?」 「おい、正月早々、縁起の悪いことを言いなさんな。伜のやつが三日に年始に出たっきり帰って来ない。まァ八方捜したところ、吉原の角海老というところで遊んでいるという。どうしようてえと、番頭の佐兵衛が『あたしがお迎えに参ってお連れいたしましょう』と出かけて行ったが、今日で五日も帰って来ない。一緒に遊んでいるに違いない。もう腹が立ってたまらないから、伜を勘当しちまおうと言ったところが、婆さんの言うには、まァ、そんな気短なことを言わないで、鳶頭《かしら》に頼んでみたらどうだ。派手な付合いをして、鳶頭ならああいう場所《ところ》の振り合いがよくわかっているから、そのほうがよかろうと言うわけで、ま、まことに迷惑な使いだが、おまえにひとつ迎えに行ってもらいたいが、どうだろう?」 「へッへへへ、そうでがすか、若旦那がねェ。なるほど無理はありませんやねェ。若旦那なんぞお年は若《わけ》えし、男っぷりはいいし、旦那と違って金遣《かねづけ》えなんぞも……えへッ、なんでがす、まァねェ……へえ、そりゃもう……女の子がとォんと来るのァあたりまえでがす。向うがいい心持に遊んでるところィ行って……『さ、いますぐ帰っとくんねえ』なんてんで帝釈様《たいしやくさま》の掛物みてえに目を三角にして、引っ立てて来るなんてなァ、あんまりいい役廻りじゃァありませんけども……。いえいえ。そりゃァふだんお世話になりまして、祖父《じじい》の代《でえ》から出入りをさしてもらいまして……腐った絆纏《はんてん》の一枚も戴いて……」 「おまえも言いたいことを言う男だなァ、なんだい? その腐った絆纏……」 「いえいえ。へへ、そういうわけじゃァねえんで。絆纏なんぞを腐るほど戴いておりますし……」 「どうでも構わないが、おまえさんが行ってくれりゃァ……」 「えェえ、あッしが行きゃァ、四の五の[#「四の五の」に傍点]言わせやァしやせん、へえ。まごまごしやがったら、腕ェ叩き折って……」 「そんな乱暴なことをしちゃァいけない。喧嘩じゃァないから、じゃァひとつ穏やかに連れて帰ってくれりゃァ……」 「まァ任せておくんなさい。どんなことをしたってきっと若旦那を連れて参ります。大丈夫ですからまァ旦那、ご安心なさいまし」  これから鳶頭は刺子拵《さしつここしら》えをして、家を出て日本堤へかかると、向うから幇間《たいこもち》の一八が現われて、 「おォや、鳶頭《かしら》どちらへいらっしゃいます?」 「なんだ、一八か」 「へッへへへ、なんだ一八か、はないでしょう。どちらへ? え? お急ぎで……」 「ちょいと、野暮用《やぼよう》だよ」 「野暮用? へッへへへ……おっしゃったね、あなた。堤《どて》を通って、どこへ行くくらいのことはちゃんと寸法がわかっていますよ。ねえ、久しくここはお供をしませんがぜひ……ひとつゥ、お供を願おうじゃありませんか。ねえ、親方ァ」 「うるせえな。駄目だよ」 「そんなこと言わないで、連れてってくださいよ」 「今日はいけねえんだ」 「なんですよ。親方ァ、そんな怖い顔をして。あたしゃ……もうねえ、あなたを放さないよ。どこへでも付いて行きますから……」 「付いて来ちゃァいけねえ。そんなどころじゃねえんだ。今日はちょいとこみ入った話がある」 「こみ入るも入らないもないよ、あなた。もう決して離れないから」 「こん畜生、よせ」  振り切ると、向うへ突き飛ばして、鳶頭の足は速い、どんどん駈け出して角海老へ入った。  ……二階へ上がって、 「さァ若旦那、あたしがお迎えに参りましたンですから、どうか顔を立ててどうしても帰っておくんなせえ」  鳶頭は居丈高に、意見をしているところへ、さっきの幇間が……、 「どうも鳶頭ァ、いまほどは[#「いまほどは」に傍点]……」  って繰り込んで来た。 「まァまァ鳶頭……とにかく一杯戴きましょうよ」  これからわッ[#「わッ」に傍点]と遊興《さわぎ》になって、あとはどがちゃが[#「どがちゃが」に傍点]になって……、鳶頭は五日経っても帰って来ない。 「婆さん、見ねえ。行くやつ行くやつみんな木乃伊取《みいらと》りが木乃伊になっちまやァがる。番頭は堅いと思ったら帰らない。鳶頭はさんざん啖呵《たんか》を切って行ったが、また鉄砲玉だ。どいつもこいつも呆れ返《けえ》ったもんだ。こうなると、婆さん、おまえが恨みだ。伜のことと言うと陰になり日向《ひなた》になり、あたしの目褄《めつま》を忍んで金をやったりなにかするから、いい気になって、とうとういい道楽者になっちまった。だいたいあんな道楽者を拵《こさ》えたのは、おまえが悪いんだ」 「お父っつァんはなにかあの伜《こ》に悪いことがあると、おまえが悪いとおっしゃるが、あなた、そう頑固なことを言ったっていけませんよ。若い者《もん》ですから道楽もしかたがございません。意見するところはして……」 「おまえがそういうことを言ってるからいけないんだよ。おまえが要《い》りもしない余計な金をあてがったりするから、ああいう道楽者が出来上がるんだ。なんだ? 遣《つか》うことばかりで儲けることは知りゃがらねえで、あたしなんぞはねェ、あいつと違って、若い間《うち》から道楽なんてえなあ、これっぱかりもしたことがない」 「お父っつァんはなにかと言うと、おれは堅くって道楽はしない、とおっしゃいますが、そりゃあなたは外《そと》の道楽はなさいませんよ。その代り家《うち》ィおく女中はみんなあなた……」 「なにを言ってるんだ。いまそんな話をしてるんじゃァない。……あんな伜にこの身上《しんしよう》は譲れません。子のないものと諦《あきら》めればそれまでだ、勘当をしてしまおう。叱言も意見ももう言い飽きた……だれだ、そこへ来たのは?」 「ちょッくら、ご免なすっておくんなせえ」 「なんだ? 権助の清蔵じゃァねえか」 「へえ」 「なにしに来た?」 「はァ、若旦那がお帰《けえ》んなさらねえんで、さぞかしご心配な事《こん》だんべえと思って、そんでおらがかげながらお心のうちをお察し申しますで……」 「まァおまえも、そうして気を揉んでくれるのかい。有難うよ。でもおまえがいくら気を揉んでも無駄だから……あっちへ行ってなさい。伜のことでむしゃくしゃしているところへ、そうずかずか座敷へ入って来ちゃァいけねえよ」 「そこでがすよ。はァおめえさまたちが夜《よ》の目も寝ねえで心配《しんぺえ》ぶってるのを、なんぼ権助だって知ンねえ顔をしているわけにいかねえでさ。……そんでおらが今度、ちょっくら行ってくべえと思うが……」 「余計なとこへ口出しをしなくてもいいてんだ。番頭が行き、鳶頭《かしら》が行ってさえ帰らないものを、おまえなんぞが行って、なんで帰って来るわけがあるんだ。おまえは余計なとこへ口出しをしなくても、飯《めし》の焦《こ》げないように台所にいりゃァいいんだ」 「こりゃァ……ちょっくら伺うべえ」 「なにを伺う?」 「そりゃァ、おらァ台所をまごついて、竃《へつつい》の前《めえ》へ坐って、飯焦げねえようにすれば給金を貰ってられるだども、それじゃァはァ人間《ひと》の道に欠けるべえと思う。まァ、仮にここな家へ泥棒が入《へえ》って……」 「いつ入るんだ」 「いや、いつ入るじゃねえ。こりゃ、ま、ものの譬《たとえ》だでな。泥棒が入って、金ェ盗られるべえじゃァねェ、あんたが泥棒におッ殺されて……」 「なにを言うんだ」 「いやァ、怒っちゃいかねえ。だがら、こりゃま、ものの譬だ」 「そんな、いやな譬があるか」 「……おッ殺されべえちゅうときに、おらァ飯炊《まンまた》きだから、飯《まんま》せえ焦げなければええから言《ち》ッて、台所におらが蹲《つくば》ってるわけには、いかなかんべえ。泥棒と一騎打ち勝負をぶって、あんたァ助けるのがおらァ、人の道だんべえと思う。おらァの言うことに間違いはねえはずだ。ちょっくら伺いてえ」 「それごらんなさい、あなた。清蔵に一本やられましたろう」 「余計なことを言うな」 「あなたはまァ、がみがみ言って、それじゃァものはまとまるもんじゃありませんよ。……清蔵、おまえなにかい、伜を迎えに行っておくれかい?」 「はあ、よろしゅうごぜえます。おらが行かば決して間違《まちげ》えはねえ、きっと若旦那ァ首ン縄ァ付けても、しょ引《ぴ》いて来るだで、心配《しんぺえ》ぶたねえほうがええ。いま、支度ゥぶちやすから……」  清蔵は、二階へ上がって、郷里《くに》から持って来た文庫の蓋をとって、手織木綿《ておりもめん》の、昆布《こんぶ》の皮のようなごつごつした裄丈《ゆきたけ》の短い着物を着て、茶だか紺だかもう色のわからなくなった小倉の一本|独鈷《どつこ》の帯を胸高に締めて、熊の皮で拵えた自慢の煙草入れを前へ差して、一昨年《おととし》買った草履《ぞうり》を大事そうに出して、二階からのそのそ降りて来る。裏口から出ようとすると、内儀《おかみ》さんが待っていて、 「清蔵……おまえ、伜に会ったら、お父っつァんは、ああして大変怒ってらっしゃるが、あたしがなんとでも詫びごとはするから、少しも早く帰って来るように、もしも勘定が足りないといけないから、この巾着をおまえ持ってって勘定を済まして伜を連れて帰っておくれ、いいかい……」 「(巾着を内懐へ入れ)有難てえもんだねェ。……あんだにへえ、道楽《のら》べえこいてる若旦那ァ、そんだに心配《しんぺえ》ぶちなさるだな。ようがす、おらが、あンと言っても若旦那ァ、しょ引いて来るだで、大丈夫だァ、これァはァ確かに預かりました」 「じゃァ頼むよ」 「ようがす。じゃァ行って参《めえ》ります」  権助の清蔵は、もとより見栄も素っ気もない。頭髪《あたま》はもうぼうぼうと伸びて、顔はむく[#「むく」に傍点]犬のように髭がもじゃもじゃと生《は》え、おまけに鼻毛が五分も伸びて、せっせと歩くので呼吸《いき》をするたびに出たり引っこんだりして、くしょんくしょんくしゃみをする。前を見ると熊の皮の煙草入れに橙《だいだい》の根付けがぶらさがってる。懐手をして吉原へ入って来て、角海老は訊いてすぐわかったが、夜と違って昼の廓《くるわ》はひっそりとして寂しい。  角海老の前まで来て、突っ立って中を覗いてると、若い衆が出て来て、 「へえ、いらっしゃいまし」 「ちょっくら訊くが、汝《われ》がとこは角海老か?」 「へえ、さようでございます」 「じゃァ、おらとこの若旦那、汝《わが》とこに来てべえ」 「へえへえ……ェェ、お茶屋はどちらでいらっしゃいます?」 「そんだなことは、おらァ知ンねえが、若旦那と佐兵衛さんてえ番頭さんと、そりから、喜太郎てえ鳶頭《かしら》と三人で来ているだな。そう言わばわかんねえこともなかんべえに……いねえのなんのと、隠し立てすると、為《ため》ンなンねえぞ」 「えッへッへッ、別に隠し立てはいたしません、はァはァ。お三《さん》かたのお客様と……ああ、確か丸小《まるこ》のお客様でございましょう。それならばおいでになっております」 「おらの来たこと、ちょっくら若旦那に取り次げ」 「はァはァ、お迎えで、いらっしゃるんでげすか?……あァ、さようでげすか。へッへッへへ、どうもお寒いところをご苦労様でございます。どうも……へへへへへ」 「あンだ、この野郎。おかしくもねえことを、えへらえへら笑やァがって。笑うだら、あははと笑ったらよかんべ。あンだ、鼻の先でいひひひ……蔑《さげす》み笑《われ》えと言って、よくねえ笑《われ》えかただ。肋骨《ろつこつ》の三枚目から声が出ねえか……この野郎。汝《われ》の面《つら》ァ……天庭《てんてえ》(額《ひたい》)に曇りがあって、はなはだ相好《そうこう》のよくねえ野郎だ。おらァ来たことをちょっくら若旦那へ取り次げ。取り次がねえと野郎、ぶっ張り返《けえ》すぞ!」 「へえへえ、お取り次ぎをいたします。少々お待ちを願いまして、まっぴらごめんくださいまし」  若い衆は面くらって二階へ飛んで行って、 「ェェ、あのゥ恐れ入りますが、ちょっとお静まりを願いまして……ェェご一同様へ申し上げます。ちょっとお目にかかりたいというかたがお出《い》でになりましたが、如何いたしましょう」 「おうおう、喜助じゃねえか……入んな、入んな。飲ましてやんな。おう、こっちィ入《へえ》れ」 「いえ……若旦那へお使いがお出でになりました」 「だれが来たって? また迎えだろう? どしどしこっちィ上げて飲ましてやれ。親父《おやじ》のほうじゃ、また怒って、どんどん迎えを寄越すに違《ちげ》えねえから、来たやつは大勢こっちへ溜めてな、だんだん賑やかにしようてんだ、はははは……面白いだろう」 「へへへ……へへ、それがどうも、いままでのお使いと違いまして、おッそろしく風変わりなかたがいらっしゃいました、ええ。わたしがへへへと笑いましたら、いきなり叱言を食らいました。へへへだなんてえのは蔑み笑いと言って、よくない笑いかただ、肋骨の三枚目から声を出せなんてことは素人《しろうと》には気がつきませんからな、へえ。天庭に曇りがあって、はなはだ相好のよくない面だァとおっしゃいました。人相見のかたじゃァございませんか?」 「ふーん、親父もまた変なものを寄越したもんだな……だれだろう? 番頭」 「さあ、わかりませんなァ……どんな身装《なり》をしていたい?」 「なにか、手織木綿のような、手丈夫な着物で……あ、熊の皮の煙草入れを前に差して……」 「あァあ、わかった……わかりました」 「だれだい?」 「熊の皮の煙草入れを持っているんなら、余人じゃァありませんよ。台所のあれ[#「あれ」に傍点]ですよ、清蔵ですよ」 「ぷッ……親父も変な者を寄越しゃァがったな……いいよ、いいよ、上げな上げな……こっちへ。若い衆、心配の者じゃァない。家《うち》の飯炊《めした》きだ。清蔵という、人間はちょいと頑固なようだが、あれァとぼけたところもあって面白いやつなんだ」 「お宅の……あれが飯炊《めした》き……ぷッ……恐れ入りましたなァどうも……。若旦那のような粋なお宅ィ、よくまた、あんな頑固なやつを飼っていらっしゃるんで……」 「この野郎っ、あンだっ」 「へえ、これはもうお上がりでございますか……ェェお迎えの旦那様はこのかたでございます」 「野郎、はァおらが後にいるのを知らねえで、この野郎。犬や猫でもあンめえし、飼っとくだなんて言《こき》ゃァがって、面ァ見れば手のひらァ返したように、旦那だなんて言《こき》ゃァがって、人を上げたり下げたりしゃァがる。この野郎、殴《は》っくり返《けえ》すぞ」 「へえ、どうぞご免くださいまし」 「おいおい清蔵、なんだ、見栄の場所へ来て、荒ッぽいことを言っちゃいけねえ。ま、こっちィ入んな」 「ひゃァ、これは、若旦那ァ、まァご免なすっておくんなせえ……番頭さん、鳶頭《かしら》、このたびはお迎えに長《なげ》えことご苦労さんでごぜえました。……あンだまァ、番頭、あんた店《たな》ァ出るときゃ、汝《われ》が行って連れべえなん言《ち》ったそうだが、あンだ、その態《ざま》は、え? 店《うち》の白鼠《しろねずみ》(忠実な奉公人の意)だなんて、白鼠ではねえ溝鼠《どぶねずみ》だ。ばか野郎! 鳶頭もそうだ……腕ェ叩き折っても四の五の言わせねえで連れて帰《けえ》るってえことを言《こ》いたが、あンだ、くそったれ。あンだまァ……踊り、えかく上手《うめ》えでねえか。まっと踊ったらよかんべえ。※[#歌記号、unicode303d]奴さん、どちら行くゥ、でもあンめえねえ。どけェでも行けや、ばか野郎。鳶頭《かしら》、鳶頭ってえば、ええ気になりゃァがってェ、あにがかしら[#「かしら」に傍点]だ、この芋頭《いもがしら》」 「ははははは……おい、清の字、おい。そうとんがる[#「とんがる」に傍点]なよ。しようがねえんだよ、え? 大旦那の前《めえ》じゃちょいと啖呵《たんか》ァ切ったけども、さてここへ来るてェとそうも言えねえ、いろいろわけがあるんだからよ、ま、へへへ……そう怒るなよ。まァ大将、こっちィ来て、機嫌を直して、一杯《いつぺえ》飲め。おうッ、大将、一杯飲みなよ、大将……」 「あンだ、大将、大将って……おらァ戦さしたことねェ……やァ女子《おなご》たち、そう三味線をジャンガラジャンガラかン廻しては、騒がしくて話ぶてねえから、少しやめてくらっせえ……これこれ太鼓《てえこ》叩く姐さん、太鼓《てえこ》ぶっぱたくでねえ、このばか野郎! さがってろ!……まっほかの者はええ。……ェェ若旦那様、あなたもなァ、いつまでもここにいたかんべえが、大旦那や、おふくろ様がえらい心配《しんぺえ》ぶってるから、おらがのような者でもはァ見かねてからに、若旦那のお迎《むけ》えに出ましたようなわけで、どうかいッぺんおらがと一緒にお帰《けえ》んなすってくだせえまし」 「いや、忠義者の清蔵、よく迎えに来てくれた。そりゃァ有難てえが、どうもおれはまだ二、三日帰る心持ちにならねえから、折角だが、今日は帰らねえよ」 「はァ、二、三日なにかね、お帰《けえ》りになる心持にならねえかね。お帰《けえ》りになろうという心持ち出れば、お帰《けえ》りになるだね?」 「ああそうだよ。おれァなにもこの楼《うち》に生涯いるわけじゃァねえんだから、帰《けえ》れと言われなくたって帰るよ。でもまだ帰ろうてえ心持ちにならねえんだ。帰りたくなったら帰るんだから、おめえがその、変な顔をしなくってもいいんだよ」 「それではちょっくらこれをごらんに入れますが……この巾着ゥあんた見覚えがあんべえに。おふくろ様のこれァ巾着だァ。どうかこれで、勘定が足ンねえようなことがあったらば、済まして、伜ェ連れて帰ってくんろッてえ。大旦那は勘当ぶつなんて言ってるが、どうだにでもおらが詫び言するから、どうか帰るように伜に言ってくんろッて、親てえものァあんた、有難てえもんだよォ。寝る目も寝ねえで若旦那のことォ心配《しんぺえ》ぶってるんだァねェ。どうかこの巾着に免じてお帰《けえ》んなせえ」 「ああ、わかった。じゃ、巾着だけはおれが預かる。だからそれを置いておめえは先ィ帰ンな。おれが受け取るんだから間違《まちげ》えはねえじゃねえか、そうしなよ」 「それじゃァあにけえ、巾着だけ置いて、おらだけ帰《けえ》るッてえ……へへ、子供の使《つけ》えじゃァあんめえし、そんなばかことォ言わねえで。おらァ首ィ縄ァ付けてもきっと、しょ引《ぴ》いてくべえて約束《だめしき》して来たでねェ。まァ、そんだなことを言わねえで、おらァ面《つら》ァ立てて帰っとくんなせえ、ね、お願《ねげ》えだから、お帰《けえ》ンなせえ。ねェ、若旦那、ねェ、帰《けえ》って……」 「うるせえッ、なにょゥ言ってやンでえ。なんだ、首ィ縄ァ付けて引っぱっててえなあ。狆《ちん》ころじゃァねえや、なに言ってやンでえ。おまえなんぞにぐずぐず言われることァないよ。おれは主人で、おめえは家の奉公人じゃねえか。おめえがなんか言ってると、酒がまずくなるから、帰《けえ》ンな帰《けえ》ンな。ぐずぐず言ってるとおれァ暇ァ出すぞ……」 「あんだってェ?」 「いや、親父《おやじ》になり代って、おれが暇ァ出すてんだよ」 「そんじゃァあにけえ、おらがこうだに(両手をつき)頼んでも、あんた駄目けえ。帰《けえ》ンねえけえ。行《い》かねえ……帰《けえ》らねえけえ?」 「くどいよッ、おらァ帰らねえッたら帰らねえ、いやだ……いやだ」 「あンだ、言うに事欠《ことけ》ェておらに暇ァやるだってえ? 貰うべえ……暇ァ貰うべえ。汝《われ》のほうでいてくれと頼んでも、おらがほうでいねえぞ、この……ばか野郎ッ。これほどに言ってあぜ[#「あぜ」に傍点]帰《けえ》らねえ、汝《われ》が帰《けえ》らねえと言って、おらだけ帰《けえ》るわけになンねェ。こうならば野郎、腕ずくでしょ引《ぴ》いて行くだぞ。妨《さまた》げェぶつやつがあらば、どいつこいつの容赦はねえ、こんでも村相撲の大関は取った男だ。野郎……覚悟ォぶてェ」 「まァまァまァ、穏やかでない、覚悟と来ましたよ……お帰りになったほうがようがすよ」 「ああ、おいおい、いまのァ冗談だ、冗談だよ、ええ? まァ悪かった悪かった……じゃおまえの顔ォ立ってあたしは帰《かい》る。いまのは冗談が過ぎた、悪いところはあたしがおまえに両手をついて謝るから、まァこのとおりだ……清蔵、済まなかった。どうかまァ勘弁しておくれ」 「あれ、若旦那、どうぞお手を上げてくだせえ、それでは済まねえ。ご主人様に手を下げさしては済まねえ……あァ有難てえ、じゃァわしのような者の言うことを聞いておくンなさるか。わしゃァお暇ァ出てもええだよ。おふくろ様ァ寝る目も寝ねえであんたのことォ、心配《しんぺえ》ぶっていなさるだ……どうか一遍だけ家ィ帰っておくんなせえ……お願《ねげ》えだ」 「わかった、わかったよ。めそめそ泣きなさんなよ、……どうも女郎屋の二階で泣かれちゃァ困るじゃァねえかなァ。ああ、よしよし、じゃおまえの顔を立って帰るが、ここの楼《うち》へ悪いじゃァねえか。こうして座が白けちまって、このまんまじゃァなんだから、�立つ鳥あとを濁《にご》さず�という譬もあるから、ここで一杯ちょいと飲んで、みんなでわッと笑ったところで引き上げてやれば、ここの楼《うち》も大変喜ぶんだが……じゃ、清蔵、一杯だけ付き合ってもらえるかい?」 「若旦那せえお帰《けえ》ンなすっておくんなさりゃ、そんだなことァどうでもええ」 「じゃァおい、酒を、早く早く、いや、それがいい……いや、こっちの、その大きいほうで、清蔵に一杯飲ましてな……飲みな、飲みな、なんだい……それァいけないな。おまえが飲まないてんじゃ、みんなが遠慮して飲まないじゃァないか。めでたい酒だ。景気をつけて帰るんだから、飲めよ」 「なるほど、お帰《けえ》りになるめでてえ酒だで、そんじゃァまァ一杯《いつぺえ》だけおらァよばれべえ。こんだに大《で》けえ器《もん》で飲んだら酔っぱらっちまう……そうかね、姐《ねえ》さんお酌《しやく》してくれるか……大《で》けえ器《もん》だから半分でええちいに……こんなにまァ、えかく注いじゃこりゃ、口からお迎えだ、こりゃァ。ふふ……あァ……いい酒だねえ、こりゃ。おらたちァはァ、こんだな酒はめったに飲めねえから……安くなかんべえに……番頭さん、これなにけ、一合どのくれえ取る?」 「冗談じゃァない。見栄の場所で酒の値段を訊くやつがあるか」 「そうかね。じゃ黙ってよばれべえ、へへ……やァ、えかく旨《うめ》えだ、そんじゃ、ご馳走に……こんでまァ、ご納盃《のうへえ》に……」 「なんだい、もう飲んじまったのかい? 早いね。こっちァこれから飲むんだよ。もう一杯付き合いな、え? もう一杯だけ、いいじゃァないか。ものは一《しと》つてえなあなんだ、きまりのつかないもんだから、もう一つ重ねて飲みなよ、もう一杯だけ……」 「もう勘弁しとくんなせえ、そうだにおらァ駄目《だみ》だよ。もういっぺえ飲んでるだでねェ。酔っぱらっちまうで……ェえ? まァ一杯《いつぺえ》だけだって? そんじゃァ、あとァ飲まねえで、えェかえ? そうだに飲《や》っちゃァ駄目《だみ》だァな、こらァ、大《で》っけえ器《もん》だで……そんじゃァ姐さん、済《す》んませんが、まァ一杯《いつぺえ》だけ、え? こんだァいっぺえ注がねえで、半分でええだ。あァ、あァあァ、もう半分で、あァッ(手を添え)あァあァ、そ、だ、だだ……駄目《だみ》だァな。姐さん、徳利《とつくり》でこう押《お》っぺすからいかねえ。おゥおゥ勿体《もつてえ》ねえ。こら、口からお迎えだ……おほ……そんだが、まァ若旦那ァお帰《けえ》ンなすっとくなされァ、大旦那も喜びなさるだよ。野郎もう勘当ぶつだァ、なんてねェ。えへへへへ、えかく怒鳴《がな》っていなされたが、やァあんた一人っ子だで、勘当ぶてっこねえ、大丈夫だよ。えへへ、おふくろ様も安心すべえ。いや、まァ番頭さんにも鳶頭《かしら》にも済ンませんで、溝鼠《どぶねずみ》だの芋頭《いもがしら》だなんて、えへへへ、おらァ腹にあるでねえがねェ。若旦那に帰《けえ》ってもれえてえで、おらァあァだなことを言って、どうかまァ許しとくんなせえ。(と一と口飲む)あンだって? へァ……お肴《さかな》ァくださるてェ。やァそりゃ済ンませんで。はいはい、そんじゃァ、えへへ、頂戴すべえ……やァ、えかく旨そうなもんだねこら……こりゃあンだね? 甘えような酸《す》っぺえような、あンてえ魚だな、ふン? 魚じゃァねえ、杏《あんず》だって? 杏けえ、こらァ。うッふふ、道理でおらァ骨がねえと思った。杏にァ骨がねえで(と飲み干し)ご馳走さんで……そンじゃァこンでご納盃に……」 「なんだなァ、おめえは飲むのもいいけども水ゥ飲んでるようだな、がぶがぶがぶっと飲んじまって……こっちゃァまだ碌に飲んでねえうちに。もう一杯付き合え、�駆けつけ三杯�てえ譬もあるから、もう一杯だけ。