梅崎春生 幻化 目 次  庭の眺め  空の下  突堤にて  凡人凡語  記憶  仮象  幻化 [#改ページ]  庭の眺《なが》め  庭というほどのものではない。方六七間ばかりの空地である。以前ぐるりを囲っていた竹垣《たけがき》は、今は折れたり朽ちたりして、ほとんど原形を失っている。おのずから生じた羊歯《しだ》や灌木《かんぼく》や雑草の類が、自然の境界線をなしているものの、あちこちが隙間《すきま》だらけなので、鶏でも猫でも犬でも自由に通れる。事実それらの小動物は、毎日顧慮することなく、私の庭を通過する。その隙間は、人間でも楽に通れるほどだから、時には人間も通る。一度などは、馬が通過したこともあった。  坂下に止っていた汲取屋《くみとりや》の馬車馬が、どうしたはずみか轅《ながえ》から脱けて、そのままトコトコと坂をのぼり、百日紅《さるすべり》の枝の下をくぐって、いきなり私の庭に入ってきた。茶色の外套《がいとう》を着た大男が入ってくる。そう思っていたら、それがその栗毛《くりげ》の馬であった。別段ためらうことなく、珍しそうにあたりを見廻しながら、ゆっくりと庭を横切ってゆく。私はその時縁側に腰かけて、それを眺めていたのだが、どういう関係からか、馬の頭や胴体や四肢《しし》などが、つまり馬の体躯《たいく》全体が、ことのほか巨大に見えた。まるで庭中が馬になったような感じがした。風景のプロポーションが、急に狂ったせいだろうとも思う。道端で轅につながれているときは、いつも不活溌《ふかつぱつ》で矮小《わいしよう》な汲取屋の馬なのである。——それが私の眼の前を通りすぎて、庭の端で足をそろえて、急に立ちどまった。いつの間に縮んだのか、もうその時は、ふだんの大きさになっている。そこらに生《は》えた青紫蘇《あおじそ》を、四つの蹄《ひづめ》が踏みしだいている。そして立ちすくんだまま、頸《くび》を不自然に前に伸ばして、おくびをするような仕草をした。  馬のすぐ前から、庭の隅《すみ》にかけて、カスミ網が細長く張ってあるのだ。それを気にして、馬は脚を踏み出さない様子である。一定の間隔をおいて青竹をたて、その間にひっそりとその網はかけ渡してある。小鳥にさえも見えないほどの繊細な網目なのに、馬の眼にはそれがはっきり見えるらしい。そしてその姿勢で、馬は唇《くちびる》を四方に拡げて、声もなく笑い出した。と思ったら、口の中で白い太い歯がぐっと開いてカスミ網の糸目にいきなり噛《か》みついたらしかった。もちろん私のところから、その網目はぜんぜん見えないので、そのとき馬の頸の動きと一緒に、青竹二、三本が地面から弾《はじ》け飛んで、ばさばさと地面に倒れかかったり、また操《あやつ》り人形の腕のように、ひょこひょこと踊り揺れるのが見えただけである。馬は口でくいしめ、歯をすり合わせながら、目に見えぬその網目を、しきりに噛《か》み破ろうとしていた。歯を鳴らす音が、ここまで聞える。生乾《なまがわ》きの掌《て》で数珠《じゆず》をしごくような音だった。 「汲取屋さんの馬が、カスミ網を食っていますよう」  もし叫ぶとするなら、こんな風に呼べばよかったのだろう。そう気がついた時は、実際にもう手遅れだったし、叫び出すきっかけもすでに失われていた。誰に聞かせるために叫ぶのか、それも私には曖昧《あいまい》であった。見る見るうちに、馬は地団太《じだんだ》を踏むようにしながら、網のあちこちを食い破ったり、引き裂いたりしてしまっていた。そして自分の体が充分通れる裂目をつくると、馬は急におとなしくなって、一段低くなった隣家の庭に、自分の胴体をもて余すようなゆっくりした動作で、しずしずと降りて行った。そしてすぐその栗毛の姿は、低い家のかげに消えた。すこし経《た》って、その家の裏手にあたって、キャッという甲高《かんだか》い女の叫び声が聞えた。古畑ネギという、私の隣家のお内儀《かみ》さんの声なのである。四十過ぎの、いつも地味な恰好《かつこう》をして、ぼそぼそと口を利《き》く女だけれども、その時はよほどびっくりしたのだろう。その悲鳴とともに、なにか固いものが、がらがらとくずれ落ちる音がした。その単純な因果関係が、すこしばかりの笑いを私にさそった。  それからその馬が、どういう風に処置され、持主の手にかえされたのか、私はよく知らない。しかし近頃でもよく町角に、汲取車の轅につながれて、彼はうなだれて立っている。すっかり平凡な馬にかえってしまった。網を破ったことなどは、すっかり忘れてしまっているように見える。  あのカスミ網も、もうあれで、使いものにならなくなったのだろう。青竹は折れ倒れ、千切れた網目が雑草にからまったまま、二、三日雨に打たれていたが、いつの間にか取りはらったと見え、すっかり姿を消していた。そのあとにこの頃は、赤松か何からしいウロコのついた腐木が、二本ほど横にして置いてある。カスミ網を破損した弁償金を、汲取屋の主人が払ったかどうかは、今私は知らない。多分まだ支払っていないだろうと思われる。あの汲取屋はなかなかずるくて、馬の飼料にも事欠くからという理由で、汲取券のかわりに、現金を要求するような強引な男だから。汲取券だと、相当金額の大部分は都に持って行かれて、汲取人は手数料程度の収入にしかならない、と言うのである。汲むたびに、それを言う。押しつけがましく言う。だからその都度、私も訊《たず》ねてみる。 「他の家でも、皆そうなのかね?」 「へえ。皆さんから、そうしていただいていますんで」 「そうかねえ。川島さんも、遠藤さんも、古畑さんも?」 「ええ。ええ。(舌打ちしながら)古畑さんは、別ですよ。あそこは、あんなんだから」  古畑夫妻は方面委員の生活保護を受けていて、汲取券も現物でどっさり来るらしい。余ると見えて、その分を一枚五円で、ネギさんが私の家に売りに来ることがある。買っても汲取屋が取ってくれないのだから、私はなかなか買わない。しかしネギさんも、なかなか諦《あきら》めようとはしない。そんな時の彼女は、卑屈なほど哀れっぽいくせに、執拗《しつよう》なほど強情である。その口説《くぜつ》を私がもて余す瞬間を、じっと待ち伏せているように見える。しかし私はなかなかもて余しはしない。 「ねえ。一枚五円でございますよ。ふつうの値段の半分ですから、お宅さまにしましても、その方がお得じゃございませんか。ねええ」  彼女は汚《よご》れをふせぐために、いつも白い布片を、着物の襟《えり》にかけている。髪を引詰めるように結っているので、眼尻《めじり》がすこし上に引きつれている。私がちょっとでも黙りこむと、いちはやくその隙間に早口でぼそぼそと言葉を並べたてる。言葉の量でもって実績をかせごうとするかのようだ。すこしずつでも言葉の版図《はんと》を拡げて置こう、という感じを露骨に出す。いつも同じシステムでやってくる。縁側から上半身を乗り出すようにして、私をじっと見詰めながらしゃべる。その彼女の網膜に映っている私自身の姿を、私はいつもある感じをもって、まざまざと想像している。 「いまお使いならなくても、あとでお使えにもなれますし、もし何なら、他に転売なさっても、よろしいじゃございませんか。え?」  私の庭の一隅《いちぐう》に、私に無断でカスミ網を張って、それで捕えた小鳥の数は、おそらく三四十羽にのぼるだろう。古畑家ではそれを飼い慣らして、欲しがる人に売ったり、小鳥屋に売ったりしていたようだ。一度などは、私の家にも売りにきた。番《つが》いの鶯《うぐいす》であったけれども、その値段も法外であったように思う。法外でなくとも、私の庭には小鳥が多いのだから、買い求める必要もないのである。しかしあれは、私に売りこむつもりではなく、見せに来たのではないか、反応をさぐるために、とも私は想像する。もしそうだとすると、私は見るだけは見たのだから、それでいい訳だ。その私からどんな反応を、彼女が得て帰ったかは、それは別のことで、私もうまく推定できない。カスミ網に小鳥がかかるのは、たいてい昼間である。微細な網目に両脚をつっこんで、逆さにぶら下って、チイチイと啼《な》き叫んでいる。騒げば騒ぐほど、網がからまってゆく仕掛けになっているらしい。しかしどんなに啼き騒いでも、私が居る限りは、古畑の家から誰も取りに出て来ないのだ。小鳥はむなしく啼泣《ていきゆう》しているのみである。ところが私が外出して帰ってくると、あるいは夜寝て朝起きて見ると、小鳥の姿はもう見えなくなっている。上厠《じようし》して戻ってきたとたんに、消えてなくなっていたこともあった。だから本当を言えば、カスミ網にかんする限り、誰がこれを張り、誰が小鳥を獲得しているのか、その現場を私は未だ見たことがない。しかし西窓をあけてのぞくと、古畑家のふるびた軒端や縁側の鳥籠《とりかご》に、それらしい小鳥がホーホケキョと啼いていたりするから、それだと推定できるけれども、それをやるのは古畑の主人なのかお内儀さんなのかは、私にもよく判らない。またどちらでもかまわない。小鳥にしても、カスミ網から鳥籠に移動しただけだから、それも別段言い分はない。捕えられたのは、小鳥の不運であって、私の不運ではないのである。  しかしカスミ網に引っかかった小鳥を、私が逃がしてやったことは、三四度ある。その啼き声がうるさかったからだ。からまった網目を細い脚や趾《あしくび》から外《はず》してやると、私の掌を力いっぱい蹴《け》りつけて、小鳥は空へ飛んでいく。掌に筋が残るほど、その力は強い。そこにわけのわからない、快感のようなものがある。しかしそれを味わうために、わざわざ小鳥を逃がしてやるような手数は、私もとらなかった。  そんな時の私を、隣家の夫妻は、見て見ぬふりしている気配がある。ことさらに背をむけて、そのくせ私の挙動を、全神経でうかがっている。そんな感じである。その気持は私にも判らないことはない。ある笑いとともに、うすうす判る。ことに主人の古畑大八郎氏はそうだ。大八郎は六十歳位の、骨張った感じの老人だが、まだ腰はしゃんと伸びている。しかし顔色はひどく悪く、土色をしている。そして右の手の、手首から先がない。空襲の爆弾で、もぎとられたということである。それも古畑から直接聞いたのではなく、はたから聞いた話だ。私は古畑氏とまだ一度も、口を利いたことがない。話し合うような用事がないせいでもある。古畑の眼は四角な感じの眼で、ブリキの貯金箱の差入口を連想させる。偶然に視線があったりすると、とたんに人をとがめるような眼付きになる。弱い動物が威嚇的に怒る、あの感じにも、それはどこか似ている。  ずっと前、カスミ網よりずっと前のこと、ある夕暮時、私の家の台所口の近くで、ガヤガヤという人の気配がした。話し声の抑揚からして、私の家とは関係なさそうであったけれども、とにかく台所まで出かけて行って、外をのぞいて見ると、三、四人の男たちの影が、そこらにうじょうじょ立っていた。皆空の方を見上げている様子である。その中の一人がふと気がついたように、私の方をちらと見て、またあわてたように、顔を元の方にそむけた。そして強《し》いて怒ったような、へんなつくり声を出して、こう言った。 「——枝、枝を切るって、枝はまた直ぐ伸びて、こすれ合わあな。元から切るんだな。根元からよ」  古畑大八郎の声である。皆の前には、私の家の大きな無花果《いちじく》の樹が、夕空に立って枝を拡げている。ここから下の方いったいの電燈を支配する電線が、その枝の中を通っていて、風が吹くたびに梢《こずえ》や枝とこすれ合い、そのために電燈がちらちらしたり、停電したりするというのである。なるほど見上げると、風が吹いて梢が動いていて、電線が二箇所ほど被覆が剥《む》け、白っぽい地金のまま揺れているのが見える。するとまた古畑老人が、そっぽ向いたまま、かすれたような声を出した。 「さ。誰かノコ持ってきなよ。早くしないと、今夜もまた、停電さまだぜえ」  結局その樹が根元から切り倒されるまで、私は台所の土間で見物していたし、古畑もその位置から離れなかった。ただし私の方を再びは見なかったようである。手首がない方の腕をふところ手にして、したがってその側の肩をすこしそびやかして、最後まで口うるさく、いろいろと指図《さしず》をしていた。私も何か言っていいことがあるような気がしたが、よく考えると何もなかったし、向うにしてみても、私に言っていいことを、動作や懸け声でごまかしているようにも見えた。そんな具合に進行して、つまり無花果は完全に切り倒された。切り倒してしまうと、古畑もふくめて、皆は安心したようにしゃべり合いながら、向うの低地に飛び降りて、それぞれの家に戻って行った。無花果の樹は翌日一日つぶして、私が薪《たきぎ》にした。この樹は水っぽいのか、薪としては不適当のようである。風呂をたく時だけに使っているが、今まだ半分以上物置きに残存している。無花果の根株からは、近頃また新芽がふき始めてきたようだ。しかしそれが伸びて、再び電線をさまたげるまでには、あと少くとも七八年はかかるだろう。そしてその時には、もう古畑老人も生きてはいないだろうと思われる。古畑が生活保護法を受けているのも、心臓がひどく悪くて、そのお蔭《かげ》だという話だから。  古畑が人と顔を合わせると、何かとがめるような眼付きになるのも、この心臓病と関係があるのだと私は考えている。科学的根拠もなく、ぼんやりそう思うだけだが、つまり外界からの刺戟《しげき》を拒否する気持が、そんな擬態を彼にとらせているのだろう。古畑の前歴(どんなものかは知らないが)が、そんな眼付きを彼に植えつけたとも考えられるが、それにしてはあの四角な眼は、どこか無意思な色をただよわせていすぎる。  古畑は一日中、家にじっとしている。ほとんど外出しない。家にいて、のろのろ動きながら、庭の手入れをしたり、小鳥の世話をしたり、そんなことだけで一日を過している。古畑家の庭は猫の額ほどの広さで、そのかわり私の庭とちがって、徹底的に整備してある。その黒い土は完全に踏み固められ、雑草などは全然生えていない。それこそ一本も生えていない。庭のすみには一列に、草花の鉢《はち》がならんでいるが、その花々も、不要な枝や葉を丹念に払い、ぎりぎりにいためつけて、ほとんど一輪ざしみたいな風に仕立ててある。古畑老人は一日のうち何度もここに降りてきて、肩をそびやかせてうろうろ見廻ったり、しゃがみこんで草花の虫を殺したりしている。その姿勢や挙動は、庭にたいする偏愛というより、もっと原始的な本能みたいなものを感じさせる。磨《みが》き立てられたようなその庭から、境界をひとつ越えると、私の家の庭がつづくわけだが、ここは草が茫々《ぼうぼう》と生い茂り、樹々は枝を自在に伸ばして、おどろおどろと荒れている。垣もすっかり朽ち果てて、犬や猫も自由に通るし、蜘蛛《くも》もあちこち巣を張るし、空には小鳥やアブや蜂《はち》がとび廻り、地には蟻《あり》やトカゲや斑猫《はんみよう》が這《は》い廻っている。しかしこれは、家に付属しているからには、空地というよりやはり庭だろう。その庭の、縁側から一番遠い部分に、大きなモグラが一目散に這って行ったような、地面の直線的な隆起を、ある日私は偶然に発見した。  ふだん私は庭に対しては、眺めるだけの眼で眺めているだけで、歩き廻ったり分け入ったりすることも、ほとんどないのだが、その日は笹《ささ》の葉かなにかが必要なことがあって、それを探《さが》しに入ったのだと覚えている。すると雑草のカーテンの彼方《むこう》に、そのような隆起がいっぽん横たわっていたのである。モグラにしては大きすぎるし、そこだけ草が生えていないし、少しおかしいとは思ったが、まさか畠《はたけ》のウネとは、その時は気付かなかった。しかしそれから半月ほど経って、再びそれを見た時には、その隆起の筋は三本に殖《ふ》えていて、食用になりそうな柔らかい植物が、そこらにずらずらと密生していたのである。私の庭にこんなものが生えようとは、予想もしていなかったので、すこしは私も驚く気持にもなった。しかしそれらが生えてくるのを妨げる理由は、私にある筈《はず》がない。  生えるなら、生えてもいいのである。私はその小部分を引抜いて、朝のおつけの実にして食べてみた。しかしその葉はまだ稚《おさな》すぎたと見えて、歯ごたえがほとんどなく、それほど旨《うま》くはなかった。そのくせ細い繊維が、しきりに歯の間にはさまった。妻楊枝《つまようじ》でそれをほじくりながら、あのウネの長さも更に伸び、数も三本から五本と殖えてくるだろうということを、私は漠然《ばくぜん》と考えたが、その感じも奥歯にはさまったような具合で、どうも歴然としなかった。あの畠のウネのことも、いつ耕され、いつ種をまかれたのかも、私は見ていないから、知らないのである。  今は十月。庭にむかって縁側に坐し、視界に入る庭樹を、左側からあげてみると、百日紅《さるすべり》、朝鮮松、サンショウ、柿(小さな実が二つなっている)、樅《もみ》、青桐《あおぎり》、椎《しい》の木、桜の木、モミジの木。そこで一段土地が低くなって、そこから古畑家の庭。古畑大八郎が向うむきに立っている。背丈《せたけ》は五尺七寸位。ただしここから見えるのは、その上半身だけ。ネギさんの姿は見えない。また眼をもとに戻して、うちの庭の地面は、一尺ほどの高さの雑草ばかり。名はほとんど知らない。小さな花をつけてるのもいる。草の背丈にかくされて、畠のウネは見えない。樹々の中では、モミジの葉がいちばん綺麗《きれい》だ。もう半分ばかり紅葉《こうよう》している。かつてカスミ網が張ってあったのは、この樹の根元である。ここからは見えないが、今は赤松か何かの腐木が横たわっている筈だ。いずれあれから椎茸《しいたけ》が生えて来るだろう。ネギさんが向うの庭から手を伸ばして、その腐木に何か細工しているのを、何時かチラと見たことがあるから。きっとあれは、新聞広告などによく出ている、椎茸の素人《しろうと》栽培のやり方なのであろう。もし椎茸が見事に生えてきたら、私はどうするか。食べてみるか食べないかは、その時にならねば判らない。眺《なが》めてみて、食慾を感じたら食べるし、そうでなければ、止《よ》しにする。しかしそれを今から、予想するのは厭《いや》なことだ。予想にしばられるのが面白くない。その時々の感じで、どうにかやればいい。  このようにして、我が家の庭の眺めは、充分とはいえないが、一応は佳良である。そのように私には見える。 [#地付き](昭和二十五年十一月『新潮』)   [#改ページ]  空の下  西の低地から、煙が流れてくる。  私の庭先の、地上二|米《メートル》ほどの高さを、それは淡くみだれた縞《しま》になって、ゆっくりと東へただよってゆく。縁側にすわって、とりとめもなく私はそれを眺《なが》めている。西風が吹いているんだな、などと思う。しかし目を立てて見ても、群れ立つ庭樹の梢《こずえ》や、地上の草花や雑草の穂が、ほとんど動いていないのは、風速がごく小さいせいだろう。ここにいる私の皮膚にも感じられない。だから煙がそこらを這《は》っていても、煙の縞がもすこし濃くなってきたとしても、心配するほどのことはない。煙のにおいが微《かす》かに、鼻の奥を刺戟《しげき》する。ものの焦げくすぶる、いがらっぽいにおいだ。そこでなにを燃しているのか、わざわざ縁側を降りて見に行かなくても、私には判っている。燃えているのは、古畳である。裏が白っぽく湿っているので、火付きが悪いのだ。昨日はよごれた座布団《ざぶとん》類だったし、一昨日は使いふるしの長火鉢《ながひばち》であった。  一昨日の長火鉢は、古ぼけた割には頑丈《がんじよう》な出来だったとみえ、ぶっこわすのに大へん手間がかかった。沢庵石《たくあんいし》をぶつけたり、鍬《くわ》の背で叩《たた》いたりして、やっとばらばらにした。ばらばらにし終えたときは、さすがの飛松トリさんも、水から引き揚げられたゴムマリみたいに、顔じゅうを汗だらけにしていた。私はその光景を、西窓を細目にあけて、眺めていたのである。その飛松トリさんの傍《そば》では、近所の古畑ネギさんが、はらはらしたような声を出して、しきりにうろうろしていた。 「まあ、勿体《もつたい》ないじゃないか。まだ使えるものを、そんなにまでしなくても」 「いいんですよ」顔の汗を手の甲で拭《ふ》きながら、トリさんは邪慳《じやけん》に言い放つ。「あたしはムシムシしてしようがないんだから」 「ムシムシするったって、ほんとにおよしよ。来年にまた、要《い》るもんじゃないかね」  トリさんは返事のかわりに、沢庵石を頭の上まで持ち上げ、地面にころがった猫板《ねこいた》めがけて、勢いよく投げおろす。灰がパッと四散して、そこらあたりに濛々《もうもう》とたちのぼる。古畑ネギさんは袖《そで》で鼻をおおいながら、飛びはねるように後しざりする。灰のなかから呆《あき》れたような、こもった声がする。 「——わからずやだねえ。ほんとに。およしなさいってのに」  飛松トリさんは、三十がらみの独身女で、背丈《せたけ》も五尺三、四寸はある。筋肉質のいい体躯《たいく》をしている。灰《はい》神楽《かぐら》のなかを、片肌《かたはだ》脱いでつっ立っているから、片方の胸の隆起がありありと見えた。そこにも汗が流れているに違いないから、やがてべたべたと灰まみれになるだろう。そのままつっぱねるように言う。 「だってムシムシするんだよ。仕方がないじゃないか」  毎年今ごろの季節になると、飛松トリさんはすこしずつおかしくなってくる。ふだんは無口なごくおとなしい女性だが、いつもこの若葉どきになると、気分のおさまりがつかなくなるらしく、所業も少々正常でなくなってくる。その時期が近づくと、眼の色が青みをおびてくるから大体わかるというのだが、私が確めたわけではないから、本当かどうかは判らない。いつか古畑ネギさんが、何かの話のついでに、私にそう教えてくれたのである。  飛松トリは、その低地に建てられた細長い家の、いちばん端の部屋に住んでいる。その家の台所に接した北向きの六畳間だ。身寄りもほとんどないらしく、訪《たず》ねてくる人はあまりない。日当りのわるい六畳の部屋に、終日黙々として生活している。生活の資をどこから得ているのか、私はよく知らない。知りたい気持も、別にない。家賃の上《あが》りで生活しているのかとも想像されるが、しかしそれだけでは大変だろう。その細長い軒の低い家屋は、飛松トリの所有物なのである。私の居間の西窓をあけると、目とほとんど等高に、その細長い屋根の斜面が見える。軒庇《のきびさし》は古びて朽ちかけ、瓦《かわら》も割れたり脱落したりしている。脱落した部分は、泥や黄土で補填《ほてん》してある。よほど栄養のいい泥土をつかったとみえ、いろんな草がそこに密生している。花をつけているのもある。鬼瓦の横にいま黄色い花をつけているのは、タンポポである。昨年の夏などは、どこから種がとんできたのか、ひょろひょろした向日葵《ひまわり》が一本生育し、直径三寸ほどの小さな花をつけ、一夏の風にゆらゆら揺れていた。今年はその跡に、小さな蕗《ふき》が三、四本、ポン煎餅《せんべい》ほどの大きさの丸い葉を、つつましやかに拡げている。飛松トリの部屋は、大体その真下にあたる。その真下の部屋でトリさんは、この二、三日来目玉を青くして、しきりにムシムシしているのである。ムシムシすると家財道具を燃したくなる気持は、私にもおぼろげながら判る。私もむかし、何度も何度も、そんな気持になったことがあるから。  毀《こわ》されてばらばらになった長火鉢は、古畑ネギさんの制止もふり切って、その日の夕方までにすっかり灰になってしまった。もともと長火鉢というものは、炭を燃すためのものであって、燃されるためにつくってはないから、まことに不本意な燃え方をして、灰になるまでにはなかなか時間がかかった。その跡におびただしく堆積《たいせき》した灰は、私が翌朝見たときは、そこからすっかり姿を消していた。その代り古畑一家の部屋の前の、猫の額ほどの庭のすみに、あたらしく灰の山がひとつできていた。いつの間にそこに移動したのか私も知らない。しかしそのうちに、古畑ネギさんが私の家に、上等の火鉢灰を売りつけに来るだろうという予感は、漠然《ばくぜん》とながら私にはある。  昨日も春にしてはむし暑い日だったので、飛松家の裏口では、古座布団や竹行李《たけごうり》などが、終日黄色い煙をあげて燃えていた。そこら中を飛び廻るようにして制止しているのは、やはり古畑ネギさんである。ネギさんとしてみれば、みすみす物が燃えてしまうのは、ひとごとながら、居ても立ってもいられない気持なのだろう。その気持もいくらか判る。トリさんは前日と同じ恰好《かつこう》で煙のなかに佇《た》ち、衣紋竹《えもんだけ》で燃え殻をつついたり、煙にむせて烈《はげ》しくせきこんだりしていた。なにしろいい体格だから、腕ずくでとめるのも容易ではなかろう。しかし私にしても、その自信は全然ないし、だいいち他人が他人のものを燃すのに、私が口を出すいわれがある筈《はず》もない。私の家に火がつかない限りは、物が燃えようと濡《ぬ》れようと、さしてかかわりのあることとも思えない。だからそれはそれでよろしい。ムシムシしているのは私ではなく、トリさんなのだから、トリさんの家財が燃えあがるのは、別に不自然なことではない。  今朝《けさ》は早くから、私がまだ寝床にいるうちに、西窓の下手《しもて》にあたって、けたたましい声がした。鶏が鳴いているのかと、始めは思った。 「まあ、およしったら。畳まで燃すなんて、あんまり無茶過ぎるよ。およし。およしったら」  古畑ネギさんの声。そしてそれに和すように、おろおろした別の声が、 「およし遊ばせ。あら、ほんとに、およしになって。あらあら」  堀田というお内儀《かみ》さんの声である。今日は二人でとめている様子だ。トリさんの声は聞えなかった。黙々として作業に従事しているらしい。西窓からのぞいて見なくても、その情景はだいたい想像がつく。昨日おとといと、トリさんの胸のかなり見事な隆起は、見飽きるほど眺めたから、わざわざ立ってのぞいて見る嗜慾《しよく》もおこらない。その隆起を上下にゆるがせて、いよいよ古畳を引っぱり出そうとしているのだろう。昨秋の大掃除の折に見たが、あの家の畳は、裏がすっかり白っぽく黴《か》びて、しとしとと湿っていた。上をあるくとポクポクと凹《へこ》む。実はその手の畳が二枚、私の家のと入れ替わっている。大掃除のどさくさまぎれに、うまく間違えられてしまったのだ。だからそんなことまで私は知っているのだが、今トリさんが引きずり出しているのは、黴びてしめった方のやつだから、燃すのもさだめし骨が折れることだろう。そんなことを寝床でかんがえている間も、窓の外ではガヤガヤガヤと、声や音が入り乱れていたが、やがてひときわ甲高《かんだか》く、 「あなた。あなた!」  と叫ぶネギさんの声がした。手に負えずと見て、亭主を呼ぶ気になったらしい。しかしその返事は戻ってこなかったようである。ネギさんの亭主古畑大八郎は、生憎《あいにく》とその近くに居合わせなかったのか、あるいはまた、かかわっては損だとして、見て見ぬふりをしたのかも知れない。古畑大八郎という老人は、そういう性格の男なのである。私はこの老人に、千三百円ほどの貸金がある。  古畑夫妻は、この家の反対の端、道路に近い二部屋を占拠して住んでいる。二部屋といっても、一部屋はこの家の玄関である。飛松トリと古畑夫妻の中間の部屋には、さっきの堀田一族が居住している。つまりこの細長い家のなかには、三世帯が一列横隊にならび、それぞれの生活を営んでいるのである。家主はもちろん飛松トリさんであるが、彼女があとの二世帯に、いくらの家賃で部屋を貸しているのか、その家賃もきちんきちんと支払われているかどうか、私はよく知らない。しかし近所の噂《うわさ》では、ほとんど支払われていないという話だ。堀田家はそれでも、二、三箇月に一度くらいは金を入れるらしいが、古畑家にいたっては、一|文《もん》だに入れたことがないということである。噂だから当てにならないが、事実そういうことになっているかも知れない、とも思う。ふだんの飛松トリさんは、いい体格をしているくせに、気が弱くて無口で、あまり催促などができる人柄ではないようである。そこにつけこめば、家賃を踏み倒すのもむつかしいことではなかろう。いつだったか古畑老人がトリさんにむかって、こう怒鳴りつけているのを聞いたことがある。 「ぐずぐず言うなら、早速《さつそく》この家を出て行ってもらおう。あんたが居なくても、別段うちは困りやしないんだから」  家主がいなくても店子《たなこ》は困らないだろうけれども、この古畑大八郎の言い方は、世間の通念とはすこし逆のようであった。もっとも老人にしてみれば、とっさの感想を、率直明快に表現したのかも知れない。  堀田一族はおおむね、子供から成り立っている。子供は何人いるのか判らない。皆同じような顔をしているので、ほとんど区別がつかない。四五人のようでもあるし、七八人のようでもある。じっとかたまっておれば数えられるだろうが、この子供たちはしょっちゅう動き廻っているので、正確な数はとらえがたい。朝から晩までそこら中をかけ廻っている。私の家の庭をも平気でかけ抜ける。庭というほどのものでなく、方六七間の空地にすぎないが、ぐるりを囲っていた竹垣《たけがき》が今はすっかり朽ち果てたので、誰でも自由に通り抜けられるのだ。もともと貧居人工に乏しく、雑草や灌木《かんぼく》が宅をおおっているだけだから、その灌木類を縫って、子供たちは騒然とわめき走る。しかしこれら子供たちも、この界隈《かいわい》のある一箇所だけは、はばかって近寄ろうとしない。それは古畑家の庭だ。古畑家と言っても、彼はほんとは間借人だから、特定の庭をもつ筈《はず》はないのだが、何時からか自分の部屋の前をキチンと竹垣で囲って、強引《ごういん》に他人の侵入をはばんでいる。空地は部屋に属しているという見解なのであろう。しかしその竹垣は、年々歳々、すこしずつ拡がってゆく傾向がある。その垣根はキチンと四角に仕切られてはいず、不規則な円形をなしているが、しかしそれがいっぺんにふくれ拡がってゆく訳ではない。タンコブのように、あちらがふくれたかと思うと、今度はこちらがふくれるという具合に、少しずつ版図《はんと》を拡げてゆくのである。いつ竹垣をうえかえるのか知らないが、昨年の今頃あたりから見ると、すでに古畑家の庭の面積は、約二倍に膨脹したようである。その庭の手入れは、もっぱら古畑大八郎がやる。ほとんど一日の大半、彼はそれにかかりきっている。だから私の家の庭と違って、完全に手入れが行き届き、徹底的に整備してある。雑草などは一本も生《は》えていない。丹念に育てられた花卉《かき》のたぐいが、いつもあざやかに季節の色を点じている。大八郎は一日のうち何度もここに降りてきて、花に水をやったり、肩をそびやかせてうろうろ見廻ったりするのである。  古畑大八郎は六十がらみの、骨張った感じの老人だが、まだ腰はしゃんと伸びている。ネギさんとの間には、子供は一人もいない。ただ二人きりで暮らしている。うまく民生委員にとり入って、生活保護法を受けているという話だが、その他の収入としては、ネギさんがちょこまかと動いて、物資を右から左へ流したり、そこらのものをチョロまかしたりして、さまざまの利得がある様子だ。私の家の畳を大掃除の折、二枚もチョロまかしたのは、この古畑一家だとは断定できないけれども、道路から見える古畑家の部屋の畳が、二枚だけ周囲と別の色をしているのは、事実である。道を通るときにそこをのぞき込んだりすると、古畑老人はとたんにとがめるような眼付きになって、私をにらみつける。老人の眼は四角な感じの眼で、ちょっとトーチカの銃眼に似ている。この眼でにらみつけるから、堀田家の子供たちといえども、容易に近寄らないのである。その四角な眼の奥で、この老人がなにを感じ、なにを考えているかは、私にもよく判らない。私と関係のないことだから、それほど判りたいとも思わない。しかしその網膜にうつる私自身の姿は、ある感じをもって、私にうすうすと想像できる。私はこの老人と、昨年までほとんど口を利《き》いたことがなかった。口を利くほどの用事がなかったからだ。ネギさんとは時々口を利く。ネギさんが私の家にいろんな物を売りつけに来るからである。使い残しの汲取券《くみとりけん》だとか、代用|石鹸《せつけん》だとか、そんなこまごまとしたものを持ってくる。いつかは一番《ひとつが》いの小鳥を持って売りにきたこともあった。私の庭に無断でそっとカスミ網を張り、それで捕獲したものである。その他|椎茸《しいたけ》。これもたしかに私の庭で栽培したもの。私が庭を放ってかえり見ないから、雑草のカーテンのむこうを、古畑一家は盛んに利用しているらしい気配がある。この間偶然踏みこんでみたら、小規模ながら畠《はたけ》ができていたのには、私もすこしおどろいた。しかしそれならそれで、私はかまわない。雑草の代りに三ツ葉が生えるだけだから、庭の眺めとしては、それほどプラスでもマイナスでもない。そういう気がする。その三ツ葉を束《たば》ねて、ネギさんは時々私に売りにくる。採り立てで新鮮だから、滋養分も豊富だというのである。ネギさんの言うことは、平生《へいぜい》あまり信用できないが、これが採り立てであることだけは、私も確実に信用する。なにしろ古畑家の荘園に、今しがたまで生えていたものに違いないから。新鮮であるからには、値段もなかなか安くない。金がないとことわっても、代はいつでもいいからと、ネギさんは無理矢理に置いてゆく。ツケがきくほど、私は信用されているらしい。古畑大八郎氏が私に金を借りにきたのも、そういうネギさんの信用と、いくらか関連があるのかも知れないと思う。  それは今年の始めの、ある寒い日であった。古畑老人はどてらの着流しで、ふところ手のまま、ぬっと私の庭に入ってきた。古畑老人は心臓がわるいという話で、そのせいか皮膚は土色をしている。頭には黒灰色の髪がまばらに生えている。冬景色のなかに立たせて、これほどぴったりした人態《にんてい》は、他にあまり見当らないように思う。荒れ果てた私の庭の眺めも、中心点を得て、にわかに引き立つ感じであった。やがてその中心点が、しずかに口を開いた。金をすこしばかり融通して欲しいと言うのである。 「今はありません」と私は率直にことわった。実際に余分の金は私になかった筈だから。 「今はなければ、何時ありますか?」老人は低い含み声で、押しつけるように反問した。ブリキの貯金箱の差入口のようなれいの四角な眼が、まばたきもせず、じっと私の表情を凝視している。  その時どういう返事をしたのか、私はよく記憶していない。いい加減に話のつじつまを合わせて、私に現在は金がないことを納得させ、帰ってもらったのだろうと思う。いずれそのうちに、などと口を辷《すべ》らせたかも知れない。そこらのやりとりは、どうもあやふやである。とにかく老人は、肩をそびやかすようにして、その日は得るところなく帰って行った。なにか無形のものは得たかは知れないが、実際の金は私から借り出せなかった。古畑大八郎とまとまった会話をしたのは、この日が始めてである。  一週間か十日か経《た》った。私が銭湯のなかで、向いの川島さんと顔を合わせた。すると川島さんがすぐさま私に言った。 「古畑さんに金を貸すんだそうですね」 「なぜです?」と私は反問した。 「あなたから借りるあてがあるから、それまでに少し融通してくれと、あの爺《じい》さんが言ってきましたよ」 「それで、貸したんですか?」 「ええ。二百円ばかり」川島さんは湯気の間から、照れたような、また憫《あわ》れむような笑い顔を、私の方にちらとむけた。そして言った。 「あのお爺さんと口をかわしたのは、これが始めてですよ。いつもツンとしててね」 「そう言えばそんな感じですね」 「二百円ほどでいいと言うんでしょう。貸さなきゃ悪いような気になってね」  それと同じようなことが、ほかにもあった。裏の秋野さんがやってきて、私に同様のことを言った。 「君。古畑に金を貸すんだってね」  それと同じ質問を、角の煙草屋のおかみさんからも受けたし、汲取屋の若者からも受けた。その若者は、私から汲取券をうけとりながら、小声でささやくように言った。 「あなた、古畑さんに融通してくれるんでしょうね。ほんとでしょうね」  海岸の波打際《なみうちぎわ》にはだしで立っていると、波が足裏のへりの砂をすこしずつ持って行く。あれに似てくすぐったいような、快よいような、忌々しいような感じが、私の全身にぼんやりと感じられた。どうも私の意思とは関係なく、なにかがしきりに進行しているらしい。私はその若者に訊《たず》ねてみた。 「それでいくら貸したんだね?」 「ええ。百二十円。そのほかに汲取代の貸しが、八荷分だったかな。まとめて払うと言ってね、なかなか払ってくれねえんですよ」  そんな風にして、古畑老人があちこちから借り集めた金は、私の集計ではざっと七、八百円にのぼった。どうして古畑にそんな金が必要なのか、私にはよく判らなかった。するとある日、堀田のお内儀《かみ》さんがやってきた。あの子沢山のお内儀である。もっとも亭主はいないのだから、お内儀さんというより、未亡人というべきだろう。その色の黒いくたびれた顔の未亡人は、縁側に腰をおろして、怨《えん》ずるような声で私に言った。 「ほんとに困るんでございますのよ。あたしは夜なべをやっておりますでしょう。ですからねえ」 「そうでしょうねえ」  どんな夜なべをやっているのか、それでどうして困るのか、わけも判らないまま、私はとりあえず相槌《あいづち》を打った。古畑のこととなにか関係があるらしい。そういう予感が私にあった。なんだかひどく身体がだるいような気分である。未亡人はその私の顔を、チラと横目で見た。 「あなたはわらってらっしゃいますけれど、笑いごとではございませんのよ」未亡人は私の方に、ぐいと上半身を乗り出すようにした。「早くどうにかしていただかなくては、口が乾上《ひあが》ってしまいますわ。ご存じかも知れませんが、子供もたくさんおりますし——」 「ええ。しょっちゅうこの庭に、打連れて遊びにいらっしゃいますよ」 「そうでしょ」と未亡人は勢いこんだ声を出した。「あの子供たちが、夜中にオシッコをしたくなるでしょう。そうするとね、柱や壁に、頭や顔をぶっつけて、コブだらけなんでございますのよ。多いのは七つもコブをつくっておりましてね。近所からコブ大臣という綽名《あだな》をつけられたりして——」 「どうしてそんなに、ぶっつかるのです?」 「あら。そりゃぶつかりますわ。あたしだって、時にはぶつかるんですもの」 「だって柱や壁のあり場所は、ちゃんときまっているんでしょう」と私はいぶかしく訊ねた。「それともお宅の柱は、動いたりするのですか?」 「動く柱なんてありますか」未亡人の顔に急に赤味がさして、すこし荒い声になった。「電気ですよ。よくご存じのくせに」 「はあ。電気がどうかしたんですか?」 「切られたんですよ!」癪《しやく》にさわってたまらない表情で、未亡人は舌打ちをした。「だから夜はまっくらですよ。ほんとにほんとに、しようがない」  電燈が止められたということが、やっとはっきり判った。そして未亡人の話によると、止められて一カ月近くになるそうである。そう言えばこの頃西の窓に、夜になっても燈影がささないと思った。しかしそのことが、私とどんな関係があるのか、まだ私にはよく判らなかった。すると堀田未亡人は、睨《にら》むような、また流眄《ながしめ》みたいな眼付きになって、教えるような口調で言った。 「だってあなたは、古畑さんにお金を融通するって、そう約束なさったんでしょ。あたしと飛松さんの分は、もうまとめて、古畑さんにお渡ししてあるんですよ」  電気代の滞納を三等分して、二世帯分はすでに調達でき、あとは古畑家の分だけだと言うのだ。そして未亡人が催促すると、古畑大八郎の言い分は、私から金を融通受けしだい直ちにまとめて配電会社に支払うというのである。私は少しばかりは驚く気持にもなった。あの寒い日、そんな約束はしなかったように思うけれども、言葉のやりとりの中から、あるいは古畑老人は自分に都合のいい言葉を見付けて、いずれ借りられるものと解釈したのかも知れない。それが古畑老人の誤解であるとしても、未亡人の話では、事態はすでに遅すぎるようであった。私が意識しない間に、私が金を借り出される条件はすべてととのい、たくさんの人がその日を待ちくたびれている気配である。状況がこうであれば、私としてはどうしたらいいだろう。私は少しおどろき、また少しがっかりして、最後におそるおそる訊ねてみた。 「それであなたは、その催促にいらっしゃった訳ですね」 「ええ。古畑さんが、貴方《あなた》の様子を見てこいと、そうおっしゃいましたのでね、こうしてお伺いしたんでございますのよ」  それから未亡人が戻って行って、古畑大八郎にどんな報告をしたのか、よく判らないけれども、翌朝老人自らがやってきて、千三百円という大金を、私は簡単に借りられてしまったのである。ふだんの私ならば貸す筈はないのであるが、ずいぶん手のこんだ工作に眩惑《げんわく》されて、ついうかうかと手渡してしまった。いつ戻してくれるかということを、確める余裕すらなかった。その朝古畑老人は、私が寝ているうちに庭に入ってきて、あわてて起き直ろうとする私にむかって、単刀直入に口を切ったのである。 「千三百円ほど、貸していただきたい」  貸していただきたい、と言ったのか、貸していただく、と言ったのか、はっきりしなかった。後者だったかも知れない。低い含み声だったけれども、それは自信に満ち満ちた高圧的な口調であった。そして私からその金額を受取ると、ことさらムッとした不機嫌《ふきげん》な表情をつくり、くるりと背をむけて、さも忙しげにトットッと帰って行った。今考えるとその態度は、私に余計な質問を封じる魂胆からだったとも思われる。  その夜、私が西窓を細目にあけてのぞくと、細長い家の各部屋部屋に、黄色い電燈がともり、その下で集って食事している堀田家族や、寝そべって新聞を読んでいる古畑夫妻の姿などが望見された。ガラス障子を透かした燈の光が、古畑家の小庭の草花の色までも、ぼんやりと浮き上らせていたのである。それを見たとき、うまくしてやられたという感じが、始めて私をほのぼのと包んできた。巧妙にしつらえられた据膳《すえぜん》を、前後を見定めもせず、私はうっかりと食べてしまったらしい。電燈がついたからには、滞納金はおさめたに違いないが、私の名において借り集めた金を、川島や秋野や汲取屋などに返済したかどうかは、私は知らない。今もって知らないのである。  今この縁側から、トリさんが燃す畳の煙のむこう、私の庭から一段低くなった古畑の小庭に、古畑大八郎の姿が見える。私の眼から横向きにしゃがんで、指先で草の花を愛撫《あいぶ》している様子である。古畑家の庭は、いま三色菫《さんしよくすみれ》が真盛りである。白や紫や黄色の花々が、二列縦隊にならんで咲きほこっている。その花片の模様は、ちょっと人間の顔に似ている。顔をしかめた小人らが、ずらずらと並んでいるように見える。古畑老人の骨張った指が、その小人らの顔を、ひとつずつ丹念に触《さわ》っている。そして老人の無表情な四角な眼が、舐《な》めるようにそこに動いている。あの老人の眼からすれば、この三色菫の顔の方が、人間の顔よりも、もっと人間らしく見えるのかも知れない。ことに私の顔などは、どうも顔の中に入っていないのではないか、とも思われる節がある。あれから二カ月も経つのに、古畑大八郎は未だに私に、全然金を戻してくれないのである。  あれから一月ほど経って、古畑の方から何も連絡がないものだから、どうも放って置けないような気持になって、私は古畑家をおとずれた。ものごとを放って置けないような気持になることが、怠惰な私にも、時にはあるのである。古畑大八郎は部屋の中にいた。れいの二枚だけすり切れていない畳の上に、大あぐらをかいて、皿から南京豆《ナンキンまめ》をポリポリと食べていた。私の顔を見ても、皿を片付けようともせず、しきりに南京豆を口に運んでいる。ネギさんは縁側で、亭主に背をむけて、針仕事か何かをしていた。同じ部屋にいるくせに、この夫とその妻の間には、通い合うものが微塵《みじん》もないような、そんなヘンテコな印象が第一にきた。丁度動物園の檻《おり》のなかで二匹の獣がそれぞれそっぽを向いて、勝手気ままにうずくまっている、そんな感じにそっくりであった。私が庭に入って行っても、二人ともちらと私を見ただけで、あとは相変らず自分の作業に没頭している。 「古畑さん」と私は呼びかけた。もちろん大八郎に向ってである。「せんだって御用立てしたお金のことで、今日はお伺いしたのですが——」  大八郎は顔を上げ、四角な眼をぐっと見開いて、私を見た。その手は相変らず規則正しく動いて、南京豆をつまみ上げている。豆を噛《か》むのに忙しいのか、返事すらしない。 「——もうそろそろ、あれから、一カ月近くになりますし、私も近頃手もとが不如意《ふによい》になってきたんですが——」  カラッポみたいな感じのする眼窩《がんか》を、ひたと私に固定させて、大八郎は黙りこくって豆を食べている。向うが何ともしゃべらないから、とぎれとぎれでも、私がしゃべらなくてはならない。力こぶが入るような入らないような、妙な気持になりながら、私はあやふやに言葉をつづけた。 「——そういう事情ですから、一応のきまりをここでつけていただきたいと、実はそう思いまして……」  そっぽ向いて針仕事していたネギさんが、その時突然アアッと大あくびをして、そそくさと立ち上り、便所の方へ消えて行った。大八郎は依然として豆を噛みながら、四角な眼でじっと私を見据えている。とたんに何かが見る見る萎縮《いしゆく》して、催促する気分がすっかりこわれてしまった。それでその日は、そのまま空《むな》しく帰ってきた。とぼとぼと帰りながら私は、その大八郎のとった方策が、『睨《にら》み返し』という手であることに、卒然として思い当った。こういう撃退方法を、私はいつか寄席《よせ》で聞いたことがある。しかしこのような方法は、落語の世界にあるだけだと思っていたが、現実にあり得るとは全く知らなかった。妙な可笑《おか》しさが私をさそった。睨み返された自分自身をも含めて、隠微な笑いが私の下腹をしばらく痙攣《けいれん》させた。あの芸を見るのに、一回分百円ずつ出すとすれば、あと十二回は催促に行かねばなるまい。百円ぐらいの価値はあるだろう。そうすれば週に一回行くとして、あと三カ月はかかる計算になる。それまでにひょっとすると、大八郎が根負けしてしまうかも知れないが、それならばまた、それでもよろしい。  その日から一週間目ごとに、私は規則正しく古畑家をおとずれ、規則正しく睨み返されて戻ってくるのである。