TITLE : ムッソリーニの処刑 講談社電子文庫 ムッソリーニの処刑  木村裕主 著 目 次  プロローグ  第一部 パルティザンの大義   第一章 休戦から内戦へ    パルティザンの誕生    反ファシズムの伝統    ドイツ軍との戦闘始まる    「解放のために死のう」   第二章 ナチ占領下のローマ    空腹と恐怖の日々    ラセッラ街で親衛隊爆殺    アルデアティーネの大虐殺    パルティザンの論理   第三章 ムッソリーニの悲哀    憂愁の日々    ヴェローナ裁判へ    チアーノ処刑    ムッソリーニの涙   第四章 ローマ解放とパルティザンの拡大    ドイツ軍、ローマから撤退    “永遠の都”ついに解放!    在留日本人、北に避難    日本人三人も犠牲に!    今も語り継がれる悲劇    フィレンツェ解放戦    パルティザン、都市に進出    ラケーレとクラレッタ  第二部 ムッソリーニ処刑   第五章 「統帥、無条件降伏を!」    解放委、処刑の方針決める    妻と最後の別れ    パルティザンと対決   第六章 スイスに脱出を決意    暗夜ミラノからコモへ    連合国も統帥追跡    バリケードに阻まれる   第七章 ムッソリーニを逮捕!    統帥、ドイツ兵に変装    「ドゥチェがいたっ!」    クラレッタと一緒に監禁   第八章 統帥ついに処刑    ヴァレリオ大佐が追跡    「ドゥチェを引き渡せ!」    「イタリア国民の名において!」    ロレート広場に逆さ吊り   第九章 誰が処刑を命じた?    「なぜクラレッタまで!」    チャーチルも独自の調査    ヴァレリオ、実は“端役”?    「殺(や)ったのはピエトロだ!」    「殺(や)ったのはロンゴだ!」    またも「殺(や)ったのはロンゴだ!」    宙に浮いた処刑人   第十章 盗まれた遺体    脳髄はアメリカに——    「ムッソリーニ生誕百年祭」    隠然たる支持者たち  エピローグ  あとがき  主要参考文献  文庫化にあたって   プロローグ 「イタリアという国は、“二千年来の先進国”と言ってよい。二十世紀にもわたって人類の文化向上に貢献し続けて来た国が世界のどこにあろうか」  このような文章を最近、目にして、なるほどと思った。確かに世界史を彩った古代ローマや、くだって近代の誕生を告げたルネッサンス以来、イタリアの文化は古くから世界各地に深く根をおろしている。とりわけ最近は、身近な衣食住を見ても分るように、その先駆的なファッション、モード、ハードやソフトのデザイン、加えて料理にいたるまで、イタリアはわれわれの日常生活の一部にさえなっている。  このため日本でも、かつてのように単なる芸術的側面だけでなく、トータルとしてのイタリアへの関心が高まっているが、これはかなり前から世界的な流れともなっている。その秘密について、数年前、イタリアのジャーナリスト達と話した時、彼らが一致して強調した点は、「イタリア人は良くも悪くもとても人間的であり、かつ個性豊かな創造力と活力に富んでいることが、多くの国の人々の共感を得ているからではないか」ということであった。  さらにまた「イタリア人はよその国の人より人一倍コンフォルミズモ(画一主義)が嫌いだから、イタリア人の造り出す独創的なものはかえって幅広く受け入れられる素地がある。それがジワジワと“イタリアの波”を巻き起しているのかも知れない」とも述べていた。  長年イタリアと関ってきた私から見ても、この国の人々の思惟、思考、感覚、行動様式などは他のヨーロッパ人や日本人と比べてもその波長がどことなく違い、かつ広く大きいのではと感じることが少くない。そのうえ彼らは多様な個性を自由奔放に発揮させることに無上の喜びを見出してやまない。一人ひとりの個性と人間性を尊重することは、“天才の輩出”を見たルネッサンスを持ち出すまでもなく、この国の強固な伝統ともなっている。それは古代ローマ以来培われた長い文化的所産と、人間の知恵なのであろう。  そうしたイタリアについて、わが国でも年々、関心を寄せる人々が増えているが、まだ知られざる側面も多々ある。その重要な一つが、本書で述べようとしている現在のイタリア共和国成立の原動力となった第二次世界大戦末期の、パルティザンによる反ナチ・反ファシズムの闘争である。これは最終的にはファシズムの統帥ベニト・ムッソリーニの処刑によって総括されると同時に、この反ナチ・ファシズムのパルティザン精神こそがイタリア共和国の新憲法として結実することになるからである。その意味でも、この闘争は現代イタリアを知るための大きなポイントと言うことができる。  この戦争秘史とも言うべきパルティザン闘争の全貌がようやく具体的な姿を現わしたのは、厳密には戦後約三十年を経た一九七〇年代後半に入ってからであり、八〇年代になって一挙に加速した。八〇年の参戦四十周年、八三年のムッソリーニ生誕百年、八五年のムッソリーニ処刑、イタリア解放のそれぞれ四十周年などを節目に、それまでの事実の発掘、研究などが相次いで発表され、ジャーナリズムや学界、出版界がそれらをまとめるなど、文字通りブーム現象を呈したのである。そのさなかイタリアに暮していた私は、イタリア現代史研究者の一人として、この国の研究者達と共に、貴重な月日を送ることができたのは幸いであった。  第二次大戦中、日独伊三国枢軸の一翼を担って連合軍と戦っていたイタリアは、大戦なかばの四三年九月、突如として戦列を離脱した。当時の日本政府は「イタリアは弱いから負けた」などと宣伝したものである。しかし事実は逆で、「この戦争はムッソリーニが始めた戦争」と醒めた目で見ていたイタリアは、国土と国民を戦禍から守るためには速やかな戦線離脱が必要だとして極秘裏に連合軍と休戦協定を結び、戦争を中止したのである。「決死抗戦」の当時の日本とは対照的ないかにも人間的なこの休戦秘史は、第十二回講談社ノンフィクション賞を受賞した拙著『ムッソリーニを逮捕せよ』(講談社文庫)にまとめたので参照されたい。  その休戦後のイタリアは、連合軍との協定のあいまいさのためもあって、大半の国土をナチ・ドイツ軍に占領され、不幸な支配下に置かれてしまう。占領ドイツ軍の総数は二十万人にも上った。その結果、地下に潜っていた反ナチ・ファシズムの政治家や市民が蜂起、パルティザンとして果敢な抵抗運動に入った。休戦とともにイタリアは内戦の舞台に暗転してしまったのである。  これらパルティザンは当初はテロなどを繰り返しながら漸次その規模を拡大し、北進する連合軍の前衛的役割を果すまでに成長する。一九四五年四月二十八日にムッソリーニを処刑した段階で、パルティザンの総数は約三十万人(イタリアの最大時の正規兵力数は約三百万人)にも達していた。  戦後の一九四六年、イタリア外務省は「ドイツからの解放戦争へのイタリアの貢献」と題して、パルティザン戦死者三万五千八百二十八名、戦傷者二万一千百六十八名という数字を発表した。同時にナチ・ファシストへの非協力、ないしテロ活動への報復として無辜(むこ)の一般市民九千九百八十名が処刑されたことも明らかにした。  この数字はその後の調査でさらに増えるのだが、これほど多くの市民がパルティザンとして敢然と死んでいった事実や現場をこの目で確かめた私は、ナチ・ファシズムから自らを解放したイタリアという国と国民にあらためて畏敬の念を禁じ得なかった。  この国の都市、農村を問わず、中心の広場や公共施設には大抵パルティザン戦死者を祀る記念碑や記念塔が建てられている。これら大理石で作られた記念碑の壁面には、ボローニャ、フィレンツェなどでは数千、数百人もの姓名が刻まれ、顔写真も陶板としてはめ込まれている。まだあどけない少年や若い女性のものも数え切れない。多くの自治体では記念館も設け、町の生んだパルティザン戦士の遺品、記録などを展示し、いまもなお顕彰し続けている。そこにはいつも献花が絶えることがない。 「ムッソリーニの戦争」に反対するイタリア国民は、さまざまな反応の仕方をした。兵士達の中には出来得れば戦わずして捕虜になる道を選んだ者も多かった。四三年九月の休戦前に、すでに六十二万二千百七十六人もの大量のイタリア兵士が連合軍の捕虜になっていたことでもそれは分る。また国内の軍需品工場ではサボタージュも少くなかった。軍に納入する軍靴の底を、わざとボール紙で作ったり、空爆で投下する爆弾につめ込む爆薬の代りに、オガ屑を入れた例もあったほどである。そして反ナチ・ファシズムのパルティザン達は、積極果敢にドイツ軍、ファシスト軍に体当りした。女性パルティザンも万の単位で参加していた。それほど反ナチ・ファシズムに対する戦闘精神は高揚していたのである。  当時のパルティザン達に聞くと、きまって「実はあの戦争を止めさせるには、ファシズムを倒し、ドイツ軍を放逐するため戦うしか道はなかったのです。そうしてはじめて戦争がなくなり、自分達の自由と独立が保障出来るのだと確信してパルティザンになったのです」と語る。彼らはドイツ軍やファシスト軍に捕まれば、銃殺や絞首刑は免れられなかった。それだけに必死で挑戦したのである。涙ぐましいエピソードにはこと欠かない。それだけに一方で、「勇み足」とか「やり過ぎ」とも言える過剰反応の例も稀ではない。本書中に述べる日本人三人(海軍武官と商社員二人)が悲運の最期を遂げた事件もそれに近いと言ってよかろう。  専門的な観点からすれば、年を経るごとに数々の事実がさまざまな光を照射され、事実の襞(ひだ)の部分まで明るみに出されるのは結構なことだが、その一方で研究が深く進むにつれて、事実とされていたことへの矛盾や疑問が生じ、かえって不透明になるものも出ている。本書の核心であるムッソリーニを処刑したパルティザンが特定しにくくなってしまったことなどがその一例である。  また第二次大戦終結から半世紀近くも経ってしまったいま、証人ともなるべき人々も一人ひとり他界し、これ以上の解明も困難になっているのが現状である。そういった意味も含め、日本がハワイの真珠湾を奇襲して無謀な太平洋戦争に突入した五十周年を機に、あの第二次大戦の末期、同じ枢軸国でありながら反ナチ・ファシズムの戦いに転じたイタリアのパルティザンが、最後にはファシズムの指導者ベニト・ムッソリーニを処刑するに到ったドキュメントを本書にまとめた。当時の日本では到底、考えも及ばなかったイタリアの戦中秘史である。「イタリアはあの戦争にこのように関ったのか」と、読者諸賢が何か感得するところがあれば何よりも幸いである。  なお本書中、ムッソリーニのことを当時の呼び名のまま「ドゥチェ(DUCE)」とかその訳語「統帥」を使った。「DUCE」はラテン語の「DUX」から来たイタリア語の指導者の意味で、「統帥」は当時の日本語訳である。ヒットラーは総統、ムッソリーニは統帥、スペインのフランコ将軍を統領と呼称して区別していたのでそれに準じた。また登場する日本人を含め、敬称は略させていただいた。  第一部 パルティザンの大義  第一章 休戦から内戦へ パルティザンの誕生  一九四三年九月八日夕刻、国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世が王宮に招集した緊急御前会議は、重苦しい空気に包まれていた。イタリアの命運を決する瞬間を迎えていたからである。参集したのは首相バドリオ、外相グァリーリア、宮内相アックヮローネ、参謀総長アンブロージォほか陸海空各参謀長ら政府・軍首脳ら十数名であった。  イタリアはすでに前月中旬来、参謀本部のカステッラーノ准将が政府密命を帯びて連合軍最高司令部首脳と接触、九月三日の段階で休戦協定に調印を終えていた。休戦発表は連合軍が大挙イタリアに上陸する日に、連合軍最高司令官アイゼンハワーとイタリア側バドリオ双方がほぼ同時に行うことで合意がなされていた。シチリアの連合軍司令部にいるカステッラーノからは、連合軍上陸開始のXデーは「十二日前後」との予告が前もって入っていた。イタリア側はそれを前提に対応を準備していた。  ところが八日午後、アイゼンハワーから突然、「わが方は本八日、休戦を発表する。連合軍上陸は差し迫っている。貴国側も休戦を公表されたし」と連絡して来たのである。イタリア側は政府、軍首脳とも驚愕した。そのために国王は緊急御前会議を招集したのであった。  イギリスのロイター通信はその日午後四時に「イタリア休戦!」の至急報を流した。このニュースは瞬時に世界を駆け巡った。ドイツ側からの問い合わせにイタリア側は「まったくのデマだ」と応対しながら混乱の極にあった。  御前会議では、「いま休戦を発表したらドイツがどう出るか分らない。休戦発表を待ってもらうしかない」「連合軍が上陸して、ドイツ軍と戦闘状態に入ってから休戦を発表し、わが軍が連合軍と共にドイツ軍と戦闘状態に入るのが最善です」などの意見が出た。  バドリオは「この段階では二つしかない。一つはカステッラーノが陛下の許可なく協定に調印したとして、陛下が私を解任して協定そのものを否認する。もう一つはアイゼンハワーの意見に従う」と述べた。これに対しても賛否両論が列席者から出てまとまらなかった。  七時頃になって、「アルジェ放送がたったいま、アイクの休戦を発表しました」との情報が会議の席にもたらされた。皆、顔面蒼白となった。その直後、アイクからたたみかけるような次の電報が入ってきた。 「イタリアが休戦公表の約束を守らなければ、これまでの経緯をすべて世界に公表する」  これはイタリアに対する「止めの一撃」であった。  万事休す!  国王は低い口調で言うと立ち上がった。 「やることは決った!」  バドリオが休戦発表を命じられた。放送局に向う前、次の電報をヒットラーに発信した。 「ファシスト政権崩壊後、わが政府は祖国防衛のため戦争を継続すると宣明して来たが、連合軍の猛攻の前に国土の一部は占拠され、また国土の多くを破壊されている。しかも連合軍への抵抗能力もなくなった。かかる情況でイタリアは全面的破壊を避けるため、連合軍からの休戦要求に応ぜざるを得ない。バドリオ」  王宮からテヴェレ川を渡って、ローマ放送局に着いた時は、夜七時半を回っていた。ラジオは「森の小径」という流行のカンツォーネを流していた。アナウンサーが放送を中断し、「ただいまから、バドリオ首相の重要発表があります」と前置きしたあと、バドリオの声が続いた。全文は次のように短い。 「イタリア政府は、圧倒的な敵兵力に対する劣勢の戦いを続けることが不可能であることを確認し、今後、国の重大な災害をこれ以上招かざるため、連合軍最高司令官アイゼンハワー元帥に休戦を申し入れた。この要請は受諾された。したがって連合軍に対する敵対行為は、あらゆる場所において、イタリア軍側からは中止される。それ以外からのいかなる攻撃も、反撃されることになろう」  一語一語、噛みしめるように草稿を読んだ。三分かかった。終ったのは午後七時四十五分であった。マイクは国内向けと海外放送用の二つあった。連合軍もドイツ軍も聞いた。最後の「それ以外からの……」の部分は、ドイツ軍が攻撃して来たらイタリア軍は反撃するとの意味であった。  この休戦発表を耳にしたイタリア全土では、誰もが「戦争は終った!」と狂喜した。バドリオ声明は十五分おきに繰り返し放送された。あちこちで「イタリア万歳!」「国王万歳!」と声があがり、街頭に出て抱き合う姿も見られた。ファシストの中には襟の党員章をもぎ取り、窓の外に放り投げる者もいた。  だがこの放送を聞いて「これは大変なことになるぞ! ドイツ軍と内戦が始まるかも?」と危惧の念を抱いた人は全土に少くなかった。四十五日前の七月二十五日夜、ムッソリーニ解任のニュースの時は、全国いたるところでお祭り騒ぎとなったが、休戦発表のこの夜は時間とともに静かになった。多くの人々がドイツ軍の出方を心配して、家に籠ったからである。  事実、その頃ヒットラーは怒り狂ったように、八個師団の新たなイタリア派兵を命じていた。在イタリア・ドイツ派遣軍司令官ケッセルリンクにはイタリア占領を命じた。だがケッセルリンクはサレルノ方面に上陸する連合軍への迎撃布陣に追われていた。  その夜、国内情勢は一挙に激動する。  まず国王一家と首相バドリオら政府・軍首脳は、ドイツ軍に逮捕されぬうちにと、夜陰に乗じてローマからアドリア海のオルトーナに向い、そこから海軍のフリゲート艦で南のブリンディシに脱出する。「軍と国民を見捨てて」と後に非難されることになるが、これはあくまでもイタリア正統政府温存という非常手段でもあった。  内外各地のイタリア軍は、バドリオの放送で突然の休戦を知ったのである。兵士達は銃を捨てて思い思いに郷里に向った。指揮官はそれをどうすることも出来ず、ただ見守るだけであった。政府も軍隊も、いや国そのものが解体した瞬間であった。まさに「イタリア敗れたり!」であった。  その夜、各地で一群の人々が希望に燃えて、忙しくしかし静かに動き始めていた。  ローマの住宅街アッダ通り中央のアパートに社会党の元首相イヴァノエ・ボノミはじめ、行動党、共産党、プロレタリア統一社会党、キリスト教民主党などの地下政党の政治家達が続々と集った。四十五日前のムッソリーニ失脚とともに公然と姿を現わして、政党再建の動きを進めていたが、休戦発表によって何よりもまずファシズム時代の政治空白を埋め、イタリア再建を計らねば……との思いからであった。  翌九日朝まで討議は続けられた。再建のためには、目の前にいるドイツ軍排除が急務であり、武装闘争が必要との観点から「国民解放委員会」結成で一致した。議長にはボノミが選出された。そのアッダ通りからほど近いポルタ・ピアにある武器博物館の内部では、ローマ防衛機甲軍司令官カルボーニから数人の政治家が武器弾薬類を手渡された。受領責任者はのちに大統領となるサンドロ・ペルティーニ(社会党)で、同じく共産党書記長になるルイジ・ロンゴも同行していた。これから先、多くの困難が予想される武装政治闘争開始を告げる記念すべき夜であった。  一方、北部山岳地帯では休戦放送を聴いたクネオの弁護士出身の指導者タンクレディ・ガリンベルティは、後にナチ・ファシストに銃殺されることになるが、同志や解体した部隊の一部を率いて独自の戦闘隊を組織した。ドイツ軍、ファシスト軍と戦うためであった。ガリンベルティのこの戦闘隊はパルティザンの「正義と自由」旅団の先駆けとなったものである。  現代イタリア切ってのジャーナリストの一人ジォルジォ・ボッカも、当時二十三歳の青年将校であった。第二アルプス連隊に所属していたが、休戦の夜、他の将校や兵士と話し合い、パルティザン部隊を編成した。  ローマの東北アペニン山脈中にも、同じようなパルティザン部隊がいくつも編成された。その指揮官の一人はかつて東部戦線でドイツ軍と共に作戦に従事したが、ロシア平原を退却中、村落を焼打ちしたり農民を射殺したりして金品を奪うドイツ軍の残虐行為を幾度も目撃していた。 「村民を守ろうじゃないか。ドイツ軍はイタリアを撤退する時、きっと同じようなことをやる人種だ」  このように話して、多数の同志を集めたのである。  アルプスやアペニンの山中には、武器弾薬、食糧ともまだかなり確保されていた。パルティザンの拠点はこの休戦の夜以降、各地に次々と誕生した。中部イタリアではローマ周辺はもちろんフィレンツェ、ラークィラ、アンコーナ、テーラモ、アレッツォ、ランチャーノ、リヴォルノ、ピオンビーノ。北部では西からクネオ、トリノ、ジェノヴァ、ミラノ、ボローニャ、レッジォ・エミーリア、モデナ、ラヴェンナ、ヴェネツィア、ウディネ。南部ではナポリ、サレルノ、バーリなどであった。パルティザンはあらゆる階層の人達で構成されていた。しかし最初は一拠点当り四、五十人でしかなかった。ドイツ軍が弾圧を強化するにつれて、各グループのメンバーもふくれ上がって行くことになる。  また、ローマの国民解放委員会からの連絡で、やがてミラノにも北イタリア国民解放委員会が結成される。  最初はバラバラの組織であったが、漸次、この国民解放委員会と各地のパルティザンが連携を強化して組織化され、機能的に動くようになるのだが、それにはまだ三、四ヵ月を必要とする。 反ファシズムの伝統  イタリア国民の多くは、なにも九月八日の休戦発表から手のひらを返すように「反ナチ・ファシスト」に変ったわけではない。「反ファシズム」精神は、実はムッソリーニの政権樹立以来、脈々と生き続けてきたのである。  一九一九年、第一次大戦終了後、連合国の一員として戦勝に大きく貢献したもののヴェルサイユ平和条約でのイタリアへの処遇は冷たかった。領土割譲もイタリアには不満であった。しかも戦争で経済力も極端に疲弊しており、失業者があふれていた。前線から帰国した将校二十万はもちろん、兵士達も職に就くことは困難であった。  ムッソリーニはそうした失業者らを集めて、ファシスト党を結成した。古代ローマの栄光を求めて、力強いイタリアの建設を目指したのである。当時の国内情勢は、戦後の危機的な経済と、それに伴う労働者側のスト行使で政情不安も招き、ソ連に続く革命前夜をさえ思わせる空気であった。ムッソリーニは党の「突撃隊」「戦闘ファッショ」などの武装組織により、左翼勢力を暴力で弾圧した。資本家側はムッソリーニに資金援助して激励した。  本来は社会主義者を目指したムッソリーニではあったが、そこに国家主義的要素が加わって、思わぬ方向へと転換して行く。彼の暴力的な「突撃隊」や「戦闘ファッショ」は、棍棒はまだしも、放火さらには拳銃、手投弾などで左翼分子に躍りかかっては多数の死傷者を出していた。  国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世は、国情不安で騒然とした一九二二年十月、ムッソリーニに政権をゆだねるのだが、その時すでに前途に不安を抱く国民が数多くいたのである。ムッソリーニはそれ以前、社会党機関紙「アヴァンティ!(前進!)」や、自らの「イル・ジォルナーレ・デル・ポポロ(国民新聞)」などの編集長を務めたジャーナリストであった。鋭敏な感性、洞察力には定評があった。特に人を魅了する修辞手法は、誰もが雄弁家と賛えた。人の心を衝く片言隻語を吐く演説は、聴く人を酔わせた。これらは見方を変えれば、抜け目なく、機を見るのが敏でかつ煽動家ということにもなる。事実、そう見て警戒する人々も多かった。  政権掌握後わずか二年足らずの一九二四年四月、ファシスト党に有利に制定した新選挙法による総選挙で、同党は圧倒的第一党となり、一党独裁体制の基礎を固めた。近代国家において、選挙法が改定される時は、きまって提案する党に有利に運ぶような改定がなされる好例であった。  ファシスト党はさらに一九二六年、「国家防衛法」を制定し、ファシスト党以外の全政党を解散し、秘密警察OVRA(反ファシスト分子予防検束機関)創設により、警察国家へと移行して行く。このOVRAは戦前の日本の「特高」(特別高等警察)と同じで、反政府的思想犯の取締り、弾圧を専門とする。こうして当初は政治的基盤の弱かったファシスト党も、新選挙法と国家防衛法の二つで、独裁政権としての強固な立場を確立することになった。  またOVRAによって、反ファシスト分子は政治犯の名の下に、ポンツァ、リパリ、ランペドゥーサなど六つの孤島に流刑にされた。この法施行の年だけで、約五百人が島流しにされた。さらにその翌年だけに限っても、反ファシストとして検束された者は、一万九千人にも達したのであった。  以上のようなファシスト独裁体制が確立される過程で、激しい弾圧にもくじけず、その後イタリアに反ファシズム精神を育んでいく人物も数多く現われた。その代表的な人物を幾人か挙げておく。社会党代議士ジァコモ・マッテオッティ、パリに亡命中に暗殺されたロッセッリ兄弟、それに思想家アントニオ・グラムシらである。彼らはそのカリスマ性で生涯ムッソリーニを脅かし続けたのであった。  マッテオッティは北イタリアの大地主の息子ではあるが、小作人の生活実態をつぶさに知って社会党代議士になった知識人であった。ムッソリーニの政治手法に早くから警告を鳴らし、一九二四年四月の総選挙後の五月三十日、下院で「今回の総選挙では、選挙民の自由な意思が表明されてはいない」と、ファシスト党の違法ぶりを激しく攻撃した。  ファシスト党議員も総立ちで野次を飛ばし、マッテオッティの演説はしばしば聞き取れぬほどであった。これにはムッソリーニまでが加わり、「君は背中に弾丸をみまわれたいのか! そうしてやる勇気は持っているぞ」と怒鳴る一幕さえあった。  三十九歳の若き政治家マッテオッティはこの日、下院を去る時に同僚に「君らは僕の葬儀の弔辞を用意しておいてくれ」と言い残した。果して十日後の六月十日、彼はローマのポポロ広場近くの自宅から下院に向う途中、テヴェレ川畔で何者かに誘拐され、行方不明になったのである。  幸い誘拐した車のナンバープレートを目撃した近くの人物から、犯行一味が割り出された。車の所有者はムッソリーニの友人のさる新聞編集長で、実行犯は殺人・誘拐前科十二犯のファシスト突撃隊員アメリゴ・ドゥミーニほか二人であった。ドゥミーニらの自白でマッテオッティの遺体も発見された。  事件の前後の状況からして、マッテオッティ殺害がムッソリーニの差金(さしがね)によることはほぼ明らかであった。彼は窮地に陥った。失脚さえ噂された。だがムッソリーニは下院で反撃に転じる。顔面蒼白になりながら、「われわれを脅かそうとするものこそ、われわれの唯一の敵である」と絶叫し、ファシスト党攻撃の口を封じた。こうして辛うじて危機を乗り切ったのだが、ムッソリーニもマッテオッティの“返り血”を浴びた。マッテオッティ殺害はムッソリーニの生涯消えることのない「悪」の烙印となったのである。  カルロ、ネッロのロッセッリ兄弟の運命も今日なお語り継がれている。フィレンツェの名門出身のこの兄弟は自由主義者であった。一九二七年に逮捕、リパリ島に流刑された。だが彼らは本土の友人と密かに連絡をとり、月のない夜モーターボートによる救出作戦の末、奇跡的にチュニジアに脱出し、パリに亡命する。そこでロッセッリ兄弟は『脱出記』を本にまとめ、ファシスト政治を糾弾したのである。  そればかりか、祖国イタリア向けに反ファシズムのニュースレターを送り続け、抵抗組織「正義と自由」運動を創設する。スペイン市民戦争(一九三六—三九年)では、当時パリにいた反ファシストのイタリア人や本土からの同志を集め、共和派支援の国際義勇軍を編成し、自らも陣頭に立った。その部隊名は「ガリバルディ旅団」であった。  ムッソリーニはこれに対抗して「ムッソリーニ旅団」をファシスト・フランコ軍支援のために派遣した。スペインの地で早くもファシストと反ファシストのイタリア人同士の戦いが行われたのであった。このガリバルディ旅団の戦士達が、後にイタリアでパルティザンのリーダー格となったのは歴史上、当然の帰結といえよう。  しかし一九三七年六月、ロッセッリ兄弟はスペインに武器輸送中、南フランスの片田舎で暗殺された。手を下したのはフランスの極右組織であったが、ローマのファシスト情報機関の指示によるものとされた。パリでの兄弟の葬儀の日、全ヨーロッパから参集した反ナチ・ファシストを含め約二十万の人々が二人の棺に別れを告げたとの記録がある。  グラムシはその著『獄中ノート』『獄中からの手紙』などにより、現在もなおすぐれた思想家としての声価は高い。ムッソリーニによって投獄の憂目に遭い、これら著作が生れたことは大きな皮肉である。  彼は一九二一年、社会党から分派してイタリア共産党を創設した。名前こそ共産党だが実態は今日でいう社会民主政党に近かった。マッテオッティと同じくムッソリーニにとって政敵の一人であった。マッテオッティ事件後、国家防衛法が制定されると、一九二六年、国会議員でありながら危険人物として真っ先に逮捕され、二十年の懲役刑を宣告された。  身障者であるうえ、結核におかされていた彼にとって、二十年四ヵ月の獄中生活は少しずつ体を切り刻まれる残酷な死刑執行にも等しかった。グラムシの明晰な頭脳がムッソリーニには耐え難かったのである。当時、検察官は「この人物の頭脳を二十年間、働かせないことが必要である」と論告したものである。  このためロマン・ロランはじめヨーロッパの知識人、文化人ら多数が、グラムシの減刑運動を展開したほどであったが、結核は彼の体を徐々にむしばみ、一九三七年に獄中で四十五歳で死去した。  イタリアの反ファシスト運動はこのように、ムッソリーニのファシスト党結成後から生れていたが、独裁確立後の弾圧に次ぐ弾圧で、第二次大戦開始の頃にはほとんど息絶えたかに見えた。しかし一九四二年に入って戦局が芳しくなくなるにつれて、徐々にではあるが動き出していた。連合軍による空襲激化で、民心も政府から離反しはじめ、厭戦気分が広がってきたからである。とはいえ、小人数の活動では、実質的な力とはならなかった。  だが一九四三年九月以降、パルティザンが誕生し、部隊が編成されると、スペインでの「ガリバルディ旅団」のほか「マッテオッティ旅団」「正義と自由旅団」「グラムシ旅団」と、これら反ファシスト達の名が冠せられた。これを見てもイタリア人の心の底に、反ファシズム精神が脈々と生き続けていたことが分る。そしてそれはドイツのイタリア占領によって、「反ナチ」闘争としても一挙に燃え上がったのであった。 ドイツ軍との戦闘始まる  イタリア休戦から四日目の九月十二日、世界を驚嘆させるニュースが走った。ムッソリーニがドイツに救出されたのである。  この日午後、中部イタリアの最高峰グラン・サッソ(標高二九一四メートル)にオットー・スコルツェニー指揮のナチ親衛隊が十一機のグライダーで着陸、七月二十五日来各地を転々と幽閉されていたムッソリーニを見事に救出、ドイツに運ぶという離れ業を演じた(詳細は拙著『ムッソリーニを逮捕せよ』を参照されたい)。これには枢軸国、連合国を問わずひとしく感嘆の声を惜しまなかった。  ミュンヘンで待ち受けていたヒットラーにムッソリーニは「ヒューラー(総統)よ、本当に有難う。すべてが夢のようだ!」と感謝の言葉を述べた。この瞬間から統帥はヒットラーの完全な傀儡になり下がった。ムッソリーニはこのあとヒットラーの要請で、北イタリアのガルダ湖畔に「イタリア社会共和国」政府を樹立する。これによりイタリアには、南のバドリオ政権(連合軍側)と北のムッソリーニ政権(ドイツ側)の二つが併立することになった。イタリアは文字通り二分されたのである。  その頃イタリア各地では、市民とドイツ軍の小競り合いが頻発していた。イタリア占領を開始したドイツ軍への市民の抵抗が始まったからである。初の最大の戦闘がローマのカラカラ浴場跡西方のサン・パオロ門広場での白兵戦であった。  九月十日、ローマ西郊駐留のドイツ軍が大挙、ローマ市内進駐を図った。それを阻止しようと市民達が抵抗、ローマ防衛の残存部隊、国民解放委員会の面々がこれに加わった。九日にローマ防衛機甲軍司令官カルボーニから武器弾薬類を受領した責任者のペルティーニもその一人であった。戦闘は丸二日間、サン・パオロ門広場を中心に白兵戦の形で続いた。しかし装備と戦闘能力のすぐれたドイツ軍の前に武器弾薬の補給を絶たれた市民らは敗れた。ドイツ軍は死者約四百人を出し、市民側もほぼ同数が戦死した。  こうして九月十二日以降、ローマはドイツ軍の軍靴の下に置かれることになったが、このサン・パオロ門の白兵戦はその後の各地における抵抗の狼煙(のろし)となった。現在この広場の一角には、当時の市民戦士達を賛える大理石の大きな記念碑がかかげられている。  ローマとほぼ同じ頃、他の大小の都市もドイツ軍に制圧された。ドイツ軍は当時、約十五個師団で約二十万の兵力を擁していた。そのドイツ軍に各地の青年はいわゆる「人間狩り」で強制徴用され、労働力としてドイツに送られた(後年の調査でその数は約六十万)。またドイツ兵は各地で市民への略奪、暴行を重ねたのである。  一方、十日未明、ローマ南方サレルノに約五個師団の連合軍が上陸、ドイツ軍はサレルノ防衛に釘付け状態にされていた。  そのサレルノの北五十六キロのナポリでも、市民の占領ドイツ軍への大規模な抵抗戦が起こり、多数の死傷者を出しながらもついにドイツ軍を投降させるという壮烈かつパルティザンにとっては痛快な戦闘が始まった。九月二十八日から十月一日まで続いたこのゲリラ戦は、「ナポリの四日間」の名でイタリア現代史の一ページを飾るエピソードとなっている。  港湾都市ナポリはそれまで三年間、連合軍の百回以上の空爆にさらされ、死者二万人以上を出していた。二十五万人の罹災した人々はキァイア通りなどのトンネルやバラックに寝泊りを余儀なくされていた。街は文字通り瓦礫と化していたのである。  九月十二日、このナポリを占領したドイツ軍司令官ショル大佐は、「ナポリ市を戒厳令下に置く。夜八時から朝六時までは外出禁止。われわれに危害を加える者には、一対百で報復する」との布告を発した。同時に空爆を免れた数少い海岸通りの著名ホテルなどを司令部や宿舎として接収した。  漁民の多いこの街で、朝六時まで外出禁止では商売もできない。そのうえ「ここは世界一美しい」と自負心を持つナポリっ子の多くは「昔からここを学術研究のために訪れていたドイツ人が、こともあろうに占領するなど許せない!」と一斉に反感をつのらせた。  そうした緊張感の中で、最初の衝突は占領その日のうちに起った。オペラの殿堂サン・カルロ劇場近くを、小型機関銃で警備中の警官にドイツ兵がその機銃を引き渡せと要求した。警官が拒否すると撃ち合いとなった。ドイツ兵が応援に駆けつけた。それを目がけて住民が建物の上から空瓶や椅子などを投げ下した。ドイツ兵は逃走した。同じ日、日曜日とあって閉店中のナポリ大学前の商店街にドイツ兵が略奪に現われた。商店街は抵抗した。一部のドイツ兵がナポリ大学の建物に放火した。抵抗した市民が逃げ込んだとの理由からである。この衝突の際、一人の少年が手投弾を投げようとしたため、捕って処刑された。これも同じ日、旧跡の卵城を警戒中のイタリア兵八人がドイツ軍に処刑された。  翌十三日には電話局を破壊しようとするドイツ軍を阻止した警官十四人が、自らの墓穴を掘らされた後、一斉処刑された。こうした事件は枚挙にいとまなく、日ごとに市民のドイツ兵への対決の空気が高まっていった。  そうした折、ドイツ軍司令部はさらに苛酷な布告を発した。二十三日のことである。「海岸線から三百メートル以内は軍事地帯」だとして、住民に二十四時間以内の退去を命じ、さらに「一九一〇年から二五年までの出生男子は、労務のためドイツに徴用」としたのである。前者は約二十五万人、後者は約三万人が該当したが、無視する者が続出した。後者は期限までに百五十人ほどしか集まらなかった。  このため司令官ショルは二十七日から一斉に「人間狩り」を開始した。病院、教会に隠れた該当者を容赦なく連行した。引き立てられて行く若者を見て、ナポリっ子の怒りは爆発、ドイツ軍への武装闘争に発展したのである。二十八日早朝、市民達は市内随所にバリケードを築いた。「人間狩り」のドイツ軍の通行阻止のためである。武器を持つ市民がそこに立て籠った。旧式銃、火炎瓶、ピストル、手投弾などが武器であった。  ナポリ民謡「フニクリ・フニクラ」で名高いケーブルカーでも分るように、この街は海岸線から少し奥に入ると高台である。そうした坂道に築かれたバリケードは、大いに威力を発揮した。海岸通りから上がってくるドイツ隊は、いたるところで挟撃、狙撃にさらされ、前進を阻まれて死傷者を出した。イタリア旧海軍将校が指揮をとったバリケードも多かった。その一人、元中尉のルイジ・モンターレから聞いた話である。 「バリケードは主として、市民達が舗道の石畳をはがして築いた。これは弾丸除けにもなるし、武器にもなる。都市ゲリラとして石畳を利用したのは、この時のナポリが世界で初めてではなかろうか。この形式はその後の都市型闘争の原型となったのだ」  このほか、市電を横転させてバリケード代りにしたところもあった。そうした陣地戦が始まり、ドイツ兵が増強されると、屋根、バルコニーから火炎瓶を投下してドイツ隊を追い散らした。市街戦さながらであった。ヴォメロの丘では、若者達がドイツ軍装甲車を幾台も分捕って、イタリア国旗をはためかせてドイツ隊に突っ込んだ。国鉄鉄道員約五十人はドイツ軍鉄道隊を三日間包囲し続け、武装解除のうえ武器弾薬を押収した。  二十九日から三十日にかけ、サレルノ上陸の連合軍に敗れ、ナポリに撤退するドイツ軍が増えて、戦闘は一層激化した。戦車、装甲車も加わって来た。国立古代博物館周辺に集結した戦車、装甲車群と市民の対決は、激戦のヤマであった。小柄な少年達が近くに忍び寄っては、銃眼から車内に火炎瓶を放り込んで次々と擱座させた。肉薄戦であった。  ドイツ軍は人質報復という手を使い始めた。これら人質はヴォメロ競技場に集められた。機銃掃射で処刑するというのである。これを知った元陸軍大尉ヴィンチェンツォ・スティモロは大勢の武装市民を率いて競技場に突入し、ドイツ兵を取り押えて人質救出に成功する。この元大尉は後に中部イタリアでパルティザンに身を投じ、戦死する。  以上のような数々の武勇伝を残し、三十日深夜には大勢として市民側の勝利がほぼ確定した。夜陰に乗じて市民軍を率いる元イタリア軍人がドイツ軍司令部に接近、司令官ショルに降伏を促した。数時間後、ショルは白旗を手にして投降し、部下に戦闘停止を命じた。翌十月一日、少数の残存ドイツ兵との戦闘が続いている午前十一時頃、サレルノから北上してきたアメリカ軍先遣隊がナポリ市内に入って来た。  たまたま、市内のあちこちで戦死した市民の葬儀が行われているのを見て、先遣隊隊長クラーギー大佐は「ナポリの四日間」の出来事を知って驚いた。大佐らはそれら戦死者の葬儀に列席し、丁重に棺に敬礼したあと、本隊に電話した。 「ナポリのドイツ軍はすでに市民に降伏せり。戦闘は終了した」  後日、ナポリ市当局発表によると、この四日間のイタリア側戦死者は百六十八人。うち軍人は二十八人。ほかに重軽傷者は百六十二人であった。特筆すべきは十代の若者が身を挺してドイツ軍に立ち向ったことであった。戦死者の半分が十代、二十代の青年達だったが、そのうち次の勲功者五人に戦後のイタリア政府は金勲章を贈った。  ジェンナロ・カプオッツォ(十二歳)、フィリッポ・イルミナート(十三歳)、パスクワーレ・フォルミザーノ(十七歳)、マリオ・メニキーニ(十八歳)、ジォヴァンニ・イルストリ(十三歳)である。叙勲の言葉に言う。 「君らは銃弾の中をかいくぐり、生命の危険をかえりみずに敵に接近し、手にした手投弾を、じっと敵陣を見据えつつ、適確に銃眼の中に放り込んだ。その勇気と果敢さにわれわれは心からの敬意を捧げるものである」  ナポリ地方を含め、南部には子供とはいえ家族の一員として大人を手伝う習慣が根強い。一人前の気持で戦ったのであろう。棺におさめられた彼らの写真を見たことがあるが、微笑みながら眠っている表情がかえって痛ましくてならなかった。  ローマのサン・パオロ門の白兵戦、このナポリの四日間のいずれも突発的、偶発性のもので事前に計画された抵抗運動ではなかった。突如ドイツ軍の占領下に置かれたまったく初期の闘争形態であった。だが自然発生的に市民が率先して抵抗に参加した点に、イタリア市民達の「反ナチ」の意志を見ることができる。 「解放のために死のう」  ガルダ湖畔のムッソリーニ新政府は通常、「サロ政権」と呼ばれた。湖畔各地の大きな別荘地帯に各省が分散、その一集落サロに外務省が置かれたためである。ムッソリーニはドイツ軍占領下に入ったローマになんとか政府を移したかった。だがヒットラーはこれを許さなかった。総統からすればムッソリーニ政権はあくまでも形だけのものであり、ローマはイタリア占領ドイツ軍司令官アルベルト・ケッセルリンクの支配下に置くべきと考えたからであった。  ムッソリーニの住居兼執務室としてあてがわれたのは、湖畔のガルニャーノにあるフェルトリネッリ荘である。付近一帯にはナチ親衛隊約三千人が配置され、道路も事実上ドイツ軍が管理し、ムッソリーニの身辺警備と称して、その住居には一人の親衛隊将校が同居していた。これは監視役であることは明らかで、電話も当然ドイツ側の盗聴するところとなっていた。ムッソリーニとヒットラーの盟友関係といっても、内実は当初からこのようなものであった。  ムッソリーニの政治については、国民の多くが必ずしも最初から批判的だったわけではない。むしろ一般国民への人情味ある接触や、その清廉な生活態度から総じて年々、人気を高めていたのである。しかしヒットラーと手を結んだあたりから、そうした人気も底流で微妙な変化をきたし始めた。ひと口に言って、イタリア人とドイツ人はお互いにその性格を軽蔑し合うほど、民族的、歴史的に性が合わない。イタリア人にとっては、彼らは古代の昔からイタリアを侵略し続けた「北の蛮族」であった。ところがこともあろうに、ムッソリーニはそのドイツと枢軸関係を締結した挙句、ヒットラー側に立って第二次大戦に参戦してしまった。それもドイツの緒戦の快進撃に目がくらんでのことであった。こうして多くのイタリア人にとって、第二次大戦は単に「ムッソリーニの戦争」でしかなかったのである。しかも戦局が芳しくないとあれば、反戦気運が高まるばかりだったのは当然であろう。  ドイツ軍はサレルノ上陸の連合軍迎撃と、予想されるローマ付近への連合軍上陸に備え、バルカン方面軍の一部五個師団をイタリア本土の増強に差し向けた。これによってイタリア本土に進駐したドイツ軍の総数は、合計二十個師団、約二十六万前後になった。首都ローマはじめ重要都市、鉄道など戦略地点の占領体制強化を目論んだのである。  とりわけローマには、ケッセルリンク司令官のイタリア占領軍の本陣を置き、ミラノにはカール・ヴォルフ大将のナチ親衛隊本部を配して、それぞれ中部、北部のイタリア支配を強化した。またナチ親衛隊の秘密警察ゲシュタポ隊長のヘルベルト・カプラーをローマに置き、その配下が各地でファシスト・イタリアの警察組織を使って、反ナチ・ファシスト分子の摘発と弾圧に当る体制をとった。  ドイツ軍に協力するファシスト警察は二つの種類があった。まず各警察署。ファシスト党から任命された筋金入りの党員が署長に就任した。もう一つは前述のOVRAと略称される反ファシストを予防拘禁する秘密政治警察である。国防相が指揮し、「少しでも容疑のある反ファシスト」を尾行し、容赦なく逮捕、拷問を加えては吐かせ、スパイを強要するなど、冷酷無比な存在であった。  加えて党員が志願して創設した「共和国警察特別局」という私設秘密警察もドイツ占領下に生れた。これは警察署、OVRAばかりかドイツのゲシュタポの手足となって働いた。彼らの事務所は別名「拷問の家」とも呼ばれ、殴打や拷問は日常茶飯事で、殺人も珍しくはなかった。  この「特別局」はならず者のサディストばかりの小人数編成で、彼らに一度拉致されたら五体満足では戻れないと言われたほどであった。 「拷問こそは、反ファシズムという思考と思想を生む頭脳を抹殺する手段である」というのが彼らの哲学であった。ゲシュタポと協力して、さまざまの拷問手段を開発し、ゲシュタポを喜ばせたのも彼らであった。  被害者が戦後、告発した記録などによると、棍棒で殴打するのではなく、スパイク棒と称するトゲ付きの棍棒で殴打するのが通常で、殴られる者はみるみる血ダルマになった。また許容量を超える水を飲ませ、胃の上に乗りかかって水を吐かせるというのも連日の拷問手段であった。そのほか、ガスバーナーで体を焼くとか、性器に焼いた針金を挿入、あるいは消毒剤を注入することも稀ではなかった。一日一度か二度の食事に汚物を混入するという手も使った。この拷問の様子はロベルト・ロッセリーニ監督の映画「無防備都市」にも活写されているところである。  思えば反ファシズム勢力が公然と反撃態勢をととのえたのは、四三年七月二十五日のファシズム大評議会でムッソリーニが失脚、逮捕された時からである。  ムッソリーニに代ったバドリオは、連合軍と隠密裏に休戦を取り決める一方、各地の刑務所に収容されている多くの政治犯を釈放した。これによって火のついた反ファシスト運動は、ドイツ軍のイタリア占領とともに、一気に「反ナチ・ファシスト」活動となって燃え広がった。  ローマで結成された国民解放委員会議長のボノミ以下大勢は「この際、パルティザンを編成し、テロ活動からでもレジスタンス闘争を開始すべきである」との大方針を打ち出した。それによってのみ、イタリア全土で民衆の蜂起が可能であり、イタリア人自らの手で国土をナチ・ファシズムから解放できるとの「抵抗の大義」を確立したのである。  ドイツ軍占領下で直接武装行動に出ることは、死をも意味した。各政治家は誰もが「決死の覚悟」を決めた。ボノミは若い同志達に「これから何日、生きて戦えるかは知らない。わしが死んでも君達でこれを続けてくれ」と、その決意のほどを語った。  ブリンディシのバドリオ政権は十月十三日、ドイツに対して宣戦を布告した。連合国側はこれによってイタリアに「CO-BELLIGERENT(共同交戦国)」の地位を与えることになる。  この動きを横目に見て、国民解放委員会は全国代議員会議の開催を計画する。イタリアの反ナチ・ファシズム闘争のリーダーシップは国民解放委員会が握らなければならないとの立場からであった。ナポリの生んだ世界的哲学者ベネデット・クローチェらはチャーチル、ルーズベルト、スターリンの連合国首脳に電報を送って、その開催を連絡し、ついに四四年一月二十八日、南イタリアのバーリで第一回国民解放委員会大会を二日間にわたり開催した。  民主政党七党(キリスト教民主、共和、行動、社会、自由、共産、労働民主)の各県代議員各一名ずつと国民解放委員会中央委員会のメンバーによる九十人の会合であった。バーリは前年末に解放されたばかりである。そこにドイツ占領下からも厳重な警戒網をかいくぐって、出席者がたどりついた。これは大戦中のヨーロッパでも特筆されるべき劇的な会議の一つとなった。  大会では活発な意見が出た。クローチェは「現国王が元首である限り、ファシズムは終らない」と述べ、また亡命先のアメリカから秘かに帰国した後に外相となるカルロ・スフォルツァは「最高に有罪である国王を排除するならば、われわれイタリア人は頭を高くあげて平和会議に臨むことができる」と述べて拍手を浴びた。結局「イタリア解放のためのわれわれの闘いは、国王とバドリオ政権によっては達成できない。われわれ自身の力によってのみ可能である」と決議、戦争終了後に速やかに国民投票を実施し、国王退位の必要性を強調した。  この決議は中央委員の一人でキリスト教民主党のジォヴァンニ・グロンキによって起草された。グロンキは後に第三代大統領になる。ちなみに中央委員は十五人で、この中にキリスト教民主党のアルチーデ・デ・ガスペリ(後の首相)、社会党のピエトロ・ネンニ(後の副首相、外相)、ジュゼッペ・サラガート(後の第五代大統領)、サンドロ・ペルティーニ(第七代大統領)らも含まれていた。首相を経て第四代大統領に就任するキリスト教民主党のアントニオ・セーニはこの大会にサルデーニャから代議員として駆けつけていた。戦後のイタリアを背負う錚々たる人物群がこの大会に打ち揃っていたわけである。  大会ではこのあと、各党代表から成る参事会を結成、事実上の行政・軍事を指導する機関とした。中央委員会のメンバーもこれらに加わるが、すでにその頃は各地でドイツ軍、ファシスト軍による一般民衆を含めた反ナチ・ファシスト分子の逮捕、虐殺が繰り返し行われており、参事会の結成により抵抗運動の組織化が急務となっていた。  反ナチ・ファシスト達の任務は当初、個人ないし小人数によるドイツ兵、ファシスト兵へのテロ、少数の集団によるドイツ軍襲撃と武器弾薬の捕獲、押収、反ナチ・ファシスト分子の保護や隠匿、あるいは連合軍捕虜の収容所脱走支援と保護といったものであった。工場ではサボタージュが行われた。しかし時を経てパルティザン組織は漸次増強し、小規模な襲撃はもちろん中規模の攻撃も敢行し、退路遮断によるドイツ軍殲滅作戦も行えるほどに成長していた。  各地のパルティザン部隊は、それぞれ旗印となる固有名詞を冠した。前述の通り社会党系が「マッテオッティ旅団」、行動党系が「正義と自由(GIUSTIZIA E LIBERTA)旅団=略してGL」、共産党系「グラムシ旅団」などである。共産党はこのほか北イタリアの部隊に「ガリバルディ旅団」と名付けた。このパルティザン闘争を十九世紀末のイタリア国家統一運動(リソルジメント)やスペイン内戦の時の派遣軍になぞらえ、かつての英雄ガリバルディにあやかったのである。ガリバルディが率いた兵士達が義勇兵であったことも、その名称にふさわしいものであった。  同じように共和党系は、リソルジメントの思想家マッツィーニにあやかって「マッツィーニ旅団」を名乗り、キリスト教民主党系は「自治独立(AUTONOMO)旅団」、「緑の炎(FIAMMA VERDE)旅団」、「ディディオ(DI DIO=人名)旅団」などと呼称した。  これら各旅団は、名前こそ旅団ではあるが、当初はそれぞれが小集団に過ぎず、しかも一つ一つの単位がまったく個別にそれぞれの作戦を行っていた。しかし各単位の人数が約百人くらいにふくらみ、それぞれ数字番号をつけた。例えば後にムッソリーニを逮捕処刑することになるコモ周辺の第五十二ガリバルディ旅団といった具合である。  以上のようなパルティザン部隊とは別に、都市ゲリラ専門の「愛国行動隊」組織もローマ、ミラノ、ヴェネツィア、トリノ、フィレンツェなどの大都会で共産党指導のもとに編成された。この行動隊は一単位が三、四人から成り、主として大学生や青年男女であった。  これらパルティザンや行動隊の面々は、お互いに本名は名乗らず、素性も経歴も明かすことをしなかった。ニックネームだけで呼び合うことになっていた。ナチ・ファシストのスパイや仲間の密告などで自分や家族の逮捕を免れるためであった。それほどナチ・ファシストからの切崩し工作は激しく、また捕った仲間が拷問に耐え切れず、仲間を売るケースも稀ではなかったからである。  ニックネームといえば、ペルティーニは、名前をアレッサンドロといったが、自他ともに「サンドロ」と呼び捨てにした。彼はこのパルティザン時代の愛称を大事にし、戦後に大統領に就任してからも常にサンドロを使い、一九九〇年二月に死去した後、郷里サヴォーナの墓碑も遺言でサンドロ・ペルティーニで通している。  一九四三年秋も深まると、ローマ以北の都市や農村、山岳地帯ではパルティザンとナチ・ファシストとの闘いは日を追って凄絶さを加えていった。いたるところで処刑、抵抗が繰り返され、相互に憎悪が燃え上っていった。  第二章 ナチ占領下のローマ 空腹と恐怖の日々  ナチ占領下の首都ローマには、ファシズム時代にもなかった重圧感が鉛のように重くのしかかっていた。ローマ占領ドイツ軍主力は機甲師団と降下師団である。その鉄帽、迷彩をほどこした戦闘服は、ふくよかな文化の香り高いこの街々にはどうしてもそぐわない。それにもまして、彼らの口をついて出る荒々しいドイツ語の響きは、やさしくまろやかなイタリア語とは融け合わなかった。古代ローマの昔から、ゲルマン人はイタリアの土地を侵略し、略奪を繰り返してきた。文化的にも歴史的にも、そして人間的にも、イタリア人にとってドイツ人は「北の蛮族」でしかなかった。そのドイツ人がいま、イタリアに君臨している。ローマ市民にとって、それはどうにも耐えられない屈辱であった。  占領ドイツ軍は当然ながら、市内の主な建物を軒並み接収した。都心の緑濃いボルゲーゼ公園に面するイタリア大通りの豪奢な建物は、ケッセルリンクのイタリア占領ドイツ軍司令部が独占した。隣接のヴィットリオ・ヴェネト街の華麗なホテル・エクセルシォールは、メルツェル将軍のローマ占領司令部が入った。グランド・ホテルのほかアンバシアトーリ、クィリナーレなどの名門ホテルもドイツ軍将官の住居として接収された。  市民達ははじめ、ドイツ軍に冷い視線を向けながら鬱々とした日を送っていた。だがやがて、その存在を無視するかのようにふてぶてしく振舞うものや、「テスタ・ドゥーラ奴(め)」と軽蔑の言葉を浴びせるものも多くなった。これは直訳すると、「重くて動きのにぶい頭」という意味で、「石頭野郎」とか「馬鹿者」を言う。イタリアでは昔からドイツ人の蔑称であった。その言葉を公然と口にしはじめたのである。  ドイツ軍占領で、市民の日常生活がにわかに脅かされたからである。真っ先に現われたのが食糧不足であった。定住市民一人当りのパン配給量は一日百五十グラムと、それまでのほぼ半分近くに減った。肉、魚、野菜の供給は激減してしまった。ドイツ軍への供給が最優先されたからである。このため、テヴェレ川畔や町はずれのヤミ市で、食料品の相場は上がる一方であった。それでもヤミ市は繁昌し、人々はそれに頼った。庭で菜園を作る家も増えた。農村に買出しに出る家も多くなった。物々交換の主な品は家具、毛皮類、靴、乳母車、空瓶、衣服、書籍などであった。農家は現金もさることながら、こうした順位で品物を歓迎した。  年が明けて四四年、配給品さえ途絶えるようになった。ムッソリーニが君臨していた頃は皆、健康そうに適度に太っていた。それがドイツ軍に占領されてからというもの、ローマだけでなく各都市で、市民の健康は急速に損われ始めていた。痩せおとろえた人が目立つようになった。  一九八四年六月に発表されたある研究者の調査では、四四年から四五年当時、ローマ市民の摂取カロリーはドイツ軍占領前の三千カロリーから千五百カロリーへと半減した。また死亡率は四十年の二倍となった。乳幼児の蛋白質量は、一日なんと七・二グラムしかなかったという。当時の飢餓体験者の一人が「ドイツ人ってのは、人間を人間と思わずに、想像もできないことを平気でやる人種だ」と語ったのを想い出す。  食糧危機だけでなく、飲料水、電力の不足も逼迫していた。ローマ南郊アルバーノ水源地や水道管が連合軍の空爆で破壊された結果、町なかの噴水やテヴェレ川の水を使うローマ市民も多かった。電力はドイツ軍優先であった。月の明るい夜は、街灯でさえ消された通りもあった。一般アパートメントのエレヴェーターは、当然動かなかった。こうしてローマ市民は戒厳令下で夜間外出禁止を科せられ、いつもひもじく、暗い夜を過し続けていたのである。  この夜間外出禁止は当初、夜九時から翌朝六時までであったが、その後、夜七時から、さらに四四年に入ると夕方五時へと繰り上がった。この事実はドイツ軍の市民への締めつけが段階的にすさまじくなったことを物語る。それは反ナチ・テロ防止のためであったが、それほど反ナチ活動が活発化してきた証拠でもあった。  ドイツ軍の規制と市民の反ナチ活動は、イタチごっこの観を呈し、市内の緊張は月が変るごとに日一日と高まっていた。市内には占領軍の布告が次から次へと貼り変えられていた。 「反ドイツ的行動に出るものには、極刑で臨む。テロを準備するもの、及びテロを行うものに対しては即時射殺、または公開絞首刑とする」 「反ドイツ・プロパガンダの印刷物の所持者、およびそれら印刷物の編集、印刷、配布に携ったものは銃殺刑とする」  こうした締めつけに対し、市民の反抗精神はかえってエスカレートするばかりであった。ローマを占領すると同時に、無粋なドイツ兵が街々の要所に単独ないし数人で歩哨さながら警備に当った。占領間もない十月に入ったある日、スペイン広場の一角を自転車に乗った男が、ドイツ兵とすれ違いざま、ナイフで一撃して逃走した。そのドイツ兵は追いかけようとして息絶えた。そうした事件がそれから数日間、市内で連発した。  ドイツ軍司令部はすぐさま、「二輪車禁止」の布告を発した。するとローマの自転車店では、二輪車を三輪車に改造する商売を始めた。市民はドイツ軍の前を、これ見よがしにその三輪車を乗り回したものだった。またドイツ軍は占領軍使用のため、市民の自動車を徴発した。被害者の一人、女優のアンナ・マニャーニは怒って、農家の使う大八車を持ち出し、ドイツ兵に「そら、どいた、どいた!」と怒鳴りながらヴィア・デル・コルソなどの目抜き通りを走ったのであった。  こうした路上でのテロやいやがらせは日常茶飯事であった。ドイツ兵やファシストに対するテロリストは、捕まり次第、その場で射殺された。テロリストでなくても、ドイツ兵にちょっとでも抵抗する市民は男女を問わず銃弾に倒された。テレザ・グラーチェという三十八歳の主婦は、夫が無理矢理ドイツ軍の労役にかり出されていくのを追いかけたところ、ドイツ兵にあっさり射殺された。そのドイツ兵と一緒にいたファシストは数日後、何者かに殺された。愛国行動隊の手にかかったのである。  ローマの愛国行動隊隊長は、父の自由党代議士ジォヴァンニ・アメンドラをファシストによって殺されたジォルジォ・アメンドラであった。地下に潜行した共産党員である。ローマの愛国行動隊のメンバーは当初は数十人しかいなかったが、四四年六月のローマ解放時には約八千人にまでふくれ上がっていた。数人の小グループで編成され、ドイツ兵やファシストを襲撃、殺傷するのが目的である。時にはドイツ軍移動などの情報収集、ドイツ軍の戦略物資、武器弾薬を盗み出すこともあった。教育程度の高い若い男女が隊員で、半数以上が大学生であった。特に女性の役割は大きく、持参する鞄の底には、武器や反ナチ・ファシストのビラや印刷物をしのばせていた。  次のようなグループもいた。フェルナンド・ヴィタリアーノ、マリーサ・ムッソという男女二人組の行動隊は、ドイツ軍とファシスト警察の首脳らを一挙に殺害する計画を企てた。