TITLE : ムッソリーニを逮捕せよ 講談社電子文庫 ムッソリーニを逮捕せよ   木村裕主 著   目 次 序 章 第一章 ローマ・一九四三年初春    チアーノ外相のクモの糸    「ナチ・ドイツとの同盟」は誤算!    カステッラーノ、参謀本部入り    クモの巣の一本の糸が…… 第二章 「こんな戦争止めてしまえ!」    アンブロージオ、参謀総長に    統帥逮捕の計画始まる    カステッラーノに計画立案指示 第三章 大いなる転機    連合軍のシチリア上陸    首都ローマに初空襲    国王、統帥の解任を決意 第四章 統帥、失脚から逮捕へ    運命のファシズム大評議会    突然の逮捕計画変更    「逮捕完了!」 第五章 バドリオ内閣と休戦交渉    統帥解任に狂喜する国民    連合国との接触開始    連合国は的確に情報収集 第六章 緊迫の長い旅    カステッラーノ、密命に発つ    まずホーア大使と会見    連合軍高官と遂に接触 第七章 休戦への苦難の道程    血を吐く思いの長い一日    「無条件降伏」持って帰国    国王、遂に「休戦」のむ 第八章 オリーブ林の天幕    カステッラーノ、再度折衝へ    休戦受諾の方向へ——    アイクと初めて対面 第九章 悲願の休戦に署名    再度オリーブ林の敵陣営に    共同作戦計画を練る    休戦発表は十二日? 第一〇章 カステッラーノの悲涙    アメリカ軍密使ローマ潜入    震撼する九月八日    緊急御前会議で断    ヴィーヴァ・ラ・パーチェ! 第一一章 イタリア敗れたり!    内戦を危惧する民衆    国王らローマを脱出    ドイツ軍、ムッソリーニを救出 第一二章 悲劇と栄光と    南北に二つの政府    パルティザン、各地に蜂起    バドリオ、「無条件降伏」に調印 第一三章 果しなき十字架    一年ぶりに本国帰還    あらぬ幾つかのぬれぎぬ    ローマでカルボーニら糾弾 第一四章 カステッラーノの遺書    自ら真相究明に乗り出す    正しかったカステッラーノの進言    遺書「破滅のローマ」 終 章    退役させられていた将軍?    さまざまな評価    あとがき    文庫版へのあとがき    主要参考文献 序 章  本書は第二次世界大戦中、「イタリアとその国民にとって、この戦争は何の意味もない。不幸をもたらすだけだ。やめた方がよい」と休戦実現に献身したイタリア軍参謀本部の若き将軍の行動についてのドキュメンタリーである。  一九四三(昭和十八)年。それは第二次世界大戦(一九三九—一九四五年)のさなかであった。その年の九月八日、日本、ドイツ、イタリアのいわゆる「枢軸」の一員としてアメリカ、イギリスなど連合国と戦っていたイタリアが突如、連合軍との休戦を発表、戦列を離れた。軍国日本政府はこのイタリアを「裏切者」呼ばわりして非難を繰り返した。その一方で「日本は神国であり、必ず勝つ。弱いイタリアのように敗けることは絶対ない!」と、戦時下の日本国民を叱咤激励した。国民の多くもそう信じた。  この第二次大戦の主要交戦国は、イタリアのファシスト独裁者ムッソリーニ首相が命名した「枢軸」三国と、アメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連などを主力としたいわゆる「連合国」である。もちろんこのほかにも多くの国々が、そのどちらかに加わって参戦、世界地図をほぼ二分しての史上最大の戦争であった。地球は焼け焦げたのである。  しかもこの一九四三年という年は、大戦の帰趨を決する重大な年であった。枢軸側は緒戦に連勝していたものの、連合国側の巨大な資源力による猛反撃に圧倒され、戦局逆転! の局面を迎えつつあった。民主主義政治が、軍事独裁政治に優位することを立証しつつあった時でもある。  日本はその十年以上も前の一九三一(昭和六)年から、満洲事変以来のいわゆる「十五年戦争」で、中国大陸侵攻に続いて東南アジアにも進出していた。私は幼年時代から国を挙げてのこの戦時色の中で育った。一九三七(昭和十二)年に支那事変と呼ばれた日中戦争が始まるとすぐ、サラリーマンであった私の父は召集令状を受けて北支に出征、やがて下顎部に戦傷を受けた。幸い九死に一生を得て東京に転送され、長期間、陸軍病院に入院していた。そのため私の少年時代は、母子家庭同然であった。  その頃、ヨーロッパではスペイン内戦が起り、イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラーの“大政治家”ぶりが、日本の新聞には連日のように大きく報道されていた。一九三六年十月、このイタリア、ドイツ両国は友好協力同盟を結んだ。ムッソリーニはイタリア国民に向けての演説でこの同盟を「ローマ・ベルリンASSE《ア  ツ  セ》(枢軸)」と呼び、「世界は今後、この枢軸を中心に動くであろう」と叫んだ。これが現代史における「枢軸」という政治・外交用語の発端となったのである。  この年十一月には「反共主義」の旗の下に、日本とドイツの「防共協定」——反共産主義同盟——が結ばれた。当時の日本軍国主義者とナチスとの合作であった。一年後、ドイツと同盟関係のイタリアが加わる。一九四〇年には、この枢軸三国の関係が軍事同盟へと発展して行く。  その軍事同盟成立の時、東京はじめ日本の主要都市で、三国同盟を祝う祝典が盛大に開かれた。その頃すでにドイツの行進曲やイタリアのファシスト党歌などが連日、ラジオ放送されていた。私もそれらを自然に口ずさむほどになっていた。中学生の私にとっては、これはまたヨーロッパへの関心を育まれるきっかけでもあった。例えば、ローマで獅子吼《ししく》するムッソリーニの新聞写真をみて、さすがに陽光の強い南欧だけあって、光と影の明暗がくっきりと浮び、なるほどイタリアは「太陽の国」なんだなと想像をめぐらしたりした。後年、幾度もイタリアに暮して、この少年時代の印象を実感としてとらえるとは、当時、夢にも思わなかった。またナチ・ドイツからヒットラー・ユーゲント(青少年団)が来日、黒白のニュース映画にうつる彼らアーリアン民族の金髪が白光りするのに強い印象を受けたものであった。  一九四一(昭和十六)年アメリカやイギリスと開戦した日本では、目の色が青いアングロサクソンは視力も弱く人種的にも劣等であるなどと言う者も出て来た。群馬県の私のいた中学校校長も時々そのようなことを朝礼で語った。「では、ドイツのあの空色の目をした青少年達も劣等民族なのか?」などと、人にはいえない疑問を感じたものであった。  そのヒットラーのドイツ軍が、一九三九年九月一日、ポーランドに電撃的侵攻、これに対してイギリス、フランスがドイツに宣戦し、欧州でも戦火が拡がった。第二次世界大戦の開始である。ドイツ軍はまたたく間に、中立を表明したベルギーを占領、同時にオランダ、フランスに進撃し、向うところ敵無しの快進撃を続けた。  イタリアのムッソリーニ首相は当初、傍観の態度だったが、同盟国という建前からも、またドイツの連戦連勝に遅れをとるまいとして一九四〇年六月十日、イギリス、フランスに宣戦した。フランスはドイツ軍に敗れて休戦したのに続き、イタリア参戦二週間後には、イタリアとも休戦に調印した。イタリアはその前後、バルカン半島、北アフリカにも進撃する。  日本の対アメリカ、対イギリスらへの宣戦は、いわゆるABCDライン(アメリカ、イギリス、中国、オランダ諸国による対日経済包囲網)による圧力から活路を求めるためとされていた。日本海軍は一九四一(昭和十六)年十二月八日、ハワイのアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃して大戦果を挙げた。同時に、イギリス領マレー半島に次いで、フィリピンにも上陸を敢行、前進を続けて戦場を一気に拡大した。  日本中で旗行列や提灯行列などが繰り広げられ、戦勝を祝賀、私も幾度かこれら行列に加わった記憶がある。同盟国イタリア、ドイツも十二月十一日にはアメリカに宣戦、日本の友邦としての絆《きずな》を示した。  すでに一九四〇年六月には、ドイツ軍はパリに入城、翌四一年六月、東部戦線ではソ連国境を突破して一路首都モスクワを目指していた。イタリアもエジプトに進撃、さらにソ連に宣戦してドイツ軍と共にウクライナ方面に軍を進めた。日本も「大東亜共栄圏」と名付けた南方諸地域への進出は目ざましく、しばらくは枢軸側はこぞって戦勝を謳歌していた。  一九四三年、私は旧制中学の上級生となり、さらにその上の学校への受験勉強中であった。級友の中からは陸軍士官学校、海軍兵学校などを目指す者も少くはなかった。「軍人が最高」という風潮が漲《みなぎ》っていたからである。旧制中学下級生で受験出来る陸軍幼年学校、海軍予科飛行練習生、いわゆる予科練に入った者もすでに数人いた。  私が五年生の頃、そのうち何人かは南太平洋に戦没した者も出ていた。前記陸士や海兵などに入学した級友の送別会では、きまって「海行かば」を合唱するようになっていた。なにか悲壮感がただよう暗い会合ばかりであった。「撃ちてしやまん」「一億火の玉」「一億一心」といったスローガンがいたるところで目につき、そして口にされた。 「日本は神国である」「神風が加護する」と、当時の政府の宣伝を国民は信じ込んでいた。軍部も政府も、都合のよいことばかりを公表し、真相はひたかくしにしていたからである。日本国民こそ、悲劇だったのである。  一九四三年に入り、枢軸側にとって戦局の流れは変っていた。北アフリカのイギリス、フランスの植民地まで進撃していた枢軸軍はその前年、エジプトのエル・アラメインの戦闘に敗れて敗退、またモスクワを目指した枢軸軍もソ連の猛反撃にあって雪と氷の中を敗走、七月には連合軍がかつてない大規模作戦で南イタリアのシチリア島に上陸、欧州戦線での大反攻が開始されていた。  日本にとっての太平洋戦線でも一九四二年六月、日本海軍はミッドウェーで大敗北を喫し、翌年二月のガダルカナル島撤退が、敗戦への転回点となっていた。四月には暗号を解読されて、連合艦隊司令長官山本五十六元帥がソロモン群島上空でアメリカ軍機の迎撃にあって戦死、翌五月には北洋アリューシャンのアッツ島で日本軍が玉砕するなど、欧州・太平洋両戦線で、枢軸軍は連合軍の力の前に後退を余儀なくされていた。  イタリアについていえば、七月九日夜から十日にかけ、シチリア島に上陸作戦を展開した連合軍は、アメリカへの移民の親戚を持つ多くの島民の協力を得て前進を続けていた。七月二十五日には、二十一年間君臨して来た独裁者ムッソリーニが、自ら創設したファシスト党の幹部会の反乱で失脚、逮捕された。後継首班のバドリオ元帥は「戦争は継続する」と枢軸の日本、ドイツにも、また世界にも公式に表明した。だがそれから一ヵ月半後、イタリア政府は連合軍との休戦を公表したのである。  当時、日本国民の大部分は、枢軸国が敗北するなど思いもよらなかった。日本政府は早速、「イタリアは戦争に弱い国である。我々日本、ドイツは違う」と大々的宣伝を行なった。そのうえ「イタリアは裏切った。許せない卑怯な行為である」との見解を広く流した。  私が思い出すのは、イタリア降伏直後、中学の軍事教練の教官が、我々に大声で「君らッ、イタリアのように負けてはならんのだ!」と怒鳴り、生徒を腰のサーベルを抜いて、なぐりつけたのであった。頭から血を流した者もいた。 「戦争を途中でやめるということは、一体どういうことなのか? 降伏とはなにか?」——私は当時、イタリアの降伏に大きく気を奪われた。  大学・高専の理工系以外の学生の徴兵猶予撤廃もその頃であった。東京・明治神宮外苑競技場から幾万の学徒が戦陣へ向った。戦局が一段と不利になったことを示す以外の何ものでもなかった。だが「我が日本は現人神《あらひとがみ》の天皇の国。不滅の神国である」とのお上からの宣伝を信じ、国民の多くは日一日と“神がかり”になっていった。  翌四四年十月には、爆弾を飛行機につけて、敵艦に体当りする「神風特別攻撃隊」が生れた。自らは爆死して、この「神国」を守ろうとする若い航空兵達で、第一陣はフィリピンのレイテ沖に出撃して行った。特攻隊員の数は全部で優に二千数百名に上る。  子供の頃、ケンカ相手だった近くに住む年長のK君は、H大在学中に学生出身の陸軍航空士官となり、ある日、軍刀を腰にさげ、休暇で実家に戻って来た。その数日後、彼の名前が特攻隊員として壮烈な戦死をとげた旨、新聞に報道されていた。幼なじみから特攻が出たことは心につき刺さるような衝撃であった。自分の身にも大戦争が差し迫っていることを肌で感じた。  旧制中学を卒業した私は、東京外国語大学の学生になっていたが、敗戦の年に、水戸・工兵連隊に入隊した。徴兵年齢が満十九歳に引き下げられていたからである。入営前夜、母は少々の赤飯をたきながら、声を殺して泣いていた。  軍隊では入営した翌日から、班長である兵長それに二年兵と称する古兵からほとんど連日、ビンタを食らった。気絶したこともあった。対戦車攻撃という自爆演習が日課であった。私にとって軍隊は「獰猛な動物集団」でしかなかった。八月十五日が敗戦、そして三十一日になって幸い郷里に帰れた。戦争がやっと終ったのは、イタリアの降伏二年後でもあった。それまで日本は、何と十五年間も戦争を続けていたのである。同じ枢軸国ナチ・ドイツは、日本より三ヵ月半前の四月末、首都ベルリンに進攻したソ連軍との攻防戦で、ついに敗北を観念した独裁者ヒットラーが自殺するまで戦った。  日本はといえば、そのあとも潮のように南太平洋から押し寄せるアメリカの大軍と戦い、玉砕に次ぐ玉砕を重ねていた。また沖縄は多数の住民を巻き添えにした悲惨な戦場となったほか、全国主要都市のほとんどが、アメリカのB29爆撃機群の連日連夜の猛爆撃で、焦土と化していた。それでも軍民ともども「本土決戦」を叫び、竹槍で抗戦する決意を固めていたのである。しかし広島・長崎への原爆投下で遂に止《とど》めを刺され、無条件降伏した。何たる悲惨な年月であったことか! しかも一方で、日本は周辺諸国への加害国でもあったのである。  以上でも分るように、日本とドイツは最後まで戦い続けたといえる。ところが同じ枢軸のイタリアは、途中で手を挙げ《ホールドアツプ》ていた。このため戦後しばらく、「日本とドイツは立派であった。最後まで良く戦った。そこへいくとイタリアはだらしなかった。イタリアは弱かったのだ」という論議が横行する。これは日本だけでなく、ドイツ人の間でも聞かれた。現に私は一九五六年、留学先のイタリアで何人ものドイツ人留学生から、そう言われた体験がある。  私はこのような言説を直接聞いたり読んだりした時「本当にそうなのだろうか? 馬鹿げた精神主義から神がかりになって、日本はあのような戦争を続け、言語に尽せない大きな悲しむべき犠牲を払ってしまった。戦うことが即ち勇気ある行動とは限らない。国民の犠牲を大きくしないため、戦争を途中で止めることも真の勇気を必要とすることではないか」と思い続けた。そしてイタリアの早期休戦という「歴史的事件」への関心をますます深めていったのである。  考えてもみよう。第二次大戦では前線の将兵だけでなく、後方の一般非戦闘員をも含めて世界で約四千万人にも及ぶ死者を出した。また傷つき、家族を失った悲運を背負って生きる人はいまなお数多い。戦争というものは、いかなる理由があれ、人間の狂気のなせるわざであると思う。  実際、第二次大戦では、丸六年に及ぶ死闘の後、戦勝国も深い傷を負い、敗戦国は廃墟の瓦礫の中に打ちのめされて慟哭するしかなかった。だがその終結の瞬間、地上に平和が甦ったこと、そして自分が生きていることに気付いた時、勝者敗者を問わず誰もが想いをいたしたことは、戦争というものがいかに愚かな行為であったことか! ——であった。ここにおいて人類はようやく英知を取り戻し、あらためて平和希求の意志を再確認したと言うことが出来る。二十世紀現代史の最も輝ける瞬間の一つがここにある。  要するに、歴史上の無数の戦争を顧みる時、その多くは東西を問わず国王・皇帝・君主・王侯・貴族・大名その他の権力者と、そのおろかな取り巻き達の権力・領土的野心野望、見栄、権力維持、覇権といった個人的欲望を満たす手段として行なわれたといって過言ではあるまい。その結果、犠牲となるのは、兵士としてかり出される若者や、戦場とされて田畑を蹂躙される農民達、それに逃げるスベを持たない貧しい老若男女などであった。  戦後、私は毎日新聞の記者となった。記者生活の大半を外信記者として送り、その間イタリア留学、ローマ特派員、編集委員を経たのち、外務省専門調査員となり、在イタリア日本大使館広報・文化担当官を務めた。イタリアと関わった半生である。  そのイタリアの地で一九五六年、イタリアの早期休戦は参謀本部の若い将軍により連合軍占領下のシチリア島で調印されたものであることを初めて知った。その後さらに、将軍の休戦の真の動機が「この戦争はムッソリーニが始めたもので、国民が決めたのではない。国民が犠牲になるばかり。こんな戦争はやめてしまえ!」ということと知って驚き、以来そのことが頭の片隅にどっかと腰を据えて離れなかった。「決死抗戦」の日本人の精神構造と、「早期休戦」による救国、というイタリア人の論理との鮮やかな対照が、何よりも大きなカルチャー・ショックだったからである。  とりわけ日本的常識では、到底理解のつかない次の二つの理由からである。イタリアの休戦は、シチリア占領の連合軍司令部の天幕の中で、本書の主人公イタリア参謀本部のジュゼッペ・カステッラーノ准将と連合軍首脳との間で調印された。当時シチリアは、太平洋戦線でいえば沖縄で、そこに東京の参謀本部から軍高官が赴いたに等しい。ではそのカステッラーノ将軍は、どのようにしてシチリアの敵陣に入ったのかが第一。第二は将軍一人でやれるわけはなく、どのような人物群が、いつから計画し、それをどのように実行に移したか——であった。  戦後、イタリアでも国の再建、経済復興に力が注がれ、戦中期の本格的研究が始まったのは一九六〇年代に入ってからである。七〇年代には外国の学者、ジャーナリストも参加した。そのイタリアの戦争体験は、日本のそれとは、大いに性格を異にしたものである。原爆投下こそなかったものの、戦争進行中にまず独裁者ムッソリーニを逮捕、次いで休戦を実現した。だが不幸にも国土の大半がドイツ軍に占領され、連合軍とドイツ軍の戦場と化したばかりか、反ナチ・反ファシズムに立ち上がった老若男女のパルティザンと、ドイツ軍・ファシスト軍との内戦の舞台となる。結局、イタリア・パルティザンは自らの手でムッソリーニを処刑し、「ファシズムからの解放」を遂げるのであるが、このイタリア現代史研究の過程で休戦をやってのけたカステッラーノ将軍を調べていくうちに、驚くべきことを知った。  ムッソリーニの逮捕を計画立案し、かつそれを指揮したのが、何と実は、ほかならぬこのカステッラーノ将軍だったという事実である。将軍こそはまさに休戦の牽引力であり、立役者であった。当時、彼は五十歳。イタリア参謀本部の史上最も若い将軍参謀であった。そしてこの若き参謀を、五指近いイタリア人群像が陰に陽に支え、励ましたのである。  それら主要人物を挙げれば、上司の参謀総長ヴィットリオ・アンブロージオ元帥、ムッソリーニの女婿で長年外務大臣を務めたガレアッツォ・チアーノ伯、宮内大臣ピエトロ・アックワローネ公らである。このうちの誰一人が欠けても、ムッソリーニの逮捕と、それに続く休戦は成就出来なかったはずである。  実際、日本が神がかりと狂気の日々を過している時、イタリアには醒めた目を持つ群像が存在したことに、驚嘆と畏敬の念を禁じ得なかった。以下は「事実は小説よりも奇なり」を地で行く、カステッラーノ将軍らが織りなした休戦秘史ドキュメントである。 本文中の(注)表示は巻末に列記した出版物、記録文書、新聞・雑誌等からの引用を示したもの。 主な登場人物 ◇ジュゼッペ・カステッラーノGIUSEPPE CASTELLANO(1893〜1977)  一八九三年九月十二日、シチリア出身の両親の下にフィレンツェに近いプラートの生れ。モーデナの陸軍士官学校卒業後、砲術学校に学び、第一次大戦に出征。戦後は戦術学校に学ぶ。第二次大戦までに大佐に昇進していた。  イタリア国防省の人事記録によると、カステッラーノは、第二次大戦でまずユーゴ派遣軍副参謀長。一九四二年二月以後、准将に昇進と同時にローマの軍参謀本部勤務。その間、ムッソリーニ逮捕を計画、実行。バドリオ政権下で、連合軍との休戦交渉に当り、一九四三年九月三日午後五時十五分、シチリアのカッシービレで連合軍との休戦に調印。  一九四三年九月七日、在チュニジア連合軍司令部付イタリア軍代表に任命。のち一九四四年七月まで在アルジェリア連合軍付イタリア軍事使節団長。同年十月、少将に昇進、同時に北伊ダオスタ方面軍司令部付発令。一九四五年二月、ローマの戦争省勤務。同年三月、南伊バーリ軍管区司令部付発令。  戦後の一九四七年六月から一九五九年までローマ軍管区司令部付。一九五九年九月十二日、予備役編入。一九六六年、兵役解除。一九七〇年七月、イタリア陸軍名誉大将に任ぜられる。一九七七年八月一日、中伊ポレッタ・テルメで死去。八十三歳。 ◇ガレアッツォ・チアーノ伯GALEAZZO CIANO(1903〜1944)  一九〇三年、リヴォルノの生れ。第一次大戦の英雄で海軍提督のコスタンツォ・チアーノの子息。大学で法学、文学、ジャーナリズムを専攻後、外交官に。ブラジル、中国、ヴァチカン在勤後、ムッソリーニの長女エッダと結婚。新聞・宣伝大臣、外務大臣を歴任後、ヴァチカン駐箚《ちゆうさつ》大使。当時(一九四三年)のファシズム大評議会で、岳父への反対決議に賛成を投ず。イタリア休戦後、ドイツ軍に逮捕され、復活した北伊のムッソリーニ政権による裁判で、反逆罪で死刑判決を受け、一九四四年一月、ヴェローナで銃殺刑。 ◇ヴィットリオ・アンブロージオVITTORIO AMBROSIO(1879〜1953)  イタリア陸軍の俊英。第一次大戦中に軍参謀として手腕を発揮し、一九四三年二月、カヴァレッロ元帥の後任として参謀総長に就任。戦争遂行に当る軍の最高責任者でありながら、イタリアを破局から救うには、ナチ・ドイツとの同盟から離脱し、戦争そのものを中止するしかないと、王室や宮内大臣とも接触を深め、若い同志カステッラーノと計って、ムッソリーニ逮捕と、連合軍との休戦実現に努力した。休戦成立後の一九四三年十一月、参謀総長を勇退、陸軍監察官を半年務めて引退する。 ◇ヴィットリオ・エマヌエーレ三世VITTORIO EMANUELE III(1869〜1947)  統一イタリアの第三代国王。第二代国王ウンベルト一世の子で、一九〇〇年七月二十九日、即位。在位中、リビア戦争、第一次大戦の勝利という幸運に恵まれたが、一九二二年十月、国内政治危機に際し、ファシストのムッソリーニに政権をまかせ、反議会主義的な道を開いたとして後世の批判にさらされた。一九四三年、ムッソリーニ解任。さらに連合軍との休戦を応諾。九月八日の降伏発表とともにバドリオ政権と南伊に脱出。一九四六年五月、皇太子ウンベルト二世に譲位したのち、一九四六年、王制廃止とともにエジプトに亡命、その地で死去。 ◇ピエトロ・アックワローネ公PIETRO ACQUARONE(1890〜1945)  名門出の政治家。上院議員を経て一九三九年、宮内大臣に。国王の信任厚く、その退位の時まで約六年間宮内大臣を務め、常に側近第一号として国王につきそった。一九四二年ごろからムッソリーニ政権打倒を計画し、軍首脳と共に国王を守り立てつつ、ムッソリーニ排除に貢献した。 ◇ピエトロ・バドリオPIETRO BADOGLIO(1871〜1956)  軍人、政治家。第一次大戦でディアス将軍の下でイタリアの勝利を決定づけた。一九二五年、陸軍参謀長。一九三六年、エチオピア戦争で勝利した後、エチオピア総督。のち参謀総長時代、第二次大戦でムッソリーニからギリシャ戦線での敗北の責任をとらされて解任。ムッソリーニ失脚の後を受けて首相就任。連合軍との休戦を指揮。その後、国王と南伊に逃れて引きつづき一九四四年まで首相。 第一章 ローマ・一九四三年初春 チアーノ外相のクモの糸  イタリアの著名なジャーナリスト兼作家のパオロ・モネッリ(PAOLO MONELLI, 1891〜1984)は、一九四三年一月一日の昼下り、ローマの街角でばったり友人に出会った。 「やあ、お目出とう……。でも今年はなんと金曜日で始まったよ。しかもホウキ星も現われる年だそうだ、今年は……」(注1)  思わず口に出た新年の挨拶がこれであった。戦争になって三度目の一月一日、彼はこの一九四三年という年が、金曜日で始まるということもあって、実は不吉な予感を覚えていた。  そのうえ彼にとって、前夜の仲間達との集いは、何とも後味の悪いものがあった。それが尾をひいていて、妙に憂鬱な新年の挨拶となってしまったようだ。  イタリアでは毎年十二月三十一日の夜を、多くの家が親類縁者とか親しい友人達と過し、新しい年を迎えるのが古くからのならわしである。時計の針が午前零時を回るか回らないうちに、皆でシャンパンを抜き、爆竹を鳴らして祝い、あとは夜明けまで飲みかつ食べて歌い、そしておしゃべりする。何かいいことを期待して——。これは戦時中も変らなかった。  モネッリはその十二月三十一日の夜、ローマの親しい映画関係者の家に招かれていた。芸術家、男女の俳優らもいて華やかであった。その中にアフリカ戦線から九死に一生を得て、帰国したばかりの一人の男がいた。その彼は、戦局がイタリアにとって誰がみても絶望的なまでに不利に展開している現実にも拘らず、希望を持っていると言わんばかりに、それも自分に言い聞かせるように楽観論をぶった。  冷静なモネッリは彼に静かに尋ねた。 「だけど君、何を信じてそう言える? いまさら何が期待できるというの?」  男は答えた。 「いま、前線では英雄的な行為が連日、展開されているんだ。ルーレットの数字の上に、なけなしの百リラを投げたようなものサ。三十六分の一の確率で、戦勝の可能性は、まだ残っているんだ!」  それまで空襲を受けたことのない「永遠の都」ローマ。だが、連合軍の爆撃に備えた灯火管制下の、ほの暗いサロンでのこうした白けた会話は、ローマ市民の多くが息をひそめて、あるいは敗北を予想し、あるいは勝利に希望をつなぎたいともがく、それこそ複雑な心理的葛藤を物語るものであった。  その一月、外務大臣ガレアッツォ・チアーノは、ファシズム資料として戦後、貴重な資料にまでなった「日記」(DIARIO 1937—1943)に、次のように書き留めていた。 「一月十九日。終日、大変重苦し。いずれのニュースも不快なものばかり。ロシア戦線からは退却が続いている。一部は全滅したようだ。リビアでは歩兵師団がトリポリを放棄して一路西へ。それをモントゴメリー(イギリス陸軍司令官)が容赦なく急追している。ムッソリーニに電話した。彼は打ちのめされているようだった。(以下略)」(注2)  翌二十日には、こうも書いている。 「アンブロージオ(当時、陸軍参謀長)、ヴェルチェッリーノ(同、第四軍司令官)両将軍と長時間、興味ある話をして過す。陸軍のこの二人は誠実で正直な人物だ。ものごとを全体的にとらえ、かつ客観的に眺め得る愛国者だ。今後どうなるのかひどく心配していた。二人ともドイツは戦争に敗れ、かつ我々は破滅、悲嘆、大混乱以外にないと信じ、ならば今後どこにイタリアの目標を定めるべきか悩んでいた。カヴァレッロ参謀総長に直訴して玉と砕けるか、それとも外国をあざむいて陰謀をめぐらし、破天荒なことをやってのけるしかないと。私は二人に約束した。二人の気持を統帥《ドウチエ》にありのまま伝えると。そして私が知り得たことは隠さずに君らに知らせるし、これこそが私の出来ることであり、かつ義務。それが私の真の良心であると。(以下略)」(注3)  ムッソリーニの長女エッダと結婚した中部イタリアはリヴォルノの名門出身のチアーノは、首相ムッソリーニの女婿でありながら、イタリアの現状と前途を憂えて志を同じくする極く少数の人達と、救国の道を探っていた。世間ではプレイボーイとの評判も高く、しかも二十世紀初頭の美男俳優として、世界的人気を博したロドルフォ・ヴァレンティーノにも似ているところから、彼は国中の若い女性の憧れのマトであった。一九三五年に新聞・宣伝大臣に就任、翌年六月からずっと六年も外務大臣の要職に就いていた。  ローマの初春の空は変り易い。晴れ間に突然、雷鳴がとどろいて、雨となることも珍しくない。一九四三年も例外ではなかった。加えて、前年からの戦局の不利に、人々の心は天気のように激しく動揺していた。  すでに前年の十一月、北アフリカ戦線の主戦場エル・アラメインで、枢軸軍は全面的敗北を喫し、共に戦っていたドイツ軍はイタリア軍を見殺しにして退却、ロシア戦線でも枢軸軍はソ連軍の猛反撃を受けて、多くの戦死傷者や凍死者を出しつつ退却を余儀なくされていたことは、前記チアーノの日記の通りである。  一九四〇年秋に統帥ムッソリーニが独断で進撃命令を下して進攻したギリシャ戦線でも、一歩前進二歩後退と敗退を重ね、ドイツ軍に肩代りを要請せざるを得ない屈辱をも味わっていた。  思えば一九四〇年六月十日、ヒットラー・ドイツの破竹の進撃に遅れをとるまいと、ムッソリーニはイギリス、フランスに宣戦を布告、一年後の六月二十二日にはさらにソ連に宣戦して、ドイツ軍とともにウクライナ方面に兵を進めた。参戦当初は、南フランスに快進撃、二週間後にフランスの休戦申し入れを受け入れて戦勝の歓喜に酔った。一方、東アフリカにも軍を進め、イギリス領ソマリランドなどを占領、破竹の進撃にムッソリーニは得意の絶頂にあった。国民も戦勝の重なる報道に酔っていた。だが、参戦約一年半後には、事態は早くも暗転してしまったのである。  一九四二年十一月八日、アメリカのアイゼンハワー大将指揮下のイギリス、アメリカ連合軍二十数万が北アフリカのフランス領モロッコ、アルジェリアに上陸した。この戦力を中核にした兵団がイタリア領リビアに侵攻、さらに一九四三年七月にはイタリアのシチリア島に上陸、のちに長靴型半島を北上したことを考えると、軍事的には早くも一九四二年秋のこの段階で、イタリアは命運を決する天王山に立っていたことになる。  ドイツもまた同年十一月、東部戦線スターリングラードで猛反撃に遭い、そのソ連軍の追撃が二年半後のベルリン陥落につながって行く。こうして欧州の枢軸国は、一九四二年から一九四三年にかけて敗戦の始まりを迎えていた。一九四三年一月十四日から、北アフリカのカサブランカで会談したアメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルは、その後の地中海反攻作戦を協議して、シチリア島上陸敢行作戦を決定、同時に枢軸国に対する無条件降伏を求める旨を誇らかに宣言したのである。  この会談は連合国にとって、第二次大戦の勝利への大きな里程標となったが、この段階ではまだ、連合国側として戦勝への確信は必ずしも確立されてはおらず、勝利への希望が燃え上がろうとしていたに過ぎなかった。  現にこれより約一ヵ月前の一九四二年十二月四日付のアメリカ国務次官サムナー・ウェルズのメモによると、ワシントン駐在のイギリス大使ファリファックス卿が面会を求め、対イタリア宣伝工作についての本国からの見解を表明し、大要次のように提案している(注4)。  一、イタリアの内部崩壊を早めるには、軍事面で絶望であること、連合軍としては断固戦いを敢行することを強調する以外にない。  二、しかしイタリア国民やイタリア軍に、政府を倒し、ドイツ軍と手を切るよう直接、間接のプロパガンダをするには、まだその時期ではない。現政権に挑戦するような運動や指導者が台頭してきた時に、初めてそれは有効である。  三、現在まだそうしたことがイタリア内外にないし、もし反ファシスト、反ドイツの動きがイタリア国内で起きたら、イタリアに対する有益な宣言をすることを再検討したい。  しかし実は、その頃ローマでムッソリーニ政権の打倒と対連合軍休戦——つまりイタリアの大戦からの離脱工作が秘かに動き始めていた。ちょうどクモが、強風を警戒しながら巣を作るように、ある時は早く、ある時は遅いテンポで、着々と網を張りめぐらせていた。そのクモの役を果す重要人物の一人がこともあろうに外務大臣チアーノであった。  その血筋と才能を見込まれて、ムッソリーニの長女エッダの夫となったチアーノは、日頃、外務大臣として多忙な日を送り、つとめて多くの人と会い、夜はパーティさえなければ、長男ファブリツィオ、次男マルツィオ、それに長女ライモンダと漫画を読んで遊ぶよき父であった。  そうした家庭的雰囲気からは程遠いバルカン戦線で、やがて主役として歴史的な仕事にたずさわるジュゼッペ・カステッラーノ大佐は、前線の副参謀長として祖国の将来を案じながら、一人悩んでいた。 「この戦争はイタリアのためのものではない。ムッソリーニ個人のものでしかない。イタリア人が銃をとって戦う何の大義もない」  彼は生粋の軍人であると同時に、人間的にものを見る目を持っていた。 注1 P. MONELLI「ROMA 1943」P. 3 注2 G. CIANO「DIARIO 1937—1943」P. 690 注3 同右 P. 691 注4 「FOREIGN RELATIONS OF U. S. ON ITALY」1942年12月4日 「ナチ・ドイツとの同盟」は誤算!  カステッラーノが、一九四〇年六月十日のイタリア参戦のあと、日夜、考えていたことは、「一体、この戦争はイタリアとイタリア国民にとって何なのか? ——」であった。どう考えめぐらしてみても、ドイツ側に立っての参戦が、本当にイタリアとその国民のための「カウザ(CAUSA=大義の意)」があるのかどうかという疑問であった。ナチ・ドイツとの同盟は、ファシスト党という一党独裁政府が締結したもので、イタリアの国民的合意によるものではないという想いからである。  あの六月十日、ムッソリーニが官邸ヴェネツィア宮のバルコニーから、イギリス・フランスに対し参戦を宣し、「陸海空の将兵よ、黒シャツ党(ファシスト党)員よ、イタリアの男女諸君よ、いまや骰子《サ イ》は投げられた。我らは鉄鎖を打ち切らん」と、修辞句をちりばめた大演説を行なった夕ベ、歓呼の声を挙げたのは当夜、かり出されたファシストの一群であった。もちろん、大衆も参加した。  その日、統帥の重要演説があるというのでヴェネツィア広場に集った一般民衆の数は、十万とも伝えられた。ムッソリーニの演説の合い間合い間に一部の群衆が党員につられて「統帥《ドウチエ》、統帥《ドウチエ》!」と合の手を入れ、「ヴィーヴァ・イル・ドゥーチェ! ヴィーヴァ・イターリア!(ムッソリーニ万歳! イタリア万歳!)」と抑揚をつけた歓声をあげた。だがその一方には黙りこくって、「遂に来たるべきものが来た。前途はどうなるのだろうか?」と、不安に駆られて急ぎ帰宅する市民も少くはなかった。そのあと、興奮し熱狂したファシスト党員が合唱する党歌「ジォヴィネッツァ(青春)」だけが、暮れなずむ夏のヴェネツィア広場に反響《こだま》していた。 いざ友よ、我ら強き部隊  進もう、未来に向って 我々は勇敢で、誇り高き部隊  断乎、戦う用意あり 我らが理想は必ず勝つ  そのために、我々は戦ってきた いまこそイタリア文明の  国民的団結を ジォヴィネッツァ ジォヴィネッツァ (筆者訳)    前年まで第二十二砲兵連隊長を務めたカステッラーノ大佐は、参戦の翌日、新たにバルカン方面軍副参謀長に任命されてローマから出発した。  ムッソリーニの参戦演説でも、軍事行動は明十一日から開始されると述べられていた。通常、宣戦と同時に軍は行動を開始する。戦争態勢のための軍幹部の人事も当然、参戦前に行なわれているべきであった。だがチアーノが日記に「統帥は参戦について迷いに迷っている」と記しているように、ムッソリーニは明らかに、参戦に決断を下せずにいた。それが前述のような宣戦翌日の行動開始の事実にもうかがわれる。大戦勃発後、九ヵ月も中立を保っていたのも、何とか戦わずに“漁夫の利”を得ることを計算していたからであった。それがドイツ軍の驚異的な快進撃で、揺さぶられたのである。  難攻不落とされていたフランスの対ドイツ防御要塞マジノ線を強行突破したドイツ軍は、一九四〇年六月三日パリを大空襲、翌四日にはドーヴァー海峡に臨むダンケルクで三十三万の上陸連合軍をイギリス本土に敗退させるという大成功をおさめ、十一日にはフランス政府は南のトゥールに後退する。そして十四日、首都パリは落城する。  こうした情勢からムッソリーニは、それまでの中立を捨てて、にわかに「戦勝国に与する」に転じ、「後輩のヒットラーに遅れをとるな!」の思惑もからんで遂に参戦を決意したのであった。この点は一九四三年夏にムッソリーニが失脚したあと回想して綴った「一年の歴史」(「STORIA DI UN ANNO」1944)の中で「要するに戦争には勝てばよい。勝てば国民はついてくる。かつてのエチオピア戦がその好例である」と記しているように、ヒットラー・ドイツの破竹の進撃に便乗して、“勝利の戦争”に参加したいとのファシスト国家主義論理が働いたのである。その体制を率いるムッソリーニとしては、参戦は至上の命題となったのだ。  参戦直後の六月二十四日にはフランスが降伏文書に調印、八月二十日にはアフリカに遠征、イギリス領ソマリランドを占領するなど、戦局はイタリアに有利に展開を続けた。十月二十八日には突如として、ギリシャに侵攻した。枢軸のヒットラーがそれまで常に、イタリアに何の相談もなく、事後承諾の形で戦線を拡大していたことへの仕返しとして、ムッソリーニは自分だけの判断でギリシャに出兵し、その日に行なわれたフィレンツェでのヒットラーとの会談の際に、ギリシャに侵攻した旨を通告、溜飲をさげたのであった。  だがそれから二年近くのちの一九四二年二月、カステッラーノが参謀本部入りした頃は、戦局はそろそろ不利に傾きかけていた。「ムッソリーニは当初のヒットラーの常勝ぶりに目がくらみ、参戦という大誤算を犯してしまった」と、彼は確信していた。  誤算。まさしく誤算であることは、イタリアとドイツという二つの国の国民性、文化や歴史を考えると、あまりにも明白なのである。それにムッソリーニとヒットラーの関係を重ね合わせると、両国の枢軸・同盟というものが、一層、不自然なものとしてカステッラーノの脳裏に組み立てられた。  ムッソリーニとヒットラーは、その生涯に合計十四回首脳会談を行なっている。第一回は一九三四年六月、イタリアのヴェネツィアにおいてであった。これはヒットラーの政権掌握後、初めてのもので、ムッソリーニに敬意を表するために訪れたのである。ムッソリーニがイタリアの統帥であった最後の十二回目会談は一九四三年七月、北伊フェルトレで行なわれた。その直後、ムッソリーニが失脚、九月に幽閉中の身柄をヒットラー親衛隊員により劇的に救出されたあとミュンヘンで会見、さらにヒットラーが大本営爆破未遂事件で危うく生命拾いした際の一九四四年七月、第十四回目をイタリア社会共和国首相として会談した。これが最後となった。この十四回に及ぶ首脳会談の軌跡をたどると、両首脳の力関係、ひいては両国民の感情の推移や同盟の不自然さが、鮮明に浮彫りされてくるのである。  第一回のヴェネツィア会談では、盛装したムッソリーニは、見すぼらしいレインコート姿のヒットラーを見下し、威圧を加えて対等に遇することをしなかった。これを機にヒットラーはナチ党の制服など形式を先輩ファシスト党から取り入れることになる。  両独裁者会談の第二回目は一九三七年九月、ベルリンであった。この時、ムッソリーニはナチ親衛隊のアヒル式歩調の勇壮さ、プロイセン軍国主義的舞台装置に内心、圧倒された。ヒットラーは三年前のヴェネツィアでの屈辱をここで見事に晴らしたのである。そのベルリンでヒットラーは、大群衆の前で「ここにいる人物は、歴史によって創られる人物ではなく、歴史を創る人物である」とムッソリーニを紹介した。  これに応えてムッソリーニは「ファシストは友を得れば、死ぬまで共にする」と絶叫した。が、この発言にすでに、それまでの師弟、主従関係の逆転の芽生えがあった。帰国後、ムッソリーニはイタリアにもドイツ式歩調を採用、これを“ローマ式歩調”と命名し、ファシスト党の制服にもナチス調を取り入れたのである。  ムッソリーニとヒットラーの力関係が、明白に逆転したことを示したのは、第九回目すなわち大戦三年目の一九四二年四月のザルツブルク・クレスハイム城での会談であった。ヒットラーはこの時、同志ムッソリーニを励ますどころか、「イタリアの現状は嘆かわしい。統帥《ドウチエ》の奮起を望む」と述べ、イタリア軍の戦争能力に懸念を表明して、叱りつけたのであった。随員のいる前で、一方的にヒットラーにまくしたてられ、ムッソリーニは面目丸つぶれであった。  十二回目会談は、決定的にヒットラーが優位に立った。この北イタリアのフェルトレ会談で、ヒットラーは「イタリア軍は劣悪である。戦争する意志と力があるのか問題である」と金切り声で怒鳴り、軍需物資の増強を要請したムッソリーニに口もきかず、侮蔑の目で眺めていた。ムッソリーニは打ちひしがれていた。  一九四三年九月十二日、逮捕・幽閉中のムッソリーニがアペニン山脈の高峰グラン・サッソのホテルから、ヒットラー親衛隊により救出された時点で、ムッソリーニは完全に、ヒットラーの足元にひざまずく。独裁者どころか、ヒットラーの傀儡《かいらい》になり下がった。  本来、イタリアとドイツの関係は、相互にネガティブな側面が多い。スペインの文明批評家で元外交官のサルヴァドール・デ・マダリアーガがその著「PORTRAIT OF EUROPE」(注1)の中で「両国間の緊張はヨーロッパで一番古い緊張の一つである。ローマ帝国時代から始まっているからだ」として、大要、次のように記述している。  古代からローマの諸都市は北方蛮族から侵略、略奪を受け、イタリア半島の人々はゲルマン人を不倶戴天《ふぐたいてん》の敵として見てきた。やがてそのドイツ人がイタリア文化の根源である〈美と秩序〉に気付くまでに成長し、ゲーテを挙げるまでもなく、多くのドイツ人がアルプスを越えて、侵略ではなく学びへの道を重ねる。そのイタリアは美しく甘い風土というだけではなく、ヨーロッパの〈魂のふるさと〉としての憧れでもあった。南欧に赴いてイタリアを発見するドイツ人はみな変貌する。彼は突然自分が今まで形も光も喜びもない農民の天国に住んでいたことを悟る。  両国には共通の特色もある。両国の歴史的発展過程で、十九世紀後半までは小国の寄せ集めであった。近代国家としての出発は遅かった。このため植民地の席はふさがっていた。日本も同じ頃、近代国家になった。そうした相似性から三国同盟が生れたのである。  イタリア、ドイツから第三者の立場にある文明批評家による、示唆深い両国関係への視点の一例である。これでも分るように、イタリアからすれば、ドイツは歴史的には非友好国であるが、後発資本主義国家という共通項から、反発と融和という相反する二面性を内蔵したままの同盟関係にあった。一九三〇年、四〇年代はそれが最も端的に現われた時期であった。  こうした観点から事実、大戦中、両枢軸軍の連携は必ずしも緊密ではなかった。相互に反発するケースも多く、前線でも指揮系統が乱れることも多々あった。アフリカのエル・アラメインでの敗退の際、ドイツ軍はイタリア軍の自動車を奪い、見殺しにして敗走したことはよく知られている。このため大戦末期、イタリア各地でパルティザンはドイツ軍に対する果敢なテロと抵抗、戦闘を展開し、自らも多大の犠牲者を出しながらも遂にドイツ軍を放逐するのである。  注目されることは、ムッソリーニが終始、枢軸関係を金科玉条とした政策をとって来たため、ムッソリーニに好意を寄せていた人々も、参戦以来、徐々に反ムッソリーニ陣営に加わったことである。もともと反ゲルマン的な血の流れるイタリア人は、ドイツと共同戦線を組んでの戦争に初めから乗り気ではなかった。したがって国民にも軍にも、非戦、反戦気運は大戦中を通じて常に高かった。特筆すべきは、イタリアがその国民性から、ドイツの反ユダヤ主義に与しなかったことである。  爆弾製造工場では、爆薬の代りにオガクズを詰めたり、兵隊用の軍靴の底皮をボール紙で作ったりするケースもあるなど、国民の戦争へのサボタージュは枚挙にいとまがない。軍隊そのものも、大義名分の分らない戦争に意気は挙がらなかった。第二次大戦研究者の多くが「イタリアは国民も軍も戦争をサボタージュした」と指摘しているのはこのためである。  また、「ラテン性」と「ゲルマン性」はお互いに相容れぬ特性が多い。イタリア人が個性を主張し、寛容的な人生観を持つ点は、ドイツ人の目には、むしろ悪徳に映るとさえいわれる。一方、団体行動と規律を尊重するドイツ人の生き方に対しては、イタリア人は唾棄すべき悪徳と見勝ちだという。極端かも知れないが、真実の一面ではあろう。それは両民族がそれぞれの背後に持つ歴史的、文化的、社会的条件の相違に基因している。大戦中、枢軸という同盟関係にありながら、ムッソリーニ自身、ヒットラーのうるさいほどの口出しや差出がましい態度に反発を抱き続け、イタリア戦線へのドイツ軍の補強さえいやがっていたという。そればかりか公然と、両独裁者は勢力争いやいがみ合いをさえみせたのである。  一般のイタリア国民はといえば、大戦中ドイツ軍やドイツ人を「TESTA DURA」と呼んでいた。「重く固い頭」、つまり「石頭」である。「融通のきかぬ奴」「分らず屋」といい直してもよい。多くのイタリア人にとっては、この「TESTA DURA」はバカ者といった意味を含んでおり、現在でもドイツ人を連想させる言葉という。にも拘らずムッソリーニはヒットラーと意気投合する誤りを犯してしまった。それは民族的、歴史的、文化的伝統を全く考慮に入れない「力の政治」という便宜的な同盟でしかなかったのである。  カステッラーノは「枢軸などと言っても、独裁者同士の政治的打算に基づく提携でしかない。国民こそいい迷惑ではないか」との思いを抱き続けていた。彼は軍務に精勤しても、ファシスト党に入党はしなかった。そして間違った独裁者が君臨するイタリアの悲劇を、いかに早く断ち切るべきかに心血を注ぐ日々を迎えようとしていた。 「誰か同志はいないか!」——。カステッラーノは、口に出せない思いを抱いたまま、悶々としていた。不用意な発言は自らの“命取り”になる時代の空気であった。 注1 本書はHOLLIS & CARTER, LONDON 1952年刊。「薔薇と十字架」の題でみすず書房から刊(昭和三十一年。上原和夫訳)。 カステッラーノ、参謀本部入り  ジュゼッペ・カステッラーノが、それまでの在バルカン方面軍副参謀長から、ローマの参謀本部勤務に発令されたのは、戦局の大転換期が訪れる前の一九四二年二月五日のことであった。  陸軍参謀長ヴィットリオ・アンブロージオからローマに召喚され、新任務を命ぜられるとともに、大佐から准将に昇進した。四十九歳であった。四十歳台での参謀本部付将官は、イタリア軍部では初めてであり、この若い将官の誕生は軍内外の話題となったものである。  陸軍最高首脳の間には、さまざまなカステッラーノ評があった(注1)。いわく「頭の回転が早く、抜け目がない」「独走することがない人物。必ず上官の許可を得てから行動する慎重派」「シチリア出身の教養人」「背広を着たら銀行家にも見える端正な人柄」。また次のような批評もある。「背が低く、小柄だが全体としてエレガント。髪はいつもポマードで光らせている。野心的なインテリで、少々おしゃべり。女性に好かれるタイプ。表舞台には出たがらぬ性格の持主」。いずれも典型的な南イタリア系知識人をしのばせる形容である。  カステッラーノは、モーデナのイタリア陸軍士官学校を抜群の成績で卒業、さらに砲術学校で研鑽、戦略を専門に研究した生粋の軍人である。その彼をこの時期に参謀本部に抜擢したアンブロージオとは、実はすでに面識があるばかりか、心から信頼し合った間柄であった。カステッラーノの両親がシチリア生れということもあって、青年将校ジュゼッペの任地は主にシチリアであった。  そのシチリアで一九三五年、敵の上陸を想定した陸軍大演習が行なわれ、イタリア各地から精鋭部隊が集結した。その時、北イタリアから来島したアンブロージオがカステッラーノの直属上官として指揮をとった。わずか一週間の演習期間だったが、二人は軍人としてだけでなく、人間として肝胆相照らす友人同士となった(注2)。とりわけファシスト体制下にありながら、軍はファシスト政権に属するものではなく、国王と国民に奉仕するものとの考え方で共鳴した。以来、軍部内の階級を越えた人間づき合いが続いていた。  イタリア半島の北端にあるピエモンテ州出身のアンブロージオ、正反対の南端にあるシチリア人を両親に生れ育ったカステッラーノ。同じイタリアでも北と南とでは体つきも気性も相反している。しかし国王と王室への尊崇の念という点では、この両地方は実は共通の心情が強く流れていたのである。  アンブロージオの生地ピエモンテ州の州都トリノは、サヴォイア王家の本拠で、同王家のヴィットリオ・エマヌエーレ二世による十九世紀後半のイタリア統一の初期に、イタリア王国の首都となっていた。このためピエモンテ地方には尊王的気風が強く、特に軍人志願者は王家と王国を守護するという誇りに燃えていた。この伝統から、高級軍人の多くは同地方から輩出していた。  一方、最南端シチリアは、北イタリアにくらべて産業が半分といった後進地域で、才能ある若者は官費で高等教育を受けられる軍人を目指すか学究、官僚を志す傾向が強かった。カステッラーノ家は代々シチリア人で、祖父はイタリア統一の英雄ガリバルディの千人隊のシチリア上陸に際して協力、勲功をたてた。そうした家柄だけに、カステッラーノの国王への忠誠心も人一倍強いものがあり、軍人の道を選んだ。  ユーゴスラヴィアからローマに戻ったカステッラーノは、ヴィットリオ・エマヌエーレ通り二番地にあるピドーニ宮の参謀本部に着任、参謀総長ウーゴ・カヴァレッロから新任務の内容につき、説明を受けた。それは軍の重要問題についての検討、提案ならびに決定事項の確認などで「そのために日常、軍の各部局からくるあらゆる書類に目を通し、参謀総長が署名すべき書類には、参考意見を付して具申せよ」とのことであった。  カヴァレッロ元帥はムッソリーニの信頼が厚く、アルバニア、ギリシャ戦線司令官の時、ムッソリーニから呼び戻され、一九四一年五月から参謀総長に就任していた。  その参謀本部にアンブロージオがカステッラーノを送り込んだのは、参謀本部という中枢内に気を許せるだけでなく、自分の代りになって動ける同志がいて欲しかったからであった。アンブロージオとしては、すでにその頃から、戦争終結のための方策を模索していたのである。そのため、カステッラーノをカヴァレッロに「若いが有能で気鋭の軍人」と強力に推薦、将来への布石としたわけであった。  参謀本部は連日、各戦線からの戦況報告を無電で受理、本部内の情報部員がそれぞれ補足的情報を収集、各前線司令部に指令を流していた。それらはムッソリーニにも報告、統帥《ドウチエ》の意見が下達されることもあった。  加えて、会議に次ぐ会議が開かれていた。戦局への対応策に追われて、効果的な措置はなかなかとれない状況になっていた。参謀本部の下の陸海空三軍の指揮系統も乱れ勝ちで、効率よい連係作戦をとることも難かしかった。一人ひとりが個性的なイタリア人の長所は、総合的、団体行動では往々にして短所に変ってしまう一例である。  その上、同盟国ドイツからイタリア軍に要望事項が寄せられることも多く、イタリア独自の作戦立案など覚つかない状況になっていた。参謀本部入りしたカステッラーノは、初めてこうした実情を目のあたりにした。ドイツのイタリア派遣軍総司令官アルベルト・ケッセルリンクが時折、この参謀本部を訪れては、作戦に関しイタリア軍首脳と果てるともない論戦を展開することも目撃した。  ドイツから増援される軍用機、潜水艦、弾薬、石炭等の軍需物資が必要かつ効果的であったことからも、ドイツ軍の要請、押し付けなどにイタリア側が一方的に妥協せざるを得ない局面も多々あった。 注1 MELTON S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 50, 51 注2 R. BATTAGLIA「SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 1380 クモの巣の一本の糸が……  参謀本部入りしてから二ヵ月ほど経った一九四二年陽春四月、カステッラーノは外務大臣ガレアッツォ・チアーノから直接呼び出しを受けた。全く初めてのことであった。ローマの目抜きコルソ街に面するキージ宮(外務省の別名)に赴くと、チアーノから愛想よく招じ入れられ、次いで戦況に関する詳細な質問を幾つも受けた。応答の間、チアーノは自分の知っている情報や、独自の判断を率直に告げ、しかもカステッラーノがそれらをどう考えるか、批判も求めた。それに対して今度は、将来の展望や可能性などにつき、自分の構想も開陳してみせた(注1)。  カステッラーノはその間、内心、驚き続けた。想像以上に、チアーノは深く踏み込んだ情報を得ていることが分ったからである。それも多方面から多角的な情報を入手、しかも正確に消化して、的確な対策を立てていたからであった。このことはカステッラーノにとって、強い衝撃となって残った。この日から、彼はチアーノという人物について、認識を一変したのである。回想して、次の二点を挙げている(注2)。  一つはチアーノが日頃、大衆の前に見せるキザっぽさや生意気な印象とは裏腹に、本来は静かにものごとを語る真摯な人間であることを発見したこと。第二は多方面の強力な支持者から現状認識のための極めて正確な情報を得ていることであった。  彼は、この初対面で、すっかりその人柄に魅了された。カステッラーノの情勢分析や判断と合致していたということだけでなく、率直に自分の見解を述べてそれに対する意見を求めるなど、誠実な建設的態度にも打たれたからである。発言の合間に、チアーノが岳父ムッソリーニヘの非難に等しい言辞さえ洩らしていたのには驚くほかはなかった。カステッラーノは、チアーノが自分を裏切らない人物と見ている証拠と受け留めた。  彼はこの日のことを早速、アンブロージオ参謀長だけに打ち明けて報告、軍首脳がこれから、チアーノと出来るだけひんぱんに会見する機会を作ったらどうか、そうすれば将来展望への有力な糸口もつかめるのではないかと提言した。  ところが意外にも、参謀長は「それはまずい。好ましからざる人物が接近することを私は望まない」と、その提言に反対した。軍首脳の中に、接近させてはならない人物がいるという重大な示唆であった。カステッラーノには、大きな衝撃であった。以来、言動に一層の慎重さを心掛けることになった。  一九四二年秋、戦局は一段と悪化しつつあった。枢軸軍は北アフリカで大打撃を蒙っていたのである。一九四三年に入っても、戦局の打開策はつかめなかった。その年の二月、つまり彼が参謀本部入りして丁度一年目の凍てつく日、カステッラーノに宮内大臣ピエトロ・アックワローネ公から直接呼び出しがかかった。初めてのことで、クイリナーレ宮の執務室に行くと、一対一の対面であった。チアーノとの初対面の時と全く同じであった(注3)。  公は全くの雑談の形で、カステッラーノにとりとめもない質問を繰り返した。特に重要な質問というものもなく、退出したあとまで、アックワローネ公が一体、何を知ろうとしていたのかいぶかしく思った。腹を探るというか、ナゾ解きというか、妙な後味の残る初対面であったそうだ。カステッラーノによると、初対面のアックワローネへの印象は、慎重というか、人を信じないというか、自分の考えを全く他人に察知させない人物——というものであった。  宮内大臣という立場から、その片言隻句が国王や王室の意向として受け取られかねず、発言はあくまで個人的意見と断わってか、それとも全くあいまいであったとしても仕方がない。「しかし、アックワローネ公がなぜ自分を招いたのか?」むしろその点をカステッラーノは重視して、意味を詮索したものである。 「全く分らない。新参の参謀の顔を見たかったのかも知れない。しかし、こちらとしては顔をつないだだけでも意義はある。公はなにか、自分を利用するつもりかも知れない」と、この初対面を自ら高く評価した。思い到ったことは、「王室もことによると、戦争の前途に懸念を抱いているのではないか? だからこそ新参の一参謀の感触を当ってみたのではないか?」という確信であった。それだけにカステッラーノは、公と面識を得たことにより、いずれかの機会に、自分の考えを率直に進言出来るのではないかと、強い期待を抱いた。このことは腹の底にしまっておくほかはなかった。  だが実は、すでにカステッラーノの肩に、目にも見えず、形もない大いなる陰謀のクモの糸の一本が、そっとかけられていたのである。外務大臣チアーノも宮内大臣アックワローネも、時の経過とともにそれとなく、次第にそれを明らかにする。だが当のカステッラーノは、その時点では一切知るよしもなかった。  事実、そのクモの糸は、まずムッソリーニ排除計画という大いなる陰謀のために張られたのであった。アンブロージオという軍首脳と王室のアックワローネ、それにチアーノというファシスト党首脳を含めた、全く隠密、周到な「革命」とも「クーデタ」とも後に呼ばれる性質の策謀であった。したがってカステッラーノが、アックワローネ公との初対面に意義と謎を感じたのは、正しかったというべきである。しかしその時はまだ、すべてが夜明け前の黯く、重い時の流れの底に埋れていた。  すでに幾度かチアーノとの会合を経た後の一九四三年春、つまりアックワローネ公との初会見のあと、チアーノに呼ばれて何気なく外務省の執務室に訪ねると、外務大臣は官房長のブラスコ・ランツァ・ダイエータ侯を紹介した(注4)。カステッラーノが執務室に入った時、チアーノはそのダイエータ侯と、まるで親しい友人同士のようにくつろいだ態度で雑談していた。この二人はお互いに信頼関係にあると、カステッラーノは直観した。  実はこの外交官ダイエータ侯は、一九五二(昭和二十七)年五月、第二次大戦後の初代駐日大使として東京に着任する人物である。母親がアメリカ人で、彼自身アメリカの大学に留学の青年時代、のちに国務次官となったサムナー・ウェルズに特別の薫陶を受け、師弟の間柄にあった。当時のイタリア外務省にあっては、もし連合国、特にアメリカとのパイプ役として誰を使うかという場合、ダイエータ侯はナンバー・ワンと目されていた人材であった。  ともかくこの時の三人の対話も、全くの雑談に終始した。カステッラーノがしゃべる時、ダイエータ侯は注意深くその言葉に聴き入っていた。別に機密に属する話は何もなく、カステッラーノにとってはダイエータ侯と知り合ったというだけのことであった。  だが、この出会いは後に、重大な意味を持つことになる。やがてこの二人が連合国・軍との接触を計ることになるからである。こうしたことから想像出来ることは、チアーノが早くから、イタリアの現状打開のために手となり足となって働く少壮の幹部を自分の回りに集め、時到れば始動したいと深慮遠謀をめぐらしていたのではないかということである。  これを立証する公式文書、記録類については寡聞にして知らない。資料性の高い肝心のチアーノ「日記」には、官房長ダイエータ侯の名前は頻出するものの、ムッソリーニ逮捕や連合国との休戦との関連は全くない。カステッラーノについても、一度もその名は登場していない。関係者の安全への配慮ではなかったかと思われるが、それだけにキージ宮でのダイエータ侯とカステッラーノの出会いは、チアーノが仕組んだ文字通りのクモの糸の一つの結び目だったのではなかったか。その意味でも、ガレアッツォ・チアーノは、陰謀の原動力といえる重要なカギをにぎる人物だったのではなかろうか。  当時、フランスにはパリを中心に、亡命した反ファシストのイタリア人が六、七百人いた。第二次大戦後、大統領に選出されたジュゼッペ・サラガート、社会党党首で副首相も務めたピエトロ・ネンニ、外務大臣カルロ・スフォルツァ、それに不運にもファシストの秘密警察に暗殺されたロッセッリ兄弟など多士済々であった。彼らは反ファシスト機関紙を発行、同志の結束を図りながら、次のような母国への呼び掛けも行なっていた。  イタリア人よ!  我々反ファシストは問題や情勢評価でしばしば分裂してきた。今日、我々は大義のために兄弟として団結した。