[#表紙(表紙.jpg)] 思考の補助線 茂木健一郎 目 次  まえがき  序 内なる情熱  ㈵  世界をその中心で統べるもの 「曖昧さ」の芸術  世界は「意識」を必要としない?  言語の恐ろしさ  ニーチェとカツ丼  ㈼  「個性」を支えるパラドックス  現実と仮想の際にて 「みんないい」という覚悟  登攀の一歩  ㈽ 「知のサブカル化」を超えて  この世界のすべてを引き受けて  無限と空白  感情の技術  ㈿ 「価値」はどのように決まるのか  紙一枚の文字列に「真理」は宿るか  批評性と創造  怒りについて  ㈸  総合的知性と専門的知性 「収束性」という罠  君はまだ「神」を殺していない  貧者の一灯  あとがき [#改ページ]  まえがき  昨今の人々は、わかりやすいものばかりを求めるようになった。難解な本を読んだり、真剣に粘り強く本質的なことを考えたりしなくなった。「インテリ」という言葉が、死語になった。日本におけるそんな「知のデフレ」現象について私は怒りを覚え、不特定多数の人々が集う公の場所ではともかく、親しい知人や仲間たちの間では「ふざけるんじゃねえ」と噴火をくり返してきたが、ここに来て、少し風景が変わって見えてきている。  大事なのは、「何が正しいか」ということではなく、「何がしたいか」という情熱のほうなのではないかと思うようになった。難しいことに取り組む「インテリ」になること自体が重要なのではない。問題は、それがどのような情熱によって支えられているかということである。  生きる熱意。前に進む意志。その質が問われている。もし、学問から勢いが失われているとすれば、それは俗悪でチープな文化が跋扈《ばつこ》しているからではなく、ただ単に学問自体から情熱が失われているということだろう。  情熱を支えるものは「本当のこと」であるはずである。「本当のこと」に感動する気持ちである。それから、過去に素敵なことをしてくれた偉人に対する感謝の気持ちである。そうした、まるで子どものように問いかける気持ちが学問から失われているから、人々を惹きつけることができず、結局は凋落《ちようらく》しているのであろう。 「本当のこと」「大切なこと」「知りたかったこと」「そのためには、全力を尽くしても悔いがないこと」。そういった「感情のエコロジー」こそが、探究する心を支える。そのような心の動きの根っこにあるのは、この世のさまざまを「引き受ける」という決意であるはずだ。  情熱は、結局は生きるということに由来する。生きるとは、行き交うことである。出会うことである。幅広く眺めることである。そして、ときには、ルール無視をすることである。  フットボールをやっていた少年が、興奮してボールを抱え、走り出す。「ラグビー」誕生の伝説は、学問というものが本来どのような姿をしていたかをその本質において私たちに伝える。  生きるということはどういうことか。心とは何か。物質と精神はどのような関係にあるのか。「私」とは何か。他人の心を本当にわかることができるのか。空はなぜ青いのか。水はなぜ冷たいのか。真理とは何か。究極の答えはあるのか。何のために生きるのか。死んでしまったら、生きてきたすべての時間は、いったいどこに行ってしまうのか。  本当のことを知るために、学問に情熱を取り戻すために、補助線を引きたいと思う。脳はいかに働くかを探究する日々。諸学とうるわしく連携し、学問を熱いものにしたい。読者のみなさんも、ぜひ参加してほしい。そうすれば、「知のデフレ」など、過去の遺物になるはずだ。私たちはいつの間にか再び知を総動員して生き始めているはずだ。 [#改ページ]  序 内なる情熱  人間の脳にとって、この世界がどのような成り立ちでできあがっているのか、それを知ることは、最も深く長続きのする「欲望」の対象であるはずである。私自身、「知る」ということに捧《ささ》げた人生であるはずだった。ところが最近になって、知るということはいったいどのようなことなのか、確信が持てなくなってきた。考えれば考えるほど、ますますわからなくなっていく。いよいよ病は重い。しかし、それゆえに希望も増していく。情熱は闇夜の松明《たいまつ》のように燃えさかる。  もともと、情熱(passion) という言葉は、キリストの「受難」(Passion) と同じ語源を持つ。この世で難を受けるからこそ、困ったことがあるからこそ、情熱は生まれる。誰だって、生きていくうえで苦しいことや悲しいことくらいある。だからこそ、生きるエネルギーも涌《わ》いてくるのである。親しみやすい演歌の世界からバッハのマタイ受難曲の至高の芸術性まで、情熱は受難によってこそ貫かれているのだ。  知的探究も同じだ。そう簡単にわかってしまったり、知り尽くしてしまえるのであれば、そもそも情熱は生まれない。「知る」ということが実にやっかいだからこそ、真理を熱心に探究する気持ちも強くなる。自分の志望する大学に入ったくらいで知の探究をやめてしまうような人は、もともと情熱の総量が足りない。本当に知るということの恐ろしさを知っている人は、無限を前にただ呆然《ぼうぜん》とたたずむしかない。 「理系」「文系」などというくだらない腑分《ふわ》けにこだわっているうちはまだ、情熱の程度が低い。そもそも、学部で卒業したとして、長い生涯のうちたった四年間に何をしたかということだけで、自分の一生の知的志向性が決まるとでもいうのか。学生時代に専門性を突きつめることは大事である。しかし、大学の四年間でやらなかったことがあるのだとしたら、卒業してから勝手にやればいいだけの話であろう。  私が学部学生をしていた二十余年前は、専門論文は大学の図書館に行かなければ読めなかった。いまや、最先端の論文はインターネット上で無料で読むことができる。アンリ・ベルクソンのフランス語の原論文も、簡単に全文を手に入れることができる。どんな分野でも、自分がその気になれば、インターネット上に無限の探究のためのマテリアルがある。 †「理系」の知と「文系」の知[#「†「理系」の知と「文系」の知」はゴシック体]  ことは、日本の大学入試制度における理系、文系などという前時代的な区分の持つ実際的な弊害に限られるのではない(この点において、入試区分で文科一類、二類、三類、理科一類、二類、三類などという区分をいまだに維持している東京大学の責任と影響力は大きい)。より深刻なのは、精神性、世界への向き合い方自体に及ぼす影響である。  自分は「文系」だからと、「理系」の学問に目を閉ざす人は、つまりはこの世の真理に関心がないということになりかねない。宇宙の果てがどうなっているのか、知りたくないとでもいうのか。生命がいかに起源したか、私たちの意識がどのように生み出されているのか、関心がないとでもいうのか。もし、人為的な学問区分に自分をあてはめるがゆえにそんな隘路《あいろ》に追い込まれているとしたら、なんともったいないことだろう。  人文的な学問のセンスを身につけようとしない理系の研究者も、また狭い。日本人は、よい論文は書けるが、その分野の研究を概観し、歴史をふり返り、新たなヴィジョンを示す「レビュー論文」を書くのが苦手であるとしばしば言われてきた。レビュー論文を書くためには、自分の直接の研究テーマだけでなく、多くの研究に通じなければならない。そのためには、文献を通してさまざまな知見を集積する、「文献学的手法」が必要となる。『種の起源』を著した、かのチャールズ・ダーウィンはそのような手法に長《た》けていた。フジツボからミミズまで。多彩な生物を自ら調べたダーウィンであるが、他の報告者による文献も精査していた。  哲学研究において偉大な足跡を残した廣松渉《ひろまつわたる》氏は、弟子筋に「一日三千頁の文献を読め」と常々言われていたという。本当にそのようなことが実行できるかどうかは知らない。それくらいの情熱をもって文献にあたらないと大成しないという一種の「常識」が文系の志の高い研究者の間にはあるのだろう。  文献の山に埋もれる生活であっても、あるいは自然そのものと向き合う人生であっても、真理探究の道は険しく遠い。宇宙の真の姿を知るという道すがら、私たちは一人残らず受難者である。知的探究において受難することを運命づけられている。だからこそ、知の探究者は辛抱強い顔をしている。旅すべき道は無限にどこまでもつながっているからだ。そして、知的探究のアプローチは幅広い表情を見せる。  素粒子から宇宙まで。この世が物質としてどのように成り立っているか、それがどう変化するかということを解明するのは、自然科学の役割である。実験をして、数式を立て、コンピュータでシミュレーションをする。性能のよいコンピュータが安価で手に入るようになったので、一昔前だったら大型コンピュータで計算していたようなことを、手軽にデスクトップで実行できるようになった。インターネット上で分散して大規模な計算をすることもできるようになった。あらゆる手を使って予測し、実証し、修正する。そのような科学の営みはこの世の成り立ちについての人類の理解を深め、さまざまなテクノロジーに結実して私たちの生活を変えてきた。  一方で、この世のあり様を自分たちなりに把握し、表現するという営みは科学だけに限られるのではなかった。人間がいつかは死を迎えるという絶対的で避けられぬ運命を前に、あがき、苦しみ、抵抗し、やがてあきらめる。そのような一連の魂の道行きの中で、私たちは文学や芸術を生み出してきた。宗教だけが、運命に対する抗《あらが》いなのではない。どんな表現でも、背後には宗教的意識が潜在しているものである。  実際的な視点も、人間精神のバランスをとるうえで大切である。利害が必ずしも一致しない人たちが集まって社会ができる。ときにはならず者や極悪人や独裁者が現れるこの世の中でいかに平和を保ち、繁栄を志向し、幸せを実現できるか。そのような真摯《しんし》な関心から、経済学や政治学といった人文社会の諸学は顕《あらわ》れた。 †私の知的探究遍歴[#「†私の知的探究遍歴」はゴシック体]  さまざまな知的探究は、一人の人間の中に交錯する。生命の本質は雑菌性の中に見出される。客観性や認知的距離感(ディタッチメント)を重んずる科学者だって、専門の研究ばかりやっているわけではない。生活人として芸術に親しみ、諸学に通暁し、一度限りのこの人生の中で何かを達成しようとする。  二人の男が黒板の前に立っている。チョークで難しい数式やらダイアグラムやらを書きつけて、いつまで経っても飽きずに議論している。私は、そんな科学者の生き方が、アインシュタインの伝記を読んで心から感動した子どもの頃から本当に好きだった。  どんなに一つのことに燃えていたとしても、雑菌性はどうせ避けられない。一方では自然科学におけるように冷静かつ客観的に世界に関する知を蓄積し、展開していくこと。それに加えて、あるいは正義を志向し、あるいは愛の至福をうたい、ときには死の不条理を嘆く諸学に親しむこと。生き方における「ダイナミック・レンジ」を充実させれば、地平線は開かれていく。つまりは、自分の知性と感性をいきいきと働かせれば、「何とかなる」。私はずっとそのように考えてきた。  ある時期から、目論見《もくろみ》を実現するための鍵は、脳の解明にあると見定めた。脳の仕組みを明らかにすることは、私たち人間の精神性の本質にかかわる。もっとも、脳の機能といっても、さまざまな視点がありうる。とりわけても、物質である脳からいかにして意識が生まれるのか。そして、さまざまなクオリア(感覚質)がいかに私の意識の中で感じられるのか。この一点を明らかにすることが突破口になるはずだと信じるに至ったのである。  クオリアの問題に目覚めた日は、私の人生における最大の祝福として今でも脳裏に鮮明である。研究所からの帰り、夜。私は電車に乗っていた。無意識のうちにガタンゴトンという音を聴いていた。突然、その音が、周波数で解析しても、スペクトラムを眺めても決して解明しきれぬ生々しい「質感」として私の意識に到達していることに気がついた。私は感動と畏怖《いふ》で青ざめた。車両と車両の連結部分の空気が一変した。その瞬間、私は、芸術を愛する経験的自然科学者から、現象学的経験をも視野に含めた「自然哲学者」へと変貌《へんぼう》したのである。 「クオリア」の問題を解明することが、わが生涯の目標となった。そのことさえ明らかにできれば、人類が今まで営々と築き上げてきたさまざまな知的達成が、一つの視野の下に統一できるものと思った。  私は、当時の神経科学が前提にしていることを疑うことから始めた。たとえば、神経細胞の活動は、どのような刺激特徴に選択的に反応しているかという「反応選択性」を基礎に解析されてきた。そのようなアプローチが本当に精神の起源の解明に資するかを懐疑した。そもそも、心理的な時間は、物理的な時間とどのような関係にあるのかを探究した。「認識におけるマッハの原理」「相互作用同時性」。自分なりに考えた新しい概念装置を世に問うた。「クオリア・マニフェスト」という名前で、クオリアを中心に知的な探究を進めるプログラムを文章化し、当時ようやく一般化しつつあったインターネット上で公開した。  謎は深く、問題は難しかった。それでも、「クオリア」という切り口で、私は真理の女神のまとうガウンの裾《すそ》をつかんだのだと信じた。あとはたぐり寄せるだけのこと。人生とは、謎の解明までのカウントダウンであるはずだった。途中で倒れてもいい。私がダメでも、続く世代の誰かが成し遂げるだろう。知的営みにかかわる人間にとっての原信憑《げんしんぴよう》の一つは「収束性」である。さまざまな努力は、やがて一つの「真理理解」に収斂《しゆうれん》していくだろう。いつそのような瞬間が訪れるかわからないが、人類は、必ず到達するだろう。  そのとき、私たちは、今まで謎であったことの多くを必然とみなし、逆に日常性の中に無限の神秘を見出すことだろう。この宇宙の中で生きているということを、よりいきいきと、愛にあふれたかたちで、そして自らの生に資する道筋をもってとらえ直すことだろう。まるで春になって地面からツクシが頭をもたげるのを確信を持って待つような、そんなたくらみに満ちた期待。私は、知的探究ということを、おおよそそのようなメタファーの下に抱きしめていた。 †十がわかると、百がわからなくなる[#「†十がわかると、百がわからなくなる」はゴシック体]  ところが、このところ、私は疑念にとらわれている。知的探究というものは、ひょっとしたら無限運動なのではないか。完成などないのではないか。以前からそのように思っていた節もあり、実際、そんな見地を親しい人に口走ったこともあったように思うが、より理論的に厳密な観点から、力の抜けた自然な心情をもって、知の探究には終わりがないということを、確信するに至った。その場所では、「諦念《ていねん》」が「希望」と分かちがたい一体のものとして感じられている。  以前から、脳の仕組みの解明について、「脳の神秘のうち何パーセントがわかったのですか」と問われると、とまどってはたと立ち止まってしまっていた。研究の現場の実感は、そのような「今までに何割解明できた」というものとは明らかに違うのである。  枠の与えられたジグソーパズルを端から完成させていくという感覚では明らかにない。むしろ、一つのことがわかると、十のことがわからなくなる。十わかれば、百のことがわからなくなる。わかったことと、わからないことの「割合」は、いつまで経っても同じことである。何のことはない。どのようにわからないのか、それを明らかにするために研究しているようなものである。ちょうど、夏の暑い日に道路の上に現れる幻の「逃げ水」のように、どこまで追いかけていっても決して追いつけないという不思議な確信がそこにはあるのだ。  たとえば、脳がニューロンという神経細胞で構成されていることがわかる。ニューロンどうしがシナプスという部位を通して結び合っていることがわかる。シナプスでさまざまな「神経伝達物質」がやりとりされていることがわかる。脳というものが得体の知れないブラックボックスだった時代に比べれば、大変な進歩である。脳の理解が、「0パーセント」から、「十パーセント」くらいになったと考える人もいるかもしれない。  ところが、今度は、なぜそれぞれの神経伝達物質が心を生み出すうえで、ある特定の役割を果たすのかがわからない。シナプスには、相手の神経細胞をより活動させる「興奮性」の結合と活動を低下させる「抑制性」の結合がある。どうして、これらの結合が精神活動に及ぼす影響は異なるのか?  無意識に行われる運動制御の主要な回路には抑制性結合が含まれている。一方、意識を生み出す大脳新皮質の内部の結合においては、興奮性が主流である。とりわけ、離れた領域をつなぐ結合は例外なく興奮性である。どうやら、興奮性結合は直接意識内容に関与するが、抑制性結合は関与しないらしい。なぜ、意識を生み出す作用機序において、抑制性と興奮性の意味合いが違うのか? この重要な問題について、理論的に納得のいく解答はまだない。 「昔はものをおもはざりけり」。一つのことがわかってしまうと、自分がどこがわからなかったかが明らかになる。わかってしまったことで、白紙状態の「わからなかったこと」に操作のハンドルがつく。やるべきことは、結局は増えていく。問題は、変質はするが、その総量は減りはしない。  どうやら、自分が知りたいと思っていることのすべてがわかるわけではないというのは、確実なことらしい。そのようなこの世界の消息が、手を離せばものは落ち、夜になれば暗くなり、砂糖を舐《な》めれば甘いというのと同じくらい明々白々たる真実として、私の胸に響く。 †不思議という不条理を抱きしめて[#「†不思議という不条理を抱きしめて」はゴシック体]  問題の総量は減らないにしても、見え方が変わるということはある。ちょうど、幾何学の問題で、たった一本の補助線を引いただけで、解答への道筋が見えるように、「思考の補助線」を引くことで、私たちは今までとは少し違った態度で、世の中の謎に向き合うことができる。  幾何学においては、うまい具合に補助線が引かれると、たしかに、目の前の問題は解かれる。関係ないと思っていた部分が結びつけられる。それでも、この世から不可思議なことがすべて消えてしまったわけではない。補助線を引いたその場所の周囲に広がっている余白について。図形が置かれている、そのさらに周縁で起こっていることについて。そのようなことに気づき始めると、また不思議の鐘が鳴り始める。  トータルの「未知」の量は、どうやら変わらないらしい。それでも、できることならば、「不思議」という観念を、人間の経験を真摯で忠実に反映したかたちで抱いていたい。タコツボの中の不思議も味わいがあるが、もっと広い視野から、はるか遠くまでを見て途方に暮れたい。一見関係のないことの間に、脈絡をつけたい。そのうえで、不思議と感じたい。  そんな思いで、私は「クオリア」という補助線を精神と物質の間に引きたい。それで問題が解けるかどうかはわからない。しかし、明らかに不思議の質が変わる。 「整合しなければならぬ」。  この強迫観念は、多様性を称揚する優しき心根と同じくらいのリアリティをもって、私たち人類の中に息づいている。それは、いうなれば人間の「生きる迫力」そのものであり、己の命を支えてくれるミミズを求めて土の中を突き進むモグラの必死さそのものと同じように、私たち人間にとって欠かせない生のエネルギーとなっている。  不思議なことがあるというのは、一つの不条理でもある。「なぜに」と問う感情は、よく晴れた夏の日にどこまでも青い空を訝《いぶか》しげに見つめていた私たちの祖先の中に、すでにあったはずだ。五歳の子どもがシャボン玉の上の虹色《にじいろ》の模様を見つめる視線の中に、それはすでにあったはずだ。  不思議という不条理から逃げられないとしたら、それを思い切り抱きしめてしまえ。思考の補助線を引き続けることで、私たちは不思議ということの内実を変えることができる。もっと甘く、もっと眩《まぶ》しく、もっと途方に暮れるほど白い不思議を、この手につかむことができる。その中に包まれることができる。 「整合しなければならぬ」。  文系も理系も、男も女も、強者も弱者も、生も死も、物質も精神も、美も醜も、みんな引き受けてしまう。そのうえで、生きることの情熱とまっすぐに結びついた輝ける不思議を、たった一度しかない人生の中で、受難しつくしたい。私の内なる情熱はそのように告げている。 [#改ページ]   ㈵[#「㈵」はゴシック体] [#改ページ] 世界をその中心で統《す》べるもの[#「世界をその中心で統《す》べるもの」はゴシック体]  人がその生涯に懐《いだ》く思想の源泉は、すべて思春期にあるとしばしばいわれる。とりわけ、社会に出る前の学生時代に考えたことが、その後の展開の原器になっているともいう。いかにぎこちなく、未分化で得体の知れないものであっても、人間の思考活動も結局は自然の中に存在するさまざまな形態形成のプロセスの一例である以上、多感な思春期の状況を程度の差こそあれ一生引きずることは、むしろ当然である。  私の場合も、あるいはそうだったかもしれない。私の思春期は大学のキャンパスにあり、いささか長かった。理学部の物理学科を卒業してから、法学部に学士入学した。法学士になってから、物理の大学院に戻って、博士号を取得した。学部に六年、大学院に五年、計十一年大学にいたことになる。  この間、本当にさまざまなことを議論した。理論物理学の話もしたし、政治の話もした。生命の起源や、アメリカ憲法の問題も語り合った。フッサールやカント、ハイデガーのことも議論した。  世は、バブル景気の盛りだった。理系の学生が、「文系就職」するという傾向が見られ、世間全体の科学離れが忍び寄ってきていた。アポロが月面に着陸した頃の科学への熱情は薄れ、経済的、技術的側面からのみ科学が語られるようになった。それはつまり、科学の世俗化への道筋だった。  もちろん、科学者だって霞《かすみ》を食って生きているわけではない。科学的営みが社会的文脈の中に位置づけられるのは当然のことである。明治四十一年に朝日新聞に連載された『三四郎』の中で、夏目漱石は大学の「穴倉」の中でずっと光線の圧力の研究をしている野々宮君を「すこぶる質素な服装をして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である」と評している。明治の御代《みよ》に比べて、バブル景気以降の日本において特に変わった事態が進行しているわけではない。それでも、何かが本質的に変わりつつある、という直観のようなものは、多くの人が共有しているのではないかと思う。  いつ世間の役に立つかわからないような知的探究に携わることをその精神性において誇る矜持《きようじ》は、バブル景気の浮ついた気分の中に骨抜きにされていくように見えた。隣の芝生は青く見えるという。できれば自分も浮ついてみたい。そんな気分が、あの頃の私になかったとはいえない。当時から続く感情の底流が、本書で考えていこうと思っていることに影響を与えている可能性は否定できない。  近代における経験主義科学の楽園、イギリスには、マイケル・ファラデーからリチャード・ドーキンスに至る偉大なポピュラー・サイエンスの伝統がある。一方、失われた十年が二十年にならんとしている日本には、科学者がルサンチマンを抱いても仕方のない状況が、存在してきた。テレビの現状を見れば、科学者が白衣を着た「奇妙なおじさん」として登場し、消費され、スタジオのタレントにいじられている。惨状、目を覆うばかりである。科学が今日置かれている窮状の淵源《えんげん》が、バブル景気の頃の日本人の勘違いにあった可能性を誰が否定できよう。しかも、バブル景気は去っても、勘違いはずっと続いている。 †薄っぺらな知で満足するな![#「†薄っぺらな知で満足するな!」はゴシック体]  もちろん、ここでは、表象文化の批評をしたいのではない。バブル景気とその崩壊の後遺症の中、日本におけるポピュラー・サイエンスの凋落と間接的に結びついていったとも思われる、ある根深い世界観の対立について、考えていきたいのである。  世界のことについて知りたいと願わない人間がどこにいよう。意識を得てしまった人間は、不治の病にかかっているに等しい。やがて死すべき自分の運命に戦慄《せんりつ》する私たちは、いったい自分たちはどのような存在か、私たちが投げ込まれているこの世界という不可解な場所はどんなところか、理解したいという強い欲望を持つに至る。知に対する欲望は、あらゆる人間の欲望の中で最も強烈である。本居宣長《もとおりのりなが》の下に集った商人たちは、「自分たちは散々遊びをしつくしたが、学問の快楽に勝るものはない」と目を輝かせたという。  啓蒙《けいもう》というと古くさいニュアンスがあるが、フィロゾーフ(愛知者)にとっては、啓蒙とはつまりは他人に対する愛である。知を愛する人は、本当の知の輝きを知っているから、その輝きが及んでいない場所を発見すると、お前ら薄っぺらな知なんかで満足しているんじゃねえ、と深い憤りを感じさえする。余計なお世話かもしれないが、そこにあるのはきっと愛である。  人間が人間らしく生きるうえで必須《ひつす》の教養であるフィロゾーフとしてのあり方、生き方が、ポピュラー・サイエンスの基盤を腐食したバブル景気の頃の時代精神(ツァイト・ガイスト)と連動して変質させられたように見える。その前の時代の愛知者の生き方、理想とする規範がどのようなものであったか、今となっては霧の向こうにかすかに見えるだけである。霧の向こうに何があったかを本格的に想起するのはしばらく置いておいて、とりあえずは霧のこちら側のことを考えよう。  一九八三年、浅田彰氏の『構造と力』がベストセラーになったことで火がついた「ニュー・アカデミズム」のブームは、私たち自然科学や数理科学を専攻していた人間にとっては、確かに、対岸の火事にすぎなかった。しかし、それは同時に奇妙に神経を苛立《いらだ》たせる光景であった。何よりも恐ろしいことは、浅田氏をはじめとする思想家たち本人の意図を超えて、「ニューアカ」的なスタンスが知の基盤の腐食、フィロゾーフとしての生き方の変質に力を貸してしまっているように思えたことだった。 †自然科学vs. ニューアカ[#「†自然科学vs. ニューアカ」はゴシック体]  自然科学においては、今日でも妥当しているある厳密な規範意識がある。物理学における数理的手法を頂点として、自然界の秩序が美しい数式で表される、ということについての信念と賛美があるのである。  たとえば、この宇宙のエネルギーの総量は一定であるという「エネルギー保存の法則」は、時間の流れの中で、時刻の原点を移動させても自然の様子は変化しないという「時間における並進対称性」と深く結びついている。量子統計力学においては、二つの粒子を入れ替えても「同じ」か、それとも波動関数の「符号」が逆転するかで、フェルミ粒子、ボーズ粒子という全く異なる振る舞いが生じる。「同一性」の根幹にかかわる数学の秩序が宇宙の中にあることは、それを知るものに深い微笑みをもたらす。  掛け値なしに美しい法則が、世界の奥底に秘められているということは、人類にとって想像力と情熱(パトス)をかき立てられる事態であるはずだった。  実際、『三四郎』の中で、「電燈会社の技手くらいな格」と揶揄《やゆ》されながらも、「光線の圧力」の測定にいそしむ野々宮君の脳裏には、宇宙の中に秘められ、発見されるのを待っている数々の秩序がイメージされていたはずだった。イギリスのジョークに、「オックスフォード大学を出た者は世界が自分のものだと思い、ケンブリッジ大学を出た者は世界が誰のものでもかまわないと思う」とある。オックスフォードが政治家を、ケンブリッジが自然科学者を輩出してきた歴史を背景としている。実際、電燈会社の技手といわれようがどうしようが、野々宮君にとっては世界が誰のものでもかまわなかったに違いない。世の中は、企業買収を仕掛けて「オレがオレが」という人間ばかりで、できているのではないのである。  このような自然科学者の、世界に対して距離を置いた真理観に比べて、「ニューアカ」の嵐は全く異なる世界観、言説観を提示しているように見えた。 『構造と力』の翌年に公刊された『逃走論』では、「スキゾ」と「パラノ」という人間類型が提出され、大きな話題を呼んだ。エクリチュールやパロールといった、フランス現代思想の概念が世をにぎわせた。私たち自然科学の徒は、そのような一見華やかな「ニューアカ」の動きをうらやましくも思いつつ、心のどこかで「そんなことでこの世の真理が動くはずがない」という確信も抱き続けていた。  自然科学の世界では、確固とした数学的構造や、実験データの裏づけがないままにスペキュレーション(憶測)を述べ、相手の反論に耳を貸さないことを、「ハンド・ウェーヴィング」(手を盛んに動かして、反論を封じること)といって嫌う。「ニューアカ」のブレークによって流行し始めた現代思想は、ハンド・ウェーヴィングに満ちあふれているように思われた。党派性や、パフォーマンスや、論争のための論争。数式とデータにすべてを語らせ、後は沈黙している。そのような自然科学者の美意識とは全く異なる世界が、そこには現出しているように見えた。 †科学と思想の間に補助線を引く[#「†科学と思想の間に補助線を引く」はゴシック体]  もちろん、ここでは、「時代はしだいに悪くなっていく」といった「堕落史観」を議論したいのでもないし、自然科学が現代思想全般に対して優位性を持っているということを主張したいのではない。そのような単純な構図でものごとを片づけられるならば、わざわざこんな文章を書きはしない。割り切れなさにとどまらなければ真理には近づけない。  大学院を出た後、私は物質である脳からいかにして心が生み出されるかという「心脳問題」に目覚め、従来の経験主義的科学では扱いえないさまざまな問題群に気づくようになった。単純に量子統計力学の数学構造を賛美していても世界を引き受けるという問題は片づかない、ということに気づいた。  意識の象徴としての「クオリア」が、自然科学が従来|標榜《ひようぼう》してきた数学的な方法論では扱えないこと。この一点をとっても、数理科学における「厳密性」の概念が狭きに失していることは明らかである。思想家にだって、厳密性の概念はある。ただ、それを数式に書けないだけである。絶対音感があるように、絶対思想感というものもある。そこに、思想における卓越性の基準があるということを、すぐれた思想家は最初から知っている。ただ、それが普通の自然科学の手法では扱えないだけである。  自然科学者としての卓越性の基準と、思想家としてのそれは違う。これが、今日に至るまで私を悩ませている問題の根にある認識である。伝統的な意味での自然科学の中にとどまり、思想家たちが直面している真摯な問題群に目を向けず、科学としての卓越性を追求している限り、おそらく悩みは少ない。一方、自然科学における厳密さや普遍性を、社会構成主義やエクリチュールの相対主義の枠組みで片づけ、それ以上反省しない思想家にも悩みは少ない。  純粋培養の自然科学者にも、思想家にも、おそらくは世界全体を引き受けることなどできない。人が人として生きるということの困難さの核心、この世界を成り立たせている根本原理の神秘、ゲーテの『ファウスト』にいう「この世をその中心において統《す》べているもの」を把握するためには、自然科学の卓越でも、思想の卓越でも足らない。両者の間に、思考の補助線を引かなければ、全体の構図は見えてこないのである。  小林秀雄が講演の中で現代の知識人を揶揄して使った言葉、「悩みも悟りもしないやつら」にならないためにも、一見両立させようがないように見えるものの間を結び、そこに気づかなかった風景を見たい。何時間かけて考えても解けなかった幾何学の問題が、たった一本の補助線を引くだけで見通しがつき、一挙に解決に向かうように、何らかの新しい視点を得る努力をしてみたい。そのような思いを胸に抱いて、本書を始める。  科学と思想の間に補助線を引くこと。それは、心脳問題について考えることとも無縁であるはずがない。バブル以降の浮ついた日本の気分にケリをつけ、返す刀で自分にとって最も切実な問題である心脳問題の解決に近づくための思考のヴィスタ(景観)を模索したいと思う。 [#改ページ] 「曖昧さ」の芸術[#「「曖昧さ」の芸術」はゴシック体]  私たちは、日常生活で「曖昧《あいまい》」という言葉をしばしば使う。そして、数学的言語に比べて、普段われわれが行う自然言語による思考は「曖昧」であるとしばしば非難される。この「曖昧さ」に対してどのような態度をとるかによって、世界をその中心で統べているものについて考える方法論は変わってくる。  自然科学者が、それ以外の分野の、自然言語にもとづいた思考を非難する際の一つのパターンとして、「そのような議論は厳密ではないから、いくらやっても『お話』であって意味がない」というものがある。  たとえば、「数の間には神秘的な関係がある」という表現は、数学的厳密性の立場から見れば、曖昧である。