ムッソリーニの長男ヴィットリオがローマに移り住んでいたため、まず彼を殺害し、その葬儀にナチ・ファシスト首脳が参列する際に爆殺しようという魂胆であった。  二人はまずヴィットリオの朝から晩までの行動を詳細に調べ上げた。護衛のファシストがいないのは、朝七時にきまって彼がガレージから自家用車を出す時と分った。この時に殺害の機会があるとして、二人は綿密な計画を練り上げた。  二人は出勤とみせかけて毎朝、ガレージ前を通り、ヴィットリオに顔を見せ、不穏分子ではないと安心させたうえである日、短剣で刺殺するということにした。いよいよ明日実行という前夜、ヴィットリオ家の隣家に泥棒が入り、周辺に警官や私服が集っていた。通行人は物蔭の私服から突然尋問され、持物を調べられた。不運にもフェルナンドとマリーサの二人はこの尋問にひっかかり逮捕され、待っていたのは政治犯の刑務所であった。  ローマのパルティザン達にとって、戦いは孤独であった。いつも孤立して戦うしかなかった。全市をドイツ軍に包囲され、外から武器は入って来なかった。武器を調達するにはドイツ軍から奪うしか手段はなかった。しかし愛国行動隊一人ひとりの命がけの闘いで、武器弾薬は着実に増えていた。もちろんその蔭で犠牲者が出ていた。しかし誰もひるまなかった。後ほどラセッラ街での事件の主要人物としてふれる、愛国行動隊の女性隊員の一人カルラ・カッポーニは「われわれの愛国心というものは、レジステンツァ(抵抗)にのみ見出される」と書き遺している。  確かにローマでのパルティザン活動は、物理的には孤立した戦いであった。しかし間もなく行動隊の面々は決して孤立してはいないことを知る。それはローマのパルティザンのみならず全イタリア人を激励し、またローマとミラノ、ローマとヴェネツィア、ローマとフィレンツェなどを結ぶ秘密連絡を代行してくれるロンドンのBBC放送、モスクワ放送の恩恵を思い知らされたからであった。  これら短波放送は、夜にはきまってイタリア語放送を流し、国際情勢全般から大戦の戦況を詳細に伝えた。ドイツに都合のいいニュースだけを流されている占領下イタリアでは唯一つの世界に開けた「窓」であった。ロンドン、ジュネーヴ、アルジェなどからの情報をまとめて、イタリアのパルティザンを支援し、鼓舞する番組が組まれていた。  ローマ市民は口づてにこの放送の存在を知って、屋根裏やベッドの下に受信機を置き、毛布で覆いながら耳を押しつけるようにして聴いた。この受信機をドイツ兵やファシストに見つけられようものなら、逮捕は免れなかった。それをも覚悟して市民の多くは受信機を密かに取りつけたのであった。  ローマ時間の夜九時、十時、十一時がBBCのイタリア向け短波放送時間であった。放送の第一声として「まず本日のメッセージを伝えます」のあと「黄色いバラを三つに」とか「明日朝九時のレティツィア嬢は美しい」などと謎めいた言葉が流れる。一般の人々にはチンプンカンプンであったが、実はパルティザン同志の指示や連絡だったのである。これを聴いて市民達は、同胞の誰かが反ナチ・ファシストのために働いているのだなと、心強く受けとめていた。  BBCのこのニュースキャスターは、「コロネッロ・ブオーナセーラ」と名乗っていた。「今晩は大佐」という意味である。毎夜、「ブオーナセーラ(今晩は)」と挨拶するのでそうした異名となった。イタリアでは隠れた人気キャスターであった。戦後に分ったことだが、そのキャスターはナポリ生れのイタリア系イギリス人コロネル・スティーヴンスという人物であった。  一方、モスクワ放送からはエルコリ・エルコレと名乗る人物から、イタリア語放送が届いていた。エルコレとはギリシャ神話の怪力男ヘラクレスのことである。そのエルコレを名乗った男は、後のイタリア共産党書記長となるパルミーロ・トリアッティであった。  ではいったい、当時、誰がこのドイツ軍支配下のローマから外界と接触を保っていたのだろうか——。  それはローマの元参謀本部陸軍大佐モンテゼーモロという人物であった。あのイタリア休戦を敢行したジュゼッペ・カステッラーノ准将の直属の部下である。ローマの名門貴族の出で、ジュゼッペ・コルデーロ・ランツァ・ディ・モンテゼーモロという由緒ある姓名の持ち主である。土木工学の学位を持つ工兵隊将校で、第一次大戦ではアルプス連隊に所属していた。第二次大戦では首都軍司令部市政局長を務めたこともある。  彼はローマがドイツ軍に占領されるとすぐ地下に潜行し、「軍事戦線」という反ナチ抵抗組織を編成、無線機器を駆使してブリンディシのバドリオ政権と連絡、また連合軍最高司令部とも接触し、それを仲介にイタリア各地のパルティザン部隊と戦術調整などを行っていたのであった。謎のようなBBC放送のメッセージは、このモンテゼーモロ大佐との交信や「軍事戦線」組織との連絡網であった。  彼は地下に潜ってからは、技師を職業とするジャコモ・カタラット=マルティーニという偽名を使っていた。無私無欲の性格で、信仰心に篤かった。そのためかドイツ軍の報復を招く愛国行動隊方式のテロ闘争には批判的であった。正々堂々ドイツ軍と相まみえる方式を採り、それによってのみ、最終的にドイツ軍をイタリアから放逐することができるとして全土でパルティザンを増やすことに心血を注いでいたのである。それは着々と実を結んでいた。  ヴァチカンもモンテゼーモロ大佐を陰に陽に支援した。ヴァチカン所属の建物内で、モンテゼーモロと国民解放委員会やパルティザン達との秘密会議も度々行われたという。しかしその華々しい活躍も半年足らずで、四四年一月、市内のドメニコ派僧院付属研究所が「武器隠匿」容疑でファシストに急襲された際に、彼は他の反ナチ・ファシストと共に逮捕され、ドイツ軍に虐殺されることになる。この子細については後述する。だが彼の作り上げた「軍事戦線」網は中部イタリアだけで四四年夏には五十ほどの拠点を持つことになる。  ここでドイツ軍に対する当時のヴァチカンの態度について概略触れておく。ヴァチカンはローマ市内にあっても、れっきとした独立国であり、ローマ占領ドイツ軍を領土内には一歩も入れなかった。ドイツ軍側は再三、警備隊をサン・ピエトロ広場にも配置したいと申し入れたが、ヴァチカン側の拒否にあった。法王庁国務次官ドメニコ・タルディーニ枢機卿はドイツ大使エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーとしばしば会見、ドイツ軍がイタリア人を大量に逮捕し、迫害していること、また食糧不足についても厳重抗議を行っていた。  こうした動きに見られるように、全般的にヴァチカンとしてはドイツ軍政に批判的であった。一、二の例を挙げてみる。  ローマ終着駅にほど近いチェルニア街の修道院に住むピエトロ・バルビエーリ大司教は自分の書斎に常時十幾つもの寝台を用意しておき、パルティザン達に提供したほか、国民解放委員会の秘密会議の場所に使わせた。デ・ガスペリ、ネンニ、ボノミらの反ナチ・ファシストそれに後日パルティザン全軍の指揮官となるラファエレ・カドルナ将軍らはこの書斎の常連であった。もしドイツ軍に見付かれば、大司教自身も処刑されることは明白だったが、最後まで発見されずに済んだ。  逆に悲惨な最期を遂げた神父の一人に、ピエトロ・パパガッロ師がいる。サンタ・マリア・マジォーレ大聖堂の司祭であった。住居は大聖堂前のウルバーナ街にあった。ドイツ軍の手から逃れさせるユダヤ人達に本物と区別もつかない精巧なニセの身分証明書を発行し、またパルティザン達を匿(かく)まい、同じように追及を逃れるための身分証明書やその他の証明書を手渡して助けた。  しかしゲシュタポの回し者で、助けを求めるふりして接近してきたマルティーニ伯爵夫人と称する女性の密告により逮捕された。ゲシュタポは神父の住居に張り込み、訪れるパルティザンを相ついで逮捕したのであった。後日パパガッロ神父は銃殺されたが、この神父のことは、ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」にも詳細に描かれている。  ヴァチカンがドイツ大使に厳重抗議したように、ドイツ軍はローマ市民全体を敵視しているかのごとく仮借ない取締り、逮捕、拷問、処刑で臨んでいた。ゲシュタポ隊長カプラーとローマ警察署長ピエトロ・カルーソは、緊密な連携で無数の非人道的な蛮行を逮捕者に加えた。  サン・ジォヴァンニ・ラテラーノ大聖堂に近いタッソー街百四十五番地「ドイツ文化協会」の建物がカプラーの事務所で、この建物は現在は別名「惨劇の家」として知られている。中世の詩人タルクワート・タッソーの名を冠した美しい街並みにそぐわず、その建物は血に飢えた冷血鬼どもの蛮行の館であった。重要なパルティザンはいずれも逮捕後、この四階建の建物に連行された。前記モンテゼーモロ、パパガッロ神父もここに拘禁された。  モンテゼーモロが捕まる二日前の一月二十三日には、その一年半前の四三年七月二十五日にムッソリーニ逮捕を執行した国防省警察のジォヴァンニ・フリニャーニ大尉も逮捕されて、同様に拷問を受けていた。常時、十数人ほどがこの建物内に収容されており、尋問、拷問のあとは市内西部にあるブラヴェッタ城塞跡の土手に引き立てられて銃殺される手筈となっていた。  瞼を引きちぎられ、こめかみをヤットコで締め付けられるなどの拷問にもかかわらず、ほとんどの逮捕者は口を割らずに殺されることを選んだ。現在は「ローマ抵抗博物館」となっているこの旧ドイツ文化協会を訪れた私は、館内を歩くうち、壁に記した幾つもの爪で彫った言葉を見て胸が痛んだ。 「イタリア万歳!」や「裏切るよりは、いかにつらくとも死んだ方がましだ」というのもある。陸軍の師団長で反ナチのシモーネ・シモーニ将軍は、十字架とともに「私は拷問を受け、耐えている。誇りをもって、私の思いは祖国に、そして家族に」と彫り遺した。市内の小学校ではこの博物館見学が学習課程の一つになっている。  このほか私設の「共和国警察特別局」はピエトロ・コッホ組など五班に分れ、コッホが最も残忍だったとされている。コッホ組の“拷問事務所”は都心部のロマーニャ街のもともとは下宿屋だった家を使っていた。コッホらは四四年六月、ローマが解放されるとフィレンツェに逃れ、そこでも“拷問事務所”を開いたが、最後にミラノでパルティザンにより銃殺された。 ラセッラ街で親衛隊爆殺  四四年一月二十二日未明、地の底から響くように殷々(いんいん)たる砲声が轟いてきたのをローマ市民は聞いた。誰もが固唾をのんだ。首都南方五十キロのアンツィオ海岸に数万の連合軍が上陸したのである。それから連日、砲声は続く。連合軍はやがて北上、ローマ南四十キロ足らずのアプリリア地域をめぐりドイツ軍との争奪戦に入った。ローマとその周辺への連合軍空爆も激化した。二月十日には、連合軍によるローマ法王の夏の別荘地カステルガンドルフォ爆撃で民間人に約五百人の死傷者が出た。三月に入ると、ローマ市内でも空襲による被害が相ついだ。 「首都攻防戦近し!」と、約五万のローマ占領ドイツ軍は臨戦態勢に入り、緊張の極にあった。こうした空気から、ドイツへの市民のとげとげしい反感は増幅するばかりであった。連合軍はこの機に乗じて、市民向けのビラを幾度も空中から大量にばら撒いた。 「連合軍はイタリアの心臓部に近づいている。いまこそローマ市民はその英雄的行動によって、侵入者ドイツ兵を放逐するため、われわれと協力しよう。イタリア解放のために!」 「明日のイタリアを保証するため、ローマ市民のわれわれへの協力は不可欠である。諸君の協力を期待している。FUORI I TEDESCHI!(ドイツ人を追い払え!)」  三月二十三日午後二時過ぎ、市内中心部のラセッラ街で、大音響とともに爆裂音が轟いた。ちょうどそこを武装行進中のナチ親衛隊百五十六人は爆発とともに吹き飛ばされた。血の海となった現場には散乱した肉片、ちぎれはじかれた軍服、息絶えながら倒れるもの、うめきながら助けを呼ぶものなど酸鼻の極みであった。道路の両側の建物の窓ガラスは壊れ、屋内からは泣きわめきながら人々が顔を出した。  轟音はローマ市内のほぼ全域に聞えるほど大きく、市民の誰もが「何かあったなっ!」と耳をそばだてたほどであった。ラセッラ街は目抜きのトリトーネ大通りからふたつ裏の坂道で、トレヴィの泉がほど近くにある。この大爆発で親衛隊のうち三十二人が即死、重軽傷を負った約七十人のうち一人が後で病院で死亡した。死者は結局三十三人となった。これがパルティザン闘争史上名高い「ラセッラ事件」の発端である。  この親衛隊爆殺テロは、パオロことロザリオ・ベンティヴェンガ、エレナことカルラ・カッポーニという男女の愛国行動隊員により実行されたものであった。ベンティヴェンガはローマ大学医学部学生で、カッポーニは化学研究所に勤めたことのある普通のお嬢さんである。  二人は恋仲で、テロリストとしても有能であった。前年末にはバルベリーニ広場の映画館で、前線に出動するドイツ兵が映画を楽しむために集合したところを座席の下に仕掛けた爆弾で一度に十人を死亡させ、十五人に重軽傷を負わせた。同じ年末、こんどは反ナチ・ファシストが収容されているレジナ・コエリ刑務所を襲い、看守ら八人を殺傷した。年が明けた一月には、ローマのファシスト党副書記長ピッツィラーニを襲い、その運転手を死亡させ、さらに三月一日にはヴェネト街でドイツ軍将校を射殺し、鞄を奪取している。そうした実績を持つ二人が、続いて起こしたのが、このナチ親衛隊爆殺という大胆不敵な事件であった。  首都ローマ防衛の臨戦態勢が強化されると、ドイツ軍は市内の警備を強化、巡邏隊が連日くまなく重要拠点を回った。ベンティヴェンガらが目をつけたのが、このうちの親衛隊の巡邏隊であった。親衛隊の第三大隊第十一支隊はポポロ広場からスペイン広場を経て、トリトーネ大通りに出、そこからラセッラ街を通過してクワットロ・フォンターネ街に出る経路で、毎日同じ時間にパトロールすることを突きとめた。  爆弾作りはベンティヴェンガら二人が当り、付属器具はジュリオ・コルティーニという仲間が作った。彼らはゴミ運搬車と清掃人の制服を市清掃作業場から調達した。道路清掃人に変装して、親衛隊を待ち伏せするという段取りである。周到な準備の後、決行日を三月二十三日とした。この日はファシスト党創設二十五周年記念日でもあり、その夜、市内では記念式典が予定され、その会場となるテヴェレ川対岸のアドリアーノ劇場付近に警戒警備の重点が置かれていた。その間隙をぬっての奇襲作戦であった。  決行当日、ローマは春らしく明るい日差しが街々を彩っていた。ちょうど昼食時で、ラセッラ街は人通りもなかった。数人の道路清掃人が金属製の小型ゴミ運搬車を引きずって、道路清掃中であった。ベンティヴェンガらである。  いつもの通りラセッラ街のゆるやかな勾配の坂道を親衛隊の隊列が上って来た。運搬車のゴミ箱の上に爆薬十二キロの爆弾一個、それに箱の中に同じく六キロ爆弾が隠され、点火後一分すると爆発する仕掛けであった。石畳の道路を行進して来る親衛隊の歩調が聞えて来た。計算通り、ベンティヴェンガは爆薬に点火するとゴミ運搬車の上に帽子を載せた。それが仲間への点火の合図であった。あたりにいた清掃人のいでたちをした仲間は、近づく親衛隊に道を譲るふりをして、バルベリーニ広場へ折れる道を曲ると、それぞれ一目散に別の方向に走り去った。走りながら清掃人の制服をぬぎ捨てた。数秒後、ドドーン、ドーンと相ついで爆裂音が街々に大きく鳴り轟いたのであった。  それにしても、現場の状況は目を覆うばかりであった。事件直後、ドイツ軍が撮影した写真が残っているが、ラセッラ街の坂道に親衛隊の爆死者の遺体がゴミの山のように累々ところがっている。この白昼の大テロ事件はすぐさま市内に伝わっていった。市民は誰もが息をひそめた。  爆発音が轟いた時、国民解放委員会の幾人かが、スペイン広場近くの家で昼食をとりながら秘密会合していた。アルチーデ・デ・ガスペリ、ジォルジォ・アメンドラも加わっていた。早速、会合を打ち切って各自の隠れ家に戻った。街にいては検束される恐れがあったからである。国民解放委員会の面々も市民も、「ドイツ軍はきっと、大がかりな報復をしてくるのではないか」と恐れおののいた。  果してその心配は的中することになる。大惨劇が起こるのである。 アルデアティーネの大虐殺  ラセッラ街の現場から、ローマ占領司令部のホテル・エクセルシォールは五百メートル足らず。司令官メルツェルは折柄、ローマのファシスト党幹部らと昼食中であった。一報を受けるや現場に急行したメルツェルは、飲み過ぎたブドウ酒も手伝って、興奮のあまり顔を真赤にして震えた。 「この地区の住民全員を集めて処刑だ! 住居はすべて爆破する!」  怒鳴った司令官は、親衛隊員達の変り果てた多くの遺体を見て、いまにも失神せんばかりであった。このため同行した親衛隊大佐ユージン・ドルマンが現場指揮をとった。ホテル・エクセルシォールからは、昼食を共にしていたドイツ領事アイテル・マルトハウゼン、イタリア内務次官ブッファリーニ=グイディ、ローマ警察署長カルーソらも駆けつけた。ゲシュタポ隊長カプラーも姿を見せた。  死傷者は全部で百人以上に上り、累々と横たわる遺体の傍で重傷者はうめき、のたうち回っていた。その惨状をひと目見るなり、誰もがただ呆然とするばかりであった。  重軽傷者が病院に運ばれている間に、生き残り親衛隊員によってラセッラ街の住民が続々、バルベリーニ宮殿前に引き立てられた。  イタリア占領軍司令官ケッセルリンクはたまたま前線視察でローマに不在だったが、同司令官名での至急連絡にヒットラーは折返し「ドイツ兵一人に対しイタリア人五十人を処刑せよ。ラセッラ街は全域爆破」と指令して来た。しかも、二十四時間以内に! と厳命したのである。これにはさすがの親衛隊も驚いた。処刑など朝飯前のゲシュタポも「一人対五十人とは!」と絶句した。三十三人が死亡したから、処刑者は千六百五十人になる。「どこからそんなに人質を調達できるか?」をめぐり、ドルマン、カプラーら親衛隊首脳はようやく気を取り戻したメルツェルと協議した。ロシア戦線での場合は一人対十人であったことから、こんどの場合も十人という数字を出した。夜七時、ケッセルリンクが前線から戻ったため、その旨を具申、総統の了承をとることになった。  ケッセルリンクはまず大本営の同僚と電話で打ち合わせた後、ヒットラーに「一人対十人」と恐る恐る申請を行うという気の遣いようであった。夜十時になってヒットラーからその旨了承の返事が来た。その実行はケッセルリンクからメルツェルを経てカプラーに下命された。  ヘルベルト・カプラー。当時三十七歳でゲシュタポの幹部。親衛隊中佐であった。イタリア派遣ドイツ軍とともにローマ入りし、サラリア通りの庭付きの家に住み、バラ作りを楽しむ独身男であった。  四三年九月、イタリア休戦と同時にドイツ軍がイタリア占領軍に早変りすると、ローマ地区のゲシュタポ最高責任者に就任する。そのとたんローマ在住のユダヤ人から金(きん)五十キロを徴収、それを横領したと言われている。また市内のユダヤ教会や付近のユダヤ人商店街を襲撃し、さらに数千人のユダヤ人やユダヤ系イタリア人をドイツの強制収容所に送り込んだことで、ローマでは“恐れられた知名人”となった。  ラセッラ街事件の発生で三百三十人の処刑を行わなければならなくなったが、彼が考えた処刑対象者はタッソー街のドイツ文化協会にゲシュタポが拘禁している反ナチ・ファシスト、刑務所に収容されている政治犯や死刑囚などであった。それでも三百三十人には大幅不足のため、ローマ警察署長カルーソや、その下請け私設「警察特別局」のピエトロ・コッホらにまで協力を依頼した。 「二十四時間以内」という総統の命令もあり、処刑者リスト作成はすさまじい混乱の中、夜を徹しておおわらわで進められた。政治犯、反ナチ・ファシスト容疑者は一人残らずリストに組み入れられた。不足分はユダヤ人があてがわれた。恐るべき荒っぽい作業であった。  タッソー街に拘禁されている反ナチ・ファシスト達は、その晩も拷問や尋問を受けていた。モンテゼーモロは両眼が黒く腫れ上がり、唇は切れて血まみれになっていた。大佐は連日の拷問であごの骨を砕かれ、そのために発熱していたが、それでも平静を保ち、威厳を失わなかったという。あのパパガッロ神父もその頃は、一日一度の粗末なスープの食事さえも口に入れず、ただひたすら拷問を受ける人達のために祈り続けていたとのことである。  一睡も出来なかったカプラーはこの夜、能率的に処刑を完了する方法も研究した。戦後、一九四八年から五三年にかけてのこのカプラーに対する裁判で、彼が供述したところによれば「短時間で能率的に処理するため、部下を五人一組に編成し、交替でこの一組がそれぞれ一発で五人を処刑する方法を考えた。一発で処刑するには後頭部から脳天に銃弾が貫通すればいいのだ。機械のように処刑は進行した」という。書くのも憚(はばか)られるほど冷酷で残虐な発想である。  処刑はゲシュタポ隊員がローマ南郊の「アレナリオ・アルデアティーネ(アルデアティーネの砂穴)」という無数の洞窟の中で実施することにカプラーは決めていた。かつて火山灰に似た山砂が採掘された洞窟である。ここはカラカラ浴場跡からサン・セバスティアーノ門を出て、かの「ドミネ・クオ・ヴァディス」教会を過ぎ、観光名所サン・カリストとサン・セバスティアーノの両カタコンベ(初期キリスト教時代の地下墓地)のすぐ裏手にある。  アルデアティーネ洞穴を選んだ理由は、極秘裏に行う必要からだったという。人目につくブラヴェッタ刑場などでは、反ナチ・ファシストからの妨害や襲撃も予想されたからであった。  一夜明けたが、まだ三百三十人もの処刑者リスト作成は手間取っていた。ローマ南方アンツィオに上陸した連合軍とドイツ軍の攻防戦の砲声が遠雷のように響いてくる。だが連合軍はまだローマから四十キロも先である。この物理的距離のおかげで、ゲシュタポには処刑を遂行する時間的余裕があった。処刑される側にとっては、悲運以外の何ものでもなかった。  昼過ぎになってやっと全員男性三百三十人のリストが埋った。あとはリストの処刑者をアルデアティーネに輸送するだけである。輸送にはその頃は必要ではなくなっていた食肉運搬車が使われることになった。アルデアティーネの周辺は、親衛隊が厳重に警戒した。  タッソー街のドイツ文化協会に拘禁されている者はほぼ全員が名前を呼ばれ、運搬車に乗せられた。レジナ・コエリ刑務所へは親衛隊将校ツーンがリストを持って引き取りに向った。ここでは五十人がリストに載っていた。このレジナ・コエリ刑務所は、都心から離れたテヴェレ川の対岸にあり、処刑場からは最も遠い地点になる。このためツーンは処刑者の集合を急がせた。リストの名前を呼びあげて独房や集合房から呼び出し廊下に立たせた。偶然近くにいた者も行き当りばったりで並ばせられた。釈放されるのでは……と思い、名前を呼ばれないのに出て来た者もいた。こうして五十人のはずが五十五人になっていた。ツーンにすれば、いまさら誰が呼ばれずに並んだのかを調べ直すゆとりもなかった。五十五人はこうして食肉運搬車に積み込まれて、急ぎアルデアティーネに運ばれた。  そこでは恐ろしい時間が待っていた。集められた処刑者は一人ずつ後手に縛られた。その時になってはじめて、集められた人々はここで何が行われようとするかを知ったのである。やがて五人ずつの一団が次から次へと洞窟の中に連行されて処刑された。一つの洞窟が一杯になると、別の洞窟で同じように処刑が行われた。全員の銃殺が終ったのは、二十四日夜八時過ぎであった。親衛隊はそれら洞窟の入口を爆破して塞いだ。  ところがこの処刑を目撃していた一人の農夫がいたのである。この人はニコラ・ダンニバレといい、洞窟からちょうど死角に当るところにいた。そのため警戒の親衛隊からは気付かれなかったのである。続々と到着する車のきしみに、何事が起ったのかと約八十メートルの距離から恐る恐る見て驚愕した。大勢の人が縛られて洞窟に連れ込まれると、にぶい銃声が絶え間なく続いたのだ。この農夫は血の気が引いた。それから四十日後、ローマに連合軍が到着すると、この農夫は黙ってはいられず、見たことを直ちに報告した。これが事件発覚の発端となったのである。  ドイツ側は入口をふさいで証拠湮滅をはかったのだが、それは徒労に終った。処刑から二ヵ月後の六月にローマが解放された後、この農夫の届出で事件が明るみに出て、これらの洞窟の発掘作業が開始された。遺体はそれぞれ一人ひとり、丁重に石棺におさめられた。ローマの法医学者八人(うち女性一人)によって、リストに基づく身元確認作業も行われたが、十二人は不明のまま残った。  こうしてこの大量処刑はローマ市はもちろん外国にまで伝えられていった。このため戦後、最高責任者カプラーの裁判が四八年から五年間、ローマの軍事法廷で開かれ、カプラーや処刑に加わった親衛隊員の口々から残酷非道な処刑の詳細が判明したのである。証人に立った幾人かの親衛隊員は、「あの時のことは悪夢のように今もって自分を苦しめている。すべてを告白したい」と、進んで証言台に立った。  その裁判記録によって、三百三十人を処刑すべきところを三百三十五人が処刑されたことも明白になった。カプラーはヒットラーの命令による人数より五人多く処刑したことで「終身刑」の判決を受けることになったのである。  それにしても、裁判記録によると処刑の状況は凄絶を極めた。法廷では傍聴人の誰もが胸をしめつけられ、中にはすすり泣く者、聞くに耐えず退廷する者もあった。その痛ましい記録を筆にするのは忍び難いところだが、敢えてその一部を次に留めておきたい。その冷酷ぶりがまさにナチズムそのものと言ってよいからである。  ——洞窟の前に集められた三百三十五人を、親衛隊のカプラー以下七十六人が一人ひとり縄で後手に縛った。処刑されると知って、人々は泣き叫び、あるいは怒り、地面に伏して抵抗した。最高齢者は七十五歳、一番若い者は十四歳の少年であった。  自分も殺されるパパガッロ神父が「皆さん、神に祈りましょう」と、涙を流しながら幾度も呼びかけた。すでに第一陣の五人は洞窟に引き立てられていった。洞窟内ではその五人のうしろに一人ずつの親衛隊員が付き、ひざまずかされた五人のそれぞれの後頭部に拳銃をあてがい、「頭を下げろ!」と命令し、脳天に銃弾が入るような角度で発射した。それはカプラーが指示した通りの方法であった。年少の親衛隊員がまごついていると、カプラーが「こうやるのだ」と言って模範を示した。  次々と機械的に作業は進んだ。隊員も次々に交替しては、時間のロスもなく進行した。死体の山ができた。次の人達はその上にひざまずかされた。山はどんどん高くなった。その山に登り切れなくなると、別の洞窟に移った。  洞窟の前に待つ人の中には、恐れおののき、震える人もいた。中には「イタリア万歳!」と絶叫する人も多かった。十四歳の少年が引き立てられて行く時は、神父が少年に頬ずりして抱きしめた。神父は声をつまらせながら泣いていた。ほかの人達も泣きながら見送った。  処刑が半分も済まないうち、カプラーは親衛隊員全員にコニャックをふるまった。「疲れたろう。これで元気を出してまた続けろ!」と言った。終了後、隊員達は進んでコニャックをラッパ飲みした。中には泥酔する者も出た。カプラーは、「御苦労だった。もっと飲め! これはすべて総統の命令でやったことだ。法に則してやったのだ」と訓示した。  処刑された者は、自動拳銃の一撃で即死した。ほの暗い蝋燭の光の中にうず高く積まれて行く遺体の山々——。  処刑を待つ人達の恐怖はいったいいかばかりだったろうか。十四歳の少年までも処刑するとは!  その夜、カプラーは本国の大本営に「処刑完了」と報告した。同時にローマ占領司令部は、次の発表を行った。 「バドリオ政府の反ナチ・ファシスト一味がラセッラ街でドイツ軍に対し暴虐無類の事件を起した。ドイツ軍はわが方の死者一人に対して共産主義者十人を処刑するよう命令を受け、これは実施された」  戦後、これらの洞窟は「LE FOSSE ARDEATINE(アルデアティーネの洞窟)」と命名され、ローマの建築家三人、それに彫刻家三人によって「ナチ・ファシズム糾弾の霊場」としての形がととのえられた。  門を入ると左側に、両手を縛られた三人の男性が遠くを眺めながら何かを訴えるように叫んでいる大理石の像がある。犠牲者の悲痛な想いを表現した姿である。さらに進むと天井の低い地下墓地があり、そこに三百三十五人の石棺がズラリと並んでいる。天井が低いから何か重苦しい圧迫感を感じ、死者の苦しみが胸に迫る。棺は御影石でできており、ふたの上には未確認の十二の棺を除き、氏名と顔写真が彫り込められている。  祀られている犠牲者は軍人六十八人(うち高級将校十二人)、外交官一人、ジャーナリスト、弁護士、大学教授など自由業三十三人、工員四十七人、商業七十一人などが主で、ほかに学生六人、司祭一人(パパガッロ神父)などもいる。これらのうち六十七人が反ナチ・ファシストのパルティザンで、残虐な拷問を受けたうえ処刑されたのである。また全員のうち七十人がユダヤ系であった。十四歳の少年もユダヤ人家族の一員であった。  この霊場の一角には、小さな記念館があり、処刑に使われた自動拳銃、弾丸、親衛隊の帽子、制服、またカプラーの所持品、指令書、さらには発掘作業中の写真、犠牲者の持物などが展示されており、見るものの涙をさそわずにはおかない。カプラー裁判の記録や犠牲者名簿などの資料も販売されている。  このアルデアティーネの洞窟を、イタリアの大統領、首相らはもちろん、これまで西ドイツの大統領、またローマ法王ほか諸外国の首脳ら多数が参拝している。  これも戦後のことになるが、事件当時のドイツ軍首脳は、軍事法廷で戦争犯罪人として裁判を受けた。イタリア占領軍司令官ケッセルリンクは一九四七年五月、ヴェネツィアの連合軍軍事法廷で「銃殺刑」の判決を言い渡されたが後に「終身刑」に減刑され、さらに一九五二年十月には「釈放」という処置がとられた。東西冷戦の結果であった。  しかしゲシュタポのカプラーの場合は、そうはいかなかった。一九四八年七月からローマのイタリア軍事法廷でアルデアティーネ大虐殺の責任者として裁かれ、一九五三年十二月十九日イタリア最高刑の「終身刑」の判決を受けた。以来ローマとナポリの中間にあるガエタの軍刑務所に服役していた。  ところが一九七六年、カプラーが胃癌に侵されていることが判明し、ローマのチェリオ陸軍病院に移された。本人は「故国で死にたい」と嘆願し、軍事法廷はそれを認めて「釈放」を決めた。しかしイタリア世論が釈放決定に猛反対し、高等軍事法廷が「釈放取消し」とした。  アルデアティーネ大虐殺事件の当時三十七歳だったカプラーもこの時、すでに七十歳。チェリオ陸軍病院に移ってからはほとんど毎日のように妻のアンネリーゼが見舞いや洗濯物の引き取り、身の回りの世話に訪れていた。このアンネリーゼはカプラーの釈放運動を行っていたドイツ人女性で、カプラーと文通を続けて七二年に獄中結婚し、ローマに住んでいた。  一九七七年八月十五日、チェリオ陸軍病院は騒然となった。カプラーの病室がモヌケの殻になっていたのである。ベッドにはカプラーの代りにクッションが横たわっていた。「カプラー脱走!」の報はイタリア中を駆け巡った。その八月十五日は「聖母マリア被昇天の祭日」としてイタリア全土が休日であった。各地の街々で「アルデアティーネの虐殺犯脱走」に怒った市民らが大デモを繰り広げた。その頃、アンネリーゼの運転するフィアット車で、カプラーはすでに西ドイツ領に入っていたのである。  どのようにして脱出したのか? 脱走二週間後、アンネリーゼが西ドイツの週刊誌「ブンテ」に寄稿、全容なるものを明らかにした。それによると登山が好きだった彼女はある日、ザイルを見て救出を思い立ったと言う。カプラーの病室は四階の角。下には花壇や木立ちがある。十四日の夜、面会時間終了直前に病室の窓から痩せ衰えたカプラーをザイルでしばり、十六メートル下の地上までおろした。病室のドアには「十時まで起さないで下さい」と書いた貼り紙をはった。あとはイタリアの高速道路アウトストラーダとドイツのアウトバーンをひた走った——。  二人はリュネベルク地方ゾルタウのウィルヘルム街六番地のアンネリーゼの実家に入った。イタリア政府はドイツ政府にカプラーの身柄返還を要求した。カプラーとアンネリーゼのいる家の前には、ネオ・ナチの青年達が立ち、身柄のイタリア返還に反対した。ドイツ政府は「西独基本法(憲法)は国民の国外強制送還を禁じている」として、イタリア側要求を拒否した。このためイタリア各地でドイツに対する反感が高まったが、癌の末期状態だったカプラーは翌七八年春、死亡した。イタリアではこのヘルベルト・カプラーの名はいまもなお忘れられることはない。 パルティザンの論理  私は幾度もこの「アルデアティーネ」を訪れたが、三十年四十年経っても、花束をかかえた人が絶えない。聞いてみると犠牲者の身内であったり、まったく無関係の人もいたりした。菊の花を手に女の子を連れたある婦人は、「別に関係者ではありませんが、あってはならないことを子供に教えようと思って……」と私に語った。またある時、祖父が犠牲者だという青年は、私が日本人と知って、別れ際に、「ヒロシマによろしく」という言葉を残して去った。私は思わず「えっ」と思ったまましばらく言葉が出なかった。やっとのみこめたのは、「このアルデアティーネをヒロシマと同格に見据えているのだな」ということであった。つまり戦争というものの残虐性、非人道性の告発のシンボルとしてこのアルデアティーネを見るイタリア人がいるということを知らされたのである。  私はラセッラ事件とそれに続くアルデアティーネの惨劇を知ってからというもの、この二つの事件がパルティザン活動というものの本質と深く関っていると見て、いつまでもこだわりを捨て切れなかった。  ローマのナチ支配は四三年九月八日の休戦直後から翌年六月四日の連合軍到着まで二百六十八日続くわけだが、その間、ローマでの反ナチ・ファシスト活動は絶えることなく、ラセッラ事件以降も頻発した。それどころか、ローマ以北のイタリア各地で凄絶さにおいてラセッラ事件やアルデアティーネに勝るともおとらぬ事件が四五年春まで続く。そして頂点としてのムッソリーニ処刑を迎えるのである。  すなわち、アルデアティーネ大虐殺のようなドイツ軍による報復を受けてもひるむことなく、イタリア国民はさらに反ナチ・ファシズム活動を精力的に展開していった。そこにわれわれは抵抗運動、パルティザン活動というものの真髄を見ることができると思う。  現代政治学では、抵抗運動とは平たく言えば、内外の権力による不当な弾圧に対して個人ないしは集団が人間の自由、正義、独立などの実現のために闘争することと規定できよう。その闘争形式はまずテロであり、ゲリラであり、さらに大きくなればパルティザン戦闘となる。  第二次大戦中、イタリアではまさにこの定義そのままに、自然発生的に抵抗運動が拡大していったのである。その弾圧と抵抗の図式の中で残忍さと憎悪は月日とともに相互にエスカレートしていく。パルティザン達は捕まれば、ナチ・ファシストによる処刑は免れなかった。そればかりか無辜(むこ)の民衆をも巻き込み、それらへの残虐な仕打ち、報復さえも予見された。にもかかわらず、パルティザン達は多くの試練に耐え、市民の支持によってナチ・ファシストからのイタリア解放のため、最後の勝利まで戦いぬいたのであった。なぜそうまでして、イタリア・パルティザン達は戦ったのか。  次に理屈などではない彼らの魂の声を聞いてみよう。以下は『イタリア抵抗運動の遺書』(冨山房刊、P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編/河島英昭、他訳)の中からごく一部を抜粋引用させていただいたものである。  ジャーコモ・ウリーヴィ パルマ大学法学部学生。国民解放委員会の連絡役。徴兵忌避工作にも当る。再三逮捕されたが脱走、三度目の逮捕後、四四年十一月十日銃殺。十九歳。 「あまりにも浅薄な考え方をして、ぼくたち自身を忘れてはならない。いかなる美辞麗句にも惑わされず、確認しよう、国家とは実はぼくたち自身であり、ぼくたちの仕事、ぼくたちの世界であるということ、国家の災難はすなわちぼくたちの災難だということを。現にぼくたちは、ぼくたちの国が陥ったはなはだしい悲惨のために苦しんでいるではないか。そのことを、もしぼくたちが肝に銘じていたならば、こんな事態になっただろうか?」(P・390)古賀弘人訳  フランコ・バルビス 参謀本部付砲兵大尉。北アフリカ戦線で武勲をたてた後、イタリア休戦でパルティザンに。ピエモンテ地方軍事委員会の組織化と連絡に当り、秘密の会合中に逮捕。四四年四月五日、他の七人とともに銃殺。三十二歳。 「いつも誠意と敬意をもって〈国〉のために働こうと願ってきたことを確認し、限りなく静かな心を抱き、胸を張って銃殺隊の前に進み出よう。〈自由イタリア万歳〉というわたしの叫びが死をもたらす銃声を圧してかき消してしまうよう願っている」(P・45)川名公平訳  ジョルダーノ・カヴェストロ 学生。戦争中の四〇年、反ファシズム宣伝パンフレットを発行。四三年九月以降パルティザンに。四四年四月、パルマ県で逮捕。人質として留置され、五月四日、兵士殺害の報復として他の四名とともに銃殺。十八歳。 「ぼくたちはあらゆる悪の終りに立ち会っているのだ。いまは、いわば、巨大な怪物が最後のあがきでなるべく多くの生贄(いけにえ)をつくろうとしているときだ。  もしきみたちが生きながらえたならば、このように美しいイタリアを、このように暖かい太陽に恵まれ、このように善良な母親たちと愛らしい少女たちのいるイタリアを、いまの悲惨から立て直すことが、諸君の仕事なのだ。ぼくたちの屍の上に〈自由〉という大きな篝(かが)り火が燃えあがるだろう」(P・112)倉繁昌子訳  ボーリス・ブラダック・パウデル 医学生。トリノ県のガリバルディ第四旅団主計係。戦闘中に捕まり脱走したが、密告で再逮捕。戦争終了一ヵ月前の四五年三月二十六日、同僚二人とともに銃殺。二十四歳。 「戦友諸君へ。今日、ぼくの生涯は閉じる。最後のこの時に、ぼくの感謝の念が諸君に届いてくれるように。諸君はぼくの真の、立派な同志であった。ただ一つ悔しいことがある。諸君がいまや〈勝利〉を目前にし、〈平和〉が、少なくとも長い闘いと苦しみの末に誰しもが求める平穏さが、全世界に響き渡ろうというときになって、諸君と別れなければならないとは。みなに兄弟としての抱擁を。イタリア万歳」(P・89)望月紀子訳  以上は約二百点の遺書のほんの一部であり、長文のものからは申し訳ないが意とするところを損わない範囲でエッセンスだけを抽出した。 「国家とは実はぼくたち自身」また「自由イタリア」というような素晴らしい言葉を残して銃殺隊の前に胸を差し出したこれらパルティザン達は、イタリアのどこにもいた自由の戦士達であった。彼らは「そのためには死んでもよい」という「真の大義」を自ら見出して、銃殺隊の前に立ったのである。  言葉の一つひとつは、個々の魂の苦しみの告白であると同時に、個を超越した反ナチ・ファシズムという大きな共通の理念に燃えていることを、われわれはその文字や行間に見ることができる。そして彼らは、戦うことによってのみ、ナチ・ファシズムからのイタリアの解放のあることを固く信じて死んでいった。その胸中を思うと、言葉もない。  イタリア・パルティザンの場合、中には裏切りや密告によって捕った者もいた。また激しい拷問に耐え切れず、心ならずも仲間を売った者もいた。その一方でパルティザンに必ずしも味方しない市民も少くなかった。  早い話、ラセッラ事件を起したベンティヴェンガはローマ解放後、「彼のせいで犠牲になった」と、アルデアティーネの犠牲者の一部遺族から訴えられたのである。そのため四四年六月二十三日、彼は刑務所に収容され、七月十四日ローマ地裁で「過剰防衛で十八ヵ月の懲役」の判決を受けた。これには多くの市民が再審を請求、八月十九日ローマ高裁は「無罪」とした。  釈放された彼は以来、黙して語らずであったが、ラセッラ事件四十周年の一九八三年春、「ACHTUNG BANDITEN(暗殺者どもを警戒せよ)」という当時のドイツ軍の合言葉をタイトルにした一書を著わした。彼は恋人だった同志のカルラと結婚し、ローマで医療関係の仕事をしているが、その著書の中で次のように心境を述べている。 「あの事件の結果、関係のない三百人以上もの人々を巻き込んで、ナチの犠牲にしてしまったことは弁解の余地もない。心底から申し訳ないと思っている。  しかしナチ親衛隊を襲撃したことは、決して間違いではなかったと今でも確信している。ナチの暴虐に対しては屈服したら終りであり、われわれの負けになる。暴虐を容認してしまうからである。戦争を早く終らせるため、あらゆる機会をとらえて戦いを挑み、それによって最後には勝たねばならなかった。それはつらく悲しいことだった。でもそれはパルティザンの宿命だったと思っている」  これは確かにパルティザンの論理というものであろう。多くのパルティザンもそのように確信して、決死の抵抗運動に献身したのである。国民解放委員会議長のボノミも、「解放のために死のう」とリーダーシップをとったのであった。  しかし一般市民を巻きぞえにしたり、同じイタリア人のファシストに対し憎悪の銃弾を放ったことについて、生き残りのファシスト達の憎悪がいまなお消えていないのも事実である。「やり過ぎ」「過剰反応」といった批判も残っている。  戦争中、その対決が最も鋭かった地域の一つエミリア・ロマーニャ州では、一九九〇年九月レッジォ・エミーリア市で元パルティザンと元ファシスト党員数百人があわや大乱闘を引き起すまでの緊張が高まった。すでに六、七十歳の高齢者となっていたが、元パルティザン数十人が標識の赤いマフラーをして中心街マルティリ広場に集ったところ、約五百人の元ファシストが二百メートル離れたバッティスタ広場に集結し、党歌「ジォヴィネッツァ(青春)」を合唱した。  その声を聞いた元パルティザン達は、隊員が当時よく歌った「BELLA CIAO(可愛い子)」の大合唱で応じた。警官隊が間に入って辛うじて衝突は避けられたものの、このように戦後四十五年を経てもなお深い対決の傷跡をのぞかせる時がある。それは個々の人間として、安易に妥協は許されない精神の最も根源的な部分に関る戦いだったからであろう。  第三章 ムッソリーニの悲哀 憂愁の日々  ガルダ湖畔での生活は単調で、ムッソリーニは来る日も来る日も浮かぬ顔であった。フェルトリネッリ荘からウルスリーネ荘に移って気分転換をはかったが、憂鬱さには変りなかった。四三年秋、ナチ親衛隊から救出され、「余はファシズム最高指導者としての任務を再開する」と、豪語した時の生気はすっかり消えていた。  毎朝八時四十五分に邸内にある執務室に入るが、格別仕事があるわけではなかった。政務は肝心なことはすべて、ナチ親衛隊司令官カール・ヴォルフらが処理、邸内は親衛隊三十人が警備し、オットー・キスナット少佐らが補佐官然と監視を続けていた。サロ政権樹立をラジオで宣言した際、「われわれは永遠にドイツと結びついている」と自分の背後にあるドイツを誇ったのも束の間、共和国首相とは名ばかりで実際は“虚構の政権”でしかなかったことを自覚させられて滅入っていた。  それを裏付けるように、日常の仕事上で彼の責任は何もなかった。ただ存在していればよかったのである。実体は、妻ラケーレ、長男ヴィットリオ夫妻、それに二男の故ブルーノの妻らに囲まれているだけの六十歳になろうとする一人の初老の男に過ぎなかった。したがってかつての栄光の日々を想う毎日となっても不思議ではなかった。  午前中はさして重要でもない書類に署名し、あとは新聞を読んで過した。午後は来客と雑談するが、権威のない一人の男の話など誰も聞き流すだけであった。ファシスト系のジャーナリストがよく訪ねて来た。だが過去の想い出話が多く、「余がいかにイタリアの偉大さを実現しようとしたか、いずれ国民が分ってくれる時が来るだろう」と言っては、会話が終るのであった。  北イタリアはムッソリーニの「イタリア社会共和国」のはずである。しかしドイツ(当時)に接するトレンティーノ・アルト・アディジェ、フリウリ・ヴェネツィア・ジューリアの広大な両州はドイツ領に編入されていた。第一次大戦で失ったこの両州をドイツは自国領土にしていたのである。残りのピエモンテ、ロンバルディア、リグーリア、エミリア・ロマーニャ、それにトスカーナの五州が「イタリア社会共和国」の支配下にあったが、ドイツ軍はそれらを占領地域、進駐地域、戦闘地域として事実上支配していた。ムッソリーニはこうして、まったく領土も持たない名前だけの共和国の文字通り木偶となっていたのである。  そのムッソリーニの「イタリア社会共和国」には、戸籍上十八歳から二十歳までの青年男子は約十一万人いた。これらを徴兵すればある程度の共和国軍を備えることができたはずである。しかしそれらの大半はドイツ本国に徴用工として動員されたり、あるいは訓練と称してドイツ軍に編入され、共和国軍の兵士は半分以下の四万七千人に過ぎなかった。  また経済にしても、すべてドイツ軍政が管理し、生産を統制し流通を規制した。食糧、家畜はおろか工業製品もドイツ軍優先で、実態は組織的略奪と徴発でしかなかった。トリノのフィアット自動車工場ではトラックを日産五十台ほど生産していたが、「うちせめて三台をイタリア側に回していただければ幸いである」と、ムッソリーニはドイツ大使ラーンに懇請したほどであった。またイタリア中央銀行の金(きん)九十五トンも早々とドイツに移送されてしまっていた。  ムッソリーニの持病である胃病も、その頃はかなり悪化していた。グラン・サッソから救出されたあと、ムッソリーニはヒットラーに侍医を要請し、これはかなえられた。軍医のゲオルグ・ザッカリアである。ムッソリーニはファシズム大評議会以降、イタリア人を信頼しなくなっていたのである。  このザッカリアは毎朝、ムッソリーニを診断し、投薬していた。内科専門医でムッソリーニも信頼を置いていたようである。この侍医が診断結果をヒットラーに報告していたことは言うまでもない。結局、この侍医によっても、ムッソリーニの胃病は治癒することはなかった。翌年四月、ムッソリーニが処刑された後、解剖で「胃癌」が確認された。当時ムッソリーニは、牛乳と野菜だけの食事をし、牛乳は一日二リットル飲んでいたという。  以上のように、ローマでは一人でイタリアを動かし、ヒットラーと共にヨーロッパに君臨し、恐れられていたムッソリーニであったが、いまや一切の権力をドイツ軍に握られた胃病に悩む一介の男でしかなかった。ムッソリーニにはこうして、外からも内からも圧力と悩みがのしかかっていた。  ムッソリーニとしては、自らを奮い起たせ、新生共和国の気勢を上げるためにも、いまこそ何かしなければならなくなった。新共和国憲法もまだできていなかった。そうした仕事を始めるに当って、まずファシスト党大会を開く必要があった。その党大会開催で、ムッソリーニ一家に悲劇が降りかかることなど、彼はその時、まったく予想もしていなかった。一人の人間の運命と歴史の歯車は、無情にそして静かに回っていた。 ヴェローナ裁判へ  ムッソリーニは四三年十一月十四日、ヴェローナでファシスト党大会を開催した。新共和国が当面するさまざまな問題解決の出発点とするためであった。それはまたムッソリーニの新共和国政権が機能していることを内外に示し、党勢拡大にも寄与する一石二鳥の役割を持つものと判断した。  実際この党大会は、イタリア社会共和国初の大会で、新生を祝う熱気が折柄の北イタリアの濃霧をも吹き飛ばす勢いであった。二〇年代からの古い党員、勲章を胸に飾った古参軍人、入党したばかりの青年達が各地方、各機関ごとに色とりどりの旗をかざして参集した。新共和国の国旗——王室紋章の代りに銃を握る鷲があしらわれている赤白緑の三色旗——も飾られ、王室やバドリオ政権への憎しみをあらわに示していた。  会場のアディジェ川畔に立つ十四世紀のヴェッキォ城周辺には、黒シャツ軍団が誇らかに闊歩していた。この大会は新党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニが取りしきった。ムッソリーニは大会運営を一切彼にまかせて、メッセージを送ったにとどまった。ローマ時代と違って、党首ムッソリーニはなぜすべてをパヴォリーニにまかしたのか? パヴォリーニが望み、弱気になっていたムッソリーニが譲歩したのか? そこには中世の権謀うずまいた都市さながら、血の臭いも実は感じられる。だが参集した数百の代議員達はただただ空虚な気勢を上げるばかりであった。当日発表の党員数は二十五万一千人とのことであった。  ムッソリーニのメッセージは「再武装したわがファシスト共和国は、再び革命の前進のため戦う」ことを強調、参会者は全員起立して党歌「ジォヴィネッツァ」を大合唱し、かつてのように「ドゥチェ、ドゥチェ」を唱和した。古くからの党員は過去の勢威を取り戻した感激で涙で頬を濡らし続けた。  二日間の大会は、後に「ヴェローナ宣言」と呼ばれる十八項目の社会政策を採択した。「共和国の社会主義化のために戦い、働き、征服する」ことを目指した内容で、そのための制憲議会も近く選出することを明示した。  この大会の最中、近隣都市フェラーラの功績ある党支部幹部が反ナチ・ファシストにより射殺されたとの報が入り、列席者の一部がフェラーラ市に急行し、反ファシストと目される人物を十七人、片っぱしから射殺するという事件があった。このため党大会の閉幕に当っては、反ファシストへの復讐への気運が再び燃え上がっていた。 「復讐のためには何をやるか!」。大会では期せずして、その年七月のローマにおける党最高機関ファシズム大評議会で、ムッソリーニを失脚させた党幹部の裏切りを断罪する声が上がった。新生の党の力を誇示する意味でも、その裁判は不可欠であった。  この大評議会では、党首脳二十八人のうち十九人が、ムッソリーニは「大政奉還」すべきであるとのグランディ決議案に賛成した。これによりムッソリーニ政権が崩壊したのだが、続く九月のイタリア休戦でドイツ軍が首都ローマを含むナポリ以北を占領下に置くと、それら地域では再び黒シャツが息を吹き返した。下院議長グランディは変装してスペインに亡命するなど、グランディ決議案に賛成した者は一斉に行方をくらました。  その一人ムッソリーニの女婿で元外相のチアーノは、妻のエッダと偽造旅券でスペイン逃亡を計っている最中、不運にもドイツ軍に逮捕された。エッダは後にイタリアに戻されるが、チアーノはドイツに連行されて拘禁されたままであった。同様にチアーノのほか五人がドイツ軍に逮捕された。党元老のデ・ボーノ、元農相パレスキ、それにマリネッリ、ゴッタルディ、チアネッティの党首脳である。うちチアネッティは大評議会の翌朝、直接ムッソリーニに賛成取消しを通告していた。  この六人はやがてドイツから送還され、ヴェローナ市内のスカルツィ修道院に共和国管理の下で拘禁され、さらに市内の刑務所に移管されていた。  党大会はこうした折、反逆者達の裁判開廷を決めたのである。ムッソリーニ不在のまま、ムッソリーニのファシスト党は、かつての“プリンス”ムッソリーニの女婿チアーノらを裁くことになってしまった。ここに来てはじめて党大会の背後に陰謀の臭いをかぎとったものもいたが、一度破滅した名のみの統帥にはおかまいなく、事態は動いていた。 「果してムッソリーニは、自分の愛する娘の主人を断罪することができるのかどうか?」の一点に党内外の関心が注がれた。もし党大会をムッソリーニ自ら主宰していれば、彼一流の操縦術と雄弁で別の方向に大会を誘導することはできたはずと見るイタリア現代史研究者は少くない。  しかし戦後明らかにされたことだが、ムッソリーニがヒットラーの親衛隊に救出されてサロ政権を樹立する際、ヒットラーは彼にファシズム大評議会の反逆者は処刑されるべきだとの条件を付け、これをイタリア人自らの手でやるよう主張したと言われる。また当時のドイツ宣伝相ゲッペルスは一九四三年十一月九日付の日記に「統帥はチアーノをあえて殺すとは考えられない」と書いており、ムッソリーニはこのゲッペルスと外相リッペントロップがそのことを注視していることを知っていたのではないかとされている(注1)。  つまりムッソリーニはヒットラーからチアーノ処刑を押し付けられ、ドイツ側はその実行を見守っていたということになる。そしていよいよその時が党大会で決められたという筋書きと見て取れる。実はそこにはドイツ側の大きな策謀が渦を巻いていたのである。それほどまでして処断を強いられたチアーノとはどんな人物だったのか、ムッソリーニ、ヒットラーとの関係について触れておく。  ガレアッツォ・チアーノは一九〇三年、軍港都市リヴォルノに生れる。父コスタンツォは同市の海軍兵学校出身で第一次大戦の英雄であった。その父の下で厳格な軍人教育を受けた。一九二一年、この父はムッソリーニのファッショ突撃隊の一員となり、後に国会議員選挙にローマ選挙区から立候補して当選する。それに伴ってガレアッツォはローマ大学法学部に入学し、ジャーナリストか外交官を志望していたが、外交官試験に合格、一九二五年ブラジル在勤を皮切りに外交官の道を踏み出す。その後、中国在勤を経て一九二九年に帰国、在ヴァチカン大使館勤務となった。父はその頃、ムッソリーニ政権の通信相の地位にあった。  当時、ムッソリーニの長女エッダに結婚話が持ち上がった時、ムッソリーニの実弟アルナルド(新聞発行人)がガレアッツォ・チアーノを推挙、一九三〇年一月エッダとガレアッツォの交際が始まり、四月二十四日に挙式という親密ぶりであった。ガレアッツォはエッダが知的で性格も強い点を好んだ。エッダは夫の明朗な、それでいて神経の濃(こま)やかな性格を誉めそやした。この二人の仲にムッソリーニも御満悦であった。  新婚後、チアーノはエッダを伴い中国の上海総領事として赴任する。チアーノ二十六歳、エッダ二十一歳であった。翌年、満州事変が起り続いて上海事変が勃発すると、チアーノは日中両国間の調停に尽力する。上海事変の時、在上海外交団の引揚げという事態が生じたが、エッダは踏み留まると宣言、「さすがはムッソリーニの娘」とその強気を賛えられたことがあった。  一九三三年、チアーノは帰国、新聞宣伝省次官に就任した。三五年対エチオピア戦が勃発すると、空軍大尉として爆撃行に従軍、一躍マスコミの寵児となる。エチオピア占領と同時に宣伝相になり、翌三六年には外務大臣に就任した。三十三歳であった。御曹子チアーノは名実共に、ムッソリーニの後継者と誰からも目されるに到った。美男で「若きプリンス」は特に女性の人気の的となった。  国内だけでなく、外国からもチアーノはちやほやされた。ムッソリーニを手本にして独裁者の道を歩み始めていたヒットラーも、統帥の代理としてチアーノを遇した。チアーノとドイツのリッペントロップはそれぞれムッソリーニ、ヒットラーの意を体してローマ、ベルリン間を足繁く往来し、両国の同盟関係を樹立、強化する。英米仏三国に対する後発の資本主義国のプリンスとして、チアーノはリッペントロップと共に国際政治の舞台にも華々しく登場することになった。  それまでのチアーノは、役所でも人前でも岳父のことを「父」とは言わず、他人が言うように必ず「ドゥチェ(統帥)」という尊称で呼んでいた。義母についても同様、「ドンナ・ラケーレ(ラケーレ貴婦人)」の尊称を使い、自分の立場をわきまえて言葉にも態度にも“謙譲の美徳”を発揮していた。人柄も誠実でユーモア精神に富み、両親にとっては「よき女婿」であった。  だが第二次大戦が進行するにつれ、親しい人との語らいの中でムッソリーニのことに話が及ぶと「あいつ」とか「大頭(おおあたま)」などと呼ぶようになった。この変化はチアーノの岳父に対する「離反」の兆候であった。チアーノはヒットラー・ドイツの横暴さに我慢ならなくなっていた。そのドイツにムッソリーニは追随するばかりだったのである。  にもかかわらずヒットラーはイタリアとの同盟に忠実ではなかった。同盟に伴う義務を履行しないばかりか、イタリアに何の相談もなく、勝手に戦争を拡大していくのが、チアーノには不満でならなかった。すべてイタリアに事後承諾の形をとらせた。岳父に忠告しても、ムッソリーニは「ドイツは新兵器(原子爆弾)を作って必ず勝つ」と信じ込んでいた。ドイツとの同盟が大きな誤算だったとチアーノは悟ったが、ムッソリーニはそれも気付かなかった。チアーノにはそれがまた忿懣やるかたなかったのである。  チアーノは日記に、「彼は駄目だ」とか「彼は何も分ってはいない」などと、ムッソリーニ批判の言葉を書き入れるようになる。「このままではイタリアは破滅する」と、彼の心の中には「戦争離脱」の考えが兆(きざ)してくる。戦後に明らかにされた彼の軌跡をたどると、その過程が一目瞭然である。まず外務省内に同志を探し、同時に軍首脳部と接触して密かに同志を求め、その同志らと「戦争離脱」の方策を探るのである。同志は外務省官房長ブラスコ・ランツァ・ダイエータ侯、参謀総長ヴィットリオ・アンブロージォ、同参謀カステッラーノらである。このカステッラーノがムッソリーニ逮捕を計画断行したのだ。  しかも統帥逮捕の直接の理由を作った七月二十五日のファシズム大評議会でチアーノは、ヒットラー・ドイツの横暴ぶりを列挙しつつ、岳父批判の主役を演じて次のように述べたのである。 