ぐッとおめえがひっかけて、いい気持になったとき、すっと引き上げることにするから、もう一杯飲みな」 「もう……勘弁しておくんなせえ。おらァ二杯《にへえ》、こんだな大きい器《もん》で飲んでるだでね、そんだに飲めね……え? まァ一杯だけだからって……そんじゃもう、ほんとうにあと一杯しか飲まねえ。こんだにおらァ飲んだことァねえね、二杯もやってる……え? いやもう……はははは。ま、いっぺえ注《つ》いでおくンなせえ、毎度《めえど》済ンませんで……あ、あ……ちょっくら足りなかんべえに、姐さん。へへへ、いやァ、やっぱり一杯ちゅうのはいっぱい入ってねえとねェ……気持悪いからね、まちっと足してもらうべえ。……あァッと……ととと……(いっぱい注がれて)まァ、有難てえ。こんだな、うめえ酒、久しぶりで……(ぐうゥと飲み)あァ、いい気持になってきたな、はははは……いやァ、芸者さんがた、おらァ大《で》けえ声で怒鳴《がな》ったから魂消《たまげ》たべえね、え? ははは、勘弁してくだせえ。あ、あんた、太鼓《てえこ》ぶっぱたくだな、あァ? うめえもんだねえ……いくつになるだ? うん? 叩きなせえ……あンだ、おじさんは恐《おつ》かねえからいやだ? ははは。いやァ、もう恐《おつ》かねえことはねえだよ、うん。可愛らしいねェ。いくつだ? 十三だって……うーん、十三かァ。そんだな時分から大勢に揉《も》まれるだでな、人が悪くなるのも無理はねェね。あァ、そんだな細ッけえ手で大《で》けえ撥《ばち》ィ持って、うめえもんだね、うん。商売《しようべえ》商売ッてなァ……(飲み)芸者さんがた、若旦那ァもうお帰りになりますだから、なんぞ聴かせておくんなせえ。若旦那、なんか聴かせてもらってよかんべえか、え? いいってね?……やってくんなせえ、おらも久しぶりだからね……あにがいいかな……鈴木|主水《もんど》かなんかどうだな、あァ、鈴木主水……知ンねえッて? あァ? 知んねえじゃしょンねえ。そんじゃァ、小栗判官照手姫《おぐりはんがんてるてひめ》なんかどうだァ、あァ? 涙の溢《こぼ》れるようなものをやってもらいてえね。……それも知ンねえって? あァ、なんにもわかんねえね。ふふふ、あんまりいい芸者じゃねえなァ、(と飲み)ふーん、吉原だから勤《つと》まるだね。ふふふ、そんなこっちゃァ、おらがの村へ来たら三日と持たねえな、こらァ」 「まァなんでもやらせるから……おい、かしく、なにをしてるんだな、おまえ。そんなとこでもじもじしてるやつがあるかな。構わねえから清蔵の傍へ行って、酌でもしてやんな」 「そうですか、じゃ済みません。うちの人に……ちょっと勘弁してくださいよ……さ、あなた、お酌をさしてください、ね? あなた」 「すんだがね、若旦那が……あにをするだな、あんた! ひとが話しッこぶってる最中《せえちゆう》におらに断わりもねえであんだってまァ、おらに……あんた、おやおや……いや、済ンませんね、へへへ、お酌してくださる? ははは……若旦那、この女《ひと》はえかくきれいだね。あンてえ色が白ッけえねえ、白《しら》っ子じゃあんめえね、くりゃ。おッほほ、おらン村では名主の嫁っこがはァ、器量よしだなン言《ち》ってるがねえ、これははァおそろしいきれいな女《あま》っ子だな」 「清蔵、遠慮するには及ばねえ、その傍《そば》にいるのは、おめえの敵娼《あいかた》に出した」 「ええ? おらがの敵娼? はァ無駄だよ若旦那、おらみてェな者に敵娼なんぞ……」 「かしくと言うんだ……可愛がってやんな。え? いやいや、ここはな、すぐ帰るにしても二階へ登楼《あが》れば、一人の敵娼が付くというのが、決めなんだから、ま、すぐに帰るにしてもそれまでは、おまえの女房になるんだから、可愛がってやんな」 「若旦那、あたし、この旦那に初会惚《しよかいぼ》れをしてしまったわ。あたしみたいな者《もん》でも……ねえ、可愛がってくださいよ。ねえ、あなた」 「……よせよ、ばかァこけェ……あははは、ばッき野郎。へへへへ、おらにおッ惚《ぽ》れたなんてね、あははは、ばかべえ言《こい》てやがら……よォせよ、へへへ、おらがみてえなこうだな面《つら》で、女《あま》っ子がおっ惚れるわけはねえだ」 「あら、いやだ。顔や形で惚れるんじゃないわよォ。わちきはお平《ひら》の長芋《ながいも》みたいな、にょろにょろした男は大嫌い。まァほんとうに頼もしいわ。手でもなんでも。まァこんなに毛が生えて……もくぞう[#「もくぞう」に傍点]蟹《がに》みたい……」 「よせよォ、へへへ……じゃれるな、ばかめ……へへへ、くすぐってェね、触るなって……くすぐっては駄目だよ。みんな見て笑うじゃァねえか。そんな可愛らしい小《ち》っこい手で、おらがような肉刺《まめ》だらけの手ェ撫でたりなんかして……よせってえばよゥ」 「まァ頼もしいわ。こういう堅い手で、いっぺん思い切り握ってもらいたいの。わちきの手をしっかり握ってくだいよ。ねェ、後生だから」 「えへへ、若旦那、女《あま》っ子が手ェ握ってくんろって、握ってやってええかね。ええけえ?」 「握ってやったらいいじゃねえか。どうだ、え? かしくと清蔵と並んだとこは、番頭、似合いだな」 「まったくですよ。鳶頭《かしら》、ね? どうです」 「ふふふ、ほんとだ。ははは、ばか似合いだよ。似合ったよ。あァ、いいよいいよ。握ってやれ、握ってやれ。ねえ若旦那、ようがすね」 「おう、いいよ。握んな、握んな」 「よおし、すんだら握ってやんべえ。あとで痛えったって放さねえぞ、ええけえ。若旦那もええねェ……よゥし、ほんこに握るぞ、さあ、握ってやんべえ。さァ出せ……握るぞ、ええけえ。それ握るぞ、にぎ……にぎ……いいひッ……よゥすべえ、おらァ、駄目だァね、ははは(腋《わき》の下をくすぐられて)よォせちば。じゃれるな、ばかだなこら、はッはは(またくすぐられ)……やァ、こうだな女《あま》っ子と道楽《のら》ァこいてるだでなァ、はっは、帰れっちゅうおらのほうが無理かもすンねえ」 「おいおい、清蔵、とろけるなとろけるな。さァさ、支度はいいかい? そろそろ引き上げよう。帰ろう」 「若旦那、面白くてたまらねえ、二、三日いべえ……」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]落語のもう一人の大立者、権助の大勝利で大団円を迎える。店では再々度、大旦那が地団駄《じだんだ》踏んで悔しがり、怒鳴り散らしている様が浮んでくる。この店は内儀《おかみ》が陰で金を自由に扱っているところを見ると、大旦那は店の使用人上がりの養子で、内儀は家付きの跡取り娘のようだ。  江戸時代の〈遊ぶ〉ということは、このように廓で遊興することを指し、罪悪感、スリルがあり、それがいっそう楽しく、快感であったにちがいない。  その一例が今日「国語辞典」に記《しる》されている。  あそび【遊び】㈰あそぶこと。なぐさみ。遊戯。▽特に酒色やばくちにふける、放蕩する。「——んで身代をつぶす」㈪意義や目的にかかわりなく興のおもむくままに行動する意。(鳥などが)無心に動きまわる。仕事がない、または仕事をしないこと。(イ)仕事や価値のある事をせずにいる。「——んで暮らす」(ロ)職が得られずにいる。「工場をやめてからずっと——んでいる」(ハ)場所・道具などが使われずにいる。「機械を——ばせておく」㈫しまりのないこと。「顔に——がある」㈬(文学・芸術の理念として)人生から遊離した美の世界を求めること。㈭ある土地に行ってそこの風景などを楽しむ。「松島に——」㈮他郷に学ぶ、遊学する。「本居宣長《もとおりのりなが》の門に——」etc。  この辞書の編纂《へんさん》者もまた大旦那同様、勤勉、真面目一方で、〈遊び〉を罪悪視、目の敵《かたき》にしていて、「楽しい」「愉快なこと」という表記はひと言もない。嗚呼! 耳がイタイッ。  寄席が発祥したころから伝承されている生粋の江戸落語である。  六代目三遊亭円生の落ち(サゲ)の型は、 「ああ? あンだい、もう帰《けえ》るッてえ? はッはッはッ、帰るならあんただけお帰んなせえ。俺《おら》ァもう、二三ン日ここにいるだよ」  これは、名作「明烏」に類似するので、四代目橘家円蔵の速記の型のほうを採った。こっちのほうがふあーッとしていて、〈遊び〉の愉しさが素直に伝わる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   蔵前|駕籠《かご》  江戸の時代は町人は暢気《のんき》に暮らしていて、職人衆は刺青《ほりもの》を彫《ほ》って、これを自慢にして——倶梨迦羅紋々《くりからもんもん》ってやつ。これは自分で見るものじゃァない。他人《ひと》に見せるためで、他人《ひと》が見て、 「いい刺青《ほりもの》をしてるねえ」  と言われるのが、なによりうれしい。  だから夏になると、着物を着なくても往来を歩けるから、褌一貫《ふんどしいつかん》で、手拭いをぶる下げて湯へ行って、ざぶざぶと入って、体躯《からだ》を拭くと、切りたての褌をきりっと締めて、濡れ手拭いをぶる下げて、 「どうだァ……」  ってな顔をして表へ出ると、町内のみんながじろじろ見る。まことにいい気分……。  そこへ八丁堀の定廻りとぱったり、出あった。対手《あいて》は役人、いくら江戸の時代でも、裸で、褌一貫で歩いているのは、黙って見ちゃァいない。進退ここに窮《きわ》まって、濡れてる手拭いをいっぱいに広げて、肩にかけると……これで見逃がしてくれた。 「彼奴《きやつ》は裸ではない。手拭いを着て歩いている」  八丁堀の同心は、粋な人が多かった。  それが幕末になると、世の中、物騒になった。  慶応四年……明治元年になる正月の三日から、鳥羽・伏見の戦いが始まった。……正月早々から戦争が始まる、という波瀾の幕開けになる。五月には、上野の山へ彰義隊が立て籠《こも》った。官軍を迎え討とうという……これは目の上の瘤《こぶ》のような存在で、官軍のほうもこれを取り除かなくてはならない。そこで総参謀、長州の大村益次郎……九段に銅像になっている。この銅像の身装《なり》を見ると、その時代の風俗が如実にわかる。和洋折衷《わようせつちゆう》——袴を付けて、両刀を手挟《たばさ》んで草鞋履《わらじば》き。手に双眼鏡を持って、頭にピストルを載っけて……じつは髷《まげ》なのだが、そう説明している案内人《ガイド》がいた。そそっかしい人もいるもので……。  この大村益次郎がすべての作戦を立て、三方から上野の山を取り囲んで、三河島の口《くち》一方を開けておいて、そこから彰義隊を逃がそうという。それを聞いた、これも上野に犬を連れて銅像になって立っている、薩摩の西郷隆盛が第一線に出ていて、今度大砲を撃つ作戦だというので、大村益次郎の陣へやって来て、 「大村どん、今度の攻撃には大砲をぶっ放すということでごわすがァ、おいどんの軍が第一線に出ておりますのじゃが、味方の陣に、弾丸《たま》の落ちるようなことはごわすまいなァ」  このときに益次郎が、隆盛の顔をじっと見て、 「さあ、それは機械のこってすからな、撃《う》ってみなけりゃァわかりません。ことによったら味方の陣へも落ちるでしょう。失礼ながらあなたなどは身体が大きい。弾丸《たま》の当たりもいいでしょう」 「はァはァ……。ではそのときが、最後(西郷)でごわす」  って、暢気に帰って行った。  大砲のほうも暢気なもので、一発、どかァーんと撃つと、砲身が熱して、しばらく濡れ雑巾《ぞうきん》をあてて冷やす。これを連続して撃っていると砲身が曲がってきて、しまいには味方の陣へも落ちてくる、という幼稚な戦いで、これが江戸で起った初めての戦争らしい戦《たたか》いで、これによって徳川幕府が崩壊して御一新になる……。  こうなると、江戸も物騒になって、大勢いる浪人者とか、御家人とか……身分の低い者が徒党しては、こういう時世だと、徳川の危急を情実にして、押し借《が》り、強請《ゆすり》、中には強盗を働く手合いが出現した。  白昼堂々と、商店へ入って行って、 「やァ、われわれはなァ、徳川家へお味方の浪士の一隊だが、軍用金に事欠いておる。なにがしか、軍用金を差し出してくれっ」 「へえェ、どうも、てまえどもも、たびたびのその御用金でございまして、ただいま手元に金子《きんす》がございません」 「なにィ? 金子がねえと? これだけの屋台骨を張っていながら、金子がねえとはよくぞ申したなァ。これ、考えてみろよ。かく何代となく、安穏に商売が出来たというのは、誰《たれ》様のおかげだ。みな徳川家のおかげではないか、その恩を打ち忘れて、金がないなぞとはよくぞほざいたもんだ」 「家内じゅう、撫《な》で斬《ぎ》りにしたらよかろう。その帳場格子に坐っておる番頭の面《つら》がよくない。あァァ? 行儀のよくないやつだ。鼻があぐらをかいてる」  などと勝手なことを言いながら、長い刀《もの》を振り回す。店ではしかたがないから、出したくもない金を出して……潰れてしまう、それを捕える者がいないのでそういう商店が何軒もあった。 「昨夜《ゆうべ》は驚いたねェ」 「ああ、上野の戦いだろう」 「雁鍋《がんなべ》の二階から黒門へ向って、大砲をぶっ放したんだからね」 「おれは、大砲をどかァーんとぶっ放したときにゃァ、地響きがして、この世の中ァ潰れちゃうかと思ったよ」 「肝《きも》ォ潰《つぶ》したよ。どうも、うっかりもう江戸にゃァいられねえや」  あっちでもこっちでも、そういう噂がとび交うようになると、 「金ェ持ってたって、ふんだくられちゃァばからしいや。いまのうちに遣っちまおうじゃねえか。どうせなら、いい心持ちに楽しんで、吉原《なか》へ行って遣っちまおう」  ということで、吉原が大変に繁昌した。  俗に二八月《につぱちがつ》と言って、二月と八月は、廓という稼業《しようばい》は暇とされている。  それがその年は、正月が終って二月になっても依然として賑わっていて、客が絶えない。——世の中の不穏な所為《せい》か。  みんな駕籠を飛ばして、吉原へ繰り込む……と、こんどは、この吉原行きの駕籠を狙って、蔵前通りへ追い剥ぎが出るようになった。  その時分、日本橋・神田あたりから吉原へ行くにはどうしても通らなければならない、咽喉《のど》っ首の、蔵前通り。ここへ追い剥ぎが出没するのだが、一人や二人じゃァない。十何人もずらっと並んで、白刃を突きつける。 「われわれは由緒《ゆえ》あって、徳川家へお味方をする浪士の一隊だ。軍用金に事欠いておる。身ぐるみ脱いでェ……」  と言うと、江戸っ子は気が早い。置いてけって言わないうちに、みんな脱いじまう。 「うゥん、神妙の至りだなァ? 寒い時分だ、裸でも帰《けえ》れめえ。さァ、武士の情けをもって、襦袢《じゆばん》だけは助けてやる」 「へッ……ありがとうございます」  と、礼を言って、襦袢だけ助けてもらったが、もともと自分のものですから、 「こんな話ァじばん(自慢)にならねえ」  って、くしゃみをして洒落を言った人がいるが、さすがに吉原行きの駕籠もぱったり止って、蔵前通りは日が暮れると、人っ子一人通らなくなり、しィーんとして火の消えたようになった。  蔵前には「江戸勘《えどかん》」という名うての駕籠屋があった。こういう駕籠屋の駕籠に乗って行く客は、吉原でも上等の客とされていた。 「江戸勘」の主人は、煙管《きせる》をくわえて、表通りを見ながら、 「どうもしようがねえなァ。これじゃァ、商売にもなんにもならねえや。こう物騒な世の中になっちゃァ、駕籠へ乗って遊《あす》びに行く者はなし、若えやつァ将棋ばかり指してやァがってしようがねえ、どうも……」  そこへ年頃二十五、六、唐桟の着物に羽織、茶献上の帯を締め、白足袋で、ばら緒の雪駄を履いた客が、 「おう、吉原《なか》へ、駕籠ォやってくんねえ」 「ェェまことに相済みませんが、暮れ六つを打ちますと、もう駕籠は出さないことになっておりますんで……」 「どうしてだい、親方ァ」 「えェ、お聞き及びでもございましょうが、蔵前通りが物騒でございまして、吉原行きの駕籠はみんなあすこでもって、食い止められてしまいます。乗ってるお客さまァ丸裸にされて……。てまえどもの駕籠でさようなまちがいがございますと、暖簾《のれん》にかかわりますので、ひとつご勘弁を願いたいもんでございますが」 「暖簾? 暖簾ってえのはこれかい。汚ねえ暖簾だ、鉤裂《かぎざき》やなんかあるじゃァねえか。ええ? おゥ、駄目かい? こりゃ困ったな。言われてみると、往来は火が消えたようだねェ。どこの提灯だって一挺も通らねえよ。こうなってくるってえと、ぜひ行きたくなるってえのが、人間の心持ちじゃァねえか、親方ァ、ねえ、なんとかやっておくれよォ」 「へえェ、どうも困りましたなァ。なにしろどうも、必ず、追い剥ぎが出ますんでね。無事で、吉原まで行けるという、さようなお約束は、とてもできません」 「だめかい? ちッ、しようがねえなァ。おゥ、こうしてもらおうじゃァねえか、出るところまでやってくんねえか。追い剥ぎが出て来たらねェ、おめえンとこの若《わけ》え衆《し》に、チャンチャンバラバラ渡り合ってくれってんじゃないよ。ええ? 追い剥ぎが出て来たら、怪我ァしねえように、若い衆は駕籠をおっ放り出して逃げちゃってもらおう。おれはあとへ残って噛《か》み合っちゃうから。早え話が追い剥ぎのほうじゃァ、駕籠ぐるみ、ぶる下げて行くてえことはねえんだろう? 駕籠なんざァ、要らねえんだろう?」 「さようでございますねェ……病気見舞の果物《くだもン》じゃァございませんから、籠《かご》なんぞはいいでしょうなァ」 「それ見ねえ。だから明日《あした》の朝、入《い》れものを取りにおいで」 「なんだい蕎麦屋だね……あなた、そんな物騒な、剣呑《けんのん》な思いをして行かずに、明日《みようにち》、ゆっくりと昼遊びということになすっちゃァいかがでございましょう」 「おめえにねェ、昼遊びの講釈まで聞こうとは思わなかったよ。危ねえからこそ、そこを行きてえじゃねえか。�実《じつ》があるなら霜枯《しもが》れ三月《みつき》、花の三月《さんがつ》ァ誰《だれ》も来る�ってねェ。え? 陽気のいい、わァわァしている時分に吉原《なか》ィ行くなんてなァ、これはなんでもねえんだよ。え? 体躯《からだ》に暇《しま》があって、酒の機嫌でふわふわァッと出かけるんだ。いまはそうじゃァねえや、こんなになってる世の中だ。危なくって吉原《なか》ァ行かれやァしねえや。女のほうだってそうだ。客が来りゃァ酒の一杯も飲んで、わァッと騒げるけども、客が来なけりゃァ、寂しいもんだ。びくびくしてるんだよ。え? そこへおめえ、すうーっと行ってやってみねえ、女ァどれほど喜ぶ? 『あァら、ちょいと、おまはん、よくこういう危ない中ァ、来てくれたのねェ』『おらァ、おめえの顔が見てえからだ』『うれしいわよォ』って、齧《かじ》り付かァ」 「そんな思いをしても行きたいとおっしゃる。追い剥ぎが出てもしものことがあっても……」 「出たっていいじゃァねえか。え? 人間は、生まれりゃァ死ぬと決まってるんだ。死ぬのが嫌なら生まれてくるなよ、べらぼうめェ……その代りあとがいいんだ。うまく行きゃァ」 「あなた、追い剥ぎが怖くない?……ここンところ、毎晩、出ておりますよ」 「そんな脅かしにのるかい、べらぼうめっ。追い剥ぎだっておめえ人間じゃァねえか。ねェ……ここンところ毎晩、稼いでいれば、てめえっ達《ち》だって遊びたくなるのが人情だ。なァことによったら、今夜、吉原の茶屋の二階でもって、芸者ァ大勢上げて……チャンチャァチャラチャラチャン……なんかやってるかも知れねえんだよ。だからまァ今夜は出るか出ねえかわからねえんだけれどもよゥ。ねェ? どうだい、こうしようじゃァねえか。駕籠賃は倍《べえ》払うってえことにして、酒手《さかて》は一人一分っつってえことにして、行ってもらえねえか? おめえンとこにだって、尻《し》っ腰《こし》の立つ若え衆ァいるんだろう?」 「さようでございますなァ。へえ、みんな駕籠かきでございますから、足腰は立つように出来あがっておるんでございますが……おい、だれか吉原《なか》へ行く者はいないか?……おゥそうか、おまえたち二人が行ってくれるか? そりゃァちょうどいい、済まないねえ……ああ、いいともいいとも、そりゃよくお客さまにもお願いしてあるからな……ェェ、お客さま、ただいま立ち上がりまして、支度をしておりますのは、てまえどもの若い者《も》ンの中では血気盛んなほうでございますが、あの二人がお目どおりをいたしますが、もしも、途中で出ましたらば、駕籠はおっ放り出して逃げ出しますが、どうぞ、まァ薄情なやつだと思《おぼ》し召《め》さないように」 「あァあァ結構結構。そりゃァ有難てえや。さすが�江戸勘�とこの若え衆だなァ……行ってくれるってえなァ有難てえじゃァねえか。おゥ、親方ァ、ところでねェ、あとの喧嘩は先ィしようぜ、いいか? さァこれは駕籠賃だ。取っといてくンなよ。それから、これは……若え衆の祝儀だ。二人にやってェくンなァ。いいか? で、おめえっ達《ち》のほうにも支度があるだろうが、おいらのほうにも支度がある。ちょいと待っとくれ」  客は、着ているものをそっくり脱いで、自分で端《はじ》から丁寧にたたみ、紙入れ、煙草入れは手拭いに挟んで、たたんだ着物の間に突っ込んで、駕籠の布団を撥《は》ねて、いちばん下へ敷き込んで、その上に布団をかけて、胡座《あぐら》をかいた。 「さァ、支度ァいいんだよゥ。やってもらおうけえ」 「へえ……ェェ? ェェお客さまァ」 「なんだい?」 「あなたァ、褌《ふんどし》一つで」 「うゥん。身軽な出《い》で立《た》ちだよ」 「なるほどこりゃ身軽だな。これより身軽にゃァ出《い》で立てませんねェ。……あっしどもは、ひとにゃ遅れをとらねえほうで、かなり足は早うございますが、こう、風を突っ切って行きますが、お寒かァござんせんか?」 「いいやなァおめえ。少しぐらい冷《ひ》えたってなァ、向うへ行きゃァ、暖《あつた》め手があるんだ」 「なんだい、惚気《のろけ》を聞いちまったなァ……ねえ、親方ァ、ごらんなさいまし、このお客さまの姿を」 「ふゥーん? えらいかただね。そのかたは女郎買いの決死隊だよ。……気をつけて行って来い」 「へいッ。行って参ります」  ぽんッと肩が入った。  一分《いちぶ》という酒手がついているから威勢がいい……。 「えいッ、ほいッ、駕籠。えいッ、ほいッ、駕籠。えいッ、ほいッ、駕籠。えいッ、ほいッ、駕籠。えいッ、ほいッ、駕籠……」  浅草見附を出ると、蔵前通りを真っ直《つ》ぐに、天王寺橋を渡り切ったかと思う時分。 「えいッ、ほいッ、駕籠。えいッ……あァ、あ、いけねえ。いけねえいけねえ……おゥ、棒組ィ、ちょっと押すのを待ってくれよおい、おい。……ェェお客さまァ。あすこの、空地に、とぐろォ巻いてますよ。ェェ……い、いましたよ。ゥゥ、出てますよ。いよいよォ、駕籠ォおっ放り出しァすからァ、舌ァ噛まねえようになすってくださいよ。……えいッ、ほいッ、駕籠。えいッ、ほいッ、駕籠」 「待ていッ」 「ほらッ、出ェたァ……ッ」  若い衆は駕籠をおっ放り出して、一目散に逃げ散って行った。 「待てェ……待て待て待て待てェ……」  ばらばらばらばらばらばらばら、あとを追って来た十二、三人の同勢。……みな覆面をした黒ずくめの出立ち。どぎどぎする長い刀《もの》をひっさげて、駕籠のまわりをぐるり、囲った。 「われわれは由緒《ゆえ》あって、徳川家へお味方する浪士の一隊だ。軍用金に事欠いておる。身ぐるみ脱いで置いてまいれ。命までは取ろうとは申さんぞ。これ、中にいるのは、武家か町人か? なまじ生半《なまなか》腕だてをいたすと為にならん。これへ出《で》いっ。これへ出いっ。……近藤、龕燈《がんどう》をこちらィ向けろ。……命までは取ろうと申さんで、身ぐるみ脱いで……置いてまいれッ」  と、刀の切っ先で、駕籠の垂《た》れをぐゥいと上げると、龕燈の火に照らされて、褌一貫のやつが腕組みをしている。 「うむゥ……もう済んだか」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]江戸時代の人の乗る交通機関は、川は船、陸《おか》は駕籠の二種類。その駕籠にも二種類あって、往来で客待ちをしている辻駕籠《つじかご》と、店を構えている宿駕籠《やどかご》——現代《いま》のタクシーとハイヤーと等質。落語で駕籠屋をシテ役にした噺は、前者が「蜘蛛《くも》駕籠」、後者が本篇の二席がある。