大八郎は部屋にいることもあるし、庭に出ていることもあるし、縁側に腰をかけているときもあるが、私に相対して、口を利《き》かないと言う点では、いつも同じである。失語症にかかりでもしたかのように、私の顔をまじまじと見詰めているだけだ。一応の芸ではあるが、芸がないと言えば、そうも言えるかも知れない。ネギさんは相変らず、こまごましたものをたずさえて、私の家に売り込みにくる。私の要不要にかかわらず、物さえあれば一応は、私に持ちこんでくる習慣のようである。この間などは、どこから手に入れたか知らないが、上等皮製の犬の頸輪《くびわ》を売りつけに来たことがあった。飼犬もいない私の家に売りつけて、どうしようと言うのだろう。彼女はよごれをふせぐために、いつも白い布片を着物の襟《えり》にかけている。髪を引詰めて結っているので、眼尻《めじり》がすこし上に引きつれている。ネギさんの眼は、亭主のそれと異《ちが》って、丸い眼である。その眼をしきりにパチパチさせて、ぼそぼそと言葉を並べ、是が非でも私に買わせようとする。大八郎と私との金のいきさつには、彼女は全然素知らぬふりをしている。|ふり《ヽヽ》ではなく、実際に関係がないのかも知れない。夫婦は車輪のようだと言うが、古畑夫妻はこわれ果てた荷車のように、双の車輪は別々の方角を向いて、別々の廻り方をしているようだ。げんに今も、草花を愛撫する老人のそばで、ネギさんはれいの長火鉢の灰を、せっせとふるいにかけている。お互いに背をむけ合ったままである。話し合う気配すら全然ない。しかしそこに、隔絶した平安とでも言ったようなものが、うすうすとただよっている。むし暑くどろりと濁った春の午後の空の下で、それらは動かなければ、材木か石のように見えるだろう。そして向うから眺めれば、きっとこの私もそのように見えるのだろう。煙がまだ雑草|灌木《かんぼく》の上を、淡く縞《しま》になってゆるゆると棚引《たなび》いている。あの古畳も、すっかり燃えきるまでには、夕方までかかるかも知れない。 [#地付き](昭和二十六年八月『新潮』)   [#改ページ]  突堤にて  どういうわけか、僕は毎日せっせと身支度《みじたく》をととのえて、その防波堤に魚釣りに通っていたのだ。ムキになったと言っていいほどの気の入れかただった。太平洋戦争も、まだ中期末期までは行かず、初期頃のことだ。  その防波堤は、青い入海に一筋に伸びていた。突端のコンクリートの部分だけが高くなっていて、そこに到る石畳の道はひくく、満潮時にはすっかり水にかくれてしまう。防波堤の役にはあまり立たないのだ。これは戦争が始まって資材が不足してきたせいで、未完成のまま放置されたものらしい。  だからまだ水のつめたい季節には、引潮のときに渡り、また引潮をねらって戻らねばならぬ。  しかし春も終りに近づいて水がぬるんでくると、海水着だけで釣道具をたずさえ、胸のあたりまで水に没して強引に渡る。帽子の中にはタバコとマッチを入れ、釣竿《つりざお》とビクと餌箱《えばこ》を胸の上にささげ持ち、すり足で歩く。その僕の身体を潮が押し流そうとする。また本来ならば、畳んだ石にカキが隈《くま》なくくっついているのだが、撒餌《まきえ》に使う関係上みんなが金槌《かなづち》で剥《は》がして持ってゆく。剥がした跡には青い短い藻《も》が一面にぬるぬると密生して、草履《ぞうり》をはいていても時には辷《すべ》るのだ。辷ると大変だ。潮にさからって元のところに泳ぎ戻るまでには、たいてい餌箱から生餌が逃げてしまっている。逃げられまいと餌箱を空中にささげれば、今度はこちらが海水を大量に飲まねばならない。  餌にも逃げられず、自分も海水を飲まないためには、始めから滑《すべ》らないように用心するに越したはない。そこで僕らはのろのろと、潮の流れの反対に体を曲げて、長い時間の後三町ほども先にある突端にやっとたどりつくのだ。突端は海面よりはるかに高いから、満潮時でも水に浸《つか》ることはなかった。僕はそこでビクを海に垂らし、餌箱を横に置き、コンクリートにあぐらをかいて釣糸をたれる。帽子の中からタバコを取出し、ゆっくりと一服をたのしむのだ。僕のはく煙は、すぐに潮風のためにちりぢりに散ってゆく。  その突端の部分は、幅が五|米《メートル》ぐらい、長さが三十米ほどもあったと思う。表面は平たくならされたコンクリートで、雨の時には雨に濡《ぬ》れ、晴れの時には日に灼《や》ける。海をへだてて半里ぐらいのところから、灰色の市街が横長く伸びている。戦争中でもここだけは隔絶された静かな場所だった。  この突堤にその頃集っていた魚釣りの常連のことを僕は書こうと思う。  先に書いたように、満潮時でもこの突堤にたどり着こうというからには、常連たちは万一を考えて水泳術を身につけていなくてはならない。それに一応の体力をも。——しかし僕より歳若いのはこの突堤に、日曜や休電日をのぞいては、ほとんどあらわれなかったようだ。(戦争中のことだからこれは当然だ)。皆僕と同じくらいか、大体に年長者ばかりだった。そして概して虚弱な感じの者が多かった。僕はその前年|肺尖《はいせん》カタルをやり、いわばその予後の身分で、医師からのんびりした生活を命じられていたのだ。医者はその僕に、特に魚釣りに精励せよと命令したのではないが、僕の方で勝手に魚釣りなどが予後には適当(オゾンもたっぷりあるし)だろうと、ムキになって防波堤に通っていたわけだ。無為でのんびりというのは僕にはやり切れなかった。今思うと、魚釣りというものはそれほど面白いものではないが、生活の代償とでも言ったものが少くともこの突堤にはあった。それがきっと僕を強くひきつけたのだろう。  ここには何時《いつ》も誰かが釣糸を垂れていた。僕は夜釣りはやらなかったが、夜は夜でチヌの夜釣りがいる。大体二十四時間誰かがここにいることになるのだ。少しずつ顔ぶれはかわって行くようだが、それでも毎日顔を合わせる連中は自然にひとつのグループをつくっていた。この連中と長いこと顔を合わせていて、僕は特に彼|等《ら》の職業や身分というものを一度も感じたことはなかった。彼等は総体に一様な表情であり、一様な言葉で話し合った。いわば彼等は世間の貌《かお》を岸に置き忘れてきていた。  そしてこの連中のなかで上下がつくとすれば、それはあくまで釣魚術の上手下手《じようずへた》によるものだった。こういう世界は常にそのようなものだ。碁会所、撞球場《どうきゆうじよう》、スケートリンク。そんなところのどこでも、上手の人が漠然《ばくぜん》とした畏敬《いけい》の対象となるように、この突堤でも上手なやつはやや横柄にふるまうし、初心者は控え目な態度をとる。その傾向があった。意識的でなく、自然に行われていた。しかしそれもはっきりときわ立ったものではない。きっぱりと技術だけが問題になるのではなく、やはりそこらに人間心理のいろんな陰影をはらんでくるようだったが。  そしてこの連中には漠然とではあったけれども、一種の排他的とでも言ったような気分があった。僕が始めてここに来た時、彼等は僕にほとんど口をきいてくれなかった。僕が彼等と話を交《か》わすようになったのは、それから一カ月も経《た》ってからだ。僕だって初めは彼等に変な反撥《はんぱつ》を感じて、なるべく隔たるようにして釣っていたのだが、どういう潮加減かある日のこと、メバルの大型のがつづけさまに僕の釣針にかかってきたのだ。その日から彼等は僕に口をきき始めた。そして僕は連中の仲間入りを許された。思うに連中の排他的気分というのは、つまりこのような微妙な優越感に過ぎないのだ。僕もこれらに仲間入りして以来、やがてそんな排他的|風情《ふぜい》を身につけるにいたったらしいのだが。  たとえば日曜日になると、この防波堤はたくさんの人士でうずめられる。勤人、勤労者、学生、それに女子供などが、休日を楽しみにやって来るのだ。それを突堤の常連は『素人衆《しろうとしゆう》』と呼んで毛嫌《けぎら》いをした。だから日曜日には常連の顔ぶれは半減してしまう。素人衆とならんで釣るのをいさぎよしとしないらしい。素人とさげすみはするものの、しかし僕の見るところでは、両者の技倆《ぎりよう》にそれほどの差異があるようには思えなかった。本職の漁師から見れば両者とも素人だし、それに実際並んで釣ってみると、日曜日の客の方がよけい釣ったりすることがしばしばなのだ。ただ両者に違う点があるとすれば、魚釣りにうちこむ熱情の差、そんなものだっただろう。それにもひとつ、日曜日の客たちは常連とちがって、ここに来てもひとしく世間の貌で押し通そうとするのだ。たとえば人が釣っているうしろで大声で話をしたり、他人のビクを無遠慮にのぞいて見たり、そんなことを平気でやる。そうした無神経さが常連の気にくわなかったのだろう。僕もそれは面白くなかった。  常連と口をきくようになってから、僕は彼等からいろんなことを教えられた。たとえば糸やツリバリの種類、どういう場合にどんな道具が適当であるかなど。また餌《えさ》の知識。釣具店で売っているデコやゴカイより、岩虫の方が餌として適当であり、さらに突堤のへりに付着する黒貝が最上であることも知った。それから釣竿《つりざお》を自分でつくるなら、この地方における矢竹の産地や分布なども。  しかし畢竟《ひつきよう》そんな道具や餌に凝っても、この突堤で釣れるのは雑魚《ざこ》に過ぎなかった。メバルやボラ、ハゼ、キスゴやセイゴ、せいぜいそんなものだったから。  ある日僕は持って行ったゴカイを使い果たしたものだから、常連から得た知識にしたがって、海中にざんぶと飛び込んで黒貝を採取しようとした。水面近くのは皆採り尽してあるから、かなり深いところまでもぐらねばならない。苦労して何度ももぐり、やっと一握りの黒貝を採ったけれども、さて突堤に上ろうとすれば、誰かに上から手を引っぱって貰《もら》わねば上れない。ところが皆知らぬふりをして、釣りに熱中しているふりをよそおって、誰も僕に進んで手を貸そうとしてくれなかったのだ。知らんふりをしているのに、助力を乞うことは僕には出来なかった。莫迦《ばか》な僕は、水泳は医師から禁じられているのにもかかわらず、防波堤の低い部分までエイエイと泳いでしまった。  その時僕はずいぶん腹を立てたが、後になって考えてみると、特に彼等が僕だけに辛《つら》く当ったわけではないようだ。そういうのが彼等一般のあり方だったのだ。彼等は薄情というわけでは全然ない。つまり連中のここにおける交際は、いわば触手だけのもので、触手に物がふれるとハッと引っこめるイソギンチャクの生態に彼等はよく似ていた。こういうつき合いは、ある意味では気楽だが、別の意味ではたいへんやり切れない感じのものだった。  こんなことがあった。  その日は沖の方に厭《いや》な色の雲が出ていて、海一面に暗かった。ごうごうという音とともに、三角波の先から白い滴《しずく》がちらちらと散る。三十分後か一時間あとかに一雨来ることだけは確かだった。しかしその時突堤の内側(ここは波が立たない)で魚が次々にかかっていたから、誰も帰ろうとしなかった。雨に濡れたとしても、夏のことだから困ることはないし、第一突堤にやって来るまでに海水に濡れてしまっている。だから皆困った顔をするよりも、むしろ何時もより変にはしゃいでいるような気配があった。 「一雨来るね」 「暗いね」 「沖は暗いし、白帆も見えない、ね」  そんな冗談を言い合いながら、調子よく魚を上げていた。その時、僕の傍《そば》の男が、ぽつんとはき出すように言った。 「もっと光を、かね」  もっと光を、というところを独逸語《ドイツご》で言ったのだ。僕はそいつの顔を見た。そいつはそれっきり黙ってじっとウキを眺めている。  その男は四十前後だろうか、どんな職業の男か、もちろん判らない。いつも網目にかがったワイシャツを着込んで、無精髪をぼさぼさと生《は》やしている。さっきの言葉にしても、思わず口に出たのか、誰かに聞かせようとしたのか、はっきりしない。はっきりしないが、僕はふいに「フン」と言ったような気持になった。魚釣りの生活以外のものを突堤に持ちこんだこと、それに対する反撥だったかも知れない。それにまたえたいの知れない自己嫌悪《じこけんお》。  この弱気とも臆病《おくびよう》ともつかぬ、常連たちの妙に優柔な雰囲気《ふんいき》のなかで、ときに争いが起ることもあった。とり立てて言う原因があるわけでもない。ごくつまらない理由で——たとえば釣糸が少しばかりこちらに寄り過ぎてるとか、くしゃみをしたから魚が寄りつかなくなってしまったじゃないかとか、そんなつまらないことからこじれて、急にとげとげしいものがあたりにみなぎってくるのだ。しかしそれが本式の喧嘩《けんか》になることはまれで、四辺《まわり》からなだめられたり、またなだめられないまでも、うやむやの中に収まってしまう。しかしそんな対峙《たいじ》の時にあっても、そいつら当人の話は、相手を倒そうという闘志にあふれているのではなく、両方とも仲間からいじめられた子供のような表情をしているのだ。そのことが僕の興味をひいた。彼等は二人とも腹を立てている。むしゃくしゃしている。が、それは必ずしも対峙した相手に対してではないのだ。それ以外のもの、何者にとも判然しない奇妙な怒りを、彼等はいつも胸にたくわえていて、それがこんな場合にこうした形で出て来るらしい。うやむやのままで収まって、また元の形に背を円くして並んでいる後姿を見るたびに、僕は自分の胸のなかまでが寒くなるような、他人《ひと》ごとでないような、やり切れない厭《いや》らしさをいつも感じた。そういう感じの厭らしさは、僕がせっせと防波堤に通う日数に比例して、僕の胸の中にごく徐々とではあるが蓄積されてゆくもののようだった。  一度だけ殴《なぐ》り合いを見た。  その当事者の一人は『日の丸オヤジ』だった。  日の丸オヤジというのは、僕よりもあとにこの突堤の常連に加わってきた、四十がらみの色の黒い男だった。背は低かったが肩幅がひろいし、指も節くれ立ってハリや竿のさばきがあまり器用でない。工員というタイプの男だ。  この日の丸オヤジはいつもの態度は割におどおどしている癖に、へんに図々《ずうずう》しいところがあった。いつも日の丸のついた手拭《てぬぐ》いを持っている。腰に下げていることもあるし、鉢巻《はちま》きにしていることもある。工場からの配給品なのだろう。そこで日の丸オヤジという仇名《あだな》がついていた。もっともこの突堤では、常連はお互いに本名は呼び合わない。略称か仇名かだ。ここは本名を呼び合う『世間』とはちがう、そんな暗黙の了解が成立していたからだろう。  その日の丸オヤジがナミさんという男と言い合いになった。どういう原因かと言うと、餌の問題からだ。大の男たちがただの餌の問題で喧嘩になってしまった。  その日、日の丸オヤジは持ってきた餌を全部魚にとられてしまったのだ。  そこで日の丸オヤジががっかりして周囲を見廻すと、コンクリートの地肌《じはだ》の上をゴカイが二匹ごそごそと這《は》っている。これさいわいとそれを掴《つか》んでハリにつけたと言うのだが、ナミさんの言によるとそのゴカイは自分の餌箱から逃げ出したもので、逃げ出したことは知っていたが、魚の方で忙しかったし、たかがゴカイの脚だからあとで掴《つかま》えようと思ったとのこと。それを勝手にとったのは釣師の仁義に反すると言うのだ。  僕らは口を出さず、黙って見ていた。  すると両者の言い合いはだんだん水掛論になってきた。たとえばゴカイが逃走して、餌箱から何尺離れたら、そのゴカイの所有権はなくなるか、と言ったようなことだ。こういうことはいくら議論したって結論が出ないにきまっている。  誰も眺《なが》めているだけで止めに出ないものだから、ついに日の丸オヤジが虚勢を張って、何を、と立ち上ってしまった。ナミさんもその気合につられたように立ち上ったが、そのとたんに二人とも闘志をすっかり失ってしまったらしい。あとは立ち上ったその虚勢を、如何《いか》にして不自然でないように収めるか、それだけが問題のように見えた。ところがまだ誰も仲裁に入らない。見物している。  二人は困惑したようにぼそぼそと、二言三言|低声《こごえ》で言い争った。そして日の丸オヤジはおどすようにのろのろと拳固《げんこ》をふり上げた。それなのにナミさんがじっとしているものだから、追いつめられた日の丸オヤジはせっぱつまって、本当にナミさんの頭をこつんと叩《たた》いてしまったのだ。  叩かれたナミさんはきょとんとした表情で、ちょっとの間じっとしていたが、いきなり日の丸オヤジの胸をとって横に引いた。殴《なぐ》った日の丸オヤジは呆然《ぼうぜん》としていたところを、急に横に押され、よろよろと中心を失って、かんたんに海の中にしぶきを立てて落っこちてしまったのだ。泳ぎがあまり得意でないと見えて、あぷあぷしている。  そこで皆も大さわぎになり、濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》になった日の丸オヤジをやっとのことで引っぱり上げたが、可笑《おか》しなことには、下手人のナミさんが先頭に立って、シャツを乾《かわ》かすのを手伝ったりして世話を焼いたのだ。そして別段仲直りの言葉を交わすこともしないで、漠然と仲直りをしてしまった。シャツが乾いて夕方になると、いつもは別々に帰るくせに、この日に限ってこの二人は一緒に談笑しながら防波堤を踏んで帰って行った。  正当に反撥すべきところを慣れ合いでごまかそうとする。大切なものをギセイにしても自分の周囲との摩擦を避けようとする、この連中のそんなやり方を見て、やっと彼等に対する僕のひとつの感じが形をはっきりし始めたようだった。もちろんその中に僕自身を含めての感じだが、それはたとえば道ばたなどで不潔なものを見たときの感じ、それによく似ているのだ。  日の丸オヤジはこの突堤へ二カ月ほども通って来ただろうか。そしてある日を限りとして、それ以後姿を全然あらわさなくなった。へんな男たちから連れて行かれてしまったのだ。  その日は秋晴れのいい天気で、正午をすこし廻った時刻だったと思う。丁度引潮時で、突堤と岸をむすぶ石畳道はくろぐろと海水から浮き上っていた。その道を踏んで、見慣れない風態《ふうてい》の男が三人、突端の方に近づいてきた。見慣れない風態というのは、釣り師風ではないというほどの意味だ。石の表のぬるぬる藻で歩きにくいと見え、靴を脱いで手に持ち、裸足《はだし》に縄をくるくる巻きつけている。近づいてきたのを見ると、その一人は警官だった。そして彼等はヤッとかけ声をかけて突堤に飛び上った。  あとの二人もがっしりした体つきの、いかにも権力を身につけた顔つきをしていた。  僕らはもちろんそ知らぬ顔で糸をたれたり、エサをつけかえたりしていた。 「……はいないか」  と警官が大きな声を出した。警官の制服で足に縄を巻きつけている図は、なんとも奇妙な感じだった。  日の丸オヤジはその時弁当のニギリ飯を食べていたが、ぎくりとしたように警官の方にむき直った。 「お前だな!」  背広姿の男の一人が日の丸オヤジを見て、きめつけるように言った。日の丸オヤジは、ヘエッ、というような声を出して、どういうつもりかニギリ飯の残りを大急ぎで口の中に押し込んだ。 「ちょっと来て貰おう」 「ヘエ」  日の丸オヤジは口をもごもごさせながら、釣道具をたたもうとしたが、思い直したようにそれを放置して、男たちの方に進み出た。背広の一人が言った。 「釣道具、持って来たけりゃ持って来てもいいんだぞ」 「ヘエ、いいんです」 「じゃ、早く来い」  と警官が言った。日の丸オヤジはうなだれて、まだ口をもごもご動かしながら警官の前に立った。その時背広の一人が僕らを見廻すようにして、 「ヘッ、この非常の時だというのに、こいつら呑気《のんき》に魚釣りなどしてやがる」  とはき出すように言った。僕らはそっぽ向き、また横目で彼等を眺めながら、誰も何とも口をきかなかった。  やがて日の丸オヤジは三人に取り巻かれるようにして突堤を降り、石畳道を岸の方にのろのろと遠ざかって行った。その情景は今でも僕の瞼《まぶた》の裡《うち》にありありとやきついている。  日の丸オヤジがどういうわけで連れて行かれたのか、僕は今もって知らない。あるいは工場に徴用され、それをさぼって魚釣りなどをしていたのをとがめられたのか。常連たちもそれについて論議をたたかわすことは全然しなかった。外見からで言うと、日の丸オヤジはその翌日から常連のすべてから忘れ去られてしまった。  オヤジの釣道具、放棄したビクや釣竿などは、誰も手をつけないまま、三日ほど突堤上に日ざらしになっていた。そして三日目の夜の嵐《あらし》で海中にすっかり吹っ飛んでしまったらしい。四日目にやって来たら、もう見えなくなってしまっていた。 [#地付き](昭和二十九年八月『文学界』)   [#改ページ]  凡人凡語  その子は、ぼくを嫌《きら》っています。いや、たしかに憎んでいるのです。  今子供と言いましたが、もう子供じゃないのかも知れない。戦後子供の背丈《せたけ》がにょきにょきと向上して、どこで大人と子供の区別をつけるのか、どうも判らなくなって来たようです。言うことは子供っぽくても、身長が百八十センチもあったり、あるいは逆に、恰好《かつこう》は子供子供としているのに、言うことだけはぺらぺらと悪達者だったり、けじめのつかない場合がしばしばある。ぼくはもう三十七歳になって、彼|等《ら》の世界と相渉《あいかかわ》ることがないので、どうでもいいようなもんですが、やはりけじめのつかないということは、良いことじゃありません。  先年先輩のお伴をして、九州へスケッチ旅行に行きました。いろいろ見たり聞いたり描いたりして来ましたが、驚いたのは向うの食用植物の大ぶりなことですな。ビールの肴《さかな》にするから、モロキュウをくれと頼んだら、一尺近いキュウリがでんと皿の上に乗って出て来る。びっくりして、も少し細いのを、と頼むと、 「こっちの方がおいしかとです。花のついて痩《や》せたのは、栄養はなか!」  ナスもそうです。東京で煮物に使う長いナスが、姿を変え形を改めては、皿の上に現われる。ふしぎに思ってわけを聞いてみると、向うでナスビと言えばこれで、丸っこいのは特別に巾着《きんちやく》ナスと言うのだそうです。関東では丸っこいのが普通で、長いのを長ナスと呼ぶでしょう。つまりその反対ですな。考えの基本が違う。  近頃の子供(または半大人)は、この九州のキュウリやナスに似ているような気がします。こちらの食慾や理解を頑強《がんきよう》に拒否するようなものを、たしかに持っている。何に由来するのか、ぼくはよく判らない。特に判りたいとも思わない。  その子の名前は、平和《ひらかず》と言うのです。平和と言うからには、終戦後に生れたのに違いありません。何が何でも勝ち抜くぞの時代に、自分の子供に平和なんて名がつけられる筈《はず》はないですからねえ。  平和君の声は、ぼくは前から聞いていました。私の斜めうしろの家に、亀田さんという家があります。そこへ二日に一度、三日に一度ぐらい、少年の声が遊びにやって来る。 「亀田クーン」 「亀田クーン」  亀田家に到る小路の、ドブすれすれにぼくの画室は建っている。けれどその路《みち》に面したところは、一面の板壁になっていて、明り取りが上の方に小さくついているだけで、ぼくの方からは全然見えない。ただ声を聞いているだけで、どんな顔の、どんな身なりの少年かは、ぼくは見たことがありません。でも、少年が友達を呼ぶ声は、その抑揚や発声法には、一種の感じがありますねえ。 「亀田クーン」  のクーンにアクセントをつける。春の日の昼下りに、竿《さお》や竿竹、の呼び声を聞く時や、夜更《よふ》けに耳に届いて来るチャルメラの響き、そんなのと趣きは違うけれど、何か郷愁を伴ったような、妙な哀感がある。  その少年の声が、この間からすこしずつ変って来ました。もちろん呼び方や抑揚は同じですが、声の質が変化したわけです。以前は澄んでよく徹《とお》る声だったのに、妙に濁って乾《かわ》いて来たのです。 「ははあ。奴《やつこ》さん。風邪《かぜ》を引いたんだな。早く薬でものんだらいいのに」  画業を続けながら、あるいは即席ベッドに寝ころびながら、ぼくはそんなことを考えていました。 「ひどくなると大変だぞ。学校じゃワクチンなんかやってくれないのか」  ところがそれは、風邪じゃなかったんですな。声変りだったのです。風邪声にしちゃ、少々野太いと思った。風邪ならやがて直るのに、この濁りはなかなか取れないだけでなく、そのまま定着して行く傾向がある。 「とうとう変声期が来たのか」  そう気が付いた時、いくらかの衝動と感慨がありました。衝動とは、向うが変声期にまで成長したことは、ぼくがそれだけ馬齢を重ねたということでしょうか。でも、このような人間関係は、ぼくは好きです。板壁の向うの人生で、顔も姿も知らぬ少年が、それまでに成長した。友達を呼ぶ声だけで、ぼくがひそかにそれを知っている。向うから犯されることなく、こちらからも邪魔することなく、一方交通的に、そこはかとなくつながっている。そんな人間関係を、人間同士の乾いたつながりを、ぼくは嘉《よ》しとするんですがねえ。たとえば水族館に行くとします。ガラスの向うには魚たちがそれぞれの姿体で、泳ぎたいやつは泳ぎ、じっとしていたいやつはじっとしている。見物は見物でガラスのこちらから、それをぼんやり眺《なが》めている。——そんな関係が、ぼくは割に好きなのです。だからぼくは日頃から、自分に言い聞かせている。自分から動くな。働きかけるな。身を乗り出すな。これが三十何年かかってぼくが身につけた、趣味と言いますか、処世法と言うか、まあそう言ったものですな。しかし現実には、そうそううまくは行きませんね。絹の布で坊主頭を撫《な》で廻すようなもので、どこかが引っかかったり、けばだったり、ささくれだったりしてしまう。ままならぬものです。  こういうしゃべり方では、話がいっこう緒《しよ》につかないようですね。語り口を変えましょう。あなたは、 「ちッ、けッ、たッ!」  という言葉を知っていますか? いや、ちッ、けッ、たッ、の件は後廻しにしましょう。  御存じのように、ぼくの画室は、ある家の離れを改造したもので、ぼくはここにもう五年近く住みついています。家主はぼくの遠縁に当る老婦人で、割合わがままがきき、また気楽なものですから、つい根を生《は》やしてしまったような次第です。  離れの独《ひと》り住居《ずまい》ですから、世帯《しよたい》を張っているのではなく、と言って居候《いそうろう》というわけでもない。中ぶらりんな身の上で、それがかえってぼくにはラクなのです。町内との交渉も限られていて、たとえば銭湯、タバコ屋、惣菜屋《そうざいや》、八百屋や酒屋、その他ぼくの生活の幅だけのつき合いで、あとは無視してもよろしい。無視すると言っても、強《し》いて眼をつむるのではなく、ぼくも生身の人間なので、見える部分はやはり見る。かき分けてまで見ようと思わないだけです。つまり水族館のガラス越しみたいなものですな。  しかし世間では、ぼくのような生き方を、どうもまともなものとして受取ってくれないようです。かげでは変人呼ばわりをしている向きもあるらしい。ぼく自身は、ぼくが一番まっとうだと思っているんですがねえ。それが陽の形や陰の形であらわれて来ます。陽の場合は、 「独りでは不自由でしょうねえ」  とか、あるいはもっと、 「自炊もたいへんでしょうから」  と、菜っ葉や肉を押しつけがましくおまけしてくれたりする。ぼくは別段おまけは欲しくはないが、くれるものを拒否するほどの気持もない。にこにこしながら、受取ってしまう。おそらくぼくは彼等にとって、水族館の魚じゃなく、魚籠《びく》の中の魚みたいに見えるのじゃないでしょうか。眺めるだけにあき足りず、つついてみたり、ちょっと鰓《えら》をあけてみたり、どうもそんな風なのです。先《ま》ずはオセッカイと言うべきでしょう。受けている当人がそう思うのですから、これは間違いはありません。好意か親切か余計なオセッカイか、それは発する者が決めるんじゃなく、受取る方で決めるものだからです。 「そろそろ身を固めたらどうなの。あんた」  ぼくはわらうだけで、原則として返事をしない。返事する必要がないし、すれば事がけばだつだけのことですから。——その返事をしないことだけでも、ぼくは変人ということになっているらしい。変人というよりは、もっとひどいことが、陰の形で流布されている気配もある。面と向ってはっきりと言う人はあまりないようですが。 「あんな棺桶《かんおけ》みたいな家に、ひとりでガマガエルみたいに住んでいるから、病気になるんだよ」  ぼくの画室は離れの古家を改造して、天井を高くした関係で、ちょいと見には四角な形をしています。しかし棺桶みたいに細長くはない。 「わしが魚釣りに行く時、誘ってやるから、いっしょに来なさい。君はもっと日光に当る必要がある。鬱屈《うつくつ》しちゃいかん。なに、釣竿《つりざお》は用意しないでもいい。うちにあるのを貸して上げる」  そう言ってくれるのは、町内に住む赤木医師です。赤木さんはもう六十を越えた、でっぷり肥った医者で、何でもアメリカに渡って苦学力行して、医術を勉強したんだそうです。当人の言ですが、町内の一部にはちょっと眉《まゆ》つばだという噂《うわさ》もある。出身は北国の寒村で、ぼくの画室を棺桶みたいだというのは、あながちこじつけではなく、子供の時に見た座棺を連想するのかも知れません。この老医が何故《なぜ》ぼくを病気だと思うのか、そう決めてしまっているのか、よく判りません。彼には彼なりの根拠があるのでしょう。  赤木医師は風貌《ふうぼう》に似ず狷介《けんかい》な性格で、気に入らないとがみがみ叱《しか》ったり、診察を拒否したりするものですから、町内の評判はあまり良くないようです。だから患者の数もごくすくないのですが、老医は、 「なんだ。町内の連中におれの腕が判るものか」  と歯牙《しが》にもかけない。すくなくともかけていないポーズを取っています。それに齢《とし》が齢なので、ごしごし働く気もないし、息子もそれぞれ独立して大病院に勤めていて、後顧の憂いは一応ないからでしょう。一日三人か五人の患者を見たら、それで店じまいです。もっとも老医はここらでは草分けの医院で、古い門構えになっていて、ちょっと入りにくい趣きがあるのです。門柱は傾いていても、形はいかめしいし、それをくぐって植込みを縫い、暗い玄関の式台を上るのは、ここらの人にはやはり抵抗を感じるのではないでしょうか。で、町内の連中はここを敬遠して、近頃出来の瀟洒《しようしや》な診療所風の医院におもむき、乾いたスリッパをつっかけて、日射《ひざ》しの明るい待合室でテレビなどを見ながら、辛抱強く順番を待っている。  そこで老先生は暇なので、魚釣りに行ったり、太いステッキを突いて散歩したり、そのついでにぼくの画室に立寄ったりするのです。退屈しのぎなのか、何かぼくに関心があるのか。  ぼくが赤木医院の門を初めてくぐったのは、二年ほど前のことです。ある日、ふと大根おろしが食べたくなって、八百屋から大根を買って来て、シラス干しをたっぷりふりかけ、勢い込んで食べようとしたら、箸《はし》が妙な具合にピョンとはねて、シラス干しが一匹大根おろしをお伴につれて、いきなりぼくの眼の中に飛び込んだのです。びっくりしましたねえ。びっくりと言うより、眼玉がキリキリと塩辛《しおから》く、ぼくは思わず飛び上った。  急いで眼を洗ったけれど、まだ塩辛さが残っていて、それにごろごろと異物感がする。医者に見せた方がいいと判断して、早速《さつそく》赤木医院にかけ込んだわけです。赤木医師は眼科じゃないが、そんなことを考えている余裕はない。他の医院じゃ、待たせられますからねえ。シラス干しが眼の中で泳いでいるなんて、一見風流なようですが、当人としてはメクラになるかも知れないぞと、気が気じゃない。運よく赤木医師は在宅していました。瞼《まぶた》をひっくり返したり、懐中電燈で照らしたりして探《さが》したが、シラス干しはいないとのことでした。 「大丈夫だよ。人間の眼なんて、そんなにかんたんに失明するもんじゃない」  眼薬をさして貰《もら》って帰ろうとすると、老医はぼくを呼びとめて、ついでにタダで健康診断をしてやると言う。老先生もよほど退屈していたんでしょうな。平素のぼくなら、この種のオセッカイはお断り申し上げるのですが、その時はつい応じる気になった。タダということの魅力も若干はあったようです。診察の結果、血圧は異常なし、肝臓が少々肥大しているとのことで、 「あまり酒タバコは過さない方がいいよ」  その日はそれで帰り、半月ほど経《た》って画室でひとり酒を飲んでいたら、妙に顔が熱っぽくなり、へんだなと思っていたら、心臓がゴトンゴトンと早鐘のように打ち始めました。母屋《おもや》の人に頼んで、赤木医院に電話をかけ、その間ぼくはベッドに横になって、はあはあとあえいでいました。やがて赤木医師は大きな鞄《かばん》を提《さ》げてあらわれました。 「大丈夫だ。心悸亢進《しんきこうしん》で死んだ例は一つもない」  かんたんな診察の後、そう言って、何か注射をしてくれました。亢進がおさまるまで、老先生は画室の中を歩き廻ったり、描きかけの画を眺めたり、そして不審そうな声で言いました。 「君、これ、画かね? わしにはどうも画とは思えんが」  赤木医師が散歩の途中、時々ぼくの家に立寄るようになったのは、その時からです。時には一時間も二時間も縁側に腰をおろして、話し込んで行くこともある。話題はおおむね世間話や昔話など。アメリカで皿洗いをした話なんかは、五度か六度か聞きました。しゃべるのは大体老先生の方で、ぼくはいつも聞き役です。立ち去る時、必ず彼はぼくに忠告する。 「こんな妙な建物の中で、そんな画ばかり描いてちゃ、甚五《じんご》みたいになるよ。悪いことは言わない。魚釣りをやりなさい。魚釣りを!」  ぼくは別に老先生の来訪を歓迎するわけじゃないが、さりとて迷惑というほどのこともない。ただ話を聞いていればいいのですからねえ。忠告に対しては、黙ってわらっていれば済む。  で、その甚五のことですが、老先生は彼を快よくは思っていない。彼と言うより、彼一家と言った方が正しいかも知れません。なぜかと言うと、老先生が推した病院に甚五は入院せず、他の病院に入ってしまったからです。こういう点、医者というものは、案外神経質になるもののようですな。ことに赤木医師は性格が性格だから、ひどく自尊心を傷つけられたように感じたらしいのです。 「あんな病院に入るなんて、ほんとにあいつはバカだよ。君。あの病院の資金を出してるのは、ある区会議員だが、本業はヤクザの親分だということだぜ。精神病者を対象にして儲《もう》けようなんて、怪《け》しからん」  赤木医師が推挙したのは、都立のM病院です。実は赤木先生も一年に一度ぐらい、変になる。医者のことですから、自分の変調にはすぐ気がつく。すると自分からさっさとM病院におもむき、入院してしまう。町内の人々は大体そのことを知っています。赤木医院がはやらないのは、ひとつはそのせいもあるのです。 「赤木さん、また松沢入りしたってよ」 「あら、そう。困ったわねえ、あの先生も」  市場でそんな会話を聞いたことがあります。でも、自ら進んで入院するなんて、かえって健全な証拠じゃないでしょうか。町の連中の考え方は、どうも逆のような気がします。——その赤木医師とウマが合うという点で(老先生がぼくの画室に遊びに来ることは、すでに周知のことですので)彼等はぼくをその部類に近いと判断しているんじゃないかと、思われる節がある。変人というより、たとえばキジルシだなどと言う風にです。そう思われても、ぼくは別段|痛痒《つうよう》は感じません。人間、誰だって、その要素はあるのですから。  しかし、赤木医師の話は、後廻しにしましょう。問題は甚五のことです。  正確に言うと、彼は森甚五という名で、赤木医師が、 「甚五。甚五」  と呼ぶので、ぼくもそれに従いますが、うちの近くのタバコ屋のおやじです。小柄で顔色の悪い五十がらみの男で、いつも何かおどおどした感じの風態《ふうてい》の人物です。この甚五は今でこそおどおどしているが、僕には想像出来ないけれど、かつては大いに威張っていた時期があったそうです。それは戦後のタバコ不足の時代で、丁度ピースやコロナが売り出された頃のことです。一日何箇と数を決めて売り出す。時間は午前の六時です。皆が行列して待っていると、六時少し前に表の板戸をがたがたとあけて、甚五は売場に悠然《ゆうぜん》と坐る。すぐ売り始めるかと思うと、そうではない。傍《そば》の電熱器に乗せた薬罐《やかん》をとって、自分でゆっくりと茶をいれ、お客は待たせっ放しにして、うまそうに茶をすする。時にはタンと舌つづみを打ったりして、調子がつくと一杯だけじゃなく、二番茶をいれる。お客はじりじりしているんですが、文句を言うと売ってくれないから、黙って辛抱している。やっと茶を飲み終ると、面倒くさそうな声で宣言する。 「おつりが要《い》る人には売りませんよ。判ったね」  今日は何箇売り出すと初めから判っているし、その箇数だけの人間が並んでいるんですから、直ぐ売り出せばいいんですがねえ。わざとそういう意地悪をする。権力を誇示したいんですな。やがてお客の握りしめたお金が、次々タバコと交換に売場のガラス台の上に置かれる。冬の朝なんか、積み重なったお金から湯気がゆらゆらと立ちのぼっていたそうです。よほどお客の恨みと執念がこもっていたのでしょう。  しかしこの高姿勢も、タバコがたくさん出廻るようになると、とたんに通用しなくなったのも当然です。甚五としては、まだまだそんな状況は続くと予想していたのに、意外に復興が早かった。神通力を失った甚五はがっかりして、それに今まで意地悪をした連中から、ざまあ見ろと白い眼で見られるし、自分が坐ってたんじゃ誰も買いに来てくれないので、とうとう売場を女房のフクに明け渡した。そして自分は外廻りの仕事を始めました。ぼくがここに引移って来た頃、ぼくはよく彼が鞄を抱くようにして、うつむき勝ちにとっとっと道を歩いている姿をよく見かけました。おそらく金貸しか、金貸しの手代みたいな仕事をやっているんじゃないか。おそらく後者だろう。歩いている感じから、そんな印象を受けたことがあります。何か暗い影を引きずっているような具合なのです。  その甚五が一年ほど前から、挙動がおかしくなりました。赤木医師の話では、自分は専門医じゃないし、正式に診察したわけでないからよく判らないけれど、アル中の気もあるようだし、鬱状態が歴然とあらわれているようだとのことでした。元来が小心で意志の弱い男なのです。それに更年期という条件が加わり、やり切れなさを酒でごまかしている中に、ついにアルコールの捕虜になってしまったのでしょう。フクさんに聞くと、 「へんなんですのよ。出かけたかと思うと、しばらくして突然戻って来て、家の中をキョロキョロ見廻したり、押入れをあけたりするんですよ。男が来てやしないかって。あたしが浮気でもしてるかと、疑ってんです」  フクさんはふやけたような笑いを見せました。彼女は亭主と違って肥っていて、肥っているというよりアンパンみたいにふくらんでいます。あまり魅力のある女性じゃないことは、ぼくが太鼓判をおしてもよろしい。 「そんなに疑われると、子供の手前、恥かしくってねえ」  森タバコ店は、タバコ屋のかたわら駄菓子《だがし》などを売っていますが、近頃店の中を仕切って、惣菜《そうざい》用のおでんを売り始めました。一|串《くし》十円ぐらいの安おでんで、ちょっと醤油《しようゆ》の味が濃過ぎるようですが、簡便なので結構売れているらしい。ぼくもおかずつくりが面倒な時は、時々利用しています。それにおおっぴらにやれることじゃないんですけれど、いつも二級酒だの焼酎《しようちゆう》がそなえつけてあって、こっそりとコップに注《つ》いで出してくれる。すなわちおでんをサカナにして、ひやであけるわけです。甚五がおかしくなって以来、収入が激減したので、窮余の一策としてこのヤミ商売を思いついたらしいのです。なにしろ簡便なので、常連も出来ている。  酒類は戸棚《とだな》の中にしまってあり、鍵《かぎ》がかかってる。注文があると取り出して注ぎ、また鍵をかける。取調べがあった時の用心かと思っていたら、そうじゃないんですな。常連の一人に大久保という独身男がいて、齢《とし》の頃は三十前後ですが、どこかの役所に勤めているとのことで、これがまた眼のぎょろりとした詮索《せんさく》好きな男なのです。これが聞きました。 「おかみさん。どうして一々鍵をかけるんだね。面倒くさいじゃないか」 「そう思うんですがねえ」  フクさんは困ったような顔になりました。 「つまりおやじさんの自家用酒という名目にしてあるのかね?」 「それが逆なんですよ」  フクさんは以前はぶすっとした無愛想な女で、タバコ商売はそれで通ったけれど、酒やおでんの商売ともなると、適当に相槌《あいづち》なんかも打たなきゃならない。割に正直な女で、ウソがつけないたちなのです。 「鍵をかけとかなきゃ、うちの人がいつの間にか飲んでしまうんですよ」 「ふうん。商売用を飲まれては、立つ瀬がないやね。困ったもんだ」  大久保はおでんを横ぐわえにしごきながら、わざとらしい嘆声を発しました。 「早いとこ神経科の医者に診《み》せたらどうだね? 今のままじゃ、果てしがないよ」 「そう思うんですけどね、それを言い出すとぷんぷん怒るんです。困っちゃうんですよ」  ぼくなら余計なお世話だと黙殺するところですが、ここらは向う三軒両隣的人情でつながっているので、突っぱねるわけには行かない。大久保はよせばいいのに、図に乗って提案しました。 「なんならおれが説得して上げようか。おれは役人だし、おかみさんより少しは睨《にら》みがきくだろう」  全く余計なことを言ったもんです。タバコ売場の方では、息子の平和が坐って、勉強していました。時々耳が動くところを見ると、こちらの話が聞えているのに違いありません。平和は体つきは母親似で、たいへん大柄ですが、顔はおやじ似で、むっとした表情で眉間《みけん》に翳《かげ》をたたえています。こんな世代が大きくなると、案外この町の両隣的性格も消滅してしまうかも知れませんねえ。  大久保が余計なでしゃばりをしたばかりに、甚五から引っかかれるという事件が起きたのは、それから間もなくです。ぶん殴《なぐ》らずに引っかいたところに、甚五の面目躍如たるものがありますな。しかしぼくはその現場を見たわけじゃない。  もっとも大久保は診察を勧めて、それで引っかかれたわけじゃない。まあそれが遠因になってはいるのですが、直接の原因は他にある。ある日甚五宛のハガキが、間違って大久保のところに配達されて来た。東京地方検察庁からのハガキです。間違いならそのままポストに再投入すればいいのに、大久保はそのハガキを持ってのこのこと森タバコ店に届けに行った。内容は処分通知で、 『貴殿から告発のあった誰某に対する偽証被疑事件は何月何日左記の通り処分しましたので通知します。  記。不起訴』  検察官の印がでんと押してある。甚五が偽証罪で誰かを訴えたのに、不起訴と判決が下ったわけですな。大久保みたいな詮索好きの男が、それを見逃《みのが》す筈《はず》がない。 「一体どんな事件で、どんな証人を呼んで、どんな証言がなされたのか。このハガキだけじゃ、全然判らないじゃないか。ねえ。君もそう思うだろ」  大久保は口をとがらせて、ぼくに報告をしました。 「だからその事情を聞きに行ったのさ」 「君にその権利があるのかね?」 「そりゃあるさ。わざわざハガキを届けに行ってやったんだもの」  こういうこの世の論理(?)がどうしてもぼくには理解出来ないのですが、当人がそう思い込んでいるし、何だったら助言をしてやろうとの好意(?)から出ているらしいのです。介入するわけには行きません。 「するとあいつ、二言三言話している中に、おれの顔を引っかきやがってね。まるで猫みたいな奴《やつ》だ。どうしても病院に入れなきゃ、あぶなくって仕様がない」  こめかみから頬《ほつ》ぺたにかけて、引っかき傷が出来ていました。それをぼんやり眺めていると、大久保はむっと言葉を荒らげました。 「なぜにやにやするんだい。笑いごとじゃないんだぞ!」  たかが引っかきでも、とにかく人に傷を負わせたのですから、フクさんも放っては置けません。相手の大久保は詮索好きと同時に、かなりのウルサ型なので、とうとう赤木医院に相談に行ったのです。赤木医院を選んだのは、医師にもその気があるから親身になってくれるだろうということ、それに患者がすくなくて待合室もがらがらだから、噂が立ちにくいということ、そんな理由からです。すると赤木医師は言下に答えました。 「わしは専門医じゃないから判らん。M病院に行きなさい。M病院に!」  あとでフクさんはぼくにこぼしました。 「いくら何でもM病院じゃねえ。まるでほんとの気違いみたいじゃないの。見っともなくて、人にも言えないわ」  M病院入りがなぜ見っともないのか。病気なら仕方がないじゃないか。通念によりかかってばかりいるのは、ばかげた話だと思うのですが、ぼくは別段口には出さなかった。身を乗り出すな、という信条からです。うっかり口を出すと、あの変人画描きはM病院をひいきにしている。すこし怪しいぞ、ということになりかねないですからねえ。噂を立てられてもかまわないけど、ひっそりと人眼に立たず生きて行く方が、ぼくの性分に合っている。  こういう事情で、甚五はとうとう入院することになりました。もちろんだまして連れて行ったのです。入院に際してせっせと骨を折り、公費患者の手続きを取ってやったりしたのは大久保で、役所勤めなのでその方面の伝手《つて》が多いのでしょう。しかしいくら伝手があると言っても、身内でもない赤の他人の世話を焼くなんて、その情熱は一体どこから来るのでしょうか。人に親切にするのは悪いことじゃないが、それにかかりきるということは、生き方として間違っているような気がします。もっともそれだけに生甲斐《いきがい》を感じると言うのなら、仕方がありませんが。  その病院の名を、仮にQとしましょう。赤木医師の話によると、インチキ病院のひとつで、精神病院というのは経営次第によっては、なかなか儲《もう》かるものだそうですな。相手が気違いだから、何を食わせても文句は言わないし、大部屋にごしごし詰め込んでも差支《さしつか》えない。保護者も世間体《せけんてい》を考えて、抗議しない。結核患者だと、待遇が悪いと団結して反抗するが、気違いには団結力がない。