「わが国は一九三九年以来、ドイツと軍事同盟関係に入っているが、ヒットラーは常にイタリアを欺いて来た。今次大戦でポーランド、ベルギー、フランスなどへの進攻に当っても何ら事前の連絡、協議はなく、すべて事後承諾のみ求めてきた。このままではイタリアは破滅する。ドイツを盲信することは誤りである」  外相として長年、枢軸外交の陣頭に立って来たチアーノのこの造反発言は並いるファシスト首脳陣を驚かせたのであった。ムッソリーニも驚いたに違いないが、その朝帰宅したムッソリーニから話を聞いたラケーレも、「えッ? チアーノまでが……」と絶句したほどであった。  ドイツにとっても、このチアーノ発言は大きな衝撃であった。枢軸外交の理念を根底から覆す以外の何ものでもなかったからである。戦略的に見れば、とてつもない利敵行為である。また心理的にも、枢軸敗北の突破口とも言うべき大きな穴をぽっかりと作り出したことになる。現にこの大評議会によって、枢軸の一翼をになうムッソリーニ政権は崩壊し、後継バドリオ政権によってイタリアは戦線を離脱した。  こうしてドイツにとって、チアーノは文字通り不倶戴天の敵となった。ヒットラーとしてはチアーノには何としてでもその責任をとらせねばならなかった。ドイツはそのチアーノを幸い逮捕していた。自らの手でチアーノを処刑することはいつでもできることであった。だがムッソリーニの責任においてチアーノを処刑させることが、ドイツにとってもイタリアにとっても最善の策とヒットラーは考えていたのである。ヒットラーの怒りはこうして、次項のヴェローナ裁判の開廷となる。  注1 MUSSOLINI'S ENEMY P.269, 270 チアーノ処刑  年が明けた四四年一月、ファシスト政府は八日から三日間、「反逆者」を裁くための特別法廷をヴェローナのヴェッキォ城で開くと発表した。党大会と同じ場所である。そのことはこの法廷が党大会の「延長」、ないしは「続篇」であることを意味した。当然、「反逆者に復讐を!」の声に応えた舞台になるはずである。  あの党大会後、党・政府は周到にこの裁判を準備し、年明けとともに開廷を発表したのである。ヴェローナを取り巻く丘陵地帯は、すっかり雪化粧し、ヴェッキォ城も裁判の厳しさを予告するかのように凍てついていた。  ドイツから戻されていたチアーノの妻エッダは、それからというもの父ムッソリーニの許を訪ねては、夫の助命を死にもの狂いで嘆願した。ムッソリーニは娘に会わない日もあった。すべてはナチ親衛隊の監視するところだったからである。だがエッダはそれには目もくれず、ひたすら父に面会を求めた。彼女は夫を助命してもらえると信ずる“切り札”を持っていた。チアーノの日記である。  日記には一九三七年以来、つまりチアーノが外相になってからの日々のことが克明に書き留められていた。ヒットラーはじめドイツ首脳との会談のことや、岳父ムッソリーニとの会話、外交団や外国民間使節団との会話などを含め、政局、戦局などを冷徹に見据えた感想、意見も書かれていた(日本についての記述もあり、天皇裕仁、近衛文麿、松岡洋右、重光葵(まもる)、広田弘毅、堀切善兵衛、大倉喜八郎、中野正剛らも登場している)。  実はヒットラーがこのチアーノの日記の存在を知り、これを何とかしてドイツに奪取しようと計っていた。ヒットラーが外に知られては困ることを知っている外国人が、チアーノだったからである。そのため彼はヴェローナの獄中にいるチアーノの許へ、ナチ親衛隊の美貌の隊員で通称ビーツ夫人、本名フェリシタス・フォン・ヴェデルという女性を派遣し、特別の面倒を見させていた。健康を尋ね、希望の食事を用意するなどして、チアーノの日記がどこにあるかを探らせるのが目的であった。  チアーノは一般に、社交的なうえ女好きだとの評判が高かった。そうした認識から美貌のビーツ夫人をチアーノの許に派遣したのだが、賢明なチアーノは巧みにあしらい、適当に会話を楽しみ、肝心なことはすべてはぐらかした。ビーツ夫人は結局、チアーノの人柄に惚れ込み、自分の使命を放棄してしまうのである。  チアーノはムッソリーニの御曹子としてちやほやされ、そのため軽薄とも思われるひょうきんな行動もあったが、ひと度、自宅に帰ってからは、打って変ったように冷徹に世の中を眺めては、それを日記に書きつけていた。“確かな目”を持つ人物であった。肝胆相照らす同志には常に真実を打ち明け、喜ぶべきことは喜び、憂うべきことは共に憂えて真剣にモノを考える人物であった。世評とは裏腹のなかなかの人物だったのである。  エッダは夫の日記をいつも、背中や腰、あるいは足などにベルトでとめ、肌身離さずにいた。狙われていることを知ってもいた。これと引換えに、夫の生命が救えるものなら、これを父に渡そうとも思った。だが父ムッソリーニは、それを欲しいとも言わなかった。ヒットラーへの当てつけであった。エッダとしては、助命の保証のない限り渡せなかった。そうしているうちに、一月八日となってしまった。  ヴェッキォの城門前では、黒シャツ軍団が警備に当っていた。彼らの吐く息が白く流れては消えた。城内の一階大広間は通常、音楽会などが開かれているため、正面にはオーケストラの位置する舞台があった。その壇上に、裁判長アルド・ヴェッキーニら九人の裁判官が並ぶ。検事席にはファシスト党員のほかナチ親衛隊の私服もいた。弁護人席には被告六人がそれぞれ選んだ弁護士が一応、席を占めていた。  それに先立って、市内の丘の上にある刑務所から、チアーノら六人のファシスト首脳は、大型バスで警備兵に囲まれて、ヴェッキォ城に向った。身のこごむような寒い朝であった。チアーノはレインコートの襟を立てていた。老齢のデ・ボーノは襟巻を首に巻きつけていた。  約十分後、チアーノ、デ・ボーノ、パレスキ、マリネッリ、ゴッタルディ、チアネッティの六被告は、傍聴席を満席にしたファシスト党員の野次の中を入廷した。「この連中に死を!」「生きて帰すな!」などの怒号が傍聴席から飛びかった。  午前九時十五分、裁判長ヴェッキーニは、厳かに開廷を宣した。 「ただいまから、特別法廷を開く。去年七月二十五日のクーデタは、イタリアの歴史における最大の反逆行為を記録したものである……」  初めから反逆と断じていた。  被告席の六人以外のグランディら国外亡命者や身を隠した十三人は欠席裁判とのことであった。初日は検察側、弁護側の主張などが延々と続き、二日目には被告六人の弁明も許された。  法廷記録によると、多くの被告は「自分達は現在も統帥に忠実なファシストである。大評議会での賛成票投票は、あくまでも体制内での政権の改善を求めたに過ぎない」ことを強調した。党元老のデ・ボーノはこのほか、「余は生粋の軍人であり、統帥と共に党の創建に当った。しかも統帥に大将の地位を贈ったのはほかならぬ余である」と述べて胸を張った。  チアネッティは「私は確かに大評議会の席上、グランディ決議案に賛成票を投じたが、帰宅してそれが誤りであったと考え直し、朝早くトッローニア荘(ムッソリーニの私邸)に電話で『あの投票は撤回する』旨を告げました」と、主張した。これは事実であった。あの二十五日朝九時、ムッソリーニが私邸の執務室に入るとすぐ、チアネッティは党書記長スコルツァに電話で「撤回」を伝え、それはムッソリーニにも伝えられていた。  弁明の最後に立ったのはチアーノであった。最も注目された人物である。廷内は凍ったように静まり返った。  チアーノは裁判長らを見回しながら口を開いた。 「……私は国もドゥチェも裏切るなどという意志は毛頭持っていなかったし、今でも持っていない。あの当時、王室は身をもって戦争には関与していなかった。全責任をドゥチェに負わせていた。そういう体制はよくないという信念から、統帥権を国王に返還し、王室が積極的に戦争に関与すべきだとしたのである。  ……検察官によれば、私がドゥチェの地位に取って代ろうとしたというが、それはまったくの邪推である。私は外相をやめて一介の大使であったに過ぎない。しかも私はすべてドゥチェに相談し協議していた。そのことはドゥチェ御自身が御存知のはずである……」  法廷内にざわめきが流れた。裁判長は「明日、判決を申し渡す」と閉廷を宣した。  その頃、エッダは父に手紙をしたためていた(注1)。 「ドゥチェへ  今日まで私に多少なりとも人間的な気持を示してくれるものと、お待ちしていました。いまもそうです。  でももしガレアッツォが、私と一緒にスイスに行けないようでしたら、私が知っていることと、それを立証するすべてを暴露するつもりです。もし逆の場合、私達が静かに安全に出国できたら、二度とそうしたことは言わないつもりです。 エッダ・チアーノ」  エッダはこの手紙を父に渡すと、チアーノの日記を体にしっかりと結びつけ、スイスに向った。この日記は『DIARIO 1937-1943』のタイトルで戦後、イタリアの有力出版社リッツォーリ社から刊行されることになる。  翌十日。鉛色の雲がたれこめ、冷い空気が肌を刺した。ヴェッキーニ裁判長が長々と判決文を読み続けた。 「……七月二十五日未明の投票はあくまでも熟慮の結果に基づくものであり、単なる見解ではなかった。それはファシズムとドゥチェの排除、同時に和平と降伏を望んだものであった。被告らは反逆、利敵、国家の独立への侵害という重大な罪を犯したと断ぜざるを得ない……。よって、ここにいるチアーノ、デ・ボーノ、マリネッリ、パレスキ、ゴッタルディの五人はイタリア式による銃殺刑、チアネッティは懲役三十年。欠席裁判の十三人も銃殺刑……」  チアネッティは賛成票を撤回したことで死刑を免れたのである。銃殺刑を言い渡された被告らは一瞬、彫像に化したかのように見えた。マリネッリだけが一人とまどっていた。耳が遠かったため、聞き取れなかったのである。隣のチアーノに尋ねた。 「どうなったんだ?」  チアーノが大声で伝えてやった。チアネッティを指しながら——。 「あいつだけ助かった。われわれは皆、終りだ」  こう言うと、右手で十字を切った。マリネッリはヘナヘナと倒れるように椅子に座った。  午後一時四十分であった。  イタリア式銃殺刑というのは、椅子の背もたれに胸の前を着けて両股を開いて座らせ、両手を背もたれに縛りつけ、背後から銃殺する方法である。戦時下の犯罪人に対する極刑であった。判決ははじめから予測された通りのものであった。  ムッソリーニはガルニャーノの執務室で、どのような判決が下されるのかと待機していた。ヴェローナとの連絡に当っていた秘書から午後二時前、判決の内容を聞くとつぶやいた。 「そうか。余にとって、チアーノはもうずっと前から死んでいた」(注2)  チアネッティを除く死刑囚五人はその夜、刑務所内の礼拝堂で大司教ドン・キォット神父と共に時間を過した。神父はまず皆に希望を与える意味で、ムッソリーニ首相兼党首に「特赦願い」を書くよう勧めた。チアーノだけがそれを拒否したが、他の四人から強く迫られて渋々承知した。 「特赦願い」はその夜ヴェローナに残っていた党幹部の許にもたらされた。法相ピゼンティは書記長パヴォリーニに、「これをすぐ統帥に届けよう」と言ったが、パヴォリーニはムッとした顔でそれをポケットにしまい込んだ。  礼拝堂の中では、ドン・キォット神父が最後の夜を送る五人といろいろ語り合った。話の内容は戦後、神父が新聞雑誌、出版物などに明らかにしている。それらをまとめると、次のようである。  チアーノはまず、「死を待ちながら生きるって随分長く感ずるなぁ」と言ってひと眠りした。マリネッリは一人でわめき、おののいていた。あとの三人は威厳を保ち、静かにしていた。礼拝堂の外はナチ親衛隊が警備していた。ヴェローナのドイツ軍司令官ハルスターはヒットラーから直接「チアーノが脱走するようなことがあったら、お前の首は飛ぶぞ」と厳重注意されていたという。  ひと眠りしたチアーノは皆に、「義父の寛大さなどを信じてはいけない。まして特赦など。義父は道徳などというものにまったく無関心の男なのだ」と吐き捨てるように言った。  すると七十八歳の元将軍デ・ボーノが、「いや、彼を許してあげなさい。われわれは皆、神の前で裁かれなければならないのだから」と言った。底冷えのする厳冬の夜、皆はこの元老の言葉にシーンと静まった。元農相のパレスキは肩かけを見せて、「神父様、私が生れた時、母はこれに私を包んでくれたのです。明日、私の遺体にこれを掛けて下さい」と頼んだ。産業労働者連合会長だったゴッタルディは、「われわれが殺されるなんて本当なんだろうか。信じられない。ムッソリーニがわれわれの死を望んでいるなんてあり得ない。本当だとすれば彼こそわれわれを裏切ったのだ」と言って口惜しがった。  夜は更けていった。デ・ボーノはさめざめと泣き始めた。するとチアーノがしっかりした声で言った。 「神父様、私は誰も恨まずに死んで行きます。そのことを私の息子達にぜひ伝えて下さい。ぜひお願いします」  その夜、ヴェローナのファシスト軍団は銃殺隊を選抜した。一人に対して六人が発射するとして、三十人が選ばれた。指揮官は大佐ニーノ・フルロッティと決った。  十一日朝五時、五人の死刑囚は起された。まだ真暗な早朝、粉雪が舞っていた。ことによると、「特赦願い」が受理されるかも? という想いが、皆の頭によぎったのではないかと、ドン・キォット師は回想する。  長時間、待機させられた。午前九時、裁判官、警察官、党幹部の三人が訪れ、「助命はなされなかった」と告げた。  処刑が確定した! すぐさま、五人は鎖につながれ、ファシスト軍団に囲まれて大型バスで処刑場へ運ばれた。プローコロ城塞と呼ばれる軍の射撃演習場である。  そこにはすでにフルロッティ以下の銃殺隊が待機していた。神父は五人の逝くもののために終油の儀を与えた。五人はファシスト軍団に伴われて、着弾土堤前に用意されていた木製の簡易椅子に縛り付けられた。椅子の間隔は一メートル半。マリネッリだけが暴れ回って、縛られるのに抵抗した。  四人目に縛られたチアーノは、レインコートを着たままであった。チアーノは二度ほどうしろを振り返り、背後から射撃する銃殺隊を見やった。七メートル離れた銃殺隊は、十五人ずつ二列に並び、誰が誰を狙うかは事前に定められていた。この時の一部始終をドイツ軍撮影隊が映写フィルムにおさめていた。  そのひとコマに、背後から発射する銃殺隊をチアーノがグッと首をうしろに回して見ているカットもある。哀れなのは、その同じカットの中に、神父ドン・キォットが悲しそうにうなだれている姿が見えることだ。  刑場にはうっすら雪が積っていた。ドイツ軍の幹部も、処刑を見守っていた。 「イタリア万歳、ドゥチェ万歳!」  突然、パレスキかゴッタルディのどちらかが叫んだ。  マリネッリは、「人殺しッ」と大声で叫んだあと、「ジューリア!」と女性の名を呼んだ。  チアーノは、首をうしろに回してまた振り向いた。二度目である。  すべて数秒間のことである。  その時、指揮官フルロッティの挙げていた右手がさっと降りた。 「撃てッ!」  三十発の銃声が一度に響いた。雪のせいか音はにぶかった。  撃たれた全員、椅子ごと雪の上に転がった。  だが、パレスキとチアーノだけは、目標の心臓がはずれ、苦しみもだえていた。ほかの三人は即死であった。  チアーノにいたっては、一発だけしか命中しておらず、それも急所をはずれていた。そのため、目を見開いたまま、雪を血で染めて身をよじって苦しんでいた。  駆け寄った刑務所の医務官レナート・カレットが、フルロッティを呼んだ。 「とどめの一撃をッ!」  フルロッティは、ベレッタ自動拳銃7・65で、チアーノの右のこめかみに一発射ち込んだ。  もう一人のパレスキは瀕死の状況であった。これにもフルロッティがとどめの一撃を加えた。  チアーノに銃殺隊の一発しか命中していなかったことは重大であった。これは明らかにチアーノの心臓を狙うよう命ぜられた六人のうち五人が、サボタージュしたことになる。これはいったい何を意味していたのか? その追跡調査はあったのかどうか不明で、現在も謎のままである。  それから四十年経った一九八四年の春、私はこの処刑場跡を訪れた。戦後は公営の射撃練習場になっており、チアーノらが面と向った土堤には、草が萌えていた。ドン・キォット師が嘆きながら立っていたあたりは屋内射撃場と変っていた。  私はこの射撃場の責任者の案内を受けながら、チアーノが殺された場所に立って、その時のことを考えていた。記録によると、とどめの一撃を加えられても、チアーノは目を開いたままだったのである。ドン・キォット師が、そっとその目を閉じてやった。  そのことを想い出している時も、室内射撃場からは、「ガーン、ガーン」という射撃音が耳に響いてきていた。私は肩をすくめ、その責任者に「ちょっと、射ち方止めと言っていただけますか?」と注文した。彼は笑って、私の要望に応えてくれた。彼は、私が単に銃声をこわがっていると勘違いしたようであった。  注1 『ムッソリーニの時代』P.387  注2 L'ITALIA DELLA GUERRA CIVILE P.136 ムッソリーニの涙  チアーノら五人の銃殺刑執行は、その夜のラジオで繰り返し詳細に報じられた。そのニュースに続いて、きまって党歌「ジォヴィネッツァ」が奏でられた。  十一日付北イタリアの新聞はすべて、第一面をはじめ、数ページを使って判決内容を伝え、十二日付では処刑の状況を詳しく報じた。ラ・スタンパ紙は「斧は振り下された。二十年も長い間、彼らは忘恩と裏切りを重ねた。免赦などはもってのほかである。ヴェローナの死刑囚は、国民が財力と血で築き上げた大偉業を破壊した罪を、身をもって償ったに過ぎない」と書いた。  ファシスト共和国とドイツ軍支配下の新聞は、いずれも同じような論調の記事であった。国民と反ファシストへの警告とみせしめのためであることは言うまでもない。  それから数日後、ドン・キォット師はガルニャーノのムッソリーニに招かれた。ヴェローナからは車で数十分の距離である。  二人はムッソリーニの書斎で長時間、話し合った。師によると会話はおよそ次のようであった(注1)。  ムッソリーニ「師は執行前夜、死刑囚達といろいろお話しされたそうだが……」  師「はい、皆さんとあれこれ話し合いました。それにしても判決は閣下の御希望通りでした」  ム「何だって? 裁判は公正なものだった」  師「いや、閣下の御同意なしには判決を下せる裁判官などいるはずがありません。でもファシズムに反逆するのと、イタリアに反逆するのとは違います。国民はそのことを前から別のものであることを知っています」  神に仕える者として、また大司教という高位の神父として、ドン・キォット師はずけずけとモノを言った。ムッソリーニはこれを聞くと、両手で頭をかかえた。しばらく考え込んでから、もっとも聞きたがっていることを尋ねてきた。  ム「で、最後の夜、皆はどんなことを言っていた?」  皆、というよりムッソリーニはチアーノを念頭に置いているはずであった。  師「皆さん、神に近づいていました。でもチアーノは特赦願いを書くよう勧めても、それはヒットラーや閣下を喜ばすだけと、はじめは拒否していました。しかしほかの人が説得して、最後には書きました。  ただ、特赦されなかったことではじめは閣下を皆がのろっていましたが、夜が更けるにつれて、心が変っていったのです。人間は皆、同じ風で運び去られるのだとも言っていました。そしてチアーノは、誰も恨まずに死んで行ったと家族に伝えてくれと言っていました」  それを聞いたムッソリーニは、師の話をさえぎって、震えるような声で聞き返した。  ム「そうか? 本当にそう言ったのか?」  師「そうです。間違いありません。誰も恨まないと、必ずそう伝えてくれと——」  ムッソリーニは師の顔をマジマジと見つめて、再び両手で顔を覆うと声を押えて泣き伏した。やがて顔を上げると、涙も拭わずに師の両手を握った。  ムッソリーニは十日の夜、助命嘆願書が届くのではないかと、一晩中待ち続けていたのだという。彼の十年来の愛人クラレッタ・ペタッチが一時間おきにムッソリーニの執務室に電話し、「ガレアッツォはきっと書いてくるわ」と、勇気づけていたとのことであった。ムッソリーニは「でもこのことは大司教、どうか他言しないで下さい」と念を押した。そして最後に言った。 「大司教……。どうぞガレアッツォと私のために祈って下さい」  当時のムッソリーニの気持を、あれから四十年経った八四年一月、長男のヴィットリオが初めて、イタリアの著名なジャーナリスト、ジュゼッペ・マイダに次のように明かしている(注2)。 「ガレアッツォの処刑は、狂信者達が父につきつけた挑戦だったのです。父に赦免してやるよう勧めた者は、唯一人もいなかった。それを父は待っていたのに……。ガレアッツォを助けようと渾身の力で立ち向ったのは、エッダを除いてはいなかった。ガレアッツォが処刑された時、父は『これでわが家庭も終った。いまは俺の死が始まっているよ』と言っていた」  ジュゼッペ・マイダは同時に、次の二つの事実も発表している。 「四三年十二月三十日、北イタリアのドイツ大使ラーンはベルリンの外相リッペントロップにこう電話している。『ヴェローナでの裁判はすべて党書記長のパヴォリーニにまかされている。パヴォリーニから本使(ラーン)に伝えられているところによると、裁判は年明けの一月八日から十日までで、死刑判決後即時処刑の手筈とのことである』」 「チアーノの実母カロリーナ・ピーニは戦後亡くなったが、彼女は次のような手記を書き残している。『息子の処刑は、パヴォリーニ、内務次官のグイド・ブッファリーニ=グイディ、ヴェローナ市長のコスミン三人によって前もって決められていた。だからこの三人は助命嘆願書を握りつぶしたのです』と」  ローマのファシズム研究者の間では、当時パヴォリーニが病身のムッソリーニの後継者になろうとしていたとの説をとる人が少くない。パヴォリーニが裁判を演出し、すべてはムッソリーニの手の届かぬところで進行したことでもそれはうかがえるが、ここで紹介したヴィットリオ、チアーノの母親の話もそれを裏付ける材料である。  注1 DUCE! P.301  注2 LA STAMPA紙 1984年1月8日号  第四章 ローマ解放とパルティザンの拡大 ドイツ軍、ローマから撤退  四三年末から四四年年頭にかけては、例年にない厳冬であった。中、北部は豪雪、大雨に見舞われ、戦線はナポリ—ローマ間で膠着状態に陥っていた。サレルノ上陸のアメリカ軍はナポリ北方まで進出したものの、ドイツ軍の必死の防戦により、苦戦の連続であった。このため年明けの一月末、新たな連合軍がローマ南方アンツィオに上陸、サレルノ上陸軍の北進を阻止しているドイツ軍の背後を衝き、戦局の打開をはかった。  三月に入ると、連合軍はローマ空爆を激化させた。四月に雨期が終ると、戦局はようやく動き出した。ローマとナポリの中間にあるモンテ・カッシーノ攻防戦で、山容が一変する大激戦の末、五月十七日に連合軍が占領、サレルノ上陸軍とアンツィオ上陸軍とがここで合流した。あとは一挙にローマを目指すだけとなる。六月一日にはムッソリーニの干拓事業で知られるローマ郊外テラチーナ近くに進出した。  ドイツ軍はローマ南郊アルバーノの丘陵地帯で迎撃態勢を敷いた。ローマ郊外のドイツ軍陣地からは連日、長距離砲がズシン、ズシンと地響きを立てた。市民達は誰もが連合軍の到着が間近に迫っていることを身をもって感じ取ったが、そこには解放への期待と、街が連合軍とドイツ軍の戦場と化するのではないかという不安と恐怖とが交錯していた。食糧は底をつき、街は事実上、無政府状態となっていた。  二日午前、連合軍機が低空飛行し、ローマ市内各所に大量のビラを投下した。ビラには次のように印刷してあった。 「ローマ市民へ。連合軍は近日中にローマに入る。ドイツ軍を捕捉殲滅するため、市民は協力せよ!」  市民の協力を求める檄であったが、多くの市民はこれを見て、かえって家の中に閉じ籠った。市街戦に巻き込まれるのを恐れてである。しかし家々の鎧戸は閉めても、人々はその隙間から息をひそめて往還の様子をうかがった。フラミニア街ではその日、ドイツ機甲部隊の一部が北に向っているのが見られた。  実はその頃、ローマ市内外のドイツ軍は少しずつ北への撤退を開始していたのである。戦後に明らかになったことだが、ヒットラーはケッセルリンクにローマ防衛を命令し、もし離脱する場合はテヴェレ川に架かる橋をすべて爆破すべしと訓令していた。しかしヴァチカン筋はドイツ軍に対し、市街戦を断固回避するよう説得し、ケッセルリンクも戦力を保持して中部イタリアでの防衛線構築が得策だと考えていた。このことはドイツ大本営が前線の状況を把握できなくなっていた一つの兆候であった。  その二日正午、ローマ法王ピオ十二世は聖名祝日(法王と同名の聖人の日)を機に、全世界に向けて放送し、「ローマに対し手を上げる者は何人であれ、文明と神の裁きにおいて、母親を弑(しい)する者と同罪である」と述べた。言うまでもなく、これは連合軍、ドイツ軍双方に対し、“永遠の都”ローマを戦場とさせないための警告であった。  その頃、アルバーノの街々は相次いで連合軍の手に落ちていた。連合軍の情報機関は刻々、ローマ市内の反ファシスト地下組織と無線で直接連絡を保っていた。ナチ親衛隊の手によりアルデアティーネで殺されたモンテゼーモロ大佐が作り上げた情報連絡網である。  ローマを取り巻く情況は刻一刻、急変してきた。連合軍がドイツ軍に向けた砲声は、南からだけでなく東のティヴォリ、西のオスティア方向からも轟いていた。ケッセルリンクはヒットラーに電報した。「ローマは文明の都市であり、戦場にはできない」と。さすがであった。彼は独断で撤退を決め、一部を北に撤退させ、南方軍にも撤退を指示した。  三日未明、このローマ南郊に布陣した南方軍も続々と市内に流れ込んで来た。同時にヴェネツィア広場、エセドラ広場、ポポロ広場などに集結した市内のドイツ軍装甲車、戦車、砲兵隊などが北に走るフラミニア、カッシア両街道に殺到した。ドイツ軍の敗走が始まったのである。  北に歩くドイツ兵は自転車を盗み、家々の門を壊しては強盗さながら金品を奪い取った。当時の目撃者の話では、戦車や装甲車の砲門は道の両側の家並みに向けられていたと言う。ドイツ兵の略奪に抵抗するローマ市民を威圧し、射殺するためであった。  ローマ南郊から入ってきたドイツ軍部隊も、そのまま市内を通過して北へ北へと向った。ブラッチャーノ湖を水源とする市内北部の噴水が水を噴き上げているのを見ると、ドイツ兵達はわれ先に顔を洗い、頭からかぶり、水筒を一杯にしてさらに北へと歩いて行った。  そうした情景を街頭で見ていた者は殺されないまでも財布や時計など、金目のものは容赦なく強奪された。このため市民達は皆、じっと家の中で息をひそめ、歴史の舞台が回るのを見ていたのである。  ドイツ軍首脳部も、撤退状況を見守りながら、三日の午後遅くなってそれぞれの司令部をあとにした。ゲシュタポ隊長カプラー中佐は、タッソー街に拘留していた十三人のイタリア人反ファシストを伴って北に向った。ファシストの多くも同行した。ローマ警察署長カルーソ、拷問専門家コッホらもいた。しかしローマをあとにして数キロのラ・ストルタあたりまで来て、反ファシストを連れて歩くのは足手まといだと、十三人をトラックから降ろすと全員射殺した。その中にはイタリア陸軍の著名な軍人ドーディ将軍や戦後ローマ市内の町名に命名された労組指導者ブルーノ・ブオツィもいた。  四日もドイツ軍の残存部隊と、ファシスト達が続々とローマをあとにしていた。二百六十余日ローマに君臨していたドイツ軍の敗走である。「ドイツもまた敗れたり」をローマ市民は複雑な想いで眺めていた。 “永遠の都”ついに解放!  四四年六月四日、ローマは歴史的な日を迎える。その日、空は晴れて春から夏に移った燦(きら)めく陽光が、“永遠の都”をまぶしく彩っていた。パラティーノの丘やカンピドリオの丘の古代遺跡には、夾竹桃が戦争などどこ吹く風と思わせるかのように、桃、白、緋と色とりどりに華やいで咲き始めていた。  その日は日曜日であった。ドイツ軍占領下でも、信仰心篤い市民の多くはたとえ空腹であっても、ドイツ軍を無視して晴着を着て地元の教会のミサに行くのが常であった。だがこの日に限っては、ひっそりと家に籠り、ドイツ軍の撤退をさまざまな感慨をこめて眺めていた。敗走のドイツ兵に何をされるか分らないという警戒心からである。ただ少数の人だけが、ドイツ兵の目をかすめては教会に走った。それらの人々は反ファシストの政治家達であったり、パルティザン達であったりした。連合軍のローマ入城とローマ解放の準備を密議するためであった。  ローマ南地区にあるサン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂の一隅には、ボノミ、デ・ガスペリ、ネンニら国民解放委員会の錚々たる面々がいたはずと、デ・ガスペリの弟子で後にキリスト教民主党首脳になったジュリオ・アンドレオッティは回想している。  当時、連合軍は古代ローマ軍団が往来したアッピア街道を一路北上しており、先遣隊は真っ先にサン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ門を通って市内に入るだろうと、国民解放委員会は、連合軍情報部から連絡を得ていたという。この国民解放委員会と連合国側との連係が正確かつ緊密に行われていたことは、ネンニの次の発言によっても十分うかがえる(注1)。 「もっとも緊張したのは六月三日の晩であった。その夜十一時十五分に、ロンドンとニューヨーク短波放送が『ELEFANTE(象)』の暗号を放送したのだ。これは事前の連絡で、連合軍は二十四時間以内にローマに入るということを意味していた。その三日夜から四日にかけて、われわれは一睡もせずに希望に燃えていた。むしろ断末魔のナチ・ファシスト達が市民にテロをかけないかと心配していた」  果して、その四日午後四時頃になって、連合軍戦車隊がローマ新市街のEUR(ローマ万博会場予定地)地区に姿を現わしたとの噂がパッと都心にまで広がった。男達は街頭に繰り出し、女性や子供はアパートメントのバルコニーに立って様子をうかがった。事実、ドイツ軍がローマを放棄して撤退中と知った連合軍のアメリカ、イギリス、フランス、カナダ、オーストラリア、チェコスロヴァキアその他の各国軍は、先を争って「ローマ一番乗り」を競い合っていたのである。  それを迎えようとするローマ市民達は、ドイツ軍が去ったと見るや、ドイツ軍が張りめぐらしていったバリケード、鉄条網、その他の障害物の撤去に取りかかった。連合軍がスムーズに市内に進出し、ドイツ軍追撃が容易になるためである。これには市内のパルティザン達が公然と姿を見せて指揮した。市民達はそれらパルティザンを仰ぎ見るまなざしで見て、指示に従っていた。  午後六時過ぎ、市民達はアッピア街道の方角から聞えて来る轟音に気付いた。と、思う間もなく見なれていたドイツ軍とは違った流線型の鉄帽をかぶったアメリカ兵のジープが、サン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ門をくぐってくるのを見た。後から後からジープや装甲車それに戦車も続いて入って来た。アメリカ第五軍、第八軍のローマ一番乗りであった。  大聖堂前にいた五、六十人の市民は思わず叫んだ。家の中から人々も飛び出した。 「あっ、来た! アメリカーニだ!」 「ベンベヌート! アメリカーニ!(よく来てくれた! アメリカ兵よ!)」  あとはもう声にならなかった。駆けつけた市民の群はみるみるふくれ上がった。ジープなどは群衆の中で立往生した。両手を天にひろげて感激する市民、嬉し泣きに泣く市民……。  その情景を見ていたローマのイル・テンポ紙記者エンリコ・マッティはその夜、翌日の新聞のため、次のように記事を書き出した。 「来た! 来たぞ! 連合軍がとうとう来た。終った! 終ったのだ。戦争は終った。あの布告と弾圧ばかりのドイツ軍はもういない。市民はそれは当然だと思っている。二十二年間のファシズムとその後の八ヵ月余りのナチス支配は終った。それを喜ぶ市民は多い。それを残念がる市民もいるはずである。彼らには錯乱の時である。  だがスペイン広場に、テヴェレの川岸に、サン・ピエトロ広場に、アメリカ軍が歓迎の人波の中を入って来た。アメリカ兵に抱きつく人、口づけをおくる人、ブドウ酒を差し出す人……。  戦場で死と直面して来た緊張が解けたせいか、アメリカ軍にはきょとんとした表情の兵隊が多い。彼らはジープから戦車の上からローマ市民達にチョコレートと、“少々の自由、解放感”を与えた。この日から、われわれの明日が始ったのだ」  アメリカ軍がローマに入って来たこの瞬間は、記録によると六月四日午後六時二十分であった。この時刻、敗走するドイツ軍の最後尾はまだ市内にいて、逃げまどう兵隊もいた。だが編成を組んだ 殿 (しんがり)部隊は、市内の北にあるミルヴィオ橋を渡っている最中であった。連合軍との距離はなんと五千メートルでしかなかった。  一部のドイツ軍は撤退しつつ、ドイツ軍弾薬庫を爆破していった。その一方で、連合軍機の編隊は幾波にもわたり、ローマから北に敗走するドイツ軍隊列の上に爆撃を加えていた。ドイツ軍はひたすらフィレンツェを目指しており、この方面のゴシック防衛線を強化し、ここで踏みこたえようとしていたのだ。  一方、ローマ市内では国民解放委員会やパルティザンの面々がイタリアの三色旗を手にし、入城して来たアメリカ軍の先頭に立ち、道案内や誘導、押し寄せる歓迎の人波の交通整理に当った。  前記エンリコ・マッティ記者が書いたように、市内にはファシストもまだ隠れていたし、ローマ市内は必ずしも百パーセント安全状態ではなかった。そうした状況だけにローマ入りした連合軍先遣部隊は当初、ローマ市民のリーダーシップを発揮しはじめている国民解放委員会やパルティザンに対して、必ずしも全幅の信頼を置いてはいなかった。  だが市民達が、指揮するパルティザン達の指図によく従い、何の支障もなく前進しているうちに疑いも解け、完全な“相棒”と認めざるを得なかった。とりわけパルティザン達が生命がけでドイツ兵と戦う姿を見て、アメリカ兵は驚嘆した。次のような事例がそれをよく表わしている。  四日夕刻、アメリカ軍がローマ市内に進出した時、数ヵ所で狙撃されることがあった。その度ごとにパルティザンが、狙撃兵の立て籠る建物に突入、ドイツ兵を捕虜にしてきた。それらドイツ兵は撤退に取り残された残存兵であった。また、ローマのパルティザンは四日夜、ローマ北方で数千人のドイツ兵を捕虜にし、武装解除させてローマに連れ戻して来たのである。カッシア街道のドイツ軍の退路にドイツ軍から略奪した地雷を敷設し、そのうえ側面から奇襲攻撃をかけて退却をあきらめさせたのであった。約百十人ほどのパルティザン部隊の戦果であった。  そうしたいくつもの事実の積み重ねが、連合軍のイタリア・パルティザンへの信頼を増していったのである。  夜八時頃、アメリカ軍司令官マーク・クラーク大将がローマ入りした。将軍はジープに乗ったまま真っ先にヴァチカンのサン・ピエトロ広場を一巡、そのあとカンピドリオのローマ市庁舎に入った。市庁舎を占領軍の軍政部にするためであった。その夜クラークは国民解放委員会議長のボノミと会い、軍政につき協議を行った。同時に連合軍は敗走するドイツ軍追撃態勢に入った。  だがその晩、ローマ全市がお祭り騒ぎとなり、市民と連合軍兵士達が手をつなぎ、輪となって踊った。後年イタリアの世界的映画監督となるフェデリコ・フェリーニはその時二十四歳であった。すでに放送ドラマの脚本などを書き、映画監督の助手などをして、前年秋に同郷人で一歳下の女優ジュリエッタ・マシーナと結婚、ローマのパリオリ地区に住んでいた。彼はその六月四日の夜のことを次のように映像的に回想している(注2)。 「前日、私はサン・ジォヴァンニ・イン・ラテラーノ広場からドイツ軍の装甲車が北の方に引き揚げて行くのを見た。これはいよいよ撤退だなと嬉しくて仕方がなかった。四日、街に出ようとしたら、マシーナが『危ないから、行かない方がいい』と引き止めた。でもじっとしてはおられず、飛び出した。いやあ、都心は人の波だった。ヴェネト街はイタリアの三色旗だらけだった。アメリカ兵のジープにはローマの娘達がぶら下がり、黒人兵達はグレン・ミラーの曲を賑やかに演奏し、狂喜していた。ボルゲーゼ公園の中ではモロッコ兵の集団が歌っていた。スペイン広場では連合軍兵士とローマ市民がブドウ酒を飲んで踊っていた。ローマは前代未聞の光景を見せていた。四十年経っても忘れられない」  五日も同じような情景が市内いたるところで繰り広げられた。だが市民の誰もが食糧にこと欠き、連合軍としては早急に対策を迫られた。イタリア戦線の連合軍最高司令部はナポリに近いカセルタに置かれたまま、一切の軍政はローマを中心に市民や国民解放委員会の協力で進められることになった。  ドイツ軍が撤退後、ローマのメッサジェーロ紙は六日付で新生の四ページ新聞を発行した。一面には「ローマ狂喜の一日」「ドイツ軍、北に敗走。連合軍が追撃中」の大見出しが躍り、二面では「市民は武器を当局に引き渡すこと」「夜九時以降の夜間外出禁止」と軍政部布告が掲載された。ドイツ軍が禁止した二輪車はこの布告で解除された。三面では、「ローマ市民よ、忘れるな! ナチ・ファシストによる暴虐を!」と題し、全ページをさいてはじめてアルデアティーネの大虐殺を報じた。最終第四面ではナチ親衛隊によってブルーノ・ブオツィら十三人がラ・ストルタで銃殺されたことを報じ、またロンドン電として近く連合軍がフランスに上陸の模様と、後に「史上最大の上陸作戦」と呼ばれる六月六日のノルマンディー上陸作戦を予告していた。  このような報道の自由はファシズム政権以来二十余年間、イタリアでは絶えてなかったことであり、ナチ・ファシストによる恐怖政治がなくなったことも手伝って、ローマの夏はひもじくとも活気と希望に溢れたものとなった。中でもヤミ市はいずこも人だかりの大活況を呈した。  九ヵ月前にローマから南に脱出した国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世やバドリオ政府も連合軍のローマ入りの後を追って首都に戻っては来たが、国民と軍隊を混乱の中に捨て、無政府状態とナチ支配を招いた責任からローマ市民の国王やバドリオ政権への目は冷たかった。このため国王は五日、退位の準備として皇太子ウンベルト二世を摂政に据えた。摂政ウンベルト二世は八日、新政府首班に国民解放委員会議長イヴァノエ・ボノミを任命した。ローマの新市長には隠棲していた反ファシストのフィリッポ・ドーリア・パンフィッリ侯が就任、新しいイタリアの首都の政治体制がととのった。  しかしローマ以北のイタリアは依然、ナチ・ファシストの占領下に置かれていた。国民解放委員会にとっては、むしろこれからが試練であった。ローマではアルデアティーネ大虐殺以降の二ヵ月間で、ナチ・ファシストの手によってパルティザンや市民千四十六人が殺害された。うち四百二十七人は刑場で銃殺刑に処せられている。このほか行方不明者七十四人、重軽傷者も三百二十六人に上っていた。  ローマ以北ではこれからもこうした犠牲者が出ることは必至で、それはまたナチ・ファシスト側にも同様の犠牲者を出すことを意味していた。交戦国兵士の戦死傷者も、ローマ進攻作戦だけでアメリカ軍約一万八千、イギリス軍約一万五千、フランス軍約一万一千を出した。守勢のドイツ軍にいたっては約三万八千の戦死傷者を数えている。  このためボノミ政権は、戦争を早期に終結させるためにはドイツ軍を降伏させる以外にないとし、北イタリア国民解放委員会と密接な協調をはかり、かつ、これを支援することに重点を置いた。ボノミは八月、ミラノの北イタリア国民解放委員会に書簡を送り、同委員会に「ナチ・ファシスト占領下での国民的闘争のためのイタリア政府の北イタリア代表」という地位を与えるとともに、「ナチ占領下の抵抗運動における一切の政治的・軍事的権限を持つ」ものとした。  一方、北イタリア国民解放委員会は北イタリアの対ナチ・ファシストへの抵抗運動、パルティザン活動を一挙に拡大するため、同委員会内に「自由志願軍団(CVL)」を創設、連合軍側も北イタリアの抵抗運動に物心両面の支援を行うことを確認した。  八月十一日には反ファシストの軍人ラファエレ・カドルナ将軍が、北イタリア全体のパルティザン活動の軍事面を指揮するため、イギリス軍情報将校とともに夜陰にまぎれて北イタリアに降下した。カドルナ将軍の祖父は一八七〇年九月、ローマを落城させた国家統一運動の最後を飾った人物で、父もまた第一次大戦で勲功を立てている将軍であった。  カドルナ将軍自身、第二次大戦中はローマ防衛司令官だったこともあるが、ドイツ軍のローマ占領と同時に地下に潜行し、パルティザン活動に身を投じ、連合軍との連絡に当っていた。北イタリアのパルティザン指揮官としては、まさに打ってつけの人物であった。このカドルナを支援するため、行動党と共産党からフェルチョ・パッリ、ルイジ・ロンゴの二人もそれぞれ北イタリア国民解放委員会の軍事委員として後日、合流することになる。  イタリア政府はすでに前年の十月十三日、ドイツに宣戦を布告しており、イタリアは連合国からドイツに対する「CO-BELLIGERENT(共同交戦国)」の地位を与えられていたことは前述の通りである。ちなみに前年九月末に、連合国とイタリアとの間で交わされた「イタリア降伏文書」も、イタリアの対ドイツ宣戦四日後に大幅修正され、第一項の「無条件降伏」の語は削られ、単に「イタリア三軍は降伏した」になり、第六項で「これら項目はバドリオ元帥により無条件で受諾された」と、この個所でのみ“無条件”の文字が使われた。  しかしこのイタリア降伏文書も、その後の事態の急変から実効も意味も失い、事実上なきに等しくなる。それはイタリアのパルティザン活動の貢献によるところが絶大であった。同じ枢軸国の日本とドイツとは、国際法上からも異った処遇をイタリアは受けたのである。  イタリアの反ナチ・ファシズム抵抗運動は、このローマ解放を機にさらに燃え広がり、「LIBERAZIONE(解放)」は一九四五年四月まで、パルティザンの合言葉となる。  注1 STORIA DEL FASCISMO P.2068  注2 LA STAMPA紙 '84年6月3日号 在留日本人、北に避難  アメリカ軍がローマに一番乗りした六月四日、一人の日本人新聞記者が市内にいた。読売新聞ローマ特派員山崎功である。山崎は戦後の五九年に再びローマ特派員となり、毎日新聞の同じくローマ特派員であった大学の後輩に当る私に、機会あるごとに十五年前のことを回想してあれこれ語った。山崎は戦中戦後のイタリアを知る日本のイタリア研究の先達の一人である。  彼はローマが連合軍の手に落ちるのをその目で見届けたかった。「愛するローマがアングロ・アメリカンに落とされるのを見るのはつらかったが、一つの歴史が終って別の歴史が始まる瞬間を報道するのは特派員のつとめだ」と述べていた。  イタリアが四三年九月八日に休戦した直後、ローマの在留邦人は一斉に北イタリアに避難した。だがローマが同盟国ドイツに占領された後、日本人記者団は再びローマに舞い戻り、報道を続けた。それから約八ヵ月後、いよいよ連合軍がローマに接近、首都が戦場になる危険が生じると山崎一人だけが踏み止まっていた。六月四日夕、アメリカ軍の戦車がローマに入って来たのを見届けると、山崎はヴェネツィアに向った。ヴェネツィアにはローマから移った日本大使館があったからである。 「ローマに残っていても、軍人ではないから助かるとは思ったが、日本に原稿を送るため、ヴェネツィアに戻ろうとしたのだ」と山崎は語ったが、途中、ドイツ軍に乗用車を奪われ、さらにパルティザンに身ぐるみはがれるなどの難儀に遭った。 「原稿だけは無事だった。数日遅れだが原稿はヴェネツィアから特別手段でベルリンの支局に転送し、そこから日本に打電されて何とか面目をほどこした」  ここで戦時中ローマにいた在留日本人について触れておく。日独伊三国同盟という関係からイタリアにとって日本は友邦であった。現在でもイタリアはヨーロッパの中でも親日国の随一と言えるが、当時ローマにいた人達は今でも、「イタリアの人達はわれわれ日本人にとても好意的だった」と懐かしがる。その頃は日本大使館、ヴァチカン公使館のほか陸海軍武官府もあり、主要新聞社のローマ支局、また有力商社がいくつもローマに支店を出していた。音楽や美術の若い研究生も数多くいた。以上のような人達の家族を含めると、在留邦人はかなりの数に上ったのである。  ムッソリーニは日本人には特別の感慨を抱いていたようである。日本人の会合などに突然、姿を見せて感激させたこともある。四二年(昭和十七年)四月、「ローマ日本友の会」の発会式があったが、その席にもムッソリーニは軍服姿で出席し、両国友好強化の即席演説を行い、日本人と一緒に写真にもおさまった。また彼は日本人記者と会うたびに、「余は勇武なる日本に尊敬の念で一杯である。是非一度、日本に行ってみたい」と、お世辞ではない心からの想いを洩らした。  そのムッソリーニが四三年七月二十五日、前夜来のファシズム大評議会で「統帥権の国王への返還決議」をつきつけられ、事実上失脚したことは前述したが、その二十五日正午、かねての予定で新任の日本大使日高信六郎と官邸ヴェネツィア宮で会見した。「国王は自分を信任している」との自負から、その数時間後に逮捕されることなど夢にも思ってはいなかったからである。このムッソリーニ・日高会見中に、軍部と王室によるムッソリーニ逮捕準備が着々進んでいたのである。  ムッソリーニがイタリア王国首相時代、最後に公式会見した外国使臣がこの日高ということになるが、ムッソリーニの日本への信頼感はことのほか厚く、その後ムッソリーニが北イタリアに社会共和国を樹立した後も日高とは親交を重ね、ムッソリーニは公的、私的の重要書類(書簡ともいわれる)多数の保管を日高に依頼したという。それらは日高の手によりフィルム化され、現在スイスのさる銀行の奥深くに眠っていることが、半世紀もたった九〇年初頭にイタリア各紙に報じられた(注1)。  話は前後するが、四三年七月二十五日のムッソリーニ逮捕、バドリオ政権への移行前から、ローマの邦人の間では戦局の推移におちおちしてはいられない空気が生れていた。その七月九、十日にはシチリアに連合軍が上陸したからである。邦人の間には自然発生的に隣組組織が生れ、「いざという時、誰の車でどこに退避するか」も申し合わされた。  同盟通信ローマ特派員佐々木凜一はその年のはじめ、すでにイタリア人の知人から街でひそかに歌われているザレ歌を教えられた。 「それは MUSSOLINIの名前を頭文字にした MORIRAI UCCISO SENZA SACRAMENTO ODIATO LIBERANDO IN FINE NOI ITALIANIという歌だった。意味は『お前は終油を受けることなく憎まれて殺されるだろう。最後にわれわれイタリア人を解放して』という文句。結局はその通りになった。でもこの歌は七月二十五日に彼が捕まる七ヵ月ほど前に聞いていたから、もうその頃、敗戦になるぞという空気があった」と佐々木は回想する。  そうした時が駆け足で近づいていた。連合軍のシチリア上陸後、ローマの日本大使館は緊急要員以外は安全地帯に退避するよう邦人に勧告した。折柄、夏期休暇とあって在留邦人のうち女性や子供達は北イタリアの山岳地帯やウィーン南方などに疎開した。いずれもドイツとの国境をはさんだ小都市が多かった。緊急要員の男達だけがローマに残っていたのである。  しかしそれから四十五日後、突如として事態は一変した。バドリオ政府が九月八日夜、連合軍との休戦を発表したからである。来るべきものが来たのだ。イタリアが事実上、三国同盟を離脱する以上、在留日本人は自ら安全を確保するしかなかった。  日本大使館は急遽、「ローマの残留日本人も北イタリアへ避難」を決定し、「明日、邦人は大使館に集合するように」と隣組組織を通じて連絡した。同時に友邦ドイツ大使館にも様子を打診した。広報担当書記官のフォン・ボルヒが「イタリアの外務省と協議の結果、ドイツ向けの特別列車を出してくれることになった」と伝え、日本人もこれに乗せられるとも述べた。  翌朝、日本大使館がドイツ大使館に連絡すると、その特別列車はすでに出発してしまったとのことであった。日本大使館は独自の脱出策を講じた。大使館は館員と在留邦人をまとめてヴェネツィアに向け出発させ、陸海軍武官府はそれぞれ行先を決めることになった。  九日午後一時、邦人達はレジナ・マルゲリータ通りの日本大使館に集合、自動車でコンヴォイ(隊列)を組んで出発することにした。大使館では脱出に際して暗号表、重要書類などを焼却しなければならない。この作業には戦後ミラノ総領事になった当時の官補金倉英一、書記生野一色武雄、ローマ大学院院生で大使館嘱託となっていた後の京大名誉教授野上素一ら数人が当った。大使館の庭で、書類を重ねて火を付けても中々燃え上がらない。少しずつ揉みくちゃにすると、やっとうまく燃え上がった。全部を焼却するのにかなりの時間がかかった。  大使はそれをじっと待っていた。全部の焼却を確認すると、金倉、野一色らを車に乗せて最後に大使館を出た。午後一時発の予定が午後三時になってしまっていた。大使公邸の日本人料理人が途中の食料として寿司を大量に作り、それを逃避行用に持参した。先頭車には公使の加瀬俊一(後の国連大使とは同姓同名の別人)らが乗った。  朝日新聞ローマ特派員清水三郎治によると、その邦人コンヴォイは二十四台であったという。先頭の公使車と最後尾の大使車の間に、大使館員や商社員、新聞特派員らが入って、日本人自動車の隊列はヴェネツィアを目指して進んだ。  ヴェネツィアに決めた理由は、イタリア外務省の外交団担当官がヴェネツィア行きを明言していたからであった。各車はそれぞれ、日頃ヤミで買いだめしておいた食料品やガソリンを積んで北上した。途中、日常茶飯事となっていた連合軍機の爆撃にも遭遇し、一行はその夜、ペルージアに一泊した。翌日、アペニン越えの山中の急カーブで、同盟通信の佐々木の新車が百八十度引っくり返り、車は大破、ガソリン缶がつぶれて流出した。幸い引火もせず、同乗していた読売新聞特派員山崎ともども奇跡的に助かるという事故もあった。  ヴェネツィアに入ると、ローマ広場でイタリア軍の武装解除が始まるところであった。日本大使館が事務所に予約していたホテル・ダニエリにはドイツ軍高官がいて「ここは戦場になるであろう。別のホテルに行け」と指示した。一行は近くのトレヴィーゾに一泊し、ホテル・ダニエリに戻るとドイツ軍が接収していた。一悶着の挙句、ようやく日本大使館は必要スペースを明け渡させたというエピソードもある。  また陸軍武官府はコルティーナ・ダンペッツォ、海軍武官府はメラーノにそれぞれ事務所を開設、商社、新聞社支局もそれぞれ近隣地域に居を定めた。  毎日新聞特派員小野七郎の家族も、七月の段階で、メラーノのホテルに避難していた。九月十二日に幽閉中のムッソリーニがグラン・サッソからドイツ軍に救出された数日後、そのホテルにオートバイの先導で黒塗りの自動車が着いた。  出て来たのはローマで見なれたムッソリーニの愛人クラレッタ・ペタッチとその母ジュゼッピーナ、妹ミリアムの三人であった。メラーノはすでに秋色濃いというのに、三人はよれよれの夏服のままであった。世話好きの小野の妻桃代は、衣類、石鹸、化粧品などをクラレッタの部屋に届けに行った。聞いたところによると、この三人はムッソリーニの逮捕直後に、反ファシストに連行され、ノヴァーラの刑務所に入れられていたところを、これまたドイツ軍に救出されたのだという。  この奇縁で小野家とペタッチ家の家族は急速に親しくなった。小野家の子供達はよくケーキなども御馳走になった。それからしばらくして十一月、氷雨のそぼ降る日にクラレッタはいなくなった。「パドローネ(パトロン)の許に行ったのだろう」と小野は思った。  やがてXマスが近づいた雪の朝、小野は「ムッソリーニ閣下の伝令です」と名乗る制服の男から直接、封書を受け取った。「明日午後三時、大本営で貴殿と会見する」との招待状であった。クラレッタが取り持った統帥との単独記者会見のチャンスであったことは言うまでもない。  この会見は、ムッソリーニが救出されて以来、初めてのものであった。世界的なニュースとなった。この機会に、ムッソリーニは小野の人柄を信頼したためか、共和国政府のあるガルダ湖畔に毎日新聞支局の家屋を手配してくれた。当時、湖畔の狭いリゾートに政府諸機関が置かれたため、大変な住宅難であった。貴族や富豪の別荘もあらかた接収されていた。そうしたガルドーネ地区の湖水に面したヴィッラ・フィオルダリソ荘(矢車草荘)という四階建の豪奢な館(やかた)を見付けてくれたのである。  小野はムッソリーニの過分の好意に首をかしげたが、やがてその謎が解けた。ムッソリーニから、「そのヴィッラにクラレッタを同居させてやってくれまいか」と依頼されたからである。そのうえ強引に、ムッソリーニのお目付役であるナチ親衛隊の大将ヴォルフを呼び付け、小野の前で「ペタッチ夫人は、本人の希望により小野の保護下に入った」と、事務的に告げた。  ムッソリーニの執務室のあるガルニャーノは、このガルドーネから僅か数キロである。小野家にクラレッタを預けておけば、ムッソリーニには便利でかつ安心だったのであろう。  小野は一九八三年晩秋、東京を訪れたイタリアのファシズム史研究の著名なジャーナリスト、アッリーゴ・ペタッコに当時の秘話をいくつか語っている(注2)。一つはムッソリーニがクラレッタと話したい時には、彼は「モシモシ、ワタシ」と日本語で電話をかけて来たこと。小野はその電話をクラレッタの部屋につなぐと、彼女も「モシモシ、ワタシヨ」と日本語で答えて電話での会話が始まった。  もう一つ興味あることは、大戦末期に日本政府はムッソリーニを日本に移送する計画を着々進めていたことである。どのように身柄を日本に移すかについてはその記事は触れていないが、この計画はほとんど完成していたという。日本側がこれをムッソリーニに示した時、彼は部下とヴァルテッリーナで最後の戦いをするからと言って、これを拝辞した。もし受けていたら、ムッソリーニは助かっていたであろう——という話である。  それにしても、この話といい、日本大使の日高に重要書類などの保管をまかせるなどの話といい、その頃のムッソリーニは同じ同盟国でもドイツよりはるかに日本に強い信頼感を寄せていたことがうかがわれる。  注1 LA REPUBBLICA紙 '90年1月15日号  注2 IL RESTO DEL CARLINO紙 '83年12月8日号 日本人三人も犠牲に!  反ナチ・ファシズム闘争を続けるパルティザンにとって、ムッソリーニ、ヒットラーとの同盟の一翼を担う日本も、当然ながら敵であった。そのためパルティザンによるゲリラ活動が活発化した最中の四四年六月、三人の日本人が北イタリア山中でパルティザンの手により悲運に殪(たお)れた。イタリア駐在海軍武官光延東洋大佐(四十六歳)、大倉商事ローマ支店長朝香光郎氏(五十七歳)、三菱商事ローマ支店長牧瀬祐治郎氏(四十四歳)である。  兵隊が交戦中に敵弾で生命を失うのは仕方がないとしても、三人はいずれも自動車で山岳地帯を通過中、パルティザンに襲われたのである。光延大佐の場合は自動車の後部座席に軍帽軍服の正装で座っているところをいきなり乱射されて絶命した。朝香、牧瀬両氏はパルティザンに捕まり、一週間ほど拘禁の後に殺害されたとされているが、軍人でもないこの商社員を処刑するとは、いかに戦時下とはいえ、行き過ぎのそしりを免れないのではないか。パルティザンの「抵抗の大義」の汚点と言うべきであろう。  私は戦後のローマで、この三人の日本人の死のことを耳にした。どのような状況で、どのような最期を遂げたのかについて詳細に知るイタリア人にはついぞめぐり会わなかった。ただ光延大佐の場合だけ、「この軍人は制服のまま、眉間に一発受けて従容として亡くなったそうだ」と、旧日本軍部と関係のあった人物から教えられた。その人もそれ以上のことは知らなかった。  結局、帰国後に日本で遺族を探して、分る範囲の状況をうかがうしかなかった。あのパルティザンの反ナチ・ファシズム戦争に三人の日本人も巻き込まれてかの地で生命を失ったことを、どうしても記録に留めて置きたかったからである。  幸いこの願いは多くの人々のお力添えでかなえられた。以下は知り得た限りでの三人の軌跡である。  東京世田谷に在住の光延大佐のトヨ夫人らからうかがったところによると、当時、在イタリア海軍武官光延東洋大佐はスイス転勤を命ぜられ、中部イタリア、モンテカティーニ・テルメのドイツ海軍司令部、またガルダ湖畔ガルドーネのイタリア国防省に転勤挨拶のため一九四四年六月七日、メラーノの武官府を出発した。光延の補佐官山仲伝吾中佐が後任となるため山仲も同行した。専属のイタリア人運転手アンジェロがハンドルを握った。車内には書類鞄六個のほか、すでに旅行さえ物騒な状況のため、護身用にイタリア製自動拳銃(四十発連射)二挺が用意されてあった。  途中、連合軍機の銃爆撃に遭いながらも無事モンテカティーニに着き、所用を終えた。同地に一泊して翌八日早朝、次の目的地ガルドーネに向った。国防相グラツィアーニ元帥との会見のためである。危険な空爆を避けてアペニン山脈の間道を選んだ。途中までイタリア海軍の車が先導した。  夕方五時頃、中部ピストイア県の山中にさしかかった時に悲劇は起った。