「江戸勘」は実在した駕籠屋。  いずれにしろ船、駕籠に乗る人は金持ちか、よんどころない事情のある人か、本篇の客のように見栄で乗る人くらいで、ごく限られた人びとであった。ほとんどの町人は歩きで、それも健脚であった。——葛飾北斎の町人風俗の「素描《スケツチ》」には筋肉質で、しなるような〈江戸っ子〉の体躯《からだ》が描かれている。(今日、吉原まで歩いて行ける体力、気力のある東京人は果しているだろうか?)  三道楽——飲む、打つ、買う——は、金ばかりでなく、体力、気力がなければできまい。今更ながら江戸人のヴァイタリティ、エネルギーに敬服する。この噺は、めずらしく明治維新直前の社会的事件が背景になっている——ドキュメンタルな題材が扱われている。戦争という不穏な情況の中にあっても、粋と張りを通そうとする客の出現は、まさに落語を地[#「地」に傍点]で行く、面目躍如たるものがある。  その意気と姿形《すがた》に、駕籠屋の主人が、 「女郎買いの決死隊」  という、後世に残る�称号�を与えた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   夢金   欲深き人の心と降る雪は    積もるにつけて道を忘るる  冬の雪のある夜。山谷堀の船宿「吉田屋」——。 「婆さん、ひどく降ったようだな、雨とちがって雪というやつはどこともなく世間が深々《しんしん》とするものだ。どうだえ、寝ようじゃァねえか……」 「あァーあ、百両欲しいッ」 「あれっ、またはじめやがった。二階で熊蔵のやつ寝言《ねごと》を言ってやがる。……静かにしねえかっ」 「二百両欲しいっ」 「静かにしろッ」 「……五十両でもいい」 「ちえっ、寝言で返事をしてやがる。どうも呆れ返《けえ》ってものが言えねえ。欲ばったことばっかり言やァがる。婆さん、早く寝よう。表は締めたか? そうか。こんな雪の降った静かな晩に、百両だ、二百両だのって寝言を言ってやがると、そそっかしい泥棒が金勘定でもしているのと間違《まちげ》えて、飛び込んで来ねえとも限らねえ。早えとこ寝ちまおう」  表の戸をトントン叩いて、 「おいっ、ちょっと開けろ。おいッ、ちょっと開けんか」 「そーれ、婆さん、言わねえこっちゃァねえ。とうとう泥棒を呼び込んじまった。まァ待ちな、おれが断るから……ェェもしもし、お門《かど》違いではございませんか。てまえどもはごらんのとおりしがない船宿渡世でございまして、金なんぞはございません。この先にまだいくらでも金持ちがおりますから、どうぞ他家《ほか》様へお当たりを願いたいのでございますが」 「これこれ、戯《たわ》けたことを言うな。盗賊と間違えるな。さような怪しい者ではない。少々用事がある、ちょっと開けろ」 「……なぞとごまかして、開けたら有り金を出せ、とおっしゃっても無駄ですよ」 「不埒《ふらち》なことを言うな。船を一|艘《そう》頼みに参った者だ」 「へえ、お客様でございますか。これはこれは、とんだ失礼をいたしました。……じつは、二階で若い者が百両だ、二百両だと大きな声で寝言を言っておりまして、もしもそそっかしい泥棒にでも入られては大変だと思い、とんだ粗相をいたしました」 「早う開けんか」 「いえ、ただいまお開けいたします。少々お待ちを願いまして……」  亭主《あるじ》がそっと土間へ降りて、臆病窓《おくびようまど》から覗いて見ると、雪の中に侍が若い女を連れて軒下に立っていた。……戸を開けると、 「許せよ。いや、雪は豊年の貢《みつぎ》とは申しながら、こう降られては困る」 「さようでございます。少しならば雪もまことにきれいでよろしいんでございますが、こうどっさり降りましては、始末に困ります。さあ、どうぞ、こちらへお入りくださいまして……あッ、お嬢さまも、どうぞこちらへ早くお入りください。いえ、濡れますでございますから。あたくしがあとを締めますから……お婆さん、手焙《てあぶ》りに火をどっさり入れて持って来な」  亭主がこう言いながら侍の様子を見ると、年ごろは三十四、五になるか……色の浅黒い目のぎょろッとした、小鼻の開いた口の大きな……見るからに一癖ありそうな人相で、身装《なり》は柔らかもの(絹)だが、もう襟垢《えりあか》がべっとりついた、嘉平次平《かへいじひら》の袴も……襞《ひだ》のわからぬ破れ袴で、これへ黒羽二重《くろはぶたい》の紋付《もんつき》……羽織というと体裁がいいが、地のほうが赤くなり、紋のほうは黒くなっているので……赤羽二重の黒紋付という服装《こしらえ》で、破柄剥鞘《やれづかはげざや》の大小を落とし差しにして、素足に駒下駄を履いている。  連れの若い女は、年ごろは十六、七くらいか、色白の目元に愛嬌があり、鼻すじがとおって、口元の締まった、まことにいい器量で。頭髪《かむり》は文金の高島田、身装《みなり》は小紋|縮緬《ちりめん》の二枚重ね、黒縮緬の羽織、燃え立つような縮緬の蹴出《けだ》し、蝦夷錦《えぞにしき》の帯を締め、黒塗りの木履《ぽくり》を履いていて……侍とはまるで様子合いが違っている。 「じつはな、今日《こんにち》、拙者が妹を連れて浅草へ芝居見物に参ったところ、この大雪にあいなった。帰るに駕籠となると、二挺になってまことに面倒でいかん。いっそ船がよかろうと、これまで雪の中を歩いて参った。夜中《やちゆう》気の毒ではあるが、深川まで屋根船を仕立ててもらいたい」 「折角でございますが、この雪で、船頭がみんな出払っておりまして。へえ? いえいえ、船はございますが、肝心の漕ぎ手がございませんで。偶《たま》のこういう大雪でございますと、お客様もお駕籠よりも船のほうがよいというわけで、船頭がどこもございません」 「うーん、それは困ったな。船頭がおらぬか」 「百両ほしーいっ」 「おいおい、婆さん、おい、野郎起こしちまいな、騒々しいから……」 「二階にだれかおるのか? 船頭か……」 「いえ、あれはいけません。大変強欲なやつでございまして、万一、お客様に失礼があってはなりませんから……」 「いや、強欲な者はそのようにしてつかわせばよいのであるから、ちょっと様子を尋ねてくれんか」 「さようでございますが、もし粗相……へ、ェェただいま尋ねます……おい熊蔵……熊や」 「へ、へェ、はァふゥィ(目を覚まし)……あァあァ、いい心持に寝たかと思やァ、冗談じゃねえどうも……なんか親方ァ用ですかい?」 「これからなァ、深川まで行ってもらいたいというお客様があるんだが、屋根を一|艘《ぺえ》持って行ってはくれめえか」 「いやだいやだァ、この雪の中ァ深川くんだりまで持って行て、いくら貰えるんだ。えへッ、酒手《さかて》でも出なかった日にゃ目も当てられねえや。こういうときには仮病に限らあ……折角だがねえ親方、行けませんや。ェェこの雪で疝気《せんき》が起ったとみえて、どうも腰がみりみり[#「みりみり」に傍点]痛くって、それに足の筋が吊《つ》って、この塩梅じゃ櫓《ろ》につかまったところでとてもまんそく[#「まんそく」に傍点]には行かれません。済みません。断わっとくンないな」 「そうか、そりゃいけねえな……旦那、お聞きのとおり、野郎が少々加減が悪いと申しておりますので」 「いや、並《なみ》の晩ではない、かような雪の夜であるから、骨折り酒手は充分につかわすがどうじゃの」 「ェえ?……骨折り酒手は充分につかわす……ってやがったなァ。よォし……親方、ねえ親方ァ」 「なんだ?」 「ほかに船頭はねえんだろうねえ」 「それだからいま困ってるんだ」 「それじゃァ、無理をして行きゃあ、行けねえこともありませんけどもねえ」 「行ってくれるか?」 「えッへ、行ってもようがすけれども……そこがそのなん[#「なん」に傍点]で……」 「なにがそこだ?」 「そこが�魚心あれば水心�……�読みと歌�てえやつでねえ。�阿弥陀《あみだ》も金《かね》で光る世の中�……えへッ、金|次第《しでえ》……」 「なにをばかなことを言やァがるんだ。いいかげんにしろ。お客様のまえでそんなことを言うやつがあるか。並の晩じゃァねえ。こういう晩に乗るのだから、骨折り酒手は充分にくださるとおっしゃる」 「充分にくださる?……行くよ」  熊蔵は飛び起きて、たちまち支度をして、梯子段を蹴立《けだ》って降りてきた。 「へい、旦那、お供いたします」 「加減の悪いところを気の毒じゃのう……」 「いいえ、とんでもねえこって、酒手ということを伺ったんで……すっかりもうよくなりまして、旦那のまえですが、酒手は疝気の薬でがす」 「なにを言ってやがる、しょうがねえ。こういう失礼なやつでございますので、どうぞご勘弁を……」 「いやいや、なかなか面白いやつだ。それでは船頭、早場《はやば》にな」 「へい、よろしゅうございます」  これから河岸《かし》へ飛んで行って、業《わざ》は慣れているからすぐに船の準備も出来上がる……。 「へい、お待ちどおさまで……。あァ、姐《あね》さん、済みませんが河岸《かし》を見てあげておくんなさい。桟橋が凍っているので上《うわ》っすべりがして足が止まりません。……お嬢様は木履《ぽつくり》でござんすね。お転びなさるといけませんよ。下ァ凍ってますからこうしましょう。あっしの肩へおつかまンなすっておくンなさい。……へ、上からちょっと手を押えますがね、あっしの手は黒いけども、芯《しん》から黒いんですから、決して触って染まるようなこたァねえから、ご安心を願います。姐さん、提灯をもう少し下にさげておくんなさい。上のほうへ持って行かれると足元が見えません。もう少し下へ……え、そのくらいでよろしゅうございます。お嬢さましっかりつかまっていらっしゃい……なにもなさらねえとみえて、お柔《や》ァらかなお手々でござんすな、えへへ、いい匂いがぷんぷん……」 「なにを言っているんだよ」 「姐さん、叱言を言っちゃいけねえやね。ここらが船頭の役得じゃァねえかな。……桟橋ァ撓《しな》っても折れる気遣いはござんせんから、大丈夫で。あッ、船に乗るときに気をつけておくんなさい。頭のほうからうっかり乗ろうとすると、お頭《つむり》をぶつけるといけませんよ。大事《でえじ》な櫛《くし》をぽきっとやるといけませんから……全体、屋根船の乗りかたは難しいもので、屋根裏へ手をかけて、着物の裾《すそ》をちょいとはさんで、矢立の筆じゃァねえが、尻《けつ》のほうからすッと入《へえ》らなくちゃァいけねえ。山谷堀《ほり》の芸者衆なんざァ屋根船へ乗る稽古をするくれえのもんで……お素人《しろうと》のかたはなおさらでげす……よろしゅうがすか、中に炬燵《こたつ》が入《へえ》ってますから、それでお手を温《あつた》めていらっしゃい。旦那もようございますか……姐さん、この雪じゃァたまらねえや。帰《けえ》って来てちょっと一杯《いつぺえ》やりますが、親方に内緒で二合ばかりお頼ゥ申しますよ」 「あいよ」  熊蔵は蓑笠《みのかさ》を被《かぶ》り、水竿《みさお》を一本ぐいと張るときに、船宿の女将《おかみ》が舳《みよし》へ手をかけて、 「ご機嫌よろしゅう」  と、突き出すやつはなんの助足《たそく》にはならないが愛嬌のあるもので……。  船は山谷堀から隅田川へ出て、棹《さお》を櫓《ろ》に替えて漕《こ》ぎ出した。雪はますます激しく、綿をちぎってぶつけるようで、寒いの寒くないの……。 「おッそろしく……降って来やがったなァどうも。あァ……うう、うう、おう寒……小寒ときやがった……あァ、山から小僧が泣いて来るてえが……あァァ、小僧どころじゃねえや、こう降った日にゃァ大僧《おおぞう》が泣いてくら、こりゃ。あァあァたまらねえなァこりゃ、この雪の降る中ァ夜夜中《よるよなか》、船を漕がなくちゃなんねえとは何の因果だい。金という剽軽《ひようきん》ものが欲しいばっかりだ。稼業なら愚痴も言えねえ。こうして船を漕ぐやつがあるから乗るやつもあるんだ。乗るやつがあって漕ぐやつがあるんだ……いつまで行ったって果てしがねえ。�箱根山駕籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋《わらじ》を作る人�てえからなァ……そのまた草鞋を拾って歩いているやつもあるんだ。上には上、下には下のあるもんだ。上ェ見ても下ァ見てもきり[#「きり」に傍点]がねえてえなァ、これだい、どうも……旦那、だいぶ降って来やしたな」 「おゥ、さようであるか……」 「けッ……なにを言ってやンでえ。『さようであるか』だってやがる、おさまるな畜生、ェえ? さようであるかッて面じゃァねえや、鏡と相談しろい。『(蟇《がま》の油売りの口調)あいあいさようでござい、あちらでも御用とおっしゃる』てな面ァしてやがって……あの旦那、提灯が暗くなりましたら、拳固で下からちょいと軽く叩いて頂くと、芯が落っこって明るくなりますが、ええ。あんまりひどくやりますと灯《あか》りが消えますから、ええ。軽く下からちょい、ちょいとやって頂くと……へ? えェえ、へへへへへへ、どういたしやして……あァあァ、こんなことまで酒手のうちに入《こも》っているんだい、冗談じゃァねえな。どっこいしょ、どっこいしょ……吾妻橋にもう近いてえのに、出すものがあるなら、早く出しゃァいいじゃァねえかなァ、いつまで暖《あつた》めといたってしょうがねえじゃァねえかなァ。こっちだって貰うものを貰っちまわなきゃ、きまりがつかねえやなァ。さっきは『酒手は充分につかわす』って、そ言ってやがったじゃねえか。つかわすもんならこの辺でつかわさなきゃ、つかわすとこァないよ、銭遣いを知らぬサンピンはこれだから困るよ。くれるものをくれると仕事に張り合いがあるが、そいつが出ねえと思うように力が入らねえ。いよいよ出ねえとなると、こっちだってほんとうに疝気が起こるよ。気のせいだか腰の骨が少しみりみり[#「みりみり」に傍点]いってきやがったよ。……旦那、ひどく寒うございますね」 「さようであるか」 「……大束《おおたば》な挨拶をしやァがるな、面白くもねえ。……おやおや、なんだい、女ァくたぶれたと見《め》えて、炬燵《こたつ》へ寄っかかって寝ちまいやがった。野郎、穴のあくほど見とれてやがる。さっき聞いたには妹だと言ったが、てめえの妹なら家にいて、欠伸《あくび》をした面も、べそをかいた面も、てえげえ見飽きていそうなもんじゃァねえか。珍しそうに見ているところを見ると、怪しいな、これァ。ふざけちゃァいけねえぜ、そんならそのように、こっちへ渡るもんせえ渡っていりゃいいじゃァねえか。唖にでも聾にでも盲目にもなんにでもなろうじゃァねえか。くれるものもくれねえで、戯《ふざ》けちゃァいけねえぜ。変なことをしやがると、船ェひっくり返《けえ》しちまうぞ、ほんとうに、船が穢《けが》れらい、冗談じゃねえ……�鷺《さぎ》を烏《からす》と言うたが無理か……�てなァ、�場合《ばやい》じゃ亭主を兄と言う�へへ……なにを言ったって感じねえや、畜生め。癪《しやく》にさわるから、ひとつ船を揺《ゆ》すぶって、女を起こしてやろうかなァ。そうすれば野郎と酒手の相談でも始めやがンだろう。『船頭もだいぶ疲れてきたようですが、あなた酒手はおつかわしになりましたか?』とくる。『まだやらないよ』『早くおやり遊ばせ』『このくらいじゃッ、どうだ』『それでは少ないから、もっと余計おやり遊ばせよ』かなんか……言うか言わねえかわからねえが……とにかく、女を起こさねえことにゃァ、仕事にならねえ。どうしやがったんだい、これだけ揺らして……目が覚めねえか、死んじまったんじゃねえんだろ!」 「船頭、これ、だいぶ船が揺れるな」 「ええ、揺れますよ。出るものが出ねえと、いつでもこのくれえっ揺れるんでござんすから……なんなら、ぐるぐる廻そうか」 「戯けたことをするな!……そのほうも疲れたであろう。これで一服せい」 「ご催促申して相済みません。……やっぱりねェ、頂くものは頂いちまわねえと……こっちも張り合いのねえ仕事てえものは、どうもはか[#「はか」に傍点]がいきませんで……へへへ、有難うござんす」 「こっちに来い」 「まことに相済みません……旦那、どちらに(きょろきょろ見廻しながら)……ございます」 「なにが?」 「これで一杯やれ、とおっしゃったのは、酒手じゃァないんで……」 「ふっ……粗忽なやつだ。一服せい……煙草を吸えと申したのだ」 「あ、煙草ですか……酒手じゃァねえんで、なんだ、へへへへ……あっしァまた酒手を頂くんだろうと思って礼を言ったんですが、えへへ、そうですか、煙草ですか」 「そのほう、煙草は喫《の》まんか」 「いえ、嫌《きれ》えってこたァありませんがねェ。お先煙草[#「お先煙草」に傍点]なら尻《けつ》から脂《やに》の出るほど吸いますが、手銭《てせん》じゃァむやみに吸いませんよ」 「そのほう、ずいぶん欲が深いの……」 「欲のほうじゃァ他人《ひと》に引けを取ったことァありませんでねえ、山谷堀《ほり》から吾妻橋へかけて船頭の熊蔵より欲の熊蔵といえば知らねえ者はねえぐれえなもんで」 「その欲の深いところを見込んで、拙者《せつしや》少々相談がある。金儲けだがどうだ、半口乗るか?」 「へッ? 金儲け……ええ、ええ、金儲けとくりゃァ半口どころじゃァねえ、丸口《まるくち》乗るよ」 「艫《とも》へ出ろ」 「え?」 「艫へ出ろ」 「ええ、ええ。どこへでも出ます……なんでげす?」 「あれに寝ておる女……」 「へえへえ」 「最前、身どもが妹と申したが、じつは偽《いつわ》りだ」 「へへへへ、そうでござんしょう、ええ。どうもご兄妹《きようでえ》にしちゃご様子が違うと思っておりました。(小指を出して)じゃお楽しみで……」 「戯けたことを申すな。さような者ではない……じつは最前、拙者、花川戸の河岸《かし》を通り合わした折に、雪の中で癪で苦しんでいる様子、介抱してやろうと、親切ごかしに懐中《ふところ》へ手を入れてみると、七、八十両、かれこれ百両足らずの大金を所持いたしておる。だんだん欺《だま》して様子を聞くと、本町辺のよほど物持ちの娘らしいが、店の者と不義を致し、そいつが如何さま両親に知れてその者が暇にあいなったらしい……。そのあと慕うて、彼女《きやつ》、有り金をさらって家出をなしたものとみえる。親の許さぬ不義いたずらをする不孝者、その場で殺《ばら》して金を巻き上げてやろうとは思ったが、行《ゆ》き来《き》の提灯《ちようちん》が妨げにあいなって思うように仕事もできん。よって相手の男のいる処へ連れて行ってやる、と欺《たば》かって、船へ連れ出した。よんどころなくこの船のうちでと考えたが、どうだ、この女を殺せばまとまった金が手に入る。そのほうにも相当に分配してやるから、人殺しの手伝いをしろ」 「じょ、じょ、じょ、冗談言っちゃァいけねえ。そんな、あたしァ、いくら欲が深くっても、人を殺してまで金を取ろうなんて、そんな太《ふて》え了見はねえんで……ただ、あっしのはむちゃくちゃに欲しいだけなんですから……」 「しからば、いやと言うのか」 「まっぴらご免くださいまし。どういたして、とんでもねえことでげす」 「いやとあらば是非がない。武士がいったん大事を明かした以上、口外されては露見の恐れだ。そのほうから殺《ばら》すから、覚悟をしろ」 「旦那、少し待っておくンなさい。じゃァ、なんですか、手伝わなきゃあっしが殺されるので?」 「いかにも……」 「落ち着いていちゃァいけねえ……手伝やァあっしに金ェくれるんですか……じゃァ、ま、待っとくンないよ。いま考えるから……殺されるよりゃァ殺して金ェもらったほうが割りがようがすから……やりますけど。うまくいったら、あっしにいくらくれるんです?」 「そのほう、なかなか欲張っているな。震えながら値を決めようとは、よい度胸だ。首尾よくまいらば二両つかわす」 「え?……二、二両? たった二両かい、おい、え? ただのリャンコかい? へッ、言うこたァ大束《おおたば》だが、するこたァしみったれで、太くて図々しいというのはおまはんのこッたァ。だれが二両ばかりの目腐《めくさ》れ金《がね》で笠の台[#「笠の台」に傍点]の飛ぶような危ないことができるもんか、冗談じゃァねえや。あっしゃ、こうやって震えていると思うだろうが、りょ……了見が違うんだ、ただ体躯《からだ》が細かに動いてるだけなんだから……まごまごしやがるってえと、川ン中へ飛び込んで、この船をひっくり返しちゃうぞ」 「これっ……船をひっくり返されてたまるか」 「おっ、この野郎、顔色が変わったところを見ると、さては、泳ぎを知らねえな……へへ、陸《おか》じゃそっちが強《つえ》えか知らねえが、水へ入《へえ》りゃこっちァ鵜《う》なんだ、まごまごしやがると引きずり込むぞ」 「これ……つけ込むな、それでは不足と言うか……」 「当たりめえじゃねえか、四分六とか、山分けとか言うんなら危ねえ橋も渡ろうじゃねえか、二両ばかりの端《はし》た金でだれがこんなことをするもんか」 「よし。しからばこういたそう、百両あったら五十両つかわすから手伝え」 「へ? じゃ、なんですか、や、山分けで、ほんとうに? おまはんがね、話がそんなに早くわかろうたァ知らねえから、嫌なことも言ったんです……ご勘弁をなすっておくんなさい。それじゃァ、早く……」 「なぜ手を出す……いま手を出してもない。あの女の懐中にある」 「いくらか手付け……を」 「ばかなことを言うな。武士に二言《にごん》はない」 「へッ、武士に二言はねえなんぞ、あんまり当てにゃァならねえや。あとで褒美をくりょう、金は延べ金……(首を切る形)すぽり、なんざ流行《はや》りませんぜ、旦那。ようがすかい? 大丈夫ですかい? で、どこで殺《や》るんです」 「幸い、この船で……」 「冗談言っちゃいけねえやな、血糊《ちのり》をつけた日にゃァ明日っから飯の食い上げだ。こうしやしょう、向こうに見えるのが両国橋ですから、あの橋間《はしま》を抜けて、一つ目の中洲へ船を着けますから、そこへ引っ張り上げて、そこで殺《や》っておしまいなさい、ね? 潮が上げて引くときにゃァ、沖へ死骸が流れるから足がつかなくて、こいつが一番ようがす」 「うんッ、よいところへ気がついた。急いでやれ」 「へ、よろしゅうがす」  熊蔵は、恐いのと欲と両方でせっせと船を中洲へ漕ぎ寄せる。侍のほうは襷《たすき》十字にあやなし、袴の股立《ももだち》を高々に取り上げて、腰の刀の栗形《くりがた》(鞘についている下緒《さげお》を通す金具)のところに手をかけて裏と表の目釘《めくぎ》を湿《しめ》し、舳端《みよしばな》へ立った。 「旦那、そこに立っていては舵《かじ》が重くっていけません。先ィ上がっとくンねえ。あっしァあとから女を引っ張り上げるから」 「よろしい」  雪明かりで河岸《かし》がよく見える。侍がひらりと中洲へ跳び上がる途端に、一つ目の河岸で、わッという人声、それに一瞬気を取られた隙に、熊蔵が棹を逆に返してぐいッと突くと、着きかかった船が二間ばかり岸を離れた。すぐに早具をかけて櫓とかわり、もと来たほうへ舵をぎィッと廻して……。 「ざまァみやがれっ、はは。いい塩梅《あんべえ》に跳び上がりゃァがって……間抜けめ、やーい、ばかァ」 「これ、船頭、船をどこへやる」 「どこへやろうと大きなお世話だ。おれの船をおれが勝手にやるんだ。てめえの指図をうけるかい。なにを言っていやァがる、擂粉木《すりこぎ》め、斬るの殴《は》るのと野戯《のだ》ァ言《こと》ォ吐《つ》きゃァがって、人間がそうぽかぽか斬られてたまるものか」 「おのれ、けしからん」 「なにを言ってやんでえ、けしからん、だってやがら。芥子《けし》が辛《から》くッたって、唐辛子《とんがらし》が甘くったって、おれのせいじゃァねえや畜生め。これからだんだん潮が上がってくらァ、なァ? てめえェ泳ぎを知らねえだろ。浮かぶとも沈むとも勝手にしろい、土左衛門|侍《ざむれえ》、ざまァみやがれ、ばかッ」  散々悪態をついて、船を間部《まなべ》河岸《がし》に着けて、娘に家を訊いてみると、本町一丁目のこれこれ[#「これこれ」に傍点]。……家では一人娘がいなくなったというので、八方手分けをして捜して……ごった返しているところへ、熊蔵が娘を連れ込んだから、両親は大喜び……。 「有難う存じます。あなたのようなかたがおいでくださればこそ、娘の危《あや》ういところを助かりました。あなたは娘の命の恩人でございます。