つまりどんな待遇をしてもいいと言うわけです。うっかりノイローゼにもなれませんねえ。公費患者は入院費が月額一万五千円、薬代が三千円で、合計一万八千円になります。大部屋に押し込み、粗悪なものを食わせて、それで一万八千円とは、経営者は笑いがとまらないでしょう。可哀《かわい》そうに甚五はとうとうその一万八千円組の一人となりました。  だまされて連れて来られたと判った時、甚五は少しあばれたそうです。しかし屈強な看護人がぬっと姿をあらわしたので、とたんにおとなしくなり、診察を受けて、素直に大部屋に入って行った。つきそって行ったのはフクさんと大久保で、日曜日でもないのに大久保が同行したのは、手続きの責任もあるのでしょうが、勤め先がよほど暇な役所と見えます。こんな連中の給料まで皆が負担しているんですからねえ。税金が高いのもムリはありません。  それから四、五日|経《た》った夜、甚五はとことこ森タバコ店に帰って来ました。いきなりガラス扉をあけ、死んだ魚のような眼で家の中をぐるりと見廻し、フクさんを押しのけて押入れをあけたり、果ては箪笥《たんす》の引出しまで調べたんだそうです。そして言いました。 「おい。男はどこに隠した?」 「男なんかいるもんですか。ばかばかしい」  フクさんは少し気味悪くなったが、それでもつんけんと言い返しました。 「一体病院の方はどうしたの?」 「あそこはイヤだよ。食い物はまずいし、それにいるのは気違いばかりじゃないか。おれの肌《はだ》に合わんよ。さあ、男を出せ!」 「男、男って、誰さ」 「うん。名前は知らんがちゃんと判ってるんだ。あんまり亭主を踏みつけた真似《まね》をするな。バカにしやがって。平和。おい。酒を買って来い。飲みながらとっちめてやる」  平和は売場に坐ったまま、石のように顔を硬直させて、返事をしなかった。 「大久保をついでに呼んで来い。あの野郎、おれをだまして、あんな病院に押し込みやがって、怪《け》しからん奴だ」  大きな声でわめくものですから、近所のおかみさんが大急ぎで大久保を呼びに行った。大久保がかけつけると、ふしぎなことにはとたんに甚五はしゅんとして、おとなしくなってしまったのだそうです。看護人の姿でも連想したのでしょうか。もっとも正気の人間の心の動きでも、ぼくらは理解出来ないのですから、調子の狂ったものの動きなど判ろう筈はない。  で、その日は病院に電話をかけて、年配の看護婦みたいなのがやって来た。いろいろなだめられて、甚五は素直にその女に連行されて、病院に戻って行ったそうです。その時その女が言った。 「患者に一切こづかいを持たせないで下さい。金はこちらで預って、必要な度《たび》に与えることにしますから」  それから病院での看視も、いくらか厳重になったようです。大久保の話によると、甚五のようなのは乱暴を働いたり、他人に迷惑をかけたりする病状ではないので、開放的な大部屋に収容されているという。それで一カ月ばかりは戻って来なかったのです。こづかいを取り上げられて、電車に乗りたくても乗れないからです。歩いて帰るには、あまりにもわが家は遠過ぎる。  しかし甚五の嫉妬妄想《しつともうそう》は、それでおさまったわけじゃない。時々むらむらと、周期的に発するものらしいですな。個人差はあるのでしょうが、甚五の場合はそうでした。突如として身支度《みじたく》をして、 「おれは今から帰宅する」  と宣言して、出かけようとする。帰られちゃ病院の方でも困るので、甚五を押えつけて電気ショックをかける。見たことはないが、あれは乱暴な療法だそうですねえ。双のこめかみから電気を通すと、テンカンみたいなはげしい痙攣《けいれん》を起して、ぐったりとのびてしまう。意識がなくなってしまうのです。 「あんなに電気ショックに強い人は、ちょっとめずらしいですな」  医者が言っていたそうです。たいていあの荒療治を一度受けると、数時間は昏酔《こんすい》し、覚醒《かくせい》した後も記憶がはっきりしなくなるが、甚五はそうでなかった。ショックを受けて、五分ぐらい経つと、けろりと眼覚《めざ》めて、また外出しようとする。また押えつけて電気を通す。今度は十分ぐらいで醒《さ》めて、ふらふらと玄関の方に歩き出す。医者も意地になって、三度目をかける。三度もかけると、さすがの甚五もぐったりとなって、 「ええ、ここはどこですか。何故《なぜ》わたしはここにいるんですか」  と言う具合になって、大部屋に戻り、せんべい布団《ぶとん》にくるまってぐうぐう寝てしまう。あのおどおどした甚五に、どうしてそんな電気に対して強烈な抵抗力があるのか。これは執念とか何とか、その式の精神力ではなく、体質の問題なのでしょう。それに違いありません。  その甚五の嫉妬妄想の対象が、彼の心の中でどんな屈折をして、ぼくに結びついたのか、ぼくにはよく判らないのです。身に覚えはないし、前にもお話したように、フクさんはアンパンみたいで、全然魅力のない女性なのですから、甚五から問いつめられた時、フクさんは呆《あき》れたように突っぱねたそうです。大久保からその話を聞きました。 「あんな蟹《かに》みたいな男と浮気するほど、あたしは落ちぶれてやしないよ、見当違いもいい加減にしてちょうだい」  ぼくは大久保に訊《たず》ねました。 「その、蟹みたいな男というのは、ぼくのことかね?」 「そうだよ。でも、おれが言ったんじゃなく、おフクさんだ。あまり気にしない方がいいよ」 「気にはしないがね、どうして君が疑われずに、ぼくが疑われるんだろう。君はずいぶん立入っているが、ぼくは何もしてない」 「何もしてないから、疑われるんじゃないかよ」  大久保はぎょろりと上眼遣《うわめづか》いに、ぼくをにらみました。その眼にはかすかに憎しみの色があったようです。ぼくは背中にどっと疲労を感じながら呟《つぶや》きました。 「そうか。どんな意味か判らないけれど、そういうことか」  甚五はまた病院から飛び出して帰って来たのです。街の銭湯に入りたいからと、婦長に風呂銭をねだり、その金でパチンコをやり、ピースを取って金に換え、それを電車賃にして帰って来たんですな。そしてぼくの名をわめいてひとあばれしたが、銭湯からなかなか戻って来ないので病院側では、看護人を森タバコ屋に派遣して待機させていたから、甚五はあっさりと連れ戻されてしまった。看護人の話では、銭湯に行くと言いながら、いつもよごれたまま帰院するので、怪しいとは思っていたのだそうです。パチンコで儲けるのも、ラクじゃないとみえます。大久保はつけ加えました。 「大声でわめいて近所にも聞かれたから、これからあまり酒を飲みに来ないでくれと、おフクさんに頼まれたんだ。もう行くなよ」 「来るなと言うなら、行かないよ」  ぼくは上《うわ》の空で返事をしながら、甚五のことを考えていました。大部屋の片隅《かたすみ》にじっと坐り込んで、毎日毎日女房のことを考えている。どこかに男がいるに違いない。その時ふっとぼくの顔が浮び上る。ワラでも掴《つか》むようにそれにすがりつき、その妄想を屈折させながら、やがて確信にまで持って行く。その努力とそれに伴う疲労の量は、たいへんなものだろうなあ。おれなんかの画業の比じゃない。——という感慨がありましたが、所詮《しよせん》甚五とてもぼくにとっては、ガラスの向うにいる人間に過ぎません。いくら屈折しようと、それは彼の勝手です。 「亀田クーン」 「亀田クーン」  今声が聞えるでしょう。あれが森平和の声です。この間たまたまそれを知ったのです。夕方ぼくがビールを飲みながら、ぼんやり庭を眺めていると、その声が聞える。亀田君がなかなか出て来ないとみえて、声は跡切《とぎ》れながらも呼びやめない。いつもこの声を聞いているが、一体どんな少年なのか。ふっと好奇心が起きて、ぼくは椅子を壁際《かべぎわ》に運び、その上に乗って背伸びして、明り窓から外を見た。するとそれが平和だったんですな。悪いことには、いや、悪くも良くもないけれど、きょろきょろしていた平和の視線とぼくのがぴったり出会ったんです。平和はぎょっとしたように体を硬直させ、亀田君呼出しを中止し、百七十センチの体を曲げるようにして、一目散に逃げて行きました。へんな窓からぼくの顔がぬっと出て来たので、驚いたのかも知れません。 「ああ。あれは平和だったのか」  椅子から降りながら、しばらくぼくは笑いがとまりませんでした。 「なるほど。あいつならそろそろ声変りするのも当然だ」  その平和がどうもぼくにある種の感情を持っているらしい。いつからその感情を持ち始めたのか、あるいは何の原因でそんなことになったのか。  この間のことです。老婦人に頼まれて、母屋で飼っている犬を連れて散歩に出かけ、中学校の傍《そば》を歩いていると、校庭の方からヒュッと音がして野球のボールが飛んで来た。ぼくの膝《ひざ》をかすめて、バクの鼻柱に命中した。バクというのは、その犬の名です。バクはぎゃっと悲鳴を上げて、すてんところびました。見ると鼻から血がどくどくと流れています。鼻血なんて人間だけかと思ったら、犬も出すんですな。バクはやっと起き上り、ぼくを怨《うら》めしげに見上げ、舌でぺろぺろとそこらを舐《な》め廻すものですから、顔や顎《あご》や前肢《まえあし》が真赤になってしまいました。人間なら上を向いて、首筋をとんとんと手で叩くところですが、犬にはその芸当は出来ません。叩こうにも、犬には手がない。  校庭の柵《さく》を乗り越えて、のそのそとボールを拾いに来たのが平和なのです。彼はこの中学の生徒でしょう。ぼくの方は見ず、一切無表情でボールを拾い、また柵をぎくしゃくとまたいで戻って行きました。バクが血だらけになっているのが見えた筈ですが、それについての挨拶《あいさつ》は何もなかった。 「ふん。九州のモロキュウ」  と、ぼくは思いました。 「あれはどういうつもりだろうな。頑強《がんきよう》におれというものを拒否してるみたいだ」  校庭で亀田君あたりとキャッチボールをしている。ボールが外《そ》れて道に飛び出し、バクの顔に当った。と考えるには、あまり偶然過ぎるようだし、それ球にしては勢いが強過ぎた。こちらの油断を見すまして、意識的に投げつけたんじゃないか。ぼくに当てるつもりでコントロールが狂って、バクに命中してしまった。——もちろんこれはその場で組立てた仮説で、相手は巨大なモロキュウなんだから、何を考えているか判らない。もしその仮説にしたがってわめけば、ぼくも甚五並みということになるので、不機嫌《ふきげん》なバクをなだめなだめして獣医に連れて行き、止血の手当をしてもらいました。バクの散歩を引受けたばかりに、とんだ物入りでした。 「亀田クーン」 「おおお」  亀田君が出て来たようです。門のところに二人が向い合い、拳《こぶし》を振り上げる。 「ちッ、けッ、たッ!」 「ちッ、けッ、たッ!」  近頃の子供たちは、じゃんけんをする時、そんなかけ声でやるのです。一昨年あたりまでは、 「じゃんけんポカポカどっこい|しょ《ヽヽ》!」  その|しょ《ヽヽ》で拳を出していたようですが、長ったらしいからやがて廃《すた》れて、今は簡明に、 「ちッ、けッ、たッ!」  意味は知りません。意味はなく、ただ気合のものなのでしょう。  この「ちッけッたッ!」のあとはどうなるか。バレーボールかバスケットボールの球だろうと思うのですけれども、それをぼくの画室の板壁にどしんどしんとぶっつけて、どんな仕組みになっているのか、何点何点と点を取り合う遊びが始まるのです。向うでは遊びかも知れないが、板壁のこちらはその球の圧力を受けて、その度《たび》にぐらぐらと揺れる。棚《たな》に乗せたものなんかは、時にころがり落ちることもある。ですからぼくは日曜日が来る度に、棚の上のものを、皆床の上に移し、防備にこれ努めています。この遊びは、毎日でなく、日曜日だけに限っているので、まだいいのです。  ——春の今頃の時節の、日曜日の昼下りというのは、へんにむしむしして、気分が鬱するものですねえ。赤木医師も毎年今頃の気候が、一番体や頭に悪いと、いつか問わず語りに話していました。その赤木老先生もこの二週間ばかりさっぱりここに姿をあらわしません。おそらく彼もむしむしとしているのでしょう。  でも、へんなものですねえ。ぼくはひたすら透明に、自分から動かないでいるのに、じたばたは一切避けているのに、ほとんど何の理由もなく憎まれたり、嫉妬されたり、頼もしがられたり、軽蔑《けいべつ》されたり、オセッカイを受けたりすると言うのは、何でしょう。じたばたしているのはぼくじゃなく、ガラスの向うの現実なのです。しかしそれらは遠くからぼくを脅かす。何をじたばたしておるのかと、わらっているだけで済めばいいんですがねえ。ままならぬ世の中です。 [#地付き](昭和三十七年六月『新潮』)   [#改ページ]  記憶  その夜彼はかなり酔っていた。佐渡という友人が個展を開いたその初日で、お祝いのウィスキーの瓶《びん》が何本も出た。酩酊《めいてい》して新宿駅に着いたのは、もう十時を過ぎていた。  つかまえたのは、専門の構内タクシーである。駅を出て客が指定したところで降ろし、またまっしぐらに駅に戻って来る式のもので、それが一番安全そうに見えたからだ。酔うと彼は必要以上に用心深くなる癖がある。戦後しばらくして、その時彼はまだ若かったが、酔ってプラットホームから落ちて怪我《けが》して以来、その癖がついた。年とともにその癖は、ますます頑固《がんこ》になって行く傾向がある。 「この人はね、酔って来ると、すぐに判るよ」  その夜も佐渡が笑いながら皆に説明した。 「道でも廊下でも、曲り角に来ると、壁にへばりつくようにして、直角に曲るんだよ。さっきから見ていると、もう直角になって来たようじゃないか。そろそろ帰ったらどうだい?」 「へばりつくなんて、ヤモリじゃあるまいし」  彼は答えた。いくらか舌たるくなっているのが、自分でも判った。そしてふらふらと立ち上った。 「でも、そう言うんなら、先に帰らせてもらうよ。さよなら」 「矢木君。君、送って行け」  佐渡が追い打ちをかけるように言った。 「見ているとあぶなっかしくて仕様がない。同じ方向なんだろ」 「そうですか。送ります」  矢木は答えた。矢木は彼や佐渡よりは、ずっと若い。絵描きの卵だ。飲めないたちで、酔っていなかったようだ。顔色が蒼白《あおじろ》い。  外に出ると、夜風が顔につめたかった。矢木が手を貸そうとするのを断って、自分で歩いた。直角になんて歩いてたまるかという気持があって、ずんずん歩いたつもりだが、やはり時々足がもつれた。矢木は服の襟《えり》を立て、二、三歩あとからついて来た。  新宿駅まで十分ぐらいかかり、表口で調子よくタクシーが彼の前にとまった。車の形を見て、彼は安心して、自分の体を荷物のようにどさりと座席に放り込んだ。矢木が続いて乗り込んだ。自動扉《じどうとびら》がすっと動き、がちゃりとしまった。彼は言った。 「N方面にやってくれ」  かんたんに道順を説明したが、運転手は返事をしなかった。車は動き出した。かすかな不快が彼の中で揺れ動いている。近頃の運転手は、行先を告げても、ろくに返事をしない。でも、人間はなまじ口をきき合うから、話がもつれたりするので、判っていさえすれば返事はない方がいい。経験でそう彼は思っている。その点一番いいのは、靴磨《くつみが》きだ。戦後の一時期、彼は食うに困って、靴磨きをやったことがある。占領兵相手の売り屋をやったが、これは言葉のやりとりがうまく行かなくて、失敗した。靴磨きはよかった。場所を確保するのに一苦労はしたが、定着してしまえば、あとは簡単だ。客が来て、靴台に足を乗せる。それを磨く。磨き終ったしるしに、厚布でチョンチョンと靴先の色をととのえる。客も承知して、靴を引っ込め、金を渡す。受取ってゼニ箱に投入する。ただそれだけだ。客も黙っているし、こちらも口をきかない。主客とも口をきかないで成立する商売は、おそらく靴磨きだけじゃあるまいか。——彼が面白くない気分になっていたのは、だからそのせいではなかった。 「この自動扉なんだな」  窓外に動く街筋を眺《なが》めながら、彼はぼんやりと矢木に話しかけた。 「おれはどうもこの自動扉というやつが、好きでないんだ」 「何故《なぜ》です?」 「自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、何だか変だ。うっとうしくて、かなわない」 「そうですかね。僕は便利だと思うけれども——」 「便利? そりゃ便利だよ」  彼は忙しく頭を働かせ、別の例を捜した。 「しかし、たとえば、留置場か、棺桶《かんおけ》の蓋《ふた》のような気がする。いや、待てよ。留置場や棺桶は、自分で這入《はい》るものではないが」 「そうですよ。あれは這入るものじゃなく、他人から入れられるもんです」  矢木は落着いた声で言った。 「あなたはデパートのエレベーターに乗っても、うっとうしいですか?」  エレベーターと自動車とでは違う。その理由を見つけようとして考えかけたが、途中で面倒くさくてやめた。調子を合わせろとは言わないが、そっけなく落着いているのが気に食わない。話をするのが億劫《おつくう》になったので、彼は座席に深く背をもたせ、窓の外ばかりを見ていた。街並が急に明るくなって、八百屋だの薬屋だのが群れている一郭に出た。矢木が言った。 「とめて下さい。僕はここで降ります」  車がとまり、間髪《かんはつ》を入れず自動扉がギイと開いた。矢木がここらに住んでいることは、いつか同車したことがあって、彼も知っている。別に意外ではなかった。 「降りるのかね」 「ええ。では」  また車が動き出した時、彼は頭を後方の窓ガラスにねじ向けた。矢木はこちらを見ずに、歩道を横切り、明るい果物屋の中に入って行く。……  こういう言い争いを、いつか確かにしたことがある。何年前のことか、場所はどこだったか、思い出せない。思い出せないけれども、同じ条件で、同じ調子で、同じような人物を相手に、言い争った。気分もその時と同一だった。その意識が彼の語調を弱くさせていた。彼は言った。 「どうしても這入れないと言うんだね」 「うん。這入れないね」  運転手は前を見据えたまま言った。料金表示器は三百円をさしていた。 「こんな狭い道はムリですよ」 「しかしだね、ちょっと狭そうに見えるけれど、昼間にはトラック、大型は入りにくいが、とにかくトラックや乗用車が、すいすいと入ったり出たりしてるんだぜ」  矢木を降してから十五分ほど走り、車は彼の家の近くまで来た。道路に囲まれた三角地帯がある。どんな具合に区切っているのか知らないが、四軒の家がそこに建っている。車が停《とま》ったのは、その一軒の前で、彼の家はそれから反対側に折れたところにあるのだ。この一軒はまだ起きていて、窓から燈が漏れている。鉄線で編んだ塀《へい》には、バラがからんでいて、白や赤の花をいくつもつけているのが見える。この家は以前は歯科医が住んでいたが、はやらなかったらしく一年くらいで引越し、今はアメリカ人が住んでいる。民間のバイヤーらしい。昼間には日本人のメイドが派手な下着を乾《ほ》していたりする。 「そりゃ昼間は這入れるでしょう。でも、こう暗くちゃね」  なるほどその道は暗い。ずらずらと生籬《いけがき》のたぐいが続いていて、光はどこにも見えない。そう狭い道ではないが、近くに請負師の家があって、道の入口に古材がたくさん積み重ねてある。反対側の垣から大きな柿の木が、道におおいかぶさるように枝を伸ばしている。昼間なら見通しがきくが、夜だと実際よりもずっと狭く感じられるのだ。それに悪いことには、道の入口に細い下水路があり、コンクリートの四角な渡し板が六枚かかっている。道いっぱいの幅にかければいいのに、両端の方は省略して、中央の部分、つまり道幅の半分しかかかっていないのである。 「暗いとか明るいとかは、問題じゃないだろう」  彼は気持を押えながら言った。 「今まで乗ったタクシーは、皆這入ったよ」 「他のタクシーのことは知らないが、おれはイヤだね」  前を向いたまま、運転手の言葉は少しぞんざいになった。彼はまだこの運転手の顔を見ていない。乗り込む時、見そびれた。見えるのは帽子と首筋と肩だけである。帽子はあみだ冠《かぶ》りにしている。首筋は赤黒く、粒々が出ている。齢《とし》の頃はよく判らない。 「這入れって、一体どのくらい這入るんだね」 「直ぐだよ、おれの家は。三十メートルほど入って、左側の家だ」 「三十メートルなら、歩いたらどうですか。何時《いつ》までもごたくを並べてないで」 「歩け? 君はおれに、歩けと命令するのか?」 「命令はしてない。勧めているだけです」 「しかし、それは——」  そこまで言いかけた時、自動扉がひとりでにギイとあいた。それはまるで催促するような音であった。音は決定的に彼の耳に響いた。 『落着け。落着くんだ』  彼はそう念じながら、ポケットから銭入れを取り出した。ふるえる指で百円玉を三つつまみ出して、肩越しに手渡した。 「ついでに聞くがね、この車の番号は何番だい?」 「車のうしろについてるよ。それを見りゃいいだろ」  運転手は金を収めながら、つっけんどんに答えた。 「そうか」  彼は体をずらして車から降り、背後に廻って番号札を見た。自動扉がしまった。Q二〇三九。それを二、三度口の中で言ってみて、片側道を自分の家の方向に歩き出した。三十メートルを歩いている間、つまずかないように用心しながら、彼はその番号のことばかり考えていた。つまずいたり、他のことを考えたりすると、番号を忘れてしまうおそれがあったからだ。Q二〇三九……Q二〇三九……  家に入り、鍵《かぎ》をかけ、画室に入る。画用紙にその番号を書きつける。やっと安心して、椅子に浅く腰をかける。肱《ひじ》を膝《ひざ》の上に立て、頬杖《ほおづえ》をつく。五分間、その姿勢のまま、じっと動かなかった。やがて顔を頬杖から外し、手を伸ばして電話帳を取った。膝の上でぺらぺらめくって、自動車会社の番号を捜した。やがて捜し当てた。彼は呟《つぶや》いた。 「せですむことを!」  彼は立ち上り、部屋の隅《すみ》の電話のダイヤルを廻した。廻す途中で少しためらったが、押しきるようにして最後まで廻した。相手が出て来た。 「もしもし。お宅にQ二〇三九という車がありますね」 「はあ。ちょっと待って下さい」  受話器を置く音がした。彼は体を凝らして立っていた。子供の頃、彼の家には烈《はげ》しい気性の祖母がいた。何か悪いこと、余計なこと、いたずらに類することをすると、たいへんな勢いで怒り、火箸《ひばし》や長《なが》煙管《ぎせる》で彼を打擲《ちようちやく》し、折檻《せつかん》した。 「せですむことを!」 「せですむことをして」  しないですむことをする、という意味である。その言葉は彼の体に深くしみ入って、時々舌にのぼって来る。たかが曲れとか曲らないということではないか。歩かされたとしても、三十メートルに過ぎないじゃないか。それをこんなに電話して文句を言えば、当の運転手も成績が下るだろうし、こちらも巻き込まれることで面倒がかかるかも知れぬ。誰も得をしない。つまりこんなのが、せですむことじゃないだろうか。そう考えたとたん、電話の向うに相手が出て来た。 「はい。確かにそれは、うちの車です」 「そうですか。その車が二十分ぐらい前、こんなことをした」  彼はさっきの事件を順序立てて、順序立てたつもりで説明した。向うは事務的な声で、 「はい」 「はい」  と返事をした。くわしく話す予定であったが、説明は一分足らずで済んだ。詳述しようにも、それほどの材料がない。最後に言った。 「途中で降ろすなんて、乗車拒否より悪質だと僕は思うんですがね」 「判りました。当人は明朝十一時に戻って来る筈ですから、事情をよく聞きまして——」  彼は電話を切った。折角の酔いがうまく発散せず、深く澱《よど》んでいるのが判る。じっと濃厚に澱んで動かない。もう一杯飲めば、そいつを引っぱり出せるかも知れないのだが、見渡しても酒は一滴もここにはない。——  翌日正午頃、彼は眼が覚《さ》めた。口の中が粘り、酔いがまだ残っていた。その癖よく眠れなかった。ことに窓が明るくなってからは、物音がたくさん入って来て、起きているのか眠っているのか分明しない状態で、うつらうつらと横になっていた。眼をあけるのに抵抗があったし、あけてもしばらく物が二重に歪《ゆが》んでいる。  水を飲むために体を起すと、番号を記した画用紙が、まず眼に入った。分厚い番号簿も、昨夜|頁《ページ》を開いたままで机上に乗っている。彼はむずと受話器をつかんだ。今の不快な状態の責任が、皆この番号簿のせいだという気がしたのだ。昨日と違った声が出て来た。 「話は当直から聞きました。なにぶん当人は今朝七時に帰社して、もう家に戻ってしまいましたので——」 「七時? 昨夜の電話じゃ、十一時頃という話だったのに」  声はくどくどと弁解を重ねた。自分はこの社の常務として、こんなことのないように、事ある毎に従業員に注意している。それなのにどうしてそんな不親切なことをしたのか、まことに申し訳がない。しかるべき処置を取るとおっしゃるが、それだけは勘弁してくれ。明日当人が出て来れば、よく申し聞かせて置くから。云々《うんぬん》。 「申し聞かせるのは、お宅の勝手ですがね」  彼は言った。 「僕んとこの道は狭くない。大型車だって、ゆっくり這入れる。そのことを徹底させといて下さい。それだけです」  彼は急いで電話を切った。おれはおれの面子《メンツ》を立てるためでなく、道をけなされたことを怒っているみたいだ。しかし電話をかけたことで、彼はやや気分が晴れた。彼は井戸端に出て、大コップで水をがぶがぶ飲み、庭の隅の塵芥穴《ごみあな》で全部吐いた。咽喉《のど》を突き上げて出て来るのは、水ばかりであった。飲む時と同じ冷たさで、それはほとばしり出る。二、三度繰り返して、胃を空にして、彼は自分の部屋に戻った。そしてまた夕方まで寝た。  常務と運転手が彼の家を訪《たず》ねて来たのは、その翌日の午後である。見知らぬ男が二人、玄関に立っている。いぶかしげに彼が眺めると、年かさの方が名刺を出した。××タクシー常務の肩書きで、それと知れた。わざわざやって来たのに、玄関で応対するのも変なので、画室に案内した。玄関には新しい靴とつぶれたような靴が、二足残された。 「電話をかけただけなのに、どうしておれの家が判ったんだろう?」  茶をいれながら、彼はふと思った。次の瞬間、それが愚かな疑いであることに、直ぐ思い当った。二人とも茶には手をつけなかった。常務が口を切った。 「この度《たび》うちのがたいへん失礼な態度を取りましたそうで——」  彼は話を聞きながら、運転手の顔をちらりちらりと見ていた。一昨夜はもっと若い、横柄な感じだったのに、今そこに腰をかけているのは、ジャンパー姿の三十前後の実直そうな、むしろ愚鈍な印象の男である。細い眼がねむそうにたるんでいる。焦点距離がないみたいで、どこを見ているのか判らない。 『換え玉を連れて来たんじゃないか。こんな男じゃなかった』  と彼は考えた。 『本人を連れて来たら、またいざこざが起きるもんだから——』 「そういうわけでございますから、何とぞお許しのほどを」  肥った常務はごそごそと箱を取り出した。包装紙の具合から見ると、菓子折か何からしい。 「いや。それは——」  彼は大声を出した。 「そんなものが欲しくて、電話をかけたんじゃないんだ。あんたたちは何か誤解をしている。僕はただうちの道が——」 「判っております。判っております」  常務は立ち上って、運転手を小突いた。 「おい。君もあやまれ。早く」  運転手がじっとしているものだから、常務は運転手の後頭部に手を当て、ぐっと前に押した。それで運転手は頭を下げた恰好《かつこう》になった。 「さあ。帰ろう」  頭から手を離し、常務は言った。運転手は頭を元に戻して、無表情に立ち上った。 「いや。平《ひら》に、御見送りのほどは、平に」  尻ごみをするように、常務は後しざりして、部屋を出た。運転手もそれに続いた。彼は二人を追って、玄関まで出た。二人は身を屈《かが》めて靴を穿《は》いている。背後から見る運転手のその首筋は浅黒く、見たことがあるような、またないような形であった。彼はしばらく確める眼付きでそれを見おろしていた。 「やはりあの時の運転手かな。皮膚に毛穴のようなものが、たくさんある」  画室に戻って来て、彼は考えた。常務はいろいろしゃべったが、運転手は口ひとつきかなかったことに、彼は今気付いていた。声さえ聞けば、その抑揚や調子などで、当人か換え玉か判る筈《はず》であった。でも、換え玉であったとしても、それが何だろう。当人を連れて来て釈明せよと、こちらは請求した覚えは絶対にない。向うが勝手にやって来ただけの話である。常務もこれがその当人であるとは、明言しなかった。すべてがあいまいなまま収まっている。菓子折ひとつだけが歴然とした形で残っている。彼は口に出して言った。 「こんなもの、誰が食ってやるものか」  新聞紙を四、五枚ぐしゃぐしゃに丸め、菓子折を持って庭に出た。塵芥場に投げこんで、火をつけた。新聞紙は白い焔《ほのお》を立てて、ぼうぼうと燃え始めた。 「運転手の顔ねえ。どの運転手の顔だったかしら」 「そら。佐渡君の会でさ、いっしょにタクシーを拾っただろう」  一カ月ほど経《た》って、上野の喫茶店で、彼は偶然に矢木に出会った。紅茶を飲みながら、その話を持ち出した。矢木は視線を宙に浮かせて、しばらく考えていた。 「ああ。あの時のね。あなたが白髪のことで、佐渡さんにからんだ夜の——」 「白髪?」 「ええ。佐渡さんに白髪が近頃ふえたのは、老い込んだ証拠だって、ずいぶんからんだじゃないですか。だから作品もダメになったって」  彼は首をかしげた。佐渡は彼と同年で、近頃妙に白髪がふえたのも事実である。しかしそれについて佐渡にからむなんて、彼には記憶もないし、想像もつかなかった。 「そんなことを、僕がやる筈がないよ。白髪と作品と関係づけるなんて、そんな理不尽な」  彼は記憶をさぐりさぐり言った。 「あいつが僕の酔い方を批評したんで、面白くなくなって、会場を出たんだ。君もいっしょだったね」 「ええ。外には小雨が降っていた」 「雨が?」 「ええ。寒かったんで、僕は服の襟《えり》を立てて歩きましたよ。それでもずいぶん濡《ぬ》れた」 「おれは全然濡れなかったよ。おかしな話があるもんだなあ」  彼は冷えかけた紅茶をすすった。 「何かこんぐらかってるな。駅で構内タクシーをつかまえた。番号はQ二〇三九だ」 「よく番号まで覚えていますねえ」 「うん。これにはわけがあるんだ。君は途中で降りた。そして角の果物屋に入って行った」 「果物屋?」 「そうだよ。不二果物店と看板が出ていた。君はまっすぐそこに這入って行った。僕は自動車の後窓からそれを見ていたんだ」  今度は矢木が気味悪そうに、そっとカップを卓に置いた。 「ほんとですか。しかし、そんな筈はない」 「なぜ?」 「なぜって僕はあの果物屋と、半年前ぐらいだったかな、バナナのことで喧嘩《けんか》をしたんですよ。大きい房の代金を払ったのに、うちであけてみたら小さい房が入っていた。そこであのおやじと大喧嘩をして、それ以来あそこでは買い物をしないことにしているんです」 「でも、僕は見たんだよ。この眼で」  二人はしばらく黙り込んでいた。やがて矢木が頭を上げた。 「あなたがその眼で見たとして、それからあなたはどうなったんです」 「うちの近くまで来て、運転手が僕に降りろと言うんだ。そこで僕は降りた。しかし雨は降っていなかったぜ」  その経緯《いきさつ》を彼はぽつりぽつり、確めるように説明した。矢木は適当に相槌《あいづち》を打ちながら聞いていた。話し終ると矢木は質問した。 「で、結局その菓子折に、何が入ってたんですか?」 「判らない。新聞紙や外箱だけが燃え尽きて、あとどろどろなのが残った。へんに甘ったるい匂《にお》いがしてね、嘔《は》きたくなるような気持がしたし、ウジが湧《わ》きそうだったから、スコップで穴を掘って埋めてしまった。しかしそんなものを持って来るぐらいなら、どうしてあの時道に這入ってくれなかったんだろう?」 「自動車強盗と間違えたんじゃないですか」 「強盗? このおれが? まさか」 「しかし、運転手には、気をつけた方がいいですよ。ノイローゼだのテンカンなどが、自覚しないまま営業してるという話ですからねえ」  矢木は真顔になって話の方向を変えた。 「もっとも乗る方だって、気が確かかどうか、誰にも判っていない」 「そうだよ」  少し経って彼はうなずいた。 「おれたちだって、少しずつこんぐらかってるよ。君が覚えていることと、おれが覚えていることは、どこか食い違っている。それでよく安心して生きて行けるもんだな」 「僕がですか?」 「いや。君だけじゃなく、誰もがだ」  彼はごまかした。 「もっとも疑い始めると、これはきりがないもんでねえ。忘れたり、記憶からしめ出されたり、思い違えたまま安心したり、その方がずっと生きいいんだろう。古井戸をのぞいたって、仕様がないやね。やくたいもない苔《こけ》が生《は》えているだけで——」 「それ、皮肉ですか?」  矢木は眼をきらきらさせて、反問した。  夏のある暑い日の午後、彼はその運転手に再会した。もちろん彼はそれと知らなかったし、向うもこちらに気付いていなかった。彼は目白《めじろ》付近でタクシーを呼びとめて乗り込んだ。自宅の方に行く道順を説明しながら、ハンカチで額や腕の汗を拭《ふ》いた。車は動き出した。動き出してすぐ、運転手が言った。 「旦那《だんな》。あっしを覚えてるかね?」 「え?」  汗を拭きやめて、彼は運転手の後頭部を見た。首筋にも汗はふつふつとあふれていた。 「覚えているだろうね。今の道順で、あっしは思い出したんだ。あれは五月の初め頃だったかな」 「ああ、あの時の——」  後頭部からバックミラーに視線を転じた時、彼は卒然として思い起した。 「僕を途中で降ろした運転手さんだね」 「降ろしただけじゃないよ」  運転手の口調は険を帯びた。 「おれはあやまりに行かされたんだぜ。一日の稼《かせ》ぎを棒に振ってさ」 「そうだったね。常務とかいう肥《ふと》ったおっさんと」  じとじととした背中を座席から引き離しながら、彼は答えた。 「しかし、僕はあやまりに来いとは言わなかった筈だよ。そちらが勝手に来ただけだ」 「あんな電話をかけて来りゃ、常務だって放っては置けないさ」 「常務は、元気かね?」 「あれ、死んだよ」 「交通事故か?」 「いや。病気でだ」  ちょっとの間、会話が跡絶《とだ》えた。交差点の赤信号で車は停《とま》った。タオルで首をごしごし拭《ぬぐ》いながら、運転手が言った。 「あの手《て》土産《みやげ》も、あっしが自腹を切ったんだよ。うまかっただろう」 「そうかね」  彼は別のことを考えていた。 「あの晩、僕たちを新宿で乗せた晩さ、あの時、雨が降ってたかね?」 「雨? 何を言ってんですかい」  運転手はせせら笑った。 「雨のことなんか話してないよ。菓子折のことだ。ウルサ型らしいから、一番上等のを買えって、常務が言うもんで——」 「へえ。そんな上等の菓子だったのか。中身は何だっけ」 「カステラだよ。食べたくせに、もう忘れたのかい?」 「食べなかったよ」  彼は正直に言った。ウソをつくと、また混乱するおそれがあった。 「食べなかった? 人にやったんですか?」 「いや。燃してしまった」  白い焔と甘たるい匂いが、彼にまざまざとよみがえって来た。 「なるほどね。カステラを燃すと、あんな匂いがするのか」  運転手は返事をしなかった。背中がすこしふくれ上ったように見えた。  窓から見る街には、風がなかった。街路樹も電線も、どんよりと動かなかった。早く家に戻って水を浴びたい。彼はへばりつく下着を皮膚から剥《は》がしていた。押えつけるような声で、運転手が言った。 「旦那。まだ賭《か》けごとはやってるのかね?」 「賭けごとって、何だい?」 「そら。車の中で、連れの若い男としきりに話し合ってたじゃないか。競馬や花札のことをさ」  信号が青に変って、車は動き出した。 「連れの男って、途中で降りた奴《やつ》か?」 「そうだよ」  またしてもこんぐらかって来たな、と彼は考えながら、窓側に体をうつした。風が彼の顔を荒荒しくこすった。 「僕は賭けごとの話をしないよ。する筈がない」 「いや。していたよ」 「でも、僕は競馬も花札もやったことはないんだぜ。やったことがないのに、話は出来ない」  ではあの晩、矢木と何の話をしたのか、もう彼には思い出せなかった。話したという記憶はあるが、その内容は消え失せている。 「すると勝負ごとは、何もやらないと言うんだね」 「そうは言わない。将棋なら少し指す」  また交差点で停った。運転手はタオルを出して、掌《て》だのハンドルなどをごしごしと拭いた。タオルは汚《よご》れて、くろずんでいた。 「暑いね。旦那」  いらいらした声で、運転手が言った。 「いっしょに氷水を飲まないか。行きつけの店が、この先にあるんだ」 「そうだな」  いらいらした運転手に気をつけろと、誰からか言われたのを、彼は思い出した。早く家に帰りたいけれど、ここは我慢してつき合った方が安全かも知れない。彼は気弱く妥協した。 「では、そうするか」  車はそれから五百メートルほど走り、歩道にタイヤをすり寄せて停った。彼は車を出た。氷水屋の赤い旗はだらりと垂れ、のれんを分けてくぐる時、粒々のガラス玉が腕の毛をチクチク引き抜いて痛かった。氷をあつかう店のくせに、店内は街よりも暑かった。 「氷イチゴ二つ」  そして運転手は店の隅に行き、古ぼけた将棋盤を持って来て、彼に向い合った。細いねむそうな眼が、彼の真正面にあった。 「旦那。一丁指そうじゃないか」 「なに。将棋を、ここでか?」 「そうですよ。あんたは指すと言ったじゃないか」 「指すとは言ったよ。しかし君とは——」  言いかけて、彼は口をつぐんだ。のっぴきならないものが、背中に迫っているような感じがした。 「何か賭けるのか?」 「うん」  細い眼がすこし大きくなった。眼球に赤い血管がチクチクと走っているのが見える。 「負けた方が、相手に最敬礼をする。それでどうだね。旦那」 「よし。指そう」  常務の白いぶよぶよした掌が、運転手の後頭部をぐっと押す。頭は圧力にあらがいながら、結局のめってしまう。ふん。あれか。そう思ったとたん彼は全身の弛緩《しかん》の底から、妙な闘志が湧《わ》き上って来るのを感じて、運転手よりも先に、駒《こま》をぱちぱちと並べ始めていた。 [#地付き](昭和三十七年七月『群像』)   [#改ページ]  仮象    顔  毎日毎日、どういう形でか、顔と会う。顔というのは、自分の顔でない。他人の顔のことだ。自分の顔に自分では会えない。鏡を使えば会えるようなもんだが、あれは左右が入替っている。本当の顔じゃない。また人間は自分の顔に会う必要がない。自分の顔を見ないでも、ここにいるのは自分であることは、自分で判るからだ。  他人に会うということは、他人の顔に会うということだ。もし顔がなければ、特別の場合をのぞいて、相手が誰であるか判らない。相手が獣や鳥の場合は、それを識別するのに、顔よりも毛色や形に重点を置くが、相手が人間だとそんなわけには行かない。衣服をつけているから、毛色や形は見えないし、衣服から出ている部分と言えば、顔だけだ。顔をたよりにする以外に方法はない。で、毎日毎日、どういう形でか、いろんな顔と会う。無人島に住んでいるのではないから、それも当然だが、時には私はそれを苦痛に感じることがある。苦痛と言うより苦労、心の重さ、気分の重さと言う方が適切だろう。それにはいろいろ原因があるが、ひとつには私の能力、他人の顔を覚えると言う能力が、たいへん欠乏しているせいである。人の顔を覚えるのは実にむつかしい。分類学というような才能を必要とするものらしい。私にはその才能がほとんど欠如しているのだ。  見慣れてしまった顔なら、問題はない。それから全然関係のない他人の顔、これもあまり問題でない。一番困るのは、中途半端な顔だ。どこかで見たような、見たことがないような、そんな顔が一番困るのである。そういう顔にぶつかると、はたと私は当惑してしまう。  そういう場合、相手が私に話しかけてくれたら、それを手がかりにして、相手が何者であるかを探り出せる。しかしこれもたいへん老練な受け答えが必要で、うっかりすると相手に気を悪くさせたり、またかなり長時間受け答えをしながら、とうとう相手の正体を掴《つか》めない場合だってある。うまく行って、相手の正体が判り、別れたあと「今のが何某さんだ」と心に銘じても、翌朝になると何某さんの名前だけが残って、何某さんの顔は我が記憶からすっぽりと消え去っている。だから、またどこかで顔を合わせれば、同じようないきさつになって、受け答えに私が苦労するということになる。気分が重いというのはこういうことだ。  このような物忘れの現象は、私の年齢のせいではない。若い時からそうだった。二十九歳で海軍に召集され、海兵団に入れられ、それから教班長を紹介される。 「おれが第一教班長の××一|曹《そう》」 「おれが第二教班長の××二曹」  という風な具合に、それぞれの教班長が自己紹介をする。私は自分の欠点を承知しているので、眼を皿のようにして、各教班長をにらみつける。それでも駄目《だめ》なのだ。 「わかれ」の号令がかかって解散すると、もうどれがどの班長の顔だったか判らない。結局、自分の班の教班長の顔だけ覚えて、あとはどうにかごまかすか、ごまかしそこねてひっぱたかれる、というようなことになるのだ。  さっき書いた中途半端な場合、どこかで見たような見ないような顔で、こちらに話しかけて来れば来たで苦労するし、来なければ来ないで困る。妙な具合に視線を合わせ、そのまま妙な具合に視線を外《そ》らせる。一度だけならいいが、顔を合わせるのが二度三度と重なると、気分の重さ、やり切れなさは、それに応じて倍加する。どこの誰とも判らないながら、いっそ帽子を取ってあいさつをし合った方が気はラクだ。ラクだと言っても、あいさつをするわけには行かない。この度《たび》あいさつをするのなら、なぜ前回の時にあいさつをしなかったか、という意識が脱帽の行為をためらわせるのだ。ためらっているうちに、そいつと私はすれ違ってしまう。次回に会った場合には、そのためらいは更に倍加する。前二回知らぬふりをして、今度だけあいさつをする根拠はどこにあるか。どこにもありはしないのだ。  そういうケースは、向うも私の顔をどこかで見たような顔だが、こちらの正体を掴めないと言うことで起るのらしい。顔覚えの苦手な人間は、世間には私一人ではない。たくさんいる筈《はず》だ。そう思う。そうでなければ、私は特殊な人間、あるいは人間並でない人間と言うことになる。それは私は厭《いや》だ。私はどちらかと言うと平凡でありたい。  私は平凡な顔をしている。鏡をのぞいても、自分ながらそう思う。鏡の中の顔は、左右が取替っているが、も一つ鏡を使って、合わせ鏡にして眺《なが》めても、ごく平凡な顔である。別にどこと言って特徴がない。ありふれた型の眼鏡をかけている。鼻は高からず低からず、というような形容があるが、私の顔もみんな……からず……からずで形容出来るようだ。たとえば、顔は長からず短かからず、色は白からず黒からず、唇《くちびる》は厚からず薄からず、全部が全部そうである。平凡でぼんやりした顔なのだ。  そういう顔だから、私の顔は人目に立たないし、したがって記憶しにくい顔に属するらしい。目立った顔、たいへん長い顔だとか、極端に眼が大きな顔だとか、一目見れば忘れられないという顔がある。そういう顔の持主は、実生活で得をしているか損をしているか、聞いたことがないから知らないけれども、私はそんな顔をあまり持ちたくない。つまり私は、あまり人目に立ちたくない。あまり目立たないところで、こそこそと生きていたいという気持が、いつも胸の奥底にわだかまっている。平凡な顔に生れついてよかったと思う。目立つ顔は損だと思う。適当なたとえでないかも知れないが、たとえば悪事をはたらくような場合でも、平凡な顔の方が得だ。もし目撃者がいて、あれはたいへん大きな鼻の持主だったと証言すると、その大鼻の犯人は直ちにつかまる可能性が多い。私のように平凡な顔だと、目撃者がいても証言のしようがなく、モンタージュ写真をつくっても、ありふれた日本人の顔しかつくれないから、捜査は永びくことになる。悪事をはたらく気持は、今の私には毛頭ないけれども、将来のいつなんどき、追われる身にならないとは限らない。悪事と関係なく、追ったり追われたりする世にならないとは、誰も保証出来ない。  で、その具合の悪い相手は、世の中に無数にいるが、その中の特殊の一人について私は書こうと思う。そいつの名前も住所も、私は全然知らない。住所は私の近くかも知れない。私がよく乗るバスの中で、一度顔を合わせたことがあるからだ。しかしこれもあてにならない。何かの用事で偶然そいつは、そのバスに乗っていたということもあり得る。  そいつと最初に顔を合わせたのは、私の記憶では、二年ぐらい前のことだったと思う。それ以前も会ったことがあるかも知れないが、記憶にはない。それは国電の駅の階段でだ。たしか秋の末の昼下りで、通勤時間のように混んでいずに、階段はがらんとしていた。そいつは上から降りて来て、私は下から昇っていた。階段の丁度中ほどのところで、すれ違う時に、ぱっと顔が合った。 「あ!」  そいつはそんな声を出して、ぎょっとしたように立ち止った。それで私も立ち止った。立ち止らないわけには行かなかった。  そいつの顔に私は見覚えはなかった。いや、見覚えがないとは、はっきり言いきれない。いつも見慣れた顔をのぞくと、私は日本人の顔なら大体どれもこれも、見覚えがあるようなないような感じを持っている。特にその時は、向うが「あ!」と言って立ち止ったのだから、こちらとしては「おれを見知っているんだな」「つまりどこかで会ったことがあるんだな」という意識を、瞬間的に持たざるを得ない。そういう時、私の態度は常に警戒的になる。慎重に受け答えして、相手の正体を知らねばならぬのだから、どうしても防禦《ぼうぎよ》の立場に立って、相手の出方をうかがう恰好《かつこう》となる。だから私はよく人から言われる。 「どうしてそんなにびくびくしているんですか?」  びくびくしているのではない。警戒しているのだ。  しかしその時、一瞬にしてそいつは私から眼を外らし、(視線を私からムリに引剥《ひきは》ぐと言った感じだった)そのままとことこと、足早に階段を降りて行った。だから私も、足を動かして、そのまま階段を昇った。