「数」といっても、それが具体的にどのような数を指すのかが明らかではないし、「神秘的」という形容詞も、それが具体的にどのような属性を指すのか、ただちに明らかではないからである。  それに対して、虚数iと、自然対数の底《てい》e、それに円周率πの間に成立する「オイラーの等式」、  e^πi + 1 = 0 [#「e^πi」は「eのπi乗」] は「厳密」である。この等式は「無限の精度」をもって成り立っている。計算結果に、たとえ、十の百京乗分の一でもずれがあれば、等式は成り立たない。  オイラーの等式に出てくる三つの定数は、どれも全数学の体系においてきわめて重要な役割を果たす、いわば「数学界のスーパースター」である。それらの間に、このようなシンプルな関係が成立するのを見出したことは、人類の偉大な知的財産の一つであるとみなされている。このような、他の解釈を許さない厳密性にこそ、数学の、そして数学的形式に依拠しうる自然科学の卓越性の根拠があると考えられるのである。  オイラーの等式に見られるような厳密な数学的秩序が、私たちが住むこの宇宙の中の万物の進行を司っている。これこそが、アイザック・ニュートンの偉大な発見であった。世界は、なぜかは知らないが、時々刻々、いまだ人間がその全貌を解明していないきわめて厳密な数学的秩序に従って変化し続けている。だからこそ、次の皆既日食の場所と時間は予言できるし、電子のようなミクロの世界の振る舞いも、統計的に厳密なかたちで記述することができるのである。月にロケットを飛ばすこともできるし、トランジスタをつくることもできる。この宇宙全体を、数学の女神の微笑みの中に包み込むことができるのである。 †思考の本性[#「†思考の本性」はゴシック体]  ニュートン力学から最近の超ひも理論に至る数学的形式にもとづく自然科学の成果と対比すれば、自然言語に依拠する人文諸学における思考が、「曖昧」なものに見えてしまうのは、仕方がないことである。しかし、だからといって、自然言語による人文学的思考が、数学的形式にもとづく自然科学の思考に比べて劣っていると考える必要はない。  というのも、「厳密性」(exactness) と「曖昧さ」(ambiguity) という一見自明な区別の背後には、そう簡単には片づけられないきわめて不思議な事情があるからである。  人間の意識や思考というものが、物質世界に対してどのような関係にあるのか明らかではなかった時代には、人間の思考を物質世界の厳密なる因果的進行と切り離して「ブラックボックス」に入れることができた。そのブラックボックスの中では、すべてのことが可能であった。死者と交信することも、異界のヴィジョンを見ることも、この世界に存在しないものを仮想することもできた。  そのような、「何でもあり」のブラックボックスの中においては、人間の思考が「曖昧」でありうるのは当然であった。世界が因果的な視点からどれほど「厳密」にできていたとしても、思考はそれと切り離されたブラックボックスの中にあるのだから、それは曖昧になることもできたのである。  ところが、一方では思考の数理的基礎の解明が進み、また一方では脳科学や認知科学が発展してきたことによって、世界の中の物質の数学的に厳密な因果的進行から遊離したブラックボックスの中に人間の思考を隔離しておくことが、しだいに困難になっていった。  今日のコンピュータの理論的基礎をつくったイギリスの数学者アラン・チューリングの「チューリング・マシーン」のモデルや、アメリカの数学者ノーバート・ウィーナーの「サイバネティックス」などの成果を通して、ブラックボックスに入っていたはずの人間の思考は、しだいに白日の下に曝《さら》されていった。思考の本性は、脳や身体もまたその一部である物質世界を支配する厳密な因果的法則との連続性の中に把握されるに至ったのである。  脳に電極を刺すことによる単一の神経細胞の活動の計測や、fMRI(機能的磁気共鳴画像法)などの非侵襲的方法による脳機能の解明が進むことにより、抽象的で形而上学的に見える人間の思考も、外界との相互作用の中に立ち現れる一般的な認知プロセスと共通の脳活動によって支えられていることが明らかにされていった。身体制御やリズム知覚、空間情報処理、感覚統合といった「地上的な」能力によって、物質的な世界に容易に着地しないかに見える「天上的」思考もまた支えられているのである。  いうまでもなく、一般の認知プロセスと連続するかたちで抽象的な思考をも支える脳内のすべての物質的過程は、きわめて精緻《せいち》な自然法則に支配されており、そしてこれらの自然法則の究極的表現が、厳密な数学的形式である。 †思考は曖昧でありうるのか[#「†思考は曖昧でありうるのか」はゴシック体] 「思考の自然化」とでも呼ぶべき事態の進行の下で、人間の思考はブラックボックスから出された。このような人間の思考の基礎に関する考え方の変化を前にして、思考の曖昧さは自明のことではなく、むしろ一つの驚異であることをこそ見てとるべきである。脳内過程の厳密なる進行に支えられているにもかかわらず、人間の思考がいかにして「曖昧」たりうるのかということ自体が、大変な問題を提起しているのである。  そもそも、人間の思考作用において、「曖昧」ということは本当に可能なのか? もし可能だとしたら、その思考における「曖昧さ」は、それを支える脳の厳密なる因果的進行と、どのように関係するのか?  世界を因果的に見れば、そこには曖昧なものは一つもない。その曖昧さのない自然のプロセスを通して生み出された私たちの思考もまた、この世界にある精緻さの顕れでなければならないはずである。  それにもかかわらず、私たちは、確かに、曖昧な自然言語の用法があるように感じる。もし、自然言語が、厳密な因果的進行が支配する世界の中に「曖昧」な要素を持ち込むということを可能にしているのだとすれば、それ自体が一つの奇跡だというしかない。  この奇跡をもたらしている事情を突きつめていけば、物質である脳にいかに私たちの心が宿るかという心脳問題に論理的に行き着くことはいうまでもない。  そして、この、私たちの心の存在がもたらす奇跡は、単なる「厳密さの喪失」という問題では片づけられない、仮想空間の豊饒《ほうじよう》をもたらしているのである。  言葉の持っている不思議な性質の一つは、それが数学的形式の基準からいえば曖昧であるからこそ、そこにある種の無視できない力が宿る、という点にある。だからこそ、言葉は、人間の思考において、社会的言説において、そして文学のような芸術表現において力を持ち続けているのである。  そもそも、自然言語という思考の道具の豊饒さの起源は、数学的形式と対置したときに「曖昧」と片づけられがちな、その表現世界の内包する自由の中にあるようにさえ思われる。数学的形式と同じようなかたちで「厳密さ」を追求すれば、自然言語の内包している可能性は、むしろ殺されてしまうのである。 †曖昧だからこそ言葉は力を持つ?[#「†曖昧だからこそ言葉は力を持つ?」はゴシック体]  たとえば、マックス・ウェーバー研究などで知られる経済史学者、大塚久雄の『社会科学における人間』の中の次の部分について考えてみよう。 [#この行2字下げ] 群衆の一人一人はそんな動きをすることがいやでしようがない。そんな気はぜんぜんない。しかも、自分たちの力の総和が自分たち自身に対してまったくよそよそしい、疎遠なものになってしまっていて、逆に自分たちをあらぬ方向に押し動かしていく。これがいわゆる「疎外」現象なんですが、とにかくそのなかでは、人間はもはや人間らしく主体であることをやめて、物とまったく同じに客体になってしまっているわけです。  マルクスの「自然発生的分業」によって生じてくる「疎外」現象を説明するたとえとして持ち出されるこの比喩《ひゆ》は、確かに、私たち人間の社会における切実で、ときに恐ろしい問題を指し示しているように感じられる。  引用文に先立って大塚久雄が具体的な事例として挙げているのが、自身が子どものときに野球の試合を見物に行き、群衆の混乱の中に巻き込まれてひどい目にあった経験である。ここで、経済史学者としての大塚久雄の問題意識が、社会的存在としての人間のどのような属性に向けられているのか。社会という怪物の中に潜む、ときに恐ろしいものの気配に敏感な者にとっては、いうまでもなく明らかなことだろう。  自然科学の記述として右の「疎外」論を読めば、いうまでもなくそれはあまりにも曖昧である。群衆というのはどれほどの規模の集団を指すのか? 一人ひとりの身体の質量はいかほどで、どのような初期状態に分布しているのか? 人と人の間に働く力は距離の関数としてどう与えられるのか? 「よそよそしい、疎遠なもの」とは、いったい力学的にいうとどんな現象を指すのか? これらの要素を具体的に記述し、必要に応じて実験やコンピュータ・シミュレーションをしなければ、群衆ダイナミクスの中の「疎外」の自然科学的記述は完結しないだろう。  その一方で、そのような厳密な条件詰めをすることによって、大塚久雄の社会科学的思考の本質とはずれた方向に導かれていってしまうことも、また事実であるように思われる。  確かに、大塚の文章においては、その記述が具体的にどのような現象を指しているのか、厳密には規定されていない。しかし、だからこそ、そこには大塚の切実な問題意識が確かに立ち現れているのが感じられる。それは、戦争に突き進んでいく時代の個人の無力さを指しているのかもしれない。会社の中の人間関係のことかもしれない。マーケットに翻弄《ほんろう》される生産者の切なさに関わることかもしれない。人間が他者との関係性の中で生きるときに立ち現れる切なくも凄まじいさまざまな事態に対する大塚の鋭い感受性が伝わってくるからこそ、右に引用した文は力を持つ。  自然言語による思考は、曖昧だからこそ力を持つ、などとまで主張するつもりはない。ただ、曖昧さは確かに存在し、ときに疑いようもない力を言葉に与えることを確認するだけである。そのうえで、あえていえば、自然言語における思考とは、曖昧さの芸術なのである。  恐ろしいことに、その曖昧であるはずの自然言語は、精密な自然法則に伴う脳内プロセスによって生み出されている。この点にこそ、安易な思考停止をすることなく、徹底的に考え抜くべき問題が潜んでいるのである。 [#改ページ] 世界は「意識」を必要としない?[#「世界は「意識」を必要としない?」はゴシック体]  人間が世界について考えるときにとるやり方には、さまざまなものがある。それらのアプローチの間には、ときには共鳴し、ときには矛盾し合うように見える、数限りない対照軸がある。その中で、数理主義にもとづく科学と、自然言語にもとづく思想・哲学の間の対立は大きなものであるが、すべてではない。  自然言語主義と数理主義との間の対照は、必ずしも曖昧さと厳密さの間のそれではないということを前節で述べた。そもそも、「曖昧さ」という概念自体が、その根底を問い直される必要がある。この世に曖昧に見えるものがあること自体が、一つの驚異である。すべての心的表象は、精密な因果法則によって進行する脳過程と密に結びついて生み出され、本来厳密に規定されているものであるはずだからだ。自然言語のいわゆる「曖昧さ」は、厳密性の不在がもたらす欠乏ではなく、むしろ積極的な意味を持つ何らかの新しい事態なのである。  自然言語の持つ「曖昧さ」に内在する豊饒の本質に迫ろうと思えば、その背後にあるダイナミクスに焦点をあてるしかない。たとえば、証明で決着がつけられるような数学的な真偽から離れた「真理」の概念は、確かに曖昧かもしれないが、人間の思考においては一定の駆動力として機能する。そのようなダイナミクスに内在する豊饒は、「曖昧さ」という、意識の中の表象とそれを生み出す脳の動作の間の奇跡的な関係性の中に生まれるのである。  意識の中に立ち現れる静止的印象の背後にあるダイナミクスを見誤ると、実際には存在しない結晶的世界をつくり出して、それにとらわれてしまうことにもなりかねない。プラトニズムは、確かに人間の意識の属性の一面をとらえた真理である。川端康成がカハラ・ヒルトン・ホテルの食堂で陽光を受けて輝くグラスに感動したように、日常の何気ない体験の中に、一見|完璧《かんぺき》に見えるさまざまなクオリアがある。意識を持った存在であるからこそ、完璧なプラトン的世界は私たちにとって近しい。  しかし、その永遠に静止した世界が、実は脳の中のノイズに満ちたダイナミクスによって生み出されているという事実を押さえておかないと、議論の方向を誤る。C・P・スノウの「二つの文化」をはじめ、人文系と自然科学系の世界観をめぐる議論が陥りやすい混乱の根本原因は、この点にある。 †偶有性こそが「曖昧さ」の本質[#「†偶有性こそが「曖昧さ」の本質」はゴシック体]  そもそも、数理的手法をとるということについて最も原理主義的な自然科学者も、その精神運動を見れば自然言語と数理のハイブリッドである。彼が駆使する概念の中には、たとえば宇宙を支配する「法則」や、科学的「真理」があるかもしれない。これらの概念は、意識の中ではある静止的な印象として立ち現れる。その静止的な印象が、自然言語としての曖昧さをも内包する。その背後にさまざまなダイナミクスが内包されているからこそ、これらの静止的印象は精神活動を有機的につき動かす契機となりうるのである。  丸山真男が論じているように、静止的な「真理」概念をめぐっては、科学という知の営みの枠を超えた広がりのある問題が提起される。 [#この行2字下げ]完璧主義と結合した合理主義は、科学観[#「科学観」に傍点]に翻訳すれば、唯一の正しい真理、もしくは第一原則から論理必然的に生み出され、相互にぬきさしならぬ連関をもつ諸法則によって、宇宙が完全に支配されていて、それは唯一の[#「唯一の」に傍点]正しい方法的手続によってのみ解明されるという思考法として現われる。(『日本の思想』)  丸山は、このような「完璧主義と結合した合理主義」を、トライアル・アンド・エラーの過程を通して仮説を検証する「不断のプロセス」を重視する「実験的な科学観」と対立させる。このような「対立」が、科学以外のさまざまな知的営みにおいてもくり返し生じる世界観の相克にかかわることは、誰にでも見てとりやすいことではある。  その一方で、「真理」であれ他の概念であれ、意識の中で「完璧な存在」としてある「表象」が成立しているように見える際には、必ずその背後に、それを生み出しているノイズだらけの脳のダイナミクスがあることも事実である。あらゆる意識内の表象に随伴する「曖昧さ」を直視するとき、人間の精神のエコロジーとしては、丸山のいう「完璧主義と結合した合理主義」と、「実験的な科学観」は必ずしも相容れないものではない。むしろ完璧主義と結合しやすい静止的表象(「真理」、「客観的データ」、「観察」)こそが、実験的な科学観を駆動しているのである。  意識の中の瞬間瞬間の静止的印象は、脳を含む世界全体を包む無意識のダイナミクスという海の中に浮かんでいる。その意味で、どれほど「完璧」に思われるような静止的表象も、変化への契機をはらんだ「偶有的」な存在としてとらえられなければならない。偶有性こそが、自然言語の「曖昧さ」の本質である。意識の中のすべての表象が持つ変化への契機=偶有性を考慮しなければ、人間精神のダイナミクスにおいて、自然言語主義と数理主義のハイブリッドが果たしている役割の全体像は決して見えてこない。 †主観的表象の切実さ[#「†主観的表象の切実さ」はゴシック体]  人文主義者は、たった一つの言葉の前にしばしば立ち止まる。「曖昧さ」を本来的に含んだ個別の表象の前に立ち止まるという態度は、多くの変数をコンピュータによって一気にシミュレーションし、その因果的進行全体をそのまま引き受けるという自然科学における数理主義の志向とは確かに異なる。しかし、とりあえずは自分の意識の中に立ち現れている静止的表象のダイナミクスを信じなければ何も始まらない人間の精神活動の領域は、確固として存在する。自然科学者の態度が人文主義者からはときに虚無主義的に見えるのも、彼らが冷たい数字のからまりあった因果的法則に依拠し、「曖昧さ」の起源となる自然言語を含む意識の中の静止的印象の前に立ち止まることが少ないからである。  もちろん、デリダがソシュールの「シニフィアン」(表すもの)や「シニフィエ」(表されるもの)の概念を批判し、世界の中で流通していく「エクリチュール」としての記号の性質を論じたように、言葉を流通のダイナミクスにおいて眺めた場合には、自然科学における乾いた数理主義との距離は縮まっていく。ポスト・モダニズムの思想と「複雑系」のようなカオス力学に依拠した数理主義との親和性が高いのは、そのためである。  その一方で、私たち人間が、依然として自分の意識の中の主観的表象に多くのものを依存していることも事実である。川端康成がカハラ・ヒルトン・ホテルの食堂で感じた陽光のきらめき自体の切実さは、それに関するエクリチュールの流通をいくら追っていったとしても、解消/回収しきれるはずがない。  主観的表象の持つ切実さに寄り添わない限り、脱構築をはじめとするポスト・モダニズムの手法は、物質や情報の流通にかかわる自然科学的記述に対する「重ね描き」にはなっても、世界観そのものに対する深刻な挑戦者になることはできない。そのようなことを、私は複雑系の研究者たちと親しく議論しながら、くり返し考えてきた。 †静止とダイナミクス[#「†静止とダイナミクス」はゴシック体]  複雑系の議論相手の中に、池上高志がいる。東京大学の駒場キャンパスで、教官をしている。力学系のモデルにもとづく複雑系の研究が本来の専門だが、最近では認知科学や脳科学との融合領域も盛んに探索している。  年齢も近く、お互いの興味が重なっていることもあって、池上との間には深い親近感がある。研究会などをやると、お互い譲らずに丁々発止だけれども、基本的な問題意識や価値観は共有している。  その池上とも、意見がくい違うことは当然ある。個人の趣味といってしまえばそれまでだが、池上と私がどこですれ違うのかを突きつめると、そこには、ある普遍的なパターンが現れてくる。そのパターンが、これまで議論してきたことと関係しているように思う。  それは、端的に表現すれば、世界に対する静止的なアプローチと、ダイナミクスにもとづくアプローチの差である。意識の中に立ち現れる静止的印象の切実さにとりあえずは寄り添い、真理や美といった価値を、本質的に偶有性を内包しつつも、永遠に変わらない不磨の存在として志向するのか。それとも、時々刻々変化するダイナミクスの中に解消していこうとするのか。必ずしも互いに排他的というわけではないが、その重点の置き方によって、精神の志向性が変わってくるのである。  小津安二郎の円熟期の作品を、私は掛け値なしの傑作だと思う。『東京物語』で、老母が亡くなり、明けた朝の尾道の港の風情。『秋刀魚の味』で、場末のバーで軍艦マーチをかけて敬礼してみせるシーン。これらのシーンに立ち現れる印象は、他のどのような映画にもない、特別なものだと思う。もちろん、毎回全く同じ印象を受けるわけではない。それでも、偶有性を担保したうえで、これらの映画から受ける印象を、プラトン的なものであると断言してもかまわないとさえ考える。  それに対して、池上は、小津はイマイチだなあ、としばしばこぼす。「茂木が小津を好きだというのはわかるけどね」と言って、唇の端で少し笑う。もちろん、嫌みではない。小津のよさは複雑系の志向するよさではないのである。  池上の好みは、どうやら別の傾向の上にあるようである。その趣味が、逆に私にはしばしば鼻につく。  池上が傑作だといった、アメリカのコメディアンを主人公にした映画が、私には一向に面白くなかった。テレビで人気を博したコメディアンが、大学で公演する。人々は、当然有名な持ちネタをやるのだろうと楽しみにしてくるのだが、その期待を裏切って舞台の上で延々と本を朗読し続ける。やがて、一人、また一人と観客は帰っていってしまう。まばらになった観客が眠りこけてしまっても、コメディアンは朗読を続ける。この場面が、堪《こた》えられないほど面白い、と池上は言った。  私には、その場面は単なる子どもっぽい思いつきにしか見えなかった。そして、その子どもっぽさの感触は、ポスト・モダニズムの一部分の浮かれ騒ぎに感じる空虚さの印象と似ているように思った。  もちろん、池上と私の間の精神的感応には、以上のように簡単に片づけられない微妙なニュアンスが含まれている。池上も、小津を見て、私と同じことを感じないわけではないだろう。ただ、その表象の切実さに寄り添って問題を考えるかどうかが違う。基本的に静止的印象に寄り添うことを潔しとせず、変化するダイナミズムの中に何か「お化け」を見ようとするのが、複雑系のスタンスである。池上は、舞台の上で朗読を続けるコメディアンにお化けを見ようとしたのだろう。それは一つの見識ではあるが、そこからは脳から心が生み出される不思議自体には到達できそうもない。  何はともあれ、世界の進行は力学においてとらえられる。これはくり返し確認しておくべきこの世界に関する基本的真実である。  一方、世界の本質が、絶えざるダイナミクスによる世界の発展にだけあるのであれば、世界は意識を必要としない。すべては、無意識に進行していればよかったはずだからだ。  絶えざるダイナミクスの中に、なぜか知らないが、静止的印象が現れる。それは、一見プラトン的完璧さを内包しているが、同時に偶有的でもある。  意識の中に立ち現れる静止的印象に託された世界の消息を明らかにすることで、私たちはここから先へと行けるはずなのである。 [#改ページ] 言語の恐ろしさ[#「言語の恐ろしさ」はゴシック体]  この文章は、日本語で書かれているから、読者はほとんど日本人のはずである。その中に少数の「日本語を習得した外国人」が含まれているとしても、読者の圧倒的多数は、地理的領域としてはこの「日本列島」に居住する、日本語圏の住人であるはずだ。  私たち日本人は、事実問題としては、日本語が世界において占める位置がそれほど高くはないことを知っている。中国語やヒンドゥー語を話す人の数に比べれば、日本語を話す人の数は見劣りするし、世界の中で流通する国際語としての地位を考えても、英語の圧倒的な力の前に日本語はいかにも無力だ。日本語で表現するということを選択した瞬間に、ほぼ自動的に、「日本人」だけが実質的構成員となる「日本語圏」の中に読者が限定されることは事実であろう。日本語は、その影響力の評価において世界の言語のベスト10に入るとされているが、英語のように世界の中でかなり広く流通するという地位を占めているわけではない。  もっとも、私たちは、普段日本語で表現し、日本語で書かれた文章を読んでいるとき、それほど日本語の到達力の限界に自覚的であるわけではない。むしろ、外国に出かけていって、国際語としての英語の威力に接しでもしない限り、あたかも日本語圏がすなわち世界であるかのような顔をして暮らしている。日本語で出版される書籍や、新聞、テレビなどのメディアに接していれば、たいていは事足りる。日本は翻訳文化の大国であり、日本語だけを使っていても、世界中の情報がほぼリアルタイムで入ってくる(ように思い込んでいる)。  もちろん、このような状況は、必ずしも日本語圏に限定された事態であるわけではない。そもそも、ある言語による表現の流通が、その言語を理解する人々の範囲(言語圏)によって限定されるという事態は、すべての言語において共通である。たとえ、英語圏の人口が実質的に大きいといっても、そのことによって、英語で表現された思考は英語圏においてのみ流通し、享受されうるという限界の本質が変化するわけではない。それでも、日本語の場合に事情が特殊なのは、それが話される地理的範囲が、ほぼそのまま「日本」という国民国家の範囲と一致するからである。  日本語によって表現されたすべての思考は、ほぼ自動的に日本語圏でしか享受されないものになる。この言語的な限界のもたらす弊害は、今日の日本では特に、国際関係に関する言説において顕著である。  近隣諸国の政治的ふるまいや文化に対する批判的言説を表明すること自体は、表現の自由の範囲内のことである。しかし、批判の対象となる相手に趣旨が正しく到達し、反論があればこちらもそれを真摯に受け止めるという双方向性のプロセスがあってこそ、批判はその社会的身体を全うする。国際関係に関する言説の事実上の読者が、批判の対象になっている国の国民ではなく、批判することはあってもされることのない、いわば安全圏にいる「身内」でしかないことは、これらの批判的言説のアクチュアリティを著しくそぐとともに、論者たちの知的モラルを低下させる事態を招いてしまうのである。 †バベルの塔[#「†バベルの塔」はゴシック体]  世界の中には、現状で数千種類の言語があるともいわれる。どれほどの言語の天才でも、それらのすべてに通暁することは不可能だろう。『旧約聖書』の中の「バベルの塔」の寓話は、世界の中にお互いに話が通じない複数の言語が存在するという状況のもたらす絶望を見事にとらえている。グローバル化とはいっても、私たちは、まさに、バベルの塔のまっただ中に住んでいるのだ。これは考えてみると恐ろしい事態のはずである。昨今の日本の論壇における、内輪向けの威勢のいい言説の隆盛は困った現象であるが、複数の言語が存在するという事態が人間精神に及ぼす潜在的に破壊的な影響に比べれば、認識論的にはトリヴィアルな問題とさえいえるかもしれない。  世界の中に複数の言語が存在し、お互いに了解が不可能になるという事態は、一種の「対称性の破れ」である。『荘子』の応帝王篇に出てくる「渾沌《こんとん》」のごとく、何らの言語もない白紙の状態は、具体的な表象やコミュニケーションの活動がないかわりに、了解不可能性も存在しない。  具体的な言語が立ち上がり始めた瞬間、ソシュールのいうシニフィアンとシニフィエの結びつきの恣意《しい》性にもかかわるような、複数の言語体系の発展のダイナミクスが顕在化する。個々の言語体系がしだいに高度に、そして精緻なものになればなるほど、その体系内部にいる人間にとっては、世界を認識し、表現する際の網目は細かくなっていく。その一方で、体系の外にいる者にとっては、体系の内側にいるものが表象し、享受し、伝達しているさまざまなニュアンスは了解不能なものになっていってしまうのである。 †言語の罠[#「†言語の罠」はゴシック体]  世界の中に複数の言語が存在するという状況が、人間の体験の総体をいかに分断化してしまうかということ自体は言い尽くされているのかもしれない。しかし、言語という世界認識の方式が、その体系の複数化を通して人間精神に対して仕掛けている罠《わな》については、私たちは今よりも自覚的になる必要があるのではないか。  ある言語体系の中での表現の可能性を追求していく努力は、さまざまな偉大な果実を人類にもたらしてきた、誇るべき伝統である。小説家が文体を工夫して今までにないニュアンスを表出しようとしたり、あるいは落語家が一生を絶え間なく続く修業の連続としてとらえ、言葉のセンスを磨くために苦闘する姿は尊い。名人と讃えられた二代目広沢虎造の浪曲は、日本語の持つ豊かなニュアンスの宝庫である。このような日本語表現の成果は、少なくとも、日本語という言語圏の内部にいる人間にとっては、誇るべき、そして後世に伝えていくべき偉大な財産だということができるだろう。  その一方で、ある言語圏の中にいる人間にとっては確かな手触りを感じられるような豊かな世界に没入することが、ときに、言語が私たちに仕掛けた罠にはまることを意味するのにも自覚的でなければならない。カタコトの日常会話くらいならば、他の言語圏に属する人たちにも十分通じさせることができる。しかし、志《し》ん生《しよう》の落語の微妙なニュアンスを享受することは、ある程度日本語に通暁することなしには不可能である。  日本人にとっては、円生《えんしよう》と志ん生の落語には明らかな違いがあり、どちらを好むかという嗜好《しこう》を通して、その人の美意識や世界観を判定する縁とすることができるかもしれない。しかし、日本語圏の外にいる人にとっては、両者の違いはブラックボックスの中の不可視のもの、下手をすれば何らのアクチュアリティも持たない「非存在」にすぎない。 「人類」という概念は、数千の言語を喋る世界中の人に普遍的に適用されるべきものであろう。だとすれば、志ん生の落語の味わいに涙するとき、その思いはそのままでは「人類」普遍のものにはなりえないという事実を直視する覚悟がいる。もちろん、志ん生の魅力を私秘的な体験として後生大事に抱え込んでいることもできる。しかし、ヒンドゥー語圏にも、スペイン語圏にも、志ん生に相当する何ものかがおそらくはあることを思うとき、バベルの塔以降の多言語の世界で私たちが潜在的に見失っているものの大きさに戦慄せざるをえない。  表現として高度の洗練と達成を求めるほど、言語圏の奥へと入り込んでいき、他の言語圏の人には不可視な場所に取り込まれていってしまう。そのような言語の仕掛ける罠を思うとき、私は他のどのような事態からも受けないたぐいの打撃を受け、深い絶望を感じる。英語という「勝ち馬」に乗っかって、日本語で表現するよりこっちのほうがグローバルで上等だと信じているおっちょこちょいは、まだ微笑ましい。およそ言語という制度の上に乗っかっている限り、それがどのような言語であれ、右のような「言語の罠」からは逃れようがないという真実を直視するとき、胸の底から込み上げてくる不安は、ホモ・サピエンスとしての私たちの存在自体に内在する脆弱《ぜいじやく》性へとまっすぐにつながっている。 †普遍性を流通性と切り離して考える[#「†普遍性を流通性と切り離して考える」はゴシック体]  もちろん、異なる言語の間にはある程度の「翻訳」が可能である。日本語圏の住人にとっての志ん生の味わいを、英語圏の言葉で表現することが全く不可能であると決めつけられるわけではない。ときには、ある言語圏における体験の蓄積が、翻訳を通して他の言語圏に重大な影響を与えることもある。実際、明治維新以降に日本で花開いた西欧の翻訳文化は、日本語の姿を変化させ、日本語圏の住人の世界の見え方をかなりの程度変えた。  その一方で、翻訳可能性を議論すること自体が、ときにさらに別種の言語の罠に私たちを導きかねないことにも、敏感であるべきだろう。  私たちは、「普遍」という概念を、しばしば安易に前提とする。しかし、複数の言語の壁を超えて普遍性を立てることを志向するとき、そこにはおのずから原理的な困難がある。たとえば、「クネクネ」や「ピカピカ」や「ほかほか」といった日本語のオノマトペの持っている語感を、そのまま英語に翻訳することは難しい。  厳密にいえば、ある概念の普遍性は、その概念の翻訳可能性と一致するとは限らない。たとえば、世界の中のある言語圏だけが到達し、把握している普遍性が存在するということはありうる。それでも、私たちは往々にして翻訳可能なものだけを普遍項として立てることを当然だとみなす。流通性と普遍性を安易に等式で結んでしまいがちなのである。  世界のさまざまに異なる言語圏の間の結びつきが強まり、双方向の行き来が盛んになるに連れて、翻訳可能なものだけが事実上の普遍性を帯びていくということは実際的な意味で不可避のダイナミクスだといってよい。村上春樹の作品が、最初から翻訳可能な文体で書かれていることは、意識されたものであるかどうかは別として高度に戦略的である。  近年の「グローバル化」の文脈においては、地域による微細な差異を無視して普遍項を仮定することの暴力性が批判されてきた。ファーストフードや映画の世界における「グローバル化」の弊害を見ることは易しいが、同じことが言語によって表現されるさまざまな概念の世界にも及んでいることは、案外見落とされがちである。  普遍性を流通性と切り離して考えてみることと、言葉を含め、意識される表象の同一性が保証される機構を考えることは、深く関係している。本来、日本語圏の住人が志ん生を聞き、「ピカピカ」という言葉を耳にしたときに感じる表象は、それが意識の中に立ち上がった瞬間に存在論的にも認識論的にも完結した同一性を帯びているはずである。どのような言語圏でどれほど広く流通するかという問題は実は本質的ではない。本来、世界の中に存在する数千の言語圏のそれぞれの中で、言語を通して表象されるものたちの同一性は、その話者たちの意識の内に完結しているはずなのである。  確かに、言語は流通を求める宿命を持つ。私秘的な体験としての意識の中の自己同一性の成り立ちと、言語の流通性は、本来的な緊張関係の中にある。複数の言語の存在が私たちに突きつける困難は、意識および言語の成り立ちの本質にかかわるはずである。言語の恐ろしさと向き合うことが、近隣諸国に対する倫理的態度であるとともに、世界の本質にかかわる思考の課題である理由がここにある。 [#改ページ] ニーチェとカツ丼[#「ニーチェとカツ丼」はゴシック体]  人間、若い頃は、誰でもうかつなことを考えるものである。  