なんともお礼の申し上げようもございませんで……、ひと口差し上げたいとは存じますがごらんの通り、もう取り散らしてございますので召し上がったところでお身になりますまい……で、いずれ明日、改めてお礼には伺いますから……どうした? うん、出来た……あァあァ、こっちィ出しな、ェェ、これは娘の助かりました身祝い、ほんのお酒手でございますので、どうかひとつ、お納めのほど……」 「冗談言っちゃァいけねえよ、旦那、そんな心配《しんぺえ》しなくったってようがすよ、ねえ、こっちも殺《や》られちまうところを共々にこうして助かったんですから……え? さいですか……へへへ、こんなことをされちゃァ困りますが……お嬢様の身祝いとあれば頂戴いたします」  と、旦那の目を盗んで、脚の間にはさみ、貰った奉書の紙包みをピリピリ破いて、中を見ると、ぴかりと光った小判が百両……。 「こいつは豪気だ。有難てえ。うゥん……百両ッ……うーんッ」  熊蔵は、金包みをぐうゥッと握り込め……あまりの痛さで目が覚めた。気が付くと船宿の二階で夢を見ていて、自分の睾丸《きん》をぎゅーっと握っていた……。 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]雪の夜の山谷堀の船宿、しィーんとした隅田川を下る屋根船……白一色の錦絵のような情景が目に浮ぶ。とくに(最後にわかるが)夢の話は発想が自由で、ことが都合よく運ぶので、うまい演者の手にかかると惹《ひ》き込まれる。講談種らしいが、「蔵前駕籠」[#「「蔵前駕籠」」はゴシック体]同様、不穏な幕末の雰囲気がある。  落ち(サゲ)が題名になっているが、品が悪いと三代目三遊亭金馬は、「夢か」で終った。しかし、握りなんとか[#「なんとか」に傍点]でひとり寝をしている疝気もちの船頭のほうが冬の底冷えのする夜のきびしさがよけい身に沁みて伝わってくる。別名「欲の熊蔵」「錦嚢《きんのう》」という。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   悋気の火の玉  悋気《りんき》は女の慎《つつ》しむところ、疝気《せんき》は男の苦しむところ……。  悋気……つまりやきもち[#「やきもち」に傍点]というものは、焼きかたがむずかしい。   やきはしやせんと女房いぶすなり  焼くというほどでなくて、狐色《きつねいろ》ぐらいに燻《いぶ》す嫉妬《しつと》というものは、性質《たち》のいいもので、   寝たなりでいるはきれいな悋気なり  夜中に帰って来た亭主を迎えもしなければ、問い詰めたりしないで、騒ぎ立てないのも嫉妬としては控え目だが、それが、   悋気にも当たりでのある金盥《かなだらい》   簪《かんざし》も逆手に持てば恐ろしい   朝帰り命に別状ないばかり  となると、ただごとじゃ済まなくなる。  浅草の花川戸に、立花屋という鼻緒《はなお》問屋があった。  ここの旦那は堅い人間で、女は女房のほかにまったく知らないという……堅餅《かたもち》の焼きざましのような性格だが、この旦那が、あるとき、仲間の寄り合いのくずれで、吉原へ誘われた。  一度遊んでみると、その味を忘れることが出来ない。毎日のように遊びに行くようになったが、根が商人《あきんど》だから、算盤を弾《はじ》いてみて考えた。こんなことをしていたんじゃあいくら身上《しんしよう》があってもたまったもんじゃあない。なんとか安く済ませる方法はないか、いろいろ思案した結果、花魁を身請《みうけ》して、根岸の里へ妾宅《しようたく》を構えて囲《かこ》った。  いわゆる船板塀に江市屋格子《えいちやごうし》、庭に見越しの松という家で、お妾に婆やに狆《ちん》が一匹……若い女《おんな》が湯上りで、派手な浴衣を着て、すっかり化粧をして、この狆を抱いている姿というものは、まことに絵のような光景で……。  この狆を抱いていると、当人が引き立つ……なかには狆と同じような顔をして……狆を生んだんじゃァないか……なんてえかたもいる。  で、旦那は、月のうち本宅に二十日、妾宅に十日泊るようになった。本宅のほうでは、このごろ旦那の様子がおかしい、と感づいて、調べてみると、案の定、根岸に妾宅があることがわかったので、本妻としてはおもしろくない。 「ただいま帰りました」 「お帰りなさいましっ」 「おい、なんだいその言い草は? おまえさんは女でしょ? 女は女らしく、もう少しやさしくできないのかい?……あーあ、くたびれた」 「ええ、そうでございましょう。お疲れでございましょう。ふン」 「おい、おかしなことを言うね。おい、お茶を淹《い》れておくれ」 「あたくしが淹れたお茶なんかおいしくございませんでしょ、ふン」 「おい、どうでもいいけど、そのふンてえのはおよしよ。感じが悪いよ。笑うんなら、あははと笑いなさい。……あー、腹がへった。飯《めし》を食おう、膳を出しとくれ」 「あたしのお給仕じゃァうまくないでしょう、ふン」 「いいかげんになさい」  旦那だって、これでは面白くないから、プイと飛び出してしまう。こうなると妾宅へ二十日、本宅へ十日と、ものが逆になってくる。そのうちには、だんだん本宅へ帰らないことになる。さあ、本妻のほうではおさまらない。こういうことになったのも、あの根岸の女ができたればこそだ、あの女を生かしておいてなるものか、祈り殺そうと、真夜中に、藁人形《わらにんぎよう》を杉の大木へ持って行って、五寸釘をカチーン、カチーンと打ちつけはじめた。  このことが妾宅のほうにも知れた。根が吉原にいた女だから意地じゃァ負けない。 「なんだって? あたしを五寸釘で祈り殺すって? ばかにしてやがら、なにも旦那にあたしのほうから来てくれって頼んでるんじゃないよ。旦那のほうで来るんだからしょうがないじゃないか。旦那の機嫌も碌《ろく》にとれないで、五寸釘が聞いてあきれらァ……ヘン、向うが五寸釘なら、こっちは六寸釘だ……婆や、六寸釘を買っといでッ」  根岸のお妾は六寸釘で、真夜中にカチーン、カチーンと呪いの祈りをはじめた。  これが、花川戸の本宅に知れたからたいへんで……、 「なんだい? 根岸で六寸釘で祈ってるって? 生意気なやつだねえ。よーし、そんならこっちは七寸釘だよ。すぐに七寸釘を買っといで」  さあこうなると、お互に八寸釘だ、九寸釘だと競争で呪いはじめた。  �人を呪わば穴二つ�——。  本妻の一心が通じたものか、妾がころッと亡くなった。途端に妾の一心が通じたものか、本妻も同じ日の同じ時刻にころッと亡くなった……。  こうなると、ばかを見たのは旦那のほうで、一ぺんに葬式《ともらい》を二つも出すという騒ぎ。野辺の送りも済ませて、ほっとする間もなく……花川戸の立花屋の蔵の傍から、陰火がぱッと上がったかと思うと、この火の玉がふワふワふワふワと、根岸のほうへ向って飛んで行った。すると根岸の妾宅から陰火が同じようにぱッと上がって、ふワふワふワふワと、花川戸のほうへ向かって飛んで行った。この火の玉と火の玉が大音寺前のところで、カチーンとぶつかって、火花を散らす……という騒動になった。 「ェェ番頭さん、ちょっとここへ来ておくれ」 「ェェなにか、旦那様ご用で?」 「おまえね、うちの評判を聞いたかい?」 「昨晩、ちょっと湯屋で耳にいたしましたが……火の玉のことでございましょう?」 「そうなんだ、どうもよくないねえ。そういう評判を立てられるということは、店の暖簾《のれん》にかかわるよ、信用にかかわりますよ……どうしたらいいだろう?」 「相手が火の玉のことでございますからな……如何でございましょう。これはお寺のお住持にお願いをして、有難いお経をあげていただいたら、それで成仏できるのではないか、と……」 「ああ、いいところに気がついた。それならば、あたしの伯父さんだ。谷中《やなか》の木蓮寺《もくれんじ》の和尚に頼もう」  と、旦那は木蓮寺へ行って、和尚に事情を話し、お経を上げてもらったが、火の玉はいっこうにおさまらない。 「これはェェ木蓮寺の伯父さん、どうぞお上がりくださいまし……旦那様、和尚さんがいらっしゃいました」 「ェェ……如何でございます」 「いや、そのことで参ったのだが、あの火の玉は、わしのお経など受けつけない」 「困りました」 「いや、そこでわしは考えた。生やさしいことでは駄目だ。どちらの火の玉も、もとはといえば、おまえさんをはさんでの悋気からはじまったことだ。今夜、おまえさんとあたしと大音寺前へ行って、両方から来た火の玉に、おまえさんがなんどり[#「なんどり」に傍点]と、慰めてあげなさい。で、両方が落着いたところで、あたしが有難いお経をあげれば、成仏できるだろう。なあ……」 「それよりいたしかたがないでしょう。まだ時刻が早うございますから、伯父さん、一局」  と、二人は碁が好きなので、これからぱちりッ、ぱちりッとはじめた。九ツの鐘がゴォーンと鳴って、 「旦那様、旦那様……ただいま九刻《ここのつ》でございます」 「ああ、忘れていた……あのゥ伯父さん、九刻を打ったようで、出かけましょう。……番頭さん、あとを頼みますよ」  旦那と和尚は浅草|田圃《たんぼ》を斜《はす》に抜けて、大音寺前。 「寂しゅうございますな」 「寂しいったって、ここは人殺しだの追剥《おいはぎ》の出るところだ」 「ただこうして待っているのも退屈なもんだな……えーと……」 「なにをしている?」 「煙草を吸いたいと思ったが、あいにく火道具を忘れてきちまった。……伯父さん、火道具ゥお持ちじゃァありませんか?」 「わしは煙草は吸わんから持ってはおらん。まァそこの木の根に掛けて待ってなさい」  しばらくすると、根岸のほうからひとつ陰火がぱッと上がったかと思うと、ふワふワふワふワ……。 「おいおい、あれが……おまえさん、お妾さんの火の玉だよ」 「ははあァ……なるほど……おいおい、おーい、ここだよ」  旦那が声をかけると、ぴゅーッと飛んで来て、三べんくるくるくるっと廻って、ぴたりと止まった。 「や、凄い勢いだね。しかしよく来てくれた。おまえの来るのを待ってました。ここにいなさるかたは、おまえは知るまいが、あたしの伯父さんだ。このことについていろいろ心配してねえ……で、おまえが出てくれる心持ちはよくわかってるんだけれど、なにしろ、あれこれと評判になっちゃァ困るんだよ……話の途中だが、ちょっと待っておくれ。あたしゃ煙草が吸いたいんだが、火がなくて困ってるんだ。ちょいとこっちへ来ておくれ。おまえの火で煙草をつけさせて……うん、うんうん、ついた、ついた。はァ、うまいねえ、有難う……そこでね、おまえが出て来ることはおだやかでないんだよ。でね、家《うち》の家内はね、あれァ素人でわからずやでねえ。だから、どうしてもおまえさんにつっかかるわけだが、そこはおまえさんは酸《す》いも甘いも心得てる苦労人だ。おまえさんのほうから下手《したで》に出て、姐さん、まことに相済いませんかなんか言ってくれりゃァ、向うだって悪い心持ちはしないじゃないか……あれと仲直りしておくれでないか。あたしがかわいそうだと思ったら、ねえ、なんとかうまくやっておくれ……もっとこっちへ来て、もう一服つけさしておくれよ」  と、旦那が煙草を吸っていると、花川戸のほうからひとつ陰火がぱッと上がったかと思うと、こっちは根岸の火の玉みたいにふワふワふワふワなんてそんな生やさしいものではない。びゅーんと唸りをあげて、まっしぐら……。 「おいおいッ、あれがおまえさんの女房の火の玉だ」 「いや、こりゃァもの凄いね……おいおい、おーい、こっちだ、こっちだ」  と、旦那が呼ぶと、びゅーんと一直線に飛んで来た火の玉が、ぐるぐるぐるぐると五、六ぺん廻って、ぴたりと止った。 「いや、よく来てくれた。おまえの来るのを待ってました。ここにいるかたはおまえも知っての通り、あたしの伯父さんだ。このことについていろいろと心配してねえ。でね、いまこれにも話をしたんだよ。すると、ようやくわかってくれて、姐さん、相済まないって、そう言って詫びをしようと言ってるんだから、おまえさんもいつまでも堅いことばかり言ってないでさ。あたしが困るじゃないか……だからね、ま、いろいろ話もあるけどもさ……ちょっと、ちょいとこっちへ来とおくれ、あたしが煙草を吸いたいから……」  と、旦那が煙管を持っていくと、火の玉がすーっとそれて、 「あたしの火じゃうまくないでしょ、ふン」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]女の悋気の凄まじさは、「道成寺縁起絵巻」の古《いにしえ》より幾多も語り伝えられている。清姫は安珍の裏切りに蛇(龍)となって日高川を追走し、寺の釣鐘に隠れたところを巻きつき、口から火焔を噴射して、釣鐘|諸《もろ》とも焼き殺してしまうが、こちらの妻妾も負けてはいない。 「藁《わら》人形」という噺もあるが、昔は憎む相手を藁《わら》の人形《ひとがた》に作り、その胸に五寸釘を打ち込んで祈り殺すという、原始性の強い呪詛《じゆそ》があった。他人に見られると効力を失うので、丑三つ刻《どき》に白衣に身を包み、御神木にその人形を打ちつけた。�人を呪《のろ》わば墓穴《あな》二つ�の譬《たとえ》が噺の中に効果的(?)に生かされて、妻妾の激しい悋気戦争が両成敗となる。  旦那が�火の玉�の仲裁に出かけるのが、なんとも可笑しく、秀逸。番頭を同伴する演出もあるが、僧侶のほうが様《さま》になる。�火の玉�がぶつかり合う大音寺前は、龍泉寺辺である。  八代目桂文楽の持ち噺《ネタ》だった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   王子の幇間 「おい、店先へだれか来てるよ。お光」 「旦那、神田の幇間《たいこもち》の平助が参りました」 「しょうがないねぇ、あいつは。いっぺん家《うち》を覚えるとのべつ[#「のべつ」に傍点]に来る、困ったやつだ」 「門口へ�平助入るべからず�という札《ふだ》を貼っておきましたら、自分で剥《はが》して持って来て、この紙を二十枚貯めて取替紙にするなんて、ほんとうにあの男はしゃァしゃァしているんですよ」 「うん。こないだも、おれの靴を片っぽあいつが盗んでおきゃァがって、『旦那、片っぽじゃァ半端だからください』って、一足に纏《まと》めやがって……それをおれのところへまた売りに来やァがった。『靴なんてものは、他人《ひと》の靴なんて履けやァしない』って言ったら、『いいえ、旦那にぴったり合います』って、冗談じゃァない、合うわけだよ、おれの靴じゃァねえか、じつにどうも、悪いやつが出入りをするようになったもんだ」 「あなたは芸者の家かなにかに行って、あの男に弱い尻でも捕《つか》まれているんでしょう?」 「なにそんなことはない」 「いえ、このごろではだいぶ向島へお出かけになりますことを聞いて、残らず承知しています。旦那さま、こう遊ばせ、今日は留守だってことにいたしましょう。あの男は人がいないと悪口ばかり言うやつでございますから、思うさまさんざあなたの悪口を言わせて、そこへあなたがお出になって談じつけ、あいつをふんじばって蔵の梁《はり》へ吊し上げてやるか、庭の松の木へ縛《しば》りつけて、洋犬《かめ》をけしかけてやりましょう」 「いや、あいつは洋犬が嫌いだもんだから、始終|懐中《ふところ》にちゃんと角砂糖を所持しているくらい抜け目のないやつだが、……そうだな、そうしてやろうか」 「それでは奥へ隠れていらっしゃいまし、どんなことがあっても絶対に出て来ちゃァいけませんよ……竹や、旦那のほうへお布団とお茶を持って行きなさいよ。……あら、平助のやつ、もう勝手口から入って来ましたよ」 「へえ、こんにちは……平助でございます。まことに不順な時候で、どうもみなさん、感心でげすね。お店のかたがご主人に陰《かげ》|日向ひなた≫なく、真っ黒ンなってお働きンなる。ェェご主人が万代ですな、へえ。……清どん、清どん、ェェあなたは評判がいい、あなたァえらいンですってねえ、すべてが行き届いて、人間が親切で……恐れ入りやしたねえ」 「小僧から先に取り巻こうと思って、嫌なやつ……」 「おや、長松どん、感心だね、お頭髪《つむり》がうれしいね、束髪《そくはつ》がちと前へきすぎたようでげすぜ。少しへんてこの束髪だね、その代り寝相が悪くって、この束髪はたいそう前のほうへ出やしたね。弁慶《べんけい》の兜巾《ときん》束髪というのでござりますなあ。目は鯨《くじら》、頬は|赤※[#「魚+覃」、unicode9c4f]《あかえい》、鼻|比目魚《ひらめ》、魚河岸へ持って行けば幅がききやしょう。着物が綿銘仙《めんめいせん》で裏に萌黄《もえぎ》の風呂敷がついて、剣《けん》酢漿《かたばみ》の紋が出ているところなどはよほどようがす。ふふふ、雑巾《ぞうきん》つなぎの刺子帯《さしこおび》はいいね。火掛《ひがか》りが出来そうだね。帯止めが金のパチンではなくって、引窓の紐《ひも》を結んだのは恐れ入りやしたな」 「なにを言ってやがる。おまえの世話にはならねえよ、こんなものでも我童《がどう》がいいってんだよッ」 「これはけしからんもんでげすな、褒めて叱られるなんてえのは……おやッ、こんち、おなべどん。あたしは、あなたァのことを褒めている……台所司令長官、この御飯の炊《た》きかたはうまいんですってねえ、あなた。そもそもお飯《まんま》の炊きようは、初めチョロチョロ、中《なか》パッパ、じわじわ時に火を引いて、赤児泣くとも蓋《ふた》とるな……なんて憲法はあなたが考えたんだってね。……ェへへ、たいへんに白粉《おしろい》を塗りましたね、どうも……もう少し薄く塗るとよかったな、どうも。白粉で盛り上がっているじゃァないか……あァたが口を利くと白粉がボロボロ落っこちるよ。ェへへ、もったいないからお拾《しろ》いお拾《しろ》い(白粉)てくらいなもんで、ェッへへ�下女獅子ッ鼻に白牡丹《しろぼたん》�……」 「どうせあたしは獅子ッ鼻……」 「あッ、あなたお泣きなすったな……嫌《や》だな、泣く顔じゃないよ、あなたの顔なんてものは。いい女《こ》が泣くと海棠《かいどう》に露を含んだようだってえが、あなたが泣くと、芭蕉ッ葉に夕立をくらったようだ……涙でもって白粉がはげちゃったよ、あなた。顔がずーっと縞《しま》ンなっちゃった。あなたのお郷里《くに》は薩摩《さつま》さまですか?……そうじゃァない? そうですよ、鹿児島(顔縞)県てえなァこれからはじまった……。よォよォ、おみ足[#「おみ足」に傍点]おみ足ッ、ばかに大きいおみ足だなどうも……十三文甲高ですゥ? �大は小を兼ねる�てえますから、大きいほうがお立派でよろしい。踵《かかと》のほうが割れてますね。皸《あかぎれ》ェ? 皸ですか、このお暖かいのに……え? 四季にかまわず?……えらいなァ、皸博覧会のときには一等賞でしょう。皸の割れ目ンとこから、このちらりっと、この青い物《もん》が出てますが、へえ? お郷里《くに》を出るときに、粟《あわ》や稗《ひえ》を踏み込んだんで、ご当地が暖かいてんで芽が出たン……踵へ田地を持ってんのァ、あなた一人だね、どうも。あなただね、踵を抵当にお金を借りたい……ェへへ、怒っちゃいけませんよ。怒る顔じゃないよ、ェへへ……あたくしはね、あなたに恋着《れんちやく》していますよ、惚れてますよ、ええ……近々に結婚を申し込もうと思って……いえまったく……ですからね、どっか散歩しようじゃありませんか。あんたといろいろと……お話が……」 「なにを言ってんのさァ、嫌なこったァ」 「逃げやがった。……こっちだって嫌なこったァ、両方|相子《あいこ》で引きさがりましょう……おやッ、こんちはァ、乳母《ばあや》さん……ェへへ、……いい児ちゃんや、美世ちゃん、乳母《ばあや》さんにおんぶして……ッへへッ、ウららららららららら……ェへへェ、笑ってらっしゃる、お可愛くなったな、どうも。肥りましたねえ、ええ? 乳母さん! あなたァのお乳がいいから。えッ、あなたァのお乳なんてえものは大したお乳で……今日《こんにち》ではねえ、お子供衆を育てるてえことについては、なかなか責任が重い。芝居ですると、まずあなたの役が、『先代萩《せんだいはぎ》』の政岡《まさおか》ですなあ、ええ? 歌右衛門がやりましたねえ、きれいでしたなァ。ェへへへ……あなたいやに汚ないね、どうも。これ一名不潔政岡……汚《きた》な政岡。へッ? なんですゥ? ばかにするゥ? ばかにするなんてものはこんなもんじゃァない。あたしはね、あなたの家柄を聞いて驚いた。たいそうな家柄ですってねェ、あなたのところには……え? 小野小町の虎子《おまる》があるんですってね。あなたは宇都宮を立ち退くとき、亭主を残して来やしたろう、ちゃんとたね[#「たね」に傍点]があがってますよ。そういう良夫《おつと》を持っててもいけないから、ともに尽力して稼ごう、心得違いはごめんだよてんで、こっちへ出て来たあなたの心がけのいいところを旦那が見抜いて、あァたの乳を飲まして嬢を育てたら利口になるってんで、あなたを乳母《ばあや》にと言いつかったんだが、なんでも人間は氏《うじ》より育ちがよくなくてはいけません。いまでは高い入費を出して学校へ入れておくうちに、十歳ぐらいになるともう古《いにしえ》の二十歳《はたち》の者と対等ぐらいのもので、わっちなどは人間を辞めちまいたいくらいのものでげす。わっちが学校で習ったもんといやあ、ただ運動の一、二、三……だけでしたね。おまえさんは嬢ちゃんを抱っこしているのがお役で、こういうことを言ったら世の教育になるだろうとて子守唄……なんてったっけな? あっそうだ、※[#歌記号、unicode303d]一緒になりたや、聞かしておれば、貞女両夫《ていじよりようふ》に見《まみ》えず、まとまるものならまとめておくれ、いやで別れた仲じゃない、去る者日々に疎《うと》しとそりゃたが言うた、遠ざかるほどなお募る……てえなことを言ってましたろう……いよ、これは鳶頭《かしら》、こんちはァ、気がつかなかった、どうも……」 「うるせえ野郎だな、こいつァ。べらべらおしゃべりしやがって、こんなうるせえやつはねえや」 「鳶頭、そうおっしゃるな、あたくしァなんでも存じておりますよ。先日、本町の亀の尾へ各区の頭取が集まりましたことを伺いましたが、鳶頭はよくこちらのお店へいらっしゃいますね。相変らずご盛大で……こないだの憲法発布のときにはじつに恐れ入りやしたね。組合のほうではあのくらい派手なことをなすって、またこないだの三百年祭のとき、持っておいでなすったのは大きな旗でげしたが、おれが振ってやると鳶頭《かしら》が腕をあらわしたてえことを、い[#「い」に傍点]組の万公から聞きやしたが、西洋人も驚いたてえますよ。人望家で陰徳家で、世間が広くて、婦女《おんな》に好かれるように出来てて、足が達者で鉄道馬車へ乗るのが上手な、あなたのような鳶頭はありませんね」 「なにをくだらねえことをべらべらしゃべりやァがるんだ。てえげえにしろ」 「ねえ、鳶頭ァ、黙ってらっしゃいよ。なにも言っちゃいけません。なにも言わずに、あたしに五円ください」 「乞食だね、こいつァ。人の面ァさえ見りゃ、銭くれ銭くれ……てめえになにか五両取られるような悪いことがあるのかい」 「あるかって鳶頭、こねえだあっしが洲崎へ行きましたら、あの竹本播磨太夫《たけもとはりまだゆう》の出している家へ、鳶頭がでれ[#「でれ」に傍点]っと行って、青柳さんてえ花魁を買って、おまえさんが表二階の柱へ寄りかかって、鉄道馬車にひかれた洋犬《かめ》みたいに、朱檀棹《しゆたんざお》に花梨胴《かりんどう》の三味線を取って、トンとぶっつけたね。あっしァ兜町《かぶとちよう》のお客様のお伴をして、そこへ行ってみると、ある会社のご連中がわッと騒いでいらっしゃるしするから、あっしァ嫌な連中と他《わき》の座敷にいると、鳶頭の声だ。サアイコドンドンを……※[#歌記号、unicode303d]紺《こん》の暖簾《のれん》になァ……松葉を染めて……松に紺と辻占《つじうら》か……イヤサアイドンドンドンサイコウドンドン……とやると、花魁がちょいと鳶頭ァ、いいお声、惚れぼれするわねえ」 「この畜生っ、やいっ、平助っ、ばか野郎っ」  と、いきなり平助の頭をポカポカッ。 「ふたつおいでなすって……おお、痛ァ」 「ここをどこだと思ってるんだいっ。やいっ、お店《たな》だぞ、お店《たな》へ来やがって、おれが女郎屋の二階で三味線|弾《し》いたなんてことが、旦那や内儀《おかみ》さんの耳ィ入《へえ》ってみろいッ。べらべらしゃべりやァがって、間抜けめ」 「なるほど、こいつァ悪かった。失敬……取り消します。あの、鳶頭が三味線を弾いたのは女郎屋の二階じゃァない……よォく考えたら区役所っ」 「とぼけたことを言うなっ」  と、またポカポカと殴りつけた。 