何故《なぜ》そいつが私の顔を見て「あ!」と叫んだのか。立ち止ったのか。次の瞬間視線を引剥がして、逃げるように階段をかけ降りて行ったのか。私には判らなかった。判らないまま改札口を出た。  その次顔を合わせたのは、それから半年後で、場所はある遊園地だった。私は一人で回転車(と言うのかな。小さなボックスに乗り込むと、ゆるゆると上って、降りて来るやつ)に乗っていた。下から頂点の中途まで来ると、軸を中心にして反対側のボックスに、じっと私を見ている男の視線を、突然私は感じた。次の瞬間、それがそいつであることに、私は気がついた。ゆるゆると下降しながらそいつは、ゆるゆると上昇しつつある私を、眼を皿のようにして、見つめていた。そいつはボックスに若い女と同乗していたのだが、やがて角度の関係で、そいつのボックスは私の視界からふっと切れた。向うからも私の顔が見えなくなったわけだ。  私が頂点まで上昇、それからゆっくりと下降して、ボックスから降り立ち、そいつの姿を探《さが》し求めたが、もうどこにも見えなくなっていた。  三度目が前記のバスの中で、私が乗り込んで、空席を探すべく車内を見廻すと、そいつの顔にぱったり出合った。そいつの顔はさっと緊張した。緊張したことだけは判ったが、それがどういう意味を持つ緊張なのか、たとえば恐怖だとか、嫌悪《けんお》だとか、それは私には判じかねた。彼の顔に緊張をもたらしたのは、私の顔の出現のせいだということだけは、確実であった。  そいつの年頃は、私と同じくらいか、少し上ぐらいで、顔に別段の特徴はない。ありふれた型の眼鏡をかけている。しごく平凡な顔だ。と言うと、私もありふれた型の眼鏡をかけ、平凡な顔をしているのだから、私に似ているかと言うと、そうでもない。平凡にもいろいろ種類があって、平凡だからとて似ていると言うものではない。顔というものは、そんな単純なものではない。  顔。顔とは何だろう。後頭部の表側にあたる部分、それでは説明にならない。もしあの部分がのっぺらぼうだったら、それは顔とは言えないだろう。眼や鼻や口や耳、そんなものがあるからこそ、これは顔なのだ。そういうものの配置、ならび具合が顔と称するものである。では、眼や耳や口は、顔をつくるために存在するのか。そうではない。眼は見るために、鼻は呼吸のために、口は食うために、耳は聞くために存在する。それらの機能を果たすべく、人体の中の一番都合のいい部分に、所を求めてあつまったのだ。その一番都合のいい場所というのが、頭からすべり降りた前面の空地で(耳だけは横面)しかるべきところに定着したとたんに、顔というものが出来上った。顔が出来たのは、偶然だと言ってもいい。だからそれら器官の配置の具合が平凡だと言っても、何千何万種類の平凡さがあって、それは言葉では言いつくせない。  そいつはとにかく、一瞬はげしく緊張した。それは前記器官の配置の微妙な変化で、すぐに判った。しかしそれが、どんな意味の緊張だか判らなかったのは、そいつがすぐに視線を引剥がして、膝《ひざ》の上の週刊誌に顔を向けてしまったからだ。それは私にはむしろ好都合だった。私は遠慮なくそいつを観察出来る立場に立てたのだから。やがてバスが次の停留所にとまると、そいつは私を見ないようにして、ごそごそとバスを降りて行った。その停留所が彼の目的地だったのか、私が乗り込んだから降りて行ったのか、それはよく判らない。  それから今までに、そいつの顔を二度ばかり見た。一度は日比谷《ひびや》の映画館の便所で、もう一度は新宿駅でだ。新宿駅で電車を待っている時、ふと向うを見ると、松本行鈍行列車の二等車の席に、彼は腰かけていた。どういうつもりか、まだ停車中なのに、彼は汽車弁当を食べていた。(汽車弁当と言うものは、汽車が動いていないと、食べても旨《うま》くないものだと私は思うのだが)私の視線をはっと感じたらしい。そいつは箸《はし》をとめて、顔をぐいとこちらにねじ向けた。いつものショックがそいつの顔をおそった。あきらかにそいつは驚愕《きようがく》の色を示した。そこへ電車が轟《ごう》と走り入って、私とそいつの間を隔ててしまったのだ。それはいい後味のものではなかった。とにかく私の顔が、この私の平凡な顔が、ある男にとってショックに値いするということは、私にはたいへん面白くないことだった。最初から面白くないことであったが、度重なるにつけて、それは重苦しい鎧《よろい》のように、私の全身にかぶさって来る。ふりはらおうと努力しても、それはずっしりと、まつわりついて離れない。    梵語《ぼんご》研究会  夕方帰宅して風呂に入る。上ってビールを飲む。すると電話がかかって来た。彼は立ち上って受話器をとった。電話は台所と居間の間にある。低い押しつぶしたような声が、彼の名前を確めた。 「そうです」 「あなたが本人ですね」 「そうですが——」  彼は用心深く言った。 「あんたは一体どなたです?」 「あ。失礼。こちらはQ警察、エトウというものです」  声はあやまった。しかし彼はあやまられたような気がしない。警察が何でおれに電話をかけてよこすのか。その不安の方が先に立った。 「あなたは梵語研究会というのを御存知ですか?」 「ボンゴ研究会?」 「ええ。インドの古代の言葉らしいですな。それの研究会です」  梵語? 梵語研究会とこのおれと、何の関係があるのだろう。だから電話というやつはイヤなんだ、と彼は考えた。見たことも会ったこともない相手と、しかも対面でなく遠く離れて、素《す》で話し合う。顔見知りなら気軽に電話口に出られるが、声だけの初対面というのが彼の気に入らなかった。 「梵語には僕は興味ありませんね」  彼はそっけなく言った。 「まして梵語研究会なんかに、かかわりあるわけがない。一体その研究会はどこにあるんです? どこかの大学にでも——」 「大学じゃありません」  相手の声の調子は変らなかった。 「個人が主宰しているのです」 「その個人と僕との間に、何の関係が——」 「それをおうかがいしたいんです。その男が持っていた会員名簿に、あなたの名が出ていました」 「え? 僕の名前が?」  彼はびっくりして反問した。 「そりゃおかしいな。僕が知らないうちに会員になってるなんて。姓も名も同じなんですか?」 「そう」  うなずく気配がする。そして急にぞんざいな口調になった。 「あんた、Q区に部屋を借りているね」 「借りちゃいけないんですか」 「いや。借りるのはあなたの自由です。受持連絡で最近判ったもんでね」 「受持連絡というのは、何ですか?」 「交番の者が受持地区の各宅を廻って、そこに住んでいる人の数などを調べるでしょう。同居人とか雇い人を含めてね、それを受持連絡というんです」 「しかし僕は同居しているわけじゃない。部屋を借りて、一日の中何時間か仕事をするだけです」  彼はいらいらした声で答えた。 「それと梵語とどんな関係があるんですか?」 「あなたはQ区の孝治橋という橋を知っていますか?」  声は問いに答えず、突然話題を変えた。 「あの橋のふもとに、電車の停留所があるでしょう」 「ふもとじゃなく、たもとでしょう」  彼は相手のタイミングを乱すために、揚足をとった。 「それともその橋は、高くそびえているんですか」 「そう。たもとです」  声は冷静さをくずして、初めていまいましげな調子になった。 「そのたもとの電停の安全地帯で——」 「安全地帯も何も、僕はその橋に行ったことはないですよ。Q区って広いんでしょう」  そして彼はきめつけるように言った。 「もすこし筋道を立てて話したらどうですか?」  相手は返事をしなかった。彼は受話器をぴたりとあて、聞き耳を立てる。近頃の受話器は性能が良くなって、以前より背後の音が入りやすい。かすかに声がする。二人以上の人間が相談しているらしい。はっきり聞きとれないのは、相手の掌《てのひら》が送話口をふさいでいるからだ。会話のくぐもり具合が、湿った厚ぼったい掌をまざまざと想像させた。やがて掌が引剥がれる音がして、声が大きくなった。 「するとあなたは、梵語研究会も知らないし、孝治橋にも行ったことはないというわけですな」 「もちろんそうです」 「そうでしょうな。それならそれでいいです」  ちょっと待て、という前に電話が切れてしまった。 「もしもし。もしもし」  切れたから、もちろん応答はない。彼は受話器を置き、ふわふわした足どりで元の席に戻って来た。コップに残ったビールをぐっとあおる。何だか後味が悪い。またコップにビールを注いだ。彼の家のうしろにある工場の機械が、またガシャガシャと音を立てている。この工場は夜の八時頃か、遅い時は十二時頃まで、音を立てているのだ。その度に蛍光燈《けいこうとう》がびりびりと慄《ふる》える。 「あの工場じゃ何をつくってんだね?」  ある夜将棋仲間の浅香が、将棋を指しながらその方に顔をむけて言った。 「ほんとにうるさいな。震動で歩《ふ》がピョコピョコ動くようだよ」 「うん。看板には紙工所と出ているんだ」  この工場が出来た時、いや、ふつうのしもた屋が内部を改造して小さな工場になった時は、ほとんど音は発しなかった。看板がかかげられ、大和紙工所、その下に小さく、紙袋包装紙印刷加工、と書いてある。まだ機械は入っていず、手でバタンバタンと何かを打返す音が、風の具合で彼に聞えて来た。 「それからふくれて来たんだな。つまり注文が多くなったということだろう」  建物がつぎ足され、ふくれ上り、彼の家の裏庭の生籬《いけがき》のすれすれまでに、工場の壁が迫って来た。そして機械が入れられた。新規に次々買い入れるらしく、だんだん音が大きくなる。ある日彼がその前を通ると、以前は仕事場だったところが、商取引の応対所になっていて、チョビ髭《ひげ》を生《は》やしたそこの主人が、卓の向うの回転椅子に腰をおろして、煙草をふかしていた。創業当時にその髭はなかったと思う。そいつが彼の顔を見て、中腰になり、じろりとにらんだ。にらんだだけでなく、文句はつけさせないぞという感じで、肩をそびやかした。 「やはり音を出していることに、引け目を感じているんだね」  彼は浅香に説明した。 「髭を立てたのが、その証拠だ」 「髭が何の証拠になるんだい?」 「髭を立てると、鉄面皮、いや、鉄面皮とまでは行かないが、少し横着になる気分になるんだ。一昨年の夏だったかな、おれは信州の友人に誘われて、山ごもりをしたことがある。そこで雨の日に転《ころ》んでね、顔を白樺《しらかば》の木の根っこにぶっつけた。顔中が傷だらけになり、眼鏡も割れてしまった」 「山の中で眼鏡をこわしたら、困るだろうね」 「そりゃ困るさ。だから翌日山を降りて、町まで眼鏡を買いに行った」  素面ではどうにも恰好《かつこう》がつかないので、大きなサングラスをかけた。バスに乗った。するとバスに乗っている連中の態度が、どこかおかしい。おどおどとして、彼の顔を見ないようにする。顔を合わせると、あわてて眼をそむける。 「初めは気の毒がってそうしていると思ってたら、そうじゃないんだね。恐《こわ》がっているんだ」  顔には傷があるし、あまり品の良くない黒眼鏡をかけている。しかも太い杖《つえ》をついている。殺し屋みたいな恰好をして、うっかりすると因縁をつけられそうだ。そういう心境に乗客がなっていることが判ったのは、バスの車掌が切符切りに来た時だ。その若い女車掌は彼の前を通る時、眼を伏せるようにして、切符を売らなかった。 「すると君はただ乗りをしたのか?」 「つまり、そうだ。売ってくれないから、仕方がないやね。バスを降りて眼鏡屋まで歩く時も、通行人は皆おれをよけて通ったよ。そこでおれも面白くなって、わざとすごんだような歩き方で、街を歩いた」 「それと髭と、何の関係があるんだい?」 「だからさ、顔かたちが変ると、人間は若干横着になるということさ。素《す》の顔じゃ責任を感じるが、髭とか黒眼鏡は責任を減少させる楯《たて》となる」 「ふん。そんなものかな」 「そうだよ。グレン隊を見なさい。おおむねサングラスをかけている。それで破廉恥なことが出来るんだ」 「他の考え方は出来ないか」  浅香は憮然《ぶぜん》とした表情で、角の位置を動かした。 「たとえばだね、君は盲のアンマさんと間違えられたんじゃないか」 「アンマ?」  彼は驚いて反問した。 「じゃ皆、どうしておれの顔から眼をそむけたんだ?」 「怪我《けが》したアンマさんなんて、何か哀れで、見るに忍びないからね。車掌が切符を売らなかったというのも、同情したんだとは考えられないか?」  彼は返事をしないで、しばらく盤面を見詰めていた。見詰めているふりをしていた。ギャングの親方のような気分になっていたのに、他人には盲人に映っていたかも知れない。その解釈がひどく面白くない。彼は敵角の前に香車《きようしや》を打った。浅香は腕を組みながら言った。 「眼鏡を新調してかけた時、さっぱりしただろう」 「うん。うす暗くてもやもやした世界が、急にはっきりしたね」 「それで街を歩いた時——」  浅香は角を動かした。 「誰も君をよけなかっただろう」 「うん」  面白くない気分のまま、彼はあまり考えもせず、しきりに駒《こま》を動かした。盤面は間もなく彼の負けになった。勝負はそれで打切り、ビールが出た。気がついてみると、紙工店は作業をやめ、音は止っていた。 「どこかにいい仕事部屋はないかね」  彼は言った。浅香はコップを手に持ったまま言った。 「どうして紙工店に抗議を申し込まないんだ?」 「うん。それも考えたんだが——」  彼は視線を宙に浮かした。初めは人の手で打返すだけの音であった。それから小さな機械が入った。機械を入れ替えるのか買い足すのか、だんだん音が大きくなる。夏になると窓をあけ放すので、なおこたえる。では抗議という段になると、彼はついためらってしまう。昨日も今日と同じくらいにやかましかった。今日抗議するくらいなら、なぜ昨日抗議しなかったのか。何か特別に今日抗議する理由があるのか。 「印刷加工と言うが、音が大き過ぎやしないか?」  浅香はにやにやと笑いながら言った。 「爆弾でもこさえているんじゃないか」 「バクダンを?」  彼も笑った。 「まさかねえ」 「とにかく君は気が弱過ぎるんだ。びくびくし過ぎるんだよ」  そうじゃないんだ、と訂正しようと思ったが、面倒くさくなって彼は口をつぐむ。  いたずらじゃないか。誰かがいたずらに電話をかけたんじゃないか、と思いついたのは、三本目のビールの栓《せん》を抜いた時であった。コップに盛り上る白い泡《あわ》に、彼はしばらく眼を据えていた。 『しかしいたずらにしては——』  彼はぼんやりと考えた。 『さっぱりしたところがない。へんに意味ありげだった』  彼は立ち上り、電話帳を持って戻って来た。Q警察署の番号を探した。また立ち上って電話口に取りつき、ダイヤルを廻す。若々しい元気そうな声が出た。 「はい。こちら、Q警察署です」 「つかぬことをおうかがいしますが——」  舌がもつれるのを感じながら、彼は言った。 「そちらに江藤さんとか何とか、そういう方が勤務しておられますか?」 「江藤? いませんね」  やはりいたずらだったのかと、瞬間彼は考えた。 「伊藤の間違いじゃないですか?」 「あ。そうかも知れません」 「伊藤さんはもう帰りました。何か用事でも——」 「ええ。ちょっとした事件で」 「主任がいますから、その方につなぎましょう」  電話が切り換えられて、別の声が出て来た。彼は言った。 「さっき伊藤さんから電話がありましてね、途中で切れたような具合で——」 「何の用件でした?」 「僕もよく判らないんですが、梵語研究会とか何とか——」 「ああ。あの事件ですか。梵語研究会とあなたとは何の関係もないそうですな」 「もちろんありませんよ!」  調子が詰問じみた。ビールの酔いがそれをけしかけている。 「一体梵語研究会とは、何の団体ですか。思想的なものなんですか?」 「あなたの職業は?」  警察というところは、すぐに話題をそらせたがる。平静に、平静に、と念じながら、彼は答えた。 「著述業。ものを書く商売です」 「ああ。なるほど」  うなずく気配がする。 「ものを書く商売ね。判りました」 「それで僕の家の近くに工場があったり、またその頃アパートが建ちかかったりして、うるさかったもんですから、浅香という友人の紹介で、Q区に仕事部屋を借りたんです」 「浅香?」  語尾が尻上りになった。 「それはどういう人物ですか。以前からのお知合いですか?」 「いや。四、五年前に知合ったんですがね」 「どこで知合ったんです?」 「どこだったか忘れましたよ」  彼はいらだって言った。四、五年前新宿のバーで誰かに紹介され、それ以来将棋仲間として往き来している。それを説明するのは面倒だったし、またその義務もない。しかし何か為体《えたい》の知れないものが、彼の身辺にまつわりかかっている。それが第一にやり切れなかった。 「一体その梵語研究会に僕の名が——」 「ああ。あの名簿はあまり当てにならないんですよ」 「当てにならないって、そんなバカな——」  彼は嘆息した。 「その研究会の正体は、つまるところ何ですか?」 「つまり梵語研究会という名をつけて、いかがわしい本を売りさばいていたんですな。その男が」 「いかがわしい本?」 「そう。猥褻《わいせつ》な書物のことですよ」 「猥褻?」  彼は絶句した。自分が猥褻文書に関係している。それは意外であったし、またその事実もなかった。しばらくして彼は言った。 「僕にはそんな心当りは全然ありませんよ」  関係がないことを、どんな方法で証明するか。その心配が彼の口調を弱くさせた。しかしおどおどしていては、かえって疑いを持たれるおそれがある。 「で、その犯人はつかまったんですか」 「ええ。つかまえて家宅捜索をしたら、そんな名簿が出て来ましてね。あなたの名が出ていたというわけです」  彼は頭をいそがしく働かせながら、主任の声を聞いていた。もやもやした不安感が一応形をとったけれど、また別のもやもやが発生して、彼にかぶさって来る。 「その男を訊問《じんもん》すると、あなたと同じ名の男がある場所を指定して来て、そこで書物と金を引替えたと言うんですがね」 「ある場所? どこです?」 「孝治橋の電停の安全地帯だというんです」 「孝治橋——」  なるほど孝治橋がそこにつながるんだな、と彼は考えた。 「しかし僕は孝治橋などには、伊藤さんに申し上げた通り、行ったことはありませんよ」 「誰かがあなたの名をかたったのかも知れませんな。おい。灰皿を持って来てくれ」  灰皿が受話器の横に置かれる音がした。主任は今までくわえ煙草で応答していたらしい。 「こんな場合、皆さんは自分の本名を使いたがらないもんでね。全然の偽名か、誰かの名を借りることが多い。だからこんな事件はやりにくいんです」  一体誰が名前をかたったんだろう。その疑問がまず彼に来た。 「孝治橋で受渡しした以上、その偽名者はQ区に住んでいるだろうと見当をつけましてね、もう一度調査したら、あなたが同居しておられたというわけです」 「その偽名者が僕であるかないか、どうしてそちらに判るんですか」  彼は放って置けないような気持になって言った。 「その男は僕と称する男に、孝治橋で会ったんでしょう。すると僕の顔を見た筈《はず》ですね」 「そりゃそうでしょう」 「その男は今留置場に入れられているわけですね。僕がその男と会えば——」 「いや。その男は——」  相手は少し苦しげな口調になった。 「今ここの留置場にいないのです」 「どこかに身柄を移したんですか?」 「いえ。放してあるんです。自宅にね」  どうも話がよく判らない。売り手の犯人を釈放しているくせに、買い手のおれ(?)に電話をかけて来る。一体どういう意味なのか。相手は続けた。 「まあ逃亡するおそれはないと見て、そんな処置を取ったんです。ですから、孝治橋にあらわれたのは、あなたじゃないと判れば、それでいいんですよ。いや、電話で御迷惑をかけました」  彼は何か返事をしようとした。しかし言葉が出ない中に、電話は静かに切れた。 「何かがどこかでこんぐらがっている」  元の座に戻って彼は呟《つぶや》いた。コップのビールの泡はもう消滅して、茶褐色《ちやかつしよく》の液体だけになっている。 「とにかく声ばかりだからな」  初めから終りまで電話だけで、お互いに顔を見せ合わない。第一にそれが不安定であった。しかし誰かが彼の名を使用したのは、事実であるらしい。Q区の仕事部屋のことを知っているのは、浅香と貸し手の内山一族だけの筈だ。殺人だの傷害などの刑事事件ならいいが、誰かが名をかたって猥褻書を手に入れた。名をかたられたおれは、何の得もしていない。それが彼には忌々しかった。泡の消えたビールを台所に捨て、彼はも一度ダイヤルを廻して、浅香を呼び出した。 「浅香君かね?」  彼は言った。 「君は梵語研究会というのを、知っているかい?」 「何だね、そりゃあ」  浅香の声が戻って来た。 「梵語、サンスクリットか何かだ。それを研究する会さ」 「心当りないね、全然。それがどうしたんだね?」 「心当りがなけりゃいいんだよ」  彼はある快感を感じながら答えた。今やられたことを他人にやるのは、くすぐったいような喜びがある。 「明日の夜でも将棋をさしに来ないか」 「おい。おい。奥歯にもののはさまったような言い方はよせ」  じれたような浅香の声がした。 「梵語研究会とは何だい?」 「おれにもよく判らないんだよ」  彼は笑いながら答えた。そして電話を切った。笑いはすぐにおさまって、にがにがしいものが胸につき上げて来る。 「それは変だな」  将棋の一勝負がついて、浅香は煙草に火をつけながら言った。 「判っているのは、それだけかい?」 「声のやり取りだけだからね、くわしいことは判らないのだ」  彼は立ち上って、東京都の地図を取出し、ごそごそと拡げた。 「孝治橋というのは、ここなんだよ」  赤鉛筆で印した箇所を、彼は指で押えた。浅香は眼鏡を外《はず》して、それに見入った。 「おれの仕事部屋から歩いて、三十分ぐらいのところだ。君は行ったことがあるか?」 「ないね。タクシーで通ったことはあるけれど——」  浅香は顔を上げ、しかつめらしい表情で顔を見た。 「それ、偽名じゃなく、本名と違うか?」 「本名?」  彼も地図から顔を上げた。 「同姓同名の別の男がいるというわけか。そんなことはないだろう」 「いや。君自身が孝治橋に行ったということさ」 「なに? このおれが?」  彼はびっくりして浅香の顔を見た。 「おれが嘘《うそ》をついていると思うのか。わざわざ君を呼び出して——」 「いや。そうじゃないんだよ」  浅香は両|掌《て》で空気を押えるような恰好《かつこう》をした。 「君は嘘をついてない。でも、無意識|裡《り》にそれをやって、それを忘れてしまって——」 「冗談じゃないよ。夢遊病じゃあるまいし」  彼は笑おうとしたが、笑いはどこかに引っかかった。 「それなら少くとも現物がおれの手に残っている筈じゃないか」 「それもそうだな」  浅香は視線を地図に戻した。この男と知合って約五年になる。親友というほどではないが、お互いに胸襟《きようきん》を開いているつもりだ、と彼は浅香のうすくなった顱頂《ろちよう》を見ながら考えた。それなのに夢遊病あつかいにするのは、変じゃないか。水くさいじゃないか。 「しかし——」  思わず声になった。偽名男がもしかすると浅香ではないか。昨日の警察電話以来、胸のどこかにからまっている疑念を、今はっきりと彼は自覚した。相手を疑っていることにおいては、お互いさまではないか。ぎょっとした風に浅香は顔を上げて言った。 「しかし、何だい?」 「いや。何でもない」  彼は間の抜けたような笑い方をした。 「おれが夢遊病者だという発想は、どこから出たんだね?」 「ああ」  浅香は困った表情になった。 「内山んとこの爺《じい》さんが、そんなことを言ってたんでね」  内山というのは彼の仕事部屋を借りた家である。浅香の遠縁に当るそうで、浅香の口ききで離れを借りることが出来た。戦災をまぬかれた家なので、相当に古い。そこに爺さんがいる。離れを根城としている。彼はその離れを正午から夕方まで使うという約束で、部屋代を払っている。その間爺さんは母屋《おもや》でテレビを見たり、雑誌を読んだり、または外出したりする。 「君は仕事をするために部屋を借りたんだろう。それなのに庭をぐるぐる歩き廻ったり、この間などは庭にしゃがんで、二時間も蟻《あり》が這《は》っているのを眺めていたり——」  浅香は眼鏡を塵紙《ちりがみ》でごしごし揉《も》んだ。 「もちろんおれには判っているよ。ところが爺さんには判らないのだ。だから君のことを変な人間だと——」  それはまだ暑い日のことである。彼は庭に出て見ると、蟻が行列して這っていた。それぞれ米粒の半分くらいの白いものをかついで、移動している。 (蟻の引越しだな)  と彼は気付いた。そしてその行列の行先をたどった。行列はかなり広い庭を横切り、隣家の垣根《かきね》をくぐっている。引越し先は判らない。彼は元の巣へ戻り、そこにしゃがみ、出て来る蟻の群を観察していた。 (この白い粒は何だろう。食糧かな?)  それを運び出す蟻と、運び終って戻って来る蟻とで、巣の出入口は混乱している。その中に面白いものを見た。何も持たないでそこらをうろうろしている蟻がいる。その怠け蟻に、比較的大型の蟻が近づいて、いきなり噛《か》みついて殺してしまった。音が聞える筈もないが、彼はゴツンという音のようなものを感じた。 「あ!」  彼は思わず声を立てた。その大型蟻は巣の近くに五、六匹いて、働き蟻の仕事ぶりを監視しているらしい。彼はその仕組みにショックを感じた。 「そうか。あの爺さんがおれのことをそう言ったのか」  彼は浅香に言った。 「夢遊状態で蟻を眺めていたと、爺さんは思い込んでいるのだね」 「そうらしいよ」 「どうしてそのことを、早くおれに知らせなかったんだ?」 「知りたかったのか?」  浅香は意外そうに口をとがらせた。 「そんなこと、知らなきゃ知らないで、事は済むもんだと思って、君には話さなかったんだがね」 「そりゃやはり知りたいさ。自分に関係したことだからね」 「そうかい?」  浅香は言った。 「君は警察の電話で、君の偽者《にせもの》がいることを知った。知って迷惑を感じている。電話さえなければ、君は何も知らないで、つまり迷惑しなくて済んだんじゃないのか」  それとこれとは問題が違う。そう言おうとしたが、頭が混乱して、どこが違うのか、彼には判らなかった。 「あれは蟻の引越しを見ていたんだ」  仕方がないので、彼は話を変えた。 「君は見たことがあるか」 「ないね」 「蟻には憲兵みたいな奴がいるんだよ。驚いたね」  彼は蟻の生態について、簡単に説明した。浅香は黙って聞いていた。 「そのおれのしゃがんだ後姿を、爺さんはそんな眼で眺めていたんだな」  彼は内山老人の眼のことを考えながら、そう言った。老人の眼は埴輪《はにわ》の眼に似ている。トーチカの銃眼にも似ている。ある特別の期間を除いて、いつも拒否の風情《ふぜい》をたたえている。 「しかし変なのは爺さんの方だよ。君も知ってるだろ」 「うん。知っている」  浅香はうなずいた。 「早く病院に入れた方がいいって、内山に会う度に言うんだがね」  背中にジンマシンのようなものが出来たらしく、痒《かゆ》くてたまらない。孫の手をどこかで売っていないかと、ぶらぶら歩いている中に、Q警察署の前に出た。 「あ。警察がここにある」  彼は思わず呟いた。いきなりぬっとあらわれて、立ちはだかったような感じである。古ぼけた建物なのに、妙に威圧感がある。内部で働いている人たちの表情が、建物にまでしみ出て来るものなのか。 「こんなところにあったのか」  彼は佇《たたず》んだまま、しばらく考えた。そして中に入って行った。受付に行って訊《たず》ねる。 「こちらに伊藤さんという刑事さん、いらっしゃいますか?」 「伊藤?」 「ええ。風俗の取締りなどをやる係りの——」 「ああ。ああ」  若い受付の男はうなずきながら、受話器を取り上げようとして、またおろした。 「公安課の伊藤さんですね。二階です。あの階段を登って、右に曲ったところです」  彼はお礼を言って、歩き出した。二階の廊下は小学校の廊下に似て広い。しかしいろんなものが窓際《まどぎわ》に積み重ねてあるので、実際に歩ける場所は狭いのだ。大掃除の時のような匂《にお》いがする。台の上にラーメンの丼《どんぶり》が重ねてある。その少し先に『公安課』の札が下っている部屋があった。彼はその扉《とびら》を押して、あいさつをした。 「こんにちは」  部屋には卓と椅子が五人分あって、コの字型になっている。しかし人間は一人しかいなかった。その刑事は読んでいた新聞を卓に置き、不審そうな眼で彼を見た。 「伊藤さんはいらっしゃいますか」 「今外に出ています」  刑事は彼を見詰めたまま言った。 「あなたは?」  その声でこの刑事は、伊藤刑事や主任でないことが、すぐ彼に判った。彼は帽子を脱いで自分の名をいった。 「実は一週間ほど前、梵語《ぼんご》研究会のことで、電話で問合わせがあったんですが——」 「ああ。あの件ね」  彼の名前を聞いて、刑事は思い出したのだろう。立ち上って椅子をすすめた。中庭を隔てたどこかに剣道場があるらしく、懸声《かけごえ》が入り乱れて窓から飛び込んで来る。彼は腰をおろして煙草を取出した。 「あれはもういいんです」  ライターの火を差出しながら、刑事は静かに言った。刑事というと顎《あご》の張った男を彼は連想するが、この刑事の顎はしゃくれて尖《とが》っていた。予定を立てて来たわけでなく、たまたま建物があって入って来たのだから、どうも落着かない。形をつくるために、彼はせきばらいをした。 「そちらでいいとおっしゃっても——」  彼は言った。 「こちらじゃ割切れない気分が残るんです」 「そうでしょうな」 「この際実情を話していただけませんか。一体その梵語研究会と言うのは——」 「あれは元は真面目《まじめ》な団体だったそうですが、代が替って、今は三代目なんです」 「三代目?」  彼は煙草をもみ消した。 「三代目と言いますと?」 「初代と二代目は引退したんです。その三代目になって、会員にいかがわしい本を売るようになった。したがって会員のメンバーも変って来た」 「三代目になって堕落したというわけですね」  彼はよく判らないまま合点合点をした。 「本はよく売れたんですか?」 「それがあまり売れていないらしい。趣味でやっているのか、それで儲《もう》けようとしたのか、それがはっきりしないんです。とにかく残本とメモを押収して、そのメモで買った人を捜して参考人に——」 「その男をつかまえたのは、いつ頃ですか?」 「二箇月ほど前です」 「そのメモを見せてくれませんか?」 「それもここにはないのです」  背中が急に痒くなって来た。彼は椅子の背にくっつき、しきりに両肩を動かした。 「すると僕に孝治橋で渡したというのも、その頃なんですね?」 「いや。今年の三月頃だと、当人は言っていましたね。霧の深い、寒い夕方だったと——」 「今年の三月?」  彼はびっくりして言った。 「僕がQ区に部屋を借りたのは、今年の五月頃ですよ。それまでQ区とは、何も関係もなかった。おかしいですねえ」 「なるほどね」  彼が痒がっているのを見兼ねて、刑事は机上の物差しを彼に貸した。彼は襟《えり》からつっこんで、ごしごしとこすった。 「道理であいつをあげて直ぐ、孝治橋を中心にして、買い手を捜した。その近くに住んでいるだろうという推定でね。しかし捜しても見つからなかった」 「そりゃそうでしょう。僕はその頃いなかったんですから」  物差しを机に戻しながら彼は言った。 「それで何故《なぜ》、また手数をかけて僕を捜したんですか?」 「書類を検察庁に廻したら、もう少し参考人、つまり本の買い手をですね、余計に捜してくれとのことで、も一度調査し直したんです。するとあなたが部屋を借りているという受持連絡があった。しかし更にわたしが調べてみると、時間的に食違いがある」 「あなたは内山家に行ったんですか。誰が応対に出ました?」 「お爺さんでしたよ」 「お爺さんは僕のことを何と言っていましたか?」 「いいえ。別に」  会話は途切れた。彼は撃剣の音を聞きながら、しばらく窓の外に眼を放していた。つじつまが合っていそうで、まだ何かが残っている。ぼんやりしているが、彼の名をかたった人間が、たしかにこの世に存在するのは事実だ。そこを誰も解明してくれない。 「それの住所を教えてくれませんか。会いに行きますから」 「それというと?」 「犯人のことですよ、梵語研究会の。会って偽名男の人相などを——」 「そりゃムリです」  刑事はきっぱりと答えた。 「あれが犯人か犯人でないか、裁判所できめることです。われわれ警察官がそこに立入ることは出来ませんね」 「でも、僕の名をかたった奴がいる。そいつは明らかに氏名詐称でしょう」  彼は食い下った。 「それはやはり罪になるんでしょうね」 「あなたに金銭その他のことで、重大な実害があった場合にはね」  刑事はうんざりした声を出した。 「その男がどんな男かは判らないし、またあんな事件では、皆自分の名を出したがらないものです。たとえば連込み宿などで、宿帳には本名を書かない。それと同じです。それをいちいち人名詐称で——」  その時電話がじりじりと鳴り渡った。刑事はのろのろと立ち上り、受話器を取った。そう言えば実害はないのだから、放って置いてもよろしい。その気持と、一体どんな了見でおれの名をかたったのか、その疑念が入り乱れる。じりじりと時間が経《た》つ。刑事は誰かと世間話をしているらしい。そののんびりした言葉や笑いを聞いている中、刑事の背中が何か壁のように見えて来て、思わずワッと叫びたい気持になる。  話が済んで刑事が戻って来た。 「孝治橋で本を受取った男は、頭が禿《は》げていた。梵語研究会長がそう言うのです」  刑事は少し笑った。 「ところがあなたは禿げていない。ふさふさしていますね」 「禿げてるも何も、僕は今日初めてあなたに会ったわけでしょう。どうして——」 「いや。あの電話のあと、すぐわたしが内山さんとこに急行して、あなたの髪の具合を聞いて来たわけですな。そして出先から電話して、あなたの頭は禿げてないとの報告をしました」  ビールを二、三本飲んでいる間に、おれが禿げているかいないか、調べられたわけだな。なるほど、それで一応話は通る。しかし釈然としない。彼は手で髪をかき上げながらいった。 「その男、眼鏡をかけていませんでしたか」  バスの中で、遊園地の回転車の中で、松本行列車の中で見た顔を、思い出しながら彼は言った。あいつはいつも帽子を冠《かぶ》っていた。 「年の頃は僕か、僕より少し上のような——」 「何か心当りがあるんですか?」 「いえ。別に——」  刑事は鉛筆で机をこつこつと叩《たた》きながら、彼の顔を見ていた。彼はそろそろと立ち上りながら、あいさつをした。 「どうもお邪魔しました」 「いえ、こちらこそ御苦労さまでした」  刑事があけてくれた扉から、彼は廊下に出る。刑事の視線を背に感じながら、まっすぐ歩く。 (つまりおれはこの事件では、利用価値がないというわけだな)  階段を降りて、建物の外に出る。出るというより、感じとしては追い出されるみたいだ。何だかひどく疲れて、もう孫の手を買う気力がなくなっている。——    神経科病室  内山老人がとうとう入院することになったと、ある日浅香は彼に報告した。彼は訊《たず》ねた。 「当人は承諾したのかね?」 「承諾と言っていいのかな」  浅香は首をひねった。 「とにかく縁側から落ちて、肱《ひじ》を痛めたからね。それの治療のためだと、爺さんには言ってある」  内山家は母屋が三部屋で、離れの一部屋は渡り廊下でつながっている。老人が落っこちたのは、母屋の縁側からだ。なぜ落ちたかというと、外でチンドン屋の音がして、急いで見に行こうとして、蹴《け》つまずいたのだ。 「どうもチンドン屋と爺さんは、相性が悪いようだね」  内山老は街でチンドン屋と会ったり、家の前をチンドン屋が通ったりすると、急に亢奮《こうふん》してそれを見に行く。時にはチンドン屋のあとにくっついて、一時間ぐらい戻って来ないこともある。戻って来た老人は、夢に浮かされたように朗らかになっている。上機嫌《じようきげん》になって、家人や彼にも話しかけて来る。家人とは母屋に住む内山夫妻と中学三年の男の子だ。  しかしこの御機嫌な状態は、三日と続かない。三日目あたりから、深い鬱《うつ》状態におちいる。急に不機嫌な状態になる。いや、不機嫌というのは当らない。不機嫌というと他人に当り散らすようだが、老人は逼塞《ひつそく》して自分の殻に閉じこもってしまうのだ。ほとんど行動しないで、食慾もなくなる。 「不眠も来るらしいんだね。内山君の奥さんもそう言っていた」  浅香は説明した。 「夜中にぶつぶつと何か呟《つぶや》いていたり、泣いているのを聞いたことがあるそうだ」  その状態が五日か六日か続き、だんだんと元の状態になる。元の状態と言っても、心身健康というわけでない。むっつりとして笑わない、あまり感動のないような老人に戻るのである。浅香は言った。 「君があの離れを借りた時から、爺さんのその状態はひどくなったとは思わないか?」 「そうだね。その傾向もあるようだな」  初めあの部屋を借りた時、老人は自分の居室に他人が入って来たという実感がないらしく、時時離れにやって来た。机のまわりに散らかした書きほぐしを拡げて読んだり、また彼の書いている机の上をじっと見詰めていたりする。それでは仕事にならないので、彼は母屋の人に頼んで、彼がいる間は出入りしないようにしてもらった。以後そんなことはなくなったが、その措置を老人がどう受取ったのか、彼には判らない。 「どんなつもりかな。あの爺さんは」  老人の気持が、彼には理解出来ない。と同時に、老人は彼のことを理解していない。彼のことを変人だとか、夢遊病的だと批評したのでも判る。つまりお互いに判ってはいないのだ。 「チンドン屋を見ると発作が、いや、何か転換が起きるのは、面白いね」  彼は言った。 「ある人間をある状態に置くと、喘息《ぜんそく》やジンマシンが起きる。それと同じことかな」 「そうかも知れない」 「チンドン屋というのは、特別の商売だ。あれは街を歩いているけれど、人間の素顔を出していない。厚化粧をして、服装だって時代離れをしている。つまり人間じゃなくて、仮のものだ。仮象だね。考えてみると、あれは気味の悪いものだ」 「あれは儲《もう》かる商売かな。どういうシステムになっているのだろう。請負いか、それとも日当か」 「ある顔を見ると、突如として反応を起すのは——」  彼はあの男のことを思い出しながら言った。 「何か底深い関係があるのかも知れない」 「ある顔って、誰の顔だ?」 「チンドン屋の顔さ。あれは皆同じような顔をしている。塗りたくって、同じ型になっている。表情がない」 「表情はあるだろう。笑ったり——」 「あれは表情じゃない。顔の筋肉が動いているだけだ」  彼は彼|等《ら》のほんとの表情を、一度見たことがある。二年ほど前彼が散歩していると、道ばたの小公園の入口で、チンドン屋の一組が車座になって、昼の弁当を食べていた。食べながらおしゃべりをしていた。生き生きとした表情や笑いが、厚化粧を通してはっきり判った。今まで禁じられたりしばられたり抑圧されていたものが、いっぺんによみがえっている。その感じがあるショックを彼に与えた。 「おれにもそれに似たことがあるんだよ」  彼は言った。 「それと逆の立場だけれどね。おれの顔を見ると、その男にある反応が起きるんだ。ギョッとしたような——」 「それ、知合いかね?」 「いや。全然見知らぬ男だよ」  駅の階段で、バスの中で、遊園地の回転車の中で、会うとギョッとした表情になるあの男のことを、彼は浅香に説明した。浅香は黙って聞いていた。 「へんな話だね」  浅香が言った。 「すると君そっくりの男が、どこかにいるんだね」 「そうらしいんだ。いるというより、いたという感じだな」  彼はその男の表情を思い浮べながら言った。 「あいつは死人でも見るような眼付きで、おれを見る。そして青ざめるんだ」 「今度会ったら、つかまえて聞いてみたらどうだい?」  彼は返事をしなかった。相手が怯《おび》える以上に、近頃彼はその男に怯えを感じていた。しばらくして彼は言った。 「いつ爺さんを入院させるんだね?」 「明日だ」  浅香は答えた。 「早くしないと、また悪い状態になるからねえ」 「肱をいためたのは、いつだい?」 「今日だ。今日君はあの部屋に行かなかっただろう」 「うん、用事があってね」  彼は言った。 「するとまだ御機嫌の筈だね。肱をいためたって、骨か?」 「いや。すりむいただけだ」  彼は老人の上機嫌の状態を思い浮べ、強い哀れさを感じる。いつだったか、やはりチンドン屋を見た直後、老人は朗らかな表情で彼に話しかけた。それは酔っぱらっているような口のきき方であった。日本もアメリカの一州になった方がいいという説である。彼はすこし驚いて反問した。 「何故ですか?」 「その方が日本のために好都合ですぜ」  老人の主張によると、日本人が皆米国籍に入る。大統領選挙がおこなわれる。その時旧日本人から候補者を一人立てる。旧日本人並びに黒人はその候補者に票を入れる。白人は二派に分かれているから、旧日本人はかならず当選する。 「新大統領の特別命令で、ホワイトハウスを日本州に持って来る。こりゃ都合がいいですぜ」  冗談の口調ではない。呂律《ろれつ》は怪しいが、本気の主張と思われた。 (そんなことを考えているのか)  そんな老人が、周囲からだまされるようにして、入院させられる。入院して治《なお》る方が老人にとって幸福だと判っていても、可哀《かわい》そうだという気分は打消しがたい。彼は言った。 「気の毒なようなもんだな」 「家族がかい?」 「いや。爺さんがさ」 「爺さんが?」  浅香は眼を大きくして彼を見た。彼はたじろいで弁解をした。 「いや。気の毒というのは言い過ぎだが、とにかく、おれにとっては、他人事《ひとごと》じゃないような気がするよ」 「そうか。そう言えば君にもその傾向があるようだな」  浅香は笑いながら言った。 「君はいつもびくびくして生きている。一度診察してもらったらどうだね。おれがいい医者を紹介するよ」 「お爺さんがいなくなると、がらんとしているな」  それから三日目の午後、浅香は内山家の離れにやって来て、そう言った。 「何だかはり合いがないね」 「爺さんは元気かい?」  彼は庭を眺めながら言った。内山家の庭はかなりあれている。花壇らしいものが一応つくられてはいるものの、花は咲かず、雑草ばかりがはびこり、日かげにはぜに苔《ごけ》がいっぱい貼《は》りついている。貧寒な庭だけれども、彼はこの庭が割に気に入っていた。浅香の話では、昨年までは老人と孫の中学生がせっせと草花を植え、水をやったりして手入れしていたそうだが、今年になっては誰もかまわなくなった。老人は変になり、中学生は受験準備で忙しいので、草花どころの騒ぎではなくなった。終戦子なので、競争もはげしいのだろう。今その中学生が庭の隅に生《は》えた柿の熟した実を一箇もいで、母屋に戻って行く。無表情というより、いくらか沈鬱な顔をしている。この中学生は彼と視線が合っても、あいさつをしない。 (おれにもあんな時代があったな)  と、その度《たび》に彼は思う。体だけは大人になって、気がまえがそれに伴わない。行く先がどうなるのか、見当がつかない。気持が内に折れ曲る。しかし若いから、その時期を過ぎれば、やがて調子を取り戻すだろう。 「爺さんは眠っているよ。いる筈だよ」  浅香は答えた。 「薬で持続的に眠らせて、抑圧を取除くんだそうだ」 「そうか。爺さんは今まで抑制されていたのか。なるほど、そう言えばそんな調子だったな」  すべてのものを拒むような老人の眼窩《がんか》を、彼は思い出していた。 「チンドン屋のこと、医者に話してみたかね?」 「うん。話したよ。でも——」  浅香は口ごもった。要するに人間には個人差があって、はっきりは判らないけれども、子供の時チンドン屋が大好きで、いつもついて歩いていた。その幼時の経験が今よみがえって来て、強い悲哀の情緒を引き起すのではないか。 「と、医者は言うんだね」 「じゃおれのチンドン屋仮象説は、間違っているのか?」 「うん。それは考え過ぎだろうと、医者は笑っていたな」 「しかしチンドン屋を見ると、爺さんは調子が俄然《がぜん》明朗になるじゃないか。憂鬱な状態はその後に来るんだろう」 「それもね、医者は言ってたが——」  チンドン屋を見た瞬間から、鬱状態が始まる。その鬱状態に全細胞(?)が反撃して、反対の状態をつくり上げる。一時的な躁《そう》状態が発生するのはよくある例で、内山老人のもそれではないか。 「鬱状態の変形だと言うんだがね」 「一々理屈をつけて、おれたち素人《しろうと》の考えを潰《つぶ》そうとするんだな」  彼は笑いながら言った。 「むきになって言ったのか?」 「いや。わりに控え目だったよ。一度見舞いに、いや、見に行かないか。勉強になるよ」 「そうだね。今度の土曜日にでも行ってみるか」  彼はまだ神経科の病院を見たことがない。興味が彼をそそった。興味というより義務感にそれは似ていた。  約束の日、浅香は彼の家にやって来た。浅香を待たせて、ゆっくりと彼は着換えをする。浅香は言った。 「工場の音、少し静まったようじゃないか。文句でもつけたのか?」 「いや。寒くなったからだよ」  寒くなると工場も窓をしめる。こちらも窓をしめる。音の通い路《じ》が小さくなる。そこで静かになったような気になる。実際は夏の間と同じ響きを、あの機械たちは出しているのである。それを彼は知っていた。その証拠に小春《こはる》日和《びより》になると、向うが窓をあけ放つので、俄然音が大きくなる。彼は朝十時頃起きるが、起きなくてもその音の大きさで、その日の天気や寒暖の程度を知ることが出来る。 「おれはあそこに塀《へい》を立てようと思っているんだがね」  ネクタイをしめながら、彼はひとりごとのように言った。 「塀を?」 「うん。ブロックで、三メートルぐらいの高さのを」  それは夏頃から考えていたことである。隣のアパートが完成して、家が見おろせるようになった時、彼は大急ぎで植木屋に頼んで、大きな杉の木を四本植えた。それが今はすっかり根づいて、バレーボールのストップのように、アパートの住人たちの視線をはね返してくれる。工場からのは視線でなく、音と響きだから、杉では間に合うまい。