兵士、水兵、将校の諸君よ、武器を捨ててイタリア独立のために団結しよう!  またイタリア国民に連合国との即時単独講和、ムッソリーニ追放を訴え、本国にいる身内や知人にそのビラを第三国経由で郵送していた。イタリア国内の労働者も、徐々に反戦気運を表面に現わして来ていた。後に述べるが、北イタリアのトリノ、ミラノ、ジェノヴァなど工業地帯では一九四三年三月、反戦の大ストライキを敢行する。  しかし反ファシズム、反戦の運動は、こうした内外の反ファシズム勢力とは全く無関係に、ムッソリーニの足下、首都ローマで、しかも政府・軍首脳により隠密裏に進められていたのである。そしてその実行者としてジュゼッペ・カステッラーノ将軍が徐々に前面に押し出されてくる。まるでそれが彼の運命であるかのように——。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 22 注2 同右 P. 22 注3 同右 P. 36 注4 同右 P. 24 第二章 「こんな戦争止めてしまえ!」 アンブロージオ、参謀総長に  一九四二年十月中旬、ローマ防衛機甲司令官ジァコモ・カルボーニ将軍は、チアーノから、ムッソリーニが軍首脳部の異動を考慮中との極秘情報を知らされた(注1)。戦局利あらずの情勢から、ムッソリーニも真剣に打開の方途を考え、合わせて国民の気分転換をはかろうとしているとのことであった。  それによると、参謀総長カヴァレッロを更迭、後任に参謀次長ロアッタを昇格させるとの案であったが、ファシスト党機関紙の記者達からロアッタ反対の意向が直接、統帥に伝えられ、目下人選に苦慮しているとの内容であった。しかも後任候補は数人挙がっており、アンブロージオもその一人に含まれているとも付け加えた。  カルボーニはすぐさま、この話をカステッラーノに伝えながら「アンブロージオは一寸無理だろう」と洩らした。ファシスト党員でもないアンブロージオは、党首脳やドイツ軍幹部とも深い面識のない軍人であったからだ。時局柄、そのような人事がすんなりと実現はすまいというのが、カルボーニの読みであった。  しかし、軍内部のまともな将官の間では、アンブロージオは軍人としての資質がすぐれ、また清廉潔白の人柄という評判が高かった。カステッラーノにとっては、尊敬する先輩でかつ同志としてのアンブロージオの参謀総長就任は、願ってもないことになる。「何とか実現したい」。カステッラーノは、アンブロージオが固辞しかねない人物とみて、直接、談じ込んだ。「もし、要請があったら、決して断わらないように」と懇請したのである。  翌一九四三年一月上旬、カステッラーノはチアーノと話し合った際、バルカン駐留のイタリア軍を本土に集結、本土を固める提案を伝えた。「単に対連合軍というためだけではなく、対ドイツ軍との関係という意味からでもある」旨を説明した。チアーノは賛成した。そこでカステッラーノは、この案はアンブロージオのかねてからの考えであることを明らかにし、その実現のためにもアンブロージオを参謀総長にするのが賢明であると執拗に献策した(注2)。  一九四三年一月三十日午前、カステッラーノはアンブロージオに呼ばれた。 「私が参謀総長に任命されることになった。二月一日付で発令とのことだ。これは君達が仕組んだことなのか?」  その言葉に、カステッラーノは目で笑いながら、沈黙を守った。  後日、カステッラーノがアンブロージオから知り得たところによると、新参謀総長は就任に当って、ムッソリーニと次のような会話を交した(注3)。  ムッソリーニ「カヴァレッロの役割は終った。君の出番だ」  アンブロージオ「その任は、小官にとってあまりにも重すぎますが……」  ム「いや、皆で支える。君のこれからの方策はどういうものか!」  ア「我が軍を本土に集結させて再編し、広大な戦線を整理したいと考えます。それは連合軍に対してと同時に、ドイツ軍との関係からも、我が足下を固めるためです」  その意図は、補給線の問題からもイタリア軍を本土にまとめ、いずれ上陸してくるかも知れない連合軍に備えると共に、イタリア国内で我がもの顔のドイツ派遣軍を力で牽制しようというものであることを説明した。ムッソリーニもドイツへの従属状態にあることを日頃、苦々しく思っていただけに、アンブロージオの率直な見解表明にうなずきながら答えた。 「宜しい。それでよい」  ケッセルリンク司令官だけでなくドイツ参謀総長カイテル元帥とも、アンブロージオは対等に渡り合える軍人として、ムッソリーニは頼もしく思ったようだ。そのうえ、この新人の任命は国民の気分一新にもつながると見ていた。  アンブロージオは就任初日から、前任者と同じく毎朝、ムッソリーニに「戦況報告」を行なった。この新参謀総長は、現実の戦況をありのまま、事実に即して報告した。国王からもひんぱんに呼ばれた。統帥に対すると同じく、事実を語り、時には展望を織り込んで説明することもあった。その度ごとに国王、統帥には常に「メモ」を置いてくることにした。特に統帥が事実をまげ、自分に都合のよいように情勢判断しては困るからであった。  また国王に対しては、機会あるごとに「このままでは王室はもちろん、国家の滅亡につながる」との危機感を訴え、暗にムッソリーニの解任と早期単独講和を進言した(注4)。このアンブロージオの態度は、国王に対して強い説得力を持っていたようだ。国王は日増しにムッソリーニ排除の意志を具体的に固めることになったからである。  一方、カステッラーノがアンブロージオに提出した提案や書類が、そのままムッソリーニの机上に回付されることもあった。統帥がボツにすることもあったが、一部はヒットラーにも届けられることもあったという。カステッラーノはそうした書類をチアーノにも届け続けていた。チアーノがその頃、彼に語ったところでは、ムッソリーニの日常は、警察報告と新聞記事のチェックについやされ、「自分の人気のことしか関心を抱いていないのだ」ということであった(注5)。  このことはムッソリーニから参謀本部におりてくる回覧でも、カステッラーノには分っていた。情勢分析が狂っていたし、つまらぬことにこだわり、ものごとを自分に都合のよいように曲げて解釈したりしていた。例えばある新聞の「イギリス向け鶏卵運搬船が沈められた」とのベタ記事に赤鉛筆を入れ、「これでイギリス人は向う一週間、卵にありつけない」とコメントして回覧したりした。国民のことなど眼中にないばかりか、目のつけどころがおかしいというほかはなかった(注6)。  一九四二年秋から四三年にかけて、ローマの街の空気も変ってきていた。市民の間に陰に陽に反ファシズムの動きがくすぶり出したのである。そのうえ、反ナチの風も吹き始めた。  各戦線でのイタリア軍、ドイツ軍の敗北が相ついだのに加えて、アフリカ戦線やロシア戦線で、退却するドイツ軍に助けを求めるイタリア兵を射殺したというニュースなどが断片的ながら、風の便りに伝えられてきたからである。それらは後送された傷病兵からばかりでなく、パリに亡命中の反ファシスト達からのもあれば、中立国スイスにいるイタリア人が伝える情報でもあった。  こうした空気を反映して、財界、実業界の幹部も、新参謀総長の許に戦局の行方を見極めようと来訪するようになった。こうした人達は、慎重な言い回しながらも、ドイツが石炭や鉄など約束通りに補給しないことに不満を隠さなかった。中には軍事法廷に立たされかねない意見を開陳する著名人も少くなかった。重視すべき現象であった。いずれも、アンブロージオが公正で、信頼出来る軍人であることを知って、訪れる人ばかりであった。  そうした一九四三年二月はじめの一夜、カステッラーノはチアーノを外務省に訪ねた。迎え入れながら、チアーノは小声で言った(注7)。 「数時間前から、もう私は外務大臣ではなくなっているんだョ。そのうち発表されるはずだ」  ソファに座ると、チアーノはムッソリーニがかねてから懸案の内閣大改造を決め、自ら首相のほか、外務、内務、陸軍、海軍、空軍の枢要な五閣僚を兼任することにしたと自分に明らかにしたと話した。 「統帥《ドウチエ》(チアーノは義父をこう呼んでいた)は、私に上院か下院の議長にならないかと言ったが、私は断わった」 「それは結構でした」と、カステッラーノは答えた。 「なぜ?」 「なぜって、もっと大事なお仕事が……」こういってチアーノの顔を見つめた。カステッラーノはチアーノが内心、外務大臣を解任されたことを残念がっていると見てとったからである。二人はわずか一年前からの面識に過ぎないのに、お互いの気持や心境が分り合える間柄にまでなっていた。カステッラーノは心を許して話し合える“同志”ということから、「もっと大事なお仕事が……」と、心底から発し得た自分の言葉を反芻していた。「大事な仕事」の意味はチアーノも当然分っていた。その時、チアーノは悪戯っぽい微笑をたたえながら「自分はどうやらヴァチカン駐箚大使かも知れない」と洩らした。  カステッラーノは、黙ったままだった。チアーノはローマにいればよい、ヴァチカン大使なら、中立国ばかりか交戦国のヴァチカン駐箚大使達とも公然と接触出来る——カステッラーノはこう考えた。果してチアーノのヴァチカン大使は実現した。チアーノがもぎり取ったのか、それとも偶然だったのか。いずれにしても、チアーノ、カステッラーノ、それにアンブロージオらにとって、この大使人事はその後の道を開くために満足すべきものであったことは確かである。  チアーノはこの二月五日の日記に要旨次のように書いている(注8)。 「夕方四時半、統帥は電話で、内閣改造の意向を知らせて来て、お前は何をやりたいかと聞かれたが、先方の言うなりにしかなれない。ヴァチカン大使を選んだ。将来のためにはいいポストだ。今と違ってすべては神の御手にある未来」  長いので要約したが、意味深い文字が並んでいる。しかしこの夜、会ったはずのカステッラーノのカの字も、日記には書かれてはいない。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 25 注2 同右 P. 26 注3 同右 P. 27 注4 D. BARTOLI「L'ITALIA SI ARRENDE」P. 8 注5 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 34 注6 同右 P. 35 注7 同右 P. 32 注8 G. CIANO「DIARIO 1937—1943」P. 696 統帥逮捕の計画始まる  一九四三年春の一夜、カステッラーノはアンブロージオに連れられ、ヴァチカン駐箚大使になっていたチアーノの私邸を訪ねた。通された部屋で待つうちに、目の前のテーブル上に衝撃的な文字の書かれた一枚のメモ用紙が置かれているのが二人の目に入った(注1)。 「逮捕案——計画」  1、ネットゥーノでの砲撃演習の際。2、ヴェネツィア宮。3、クイリナーレ宮。  二人には意味がすべて飲み込め、思わず互いの目を見つめ合った。確かに近くローマ南方の海岸ネットゥーノで砲撃演習が予定され、統帥が査察することになっているのを、二人とも承知していた。第二のヴェネツィア宮。これはムッソリーニの官邸である。執務のために日夜こもっている。第三は王宮。週二回、ムッソリーニは国王に定例報告を行なうことになっていた。これら三つの機会を狙って、ムッソリーニを逮捕しては……というのが、チアーノの計画案であるのか!  それにしても、あまりにも具体的な案であった。二人共、「チアーノという女婿でさえも断行しようとしている」と、胸の奥で深い感銘と興奮を覚えた。チアーノがこのメモを二人に見せるために、故意に机の上に置いたのかどうかは、チアーノ以外に知るよしもない。だが「何とかお役に立ちたい」と、二人はずっしりと重い決意を心に抱いた。  やがてチアーノとの会話で、二人は「閣下のために献身する」意志を伝えた。チアーノはただ「秘密は絶対守ってくれ」とだけ要望、次いで「党内にも味方がいるのは有難いことだ」と、ひとり言のように打ち明けたのである。  この夜は、期せずして統帥逮捕というクーデタ計画の公然たる開始の日となった。口数こそ少かったが、一つの思いに三人の胸はあふれるばかりであったにちがいない。  自家用車を軍に徴発されたのをうらみ、女優アンナ・マニャーニがローマの繁華街であるコルソ通りを、農家で使う大八車で乗り回し、皮肉たっぷりに軍部に抗議の意志を示して街中の話題となったのは、その頃の出来事である。  それと前後して、一九四三年三月、トリノを中心とした北イタリア工業地帯で、大ストライキが発生した。発端は一九四二年秋から開始された連合軍の大規模な空襲による被災であった。同年十月二十二日のトリノ、ジェノヴァへの空襲を皮切りに、北イタリアの工業地帯が相ついで爆撃にさらされた。労働者の生命をも脅かすこの爆撃に、工員達はファシスト政府に反感と非難をつのらせた。トリノ、ジェノヴァ、ミラノの工業三角地帯の主工場の塀には「MORTE A MUSSOLINI(ムッソリーニに死を)」のスローガンさえ書かれたのである。ファシスト政権にとって、この大規模ストは、政権の基盤を根底から揺さぶる政治ストであった。ストは、数日後には鎮圧されたが、説得に当った役人らが投石されるなど暴動化するという激しいものであった。  一九四三年三月二十七日、一時的にせよ善戦していたチュニジア戦線の枢軸軍は再度、大退却を余儀なくされた。戦況にも国内情勢にも、不安な空気がジワジワと高まっていた。  こうした情況から、カステッラーノもアンブロージオも、戦況に関する発言や報告を一層綿密にし、すべてありのままにという方針で臨んだ。敗北はあくまでも敗北であり、事実を公表した。ムッソリーニや国王への報告には、時には前線の将兵の生の声、意見やまた市民の反応をも付記した。二人はまたムッソリーニに「悲劇的状況にある現実から脱出するためには、事態を直視し、ヒットラー・ドイツとの同盟離脱しかない」ことを悟らせる以外にないとの信念を強く固めた。  実はアンブロージオは、ムッソリーニへの定例報告のたびに、統帥が肝を冷すような直言を敢えてした。それによってヒットラーと手を切る機会が生れれば……、という一縷の望みからであった。一軍人の救国の想いが切々とにじみ出ているそのアンブロージオ参謀総長の諫言が、カステッラーノにより記録されてある(注2)。 「統帥(ムッソリーニ)は、総統(ヒットラー)に対し、通告すべきと考えます。ドイツにとって、イタリア防衛は勝利に結びつくのではなく、ドイツの敗北を遅らせるだけでしかないということを。戦力比からして、我々は連合軍に勝ち目はありません。現在、国民は苦しんでいます。イタリアを戦争に巻き込んだ最高責任者は閣下です。当初の電撃作戦は間違いでした。その後は不利になったばかりか、損害は大きくなるばかりです。ドイツ軍の援助にしても、彼らは約束を守らず、我々の自国防衛も最小限のものでしかありません。軍需物資は常に欠乏状態にあり、しかも生産体制は破局に追い込まれているのが現状であります」  また国内情勢を説明したこともある。 「ファシズムは日増しに、国民から憎まれてきています。ファシズム自身も残忍になっています。そして、かつて同調していた閣下の同僚の一部も、気持が離れているし、中には明白に反対に回っていると聞いています」  謀反に等しい直言である。反ムッソリーニ派と断定されて、即刻、逮捕拘禁されても決して不思議ではない言葉であった。  しかしムッソリーニは弱気になっていたのか、アンブロージオの厳しい直言を聞くだけは聞き、何ら懲罰的態度には出なかった。むしろこうした発言に関心を抱く人間であったのである。それは自分への人気を気にする性格であったからでもあろう。同時にアンブロージオの言葉にうなずくものが内心にあったからでもあろう。後世、同じ独裁者でもムッソリーニはヒットラーに比べれば人間的であったといわれる理由の一端はこの辺にある。  ただその頃、ムッソリーニはヒットラーから「最終的には、ドイツは究極の威力を持つ最終兵器の開発に成功し、戦争に勝つこと間違いなし」と耳打ちされていた。それを信じ込んだムッソリーニが「最後の瞬間に枢軸は勝つ」と側近に洩らしていた。そうした奇跡を期持していたから、アンブロージオの言葉を聞いても、格別怒らなかったのかも知れない。  それと同じように、彼の枢軸国日本への思い入れも大変なものがあったらしい。例えば次のムッソリーニ発言は一九四三年春のことで、カステッラーノが記録している(注3)。 「いま戦局は利あらずだが、やがて戦勝に好転する時が必ず来る。根拠は無敵日本が近く我々を支援にやってくる。長期戦をこれ以上は辛抱出来ないアメリカ国民が疲れ果てるだろうし、インドではチャンドラ・ボース(注4)が決起して軍を結集、我々の陣営に加わるはずだ」  これはムッソリーニと親交ある日本人で、イタリア人から「ファシストの同志」と呼ばれた、下位春吉氏や当時ローマにいた武官あたりからの情報に基づいた発言と想像される。こうした一連の思い込みに関して、カステッラーノは、ムッソリーニは浅薄で無知も甚だしく、外部からまどわされ易い人間ではないかと考えた。  それでなくとも、非現実的で誇大妄想的な希望にしがみつく人間になり下がってしまったようでは、イタリアを指導する人物にふさわしくないとして、排除こそ国と国民を救う道であると一層確信を強める。戦争遂行中のしかも参謀本部という軍の中枢に、こうした冷徹な透視を試み、合理的な判断を下す人物がいること自体、イタリアにとって大きな救いであった。  アンブロージオの、度重なる諫言にもかかわらず、その時には分ったようでもズルズルとドイツに未練がましく傾き、その勝利にすがろうとするムッソリーニに、最終的に見切りをつける時が訪れた。一九四三年四月七日から十日まで、ムッソリーニはドイツのザルツブルクでヒットラーと第十一回目の首脳会談を行なった。アンブロージオも随行、会談場でその目で見たものは、統帥がヒットラーと手を切る勇気は全く持ち合わせず、手を切ることは自らの破滅につながるといわんばかりのヒットラーへの見るに耐えないほどの卑屈な態度であった。  アンブロージオというイタリアのトップに立つ軍人にとって、この情景は余りにも情なく悲しむべきものであった。彼は帰国後、参謀総長室でカステッラーノにその事実を打ち明けた。  カステッラーノは思わず口走った。 「ならば、やはり我々の手でやるよりほかはないです。そうでしょう」  しかしアンブロージオは、必ずしも「自分達の手で」という言葉に同調しなかった。むしろ彼は、「国王の名において」ムッソリーニ解任に持って行く方が賢明との考えを静かに示した。  カステッラーノはうなずいた。単なる軍事クーデタではなく、国王つまり「イタリアの意志」として、独裁者ムッソリーニを解任させ、ファシスト体制に終止符を打つことにより、国民の支持と軍部への信頼を確保出来ると。  こうして、あとはムッソリーニ逮捕の手段・方法だけが問題となってきた。 注1 R. COLLIER「DUCE ! DUCE !」P. 190, 191 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 43, 44 注3 同右 P. 44 注4 CHANDRA BOSE(1897〜1945)。インド国民会議派指導者の一人。反英独立のため、大戦中ドイツや日本の支援を期待して日本と協力、インド独立軍を編成。大戦終結時に台湾で事故死。 カステッラーノに計画立案指示  国王の名の下にムッソリーニを首相の座から引きずり降ろすクーデタ! カステッラーノは「やれる」と確信し「よし、そしてこんな愚かな、ムッソリーニの戦争など、早くやめてしまえ! 勝ったところでロクなことはない。国を救うには休戦しかない」と口にすると、アンブロージオの目の前で、参謀総長室のタイプライターに向い、計画遂行に当っての肝心なポイントを一枚の紙に簡単にまとめた(注1)。 第一段階 起り得る事態へのファシストの反撃に対処する策を早急に講ずる 第二段階 統帥逮捕により国内で起り得る混乱と危機に備えての対策 第三段階 ドイツ側の反撃に対処するための軍事措置の諸問題  アンブロージオはそれを一読すると「よかろう。具体的段取りはすべて、君にまかせる」と言って、その紙をポケットにしまった。この紙は後日、アンブロージオによってチアーノとアックワローネにも協議材料として回覧される(注2)。 「短期間に準備しなくてはならない。実行に入った場合、国内の軍の混乱が十分に考えられる。各軍管区司令官に然るべき指示を発しなければならない」  アンブロージオは、こうカステッラーノに言い残した。  数日後、カステッラーノはまずトリノ、ミラノ、トリエステその他の都市に派遣された。これら軍管区司令官に対し「今後、国内でいかなる状況が発生し、戦況がどう展開しても、各自の防衛戦域を死守せよ」との参謀本部指令を伝達して回った。その頃、連合軍がいずれイタリアに侵攻してくることは素人の目にもあきらかであり、そうした事態が近づいている折柄、各軍管区司令官は指示を当然のこととして受領した。実はこの指示が、首都ローマでいかなる事態が発生しても、反クーデタのための軍の単独でのローマ移動などという妄動を防ぐための布石であったことはいうまでもない。  その間、アンブロージオは参謀総長として、枢要の人物にいつでも接し得る立場にあったものの、本当にありのままの自分の意志を汲み、かつ国王に影響力を与え得る人物は誰かを真剣に模索し続けた。チアーノはその重要な一人だが、ムッソリーニの女婿ということから、国王は必ずしも全幅の信頼を寄せるにはいたっていないことも分っていた。結局、そのような人物は宮内大臣アックワローネ公一人にしぼられた。同時に、国王以外にムッソリーニに命令を下し得る人物はいないことも明らかであった。アックワローネと国王の線を最優先順位として使うしか、ムッソリーニ排除の手段はないことも、こうして自明の理であった。  定例報告のため、アンブロージオは王宮に赴き、国王に謁見はするものの、国王は大抵はただ聴きおくといった態度で、自らの意志をあからさまに示すことはまずなかった。ただ国王の表情に注意して、反応を占うよりほかはなかった。  数日後、その王宮参内の折、宮内大臣と話を交えたが、静かなること山の如しのこの大臣が「何事もコトを為すには、憲法上の規定に基づいて」とひと言だけ口にした(注3)。これはアンブロージオの胸の中を見抜いたうえで、統帥逮捕・解任作業も「憲法に従って行なうべし」との、重要な暗黙の示唆であった。眼力の鋭いアックワローネはまた「実行計画立案者は一人にしぼり、警察にも秘密にするように」と厳命した(注4)。まさに隠密裏に進むイタリアと枢軸国、いや大戦をも運命づけるクーデタの実質的開始のサインであった。  アンブロージオはすでにチアーノ、アックワローネに内々で、カステッラーノに計画具体化をさせている旨を報告、了承をとりつけていた。つまり王室、軍、それにチアーノが外務大臣からヴァチカン駐在大使になっていたため、外務省とヴァチカンをも含めたムッソリーニ打倒計画のクモの糸が張られる形となった。しかもこれらの糸は、カステッラーノを使って、ムッソリーニを逮捕、その延長線上で連合軍との休戦を実現させるシナリオを自然発生的に描き出していた。とはいえ、休戦は可能かどうか皆目不明であるし、すべては星雲状態であったが、まず今は、ムッソリーニ逮捕が、緊急の課題となった。  不思議なことに、この計画は事前に協議などを重ねて生れたものではなかったことである。「やろう」「分った」といった数人の間での簡単な言葉のやりとりで、いつの間にか形作られていったのである。それも世論を背景にした絶大な信頼関係による産物というほかはない。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 38 注2 同右 P. 39 注3 R. COLLIER「DUCE ! DUCE !」P. 190, 191 注4 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 51, 52 第三章 大いなる転機 連合軍のシチリア上陸  一九四三年六月十一日、北アフリカからの連合軍艦船はシチリアの西南チュニジアとの中間にあるイタリア領の孤島パンテッレリーアに侵攻、一夜にして占領した。一万一千のイタリア軍守備隊がいたが、連合軍上陸とともにすぐさま降伏した。戦意を全く持っていなかったのである。続いてその南の小孤島で、反ファシズム政治犯の流刑地ランペドゥーサも翌日、連合軍の手に落ちた。  ローマはもちろん全土が、次はシチリアかそれともサルデーニャか、いやその両島か、あるいはいきなり長靴型の本土に上陸か? と、市民の噂は恐怖感を帯びながら急速に拡がっていった。  そうした不安がみなぎる戦局の中で、アンブロージオから「どうなった、あの計画は進んでいるか?」と督促されたカステッラーノは、その頃までにムッソリーニの私邸「トッローニア荘」、官邸のヴェネツィア宮、それに王宮を自分の足で歩き、調査と観察を重ねていた。その結果、私邸、官邸は警備の兵士やファシスト軍団の私兵が多く、ここで逮捕計画を強行すれば、ローマ市内の中心部でイタリア人同士の内戦状態を現出しかねなかった。そこで結局ファシスト軍団も入れない王宮クイリナーレが最も混乱なしに実行できるとほぼ結論づけていた(注1)。  相変らず毎週、月、木曜の両日、ムッソリーニは国王に定例報告を行なっていた。このクイリナーレ宮はかつてローマ法王の居所であり、十九世紀後半のイタリア統一後は王宮となり、第二次大戦後は大統領官邸に変っている。広大な宮殿で中庭も広く、出入口が幾つもある。カステッラーノはこの王宮内で計画を遂行すれば、隠密裏にムッソリーニの身柄を隔離することは十分可能と踏んでいた。  しかし、彼としてはこの王宮内で国王が任命した首相を逮捕することの是非に抵抗を感じた。二つの理由からである。一つは万一、護衛のファシスト軍団が事態を察知して、王宮に攻撃をしかねない懸念、次に王宮内で政府首班を逮捕することによる王室の権威の失墜と、王宮そのものの名誉を傷つける恐れ——であった。いずれも好ましくない結果を招くことは明らかで、最終的決断を下しかねていたのである。  チアーノが逮捕の機会の一つとしていたネットゥーノの砲撃演習は、軍の目前のことであり、かつ駐留ドイツ軍首脳も参列、終始ムッソリーニと行動を共にするため、ネットゥーノ逮捕案は、最初から消去された。実際問題として、この計画遂行にはドイツ軍の全く関与しない日常行事の中で処理されるのがカギと、カステッラーノは常に念頭においていた。ローマ駐留ナチ親衛隊と市周辺にいるドイツ師団の存在は、ムッソリーニ逮捕計画を頓挫させかねないからである。  カステッラーノは、私邸、官邸、王宮のほかネットゥーノのケースそれぞれについてコメントを添え、アンブロージオに提出した。アンブロージオがそれをアックワローネに極秘に回付したが、その時のアックワローネの答えは「実行はまだ尚早」であった。理由は不明だが、アンブロージオとカステッラーノは、次のアックワローネからのサインを待機しながら、完璧な準備をするほかなかった。  アンブロージオは参謀総長として、軍というものはあくまでも国家、つまり国王と国民の双方に属するものであると考えていた。宮内大臣アックワローネ公は、その国王のいわば“窓口”である。その頃の王室は、国王以下全員がムッソリーニに対して好感は持っていなかった。むしろ嫌悪感が漲っていたといった方が正確であろう。  ムッソリーニ政権が成立した二十一年前の一九二二年当時は、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世が自らの手でムッソリーニを首相に任命、その彼が革命的空気の強かった国内政情を安定させただけに、ムッソリーニを頼もしくさえ思い、深い信頼を寄せた時期が長く続いた。しかしファシスト独裁体制が長びくにつれ、ムッソリーニがイタリアのシンボルとして内外から見られ、自らもそのように振舞った。国王としては常に心中おだやかならぬものがあり、ムッソリーニを見る目は年ごとに冷やかになっていた。  皇太子ウンベルト二世の王妃マリア・ジョゼは王室内で完全な反ムッソリーニ、反ファシストであった。ベルギー国王の息女で、一九三〇年にウンベルト二世と王室同士の結婚で結ばれたが、第二次大戦当初、中立を宣言したベルギーにヒットラーが侵攻して以来、反ナチズムに徹し、そのドイツと同盟するムッソリーニに強い反感を抱き、王室内に公然と反ムッソリーニ感情を広めていた。  連合軍のイタリア本土接近で揺れる一九四三年六月二十七日、ムッソリーニの腹心でドイツにも極めて近いロベルト・ファリナッチが、ローマに不穏な気配があるとムッソリーニに報告した(注2)。ピエトロ・バドリオ元帥、アックワローネ公、ファシスト党首脳の一人ディーノ・グランディ元外相、それにアンブロージオの動きがおかしいとの内容であった。二日後、同様の趣旨を駐イタリア・ドイツ大使ゲオルク・フォン・マッケンゼンにも報告、その際には要注意人物として上院議長フェデルツォーニ、党首脳ボッタイの二人を追加していた。  どこでどう察知したのか。しかし、もし具体的な動きが事実あったとすれば、ムッソリーニもマッケンゼンもただで済ますことはなかったであろう。事実、その後、何らの措置もとられていない。ただドイツ側は、ファリナッチ報告をベルリンの本省に伝達したことは容易に想像される。いずれにしてもアンブロージオ、カステッラーノらはとてつもなく危険な橋を渡りつつあった。  これとは別に、政界元老のイヴァノエ・ボノミが六月三十日、密かに皇太子ウンベルトと会談した。ボノミはムッソリーニが政権に就く直前の首相で、隠然たる反ファシストの政治家であった。次いで皇太子自身が七月四日、在野の元帥バドリオと密談し、イタリアをファシズムから解放し、戦争から離脱する意向である旨を伝えた。翌五日、アンブロージオは国王への定例報告の際、軍長老で第一次大戦の勝因を作ったエンリコ・カヴィリア元帥かバドリオのいずれかを、ムッソリーニの後継者として推挙したが、国王は諾否も示さず、聴きおくとの態度であった。  一九四三年夏の初め、以上の三つの動きがあった(注3)が、それらが物語るものは、イタリア王室の奥深くで、ムッソリーニの後継人事が具体化していることであった。しかし、これら三つが連動していたとは思われない。たまたまイタリア政局・戦況の鼓動が、そのような動きを生んだのであろう。  七月に入ると、反ムッソリーニ派の動きは一段と活発化し、あとはただ、いつ統帥を失脚させるかの一点にしぼられる段階に入っていた。とはいっても、ローマで十指に満たぬ人物が全く隠密裏に動いているに過ぎなかった。これら反ムッソリーニ派の行動は、幸いファシスト側に具体的には全く察知されなかった。  そこへ戦局は一気に緊迫化して来た。七月九日深更から十日未明にかけ、予想されていた連合軍のシチリア上陸作戦が遂に敢行されたのである。イタリア国民の目も、ドイツ軍の関心も、地中海最大の島シチリアに釘付けにされた。  それと機を同じくして、ムッソリーニの警護は強化され、ファシスト軍団やドイツ兵の姿がローマ市内と周辺で目立ち始めた。ファシズムとムッソリーニにとっての弔鐘を聞いたためか? しかし、ムッソリーニは必ずしも政権に危機が差し迫ったとは受け取ってはいなかったようである。「むしろこれからが本土で実力を発揮できる」と自信満々を装い、七月十日、私兵的存在のムッソリーニ軍団を正規軍の指揮下に編入、戦力を増強したつもりであった。  アンブロージオが、実はこの編入を提案したのである。ムッソリーニ直属の私兵軍団を、ファシスト党自身の指揮からもぎ取ることは、間もなく実行される統帥逮捕も容易にするはずであり、カステッラーノの考えるファシストからの反撃を防止出来る重要案件の一つであった。  しかし、連合軍のシチリア作戦の成功は本土のイタリア国民に大きな動揺を与えた。ローマでも、予期していた人々は家財をまとめて北イタリアに疎開し始めたし、政府要人の行動予定も流動しつつあった。  七月十四日、アンブロージオはカステッラーノに、ムッソリーニ逮捕計画の再検討と練り直しを命じ、「あらゆる条件に備えての失敗なき対応策」の検討を求めた。しかし、結論として、手段手順はカステッラーノによって、ほぼ完璧に練り上げられており、修正の余地はなかった。  ここで連合軍のシチリア上陸作戦にふれておく。上陸地点は島の南岸のリカータ、ジェーラがアメリカ軍、東岸のシラクーサ、アヴォーラ、パキーノがイギリス軍で、総兵力十六万、軍用車両一万四千、砲門一千八百。これを海空軍の大部隊が援護した。一般に「史上最大の作戦」といわれる、のちのノルマンディ上陸作戦の兵力十万七千を、はるかに上回る大規模なものであった。 「HUSKY作戦」と命名されたこの作戦は、北アフリカで数ヵ月の準備ののち、アメリカ、イギリス軍を主力に、カナダ、ポーランド、チェコ、ユーゴ、ギリシャ、フランス各国の兵士達も参加していた。総司令官はアメリカのドワイト・アイゼンハワー大将、副司令官はイギリスのサー・ハロルド・アレクザンダー大将。その下にイギリスのモントゴメリー、アメリカのパットン両将軍らが従っていた。  一方、迎え撃つ枢軸軍はイタリアのアルフレード・グッツォーニ将軍を総司令官とする約二十万のイタリア軍と、三万ほどのドイツ軍が編成、百五十台の戦車、砲門五百などを配備していた。  連合軍総司令官アイゼンハワーは当初、二週間でシチリア全土を制覇すると豪語していたが、結局は五週間以上かかった。最初から戦意を失っていたイタリアの大部隊は戦闘を放棄したが、ドイツ軍と一部のイタリア軍が最後まで頑強に抵抗を続けたためである。  連合軍にとって、このシチリア作戦はヨーロッパ戦線の大転回を画する意義を持っていた。すなわち第一はイタリア本土に上陸するための地中海補給路の確立。同時にイタリア戦線に今後ドイツ軍を引き付け続けて、ソ連へのドイツ軍の圧力を軽減すること。第二はイタリアに直接打撃を加えることによって戦争から離脱させ、ドイツを孤立化させる——であった。それだけに連合軍も作戦遂行に全力を挙げた。  アメリカ軍とイギリス軍が、どちらが広くシチリアを占領するか“競争”も行なわれたが、これは島の西半分を進んだアメリカ軍に軍配が上った。アメリカ軍に親近感を抱く多くのシチリア人が、ドイツ軍の行動や配置を教え、物資運搬に参加し、協力したからである。島の西半分にあのマフィアが根拠地を多く持っていたことも大きな力となった。アメリカ軍も当時、本国の獄中にいたマフィアの大ボス、ラッキー・ルチアーノに協力を求め、シチリア・マフィアを動員してアメリカ軍に支援させたエピソードも残っている。  なぜこのエピソードを添えたかというと、シチリアにおけるこのアメリカ軍への協力気運は、その頃のイタリア本土の空気をそのまま反映していたといってよいからである。イタリア人は本質的にアメリカ人に親近感を抱いている。十九世紀末から二十世紀初頭にかけ、数百万人のイタリア人が移民としてアメリカ大陸に渡った。縁戚関係といえるほどイタリアとアメリカのこの血のつながりは無視出来ない感情でもあった。そのアメリカ軍が現実に、大勢のイタリア系市民の将兵とともにシチリアまでやってきたのである。イタリア国民の間に、早く本土にきてナチ・ドイツ軍を追い払って欲しいという期待感が一挙に高まったのも、自然の成り行きであった。  このように多くのイタリア人にとって、アメリカ軍は「味方」意識で受け入れられる存在に変異していたのである。このことはあらためて、イタリアがアメリカを敵として戦争を継続していることの不条理さを、イタリア国民に思い知らせることになる。「ムッソリーニは間違っていたのだ!」と、ファシストの連中でさえ気がついて、動揺をかくさなかった。  連合軍のシチリア上陸は、こうしてイタリア全土に反ファシズム、反ナチズム、そして和平への気運を爆発的にかき立てる重要な作用を果したのである。カステッラーノらにとっては計算外のポイントを加えることが出来た。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 50 注2 B. P. BOSCHESI「GUERRA DI MUSSOLINI」P. 262 注3 同 P. 262 首都ローマに初空襲  シチリア戦が続いている最中の七月十二日、ファシスト党本部は党の各首脳に、「戦意高揚・徹底抗戦」のスローガンの下に、地方遊説を指示した。指名された首脳部の面々は、意図は了承したものの、現状と今後の展望を地方住民にどう説明するかにつき、党・政府の基本方針を知っておきたいと申し出た。  二十一年前のムッソリーニらファシストによる「ローマ進軍四天王」とされる党元老のうちデ・ボーノ、それに学士院院長フェデルツォーニ、下院議長グランディ、協同組合大臣チアネッティ、内務次官アルビーニほかの約十人のファシズム大評議会(後述)のメンバー達であった。「党・政府の現状認識と展望を示すべきである」とのその要望は筋の通ったものであり、党書記長スコルツァはムッソリーニと協議、十六日に一同を他の首脳陣と共に官邸に召集することにした。  同会合にチアーノ、フェデルツォーニ、グランディらは欠席したが、ムッソリーニと対談中に、一同は国家が緊急事態に直面するこの際、ファシスト体制の最高機関であるファシズム大評議会を開催すべきであると要請した。党首ムッソリーニは「戦争が終るまで待て。それまでは余に従え」とはねつけたが、連合軍が足下のシチリアまで来ているという危機感に押され、開催を了承し、「二週間以内に官邸に召集する」といやいやながら回答した。  この段階で、大評議会で何を討議しようと考えたのか、党首脳はともかく、ムッソリーニは具体的には何も頭になかった(注1)。ただ何となく、首脳が一堂に会して緊急事態に備える会議を開けばよいぐらいの気持であったようだ。  ファシズム大評議会は、ムッソリーニが政権をとった翌年の一九二三年一月、自ら設置した党・政府双方による国家最高諮問機関である。党幹部だけの組織ではなく、閣僚等を含めて構成、議長はムッソリーニであった。  一九二八年に、憲法に基づく国家機関に格上げされ、翌年には組織改正が行なわれて、政府首班ムッソリーニを議長とし、上下両院議長、各閣僚、ローマ進軍の四天王(ミケーレ・ビアンキ、イタロ・バルボ、チェーザレ・マリア・デ・ヴェッキ、エミリ、組合、内務、外務各省次官、国防義勇軍総司令官、党指導部員、党正副書記長、一九二二年以降に少くとも五年間の大臣経歴者により構成されることになった。  この大評議会は「党と政府の一体化」の見地から設置され、ファシズム政権発足当初は他の政党からも入閣していたため、大評議会が政策を一元化、調整するとされた。  機能としては協議機関であり、ムッソリーニとしては党と政府の上に君臨し、ムッソリーニ個人の第一義性を確立することにあったとされる(注2)。  創設当初は毎月十二日に開催されることとし、しばらくそのように運営されていたが、いつの間にか不定期となり、結局は議長ムッソリーニの一存で、「毎月十二日」も守られなくなってしまっていた。ムッソリーニの独裁が強化されるにつれ、協議自体も全く必要がなくなってしまっていたからである。  したがって、今回開かれる大評議会は前回の一九三九年十二月七日以来、三年半ぶりということになり、戦時下では初めてのものとなった。第二次大戦への参戦に当っても、大評議会は開催されていなかったのである。それほど大評議会そのものの意味や役割、重要性は喪失されていたことになる。だからこそ、かえってムッソリーニは大評議会を開いても、自分の地位などに影響はあるまいと、開催を承知したのであった。議決機関ではないことも、創設者としては最もよく知るところであった。しかし、皮肉にも、このタカをくくった大評議会の開催が、ムッソリーニの生命取りとなるのである。  ところがこの大評議会開催を間近に控えた七月十七日朝、ドイツ大使フォン・マッケンゼンが、ヒットラー総統からの緊急首脳会談をムッソリーニに申し入れてきた。ムッソリーニは直ちに翌十八日に、北イタリアのフェルトレで会合する旨を返答した。  外務省からはアンブロージオに会談列席を指示してきた。前回の首脳会談は三ヵ月前の四月七日、ドイツのザルツブルクにほど近いクレスハイム城で行なわれたばかりであった。今会談の目的はシチリア作戦の枢軸軍の不手際と、フォン・マッケンゼンからの「イタリア国民の間に厭戦気分がある」との総統宛報告が触発したものであったという。  その直前の七月十七日、チャーチル、ルーズベルトの両連合国指導者による要旨次のようなイタリア国民向けメッセージが発せられていた。 「イタリア国民へ。ムッソリーニとヒットラーのために死ぬか、それとも祖国と文明のために生きるかの決断の時は来た。(中略)ムッソリーニによって、イタリアは無益な戦争に入った。しかしドイツと共に敗北をたどっている。ナチスとファシストは、古くからのイタリアの自由と文化の伝統とは相容れない。そのイタリアの生存のためには、圧倒的な強さを持つ連合国への降伏しかない。我々はイタリアを悲劇の戦場にしたくはない。すべては諸君の選択いかんにかかっている(以下略)」  十九日午前八時半、ムッソリーニは飛行機でタルヴィシオに到着した。九時頃、ヒットラーも参謀総長カイテルらを伴って到着した。両者の会談は飛行場からさらに車で二時間も入った、フェルトレ郊外のガッジア荘という富豪の建物で開かれた。もっと便利な会場はほかにもあったのに、ことさらこのような場所を選んだのはどういうわけか——といぶかしく思う人も少くなかった。だがそれは、実質的な会談時間を短くした方が得策とのイタリア側の判断であった。  この会談は両者による第十二回目だが、会談とは名ばかりで、ヒットラーの独演であった。特に「イタリア軍の戦意と力が問題である」と、イタリア側随員の前でムッソリーニを面罵した。陪席したアンブロージオは怒りに燃えた。ドイツ参謀総長カイテルに「ドイツ側がそれを言うなら、我が軍にもっと補強すべきではないか」と迫ったが、アンブロージオヘの返事は「ソ連との戦いでそちらへの援助までは手が回らない」と、冷淡そのものであった(注3)。  ムッソリーニも、あらためてヒットラーに経済・軍事援助を要請したが、ヒットラーはそれには答えず、イタリア軍をドイツ軍指揮下に置きたいという難題を要求してきた。それによって、低下したイタリアの軍の戦意をたたき直そうとの意図であった。同時にイタリアの戦線離脱防止も、秘められていたことはいうまでもない。  この要求にイタリア側代表団が一瞬、緊張したその時、ムッソリーニの秘書官が入室し、一片の紙切れを統帥に手渡した。ムッソリーニは走り書きのそのメモに目を通したあと、声を出してドイツ語に訳して読みあげた。 「大至急電。連合軍爆撃機隊が目下、ローマ市内を猛爆中」  正午をかなり回った時刻であった。ヒットラーの顔は引きつった。ムッソリーニにとっては衝撃的な知らせで、顔面は蒼白となっていた。オスティア、チヴィタヴェッキアなどローマ近郊の一部要衝が、七月はじめに空襲を受けたことはあったが、ローマ市内への空爆は参戦以来、全く初めての事態であった。  このローマ爆撃は、一年余り前の一九四二(昭和十七)年四月十八日、東京を初空襲したアメリカのドゥリトル少将指揮下の爆撃機隊が敢行したもので、イタリア政府はこれより先、ローマが歴史的遺産にあふれ、カトリックの総本山ヴァチカンを擁するところから「無防備都市」の宣言を考慮中であった。これによりローマが空襲されることはあるまいというのが、イタリア政府はもちろんローマ市民にいたるまで、ひとしく抱いていた期待であった。それだけにローマ爆撃は、ムッソリーニにもローマ市民にとっても青天の霹靂《へきれき》に等しいショックであった。ムッソリーニは、ヒットラーから面罵されたうえの衝撃で、しばらくは顔が土色のままであった。  アンブロージオは、ムッソリーニに小声で進言した。 「統帥、統帥はいまこそ彼(ヒットラー)に戦争から離脱する旨を伝えるべきです。イタリアには戦争続行の戦力はないと。統帥は友人ではありませんか。彼に我々の考えを分らせなくては……。今こそそのチャンスです」  しかし、会談はローマ初空襲のショックで後が続かず、結論も出ないまま早々に終了することになる。  ムッソリーニはヒットラーにただ次のように述べて、別れの握手をした。 「総統、我々は共通の大義を持っている」  この時、アンブロージオは傍にいる外務次官バスティアニーニに吐き捨てるように話した。 「統帥には、私がいったことが何も分ってはいない。狂っているとしかいいようがない。最も大切なことを私は助言したのに……」  この参謀総長は完全に打ちのめされていた。そしてもう救いようがないと、統帥逮捕を急ぐべく決意したのである。  午後早く、ローマでは爆撃地点の破壊跡を国王が視察していた。南方作戦の兵站《へいたん》基地ティブルティーナ停車場と貨車操車場、ローマ大学街に隣接するサン・ロレンツォ地区などの労働者街である。五百機に上る四波の大空襲で、古代ローマ遺跡など歴史的中心は避けたものの約一千トンの爆弾が投下され、そのうえ低空からの機銃掃射が加えられて約千五百人の市民が死亡、四万人が被災していた。瓦礫の中にまだ重軽傷者がうめいていた。  国王の姿を見ても被災者達は歓迎するでもなく、冷たい敵意のある視線を注ぐだけであった。それから数分後、同じ被災地慰問に訪れたローマ法王ピオ十二世は、国王とは対照的に被災地住民から熱狂的な歓声と祈りの言葉で迎えられた。和平を求めるローマ市民の態度を、あますところなく映し出した情景であった。  この日の空襲で、王宮警備司令官アッツォリーノ・アーゾン将軍が爆死した。反ムッソリーニ派にとっては実は大きな痛手であった。アンブロージオの信頼厚い友人の一人で、かつ王宮でムッソリーニ逮捕を実行するに当って協力を仰ぐべき人物であったからである。しかもすでにカステッラーノとも逮捕計画の机上演習も重ねていた。肝心な時に、逮捕執行に大きな穴があいてしまったのである。 注1 M. GALLO「ムッソリーニの時代」P. 334 注2 D. M. SMITH「MUSSOLINI」P. 79 注3 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 54 国王、統帥の解任を決意  連合軍のシチリア上陸、フェルトレにおけるヒットラーの威圧、そしてローマ初空襲と、一九四三年七月、焼けつく夏空の下でイタリアはあえいでいた。  フェルトレ会談を終えたアンブロージオは二十日、ローマ駅に到着するや王宮に直行、会談の模様を国王に詳細に報告した。国王はその間、じっと耳を傾けていたが、最後にひと言、「(ムッソリーニ)解任の意志は決った」と、洩らした。  一方、ムッソリーニは同じ頃、官邸に新聞記者を招き、フェルトレ会談につき自分に都合のよい説明を行なった。そのあとアンブロージオを呼び、「ヒットラーに訣別する手紙を書くつもりだ」と告げた。アンブロージオは反論した。 「いまさら手紙を書いても……。閣下はフェルトレで直接強い決意をぶつけるべきでした」  ムッソリーニは結局、そのような手紙は書きもしなかったし、また出来もしなかったのである。このことがあって直ぐ、アンブロージオはムッソリーニに辞表を提出した。だが統帥は「国家の損失になる」と、受理はしなかった。  こうした経過をアンブロージオから聞いていたカステッラーノは七月二十二日午後、アックワローネ公から王宮に呼ばれ、国王がムッソリーニの後継にバドリオを決めたことをなかば公式に知らされ、さらに次の重要な言葉を聞いた。 「あとはいつ実行するかだ。ムッソリーニが国王の許に来るのは、今度の月曜日二十六日である。この日が最も近い。問題は準備の日数だ」  二十六日が決行日! カステッラーノは逮捕手段について十分準備していたので成算はあった。しかもこのアックワローネ発言は事実上、王宮内での実行を容認していることを示していた。  ムッソリーニが定例報告のため王宮に参内する際は、統帥警護のファシスト軍団兵は、宮殿前の広いクイリナーレ広場の一隅で待機、ムッソリーニと個人秘書だけが乗った自動車一台が、正門から車のまま中庭に入る。退出の場合はその逆である。中庭から正門以外の出口は少くとも二ヵ所ある。しかも正門からかなり奥の広い中庭で何か事件が起っても、外の広場で待機するファシスト軍団の警護隊には、まず何も分るはずはない。  カステッラーノはムッソリーニ逮捕に当る要員として、王宮警備兵を使うことを早くから決めていた。さきのローマ初空襲で爆死したアーゾン王宮警備司令官の後任には、間髪を入れずにすでにアンブロージオとアックワローネ双方の息のかかっていたアンジェロ・チェリカ将軍が任命されていた。新司令官は二十二日夜、自分の信頼出来る部下として二人の大佐をカステッラーノに紹介、協力させるとしていた。  その夜と翌日の夜の二晩、アックワローネ邸でカステッラーノを中心に前記二人の大佐と計四人による計画決行の最終的打合わせが行なわれた。三人は大臣邸で会合の度に、私服を着て一人ひとりが顔をかくすようにして邸内に入った。見取図も作り、机上演習も行なった。しかし、本計画に関する文書、記録は、一切残されていない。  七月二十三日夜、実行計画が最終的に練り上げられているまさにその時、アックワローネの許に突然、重大情報がもたらされた。 「ムッソリーニが明日二十四日午後五時に、ファシズム大評議会を官邸に召集した」  ムッソリーニが十六日に党領袖に約束したあの会議である。アックワローネはカステッラーノに、「事態を見守ろう。だがどのような成り行きにも対応できるよう逮捕計画は進めるように」と指示した。しかし、大評議会の展開いかんでは、計画に支障を来たすことも十分考えられる。その場合、カステッラーノはやむを得ずムッソリーニの射殺を前提とした計画さえ考えるのではないかと、アックワローネは読んでいた(注1)。  一方、カステッラーノは、ファシスト党領袖のディーノ・グランディ下院議長が、大評議会で重大な役割を演ずるらしいとの情報を耳にした。だがそれが何であるか全くつかめなかった。実はグランディは、ムッソリーニの統帥権を国王に返還させることを企図、極秘に準備していたのである。  翌二十四日午前、アックワローネ、アンブロージオが人目を避けてバドリオ邸を訪れた。カステッラーノも随行した。ここでアックワローネはバドリオ元帥に国王が大命を降下するので、ラジオで発表する就任宣言文を考えておくよう要請した。ムッソリーニ逮捕の件はひと言も口にせず、カステッラーノの紹介さえもしなかった。余計な発言は全くせず、威厳に満ちた見事なやり方であった。  それにしても、大評議会の結果はどうなるのか? そこで何が起るのか? カステッラーノら三人は情報に乏しく、いらだちはかくせなかった。  二日前の二十二日、シチリアの州都パレルモはアメリカ軍の手に陥ち、ほぼ全島が連合軍に攻略されたも同然となっていた。いよいよ、本土上陸が時間の問題となってきていた。それに時期を合わせた三年半ぶりの大評議会の開催との報道に、ローマの街頭には何か不気味な音のないうねりのようなものが押し寄せていた。  パレルモ失陥後、ムッソリーニは「わがイタリア半島の八千キロに及ぶ長い海岸線で、わが軍は連合軍を必ずや海につき落す」と豪語した。しかし、国民は「本当に徹底抗戦するのか、馬鹿なッ。それとも和平か」と、大評議会の成り行きにただ息をひそめるばかりであった。  カステッラーノにとって最大の問題は、大評議会の結果、ムッソリーニの地位に何らかの変化が起るのかどうか、つまり定例報告のため王宮への参内がこれまで通りあるのか、それともなくなるのかの一点にかかっていた。  反ムッソリーニのもう一つの勢力であるファシスト党内の“反乱分子”にとっても、あれほど反対した大評議会の開催を、ムッソリーニが安易に承知したことにかえって不安を覚えていた。グランディはすでに「統帥権の国王への返還決議」を出す旨、ムッソリーニに事前に伝えるとともに、開会当日の昼食前までに確実な同志とみられる面々を一人一人訪ねて、大評議会に提出する自分の動議に賛成をとりつけて回った。前外務大臣チアーノをはじめ、デ・ボーノ、デ・ヴェッキ、ボッタイら大幹部、上院議長スアルド、法相デ・マルシコ、協同組合相チアネッティその他であった。  グランディは二十四日夕方五時の開会までに、大評議会員二十九人のうちの過半数から賛成の署名を集めようと必死だったが、ことによると開催のため集合したところで、あるいは大評議会の途中で逮捕されるのではないかとの危惧の念にかられてもいた。状況いかんではムッソリーニを道連れに自爆して果てようと、手榴弾二個を用意した。  片やムッソリーニはといえば、大評議会が議決機関ではなく協議機関ということから、拘束力はないとして、開催結果について不安は感じていなかった。そのうえ「国王は常に自分を信任してくれている」という強い自負心を抱いていた。  こうして、アンブロージオ、アックワローネ、カステッラーノの三人、グランディ、チアーノらファシスト、それにムッソリーニはそれぞれ三者三様の思惑にとりつかれていた。それまでカステッラーノ、アンブロージオと公然、非公然のパイプを持っていたチアーノは、グランディの動議に賛成署名をしていたにも拘らず、それをアンブロージオらに伝え、大評議会の成り行きを示唆することも出来ずにいた。  チアーノとしては、アックワローネから「統帥の女婿」という理由で、どこまで信頼されているかという疑いを持っていた。それ以上に、ムッソリーニから監禁される可能性も考えていたのである。そしてアンブロージオはこの重大時期とあって、参謀本部と王宮の間を忙しく往来するのが精一杯であった。チアーノとの連絡はこうして切れたままになった。  しかし、事態は刻々、激しく変化していった。大評議会開催の時刻になって、アックワローネの許にまたしても重大な情報がもたらされたのである。グランディが信頼する友人に托して、一通の文書をアックワローネに届けてきた。それはグランディが大評議会のため家を出る前に、国王宛したためた書面であった。 「私どもは、自らの国家への義務を完遂する覚悟であります」で始まる、王室から自分への支持を仰ぐその文書には、統帥権の国王への返還要求の決議文も添付されていた。国王もアックワローネもこれを見て、大評議会の結末いかんでは、グランディを効果的に利用出来るのではないかと見て取った(注2)。  アックワローネはこの時点で、カステッラーノにあらためて、あらゆる事態に即応したムッソリーニ逮捕をおこたらぬよう厳命した。この瞬間が、国王と軍首脳派にとって、勝利決定の転回点となったといってよい。「逮捕は断固として決行」のサインであったからである。カステッラーノの迷いは去った。アックワローネという人物は、時に五十三歳。頭は禿げ上がり、金ぶち眼鏡の奥に冷徹な目を据え、銀行家兼哲学者のような一種独特の風情をただよわせ、底知れぬ深さをたたえている人物である。カステッラーノヘの指示はまことに冷静適切な判断によるものであった。国家の拠って立つ国王を守護する高級官僚としては、最大級の人物といわれた理由もこの辺にある。彼はそれから二年後、他界する。  このような王室の動きがあることも露知らず、ムッソリーニは誤った状況判断の中にあった。二十四日午後四時半過ぎ、これから始まる大評議会に臨むため、私邸を出た。古代ローマ風の円柱のある玄関まで見送ってきた夫人のラケーレは、夫の手をとって告げた(注3)。 「あの連中全員を逮捕しておしまいなさいよッ! きっとねっ」  ムッソリーニから、グランディが「大政奉還決議」を出していることを知らされ、政治家の夫の身に万一を案ずる妻の鋭いカンから出た言葉であった。だが夫ムッソリーニは、いつものように「私は国王の信任を受けている。心配ないよ」と言いたそうな顔をした。統帥は黙って出迎えの車に乗った。まだ太陽は西に高く、夏の夕空を焦がしていた。車は静かなノメンターナを一路南西に去った。そしてファシズムとムッソリーニ、それに反ファシズムの運命にとって歴史的な長い一夜が始まろうとしていた。 注1 M. GALLO「ムッソリーニの時代」P. 347 注2 同右 P. 348 注3 R. MUSSOLINI「LA MIA VITA CON BENITO」P. 189 第四章 統帥、失脚から逮捕へ 運命のファシズム大評議会  この大評議会は、一九二三年の創設以来第百八十七回目。午後五時開催となっていた。ムッソリーニを除く二十八人のメンバーは全員、続々官邸ヴェネツィア宮に参集した。過去の大評議会は決って夜十時に召集されていた。それだけに「夕方開催」とはおかしいと、いぶかる者も少くはなかった。ムッソリーニはただ、早く開いて、夕食前に切り上げてしまおうぐらいの気持からであった。  しかし、評議会の面々は、ヴェネツィア宮横のサンマルコ小広場の入口から中庭に入った途端、護衛のファシスト軍団警備兵の数が通常より多いのに気付いた。亜熱帯植物の茂るその中庭、二階の大会議室へのその広い階段から会議場まで、いつもの数倍の兵が警備していた。これを見て「万事休す。ワナか!」と感じたのはグランディだけではなかった。この万一に備えて、グランディはズボンの下の向うずねに手榴弾を二個くくりつけてきたのであった(注1)。  大評議会の面々は、序列に従って会議場の所定の席に座った。ムッソリーニの席を中心にコの字型である。五時にはまだ少し時間があり、グランディは着席者の間を縫って、ともかくも自分の動議への賛成署名者を一人でも多く取りつけるのに躍起であった。  五時五分、党書記長スコルツァを伴ってムッソリーニが入ってきた。二人ともファシスト軍団の制服を着ていた。スコルツァが「統帥に敬礼!」と号令。全員が起立してファシスト式に挙手した。  大評議会は本来、議事録をとらず、党・政府の最高責任者達が自由に意見を述べ合う機関とされていたため、公式記録は残っていない。ただし歴史的なこの最後の大評議会につき、列席者の多くがそれぞれの立場から後年、何らかの形で活字にしたため、それらを総合して会議そのものの全体像を描くことがいまや可能となっている。  これら出版物のうち有力資料(注2)となる著者はムッソリーニはじめ、時の書記長スコルツァ、ムッソリーニに「大政奉還」をつきつけた主役グランディ、それにムッソリーニの古くからの盟友ボッタイらである。いずれもかなり精密な内容だが、すべて政治家だけに主観に偏り勝ちである。その点を勘案して、客観的に整理してみると、このファシズム大評議会の特徴は次のように要約出来る。後述の会議における重要発言の背景を理解する意味で、次に列記しておく。  一、同大評議会は七月二十四日午後五時五分に開会、翌二十五日午前三時に閉会になるまで延々十時間に及び、その経過は二十一年にわたるムッソリーニ独裁の事実上の転覆劇となった。  二、会議ではムッソリーニを含む二十九人のメンバーのうち約半数が多かれ少かれ発言し、発言そのものは「危機に立つイタリアを救え!」の建前のもとに、ムッソリーニ独裁への反対派、支持派に二分したが、実体はこの両派の権力闘争以外の何ものでもなかった。  三、注目すべきは、ムッソリーニ反対派もその独裁と政治のあり方に反対であって、反ファシズム運動ではなかったという点である。ファシスト体制の存続を疑うものはおらず、グランディはムッソリーニの跡を狙う人物と目された。  つまり反ムッソリーニ派としても、三軍の統帥権を持つ首相の地位からムッソリーニを降ろし、実権なき指導者として党務に専念させることを考えていたわけである。過半数の反ムッソリーニの支持を取りつけた、グランディの「大政奉還」決議案内容がそれを物語っている(後述)。この大政奉還により、ファシスト党がそれ以降のイタリアの軍事的敗北の責任を免れることも期待していたことは明らかである。  しかもこの大評議会の空気は、責任のなすり合いに等しい党首脳陣の対立を露呈、統帥ムッソリーニの権威も全く地に堕ちていた。 「……誰もが《危機にある祖国》のために自暴自棄になっていた。それぞれがあらん限りの悪罵を互いにぶつけ合った。皆、自分自身のことだけを考えていたのだ。自分が悪者にされてはかなわないという恐れを抱いていたからである。中にはあわよくば、自分が権力につくことが出来るかも知れないとの思いを抱くものもあった。……」(注3)。その頃の国内の空気を敏感に感じ取って、ムッソリーニに反旗をひるがえすことが、国民の多くの層の味方になると計算した人物もいたはずである。