詳しい状況は奇跡的に助かった山仲が、「光延少将戦死前後情況 昭和十九年六月 山仲在伊武官」(注・光延大佐は戦死後昇進)と表紙に記した記録にビッシリ書き込まれている。これは防衛庁戦史室に保管されている。主要部分だけ、次に引用させていただく(原文のまま)。 「一七〇〇頃(小官ガ時計ヲ見タルハ午後五時五分前ナリシヲ記憶シアリ)ABETONE(本横断道路ノ最高点高サ一三八八米)PIANO-SINOTICOノ中間ヲ通行中光延少将ガ「モー大体峠モ頂上ニ近イ 高イ所ハ涼シクテ気持ヨイシコンナ所ハ戦闘機モ銃撃ハ六ケ敷カラウ 矢張リ此道ヲ来テ良カツタ」ト語ラレタルニ依リ小官ハ上空ヲ眺メツツ「ソーデスネ」ト返答セシガ途端ニ光延少将ガ運転手ニ「FERMA(止マレ)」ト命ゼラレタルヲ以テ前方道路上ヲ注視セルニ「タイヤ」ヲパンクセシムル為ノ妨害物(ヒトデニ似タル形状 米英軍ガ落下傘ヲ用ヒテ供給シアルモノナルコト後ニ承知セリ)多量道路ヲ横切リ二列ニ配置シアルヲ認メタルガ車ハ過力ニテ第一列ヲ通過停止セリ  現場ハ道路ハ右ニ急「カーブ」シアリテ妨害物ハ直前マデ認メ得ズ左側ハ緩徐ナル丘陵ニシテ灌木ノ密林右側ハ道路ヲ築キタル高サ二、三米ノ崖ニシテ下方ハ急峻ナル灌木ノ密林遥カ下方ニ渓谷アリテ向側モマタ高キ山ナリ  当地ハ右側通行ナルト道路急「カーブ」ナル為自動車ハ道路右側ニ偏シ停車セリ  小官ハ停車後何等顧慮スルコトナク(敵機ガ独軍々用自動車ノ行動ヲ妨害スル為ニ散布セルモノト考ヘタリ)武器ヲ車内ニ置キタル儘運転手(「メラノ」居住ノ伊人ニシテ東部戦線ニ戦車隊員トシテ従軍セシコトアリ)ト共ニ下車 運転手ニハ前方障害物ノ除去ヲ命ジ小官ハ後方「タイヤ」ノ情況ヲ調査セント歩ミ出サントセシ際左側丘陵ヨリ「ALT LA」(其処ヲ動クナ)トノ声ヲ聞キソノ方ヲ注視セルニ突如約十米ノ距離ニ自動拳銃ヲ構ヘタル背広着用ノ兵約十名(昨年九月伊国降伏時独軍ノ武装解除ヲ免レ山中ニ潜入英米軍ノ指示ニテ独軍自動車及小部隊ヲ襲撃主トシテ独軍ノ後方交通線破壊ニ従事シアル「バドリオ」軍ニシテ英米軍ハ落下傘ヲ用ヒ武器弾薬ヲ供給シアルモノナリ爾後敵ト称ス)現レタリ (中略)  小官ハ光延少将ニ「武官敵デス早ク外ヘ」ト叫ビ車ノ扉ニ手ヲ掛ケシ時敵ハ車ノ後部ニ対シテ一斉射撃ヲ加ヘタリ 小官ハ更ニ「武官々々」ト連呼シツツ見ルニ光延少将ハ前額部ヲ貫カレ(軍帽ノ「ヒサシ」ニ弾痕ヲ認メタリ)車ノ後部ニモタレ何等応答ナク唸リ声ヲ出シ瀕死ノ重傷ナルヲ認メタリ  運転手ハ敵ガ襲撃ヲ始ムルヤ直ニ両手ヲ挙ゲ大声ニテ叫ビツツ敵側ニ歩ミ降伏敵ニ押エラレタリ 敵ガ吾人ノコトヲ尋ネタルモノト見エ運転手ガ「日本将校」ト叫ビシ処 敵ノ指導者ラシキ者ガANCORA UN ALTRO AMMAZZATELO(マダ一人居ル アレモヤッツケロ)ト叫ビタルヲ聞キタルガ敵ハ引続キ射撃ヲ継続セルモ逃腰ナル為カ道路ヨリ二、三米ノ灌木ノ間ヨリ半身ヲ現シ射撃スルノミニテ道路上ニ下ラザリキ  小官ハ自動車ヲ楯ニ敵弾ヲ避ケツツ硝子ノ破壊セル窓ヨリ手ヲ入レ自動拳銃ヲ取リ応戦セントセシモ意ノ如クナラズ 其間敵ノ一人ガ側方ニ回リ道路上ニ下リテ小官ニ近ラン(筆者注・近寄ランのことか)トセシヲ以テ小官モコレニ随ヒ身ヲ転ゼントセル際足ヲ踏ミ外シ(自動車ガ道路側方ニ偏シ居タル為崖迄ノ余裕少カリシニ気付カザリキ)崖ヨリ滑リ落チ続イテ灌木ノ密林中ニ転落セリ (中略) (其ノ後釈放セラレ帰来セル運転手ノ言ニ依レバ敵ハ小官モ射殺セル旨語レリト)  小官ハ転落ノ際身体各部ヲ打チ行動自由ナラザラント動ケバ灌木ノ動キニ依リ敵ニ更ニ攻撃セラルルヲ以テ約三十分其儘灌木中ニ横臥セル儘待機セルガ(其間約二回機銃ノ銃声ヲ聞ケリ)光延少将ノ事ハ気懸リナルモ既ニ戦死セラレタルコト概ネ確実ナルヲ以テ現場ニ引返スハ無理ナリト考ヘ(以下略)」  山仲伝吾の記述はさらに続き、夜九時過ぎ、前記密林からドイツ軍に運よく救出される情況も書かれている。光延少将の遺体は山仲によりメラーノに移送された。  ところで私の資料の中から偶然、この事件に関ったとみられるパルティザンが寄稿した一文を近年、発見した。「CIVITAS」という隔月発行のイタリア政治研究資料誌一九八二年第四号である。同誌は一九一九年創刊で、戦後はキリスト教民主党領袖の一人で国防、内務両大臣を歴任したパオロ・エミリオ・タヴィアーニの監修になるもので、このタヴィアーニ自身、戦時中はパルティザン幹部の一人であった。  肝心のこの一文の寄稿者はカルロ・ガブリエリ・ロージという人物で、記事の要旨は次の通りである。 「一九四四年六月八日、アベトーネ峠のフォッセ・デル・アフリコという地点でパルティザンが道路を封鎖した。そこへ日本外交団の標識をつけた車が来た。車から降りた運転手は両手を挙げて、〈私はイタリア人だ。乗っているのは日本海軍高官二人。重要書類も積んでいる〉と話した。  パルティザンは日本人将校二人を殺害した。その車内の文書を検討すると、これは戦略戦術的にも価値あるものであると判断し、連合軍に送付することにした。文書内容は光延大佐がイタリア海軍の戦略などを日本のそれと比較検討したものもあり、地中海方面だけでなく太平洋海域でも貴重な情報となるものであった」  連合軍にとって貴重な情報がつまっていたとされるこれら「光延ノート」は、光延がすぐれた分析をしていた証拠でもあった。光延が海軍兵学校四十七期の俊秀であったことを裏付けるものである。これに関連して、戦後明らかにされた興味ある一つの挿話を書き留めておきたい。英国BBCは八〇年代後半、日本海軍による四一年十二月八日の米国ハワイ真珠湾奇襲作戦のドキュメンタリー秘録番組を制作(八八年末NHK放映)した。その中でBBCは「日本の連合艦隊司令長官山本五十六は、四〇年十一月の英空軍による南イタリアのターラント軍港奇襲作戦の勝利をヒントに、その二ヵ月後に真珠湾奇襲攻撃を決定したと推定される」とコメントしていた。その根拠は英国情報部がつかんでいたとみられる。  もしその通りだとすれば、山本五十六は当時ローマにいて地中海戦域の戦況を研究調査していた光延やロンドン駐在武官からの報告で、この「ターラント奇襲作戦」の全容を知ったことはまず間違いない。そうした報告も駐在武官の任務の重要なひとつだったからである。  光延大佐らがパルティザンに襲われたのは、待ち伏せされたのかそれともまったく偶然だったのかは明らかではない。山仲中佐の記録にもあるように、その日、光延らは途中までファシスト・イタリア海軍の車の先導を受けた。だとすればパルティザン側はそれを山岳地帯の山陰から目撃し、地形有利なアベトーネ峠で奇襲したことは想像に難くない。しかし一方、ナチ・ファシスト軍がよく利用した山中の間道だったところから、偶々遭遇してしまった光延らの悲劇だった可能性も考えられる。  この事件から半世紀もたった九一年、この光延、山仲の二人の夫人と話をした。ともに健在である。  奈良県五条市にお住いの山仲生子(いくこ)夫人は、中佐が書いた前記「光延少将戦死前後情況」の記録が残っていることを告げると、「えっ」と、電話の向うで驚きの声をあげた。ややあってから、ようやく「そうですか、初めて聞きました」と言葉をつないだ。  夫人によると——  山仲伝吾はドイツで連合軍に収容され、終戦の年の暮に米国経由で帰国した。昭和五十六年十月十七日に病気で亡くなったが、あの日のことをいつも想い出しては、夫人に語り続けていた。 「あの時、道路の前に並べられていた栗のいがの形をしたものは爆発物だと、最初は思った。その直後に一斉射撃を受けた。見ると大佐は頭部を直撃されていびきをかくようにしていた。その朝、元気で一緒に出たのに、自分だけが生き残って本当に申し訳ない。光延夫人にも済まない」  これが山仲が亡くなるまで繰り返していた言葉だったという。  その光延トヨ夫人にも東京都世田谷区等々力のお宅でお目にかかった。 「山仲中佐は戦後、幾度もここを訪ねて下さいました。その度ごとに『私だけが生き残っていて申訳ない』と申されておりました。とても立派なお方でした。奥様ともずっといまもお付き合いしております」とのことであった。  四四年六月のその日のことを、トヨ夫人は当時いたメラーノで知らされた。日独伊三国同盟という時代背景で起ったこの悲痛な事件についての心境も語られたが、「私の悲しみは、私だけで沢山ですし、自分のことだけにしておきたいので、どうぞ活字にはして下さいますな」とのことなので、それらは割愛せざるを得ない。  朝香、牧瀬両氏の場合は、同行のイタリア人運転手ともども三人が一緒に処刑されてしまったため、詳細な全容は不明なのである。すべて伝聞によるしかない。当時、牧瀬氏と同じ三菱商事駐在員藤井歳雄、朝香氏末娘光子、牧瀬氏の家族らから話をうかがった。  四三年七月、既述のようにローマの在留邦人は北の各地に避難した。一部は在ドイツ日本大使館の計いでウィーン南郊ボッフィングのジーメンス療養所に仮住いした。後に北イタリアから合流したものも含め、総数は数十人になっていた。  朝香、牧瀬両家族もこのボッフィングで年を越した。その四四年春、連合軍はナポリ北方のモンテ・カッシーノ攻防戦に足をとられて動きは鈍かった。戦局の膠着状態が続いた。ジーメンス療養所に仮住いする邦人達もいきおい生活に疲れ、「まだ北イタリアの方がましではないか。戦場でもないし、行ける方法はないものか」との声が強まった。  そこでボッフィング組のリーダー格の朝香、牧瀬両氏がヴェネツィアの日本大使館に打診のため、六月に入ってヴェネツィアに向った。イタリア人運転手がついて行った。ところがボッフィングに帰着予定の日を過ぎても、朝香らは戻らなかった。連絡もなかった。ヴェネツィアの日本大使館に問い合わせると「もうとうに戻っているはず」との返事であった。当然、「行方不明」の疑いが生じ、大使館は調査を始めるとともにドイツ軍当局にも捜索、捜査を依頼した。  家族や邦人一同は、無事帰還を祈るのみであったが、何の手掛りもなかった。しばらくして「日本人の車が山の方に向っていたのを見た」というイタリア人の情報もあったが何もつかめず、いたずらに月日が経つばかりであった。北イタリア移転の話など吹き飛んでしまっていた。  それから半年も経った十二月に入って、もっとも恐れていた悲報がもたらされたのである。ドイツ軍当局からであった。  それによると——。  ナチ親衛隊ゲシュタポが、逮捕したイタリア・パルティザンを取調べているうちに、このパルティザンらが日本人二人を含む三人を捕えて処刑したと自供した。日本人らを捕えた場所はヴェネツィアに近いヴィチェンツァ県のスキオという小さな都市近郊であった。スキオは南チロル、ドロミテ・アルプスの麓にあって、毛織物産業が盛んなところである。  パルティザンの自供では、六月十二日から十四日ごろまでの間に、この日本人らを処刑したとのことで、処刑場所もスキオ市近郊であった。日本人二人とイタリア人運転手の三人を同時に処刑したという。当時、行方不明の日本人は朝香、牧瀬両氏しかいなかったため、状況判断から遭難者はこの二人に違いないとされた。  このゲシュタポ報告によって、メラーノの大倉商事駐在員犬丸幹雄と、別の場所にいた三菱商事駐在員加藤章がともに現場に急行し、ドイツ軍の協力を得てパルティザンの指定した場所を発掘した。すでに白骨化した三遺体が現われた。まぎれもなく、うち二つは東洋人のものと、犬丸、加藤も確認した。その時のゲシュタポの話によれば、パルティザンは二人の日本人らに自ら墓穴を掘らせ、掘り上がったところで背後から射殺したとのことであった。  犬丸、加藤両氏は朝香、牧瀬両氏の遺体を荼毘(だび)に付し、ベルリンの日本大使館に無事届けた。  犬丸、加藤両氏は現場での見聞を言葉少なに遺族に伝えたらしいが、この両氏もすでに他界し、詳細を知る手段はない。幸い関係者から確認する機会を得たが、当時、犬丸氏はパルティザンの支配地域に両氏の遺体を引き取りに行き、こんどはいつ自分らが捕まるかと往復の道を恐る恐る走ったと洩らしていたという。  そして十二月末、ベルリンの日本大使館で朝香、牧瀬両氏の告別式が行われた。  日本人関係者から聞いて、明確に分ったことはこれだけである。だがパルティザンは何を理由にこの二人の商社員を射殺したのだろうか。彼らの記憶で六月十二日から十四日までの間に処刑が行われたとすれば、ヴェネツィアの日本大使館を出発して間もなく捕ったとしても、約一週間ほどこの二人とイタリア人運転手は拘留されていたことになる。その間、どうしていたのだろうか。運転手のイタリア人までも射殺したとはどういうことであろうか。  当時の北イタリア在留邦人で、「三人は逃げようとして殺されたと聞いた」と発言する人もいるが確認はできない。ゲシュタポに捕ったそのパルティザン達も、取調べが終った段階で直ちに処刑されたことはほぼ間違いない。今となってはこうして「加害者」も皆「被害者」になってしまっている。  確実なことは朝香、牧瀬両氏が殺されたということだけである。この二人の遺族は、状況から判断して六月十二日を命日に決めている。それにしてもなぜ、どうして? は不明のまま、歴史の中に埋没してしまった。ゲシュタポのその時のパルティザン尋問調書は果してあるのかどうか? 以上三人の場合、いかにも無念としか言いようがない事件である。  実はこの朝香、牧瀬両氏が殺されたスキオ郊外で、別のもう一人の日本人が車で通行中、パルティザンに「止まれ!」と銃をつき付けられた。同じ月の九日のことである。ごく近くのどこかで朝香、牧瀬両氏がまだ生きている時である。  その人、朝日新聞特派員清水三郎治は所用で南チロルのボルツァーノから海軍武官府のあるメラーノなどを回っていた。武官府に挨拶に行くと、ただならぬ空気が流れていた。「何かあったのか?」と尋ねても、ただ「途中、十分気を付けて下さい」という返事だけであった。  ヴェネツィアまでの帰途、幹線道路は猛爆撃が続いており、危険を避けるためガルダ湖畔の主要な都市デゼンツァーノから北方のトレントへ抜ける道を行き、スキオに出てヴェネツィアに下りる道をとった。途中、ドイツ軍将校に便乗させてくれと頼まれ、断れずに困った。その将校は幸い、デゼンツァーノで降りてくれたのでほっとした。  日の丸をつけた車に、一人だけでハンドルを握っていた。ガルダ湖の東のスキオに差しかかった時、突然、車の前に銃を持った男達が現われて、「止まれ」と命じた。初めはパルティザンだとは思わなかった。背広やレインコートを着ており、道路整備の監視人ぐらいにしか見えなかった。だが銃をつき付けられてはじめて、パルティザンだと気付いた。  と、清水は咄嗟(とつさ)に大事に持っていたタバコとコーヒーの包みを両手で差し出した。ほとんど反射的な行為であった。数人のパルティザンのうち一番若いのが、それを受け取ると、「早く行け!」と合図した。  あとはもう無我夢中で車を走らせ、ヴェネツィアに舞い戻った。そこで光延大佐の件を初めて知らされた。それだけに、無事戻れたことは奇跡的と思われた。  当時、タバコやコーヒーは一般でも貴重品であった。山中に立て籠るパルティザンにとってはなおさらである。「私はあの時、コーヒーとタバコのおかげで間一髪、命拾いした」と、清水は今でも信じている。あの時、清水の車には日の丸がつけられていた。日本人であることを明示するためであった。それはドイツ軍に対しては有効だったかも知れないが、パルティザンに対しては「敵」の印でもあったのだ。そしてもし、あのドイツ軍将校がデゼンツァーノで下車せず、スキオまで同乗していたら、事態はまったく正反対の結果を生んでいたはずである。  毎日新聞の小野七郎はパルティザンの襲撃に備えて、マルチェッロという飛びきり腕のいい自動車レーサーを運転手に雇っていた。おかげで幾度も死線を越えた。ガレ場をサーカスのように飛び降りたり、前方に倒された障害物の大木を飛び越えたりして、パルティザンの襲撃を無事にかわしたものである。その度ごとに背後から猛射を浴び、車の後のガラスはクモの巣のようにひび割れしたこともしばしばであった。  日本大使館員もパルティザンから狙われていた。これまた同じ六月のことであった。当時の同僚によると、前出の日本公使加瀬俊一はその晩、濃いコーヒーを飲んで寝つけないでいた。午前三時頃、覆面の三人が押入り、エーテルかなにかをかがされて眠らされた。気が付くと、パジャマ姿のまま袋に入れられて、戸外に置かれていた。袋を破って逃げ帰った。あとで分ったことは、公使の大家の息子がパルティザンになり、身代金要求のため誘拐計画を計ったが、公使がコーヒーの飲み過ぎでいつまでも眠らないため犯行が遅れたうえ、巡察が見回りに来て未遂のまま逃走したとのことであった。  また書記生野一色武雄は寝ている時、ドアの下から手紙を差し込まれた。手紙には「金を払え。払わないとお前はご先祖様のところに行くぞ」と書いてあったという。  恐ろしく、そして悲しい時期であった。 今も語り継がれる悲劇  イタリアではこの戦争中、不幸な出来事が各地で起きていた。悲惨を極めたのは戦闘とまったく関りのない人々が情容赦なく殺戮にあったことである。以下はいまなお語り継がれている数々の悲劇のうちの典型的な例である。 ▼七人兄弟全員の処刑  四三年九月八日のイタリア休戦で、内外に布陣していたイタリア軍は大混乱を来たした。早々に銃を捨てて郷里に向ったもの、パルティザンに身を投じたもの、ドイツ軍に武装解除されて労役のためドイツに移送されたものなどさまざまであった。郷里の遠いものは途中、ちょうど秋の収穫期のため農家の手伝いをして食いつなぐ必要があった。  中部イタリアのレッジォ・エミーリア市郊外は肥沃で牧畜も盛んな農村地帯である。そこのプラティチェッロという村にアルチーデ・チェルヴィの経営する大農場があった。家族は夫妻と二十歳代から十代にまたがるその子供七人兄弟であった。  そのチェルヴィ家にイタリア軍の若い兵士十数人が訪れ、労働奉仕をするから匿まって欲しいと言って来た。ドイツ軍に見付かれば徴用されるからであった。夫妻は子供達と同年輩の兵士達を喜んで匿まった。  やがて近くにドイツ兵が増強され、イタリア兵達は帰郷できなくなった。十一月二十五日のこと、ドイツ兵が「人間狩り」にやって来た。農家の一斉立ち入り検査である。アルチーデはイタリア兵達をまぐさ倉庫に隠し、七人の息子達と相談のうえ、丁重に捜査を断った。  ドイツ兵はまぐさ倉庫に放火し、一家全員を逮捕した。一ヵ月後、この地方のファシスト党書記が殺害されるという事件が起り、その報復として夫妻の見ている前で七人の息子が全員処刑された。 ▼哲学者ジェンティーレ暗殺  四四年春、フィレンツェはいつもの年のように薔薇、つつじ、藤の花がやわらかい色彩を競っていた。だがその“花の都”はドイツ軍の軍靴の下にあった。すでに地下組織のトスカーナ地方国民解放委員会も活発に動いており、愛国行動隊によるテロも頻発していた。  フィレンツェ大学の哲学・教育学教授ジォヴァンニ・ジェンティーレは当時は、ベネデット・クローチェと並ぶイタリアが誇る世界的哲学者であった。フィエゾレに近い小高い丘の豪邸に住み、大学の授業を終えると毎日決って午後一時半には送迎車で帰宅していた。  四月十五日、いつものようにその車が邸宅モンタルト荘に着いた。その車に四人の若い男が駆けよると、一人が車中の人物に尋ねた。 「貴方はジェンティーレ教授?」 「そうです。何の御用かな?」  車中の人物がそう答えるや否や、「人民の裁きだッ!」の叫びとともに銃声が鳴り響いた。四人はそれぞれ別の方向に走り去った。  やがて「世界的なイタリアの哲学者ジォヴァンニ・ジェンティーレ暗殺さる!」のニュースが世界中に流れた。暗殺者が愛国行動隊員であることも市内には広まった。その指導者はブルーロ・ファンチュラッツィと名乗る男であった。  共産党を除く地下組織の各党は一斉に「この行為は無謀卑劣であり、誠に遺憾である」と非難した。反ファシスト運動への国民の反感を買うことを懸念しての声明でもあった。それほどジェンティーレは市民から尊敬され、市の誇る哲学者であった。  トスカーナ地方国民解放委員会、フィレンツェの愛国行動隊とも、暗殺指令を発してはいなかった。その意味では“ハネ上がり”の愛国行動隊による行為であった。とはいえ、ジェンティーレはまぎれもなくファシスト体制に奉仕した要人であった。二二年にムッソリーニが政権に就くと、ローマ大学教授だった彼は招かれて文部大臣に就任した。以来ファシスト体制側に属し、暗殺当時はイタリア学士院院長であった。それも四三年九月にムッソリーニがサロ政権を樹立すると、ムッソリーニによって請われて任命されたのである。とはいえいずれも自ら進んで協力したわけでもなかった。  そうした点からも、ジェンティーレ暗殺は愛国行動隊の過剰行動、つまり“やり過ぎ”のそしりを免れなかった。トスカーナ地方国民解放委員会が、この件に関し「無謀卑劣」と非難したのは当然で、愛国行動隊側も暗殺実行者に対して、厳罰を科したという。  しかしジェンティーレの悲劇は、もう一人の大哲学者ベネデット・クローチェと並ぶ大哲学者だったことから生れたとも言える。ジェンティーレは六十八歳で亡くなったが、十歳上のクローチェと並び、当時ヨーロッパ最高の哲学者であった。ともにドイツ・ヘーゲル学派に立ち、師弟の間柄でもあった。  そのクローチェはムッソリーニが二二年に政権に就く直前の社会党イヴァノエ・ボノミ内閣の文部大臣であった。となればムッソリーニが新政権でジェンティーレを文部大臣に就任させたのも、当時としては自然の成り行きであった。ムッソリーニとしてもクローチェに劣らぬ大哲学者を登用することは国民の人気を得るために必要であったからである。  そのうえ、クローチェと比べた場合、ジェンティーレの哲学的立場はムッソリーニに都合がよかったのである。同じヘーゲル哲学から出発しても、クローチェが自由主義的であるのに対し、ジェンティーレはニュアンスを異にしていた。 「全体と個」つまり「国家と個人」という観点で見ると、クローチェは「個は全体の中でそれぞれ存在価値を持つ」とするのに対し、ジェンティーレは「全体の中で個は消滅する」とする。ここからクローチェは個人の自由意思の尊重を説くのだが、ジェンティーレは個人は国家というものを通じて自己を実現するのだと説く。  両者の基本的相違点を極めて大雑把に述べたが、このジェンティーレの立場はムッソリーニのファシズムにとって哲学的基盤を与えるものであった。しかもまたファシズム時代のイタリア文化形成の一助ともなったのである。ジェンティーレは後に政界を去って大学に戻るのだが、二十年後に再び利用されることになる。  四三年七月、ムッソリーニの後継バドリオ首相は無任所大臣としてクローチェを迎えた。するとムッソリーニは九月にサロ政権を樹立すると、ジェンティーレに学会最高の地位である学士院院長の地位を与えた。イタリアに並び立つ二人の哲学界の重鎮を、二つの政府がそれぞれ重用するというめぐり合せが、二人の哲学者の運命を決めた。その意味でもジェンティーレは、政治に弄ばれた悲劇の哲学者であった。  ジェンティーレの遺族はフィレンツェのファシスト党支部とドイツ軍当局に書面で「今回の不幸に関し、愛国行動隊を含めて、フィレンツェ市民への報復をしないよう」要請したのであった。 ▼マルザボットの大虐殺  九一年五月三日のイタリア各紙は、「マルザボットの大量殺戮者死去」という記事を大々的に報じた。この大量殺戮者とはヴァルテル・レーデルという元ナチ親衛隊少佐のことである。四四年夏、中部イタリアのトスカーナ、エミリア・ロマーニャ両州にかけての十指に近い村落をほとんど全滅させた張本人であった。殺された村民は三千人にも上った。  当時、ドイツ軍はティレニア海のマッサからアドリア海のリミニを結ぶドイツ軍の「ゴシック防衛線」を死守しようと、連合軍の北上に備えて拠点を強化していた。しかしこれら諸地方のパルティザンによる後方攪乱、ドイツ兵へのテロが相次いだ。このためパルティザンが利用すると見られるこれら村落を次々と焼き払い、村民を皆殺しにしたのである。  親衛隊の連隊司令官レーデルはまず手始めに、八月にドイツ兵三人がテロに殺されたスタッツェーマ村を襲い、五百六十人を焼殺した。同じようにヴェラ村で百七人、サン・テレンツォ村五十三人、ベルジォーラ村七十人、ヴィンカ村百七十四人、九月に入ってフリジード村約二百人、マルザボット村ではなんと千八百三十人であった。  このマルザボット村では九月二十八日に大虐殺が始まり、三日間も続けられた。パルティザンがこの村に逃げ込んだとの部下の情報で、レーデルはその日早朝、雨の中を村に突入した。まず農家に火を放ち、逃げる村民を捕えては火の中に放り込んだ。機関銃隊は撃ちまくった。  当時九歳のマリア・トリヴィローリという女の子は、八十二歳の祖父が火の中に投げ込まれるのを見た。そのすぐあと機関銃隊の一斉射撃にあい、自分は倒れた母の死体の下敷きになった。そのおかげで幸い九死に一生を得た一人である。ドイツ兵が赤ん坊を何人も集めては、そこに手投弾を投げるのも目撃した。  三十日になってやっとドイツ軍は引き揚げていった。いぜん雨が降っていたが、マリアは起き上がった。近くに家族の死体もあった。十一人家族のうちマリアだけが生き残った。村ではほかにリヴィア・ペリーニという十四歳の女の子が助かった。彼女は教会の中に逃げた。じっとひそんでいた。ドイツ兵は教会内部に入り込んで、司祭まで殺害した。外ではいつまでも銃声が聞えていたのを覚えている。  戦後にこのナチ親衛隊の蛮行が明るみに出て、ルイジ・エイナウディ大統領は五周年に当る四九年九月三十日マルザボット村を訪れ、レーデルによって消された村々の村民一人ひとりに金勲章を贈った。同時にイタリア軍事法廷はレーデルをオーストリアから呼び戻して裁き、五一年十月、イタリアの最高刑である終身刑を言い渡した。  レーデルはゲシュタポ隊長のカプラーと同じガエタの軍事刑務所に服役、二人は慰め合っていたという。そのレーデルは三十五年後の八五年一月、「善行服役者」ということで多くの反対にも拘らず釈放された。そして六年後に死んだのであった。 フィレンツェ解放戦  ローマ解放のあと、戦線は中部に展開していった。中部、北部のパルティザンの活動も活発化していた。その夏、七月には軍港リヴォルノが、八月には“花の都”フィレンツェがそれぞれパルティザンによって解放された。そのあとに連合軍が入って来た。九月にはアドリア海側の要衝リミニもパルティザンの支配下に入った。こうした進展は、ナチ・ファシストとパルティザンの対決が一段と凄絶化していたことを物語る。  その四四年六月、フィレンツェに本拠を置いたドイツ軍総司令官ケッセルリンクは「ドイツ軍に敵対するパルティザンに対しては断固たる処置をとる」旨の布告を発した。特にアペニン山脈地帯ではドイツ軍がパルティザンに襲撃されることが多く、兵員や機甲部隊の少数による行動や移動は危険視されていた。北イタリアのポー川流域、アルプス山麓でもほぼ同様であった。ドイツ軍のパルティザンに対する厳しい処断の布告についてドイツ軍は、「彼らは正規の兵ではなく〈非合法、つまり不正規の戦闘員〉であり、国際法の適用は受けない。パルティザンの捕虜は従って国際法上の捕虜とはみなされず、その取扱いにはどのような処理をしてもよい」という論拠を基にしていた。  このため緊急の場合は銃殺刑、それ以外の場合は絞首刑つまり縛り首にして公衆の前にさらした。ドイツ軍のこのような方針に対して、パルティザンの対応も当然エスカレートしていく。  すでに見てきたように、連合軍側は「イタリアからドイツ軍を放逐するために立ち上がって、イタリア人は連合軍に協力せよ」と、再三にわたり檄を飛ばしてきた。このような呼び掛けは、ラジオでまた空からのビラで頻繁に行われていた。  この情勢の中で、北イタリア国民解放委員会は、前記ケッセルリンクの布告に真向から挑戦する布告を発した。六月二十三日付のその布告は「パルティザンは不正規兵などというものではなく、あくまでも合法的戦闘員である。パルティザンは一九三八年七月のファシスト軍団法を尊重して組織されているからである」としていた。ムッソリーニが二二年に創設したこのファシスト軍団とは、正規兵に準じて国防に従事する義勇軍とされていた。事実上はファシスト党の私兵的存在ではあったものの、四三年夏には正式にイタリア正規軍に編入された“実績”を持っていた。  ちなみにパルティザンやゲリラへの処遇につき、第二次大戦後に国際法は大きく変った。この大戦のパルティザンやゲリラ、またアフリカの独立運動、中南米の独裁政権への革命、ヴェトナム戦争などの各国の体験を経て、戦争捕虜に関するいわゆる「ジュネーヴ条約」は、その追加議定書(七七年)で「攻撃に従事している間または攻撃に先立つ軍事行動に従事している間」「自己を一般住民から区別」していれば、パルティザンやゲリラも人道的に処遇すべき捕虜とするとしている。つまり公然と武器を携行し、一般住民と明らかに違った要員と相手側から見られる者は、正規兵並みに取り扱われることになったのである。  この四四年夏のパルティザン戦闘では、戦史に残る出来事が二つあった。一つは中部イタリアのモデナ県でのパルティザン部隊とドイツ軍の大規模な戦闘であり、もう一つがフィレンツェ解放戦である。組織的パルティザンの手で解放されたイタリアの大都市は、このフィレンツェが最初であった。  モデナ県の激闘は「モンテフィオリーノの戦い」として記録されている。モデナ市の南西にあるモンテフィオリーノ集落付近はアペニン山脈中にありながら、セッキア川のたもとにあり、陣地構築上極めて有利な地形にあった。ドイツ軍はこれをゴシック防衛線上の要衝とするため、七月中に大量の兵力と物資を投じて陣地構築を開始した。北上する連合軍を迎撃するための拠点とする考えであった。  その状況を察知したこの方面のパルティザン部隊は、市民の情報を元に続々集結し、ドイツ軍陣地爆破計画を進めた。しかしその動きが漏れて逆にドイツ軍から包囲され、パルティザン部隊はドイツ軍の猛攻を受けた。七月三十一日のことである。ドイツ軍は砲撃に加え、機甲部隊による攻撃でパルティザン全滅をはかった。  これに対しパルティザン部隊は、武器弾薬で劣勢にありながら組織的に陣地戦を展開し、ドイツ軍を悩ました。戦闘は丸四日間続いた。結局ドイツ軍は逆に壊滅的な打撃を蒙って敗退したが,パルティザン側は二百五十人の戦死者と約七十人以上の戦傷者を出した。ドイツ軍側はその数倍の犠牲者を出したと見られている。  この「モンテフィオリーノの戦い」の特徴は、パルティザンが小規模ゲリラ攻撃の繰り返しではなく、野戦において部隊編成規模の戦闘を敢行できるまでに成長していたという事実を立証した点であった。  一方、八月十一日のフィレンツェ解放戦は、ナチ・ファシスト軍とパルティザンとの完全な市街戦であった。パルティザンを支援する市民も銃をとり、市内のナチ・ファシスト軍を襲撃し、建物を一つずつ奪取するという陣取り合戦であった。  もちろん市内のファシストはドイツ軍側について銃をとった。その意味では市民同士の戦闘という極限の構図さえ示したのである。この事実はロベルト・ロッセリーニ監督のネオリアリズム映画「戦火のかなた」のフィレンツェの戦闘場面にも活写されている。建物の中に立て籠って応戦するファシスト達を捕えると道路に引きずり出し、有無を言わさず射殺してしまう。すさまじい場面と言うほかない。パルティザンとファシストとが友人同士、知人であったケースも稀ではなかったという。  フィレンツェの戦闘の一部は、塀を一つ隔てて、あるいは一つの建物内での階を奪い合うという肉薄戦、屋内戦でもあった。市内の歴史的建造物も戦闘の舞台となった。アルノ川に架かるヴェッキォ橋とウフィツィ美術館を結ぶ秘密の回廊は、市の外郭から中心部に移動するパルティザンが専ら利用し、戦力を増強してドイツ軍を悩ました。このためドイツ軍は七月三十一日、アルノ川両岸の住民約五万人に対し、十二時間以内の退去を命じた。市内のアルノ川に架かる橋梁を爆破するためであった。結局、ケッセルリンクの命令で八月三日から四日にかけ、十四世紀に造られた由緒あるヴェッキォ橋を除き十幾つの橋はすべて爆破され、アルノ川の中に無残な姿をさらした。  橋を爆破したものの、市内中心部にはすでに約六千人ものパルティザンが潜入しており、白兵戦、狙撃戦に移っていた。ドイツ軍はじりじりと市外北部に撤退を余儀なくされた。十一日夜には遂にドイツ軍はすべて北部丘陵に退却し、フィレンツェはパルティザンと市民の手で解放されたのである。  その日午前中、フィレンツェの新聞社「ラ・ナツィオーネ」社では、フィレンツェ解放の第一号を編集し、輪転機をフル回転させていた。市内のサン・マルコ、サン・ガッロ街ではまだ戦闘が散発していたが、輪転機の響きは銃声を圧していた。  このフィレンツェの戦闘では、トスカーナ地区解放委員会が戦争指導に当り、綿密な作戦計画によってドイツ軍の退却を早めた。特に八月十一日午前六時を期して、市民達に一斉蜂起を呼び掛けた。この方式はその後の大都会でのパルティザン戦のモデルとなった。  当時を知る人達は、あの八月十一日午前六時に市の中心にあるヴェッキォ宮の鐘塔が、市民の総決起を促す合図としてカラン、カラーンといつまでも鳴り響いたのを忘れることはできないと話す。その日、約七万のドイツ軍は市内からいなくなった。それまでの半月間の戦闘で、パルティザンとそれに協力した市民達の間から三千百八十五人の戦死者を出した。そのうちの十一人に対して戦後、金勲章が政府から贈られた。  パルティザンによる解放戦はさらに続く。九月五日にはフィレンツェの西方ルッカを、六日には北のプラート、十一日にはピストイアと相次いでパルティザンが解放し、いよいよ戦闘は北部ポー川周辺へと移って行く。  こうした動きが示すように、四四年夏以降にはパルティザンの勢力はすでに北イタリア各地にも点と線だけではなく、面として深く浸透していた。そのうえ各自治体が「パルティザン共和国」化する例も珍しくなかった。本項で述べた大激戦地モンテフィオリーノもその一つで、他にもオーストリア国境に近いカルニア地方などがあるが、最大のそれがヴァル・ドッソラ地方(オッソラ渓谷)である。  四四年九月初旬、アルプスの高峰モンテ・ローザの東部に展開するこのヴァル・ドッソラで、パルティザン部隊は駐留ドイツ軍だけでなく、ファシスト共和国が温存する「ムーティ旅団」「モンテ・ローザ旅団」などを撃破し、この地方一帯を制圧した。ピエモンテ州に属し、スイスに隣接する交通の要衝であり、渓谷の名が示すように水力発電所を多くかかえる戦略地帯でもあった。中心都市はドモドッソラ(人口約二万五千人)である。  三十六の市町村があり、地域は広大だが山岳地帯のため村落人口は約八万と少なかった。この地方のパルティザンは住民と一体となり、再びナチ・ファシストが攻撃をかけてくるのに備えた。そのパルティザンは共産党系のガリバルディ旅団、社会党系マッテオッティ旅団、キリスト教民主党系ディディオ旅団で、敵が攻撃を加えてきた時には、住民も一緒になって抵抗戦に入ることになっていた。  総指揮官は元陸軍軍人のエットーレ・スペルティであった。彼はこの地域で自治共和国の設立を考え、パルティザンと住民の中から人望ある人物により、三権分立の政府、議会、裁判所を作った。共和国首相には医者で社会党系のエットーレ・ティバルディが選ばれ、閣僚には戦後に首相となるデ・ガスペリの弟アウグスト、それに応援に駆けつけた共産党の有力者ジャンカルロ・パイエッタもいた。紅一点のジゼッラ・フロレアーニという三十歳代の美人も閣僚になるという当時としては画期的な内閣であった。歴史的に交流が盛んだった隣接のスイスもこのヴァル・ドッソラ“パルティザン共和国”を承認し、相互に“大使”を交換した。  この“共和国”政府は北イタリア解放委員会の一部を構成したほか、食糧生産を計画的に進めて配給制も実施、自給自足の実を上げた。このようにして四六年の政体決定の国民投票でイタリアが共和制を採る基礎を、これら“パルティザン共和国”は育んでいたのである。 パルティザン、都市に進出  国民解放委員会の設立、パルティザンの誕生以来、多大の犠牲者を出しながらも、反ナチ・ファシズム勢力は着々と増大していた。ドイツ軍の弾圧が強まれば抵抗も増した。パルティザンは市民の共感を得て、魚が水中を泳ぐようにその活動は次第に活発となった。山岳、農村地帯から北部工業都市にも勢力は急速に拡大しつつあった。  そのパルティザンに呼応して、工業地帯の労働者も側面から支援した。ファシスト党が四三年十一月、ヴェローナで党大会を開いて気勢を上げた四日後の十一月十八日、トリノのフィアット工場では労働者がストを敢行した。ナチ支配下で初めてであった。このストはファシスト党大会への労働者からの“回答”という政治ストであった。  そのトリノと、ミラノ、ジェノヴァを結ぶ北イタリア工業三角地帯で、こんどは全労働者が四四年三月一日を期して、ゼネストに入ったのである。ストは三日間続いた。市電の運転手、郵便局員なども同調し、市民生活はマヒ状態に陥った。ドイツ軍はスト都市を戒厳令下に置き、企業側には賃金不払いを命じた。ドイツ軍はまたスト参加者を強制労働のためドイツに送ると脅かした。  フィアット工場の塀には、「ムッソリーニに死を!」というスローガンがペンキで大書された。サロ政権樹立以来、このようなスローガンが公然と人々の目にさらされたのは初めてであった。企業側もまた、スト収拾に当って、ドイツ軍が命じたスト労働者への賃金不払いについては戦争終結後に支払うことを約束するなど、ドイツ軍への抵抗の姿勢を示したのである。  このストの波紋は大きかった。北部工業三角地帯で約六百人の労働者がドイツ軍により検束され、ブッヘンワルト、マルトハウゼンなどのドイツ強制収容所に送られた。このため労働組合などが一挙に反ナチ強硬姿勢に転じ、地下の国民解放委員会に合流して反ナチ・ファシスト運動に加わることになった。パルティザン勢力は広くかつ深く、都市社会の隅々に浸透して行く。ここからやがて北イタリア各都市の反ナチ・ファシスト一斉蜂起が燃え上がることになる。  この時点で、パルティザン勢力がどのくらいの規模であったかはその性格上、なかなか把握し難く、不明である。ただ四四年六月十五日、ムッソリーニ政府が公表した数字では戦闘能力を持つパルティザン部隊を約八万二千人と推定している。各州ごとの内訳を見ると、ピエモンテ二万五千、リグーリア一万四千、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリーア一万六千、エミリア・ロマーニャとトスカーナ一万七千、ロンバルディア五千、ヴェネト五千六百となっている。何を根拠にこの数字を出したのかは分らないが、これは前年同期比二万七千人増としている。  これに対し、ムッソリーニのファシスト軍は九万三千の兵力を持ち、北イタリア占領ドイツ軍戦力は約二十万人であった。  パルティザン側は約百人単位で山の中や農山村付近に野営し、自活の形をとっていた。共産党系パルティザンは赤いマフラー、それ以外の政党系は青マフラーで区別していた。指揮官は元軍人が多く、政治委員という部隊の管理、教育を担当する者もいた。食糧などの調達にも当り、農民などへの不当な調達は厳格に監視され、違反した者にはタバコの配給を停止したり、隊内委員会の協議で追放または処刑という罰則もあった。  各部隊は毎朝点呼、武器点検を行い、あいさつは「ナチ・ファシストに死を!」または「国民に自由を!」であった。武器はイタリア軍解体の際に準備したもののほか、ドイツ軍を襲撃して奪取したものを使用した。四四年春からはドイツ軍攻撃のたびに、パルティザン側は多数の武器を押収した。四四年六月から戦争終結直前の四五年三月末までの間の奪取兵器は、大砲百九門、重機関銃二百八十六挺、軽機関銃一千百七挺、小銃六千五百五挺、自動拳銃二千四百八十三挺などであり、このほか弾薬八百四十七箱、火薬十万六千キロとなっている。またパルティザンのこの期間中のドイツ軍襲撃は六千四百四十九件、ドイツ軍死者は約一万六千人と推定されている(注1)。  武器弾薬補給は、連合軍からも一時期行われた。無線機器、食糧補給も同時に夜間の空中投下という方法でなされた。連合軍のこうした物質投下は戦争終結までの間、延べ六千四百九十機によって実施された。  しかし連合軍最高司令官サー・ハロルド・アレグザンダーは四四年十一月十三日突然、「冬の気象条件悪化のため武器などの補給が思うにまかせないため、以後、補給は中止する。パルティザン諸君は、危険な戦闘を停止して帰郷されたし」と通告してきた。パルティザン部隊司令部と国民解放委員会は、このイギリス人将軍のあまりの無神経さにあきれ、かつ激怒した。パルティザンは各地で連合軍の前衛としてドイツ軍と戦い、悩ませ、ジリジリと北上しながら解放を果してきたのである。連合軍は後からそれら解放地区に進駐して来るケースが多かった。  それにパルティザンにとって、イタリア全土が解放されるまでは帰るべき郷里などはなかった。戦うかドイツ軍に捕って殺されるか、またドイツの強制収容所に送られるかのいずれかしか道はないことを、この司令官は理解できなかったのである。「戦闘を止めて郷里に帰れとは何事か!」と、パルティザン達が怒ったのも無理もなかった。  連合軍からの補給が途絶えることは、その量が必ずしも多くはなかったとはいえ、これから厳冬の山岳地帯で戦闘を継続し、部隊を維持していくには手痛い打撃になることは明白だった。前年の冬はパルティザンの規模も小さかったが、いまや十万人近くにふくれ上がっている。寒気と飢えの中で、この冬をどう乗り切るか? 国民解放委員会とパルティザン司令部は、難局に直面した形であった。  しかしパルティザン実戦部隊は、断固戦闘続行を決めた。部隊維持と戦闘続行のためには、ドイツ軍への攻撃を倍加して武器弾薬を奪取するチャンスを増やすとともに、都市近郊での戦闘に入ることによって、市民と接触し、食糧その他の供給で市民の協力を仰ぐしか道はなかった。こうした戦術転換は当然、犠牲者を増やすことにつながるがやむを得なかった。  ボローニャ、リミニ、クレモーナ、さらにヴェネツィア、ミラノ、ジェノヴァ、トリノなどの都市周辺部に、こうしてパルティザンがゲリラとして出没するようになった。四四年十二月から四五年一月にかけてである。時には赤いマフラーや青いマフラーの男達が公然と各市内を歩き始めた。ムッソリーニのいるガルダ湖付近にも接近してドイツ軍警備隊と小競り合いを演ずるまでになった。  それまで「点」の存在であったパルティザンは、いまや「面」としての存在に変ってきた。パルティザンの「都市化」によって、工場労働者や一般市民の多くもパルティザンとの一体感を抱く基盤が育ったのである。軍官民が一致協力した十九世紀末のイタリア国家統一運動(リソルジメント)とまさに同じ状態となった。  このイタリアのパルティザン運動で、女性の活躍が大いに威力を発揮した。「点」の存在であった時も、一部隊の中に女性も少なからずまじっていたが、都市化して「面」の存在になると、その数は急激に増えた。これら女性はパルティザンと労働者の間、都市と地方の間、パルティザンと地下運動者の間などの連絡や情報伝達に、はかり知れぬ貢献をした。後述するように、戦闘での戦死者やドイツ軍に捕って処刑された女性パルティザンの数は決して少くはなかったのである。  四五年四月末のイタリアのナチ・ファシストからの解放が実現した当時、パルティザン実戦部隊の総数は三十万人近かったと言われるが、その内訳は全体の四〇パーセントが共産党系、二五パーセントが行動党系の「正義と自由」派、あと残りの三五パーセントがキリスト教民主党、自由党、社会党系であった(注2)。  ここでさらに、イタリア・パルティザンの戦死傷者に触れておく。一九四六年にイタリア外務省が「ドイツに対する解放戦争へのイタリアの貢献」と題する文書で発表した数字は、本書の第一章で述べたが、その後の調査では実数はさらに増えている。  クロノロジスト(年代記記録者)のロベルト・バッタリアが一九五五年に発表したところでは、パルティザン戦死者とドイツの報復による市民の死者約四万六千人、国内でのパルティザン重軽傷者約二万一千人、外国でのイタリア・パルティザン(フランス、ユーゴなど)や反ナチ・ファシストの死者約三万人、ドイツで訓練中のイタリア兵六十一万五千人のうち死亡したとみられる未帰還者三万三千人、ドイツ強制収容所などで死亡したイタリア人政治犯など約八千人。  また一九七七年刊『LA CAUSA DELLA RESISTENZA ITALIANA(イタリア抵抗の大義)』(ANDREA PORCRI著 ISEDI出版)によると、パルティザンの死者は国内で三万八百八十九人、国外で一万三千八百三十一人、計四万四千七百二十人。負傷者は国内一万八千一人、国外三千百六十七人、計二万一千百六十八人。ドイツ軍による報復で殺害された一般市民九千九百八十八人とされている。  第二次大戦でのイタリア将兵の戦死者(戦病死を含む)が約二十四万二千人であることからみると、このパルティザン戦死者の数は重い意味を持つと言わねばなるまい。前述の女性パルティザンは、最終的には三万五千人が銃をとって戦ったと言われ、ドイツ軍に処刑された者を含めて戦死者は約六百人に上っている。パルティザンがいかに凄絶な戦いをナチ・ファシストに対して行ったかがうかがわれる数字である。  四五年冬は北イタリアは大雨と豪雪で連合軍は動けず、パルティザンだけが都市、農村、山岳地帯でナチ・ファシスト軍と血みどろの戦闘を繰り返していた。  ケッセルリンクは「テロ対策」として、都市内では隊列を組んで行進することを禁止、戦闘態勢のまま武器は安全装置をはずし、即時応戦できるように命令していた。それでも依然ドイツ兵への襲撃は止まず、射殺されたり、捕って絞首されたりするものも出た。川の中に放り込まれて溺死したり、凍死したりするものもいた。ミラノやトリノではドイツ軍指揮官が「イタリア人は皆、敵だと思え、決して気を許すな!」と部下に訓示する事態にまでなっていた。  ケッセルリンクは戦後の一九四七年春、ヴェネツィアでの軍事法廷で、「ドイツ軍によるイタリア・パルティザンに対する残虐行為もあったかも知れないが、パルティザン側も少なからず残虐であった。焼き殺されたり、耳や鼻、それに性器をそぎ取られたりしたドイツ兵も多かった」と言明している。ドイツ軍もパルティザンも極限状態で戦闘していたのである。  注1 STORIA DELLA RESISTENZA ITALIANA P.500  注2 MUSSOLINI'S ENEMY P.498 ラケーレとクラレッタ  ここでムッソリーニの妻ラケーレと愛人クラレッタ・ペタッチのことに触れておく。  ラケーレは夫と同じ中部ロマーニャの同郷生れでムッソリーニとは幼な友達でもあった。一九七九年十月、八十九歳で亡くなったが、地味で人前に出ることを好まず、内助に専念した典型的な良妻賢母型の女性であった。その妻の唯一の悩みはムッソリーニの女性遍歴であったと告白している。もっともムッソリーニの方から積極的だったのではなく、女性の方から接近したもので、ラケーレは「女性に好かれないような男では困る」とも晩年語っていた。ただし、「ベニトが本心から愛した女性は私だけだった」と自信を隠してはいなかった。  ムッソリーニの生涯を彩った女性は、妻を除いて四人いる。彼が第一次大戦に出征前、スイス放浪中に知り合ったロシアの女性革命家アンジェリカ・バラバノーヴァ。年上だが教養があり、ムッソリーニは彼女により社会主義研究に磨きをかけられたという。その直後に付き合ったのがオーストリア人イダ・ダルセル。彼女はムッソリーニの子供を生み、それを認知させている。この母子は後に不幸な運命をたどったという。  第一次大戦後、ムッソリーニが社会党機関紙「アヴァンティ!」編集長時代に、同僚記者のマルゲリータ・サルファッティ女史とも親密になり、これは長期間続いた。そしてイタリアに君臨してからのクラレッタ・ペタッチとなる。ラケーレによれば、サルファッティとは中々縁が切れず、てこずったという。そしてもっとも頭を痛めたのが、クラレッタとの関係であった。「統帥のためにならない」と匿名の忠告までラケーレにもたらされたが、ラケーレは終始「まさか本気ではあるまい」とタカをくくっていたそうである。  このクラレッタの正式の名は、クララ・ペタッチ。ローマ法王庁侍医フランチェスコ・ペタッチの長女である。一九一二年二月二十八日生れで、クラレッタの愛称で育った。少女時代から統帥に憧れ、ムッソリーニが一九二六年四月に狙撃事件に遭った時には、官邸に手紙を書き、「御無事で何よりでした。でも私の生命(いのち)は統帥のためにあります」と将来を暗示するような気持を伝えた。クラレッタ十四歳の時である。  一九三二年四月二十四日、それは運命的な出会いの日となった。クラレッタは初めてムッソリーニと言葉を交すのである。その日曜日、ペタッチ一家はオスティア海岸にドライヴした。ヴァチカン・ナンバーの車にはクラレッタの許婚で空軍少尉のリッカルド・フェデリチも同乗していた。その車を真赤なアルファ・ロメオのオープンカーが追い抜いて行った。 「アッ、ドゥチェだ!」と、クラレッタが叫んだ。真紅の車にはまさしくムッソリーニが乗っていたのである。クラレッタは運転手に「あの車に追い付いて!」と頼んだ。間もなく追い付くと並んで走った。ペタッチ家の一同は「統帥万歳!」と幾度も叫んだ。ムッソリーニは車を止めた。クラレッタの車も停車し、クラレッタは統帥に走り寄った。二十歳の時である。 「君の名前は?」 「はい、クラレッタ・ペタッチ」  クラレッタは昔、手紙を出したことも話したらしい。  その時はこれだけで終ったが、数日後ムッソリーニからクラレッタに「ヴェネツィア宮においで下さい」との電話が入った。彼女は妹と一緒に官邸に行った。天にも昇る気持だった。こうしてやがて、クラレッタは首相官邸の裏口からムッソリーニの執務室に自由に出入りするようになる。  クラレッタは両親の勧めで、一九三四年六月二十七日、許婚のフェデリチと結婚式を挙げるが、彼女の心はすでに統帥一筋になっていた。クラレッタは間もなく、「性格不一致」を理由に離婚手続きをとり、教会からも認められた。同時にフェデリチは、ローマからもっとも遠い東京のイタリア大使官付武官の辞令を受け、第二次大戦前夜まで東京で過すことになる。戦後はローマ空港長、NATOなどに勤務する。  ムッソリーニは官邸内の執務室に隣接して、休息用の部屋を作った。長椅子などの家具も置かれた。そしてクラレッタは日夜そこに姿を見せることになる。この二人のロマンスは、ローマの社交界で知らぬ者はなかった。  一九四三年七月、ムッソリーニが逮捕されると、この二人の仲が微に入り細にわたり新聞に書き立てられ、ラケーレは初めて知ってショックを受けた。まさかそこまで深い関係にあるとは思わなかったからである。新聞の中にはクラレッタを「官邸の妻」と呼び、ラケーレを「私邸の妻」と書いたものもあった。  そしてイタリアが休戦すると、バドリオ政権により二人とも別々に刑務所に入れられ、その年の秋にドイツ軍に救出されると、それぞれムッソリーニのいるガルダ湖畔に移されることになる。  それは四四年夏の終りの頃であった。クラレッタがこのガルダ湖畔に暮していることをラケーレは知ったのである。恐らくラケーレの取巻きが知らせたのであろう。  毎日新聞支局のフィオリダリソ荘の庭で遊んでいた小野の長女紀美子はそんなある日、近くからのカン高い女性の怒声を聞いた。隣家の方からである。見ると藤棚のテラスに中年の小肥りの女性がいて、小野邸の方を向き、両手を振り上げ、体いっぱいで叫んでいるのであった。紀美子は遊んでいたクラレッタの弟の子供達と共に、邸の中に逃げ込んだ。だが声は邸内にまで響いていた。  クラレッタが蒼白な顔で四階から降りて来た。小野に何か頼み込んでいた。小野は苦笑しながら庭に出ると、藤棚の女性と言葉を交した。やがてその女性は立ち去った。紀美子は父に尋ねた。 「あの人、誰?」 「ラケーレだ」 「ラケーレって? 何を言ってたの?」  小野は何も答えなかった。  そんなことがあってから間もなくの秋十月、ラケーレとクラレッタの、女同士のいまにもつかみ合いにならんばかりのいさかいが、小野邸の一階広間でくり広げられたのである。  ラケーレは内務次官ブッファリーニ=グイディを伴って、直接フィオリダリソ荘にやって来た。内務次官はむしろなだめるためについて来たのであった。フィオリダリソ荘の門が閉じられていたため、ラケーレはそれをよじ登った。内務次官はラケーレのスカートを引っぱって、中に入るのを懸命に防ごうとした。  クラレッタのボディガード、親衛隊将校フランツ・シュペーグラーは驚き、電話でムッソリーニにこれを伝えた。ムッソリーニは困惑し切った風情だったが、ラケーレがこちらに向ったことは知っていて「二人が会うのは仕方がない。だが騒がしくなったら引き離してくれ」と依頼した。妻と愛人はこの日初めて顔を合わせた。その時の情況は次のようであった(注1)。  クラレッタはゆっくりと階段を降りて来た。一階の広間に入っていたラケーレはそれをキッと見ていた。二人とももちろん無愛想だった。ラケーレがまず口を開いた。 「貴女、いったい何なの? 奥さん? それともお嬢さん? 私はちゃんと結婚してるのよっ!」  するとクラレッタがきっぱり答えた。 「では奥様、さようなら」  愛人の方は妻を無視している様子だった。ラケーレも負けてはいなかった。 「ひと言、言っておきたいの。ここから去って行ってちょうだいッ。貴女など必要ないの。私の夫を静かにしておいて!」  クラレッタ「私に命令するおつもりですの? そんなのまったく間違いだわ」  ラケーレ「言葉をつつしみなさい。え、何が間違いなのよ。私の夫が貴女に夢中になっているとでも思っているの? どこの誰か知らないけど、ベダッチ、ピダッチ、それともペタッチ? 昨日、夫は私にはっきり言ったわよ、本当に愛しているのは妻だけだって」  クラレッタは大急ぎでその場を去ると、手紙の束を抱えて来た。 「奥様、私に何の権利もないし、私に落度があることは分っていますわ。でも私、ドゥチェが好きなの。昨日きょうからじゃないの。必要なら出て行くわ、彼のために犠牲になってもいいの。でもそうしていいのか、彼に確かめて」  ラ「確かめる必要なんてないわ。手紙など見たくもない!」  ク「確かにドゥチェはいつも、貴女に最大限の敬意を払っていますわ、お子様達の母親として」  ラ「何でここで、母親だとか子供達を持ち出すのよっ」  クラレッタは悲しそうだった。涙で目がうるんでいた。  ラ「さあ、一緒に行きましょうよ、彼のところへ」  ク「どうして静かに話し合わないんですか?」  ラ「静かにだって? 何よっ。絹の着物など着て! 私のような質素なものを着なさいよっ」  ラケーレはクラレッタに近寄り、腕をつかもうとした。  傍に立っていたブッファリーニとシュペーグラーが、ここで間に入ったが、ラケーレは続けた。 「彼を本当に愛しているのなら、身を引くべきだわ! そうしなければロクなことはないよ」  この時、ムッソリーニから電話が入り、最初にクラレッタと話したあとラケーレに家に帰るよう命じた。シュペーグラーにも「まったく困ったことだ。ともかく、すぐ引き離してくれ」と頼み込んだ。そこでやっとおさまった。  この一件には、ムッソリーニも相当参ったようだ。十年近くもムッソリーニとクラレッタの仲はローマ社交界で公然と語られたロマンスだったが、家庭に閉じ籠って内助に明け暮れていたラケーレだけが、「知らぬは女房ばかりなり」だったのである。それにしても夫の愛人が、夫を追ってここまで来ている事実は、ラケーレには大きなショックであった。  その晩、ムッソリーニは小さな声でラケーレに謝ったという。この一件は彼をかなり打ちのめしたとみられ、そのことを忘れるためにも、目を外に向ける必要に迫られた。彼はそこでまったく久しぶりにミラノに出向き、リリコ劇場で大演説をぶつことにした。それは十二月十六日に実現した。  満員の聴衆、それに二階の貴賓席のドイツ軍高官らに向って、彼は久しぶりに得意の演説をぶった。 「……われわれの勝利の確信は絶対である。ドイツも戦っている。ドイツは近く究極の兵器を完成させるだろう。日本は敵を引きつけて撃破している。ファシストの理想は破壊されることはない。爪と歯をもっても、このポー平野を最後まで守り抜こう。すべてはミラノの諸君の手にかかっている」  この演説はドイツに対し、またミラノ市民に対して自分の存在を誇示する狙いもあった。何年かぶりに統帥の姿を見た民衆は、「ドゥチェ、ドゥチェ」と歓呼の声を上げたが、その統帥の憔悴とカラ元気を見抜いた市民も少くなかった。その一年間、ミラノは空爆で大半が破壊され、北イタリアだけで六万人もの市民が死傷していた。市民達は戦争に倦んでいた。  年が明けると、ミラノ演説もどこへやらムッソリーニはまたもや無気力に陥っていた。前年七月にヒットラーとの会談で聞かされた「究極の兵器(原子爆弾)」完成に一縷(いちる)の望みを托し、それまで何とか身の安全をはかることだけを考えてきた。反ナチ・ファシズム勢力が大きなうねりとなって、ミラノ市内にまでパルティザンが横行しているのとはまったく対照的であった。  事実、ラケーレはこのミラノ演説の際に夫がテロに遭うのではないかと心配していたくらいである。