一時期私はニーチェを愛読していたが、彼が取り組んだような普遍的思想問題は、日本の東京での自分の現実的生活とは別のどこかにあると考えていた。「永劫《えいごう》回帰」や「権力への意志」、「ルサンチマン」といった概念に心を惹かれつつ、そういったものは大学近くの定食屋でカツ丼を食べながら友人と議論している私の日常生活とは別の領域にあるのだろう、と思っていた。一刻も早く、この猥雑《わいざつ》な生活を飛び出して、本格的な思索の世界に飛び込まなければ駄目だ、そんなことを感じていた。  もちろん、考えてみれば、ニーチェの生活にもカツ丼に相当するものがあったに相違ない。カツ丼もあれば、ビールも、議論をしている友人の服の上にまるで奇跡のように付着している鳥の羽もあっただろう。そのような猥雑な日常の中で、普遍について思考することができるということが、人間の、そしてこの世界の不思議な成り立ちである。  ニーチェの哲学のごとく、大文字で書かれるような「普遍」が、ぐにゃぐにゃと頼りない私たちの人生の「個別」と関連して立ち上がるのは、いったいどのような理屈にもとづくのだろうか。普遍性が宿るプラトン的世界は、この猥雑な地上と別の領域にあるのではない。ノイズとカオスに満ちた現世のあり様にぴったりと寄り添って、普遍性は存在する。いや、日常の個別から離れて存在する普遍など、ないに違いない。 「永劫回帰」のような思想を構想するのも、「今、ここ」にある、因果的法則に縛られた物質的存在としての「私」の脳である。今日の晩ご飯について考えるのも、永劫回帰について考えるのも、脳活動をその一部に含む生の個別と、そこに宿る普遍の間の関係性に即して見れば本質は変わらない。ニーチェの天才を称揚するのはよいが、だからといって、どんな凡人の頭の働きの中にもある、足元の驚異から目を逸らしてはいけない。  実際、生の個別と表象の普遍の間の関係性においては、天才も凡人も同じである。時空間内で一定の位置を占める「個別」が、時空間的な限定を受けない「普遍」に接続することの不可思議は、万人に等しく宿るのである。  私たちの猥雑な生活が必ずしも「個別」であることに尽きるのではなく、「普遍」が「今、ここ」の日々の生活から独立して存在するのでもないこと。ここに、「個別」と「普遍」の間の一筋縄ではいかない関係性がある。そして、両者の関係性は、人間一般の「意識」の不思議さに真っ直ぐにつながっている。 「個別」と「普遍」は、「意識」を媒介項として結合される。ニーチェという個別の生が「永劫回帰」という思想を構想しうることの驚異は、意識というものの成り立ちの不思議そのものなのである。 †哲学的ゾンビ[#「†哲学的ゾンビ」はゴシック体]  意識はどのように成立するのか、その第一原因をめぐる議論の行く末は、杳《よう》として知れない。  現在までの知見から、意識が脳活動によって生み出されること自体は、疑いようがない。意識が、脳を含む私たちの周囲の物質とはどれほどカテゴリーの異なるものであるように感じられたとしても、それが脳の大脳新皮質を中心とする神経細胞の活動によって生じるものであることは間違いないのである。  しかし、その一方で、意識が生み出されなければならない必然性は、一向にわからない。意識があろうがなかろうが、ある一定の因果的法則に従って脳と身体が動いてさえいれば、事足りるように思われる。意識を持たないにもかかわらず、客観的に見れば、私たち人間と全く同じ軌道をたどり、機能的には区別することができないような存在を、「哲学的ゾンビ」という。現在までの科学的世界観にもとづいて考えれば、私たちは哲学的ゾンビであることで十分だったようにも思われる。  意識は、生体組織である脳の活動が生み出すものである。したがって、その本性を究めることは、本来的に生物学の一分野となる。しばしば言われるように、生物学的事実は、進化論的視点に立って、はじめてその意味が基礎づけられる。脳が意識を生み出すという「生物学的事実」は、意識が進化の過程で持った役割を明らかにして、はじめて理解可能なものとなるのである。  意識の機能的意義には、さまざまなものがある。たとえば、視野の中に複数のものが存在している状態を、並列的に「私」が見るという、「統合された並列性」がそのうちの一つである。山の頂上から下界を眺めるというようなときにはもちろん、日常の生活空間の中でも、私たちは視野の中で驚くほど多くのものをとらえている。一瞬の内にでも、視野の中で見えているものをすべて言葉で書き尽くそうと思えば、大変な手間がかかる。このような一気の「見渡し」を可能にしているのが、私たちの意識なのである。  厳密にいえば、あたかも「統合された並列性」が成り立っているかのように脳の神経細胞のネットワークが活動する「哲学的ゾンビ」でさえあれば、そこに意識という表象が付随しなくてもよいとも考えられる。一般に、意識の機能的意義についてどのような仮説を立てたとしても、それと等価な振る舞いをする「哲学的ゾンビ」でよかったのではないかという反論が常にありうる。もし「哲学的ゾンビ」でもよかったのであれば、意識は、進化上有利にも不利にもならない、「中立的」な属性だということになる。そうなると、意識の問題は進化論的視点と独立になる。  私たちが日常疑いようもないかたちで経験しているように、実際には、人間は意識を与えられている。意識を持つことは、進化の過程でどのように有利に働いたのか? この質問に本当の意味で答えるためには、意識の謎自体を解き明かさなければならない。  しかし、それは大変やっかいな問題なのである。 †「今、ここ」に限定されない意識の働き[#「†「今、ここ」に限定されない意識の働き」はゴシック体]  視覚における「統合された並列性」のような「低次の」意識の性質は、しばしば「アウェアネス」とも呼ばれる。アウェアネスは、私たちが世界を把握する際に大切な働きをしている。  アウェアネスを生み出す働きに加え、意識は、ニーチェが行ったような抽象的な思考において、一つひとつの概念の「理解」を成立させる役割をしている。イギリスの数理物理学者ペンローズは、意識がなければ「理解」も存在しないというテーゼをその著書『皇帝の新しい心』の中で提出した。「私」が「私」であるという自己意識を成立させるのも、意識の働きである。意識は、人間が世界を認識し、適切な行動をとる一連の過程の中で、複雑で重層的な役割を果たしている。  すでに述べたように、意識の働きに関するどのような記述も、現時点では「哲学的ゾンビ」の反論を許容する、相対的な意味しか持たない。その留保を付けたうえで、思考における意識の働きの最大の驚異は、因果的連鎖の中で「今、ここ」に閉じこめられているかのように見える脳活動に伴って、世界の森羅万象を指し示すような表象を立ち上げることである。  表象の指し示す対象は、「今、ここ」に限定されない。過去、現在、未来、どのような時点に存在したことでも、宇宙のどこに存在するものでも、それを思い浮かべ、思考することができる。それどころではない。「一角獣」や、「正七面体」のように、この世界に実際には存在しないものさえ、仮想することができる。意識の中でさまざまなものたちを表象することで、私たちの感覚や思考は、「今、ここ」の限定を逃れることができるのである。  意識の中で表象されるものが因果的時空間の限定から逃れることの意義は、いくら強調しても、しすぎということはない。私たちの生は、本来、「今、ここ」という土壌の中をうごめくミミズのようなものであったはずである。そのような生の中で生み出された脳活動が、びっしりとこびりついている因果の連鎖を離れて、永劫回帰について、無限集合論について、実らぬ恋について考えることができる。意識は、「今、ここ」から私たちの思考が飛び立つうえで、重大な役割を果たしている。  もちろん、このような一見因果的制約から解放されているように見える意識の中の思考も、「今、ここ」の中での因果的時間発展の積み重ねによって支えられている。意識的思考、さらには無意識的思考を支えている神経細胞の活動のどこを精査しても、そこには「今、ここ」の限定を超えて宇宙の森羅万象を指し示すような志向性を持つ気配は全く見出されない。私たちの脳という臓器は、まさに「今、ここ」の土壌の中をのたくるミミズでしかないのであって、そこになぜ彼岸の気配が漂うのか、プラトン的世界がまとわりつくのか、超|弩級《どきゆう》のミステリーであるとしか現時点ではいえない。  意識という属性を持つことによって、脳活動が表現することが、「今、ここ」の限定を超えてしまったことは、脳の計算論的可能性を考えるうえでも、重大な意味を持つはずである。しかし、意識の中で、ある特定の神経活動がたとえば「永劫回帰」への指し示しを立ち上げることが、計算論的にどのような意味を持つのか、「哲学的ゾンビ」の反論に答えられるような理論体系は、まだない。そのような体系は、チューリングによるコンピュータの理論モデルや、シャノンによる情報理論を超えた次の段階に私たちを運んでいくはずである。その未知の理論Xは、将来人類によって発見されるときまで、仮想世界のプラトン的領域の中でまどろんでいるのだろう。 †凡人も天才もない[#「†凡人も天才もない」はゴシック体]  意識とは、個別が普遍に接続する形式のことである。この命題は、心脳問題という文脈を離れても、私たち人間の生のあり方を考えるうえで、重大な意味を持つのではないか。  人間は、個々の生という個別を生きていると同時に、時空間的な限定を受けない普遍をも生きている。「心ここにあらず」とは上の空の空想屋を揶揄する言葉であるが、まさに私たちは一人残らず、意識などというものを持ってしまったがために、世界という土壌をのたうち回るミミズには徹することができなくなっている。  その意味では、本当に凡人も天才もない。どれほどありふれた人でも、この世界の中で「今、ここ」に限定された軌道を描きつつ、同時に普遍の空間の中を移動している。くたびれた中年男が居酒屋で一人酒を飲むその生の軌跡にも、彼岸の気配を感じさせるさまざまな仮想がまとわりついている。  この現実空間の限定的存在としての実存とは別個のものとして「仮想」というものを立ち上げてしまうことこそが、人類が長年慣れ親しんできてしまった悪習なのではないか。「今、ここ」に限定されない「仮想」は、本当は「今、ここ」のど真ん中にこそある。息苦しい因果的連鎖の中を這《は》いゆくミミズが、同時に無限の星空の中を漂う仮想的運動でもある。そのような世界観を本気になって受け入れない限り、心脳問題など解けないし、人間の生の実相もとらえることができない。  そう考えれば、心脳問題はまさに人生の問題であるはずである。ニーチェの思想が自分の日常とはかけ離れたどこかにあると思っていた若い時分の私には、そのことがわかっていなかった。 [#改ページ]   ㈼[#「㈼」はゴシック体] [#改ページ] 「個性」を支えるパラドックス[#「「個性」を支えるパラドックス」はゴシック体]  日本の論壇で、「個性」の行きすぎということが「戦後民主主義」とからめて批判的に議論されたときがあった。私は、そのような論者に基本的にうさんくさいものを感じて、同調するどころか、まともに取り合う気にすらならなかった。  民主主義が、否定されるべきものとして議論に出てくること自体、何を言いたいのかわからない。「戦後」という限定詞を付けたからといって、なぜそれがネガティヴなニュアンスになるのか? 「戦後民主主義」の中での「個性」や「権利」の行きすぎを論ずる論客に至っては、最低限の論理的整合性すらないように思われた。「個性」が輝いたり、「権利」が認められたほうが、よいに決まっている。「個性」や「権利」といった、人類が長い歴史の中で勝ちとってきた価値を否定的に議論している論客は、自分の論文が凡百の雑文と同等に扱われたり、財産が恣意的に没収されても、かまわないとでもいうのか。おそらくは、自分だけは例外というわけなのだろう。英訳でもしてみれば、論理構造の破綻《はたん》にすぐ気づく。まさに、日本語で書かれ、日本語圏という特殊なマーケットで消費されることでしか成立しえない、ロクでもない議論であったように今でも思っている。 「個性」が社会全体の調和と相容れないというのはとりわけ粗雑な議論で、科学的に見ても間違っている。「個性」は、他者とのコミュニケーションがあってこそ、はじめて磨かれるものだからである。個性が輝いている人は、同時に他者との関係性を大切にし、社会にも貢献する人である可能性が高い。逆に、顔のない、没個性の人のほうが、よほど社会から孤立し、調和を乱す可能性が高い。社会の調和のためにも、一人ひとりが個性を磨くのがよいのである。日本は個性よりも全体の調和をはかる社会だからなどと、呪文《じゆもん》のようなことを言っていても仕方がない。  そもそも、人格というものは他者との関係性なしでは成立しない。他者との濃密なやりとりの中に徐々に形成されていくのが私たちの人格である。河原の石ころが流されていく間に他の石とぶつかってしだいに形を変えていくように、私たち人間もまた、他者との行き交いの中に、しだいに人格をととのえていく。その中で、しだいに一人ひとりの個性が立ち上がってくる。モーツァルトが誕生し、小林秀雄が生まれてくる。狼に育てられた少女の実話を見ればわかるように、他者との関係なしに人間らしい個性を際だたせることはできないのである。  インターネットに象徴される情報化社会の高度化で、「個性」の価値はかつてなく高まっている。個性のない、均一社会の調和しか考えない人間だけが集まった国をつくっても、国際競争に勝てない時代がすでに到来している。「ビートルズ」という強烈な個性を持ったロック・バンドが登場したことによって、英国がどれだけの恩恵を得たか。マイクロソフトのビル・ゲイツや、アップル・コンピュータのスティーヴ・ジョブズのような個性的な創業者が出現していなかったら、アメリカの経済はどうなっていたか。戦後民主主義の中で個性が行きすぎたなどとする言説は、科学的な記述としてだけでなく、実体経済におけるパフォーマティヴの文脈の中でも間違っている。 †コミュニケーションの「同化作用」と「個性化作用」[#「†コミュニケーションの「同化作用」と「個性化作用」」はゴシック体]  個性は、他人とのやりとりの中で磨かれる。日本の中に、個性を磨くために必要なコミュニケーションが不足しているわけではあるまい。むしろ、濃厚すぎるくらいだろう。問題なのは、コミュニケーションの内実である。コミュニケーションにおける力学の働き方によっては、個性を大切にするアメリカのような国も、没個性をよしとする風潮が見られぬでもなかった一時期の日本のような国もできあがる。力学をどう設計するかが、コミュニケーションの作用を決するのである。  他者とのコミュニケーションには、お互いを同質化する契機があることも事実である。とりわけ、ティーンエージャーのときには、「ピア・プレッシャー」と呼ばれる、人と異なる見かけや振る舞いを排除しようとする傾向が顕著となる。中学生の頃、ちょっと変わったことをやってからかわれたり、また、自分もからかう側に立った経験がある人も多いだろう。同化作用は、コミュニケーションの中に程度の差こそあれ必ずある。それは、大人になっても本質的に変わらないし、社会全体としても明確な傾向として存在し続ける。そのような同化のダイナミクスがエスカレートすればファシズムに通じることは、歴史が証言しているところである。  その一方で、コミュニケーションには、お互いの個性を際だたせる効果もある。同化作用のことを考えると逆説的にも思われるが、他者との濃密な関係性を持つことが、個性を際だたせるために必要なダイナミクスを提供するのである。そのことは、作曲家としてのモーツァルトの個性が、当時のウィーンを中心とする濃密な音楽サークルがなければ成り立たなかったことを考えても明らかであろう。歴史上、文化の領域においてユニークな個性の峰々が立つときには、その背後には必ずといっていいほど濃密な行き交いを内包するコミュニティがあった。  コミュニケーションの持つそのような働きを「個性化作用」と呼ぶことにするとすれば、「同化作用」と「個性化作用」の分水嶺《ぶんすいれい》はどこにあるのだろうか。日本人のコミュニケーションの現状が、不幸にして「個性化作用」よりも「同化作用」が勝るものであるとするならば、そのような形勢を逆転するための「賢者の石」はどこにあるのだろうか。 †脳は他人にほめられるように変化する[#「†脳は他人にほめられるように変化する」はゴシック体]  脳は、その中にある一千億の神経細胞の間のシナプスと呼ばれる結合部位を変化させることによって、その振る舞いを変えていく。このような脳の「学習」には、大きく分けて二種類ある。すなわち、正解が決まっていて、もし間違えば「教師」がそれを教えてくれる「教師あり」学習と、正解がないか、あるいは正解があったとしてもそれが何なのかを教えてくれる「教師」がいない「教師なし」学習である。 「教師なし」学習のうち、重要なのは、ドーパミンをはじめとする脳内報酬物質のダイナミクスにもとづく「強化学習」である。ある行為をしたときに、結果として脳内報酬物質が放出されれば、そのことがトリガーとなり、その前の行為が強化される。その結果、脳内報酬物質の放出が、しだいに最大化されていくのである。  水や食物、金銭のような、外部的報酬は間接的には関与するものの、直接の原因にはならない。最終的に学習の方向性を決めるのは、あくまでも脳内報酬物質である。何をうれしいと感じるか、脳内の報酬の文化が、強化学習の方向性を決めるのである。  どのような「人格」を形成するかというテーマにおける「正解」は一つではない。極端に不安定な人格などを除いて、進化の淘汰圧《とうたあつ》の中でそれなりに生きのびることのできる人格には、さまざまな「解」がある。人格の形成は、脳内報酬系にもとづく強化学習の典型的な例であると考えられるのである。  すでに多くの研究が示しているように、脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち、最も強力なものは、他人からの承認である。何かをやって、それが周囲に認められたり、ほめられたりしたときに、そのことが脳内のドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。その結果、強化学習が成立することとなる。極言すれば、脳は、「他人にほめられるように」変化していくのである。  人格形成において、他人とのやりとりが重大な意味を持つことは経験に照らしても明らかであろう。コミュニケーションのダイナミクスが「同化作用」をもたらすか、それとも「個性化作用」をもたらすかの分水嶺は、お互いに他人を承認ないしは否認する価値の構造の中にある。  社会の中のやりとりにおいて、他人と同じような振る舞いをしたり、最大公約数的な意見を表明した結果、周囲からポジティヴなフィードバックを得ると、そのような「同化」のベクトルが強化されることになる。逆に、社会の風潮と異なる振る舞いや考え方が賞賛されれば、「個性化」のベクトルが強化される。「同化」も「個性化」も、同じくコミュニケーションの現場において成立する。そもそもコミュニケーションがなければ、「同化」も「個性化」も起こりえない。  冒頭に批判的に紹介した一時期の日本の論壇の風潮におけるように、「他人と同じこと」を是とし、そのような振る舞いをしたときにそれを肯定するというような報酬構造があると、社会は自然に均質化していく。一方、少し変わったことをしたほうが賞賛を得られるような状況が続くと、社会の中に個性が輝く人が増えていく。  少年モーツァルトが、どのような「報酬構造」の中にいてあのような個性を輝かせたか、いうまでもないだろう。当時のウィーンの宮廷が、他人と似たような振る舞い、全体の調和を何よりも優先するというような報酬構造を持った場所であったら、天才モーツァルトができあがることもなかった。脳の働きから複雑な社会の動きを断ずるのは、乱暴なようだが、そうすることで見えてくる真実もある。現代の日本の場合、「お互いに人と違ったことをやったらほめ合おう」というくらい割り切った行動規範にしてはじめて、社会が変わるくらいのダイナミクスに結実するのではないか。 †他者との共通基盤が「個性」を輝かす[#「†他者との共通基盤が「個性」を輝かす」はゴシック体]  ところで、「個性」といっても、それは他者との絶対的な差異を意味するのではない。たとえば、文化的な領域において、個性的な作品が輝き、多くの人に賞賛されるのは、それを理解することができてこそである。モーツァルトの音楽は、当時サリエリなどの流行作曲家に比べると、難しいという評判だった。それでもモーツァルトの音楽を同時代の人が受容したのは、リズムやメロディー、構成など、人々の間で共有されていた音楽の文法を身につけていたからこそである。  ここに、コミュニケーションを通して人々が個性を磨く際のきわめて重要な問題が提起される。すなわち、人間の「個性」とは、他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだということである。この「共通の基盤」の核として、言語があることはいうまでもない。「個性」が社会の中で流通して、消費されるとき、そこには必ず社会全体で共有されている了解事項があるのである。 「権利」にも、いうまでもなく社会において共通の基盤がある。もともと、個人の権利が無限に認められるということはありえない。よく知られた「公共の福祉」による制約があるし、そもそも権利の保護や行使は個人では完結せず、司法制度を中核とする社会のインフラを必要とする。  重要なのは、権利の制約を導く概念として持ち出される「公共の福祉」のような概念を大文字のそれとして不用意に立ててしまわないことだろう。「権利」も、また、「個性」と同じように、人と人とのコミュニケーションにその起源を持つ。人々の権利認識もまた、脳の一般的な学習原理にもとづいて形成される。ある社会が「個性」や「権利」をどのように扱うかは、第一義的には、コミュニケーションの現場で人々が何を是とし、何を非とするかという価値観と、それを受けた脳内の報酬系のダイナミクス、そして強化学習によって決定される。  他者との共通基盤があってこそ、「個性」は輝く。このパラドックスの中にこそ、コミュニケーションに支えられて今、ここにある私たち人間の本質を考えるための大切なヒントがある。 [#改ページ] 現実と仮想の際《きわ》にて[#「現実と仮想の際《きわ》にて」はゴシック体]  近年、少年による凶悪な犯罪がしばしば起こり、社会問題化しているかのようにも見える。実際には、少年による犯罪発生件数そのものは戦後の混乱期に上昇してピークを迎えたのち減少しており、少年犯罪が深刻化しているという主張は、その意味で事実に反する。それでも、テレビのニュースなどでセンセーショナルに報じられる事例が印象に残りやすく、一見理解に苦しむような短絡的犯行が社会心理上、目立つことも事実である。  少年たちが反社会的な行為に走るのは、テレビやゲーム、インターネットといった新しい情報メディアに没入する中で、「現実」と「仮想」の区別がつきにくくなっているからだという主張をしばしば耳にする。「現実」に十分親しんでいれば、「いや、待てよ」という抑止力が働くのに、「仮想」の世界に没入しているがために、「生」と「死」の境目が曖昧になり、他人の痛みもわからず、犯罪に短絡してしまう。そのような半ば定型化した議論がくり返しメディアの中で展開されている。  私自身は、「現実」と「仮想」という言葉が安易に使い分けられ、あたかも「仮想」が悪者であるかのような議論がなされていることについて、以前から違和感を覚えていた。単純な二分法で世界を語ることは、哲学、思想的な意味での思考停止につながるだけでなく、少年犯罪を減らすという予防的見地からも有効ではないのではないか。  犯罪という逸脱に陥る人間の精神の深層には、容易に割り切ることのできない「生きる」ということの宿業が潜んでいるように思われる。生きるうえでよって立つべき基盤としての「現実」を安易にうち立てて、その一方で「仮想」をスケープゴートにする。そんな底の浅いキャッチフレーズ的もの言いに人々が惑わされる様子には、ここ数年の政治状況と通底する時代精神の上滑りがある。 「現実」と「仮想」の区別がつきにくくなっていると危惧《きぐ》する生活者の素朴な実感のようなものはわからないわけではない。その場合の「現実」とは、たとえば、他人とふれあったり、身体を動かして汗をかいたり、ものづくりをしたりといった活動の中で立ち現れる何かを指すのであろう。一方、「仮想」とは、コンピュータのスクリーンに向き合い、サイバー空間の中に遊び、あるいはコンピュータゲームのシナリオの中で現実には存在しないモンスターと闘うことにふけるといったたぐいのことを意味するのだろう。ナイーヴな生活感覚としては、「現実と仮想の区別がつかないことが問題だ」という異議申し立てには、確かに理解できる部分があることも事実である。  その一方で、より根源的な視点に立ち戻って考えてみると、人間精神にとっての「現実」と「仮想」の成り立ちにはかなりスリリングで一筋縄ではいかない事情がある。単に、「仮想」を「現実」に着地させれば、それで済むというものでもあるまい。「現実と仮想の区別が曖昧なことが、少年犯罪の原因である」といった大人たちのしたり顔のもの言いの背後には、私たちが日常で寄りかかっている「現実」というものの脆弱さと、私たちの精神の前に広がっている「仮想」の無限定な広がりとに対して現代人が抱く潜在的恐怖、そして心理的防御反応が隠れている。  私たち一人ひとりがこの世で演じている生の綱渡りの中で、不幸にして壁の向こうに落ちてしまう人々。犯罪者と呼ぼうと、他のどんなラベルを張ろうと、その運命は、万人にとって決して自分と無縁な対岸の火事ではない。罪を犯してしまう者も、そのような逸脱とは一見無縁の善良な市民も、どちらもこの世の中の「現実」と「仮想」の交錯のダイナミクスの中に潜む危うさにうち震えている魂であることには変わりがないのである。 †現実と仮想[#「†現実と仮想」はゴシック体]  そもそも、「現実」とは何だろうか? 「仮想」とは、何を指すのか? 原理的にいえば、「私」が感じ、認識することのすべては「脳内現象」にすぎない。しばしば、脳だけが世界の認識にかかわっているのではなく、身体や、環境との相互作用も重要であるという主張が見られる。しかし、こと「私」の意識に関する限り、その中に立ち現れるものすべては脳の中の神経細胞の活動によって生み出されているのであり、「現実」も、また、脳内現象にすぎないのである。  単なる脳内現象から、いかに「現実」は立ち上がるか? 私たちが向き合っている世界は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの異なる感覚の「モダリティ」から成り立っている。それぞれのモダリティを経由してやってくる情報は、基本的には独立である。たとえば、「視覚」を通してウグイスのイメージが届いていたからといって、必ずウグイスの声が聞こえなければならない、ということはない。  本来は独立なはずの複数のモダリティを経由した情報が一致するときに、私たちの心の中でリアリティが立ち上がる。視覚的に卵の殻が見えているだけでなく、つかめばざらざらと手触りがし、机の角にぶつければコンコンと音がする。殻を割って、お皿の上に落とせば卵がつるんと飛び出し、飲み込めば滋養に満ちた味がする……そのような一連の経験の中で、さまざまな感覚のモダリティが一致して指し示す「卵」という存在があるように感じられるからこそ、私たちは「卵」が「現実」のものであると了解する。  一方、「仮想」は、異なる感覚のモダリティにまたがる一致を持たない。目を閉じて、創造の世界のさまざまなイメージを楽しむことはできるが、それらの空想の世界の住人は、複数のモダリティの合致によっては支えられていない。むしろ、そのような一貫性が見られないからこそ、仮想は自由なダイナミクスを持つことができるのである。 「仮想の自由」の中に、高度な文化を生み出す人間の精神の可能性も、またときに悲劇をもたらす脆弱さもある。そう考えれば、仮想と現実の交錯に緊張感を持って向かい合わなければならないのは、何も青少年だけではない。自らは「現実」という「安全圏」にいると思いこんでしまうことは、人間らしい生命の躍動から離れてしまう精神の惰眠への道である。 †仮想の毒性[#「†仮想の毒性」はゴシック体]  古代ギリシャの数学者、アルキメデスは、地面に図形を描いて考え込んでいるところを兵士に誰何《すいか》され、「私の描いた円にさわるな」と抗議して殺害されたと伝えられる。アルキメデスにとっては、目の前の兵士という「現実」よりも、頭の中の数学的概念という「仮想」のほうが、よほど大事だったのだろう。王冠が金でできているかどうかを調べる方法を浴場で思いつき、「ユリイカ!」(わかったぞ!)と叫んで裸で飛び出したという有名な故事にも表れているように、アルキメデスの「仮想」の世界への没入は、人類精神にとっての大いなる栄光ではあった。しかし、その一方で、その不幸な結末が示唆するように、仮想は強い毒性をも持つのである。  仮想の世界のダイナミクスの中で遊ぶことは、人間精神がその潜在的能力を発揮するうえで欠かすことのできない流動性をもたらす。その流動性は、現実につなぎとめられていないからこそ、しばしば革新的であり、新たな価値を地上にもたらす。未解決の定理について考えている数学者、交響曲を構想している作曲家、ファンタジー小説を執筆中の作家にとって、現実に縛りつけられてしまうことはむしろ罪悪である。仮想における未踏の領域に向かって、ときに命がけの跳躍をすることこそが、それぞれの創造者がコミットしているミッションを完遂することにつながり、現実の世界にも御利益《ごりやく》をもたらす。  問題は、ときに、自由な精神運動が予期せぬ逸脱をもたらし、生命原理にも反する結果をもたらすということである。仮想することが人間精神において持つ可能性と脆弱性に思いが至れば、「現実」という基盤にも、それほどのお気楽な寄りかかりはできないはずだ。  現代アートは、おそらく、人間のあらゆる文化活動の中で最もその表現が自由なジャンルであろう。古典的な意味での絵画や彫刻だけでなく、ある特定の場所に特化した空間的な配置(インスタレーション)もまた作品になる。必ずしも「もの」で表現される必要はなく、表現者の一連の身体運動がそのまま作品になる「パフォーマンス」や、ときに予期せぬ「ハップニング」とその記録が高度な芸術性を持つこともある。  そこで取引されているのは、確かに最終的には現実の中に錨《いかり》を下ろしてはいるものの、それからできるだけ自由になろうとする仮想世界のダイナミクスである。体験した後で、現実の世界が全く違ったものに見え始めているようなもの。そのような「認知的変容」をもたらすような作品こそが、一つの理想的な「現代アート」のかたちであり、それは人間の脳にとって最も普遍的かつ刺激的なコミュニケーション手段でもあるのである。  しかし、だからこそ、真摯な表現者はときに社会的規範からの逸脱ぎりぎりのところまでいく。 †邪悪な犯罪者と偉大な表現者を分けるもの[#「†邪悪な犯罪者と偉大な表現者を分けるもの」はゴシック体]  旧ユーゴスラビア生まれの世界的なパフォーマンス・アーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチの作品は、どれも逸脱ぎりぎりのところで、強烈な認知的変容をもたらす。裸の下腹部にダビデの星を描く。公衆の面前で、一週間公開で生活をする。その間、トイレも、シャワーも、すべて衆目にさらされる。美術館の中に横たわり、隣のテーブルにナイフやロープ、ピストルを含むありとあらゆるものを置き、開催中観客はアーティストに対してどのような行為をしてもいい、という「作品」を展示する。  最後に挙げた作品において、実際には犯罪に相当するような行為に及んだ観客はいなかったが、アーティストの身体を用いて、ありとあらゆる表現がなされたという。その表現が、ほぼ「娼婦」と「聖母」の二つに収束していった、というのが、イタリアの美術館で行われたこの「生身のインスタレーション」の興味深い帰結である。 「空間の中で一つの球の周りに同時に接することができる球の最大の数(接吻数)はいくつか?」などと浮世離れしたことを考えている数学者の思考と比較して、マリーナ・アブラモヴィッチの表現活動が「きわどい」ものに感じられるのは、仮想が現実の方向に戻ってきて、そこに接地しようとするからである。仮想の世界の中で生み出された過剰流動性が現実に合流しようとするとき、そこには危険な、ときにはまがまがしいものの気配が生じる。生命さえもが脅かされることがある。  二〇〇一年九月十一日に起きた同時多発テロについて、ドイツの作曲家カールハインツ・シュトックハウゼンは「最も偉大な芸術」であると発言したと伝えられている。