実際、ムッソリーニによる独裁が二十余年続いてきたため、ムッソリーニ一人を《悪者》に仕立てれば、党首脳陣の責任も回避出来る情勢となっていた。  ムッソリーニ追放劇のこの大評議会は、優に大冊にまとめることが出来るドラマティックな経過をたどるのだが、以下は本書に関係あるエッセンスを主役グランディ、チアーノの発言などにしぼって記述する。  午後五時五分過ぎ、開会ののち席に着いたムッソリーニは、エンジ色のテーブルクロスの上に部厚い書類を広げ、まず戦局、ドイツとの協力、とりわけイタリア軍のだらしなさを非難して一時間四十五分も話し続けた。この中で、二日前にグランディがムッソリーニに提示した動議(統帥権の国王への返還)に関し、「三軍統帥権を余が欲しいと催促したことなど一度もなかった。参戦の六月十日に国王が余に付与したものである。それも時の参謀総長バドリオの発意によって行なわれたのである」と前置きして、用意して来た一九四〇年当時の公文書を読み上げた(注4)。統帥権についての弁解であった。ムッソリーニのこの夜の発言は、前線の指揮官への非難と、自分への弁護に彩られたものに過ぎなかった。眼前のシチリアの敗色については現地司令官を《無能》呼ばわりし、さらに次のように述べた。 「現地司令官に最後の一兵にいたるまで陣地を死守せよと命令出来るのは、ミカド(日本の天皇)とスターリンぐらいだけだ」(注5)  これは前線まで自分の指揮権の及ぶところではないとの自己弁明以外の何ものでもない。  この発言に対し、まず軍の長老デ・ボーノが立ち、「前線のイタリア軍は善戦している。軍人の名誉においていまの発言は許せない」と、悲憤の抗議を行なった。同じく党の元老デ・ヴェッキも、ムッソリーニを「君」呼ばわりしてデ・ボーノに同調、会場はムッソリーニ攻撃の空気に一変した。  この機をみてグランディが起立、これまた「君」呼ばわりで、自分の動議を振りかざしつつ、生命を賭した弁舌を展開した。本来が弁護士であり、長年イギリス駐箚大使を務めて外交舞台でも華々しい場を数多く踏んでいるだけに、議場はその迫力に緊張した。 「……今大戦への参戦に際しても、この大評議会は開かれなかった。全責任は統帥《ドウチエ》にある。現在、最も大切なことは、政権、我が党、我々個人を救うことではない。イタリアを救うことである! 統帥《ドウチエ》は先刻、戦争継続こそ唯一の道と展望していたが、冗談ではない。このままでは前途に破滅以外はない。  多くの国民は言っている。イタリア兵は国のためではなく、ムッソリーニのために戦死していると(注6)。  …………(沈黙)……  統帥よ、一九二四年に君が言った言葉を想い出せ! それは《あらゆる党派を超えて、国を救おうではないか》である。君のかつての言葉を、いま私が繰り返してやる!  まだ遅すぎない。我々は君に従う。  …………(沈黙)……  イタリアの統一、独立、自由のために、全イタリア人は一切の犠牲を顧みず、神聖な義務を遂行すべきである。全イタリアを物心ともに強く団結させることこそ、現在の国難突破のために不可欠の要素と信ずるが故に、統帥《ドウチエ》は憲法第五条に基づき、陸海空軍の全統帥権を国王に返還すべきである。かつまた国王に忠誠を尽す首相であらねばならないと望むものである。……」(注7)  静まり返った議場で、続いてチアーノが起立、ドイツとの枢軸関係について歴史的に分析、その実態を次のようにムッソリーニに詰問した。 「我が国は一九三九年以来、ドイツと軍事同盟に入っていたが、ヒットラーのドイツは常にわがイタリアを欺いて来た。今次大戦でポーランド、ベルギー、フランスなどへの進攻に際しても、事前の連絡、協議はおろか、すべてただ事後承諾のみ求めてきたのである。こうしてイタリアは絶えずドイツから裏切られて来た。もはやそのドイツと与し続けることは出来ない」  加えてチアーノは、ドイツの軍事援助不履行の幾多の事例を挙げ、ドイツの不誠実をなじりつつ、事実上岳父のナチス・ヒットラー・ドイツ盲信に楯ついた。一九三六年以来、長らく外務大臣を務め、枢軸外交の陣頭に立ってきたチアーノまでが、その体験を踏まえて堂々とムッソリーニに反旗をひるがえしたのである。ファシスト党首脳陣が初めて目の前で見た、イタリア首脳である親子対立の瞬間であった。議場の空気は鋭く張りつめた。  突然その時、親ドイツ派の急進派ファリナッチが形相を変えてチアーノに食ってかかった。 「昔からの古い同志は、どいつもこいつも統帥を信じなかったではないか! 次から次へと彼から遠ざかって行ったではないか! そしていつもSI《ス イ》(ハイ、そうです)とばかり言い続けて、ゴマをすって来たではないか!」  次いでムッソリーニの方を向いて言った。 「統帥《ドウチエ》は、こいつらのために道を誤ったのだ。統帥《ドウチエ》、君はこれからはもっとしっかり、我々のためにやってくれ! 遠慮なく!」 “クレモーナの権力者”の異名を奉られている、こちこちのファシスト、ファリナッチは、持ち前の荒っぽさでこのように大声をあげた。彼は最後に「我が軍の参謀本部はドイツに協力しないばかりか、敗北的行動をとっている」と非難して、アンブロージオ参謀総長の喚問を要求する場面もあった。  議場は騒然としたが、時計はすでに二十五日午前零時を回っていた。しかも持病の胃痛が起り、心労のため顔面蒼白となっていたムッソリーニは、「本日はこれまで! 明朝再開したい」と、休会を告げた。  ところがフェデルツォーニとグランディの二人が猛反対し、これに同調する声も強く挙がったため、結局十五分間の休憩ののち再開と決った。  隣接の自分の執務室「地球の間」に戻ったムッソリーニは、疲労困憊していた。同行の書記長スコルツァに語りかけた。「幸運は余に背を向けてはいない。国家と国民が余を必要としていないなど、全く信じられない!」  このうぬぼれのために、自分の破局を数時間後に招くなど、ついぞ思わなかった。その日、妻ラケーレは「反対分子は捕えておしまいなさいよ」と言っていた。その通りにしておけば、運命はあるいは変ったかも知れない。近くにいる護衛や警備兵達に、逮捕命令一つ下せば済んだことである。だがそれもなされなかった。歴史に時々見られる運命を決する一瞬の悪戯だったのだろうか。現に執務室に随って来た親ムッソリーニの何人かは、「あの連中を逮捕したら……」と声をかけたが、ムッソリーニは手許に届いたばかりの戦況報告に気を取られ、その声を聞き流してしまっていた。運命は決った。  その休憩時間を利用してグランディは、合計十九人まで自分の動議への賛成者を増やしていた。午前零時四十五分に再開後は喧嘩腰の空気に早変りした。最初に立ったファシスト軍団司令官ガルビアーティは、ムッソリーニを擁護し、続く特別軍事法廷裁判所長官トリンガリカサノーヴァは、「統帥非難に加わった連中は、反逆罪で罪をあがなうことになるゾッ!」と怒鳴った。いまにも軍団の兵士がなだれ込んでくるのではないかと、議場は張りつめた。しかし、何事も起らなかった。グランディは足の向うずねにゆわえた手榴弾を確認すると、再び起ち「私の動議に対して、大評議会の諸君の意見はどうか?」と発言、ややあってムッソリーニは書記長スコルツァに「採決してみよ」と命じた。疲れ果てたムッソリーニは判断力を全く失っていた。取り返しのつかぬ不用意な発言をしてしまったのである。  採決結果は、グランディ動議に賛成十九、反対七、棄権一、その他一であった(注8)。ムッソリーニは声を荒らげて言った。 「これで政権を危機に陥れた!」  その直後、カサノーヴァがチアーノにヤクザまがいの罵声を浴びせかけた。 「おい、お若いの。今夜のことは血であがなうことになるゾッ!」  これはそれから半年後のチアーノ銃殺という悲劇的運命を予告する言葉でもあった。  ムッソリーニは閉会を宣した。スコルツァが列席者に向って「統帥に敬礼を!」と叫んだが、ムッソリーニはその必要なしと手で合図して退出した。  大評議会は終った。全員がほとんど無言のうちに、各自の家路に急いだ。二十五日午前三時になっていた。ファシスト軍団の警備兵達は、階段や中庭で眠っていた。  ムッソリーニに反対した連中は、誰もが無事に官邸を出ることが出来たことに奇蹟のような感じを覚えていた。グランディもその一人で、夜明け前ルネッサンス建築のその宮殿を出る時、「何も知らないローマは眠っている。全イタリアがまだ眠っている」と思った(注9)。 注1 D. GRANDI「25 LUGLIO. QUARANT'ANNI DOPO」P. 249 注2 B. MUSSOLINI「STORIA DI UN ANNO」1944 MONDADORI C. SCORZA「LA NOTTE DEL GRAN CONSIGLIO」1968 ALDO PALLAZZI G. BOTTAI「DIARIO 1935—1944」1982 RIZZORI D. GRANDI「25 LUGLIO. QUARANT'ANNI DOPO」1983 IL MULINO 注3 R. BATTAGLIA「SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 240 注4 B. MUSSOLINI「STORIA DI UN ANNO」P. 74 注5 D. GRANDI「25 LUGLIO. QUARANT' ANNI DOPO」P. 251 注6 B. P. BOSCHESI「GUERRA DI MUSSOLINI」P. 272 注7 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1580 注8 グランディ決議案への賛否者氏名次の通り。〔賛成十九人〕デ・ボーノ(党元老)デ・ヴェッキ(党元老)グランディ(下院議長)フェデルツォーニ(学士院院長)ボッタイ(党元老)ロッソーニ(大評議会員)チアーノ(大評議会員)アルフィエーリ(駐ドイツ大使・大評議会員)バスティアニーニ(外務次官)デ・ステーファニ(大評議会員)デ・マルシコ(法務大臣)アチェルボ(理財大臣)マリネッリ(大評議会員)パレスキ(農林大臣)バレッラ(産業連盟会長)ゴッタルディ(産業労働者連合会長)ビニャルディ(農業労働者連盟会長)チアネッティ(協同組合大臣)アルビーニ(内務次官) 〔反対七人〕スコルツァ(党書記長)ビッジーニ(大評議会員)ボルヴェレッリ(人民文化大臣)トリンガリカサノーヴァ(特別軍事法廷裁判所長官)フラッターリ(農協連会長)ブッファリーニグイディ(大評議会員)ガルビアーティ(ファシスト軍団司令官)〔棄権一人〕スアルド(上院議長)。ほかに一人ファリナッチ(大評議会員)は自己の提案に賛成投票。 注9 D. GRANDI「25 LUGLIO. QUARANT'ANNI DOPO」P. 269 突然の逮捕計画変更  大評議会終了後のムッソリーニとグランディの二人の行動は、全く対照的であった。「反ムッソリーニ」動議を勝ち獲ったグランディは、それを武器に次の戦いを挑まねばと必死であった。一方ムッソリーニは、「国王も国民も余を信頼しているはず」との自負心から、我が身の運命への危機感を覚えていなかった。  グランディは、大評議会のあと素早く次の行動に移った。彼はヴェネツィア宮を車で出ると、「生きて帰れた!」思いでホッとしたが、自邸には戻らず、そのまま北に一キロ足らずの下院に行き、夜明け前の自分の議長執務室に入った。アックワローネから何か連絡がなかったかどうか、確認のためであった。果して秘書が前夜、残していた連絡メモが机上にあった。「すぐに会いたい」と。  その場の電話機でアックワローネを呼び出すと、宮内大臣は「国王は貴簡を読んだ。王室としては大評議会の結果をすぐにも知りたい意向」とのことで、グランディも結論と経過を手短かに話し、「すぐ手を打つ必要あり」と伝えた。アックワローネは「直接話を聞きたい」と述べ、グランディは「ではすぐに親しい友人マリオ・ザンボーニの邸で落合う」ことにした。七月二十五日の東の空は白みかけていた。ローマに多い鳥も歌うように鳴き始めていた。  ザンボーニ邸でグランディは、大評議会の一部始終を語った。傾聴したアックワローネは、国王はムッソリーニ解任を決めている旨を伝えたあと、グランディに尋ねた。 「で、君の意見では、誰が後継首班がいいと思うか」 「カヴィリア元帥ではどうでしょうか」  グランディは答えた。カヴィリアは確かに第一次大戦でイタリアを勝利に導いた偉大な将軍であったが、すでに八十歳を越えていた。グランディは、二日前の二十三日、アックワローネが直接バドリオに後継首班を委嘱していることなど全く知らなかった。  だがアックワローネはそれを聞いたうえで、「なるほど。でもカヴィリア元帥は老齢すぎはしないか。むしろこの際はムッソリーニとソリの合わない若いバドリオの方がいいのではないか」と、確信あり気に告げた(注1)。  この発言は、グランディに対する“宣告”にも等しかった。というのは、二十四日の国王宛書簡といい、最近の彼の言動ぶりから、グランディ自身がムッソリーニの後継におさまろうとの意図があるのでは——と、アックワローネは読んでいたからである。  結局、アテのはずれたグランディはかつてのイギリス駐箚大使というキャリアから、連合国と和平交渉に当るため、まずスペインに出たいと申し出て会談は終った。  アックワローネはこのやりとりを、王宮で待機していた国王に直接、伝達した。国王は報告を聞いて、すぐさま決意を固めた。すなわち憲法上の合法機関であるファシズム大評議会で「ムッソリーニの三軍統帥権を国王に返還」動議を多数で可決という結果は「厳粛な事実」であった。これを援用して、ムッソリーニの失政を理由に解任することは十分に可能と踏んだ。つまり重要な「切り札」を、国王は手中にしたことになった。あとは解任と逮捕を実行するだけとなった。その朝の新聞は、シチリアの州都パレルモの失陥を報じていた。  一方のムッソリーニは大評議会後、私邸に帰った。党書記長スコルツァが鞄を持って従った。大きな門の奥にある玄関口にラケーレが出迎えた。前夜から一睡もせずに、夫を案じながら待っていたのである。スコルツァから鞄を受け取りながら、ラケーレは夫に詰問するように話しかけた。 「あの人達を逮捕しましたの?」  ムッソリーニはしどろもどろに、つぶやくようにいった。 「うん、やるよ」(注2)  ラケーレはそのまま夫の執務室に従うと、会議の模様を聞かされた。ムッソリーニはチアーノまでグランディに同調したことを話した。ラケーレは「えッ? 彼までが……」と絶句した。寝室に入ったのは午前五時に近かった。ムッソリーニはそれでも、いつものように午前八時には起床、九時には私邸内の執務室にいた。  スコルツァから報告があり、前夜グランディ決議に同調したチアネッティが、賛成を撤回してきたとの連絡であった(その撤回のため後日、チアネッティはヴェローナ裁判で死刑を免れることになる)。スコルツァにムッソリーニは、何のためにか「グランディに電話して余に連絡をとるよう」命じた。スコルツァは八方手を尽して探したが、全く行方不明であった。実はその時にはすでにグランディはローマを遠く離れ、身を隠していたのである。  次いでムッソリーニは秘書のデ・チェーザレに命じ、「本日、国王に謁見したい」旨を申し入れさせた。その日は日曜日である。  これを受けた王宮側は、突然の申し入れにとまどった。定例の謁見は翌二十六日月曜であったからである。しかもその際にムッソリーニ逮捕が、カステッラーノの指揮で決行される手筈であった。アックワローネは時間を稼ぎながら熟考の末、侍従武官長プントーニを通じて、午後十二時十五分になってやっと次のように返答させた。 「夕方五時に、国王は離宮サヴォイア荘で引見される。私服とのことである」  日曜日ということで、国王は王宮を離れてサヴォイア荘にいた。戦後はヴィッラ・アダと名前の変ったこの別荘は、ローマ市内の北部に位置し、その建物をかこむ緑に包まれた広大な敷地の中にある。  ムッソリーニは、大評議会の結果を報告、その決定が何ら拘束力を持つものでないことを説明、国王から「信任」を取りつけるのが狙いであり、それが実現するものと信じて疑わなかった。妻ラケーレは、この参内に強く反対し「行ったら駄目ョ」と引きとめた(注3)が、ムッソリーニはそれを無視した。彼はグランディとは正反対に、全く無防備で時を過したのである。  王宮側がムッソリーニの国王との謁見を夕方五時と指定したのは、ムッソリーニ逮捕計画の場所と人員配置を全面修正し、その準備に万全を期すためであった。  その二十五日、カステッラーノはどうであったか?(注4)。早朝、アックワローネの電話で起され、ファシズム大評議会の結末を知らされた。 「ではムッソリーニはどうなるのか? 二十六日の定例報告のため、王宮に参内するのかどうか?」  これが唯一最大の気がかりであった。それについてアックワローネは、「参内すれば、国王は本人に直接、解任を伝えることになっている」とだけ答えた。このため、もしムッソリーニが国王の解任通告に反旗をひるがえせば、それこそ逮捕の口実となるはずであった。しかし、月曜に参内しなければ、逮捕計画は水泡に帰してしまう。一体どうしたらよいのか!  ところが間もなく、アックワローネから再び電話が入った。「ムッソリーニが今日二十五日に国王謁見を申し入れてきた。国王は夕方五時にサヴォイア荘で……と答えることにしている。さてどうする?」と。  カステッラーノ「国王は何か御指示を?」  アックワローネ「いや何も……」  カステッラーノ「ならば、我々で決めましょう! ただ今、すぐ貴邸に参ります」  カステッラーノは車の中で考えた。 「今夕を逃したら……。ムッソリーニをサヴォイア荘から退出させてしまったら、逮捕は難かしい。今夕、逮捕するしかない!」  これが結論であった。  アックワローネもこの結論に同意した。カステッラーノは即刻、電話で自分の練った計画に基づき、参謀総長名で緊急指令を発した。要員の配置指令である。  ドイツ軍やファシスト軍団の動きを封じるため、ローマ市司令官バルビエーリ中将に連絡し、市内要衝に分遣隊配置を指示した。同時に参謀本部のアンブロージオの執務室には、次期後継首班バドリオ元帥、それに王宮警備司令官チェリカ将軍らが参集することになった。  ムッソリーニ逮捕の総指揮はカステッラーノが執り、現場責任者は前から打合わせを重ねていた王宮警備隊のフリニャーニ大佐、逮捕実行者はその腹心の部下アヴェルサ、ヴィニエーリ両大尉。別荘警備には王宮警備隊の五十人の兵士が動員され、午後三時には全員が配置に着いた。午後四時半、アンブロージオの盟友で王宮警備司令官に着任して間もないチェリカ将軍が現場ですべてをチェックし、参謀本部に戻って「配備完了」をカステッラーノに告げた。あとはすべて、時間の問題となった。緊張感はいやがうえにも高まった。  片や、「夕方五時に引見」の知らせを受けたムッソリーニにとって、それは都合がよかった。同日正午に、新たに着任した日本のイタリア駐箚大使日高信六郎との会見が、前もって官邸で予定されていたからである。  日高大使は通訳を伴って、定刻にムッソリーニと会見した。同大使は東条首相の名において、「ヨーロッパの政治・軍事情勢」について説明を求めた。これに対しムッソリーニは独ソ戦でドイツ軍が不利な戦況にあるため、ドイツが速かにソ連と講和するよう日本がドイツに圧力をかけて欲しいと要請した。それによってヨーロッパ戦線での戦局改善が生れることになろうと、ムッソリーニは強調するとともに、さもなければイタリアは戦争の継続が不可能になるであろうとも述べた(注5)。  また日高大使が、最近のフェルトレにおけるヒットラーとの首脳会談の内容を知りたいと要請したため、ムッソリーニはそれを説明したのち、重ねて日本がソ連に対してもドイツと和平を実現するよう圧力をかけて欲しいと要望、イタリアもドイツに対してそうさせるべく強い圧力を加える用意がある旨を明らかにした。日高大使はこれらの発言を傾聴していた(注6)。  ムッソリーニがイタリア首相として、最後に会った外国使臣が日本の大使であったということで、イタリア休戦秘史と直接関係はないが触れておいた(なお日高大使がその際、前夜のファシズム大評議会に関し質問をしたのかしなかったのか——につき、のちに日本の一部で論議があったことを付記しておく)。  ムッソリーニはこの日高会見のあと、市内の爆撃被災地区を視察、昼食のため私邸に戻ると、妻ラケーレから、「夕方、お願いだからサヴォイア荘には行かないで!」と、改めて懇願された。しかし、ムッソリーニは午後四時過ぎ、紺の背広を着ると、サヴォイア荘に向った。ラケーレは、夫がもう二度と戻らないのではという予感に襲われたという(注7)。 注1 D. GRANDI「25 LUGLIO. QUARANT'ANNI DOPO」P. 269 注2 R. MUSSOLINI「LA MIA VITA CON BENITO」P. 190 注3 同右 P. 193 注4 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 64 注5 B. P. BOSCHESI「GUERRA DI MUSSOLINI」P. 282 注6 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1586 注7 R. MUSSOLINI「LA MIA VITA CON BENITO」P. 195 「逮捕完了!」  ムッソリーニを乗せた車はローマの傘松の並木通りサラリア街道を直進、午後四時四十五分にサヴォイア荘の門に秘書デ・チェーザレと共に到着した。護衛のファシスト軍団の警備兵らを乗せた二台の小型トラックは、王宮の場合と同様、門前の小さな広場に待機させられた。  サラリア街道に面した正門からサヴォイア荘の建物までは、さらに緑の林の中の小道を曲りくねりながら、数分かかってたどり着く距離にある。現在はエジプト大使館になっている。  国王は午後五時に先立ち、侍従武官長プントーニに、執務室でムッソリーニと話を交すから、次の間に控えていかなる事態にも対処し得るよう、あらためて念をおしていた。  刻一刻、緊迫感がサヴォイア荘内にはりつめてきていた。アヴェルサ、ヴィニエーリ両大尉は、ともにまだ三十歳台の青年将校であっただけに、胸の高ぶりを感じていた。  カステッラーノはあとはただ、既定の「執行完了」の報告を受けるだけとなっていた。  定刻、玄関に立ったムッソリーニを出迎えた国王は、執務室に招じ入れた。国王は大元帥服を着ていた。ムッソリーニは事前の連絡に従って背広であった。大元帥としての国王と、一市民としての関係で、この会見が始まることをムッソリーニに予知させた一瞬であった。  会見は約二十分で終った。内容は必ずしも明確ではない。記録する書記官がいたわけではないからである。したがって大評議会の経過と同様、当事者の記録やそれら当事者から直接伝聞しての記録などによって再構築するほかない。重要参考資料としては少くとも五、六冊ある。  前出ムッソリーニ著「一年の歴史」1944年MONDADORI社刊、ムッソリーニ未亡人ラケーレ著「LA MIA VITA CON BENITO(ベニートとの私の人生)」1948年MONDADORI社刊、侍従武官長パオロ・プントーニ著「PARLA VITTORIO EMANUELE III(ヴィットリオ・エマヌエーレ三世は語る)」1953年ALDO PALLAZZI社刊、前出パオロ・モネッリ著「ローマ一九四三年」、同「MUSSOLINI PICCOLA BORGHESE(小市民ムッソリーニ)」1950年GARZANTI社刊、それにバドリオ元帥著「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE(第二次世界大戦のイタリア)」1946年MONDADORI社刊である。しかし、前二者は夫妻の立場を強調した主観性の強いものであり、後四者は伝聞である。  しかし、いずれもある程度の信用度は無視出来ないので、それらによりサヴォイア荘の二十分を再構成してみる。  まずムッソリーニの「一年の歴史」によると、国王は開口一番次のように語り出した(P. 89, 90)。 「親愛なる統帥よ。すべては終った。イタリアは全く麻痺してしまっている。軍の士気は地に堕ちている。兵隊達は戦争を望んではいない」  こう言ってアルプス地方で唱われている次のような歌を口ずさんだ。 「もうムッソリーニのための戦いは御免。  ムッソリーニをやっつけろ!  我々を殺す男だ、あいつは!」  次いで大評議会で過半数以上の十九人もがグランディ動議に賛成したことにふれたあと、次のように伝えた。 「統帥よ、君はいま、イタリアで最もにくまれている人物だ。君が頼れる友人は余しかいない。貴君と家族の安全は保証するから安心されたい。次期首班としてバドリオ元帥が組閣する。戦争は継続されよう。このことはこの六ヵ月間、考えてきた。すでにローマ中が大評議会の結末を知っている。誰もが変化を求めているのだ」  これに対してムッソリーニは「陛下はまことにもって重大な決定をいたしました。二十年も戦い続けてきた相手のスターリンは、私のこの退場で勝ったことになります」と述べた(共産国家のスターリンと戦ってきたと強調するあたり、ムッソリーニの国王への精一杯の反抗のようであった)。  妻ラケーレの記述は、一九四三年九月にムッソリーニから直接聞いたこととして、ムッソリーニの一人称で書かれている(P.211)。 「国王はサヴォイア荘の玄関にいた。落ち着かずせかせかと取りとめもなく、つらそうに語っていた。執務室に入ると、国王はピエモンテ方言でまくしたてた。《事態は悪化しており、兵隊は余のためなどに戦おうとしていない》といった。そして爪を噛みながら《今、君はイタリア一にくまれている人物だ。君の友人はたった一人、余である。後継者としてバドリオを任命する。彼は国を管理し、戦争を続行する任務の政府を組織するだろう。半年も前から考えていたこの時がとうとう来てしまった》と述べた。私は平静さを失わなかった。こんなに長く自制し、お互いに怒りを爆発させずに耐えておられたことはなかった。ともかく私は自分の後継者とされた人に幸運を祈った。会見はほぼ二十分だった。国王は私を玄関に送り、握手を求めてきた」  またプントーニによると、国王とムッソリーニの会話を隣室で聞いていたそのままを記述したとされているが、それによると——  国王はまずこう切り出した。 「余は君が好きだ。これまでもあらゆる攻撃から君を守ってきた。しかし、今となっては、君は地位を捨てて自適した方がよい。余が別の人物に内閣をゆだねる」  国王は次いで、ドイツ情勢は重大で、ドイツは降伏するつもりはないから、最後は負けることになると語り、イタリアのとるべき道として「余は無用な大量殺戮から祖国を救い、かつ敵側から非人道的でない処遇をかち取るため、ここで手を打たねばならない」と述べた。  ここでムッソリーニが口をはさみ、「で、私としてはいま、何をすべきなのでしょうか?」というと、国王は「君の安全は余の責任において保証する。その点は安心するように」と述べ、このあと「残念だが仕方がない」を繰り返した(注1)。  ムッソリーニの後継者バドリオは、国王から直接聞いたこととして、この会見を大要次のように書き留めている。  ——ムッソリーニはまず、大評議会の討議内容について述べ、自分に反対する動議について採決したが、それは有効ではないと語った。これに対し国王は「大評議会は法的に承認されている。従って決定は完全に有効である」と反論した。そこでムッソリーニは「そうであれば陛下は私を解任しなければなりません」と応じ、すると国王は「その通り。君は首相の地位からの解任を当然受諾すべきである」と通告した。国王は「余のこの発言に、ムッソリーニは胸に強烈な一撃を浴びたようだった」と述べていた。ムッソリーニはいった。「すべては終りました」と(P.69)。  最後に多角的な聞き書きでドキュメント・ストーリーを描き上げたモネッリの描写をまとめてみる(P.140)。  ムッソリーニは「前夜の大評議会決定は決議権を持ちません」と説明すると、国王はそれを抑え込むように、「だとしてもあれは君に対して祖国の意志を示したものだ。君の後任にはバドリオを決めている」と、強い口調で述べた。この言葉にムッソリーニは突然、虚脱したようになり、哀願するように二度つぶやいた。 「いまとなっては、すべて終りました。本当にすべてが終りました。私や家族はどうなるのでしょうか?」  これに対して国王は、君や家族の安全は余が保証する、と答えて謁見は終った。  エッセンスとして以上の記録があるが、ムッソリーニにとっては、思いもよらぬ結果であった。「君を信任する」と言われるとばかり確信していたのであろう。恐らく放心状態のまま、国王に見送られたはずである。  玄関で自分の車を探している目の前に、ヴィニエーリ大尉がいて「統帥《ドウチエ》、国王陛下の命令で、閣下をお守りするため同行いたします。どうぞこちらへ……」と、玄関の左側から正面に現われてきた赤十字の救急車のドアを開いた。一瞬ためらったムッソリーニを、ヴィニエーリ大尉は押し込めるように救急車に入れた。秘書のデ・チェーザレもあとに随った。車内には銃を持った兵三人と私服二人がおり、救急車は猛スピードでサヴォイア荘を走り去った。  午後五時半かっきり、参謀本部で待機するカステッラーノに待望の電話が入った。「計画完了!」それはアックワローネからであった。あっけない幕切れであった。  ムッソリーニの身柄がサヴォイア荘から連れ出された後、国王は王妃エレナと夕暮の広い庭園を散歩した。気も晴れたのであろう。そのゆるやかな歩みを進める時、傍の王妃がひとり言のように口にした。 「ここで彼を逮捕したくはありませんでした。ここでは、彼はお客様だったのですから。おもてなしの作法にそぐわないまずいことをしてしまったと思います」(P.141) 注1 B. P. BOSCHESI「GUERRA DI MUSSOLINI」P. 283 第五章 バドリオ内閣と休戦交渉 統帥解任に狂喜する国民  カステッラーノの統帥逮捕作業は、見事に成功して終った。長かった準備の割には、実行は一瞬の出来事であった。  その夜、アックワローネに伴われたバドリオがサヴォイア荘に入った。国王から正式に首班に任命されるためである。夜八時にはラジオで公表の段取りであった。その前にアンブロージオは何も知らぬ三軍司令官を自邸に呼び、事態を説明して協力を命じた。カステッラーノは同時に、各県知事に電報を発し、「今夜のラジオ発表に驚かないよう」注意を喚起すると共に、ローマ周辺のイタリア軍に二重に首都を包囲、ひそかに戦闘態勢をとるよう指令した。ローマ市内外のドイツ軍の動きを封じるためであった。  ムッソリーニに代って、バドリオ元帥が首相に任命との布告は、準備に手間がかかり予定より三時間近く遅れ、十時四十七分になってようやく放送された。それまで流されていた軽音楽が中断されると、ニュース・アナウンサーとして定評のあるジャン・バッティスタ・アリスタの厳かなゆったりした声が、全土に「臨時ニュース」を流した。 「国王陛下は政府首班ベニート・ムッソリーニ閣下の辞任を受諾、代ってイタリア元帥ピエトロ・バドリオを任命した」  このあと国王の「祖国の不滅を信じ、団結を!」の布告と、「国王の命により、全権を持つ軍事政権を掌握した。戦争は続く。国民は国王の下に団結しよう。イタリア万歳、国王万歳」という内容のバドリオ首相の布告が放送された。  この突然の発表に全土は飛び上がらんばかりに驚いた。ファシストにとっても、反ファシストにとっても、「来たるべきものが遂に来た!」というのが共通の感慨であった。違っていた点はファシストが怒り狂い、恐怖におののいた反面、反ファシストは狂喜したことである。ファシスト達は黒シャツや党員章を道端のゴミ箱や街路樹の蔭に捨て去り、各地の幹部は身を隠したり、逃亡したりした。首脳のファリナッチ、パヴォリーニらはドイツ大使館に亡命を求めた。  それとは対照的に多くの市民や反ファシストは、ローマはじめ大都会はもちろん、地方の田舎町にいたるまで、街頭や広場に繰り出し、まるで戦争が終ったかのように狂喜乱舞の光景を繰り広げた。喜びの声はどよめきのうねりとなって街や村、山や海辺にこだませんばかりとなった。  バドリオの首班就任は、とりもなおさずムッソリーニの退場と、二十余年にわたるファシズム体制の崩壊を意味していたからである。ムッソリーニのギリシャ侵攻作戦に反対した時の参謀総長バドリオが、ギリシャ戦失敗の詰め腹を切らされた二年前のことを、多くの国民は忘れてはいなかった。そのバドリオの復帰だけに、バドリオが「戦争は続く」と声明したものの、イタリアには平和が訪れつつあると国民は敏感に嗅ぎ取ったのである。ファシズムと戦争に嫌気がさしていた民衆は、その深夜から翌日、そのあとまで、イタリアの三色旗を振りかざしたり、「国王万歳!」を唱えて乱舞した。それまでは「統帥万歳!」の二十年間であった。  民衆の一部は、街や村のファシスト党事務所などに押しかけ、書類を放り出し、燃やしたりした。ローマ、ミラノ、トリノなどではファシストの主要建物の党標識やムッソリーニの銅像、胸像を倒したり、破壊した。翌二十六日、大都市では国旗と国王の写真を先頭に、デモ行進が幾つも行なわれた。ローマでは王宮前広場に、大勢の群衆が集った。また、続いて何か新しいニュースはないかと、目抜き通りのイル・メッサジェーロやイル・テンポ両新聞社前にも人々が群がった。  新聞記者で評論家のエンツォ・フォルチェッリは、その二十五日夜のミラノの感動的体験を、次のように書いている(注1)。 「その夜、市民の多くがいたたまれずに街頭に飛び出した。夜も眠られぬほどであった。市民達が男も女も喜びを分ち合いたいと中心街へ向って歩いた。反ファシストで父(ジョヴァンニ=反ファシスト政治家、元閣僚)をファシストに殺されたアメンドラ(ジョルジョ=共産党政治家)は、我らのイタリアを救おうと大演説をぶった。民衆はあちらこちらのファシスト支部に押し寄せ、党標識をはがしたり、事務室を取り壊した」  のちに著名な評論家となったエンツォ・ビアージは、統帥解任発表のその時、ボローニャ市の「イル・レスト・デル・カルリーノ」紙のかけ出し記者であった。編集局でその放送を聞くと、傍の同僚に叫んだ(注2)。 「おいッ! 聞いたかッ」  同僚はしばらく口もきけず、やっとのことで言った。 「うーん。喜んでいいのか、泣いていいのか……。言葉にならないょ」  こう同僚スクドラーリ・イヴォが答えた。続いてもう一人の仲間マルケジーニ・マリアは叫んだ。 「嬉しいぞッ! 大変だ! 手足の震えが止まらない。心臓が体から飛び出しそうだ!」 「ムッソリーニが捕まったらしい!」といううわさも二十五日深夜、まずローマのヴェネト街に流れ、やがて雷鳴のように各地方に響いていった。ムッソリーニ逮捕が一瞬の出来事だったように、ファシズムとファシスト体制の崩壊もまことにあっけなかった。だが、逮捕そのものの公表は全く無かった。  カステッラーノは参謀本部の窓から、灯火管制下にもかかわらず、明るく輝き出した街灯と家々の窓に映し出される民衆の喜びを眺め、ファシズムの二十余年とはいったい何であったのか、と悲しみを込めて回想していた。  自分達が仕組んだ政変であった。それはまさしくクーデタであった。軍首脳が王室と意を通じ、しかもファシスト党首脳部の動きを巧みに利用してのファシスト政権転覆劇であった。クーデタの厳密な政治的定義は、軍隊が参加し、武力の脅威により体制の変革を実現した場合のことを指す。しかし、このイタリアの場合、軍隊そのものの参加はなく、数人の軍首脳と王室の協力によるものであった。しかもクーデタの直接の契機を作ったのは、ムッソリーニ解任の大義名分を国王に与えたファシズム大評議会であった。  ファシスト党首脳部の反ムッソリーニ分子は、ムッソリーニを引きずりおろして、自分達のファシスト党を作ろうとしたのだが、この機をとらえて軍と王室は主導権を握り、ファシズムをムッソリーニと共に瓦解に追い込んでしまったのである。巧妙な政変であった。カステッラーノにいわせると、「にぎやかだがもの悲しいファシズムの時代」は、こうして幕がおりた(注3)。  ムッソリーニ失脚の報は即時、連合国にも伝わった。チャーチルはアメリカ大統領ルーズベルト宛、イタリアの今後について、次の見解を伝達した(注4)。  一、ファシスト政権は倒れた。国王とバドリオは単独講和を求めてくるであろう。  二、ドイツ軍とイタリア軍民との間で戦闘が起るであろう。それは望ましいことである。連合国としては、ドイツ軍と戦うイタリア側を支援すべきであろう。  三、ファシスト首脳部はドイツかスイスに逃亡するであろう。その前に連合国としては彼らを逮捕し、その処分を考慮しておきたい。  なかなかの洞察力である。その後のイタリアの連合国への対応は、まさにそのような展開をたどることになる。  カステッラーノにとって、念願は「ムッソリーニの戦争」を速かに中止することであった。が、いまやムッソリーニはいなくなった。連合国との単独講和こそが次の課題となってくる。この点を国王から知らされていた新首相バドリオも全く同じ考えであった。となると、新内閣の外務大臣の人選が最重要となる。バドリオは組閣に当り、個人的にも知人で、厚い信頼を寄せていたトルコ駐箚《ちゆうさつ》の若い大使ラファエレ・グアリーリアを任命した。バドリオによると、グアリーリアは幅広い文化人で、頭脳明晰なうえ先見の明がある人物である(注5)。  二日後の二十七日、アンカラからローマに帰着した同大使はその足でバドリオを訪ね、中立国トルコの外相にイタリアと連合国とのパイプをつないでおいて欲しい旨、依頼してきたと伝達した。グアリーリアは早速、ヴァチカン駐在のイギリス、アメリカ外交代表部と連絡をとり、それら本国との直接交信が可能かどうかを探った。結果はイギリス公使が「駐留ドイツ軍による傍受のため、当地からの直接電報交信は困難」、アメリカ代表も「暗号表が当代表部にない」として、共に至難であることが判った。だがこの接触はイギリス、アメリカにイタリアの意向を察知させるに十分なシグナルであったばかりか、後日の休戦交渉に決定的な力を発揮することになる。  アンブロージオは二十九日、グアリーリア着任後直ちに文書で軍の現況、士気、装備、ドイツとの関係などにつき具体的に説明し、「早期の戦争離脱だけがイタリア国民のための道である」と訴えた。ベルリン駐在のイタリア大使館付武官マラス将軍からも、「現状では枢軸側は敗戦は必至。何よりも早期停戦こそ国策に沿う」旨の極秘連絡を受けていることを書き添えた。  こうした段階を経て七月三十一日、国王はバドリオに連合国側との早期接触を正式に指示、新政府は直ちにその実現にとりかかった。参謀本部は同時に、イタリアが連合国と休戦交渉に入った場合、また休戦を締結した時に、ドイツ軍とイタリア軍の衝突が突発することを想定、イタリアの被害、損失を最小限に食い止めるための方策を検討していた。そのための結論としては、連合軍の大挙上陸による首都保全、つまり連合軍がローマ以北の中部イタリアに大挙上陸することが不可欠との条件を打ち出した。  それによりローマとそれ以南のドイツ駐留軍は退路を遮断されて降伏し、北イタリアのドイツ軍はアルプスに撤退を急ぐことになるというのが、イタリア側の想定であり、そうなることが最も望ましい状況だとした。 「参謀本部というものは、戦争遂行だけを考えるところではない。戦争をしなくてもすむ条件を作ること。停戦の時期を考えることも同程度に重要である」  これが歴史学、哲学、文学などにすぐれたカステッラーノの独自の参謀学であった。  ともあれ、イタリア国民は、あたかも戦争は終り、平和が近づいたかのように見ていた。バドリオ布告の中には厳然と「戦争は続く」と表明されてあったのは忘れていた。国民の平和待望と戦争中止への希求が、その言葉を踏みつぶしてしまったかのような興奮であったのである。  布告の中の「LA GUERRA CONTINUA(戦争は続く)」は、英語でいうと「THE WAR CONTINUES」である。バドリオは自らの首班就任布告作成に当り、時間をかけて政界元老のヴィットリオ・エマヌエレ・オルランド(1860〜1952・元首相)と協議、その勧告で、この三語が加えられた(注6)。  その布告全文は、もちろん国王からも承認されたものだが、わずか三語のこの言葉は、ドイツを意識してのものであった。戦後その意図をめぐり、論議の対象となったが、「新政府は戦争を継続する」ではなく、単に第三者的に「戦いは続く」とだけ述べているあたりに、新政府の戦争への配慮がうかがえる。この三語が布告の中になかったら、ドイツ軍は一夜にして王室や政府首班らを逮捕したであろう。バドリオ政権としては、薄氷を踏む思いで新しい船出をしたのである。その唯一の目標は、連合軍と休戦を締結し戦争から離脱の道を探ることであった。  ローマはじめ各地では、この「戦争は続く」で混乱が日一日と増していた。「戦争とはドイツとのことだ」の声も、早くも一部から上がって来はじめた。 注1 一九八三年七月二十四日付イル・メッサジェーロ紙三面 注2 一九八三年七月二十三日付ラ・レプブリカ紙三面 注3 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 68 注4 「FOREIGN RELATIONS OF U. S. ON ITALY」1943 P. 332 注5 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 95 注6 D. BARTOLI「L'ITALIA SI ARRENDE」P. 62 連合国との接触開始  外務大臣グアリーリアの最初のしかも最大の仕事は、連合国外交筋との直接接触であった。その接触の向う側には、いうまでもなく休戦交渉そのものがあるはずであるが、この段階ではまだ展望は皆無であり、地平線の彼方は真暗な闇でしかなかった。  その接触役として白羽の矢が立ったのが、外務省のブラスコ・ランツァ・ダイエータ侯であった。チアーノの腹心であり、チアーノがヴァチカン駐箚大使となってからも、チアーノに従い、駐ヴァチカン大使館参事官として共に仕事をしていた。時に三十五歳。八月一日発令で急ぎ、中立国ポルトガルのリスボンに赴任することになった。同地のイタリア公使館勤務である。リスボンは当時、連合国と枢軸国の国際諜報戦が激しく展開する都市であり、それだけに情報収集や連合国側との直接のパイプを取りつけるには絶好の舞台であった。  ダイエータの任務が急を要するだけに、発令と同時にリスボンに向った。この人事の背景には、チアーノの影の力と工作があったことが、それまでの二人のいきさつから想像されるが、その時にはチアーノはすでにファシストの動きを恐れて姿を消していた。この人事と同時に、グアリーリアはもう一人、外務省から同じ任務のため総領事格のアルベルト・ベリオを、中立スペイン領モロッコ(当時)のタンジールに派遣した。二人のどちらかでも早く、連合国外交筋とパイプをつなげることが出来れば……、という切迫した意図からであった。  外務省は実は、ダイエータの方により期待をつないでいた。それはグアリーリア自らヴァチカン国務長官ルイジ・マリオーネ枢機卿の仲介を得て、イギリス、アメリカの駐ヴァチカン外交代表と法王庁内で直接会談を行なった結果である(注1)。両国代表とも、チアーノ、グランディらの知友であった。特にイギリス代表サー・ダルシー・ゴッドルフィン・オズボーンの従兄弟サー・ロナルド・キャンベルがイギリスの駐ポルトガル大使であるところから、オズボーンからの信任状を貰ってダイエータが携行、リスボンで直接キャンベル大使と接触するという手筈が、ととのえられていたのである。  外交ルートとしては最も望ましい形態の一つであった。この段階で連合国側は、イタリアの意向を十分に知り得たうえ、事前にイタリアに対する次の手を準備することも可能となったことはいうまでもない。  ムッソリーニ解任とバドリオ政権の出現に、ドイツはどのように対応したのか——。「統帥の消息不明」の第一報は、バドリオ放送の一時間半前に、ローマのマッケンゼン大使から暗号電で、ヒットラーに至急報されたという(注2)。サヴォイア荘に参内したまま、ムッソリーニの消息が途絶えたとの、ファシスト党本部あたりからの情報がドイツ大使館に伝えられたのか、ローマのドイツ情報機関が嗅ぎつけて知り得たのかは不明である。  イタリア政変を懸念したヒットラーは、直ちにムッソリーニの所在確認をマッケンゼンに命じるとともに、アフリカからギリシャ戦線に転戦していたエルヴィーン・ロンメル元帥に帰国を命じた。翌日、戦闘機で東プロイセンの大本営入りしたロンメルに、ヒットラーは「アルプスに部隊を集結し、イタリア進入体制」を指令した。  ロンメルは八個師団を八月八日までの間にアルプスのイタリアとの国境に集結、さらにブレンネル峠を通過してイタリア領内に進出させた。これに対し国境のイタリア軍は、「ローマの指示なく主権侵害行為」と抗議し、一部で発砲事件さえ起した。しかし、ドイツ軍はイタリア戦線補強との名目で浸透し、その多くを中部のエミリア、トスカーナ両州にまで進出させた。イタリア軍参謀本部は、アンブロージオの名前で、ローマの在イタリア・ドイツ軍司令官ケッセルリンクに対してだけでなく、直接ドイツ軍参謀本部に抗議の電報を発した。この政変に伴って、イタリア軍とドイツ軍の関係は険悪な空気を増幅していた。  またムッソリーニの解任は、ドイツ軍に大量南下の大義名分を与えてしまっていた。シチリア戦線で、連合軍が占領地域を拡大していたことも、イタリア側には分が悪かった。そうした事態を改善し、イタリアが休戦の意向を持っていることをドイツ側に悟られぬためにも、バドリオはベルリンのイタリア大使を通じて、ドイツ側に国王とヒットラーとの直接会談を申し入れた。休戦までの時間稼ぎが狙いであった(注3)。  ヒットラーはこれを冷たく拒否、「七月十九日にフェルトレ会談が行なわれたばかりであり、その必要はない」と回答してきた。ところが数日後、一転してドイツ側から「八月六日に北イタリアのタルヴィシオで会談したい」と要請して来た。この会談にはイタリア側から外務大臣グアリーリア、参謀総長アンブロージオ、ドイツ側から外務大臣リッベントロップ、参謀総長カイテルが代表となった。  この会談で、ドイツ側はまずロシアを敗北させ、次いでイギリスを制覇すると強気の政策を並べた。これに対してイタリア側は、戦争への今後の協力強化のため、両国トップによる会談をあらためて強く提唱したが、話は全く噛み合わず、何ら成果もなく終った。イタリア外務省首脳はこの段階で軍部に対し、「武器を十分に温存するように」と要請した。ドイツ軍との戦闘の可能性を想定したからではないかと、カステッラーノは考えた(注4)。  ヒットラーとしても、イタリアの出方を見極めるために、実際は時間稼ぎをしていたフシがある。基本的にはムッソリーニなきイタリアが、どこまでドイツと行動を共にするか疑問視していたものの、直ぐ敵に回しては危険であるばかりか、戦う余裕もなかったからでもある。  バドリオも同様で、首相就任早々の七月二十七日の火曜日に、ヒットラーに次の電報を発している。 「国王の命によりイタリアを統帥する余のイタリア国民への布告に明らかなように、そして貴国大使にも伝達した通り、我々の戦争は同盟の精神にのっとり、継続されるものである」  同様趣旨は主要枢軸国であるドイツのマッケンゼン、日本の日高両大使らにも通告されていた。しかし、ヒットラーはこのバドリオ電報を信用しようとはしなかった(注5)。その二十七日、彼は軍首脳、閣僚らによる緊急会議を開き、イタリア占領政策なるものをまとめ上げていた。「アラリック(ALARIC=古代西ゴート族のアラリック王のこと)作戦」と呼ばれるもので、1ムッソリーニ救出 2ファシズムの復活 3ローマ占領 4イタリア艦隊の拿捕《だほ》 5イタリア軍の解体の五点から成っていた。  しかしヒットラーは、ロンメル元帥に命じて、八個師団のドイツ軍をイタリアに南下させただけで、この「アラリック作戦」を即時実行しなかったことも、彼の迷いであった。バドリオが「戦争は続く」と、公式に宣言していることを無視するわけにはいかなかったのであろう。  ムッソリーニ解任後、直ちにドイツ軍による全イタリア占領が行なわれなかったのは、イタリアにとっては幸いであった。バドリオ政府は、ヒットラーがその気にさえなれば、七月二十六日にもローマは占領され、国王とバドリオの逮捕もありうると覚悟していた。その可能性を出来るだけ回避し、連合国との休戦実現のため、イタリアとしてもドイツに対して、首脳会談要請などで時間を稼ごうとあらゆる努力をしていたのが、一九四三年七月末から八月にかけてであった。 注1 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1643 注2 同右 P. 1609 注3 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 74 注4 同右 P. 77 注5 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1607 連合国は的確に情報収集  では一方の連合国側はイタリア情勢に関し、どのように情報を把握していたか? ひと言でいえば、ドイツにくらべ、一歩先を行っていた。それは戦後公表された外交文書資料などによっても歴然としている。特に注目されるのは、イギリスとアメリカが、それぞれ独自の情報収集に当りながらも、重要情報については相互交換によって緊密な協力態勢を保持しつづけたことである。その点、事実上、“犬猿の仲”にあったイタリアとドイツのケースに比べ雲泥の差があった。  ことイタリアに関する情勢ウォッチで、連合国側で最も重要な役割を演じたのは、ヴァチカン駐在イギリス、アメリカの外交代表らであったといえる。彼らはいずれも交戦国の首都ローマに、外交特権を保持しながら在住していた。現地情勢に密着した情報を収集し、対イタリア戦略に果した功績は大なるものがあったのは当然である。次いでスイス、ポルトガルなどイタリア近隣の中立国の存在も大きな役割を演じた。ヴァチカンの連合国外交代表らは、ヴァチカンからこれら中立国を経由して、それぞれの本省に情報を回電していたケースが多かった。  戦後公表されたアメリカ国務省のDOCUMENTS ON AMERICAN FOREIGN RELATIONSの一九四二年および四三年イタリア関係文書を点検しただけでも、アメリカの情報収集やイギリスとの情報相互交換の実態が生き生きと感じられる。ハイライトであるムッソリーニの失脚前後の一部を紹介する。 ◎一九四二年十一月三十日着電 国務次官サムナー・ウェルズ宛イギリス外務大臣イーデン発(P. 314) 「イタリア国内に反政府的な指導力を育成するか、そうした運動を起すべきである。現在までそのようなことはまだ行なわれていない」これは同年秋、北アフリカ戦局が連合軍に決定的に有利に展開、イギリスとしてはイタリアにおける反ファシスト気運醸成と支援に乗り出す意向を示す。 ◎同年十二月十八日着電 ロンドンのアメリカ大使館から国務省宛(P. 315) 「一、イーデン連絡によると、在リスボンのイタリア公使館は同地のイギリス、ポーランド等の外交当局者に、ルーマニア人を使ってイタリアの単独講和の意向を示しつつあるもよう。二、ジュネーブのイタリア総領事は、イタリアのダオスタ侯(注・国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世の従兄)と在スイス・イギリス公使館との間にパイプをつなげようとしている。同侯はイギリスの保証を取りつけたうえで、ムッソリーニに対する武装蜂起を指導したい意向のもよう」この報告はすでにその頃、根拠は分らないがイタリア国内から何らかの連合国への働きかけが動いていたこと、またダオスタ侯の名が特定されていることは、イタリア王室筋からの何らかのイニシアティブであることを示唆している。 ◎一九四三年一月十四日着電 ロンドンのアメリカ大使館から国務長官宛(P. 318) 「アメリカに亡命中のイタリア元外相カルロ・スフォルツァが、ムッソリーニからきらわれて亡命した反ファシストとして、ローマで反政府運動を指導出来る人物であろうと、イーデンから知らされた。またエチオピア戦で勲功をあげ、今次大戦のギリシャ戦失敗でムッソリーニから解任されたバドリオも、反ファシスト指導者となし得るのではないかとイーデンは言っている」この日はチャーチル、ルーズベルト両国首脳会談(十四日から二十四日まで)がカサブランカで開始されていた。この会談で枢軸側への無条件降伏が初めて呼びかけられ、同時に地中海から大陸への侵攻作戦の合意を見た。アメリカ、イギリスの両参謀本部が統合参謀本部を設置、アメリカのアイゼンハワー大将を連合軍最高司令官に、イギリスのアレクザンダー大将を同副司令官に任命した。すでに半年も前にバドリオに目をつけていたことは注目される。 ◎同年二月一日着電 ロンドンのアメリカ大使館から国務長官宛(P. 321) 「スイスのアメリカ代表によると、バドリオは時到れば軍事政権を樹立する用意があるもよう。そのための使者として、ペゼンティ将軍(注・反ムッソリーニで戦後の財務次官アントニオ・ペゼンティ)を連合国に派遣、在外および連合国に捕虜になっているイタリア人による兵団を組織したい考えだという」。これはバドリオの軍事政権に言及しているが、その実現の半年も前のことであり、あとからみるとかなり正確な情報と言える。 ◎八月二日着電 七月三十一日発 ヴァチカン駐在ハロルド・ティットマンからベルンのハリソン公使経由国務長官宛(P. 340)  一、現在イタリア政府は、連合国への無条件降伏そのことよりも、社会的混乱の可能性やドイツの出方に不安を抱いている。政府は恐慌を来たしている。  二、ヴァチカンは、連合国がイタリアにどのような降伏条件を出すか注視している。連合軍の早期上陸がイタリアの安全に望ましい。 ◎八月五日着電 八月三日付同ティットマンよりベルン経由(P. 345)  一、ドイツがイタリアを政治支配する可能性が高く、バドリオは苦境にあるとヴァチカン筋は見ている。  二、同筋は、近代兵器に欠けるイタリアはドイツ軍のローマ占領に抗し得ないと見ている。  三、同筋はまた連合軍が早急に北イタリアに上陸すれば、中、南部のドイツ軍は急ぎ撤退するだろうと見ている。  四、イタリア人は連合軍に好感情を持っており、連合軍はこの状況を有効に活用すべきである。 ◎八月九日着電 八月六日同ティットマンよりベルン経由(P. 348)  一、ヴァチカンの見方では、イタリア人は圧倒的に平和を希求しているが、民主的手続きの経験に乏しいためか、またドイツ軍の存在のためか、恐らくその双方のため、有力人物の誰もイニシアティブがとれないでいる。  二、バドリオは手をこまねくばかりである。この際、半島の北に上陸しなければ、連合国としても判断の誤りという責任を免れまい。  三、バドリオ政府によるファシスト排除は順調のもよう。  以上の一連のティットマン報告は、さすが地元ローマからの情報だけにイタリアの情勢を的確にとらえており、特に「連合軍が北イタリアに上陸すれば、ドイツ軍の撤退を促す」と伝えているあたりは鋭い。アンブロージオ、カステッラーノらイタリア参謀本部の考えと全く同じであることが興味深い。 ◎八月十四日着電 駐ポルトガル公使ジョージ・ケナンから国務長官宛(P. 351) 「以下は八月八日付のティットマンより“確実な筋”からのものである」  一、バドリオ政府は直ぐにも連合軍と和平を結びたいもよう。二、ドイツ軍によるイタリア占領、ローマ管理の脅威は目下、防がれている。三、イタリア軍現勢力ではドイツ軍に抵抗できそうにもない。四、バドリオは目下、時を稼ぎつつ連合軍による支援を、空軍と北イタリアヘの上陸で期待している。五、バドリオは連合国から有利な条件を得るため、ドイツを適当にあしらっている兆あり。六、ドイツはイタリアヘの憎しみに燃えており、イタリア占領を求めている。そうなれば流血をみよう。七、イタリア、ドイツ両軍の間に緊張が高まっている。衝突とか市民の決起があれば、ドイツは即刻占領に入るであろう。八、したがってバドリオ政府は権威を保つ必要がある。このため連合国としては同政府への攻撃的態度を控え、ローマの住宅地域への爆撃を避けること。九、連合国がその希望をバドリオ政府に通告することは有益である。 ◎八月十七日着電 十二日付ティットマン報告。ベルン経由(P. 352)  一、イタリア政府はドイツによる占領とファシストの復権を強く懸念している。一方、イタリアの連合国への降伏を察知した際、ドイツは二時間以内にイタリアを占領できる旨、権威筋から聴取した。  二、ドイツはイタリアが無秩序状態になったら、占領の口実としよう。穏健諸政党(注・ムッソリーニ失脚後、地下活動から公然化してきていた)の指導者は秩序維持に協力中。現政権調査によれば、共産党組織は良好で、財政面でも困らず、一部は武装しているとの信頼しうる情報あり。  三、信頼すべき筋によると、連合軍の無差別爆撃により、大都市住民は反政府デモに走ろうとしている。これはドイツにとり好都合となろう。  本稿を通じて明らかなことは、連合国外交機関がイタリア情勢を的確に分析している点で、それは1バドリオ政権の出現と、同政権が和平を求めてくることを予想し、それへの対処を提案している 2連合軍がぜひとも北イタリアに上陸進攻することを提案し、それによりドイツ軍を撤退させることが出来る 3ローマ住宅地区爆撃は戦略的にマイナス——を明示していることである。事実、バドリオ政権が出現し、同政権は連合国、連合軍との休戦のための条件として、ローマ以北への連合軍上陸作戦の遂行を要請することになるのである。連合国側外交官の読みは深くかつ正確であった。 第六章 緊迫の長い旅 カステッラーノ、密命に発つ  ローマの夏は暑い。だが空気はサラサラと乾き、日中でも木蔭は涼しく快い。夕陽がモンテ・マリオの丘に沈むと、ティレニア海からの微風がそよぐ。一九四三年のそのような夏、「マンマ(MAMMA=母)」という歌がローマで爆発的に流行り、やがて全イタリアで愛唱されていった。 MAMMA, SON TANTO FELICE PERCHE RITORNO DA TE LA MIA CANZONE TI DICE CH'E`IL PIU BEL GIORNO PER ME MAMMA, SON TANTO FELICE VIVER LONTANO, PERCHE お母さん 僕はとても幸せだ お母さんの許に帰るから 僕の歌は お母さんに告げる 僕にとって最もよい日だと お母さん 僕はとっても幸せだ でもいまどうして、こうも遠く離れているのか? (筆者訳)     この歌はその年のイタリアのラジオ歌謡に選ばれた。旋律ははじめややもの悲しく、後半は思い切り明るく、胸のうちを訴えるように唱う。前線の若い兵士が母の許に帰る日を待ちわびる心情をピッタリ表現していた。いまも懐かしの歌曲としてイタリアのみならず、世界中の人々から愛唱されている。  思えばこの歌詞は、反戦歌であり非戦歌であった。前線の兵士達も、銃後の人々も、これをともに歌ったことが、イタリアそのものの心境であった。しかもこのラジオ歌謡は、国営ラジオ局の電波に乗って毎日のように全土に、そして前線にまで流されていた。国民の心理はすでに「母なる平和と自由」に凝集していたのである。  その八月早々、リスボンのダイエータ、タンジールのベリオは、精力的に連合国側外交筋と接触していた。産業界の大物でゴム製造企業家のアルベルト・ピレッリも、民間人でありながら和平を求めてスイスに赴き、連合国との独自の接触に努めていた。  八月四日、イタリア外務大臣の許に待望のダイエータからの第一報が入った。リスボン発のその暗号電報は、解読すると次の内容であった。 「連合国側は、イタリアは無条件降伏すべきだとして、外交交渉ではなく、イタリア軍の代表とのみ交渉することを要請してきた」  ダイエータはリスボン着任早々、紹介状の相手イギリス大使サー・キャンベルと接触した。イタリア側の意向は直ちにロンドンに伝達され、連合国側は軍事交渉による無条件降伏を受諾させるため、イタリア軍代表の派遣を求めたのであった(注1)。  八月十日、アンブロージオは国王に呼ばれ、軍代表をリスボンに派遣するよう命令を受けた。