「あっ、痛ァ……ときどきこうすっぱ抜きをするが、なるほど口は禍《わざわい》の門、舌は災《わざわい》の根だな……いや、権助どん、こんちは……」 「ばか野郎、ざまァ見やがれっ、おしゃべり野郎、この終身懲役|面《づら》め」 「へへ、これは驚きやしたね。いきなり罪人の汚名をうけるとは恐れ入りやしたな。いや、どうも情けないね……ときに権助どん、あっしがあなたの悪口を言ったことでもありますか?」 「あるったってねえったって、おれは知らねえと思ってべえが、なんでもはァよくねえこの野郎め、斬罪《ざんぜえ》に行なうぞ」 「どうも権助どん、あっしが悪ければ謝りますが、あなたのことは方々へ行って褒めていますよ。その権助どんのぽうーとした頭が感心だ。大砲の筒払い、ランプの掃除棒みたいで、橋弁慶もよろしくてえ頭で、第一|品《ひん》のいい顔だよ。寿老人《じゆろうじん》の相がありますねえ。なおまたおいとこ[#「おいとこ」に傍点]相だよと申すそうだ」 「そんな相があるか」 「あるかって、おまえさんは信州の権堂の脇《わき》の村においでなすったときに、ひどく婦女《おんな》に熱くなって、あちらを身代限り……」 「ばか野郎……」  と、またポカリと拳固を食い、 「あッ、痛っ……またおいでなすった、しめて、五つ……こんな痛い日はありませんね……あッ、内儀《おかみ》さん、ご機嫌よろしゅう……ごぶさたをいたしまして……」 「おや、平助さんかい。どうしたの?……いま、店でたいへん音がしましたね」 「いつも粗忽でござんして、へへへ……あれは、柱へ頭をそっとぶっつけまして……」 「たいへん数をぶっつけたようですね」 「ェェ今日《こんち》は、旦那様は?」 「平助、おまえまたしらばっくれて、旦那様、いらっしゃるわけがないじゃないか。四日もお家《うち》へお帰りがないんですよ。おまえさんが旦那様を取り巻いて方々を歩いてるんでしょ……あ、わかりました。どうも様子がおかしいと思ったら、旦那に頼まれて……家の様子を見に来たね? 旦那の……おまえは間諜《かんちよう》だね?」 「間諜ゥ?……浣腸《かんちよう》だか注射だか知らないけども……幇間《たいこもち》なんてえ商売は長くする商売じゃないね、冤罪《えんざい》だァ、濡衣だ。あたくしはねェ、奥様の前ですけどね……(饅頭をつまみ、二つに割って口へ放り込み)ゥゥ……まったくしょうがないすね。……(舌鼓をうって)言っちゃァなんですが……(半分を頬ばり)つまりねえ……(また饅頭をとり)悪いやつがいましてね、あたくしに……(饅頭を二つに割り)失敗《しくじら》せようという……(口の中へ放り込み)つまり魂胆《こんたん》ですな。(もぐもぐやりながら)そりゃあたくしゃァ可哀そうです……(もぐもぐ)ゥゥ、情けない」 「なんだね! この人は。みんな食べちまうんだね……おまえさんに出したんじゃないよ」 「ここに出てるんで……気がつかなかった……もう、前にあればてめえのものだと思って……まことにどうも……なんとも(茶碗をつかみ、茶を飲んで)えェェェ……」 「あたしの湯呑だよッ……こんな図々しい人はないよ」 「ェェ、旦那は、まったく、いらっしゃらないんで……?」 「ほんとうにいらっしゃらないって……そう言ってるじゃないの」 「わたくしは二ヶ月ばかり前から、まるで旦那にはお目にかかっておりませんよ」 「なに言ってるんだい。日本橋向うの茶屋へ置いて来たんだろ? 菊住《きくずみ》さんかえ、中芳《なかよし》さんかえ、柏木さんかい。それとも万千《まんせん》かい?」 「いえ、わたくしはまったく存じません」 「いけないよ。松葉かい。河岸《かし》の相模屋でなければ島原の万安《まんやす》かい?」 「いえ、なかなかそんなわけじゃァございません」 「ちょいとそうさね、どこにおいでだろう? 当ててみたいね」 「いえ、わたくしはまったく知らないので、どこへもお供しませんので……」 「長谷川かえ山本かえ浜野かえ、八丁堀の支那料理の評判のよい偕楽園《かいらくえん》へでもいらっしゃりゃァしないかえ」 「まったくわたしは知りません」 「いけないね、隠してもおまえの顔に出ているよ」 「それがまったく、とうから失敗《しくじ》ってて旦那にはお目にかかっておりませんでげす。ほんとうに旦那がお留守ならば……大秘密のことを申し上げますが、ちょっとお人払いを願います」 「なんだね、まあ気になるね……ぴったり、そこを閉めて、なんだい、秘密ってえのは?」 「内儀《おかみ》さんね。あなたはね、近々にこの家を追い出されますよ……放逐《ほうちく》をされます」 「どういうことで、あたしが出されんの?」 「いえ、どういうこともなんにも……旦那は、この節ちょいと外神田の講武所の芸者に惚れて、その芸者を宅へ連れ込んで、あなたみたいな貞女の、結構な奥さんを出してしまおうという本読みがありますよ。だから、じつに……油断をしちゃァいけませんよ。あなたとわたし……平助ができ[#「でき」に傍点]てるってえ趣向で……」 「おや、そうかい……?」 「どうも恐れ入りやしたな。しかしあたしがあなたとそういうことになれば、あたくしは、これから人間を入れ替えて奔走して、学問を勉強して、ちん[#「ちん」に傍点]とあなたをわたしの本妻にでも権妻にでもして、わたくしは一心不乱に稼ぎますが……わたしとあなたは提灯と釣鐘……不釣《ふつ》り合《あ》いは不縁のもとと諦めてはいますけども、旦那が平助と宅《うち》のやつとおかしいとおっしゃるんでげすが、少しもおかしくないじゃァありませんか」 「なんでもないものを、おまえといやな仲になっていると、旦那がお言いなのかえ」 「へえ……」 「そうだったのかい。じつはあたしも、旦那が他《よそ》へ女をつくっていることは薄々知っているよ。だから、おまえとあたしとでなんとかしようじゃァないか?」 「へえー、それじゃァ、旦那をよす気で……?」 「ああ、ほんとうに嫌になったよ。……だけど、平助さん、あたしは、不人情でちょいちょい浮気をする人は嫌いだよ」 「いいえ、その心配は。……この年になるまで一ぺんも浮気をしたことはござんせん。もっともこちらでしたくっても女のほうで相手にしませんから大丈夫で、女のほうにはごく売れないほうで……」 「あたしも覚悟して、いつまででれでれ旦那にくっついてるのは嫌だから、どこへでもあたしを連れて逃げておくれ」 「連れて逃げろったって……もし、旦那に見つかったら、殺されますよ」 「殺されたっていいじゃァないか。いやかい?」 「ええ、わたしは旦那にいくども殺されそこないました」 「おや、なんで?」 「こないだ、わたくしが朝早く起きて家《うち》を掃除していますと、旦那が来て、『平助、支度をしろ』、ではとお供をして、ずいと両国へ指して行くと、『どこにしようかな、これから大中《だいなか》へ行って主人に用があるから、お飯《まんま》を食べよう』とおっしゃるから、ええ、よございますってんで行くと、まだ七時二十分でげしょう、表の門が締ってるんで、あまり早過ぎて寝ているからいけない。『坊主しゃもでも食べようと思うが、しゃももあんまり感心しねえから、それともどうでえ、花屋敷の常磐家へ行こうか』へえ、結構でげす。『常磐家はよして横山町の尾張屋へ行こうか、亀清にしようか』ようがすな、『それとも湊屋へ行って牛《ぎゆう》でも食おうか、どこへ行こう、止《よ》しにしようか』へえ、有難うって、止《よ》しにしようまで礼を言わせるなんてえのはひどいもんで……。柳橋へ来ましたから、柳光亭《りゆうこうてい》か川長《かわちよう》へでもいらっしゃるかと思ってると、左へ曲がりましたから、『代地《だいち》の万里軒《ばんりけん》の西洋料理にしようか、いや朝の洋食はあまり感心しねえ』とおっしゃるから、茅町《かやちよう》の鹿《か》の子《こ》へお行きになるか、蔵前通りの宇治里《うじさと》かと思ってますと、旦那が、『どうでえ、平助、この蔵前通りの鉄道線路をずーと行って、向うからなにか来ても避《よ》けずに歩けば十五円やる』ってんでげすが、きっと鉄道馬車が来るに決まってるじゃァありませんか。避《よ》けなければ車に轢《ひ》かれちゃいますから、これはご免|蒙《こうむ》りましょうと、『これから三好町へ行って富士山《ふじやま》の牛《ぎゆう》でも食おうか、川升はどうだ、駒形の泥鰌《どじよう》を食おうか』へえ、食い物ならなんでもよろしゅうがす。『材木町の万千《まんせん》にしようか』総菜《そうざい》の出店の鰻を召し上がれな。『うん、松田でお飯《まんま》を食おう』へえ、とお礼を言って気がつくと焼けっちまいましたろう。『普請中なら灰でも舐めないか』ってんですが、いくらお腹が空いても舐められません。『なに、てめえはふだんはいはい[#「はいはい」に傍点]舐めるじゃァねえか』って、とんだ洒落《しやれ》を言うようなわけでげしょう。これから浅草の地内《じない》に入りまして、『おれも朝飯前でおまえもご飯前だろう、互に腹の空かしっこをしよう』と、つまらん洒落じゃァありませんか。しかし旦那が食わなければわたしも食べないのは当然だってえ顔をして、つくづく考えちゃいましたね。これからずいと地内へ来ましたから、こいつァ尾張屋か、万梅《まんばい》か、はてな一直《いちなお》かしら、どこだろう? あァ芝居町の万金《まんきん》かと思ってると、雷門の中ァ覗いて、仁王の草鞋《わらじ》は大きなもんだろうとつまらないお戯《たわむ》れでげしょう。『平助、鳩《はと》に豆を買ってやれ』へえ、その豆をわたしは食いたいと思いましたね。それから観音様へお参りをして、鬼面山《きめんざん》の奉納した大きな姿見で、わたしの人相を写して見ると、ひどいもんで死相が現われてました。だんだんてめえの顔色《がんしよく》が変わった……脈が激しくなりました。そうか後架《こうか》(便所)の掃溜《はきだめ》がきれいになったどころの話じゃあない。『お堂の周囲《まわり》を五度廻れ。どうだ、人造の富士山へ登《あが》らねえか』って、七度|登《あが》らされ。『奥山の釣橋を渡ってみねえか』って、体躯《からだ》を動かすようなことばかり言うんで、よほどお腹が空いて来ましたから、もう歩けませんてえと、『なに泣き声を出しゃあがって、おれも食わねえ』とおっしゃりながら、自分は内々|懐中《ふところ》からパンを出して召し上がっていらっしゃり、バターをつけては食べるんでげしょう。向うはパンとあってはこちらはバタバタ騒いでも追っつきません。と田圃《たんぼ》の興竜寺前の『大溝《おおどぶ》を飛べ』とおっしゃるから、へえてんで飛びそこなって向脛《むこうずね》をすりこわして、痛いのなんのって涙を出して押えてますと、旦那が『いい薬をやろう』と言って袂《たもと》から出したのが唐辛子で、滲みるのなんのってたいへんなもんでげした。『これから温泉へ行こう、湯滝《ゆだき》へ行こうか、大金《だいきん》にしようか、それとも金田《かねだ》のしゃもを食おうか、田圃の牛《ぎゆう》が勉強するてえから』へえ、有難うございますって、なにも食わないのにお礼ばかり言わして、『どこかへ行こうか』へえ、よろしゅうございます。こうなればなんでも頂きます。そのうち土手へ出っちまい、大門へ入ったから、鈴木のしゃもへでもいらっしゃるかしら、それとも浜田の天麩羅《てんぷら》か、穴子《あなご》にでもおいでになるかと思えば、吉原中ぐるぐるめぐって歩きましたが、どこへもお寄りなさらないで、これから田中を越して山谷へ来ましたから、八百善《やおぜん》かと思っているうちに通り越しっちまい、小塚原《こつ》の重箱かと思うと路地を抜けて千住へいらっしゃいましたから、ああ尾彦《おひこ》の大自慢の鮒《ふな》の雀《すずめ》焼きを召し上がるのか、有難いと思っているうちに、向うへ切れて『橋場へ行こう』とおっしゃるから、しかたなしに旦那のお供をして、茶腹も一時《いつとき》、水腹二十五分と、むやみに水を飲みましたんで、お腹がよほど堅くなりましたが、なに死んでもかまわんという気になって、向う越しをして奥の植半《うえはん》か柏屋《かしわや》か吾妻屋《あづまや》か八百松においでになるかと思ってますと、『三遊亭円朝の門弟が集まって木母寺《もくぼじ》で催しがあったてえから、ちょいと三遊塚へお参りをしようか』へえ、よろしゅうございますと、これから木母寺の三遊塚へ参詣があって、『柴又の帝釈様へ参詣かたがた運動しようか』あの水でもせめて頂けるなら有難いが、行くまでに身体が持ちません。途中で倒れっちまいます。『泣きっ面ァしやァがるな』ってお叱言でげしょう」 「旦那がかい」 「へえ、しかたがありませんから、あとへさがっていますと、『じゃァ堀切にしようか、それもかわいそうだから、有馬の温泉にしようか』とおっしゃるんでげすが、退いて考えてみますと、温泉へ入ってるうちに倒れっちまいますと言うと、『それじゃァ言問団子《ことといだんご》か長命寺の桜餅を食おう。しかしただ食っても面白くねえから、少し捻《ひね》って、中の餅を食わねえで、皮ばかり食おうか』いえ、ご免蒙りやしょう。どんなに長命寺の桜餅が名物だって、桜の葉ばかりむしゃむしゃ食えません、とようやく嘆願して引き下がり、『枕橋《まくらばし》の八百松でうどんを食べるからつきあってくんな』へえ、有難う、八百松のご膳料理を食べられるかと思いながら行ってみると、『今日貸切』てえ札が出ていましたろう。『いやァいけねえ、きょうは満席《いつぺえ》だ、貸切のところへ無理に入って、車夫と並んでごたごた一緒に食べるのも、あまり感心しねえ、座敷がねえんだろう』とおっしゃって、これから吾妻橋を渡りますときにそう思いましたね、こう腹の空いたときに、この橋でお飯《まんま》を食べたら旨えだろうと、飯のことばかり思い出して、やはり伊豆熊《いずくま》で鰻を召し上がると思うと、これも食べず、並木へ来て、大金《だいきん》のしゃもでも召し上がるかしらんと思ってるうちに、田原町へ来ましたから、やっこで丼《どんぶり》か。それも食べずに門跡の地内へ入った時分には、もう腹が空いて立ちきれなくなりまして、自然とこう首が傾くことになりましたもんでげすから、『平助、なにを考えてる、ここまで来たのは幸いだ、おれの友だちの墓参りをするから手伝って、お墓を掃除しろ』へえ、てんで入りましたところが、あすこは地所が狭うございましょう、背合せに石塔がくっついてますから、水がほかの石塔へもかかりましょう。すると旦那が、『隣の仏が怨むから、ついでに隣の石碑も一緒に洗ってやれ』へえ、と洗っているうちに、また向うの石碑にかかりかかりして、ちょうど二百三十八本、墓掃除をさせられたのはひどいもんでげしょう」 「うん、かわいそうだったねえ」 「これから菊屋橋を通り越して今金《いまきん》のしゃもでも召し上がるか、高橋でお料理を召し上がるか、梅堀《うめぼり》で泥鰌《どじよう》かと思ってると、旦那が『広徳寺の門を見ろ』てんでげしょう。左甚五郎が拵えた門だって、お腹の空いたときにゃァ見たってなんの足しにもなりやせん。ただ結構な門でげすてえだけの話で、すると『榊原健吉《さかきばらけんきち》先生のお弟子を二十五なぐれば、二円やる』とおっしゃいましたから、そこは生兵法大疵《なまびようほうおおきず》のもとで、わたしも少しは五街道雲輔《ごかいどうくもすけ》の弟子になって昔やったことがあるんで、うんと殴って一番喝采を得ようと思って、へえ、やりましょうてえと、旦那が前々からお弟子と通じ合わせてあって、『近々平助という悪党を連れて来るから、殴り殺してくれ』と頼んであったものとみえて、日ごろ訓練した腕前でぶったから、参ったと言っても聞こえませんから、瘤《こぶ》のうえに瘤の枝ができました。これは枝瘤《えだこぶ》、サボテン瘤てえので、わたしは一ぺんでこぶこぶ[#「こぶこぶ」に傍点]しました。『横町の弘法様のお灸で、焼き切るがいい』てえのはひどいもんでげしょう。頭からぽっぽっと煙が出ました。それで『上野の公園地を運動しようか』ってえんでげすが、腹ぺこ運動がありやァしょうか。お腹がいいから運動するてえのはありますが……上野の動物園から美術館、大仏へお参りをしよう、効験《あらたか》でもないじゃァありませんか。濡仏《ぬれぼとけ》の周囲《まわり》を三度廻らせるてえのはひどうございましょう。それから『ブランコに乗れ、揺《ゆ》すぶってやろう。山王台の八百善へ行こうか、洋食にしようか、池の端を三度廻ってみようか』いえ、それはご免を蒙りましょう。『それじゃァ三遊亭円遊(初代)の大好きな清凌亭《せいりようてい》の精進料理に行こうか、汁粉《しるこ》でも食うか、無極《むきよく》がいいか、蓬莱家松源《ほうらいやまつげん》揚げ出し鳥八十雁鍋《とりやつがんなべ》岡村|伊予紋《いよもん》にしようか、それとも中文《なかぶん》の鰻《うなぎ》、蓮玉《れんぎよく》の蕎麦《そば》、守田の宝丹《ほうたん》でも舐めるか』いえ、それはご免蒙りましょう。病人じゃァありませんからと、ようやく嘆願してご勘弁を願いました」 「おやまあ、ほんとうにひどい目に遭ったね」 「これから切通しを上がろうとしましたが、腹が空いてなにぶんにも眼が回って上がれません。上から馬車が降りて来るから、避《よ》けずにおれば轢《ひ》かれて死んじまいますけれども、脇へ退《ど》く根《こん》がありません。と旦那が『かわいそうだ』って麻縄《ほそびき》でわたしの身体を結《ゆわ》いつけて、担ぎ上げてくださいましたが、なかなか図体が大きいから上がりますまい。すると、あすこに車の後押しをする汚ない着物を着ている男が来て、わたしの後を押しましょうって、ぼろぼろした臭気のはげしいやつが四人《よつたり》ばかり、わたしの身体にこびりつきまして、どうにも健康を害して命がなくなるかと思うくらいでげしたが、ようよう湯島天神の地内へ来ましたから、たしかにこれは魚十《うおじゆう》か魚長《うおちよう》へおいでになるのかと思っていると、お入りになりませんから、虎屋の饅頭《まんじゆう》でも召し上がるか……これも食べないで、加賀様の病院前へ来ると、『入院しようか』てえのでげすが、病人じゃァありませんからご免蒙ります。『それじゃあ松吉《まつよし》へ行こうか』へえ、結構で、『これからどうだえ、王子のほうへ行こうじゃァねえか』とおっしゃるから、我慢をして王子まで歩いて行ったら百円もお礼があるまいものでもないと思いましたから、また気を取り直して、ぶらぶら旦那の頭へ見当をつけて行くと、ちょいちょい見えなくなったりしますから、見失わないように用心して参りますうちに、旦那がウンと咳払《せきばら》いをなさるたびに、わたしの腹へびんと響くんでげすが、もう咳が腹へこたえるようになってはとてもいけません。旦那、どうせこうなりゃあ、わたしはどこまででもくっついて行きますが、どうぞあなたの背中へ寄っかからせてください。そうして咳をなさるだけはご免蒙ります。『ああ、よしよし咳はしない』とおっしゃるかと思ううちに、あいにく調練(兵隊)が来ました。円太郎のラッパを吹き、そのほか大勢悪魔が揃って来ましたから、そのラッパの音がわたしの腹へびんびんと響くたびに尻餅をつきますので、わたしが勘定してみましたら、ちょうど六十四度転びました」 「かわいそうだったね、それから」 「『庚申塚《こうしんづか》の団子を食おう、てめえにこの団子をご馳走するつもりだ。全体《ぜんてえ》、一本に五十銭ずつつけてやるから食わねえか』へえ、一本五十銭なら百本食やァ五十円、食《や》りますともと、食べようとすると、あなた、槻《けやき》の団子で串が針金でげしょう、こりゃァ食えません。『それじゃァ王子の海老屋《えびや》か扇屋へ行こう』とおっしゃるから、ぶらぶら歩き出しますと、『王子の権現様でお百度を踏め』とおっしゃるから、ようよう踏んでしまったら、『おれの代りにもう百度踏め』という難題だから、一時に緡《さい》を十本二十本ずつごまかして箱の中へ投げ込むと、『平助、固めて投げ込んだなァ、掴み出せ』へえ、と言って掴み出すと、腹が空いて手がもう死んで、正体もなにもありませんから、ひと抱えも掴み出しましたらば、しまいに眼を回してぶっ倒れてしまいました」  と言ってるところへ、権助がつかつか入って来て、 「このッ、終身懲役面めッ……嘘ばっかりこきゃァがってっ、眼を回した野郎が生き返えるけえ、面《つら》ァ見やァがれっ」 「こりゃ、権助どん、恐れ入ったね……しかし、わたしはお腹が空いて倒れて、旦那にお飯《まんま》と耳元で言われたんで、ようやっと気がつきましたが、お飯《まんま》の功能なんてえものは、じつに豪気なもので……へえ、早速、頂きましょう。『なにいま言ったのは嘘だ』と言われ、またぎゅうと死んでしまいましたが、ようよう旦那に背負って頂き、海老屋へ上がって、『さあ、これから充分食え』とおっしゃったから、暖かいご膳を食ったの食わないのって、むやみに手掴みでやったもんでげすから、腹が太鼓になりゃ、尻でラッパの笛を吹くてえくらいのもので、ちょいと下をかがむと口から出そうな塩梅で……。すると旦那が『お冷水《ひや》を一口飲まないか、溜飲の起らない呪《まじな》いになる』って、水の入った大きな丼《どんぶり》に五円金貨が四つ沈んでいましたろう。はあ、よろしい、いらっしゃいと言いながら、こいつをグゥーッと飲むと、腹でどぶんどぶんと波を打つかと思うと、口からだらだら水が流れ出ましたが、これは驚きました。それでご膳後のお菓子てえのが、へぼ胡瓜《きゆうり》に陀羅尼助《だらにすけ》を漬けたのを食って、『綱渡りをしろ』とおっしゃるから、しかたなしに綱の上に乗っかって、ヨイ、チャンチャンと口三味線で調子をとり、歩き出すと、足を踏みはずして、下へ落ちるとたんに、腹の皮を破《やぶ》りました。臓腑《ぞうふ》が出たかと思って、手を当てがってみましたら、越中褌《えつちゆうふんどし》の紐《ひも》が切れましたんで……」 「そんなにおまえ、旦那にひどい目に遭って、堪忍しておくれ……その代りあたしはおまえとこの家を出て、一緒に逃げるから、この葛籠《つづら》を背負《しよ》えるかい?」 「ええ……なにあなたの懐子《ふところご》ならなんでも背負います」 「重いよ」 「ええ、どうもこれはたいへん重とうございますが、なにが入っていますので」 「ダイヤモンドの二寸丸《にすんだま》が五十六個に、銀行の千円の振出切手が五十二枚、鉄道馬車の株券が十枚、珊瑚珠《さんごじゆ》の五分珠《ごぶだま》が数知れず、金の延棒が九十三本あるんだよ」 「まだまだ持てますから、なんでも金目のものを、どしどしこの上へお載《の》せなさい」 「それじゃあ、やかんをそっちの手へ提げて、こっちの手へはこないだ宅《うち》の猫が子を八匹産んだから、あれをみんな籠の中へ入れるから、提げて行っておくれな」 「それはご免蒙ります。なにも逃げるのに猫などをニャゴニャゴ持ち出しても方《ほう》がつきません。さ、片っぽに薬罐《やかん》を提げ、片っぽに獅噛《しがみ》火鉢を提げましたから、この上になんでもお載っけなさい」 「これからおまえと二人で、どっかへ逃げるんだが、うれしいね。ほんとうにおまえの心は丸くって少しも怒ったことがないから、あたしは岡惚れをしたよ」 「へえ、わたしは殴られたって、立腹したことはありません」 「そうかね。でも嘘かも知れない。殴《ぶ》ってみなけりゃわからないから殴《ぶ》つよ」 「あーッ、痛いッ……」 「あらまあ、涙なんか出して、泣いてるよ。……旦那、ほほほほ……早く出てらっしゃいよ、早く出て来て、平助のこの姿をご覧遊ばせ……」 「あいよ……」  と、旦那が奥の座敷から現われて、 「これは驚きました……へえ、旦那、ごぶさたをいたしまして……」 「この野郎、おれが宅《うち》にいないと言ったら、いろいろあることないこと言いやがって、おれが外神田の芸者に惚れて、いつおれが宅《うち》のこれを出すと言った。てめえのほうが岡惚れしてんじゃねえか、嘘ばっかりつきやがって、その葛籠《つづら》の中には七輪が四つ入っているのだ」 「えッ、道理でひどく重たいと思った」 「なんでえ、そのざまは、片手にやかんを提げて、こっちの手に猫を入れた籠を提げ、獅噛火鉢を背負《しよ》って、それはなんの真似だ」 「へえ、これはその近火のお手伝いに来ましたので」 「ばか野郎、どこにも火事はないじゃあねえか」 「へえ、こんどあるまで背負《しよ》ってます」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]口演は初代三遊亭円遊。正式には三代目だが、ステテコ踊りで人気者となり、�鼻の円遊�の別称もある明治の落語の改革者。