当然のように非難が集まり、シュトックハウゼンも後に発言について弁明した。人間精神にとっての現実と仮想の関係についての恐ろしい真実を、私たちはしばしば直視できない。  アインシュタインの相対性理論は、仮想の世界のダイナミクスの中に遊ぶ人間精神がもたらした偉大な成果であるが、それは同時に原子爆弾の未曾有《みぞう》の災厄をももたらした。原爆の爆発の瞬間を描いた岡本太郎の巨大壁画『明日の神話』がとらえたものは、はたして仮想の自由におぼれた人間精神の愚かさだろうか。それとも、私たちが普段直視することを避けているこの宇宙のある真実が、そこに立ち現れているだけなのだろうか。  仮想と現実の相互作用のぎりぎりの際《きわ》において、邪悪な犯罪者と偉大な表現者を分けるものは、結局はそこに「愛」があるかどうかである。陳腐なようだが、私はそのように信じている。 [#改ページ] 「みんないい」という覚悟[#「「みんないい」という覚悟」はゴシック体]  ものごとを知らないというのは恐ろしいもので、私は金子みすゞの名前を三十半ばにしてはじめて認識した。年下の友人に「私の時は小学校の教科書に載っていた」と言われて、どうやらある時期から教科書掲載が一般的になったらしいと知ったのである。  代表作「私と小鳥と鈴と」をここに引用する。 [#この行2字下げ]私が両手をひろげても、お空はちっとも飛べないが、/飛べる小鳥は私のように、/地面《じべた》を速くは走れない。/私がからだをゆすっても、/きれいな音は出ないけど、/あの鳴る鈴は私のように/たくさんな唄は知らないよ。/鈴と、小鳥と、それから私、/みんなちがって、みんないい。 「みんなちがって、みんないい」というのは私たちの心を打つ力のある言葉だが、そのような理想がなかなか思ったように実現しないからこそ、人間社会の苦闘があり、さまざまな思想哲学が生み出されてくる必然性があり、私がこんなつたない文章を書くことのささやかな意味があるのだろう。  今日において、世界の多様性を握りつぶすことにつながると懸念される契機には、さまざまなものがある。たとえば、いわゆる「グローバリズム」の動きがそうだ。世界中の誰もがハンバーガーを食べ、ハリウッド映画を観る。戯画化していえば、そのような世界が資本主義の運動の必然としてもたらされることが懸念される。  あるいは、ITがネットワーク化の拡張をメルクマールとして発展していく中で、必然的に標準化の事態が進むという状況がある。標準化は、ネットワークのいわば「原罪」である。共通のコーディング、プロトコルがなければ、そもそも情報をやりとりすることなどできない。とりわけ、インターネットのように世界全体がひと連なりのクラスターとして「単連結」で結ばれている構造の下では、標準化は急速かつ必然的に進み、多様性はそのような標準化と共存するかたちでしか成立しえないことになる。  標準化されなければ、そもそもコミュニケーションなど成立しない。これは、まさに「言語」の持っている本質でもある。世界中に数千あるとされる言語の多様性を称揚する一方で、私たちは同時に英語の持つ実際的な「強制通用力」に引きつけられ、結果として言語の世界標準化に荷担し、ある程度はその受益者ともなる。言語という人間精神の本質にかかわる事象を考えてみることで、単純に善悪を決定づけることのできないダブル・バインドな状態に、私たちは追い込まれていくのだ。 「みんなちがって、みんないい」という言葉の美しい響きを、私たちはどれくらい本気で信じることができるのか。「地獄への道は良心で敷きつめられている」ともいうが、人間的誠実とシステムの原罪は紙一重である。言葉の問題を突きつめていけば、そこには、倫理問題を存在論や認識論へと結びつける批評的スタンスが浮かび上がってくる。それは、現代社会のリアルな問題群と無縁ではない。 †差別と平等[#「†差別と平等」はゴシック体]  世界の多様性の問題と裏腹の関係にあるのが、「差別」と「平等」の問題である。このあたりのきわめて人間的なスケールの問題に、冷徹なシステム論的視点をどう交錯させるか、世界観のスリリングな転回という側面からも、思想的|旨《うま》みという視点からも、大変興味深くまたアクチュアルな問題群が立ち上がってくる。 「差別」や「平等」という言い方は、一種の序列構造を前提にしている。自然数のように、大小の順番がつけられるという性質を「順序関係」と呼ぶが、「差別」の対義語として「平等」を措定する思想的態度は、順序関係という写像への信奉によって非常に強く条件づけられている。 「差異は上下という関係に写像される」という世界観の下では、できるだけその差異を隠蔽《いんぺい》して、均質なものとみなそうという動機づけが生まれる。そこに立ち現れるのは、世界がお互いに比較などできない多様なものによって構成されているという豊潤さへの感謝ではなく、むしろすべてを中央集権的に価値づけようという「神の視点」につながる野望である。  たとえば、アメリカにおいて荒れ狂った「政治的正しさ」の嵐について考えてみよう。身長が低い人を「垂直方向に挑戦されている」(vertically challenged) と言い直す。単に、「背が低い」(short) と言うよりは、そのような言い回しのほうが、相手にとっての気遣いに満ちている、というわけだ。「議長」(chairman) を、「男だとは限らない」ということで chair person と言い直したり、「エスキモー」というのは「生肉を食べる人」を意味し差別的だということで「人」を意味する「イヌイット」と呼んだりする。こういった「政治的正しさ」の基準は、いまや常識の体系中に取り込まれたといってよいだろう。  もちろん、いわれなき差別は糾弾されるべきだし、身体的特徴や出身階層など、本人にとってはどうすることもできない事項で他者を決めつけることの愚はいうまでもない。それでも、「差異の豊饒」という視点から見て、「政治的正しさ」の思想には看過できないうさんくささがある印象もぬぐえない。  たとえば、「垂直方向に挑戦されている」という言い回しについて考えてみよう。いま仮に、社会的には身長が「高い」人のほうが評価されるという風潮があったとする。女性が伴侶《はんりよ》に選ぶのは身長が高い人であるとか、社会的地位と身長の間に正の相関があるとか、そうした事実があるとする。そのようなとき、(本当は身長は高いほうが望ましいのだが)(不幸にして低い身長の人を)(思いやりを込めて呼ぶために)「垂直方向に挑戦されている」という言い回しをする。そこに隠蔽されているのは、「みんなちがって、みんないい」という多様さへの賛歌ではなく、むしろ本音では単一の価値体系を信じている、単純なる世界観であるということになろう。 「政治的正しさ」の背景には、小市民的凡庸さが潜んでいる。身長が高いほうが低いほうよりも望ましいのだということを露ほども疑わない、マジョリティの価値観が横たわっている。もし、金子みすゞのように私は私、鈴は鈴だと思っていたら、身長の低い人だけを「垂直方向に挑戦されている」と呼ぶ発想は生まれてこないだろう。 †チャイニーズ・テイクアウェイ[#「†チャイニーズ・テイクアウェイ」はゴシック体]  私の二年間のイギリス留学時代、ケンブリッジという大学街にいたこともあって、差別という意味での不愉快な思いはほとんどなかったが、それでも、ときどき東アジア人全体に対する奇妙な視線を感じることがあった。一度、深夜パブからの帰り、明らかに酔っぱらった若者の集団にすれ違いざま「シンガポールチャウメンとスィートアンドサウワーポークを頼むよ」と言われたことがある。中国人と間違えられたのだろう。イギリスでは、中国というと「チャイニーズ・テイクアウェイ」(持ち帰り式の総菜屋)のイメージが強く、テレビのコメディなどでもしばしばネタにされていた。私のことを見て中国人だと勘違いし、そのようなことを差別のつもりで叫んでみたのだろう。  すれ違いざまに縁もゆかりもない人から料理の注文をされれば面食らうし、決して愉快ではないが、それでもそれほど目くじらを立てる必要もないと思うのは、別に自分が「チャイニーズ・テイクアウェイ」でもいいじゃないか、と思うからである。  小さな店で、客の注文に応じて安くてうまい料理を提供する。それは立派な「スモール・ビジネス」であり、ゴージャスな受付嬢のいる大企業の社長や、ケンブリッジの名門カレッジのハイ・テーブル(フェローやその客でなければ座れない特別の食卓)で難解な議論をしながら心ここにあらずという表情で料理を口に運ぶ教授たちと、「上下」の関係にあるのではない。ただ単に、「違う」というだけの話である。本気で[#「本気で」に傍点]、「みんなちがって、みんないい」と信じていれば、チャイニーズ・テイクアウェイと揶揄されても、相手の小市民的凡庸さを哀れみこそすれ、別に腹を立てるまでのこともない。  イギリスにはじめて行った二十年前、南イングランドのブライトンの近くの駅で電車を待っていたら、向かいのプラットフォームにいる少年たちに、目を細くつり上げる仕草をされて、「チーノ(中国人) ! チーノ!」と叫ばれた。このときも勘違いされたわけだが、たとえ私が「目がスリットのように細い」という外見を持っていたとしても、それは個性であり、目がぱっちり大きい人よりも下だ、ということではない。  肌の色もそうである。「黄色」や「黒」だという言葉を使わずに、無味無臭の中立的表現が持ち出されるとすれば、かえってその背後に「実は上下関係はあるはずだ、だからこそ差異は隠蔽されなければならない」という中央集権的なメンタリティがあることは、見てとりやすい理屈だろう。 †「差別語狩り」のメンタリティ[#「†「差別語狩り」のメンタリティ」はゴシック体]  差別語とされる言葉をことさらに使う人は品性下劣であるが(特に相手が嫌がる場合には、あえてそのような言葉を使う必要はないと思う)、その一方で思想警察のごとき極端な「差別語狩り」には、以前から違和感を持っていた。その根本的な理由は、以上述べたような、差異をことさらに隠蔽しようとする思想の背後にある、画一的なメンタリティにある。  世界には魑魅魍魎《ちみもうりよう》のごとき実に多彩なものがあふれており、その間に単純なる順序関係(上下の序列)などつけることはできず、生肉を食べようが、目が細かろうが、箸《はし》でものをつまもうが、それは「個性」であって、「みんなちがって、みんないい」と称揚されるべき差異である。そのような「覚悟」をもって世界を見渡せば、美人だろうがブスだろうが、ハゲだろうがオヤジだろうが、別にいいだろう、と思えるはずだ。しかし、それは案外かなりラジカルで、それを生きることの難しいスタンスなのかもしれないとも思う。  もともと、近代科学自体に世界観としての原罪がある。周知のとおり、ニュートンによる微積分の手法の発明、「万有引力」という構想自体が、世界の中の差異を消去し、すべてに普遍的に成り立つ法則を見出そうとする動機づけにもとづいていた。目の前のリンゴと、天上に輝く月の間には、ナイーヴに考えれば乗り超えがたい差異がある。両者が同じ万有引力の法則に従って運動するという衝撃的な着想の中にこそ、近代の科学を発展させた起爆剤はあった。しかし、それは同時に差異をどんどん無効化し、消去していく無限運動の始まりでもあった。  それぞれ輝く個性をもって屹立《きつりつ》しているかに見えた生物種の起源が「突然変異と自然選択」という一般原理で説明され、子が親に似るという現象はDNAという単一の物質のバリエーションの問題に帰着し、そしていまや世界の森羅万象が等しくネットワーク上のデジタル情報の中に映し出される。男も女も、老いも若きもすべては差異の隠蔽された平等の楽園に取り込まれていくという「政治的正しさ」のプログラムは、ニュートン以来の近代科学のすばらしき成果と思想的に明らかに連動しているのである。  いわれなき差別に苦しむ人を救うのは当然のことである。みずからの内なる偏見と闘うのは人間の義務だ。そのうえで、「みんなちがって、みんないい」というラジカルなスタンスをどれくらい本気で貫けるか。若い女のほうが老婆よりも価値があるということを所与の事実として仮定し、それでもおばあちゃんに親切にしなければという当然の倫理に帰着させるのではなく、むしろ目の前のしわくちゃのおばあちゃんと熱烈なる恋愛をするかもしれないという可能性をいかに引き受けて世界について考えるかということが、「現代思想」の要諦なのである。 [#改ページ] 登攀《とうはん》の一歩[#「登攀《とうはん》の一歩」はゴシック体]  思考の内容自体をじりじりと詰めていくことも大切だが、その一方で言説がどのように流通していくかということにも重大な関心を抱かざるをえない。われわれの身体も魂も、霞を食って生きているわけではない。金銭的なことのみならず、自分の言葉が誰にどんなかたちで届いているかということを考えずに思考を積み重ねていても仕方がない。  勇気ある、ときには暴力的でさえある「補助線」をエイヤッと引き、実質的な意味においての世界観のブレークスルーへと至る一つの方法は、メディア状況を含めて、「現代」に正面から向き合うことではないかと思う。過去に私たちがやってきたことの痕跡《こんせき》は、たとえそれが意識されない、非明示的な形式に潜在することになっても、そう簡単には消えはしない。人類の現在までの思索の歴史は、時代状況の中に必ず反映されているはずだからである。カントや本居宣長、西周《にしあまね》、小林秀雄、丸山真男を経由しているからこそ、メディア状況の現在はあるのだ。 †硬い本が売れなくなった?[#「†硬い本が売れなくなった?」はゴシック体]  数年前は、出版界の人たちと会って話すと、「最近は硬い本が売れなくなってしまった」と嘆く声がしばしば聞こえた。たまにベストセラーが出たかと思うと、薄味の本ばかりである。「悪貨が良貨を駆逐してしまう! このままでは出版文化は滅びてしまう!」という悲鳴があがった。  あの頃は、そのように急転回する時代状況に、それなりの驚きと抵抗感をもって向き合うという矜持と気力が、出版界や執筆者の側にはあったと思う。教養主義の消長が、数十年という時間の流れの中で議論される風土がそこにあった。  時は流れ、もはや売れる本が薄味であるという事実に対して誰も驚かなくなった。折からの「新書ブーム」で、以前ならば単行本で出版されていたはずの内容や、一昔前にはレベル的に新書には成りえなかったであろうと思われる原稿が、「再定義」された「新書」のフォーマットで大量生産されている。 「メインカルチャー」と「サブカルチャー」の境界も曖昧になり、漫画評論が大学で講義されることに誰も疑問を抱かなくなった。時代の知の規範を示し、「象牙《ぞうげ》の塔」の守護者であったはずのアカデミシャンも今となっては気の抜けた曖昧なアルカイック・スマイルを浮かべるばかりである。  そのような時代の状況に対して心ある者は憤りを感じつつも、多くの人はかくも情けない状況に至った第一原因をつかみかねている。まるで、いつも霞がかかって遠くがよく見えない国に住むことを余儀なくされてしまった狩人のように、あるいは、一歩ごとに足が深く潜ってしまうような砂地を全速力で走る青年のように、他者に言葉が届かない時代の状況の中で、それでももがき、抵抗しつつ表現しているうちに、いつの間にか時代のほうに搦《から》めとられてしまっている。そのように感じている表現者も多いのではないかと思う。  かくなる私も、そのような思いがないわけではない。内心、忸怩《じくじ》たるものがあることは否めない。誰もいない夜に、突然、うぁーっと叫びたくなるときもある。カントや、ヘーゲルや、アインシュタイン、夏目漱石のような先人に対して申し訳ないと思う。平謝りである(ある対談のときに「茂木さんの最大の挫折は何ですか」と尋ねられたので、「現代を生きなければならないということです」と答えたら、一向に通じず、ずるいと非難された)。 †金儲けの快楽など薄味の偽物にすぎない[#「†金儲けの快楽など薄味の偽物にすぎない」はゴシック体]  このような状況を招いた原因の一つが、知の専門化、多様化が進んだ点にあることは疑いない。どれほど胆力と知恵に富んだ人でも、人類の知的営み全体を見渡すことは叶わぬこととなった。ゲーテの「ファウスト」を気取ることなど、誰にもできなくなってしまった。もちろん、「メフィストフェレス」(光を避ける者)の反骨を張れる人間も、また絶無である。  できるだけ売れたほうがよい、という経済原則に従えば、専門性に寄り添った本をつくることは、一種の緩慢なる自殺行為である。薄味でも、多くの読者が「わかりやすい」という幻想を持てる本をつくったほうが、「売れることこそが正義である」というマーケットの論理には適っている。しかし、困ったことには、人はパンのみにて生きるにあらず。金儲けによって得られる快楽は、真の知的興奮に比べれば、興ざめかつ薄味の偽物にすぎないのである。  その意味では、脳内快楽がどんどん薄められているのが現代という時代なのだろう。基本的に快楽主義者である人間にとっては、これほど残念至極なことはないはずなのだが、ベストセラー万歳の批評性に欠けた態度が、大手を振ってまかり通っている。そんな中で、「知の偽装」「知の粉飾」が、顔だけは立派に装って流通している。  いずれにせよ、売れるためには、できるだけ多くの人々の「共通項」を探し求めたほうがよいという本能が、多くの書き手、編集者の脳裏を占めるようになった。内容が高度になればなるほど、専門的になればなるほど、「共通項」は失われることになる。そのような思惑の下で、「富士山の裾野」を追い求める動きが顕著になり、世界最高峰への登頂を目指して空気の薄い空間で力の限りを尽くす気力は失われていってしまった。  しかし、考えてみよう。専門性のタコツボに立てこもり、まるで小春日和に目を細めて眠る猫のような弛緩《しかん》した雰囲気をかもし出している大学人のことはおいておき、古今の成果に慣れ親しみ、脳の筋肉を鍛え、いまだ人類が到達したことがない知のヴィスタを得んと苦闘している者にとって、「共通項」の立て方は、必ずしもどこまで続くかわからない「知のデフレ」の中に、誰でも理解できるような「裾野」に下っていくことばかりを意味するわけではあるまい。  共通項を求める運動のベクトルには、裾野に行くのとは違う方向性がありうる。元来、思考とは、より「メタの概念」を求めての精神の無限運動である。普遍的な適用力を持つ概念は、決して「わかりやすさ」の病理に堕することなく、世界全体を引き受けることを可能にしてくれるのである。裾野をうろうろするばかりではなく、世界最高峰への登頂を志してはじめて見えてくることもあるのだ。しかも、そのほうが実は脳内の快楽は深く、大きい。 †連続体仮説[#「†連続体仮説」はゴシック体]  たとえば、「集合」という概念をとりあげよう。数学基礎論の根幹に横たわるこの概念は、もともと、有史以来私たち人間の日常的思考の根底のパターンをなしていた。しかし、それにはっきりとした名前が与えられ、精緻な体系にまとめ上げられたのは、やはり人類の偉大な知的成果である。 「集合」といえば、小中学校のときに学んだ「クラスの四十名のうち、帽子をかぶっている人は二十五名、眼鏡を掛けている人は十名います。帽子も眼鏡も持っていない人は十五名です。帽子をかぶり、眼鏡を掛けている人は何名でしょうか?」のような「ベン図」を用いた問題を思い浮かべる人も多いかもしれない。  もちろん、数学者がこのような素朴な話に一生をかけるはずもない。集合論は、要素の数が「有限」であるうちは、単なる日常の常識論の域を出ない。要素の数が「無限」の無限集合論になって、はじめて集合論はその真価を発揮する。集合論の本領は、無限と向かいあったときにはじめて発揮されるのである。  以前、京都の飲み屋に一人で入ったときに、店の親父に「兄ちゃん、刹那《せつな》って何だかわかるか? 無限ってわかるか?」とふっかけられた。ひとしきり講釈を拝聴した後に、何やら文字の書かれた石をお土産にもらった。重いなあと思いながらリュックに入れて持ち帰ったが、肝心の無限に関するご高説の内容は、すっかり忘れてしまった。  飲み屋での会話のネタになるくらい、「無限」というのは人間にとって慣れ親しんだ、直感的にわかりやすい概念である。それを集合論を通してきちんと定式化すると、意外な問題が生まれてくる。1、2、3……と続く「自然数」の「無限」と、分数で表されるような「有理数」の「無限」は同じだが、a2のような「無理数」の「無限」はそれよりも大きい。そして、この二つの無限の間には、中間の無限はないのだ! という「連続体仮説」が生まれる。いったい、無限に階層があるとは、どのようなことか? そして、一つの無限ともう一つの無限の「間」とは、何か? 考えてみればみるほどしみじみと深く、恐ろしい。  学部生の頃、会計学をやっているという人間に、「私は物理を専攻している」と言ったら、「バネの問題で、バネの数がどんどん増えるような、そんなことをやっているのですね!」と言われて、心底脱力したことがある。「文系」「理系」などという、人為的な枠組みを知的怠惰の言い訳として援用することがまかり通るこの国ではあるが、「連続体仮説」や、「量子力学の観測問題」といったこの宇宙の深遠に抵触するような問題群を知らずして、大学を出た学士だとか、知識人だなどと気取ってほしくはない。 †欲望レベルの低下する現代[#「†欲望レベルの低下する現代」はゴシック体]  さて、昨今の出版状況をつらつら見るに、どうやら専門性のタコツボにとらわれずに広く議論のプラットフォームをとるということを、ゲオルグ・カントールを創始者として数々の数学者が行ったような無限集合論から連続体仮説に至る普遍性追求の道筋において行うのではなく、「眼鏡を掛けて帽子をかぶっている人は何人でしょう」というような子どもの戯れのレベルにおいて行うという趣向を、マーケット・メカニズムを批評精神なく受け入れ、「読者の要望」という目に見えない空気のような概念を根拠としつつ、さほどの良心の呵責《かしやく》もなく仕掛けるということが流行しているようである。 「わかりやすさ」は、必ずしも世界の根幹にかかわる「共通項」へと私たちを導いてくれるわけではない。そのことは、「帽子と眼鏡」の有限集合論とカントールの無限集合論を比較するだけでわかる。そして何よりも、「裾野」の「共通項」を志向することは、一向に深いよろこびに私たちを導いてはくれない。「帽子と眼鏡」の世界で一生暮らしたとしても、なんの甲斐があろう。たとえ苦しくても、いまだ人類が到達したことのない頂《いただき》を目指し、薄い酸素の中で苦闘してこそ、はじめて得られる快楽がある。その至福を知ってしまった者にとっては、薄味の「帽子と眼鏡」の集合論など、なめれば溶けてしまうあめ玉にすぎない。  現代のメディア状況の中、人々が高尚なる快楽を目指すことなく、お手軽な「わかりやすさ」のファーストフードばかりを求めることについては、冒頭にも述べたように必ずや過去の歴史の積み重ねを背景としたそれなりの理由があるはずである。簡単にその真因が突き止められるはずもないが、一つ鍵になるのは、「欲望」の強度の低下であろう。  現代人は、物質的にも精神的にも、ある程度満たされてしまったのであろうか。今までの自分が知らない、新しい世界をのぞいてやろう、という欲望のレベルが低下している。かつて、大阪万博に「月の石」がやってきたときに、何か途轍《とてつ》もないものがそこにあるという予感とともに行列をつくった、そのような「隔絶」した世界を志向するエネルギーが低下している。  ぐずぐず言っても仕方がない。ふたたび強烈な欲望をかき立てるような、そのようなインパクトのある「共通項」を立てることこそを心がけたい。そのためには、まずは空気の薄い中の苦しい登攀《とうはん》の一歩である。 [#改ページ]   ㈽[#「㈽」はゴシック体] [#改ページ] 「知のサブカル化」を超えて[#「「知のサブカル化」を超えて」はゴシック体]  本書の問題設定である「思考の補助線」というタイトルには、その構想時において、ある危機意識が込められていた。現代の知がはからずも断片化してしまっており、そのばらばらの破片をかき集めてみても、世界の像が一つに結ばない。そのような現状に対する個人的なあせりと悲しみのようなものを引き受けたうえで、じっくりと考えてみたいと思っていたのである。  一見、関係のないように見える分野の間に、補助線を引いてみたい。その補助線を引かなければ見えない新しい世界像、全体として浮かび上がってくるあるイメージを把握してみたい。そのような少なくとも私にとっては切実な思いが託されていた。  下手をすれば、ある分野の卓越した専門家であることを維持することですら可処分時間と自己のエネルギーのすべてを費やしても難しい、という時代である。自分の専門である脳科学においては、すでにそのような傾向があることを身近な問題としてよく知っている。同じ脳を研究しているはずなのに、視覚の専門家は前頭葉の統合過程の詳細を知らず、海馬における学習理論の研究者はシナプスの可塑性の分子メカニズムの機微を知らない。そのような事態はすでに進行してしまっている。  想像するしかないが、歴史学でも、経済学でも、あるいは文学研究でも似たような事態が進んでいるのだろう。万葉の専門家は江戸時代の戯作者《げさくしや》のことなど露知らず、というのは当たり前のことなのかもしれないが、それでは満足できないというさびしい思いは誰の胸の中にもあるのではないか。  知の全体を見渡すことはもはや不可能なのだろうか? 一人ひとりの人間は人類全体が運営している「エクスパート・システム」の部品として、あるいは「グーグル」で検索されるべき知のアーカイヴの部分担当者として、その職分を全うすることしかできないのだろうか?  検索エンジンの前には、文系の知も理系のそれもコンピュータのハードディスク上のデジタル・ビットにすぎない。それは、奇妙に私たちの魂を自由にする光景ではあるが、一方ではとてつもない脱力へと誘う事態でもある。そもそも、検索エンジンは世界全体どころか一つひとつの事物を引き受けることにすら、資することができないのだ。  知のサブカル化(=部分問題の解法ないしはレトリックとしてのみ知に取り組み、所有し、発信するということ)がポスト・モダニズムなど取り立てて参照するまでもなく進行してしまった現代において、知の断片化の現状を突き抜けるためにはよほどの覚悟と戦略が要る。そんな志向性はもはやポスト・デジタルの人類にとって余計なものでしかないのかもしれないが、それでも志向することだけは止めたくない。  アインシュタインは、「感動することを止めてしまった人は、死んでしまったのと同じである」という意味の言葉を残している。断片化した知をそのまま受け入れて、疑問を持たずにただ右往左往する人類はもはや本当は生きていないのではないか。 †現代のアレクサンドリア図書館になることはできるか[#「†現代のアレクサンドリア図書館になることはできるか」はゴシック体]  そもそも世界全体を引き受ける、ということは、いったいどのようなことなのだろう?  世界に関する人間の知を集合としてその要素を書き並べてみることもできる。そして、その全体を同時に把握することを目指す、という考え方もある。そうだとすれば、やるべきことは、知の巨人、博覧強記の人への道をたどることだろう。諸学の書物に通暁し、さまざまな分野の最新の知見を網羅的に横断してみせる。そのような胆力のある人間は一つの理想像であるかもしれないし、また実際に過去にはそのような取り組みもあった。ゲーテやダ・ヴィンチ、南方熊楠《みなかたくまぐす》のように、ある程度成功したと思われるような実例もある。  現代の知的状況の本質的問題点は、そのような百科全書派的な野望の実現が原理的に不可能だということが誰の目にも明らかだという点にある。たった一つの分野を取り上げてみたとしても、出版される論文、本の数は膨大である。どれほど卓越した記憶力と思考能力に恵まれた人間でも、現代の知の諸分野を一人でカバーすることなどありえない。  知のサブカル化、は確かに問題ではあるが、それを打破するなどないものねだりである。それが、多くの真摯なる思索家の実感であろう。  たった一人で現代のアレクサンドリア図書館になることなどできない。そんなことは原理的に不可能なのだから、学問という「交易の場」における、よき商人に徹するしかない。心がけるべきことは、自らが市場に出す「商品」が品質のしっかりしたものであり、要求される水準を満たしているということを職人として間違いなく確認することである。いまどき世界全体を引き受けることを志向するなど、とんだドン・キホーテであり、せいぜい「ハンド・ウェーヴィング」(確固とした学問的根拠もなく、声高に自分の考えを主張すること)に終始してしまうだけだ。そのような「良心的」学者の声が聞こえてきそうである。  自らの専門性を良心的に全うする。もし、それだけで本当に事足りていると確信できるならば、こんな文章を私が書いている意味はない。感動の涙がときにファシズムにつながり、優しい心根がしばしば他者に対する隠された悪意の裏返しでしかないように、良心的専門性とは下手をすればタコツボの中に立て籠《こ》もった軟体動物の自己肯定の論理でしかないと思うからこそ、何か他の道筋はないかと模索せずにはいられない。  文系、理系という明治の大学制度発足時の人工的な区分がいまだに化石として残り、その融合が問題にされるような日本の矮小化《わいしようか》された現状を問題にしたいのではない。そもそも、人としてこの世に生を受けた以上、単に世界の部分だけを知るだけでなく、全体を、そして普遍を志向したいという私たち一人ひとりの切ない思いについて考えたいのである。 †おお、素晴らしき新世界よ![#「†おお、素晴らしき新世界よ!」はゴシック体]  もし、明示的な知の問題としては、世界全体を引き受けることは原理的に不可能であるとしたら、私たちやがて死すべき有限の存在に開かれているのは、感性においてさまざまなものを一気に把握し、疾風怒濤《しつぷうどとう》のうちにそれらを並列させようと志向することだけかもしれない。このように書くと曖昧な言い方に聞こえるが、私の中には明確なイメージがある。  そもそも、私たちが世界を引き受けているという実感を持つのは、常に「感性」の次元においてではないだろうか。  シェークスピアの『テンペスト』の中で、ミランダが生まれてはじめて自分と同じ年頃の男性、フェルディナンドと出会い、「おお、素晴らしき新世界よ!」と叫ぶ瞬間に、私たちは何かとてつもなく広大な世界が予感され、把握されているように感じる。具体的に何かが書き下され、指し示されているわけではない。むしろ、無限定で曖昧な様態のうちに、自分の魂が世界に向き合っているように感じる。そのような(強いていえば)「幻覚」があるだけのことである。  具象としての集合があるわけでもないのに、すべてを把握しているように感じる。それは、私たち人間の「感情」の持つ不可思議な働きである。持続可能な何かではない。ミランダの「魔法の瞬間」はあっという間に過ぎ去ってしまう。フェルディナンドと恋に落ち、それが成就したとしても、「おお、素晴らしき新世界よ!」と叫んだときに把握していると感じられていた広大な領域は、いつの間にか消えてしまっている。  具体的に何かが示されているわけではないが、ある姿をとった全体性が自分と向き合っているかのように感じられる。そのような時間は、私たちの人生の中に確かにある。  小学校の入学式の当日。学校というものにはじめて通うことになった幼き子の胸には、これから始まる新生活の姿が、具象を離れた、しかし、いきいきとした存在感を内包したかたちでありありと思い浮かべられている。  旅行に出かける日のうきうきした気分の中には、これからの旅程の中で出会うであろうさまざまな楽しみや驚きが予感されている。実際に旅行が始まると、予感は体験に、そして記憶へと変換されていき、曖昧ではあるがそれでも何らかの全体性を引き受けていた感性は、具体的な姿をとった有限の事象へと姿を変えていく。 †この内なる頼りない感情をこそ[#「†この内なる頼りない感情をこそ」はゴシック体]  知のあり方においても、同様の事態が進行している。しばしば、若者は野心的であるが、具体的な成果には欠ける。「世界に革命を起こすような偉大な知的業績をあげてやる!」と意気込む若者の気概は、具体的な行動プログラムに支えられているわけではなく、入学式の日の小学生や、空港に降り立った旅行者の胸に去来する思いと同じ素材でできている。  夏目漱石の『三四郎』の中で、誘いに来た三四郎たちに対して、下宿の二階の障子をがらりと開けて顔を出し、「今論文を書いている。大論文を書いている。なかなかそれどころじゃない」と嘯《うそぶ》く与次郎の姿は滑稽《こつけい》であるが、そのような若者特有の滑稽さと、世界全体を引き受けるという意志は紙一重の関係にある。