直ちに参謀本部幹部の会合を開き、基本方針の策定と人選に入った(注2)。列席者の意見聴取ののち、アンブロージオが基本方針としての必要条件をまとめ上げたが、その骨子は次の二点である。  一、イタリアの国と国民を損わない単独講和  一、連合軍による中部イタリア上陸要請  休戦成立後、ドイツ軍との交戦状態が発生しては、休戦の意味がなくなり、そのためには特に後者が必須の要件となった。  人選では第一候補として、首相バドリオの子息で陸軍士官でもあるマリオ。父バドリオの政務秘書官をしており、交渉役として連合軍も受け入れ易いとの理由であった。第二候補が参謀総長アンブロージオ自身。状況をすべて掌握している。しかし、あらためて点検すると、これらの人物がローマを空けることは、休戦の動きをドイツ側に察知される恐れが強いとして、決定は持ち越された。  アンブロージオは内心、カステッラーノを考えていた。「こんな戦争は早くやめてしまうことだ。それがイタリア国民のためになる」と、真剣に自分に進言したことを覚えていた。しかも、そのための第一関門であるムッソリーニ逮捕計画を、自分で練り上げて実行したキレる参謀。ドイツ軍とも面識のない参謀ということであれば、ますます好都合と思った。アンブロージオは自分の考えを述べて、バドリオにその旨を告げた。バドリオも賛成した。  カステッラーノは翌十一日、アンブロージオから、「首相が君を推している」と聞かされた。次の日、続いて「本日中にリスボンのイタリア公使館に向けて出発せよ」の命令を受けた。カステッラーノ派遣を国王、首相も承認したとのことであった。バドリオは英語に堪能な外交官を同行させるよう指示、領事職のフランチェスコ・モンタナーリが選ばれた。  カステッラーノは英語をこなすのだが、必ずしも得意ではないことにして、連合軍との会談に通訳のモンタナーリを介することによって、カステッラーノが対話のやりとりに考える時間を持てるようにとの、バドリオの芸の細かい配慮がなされたためである。  モンタナーリは母親がアメリカ人で、本人はハーバード大学を卒業、しかもバドリオの甥に当る。人選としてはまことに申し分なかった。  カステッラーノにも、モンタナーリにとっても、突然の出発となった。二人はアンブロージオから、要旨次のような指示を受けた。  一、目的は休戦交渉そのものではなく、連合軍最高司令部と連絡を取りつけ、イタリア戦線における情勢を詳細に説明、それに対する先方の見解をただしつつ、連合軍の支援なしにはイタリアがドイツと手を切ることは不可能であることを十分に説得し、理解させる  二、そのためには連合軍が早期に、ティレニア海のローマ北方、およびアドリア海のリミニ北方に上陸することにより、南イタリア駐留ドイツ軍の退路遮断、および中部イタリア駐留ドイツ軍のアルプス山岳地帯への退却促進の要請  この二点はバドリオがアンブロージオらと協議した結論で、イタリアとしては連合軍の約十五個師団の上陸を一方的に望んでいた。この戦略の実施において、イタリア政府は、イタリア軍を連合軍に全面協力させる方針であった。それにより、連合国に対するイタリアの「無条件降伏」ではなく、「協力国」の地位を得たいと期待したのであった(注3)。  これで明らかなように、連合軍側は休戦交渉を要求していたが、イタリア軍側はいざ派遣となると、代表は交渉する権限は持たず、イタリア側の情勢説明と、これに対する連合軍の見解を本国に連絡するという役割になっていた。  当初は果して外交官すらも連合国側と接触出来るかどうか危ぶんでいたが、ダイエータを通じて、連合国側はいきなり軍代表の派遣を要請してきたため、イタリアの期待が急にふくらんだのも、その時の空気からは無理もなかった。しかし、それはイタリア側の事態認識の甘さでもあった。  出発に先立ち、カステッラーノはアンブロージオに、「首相、外相からも指示を受ける可能性はありますか?」と確認を求めると、答えは「すべて私を通じてやる。指揮系統は明確である」とのことであった。彼はほど近い外務省で、官房長から外交旅券を受け取った。ただし、姓はライモンディとなっていた。またリスボン行きの目的は、外交が断絶した南米チリから帰国するイタリア外交団が、近く海路リスボンに到着するのを引き取るためとなっていた。にわか外交官に早変りしたのである。  参謀本部には、アックワローネを通じて、ヴァチカン駐箚イギリス外交代表オズボーンによる、マドリードとリスボンのイギリス大使宛のカステッラーノの紹介状が届けられていた。すでにこの段階で、イタリア王室はヴァチカンのイギリス代表を通じて、イギリス政府とのパイプもつなげたことを示している。  出発直前に再度訪れた外務省で偶然、カステッラーノは外相グアリーリアに会った。 「ドイツに対しては、イタリアは最後まで共に戦うといってある。旅行中、ドイツに見破られぬよう十分留意されんことを」と、カステッラーノの腕をとって励まし、さらに次のように語った。 「ドイツ軍に捕まることのないように。捕まったらイタリアの“死”なのだ。あの紹介状(注・オズボーンによる)は実は信任状で、連合国側外交官や軍人以外には絶対に見せないように。ともかく君も知ってのように、イタリアは事実上ドイツ占領下にあるに等しいことをイギリス、アメリカに知らせるとともに、イタリアからのドイツ軍排除に是非とも応援を頼むとくれぐれも伝えるように」(注4)  国王、アックワローネ、バドリオ、アンブロージオ、グアリーリアらの水ももらさぬ態勢の中で、カステッラーノはモンタナーリとリスボンに向け、出発する。この秘密だらけの使命の重大性を、二人はひしひしと感じてローマ駅のプラットホームに立った。鞄の底にしまい込んだオズボーンの紹介状には、まさしく「この手紙の持参人を是非御引見下されたし」と、手書きで丁重に書かれていることも確認済みであった。  十二日夜八時、ローマ発トリノ行き夜行列車の中に、ライモンディことカステッラーノとモンタナーリの二人がいた。トリノでマドリード経由リスボン行きの国際列車に乗り換えることになっていた。夜のティレニア海に沿って、列車は一路北上する。  十三日午前、終着トリノに着く前のジェノヴァ駅で思わぬ異変が起った。カステッラーノらの車両が、駅員の手違いから切り離され、ジェノヴァ止りとなってしまったのである。しかも、気がついた時にはトリノ行き列車は発車してしまっていた。  しかし、時間は大幅に遅れるものの、イタリア占領下の南フランスのニース経由マドリード行きの列車を、辛うじて捕まえることが出来た。そのマドリード行き国際列車の車中、トリノ停車場が連合軍の猛爆撃を受け、死傷者多数を出したというニュースを聞いた。ジェノヴァからあのままトリノに行っていたら、どうなっていたことか。  しかし、それも束の間、ドイツ軍占領地区に列車が入ると、ドイツ兵が車内臨検に廻って来た。身分証明書の提示、荷物のチェックなどドイツ兵の監視は厳しかった。二人には緊張しつづけの長い旅路であった。目標の中立スペインまで無事たどりつけるかどうか? 注1 F. W. DEAKIN「THE LAST DAYS OF MUSSOLINI」P. 24 注2 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1642 注3 同右 P. 1644 注4 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 84 まずホーア大使と会見  枢軸占領下のコートダジュール(紺碧海岸)を無事通過、中立国スペインに列車は入った。しかしそのスペインはフランコ統領下の枢軸寄り中立国だけに、ドイツのゲシュタポ(秘密警察)の目も鋭く光っていた。  八月十五日正午、列車はようやく車輪をきしませて、マドリード駅に着いた。ローマ出発以来六十四時間後である。駅頭にはイタリア大使館員が出迎えていた。マドリードからリスボン行きは、その夜八時発で、大分間があった。  大使館員は本省からの連絡で、表向きの理由しか知らされていなかった。カステッラーノは、夜八時発までの間に、ぜひともイギリス大使サー・ホーアに会っておかねば……と考えた。「適当に過して発つ」と大使館員に話し、共に昼食をとったあと、プラド美術館に行った。ゴヤやベラスケスなどの絵画を見て大使館員と別れた時、カステッラーノはモンタナーリに耳打ちした。 「大使館員にはホテルで休むことにしたと言った。これからすぐイギリス大使館に行こう」  自国の大使館員にまでこうせざるを得ない隠密行動であった。二人はホテルに向うふりをして、イギリス大使館に向った。その時間、大使は公邸にいるとのことで、別のタクシーで直行した。スペイン人門衛に執事を呼んでもらうと、カステッラーノは二重封筒入りのヴァチカンのオズボーンからのサー・ホーア宛紹介状を大使に届けるよう手渡した。数分後、「大使閣下がお会いいたします」と、執事が丁重に案内した。  サー・ホーアはお互いに敵国人でありながらも、誠意にあふれた態度で、カステッラーノらに握手の手をさしのべた。白髪、きちんと夏服に身を包んだ紳士であった。  大使はまず「貴国をよく知っております。知人もたくさんおります」と切り出し、その人達の名をあげた。第一次大戦当時、在イタリア連合国軍の情報官とのことである。  本題に入ってカステッラーノは、自分に言い聞かせるように念を押しながら、イタリアの現状を大使に伝えた。サー・ホーアは第一級の外交官で、言葉の裏もよく読み取った。約一時間の会談後、大使はすぐイタリアの意向を本省に打電すると共に、「いまチャーチル、ルーズベルト両首脳がカナダのケベックで会談中なので、そこにも転電させておく」とまで打ち明けた(注1)。サー・ホーアは、この時のことを後に「背広で登場した大陸の一将軍」のテーマで、エッセイを書き、カステッラーノを一目見て、この人物は軍人であると見破ったそうである。  この意義深い初の接触での両者のやりとりの骨子は、次のようである(注2)。  カステッラーノ(以下カ)「私はイタリア戦局と政情の現状を説明のため派遣された。イタリアはムッソリーニ解任後、ドイツ軍により事実上、ほぼ占領されたと同然である。イタリア政府はドイツと訣別したいと願っているが、圧倒的に優勢なドイツ軍に対して反撃は極めて困難である。国民は全土で大きく動揺している。ムッソリーニは逮捕されたが、ファシスト勢力は完全に武装解除されたわけではない。もしドイツが支援すれば、ファシスト政権の再興も可能な状況にある。  ドイツはイタリア半島を抵抗の拠点としているが、わが政府は連合軍と休戦したうえ連合軍に協力する意向である。しかし連合軍がしかるべき兵力をもってドイツ攻撃に出なければ、それも不可能となる。我々と連合軍参謀本部とのコンタクトをどうすればとれるか教示して欲しい」  ホーア(以下ホ)「貴官の役割は分った。本当にドイツ軍と闘う用意はあるのか?」  カ「これはイタリア人の自由な意志によるものである。断言する」  ホ「詳しく質問してよいか?」  カ「知っていることは、何でも答える」  ホ「ドイツ師団はイタリアに十三個師と聞くが本当か?」  カ「確かに十三個師ぐらいと思うが、刻々と増強されている。特にムッソリーニ解任後は、イタリアに暴力的報復を行使している。イタリアとしては、官民ともに連合軍の介入を強く希望している」  ホ「内情は分る。このスペインでも全ての政治がドイツにより実質的に握られている。北イタリアのイタリア軍兵力はどのくらいか?」  カ「確実な数の兵力はある。連合軍参謀スタッフとパイプがつながれば、共通の理解のために、正確な数を確認したうえ、後刻お知らせしたい」  ホ「了解。次にここ数日来、イタリアから別のアプローチが連合国側になされているが?」  カ「在リスボンのイタリア公使館が接触の任務を与えられているはず。しかしそれ以外は知らない」  ホ「ローマ法王もこの件については了解しているのか?」  カ「私は直接は知らないが、ヴァチカンのオズボーン氏がこの紹介状を発出した時、ヴァチカン国務長官のマリオーネ枢機卿に伝えたかも知れない」  ホ「グランディ伯がワシントンに和平を打診しているとも聞いているが……」  カ「承知していない」  ホ「ドイツとの同盟の破棄、イタリア軍の対ドイツ戦参加となった場合、イタリア側は連合国に何か条件を出してくるのか?」  カ「すでに申し上げたように、私の使命は全く軍事的なもので、政治問題での交渉の権限は持っていない。イタリア政府も、私に全権をまかせているわけではない。何らかの条件を提示する意図は、政府は持っていないと思うが、私としてはただ、連合軍と共同行動をとるため、軍事援助を要請することを命じられている」  ホ「イタリア軍が連合軍と共通の目的に立つことになっても、イタリア政府が何らかの代償を求めないとすれば、さすがである。次にバルカンのイタリア軍の状況は?」  カ「同方面のイタリア軍は、ドイツ軍に比べ、全く劣勢である。太陽の黒点ほどもない」  この会見のあと、サー・ホーアは「軍事情況も分ったし、イタリア政府の目的とする点も了解した」として、次の諸措置をとることを約束した。  一、会談内容を直ちに本国に知らせる。  一、イギリス参謀本部の高官を貴官と接触させるため、直ちにリスボンに向うよう本国に請訓する。  一、リスボンのキャンベル大使に、事前に本日のことを伝えておく。よって、貴官は当地の任務を完了しているので、リスボンに向われたし。ただし、マドリードに滞在されたければ、それもよし。会話ははずむだろうから。  カステッラーノはあとの雑談で、サー・ホーアが関心を抱いていたムッソリーニ失脚と、ファシズム崩壊の状況につき、ありのまま見たままを話した。辞去の際、大使はカステッラーノに「リスボンに行ったら、キャンベル大使に身辺の保護を求めるように。あそこにはドイツのスパイが多くいて危険だから」と、示唆も与えた。  一説によると、サー・ホーアはマドリードでのこの会見を、事前にドイツのゲシュタポが察知しているのではないかと懸念していたとされ、また本省への連絡では、連合軍のイタリア上陸と、それに伴うイタリア軍の対ドイツ戦参加が、イタリアの休戦実現の必須条件になろうと、本省宛報告したという。冷静で的を射た読みであった。 注1 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1648 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 92 連合軍高官と遂に接触  丸一日後の夜十時すぎ、リスボン駅に着いた。同じ中立国の首都でもマドリードと違い、夜遅くまでネオンが輝き、目抜き通りには華やいだ空気が踊っていた。  翌十七日朝、二人はイギリス大使館を訪ねた。サー・ホーアが連絡していたとみえて、すぐに招じ入れられ、長身のキャンベル大使と会った。冷たい感じで控え目な人物に見えた。果してこの会見はマドリードの場合とは逆に、トゲトゲしい空気の中で終始した(注1)。  カステッラーノ(以下カ)「閣下はサー・ホーア大使からの連絡を受けられていると思う。本官の任務についても御承知と思うが……」  キャンベル(以下キ)「すべて承知している。ただしロンドンの本省からはまだ何の連絡も届いていない。チャーチル首相が目下アメリカからカナダに移動中だからであろう。ところで将軍はイタリア政府からの信任状を持参されたか?」  カ「ノー。オズボーン氏の紹介状を通じ、かつサー・ホーアからの連絡を得てこうしていま大使閣下に引見されている。公式書類を持っての旅行が危険であることを御理解願いたい」  キ「それは分る。だから我が政府もカステッラーノ・ミッションに公式の性格を与えている。でも疑惑もある。別のアプローチ(外交ルート)がすでに行なわれているのに、なぜ公式の根拠を持たぬ人物により、交渉が行なわれるかという点である」  カ「別の筋のアプローチは、すべて中断されているはずである」  キ「将軍の任務の概略を説明して欲しい」  カ「(マドリードで語ったことを繰り返したあと)連合国側は軍人を派遣されたしというので来訪したのであるから、一刻も早くその機会を得たい。イタリア内の情勢は日一日、重大さを増しており、我々も数日中に帰国しなければならない」  キ「分った。ロンドンの本省から何らかの訓令が届き次第、将軍のホテルに御連絡するのでしばらく待たれたい」  こうした対話からすると、イギリス外務省はサー・ホーアから連絡を受けた後、キャンベルに対し、カステッラーノの任務の再確認を取らせ、その間にカステッラーノと会談すべき連合軍首脳のリスボン派遣の人選をしていたとみられる。しかも「イタリア政府による信任状」「別の筋のアプローチ」などの言葉にみられるように、イギリス側の警戒心はかなり強かった。  しかし、一方で、キャンベル大使は「本省からまだ何の連絡も届いていない。チャーチルがアメリカからカナダに行く途中だから」だと述べ、この件がチャーチルの耳に達したか、あるいはイギリス外務省がチャーチルの判断待ちをしていることも大使は示唆している。したがってイギリス側は「ある程度の権威を持つ密使」としてカステッラーノを遇する考えであったとみてよかろう。同時にこのイタリアの将軍の来訪を機にイギリス側には、一気に公式の休戦交渉に持ち込んでしまおうとの意図も働いていたと見られる。大使自身が「交渉」という言葉を使ったこと自体、意味があるとみてよかろう。  ホテルに戻ったカステッラーノは、会見模様を記録しておいた。そしてキャンベルがあくまでも事務的にかつ冷徹さをもって対応しようとしていることを、頭にたたき込んだ。突然、一つのことに気が付いた。リスボン駅にイタリア公使館員が出迎えに来ていなかったことだ。そのためイタリア公使館にも特に連絡をとらず、ひたすらキャンベル大使からの呼び出しを待つことにした。十八日一日中、全く音沙汰はなかった。  十九日午前ようやく、十七日の初会見で打合わせた符丁合図通り、同行の通訳モンタナーリ宛に差出人「DU BOIS」の名による文書がホテルに届けられた。 「十九日午後十時半に来訪を待つ」  その時刻、まだ暑さの残る中を公邸に。カステッラーノら二人は尾行者などの有無を警戒しつづけた。大使自身が出迎えて、すぐサロンに導かれた。大使はそのままそこを出ると数分後、別の入口から三人の人物を伴って現われた。カステッラーノとモンタナーリに次々に紹介した。  最初が連合軍最高司令部のアメリカ軍ウォルター・ベデル・スミス大将、二人目がイギリス軍ケニス・W・D・ストロング准将である。三人目は最高司令部付法律顧問アメリカ外交官ジョージ・F・ケナンであった。いずれも戦後、それぞれの国で枢要な地位に就く人物である。  カステッラーノは待ちに待った連合軍首脳と遂に一堂に会したのであった。戦後に分ったことであるが、この連合軍の三人は実は、ケベックに会合したルーズベルト、チャーチルがサー・ホーアとイギリス外務省からの連絡を受けるや、直ちにタンジールのアイゼンハワー連合軍最高司令官に訓令、三人を指名してリスボンに派遣したものであった。十九日まで手間どった背景にはこうした経緯があった。  キャンベル大使を含めた六人が丸テーブルに着いた。スミスの左に通訳モンタナーリ、次いでカステッラーノ、キャンベル、ケナン、ストロングの順であった。キャンベル大使のお膳立てである。カステッラーノは、イタリアの命運を左右する会合に臨んだことになる。連合軍首脳の顔を見つめながら、カステッラーノがまず切り出した。 「本官はイタリア軍の現状と国内情勢を説明し、イタリアがドイツとの同盟を離脱、ドイツと交戦に入るため、連合軍側の協力を要請しに来たものである」  連合軍将官らは、思いがけぬ発言といわんばかりに顔を見合わせてみせた。これら三人はアイゼンハワーから「無条件降伏以外の取り決めをイタリア側と約束してはならない」と厳命を受けて、リスボン入りしたのであった(注2)。  最上級のスミス大将が、おもむろにテーブルの上に書類を広げると、ひと際高い声で話し出した。 「本官は連合諸国政府の軍事権限を代表するアイゼンハワー元帥の代理として、休戦の条件を話し合いたい。話し合いというのは、イタリアが休戦に関する連合軍側の条件を無条件で受諾するか否か、どちらか一つを選ぶということである」  こう述べたあとすかさず、スミスはアイゼンハワーが提示したという次の休戦条項を読み上げた(注3)。スミスは区切りをつけながらゆっくりと読み、モンタナーリがそれを一項目ずつ通訳するにつれ、カステッラーノはただただ唖然とするばかりであった。  一、イタリア軍の連合軍に対する一切の敵対行為の即時停止  二、連合軍に抵抗するドイツ軍に対し、イタリアは絶対に支援しない  三、連合軍捕虜は即時送還させ、ドイツに移送しない  四、イタリア艦隊および空軍は、連合軍の指定する地点に、武装解除のうえ即時移送  五、イタリア商船隊は、連合軍の軍事計画の必要のため徴用する  六、連合軍の作戦基地としての使用ならびに連合軍の決定するその他の目的のため、イタリア占領のコルシカ島とすべてのイタリア領土は即時、連合軍に明け渡す  七、イタリアのすべての飛行場と海港を連合軍が自由に使用することを即時保証。これらは連合軍が引き継ぐまでイタリア軍が警護  八、現在各戦線に配備中のイタリア軍を即時本国に撤収  九、休戦条件の早期執行確保のため、必要とあればイタリア政府はイタリア軍を従事せしめることを保証する  十、連合軍最高司令官は戦争継続上、連合軍の利益保全の必要措置の行使権を留保  十一、連合軍最高司令官は、イタリア軍の武装解除、復員、非武装化等の措置をとる  十二、イタリアが遂行すべき政治、経済、財政的諸条件は後日、イタリアに移管  十三、これら休戦条件は、連合軍最高司令官の承認なしに公表はされない。また英語による文書だけを公式のものとする  スミスの開口一番は、このように高飛車であった。当時、連合軍首脳の間には、優勢な戦局を背景に、イタリアを一気に無条件降伏させようとする空気が強く、それがこのテーブルの上に吹き出した形であった。  スミスはさらに、各項目とも両軍代表による討議の対象とはならないと釘を刺した。「受けるか」「受けないか」だけを迫った。カステッラーノはこの文書をローマに持ち帰らざるを得ないことを想定、そのためにも英文をイタリア語文に正確に訳す必要があった。翻訳のため少々の時間が欲しいと要求し、了承した連合軍側は別席で待つことにした。その際スミスがカステッラーノに近寄り、シチリア戦のことにふれ、こう告げた。 「メッシーナ周辺での戦闘で、イタリア軍は実に勇敢に戦った。そのイタリア軍指揮官に、本官から敬意を表する旨、帰国したらぜひ伝えて下さい」(注4)  敵味方ながら軍人同士の心の交流の思いがけぬ一瞬であった。カステッラーノは「有難う。喜んで伝えましょう」と答えた。だが、初の会談で無条件降伏を提示され、怒りと緊張、それにイタリアの目的が達せられるかどうかの不安が目の前一杯に広がっていたはずである。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 99 注2 C. F. DELZELL「MUSSOLINI'S ENEMY」P. 246 注3 DOCUMENTS ON AMERICAN FOREIGN RELATIONS. THE AXIS POWERS. P. 161 注4 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 106 第七章 休戦への苦難の道程 血を吐く思いの長い一日  挨拶も抜きに、いきなり突きつけられた十三項目の無条件降伏要求! イタリア側は一項目ずつ英文とイタリア文を正確に整理し終えた。カステッラーノは部屋に戻って来たスミスに、整理中に感じた疑問点につき訊《ただ》した(注1)。ローマに持ち帰って報告する以上、解明しておかねばならなかったからである。「討議の対象とはならない」と、前提条件をつけていたスミスだったが、一つ一つ応答した。事実上、一種の交渉に等しかった。  まず第三項。連合軍の全捕虜をイタリアがまとめて送還することは不可能。理由はそれら捕虜がイタリア各地に分散しているためであった。「すべてそのまま釈放」であれば可能と述べたのに対し、スミスは「それでもよい」と同意した。  次の第四項。カステッラーノは海空軍の集結地点を訊した。特に艦船は燃料の欠乏で遠距離航海は不可能である実情を説明した。これに対しスミスの答えは「集結地点は後日指定する。燃料不足を理由に、艦船の温存は許されない」であった。しかし、武装解除させられたイタリア艦艇が国旗を降ろされては、イタリア海軍は名誉のために自沈することになろうとのカステッラーノの発言に、スミスはしばらく沈黙のあと、「国旗は掲揚したままでよい。名誉は全面的に尊重する」と答えた。ヨーロッパの騎士道精神が、敵味方双方の高級参謀の心の中を流れた瞬間であった。  続いて第七項の軍港、飛行場に対する自由使用保証の要求。カステッラーノはその大半がドイツ軍の手中にあり、保証不可能と答えた。スミスは何も答えなかった。また第八項の在外イタリア軍の本土送還も、実際問題として不可能であった。艦船不足は覆い難い事実であったからである。その説明に対してスミスは、「本土へ最寄りの海岸に集結させれば、あとは連合軍の船舶を使用する」と譲歩した。  最後に第十項につきカステッラーノは、イタリア領土での連合軍の軍事政府の役割について質問した。イタリア政府の主権の縮小・制限があるのではと懸念したからである。これに対してスミスは、あいまいな返答を続け、軍事問題ではなく政治問題だとして詳しくは語らなかった。だがその軍政はすでにシチリアの大半で機能しており、地域住民との合意に基づく軍政であるとの見解を示した(ここで触れておくと、このシチリアにおける連合軍の軍政が、イタリアからのちのドイツ、日本占領における連合軍の軍政のサンプルとなったのである)。  そのシチリア軍政を持ち出したスミスに対し、カステッラーノは反論した。確かにシチリアは連合軍が大半を占領しているが、本土は全く被占領地ではない現在、本土とシチリアを同然と見做す考えは理解出来ないとの論理である。スミスは黙したままであった。  こうしたやりとりの間、カステッラーノはイタリアが対ドイツ戦で連合軍に出来得るだけ協力することが、イタリアの破滅からの救出と保全につながると確信を強めていたに違いない。  会談の冒頭、カステッラーノが述べたように、イタリアはその国土から同盟のドイツ軍を放逐するため、連合軍に協力してドイツに当る決意を示し、その方策、実行計画を話し合いたかったのであった。しかし、スミスは連合軍を代表して一方的に無条件降伏を押しつけ、しかも休戦条項は「討議の対象とせず」とまで述べていた。スミスは会談中言ったものである。 「この休戦条項はアイゼンハワー元帥が自ら起草し、連合各国政府が承認したものである」  イタリア人は、このようなアングロサクソン流の論理を、あまりにも単純な思考と見る。イタリアがいま連合軍側に味方しようとしている時に、アングロサクソンはイタリアをあくまで敵国と見做し、一方的に無条件降伏を強制するのは愚行と考える。古代ローマ以来、敵を抹殺することはなく、なびいてくるものは巧みに利用し、自らの戦力に変えてしまうのがローマ的発想であり、大ローマの広大な版図も、基本的にはこうした「滅ぼさずして治める政治哲学」から生れたのである。ルネッサンス時代の政治・外交戦略家マキアヴェッリの複眼思想も、古代ローマ思考と同根といってよい。  ともかくイタリア本土には、従来の駐留ドイツ軍に加え、ムッソリーニ失脚後にドイツ軍が大量南下、連合軍はイタリア本土でいよいよこれから本格的戦闘に入ることは目に見えている。その枢軸ドイツ軍との同盟関係を破棄しようとするイタリアに対する遇し方としては、こうした連合軍のやり方は、決して賢い方法ではなかった。イタリアには戦後、当時の連合軍のこの対応を批判する人が少くなく、「アイゼンハワーは単純な頭脳の軍人」と、戦後のアイク大統領時代、アメリカ人の間でさえも言われたことを挙げる。  それにしても、カステッラーノは無駄と思いつつも、再度次の諸点を強調した(注2)。  一、イタリアは可能な限り、連合軍に協力・支援する  二、イタリアは現在の孤立のままでのドイツ軍との戦争は不可能。武器弾薬が不足  三、連合軍のローマ以北への上陸の必要性  四、このままではドイツ軍による一般市民への報復、また国王一家や政府首脳の一網打尽の可能性があり、そうなると連合軍への協力支援は実行不可能になる  しかし、スミスは、たたみかけるように、イタリアの降伏条件の諾否を連合軍に連絡する方法を次のように語った(注3)。  一、イタリアに持ち帰るべき一台のラジオ無線機器と暗号表を用意してある。カステッラーノがローマに戻る際に、使用方法と連絡先を示す  二、当初、同無線機器を使うのは、降伏受諾の場合のみ  三、受諾しない場合はヴァチカンのイギリス外交代表を通じ「イタリア政府はシチリアのイタリア兵捕虜の完全リスト通知の遅延に抗議する」のメッセージを発信する  四、無線機器が機能しない際は、イタリアは「DU BOIS」を名乗る人物をスイス・ベルンのイギリス公使館に派遣、同公使館経由でイタリア側の受諾を送信させる。  つまり、イタリア政府が「無条件降伏」を受ける場合は無線機器かベルンを通じて、拒否の場合はヴァチカンのイギリス代表を通じてということであった。有無を言わせぬ諾否要求であり、いわゆる「戦場の論理」が大手を振ってまかり通ろうとしていた。さらに回答期限も一方的に設定されていた。スミスは十日後の八月二十八日を目途とし、もし八月三十日を過ぎてもイタリア側からの回答がない場合は「受諾せず」を意味すると述べた。  一方、受諾の場合はその旨を返電したあと、八月三十一日から休戦に関する第二段階の作業を進めるため、同日午前九時前にイタリア軍使節が、シチリアのパレルモとチェファルーの中間にあるテルミニ・イメレーゼにある連合軍の仮設飛行場に空路到着のこと。その際は事前連絡のうえイタリア使節は空軍機でソレント半島沿いに飛行、途中で連合軍戦闘機が護衛誘導に入るとのことであった。  カステッラーノは、本国政府の了解なしにそれ以上の話を進めても仕方ないと判断した。  カステッラーノは当時、次のように書き残している(注4)。 「連合軍側は、休戦に伴うイタリアの危機的状況は短期間で終ると考えていた。理由として、航空兵力をイタリア半島に派遣駐留、短時日でドイツ軍を退却させ得るとの判断であった。したがってドイツ軍によるイタリアに対する恐怖の日々は数日間しか続かず、長期の消耗戦にはならないと結論していた。これには不安でならない。そんな簡単にすむことであろうか? 連合軍はイタリア戦線を甘く見過ぎてはいまいか!」  事実、その後のイタリア戦局はカステッラーノの予想通り、連合軍の苦戦が随所で現出し、連合軍ともどもイタリアの一般市民をも巻き込む多大の犠牲者を出すことになる。  会談も終りに近く、スミスは最後にイタリアと連合軍の休戦発表スケジュールについて触れた。 「連合軍がイタリア本土に、いつどこに上陸するかは、最高軍事機密だから言えないが、連合軍のイタリア本土上陸の五、六時間前にアイクがラジオでイタリアの敵対行為の終結を放送する予定である。したがってその直後にバドリオ首相が同様趣旨の声明を放送するように」  この終始一方的な発言続きに、カステッラーノはついに怒りがこみ上げ、思わず強い語調で抗議した。 「わずか五、六時間の予告で、内外のイタリア軍が予期しない急変に対応することなどどう考えても無理である。しかもイタリア兵の隣りにいるドイツ兵に向って、連合軍と共同行動をとるなど、物理的にも不可能であることが同じ軍人として分らないか? 貴方が私の立場だったらそんなことが認められるか!」  スミスは沈黙のままであった。確かにその通りだったからである。 「事態の急変と、それに伴う態勢の立て直し準備には、せめて二週間はかかると思うがどうか?」  カステッラーノは逆にこうたたみかけた。緊密な話合いと連絡により、休戦発表と連合軍本土上陸を事前にうまく調整することが本土内のイタリア市民だけでなく、連合軍の犠牲を最小限に食い止める良策であることは明らかであった。スミスはこの問いに対して、アイクに報告すると約束した。  続いてストロングがイタリア戦線地図を広げ、連合軍が掌握している枢軸軍配置図を示し、カステッラーノの意見を求めた。「確かにその通り」と答えざるを得ないほど、連合軍側が持つ情報は正しかった。そのあと今後のドイツ軍の出方につき、予測を求めてきた。 「連合軍の出方いかんである。ティレニア海のチヴィタヴェッキアからラスペーツィアの間、およびアドリア海の中部、例えばリミニあたり、つまりローマ以北の二ヵ所に上陸してくれれば、ドイツ軍はアペニン山脈からアルプス方面に後退するだろう。もしそれよりずっと南方だったらローマはドイツ軍に占領され、ドイツ軍が中部イタリアで強く抵抗する態勢を許し、連合軍は苦戦を強いられることになる」(注5)  ストロングは沈黙していた。カステッラーノは改めて、首都ローマ周辺の軍事情勢を兵力配置を含めて説明、同時にイタリア軍に不足している軍需物資として燃料、装甲車、対戦車兵器、軍靴などを挙げた。  これでその夜の会談はすべて終った。カステッラーノとしては、血を吐く思いの一夜であった。イタリア情勢を詳しく説明をしようとしたのに、連合軍側は無条件降伏をつきつけ、その期限や発表方法まで押しつけてきたのである。しかし、言うべきことは言い、疑問点を訊して、ローマに連合軍側の指示を伝えることがカステッラーノの役割でしかなかった。  ただし、イタリアの運命にとってさらに波乱万丈の日が続くことだけは確かであった。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 106 注2 同右 P. 113 注3 同右 P. 118 注4 同右 P. 113 注5 同右 P. 116 「無条件降伏」持って帰国  翌二十日午前、カステッラーノはスミス、ストロング、それにキャンベルに別れを告げた。モンタナーリが連絡用無線機を受け取った。直接交信出来る機械であった。敵味方の関係にあるが、誰もが感情を込めて固い握手を交した。イタリアにとっては危急存亡の時であり、連合軍にとっては戦局の優勢を決定づけ、ひいては大戦の帰趨に王手をかけたい思いであった。双方の固い握手も、両者それぞれの思いと願いを込めての決意の表明であり、和平への望みを托したものであった。  別れ際、スミスがカステッラーノに言った。印象深い言葉であった(注1)。 「これまでの話し合いで、我々はお互いに協力するという新しい時代を生んだ」  これでカステッラーノらは、リスボンでの主要任務を終えた。ホテルから「ライモンディとモンタナーリ両名がリスボンに到着している」旨を、在リスボンのイタリア公使館に連絡した。チリから帰国のイタリア外交団を引き取って帰国出来るからである。ところが不運にも船の到着が遅れ、二十一日リスボン着と知らされた。重大時期に余りにも貴重な時間の損失である。  カステッラーノとしては、自国外交団の受領という任務の外交旅券であるため、一行と行動を共にしなければならなかった。気持のあせりをどうしようもなかった。  連合軍の突きつけた「無条件降伏」に、イタリア政府がどう対応するか? その問題の前に、いかに外交旅券を持っているとはいえ、ドイツ軍の監視が強いスペインや、ドイツ軍占領下の南フランスを通過して、無事ローマに帰れるかどうか。途中、連合軍の爆撃を受けて列車ごと炎上してしまっては——など、苦労の種はつきなかった。  そして何よりも、時間との戦いという観点から、いっそのこと空路をとるということも考えたが、これにはイギリス大使キャンベルが危険だとして猛反対した。リスボンからマドリードヘ飛び、さらにフランスでドイツ軍の厳格極まる検問が必至であるとの理由からであった。結局、陸路を選ぶしかなかった。しかし、無事帰国し得ても、仮りにイタリアが連合軍の要求をのんだ場合、本当に連合軍はイタリアを即刻支援してくれるのかどうか? それともドイツ軍が一足早くイタリアに、暴力的報復を加える手段に出るのではなかろうか? と心配は果てしなかった。  一人苦しむ頭の中に、一九四三年春からのさまざまの出来事がよぎった。アンブロージオ、チアーノ、アックワローネらとの出会い、そしてムッソリーニ逮捕……。続いて今回の連合軍首脳との接触……。すべてカステッラーノにとっては思いも寄らぬめぐり合わせばかりであった。何か運命的な動きとしか思えなかった。しかし、すべてがうまく運んできた。「今度のこの休戦もうまく行くのではなかろうか」と、期待も持てないわけではなかった。  二十日は終日、ホテルで連合軍首脳らとの討議事項をまとめたうえ、二十一日になって、カステッラーノらは公使館に直行、そこでダイエータ参事官とばったり遭遇して驚いた。参事官の方もびっくりした。 「ライモンディとは君だったのか!」  ダイエータはカステッラーノをまじまじと見つめた。公使館はカステッラーノの使命について詳細には何も知らされていなかったのである。本省トップが特命事項については極秘を守っていた証拠でもあった。 「外交ルートではなく、軍人を通じての接触」と、リスボンのイギリス筋から要請されて、その旨を本国に要請したのはダイエータ自身であった。その軍人として目の前に現われたのが、チアーノの紹介で半年前にローマのキージ宮(外務省)で対面したカステッラーノ。二人はイタリアで一つの強固な意志が動いていることを、改めて思い知ったのであった。  カステッラーノはダイエータに、マドリード、リスボンの一部始終を打ち明けた。その際、意外なことを知らされた。リスボンのイタリア公使プルナスにドイツ大使から、「最近、当地に入ったイタリア人がいるか?」と、問い合わせて来たという事実である。実はその前日、イギリスのある新聞が、連合国側との接触のため、イタリア政府の密使がリスボン入りしていると報道、その人物はデ・アンジェリスという名前とまで伝えていたとのことであった(注2)。  確かにその名前の人物が、カステッラーノらと同じ頃、ローマからリスボン入りしていた。チリから引揚げて来るイタリア外交官らの帰国事務手続きのため派遣されたCIT(イタリア交通公社)の要員であった。公使は、その旨を説明、ドイツ側は直ぐさまローマのCIT本社に連絡して真偽のほどを調査、納得したという間一髪の一幕があったのである。当らずとも遠からずのきわどいイギリス紙の報道であった。  イタリア側はドイツ側が何か動きに感付いているのでは? と、警戒心を強めるほかはなかった。そうなればスペイン、フランスを無事通過して帰国出来るか? がますます重大な課題となってくる。途中でドイツのゲシュタポに捕まる可能性も皆無ではない。  そこへ、またしても難問が立ちはだかってしまった。チリからの汽船がさらに二十四時間以上遅れて、八月二十三日以前にはリスボン到着が覚つかなくなったというのである。連合軍側からは、イタリア側からの回答期限はギリギリ八月三十日とされていた。まさに時間との戦いとなった。カステッラーノは取敢えずリスボンの公使館から本国宛暗号電報で、「連合軍高級参謀と接触」との発信をしておいた。  その八月二十三日午後、リスボンのイタリア諜報機関から公使プルナス宛に、「イタリア密使追跡調査」のため、ドイツの秘密警察が複数でリスボン入りしたとの情報がもたらされた(注3)。それが事実だとしても、すでに実質的な会談は終ってしまっており、あとはただ、会談内容報告のため、ローマに帰るだけであったことをカステッラーノは神に感謝した。  とはいうものの、一層慎重を期するに越したことはない。プルナスとも協議し、万一、帰国途中でドイツ側に捕まった場合には、「リスボン公使館の武官府査察のため偽名で旅行中の者である」との理屈で押し通すことにした。だがそれでも通用しなかった場合に備えて、可能かどうかは別として、「真の滞在目的は戦争遂行のため、リスボンにあるイタリア銀行保有の金《きん》を本国送還し、戦費補給に当てることにある」との公使作成の公文書を所持して切り抜けることにした。結局、チリからの帰国外交官を迎えて、リスボンを発ったのは二十五日夜となってしまった。  午前八時リスボン発ローマ行きの車中には、にわか外交官カステッラーノ将軍と外交行嚢《こうのう》に連合軍との直接交信用無線機器を仕舞い込んだモンタナーリ、それにチリからのイタリア外交団らがいた。暗闇を走る列車でポルトガル・スペイン国境は無事通過した。そこからさらに長時間、フランス国境も何も起らずに過ぎた。  ところが聖母マリアの姿が現われた聖地として知られるルールド駅で突如、ドイツ軍警備隊により列車が「停車命令」を受けた。 「来たなっ!」と、カステッラーノとモンタナーリはお互い目を見合わせた。ドイツ兵の姿が窓外に見えた。列車が石炭を補給するガラガラ、ゴロゴロという音が、何か緊張感をあおった。  しかし、ドイツ兵はカステッラーノらの車両には姿を現わさぬまま、列車出発の汽笛が鳴り響き、しばらくしてから動き出した。危機は去った。そしてまた一昼夜、列車はひた走りに走り、一路とうとうイタリアに入った。ジェノヴァ、ピサを通過、二十七日午前ローマ終着駅に着いた。リスボンから二泊三日の長い旅であった。 「八月三十日が連合軍への回答期限。三日しか時間的余裕なし!」  カステッラーノは参謀本部へ直行した。午前十一時半、アンブロージオが外出中で、参謀次長ロッシが迎え、直ちに外務大臣グアリーリアを交えて会合、カステッラーノは休戦条件、ケベックにおける連合国首脳会談などすべてを報告した。  グアリーリアは終始不機嫌であった。カステッラーノを叱責しながら、次の点を述べた。  一、対ドイツ戦にイタリアが加わると約束する資格などは、貴官にはないはず  一、我々としては先方の押しつけの条件をそのままのむことは出来ない。現にドイツ軍がイタリアに駐留し、我々を圧倒しようとしている  一、連合軍がローマ以北に上陸することだけが、現状打開とイタリアの安全につながる  外出から戻った参謀総長も沈痛な面持でこの意見を聞き、ただ黙っていた。結局、首相バドリオを含めて、連合軍側の要求と出方を討議するしかないとの結論になった。  この会合の直後、カステッラーノは参謀本部が、数日前にジャコモ・ザヌッシ将軍をリスボンに派遣した旨を同僚から知らされた。カステッラーノから何の連絡もないため、万一のためにあらためてザヌッシを派遣したとのことであった。 「何たること! 初めから帰国してから報告するとの了解ではなかったか! 途中での連絡など、現地からは事実上困難であったのが分らないのか?」  カステッラーノは怒り心頭に発した。彼からの連絡が途絶えていたため、不安になったバドリオが、独断で陸軍参謀長ロアッタ将軍直属のザヌッシを派遣したというのが真相であった(注4)。  このあたりに動揺する政情と、一日も早く和平を望むイタリア政府のあせりがうかがえる。カステッラーノに対する指示は、すべてアンブロージオを通じて行なうはずであったが、それも守られず、指揮系統まで乱れてしまっていた。しかし、また、カステッラーノがリスボンから情報をローマに発信しなかったのも、重大な手落ちであった。ローマの参謀本部はカステッラーノがリスボンに出発した直後、リスボン公使館武官室にカステッラーノ用に送信用無線機を送っていたが、外務省からカステッラーノの件を何も知らされていなかった公使館側は、機械をそのままにしてしまったという不手際から生じたことであった。これは後日分ったことで、後の祭りであった。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 118 注2 同右 P. 121 注3 同右 P. 124 注4 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 297 国王、遂に「休戦」のむ  ザヌッシ派遣は、当時のイタリア政府首脳の深刻な不安と混乱ぶりを象徴する出来事の一つであった。  ザヌッシがローマを発ったのは、カステッラーノがリスボンから帰国の途につくのと入れ替りの八月二十四日のことであった。バドリオは、カステッラーノからの連絡がほとんどないため、ドイツ軍に捕ってしまったのではないかと本気で危惧した。その結果、連合軍との接触に不安を覚えた余り、外務大臣グアリーリアに相談もせず、アンブロージオを説得して、ほとんど独断で派遣したのであった(注1)。  そのザヌッシは、イタリア軍の捕虜となっていたイギリスの高級軍人サー・アドリアン・カートン・デ・ワートという長い名前の陸軍中将を同伴した。それにより、密使としての身分を保証、同時に連合軍との会談を有利に運ぼうとする魂胆であった。通訳としては、ガルヴァーノ・ランツァ・ディ・トラビアという、これまた長い名前のイタリア将校が随行した。三人は危険をかえりみず、ローマからマドリードヘ、さらにセビリア経由リスボン行きの飛行便を乗り継いだ。その中継地セビリアからはあご鬚をそり落して変装した、ディーノ・グランディ伯の姿も機中に見えた。ファシズム大評議会の立役者である。イタリアの和平実現のため、ロンドンに行く名目であったが、実際はそのまま、ポルトガルヘの亡命に旅立っていたのである(注2)。  カステッラーノは、自分と入れ替りにザヌッシがリスボンに行ったことが腹立たしかった。政府の自分への不信でもあると同時に、連合軍側に自分への不信を引き起すことが十分懸念されたからである。彼はアンブロージオに直ちに政府の首脳会議開催を求めた。  翌二十八日に開かれたその会議で、グアリーリアは「連合軍の本土上陸と同時に休戦という措置は政治的過ぎる。国内的に悪影響も大きい。また降伏行為そのものは軍事的と同時に外交措置でもあり、やはり外務省にもまかすべき事柄である」と述べた(注3)。実際、もし連合軍上陸即ち休戦となれば、駐留ドイツ軍はイタリア軍民に対して敵対行動に出ることは必至である。さらにその際、ファシストの残存勢力がドイツ軍と手を組み、イタリアの反ファシスト勢力に戦いを挑んで来る可能性も十分あり得る。つまり間違いなくイタリアの内戦を引き起す引き金になる恐れもあった。  このため、上陸連合軍にイタリアが応戦せず、連合軍が優勢裏にドイツ軍を敗退に追いやる段階に至ってはじめて、イタリア軍が側面からドイツ軍を攻撃すれば、ドイツ軍の敗北を早めることも出来、イタリアの損失も少いとイタリア首脳らは考えていた。だがそれをどう実現するか。会議では何ら具体策は出なかった。  散会の段になって、グアリーリアはアンブロージオに一片のメモを渡して去った。「休戦条件をそのままのむべきではないと考える。単に休戦だけでは、イタリアはドイツから離脱は出来ない。イタリアとしてはまず何よりも、連合軍の大挙上陸を条件とすべきである」と書かれていた。彼の考えは「連合軍上陸に伴う休戦ではなく、連合軍上陸成功ののちの休戦、対ドイツ戦とした方がイタリアに有利に作用するはず」という論理であった(注4)。  アンブロージオはそのメモをカステッラーノに読んで聞かせた。しばし考慮したうえ、カステッラーノは答えた。 「その見解は正当と思います。外務大臣のいうことも、私は連合軍側には十分伝えてきたつもりです。でも今は休戦を決意することが先決と考えます」  カステッラーノは、ひたすら戦争中止を考えていた。  イタリアはこうして、一刻を争う最も重要な時点で、何ひとつ決めることも出来ず、あたら時間を空費していた。二十九日朝、心あせるアンブロージオとカステッラーノは急ぎ、バドリオを訪問、意見を述べたあと、外務大臣も交えて再度協議、アンブロージオはカステッラーノの帰国報告を国王に伝えるべきだと主張した。結局、その旨をアックワローネに電話で要請した。  ところが国王は、まずバドリオが政府決定を下し、その裁下を国王に仰ぐよう指示してきた。このためバドリオ、アンブロージオ、グアリーリアの三人があらためて協議、そのあと国王に謁見した。随行したカステッラーノは控の間で待機していた。やがて謁見を終えて出て来たアンブロージオは、グアリーリアと言い争っていた。結局、国王の前での会合でも何の結論も出なかったのである。  アンブロージオとカステッラーノの二人が参謀本部に帰着すると、至急の連絡が届いていた。 「ザヌッシから以下の連絡。イタリア政府が連合軍に最終回答をする前に検討を要する重要文書を手交されたので、持参する。そのためシチリアのボッカ・ディ・ファルコ(パレルモ近郊)に操縦士付き空軍機を即時派遣されたし」  午前三時すぎ、ヴァッサッロ少佐操縦の一機が、ドイツ軍機の目をかすめつつ指定地に飛んだ。 「一体、何だ! 何でまたザヌッシがいまシチリアにいるんだ!」カステッラーノはつぶやいた。他の誰もが同じ考えだった。そして連合軍の次なる重要文書とは一体何なのか。  そのザヌッシはローマ出発後、誰もが想像もしなかった処遇を受けていた(注5)。  リスボンに着き、キャンベル大使の許に直行した彼は、「カステッラーノ将軍が数時間前、列車でローマに向った」と知らされた。連合軍側はこの時点で、密使としてカステッラーノとザヌッシのどちらが本物か? と強い疑惑を抱いた。カステッラーノはヴァチカンのイギリス外交代表オズボーンからの紹介状を持参した。ザヌッシはそれに類する書類は全くなく、ただイギリス人捕虜ワート中将を帯同したに過ぎなかった。しかもこの捕虜はキャンベルに、「ザヌッシの上官はナチに近いロアッタ将軍である」と耳打ちした。連合軍側はこれを聞いて、ザヌッシを処刑するか投獄することまで考えたが、取りあえず拘禁状態に置いた。  八月二十五日、ケベックでのルーズベルト、チャーチル連合国首脳会談は、イタリアの休戦に関して討議、あらためて四十二項目にわたる休戦内容について同意した。これはカステッラーノに手交した十三項目が「短期休戦条項(SHORT TERMS)」であるのに対して「長期休戦条項(LONG TERMS)」と呼ばれる。前者が停戦から休戦に移行する短期間のイタリア側遵守事項であるのに対し、後者は休戦・無条件降伏実施のための詳細な遵守事項である。  ケベック首脳会談での合意書は翌二十六日、ワシントンとロンドン、ならびに連合軍最高司令部に送付された。イギリスの外務大臣イーデンはこれを受理するや、イタリアを速かに、休戦・無条件降伏に追いやるため即時、リスボンにいるザヌッシに手渡し、ローマに送らせるのが得策だと考えた。この合意書はチャーチルのリーダーシップで作成され、イギリスの考え方が前面に出ているため、ルーズベルトは渋々承諾した経緯があり、かつ連合国内部でイギリスが主導権を掌握するためにも、イーデンはこの機会を有効に使いたかったのである。早速、キャンベルの許に同意書内容を発信し、ザヌッシにローマに携行させるよう指示した。  ザヌッシがこれを受け取ったのは二十七日であった。このことを知ったアメリカ側は仰天した。特に連合軍最高司令部は苦り切った。カステッラーノを通じてイタリアの休戦回答の有無を待機している過程で、この文書がローマに渡されたら、イタリア側は硬化して休戦承諾を引っくり返すことは間違いないと見たからである。さらに大きな心配は、これがもしイタリア側からドイツに洩れたら、それこそ予期しない事態も起りかねなかった。イタリアの無条件降伏の細目が詰まっている文書だからであった。このことは、連合軍内部の主導権争いばかりでなく、外交当局者と軍部の考え方の違いを露呈した一場面でもあった。  だがアメリカ側と連合軍最高司令部に幸いなことには、ザヌッシは文書を鞄の中にしまい込んだままで、リスボンのイタリア公使館から本国に電報で発信することまでは考え及ばなかった。間一髪のところで、連合軍側はすぐさまザヌッシをカサブランカに連行、監視を強めて対策を考えた。ザヌッシはそこからさらにジブラルタル経由でアルジェの連合軍最高司令部に運ばれ、さまざまの尋問を受けた。  アイクの幕僚ハリー・バッチャー提督は、ザヌッシはカステッラーノが連合軍側とどのような討議を交したかをドイツ軍の命令で探りに来た人物では? ——とさえ疑っていた(注6)。結局、思い余ってローマを連絡用無線で呼び出し、ザヌッシの使命を訊したところ、バドリオから正式に派遣されたものであることが確認され、ようやく身柄拘束を解かれるにいたったという経緯もあった。  こうしてザヌッシは連合軍の命ずるままに、アルジェから本国へ「空軍機一機のシチリア派遣」を要請したのであった。ザヌッシも同時に、アルジェからシチリアのパレルモに近いボッカ・ディ・ファルコに移された。しかし、その時には、連合軍側は「長期休戦条項」文書をザヌッシから取り上げていた。 注1 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 289 注2 同右 P. 291, 292 注3 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 127 注4 R. GUAGLILIA「DIARIO」P. 669 注5 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 294 注6 同右 P. 295 第八章 オリーブ林の天幕 カステッラーノ、再度折衝へ  八月二十九日夜八時過ぎ、ヴァッサッロ少佐がシチリアから無事舞い戻り、ザヌッシからの書類を携行してきた。内容がいかなるものであるか、カステッラーノは何も知らされなかった。彼にとっては不愉快な夜であった。  翌三十日。この日はイタリアの連合軍への休戦諾否回答期限ギリギリの当日である。早朝、カステッラーノはアンブロージオ、グアリーリアとともにバドリオの許に呼び出された。そこでバドリオからじきじき、カステッラーノがシチリアで連合軍首脳と折衝するよう命じられた。連合軍のスミス大将らが、シチリアで待機しているとのザヌッシ情報がこの際に知らされた。  バドリオの命令とは、連合軍に対してイタリアの現状からカステッラーノが持ってきた休戦条件のすべてを、実施することの困難さを説明することであった。その現状とはまず何よりも、イタリア軍勢力が在イタリア・ドイツ軍に比して弾薬、装備とも全く劣勢であり、両軍交戦の暁には短時日でイタリア軍はドイツ軍に撃破されることは明白という点であった。したがって強力な連合軍——少くとも十五個師団——がローマ以北のチヴィタヴェッキア、さらに出来ればアドリア海側のリミニ付近双方に同時に上陸しなければ、イタリアの休戦実施、それに続くイタリアの連合軍への協力は覚つかないことを徹底的に説得、納得せしめるということであった(注1)。列席したアンブロージオ、グアリーリアもカステッラーノと共同責任を負わされた形であった。  さらにカステッラーノはバドリオから次のような走り書きの一片のメモを受け取った(注2)。  一、的確に伝達すること  二、十五個師団程度の上陸が行なわれない限り、イタリアとしては休戦宣言を行なえない。上陸軍主力はチヴィタヴェッキアからラスペーツィアの間であること  三、イタリアとしては、連合軍の使用し得る飛行場を指定し、協力する  四、イタリア艦隊はサルデーニャ島のマッダレーナに集結せしめる  五、連合軍はヴァチカンを保護すること  六、国王、皇太子一家、政府および外交団はローマにとどまる  七、連合軍捕虜の取扱いには協力  カステッラーノは、この一片の紙を手に握りしめ、参謀本部に戻ると連合軍に宛て、直接交信機で打電した。 「こちらカステッラーノ。明三十一日朝、シチリアに着く」  それに対して、折返し次の返電が来た。 「朝九時にテルミニ・イメレーゼに着くよう。スミス、ストロングらが出迎える」  八月三十一日早朝、カステッラーノは前回同様、モンタナーリを同行、マネイニ少佐操縦の空軍機でシチリアのテルミニ・イメレーゼに着いた。リスボンで旧知のスミス、ストロングの二人が出迎え、一行はさらにシラクーサにほど近いカッシービレの大きな将校用天幕の張られた野戦陣営に案内された。周囲は一面のオリーブの丘である。  その天幕にカステッラーノが一歩踏み入れた時、目の前にザヌッシがいた。リスボン、カサブランカ、アルジェと転々とさせられたザヌッシが「連合軍の人質」とされていたのである。カステッラーノは思わず大声をあげた。 「何だ君! どうしてここに?」  ザヌッシはバドリオの指名で出国したこと、連合軍に伴われてここに来ていることなどをあらためて弁明した。カステッラーノがそこで知り得た情報は、ザヌッシはキャンベルから受け取った「長期休戦条項」をローマに持参するはずであったが、その書類を連合軍により持って行かれたままで、ヴァッサッロには手渡し得なかったとのことであった。  ということは、新しい重要文書、つまり連合国側のその後の意向をイタリア政府は現在、何も把握していないということでもあった。  天幕の中でスミスから、イギリスのアレクザンダー、同ディック、それにアメリカのキャノンら各将官を紹介され、カステッラーノはザヌッシとの会話を中断せざるを得なかった。連合軍側高官らは、先刻のザヌッシに対して見せたカステッラーノの激しい剣幕を興味深く眺めていた。スミスがまず口を開いた。 「貴官は全権を与えられて来ているのか?」  カステッラーノはそれには答えず、イタリア政府の意向を説明する任務を持って来島したと述べ、ローマ出発直前に渡された外務大臣からの次の覚書を読み上げた。 「もしイタリアが政治的、軍事的行動の確実な自由を得るならば、連合国側提示になる条件を受諾、休戦を要請するであろう。しかしイタリアはいますぐそれが可能の状況ではない。理由は駐留ドイツ軍に対しイタリア軍は、極めて劣勢にある。したがってドイツ軍の一撃にあえば、粉砕されるであろう。イタリア全土、とりわけまずローマが、イタリアを断固失うまいとするドイツ軍の報復にさらされることになろう。  したがってイタリアとしては、連合軍が十分な兵力をもって、かつ最も適当な地点、地域に上陸したのち、実際の情況をみてはじめて、ないしはヨーロッパの戦局全体を連合軍が決定した段階において、イタリアは休戦を要請することが出来る」  これはバドリオの指示をふまえて、グアリーリアが急ぎ書いたものであった。外交交渉において、使者カステッラーノが、いきなり一国の首相の覚書を読み上げては、折衝の余地がせばめられてしまうとするグアリーリアの配慮と懸念が、まぶされたアプローチであった。  カステッラーノはそれを読み上げたあと、詳細に補足説明するとともに、八月に入ってから続々とドイツ軍が増強され、八月十九日現在でほぼイタリア半島を支配しつつある旨を説明、現状ではイタリアは休戦を要請出来る状態ではないことを強く訴えた。  その上で、さらに考え得る限りの戦略的助言を与えた。連合軍がローマ以北のほか南にも上陸すれば、南部のドイツ軍は退路を遮断されて降伏するかも知れないし、北部のドイツ軍はアルプスを防御陣地にせざるを得ないであろう。そうなれば南部と中部のイタリア軍民はドイツに対する追打ちと抵抗運動に入りやすく、ドイツ軍によるイタリア国民への無差別報復や首都ローマ占領といった事態は防止できるのではないか——などである。上陸連合軍の総数は、バドリオ元帥は十五個師以上を期待していることを口頭と文書でも明らかにした。  カステッラーノにここまで喋らせた時、スミス将軍は突然、話をさえぎり、そのような提案は受諾出来ないと冷たく言い放った。 「イタリア政府は、我が方の休戦条件をそのまま受諾するか否かの二つしかない。リスボンで話したことは変えられない。もし受諾とあれば、連合軍上陸と同時に敵対行為の即時中止を宣言すべきである」  冷厳な響きを持つひと言であった。カステッラーノには、最悪の瞬間でもあった。そこへおおいかぶせるように付け加えた。 「連合軍が一挙に十五個師団もの作戦など、シチリア戦の完全終了前の現在、物理的にも問題外である」  これに対して、カステッラーノは説明した。 「一挙に十五個師ということではない。上陸総数が結局のところ十五個師であれば、ドイツ軍も衆寡敵せずと戦闘をあきらめるであろうということだ」  しかし、連合軍首脳は上陸と同時のイタリア休戦に固執した。  カステッラーノも負けてはいなかった。 「ならば連合軍はどのくらいでローマに到達出来ると予想しているのか?」  連合軍の上陸作戦計画が、かなり具体的に立てられているとにらんでの質問である。スミスは意味を読み取ってはいたが、うまくはぐらかして答えた。 