[#表紙(表紙.jpg)] 新装版 風果つる街 夢枕 獏 目 次  銀 狐  くすぶり  浮 熊  妄執の風   あとがき [#改ページ]    ——東家聖楽《あずまやせいらく》に [#改ページ]   銀 狐      1  祭《まつり》囃子《ばやし》が聴こえていた。  風の中に、笛や太鼓の音が響いている。  その音を耳の隅に聴きながら、雑踏の中をひとりの老人が歩いている。  年齢は、六十歳をいくらも出てはいないように見える。  身長は、一七〇センチに満たない。  やや曲がった背を伸ばしても、やっと一六八センチほどであろう。  痩《や》せている。  しかし、病的なほどではない。ただ無駄な肉がないという、それだけのことだ。  祭囃子の音に誘われて、近所の家からふらりと出てきたという風体《ふうてい》ではない。  全体に薄汚れていて、服装も老人らしいものではない。  黒いズボンをはき、錆《さ》びた色のシャツを着ている。そのシャツの上に黒い、ジャケットをひっかけていた。  その身にまとった服やズボンの、どこがどう汚れているというわけではない。全体に汚れているのである。四日や五日、同じ服を身につけただけで、そうなるという汚れではなかった。生地の色が、くすんで見える。洗剤と水をたっぷり使って洗濯すれば、かなり綺麗《きれい》になるはずの汚れであった。  老人には、自分の衣服を洗濯してくれるような人間が、身の回りにいないということになる。  はいている下着がどんな状態になっているか、ちょっと想像してみる気にはなれない。  雑踏の中を、どう歩いても、祭囃子の大きさは変わらなかった。  祭囃子の音は、その道の処々《ところどころ》に設けられたスピーカーから流れ出しているのである。  大きな祭りではない。  さほど大きくない町の一角にある神社の祭りである。  テキヤの出している店の数もほどほどである。綿アメや、金魚掬《きんぎよすく》い、焼き鳥屋等の店が、神社の前の通りに並んでいる。路《みち》の両側に並んだその店の間を、人が流れてゆく。  人混《ひとご》みの上に、ぽつんぽつんと、幼児が糸を手にした風船が浮いて、風に揺れている。  晩秋の夕暮れ——。  太陽がようやく没しかけた時間帯であった。  町はずれに近いその通りからも、西方に連なる山のシルエットが見える。太陽が、その山の端から、最後の陽光を空に向けて放っていた。  風は、肌に冷たかった。  昼ではないが、夜と呼ぶにはまだ早い、微妙な時間帯の透明な大気が、その町はずれの通りを包んでいる。  通りを歩く人の群れが、神社の方に向かう流れと、神社の方からもどってくる流れと、そのふたつに分かれている。  老人は、そのふたつの流れの境目あたりを、神社の方からもどってくるかたちで歩いている。  老人は、みごとな銀髪をしていた。  皺《しわ》の浮いたあさ黒い顔の上で、その銀髪が風にそよいでいる。  あまり櫛《くし》を入れたことがないらしく、銀色の髪がぼうぼうと逆立っている。  どこか異様な老人であった。  眼が鋭い。  刺すような視線を周囲に向かって投げている。  前から歩いてくる人の流れが、老人の手前でわずかに横に流れを変えている。  老人の視線が、人を脇へ押しのけているのである。  眼光|炯々《けいけい》というのではない。  手を伸ばせばすぐ人に噛《か》みつきそうなノラ犬の眼であった。  鼻が前に尖《とが》っており、その左右にやや細いその眼があった。  前へ歩いてゆく人の流れよりも、老人の歩調はやや遅い。  後方から歩いてくる人間が、次々に老人を追い越してゆく。  老人は、左手に、焼き鳥の入った包みを乗せていた。  その焼き鳥を右手で食べながら歩いている。  歩きながら、尖った視線を左右の夜店に投げかけている。  