あの「湯屋番」の若旦那を番台で天衣無縫の夢想家《ロマンチスト》にし、「野ざらし」のような陰気な噺をがらっ八が向島で釣りをしながら、※[#歌記号、unicode303d]鐘がボンと鳴りゃァ上げ潮南さァ、烏《からす》が飛び出りゃァコラサノサ、骨《こつ》があァるサイサイサイ……と唄って陽気に水面を竿で掻きまわしたり、「船徳」の若旦那の漕《こ》ぐ舟がぐるぐる回り、乗客がぺこぺこお辞儀したり……する抱腹絶倒の場面に改作にした。この円遊の高座を実際、目のあたりにして、この幇間の話を聴いているだけで、どんなにか楽しいことだろう。(活字では表現できない!)、旦那に朝飯《あさめし》を馳走してやると連れて行かれて、神田からあっちこっちと北上しながら、向島へ行き上野へ向い、とうとう王子まで行ってしまう……とりとめのない道中記、それがそのまま明治二十年ころの東京の�旨いもの店巡り�——グルメ地図《マツプ》になっていて楽しい。  八代目桂文楽は、平助が店で内儀《おかみ》さんと挨拶する前半で|切り《カツト》、この幇間の独り語りまで演らなかった。桂文楽の得意にした幇間の「つるつる」[#「「つるつる」」はゴシック体]「愛宕山」、その他「太鼓腹」などは、旦那がいずれも横暴で、幇間を見下ろし、玩具扱いにするので好きになれない。他人《ひと》に媚びを売る幇間が、その反動で、悪口をきく気持もわからぬでもないが……この噺の旦那も同様で、どうやらこれは明治の権威、金力の誇示の時代風潮と関連があるようだ。  本シリーズは、全篇をとおして、人間をばかにし、笑い者にするような�笑い�を極力避けている。本篇は明治の時代風潮をとどめる意図で敢えて収録した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   片棒  本町二丁目の赤螺屋吝兵衛《あかにしやけちべえ》さん。  その名のように、他人《ひと》からなんと言われようと、金さえ貯めればいいと、食うものも食わず貯め込んで、一代で分限《ぶげん》になった。  齢《よわい》七十を迎え、そろそろ先が見えて来た。幸い三人の伜があるが、そのうちのだれに家督《かとく》を譲ったらいいものか……不心得の者に継がせたら、これまで苦労して築いた身上《しんしよう》をいっぺんに潰《つぶ》されてしまう。順に行けば総領だが、ここはひとつ分けへだてなく、三人の伜のうちで一番見所のある伜に譲ろうと……。 「お父っつぁん、なんかご用でございますか?」 「まあ、三人ともこっちへ来て、少し相談事があるから、そこへ坐んな。……じつは、おまえたちを呼んだのは、ほかでもない……」 「へえへえ、お父っつぁん、なんでげすな」 「松太郎、なんだい、そのなんでげす[#「げす」に傍点]と言うのは、ほんとうに呆れるな。商人《あきんど》の伜は商人らしくものを言いなさい。改めていうまでもないが、おれは無一文から爪に火を点《とぼ》すようにして、これだけの身代を拵《こしら》えたんだ。じつに自分でも不思議に思うくらい丈夫で、まァこの塩梅でいけば百二十歳くらいまで生きられるだろうと思っていたが、近頃じゃあ、あっちが痛み、こっちが緩《ゆる》み、いわば古い家の造作だ。もう寄《よ》る年波だし、やがては、この世とおさらばしなければならない」 「ようよう、待ってました」 「なんだ、なにを待ってたんだ。ばか野郎」 「へえ」 「ところで、そうなった後の、この身上を順にいけば長男の松太郎、おまえに譲るのが当たりまえだ。しかし、おまえがたの了見がいまひとつわからないから、この際だ、三人の心持ちをいろいろ聞いて、わたしの気に適《かな》うものに、この身代を譲る。そこでまず松太郎、おまえが長男だから訊こうじゃないか。おまえの言うところが道理だ、これだけの身上をやっていかれると思えば、おまえに跡を譲る。もしおまえの言うことが気に入らなければ、竹次郎にやるか、梅三郎にやるかわからないが、それに対してけっしておまえは文句を言ってはならんぞ」 「へえ、なんでもお聞きください」 「では松太郎、おれが死んだら、その葬式《とむらい》はどういうぐあいに出すか。それを聞きたい」 「へえへえ、さすがはお父っつぁん、伜を呼んで葬式《とむらい》のご相談などは恐れ入ります。いいお覚悟で……。わたしはどうも世間一般の葬式が気に入りません。ばかにハイカラがかったものもいけないし、そうかと言って旧式なのも感心しません。わたしは、ひとつ模範的な、後の世に残る葬式《そうしき》を出したいと思います」 「どんな?」 「まず、仮にお父っつぁんがおめでたくおなりあそばしましたら、その晩は、通夜をいたします。そして、あくる日、仮葬《かりそう》を出しておきます」 「うーん」 「というのが、本葬にはいろいろと支度がかかりますから、それから日を決めまして、支度が出来次第に本葬を出します。そのときも、二晩ぐらい通夜をいたします。まず最初に、新聞へ黒枠《くろわく》付きの広告を出します。それから養老院、少年院、赤十字など、すべての慈善事業に、一万円ずつ寄附をいたします。これは、お父っつぁんの冥福を祈るためでございます。出入りの者には木綿の揃いの仕着せを出しますが、それも安いのですと、じきに悪くなりますから上等のものを使います。で、お父っつぁんの柩《ひつぎ》でございますが、これは寝棺《ねがん》のほうがお楽でおよろしゅうございましょう。棺脇は六人、これは店の者がお供をいたします。袴《はかま》であるとか、紋付であるとか、あれは葬儀社から借りてもよろしいのですが、ここはひとつ新規に拵えます。迎え僧は七人頼みます。位牌《いはい》・香炉《こうろ》はわれわれ兄弟で持ちます。寺も家の寺は狭くていけませんから、本願寺あたりを借りるつもりでございます。それから、旧弊《きゆうへい》と言われるかも知れませんが、本堂へ上がっていただいて、坐ってご焼香していただこうと思いますんで、それについて、家《うち》の定紋の付いた座布団《ざぶとん》を三千枚ばかり誂えまして、お寺へ寄附をいたしておきましたのをずーっと敷きつめておきます……で、出棺は十一時でございますから、寺へ着くのが十二時ということになります」 「まずい時間だな。ちょうど昼にかかるな」 「でございますから、お料理を出します。折詰では粗末ですから、どこか塗物屋へ本塗角切《ほんぬりすみきり》三つ組の重箱を誂えます。黒塗りに金蒔絵で、家《うち》の定紋を散らしたやつに、これも定紋を染め抜きました縮緬《ちりめん》の袱紗《ふくさ》に包んで出します。一番上はお菓子でございまして、蓮華《れんげ》の打ち物に練《ね》り羊羹《ようかん》かなんで、真中のはお料理、これも精進なんてえことを言わずに、上等のお煮染をぎっちり詰め合せます。で、一番下がご飯《はん》ですが、これも笹巻の鮨《すし》なんぞは粋だろうと思います。それに、お酒も出すつもりでございますが、よく吟味いたしまして、灘《なだ》の生《き》一本を取り寄せて、お寺でございますから、まさか徳利でお燗をして出すわけには参りません。土瓶《どびん》に赤い観世縒《かんぜより》をつけて、般若湯(酒)のしるしにいたします」 「なるほど、そんなものを出して、入費はどのくらいかかるんだ?」 「まあ、お料理だけでも一人前がざっと……二十円くらい、それにお車代として、みなさんに十円ずつお包みします」 「えっ、一人前が三十円? ちょいとした勤め人の一カ月分の給金だ。で、それを何人分だ?」 「三千人ばかり」 「ばかっ、呆れたやつだ。あっちへ行けっ、なんだと思ってやがるんだ、死んじまえ。……ああ、とんだやつだ。食うものも食わずに貯めた金が、葬式《とむらい》のためにパーになっちまう。あァー、目が回ってきた。こっちが息をひきとりそうになった、ほんとうに。……これ、竹次郎、ここへ来な、おまえはどういう考えだ? わたしの葬式《とむらい》をどういうふうに出してくれる?」 「はい、お父っつぁんの前でございますが、わたしは、兄さんとは少々ちがいます」 「結構、ちがっていてよろしい。葬式《とむらい》にあんなに金をかけるなんて、とんでもないやつだ。で、おまえは、どういうふうに?」 「商売を二日休んで、二晩通夜で、あくる日、仮葬《かりそう》を出しちゃうんです」 「松太郎と同じじゃァないか」 「本葬の当日がちがうんです。まず、家へは紅白の幕を張ります」 「えっ、紅白の幕を? 葬式に?」 「町内の人たちに頼みまして、どのお宅へも軒飾《のきかざ》りを打ってもらいます。これには提灯を付けまして、上に造り花を付けます」 「へーえ、ばかに賑《にぎ》やかになるんだなあ」 「ええ、ふつう、行列の一番最初ってえのは、紋付、羽織袴に編笠、福草履《ふくぞうり》と決まったもんですが、そんなありふれたことはやりません。各区の仕事師(鳶職《とび》)を頼みまして、これに木遣《きや》りをやってもらいます。黒骨牡丹の扇《おうぎ》を半開きにして、口のところへ当てがいまして、※[#歌記号、unicode303d]ェェー……んやァらあ……い……てな調子で練《ね》り歩きます。そのあとへ、新橋、柳橋、芳町《よしちよう》、赤坂あたりの芸者を頼んで手古舞《てこまい》に出て貰います。男髷《おとこまげ》で、刷毛《はけ》先をぱあっとさせて、金糸、銀糸で縫《ぬ》いをした縮緬《ちりめん》の長襦袢《ながじゆばん》五、六枚重ね着の肌脱ぎです。繻子《しゆす》の裁着《たつつ》け袴に草鞋《わらじ》履き、菅笠に一輪、牡丹を挿したのを阿弥陀《あみだ》に返しまして、金棒を曳くんですが、そりゃァ賑やかなもんですよ……チャンコロン、チャリンコロン、チャンチャンコロン、チャンコロンてんで……そのあとから山車《だし》が出ます」 「山車が出るゥ?」 「ええ、牛が三匹、牛方《うしかた》は揃いの絆纏《はんてん》、菅笠で、葛西、小松川辺りから、腕のいい囃子《はやし》方を頼んで参ります。申し上げるまでもなく大胴《おおどう》(大太鼓)が一丁、締太鼓《しめだいこ》が二丁、笛《とんび》に鉦《よすけ》、踊り手が一人、鉾《ほこ》の上の人形は、お父っつぁんのお姿を活人形《いきにんぎよう》風に拵えます。勘定高いから、算盤《そろばん》を弾《はじ》いてるところなんか……、これが仕掛けで動きます……家を出るときは、『屋台』の打ち込みです……※[#歌記号、unicode303d]いよおッ……い、テケテンテン……」 「大変な騒ぎだな」 「道を行くときには『鎌倉』、あるいは『聖天《しようでん》』って鳴物に代ります……※[#歌記号、unicode303d]オヒャラトーロ……お父っつぁん、山車の上で人形になっちゃって、算盤弾くんですよ……※[#歌記号、unicode303d]チンチキチンチキチンチキ……」 「おいおい、なんだい、そのお辞儀をするのは?」 「山車の人形が電線をくぐるところなんで……」 「芸がこまかいなァ」 「あとから底抜け屋台が出ます。こりゃあ、各花柳界の幇間《ほうかん》連中に頼みまして、青道心《あおどうしん》てんで、くりくり坊主になって貰います。大きな赤螺《あかにし》模様の首抜きです。緋縮緬の股引《ももひき》に鬱金《うこん》の足袋、墨染めの衣を羽織りまして、狂言『羯鼓《かつこ》』という鳴物で、※[#歌記号、unicode303d]テンドド、テン、ドンドン、テンテンドドドン、テテテン、ドドドン、テテテン、テンテン……これが、『早渡り』という鳴物に替わります。※[#歌記号、unicode303d]テレツクツツツ、ドンドン、テレーツ、ドンドンドンドン……ヨー……テンテンテコ、ツ、テンテンという囃子になります」 「うるせえ行列だなあ」 「あとからお神輿《みこし》が出ます」 「お神輿まで出るのかい?」 「ええ、その中にお父っつぁんのお骨《こつ》を納めて担ぐんですが……それを町内の若い衆が揃いの浴衣《ゆかた》でじんじんばしょり、手拭で鉢巻をしまして、わっしょいわっしょい、わっしょい……隣町《となりちよう》の若え連中に奪《と》られちゃァ大変だからってんで、威勢よく、わっしょい……」 「骨《こつ》なんぞ、奪られるもんか」 「わっしょい、わっしょい、わっしょい……鳴物が『四丁目の玉の打ち合い』と替わりますが、これはお神輿が揉《も》みやすいんで……※[#歌記号、unicode303d]テンテン、テレツクツクツ……」 「大騒ぎだなあ」 「四つ角まで来ますと、チョーンと拍子木《ひようしぎ》が入ります。チョンチョン東西《とざい》ィーッ東西《とうざい》ィーッ。そこへ羽織袴の親戚総代が出て来て、弔文《ちようもん》を読み上げます。『弔辞、それ、つらつらおもんみるに、生者必滅《しようじやひつめつ》、会者定離《えしやじようり》とは言いながら、たれか天寿《てんじゆ》の長からんことを、冀《こいねが》わざるものあらんや。ここに本町二丁目、赤螺屋吝兵衛君、春秋七十歳に富みたりしが、平素粗食に甘んじ、勤倹《きんけん》を旨《むね》とし、ただ預金額の増加を唯一の娯楽となしおられしが、栄養失調の結果、不幸、病魔の冒すところとなり、遂に白玉楼中《はくぎよくろうちゆう》の人となり、いままた山車《だし》の人形となる。ああ、人生面白きかな、また愉快なり……』」 「ばかっ! なにが愉快なりだ。あっちへ行けっ、呆れけえったやつだ。葬式《とむらい》だか祭りだかわかりゃァしねえ。上の二人があれじゃァ……これ梅三郎、こっちへおいで、こんどはおまえの番だ。おまえも聞いていた通り、兄貴二人はとんでもない心得ちがいなやつらだが、おまえはふだんから見所があると思っている。まさかあたしの葬式をそんなふうにはしないだろうね」 「へえ、おっしゃる通り、兄さんがたは正気でおっしゃってるとは思われません。じつに嘆《なげ》かわしいことでございます」 「そうだとも、おまえはどういう考えだな?」 「それにつきまして、なんでございます……お父っつぁんのお亡くなりになった後のことなどは、子として申し上ぐべきことではございませんが、思いめぐらしてみますれば、だれしも人間、一遍は死ぬものでございます。死ぬというのは、一元《いちげん》に帰すとか言って、元へ帰るんだそうでございます。ですから葬式というものははなはだ形式的なものにすぎません。したがって、なにもそんなに立派にする必要はないと存じます」 「そうだ、それでよい」 「ものの本によりますれば、外国《とつくに》には鳥葬《ちようそう》などという風習《ならわし》があって遺骸《なきがら》を鳥に喰《くら》わせるとか……と言って、ここは大和の国、まさか野原に打《う》っ捨《ちや》るわけにもいきませんから、墓地へ穴を掘って埋めるくらいの手間はかけます。こういったことに多大な金をかけるというのははなはだばかばかしい話だと思います」 「そうだ、そのほうがいい。いや、一番おまえが見込みがあるな、それでおまえはどういうふうに葬式を出すつもりだな?」 「縁起でもありませんが、お尋ねでございますからお答えします。百年の後、お父っつぁんが万一、お亡くなりになりました節には、わたくしは一文でもお父っつぁんのお貯めなすった財産を失《なく》なすようなことはしたくありませんので、本来ならば葬式は略したいところでございますが、よんどころなく、たいへん質素にすませます」 「なんだか、薄情みたようだが、まあ、質素は結構、気に入った。いくらくらいかけるつもりだな」 「どう倹約してもまァ、五十円くらいはかかりましょう、この無駄金が……」 「葬式が五十円で上るかい?」 「ええ、お通夜はひと晩にいたします」 「そうだ、ひと晩でも余計にやればそれだけ入費がかかる」 「あくる朝、すぐに葬式《とむらい》を出しちまいます」 「うんうん、仮葬だ、本葬だと、二重の手間がはぶけていいや」 「出棺は、午前十一時ということに触れを出します」 「お昼にかかりゃァしないかい?」 「ですから、十一時と言っておいて、八時に出してしまうんです」 「そんなことをしたら、昼にはかからねえが、みんな無駄足をするだろう?」 「ええ、みんな間に合いません。たとえ何人でも会葬者が来れば、菓子などを出さなければなりませんから、そんな面倒をはぶいて、早く出してしまえば、お互いによろしゅうございます」 「なるほど、えらいな、おまえは。おまえを生んどいてよかった」 「寺のほうは、十円五十銭くらいで引き取って貰います」 「寺でぐずぐず言うだろう」 「ぐずぐず言ったら、外《ほか》の寺へ持って行きます」 「葬式の持ち回りは驚いたが、まァそれもいいだろう。それで棺はなんで出すね。駕籠かい?」 「いえ、はなはだ相済みませんが、差《さ》し荷《にな》いでご勘弁を願います」 「差し荷いはちっと酷いようだけれど、まァまァそれで我慢しよう」 「それから棺桶でございますが、ああいうものは葬儀社へ頼みますと、大変にお金がかかりますし、第一新しい木を焼いてしまうのもまことにもったいない話です。で、わたくしは物置きにある菜漬《なづけ》の樽で間に合わせようと思います。少々窮屈でございますが、どうかそれでご勘弁を願いたいものでございます」 「菜漬の樽?……いいとも、身代のためだ。我慢するよ、なあ。死んだあとだから臭《にお》いだってわかりゃァしねえや。どうせ使うなら、なるべく古い樽にしとくれよ。もったいないから……」 「それで中へ抹香《まつこう》などを入れますと、買わなければなりませんから、鉋屑《かんなくず》で我慢をしていただきたいもんで……」 「へーえ、瀬戸物の荷造りだね、まるで……ああ、いいとも、なにごとも家のためだから我慢しよう。それから?」 「蓋《ふた》をして、荒縄を十文字にかけまして、天秤棒《てんびんぼう》を通して差し荷いにします」 「うんうん、破格なもんだ、分限の家から差し荷いの葬いが出るのは……。それを人足に担がせるのか?」 「いいえ、人足を頼みますと、日当を払わなければなりませんから、わたしが片棒を担ぎますが、あとの片棒が困ります」 「なあに心配するな、片棒はおれが担ぐ」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]吝嗇《けち》と粗忽の噺は、前(マクラ)でことわらないと、しかも大袈裟《オーバー》でないと聴く方(読者)は納得しない。それはだれにでも吝嗇と粗忽の性質があり、その言動は普通の人と少しも変わらない、おかしくはないからだ。この噺も、親父が赤螺屋吝兵衛という突出した名前のために、それ[#「それ」に傍点]とわかるが、普通の名前であったら、その言動は当然の、普通の人間とは変わらない。  この「片棒」だけでは短いので、通常、マクラで「しわい屋」[#「「しわい屋」」はゴシック体]の小噺を繋《つな》げて演《や》る。それがないと道楽息子の長男、次男の賑やかな葬式の趣向だけに内容《はなし》が転倒してしまう。元々、素裸で生れて来た人間が身代のことを心配し、葬式(死後)のことまで気を廻すことは、際限のない欲望であって、愚かなことと思うが、幸いなことに三男の梅三郎を、編者は吝いな人だとは思えない、賢明な�合理的な人�だと思う。そういう意味で、サゲ(落ち)は傑作だと思う。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   居残り佐平次  品川は四宿のなかでも、いちばん旅人のいききのはげしい宿《しゆく》で、それにまた春は御殿山の花見に潮干狩《しおひがり》、夏は牛頭《ごず》天王の神輿《みこし》の海中渡御、秋は八ツ山の二十六夜の月待ち、海晏寺《かいあんじ》の紅葉などと、都心を離れた景勝の地でもあった。 (中略)  一方にそうした海道を持つそのかわりには、遊女屋の裏にはまた、冬ならあくまでくっきりと晴れ渡った安房《あわ》、上総《かずさ》の見える海を持っている。  安い鬢《びん》つけ油の女の髪のにおいがする部屋のなかには、汐の香もまた漂っていたことであろう。 [#地付き](安藤鶴夫著『わが落語鑑賞』より) 「大勢集まってるが、どれもこれも女に好かれそうもねえ面《つら》だな」 「なにを言やァがるんだ、憚《はばか》りながらこちとらァ面で好かれるんじゃァねえや、ただこの胸三寸だ。生意気なことを言うようだが、ちと[#「ちと」に傍点]はおれにあやかりねえ。吉原《なか》の女がそう言った、ひと晩でもおまはんに逢わなきゃァ、この世に生きている甲斐がねえてんだ」 「そんな面《つら》をか?」 「おとといの晩だ、行くとばかにお客が立て込んでいるんだ。一杯飲んでお引けになった。こんな晩に来て貰っちゃァしみじみ話をしておれない、悔しいっ、ちょっと行って来るから横になっていておくれ、寝るときかないよ……ってんで、女はすゥーッと行っちまった」 「……だろう?」 「朝になっても帰《けえ》って来ねえや」 「それじゃァ、振られたんだろう」 「まァ早く言えば……」 「遅くったって同じことだァな、それでおめえ、どうした?」 「悔しいよ……悔しいから、台屋《だいや》の鍋《なべ》を二枚、背負《しよ》って来た」 「泥棒だね……おゥ、みんなもその仲間だろう」 「だから達者で帰《けえ》って来たんだ」 「口のへらねえことを言うない……おまえもなんか持って来たのか?」 「湯呑みを二つ召上《あげ》て来た」 「おやおや……おめえはなんだ?」 「おれは鉄瓶《てつびん》」 「どうして持ち出した?」 「褌《ふんどし》で結《い》わえて肩から吊《つ》って股《また》ぐらへ下げた」 「考えたね」 「梯子段へ来ると、トントン底を突いた、すると湯がこぼれたね」 「湯の入《へえ》ったままか?」 「若い衆が驚いて、そこいらで小便《ちようず》をなすっちゃァ困りますッて、とたんに蓋《ふた》を落としたんで見《め》っかった」 「だらしがねえな」 「おれは獅噛《しがみ》火鉢」 「おや、大変なものを持ち出したな」 「どうして持ち出したと思う?」 「わからねえなァ」 「灰をあけて頭へ被《かぶ》って、その上から褞袍《どてら》を被って『お獅子だお獅子だ、おめでとうござい……』と、悪魔払いと獅子の真似をして飛び出した」 「なるほど、こいつは気がきいてるな」 「おれは金盥《かなだらい》を背負《せお》って入口まで来ると、女が『お近いうちにおいでなさいよ、浮気をするときかないよ』って、背中をぽんと叩いたから、ボァーンと鳴った。女が『なんだろうね?』ってえから、『おめえと別れの鐘だろう』ッて……」 「しようがねえやつだなァ……いつもいつもけち[#「けち」に傍点]な遊びばかりしているのは気がきかねえや。どうでえ世直しに景気をつけようじゃァねえか」 「そりゃァいいが、兄ィ、佐平次兄ィ、どうしようてえんだ?」 「まあ、おれに任せておきねえ……どうでえ、ひとつ気を変えて、久しぶりに南へ押しだそうじゃァねえか」 「品川かい」 「そうよ。なにも女郎買いは、吉原とばかり相場が決まっちゃァいねえよ。品川となると、また気が変わるじゃねえか」 「そうよ。だいいち食いものは旨《うめ》えしな」 「なにも食いものを食いに行くと言うんじゃァねえが、とにかく遊《あす》びは気のもんだ」 「そうとも……それで、なにかい……品川はどこへ登楼《あが》るんだい?」 「どこの、ここのと言ってるのは面倒だから、向うへ行ってみて……とにかく大見世《おおみせ》へ登楼《あが》っちまおう」 「そうよなあ、小見世の遊《あす》びは、どうもこせついていけねえからな」 「まあ、どこか大見世へ登楼《あが》るとして、酒は飲み放題、旨えものをうんと食って、芸者の二た組もあげて、わッと騒いで、ひと晩泊まって、しめて一両なら高かァないだろう」 「一両……一人前の割り前がかい? それじゃァ勘定が合わねえじゃねえか。だってそうだろう……品川で、ただ遊ぶだけだって、小見世で二、三両、中見世で六、七両、大見世とくりゃあ、どうしたって十両から十五両ぐらいはかかるぜ。玉代だけだって一両じゃァ収まらねえぜ」 「いいんだよ、いくらかかっても……あとはおれが一人で引き受けるってえ寸法なんだ、いやか」 「行こ行こ、行こ、行こ……」 「行こ行こ……」 「行こ……」 「行こ……」 「早いね、決まるのが……じゃァみんな揃って行こうじゃァねえか」  その日の夕方、五人揃って品川へ出かけて行った……。 「さあ、兄ィそろそろ坂を下りはじめたが、どこへ登楼《あが》るんだい?」 「そうよなあ……ここはどうだい? え? 少し大見世すぎるって?……いいよ、まあ任しときなよ……おい、若い衆やい」 「こんばんは」 「こんばんは?……気のねえ若《わけ》え衆だなあ、よせやい、面白くもねえ。女郎屋の若え衆は若え衆らしくやってくれ。