ゲーテやダ・ヴィンチの総合への意志も神の視点から見れば与次郎の大言壮語と同じであるという真実の中に、私たち人間という存在のしみじみと味わい深い本質があるのである。 「今論文を書いている。大論文を書いている」と嘯く与次郎が、決してその大論文を完成させないだろうということを私たちはみな知っている。しかし、同時に、ゲーテやダ・ヴィンチが垣間見ていた広大なる普遍世界も、そのすべては実現しないうちに人生の秋は来てしまうのである。  私たち人間の体験について省察するとき、世界全体を引き受けるという命題の本質は、決して具体的な知の体系として明示的に世界を網羅するという点にあるのではなく、むしろ人間の感情の内包する志向的性質の中にあるということが了解される。  もし、現代人の胸の中で世界全体を引き受けるという志向性が弱まっているとすれば、それは、現代における知の領域の絶望的拡大とともに、私たちが精神の若さを失ったという事実と関連するのであろう。  感情の内包する志向的性質は、私たちという有限の生が無限と向き合ったときの、一つの精一杯の対抗の形式なのかもしれない。その対抗の形式の中から、ときに人類の文化の精華が現れる。有限であるにもかかわらず無限を志向するという私たちの心のやっかいな性質なしに、多くの知的成果の結実はありえない。どうあがいても有限の存在でしかない人生という泥沼からときに大輪の蓮《はす》の花が咲くことがあるのは、私たちの感情が「どうせできないとわかっているのに」悪あがきをするからである。  実際的、明示的な意味で世界の全体を引き受けるなど、しょせん不可能である。それでも世界全体への深情けを忘れられないとするならば、とりあえずはこの頼りない内なる感情を耕すしかない。たとえ傍《はた》から見れば滑稽な大言壮語にすぎなくても、「今論文を書いている。大論文を書いている」と言い続けなければならない。無限を志向する感情の働きを、いかにインテリジェントに耕すか。その儚《はかな》き可能性にこそ私たちは賭ける。 [#改ページ] この世界のすべてを引き受けて[#「この世界のすべてを引き受けて」はゴシック体] 「世界全体を引き受ける」ということが、若いときからの私の密《ひそ》かな野望であった。  物理学を志したのも、物理主義という方法論を通して世界全体を引き受けられるという目論見に心惹かれてのことだったように思う。この世界の事象を物質の動きとしてとらえれば、その時間発展を記述する物理学は万能であり、客観的視点において世界全体を引き受けることができる。そのような野望が、私を物理学に駆り立てたのだと思う。  しかし人生の早い時期に、この世界が、宇宙の波動方程式を書いたり、万物のハミルトニアンを与えたりすれば理解しきれるほど単純にはできていないということは了解された。端的にいえば物理主義のみでは主観的体験のリアリティを説明できないわけで、その一点をとっても物理帝国は崩壊するわけだが、そのような世界観の綻《ほころ》びは、私を限りなく落胆させるものであった。  物理主義だけではない。チャールズ・ダーウィンの進化論にしても、カール・マルクスの経済学理論、あるいはフェルディナン・ド・ソシュールの言語哲学にしても、一見世界全体を覆っているかにも見える知的なアプローチが、実は部分問題しか扱えていないということは、少し良心的に考えてみれば明らかなのだろうと思う。  むろん、部分にだって分け入ってみれば山があり、谷があり、流れる小川があり、冷水に足を浸せば心地よい認知的な喜びが得られる。古来、連綿と受け継がれ、発展し、学問として尊敬され、あるいは芸術として多くの人々に喜びを与えている。そのような人類の知的活動の場所で土を耕し、水をかけ、心を込めて美しい花を咲かせる仕業が意味のないことなどと言いはしない。  その一方で、三百数十年もの間未解決だった数学の定理を証明しても、一編の傑作小説を書いても、革新的なテクノロジーを発明しても、経済学の新理論を世に問うても、深遠な宗教哲学を説いても、それだけでは世界全体を引き受けたことにはならないのではないか。私は今でも本音のところではそう思っているし、自分自身のやっている仕事も、究極のところそのような基準で自己批評したいし、鼎《かなえ》の軽重を問うてもらいたいと思っている。  それにしても、「世界全体を引き受ける」とは、いったいどのようなことか。そもそも、有限の存在である一人の人間が、世界のすべてを引き受けるということなどできるのか? 「世界全体を引き受ける」というテーゼは、青年期のある時期から自明なことのように私には思えていたから、それが実は他人にはもちろん自分自身に対しても説明が必要な概念であるということに気づいたのは最近のことである。どうやら、「世界全体を引き受ける」というテーゼ自体が解明されるべき問題である。そして、その点について考えるときに、どうやら一つの人格というものが、そしてその中で生じる感情の波乱というものが大きな意味合いを持っているらしいということに思い至ったのである。 †吉本隆明さんの話[#「†吉本隆明さんの話」はゴシック体]  吉本隆明さんにお目にかかったとき、吉本さんがこんな話をされた。『一杯のかけそば』という話があって、みんな感動した。貧しい親子が、たった一杯のかけそばを注文し、分け合って食べる。確かに、心温まる光景である。しかし、あのような話を持ち出すと、誰でも自動的に必ず感動すると思うならば、そのような世界観は人間の本質をとらえきれていないのではないか。  親鸞さんは、どこかに向かう途中で貧しい人を見かけても、行きと帰りで思うこと、感じることが違うということがあってもいいのではないかと考えた。行きは何とも思わなかったが、帰りはかわいそうに感じて恵んであげた。あるいは、行きは施しをしたが、帰りには冷たく無視した。そのようなことがあるのが人間というもので、そういうことがあるという事実を受け入れない宗教的|覚醒《かくせい》など、たいしたことはない。そもそも、一人の人間が世界の困った人たちを全員救えるとは限らない。そのような世のあり様を見据えたうえで生み出された宗教哲学でなければ意味がない。そんな趣旨のことを、吉本さんは言われた。  私はそれを聞いて、なるほど、と思った。『聖書』には、キリストが病者や貧しき者を救った、という話が載っている。それは信じる者にとって感動的な奇跡かもしれないが、その一方でキリストが困っている人たち全部を決して救えなかっただろうことも私たちは知っている。砂漠の片隅でまさに飢えて死なんとしている子ども、ならず者に暴虐の限りを尽くされ、息も絶え絶えの男。自然人としてのキリストの目が届かない範囲で、悲惨なことなどたくさんあったろう。世界はそのような場所である、ということを前提に、宗教というものは考えなければならない。そのようなことを、私は連想した。 「世界を引き受ける」ということは、まさに、私たちが有限で不完全な存在であるということを前提に立てられなければならないテーゼだろう。物質と心の間に補助線を引くことは、今のところ叶っていない。物理主義によって理念的には客観的時間発展が説明できることになっている物質世界と、クオリアや志向性、自己意識といったやっかいな性質を抱いた主観的世界。その間を結ぶ第一原理が見つかれば、今よりは「世界全体を引き受ける」という状態に一歩近づくだろうが、きっとやがてその世界の中にも綻びが見つかり、落胆してしまうのが人間という存在なのではないか。  だとすれば、「世界を引き受ける」というテーゼは、そもそもそのようなことは不完全にしか実現できないというほろ苦い事実をあらかじめ受け入れたうえで立てられるべきである。行きと帰りでは貧者に対する気持ちが変わってしまう。そのような人間の弱さを許容する親鸞の宗教哲学に似た、何らかのやわらかな視点が必要とされる。そこに立ち現れてくるのは、一人の人間が知や感情や記憶やそれこそありとあらゆるものを総動員してこの不条理なる世界に対抗しようとする、凄まじくも感動的な姿ではないか。 †何よりも「人格」において[#「†何よりも「人格」において」はゴシック体]  そもそも、一人の人間が世界と向き合ってその全体を引き受けるということは、明示的な知の体系としては不可能なのではないかと思う。決して帰ってこない愛しい人や、到達することのできない遥《はる》かな場所、あるいは取り返しのつかない過去に向き合うときに私たちの心の中に浮かび上がる切ない「感情」のレベルで世界を引き受けるということしか、私たち人間には道が開かれていないのではないだろうか。  もちろん、たとえば心脳問題のような重要なテーマを実証主義的かつ論理的に厳密に解くかたちで展開することを志向し続けるのは重要であるが、その一方で、感情のレベルで世界全体を引き受けるということも考えなければ、私たちの魂は救われない。世界全体を引き受けるとは、すなわち、知の技法に依拠することであると同時に、かなりの程度、感情の技術に属することなのではないだろうかと思うのである。  キリストや仏陀《ぶつだ》のような宗教的天才は、その説く世界観や教義はもちろんのこと、何よりもその出発点において、「この世界の苦しみや矛盾、不条理をすべて自分のこととして引き受けたい」という感情の技術を有していたのではないか。逆にいえば、どんなに立派な教義があったとしても、奇跡を起こすことができたとしても、その人の感情のレベルにおいて世界全体を引き受けようという志向性が見られないとすれば、そのような人を本当の宗教者と呼ぶには躊躇《ちゆうちよ》することになるだろう。  感情を通して世界全体を引き受ける、ということをもう少し突きつめていくと、結局は「人格」の問題につながっていく。感情は、宙ぶらりんな物質としてその辺をふらふらしているわけではない。感情を抱き、志向し、それに突き動かされて世界を見て、感じ、記憶するのは一人の人間である。アルベルト・アインシュタインは『ドン・キホーテ』の物語を好んで読んでいたと伝えられるが、統一場理論をつくって世界の究極の秩序を説明しようとしたアインシュタインが自分をかの有名な騎士に重ねたとしても不思議ではない。一人は実在、もう一方はフィクションだが、この二人の人格は共鳴している。  アインシュタインの試みは失敗に終わったが、たとえ知的な体操としては躓《つまず》いたとしても、そのようなことを構想し、実際に引き受けようとしたアインシュタインの感情、その人格はこの上なく美しいと思う。  子どもの頃に星空を見上げ「うわあ」と叫ぶときにも、人は宇宙の全体性に触れているのかもしれない。その後、さまざまな知識を通して自らの精神性を耕し、きっちりとした論理のタガをはめ、記憶のアーカイヴを充実させ、世界観を深化させた大人になった後で、宇宙の広大に接してもらす「うわあ」は、子どものときのそれと共通の部分もあるだろうが、異なる展開も見せているはずだ。  もちろん、具体的な知的成果につながることは常に望ましいし、そのためには血のにじむような努力をすべきである。しかし、前提問題として、少なくともこの世界の全体性を引き受けることを志向する感情の美しさと人格の高貴さを持ってのぞみたい。そのような志向性がない限り、知の営みは部分問題を解くサブカルチャーとなる。実際、現代はサブカルでいることのほうが楽で居心地もいいのかもしれないが、それでは自分にも他人にも尊敬されない。  何も天才的な知性や、驚くべき博識を持てという話をしているわけではない。子どもの頃、最初に星空を見上げたときの「うわあ」をしっかりと記憶している人ならば、誰でも、世界の全体を引き受けるという志向性を了解することはできるのではないか。誰もがアインシュタインのように統一場理論に挑戦できるわけではないが、少なくとも、そのような志向性がどのような感情を伴い、どんな風に人格を陶冶《とうや》していくものか、直観的に理解することは可能なはずだ。 †脳の「共感回路」[#「†脳の「共感回路」」はゴシック体]  人間の感情のシステムの最も驚くべき点は、大脳皮質の前頭葉を中心とする「共感回路」を通して、感情があたかも脳と脳の間の壁を無視するかのようにお互いに伝わりあえるということである。親鸞を生み出した日本の文化風土において、共感、共苦、共楽の文化的遺伝子は強固に存在していると私は信じたい。アカデミズムの枠内で勝手に部分問題を仕立て上げ、些事《さじ》に汲々としている学者先生よりも、むしろ一般社会の人々の豊かな共感回路にこそ、感情的な意味はもちろんのこと、知的な意味においても世界全体を引き受けるという精神運動の支持基盤はある。  若いときは、一つひとつの問題にどうしてもとらわれてしまうものだ。私もそうだった。たとえば、意識における情報処理のプロセスは、コンピュータで実現できるような「計算可能」なものかどうか? むろん、これは今でもきわめて重大な問題として私たちの前に突きつけられている。計算可能性について考えることは尊いことであるが、その探究者が、老いの苦しみや、貧しさゆえの機会喪失、才能や外見の不平等といった人間生存の条件について、いきいきとした想像力と共感力を持っていなければ、世界全体を引き受けているとはいえないと私は考える。  いたずらに情に流されることなく、論理的に考えることはもちろん必要だが、感情と人格の有機的な結びつきにこそ、「世界を引き受ける」知的誠実の第一義的な表出はあるのではないか。 [#改ページ] 無限と空白[#「無限と空白」はゴシック体]  私たち人間が自分たちの卑小さを痛感するのは、「無限」に向き合うときである。どんなに百科全書派的な知を目指したとしても、限界がある。ナポレオンのごとき「行動の天才」を志向して疾風怒濤の動きを見せても、「ウォータールー」は必ず来る。私たち人間は、有限な存在であるにもかかわらず、無限を認識し、志向できてしまう。私たちの生きるうえでのやっかいさもよろこびも、悔しさも、実にその多くが無限に由来する。  無限というものを、「可能性」という視点から考え直すと、そこには人生を彩る豊饒、魂の糧が見えてくる。  そもそも、この世界において、無限は常に可能性としてしか提示されえない。「ほら、これが無限大だよ」と実際に指し示しうるかたちで、この宇宙の中で顕在化するわけではない。  可能性とは、別の言い方をすれば、空白のことである。空白があるからこそ、無限も成立する。  二人の人間が、「無限」をめぐって言い合いをしている。 「この世界でいちばん大きな数を考える競争をしよう」 「無限」 「じゃあ、無限+1」 「こっちは、無限+1+1」 「何を! 負けないぞ! 無限+1+1+1」……  もちろん、このような会話には切りがない。  無限には、「部分が全体に等しい」「無限を二倍、三倍、四倍……としても、同じ無限である」などの、有限の世界に親しんでいる私たちにとっては直感に反するように思われる性質がある。  だから、無限を具体的に提示しようとすると、破綻が来る。この世界における手続きとしては、無限は、実際にこの世界に存在する「実無限」としてではなく、可能性として提示される「可能無限」として把握せざるをえない。可能無限は、「もう一つ増やす余地がある」「その次を考えることができる」という空白によって支えられている。無限の持つ不思議な性質の多くが、空白ということに依拠しているのである。  私たちは、実無限を知らない。可能無限を語るのみなのである。 †「可能無限」という心の安全基地[#「†「可能無限」という心の安全基地」はゴシック体]  ひと口に「空白」といっても、空間的な「空白」と時間的なそれの意味は異なる。時間における「空白」には、必ず時間の「経過」という問題がかかわってくる。有限であるはずの人生の中であたかも無限であるかのような何かを感じるときには、ほとんど常にといってよいほど、時間が「過ぎゆく」ということがからんでくる。そこには、「今」と「過去」、「未来」の間の現象学的なコントラストがある。「今」においては「空白」であるものが、次の瞬間にはすでに埋められた具象となり、その先にさらに次の「空白」が現れる。そのような空白の充足とさらなる出現こそが、私たちが時間の経過という意識の流れの中で体感していることの内容であり、右の無限をめぐる会話の背後にもそのような時間の流れが潜在している。  一方、空間的な空白を埋める作業は、時間的な空白にまつわる手続きとは明確に違う。  しばしば、宇宙の果てがあるのかどうかという問題が議論される。宇宙にもし境界があるのだとすれば、そのさらに外側はどうなっているのか? 宇宙空間は三次元だが、それを球面にたとえることで、「限りはある」が「無限」であるという性質の説明が試みられることもある。しかし、そのような説明に形而上学的な難点があることは誰でも感じることだろう。  いずれにせよ、空間的な「さらに外側」の「空白」は、もし存在するとすれば最初からそこにあるのであって、時間におけるように「経過」を通して不存在が存在に転化するという性質はない。この点に着目し、また、「無限」が「可能無限」というかたちで「空白」をめぐる手続きにもとづいて定義されることを考えると、時間的「無限」と、空間的「無限」は本来性質が異なるはずである。  私たち人間の生きる時間は有限である。致死率は百パーセントであり、いつかはこの地上という奇妙だが楽しい場所を去らなくてはいけないことを私たちはみな知っている。それでも、青年が人生があたかもいつまでも(すなわち無限に!)続くように感じるということの背景には、「無限」が「空白」の操作としてその可能性において提示されうるという、意識をめぐる右で論じたような事情がある。  たとえ、人生が有限であるとしても、「今」の次なる時間的「空白」が次々と自分の前に立ち現れるということが続く限り、私たちはあたかも自分たちが無限の時間の流れを享受しているかのような錯覚にとらわれる。実際、私たちが死すべき存在としてこの世の中に投げ出されつつも、そのことによって精神のバランスを崩すこともなく安心立命の中に暮らすことができるのも、そのような「可能無限」が心の安全基地として機能するからである。 †アマゾンのほろ苦い失望[#「†アマゾンのほろ苦い失望」はゴシック体]  さらに考察を続ければ、私たちが心の中で感じる時間の流れに関する可能無限には、数論的な意味でのそれとは若干異なる側面がある。数論において、次の「空白」を埋めるべき数は決まっている。Nの次にはN+1が来ることになっている。しかし、私たちが知覚する時間の流れにおいて、次の「空白」はそれが何によって満たされるかわからないという不定性とともに立ち現れる。その充足における不確実さは、もし立ち止まってまともに見つめればあまりにも眩しく、存在自体がくらくらするような強烈な光を放っている。  時間の流れにおける次の瞬間の空白を充足するものの不定性こそが、私たちが生きるうえでの最も大事な精神的糧を与えてくれる。私たちはみな、舌なめずりをして、何がくるかわからない時間の空白を待ち、とらえ、食べ、呑み込み、消化して生きている。私たちは、精神の他のあり方を知らない。何が起きるか不確定な未来という空白なしに、私たちは一瞬たりとも正気を保つことができない。  どこかに旅をしたときに、自分たちの前にこれから楽しい時間がずっと広がっているという感覚は、心が躍るものである。その時間の流れの中で、どのような楽しいことも、驚くべきことも起こりうる。そんな期待こそが、旅をするという私たちの楽しみの中核にある。旅する中で、私たちは実際には可能無限を知覚している。旅は、日常生活の中にも潜む可能無限を顕在化する技術である。  いったい何が起きるのか。そのような期待は、やがて、時間の流れの中で実際に体験することの散文性の前に、必ず敗れ去っていく運命にある。もちろん、ときには瞠目《どうもく》すべき経験、一生忘れることのできない意義深い出来事に出会うこともある。そのような体験は、私たちの人生を形づくる大切な原材料になる。しかし、注意深く観察すれば、どのような素晴らしい現実の体験でも、それが具体的な何かである限りにおいて、必ず当初に知覚されていた可能無限に比べれば質において劣ったものになる。そこには、人生の最も苦い失望があるはずである。どれほど素晴らしい出来事でも、そのことによって時間が経過し、具体化してしまったということの悲しみを補うものではないのである。  十年ほど前、子どもの頃から夢見て憧《あこが》れていたアマゾンに行った。リオ・デ・ジャネイロから飛行機で飛び立ち、最初のうちは田畑や道路など人間の営為の印が見えていたのに、そのうちそのような痕跡は一切なくなって、手つかずの緑の平原の中に、くねくねと曲がりながら流れる川があるだけになった。その光景が、いつまでもいつまでも変わることなく続いているので、私はそのうちに怖くなった。まるでずっと聞こえているモノトーンの耳鳴りのように、アマゾンのジャングルは眼下に横たわっていた。  やがて、マナウスの空港に向かって飛行機が降りていったとき、川幅のあまりの大きさに絶句した。白と茶の二つの水の流れが合流して複雑な模様をつくっている様子がはっきりと見えた。  それからの二日間に体験したことは、アマゾンという大自然の奥深さを感じさせて余りあるものであった。ボートハウスでハンモックに揺られ、夜の川でワニの目が光るのを見た。ホエザルが木を揺すり、ドクチョウがゆったりと飛び、モルフォチョウがきらきらと光るあり様を味わった。私が子どもの頃から本を読み、写真を眺めて想像していた「アマゾン」という魔境。忘れがたい経験だったが、いまだ来たらぬ時間的「空白」の中に投影していた不確定なイメージと比較して、具体化した体験がどうであったかといえば、やはりそこにはほろ苦い失望があったように感じる。これは、おそらくは原理的かつ普遍的な問題である。  人生は、無限が有限に転化していく過程である。私たちの意識の中で、「無限」は、必ず可能無限として感じられているのであって、そこではいまだ用途が指定されない空白が死活的に重要な役割を果たしている。何かとして「在る」(sein) ことではなく、何かに「成る」(werden) ことにより大きな意味があるのは、後者が空白とその転化を糧とする過程だからである。もっとも、それは常に両義的である。成長することが、具体化することのよろこびとともに、必然的に空白の喪失という失望を伴うことを、注意深い観察者はみな知っている。 †感情とは空白を扱う技術である[#「†感情とは空白を扱う技術である」はゴシック体]  現代の脳科学において、感情は不確実性に対する適応戦略であると考えられている。ここにいう不確実性が、世界の事象の流れを四次元多様体として鳥瞰《ちようかん》し、その中でのアンサンブルとしての数え上げを通して、「確率的」な議論を行うという意味でのそれではないことはいうまでもない。感情の扱う不確実性は、時間の流れと深くかかわっており、その意味で感情は「空白」ないしは「可能無限」を扱う技術である。ここにこそ、感情の問題のみならず、時間の流れの本質、そして意識の謎を解き明かす鍵があることは疑いない。  脳の中の一千億の神経細胞の活動を通して意識の中でさまざまなクオリアが生み出される未解明のメカニズムの背後に、「時間の経過」がかかわっているという直感は、多くの論者によって表明されている。脳内の物理的過程に伴って、時々刻々と「クオリア」が生成し、消滅するそのあり様は、そのような意識的表象が時間の流れと密接にかかわっているものであることを予感させる。  ニュートン力学における「物質」のあり方は、生成消滅と直接かかわるものではなかった。時間は実数のパラメータであり、「今」はパラメータ上の任意の一点であった。電子のような目に見えないミクロの世界を扱う量子力学が誕生することにより、はじめて時間の経過に相当する物理的過程が表舞台に登場することになった。すなわち、波動関数の収縮の過程である。  形而上学的に見てきわめて難しい問題を突きつける量子力学の観測問題をここで詳述している余裕はない。いずれにせよ、時間というものを、過去から未来までの鳥瞰が可能な実数のパラメータとしてとらえるのではなく、常に空白が満たされ、新たに生成される可能無限の問題として定式化することが、観測問題の本質にかかわる課題である。  私たちが生きるというやっかいな問題を、その中で直面する甘美な失望を、時間論の本質と結びつけて考えるというのは確かに生活者の態度ではないかもしれない。しかし、本来、人間性の本質というものは形而上学と結びついているものではなかったか。人間はやっかいで何をやらかすかわからない存在ではあるが、そのわけのわからなささえもが時間の経過にまつわる空白の存在とそのダイナミクスに依存している。 [#改ページ] 感情の技術[#「感情の技術」はゴシック体]  現代の知は、断片化してしまっている。とりわけ、世界のあり様と人間の実存の全体性を引き受けるはずだった思想界の断片化が激しい。「ポスト・モダン」の旗印の下に、脱構築や反神学を試み、文化のヒエラルキーも解体して、アニメやオタク文化などのいわゆる「サブカル」ばかり論じているうちに、いつの間にか思想世界自体が「サブカル」に陥る危険性が見えてきた。ここでの「サブカル」とは、「世界全体を引き受けるのではなく、その部分問題を扱うにすぎない状態」を指す。  資本主義経済や民主主義といった社会制度の優越性が明らかになったように見える今日において、すでにイデオロギー間の衝突としての「歴史」は終わり、かつて思想というものが担っていたアクチュアルな意義は消えてしまった。そのように嘯いてみたとしても、世界が、どのような思想運動によっても、誰によっても、その全体性においては引き受けられることのないままぽつんと投げ出されているむなしさは消えることがない。  もう一度、この世界全体を引き受けるような思想を構築することを、少なくとも志向だけはしてみなければならないのではないか。そのためには、一見関係がないことのように見えるものの間に、「補助線」を引かなければならないのではないか。そんな危機感から本書を構想したが、それにしても、現在において知の全体を引き受けようと試みる者は、ほとんどドン・キホーテの様相を呈さざるをえない状況に追い込まれている。  世界の事物の因果的発展に関していえば、物理学のアプローチがそれを引き受けられそうである。しかし、だからといって、現代物理学の最前線としての超ひも理論や超膜理論、あるいはその先にある(かもしれない)「万物の理論」が、私たちの知りうる「世界全体」を引き受けるということにつながるとは思えない。そのような因果的法則からは、そよ風を頬《ほお》に受けて胸がときめいたり、夕陽を見て涙したりといった、われわれの主観的体験をめぐる起源問題がすっぽりと抜け落ちてしまっているからである。 †たとえ心脳問題が解決されたとしても[#「†たとえ心脳問題が解決されたとしても」はゴシック体]  論理的な可能性としては、世界を私たちの脳や身体を含む物質の因果的発展とそれに伴う精神活動の複合体としてとらえ、その物質の変化と精神活動の間の共役の背後にある論理を解き明かすこと(いわゆる「心脳問題」を解明すること)によって思考の全体性を引き受けることはできるようにも見える。  以前には確かに存在した、マルクスの思想の流れを引く「唯物論」か、それとも「観念論」かという対立は、今日ではほとんどアクチュアルな問題としては成立していない。むしろ、とりあえずは価値中立的な問題として、心と脳の関係をどう考えるかという命題が、脳科学の急速な発展を受けてクローズアップされている。  しかし、心脳問題については、その本質を理解する者ほど、その解明には一見乗り越えがたく思われるような困難がまとわりついているということを知っている。英国の哲学者コリン・マッギンのように、そもそも人間は「認知的閉鎖」の中にあり、心脳問題を解明することは原理的に不可能であると考える論者さえいる。心脳問題の解決を通して世界についての知の全体性を回復することがもし仮に原理的には可能だとしても、そこに至る道は容易なことでは開かれないのである。  そもそも、意識の中に立ち現れるさまざまな表象の起源を明らかにしたとしても、それらのユニークなニュアンスの総体がつくり上げる思索の森の豊饒の中に分け入り、それを引き受けることは容易なことではない。「真理」や「無限」といった表象が担う意味は、目の前にあるリンゴの「赤」と、表象の起源問題においては平等な地平にあるかもしれないが、私たちの生きる生活の現場や世界を把握する思考の形式における作用に関しては等価ではない。  たとえ、物質である脳活動に伴う表象の起源問題が将来解決されることがあるとしても、そのことが、ただちに、その中に文学作品から法哲学、音楽から絵画までを含む膨大な表象の森の全体性の精緻な記述につながるわけでは必ずしもない。世界のさまざまな物質システムの因果的発展に随伴して精神活動が生み出される第一原理が解かれたとしても、結局は古典的な「百科全書」的な意味での博覧強記がなければ、世界全体を本当に引き受けることにはならないとも考えられる。  脳という物質の発展から文学という表象の形式が生み出されるプロセスがたとえ原理的に解析されたとしても、シェークスピアの『テンペスト』の中で、ミランダがフェルディナンドと出会い、「おお、素晴らしき新世界よ!」と叫ぶ場面の興趣に一度は寄り添ってみなければ、本当に世界を引き受けたことにはならないのかもしれないのである。 †「世界を引き受けたい」という野心は必ず敗北する[#「†「世界を引き受けたい」という野心は必ず敗北する」はゴシック体]  宇宙は一三七億光年の大きさを持っており、その巨大なスケールにくらべれば個々の人間などいかにも卑小である。デジタル資本主義の下、誰がいくらもうけたなどとゴシップを交わすことは楽しい気晴らしかもしれないが、私たちの魂が無限を前にうち震える存在であるという事実には変わりがない。物質的な空間の無限はもちろんのこと、私たちが表象しうる世界の可能無限は魂にとって福音的であると同時に、存在の根幹にまで染み渡る「毒」でもありうる。 「世界を引き受けたい」という知的な野心は、それが明示的な知識の所有を志向しているとすれば、必ず敗北する運命にある。とりわけ、人間の知的営みが爆発的に増大している現在、明示的なかたちでそれらすべてを引き受けるという役割は、とても一個人のこなせることではない。一つの分野に関してでさえ、その中で行われている多様な知的活動の全体像を把握することは難しい。  物理学者のリチャード・ファインマンは、物理学の代表的な雑誌、「フィジカル・レビュー」に掲載される論文を「全部読んでいた(読むことができた)」時代があったと、自伝の中で懐古している。その後、「フィジカル・レビュー」は、いつの間にかA、B、C、D、Eなどと分野ごとに分かれ、一つひとつが電話帳ほど分厚くなってしまった。今や、いくら超人的な能力を持つ物理学者であっても、「フィジカル・レビュー」の論文を「全部読む」ことなど不可能である。  ましてや、現在行われている人類の知的営みを、そのすべてにわたって見通し、引き受け、その間に補助線を引くということを、明示的な知識の所有というかたちで行うなど、原理的に不可能な試みになっているといってよいだろう。明示的な知識の網羅的な把握は、インターネット上の検索エンジンに託され、人間の脳がやるべきことではなくなっているのかもしれないのである。 †やり場のない感情の中に[#「†やり場のない感情の中に」はゴシック体]  このような時代に、人間が生き、その中でさまざまなことを模索し、獲得し、積み上げていくという尊い知的営為の全体性を引き受けるためには、いったいどうすればよいのだろうか?  自分の有限の人生のすべてを捧げたとしても、とても全体を把握しえない何かが眼前に広がっている。そうした事態を前にして私たちの中に喚起される感情の中に、困難な現代において全体性を引き受けるための方法論へのヒントが隠されているように私は直覚する。  私たちの感情は、不可能なこと、断絶の向こうにあるもの、無限を前にしたときに特に強くかき立てられる。そのような感情の働きは、大切な人が不慮の事故で死んでしまったときのやり切れない思い、古代への情熱を燃やす考古学者、未解明の難解な定理の証明に身をやつす数学者の苦闘の中に立ち現れている。  自分という存在の卑小さを思い、それに比しての宇宙の一三七億光年の広がりを考えるとき、私たちは、宇宙の広大無辺を明示的な知識や行動を通して引き受けることなど、とても不可能であると悟る。しかし、感情においては、自分の卑小さと、宇宙の広大無辺さのコントラストを把握することができる。夏の山に分け入り、キャンプのテントを張り、夜、瞬く満天の星を見上げたときの畏怖感を思い出し、ないしは想像してみよう。そのようなときに私たちの魂が感じるおののきは、決して明示的な知識としては着地させることのできないものであるが、しかし、そのやり場のない感情の中に、無限の宇宙に対する有限の存在としての人間の魂の対抗様式が確かに提示されている。 †近代を美しく乗り越えるヒント[#「†近代を美しく乗り越えるヒント」はゴシック体]  ヨーロッパ中世のスコラ哲学、スコラ神学の思想が今日の「合理主義」からどのように評価されるべきなのか、議論はいろいろあるだろう。しかし、人間の魂という有限の存在にとって明示的なかたちでは原理的に対抗が不可能な「無限」、「不可能」、「不可知」の領域に対する感情の向き合い方において、彼らが私たちより劣っていたとは少なくとも筆者には思えない。  アイザック・ニュートンの次の言葉にも、無限に向き合う感情の技術が示されている。 「私が、世間からどのように見られているのかは知らないが、私自身は、海岸で遊ぶ小さな子どものようなものだったと思っている。ときに少しなめらかな小石や、きれいな貝殻を見つけて喜んではいるが、真理の大海は私の前に未発見のまま広がっているのだ」。  ニュートンがそのライバル、ロバート・フックやゴットフリート・ライプニッツに対してとった態度がいかに傲慢《ごうまん》であったとしても、また、後半生の政治的野心がどのように評価されるとしても、右のニュートンの言葉に託された「無限に向き合う思い」は真摯なものであると私には感じられる。  限りある人間の生において、明示的なかたちで世界を引き受けることなど、たかが知れている。古代の多くの思想家が生きるうえで避けることのできない無限や不可能性の問題に向き合ったときに、どのような感情を自己の中に喚起して、存在の不条理に対抗したか。その「感情の技術」の中に、現代の私たちが学ぶべき点が多くあるように思う。  日本における「ポスト・モダニズム」の受容が、世界的な思想の流れにおいてどのように位置づけられるか、ここで精査することはできない。しかし、思想運動を、それにまつわる心情においてとらえたとき、特に日本においては、いわゆる「ポスト・モダン」という言葉でくくられた言説には、「どうせ全体など引き受けられない」という事態を前にした、ヤケクソの気分が強かったのではないか。フザケ、フマジメ、脱構築という心の働きは、スパイスとしてはどんな思考者にも必要なことではあるが、それをメインディッシュにされてしまったのではたまったものではないと感じるのは、私だけだろうか。  無限に向き合うときに私たちの心の中にわき起こるさまざまな感情は、基本的に絶望の通奏低音で満たされているが、その絶望の中でも、有為の有限を積み重ねる。そのような努力の中に、人間の感情技術の精華があると信じたい。  私たちは、インターネット上の有限の知のくり広げる世界に幻惑されることなく、また、全体を引き受けることが不可能となった事態に対して不真面目な態度をとることなく、中世のスコラ哲学者のごとく、あるいは、はじめて夜空を見上げる青年のように、無限や不可能に対する真摯な感情をこそ抱くべきなのではないか。  そこに、近代を美しく乗り越えるためのヒントもまたあるはずなのである。 [#改ページ]   ㈿[#「㈿」はゴシック体] [#改ページ] 「価値」はどのように決まるのか[#「「価値」はどのように決まるのか」はゴシック体]  美術関係者と、ある地方都市の寿司屋に入ったときのことである。芸能人の色紙がたくさん飾ってある壁の下に「宝船」の置物があった。その中に入ってしまえばごく普通の光景に見えるが、色紙も、宝船も、考えてみれば現代においては「演歌」のごとく特殊な回路に追い込まれているものだ。ちらっと見て、ああそんなものかと思う。悪くいえばそのような蔑《さげす》まれ方をしているのである。  ちょうど、その前のワークショップで、アンディ・ウォーホルの『フラワー』を間近で二時間見た後だった。新聞に掲載されたごくありふれた花のスナップ写真にもとづいて制作されたというこの作品は、それまでのアートの文脈から外れた、当初はどう価値づけたらよいかわからない存在だったに違いない。それが、今ではアートの世界の中心にある。殿堂入りして輝いている。それに対して、寿司屋の壁の色紙や、宝船の置物が、ウォーホルの『フラワー』と同じ位置にのぼりつめることは、近い将来には決してありそうもない。「NHKのど自慢」の舞台の雰囲気と同じようによく見知っているが、ニューヨークのメトロポリタン美術館には決して収蔵されそうもないものの世界にこれらは属している。  それが「日本のもの」であるかどうかは、おそらくは本質ではない。中心と周縁の関係は、必ずしも地理的に展開されるのではない。近代における「普遍」を生み出し、現代アートという枠組みをつくり、それを維持している西欧においても、「寿司屋の壁の色紙」や「宝船の置物」に相当するものは存在する。イギリスで好んでパンに塗られる「マーマイト」というイーストを発酵させたペーストや、アメリカの田園地帯の夏にやってくる「カントリーフェア」などは、やはりグローバルな文化の土台の上で大手を振って流通するものにはなりそうもない。 「演歌」は世界のどこにでもある。「宝船」に相当するものは、さまざまな文化の中にあるのだ。  ウォーホルの『フラワー』を素晴らしいとする感情は、おそらくは真摯なものである。しかし、そのような価値潮流があっさりと寿司屋の壁の色紙や宝船を押し流していくとすれば、そのような動きには抗したくなる。何よりも、その時どきの「中心」の感性にもとづいて、「周縁」に置かれてしまっているものを無反省に切り捨てることだけはしたくないと思うのだ。  具体的なモノとして扱うことのできる世界だけに「中心」と「周縁」の構造があるのではない。思想や哲学のような目に見えない抽象的なものの世界においても、一方にはウォーホルの『フラワー』のようなものがあり、他方には「壁の色紙」や「宝船」のような存在がある。このような価値の差異、序列が、アプリオリに決まっていると考えるのは簡単である。しかし、真実はそのような単純な図式からは遠くにある。  ウォーホルの『フラワー』のように、最近「殿堂入り」のステータスを得た作品においては、その出自がはっきりしている。その価値が定まる過程の背後に、「偶有性」(半ば規則的で、半ばランダムなプロセス)が隠れていることが記憶に新しい。旧来の「美術品」の概念に挑戦した実験的な作品が、紆余曲折《うよきよくせつ》を経て、しだいにその評価を確立していく過程を、ありありと思い描くことができるのである。  それでは、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』はどうか。おそらくは誰が見ても魅了されずにいられないこの作品の価値は、絶対的なものなのか? もしそうだとしたら、その絶対性は何に由来するのか? 人類の歴史において、あるものの価値が確立してから長い時間が経つほど、私たちはそれを絶対的なものとみなしがちだ。しかし本来は、偶有性から自由に絶対的な価値を持つものなど存在しない。中心と周縁の関係が、王子と乞食のように、ときに交換可能なものであるということを忘れるとき、私たちはこの世界の最も大切な秘密から目を閉ざしてしまうのだ。 †進化心理学の考え方[#「†進化心理学の考え方」はゴシック体]  価値に対する科学的アプローチとしては、それが進化の過程で示す意味を認識のメカニズムに即して考察する「進化心理学」が有力である。進化論的文脈でいえば、ある価値を信奉することの意義とは、すなわち、そうすることが生存競争の下で有利になるということでしかない。もちろん、あるものに触れて、その価値の真実なるを信じ、心を動かされる際に立ち上がる主観的体験(クオリア)自体が進化論的な文脈から(ただちに)説明できるわけではない。それでも、進化論的文脈を認識することで、私たちは、最初から動かし難いものとして「価値」を立ち上げてしまうことをやめて、さまざまな価値が生み出されてきた偶有的ダイナミクスの長い歴史に思いを馳せることができるのである。  生殖におけるパートナー選びにおいては、異性の属性がどのようにアピールするのか? 美という価値をめぐる科学的研究の一つの軸は、このような「性選択」の問題にある。  魅力的な異性を前にしたときに感じる吸引力は、あたかもそこに絶対的な価値があるかのように思わせる。しかし、それはあくまでもそれぞれの生物種にとっての相対的な基準にすぎない。ゴキブリのオスにとっては同種のメスが魅力的であるに違いない。人間の美人は、ゴリラにとっては醜悪かもしれない。性選択における「美」が、長い進化の過程における遺伝的変動、文化的変容の積み重ねの結果であることは容易に了解できるだろう。そして、性選択こそは、半ば予想できるが、最終的にはどうなるかわからない「偶有性」に満ちた現場であることも、また、わかりやすい理屈である。 「美」や「真実」といった概念を、性選択のような偶有性の現場を離れた抽象的な文脈に置いたとき、「神学化」への危険な誘惑が生じる。性選択の場合、その背後に欲動があることをただちに了解できるだけに、そのベクトルに潜在する恣意性も、また、認知されやすい。人間の欲動とゴキブリの欲動は当然向かうところが違う。一方、抽象的な文脈に置かれたときの「美」や「真実」といった価値は、性選択のような欲動とはむしろ無縁な領域にあるように見えるだけに、その一見絶対的な価値の背後にある、性選択と本質的に同質な偶有性が忘却されやすいのである。 †アカデミズムの価値はなぜ色あせたか[#「†アカデミズムの価値はなぜ色あせたか」はゴシック体]  現代は、偶有性が支配する時代である。ネット・ベンチャーによる旧来の大企業の買収騒ぎに見られるように、何がどうなるかわからないという事象こそが人々の関心を惹きつけ、お金や人、メディアによる報道といった社会的なリソースをも吸引する。人間のつくる社会という有機的組織がしだいに高度化するにつれて、偶有性が社会形成のダイナミクスを支配するに至っている。偶有性を担保しないものは、急速にアクチュアリティを失う。憲法から皇室まで、絶対的な価値を持つと考えられているものが人々の関心を惹くのは、むしろその内包する偶有性とのかかわりにおいてであることは、昨今の憲法や、皇室典範の改正をめぐる論議にも見てとれるだろう。  今、旧来の「アカデミズム」の価値が現代的文脈の中で色あせて見えるのも、「価値」の神学の背後にある偶有性を認識し、それを生活現場のダイナミクスに結びつける努力を怠っているからではないか。すでに遠い昔に確立されてしまった価値を絶対的なものとして教えるだけでは、学問は形骸化《けいがいか》する。  ウォーホルやフェルメールは素晴らしい、という地点からスタートしてその価値を啓蒙するというのは生の現場におけるアクチュアリティを持たない。むしろ、寿司屋の壁の色紙や宝船の置物のように、誰がどう見ても「ダサイ」と思われるようなものがウォーホルやフェルメールになりうることに道筋をつけるのが、本来の学問であり、形而上学ではないのか。そのようにして「中心」と「周縁」をリミックスしなければ、人々の関心は学問には向かわず、よりリアルな現実世界の事象に惹きつけられるだけである。  昨今見られる「サブカル」のメインストリーム化、さらにはハイ・カルチャー化は、その本質において現代の偶有性と結びついている。『ガンダム』や『めぞん一刻』のような作品を、大学に所属する学者が議論することに対する違和感は、急速に低下しつつある。いつの間にか、マックス・ウェーバーと高橋留美子が等価であるような精神風景が、私たちの前に見え始めている。  本来、概念空間の中での価値は原理的にいえば相対的な意味しかないのだから、そのような事態が生じても、それは、とりたてて驚くべきことではない。ただ、偶有性の産物が一見絶対的な価値に変貌する気配を見せるとき、そこには常に新たな「神学化」の危険が存在することを、忘れてはならない。旧来の価値観を背景にしながら、サブカルにおもねる「知識人」の姿ほどみっともないものはない。本来、やるべきことは、旧アカデミズムの大文字の概念を、現代の偶有性の海に投げ込んで再生することではないか。 †偶有性とプラトン的完全さの間に[#「†偶有性とプラトン的完全さの間に」はゴシック体]  ところで、脳という組織の成り立ちを、個体の有限の生活史を超えて、世代から世代への遺伝形質と文化的資産の継承という視点から見た場合、そこには偶有性に満ちたダイナミクスから一見プラトン的な完全さを帯びた「クオリア」への一貫した流れがある。  たとえば、赤や青といった「色」のクオリアは、それが意識の中に立ち現れるときには一見プラトン的絶対性を帯びているかのように思われるが、それらが進化の中で生まれてきたプロセスは偶有性に満ちたダイナミクスによって支えられている。色の認識を支える神経機構は、容易には想像できぬほどの複雑な計算を実行している。  視野の中で、ある領域の色が認識されるためには、そこから反射される光の波長のみならず、それを周囲の空間からくる波長と比較した「相対的文脈」の確立が必要になる。つまり、色は局所的な性質ではなく、周囲との関係性を反映した文脈依存的、相対的な性質なのであって、だからこそ、昼間の太陽と日没前の太陽では光の波長構成が異なるのに、家の屋根の色はほとんど同じに見えるのである(色の恒常性)。  脳が文脈依存的なかたちで色を認識するという戦略を選択したのは、そうすることが複雑に変化する環境を把握するうえで有効だったからである。そこにあるのはまさに偶有性に満ちたダイナミクスであるが、私たちの意識の中で感じられるクオリアに寄り添っている限り、私たちはそのプラトン性に目を奪われてその背後にある偶有性をついつい忘れてしまう。  私たちの意識の中のクオリアは、進化の長い過程の中で積み上げられてきた偶有性に満ちたダイナミクスの中から「選ばれたもの」が「結晶化」した結果である。つまりは、クオリアは「一丁上がり」なのだ。そのプラトン的絶対性に真摯に寄り添うことは、芸術における美、学問における真実に対する審美的感性を支える絶対必要条件である。しかし、その一方で、一見完全なるものに見えるプラトン的属性が、偶有性の結果として生じたものであることも、また忘れてはならない。  ハイ・カルチャーとは、すなわち、「一丁上がり」になってしまった時期が早いものを指すのであろう。テレビタレントが子どもに旧来の日本語の感性を無視したとんでもない名前をつけて識者のひんしゅくを買う。しかし、千年も経てばその名前が立派な古典的名前になっている可能性は否定できない。もちろん、必ずそうなるという保証はない。世代から世代への偶有性に満ちたプロセスの中に、小突き回され、いじられるうちにその帰趨《きすう》が見えてくる。  同時代の偶有性に満ちたプロセスばかりに浸っているとちゃらんぽらんになる。その一方で、古典的になってしまった、「一丁上がり」のクオリアに寄り添ってばかりいると「道学者」になる。偶有性のダイナミクスと、プラトン的完全さのあわいをうまく生きることこそが、難しくもやりがいのあることである。その領域にこそ、真の芸術もあり、本当の学問もある。 [#改ページ] 紙一枚の文字列に「真理」は宿るか[#「紙一枚の文字列に「真理」は宿るか」はゴシック体]  大学院で物理学の博士号を取得した後に脳の研究に進んだのは、恩師に紹介された偶然の結果だとずっと思っていたが、ふり返ってみるとどうもそうではないらしい。博士課程の後半、人が思考するということの根幹には何があるのかということに、重大な関心を持ち始めていた。  あるとき、大学近くにある不忍池のほとりを友人と歩きながら、こんなことを話した。  いま、宇宙の究極の哲学ができ、それがA4判の紙一枚に書かれたとする。その文字の配列が、ごく普通の高校生が書いた平凡な日記と異なる点はどこにあるのか? 適当に並べた文字列とは何が違うのか? もし、文字自体の形の中にはその意味を確定するに必要十分な「何か」が存在しないとすると、はたして、宇宙の究極の哲学は、その紙の上にあると言うことができるのか? それとも、人間の脳の中にそれはあるのか? あるいは、個人の存在を超えた、文化や、歴史といった目に見えないものの中にあるのか? 文字の配列の意味を確定する因果の連鎖を追っていけば、結局はその網は全宇宙へと広がっていってしまうのではないか?  そのようなことを、熱に浮かされたように早口で喋っていた。あのときの疑問は、ずっと残ったまま、いまだに解消されていない。むしろ、形を変え、表現を変えて、くり返し私の人生の前に立ちはだかってきているように感じる。 †「価値」は底が抜けている[#「†「価値」は底が抜けている」はゴシック体]  もちろん、いつもそのように考えているわけではない。思考の方法には大きく分けて二種類ある。さまざまな「個物」の存在を前提として、そこから世界のあり方を認識し、周囲のことについて考えるという立場と、そのような「個物」の基礎自体を疑うという方法である。  どんな哲学者でも、普段は前者の立場で生きている。「時間」や「空間」のことについて考え続けたエマニュエル・カントといえども、約束の時間を守ろうと思ったら、テキパキと行動したことだろう。「時計自体」とはいったい何かなど考え始めてしまっては、約束の時間に遅れてしまう。  自分の認識する「個物」の存在自体の基礎を疑うこと。そのような思考は、いわば「底が抜けて」おり、気をつけないと底なし沼に足をとられて形なしになる。それでも、ときには底が抜けた思考をしなければ、解けない難しい問題はあるし、何よりも生きている甲斐がない。  さまざまなものの「価値」も、また、「個物」として私たちの前に現れる。私たちは、普段は世界の中のさまざまなものたちの価値や属性が最初から定まっていると思って暮らしている。文化的事象においても、哲学的思考においても、人間はついついヒエラルキーをつくってしまい、これはよい、あれは悪いと並べ立てるが、それらのものの成り立ちが世界の始原からアプリオリに保証されているわけでは決してない。  カントやヘーゲルの偉さは、酒場の親父の人生訓の凡庸さと同じように、底が抜けている。前節で議論したように、アンディ・ウォーホルの『フラワー』と、寿司屋の宝船の置物の価値の間には、たとえ現在のマーケットの中では大きな差があるとしても、それぞれの価値自体が原理的にいえば底が抜けている。  もちろん、偉大な芸術作品には、私たちの魂を震撼《しんかん》させる力があり、深遠な思想は人生を明るく照らす。それらのものを尊ぶことは高貴な精神生活のためにぜひとも必要であるが、同時に、それらの成り立ちの底が抜けていることも、また心のどこかで担保しておかなければならない。底が抜けているとわかっていても、素晴らしきものたちの輝きが減ずるわけではない。いや、存在のリアリティは、その底が抜けているからこそ増すのである。 †言葉の意味が崩壊するとき[#「†言葉の意味が崩壊するとき」はゴシック体]  いま仮に、「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」(メWovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.モ) というヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の中の有名な言葉が宇宙の真理の一端を表しているとすれば、この(日本語ないしはドイツ語の)文字列がそのような特権的な地位を得ているという事実は、何に由来しているのだろうか? 一度触れれば決して忘れることのできない、深遠な思想を表しているかのように感じられるこの言葉は、たとえば無味乾燥なコンピュータの操作マニュアルとはどこが違うのだろう。  私たちは、それぞれがその中で生活する母国語という言語体系の中の文章は、確固とした意味を担っていると思いがちである。その意味性が自明のものであると感じられるからこそ、私たちは安堵《あんど》して母国語を習得し、話すことができる。日常生活の中で言葉を使用している局面においては、自分が確固とした意味の体系に基礎を置いた真実を話していることを疑うことはほとんどない。  言語学者のポール・グライスは、言語コミュニケーションの際に私たちがどのような文脈を引き受け、言語表現を実行しているかを研究した。グライスが提案した「協調の原理」は、それぞれの話者が誠実な態度で言語表現を行うことがコミュニケーションの基礎だとする。そのような協調の原理も、各話者の中に、まずは一人称的に言語の意味体系の実在性、明晰《めいせき》性についての確信がなければ成り立たない。  私たちは、子どもの頃から、母国語の意味体系について深刻な疑念を抱くことがほとんどないまま、育ち、大人になる。言葉の意味が確固としたものであるととりあえず信じることは、言語能力を支える意識の一つの安定化装置であるかのようである。自我の成り立ちについての疑いを持ち始めたものが、意識の中の時間の流れにさえ拘泥してしまい、まともな生活を送れない危機に陥るように、言葉の意味の基礎に対して不用意に疑いを差し挟むことは、言語という人間が持つ特権的な能力の有効性を空洞化させる。  それでも、言語の意味自体が解体され、崩壊していってしまうように感じられることがまれにある。家に帰ってきて「ただいま」と言ってから、自分がいま発した言葉の意味に確信が持てず、思わず立ち止まってしまう。そのようなとき、私たちは「ただいま、ただいま」とくり返してみて、その言葉の不思議な響きの底に見え隠れする無意味の暗闇に震撼するのである。  言語には、避けられない恣意性がある。地球上の言語についての知識を持たない宇宙人が件《くだん》のA4判の紙を拾い上げたときのことを想像すればわかるように、ある特定の文字列が特別な意味を持たなければならないという宇宙の真理があるわけではない。宇宙人を持ち出さなくても、ドイツ語を解さない人間にとって、右に引用したヴィトゲンシュタインの言葉はちんぷんかんぷんである。同様に、日本語を知らないドイツ人は、「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」という線画の羅列がまさか偉大な哲学者にかかわることなどとは思いもしまい。 †言葉の意味とクオリア[#「†言葉の意味とクオリア」はゴシック体]  ソシュール言語学にいう「表すもの」(シニフィアン)と「表されるもの」(シニフィエ)の間の差異は、ウォーホルの『フラワー』と宝船の置物の間に価値的な差異をも生み出す、人間の文化や歴史と連動した脳の記憶や情動系の学習、進化に起因する。その意味で、それは単に脳内過程のみにとどまる事象ではないが、同時に、私たちの意識の中でクオリアがいかに生み出されるかという脳内現象としての意識の根幹に関係する問題でもある。  私たちが、紙の上に書かれた言葉の意味を了解するのは、そこから反射される光が目に入り、網膜から視床を経由して大脳皮質の視覚関係領野に入り、そこからの一連の情報処理過程の中で、「何かが起こる」からである。意味も、それが意識の中で把握される限りにおいて一つのクオリアであり、意味がどのように立ち上がるかという問題は、結局クオリアがどのように生み出されるかという問題と同型である。 「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」「Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.」という二つの文字列がそれぞれの言語体系の中で指し示しているものの間には、共通性や普遍性が存在するはずである。だからこそ、二つの言語の間を翻訳という行為でつなぐことができる。複数の言語が共通して接続している普遍的な概念空間を措定することができる。そのような翻訳可能性には、意識の中のクオリアが関与している。  日本語を解する者が、「語り得ぬことについては、沈黙しなければならない」という文字列を前にしたときには、ある独特のクオリアが意識の中に表象される。同様に、ドイツ語を解するものが、件の文を前にするとき、ある特定のクオリアが感じられる。ヴィトゲンシュタインの言説の持つ意味とは、意識の中でそれが把握される限り特定のクオリアとして感じられるのであり、それらの間に何らかの普遍性が存在するということが、両言語の間の翻訳可能性を担保し、またヴィトゲンシュタインの言葉の味わいも生み出す。  世界の中に流通する記号が、私たちの脳に視覚刺激として入り、それが特定の表象を立ち上げるとき、私たちは何らかの普遍的な概念空間に接続しているように感じる。これが、プラトン的世界といわれるものの由来であろう。もちろん、クオリアの一般的性質として、他人が感じているクオリアが自分と同じであると確認することはできない。ヴィトゲンシュタインの言葉に感動しているドイツ人と日本人が、お互いの意識の中のクオリアをのぞき込むことはできない。ただ、見つめ合って微笑むことができるだけだ。 †二重の「恣意性」[#「†二重の「恣意性」」はゴシック体]  もちろん、ある特定の文字列に対して、意識の中で定まったクオリアが生成されるように最初から運命づけられているわけではない。前節で議論したように、意識の中で感じられる個々のクオリア自体が、「何がどうなるかわからない」という偶有性のダイナミクスの結果「一丁上がり」で出来上がった一つの普遍化、結晶化の果実である。そこに、言語の恣意性も介在し、由来する。  神経細胞の活動からクオリアが生起するプロセスにおいては、言語における「シニフィアン」と「シニフィエ」の間の恣意性とは性質を異にした、一段と本質的でやっかいな恣意性が介在している。脳の中の神経細胞がある特定の時空間パターンで活動したとしても、その脳に宿る意識の中である特定のクオリアが感じられなければならない必然性を説明する理論はない。薔薇を見て、手にとり、その香りを楽しむ。そのような一連の世界との行き交いが、心の中に「赤」のクオリアが立ち上がるのではなく、「青」のクオリアが立ち上がることで起こったとしても、機能主義的に見れば何の不都合もない。  一般に、機能という視点から、ある特定のクオリアが意識の中で生み出されなければならない必然性を説明することはできない。言語学が、統語論(文法に関する理論)によっては言葉の意味を扱えないのと同じことである。 「A4判一枚の紙の上に書かれた深遠な思想」はなぜそのような地位を得るのかという問題の解決の道は、言語におけるシニフィアンとシニフィエの間の恣意性、そして、言葉の意味を支えるクオリアの生成における恣意性という二重の難題によってはばまれている。  それでも、底が抜けているとわかっているのに、言葉を吐き、それを聞き、読み、心を震わせることをやめられないのだから、人間の生命《いのち》はつくづく不思議である。人生とは、その由来がつかめないままに進行していってしまう事態のことなのだろう。 [#改ページ] 批評性と創造[#「批評性と創造」はゴシック体]  ウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの人気はいつまで経っても衰えず、「天才」の代名詞となっている。  モーツァルトといえば、映画『アマデウス』で描かれたような、天真爛漫《てんしんらんまん》で無邪気な芸術家というイメージが一般に浸透している。信頼のできる記録によっても、冗談好きで、猥雑な側面があったようである。その一方で作品は天上的な気配を持ち、誰の口元にも微笑を浮かべさせずにいられない特性を持っている。モーツァルトの天才を褒めることが、音楽における「政治的に正しい」審美眼であると認められるに至ったのもうなずける。  私は、モーツァルトの音楽に心惹かれながら、ずっとそれを全面的に肯定することができないできた。青春の疾風怒濤をワグネリアンとして過ごしたという経緯もあり、モーツァルトを褒める者がときに見せる無謬性の衒《てら》いが許せなかった。大学の美学の授業で当代一のモーツァルト学者に突っかかったこともある。そんな私がモーツァルトと和解したのは、「フルートとハープのための協奏曲」(K 299) がきっかけである。パリ滞在中の、二十二歳のときの作品である。何にせよ、このような愛らしい曲を書けた男のことを憎むことなどできないと思った。 『アマデウス』には、モーツァルトと同時代の作曲家アントニオ・サリエリが登場する。サリエリは、モーツァルトの作品の素晴らしさを理解しながら、自らはそのようなものを生み出せない哀れな存在という設定である。サリエリの審美眼はたいしたものであるが、創造性においては凡庸である。歴史的事実はどうであれ、『アマデウス』はそのような前提で描かれている。自身も作曲をするものの、サリエリはどちらかといえば「批評家」的人間の代表として登場しているといってよいであろう。  たしか『いたずらの天才』というタイトルの本に書かれていたのだと思うが、ショパン好きの批評家をからかう話がある。これはフレデリックの履いていた靴下だというと、批評家がそれを崇めて匂《にお》いを嗅《か》がんばかりに押し頂く。その後で、「実はオレのだよ」と馬鹿にするのである。悪趣味な話ではあるが、映画の中のサリエリはときに件の批評家に近い扱いを受ける。モーツァルトの天真爛漫な自由奔放に比して、美の前に傅《かしず》こうとするサリエリが、ときに硬直的に見え、からかいの対象にしたくなる気持ちはまあわかる。 †漱石の批評性[#「†漱石の批評性」はゴシック体]  これは特に日本で顕著な現象だと思うが、ものをつくっている(と自負している)人間が、「おれは自分がおもしろいと思えるものをつくっているだけのことだよ」といささか偽悪的に嘯く傾向がある。その後に、「評価なんか知らない」「誰かを天才だと褒めても仕方がない」などととりつく島もない。こちらが善意でその作品はこうだね、と言っても、黙ってにやにや笑っている。批評性の欠如は日本人全般に共通する欠点である。  それにしても、創造者が明示的に批評性を引き受けなくともエクスキューズされるということを、あたかもそれが特権であるかのように自負する態度は、この際二十世紀とともに葬り去ってしまいたいと考えるのは私だけだろうか。  ものをつくるということと、その価値を認め、批評し、ときに崇めることは、本当に無関係なのだろうか。映画『アマデウス』の中でさえ、モーツァルトは自分自身の作品の価値に自覚的であり、自負を持っている。サリエリの作品をこのように変えればよい、と具体的に提案すること(それは最上の批評的行為であるが)さえしている。およそ、良質の批評性が内在しなければ創造などできないということは、理の当然であり、別に『アマデウス』をもって検証するまでもないことであるように思う。  夏目漱石は、近代日本が生んだ偉大な小説家であるが、同時に批評の精神を大切にした人であった。当時の「ベンチャー企業」であった朝日新聞に今日まで続く文芸欄を創設し、その運営に心を配ったこと一点をとっても、そのことは見てとれる。そもそも、その作家活動の初期に「文学論」や「文芸の哲学的基礎」といった批評的文章を世に問うた人である。すぐれた批評家が、同時に傑作を生み出す創造者でもありうることを、漱石は知り、証明したのではないか。  漱石の批評性は、とりわけ、それが自分自身に向けられるときに鋭利なものになる。そもそも、ロシアを打ち負かし、極東の新興国としての自負にあふれていた当時の日本に懐疑的な目を向けたのが漱石だった。外国で女をつくり、捨てて帰ってきてその顛末《てんまつ》を自己陶酔的な文章に書くなどということは、およそ漱石の資質の中にはない趣向であった。弟子の内田|百《ひやつけん》が大切にしていた書を、気にくわない、代わりのものをやるからといって目の前でびりびり破く。アカデミシャンとしては最高の栄誉だった東京帝国大学教授への就任を固辞して新聞社社員となり、今とは比べものにならない重みがあった博士号を辞退する。  この世でいちばん可愛いはずの自己をさえ批評する精神。それがあれほど厳しいものでなければ、漱石はもっと長生きしたかもしれないとは思うが、生き方自体は見事である。 「おもしろいものをつくっているだけだ」と嘯く創造者の生み出すものがすべて駄目だとまではいわない。世に問うた作品は、もはや作者の意図を離れて流通していくものであり、制作意図などをくどくど説明するのは、本来余計なことである。漱石その人も、自作について説明を加えることを常としたわけではなかった。自己批評は胸に秘めていればよい。言い訳をしてはいけない。「無記」を貫くのも一つの美学だ。内的な批評の目を欠いて自己陶酔に陥る創造者がいるとすれば、それは世間にとっての傍《はた》迷惑となろうが、そんな作家は遅かれ早かれ馬脚を現すだろう。 †創造することは思い出すことに似ている[#「†創造することは思い出すことに似ている」はゴシック体]  そもそも、創造性ということを私たちは神秘化しすぎなのではないか。批評は散文だが創造は天上の詩であるというのは、世界を曇りのない目で見ることを知らない人の言いぐさである。自然は飛躍しない。無から有が生み出されるはずがない。