夜店の上に張られた電線からぶら下がった裸電球に、すでに灯《あか》りが点《つ》いている。  その裸電球の下の夜店に、ちらりちらりと視線を放っているのだが、その視線は、餌を捜しているノラ犬のものであった。  食べ終えた焼き鳥の串《くし》を、無造作にそのまま足元に落としてゆく。  ふと、老人の足が止まった。  その視線が、左横の人溜《ひとだ》まりの方に向けられていた。  老人は、ゆっくりと、人の流れを掻《か》き分けるようにして、人溜まりの方に歩み寄って行った。      2  人溜まりの中央にテーブルがあり、そのテーブルを挾んでふたりの男が向かい合っていた。  テーブルの上には将棋盤が置いてあり、その上に駒《こま》が並んでいる。  大道将棋——詰め将棋である。  革ジャンパーを着た一方の男が、口元に軽い笑みを浮かべて、腕を組んで盤面を眺めている。時おり、周囲を包んだ人間に視線を投げかけている。  もうひとりの男は、真剣な顔で相手の玉が並んでいるあたりを睨《にら》んでいた。三十歳をあまり出てはいないと見える、サラリーマン風の男であった。その男が客[#「客」に傍点]らしかった。  日曜日である。休日の夕刻に、ぶらりと祭りに足を向け、そこで、好きな将棋盤の前に足を止めてしまったと思われる。  はた目にも、そのサラリーマン風の男がかなり熱くなっているのがわかる。  丸めた背に、無言の迫力が満ちている。  男は、さっきから、駒を動かしていなかった。  すでに何手か指しており、その途中で手が行き詰まってしまったものらしい。  大道将棋に足を止めるくらいであるから、おそらくは、勤め先で将棋クラブか何かにでも入っており、かなり腕にはおぼえ[#「おぼえ」に傍点]があるのであろう。  男の後方で、見物人たちが小声で囁《ささや》き合っている。  次の手をこう指すべきだと、かってに自分たちで話し合っているのである。 「お客さん、教えるのはかんべんして下さいよ——」  革ジャンパーの男が言う。  教えるな——そうは言っても、むろん本気ではない。  口元に薄嗤《うすわら》いが浮かんでいる。  余裕がある。  革ジャンパーの男の後方の電柱に、黒いマジックで、 �詰め将棋、一手百円�  と書かれた看板がたてかけてあった。  さらにその下に、 �詰んだら千円差しあげます�  とある。  最終的に玉が詰まなかった場合、客が、一手を指すごとに百円を取られるかわりに、詰ますことができれば千円の金をもらうことができる。 「ほう——」  老人が、人溜まりの背後から盤面を覗《のぞ》き込み、声をあげた。  眼の奥に、きらりと黄色い光が動いた。 「苦戦しとるな」  つぶやいた。  老人の前に立っていた頭の禿《は》げた男が、軽く老人を振り返って、また盤面に眼をやった。 「最初のふたつは、きれいに詰んだんだけどね」  禿げた男は、老人にこの状況を説明しているつもりらしい。 「ふん」 「なかなかやるなと思ってたら、このみっつ目でだめになっちゃってね——」 「へえ」 「五手目に、玉の頭に金を打ち込んだあれがいけなかったよ——」  頭の禿げた男の声は、むろん、革ジャンパーの男の耳にも、盤面を睨んでいるサラリーマン風の男の耳にも届いている。  そういった言葉に、男が刺激を受けてますます熱く[#「熱く」に傍点]なっているのが見てとれる。 「ひとつ目は、わたしにもできたんだが、ふたつ目はかなり難しくてね。詰め方の二十一手目で詰んだのだったかな。それをその人がやっちゃったんだから、凄《すご》いなと思ってたんだが、みっつ目で、もう、三十八手打っちゃってるからね。これはもうまぎれ[#「まぎれ」に傍点]だね——」  男の言う手数は、詰め方のみの手数である。 「そうかね」  言いながら、老人はするりと人混《ひとご》みを分けてその禿げた男の横に並んだ。 「最初に簡単なのを出したのは向こうの手だったんだね。