「それはイタリアの協力・支援次第」  そこでカステッラーノはあらためて、正面から聞いた。 「連合軍としてはローマの北か南かのいずれに上陸するつもりであるのか?」  これに対してもスミスは「正確には言えない」と確答は避けた。カステッラーノはさらにつっ込んだ。  イタリア政府も王室とともにローマに踏みとどまる意向であることを念を押し、法王庁についても、もしヴァチカンが戦火に巻き込まれる場合、その防衛はどうするのかと回答を求めた。連合軍の意図を確めるため、まさに窮鼠猫を噛むようなカステッラーノの質問は鋭くかつ激しかった。  スミスは辛うじて答えた。 「ローマ防衛の連合軍の措置は、ヴァチカンの保護にも適用される」  スミスとしてはギリギリの線での、あいまいな言い回しの回答をした。それほどカステッラーノの舌鋒《ぜつぽう》は鋭く、気魄がこもっていたというべきか。しかし、スミスも負けてはいなかった。次のようなきついカウンター・アタックをかけて来たのである。 「イタリア側があくまで連合軍の大挙上陸を休戦の前提としてこだわり、戦いを続けるならそれでよい。言っておくが、アメリカやイギリスの世論は硬化して、いま提案されているような条件での休戦締結など到底出来なくなってしまうであろう。イタリアは灰燼に帰し、過酷な条件が課されることになろう」  この段階でカステッラーノは、スミスの口ぶりや譲歩の余地を示さない態度から、連合軍のイタリア本土上陸作戦計画はすでに出来上っていると読み取った。そこで最後の賭けともいうべき取引きに出てみた。 「貴官はイタリア軍が必ず敗北すると信じ込ませようとしているが、そうはいかないことを知るべきである。我が海軍の戦闘部隊は無傷であり、貴軍の上陸作戦計画を打ちくだく力を持っていることを考えて欲しい。今後はシチリアと違い、本土における徹底抗戦に入ることになる。イタリアにとっての強敵ドイツ軍は、連合軍にとっても同じく大きな強敵となろう」  これに対し、スミスは新しい脅迫に出た。 「成る程。しかしこれまでイタリア爆撃は一定限度内で実施されてきた。それに連合各国政府はバドリオ新政権に好意を抱き始めている。もしこの際、休戦締結に到らなかったらすべて御破算となる。ローマはじめ主要都市は現在以上の猛爆撃を受け、破壊されることになる。必要とあれば、我々はヴァチカンも顧慮に入れない。ローマは連合国からは無防備都市と必ずしも認められていない」  こう述べた後、やや語気を和らげて、次のように付け加えた。 「我々は上陸するとすれば、出来るだけ北部としたい。目的は北イタリアであって、バルカンではない」  カステッラーノは「これはブラフだ」と受け取った。なぜここでバルカンを引き出すのか? 理論上は全くおかしい。そのうえ、猛爆撃を加えるというおどしをかけてきた。ハッタリだと直感した。したがってカステッラーノは、そうした発言や態度にもへこたれなかった。それどころかむしろ強気になって言ってのけた。 「現状では全く合意は不可能とみている。ともかく小官は決定する権限はないので、本日午後、ローマに帰って政府当局者に貴官の意向を報告するだけである」  これに対してスミスは次のように答えた。 「イタリア政府が休戦を受諾すると決めた場合には、その後の軍事面での詳細な合意を具体化するため、もう一度シチリアに来て欲しい」  お互いに言いたいことを言い合った。結論は出ず、平行線をたどっただけであった。しかも双方とも論議は尽していた。それだけに、かえって理解は深まった。相互に問題点の所在が明確になったのである。 注1 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 101 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 131 休戦受諾の方向へ——  ちょうど昼過ぎになったのを見計って、スミスはカステッラーノらイタリア側三人を野戦の食事に招いた。誰もが黙りこくっていた。  会談は何の合意にも達していないし、一つのテーブルをかこんだものの、お互い敵国人同士であるということを一人ひとりが胸の中で再確認していたからであろう。場合によっては、双方とも戦場で対決する立場にあった。  スミスが冷たい水を作るために氷を割りながら、重い口を開いた。 「イタリアがこの機会をのがしたら、チャンスは難かしくなるだろう」  その時、アメリカのマーフィ、イギリスのマクミラン両政治顧問(注1)が天幕に入って来た。二人は「休戦受諾はいまを措いてないはず」「あとになったら国王への考慮もなくなってしまうだろう」とそれぞれひとり言のように口にした。  するとスミスが、「我々が橋頭堡を確立するまで、イタリア軍は抵抗するフリをしていれば、それも大いなる我々への協力となる。そのあと直ぐ、休戦を公表したらいいのではないか」と、気安そうに言った。昼食をとるという緊張のほぐれからであった。  それがきっかけで、食事中にまた論議が始まった。 「我々はかりに休戦を受け入れるとしても、その宣言を少しでも遅らせることを望んでいる。貴官らはそれをも否定するつもりなのか」  カステッラーノにすれば、それが実現しなければ、ドイツ軍はイタリア軍が壊滅するまで攻撃をかけてくるだろうし、そうなれば連合軍とイタリア軍との対ドイツ共同軍事行動は、成り立たなくなってしまうのである。しかも彼は、それまでのスミスらの発言から、連合軍の上陸地点はローマ以北どころではなく、ずっと南になるのではないかとの危惧を抱きつづけていた(注2)。シチリアが補給基地になるためにはまだ日数が必要で、現状では北アフリカからとなると、作戦距離と補給線との計数的直感からである。カステッラーノはそこでこの点を攻め込んだ。 「察するところ、連合軍の上陸地点はローマから大分南になると思うが、ここは是非とも、ローマ以北に上陸願いたい。もしローマがドイツ軍の手に帰しようものなら、連合軍としては戦争を長びかせ、手こずること必至である」  これに対し、スミスは何も答えなかった。スミスとしては、説明をすれば軍の重要機密を洩らすことにつながるし、敵側を利することになるからであった。しかし、本当は、連合軍がローマ以北に大挙上陸する計画はなかったからである。  実際はどうなったかと言えば、後述の通りローマ南方二百八十キロのサレルノ湾から上陸、このため首都ローマはドイツ軍の占領するところとなった。そればかりか、ドイツは中部駐留の兵力を南下させて増強し、以後、連合軍は冬を迎えてドイツ軍によりしばしば雨と泥濘の戦場に立往生を余儀なくさせられ、ローマ入城まで九ヵ月余りかかるという犠牲を払ったのである。すべてカステッラーノの予言通りとなった。  スミスはカステッラーノの要望に応える代りに、「ローマに帰ったら、ドイツ軍の攻勢に耐え得るよう、何としてもイタリア軍をローマに温存しておいて欲しい」とだけ口にした。  それについてはすでに、カステッラーノは幾度も言及してきた。武器弾薬がドイツ軍より甚しく劣勢であり、ドイツ軍への抵抗が困難なため、連合軍がローマ以北に上陸し、ドイツ軍の北方への退却を急がせることを重ね重ね提唱してきたのであった。  スミスはこのあと改めて、イタリアの要望事項を具体的に挙げるよう求めて来た。カステッラーノは「何度もいったことだが、ドイツ軍を敗北、敗退させるには、ローマ以北への連合軍の上陸が絶対不可欠である。また首都の維持も同様に必要である。それにより、その後の作戦は有利に展開出来るはずである」と力説した。  カステッラーノはその時、破天荒な作戦を思いついた。首都防衛のために連合軍降下部隊をローマ周辺に降下させる計画である(注3)。カステッラーノが掌握している限りの状況では、ローマ近郊の飛行場の幾つかは、イタリア空軍と対空防衛部隊が配備についているはずであった。またローマ市の外港であるオスティア方面も、連合軍の戦略物資陸揚げの拠点として使用できるはずである。  彼はスミスに、それらの作戦計画を話し、「これが実施に移されれば、ローマ周辺のドイツ軍は混乱を来たし、北方へ撤退することは明白であろう。それによって首都機能の維持もはかられるであろう」と、自分の考えを率直に披瀝した。  質素な昼食は終り、連合軍側もイタリア側もそれぞれ休憩所に引き揚げた。間もなくスミスがカステッラーノの許を訪れ、降下作戦の展開は可能だと思うので、さらに具体的に検討・研究を進めたいといって来た。実は連合軍側にも当時、降下部隊作戦の計画はあった。それが成功すれば、イタリア本土作戦は決定的なポイントを稼ぐとの見方があった。しかし、降下地点等の現地状勢がつかめず、不確定であったため、ゴー・サインは出されていなかった。そこヘカステッラーノから、同様の作戦計画が提起されたわけである。カステッラーノとスミスという敵同士の将軍が、はからずも同じ作戦を考えたのであった。  すでに午後四時近くになっていた。カステッラーノらイタリア側はザヌッシを含め、カッシービレを発ち、テルミニ・イメレーゼからローマ郊外チェントチェッレに向い、夜七時頃に無事着いた。飛行場の兵士には、「我々はサルデーニャから帰った」とだけいっておいた。  カステッラーノはザヌッシらと、休戦に関しては一切口外しないと約束したが、その際ザヌッシは、「受諾しかないだろうナ」と口にした。カステッラーノはすべてをバドリオに報告、裁断を仰ぐしかないと腹に決めていた。  参謀本部に直行したカステッラーノは、全容をアンブロージオに報告、バドリオに説明しようとしたが、バドリオの都合でどうしても会えず、翌九月一日朝ということになった。イタリアにとって本件以上の緊急課題はなかったはずである。ここでもあたら半日の空費を招いたのである。  一方、スミス以下連合軍高級参謀は、チュニスにいるアイクの許に直行、報告を行なうとともに作戦分析会議を開いた(注4)。スミスが強調した点は、「イタリアとしては、もしローマが連合軍により守られるとの保証がない限り、休戦に調印はしないかも知れない」とのカステッラーノから受けた感触であった。そのための作戦として、かねて検討中の第八十二降下師団の主力をローマ近郊に降下させ、サレルノ上陸と同時に機甲師団をテヴェレ河口に派遣するのが最善の策だと考える旨を説明した。  同席したアメリカのマーク・クラーク大将は、これに反対した。クラークはサレルノ上陸の指揮官に任命されており、その指揮下の第八十二降下師団はナポリ北方約三十キロのヴォルトゥルノ川周辺に降下させ、ドイツ軍の攻撃から上陸連合軍主力を援護する予定となっていた。この作戦計画は、すでに「ジャイアント1(GIANT 1)」と命名されていた。  これに対しスミスは、降下師団の一部をローマ周辺に降下させれば、イタリア側を満足させるだけでなく、ドイツ軍を二分し、ドイツ軍撤退の公算が大きいと主張した。  結局、論議ははてしなく、結論は両案をルーズベルト、チャーチルにまで上げて判断を仰ぐことになり、その結果、スミス案が承認され、これは「ジャイアント2(GIANT 2)」と名称が決った。  連合軍首脳がそうした決定を下した九月一日午前、ローマではバドリオ首相主宰のもとにアンブロージオ、グアリーリア、アックワローネ、カルボーニ、それにカステッラーノが参集、市内某所で極秘の会合が開かれていた。会議ではカステッラーノによる連合軍首脳との討議内容の報告が行なわれた。カステッラーノの判断も求められた。彼は概略次のような見解を述べた(注5)。  一、イタリア側の期待通りに、今後の事態が動くかどうかは確言できない。我が方が休戦を受諾した場合、先方は早くそれを宣言することを望んでいる  一、上陸地点はローマ以北ではないと見る  一、先方はローマ防衛のイタリア兵力を増強しておくよう望んでいる  一、先方はローマ周辺にアメリカ降下師団一個師、機甲師団一個師、および空軍による援助を示唆した  バドリオはじっと耳を傾け、ひと言も自分の意見は述べなかったが、まずアンブロージオに向って尋ねた。 「参謀総長はどう思うか?」  アンブロージオは答えた。 「課せられた条件を受け入れる以外、道はないと思う。その方向で次の対策を講じては」  それに対し、カルボーニが反対を唱えた。 「私は受け入れられない。理由は連合軍の支援なるものを信じ切れないからである。ローマ防衛機甲司令官として、私は燃料・弾薬不足でドイツ軍と長時間戦闘は出来ないことが分っている」  外務大臣グアリーリアは、アンブロージオに同意して、「休戦を承諾せざるを得まい」と述べた。これにもカルボーニが食ってかかり、「連合軍のいうことを信じてはならない。イタリア軍を動けないようにするためのトリックではないか。私が防衛司令官であるから、私の判断を尊重して欲しい」と、強い剣幕でまくしたてた。  突然、宮内大臣アックワローネが、結論を引き出すような発言を行なった。 「国王はドイツ軍に捕えられるようなことは望んではいない。またあってはならないことである」  そこで休戦受諾の方向はほぼ決った。軍諜報機関によると、この頃、ドイツ軍は国王の逮捕と、ムッソリーニの救出を目下の急務としているとのことであった。イタリア、そしてローマは危機に瀕していた。しかし、連合軍の課した条件での休戦で、国王がドイツ軍に捕まらないという保証は何もなかった。にも拘らず、この会議で「休戦受諾」が、大勢を占めてしまったのである。バドリオは国王と会見、国王はついに「休戦」を決意した。イタリアの方向は決った。  戦後、公表されたところでは、実は、その時までにすでに国王は、ローマ脱出を決意していた。それ以外に、自分とイタリアを救う道はないとの判断からであった。国王はその頃、急遽、王室財産とクイリナーレ宮の美術品などをスイスに輸送中であった。封印された四十台以上の屋根付貨車に収められたそれら財宝は、シンプロン峠を通過して、ジュネーブに向っていた。  ところがたまたま、そのうちの一台の封印が駅員の手違いで、国境のイタリア側駅ドモドッソラで開封されてしまったのである。中味は絵画、彫刻、花瓶、亜麻布、陶器、銀器類であった。九月二日のことである。国王はこうして財宝の国外搬出とともに、自分と王室一族の脱出計画も極秘裏に進めていたのであった。 注1 マーフィ ROBERT MURPHY。外交官。戦後は国務次官。マクミランHAROLD MACMILLAN。外交官。戦後、保守党党首で首相。 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 141 注3 同右 P. 142 注4 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 310 注5 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 147 アイクと初めて対面  国王が「休戦受諾」を決意したあとの午後五時過ぎ、アンブロージオはバドリオから、以下の電報を連合軍側に至急発信するよう指示を受けた(注1)。 「イタリア政府より連合軍へ。イタリアの回答は肯定的である。九月二日、正式に発信する」 “イタリアの回答は肯定的である”は、文字通りの直訳である。さらに“九月二日、正式に発信する”など、この期に及んでも、何とバドリオらしいまだるっこしい表現であることか。  カステッラーノは、アンブロージオの指示を受け、政府が連合軍側の条件をのむ意向を示すものと見て、連合軍と直結する無電機に向った。それを操作しながら、万感胸に迫るものがあった。いよいよ馬鹿な戦争は終る! という喜びが体中に横溢したが、反面、どうしてこんな戦争を始めたのだ! という怒り、どうして食い止められなかったのか! という無念さ、さらにまたどうしてもっと早く休戦への手を打てなかったのか! という自分に対してのいらだたしさが、複雑に交錯した。  発信後、カステッラーノは軍首脳にアンブロージオ邸に参集してもらい、完全オフレコで極く最近の情報として戦況説明を行なった。連合軍の本土上陸は切迫しており、休戦の件もさることながら、戦局の大転換期におけるイタリア軍の対応に焦点を当てての報告であった。要旨は次の四点であった(注2)。  一、連合軍は近く、在イタリア・ドイツ軍の兵力に相当する兵力で、いずれかの地点に上陸を敢行してくるであろう。我が軍はその際、一応応戦の構えだけはとるものとする  二、上陸時期は明確ではないが、一ないし二週間後となろう。ローマ以南であることは確かである。上陸全兵力は、知る限りでは十五個師を上回ることはないであろう  三、連合軍主力の上陸と同時に、アメリカ降下部隊も降下を開始、ローマ防衛イタリア軍に協力のため軍事行動をとる  四、休戦宣言は、連合軍の最重要主力上陸作戦開始六時間前に、連合軍側から発表されよう。その直後にイタリア政府首班はラジオを通じ、それに応じた発表を行なうことになろう  以上の点について、不思議なことに集った軍首脳達は特に何の疑問も表明しなかった。またバドリオは国王の休戦受諾を受けて、「肯定的」と連合軍に予告したほか、新事態への対応につきアンブロージオ以外に何の指示も与えなかった。したがって軍首脳と外務大臣のほか、国民はもちろん政府閣僚さえも国がいったいどうなろうとしているのか、一切知るよしもなかった。  その晩から二日早暁までの間に、スミスから二通の電報が届いた。最初の一通は「カステッラーノが二日にシチリアに来るように」との内容であり、二通目は「降下作戦は対戦車部隊の上陸との関連で具体化しつつある。降下部隊着陸の飛行場(複数)を指示されたし」とあった。  カステッラーノは二日朝七時十五分、ローマ東郊三十キロのグイドニア飛行場からドイツ軍機をはぐらかしつつ、ジグザグ・コースをとって出発した。通訳モンタナーリ、副官ルイジ・マルケージ少佐が随行、ヴァッサッロ空軍少佐がS79型機を操縦した。途中ドイツ機も飛行していたため、サルデーニャに方向をとり、そこから一路南下した。イギリス空軍機二機がシチリア近くで護衛に就いた。  前回同様、テルミニ・イメレーゼで飛行機を換えるため小休止。そこにスミスも来ていた。彼はモンタナーリに興奮しながら話しかけていた。内容は深刻らしく、モンタナーリは蒼白な顔をしていた。  カッシービレ基地に着き、スミスと数歩離れた時、モンタナーリはカステッラーノに早口で耳打ちした。 「さっき、スミスは貴方が全権を付与されて来ているのかどうかを尋ねてきた。休戦に調印しなければならないからだといっていた」  カステッラーノは仰天した。すでにスミスとの協議で、イタリア政府の受諾は電報でよいということで双方の合意がなされていたからである。調印のことなど、ひと言も話し合われていなかった。恐らく連合国側諸政府が、早期調印を主張したため、スミスも前回の合意はさておき、調印のための全権かどうかを問題にして来たのであろうと、カステッラーノは直感した。真夏のシチリア。炎のような太陽が燃えていた。  参謀用天幕に入る前に、果してスミスは真剣な眼ざしで「全権」の件を聞いてきた。カステッラーノは答えた。 「我々は休戦受諾は電報でよいと了解している。権限については何もいわれて来なかった。調印の際にはそれ相当の全権団を政府は送ることになろう」  スミスは怒ったような困ったような表情であった。政府から急《せ》かされたであろうスミスの立場もカステッラーノには分ったが、全権ではないという事実は事実である。それにしても連合国側は、またしても軍と政府の思惑の違いを、露呈したことになる。  カステッラーノは、天幕が前回のとは異なり、最上級の代物であることに気付いた。そのうえ、連合軍参謀連はイタリア側と離れて一ヵ所にかたまっていた。やはり敵味方という緊張感をただよわせていた。その参謀の中の一人は「やはりイタリア側の陰謀ではないか? 彼らはスパイではなかろうか」と口走るのが、イタリア側の耳にも聞えた。  スミスがカステッラーノに近づき、「貴官が全権を持つ方法はないか」と尋ねて来た。 「一つの方法としては、貴官がイタリアに電報し、その旨を要求することだ」  これがカステッラーノの精一杯の答えであった。しばらくして、スミスは次の電報をアンブロージオ宛に発信したと、電文をカステッラーノに持って来て見せた(注3)。 「連合軍最高司令官は、イタリアがまず休戦条件を受諾すべきと考える。上陸は極めて近い。休戦受諾調印は緊急を要する。当最高司令官はフェラーリ(注・カステッラーノの暗号名)が、貴国政府による全権を与えられればそれを受け入れる。当最高司令官は同様の権限を与えられている旨を、(ヴァチカン駐在イギリス代表)オズボーンにも至急知らされたし」  正にイタリアにとって、歴史の転回点であった。カステッラーノ個人にとっても、運命に揺さぶられた時であった。それはまた、第二次大戦におけるイタリアの敗北を確定する瞬間でもあった。一九四三年九月二日は、こうしてイタリアにとってムッソリーニを逮捕した七月二十五日にも比すべき歴史的な日であったのである。  正午頃、突然天幕の外の銀灰色に輝くオリーブ林がざわめいたかと思うと、天幕内の連合軍参謀連が一斉に起立、敬礼をした。うながされてカステッラーノも不動の姿勢をとった。  入って来たのは、連合軍副司令官であるイギリス人のサー・ハロルド・アレクザンダーであった。イギリスの地中海方面海軍司令長官でもある。マクミラン、マーフィも後に従って来た。アレクザンダーは指揮棒を手にして、カステッラーノらに握手も挨拶もせずに、いきなり強い口調で話し出した。  モンタナーリは蒼ざめた顔でこれを聞いていた。通訳するのも胸が痛むという様子がありありと見えた。こういう内容であった(注4)。 「カステッラーノ准将が全権を持って来なかったことは分っている。これが貴国政府の交渉における奇妙な手口なのである」  続けて提督は、イタリア側を代表でなければスパイなのか? と言った。カステッラーノにとっては、耐え難い侮辱であり、それ以上にイタリアの名誉に関わる許し難い発言であった。しかし、耐えに耐えた。  しかもアレクザンダーはカステッラーノに終始、背を向けたままであった。それは戦勝国と敗戦国の間の論理であったかも知れないが、非情な場面であった。アメリカ人のスミスは気分が悪そうであった。彼は連合軍の中で、カステッラーノに初めて会った時に挙手の敬礼をした唯一人の高級軍人であった。「和平への新時代を開こう」と、リスボンでの初対面の日にカステッラーノと手を握った将軍でもあった。  昼食の時間となったため、スミスは「昼メシにしましょうか」と、イタリア側四人を別の天幕に案内し、野戦食をかこんだ。昼食が終ってから、早速スミスが一人で、イタリア側に用意された天幕にやってきて、カステッラーノに先刻のアレクザンダーの発言についての印象を尋ねるとともに、目下ローマ大空襲の準備が進んでいるともいった。「自分としては反対だが」とも述べた。 「カステッラーノに全権を付与さるべし」との発信に対し、それまでかなり時間がたっていたが、ローマからの返答はないままで、連合軍は再度それを打電して催促したとのことであった。  夕方五時頃、連合軍兵士が緊張した態度でイタリア側四人を呼びに来た。参謀用天幕に入ると、なんとそこには最高司令官アイゼンハワーがいた。アレクザンダー同様、カステッラーノらに握手も求めて来なかった。アイクは手で座るように指図すると、カステッラーノに向って言った。 「イタリア政府のとった決定は、イタリアを破滅から救う唯一の手段である。連合国はイタリアのその措置に報いるであろう。ただしばらくの間、イギリスとアメリカの世論はイタリアに対して、決して好意的ではあるまい。考えて欲しい。イタリアは三年間にわたって、我々と戦争をしてきた。そのため多くのイギリス兵やアメリカ兵が戦死しているのだ」  イタリアがすでに、連合軍側の条件に従ったものと、頭から決めてかかっている発言である。しかし、そのあとアイクは、休戦と休戦後のイタリアの連合軍への貢献いかんによっては、休戦条件を修正する全権を与えられているとも説明した。  そのうえ、もしイタリアが連合軍上陸とともに休戦を発表しなければ、一切は後日、外交面で処理され、過酷な条件による休戦が全連合国とイタリアの間で勝者と敗者の関係で取り決められるだろうとし、今日ただいまの機会を逃がしたら、イタリアがドイツとの戦争に加わることも出来なくなるであろうと敷衍《ふえん》した。  連合軍の最高方針として、ここで一挙にイタリア休戦に持ち込むための大芝居であることは、カステッラーノも十分に見抜いたものの、連合軍とイタリア双方にとって、いまが唯一最大のヤマ場であることは否定しようもなく、重大な関頭に立つ思いであった。  しかし、カステッラーノはアイクの顔をじっと眺め、その発言を聴きながら、昼前のイギリス人アレクザンダーも、このアメリカ人アイクやスミスも同しアングロサクソンでありながら、気質の相違があることをあらためて痛感した。  これは重要な発見であった。特に彼にとっては、アイクがイタリア側を紳士的に扱おうとしていること、またイタリアに将来への希望を持たせるような「条件の修正」という発言をしていることに注目した(注5)。  カステッラーノはこの時から、アイクに一種の尊敬の念を抱いた。わずか数分の対面でしかなかったが、アイクの去り際にカステッラーノは謝意を表するとともに、連合軍がイタリアとの取り決めにさらに考慮を払ってくれることを信ずると告げた。イタリア側四人は、再びオリーブ林に出て、特設の天幕に案内され、そこで一夜を過すよう言われた。夜食後にはスミスがわざわざ「グッド・ナイト」を言いに来た。  しかし、肝心のカステッラーノへの全権付与については、その時になってもローマから何の返電も来なかった。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 149 注2 同右 P. 150 注3 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 314 注4 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 154 注5 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 314 第九章 悲願の休戦に署名 再度オリーブ林の敵陣営に  翌三日になっても、連合軍要求のカステッラーノヘの「全権委任」に関する返電は、ローマから入らなかった。昼食後、スミスがカステッラーノに連合軍のローマ降下作戦会議に出席するよう求めてきた。カステッラーノは、スミスが他の連合軍参謀連よりも自分を信じていてくれることが分って、嬉しく思ったに違いない。会議ではカステッラーノは“重要参考人”であった。  会議のさなか、午後二時ごろローマから次のような入電があった。 「イタリア参謀本部より。休戦条件を受諾することを確認する。バドリオ元帥」  これはまた、何たる電報であることか! すでに“イタリアは肯定的”である旨を九月一日に打電している。しかもそれを打電したカステッラーノ自身、シチリアの連合軍司令部にすでに来ている。この「休戦受諾」電報は一つの証拠とはなっても、署名が終らなければ、国際法上から意味はないのではないか。  そのうえ、いま連合軍がローマに要求しているのは、カステッラーノに全権を付与することである。そうしたことは、イタリア政府も十分承知しているはずであったが、事態の的確な掌握がままならぬローマの政府首脳は、狼狽の極にあった証左でもあった。  事実、その三日午前中、ローマでは首相バドリオ主宰の下に、外務大臣、戦争大臣、三軍司令官を召集して会議中であった。バドリオは「国王は時局の重要性に鑑《かんが》み、連合国との休戦を交渉することに決した」旨を伝え、それによって生ずる事態へ対応すべき準備をするよう口頭で命じた。その三日午前、連合軍は休戦署名を待機している段階であった。このようにイタリアが手間取っていたため、すべてチグハグに動いていた。  イタリアにとって幸いなことに、その時点でのカステッラーノの動きは、ドイツ側には全く察知されていなかった。もちろんローマ駐留ナチ親衛隊などは、イタリアの連合国との単独講和を厳重警戒してはいた。だからこそ、イタリア全土をほぼ占領する態勢に入っていた。このため、重要戦略拠点の奪い合いさえ、ローマやミラノをはじめとする大都市でイタリア軍との間で公然と演ぜられていた。  三日午後カッシービレの連合軍将校用天幕の中で行なわれたローマ降下作戦会議では、カステッラーノは数日前までローマにいて熟知していた限りの現況をもとに、自分なりの作戦構想を語り、それは採用されることに決った。イタリア攻略のための作戦が、イタリア軍参謀の手によって練られようとしているなど近代戦史上、前代未聞のことである。  午後五時頃、いつもは尊大とカステッラーノが見ていたイギリス軍連絡将校ディーン大尉が、天幕にカステッラーノを訪れ、珍しく敬礼をした後、一通の電文を手交した。カステッラーノの目に飛び込んできた活字の一字一字は今度は完璧なもので、次のように書かれていた(注1)。 「我が前電は取り消す。カステッラーノ将軍がイタリア政府の全権として、休戦条件の受諾に署名する。オズボーンにも本日中に連絡。バドリオ元帥」  スミスが駆けつけて来た。カステッラーノの手を無言のまま、強く握りしめた。そのまま、スミスはカステッラーノと他のイタリア側三人を、やや離れた深いオリーブ林の中の大天幕の中に案内した。真中に大きなテーブルが置かれ、フェルトのカバーがかけられていた。タバコの灰皿が二つあった。  カステッラーノが目を凝らして見ると、奥に連合軍最高司令官アイクが立っていた。スーツ姿ながら、カステッラーノは軍人として反射的にアイクに敬礼した。彼も答礼した。すべてが突然のことであった。天幕内にはアイクの回りに、スミス、ストロング、作戦部長ルックス、准将ディック、それに先刻のディーンらが打ち揃っていた。それに文官のマクミラン、マーフィらも一緒であった。この二人の外交官はワイシャツ姿のままであった。従軍記者やカメラマンも数人いた。周到に準備がなされていた。カステッラーノの署名する劇的な瞬間が訪れたのである。何の飾り気もない野戦での式場であった。  まずスミスがカステッラーノに文書——いわゆる短期休戦条項——を手渡した。それは関係者が何度となく読み返し、暗記しているほどの内容であった。カステッラーノはイタリア首相バドリオの代理として、文書の最後に署名した。次いでアイゼンハワーの代理としてスミスが署名した。儀式は淡々と、事務的に終った。一九四三年九月三日午後五時十五分であった。イタリア現代史に記録されるべき時間であった。  現場にいたアメリカ人従軍記者によると、その時の光景は次のようである(注2)。  ……カステッラーノ将軍は鼈甲《べつこう》縁の眼鏡をかけると、ブルーのダブルの背広の内ポケットから自分の万年筆を取り出した三枚綴りのタイプ印刷による文書を引き寄せ、各条項を眺め渡した。彼にとっては、すでに読みなれていた内容であった。  一瞬、黒いひとみが輝いた。そしてもの言いたげなジェスチャーをしながら前かがみになり、署名したのであった。  ……一方のスミス将軍はベージュ色の軍服である。髪の毛はぼさぼさであった。  列席者の誰かが、天幕の出入口から手を伸ばし、平和の象徴であるオリーブの小枝を折って手にかざした。  淡々たる表現ながら、感動的な描写である。  カステッラーノは後日、この瞬間を「全くあっけなく終った」と書き残している(注3)。調印が終ると、アイゼンハワーがカステッラーノに手を差し伸ばして言った。 「いまからは、貴官は我々に協力する同僚です」  天幕の外では、イオニア海を渡る夕風が、平和を象徴するオリーブの林をサラサラと乾いた音をたてて流れていた。  アイクとカステッラーノが握手をしたこの瞬間は、連合軍カメラマンによって撮影されており、今日も見ることが出来る。アイクが微笑しているのに対し、カステッラーノは緊張感をたたえながらも、安堵の面持をかくし切れずにいるのが印象的である。  他の連合軍高官も、次々とカステッラーノと握手する間、作戦部長ルックスはジョニー・ウォーカーの黒ラベルをあけ、全員がそれをラッパ飲みして回した。顔は皆、笑っていた。が、誰一人、口をきこうとはしなかった。戦争の勝敗を敵味方が認め合うという、余りにも厳粛で残酷な出来事であるからだ。共に軍人である。勝敗という軍人の負う宿命を噛みしめ、万感こみ上げていたのであろう。  カステッラーノは当然、複雑な心境にあったはずである。イタリアの敗北という悲しみ、その一方で愚かな「ムッソリーニの戦争」をやめた喜び。  カステッラーノらイタリア人は、自分達の天幕に戻った。誰も無言であった。無益な戦争が終るにしても、これからどうなるのか見当もつかない不安に、どっととりつかれてしまっていた。  カッシービレで休戦が調印された九月三日夕、ローマではバドリオ首相が着任したばかりの新ドイツ大使ルドルフ・ラーンを謁見していた。 「余はバドリオ元帥である。ヨーロッパで最も年配の三元帥の一人である。ドイツのマッケンゼン、フランスのペタン、そして余である。ドイツは余に関してある種の不信感を抱いているかも知れないが、余は誓ったことは守る。信じて欲しい」  しかし、その頃、ドイツはすでにイタリアの一部でイタリア軍の武装解除に着手していた。バドリオとラーン双方とも狐の化し合いのような名優の演技をしていたのであった。名優といえば国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世も、バドリオ以上の名演技を演じる。五日後、ラーンが国王に信任状を捧呈した時、国王は「バドリオ元帥の政府は決して屈服することはない。あくまでも貴国側に立って戦争を遂行する決意である」と告げ、戦後に明らかになった次のような名言も吐くのである(注4)。 「ITALIA E GERMANIA SONO UNITE PER LA VITA E PER LA MORTE!(イタリアとドイツは生きるも死ぬも一体である!)」  カステッラーノはその夕方、休戦に署名した旨ローマに打電した。イギリス人のあの非情と思えたアレクザンダー提督が間もなく、イタリア側の天幕を訪れて敬礼し、「一緒に夕食をしよう」と言って来た。前とは打って変った態度であった。野戦ながら、夕食のその席は賑やかで、連合軍将軍達はイタリア軍参謀の名誉のためにと、イタリアのブドウ酒を傾けた(注5)。  そのあと、アレクザンダーを囲んで、イタリア側の軍事協力についての討議が続いたが、冒頭この副司令官はケベックにおける連合国首脳会談の電報を見ながら、次のような発言をした。 「イタリアは長年、連合軍と戦争状態にあった。したがって休戦後に連合軍の一員となることは全くあり得ない。対ドイツ戦での我々とイタリアの軍事協力はドイツに対するイタリアのサボタージュの一種と見做されよう」(注6)  みるみる紅潮したカステッラーノは、アレクザンダーに食ってかかった。 「いや、提督ッ! 私はリスボンと、八月三十一日にここカッシービレではっきり聞いている。イタリアの対ドイツ戦への協力は、イタリア軍による連合国への最高の貢献であると」  アレクザンダーはこの発言に何の反論もしなかった。時計は夜十一時を回っていた。彼は黙って席を立っていった。休戦はしても、敵味方のしこりと不信の深さをのぞかせる一幕であった。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 157 注2 THE SATURDAY EVENING POST, 9月9日号, 1994 (DAVID BROWN) 注3 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 157 注4 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1625 注5 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 318 注6 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 158 共同作戦計画を練る  アレクザンダーが去ったあと、スミスがカステッラーノに小声で告げた。 「彼はいつもぶっきらぼうな言い方をするのだ。本質はいい人物なんだョ」  カステッラーノは敵陣であらためて、アメリカ人が愛想よく物分りが多いのに反し、イギリス人が厳格に形式にこだわることを認識し、連合軍との今後の折衝にはこの点に留意すべきだと学んだ。  アレクザンダーなしの会議を続けるに当り、スミスはカステッラーノに「長期休戦条項」という長文の文書を示した。モンタナーリと共に、その内容を逐一目を通した彼は、ひと目で極めて重要な内容であると悟り、スミスに尋ねた。 「これはいったい何か?」 「きょう貴官が署名した休戦条件の次の詳細な完成文」 「何ッ? 私はこれについては何も聴いていない。なぜ今になってそれを提示するのか? イタリア政府は受け入れていない!」  既述のように、カステッラーノが署名した文書は通常「短期休戦条項」と呼ばれ、それを詳細に敷衍し、明確に説明したのが、この「長期休戦条項」である。その九月末に、これはバドリオ元帥によりマルタで署名されることになるのだが、このカッシービレの野戦司令部におけるカステッラーノは、その時点ではこれにつき何も知らなかったのは当然であった。  まず連合軍側の思い違いがあった。第七章の「“無条件降伏”持って帰国」の中で述べたことが想起されよう。つまり、連絡不十分だったカステッラーノの身を案じたイタリア政府は、八月下旬にザヌッシをリスボンに派遣した。カステッラーノと入れ違いになったザヌッシに、イギリス外務省はケベック首脳会談の結果としての四十二項目の「長期休戦条項」を手交、イタリアの休戦受諾を早めようとした。しかし、連合軍側はスパイかも知れぬザヌッシにこれを渡してドイツ軍に洩れるのを恐れ、ザヌッシがこの条項をローマに発信する前に身柄を拘束して、文書は取り上げたままとなっていたのである。 「この文書はザヌッシ将軍がリスボンで見ているはず。イタリア政府も承知していると思う」と、スミス。 「いや、しかしザヌッシとここカッシービレで初めて会った時、彼はそれについて何も言わなかったし、私がローマにいる時でも、それの報告は全くなかった」と、カステッラーノ。  連合軍側とイタリア側ザヌッシの不手際も重なって、思わぬ齟齬《そご》を来たしていたわけである。  カステッラーノは、スミスから「長期休戦条項」を見せられて、その内容の苛酷さに激怒した。例えばイタリア軍の武装解除。武装解除したら、イタリア軍はドイツ軍と戦えないではないか!  こうしたイタリアの救国の論理と、連合軍側の戦勝の論理が激突してしまった。カステッラーノの対ドイツ戦への協力という主張に対し、スミスは理解を示したものの、長期休戦条項の内容がケベック首脳会談の取り決めを大幅に緩和していることを説明しながら、その声は怒鳴り声となっていた。  カステッラーノはこの際、イタリアの将来のために何を主張すべきかを考え、連合軍への協力こそ結果的に打開の道につながると判断し、涙をのんだ。  その夜は連合軍の本土上陸後の軍事作戦が主題であった(注1)。連合軍としてはイタリア戦線で速かに敵を制圧するためには、イタリア中心部への進出が最重要としていた。首都ローマ占領がそれである。カステッラーノからみれば、救国という観点からもそれは全く利害の一致するところであった。それはまたイタリア参謀総長アンブロージオの見解にも合致していた。  討議の主題の一つは連合軍の降下作戦に当って、ローマ郊外のどの飛行場が適当であるかであった。これについては九月二日付のローマの参謀本部からの電報で、チェントチェッレ、ウルベ、グイドニアの三飛行場を指定してきていた。  カステッラーノにすれば、これは非現実的であった。特に前二者は、カステッラーノがローマ出発直前までに知り得た限り、その対空砲火部隊はドイツ軍が主体となっていた。しかも前二者の飛行場周辺には、おびただしいドイツ軍兵力が散開していることも熟知していた。  このためカステッラーノは、これら飛行場への降下作戦は事実上不可能と、提案せざるを得なかった。ローマからの電報は、ただ飛行場の名前を並べただけで、作戦の困難さには何も触れていなかったのである。彼は、そのまま強行すれば、失敗の公算が強いし、連合軍とイタリア兵の無駄死にを懸念した。  こうした考慮に基づくカステッラーノの反論に、連合軍首脳は驚いた。カステッラーノは候補地として、フルバーラとグイドニアを挙げた。両飛行場ともイタリア対空部隊の配置範囲が大きかったし、ローマからさほど遠くなく、また海に近く、救援作戦にも好都合という判断からであった。しかもこれら飛行場周辺には、二個連隊のイタリア軍が配備されていることを、カステッラーノは知っていた。そのうえ、「トスカーナの狼」師団が、近くに配備される予定であることも、ローマ出発前に承知していたことであった。このカステッラーノの説明を、連合軍首脳は傾聴し、結論として賛成した。  次の問題は、連合軍降下部隊がティレニア海から北上、降下する際の誘導標識灯となった(注2)。空軍少佐の操縦士ヴァッサッロの説明では、実行は可能だが、準備に数日を要するとのことであった。これについて連合軍側は、速かに準備を了えるように要請するとともに、降下部隊が集結地点へ集合し、戦闘配置につくため、軍用トラック四百台を要求して来た。カステッラーノは、軍用の不足分は政府用や民間のバス転用も考えて、それは可能とふんだ。  連合軍側はさらに要求を出した。テヴェレ河口を数キロに渡り無人地帯にすること。これはドイツ軍に察知されるため、極めて困難だとカステッラーノは答えた。また海軍関係では連合軍占領の港湾にイタリア艦隊と商船隊を集結させ、後にマルタ、マッダレーナ、あるいはパレルモに統合させるが、非武装化し国旗は掲揚したままで双方は一致した。  ローマ周辺飛行場への降下師団とそれを救援するイタリア軍部隊の接触、およびそれら作戦指揮は誰がとるのか? を最後にカステッラーノが問題にした。連合軍参謀らはお互いにしばらく議論し合っていたが、イタリアのローマ防衛機甲司令官カルボーニの指揮下に降下部隊も入るということになった(注3)。これにはカステッラーノは仰天した。戦勝の軍が敗戦の軍の指揮を受けて共同作戦を実施する! 何という破天荒の計画! イタリアが晴れてドイツ軍を向うに回し、連合軍と戦闘態勢に入るだけでなく、イタリアの将軍が指揮をとることに決ったことに、カステッラーノは胸が一杯であった。「これでイタリアの運命は変えられる!」と確信した。  彼が「こんな戦争はやめてしまえ!」と、早期休戦の実現を望んだのも、ドイツ軍と戦うことを決意したのも、すべてイタリアを救うためであった。それだけを念願にこれまで行動してきた彼にとって、このローマ降下作戦とカルボーニ指揮という快挙は、周りに人がいなければ何度も飛び上って快哉を叫びたいほどであった。  カステッラーノはこの降下作戦を是非とも成功させるために、降下部隊の高級将校を事前にローマに潜入させ、カルボーニらと詳細な打合わせの必要性を提起した(注4)。しかし、スミスは検討するとしながらも、確答を保留した。  夜は明け始め、それまで黒々としたかたまりのオリーブ林もいまや灰緑色の葉が赤い朝日に彩られていた。  仮眠をとって、三時間後の午前八時に双方は再び会合、作戦協議と決定事項の確認点検を続けた。問題の降下作戦は連合軍(アメリカ軍)とイタリア軍の共同作戦と決定し、作戦の暗号名は「GIANT 2」と決めた。カルボーニと打ち合わせる高級将校派遣も、スミスはいずれ実行すると述べた。スミスはまたアイゼンハワー元帥が、カステッラーノを長とするイタリア三軍の高官からなる軍事使節団を、連合軍最高司令部に顧問格として常設したいと望んでいる旨を告げた(注5)。  朝食後、イタリア天幕にスミスが「今からアルジェに戻る」と挨拶に来た。  スミスはそのあとカステッラーノの腕を取り、天幕の外に連れ出した。モンタナーリもついてきた。 「貴官は今後について、色々と心配でしょう。よく分るのです。軍事機密は言えませんが、ただ一つだけ言いましょう。イタリア上陸は、二週間以内です」  こう言うとスミスは、カステッラーノの手を力強く握って去った。九月四日朝であった。スミスはこのように最後までカステッラーノを信頼していた。いつの間にか、他の連合軍高官も同じようになっていた。そのようなエピソードを一つ挙げておこう。あるイギリス軍情報将校が、「貴官の信任するイタリア軍将校で、我々と協力出来る将校がいたら名前を教えて欲しい」と、その日の午後カステッラーノに尋ねて来た。友人の一大佐を教えて、「彼は捕虜になり、確か今はアメリカに抑留中だ」と答えると、そのカステッラーノの友人は数日後に釈放され、連合軍占領下の南イタリアに移送されてきたのであった。  翌五日、副官でイタリア空軍のマルケージ少佐が連絡のためローマに帰任することになり、四日午後からカステッラーノはアンブロージオ宛の報告書作成に入った。核心部分は次の点であった。 「連合軍主力の上陸地点は、証拠は得られなかったが、日時は極めて信頼できるところでは、九月十日から十五日の間、多分十二日と思われる」(注6)  なぜカステッラーノがそのように判断したのか? 彼自身が戦後、各方面に説明したところによれば——。スミスが「上陸は二週間以内」と言ったのは九月四日である。もし最初の七日間のうちに行なわれるとすれば、「二週間以内」ではなく「一週間以内」と言ったはず。その「一週間以内」でないとすれば、つまり九月十二日以降である。とすれば十二日と設定して前後に数日を入れておけば、休戦公表の約束もあり、かつ準備の都合からも妥当と見たのである。しかしこれは大誤算だった。 注1 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 163 注2 同右 P. 167 注3 同右 P. 168 注4 同右 P. 168 注5 同右 P. 171 注6 同右 P. 172 休戦発表は十二日?  カステッラーノは、スミスの発言から類推して、連合軍の上陸X日は十二日とふんだのだが、それまでの経過からして、休戦発表も同じ十二日になるだろうと信じたのは当然であろう。  ローマのバドリオ政権は、それまでのカステッラーノのカッシービレ報告を必ずしも全面的に信頼はしていなかった。連合軍によるワナが何処かに何か隠されているのでは? との疑心を絶えず念頭に置いていたからである。ただ「上陸X日は十二日」との連絡には、いずれ来たるべきものと想定していたため、心理的スキを突かれた形で一応信用し、その日を目標に対応の準備に入った。  バドリオ自身、イタリアが連合軍に協力態勢をとることにより、イタリアの国体を維持し、将来に有利な展望を開くことが出来るのでは……との期待は、心の片隅に祈るような気持で息づいていた(注1)。  ローマの秋の夕暮れは遅い。街々は七時頃の日没のあと、火と燃えるような夕焼けに染まりきる。その一瞬から金色へと変り、そして薄紫色の暗さに移ろい、やがて漆黒の夜空に覆われる。一九四三年の九月、その夕景は、迫り来るイタリアの暗転、それに王室サヴォイア家の前途を占うかのようにつるべ落しであった。  九月四日。カッシービレのカステッラーノに連合軍の作戦計画要領が文書で提示された。二部から成り、第一部は連合軍側作戦の大要、第二部がそれに呼応したイタリア軍の協力作戦である。第二部にはカステッラーノの提案が具体的に採用されており、大いに面目をほどこした思いであった。  すでに八月十七日にシチリア作戦は完了し、九月三日には長靴型の先端カラーブリアにイギリス軍二個師団が上陸、イタリア本土作戦が開始されていた。その翌四日夜、アメリカ軍宣伝担当司令官がアルジェの最高司令部から二人の情報将校を伴って到着、カステッラーノを含めて会議を開いた。  この会議の目的は、休戦のラジオ発表に関する双方のスケジュールを、具体的に調整することにあった。まずその司令官が「GIANT 2」作戦の際、その情報将校二人を降下させるので便宜供与を依頼した。「それは有益であり、協力は十分出来る」と、カステッラーノは答えた。そのあと、本題の休戦宣言の段取りに入った。  カステッラーノの記録によると、連合軍側は次のように提示してきた(注2)。 「イギリスの対外向けBBC放送が某日午前十一時四十五分から《ジュゼッペ・ヴェルディの音楽》という三十分番組をイタリア語で流し、そのあとに《アルゼンチンにおけるナチ・ドイツの活動》という討論会をつづける。これが放送された日に連合軍主力の上陸が敢行される。これを合図にその日の夜、連合軍とイタリア政府は多少のズレはあっても同時に休戦をラジオで宣言する」  これに関し、連合軍側による記録は次のようになっている(注3)。 「連合軍の上陸を知らせる手段として、まず連合軍がイタリア側に知らせ、次いでBBC対外放送が午前十時から十二時半までの間に《ヴェルディの音楽》を三十分放送し、そのあとに《アルゼンチンにおけるナチ・ドイツの活動》を流した日が、連合軍上陸敢行日。したがってそれ以前にアイゼンハワーとバドリオの発表文が交換されていなければならない」  前者は「BBCが午前十一時四十五分から」で、後者は「午前十時から……」という食い違いをはじめ、重要なニュアンスの相違が幾つもある。どちらの記述が正確か不明であるが、後日この放送の有無が問題となる。  会議が終ったのは午前一時、すでに五日である。早朝、カステッラーノは、マルケージとヴァッサッロを連絡のため、予定通りローマに見送った。  両名は次の書類等を持ち帰った。カステッラーノ署名の休戦文書の写し、休戦公表に関するBBC放送予告、バドリオ首相宛スミス署名の付属文書、降下作戦へのイタリア軍協力の件、イタリア海軍及び商船隊の休戦出港方式、イタリア空軍への指示、対ドイツ・サボタージュに関する指示、情報活動に関する覚書などいずれも連合軍了解の英文である。  マルケージらがシチリアから去ったあと、カステッラーノはモンタナーリと二人きりになってしまった。連合軍キャンプにも将校の姿は減った。シチリア戦の後、前線はイタリア本土に展開されようとしていたからである。カステッラーノの天幕前には、数人の歩哨が常時、往来していた。カステッラーノらは事実上、連合軍の人質同然となっていた。  その日、五日の日曜日、カッシービレを早朝に発ったマルケージとヴァッサッロは、昼前にはローマ郊外チェントチェッレ飛行場に着いた。ローマ市内の参謀本部に直行、アンブロージオに一切を引き渡した。  アンブロージオはバドリオに「休戦は十二日発表になるもよう」とのカステッラーノ情報を再確認した。  一方、宮内大臣アックワローネから国王にも、十二日休戦という一点だけが伝達された。このため翌六日午前、ローマ防衛機甲司令官カルボーニら軍首脳が召集され、会議が開かれた。休戦発表の日が間近に迫っていること、その日からイタリア軍はドイツ軍相手の戦闘態勢に急変することが打ち合わされた。  アンブロージオはカステッラーノからの書類を報告したが、空軍司令官レナート・サンダッリはアメリカの降下作戦に協力態勢をととのえるには一週間かかると報告、また海軍のデクールタン提督は連合軍上陸に応戦のため、すでに潜水艦隊を総動員してしまっていると説明、会議は少からず混乱した。  ともかく「X日は十二日」ということで、命令系統をたて直し、そのうえ連合軍側作戦に対応する、イタリア側の協力態勢再編を急ぐほかはなかったのである。  この混乱気味の会議の最中、アルジェの連合軍最高司令部からイタリア参謀本部に一通の極秘電報が入った。 「九月七日か八日の夜間、連合軍のマクスウェル・D・テイラー将軍とウィリアム・T・ガーディナー大佐の二人が、小型艇でガエタに到着する。ローマヘの受け入れ方、宜しく。両名はGIANT 2作戦に関し、最高司令部の全権を持つものである」  カステッラーノがスミスに提案した首都ローマに交戦国の敵の将軍らを極秘裏に迎え入れるという前代未聞の事態が差し迫ったのである。  国民やローマ市民の多くは、連合軍がシチリアからカラーブリアにまで進撃してきたという危機感を抱いたものの、あと幾日かで政府は連合国との戦争をやめるだろうとの期待感に支えられて、ふてぶてしく生活していた。戦後に備えた政治家も動き出していたし、新しい政党結成の準備に入っていたものもいた。  そうした空気のローマで、政府だけが右往左往していた。参謀本部はしかし、その極秘電報の文面から時間的にも「X日は十二日」を裏付けるものとみて、早速テイラーらの受け入れ準備にとりかかった。 注1 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1653 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 177 注3 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 323 第一〇章 カステッラーノの悲涙 アメリカ軍密使ローマ潜入  アメリカ軍降下師団副司令官テイラー准将、同ガーディナー大佐のローマ潜入は、まさに手に汗にぎる劇的事件であった。アメリカでも大戦秘史の一つである。この計画をカステッラーノから提示されたスミスは、降下師団司令官マシュー・リッジウェイ少将に進言、リッジウェイは作戦を成功させるため、二人を潜行させて、イタリア側と協議させるべく、ローマに隠密派遣を決定した。アイゼンハワーは出発直前まで、「余りにも危険過ぎる」と、この派遣をしぶったが、最後に折れて、承認したいわく付きのものであった。  二人は九月七日未明、パレルモから連合軍の哨戒魚雷艇「ドゥフィット」に搭乗して北上する。テイラーは降下師団の戦闘服、ガーディナーは正規の軍服を着てそれぞれ自動小銃とコルト45を装備していた。特にガーディナーはローマで降下部隊を誘導するための小型無線機器をも携行していた。  これで分ることは、二人の派遣は単なる事前調査ではなく、先遣隊としての特別任務であった。ローマで情勢を掌握し、降下部隊を成功裏に誘導することであった。つまりローマ潜入後は、そのままローマに留まることを意味していた。それは同時に、連合軍の上陸作戦が八、九日あたりと極く緊迫している証拠でもあったが、イタリア側はそこまでは読めずにいた。「X日は十二日」にこだわっての大いなる誤算であった。  テイラーらは事前にイタリア参謀本部と打ち合わせておいたイタリア海軍快速艇に途中で移乗、ナポリとローマの中間点ガエタ漁港に到着、そこでイタリアの赤十字車に移されて一路ローマヘ向った。これら一連の準備と指揮は、約一ヵ月前にムッソリーニをポンツァ島に移送した海軍情報部長フランコ・マウジェリ少将が当った。  夕方、ローマに通ずる旧街道に入った。ローマのはるか南テラチーナ地方に、延々と松並木の続く街道である。その松並木の蔭には警備兵の駐屯所が幾つもあった。「停止!」を命じられるたびに、制服のマウジェリ少将がわざわざ顔を出して、無事通過した。赤十字車の中のアメリカ人二人は、両手で髪をかきむしってボサボサにし、軍服も乱して捕虜らしく装っていた。万一、警備兵やドイツ軍に尋問された時には、イタリア海軍から護送される連合軍将校の捕虜という名目を、マウジェリと打ち合わせておいたからである。  暗い灯火管制下に、漆黒のパラティーノの遺跡群が浮ぶあたりを過ぎてローマ中心街に入り、ヴェンティセッテンブレ通りの陸軍司令部に入ったのは、午後九時少し前であった。二人は佐官クラスの若手将校に出迎えられ、二階の古めかしい家具の備わった広間に案内された。マウジェリ少将がずっと先導した。 「サンドウィッチでもあれば所望したい」  テイラーの要求に、イタリア側将校は「それではあんまり」と、近くの世界的に有名なグランド・ホテルの料理人に予約して作らせた夕食を供した。ブドウ酒が注がれ、コンソメ、仔牛のソテー、野菜サラダなどであった。担当のサルヴィ大佐からすれば、イタリア式もてなし方としては当然のメニューであった。  そして次のような短いが、重要な会話があった。  サルヴィ「ブドウ酒をもう少し召し上りますか? 会談は明日からになっております」  テイラー「えッ? ブドウ酒などいらない。話は明日だって? 休戦発表は差し迫っている。すぐ司令官と話し合いたい」  このやりとりには、事態認識の両軍の大きなへだたりが歴然と表現されている。  テイラーはローマ周辺飛行場への降下作戦実行のため、現場検証とイタリア側との作戦確認のために訪れたと告げた。ところがイタリア軍参謀総長アンブロージオは何と、郷里のトリノに行っていて不在であった。この重大な時に、参謀総長とあろうものが首都をあけるとは何としたことか。  だがアンブロージオとしては、予告された相手が降下師団の副司令官という地位に、必ずしも自分が出る幕ではないと考えていたと後日、語っている。このため参謀次長フランチェスコ・ロッシが相手をすることになっていた。会談は八日からと決めてかかっていた。そこでシチリアから帰ったばかりのマルケージ少佐も、「きょうはもう遅い。飛行場は確保してある」と説得した。しかし、テイラーは、「ならばそれら飛行場をいまから視察しに行く」と要求、マルケージは「いまごろ動き回ると、かえってドイツ軍に疑われる」と、応答するのが精一杯であった。  そこでテイラーは言った。 「なにをいっている! 降下はもう決っている。明日なのだ!」  これにはマルケージが驚いた。 「そんなッ! 合意では主力が上陸と同時のはず!」 「その通り。明八日がその日なのだ!」  マルケージは仰天した。国王以下首相はじめ参謀総長にいたるまで、十二日がそのX日だと思い込んでいた。カステッラーノ報告を信じ込んでいたためである(では、カステッラーノはスミスに騙されたことになるのか? この疑問符は長い間、カステッラーノの頭につきまとうことになる)。マルケージの呼集で陸軍司令部に馳せつけたのは、ローマ防衛機甲司令官カルボーニであった。夜十時十五分ごろであった。  次いで現われた参謀次長ロッシは、休戦そのものに反対し、自ら進んで関与したくはないと思っている人物であった。そのためアンブロージオにローマ帰任を至急連絡したにとどまった。陸軍参謀長ロアッタも、降下師団は一個師で、かつ主力上陸地点がローマ南方らしいと知って、失望状態にあった。したがって会談に加わって責任をとりたくもなかった。  カルボーニは陸軍司令部に姿を見せるまでのその夜、ローマの反ファシストと接触、小銃五百丁、ピストル百丁、それらの弾薬および一万五千発の手投弾などを手渡していた。これら反ファシストの中には、戦後、首相、大統領をつとめたジョヴァンニ・グロンキ(キリスト教民主党)や共産党書記長となったルイジ・ロンゴらもいた。  そのカルボーニは、テイラーの降下部隊着陸の飛行場(フルバーラ、グイドニア)の現場確認要求に対し、「それは不可能。すべてドイツ軍が押え、対空砲火陣地もドイツ軍が握ってしまっているから」と応答した。テイラーは、その答えに唖然とした。カステッラーノやザヌッシから得た情報では、そんなはずでは絶対なかった。  カルボーニはそれについて、詳細かつ具体的な説明を加えた。ドイツ軍降下部隊が最近ローマ近郊に一万二千増強され、第三パンツァー擲弾兵部隊が戦車二百台、砲門百台を保有、兵力も合計三万四千以上が駐屯しているというものであった。またローマのイタリア軍は、弾薬・燃料不足でドイツ軍とはせいぜい数時間の交戦しか出来ず、連合軍への協力はアテにされない方がよいとまで述べたのである。  カルボーニは結論として、現状では連合軍降下部隊が到着すれば、それは直ちにドイツ軍によるローマの完全占領につながり、イタリア軍も連合軍も大損害を蒙るということを言いたかったのである。したがって、ローマ防衛のために、新たな計画を立てるため、休戦発表を数日延期して欲しいと要望した(注1)。  この説明は、実情に即したものではなかったことが戦後、明らかとなるのであるが、この説明を受けたテイラーは、イタリア軍首脳部の意志不統一にあきれ、降下作戦の成否に大きな疑問を抱き、実施か中止かの決断を下す必要を感じた。しかし、そのためにはイタリア首班バドリオの意向を打診してみることが不可欠だと考えた。  カルボーニの説明は延々二時間近くに及んでいたため、時刻はすでに八日未明になっていた。