やはりブロックが適当だろう。 「すると向うは南をさえぎられて、日かげになるわけだね」 「そういうことさ」 「文句をつけて来やしないか」 「そりゃお互いさまだ。こちらも迷惑を蒙《こうむ》っているんだから」  彼は笑った。 「その時はおれもチョビ髭《ひげ》を立てるさ」  この間工場が忙しかったのか、午後十時か十一時頃まで就業して、音をばらまき、迷惑をしたことがあった。夜になるとあたりが静まるので、なおのこと騒がしく聞えるのだ。そこで彼は昼間境界線に行って、紐《ひも》をつかって測量した。測量の真似《まね》ごとをした。すると工場の窓が開いて、工場主があわてて顔を突出した。何か言いたげにチョビ髭がむくむくと動いた。しかし言葉にはならなかった。工場主の紅潮した顔はすぐに引込み、一分間ほどして機械の音はぴたりとやんだ。そして窓に工員たちの顔がずらずらと重なり並んだ。時々工員たちとも顔を合わせるのだが、合わせる度に顔が変っているような気がする。忙しくこき使われるから、次々にやめて新顔が入って来るのか。それともこちらが覚えようという気がないので、記憶がないのか。いや、もともと彼には他人の顔を覚える能力が欠乏しているのだ。 「…………」  彼は黙って工員たちの顔を、ひとわたり見廻した。そして測量の真似ごとを中止して、家に戻って来た。五分ほど経《た》って、ふたたび機械がガッシャガッシャと動き出した。 「君はびくびくしているくせに、案外強いところがあるんだな」  彼の用意がととのったので、浅香も立ち上りながら言った。 「そうじゃない。おれはもともと強いんだ」  彼は答えた。 「ただ為体《えたい》の知れないものに弱いんだ。相手が判ってしまえば、こちらにも打つ手はあるだろう。判らないから、警戒をする」  いくらか強がりの気持もあった。 「ほんとかね。ほんとにそう思っているのかね」 「そこでそれを逆にして、自分を為体の知れないものに仕立て上げたら、もう恐いものはないだろう。処世術としては最高だね」 「じゃもの書きはやめて、チンドン屋になるんだね」  そして浅香はしゃがれた声で笑い出した。  病院は木造の二階建てになっていた。ヒマラヤ杉が前庭に生えていて、建物はかなり古びている。浅香が受付を通して、待合室でしばらく待たされた。どうして待たせられるのか、彼には判らない。 「ここは十年ほど前、産婦人科の病院だったそうだ」  浅香は彼に小さな声で説明した。 「産科じゃはやらなくなったんで、身売りして神経科になったのだ。つまり映画がテレビに押されて斜陽産業になったようなもんだな」  待合室には大型のテレビが置かれていたし、椅子も柔らかい。日射《ひざ》しもよく、明るかった。彼は椅子に腰をおろし、ぼんやりとテレビの画面を眺《なが》めていた。昔のことを考えていた。彼の子供の時の病院は、日当りが悪く、皮張りの長椅子はじめじめしているくせに堅かった。そして空気は薬くさかった。 (ミツ薬と言ってたな。うちの婆《ばあ》さんは)  彼の祖母が死んで、三十年余り経《た》つ。祖母の故郷では(ヅ)と(ズ)の発音を区別して使う。子供の彼にはその(ヅ)が(ツ)に聞える。蜜薬という風に聞える。蜜だから甘そうに思えるが、飲むとひどくにがかったり、渋かったりする。もう今では(ヅ)と(ズ)の区別はなくなっただろう。 (代診というのもいたな。今でもそれに当るものがいるだろうか)  病院の待合室は、とかく昔のことを考えさせるのだ、と彼は思う。子供の時の通いつけの医者は、小柄で貧相な男であった。ところが代診の方はでっぷり肥《ふと》って、貫禄が充分にあった。病気になって医者を呼ぶ。最初の日は医者がやって来る。人力車に乗ってうちに来る。病気が大したものでないと判ると、次の日から代診がてくてく歩いてやって来る。つまりその医院には、専属の人力車は一台しかないのだろう。診察している間、車夫は蹴込《けこ》みに腰をおろして、煙管《きせる》で刻み煙草を吸っている。あの車夫は月給をいくらぐらい貰《もら》って、それでどんな生活をしていたのだろうか。そこでよその家の前に人力車が停《とま》っていると、ああここには病人がいるんだな、と直ぐに判った。その頃は神経科の病院はなかった。神経衰弱などは、転地や海水浴などでなおしていたようだ。それでもなおらなければ、たいてい彼等は自殺した。 「遅いな」  彼は浅香にささやいた。 「ここじゃ見舞人を待たせるのか」 「そうだね。どうも変だ。ちょっと聞いて来よう」  浅香は立ち上って、受付の方に行った。彼は眼を閉じて、うつらうつらしていた。待合室には十人ほどがテレビを見ている。ちゃんとした恰好《かつこう》をしているので、入院患者ではないだろう。皆黙りこくっている。眼をつむると、テレビの音だけが聞えて来る。どこかの舞台中継をしているらしく、気取った声のやりとりが続いている。そのやりとりはへんに空疎な感じがする。浅香が戻って来て、彼の肩をたたいた。 「来診患者と間違えられたんだよ」  浅香はささやいた。 「なんてそそっかしい看護婦だろう」 「患者って、おれがかい?」 「おれか君か判らないが、二人連れで来たもんだから、患者と付添いだと思い込んだらしいんだ」  彼はのろのろと立ち上った。 「病室は二階だそうだ」  廊下を歩いて階段を登る。階段はゆるやかにつくってある。病人は転びやすいから、こんなになだらかにしてあるのだろう。登りきった廊下の両側に病室が並んでいる。病室の入口に、入院患者の名札がかかっている。 「ここだよ」  名札を確めて、浅香は言った。彼はその扉を押した。病床が六つあって、そのいくつかの視線が、一斉に彼にそそがれた。どこだったか忘れたが、皆どこかで見た顔であった。たしかに見覚えのある顔が、各病床の上にあった。病室の中の空気は、たいへん密度が高かった。 「こんにちは」  その密度の中に自分を押し込むように、彼は部屋に足を踏み入れようとしたが、足がもつれてしまって、うまく行かなかった。 [#地付き](昭和三十八年十二月『群像』)   [#改ページ]  幻化    同行者  五郎は背を伸ばして、下界を見た。やはり灰白色の雲海だけである。雲の層に厚薄があるらしく、時々それがちぎれて、納豆《なつとう》の糸を引いたような切れ目から、丘や雑木林や畠《はたけ》や人家などが見える。しかしすぐ雲が来て、見えなくなる。機の高度は、五百|米《メートル》くらいだろう。見おろした農家の大きさから推定出来る。  五郎は視線を右のエンジンに移した。 〈まだ這《は》っているな〉  と思う。  それが這っているのを見つけたのは、大分空港を発《た》って、やがてであった。豆粒のような楕円形《だえんけい》のものが、エンジンから翼の方に、すこしずつ動いていた。眺《なが》めているとパッと見えなくなり、またすこし離れたところに同じ形のものがあらわれ、じりじりと動き出す。さっきのと同じ虫(?)なのか、別のものなのか、よく判らない。幻覚なのかも知れないという懸念《けねん》もあった。  病院に入る前、五郎にはしばしばその経験があった。白い壁に蟻《あり》が這っている。どう見直しても蟻が這っている。近づいて指で押えようとすると、何もさわらない。翼の虫も触れてみれば判るわけだが、窓がしまっているのでさわれない。仮に窓をあけたとしても、手が届かない。  五郎は機内を見廻した。乗客は五人しかいない。  羽田を発つ時には、四十人近く乗っていた。高松で半分ぐらいが降り、すこし乗って来た。大分でごそりと降り、五人だけになってしまった。羽田から大分までは、いい天気であった。海の皺《しわ》や漁舟、白い街道や動いている自動車、そんなものがはっきり見えた。大分空港に着いた頃から、薄い雲が空に張り始めた。離陸するとすぐ雲に入った。  航空機が滑走を開始した時の五人の乗客の配置。五郎と並んで三十四、五の男。斜めうしろに若い男と女。そのうしろの席に男が一人。それだけであった。四十ぐらい座席があるので、ばらばらに乗って手足を伸ばせばいい。そう思うが、実際には固まってしまう。立って席を変えたいけれども、五郎の席は外側で、通路に出るには隣客の膝《ひざ》をまたがねばならない。それが面倒くさかった。  隣の客はいつ乗り込んで来たのか知らない。五郎は飛行機旅行は初めてなので、ずっと景色ばかりを眺めていた。 「乗ると不安を感じるかな?」  羽田で待っている時、ちらとそう考えたが、乗ってみるとそうでなかった。不安がなかったが、別に驚きもなかった。下方の風景を、見るだけの眼で、ぼんやりと見おろしていた。  隣の男が週刊誌から頭を上げた。髪油のにおいがただよい揺れた。男は窓外に眼を動かした。じっと発動機を見ている。黒い点を見つけたらしい。五郎は黙って煙草をふかしていた。二分ほど経《た》った。 「へんだね」  男はひとりごとのように言った。そして五郎の膝頭をつついた。 「ねえ。ちょっと見て下さい」 「さっきから見ているよ」  五郎は答えた。 「次々に這い出して来るんだ」 「這い出す?」  男は短い笑い声を立てた。 「まるで虫か鼠《ねずみ》みたいですね」 「では、虫じゃないのかな」 「そうじゃないでしょう。虫があんなところに棲《す》んでる筈《はず》がない。おや?」  五郎はエンジンを見た。急にその粒々が殖《ふ》えて来た。粒々ではなくて、くっついて筋になって来る。翼の表面からフラップにつながり、果ては風圧でちりぢりに吹飛ぶらしい。虫でないことはそれで判った。また幻覚でないことも。  二人はしばらくその黒い筋に、視線を固定させていた。やがて男はごそごそと動いて、不安げな口調で名刺をさし出した。 「僕はこういうもんです」  名刺には『丹尾章次』とあった。肩書はある映画会社の営業部になっている。五郎は自分の名刺をさがしたが、ポケットのどこにもなかった。 「そうですか」  五郎は名刺をしげしげと見ながら言った。 「何と読むんです? この姓は?」 「ニオ」 「めずらしい名前ですね」 「めずらしいですか。僕は福井県の武生《たけふ》に生れたけれど、あそこらは丹尾姓は多いのです。そうめずらしくない」 「わたしは名刺を持ってない」  五郎はいった。口で名乗った。 「散歩に出たついでに、飛行機に乗りたくなったんで、何も持っていない」  外出を許されたわけではない。こっそりと背広に着換え、入院費に予定した金を内ポケットに入れ、マスクをかけて病院を出た。外来患者や見舞人にまぎれて気付かれなかった。煙草を買い、喫茶店に入り、濃いコーヒーを飲んだ。久しぶりのコーヒーは彼の眠ったような情緒を刺戟《しげき》し、亢奮《こうふん》させた。 〈そうだ。あそこに行こう〉  前から考えていたことなのか、今思いついたのか、五郎にはよく判らなかった。 「そうのようですね」  丹尾は合点合点をした。 「ぶらりと乗ったんですね」 「なぜ判る?」 「あんたは身の廻り品を全然持っていない。髪や鬚《ひげ》も伸び過ぎている。よほど旅慣れた人か、ふと思いついて旅に出たのか、どちらかと考えていたんですよ。飛行機には度々《たびたび》?」 「いえ。初めて」 「この航空路は、割に危険なんですよ」  丹尾はエンジンに眼を据えながら言った。 「この間大分空港で、土手にぶつかったのかな、人死にが出たし、また鹿児島空港でも事故を起した」 「ああ。知っている。新聞で読んだ」  五郎はうなずいた。 「着陸する時があぶないんだね。で、あんたはなぜ鹿児島に行くんです?」 「映画を売りに。おや。だんだん殖えて来る」  五郎もエンジンを見た。細い黒筋がだんだん太くなる。太くなるだけでなく、途中で支流をつくって、二筋になっている。五郎は眼を細めて、その動きを見極《みきわ》めようとした。しかし飛行機の知識がないので、それが何であるか、何を意味するのか、判断が出来かねた。五郎はつぶやいた。 「あれは流体だね。たしか」 「油ですよ」  丹尾はへんに乾《かわ》いた声で言った。 「こわいですか?」  五郎は少時《しばらく》自分の心の中を探った。恐怖感はなかった。恐怖感は眠っていた。 「いや。別に」  五郎は答えた。 「映画を売りに? 映画って売れるもんですか?」 「売れなきゃ商売になりませんよ」  丹尾はまた短い笑い声を立てた。 「映画をつくるのには金がかかる。売って儲《もう》けなきゃ、製造元はつぶれてしまう」 「なるほどね」  そう言ったけれども、納得したわけではない。フィルムなんてものは、鉄道便か何かで直送するものであって、行商人のように売り歩くものではなかろう。そんな感じがする。五郎は丹尾の顔を見た。この顔には見覚えはない。髪にはポマードをべったりつけている。チョビ髭《ひげ》を生《は》やして、蝶《ちよう》ネクタイをつけている。太ってはいるが、顔色はあまり良くない。頬《ほお》から顎《あご》にかけて、毛細血管がちりちりと浮いている。暑いのに、かなりくたびれたレインコートを着ている。五郎は訊《たず》ねた。 「映画というと、やはり、ブルーフィルムか何か——」 「冗談じゃないですよ。そんな男に僕が見えますか?」  その時|傍《そば》の窓ガラスの面に、音もなく黒い斑点《はんてん》が出来た。つづいて二つ、三つ。翼を流れるものが、風向きの関係か何かで、粒のまま窓ガラスにまっすぐ飛んで来るらしい。爆音のため聞えないけれども、粒はヤッと懸声《かけごえ》をかけて、飛びついて来るように見えた。二人は黙ってそれを眺めていた。やがて最後尾から、スチュワーデスが気付いたらしく、急ぎ足で近づいていた。丹尾は顔を上げて訊ねた。 「これ、何だね?」 「潤滑油、のようですね」 「このままで、いいのかい?」  スチュワーデスは返事をしなかった。じっとエンジンの方を見詰めていた。その真剣な横顔に、五郎はふと魅力を感じた。やがてエンジンの形も見にくくなった。黒い飛沫《ひまつ》が窓ガラスの半分ぐらいをおおってしまったのである。斜めうしろの乗客たちも、異変に気付いて、ざわめき始めた。  スチュワーデスは何も言わないで、足早に前方に歩いた。操縦席の中に入って行った。その脚や揺れる腰を、五郎はじっと見ていた。病院のことがよみがえって来た。 〈今頃騒いでいるだろうな〉  五郎は病室を想像しながら、そう思った。病室には彼を入れて、四人の患者がいた、それに付添婦が二人。騒ぎ出すのはまず付添婦だろう。患者たちは会話や勝負ごとはするけれども、お互いの身柄については責任を持たない。精神科病院だけれども、凶暴なのはいない。一番古顔は四十がらみの男で、電信柱から落っこちて頭をいためた。この男はもう直っているにもかかわらず、退院しない。会社の給料か保険かの関係で、入院している方が得なのだと、付添婦が教えてくれた。電信柱というあだ名がついている。 「図々《ずうずう》しい男だよ。この人は」 「うそだよ。そんなこたぁないよ」  その男はにやにやしながら弁明した。  その次は爺《じい》さん。チンドン屋に会うと、気持が変になって入って来る。何度も入って来るから、延時間にすればこちらの方が古顔ともいえる。もう一人は若い男。テンプラ屋の次男で、病名はアルコール中毒。皆おとなしい。 〈騒いでももう遅い。おれはあそこから数百里離れたところにいる〉  喫茶店でコーヒーを飲む前から、淀《よど》んで変化のない、喜びもない病室に戻りたくないという気分はあった。——  スチュワーデスが操縦室から、つかつかと出て来た。彼等に背をかがめて言った。 「もう直ぐ鹿児島空港ですから、このまま飛びます。御安心下さい」  そして次の客の方に歩いて行った。窓ガラスはほとんど油だらけになっていた。丹尾が言った。 「席を変えましょうか」 「そうだね」  五郎は素直に応じて、二人は通路の反対の座席に移動した。その方の窓ガラスは透明であった。突然雲が切れる。前方に海が見える。きらきらと光っていた。 「あんたはいくつです?」  座席バンドをしめながら、丹尾が言った。手が震えていると見え、なかなか入らなかった。 「ぼくは三十四です」 「四十五」  五郎は答えた。 「潤滑油って、燃えるものかね」 「ええ。燃えますよ。しかしよほどの熱を与えないと、燃えにくい。バンドはきつくしめといた方がいいですよ」  丹尾はポケットから洋酒の小瓶《こびん》を取出して栓《せん》をあけ、一気に半分ほどあおった。五郎に差出した。 「どうです?」  五郎は頭を振った。丹尾は瓶を引込め、ポケットにしまった。機は洋上に出た。 「こわいですか。顔色が悪い」 「いや。くたびれたんだろう」  こわくはなかったが、体のどこかが震えているのが判る。手や足でなく、内部のもの。気分と関係なく、何かが律動している。そんな感じがあった。  機は洋上に出た。速力がすこし鈍ったらしい。錦江湾《きんこうわん》の桜島をゆっくり半周して、高度を下げた。空港の滑走路がぐんぐん迫って来る。着地のショックが、高松や大分のとくらべて、かなり強く体に来た。しばらく滑走して、がたがたと停った。特別な形をしたトラックが二台、彼方《むこう》から全速で走って来るのが見える。五郎はバンドを外した。爆音がなくなって、急に機内の空気がざわざわと泡立《あわだ》って来た。  外は明るかった。南国なので、光線がつよいのだ。タラップを降りる時、瞼《まぶた》がちかちかと痛かった。近くで話している人々の声が、へんに遠くから聞える。耳がバカになったようだ。続いて丹尾が降りて来た。並んで待合室に入った。 「あんなこと、しょっちゅうあるんですか」  やや詰問的な口調で、丹尾は受付の女に言った。 「あんなことって、何でしょう?」 「あれを見なさい」  丹尾は滑走路をふり返った。しかし旅客機はそこになかった。乗客を全部おろした機体は、ゆるゆると引込線に移動しつつあった。丹尾はすこし拍子の抜けた表情になって言った。 「君に言ったって、しようのないことだが——」 「枕崎《まくらざき》の方に行くんですか?」  車で航空会社の事務所まで送られた。その前の食堂に入り、丹尾は酒を注文し、五郎はうどんを頼んだ。あまりきれいな食堂ではなかった。機上でサンドイッチを食べたので、食慾はほとんどない。 「そうだよ」  五郎はうどんを一筋つまんで、口に入れた。耳の具合はすでに直っていた。 「どうです。一杯」  空いた盃《さかずき》に丹尾は酒を注《つ》ぎ入れた。五郎は一口含んだ。特別のにおいと味が口の中に広がった。ごくんと飲み下して五郎は言った。 「これはただの酒じゃないね」 「芋焼酎《いもじようちゆう》ですよ。しかし割ってある」 「もう一杯くれ」  五郎は所望して、また味わってみた。 「ああ。これは戦争中、二、三度飲んだことがある。どこで飲んだのかな。思い出せない。もっと強かったような気がするが——」 「割らないで、生《き》で飲んだんでしょう」  丹尾はまた注いだ。盃は大ぶりで、縁もたっぷり厚かった。 「ぼくも枕崎に行こうかな」  丹尾はまっすぐ彼を見て言った。五郎の顔は瞬間ややこわばった。ごまかすために、またうどんを一筋つまんだ。 「なぜわたしについて来るんだね?」 「ついて行くんじゃない。あそこあたりから商売を始めようと思って」 「商売って、映画の?」  そろそろ警戒し始めながら、五郎は丸椅子をがたがたとずらした。 「そうですよ」  丹尾は手をたたいて、また酒を注文した。 「直営館なら問題はないけどね、田舎《いなか》には系統のない小屋があるでしょう。面白くて安けりゃ、どの社のでも買う。そこに売込みに行くわけだ。解説書やプログラムを持って、これはここ向きの作品だ。値段はいくらいくらだとね。すると向うは値切って来る。折合いがつけば、交渉成立です。そこがセールスマンの腕だ。各社の競争が烈《はげ》しいんですよ」 「いい商売だね」 「なぜ?」 「あちこち歩けてさ」  五郎は盃をあけながら答えた。 「わたしはこの一箇月余り、一つ部屋の中に閉じこもっていた。一歩も外に出なかったんだよ。いや。出なかったんじゃなく、出られなかったんだ」 「なぜ?」  丹尾はきつい眼付きになった。 「なぜって、そうなっているんだ。二階だったし——」  病室は二階にあったし、窓の外にはヒマラヤ杉がそびえて、外界をさえぎっていた。別に逃げ出す気持も理由もなかった。友人のはからいで、初めは個室に入ったが、入った日から睡眠《すいみん》治療が始まったらしい。日に三回、白い散薬を服《の》まされる。三日目に回診に来た医師が、五郎に聞いた。 「気分はどうですか。落着きましたか?」 「いいえ」  と五郎は答えた。 「まだ治療は始めないんですか?」  まだ憂鬱《ゆううつ》と悲哀の情緒が、彼の中に続いていた。牙《きば》をむいて、闘いを求めていた。情緒が彼に闘いを求めているのか、彼が闘いを求めているのか、明らかでなかった。その状況を半年ほど前から、五郎は気付いていた。ある友人と碁を打っている時、急に気分が悪くなった。何とも言えないイヤな気分になり、痙攣《けいれん》のようなものが、しきりに顔面を走る。それでも彼はしばらく我慢して、石をおろしていた。痙攣は去らなかった。彼は石を持ち上げて、そのまま畳にぼろりと落した。友人は驚いて顔を上げた。 「へんだぜ。顔色が悪いぞ」 「気分がおかしいんだ」  座布団《ざぶとん》を二つに折って横になった。やがて医者が来る。血圧がすこし高かった。根をつめて碁を打ったせいだろうと医師は言い、注射をして帰る。痙攣は間もなく治《おさま》った。それに似た発作が、それから何度か起きた。街歩きしている中に起きると、タクシーで早速《さつそく》帰宅する。タクシーがつかまらない時は、店にでも何でも飛び込んで休ませてもらう。しばらく安静にすると元に戻る。コップ酒をあおると回復が早いことを、五郎は間もなく知った。  いつ発作が起きるかという不安と緊張があった。常住ではなく、波のように時々押し寄せて来る。押し寄せるきっかけは、別にない。気分や体調と関係なくやって来た。すると五郎は酒を飲む。ベッドの中で、あるいはテレビを見ながら。ふっと気がつくと、考えていることは『死』であった。死といっても、死について哲学的省察をしているわけでない。自殺を考えているのでもない。ただぼんやりと死を考えているだけだ。酒を飲み、卓に肱《ひじ》をついて、歌を口遊《くちずさ》んでいる。よく出て来るのは、軍歌の一節であった。 「……北風寒き千早城《ちはやじよう》」  それにつづいて、 「楠公《なんこう》父子の真心に、鬼神もいかで泣かざらん」  楠公父子が『暗号符字』に、いつか彼の中ですり変えられている。暗号符字の真心に鬼神もいかで泣かざらん。彼は苦笑いとともに思う。これがおれの正体じゃないか。今まで不安を忘れたり、避けたりして、ごまかして来たんじゃないか。おれだけじゃなく、みんな。 「もう始まっていますよ。今日はすこし血を採りましょう」  医師がそう言った。注射管の中にたまる血の色を見ながら、五郎は同じようなことを考えていた。しかし幻覚のことは、どうなるのか? 「さあ。そろそろ出かけましょうか」  丹尾は盃を伏せて立ち上った。徳利の三分の一は、五郎が飲んだ。勘定は丹尾が払った。その勘定を払う手付き、札入れの厚さなどを、五郎はじっと見ていた。丹尾は腕時計をちらと見た。 「汽車の時間はどうかな。駅で待たせられるかな」 「おれは車で行くよ」  五郎はそっけなく答えた。 「待たせられるのは、いやだ」  五郎は先に外に出た。航空事務所の隣が、ハイヤーの営業所になっていた。そこに入って行った。空港から乗って来た車の運転手が、車体をぼろ布で掃除していた。五郎の姿を見て、細い眼で笑いかけた。 「枕崎まで行くかね」 「行きますよ。どうぞ」  運転手はドアをあけた。五郎は座席に腰をおろした。丹尾は店からまだ出て来ない。運転手が乗り込んで来た。 「一人ですか?」  うなずこうとしたとたん、のれんを分けて丹尾があたふたと出て来て、五郎の傍にころがり込んだ。 「ぼくも乗せてもらいますよ。汽車は時間的に都合が悪いらしい」  丹尾は運転手の横にトランクを投げ込んだ。運転手が答えた。 「あれは開通したばかりで、日に何本も出ないのです」  抑揚に訛《なま》りめいたものがあるが、一応標準語であった。運転手という職業の関係もあるが、ラジオやテレビのせいもあるらしい。さっきの空港の受付の女の口調もそうであった。 〈戻るのか〉  と五郎は思った。車はさっき乗って来た街衢《がいく》を、逆にしごいて走る。五郎は忙しく地図の形を頭に浮べていた。二十年前のここらは、すっかり爆撃にやられて、骨組みだけの建物と瓦礫《がれき》だけの町であった。電線は地に垂れ、水道栓が音を立てて水を吹き上げていた。人通りは——暗闇《くらやみ》で長いこと据え放しにしたカメラの影像のように、動かないものだけが残り、人間の姿は全然消失していた。今自動車が押し分けて行く風景は、人がぞろぞろと通り、建物も整然として、道はきちんと舗装してある。あの時も人通りはあったのだろう。しかしそれは五郎の印象に残っていない。廃墟《はいきよ》の姿だけだ。五郎は背をもたせたまま、窓に移る風物を眺《なが》めていた。 「さっきね、何か這《は》い出していると言いましたね」  丹尾が言った。 「ほんとにそう思ったんですか?」 「そう」 「ふしぎだとは思わなかったんですか?」 「ふしぎ? いや」  五郎は居心地悪く答えた。 「見違いかと思ってたんだ。君が気がついたから、見違いじゃないと判ったけれどね」  丹尾は黙っていた。 「もっともあそこから虫が這い出しても、ふしぎだとは思わない。世の中にそんなことは、ざらにあると思う」  車は市街を通り抜けた。しだいに家並がまばらになり、海岸通りに出た。桜島が青い海に浮び、頂上から白い煙をはいていた。 「ところで——」  五郎は視線を前路に戻しながら言った。 「君は東京から飛行機に乗ったのかね?」 「そうですよ。気がつかなかったんですか?」  丹尾は答えた。 「羽田からずっとあんたの横に坐っていましたよ。二度話しかけたけれど、あんたは返事しなかった」 「二度も?」 「ええ。初めは瀬戸内海の上空で、二度目は大分空港の待合室で。待合室では煙草の火を借りた。あんたは肩布をかけた代議士らしい男の方を見ていたね」 「ああ。そんなのがいたね。迎え人がたくさん来ていた。あれ、代議士か」 「そうでしょうね。大分からは、五人になってしまった」  待てよ、と五郎は考えた。五人ならもう座席指定でなく、どこにも腰かけられる筈《はず》だ。それなのに横の座席に執《しゆう》したのは、何故《なぜ》だろうか。 「たかが五人乗せて、商売になるもんですかねえ」 「わたしはぼんやりしてたんだ。久しぶりに娑婆《しやば》に出たんで、感覚が働かない。話しかけられても、聞えなかったんだよ。きっと」 「娑婆? するとあんたは——」  丹尾は言いにくそうに発音した。 「それまで留置場かどこかに、入ってたんだね」 「留置場?」  五郎は丹尾の顔を見た。 「留置場、じゃないさ。君は知っているんだろ」  丹尾は首を振った。 「何も知らないよ。ちょっと様子がへんなんで、注意していただけです。いけないですか?」  五郎は急に頭に痛みを覚えた。痛みというより、|たが《ヽヽ》のようなものでしめつけられるような感じであった。彼は両手をこめかみに当てて、揉《も》みほぐすような仕種《しぐさ》をした。痛みは三十秒ほどでおさまった。 「ひどく頭が痛いことがありますか?」  入院する前に医師が訊ねたことがある。その医者は三田村(碁を打っていた友人だ)の知己で、彼に伴われて私宅を訪《たず》ねたのである。面談した応接間はこぢんまりして、壁には風景画がかけられ、隅《すみ》の卓には花が飾られていた。壁は布張りで、特殊の加工がしてあるらしく、声は壁に吸い取られて反響がなかった。 「いいえ」  五郎は答えた。 「痛くはないけれど、悲しいような憂鬱な感じがあるんです」 「ずっと続けてですか?」 「いえ。続けてじゃない。時々強く浪のように盛り上って来るのです。いや、やはり続いているのかな」  五郎は首をかしげて、ぽつりぽつりと発言した。 「漠然《ばくぜん》とした不安感がありましてね、外出するのがいやになる。顔が震えそうだし、皆がぼくを見張っているようで、うちに閉じこもってばかりいます」 「閉じこもって、何をしているんですか」 「寝ころんで本を読んだり、テレビを見たり、歌をうたったり——」 「歌を?」  医者は手帳を出して、何か書き込んだ。 「どんな本を読むんです?」 「おもに旅行記とか週刊誌のたぐいです。むずかしいのはだめですね」 「旅行記ね」  医者は探るような眼をした。 「テレビはあまり見ない方がいいですよ。眼が疲れるから。眼が疲れると、精神もいらいらして疲れます」 「そうですか。そう見たくもないんです」  五郎はテレビを見る。おかしい場面が出て来る。五郎は笑わない。おかしくないからだ。感情が動かないのではない。むしろ動きやすくなっているのだが、それは悲哀の方にであって、笑いの方には鈍麻している。五郎から笑いはなくなった。妙に涙もろくなって来た。テレビはスタジオから電波で送られ、映像となる。そう頭では判っているが、実感としては|そらごと《ヽヽヽヽ》としか思えない。影が動いているだけじゃないか。耐えがたくなってスイッチを切り、酒を飲む。そして歌をうたう。三田村が傍から口を出した。 「幻覚があるんじゃないか」 「幻覚? テレビのことか?」 「いや。ブザーのことだ」 「ブザーのことって、何ですか?」  医者が質問した。 「いや。時々、時ならぬ時に、玄関のブザーが鳴るのです。出て行っても誰もいない」 「時ならぬ時というと?」 「真夜中なんかです。どうも誰かがいたずらをするらしい」  五郎は幻覚のことを、たとえばブザーのことや壁に這う蟻《あり》のことを、あまり語りたくなかった。自分は正常である。その方に話を持って行きたかった。医師の門をくぐるのと、それは矛盾しているようであったが、本能的な自己|防禦《ぼうぎよ》が働く。自分の症状を軽く見せたいという気持が強かった。  それにもう一つの疑念があった。 〈この男は贋医者《にせいしや》じゃないのか〉  実際に病院の中で、白い診察衣を着て、聴診器でも持っていれば、一応信用出来る。でも今の場合、この医者は和服を着て、ゆったりとソファに腰をおろしている。医者らしくない。医者であるという証拠は、何もない。ここに来るまでは、医者の家に行くんだと思っていたが、応接間で応対している中に、その疑念がきざし、だんだんふくれ上ってくる。 〈あなたはほんものの医者ですか?〉  と聞きたい衝動が起きる。しかしもしほんものだった場合、こちらがほんものの気違いだと思われるおそれがある。それではまずいので言葉にしない。  医者の質問はなおも続いた。そして結論みたいに言った。 「やはり抑圧があるようですな」 「抑圧と言いますと?」 「いろんなものが、重いものが、頭にかぶさっているのです。それを取除かねばならない」 「重いものがね」  美容院の前を通ると、女たちが白い兜《かぶと》のようなドライヤーをかぶっている。五郎はすぐにそれを連想した。 「ああ。つまり脱げばいいんですね」 「まあそういうことです」 「なるほど。しかし——」  兜をかぶっているのが常人で、今のおれの場合は兜を脱ぎ捨てた状態じゃないのか。頭がむき出しになっているから、普通人が持たない感覚を持ち、感じないものを感じているのではないか。生きているつらさが、直接|肌身《はだみ》に迫って来るのではないか。その点おれが正常人の筈だ。瞬間そう考えたけれども、五郎は口に出さなかった。 「健康と不健康との境目は——」 「健康といいますとね、緊張と弛緩《しかん》、亢奮《こうふん》と抑制などのバランスがとれている状態です」  医者は自信ありげに、煙草に火をつけた。 「大体人間というものはね、自分の心の尺度をもって物事をおしはかるもんです。疲れた時の心に写る世界と、活気に充ちた時のでは、同じ対象に接しても、まったく感じ方が異なるんですな。それにまたその人の性格がからんで来る。ますます複雑になって来るんですよ」 「すると抑圧をとるには?」 「いろいろ方法があるわけですね。電気ショックとか持続睡眠療法とか——」 「電気ショック?」  五郎は思わず声を高くした。 「やはり椅子に腰かけてやるんですか?」 「死刑台じゃないんだよ」  三田村が横から口を出して笑った。 「こいつはね、電気をこわがるんだ。昔から」 「いや。こわいとか、こわくないとかは、関係がない」  五郎は抗弁した。 「電流は体には作用する。しかし、心や感情に作用するかどうか——」 「じゃ酒はどうだね。酒はただの物質だが、感情を左右するよ」 「では睡眠療法の方がいいでしょう」  医者は煙草を揉《も》み消しながら、とりなすように言った。 「いつでもいいですよ。病室の用意をしておきます」 「様子がへんかね?」  五郎は丹尾に言った。ハイヤーは海岸道から折れて、山間に入っていた。折れたところから道がでこぼこになり、車は揺れた。 「どんな風にへんなのか」 「ええ。足がふらふらしているようだし、初めは酔っぱらってるのかと思いましたよ。話しかけても返事をしないしね」 「ああ。まだ薬が体に残ってんだ。それにしばらく歩かなかったもんだから、足がもつれる」 「病院ですか。留置場じゃなかったのか?」 「うん、病院で寝ていた。睡眠剤を服《の》んでね」  丹尾はしばらくして言った。 「自殺をくわだてたんですか?」 「いや。病院に入ってから、毎日服んだ。治療のために服まされたんだ。毎日のことだから、だんだん蓄積して、酩酊《めいてい》状態になるんだね」  さっき飲んだ焼酎《しようちゆう》が、車体の震動につれて、体のすみずみまで廻って来る。しゃべり過ぎると思いながら、五郎はしゃべっていた。 「なぜ酩酊させるんですか?」 「不安や緊張を取除くためさ」 「なるほど。酔っぱらうと、そんなのがなくなるね」  丹尾は合点合点をした。 「それでもう醒《さ》めたんですか?」  五郎は首を振った。睡眠薬の供給は中止されたと、五郎は思う。白い散薬、ズルフォナールという名だが、それが全然来なくなった。しかし服用中の昏迷《こんめい》状態は、だんだん弱まりながらも続いているようだ。退院しても半年ぐらいは正常に戻らないだろうと、医者も言っていた。しかもまだ正式に退院したわけではない。途中でふっと飛び出して来たのだ。朝そっと背広に着換えていた時、大正エビが彼に言った。大正エビというのは、テンプラ屋の息子のあだ名である。 「どうかしたんですか?」 「いや。何でもない」  五郎はネクタイを結ぼうと努力しながら答えた。ネクタイの結び方を忘れて、すぐにずっこける。抑圧がとれると、物忘れしやすくなるのだ。と同時に、色情的になる。酔っぱらいが酒場で醜態を見せると同じことだ。その点ではズルフォナールは酒よりも強く作用する。やっとネクタイが結べて、彼は脱出した。 「いや。まだ醒めていないんだ」  五郎は丹尾に答えた。 「しかし不安や緊張は幾分解けたようだ。飛行機に乗る時、気分がへんになりやしないかと思ったんだが、別にその徴候はなかったね」  飛行中はぼんやりした無為しかなかった。潤滑油が洩《も》れ始めた時も、不安も驚愕《きようがく》もなかった。この旅客機に乗っている目的は自分にも判っているつもりだったが、それが墜《お》ちるとか炎上するという実感は全然なかった。 「へんな病院ですね」  丹尾がいった。 「そんな療法、聞いたことがない。どこの病院です?」 「もうここらが知覧《ちらん》です」  運転手がぽつんと言った。 「葉煙草の産地でね、昔は陸軍特攻隊の基地でした」  それきり会話が跡絶《とだ》えて、車内はしんとなった。丹尾は洋酒の小瓶《こびん》をポケットから出して、残りを一息にあおった。窓ガラスをあけて、道端にぽいと放る。ちらと見た丹尾の掌《てのひら》は異常に赤かった。 「ぼくは昔、戦時中に知覧に来たことがある」  レインコートの袖《そで》で口を拭《ふ》きながら、丹尾は誰にともなくいった。 「おやじと兄嫁に連れられてね」 「なぜ知覧に来たのかね?」  五郎は訊ねた。 「兵隊としてか?」 「いえ。兄貴がね、飛行機乗りとして、ここにいた。別れを告げに来たのさ」  丹尾は眼を据えて、窓外の景色を眺めていた。いぶかしげに言った。 「運転手君。これが飛行場か?」  舗装されたかなり広い道が、まっすぐに伸びている。両側は一面の畠で、陽光がうらうらと射《さ》し、遠くに豆粒ほどの人々が働いていた。 「ええ。そうです」  運転手は車を徐行させながら答えた。 「この道が昔の滑走路だったそうですよ。私は戦争中のことは知らないが」 「もっともうっと広かった。畠などなかった」  丹尾は両手を拡げた。あまり拡げ過ぎたために、丹尾の右腕は五郎の胸に触れ、圧迫した。それから両手を元におさめた。 「こんな畠なんか、なかった。一面の平地だった!」  丹尾の声は怒っているように聞えた。五郎も漠《ばく》たる平蕪《へいぶ》や並んでいる模型じみた飛行機が想像出来た。それは古ぼけたフィルムのように、色褪《いろあ》せている。しかし丹尾の風貌《ふうぼう》を、うまくそこにはめ込むことが出来なかった。やがて五郎は言った。 「その時、君はいくつだった?」 「十三、いや、十四だった」 「義姉《ねえ》さんはきれいなひとだっただろう」  まだ若い、化粧もしない顔、もんぺに包まれたすべすべした姿体、それだけが幻の風景の中に動いて、五郎の内部の病的な情念を刺戟《しげき》した。丹尾はそれに答えず、運転手に声をかけた。 「ちょっとここらで停《と》めてくれないか」  車が停って、二人は降りた。つづいて運転手も。丹尾は掌をかざして、あちこちを見廻した。やがてカメラを取出した。映画などで見た特攻隊の若い未亡人の姿を想像しながら、五郎は訊ねた。 「その時義姉さんは、いくつだった?」  病院の二階の突き当りに、付添婦たちの詰所があり、炊事所や粗末な寝所があった。その手前に梯子段《はしごだん》があって、物干台に通じている。五郎が入院して一週間後、梯子を登ろうとすると、台上に二人の姿が見えた。一人は大正エビで、片手を頬《ほお》に当てて泣いていた。夕方なので、逆光の中の輪郭だけが見える。二重に見える。大正エビをなぐさめているのは、看護婦であった。すすり泣きは断続して聞えて来たが、会話の内容は判らなかった。五郎は高い台での展望を求めて来たのだが、段の途中で足が動かなくなる。なぜ大正エビが泣いているのか。家に戻りたいとでも言っているのか。  逆光線のために看護婦の白衣が透けて、体の形が見えた。女体の輪郭が黒く浮き上っている。それが突然五郎の情感をこすり上げる。眺めるのに絶好の位置だったし、女が体躯《たいく》を動かすにつれて、肉や皮膚のすれ合いが、自分自身の感触のようになまなましく感じられた。そういう情の動きは、この一年ほどの間、全然五郎にはなかった。 〈これだな。医者が言ってたのは〉  抑圧がとれると、押えたものが露出して来る。入院して日が浅いから、どの看護婦か判らない。五郎は気持を押えようとした。医者の予言した通りに、あるいは薬の言うままになってたまるか! 入院の時から、五郎は心の片隅《かたすみ》で決心していたのだ。 〈おれはそこらの人間とは違う。ふつうの人間と同じ反応は示してやらないぞ!〉  五郎は力んでいた。無用の力みで入院して来た。やがて気持をもて余しながらも、ねじ伏せるようにして、そろそろと梯子段を降りた。部屋に戻ると、古い週刊誌を読んでいた中年の付添婦が、五郎の顔を見て言った。 「どうしたんです。眼がへんですよ」 「今朝《けさ》からものが二重に見えるんだ」  五郎はベッドにもぐり込みながら答えた。 「お薬のせいですよ」  付添婦はふつうの声で言った。 「もっとちらちらして来ますよ」  五郎は毛布を額まで引き上げて、眼をつむっていた。欲情と嫉妬《しつと》が、しきりに胸に突き上げて来た。彼は毛布の耳をつかみながら、低くうめいた。瞬間、彼は涜《けが》れた。——その後もっとひどいことがあった。ほとんど昏迷の域にあったので、詳細の記憶はない。—— 「ぼくの写真をとってくれませんか」  畠を背景にして立って、丹尾はカメラを五郎に手渡した。 「ただそのポッチを押せばいいんです」  五郎はカメラを眼に持って行き、ファインダーの真中に丹尾の姿を置いた。そして姿を片隅にずらした。ポッチを押す。丹尾の顔の半分と、広漠たる畠が写ったと思う。それから位置をかえて三枚とる。丹尾はあまり面白くなさそうにカメラを取り戻した。 「あんたも写して上げよう」 「御免だね」  五郎ははっきりと断った。 「こんなとこで写してもらいたくない。君はこんなとこを写して、どうするんだ?」 「兄貴にやるんですよ」 「兄貴? 生きているのかい?」 「ええ」  丹尾が先に車に這《は》い込んだ。 「何だか運よく他の基地に廻されてね、その中戦争が終ってしまった。今は武生でペンキ屋をやっています」  車が動き出した。特攻隊からペンキ屋か。ふん、という気持がある。でも誰にもそれをとがめ立てする権利はない。そうと知ってはいるが、五郎はかすかに舌打ちをした。 「幸福かね?」  ぎょっとしたように、丹尾は五郎の方を見た。 「幸福に見えますか?」  丹尾は表情を歪《ゆが》めていた。 「一箇月前にね、妻子を交通事故でうしなってしまった。都電の安全地帯にいたのに、トラックの端っこが引っかけたんだ」  丹尾は笑おうとしたが、声が震えて笑いにはならなかった。 「それで元のもくあみさ。以来酒びたりだよ。それで会社に頼んで、本社勤めをやめ、南九州のセールスマンに廻してもらった。いや。廻されたんだ。なぜぼくが羽田で、あんたに興味を持ったか、知らせてやろうか?」 「誰のことを言ってんだね?」 「あんたのことさ。あんたは自殺をする気じゃなかったのかい?」 「おれが?」  五郎は座席の隅に身体を押しつけた。丹尾の眼は凶暴に血走っていた。 「そんな風に見えたのか」  しばらく五郎は丹尾の眼を見返していた。 「おれは自殺しようとは全然思っていない。おれとは関係がない何かを確めようと思ってはいるけどね。しかし、奥さんを死なしたのは、君のことか?」  丹尾は怪訝《けげん》な表情になった。 「ぼくのことじゃなかったのか?」 「そうだよ。君のことなんか聞いてやしない」  五郎は警戒の姿勢を解かなかった。他人の気分に巻き込まれるのは、今のところ心が重かった。 「武生のペンキ屋さんのことだ」 「ああ。あれか」  がっくりと肩を落した。 「あれは幸福ですよ。兄嫁との間に四人も子供をつくってさ。しかし兄貴が幸福であろうとなかろうと、今のぼくには関係ない」 「誰だって他の人とは関係ないさ」  五郎はなぐさめるように言った。四人も子供を産んだ中年の女を考えたが、索漠として想像までには結ばなかった。 「他の人と何か関係があると思い込む。そこから誤解が始まるんだ」  運転手は会話を耳にしているのかどうか、黙ってハンドルを動かしている。赤い両掌で丹尾は顔をおおった。十分ほどそうしていた。五郎は窓外を眺めていた。丹尾は掌を離した。 「鹿児島一円を廻ったら、熊本に行く。阿蘇《あそ》に登るつもりです」 「阿蘇にも映画館があるのかい?」 「阿蘇にはありませんよ。山だから」  丹尾は言った。 「あんな雄大な風景を見たら、ぼくの気分も変るかも知れない。そうぼくは思う」 「うまく行けばいいがね」  枕崎で車を降りた。五郎は空腹を感じた。機上食と、鹿児島でうどんを少量。口にしたのはそれだけで、車で長いこと揺られて来た。日はまだ高い。経度の関係で、日没は東京より一時間ほど遅いのだ。しかし空腹はそのためだけでない。病院の安静の一日と違って、今日は大幅に動き廻った。何か食べましょうや、と丹尾は話しかけた。さっきの激情から、やっと自分を取戻したらしい。 「宿屋の飯を食うほど、ばかげたことはない。それがセールスマンの心がけですよ」  トランクを提《さ》げて、先に歩き出した。後姿はずんぐりして、いかにもこのなまぐさい街の風物にぴったりだ。トランクだけが独立した生物のように上下動する。 〈SN氏のトランク、か〉  五郎の頬に隠微な笑いが上って来る。何もかも間違いだらけだ。おれも、あのトランクも、ここに来るべきじゃなかったのではないか。しかしすぐに笑いは消えてしまう。  今まで車で眺めて来たいくつかの小部落は、緑の樹々の間に沈んでいた。小川がそばを流れていた。今見る枕崎の街は、ほとんど木がない。むき出しにした木造家屋だけである。かろうじて柳の街路樹があるが、幹の太さが手首ぐらいで、潮風にいためられてか葉もしなびている。ふり返ると町並の向うに、開聞岳《かいもんだけ》の山容が見える。魚の臭《にお》いでいっぱいだ。庭内にむしろを敷いて、一面に茶褐色《ちやかつしよく》の鰹節《かつおぶし》を干した家がある。そのそばに猫が丸くなって眠っている。バー。パチンコ屋。食堂。特製チャンポン。空気は湿っていた。 「ここに入ろうよ」  食堂に入る。チャンポンと割焼酎を注文する。焼酎の方が先に来た。 「割焼酎というのはね」  丹尾が五郎の盃《さかずき》に注いだ。盃というより、小ぶりの湯呑《ゆの》みに近い。黒褐色の厚手のやきものだ。 「水で割るんじゃない」 「何で割るのかね?」 「清酒。いや、合成酒でしょう。水で割ると、かえってにおいが鼻につく」  つまみの塩辛《しおから》を掌に受けて、丹尾は焼酎とともに口に放り込む。盃を傾けながら、五郎はその赤い掌を見ていた。 「君。肝臓が相当いかれているようだね」 「そうですか」  丹尾は平気な顔で答えた。 「そうでしょうな。あれから毎日酒ばかりで、アル中気味だ」 「酒で悲しさが減るかい?」 「いや。やはりだめだね。やけをおこして、いっそのこと死のうかと思うけれど——」  チャンポンが来た。丹尾は箸《はし》を割って、先をこすり合わせた。 「さっき飛行機で、油が流れ始めたでしょう。ぎょっとしたね。あの航空機はあぶないんでね」 「あぶないことは知ってたんだろ」 「知ってたよ。墜落するかも知れない。墜落したらしたで、それもいいじゃないか。そう思って乗ったんですが、やはりだめだ。こわかったね。だからぼくはあんたに名刺を渡した」 「名刺をね。どうして?」 「海に墜《お》ちて、死体が流れて判らなくなってしまう。あんたの死体だけでも見付かりゃ、ぼくの名刺を持っているから、ぼくが乗っていたことが判る」  五郎はポケットから丹尾の名刺を出して、裏表を眺めた。 「判ってどうなるんだ?」 「あとで考えてみると、どうもなりゃしない。恐怖で動転してたんだね。あんたはほんとにこわくなかったんですか?」  五郎はしばらく返事をしなかった。チャンポンの具のイカの脚をつまんで食べていた。