ムッソリーニにとってすでに身辺に危機が近づいていたのであった。  注1 CLARETTA P.167, DUCE! P.309〜311  第二部 ムッソリーニ処刑  第五章 「統帥、無条件降伏を!」 解放委、処刑の方針決める  四五年三月、前年から続くその年の冬は、二年続きの厳しい寒さが北イタリアを襲っていた。アルプスの山々は雪深く閉ざされ、ガルダ湖は鉛色の重い波にゆらめいていた。  いつも蒼ざめたムッソリーニは、湖畔で相変らず形式だけの政務をとっていた。時々の式典、訓辞、閲兵などである。だが大抵は執務室で新聞を読んだり、手紙を書いたりするだけであった。  その頃すでに、パルティザンは北部の主要都市で小規模編成ながら公然と陽動作戦を繰り返していた。夜九時以降の夜間外出禁止時間に、警備に当るファシスト兵・ドイツ兵襲撃も頻発した。ミラノの映画館では、覆面したパルティザンが舞台に躍り上がり、観客にレジスタンスに参加をするよう訴えた。ヴェネツィアのゴルドーニ劇場でも、同様の事件が起った。ドイツ兵やファシストの警備隊の眼前での出来事である。パルティザンは神出鬼没だった。二月にはとうとうムッソリーニのお膝元サロにまで白昼堂々と出没する有様になっていた。  一方、パルティザン戦闘部隊は、ナチ・ファシスト軍を撃破しつつ、三月二日クレモーナを解放、ポー川南域を支配した。連合軍の進出も時間の問題となった。クレモーナからミラノまでは百キロ足らず。戦争はいよいよナチ・ファシスト軍の本陣にまで迫ってきたことになる。  ムッソリーニはあせりを隠せなかった。イタリア各地の工場で生産される軍需物資をドイツ軍が強制的に徴発するのを怒り、支配下の工業地帯にある主要七十六社を六十億リラを投じて国有化した。ムッソリーニ政府の認可なしにドイツ軍は徴発できなくなるはずであった。フィアット、モンテジソン、モンテカティーニ、スニア・ヴィスコーザなどの大企業が含まれていた。これは二月二十六日のことである。ムッソリーニにすれば、横暴なドイツ軍に日頃の鬱憤を晴らしたつもりであったが、実効があがる見込みはなかった。しかも工場従業員側は、ファシスト政権には協力せず、ムッソリーニの目論見は成らなかった。国有化は彼の自己満足でしかなかったのだ。  大戦の帰趨も、枢軸側の敗北を決定していた。遠い太平洋戦線ではアメリカ軍が二月十九日硫黄島に上陸、日本本土に一段と接近していたし、欧州戦線では二月十三日、ソ連軍がハンガリーのブタペストを解放、アメリカ・イギリス軍はドイツのケルンを脅かしていた。さらに三月七日には、ソ連軍がベルリンへ六十キロと迫るにいたり、総統ヒットラーは「ベルリン死守」を厳命する。  その七日、ムッソリーニはヒットラーに呼応して、ファシスト軍の将校約四百人を前に「友邦ドイツは決して負けない。わがファシスト軍もポー平野の町から町、家から家を防衛することを誓う。これこそが神聖な義務である」と大号令を下した。  当時、共和国軍は十七歳以上の青少年約九万。このほか約三万がドイツで訓練を受けていた。ドイツ軍は十五万ほどいた。片やレジスタンスの反ナチ・ファシスト、パルティザン部隊は、総数約二十万人を超え、ほぼ互角の勢力を持っていた。しかしパルティザン側は各地で日に日に勢力を増していた。それに反し、ファシスト軍では脱走兵が相つぎ、士気は上がらなかった。  こうした状況から、ムッソリーニが前途に不吉な予感を覚えたのも無理はなかった。 「このままでは絶望だ。何とか生きのびる手はないものか」  その頃、日夜、彼の頭を占めていたことは延命の秘策であった。その前年、自著『一年の歴史』の中で書いた「余はニューヨークのマジソン・スクエアで裁判にさらされるよりも、ロンドン塔でしばり首にされた方がマシだ」と壮語したのと、なんたる後退ぶりであろうか。しかも同じく前年の十二月十六日、わざわざガルニャーノから北部最大の都市ミラノに出向き、リリコ劇場をあふれさせた聴衆を前に「ファシストの理想は破壊されることはない。われわれの勝利への確信は絶対であると銘記せよ」と叱咤したのは、わずか三ヵ月前のことでしかなかった。  この時は、満場の支持者が「ドゥチェ! ドゥチェ!」と割れるような声で応えた。まさにオペラ座で演ぜられるドラマそのものであった。いまとなってみれば、それは喜劇と言うほかはない。それほど、ムッソリーニの心境の変りようは極端であった。  しかしムッソリーニの胸のうちには、自分の運命の起死回生策が熟しつつあった。  まずスイス国境に近いヴァルテッリーナの砦に立て籠り、連合軍の手で捕えられるまで持ちこたえるというものであった。これは黒シャツ党の書記長パヴォリーニとの協議で生れた構想である。パヴォリーニはこの砦に立て籠る最低二万人くらいの精鋭を用意できると統帥に申し出ていた。また連合軍に逮捕された場合も、生命は保障されるとの確信に近い気持もあった。イギリス首相ウィンストン・チャーチルとの関係がムッソリーニの脳裏にあったからである。  約十年前の一九三三年のことだが、チャーチルは次のようにムッソリーニという人物を賞賛していた(注1)。 「ムッソリーニに体現された天才的ローマ人、偉大な生ける政治家は、多くの国に、社会主義の圧力も押し返し得ること、また精神こそ英雄に率いられた国が進むべき道を示すことを教えている。ムッソリーニは、ファシスト組織をもって、進むべき方向を確定した。社会主義に対抗して共同で当る諸国は、彼を先導者とするにやぶさかではない」  そのチャーチルがその頃もなお、共産主義を憎悪し、大戦後の欧州ひいては世界の経営にソ連の勢力をできるだけ排除しようとしていることを、ムッソリーニは見抜いていた。  彼はこのヴァルテッリーナ砦での最後の抵抗を「名誉ある戦士の戦い」と定義付けていたが、同時に、事前にミラノの大司教イルデフォンゾ・シューステル枢機卿の仲介で、国民解放委員会の首脳と協議し、できることなら、自分の家族や党首脳の生命財産の保障を取りつけておきたいと念願していた。これは誰が見ても虫がよすぎたが、ムッソリーニは真面目であった。周囲の世界がナチ・ファシズムを敵にしているとの認識にまったく欠けていた証拠であった。  ムッソリーニは三月十三日、長男のヴィットリオに枢機卿宛の書簡を持参させた。シューステルとは彼が二九年にミラノ大司教になる前から旧知の間柄だけに、書簡内容は率直なものであった。まずシューステルに国民解放委員会首脳との会談の仲介を依頼したうえで、イタリア社会共和国軍は最後の一兵にいたるまで戦う決意であることを述べ、解放委員会側がファシスト側の指導部に対してはどのような処分を考えているかを知りたいという希望を表明した。  シューステルはこの「奇妙な」提案に困惑した。これでは国民解放委員会首脳との会談が成り立つとは思えなかったからである。「最後の一兵まで戦う」のでは、交渉など覚束ないではないか。ムッソリーニの次の出方を見守るしかなかった。  その三月初め、すでに連合軍最高司令部とローマ政府から北イタリアの合法政府の権限を認められていたミラノの国民解放委員会は、ミラノ全市の蜂起委員会を設置し、サンドロ・ペルティーニ(社会党)、ルイジ・ロンゴ、エミリオ・セレーニ(ともに共産党)、レオ・ヴァリアーニ(行動党)の四首脳が一斉蜂起の準備作業に当っていた。この四人は同時に「戦犯法廷」も設置した。ファシスト首脳を裁くためである。  この「戦犯法廷」は、次のような法令を定めた。 「ファシスト政府の閣僚ならびにファシズムの幹部は、憲法による保障の抑圧、大衆の自由の破壊、ファシスト体制の創設に手を貸し、国家の尊厳を危殆(きたい)に陥れ、かつ裏切った有罪、さらに国家を現在の破局に導いた有罪のため、死刑もしくは少くとも強制労働の罪に処せられるべきである」  これは直ちに国民解放委員会から承認された。ムッソリーニが自分に「どのような処分」が降りかかるのかを知りたがっているまさにその時、レジスタンス側は明確に、ムッソリーニらファシスト首脳への極刑を決定したのである。これは実は、重大な決定であった。  バドリオ政権が連合軍首脳との間に結んだ休戦協定では、ファシズム首脳の身柄は連合軍側に引き渡すことが規定されており、連合軍は間もなくパルティザン側がムッソリーニを逮捕することもあり得るとみて、その際には正式に身柄引渡しを要求するとの情報もミラノに達していた。したがってミラノの国民解放委員会のこの「戦犯法廷」に基づく処刑決定は、休戦協定そのものに対してはもちろん、連合軍側の期待への挑戦であり、かつ引渡し要求へのあからさまな無視につながるものであった。  国民解放委員会の最高首脳で、かつ蜂起委員会を取りしきるロンゴ、ペルティーニらは、そのことは十分知りつつも敢えて自らの意志でその決定を行ったのであった。その意図は唯一つ、「イタリア国民の名において、自らの手でファシズムを打倒する」の一念でしかなかった。それこそがパルティザンの大義にかなうものとの確信からであった。  一九二二年にムッソリーニがファシスト政権を樹立して以来、いかに多くの反ファシストが弾圧されたことか、そしていま第二次大戦の「ムッソリーニの戦争」で多くの国民が苦しみ、反ナチ・ファシストのパルティザンが幾万もの生命を失っていることを想う時、ファシズムはイタリア人自らの手で屠(ほふ)るのが責務であった。「それこそが人間の名誉であり、尊厳というものだ」と、後に第七代イタリア共和国大統領時代のペルティーニは、私に語ったものである。  注1 『ムッソリーニの時代』P.242 妻と最後の別れ  シューステルからの返事はなく、いらだつムッソリーニは四月十六日閣議を招集、ファシスト政権の本拠をガルダ湖畔からミラノに移すことを告げた。  ミラノはファシズム発祥の地でもあった。しかもいま、ドイツ軍も集結している。ミラノの方が安全でもあり、かつアルプス南麓のヴァルテッリーナ砦に行くにも便利であった。ムッソリーニは、ここで最後の戦いを戦うためにも、そしてパルティザン側と接触するためにもミラノに出ることを決意したのである。その方が生き延びる確率は高かった。スイス国境も目と鼻の先だ。  翌日、妻ラケーレにその旨を伝えた。ラケーレはまたしても、不吉な予感にとらわれた。またしても——。  二年ほど前に、二度も自分の許を離れ、そのたびに夫が失脚し、さらに逮捕、幽閉の憂目にあったことを咄嗟(とつさ)に想い出した。  四三年七月二十四日夕刻、ローマのヴェネツィア宮の官邸で開かれるファシズム大評議会に統帥が出かける前、ラケーレは必死で「行かないで! 行ったら危ない」と反対した。「もし行くなら、あの連中を逮捕しておしまいなさいよ」とまで忠告した。ファシスト党幹部の反乱が予見されていたからである。その大評議会で、ムッソリーニはファシスト党統帥の地位を失ったのである。  その翌二十五日夕刻、ムッソリーニは「国王は自分を信任している」と信じ、報告のため国王の休暇先のサヴォイア荘に赴き、ヴィットリオ・エマヌエレ三世に謁見した。その時も、ラケーレは「絶対に行かない方がいい」と言い張ったが、ムッソリーニは聞き入れず、軍部と王室のクーデタのワナにまんまと吸い込まれるように、逮捕拘禁されてしまったのだ。その二ヵ月後にヒットラーの親衛隊が、幽閉先のアペニン山脈中の山荘から統帥を奇跡的に救出してくれたからよかったものの……。  しかし今は情勢がまったく一変してしまっている。周辺はパルティザンの海となり、住民も反ファシズムに傾いている。連合軍部隊も北進を続け、その先遣部隊は約二百キロ先まで迫っている。ウィーンもニュルンベルクも陥落し、ヒットラーは首都ベルリン死守に追われ、イタリアのことなどにかまってはいられない状況にあった。  ラケーレは「今度こそは統帥の身に危険が及ぶ」と直感した。二十余年君臨してきた独裁者の妻としてのカンからであった。しかしムッソリーニはすでに準備万端ととのえ、出発するばかりとなっていた。その顔には決意が満ちていた。 「あとで連絡する」  ムッソリーニはこう言うと、迷彩をほどこした車に乗り、十数台の党・政府首脳車、ナチ親衛隊やファシスト軍の警備隊とともに薄闇の中に消えて行った。 「ムッソリーニは今日、とうとうガルニャーノを去って行った。『すぐに戻るから』と言って。私はあわてふためいた。ミラノに行かなくてはならない大事な用があると言って、シューステル枢機卿の名前を口にした。私をだまそうとする時にはいつも真面目そうな顔をするのに、こんどはあまりにも真剣そうなのが気懸りだ。私達にもあとで移動するよう指示しながら、その時には一緒だからと最後まで繰り返していた。車に乗ろうとしてちょっと立ち止まり、数歩戻ると、庭や屋敷を眺め、そして私の目をじっと見つめ、いろいろ言いたそうだった。別に多く言葉を交すことはなかった。彼の気持を思って私の心は千々に乱れた」  夫の生きている姿を見た最後の時を、ラケーレはこのように日記に留めている。  ムッソリーニがミラノに着いたのは十八日である。途中、パルティザンの襲撃を警戒して、思わぬ時間を要してしまった。それほど都市周辺は情勢が切迫していたのである。ガルダ湖西岸からミラノまでは、約百キロ余りでしかない。ドイツ軍とファシスト軍に守られながらも、この始末であった。先が思いやられた。わずか四ヵ月前とは、ミラノも激変していた。  ミラノ市内モンフォルテ通りの県庁に着いたのは深夜。知事室がムッソリーニの政務室となった。知事ウーゴ・バッシはムッソリーニが任命したファシスト党幹部である。県庁の周囲や中庭には、ドイツ兵、ファシスト兵が大勢たむろしていた。サイドカー、オートバイがせわしく往来し、郊外にはパルティザンの銃声もこだまし、緊迫した空気が流れていた。  三月に長男ヴィットリオをシューステル枢機卿の許に差し向けたのに、まだ返事も受け取っていなかったムッソリーニはあらためて、知人で実業家のジャン・リッカルド・チェッラを通じ、再度シューステル枢機卿と連絡をとった。ムッソリーニにすれば、国民解放委員会との接触の結果いかんでは、和戦いずれかを即決しなければとも考えたようである。  ムッソリーニはミラノで、ドイツ軍とヴァルテッリーナ作戦について協議した。ドイツ側は乗り気ではなかった。もしそうした作戦が有効であれば、もっと前から十分な戦略物資を準備し、抗戦能力を確保しておくべきだったと指摘した。ファシスト側としては、名誉ある戦争を行ってムッソリーニら首脳が、パルティザンの手ではなく、連合軍の捕虜となる筋書きを考えていた。このため協議は何ら進展もなく、ムッソリーニとしては独自でこの作戦を遂行するしかなかった。  ドイツ軍がなぜ乗り気でなかったのか。実はその頃、イタリア駐留ナチ親衛隊司令官カール・ヴォルフは、すでに降伏を決断、連合国側との交渉の機をうかがっていたからである。その結果、ヴォルフは四月二十一日秘密裏にスイス入りし、連合国側情報機関と接触、さらにベルリンまで赴いてハインリッヒ・ヒムラー親衛隊隊長と会い、イタリア駐留軍の全権代表の資格を得て、連合国との交渉に当る承諾をとったのであった。  ヴォルフ将軍はこのあと直ちにスイスのルツェルンに行き、アメリカ情報機関の仲介でアメリカ戦略情報局(OSS)の責任者アレン・ダレスと会う。四月二十七日のことである。その結果、四月二十九日午後、ドイツ軍代表がイタリア南部カセルタの連合軍南欧総司令部で正式に降伏調印の運びとなるのだが、ドイツ軍はこのように、ムッソリーニにも隠密に、連合国と降伏交渉を進めていたのであった。  その前後、ファシスト国防相グラツィアーニは、駐イタリアドイツ大使ラーンと今後の対策検討を行ったが、ラーンは対連合国降伏についてはひと言も触れず、グラツィアーニにピストル一挺を手渡しただけであった。そのことが何を意味するのか、グラツィアーニも即座に理解し、ドイツとの同盟関係は終ったと判断したと、当時の側近は明らかにしている。  四月二十二日、パルティザンが支配したボローニャに連合軍が入城した。二日後にはジェノヴァのパルティザンが武装蜂起して、市はほぼ解放された。次はいよいよミラノの武装蜂起の番となってきた。  こうした事態の緊迫のさなか、ミラノ大司教シューステルから「ムッソリーニが会談したいと言っている」旨の連絡を受けた地下組織の国民解放委員会首脳は、会談を数日延ばしてミラノの一斉蜂起と時を同じくして、ムッソリーニに一気に無条件降伏を迫る肚(はら)であった。  四月二十四日、ミラノの世界的なゴム製造企業ピレッリ工場内のドイツ軍司令部も、工場労働者の攻撃を受けて撤退させられた。ミラノ中心部まで銃声が絶え間なく響くようになった。ムッソリーニはその銃声を聞きながら、自ら一通の手紙をタイプに打っていた。イギリス首相チャーチル宛であった。「閣下、諸情況は残念ながら切迫しています」で始まるその書簡内容の大要は次の通りである。 「私がこれまでイギリス、アメリカとドイツの間の仲介ができなかったことは、誠に遺憾であった。かつて貴下が『イタリアは架け橋である。イタリアが犠牲となることがあってはならない』と、私に述べられたことを想起して欲しい。歴史というものを考える時、私は後悔の念を禁じ得ない。貴下こそは私を分ってくれる人物である。貴下はまたイタリアの兵士の優秀性を称賛する宣伝もしていた。無益かも知れないが、もう一度、歴史における私の立場を想起してもらえれば有難い。いまこそ正確な判断で私を裁き、そして守ってもらいたい。無条件降伏というものは、勝者を誤まらせるがゆえに断じて受け入れられない。  貴下がぜひ私を信頼されんことを。私を許して欲しいとは言わないが、正しい裁きを願う。東方(筆者注・ソ連を指す)の危険性についても、私の意を聞いて欲しい。事のすべては貴下の手の中にあるがゆえに」  このチャーチル宛ムッソリーニの書簡が存在したことは、一九八三年三月十七日、イタリア国営放送RAIのニュースで発表された。翌十八日のイタリア各紙にも、書簡の写真入りで報ぜられた。イタリア社会共和国の便箋にタイプで打たれ、書いた日付は一九四五年四月二十四日とあり、ベニト・ムッソリーニの署名がなされている。  言おうとしている点は「共産主義の脅威を知っている私は、だからこそファシズム体制をとってきた。共産主義をはびこらさないためにも、私を助けてもらいたい。救えるのはチャーチル首相、貴殿だけだ」との訴えである。いずれ間もなく、連合軍に運よく捕った場合に備えてのものであったとも解される。  この書簡についてローマのメッサジェーロ紙の記事は、「チャーチル宛の未公開のSOS。ムッソリーニは最後まで幻想を捨てていなかった」の見出しをつけているが、肝心のこの書簡がどこに保管されているのか、またこれがチャーチルに届けられたかどうかには触れていない。それにしても敵国の首相に助命を訴える統帥の最期の心境をうかがわせる貴重な資料ではある。  その夜、ムッソリーニの許にシューステルから「明二十五日午後五時半、大司教邸で解放委員会側と会談の段取りとなった」旨の連絡が入った。双方五人ずつ列席とのことであった。ファシスト側としては、これまで「武装反乱分子」「不正規兵」と見做してきた国民解放委員会つまりパルティザンと初めて同席することになったのである。戦局ばかりか政局も大転換を遂げようとする前夜であった。 パルティザンと対決  二十五日の会談には、ファシスト側からはムッソリーニ以下、国防相グラツィアーニ、内相パオロ・ゼルヴィーノ、官房副長官フランチェスコ・マリア・バラク、ミラノ県知事ウーゴ・バッシ、解放委員会側はパルティザン軍最高指揮官ラファエレ・カドルナ将軍、弁護士ジュスティーノ・アルペザーニ(自由党)、サンドロ・ペルティーニ(社会党)、弁護士アキーレ・マラッツァ(キリスト教民主党)、リッカルド・ロンバルディ(行動党)の出席が組まれていた。  双方とも前夜のうちに人選し会談に臨む作戦を練っていた。解放委員会側は二十四日、地下組織として最後の幹部会を開き、会談当日の二十五日にはミラノの一斉武装蜂起を宣言することも決めていた。  カドルナ将軍が解放委員会側の首席格としてこの会談に姿を見せることは、ファシスト側に大きなショックを与えるはずであった。カドルナ自身は第二次大戦中はローマ防衛司令官を務めた経歴があり、ナチ・ドイツのローマ占領ののちに消息を絶って、行方が注目されていた。その将軍がなんとレジスタンス部隊の最高指揮官として、はじめて公然とファシストの前に姿を現わすからである。カドルナは一九四三年地下に潜行したのち、翌年八月、イギリスの特殊工作要員とともに、パルティザン支援のため、北イタリアに降下、以来レジスタンスの作戦指揮に当ってきたことは前述した。時に五十七歳であった。  解放委員会側はムッソリーニとの会談では、無条件降伏だけを主張し、それ以外には絶対応じないとの立場を貫くことにしていた。  一九四五年四月二十五日。その日はミラノにとってもイタリアにとっても、記念すべき日となった。この日以来、四月二十五日という日は「イタリア解放記念日」と、公式に命名されることになる。その朝、ミラノは熱気に燃えていた。夜明け前どこからともなく現われたパルティザン達は、市内の各所にバリケードを築き始めた。同時多発的であった。それらパルティザンに市民も三々五々、加わった。  午前十時頃、各政党の新聞が街頭でくばられ始めた。前日までは「地下新聞」だったのが、公然と街角に山積みされ、市民の手から手に渡って行った。行動党機関紙「リタリア・リーベラ(自由イタリア)」は「イタリア国民は自治を手にした」と全面ぶち抜きの大見出しをかかげ、さらに「本日十六時、スカラ座広場で大集会挙行」と知らせた。また社会党機関紙「アヴァンティ!(前進!)」は、これまた全面ぶち抜きで「すべての権力は民主主義の勢力に帰した」と大きな見出しを付けていた。  その頃、一部地域ではパルティザンとナチ・ファシスト軍が交戦し、射撃音ばかりか手投弾の爆発音も響いた。背広のパルティザンを乗せたトラックが走り、ナチ・ファシストの装甲車も全速力で疾走する。銃弾の飛び交う中に、市民も大勢飛び出して来た。通りに市民があふれると、交戦軍双方は銃の引金を引くこともできなくなった。  午後四時、市の中心ドゥオーモ広場で社会党主催の大集会が開かれた。すぐ近くのスカラ座前広場では、行動党主催の集会も催された。いずれも銃を手にしたパルティザンと市民が一緒になって国民解放委員会首脳の声に耳を傾け、ワァーンという歓声ともつかぬ聴衆の熱気と、喜びのあまり小銃を空に放つ発射音がそれに和した。  社会党代表ペルティーニは、高らかに宣言した。 「いま、われわれミラノ市民、イタリア市民はついに蜂起した! 全世界にわれわれの勇気を示そう。ナチ・ファシストに死を! 自由イタリア万歳!」  市民も群をなして「自由イタリア万歳!」を叫びながら、街頭を練り歩いた。戦火をおさめさせ、パルティザン達の身の安全をはかるためでもあった。この朝、砲火の飛び交う街路に真っ先に飛び出した一人ジュリアーノ・ピーニ氏は、その時のことを次のように語ってくれた。 「友人をさそって、命がけで通りに出ました。家々に大声で外に出るよう叫びました。道に人々が出てくれば、ファシストもパルティザンもやたらに銃を発射できなくなるからです。交戦しなければ、パルティザンがあとからあとから市内に入ってくるし、パルティザンが市内を制圧できると思ったからです。われわれの行動がパッと各地に広がり、交戦を食い止めることに成功したのです。いま思うと胸が熱くなります。みんな早く平和にしたいと望んでいたんです。みんな人間だったんですね」  市民達が最初に街に繰り出したその一角は、戦後、英語をそのまま使ったLIBERTY(自由)広場と名付けられている。それにしても、対峙する交戦軍双方の間に立ちはだかり、銃火を停止させた市民とは! 頭の下がる思いである。  ミラノ市中心部で、一斉蜂起の大集会が行われているその最中、県庁のムッソリーニの許に、シューステル枢機卿差し回しのローマ法王庁車が出迎えに着いた。統帥らに戦火が及ばないようにとの大司教の配慮からであった。  フォンターナ通りの大司教邸にムッソリーニらファシスト側が到着したのは、午後五時過ぎであった。大司教は軍服姿のムッソリーニを丁重に出迎え、解放委員会の代表が着くまでの間、しばらくぶりに話し合った。  とりとめもない会話のあと、大司教は統帥に向って単刀直入、切り出した(注1)。 「統帥、閣下は北の山岳地帯で、戦闘をお続けのつもりのようですが——」  ムッソリーニは、当り前といわんばかりに答えた。 「しばらくは」  そしてすぐ、こう付け加えた。 「でも適当に切り上げて、降伏するつもりだが——」  シューステル枢機卿はそこで、神に仕える者としてのお願いだとして、一気に告げた。 「ここで戦えば、双方からまた多くの犠牲者が出ます。悲しいことです。閣下、もう戦争はおやめになっては……。ここでやめれば、歴史はきっと、閣下をあらためて高く評価することになりましょう」  ムッソリーニは、ムッとした表情で答えた。 「歴史? 猊下は私に歴史を教えるのですか」  その時、解放委員会の面々が到着した。午後六時を回っていた。大衆集会に出ているペルティーニとアルペザーニは遅れるとのことであった。  ファシスト首脳とパルティザン側首脳が相まみえた瞬間であった。シューステル枢機卿や当時の列席者の証言などを基に、その時の双方のやりとりを再構築すると、次のような経過をたどる。  大司教邸の大広間正面のソファに、大司教と統帥が座った。その前の長いテーブルをはさんで、片やバラク、ゼルヴィーノ、グラツィアーニ、バッシが、それに相向って、カドルナを真中に、ロンバルディ、マラッツァがファシスト対パルティザンの形で相対した。  枢機卿が紹介するまでもなく、昔からみな政敵同士ということで知り合う間柄である。グラツィアーニはパルティザン部隊の総指揮官であるカドルナを見て、うめきにも似たひと呼吸を吐いた。統帥は統帥で血の気を失っていた。ムッソリーニにとっても、グラツィアーニにとっても、カドルナはわずか二年余り前までは優秀な部下だったからである。その人物が、いまや敵将となってファシスト独裁者に降伏を迫ろうとしているのだ。カドルナは自信を秘めて、相手方の発言を待つ態勢をとっていた。  果して、ムッソリーニが口火を切った。 「カドルナ将軍、君達はわれわれにどのような審判を下そうとしているのか?」  戦争の勝敗と、自分達の運命を賭けた交渉ともいうべき初会合での第一声がこれであった。何という弱気の発言! しかしそれは、敗北を余儀なくされている指導者の本音でもあった。  カドルナはそれに答えず、端然と沈黙を続けたままだった。弁護士のマラッツァがそれを受けて、簡潔に言い放った。 「無条件降伏!」  ファシスト達は一斉にムッソリーニの目を見つめた。  マラッツァは、間を置いてさらに続けた。 「ファシスト側が降伏に同意すれば、その軍団はミラノ近郊に集結後に武装解除する。そのあと、全員解散する。ただし特定の罪状による有罪者は除くものとする」  そこでカドルナが初めて口を開いた。 「ファシスト軍は、全員捕虜としての正規の処遇を受ける」  つまり戦争法規に照らして取り扱うことを保証したのである。  それによると、ファシスト側首脳も解放委員会に降伏をした後には「連合軍が到着するまでの間、捕虜となっている」との説明であった。解放委員会はすでに「ファシズムの幹部には死刑もしくは強制労働の罪」を既述のように決めていたが、捕虜裁判とは決めていなかった。「連合軍が到着するまで捕虜」の件は、この会議前にシューステル枢機卿にも解放委員会から知らされていた。ただし連合軍に引き渡すとは言っていない。この点が重要であった。  数時間前までは、お互いに殺し合っていた者同士であった。ファシスト兵はパルティザンをまともに処遇はしていなかった。パルティザン側はそのファシスト兵を国際法に基づいて遇するというのである。ここでパルティザン側は交渉での優位を確保した。ファシスト側は、一挙に諾否を迫られた形であった。  テーブルをはさんで、深い沈黙が支配した。ムッソリーニは腕を組み、あごをつき出して天井を仰いでいた。  その日、ミラノ市内には約二万人のファシスト軍と数千のドイツ兵が駐屯していた。勢力としては決して小さくはなかった。戦闘能力も火器も十分に備っていた。大司教邸での会談中は、戦闘を停止し、会談の結果を待っているはずである。  ようやく、グラツィアーニが口を開いた。 「われわれとしては、ドイツ軍と合意なしに降伏調印はできない。ドイツ軍とも協議したい」  ファシスト側としては、いまはただ時間が欲しかった。諾否を決めるのに、その場を離れて相談する必要が生じたからである。  その途端、マラッツァが大変な事実を口にした。それはムッソリーニらが、唖然とする爆弾発言であった。 「いや、ドイツ軍はすでにわれわれに非公式に休戦を申し入れてきている。御存知ないのか?」  ムッソリーニらはひと言もなかった。  このマラッツァ発言を受けて、シューステル枢機卿がその事実を裏打ちするように、口をきいた。 「ドイツのヴォルフ将軍がいまスイスにいるはずです。連合国側と接触しております」  ファシスト側の五人は、ワァーと皆に聞えるほどのため息を吐いた。万事休すであった。  ややあって、ムッソリーニがあきれたような表情を作りながら言った。 「おう、そうだったか。ドイツは、またも余を裏切ったのか。あの連中はずっと、われわれを使用人扱いしておった!」  統帥はわれに返ったような誠実な顔になっていた。 「八時頃、もう一度来る」  こう言ってファシスト側全員を連れて出て行った。六時四十分になっていた。  カドルナらは「統帥は降伏する」と確信した。  注1 『ムッソリーニの時代』P.410  第六章 スイスに脱出を決意 暗夜ミラノからコモへ  ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の裏手にある大司教邸からモンフォルテ通りの県庁までは約一キロ。車で県庁に戻りながら、ムッソリーニは迷いに迷っていた。もはや降伏しかないことは明らかであった。事もあろうにドイツ軍が自分に無断で、連合国と和を講じようとしている事実は、あまりにも大きなショックであった。ドイツが矛(ほこ)を納めれば、ファシストは孤立して戦火の中に残される。何というドイツの仕打ち! 結局、降伏しか道はないと考えるが、無条件降伏とはいかにも口惜しい。やはりヴァルテッリーナで「最後の一戦」を交えてからにするか。しかし解放委員会は、連合軍が到着するまで捕虜にしておくとも言っていたではないか。だとすれば、連合軍に救われる可能性は大いにあるのでは——。とはいえ、戦わずして捕虜になるのは自分らしくもない。「名誉ある一戦」を戦ってからにするか。  ムッソリーニの胸は、揺れに揺れるばかりであった。  県庁内の自分の政務室に入ると、妻ラケーレがあとを追ってきているとの連絡があった。ムッソリーニは「ここに来てはいけない。コモに近いモンテーロ荘というところに行け」と命じた。そこへ長男のヴィットリオが入って来た。「お前も帰れ。母を頼むぞ」と告げた。ヴィットリオの記録によると、その時の父は解放委員会幹部との会見について、顔一杯に怒りをあらわし、「あの連中は、余に無条件降伏を要求してきた。恥知らずめが」と怒鳴っていたという。  そのあとヴィットリオが「空軍司令官のボノミ将軍がブレッシァ近くのゲディ飛行場にエンジン三基の軍用機を用意している。これはスペインまで飛べると言っていた」と伝えると、ムッソリーニは何の関心も示さず、ただひと言「そんなことは考えていない」と亡命を冷くはねつける一幕もあったという(注1)。  この段階で彼は、少くとも国外脱出という策はとらないことを示していた。とすればヴァルテッリーナに立て籠ろうとしたのだろうか。それも実は決めかねていた。グラツィアーニらと協議して、ただ一つ決断したことは、ミラノ市内のファシスト軍を、解放委員会側に即時降伏させるということであった。「自分たちはどうするか?」については、ムッソリーニは何の指示も出さなかった。  ムッソリーニの生涯を眺める時、ここぞという肝心な時に、いつも素早い決断を下せずにいたのが目立つ。優柔不断というのではない。事態を見極めようとして、つい手間取るのである。その挙句、自分の楽観的な見方に身をゆだね、時や運命に支配されてしまうことが多かった。自ら血路を切り開くとか、死中に活を求めるという果敢さはない。難局に直面して、どうにかその場を切り抜ける適応型である。断固、中央突破型ではなかった。  ムッソリーニはすぐに、知事のバッシを大司教邸に派遣し、とりあえずミラノのファシスト軍の降伏を解放委員会に通告させた。そのうえで自分らはどうするかを考慮しようとしていた。  バッシは大司教邸で、この日の一斉蜂起で自分がミラノ県知事を解任されたことを解放委員会幹部から知らされた。後任にはパルティザンの一人が任命されたとのことであった。バッシがその件を聞かされている最中、大司教邸の大広間に、集会に出ていて小一時間遅れたペルティーニらが入ってきた。ムッソリーニらとの会談の次第を聞いたペルティーニは大声で言った(注2)。 「降伏してきたら裁判だ。即刻、裁きたい」  一斉蜂起の大集会をリードしてきて興奮のさめやらぬペルティーニは、それでなくとも一本気の人物ゆえ、同僚の前で胸のうちを明かしたのである。忠実なファシストのバッシは急ぎ戻るとこの件を統帥に報告した。 「よし、ならばコモの方へ……」  この時になって初めて、ムッソリーニは自らの決心がついた。パルティザン側の本心が即刻裁くことにあるならば、ヴァルテッリーナの一戦も無駄となる。いまやスイスに脱出するしかないと判断したのだ。  このことは四十年後の一九八五年夏に明らかにされた。イタリアの現代史研究者フランコ・バンディーニの調査結果による。これはイギリス側調査資料に基づくもので、チャーチルの命令でイギリス外交官サー・ノエル・ヒューズ・ハーブロック・チャールズが調査した当時のデータであった(第二部第九章「誰が処刑を命じた?」の項で詳述)。  それまでは、ムッソリーニはヴァルテッリーナで「名誉ある戦い」を戦うつもりではなかったかという説が強かったが、この調査資料の発掘によって「スイス脱出」説が一挙に有力になった。ヴァルテッリーナに行くのにどうしてコモ方面を目指したのかという謎も、この資料によって解けた。もしどうしてもヴァルテッリーナに入るつもりならば、コモではなく反対側のレッコを通るべきだったのである。こうしてヴァルテッリーナでの「最後の一戦」説はあやうくムッソリーニ神話になるところであった。  ミラノ脱出に当り、ムッソリーニは重要書類入りの鞄を持ち、肩から自動小銃をかけた。ファシスト党首脳、閣僚らも「信頼する統帥について行く」と、自動車を用意した。二十数台の車の隊列が県庁の中庭を出た。ちょうど夜八時を回っていた。  取り残されて敗残部隊となったファシスト軍は、みるみるうちに自ら解体しつつあった。鉄帽や戦闘帽を道端に捨て、銃も放り出してそれぞれの郷里へと向っていた。パルティザンの報復やリンチを避けるため、背広に着換える者、なかには女性のオーバーを着る者、さらに神父のかっこうをして逃げる者もいた。かくてムッソリーニ政権はいまや、わずかにその二十数台の車でしかなくなった。  夜九時頃、一隊は無事コモの街に着いた。ここにはファシスト軍の一部が駐屯していた。一行はここでこれからの行動を打ち合わせしようとした。パヴォリーニは「やはりヴァルテッリーナに行こう。五千人の兵士を集められる」と提案した。これに国防相グラツィアーニが反論して言った。 「そんな幻想めいたことは言うな。まったく不可能だ。統帥をまどわすな!」  パヴォリーニはいきり立った。 「書記長に対して失礼な。人を侮辱するのも甚だしい!」  もはや寄せ集めの徒党に過ぎなくなった連中の内輪もめを眺めながら、ムッソリーニは一人になって、いつも使う色鉛筆で妻への手紙を書き出した。これが絶筆となる。 「愛するラケーレよ。余はいま、生涯の最終局面を迎えている。自分で書く本の最後のぺージになった。多分、われわれ二人はもう生きて再び会えないだろう。そこでこの手紙を書き、お前のところに送る。心ならずもお前に対してやってしまった間違った行為については、どうぞ許して欲しい。分っていると思うが、お前は余が心から愛した唯一人の女性だ。この最後の時に、余は神とわれわれのブルーノ(注・飛行機事故で死去した二男)の前にそれを誓う。知っているだろうが、余はヴァルテッリーナに行かなければならない。お前は子供達と、なんとかスイス国境にたどり着くように。スイスで新しい人生を全うするように。彼ら(注・スイス人)は通過を妨げないと信ずる。というのは、余はどのような時でも彼らを援助してきたし、お前達は政治とは無関係だからだ。もしうまくいかなかったら、連合軍に名乗り出ること。彼らは多分、イタリア人よりも寛大であろう。お前にアンナ(注・二女)とロマーノ(注・三男)、とりわけアンナのことを頼む。まだまだ面倒をみてやらなくてはならない。余がどんなに彼らに愛情を注いでいるか知っているだろう。ブルーノも天からお前を助けてくれるだろう。余はお前にくちづけする。お前と子供達とも一緒に抱き合いたい。お前のベニト    一九四五年四月二十五日    ファシスト紀元XXIII」(注3)。  一枚の便箋にびっしり、太い青色で書かれ、赤色で署名と日付を書き入れた。この手紙は二十六日の夜遅く、ムッソリーニの使者からラケーレに届く。三年後に彼女はこれを公表する。  いずれにしても、この手紙を書いてムッソリーニは妻への訣別を告げた。ついに一人になった。ヨーロッパの天地にファシズムの響きを打ち鳴らした統帥は、いまや一人ぼっちになって、スイスへの脱出を計る哀れな男となっていた。ヴァルテッリーナへ行くということを書いてはいるが、それはその時のほんの気持の走りに過ぎなかったのではないか。妻にはスイスに出よと命じている。スイスでことによるといずれ合流できるのではという思いもひらめいたかも知れなかった。  一方、大司教邸では解放委員会首脳がムッソリーニらの退出後、ドイツからも裏切られたファシズムの巨頭に同情を寄せながら、「無条件降伏」を持ってムッソリーニが戻るものと確信していた。そこへ前知事のバッシが「ファシスト軍団の降伏」を告げに来た。したがってムッソリーニが約束したように、八時過ぎには自らも含めた「全面降伏」を持ってくるものと、大きな期待を寄せていた。パルティザンの闘士達は、この日までファシストの手によって倒れた数多くの人々、血塗られた二十余年の歴史を想い、胸を熱くしていた。  時計の針は、しかしすでに九時近くなっていた。約束の「八時頃」は、とうに過ぎている。すぐに県庁のムッソリーニの政務室に電話してみた。  いつまでも鳴りっ放しのあと、やっと誰かが受話器の向うで言った。 「ここにはもう誰もいない。統帥は一時間ほど前、出発した。閣僚達と一緒に……」  解放委員会の面々は、思わず顔を見合わせた。 「やられた!」  舌を打ち、両手を広げて残念がったが、後の祭りであった。  ムッソリーニは、ノブレス・オブリージェ(高位にある者の義務)を裏切ったことになる。これで一挙に、解放委員会側のムッソリーニに対する心証は、同情から憎悪に変ってしまった。 「今度こそ、逃さんぞ!」  ムッソリーニを生きて逃してはならないと考えていたのは、実はドイツ軍も同じであった。在イタリア・ナチ親衛隊司令官のヴォルフが一九七二年になって、次のように打ち明けている(注4)。 「カール・ハインツ(ムッソリーニのドイツ側暗号名)がもし逃亡しようとしたら、万難を排して殺害するように。ドイツ軍の手にあくまでも確保し、生きたまま連合軍に引き渡すようなことがあってはならない。これはヒットラー総統からの指令であった」  このため北上中のムッソリーニ一行には、ミラノからドイツ親衛隊員が護衛の名目で随行していた。ムッソリーニはそれを、安心材料として受けとめていた。その親衛隊員はガルニャーノ時代からの護衛兼監視であるオットー・キスナット少佐、フリッツ・ビルツェル中尉以下兵十人ほどであった。  イタリア人はあとからコモに追いかけてきて合流したものを含め、ファシスト政権の首脳、閣僚、それに党幹部らを合わせ、総勢三十数人がムッソリーニと行を共にしようとしていた。  その後をさらに、クラレッタ・ペタッチが弟のマルチェッロ一家と一緒に統帥に従う一心でガルダ湖畔から追っていた。  注1 STORIA DEL SECONDA GUERRA MONDIALE P.2428  注2 STORIA ILLUSTRATA 1985年7月号  注3 LA MIA VITA CON BENITO P.267  注4 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.25 連合国も統帥追跡  ムッソリーニ逃亡と知った解放委員会首脳らは、直ちに地方パルティザンに追跡を指示するとともに、スイス国境の警備強化を厳命した。約一時間近く前まで目と鼻の先の県庁内にいたムッソリーニを取り逃したことは残念至極であった。「こんど捕えたら」と、誰もが処刑やむなしの気持に傾いた。  シューステル枢機卿も、いつもの微笑を絶やさぬ表情ながら無念やるかたなかった。解放委員会の「取り逃した」残念さとは違って、「戦争終結の機会を失った」口惜しさからであった。  実はこのシューステルは、前年秋からスイスの首都ベルンの大司教フィリッポ・ベルナルディーニ師と語らい、戦争終結への努力を密かに傾けてきた。ベルナルディーニ師は法王庁の在スイス外交代表であり、スイスにあるアメリカの情報機関とも密接なコンタクトを保っていた。その主な相手は戦略情報局のアレン・ダレスであった。ダレスはもともと外交官で、戦後アメリカ国務長官となった同じく外交官のジョン・F・ダレスの実兄である。約三十人のスタッフを率いてベルンのアメリカ外交団の一部を構成、ナチ・ファシストに対する背後攪乱を四二年から開始していた。  四四年秋から、イタリア中部で勢力を増したパルティザンが在イタリア・ドイツ軍に猛攻勢をかけるにいたり、戦局の前途を予測したシューステル枢機卿も、ミラノの実業界、財界の強い要請を受けて、ダレスに呼応するかのように積極的に終戦工作に乗り出していたのである。  ミラノの大企業家と金融・財界は、いずれ中部イタリアに敷いたドイツのゴシック防御線は崩れ、ミラノに集結するとみていた。その場合、レジスタンス側とナチ・ドイツ軍の戦闘は不可避となり、ミラノが戦場となるのはもちろん、工場地帯の破壊もまぬがれないと見ていた。それでなくとも、ドイツ軍が大挙ミラノに駐留するようなことになれば、連合軍のミラノ空爆は一層激化することは明白であった。それによるイタリア第一の商工業都市のこうむる被害ははかり知れないと読んでいた。  ピレッリ(ゴム)、イタリア商業銀行、クレジット・イタリアーノその他の大企業・金融界の首脳はシューステル枢機卿を前面に、ナチ・ドイツ、ファシスト、それにパルティザンの三者の間をとりもち、戦火を避けるだけでなく、戦争の早期終結、ナチ・ファシスト勢力の降伏促進に手を貸していたのである。ミラノの大企業群は、ヴァチカンの財政面でも重要な存在であった。  枢軸の敗北が決定的となった一九四五年早々、このシューステルとベルナルディーニ、さらにアメリカ側のダレスを結ぶルートはすでに機能していた。三月に入ると、ナチ親衛隊のヴォルフが独自に連合軍への降伏を計画、シューステルの仲介により、スイスでダレス機関と接触していた。同じころ、ムッソリーニも長男ヴィットリオを通じて、シューステルにパルティザンとの交渉の労を依頼したことは既述の通りであった。  こうして第二次大戦の終幕は、秘かにミラノのフォンターナ通りの大司教邸で始まっていたのである。しかし、立場上シューステルはいっさいの経過については口をつぐみ、ヴォルフ将軍もムッソリーニも自らの意図や計画についてはともに語らずにいた。つまり、ナチ側もファシスト側も降伏について「ブラフ合戦」を演じていたことになる。しかも双方とも無条件降伏はやむなしとして、それぞれ単独でそれを受諾する腹を決めていたのが実情であった(注1)。  そうしたデリケートな時期だけに、ムッソリーニの逃亡は、シューステル枢機卿にとって痛恨の極み以外の何ものでもなかった。ムッソリーニは「一戦交える」つもりだと言っていた。枢機卿の不安と心配とがつのった。また統帥の運命に不吉な予感を覚えた。  その二十五日午後八時、ムッソリーニがミラノを脱出したのと同じ時刻、ベルンのアメリカ公使館では、ダレスが一人の若い情報将校に重要任務を言い渡していた。 「君は一、二日中にミラノに行け。目的はムッソリーニの身柄を確保して、連合軍に引き渡すこと」  この情報将校の名は在スイス・アメリカ軍人のエミリオ・ダダリオ大尉。名前から明らかなように、イタリア系アメリカ人で二十六歳。大学で法律を専攻し、暗号名は「MIM」となっていた。ミラノからムッソリーニが姿を消したとの連絡があったわけではない。そろそろ統帥が「泳ぎ出す」のではないかとのダレスの鋭い嗅覚からであった。こうして連合軍側もいよいよムッソリーニ逮捕に乗り出したのである。イタリアのパルティザンと連合軍のどちらが先に、統帥の身柄を確保するかのツバぜり合いが開始された瞬間であった。  ダダリオ大尉はベルンからイタリア側のポンテ・キアッソを経て、二十七日にミラノ入りした。部下達も皆、私服ではあったがスーツケースの中にアメリカ軍の制服と星条旗をしのばせていた。ミラノ市内ではパルティザンに警戒されたりしたが、ダレスの命令通りレジスタンス軍指揮官のカドルナ将軍と接触することになる。  一方、コモ市にたどり着いたムッソリーニは翌二十六日午前四時頃、ともかく北へ進もうと湖畔沿いに北上した。四月末とはいえ、アルプスの麓は肌寒く、あたり一面に霧が立ちこめていた。逃避行の身には幸いでもあった。右側はコモ湖、左側はすぐ山並みが続く。その山中にはパルティザンが陣を張っていた。湖畔の幹線を進むしかなかった。しかしそれは、夜が明ければパルティザンの目に曝されることを意味した。  二十数台の隊列は、東の空が白らみかけた頃、コモから五十六キロのメナッジョの町にたどり着いた。コモ湖のちょうどなかばに面する交通の起点でもあり、ここからグランドラ、ポルレッツァを経てスイスのルガノに通ずる幹線道路も走っている。メナッジョからスイス国境まではわずか二十七キロしかなかった。  内務次官ブッファリーニ=グイディが「ここからルガノに出てはどうか。スイス税関は通してくれると思うが……」とムッソリーニに進言した。折柄強い雨が降り出し、パルティザンの目をかわすこともできるかにみえた。一行はとりあえず、途中のグランドラまで行き、様子を探ることにしたが、そこからさらにブッファリーニ=グイディらがファシスト兵とともに二台の車でポルレッツァ方面に向った。ブッファリーニ=グイディは、この際どうしてもスイスとの国境を越えたがっていた。生き延びる最短距離だからである。  そこへ何と、ミラノから追いかけて来たペタッチらが、アルファ・ロメオを駆って到着した。弟のマルチェッロが運転し、彼の妻と子供達も一緒だった。クラレッタはビーバーの毛皮コートを着て、髪をターバンで包んでいた。  意外な人物らの出現に、ファシスト首脳らはムッソリーニの眼前にもかかわらず、不快感を隠さなかった。ムッソリーニも部下の手前、困惑の表情を示し、その姿をまじまじと眺めるしかなかった。だが、ペタッチらが現われたため、彼はいっそう、気が弱くなったようだ。彼はここでスイス脱出を試みる気になった。  これに対し、同行の親衛隊キスナットとビルツェルが猛然と反対した。「捕ったら大変ですぞ。捕まらないという保証はないのですから」と強く引き留めた。彼らにとっては、捕っても無事脱出できても困るのが本音であった。ムッソリーニはそこでクラレッタに「お前は女性だし、大丈夫だろう。ここからスイスに行くがよい」と促した。しかしこれにも、ナチ将校らは反対した。  雨は降りしきり、いたずらに時間は過ぎて行く。前夜、ムッソリーニは二、三時間しか眠っていなかった。顔は蒼ざめ、疲労の色が濃く、年齢よりもはるかにふけて見えた。  しばらくして、ポルレッツァ街道から一台の車が疾走して来た。ブッファリーニ=グイディらと一緒に出て行った二台のうちの一台であった。 「この道は駄目です。ポルレッツァのイタリア側税関と国境警備隊員は、パルティザン側についてしまっています。内務次官らは捕まってしまいました!」  車から降りるや否や、このファシスト兵は一気にまくし立てた。  ムッソリーニ以下、誰もひと言もいわなかった。  メナッジョに戻り、そこのファシスト軍団の宿舎に落着いた。軍団の兵士達は一人もいなかった。すでに全員、逃走してしまっていたのである。統帥ら一団は閣僚と党幹部、それにペタッチらと車の運転手の計二十八人でしかなかった。宿舎のラジオのスイッチをひねると、自由ミラノ放送がカン高い声でアナウンスしていた。 「われわれの蜂起は成功しました。ミラノは完全にファシストの手から解放されました!」  すでに二十六日の夜が始まっていた。近くのスイスの山々は黒い塊となっていた。閣僚や党首脳は口々に、「これからも統帥を中心に行動する」と誓った。もう逃れられないとあきらめたからではなかった。統帥がいれば脱出に成功するのではとの一縷の希望を抱いていたからである。  それほどムッソリーニへの信頼感は高かったのである。その信頼が全員の死出の旅につながった。  注1 MUSSOLINI IL FASCINO DI UN DITTATORE P.463 バリケードに阻まれる  幸いなことに、メナッジョの町にはまだパルティザンは出没していなかった。しかしコモ湖西岸の山岳地帯には、ミラノのペルティーニ、ヴァリアーニ、セレーニの社会党、行動党、共産党の各指導者の指令でパルティザンが厳戒態勢をとっていた。付近の村落や幹線道路も順次、支配下に置き、要衝にはバリケードを築き始めていた。  後年になって分ったことだが、コモ湖東岸のベラッジォからその北のソンドリオ、さらに東に延びるヴァルテッリーナ地方には、その時点ではまだパルティザンの勢力はまばらであった。ムッソリーニ一行が、もしこのコモ湖東岸を北上して行ったら、必ずしもパルティザンに行手を阻まれることはなかったかも知れない。だがこの場合、ファシスト首脳部はコモ湖西岸を北上してスイスに脱出するだろうと睨んだレジスタンス側の眼力に軍配が上げられよう。  ムッソリーニらにとっては、メナッジョからどう進むにせよ、自分らの守護隊がないことには動こうにも動けない状況であった。どうしてもヴァルテッリーナで戦いたいパヴォリーニは、前々からの主張通り、最低五千人ぐらいの自分の手兵を集められると大見得を切って、コモ市方面へ戻った。  多少の期待をかけて待つ間、ムッソリーニは側近らに黒革の鞄を開けて、中の文書を示してみせた。それは自分に戦争責任はないことを証明する文書だとのことであった。外は強い雨が降りしきっていた。ムッソリーニは一人になって、所在なさそうに持参してきた一冊の本のページをめくった。その本は自称「ミラノ人」スタンダールの『パルムの僧院』であった(注1)。  ムッソリーニが自分の「無罪」立証の重要文書とともに、『パルムの僧院』一書を携えて、スイスへの脱出行の途についていたことは、これは当時の統帥の心理状態を知るうえで、極めて興味深い事実である。  いうまでもなくこの作品は、スタンダールがこよなく愛したここコモ湖畔やミラノなどを舞台にしている。しかも主人公デル・ドンゴ侯のファブリスは、野心的で波乱万丈の生涯をたどる人物である。ワーテルローの会戦に参加して重傷を負い、戦争の栄光にも幻滅し、あるいは殺人犯として幽閉中に脱獄に成功、ついにはクレリアという女性に真の愛情を見出すという十六世紀風古典的ロマンである。しかもその筋書きと展開には、なにか侵し難い運命主義的なものがただよっている。  ムッソリーニが果して、その運命主義的なものを感じていたかどうかは知るよしもないが、ファブリスという一人の若き貴族の中に自分の姿を投影していたことは容易に想像できよう。ファブリス同様、彼もナポレオン・ボナパルトが青年時代から大好きだったし、ローマでの勢威の絶頂期にナポレオンになぞらえられて得意満面だったこともしばしばあった。  しかもファシズムを創設してこのかたファブリスと同様、投獄の憂目にも遭い、貧困と逆境にあえいだこともあった。政権を握ってからは、世界の表舞台に華々しく登場し、一世を風靡(ふうび)した。想えば有為転変の激動の人生であった。  そしてクラレッタは、ファブリスの愛してやまぬクレリアそのものであった。晴れて結婚できぬ身ながら、デル・ドンゴ侯に献身的に尽すその女心を、ムッソリーニはクラレッタの中にも見出していたに違いない。そしてこのメナッジョまで追いすがってきたクラレッタにいとおしさを胸一杯に覚えていたであろう。  こうしてムッソリーニはいま、ファブリスの軌跡をたどりながら、自分にどのような運命が訪れるのか? と、占っていたのかも知れない。彼は「待ち」の気持になっていたようだ。それにしても、ムッソリーニが美しいコモ湖を舞台にしたこの『パルムの僧院』をミラノを発つに当って持参したことは、コモを通ってファブリスの生れたドンゴにも寄ってスイスに逃れることを想定したからなのだろうか。まさかそこまでは考えてはいなかったであろう。しかし「ドンゴ」という地名がこの書の中にあったことは、何と運命的な予兆であったことか!  二十六日の夜は静かに更けていった。雨はまだ激しかった。十一時過ぎ、パヴォリーニが車で帰ってきた。ムッソリーニらは、党書記長が多数の手兵を連れて戻ったものと思って外まで出迎えた。しかし、当のファシスト軍団の手兵は一人もいなかった。意気消沈のパヴォリーニだけであった。全員が肩を落とし、黙りこくったままであった。  ところがその数時間後、そのメナッジョの町を時ならぬエンジンの響き、車輪の音が揺るがした。二十七日未明のことである。ムッソリーニらははね起きた。  目の前の道路を武装ドイツ部隊が通過しているではないか。高射砲隊の約二百人の兵が退却中だったのである。装甲車、トラックなど約四十台だったが小型高射砲、重機関銃を装備していた。指揮官はファルマイアー中尉。  この思いがけぬドイツ部隊の出現に、ムッソリーニらファシスト首脳は狂喜せんばかりであった。「これで助かった! 大丈夫だ!」と、誰もが確信した。統帥警護のキスナット、ビルツェル両親衛隊将校は、このドイツ軍に合流することを決め、ファルマイアー中尉の了解を得た。  午前五時、ドイツ部隊は再び北に向け出発した。ファシスト側は車十二台にまとめ、ドイツ部隊の最後尾につき、先頭車に党書記長パヴォリーニら、そのあとにナチ親衛隊のキスナット少佐ら、そのすぐ後にムッソリーニ以下閣僚らが続き、クラレッタ・ペタッチと弟夫妻の車が最後尾に連なった。全隊列は約一キロもの長さになった。このドイツ部隊の総指揮は階級からキスナット少佐が当ることになった。  早朝の薄い光を浴びながら、隊列はドンゴ方面に向った。ドイツ部隊はそこからさらに、ドイツ軍占領下のメラーノ市を目指していた。  前日の二十六日、自由ミラノ放送が「北イタリアも解放へ立ち上がれ」と放送したのを聞いたパルティザンの第五十二ガリバルディ旅団の隊長ペドロは、部下とともに山を下り、ドンゴの町に入っていた。部下といってもわずか三人でしかなかった。  隊長ペドロはパルティザン仲間の通称で、本名はピエール・ルイジ・ベッリーニ・デッレ・ステッレ。もともとフィレンツェ出身だったが、イタリア休戦後、妹とともにパルティザンに身を投じ、北イタリア山岳地帯に入っていた。一緒にいた仲間は通称ビルで北イタリア・ヴィチェンツァ出身のウルバーノ・ラッザーロが本名の元財務警察官。政治委員で通称ピエトロ・ガッティのミケーレ・モレッティ。それに参謀長格のコモ出身のルイジ・カナーリ。通称ネーリ。この計四人である。  四人はその日のうちに、退却するドイツ軍の退路を遮断する目的で、主要幹線であるコモ湖西岸の自動車道路にバリケードを敷いた。太く長い木の幹一本を道路いっぱいに渡し、その前と後に巨大な岩塊を数個転がしただけの簡単なものだった。そのあたりの道路は、湖畔に沿ってくねくねと曲っているが、その一つであるバリケードを敷いた場所は、ほぼ直角に左にカーブした直後の地点で、前方からは見通しがまったく利かない位置であった。そのあたりはドンゴ村のムッソという集落である。ムッソリーニのムッソと綴りがまったく同じである。なにか不思議な符合であった。  二十七日の朝六時半過ぎ、ムッソ集落の住民からドイツ軍の隊列がやってくるとの通報を受けたドンゴのペドロらは、すぐに現場の方へ向った。ドンゴから約二キロ足らずである。山中にある近道のけもの道を急いだ。  ドイツ軍の隊列は、バリケードに見事に阻まれて、先頭の装甲車は立往生していた。道路は舗装された六メートル幅。左側は切り立った絶壁が十メートルの高さに屏風岩をなしている。右側には七十センチほどの高さの厚い石の壁がガードレールの役目を果している場所であった。  ドイツ側の隊列から見ると、湖面の向うにドンゴの白い家並みがあり、その背景には森と白銀のアルプスの山々が連なっていた。その美しい風光の中に、ペドロらが左の絶壁から落とした巨岩がゴロゴロとバリケードを形作っている。  