シチリアではリッジウェイ指揮の下に、間もなく降下部隊発進準備開始の時刻が近づいていることをテイラーは知っていた。テイラーは「いますぐバドリオ元帥に会いたい!」と、カルボーニに要求した。 「いや、それはまずい。首相はすでに就寝中である」  そう答えたものの、カルボーニは休戦発表の延期を是非、バドリオからテイラーに直接要請させるため、直ぐさまパナマ街のバドリオの私邸にテイラーらを伴った。陸軍司令部のあるヴェンティセッテンブレ通りからは、市内の幹線道路でもあり、しかも夜間とあって六、七分で着いた。  元帥の甥の副官ヴァレンツァーノ陸軍中佐の取り次ぎで、二階の書斎に招じ入れられた。カルボーニがバドリオの寝室に入り、二人だけでしばらく話した。豪華なじゅうたんが敷きつめられ、絵画や彫像なども飾られた広い応接間で、テイラーとガーディナーは十五分も待たされた。  着替えをしたバドリオがやっと広間に現われた。テーブルに着くようすすめると、真先きに降下作戦の中止と休戦発表の延期を要請した。カルボーニが司令部で述べたことと全く同じ内容であった。カルボーニがバドリオにこのように話すよう説明したからにほかならなかった。バドリオはイタリアの地図を示しながら話を続けた。 「ドイツ軍はローマ南方の自然の地形を利用して堅固な防衛線を構築している。したがって連合軍は、ローマ以南に上陸すれば、ローマヘの道は遠くなるであろう。しかも休戦が調印されていることを知れば、ドイツ軍が一層増強化されることは疑いない。そうした最新の事情をカステッラーノは分っていない。もし休戦が公表されたら、ドイツは直ちにローマを占領し、再びファシスト政権を樹立することは明白である」  このあと、テイラーとバドリオの論戦が展開する。バドリオ邸でのこの時間は、イタリアにとっても連合軍にとっても緊迫した瞬間であった。双方のやりとりの中には次のような応酬の一齣もあった(注2)。  テイラー「閣下らは我々よりもドイツ軍を恐れるのですか? もし休戦を発表しないならば、連合軍としてはさらにローマを爆撃し、破壊するだけということを御存知ないのか?」  バドリオ「ローマ爆撃が貴方がたのためになるというのですか? それよりもどうしてドイツの補給路であるローマ北部の鉄道や幹線道路を爆撃しないのです?」  こうした会話には、何とかして連合軍をローマ北方に上陸させなければ……とのバドリオの願いと気迫が、一方テイラーはここでどうしても休戦発表をイタリア側に踏み切らせる脅しにも似た苛烈な態度が火花を散らしたことをありありとうかがわせている。  最後にテイラーは、駄目押しとも見られる言葉を発した。まるでそれは銃口をバドリオの胸につきつけたと同じ効果を持つ言葉であった。 「では、イタリア首相として、すでに調印されている休戦にどのような責任をお持ちになるのか?」 「実はその発表を延期して欲しいのだ」  そう答えたバドリオ元帥の目には、涙がにじんでいた。そのまま、さらにテイラーに告げた。 「貴官は立派である。しかし明日、貴官の座るその椅子にはドイツ軍首脳がいるであろう」  そういいながら、バドリオは自分の首が切られる仕草を右手で示した。「これがいまの現実である。このことを貴官は陣地に帰ったら、よく説明して欲しい」と締めくくった。そのうえカステッラーノがカッシービレで説明したことよりも、この現実を重視して欲しいとするバドリオの発言を覚書にするので、アイゼンハワーに伝達してもらいたいと告げた。激しい口調であった。  しかし、テイラーはそれを拒否した。それが交渉という性格を持つものだとすれば、会談は事実上の決裂であった。にもかかわらず、バドリオは強引にペンをとって、アイゼンハワー宛のメッセージ案文を記した(注3)。 「ローマ地区におけるドイツ軍の配備強化が進行し、情勢は急変した。即時休戦はドイツ軍によるローマ占領、およびドイツ軍による一切の管理を招くがために、即時休戦そのものの受諾は不可能である。テイラー将軍は当イタリア政府の見解を携行するため、シチリアに帰任する。次の指示を待たれたい」  テイラーは、これをすぐ連合軍最高司令部に発信し、合わせて自分の判断をアイゼンハワーに知らせることを考えた。別れ際、バドリオはテイラーに、今回の結論は裏切りでは全くなく、お互いに軍人としての名誉のためであることを強調した。  しかし、出先のシチリアにいるカステッラーノにとっては、少くとも裏切られた形で、甚しく面目を失うことになる。テイラーも完全に失望のうちにバドリオ邸を辞さなければならなかった。時に午前三時——。シチリアの各基地からは十一時間後に、降下部隊が発進する予定であった。 注1 C. F. DELZELL「MUSSOLINI'S ENEMY」P. 256 注2 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 354 注3 同右 P. 355 震撼する九月八日  バドリオ邸から急ぎ、ローマのイタリア参謀本部に駆けつけたテイラーとガーディナーは、直通の無線機でアルジェの連合軍最高司令部宛、キーをたたいた。 「予定のイタリア側休戦宣言は不可能。またG2作戦も不可能。飛行場確保成らずとバドリオが言明。ドイツ軍の存在、ガソリン、弾薬の欠乏も理由。バドリオは直接テイラーにイタリア政府の上記見解を述べた。訓令を待つ」  二人は眠るどころか、事態の進展を想って気が気でならなかった。もしG2作戦が中止されなかったら、降下部隊はドイツ軍の餌食になること必至ではないかと懸念した。このアメリカ軍人らは、イタリアの大きなワナにはまっているのでは……と感じ取っていた。第一に参謀総長が一度も顔を出さなかった。「作戦の総括責任者は現在ローマに不在」と知らされただけであった。代理の形で現況説明したカルボーニ将軍は降下作戦指揮どころか、作戦そのものを批判し通しだったのが第二。そして第三は、イタリア政府首班バドリオが休戦宣言の延期を強調し、かつカステッラーノの現状認識の不備をなじったこと。これらを重ね合わせると、イタリアの態度に疑惑が余りにも多すぎたのである。  テイラーとガーディナーは、あらためて自分達が人質にされたと感じ、二人の会話が盗聴されているのではないかと警戒、部屋の中では筆談に切りかえたほどであった。すでに、ローマの夜も明けはじめていた(注1)。  結局、二人はイタリアの陸軍司令部内で一睡もしなかった。  その間にイタリア側は、バドリオ自らが書いた「休戦宣言延期要請」の電報を、連合軍に暗号で打電していた。  しかし、その一九四三年九月八日という日は、イタリアにも連合軍にも複雑に錯綜する時を刻むことになる。去る七月二十五日のムッソリーニ逮捕の日と同様、イタリア現代史の中でも特筆すべき長く、そして目まぐるしい一日となるのであった。以下、イタリア、連合軍双方のデータに基づき、この日の朝から夜までの時々刻々の主な動きを再現してみる。  午前九時 ローマ。ドイツ大使ルドルフ・ラーンは大使館のテラスで次席のモールハウゼンと朝食をとっていた。ラーンは「昨夜、おかしな夢を見た。誰にも口外するなョ」と前置きして、その夢を話した。それは寝室に一人の男が侵入してきて、ラーンの首を絞めて殺そうとした。その途端に夢から覚めたというものであった(注2)。実はこの新任大使は九月三日、つまりカステッラーノがカッシービレで休戦に調印した日に、バドリオに着任の挨拶を行なっていた。ラーンはその時まで、イタリアが連合軍と単独休戦するのではないかという情報をベルリンから得ていた。バドリオはしかし、この時、「私を信じて欲しい」と要請していた。  ラーンにとっては、見え透いた大きなウソを聞かされたことになる。つまりラーンは「寝首をかかれる」危険を覚えていた。その潜在意識が悪夢となったのか。  午前十時 六日からローマをあけていた参謀総長アンブロージオは、トリノから帰任、情勢の急変に驚く。  午前十一時 カッシービレ。カステッラーノは連合軍のケニス・ストロング准将から呼び出しを受け「きょうが休戦発表のX日である」と知らされた(注3)。その日が間近いとは考えてはいたが、こんなに早いとは思いもよらず、動転する思いであった。さらにストロングは、カステッラーノを落胆のドン底に陥れるようなニュースを伝えた。「ローマから次の電報が入っている」と前置きして、それを読み上げた。 「変更要請事項。ローマ地区のドイツ軍配備強化が進行し、情勢は急転した。即時休戦受諾発表は不可能なり。首都は直ちにドイツ軍の占領するところとなろう。G2作戦は不可能。余は飛行場(複数)確保に十分な兵力を有せず。バドリオ」  次の電報もあった。 「テイラー将軍らはシチリアに戻る。当政府の意向を汲み、次の連絡を待たれたい。バドリオ」 カステッラーノはただただ唖然とするばかりであった。どうして最後の瞬間に、ローマは休戦の約束の撤回を要求して来たのか! と。憤慨したものの、足元がガラガラと音を立ててくずれる思いであったろう。  カステッラーノは「なぜ政府は調印を破るのか」と、ローマに電報を発した。その直後、ビゼルタのアイゼンハワーから呼び出しを受けた。カッシービレからビゼルタに運ばれる連合軍の機中で、エメラルド色のイオニア海を見下しながら、カステッラーノは最悪の事態の覚悟を決めた。  正午 ローマ。国王の別荘サヴォイア荘の執務室で、国王は信任状捧呈のドイツ新大使ラーンを接見「イタリアは決して降伏はしない。生死をドイツと共にすることを確約する旨、総統に伝えるように」と告げた。この別荘で一ヵ月半前、ムッソリーニは逮捕されている。  その時、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。ラーンは別荘を退出、大使公邸のヴォルコンスキー荘に戻った。途中、上空に連合軍爆撃機の編隊をその目で見た。南郊からはズシン、ズシンと爆撃音が地上をはってきた。  正午 ビゼルタ。カステッラーノが導かれた連合軍最高司令部内では、誰もが興奮していた。 将校らはカステッラーノに冷たい一瞥を投げるだけであった(注4)。  アイクの執務室にモンタナーリと共に入室を促され、大きなテーブルの前に立った。  正面にアイゼンハワー、右にアレクザンダーが座り、その囲りを三軍首脳が取り巻いていた。カステッラーノが敬礼をしても、誰も応えなかった。いきなりアイクが荒々しい口調で口を開いた。 「バドリオ元帥は次のような電報を送ってきた(ここで前述のカッシービレでストロングから聞かされている電文を読み上げた)。絶対、許容出来ない。今夜、休戦がバドリオにより宣言されなければ、我が方からすべてを放送する。イタリア政府と貴官らは全くふざけている!」  カステッラーノは反射的に発言した。 「閣下。イタリア政府も私も不信を責められるわけには参りません。バドリオ元帥がその電報を発したとすれば、そうせざるを得ないような異常事態がローマに起っていることを言わんとしていると思います。私はそれに関し、ローマに打電しています」 「承知しておる。貴官の電文も見ている。ただし、余も打電した。これを読むように」と、アイクはそのバドリオ宛電文をカステッラーノに手渡した。かなり長文の電文だが、要旨次のようであった。 〈第一部〉すでに調印済みの休戦受諾に関し、我が方は予定通りラジオ放送する。貴下およびイタリア軍が合意した協力が出来ないというのであれば、ここに到るまでの経緯一切を全世界に公表する。本日はX日である。貴下の決断を待つ。 〈第二部〉今朝受信の休戦発表延期の連絡は受諾しない。貴下の代表と余との間で、協定は調印済みである。イタリアの唯一の希望はこの協定遵守いかんにかかっている。貴下の要請による降下作戦については、一時的に中止する。貴下はローマの安全を保障できる十分な兵力を持っているはずである。余としては連合軍が速かに軍事行動をとれるよう、基本的なすべての情報を送るよう要請する。  テイラー将軍らは直ちにビゼルタに送還されたし。その到着日時および航路を事前に通知されたし。 〈第三部〉我が方の作戦計画は、貴下が善意をもって行なった説得に従って編成された。すでに準備はととのっている。貴国側の休戦協定不履行は、貴国に重大な結果と影響をもたらすことになろう。しかも将来、貴国がいかなる貢献をなそうとも、信頼の回復は不可能であり、その結果は、貴国政府と国家の崩壊につながるであろう。  カステッラーノは、極めてきついその内容にグッとこらえた。アイクは「これで終りである」と、カステッラーノを退出させた。イタリアに「イエスかノーか」を迫る一つの儀式でもあった。アイクは終始、激怒している表情を続けていた。カステッラーノらはそのまま、チュニスに置かれた。  正午すぎ ローマ。陸軍司令部では大爆音にテイラーとガーディナーが、窓から空を仰いだ。「降下作戦が始まったのか?」と一瞬、期待感と絶望感が交錯した。その時、イタリア軍将校が二人に「アメリカ機の空襲です」と報告してきた。  ドイツ軍司令部のあるカステッリ・ロマーニ地域が爆撃されていた。中心はフラスカーティである。空爆は一時間余り続き、住民一万一千人のうち、約六千人が瓦礫の下で死亡した。カステッラーノはかつてフラスカーティ周辺にドイツ軍司令部がある旨を連合軍に報告していた。  ジャーナリストのパオロ・モネッリによると、この八月から九月第一週にかけての連合軍の空爆により、イタリア全土は歴史上未曾有の破壊を受け、それまでのイタリアの全歴史における戦争、地震・災害などを合計した被害を蒙ったという。  こうしてイタリア、連合国、それに第二次大戦そのものは、運命の岐路を轟音とともに一歩一歩進んでいたのである。長い一日はさらにまだ続く。 注1 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 356 注2 同右 P. 359 注3 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 182 注4 同右 P. 184, 185 緊急御前会議で断  午後零時半 チュニス。アイクと会った後のカステッラーノはローマのバドリオ首相宛、連合軍司令部経由で次の悲痛な勧告にも等しい電報を発した(注1)。 「イタリアと連合軍の合意事項については是非とも遵守されんことを。さもなければ我々のイタリアは破局に直面することになろう。連合軍首脳は少くとも善意をもってイタリアに臨んでいる」  午後二時 シチリア。G2作戦中止がアイクから発せられた。シチリア上空にはすでに複数の飛行場から発進したC—47型輸送機が編隊を組みつつあり、後続の輸送機も続々、土煙りを巻き起して、プロペラを始動していた。間一髪のところで全機の進発は中止され、次々と各飛行場に降り立った。ギリギリのところで中止となったわけである。  午後三時 ローマ。ドイツ大使館は、大使ラーン署名の次の電文をベルリンの外務省に発信した(注2)。 「本使が謁見した国王ヴィットリオ・エマヌエーレは全般的軍事情勢を説明、特にわが東部戦線における戦意高揚を賞賛し、かつドイツ政府がバドリオ政権の善意と信頼を確信するよう希望し、相互信頼によって最後の勝利を獲得したいと述べた。国王はまた、イタリアは最後までドイツと共に戦争を継続する決意を新たにしていることを強調した」  午後三時 ローマ。テイラー、ガーディナーはローマの陸軍司令部で昼前からずっと、イタリア軍高官らと、BBC放送に耳をそばだてていた。一方、参謀本部も終始BBC放送を傍受していた。前以て軍情報機関には電波妨害をしないよう警告していた。しかし、連合軍上陸の符号である「ヴェルディの音楽」など、結局は放送されなかった(注3)。(この点は戦後、イタリア内外で論議を呼んだ。第一三章に詳述)  三時をかなり過ぎてから、テイラーは連合軍最高司令部発信の「帰任されたし」の電報を受け取った。イタリア軍首脳はこの電報により、休戦発表はイタリア側要請により延期されたものとの確信を深めるに到った。このためイタリア側は、参謀次長ロッシと通訳としてタリアヴィア少尉両名をテイラーらに同行させることにし、午後五時過ぎ、チャンピーノ飛行場からさきにシチリア飛行の経験のあるヴァッサッロ少佐操縦のサヴォイア・マルケッティ型爆撃機で飛び立つ。  午後四時 イギリスのロイター通信が「FLASH」(至急報)を流した。内容は「イタリアが休戦に署名。ただいま発効!」の五語であった。数秒後、このニュースはカイロ、アンカラ放送などからも流された。二分過ぎにはそのロイター電が「このニュースは、アルジェの連合軍最高司令部も確認した」と追い打ちをかけた。ニュースは全世界を駆け回った(注4)。  午後四時過ぎ ローマ。ベルリンのリッベントロップ外相からラーン大使に直接、電話がかかって来た。ラーンはただ黙って聞いたあと「信じられない」とひと言、口にした。ロイター電のことであった。ラーンはすぐイタリア外務省に電話して確認をとった。その結果は「誤報だ」の一点張り。ラーンはそれを直ちにベルリンに伝えた。しかし、リッベントロップから再び「このニュースは確認されたと、ほかの通信・放送も伝えているゾッ」と怒鳴られた。  ラーンは陸軍参謀長ロアッタに電話してみた。返答は「厚顔無恥のイギリス人のばかげた宣伝ですョ」であった(注5)。  午後四時半 ローマ。アイクからバドリオ宛の一通の電報が参謀本部に入電した。「予定通り上陸し、同時に休戦を公表する」旨の予告電報であった! これがバドリオの手許に届くのは午後五時近くである。  午後五時四十五分 ローマ。イタリアの国営ステーファニ通信社もすでに、イタリア休戦のロイター電を傍受していた。同じく傍受したドイツ軍司令部もそれを大使館に連絡した。たまたまドイツ軍首脳はイタリア陸軍参謀長ロアッタと共同作戦協議を行なっていた。ドイツ側はロアッタに「本当か?」と尋ねた。ロアッタは陪席のザヌッシに「何か、それについて聞いているか?」と尋ねると、「いえ何も」との答えであった。自らもカステッラーノのあと、休戦の取り決めに参画したものの、完全にポーカーフェイスを決め込んでいた。ロアッタはそこで「休戦報道はやはりワナですョ。枢軸を切り裂くための全くのウソ八百ですョ」と断言した。  しかし、休戦成立とその発表は決しておかしくはない客観状況であった。このためロアッタは、ドイツ側が中座したスキに、イタリア軍情報機関に電話してみると、「その噂は公式なもの」との返事であった。  そこで彼は、ドイツ側が席に戻ると告げた。 「我々を貴官らが信用しないのは正しい。いま問い合わせたら、事実だそうだ。三十分前ここに来るまでは、我々はそれを知らなかった」  ドイツ人らは仰天した。その瞬間、ロアッタらは別れを告げて退去した。早足で歩きながらロアッタはザヌッシに、「ドイツ兵に殺されるかも……」と、フランス語で胸の内を口にした。ドイツ兵が車であとを追ってきたが、ロアッタらは、猛スピードで危うく追跡を振り切った(注6)。  午後六時 ローマ。バドリオの内奏に応じ、国王は宮内大臣アックワローネ公を通じ、緊急御前会議を召集した。アイクからの休戦公表通告電に伴うイタリアの対応策を諮《はか》るためである。呼び出しを受けたのは、バドリオ以下、参謀総長アンブロージオ、外務大臣グアリーリア、アックワローネ、戦争大臣ソリーチェ、空軍参謀長サンダッリ、海軍参謀長デクールタン、陸軍参謀長ロアッタがドイツ軍と作戦協議中のため副官のデステファニス、マルケージ両少佐、侍従武官長プントーニ、ローマ防衛機甲司令官カルボーニであった。ひと言でいうと、この会議は混乱、動揺、そして末期症状を露呈したものであった(注7)。以下、諸資料を総合して会議の進行をまとめてみる。  参内したグアリーリアは、王宮内で真先きに会ったバドリオに尋ねた。「何事なのです?」「すべて終ったのだ!」という答えがはね返った。遅れたデステファニスが六時四十五分に王宮に着くとすぐ国王執務室に全員の着席命令が下り、会議は始まった。 「諸君承知の通り、休戦公表は十二日のはずであったが、四日早く本日となった」と、国王は静かな調子で口火を切った。 「えッ? 今日?」と、デクールタンは驚いた。  国王は次いで「皆、それぞれの意見を述べよ」と言ったが、突然のことで驚きが先走り、誰も沈黙するばかりであった。首相バドリオも口を開かずにいた。  アンブロージオがそこで手短かに、あらためてカステッラーノ派遣に始まり、休戦合意と署名の経過を説明、連合軍情報では十二日ごろ上陸、休戦発表の予定だったと発言した。また沈黙が支配したので、アンブロージオはさらに続けた。 「ところが現実にはいま、連合軍は休戦を発表すると言って来ている。しかも現在、サレルノ方面に上陸軍が向っている様子だ。チヴィタヴェッキアにも上陸するらしい」  実際はチヴィタヴェッキアには向っていなかった。全くの希望的観測に過ぎなかった。  サンダッリ「現状は連合軍の恐喝に等しい。休戦発表は拒否しましょう」  カルボーニ「ならばこのまま様子を見守りつつ、休戦を拒否しようではありませんか」  ここで、ようやくバドリオが発言した。 「現状では二つの方法しかない。一つはカステッラーノが国王陛下の許可なく休戦協定に署名したとして、陛下が私を解任して署名そのものを否認する。もう一つは、アイクの条件を受諾する。これは完全降伏を意味する」  グアリーリア「拒否すべきです。そうしなければ、イタリアは破滅する」 「休戦発表を遅らせてはどうですか。拒否はせずに……」何も知らぬソリーチェはこうトンチンカンな発言を行なった。  カルボーニはこの発言に賛意を表したあと、カステッラーノを激しく攻撃すると共に、連合軍の態度を強硬に非難した。続けて考えをこらしながら、次のように提案した。 「国王陛下としては、休戦を認めることを拒否なされるのが最善と考えます。理由はすべてカステッラーノが行なった交渉だからです。必要とあれば、国王陛下はバドリオ元帥を解任し、カステッラーノに御自分の権限をまかせた覚えは全くないとして、無関係だとされてはいかがでしょうか。現在のところ、連合軍にはこう釈明してあと十日間の猶予を要求することは可能と存じますが……。そのうえでドイツ軍をなだめて時間を稼ぎ、時機を見て上陸して来た連合軍と一緒になってドイツ軍に攻撃を加え、掃討するという計画はいかがでしょうか」  あきれるほど自己本位で、かつ現状認識に欠けた提案である。カッシービレの空気を知っているマルケージは「どうしてこうも馬鹿げた提案をはずかしくなく主張出来るのだろうか。それにどうして誰もこれに反論が出来ないのか!」と、内心腹立たしく思っていた。  このカルボーニ提案に、何とグアリーリアまでも賛成して発言した。 「いまの提案こそ、なしうるギリギリのものと思われます。それこそ、単独ではドイツ軍と対決し得ないとするバドリオ元帥の面子《メンツ》も保てるというものです」  会議の結論らしきものが出てきたように見えた。誰もが再び沈黙しかけた。  その時、控の間からマルケージに一枚の伝言がもたらされた。  マルケージはカルボーニの顔を見つめながら、それを読み上げた。 「アルジェ放送がたった今、アイクの休戦を発表しました」  彼としては、カステッラーノを非難したカルボーニヘの面当《つらあ》ての気持と、いたたまれぬ怒りから、カルボーニに言って聞かせる形でこのメモを披露したのであった。それによって現実が、出席者が考えているほど甘いものではなく、もっと現実に即した対応を示すことになればという思いも込めていた。  しかし、カルボーニが、自説を再び主張したとき、マルケージは続きを読み上げた。 「これは連合軍からの最新の電文です。こう書いてあります。『イタリアが約束を破れば、これまでの経緯をすべて世界に公表する』と」  この言葉には、さすがの出席者一同の顔から、さっと血の気が引いていった。誰もがおし黙ったまま、たがいに顔を見合わせていた。イタリア政府の逃げ道は封ぜられた形となった。 「したがってこのままでは、どのような事態が起るか」と前置きして、マルケージは冷静に話し始めた。 「列席の皆様は、ドイツ軍がローマを爆撃することを恐れているかも知れませんが、それより先に連合軍がこれまで以上の規模で爆撃を加えてくるでしょう。イタリアが連合軍の指示に従わなかったら、連合軍の協力も失うにいたります。背信行為は許されません。連合軍は休戦協定の手続きに従って行動しています。テイラーも帰任に先立ち警告していたし、イタリアの将来のためにも、今こそ連合軍の要請通りに行動すべきと考えるものであります」  カステッラーノとともに、カッシービレでつぶさに連合軍の様子を見ていた彼は、話しながら、テーブルを拳でたたいていた。それほど熱のこもった弁舌であった。  ややあって外務大臣が口を開いた。 「軍部の交渉というものを認めるわけにはいかないが、かといって、すべてを否認してしまうことも確かに不合理であります」  グアリーリアはカルボーニ提案への賛意をひるがえしたのである。風は突然、向きを変えた。「何か意見は?」と国王が一同の顔を一人ひとり眺めた。  カルボーニが「私の意見をもう一度御検討を……」と言った時、国王は手をあげてさえぎり「やるべきことは明白だ!」とひと言、小声ながら決然と言うと立ち上った。断は下った! すべては終った。各自、退出したが、バドリオだけが国王に呼ばれ、休戦のラジオ発表を命じられたのである。  イタリアはすでに九月一日、国王とバドリオの間で、休戦を受諾する以外になしと決めていたはずである。しかし、この時にもカルボーニは優柔不断な態度を示していた。その彼は七日夜、テイラーらがローマ入りした際、自分の主張をテイラーに告げ、またバドリオを口説いて自説に賛成させてしまったいきさつがある。だが、首相でありながら確固たる定見のないバドリオにこのイタリアの末期的混乱の責任が帰されるべきであろう。  退出してきたバドリオはアンブロージオに「休戦を放送する。どこからしようか?」と尋ねた。アンブロージオはこうしたこともあろうかと、放送用の発電機を数日前にカルボーニに用意するよう命じていたが、カルボーニはそれをサボタージュしていた。「放送局に行くしかないでしょう」と、マルケージが叫んだ。 「君も一緒に行ってくれ」と、バドリオはマルケージに頼んだ。放送局に向う前に、バドリオは次の電報をヒットラーに発した(注7)。 「ファシスト政権崩壊後、イタリア政府は祖国防衛のため戦争を継続すると宣明してきたが、敵の猛攻の前に国土の一部を占拠され、また国土の多くを破壊されている。しかも今や、連合軍への抵抗能力もなくなった。イタリアはかかる情況において、全面的破壊を避けるため、休戦要求に応ぜざるを得ない。バドリオ」  そしてバドリオを乗せた車は、テヴェレ川にかかるリソルジメント橋を渡り、放送局に全速で向った。夜七時をかなり回っていた。イタリアは大転回を目の前にしていた。 注1 A. GIOVANNINI「8 SETTEMBRE 1943」P. 76 注2 同右 P. 76 注3 D. BARTOLI「L'ITALIA SI ARRENDE」P. 88 注4 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 372 注5 同右 P. 372 注6 同右 P. 373 注7 A. GIOVANNINI「8 SETTEMBRE 1943」P. 80 ヴィーヴァ・ラ・パーチェ!  午後六時半過ぎ アルジェ。連合軍最高司令部では八日午後六時半過ぎ、事前に収録しておいたアイクの「イタリア休戦発表」録音盤を電波にのせたが、うまく行かないというハプニングが起り、三度目にやっと正常に作動した。予定より遅れて、連合軍のイタリアに対する決定打となるこのアルジェ放送が、次のように世界に流れたのである。 「余は連合軍最高司令官ドワイト・D・アイゼンハワー将軍である。イタリア政府は無条件で降伏した。余は軍事休戦を認めた。それはアメリカ、イギリス、ソヴィエト各政府により承認されている。イタリア政府はその休戦条項により、留保なしにこれに従わなければならない。イタリアの国土からドイツ侵略者排除に貢献しようとするすべてのイタリア人は、連合国の援助と支持を与えられよう」  この放送を聞いたイタリア人は極く限られていた。政府・軍の連合国側情報傍受に当っている者と、短波放送を聞く地下活動を行なっているひと握りの政治家達であった。  ローマでは折しも、国王が召集した緊急首脳会議が空回りの論議を続けており、この放送が行なわれたことを知ってはじめて、国王の裁断で休戦受諾が決った。  バドリオが「休戦受諾」放送のため、放送局に向っているその時間、ドイツ大使ラーンはイタリア外務省に、最終公式確認のためグアリーリアを訪問していた。グアリーリアから「イタリアは連合軍と休戦に調印した」と告げられた大使は、顔を真赤に染めて怒りの言葉を浴びせた。 「この行為はまさに裏切りである!」  グアリーリアはすかさず答えた。 「裏切りとの言葉には断固、抗議する!」  激しい応酬が数分、続いた。  ラーン「我々はイタリア国民を非難はしない。しかしイタリアは名誉を裏切った。これはイタリアの歴史に重圧を加えよう。イタリア国王は本日、本使に対してイタリアはドイツと共に戦争を継続すると述べたばかりである」  憤激した大使は、そのまま退出、このやりとりをベルリンに打電した(注1)。  午後七時 アルジェ。連合軍司令部には緊張が高まっていた。バドリオがどう出るか? しかもその時刻、連合軍上陸部隊を輸送する艦船の大群が、ソレント半島手前のサレルノ湾に方向を向けて進んでいた。  午後七時半 ローマ。バドリオは放送局のスタジオに着席。マイクは国内放送と海外向け短波双方にセットされた。それまで全土に流行の「森の小径」というカンツォーネがジーノ・ベッキのやわらかな声で流れていたが、中断されると、バドリオがおもむろに声明文を読み上げた。イタリア文そのものは格調高く、意味深長な個所もあった。七時四十二分であった。 「イタリア政府は、圧倒的な敵兵力に対する劣勢の戦いを続けることが不可能であることを確認し、今後、国の重大な災害をこれ以上招かざるため、連合軍最高司令官アイゼンハワー元帥に休戦を申し入れた。この要請は受諾された。したがって連合軍に対する敵対行為は、あらゆる場所において、イタリア軍側からは中止される。ただし、それ以外からのいかなる攻撃も、反撃されることになろう」  この放送は、ムッソリーニ失脚を放送したあの人気アナウンサー、バッティスタが「ただ今から、バドリオ首相の重要発表があります」と、前置きしてから行なわれた。多くの人が聴いたはずである。終ったのは七時四十五分であった。最後の「それ以外からの……」の個所は、聴いた人も意味がのみ込めなかった。だが「戦争は終った」のだと、誰しもが受けとめた。  この最後の部分は、ドイツ軍が攻撃をかけて来たら、イタリア軍は応戦するとの意味であった。あの日のその段階では、こうした表現しか出来なかったのである。戦後、論議となったものだが、ともかくこの放送はその後、十五分おきに内外に流され、周知がはかられた。  午後七時四十五分 首都ローマはじめイタリア全土では、戦争は終ったという喜びの声が一挙に湧き上った。数日前から、カラーブリアのイタリア軍は、上陸して来たイギリス軍に戦意を示していないといううわさもローマに聞こえていた。それだけに、「やっぱり!」と戦争終結を実感としてとらえた。  街の家々からは時間がたつにつれ、明るい電灯の灯《ひ》が洩れ、開かれた窓に乗り出した人々は「VIVA LA PACE !《ヴイーヴア ラ パーチエ》(平和万歳!)」の声を張りあげていた。道行く人は「何かあったのですか?」と尋ね、「戦争は終ったッ!」の返事を聞くと、駆け出して行った。イタリア中どこにも見られた光景であった。  午後七時四十五分 チュニス。移送されていたカステッラーノは、いまかいまかと待ち望んでいたバドリオ元帥の休戦宣言を連合軍の受信する短波ラジオで聴いた。アイクの発表から一時間ほど過ぎていた。 「とうとう実現したか。よかった」  カステッラーノは、それ以外は言葉にならなかった。すぐさま、最高司令部に向うと、同司令部内の空気は一変していた。連合軍高官連も微笑をたたえて迎え、「イタリアからロッシ参謀次長が到着した」との知らせも受けた。ローマに行ったテイラー将軍に同行して来たのだという。  やがてそこヘテイラーとロッシが姿を見せた。 「テイラー将軍とたったいま、着いたところだ。我が方の休戦宣言がやむを得ず遅れる理由を説明するために来た」  カステッラーノはロッシに、その休戦はたったいましがたバドリオ元帥から放送された旨を伝えた。ロッシも思わず飛び上った。そのまま三人はアイクに招かれたが、アイクは「二時間前までは、お互いに敵味方であった」と言って微笑した(注2)。  午後七時五十分 ローマ防衛機甲司令官カルボーニは、指揮下の機械化師団に警戒態勢に入るよう命令した。ついで空軍参謀長サンダッリは空軍主力に即時ローマ入りを指令するとともに、ドイツ軍との衝突回避を命令した(注3)。カルボーニの命令はドイツ軍のローマ制圧の予防行動であり、サンダッリの指示もドイツ軍との無用の交戦を避け、挑発に乗らぬための措置であった。  午後八時 ローマ。在イタリア・ドイツ軍司令官ケッセルリンクは、イタリアの休戦確認と同時に支援軍の増強を、片や北イタリアに進駐していたロンメル元帥はケッセルリンク指揮下の中、南部のドイツ軍を北部に集結させるよう、それぞれ相反する請訓をヒットラー大本営に行なった。前者は七個師団、後者は八個師団の兵力を擁していた。  これに対する大本営からの回答は、連合軍のイタリア本土上陸に抗戦するとともに、味方の北部への通路を確保すべしというものであった。この段階で在イタリアのドイツ軍は、ケッセルリンクとロンメルの二人の指揮官をかかえていたわけで、指揮統一もとれずにいた。イタリアの休戦について、ドイツ大本営は事前に薄々気付いてはいたものの、実際には必ずしも万全の対応は講じられてはいなかった。  午後八時 ローマ。クイリナーレ王宮から大量のスーツケース、トランクなどを積んだトラックが、夜陰にまぎれ、戦争省のあるヴィミナーレ宮に送られた。そのすぐあと、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世、王妃、皇太子ウンベルト二世ら王室一族が侍従武官長以下お付きの女官らを引き連れて、ほど近い戦争省に退避した。  国王は大元帥の正装に身を包んでいた。この退避は予想されるドイツ軍による王室一族逮捕から身を守るためとされた。だが実際は、王室のローマ脱出準備であった。すでに国王は王室財宝等を貨車でスイスに転送し終えていた。戦後、明るみに出たことだが、首相バドリオ元帥も、イタリア中央銀行から当時の一千四百万リラ(約二十億円)を緊急政府機密資金として、スイス・フランに換金していた(注4)。  同じ頃、海軍首脳は全艦隊に対し、連合軍への敵対行為の中止と休戦遵守を指令した。  午後八時半 ナポリ近郊。ドイツ軍の一部がカセルタ市ミニャーノ地区を占拠した(注5)。これはイタリア休戦後、初のドイツ軍による公然たる部分的占拠措置となった。やがてその月の下旬、「ナポリの四日間」として記録されるナポリ市民によるドイツ軍への熾烈なレジスタンス活動が発生、ドイツ軍を降伏させることになる。  午後九時 ローマ。国王が退避した戦争省に首相バドリオ、宮内大臣アックワローネらも合流した。  同時刻、ケッセルリンク指揮下のドイツ軍降下第二師団と機甲部隊は、ローマ南郊のカステッリ・ロマーニから南下、アンツィオ、ネットゥーノヘ前進、その間に遭遇したイタリア軍に武装解除を実施した。またローマ西郊オスティア港一帯もドイツ軍制圧下に入った。このオスティア作戦中、ドイツ軍はローマ防衛イタリア軍所属の一将官を逮捕した。これは休戦後の第一号将官捕虜とされた。  午後十時 ベルリン。ドイツ中央放送局はイタリアが連合軍と単独休戦したと全土に発表。それまでの同盟への裏切りを非難した。同放送はまたイタリア制裁を提唱した。しかし現地イタリアで、司令官ケッセルリンクはためらいをかくせなかった。  南部にいる約三万のドイツ軍が孤立し、イタリア軍から殲滅される危険からであった。むしろ中部から南下ルートを確保すると共に、北部へのルートを幾つか維持するというベルリン大本営からの指示を優先した。  午後十時 ローマ。戦争省内のほの暗い部屋に参集していた王室一家やバドリオ元帥らの許に、「ドイツ軍が国王、首脳逮捕に動き出すのでは……」との情報がもたらされた。予想通り危機が差し迫ったとみた王室一族は、万一に備えて計画通り、チヴィタヴェッキアからサルデーニャに脱出するか、それともアドリア海から長靴のかかとのブリンディシに行くか? の二者択一を迫られた。  連合軍がすでに長靴半島の先に上陸している以上、ブリンディシにたどり着く方が得策であることは明白であった。直ちにアドリア海のオルトーナ小港にイタリア大型艦艇を二隻、海軍省を通じて至急回航させた(注6)。  その夜同時刻、カステッラーノは、アメリカの将軍テイラーと語り合っていた。カステッラーノが提起したローマ降下作戦「GIANT 2」が実施されないことに決したことについて質すためであった。  当然、「カステッラーノ進言は危険なワナだったのでは」として、カステッラーノ不信をつのらせてもよいはずであったが、テイラーは不平不満も述べず、個人的にも何ひとつ非難しなかった。カステッラーノがテイラーに経緯を尋ねても「これでよかったのだ。将軍ョ」と、慰めるばかりであった。  しかし、結局、ローマにはドイツ軍が多数進出し、また降下予定の飛行場も同様の事態が生じているとイタリア側から重ね重ね説明を受けたため、中止せざるを得なかったことを説明した。そんなはずはないと思いながら、カステッラーノは無念、憤懣の涙が止まらなかった。彼はこの時に、イタリア側がテイラーに説明した事態が、果して真実かどうか? を究明しようと決意したに違いない。後の彼の行動がそれを示すことになる。  だがこの段階で、ムッソリーニを逮捕し、かつ敵中深く潜入して効果的な休戦実現のために粉骨砕身したカステッラーノの思惑も努力も、急転直下、空しく水泡に帰したことになる。  カステッラーノがひとり悲涙にむせんでいる時、イタリア本土では「ムッソリーニの戦争」の終結を喜んだのも束の間、反ファシストの国民は同じイタリア人のファシスト、その背後にいるナチ・ドイツ軍に対して武器をとって立ち上り、血を血で洗う壮烈なレジスタンスの修羅場に突入する。  イタリア内戦の始まりである。カステッラーノは、まさにオリーブの十字架にかけられた形であった。 注1 A. GIOVANNINI「8 SETTEMBRE 1943」P. 81 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 186 注3 A. GIOVANNINI「8 SETTEMBRE 1943」P. 82 注4 LA REPUBBLICA紙NICOLA TRANFARIA記者 1984年9月 注5 A. GIOVANNINI「8 SETTEMBRE 1943」P. 83 注6 同右 P. 86 第一一章 イタリア敗れたり! 内戦を危惧する民衆  イタリアにとって、戦争は中止された。だが全土に戒厳令が敷かれたままであった。にも拘らず、休戦を歓喜して迎えた民衆は夜間外出禁止令を無視、いたたまれずに街頭に繰り出し、誰彼となく抱き合う光景がいたるところで見られた。  ラジオは断続的に「休戦宣言」を繰り返し、前線の将兵はその放送で初めて、休戦を知った。その日、六十個師に上るイタリア軍の百七十万人の将兵が内外の戦場にいたが、暗夜を幸い「郷里に帰ろう」と、武器を捨てて歩き出す兵は数限りなかった。指揮官も、それをとめるスベもなかった。  バドリオ放送は、連合軍への敵対行為の中止というだけで、「それ以外からのいかなる攻撃にも反撃」という抽象的な言葉はあったものの、具体的な指示は全くなかった。翌朝早く、ローマの軍当局高官がミラノ方面軍司令部に電話したところ、「ハイ、将軍! 実はここには誰もおりません」との返事が返って来たほどであった(注1)。すでにここの指揮系統は崩壊同然であった。  そのうえ、同盟ドイツ軍は敵に回っており、かつ七十四歳の老国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世ら王室一家と首相バドリオら政府・軍首脳は九日未明、ローマ脱出を図っていた。まさにイタリア敗れたりであった。民衆は平和到来の喜びも束の間、孤立と不安動揺の真只中に放り出されようとしていた。以下、当時は無名だった何人かの「それぞれの九月八日」を聞いてみよう(注2)。  俳優ヴィットリオ・ガスマンは、「二十歳だった私はアブルッツォのカルソーリで初の映画ロケ中でした。ロマンス作品で監督はアルベルト・ラットゥアーダ。でも休戦発表でその映画撮影は中止となってしまったのですョ」と、“幻の初演映画”のほろ苦い思い出が休戦発表とオーバーラップする。  戦後、自転車競技の名選手となったジーノ・バルターリは、道路警備兵だった。「フィレンツェ方面で軍務に服していました。休戦発表があったので、仲間の兵隊と脱走しました。そしてそのままになりましたョ」  のちに作家として世界的に名を成したイタロ・カルヴィーノは時に二十歳。「サンレモの家で休戦を知りました。街頭で誰かが〈平和が来た!〉と大声で叫んだからです。よかった! と思いましたが、数日後には街にドイツ兵が大勢やって来ました。それから二年近く、解放の日までナチ・ファシスト支配下で過しました」  戦後、運命を大きく変えられた皇太子ウンベルト二世の王妃マリア・ジョゼは、ローマ爆撃と厳しい戦局を逃れて、北イタリアはアオスタの城に子供達と避難していた。 「思いもよりませんでした。ちょうど友人達と一緒におりましたので、直ぐにローマの宮内大臣アックワローネに電話しましたら、〈スイスに大急ぎで逃げなさい〉と言われ、その通りにしました。近くのイヴレアにはドイツ兵が沢山いたので、間一髪で子供達と一緒に捕まるところでした」  ジューリオ・アンドレオッティといえば戦後、首・外相などの閣僚を経験しているイタリア第一級の政治家。ローマ大学法学部卒業後、カトリック活動に専念、当時二十五歳で機関誌「AZIONE FUCINA(炉活動)」の編集長であった。 「あの晩は、その頃ひんぱんに行なっていたキリスト教民主党再建のための会合中でした。我々一同、欣喜雀躍したものです。あの日は全く歴史的な一日でした。ローマ市内では銃声も聞こえました。私は脱走して来たドイツ兵と話を交したことを思い出します。あの日の感激は体がゾクゾクするような熱っぽい気持でした。じっと耐えてきた希望に灯がともったようでした」  いまでこそイタリアの著名な新聞・雑誌に寄稿する名ジャーナリストのジョルジォ・ボッカだが、当時二十三歳の青年将校。北イタリアのクーネオの第二アルプス連隊に所属していた。 「アルプスのふもとには乾いた夜風がそよぎ、熟れた梨の芳しいかおりを運んでいた。気分は素晴らしかった。ファシスト王制の挽歌が奏でられた日だったのだから……。我が家が近かったので、母にひと目会うために帰宅した。心の中では対ドイツ抗戦に当る決意をしていた。連隊に戻ると、他の将校や兵士達と武器弾薬を山に運んだ。そしてパルティザンになって、ドイツ兵やファシスト兵と闘った。母に再会したのはそれから二十ヵ月後のイタリア解放のあとだった……」  特に政党再建の動きは、七月二十五日のムッソリーニ失脚と共に一挙に吹き出し、それまでの弾圧されていた地下活動はなかば公然たる動きを見せはじめていた。事実、翌二十六日には早くもミラノで、各政党名による「反ファシスト勢力からのアピール」を出している。発起人は、自由再建グループ、キリスト教民主党、行動党、イタリア共産党、社会主義共和国のためのプロレタリア統一運動、それにイタリア社会党となっており、内容は「各地の広場で、監獄でまた亡命地で血をもってファシストとファシズムと戦って来た我々は、いまこそ連帯し、自由を勝ちとるため市民諸君と手をたずさえて前進する!」というものであった。  戦後、大統領となったジュゼッペ・サラガート、同じくサンドロ・ペルティーニ、社会党党首ピエトロ・ネンニらであり、さらに遅れて翌四四年、モスクワからは共産党書記長パルミーロ・トリアッティも帰国してくる。  戦後のイタリア再建に当り、長期にわたり首相をつとめたアルチーデ・デガスペリはファシスト体制下、ローマ法王庁図書館に匿われた形で仕事にたずさわり、逮捕を免れていた。アンドレオッティが師と仰ぐデガスペリと出会ったのも、法王庁図書館であった。このほか、ウーゴ・ラマルファ、ジュゼッペ・ロミタほか、共和党、社会党の多士済々がいた。  これら各政党は着々力をつけ、ローマで「反ファシスト委員会」を組織していたが、八日の休戦と同時に、いち早く「COMITATO DI LIBERAZIONE NAZIONALE=C. L. N.(国民解放委員会)」に拡大改組、ローマの住宅街の一角アッダ通りに事務所を開設した。この組織が後に、パルティザンと共に抵抗運動(レジステンツァ)を展開、ファシズムからの解放と、戦後の政治経済再建の原動力となるのである。  ジョルジォ・ボッカと同様、軍隊からそのまま、中隊あるいは小隊単位でパルティザンに身を投じ、反ナチ抵抗運動に参加した者もかなりの数に上った。いずれも前線でイタリア兵を見殺しにしたり、大きな面《つら》をして威張り散らす非人道的なドイツ兵がいたことを忘れていなかった。“反感に満ちたイタリアとドイツの同盟”の実態が、このような結果を生んだのであった。それはまた、この戦争が“ムッソリーニの戦争”であって、“イタリア国民の戦争”ではないことを物語っていた。  そのドイツ軍は、ヒットラー大本営の命令で八日深更とともに、イタリア全土で戦闘態勢に入った。同夜現在、イタリア本土駐留ドイツ軍は十五師団であった。北に七個師、中部に二個師、南部に六個師であった。これらドイツ軍は連合軍に備えると同時にイタリア軍の武装解除に当り、抵抗するイタリア軍に対しては、容赦なく攻撃することになっていた。同盟軍であったものの、単独休戦したイタリアヘの憎しみと敵意だけがドイツ兵にみなぎっていた。  九日午前零時頃、ケッセルリンク司令官は指揮下の少数の部隊をローマに通ずる主要街道に派遣、封鎖した。南からのアウレリア、ポルトゥエンセ、オスティエンセ、北からのカッシア、フラミニアの各街道である。これはヒットラー大本営の指令に基づく南部と北部の連絡路確保であった。  同時にローマ周辺のドイツ軍の一部を即時、サレルノ方面に補強派遣した。アメリカ軍がサレルノ上陸を開始していたからである。それに先立ち、イギリス軍が三日、南端のカラーブリアに上陸し、さらに九日にはターラントに上陸していた。その段階で、ナポリ周辺に三個師、カラーブリア、プーリアの長靴の先端両州には計三個師のドイツ軍がそれぞれ張りついていた。  イギリス軍はドイツ軍の迎撃にも拘らず、順当な前進を見たが、サレルノ上陸のアメリカ軍はクラーク将軍の指揮下で、苦戦を強いられていた。まれに見る世界的に風光明媚な海岸線サレルノ湾をはさんで、アメリカ軍とドイツ軍は持てる力をぶつけての死闘を展開し、一時は連合軍の敗退という状況すら予想された大激戦であった。  一方、連合軍最高司令部としては休戦したイタリアの民心を連合軍側に引き込むのに懸命で、休戦のその日から、まずラジオ、次いで空からのビラで、繰り返しイタリア国民向けのアイゼンハワーの呼びかけを行なった。 「イタリア国民へ! 諸君はドイツ軍に加担すべきではない。ドイツ軍をイタリアの国土から追い払うために、我々に協力することが明日のイタリアを保証するのである!」  また、次のようなビラもばらまかれた。 「FUORI I TEDESCHI !(ドイツ人を追い払え!)」と題して、「連合軍はイタリアの心臓部に上陸している。いまこそイタリア人は英雄的行動によって、侵入者ドイツ兵を放逐するため、我々と力を合わせよう。イタリアを解放しよう!」  しかもその頃、アメリカやイギリスのイタリア向け放送は、イタリアを「ALLEATI(連合国)」と呼ぶこともあった。これはアングロサクソンとの連合国という意味であった(注3)。それは西欧文明の源泉であるイタリア、そのイタリアからの多くの移民がアメリカで大きな市民的発展と文化的貢献の礎を築いたことへの親近感から、いまや敵国ではなくなったイタリアに対して自然発生的にそうした言葉が出たのであった。  情勢の展開はこの九月八日一日だけで想像を絶するほど激しく動いた。カステッラーノはこの日「自分にとってまことに意義深い日であった」とだけ書き残している(注4)。  カステッラーノは休戦調印後も、連合軍の要請もあり、またローマ参謀本部の命令で引き続きチュニジアに留まっていた。それも連合軍へのイタリア軍事使節団団長としてであった。休戦調印直後、連合軍はその後のイタリア侵攻作戦実施の顧問格として、イタリア三軍の高級将校の派遣を要請、それら将校はローマから急ぎビゼルタに送られてきた。 注1 LA STAMPA紙 1983年9月7日 注2 LA REPUBBLICA紙 1983年9月7日 注3 N. KOGAN「ITALY & ALLIES」P. 43 注4 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 189 国王らローマを脱出  戦争省内の国王らは八日夜半、息をひそめて外部の状況をうかがっていた。ドイツがイタリアの休戦を放送し、イタリア非難を繰り返していることを知った。そのうえ、ティレニア海を北上中の連合軍上陸艦船がソレント半島直前で東転、サレルノ湾に上陸したとの情報も入った。  アメリカ軍がローマ近辺かローマ以北に上陸しない以上、国王らの身辺に危機は必至とみて、即刻ローマ脱出を決意した。  イタリア軍情報を総合すると、ドイツ軍はローマ周辺であわただしく動いており、主要幹線道路はドイツ軍により封鎖されていることが分った。このままでは、ローマを出ればむざむざ逮捕されることは目に見えていた。かといって戦争省内にいても、遅かれ早かれ一網打尽となることも予測された。  バドリオは午前四時ごろ、起された。アンブロージオ、ロアッタらが来て状況を説明した。ティブルティーナ街道だけ、ドイツ軍はいないことが判明したからである。この街道はローマから東にアドリア海に通ずる。国王らはすでにアドリア海のオルトーナから南に軍艦で行く計画であったから、まさに渡りに舟であった。ドイツ軍がこの街道を封鎖しなかったのは、ヒットラーの命令にあった南北に走る幹線ではなかったからである。  バドリオも「それ以外に道はなし」と判断し、国王に対し「自分の決断で国王をお連れする」旨を告げた(注1)。首脳陣は、不安と恐怖の中にも活路を見出した思いであった。  国王らは直ちに出発にかかった。ローマを離れる感傷はなかった。無事、南部へ到着することだけを祈るばかりであった。九日午前四時五十分、王室一族と休戦を決定した主要閣僚・軍人らは夜明け前の闇の中を首都離脱の途に上った。先頭車フィアット・ベルリーナ二八〇〇には国王と王妃、侍従武官長プントーニが乗った。金の五ツ星で象徴する国王の印綬もその車内に置かれた。同型の第二番目の車には、首相バドリオ元帥、副官で甥に当るヴィンチェンツォ・バドリオ、それに宮内大臣アックワローネ公。第三号車のアルファ二五〇〇には、皇太子ウンベルトとその侍従武官ら三人。続いて王室の荷物車など四台。そのあとを閣僚らを乗せた車が幾台も従った。  アンブロージオはローマにふみとどまったが、後刻、国王から呼び出しを受け、途中の目的地ペスカーラで落ち合うことになる。一行三十余人の各車は一定の距離をおいて、早朝のアブルッツォの山並みの間を粛々と進んだ。  ローマ市内では、イタリア軍の歩哨が何ヵ所かあったが、武官のデ・ブザッカリーニ大佐が「将軍車である!」と怒鳴り、無事通過した。  国王と同乗していたプントーニによると、国王は道中、終始沈黙していた。バドリオは、途中の休憩地点で国王の傍にいた時にもイライラし通しで、「もしドイツ軍に見付かれば、全員首をはねられるでしょう」と、同じことを何度も繰り返し言っていたという(注2)。  丸半日近くかかって、ペスカーラに着いた一行は、飛行場事務所で、最後の御前会議を開いた。戦争大臣ソリーチェだけは、軍を見捨ててローマを離れるわけにはいかないとして、この脱出行には加わっていなかった。また皇太子ウンベルトは、「私がローマを離れたということは、どう考えても誤りである。この重大な時に、王室の一員である私はローマに踏みとどまるべきであった。いまからローマに戻る!」と発言した。父国王はそれを押しとどめ、アックワローネ公は、「お気持は分りますが、ローマに戻れば、ドイツ軍の捕虜になるか、恐らく死が待ち受けることになるでしょう」と諌めた。会議はしばらく沈黙が続いた(注3)。  問題は南イタリアに向う方法であった。ペスカーラに隣接するオルトーナ小港に回航させたイタリア軍艦で向うには、時間がかかるうえに、ドイツ空軍に爆撃される恐れがあった。バドリオによると、王妃は軍艦では危険だし、一刻も早く飛行機でここを離れたいと国王に懇願していたという。しかし、結局、女官を含め全員が九日夜半、夜陰に乗じて、コルベット艦「バイオネッタ」(六四〇トン)に乗船、オルトーナから一路南下、翌朝、南イタリアのブリンディシに到達する。脱出行に加わったのは、最終的には五十七人になっていた。あとから追いかけて来て、一緒に逃げたいと申し入れて来た政府要人らがいたからである。国王はそれらの顔を一人ひとり眺め、苦々しげな表情をみせたという。  いずれにしても国王らは逃避行に成功した。ブリンディシ軍港に着くと、連合軍もいなかった。まだ戦場にはなっていなかったのである(注4)。  突然現われた国王らを迎えたのはイタリア海軍の提督以下、イタリア軍民達であった。ローマからの人々は、ほっと胸をなで下した。  出迎えの提督に、国王が真先きに口にしたのは、次の言葉であった。 「市内にドイツ軍はいるのかね?」  脱出者達がいかにドイツ軍を恐れていたかをうかがわせる。  提督は答えた。 「いえ、全くおりません。陛下!」 「では誰がここを治めているのか?」 「はい、小官であります、陛下!」 「おお、そうか。それはよかった」  一行は直ちに潜水艦基地にある将校宿舎に入った。バドリオは直ちに連合軍最高司令部と連絡交信の準備に入る。  バドリオが真先きに行なったのは、南イタリアの沿岸防衛に当っている師団をブリンディシとその周辺に結集させたことであった。  バドリオは後日、この逃避行について、次のように弁明している(注5)。 「イタリアはいまや連合軍の敵ではなく、対ドイツ戦で共通の大義を持ち、その義務を履行しなければならない立場にある。いま政府がローマに留まっていれば、ドイツは代りにファシスト政府を樹立するであろう。そうなれば休戦そのものが無効になるであろう。それはイタリアの破滅を意味する。こう考えた結果、私は南へ行き、連合軍と合流することを決意した。私自身は戦場からの離脱と見做されよう。それは甘んじて受けても、国家の前途を最優先させるべきである」  果してこの王室、政府・軍首脳のローマ離脱について、イタリア内外で戦後長らく、国民を見殺しにした許されざる行為と非難する声が強かった。とくに左翼勢力が急先鋒となっていた。確かに、首都から国家元首が脱出、政府と軍の首脳が皆無になった無政府状態下のイタリアが大混乱に陥ったことからすると、遁走に等しい形で首都を放棄した国王らは、弾劾されて当然であった。まさに中国の古語にある蒙塵《もうじん》である。  しかし、逆の見方もある。フランスの歴史学者マクス・ガロ氏は、この逃避行について次のように述べている(注6)。 「国王がドイツ占領地から遠く離れたブリンディシに逃れたのは、実は国家の継続性を温存するとともに、ドイツと法的に同盟関係にあることを示しながら再起をはかろうとするファシズムに対する闘争を強化するためでもあった」  現実にドイツは、国王やバドリオを逮捕、代りにファシストの人物による政権樹立、ムッソリーニの所在をつきとめて救出する「アラリック作戦」を進めていた。ムッソリーニ失脚直後、ドイツに身柄の保護を求めたファシスト党領袖ロベルト・ファリナッチを前面に押し出してはどうかとの意見も、ヒットラーの周辺で出たのである。しかし、その偏狭な人柄、性格に反対意見も強く、実現しなかったいきさつがある。  こうした客観情勢からすると、バドリオにとっては、ヴィットリオ・エマヌエーレ三世のイタリアとバドリオ政権の温存こそ、法的にも国際的にも必要であった。バドリオは到着したブリンディシを、「新しいイタリアの初の首都」と呼び、十日には連合軍最高司令部に電報を送り、政権の存在を連絡した。これにより、以後、双方は協力態勢をとることになるが、バドリオ政権そのものは、事実上、連合軍の傀儡以外の何ものでもなかった。 注1 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1689 注2 A. GIOVANNINI「8 SETTEMBRE 1943」P. 93 注3 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1705 注4 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 119 注5 同右 P. 115 注6 「ムッソリーニの時代」P. 367 ドイツ軍、ムッソリーニを救出  カステッラーノにとって、念願の休戦は実現したものの、事態は彼の期待とは全く逆に動いていた。アメリカ軍はローマ南方のサレルノに上陸しただけで、肝心のローマへの降下作戦は、こともあろうにローマのイタリア側の要請で中止されてしまっていた。カステッラーノは先行きのイタリアの運命を思い、落胆のドン底に沈んでいた。  そこに、カステッラーノのみならず、全世界を驚嘆させる思いもよらぬ新事態が発生した。ドイツ軍が、極秘裏に幽閉中のムッソリーニの救出に成功したのである。この救出劇は、第二次大戦中で、最も劇的な事件であった。連合諸国も、一時的にせよドイツ軍のこの放れ業を手放しで賞賛したものである。  七月二十五日の夕方に話を戻そう。解任後、ローマの警察学校内に監禁されたムッソリーニの消息が途絶えた時から、ヒットラーは親衛隊大尉オットー・スコルツェニーに、ムッソリーニの所在をつきとめ、その救出を指示した。  ムッソリーニの所在を探るため、ヒットラーは七月二十九日の統帥六十歳の誕生祝いに、新版「ニーチェ全集」を届けたが、イタリア側は「必ず本人に届ける」と約束したものの、消息には一切答えず、ヒットラーの目論見は水泡に帰した。  七月二十七日、イタリア政府はムッソリーニの身柄を極秘裏にローマの南の漁港ガエタから、哨戒艇でポンツァ島に移送した。かつては政治犯の島流しに使われていた島である。本土からわずか三十キロほどしか離れていなかった。この島流し同様になっている間、ムッソリーニはジュゼッペ・リッチオッティの「キリスト伝」などを読んでいた。  八月七日夜半、このポンツァ島から、サルデーニャ島の北端にあるマッダレーナ島に再度移送されるのだが、その際ムッソリーニはポンツァ教区の神父に、読み了えた「キリスト伝」を贈って去った。その「キリスト伝」の中のユダの裏切りの個所には、幾本もの赤線が引かれてあったという。国王やバドリオの裏切りが頭にあったのか、グランディ、チアーノら党首脳の裏切りが念頭にあったのかは誰も知らない。  マッダレーナの幽閉家屋は高級別荘であった。警備隊約百人が二十四時間交替で、身辺の監視と外からの救出への警戒に当った。ヒットラーからの「ニーチェ全集」はここでムッソリーニの手に届けられた。彼はこの時、ヒットラーの友情に涙したという。  その八月半ば、マッダレーナ島上空に水上機一機が飛来、別荘の上空を高度五十メートルの低空で旋回した。その水上機は間もなく海上に不時着したが、同機にはスコルツェニーが搭乗していた。  イタリア側は、ドイツ側がムッソリーニ救出を計画していると判断、急遽、再びムッソリーニを救出不可能な地点に移すことを考え、バドリオら政府首脳は、中部イタリアのアペニン山脈中にあるスキー・リゾート、グラン・サッソに移すことにした。ローマ東北にある標高二九一四メートルの頂上付近は、峻険な山容で、尋常な手段では救出不可能とされていた。  ドイツ側としては当面、ムッソリーニの無事救出は最重要課題であった。