イカは新鮮で、しこしこしてうまかった。 「こわくはなかった。いや、こわいということは感じなかった。第一墜ちることを、考えもしなかった。ぼんやりしてたんだな」 「そうですか」  丹尾はまた盃をあおった。 「あんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」 「そりゃ君と関係ないことだよ」  彼はつっぱねて、チャンポンに箸をつけた。豚脂《ぶたあぶら》をふんだんに使って、ぎとぎとし過ぎていたけれども、空腹には案外うまかった。二十年前は物資が乏しく、こんな店もなかったし、鰹節も干してなかった。貧寒な漁村であった。しかし彼はその頃鮮烈な生のまっただ中にいた。丹尾も箸を動かしながら言った。 「今日はここに泊るんでしょう」 「多分ね」 「ぼくと同宿しませんか」  丹尾は五郎を上目で見た。 「立神館という宿屋があった。あれがよさそうです。出ましょうか」  丹尾はチャンポンを、半分ほど食べ残し、立ち上った。 「ぼくはその前に、映画館を一廻りして来ます。あんたは?」 「そうだな」  五郎は答えた。 「海でも見て来ようかな。いや、その前に床屋にでも——」  五郎はそう言いながら、丹尾の顔を見た。 「君もその鼻髭《はなひげ》、剃《そ》ったらどうだい。あまり似合わないよ」 「あの日から剃らないんですよ」  左の人差指でチョビ髭をなで、丹尾は沈んだ声で言った。 「髭を立てたんじゃない。その部分だけ剃らなかっただけだ。記念というわけじゃないけどね」    白い花  床屋に行く気持は、初めから全然なかった。丹尾の後姿がかなたに遠ざかると、五郎は身をひるがえして酒屋に入り、万一の用にそなえて、酒の二合|瓶《びん》と紙コップを買う。途中で発作がおきると困るのだ。それからバスの発着場に歩き、休憩中の女車掌に声をかけた。 「坊に行くには、たしかあの道を、まっすぐ行けばいいんだね」 「はい。一筋道です」  車掌は壁時計を見上げた。 「あと二十五分でバスが出ます」  五郎も見上げてうなずいた。そしてそこらを五、六歩動き廻って外に出た。何気ないふりで、バス道を歩く。すこしずつ急ぎ足になった。 〈誰かがおれを追っている〉  そんな感じが背中にある。その〈誰〉には実体がなかった。入院の前に、外出すると、いつもその感じにとらわれ、振向き振向きしながら歩いた。その時にくらべると、感じとしては淡いけれども、つけられている気配はたしかにある。  家並の切れる頃から、人通りはだんだん少くなって来た。おおかたはバスを利用するのであろう。道に沿って、ぽつんぽつんと農家がある。納屋《なや》の土床で子供が遊んでいたり、跣《はだし》の農婦とすれ違ったりする。ふと振り返ると、農婦が足をとめて、じっとこちらを見詰めている。道はだんだん上り坂になる。 〈おれを見張っているのではない〉  五郎は自分に言い聞かせる。不精髭を生やした背広姿の男が、バスにも乗らず、酒瓶を提《さ》げて歩いている。それを異様に思っているに違いない。  やがて小さなバスが砂煙を立てて、五郎を追い越した。彼は切通しの崖《がけ》にくっつき、顔をかくしていた。おそらく乗っていたのは、先刻の女車掌だろう。それに顔を見せたくなかった。砂塵《さじん》がおさまって、五郎はまた歩き出した。バス代を惜しんだわけではない。この道は、彼にとって、足で歩かねばならなかったのだ。しだいに呼吸が荒くなる。  忽然《こつぜん》として、視界がぱっと開けた。左側の下に海が見える。すさまじい青さで広がっている。右側はそそり立つ急坂となり、雑木雑草が茂っている。その間を白い道が、曲りながら一筋通っている。甘美な衝撃と感動が、一瞬五郎の全身をつらぬいた。 「あ!」  彼は思わず立ちすくんだ。 「これだ。これだったんだな」  数年前、五郎は信州に旅行したことがある。貸馬に乗って、ある高原を横断した時、視界の悪い山径《やまみち》から、突然ひらけた場所に出た。そこは右側が草山になり、左側は低く谷底となり、盆地がひろがり、彼方《むこう》に小さな湖が見える。 〈何時《いつ》か、どこかで、こんなところを通ったことがある〉  頭のしびれるような恍惚《こうこつ》を感じながら、彼はその時思った。場所はどこだか判らない。おそらく子供の時だろう。少年の時にこんな風景の中を通り、何かの理由で感動した。五郎の故郷には、これに似た地形がいくつかある。その体験がよみがえったのだと、恍惚がおさまって彼は考えたのだが—— 「そうじゃない。ここだったのだ」  五郎は海に面した路肩《ろかた》に腰をおろし、紙コップに酒を充《み》たした。信州の場合とくらべると、山と谷底の関係は逆になっている。それは当然なのだ。二十年前の夏、五郎は坊津《ぼうのつ》を出発して、枕崎へ歩いた。枕崎から坊津行きでは、風景が逆になる。五郎は紙コップの酒を一口含んだ。 「ああ。あの時は嬉《うれ》しかったなあ。あらゆるものから解放されて、この峠にさしかかった時は、気が遠くなるようだった」  その頃もバスはあったが、木炭燃料の不足のために、日に一度か二度しか往復していなかった。坊津の海軍基地が解散したのは、八月二十日頃かと思う。五郎はまだ二十五歳。体力も気力も充実していた。重い衣嚢《いのう》をかついで、この峠にたどりついた時、海が一面にひらけ、真昼の陽《ひ》にきらきらと光り、遠くに竹島、硫黄島《いおうじま》、黒島がかすんで見えた。体が無限にふくれ上って行くような解放が、初めて実感として彼にやって来たのだ。 〈なぜこの風景を、おれは忘れてしまったんだろう〉  感動と恍惚のこの原型を、意識からうしなっていた。いや、うしなったのではない。いつの間にか意識の底に沈んでしまったのだろう。今朝コーヒーを飲んだ時、突如として坊津行きを思い立ったのではない。ずっと前から、意識の底のものが、五郎をそそのかしていたのだ。それを今五郎はやっと悟った。彼はコップの残りをあおって、立ち上った。  しばらく歩く。  やっと風景が切れ、林の中に入る。道はだんだん下り坂になる。すこし疲れが出て来た。一杯の酒のために、体を動かすことがもの憂くなって来た。高揚された気分が、しだいに重苦しく沈んで来る。彼は低い声で、かつての軍歌を口遊《くちずさ》んでいた。歌おうという意志はなく、自然に口に出て来た。 『天にあふるるその誠 地にみなぎれるその正義 暗号符字のまごつきに 鬼神もいかで泣かざらむ』  替歌をつくったのは、福という名の兵長である。福は奄美大島《あまみおおしま》の出身だが、昭和十八年に一家は沖縄島《おきなわとう》に移住をした。才気のある男で、いろいろと替歌をつくった。この歌も、 〈天にあふるるこの錯誤。仁にみなぎれるその戦死……〉  天《てん》も仁《に》も暗号書の名で、天は普通暗号、仁は人事に関する暗号である。しかし五郎の口にのぼって来るのは〈暗号符字のまごつきに〉という部分だけであって、あとは元歌通りだ。五郎は暗号の下士官で、福は彼の部下であった。この替歌をつくった数日後、福は死んだ。  やがて家がぽつぽつと見え始めたと思うと、その屋根のかなたに海の色があった。さきほどの広闊《こうかつ》とした海でなく、湾であり入江である。その入江を抱《いだ》く左手の山から、鴉《からす》の声が聞えて来る。それも一羽ではなく、数十数百羽の鴉が、空に飛び交《か》いながら鳴いていた。  ——冥府《めいふ》。  町に足を踏み入れながら、ふっとそんな言葉が浮んで来た。湾に沿った一筋町である。家々の屋根は総じて低い。昔は島津藩の密貿易の港であったので、展望のきく建物は禁じられていた。その風習が今でも残っている。戦災にはあわなかったせいで、町のたたずまいは古ぼけている。彼はふと戸惑う。 〈これがおれの軍務に服していた町なのか?〉  五郎はこの基地に、三週間ほどしかいなかった。吹上浜《ふきあげはま》のある基地からここに移って来て、すぐに戦いは終ったのである。今見る町の様相は、見覚えがあるようでもあったし、ないようでもあった。しかし五郎はたしかにここにいたのだ。二十年前、気力も体力も充実した青年として、ひりひりと生を感じながら生きていた。今は蓬髪《ほうはつ》の、病んだ精神のうらぶれた中年男として、町を歩いている。彼は眼をあちこちに動かしながら、浦島太郎の歌を考えていた。  ——道に行き交う人々は、名をも知らない者ばかり。  頭に荷物を乗せた女が通る。女学生、小学生が通る。長い釣竿《つりざお》をかついだ男が通る。夕方になったので、磯釣《いそづ》りを終った土地の男だろう。芭蕉《ばしよう》、フェニックスが生えている。町を通り抜けると、まただらだら坂となる。高くなるにつれて、風景はいよいよ鮮明に立体化して来る。湾内に小島がいくつか見える。島々のために港の入口がせまい。大きな船は出入り出来ない。しかし水路の複雑さのために、密貿易には好適の港だったのだろう。五郎は足を止めた。そして道から斜面に降りて行く。首を傾けた。 〈たしかここらに松林があった筈《はず》だが——〉  あの頃松林の中に、海軍航空用一号アルコールのドラム罐《かん》が、三十本ぐらい転《ころ》がっていた。隠匿されていたのだ。松林なので空からは見えない。ここに来た二、三日後、そのドラム罐のひとつに小さな穴があいていることを、福兵長が発見した。そして五郎に報告した。五郎は笑いながら言った。 「お前があけたんだろう」 「冗談でしょう」  福も笑いながら答えた。 「自然にあいたんです」 「それ、飲めるのかい?」 「ええ、原料はたしか芋です。水で割れば多分飲めますよ」 「そうか。飲みに行くか」  五郎は福兵長と、興梠《こうろぎ》という酒好きの二等|兵曹《へいそう》をつれて、しばしば宿舎を抜け出て、酒宴を開いた。アルミの食器に一号アルコールを半分ほど入れ、マッチで火をつける。アルコールの毒性は上澄みにあるというのが、宮崎県出身の興梠二曹の説で、いい加減燃えると吹き消し、水で割る。味もにおいもない。ただ酔うだけである。肴《さかな》が必要だったが、そこはうまいこと烹炊所《ほうすいじよ》にわたりをつけて、罐詰などをもらって来る。味はないが、意外に強く、すぐに酔いが廻った。  もちろん航空用のアルコールを飲むのは、不逞《ふてい》の仕業であり、見付かれば懲罰ものであった。だから宴は夜に限られていた。 〈あれはどこに行ったのか?〉  十本ばかりの木がばらばら生えているだけで、昔の松林の面影はほとんどない。その木に交って、白い大きな花をぶら下げた、南国風の木がある。その花の名は忘れたが、色や形にはたしかに見覚えがあった。日はすでに入り、あたり一面は黄昏《たそがれ》である。その花は、冥府の花のように、白く垂れ下っていた。彼はその木に近づき、指で花びらをさわってみた。花はゆらゆらと揺れた。声がした。 「こんばんは」  五郎は道を見上げた。道には女が立っていた。軽装で、手に団扇《うちわ》を持っている。ちょっと涼みに出たという恰好《かつこう》であった。 「こんばんは」  五郎もあいさつを返した。女はスカートの裾《すそ》を押えるようにして、斜面を降りて来た。 「何をしているの?」  女は人慣れた口調で言った。香料のにおいがただよった。 「さっきから見てたんですよ。あなたはここの人じゃないね」  五郎はうなずいた。 「遠くからやって来たんだよ。時にこの花、何という名前だったかな」 「ダチュラ」  女はすぐに答えた。唇《くちびる》には濃めに口紅を塗ってある。商売女かな、と彼は一瞬考えた。 「原名は、エンゼルズトランペット」 「エンゼルズトランペット?」  五郎は花に視線を据えて、考え込む顔付きになった。入院前に読んだ旅行記、たしか北杜夫《きたもりお》という作家の種子島《たねがしま》紀行の一節に、 『ダスラ(この土地ではゼンソクタバコと呼ぶ)の白い花などが目につく』  と書いてあったと思う。 「ダスラじゃないのかね?」 「いいえ。ダチュラ」  五郎はまだ考えていた。口の中で言ってみた。 「エンゼルズトランペット」 「ゼンソクタバコ」  音《おん》が似ているじゃないか。彼はもう一度、二つの言葉を発音してみた。たしかに舌の廻り具合が似ている。ゼンソクタバコの方が、原音から訛《なま》ったのだろう。 「なにをぶつぶつ言ってるの?」 「いや。何でもない」 「遠くからあんたは、何のためにやって来たのよ?」  それは君と関係ないと、いつもならつっぱねる筈だが、時は黄昏だし、女の言葉や態度が開放的だったので、つい五郎は応じる気になった。 「まあ、見物かな」  五郎は湾の方を指差した。 「あの岩の島の名は、何だったかしら」 「双剣石よ」  二つの岩がするどくそそり立ち、大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた。その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。 「君はここの生れかい。戦時中、どこにいた?」 「ここにいました」 「じゃ戦争の終りに、この湾で溺《おぼ》れて死んだ水兵のことを、覚えてるかね。覚えてないだろうね」 「覚えてる。覚えているわ」  女は遠くを見る眼付きになった。 「あたしが小学校の五年の時だった。いや、国民学校だったわね。体は見なかったけれど、棺に入れて運ばれるのを見た。うちの校舎でお通夜《つや》があった筈よ」 「そうだ。その棺をかついだ一人が、おれだよ」 「まあ。あんたもあの時の海軍さん?」  五郎はうなずいた。女は五郎の頭から足まで、確めるように眺めた。 「あの棺の中に、このダチュラの花を、いっぱい詰めてやった。この花は摘むとすぐにしおれたけれど、匂《にお》いは強かった。棺の中で、いつまでも匂っていたよ」 「そういう花なのよ。これは」 「しかしなぜ死体を国民学校なんかに運んだんだろう」 「あそこはもともとお寺だったのよ。一乗寺と言ってね。明治の初めに廃寺になったの。その後に石造の仁王像《におうぞう》が二つ、海から引上げられて、校庭に並んでるわ」 「それは気が付かなかった。もっともここには三週間しかいなかったし、学校内に入ったのも、その時だけだからね。二十年ぶりにやって来ると、おれはまったく旅人だ」 「そうねえ。あの頃の海軍さんとは、とても見えないわ」  女は憐《あわ》れむような、また切ないような眼で、五郎を見た。 「でも、あたしも小学生じゃない。三十を過ぎちまった」 「君の家は、坊にあるのかね?」 「いいえ。泊《とまり》よ。あの峠を越えて向うの部落なの」  女はその方向を指した。 「谷崎潤一郎の『台所太平記』を読んだことがある?」 「いや」 「あそこに出て来る女中さんたちは、みんな泊の出身なのよ」 「ほう。女中さんの産地なのか?」 「あたしも行ったわ。学校を卒業して、すぐ東京へ」  女は両掌で自分の頬《ほお》をはさんだ。 「ある家に奉公して、そこの世話である男といっしょになって、それからその男と生活がいやになって——」 「戻って来たのか?」 「そう」  女は笑おうとしたが、声にはならなかった。 「一箇月前にね。出戻りというのは、どうも具合が悪くって。夕方になるとここに来て、ぶらぶらと時間をつぶしてるの。案内して上げましょうか」 「泊にかい?」 「いえ。小学校へよ。あなたはそんなことを確めに来たんじゃない? 二十年前の思い出なんかを」 「思い出?」  五郎ははき捨てるように言った。 「思い出なんてもんじゃない。そんな感傷は、おれは嫌《きら》いだよ。でも、折角のお申出だから、案内していただこうかな」 「ずいぶんもったいぶるわね」  今度は声に出して笑った。 「じゃ参りましょう」  五郎は女のうしろについて、道へ上った。夕焼が色褪《いろあ》せ、薄暗さがあちこちの隅にたまり始めている。しばらく歩くと石段があった。それを一歩一歩登る時、五郎は膝頭《ひざがしら》や踵《かかと》ににぶい痛みを感じた。石段を登りきると、校庭になる。石像が二つ、十|米《メートル》ほど離れて立っている。その間に一本の大樹がそびえている。その像も樹も、彼の記憶には全然なかった。五郎は言った。 「見覚えないな」 「これ、ミツギという樹なのよ」  女は説明した。 「あたしの小学校の時も、同じ大きさで、同じ形で立っていた。ずいぶん古くから生えてるわけね。何百年も」 「そうだろうな。別におれと関係ないことだけど」  五郎はその樹の下に腰をおろした。女も団扇を敷いて腰をおろす。さっきのダチュラの樹が眼下にあり、湾がそこからひろがっていた。彼は紙コップに酒を充たし、女の方に差出した。 「飲まないか」 「ええ。いただきます」  女は素直に受取った。五郎は指差した。 「あそこの林は、松の木がもっともっと生えていた。そしてアルコール罐が、いくつも転がっていたよ」 「そう。十年ぐらい前に切り倒して、キャンプ場にしたらしいの」  女は酒に口をつけた。 「ところがいっぺんあそこにキャンプを張った人は、翌年は絶対に来ないのよ」 「なぜ? 景色もいいし、水もきれいで泳げるのに」 「やぶ蚊が夜出て来て、チクチク刺すのよ」 「ああ。やぶ蚊か。おれたちもずいぶん刺された」 「おれたちって?」 「うん。暗くなるとあそこに行って、アルコールを水で割って、こっそり飲んだんだ。仲間三人だったけれど、福が一番強かった」 「福って、人の名?」 「そう。奄美大島出身の兵長でね。器用な男だった。芭蕉の葉で芭蕉扇をつくってくれた。それでばたばたあおぎながら、アルコールを飲んだ。皆若かったね。あの頃は」  五郎は酒瓶を直接口に持って行って、残りを飲み干し、崖下に瓶を放り投げた。 「死んだ水兵というのは、福のことだよ」 「そうなの」  女もコップ酒を飲み干した。 「どうしてその人が溺れたの?」 「うん。アルコールを飲んだ揚句——」  五郎は指差した。 「あの双剣石まで、泳ごうとしたんだ」 「双剣石まで?」  わずかな明るさを背にして、双剣石はくろぐろとそびえ立っていた。それは墓標の形に似ていた。鴉声《あせい》は静まり、波の音だけがかすかに聞えて来る。  泳ごうと言い出したのは、福であった。どんなきっかけだか、五郎は覚えていない。泳ぎの話になった。福は自慢した。 「泳ぎならうまいですよ。今は沖縄だが、生れは奄美大島だからね。子供の時から水もぐりにゃ慣れている」 「お前んちは漁師なのかい?」 「漁師じゃないけれども、五キロや十キロぐらいなら、今でもらくに泳いで見せますよ」 「五キロなら、おれだって泳げそうだな」  五郎は答えた。五郎も海辺《うみべ》の町で育ったので、水泳には自信があった。 「じゃやりましょうか。あの双剣石まで」  五郎はアルコールを含みながら、その方角を見た。彼|等《ら》の宴の場所は、松林をすこし離れた大きな岩かげで、すぐ下から暗い海がひろがっている。時々思い出したように、しずかな波がやって来て、砂を洗う。海のところどころ、筋になったりかたまったり、ぼんやりと明るいのは、夜光虫のせいだろう。 「泳いでもいいな」  五郎は答えた。 「あそこまで六、七百米あるかな。一キロはない」 「やめなよ」  興梠《こうろぎ》二曹が傍《そば》から言った。 「泳いだって、どうなるものでなし。くたびれるだけの話だ」 「泳ぎたいんですよ。興梠二曹」  福は呂律《ろれつ》の乱れた声で言いながら、もう上衣《うわぎ》を脱いでいた。福は相当に酔っていた。五郎も立ち上った。 「おれも泳ぐよ」  福に張り合う気持は毛頭なかった。ただその暗い海に身をひたし、抱かれたいという気持だけがあった。興梠は投げ出すように言った。 「じゃ行きな。海行かば水漬《みづ》く屍《かばね》、てなことにはなるなよ」 「大丈夫ですよ」  福は五郎に白い歯を見せて笑った。それからよろよろと砂浜に降り、海へ入った。彼もつづいて足を水に踏み入れた。  しばらく海の浅さがつづき、急に深くなった。五郎は平泳で前進し、そして背泳ぎに移り、やがて手足の動きを中止した。顔だけを空気にさらし、全身から力を抜く。水はつめたくなかった。生ぬるくねっとりとして、彼の体を包んだ。彼は『母胎』という言葉に似たものを感じながら、十分間ほどゆらゆらと海月《くらげ》のようにただよっていた。空には雲がなく、一面に星が光っていた。福がどこにいるか、もう判らなかった。 〈何ならここで死んでもいいな〉  倦怠《けんたい》と虚脱感がそこまで進んだ時、五郎は突然ある危険を感じて、姿勢を元に戻した。岬《みさき》や岩のたたずまいから、十分間の中に、体がいくらか潮に流されていることを知った。五郎は振切るようにしぶきを立て、元の岸に向って泳いだ。やがて足が砂についた。水をかき分けながら浜へ上る。岩かげから興梠の声がした。 「もう戻って来たのか?」 「うん。途中まで行ったんだが——」  五郎は片足飛びで、耳の内の水を出した。 「戻って来たよ」 「福は?」 「見うしなった。先に行ったんだろう」  やはり体が冷え、酔いも醒《さ》めていた。五郎は衣服をつけ、掌をこすり合わせた後、食器のアルコールを飲んだ。三十分|経《た》っても、福は戻って来なかった。 「もう帰ろうや」  興梠が言った。おそらく福は双剣石に泳ぎ着き、ここに戻らずに近くの岸へ上り、陸路を歩いて宿舎に戻ったんじゃないか。そんな想像を興梠は立てたが、五郎は黙っていた。へんな予感があった。  罐詰類を水に放り、二人は宿舎に戻ったが、福の姿は見えなかった。海水のため体がべたべたするので、五郎はまた外に出て、真水で全身を拭《ぬぐ》う。海を眺めながら、さっきの危懼《きく》感を思い出していた。  翌朝、福の死体が波打際《なみうちぎわ》で発見され、早速《さつそく》医務室に運ばれた。水を飲んでいる様子がないところから、心臓|麻痺《まひ》と診断された。福の戦病死は、暗号『仁』によって、本隊に報告された。暗号文は五郎がつくった。 『仁にみなぎれるその戦死——』  福がつくった替歌の文句は、福にとって真実となった。 「溺れたんじゃなく、心臓麻痺だった」  五郎は女に言った。 「強い酒を飲んで水に入るのは、一番危険なことなんだ」 「そう知ってて、どうして泳いだの?」 「悪いとは知ってたさ。しかしもっと悪いことだってした。若かったからね。若さで押しきれると思ったし、そして生命のすれすれまで行ってみたいという気持もあった。要するに荒れてたんだな」  福兵長はその年の三月頃から、五郎と行動を共にしていた。沖縄から『仁』の電文が届く。それを翻訳する。仁は次のような文章から始まる。 『本日ノ戦死者氏名左ノ通リ』  そして兵籍番号と名前が出て来る。福が翻訳した名前の一人に、彼の弟の名があった。ずいぶん後になって、福は告白した。 「いやな気持でしたねえ。しばらく暗号書を引く気にもなれなかった」 「可哀《かわい》そうだなあ」  死んだ福の弟が可哀そうか、それを翻訳した福が可哀そうなのか、はっきりしないまま五郎は同感した。福は他のさまざまの電文で、彼の一家のある地帯がやられたこと、守備隊が全滅したことなどを知っていたらしい。あぶり字があぶられて出て来るように、自らの翻訳によって故郷の実況が出て来るのだから、つらい思いがしたに違いない。五郎もその頃しばしば、ト連送の電文を見た。 『トトトト』  ワレ突撃ス、という意味で、特攻隊から発信されるのである。ト連送が終った時が、一つの命がうしなわれた時なのだ。福の通夜の時、五郎はじっと考えていた。 〈あいつ、自殺するつもりじゃなかったのか〉  積極的に自殺を願ったのではないかも知れないが、五郎が感じたように、ここらで死んでもいいな、という気分は動いただろうと思う。それに福は酔い過ぎていた。気持が放漫になって、泳ぎ着ければそれでいいし、途中でだめならそれでもいい。泳ぎ出すことだけが自分の意志で、あとは運命に任せる。その気分の動き。  女が舌たるく聞いた。 「あんた、それで責任を感じたの?」 「責任? いや。福は自分から言い出したんだから、死んだのは彼の責任さ。しかしおれはとめなかった。一緒に泳いだ」  五郎は空を見上げながら、何気なく左手を女の肩に廻した。女は体をびくと震わせたが、拒否の気配は見せなかった。 「おれたちは同じ汽車に乗り合わせたようなものさ。前に乗り込んだ人が次々に降りて行く。新しいのが次々乗り込んで来る。途中下車をするやつもいるしさ。福なんかは途中下車じゃない。窓をあけて飛び降りたようなものだ。同行者としての責任感は、たしかにある。いや。同行者の責任なんて、一体あるものかな。連帯感はあるが——」  押えていた歪《ゆが》んだ情念が、しだいに彼の体の中で高まって来た。女の肩の丸みやあたたかさが、彼を刺戟《しげき》した。 「その後、同行者としての連帯感が、だんだん信じられなくなって来た。酒を飲んでも、勝負ごとにふけってもだめだった。それでとうとう病院に入って、治療を受けた。おれの体、薬くさいだろ。今朝まで病院にいたんだ」 「今朝退院したの?」 「そうだ」  五郎は腕に力を入れて、女を抱き寄せた。女はすこしあらがった。 「そんなことをしてもいいの?」  唇が離れた後、女はすこし怒ったような声を出した。 「いいんだよ。おれたちは同行者なんだから。二十年前、君はおれを見た筈だし、おれは君の姿を見た筈だ。どんな姿だったか、覚えていない。モンペ姿で、可愛《かわい》らしいお下げ髪だったんだろう」 「そうよ。可愛らしかったかどうか、知らないけれど」  女は自分の頬に掌《て》を当てた。 「すこし酔って来たわ」 「どうしてもこの土地を見たい。ずっと前から、考えていたんだ。今はうしなったもの、二十年前には確かにあったもの、それを確めたかったんだ。入院するよりも、直接ここに来ればよかった。その方が先だったかも知れない」  ずいぶん身勝手な理屈をこねている。その自覚は五郎にはあった。枕崎で飲んだ焼酎《しようちゆう》、峠であおったコップ酒が、彼の厚顔な言説をささえていた。それに相手が出戻り女で、気分的にもかなり荒れているという計算も、心の底に動いていた。 「おれは今、何かにすがりたいんだ」  五郎は女にささやいた。その言葉は、全然うそではない。四分の一ぐらいはほんとであった。彼はさらに腕に力をこめた。 「つながりを確めたいんだ。死んだ福や、双剣石や、その他いろんなものとの——」 「ああ」  女は胸を反《そ》らしながら、かすかにうめいた。それはやや絶望的な響きを帯びた。 「いいだろ」  相手をもどろどろしたものの中に引きずり入れたい。今はその嗜欲《しよく》だけしか五郎にはなかった。  時間が泡立《あわだ》ち、揺れながら過ぎた。やがて静かな流れに戻った。五郎は立ち上り、ミツギのざらざらした幹に、しばらく背をもたせ、暗い海を見ていた。 「今夜、君の家に泊めてくれないか」  かすれた声で五郎は言った。 「行き当りばったりで、泊るところがないんだ」 「うちはだめ!」  身づくろいをしながら、女は答えた。 「あたしだけでも、いづらいんだから」 「そうだろうね」  その返事は予期していた。ただ訊《たず》ねてみただけであった。 「では枕崎の宿屋に戻ろうかな。まだバスはあるだろう」 「坊にも宿屋があってよ。宿屋と言えるかしら。そこの小父さん、あたし小さい時から、よく知ってるから。案内しましょうか」  女は立ち上った。地も空も蒼然《そうぜん》と昏《く》れ、時々坊岬燈台の光の束が、空を薙《な》いで走る。石段も暗く、手をつなぎ合って、そろそろと降りた。しめった掌を離すと、女は道を降り、ダチュラの花を四つ五つ摘《つ》んで来た。 「寝る部屋に置いとくといいわよ」  花を五郎に手渡した。 「部屋が匂いでいっぱいになるわ」  その口調に残酷さがあった。福の通夜のことを実感として思い出せというのか。しかし五郎は素直に返事した。 「ありがとう。きっと君の夢を見るよ」  そのまま町の方に歩いた。すでに戸を立てた家も多い。すべて屋根が低いので、町は暗がりの底に、へばりついているようだ。ラジオの音や話声が、家の中から聞えて来る。 「この町の人は、ずいぶん早寝だね」 「不景気だからよ」  女は言った。なぜ不景気なのかは説明しなかった。  女が案内した家は、宿屋らしくなかった。他の家と違うのは、ここだけが二階家である。中二階みたいな妙な構造で、一見平屋風のように見える。玄関の板の間に、古ぼけたオルガンが置いてある。案内を乞うと、主人らしい老人が出て来た。 「この人、泊めて上げて」  女が言った。 「二十年前、海軍でここにいた人よ」  主人はするどい眼付きで五郎を見た。五郎が靴を脱いでいる間に、女はいなくなった。主人が言った。 「あんた。久住五郎というひとじゃなかか」  言葉は電撃のように、五郎の背中を撲《う》った。五郎は顔色を変えて、思わず立ち上った。 「ど、どうしてそれを知っているんだ?」  五郎はどもった。 「二十年前——」 「いや。いや」  主人は視線をやわらげて、空気を両手で押えつけるようにした。 「いまさっき枕崎の立神館から電話がありもしてな。あなたの人相|風体《ふうてい》など説明して——」 「丹尾という男ですね」 「はあ。着いたら電話をくれと——」 「電話なんかしなくてもいいんですよ」  やっと動悸《どうき》がおさまって、五郎は答えた。 「風呂に入《はい》れますか。ああ。この花をぼくの部屋に——」  ダチュラはもう萎《しな》び始めていた。一体丹尾は何で五郎をつけ廻すのか。つけ廻す理由があるのか。五郎はもう考えたくなかった。いちいち心配していては、気分の方で参ってしまう。  五郎の注文で、湯はぬるめにしてもらった。福のようなことになったら、たいへんだ。その危懼からだ。それに旅先で脳貧血でも起したら、みっともない。しかし五《ご》右衛門《えもん》風呂なので、少しずつじりじりと熱くなる。水道のホースから、水をがぼがぼ入れてさます。  主人に借りた剃刀《かみそり》で、髭《ひげ》を剃《そ》る。体を丹念に洗う。ついでに下着も洗う。ふたたび体を湯に沈める。誰かが耳のすぐ近くでささやいた。 「恥知らず!」  五郎は周囲を見廻した。誰もいない。壁だけだ。壁が口をきくわけがない。 〈また幻聴が出て来たな〉  と思う。聞き慣れた声だが、誰のでもない。抑揚も感情もない声である。 「なるほどね」  しばらくして五郎はつぶやいた。 「言葉を使ったからな。使わねばただの痴漢で済んだが、屁理屈《へりくつ》をこねたばかりに、恥知らずか」  五郎は今日一日の重さをどっと感じながら、背中を鉄の壁に押しつけていた。熱さがじんじんと伝わって来る。今朝の病院脱出のことを考えていた。あれは恣意《しい》ではなく、いたたまれなく飛び出したという感じであった。 〈正常人が異常心理になるのを恐怖するように、異常心理者は正常に戻るのをおそれるんじゃないか?〉  そんな考えが浮んで来た。正常と異常は、紙一重の差に過ぎないだろう。しかしその差を乗り越える時、性格や感情ががらりと変ってしまう。おれにとって、それがこわかったのではないのか。それで東京を出て、数百里もある薩摩《さつま》半島につっ走り、今ひっそりかんと五右衛門風呂に沈んでいる。  鉄の壁につけた背中が、やがて耐えがたく熱くなって来た。背を引き剥《は》がして立ち上り、流し場に出る。やはり貧血を起したらしく、眼がくらくらとする。しゃがんでじっとしていた。やがて浴衣《ゆかた》をつけ、部屋に戻る。部屋は二階であった。階段の登り口で、主人がどこからともなく出て来て、声をかけた。 「夕食はどげんしもすか」 「ええ」  五郎は考えて答えた。 「軽いものを。酒もすこし」  部屋に上る。へんな感じの部屋だ。天井は低く、舟底型だ。下着を海に面した手すりに乾《ほ》し、部屋の真中に坐る。どうも感じがへんだ。宿屋の造りではない。第一がらんとし過ぎる。他に泊り客もないようだし、いるのは老人夫妻だけのようだ。真中にちゃぶ台があり、ダチュラの花が瓶《びん》にさしてある。ちょっと棺桶《かんおけ》みたいな感じの部屋だ。それが五郎の居心地を悪くさせていた。五郎が坐った左側、つまり海と反対側に、明り障子が立ててある。五郎は膝《ひざ》でにじり寄り、そっとあけてみて驚いた。  そこには部屋がないのである。  部屋がなくて、ぽかんと空間だけがあった。見おろすと一階の部屋の畳が見える。今風呂からここに来た時、通った部屋だ。居間とも納戸《なんど》ともつかぬ、独立していないつなぎの部屋で、隅に布団《ふとん》が積み重ねてある。台所の方角から誰かが膳《ぜん》を持って出て来たので、五郎はあわてて障子をしめ、ちゃぶ台に戻った。階段をのぼる足音がして、老婦人が姿をあらわした。 「いらっしゃいませ」  膳を置き、老婦人はていねいに頭を下げた。 「お疲れでございましたろ。只今《ただいま》主人も参じます」  老婦人が階段を降りて行くと、入れ違いに、主人が登って来た。手に土瓶のようなものを持っている。カラカラだと五郎は思い出した。特殊の形をした酒器で、二十年前に福がどこからか仕入れて来て、アルコール入れに使ったのと、同じ型のものだ。 「どら。晩酌《だいやめ》にあずかりもすか」  主人はカラカラから薩摩焼の器に注ぎ分けた。聞くまでもなく、甘ったるい匂いで、芋焼酎と知れた。食膳は割に豊富である。三種類の刺身を次々|箸《はし》にはさんだ。 「もう、しおれましたな」  主人はダチュラを指でつついた。 「こいじゃから活花《いけばな》になりもさん」 「何だか陰気な感じのする花ですな」  五郎は水|いか《ヽヽ》を食べながら、相槌《あいづち》を打った。 「二十年前もそう思った。葬式花みたいだとね」  二十年前の話になった。主人の言では、この家屋は軍に接収され、泊へ疎開していた。だから戦中の坊のことは、あまり知らない。 「妙な造りの部屋でしょう」  主人は立って説明した。一見壁に見えるところを開くと、かくし部屋がある。そして障子をあける。 「階段から敵がのぼって来ると、ここから飛び降りて逃げる」 「なぜ逃げるんです?」  五郎は冗談めかして言った。 「わたしには逃げる必要はないですよ」 「いや。密貿易の時代の名残《なご》りですよ」  主人は笑いながら、座に戻って来た。 「ここが島津藩の密貿易港では、最大のものでしてな。大陸に行ったり、沖縄や南西諸島に行ったり、ああ、このダチュラも、種子が船に乗ってやって来たんでしょう。どこで摘んで来やした?」 「わたしが摘んだんじゃない。さっきの女のひとが——」 「ああ」  主人はうなずいて酒盃《しゆはい》をあけた。 「どこで知合いやした?」 「キャンプ場の近くでね」 「あいも勝気過ぎって、不幸な女《おなご》でな」 「泊って、女中の産地らしいですね」 「そや昔の話ですよ。あしこは近頃|鰹《かつお》の不漁のために人口が減る一方でね、そこに紡織工場が眼をつけち、娘さんたちをごっそいと雇って行く。その勧誘係りたちが何組もここに泊るが、聞いてみると、今の娘たちは女中になりたがらん。みんな工場を希望するらしいですな。泊だけじゃなく、この坊の若者たちも——」  主人はふたたび立って、海にむかう窓を開いた。五郎も傍に立った。 「この坊の家々も、全部|舟子《かこ》屋敷でな。みんな鰹漁によりかかって、生活していた。それがだめになったから、さびれる一方ですな」  だんだんさびれて、峠を隔てた二つの部落は人口が減り、ついに消失してしまう。五郎はそんなことを考えていた。しかし主人の語調は淡々として、感傷の気配は微塵《みじん》もなかった。 「鴉《からす》だけが殖《ふ》ゆる一方です」 「どのくらいいるんですか?」 「約二千羽。あそこに棲《す》んどる」  主人は右の方の山を指した。 「今は少し減っておるかも知れん。魚の量が減っていますでのう」  主人は窓をしめ、座に戻った。盃を手にして、じっと五郎の顔を見た。 「あんた、誰かに追われとるのじゃなかか。眼が血走っちょる」 「さっきの電話のことですか。ありゃ何でもない。途中で知合いになった男です」  五郎はわらった。 「疲れているんですよ」 「そうですか。相当お疲れのようですな」  主人は盃をあけた。 「明日はお早えかな」 「いや。寝たいだけ寝かしてもらいますよ」  五郎は答えながら、刺身のツマの大根を食べていた。千六本は適当に甘くからく、水気があってうまかった。主人は笑った。 「よほど大根《でこん》がお好《す》ッなようじゃな。で、枕崎に——」 「ええ。二十年前にはね」  五郎は箸をおろし、盃に手をやった。 「ここで部隊は解散してね、わたしは復員荷物を背負って、枕崎へ歩いた。峠のだらだら坂を登りきると、いきなり海が見えた。海がぎらぎらと光っていた」  五郎は盃を一気にあおり、口をつぐんだ。すこし経《た》って主人がうながした。 「そいで?」 「あ」  五郎は放心から醒《さ》めた。にが笑いをして、盃を置いた。 「それから枕崎に出て、故郷に戻りましたよ。汽車のダイヤがめちゃめちゃで、家に着くのに、二日二晩かかった」 「苦労しやしたな。明日は苦労は要《い》らん。バスがあっから」 「いや。明日は吹上浜に行こうかと思っています。歩いて」 「歩って行くのは無理ですな」  主人ははっきり言った。 「明日そっちに行くトラックの便があっから、そいを利用しやんせ。わしがとこの荷を取りに行くんだ」  主人は掌を叩《たた》いて、老妻を呼んだ。 「もうお寝《やす》みになったがええじゃろ。ひどく疲れておらるるようだ」  老妻の手によって、食膳が下げられ、寝具の用意が出来た。淡い燈の光だけになった。ダチュラの匂いは、まだただよっている。彼は掛布団を顎《あご》まで引き上げる。女のことを思い出していた。熱い躯《からだ》や紅い唇、切ないあえぎなどを。それを忘れるために、彼は心で念じた。 〈便所に行く時に、あの障子をあけないこと〉 〈絶対にあけないこと。階段を利用すること〉  五郎の体は宙に浮いて、ただよい始めた。ゆるやかに、ゆるやかに、波打際の方に。——五郎は福の体になっている。すっかり福になって、しずかに流れている。そう感じたのも束の間で、次の瞬間に五郎は眠りに入っていた。    砂浜  薩摩の言葉は判りにくい。早口でしゃべられると、全然判らない。外国の言葉を聞いているようだ。小型トラックの荷台に腰をおろして、まわりの風景を眺《なが》めながら、五郎はそう考えた。空《から》の荷台には、五郎の他に、もう一人若者が乗っている。それが運転手と話し合う。何の意味か、さっぱり理解出来ない。他国の人間や隠密が這入《はい》り込まないための、島津藩の言語政策だという説を聞いたが、それはうそだろう。言葉とはそんなものでなかろう。そう思ってはいるが、五郎はしだいに自分が隠密であるような気がして来る。  今朝《けさ》、彼は密航者であった。  十時に朝食をとったが、眼が覚《さ》めたのは、ずっと以前である。やかましい音がする。五郎は掛布団《かけぶとん》を頭までかぶる。 〈うるさいじゃないか。病院だというのに!〉  布団の重さや感触の違うことに、すぐ気がつく。五郎は布団をはねて飛び起きた。窓をあけると、数えきれぬほどの鴉が高く低く飛び交《か》い、啼《な》き交わし、その声が空をひっかき廻すようだ。彼はいささか動転して、鴉たちの動作をしばらく見上げていた。 〈これはまるで鴉の町じゃないか〉  乾《かわ》いた下着を取入れ、五郎は窓をしめ、寝床にとって返した。しかしもう眠る気がしない。また窓を細めにあけ、外の様子をうかがう。こんなにかしましい鴉声《あせい》は、記憶にない。二千羽いるとのことだが、戦後急に殖えたわけではあるまい。戦争中にも啼いていた筈《はず》だ。どうして記憶から脱落したのか。戦争生活の荒々しさに紛れてしまったのか。  五郎は低い中二階の突上窓《つきあげまど》から顔をのぞかせ、しばらく外の様子をうかがっていた。この宿は坊のメインストリートから、すこし山手になっているので、家の屋根屋根が見える。瓦《かわら》は関東などと違って、きめがこまかく、しっとりした微妙な美しさをたたえている。道が見えるが、人通りはほとんどない。まだ戸をしめている家さえある。五郎は眼を鷹《たか》のように光らせ、人や鳥の動きに注意を払っていた。 〈おれは密航者だ〉  だんだんそんな気分になって来る。この部屋だって、そうだ。あかずの間やかくれ納戸や飛び降り障子や、ふしぎな造りになっている。何故《なぜ》そんな造り方をしたのか。密航者のためのものだという以外には考えられない。五郎は眼を細くしたり太くしたり、顔を傾けたりして、約一時間外界の動きを観察していた。やがて鴉の数が少しずつ減り、喧声《けんせい》もおさまり始めた時、五郎はやっと腰を上げ、とんとんと階段を降りて行った。風呂場で顔を洗うと、階下に食事の用意がととのっていた。  庭に面した部屋で朝食をとる。庭にはサボテン、鶏頭《けいとう》、ゼラニューム、その他の花が咲いている。茶を飲みながら、五郎は主人に弁当を頼んだ。主人は承諾して言った。 「あんたはここで水死した兵隊さんの友達じゃそうですな」 「ええ」  あの女がしゃべったな、と思いながら五郎はうなずいた。主人はそれだけで、あとは追求しなかった。やがてトラックがやって来た。彼は弁当を受取り、主人の贈物のサイダー瓶に入った芋焼酎をかかえ、トラックの荷台に飛び乗る。宿賃は意外に安かった。手を振って、トラックは動き出した。  荷台の上のカンバスをたたんで腰掛け代りにする。しかし道が悪いので車は揺れ、時々ずしんと腰を突き上げて来る。昨夜は熟睡した筈だが、まだ瞼《まぶた》のあたりに疲労が残っている。荷台の若者と運転手は、意味の判らない早口の会話を交わし、笑い合う。五郎は訊《たず》ねてみる。 「この車、泊を通るのかね?」 「はい。通ります」  ちゃんとした標準語で答える。こちらの言葉を理解し、きちんと返事が出来るのだ。ふたたび若者同士の会話になると、鴃舌《げきぜつ》のたぐいに戻る。五郎は疎外感を感じながら思う。 〈おれはあまりしゃべらない方がいいらしいな〉  泊の町に入った時、五郎は背を丸め、何かをねらう眼付きになって、町並や通行人の動きに注意を集中した。しかし町並は短く、あっという間に通り過ぎた。五郎は緊張を解き、背を伸ばした。  それからしばらく、五郎は膝《ひざ》を立てて手を組み、車の揺れに体を任していた。日がうらうらと照り、左手の方向に海が見えたりかくれたりする。右手はずっとシラス台地で、ところどころに部落があり、時には煙突が見え、合同焼酎製造工場という文字なども読めた。やがてトラックは橋を渡った。 「これが万瀬川《まんせがわ》です」  聞きもしないのに、若者が教えてくれた。 「ここらから吹上浜になるんです」 「君はどこの生れかね?」 「わたくしの生家は伊作《いさく》です」  若者は白い歯を見せて笑った。 「アメリカ軍が吹上浜に上陸して来るというので、あの頃は皆びくびくしていましたよ。二十年前ね」 「君はいくつ?」 「二十八歳です」 「じゃ国民学校の頃だね」 「はい。八歳の時です」  トラックを乗り捨て、まっすぐ浜へ歩く。防風林を抜けると砂丘となり、海浜植物が茂っている。植物の名は知らないが、浜木綿《はまゆう》とか浜防風とか呼ぶのだろう。砂丘にしがみつくようにして、群生している。そこらに腰をおろして、彼は海を見渡した。沖に大きな島かげが見えた。甑島《こしきじま》だ。空気がかすんでいるので、甑島はちょっと見には、九州本土につながった半島か岬《みさき》のように見える。水平線は漠《ばく》として見えない。あそこらが東シナ海になるのだ。  しんとしている。  いや、しんしんと、耳鳴りがしている。  鴉の声、トラックの振動音、それから一挙に解放され、耳がバカになったようだ。砂浜は大きく彎曲《わんきよく》して凹《へこ》んでいる。海が長年かかって、浸蝕《しんしよく》したのである。今眺める海は静かだが、石垣島《いしがきじま》あたりで発生した台風が、枕崎や佐多岬《さたみさき》に上陸して荒れ狂い、鹿児島から北上する。そんな時に吹上浜の浪は砂丘まで襲いかかり、砂をごっそり持って行くのだ。五郎は戦争中、坊津《ぼうのつ》に行く前に、吹上浜の基地を転々とした。それでこの海のこわさは知っている。 「隠密だの、密航者だのと——」  呟《つぶや》きながら立ち上る。 「おれもちょっと甘ったれているな」  波打際に出て、五郎は靴を脱いだ。靴と弁当を振り分けにして肩にかけ、ズボンをまくり上げる。サイダー瓶を下げたまま、海の中に歩み入る。脛《すね》までひたして、がばがばと歩き廻り、また波打際にとって返す。波打際で海に向って立っていると、波が静かに押し寄せて来て、蹠《あしうら》や踵《かかと》の下の砂をすこしずつ攫《さら》って行く。このくすぐったい感じは、何年ぶりのものだろう。  五郎は北に向って歩き出した。  歩くにつれて、右手の風景、防風林や砂丘の形は、次々に変化するが、左手の海はほとんど変らない。砂は白く粒がこまやかで、ところどころに貝殻が散らばっている。片貝や巻貝。砂や浪に磨《みが》き上げられ、真白に輝いている。五郎は時々立ち止り、珍しい形や美しいのを拾い上げて、ポケットに入れる。  約二キロ歩いた。  砂丘に上って、腰をおろす。ふり返ると、彼の足跡が浜に一筋つながっている。それを眺めていると、眼がまぶしく、すこし眠くなって来る。疲れて来たのだ。 「すこし飲むか」  まだ弁当を開くほど腹は減ってない。彼は上衣《うわぎ》を脱いだ。背中がすこし汗ばんでいる。瓶が少々荷厄介になって来ている。折角の贈物だから、捨てるわけには行かない。五郎は栓《せん》を抜き、一口含んだ。甘ったるく強烈なものが、食道を伝って胃に降りて行くのが判る。  五郎はポケットから、貝殻をざくざくつかみ出して、そこに並べる。ついでにもう一口飲んだ。  風景が急に活《い》き活《い》きと、立体感を持ち始めて来た。ぼんやりと明るい風光が、むしろ蒼然《そうぜん》と輪郭をはっきりして来る。背中が微風でひやりとする。 「何だかだと言いながら——」  考えが呟きになって出て来る。酔いがすこし廻って来たのだ。やっとその頃、手や足の先がじんとして来る。 「皆どうにかやってるじゃないか」  トランク男の丹尾や昨夜の女のことを思い出しながら、そう言ってみる。次に、ヒマラヤ杉に囲まれた精神科病室のことが、胸によみがえって来る。五郎は貝殻を掌に乗せて、しげしげと眺める。どうせおれもあの病室に戻らねばならないだろう。瞬間、五郎は眩暈《めまい》を感じた。  五郎は追われていた。いつの時か、どこの場所かも定かでない。青年の時だったような気がする。なぜ追われていたか、それもはっきりしない。そんな夢をある時見たのか、あるいは何かのきっかけで生じた贋《にせ》の記憶なのか。  追われて五郎は砂浜を歩いていた。