なんだい、こんばんはってえ挨拶があるけえ。『少々ものを伺います、これから青物横丁はどう参りましょう』てんじゃねえや。今夜厄介になろうてんだ」 「どうもお見逸《みそ》れいたしました。ェェ五人様で、ああさようで……どうぞお登楼《あが》りを……えー、お登楼《あが》んなさるよ」  若い衆が送り声というものをかけると、別の若い衆が案内して、幅の広い梯子段をトントントンと駈け上がって、引付《ひきつ》けという座敷へ通される。 「へい、どうも、今晩は有難う存じます」 「えへへへ……いい心持ちだなあ、おらァこの気分が好きなんだ。客を見ただけで、一文も貰わねえうちから、『有難う存じます』って喜ぶのァこの商売ばかりだからな。……若え衆、そんなにうれしいかい?」 「まことに有難いことで……」 「そうかい、そんなに有難いかい? それじゃァこれで帰《けえ》っちまおう」 「そりゃいけません」 「そりゃァまあ冗談だが、とにかくみんないける口なんだ。酒はどんどん持って来ておくれ。それから、ここは品川だ、魚は新しくって旨えや、刺身はふんだんに……皿ばかり大きくて、中身がこう衰弱してンのはよくないからねェ、刺身と刺身が二寸五分ずつ離れたりなんかしてるのはさびしいから、こて盛りにしてな」 「畏まりました。それから、お馴染さまでいらっしゃいますか?」 「いいや、お馴染じゃァねえんだ。みんな初会だ……あ、それから断っとくが、この四人《よつたり》のかたはお客様で、その中の勘定係があたしてえことになっているんだ、いいかい? 見世《うち》じゃァいい花魁《おいらん》ばかりだろうが、まあその中でもすぐっていいやつをひとつ四人《よつたり》のかたへ世話してもらいたい、いいかい? 頼むよ」 「へえ、畏まりました」 「で、おれのはなにもとくに悪いのを選《よ》るにァ及ばねえ、よけりゃそれに越したこたァねえ、まあそっちに任しておくから……それから、座敷が浮かないといけねえから、ひとつ芸者に口をかけてくんねえ、わッと騒いで浮かれようという寸法だ、いいかい? 早場に頼むぜ」 「へえ、畏まりました」  座敷が変わって花魁の引付《ひきつ》けへ行くと、酒肴が運ばれる、芸者が繰り込んで来る、唄うやら踊るやら……どんちゃん騒ぎ……。 「おゥおゥ、もういいかげんにしろ、そろそろお引けにしよう」 「いいだろう、みんな部屋へ引き取りな」 「おっと待ちな。みんな部屋が決まったら、あとでちょいとおれの部屋まで来てくんねえか……一人じゃいけねえ、四人《よつたり》揃ってなくちゃァいけねえ、わかったか」 「ああわかった……あとでな……」  ということで、それぞれいったん部屋へ引きあげた四人が、……言われた通り佐平次の部屋へ再び集まった。 「兄ィ、開けてもいいかい」 「ああ、お入りお入り。……なに、開けていいも悪いもありゃァしねえ、だれもいねえから……」 「あははは、そうかい、では入るよ……おれはまた遊女《れき》がいるんじゃねえかと……なんだい? 四人揃って来てくれてえが……」 「みんなこっちへ入《へえ》んな、あと閉めてな……いやどうも、なにもわざわざ呼びつけなくてもよかったんだが、ほかでもねえ。じつはおれのほうでも切り出しにくかったんだが……割り前のことなんだがなァ」 「今夜、こりゃ大変な費用《かかり》だぜ」 「たいした大尽《だいじん》遊びだ」 「酒もたらふく飲んだし、芸者もお直し、お直しとずいぶん口がかかったし……大変じゃァねえか、どうなったんだ?」 「いや別にどうなったわけじゃァねえ。みんなに極《き》めだけひとつ、ここへ出してもらいてえんだ」 「極めって、一両でいいのかい? これ、三人から預かってるから……おれのを足して、四両でいいかい?」 「いいんだよ。おれも江戸っ子だ、追割《おいわり》をしてくんねえなんてしみったれなことァ言わねえ。とにかく、その四両だけは貰っておく」 「そうか、済まねえな」 「その代わりな、明日《あした》の朝は済まねえが、みんな一足先に帰ってくんねえか」 「先に?……明日の朝、どこかで飯《めし》でも食って揃って帰《けえ》らねえのかい?」 「おめえたちは夜が明けたら、すぐ顔を洗って引き上げてくれねえと困るんだ」 「そんなに早く用はねえや」 「それには少しわけがあるんだ。あとへ残ってこの始末をつけなきゃァならねえばかりでなく、ことによると、おれは当分帰らねえかも知れねえ、けれども……断っておくが、心配して迎えになんぞ来られちゃァ困るから、みんなにそう言ってくんなよ」 「なんだかちっともわからねえなあ」 「心配することはねえよ。それから済まねえが頼まれてくれねえか。このおめえたちの金の四両を、これをおふくろに届けてくれ。で、おふくろに、この金で当分つないでやってくように言ってくんねえ。年寄りのことだ、それだけありゃァなんとか暮らしていけるだろうが、もし足りなかったら、この煙草入れを質屋へ持って行って、番頭にわけを話すと、いつもの通りちゃんと貸してくれるから、それでやっててくれ、とこう言ってな」 「ふうん、それはいいけれども……じゃァ明日、なにかい、一緒に帰《けえ》らねえのかい」 「おれか……おれはな、ここンとこォ身体の具合が悪くってしようがねえんだよ。医者に診てもらったところが、転地療養するといいてんだ。どっか海辺かなんかで暢気にぶらぶら遊んでいりゃァ、自然と病いは癒《なお》るてんだが、どこへ行くったって金がなきゃァしようがねえや。そこで気がついたのが品川だ。ここなら海辺で空気もいいし……そこで、おれは当分このまんま居残りになって、ゆっくり養生をして、身体がよくなった時分にまた会おう」 「おお、驚いたなあこいつァどうも……話が変だ変だと最初《はな》っから思ってたんだが、居残りてえのはおだやかじゃねえぜ。そりゃァいけねえ、金はなんとかするからよ……おめえ、そりゃァ駄目だ」 「いいんだよ、そんなことはお手のもんだ」 「そりゃァひでえや……いいのかい」 「まあいいからってことよ……それ、足音がして来た、部屋へみんな、帰んな、帰んな……」 「あいよ……じゃ、おやすみ」 「おやすみ」 「おやすみ……」 「へえ、こんばんは」 「おゥ、若い衆さんか?」 「有難う存じます。つけ[#「つけ」に傍点]を持って参りましたが……」 「よろしい、残らずでいくらだ?」 「四十七両五十文」 「みんなでかい? 安いねえ、たいそう勉強するね。気の毒だが、いまみんな払うだけここに持っていないんだ。え? みんなのところへ取りに行け? そりゃァいけないよ、なぜって、花魁と一緒にいるところで、持っている者はいいが、ない者は花魁の前へ対してだれら[#「だれら」に傍点]ァな、器量を下げらァ、明日の朝までに纏めておくよ」 「如何でございましょう、どちらも宵勘定《よいかんじよう》に願っておりますが……」 「野暮《やぼ》なことをお言いでないよ。いまじゃァ刻限が悪いんだよ。きみだって近ごろここへ来たんじゃァなかろう、いずれ道楽の末だ、男ぶりはよし、容子《ようす》はよし、人柄なところを見ると、まんざら消炭《けしずみ》(廓の若い衆)の腹から出たんじゃァないや、苦労していらァね。女が出来てしようがねえだろうね、此楼《うち》の女郎衆はおよしよ、お部屋(楼主)の通《とお》りが悪いからね。如才《じよさい》ねえからそんなことはなかろうが、やはり橋向う(南品川)かい? ひと晩つき合おうじゃァねえか」 「へえ、ご冗談さまで」 「とにかくわたしが呑みこんでいるから、心配なしに明日の朝にしておくれ」 「では、なにぶんよろしくお願い申します」 「じゃァお休み……」  四人の友だちは言われた通り夜が明けると早帰りで、先へ帰り、佐平次だけがあとに残った……。 「へい、お早うございます」 「おう、若え衆か、お早う」 「ええ、お目覚めでございますか」 「ああ、天気はいいようだね。いまね、顔を洗って……これから宇治を頂こうてえところ……まあ、こっちへお入り。どうも昨晩《ゆうべ》は大変いい心持ちに遊ばせてもらったよ」 「有難う存じまして……昨晩は久し振りに景気をつけて頂きまして、大喜びでございます」 「いやァ、どうも景気どころじゃねえ、あんまりばかっ騒ぎをしたんでな、どうも近所迷惑をしたろうと思ってね。……ところで連中は帰ったかい?」 「へえ、暗いうちにお帰りになりました」 「そうかい、みんな朝の早え稼業だからね、無理ゃァないよ。その代り朝ひと廻りするってえと百両とか二百両とかいう金がぽんと懐中《ふところ》へ入る人たちだ。昨夜はだいぶご機嫌だったし、それに遊びの好きな連中だから、気に入ると、猪じゃァないが一本|槍《やり》にこの楼《うち》へ来る。みんな金払いのいい連中だから、これから裏、馴染と、とんとんっと通って来るうちには、ここの楼《うち》へさあっと金が降るようになる。まず福の神が舞い込んだぜ、おめえ」 「へへへへ……どうも有難う存じまして、なにぶんまた、ご贔屓《ひいき》を頂きますように……」 「いや、ご贔屓だなんてことを言われても困るがね。あ、それからね、昨夜《ゆうべ》少し飲みすぎたねえ……なんだか頭がぼやッとしているんだが、お迎酒《むかえ》てえのをいきてえんだ。一本、持って来てくれ、頼むよ。そうだな……朝直しは湯豆腐だってえが、なにも湯豆腐と限ったこたァねえから、牡蠣《かき》豆腐なんぞも乙なもんじゃねえか」 「へェへ……と、お直しになりますので?」 「野暮なことを言っちゃいけねえぜ。お天道様が高くなって、これからのそのそ帰《けえ》れもしなかろう、直してくんねえ」 「へえ、承知いたしました」 「早えとこ頼むよ」  ……酒肴《さけさかな》が来て、一杯はじまる、酔ったというんで、ごろッと横になる。上から掻巻《かいまき》がかぶさって、寝てしまう。そのうち、昼を過ぎて、そうそう寝かしておけません。 「ええ、お目覚めになりましたか?」 「ああ、いい心持ちだ、いま何刻《なんどき》だい?」 「ただいまは八つ半(三時)を過ぎました」 「ああそうかい、ついとろとろしちまった……この楼《うち》では、湯は沸いてるかい?」 「へえ」 「そうかい、じゃあひとっ風呂浴びて、さァーッと昨日っからの垢《あか》を落として、さっぱりしてこよう。手拭を一本貸しておくれ。いい男になってくるから……」 「へえ、へェ……それから、てまえが替り番になりますので……」 「なに、替り番? あ、そうですか。遠慮なくお替りください……ご苦労さまでした」 「ええ、つきましては、ちょっと一段落区切りをつけて、あとはまた別の勘定ということに……」 「なんだい? はっきり言っとくれよ、そんなもそもそ言ってないで……どうするの?……あァあァ、あれかい、勘定? 心得てますよ、うん。しかし、面倒だなあ、おまえさんの前だが、遊びなんてものは、どのくらいやったらほんとうに嫌ンなるものか試したいね、飽きるまで、とことん遊んでみようと思っていたんだ、なのに、これが昨日で、これが今日の分なんという勘定は面倒臭いから、よしましょう。きみから帳場へそう言って、纏めてもらおうじゃねえか、ねえ。山のように貯まったところで、さーッと払いたいね……なにしろ、手拭を取っとくれ、お湯へ行って来よう」  ちっとも動じない。……湯から上がって来ると……、 「いやァどうも、湯上がりというやつは、なんとなく乙な心持ちだねえ、生まれ変わったような気分になるね、せいせいとして……だがね、昨夜からの飲みすぎで、どうもまだ胸がこう……もやもやしているんだがねえ、こういうときには、なにか熱いお汁《つゆ》でも吸ってみたいというような心持ちなんだが、�毒は毒をもって制す�の譬《たとえ》。�酒でしのがす苦の世界�てえことがあるからね。熱くして一本持って来てもらいたいねえ。それからね、ご当家のご酒《しゆ》はだいぶ甘口だねえ、わたしは辛口のお酒が好きなんだ。いいかい、お酒の口を変えてすぐつけてもらっておくれ。あ、それから、なにか食べたいねえ。青柳鍋かなにかそう言っておくれ」 「ええ畏まりましたが……てまえは構いませんが、帳場がうるそうございますので、ちょっと一段落をつけて頂きたいもんで……」 「勘定かい、わかったよ。うるさいなあ、ひとがいい心持ちでいるのに……つまりね、そういうことを忘れてんだから、いま、ね。勘定、勘定って……それじゃあ勘定(感情)を害するってもんだ」 「……でございましようが……なにしろてまえ……」 「だがね、おい若え衆、お客商売をするなら、もう少し目先が利かなくちゃァ駄目ですよ。……これであたしがちびりちびりと飲《や》っているうちに、あたりは小暗くなって来てあっちの家で鼠《ねずみ》鳴きの声、下足札を撒《ま》いて、花魁のお化粧《つくり》が出来上がって、見世を張る時分になると、坂の上から威勢のいい駕籠が四挺、ここの楼《うち》の角へぴたりと止まる。それが、昨夜《ゆうべ》の四人《よつたり》だ、ね? 遊びをして裏を返《かい》さないのはお客の恥、馴染をつけさせないのは、花魁の腕のにぶいぐらいなことは充分に心得ている連中だからね。どうせ返す裏ならば、ほとぼりの冷めねえ昨晩《ゆうべ》の今夜で、『また来たよ』ってなことで、縞《しま》を着ていた人が絣《かすり》に変わって、『おう、昨晩の芸者でも呼んでくんねえ』と、陽気にうわーッと、ひとっ騒ぎをして、それぞれへすうーッと祝儀をわたして、一同揃って当家を退散しようという寸法だ。それをわたしがつないで[#「つないで」に傍点]待っている、そこへ気がつかないのは少々恐れ入ったね」 「はァはァ、お連れさまが……へえへえ、さようでございましたか……、では、ただいま、お誂えを……」  と、また誂えものが来る。そのうちにほかの客がどんどん登楼《あが》るから、その晩はなんとなく紛れてしまう……。  明くる朝。 「昨晩はお友だちのかたがいらっしゃいませんでしたな」 「来なかったね。昨晩はへぼへ(まずいほうへ)逸《そ》れたね。なんかよんどころない……この支障《さわり》があったね。まあまあ、もう少しお待ち、今日の昼前後というところで、俄然面白くなるよ。この楼《うち》へすうーッと入って来るのが、一昨日《おととい》遊んだ四人《よつたり》だ、ね? 遊びをして裏を返さないのはお客の恥、馴染をつけさせないのは、花魁の腕……」 「いえ、そのお話なら、昨夜伺っておりますので承知しておりますが。てまえは構いませんが、どうも内所のほうからやかましく言われておりますので、恐れ入りますが、ひとつご勘定を……」 「へへへ、どうもきみてえものは困るねえ……。忘れかけてるてえとこへ来て勘定なんぞ思い出させるんだよ、いやだよ。そんなことしちゃァ……罪だよ。思い出させて罪じゃぞえ……ッてやつだよゥ、ほんとうに、悔しいね……抓《つね》るよ、おい」 「……で、ございますが、なんとかご勘定を願いたいのでございます」 「あァようがすとも、願われましょう、あァ、万事心得てるからね……うーん、あァ、よろしい」 「お支払《はら》いを、いただきたい……」 「おはらいを頂きたい……あァあァあァ、なんのお払い? 屑屋おはらい……ちがう? つまりいままで遊んだ金を、あたしがここへすぱッと、出せばいいんだ、そうだろ?」 「へえへえ」 「ないよ」 「へ?」 「ない」 「ない……ないとおっしゃると……?」 「だから……ないと言えばわかりそうなもんじゃないか、お金のことだよ」 「でも、あなた、万事心得てると言ったじゃありませんか」 「そりゃァ心得ているんだ。心得てるのはばかな心得方でねえ、ただ心得てるだけなんだから、あははは……懐中《ふところ》のほうは心得てねえんだ、面白《おもしれ》えや」 「冗談じゃありませんよ、じゃァなんですか、いったいどうなるんです?」 「なにが?」 「どうなるんです? お勘定のほうは?」 「きみもあまりいい頭じゃないね、え? どうなります? どうなりますって、あたしに聞いてどうしようてんだ、友だちが来るやなんか言ってるのは、だれかわたしを身請けに来るやつがあるだろうから、それを待ってるんじゃねえか」 「では、お友だちのところへ、お使いとか、お手紙とかを……」 「そりゃあ家がわかりさえすりゃあ、迎えもやりてえけれども、どこなんだかわからねえんだ」 「どこなんだかわからねえって……あなた。お友だちでしょう」 「友だちたってごく近ごろの友だちだからね」 「いつごろからので」 「一昨日《おとつい》の晩からの友だちなんだ」 「一昨日の晩」 「とんでもねえことをしてしまったな、ついおれが大風呂敷を広げたもんだからね。じつは、いままでいろいろのこと言って、景気をつけてつないでいたが、ねェ若い衆、残らず話すがこういうわけなんだ。……ここへみんなで来たろ、あの晩に友だちになったんだ。おれが新橋の軍鶏屋《しやもや》へ上がって酒を通《とお》したが、ばかにお客が立て込んでなかなか銚子を持って来ねえ、焦れていると、隣りにいたのがあの四人連れなんだ。中の一人が、『どうです、つなぎに一杯、献じましょう』てんで、おれに盃を差してくれたんだ。とたんにこっちの酒も来たんで『ご返盃』てえことになった。それが始まりでやったりとったりしているうちに、『こうして飲むのもなんかの縁《えん》でしょう、四海《しかい》皆兄弟だ、揃って表へ出ようじゃァありませんか』てんで、向うが四人とおれで五人景気よく飛び出した。『このまま別れるのも惜しいから、どうです、今晩ひとつ品川へでも繰り込みましょう』『よう結構、結構毛だらけ、猫灰だらけ』ってんで、わァーッとこの楼《うち》へ来て遊んだ明くる朝、ぱっと別れちまったんだが、ありゃあいったいどこの人だったんだろうねえ」 「ばかにしちゃァ困りますぜ。途中で会った人に兄ィごかし[#「ごかし」に傍点]にされて、一人で居残りになるやつがありますか」 「どうもいまさらしようがねえ」 「おい、大変だァ、清さん、ちょっと来ておくれよ」 「なんだよ、聞いたよここで……だからおれがいくども念を押したろう、『変なことばかり言って様子がおかしいが、大丈夫かい?』って言ったら、『そんなことは任しといてくれ。洲崎《すさき》に八年、吉原《なか》に十何年いた』やなんかおめえが生意気なことを言うから、こんな事になるんだな、なぜもっと早く、けり[#「けり」に傍点]をつけねえんだ。見ねえ、とうとうこんな深みへ陥《はま》っちまって、どうするえ」 「そりゃあ言われるまでもないんだよ。それァもう、いくども勘定をってもらいに行くんだが、この人はおれに口をきかせねえんだ。おれが勘定のことを言い出すと、わかってる、心得てると、止めちまうんだ。勘定のことは忘れてる、面白くねえって……自分でしゃべりまくっておれに口をきかせてくれねえんだよ。そうなると、おれは因果と、舌がつっちまって口がきけなくなるんだ」 「おまえがだらしがねえんだ……まあ、いいや、どきな、どきなよ。おれが掛け合ってやるから……おい、どうなんだい? こりゃ」 「いよう……へへへ、恐い顔して入って来たね、……さあてねえ、どう……なりましょうかなあ」 「落着いてる場合じゃないよ……どうなるって聞いてるんだよ」 「さあ……どうも困ったもんだ……」 「他人《ひと》事のように言うない、困るのはこっちなんだ。どこかで金の出来る当てはないのかい?」 「金? ものごとは諦めが肝心だよ。災難だと思って諦めろい」 「ふざけるんじゃねえ、この野郎」 「覚悟はしておりますよ」 「覚悟とは、なんだ?」 「花魁に煙管《きせる》の悪いのを一本貰ってね、刻煙草《きざみ》もいっぱい貯めたし、袂にマッチが二個あるし、これで当分|籠城《ろうじよう》も出来ましょうから、とにかく行灯部屋へ下がりましょうか」 「おお、大変なしろもの[#「しろもの」に傍点]だよ、こいつは……いつまでも部屋をふさがれちゃァ困るから、出てくれ出てくれ」 「あァあァ、出ますよ出ますよ。どちらへでも参りましょう。どこですな、所は?」 「ひとまずこの夜具部屋へ入ってろい」 「結構、お世話さま……あァあァ、蒲団が……いいね、ぽかぽかして……」 「蒲団に倚《よ》っかかっちゃいけないよ」 「大丈夫だよ、蒲団に倚っかかれば縁起に障《さわ》るぐらいのことは心得てるから、安心して……そこはお閉めになって頂きましょう。ェェ、ちょっとお手隙《てすき》に遊びにいらっしゃい、失礼ご免……ひひひひ……」  灯火《あかり》が入るとがらりと変わる別世界。  大見世ともなれば、新造も若い衆も大勢いて、二、三十人の奉公人が働いているが、替り番やなにかで、客が立て込むとちょっと手が足りなくなったりすることがある。  佐平次は、楼内《みせうち》が騒々しいので、夜具部屋からのこのこ出て来て、二階の梯子段のところまで来ると、魚屋の若い衆が刺身皿を担いで来た。 「おゥご苦労さま、どこの部屋だい?」 「千代鶴さんのお部屋です」 「何番だか知っているかい?」 「六番でしょう」 「そうか六番だね……(と受けとり)へい、お待ちどおさま、お誂えを」 「ちょいとおまえさん肴《さかな》が来たよ」 「旦那、今晩はいらっしゃいまし、ご機嫌よろしゅう、しばらくお見えになりませんでしたな、しかしいつもお盛《さか》んでおめでとうございます」 「見慣れねえ若い衆だが、なんてえ名だ?」 「若い衆の名前……? あら、あきれた人だね」 「面白そうな若い衆だ、なんてえ名だ?」 「これゃァうちの居残《いの》……」 「伊之どんてえのかい? 伊之どん、ひとついこうぜ」 「よゥよゥ恐れ入ります。花魁、お酌有難う存じます。わたしが明日《あした》、按摩《あんま》をいたします……これはご祝儀有難う存じます。お返盃を……へえ、ごゆっくり」  と、客を取り巻く……。  朝になると、雑巾《ぞうきん》がけの手伝いから湯殿へ行って焚《た》きつける、台所へ行って水を汲んでやる、昼間は花魁や新造衆が遊んでいるところへ飛び込んで行く……。 「ご免」 「ちょいとおまえさん、こんなところへ来ちゃァいけないんですよ」 「大丈夫、夜具部屋で絵草紙を見ていたら、ここで三味線の音、お安どんからお許しが出て、あまり音締《ねじ》めがいいからのこのこ上がって来ましたが、ちょっとお三味線を拝借、こんな唄がありましたっけ」  と、爪弾《つまび》きでやってみると、音締めがいい上に声がいい。浮気稼業の妓《おんな》だからうれしがって、 「まあ聴いたことのない面白い唄ね、あとでその文句書いておいておくれよ。なにか旨いものでも買うからさあ」  というような具合……。  夜になると、お客が立て込んできて、 「ちえっ、なにをしてやがんだなァ、ほんとうに……来てくれ来てくれって、来てみりゃァ妓《おんな》ァまるっきり面ァ見せねえんだ、忙しいからしようがねえったって、遣手《ばあさん》も新造衆《しんぞしゆう》もまるっきり入って来ねえんだ……けッ、刺身を持って来やがったって醤油《したじ》がねえじゃねえか。醤油なくって生魚が食えるかい、猫じゃねえや、ほんとうに……手を叩いたり怒鳴ったりすりゃァ野暮な客だとかなんとか言やァがんだからなァ、銭を遣《つか》っちゃ神経を痛めてやがんだ。なにをしてやァがんだなァ……ここの楼《うち》ァ空店《あきだな》か……」 「へい、こんばんは……へい、こんばんは」 「なんだ、おれンとこか?」 「へい。お刺身の醤油《したじ》を持ってあがりました」 「なにをしてやがんだ、冗談じゃねえ。持ってくんなら早く持って来い」 「どうもお待ち遠さまで……いえ、なにしろどうもお客さまが立て込んでますもんで、……とんだ、どうも失礼をいたしまして、……あ、はははは、よくいらっしゃいました」 「よくいらっしゃいましたって、おめえ、見たことがねえが、ここの若い衆かい?」 「まあ、若い衆みたいなもんで……、つかんことをお伺いいたしますが、ェェ紅梅《こうばい》さんとこの勝《か》っつあんでいらっしゃるんでしょ?」 「よせよ、なにも紅梅さんとこの勝っつぁんてえことはねえけれども、おれァ勝太郎ッてんだ」 「よゥ、勝っつぁん、あなたが、やっぱり……かねがね伺ってますよ。あなたのお惚気《のろけ》……花魁が、暇がありさえすりゃあ、うちの勝っつぁんはこうなんだよ、うちの勝っつぁんがああなのさって……うちの勝っつぁん、うちの勝っつぁんてえことについては、あたしもじつに弱っちまって……」 「変な世辞《せじ》を言うない」 「いえいえいえ、まったくの話が……とにかくお近づきのしるしにお盃をご拝領願いましょう」 「なんだ、手を出してやがる。どうも厚かましいやつが来たもんだ。……まあ、酒は一人で飲んでたって旨かァねえや。話し相手がいなくって退屈はしていたんだ。……じゃ飲みな、やるよ。