創造のプロセスをいたずらにベールに包むことは、作品の市場価格をつり上げる戦略としては有効であっても、リアルな世界知には通じそうもない。  創造をめぐるモデルは、いまだにルイ・パスツールによってなされた微生物の「自然発生説」の否定以前の段階にある。微生物が無から生じることがないように、人間の脳が何もないところから何かを生み出すことはありえない。実際、脳科学は、創造性と脳内の記憶のシステムの関係を明らかにしつつある。創造とは、思い出すという行為と密接に関係しており、過去の体験の脳内アーカイヴに依存しているのである。 「創造することは思い出すことに似ている」という説を唱えているのは、オックスフォード大学の世界的数学者、ロジャー・ペンローズ教授である。ペンローズ教授は、彼自身が広く天才と認められる創造者であるが、数学の新しい定理を考えるといった創造のプロセスは、「思い出すことに似ている」と『皇帝の新しい心』をはじめとする著作の中で主張している。もとより、プラトンは人間の思考の基礎をかつて魂がそこに住んでいた完璧なる「プラトン的世界」の想起に置いたが、ペンローズの仮説は、より現代的な脳科学の文脈の中でも有効性を持つのである。  モーツァルトその人も、幼い頃から各地を演奏旅行しながら接したさまざまな音楽を脳内に蓄積することがなければ、あのような傑作群をものにすることはできなかったであろう。近い将来、創造性をめぐる脳科学の知見が実験、理論の両面から明らかにされていけば、もはや創造に神秘はなく、詩は散文に統一されるときがくるかもしれない。創造者はいたずらに特権化されることなく、最も陳腐な日常の所作とひと連なりの地平の中で理解されるのではないか。そのとき、私たちの何気ない日常に対する尊敬の念はいや増すことになるのだろう。 †批評性の欠如という悲劇[#「†批評性の欠如という悲劇」はゴシック体]  記憶が創造に結びつくダイナミクスにおいては、審美的、ないしは批評的な基準が介在するであろうことは明白なことである。創造するとは、ランダムに想起することではなく、ある価値の基準をもって記憶を再編成し、よみがえらせることである。ペンローズの仮説を変形して、「創造することは、審美的価値の基準のもとで思い出すことである」あるいは「創造するとは、批評性をもって思い出すことである」と陳述してもよい。想起のダイナミクスに批評性が埋め込まれることで、驚くべき傑作群が生み出され、新しい数学の定理が証明され、そして科学的インスピレーションが訪れるのである。  現在のところ、創造性の数理モデルは、審美的基準を生成のダイナミクス自体に埋め込むことには成功していない。しばしば見られるアプローチは、非線形ダイナミクスのような一見複雑なパターンを生み出すプロセスをまず想定し、そこから一定の写像関係を通して視覚、聴覚などの物理的刺激を生み出すことである。そのようにしてつくり出された作品は、審美主義の権化ともいえるモーツァルトの作品とはおよそ異なる姿をしている。カオス的力学は、ある程度構造化されたアトラクターや、その間のカオス的遍歴を生み出しはするものの、人間が慣れ親しんできた高度に発達した審美性の体系とは、かなり遠くの地点にある何かを提示するにとどまる。  ロックン・ロールやジャズ、ヒップ・ホップに見られるように、審美性や批評性は時代とともに更新され、新たな地平を開拓する。いつまでも古典的な美の基準に固執することがいいわけではない。  その一方で、美とは何か、真実とは何かという批評性を放棄してしまった創造が、一種のモラル・ハザードに陥ることは見てとりやすい理屈である。困ったことに、人間の脳は価値中立的な刺激に対しても、それに向き合えばそれなりの魅力を見出してしまうという能動的側面を持っている。価値の普遍を志向する厳しい批評性を伴わない自己陶酔的な作品に付き合わされても、そこにある種の風合いを感じさえしてしまう。その本来無意味の感触を「現代的」だと勘違いすることが、創造者にも鑑賞者にもときに見られないか。  批評精神と創造性との関係を国家というレベルで考えれば、自己批評のない没入がときに悲劇をもたらすという歴史的事実を突きつけられる。日本人に批評性が乏しい(真摯な批評というものを許容する精神的雅量に乏しい)ことは、しばしば指摘されていることであるが、そのような怠惰を放置すると、ときに国家的悲劇へとつながる。  インターネット上の一部の書き込みに見られるがごとく、匿名性に身を隠して相手を揶揄し、否定することだけに汲々とする精神は、何の創造にもつながらない。一方で、現状に対して独自のアングルから接近し、一つの理想との対置においてその差異を透徹した目で見ることは、創造につながる。それは、また、批評の対象への愛とも矛盾しない態度であるはずである。  批評性と創造の間の関係に思いを馳せることは、単に芸術や科学におけるイノベーションのメカニズムを解き明かすことだけでなく、日本の現状を引き受け、それを肯定的に変えていくことと必ず結びつく。日本という国を容赦なく批評することは、愛国心とやらと矛盾しないどころか、自らの住むこの社会を愛する心そのものである。無批評は、愛国を劣化させるのだ。 [#改ページ] 怒りについて[#「怒りについて」はゴシック体] 「魔法の鈴」の一振りで、悪者たちが踊り出すオペラ『魔笛』の一場面。春の太陽に照らし出された桜の花びらをやわらかな空気が包む。そんなふくよかな美しさを思い起こさせる『フルートとハープのための協奏曲』。神々しい表情を見せる惑星のように、巨《おお》きなスケールの美しさを呈する交響曲『ジュピター』。  モーツァルトは、なぜ、あそこまで明るく、世界を肯定する音楽を書いたのだろうか? 楽聖の作品に親しみながら、ときどき、そのようなことを思う。  その実人生を見れば、決して順調であったわけではない。幼いとき、その驚嘆すべき演奏技術を目撃するために集まってきた人は、必ずしもモーツァルトの指から流出する芸術そのものに惹きつけられてきたわけではなかった。多くの場合、ただ、幼い子どもが、大人の熟練者よりも巧みに楽曲を弾きこなす様子に一つの「見世物」として興味をかき立てられただけのことだった。  人々の好奇心の対象となる「怪物」としての人生の出発。後世の「比類なき音楽の天才」としての評価を当たり前のことのように知る私たちには想像ができないくらい、同時代人から見たモーツァルトはまがまがしく、いかがわしい気配に包まれていたに違いない。  そんな時代の雰囲気の中で、幼きモーツァルトが、しだいに「本物の芸術家」へと脱皮していくプロセスは、重力の魔に抗して地球を脱出していくロケットのような、「地上の桎梏《しつこく》」から「天上の浮遊」への質的転換を伴っていたことだろう。その切ない道筋を思っただけでも、かの芸術家への尊敬と愛慕の念は増す。  成人し、「奇跡の子ども」としてよりは、むしろ作曲家として活躍し始めた後のモーツァルトの人生も、順風満帆とはいかなかった。何らかの安定した地位を求めて数回にわたって敢行した旅行も不首尾に終わり、残されたのは、著作権という概念のなかった当時の社会において、次から次へと作曲して食いつなぐ、綱渡りのライフスタイルを送るという選択肢だけであった。  さまざまな史実を総合すると、モーツァルトの音楽は、「魂の錬金術」に属するものだったのではないかとつくづく思う。モーツァルトが生命の前向きな推進力に満ち、愛に捧げられた調べの数々を最終的につくり出したことは疑いない。しかし、だからといって、モーツァルトその人の心の中に暗い影がよぎらなかったということにはならない。 †魂の錬金術[#「†魂の錬金術」はゴシック体]  無菌状態を志向する過度なまでの潔癖性が人間の免疫系にとって必ずしもよい影響を与えないように、人間の心的エネルギーは、決して正の感情の純粋培養から生み出されるわけではない。何の変哲もない物質から金をつくることを目指した、かの「錬金術」のごときメカニズムが私たちの心の中にもある。モーツァルトの心の中に蓄積されたさまざまな負のエネルギーが、正のエネルギーへと転換される「魂の錬金術」のプロセスを通して、あの限りなく明るい芸術は生み出されたのであろう。  もちろん、ここでいう「錬金術」はあくまでも一つのメタファーである。感情における「正」も「負」も、結局は脳の中の神経細胞の相互結合にもとづくダイナミクスから生み出される状態の持つ性質にすぎない。「正」と「負」の間の相互変換は確かに原理的に可能であり、だからこそ過去には多くの創造者が人生の哀しみや苦しみを前向きの生成へ向けられた衝動に変えてきたのである。 †白魔術と黒魔術[#「†白魔術と黒魔術」はゴシック体]  もう少し、メタファーの話を続けよう。  魔術には、「白魔術」と「黒魔術」があるという。ここに「白魔術」とは、愛を成就させたり、美しいものを生み出したりと良き目的のために用いられる術である。一方、「黒魔術」とは、私怨《しえん》をはらしたり、自分の野望を実現したりといった悪しき目的のために用いられる術である。  もちろん、近代合理主義者である私が、「魔術」というものの実体を信じているわけではないし、この概念をめぐって歴史上展開されてきたさまざまな議論の詳細に通じているわけでもない。しかし、メタファーとしての「白魔術」と「黒魔術」の関係について世に行われている議論は面白いと思う。これらの二つの術は、そもそもその方法論が異なるのか、それとも、共通の起源にもとづいていながらその目的が違うだけなのか、という点についての論争があるのである。生命の本質が、清濁あわせのむ混淆《こんこう》の中からの動きの表出にあることを考えれば、この論争の答えはおのずから明らかであろう。  人間は誰でも、ときに否定的な思いにとらわれる。哀しみや絶望のように内側に向かっていく感情もあるし、妬《ねた》みや怒りのように、ともすれば外に向けられ、ときに暴力性につながるような感情もある。  妬みや怒りのような否定的な感情をそのまま表出してしまうことは、他人にとってはもちろん、自分自身にとっても多くの場合不幸である。それは一種の「黒魔術」であって、世界の中に否定的な感情の連鎖をもたらすにすぎない。昨今の世界情勢の混迷を考えれば、「黒魔術」的な感情の表出がいかなる困難を人類に実際もたらしているか、白日の下のごとく明らかであろう。  自分の中の否定的な感情を、正のエネルギーに変える。「魂の錬金術」を通して、「黒魔術」ではなく「白魔術」を執り行う。そのような態度こそが、創造者としてはもちろん、ますます密に結びつけられる地球社会に住む一人の人間としてもとるべき倫理なのである。  確かに、この世から不幸は絶えないだろう。だからこそ、創造することの意義がある。暖かい陽光の下で、永遠の幸せに包まれて笑っている人に「白魔術」など必要ない。前向きの正の生命エネルギーは、困難という土壌の中からこそ生まれる。実生活においては必ずしも幸せではなかったモーツァルトだからこそ、音楽における限りない明るさを捏造《ねつぞう》しなければならなかった。 「生理的奇跡」とさえいわれる天才の創造の背後には、負の感情を「黒魔術」ではなく「白魔術」へと変える「魂の錬金術」があった。メタファーでいえばそのようなことを私は夢想する。  もちろん、現在の脳科学の知見のレベル、モーツァルトは二度と現れないという歴史的一回性、そして検証の不可能性などの要素を勘案すれば、以上の思索はすべて「憶測」にすぎない。それでも、以上のようなイメージに私の後半生を賭けてみようと今では思っている。 †ヴィジョナリーの怒り[#「†ヴィジョナリーの怒り」はゴシック体] 「怒り」は、しばしば創造性の源になる。 『ウェブ進化論』の梅田望夫さんと対論したとき、「怒り」の話になった。アメリカにおいて、IT(情報関連技術)のイノベーションを進めてきた改革者たちは、ほとんど例外なく「怒り」に駆られていたというのである。 「一人が生涯に経験することのすべてを、デジタル・データとして記録しておこう」というプロジェクトは、記憶媒体に関する技術が飛躍的に進歩した今日においては、必ずしも絵空事ではなくなってきている。梅田さんの「メンター」(指導者)であり、シリコン・バレーを代表する「ヴィジョナリー」である技術者は、今よりもメモリーに関する技術がはるかに遅れていた時代に、すでに「生涯の経験をすべて記録する」というヴィジョンを立ち上げていたという。  その技術者が、ネットが普及する以前、あるソフトウェアを購入したら、フロッピー一枚が何重にも梱包《こんぽう》されて、自宅に送られてきたのだという。それを見て、彼はすさまじい怒りにかられ、梱包材を引き裂き、箱をずたずたにして、「本質的なのはフロッピーの中の情報だけなのだから、それだけが直接PCに来ればいいんだ! こんなことをやっていてはダメなんだ!」と暴れ回ったという。  現状に対して怒りを抱く技術者たちが、あるべき未来像を構想する。一方で、既得権益の中に立てこもろうとする人たちは現状を守ろうとする。最初は対立が生じるが、長い目で見れば必ず前者が勝つ。そのような革新のプロセスが、アメリカの歴史の中でくり返されてきたと梅田さんは言うのである。  そのような視点を持ってあらためてふり返れば、怒りが創造の源になったというケースは、歴史上枚挙にいとまがない。目指すべき正しい方向があるのに、多くの人がそのことに気づかず、現状に甘んじている。あまつさえ、不満足な状況に堕していることを自己弁護、利益誘導に使う人たちがいる。そのような世界のあり様を見て、真実を求めるものは怒りを覚える。そのような局面における怒りは、一つの曇りのない現実認識の形式に他ならない。  ただ、彼ら成功した創造者たちは、怒りの負のエネルギーをそのまま表出することはしなかった。その透徹した現実認識を、具体的な仕事の中に注ぎ込んで、見事に作品に結実させた。だからこそ、それらの果実を私たちは人類の肯定的な知性の結晶として感謝をもって受け止め、その創造者に対して尊敬の念(「こんな素敵なものをつくってくれてありがとう!」)を抱く。 †怒りの創造エネルギー[#「†怒りの創造エネルギー」はゴシック体] 「神は死んだ!」と叫んだフリードリッヒ・ニーチェの哲学の背後に当時のヨーロッパにおける知識人の自己|欺瞞《ぎまん》に対する怒りがあったことは言うまでもないだろう。大学教師に反抗的な態度をとったがために職を得られずに、特許局に勤めながら「相対性理論」を構想したアルベルト・アインシュタイン。スターリン時代の収容所の生活を静謐《せいひつ》な筆致で描いた『イワン・デニーソヴィチの一日』で衝撃的なデビューを飾ったソルジェニーツィン。これらの創造者は、「怒り」という現実認識を、見事な作品の生成へと結実させた。 「これをつくった時には、生きた心地がしただろう」。  陶磁器の作品の絵の横に添えられた、そんな武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》の言葉に触れたことがある。現状に対する怒りから出発しながらも、破壊よりもむしろ創造へと精神エネルギーを向けることに成功した創造者たちは、まさに、そのとき、「生きた心地」がしたに違いない。  現代の世界は、絶望的なほどに分裂してしまっている。知は細分化され、おそらく誰一人として、現在世界を覆っているさまざまな問題群を現実的には引き受けることができない。ノーベル賞といえども「サブカル化」し、かつてのウォルフガング・ゲーテやバートランド・ラッセルのような、多種多様の問題について通暁し、時代の困難を解きほぐす叡智を持つと期待されるような「知識人」もまた、「絶滅危惧種」になってしまった。  一見関係がないと思われるものたちの間に「補助線」を引き、その生き様において自分自身が「補助線」と化して、断片化してしまった知のさまざまの間を結ぶ。そのような、世界の統一性を取り戻す精神運動には、途方にくれるようなエネルギーが必要とされる。  怒りこそが、そのようなエネルギーを私たちに与えてくれるのであろう。破壊する怒りではなく、「魂の錬金術」を通して、さまざまを創造する「白魔術」としての怒り。  地下のマグマが胎動し、火山が噴く。その時、世界の中に今まで存在しなかったような不思議な魅力に満ちた香《かぐわ》しいものたちが満ちあふれる。  そんな生成の過程は、奇跡的なことのように見えて、実は生きとし生けるものに普遍的な原理そのものに根ざしている。現代の混迷から抜け出るための道筋はよく考え抜かれた生命哲学の実践の中にこそ見出される。 [#改ページ]   ㈸[#「㈸」はゴシック体] [#改ページ] 総合的知性と専門的知性[#「総合的知性と専門的知性」はゴシック体]  人間の脳の容量は有限で、この世界の表象やできごとは無限にあるから、その間には齟齬《そご》がある。自分の有限の生の中で、とても全部を引き受けることはできない。「すべての場所に、同時にいることはできない」。  だから、知性の総合性などといっても、しょせんは幻想である。そのような考え方もあるだろう。「この世界のすべてを引き受けて」などとスローガンを掲げても、それは、結局は「蟷螂《とうろう》の斧《おの》」であるようにも思われる。  とりわけ、数学や理論物理のような鋭利な専門性が必要とされる分野においては、総合的な知性は、かえって邪魔になるという印象がある。どれほど多くのことを知り、世間の事情に通じていたとしても、たとえば「位相幾何学」や「無限集合論」の分野で独創的な業績を残せるわけではない。むしろ、世の中の森羅万象の多様さには少々目をつむり、限られた専門性の中に没入することこそが、これらの分野における成功の必要条件であるようにさえ思われる。  数理的な分野だけではない。世間には、総合的な知性を称揚する言葉は少なく、揶揄《やゆ》する言説がむしろあふれている。とりわけ、アカデミズムの分野では、ある専門性の中に沈潜することが賞賛され、さまざまなことに手を出す人は、「なんでも屋さん」「評論家」などと非難される。  しかし、専門性を鋭く貫くこと自体には価値があるとしても、それでは世界全体を引き受けて、ミネルヴァのふくろうはいつ飛び立つことができるのだろう。  この世における森羅万象の息づかいに感染すること。素粒子のふるまいから宇宙の中の潮流まで。あまり知られることのない、しかし、とてつもなくすぐれた文学作品から、ポップなかたちで流通するミリオンセラーまで。体制に寄り添う保守本流から、アヴァンギャルドな進歩主義まで。世界という奇妙な場所で起こるさまざまなことを引き受けて人間の内的な宇宙へと写像し、それらのことごとについて、身を切るようなリアリティを内包した言葉で語る。そのような役割は、いったい誰が担えばよいというのか。それとも、現代は、さまざまなことを引き受けた概念世界の吟遊詩人を必要としないとでもいうのだろうか。  知性とは、何と不思議で、とらえがたいものなのだろう。専門だけに棹《さお》させば、しだいに世界が閉ざされる。広々とした世界を駆け抜ければ、しだいに詳細の深みが手指からこぼれ落ちていく。一カ所を深く掘っていけば、やがて豊饒な水源にあたり、それがこの世から秘された地下の水脈を通って思わぬ遠くへと至るという希望を抱くこともできるが、専門性の制度的束縛の中にいる人々のうちいったい何人が、そのような深掘りをすることができるというのだろう。  むしろ、学問の現状は、そのような遠い見はるかしをともなった横断性からは離れつつある。明示的なかたちで「商品」になった「業績」だけをただ加法的に計算する成果主義が跋扈《ばつこ》し、大学の教養課程も、「社会に出て役に立つ専門教育」を求める声の前に、しだいにその精神的輝きを失ってやせ衰えている。  もちろん、ある文脈に先鋭化した精神の暴走に意味がないわけではない。人間には、「鋭さ」への志向性が確かにある。さまざまな要素をバランスよく兼ね備えているのではなく、鋭く、鋭敏な知性へ。そのような、重力圏を脱するロケットのごときイメージに、青年は自分の野望を託す。 †湯川秀樹の漢籍の素養[#「†湯川秀樹の漢籍の素養」はゴシック体]  それでも、人間が、総合性の錦《にしき》の御旗《みはた》を下ろしてもいいとは思えない。さもなければ、ノーベル賞といえどもサブカル化してしまう。ヒエラルキーの中で下(サブ)にあるという意味ではない。この世の中のさまざまな表象の一部(サブ)しか引き受けていないということである。受賞者が世界のさまざまなことについて叡智にもとづく洞察を求められたアインシュタインやボーアの時代は遠くなった。  いったい、総合的な知性と、鋭利な達成は相容れないものなのか。生命の有機体としての性質を考えれば、専門的領域における業績の深みが、この世の機微のさまざまに通じていることと無関係であるはずがない。一見ある特定の側面が突出したように見える才能の開花も、実は総合的な知性に支えられている。そんな当たり前の真実にあらためてたどり着いたのは、京都大学でのシンポジウムがきっかけだった。湯川秀樹、朝永《ともなが》振一郎両博士の生誕百年を記念するパネル・ディスカッションのコーディネーターをするため、お二人の偉業をふり返る作業をした。  その中で再確認した事実があった。湯川博士は、学者の家系に生まれ、幼い頃から『論語』や『史記』といった漢籍を素読させられた。その幅広い教養は、後年のさまざまな著作活動、発言の記録からもうかがえる。一方、朝永博士が、文筆家としてもすぐれた業績を残し、さまざまな世事に通じていたことはいうまでもない。  日本人としてはじめてノーベル賞を受けるという栄誉に輝いた湯川博士の専門分野は、理論物理学。その業績は、永遠不滅のものと思われていた素粒子が有限の寿命をもって崩壊するという全く新しい世界観につながるものだった。不安定な「中間子」が媒介する「湯川ポテンシャル」を通して、物質どうしが相互作用する。湯川博士の独創は、そのような自然法則のあり方を数学的フォーマリズムの中に記述したことだった。  漢籍の素養と、数学的な才能の間には、直接の関係がないようにも思われる。しかし、既存の体系をただ知識として受け入れるのではなく、今まで誰も考えつかなかったような新しい発想に至り、その形式をととのえるという知性の働きには、一見関係のない分野における卓越が意味をなさないはずがない。  この世のさまざまな現象は永遠不滅のものではなく、むしろ絶えざる遷移と生成消滅のうちにある。「万物は流転する」と唱えた古代ギリシャのヘラクレイトスに見るように、生成消滅の概念自体は東洋の専売特許ではない。しかし、とにもかくにも、湯川博士は漢籍をはじめとする読書を通して総合的な教養を身につけていた。そのような知性のかたちが、中間子論を生み出すうえで役に立たなかったはずがない。 †ダ・ヴィンチはなぜ「モナリザ」を描けたか[#「†ダ・ヴィンチはなぜ「モナリザ」を描けたか」はゴシック体]  作品の中に人生のさまざまな体験が反映されるのは、「文学作品」においては当たり前のことのように思えるかもしれない。作家は、人生経験のすべてをその描く小説世界に反映させることができる。数学者や理論物理学者は、そのような小説家の融通無碍《ゆうずうむげ》な人生とは無縁の職業生活をしているように見えるが、本当にそうだろうか。  むろん、「あれもこれも」という発散的な興味を持っているだけでは、専門分野における卓越に達することはできないだろう。しかし、総合的な知性の強靱《きようじん》な足腰を持っている人が、そのエネルギーを専門的な領域に強烈に投入することによって、ロケットが点火され、成層圏へと脱出する。そのようなかたちでの総合的知性の鋭利な達成への変換のプロセスは、確かにありそうだ。いや、そもそも、歴史に残るような偉大な独創を示した人は、例外なくすべてがそうだったのではないか。  人生の経験が小説に生かされるというのは、あまりにもストレートすぎてかえってわれわれに本質を見失わせるのだろう。いわゆる「私小説」に至ってはもちろんのことである。漢籍を素読するという経験の積み重ねが、中間子論の数学的フォーマリズムの創成につながる。そのような地下の水脈を通した統一体としての知性の密なるダイナミクスについて考察することなしで、人間の精神の広がりについて本当のことはわかるまい。  レオナルド・ダ・ヴィンチは、「万能の天才」という評価を受けているが、発明家としてはどれも中途半端に終わっている。真に後世に残るべきはその十数点しか現存していない絵画であり、これらの作品は真の天才としての尽くすことのできない輝きを見せている。「絵画」という専門領域におけるダ・ヴィンチの卓越は、「万能の天才」と称されるその幅広い素養に裏づけられている。一筋縄でいかない人間という存在についての深い洞察がなければ、生涯手元において手放さなかった「モナリザ」の微笑みは描くことができまい。  総合的知性が、ある専門性における鋭利な達成につながる。ともすれば純粋音楽家とみなされがちなモーツァルトにおいても、そのオペラにおける徹底した愛の原理、平等、博愛の精神の貫徹を見ればわかるように、実際には人間というものが置かれている状況に対する理解と感受性から作品が生み出されている。 †専門性という幻想[#「†専門性という幻想」はゴシック体]  元来、脳の中の神経細胞のネットワークが、「専門的領域」へと塗り分けられているわけではない。脳の中には、どの神経細胞からどの神経細胞へもせいぜい数回の「シナプス結合」を通せば到達できる「スモール・ワールド・ネットワーク」が存在する。表面的に見れば遠く隔たり、関係のないように見える能力の発露も、脳の生理的特性の実際に即して考えれば、実はお互いに関連しあっている。  アメリカの言語学者、ジョージ・レイコフらは、抽象的な数学の概念が、いかに脳内の身体イメージの処理過程の上に成立しているかということを論じた。「上」と「下」、「大きい」と「小さい」、「内側」と「外側」、「内包」と「外延」、「部分」と「全体」。このような数学的なフォーマリズムを構築するうえで欠かすことのできない抽象概念が、いかに具体的な私たちの身体の認知プロセスに結びついているか、丹念に跡づけるレイコフらの議論は説得的である。  残念ながら、脳の中の神経ネットワークをありありと思い描いてみることは容易ではない。だから、私たちは専門性という幻想にとらわれる。かつて存在したゲーテや南方熊楠といった万能の天才を称揚しつつも、現代はそのような時代ではないと嘯く。しかし、脳という有機組織体の構造と力学をありのままに見れば、切り離された専門性の純粋培養など絵空事であり、この世の森羅万象の中に飛び込み、さまざまなことに接し、感じ、涙し、取り入れ、つかみ、整理し、開くプロセスがなければ、そもそもどんな専門領域においても突き抜けた達成など不可能なのであるという当たり前の事実に気づくだけのことである。  人間は、自分自身の脳についてさまざまな取り違えをくりかえしてきた。大脳皮質の前頭前野が何の機能も果たしていない「沈黙の領域」であるという誤解にもとづき、それを切除するという、現代の脳科学者から見れば「蛮行」としか言いようのない「ロボトミー」の創始者であるエガス・モニスにノーベル賞が与えられたのは一九四九年のことである。その後、ロボトミーは廃れ、何の役割も果たしていないと思われていた前頭前野は、人格という人間の最も核の部分を担っていることがわかった。  もの言わぬ静かなるものに耳を傾けるということは、倫理的に正しい態度であるだけでなく、知的卓越への階段を上るためには必要なことである。専門性へ閉じこもる決意をした人にまで、世界全体を引き受ける概念の吟遊詩人の役割を押しつける気はない。ただ、その肝心な専門領域においてさえ、もし画期的な独創を発揮することを望むならば結局は総合的視座が必要だというその因果関係を、脳科学は将来必ず証明するだろう。  いつ、脳のシステムがその秘密を明かすかはわからない。しかし、私たちの生命の時計は待ってくれない。心ある人は、今すぐにでも自らを閉じこめる「専門性」のガラスの壁をやぶり、世界という広大な偶有性の海に飛び込むべきであろう。 [#改ページ] 「収束性」という罠[#「「収束性」という罠」はゴシック体]  思い起こせば、自分の主要な活動領域の一つとして「科学」を措定しておきながら、その肝心な活動のあり方について、常にアンビバレントな思いを抱き続けてきた青年期だった。  科学を志した最大の理由の一つは、「そうすれば認知革命ができる」ということに尽きた。髪の毛を振り乱した科学者二人が、黒板の前に立って、数式を書きつけながら何やら議論している。世間の人たちから見れば何を言っているのかわからないが、本人たちの頭の中では素粒子や銀河や生命の本質論が渦巻いている。  政治家や資本家から見れば力のない、とるに足らない存在に見えても、そのような「セッション」の最中に、どちらかの脳髄で起こる一瞬の「ひらめき」によって、認知革命が成就するかもしれない。世界の新しいあり方が明かされ、画期的な新技術や、人類を破滅の淵に追い込む大量破壊兵器ができてしまうかもしれない。その恩恵や呪いは、政治家や資本家にも及ぶことだろう。自分たちが生きているという事実が、全く異なる光の下に照らし出され、この世が違った場所に見えるかもしれない。そのような認知革命の可能性に精神は痺《しび》れた。  大学院生になり、学会に行くようになって、学者たちが案外平凡なのに落胆した時期もあった。科学者たちの凡庸な外見が、科学という方法論の本質に起因しているということを理解できたのはようやく三十も半ばを過ぎてからのことである。研究を行う者が天才であろうが、秀才であろうが、そのような人物としての特性にはかかわらずに、ある方法論に従ってさえいれば、収集するデータの有効性や理論の普遍性が担保される。天才がやらなければ成功しないというような実験には科学としての意味はない。どんなに平凡な人間でも、性格の悪い人でも、善意に満ちた人も、あるプロトコルに従って操作さえすれば、同じ結果が出る。これが、科学という知的営為の偉大なる大前提である。  科学の歴史をつくってきたのがニュートンやアインシュタインといった、それまでの世界観をひっくり返した掛け値なしの天才たちであるということを考えると、右に述べた「平凡さの芸術」としての科学のあり方は一見パラドキシカルにも思える。  科学的方法論自体が凡庸さを醸成するのはいいとしても、よほど強靱な精神を持っていなければ、科学という思考法がそれに「感染」した者の総合的知性を低下させてしまうウィルスのように機能するのを何回も見てきた。そのような危険な徴候は、特に、科学者が不用意に文学や芸術やその他の感覚的な洗練と卓越が必要とされる分野についてコメントするときに現れるように見えた。  もっとも、すべての知的営みの中で特に科学だけがそうであるというわけではない。哲学、思想、社会学、経済学、数学。あらゆる知のディシプリンにおいて、不用意に淫《いん》すると堕してしまう罠《わな》は至る所にある。ここで言う「罠」とは、つまり、世界の多様性を正しく見ることができなくなるということである。とりわけ、「普遍性」の概念を不用意に立ててしまうことの中に、人間を怠惰にするトラップが仕掛けられている。 †物理学帝国主義[#「†物理学帝国主義」はゴシック体]  物理学帝国主義という言葉がかつてあった。宇宙の森羅万象の動き(「時間発展」)は、すべて究極的にはいくつかの自然法則、一群の方程式で書ける。したがって、人間のすべての知的営みは、やがて物理学によって吸収されてしまうというようなやや傲慢な態度を指した。  確かに、科学といえばその精華が素粒子理論だった時代は存在した。しかし、今となって考えれば、そのような世界観は、「人間の営みはすべて経済活動である」と主張する経済学者、「すべての動機は政治的なものである」と嘯く政治学者、そして「人間の精神活動はすべて脳に帰着する」と楽観する脳科学者の立場と同じように、もし無反省に追求すれば陳腐な思考に堕するといわざるをえない。  もちろん、普遍性は、決して不磨の大典として不変のまま存在し続けているのではない。かつて物理学者の「帝国主義」の思想を支えたのは、「収束」という概念だった。この世のあり様を究明しようとするさまざまな知的活動は、やがて一つの世界観、一つの理論的枠組みへと収束していく。そのような考えがあったからこそ、やがてはすべてを覆い尽くすであろう知的営みとしての、「物理学帝国主義」を構想することもできたのである。  収束の概念は、数学においては少なくともまだ純粋な意義と有効性を保っている。数学的思考の大前提となる公理系とそこからの定理の演繹《えんえき》といったパラダイムの基礎に深刻な脆弱性があることを示したゲーデルの不完全性定理という「喉《のど》に刺さった小骨」はあるものの、数学者たちは、現代においても多かれ少なかれ「ある言明が真理かそうではないかは、やがてそのうちに明らかにされるであろう」という収束性を信じて活動している。