ペドロらは銃をかまえて、絶壁の上からそっと見下した。ドイツの隊列は、完全に身動きできずにいた。道路上の岩塊は数人がかりでもビクともしない巨岩である。ドイツ軍がすぐには動けないとみたペドロは、仲間を数メートルおきに散開させた。それぞれが少しずつ場所を変えて姿を見せ、パルティザンが大勢いると見せかけるためであった。  ドンゴを出る前、ペドロは二十五キロ北のキアヴェンナの司令部に電話し、ドイツ部隊が接近中であると伝え、援軍を要請しておいた。どのくらいの援軍が応援に来るかは分らなかったが、一キロにも及ぶドイツ軍の兵力に較べたら、ものの数ではないことをペドロは覚悟していた。兵力ばかりか、武器においてもパルティザン側は完全に劣勢であった。正面切って戦闘を交えたら、パルティザンの敗北は明らかであった。  戦法としては、ドイツ軍をここに張りつけ、交渉でドイツ軍を降伏させる以外にないと判断していた。やがてキアヴェンナから応援が到着したが、わずか数名でしかなかった。ペドロは近くの農家から赤い布切れを集めさせ、それを棒の先につけて、崖下のドイツ軍から見えるように、あちこちに立てさせた。その棒の間を、何人かのパルティザンが走り回った。  赤い色は共産党系ガリバルディ旅団であることを示す色である。ドイツ軍もその知識はあるはずだとペドロは考えたのだ。パルティザン達が走り回ったのは、かなりの人数がいるとドイツ軍に思わせるためであった。突然、ドイツ軍側が発砲してきた。崖の上のペドロらを狙ってきたのである。パルティザン側も応戦した。この交戦中、道路に姿を見せたイタリア人の道路工夫が、先頭の装甲車の銃弾を受けて即死した。  その時、ドイツ軍の中から白旗がかかげられ、一人の将校が装甲車の前に進んで出てきた。交戦はわずか数分間のことでしかなかった。いったい何が起ったのか——。  注1 STORIA DEL SECONDA GUERRA MONDIALE P.2430  第七章 ムッソリーニを逮捕! 統帥、ドイツ兵に変装  ドンゴ村ムッソの教会主任司祭エネア・マイネッティ神父は、二十七日午前七時頃、朝の祈りを終えて偶然、湖畔の道路を進むドイツ軍トラックの隊列を窓から目撃した。やがて、その隊列が先頭から順々に停止すると、兵士らがトラックから飛び降り、銃を片手に騒ぎ始めた。ただならぬ動きであった。神父がじっと様子を見ていると、やがて一人の将校が兵士を伴って、教会のドアを押して入って来た。  応待に出たマイネッティ師にドイツ軍将校はイタリア語ではなくラテン語で尋ねてきた。神父は正確な意味が聞きとれなかった。イタリア語で問い返すと、その将校はイタリア語が話せないことが分った。しかし結局、神父に分ったことは「ここにはどのくらいの人数がいるのか?」をその将校が知りたがっていることであった。  ドイツ将校の方は、部隊がバリケードで阻まれた以上、この近辺にパルティザンがいると判断し、その勢力がどのくらいかを知ろうとしたのだった。ところが神父は、兵力ではなくドンゴ村の村民の数を聞いてきているものと勘違いし、「約三千人ほどです」と答えたのである。将校は黙って戻っていった。  ドイツ側指揮官キスナット少佐は、マイネッティ神父と話してきた将校から、パルティザン勢力は約三千人との報告を受けるや、即座に無抵抗の方針を決め、パルティザンとの交渉に入ることにした。ドイツ軍の中から白旗がかかげられたのは、この直後であった。神父の思わぬ怪我の功名と言うほかなかった(注1)。  ツバの付いた黒い帽子をかぶり、カイゼル鬚を生やしたペドロは、パルティザンの幹部らしくカーキ色のジャンパーを着て、腰のベルトには黒革入りの最新式ベレッタ拳銃を右に差していた。首にはガリバルディ旅団を示す赤い絹マフラーを粋になびかせて、部下一人を連れて道路上に出た。  部下達は相変らず、場所を変えながらあちこちの岩の間、岩の上から顔をのぞかせ、ドイツ軍に対して大勢のパルティザンがいるように装っていた。  ドイツ軍を代表して、ファルマイアー中尉がイタリア語でペドロに伝えた。 「われわれは貴下らと交戦する意志はない。現在、祖国に向け撤退中である」  ペドロは「その旨を近くの司令部に行って協議の上、返事する」と告げ、ドイツ側連絡将校を伴ってキアヴェンナに向った。別に司令部があるわけではなかった。単なる指揮所である。ペドロとしてはパルティザンよりドイツ兵力が決定的に優勢であるため、時間をかせぎ、ブラフを利かせるしかないと判断していた。ドイツの連絡将校を外に待たせて、ペドロは撤退条件をまとめ、十一時頃にムッソの現場に戻り、ファルマイアー中尉に次の条件をつきつけた。  一、ドイツ軍兵員と車両だけの通過を許可する。ただしイタリア人と民間の車は捕獲する  一、ドイツ軍の車両、兵員はドンゴでチェックする  ファルマイアー中尉は、他の将校と協議するため、三十分の猶予が欲しいと申し出た。ペドロはまだ弱冠二十五歳ながら、フィレンツェの貴族の生れで威厳をたたえながら中尉にたたみかけた。 「協議をするのは結構だが、この先にはわれわれパルティザンが完全に包囲し、十分の火器で待機している。無事通過を望むならば、われわれの条件をのむしかないことを勧告する。十五分だけ待つことにする」  その間、岩山からビルやピエトロも道路に出て来て、中尉の真正面に立って威圧した。ペドロとしては、この条件で交渉が成立することを待ち望んだ。ドイツ軍は装甲車一台を含む四十台もの車両と兵員がいる。各車両には数人の兵士と重火器が見えた。ペドロの第五十二ガリバルディ旅団は、名前は旅団だが全員で百二十人そこそこしかいない。しかも全員が十五キロ圏内に分散している。いったん戦闘となれば衆寡敵せずであることは明らかであった。  一方、かなりの勢力のパルティザンがいるものとみたドイツ軍は、いまはひたすら無事撤退の実現だけを願っていた。首都ベルリンは、ジューコフ元帥のソ連軍の猛攻にあって、まさに陥落目前であった。イタリアのドイツ軍も、ヴォルフ将軍が連合国と休戦を交渉中である。その状況の中で、ドイツ側は一戦交える必要性は毫(ごう)もなかった。結局、ドイツ部隊はペドロの提示した条件をのみ、二キロ先のドンゴ村広場に集結し、パルティザンによるチェックを受けることになった。  この時点で、ファシズムの統帥ムッソリーニの命運はほぼ決定的となった。ペドロことピエール・ルイジ・ベッリーニ・デッレ・ステッレのブラフがムッソリーニを“袋の鼠”に追い込んだからであった。  このペドロはそれから約四十年後の一九八四年一月二十六日、ミラノ南郊の自宅で死去した。病名は「不治の病い」と翌日の新聞に報ぜられた。それら各紙は、当時のペドロの写真付きで大々的に報じた。いずれも社会面のトップ扱いで、ラ・レプブリカ紙は「一九四五年にムッソリーニを逮捕したパルティザンのペドロ死す」と、全段抜きの大見出しをつけて、ムッソリーニ逮捕の状況を再現していた。  しかし一九四五年四月二十七日のこの段階で、このドイツ軍の隊列にムッソリーニらファシストの首脳陣がひそんでいるとは、ペドロは露知らなかった。ただ撤退するドイツ部隊をしっかりチェックし、不審なイタリア人がいたら逮捕する腹づもりだったと、後に語っていた。  ドイツ軍の隊列は、ペドロらの先導と監視のもとに、ドンゴの村役場前の広場に集結することになるが、それより前にドイツ隊後尾にいたムッソリーニは、うかつにも時々、車から出ては外の空気を吸ったり、他の閣僚らと立ち話をしたりしていた(注2)。  その統帥の姿を前述のマイネッティ師が何度も教会の窓から目撃したのであった。まさかと思いながらも、その目で幾度も確かめた。目に映ったのはまさしく統帥に間違いなかった。そこで師はパルティザンにその旨を通報した。他の村民からも、ドイツ隊が走り出すころには「うしろの方にファシスト政府の閣僚がいる」との話がペドロに伝えられていた。  ファルマイアー中尉から撤退条件を聞いたキスナット、ビルツェル両親衛隊将校は、無事にドイツに移送するため、ムッソリーニをドイツ兵に変装させるしかなかった。  統帥の許に行って、ドイツ兵の鉄帽と外套を着けさせようとしたが、ムッソリーニは渋った。「ドイツに行って総統(ヒユーラー)に会った時に困る。恥かしいではないか」とも言った。キスナットは「そんな場合ではない。脱出の機会を逸してしまう」と強引だった。傍にいたクラレッタも「統帥、どうぞ御自分をお守り下さい」と懇願した。こうしてムッソリーニはドイツ軍の伍長の外套を着、鉄帽を頭にかぶった。クラレッタは航空兵の紺のオーバーオールを着せられ、飛行士の帽子をかぶせられた。  しかしあとのイタリア人は、ドイツ隊には入れられないと知って大いにあわてた。すでにドイツの隊列は動き始めていた。幾人かは近くのマイネッティ神父の教会に行き、保護を求めようとしたが捕った。パヴォリーニは山中に逃げて隠れたが、後刻パルティザンに捕まる。他の者はパルティザンに抵抗したためその場で逮捕された。  ドイツ軍の隊列が動き出したのは午後二時頃であった。ムッソリーニはその隊列の五番目のトラックの中にひそんでいた。ノロノロと進む隊列は間もなく『パルムの僧院』の主人公ファブリス・デル・ドンゴの郷里に入った。役場前広場には数十人のパルティザンが待機していた。村長でパルティザンのジュゼッペ・ルビーニもいた。彼の父はかつてのサランドラ内閣(一九一四年)の閣僚であった。その五十メートル平方の広場に、次々とトラックが入り、整列した。最後尾のトラックには捕ったイタリア人が一かたまりになってパルティザン達の小銃の下に座っていた。  しかし、一人だけ消えていた高官がいた。国防相グラツィアーニである。彼は前日、メナッジョから自家用車で逆のコモに向い、一行とは別行動をとっていたからである。「私は名誉ある軍人だ。戦って戦死するか、捕虜になるかだ」が口癖であった。結局二十八日に彼も別のパルティザンに捕まり、戦後の軍事法廷で十九年の刑を受けたがその後、減刑されて五一年一月ローマで死去する。ファシスト首脳としては戦後に生きた数少い一人であった。この元帥がメナッジョからコモに出たのは、統帥と衝突したからとか、逆に統帥から情勢を見極めるよう命令を受けたの二説あるが、真相は不明である。彼は戦後ムッソリーニの流れを汲む右翼政党「イタリア社会運動(ネオ・ファシスト)」を創設した。  ドイツ軍の隊列がドンゴに着いた時刻、ミラノでは全市をあげてナチ・ファシズムへの戦勝祝賀が華々しく行われていた。二十五日のミラノ一斉蜂起宣言に次ぐ、解放の祝賀であった。ローマから進撃して来たパルティザン、途中から合流したフィレンツェ、ボローニャのパルティザン、それにジェノヴァ、トリノ、ヴェネツィアのパルティザンも参加して勝鬨の声を高々と上げた。  国民解放委員会首脳が一列横隊となって目抜き通りを晴やかにかつ厳かに堂々の行進をした。数百人もの髯面をした老若のパルティザンが三色旗を打ち振り、トラックや装甲車にまたがって、ゆっくりとそのあとに続いた。  ドゥオーモ広場、カステッロ広場には市民がつめかけて連日、各地で歌われた「BELLA CIAO(可愛い子)」や「BANDIERA ROSSA(赤い旗)」などのパルティザン賛歌を合唱した。  同時に市内外のドイツ軍、ファシスト軍は続々捕虜となって武装解除され、市民の怒声を浴びたり、殴られたりしていた。丸腰のドイツ軍幹部は、両手で顔をかくしたまま三々五々収容所へ連行された。ナチ・ファシズムに協力した市民達が、同じ市民達から摘発され暴行を受ける例は決して珍しくなかった。ドイツ軍将校と特別に親しくしていた女性達は、頭も丸坊主にされて市内を引き回された。その数は数十人にも上り、市民の嘲笑を買ったものである。  しかしまだ、ファシズムの巨頭ムッソリーニは捕っていない。何処にいるのか? 国民解放委員会の面々も、それが気懸りであった。  注1 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.43  注2 前掲書 P.45 「ドゥチェがいたっ!」  ドイツ軍兵士の点検を行うに当って、ペドロとファルマイアーの敵味方双方は、お互い紳士として武力行使はしないことで合意していた。それは双方に好都合なことであった。チェックは兵士とその認識票が合致するかを調べることにあった。  ナチ親衛隊のキスナットとビルツェルは、ムッソリーニのことが心配でならなかった。統帥には泥酔したフリを続けさせ、同じトラック内のドイツ兵らにも「泥酔した兵士と言え」と言いふくめておいた。ドイツ軍の車両が次々停止すると、パルティザン達は手分けして各トラックにうしろから飛び乗って点検を開始した。  この時の状況は、実際に点検に加わったパルティザン達によって、戦後早々さまざまなルポルタージュが書かれている。それらの多くは自分の功名話として語られており、客観性に欠けるうらみがあるが、もっとも信頼できる説明としては、村長ジュゼッペ・ルビーニによる記述が上げられている。これは点検にたずさわったパルティザン一人ひとりから詳しく事情を聴取し、翌五月とさらに十月の二度にわたって当時を再構築し、正確さで知られる報告である(注1)。  いずれにしても、ムッソリーニはこのドンゴで逮捕されることになるのだが、以下このルビーニ報告を基礎に、劇的な統帥逮捕の瞬間を再現してみる。  ドンゴの村役場前広場には、騒ぎを聞きつけて村民らが集ってきた。パルティザンによる点検が始まったのは(四月二十七日)午後二時十五分頃であった。  パルティザンの主役は、「ビル」ことウルバーノ・ラッザーロ以下、次の八人である。ドンゴのジュゼッペ・ネグリ、同リツィエーリ・モルテーニ、同ウーゴ・トルニ、同カルロ・オルテッリ、運転手バッティスタ・ピラッリ、元財務警察の将軍フランチェスコ・ディ・パオラ、土地測量士ヴィンチェンツォ・モッタレッラ、それに村長ルビーニである。  まずネグリは第五番目に入ってきたトラックに駆け寄り、ドイツ兵士一人ずつチェックを始めた。そのトラックの奥の右隅に一人の兵士が鉄帽を顔の上に載せ、外套の襟を立ててうずくまっていた。起き上がらないのはこの兵士だけで、あとの数人は反対側にかたまって立っていた。チェックを受ける間、立っているドイツ兵は皆、うずくまっている兵士を見下しながらニヤニヤ笑っていた。  その兵士は眠っているように見えた。両膝の間に自動小銃をはさんでいる。  ネグリがこの兵士に手をかけようとすると、立っている兵士らが「酔っぱらっているんだ。ブドウ酒を飲み過ぎて……」と、ネグリにつぶやいた。  このトラックにディ・パオラ将軍も飛び乗ってきた。ちょうど、ネグリがその「酔っぱらい兵士」の肩を軽くゆさぶっているところだった。パルティザン達は、点検に入る前「閣僚多数が逮捕されているし、この中に統帥がいるとの情報もあるので、十分念入りに調べよ」と命令されていた。  ネグリはこの兵士のそばに近寄って見た時、「おやっ? これは統帥かな?」との疑いが頭をよぎった。よく見ると、あの見覚えのある大きなあご——。「はっ」とした。「これは統帥に間違いない!」と彼は確信した。  一瞬、他のドイツ兵にさとられぬよう、隣のディ・パオラ将軍に目くばせし、そのままトラックを飛び降りて、幹部のビルを捜しにその場を離れた。  その左のトラックのチェックを終えたルビーニとモッタレッラが、ネグリと入れ代りに何も知らずにそのトラックに乗り込んだ。中の数人のドイツ兵の顔に、サッと緊張感が走ったのをルビーニは見逃さなかった。  モッタレッラも、ただ一人でうずくまっているドイツ兵を見て、「あれ? 何だ。この兵士は……」と思ったが、すぐそれは「統帥?」との疑いに変った。  ルビーニは黙ったまま、トラックを降り、近くにいたオルテッリとピラッリに「おかしいんだ!」とひと言だけ、耳打ちした。トラックの横では、キスナット少佐が緊張した面持で立ちつくしていた。  モッタレッラは、誰かが来るまでディ・パオラ将軍とそのトラックの中に留まっていた。  不意にモルテーニとトルニ、つづいてネグリとビルが、そのトラックに飛び乗ってきた。  いつの間にか、うずくまっていたドイツ兵はサングラスをかけていた。  モッタレッラとビルが、その兵士のそばに歩み寄って、声をかけた。 「イタリア人?」  その兵士は無言のままだった。しかし、一瞬ためらったあと、腰を上げながら小声でイタリア語を話した。 「イタリア人だ!」  高鳴る胸を押えて、ビルはそっと鉄帽を手で持ちあげた。続いて、外套の襟をおろした。イタリア人なら誰もが知っている人物だった!  思わず、ビルは口を開いた。 「カヴァリエーレ・ベニト・ムッソリーニ?」  カヴァリエーレとは「騎士」を意味し、その爵位の称号である。  トラックの中はシーンと静まり返り、誰もが身を固くしていた。切迫した空気がピリピリと走った。無言のムッソリーニは、荷台のへりにつかまりながら、立ち上がろうとした。  ビルはムッソリーニの膝の間の小銃を取り上げ、傍に来たピラッリに手渡した。  ムッソリーニは自分で、身につけていた自動拳銃をはずして、ビルの手に差し出した。  ビルはこの時のことを「時間も人間も、なにもかも停止してしまっていた瞬間だった」と言っている。ピーンと張りつめた緊張の中で、トラックの中にいた他のドイツ兵らも、身動きもせずに成り行きを見守るだけであった。まったく抵抗はなかった。  誰かがバタンと、トラックの荷台のうしろの柵をはずした。 「ムッソリーニだ!」 「統帥だッ!」  あたりにざわめきの声があがった。  キスナットも、ビルツェルも、何の手も打てなかった。  ムッソリーニがトラックから降りるのを、下にいたオルテッリが腕を貸して支えた。  ルビーニ、ビル、オルテッリらが、統帥をかこむようにして、十数メートル離れた村役場の中に連行した。  ついにムッソリーニは捕ったのだ!  クラレッタも変装を見破られて捕った。ムッソでパルティザンに捕った内相パオロ・ゼルヴィーノ、官房副長官フランチェスコ・マリア・バラク、人民文化相フェルナンド・メッツァソマ、情報相カルロ・リヴェラーノ、国営通信社長エルネスト・ダクヮンノその他ファシスト党首脳部の面々も、あとから村役場に連行された。クラレッタの弟は自称スペイン外交官と名乗ったが、これも見破られて捕った。  点検がすべて終了したのは、午後四時頃であった。ファルマイアー中尉は、ドイツ隊を率いてさっさと北部に向った。その中にはムッソリーニ逮捕を阻止できずうちひしがれたキスナット、ビルツェルもいた。  役場の一室の細長いテーブルの前に立った統帥に、第五十二ガリバルディ旅団の政治副委員長であるビルが告げた。 「私はイタリア国民の名において、閣下を逮捕する」  低いが、毅然とした声であった。  役場の外から、村民達が大声で「ドゥチェが捕った」と騒いでいる声が聞えた。  村長ルビーニがムッソリーニに言った。 「どうぞ御安心を。危害を加えるようなことはありませんから」 「ドンゴの村民達は、寛大だと思っている」  ムッソリーニは落着いて、そう答えた。  その場でビルは簡単にムッソリーニを尋問した。 「なぜ戦争を始めたのか?」「なぜドイツ側についたのか?」「なぜ、パルティザンに対して暴行を加えるのを許したのか?」などであった。他のパルティザンが、「あの一九二四年六月のマッテオッティ殺害事件は誰が命令したのか?」と、反ファシズム陣営が決して忘れられないことも持ち出した。  これらに対して、ムッソリーニはキチンと答えたが、すべて自分は関係ないとし、特に戦争関係についてはドイツに一切の責任があるとした。  パルティザンはムッソリーニが手離さずにいる黒革鞄の中身も調べた。〈SEGRETO(極秘)〉と書かれた書類のほか、スイスへの通過書類、ヒットラーとの交信文書、ヴェローナ裁判関係書類、ポンド貨、スイス紙幣、小切手類などで特に重要なものはなかった。ただし書類はムッソリーニにとっては、弁明の有力材料となるものであることは間違いなかった。  夕方、ムッソ集落で逃走したパヴォリーニが役場に連行されてきた。暴行を受けたのか、傷だらけになっていた。それでもムッソリーニの姿を見て、右手を高くあげたファシスト式敬礼をした。パヴォリーニと同様、役場に集められた他のファシスト党幹部らも、ムッソリーニに対してはあくまでも統帥としてあがめ、礼を失する態度をとるものは一人もいなかった。パルティザンにとって、これは大きな驚きであった。  ムッソリーニは、こうしてついに捕った。統帥として二度目の逮捕となった。前回は四三年七月二十五日、ローマの国王別邸サヴォイア荘においてであった。こんどのドンゴでの統帥逮捕は山中の寒村での出来事であり、地方のパルティザンにとっては重荷過ぎる超大物逮捕であった。  山間の日暮れは早い。すっかり暗くなった役場内で、パルティザン側は幹部が善処を協議し続けた。責任はあまりにも重大であった。ムッソリーニ逮捕はすでに村民に知れ渡っている。武装ファシスト集団がいつ身柄の奪還にやって来ないとも限らない。パルティザンの責任者ペドロは、急ぎムッソリーニ逮捕の事実をミラノの国民解放委員会に報告し、同時に貴重な虜囚の安全を確保するため、ムッソリーニの身柄を極秘にドンゴ北西ジェルマジーノ山中にある財務警察監視隊舎屋に、ペドロ、ビルら四人で移送した。ムッソリーニの監視責任者は財務警察軍曹のジォルジォ・ブッフェッリが当ることになった。ほかに若手二人のパルティザンが加わった。  ペドロがドンゴに戻ろうとした時、ムッソリーニは彼に頼み込んだ。 「一緒に捕っているあの婦人に、私がよろしく言っていたと、ぜひとも伝えて欲しい」 「了解した」  ペドロはあの女性がクラレッタであることを知っていた。  帰るとすぐ、ペドロは他のファシストと一緒にいるペタッチを訪ねて、ムッソリーニからの伝言を伝えた。クラレッタは最初、「ムッソリーニのことは知らない」とシラを切っていた。何らかの策略と思ったのだろう。だがペドロが自分を知っていることが分ると、急に涙ぐみ、ついには激情にもだえるようにして哀願し続けた。 「私を統帥のところにぜひ連れて行って下さい」  ペドロは幹部と話し合い、彼女の願いをかなえることにした。  注1 MUSSOLINI APRILE '45:L'EPILOGO P.51 クラレッタと一緒に監禁  ムッソリーニがこのジェルマジーノに移されたのは、正確には二十七日夜七時前であった。拘禁された財務警察監視隊のその舎屋は、もともとスイスとイタリア間のタバコ密輸ルートの取締り官宿舎であった。このあたりの山間の道は「タバコ道路」とも呼ばれていた。それほど両国のタバコ密売人がこのあたりの取締りをかいくぐって暗躍していた。  手持ちぶさたのムッソリーニは、ブッフェッリ軍曹にあれこれ話しかけてヒマをつぶしていたが、そのうちに夕食となった。メニューはまずパスタ、次いで山羊の焼肉と野菜、果物、チーズ、そしてコーヒーであった。雑談は続いたままであった。ブッフェッリの記録によると、ムッソリーニは満腹したようで、消化をよくするためにと、食後に部屋中を歩き回った。その軍曹が書き留めておいたムッソリーニとの会話の一部始終は、およそ次のような内容であった(注1)。  ムッソリーニ「どうして余はここに捕っているのか?」  ブッフェッリ「閣下はここに留め置かれているのです」  ム「どうして?」  ブ「なぜって、いまさらイタリア人がドイツになんて行くことはないでしょう。それも戦争を続けるためになんて。皆さんはここに留まった方がいい。一九四三年九月に、国王はちゃんと戦争を中止しているんですよ」  ム「というと、君達は仲介者になろうということか。だけど分っているのかなあ、あの一九四〇年六月のことを。あの参戦の日、イタリア国民はこぞって参戦を歓迎していたではないか。余が参戦演説をした時、誰もが喜んで拍手をしていたではないか。ドイツ側に立ったからといって、すべてドイツと合意していたわけではない。ただ、ヒットラーは狂っていた。みんなあいつの仕業だ。彼は人間の力には限りがあることが分っていない。ドイツには『草木は天には生えない』という諺があるのに……」  ブ「でもこんな結果になったのも、みんな閣下のせいだと思っていますよ」  ム「……。だが戦争は終った。われわれファシストをどうするつもりなのだ?」  ブ「知りません。でもこんなことになったのは、誰の責任なんですか? 国民にも多少の責任はありますが……」  ブッフェッリは「ムッソリーニの発言は、断片的だったが面白かった」と述べているが、このムッソリーニ発言は、気楽さも手伝ってか案外と本音を吐露しているのではないか。ヒットラーを精神異常者として責任転嫁しながらも、われわれファシストをどうするつもりか? と、前途を知りたがっているあたりに、その時のいつわりない心境がうかがわれる。  その夜、ペドロやビルはムッソリーニの身柄を再度、別の場所に移すことにした。あまりの大物を扱いかねたためでもあるが、ファシストによる奪還をいぜん懸念したからでもあった。そのうえムッソリーニの許に連れていって欲しいとのクラレッタの願いをかなえさせてやりたい気持も働いていた。山小屋同然の監視隊宿舎では気の毒だとも考えたからである。  時刻は二十八日午前一時近かった。ペドロはジェルマジーノにムッソリーニを迎えに訪れた。すでに寝ていたムッソリーニを起すと、「クラレッタ・ペタッチと一緒に民家に行く」と告げた。  外に出るため、若いパルティザンがムッソリーニが着てきたドイツ軍の外套を着せようとすると、彼は拒んだ(注2)。 「ノー、ノー。そんなのはたくさんだ。ドイツ軍のものなど。あの連中の軍服など見るのもいやだ!」  そこで財務警察官の外套を与え、さらに肩から毛布を掛けた。未明の谷間はまだ寒い。さらにペドロは「誰にも分らないよう顔をかくすため、繃帯を頭に巻く」と告げ、目と鼻だけを出して、真白い繃帯で顔をグルグル包んだ。誰かが言った。 「これで負傷したパルティザンになった」  車でドンゴの入口に来ると、パルティザンのネーリことルイジ・カナーリとピエトロ、それに女性パルティザンのジャンナことジュゼッピーナ・トゥイッシの三人が、クラレッタを伴って待っていた。  春の冷い雨が降りしきっていた。ペドロがムッソリーニをクラレッタの前に連れていった。パルティザン達の前だけに、二人は感情を押えながらも、次のような言葉を交した(注3)。  まずペタッチの方がうるんだ低い声で言った。 「今晩は、閣下……」  ややあって、ムッソリーニが答えた。 「今晩は、夫人……。どうして私についてきたの?」 「だって、こうしたかったんですもの。でも繃帯など巻いて、どうされたのですか?」 「いや、何でもない。警戒のためだけさ」  ペドロが「さあ、行きましょう」と促した。  クラレッタは、捕った時のドイツ軍航空兵のオーバーオールから、元の自分の洋服に着換えていた。雨にぬれた二人は、それぞれが連れられて来た車に乗せられた。  行先はネーリと特に昵懇の一農家。ドンゴから約二十キロ湖畔を下ったジュリーノ・ディ・メッツェグラにある。ムッソリーニらが二日前、北上してきた道路を南に戻った。二十分足らずでメッツェグラに着き、そこからは歩いて山道を上る。砂利道でハイヒールのクラレッタは足を痛めた。山の中腹にある一軒家は、確かに人里から遠く、隠れ家としては申し分ない。  午前三時頃、ネーリが戸をたたいた。大きなジャコモ・デ・マリア家の農婦リアが起きてきた。 「この二人を数日間、お泊めしてくれないか」  二人は二階の寝室に通された。窓は一つだけ。地上七メートル。逃げるのは困難で、ペドロ達も安心した。二人の警戒に当る若いパルティザンを残して、ペドロらは雨の中を去った。  一方、こちらはミラノの国民解放委員会。二十七日夕方、ドンゴのペドロからムッソリーニ逮捕の第一報が届いた。委員会首脳らは慎重であった。密かに緊急幹部会を招集し、「ムッソリーニ逮捕」を内々に知らせた。解放委員会がその手で統帥の身柄を確保するまでは、軽々に公表出来ないからである。ファシストだけでなく、連合軍の注意を引く動きは避けるべきだと配慮したのである。  ところがこの頃から解放委員会内部で不思議なことが起るのである。  まずそのひとつ。この緊急幹部会に参集して来た共産党系幹部が、すでに「統帥逮捕」の事実を知っていたことである。「ヴァレリオ大佐」の名で知られるパルティザンもその一人であった。首脳らが内々に示す前に、その情報をどこからか得ていたのである。ペドロの「公式」の報告より先に、ドンゴの党員から連絡を受けたらしい。  またもうひとつは、二十七日夕方、中部イタリアの在シエナ・アメリカ軍情報機関のマックス・コルヴォ少佐から、次の電報が入ったことである(注4)。 「司令部と解放委員会へ。ムッソリーニに関する正確な状況を知らされたし。その身柄引渡しの用意生じたる時は受け取りの飛行機を向わせる。連合軍司令部」  緊急幹部会招集にせよ、このアメリカ軍からの電報にせよ、その時間にはまだムッソリーニはドンゴ村役場にいた段階である。ヴァレリオ大佐の場合は、「早耳」ということになるが、コルヴォ少佐の場合は、たまたま事態と一致した内容の電報となったとしか解せない。だがこの後者の電報に対して、ミラノの国民解放委員会情報部長ジュゼッペ・チリッロは、二十八日早朝になって、これも不思議なことに次のように返電したのであった(注5)。 「ムッソリーニは二十八日未明、軍事法廷で裁かれたあと、昨年ミラノの愛国者十五人がナチスに処刑されたロレート広場で銃殺された。このため残念ながらムッソリーニの引渡しは不可能である」  この返電内容は、まったく事実に反する。二十八日早朝は、ムッソリーニはクラレッタとともにジュリーノ・ディ・メッツェグラの農家でやっと眠りにつく時刻であった。まだ処刑もされていない。なぜそのような電報を打ったのだろうか。もちろん、ムッソリーニを連合軍に引渡さないためである。つまりすでに銃殺されたこととして、身柄引き渡しをあきらめさせるのが目的であった。解放委員会は既述のように「処刑」を決定していたからである。  解放委員会のこの方針が正しかったことは、ムッソリーニ逮捕の連絡を受けた晩、早くも立証された。その二十七日夜、在スイス・アメリカ軍のダダリオがカドルナ将軍の執務室を訪れ、ムッソリーニについての情報を求めたからである。ダダリオはコルヴォ少佐の電報のことはまったく知らず、ただ「ムッソリーニは現在、どの方面にいるのか?」を執拗に糺した。カドルナは「まったく分らない」と繰り返し通した。ただ「ムッソリーニについては、逮捕した場合はイタリア人の問題である」と言うことを忘れなかった(注6)。  カドルナとダダリオのこのやり取りを聞いていたヴァレリオ大佐は、ダダリオの態度にただならぬものを感じた。そして「あいつにさらわれてはなるものか。俺が殺(や)ってやる」と、秘かに決意した。  注1 STORIA DEL FASCISMO P.2219  注2 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.70  注3 前掲書 P.71  注4 前掲書 P.68  注5 STORIA DEL SECONDA GUERRA MONDIALE P.2433  注6 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.75  第八章 統帥ついに処刑 ヴァレリオ大佐が追跡  ダダリオ大尉は二十七日夜、部下とカドルナから提供を受けた数人のパルティザンと共に五台の車に分乗し、コモ方面に向った。ファシスト首脳陣はコモを北上したと推測したからである。五台の車は星条旗を翻していた。  コモ湖畔に展開するパルティザンは、星条旗を見て連合軍が到着したのかと驚いた。ダダリオ隊はナチ・ファシストと間違われて銃撃されることもあった。若いダダリオはそれにもひるまず、二十八日午前二時過ぎには、風光のひときわ美しい別荘地チェルノッビオに入った。  果してそのチェルノッビオのパルティザンから、ファシストの大物を逮捕した旨の情報を得た。それが軍首脳ロドルフォ・グラツィアーニ元帥と知って狂喜した。  グラツィアーニは二十六日にメナッジョでムッソリーニと別れ、単独行動をとってコモに戻る途中、パルティザンに捕まり、拘禁されていたところであった。自家用のアルファ・ロメオで運転手とともに逮捕されていた。私はその運転手がシュムバシという名前の有色人種だと聞いた時、おや、日本人らしい名前ではないかと思った。綴りはSHUMBASHIである。「新橋」に酷似している。しかも有色人種だということでさらに調べたところ、アビシニア(エチオピアの一部)人と分った。グラツィアーニがエチオピア戦争(一九三六年)に勝利をおさめた時以来の専属運転手とのことであった。  ダダリオにとっては、ムッソリーニに次ぐ、“第二の大物”捕虜であった。彼は直ちにこの獲物を自らミラノに護送した。猛スピードで暗闇のミラノ市街を走り、警備中のパルティザンから幾度も発砲された。  ダダリオらは「ホテル・ミラノ」に陣どり、グラツィアーニを監禁した後、ホテルのバルコニーに星条旗を掲げた。グラツィアーニ尋問によって、ムッソリーニに関する重要情報がとれると期待して有頂天になっていた。  しかしこのグラツィアーニにこだわったことは、ダダリオにとって大きな誤算であった。本来の標的であるムッソリーニはチェルノッビオから二十キロのところにいたのである。だがそのことをダダリオは知るよしもなかった。  ダダリオはカドルナ将軍を訪ね、グラツィアーニを「捕獲」したことを告げたが、それにしても、ダダリオがグラツィアーニをミラノに連行したことは、カドルナの深謀に乗せられたのではと思えるフシもある。ムッソリーニから目をそらされたのである。カドルナは当然、グラツィアーニもムッソリーニも逮捕済みであることを承知していた。チェルノッビオのパルティザンに電話し、グラツィアーニはダダリオにまかせるくらいの操作は十分にやってのける知将であった。  二十八日午前四時過ぎ、ダダリオはカドルナ将軍の事務所で、パルティザン達に「連合軍発行の通行許可証」なるものをタイプにたたいては渡した。許可証の発行人として、自分の名前をペンで署名した。連合軍がミラノ周辺に入ってくるのもそう遠くはなく、かつムッソリーニ追跡のため多くのイタリア・パルティザンの協力を得たいというのが、ダダリオの魂胆であった。  その彼をじっと見守っていたパルティザンのヴァレリオ大佐は、「わしにも一枚欲しい」と要求した。ダダリオは大佐の注文に応じて、特に次のようにタイプを打ち署名した(注1)。 「ミラノ 28/4 '45 ヴァレリオ大佐はパルティザン総司令部付イタリア高級将校である。彼は北イタリアの国民解放委員会の命令により任務遂行中である。コモ及び同地方で、彼とその武装隊は自由通行を認められるものとする。アメリカOSS軍大尉E・ダダリオ」  ヴァレリオはこのアメリカ軍将校の一枚の証明書が役に立つことがあると確信していた。抜け目ないカンの良さであった。すでにほかにも、一枚の自由通行証を持っていた。それは四月二十五日のミラノ一斉蜂起一時間前に、パルティザン幹部に首脳部から交付された次のような内容のものであった(注2)。 「本書状持参人でミラノ市民・身元番号二七四〇九五は、連絡の任務を持つ本司令部直属の者である。当人の任務遂行のためあらゆる便宜を供与されるよう宜しく。本状持参人は当部のヴァレリオ大佐である。北イタリア国民解放委員会 占領地区イタリア総司令部」  ヴァレリオとしては、この解放委員会総司令部とアメリカOSS将校の自由通行許可証を持っていれば、大抵のことはやってのけられると考えた。しかも前日の二十七日午前、解放委員会首脳はロンゴ、ペルティーニらの主導で「ムッソリーニの扱いについては、逮捕された場所に最も近い場所で、パルティザンによる裁判にかける」と決め、カドルナも最終的にこれを受け入れたということを聞かされていた(注3)。  ムッソリーニのミラノ脱出という緊急事態のため、解放委員会としてはあらためて対応措置をとったのであった。裁判に続いて処刑という手段も状況によっては不可避という想定も行われたようである。だがこの辺の事情は現在もなお、極めて不透明のままである。明確な取決め文書は残されてもいない。文書作成の形跡はなく、首脳間の単に口頭による合意だったとも言われている。その際、カドルナは統帥を逮捕した後、やはり連合軍に引き渡すべきだと強く主張し続けたという。肝心のところで意見の不一致という複雑な事情があった。  どうやらそうした状況をヴァレリオ大佐は熟知していたのか、彼はその二十七日夜、カドルナに「ムッソリーニの処刑は私がまかされている」と伝えた。カドルナはそれを聞いて唖然として口もきけなかった。カドルナは「首脳陣が自分の頭越しに決めたな」と思い込んだようである。その場にいた目撃者の話である。そうした思いからか、カドルナは別に首脳に確認を求めなかった。確認を求めれば、かえって自分の恥さらしになりかねないと思った。「それは軍事作戦担当の君には関係ない」と言われるのがオチと考えたからである。  そのうえ、当時の最大の不透明の点は、ヴァレリオは果して本当に国民解放委員会のトップから、ムッソリーニ処刑を指示されたのかどうかである。これについては文書による記録はない。とすれば口頭でか? 誰からか? これについては指示したと名乗り出た人物もいないし、ヴァレリオも何も言っていない。  今日、この点について多くの研究者がほぼ一致して結論めいたものとして挙げているのが、ヴァレリオ大佐は独断で、かつ率先して「処刑役」になりすましたということである。しかもそれを国民解放委員会首脳が黙認したという点である。これについては、折にふれ問題となったため、さらに後述したい。  ここでヴァレリオという人物について述べておく。  本名はヴァルテル・アウディシオ(WALTER AUDISIO)。一九〇九年イタリア北部アレッサンドリア市に生れる。父は同市のボルサリーノ帽子工場の職人であった。この工場の事務職員にしたいとの父の期待に応え、ヴァルテルは苦学の末に会計係として採用された。  ムッソリーニがファシズム運動を進めている頃、彼は左翼運動に入り、一九二二年のファシスト独裁確立後は、青年共産党員として地下活動に奔走、政治犯としてポンツァ島に流刑となる。ここで多くの共産党政治家達とも知り合った。五年の刑ののち帰郷して結婚するが、ファシスト体制下では左翼政治家に定職があるはずもなく、臨時の日雇い、手仕事だけという生活を余儀なくされた。一九四〇年には、「破壊分子」の烙印を押されて、郷里での生活も覚束ないというみじめさも味わった。  一九四三年夏、ムッソリーニ失脚の際には、それまでの地下活動から躍り出て、ムッソリーニ解任歓迎集会を開くなど、同地方で反ファシズムの最前線に立った。その直後、幽閉中のムッソリーニがヒットラー親衛隊に救出されてサロ政権を樹立すると、再び地下に潜行、北部での反ナチ・ファシズムの抵抗運動のリーダー格となる。  一九四三年九月に、バドリオ政府と連合国との休戦が成立すると、ローマの国民解放委員会に呼応して北イタリア国民解放委員会の創設に参加し、北イタリア各地でパルティザン政治委員として民政にも取り組んでいた。ヴァレリオの名は、このパルティザン時代の呼び名で、それまでの実績から大佐の階級を得ていた。戦後は共産党から本名で国会議員として下院に三期、上院に二期当選している。一九七三年に六十四歳でローマで死去した。  このように少年時代から左翼運動に身を投じ、ファシズムの弾圧下で辛い闘争に明け暮れたヴァルテル・アウディシオにすれば、ムッソリーニは不倶戴天の敵に等しかったのである。そればかりか、彼の過去の劣等感から来る異常なサディスティックな性格が、自らを「処刑者」に駆り立ててやまなかったことが性格分析から指摘されている。  ともかくヴァレリオと国民解放委員会首脳との関係は後述するとして、先を急ごう。  ヴァレリオ大佐はその二十八日朝六時半過ぎ、それまでダダリオの動きを見ていたが、さっと腰をあげるとカドルナに「では参ります」と挨拶した。カドルナは激励の言葉もかけなかった。同行したのは同志アルド・ランプレディ、リッカルドことアルフレード・モルディーニとその部下十一人である。  一行はドンゴに直行する途中、午前八時頃コモのパルティザン司令部に立ち寄った。そこで重要な情報を耳にした。一つはスイスのイタリア語放送が午前七時十五分に「ファシスト党統帥ムッソリーニが逮捕された」とのニュースを流したというのである。ただし逮捕された場所はマジョーレ湖のパランツァだと放送していたとのことであった。パランツァはコモ湖の東、マジョーレ湖に面するスイス領である。実際に捕ったドンゴとは八十キロ以上も離れている。とはいえ、外国の報道機関がイタリアより早く統帥逮捕を発表したことは、統帥処刑を狙うヴァレリオにとって油断のならぬことであった。  もう一つは、ドンゴのパルティザン数人がコモを訪れ、共産党の県支部幹部と協議を行っているとの情報であった。「何のための協議か?」。ヴァレリオにとっては、もはや一刻を争う事態であることをこの時に悟った。  ヴァレリオはこのコモからミラノの上官であるルイジ・ロンゴに電話した。内容についてロンゴは後に、次のように語っている(注5)。 「私はあの時、ミラノの司令部にいた。コモからヴァレリオが状況を知らせてきた。それによるとコモの解放委員会は、ムッソリーニを逮捕したことを誇りに思っているどころか、もてあまし、恐れおののいているとのことだった。また彼らはヴァレリオらを何としてでもムッソリーニに会わせたくはない様子だという。ヴァレリオが指示を求めてきた。返事は簡単だった。『お前がやられるか、奴らをやっつけるかだっ』」  注1 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.76  注2 前掲書 P.76  注3 前掲書 P.78  注4 STORIA DEL SECONDA GUERRA MONDIALE P.2433  注5 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.81 「ドゥチェを引き渡せ!」  ヴァレリオがミラノのロンゴと電話をしている時刻、ムッソリーニとクラレッタはデ・マリアの家で目を覚ました。午前十一時頃であった。  私が初めてこのデ・マリアの家を訪れたのは、その日から十一年目の五六年初夏であった。場所は正確にはコモ湖西岸のアッツァーノ村字ボンツァニーゴ。そのアッツァーノ村の中心ジュリーノ・ディ・メッツェグラがバス停になっており、そこから三百メートルほど西に山道をたどる。  道幅は二メートル足らずの石のデコボコ道。まわりは段々畑が左にあり、右は藪である。その突き当りの一軒家がデ・マリア家である。日本式にいうと三階建のしっくい塗りのかなり大きな農家であった。その後も変りはない。  ムッソリーニとクラレッタをその日の早朝から世話をした主婦リアに、当時のことを尋ねた。私が会った時のリアは、四十がらみの人のよさそうな農婦であった。主人のジャコモとの間に、二人の息子がいた。話はムッソリーニらが一夜を明かしたその寝室で聞いた。 「あれは二十八日の朝五時を過ぎていました。早朝に戸をたたく音がするので、『何だろう?』と出てみると、知り合いのネーリがいて『この人達を泊めてくれ』とのことでした。  ネーリとは古くからの付き合いがあり、あわてて息子達の寝ている寝室を客人に明け渡したのです。部屋を片付ける間、コーヒーを差し上げました。頭に繃帯を巻いた男と貴婦人らしい二人は黙っていました。ほかに数人の男がいましたが、二人の客人を寝室に入れると、若い衆二人を残して帰りました。  寝室は寒いので、暖炉に火を燃やしてあげますと、『暖かい』ととても喜んでいました。  若い衆のサンドリーノとリーノの二人が寝室のドアの外で寝ずに見張りをしていました。私は中にいる二人の男女が大事な人なんだなと思っていました。  朝十一時頃、朝食を作って持って上がると、二人は起きたばかりらしく、窓を明けてコモ湖の方を眺めて、おしゃべりしていました。男の方は繃帯をはずしていて、よく見たらドゥチェ(統帥)でしたのでびっくりしてしまいました。女の方はクラレッタ・ペタッチとすぐに分りました。若い見張りの二人は、部屋の入口からかなり離れて、やはり外を眺めていました。遠慮していたんでしょうね。  朝食はポレンタ(とうもろこしの粉で作ったおかゆ)、サラミ、牛乳でした。 『ほかになにかいりますか?』と聞くとドゥチェが『いや、ありがとう』と言って、自分でサラミを少し口に運ぶと、自分の牛乳やポレンタ、サラミをクラレッタにまわしました。外はずっと雨が降っていて、うすら寒い朝でした」  リアは次のような話もした。 「ここのベッドは、ずっとあの時のままにしてあるんです(確かにシーツなど起き上がったままらしく、シワも寄っていた)。統帥の枕は二つ重ねられていたんです。統帥は頭を高くしないと眠れないらしかったんです。クラレッタがきっとそうしてやったんでしょう。可愛い女でしたよ」  私はその寝室やベッドを写真に撮らせてもらおうと、カメラを取り出したら、リアさんは「それはいけない」と遮り、前もって用意してあった絵葉書を買うようにと言ってきた。絵葉書には、自分の家の全景、その寝室などムッソリーニとクラレッタの一日に関係ある場所が写っていた。  リアは農業のかたわら、この「語り」と「絵葉書」売りを内職にしていたのであった。  ヴァレリオ大佐とピエトロことミケーレ・モレッティ、グイドことアルド・ランプレディらは、コモで徴用した乗用車一台とトラックに乗り換えて、午後二時にドンゴに着いた。途中、パルティザンの検問にあうたびに、ヴァレリオは「自由通行許可証」をかざして、検問を突破するようにつっ走った。このため検問所からドンゴのパルティザン、ペドロに「不審な車、トラック各一台が向ったから注意」の予告があったほどである。  ドンゴ入りしたヴァレリオらは早速、パルティザンの責任者ペドロと談判に入った。「ムッソリーニの身柄を引き渡すよう」求めたのに対し、ペドロが「何の権限があって要求するのか」と、押問答になってしまったからである。ミラノから事前に何の連絡もなく、突然、身柄を要求されては、ペドロとしても簡単に応じられないのは当然であった。ヴァレリオも一枚の令状をも持たないのが大きな弱味であった。  ペドロの記述によると、一時は決裂どころか、殴り合いにならんばかりの以下のような殺気を帯びた会談内容であった(注1)。  ペドロ「なぜ彼(ムッソリーニ)を君に引き渡さなければならないのか?」  ヴァレリオ「では君はいったいどうしたいんだ」  ペ「われわれの直属司令部に引き渡したい。それが筋道だ。われわれは第五十二旅団に属している。それが道理というものではないか」  ヴ「そんなことは言うな。私は彼を処刑しにやって来たんだ」  ペ「なんだって? 殺しに? そんなことはできない。処刑の判決もないではないか」  ヴ「なにを言う。解放委員会はちゃんと判決を下しているんだ。解放委員会総司令部の命令もあるんだ。私はその命令の執行人なんだ」  ペ「だけど……」  ヴ「君は私よりも、下級将校だ。私の方が上官だ。君は私に従えばいいんだっ!」  ペ「なにを言う。ここでのことは、ここで決めるんだ!」  ヴ「なにを言う。ここにいる私が、総司令部を代表しているんだ! 捕虜を引き渡すようこの私が命令する。私に従え! いまや議論などしているどころではないのだ。私に従うことだ!」  ペ「…………」  たがいに名誉と誇りを秘めての激烈な言葉のぶつけ合いであった。ペドロは、ミラノの「解放委員会の意志」とあれば、従うしかないと考えた。 「ちょっと、時間をくれよな」と言うと、ペドロは別室でネーリ、モレッティ、女性のジャンナらと話し合った。相談相手となったネーリらはムッソリーニ処刑に猛反対した。ではどうしたらよいかの具体策は誰も持ち合わせなかった。結局、ヴァレリオの主張に従うほかはなかったのである。  ペ「君の指図に従う」  ヴ「分ったか! これは私の命令なんだ。責任は私が持つ。逮捕者リストを見せろ」  ペドロは前夜作ったリストを手渡した。それにはファシスト首脳部らを含め、二十二人の名が番号を付けて連記されてあった。ムッソリーニ、クラレッタのほか閣僚の名も見えた。ヴァレリオがひとり言のように言った。  ヴ「ムッソリーニ死刑、ペタッチ死刑」  ペ「えっ? ペタッチが死刑? 女性を殺すなんて! 何の罪もないではないか!」  ヴ「彼女はムッソリーニの相談役だった、もう何年も。しかも彼の政治を鼓舞してきたんだ。責任は重い」  ペ「クラレッタが相談役だなんて。単なる愛人に過ぎないのに……」  ヴ「別に私が罰したんじゃない。すでに罰せられているんだ。私はただ命令に従ってやっているだけなんだ。君はかまうな。私はやるんだ! やらなければならないと決めているんだ!」  荒っぽい会話である。ヴァレリオの言葉や態度には、まるでライオンが血のしたたる獲物を食いちぎる獣性さえ感じられた。  解放委員会とダダリオ大尉の発行した二枚の「自由通行許可証」をタテにしたヴァレリオの高圧的な命令に、ペドロも降伏せざるを得なかった。ペドロには、ヴァレリオは所詮(しよせん)、別種の人間のように思えた。  注1 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.87 「イタリア国民の名において!」  スイス脱出を計っていたムッソリーニは、ドンゴでパルティザンに捕った。あとを追って来た愛人クラレッタも捕まり、ともに軟禁された。そのムッソリーニを処刑しようと、パルティザンのヴァレリオ大佐がミラノから追跡して来た。連合軍のダダリオ大尉もムッソリーニを追及して懸命であった。一九四五年四月二十八日は、こうしてイタリアの第二次大戦の大団円の日となろうとしていた。二十余年間、イタリアを支配していたファシスト体制もまさにフィナーレに近づきつつあった。  その四月二十八日午後、ヴァレリオとペドロは逮捕したファシストを一ヵ所に集めることにした。ヴァレリオ大佐はネーリ、ピエトロの案内で、グイドを従えてデ・マリアの家に向った。三時半頃であった。それから一時間半余りの出来事は、イタリアの大戦史上、最後の血の惨劇となる。  これについては戦後、数多くの「実録」と称する記録が出版された。直接当事者のみならず、伝聞を基にしたのも数知れない。しかしようやく真相が語られ始めたのは、六〇年代後半になってからであった。それも断片的なものが散見されるだけで、全貌が描き出されるには七〇年代から八〇年代を待たねばならなかったのである。  直接の当事者が戦後長い間、沈黙を続けたのが最大の理由であった。というのも、当事者が真相を公表することによって、ファシストの残存勢力からの報復を恐れたことがまず第一の理由である。続いて「公正な裁判にもかけずに処刑したことへの非難」と、「クラレッタ・ペタッチまでも処刑したのは行き過ぎ」とのイタリア内外に湧き起った批判などから、当事者はひたすら口をつぐんでいたためである。とりわけイギリス首相チャーチルがその著『第二次世界大戦回顧録』の中で、クラレッタ処刑を強く非難したことから、ヴァレリオらへの国際的な批判が高まっていた。  しかしあれから四半世紀を経て、七〇年代に入るとようやく、当時のパルティザン達が「手記」や「記録」を公表した。イタリア内外に理性的に事実を直視する空気が一般化し、冷静にあの時代を眺める情況が生れたからである。同時に研究者達から事実の公表を求める声も高まったからであった。  当事者による署名入りの最初の手記は、七三年二月八日付共産党機関紙「ウニタ」紙上に、ヴァレリオの同僚グイド(ランプレディ)が同行記を書いた。その年十月に、直接の責任者ヴァレリオ大佐が死去すると、翌七四年四月十日発行の共産党定期刊行誌「GIORNI VIE NUOVE(新しい日々と道)」に、処刑に同行したピエトロ(モレッティ)が、目撃したことを告白した。  続いて七五年には、直接下手人とされるヴァレリオ自身による『IN NOME DEL POPOLO ITALIANO(イタリア国民の名において)』という著書がミラノのTETI出版社から刊行された。つまりこの本はヴァレリオの死後に出版されたわけである。長年にわたり準備し、死後に出版するよう手配したものであった。その中でヴァレリオ大佐ことヴァルテル・アウディシオは、ムッソリーニとクラレッタ処刑の詳細な「真相」なるものを記述し、センセーションを巻き起した。直接当事者による克明な手記だったからである。これによってそれまでの興味本位の伝聞や推理ものは、一挙に具体的な「事実」によって取り換えられることになった。そしてかつ、その段階で同書は一応「決定版」の評価を確立したのである。  以下、同書の中のムッソリーニ、クラレッタの最期の場面を紹介する。  私(ヴァレリオ)は(二十八日)午後三時十分、ドンゴを車で発つ。グイド、ピエトロ、ネーリと計四人だ。空模様はあやしかったが、雨は落ちていなかった。  メッツェグラを過ぎ、ボンツァニーゴに向う。その間に、処刑の場所を見当つけておいた。いい場所があった。道はカーブしており、そこの一軒のヴィッラ(別荘)の前だ。門は閉められており、中の庭園には人影も見えない。ここはボンツァニーゴから約一キロ足らずで、ジュリーノ・ディ・メッツェグラという。別荘の名はヴィッラ・ベルモンテ。あたりでライフルの作動を確かめるため、一発射ちながら車を降りた。ピエトロが私とグイドのあとに従った。私はグイドに言った。 「何を考えているのか分るか? 私は『二人を解放しに来た』と言ってやるんだ」  グイドが答えた。 「馬鹿じゃない? ……でもお好きなように」  デ・マリアの家は、山の中腹にあった。若い二人の見張りがムッソリーニらの部屋の入口に立っていた。  最初にピエトロが中に入って、捕虜(ムッソリーニとクラレッタ)となにかしゃべったあと、あいているドアの向うから私に「入れよ」と合図してきた。  ムッソリーニはベッドの脇に立っていた。茶色の外套を着ていた。ペタッチは洋服を着たままベッドに横になっていた。  ムッソリーニは私を見て「何ごとだ」とつぶやくように言った。彼の下唇がわなないていた。  彼が危険というものにまともにさらされたのは、はじめてのことではなかったろうか。統帥である間は、彼とその敵との間にはつねに、護衛の突撃隊、警察官が壁を作っていた。しかしいまは一対一の差しである。目の前にいる彼は、私のライフルを見て恐れおののき、虚栄心も歴史さえも捨ててしまった一人の男でしかなかった。私は言った。 「解放しに来たんです」  私の言葉に、彼の表情が一瞬、変った。 「エッ、本当か?」  こう聞き返してきたが、私は何も言わなかった。ただひと言、付け加えた。 「早く。急いで下さい。時間がない」  彼はテキパキと動いた。それまでの恐怖の気色は消え、昔ながらの傲慢さが顔に出た。 「どこにやられるんだ?」  私はそれには答えずに聞いた。 「武器は持ってますか?」 「ノー、武装などしていない!」  こうしてわれわれも恐怖心を持つ必要はなくなった。 「さあ、行こう!」  突然、元気づいた彼はベッドの上にいる女性のことなど、まるで忘れたかのように、私にこう促した。 「まず、貴方が。そしてこの御婦人も」  私は落着いてこう言った。彼女は自分の持物を集め始めた。  ムッソリーニはようやく、自分で部屋を出ようとした。私があとに続くと、私を振り返りながらはっきりと口にした。 「君に一つの帝国(UN IMPERO=一つの帝国、一支配権などという意)をやろう!」  誰もそんな言葉を信用しないだろう。ところが彼は、約束は必ず守るといった意志を込め、固く決意しているかのように、そう言ったのである。彼のその時の気持には、私がまさしく解放者と映ったのであろう。ローマの首相官邸でと同じように、このボンツァニーゴの農家でも、彼は重要な約束をするつもりで振舞ったようだ。  彼は部屋を出たあと、クラレッタに「早く、早く」と促した。ペタッチはこの時やっと、ムッソリーニと並んだ。  私とグイドが先導した。ピエトロが一番うしろについていた。われわれ一行は車のところまで歩いた。クラレッタはカモシカのやわらかいハイヒールで、小石の坂道が歩きにくそうだった。ムッソリーニは行進中の兵隊の間にいるように、急ぎ足で歩いた。彼がもし救出されるのだと信じていなければ、意気消沈して引き立てられるように歩いたことだろう。いまの彼は先刻とは違って、見違えるような人間になっていた。  坂道をおりる時、あたりは深閑と静まりかえっていた。私は自分の役割が終りに近づいていることに気付いていた。  あの「彼」がここにいる! 数分後には「国民の裁き」が執行される……。  車のところに着いた。ムッソリーニはまったく自由になったと信じているように見えた。小型車に乗る時は、クラレッタに先を譲ろうとした。  私は言った。 「貴方が先に。たくさん着ているから。その帽子はとった方がいい」  彼はファシスト統帥の帽子をぬぐと、禿げた大きな頭を手でなで回した。  ムッソリーニが座席の奥に座り、帽子をかぶった。私は彼には周辺が見えない方がいいと思った。 「帽子を目のそばまで下げて!」  私はそう言って次にクラレッタを乗せた。 「出発だ!」  前の座席に運転手とグイド。ピエトロはクラレッタのドアの足かけに立ち、私はエンジンの右側の泥よけの上に立って、いつもムッソリーニの方に顔を向けていた。  