……おい、どうした? 飲めねえのかい」 「いいえ、頂けないというわけではございませんが、どうせ頂くなら、大きいやつのほうが……その後《うしろ》の茶箪笥《ちやだんす》の中に湯呑みがありますから、その湯呑みでひとつ、えへへへ、頂くということに願いたいもので……」 「大変なやつが入《へえ》って来やがった。それじゃ……湯呑みに注《つ》いでやるぜ」 「へい、有難うございます。頂戴いたします……あなたさまが今晩お登楼《あが》りになったのは、たしかあれは五つ(夜八時)を少し回ったという時分でしたなあ」 「よく知ってやがるな」 「花魁がみんなにいじめられてましたよ、『ちょいとおまえさん、あの人が来てよかったわね』……かなんか言われてね、花魁もまたうれしそうな声を出して、『はァ、有難う』なんて……、『この人はとぼとぼしてるわ、じれったいね、しっかりおしよッ』なんてんで、朋輩衆《ほうばいしゆう》から背中をどやされたりなんかしてェたが……あの紅梅さんがとぼとぼするんだから、あァたはなにかこの、婦人を迷わせる術を用《もち》いるでしょう……え? 憎いね、色魔、女殺し……へへへ、口惜しいね。なにか頂きたいなどうも……ご祝儀というようなものを……」 「おいおい、手を出すなよ。どうも大変図々しいやつが入って来やがった。……初めて顔を見て、銭を取り巻くのはひどいじゃねえか」 「いえ、ほんのお名刺代わりに……」 「こっちで言うこったい、そんなことァ……どうも、しょうがねえ……じゃ煙草を買ったお釣りがあるから、これで示談にしろ」 「よう、よう、ようッ……恐れ入りました。話がじつによくわからァ、では頂きます。だからあなたは、婦人にもてる[#「もてる」に傍点]んですよ。この間ね、雨の降る日にあなたの惚気《のろけ》を言ってましたぜ」 「よしねえよ。うめえことを言うのは……」 「ほんとうですよ。あなたのことで新造衆と諍《いさか》いをして、花魁が怒ったね、『ほんとうにじれったいよ』と言いながら、燗ざましを熱くしたやつを湯呑みへ注いで、ぐいぐい飲んで、目の縁《ふち》がほんのり桜色……掛けてあった三味線をとって、爪弾《つまび》きで都々逸《どどいつ》を唄ってましたぜ。その文句をあなたに聴かせたかったねえ」 「そうかい」 「花魁はいい咽喉《のど》してますねえ。その文句というのが、※[#歌記号、unicode303d]来る筈の人は来ないで、蛍《ほたる》が一つ、風に追われて、蚊帳《かや》の裾《すそ》……なんてね、都々逸の唄尻をすッと上げて唄ったから、いやさすが江戸っ子だなと思って、あたくしはじつにどうも感服……ちょっとお箸を拝借……」 「おいおい、食い物を取り巻くなよ」 「どうも遅くなって済みません。……あら、ちょいと、勝っつあん、おまえさん、この人を呼んだの?」 「別に呼びやァしねえやな、向うで勝手に」 「勝手に? あきれたねえ、この人は……」 「なんだい、こいつは?」 「うちの居残りよ、この人……」 「いのこり?……なんだ、おめえ居残りなのかい?」 「へ? てまえ? あっはははは……いや、どうや、面目次第もない……あァ、(額を叩いて)居残りというわけで……どうぞ、なにぶんご贔屓を……」 「冗談じゃねえやな……若え衆かって聞いたら、若え衆みたいなもんだってえから、変だと思ったんだが……いえ、刺身の醤油《したじ》がねえッたら、この人が持って来てくれたんだ」 「まあ、気がきいてるのね。でも、よくおまえさんわかったねえ、どこから持って来たの?」 「いいえ、先ほどお部屋の前をぶらぶらしておりますと、『醤油がなくって生魚が食えるかい、猫じゃねえやっ』なんて粋な啖呵《たんか》が聞こえたから、『ようッ、来たり来のすけ、おいでなすった、ここが忠義の尽しどころ』と廊下を見回すと小町花魁の部屋へ蕎麦の台が入りまして……これが突き出してあったので、徳利をとって、耳のところで振ってみるとがばりッと音がしたから、小皿へわけて『ようッ』てんで、こちらへ運搬を……」 「なんだい、こらァ蕎麦の汁《つゆ》か? 道理でさっきいやに甘ったるい醤油だと思ってたんだ。ひどいことをするない」 「はははは、どうも……あいすみません。急場のことで、まことにどうも失礼……花魁、ただいま、こちらからご祝儀を頂きました。花魁からもよろしく……どうも旦那有難うございました。……へい、あまり長居をしてお邪魔になるといけませんから、このへんでお暇を頂きます。ごゆっくりおたのしみを……よいしょッ、いよゥッ」  と、どさくさに紛れて二階で働きはじめた。  なにしろ気転《きてん》がきいて、酒の相手が出来て、人間がまめ[#「まめ」に傍点]で調子がいい……まるで幇間同様。そのうちに、あっちこっちからお呼びがかかる。お客のほうにもだんだん馴染が出来る……。 「伊之どん」 「へい」 「いま芝口《しばぐち》が来てるんだよ。ちょっと行ってくる間、八番の部屋へ行って少し旦那の相手になってつないで[#「つないで」に傍点]いておくれな、お小遣いを上げるよ」 「おッとよろしい、心得た、行ってらっしゃい……八番と、ここだな……へえ、今晩はいらっしゃいまし」 「伊之公か、大変に忙しそうだな」 「へえ、おかげさまで……ただいまじきに花魁が参ります。なにか召し上がりものは……? ああさようで……畏まりました。旦那、大変、お久し振りじゃァござんせんか、もっともお出かけになる先が多いから、無理はないや、この間、花魁があなたがお見えンならないってェ、さびしそうに涙かなんか流して、わたしにお惚気《のろけ》をありったけ聞かして……だんなァ、罪なお人だァ、よゥッ」 「よせよ、ばかなこと言うなよ」  隣りの部屋から、 「伊之どォん」 「へぇーい」 「火種を持って来てくださいな」 「へい、ただいま」  また別の部屋から、 「伊之どォん」 「へぇーい」 「水を持って来ておくんな」 「へえ……お待ち遠さま」 「早いわね」 「お隣りのを持って来たんで」 「あら、お隣りのを持ってきちゃァいけないよ」  昼間は昼間で、花魁からいろいろ相談事がある……。 「伊之さん、ちょいと、男の筆跡《て》でなきゃいけない手紙があるんだけど、書いてもらえないかねえ」 「花魁、なんでげすか、お手紙の上書き? ようがす、あまり名筆とはゆきませんが、てまえでよかったら、書いて差し上げましょうか……」 「あら、書いてくれる?」 「ええ、ようがす……住所《ところ》書き? ああ、これね、はいはい……これでよろしゅうございますか」 「あらッ、おまえさん、上手ねえ。感心しちゃうわァ」 「じゃァあたしも頼むわ。女の筆跡《て》で出しちゃ困るのよ。お願いします」 「あァ、よろしゅうがす。わたしでよかったら、お書きいたしましょう」 「救《たす》かるわねえ」 「八千代花魁のは、もう一本書いておきました、余分に。あとまた、お役に立つように日付《ひ》だけ入れりゃァいいようにして……じゃァこれで……。ほかになにかございませんか……おたくも? あァ、よろしゅうがす」 「それからねえ、これもひとつお願い……」 「あァ、ようがすようがす。では、これで、万事よろしいわけですな……ところで、みなさんも、さぞ、ご退屈でしょうから花魁がたに、なにかてまえが余興を……お聞きに入れましょうか、……小噺をね、申し上げよう……こういう、面白い噺がありまして……」  花魁を集めてバレ(艶笑)の小噺を聞かせて、 「あらまァ、おまえさん、なかなか役者ねえ。うまいねえ」 「それもいいけど、あたしはなにかこう、悲しくなる、涙の出るような話を聞きたいわ」 「いろいろご注文がありますな。じゃァ、ここにある本を読んで聞かせましょう。ただ読んだんじゃ面白くないから」  と、声色《こわいろ》をつかい、仕種《しぐさ》をまじえて……噺家の真似事をして、人気者になる。 「あらまァ、伊之さん、おまえさんは、なんでも器用ねえ、感心したわ。手も器用なんでしょう? いまこれが壊れちゃって困ってんのよ」 「なに? ちょいとこちらへ……あァ、これですか、こんなものはわけはない。直しておきましょう」 「ちょいと伊之さん、これも、頼むわ」  と大忙しで、あっちこっちでひっぱり凧になる。  となると、ほかの若い衆が黙っていない。 「おい、みんなこっちィ入ってくれ。松どんも、亀どんも……このごろまるっきりもらい[#「もらい」に傍点]がないだろ? あんなに客があってどうして祝儀《もらい》がねえんだろうと思ったら、ねえ筈だよ。居残りのやつがほうぼう回りやがってひとりで占《し》め込んでやがる。どうもあきれ返《けえ》ったねえ、どこに居残りが座敷で稼ぐということがあるんだい。ひでえ話じゃァねえか。昨晩も中橋の連中が来て、『座敷がさびしいから、口をかけろ口をかけろ』と言っているから、芸者《はこ》でも入るんだと思ってたら、そうじゃねえんだ、居残りを呼べ、てんだ。すると新造衆ものんきだねえ。梯子段のところで『伊之さァーん』ったら、あいつがまた『へぇーい』って返事をしやがって……『十一番さんでお座敷ですようッ』ったら、『よいしょッ』って言《や》がって、じんじんばしょりをして……変な股引《ももひき》を出して、扇子をパチパチやりながら、『ちゃちゃちゃ、ちゃらちゃっ』って、踊りながら入《へえ》って行きゃがった。お客がまたそいつを見て、喜んで祝儀をやってるんだ。ばかばかしいったらありゃァしねえ。ところがあとから烏森《からすもり》の連中が来て、『居残りはまだ居るか。芸者より居残りのほうが面白いから、居残りに口をかけてくれ』『居残りはただいまふさがっております』『じゃ早く、もらいをかけろ』って……なんだかわけがわからねえんだ。あんなやつにながく居られた日にゃァこちとらの飯《めし》の食い上げだ。届けるったって、いまさらになっちゃァもう手遅れだし、ことによりゃァあべこべに叱言を言われるし、そんなばかばかしいことがあるもんか。じつはね、旦那にもそう言ったんだ。いままでの損は損として、どうにかしてあんなやつは叩き出してしまわなければ、楼《みせ》のしめしがつかねえと……」 「まったくだ。あんな図々しいやつは、いますぐに追っ払っちまおう」 「おいおい、来やがった来やがった……見ろい、あの身装《なり》を……おい、居の、居残りさん」 「へいへいへい、どうも有難うございます……、お座敷はどちらでがす?」 「なにを……お座敷を勤める気でいやがら……。いまね、旦那が話があるってんだ、ちょいとご内所のほうへ来ておくれ……へい、旦那様、居残りを連れて参りました」 「あァ、こちらへお入り、遠慮なく……さァさァ……どうぞお敷きください。あたくしが当家の主人《あるじ》で……くわしい話は若い衆から聞きましたが、悪い友だちに騙されて、楼《うち》へ居残りをしたそうで、それをうちの者が友子《ともこ》友だちのように思って用なぞを言いつける、またおまえさんも大変によく働いてくださるので、もういまとなっては勘定をすると言ってもわたしのほうで頂くわけにはいかない。おまえさんだっていつまでこんなことをしていたってしようがなかろうから、まァとにかく、帳面は残らず棒を引くから、家へお帰りなさい」 「へえ、有難う存じます。旦那にそうやってご親切にしていただくと、穴があったら入《へえ》らなくちゃなりません。不思議なご縁でご厄介になりましたが、楼中《うちじゆう》の衆がいいかたばかり、もうこうなればわたくしは生涯《しようげえ》、こちらへご厄介になりたいと……」 「そりゃわたしのほうでもいてもらってもいいんだが、ずるずるに奉公人にしてしまうわけにも行かない。なに、じつは妓《こ》どもたちの評判もよし、わたしもいてもらいたい。ただ困るのはここにいる若い衆だが、このほうへはまたなんとか話をするが、それにはこういうところへ人をよこす桂庵《けいあん》がある。そこへ行って話をしてから、大びらでいてもらえるから、そうしてください」 「有難う存じます。それにつきましてはくわしくお話し申したいと思うことがございます、どうかお人払いを願います」 「みんなあっちへ行っていな、そこを閉めて……用があったら手を叩くから……なんです? そのお話というのは……」 「お楼《たく》へご厄介になっておりますれば、無事にこうしていられますが、うっかり敷居をまたいで外へ出りゃァ、御用とったと十手風《じつてかぜ》、縄目にかかり、ことによれば暗闇《くらやみ》の国へやられなきゃァならない体、どうぞご慈悲をもちまして、お匿《かくま》いのほど願います」 「じゃァおまえさんはどこかで悪いことでもして来たのかえ?」 「へえ、悪いことはするものでないと、いまじゃァすっかり改心をいたしましたが、なんの因果かさほど[#「さほど」に傍点]困る者の腹から出たんじゃァございませんが、餓鬼《がき》の折《おり》から手癖《てくせ》が悪く、抜け参りからぐれ[#「ぐれ」に傍点]だして、旅を稼ぎに西国《さいこく》を、廻って首尾も吉野山……」 「まるで芝居だね」 「人殺しこそしませんが、夜盗、追剥ぎ、家尻《やじり》切り……悪いに悪いということをしつくしまして、五尺の体の置きどころのない身の上でございます」 「これは驚いた。おまえさんがねえ……どうも、そんな悪事を働いたようには見えないが……」 「へえ、親父は神田の白壁町でかなりの暮しもいたしておりましたが、持って生まれた悪性で、旅から旅を稼ぎ廻り、碁打ちと言って寺々や、物持ち、百姓の家へ押し入りまして、盗んだる金が御嶽の罪とがは、蹴抜《けぬけ》の塔の二重三重《ふたえやえ》、かさなる悪事に高飛びなし……」 「どこかで聞いたような文句だね」 「もしも御用と捕まった日にゃ、三尺高え木の上で、この横っ腹に風穴があきます。どうぞ旦那、不憫《ふびん》と思召して、ほとぼりのさめるまで、少々の間、こちらへお匿いなすってくださいまし」 「とんでもないことだァ、どうも。知らない昔ならいざ知らず、知ってて匿うなんてえことはできませんよ。わたしの楼《みせ》に十手風に舞い込まれてごらん、身代限りをしなきゃァならない」 「もし捕えられて、いままでどこに匿ってもらっていたと訊かれりゃァ、ひょっとしたらこちらのお名も出し、ご迷惑がかかるかも知れません」 「そんなことをされてたまるもんか。そういうことのないように、どうにか逃げてもらう工夫はないかい?」 「そりゃあ、わたしだって、こちらへご迷惑をかけたくはございません。高飛びもしましょうが、一里でも踏み出しゃァ旅の空、金という蔓《つる》がなきゃァなりません」 「それでは、この手文庫の中に、金が三十両ある。これを路銀にしてどこか遠いところへ逃げておくれ」 「へえ、有難う存じます。それではお言葉に甘えて頂戴いたしますが、なにしろこの身装《なり》じゃァ身分不相応に金があると疑われ、これがまた足のつく元になります。恐れ入りますが、旦那のお着物をひとつ頂きたいもので……」 「そりゃあ、着物ぐらい上げてもいいが……」 「どうせ頂きますなら、先だって出来て参りました大島紬《おおしま》をお願いいたします」 「よく知ってるね、しかし、丈《たけ》が合うかどうか……」 「大丈夫でございます。旦那の丈が七寸五分、わたしと寸法もぴったりおんなじで……」 「まあ、見込まれたのが災難だから上げるよ、早く着て出てっておくれ」 「へい、有難うございます。ついでに帯も一本……」 「では、茶献上のをあげる。……さァこれを締めておいで……」 「ですが、旦那、着流しというのは人目につきやすいもんで、羽織も一枚どうぞ」 「じゃァ、羽織は胡麻《ごま》柄の唐桟のでいいだろう」 「有難うございます。お金は頂きましたが袂《たもと》から金を出すのは、なんとなく人柄が悪く見えますから、紙入れも一つ頂きたいので……」 「はいはい、ではこれを持っておいでなさい。……それじゃ煙草入れに、半紙を二帖、手拭を一本、あたしの下駄が玄関にあるから、それだけあればよかろう」 「へい、なにからなにまで……遠慮なしに頂戴して参ります。それでは旦那、これでご免蒙ります。みなさんにどうぞよろしく、たいへんお世話になりました。どうもおやかましゅうございました。……では、さようなら……」  佐平次が出て行ったあと、旦那は楼《みせ》の若い衆を呼んで……、 「おい、あいつが楼《うち》の近所で捕まったりすると、こっちが迷惑だから、松どん、あとをついて行って、どんな様子だか見て来ておくれ」 「へい、行って参ります」  若い衆が佐平次のあとを追って行くと、佐平次は鼻唄まじりで、悠々と歩いている。 「おい、おい、居のさん、おい」 「おう、松どんじゃァねえか、どうしたい、お使いかい?」 「そんなことはどうでもいいけど、おまえさんも暢気だねえ、鼻唄なんか唄っていて……もしも捕まったらどうするんだい?」 「捕まる? おれが? あはははは……いやどうも済まなかった。おめえのところの旦那はいい人だねえ」 「品川じゅうで、楼《うち》の旦那くらいいい人はいない、仏様か神様のように言われてる。旦那のご恩を忘れちゃ、おまえなんざ済まねえぜ」 「まァ、よく言えばいい人、仏様にゃァちがいねえが、早く言えばばかだ」 「なにがばかだ」 「おう、おめえも女郎屋の若え衆で飯《めし》を食うなら、おれの面《つら》をよく覚えておけ。吉原《なか》へ行こうが、新宿へ行こうが、どこでも相手に仕手のねえ居残りを商売にしている佐平次とは、おれのことだ。まだ品川じゃァ一度もやらねえからと、おめえのとこを見込んで登楼《あが》ったんだ。おかげで小遣いも出来ました。当分楽に暮らせますからと、楼《うち》へ帰って旦那によろしく言っとくれよ。いや、ご苦労さまでした。はい、さようなら」 「あっ、畜生めっ。ひどい野郎だァ、あいつァ……旦那、行って参りました。大変でございます」 「どうした? 捕まったか?」 「いいえ、あいつの言ったことはみんな嘘ですぜ。盗っ人でもなんでもない。ほうぼうで居残りを商売にして歩いてる、佐平次てえ野郎ですとさ」 「そうか。居残りを商売にする? それじゃァあいつの詐欺《おこわ》(お赤飯)にかかったのか」 「道理で旦那の頭が胡麻塩《ごましお》です」 [#ここから2字下げ] ≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]名作であるのに、サゲの「赤飯《おこわ》にかける」——「ペテンにかける」「騙した」「一杯食わす」の意味が、現代ではわからない。当代立川談志は「表から送るなんざ、ご免蒙ります。裏から叩き返しちゃいましょう」「あんなやつに裏ァ返されたら、後が怖い」と改作している。  さて、大《おお》真打《とり》は人呼んで�居残り佐平次�の登場である。この佐平次こそ、落語の精神《スピリツト》に溢れ、落語を地[#「地」に傍点]で行く役柄《キヤラクター》をもつ代表格の人物であろう。  佐平次は、ものごとを深刻に考え込んだりはしない。なにごとにも気を止めず成り行き任せ、臨機応変、大胆不敵、つねに前向きで、陽性で、人当りがよく、したたかで、自由奔放に、なによりも人生を楽しんでいる。——その他まだまだ数え挙げれば、毒気と危《あぶな》さ、憎めない潔さなど限《き》りがないほど多才な幅をもつ人物であろう。  こうした佐平次のような生き方は、江戸人にとって憧れであり、夢でもあった。——ある意味で江戸時代を象徴する人物の典型であった。士農工商の封建制のもとで、生まれながらに身分がかちッと決められている時代にあって、現代のような努力向上が封じられ、自己の領域《テリトリー》の中で現状を維持するだけであったなら、人は享楽に向うしかない。当時の職人は、「あいつは一日仕事をしねえと食えねえのかな、だらしのねえ野郎だ」と他人《ひと》から言われ、痩せ我慢をして、昼で仕事を切り上げて、湯に行き、帰りに「酢豆腐」[#「「酢豆腐」」はゴシック体]や「汲み立て」[#「「汲み立て」」はゴシック体]のように寄り集って、おだ(無駄話)をあげ、夜は廓へ遊びに行くのを日課のようにしていた。一所懸命働くと周辺から敬遠され、その町内に住みにくくなった。そういう雰囲気があった。〈遊ぶ〉こと、怠けることを奨励こそしないが、それが江戸人にとって、平和の源泉だった。  かといって、現実には佐平次のように見事に立ち廻る人間は存在しなくて、あくまでも噺の上で、聴衆がかくありたい、その意気、その意気と喝采を送り、日々のきびしい現実の——心の虚脱と体躯の疲労を忘れさせ、勇気づけてくれた人間だったにちがいない。  つまり、落語が大衆《われわれ》に愛され、共感をよび、生きつづけてきたのは、こうした佐平次のような人間に尽きせぬ魅力を感じ、憧れを抱かせるからだ。この佐平次の生命力と生き方に、落語の未来を託して……佐平次が品川の廓から鼻唄を唄いながら、江戸へ向って歩いて行く姿を見送りながら——楽屋の�追い出し太鼓�を打つことにする。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   あとがき  筑摩書房編集部の豊島洋一郎さんから『落語特選』という表題《タイトル》を与えられて、今回上下二冊に『落語百選』(全四巻 ちくま文庫)に入らなかった噺をさらに四十編、補充した。〈百選〉には有名《ポピユラー》な、好まれる噺を主に選んだが、こちらの〈特選〉には強烈な個性をもつ、毒気のある、どちらかと言えば特異《ユニーク》な�鬼っ子�が揃っている感がある。  まだこれらの噺以外に「睨《にら》み返し」「言訳座頭」「試し酒」「猫の災難」「長短」「愛宕山」など、演者の表情、しぐさで見せる[#「見せる」に傍点]噺は文章化《リライト》に限界があるので、割愛せざるを得なかった。その他、地噺、小噺など演者の話芸で聴かせる演目や、地口(駄洒落)やクスグリだけの他愛ない前座噺など……そうした多種多様《ヴアラエテイ》に富む演目が雑多に幅ひろく、底深くあって、落語という全体像が成立していることを改めて再発見した。  旧刊の〈百選〉に続いて、思いがけず四半世紀を経て、再び書き起こすことになったが、佐久間聖司さんの編集協力に支えられた、千載一遇の恵みがあった。彼は無類の落語好きで、ことに巻末に記した落語速記の資料文献の蒐集家《コレクター》で、そのほとんどの提供をうけた。またなによりも今日、毎日のように寄席、落語会へ通っていて、現代《いま》の落語の情報通でもあった。そうした彼が小生の書き起こす原稿を厳正に検証《チエツク》するだけでなく、他の速記の類例を捜し出し、参照し、さらに新しいクスグリやサゲを発案したり……そうした共同作業によって進行した。日ごろ怠け者の小生が迅速《じんそく》でかつ精緻《せいち》な仕事が出来たのは、こうした編集担当の豊島洋一郎さんと佐久間聖司さんとのチームワークの賜物で、終始有難く、たのしいものであった。  顧れば、かつて八代目林家正蔵(のち彦六)、十代目金原亭馬生からうけた幾多の教示と、小生とかかわった先達、友人たちの厚情と、そして、多くの読者の支持に心から感謝している。  かくして、活字落語の集大成——本シリーズは完了した。   二〇〇〇年二月 [#地付き]麻生芳伸   参考文献  『口演速記・明治大正落語集成』(全七巻)講談社  『名人名演・落語全集』(全十巻)立風書房  『名作落語全集』(全十二巻)今村信雄編 騒人社書局  『昭和戦前傑作落語全集』(全六巻)講談社  『古典落語大系』(全八巻)三一書房  『古典落語全集』富田宏編 金園社  『古典落語』(全七巻)飯島友治編 ちくま文庫  『古典落語』(全六巻)興津要編 講談社文庫  『古典落語』(全十一巻)落語協会編 角川文庫  『五代目古今亭志ん生全集』(全八巻)弘文出版  『桂文楽全集』(全二巻)立風書房  『円生古典落語』(全五巻)三遊亭円生 集英社文庫  『柳家小さん集』(全二巻)五代目柳家小さん 青蛙房  『小さん落語集』五代目柳家小さん 旺文社文庫  『金原亭馬生集成』(全三巻)十代目金原亭馬生 旺国社 麻生芳伸(あそう・よしのぶ) 一九三八年、東京に生まれる。京華高校卒業。映画、ジャズ、落語、本が大好きな芸能プロデューサー。林家正蔵、岡本文弥、高橋竹山、山田千里、エルビン・ジョーンズらのステージ、衣笠貞之助の映画の上映、津軽三味線や瞽女《ごぜ》唄などのレコードをプロデュース。編著書に『林家正蔵随談』『噺の運び』『こころやさしく一所懸命な人びとの国』『林檎の實』『往復書簡・冷蔵庫』(共著)『落語百選』(全四巻)などがある。 本作品は二〇〇〇年二月、筑摩書房より「ちくま文庫」として刊行された。