イタリアにファシスト政権を再樹立させるため、カリスマ性の高いムッソリーニを置くことは、何としても必要であった。スコルツェニーの執拗な追跡捜査、情報収集が一段と強化された。  一方、イタリア側は八月二十八日、マッダレーナからムッソリーニの身柄をローマ北方のブラッチャーノ湖に水上機で運び、そこから赤十字救急車で、グラン・サッソ山麓に移した。さらに登山用ケーブルカーで山頂カンポ・インペラトーレにあるただ一軒のホテルに収容した。二階建ホテルとはいえ、大型の山小屋といった方が近い。ムッソリーニの身辺警護にはジュゼッペ・グエリ警部を隊長とする警備隊員数十人が当った。  バドリオは「あの山なら万全だ」と太鼓判を押した。ムッソリーニは「余は世界一高い所にいる虜囚だ」と独白した。山頂に上る千メートルのケーブルカーを止めてしまえば、外部からは誰一人接近することは出来なくなる。いまでこそ、山頂への車道もあるが、当時はバドリオのいうように、救出は誰が考えても不可能とされていた。  それだけに、監禁生活は厳しくはなくなった。食べたいものは調達され、ラジオも許されるようになった。統帥は隊長グエリとトランプを楽しむこともあった。八日夜のバドリオの休戦発表も聞いた。しかし、休戦になっても、グエリには別に新しい指示はなかった。バドリオらはブリンディシに遁走したからである。  ドイツ側は九月に入ってから、ムッソリーニがグラン・サッソの頂上のホテルに軟禁されているとの確実な情報を入手した。それはイタリアが休戦を発表した直後とされている。スコルツェニーは直ちに、その山頂の航空写真をもとに、救出計画を練った。平地が狭い山頂だけに、グライダーによる空からの急襲しか手段はないことを確認し、降下部隊と作戦を立てた。  滑走距離の短いグライダー十一機、降下兵九十人、救出後のムッソリーニを運ぶためのシュトルヒ機一機が参加することになった。指揮はスコルツェニー自らが当った。決行前夜の十一日、彼はローマ市内でムッソリーニがよく知っている警察長官フェルナンド・ソレティを誘拐した。山頂に到着した際、降下兵達の先頭に立たせるためであった。  十二日、いよいよ決行の日。ドイツ軍基地ローマ南郊プラティカ・デル・マーレ飛行場に全員が集合、シュトゥデント降下部隊司令官から「成功を祈る」と訓示を受けて飛び立つ。その日、日曜日であったことが、この世紀のドラマの成功に、いかに役立ったことか。  午後二時ごろであった。昼食後のムッソリーニは、二階の自室から窓外を眺めていた。部屋には隊長グエリも一緒であった。突然、グライダーが目前の広場に着陸すると、中から前かがみになった兵隊が銃をかかえて疾走して来た。二十人、三十人……。十一機のグライダーのうち、三機は着陸に失敗、崖下に落ちた。  パラパラとホテルに駆け寄る一群の先頭には、制服のソレティ長官がいた。  窓をあけたムッソリーニは大声でいった。 「射つなッ!」  それは、イタリアの警備隊にも、降下兵にも、どちらにもいったようであった。  ムッソリーニの部屋に、数人のイタリア警備兵らがドアをけって駆け込んで来た。銃をかかえていた。 「射つな、イタリア人がいるではないかッ!」  ムッソリーニは外を指さした。  警備兵達は気をのまれて、一発も発射しなかった。日曜日の昼食後とあって、他の警備隊員は階下のあちこちで、丸腰のまま休息していた。  ドイツ降下兵達は、着陸後、ホテル内に乱入、すぐさまムッソリーニを保護した。 「君達はイギリス兵か?」  ムッソリーニが口にした最初の言葉がこれであった。  そこヘスコルツェニーが入って来て答えた。 「我々は総統の兵です。閣下、御安心下さい。もう自由です」  ドイツ側によると、着陸から統帥保護まで五分はかからなかったという早業であった。  黒のソフトとオーバーを着たムッソリーニは、ホテル前の平地に着陸していたシュトルヒ機に乗った。操縦士はハインリッヒ・ゲルラッハ。一度発進したが、くぼみにはまり失敗、二度目には崖下に墜落しそうになりながら、フワフワッと辛うじて離陸に成功した。  午後三時、ムッソリーニとスコルツェニーは、基地のプラティカ・デル・マーレに到着した。奇跡的ともいえるこの救出の成功に、基地全体が沸いた。シュトゥデント将軍はヒットラー大本営に電報した。 「総統の許に、統帥をお届けいたします」  ムッソリーニは、基地から別の戦闘機で直ちにウィーンに運ばれ、翌十三日、ミュンヘンでヒットラーと抱擁する。そこには妻ラケーレ、長男ヴィットリオらもいて、七月二十五日の逮捕以来、五十日ぶりに家族は再会した。ムッソリーニは後に「(この救出は)劇的でロマンティック、かつ伝説的」といっている(注1)。  ミュンヘンでヒットラーと会見した統帥は、その時から完全な操り人形と化した。ヒットラーから、ファシスト党の再興、ムッソリーニを首班とするイタリア新政府樹立などを要求され、応諾せざるを得なかった。その際、ヒットラーは「大戦を勝利に導く新型爆弾も近く完成する」と、ムッソリーニに伝え、喜ばせたという。  ムッソリーニは直ちにドイツ首脳部からイタリア新政権と新憲法、ドイツとの協力関係強化策などの指示を受け、十五日夜、ドイツ軍占領下のローマ中央放送局を通じ、布告を発した。この放送はドイツからも全世界に放送された。 「余ベニート・ムッソリーニは本九月十五日、イタリアのファシズム最高指導者としての任務を再開する」  次いで、新党の名称は「共和ファシスト党(PNR)」、新書記長アレッサンドロ・パヴォリーニなどを発表、バドリオ政府を「敗北と裏切りの政府」と呼んだ。この放送は、ムッソリーニから「忠誠なイタリアの同志へ」と題する布告で、放送に続く通信社の至急報が、この世紀のニュースを絶え間なく流した。 「ムッソリーニが救出された!」  世界中がどよめいた。喜ぶ者、驚く者、さまざまであった。七月末、スペイン逃亡に失敗し、ドイツ軍に捕まって、ドイツ領内に監禁されていたチアーノも、この放送を聞いた。  翌日のイギリス、アメリカの新聞も、このムッソリーニ救出を大々的に報じた。そして、イタリアの民衆は「イタリア人同士の内戦になるのでは?」と、おののいていた。  ドイツ側がどうして、ムッソリーニがグラン・サッソの山頂のホテルにいることをつきとめたのか? イタリアにとっても、極秘中の極秘のことである。バドリオら政府高官の一部とムッソリーニ警護にあたる警察の高官しか関与していないことからすると、この警察筋から洩れたと考えるのが常識である。ブリンディシにいるバドリオらは驚愕したが、すべて後の祭りであった。  世界中が「どのようにして、ドイツはムッソリーニの居所をつきとめたのか?」と、取沙汰しているうち、ドイツ側はただ「我が国の優秀な技術のためだ」と、大いに宣伝したものである。  戦後、ドイツ側のこの探査が種々研究されたが、ドイツ側がどの筋から情報を得たのか、一切不明のままである。ただし、ひとつのヒントをムッソリーニ夫人ラケーレが書き残している(注2)。 「九月十二日午前十時ごろ。私達のいるロッカ・デッレ・カミナーテ(郷里の住所)にドイツ人将校が数人来て、子供達と共にいますぐウィーンに発つというのです。私は子供達と一緒にフォルリの飛行場からドイツ機でウィーンに向ったのです」  ムッソリーニ救出の数時間前である。するとドイツ側はムッソリーニ救出に確信を抱いていたことが分る。次のような話もある。  ラケーレ夫人がロッカ・デッレ・カミナーテにローマから移ったのは、八月上旬であったが、九月になったある日、イタリア軍の一将校が訪れ、「統帥がいまどこにいるか知っている。私の弟が警護に当っている一人である」と、告げに来たというのである。  またこれも広く信じられている説であるが、救出作戦の行なわれた十二日、ローマの前警察長官カルミーネ・セニーゼが、ホテルの警備隊長グエリに、「いかなる事態にも十分慎重に」との電報を発した。この電報がグエリの手許に届いたのはその日午後一時半。ドイツ軍のグライダーがホテル前に着陸する三十分前であった。セニーゼはグエリの前の上司である。  以上の点からみると、警護の警察関係者からドイツ側に情報が流されたか、ドイツ側が警察方面に八方手を尽して入手したとみるのが妥当のようである。当時はまだファシストに近い分子も要職についていたし、ドイツ側につくか連合軍につくか、身の振り方を天ビンにかけていた連中も少くなかったというデリケートな時期であった。 注1 B. MUSSOLINI「STORIA DI UN ANNO」P. 147 注2 R. MUSSOLINI「LA MIA VITA CON BENITO」P. 206 第一二章 悲劇と栄光と 南北に二つの政府  国王一行が南のブリンディシに向っていた九日、国営ステーファニ通信は次のようなニュースを流した。午後一時であった。 「バドリオ首相は、地方軍査察のため首都を離れている。首相臨時代理はエンリコ・カヴィリア元帥である」  イタリア国民は、首都に国王も首相もいなくなっていることなど、露知らなかった。  このカヴィリア元帥は、すでに八十歳を越えていたが、第一次大戦の英雄で、国民的信望も厚かった。バドリオはこの老元帥に後事を託して、ローマを去ったのである。  ブリンディシに着いたバドリオは、連合軍との連絡をとり、態勢をととのえたうえで十二日昼、ブリンディシの放送局から、国王の次の布告を発した。 「イタリア国王は首都ローマの救済と、国王の責務の完遂のため、政府及び軍首脳とともに、神聖にして自由なイタリアの他の地に来ている。国民諸君が最高の犠牲を払い、国王に信頼を置いているように、国王も国民諸君を信頼するものである」  そして、ブリンディシを臨時首都としている旨を明らかにした。しかし、同地の放送局の出力数は低く、ローマにはほとんど届かなかった。  ムッソリーニがファシスト党を率いて、任務を再開すると放送したのが、十五日夜で、十八日にはさらに、ドイツのミュンヘン放送局から直接、イタリアと全世界に向けて「イタリア社会共和国」樹立を宣言し、北イタリアのガルダ湖畔に政府を置く旨を明らかにした。この新政権の外務省が湖畔のサロに開かれたため、新政権は以後「サロ政権」と呼ばれることになる。  これを以て、北のサロ政権と南のブリンディシ政権の二つの政府が存在することになった。いや、二つではなく四つの政府であった。ブリンディシ政権背後の連合軍、サロ政権の背後のナチ・ドイツである。むしろこれらが、真の政権で、ブリンディシもサロもそれぞれ傀儡政権であったというべきであろう。  カステッラーノにとって、すべては彼の手の届かぬところで動いていた。そしてカステッラーノが最も恐れていたドイツ軍による首都ローマを含む北半分の事実上の占領が、九月十一日から十三日にかけて行なわれた。  ドイツ軍占領下では、戒厳令が布告され、ローマはじめ大都市ではドイツ軍がわがもの顔に振る舞うことになる。夜間外出禁止は夜十時から九時へ、さらに八時へと繰り上り、日を置かずにまだ明るい夕方六時からとなって行く。街々には、いったん影をひそめたファシスト達が、黒シャツを着て再び登場してきた。ローマではコロンナ広場に面した旧ファシスト党本部が、そのまま新ファシスト党ローマ支部として活動を開始する。  休戦発表翌日の九日から、配給のパンもなくなった。市場には野菜も肉も集荷されなくなった。市内と近郊の交通も、ドイツ軍によって遮断されたからである。ドイツ軍とファシストが管理する放送局も、断続的にしか電波を流さなくなった。ローマの有力紙イル・メッサジェーロは、その朝の社説で次のように書いていた。 「武器なき戦争で、イタリアは無用で過酷かつ不条理な生命の犠牲を強いられながら、きのうまで戦争を続行した。だがいま、愛国心と自己犠牲でなされた休戦決定は、悲しむべきものではあるが、自らを侮辱するものでないことを、世界は知るべきである。自由イタリアは本来の伝統に戻り、明日に向って再び立ち上る決意である」  知識人の中には、ロンドンやモスクワからのイタリア向け短波放送に、寝室や地下室などでひそかに耳を傾けるものも少くなかった。その短波放送のニュースの前後に、突然、「飛行機は北に飛ぶ」とか「花は三つでなく四つ」などという意味不明の言葉も入ることがあった。地下活動を行なっているイタリア人との連絡暗号ということだけは分った。これらを耳にして、イタリアは孤立してはいないとの期待を持ったのである。  しかし、多くの市民にとっては、暗黒の日々であった。善良な市民達は黙りこくって、家の中に閉じ籠るほかはなかった。しかし、自衛しなければならなかった。生活と自由を。当然のことながら、君臨するドイツ軍と我がもの顔のファシストにテロで抵抗する市民も現われるようになった。一方、七月末にファシスト体制が崩壊したあと、反ファシスト行動に出た人々に対する逮捕、報復のテロ・暴行も始まった。こうして敵対する双方の反目は日に日に激しさを増す。双方のテロの応酬は日常茶飯事となる。政府が二つ出来たように国民もまた二分していった。全国いたるところで見られた現象である。  しかもそのうえ、シチリアを基地化した連合軍の空襲は日増しに激化、サレルノに上陸したアメリカ軍、カラーブリアに上陸したイギリス軍など、じりしりと北上を始めており、ローマの戦場化も予見される事態となっていた。  そうした情勢から、カステッラーノとは別の観点から、ローマを守る運動が、それも敵味方双方から起った。人類と文明にとっての文化遺産に満ち溢れ、かつカトリック世界の総本山ヴァチカンを擁する「永遠の都」ローマを「無防備都市(英OPEN CITY, 伊CITTA APERTA)」とする構想がそれである。 「無防備都市」とは、ひと口でいえば戦時、ある都市に兵力や軍事施設を全く備えず、軍事利用しないことを宣言、敵側もそれを認めた場合、その敵国は宣言した都市を軍事目標として攻撃の対象とはしないというものである。  ローマについてのその主要な構想を時間的に整理してみると、次のようになる。  四三年八月八日、アメリカ国務次官サムナー・ウェルズが「ローマを無防備都市とすべきである」と提唱したのが最初とされる。連合軍によるローマ爆撃への両陣営からの批判をやわらげようとしたものであろうが、連合軍はイタリアの息の根を止めるために、空襲を続けた。  次いで、度重なるイタリア諸都市爆撃に、ヴァチカンも憂慮を深め、アメリカ、イギリス両国に外交経路を通じて、配慮要請の覚書を送った。この機会にイタリア政府も八月十四日、首都ローマがヴァチカンの聖域を含むとの理由で、正式に「無防備都市」宣言を行なった。しかし現実にはローマにイタリア軍も存在し、ドイツ軍も少数ながら配置されていた。  連合国側はこのイタリアの措置を、「一方的宣言であり、我々は軍事行動の自由を留保する」旨を、ロンドンからのBBC放送を通じて公表し、ローマを含めるイタリア諸都市と戦略地点への空爆を激化させる。九月九日には、数次にわたるローマ大空襲を敢行した。翌十日、イタリア軍の元老エンリコ・カヴィリア元帥は、バドリオ首相の代理としてドイツ軍司令部にヴェストファル副司令官兼参謀長を訪ね、ローマの「無防備都市」化を協議し、合意に達した。戦列を離れたイタリアとしては、ドイツ軍に武力を行使しない代りに、ドイツ軍もローマに戦火を加えないとの了解であった。これはドイツ軍にも利益であると同時に、カヴィリア元帥としてはドイツのローマ占領を排除する意味もこめていた。これが成功すれば、連合国側にも拡大することを望んでいた。しかし、ドイツ軍はこの合意を踏みにじり、十一日にはローマ占領の軍を動かすことになる。  再び黒シャツを着こんだ連中はいざ知らず、多くのイタリア国民は、休戦の束の間の喜びからドイツ軍の軍靴の重圧下につき落される。休戦実現を進めてきた当のカステッラーノにとっても、シチリアのオリーブの林での緊張と苦悩の日々は何であったのか、そしてあの休戦調印そのものは何であったのか——と、あらためて懊悩し、自ら十字架に上りたい気持であった。 パルティザン、各地に蜂起  政府のいなくなった首都。ドイツ軍の軍靴の下に置かれた市民達。そしてイタリアに君臨する四つの支配者——。敗れたイタリアはまさに奈落に落ちるかに見えた。しかし、恐怖の中から希望を、そして敗北の中から勝利を見出そうとする名もなき市民の不退転の気運が急速に生れていた。  ローマのアッダ街に反ファシストの若い政治家が参集して、「国民解放委員会」を結成したのは九日午後であった。その夜、ローマ北東六十キロのモンテロトンドにあるドイツ軍ローマ地区司令部の守備隊が、近くのイタリア軍部隊に突如、攻撃をかけて来た。指揮官ウーゴ・タベッリーニ将軍は応戦を命じ、ドイツ軍に多大の損害を与えて圧勝した。ドイツ軍は降伏を求めて来た。この勝利をバネに、ドイツ軍をローマ地区から北方へ敗走させようと考えたタベッリーニは、ローマ防衛機甲司令官カルボーニに増援軍派遣を要請した。深夜でカルボーニは就寝中であった。要請を受けた連絡将校は「起すなと言われているから」と、その救援を取りつごうとはしなかった。タベッリーニは地団駄踏んでくやしがった。  実はその前夜、ローマ西郊マリアーナ方面でもドイツ軍とイタリア軍が小競合いを起していた。ドイツ兵がイタリアの歩哨を威嚇して、ローマ方向に進もうとしたために、歩哨が発砲して阻止、このため小規模の戦闘が発生したのである。小部隊のイタリア軍はじりじり後退を余儀なくされた。サン・パウロ大聖堂付近を舞台に両軍の交える銃声、機関銃の一斉射撃、それに砲声がローマ市に鳴り響いた。  これをキッカケとして始まった戦闘は、徐々に拡大して十日から十一日にかけて続き、「ポルタ・サン・パオロの戦闘」としてイタリア現代史の栄光の一頁を記録している。  オスティア方面から前進して来たドイツ軍は九日、まずローマ西郊八キロのマリアーナ地区でイタリア軍の抵抗にあい、それを突破すると、EUR地区からオスティエンセ街道沿いにローマに向け前進を続けた。十五歳の少年が「あそこの家の裏にドイツ兵がいっぱいいるよ」と、ドイツ軍の状況を応戦するイタリア軍に知らせた瞬間、背後からのドイツ軍の銃弾に倒れるという「クオレ」物語にもあるような悲劇もあった。  その日、物見高いローマっ子達は、銃砲声の響くそのポルタ・サン・パオロに殺到した。遺跡ピラミッドのあるオスティエンセ駅前広場である。イタリア兵が戦車や小型砲を南に向けて布陣していた。  指揮官の一人はピアーヴェ師団の一大尉シジスモンド・ファーゴゴルファレッリ伯。たまたまその地区の警備についていたのだが、ドイツ軍の進撃の報に少数の部下を率いて戦闘態勢に入った。市民達も続々と戦列に加わった。前線からローマの自分の家に帰っていた“旧兵隊”も駆けつけたし、帰還の途中に市民に促されて、もう一度銃をにぎる兵隊もいた。国民解放委員会幹部で、後に第七代大統領(一九七八—八五年)になった社会党員サンドロ・ペルティーニも、市民兵の一人となっていた。  ローマの高校の美術史教員で、元陸軍中尉のラファエーレ・ペルシケッティも、学校からこのポルタ・サン・パオロにかけつけ、小人数の市民兵を指揮した。負傷者を物蔭に運ぶなど部下を守りながら、自らは戦死をとげた。三十歳前であった。その部下思いと敢闘精神はいまなお語りつがれている。  この戦闘は十一日午後にやっと終息した。イタリア側の武器・弾薬途絶からの敗北であった。だがイタリアの兵隊と市民が硝煙の中で血みどろとなって、完全武装のドイツ軍に体当りした勇敢な闘争は、その後のイタリア各地でのパルティザン蜂起の狼煙《のろし》となったのである。  この戦闘では、ドイツ兵約四百人が戦死した。イタリア側も市民兵を含めてほぼ同数が戦死した。イタリア兵はピアーヴェ師団の一部のほか、サッサリ、モンテベッロ各連隊の一部も加わった。それら将校の半数以上が陣頭に立って戦死している。  一九七三年、その英雄的なポルタ・サン・パオロ戦闘の三十周年祭が、現場の同名の広場でとり行なわれた。ゆかりの人達約二千人が集まり、「第二のリソルジメント」の文字が刻まれた記念碑が、広場に面する古代城壁の中に除幕された。リソルジメントとは、一八〇〇年代の後半に起ったイタリア統一運動のことである。当時、イタリアの官・軍・民が一致団結、イタリア半島に統一国家樹立のため、外国軍と戦って血を流した。ポルタ・サン・パオロのドイツ軍との戦闘は、そのリソルジメント精神と同じ愛国精神の発露であったという意味が、この「第二のリソルジメント」の刻印に込められているのである。  その時、指揮官ファーゴゴルファレッリ伯は語った。  ——文字通り市街戦であった。ドイツ軍はやみくもに機関銃を乱射し、その後方からは大砲を打ち込んできた。歴戦のイタリア兵達も建物の蔭から応戦するしかなかった。戦闘に参加してくれた勇敢な市民達も、その日に初めて銃を発射するというのが大部分であった。それでも、至近距離だったから、みるみるうちにドイツ兵を倒した。若い将校達は、敵に身をさらして動き回った。だから犠牲が多かった。片手をはじき飛ばされた一人の将校は、もう一本の手で手投弾を投げて、十数人のドイツ兵を殺した。身体をえぐられたある将校は、部下が助けようとしたら叫んだ。「俺にかまうな!」と。実際、涙なしには語れないことばかりだ。ものすごい老兵もいた。彼は弾丸がつきてしまうと、銃を敵兵にぶつけ、それでも戦おうとして、入れ歯をはずして目の前のドイツ兵の顔に投げつけた。しかし、結局は我々は敗退した。十一日の夕方であった。その夜、ドイツ軍側と休戦することになった。全く無念だった。でも、誰もが、ドイツ軍と全身全霊で戦ったという満足感を覚えていたのではないだろうか。  ドイツ軍が各地で、イタリア軍の強制武装解除に乗り出したのは、地方においては九日朝からであった。いち早く自ら武装解除して帰郷した兵はともかく、残存兵力は解体され、若い兵士はドイツに後送され、使役されることになる。  しかし、すべてのイタリア軍がドイツ軍のいうままに武装解除されたのではなかった。それを断固拒否、最後には「玉砕」同様の英雄的な死を選んだ部隊や、解体されるよりはパルティザンとして戦う道を選んだ将兵なども少くなかったのである。次にそうした幾つかの例を挙げておこう(注1)。  フランス領コルシカ島を占領していたイタリア軍はフランス人とともに、ドイツ軍と戦って撃破、三千人の犠牲者を出してついに島民のための島として解放した。また南フランスのアヴィニョン地方に駐留していたイタリア兵らは、休戦発表後間もなく武器を持って、フランスのレジスタンス組織の「マキ」に投じ、ドイツ軍への抵抗に参加した。  悲壮なエピソードにもこと欠かない。ギリシャのチェファローニアにドイツ軍とともに駐留していたイタリア軍は、イタリア休戦の報とともに、司令官は敗北をドイツ軍に申し出たものの、部下の将兵がこれに反対、「全員投票」でドイツ軍による武装解除への抵抗を決定、一週間にわたりドイツ軍と抗戦した。この師団は孤立無援のまま空陸からのドイツ軍の猛攻撃に耐え、最後の一発まで射ち尽した約四千五百人の将兵は、捕えられて全員銃殺され、その遺体は山と積まれたままとなった。ドイツ指揮官ヒールツフェルト少佐は「このイタリア兵らは埋葬にも値いしない奴らだ」と言い残した。またアルバニア戦線では武装解除を伝達されたイタリア軍指揮官が、部下の将兵全員が本国への送還船に乗船するまでは武装解除に応ぜぬと頑張り、遂にそれを実現させた。  また休戦後、ナポリ近郊でドイツ軍から応援を求められた若いイタリア軍指揮官が「ドイツ軍のために、私の部下を犠牲には出来ない」と断固としてはねつけ、最後にそのイタリア軍将校はドイツ軍将校に胸を張って射殺されたという。  しかし、九月八日現在のイタリア陸軍六十一個師団の兵力は、その後一週間足らずのうち、南部にわずか六個師団が温存されるに過ぎなかった。しかも装備は貧弱極まりなかった。  イタリア海軍についていえば、残存艦隊は休戦条項に基づいてすべて南下、マッダレーナ島はじめマルタ島などに向った。ドイツ軍はこれを阻止しようとしたが、イタリア艦船は一路南下し、ドイツ軍機の爆撃で沈没するものも出た。戦艦「ローマ」もその一つで、艦長カルロ・ベルガミーニ提督は部下の全乗員とともに戦死した。  一方、イタリア側の公然たる敵対行動に対して、北部のドイツ軍は迅速な反応を示し、休戦から一夜明けた九日午前中には、ロンメル元帥指揮下の軍がミラノ、トリノ、ヴェネツィア、ジェノヴァなど主要拠点都市を制圧した。三日後の十一日には、ローマを含む中、南部の大都市とその周辺もケッセルリンク元帥の軍により支配下に置かれた。  このため各地でドイツ兵に対する反ファシスト・グループのテロが続発、ローマでは自転車さえも禁ぜられた。自転車ですれ違いざま、ドイツ兵を殺害して逃走するケースも多かったからである。テロリストや反ファシスト政治家は、タッソー街のドイツ文化協会に連行され、暴行のうえ虐殺された。同協会はその後、ナチ親衛隊の対パルティザン拠点となり、監禁部屋には、殺された人々が壁に刻んだ遺言がいまも数多く残されている。 注1 IL MESSAGGERO紙 1983年9月休戦特集号 バドリオ、「無条件降伏」に調印  九月十一日、前日のバドリオからアイゼンハワーへの電報に対し、アメリカ大統領とイギリス首相の連名で、早速、激励と歓迎の返電が届いた。 「……イタリア国民が平和と自由を勝ち取るため、またイタリアがヨーロッパ文明の中の名誉ある地位を取り戻すために……貴政府が決意ある行動をとることを望む」  要するに、イタリア国内のドイツ軍に対して、全イタリア軍を対決させ、連合軍に協力するよう要請した内容であった(注1)。  しかしその時、すでにイタリア陸軍はほぼ崩壊し、連合軍がアテにしたイタリア軍は、実はごく少ししか存在していなかった。アイゼンハワーはイタリアの実情を知らなかった。  連合国・軍側からは早速、ブリンディシ政府宛に、連絡が入ってきた。宛名に「我が同盟国イタリア政府へ」というのも混っていた。恐らく連合国側下級官僚が不用意に「ALLIES」の文字をつけてしまったのであろう。バドリオもこれに気付いていたし、それら文書を読んだ国王は、イタリアがアメリカ、イギリス等の「連合国」の仲間入りが出来たと、内心、喜びを禁じ得なかった。ブリンディシ政権にとっては、イタリアがドイツの敵国として、名実ともに連合国側に加わることが、その時期の至上命題であった。  そのような「連合国イタリア政府へ」の文書が目立つにつれ、国王はアメリカのルーズベルト大統領、イギリスのジョージ六世宛、直接、親書を送り「イタリアが連合国の一員であることを、公式に認めて欲しい」旨を要請した。イタリアの焦りの現われであった。  これに対し、ルーズベルトからは「時期尚早と思う。専門家の検討を要する」旨が、またイギリス国王に代りチャーチルから「その問題は、今は全く論外である」とつきはなした返電がきた(注2)。  国王、バドリオらにとっては、これは不快なニュースであった。だが、相前後してアイゼンハワーから「ブリンディシに連合軍顧問団を派遣する。団長はイギリス陸軍大将フランク・メイゾン・マクファーレン卿」との連絡が入り、十三日には連合軍機で一行がブリンディシ入りした。この事実は、ブリンディシ政権を初めて「認知」する連合国側の厳然たる証拠であり、国王もバドリオら政府首脳も、これを歓迎した(注3)。  この顧問団には、副団長格としてマクスウェル・テイラー准将が加わっていた。バドリオには、一週間前にローマの邸宅で隠密裏に会談した旧知の人物であった。ほかに戦後イギリス首相となり、シチリアでカステッラーノとも会っている外交官マクミランも加わっていた。アメリカ側文官としては、戦後に駐日大使となったロバート・マーフィもいた。軍首脳と文官の混成による顧問団の名目上の任務は、連合国とブリンディシ政府間の軍事的、政治的諮問調整ということであったが、実際は軍政施行であった。  マクファーレン卿が到着早々、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世に「何か調達するものはありませんか?」と尋ねたところ、国王は即座に「タマゴを少々欲しい。王妃の健康のために」と所望したというエピソードがある(注4)。  国王らは三日前、「バイオネッタ」号で、オルトーナからブリンディシに脱出、同艦を護衛した巡洋艦「シピオーネ・ラフリカーノ」号の乗員と合わせて、海軍将兵百二十人、それに“逃亡”の五十七人の政府・軍首脳らがいたが、長期の食糧までは準備していなかった。幸いブリンディシに着いてからは、食糧は近郊から補給されていた。とはいうものの、脱出者らへの十分な支給はままならなかった。だからこの国王の「タマゴ少々所望」は、国王の率直さの現われとして、連合軍顧問団の同情と好感を呼んだ。  連合国から協力を求められたバドリオは、政権下に兵力を集めることに腐心していた。わずかに五県という支配地から徴兵して、当初五千二百人しかなかったが、説得により何とか二万四千人の兵力にまで拡充できた。バドリオはこのため、あらためて「イタリアは連合国側と組んでドイツとの戦いに入る」旨をアイクに伝えた(注5)。そして実際に、ドイツ軍の爆破した橋梁の修復、鉄道復旧だけでなく、北に逃れるドイツ軍を追撃して多大の損害を与えていた。こうしたことから、チャーチルもバドリオ宛、イタリア軍の協力への感謝電を送ってくるようになった。  アイゼンハワーも、連合軍に親近感を抱くイタリア南部の人々や、ドイツ軍と戦闘を続行するイタリア軍を鼓舞するためにも、何らかの公式声明を出す必要に迫られた。それにはイタリアを正式に「共同交戦国=CO-BELLIGERENT」として認めることが現実的と考える旨を請訓した結果、ワシントン、ロンドン両政府もそれを承認した(注6)。連合国としてはこのため、ブリンディシ政権の対ドイツ宣戦布告が、形式上のみならず国際法上、必須条件となってきた。しかし、これにはイタリア国王が抵抗した。イタリア占領ドイツ軍が、正式に敵国としてイタリア国民に壊滅的打撃を与えると恐れたためであった。このため連合国側は、イタリアがドイツヘ宣戦布告すれば、その後に「共同交戦国」の地位を与える旨を表明した。  ドイツ軍に救出されたムッソリーニの“サロ政権”が、すでに北イタリアに樹立されている以上、バドリオとしても、自らの政府を国際的に認知させなければならなかった。こうしたバドリオのジレンマにつけ込み、連合国はそのための手続き上、カステッラーノが月初めに署名した「短期休戦条項」に代る「長期休戦条項」のバドリオ自らによる署名を改めて要求してきた。こうした追い打ちに対しブリンディシ政権としては、自らのジレンマからそれを血を吐く思いでのまざるを得なかった。  九月二十八日、バドリオはマクファーレン、テイラーらと共に、イタリア巡洋艦「シピオーネ・ラフリカーノ」号上の人となり、アイゼンハワーと会談・署名のため、マルタ軍港に着いた。直ぐイギリス戦艦「ネルソン」に移乗させられた。そこにアイゼンハワーが待っていたからである。移乗したとたん、バドリオは「すごい装備!」と、ネルソン号上の各種新鋭兵器に驚愕した。  しかし、次の瞬間、バドリオの目前に無表情のアイクが立っていた。握手を交し、案内されたのは艦長室であった。テーブルにはバドリオらイタリア側と、連合軍のアイク、スミス、マクファーレンそれにマーフィ、マクミランらが座った。アイクは、イタリアとの間にすでに休戦そのものに署名はしてあるが、それは軍事面だけで、政治、経済面でも双方の合意が必要であるとして、その休戦条項を示した(注7)。  それは八月にザヌッシに手渡された「長期休戦条項」そのものであった。しかし、第七章に述べたように、連合軍から取り上げられていたため、その内容は目にしたことがなかった。  カステッラーノは九月三日「短期休戦条項」に署名した後、スミスから「長期休戦条項」の内容を見せられ、スミスの思い違いから、それをザヌッシがすでにローマに持参したとも知らされた。当時、スミスからその内容を見せられたカステッラーノは、冒頭に「イタリアの無条件降伏」の文字を見て、憤然としてスミスに抗議した。カステッラーノの調印した文書には、そのような屈辱的な文字は全くなかったからである。  カステッラーノの剣幕に、当時スミスは答えたものである。 「いや、この点はこれからのイタリアの連合軍への貢献度に応じて、いかようにも変えられる内容なのだ」と。カステッラーノとしては、その時、イタリアの連合軍への協力については自信を持っていたし、またスミスのカステッラーノヘの、ひいてはイタリアヘの好意を、それまでの話し合いを通じて友好的に感じ取っていたため、その件に関してはその場かぎりの問答で終ってしまっていた。  しかし、バドリオにとっては初めて見る「SURRENDER OF ITALY UNCONDITIONALLY=イタリアの無条件降伏」の活字であった。バドリオは「これは承服できない!」と、強く抗議した。このため連合軍側は、別室に出て打ち合わせ、数分後に戻って来て言った。 「もし閣下が署名しなければ、我々はイタリアを完全に敗戦国として処遇する」  アイクは鬼のように怒った表情であった。その強圧的な態度と裏腹に、スミスはおだやかな口調で、次のように口を開いた。 「イタリアの出方いかんでは、九月三日調印の線まで、条件をやわらげることは可能なのである」  連合軍側は脅しとなだめで署名を迫った。バドリオはノド元にナイフを突きつけられた形であった(注8)。  バドリオは国王らと協議のため、一日の余裕を要求した。しかし断わられて、結局、署名せざるを得なかった。その場にいたイタリア首脳は、私服のアンブロージオとロアッタ、デクールタン提督らであった。誰もが沈黙のままであった。  アイクはバドリオに言った(注9)。 「元帥、私は閣下の軍人としての経歴を承知しています。また閣下がイタリアのために果していることも分っています。元帥よ、私としてはこれら条項の中の表現を後日、閣下のために変更するつもりです。是非、信じて下さい」  それから二週間後の十月十三日、バドリオはイタリア国王の名において、ドイツに宣戦を布告する。四日後の十七日、アメリカ、イギリス、ソ連の三国政府は、イタリアとの休戦条項の修正をイタリア側に通告して来た(注10)。  同文書のタイトルは「イタリア降伏文書」から「イタリアとの休戦の追加条件」と変っていた。第一項の「無条件降伏」の語は削られ単に「イタリア三軍は降伏した」となり、第六項で「これら項目はピエトロ・バドリオ元帥により無条件で受諾された」と、この個所で“無条件”の文字が使われた。しかもこの「長期休戦条項」は、その後の事態が急転し続け、実効も意味も失い、ついには、文字通り無きに等しくなるのである(注11)。 注1 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 126 注2 同右 P. 131 注3 S. BERTOLDI「CONTRO SALO」P. 19 注4 「STORIA DEL FASCISMO」P. 1743 注5 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 142 注6 N. KOGAN「ITALY & ALLIES」P. 43 注7 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 145 注8 S. BERTOLDI「CONTRO SALO」P. 69 注9 P. BADOGLIO「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 147 注10 N. KOGAN「ITALY & ALLIES」P. 47 注11 C. F. DELZELL「MUSSOLINI'S ENEMY」P. 318 第一三章 果しなき十字架 一年ぶりに本国帰還  カステッラーノはいぜん連合軍最高司令部付イタリア軍代表として協力を続けていた。本土で、どのように事態が推移しているかは、最高司令部を通じて、間接的に掌握していた。しかし、連日、伝えられてくる本国情勢は、カステッラーノを打ちのめすような悲報が相ついでいた。休戦発表後、数日のうちにドイツ軍が首都ローマをはじめ主要拠点を占領、国王と政府首脳は間一髪で南イタリアに逃れ、ブリンディシ政権を声明したこと、またムッソリーニが、ナチ親衛隊の手によって奇跡的に救出され、サロにファシスト政権を再樹立したこと……などすべてである。  だがカステッラーノの最大の関心と疑問符は、九月八日の休戦発表とともに行なわれるはずの降下作戦がどうして突如、中止となってしまったのか? の一点であった。この作戦さえ実施されていたら、少くともドイツ軍によるローマ占領はあり得ないはずであり、その後の展開もイタリアに有利に変ったはずだと信じて疑わなかった。「休戦は一体、何であったのか! 連合軍はどうして約束のローマ防衛を中止してしまったのか! テイラー将軍へのローマの説明はどうしても解せない!」  休戦から九ヵ月経った一九四四年六月四日、連合軍はようやくローマに入城した。ドイツ軍は中部イタリアのティレニア海側のマッサ、そしてフィレンツェを経てアドリア海に臨むペサロを結ぶ「ゴシック防衛線」で連合軍を迎撃すべく、特に抵抗することなく、ローマとその周辺から北へ撤退していた。前年夏、南イタリアに上陸以来、連合軍はナポリ北方のモンテ・カッシーノの大激戦などを経て、約九ヵ月かかってやっとローマにたどり着いたことになる。  連合軍ローマ入城の日、市民の多くは、硝煙と汗のにおいにまみれたアメリカ、イギリス軍を主力とするカナダ、オーストラリア、インド、モロッコなどの各国混成の連合軍を歓呼の声で迎えた。その中には、日系ハワイ部隊もいた。夏の日ざしが目くるめくように燃える歴史的な日であった。そのローマ入りの後を追うようにして、バドリオ政府も連合軍占領下のローマに入り、名のみの政府の体面を保つことに努めた。  その首都では、ムッソリーニ失脚の後、ドイツ占領下で地下活動を続けていた反ファシスト各政党による国民解放委員会が一気に公然と活動を開始した。一方、北イタリアには、完全にドイツの傀儡となり下っていたムッソリーニの政府が存在し、そして内戦ともいうべき戦争はいぜん激しく続いていた。  前年四三年九月八日の休戦発表後、ドイツ軍占領下に置かれた中部、北部のイタリアでは、パルティザン勢力が日を追って拡大していた。最初は散発的なゲリラ活動でドイツ軍、ファシスト軍の武器を奪っていたが、連合軍のローマ入城の頃には組織化されて、ドイツ軍と中規模戦闘さえ交えるほど成長していた。四四年一月三十一日には、それまでに蜂起していた北部各地の反ファシスト政治家とパルティザンにより、ミラノに北イタリア国民解放委員会(CLNAI)が設置され、政治・軍事活動を行なっていた。それは北進してくる連合軍部隊の前衛的役割を果すことになる。  国王一家とともに、約九ヵ月ぶりにローマに戻ったバドリオ政権は、すでに連合国側からドイツに対する「共同交戦国」の“地位”を獲得していた。次いで四四年一月以降、連合軍占領下のシチリア、カラーブリア、プーリア、カンパーニャなど南イタリアの軍政がバドリオ政府に返還されていた。しかしローマに戻った国王やバドリオ政府には、多くの市民から激しい憎悪の目が向けられていた(注1)。  何よりもまず、国王とバドリオ政府は九ヵ月前、国民と軍隊を混乱の中に棄ててブリンディシに脱出、イタリアを無政府状態に陥れた。その結果、ドイツ占領下に置かれた国民の多くが、不幸と悲惨な月日を送り続けたことを多くの国民は身をもって知っていたからである。  その一方で国民の多くは、連合軍支配下に入るとともに晴れて地上に躍り出て、イタリア再建と反ナチ・反ファシズム闘争に力強いリーダーシップを発揮している各地の国民解放委員会に期待と信頼を寄せ、それは日増しに大きくふくらんでいった。  こうした空気の中で、国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世は六月五日に退位のやむなきに到り、皇太子ウンベルト二世を摂政に据えた。ムッソリーニを二十二年前に首相に任命した当事者である国王は、王室の存続をはかるためにも、表舞台から姿を消しておく必要があった。  次いで十日には、バドリオ政権が当然ながら倒壊、ウンベルト二世は後継首相として国民解放委員会議長のイヴァノエ・ボノミを任命した。ボノミはムッソリーニが政権に就く直前まで首相の地位にあった社会党政治家である。  それにしても、連合軍のローマ入城からわずか数日のうちに、国王退位と政権交代がほぼ同時に行なわれ、特に新首班に国民解放委員会のトップが据えられたことは、イタリアの空気の大転換を示すものであった。二年後の一九四六年六月、政体決定の国民投票で、国民は共和制を選び、王制は廃止されたうえ、王室は国外亡命の憂目にあうことになる。  その夏(一九四四年)、イタリア戦線は、中部に展開していた。七月にはリヴォルノ、八月にはフィレンツェと、パルティザンがそれぞれ解放した。同時に連合軍が相ついで入った。アドリア海の要衝リミニも九月にパルティザンの支配するところとなった。  秋、ドイツ軍は、日に日に北イタリアに後退を余儀なくされた。ミラノ、トリノ、ヴェネツィアだけでなく、ポー河沿岸、アルプス山中でもパルティザンが活発に動いた。これにドイツ軍、ファシスト側が血の報復を加えた。イタリア半島は血みどろであった。  その十月、突然カステッラーノに本国帰還の人事が発令された。少将昇進と北イタリアのヴァレ・ダオスタ方面軍付への異動である。約一年一ヵ月ぶりに本土の土を踏むことになった。  しかし、彼を待ち受けていたものは、それから長く続く悲運の年月であった。イタリア国防省の人事記録によると、カステッラーノは「四四年十月十二日付で少将に昇進」したものの、任地はフランスとの国境に近い「ダオスタ方面軍司令部付」である。これをわずか三ヵ月半務めて、翌年二月一日付でローマの戦争省に移り、内容は不明だが特命任務に就く。それもわずか四十日足らずで、次いで南のバーリ軍管区司令部付に変る。戦後の四六年七月三十一日までそこに留まることになる。  当時彼は、イタリア陸軍でいぜん最年少の将官であった。しかも、軍・政府の特命を受けて、休戦を実現した人物である。その点からすれば、本国帰任後の彼への人事処遇は不自然さをぬぐい切れない。  果して、この人事異動の背景には、事実上「左遷」という要素が大きくひそんでいたのであった。 注1 「LA SECONDA GUERRA MONDIALE」P. 1380 あらぬ幾つかのぬれぎぬ  カステッラーノの帰国前、すでにこの若き将軍の名は、イタリア国内で静かに語られていた。ムッソリーニ逮捕の立案・指揮官、さらに休戦の調印者という偉業からである。イタリアの内外から、断片的ながら明るみに出されていた。  ドイツが地団駄踏んだのは当然である。リスボンまで追跡したものの、もう一息のところで失敗した経緯があった。  イタリアのファシストにとっては、カステッラーノは、ファシズム大評議会のグランディ、チアーノにも勝るとも劣らぬ、いやそれ以上に憎むべき「仇敵」として映った。反ファシスト側からは、当初「ファシズム打倒」の最大の功労者と讃えられた。自分達ではなし得なかった「ファシズムからの解放」をやってのけたからである。それも休戦イコール平和の到来となれば、何ら問題もない論理となるはずであった。  だが現実には、イタリアは二分し、血で血を洗う内戦状態であった。ファシズム対反ファシズムのイデオロギー的戦争であった。反ファシズム陣営にとっては、「不手際な休戦措置」の故に、このような悲しむべき内戦状態を生じてしまったとする見解も現われた。したがって当初、カステッラーノを讃えた反ファシズム陣営の中にも、「休戦の仕方」がいかにもまずかったと指摘し、批判する声があがった。休戦を宣言したバドリオと国王を非難するうちに、カステッラーノも同罪と見る人々も出た。  さらに、カステッラーノにとって不幸な話もある。休戦と同時に首都を脱出した国王やバドリオ首相が、自分らに降りかかる非難の嵐を少しでも振り払うために、カステッラーノを「悪者」に仕立て上げたというのであった。たしかに休戦をまとめたのはカステッラーノであった。それゆえに、内戦はカステッラーノのせいだという一方的に短絡した思考が生れた。  その理由として、次のような指摘があげられた。カステッラーノが本国との連絡の際、正確な報告を行なわなかったのではないかとの疑惑である。この点は休戦実現の時にすでに、イタリア軍首脳の間でも囁かれた。  その第一は、休戦宣言を予告するBBC放送による「ヴェルディの音楽」などが、カステッラーノの報告どおりでは全くなかったこと。第二は、アメリカ軍によるローマ降下作戦が実施されなかった点である。  第一の点については当初、受信担当官が席をはずして聞き洩らしたとか、サボタージュとか疑われた。しかし録音テープを根拠に担当官は強硬に反論した。その結果、カステッラーノに疑いがかけられたのであった。アルジェにいた彼に責任がなすりつけられたわけである。  しかし、カステッラーノの名誉にとって幸いなことに、何とこのBBC放送はBBC側の手違いで、全く放送されずにいたことが、戦後しばらくして判明したのである(注1)。それによると、連合軍最高司令部は一九四三年九月六日、アルジェのラジオ・オペレーターを通じ、ロンドンのBBC本社に「八日に放送」を指示したが、BBCのミスで放送されなかったのであった。当時、ロンドンはドイツ空軍の猛爆下にあった。  第二の点は、第一〇章で述べた通り、バドリオはテイラーらに「降下作戦の中止」を要請したまま、ブリンディシに脱出してしまった。中止を知るのは、ほかにカルボーニら限られた極く少数でしかなかった。このため、他の首脳たちは、降下作戦は行なわれるものと思い込んだままであった。  こうして、カステッラーノは身に覚えのないあらぬ疑惑をかけられてしまっていた。彼は帰国後、それを知らぬまま不当な扱いをいつまでも受け続けることになる。  そのうえ、本土に戻った彼が、その目で見たものは、連合軍とドイツ・ファシスト軍の戦闘だけでなく、老若男女を問わず、パルティザンとなった一般市民や兵士が、ドイツ軍とファシスト軍に抵抗し、果敢に戦っている悲惨な戦争の実態であった。  翌四五年四月、北イタリアでドイツが降伏し、ムッソリーニがパルティザンに捕まって処刑された段階で、この戦争によるイタリア軍の損害は、戦死二十四万二千二百三十二人、戦傷六万六千人、行方不明三十五万人である(イタリア外務省調べ)。  さらにパルティザンも多くの人命を失った。一九四六年イタリア外務省が公表した数字は戦死が全土で三万五千八百二十八人、重軽傷二万一千百六十八人、ドイツ軍の報復で殺された者九千九百八十人となっている。  しかしその後に行なわれた別の調査では、その数字はさらに増え、この調査を行なったロベルト・バッタリア(ROBERTO BATTAGLIA)氏によると、戦死者は全土で四万六千人、戦傷者二万一千人、国外での死者三万人、ドイツの労働使役に徴用された未帰還兵三万三千人、ドイツで殺害されたイタリア政治犯八千人などとなっている。  こうしたパルティザンが活動したイタリア各地の市町村の中心広場には、戦没したパルティザンを顕彰する記念碑や、大理石にはめ込まれた写真などが飾られている。今日もそうした場所には花束が絶えない。  またイタリア各地には、連合軍やドイツ軍の戦死者の墓地がある。まずローマから南へ約六十キロのネットゥーノのアメリカ軍兵士の墓地。シチリア戦線からローマまでの戦闘で戦死した兵士が葬られている。  樹高二十メートルもの傘松の林にかこまれた広大な芝生の上に、七千八百六十二人の白い墓標が果しなく整列している。その十字架には名前、生没年月日、出身地が刻まれている。アメリカ兵の墓地はこのほかフィレンツェ南部にもあり、北イタリア戦線での戦没者四千四百二人が眠っている。  ローマ市内北辺にはフランス軍戦没者の墓地がある。イタリア外務省の裏手ファルネジーナ街の広大な一角である。十字架の墓標のほかに土饅頭型の塚もかなりあった。前者はキリスト教徒のものだが、後者は当時のフランス植民地モロッコ、アルジェリア、チュニジア出身のイスラム・アラブ兵の墓である。  一方、ドイツ戦没兵の墓地は、ローマ南郊三十キロのポメーツィアという小さな町はずれにある。延々と十字架が連なり、十字架の数はアメリカ兵のネットゥーノ墓地の四倍近い二万七千四百三十。どの墓地もそれぞれの国が管理している。  イタリア兵の墓地は、それぞれの故郷にあるが、本土に戻り、戦争や内戦で斃れる多くの敵味方を目撃して、カステッラーノは悲痛な日々を送った。一九四五年五月、戦争が終結したあと、次のように書き留めている(注2)。 「もし私が連合軍に進言したようになっていたら、ドイツ軍はサレルノで幾日も持ちこたえることはなかったであろう。(中略)そして敵味方からかくも多くの人命が失われなくて済んだであろうし、我が国が突如として大きな悲劇にあうこともなかったであろうに」  カステッラーノが祖国の土を踏んで以来、見ること聞くことすべてが、大痛恨事のひとことに尽きた。ぜひとも避けるべきことが、何と現実に起ってしまっていたからである。そうならないように、彼は万全の策を——つまりせめてチヴィタヴェッキアに大量の連合軍を上陸させるよう、連合軍首脳に口をすっぱくして説いたのではなかったか。そしてローマ近郊への連合軍降下部隊の派遣も——。  しかし、それらは実現しなかった。  激しい内戦状態の中で、彼を擁護する者はいなかった。 注1 D. BARTOLI「L'ITALIA SI ARRENDE」P. 88 注2 G. CASTELLANO「COME FIRMAI」P. 200 ローマでカルボーニら糾弾  カステッラーノが本国に帰ったその十月、ボノミ政権下のローマに「ローマ防衛失敗に関する特別調査委員会」が設置された。  この調査委は、カステッラーノにも少からず関係のあるものであったが、彼には何の連絡もなかった。  公式記録によれば、この特別委員会委員長には、戦争省次官マリオ・パレルモなる人物が任命された。この人物は共産党員で国民解放委員会に属する政治家である。戦後イタリア共産党書記長となったパルミーロ・トリアッティとも親交があり、トリアッティが亡命先のモスクワから帰国して一九四四年四月二十二日、サレルノで第二次バドリオ内閣に副首相として入閣した際には、このパレルモは法務次官に就任していた。  この特別調査委の任務は、休戦と同時に首都ローマを脱出、国民と軍隊を放棄した結果として、祖国をドイツ軍の手にゆだね、以後イタリアの国土を血まみれにした王室、政府・軍首脳を糾弾する意図を秘めていた。すでにファシズムに対する戦争の帰趨は明らかとなりつつあり、パレルモ委員長らは、戦争終了後のイタリア政治のデザインを描こうとしていたと思われる。  この調査委は四四年十月から翌四五年二月まで続き、三月に入ってから最高責任を負うべき人物に対し、次々と非難決議を発し、特にローマ防衛責務を果さなかった軍高官を特別軍事法廷に告発して終了した。非難の対象となった主要人物は次の通りである。  前国王ヴィットリオ・エマヌエーレ三世、前首相ピエトロ・バドリオ、参謀総長ヴィットリオ・アンブロージオ、陸軍参謀長マリオ・ロアッタ、ローマ防衛機甲司令官ジァコモ・カルボーニである。  カルボーニ以外はすべてブリンディシに脱出した面々であった。これら“犯罪人”の一人ひとりに、同委員長は要旨次のような“断罪”を下した。  まず国王に対しては「国家に対する最高の権益を損う裏切り」を強調、首都を捨てて国民と軍隊を放棄した責任は、国王としての資格なしときめつけた。同時にまたイタリアを第二次大戦の惨禍の中に放り込んだムッソリーニを、国民の意志と関りなく、自らの意志で国家首班に任命した責任を容赦なく非難した。  まだ戦火が続いている最中に、王室をこのように断罪したことは、戦場となっている中部、北部のパルティザンや反ファシスト政治家を大いに鼓舞したことは否めない。ひいては王室への国民的不信を高め、それが翌四六年六月の政体決定国民投票での王制廃止、共和制施行につながったことに、あずかって力があったことは言うまでもない。  ヴィットリオ・エマヌエーレ三世はすでに退位していたが、摂政であったウンベルト二世は四六年五月、正式に即位することになる。  ここでこの国民投票の結果にふれておくと、共和制支持千二百七十一万七千九百二十三票、王制維持千七十一万九千二百八十四票であった。約二百万票の差で共和制が勝ち、王制は潰《つい》えたのである。  極言すれば、十二対十という少差での共和制の勝利であった。マリオ・パレルモの狙いが、果してそのことまで展望していてのものであったかどうかは明らかではない。  次にバドリオに対しては、国王と同様「一国の首相としての全責任を放棄した」ときめつけ、特に「連合軍と休戦を話し合っているイタリア政府代表に対し、政治・軍事的な適切な指示を与えなかった」責任を問うた。いうまでもなく、カステッラーノヘの的確な連絡を怠ったことを糾弾したのであった。  さらにまた「首相は本来、自らの決定に対して国王の裁可を仰ぐべき立場にありながら、何も決定することなく、無責任も甚しい日和見主義者である」ときめつけた。  アンブロージオも全軍の最高責任者でありながら、ローマを逃れ出た責任を厳しく追及された。特に九月七日夜、連合軍のテイラー、ガーディナー二人がローマ入りした時、トリノの自邸に帰っていた点は、連合軍のローマ防衛作戦計画に致命的な結果をもたらしたとして弾劾された。軍の最高責任者として、テイラーらと協議、連合軍側の要請に応えていれば、ローマ、ひいてはイタリアを惨禍に巻き込むことを防げたのではないかとの非難も浴びた。  トリノに帰っていたことにつき、アンブロージオは「休戦に関する書類をドイツ軍の手に渡らぬよう隠すためであった」と弁明したが、それは受け入れられず、一部からは財産の安全確保のためではなかったかとの疑惑さえ投げかけられた。  しかし、アンブロージオがカステッラーノと謀議してムッソリーニを逮捕し、さらにカステッラーノを派遣して連合軍との休戦に当らせた功績は多とするとして、最終的には免罪となった。  このアンブロージオは戦争終結後、自ら軍籍を去る。男らしいさわやかな進退であった。  調査委が最も手厳しく指弾したのが、ロアッタとカルボーニ二人であった。共に後日あらためて、特別軍事法廷に立たされることになるが、まずロアッタは陸軍参謀長でありながら、軍への指揮を怠り、ローマ離脱に際して数個師の軍をこともあろうにローマ東郊のティヴォリに移動させる命令を下すという大きな過ちを犯した責任を追及された。  さらにロアッタがかつて、ユーゴスラヴィア戦線で犯した一般市民に対する残虐行為も明らかにされた。しかし、彼は翌四六年、軍事裁判中に心臓病を理由に陸軍病院に入院、夜陰にまぎれて脱走に成功する。後日、彼はスペインに逃れて、独裁者フランコ統領に匿われていたのであった。誰がその脱走を助けたのかはいまもって謎とされている。  カルボーニはローマ防衛機甲司令官という地位にあっただけに、ロアッタの逃走後は、非難を一身に浴びた。ローマにいたにも拘らず、ローマ防衛の責任と義務をすべて回避してしまったからである。  ローマのポルタ・サン・パオロでのドイツ軍の市内侵攻に対して、イタリア兵と市民が抵抗している時、カルボーニは市内パリオリにある高級住宅街の自邸に引き籠り、部下の軍をその周辺に配置して、身の安全確保に汲々としていた。テイラー、ガーディナーに対しても、「ローマ防衛は手遅れ」と説明して、連合軍の降下作戦計画を御破算にしてしまったことは、委員会開催時にローマに連合軍司令部が移動していたために明らかになっていた。  委員長パレルモは「カルボーニの戦線離脱の行動と無責任さは、指揮官にあるまじき破廉恥極まりないもの。イタリア陸軍の歴史において、戦闘中にかかる行動に及んだものは他に例を見ない」と、軍人に対する最大限の屈辱と非難を浴びせたのである。カルボーニはその後も身柄を拘束されていたが、一九四九年二月十九日に「無罪」の判決が下り、自由の身となった。この背景には、当時の東西冷戦激化という国際情勢の成り行きもからんでいたようである。次のようなエピソードがある(注1)。  後年、マリオ・パレルモ委員長の子息が明らかにしたところによると、「当時、首相のボノミから父に一通の手紙が届き、バドリオなどを苦境に追い込まぬよう配慮して欲しい」といってきたという。  その手紙にはさらに「非難はしてもいいが、起訴にだけは持って行かないよう願いたい」との文字もあった。手紙のトーンは、要望というよりは指示に等しかったと語る子息は「いうまでもなく連合国からの介入があったと思う」とも述べていた。 注1 D. BARTOLI「L'ITALIA SI ARRENDE」P. 226 第一四章 カステッラーノの遺書 自ら真相究明に乗り出す  カステッラーノは一九四五年の春、ローマの本省で短期間過したあと、バーリ軍管区司令部に移されていた。パレルモ委員会の究明事項とは大いに関係ある人物でありながら、一度も呼び出しを受けなかった点については、バドリオらを糾弾する側からすれば、カステッラーノはバドリオの手先となって動いた人物でもあった。しかも、シチリアから正確な報告を怠ったという疑惑を持たれている人物でもある。  この際、一挙にイタリア国内に左翼勢力を拡大しようとしていたパレルモにとっては、国王とバドリオ、それに軍最高首脳という支配階級の代表を槍玉に挙げればコト足りることであった。特にカステッラーノが長期間、連合軍最高司令部に配属されていたことから、連合軍との面倒を引き起さないためにもカステッラーノの調査委召喚は避けるが安全という計算も働いていたのかも知れない。  バーリに移っても依然隠忍を続けたまま、カステッラーノは軍務を果すことに専念していた。だがある日、プラタナスの並木道を出勤途中、「どうして、あのG2作戦が突然、取り止めになってしまったのか?」の真相究明をあらためて思い立った。帰国後、一切の弁明はしなかったものの、休戦後の事態が、期待した方向とは全く逆の形をとってしまったことは、無念極まる痛恨事でならなかった。それにパレルモ委員会による調査結果は、必ずしもカステッラーノを満足させる内容ではなかった。  そして考えれば考えるほど、自分がマドリード、リスボン、そしてシチリアのカッシービレで連合国政府・軍当局者と体を張って折衝したこと、それに連合軍への作戦進言は、決して間違っていなかったことを自ら確認したい衝動に駆られ始めたからである。  そのカギはただ一点——どうしてG2作戦が実施に移されなかったのか? であった。当時、テイラーらから、やっと聞き出した報告によれば、降下地点である飛行場(複数)がドイツ軍に占領されている旨、イタリア軍高官から説明されたためとされていた。このため、そのイタリア軍高官の説明の解明が、自らに課せられた思いであった。不意に、ある一通の手紙のことを想い出した。休戦発表から約三ヵ月経った晩秋のことであった。その手紙は連合軍最高司令部にいたカステッラーノに、スミス将軍から届けられたものである。「確か、重要な意味を持つ手紙であったはず」と、いまさらながらその時のことを回想しながら、早速、その手紙を探し出して読み返した。次のような内容であった(注1)。 「G2作戦は、結局は実現しなかったが、私はその件をずっと考え続けています。これについては、我が方の司令部の全員、それとイタリア軍首脳がともに、勇気と確信および決意をこめて、この作戦実施に踏み切っていたら、本作戦は上々の首尾を挙げていたのではないでしょうか」  この文面は、カステッラーノの気持を改めて激しく揺り動かした。この手紙を受け取った当時、彼は本国の状況を詳細には知らず、G2作戦の中止もすでに過去のものとなっていた。だがいったん、その手紙を読み返した時、彼の胸の奥に「スミスはいったい何を言おうとしていたのか?」と、疑問が湧いて来た。  いま思えば、この書簡の行間からは、スミスが事情調査したうえで達した結論に基づいて、カステッラーノが進言したG2作戦を断行しておけばよかったと示唆してきたものであることは明らかだと受けとめた。彼はあの九月八日の痛恨に満ちた日のことを必死になって想い起した。  ……八日未明、ローマに潜行した連合軍のテイラー准将から、連合軍司令部に「G2作戦は即時中止されたし。イタリア側は休戦発表の延期も主張」との電報が入った瞬間に、今日までのカステッラーノの痛恨の日々が始まったのだ。 「何故? どうして?」  