車はゆっくり、坂を下った。止まる場所は前もって決めておいたあのベルモンテ荘前。近づいたので停車を命じ、窓の外から小声でムッソリーニに言った。 「話はしないように。変な音を聞いたので、ちょっと見てくる」  私はカーブする道路の前後を遠くまで見渡した。誰もこちらに来る様子はない。  私が車のそばに戻ると、ムッソリーニの顔が恐怖でこわばっていた。グイドが私に「彼は『天国、夢の国は終った』と口走っていた」と言う。注意してよく見ると、ムッソリーニはやはり私を疑っているように見えた。  私はピエトロと運転手をそれぞれ五、六十メートル先に監視役として出した。つづいてムッソリーニらを車から降ろし、ベルモンテ荘の塀の前に立つよう命じた。ムッソリーニはウサギのように従った。まさかこれから自分が殺されるとは、思ってもいない表情であった。  ただわれわれ同志の誰もが、これから何が起きるのか、無理に考えないようにしていることは確かだった。  ムッソリーニはもう疲れ果て、不安げにそのあたりを右足を引きずるようにして歩き回っていた。クラレッタが彼に近寄った。二人とも石塀を背にして、こちらを向いた。  その瞬間、私は戦争犯罪人ベニト・ムッソリーニに対する死刑判決を宣告した。 「自由志願軍団総司令部の命令により、イタリア国民の名において処刑する」  ムッソリーニは最初、これが何であるのかまったく分らなかったようだ。ただ目を見開き、唖然とした面持で、自分に向けられたライフルを見つめていた。クラレッタが彼の肩に腕を投げかけた。  私はクラレッタの目を見ながら言った。 「離れろッ! 君も死にたいのか!」  彼女は「君も」の「も」の意味が分ってか、一瞬、ムッソリーニからちょっと離れた。  彼はひと言も発しない。ただ震えていた。すぐに恐怖で顔は土色に変ってきた。唇はわななき、声にならぬ声で叫んだ。 「エッ、何を、大佐殿。何をするッ、大佐!」  気が動顛しているとしか思えなかった。  ライフルの引金を引いた! だが、弾が出ない。試射をここに来る前にしておいたのに——。何度か引いたが駄目だった。グイドが自分のピストルを寄こした。その引金を引いても作動しない!  ムッソリーニは金縛りにあったように、硬く直立したままだった。口は半ば開いたままだ。両腕はだらんと下げていた。  すぐピエトロに車内にある私の軽機関銃を持ってこさせた。  クラレッタはその間に、ムッソリーニの傍に寄り添い、肘を彼の体につけて無言のまま立ちすくんでいた。  湿気のある空気の中で、重い沈黙が流れた。ムッソリーニが短くあえいでいるのがよく分った。彼の目にはコモ湖の夕景が映ったはずだが、それどころではなかったろう。彼はただ震えていた。いまや恐怖におののく一人の男でしかなかった。  さきほどのライフルが故障していたからといって、彼は必ずしも生きる希望を見出したとは思えない。ここで殺されるものと感じていたはずだ。ただただ動顛して、そのため悲しみをまぬがれていたに過ぎなかったのではないか。愛人が一緒にいるのさえ、気付かぬ様子であった。  私にとっては、彼に対する憎しみの感情はなかった。あるのはただ、何十万、何百万の憐れなだまされた人の仇を討つという気持だけであった。  あらためて軽機関銃を手にして、彼の前に立つと、五発を発射した。戦争犯罪人は塀に背をもたれかけながら膝を折り、頭を胸にのせるように倒れた。茫然とするクラレッタも、次の瞬間、四発の銃弾でムッソリーニの上にくずれるように重なった。  時に二十八日午後四時十分であった。その武器はcal.7,65L.MASmod.lo 1938-F.20830である(注1)。  ムッソリーニは時に六十歳、クラレッタは三十二歳であった。統帥は自ら作った歴史によって殺され、クラレッタは彼への熱情によって死を共にしたのである。  二人が殺されたベルモンテ荘の石塀に、いまもこの時にえぐられた銃弾の痕が残っている。そしてその下には、黒いペンキで十字架が二つ描かれ、誰が飾るのか、時たま四季の花が置かれている。  注1 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.98〜104 ロレート広場に逆さ吊り  ムッソリーニがヴァレリオの銃弾を浴びる時、外套の胸をはだけて、「ここを狙え!」と左胸をたたいたという“逸話”を私は読んだことがある。またクラレッタがヴァレリオに「統帥(ドウチエ)を撃たないで!」と懇願し、ムッソリーニを抱きかかえて離さないため、まずクラレッタから先に処刑したという本に出会ったこともある。ヴァレリオの記述には、こうしたことはなく、同行のグイド、ピエトロの前記手記もヴァレリオの説明を裏付けている。もしヴァレリオらの記述が公表されなかったら、事実とは遠い「神話」「伝説」がまかり通っていたかも知れない。  ムッソリーニらの処刑後、引き続きファシスト首脳部の処刑がドンゴでくり広げられる。ヴァレリオらはムッソリーニとクラレッタの遺体を、デ・マリアの家で見張番だったリーノ、サンドリーノの二人に監視させ、ドンゴに直行した。そのドンゴの役場会議室には、ペドロの手でムッソリーニ以外のファシスト党幹部逮捕者が集められていた。  ペドロはヴァレリオから「ムッソリーニとペタッチを処刑してきた」と聞き、呆れはてた。ペドロはヴァレリオの手段や考え方には、なにか私憤や怨念が深くかかわっていると思わずにはいられなかった。ましてやクラレッタまで処刑してしまったことに、ペドロは深い憤りを覚えてならなかった。  ヴァレリオは「ここのファシストの捕虜達も直ちに処刑だ。連合軍の手に渡してはならない」と主張した。これに対しペドロは「明らかに戦争犯罪人と目される上級者と、ムッソリーニの側近だけに限ること」で折合いをつけた。一説によると、ムッソリーニらと共にドンゴで捕ったファシスト関係者は五十一人に上ったとされている。その中には、ミラノ脱出の際の車の運転手二十一人も含まれていた。ペドロはそれらと女性、子供を除いたリストを用意していた。  処刑される者は上級者十六人と決まり、直ちに役場からすぐのコモ湖に面する広場に集められた。五、六十人の男女の村民が、この処刑の様子を見に集まって来た。  ヴァレリオは「俺の仕事はもう終っているんだ。お前がやれ」と、ミラノから随行してきたリッカルドことアルフレード・モルディーニに銃殺隊の指揮を命じた。ムッソリーニの処刑だけを自分の唯一の目的とヴァレリオが考えていた一つの証拠がここにある。  銃殺隊はリッカルド以下ミラノからの十一人とドンゴのパルティザン四人の計十五人と決まり、ファシスト首脳陣はコモ湖に向って一列に並ばされた。ヴァレリオの命令で背後から処刑するためであった。ヴァレリオから、三分間以内の制限付きで、村の修道院の司祭アックルシオ神父により、処刑者全員の免罪の儀式が行われた。  いざ処刑となった時、数人のファシストが振り返り、大声で怒鳴った。 「マルチェッロ・ペタッチと一緒に血を流すのは御免だ! あいつは同志ではないっ」  ヴァレリオは、そのマルチェッロを列外に連れ出した。  するとこんどは、官房副長官のバラクがヴァレリオに大声で抗議した。 「俺は金勲章の叙勲者だ。前からこの胸を撃ってくれ。その権利がある!」  ヴァレリオは、無理矢理バラクを元通りの後向き姿勢にさせた。  二、三人のファシストが一緒に叫んだ。 「イタリア万歳!」  その時、リッカルドの「撃て!」の声と共に、十五人の一斉射撃音が響いた。  広場に硝煙がただよった。ところが二人ほど、倒れずにいるではないか。一人は立ったまま。もう一人はひざまずいただけで、立ち上がろうとさえしていた。  弾丸があたらず、逃げようとしたのは、人民文化相のメッツァソマであった。すぐさま、二度目の射撃が行われた。こんどは全員が倒れていた。それらの死体にもう一度、一斉射撃が浴びせられた。  この時の状況は写真に撮られており、硝煙の中にまだ倒れない二人のファシストが写っている。処刑隊の一人が呆然と立ちつくしているのを、われわれは今日、見ることができる。  この一部始終を目撃していたマルチェッロ・ペタッチは、広場の柵を一気に跳びまたいで逃げるや、コモの湖面に身を投げた。数秒間、潜行して泳ぎ、頭をもち上げたとたん、パルティザンに射殺された。このマルチェッロは姉のクラレッタがムッソリーニの愛人であることから、虎の威を借りた狐よろしく、数々の悪業を重ねたことで知られていた。  こうして処刑が完了したのは、午後五時四十五分頃である。処刑されたのは党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニ、官房副長官フランチェスコ・バラク、それにパオロ・ゼルヴィーノ、フェルナンド・メッツァソマ、ルッジェーロ・ロマーノ、アウグスト・リヴェラーニの四閣僚、前ミラノ県知事ルイジ・ガッティ、ファシスト文化協会会長ゴッフレード・コッポラ、党幹部ニコラ・ボムバッチ、国営ステファニ通信社長エルネスト・ダクヮンノ、全国農業協連会長マリオ・ヌーディ、ムッソリーニの航空機操縦士ピエトロ・カリストリ空軍大佐、ファシスト検察官パオロ・ポルタ、ムッソリーニの連絡官ヴィート・カサリヌオヴォ、ファシスト・ジャーナリストのイドレーノ・ウティムペルゲ、そしてマルチェッロ・ペタッチの計十六人であった。  凄惨な一日であった。そしてファシズムにはっきりと弔鐘を鳴らした残酷な儀式は終った。コモ湖を囲む山々が夕焼けに染っていた。  暗くなる頃、コモ湖から引き揚げられたマルチェッロの遺体も含め、全員の射殺体がトラックに積み込まれた。ヴァレリオらは途中ジュリーノ・ディ・メッツェグラでムッソリーニとクラレッタの遺体を、この十六人の遺体の上に重ね、一路ミラノを目指した。  ミラノに運ぶ目的は、これら遺体をロレート広場のガソリン・スタンドで曝(さら)しものにするためであった。ヴァレリオは二十八日早朝、北に向けてミラノを発つ直前、解放委員会情報部長チリッロから「ムッソリーニはロレート広場で処刑された」旨の連合軍宛への発信電文を見せられていた。この電報は第二部第七章で述べたように、二十七日夕、シエナのアメリカ軍情報部からムッソリーニの身柄について問合わせがあったのに対し、二十八日早朝にチリッロが、連合軍にその身柄引き渡し要求をあきらめさせるために打った芝居であった。  その電報を一瞥(いちべつ)した時から、ヴァレリオはムッソリーニ処刑後は、是非ともこのロレート広場に遺体を運ぶと、心に決めていた。ドンゴからミラノへの帰途のトラック上で、彼はひとり、八ヵ月前のあの熱い日のことを想い出していた。  四四年八月九日のミラノ市アブルッツィ通り。その大通りをミラノ占領ドイツ軍トラックが通行中、愛国行動隊が襲撃、ドイツ兵五人を殺害し、多数の負傷者を出した。犯人は逃走した。このためドイツ軍司令官ケッセルリンクは、死者一人に対し十人のイタリア人を処刑することにした。つまり五十人もの大量処刑である。しかしミラノ大司教シューステルは、ケッセルリンクに嘆願し、十五人だけの処刑となった。  市内のサン・ヴィットーレ刑務所に収容中の反ナチ・ファシスト政治犯から犠牲者が選ばれ、翌十日早暁、事件現場にほど近いロレート広場で、ファシスト銃殺隊により処刑された。遺体は数日間にわたり、見せしめのため血みどろのシャツ姿で、無残に放置された。ミラノのパルティザンにはもちろん、市民の多くにとって忘れ得ぬ出来事となった。  ヴァレリオは、この処刑された仲間達のためにも、ムッソリーニらをこのロレート広場のガソリン・スタンドに曝して、報復したかったのである。  市内に入ってから、ファシストに間違えられるという混乱もあって、二十九日午前三時頃、ようやくロレート広場に着いた。遺体十八体が広場の連合軍空爆で壊されたガソリン・スタンドに並べられた。  騒ぎを聞きつけて、早朝から市民がムッソリーニらファシスト首脳、クラレッタの死体を見ようとつめかけた。いつの間にか、周囲には数千数万の群衆が群がり、足の踏み場もないほどになった。四月最後の暖かい日曜日とあって、群衆はみるみるふくれ上がったのである。この群衆にとっては、血まみれのムッソリーニやファシスト首脳らの死体を見ることは、二十余年にわたるファシズム独裁の終結を確認する熱狂的な祭典となるはずであった。しかし、群衆は興奮はしたものの、熱狂はしなかった。むしろ歴史の激動という重みを感じ取っていたからかも知れない。  群衆が眺めたムッソリーニの遺体は、無残そのものであった。顔に一発ぶち込まれ、その弾丸が後頭部に抜けた穴が大きく裂けていた。すでに顔全体がはれぼったくふくれ、両眼は見開いたままだった。右足の革長靴はなくなっていた。隣に横たわるクラレッタは、美しい死に顔であった。茶色のスーツの下のブラウスがはだけ、青いスリップが垣間見えた。  一人のパルティザンが、ムッソリーニの体を動かし、頭をクラレッタの胸の上に載せてやった。死んだ後も一緒にしてやろうという計らいからであった。  突然、一人の中年の女性が躍り出て、ムッソリーニの遺体にピストルを五発、射ち込んだ。「息子五人がこの男のために死んだのだ!」と叫んでいた。死体を踏みつける人も何人か続いた。  広場には興奮が渦巻き、群衆はひと目だけでも見ようと押し合い、混乱も生じた。自動小銃をかかえたパルティザンや警察官、消防隊など三百人も繰り出したが、混乱はおさまらなかった。  その頃、ごく近くで元ファシスト党書記長アキーレ・スタラーチェが捕まり、ロレート広場に引き立てられて来た。群衆の見守る中で、パルティザン約十人によって、背後から射殺され、死体は同じガソリン・スタンドに運ばれた。  混乱や興奮を鎮めるため、パルティザン達は一計を案じ、遠くからでもファシスト首脳の遺体が見えるようにと、スタンドの鉄骨に逆さ吊りにした。まずムッソリーニ、次いでクラレッタ、その他バラク、パヴォリーニ、それにいましがた処刑されたスタラーチェの遺体も同様に逆さ吊りにされた。  クラレッタのスカートがまくれて顔の方まで下がり、下着まで見えたので、パルティザンの一人がスカートを脚にまきつけて縛った。  この広場の光景はミラノ一番乗りを競った連合軍の従軍記者達が、たまたまロレート広場で出くわして記録している。アメリカのニューヨーク・タイムズ、UP通信、ヘラルド・トリビューン、タイム、ボルティモア・サン。イギリスのタイムズ、ニューズ・クロニクルなどの特派員達であった。  しかし、その広場に実は日本人がいて、同じように逆さ吊りの現場を目撃していた。ベルリンの在ドイツ日本大使館勤務の石井彪である。石井は戦後、ローマの在イタリア日本大使館にも勤務するが、あの一九四五年四月二十九日のロレート広場の興奮を次のように語る。 「あの頃、独伊国境にある日本人避難所の食糧確保のため、ベルリンからミラノにお米の買付けに行っていた。米どころのミラノだから何とか調達できるだろうということだった。ところが到着後、ミラノが約二万の反ナチ・ファシストのパルティザンに包囲されてしまったということで、身動きできなくなった。ドイツ領に脱出できるかどうか、なんとか中央突破を試みるか——と悩んだ挙句、ドイツ領事館に行ってみようということになった。  いったんドイツ領事館に入った後、情報収集のため一人で外出したところ、ロレート広場は大変な人だかりだった。なんとムッソリーニらが処刑されているということだった。人波をかき分けてその現場に近付いてみると、ムッソリーニとクラレッタ・ペタッチの遺体がガソリン・スタンドの上の鉄骨に吊り下げられたところだった。  私は逆さ吊りのその二人だけの姿を夢中でカメラにおさめた。まわりでは大勢の人々がワイワイ騒いでいた。誰もが興奮していて、在住中国人の多いミラノでは敵国日本人とは気にもとめなかったし、気付くこともなかったのだろう。  そんな時、近くの別のガレージで二人のナチ・ドイツ将校が至近距離で射殺された。咄嗟(とつさ)に車庫のトラックの下にもぐり込んでしまった。本能的にそうしたのだった。  その後、約二週間、私はミラノのアメリカ情報部に監禁され、さらに中部イタリアのサルサマジォーレ・キャンプに移送されて一年後に日本に送還された」  そのムッソリーニ逮捕とそれに続く処刑が日本に伝えられたのは五月一日付以降の新聞によってであった。どのように伝えられていたか——。  毎日新聞には五月一日付で「ム統帥逮捕さる」の二段見出しでストックホルム特電二十九日発として、次のように報道されている(原文のまま)。 「ミラノ放送によればムッソリーニ統帥は党書記長バラック、内相ツェビノ、国民文化相メッサソーマ、社会事業相ロマノ、交通相リヴェラニ等共和ファシスト政府首脳部と共にイタリア解放委員会の手により瑞伊国境コモ州で逮捕されたといわれる」  続いて翌二日付では、同じくストックホルム特電で「ム統帥を処刑、伊共和国首脳と共に」の同じく二段見出しで次のように伝えた。 「廿八日午後四時北イタリアのミラノから北に五十キロ離れたコモ湖のドンゴ村でムッソリーニ統帥は同志十七名と共に非業の死を遂げた。  統帥を逮捕したのは叛乱蜂起軍で彼等はドンゴ村外れの丸太小屋に休んでいた統帥を発見、直ちに死刑を宣告し処刑してしまったという。蜂起軍はム統帥以下の死体をミラノ市に運び翌廿九日市内広場に公開したと伝えられる。なおム統帥の女友達クラレッタ・ペタッチ夫人も処刑され同所に公開されている」  ムッソリーニ夫人ラケーレは二十九日、ラジオの臨時ニュースで「ムッソリーニが処刑されました」とのアナウンスを突然、耳にして動顛した。 「えっ! 夫が殺された?」  覚悟はしてはいたものの、すぐには信じられなかった。三日前の二十六日夜、「愛するラケーレよ。余はいま、生涯の最終局面を迎えている。自分で書く本の最後のページになった」で始まる手紙を受け取って泣いたばかりだった。その夜、思いがけず電話がかかって来て三十分間も話した。それが最後となってしまった。  その時の夫の声がラケーレの耳には残っていた。夫は何度も言った。「手紙に書いたように、自分と子供達を救うのだ」と。ラケーレは涙をこらえながら、その声を胸にしまい、傍にいた三男のロマーノに受話器を手渡した。ロマーノは最後の父の声ということが分っていて、涙を流しながら話をしていた。  そのあと再び受話器を握ったラケーレに、ムッソリーニは言った。 「さあ、出発するんだ。ラケーレ。君と子供達の安全のために。俺は自分の運命を全(まつと)うしなくてはならんのだ。ラケーレ、頼むよ。くれぐれも元気でっ」  その声が最後となってしまった。その声を反芻しているうちに、まだラジオがニュースを繰り返し伝えているのに気が付いた。アナウンサーの言葉がラケーレの胸を貫いた。 「ムッソリーニはクラレッタ・ペタッチと共に処刑されたのです」 「えっ!」  思わず耳を疑った。「あの女が……。一緒だったっ!」  衝撃で体が震えた。  そのショックから立ち直るには数年を要した。未亡人はムッソリーニとの生涯の回想録を書き綴って心の傷を癒すことができた。それは一九四八年、ミラノのモンダドーリ社から出版された。『LA MIA VITA CON BENITO(ベニトとの私の人生)』のタイトルであった。その中で夫の死のニュースを聞いた時のことを次のように総括している。 「夫だけでなく、多くの同志が死を共にした。知っている人がたくさんいた。その人達はファシスト幹部ということで一緒に処刑された。最後まで生命を共にして下さったことに感謝したい。  そしてあの女も——。最後までドゥチェに付きまとい、スキャンダルを増し続けたあの女は、自分勝手な犠牲でその罪を償ったのだ」  第九章 誰が処刑を命じた? 「なぜクラレッタまで!」  いったい、ヴァレリオ大佐は誰の命令を受けて、ムッソリーニそれにクラレッタの処刑を執行したのか? 果してどのような正式の命令があったのか? クラレッタという女性までも処刑する権限はあったのか?  前章でヴァレリオ大佐ことヴァルテル・アウディシオ元上院議員の記述を中心に、これに関ったパルティザン達の証言を合わせて、ムッソリーニらの処刑の状況を述べたが、その結果として前述のいくつかの重要な疑問符が浮び上がってくる。  それというのも、ヴァレリオが解放委員会の誰から正式に処刑命令を受けたのかはまったく触れられておらず、かつヴァレリオの発言には自ら率先して処刑を強行した口吻が感じ取れるからである。  それを裏付けて、ドンゴのパルティザン指揮官ペドロことピエール・ベッリーニ・デッレ・ステッレが、ヴァレリオはまるで私憤を晴らそうとするかのような感情的態度とやり口を用いたと強く非難したように、処刑の経過にどこか強引さがつきまとっていることを否定できないのである。  実際、こうした諸点は戦後いち早く、イタリア内外で問題視され、特にイタリアでは幾人ものジャーナリストが精力的に追及に当ってきた。とはいっても、戦争直後ではヴァレリオ大佐の素性は分らず、四七年に共産党機関紙「ウニタ」が「わが党員のヴァルテル・アウディシオが本名」と発表したものの、当の本人はなぜか頑なに沈黙を続け、死後の七五年に初めて記録を公開したことは前述の通りである。  ところがこの長い沈黙そのことも究明の対象になり、それが進むにつれて、どうやら「真の下手人は別の人物である」とか、さらに「ヴァレリオはその“真の下手人”を陰蔽するための隠れミノではないか」との疑惑さえ生むに到った。この点は実は現在もなお謎のままであり、後述のように恐らく歴史の「闇」の中に消されてしまうかも知れないとの見方が専らである。  関係者の多くが、それも直接関った人物が、ムッソリーニらの処刑の直後からなぜか相ついで他界しており、うち何人かは不可解としか言いようのない死を遂げている事実からである。まさに推理小説さながらのミステリーなのである。  以下、上述の事情を踏まえて、項を追いながら本章冒頭にあげた疑問や謎についてまとめてみる——。  まず、ヴァレリオに対して、解放委員会からムッソリーニ処刑の命令が出されていたのかどうかについて言えば、結論的には正式手続きによる命令は出ていなかったということである。クラレッタ処刑にしても、解放委員会の決めた処刑対象者の中には入っていなかった。  四五年四月二十五日、ミラノの解放委員会首脳部は、戦争の終結が近い情勢からファシスト首脳らの処遇に関し、第二部第五章で述べたように、次の法令を作った。 「ファシスト政府の閣僚ならびにファシズムの幹部は、憲法による保障の抑圧、大衆の自由の破壊、ファシスト体制の創設に手を貸し、国家の尊厳を危殆(きたい)に陥れ、かつ裏切った有罪、さらに国家を現在の破局に導いた有罪のため、死刑もしくは少くとも強制労働の罪に処せられるべきである」  これと同時にまた、「武器を携行しかつ抵抗しようとして捕ったサロ共和国のファシストはすべて死刑に値し、直ちにその宣告を執行すべきである」ことも決めた。  ミラノの解放委員会は、すでにローマのイタリア政府から行政の法的権限を委任されており、以上の法令は法務行政の第五条として確認、その正当性には何ら疑義はなかった。  この点からすれば、ファシズムとファシスト党の統帥ベニト・ムッソリーニは明らかに有罪であり、死刑は免れない。しかしクラレッタ・ペタッチは前記の条項に該当するだろうか。「ファシスト政府の閣僚」でもなければ「ファシズムの幹部」でもない。さらにまた、かりにファシスト党員だったとしても「武器を携行し、かつ抵抗しようとして捕ったサロ共和国のファシスト」ではないことも明白であった。となれば、クラレッタ処刑は過剰反応であり、確実に法令違反であった。  イタリアのジャーナリスト達や法律家達は戦後、この点も人道上の問題として糾弾した。処刑人には明らかに「殺人罪」が構成されるからである。「よくやった」との声も一部にあったものの、ヴァレリオらが長年沈黙を続けたのもそうした糾弾のためであった。「主犯格」ヴァレリオは結局、自分の死後に処刑の状況を告白したほどだったのである。  さらにまた「処刑命令」については、文書や口頭によるいかなる伝達も、国民解放委員会首脳から発せられた形跡はないことで、イタリアの研究者は一致している。ただ首脳陣は何となく後述のように、ヴァレリオ大佐にまかせたフシがあるとの見方をとっているのが実情である。「ムッソリーニ逮捕」と聞いて、ヴァレリオの挙動から「あいつは殺(や)るのではないか」との気持を首脳陣は抱いたらしいのである。  ヴァレリオ自身、「俺が殺ってやる」とのつもりになり、そのように振舞った。  その最初の意思表示が、ヴァレリオがカドルナ将軍に「自分が処刑命令を受けている」と“ハッタリ”をきかした時である。既述したように、カドルナは呆れたものの、それを確認もしなかった。ヴァレリオはまずこれを「黙認」の証拠とした。  その頃の状況はヴァレリオにとってすべて好都合に動いていた。「殺る気」のヴァレリオはそうした状況を一つひとつ巧妙に利用したのである。その点について著名なジャーナリストのインドロ・モンタネッリは、次のように記述している(注1)。 「ムッソリーニ逮捕の報は二十七日午後、ドンゴの財務警察を通じてミラノに届いた。身柄はジェルマジーノの財務警察隊舎に収容されているとのことであった。この報告を受けた解放委員会の首脳レオ・ヴァリアーニはてっきり、ムッソリーニは財務警察の手で捕ったと思い込んだ。現にそのように他の首脳にも伝えた。このため解放委員会の首脳陣はムッソリーニの身柄が連合軍に引き渡されかねないと大いに懸念した」  というのは実は、それより以前の段階で、もしムッソリーニが逮捕された場合は財務警察がその身柄を連合軍に引き渡すまで管理するということになっていた。  その後四月二十五日、軍事法廷を設置し裁判にかけ処刑するということに決ったのだが、その旨が徹底せぬまま財務警察がムッソリーニを連合軍に引き渡す可能性は十分考えられたからである。  まさにそうした時、カドルナの許にアメリカ軍のダダリオ大尉が、グラツィアーニを逮捕したと誇らしげに入って来たのである。このダダリオがムッソリーニを追って再度北上する気配もあった。そうなればムッソリーニがダダリオの手に渡ることも予想された。事態はまさに切羽詰ってきた。  ヴァレリオはその時を見計ったように、ミラノを発った。彼は途中コモに立ち寄った。そのコモで同地方のパルティザンと話したが、パルティザンらはヴァレリオに非協力的であった。いらだったヴァレリオは直属上官のロンゴに電話した。ロンゴの返事は「お前がやられるか、奴らをやっつけるかだっ」であった。ヴァレリオはここでまた、自分にまかされているという言質をとったつもりであった。  ヴァレリオはこのように巧みに自分を「処刑人」に仕立てていった。そしてそれを自他ともに認めさせようとしたのである。またペルティーニの次のひと言も、ヴァレリオを鼓舞したともいわれている。  ヴァレリオがムッソリーニ追跡にうずうずしているのを知ったペルティーニは「やりたい奴にやらせろッ」と口にしたという。これを耳にしたヴァレリオは、自分への許可と受け取ったらしい。しかもその頃ペルティーニは「ムッソリーニは野良犬と同じだ。射殺するに値する」と公言していた。これらは処刑許可にも等しい。  この「野良犬」発言はフランスの歴史学者マクス・ガロの記述にもあるが、イタリアの現代政治家ジォヴァンニ・スパドリーニ(共和党・元首相、上院議長)は九〇年秋、東京で日本のイタリア現代史研究者達との会合で「ペルティーニとガロは極めて親密な友人同士」と語っていた。  そのペルティーニは戦後、「クラレッタ・ペタッチについては、われわれは当時、有罪による処刑者とはしていなかった」と明言していた。  以上、ヴァレリオへの命令の存否に関する重要記述を紹介したが、いずれも直接に命令ないし指示したものではない。すべて間接発言をヴァレリオが自分に都合よく解釈したに過ぎない。当時、ペルティーニと同僚の国民解放委員会首脳であったレオ・ヴァリアーニ上院議員は、ヴァレリオの人物像につき、戦後、次のように述べている。 「ヴァレリオという人物は、緻密な計算高い会計係ではあるが、平衡感覚に欠け、分別を失う面があった。すぐにカッとなり、狂暴に走る性格であった」  注1 L'ITALIA DELLA GUERRA CIVILE P.327 チャーチルも独自の調査  ムッソリーニとクラレッタ達の遺体が、ロレート広場で逆さ吊りされた後、ロンドンで新聞を見たイギリス首相チャーチルは、その報道写真に強い衝撃を受け、事件の全容についての調査を指示した。その調査結果はダウニング街十番地に届けられ、現在もなお古文書館に保管されているという。  この事実を“発掘”したのは、ムッソリーニ処刑事件を長年しぶとく追跡しているイタリアのジャーナリストの一人フランコ・バンディーニである。この文書の存在をつきとめた彼は、あの逆さ吊りの日から四十年を経た八五年七月、初めてその内容をイタリアで発表した(注1)。バンディーニ発表のあらましは次の通りである。 「チャーチルはロレート広場の無残な写真を見て『この写真には強いショックを受けた』と語り、在イタリア連合軍最高司令官のイギリス人サー・ハロルド・アレグザンダーに書簡をしたためた。五月十日の日付となっている。 『写真を見た。新聞によるとムッソリーニを殺害した人物は、その卑怯さを自慢している。しかも愛人をも一緒に処刑している。その愛人は戦犯リストに載っていたのだろうか? この女性をも殺害する権限は誰から与えられたのだろうか。この件に関し、イギリス軍当局は調査照会する必要があると考える』  アレグザンダーはこのチャーチル書簡をイタリア占領連合軍高等弁務官サー・ノエル・ハーヴロック・チャールズに回送、調査を命じた」  このチャールズなる人物は当時ローマにいて、イギリス大使の資格で軍政を担当していた。一八九一年生れのキャリア外交官で、その経歴を調べてみると、ブリュッセル、ブカレストなどに在勤のあと、一九二六年には駐日英国大使館に一等書記官として赴任して来ている。その後は本省、さらにブリュッセル勤務ののち、大戦勃発前に三年間ローマに参事官として在勤。大戦中はポルトガル公使、ブラジル大使を務め、再びローマで連合軍高等弁務官を一九四四年から四七年まで務めた。  チャールズはチャーチルの指示に従いイタリアの関係者にも直接会って精力的に調査、その結果をロンドンに報告した。その内容は次のように、四月二十五日のミラノの大司教館におけるムッソリーニと解放委員会首脳の会談、および四月二十八日の処刑の二部に分れている。 ▼大司教館での会談 「ムッソリーニは(四五年)四月、ミラノの一実業家を通じて解放委員会幹部に接近しようとしていた。解放委員会はこれを受けて協議ののち、シューステル枢機卿を通じてムッソリーニに一通のメッセージを送った。メッセージはムッソリーニが解放委員会に降伏し、捕虜として連合軍の到着を待つとの内容であった。  四月二十五日午後、ムッソリーニは大司教館で解放委員会のキリスト教民主党代表アキーレ・マラッツァ、パルティザン軍指揮官らと会談したいと申し入れてきた。  午後六時十五分に大司教館に入ったマラッツァとカドルナの二人は、ムッソリーニと会ってすぐ無条件降伏を決意していると確信していた。  しかし会談が進むにつれ、ムッソリーニは意味のない条件を持ち出した。解放委員会側は全面拒否した。このためムッソリーニはドイツ軍とも協議し、そのあとで再び会談したいと言った。それも断られると、一時間後に再会を約束して帰ったが二度と現われなかった。シューステル枢機卿が午後八時半に県庁に電話すると、ムッソリーニはすでに県庁から出発したあとであった。  マラッツァによれば、ムッソリーニは始めは間違いなく降伏する気持になっていたという。しかしそのうちに心変りしたとし、その理由として次を挙げた。  前のミラノ県知事であるファシストが、ムッソリーニが帰ったあと、ムッソリーニ直属のファシスト軍団の降伏提案を持参してきた。その時、解放委員会の社会党代表であるサンドロ・ペルティーニが部屋に入ってきた。厳格な人柄の彼は、ムッソリーニがこんど来たら即時、国民裁判で起訴すべきだと重ね重ね強調した。  この時点で、前知事は帰って行った。マラッツァはこの前知事がムッソリーニに、ペルティーニの発言を報告したと考えた。その証拠に、ムッソリーニはそのあと急遽、コモ方面に向けて出発した。  一方、別の責任ある証言によると、解放委員会首脳の蜂起委員アルペザーニ(自由党)、マラッツァ、ペルティーニ、セレーニ、ヴァリアーニが一斉蜂起の二十五日午前、サレジオ会寄宿舎でムッソリーニらファシスト党首脳の死刑を決定した。その席上、マラッツァの許にムッソリーニからの会見申し入れが届いた。このため、改めて話し合った結果、死刑の決定は取止め、ムッソリーニが降伏して来たら、蜂起委員会の別のメンバーであるその日に任命された新県知事リッカルド・ロンバルディと財務警察のアルフレード・メルジェーリ大佐の二人が統帥を逮捕し、連合軍に引き渡すまで拘禁するという意見でまとまったと、マラッツァは回想している。しかしこれについて、マラッツァ以外のメンバーは、そのような一致はなく、ムッソリーニの死刑は既定の路線だったと主張している」 ▼四月二十八日の経過 「ムッソリーニらファシスト党幹部は二十七日午後、ドイツ軍と共に敗走中、ドンゴでパルティザンにより一斉に逮捕された。武器は携行していたものの、全員がほぼ無抵抗でパルティザンに拘禁された。ムッソリーニとクラレッタ・ペタッチはその後、パルティザンにより惨殺されたが、これに関連して次の件は留意されるべきである。  二十七日夜、ムッソリーニの逮捕がミラノの解放委員会に報告されると、ヴァレリオとソラーリ両名は、財務警察大佐メルジェーリに対し、ムッソリーニを連れ帰るため解放委員会の名による派遣方を要請した。このあたりは不明瞭であるが、このあとヴァレリオは出発した。出発に当りヴァレリオはメルジェーリに〈ムッソリーニに逃げられようと、またムッソリーニが殺されても、誰もわれわれを非難、叱責することはできないことは分っているでしょうね〉と、念を押して行ったという」  チャールズ報告は、チャーチルから要請を受けて、一ヵ月後の六月十三日付でロンドンに送付されている。  チャーチルがこの報告に満足したかどうかは不明だが、チャールズ報告は以上を総括して、さらに次の諸点を挙げている。  一、ムッソリーニは四月二十五日の段階で「降伏」を決意していたことはほぼ確実であった。しかし翻意して北に逃走した理由は前記「ペルティーニ発言」が大きな要因だったとみられる。同時に一部パルティザン(ヴァレリオ)にムッソリーニ処刑を決意させたのも、この「ペルティーニ発言」であろう。  一、ヴァレリオは自ら“志願”して北に向ったもので、明確な命令や指示によったものではなかった。しかも北に向う前に“殺害”を示唆していたことは重要である。  一、ミラノの国民解放委員会首脳部はあらゆる面で政策の一致を欠いていた。単に反ファシズム諸政党の寄り合い世帯に過ぎず、命令系統は混乱していた。  一、マラッツァは「降伏後のムッソリーニの逮捕を執行管理するのはメルジェーリ財務警察大佐であった」と述べていた。しかし他の解放委員会首脳は、財務警察が逮捕したら身柄が連合軍に引き渡されるのではないかと強い懸念を抱いていた。ところがドンゴのパルティザンからミラノの解放委員会に「ムッソリーニを逮捕し、財務警察舎屋に拘禁中」との連絡が入った。これで誰もがムッソリーニを財務警察が管理しているものと受け取り、処刑やむなしの空気を生んだ。  バンディーニは以上のようにチャールズ報告を紹介したあと、論文の最後で私見として「ペルティーニ発言」がムッソリーニ処刑を促す“引金”的作用を果したとし、「ムッソリーニの運命を決めたのはペルティーニであった」と述べている。  なおこの論文はペルティーニが八五年六月、大統領の七年の任期を終えるのを待って発表された。ペルティーニはこの論文につき、ノー・コメントだったと言われる。  注1 STORIA ILLUSTRATA N.332 1985年7月号 ヴァレリオ、実は“端役”?  戦争終結直後、「ムッソリーニを処刑したのは俺だ」、「殺(や)ったのはあいつだ」など、名乗りをあげたり、名指しされたりした者は十指にも及んだ。特に処刑直後と戦争終結の四五年五、六月の混乱期には、「報道の自由」の復活も手伝って、マスコミ最大の話題となった。  当初、「処刑したのはパルティザンのヴァレリオ大佐だ」とは、ロレート広場にムッソリーニらの遺体を逆さ吊りした時点で、イタリア内外に知れ渡っていた。あの日、見物のミラノ市民や連合軍従軍記者達にパルティザンが吹聴したからである。しかし当のヴァレリオは沈黙を続け、二年後の一九四七年にイタリア共産党機関紙「ウニタ」が「ヴァレリオ大佐はわが党のヴァルテル・アウディシオである」と公表して、初めて素性が公にされた。しかも当人の著書が出版されたのは、七五年になってからであることは既述の通りである。  ところがその著『イタリア国民の名において』が出版されてからというもの、年を経るごとに異論、反論も現われて、さまざまの謎や疑惑を生むに到った。研究や究明が進むにつれ辻褄の合わぬ点や疑問が投げかけられたためである。特に研究者の一人で作家のロベルト・ジェルヴァーゾなど、幾人もの専門家が次のような疑問を呈示している。  一、ヴァレリオは著書のほかにもいくつか手記を書いているが、処刑に同行した人物がそのたびごとに合致しない。どれが本当か。  一、ヴァレリオ処刑説が定着する前、ドンゴやコモではピエトロ(モレッティ)が真の処刑人で、ヴァレリオは「とどめの一発」を射ったに過ぎないと語られていた。それも複数の人々がそのように語っていた。  一、ヴァレリオはクラレッタをCAL7・65L.MAS拳銃で射殺したと告白しているが、ミラノ大学法医学研究所カイオ・カッターベニ教授の検屍結果では、カリバー九ミリ弾二発が体内から摘出されたのはなぜか。  一、ヴァレリオつまりアウディシオの友人で元トリエステ大学教授から上院議員になった同僚は、「君までがわしが処刑したと本気で信じ込んでいるのかね」と真顔で言われた。これは何を意味するのか。  一、ムッソリーニが最後の一夜を過した農家の主婦は、ジャーナリストのフランコ・バンディーニに「あの連中(注・ヴァレリオたち)は、“別の人達”が殺(や)ったことを知っているはず」と打ち明けた。“別の人達”とはいったい、誰なのか。  一、あの処刑の日、のちに共産党書記長となったロンゴがドンゴにいたのを目撃した人物がいる。実際の処刑人はこのロンゴで、ヴァレリオはその“罪”をかぶっているに過ぎないのではないか。  一、処刑の日の早朝、ムッソリーニとクラレッタを農家に連れていったパルティザン、ネーリとジャンナの二人がそれから間もなく共に消されたのはなぜか。ネーリは五月七日にスパイ容疑(一説にはイギリス情報機関と密接な関係ありとされる)で同僚から処刑。またジャンナは六月二十三日、コモ湖の底から死体で発見された。二人の葬儀は地区共産党主催で行われた。ネーリ処刑はロンゴが決定したとの説もある。  これらは現在も語られ、解けぬ謎となっているいくつかの疑問の主なものである。  解明に重要な手掛りを持つのは五人と言われてきた。ヴァレリオ、ペドロ、ビル、ピエトロ、それにロンゴである。うちヴァレリオは七三年に、ロンゴは共産党書記長をエンリコ・ベルリングェルに譲った後、八〇年に、またペドロことピエール・ベッリーニ・デッレ・ステッレは八四年にそれぞれ病死している。ビルとピエトロの二人だけが八十歳を超えてコモ湖近辺に健在である(九一年秋現在)。  このうちビルことウルバーノ・ラッザーロは近年執拗に、ムッソリーニとクラレッタの真の処刑人はロンゴだとの主張を繰り返し、ヴァレリオはロンゴの“汚れた手”を自分がひっかぶる見返りとして共産党から国会議員にさせてもらったのが“真相”だとさえ述べ、その著書さえ出版している。前出のジャーナリスト、バンディーニも長年の丹念な研究成果から「ロンゴ処刑人説」を採っている。  ビルのほかのもう一人の生き証人ピエトロことミケーレ・モレッティは、七四年四月ついで九一年四月「私はヴァレリオの銃が作動しなかったため、自分の銃を貸しただけ」と公けに語っている。実はこのピエトロが“真の下手人”だと主張する元パルティザンもいぜん絶えないからである。  本項の冒頭に挙げたような謎や疑惑を複合推理して行くと、「ロンゴ説」も「ピエトロ説」もなにか根拠があるように思え、ヴァレリオ説は急速に影が薄くなってしまうのである。そればかりか、ムッソリーニ処刑の蔭には、大きな陰謀が隠されているようにも思えてくる。  このような謎と疑惑はもう解けることがないのであろうか。次にヴァレリオ説以外の“真相”を紹介する。それらに共通するのはヴァレリオは“とどめの一発”を与えたに過ぎない脇役だったということである。 「殺(や)ったのはピエトロだ!」  サンドリーノという若いパルティザンを覚えておいでだろうか。そう、ムッソリーニらが最後の夜を過した農家で、同じく若いリーノと監視役を務め、処刑後は遺体の見張りをさせられた人物である。そのサンドリーノが処刑から半年後の四五年十月ミラノの共産党系新聞に、「ヴァレリオ大佐が処刑したというのは正確ではない。正しくはピエトロことミケーレ・モレッティで、ヴァレリオは“とどめの一発”を加えただけである」と発言した(注1)。  処刑目撃者の一人サンドリーノのこの言葉は「爆弾発言」にも等しかったが、すでにヴァレリオ大佐の名はパルティザンの間で畏敬の念で語られ、連合国でも「統帥を殺した男」としてまかり通っており、この発言はまったく注目を引かなかった。むしろ「ヴァレリオ大佐とは誰か?」の追跡調査の方に精力が注がれていた。  しかし十年ひと昔でヴァレリオ報道も冷えた五六年に入ると、サンドリーノは再び「ピエトロ処刑説」を訴え始めた。彼の主張はこんどは新説としてイタリアのいくつかの新聞、雑誌にも取り上げられた。  その一九五六年当時、私は毎日新聞記者としてローマにいた。たまたまこのサンドリーノの発言を知り、これを記事として日本に送った。五六年十月十二日付毎日新聞夕刊に「いまは追われる身」「ムッソリーニを殺した“英雄”」「つけねらうネオ・ファシスト」の大きな見出しと共に、ピエトロことモレッティの写真付で次のように掲載されている(原文のまま)。 [ローマ・木村裕主記者発]十一年前、ムッソリーニを殺した一人の男が、いまは“ねらわれる身”となって、イタリアの話題を呼んでいる。  話は最近イタリアの一部ジャーナリズムが「ムッソリーニを殺したのはだれか? 行きすぎではなかったか」と世論を喚起したことに始まる。平和な現在からみればあまりにも過激すぎたというのである。この“声”に押されて、ムッソリーニ処刑に立会った元イタリア・パルチザン兵グリエルモ・カントーニという男が、このほど「真相はこうだ」とある有力誌に当時の実情をぶちまけた。  それによると、ムッソリーニを殺した男はイタリア・パルチザン第五十二部隊の青年将校ミケーレ・モレッティだというのである。カントーニの話は次のようである。  いまから十一年前の四月のこと、イタリア・パルチザン第五十二部隊はある日スイスにほど近いコモ湖畔のドンゴという村でドイツ軍のトラックを捕えた。その中に愛人ペタッチとともにドイツ軍将校の制服に身を包んだムッソリーニを発見した。部隊は直ちに身柄をペタッチとともにドンゴ南方のアッツァーノ村に移し一農家に監禁した。その翌日の午後士官モレッティは二人をジープに乗せ、その農家から三百メートルはなれた別荘ベルモンテのヘイのところまで連行した。  二人は最初眼下に見下すコモ湖をながめていたが、処刑と知って相抱いた。突然ペタッチは「ドゥチェ(ムッソリーニ統帥のこと)だけは殺さないで! わたしを代りに」と絶叫した。その声も終らぬうちにモレッティの自動小銃はゴウ然と火をふいた。二人は折重なって倒れ伏した。  時に四月二十八日午後四時。なぜ殺さねばならなかったか。それにはワケがある。ドンゴ付近にはドイツ軍が残っており、いつ戦闘を展開してドゥチェを奪い取られるかもわからなかった。一方ミラノからコモに進撃して来た連合軍からは知らせを聞いて身柄引渡しの要求があった。まごまごしていればドイツ軍か連合軍に持って行かれる。ファシスト打倒のために血を流したパルチザンとすれば身柄をみすみす外国人の手には渡せなかったのだ。そこで血気にはやったモレッティがほとんど独断的にやってしまったのだ。数分後連合軍のジープが来たが、その時はドゥチェは冷たくなっていた。  この真相が発表されるや、社会の“冷たい目”はモレッティに向けられたが、その時早くも彼はコモ湖畔の自宅から姿を消してしまっていた。しかし収まらないのはネオ・ファシストの連中で、あくまで彼を追及すべきだと目下血まなことなって彼の行方を捜している。  この記事を書いてから三十五年を経た九一年現在、八十三歳の元ピエトロはコモ湖畔チェルノッビォに近いタヴェルノラという村でいまは平和に暮している。ただその間に、複数の研究者がサンドリーニから直接に詳細を聞き糺し、また傍証や新事実などが明らかにされ、この「ピエトロ説」は今日もなお「有力視」されている。以下、いくつかの新事実や調査結果を挙げてみよう(注2)。  一、サンドリーノことグリエルモ・カントーニが目撃した事実は、ミケーレ・モレッティがムッソリーニとクラレッタの二人に上下左右から連射を浴びせて殺害した。この連続掃射によって二人は実質的に死亡した。ヴァレリオはピストルを腰から抜いて二発射った。検屍の結果はこのことが立証された。  一、一九五四年一月十日、ムッソリーニの最期に関するある調査委員会(注・正式名不明)で、レオーネ・ツィンガレス将軍は「処刑は大急ぎで行われた。アウディシオは機銃の安全装置をはずすのを忘れたため、弾丸が出なかった。このためモレッティが二回、左右からまた下から上へと掃射した。アウディシオはピストルで“とどめの一発”を発射したが、これはまったくの形式的であった」と、最終報告を行った。  一、一九五九年十一月、エツィオ・サイニというジャーナリストが調査結果として、「ヴァレリオの告白を詳細に点検すると、モレッティが一緒にいたということを注意深く避けているが、この点は極めておかしい。モレッティはミラノから来たランプレディとヴァレリオらに現地側パルティザンとして終始同行していた」と主張している。  当のモレッティはしかし、七四年四月十日付共産党定期刊行誌「GIORNI-VIE-NUOVE」に次のような手記を発表、処刑者はあくまでもヴァレリオだと明確に主張している。彼の言い分はこうである(注3)。 (四月)二十八日午後四時頃、われわれはボンツァニーゴに着き、車から降りた。見知らぬ坂道を歩いて一軒の農家に向った。見張りのリーノ、サンドリーノがいて統帥らを監禁した部屋にわれわれを招き入れた。ムッソリーニが私に「何ごとだ?」と聞いた。私は「すぐ出発です」と答えた。クラレッタはベッドに横になったままだった。  すぐあとからグイドとヴァレリオが入ってきた。ヴァレリオは、すぐここを出るのでついてくるようにと伝えた。クラレッタにもそのように告げたが、彼女はぐずぐずしていた。  私が最初に部屋を出た。続いてグイド、クラレッタ、ムッソリーニ、最後にヴァレリオであった。サンドリーノら見張り二人は、後れて別の道を通って車道にやってきた。  ムッソリーニとクラレッタを車に乗せ、グイドが運転席の横に、ヴァレリオは足かけ台に乗った。私は歩きながら、車の横についていた。ジュリーノ・ディ・メッツェグラのベルモンテ荘の前に着くと、庭に人がいたので向うに行くようにと遠ざけた。  ヴァレリオはムッソリーニ、クラレッタを車からおろし、石塀の前に立たせた。  車はいま来たボンツァニーゴの方のカーブ地点に、私は逆方向のアッツァーノに通ずるカーブに立って、人が近づかないよう見張った。  ムッソリーニとクラレッタは、恐怖心でわなないていた。緊張感があたりを突然、支配した。ヴァレリオが判決文を読み上げた。 「国民の名において……」  機銃を構えて、ムッソリーニに引金を引いた。作動しない。数分前に試射した時には動いたのに……。グイドがそこで、リヴォルバーを差し出した。これまた作動しなかった。  その間、ムッソリーニとクラレッタは、じっと固くなって塀を背に立ちつくしていた。ヴァレリオが私を呼び、私は自分が持っていた武器を手渡した。その時、私に一瞬のためらいが走った。だがもしこの武器がなければ、彼らは生き延びてしまうという恐れも大きかった。  ヴァレリオは私の武器で処刑しようと、ムッソリーニらの方に向き直った。  ムッソリーニの横にいたクラレッタが、ムッソリーニに飛びつくようにしがみついて叫んだ。 「死んではいけないっ!」  ヴァレリオから銃弾がはじけた。 「お前も死にたいのかっ」と、ヴァレリオは次にクラレッタに銃弾をぶち込んだ。  二人は道路にくずれ倒れた。  ヴァレリオは、こんどは私のピストルをとると、ムッソリーニに“とどめの一発”を加えた。  この光景に、われわれは平常心ではいられなかった。しかしイタリアの多くの殉教者のことに想いをいたしていた。いかに多くの仲間が、また女性や子供がファシスト兵やドイツ軍によって虐殺されたことか! と。その指導者がムッソリーニであった。クラレッタはその彼の愛人であり、相談相手でもあった。彼女はパルティザンの女性、母親、それに婚約者などに対して、同じ女性でありながら一片の慈悲をも示したことはなかったではないか!  二人が死んだのは、午後四時過ぎであった。  ピエトロことモレッティがこれを発表したのは、ヴァレリオが死んでからちょうど半年後のことであった。サンドリーニが「ピエトロ説」を唱えてからざっと三十年も経ていた。  その翌年、彼は学会に招かれ「私はあくまでヴァレリオを手伝った」と強調し、また最近では九一年四月二十五日付ラ・スタンパ紙に「私は武器をヴァレリオに貸しただけ」と繰り返している。  注1 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.162〜163  注2 前掲書 P.162〜163  注3 前掲書 P.93 「殺(や)ったのはロンゴだ!」  ウィンストン・チャーチルがムッソリーニらの処刑に関心を抱き、調査させたことは、イタリアのジャーナリスト、フランコ・バンディーニにより既述の通り発表されたが、そのバンディーニ自身ムッソリーニ処刑研究の第一人者の一人である。その彼は七三年二月、約二十年間にわたる独自の究明成果として「ムッソリーニは二度処刑された」という巻頭論文を歴史専門月刊誌「ストーリア・イルストラータ」二月号に掲載し、内外に大きな反響と波紋を呼んだ(注1)。  これはバンディーニが長年、ムッソリーニ処刑と関係ある人物と面接、また関係資料を精査したうえでの結論だとし、実際に処刑したのはあの四五年当時、イタロ、ガロ、ジージの三つのパルティザン名を持ったルイジ・ロンゴであったとするセンセーショナルな内容である。この論文の発表当時、ロンゴはイタリア共産党議長の地位にあった。その前年まで六四年からパルミーロ・トリアッティの後を継ぎ共産党書記長であった。そのロンゴを「真の下手人」ときめつけたのだから、ヨーロッパ中に関心を呼び起したのも当然であった。  これまでも述べてきたように戦争中、ロンゴは国民解放委員会首脳の一人で、パルティザンの重要幹部であった。それだけにこの論文は単に「ヴァレリオ説」を覆すだけでなく、イタリア共産党にも衝撃を与えずにはおかなかった。その意味からもこのバンディーニ論文は他の諸国にも翻訳、紹介された。「これこそがムッソリーニ処刑の真実である」とするその論旨のあらましを原文から一部要約してみる。  ムッソリーニとクラレッタはヴァレリオによって四五年四月二十八日午後四時過ぎに処刑されたことにされていたが、実際には別の人物によってそれより数時間前にすでに処刑されていた。ヴァレリオは単にその遺体に一発ずつ形式上、弾丸を射ち込んだに過ぎない。  物語はその前日の四月二十七日にさかのぼる。イタリアから敗走するドイツ軍の中にまぎれて逃亡しようとしたムッソリーニは、ドンゴ村でイタリアのパルティザンによって発見され、遂に捕った。ムッソリーニを追ってきた彼の愛人クラレッタ・ペタッチも捕まり、二人は近くのボンツァニーゴの農家に監禁された。ムッソリーニ逮捕の報はその晩、ミラノのパルティザンの本部である解放委員会に伝えられた。  解放委員会はすでにその二日前、ムッソリーニが捕ったら処刑という決定を行っており、逮捕された現場で死刑の判決を与えて処刑することにしていた。  パルティザンのヴァレリオ大佐こと共産党員のヴァルテル・アウディシオが処刑の権限を委任されており、大佐はムッソリーニ逮捕の報を受けるや、早速、現場に急行した。  ところがコモ地区のパルティザン達は大物逮捕に浮かれており、そのうえミラノからやってきたというヴァレリオ大佐がどこの誰かも分らず、逆にファシストではないかとさえ疑って、ムッソリーニをヴァレリオ大佐の手にゆだねることをためらった。  業をにやしたヴァレリオ、それに同行してきた部下のグイドことアルド・ランプレディとリッカルドことアルフレード・モルディーニらは、ドンゴの上級組織であるコモの共産党支部に赴いて引渡しを交渉しようとした。そのコモの党支部に、たまたま解放委員会の首脳の一人ルイジ・ロンゴが来ていたのだ。  ロンゴは「ムッソリーニ逮捕」をグイドらから直接聞いて、「自分が処刑しよう」と決意、共にムッソリーニの捕えられているボンツァニーゴに向った。  ムッソリーニとクラレッタは、農家からロンゴらによって連れ出され、自動車で数百メートル離れた三差路にある別荘の前でおろされた。農家にいたドンゴのパルティザンであるネーリ、ジャンナ、ピエトロことモレッティらもあとから駆けつけて、遠巻きに様子を見ていた。つづいて二人の若い見張役サンドリーノ、リーノもやってきた。  ロンゴとモルディーニの二人は、ムッソリーニらを塀の前に立たせると、二人で一斉に銃撃した。あたりは血の海となった。  ネーリとモレッティは思わず後ずさりした。ムッソリーニとクラレッタの体は塀にもたれかかるように、二つにへし折れた形でくずれ倒れた。  ムッソリーニは七発で絶命した。クラレッタもほぼ同数の銃弾を浴びた。銃はチェコスロヴァキア製であった。  サンドリーノ、リーノ、ピエトロそれにリッカルドの四人で、二人の遺体を車に運び込んだが、これが容易な作業ではなく、ムッソリーニとクラレッタの靴が片方ずつ脱げてしまった。靴はそのままになった。  車は近くのシンパの庭先にいったん預け、リーノとサンドリーノがこれを見張ることにし、ロンゴらはドンゴに戻った。そのロンゴは不用意にもほんの少時間、役場前のドンゴ広場を歩き回った。たまたま八ミリ映画カメラを回していたルーカ・スケニーニがその姿をカメラにおさめてしまったのである。それを遠くから気付いたヴァレリオは、すぐさまこのフィルムを没収してしまった。  ロンゴはヴァレリオに、ムッソリーニとクラレッタを自分が処刑したことを知らせ、あとはまかせると告げて、直ちにミラノに向けて出発した。その時に二人の間でどのような話し合いや取引きがあったかは不明である。ただクラレッタ処刑は誰の目にも「非合法」であり、共産党首脳のロンゴが処刑人だと表沙汰にはできないことだけは確かであった。  そのあとヴァレリオはピエトロ、ネーリ、ジャンナを伴い、ボンツァニーゴの農家に行き、ネーリがムッソリーニに、ジャンナがクラレッタにそれぞれ変装して、さらにベルモンテ荘まで赴いた。農家の人々の目をあざむくためであった。  ベルモンテ荘前では、あらためて本物のムッソリーニとクラレッタの遺体を塀にもたせかけ、ヴァレリオがまず空に向って二度、単にしるしばかり連射し、そのあと“とどめの一発”を二人にぶち込んだ。ヴァレリオはその役目柄、自分がなんとしてでも処刑を実行しなければならなかったのだ。  こうしてムッソリーニ、クラレッタは二度処刑されたことになる。二人の遺体はこのあとドンゴ村役場前で銃殺されたほかのファシスト首脳らの遺体とともにミラノのロレート広場に運ばれたのである。  この二つの処刑に関った人物のうち、ネーリ、ジャンナ、リーノの三人のパルティザンはいずれも間もなく不可解な死を遂げている。リッカルドは六八年に病死した。現在(注・一九七三年二月)も健在なのは、ロンゴ、サンドリーノ、ヴァレリオ、それにピエトロぐらいなものである。グイドも数年前にモスクワで病気のため客死している。  お断りしておくが、この記事のオリジナルでは、ルイジ・ロンゴの名を明示はしていない。単に「シニョールX」つまりX氏とだけ表記してある。しかし読む人が読めば明らかにイタリア共産党議長ルイジ・ロンゴと分るようになっていた。後に、バンディーニは「シニョールXはルイジ・ロンゴのことである」と明言している。このため、ここに大筋を述べるに当っては「X氏」をロンゴと置き換えておいた。  この記事が公表された七三年当時、イタリア共産党は非公式に「噴飯もの」と批評したにとどまり、公式には完全に黙殺し、沈黙を保ったままであった。しかし「ロンゴ説」疑惑はさらに増幅する。  この論文の中で特に注目されるのは、ドンゴ広場で八ミリ映画にロンゴが写されたこと、ネーリ、ジャンナの若い男女のパルティザンがムッソリーニ、クラレッタに変装させられたことなどである。