三百数十年にわたって未解決のままだった「フェルマーの最終定理」についても、それが宙に浮いていた時代から、数学者の間では「やがては収束するであろう」という信念によってその探究が続けられていた。  数学におけるほど厳密な証明手続きや論理的明晰性によって支えられているわけではないにせよ、人類のさまざまな知的な営みの局面において、収束の概念は依然として大切な役割を果たしている。物理学者であれ、経済学者であれ、政治学、社会学、脳科学、さまざまなディシプリンから世界全体を説明するモデルを夢見ている者たちであれ、現時点でその「完全なる理論」を手に入れているわけではない。むしろ、自分たちの手のうちにある理論が、やがて完全なる何ものかに収束していくだろうという信念こそが、これらの探究を続けさせている。 †「収束」への信仰[#「†「収束」への信仰」はゴシック体]  ところで、「収束」ということを数理的な言葉で表現すると、何らかの評価関数や、エネルギー分布のようなものがあり、その最大値ないしは最も安定した「最小値」へと、無限運動を続ける中で近づいていくという描像になる。実際、素粒子物理学から人工知能まで、あるいは経済学における人々の判断、選択の説明まで、この世の森羅万象がなぜそのようなかたちをとるのかを説明するモデルは、必ずその背後に何らかの「単調減少関数」による時間発展というイマージュを措定する。  変化を認容し、予定する世界観は、静止した「唯一絶対」の真理を標榜する立場に比べると、この世の多様性を尊重すべきとする観点からみれば、より自由で「まし」なもののように思われる。しかし、その背後に収束の概念があり、それを裏づける評価関数やエネルギー分布があるとされるときには、実質的な価値の基準においては単一主義をとっているのと変わらない。  思い返せば、大学院生の頃、学会に行き始めたときに私が学者の中にかぎとった「凡庸さ」は、自分たちの営為がやがて普遍的な価値を持つと信じてやまない、そのような精神の放つ怠惰の腐臭だったのかもしれない。たとえ、現時点では最終的な理論やモデルを獲得していないとしても、やがてはそのような何かを得るゴールに向けて営為と作品を収束させていくことができる。そのような信仰は、多くのすぐれた知的成果を生み出す原動力になってきたとともに、人々の精神をその本質において堕落させる、危険な麻薬でもあったように今では思われるのである。 †生命の本質は「拡散」にある[#「†生命の本質は「拡散」にある」はゴシック体]  たとえ現時点で「今、ここ」にあるものがそうでなくても、やがてはそこに収束していく「聖杯」を目指している。そのような志向性は、立派なもののようでいて、どこか生命の本質を裏切っている側面がある。  いうまでもなく、生命の本質は収束よりもむしろ拡散の中にある。満月の夜、海の中に大量の卵を産出するサンゴ。それぞれの生物が個体数の増加を続けるからこそ、生存競争が始まる。マルサスの『人口論』が明らかにし、ダーウィンの『進化論』の中に中心テーゼとして受け継がれた生命の「拡散し、増大する」という傾向は、畢竟《ひつきよう》生命現象の一つの副産物である私たちの精神活動にも受け継がれているはずだ。  議論を複雑にしているのは、進化論の中に拡散傾向を示す「突然変異」と同時に、一見「収束」の原理を示すと解釈できなくもない「自然選択」という概念が持ち込まれたことである。とりわけ、あたかも何らかの「評価関数」や、「効用関数」を背景としているかのようにも映る「適者生存」といった概念が進化生物学に持ち込まれたことが、社会的ダーウィン主義に始まり、今日に至るまでの混乱をこの世の中に持ち込んでいる。  インターネットがもたらすグローバリズムの世界において、これから現出するのはアメリカを中心とするモノカルチャーか、それとも世界の中の多様性が顕在化するのか? 今後の地球社会のあり方を占う未来論においても、多様性か収束かという問題は、重い意味を持ち始める。  過去の長い生物の進化の歴史において、さまざまな種が繁栄と滅亡をくり返してきた地球。結果として現存している生態系のあり様を見れば、そこに現出しているのは、一つの生命のあり方だけが勝つという単一性ではなく、むしろ幻惑されてしまいそうな多様性であることは間違いない。 †収束原理は拡散原理と結びつかざるをえない[#「†収束原理は拡散原理と結びつかざるをえない」はゴシック体]  根本に戻ってみよう。生物としての「適応度」をめぐる理論は、ホルデーンらによって数学的に整備された。そこでの「適応度」の定義は、結局のところ、「結果として残った子孫の数」によって与えられる。つまりは、拡散原理をトートロジーとして表現したものにすぎない。適応度の数理モデルのどこにも、「このような形質を持った生命こそが望ましい」といった価値判断はない。ゴキブリも人間も、進化論から見た価値は同じことである。ただ、「産めよ増やせよ」という命題の遂行に成功した生物が、適応度の高いそれとして後づけで評価されるにすぎない。  進化生物学をはじめ、あらゆる知的な営みにおいて、「評価関数」は、つまりは後づけによって与えられる。価値の評価における「収束」は数量における「拡散」によってこそ担保されている。この根本的な両義性、ダブル・バインドな状況の中に、生物現象のみならず、私たちがおよそ人間の精神活動について考えるうえで避けて通ることのできないエニグマがあるように思われる。  市場主義によって、質の悪い作品ばかりが流布するということを嘆く人は多い。かくなる私もその一人である。しかし、高い価値のあるものだけをつくるという収束原理が、実は根本のところにおいて結果論である拡散原理と結びつかざるをえないというパラドックスを見つめなければ、私たちが投げ込まれている事態を把握することも、それを超克することもできはしない。  宗教から芸術まで、そして科学においても。「立派なもの」としてある価値を立て、そこへの収束を目指す。人間精神がそのような傾向を持つに至った理由は明らかではないが、この点にこそ、人類が生命現象の本質をとらえ損なってきたことの根本的原因がある。  生命の本質は、その多様性と、環境の変化に応じた臨機応変の転化の中にある。私たち自身の中にある拡散原理をもう一度性根を据えて見直すことこそが、グローバリズムや市場主義の横暴に真の意味で対抗し、価値のある美しいものをつくり出したいという切ない願望を成就させるためにどうしても必要なことであると、私はさまざまなほろ苦い青春の悔悟を抱きつつ考える。 [#改ページ] 君はまだ「神」を殺していない[#「君はまだ「神」を殺していない」はゴシック体]  二十世紀の科学が取りこぼした課題のひとつは、生命現象の本質を理解するということである。  分子生物学の発達により、生命活動を支える物質的基盤については、理解が進んだ。しかし、それは、生きている組織体をばらばらにし、いわば「死んだ」部分へと分割して分類、理解するという試みであった。  その結果、生命体を構成している物質のカタログはできあがったが、生命現象の本質はいまだ理解できていない。それどころか、生命という有機的な全体性の本質をつかむ探究のプログラムは、容易には乗り越えられないような困難に直面している。  部分に分解し、解析するというアプローチは科学にとって欠かせないものであるが、それだけでは生命の本質を理解することなどできない。要するに、分子生物学の知見が積み重なり、人間の遺伝子配列が明らかになり、生命現象を支える物質的カタログが完備されてきた一方で、生命現象を構成的に理解するという試みはほとんど緒にもついていないに等しいのだ。人間のような複雑な多細胞生物はもちろんのこと、たった一個の細胞でさえ、それを人工的につくる実際的な方策、そのための理論的基盤は明らかではないのである。  部分に分解しても理解することができない生命現象の本質論は、脳という物質に宿る心にまつわる、もう一つの本質論に直結している。意識が脳に宿ることは経験に照らしても疑いようのない事実であるが、その脳という対象を分解し、その一つひとつの部分を理解したとしても、意識が宿るその必然性を解明することなどできないのだ。  脳を領域に分け、神経細胞へと分解し、その成り立ちを細胞膜、細胞骨格、細胞質、核……などと分けて記述し、理解していったとしても、そのどこにも一向に精神の本体など見えてこない。意識を生み出す第一原理が何であれ、そのメカニズムは神経細胞の間の複雑な関係性の中にこそ見出されるはずである。  生命現象の本質を構成的に理解することは、脳の神経細胞の活動の総体に意識が宿るという不思議な事実の意味を探究することと同じ問題領域に投企を行うことを意味する。ここに、意識の起源問題、心脳問題が、より一般的な生命現象の探究の中に位置づけられるべき、論理的必然性があるのである。  関係性を把握し、理解するという思考のベクトルは、近代科学が前提としてきた、部分に分解し理解するという探究の方向性と逆を向いている。今後、この方向に沿った探究が深まるためには、二百年、三百年という時間がかかるかもしれない。そして、その思考の歩みについても、多大な困難が予想される。  しかし、間違った方向に全速力で走るよりも、たとえたどたどしい歩みでも、正しい方向に向かっているという認識のほうが、人の心を晴れやかにするのではないか。思考の補助線は、近代の知的探求の方向とは異なる、未知の虚空に向けて引かれなければならない。 †「神が死んだ」ことの意味[#「†「神が死んだ」ことの意味」はゴシック体]  ところで、生きるということは、つまりは、有限の立場に自らを置くことを意味している。生命現象が複雑な関係性の中にあることはいうまでもないが、そのような広がりを持った結びつき自体を、私たちが即自的に生きるわけではない。  対象を分解し、個物として理解するというやり方は、私たちが思っている以上に、一人称の生としての私たちの体験にもとづいている。私たちは確かに、素朴には、これ以上に分解不可能なかたちでこの世界の中に投げ出されているように感じる。一つの石ころ、一分子のタンパク質、一鎖の核酸。そのような物質のあり方と、私たちの生命のあり方の間には基本的な相同性がある。  この世界には関係性があり、また私たちの身体の内部にも複雑で豊かな関係性があり、そのような関係性こそが生命の本質である。そのようなことは理屈ではわかっていても、私たちは依然として分割も結合もできない人生の一回性を生きている。  現代は神が死んだ時代だと言われている。神の死に大いなる功績があった哲学者が、フリードリッヒ・ニーチェである。ニーチェは『悦ばしき知識』の中で、神は死んだと宣言した。『ツァラトゥストラはかく語りき』で、そのモティーフをさらに追究した。ニーチェが徹底的に探究したのは、結局は生の一回性の問題であろう。  なぜ、神が死んだことが、私たちの生の本質にかかわってくるのか? この世に神が存在すると信じるならば、自らの行動の規範は、外部から来るとすればよい。「モーゼの十戒」のような、外から与えられる倫理規範に従って生きてさえいればよい。  神が死んだ世の中では、もはや、自らの価値観や倫理規範を外部に求めることはできない。どのような価値の源泉も、いかなる行為の起源も、すべて自らの内側からの発露によって支えざるをえなくなる。  ニーチェが提出した「超人」の概念は、つまりは、倫理や価値を、神などをはじめとする外部要因に求めることをやめた存在を意味した。ニーチェの直観は、人間の生き方がこれからは自らの内なる法則に従うかたちになる、そうならざるをえないと教えたのである。「超人」は、死んでしまった「神」の後継者であり、旧来の「人間」を引き継ぐものである。「超人」とはずいぶん大げさな表現だと思いがちであるが、価値や倫理を最終的には自分で判断し、決定しなければならないという点において、私たち現代人は本来すべて「超人」であるはずだ。いや、そうでなければ生命の潜在性を十全に燃やしているとはいえない。 †日本人はまるで生きていないように見える[#「†日本人はまるで生きていないように見える」はゴシック体]  むろん、私たちはさまざまな社会的関係性の中に生きている。日本では、「世間のしがらみ」という何ともいえないリアリティがある。しかし、だからといって、価値や倫理を外に「丸投げ」してしまうのでは、本当の意味で生きているとはいえない。  養老孟司さんは、「外国人からみると、日本人はまるで生きていないように見える」と書かれる。われらが同胞の間には、価値観や行為規範を社会に仮託して自らは考えないという態度が蔓延《まんえん》しているからであろう。ニーチェの大げさな哲学的修辞は自分たちには関係ないなどと考えていると、生命が本来持っている、内なる無限定さにもとづく豊饒に目を開くことができない。  価値や倫理を外にゆだねていると、人は自らの生の有限性に気づきにくい。それは一種の麻酔薬のようなものだ。普遍的法則を探究していると自負する科学者が、ときに自身の生を棚上げしているように見えるのと同じように、価値観や倫理規則において社会のそれを無条件に受け入れている人は、自らの鼓動する心臓の音よりは抽象的、概念的存在のほうを信じている。「社会」や「国家」という言葉を不用意に持ち出す態度は、うち震える自らの生命の存在を捨象する行為に等しい。ニーチェの書くテクストには凡庸さへの反感があふれているが、凡庸さの最たるものは、社会の最大公約数の無批判な受容であろう。  神なき世において、いや、そもそも世界のいちばん始まりから、人は自らを恃《たの》む以外にないのだ、という真実に向き合うことは難しい。『ツァラトゥストラはかく語りき』の中に、喉の奥を蛇にかまれた男の話が出てくる。男は苦しんでいるが、突然、蛇をかみ切って立ち上がり、にこやかに笑う。超人の誕生である。喉の奥にかみついている蛇は、生の有限性の象徴であろう。それをかみ切って立ち上がったときに、人は自らの内なる原理に従って生きる超人となる。それは一つの哲学的ファンタジーではあるが、私たち現代人の生活のありのままの描写でもある。 †「生の有限性」を経由せずして思考の自由はない[#「†「生の有限性」を経由せずして思考の自由はない」はゴシック体]  最近になって、自分の子ども時代のことで一つ思い出したことがある。私は、神経質な子どもだった。しばしば「自家中毒」という病気になった。公園で元気に遊んでいても、気持ちが悪くなってしまうのである。近くのかかりつけのお医者に行くと、薬を処方してくれた。しかし、錠剤を飲み込むことが、どうしてもできなかった。一生懸命喉の奥に流し込もうとしても、途中でつかえて「うぇえ」となってしまう。母親に、「もしこの薬を飲めなかったら死んでしまうとしたらどうする」と言われても、飲み下せなかった。仕方がないからいつも粉薬にしてもらったが、かえって苦くて往生した。  やっとのこと飲み下せたのは、七歳か八歳の頃だったと思う。異物がごくんと体内に入っていく感覚が、不可思議だった。あれはニーチェの『ツァラトゥストラ』にある蛇だったのかしら、と思ったのはしばらく前のことである。もちろん、子どもの私がニーチェを知っていたはずもない。ただ、錠剤を飲み下せない私が向き合っていたのが、自らの存在の息苦しさであったことは間違いない。  アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』で考察したのは、神によって罰を受け、岩を押して坂道を上ることを永遠にくり返す運命に落とされた男の物語である。男は、その宿命から逃れることができない。死ぬこともできない。永遠にそのような意識の流れの中に閉じこめられてしまっている。しかし、そのような定めから離れて彼の生命はなく、それこそがまさに自身の自己同一性の証しであるということに思い至ったとき、男は無限の自由を感じるとカミュは書く。  思うに、私たちは、思考の自由を得るためには、どうしても一度自らの生の有限性を通過しなければならないのだろう。私たちは、どんな方法を用いても「超人」であらねばならない。  考えるという行為は、自然の傾向の下に放っておけば、すぐに無限の仮想空間へと広がっていく。人間が生きている限り決して直接経験することなどない、その中からは光さえも脱出することができないブラックホールや、決して目に見ることがない微小な超ひもや、実際には存在しない多次元空間の中の幾何学図形を夢想したりする。  人は、有限の生の中で不可視の領域にうごめくさまざまなものたちの気配に心を動かされる。イマヌエル・カントは、「何度そのことに思い至っても感銘を覚えるのは、天上の星空と私の内なる道徳律である」と書いた。私たちの精神を突き動かすのは、常に自らの生の有限性と精神の志向性の無限の広がりの間のコントラストである。  カントが主著『純粋理性批判』を書いたのは五十七歳のときである。この偉大なる哲学者は、いったいどんな思いでそれまでの年月の生の有限性に耐えていたのだろう。カントだって、喉にかみついた蛇をかみ切る瞬間はあったに違いない。  安土桃山の日本文化は、現在からみても尋常ならざる迫力に満ちている。当時の表現者が命の限りをかけたからであろう。生命の本質は関係性にあるが、その核にあるものを把握するためには、逆説的ではあるが、一度私たちの生の有限性を経由しなければならない。  一人称を生きるうえでも、生命や意識の起源を論理的、経験主義的に探索するうえでも、私たちが必要としているのは切れ味の鋭い一個の生命哲学である。分解し、分析するという科学のアプローチは、物質という「外」の存在にすべてを仮託するという意味で、きっとまだ神を殺していない。素粒子から物質が構成され、森羅万象が現れるという現代科学の持つ世界観は、どこか肝心なところで、生命の由来する本質的事情を見逃し、私たちの生の有限性を引き受け損なっているのであろう。 [#改ページ] 貧者の一灯[#「貧者の一灯」はゴシック体]  人間は、誰でも死を恐れる。うれしいこと哀しいこと馬鹿らしいこと、さまざまな出来事に満ちたこの地上での生活がいつかは終わり、やがて自分の存在がなくなるという「絶対的な無」が訪れるであろう確実な予感にうち震える。  死後、「自分が存在しない」という絶対的な虚無が永遠に続くと考えると、空恐ろしい気がする。自分が生まれるまでの宇宙|開闢《かいびやく》以来の永い時間の中にも自分は存在しなかったわけであるから、そのような事態にも畏怖を覚えておかしくないはずであるが、なぜか私たちは時間について非対称に考える習慣を持っていて、息づいている自分が未来においてやがてはかなくなることばかりを気にかける。  本当は、生も死も一つの連続した運動体の表現にすぎない。私たちの身体を構成している素粒子の動きにまで還元してしまえば、ただ間断なき変化があるだけのことである。愛しい人が最期の息を吐き、二度と戻ってこない。そのような究極の不可逆的瞬間に起きていることは、ただただ物質の無限運動における様相の変化の連なりであって、何らの特別な意味も、そこには最初から存在していない。  一個体の生と死の間に、特別で絶対的な差異を認めるというのは人間中心的な思いこみである。本当は、生と死の間に不連続など存在しない。生きているものと死んでいるものは、等しく宇宙の万有の運動の中にとらえられる。  そもそも、生物と無生物の間に、要素還元的な差異は存在しない。道ばたの石ころは、いかにも生きてなどいないように感じられるが、実際には生物体と同質のいきいきとした変化とうち震えの中にある。静止したまま一切の変化がないように思える石の中でも、微視的に見れば電子が軌道運動し、陽子や中性子が振動し、さらに小さなスケールではクオークが生成消滅をくり返している。その運動のあり様は、いかにも生きているという感じがするアメーバの中の素粒子の運動と何ら変わるところがないのである。  生と死の間に差異を認めることは、私たちの本能的な認知衝動の一つであるが、徹して考えれば、本当はそんな区別などこの世に存在しないのである。さまざまな人間中心的な希望的観測と同様、生と死の区別は結局は無根拠な迷妄といってよいだろう。しかし、その迷妄こそが私たちにとって、この世に自分を結びつける後生大事な錨《いかり》なのであって、生ある者としてしっかりと地上に立っていなければ、私たちの魂は何も感じず、何も意図することができない。 †自然科学が描く不条理な宇宙[#「†自然科学が描く不条理な宇宙」はゴシック体]  自然科学は、本来、右に述べたような不条理な宇宙観の中にあるはずであった。物理学の公式的な世界観の中では、そもそもこの世には時間の流れ自体が存在しない。過去から未来へと時間が流れるとはいかにも人間らしい幻想にすぎないのであって、すべては、アインシュタインが「相対性理論」の中で解明した時間と空間の四次元的広がりの中で固定された変化のパターンとして存在し続けているだけのことであるはずだった。  まともな物理学者であれば誰もが、生物と無生物、生と死の間には絶対的な障壁など存在しないことを認めるであろう。つまり、物理学者は本来的にすべての価値体系に対してアナーキーなのである。しかし、近年の経験主義的科学に、透徹した世界観に由来する虚無の響きは乏しい。むしろそこにあるのは知的なぬるま湯の気配である。不条理が不条理であるためには、緊張関係が存在しなければならない。緊張は、容易には解消できないと思われるような矛盾、ざらざらとした抵抗からしか生まれない。ますます専門技術化、精緻化を極める現代科学は、そのようないきいきとした緊張の感覚を失ってしまったかのように見える。  いかに生きるべきかという倫理観は、私たちにとって大切なものであるはずだ。自分の限りある生の中で何をなすべきで、何にかかわってはならぬのか。誰もが抱くそうした切ない迷いは、生きることをぎりぎりのところで担保する大切な精神的インフラであるはずであるが、その一方で究極の視点から見れば、人間の迷いなど何の根拠もない虚妄にすぎない。  人間が何をなすべきか、なさざるべきかなどということを宇宙は気にも留めていない。そもそも、人間がはたして、ある行為を選びとる「自由意志」を持つのかどうかも怪しい。現代科学の標準的な見解にもとづけば、おそらく「ない」というのが正解である。複雑なネットワーク構造を持つとはいえ、土の上に転がる石、流れる水、空を吹く風と同じ素材からできた物質である脳に、いかにして意識が宿るのか。その第一原理は明らかになってはいない。その意識がはたして自由意志なるものを生み出すのかどうか、現代の最高の学問といえども納得のいく答えを出してはいないのである。あるいは、「無意識的自由意志」などというものがあるのかどうか、それもわかってはいない。 †私たちの存在は無根拠である[#「†私たちの存在は無根拠である」はゴシック体]  この宇宙の中での私たちの存在が基本的に無根拠であるという真実と、人間社会が大切に築き上げてきたさまざまな道徳観、倫理規則、法律体系はいったいどのような関係にあるのか。本当のことを考えるのは怖いから誰もあまり考えようとしないが、本来、人間の「べき論」と自然科学の下での因果的世界観の間に簡単な整合性などありはしない。  それでは、美醜の意識はどうか。至上の芸術体験は、私たちに「確かに生きている」という実感を与えはする。法律や規則の与えるある種の散文的で凡庸なイメージに比べれば、芸術が私たちにもたらすさまざまな質感や感慨は、この宇宙の物質的基盤とは異なる場所(プラトン的世界)に私たちを連れていってくれるように思える。 「汝殺すなかれ」という外からの宗教的命令は、神を殺し自らが「超人」として後継者となった現代人にとって、数学的公理ないしは無根拠な絶対規則としてのリアリティをかろうじて保つだけである。一方、すべては無根拠であるという宇宙の不条理を見通す透徹した観点からは、すべての倫理規則は、それがどのような主観的体験を与えるかという点において、ぎりぎりのところで担保されるしかないようにも思われる。 [#この行2字下げ]彼は罪悪についても彼自身に特有な考えをもっていた。けれども、それがために、自然のままに振舞いさえすれば、罰を免かれ得《う》るとは信じていなかった。人を斬《き》ったものの受くる罰は、斬られた人の肉から出る血潮であると固く信じていた。迸《ほとばし》る血の色を見て、清い心の迷乱《めいらん》を引き起こさないものはあるまいと感ずるからである。 [#地付き](夏目漱石『それから』)  しかし、芸術至上主義もまた、私たちの生存を無意味の響きから完全に救ってくれるわけではない。そもそも、芸術体験の基礎となる、無意識から意識へのさまざまなニュアンスを持った精神運動が、物理学の示す因果的な宇宙観、世界観とどのような関係にあるのか、明らかではない。また、印象の良い悪いがあったとしても、それが後生大事な「私」との関連においてどのような作用をもたらすのか。感動とは実は姿を巧みに隠した「毒」ではないのか。本当のところは誰にもわかりはしない。  ナチスがワグナーを利用したなどという故事はあまりにもわかりやすいがために、かえって芸術が本来秘めている刃を隠蔽しかねない。美醜の判断が人に適用されたときにいかに心ない事態をもたらすかは、胸に手を当てて少し考えてみれば簡単にわかるだろう。レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作も、下手くそな人が描いてくしゃくしゃに丸めたスケッチも、「ある物質の分布」としては等しい価値を持っている。私たちの精神に及ぼす作用は明らかに違うことは認めざるをえないが、その究極の根拠が何なのか、一向にわからないまま私たちは芸術作品を生み出し、上演し、展示し、消費している。つまりは芸術という偽金の取引をしている。  すべての神学は反神学と釣り合いがとれなければ危ない。崇拝者の足元は、しばしばふらついている。遠くを見ているつもりで、いちばん肝心な身の回りを見ていない。神学は、気をつけなければ滑稽だ。その一方で、反神学も、ただそれだけではバランスを欠く。私たちの生が明らかに内包しているいきいきとした契機を欠いて平板になる。物質である脳から意識がいかに生まれるかという「心脳問題」は、より普遍化すれば、すなわち人間が価値あると信じるすべてのものごとの起源問題、根拠の問題となる。私たちは、結局、すべては無根拠であることを知り、それにもかかわらず、すべての文化を築き上げているのだ。  王様は裸だと叫ぶ少年もまた、自らの存在の根拠が何であるのかを示せない。私たち人間の置かれた立場は、考えれば考えるほど底が抜けていて不可思議だ。「宇宙の究極の意味は知りえない」という不条理の自覚は、生命の無根拠さへの感性に連なり、愛の不確かさに重なり、悪ぶることさえも無意味であるという諦念につながる。 †不条理を引き受けて[#「†不条理を引き受けて」はゴシック体]  現代は精神の温度が低い時代で、巷間《こうかん》を騒がすベストセラーのたぐいはもちろん、マジメぶった学者の著す書物でさえも、以上のような宇宙の不条理を十全に引き受けているとは言い難い。誰もが結局は裸だと宣告されないことをいいことに尊大ぶっている王様にすぎないのだ。現代のインテリで、自分だけは堕落していないと断言できる人がどれくらいいるか。専門性を誇るというのは気をつけないと単なる生業《なりわい》の問題になる。現代の私たちが住むこの世界で、ビッグバン後の宇宙のごとく膨張して今も加速拡大しつつある人類の知のあり方を、自分のこととして引き寄せ考えている人がはたしてどれくらいいるのか。  自らのことを省みても、ため息がついて出る。インテリが尊敬されなくなっても当然のことだ。本物のインテリなど、一人もいないのだから。せいぜい、ある業界の中で意味ありげなスタンスをとって、人々の拍手喝采を受ける「人間回し」の術があるだけのことだ。  くり返し言おう。宇宙は不条理である。この世にはさまざまな物質のあり様があるだけであり、私たち人間の倫理規則にどんな根拠があるのか、そんなことはわかりようがない。私たちを感動させる芸術体験も、その表象的起源がどこにあるのか、わかりはしない。現代のすべての学芸は、そのような無根拠の砂の上につくられた楼閣である。  無根拠であるのに、私たちは信じ、愛し、何かをつくろうとする。かつてイギリスの作家ホラス・ウォルポールが看破したように、この世の悲劇と喜劇は同じことである。なぜ、無根拠なのに、根拠があるかのように私たちは振る舞うのか。すべては同じことのはずなのに、どうして、愛する人の発するささやき声を、ひと言も聞き逃すまいと耳をそばだてるのか。あるかどうかわかりもしない真実をつかもうと必死になって動き回るのか。そもそも、この私が真実に近づくことができるのか、心脳問題の解決に近づくことができるのかどうか、それは私の努力や自由意志にかかわらず、宇宙開闢以来すでに四次元の時空の中に固定されたパターンとして決していることなのではないか。  限りある生の中にある人間にとって、自由に考えるという夢はおそらくは叶わぬものである。制約を引き受けてこそ、ささやかな自由が得られる。ならば制約だらけの海にヤケクソになって飛び込もう。  現代のインテリは堕落した、読むべきもの、見るべきものはないとただ腹を立てていても仕方がない。今の私たちにできることは、時代の制約をわがこととして引き受けて、ささやかな貧者の知の一灯を点すことであろう。 [#改ページ]  あとがき  ある思いを抱いて表現しようということと、その段取りをどうつけるかということは別の問題である。往々にして、実際問題にすぎないかに見える後者のほうが無視することのできない意味を持つ。  本書㈵〜㈸のもとになった文章を、筑摩書房のPR誌『ちくま』(二〇〇五年六月号〜二〇〇七年五月号)に連載した二年間は、私にとって大きな変化の時期だったように思う。四十代の前半。ますます忙しくなっていく日常の中で、自分の人生において本質的なことは何であるかを、必死になって考えていた。 『思考の補助線』には、この間の私のささやかな生の軌跡が投影されている。毎回、大きなテーマに沿ってその時どきで自分の内面から浮上してくる事柄について、剛速球を投げようと試みた。あらかじめ計画された全体図に沿って部品を並べていくというよりは、胸のうちの、容易には言葉にすることはできない「軟体動物」に寄り添おうと志した。その結果がどのようなものになっているか、読者諸賢のご判断にゆだねるしかない。  考えることが人間にとって最大の快楽であるということだけは確信している。食べることはお腹いっぱいになってしまえばおしまいだし、服だってそうたくさんは着られない。「考える」とは、脈絡をつけ、結び、融合し、組み合わせ、解きほぐし、包まれることである。まさに無限運動であり、「生命」というにふさわしい。ここに、「考える」ことは普遍化される。  生きる以上、考えなければならぬ。アメーバにはアメーバなりの、キリンにはキリンなりの考えがある。植物にもむろん考えがある。人間は、これら生きとし生けるものと大いなる連帯を感じつつ、私たちなりのやり方で思考を進めていかなければならない。  考えるということが、人間のメルクマールであるならば、私たちはみな、考えることともっと仲良くならなければいけない。二年間、『ちくま』に連載したときのリズムは私の中にはっきりと残っている。がったんごっとん。がったんごっとん。できれば、このままずっと思考の列車を走らせていきたいと思う。  二年間の連載となると、当然、編集者との二人三脚ということになる。  あるとき、私はふと気づいた。どのような編集者が待っていると考えるかで、自分の書く文章は明らかに変わる。催促の仕方にも芸がいる。のべつまくなしに追求されると逃げたくなるし、忘れられるのもさみしい。会ったときに原稿についてどんなコメントが来るか。森羅万象についていかなる見解を持つか。そのような編集者の風貌で、こちらの書き物も変わる。よくよく考えるに編集者道は難しい。それは一つの総合芸術である。 『ちくま』連載をご提案くださったのは、筑摩書房の増田健史氏。増田さんとは、付き合いも長い。彼が向こうに「第一の読み手」として待っているという悦ばしき緊張感を通して、原稿の内容は磨き上げられた。増田さんの伴走のお蔭で、無事二年間完走できた。書籍化にあたっても、一方ならぬお世話になった。ここに、友情と心からの感謝を捧げる。   二〇〇七年冬 師走の東京にて [#地付き]茂木健一郎 茂木健一郎(もぎ・けんいちろう) 一九六二年生まれ。ソニーコンピュータサイエンス研究所シニアリサーチャー。東京工業大学大学院連携教授。東京大学理学部、法学部卒業後、同大学院理学系研究所物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経て現職。「クオリア」をキーワードとして、心と脳の関係を探求している。著書に『意識とはなにか』『「脳」整理法』『生きて死ぬ私』『クオリア入門』『脳とクオリア』『心を生みだす脳のシステム』『ひらめき脳』『脳と仮想』など多数。 本作品は二〇〇八年二月、ちくま新書の一冊として刊行された。