追う者の正体は判らず、姿も見えなかった。しかし追われていることだけは、確かであった。その実感が五郎の全身にみなぎり、彼を足早にさせていた。  漁村があった。浜には網が干してあり、屋根の低い粗末な漁夫の家が並んでいる。磯《いそ》には海藻《かいそう》が打ち上げられている。岩かげなどにとくにたまっている。大潮の時に打ち上げられ、そのまま浪に持って行かれなくなったのだろう。その藻《も》の堆積《たいせき》は腐敗し、絶望的なにおいを放っていた。まことにそれは眩暈のするようないやな臭気であった。 〈イヤだな。ああ、イヤだ〉  五郎はそう思いながら、漁家の方に近づいて行った。水汲場《みずくみば》があり、中年の女がせっせと洗濯をしている。五郎はふと放心して、その傍《そば》に立ちどまり、洗濯の様子を眺めていた。盥《たらい》の中にあるのは、厚ぼったい刺子《さしこ》である。女は五郎を無視して、しきりに手を動かしていた。女の顔や手や足は、日焼けして黒かった。ぶつぶつ呟いている。 「だめだ。どうしてもだめだ。このままじゃ、だめになってしまう」  そんな風に聞えた。同じことを繰返し、繰返しして呟いている。砂浜には誰の姿も見えなかった。白い犬が一匹、網のそばに寝そべっているだけだ。 〈へんだな〉  五郎は思った。何がへんなのか、自分でもよく判らなかった。人気《ひとけ》のないのがへんなのか、自分がここに立っているのがへんなのか、そこがぼんやりしている。やがて五郎は気がついた。彼が眺めているのは、腕や洗濯物でなく、女の脚であった。膝までしかない着物を着ているので、つやつやした浅黒い脚の全貌《ぜんぼう》が見えた。五分ほど経《た》って、五郎は耐えがたくなり、話しかけた。 「小母さん」  女はびっくりしたように呟きをやめ、五郎を見上げた。それまで五郎が傍に立っていることに、女はあきらかに気付いていなかった。 「何だね?」  女はとげのある声で答えた。 「あたしゃムシムシしてんだよ。あんまり気やすく話しかけないでおくれ」 「ぼく、追っかけられているんです」 「誰に? 警察にかい? 悪いことをすれば、追っかけられるのは、あたりまえだよ」 「いいえ。違います」  五郎は懸命に弁解した。 「悪者に追っかけられているんです」 「悪い者なんか、この世にいるもんかね」  女はいらだたしげに言いながら、力んで脚をひろげるようにした。五郎はまぶしくて、思わず視線を海の方にそらした。水平線には黒い雲がおどろおどろと動いていた。そのために舟が出ないのだと、五郎は思った。 「いや」  女は言いそこないに気がついた。 「悪くないやつなんて、この世にいてたまるもんかね」 「だから、かくまって下さい」 「だから? だからだって?」  女はびっくりしたように立ち上って、眼を五郎に据えたまま、刺子をしぼり始めた。刺子はまだ汚《よご》れはとれていなかった。厚ぼったい刺子は、しぼりにくそうなので、五郎が手伝おうとすると、女は邪慳《じやけん》にその手を払いのけた。 「余計なこと、しないどくれ」 「ぼくはかくれたいんです」  五郎は必死になって言った。その瞬間の気持に、うそいつわりはなかった。吹きさらしの、どこからでも見えるこの場所にいるのが、こわくてこわくて、たまらなかった。女はじろりと五郎を見た。 「そんなにかくれたいのかい?」  五郎はうなずいた。とたんに涙がぽろぽろとこぼれて来た。女の声は少しやさしくなった。 「じゃそこらにかくれな。ああ、ムシムシする」  五郎は手で涙を押えながら、その傍の小屋によろよろと歩んだ。小屋の入口には縄筵《なわむしろ》がぶら下っている。それを排《はい》して内に入ると、六畳ぐらいの板の間があり、あとは土間になっていた。土間というより砂地に近く、礫《こいし》や貝殻などが散らばっている。五郎は板の間にずり上った。涙はもう乾いていた。 「まだまだ」  と五郎は呟いて、あたりを見廻した。 「油断出来ないぞ」  五郎はごそごそと這い廻り、小屋の構造を調べ始めた。柱はわりに太かった。しかし砂地なので、土台がしっかりしていないらしく、押すとぐらぐら揺れる。柱は何の木か知らないが、長年の潮風にさらされ、材質のやわらかい部分は風化し、木目だけがくっきりと浮き上っている。板の間の一番奥に、簀子《すのこ》がしいてあり、そこに鏡台があった。鏡台の木質部にも、木目はきわ立っていた。潮風は家の中にまで吹き入るのか。鏡には布がかけてあった。布からはみ出た鏡面も、塩分で黒く腐蝕していた。 〈何が写るか判らない!〉  その恐怖で、五郎にはとてもその布をめくる勇気が出ない。鏡台には抽斗《ひきだし》がついている。五郎はそれを引出した。  毛髪がへばりついた鬢付《びんつけ》。貝殻が数個。それにコッペパン一つ。彼はそのコッペパンを食べるつもりで手にとったが、古くて皮がこちこちになっている。口に持って行ったが、歯が立たない。余儀なく元に戻す。貝殻は巻貝や小安貝のたぐい。それを一つ一つ調べていると、裏口から突然足音が入って来た。 「なにしてんだい!」  ぎくりとして振り返ると、先ほどの洗濯女が土間につっ立っていた。もう半分ほど眼がつり上っている。五郎は返事に窮して黙っていた。すると女は跣《はだし》のまま簀子の上にあがって来た。 「小探《こさが》ししているな。言わないでもわかってるぞ!」  女は立ったまま、両手で五郎を引きずり倒した。女の腕は太かった。筋肉がもりもりして、男の腕のようだ。五郎は押えつけられながら、あやまった。 「許して下さい。許して下さい。もう絶対に小探しはしませんから」 「許してやらない。許してやらない。絶対に許してやらない」  女は手をゆるめなかった。小荷物を扱うように、五郎を乱暴にとり扱った。それはまるで器械体操のようなものであった。観念して全身の力を抜いた時、裏山の方から大勢の歌声がかすかに聞えて来た。意味も何も判らない。一節歌い終る度《たび》に、はやし言葉のようなのが聞える。 「はん、はん、はん」 「はん、はん、はん」  そんな具合に五郎の耳には聞き取れた。その歌声がだんだん近づいて来る。—— 「だめだ。どうしてもだめだ」  五郎を強引に処理し終って、女は立ち上り、いらだたしげに言った。 「このままじゃ、だめになってしまう」  そして五郎を振り返りもせず、せかせかと裏口から出て行った。独《ひと》りになると、別の恐怖が彼にこみ上げて来た。 〈ここにいたら、たいへんだ〉  五郎は立ち上り、大急ぎで身づくろいをして、土間に降りた。表の入口の縄筵からのぞくと、やはり人影はひとつも見えなかった。沖から風が吹き、黒い雲がしだいに近づいて来る。 「今だ!」  五郎は砂浜に飛び出した。浜に上げられた漁舟の艪臍《ろべそ》の上に飛び乗り、がたがた歩いて、舟板をめくった。中は小さな舟底になっている。そこに体をすべり込ませ、舟板を元に戻した。そして体を胎児のように縮める。濡《ぬ》れた腿《もも》がくっつき合う。低く呟いた。 「これで当分、安心だ」  舟底は暗かった。かすかな光が縞《しま》になって、さし入って来る。やがて眼が慣れて来る。船虫《ふなむし》が何匹も這い廻っている。長い触角をぴくぴく動かしながら、しきりに走る。その中の何匹かが五郎の体にとりついて、這い登ったり降ったりする。別に不快な感じではない。ただ顔を這われると、くすぐったい。額や頬のは手ではらい落し、唇《くちびる》近くに来たのは、フッと呼吸で吹き飛ばす。しだいに五郎は眠くなって来た。ちぢこまった姿勢のまま、意識以前の状態に戻りかけていた。記憶はそこで跡切れる。——  五郎はふっと眩暈《めまい》からさめた。秋の強い日に照らされて、貧血を起したらしい。五郎は靴を穿《は》き、弁当と瓶《びん》を持って立ち上り、防風林の中にふらふらと入って行った。あたりに誰もいないということが、安心でもあり、また無気味である。松の木の露出した根の、適当なのを選び、上衣《うわぎ》をたたんで乗せた。それを枕にして、長々と横たわった。  眼をつむる。うとうとと眠りに入った。  どのくらい眠っていたか判らないが、何だか首筋や手の骨の痛さで眼が覚めた。 〈誰かがおれに理不尽なことをしている〉  不機嫌《ふきげん》な感じがあって、しぶしぶ眼を見開いた。しばらく木の梢《こずえ》や空を眺《なが》めながら、ここはどこだろうと考えていた。そしてゆっくりと上半身を起した。 「ああ。ここで眠っていたんだな」  それが納得出来るまでに、三十秒ほどかかった。誰も理不尽なことをしたわけではない。木の根の固さと不自然な体位が、五郎の体に痛みをもたらしたのだ。彼は手を屈伸し、肩をたたき、体操の真似《まね》ごとをした。ふと見るとサイダー瓶は倒れ、栓のすき間からこぼれて砂にしみたらしく、内容は半分ぐらいになっていた。こぼれたって、別に惜しいとは思わない。五郎はそれを拾い上げ、また一口飲んで、もうこぼれないようにしっかり栓をした。そして立ち上る。 「昨日も今日も、昼酒を飲んだな」  五郎は歩き出しながら、大正エビのことを思い出した。大正エビはアル中患者だ。まだ若くて、すっきりした顔で、付添婦や看護婦によくもてた。アル中患者なんてものは、アルコールを断たれると、禁断症状を起してばたばたあばれるのかと思っていたが、そうではない。けろりとしている。 「酒、欲しくないか?」  五郎は聞いたことがある。入院して二、三日目のことだ。 「別にそれほど——」  大正エビは彼の眼をうかがいながら答えた。 「あれば飲みますがね」  朝から飲むとのことであった。つまり一日中酒の気《け》の切れる時がない。しかし大正エビの言葉がうそであることは、同室になってやっと判った。彼は付添婦を買収して、薬瓶(含嗽《うがい》用の大瓶)に酒を買って運ばせていた。飲んでも顔には出ない。態度も変らない。ただ酒が切れると不安になり、こわくなって来る。 〈今のおれとよく似ている〉  五郎は思う。歩きながら、左手の海のひろがりが何となく気になる。いったん波打際《なみうちぎわ》に行くが、歩いている中に、しだいに足が防風林の方に寄って行く。振り返ると、足跡がそうなっている。やがて川にぶつかった。川口は南方は彎曲《わんきよく》し、石で護岸工事がほどこしてある。岸はかなり高い。五郎は腰をおろした。また瓶の栓を抜いた。熱いものが咽喉《のど》をつらぬいた。 「さて」  五郎は岸壁がこわかった。生れて最初に水死人を見た所が、これによく似た岸であった。材木を三本、三脚式に立て、結合部から綱が数本水に垂れている。その綱で水死体をからめようとするのだが、なかなかひっかからない。浪は荒れていた。流れ込む淡水と海水が混り合って、三角波を立てている。五郎は小学生で、お下りの合羽《かつぱ》を着ていた。早く登校しなければならないが、誰が水死したのか知りたくて、人だかりの中をうろうろしていた。引揚作業の男たちは、裸のもいたし、黒合羽のもいた。雨かしぶきか判らないが、水滴が絶え間なく飛んで来て、顔を濡らす。 「子供たちゃあ邪魔だから、あっちいけ!」 「ごそごそしていると蹴飛《けと》ばすぞ!」  皆気が立っているので、言葉も動作も荒い。そう罵《ののし》られても放っとけない気がして、五郎はあちこちに頭や肩をぶつけながら、うろうろしていた。水死人が女であることは、作業の男たちの会話で判っていた。 〈お母さんじゃなかろうか〉  五郎はしきりにそんなことを考えていた。しかし五郎の母は、彼が家を出る時、台所であとかたづけをしていた。五郎は家を出てまっすぐここに来たのだから、母である筈《はず》がない。やがて死体がひっかかったとみえ、作業員の動作が急に慎重になる。綱が引かれる。綱の先にぶら下った死体が見える。浴衣《ゆかた》を着ているのだが、岸壁や岩や浪にぶつかって切れ切れになり、海藻がまつわりついたように見える。綱は脇《わき》の下にかかっている。まだ若い女らしい。もうすぐ岸に上げられようとしたとたん、死体は綱から離れて、元の水に落ちて行った。嘆声が人混みの中からおこった。—— 〈なぜお母さんじゃないかと思ったんだろうな〉  五郎はゆっくりと立ち上った。川口を徒歩で渡る気持はなかった。防風林の方にのぼり、小さな木橋を渡り、また砂丘に戻って来た。眠っている中に陽《ひ》が翳《かげ》り、沖の島影も濃くなっている。風が立ち始めた。浪はうねりながら浜に打ち寄せ、静かに、しかし大幅に引いて行く。五郎はかすかな悪感《おかん》を感じた。眠っている中に風邪《かぜ》をひいたのだろう。 「だんだん元に戻ってゆくようだ」  五郎は呟《つぶや》いた。睡眠療法でどうにか直りかけていたのに、脱走して思うままのことをした。やはりあのコーヒーを飲んで思ったことは、衝動的なものか、あるいは正常人に戻りたくない気持からだったのか。しかし予定していたことと、実際の行動は、ずいぶん食い違った。 「一体おれは、福の死を確めることで、何を得ようとしたのだろう? おれの青春をか?」  結局おれは福の死をだしにして、女を口説《くど》いた。そして猥雑《わいざつ》な中年男の旅人であることを確認しただけに過ぎない。しかし症状としては、昨日はまだよかった。不安や憂鬱《ゆううつ》は、ほとんどなかった。今日はどうも具合が悪い。ぼんやりと『死』が彼の心に影をさしている。この長い砂浜に、独《ひと》りでいるのがいけないのか。  橋を渡って、また二キロほど歩いた。疲労がやって来た。砂浜は足がぽくぽく入るので、ふつうの平地を歩くよりずっと疲れるのである。  大きな流木が打ち上げられていた。そこまでたどりつくと、五郎はほっとして腰をおろし、しばらく海を眺めていた。眺めていると言うより、にらんでいた。流木はずいぶん浪に揉《も》まれたらしく、皮は剥《は》げ、枝もささらのようになり、地肌《じはだ》は白く乾いていた。 「このままで——」  と五郎は口に出して言った。 「振出しまで戻るか。それとも前非を悔いて病院に戻り——」  五郎は栓を歯でこじあけ、残りのすべてを咽喉《のど》の中に流し込んだ。飲んだらなお気持が荒れる。それはよく判っていたが、早くけりをつけてしまいたいという気分が先に立つ。このまま服を脱いで裸になり、沖に泳ぎ出す。くたびれて手足も動かなくなるまで泳ぐ。するともう浜には戻れない。その想念が、さっきから彼を誘惑している。海がおいでおいでをしている。 〈まだ大丈夫だ〉  五郎は沖をにらみながら思う。 〈まだその手には乗らないぞ〉  彼はなおも福のことを考えていた。おれは福に友情を感じていたのか。いや。感じていなかった。あるとすれば、奴隷としての連帯感だけだ。それ以外には何もない。それはあの精神科病室の四人(五郎も含めて)のつながり方に似ている。神経が病んでいるという点だけが共通で、あとのつながりは何もない。たまたま同室に入れられ、会話したり遊んだりするが、それだけのことだ。 〈あのチンドン爺《じい》さんは面白いなあ〉  内山という六十ぐらいの太った爺さんで、街でチンドン屋に会うと気分が変になり、入院して来るのだ。チンドン屋を見ると、なぜ変になるのか。一歩踏み込むと判りそうな気がするのだが、その一歩が踏み込めない。爺さんにも判っていないらしい。一度|訊《たず》ねたことがある。爺さんは答えた。 「わしにも判らんがね、なんか気分がおかしくなるんだ」 「おかしなもんだね」 「うん。おかしなもんだ」  ある日五郎は、大正エビと電信柱と共謀して、三人でチンドン屋の真似をしたことがある。爺さんがどんな反応を示すか、知りたかったのだ。思えば危険で残酷な試みであった。鐘のかわりに茶碗《ちやわん》を、太鼓のかわりに足踏みして。——夕食が済んだあと、三人がいきなり立ち上り、茶碗を叩きながら、 「チンチンドンドン、チンドンドン」  口で囃《はや》して、床を踏み鳴らして歩いた。大正エビは頭に派手な手拭《てぬぐい》をかぶり、衣紋《えもん》を抜いている。女形《おやま》のつもりなのだ。  爺さんはきょとんとした表情で、しばらく五郎たちの動作を眺めていた。それからにやにや笑うと、自分も茶碗を持ってベッドから飛び降り、チンドン行列に参加した。病室は壁が厚いし、床も頑丈《がんじよう》に出来ているので、音は外部に洩《も》れない。付添婦が入って来るまで、その騒ぎは続けられた。  叱《しか》られてベッドに這《は》い登っても、爺さんは愉快そうであった。首謀者の電信柱は口惜《くや》しがって、 「爺さん。気分がおかしくならないのかい」 「おかしくならないね」 「なぜ?」 「お前さんたちが本もののチンドン屋でないからさ」  と爺さんは答えた。 「初めわしは、お前さんたちが気が狂ったのか、可哀《かわい》そうに、と思ったよ」  もちろんこの病室の四人は、自分が気が狂っているとは、夢にも思っていないのである。電信柱が舌打ちをしてベッドに戻ると、爺さんは追打ちをかけるように言った。 「しかし、面白かったよ。またやろうや」  五郎はその会話を聞いていた。最後のその言葉には同感であった。自分が他の人間になることは、何とすばらしいことだろう。爺さんの言うように、恰好《かつこう》は本ものでないが、気持の上では五郎は完全にチンドン屋になりきっていた。 〈たとえばこんな風に——〉  五郎は今流木の傍に投げ捨てたサイダー瓶を拾い、ついでに流木の枝を折り取ろうとしたが、樹液をうしなった枝はしなうばかりで、幹から離れようとしない。そこらを捜して、細長い石を拾う。弁当は腰にくくりつける。 「それっ!」  足を斜めに踏み出しながら、瓶を石でたたく。ひょいひょいと飛び交《か》いながら、 「チンチン、ドンドン」 「チン、ドンドン」  誰も見ていないでもいいのだ。ただ一人五郎は、踊りながら砂浜を行く。しかし三十メートルほど行くと、さすがにくたびれて、足がもつれる。彼は踊りやめた。そのまま腰をおろそうとして、砂丘に眼をやると、そこに見物人が一人いるのを見つけた。子供である。そちらに歩を踏み出すと、その子供はあわてたように、水の中に入った。そこは入洲《いりす》みたいになっていて、細い水路で渚《なぎさ》から海につながっている。それを網でせきとめてあるので、入洲は百坪ばかりの池になっている。その中にいる魚を、子供はすくい網で獲《と》ろうとしているのだ。 「これは何という魚かね?」  砂上のバケツをのぞこうとすると、子供はあわててじゃぶじゃぶとかけ寄り、バケツの位置を移そうとした。十二、三の男の子で、白い褌《ふんどし》をつけている。 「小父さんは気違いじゃないんだ。安心しなさい」  少年の眼の警戒の色を見ながら、五郎はやさしい声を出した。 「芋焼酎《いもじようちゆう》を飲んだら、踊りたくなったんだ」  少年は思い直したように、バケツから手を離した。五郎と並んで腰をおろした。 「これ、ボラだろう」  五郎は言った。少年は首を振った。しかし五郎にはボラとしか思えなかった。 「ボラだよ」  子供はまた首を振った。濡れた砂の上に指で、ズクラ、と書いた。口がきけないのかな、と五郎は思った。 「ズクラ、というのか。おいしいかね?」  また少年は砂に、ウマイ、と書いた。五郎は突然空腹を感じた。彼は腰にゆわえた弁当の風呂敷を解いた。大きな握り飯が二つ、豚の煮付け、それに縄のようなタクアン、切らずにそのまま入っている。 「君もお握りを食わないか」 「食う」  初めて口をきいた。立ち上ると自分の服を脱いだ場所にかけて行き、小さな平たい板と小刀と、ビニールに包んだ味噌《みそ》らしいものを持って戻って来た。何をするのかと五郎は少年の動作を見守っている。少年はバケツからつかみ出し、頭をはね鱗《うろこ》を落し、内臓を抜いた。あざやかな手付きで三枚におろす。骨は捨てる。四匹を調理し、ビニールの結び目を解く。五郎は驚きの眼で、それを眺めていた。 「それでもう食えるのかい?」  握り飯をひとつ少年に渡しながら、五郎は言った。少年はうなずいて、肉片に味噌をなすって、五郎に差出す。酢味噌がよくきいて、案外うまかった。 「うまいな」  五郎もおかずを差出し、縄タクアンを板の上に乗せた。 「ついでにこれも切ってくれ」  ズクラの刺身と豚煮付けとタクアンで、五郎と少年は並んで食事をした。どれもみなうまい。野天の豪華な真昼の宴だ。縄タクアンの味は、二十年前の記憶にある。これは壺漬《つぼづ》けと言うのだ。薩摩《さつま》半島でつくられ、軍艦や潜水艦に搭載《とうさい》して、赤道を越えても腐らないので、海軍ではこれを全部買い占めてしまった。そんな話を当時五郎は聞いた。微妙な匂《にお》いと味を持つタクアンで、鹿児島の基地にいる時は、三度三度の食事にこれが出た。この味は敗戦の喜びに通じるところがある。食べ終ると彼はほっと息を吐き、煙草に火をつけた。お握りはもちろん、おかずも全部姿を消していた。 「君の家はここらかね?」 「うん」  少年はうなずいた。少年は日焼けして、肌も浅黒かった。眼が大きく、容貌《ようぼう》はきりっと引きしまっていた。 「お父さんは、何してる?」 「町で自動車の運転手をしておる」 「町って、どこ?」 「伊作」 「お母さんは?」 「うちにおる」 「ふん」  彼はこの少年の一家のことを考えていた。 「も少しお酒が飲みたいな。君んちで飲ませてくれないか」  少年は黙っていた。立って服の所に行き、服を着た。もうズクラ獲りはやめる気になったらしい。バケツの中に板と小刀を放り込んだ。五郎は性欲を感じた。少年に対してではない。海や雲や風の中で、自然発生的に浮んで来たのだ。酔いのせいもあった。流木のところであおった焼酎の酔いが、そのまま動かなきゃ暗く沈むところを、チンドン屋の真似をしたり、少年と話を交わしたばかりに、外に発散した。海からの誘惑は、もう消失していた。少年がぽつんと答えた。 「うちは困ッ」 「なぜ?」 「うちは酒屋じゃなか」  それは知っているが、と言いかけて、五郎は口をつぐんだ。少年の家に押しかけて行くべき理由は、何もないのだ。彼はサイダー瓶を防風林へ投げ、弁当の殻や包み紙はまとめて火をつけた。透き通った炎を上げ、すぐに焼け焦げた。物憂くて立ち上る気がしない。 「伊作って遠いのかい?」 「ちっと遠い」 「案内してくれるかね?」  少年はうなずいた。立ち上らざるを得ない。懸声《かけごえ》をかけて立ち上る。入洲に手をつけて、飯粒などをざぶざぶと洗い落す。少年の後について歩き出した。  松林に入る。しばらく歩くと、林の中に大きな縄が置いてある。長さ二十メートルばかり。立ち止って調べると、松根を芯《しん》にして、まわりを藁《わら》で巻いたもので、何のためにつくられ、何のためにここに置かれているか判らない。少年を呼びとめて聞いた。 「これで何をするんだね?」 「綱引き」 「綱引き? 両方から引っぱり合うのか」  少年はうなずく。 「なるほどね」  五郎は答えたが、納得したわけではない。納得したいとも思わない。納得したいという気持は、ずいぶん前から、彼の心の中で死んでいる。五郎は言った。 「ちょっとここで休憩しよう」  少年は不承不承、五郎に並んで綱に腰をおろした。五郎は内ポケットから金を取り出した。百円玉を少年に渡した。 「あそこに茶店があるだろう。ジュースを二本買って来てくれ、咽喉《のど》が乾いた」  少年はちょっとためらったが、五郎は無理に掌《て》に押しつけた。少年が立ち去ると、五郎は自分の在り金を全部つかみ出して勘定した。 「もし伊作に泊るとすると——」  その分をポケットに入れた。残りの金では、とても東京まで戻れない。しばらく掌に乗せたまま、考えていた。 「熊本まで行って、三田村に電報を打って、送金してもらうか」  三田村と言うのは、病院を紹介してくれた友人のことだ。今は画廊を経営している。五郎は熊本で学生生活を四年送ったことがある。三田村はその時からの友人であった。熊本から電報を打つという思いつきは、そこから出た。三田村ならためらわず送金してくれるだろう。学生時代にそば屋だった店があり、二人ともそこによく通い、酒を飲みそばを食べた。それが戦後旅館に転向して繁昌《はんじよう》していると聞いた。女主人とは顔なじみだし、そこから電報を打てばいい。 〈そうだ。丹尾も阿蘇に登ると言っていたな〉  五郎は枕崎までの同行者を思い出した。別に丹尾に再会したいとは思わないが、金が送られて来るまでに、時間がかかるだろう。阿蘇に登ってもいいな、と五郎は考えた。彼は学生時代、二度阿蘇に登ったことがある。しかし二度とも、眺望《ちようぼう》には失敗した。一度は雨で、火口はほとんど視界ゼロで、何も見えなかった。もう一度は晴天だったが、もう直ぐ火口に達する時に小爆発が起きて、火口にいた何百という登山客が、算を乱して急坂をかけ降りた。まるで映画のロケーションみたいだと五郎は一瞬見とれたが、その間にも小さな火山弾が彼のまわりに落ちて来て、ジジッと煙を上げた。 〈しかしほとんど危険は感じなかった〉  と五郎は思う。まだ若くて、生命力にあふれていたのだろう。生命に対して自信があったのだ。今とは違う。  三田村は五郎の良友であると同時に、悪友でもあった。酒色を本格的に教えたのは三田村である。いつだったか、盛り場で酒を飲み、下宿に戻る途中、赤提燈《あかぢようちん》を軒にぶら下げた売春宿があった。それを指して三田村は言った。 「この店にだけは泊るなよ。あとできっと後悔するから」 「なぜ?」 「理由はどうでもいい。泊るなというだけだ」  三田村は同年輩のくせに、へんに老成し、先輩ぶりたがるところがあった。五郎はそれがいやだったし、その時も心の中で反撥《はんぱつ》を感じた。 〈そこは私娼《ししよう》だから、病気を恐れろという意味なのか?〉  それならそうとはっきり言えばいい、と五郎は思った。しかしも一度聞き直すのは、彼の自尊心が許さなかった。それから一週間後、一人で酒を飲み、夜更《よふ》けて戻る時、赤提燈の前を通りかかった。ふと先夜の三田村のもったいぶった言い方を思い出した。一度は通り過ぎたが、ためらいながら元に戻り、油障子を張った引戸をそっと引きあける。寒い夜で、年老いたのと若いのと二人の妓《おんな》が、火鉢《ひばち》に当っていた。二人とも会話をやめ、ふしぎそうな顔付きで、制服姿の五郎を見た。五郎は若い方を指して言った。 「そのひと、あいてる?」 「はい」  女は娼婦らしくなく、小学生のように素直な声を出した。五郎は靴を脱いで、二階に上った。ここに勤め始めて二箇月だそうで、女の体はまだ未熟なように思えた。 「何でここに泊ってはいけないのだろう?」  そのわけは翌朝になって判った。七時過ぎに眼がさめ、服を着て窓をあけた。窓の下を人が通っている。五郎ははっとした。通行人のほとんどが学生であり、彼の同窓生であった。 「なるほど。これは困ったな」  五郎は窓をしめ、また細めにあけた。今朝の坊の宿と同じ姿勢で、妓《おんな》の持って来た茶をすすりながら、道を見おろしていた。道を通る人は前方ばかり注意して、案外上を見ないことに彼は気がついた。背徳と疎外の感じはあったが、別に妙な優越感がやがて彼に湧《わ》き上って来た。お前たちはせっせと蟻《あり》のように登校して行くが、おれはこんなところで一夜を明かしたんだぞ。そんな謂《いわ》れのない優越感で、彼は茶をすすり、煙草をふかしていた。と言っても、今直ぐ堂々と外に出て行く勇気はなかった。優越感といっても、それは若さが持つ虚勢に過ぎなかった。その時通行人の中の一人が、どんなはずみからか、ふっと顔を上にねじ向けた。五郎と視線がぴたりと合ってしまった。  それは五郎が教わっている松井というドイツ語の教授であった。中年にして頭の禿《は》げた小太りの教授で、足をとめていぶかしげに五郎を見ている。今更五郎も顔を引込めるわけには行かない。眼を据えて、松井教授をにらみつけた。時間にすると、二、三秒だったかも知れない。感じからすると、十秒から十五秒くらいに思われた。教授は顔を元に戻すと、すたすたと歩き出した。五郎は荒々しく窓をしめた。  にらみ合いに勝った、という感じは全然なかった。打ちのめされたような敗北感だけがあった。彼は震えながら、女に酒を頼んだ。熱いコップ酒に口をつけながら呟《つぶや》いた。 「不潔なやつだな。あいつは!」  不潔なのは自分であることは、理屈では判っていた。しかし実感としては、教授の方が不潔でいやらしいと思う。教授が窓を見上げねば、不潔感は生じなかった。見上げたばかりに、穢《けが》らわしい感じになってしまった。しかも教授が表情を少しも動かさず、動物園の檻《おり》の中のけものでも見る眼付きだったことが、五郎を一層傷つけた。 〈やはりおれの負けだったんだ〉  太縄の藁《わら》のけばをむしりながら、今五郎は思う。少年がジュースを二本ぶら下げて戻って来た。五郎は受取りながら言った。 「栓抜《せんぬ》きはないのか」 「忘れた」 「だめじゃないか。借りておいで」  そして五郎は言い直した。 「借りて来なくてもいい。向うであけてもらって来いよ」 「栓抜きがなくても、歯であける」  あれは寒い夜で、たしか三学期の初めであった。九時過ぎに赤提燈の裏口から忍び出て、下宿に戻った。  松井教授に対する不潔感は、まだながく残っていた。どうしても教授の講義を聞く気がしない。で、その学期中、五郎は松井の講義に出席しなかった。学期末、五郎はとうとう落第した。実際に点数が足りなかったのか、松井教授が彼を憎んだのか、今もって判らない。もう教授も死んだ筈だし、問いただすすべはないのだ。赤提燈の一件は、三田村にも話さなかった。  少年が歯で抜いたジュースは、なまぬるかった。陽光にさらしていたのか、甘さに日向《ひなた》くささがある。半分ほど飲み、五郎は少年に話しかけた。 「伊作に床屋があるかい?」 「ある」  瓶から口を離して、少年は声を力ませた。 「床屋ぐらいはある!」 「ああ、そうだ」  トラックの荷台の若者との会話を思い出した。伊作の生れだと聞いた。 「近くに温泉があるそうだね」 「うん」  飲み干した瓶を、少年はていねいに松の根にもたせかけた。 「湯之浦温泉」 「近いのか」 「ちっと遠い」  少年は初めて笑いを見せた。 「自動車で行っと直ぐじゃ」  父親の職業を思い出したのだろう。陽を受けて額に汗の玉が出ている。 〈今夜はそこに泊ろうかな〉  五郎は海を見ながら考えた。立ち上ってジュースの残りを砂にぶちまける。 〈床屋に行って、さっぱりして——〉  五郎は流木の方を眺めていた。流木からの足跡がまだ残っている。きちんと並んでいるのでなく、じぐざぐに乱れている。チンドン屋の真似をしたためだ。流木の彼方《むこう》の足跡は、もう定かではない。武蔵野《むさしの》の逃水《にげみず》のようにちらちらと、水がただよい動いているようだ。一帯を鈍い光が射している。太陽は薄い雲の中で、ことのほか巨大に見える。光が散乱するのだ。 「行こう」  五郎は瓶を捨て、少年をうながした。巨大な海と陽に背を向け、二人はゆっくりと歩き出す。    町  熊本の宿で、五郎は女指圧師に揉《も》まれていた。指圧師は二十前後の体格のいい女で、黒いスラックスと白い清潔なブラウスを着けていた。体操学校の生徒のような趣きがある。人なつこい性格なのか、揉みながらしきりに話しかけて来る。  部屋はあまりよくなかった。形ばかりの床の間のついた四畳半。窓をあけても展望はない。床の間には鷹《たか》を描いた宮本|武蔵《むさし》の軸がかけてある。もちろん複製品だ。女指圧師がまず口にしたのは、この部屋の悪口であった。 「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」 「仕方がないんだ」  彼は答えた。 「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」  彼女は揉み始めた。 「お客さんの体は、妙なこり方をしとるとね」 「そうらしいな」  五郎は腹這《はらば》いのまま答える。 「昨夜もそう言われたよ」 「誰から?」 「鹿児島の湯之浦温泉のあんまさんからだ。このあんまさんは、爺さんだったよ」  五郎があんまを頼んだのは、これが生れて初めてである。今まで彼は肩が凝ったという感じを持ったことがなかった。なぜあんまを呼ぶ気になったのか。ハイヤーの運転手に勧められたからだ。その運転手は、ズクラを獲っていた少年の父親だ。  昨日五郎と少年は吹上浜をあとにして、伊作の町の方に歩いた。自動車一台が通れるほどのせまい路《みち》で、両側に畠《はたけ》がひろがっている。少年はしだいに彼に親近感を深めるらしく、自分から進んで、あちこちの風景を説明したりした。いっしょに食事したことが、そんな変化を少年にもたらしたのか。やがて彼は少年を、少年が彼に持つ関心を、うるさく感じ始めていた。  しばらく歩くと、家並が見えて来る。床屋があった。だんだら模様の標識柱はなく、赤い旗が軒に出ているだけである。彼は少年に言った。 「おれはここで髪を刈る。君はもう帰りなさい」 「もっと先い行けば、きれいな床屋があっとに。そん方がよかよ」 「小父さんはここでいいんだ」  彼は強引に床屋に入る。少年は頬《ほお》をふくらまし、彼につづいて土間に足を踏み入れた。どこまでもついて来る気か、と彼は思う。少年は理髪師に声をかけた。 「こんちゃ。漫画本を読ませって下さい」  五郎は理髪台に乗った。髪を刈っている間、少年は背を曲げるようにして、漫画本に見入っている。時々声を立てて笑う。鏡の中のその様子を、彼は警戒の眼色で見ていた。  散髪が終って、台の背が倒され、髭剃《ひげそ》りが始まる。彼はすすけた天井をにらみながら、じっと辛抱していた。彼は床屋がきらいだ。一定時間拘束されるのが、いやなのである。剃刀《かみそり》がじゃりじゃりと音を立てた。剃り終って、背が立てられた。彼はひりひりする顎《あご》を撫《な》でながら、鏡を見る。少年の姿は見えなかった。やっと帰ったのか、と彼は思い、代金を払って外に出た。外には自動車が停《とま》っていた。前の座席から少年が顔を出した。 「小父さん。お父さんの車を呼ん来たど」  車? 車だって? 五郎は軽いめまいを感じ、そばの電柱につかまった。おれはハイヤーを頼んだ覚えはない。自動車で行けば直ぐだと、少年の口から聞いただけだ。何をかん違いしたのだろう。 「さあ。どうぞ」  実直そうな角刈りの父親が、既定の事実のように後部のドアを中から押す。彼は吸い込まれるように、ふらふらと乗ってしまった。 「湯之浦温泉でっね」  返事も待たず車は動き出した。五郎はだんだん腹が立って来た。うかうかと乗り込んだ自分自身に対してだ。 「お客さあ」  運転手がハンドルを切りながら言った。 「湯之浦に泊っとですか?」 「まだはっきり決めてない」 「泊ってあんまを呼んなら、佐土原ちいう爺さんを呼んでやって下さい」 「なぜ?」 「あたしの縁者《ひつぱり》でしてね」  五郎は黙っていた。間もなく湯之浦に着く。黙ったまま、代金を支払った。貧寒な温泉宿の一軒をえらび、部屋に入る。着換えして温泉につかると、あとはもう何もすることがない。焼酎を注文して部屋に坐り、じっと飲んでいる。その彼の心を、遠くから脅して来るものがある。 〈なぜおれが佐土原というあんまを呼ばなくちゃいけないのか?〉  あの少年と浜で出会った時から、妙な段取りがつけられて、うまくそれに乗せられたような気がする。自分の意志と関係のない、何か陰謀めいたものが、煙のように彼を取巻いている。彼はしばらく食膳《しよくぜん》のものをつつきながら考えていた。考えるというより、ともすればこみ上げて来る不安感を、つぶそうつぶそうとしていた。彼は呟いた。 「状態がどうもよくないな」  彼は決然と床柱から背を剥《は》がし、呼鈴《よびりん》を押した。女中がやって来た。 「佐土原というあんまさんがいるそうだね」 「はい。おいもす」 「呼んでくれ」 「はい」  女中は手早に布団《ふとん》をしき、出て行った。あんまはすぐにやって来た。痩《や》せて背が高く、盲目のようである。かんはいいらしく、独《ひと》りで手探りしながら、部屋に入って来た。五郎はあわてて膳を部屋の隅《すみ》に押しやり、布団に寝そべりながら言った。 「ぼくはあんまをとるのは、初めてでね。あんまり無理な揉み方をしないでくれ」 「へ、へへえ」  あいまいな返事をして、老人の指は彼の頸筋《くびすじ》にとりついた。背中を一応揉み終ると、あんまは彼の腕を揉み始めた。 「|妙な凝《スダこ》い方をしておいやる」 「どんな具合に?」  あまり人が凝らないところが凝っていて、緊張している筈《はず》のところがだらんとゆるんでいる。あんまはくぐもった声でそう説明した。 「何《ない》か病気でんしやしたか」 「うん。いや」  あんまというやつは、どうもくすぐったい。くすぐったい反面に、いまいましい感じがある。向うが自由にこちらの体を動かす。こちらの自主的な姿勢は許されない。あんまに奉仕しているみたいだ。それが第一に癪《しやく》にさわっていた。 「病院にしばらく入っていたんだ。ほとんど寝たっきりでね」  心は癪にさわっているけれども、肉体はくすぐったく、笑いたがっている。口も肉体の一部だから、ふつうの声を出すのに苦労をした。笑い声になりそうなのだ。 「はあ。ないほどね」  ずっと寝たきりで、運動といえば病院の廊下を歩く程度で、外出は許されてなかった。それを昨日脱出して、警戒したり力んだりして旅行した。その力んだ部分が妙な凝り方をしたのだろう。全身を揉み終ったあと、老人はまた彼にうつ伏せの姿勢を命じた。彼は枕に顔を当てて、素直にそれにしたがった。背中と腰の間のところが、急に圧迫された。拳《こぶし》や肱《ひじ》でない。もっと大きく、ずしんとした重量感がある。 〈何で押しているんだろう〉  彼はいぶかしく思い、顔を横にして、さらに横眼を遣《つか》って見上げた。するとあんまの顔が、おそろしく高いところに見えた。 「おい、おい。あんまさん」  五郎はつぶれた声で言った。 「お前さん、どこに立ってんだね?」 「お客さあの背中いですよ」 「冗、冗談じゃないよ」  とたんに腹が立って来た。 「おれの背中を踏台にするなら、ちゃんと断ってからにしてくれ。無断でひとの背中に乗るなんて、それがサツマ流か」 「踏台じゃなか。こいも治療の一方法ござす」  あんまはかるく足踏みをした。肋骨《ろつこつ》がぐりぐり動くのが、自分でも判った。 「よか気持でしょう」  そう言いながら、あんまはそろそろと降りた。五郎は憤然と起き上って、寝具の上にあぐらをかいた。あんまは今度は頭の皮膚のマッサージに取りかかった。頭の皮はきゅとしごかれ、その度《たび》に眼が吊《つ》り上る。怒るな、怒るなと、五郎は自分に言い聞かせながら、我慢をしている。やっと全部が済んだ。 「揺り返しが来もんでな、明晩もあんまか指圧師にかかりやった方がよろしゅござんそ」 「揺り返し?」 「揉んほぐした凝いが、また元い戻ろうとすっとござすな。そいをも一度散らしてしも。何《ない》ならわたっが——」 「いや。明晩はここにいない」 「あ。そうござしたな。では次の旅先で——」  そう言いながら、あんまは手をうろうろさせた。 「お客さあ。灰皿をひとつ、貸して下さいもせ」  彼は灰皿を取ってやり、じっと老あんまの動作を見守っていた。あんまは煙草を出し、器用にマッチをつけた。彼は言った。 「あんたは全くのめくらじゃないね」 「はい。右の眼が少しは見えもす。ぼやっとね」  五郎も煙草を出して、気分を落着かせるために火をつけた。 「今日吹上浜に行ったらね、林の中に大きな縄が置いてあった」 「ああ。十五夜綱引のことですな」 「綱引? やはり綱引をするのかい。誰が?」 「皆がです。町中総出で、夜中にエイヤエイヤと懸声をかけもしてな」 「どんな意味があるんだね?」  老若男女が綱をにぎって、エイヤエイヤと引っぱり合う。その夜の情景は髣髴《ほうふつ》と浮んで来たが、にぎやかな和気より、別のものがまず彼をおそって来た。あんまはしずかな口調で話題を変えた。 「お客さあは今日、浜で踊っておいやったそうでござすな」 「なに?」  同じ質問をあんまは繰り返した。 「誰にそんなことを聞いた?」 「運転の人いです。あや、わたっの知合いござしてな」  あんまは煙草をもみ消して、耳にはさんだ。 「踊いもやっとござす。町中総出で」  沈黙が来た。少年が彼の無意味な踊りを見る。髭剃りの途中に伊作まで走り、父親にそのことを報告する。父親があんまに告げ口をする。少年はどんな報告を父親にしたのだろう。父親を儲《もう》けさせるために、車ごと床屋につれて来たのか。 「もういい。いくらだね」  自然ととげの立った声になる。言われた通りの代金を支払う。あんまが出て行ったあと、彼は膳を引寄せ、布団に腹這いになった。 「お節介め!」  彼は呟いた。 「踊ろうと踊るまいと、おれの勝手だ。他人から四の五の言われる筋合はない!」  少年が彼に親しみを見せたのは、いっしょに食事をしたせいではない。秘密を共有したという気持から、彼につきまとったのだ。共有。いや、共有でない。 〈おれの秘密を見たことで、あの子供は妙な優越感を持ったのだろう。おれという大人《おとな》と対等以上の位置に立ったつもりなんだ〉  彼は眼を閉じて、少年の風貌《ふうぼう》を思い浮べた。肌は浅黒く、眼が大きく、頭の鉢《はち》は開いていた。あの大きな眼で、どんな風に彼を眺《なが》めていたのだろうか。酔っぱらいと思ったのか、気違いだと判断したのか。とにかくそのおかげで、ハイヤーに乗せられ、あんまに背中を踏んづけられる羽目におちいった。すべてが誤解の上に成立っている。彼がチンドン屋の真似《まね》をして踊ったのは、秘密でも何でもない。 「なあ。子供よ」  茶碗の焼酎をぐっとあおり、彼は少年の顔を思い浮べながら呼びかけた。 「おれたちはあの時、判り合っていたんじゃないのか。お前は独《ひと》りでズクラを獲り、おれは独りで踊っていた。それだけの話じゃなかったのか」  不安は怒りに移りつつあった。温泉に入ったこと、あんまをされたことで、彼の体はぐにゃりとなり、虚脱し始めていた。しかし感情は虚脱していない。むしろとがっている。彼はのろのろと寝巻に着換えた。膳を廊下に出すと、布団の中にもぐり込む。もぐり込んでも、彼はまだ怒っていた。 「おれは憐《あわ》れまれたくないんだ」  怒りのあまり、布団の襟《えり》にかみつきながら思った。 「憐れむだけでなく、かまってもらいたくないんだ!」  朝早く伊作を発《た》ったので、昼前に熊本に着いた。駅は人の動きや汽笛やスピーカーで騒々しい。駅の構内に入ると、どうして人間はこのように足早になるのだろう。そう思いながら、五郎の足もしだいに早くなる。皆せき立てられた鶏のようだ。肩と肩とが時々ぶつかり合う。  改札を出ると、案内所に寄り、旅館の名を確める。次いで郵便局に寄り、東京の三田村に電報を打った。 『東京に戻るから旅費を送ってくれ』  という意味のもので、旅館の町番地を書き、そこの気付にした。東京に戻る気持は、昨日からきざしていた。この電報を打てば、決定してしまう。それが一瞬彼をためらわせた。 〈しかし電報を打たなきゃ、金はどうする?〉  エイという気合で、彼は窓口に頼信紙を差出した。その足で薬屋に寄り鎮痛剤を買い、駅前のレストランに歩み入る。ビールと料理を注文する。待っている間も、体を動かすとあちこちの筋肉が痛む。昨夜のあんまのせいだ。ビールが運ばれてくる。 「揺り返しか。地震みたいだな」  鎮痛剤を一錠、ビールとともに飲み下しながら、彼は呟《つぶや》いた。 「やはり怒ったのがいけなかったのかな」  怒ると筋肉が緊張する。それが凝りの原因になる。それに今朝《けさ》から何時間も、汽車の座席に体を固定させて来た。そのせいもあるのだろう。昨夜の怒りはまだ完全に収まってはいなかった。レストランの椅子は小さく、安定感がなかった。彼は自分の怒りを確めるように、わざと体の重心を動かしてみる。椅子がそれにつれて、がたりと動く。卓もそうだ。三本脚で立ち、一本脚は浮いている。皆がたがただ。 「つまりおれは、怒りという媒体がないと、世の中に入って行けないのだな」  この論理は間違っていた。世の人間関係に巻き込まれたから怒ったのであって、彼が怒りを持って参加したのではない。五郎はうすうすとそれを知っていたが、前者には眼を閉じ耳をふさぎ、後者に執《しゆう》しようとしていた。  ポークカツを切り刻み、ソースをだぶだぶかける。ビールと交互に口に運びながら、大きな窓ガラス越しに、外を眺めていた。駅舎には相変らず人々が忙しげに出入りし、駅前にはタクシーやバスが着いたり、走り出したりしている。五郎は昔から、駅の雰囲気《ふんいき》は好きであった。各人がお互いにつながりを持たず、自分の目的に向って、ばらばらに動き廻っている。総体的にはまとまりがない。盲目の意志とでも言ったものが、人間をちょこちょこと動かしている。それが彼の気に入っていた。 〈電報を打つのは、早過ぎたかな〉  その考えがちらと頭を通り過ぎる。フォークを皿に置き、コップの残りを飲み干す。ゆっくりと立ち上った。  広場を横切り、駅の前でタクシーを拾った。 「東京屋にやってくれ」  今夜泊る予定の宿屋である。鎮痛剤がきいて来たのか、節々《ふしぶし》の痛みはよほどやわらいで来た。大通りからちょっと横町に入って、車は停る。降りて宿屋の門をくぐる。帳場に行って案内を乞う。四十前後の番頭らしい服装の男が出て来た。 「今夜泊りたいんだがね」  五郎は言った。 「お内儀《かみ》さん。元気かね?」 「お内儀さんって、何じゃろ?」 「そら。ここは昔、そば屋だっただろう。その時の女将《かみ》さんさ」  男は黙って、五郎の頭から足先まで眺めた。職業的な視線でなめ廻した。 「ぼくは久住五郎というものだ。お内儀さんに聞けば、判ると思うが——」 「そりゃムリたい」 「なぜ?」 「うちにゃこれまで何千何万のお客さんが、出入りしなさった。あんたが覚えとっても、お婆《ばあ》さんが覚えちょるとは限らんばい。そぎゃんじゃろ。あんたさんはいつ頃のお客さんな?」 「二十七、八年前、学生時代だ」  五郎はハンカチで額を拭《ふ》いた。 「会えば判ると思うんだがね」 「そぎゃんいうち来るお客さんも、時々おらすばってん、なかなか会えんばい」  眺め廻すのをやめて、男はまっすぐ五郎の顔を見た。どの程度の客か、判定し終ったらしい。 「なぜ? 病気なのかい?」 「うんにゃ。死んなはった。十年ばかり前ですたい」  額をぐいと押された感じで、五郎は黙った。こめかみがびくびく動くのが判る。何で早くそれを言わないのか。やがて男が心配そうに言った。 「気分がわるかと?」 「いや。