これによって「ロンゴ説」は一挙に“真実性”を増した。八ミリ映画フィルムは没収されて確認のしようもないが、ネーリ、ジャンナの不可解な死はこの変装と関連付けることもできる。  さらに重要な点は、本論文では「ヴァレリオは処刑を委任されていた」と明言されていることである。もしその通りであれば、これまた研究に一石を投じるものとなる。  また、コモにロンゴが来ていたとすれば、ヴァレリオがコモからミラノのロンゴに電話したとのヴァレリオの告白も崩れることになるが、このミラノへの電話というのは、ロンゴ説を崩すためのカムフラージュだったかも知れないとの推理も生れる。  注1 STORIA ILLUSTRATA NO.183 1973 またも「殺(や)ったのはロンゴだ!」  一九八〇年にルイジ・ロンゴが他界すると、こんどは遠慮会釈なくロンゴを名指しの「ロンゴ処刑説」が堂々躍り出たのである。しかもそれを主張したのが、当のドンゴのパルティザン幹部のビルであった。ウルバーノ・ラッザーロが本名で、当時第五十二ガリバルディ旅団の政治副委員長として、隊長ペドロの直属部下であった。ドイツ軍伍長に変装していたムッソリーニを発見した“功績者”である。  このビルがムッソリーニ処刑から何と三十八年も経った八二年三月、有力週刊誌に「ロンゴが実際は殺(や)った」の手記を発表し、さらに八九年秋には自分の日記を資料とした『IL COMPAGNO BILL-DIARIO DELL'UOMO CHE CATTURO MUSSOLINI(ビル同志——ムッソリーニを捕えた男の日記)』のタイトルの本を出版した。処刑に立会ったパルティザンの生き残り証人として、従来の「ヴァレリオ説」「ピエトロ説」をも真向から否定し去るとともに、同じ「ロンゴ説」でもバンディーニのそれに挑戦する大胆不敵というか新奇ともいえる「ロンゴ説」であった。  ビルのこの本の主張のエッセンスは、八二年の所論に次のようにまとめられているのでそれを紹介する(注1)。 「世間ではヴァレリオ大佐という人物がムッソリーニを処刑したことになっているが、ヴァレリオという人物はドンゴに来てもいないし、ましてや処刑もしていない。処刑したのはルイジ・ロンゴその人だったのだ。  彼は二十八日の午後一時頃、ドンゴにやって来た。ネーリ、ピエトロ、ジャンナのパルティザンらとデ・マリアの家に行った。ムッソリーニとクラレッタをミラノに連行すると言っていた。  ところがデ・マリアの家を出て間もなくロンゴがムッソリーニと口論を始め、ロンゴが銃を発射したため、ムッソリーニは重傷を負い、クラレッタは死亡した。傍にいたリッカルドがムッソリーニに止めの一撃を発射して“処刑”は終った。  一時間後、ロンゴはドンゴ役場に現われた。そこで喜劇——ロンゴはドンゴには来てもいないことにする——の準備が行われた。要するにすべてはヴァレリオ大佐という人物がやったことにして、ロンゴの“手の汚れ”をヴァレリオなる男が一手に引き受けるよう仕組んだのだ。こうして今日まで、処刑はヴァレリオが行ったというソラゾラしい伝説が生れたのだ。だが真実はあくまでロンゴが殺(や)ったということなのである」  ところがこのビルによる“新説”に対して、その日のうちにビルの上官であったペドロが新聞記者のインタビューに答えて、「まったく酔狂なお話だ」と即座に否定して、次のように述べている(注2)。 「あいつの言うことは支離滅裂なんです。酔っぱらいの戯言ですよ。でもヴァレリオがこれまで発表したことが、すべてオリジナルでもない。もしほかになにかあったとしても、共産党から発表されることはないと思う」  この発言の後半の部分は何を意味しているのか。極めて深長である。  ペドロは八四年一月に死去したが、生前ずっと他の第五十二ガリバルディ旅団の仲間と同様、イタリア共産党員であった。そのペドロから“酔狂者”呼ばわりされたビルだけは、とうの昔に共産党を脱退していた。かつてのガリバルディ旅団の同志関係はなくなっていたわけである。しかもビルの方は「全面転向」して、ムッソリーニ未亡人ラケーレに直接、統帥発見を悔い謝っていたほどであった。  ビルはラケーレに「私は本当に悪いことをしてしまった。ドゥチェをドンゴで発見したのは私だった。私が見付けていなかったら運命は変っていたでしょうに。どうか私を許して下さい」と、平身低頭して謝罪したという話が残っている。  このエピソードは八四年秋、アドリア海に臨むラヴェンナのさる松林にかこまれたレストランの主人から私が聞いたものである。かつてこのラヴェンナから、私は六十キロ足らずの内陸にあるムッソリーニの郷里プレダッピオに足を延ばしたことがある。その時のことをこのレストランで話しているうちに、店の主人がこの思いがけぬ後日譚を語ってくれたのだった。それによると——。 「未亡人ラケーレは時折、知人らとこの海岸に面する各地のレストランで食事をすることが多かった。七〇年頃のある日、例によって夫人は友人達とさるレストランで魚料理を楽しんでいた。その近くの男達のテーブルにビルがいた。ボーイから『あれがムッソリーニ夫人だ』と知らされた彼は、にわかに神妙になり、ラケーレの席に近づき、泣きながらひざまずくと、ひたすら謝罪を訴えたという。ビルはこうも言っていたそうだ。 『私はあの当時、何も知らないコミュニストだった。でも今はすべて清算しました。私は間違っていました。どうか許して下さい』  ラケーレは最初はまったく取り合わなかったが、最後にはむせび泣くビルの頭をさすっていた。とても感動的な情景だったという」  ドンゴ時代のビルはまだ三十歳前であった。統帥発見の功績も所属する共産党からは高く評価されず、ヴァレリオだけがもてはやされてきた。それが不満で、一時ブラジルに渡っていた。自然に共産党を離党したのである。  このレストランでの謝罪の情景を、私が実際に見たわけではない。したがって真偽のほどは分らない。だがもし事実とすれば、ビルが「もうコミュニストを清算した」とラケーレに告白したように、彼は“真実”を洗いざらいぶちまける気持になっていたのではなかろうか。  そうした筋書きを推測してみると、ムッソリーニ処刑に加わっていた当のビルは、長い間、何らかの理由で“真実”を口止めさせられていたと見ることもできる。だからこそいまやそれを振り切って真相を暴露し、ロンゴ説を強く打ち出したということができる。  戦争中の諸事件について、共産党中央が全党員に口止めを命令したことは、イタリアではよく知られたことである。もし戦争中の党に関する事柄について発言の必要が生じた場合は、党中央とか支部などが代弁することになっていると聞いたこともある。さきのペドロ発言で「党は何も言わないだろう」と語ったのは、党に不利なことは黙して語らないということを示しているとみられる。  また、「党から口止めされている」として戦争中の事件につき、黙秘権を行使しているケースは現在も少くない。中部モデナに近いコレッジォの元町長で共産党員のジェルマーノ・ニコリーニ(七十二歳)は、ディアーヴォロの名で知られた元パルティザンであった。激しいパルティザン戦の最中、地区司祭ウンベルト・ペッシーナ神父を殺害した容疑で戦後になって逮捕され、二十二年の懲役刑を言い渡された。すでに十年入獄しているが、彼は一九九〇年夏「党は私に沈黙を強制した」と明言している(注3)。  こうした諸事実から、「ロンゴ説」の支持派は少くない。とりわけ“ネオ・ファシスト”政党イタリア社会運動の党員に多い。  もしこれが事実だとすれば、「ムッソリーニ処刑」の全責任を、ロンゴの代りにヴァレリオが一身に背負い、党首脳の名誉を救った「行賞」としてヴァレリオことヴァルテル・アウディシオが戦後、党から推されて国会議員に選出されたとの大方の推理も成り立つ可能性はある。  ところがそれも、当時の国民解放委員会の行動党代表レオ・ヴァリアーニによって間もなく否定されてしまった(注4)。  ヴァリアーニは「あの四五年四月二十八日から九日にかけて、ロンゴはずっとミラノにいた」と証言したのである。ヴァリアーニはジャーナリスト出身で、解放委員会首脳としてペルティーニと親しく、共産党のロンゴと一線を画していた。第七代大統領となったペルティーニの推挙で上院議員にもなった人物である。それだけにこのヴァリアーニの証言は重いとみなければならない。  こうして前項のバンディーニやビルらの「ロンゴ説」は根底から崩れてしまったのである。  ではいったい、真実は誰なのか? 誰が処刑したのか?  注1 LA REPUBBLICA紙 '82年3月20日号  注2 前掲紙 '82年3月20日号  注3 LA STAMPA紙 '90年9月1日号  注4 MUSSOLINI APRILE '45: L'EPILOGO P.159 宙に浮いた処刑人  あの日、あの時、ムッソリーニとクラレッタに銃弾を浴びせた当事者は限られている。そのいずれもが、「処刑者はアイツだ」と食い違った発言をしている。皆、一つの事実を見守っていたのに……である。皆が事実に反したことを主張しているに違いない。しかしそれぞれの証言はもっともらしく、かつある程度の根拠もある。いちがいに否定し去ることもできない何かがある。  四月末のコモ湖畔は、見事なくらい美しい。その美しさに眩惑されたわけではあるまいが、三者三様の「真実」が語られているのである。それにしても、本当の処刑人はいったい誰だったのだろうか?  当初は何ら問題なく、「ヴァレリオ説」がまかり通り、それが定着して揺がぬ定説となってしまっていた。このためヴァレリオ自身、戦後しばらくファシスト残党に付け狙われる身となった。住所を四回も転々とせざるを得なかったほどである。  ところが歳月を経るにつれて、ヴァレリオの自著には謎、疑問、矛盾が既述のように指摘され、そのうちに「ピエトロ説」やついには「ロンゴ説」まで、かなりの信憑性を伴って登場したのである。そのどれもが真実だとすれば、どれもが真実ではなくなるという自家撞着の状態に陥ってしまっているのが現状である。  あの時からすでに半世紀を経てしまっている。ムッソリーニ処刑事件は、大きなブラックホールの中に埋没してしまった感がある。イタリアに限らず、世界史の出来事の中には謎を秘めたまま全容の定かではない事例が決して稀ではない。そのまま永遠の謎となってしまうものもあれば、ある時ふと真相が明るみに出されるものもある。ムッソリーニ処刑のケースは、いったいそのいずれなのであろうか。  イタリアの研究者の中には依然、完全に立証はできぬものの「ヴァレリオ説」を採る者が圧倒的である。しかしその人達でさえ「ピエトロ説」「ロンゴ説」の可能性を否定し切れないとしている。ローマにある「イタリア・リソルジメント・レジステンツァ史研究所」(所長はジャーナリストのエンツォ・フォルセラ)は毎年、内外の研究者による三日間の研究会などを行っているが、近年は「袋小路」状態に陥り、著しい成果はあがっていないようである。  最近では「真の処刑者」が特定できなくなったことは「歴史的陰謀」ではなかろうかとする者もいたし、また「イタリア人がやったことだけは間違いなければ、それでいいのではないか」というような発言すら出る始末である。  一九七八年の左翼過激派「赤い旅団」によるモーロ元首相誘拐暗殺事件でさえ、犯行集団が一網打尽になっても、まだその全容や肝心な点は解明されず、謎が残る有様である。「真実は一つ」ではなく「真実は作られる」のだろうか。  イタリア人は昔から「謎解き」を楽しむより「迷路をさまよう」のを楽しむように思えてならない。  第十章 盗まれた遺体 脳髄はアメリカに——  ロレート広場に曝されたムッソリーニらの遺体はやがて秘密裏に埋葬される。ところが問題のムッソリーニの墓が暴かれ、当の遺骸が何者かによって盗まれるという怪事件が起った。しかもそれに先立ち、統帥の脳髄が連合軍の手によって持ち去られるという出来事もあったのである。  ムッソリーニらの遺体は丸半日、ロレート広場に逆さ吊りのあと、パルティザンによって市内某所に運ばれた。埋葬のためである。しかし、遺体の奪還という事態も想定されたため、埋葬準備は慎重を極めた。  解放委員会がその協議を行っている最中、連合軍側からムッソリーニの脳髄を採取したいとの申入れがあり、軍医も急行してきた。「一人の政治家としてだけでなく、二十余年のファシスト体制を取りしきった人物の脳を検査したい」との理由であった。公式の要請かどうか、その時点ではまったく問題にもならなかった。「勝てば官軍」の連合軍からの要請とあれば、従わざるを得なかったのである。  ムッソリーニの遺体は、木々の新緑が萌え始めたミラノ大学病理学研究所の一室に運ばれ、アメリカ軍軍医が執刀して脳髄採取が行われた。この脳髄は直ちにアメリカに送られ、ワシントンのウォルター・リード陸軍病院病理学研究所で鑑定された。結果は「何の異常も認められず、正常かつ健康であった」。  脳髄はそのまま病院に保管され、いつの間にか忘れ去られる。だが忘れない人が一人いた。ムッソリーニ未亡人ラケーレである。彼女は六六年、つまり二十一年後に「夫の脳髄を返して欲しい」とアメリカ政府に要求した。そこであらためて、病院側が調査の末、その存在を確認した。だがその脳髄がムッソリーニ未亡人に返還されたのかどうかは追跡できなかった。  ムッソリーニとクラレッタの二遺体は、他のファシスト幹部とは分けて特別に埋葬された。脳髄を取り去られた翌四月三十日午後六時半過ぎ、市内の墓地の一つマッジョーレ墓地の一角で、厳戒の中で埋葬は行われた。二人の棺は松の木製という粗末なもので、ムッソリーニの棺の蓋には「167」、クラレッタのそれには「168」の番号が書かれた。墓地では十五人の墓掘り人が十五の墓穴を掘った。うち二つだけにそれぞれ二人の棺が入れられ、目かくしをされた墓掘り人が上から土をかけた。どの墓に誰の棺が入っているのかまったく分らないようにするためであった。  ムッソリーニの墓地番号は384号であった。これは墓地監理責任者しか知らぬようになっていた。ナチ・ファシストの盗掘を防ぐための措置であったことは言うまでもない。もしそれが分ったら、残存するファシスト勢力にとり、その墓地が「ファシズムの聖地」になりかねなかったからであった。しかしこの厳重な対策にも拘らず、ムッソリーニの墓は人ぞ知るところとなってしまったのである。  一年後の四六年四月二十三日夜から翌朝にかけ、384号墓地が暴かれ、棺の中の遺体だけが消えてなくなっていた。墓穴のまわりにはシャベル、つるはし、釘抜きなどの道具が散乱し、棺の蓋が放り出されてあった。朝から大騒ぎとなった。  現場に急行した警官隊は、残された棺の中に一通のメッセージが置かれているのを見付けた。 「われらファシスト党は、われわれのベニト・ムッソリーニの遺骸を守護した」  犯行声明文であった。不敵な挑戦であった。墓地には常時、監視人や番犬が配置されていた。それをかいくぐっての仕事である。警察としては用意周到な計画的犯行と見た。ローマ政府も事態を重視せざるを得なかった。  当時の報道によると、犯人はドメニコ・レッチッシ、マリオ・ラーナ、アントニオ・パロッツィという三人の若いネオ・ファシストであった。「われらの統帥はおさまるべき場所に安置しなければならない」との考えから、三人はムッソリーニの墓地を捜し続け、とうとう突きとめることができた。次いで監視人と親しくなるため、また番犬を馴らすため頻繁に墓地を訪れた。こうして四月二十四日未明、ついに盗掘に成功したのであった。この恐ろしくも気味の悪い仕事は約一時間半で終ったという。  三人はムッソリーニの遺体を厚いゴムの袋に納め密閉すると、車で一路ローマに向った。目指すは古代ローマの建築物パンテオンであった。堂内にはイタリア統一の名君ヴィットリオ・エマヌエレ二世やルネッサンスの画家ラファエロなどの墓がある。ここに安置しようと彼らは考えていたからである。しかし警察の目が光り、遺体を持ち込むことは不可能であった。  考えあぐねた結果の次の候補地がヴェネツィア宮であった。かつてのムッソリーニの官邸である。しかしここも、ミラノからの手配があったためか、終戦直後とはいえ警戒厳重で、とりつく島はなかった。結局、あたら時日を浪費しただけで再びミラノに逆戻りせざるを得なかった。そして選んだのが、サンタンジェロ広場に面するフランチェスコ派の僧院である。ここは戦争中、ファシスト兵であれパルティザンであれ、助けを求めた者には分け隔てなく、その望みをかなえてくれた恩寵深い僧院であった。  遺体を盗み出してから二週間経った五月七日夜、小型運送車を頼んで、三人はムッソリーニの遺体をこの僧院に運んだ。雲が低くたれこめた深夜であった。応対にあらわれたのは、アルベルト・パリーニ神父であった。レッチッシは言った。 「恐れ入りますが、大事なものを預っていただけないでしょうか」  そのあと、小声で伝えた。 「これです……。彼……です」  パリーニ神父はすべてを了解した。ムッソリーニの遺体盗難はミラノ中に周知の事実であり、警察も日夜、捜査中の出来事だったからである。パリーニ神父は上司のエンリコ・ズッカ神父を呼び、事情を話した。二人の神父とも無言のまま引き受けた。大きなゴム袋は奥の礼拝堂に運ばれていった。  それから約三ヵ月後の七月三十日夜、犯人のファシスト三人がミラノ警察により一斉に逮捕された。  逮捕のきっかけは、三人のファシストには思いもかけぬ一人の若い女性の訴えからであった。その女性は、五月七日夜に遺体を僧院に運んだ貨物車運転手のフィアンセである。彼女は夫となるべきその運転手から数日後、「妙に気になったその夜の一部始終」を打ち明けられた。彼女は早速それを警察に報告した。警察はフランチェスコ派僧院に赴き、証拠を確保したのである。  ミラノ警察は八月八日に初めて、「ムッソリーニの遺体はすでに発見され、犯人三人も逮捕済みである」と発表した。犯人の三ファシストは裁判で懲役二年の判決を受けた。三人がどのようにムッソリーニの遺体の埋葬場所をつきとめたのかについては、当局は公開はしなかった。  ムッソリーニの遺体につき、後日明らかにされたところによると、警察は遺体発見後に直ちにパヴィアのさる僧院に運び、さらにそこから北西七十キロにあるレニャーノの修道院に隠匿していた。ムッソリーニの遺体を狙う信奉者がいぜんイタリアに少くなかったことを物語る。  五七年八月になってやっと、ムッソリーニの遺骸は当局からはじめて未亡人ラケーレに渡され、郷里エミリア・ロマーニャ州プレダッピオ村のサン・カッシアーノにあるムッソリーニ家の墓廟に、安住の場所を得たのである。  ムッソリーニを慕い続けて運命を共にしたクラレッタの遺骸も、ムッソリーニの遺骸返還に先立つ五六年三月、両親に引き渡された。そして両親と妹に守られて、ローマのサン・ロレンツォ教会に隣接するカンポ・ヴェラーノ墓地の墓廟にあらためて埋葬された。 「ムッソリーニ生誕百年祭」  八三年七月二十九日、ムッソリーニの郷里プレダッピオ村で「ムッソリーニ生誕百年祭」が盛大に行われた。内外から集った人達は二千人とも三千人とも言われた。日本式に言う施主は長男ヴィットリオ、そして長女で元外相チアーノ未亡人のエッダ、三男で音楽家のロマーノら三人を中心に親戚縁者、さらにネオ・ファシスト党=イタリア社会運動書記長ジォルジォ・アルミランテら、外国人は主としてフランス、スペインなどから集った。これらの人達の一部はファシストらしく黒シャツを着込み、サロ共和国の国旗、ムッソリーニの写真を持ち、大きな人垣を作った。  イタリア社会運動スポークスマンは「別に演説会を計画したわけではない。ただ偉大な指導者へ心からの祈りを捧げたいだけである」と述べたが、参会者は思い思いにムッソリーニを称える演説を行った。そのたびに、右手を高く挙げてファシスト式敬礼を繰り返し、「ドゥチェ、ドゥチェ」の声がこだました。党歌の「ジォヴィネッツァ(青春)」を軽快なマーチ調で大合唱し、時にはファシスト賛歌「イル・カント・デッリ・アルディーティ(突撃隊の歌)」などが緑濃い糸杉の林に響き渡り、統帥健在の頃を参会者に想起させた。エッダは「半世紀前の一九三三年、父はローマのトッローニア荘で五十歳の誕生を祝っていた。『あと五十年後には……などと数えない方がいい』と語っていたのを想い出す」と述べた。  プレダッピオ村の村長は共産党員であった。警察はこの集会にイタリア各地からの反ファシストが妨害をしたら——と懸念したが、幸いそうしたことは起らなかった。  しかし翌年四月二十八日、つまりムッソリーニ処刑三十九周年の日、コモ湖畔のあのベルモンテ荘前でファシストと反ファシストによる目に見えぬ確執が起り、イタリアから消えぬ傷の深さをあらためて全国民に思い知らせた。その二十八日、元サロ共和国戦闘団コモ支部長マリオ・ニコリーニ(七十二歳)が中心となり、ベルモンテ荘の石塀にムッソリーニを偲ぶ記念碑除幕式を予定していた。碑は八十センチ平方で重さ約百キロ。ブロンズの十字架とともに「一九四五年四月二十八日、ベニト・ムッソリーニここで倒る」と彫られ、その脇に小さな十字架とともに「C.P.」と刻まれてあった。これはクラレッタ・ペタッチを指す。この式典には約二百人が参加し、盛大に行われるはずであった。記念碑は前夜のうちに石塀に彫り込められていた。  ところが式典の朝、参会者達がベルモンテ荘前の式場を訪れると、記念碑は跡かたもなく消えてなくなっていたのである。つるはしの一撃で、その記念碑は取りはがされ、どこかに持ち去られていた。集った人達は石塀に残された傷跡を眺めて、いつまでも立ち去らなかった。  この事件は、ファシズムについてイタリア人の胸奥でまだ“決着”がついていないことを一人ひとりにあらためて思い知らせた。同時にムッソリーニは歴史のかなたに立ち去ってはおらず、現代のこの瞬間にもまだ「生きている」ことを印象づけたのである。 隠然たる支持者たち  ここでムッソリーニという一人の人間について、最近のイタリアがどう評価しているかを述べておく。「ユダヤ人絶滅計画」に示されるように、ヒットラーがその人間性をほぼ全面的に否定されているのに対し、同じ独裁者と言われるムッソリーニは決してヒットラーと同質視されていないことをまず明記したい。それどころかイタリアにはいまなお、ムッソリーニの隠然たる支持者が少くないのである。  いささか旧聞に属するが、休戦と解放の各四十周年にはさまれた八四年九月二十三日号の有力週刊誌「レスプレッソ」は「イタリア人とファシズム」という記事の中で、珍しい調査結果を発表した。ムッソリーニの人気についての一般市民への面接調査の数字である。それによると「ムッソリーニが大好き」が一一パーセント、「好き」二九・一パーセント、「無関心」一九パーセント、「嫌い」五一・二パーセント、「知らない」七パーセントであった(複数回答のため一〇〇パーセントを超えている)。  戦争終結直後は恐らく、「嫌い」が圧倒的で「好き」などという答えはまずなかったであろう。それからすると、この調査結果は歳月の経過とともに、ムッソリーニとその業績に客観的な評価が下されていることを物語ると言えそうである。  実際、イタリアの街々で聞いてみても、言下に「彼はノー」と吐き捨てるように言うものは相変らず多いものの、その一方で「彼はFURBOな男だった」という声をよく耳にしたものである。  このFURBOとは「抜け目ない」「賢い」「利口」などを意味し、悪人視するニュアンスは乏しいのである。ほかにも「人間的な人だった」「取巻きが悪かったのだ」と弁護する返事も多かった。積極的に評価する声もある。それは「彼はイタリア人に国民意識を喚起した偉人だ」との見方である。イタリアが国として統一されたのは十九世紀末で、まだたかだか百三十年前のことに過ぎない。そのうえ、もともと多くの都市国家がこの半島に分立していただけに、国家統一後もローマ人、ミラノ人、ナポリ人、ヴェネツィア人などといった郷土意識が強く、その傾向はいまなおしつこく残っている。  しかしムッソリーニによって「イタリア人」という国民意識に目覚めたことは否定できない事実である。現在のイタリア人が「メイド・イン・イタリー」の製品を世界に誇っているのも、その一つの表われである。  ムッソリーニのかつての部下達は、いまなお統帥と呼び、信仰にも等しい心情を寄せている。ムッソリーニ生誕百年の八三年には、旧部下達が『ムッソリーニはかく語りき』と題する七百ページもの豪華版の本を出版した。その表紙は統帥の肖像を銅板レリーフにするという気の入れようであった。どこで聞いたのか、私がムッソリーニ研究の日本人と知って、旧ファシスト軍の元高官がその本を持って「一冊買って欲しい」と訪ねて来た。かなり高価なこの本はいま私の書棚におさまっているが、この老紳士は別れ際に「統帥は死んでも、こうして私達を養ってくれているんですよ」と言い残した。その口調にムッソリーニへの変らぬ敬愛の念が込められていたのが強く印象に残っている。  この老紳士の話によれば、戦後十年目の五五年、ムッソリーニの「イタリア社会共和国」の将兵らも、イタリア政府から恩給と年金を受けられるようになったという。またラケーレ未亡人も、一九七九年に亡くなるまで元首相未亡人としての年金を受けていたとのことである。反ファシズムの精神は固持しつつも、戦後のイタリアではムッソリーニとその時代への公正な見直しが静かに進んでいることを示している。  そうした具体的な催しが、八四年九月から十一月にかけて二ヵ月間、ローマのコロッセオを舞台に盛大に開かれた。ローマ市主催「大戦間イタリア経済博覧会」がそれである。これは第一次、第二次大戦間にイタリア経済がいかに躍進したかを回顧する展覧会だが、両大戦間といえばムッソリーニ治政下の二十余年間であり、この博覧会はムッソリーニの偉業を称える以外の何ものでもなかった。  私も半日がかりで見て回った。広大なコロッセオにところ狭しと自動車、鉄道、航空機、農業機材、建設機材などが年代順に並べられ、統計図表なども展示されて、さながらこの国の産業発展史を見る思いであった。閉幕後、ローマ市当局が発表したところによると、期間中の参観者は百六十万人に達したという。これら参観者の胸奥には、ムッソリーニ時代のいい面への思いが去来したのではなかろうか。それにも増して興味深いのは、この博覧会を、かつてのパルティザンの闘士ペルティーニ大統領、クラクシ首相(いずれも当時)や共産党のイオッティ下院議長(トリアッティ未亡人)らが参観したことである。このことはあの時代への冷静かつ客観的な見直しが進行していることを、いかんなく物語っているのではなかろうか。  なお、このムッソリーニの流れを汲むネオ・ファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」が四六年、旧ファシスト党員によって創設されている。超国家的社会主義の組合国家を目的とする政党で、王党や極右政党を糾合し、総選挙ではつねに全投票数の六パーセント前後の得票率を確保し、上下両院に議員を送り出している。キリスト教民主党、共産党、社会党に次ぐ第四党の地位を保っているのである。支持層はかつてのファシスト党員だけでなく、青年層にもまたがり、学生の間にも人気がある。地域別に見ると北イタリアよりも南イタリアに支持者が多い。  だからと言って、これをもってファシズム勢力が復活しているなどと言うのは当らない。全体の六パーセントの得票率という数字は、相対的に見れば微々たるものである。むしろこの国に成熟した民主主義国家としての自由な言論が機能していることを示す証拠の一つとして見ることができるというものである。  イタリア外務省のあるローマ市内のフォロ・イタリコ地区の一角に、この地区を建設したムッソリーニの偉業を称えて当時建てられた「DUX MUSSOLINI」と彫られた高さ二十メートルもの純白の大理石オベリスクが立っている。それに隣接して彼の建設したオリンピック競技場もある。  一九六〇年のローマ・オリンピックを前にイタリア議会で、共産党議員から「あのムッソリーニ記念塔はイタリアの恥である。撤去すべきだ」との提案がなされた。その時、アントニオ・セーニ首相(当時)は、「歴史を消すことはできない」と演説し、その提案をしりぞけた。そのオベリスクはいまもなお、屹然として立っている。   エピローグ  北イタリア各地のパルティザンによる解放、ファシズムの巨頭ムッソリーニ処刑……と、劇的な展開のうちにイタリアの戦後は躍るように始まった。  ミラノのロレート広場で、ムッソリーニらファシスト党首脳の遺体をその目で見た大群衆が、「これでファシズムの時代は終った!」と確認し合っている時、アメリカ軍先遣隊が市内に入って来た。同じ二十九日にはヴェネツィアに、翌三十日にはトリノにも入城して来た。それぞれの都市で市民達は硝煙にまみれたパルティザンや連合軍兵士に花束を投げ、ブドウ酒を振舞って歓迎した。  在イタリア・ドイツ軍は二十九日、ナポリ北東のカセルタにある連合軍総司令部で正式に降伏文書に調印した。それに先立って、各地のドイツ軍はパルティザンに投降し、イタリア市民の罵声を浴びていた。約五年間にわたった戦争はこうして終った。うち一年八ヵ月は、国民を二分しての悲劇的内戦であった。  戦火に荒廃した国土と、ナチ・ファシズムをめぐる国民同士の相克による傷跡はあまりにも深く、大きかった。だがそうした中からイタリアは新生を目指して立ち上がったのである。その原動力となったのが国民解放委員会とパルティザン達であった。その面々は市民達と手をたずさえ、余勢を駆って政治、経済、文化、社会の各分野に進出していった。  一年後の四六年六月二日、イタリア新憲法を制定する制憲議会選挙と、イタリアの政体を決める国民投票が同時に行われた。初夏の眩(まばゆ)い太陽の下で、約二千三百万の有権者が全国三万余の投票場に自らの意志を表明した。  制憲議会選挙では、反ナチ・ファシズムに献身した多くのパルティザン達が、どの政党からも揃って当選した。キリスト教民主党のアルチーデ・デ・ガスペリ、二十歳代の若さで当選したジュリオ・アンドレオッティ、社会党のピエトロ・ネンニ、サンドロ・ペルティーニ、ジュゼッペ・サラガート、共産党パルミーロ・トリアッティ、ルイジ・ロンゴら錚々たる面々が、戦場ではなく国会の議場で一堂に会したのである。  政体決定の国民投票では、「共和制支持」一二七一万七九二三票、「王制支持」一〇七一万九二八四票で、イタリア国民は共和制を選んだ。王室一族は結果判明のその日のうちに、エジプトやポルトガルに亡命した。  一方、制憲議会は二十五日に招集され、社会党のジュゼッペ・サラガートが議長に選出され、二十八日には自由党のエンリコ・デ・ニコラを初代大統領に選んだ。この制憲議会は新憲法を起草、同時に新たな国旗、国歌も定め、四八年一月一日から、この新憲法は施行された。わが国の憲法学者宮沢俊義が「現代における西欧的民主主義の典型的なもの」と評する憲法である。  二十世紀の廃墟の中から立ち上がったイタリアは、古代ローマ時代の廃墟を傍に見ながら不死鳥のように、新しい栄光と繁栄を目指して歩みを始める。その「新しいイタリア」建設にたずさわった人達を代表して、次の三人に当時の体験と心意気を語ってもらおう(注1)。  まずジォヴァンニ・アニエッリ。彼はイタリア最大の企業「フィアット」の総帥である。通称ジャンニと呼ばれる彼は、四五年当時は二十四歳でフィアット自動車会社の副社長であった。大戦中はロシア戦線、北アフリカ戦線で闘い、四三年に帰国した後は、軍需物資生産の陣頭に立っていた。 「四五年の冬から春にかけて、北イタリア各市の大企業にとっては恐ろしい日々の連続だった。ナチ・ファシストから『君らはパルティザンを手助けし、軍需品生産をサボタージュしている』と厳しい圧力と脅迫を受け続けていたからだ。その一方で反ナチ・ファシストからは『ファシスト政権の意のままになっている』とつき上げられ、非難も浴びた。フィアットが時の政権に従属していたというのも事実だが、レジスタンス勢力のために蔭ながら貢献していたのもまぎれもない事実であった。  私は四〇年六月のイタリア参戦の数日前、ムッソリーニと話した。彼ははっきり大戦には中立を守る様子を示していた。ところが参戦してしまった。これは彼の大誤算であった。以来、私は彼を信用していなかった。四一年十二月に、こんどは日本がアメリカに宣戦すると、イタリアはアメリカにも宣戦した。これで戦争は絶対に敗北だと私は思った。私がフィレンツェで反ナチ・ファシストとして戦ったのもそのためだった。  だが戦争が終ってみると、このフィアット工場には赤旗が林立した。そうした状態から今日のイタリアの再建と繁栄をみることになったのだが、思えばこの再建への道はまったくイバラの道だったとしか言いようがない」  作家のイタロ・カルヴィーノは言葉少なに、しかし毅然たる口調でこう言った。 「あの頃は、とりわけ冷い春だった。だが皆が燃えていた。レジスタンスこそは、荘重な国民的祝典であった。それ以外に言葉はない」  最後にイタリアの著名なジャーナリストの一人ジォルジォ・ボッカ。彼は大戦中、青年将校として北イタリアで軍務についていたが、四三年九月のイタリア休戦とともにパルティザンに身を投じ、アルプス山中でレジスタンス闘争に明け暮れていた。 「四五年四月末のあの頃、われわれにとっての世界はカオス状態ではあったが、日々はなんと光り輝いていたことか。人々は皆、新しい秩序を構築しようと、まばゆい太陽の中を走り回っていた。死の恐怖はもはやなくなり、長いナチ・ファシズムの夜は明けようとしていた。  私はそれまでのパルティザン部隊を解散して、サヴィリアーノからクネオの自分の郷里に戻った。四月二十八日のことだった。  街々はすでに解放され、新しい秩序が生れていた。パルティザンだったエットーレ・ローザが新市長におさまっていた。県庁にも警察にも昨日まではパルティザンだった男達が、相変らず青、赤、緑のスカーフを首に巻いて、元パルティザンよろしく執務していた。  いまから思うと、もう一世紀も前のことのようだ。別の時代、別のイタリアのようにも思える。あの当時は、ひとつの時代の死と誕生を画した日々だった。数ヵ月後に日本で原子爆弾が爆発し、大戦はすべて終結した。ヨーロッパ中心主義も、ヨーロッパのヘゲモニー争奪戦も消えてなくなった。  間もなくあちこちの都市にアメリカやイギリスの装甲車が、また色とりどりのカーキ色の軍服を着た兵隊達がやって来たが、イタリア人は誰も、彼らを占領軍などとは見做してもいなかったし、思ってもいなかった。当時、イタリアの主権は馬鹿馬鹿しくも制限されていたが、イタリア人は皆、自分が『わが家の主人公』よろしく振舞っていた。  生き生きした蟻の大群は、食べ物を探し始めていた。親戚を確認し、借金を整理し、政治を進め、選挙を実施した。外国人にあれこれ指図させたり、イチャモンをつけさせたりさせまいとするかのように、自らの道は自分で探した。  私は外国の兵士達に、レジスタンスとパルティザンについて大いに語った。これはとても大事なことだった。そうすることにより、彼らに将来のイタリアへの信頼を持たせることができたからだ。二十ヵ月に及ぶパルティザンによる戦いは、デモクラシーと自由というものが連合軍からの贈りものではないという厳然たる証明となった。イタリア人自らがそれらを自分の血を流して獲得したからにほかならないからだ。  あの戦争という長い夜を、とうとう自分の手で脱出したという共通の気持が国民の間に湧き起ったことは、偉大な経験だった。人道的な人間性、連帯感、市民国家というものがそこから生れたからだ。そして国民の誰もが、新しいイタリアを作ろうとする連帯感は、あのレジスタンス精神とパルティザンの闘いの中に育まれていたのだ。  そのことを考えると、やはりイタリア人は偉大だとつくづく思わずにはいられない」  注1 LA REPUBBLICA紙 '85年4月23日号  あとがき 「こんな戦争は止めてしまえ。国民が犠牲になるばかりだ!」と、イタリア軍参謀本部の若き将軍がイタリアの第二次大戦からの離脱を実現させた大戦秘史を記述した私の前著『ムッソリーニを逮捕せよ』(一九八九年・新潮社刊、講談社文庫に所収)が、まったく思いがけず講談社ノンフィクション賞(第十二回)受賞の栄に浴したのは一九九〇年十月のことであった。  それから間もなく、当の講談社から「続篇を是非……」との依頼があった。続篇といえば当然、ファシストの統帥ベニト・ムッソリーニの処刑に到るイタリア現代史の中のもっとも凄絶な反ナチ・ファシズムのパルティザン戦争のことになる。これは前著と共に私の主要研究テーマであり、日本にはほとんど知られていないことだけに、これを次に書こうと早くから心に期していた仕事であった。幸いこうして生れたのが本書である。  第二部第八章にも触れたように、私は一九五六年の初夏、ムッソリーニが処刑された北伊コモ湖畔のジュリーノ・ディ・メッツェグラの現場を尋ね歩いた。そしてとうとう彼がパルティザンの銃弾を浴びて倒れ伏したその場所に立った。 「そうか、イタリアの戦後はここから始まったのだな!」、私は思わず言い知れぬ感動を覚えた。私の脳裏にはその時、ロベルト・ロッセリーニ監督のネオリアリズム映画「戦火のかなた」や「無防備都市」などでしか知らないイタリアの反ナチ・パルティザン達の姿がよぎっていった。あの第二次大戦中、日本にはついぞ現われることのなかったパルティザン達である。イタリアのそれら戦士達はナチ・ファシズムと戦い、遂にその手でナチ・ファシズムを打倒したのである。「これは日本とイタリアの文化の違いを知るためにも研究に値する。どうしても調べてみよう」と、その地で深く胸に刻んだのであった。  その時から早いもので三十五年が過ぎた。その間、私はたびたびイタリア暮しを重ねて当時のことを調べていたが、一九八〇年代にはムッソリーニ生誕百年、休戦四十周年、ナチ・ファシズムからの解放四十周年などが相次ぎ、当時の事実の発掘や研究もあらかた出揃った。私は幸いその頃、イタリアに暮していたため、イタリアの現代史研究者達と取材や史料収集に当る機会に恵まれた。それ以前にもすでに多くの人に会い、元パルティザンだった人達からも話を聞き、街や村も歩き回った。そうした歳月のメモ帖やノートを基に書き綴ったのが本書である。  私の手のとどかなかった部分についてはイタリアの知人の研究者からも教えを請うた。あくまでも具体的に、事実を基礎として、あの時代のイタリアを総括的に描くことに努めたつもりである。日本における基礎研究、ひいては日本とイタリアの文化、社会の相違、さらには日本をみつめるための一助ともなれば幸いである。  しかし書き終えたいま、あまりにも血なまぐさい事例を書き過ぎたのでは——と気になった。だがあの一九四三年から四五年にかけては、それこそがイタリアの現実そのものであった。日本が体験もしなかった壮絶な内戦の悲劇の中で、当時のイタリア国民はナチ・ファシズムの恐怖と日常化した殺戮と戦う日々を送っていた。そうした試練の歴史の上に今日のイタリアがあるのである。  このイタリアの反ナチ・パルティザン精神は、イタリアではいまもなお広く語り継がれている。それは現代イタリアの背骨となっていると言ってよい。だからと言って、私は手放しでパルティザンを賛美するわけではない。ナチ・ファシストの残酷さと同じように、パルティザン側にも行き過ぎがあったことは否めないからである。戦後、その点についても糾弾された事例は多く、刑に服した者もいることは、本書の中にも述べた通りである。  本書を書くに当っては、実に多くの人々にお世話になった。イタリアでの取材対象者は数え切れないほどであった。嬉しかったのは、ムッソリーニ研究者のジャーナリストの一人フェルナンド・メゼッティ氏が、イタリアの有力紙ラ・スタンパの東京特派員として来日、本書執筆中の私の相談相手となってくれたことである。彼はムッソリーニの最期に関する一書(巻末主要文献参照)を著わしており、その著書はイタリアのファシズム史の書籍にも数多く引用されている。本書をまとめるに当っても、メゼッティ氏はその著書からの引用を快諾してくれた。そうした引用を許可して下さった内外の出版社、著者、当局者にここで感謝の意を表したい。  また日本国内でも、話をうかがったり資料提供を受けたりした、次の方々に厚く御礼申し上げたい。  石井彪、小野紀美子、金倉英一、佐々木凜一、清水三郎治、田澤美智子、野上素一、藤井歳雄、三澤晴子、光延トヨ、宮崎光子、山仲生子(五十音順・敬称略)。  一方、どうしても連絡のとれない方も二、三おられた。歳月の経過を思わせる。  そして本書の出来上りまで最初から最後まで御面倒いただいた講談社学芸図書第二出版部の松岡淳一郎氏、ならびに菅紘氏にも心から御礼申し上げる。   一九九一年十一月十九日 木村裕主   主要参考文献 P. 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PIRRELI編「イタリア抵抗運動の遺書」河島英昭他訳 1983 冨山房 「日伊文化研究」第29号 1991 日伊協会 雑誌・新聞 HISTORIA, IL MESSAGGERO, OGGI, LA REPUBBRICA, LA STAMPA, STORIA ILLUSTRATA, IL TEMPO, L'ESPRESSO, CIVITAS, CORRIERE DELLA SERA  文庫化にあたって  本書が講談社からの単行本(『誰がムッソリーニを処刑したか』、文庫化にあたり改題)として世に出たのは、一九九二年二月のことであった。それから一、二ヵ月を経ずして数多くの読者から読後感想が寄せられ、またマスコミの一部に書評も行なわれたことは、筆者としては嬉しくかつ有難いことであった。読者からの反応は「あの第二次世界大戦で、日本の同盟国イタリアが自らの手で国をファシズムから解放したことを初めて知った。イタリアという国に認識を新らたにした」というのが圧倒的多数を占めていた。書評ではナチ・ファシズム専門の学者を含め、「取材が行き届いている」との批評も頂いた。そうした本書が今回、一九八九年十一月に新潮社から発行されて第十二回講談社ノンフィクション賞を受賞し、講談社文庫に収められた私の前著『ムッソリーニを逮捕せよ』と同じく同文庫の一冊となったことは筆者にとり大きな喜びである。  というのは、この両書は姉妹篇であるばかりでなく、第二次世界大戦での我が国との比較において貴重な教訓を示している点で、日本という国を考えるうえで大きな参考になると思うからである。また同時に、両書とも現代イタリアを理解するうえでの基本的ドキュメントであり、一人でも多くの日本人に私の好きなイタリアの真の姿を知っていただけるための資料となるだろうと信ずるからである。  文庫化にあたり書名を『ムッソリーニの処刑』としたように、それは大戦中のイタリアの統帥ベニト・ムッソリーニを処刑にまで追い込んだ反ナチ・ファシズムのパルティザン達の凄絶な戦いの秘史でもある。戦後半世紀を迎えたいま、それらパルティザン達の顕彰碑にはあらためて献花が供えられているが、本書のドキュメンタリーはこれをもって完(おわ)ったのではない。それどころか歴史を大切にするイタリアにふさわしく、その後も間断なくジャーナリストや学者によりさまざまの新事実の発掘や探究が精力的に進められ、イタリア現代史にX線的、超音波的な照射が加えられている。同時にまた、それらを基礎に歴史は新らしい展開をもとげており、その意味では「ムッソリーニは生きている——」といった表現も決して突飛とはいい切れないものがある。  次に最近におけるそれらの一端を述べておこう。  まずマクロの傾向として第一に挙げておかねばならないのが、戦後いち早くムッソリーニの流れを汲んで生れた右翼政党MSI(イタリア社会運動)のその後の伸長ぶりである。本文の中で述べたように、イタリアでは戦後の一九四六年に国民投票によって王制が廃止され、以来、代って共和制が施行されてきた。同時に政権も中道のキリスト教民主党を主軸とする連立政権がほぼ一貫して担当、ちょうど日本の自民党長期単独政権とウリ二つの様相を呈してきた。それは比較政治学上でも“相似政権”としてよく論じられたものである。  しかし九二年二月、ミラノ地検のアントニオ・ディピエトロ検事の手で市政の汚職が摘発されたのを機に、万年与党による長期独占に毒された構造汚職が明るみに出され、九四年春の総選挙でついに戦後体制を一変する政治の変革がもたらされたのである。その間の経緯は、国民の意識改革による文字通り「無血革命」同然であった。マスコミはじめ欧州各国は「イタリアは第一共和制から第二共和制へ移行した」と、この事態をとらえたのだった。  この総選挙でMSIは「国民同盟(AN)」と衣がえして、他の右翼政党「北部同盟」、新設の「がんばれイタリア(FI)」と右派連合を結成、旧共産党系率いる左翼連合や中道諸党と三つ巴の戦いを演じた結果、ついに与党の座を占めたのだった。MSI単独の得票率は一三・五パーセントと、戦後最高を示したばかりでなく、「がんばれイタリア」と「左翼民主党(旧共産党)」に次ぐ第三党にのし上ったのだった。MSIは従来、各総選挙のたびに六パーセント台を維持、七二年に八パーセントを占めたのが最高だった。これからすると、九四年の一三パーセントを超えた数字は画期的といえる。  このMSIを含む右派政権は九四年末に総辞職して政権を離れたが、それを機にMSIは九五年一月に党大会を開き、MSIを解散して国民同盟に正式改組し、書記長ジャンフランコ・フィーニを党首に選出した。この大会でフィーニは、従来のイデオロギー政党から脱皮して「すべてに開かれた“健全な右翼政党”を目指す」ことを宣明、幅広い右翼の結集を呼びかけた。  これにも明らかなように、従来のMSIは創党当時の旧ファシスト党の幹部も年ごとにこの世を去って世代交代が進み、さらに冷戦体制の崩壊でイタリア共産党も分裂するなどの外的要因から、イデオロギー色が次第に希薄となるなど、急速に党内が変化した。それ以前にも、党創設者の一人でムッソリーニ政権時代の高官だったジョルジョ・アルミランテが党の穏健化を進めながら八八年に死去し、愛弟子のフィーニを後継党書記長にしたことも党の“非ファシスト化”に貢献した。このような党の穏健化と、かねて万年野党の地位にあったところから政界の構造汚職にまみれることがなかったことが幸いし、党勢の伸長をみることが出来たのであった。  こうした背景を知らない一部の外国要人やマスコミは、MSIを含めた右派政権が出現した時、「イタリアは再びファシズムの道を歩むのか」などと騒ぎ立てたものであった。それはまたヒットラーとムッソリーニを一緒くたにしている無知のなせる結果でもあった。ヨーロッパの研究者の間では、ヒットラーが戦後において全人格的に否定されているのに対し、同じ独裁者とされたムッソリーニが必ずしもそれと同格ではないことを指摘する人がほとんどである。その大きな理由の一つとしてムッソリーニが最終的にナチスのユダヤ人政策に同調しなかったことなどが挙げられ、またファシズム時代からムッソリーニの人間的な部分が民衆から愛された点も無視出来ないとしている。だからこそいまもムッソリーニの根強い信奉者が存在し、またその「古代ローマ帝国の栄光を再び!」の夢を追おうとする人もおり、それらが総選挙のたびに六ないし八パーセント、さらに最近は一三パーセントの数字でMSIの得票率として現われたのだった。  イタリアの高級週刊誌「レスプレッソ」の一九九四年四月二十二日号には、これを裏付けるようなファシズムとムッソリーニに関する最近では興味深い調査結果がのっていて、ひとつの参考となろう。例えば「あなたはいま、反ファシストだと表明する気持がありますか?」との設問に対する答えは「はい」が二八・五パーセント(以下いずれもパーセント)、「いいえ」五五・七、「興味ない。何の気持もない」九・五、「分らない」六・三となっている。次に「ファシズムはイタリアの経済的、社会的条件を改善したと思いますか?」では「はい」二七・五、「いいえ」六六・九、「分らない」五・六。「国民同盟のフィーニ書記長は《ムッソリーニは今世紀最大の政治家》といいますが、あなたはこれに同感しますか?」では「はい」二三・二、「いいえ」七一・六、「分らない」五・二。  そして「次の十人の今世紀におけるイタリアの政治家の中で誰が最大の人と思いますか?」では、第一位が本書中のパルティザンの主役の一人で、戦後第七代大統領になったアレサンドロ・ペルティーニの二八パーセント(以下いずれもパーセント)、次いで一九七八年に極左組織“赤い旅団”に誘拐殺害されたアルド・モロ元首相一八・三、続いてイタリアの“吉田茂”ともいわれるアルチーデ・デ・ガスペリ元首相一四・六、戦後の初代大統領で経済学者のルイジ・エイナウディ八・六、そして第五位にベニト・ムッソリーニ八・四が選ばれている。そのあとには第一次大戦前後に数次の首相をつとめた自由主義的なジォヴァンニ・ジォリッティ八、第八代大統領フランチェスコ・コシガ三・一、戦後七回も首相を歴任したジュリオ・アンドレオッティ一・六、同じくキリスト教民主党の長老で元首相のアミントーレ・ファンファーニ一、最後に社会党出身の元首相ベッティーノ・クラクシ〇・五となり、「以上の誰でもない」四・七、「分らない」三・二という数字が出ている。  これらの数字によって、ムッソリーニという人物がイタリア現代史の中でどのような評価を受けているかも類推出来るというものである(上記調査のサンプル数は選挙の有権者である満十八歳以上の五百人)。またこれらの数字は、本書中の第十章盗まれた遺体の中の「隠然たる支持者たち」の項で述べた調査結果と比較照合してみても興味あると思われる。  またここ数年間に幾つか注目すべき新事実も明らかにされた。中でも特筆すべきは、ムッソリーニが処刑されて逆吊りされたあとパルティザンの要請でその「検屍解剖」が行なわれ、その際にムッソリーニが「スペインへの安全通行証」なるものをズボンのポケットに隠し持っていた事実が公表されたことである。この検屍は逆吊りにされた一九四五年四月二十九日の翌日、ミラノ大学法医学研究所解剖室でマリオ・カッターベニ教授執刀のもとに行なわれた。これにはカッターベニ教授の同僚の解剖学者でX線専門のピエールルイジ・コーヴァ氏、同大学皮膚性病理学担当のスコラーリ博士、民間の神経科医ダブンド教授、それに国民解放委の軍医(将官)らが加わっており、このうちのコーヴァ氏が当時記録していた書類を明らかにした結果、一九九四年秋に半世紀ぶりに判明したものである。  コーヴァ氏が検屍後に所見を二十二枚のタイプ用紙に記録保管しておいたその中の重要な点は、次の二つである。  一、ムッソリーニの検屍前に、ズボンの後ろのポケットから「ドンゴの社会共和国ファッショへ」の宛名書きの封筒が発見された。中の用紙には「戦争難民となったスペイン市民である上記夫妻は、故国への再入国を希望している。スペイン当局の援助を宜しくお願いする」とタイプで打たれていた。上記夫妻の名は別に書かれていて、ISABELLA Y ALFONSOとなっていた。姓の方は思い出せないが、アルフォンゾはムッソリーニでありイサベッラはクラレッタ・ペタッチを指し、二人はスペインに脱出しようとしていたに違いない。この紙にはミラノのスペイン領事の署名があり、ムッソリーニらにとっての安全通行証だったようだ。スペインの支配者はムッソリーニの同志フランコである。事実、ペタッチ一家はスペインに脱出したし、クラレッタはムッソリーニと行を共にしたいと一家と別れて残留し、その結果ムッソリーニと一緒に処刑された。  この用紙には一九四四年九月十四日の日付けがタイプで打たれていた。これは最初クラレッタが持参していたが、処刑される前夜に一緒にいた時、クラレッタがムッソリーニに渡したものだろう。  二、ムッソリーニの致命傷は鎖骨下三、四センチにある大動脈の切断による。これは一撃のもとに生じた。したがってほぼ即死状態だった。前腕部にも貫通銃創があったが、これは最初にムッソリーニが頭を守ろうとして手を持ち上げたためであろう。驚くべきことに、生前に伝えられていたような梅毒の病巣はなかったし、十二指腸潰瘍を病んだという痕跡もなく、脳、身体とも全く健全だった。  なお、ムッソリーニの体重は六十五キログラムであった。  この「所見」なるものは、コーヴァ氏が全く個人的に保管していたものだが、八十三歳になった一九九四年秋に、「自分の死後にこの記録が他人の売買の対象などになっては困るのでミラノ現代史博物館に寄贈することにした」(コーヴァ氏談)のを機に明らかにされた。  この件については、当時イタリアの多くの報道機関が伝えたが、有力紙コリエーレ・デッラ・セーラは九四年九月二十四日付文化欄で一ページ全部を使って詳報している。ムッソリーニ研究に当る歴史学者兼作家のシルヴィオ・ベルトルディ氏も「このような記録については全く初耳だった」と語っているという。  また新刊書の一つで、ジャーナリストのフランコ・ジャンアントーニの著書『“ジャンナ”と“ネーリ” 二人の共産主義パルティザンの生と死』(九二年刊)も、衝撃的な新事実を明らかに探り出している。  この二人のパルティザンの死については、筆者も本書の中で疑惑がからんでいることを指摘したが、この新刊書の著者ジャンアントーニは、「この二人があまりに多くのことをその目で見たり、また大切なことを知り過ぎているために消されたのだ」と、次のような具体例をあげている。  ドンゴのパルティザンは逮捕したムッソリーニらファシスト領袖が持参していた財宝類を押収し、これをミラノの共産党本部に届けた。その輸送に当ったのがネーリとジャンナだった。ドンゴのパルティザンは共産党系のガリバルディ旅団だったからだ。しかしその財宝は本来、国に帰属すべきものであるため、二人はそれをイタリア中央銀行に届け出たことにするよう党から言いふくめられたのだった。  二人にとってそれは事実に反し、党にとっては二人がそれを口外すれば、最大限に不名誉なことであるはずである。このため党としてはネーリら二人を消す必要に迫られた。たまたま、ムッソリーニ処刑後にネーリとジャンナの二人がファシスト一派に拘束監禁されたが、間もなく釈放されるという事件があった。党はこれを利用して、「拘禁中に同志を売った。だから釈放されたのだ」とし、裁判で死刑を宣告したのだとの内容となっている。  さらに、「ムッソリーニ処刑」五十周年の九五年四月二十八日、この処刑に関係ある当時のパルティザン「ビル」ことウルバーノ・ラッザーロが、「実際は処刑前にすでに事故を引き起して死亡しており、処刑は実は“やらせ”だった」と“告白”、同時に下手人については「今日まで本人との約束で口外できなかった」ことを明らかにした。これに関しては本書第九章での記述にある当のラッザーロによる「またも『殺ったのはロンゴだ!』」の告白とほぼ同じである。つまりこの元パルティザンは同じ告白を繰り返していることになり、その点が注目される。なおこのラッザーロは本書で述べたように、すでにムッソリーニ未亡人にも「自分はあやまちを犯した」と謝罪している。  以上のような貴重な新事実や地道な調査研究による“真実”の発掘によって、歴史が事実により近く形成されることは極めて望ましいことだ。単行本の文庫化に当って、上述のような重要な新事実が現われたものの、単行本の基本線に全く影響はないため、加筆や補正は行なわなかった。それどころか、単行本を読み返し、さらに現地事情や新事実の発掘・発表などの資料収集をしながら、イタリアという国の歴史への忠実さというか、事実の尊重という態度に敬意をいだくほかはなかった。歴史を勝手に書き変えることは出来ないし、これから先よい歴史を作るか悪い歴史を作るかはひとえにその国の人間の質いかんにかかわることを我々は銘記すべきであろう。  最後になったが、本書を書くためにイタリアと日本で取材した数多くの人々にもう一度、心から感謝すると同時に、文庫版刊行に当って前書『ムッソリーニを逮捕せよ』同様、文庫編集部守屋龍一氏にすべてお世話になったことに厚く御礼申し上げたい。   一九九五年五月九日 木村裕主   講談社文庫版は、単行本『誰がムッソリーニを処刑したか』(一九九二年二月小社刊)を改題。 本電子文庫版は、講談社文庫(一九九五年六月第一刷刊)を底本としました。 電子文庫版では、親本収載の写真・図版・年表は割愛しました。ご了承ください。 ●著者 木村裕主 一九二六年、群馬県生まれ。東京外国語大学イタリア語科卒。毎日新聞入社後、イタリア政府給費留学、毎日新聞ローマ特派員、同編集委員を経て東京外国語大学講師、外務省専門調査員・在伊日本大使館広報・文化担当官などを歴任。財団法人日伊協会理事。イタリア現代史研究。著書には『ムッソリーニを逮捕せよ』(講談社文庫)、訳書『ムッソリーニの時代』(文藝春秋)などがある。 ムッソリーニの処刑(しよけい) 電子文庫パブリ版 木村裕主(きむらひろし) 著 (C)Hiroshi Kimura 2001 二〇〇一年二月九日発行(デコ) 発行者 中沢義彦 発行所 株式会社 講談社     東京都文京区音羽二‐一二‐二一     〒112-8001     e-mail: paburi@kodansha.co.jp 製 作 大日本印刷株式会社 *本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。