カステッラーノはあの日、電文を見せられて怒り、地団駄ふんだ。司令部内の空気が一挙に張りつめ、カステッラーノへ「ウソを言ったのでは……」との警戒心を見せた。誰も言葉をかけてこなかった。  その午後、ローマから無事に戻ったテイラー、ガーディナーから彼がやっと聞き知ったことは、要旨次の通りであった(注2)。  一、イタリア側(バドリオ、カルボーニ)は、ローマへの降下作戦は必要でないと考えている。  二、そのイタリア側によると、グイドニア、フルバーラ両飛行場とも、すでにドイツ軍が占拠。  三、連合軍は降下部隊着陸後、せめて三日間、イタリア側がドイツ軍に抵抗して欲しいと要望したが、イタリア側はせいぜい半日が限度との答えだった。  四、ドイツ軍は燃料と弾薬のイタリア軍への補給を制限しており、そうした状況下での降下作戦は自殺行為に等しいとのイタリア側の提言であった。  五、イタリア側によると、ローマはケッセルリンク指揮下の戦車二百台、砲百門の強力なドイツ軍部隊に包囲されており、イタリアの休戦公表と同時に、イタリアの軍首脳はドイツ軍により殺害されるだろう。  カステッラーノは、あまりのことに仰天したのだった。この作戦を進言したのは自分ではなかったか! ローマにも事前に知らせ、連合軍側からテイラーらが打合わせに行く旨を連絡していたではないか! それを作戦協議どころか、その必要がないとは! 一体、何が起ったのか? あの時、カステッラーノは、皆目見当がつかなかった。  カステッラーノが掌握しているイタリア、特にローマの情勢は、決してそんなはずではなかった。ローマとその周辺には九月八日現在、イタリア軍約五万の兵力があり、戦車も二百台、それに砲門も十分にあった。近郊飛行場の幾つかも事実上、イタリア軍が確保しているはずであった。燃料にしても、確かにドイツ軍は補給を抑制しており、バドリオ政権以後は、ムッソリーニ時代の月十一万トンから二万トンに激減したものの、ローマ南郊メッツォカンミーノの大貯蔵庫には緊急事態用備蓄が大量に保管されているはずで、しかも参謀本部が管轄しているものであった。弾薬もほぼ無制限で、自由に使えた(注3)。  カステッラーノは、テイラーに弁解しようとしたが、「今さら無意味だ」と諦めたのであった。肝心のG2作戦は、発進を目の前にして、中止されかつ搭乗兵員も戦闘態勢を解除してしまっていたからである。ただ、カステッラーノが恐れたのは、連合軍側が自分に疑惑の念を強めるのではないか、それにより、以後、自分の進言は無視されてしまうのではないか? ということであった。「イタリアを救うために!」と、ただそれだけを考え、ひたすら誠実を心掛けて、連合軍側に協力して来た。それがすべて水泡に帰してしまったのであった。  このスミスの書簡を改めて幾度も読み返したいま、彼は当時のローマの実情を調べ上げようと固く決意した。つまり、四三年九月八日のローマ市とその周辺のドイツ軍兵力、およびその配置の究明である。それによりテイラーがイタリア軍首脳から聞かされたように、ローマは果してドイツ軍が圧倒的で、G2作戦の降下部隊降下予定の飛行場もドイツ軍に握られていたのかどうか、さらにひいては、G2作戦の突然の中止がイタリアの休戦後の悲劇につながったのではないかが立証、確認出来ると考えたのである。しかも、それによってのみ「真正の事実」がつきとめられ、作られつつある歴史の誤りも修正されるはずと確信した。そして何よりも、それは軍人としての自分の誇りのためであった。  イタリア国内での戦闘が全面的に終息したのは、一九四五年四月末である。北イタリア各地のパルティザンが一斉蜂起し、ドイツ軍は降伏、本国に撤退を開始した。その集団の中に身をひそめていたムッソリーニはパルティザンの手で捕まり、処刑された。四月二十八日夕方であった。連合軍がそのあと各地に入って、残留ドイツ軍が五月四日に降伏に調印する。イタリアは戦後、四月二十五日を「イタリア解放記念日」と制定した。 注1 M. S. DAVIS「WHO DEFENDS ROME ?」P. 366 注2 G. CASTELLANO「EUROPEO」誌 1965年2月7日号 注3 R. LAMB「STORIA ILLUSTRATA」誌 1983年9月号 正しかったカステッラーノの進言  カステッラーノは早速、資料探しに取組んだものの、その本格究明は、容易ではなかった。目指すローマ周辺のドイツ軍兵力の実態に関する辛うじて信頼出来る数字を見付けたのは、何とそれから十年後の一九五四年のことである。西ドイツで出版された元イタリア派遣ドイツ軍司令官ケッセルリンク元帥の「ケッセルリンクの記録」が、「戦争日誌(LA MEMORIA DELLA GUERRA)」の題名でイタリア語訳され、刊行されたからであった。  それまでにもカステッラーノは一人で記録を探したり、書類を引っくり返したが、休戦後の混乱やドイツ軍のローマ敗走による散逸などのため、公式数字の確認は困難なワザであったが、ローマ占領の当事者ケッセルリンクの証言によって、カステッラーノの追求が報われたのは思いがけぬ喜びであった。カステッラーノが発見した「証言」は、次のわずか数行であった(注1)。 「イタリアの休戦発表当日、ローマとその周辺のドイツ軍兵力は、同地域のイタリア軍の三分の一に過ぎなかった」  具体性に欠ける表現で、実数や配置実態に触れていない点は致命的でもあった。だがイタリア兵力が圧倒的に優勢なことだけは確認出来た。当時としては有力な収穫というほかはなかったが、カステッラーノにとっては、表現のあいまいさが気に入らなかった。それにしても、この数字や表現は、地獄の底に落ちて、再び人間の目に触れることのない運命を背負ったものであった。というのは、ケッセルリンクは本来ならば、その頃この世にはいなかったはずであったのが、幸運にも生き延びて、「戦争日誌」を書き残すことが出来たからであった。  彼はイタリアが休戦を発表した後、サレルノ上陸連合軍のイタリア侵攻を食い止めるために、ローマ南方に兵力を補強し、連合軍に頑強に抵抗して時間をかせぐ間に、ドイツ軍を北イタリアに集結させることに成功した。しかし、イタリアの反ナチ・パルティザンの抵抗に会い、ついに敗退を余儀なくされたのである。  だがかねてヒットラーの覚えも目出度かったところから、その後、ドイツ陸軍最高首脳の地位に昇りつめていた。ドイツ降伏に伴い、連合軍に身柄を拘束され、一九四七年五月、ヴェネツィアで開かれた連合軍軍事法廷で「死刑」を宣告される。この裁判で、「ドイツ軍がイタリア占領中、イタリア兵捕虜ら多数を銃殺・虐殺した廉《かど》の最高責任者」として告発されたからである。しかし、その年の十月には「終身刑」に減刑され、さらに一九五二年十月には「釈放」という処置がとられ、九死に一生を得たのである。第二次大戦終結とともに表面化した東西両陣営間の冷戦激化により、このような措置がとられたことが、ケッセルリンクに「戦争日誌」を世に出させることになった。同元帥は一九六〇年、七十四歳で没した。  その頃、カステッラーノは、歴史の表舞台から完全に身を引き、自ら目立たぬ存在になり切っていた。ただ、執念ともいうべき、追求の手はゆるめなかった。目指すは、問題のドイツ軍のローマ配備資料の探索である。  一九六四年、西ドイツ南部フライブルクに国立西ドイツ国防軍古文書館が新設されたことを聞いたカステッラーノは、いち早くそこを訪ねた。戦後に収集された軍事史料・資料が整備されていると耳にしたからである。市内のホテルに長期逗留し、その古文書館に通い、連日、大量の資料に目を通しているうちに、やっと一枚の公文書を発見出来た(注2)。 「(一九四三年九月八日)ローマ地区には二万六千八百五十五人の我が(ドイツ)兵力が配備中である。この兵力は同地区のイタリア兵力の約半分である」  ケッセルリンクの「戦争日誌」では、ドイツ軍勢力はイタリアのそれの三分の一だったとされ、この公文書では二分の一となっていた。この場合、「三分の一」と「二分の一」では大きな違いである。事実追求の鬼となっていたカステッラーノは、ケッセルリンクを訪ねて直接に当ってみようとしたが、肝心なその人物は四年前に没していることを知らされた。その古文書館によると、ケッセルリンクの参謀長ジークフリート・ヴェストファルが健在とのことが分り、そのままその隠居先バートゴーデスベルクを訪ねて長時間、話し合うことが出来た。  その結果、「私の計算では、一九四三年九月八日当時、ローマ周辺でのドイツ軍は、空軍を含めても約二万人に過ぎなかった」との証言を得た。この数字は、公文書にも近いものであったが、ヴェストファルはさらに、次のような注目すべき当時の実情を打ち明けたのである(注3)。 「あの当時、我が方は連合軍降下部隊の来襲の可能性と、またイタリア軍が側面から攻撃をかけて来た場合とを、ずっと検討しつづけていた。あの時期は大戦を通じて、我々としては最もつらかった」  カステッラーノにとって、この証言は従来の資料に一歩踏み込んだ重要な意義を持つものであった。しかもその点につき、ヴェストファルは翌年に出版した「メモリー(記録)」の中で、次のように具体的に記述していたのである(注4)。 「(一九四三年)九月八日に、連合軍降下部隊がもしローマ周辺の飛行場に降下して来たら、ケッセルリンクは間違いなく、その指揮下のドイツ軍を北方に撤退させたであろう。当時、そうなれば我が軍はサレルノ防衛どころではなく、その後の連合軍はほとんど無抵抗で首都ローマに進撃し、さらに北に進出出来たであろう」  ヴェストファルがカステッラーノと会見した時は、この本の執筆中か、出版を待っていたのかも知れないが、この記述は、カステッラーノの判断の正しさを立証する決定的材料であることはいうまでもなかった。つまり、G2作戦が実施された場合、それはカルボーニの言うように「連合軍の自殺行為」どころか、逆に「連合軍の奇襲勝利」をもたらすはずであった。それは同時に「ローマ解放」、さらにはローマ以北のドイツ軍の早期撤退を促すものでもあったであろう。  この事実の公刊は、カステッラーノが言わんとしていたことを、敵側の指揮官が代弁し、立証してくれたことになる。カステッラーノは、休戦実施と並行した連合軍作戦への自分の進言が正しかったことが、少くともG2作戦に関しては立証されたことに、内心誇りを感じずにはいられなかった。しかし、こと志と違って展開してしまったその後の悲劇的実情と敵味方の大きな犠牲を思うと、悲しみと哀れさが重くのしかかって、いてもたってもいられぬ心情であった。  その頃、彼はそれ以外にも貴重な幾つかの事実を調べ上げていた(注5)。中でも重要なのは、グイドニアとフルバーラ両飛行場は、九月十四日に事実上ドイツ軍の支配下に置かれたことを確認したことである。もう一つの事実として、テヴェレ河口への連合軍進出も実際には可能であったし、テイラーらが供出を要求したトラック四百台にしても、半分の二百台は軍用トラックが確保されていた。残り半分は民間車を徴発可能の状態であったことも判明していた。  だがこうして、当時の事実が新しく解明され、判明したところで、すべて後の祭りであった。それだけにカステッラーノの胸は悲痛な想いに一層痛んだ。原因はただ一つ、イタリア軍首脳がテイラーらに「虚偽の情勢報告」をしたためであり、逆に言えば、テイラーらはイタリア軍首脳に安易にだまされてしまったことにあった。  九月七日夜から八日未明にかけて行なわれたわずか数時間のローマでの敵味方双方による密談が、途方もないその後の悲惨な歴史を作り出してしまったのである。むしろ、この会談などなかった方がよかったのかも知れない。そうすれば、G2作戦は計画通り強行されたかも知れないからである。しかしすでに戦争が終ってから二十余年はたっていた。カステッラーノは悲憤のやり場もなかった。  この二十余年の間、イタリアは他の交戦国と同様、経済再建に懸命に当り、イタリアはいわゆる「奇跡の経済復興」を成し遂げていた。戦争中の悲劇の究明は、むしろ大方の国民の関心の外にあった。  とはいえ、一部の知識人達は執拗にファシズムと、内戦をもたらした休戦当時の真実の究明に地道に取組み、着実な研究成果を挙げつつあった。一九六〇年代以降のことで、国民の多くも徐々にそれらに目を向けてきていた。 注1 R. LAMB「STORIA ILLUSTRATA」誌 1983年9月号 注2 G. CASTELLANO「ROMA KAPUTT」 注3 G. CASTELLANO「EUROPEO」誌 1965年2月7日号 注4 R. LAMB「STORIA ILLUSTRATA」誌 1983年9月号 注5 G. CASTELLANO「EUROPEO」誌 1965年2月7日号 遺書「破滅のローマ」  西ドイツで貴重な「証言」や数多くの資料を得たカステッラーノは、郷里のプラートの家の書斎に閉じ籠り、執筆に没頭する。主題は「一九四三年九月八日現在のローマとその周辺におけるドイツ軍勢力と配置」の一点につきた。しかし、書き進めるにつれ、彼の筆先は「なぜあの時、G2作戦が中止されてしまったのか!」の痛恨の念に早変りしてしまうのであった。  こうして幾つかの高級週刊誌、新聞にもそれらを寄稿した。そのどれも、二十年間、心の奥底に秘めていた激しい痛恨がほとばしり出ている。その一つをとりあげてみる(注1)。 「あれから二十一年が過ぎた。我がイタリアの歴史のあの暗黒の日々を想い起すと、いつものことながら胸が張り裂ける思いに駆られ、心臓の鼓動がにわかに早まるのをどうすることも出来ないのである。あの頃の日々は、私の軍人としての生涯において、最も苦悩に満ちていた。(中略)G2作戦が突如として中止された時、イタリアの悲劇が始まったのである。連合軍の上陸作戦と相呼応しての降下作戦こそは、イタリアの起死回生への決定的切り札であった。結論として私は、一九四三年九月に始まったイタリアの悲劇の幕は、連合軍のローマヘのあの降下作戦の中止から切って落されたと、今もって確信している」  また次のような心情も吐露する。 「もしあの九月、私が連合軍に進言した通りに、そして連合軍がそれに同意したように、あの一連の作戦が実施に移されていたら、あれから後のイタリアの悲劇は起らなかったろうに。そして大量の犠牲者を出すこともなかったろうに。どう考えても、返すがえすも残念至極である」  事実、カステッラーノが、かつての敵側の首脳らからとった「証言」では、一九四三年九月八日にもしアメリカ軍の降下作戦がローマ近郊で行なわれていたとすれば、首都周辺のドイツ軍は撤退し、ローマに対するドイツ軍占領はあり得ぬばかりか、ローマ南方のドイツ軍は白旗をかかげ、かつローマ北方ドイツ軍の北部への撤収は十分あり得たのである。そうなれば、イタリア内戦の悲劇はかなり防げたはずであるし、連合軍の北進は容易に行なわれ得たことになる。  しかもあの九月八日、シチリアの南岸リカータ飛行場を中心に、アメリカ降下部隊一個師団が進発態勢をととのえ、一部はすでに飛び立って、編隊を組むために上空で待機中であった。これら輸送機はアメリカ、イギリス本土はもちろん、北アフリカのビゼルタやアルジェから集めたものであった。司令官リッジウェイは、突然の中止命令にとまどったものの、すでに上空にある一部の編隊に中止を徹底するのに全力をあげざるを得なかったのである。歴史の運命を分けた一瞬というほかはない。  降下師団の兵力編成は、最低七千から八千人。小型の火器類はすべて装備し、即戦力は十分である。作戦実施に当っては、上空から降下部隊を援護する別動航空隊が加わる。当時のローマ周辺のドイツ軍は約二万七千。その倍以上のイタリア兵が配備されているラツィオ州内のフルバーラ、グイドニア両飛行場にアメリカ降下師団が降下して周辺のイタリア軍と協力して当れば、兵力数から見てもドイツ軍を容易に圧倒出来たはずである。だが、バドリオとカルボーニの中止要請によって、カステッラーノによるこのイタリアの起死回生のチャンスは失われてしまった。降下作戦こそはイタリアにとって、文字通り千載一遇の好機であった。それだけに、その中止は無残な痛恨以外の何ものでもなかった。それはカステッラーノにとってだけでなく、イタリアの悲劇だったのである。  カステッラーノにとって、「ムッソリーニの戦争」を途中で中止することは、当然、大きな危険が伴うことは百も承知であった。ドイツと地続きであるし、かつ同盟軍としてイタリア本土で共同で連合軍に当る態勢にあったからである。そうした態勢の中で、突如イタリアが戦列から離れれば、ドイツ軍は否応なしに連合軍と単独で戦争を続行しなければならなくなる。となれば、ドイツ軍はイタリアを占領せざるを得ないのは自明の理であった。  だからこそ、そうした事態を避ける手段として、カステッラーノは連合軍首脳に対し、ローマ以北への大量上陸、さらにはローマ周辺への降下作戦を重ね重ね、口を酸っぱくして主張したのではなかったか。特に降下作戦はドイツ軍の北部への撤退を確実にするものと、彼は確信していたのである。  幸い、連合軍側はこの進言を採用し、「G2作戦」として実施に移すことを約束、カステッラーノと共に降下飛行場をグイドニア、フルバーラと決め、発進準備も進めていたその瞬間に、この作戦は中止となった。カステッラーノの言うように「どう考えても痛恨至極」でならなかったのである。だからこそ、戦後二十年もかけて、執念の鬼と化して、「あの九月八日」を追跡調査したのであった。  しかし、今さら、歴史は戻ることはない。自分の信念と連合軍への進言が誤りでなかったことが実証されただけでも、せめてもの慰めであった。そして自分の期待が実らなかった結果になったことについては、当時のローマの混乱のためと考えた。誰の罪でもないと思ったようである。そうした思いを込めて、彼は一九六七年、「ROMA KAPUTT(破滅のローマ)」をまとめ、出版する。  題名のKAPUTTはドイツ語から転化したイタリア語で「終った」とか「破壊された」の意味を持つ。ドイツ軍により息の根を止められ、破壊されたローマという思いから、こうした題名がつけられたのであろう。あるいは「駄目だった当時ローマにいた首脳」という意味でもあろうか。同書はカステッラーノの「遺書」ともいうべき性質のものである。その中で彼が是非とも言い残したかったことを短くまとめて見ると、次のようになる。 「一九四三年九月八日の出来事については、これから長年にわたり、さまざまに語り続けられるであろう。恐らく容易に結着はつけられまい。人間の考え方の相違、非難、弁解、論争、事実の尊重や無視、人間の誠意、人間の臆病さと勇気などが入り乱れるであろうから。これが人間の世界かも知れない。しかし私はどうしても断言したい。私は今日なお、あのG2作戦が実現していたら、イタリアの悲劇をせめて軽くし得たものと確信している」 注1 G. CASTELLANO「EUROPEO」誌 1965年2月7日号 終 章 退役させられていた将軍?  一九七七年八月三日のイタリア各紙は、ジュゼッペ・カステッラーノ将軍の死を報じた。死去から三日目の記事であった。このことはカステッラーノが田舎に隠棲し、世間もこの「歴史的」人物を忘れ去っていたことを示していた。  有力紙ラ・スタンパで見ると、内政面トップに、カッシービレの連合軍天幕内で休戦に調印した三十四年前の写真付きで、五段見出しの大きな扱いである。ボローニャ支局二日発として、死去の事実を短く伝えた記事とともに、著名な評論家ジュゼッペ・マイダ氏の解説が続き、ページの四分の一以上のスペースを占めている。「遅くなった大ニュース」であった。  主見出しとソデ見出しは次の通りで、将軍のすべてが分るようになっている。 「カステッラーノ将軍死去。四三年にカッシービレで休戦に調印した人物。大戦におけるイタリア最後の主役が消えた」 「ムッソリーニ逮捕を計画。バドリオの代理で極秘裏にリスボンに行き、休戦を交渉。晩年はひっそりと暮してきた。享年八十三歳」  いわゆる「時の人」「知名人」ならば、これほど詳しい見出しは必要なかったであろう。  記事はこう書かれている。 「九月八日の休戦を連合軍とカッシービレで調印したジュゼッペ・カステッラーノ将軍がボローニャ県ポレッタ・テルメの病院で一日死去した。葬儀は四日、同地で密葬により行なわれ、同地の墓地に埋葬される。将軍は一八九三年プラート生れ。約八ヵ月前に心臓の手術を受け、ペースメーカを使い、快方に向っているとされていたが数日前に悪化、死亡した。心筋梗塞であった」  続くマイダ氏の解説は、将軍がムッソリーニの逮捕を計画、王室の同意を得て実行するとともに、バドリオの特命を受けて苦心の末に休戦に調印した経緯を戦後世代にも分るように詳細に紹介する。  読み進むうちに、この将軍を知る人も知らぬ人も、イタリア休戦とその後に続く内戦の悲劇をいちように想起した。しかし突然「おやっ」という意外な記述に遭遇する。それはカステッラーノがイタリア解放後、「一九四七年、まだ五十四歳の若さにも拘らず、現役を退く処遇を受けた。その後はイタリア中部の故郷で、ホテル協会、温泉保養地協会設立に尽力し、その会長に選ばれた。その間、成功をおさめた数冊の著書をまとめた」の個所である。この事実は、知る人ぞ知るところではあったが、特に戦後の人々に「このような“英雄的行為”にも拘らず……」と理解し難い思いを抱かせたのである。それは後述するとして、解説は次のようにしめくくっている。 「ムッソリーニ解任から九月八日の休戦発表にいたる間の、イタリアの苦悩に満ちた時期の、彼は立役者の一人であった。しかしその献身的な努力は報われなかった。彼は連合軍とバドリオに巧みに利用された一つの歯車に過ぎなかった」  多くの読者の関心を呼んだのは、この「五十四歳で退役」の活字である。彼は確かに一九四七年に、バーリ軍管区司令部付の後、故郷に引き籠った。それも第一三章で述べた戦争末期のカッシービレからローマへの報告に関し、あらぬ疑惑を受けたことが原因であった。四七年当時まだ疑惑は晴れぬままであった。  確かに休戦に道を開いたのはカステッラーノではあったが、三週間後には、バドリオがアイゼンハワーと本格的休戦協定をマルタで調印した。そのうえ大戦末期、北イタリアのパルティザンがムッソリーニを処刑、ファシズムからの解放を達成する。カッシービレの調印、ムッソリーニ逮捕を成し遂げたカステッラーノの偉業も、こうして戦争終結とともに色褪せ、将軍自身の影も薄くなっていた。  戦後間もなく、ファシズム体制の崩壊に続き、王制が否定されて共和制実施(一九四六年六月)へと、社会変革の嵐がイタリアを激しく揺さぶった。その嵐の中で、カステッラーノが戦中にふりしぼった「救国の思い」は無視され、バドリオ政権の一味同様とみなされて退役の憂目をみたのである。  実は、彼がそれを甘受したふしがある。畏敬する先輩ヴィットリオ・アンブロージオは、休戦成立後早々に参謀総長を自ら辞任、一時閑職に就いたあと、リビエラの保養地アラーシオに引退してしまった。カステッラーノはそれを見習ったかのように生れ故郷プラートに帰ったあと、北に三十キロの人口二、三千の温泉保養地ポレッタ・テルメに書斎付きの家を借り、そこを拠点に自分のたずさわった戦争中の記録や文書を保管、資料を集めて執筆活動に努めたのであった。  その彼が、それから三十年間も、自分の軍人としての名誉から「あの一九四三年九月八日」の究明に孤独の戦いを続ける姿は、彼が発揮した国民を救うという「真の愛国心」を知る人達にとっては、悲壮とも映っていた。  しかし、カステッラーノ将軍が「退役させられた」のは事実ではある。戦後吹き荒れた嵐の中で、軍首脳は“追放”された。巻きぞえをくらったのである。だが実はカステッラーノに限って、いぜん軍籍にとどめられていたのである。戦後のイタリア新政権と軍部は、当時の激動の嵐に抗し得ず、戦争中の軍首脳を軍籍離脱処分に付したものの、カステッラーノには秘かに「例外」の処遇をしていたのである。この点は、一般には知られていなかったことである。従って新聞記事などに「退役させられた」と書かれたわけだが、事実は必ずしもそうではなかった。  現にイタリア国防省人事記録によると、軍籍として「一九四七年六月二日から一九五九年九月十一日までローマ軍管区司令部付」となっている。さらに在籍記録は次のように続く。  一九五九年九月十二日 予備役編入  一九六六年九月十三日 予備役退役  一九七〇年七月七日  イタリア陸軍名誉大将に任ず  一九七七年八月一日  ポレッタ・テルメで死亡  カステッラーノの生年月日は一八九三年九月十二日である。したがって、満六十五歳で現役を解除されていることを意味し、いわば定年退職したことになる。しかもその後、予備役の期間が続き、軍人最高位の大将の地位を与えられている。  当時のイタリア政府と国防省首脳は「人間を見る目」を持っており、カステッラーノに最高の処遇を尽したのであった。 さまざまな評価  カステッラーノ将軍が死去したのちも、イタリア休戦秘史の研究は、イタリア内外の専門家、研究者、歴史学者らによって続けられている。それは単にイタリア現代史にとどまらず、第二次大戦史、平和の問題、人間と戦争、戦争に対する人間の意識——への関連と広がりを提起しているからである。  その発端は、自らが軍参謀本部の要員でありながら、「こんな戦争はやめてしまえ!」と、休戦への道を模索し、敵陣に乗り込んでそれを実らせた事実に、研究者・学者が目をとめたことにある。古来の戦争ではともかく、総力戦の近代戦争ではそうした例は見ないからであった。こうした行為は現代における「戦争と平和」の問題にも深く大きな示唆を投げかける。  戦後長らく、このカステッラーノ将軍に関し、研究者・学者の間でもさまざまな論議がなされた。  カステッラーノが、一九四三年九月八日のドイツ軍のローマ近郊布陣の実態を究明して発表したのち、まず相反する批評が現われた。一つは「自分の失敗に対する弁解」というものである。これに対して当然「カステッラーノが正しかった」とする説の二つめである。  前者は「カステッラーノは致命的な誤りを犯した」として、「九月十二日に連合軍が上陸、休戦公表をローマに予告した」ことを挙げた。この主張は現在も一部に根強い。著名なジャーナリストのルジェーロ・ザングランディ氏(イタリア現代史研究)や、同じくエンツォ・フォルチェッリ氏らで、フォルチェッリ氏は有力紙イル・メッサジェーロの一九八四年九月の「QUARANT'ANNI FA(四十年前)」特集で大要次のように述べている。 「当時、連合軍はイタリアの降伏を目指して強硬態度に出ていた。連合軍の上陸X日と同時に行なわれる休戦の日取りを、事前に正確にイタリア軍に知らせることなど、軍事的理由から到底あり得ない」  こうしてカステッラーノが、スミスの言葉を真面目に受け取るような甘い認識を批判し、カステッラーノの「十二日説」のおかげで、ローマ政府は八日の上陸で大混乱を来たし、政府の南への脱出につながってしまったとする。  一方、「正しかった」説は「騙された」説とともに多い。説得力を持つ代表例がイギリスの歴史学者リチャード・ラム教授の説である。同氏は第二次大戦中、イギリス陸軍の参謀を務め、イタリア戦線に参加、とりわけイタリア休戦締結に関心を抱いて歴史学者に転進した経歴を持つだけに、その調査・研究には高い信頼性が寄せられている。それによると——(注1)。 「一九四三年九月八、九両日、フルバーラ、チェルベテリ両飛行場には、ドイツ軍は一兵もいなかった。グイドニア飛行場は十二日までドイツ軍の妨害はなく、イタリア軍が使用していた。以上はいまや明白になっている。カルボーニ将軍は九月七日夜、テイラー将軍からG2作戦の概要を具体的に聞かされて、降下部隊と共同作戦をとるのは自分の部隊だと直感した。その場合、自分達がドイツ軍の矢面に立つことは必至となる。彼はそれを是非とも避けたかったのではないか。だからG2作戦中止を求めた。責任はこの将軍に帰せられる」  ラム氏のこの研究がイタリアで一般に発表されたのは一九八三年であった。カステッラーノはすでに他界していた。  ラム氏自身、アイクの最高司令部付で「九月三日の休戦調印の日、アイクは八日夜にアメリカ降下部隊一個師をローマ近郊の飛行場に降下させ、翌九日にはテヴェレ河口に同じく一個師を上陸させると約束していた」とも述べている。こうしたことからも、カルボーニの虚偽の現状報告に責任を見出しているのであろう。  またラム氏は、次の諸点を明らかにしている。 「カステッラーノが連合軍と接触した最大の使命は、連合軍がローマ防衛を約束するか否かの確認にあった。一方、連合軍は九月八日、サレルノ上陸と同時に、是非ともイタリアに休戦を公表させることを至上命題としていた。ただアイクはその日取りをイタリア側に伝えた場合、ローマでドイツ軍に洩れるのを極度に警戒していた。このため正確な日取りの口外を禁じていた」 「カステッラーノは、アイクに騙されたのも否定出来ない。サレルノ上陸はわずか五個師団でしかなかった。イタリア側はローマ北方にせめて十五個師をと望んだ。そのことをカステッラーノが事前に知っていたら、ローマ防衛は不可能だとして、彼は調印を拒んだはずだし、イタリア政府もそうはさせなかったろう。しかし連合軍は上陸地点を明らかにせぬまま、上陸作戦とG2作戦を約束した。このためカステッラーノも政府も、調印に応じる構えをとった」 「スミスがカステッラーノに、上陸X日を口にしたのは、あくまでもスミスの善意から出たものであった。それは上陸が近づいており、そう遠い日ではないことを、あのような形で発言したのであった」  以上、両説の主要点を挙げたが、カステッラーノ支持説の方が多い。戦争終結から三十六年経った一九八一年に出版された権威ある大戦研究資料とされている大冊「LA SECONDA GUERRA MONDIALE(第二次世界大戦)」(ファブリ社刊)が、同書の中で特にページをさいたカステッラーノ論がそれである。その重要部分を抜粋しておく(注2)。 「参謀総長アンブロージオは、カステッラーノを極めて高く評価していた。だが他の軍高官は必ずしもそうではなかった。陸軍の元老エンリコ・カヴィリア元帥(注・第一次大戦の勇将)は、一九四五年二月二十八日の日記に、休戦の詳細な経緯を初めて知って『なぜカステッラーノが休戦の交渉者に選ばれたのか。なぜこのような間違った選択しか出来なかったのか、全く不幸だった』と書いている。手厳しい批判だが、これは必ずしも正しくはない」 「カステッラーノへの評価は、ムッソリーニ逮捕のケースも、休戦交渉に関しても厳しいものがある。だがそれらは正当な評価とは思えない。確かにムッソリーニ逮捕の手段は、裏切り、反逆、陰謀であり、軍事クーデタでもある。反ファシズム運動とみられる理念はない。単に統帥を厄介払いしたというだけで、ファシズム政権打倒ということまでは、軍も王室も考えてはいなかったからである」 「カッシービレでの休戦調印については、歴史的にみてもバドリオがカステッラーノを派遣したことは正しい措置だったと、全体的に同意出来る。事実、カステッラーノは全力を尽した。彼は二週間の間、粘り強く交渉し、遂に連合国側をイタリアの味方に導いた。レンツォ・トリオンターラ(RENZO TRIONTARA)が最近書いた書物『VARZER DI MARESCIALLI(元帥達のワルツ)』中でも、カステッラーノは交渉において、連合軍の押しつけた条件を根本的に変えてしまったと述べているではないか」 「連合軍に対して彼は、イタリアがドイツとの枢軸関係を離脱し、対ドイツ戦での共同交戦国と認められることを熱望し、またG2作戦というアメリカ降下部隊によるローマ周辺への展開をとりつけ、これにより首都ローマのあるラツィオ州から、ドイツ軍の一掃を願っていたのである。カステッラーノに対してはまだ正当な評価がなされていない点があるようにみえる」  カステッラーノは、カッシービレと同じオリーブの林の見える静かなポレッタ・テルメの墓地に眠っている。  友人の敵将スミスは戦後、駐ソ大使、CIA長官を経て、アイクの大統領時代に国務次官となった。ローマに潜行したテイラーは、朝鮮動乱の際の第八軍司令官を務め、のち統合参謀本部議長からベトナム戦争末期の駐ベトナム大使であった。いずれもこの世にはいない。  シチリア島に、カステッラーノのための大きな記念碑が一つある。シラクーサから車で西南に十数分ほどの小村カッシービレのオリーブ林のそばにそれはある。彼が精魂込めた休戦を調印した場所である。戦後、建立されたもので、その壁面には、イタリア語と英語で次の文字が刻まれている。 「一九四三年七月十日、連合軍がこのシチリアに上陸した。そして一九四三年九月三日、イタリア軍代表ジュゼッペ・カステッラーノ将軍と、連合軍代表ベデル・スミス将軍が、大戦の休戦に調印した」 注1 R. LAMB「STORIA ILLUSTRATA」誌 1983年9月号 注2 同右 あとがき  書き終えたいま「歴史は文化であり、文化は歴史である」と、つくづく噛みしめている。カステッラーノ将軍が、そのことをみごとに体現してくれたと思わずにはいられないからである。 「この戦争はムッソリーニが始めたもの。ロクなことはない。国と国民を救うには戦争をやめるしかない」こういって実際に休戦を成し遂げた本書の主人公の名を知ったのは、一九五六年ローマにおいてであった。序章に述べたように、旧制中学時代にイタリアの終戦を誰がどのようにしてやったのかと関心を抱いてから十三年後のことである。  当時、初めてローマに暮して、このような人物は豊かな歴史と文化に育まれたイタリア社会だからこそ生れたのではないかと考えた。人々が驚くほど多様な価値観に彩られた社会であることを発見して、目を見張ったものである。ひるがえってあの戦争中、日本にはこのような人物が現われなかったことと思い合わせて、それが歴史と文化——つまり、社会と人間の相違に基因するのではないかと考えいたったのであった。  それにしても書き終えるまでに、何と長い歳月がかかったことか。三十年越しになってしまったと気付いて、我ながらあきれ返っている。いつも頭にこびりついていたイタリアの休戦について、初めて取材らしいことをしたのは、二度目の渡伊(一九五九—六〇年)の時であった。いまは世界的に著名になっているジャーナリスト、インドロ・モンタネッリ氏から、休戦とその内幕につき、詳しく事情を聴いた。  以後再三イタリアに渡り、気掛りなイタリア休戦について本格的に調べようと思い立ったのは、一九七〇年代に入ってからのことになる。それまでは本業に多忙で手につかなかったし、資料に乏しかったのが実情であった。いまから思うと、その頃までカステッラーノ将軍は人知れぬ辛酸をなめていたのであった。  一九七五〜七六年だったか、仕事で偶然、高級官僚のシジスモンド・ファーゴゴルファレッリ伯という人物と知り合った。本書内でも触れておいたが、伯は休戦時、ローマでドイツ軍と戦った陸軍大尉で、この人物から取材の輪が急速に広がった。休戦の経緯、カステッラーノ将軍の努力、人間像が描き出され、ノート、メモ帖もにわかに増えたのである。「機会があれば是非、将軍に会いたい」と念じていたが、私が帰国後の一九七七年に、将軍は死去された。「滞伊中、その気にさえなれば会えたのでは……」と、悔恨の極みであった。  その後、たびたび渡伊、また長期ローマ在勤の機に恵まれ、仕事の合間に関係者に会うなど取材を重ねることが出来た。とりわけ、震えるような感動にひたったのは、許されてイタリア外務省の倉庫のような古文書部で、保管文書を閲覧出来た時である。  カステッラーノ将軍が出先から送ったまぎれもない報告書もその中にあった。その古びて色褪せた報告書から一九四三年のあの日あの時の空気を肌で感じ、ゾクゾクしながらメモをとったものである。一部のコピーも頂いた。イタリア国防省でも同じ経験をし、貴重な資料も頂戴したことは幸いであった。  この三十余年のうち、前記モンタネッリ氏のほか、多数の専門研究者からも貴重な話や資料、指示、示唆を与えられた。一九八四年に亡くなられたパオロ・モネッリ、その後のルイジ・バルツィーニ両氏らも含まれている。  また、たまたま一九八三〜八四年は、「休戦」と「ローマ解放」の各四十周年とあって、イタリア有力紙が当時の紙面の復刻版を出し、特集面、特集号を組んだ。高級週刊誌も、さまざまな回顧、発掘記事を掲載した。単行本の出版もおびただしい数に上った。これらの中には、資料的価値のあるものも少くなかった。いずれもそれまでの取材を裏付けるのに、大いに役立った。  ともかく、この二十年間の取材やデータ収集作業中、興味は増すばかりであった。「イタリア休戦秘史」という大きなドラマが浮彫りされてきたからである。知らず知らず、新聞記者という職業のサガのせいか、納得するまで丹念に事実を集め、関係ある現場を足でたどるというのめり込みようであった。  気付いた時には、もう途中で止めるわけにはいかなくなっていたのである。同時代の日本のことがオーバーラップして、比較研究としても面白く、日本人として日本に知られざるイタリア現代史の空白部分を埋めるためにも、誰かがやらなければなるまいと観念した。  しかし、ノートやメモを整理しながら、事実を積み重ね、構築する作業は正直いって論文を書くよりも難事業であった。にもかかわらず、書かねばと駆りたてたものは、あの大戦中になぜ、日本にはカステッラーノ将軍のような「このままでは国民が悲惨である」として、歴史を変えるような人物が出なかったのか、あるいはいたのであろうが、形となって現われなかったか、という残念に思える気持からであった。  イタリアには一九二六年に創設されたOVRA(反ファシズム分子を予防検束する秘密警察)が、日本の特高警察に勝るとも劣らぬ強権を発動していた。そのファシズム体制下で、巨頭ムッソリーニを逮捕し、休戦をやり遂げ、ついにはイタリアをファシズムから解放することに、カステッラーノ将軍は身命を賭して貢献したのである。  日本人は戦争中、そのイタリアを「弱い」とか「だらしない」などとあざけったが、いまとなってみれば、そうしたことを言えた義理ではなかったはずである。そのような日本と日本人の精神構造を刺戟し、「人間とは?」「勇気とは?」、またカステッラーノ将軍が「国益を守るということは、国家という抽象的なものではなく、国土と国民の幸せと利益を守ることだ」と示したように、「真の国益とは?」などについて、日本人が本当はどういうことなのかを考えるキッカケともなれば……という思いも、大それたことではあるが、心の片隅にあったことも事実である。それにより、モノの見方、考え方を軌道修正し、またイタリアという国をあらためて見直すことにもつながることを期待した。そういうことがまた、「国際化」ということだと思うのである。  別の国の人間が、よその国の歴史、それも同時代の現代史を書くのは、実は至難の業である。カステッラーノ将軍のこの休戦秘史についても、まだまだ未解明の部分が多々ある。イタリアの研究者の一人イタロ・ピエトラ氏は、一九八三年八月のイル・メッサジェーロ紙上で「解明されていない点が二十余点もある」と述べている。  例えば、カステッラーノがなぜマドリード、リスボンへ列車で行ったのか、バドリオがブリンディシに脱出する際になぜ外務大臣を伴わなかったのか、などの素朴ながら基本的な問いを投げかけている。まさにその通りであって、私もそうしたことを知りつつも、乗りかかった舟を自分で漕いできた。ドキュメントとして、必ずしも致命的な欠落部分ではないと判断していたからであった。  そうした点も含め、本書がカステッラーノ将軍という人物を主題に「休戦秘史」をたどったため、反ナチ・反ファシズムの抵抗運動の壮絶な実態については、割愛せざるを得なかった。一九四五年四月二十八日の「ムッソリーニ最後の日」や、一九四四年三月二十四日に起ったローマの「ラセッラ通り事件」などである。  後者は百五十六名のナチ親衛隊が行進中、清掃人に変装したローマ大学生ら数人が時限爆弾で襲撃、その報復として三百三十五人の市民らが、郊外のアルディアティーネで虐殺された。その中にはカステッラーノ将軍の同僚ジュゼッペ・モンテゼモロ陸軍大佐、またムッソリーニ逮捕計画に加わった王宮警備のジョヴァンニ・フリニャーニ陸軍大佐、執行に当った同ラファエレ・アヴェルサ大尉も含まれている。  こうして少くとも、同じ枢軸国ながら、イタリアと日本はたどる道が大いに異なっていた。戦後の新しい共和制イタリアの政治・経済・社会の基礎——つまり、イタリア新憲法の理念はこの休戦秘史の中に育まれているのである。その意味でも本書がイタリア理解の一助ともなればと、心から願うものである。  本書をまとめるに当っては、その意図からもあくまで事実をもって構成することを念頭に置いた。そのため、多年にわたった取材ノート、メモを基礎にイタリア・連合国双方の資料を加え、それら事実を裏付ける意味と、併せて研究者の利便のため、ほかの参考文献等を「注」として引用させていただいた。  この私の意図するところを支えてくれたイタリアの多くの友人達とともに、本書出版の喜びを分ち合いたいと思う。この出版に当っては、新潮社の後藤章夫、新田敞、伊藤貴和子、野田卓伸各氏に種々御手数をかけ、また貴重な御指示をいただいたことに、深く感謝の意を表するものである。   一九八九年十一月 木村裕主    文庫版へのあとがき  お読みいただいたように、本書の内容は第二次世界大戦中はもちろん戦後も、日本には全く知られていなかったばかりか、当時の日本人の精神構造や心理状況からは、とうてい理解もつかぬイタリアの休戦をやってのけた、イタリア参謀本部の若き将軍ジュゼッペ・カステッラーノの行動についてのドキュメンタリーである。そのためあくまでも事実を専一にと心掛けて記述に努めた。  それだけに単行本刊行以来、追加補正すべき新事実の発表や発掘などがないかどうか、注意深く見守ってきたつもりだが、特記すべきそのような新事実は出ていないことを、ここで筆者の義務としてお伝えしたい。したがってこの文庫版出版に際しても、加筆することはしなかった。  これを書いているいま、本書の主題であるイタリアの休戦は、ちょうど五十周年を迎えており、当のカステッラーノ将軍はじめ重要な関係者は、いずれもすべてこの世にはない。想うに休戦四十周年の一九八三年前後をピークに、貴重な証言はほぼ出尽していたと言える。その頃ローマに暮していたことは、筆者にとって大変な幸いであったと言わざるを得ない。  次に、本書の主人公カステッラーノ将軍が、一九四三年に休戦という回天の偉業を成し遂げたのも束の間、事態は急転してイタリアはナチ・ドイツ軍の占領下に置かれたことは本書で御承知の通りである。しかしこれに抵抗する反ナチ・反ファシズムのパルティザンが立ち上り、イタリアは両者の凄絶な内戦の舞台となるのである。その数十万に上る老若男女のパルティザンは、約二十ヵ月に及ぶ戦闘で十万人以上の戦死傷者を出しながら、イタリアに上陸した連合軍の前衛となってドイツ軍を敗退させ、最後には統帥ムッソリーニを処刑して、イタリアをファシズムから解放したのであった。  このイタリア現代史のカステッラーノ将軍の主役部分を「休戦秘史」とすれば、その後に続く民衆主役の部分は「パルティザン秘史」である。その後者について筆者は一九九二年二月、『誰がムッソリーニを処刑したか』(講談社刊)の一冊にまとめた。本書の続篇とも言うべき内容である。日本人とイタリア人のモノの考え方、見方のどこがどう違うかも、この本によってお分りいただけるのではないかと思う。本書と合わせて是非御一読願えれば幸いである。  ついでに付け加えさせていただけば、この『ムッソリーニを逮捕せよ』は一九九〇年に講談社ノンフィクション賞(第十二回)受賞の栄に浴した。思いがけぬことであった。同時にまた本書と『誰がムッソリーニを処刑したか』の双方とも、在ワシントンのアメリカ議会図書館の蔵書に加えられた。国際的にもお役に立っているとすれば望外の喜びである。  ところで五十年前のちょうどいまごろ、カステッラーノ将軍はローマで統帥逮捕の秘策を練っている最中だった。それから一年八ヵ月後にムッソリーニは愛人クラレッタとともに、コモ湖畔でパルティザンの銃弾によって倒れ、イタリアはファシズムから解放された。  早いもので、あれから半世紀が過ぎようとしている。だがムッソリーニが創始したファシズムは、遠い歴史の彼方に消え去ったわけでは決してない。それどころか、大っぴらに全体主義、国家王義、軍国主義などの形はとらないものの、民族主義とかエリート大国主義の推進力を装って、地球上のあちこちで生き続けているのが現実である。近年のドイツにおけるネオ・ナチ現象に象徴されるように、それは半世紀を経て堂々と復権を遂げようとしているかにみえる。やはり歴史は繰り返すのだろうか? それとも行く川の水の流れのように、歴史と人間の本質は変らないのだろうか?  イタリアの場合も戦後、ムッソリーニの流れを汲む一派がMOVIMENTO SOCIALE ITALIANO(MSI=イタリア社会運動)という政治グループを創設した。通称「ネオ・ファシスト党」とも呼ばれ、総選挙ではつねに六パーセント前後の得票率をあげ、下院では常時三十数人の議席を維持している。もちろん終始、野党の地位に甘んじてきた。  そのイタリア社会運動の下院議員の一人に、一九九二年四月の総選挙で統帥《ドウチエ》ムッソリーニの孫娘アレッサンドラ女史が加わり、ネオ・ファシスト達は大いに勢いづいた。数十年ぶりにローマのイタリア下院内で、「ONOREVOLE MUSSOLINI(ムッソリーニ議員)」という呼び名が聞けるからだ。  このムッソリーニ新国会議員は、統帥の三男で著名なジャズ・ピアニストのロマーノを父に、名女優ソフィア・ローレンの妹マリアを母に一九六二年に生れた。統帥の父、つまり曾祖父に当るアレッサンドロにあやかって命名されたことはいうまでもない。長じて右翼の牙城ナポリ選挙区から立候補し、五万六千票の大量得票でみごと当選したのだ。女優をやったこともある医師の卵アレッサンドラ議員は当選第一声を、「祖父の政治信念は正しかったと私は確信している」と言い放って、イタリア内外に大きな話題を投げたものである。  その年の十月末、筆者は国際会議のためローマに滞在していた。市内にはかつてのファシストの制服である、黒シャツ姿の統帥ムッソリーニの大きなポスターが飾られていた。ムッソリーニが政権を樹立した七十周年を記念した極右勢力による行事のためであった。七十年前の十月二十八日、三十九歳のムッソリーニ指揮下のファシスト突撃隊約二万五千人が、ナポリで開催の第二回ファシスト党大会の余勢を駆って、国内各地から歴史的な「MARCIA SU ROMA(口ーマ進軍)」を決行した。三十日には国王からムッソリーニが首相に任命された。ファシスト達には忘れ得ぬ日々であった。  新聞報道によると、七十年後のその日さまざまな出来事があった。その主なものは——。 「ローマ進軍」七十周年記念の日、アレッサンドラ議員はナポリ市内で開かれたネオ・ファシスト主催の集会で演説し、「祖父の時代、イタリアは光り輝いていた。我々はあの当時の誇りと栄光を再び取り戻そうではありませんか!」と訴え、大勢の参会者の拍手を浴びた。会場にはまた祖父ムッソリーニ演説集のカセットテープが獅子吼を再現し、会場には「VIVA IL DUCE !(統帥万歳!)」の声がコダマしたのだ。  この集会は当初、届出によって市の施設で開かれる予定だった。が、集会目的が「ローマ進軍」賛美と分って、市長のネッロ・ポレーゼ氏(社会党)が急遽、許可を取り消した。このためネオ・ファシスト達は二百人に上る警官隊との間で一悶着起し、結局ほかの場所で開かれたものだった。  ローマ市内でも同じ日、少数のネオ・ファシスト達が七十年前の「ローマ進軍」の途中で死没したファシストの墓参を計画した。一行は市内の共同墓地を訪れたが、それを禁止した当局者、警官隊ともみ合う一幕もあった。  また統帥ムッソリーニの故郷で墓廟のある中部イタリアのフォルリ県プレダッピオ村では、九十歳台のかつてのファシスト達を含めた数十人の右翼が黒シャツの制服姿で集い、往年の党歌「GIOVINEZZA(青春)」を斉唱して気勢を挙げたのちムッソリーニの墓参をした。  村長のイヴォ・マルチェッリ氏はその日、「ムッソリーニの故郷であるこの村にいずれファシズム博物館を設けたい」と、次のように語った。 「この村を毎年、多くの人が訪れている。単なるノスタルジアからの人だけでなく、イタリア内外のムッソリーニ、ファシズム研究者が少くない。ムッソリーニの生れ故郷だけに、多く存在するゆかりの深い歴史的遺産のかたまりを死なせてはならない。多くの資料を整備保存することによって年間約二百万人の訪問者が見込まれる。最も大切なことは、これまでのように過去にこだわる右や左の勢力から、この美しく静かなプレダッピオ村を解放することだ」  これらの数例から分るように、大都市の公的施設では依然ムッソリーニやファシズム礼賛につながる政治集会は禁止されている。従来、この種の集会ではきまってファシストと、パルティザン出身者などを含めた反ファシストの衝突事件を引き起したものである。このため公的な場所での、これら集会の禁止を一層強化しているのが現状である。  この年とくに注目に値したのが、プレダッピオ村村長の「この村を右と左の勢力から解放したい」との訴えであった。ファシズム博物館構想は、この“解放”への願いと同根であったはずである。この村は長年、ファシストと反ファシストの対立が尖鋭化するたびに、その対立に巻き込まれてきた。それだけに村長はこの七十周年を機に、過去と訣別したいとの意向を示したのだ。  左右対立を止揚して、プレダッピオ村に博物館を設けることは、ムッソリーニとファシズムを過去の「遺物」として、陳列ケースの中に閉じ込めてしまうことにもつながる。そこに世界中からの研究者が訪れるようになれば、村にとっては文字通り「一石数鳥」にもなるというものである。  事実、字《あざ》サン・カッシアーノにあるムッソリーニ家の墓廟の地下室に安置された統帥の大理石棺前には、部厚い記帳用のノートが置かれていて、筆者もかつて日本語とイタリア語で自分の名前を記帳したが、ギッシリと書き込まれた名前はイタリア人だけでなく、ドイツ人、スペイン人、フランス人、イギリス人など訪問者の国籍もさまざまであることが一目瞭然である。しかも三百ページほどの厚さの記帳簿は、二年とはもたないくらいで満杯になるところであった。  マルチェッリ村長の期待のように、年間二百万人は無理としても、博物館を設けることによって現在以上に多くの人が訪れることは確実となろう。その意義は深く大きい。実現を祈りたい。  それにしても、イタリアが再びファシズム化することはあり得ないというのが、筆者の確信である。本書の主人公カステッラーノ将軍のような人物が、「いざという時」に必ず輩出する精神的土壌が、この国にはあるからである。それは本来、国民一人ひとりが強く個性的で、それぞれが「独自の道」を歩もうとするイタリア人の生き方にもつながっている。「みんなで渡れば……」式の行動様式はない。  各自が自由にやりたいことをやる多様性が、この国ほど際立った国はほかにないと思う。誰かが右を向いていても、別の誰かは左を向いている。誰かが失敗しても、誰かは成功している。ということは、国民全体が総懺悔《ざんげ》するようなことはやらかさないということでもある。だからこそ、古代ローマの昔から中世キリスト教世界、ルネッサンスなどを経て今日まで、多角的にさまざまな影響を世界の文化に及ぼしているのだ。このように息の長い国はほかには見当らない。それは長い歴史的体験から得た生きる知恵を、イタリア人は血の中に持っているのではないかとさえ思わせる。  かつてカステッラーノ将軍のことを取材中、イタリアの著名なジャーナリストのルイジ・バルツィーニ氏は筆者に次のように語ったことがある。 「イタリア人というのは良い意味でも悪い意味でも大人《おとな》なんだ。その知恵の奥深さときたら、人間の二千年分を引継いできているだけに一筋縄《ひとすじなわ》ではない。あのカステッラーノがやらなければ、きっと別のカステッラーノがやったはずだ。  日本の御輿《みこし》をかつぐように、イタリア国民はムッソリーニをかつぎ上げておいて、好機到るとみてその御輿を放り投げたのだ。あの時代、それが一番利口なやり方だった。下手に正面切って刃向った者は、すべてファシズムの権力の犠牲になっているのを、国民はよくみて知っていたのだ」  同姓同名でかつ同じジャーナリストの父君は、日露戦争に従軍したこともあり、その影響で日本にも深い知識を持つバルツィーニ氏は、筆者の顔を見ながらいたずらっぽく微笑《ほほえ》んでいたのを思い出すが、氏はそれから間もなく他界してしまった。惜しい友人であった。  序章にも述べたように、第二次大戦中に日本は、「一億火の玉」「本土決戦」をスローガンに、愚かにも列島が灰燼《かいじん》に帰すまで戦い続けた。しかし同盟国イタリアでは、カステッラーノ将軍が「国民が可哀想だ!」と、心血を注いで早期休戦を実現してしまった。その事実を筆者がローマで聞き知ったのは一九五六年のことであった。戦争中に少年時代を過した筆者にとって、その事実を知れば知るほど彼我の人間哲学の違いに、激しいカルチャー・ショックを覚えてならなかった。  前述のように一九八三年の休戦四十周年をはさんで数年間、現地にいた筆者は多くの関係者や資料、文書類から、生々しいその実態を知ることが出来た。それらを元に本書を書き上げた時、「歴史は文化であり、文化は歴史である」と、つくづく思い知ったものである。そしてまた、カステッラーノ将軍の「国益を守るということは、国家という抽象的なものではなく、国土と国民の幸せと利益を守ることだ」という言葉を噛《か》みしめながら、日本の現状と将来にも思いをいたさざるを得なかった。なぜなら、よい歴史を作るのも悪い歴史を作るのも、ひとえにその国の人間の質いかんにかかるからである。  カステッラーノ将軍はまた、「この戦争は国民を不幸にするばかりだ」と、第二次大戦の経過を冷静に見ていた。それだけではなく、彼は生粋の軍人で、軍の中枢である参謀本部の高官でもありながら、『参謀本部というものは、戦争遂行だけを考えるところではない。戦争をしなくてもすむ条件を作ること、停戦の時期を考えることも同程度に重要である』との言葉を残している。人間らしく、かつ柔軟な思考の持主であった。これは一般イタリア人に共通した性向の一つである。この点は悪く言えば、情に溺れ易くまた首尾一貫しないことにも通じる。しかし逆に生活やことによると人命をも大事にせず、硬直した思考で生きるよりは、はるかに人間らしくてよい場合も多いのではないかと考える。  筆者はもともと新聞記者であった三十六年前にローマで、このカステッラーノ将軍のことを聞き知って以来、機会あるごとにイタリアでこの将軍のことを調べ、新聞記者の使命惑にも似た気持で本書を書き上げた。最初に本書を刊行して下さった新潮社、そして今回、文庫版として刊行して下さった講談社にそれぞれ心から感謝したい。  またこの文庫版刊行に際しては、文庫編集部守屋龍一氏に終始お世話になったことにあらためて御礼申し上げたい。   一九九三年六月   木村裕主   主要参考文献 P. BADOGLIO 「L'ITALIA NELLA SECONDA GUERRA MONDIALE」1946 MONDADORI L. BARZINI 「THE ITALIANS」1964 ANTHENEUM R. BATTAGLIA 「SECONDA GUERRA MONDIALE」1962 RIUNITI R. BATTAGLIA 「STORIA DELLA RESISTENZA ITALIANA」1953 EINAUDI D. BARTOLI 「L'ITALIA SI ARRENDE」1983 NUOVA S. BERTOLDI 「CONTRO SALO‐」1984 BONPIANI B. P. BOSCHESI 「GUERRA DI MUSSOLINI」1985 MONDADORI(STORIA ILLUSTRATA) G. BOTTAI 「DIARIO 1935-1944」1982 RIZZORI G. CASTELLANO 「COME FIRMAI L'ARMISTIZIO DI CASSIBILE」1945 MONDADORI G. CASTELLANO 「LA GUERRA CONTINUA」1963 RIZZORI G. CASTELLANO 「ROMA KAPUTT」1967 GERARDO CASINI W. CHURCHILL 「THE SECOND WORLD WAR」1950 CASSELL G. CIANO 「DIARIO 1937-1943」1980 RIZZOLI R. COLLIER 「DUCE! DUCE!」1973 MURSIA M. S. DAVIS 「WHO DEFENDS ROME?」1972 GEORGE ALLEN & UNWIN F. W. DEAKIN 「THE LAST DAYS OF MUSSOLINI」1962 PENGUIN C. F. DELZELL 「MUSSOLINI'S ENEMY」1961 PRINSTON UNIV. PRESS A. GIOVANNINI 「8 SETTEMBRE 1943」1974 CIARRAPICO D. GRANDI 「25 LUGLIO. QUARANT'ANNI DOPO」1983 IL MULINO SIR I. KIRKPATRICK 「STORIA DI MUSSOLINI」1964 LONGANESI N. KOGAN 「ITALY & ALLIES」1951 HARVARD UNIV. PRESS P. MONELLI 「ROMA 1943」1979 MONDADORI MONTANELLI・CERVI 「L'ITALIA DELLA GUERRA CIVILE」1983 RIZZOLI B. MUSSOLINI 「STORIA DI UN ANNO」1944 MONDADORI R. MUSSOLINI 「LA MIA VITA CON BENITO」1948 MONDADORI A. PETACCO編 「STORIA DEL FASCISMO」全6巻 1984 ARMANDO CURCIO A. POLCRI 「LE CAUSE DELLA RESISTENZA ITALIANA」1977 ISEDI A. RAVAGLIOLI 「LA RESISTENZA DI ROMA」1970 COMITATO ROMANO DELLA RESISTENZA D. M. SMITH 「MUSSOLINI」1983 GRANADO B. SPAMPANATO 「CONTROMEMORIALE」1974 CENTRO EDITORIALE R. TREVELYAN 「ROME '44」1983 SECKER & WARBURG 「LA SECONDA GUERRA MONDIALE」1981 FABRI 米国務省 「FOREIGN RELATIONS OF U. S. ON ITALY」1942, 1943 M. GALLO 「ムッソリーニの時代」1987 木村裕主訳 文藝春秋 雑誌・新聞 EUROPEO, HISTORIA, IL MESSAGGERO, OGGI, LA REPUBBRICA, LA STAMPA, STORIA ILLUSTRATA, IL TEMPO 単行本は新潮社より、一九八九年二月刊。 講談社文庫版は、一九九三年七月刊。 本電子文庫版は、講談社文庫版第一刷を底本としました。 ●著者 木村裕主 一九二六年、群馬県生まれ。東京外国語大学イタリア語科卒。毎日新聞入社後、イタリア政府給費留学、毎日新聞ローマ特派員、同編集委員を経て東京外国語大学講師、外務省専門調査員・在伊日本大使館広報・文化担当官などを歴任。財団法人日伊協会理事。イタリア現代史研究。著書には『誰がムッソリーニを処刑したか』(講談社)、訳書『ムッソリーニの時代』(文藝春秋)などがある。 ムッソリーニを逮捕《たいほ》せよ 講談社電子文庫版PC  木村裕主《きむらひろし》 著 Hiroshi Kimura 1989 二〇〇〇年九月一日発行(デコ) 発行者 野間省伸 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001 ◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。 KD000005-2