別に」 「そればってん、顔が——」 「この旅館気付に、東京からわたしに金が送って来る」  ハンカチをしまいながら、五郎はかすれた声を出した。 「それまでここに泊りたいんだ。泊れるだろうね」 「ん。まあね」  気のなさそうな返事をした。 「泊めんのが、商売だもん」  男は手を打って女中を呼んだ。 「お荷物は?」 「あ。今はいいんだ。市内見物をして来るから、部屋だけ取っといてくれ」 「そぎゃんですか。そんならお待ちしとりますけん」  五郎は横町を出て、街路に出る。やはり顔がこわばっている。荷物は持たないし、服もきちんとしていないし、靴もよごれている。上客ではない。言われなくても、自分で知っている。しかしあの番頭の客あしらいは、横柄だ。まるで泊らせないために、応対しているようではないか。 〈金はいくら残っているのかな〉  五郎は感情を制しながら、ポケットに手をつっ込み、指先で勘定した。眼で見ないで、指で数えられるほどの少額である。老練な客引や番頭になると、顔や服装を見ただけで、客の持ち金をほぼ正確に言い当てるという。 「ふん」  五郎は肩を落し、三分間ほど曲り角に佇立《ちよりつ》し、街の様子をにらんでいた。昔よく出歩いた街だが、その頃の雰囲気が残っているような、また見覚えのないような感じがする。度の合わない眼鏡をかけた時の違和と不快がある。これが初めての風景なら、旅情もあるだろうが、過去に翳《かげ》を引いているので、具合が悪いのだ。 〈イヤだな。歩き廻るのはよそうか〉  と思っても、今宿屋に戻る気はしない。  天気はよかった。空気は乾《かわ》いていた。光はあまねく街に降っていた。  ここを離れて、五郎は時々この土地のことを思い出し、また夢にまで見た。それはいつも青春の楽しさや愚行につながっていた。楽しさや愚行に都合のいいように、街の相は彼の頭の中で、修正されているかも知れない。その修正と、現実の街の変貌《へんぼう》が一致しない。それが五郎には面白くない。  五郎は歩いていた。時折立ち止り、ふり返り、周囲を見廻す。追われている感じからではない。町のたたずまいを確めるためだ。追われている、尾行されている感じがなくなったのは、症状が好転したわけではなく、三田村に電報を打ったことに関係あるらしい。自分の居場所を教えてしまった。そのことが不安感をいくらかやわらげている。 〈もうおれは浮浪者ではなく、ヒモつきの旅行者だ〉  入院中に見たテレビの一画面を、彼はふと思い出した。宇宙船から乗員が這《は》い出して、空中を散歩するのである。アナウンサーの解説では、人間史上画期的な瞬間だそうだが、彼にはひどく醜悪なものに見えた。ぶよぶよした貝の肉のようなものから、畸形《きけい》の獣めいたものが出て来る。這い出るのに苦労をするらしく、しきりにもがいている。やっと出て来ると、そいつはへんな動き方をしながら、宙に浮く。彼は視線を外《そ》らそうと思いながら、やはりその時眼が離せなかった。 〈病院からおれが脱出したのも、これと同じではないか。むりをして、もがいて、苦しんで——〉  しかも醜怪なものに変形するという犠牲まではらって、おれは何を得たのか。現実に角を突き合わして、手痛い反撃を受けただけの話だ。  歩いている町のところどころに、はっと記憶をつついて来るような眺めがあらわれる。神社の鳥居とか、質屋の白壁の土蔵とか。そこだけが昔の形のままで残っている。それを取巻く風景には馴染《なじみ》がない。彼は首を傾ける。道筋もすこし変化したらしい。たとえば昔は曲っていた道が、今はまっすぐになっている。さびれていた道がにぎやかになり、魚屋や八百屋《やおや》が店を開いている。 「たしかここらの——」  五郎は用心深く視線を動かした。 「この建物じゃないか?」  大きな赤提燈《あかぢようちん》をぶら下げた売春宿である。もちろん眼の前にあるその|しもた《ヽヽヽ》屋風の二階建てには、提燈はぶら下っていない。でも歩いて来た感覚からして、ここらに建っている筈であった。  しかしそれがかつての宿とは、断定出来ない。彼の記憶に灼《や》きついているのは、特異な提燈の色だけであって、あとは模糊《もこ》としている。二階にはすりガラスの窓があった。その時彼は窓を細目にあけて、道を見おろしていた。そして視線がぴたりと松井教授に合ったのだ。どんなつもりで、教授はその窓を見上げたのだろう。 〈こんな具合に——〉  五郎は立ち止り、二階の窓を見上げる。するとそこに一つの顔があった。出窓に腰をおろして、一人の男が道を眺めている。とたんに視線が合った。すると五郎は呪術《じゆじゆつ》にかかったように、眼が動かせなくなった。顔を上に向けたまま、そろそろ横に動いて、電柱につかまった。  それは学生らしい。もちろん見知った顔ではない。頭髪を長めに伸ばし、上半身は裸である。その顔は初めいぶかしげな表情をたたえ、しだいにとがめるような顔に変って行く。視線をそらすきっかけをうしない、五郎はじっとその変化を見守っていた。 〈まずいな。これは意味ないな〉  こんなやり方で現実と結び合おうとしても、無駄《むだ》だ。それは一昨日坊津で経験ずみのことである。結びつくわけがない。その時ふっと顔は、窓から消えた。 〈降りて来るかな〉  へんな中年男が仔細《しさい》ありげに窓を見上げている。なぜ見上げているか、訊《たず》ねる権利は彼にあるだろう。こちらも応じなくてはならないが、何と答えたらいいのか、と思う。その瞬間、窓にふたたび顔があらわれた。カメラを五郎に向け、シャッターを切った。シャッターの音は、あたりの雑音の間を縫って、まっすぐに彼の耳に届いた。彼はたじろいだ。  めずらしく|かき《ヽヽ》氷屋があった。東京ならもう店仕舞をしている筈だが、ここは南国なので商売がなり立っているのだろう。粒々のガラス玉をつらねたのれんがあり、それを押分けて五郎は入って行った。不機嫌《ふきげん》な声で注文した。 「氷イチゴ!」  また背中のあちこちが痛み始めていた。 「それに、水一ぱい」  痛いというより、熱っぽく疼《うず》いている。水を少女が持って来た。薬を取り出して効能書を読む。(頭痛、歯痛、筋肉痛。一回一錠。一日三回まで)一錠をつまみ出して、水でのむ。そして上衣を脱いだ。やはり暑いのである。 「このすこし向うの——」  店番をしている婆さんに、彼は何気なく聞いた。 「雑貨屋の隣の二階家ね、あの二階に住んでいるのは誰だね?」 「学生さんでっしょ。二人兄弟で下宿しとんなさる」 「ああ。下宿屋か。それなら大したことはないな」  赤い氷を彼は口に入れた。さっきのにらみ合いは、二十秒ぐらいであった。松井教授のもそれくらいだっただろう。松井教授はあの時、あの窓に何を見たのか。もうそれを知るすべはない。ただその結果、五郎はきたないものを踏んづけた気分になり、きりきり舞いをして、落第した。 「お婆さん。ここら空襲を受けなかったのかい」  彼はまた呼びかけた。 「あの家は、昔から下宿屋だったのかい?」 「はい。大水が出ましたもんですけん。そるからあとはずっと変りましたたい」 「大水? 戦前に?」 「いいえ。それがあんた、戦後の昭和——」 「二十八年よ」  少女が補足した。 「六月二十六日」 「ああ。六月です。夜、水がやって来ましたですたい。いや、水じゃなか。泥ですたい。阿蘇ん方で大雨が降って、|よな《ヽヽ》を溶かして流れち来たんですたいなあ。材木やら何やらを乗せて、戸口にあたる。戸が破れち、泥水がおどり込むとですたい。あれよあれよという暇もなかった。戸が破れたと一緒に、もう畳が浮き始めたとですたい。うちはこの子ば抱いち、飯櫃《めしびつ》といっしょに二階に這いあがりました。停電で電気はつきやせん。ラジオも鳴らんごとなった。まっくらやみの中で、ごうごうと水の流るる音、材木が家にぶつかる音」  今のおれには関係ないな、と思いながら、五郎は老女の話に聞き入っていた。老女の話し方には熱がこもっていて、彼の耳をひきつけた。 「そん都度に家が揺れ、梁《はり》がみしみし鳴っとですたい。生きた心地はなかったです。丁度こん子が、小学校に入ったか入らん齢《とし》で——」 「旦那《だんな》さんは?」 「はあ。つれ合いは夕方頃からパチンコに行っとりまして、パチンパチン弾《はじ》いとる中に泥水がどかっと流れ込んで——」 「パチンコ屋にも?」 「そぎゃんですたい。あわてちパチンコ屋ん二階に避難して、そん夜から翌日にかけち、景品の罐詰《かんづめ》ばっかり食べ、咽喉《のど》をからからにして帰って来ました。そんあと水ば五合ばっかり一息に飲みましたと」 「泥水を?」 「泥水が飲めるもんですか。こやし臭《くそ》うして。水道ですたい」 「水道は菊池の方から来るとです」  少女が口を入れた。 「泥水がひいち、水道ん栓《せん》ばひねったら、きれか水がジャーッと出て来ち、あたしゃあぎゃんなうまか水ば、飲んだことはありまっせんと」 「どうしてそんな大洪水がおこったんだろう?」  五郎は最後の一|匙《さじ》を食べ終って、少女に訊ねた。少女は答えた。 「阿蘇ん大雨で流されち来た流木が、子飼橋の橋脚にせき止められち、水の行くとこがのうなって、横にはみ出したとです。大江へんは建物ごとごっそり削られたとです」 「ひどかでしたばい」  婆さんは口をとがらせた。口から泡を吹くような調子で、 「あいからあたしゃリューマチにかかって、まだ直りきらんとです」  十年以上前のことを、老女は昨日の出来事のように熱っぽく語る。その情熱は、どこから来るのだろう。あの建物の二階にいる青年は何者か。それを調べて写されたネガを取戻したい。そう思ってこの店に入ったのだけれども、洪水話に巻き込まれて、その気はなくなってしまった。写したければ、勝手に写したらいいだろう。そんな気になっている。五郎の顔はあの青年にとって、意味も何もありゃしないのだ。 「そいから川幅も広うなりましたもんねえ、子飼橋も鉄骨でつくりかえられました。今度洪水があってん、家は流されてん、橋だきゃ流れんちゅ皆の噂《うわさ》ですばい」 「そうかね」  彼はしばらく白川べりの素人《しろうと》下宿に住んでいたことがある。三十年前のことだ。そこを見る気持になって、彼は立ち上った。 「いくらだね?」  代金を払う。昼食べたのがソースにひたしたポークカツなので、まだ咽喉が乾いている。かき氷は咽喉を冷やしただけで、乾きはとめなかったようだ。彼は道端に赤い唾《つば》をはいた。 〈おれは早く取戻さねばならぬ。何かを!〉  西日が五郎の背中を照りつける。埃《ほこり》っぽい道を、上衣を肩にかけて歩いている。同じような道をいつか通ったことがある。両側は家並でなく、一面の唐黍畠《とうきびばたけ》だ。唐黍畠から犬が這《は》い出して来る。彼の背後から、トラックがやって来て、彼を追い越す。道を横切ろうとする犬をいきなり轢《ひ》く。犬の胴体を轢き、トラックはちょっと速度を落し、また元の速度に戻って走り去る。犬はじっと横たわっている。突然口から赤い血がかたまって流れ出る。手足が痙攣《けいれん》して、ぐっと突っ張る。血のにおいがして、もう彼は歩けない。……  そこには昔の面影は、全然なかった。かつては畠もあったし、樹も生《は》えていた。家もあった。五郎がいた素人下宿は、一番奥で、その先は白川の河原《かわら》になっていた。河原の水たまりから蚊がたくさん発生して、学生の彼をひどく悩ませた。 〈やはり洪水にやられたんだな〉  ここらは割に土地が低いので、河原からあふれ出た泥水が、ものすごい勢いで家を歪《ゆが》めたり、押流したりしたのだろう。 〈道を間違えたんじゃないか〉  その危懼《きく》はあった。だから何度も何度もふり返り、風物を確めながら、ここまで歩いて来たのだ。ほっとひらけた風景は、たちまち彼を拒否した。家も何軒か建っている。プレハブ住宅もある。庭に向日葵《ひまわり》が何本も揺れている。  彼は一歩一歩、河原の方に歩く。途中でつき当った。護岸工事がほどこしてあり、河原には降りられない。気のせいか、川幅もずっと広くなった。護岸の上には、人が落っこちないように、コンクリートのガードがある。五郎はそこに腰をおろして、煙草を取出した。彼がいた下宿の場所も、向日葵が咲いているあたりだと思うが、はっきりは判らない。 「あの女将《おかみ》、まだ生きているだろうか?」  六師団付の軍人に嫁《とつ》ぎ、離縁されて、ここに下宿屋を建てた。どこか色っぽい感じの女で、生きていたらもう五十五か六になっている筈だ。五郎は一番いい部屋を占領し、毎日ノートと教科書をかかえ、インク瓶《びん》をぶら下げて登校した。学校では水泳部に入り、二百|米《メートル》平泳を三分十秒台で泳いでいた。早い方ではなかったが、当時としてはそれでインターハイの予選ぐらいには出場出来た。水泳の練習が済んで風呂に入り、上ると腕や胸の皮膚がぴんと湯を弾《はじ》いた。クラス会などで大酒を飲んでも、宿酔《ふつかよい》をしない。要するに、若かったのだ。彼も三田村も西東も小城も。  五郎は女将から一度だけ誘惑されたことがある。元亭主の軍人が再婚して、披露宴の招待状が来た。そのやり口に腹を立てて、彼女は取乱した。今夜は眠れそうにないというので、彼は勧《すす》めた。 「催眠薬を上げようか」  女将は催眠薬を酒といっしょに飲み、彼を誘惑した。彼は拒否した。 「小母さん。あんたはいつか僕のことを、中途半端な人間だと言っただろう。無理をしないで生きて行けとも言った。お説の通り、おれは無理をしたくないんだ」  今にしてみれば、いくらか残酷で散文的な断り方だったと思う。しかし彼にも言い分はあった。級友の西東という男と、女将は関係を持っていたからだ。——  煙草は乾いた口に不味《まず》かった。いがらっぽく、すぐに吸口が唇《くちびる》に貼《は》りつく。川から吹いて来る風は、泥のにおいがした。  西東はそのためかどうか、落第した。中傷の手紙が行き、西東は熊本に戻らず、私学に入る予定で、東京に赴《おもむ》いた。女将は下宿をたたんで、西東を追っかける。私学に入る前に召集が来て、中国で戦死した。女将は場末のバーの女給になった。その頃再会した。 「あの手紙を書いたのは、あんたでしょ」  女将は酔って彼にからんだ。 「あのおかげで西東は、熊本に戻れず、結局戦死してしまったのよ」 「書きゃしないよ、そんなもの」  彼は驚いて抗弁した。 「君等を引裂いて、おれがどんな得をする?」  結局西東は、犯人が彼であるかないか、半信半疑で出征したという。彼は暗然とした。 〈あそこらの猫の額ぐらいの土地で、おれたちは何をじたばたしていたのか〉  おれの青春はひねこびて小さく、華《はな》やかそうに見えて、裏には悪夢のようなものがぎっしり積み重なっている。向日葵の方向を眺めながら、五郎は考えた。  同級に小城という男がいた。彼にこの下宿を紹介したのは、小城だ。紹介というより、慫慂《しようよう》といった方が正しい。五郎はそれに乗り、一番いい部屋をえらんだ。小城もその部屋を欲しがったが、ついに折れた。小城は言った。 「故郷《くに》から客が来た時、君の部屋を使わせてくれ」 「どんな客だね?」 「身内のものだ」  と小城は答えたけれども、実際にやって来たのは、身内のものでなかった。小学校の女教師で、五郎の部屋で情事がおこなわれた。五郎がそのこまかい経緯《いきさつ》や関係を知る前に、小城はふっと他の下宿に移ってしまった。五郎はその女の顔を見たことがない。障子の|はめ《ヽヽ》ガラス越しに、紫色の袴《はかま》を見ただけである。 「入る時はあんなに頼んでおきながら、おれにあいさつもなく転居した」  それが五郎には面白くなかった。信用出来ないという印象だけが、彼に残った。 〈信用出来ないのではなく、裏切られたという感じだったな〉  五郎は煙草を捨て、ぶらぶらと歩き出した。ここを見る意味はなくなっていた。  戦後小城は、進歩的な学者として、名前を挙げた。二、三年|経《た》って、彼にまとまった金を借りに来た。 「何に使うんだね?」 「家を建てたいんだ」 「まだあの人といっしょかね?」 「あの人って?」 「紫の袴をはいていた女さ」 「ああ」  小城はちょっと顔をあからめた。 「あれは今、ぼくの女房だ」  小城が家を建てるために、なぜおれが金を貸さねばならぬのかと、彼はいぶかった。 「金のことなら、お断りするよ」  五郎は言った。 「そんな金はない」 「そうかね」  小城は別にがっかりした風でもなかった。少壮学者らしく、顔は青白く、額にぶら下る髪を時々かき上げて、むしろ軒昂《けんこう》たる風情《ふぜい》もあった。  私大の教授もしていたし、どこからか金はつくったのだろう。建前の日に招待された。そこで小城の妻の顔を見た。紫の袴を見てから、二十年も経つ。へんてつもない中年の女で、五郎にはもう興味がなかった。それよりも建前の行事、夕暮の空に立つ柱や梁《はり》、その下で汲合《くみあ》う冷酒やかんたんな肴《さかな》、大工の話などの方が面白かった。この日以後、彼は小城と顔を合わせたことがない。  それから数年後、小城はある若い女が好きになった。ある進歩的な出版社から発行される雑誌の編集部につとめる女だ。その女といっしょになるために、小城は妻を捨てた。その話を彼は三田村から聞いた。 「そういう男なんだ。あいつは!」  三田村ははき捨てるように言った。 「あいつは損得になると、損の方を平気で捨ててしまうんだ。エゴイストだね」  五郎は何となく、向日葵の方に歩いていた。向日葵は盛りが過ぎて、花びらが後退し、種子のかたまりが、妊婦の腹のようにせり出している。美しい感じ、炎《も》えている感じは、もうなくなっていた。 「何が何でも!」  終末的な力みだけで、枝が花を支《ささ》えているように見えた。  宿に戻った。番頭らしい男はさっきと同じ表情で、五郎を出迎えた。女中が案内した部屋は、貧しくよごれている。ふだんは布団《ふとん》部屋に使っているのではないか。埃《ほこり》のにおいから、彼はそう推定した。しかし彼は反対のことを、女中に言った。 「いい部屋だね」  彼は皮肉を言ったつもりではない。穴倉のようで自分にはかっこうの部屋に見えたのだ。女中は困った顔になり、返事をしなかった。 「あんまか指圧師を呼んでくれないか」 「御食事前にですと?」 「そうだ」 「聞いち来ますけん」  女中が去ったあと、五郎は壁に背をもたせ、足を投げ出す。筋肉はまた痛みを取戻していた。それはもう怒りとはつながらない。ただの痛みとして、彼の背や肩にかぶさっている。 〈昨日今日とよく歩き廻ったからな。野良犬みたいに!〉  五郎はくたびれていた。昨日のことを考えていた。昨夜のあんまのことから運転手、そして少年のことを考えた。それからズクラのことなども。——少年は悪意をもって彼を遇したのではない。もてなしたのだ。もてなしたついでに、ちょっぴり親孝行をしただけのことだ。疲労の底で、五郎はそう思おうとしている。氷水を食べたあたりから、彼の気分は下降し始めていた。怒りによる上昇は、束の間に過ぎなかった。 〈真底くたびれたな〉  障子をあけて、女中が入って来た。手に宿帳を持っている。 「どうぞ、ここに——」  女中は言った。 「指圧はすぐ来ますばい」  偽名を書こうかと迷う。次の瞬間、彼は三田村のことを思い出した。本名でないと、返事が届かない。彼は本名を記入した。元の姿勢に戻る。 「ズクラ」  と発音してみた。あれはへんな魚だ。よその海で泳いでいると、ボラなのだが、吹上浜に来ると、ズクラになる。実に平気でズクラになる。  戻り道に買った洋酒のポケット瓶の栓をあけた。いきなり口に含む。ポケット瓶を持ち歩くのは、あの映画セールスマンの真似《まね》だ。真似だと気付いたのは、買ってからしばらく後である。彼はすこしいやな気がした。病院にそんな患者が一人いた。相手の動作や言葉を、すぐに真似するのだ。たしかあれはエコーラリイ(反射症状)だと看護婦が教えてくれた。 〈しかしおれは、反射的に真似するんじゃなく、時間を隔てているからな〉  そう思っても、真似をしたことは、事実であった。五郎は落着かない表情で、もう一口あおった。栓をして残りは床の間に立てかける。胃がじんと熱くなる。  やがて指圧師がやって来た。若くて体格のいい女だ。彼はほっとした。昨夜のように陰々滅々なあんまでは、かなわない。女指圧師は入って来るなり言った。 「ひどか部屋ね。物置のごたる。お客さん。よう辛抱出来なさるね」 「仕方がないんだ」  五郎は答えた。 「おれはそんなことに、もう怒らないことにしている」  上衣《うわぎ》を床の間に放り投げる。とたんにポケットから白い貝殻が二、三個、畳にころがり出た。彼はそれを横眼で見ながら、毛布の上に横になった。  妙なこり方をしている。そのことから、湯之浦温泉の話になった。女は話好きらしく、いろんなことを問いかけて来る。背中が揉《も》みほぐされると同時に、酔いが背に廻って来る。やはりくすぐったい。が、昨夜ほどではない。圧《お》し方が素直なのだろう。 「うん。飛行機や汽車に乗ったり、足でてくてく歩いたり——」  彼は身元調べをされるのが、いやであった。いい加減にあしらう口調になる。 「ここに来て、ズクラになった」 「ズクラ?」 「いや。何でもないんだ。おれの故郷《くに》の方言だよ」 「熊本は初めて?」 「うん。いや。昔いたことがある」 「いつ頃?」 「君がまだ生れる前さ」 「ああ。判った。あんたはそん時、兵隊だったとでしょう」 「うん。よく判るね」  彼はうそをついた。 「今日一日、市内のあちこちを歩き廻ったよ。町も変ったね」 「どぎゃん風に?」 「何だか歯切れの悪いお菓子を食べているような気分だったな。ちょっと——」  彼は半身をひねりながら言った。 「言って置くけれど、無断でおれに乗らないでくれよな」 「乗るもんですか。いやらしか」  女は邪慳《じやけん》に彼の体を元に戻した。冗談を言ったと思ったらしい。 「乗せたかとなら、他《ほか》んひとば捜しなっせ」 「そ、それはかん違いだよ」  五郎は弁明した。指圧されながらそう言われると、乗せたい気持がないでもなかった。 「乗るというのは、またがるという意味じゃない。上に立つということだ。湯之浦で、それをやられたんだ。ふと見ると、あんまの顔が天井に貼《は》りついていた」  その時障子がたたかれて、別の女中が入って来た。盆の上に電報と電信|為替《かわせ》が乗っている。五郎は起きて、電報を開いた。 『明日そちらに行くから、宿屋で待機せよ。外出するな』  そんな意味の電文があった。差出人は三田村である。為替の金額は、二万円だ。五郎は二度三度、電文を読み返して思った。 〈はれものにさわるような文章だな〉 「よか部屋があきましたばい——」  老女中は言った。 「お移りになりますか?」  五郎はその問いを黙殺した。電文の意味を考えていた。二万円あれば、もちろん東京に戻れる。それなのに何故《なぜ》三田村は、ここに来ようとするのか。しかも外出しないで、宿で待てという。医者に相談したのか、それとも三田村の意志なのか。 〈御用だ。動くな。神妙にせよ〉  捕吏にすっかり周囲をかこまれたような気もする。眼を上げると、女中の姿は見えなかった。 「今日、子飼橋を見て来た」  彼はかすれた声で言った。 「ずいぶん変ったね。あの橋も」 「洪水のためですげな」 「そう。昔はもっと小さく、幅も狭かった。あちこちに馬糞《ばふん》が落ちているような橋だったよ」 「兵隊の頃?」 「兵隊服を着たおれの姿が、想像出来るかい。橋の上の——」  女の指の動きがとまった。 「出来っですたい。お客さんは将校じゃなかね。兵隊ばい」  にがい笑いがこみ上げて来た。女の指が脛《すね》の裏側を圧し始めた。 「どうしてお客さんの足ゃ、びくびくふるえっとですか?」 「くすぐったいんだ。指圧慣れがしてないからね」  子飼橋のたもとに、中華ソバ屋があった。その主人は、足がびっこであった。ソバはうまかった。 〈あれは何が悲しかったんだろう?〉  学生の彼に悲しいことがあり、彼は悲しみのかたまりになって、熱いソバを食べていた。夜が更《ふ》け、客は彼一人である。主人が店仕舞をしたがっているのは、その動作や表情で判った。だから彼も急いで食べ終ろうとするのだが、食べても食べてもソバは減らない。かえって殖《ふ》えて来る傾きがあった。彼はついにあきらめて、店を出た。寒い夜だ。子飼橋にさしかかった時、左手の方遠くに、赤い火が見えた。阿蘇が爆発していることを、彼は新聞で知っていた。彼は立ちどまる。闇《やみ》の彼方《かなた》の彼方に、二分間置きに、パッと火花が上る。小さな火柱と、落下する火の点々が見える。そして闇が戻って来る。また二分経つと、音もなく火柱が立ち、点になって散る。彼は三十分ほど、爆発の繰り返しを眺めていた。悲しみはそれでも去らなかった。その気分は覚えているが、今五郎はその根源を忘れている。 「今日、子飼橋から、阿蘇が見えたよ」  五郎は低い声で言った。 「空気は澄んでいたし、雲もなかった。山の形も白い煙もはっきり見えた」 「よか天気でしたなあ。今日は」  女は五郎の体を表にした。腹這《はらば》いからあおむけになったので、彼は女の顔や手の動きが見える。鼻の孔の形や色が、妙になまなましく感じられた。こんな角度から女の鼻孔を見るのは、初めてだったので、彼は眼をそらした。 「明日、阿蘇に登ってみようかな」  思わずそんな言葉が口に出た。すると急にそれは彼の中で現実感を帯びた。さっき橋の上から眺めた時、眺めるだけの眼で、彼は山を眺めていたのだが。—— 〈よし。登ってやる!〉  三田村の電報が、底にわだかまっている。気合としては昨夜の温泉で、あんまを呼ぶために、呼鈴を押した感じに似ていた。しかし呼鈴を押したばかりに、妙な段取りが完成した。 「そぎゃんですか。そぎゃんしまっせ。明日もよか天気ですけん」 「保証するのかい」 「保証しますたい」  女は笑いながら、彼の肋骨《ろつこつ》を一本一本押えた。スラックスに包まれた厚ぼったい膝《ひざ》が、彼の脇腹《わきばら》を自然と押す形になる。その感覚に自分をゆだねながら、彼は三田村のことを考えていた。 〈あいつは明日来るというが、何で来るのだろう。飛行機か、それとも汽車か〉  背中より肋《あばら》の方がくすぐったかった。 「ここの空港は、どこにあるんだね?」 「水前寺の先、健軍ちいうところですたい」 「健軍? 昔は陸軍の飛行場じゃなかったかな」  名前に覚えがある。彼は海軍暗号なので、健軍からの直接の通信はなかったが、電文に時にその名が出て来たような気がする。陸軍の特攻隊はここらを中継地にして、知覧に飛んだのだろう。今はそれが民間航空の空港になっている。 「朝八時半か九時に羽田を発《た》つと、午前中に着くね」 「はい。熊本駅まで三十分ぐらいの距離ですけん」  三田村はああいう性格だから、やはり飛行機でやって来るだろう。 「友達が迎えに来るんだ。おそらく午前中にね。その前に登らなきゃ——」 「友達?」  女は立って足の方に廻り、彼の膝を曲げ、胸に押しつけたり伸ばしたりする作業を始めた。それはかなり刺戟《しげき》的な運動であった。 「そんなら友達といっしょに登ればよかじゃないですか」 「そうは行かないんだ。あいつはすぐおれを、東京に持って行く」 「持っち行く?」  女は妙な顔をした。 「まっで荷物んごだんね」 「荷物だよ。おれは」  饒舌《じようぜつ》になっている、と自分でも思う。女は彼の体をまた裏返しにした。 「足ん裏ば踏んじゃろか。サービスですたい」  五郎の足裏に、しめった女の足が乗った。初めはやわらかく控え目に、つづいて全体量をこめて、交互に動いた。女の厚ぼったい足に接して、彼は自分の蹠《あしうら》がスルメみたいに薄く、平たいことを感じる。それ故《ゆえ》にこそ、なまなましい肉感が彼に迫って来た。 〈こんなものだ〉  彼は声にならないうめきを洩《も》らしながら思う。渇仰に似た欲望が、しずかに彼の体を充たして来た。 〈こんなに厚みがあって、ゆるぎなく、したたかなもの——〉 「お客さん。足がえれえ弱っちょるね。もうすこし足ばきたえなっせ」 「だから明日は山に登るんだ」 「ちゅうばってん、阿蘇は頂上まで、バスが行くとですよ」  女は足から降りた。 「そんなにかんたんに行けるのか。では、火口を一廻りする」  五郎は正座に戻り、女の顔を見た。 「君もいっしょに行かないか。どうせ昼は暇なんだろう」 「暇は暇ですばってん——」  女は彼の背後に廻った。頭の皮膚を押し始めた。佐土原あんまと同じやり口である。頭の皮は動いても、頭蓋骨《ずがいこつ》は動かない。皮と骨の間に漿液《しようえき》か何かが、いっぱいつまっているらしい。それが皮をぶりぶり動かせるのだ。 「汽車の切符も弁当も、用意しておくよ」  女はしばらく黙っていた。すこし経って、 「悪かことば聞いてんよかね?」 「いいさ」 「お客さんはお金ば持ち逃げしたとでしょう」  五郎の眼はつり上った。自分でつり上げたのではなく、女の指の動きで、自然にそうなったのだ。 「よく判るね」  皮膚の動きが収まって、彼はやっと口をきいた。今度は女の指先があられのように、頭皮に当った。 「どうして判る?」 「かんですたい。月ん一度くらい、そぎゃん人にぶつかりますばい。特徴はみんな齢のわりに、足の甲が薄かですもん」 「そうか。拐帯者《かいたいしや》の足は薄いか。いい勉強になったな」 「そいで明日、同僚か上役の人が迎えに来っとでしょう。まっすぐ帰った方がよかね。阿蘇にゃ登らんで」  得意そうな、言いさとすような声を出した。彼はその声に、ふと憎しみを覚えた。 「だから登るんだよ」 「なして?」 「最後の見収めに。いや、最後はまずいね。他に何か言葉が——」 「しばし別れの——」 「うん。そうだ」  女の笑いに和そうと思ったが、声には出なかった。指のあられはやんだ。指圧はこれで終ったのだ。  五郎は上衣を引寄せ、紙幣とともに、鹿児島で買った時間表を取出した。 「九時半の準急があるな。これにしよう。切符売場で待っている」    火  九時三十四分の準急。ぎりぎりまで待ったが、女は来なかった。五郎は風呂敷包みを提《さ》げ、決然と改札口を通った。座席はわりにすいていた。汽車は動き出した。 〈やはり来なかったな〉  弁当二人分が入った包みを網棚《あみだな》に乗せながら、五郎は思った。失望や落胆はなかった。来ないだろうという予想は、今朝《けさ》からあった。ぱっとしない中年男と山登りして、面白かろう筈《はず》はない。 〈しかも拐帯者と来ているからな〉  昨日の指圧の後味は悪くなかった。自分が自分でない男に間違えられた。つまり本当の自分は消滅した。彼は自分が透明人間になったような気分で、夜の盛り場を歩き廻り、パチンコをやったり、ビヤホールに入ったりした。街の風景は、昼間と違って、違和感はなかった。そして宿に戻る。部屋は上等の方にかわっていた。ぐっすり眠った。  今朝眼が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。 「化けおおせたことが、そんなに嬉《うれ》しいのか?」  彼は顔を洗い、むっとした顔で朝食をとった。食べながら、女中に弁当を二人分つくることを命じた。阿蘇に登るのももの憂い。計画を中止して、ここでじっと待とうか。そうしたいのだが、女指圧師が駅で待っているかも知れない。おそらく来ないだろうと思うが、約束した以上、駅まで行かねばならぬ。  駅まで行った。とうとうすっぽかされたと判った時、よほど宿屋にこのまま戻ろうかと考えた。が、ついに決然と乗ってしまった。坐して迎えを待つのは、やはりいやだったのである。  彼は窓ぎわに腰をおろし、外の景色を眺《なが》めていた。しばらく平野を走り、しだいに高地へ登って行く。右側に時々白川が見える。大体白川に沿って汽車は走っているらしい。発電所が見え、大きな滝が見え、火山研究所の建物が見える。天気は昨日につづいて好かった。風もない。阿蘇中岳の火口から、白い煙が垂直に上っている。  昨夜の一時的の躁《そう》状態(と言えるかどうか)の反動で、五郎の気分は重く淀《よど》んでいた。彼は脱出した病院のことを考えていた。電信柱もチンドン屋も大正エビも、相も変らずベッドに寝そべっているだろう。いなくなった五郎のことなど、もう忘れたかも知れない。彼は今一番興味をもって思い出せるのは、診察室や廊下で顔を合わせるエコーラリイの患者である。その男はまだ三十にならぬ青年だ。病人は多少とも卑屈になり、おどおどした態度を示すものだが、その青年はその気配は微塵《みじん》も見せなかった。昂然《こうぜん》として廊下をまっすぐ歩くのだ。 〈あれはうらやましいな。無責任で〉  医師や看護婦から、病状の質問を受ける。たとえば、 「昨夜はよく眠れたかね」  すると青年はすぐ言い返す。 「昨夜はよく眠れたかね」  何を訊《たず》ねても、同じ言葉を返すだけだ。壁を相手にして、ピンポンをやる具合に、同じ球がすぐに戻って来るのである。動作も同じだ。そっくり相手の動作を真似る。  答弁するということは、責任をもってしゃべることだ。その青年は答弁をしない。責任を相手に投げ返すだけだ。すべての責任から逃《のが》れている。エコーラリイというのは、病気の本体ではない。症状なのである。その症状がちょっとうらやましい気がするのだ。  一時間余りで、阿蘇駅に着いた。  駅前はごたごたしている。土産《みやげ》物屋《ものや》や宿屋や、歓迎と書いた布のアーチまで立っている。阿蘇駅が坊中と言っていた時は、もっと素朴で、登山口らしい趣きがあった。 〈なぜおれは阿蘇に登るのか?〉 〈登らなくてはならないのか?〉  五郎はその理由を忘れている。確かにあった筈だが、どうしても思い出せない。睡眠療法を受けると、記憶力がだめになるのだ。それは療法を受ける前に、医師に告げられていた。  バスは八割ぐらいの混み方であった。彼は後部の座席に腰をおろす。バスガールが説明を始める。うねった道がだんだん高くなり、景色が開けて来る。放牧の牛の姿が、ところどころに見える。  草千里《くさせんり》というところで、ちょっと停車した。 〈あれは映画セールスマンじゃないか〉  そう気がついたのは、そこを発車してしばらく経《た》ってからである。その丹尾らしい男は、前から三番目の席に坐っていた。坊中からいっしょだったのか、草千里から乗って来たのか、よく判らない。うつむき加減の姿勢で、時々頭を立てて、景色をきょろきょろ見廻す。黒眼鏡をかけている。五郎は視線を網棚に移した。見覚えのある小型トランクが、そこに乗っていた。 〈なぜ丹尾が阿蘇へ——〉  彼はいぶかった。しばらくして思い出した。鹿児島から枕崎へのハイヤーの中で、丹尾がそんなことを言っていた。すると丹尾は鹿児島での商取引は済ませたのか。五郎はじっと丹尾の様子を眺めていた。丹尾は洋酒のポケット瓶《びん》を取出し、一口ぐっと飲んで、またポケットにしまう。貧乏ゆすりをしている。何だか落着きがない。——  バスの終点でぞろぞろ降りた。かなり広い待合所がある。そこからケーブルカーが出る。壁にかかった大きな時間表の前に立ち、丹尾は見上げていた。五郎は近づいて、うしろから肩をたたいた。丹尾はぎょっとして振返った。 「あ!」  丹尾は黒眼鏡を外《はず》し、とんきょうな声を立てた。丹尾の体から酒のにおいがぷんぷんただよっている。五郎は言った。 「また逢《あ》ったね」 「あんた、まだ生きてたんですか?」  君はまだ生きていたのか、と彼は反問しようと思ったがやめた。 「生きているよ。おれに死ぬ理由はない」 「では枕崎でぼくをすっぽかして、どこに行ったんです?」 「坊津に行ったよ」 「おかしいな」  丹尾は首をかしげた。丹尾の顔は疲労のためか、酔いのせいか、四日前にくらべると、すこし憔悴《しようすい》し荒《すさ》んでいた。 「坊津の宿屋に電話したんですよ。するといなかった」 「電話のあとに到着したんだ。面倒だから、君んとこに連絡しなかった」  丹尾は返事をしないで、彼の顔をじっと見ていた。少し経って、かすれた声で言った。 「散髪しましたね。しかしあんたはなぜ東京から、枕崎くんだりまでやって来たんです」 「君には関係ないことだよ」  以前にも同じ質問を受け、同じ答えをしたような気がする。 「君はケーブルカーに乗るんだろ」 「どうしようかと、今考えているところです」  丹尾はトランクを下に置いた。 「来る時の飛行機のことを考えていたんですよ。何だか乗りたくない気がする」 「ケーブルが切れて墜《お》ちることかね?」  五郎は言った。 「君には覚悟が出来てたんじゃなかったのか。いつでも死ねるという——」 「そ、そりゃ出来てますよ」  丹尾は憤然と言った。自尊心を傷つけられたらしく、顔に赤みがさした。 「じゃケーブルに乗りましょう」  ケーブルカーに乗り込む時、丹尾はたしかに力んでいた。必要以上に肩や手に力を入れ、トランクを抱いたまま、眼をつむっている。ケーブルカーの下の土地には、もう緑は見えず、一面|茶褐色《ちやかつしよく》の岩や石だけである。  終点についた。丹尾は全身から力を抜き、彼といっしょに降りた。火口はすぐである。火口壁の近くに立った時、さすがに五郎も足がすくんだ。  火口壁はほとんど垂直に、あるいは急斜面になっていた。色は茶褐、緑青《ろくしよう》、黄土などが、微妙に混り合い、深く火口に達している。眼がくるめくほどの高さだ。風がないので、白い煙やガスがまっすぐに立ち昇っている。たぎり立つ熱泥が見える。眺めていると、体ごと引込まれそうだ。丹尾はひとりごとのように言った。 「自殺者にはあつらえ向きの場所だ」  五郎は黙っていた。 〈なぜこの男は、おれと自殺とを結びつけようとするのだろう〉  羽田を発つ時から、丹尾はそう決めてかかっていた。度々《たびたび》訂正をしたのに、その考えを捨てていない。それが彼には解《げ》せなかった。 「馬はどうです?」  馬子が馬をひいて近づいて来た。 「火口を一周しますよ」  五郎は手を振って断った。四、五歩後退しながら、丹尾に言った。 「弁当を食べないか?」 「弁当?」  いぶかしげに丹尾は反問した。 「弁当、持ってんですか?」 「持ってるよ。二人前」  彼は風呂敷をといた。中から折詰がふたつ出て来た。丹尾はあきらかに驚愕《きようがく》した。 「ぼくの分もつくって来たんですか?」  彼は返事に迷った。女指圧師のことをしゃべるのは、面倒であり、重苦しくもあった。 「そうだよ」  少し経って彼はうなずいた。 「ひとつは君の分だ」 「ど、どうしてぼくが——」  丹尾はどもった。どもって、絶句した。  火口が見える小高い場所で、丹尾はトランクに腰かけ、彼は平たい岩に腰をおろした。弁当を開き、丹尾はポケット瓶を出してあおった。そして瓶を彼に突出した。 「どうです。いっぱい」 「いや。おれも持っている」  彼はポケットから自分のを取出した。蓋《ふた》に注《つ》いで二杯飲んだ。丹尾はその動作をじっと見ていた。自分の瓶の残りを飲み干した。そして視線を下に向けた。 「これ、駅弁じゃないね」  丹尾の言葉は、とたんにぞんざいになった。 「駅弁にしては、豪華過ぎる」 「君はずいぶん酔っぱらってるね」 「酔っちゃいけないかね」 「そりゃいいけどさ。この弁当は宿屋につくらせたんだ」 「どこの?」 「熊本」  五郎が食べ始めるのを見て、丹尾は安心したように箸《はし》をとる。ちらちらと景色を見ながら食べる。 「どうもいけないね」  丹尾は箸を置きながら言った。 「どうもあの穴を食べそうな気になる」  彼もさっきから同じような気がしていた。穴というのは、火口のことだ。あんまり雄大なので、ふと距離感がなくなり、弁当のおかずと同じ大きさに見えるのである。丹尾は景色に背を向け、口を開いた。 「ねえ。賭《か》けをやりませんか?」 「賭け?」 「ええ。金の賭けですよ」  顔が赤黒く染まり、手がすこし慄《ふる》えている。 「ぼくは火口を一周して来ます」 「どうぞ」 「それでだ」  弁当の残りをトランクにしまいながら、丹尾は言った。 「一周の途中に、ぼくが火口に飛び込むかどうか——」 「それを賭けるというのか」 「そうです」  五郎はめんくらって、ちょっと考えた。突然体の底から、笑いがこみ上げて来た。 「君は自分の生命を賭けようとするのか?」 「笑ってるね」  丹尾はふしぎそうに彼の顔を見た。 「あんたと知合ってから、声を立てて笑うのは、これが初めてだよ」  五郎は笑いやめた。しかし笑いは次々|湧《わ》いて、彼の下腹を痙攣《けいれん》させた。 「しかし——」  彼は下腹を押えながら言った。 「賭けが成立するかなあ。君が死ぬ方におれが賭けるとする。すると君は飛び込まないで、戻って来るだろう」 「じゃ生きる方に賭けちゃどうです?」 「それでいいのか。君が飛び込むとする。君は賭け金を取れないことになるな」 「ええ。だからぼくが両賭け金を預って、出かける。ぼくが飛び込めば、賭け金も飛び込んで、パアとなる」 「なるほど」  なぜ丹尾がそんな賭けを提案したのか、彼にはよく判らなかった。わけを聞きたい気持も、別段なかった。ただなにものかが彼から離れ、丹尾に飛び移ったらしい。しかしそのことが笑いの原因ではない。笑いは笑いとして、独立に発生した。丹尾は言葉を継いだ。 「もしぼくが戻って来れば、賭け金の全部をあんたに差上げる」  彼は頬杖《ほおづえ》をつき、すこし考えて言った。 「賭けの金額は、いくらだね?」 「五万円でどうです?」 「五万? そんなに持ってない」 「いくら持ってんですか?」 「二万円」  三田村から送って来た金である。今朝現金にしたばかりだ。 「二万円?」  丹尾はがっかりした表情を見せた。その瞬間、丹尾の中にある死への意志を、彼はありありと嗅《か》ぎ取った。 〈こいつは賭け金を、飛び込むスプリングボードにするつもりだな〉  おめおめと一周して戻れば、丹尾の五万円は彼のものになる。セールスマンという職業で、五万円のただ取られは痛い筈であった。 「いいでしょう。二万円」  丹尾はあきらめるように言った。 「じゃ二万円、出しなさい」 「出すけれどね、おれはそれほど君を信用していないんだ」 「どういうことですか?」 「君に預けると、君は飛び込まないで——」  彼は根子岳の方を指した。 「あの山の方に逃げて行くかも知れない。するとおれは金を詐取されることになる」 「そんなに信用がないのかなあ」 「では君は、おれを信用しているのか?」  丹尾は五郎の顔を見て、黙り込んだ。五郎はしばらく風景を見ていた。彼等二人のすぐ傍《そば》を、見物人が通り、また写真を撮《と》ったりしている。見物人たちは、ここで二人の男が何を相談しているのか、全然知らないのだ。笑いがまたこみ上げて来るのを、彼は感じた。 「よろしい。いい方法がある」  丹尾はトランクを開いて、鋏《はさみ》を取出した。そして内ポケットから、一万円紙幣を二枚つまみ出した。五郎の出した二枚の紙幣と重ねる。縦にまっ二つに切った。切り離した半分を、彼に戻した。彼は黙ってその動作を見て、受取った。 「これでいいでしょう。これであんたの二万円も、ぼくの二万円も、使いものにならなくなった」  残りの半分を丹尾は内ポケットにしまい、上衣をぱんぱんと叩《たた》いた。 「いっしょにつなぎ合わせれば、四万円として使える。そうでしょ。飛び込めばパアとなる。逃げ出しても、ぼくはこれを使えない」 「半分あれば、日本銀行に持って行くと、一枚として認められるんじゃなかったかな」 「冗談でしょう。半分が一枚に通用するなら、世のサラリーマンは自分の月給をじょきじょき切って二倍にして使うよ」 「それもそうだね。君が逃げ出すと、両方損だ」  丹尾はゆっくり立ち上った。トランクを持ち上げる。 「トランクも持って行くのかい?」 「ええ。何も持たないと、自殺者と間違えられる」 「だって自殺するんだろう」 「自殺するとは言いませんよ」  丹尾はきっとした眼で、五郎を見た。 「火口を一巡りして、自分がどんな気持になるか、知りたいだけですよ。二万円でそれが判れば、安いもんだ」 「そうか。そうか」  五郎は合点合点をした。 「ではここで待っているよ」  丹尾は彼に背を向け、歩き出した。火口の左に進路を取る。五郎は弁当の残りを食べながら、その後姿を見ていた。 〈あいつ、弁当の残りを詰めて行ったが、トランクもろとも飛び込むつもりかな〉  後姿がだんだん小さくなって行く。動悸《どうき》がし始めたので、彼はあわてて弁当を捨て、小瓶の酒を飲む。掌に汗が滲《にじ》んで来た。  五郎の視野の中で、もう丹尾の姿は豆粒ほどになっている。突然それが立ちどまる。火口をのぞいているらしい。また歩き出す。  五郎は小高い場所からかけ降りた。あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという危懼《きく》が交錯して、五郎をいらいらさせている。火口の縁《ふち》に、有料の望遠鏡がある。五郎はそれに取りついて、十円玉を入れる。もう丹尾は半分近くを廻っている。  無気味なほど鮮《あざ》やかな火口壁が、いきなり眼に飛び込んで来た。五郎は用心深く仰角を上げる。二度三度左右に動かし、やっと丹尾の姿をとらえる。丹尾は歩いている。立ち止って、火口をのぞく。その真下に噴火口がある。五郎は望遠鏡を下方に移す。壁は垂直に火口から立っている。火口には熱泥がぶくぶくと泡立っている。 〈あそこに飛び込めば、イチコロだな〉  眺めているのが苦痛になって来たので、彼は荒々しく望遠鏡を上げる。高岳や根子岳、外輪山、その果てに遠くの山脈が重なり合っている。その上にすさまじい青さで、空がひろがっている。時間が来て、まっくらになる。五郎はまた十円玉を入れた。ふたたび視野に、丹尾の姿が戻って来た。  丹尾はトランクを下に置き、それに腰かけていた。ハンカチで汗を拭《ふ》いている。拭き終ると、立ち上る。トランクを提げて歩き出す。くたびれたのか、足の動きが緩慢だ。ちょっとよろよろとした。石につまずいたのだろう。丹尾を見ているのか、自分を見ているのか、自分でも判らないような状態になって、五郎は胸の中で叫んでいる。 「しっかり歩け。元気出して歩け!」  もちろん丹尾の耳には届かない。また立ちどまる。汗を拭いて、深呼吸をする。そして火口をのぞき込む。……また歩き出す。……立ちどまる。火口をのぞく。のぞく時間が、だんだん長くなって行くようだ。そしてふらふらと歩き出す。—— [#地付き](昭和四十年六・八月『新潮』)   この作品は昭和四十九年二月新潮文庫版が刊行された。