この三番目で、払った金を取りもどして、もっと金を巻きあげる気なんだよ、向こうは——」  禿げた男が声をひそめて言う。  その男の言うことは、当っていなくもない。  詰め将棋を解かれたら、金を与えることになっているからといって、難しい問題ばかりを出していたら、客は来ない。  簡単な問題と難しい問題を、適当にふり分けながら、客の力量をみながら問題を出さねばならないのである。  詰め方の客が解けなかった場合には、きちんと正解を示さねばならないし、正解手を皆の前で教えたら、もうその問題はその日には使えない。また次の問題を盤面に駒組《こまぐ》みしてゆくことになる。  詰め将棋のストックがきちんと頭の中に入っていなければならないし、革ジャンパーの男が個人営業なら、町の大きな将棋センターのトップクラスと平手《ひらて》でやっても充分やり合えるくらいの実力がなくてはならない。 「もう少しがんばりますか、お客さん——」  革ジャンパーの男が言う。  近くで見ると、遠眼に見たよりもかなり若かった。  客の男と同じ、三十代初めくらいに見える。  客の男の手には、銀が一枚、歩が一枚残っている。  客の男が意地になっているのがわかる。  その銀を右手の指にはさんで、打とうか打つまいか迷っているのである。  詰ますことができなければ、金を払わねばならない。これまでに打ってしまった手数が多くなればなるほど、その金額が増える。  次に銀を打てばその一手で百円が加算される。しかし、最終的に、何手かかろうとも詰ますことができれば、金を払わなくていいのだ。そのジレンマがある。  革ジャンパーの男の余裕はポーカーフェイスであって、自分はこれまで正解手を指している可能性もある。  そういう思いが見物人にも伝わってくる。  何度も、銀を握った手を盤面の上に持ちあげてから、男は、ようやくその銀を玉の頭に打ち込んだ。 「へへえ、来ましたね」  男は、危ない危ないと言いながら、玉を斜め右にあげた。  銀の腹に玉が並んだ。  その玉の頭に、客がさらに歩をたたく。  玉がこんどは斜め左に上がる。  銀の尻《しり》と歩の腹との間に玉が収まった。  小さく男が息を呑《の》んだ。  その玉の動きを明らかに予想していなかった様子である。  惰性のように、さらに二手を動かし、そして男は投了した。 「いや、危なかったなあ。お客さん相当やるから、こっちもひやひやものだったな——」  革ジャンパーの男がさっさと盤面の駒をかたづけながら言う。 「正解を教えてくれませんか——」  堅く押し黙っていた男が言った。 「今並べますから——」  革ジャンパーの男が言った。 「わたしが指しますから、お客さん逃げてみますか」  革ジャンパーの男が追い、男が逃げた。 「ここまでは、お客さんのは正解でね、次の五手目、ここでお客さんがやった玉の頭に金を打つまではよかったんですが、この金はそう——」  男は、その金を玉の尻から打ち込んだ。 「こう打って玉にこの金を取らせるのが正解だったんですね」  色々な変化を説明してみせる。  詰め方の二十九手目で玉が詰んだ。  逃げる方の手数と合わせ、五十七手詰めの詰め将棋ということになる。 「おしかったねえ——」  革ジャンパーの男がそう言った時、客の男が不満そうな声をあげた。 「しかし——」 「なんですか、お客さん」 「この歩——」  男が、テーブルの上を指差した。  詰め方の歩がそこに一枚余って転がっていた。 「歩が一枚残ってますよ」  声がやや上ずっている。 「あれえ——」  革ジャンパーの男が、声をあげた。 「余っちゃいけないんですか」 「当然でしょう」 「誰が決めたんです」  革ジャンパーの男は、口元に笑みを絶やさない。 「誰がって——」 「お客さんが言ってるのは、つい最近のお話じゃありませんか。江戸の昔から詰め将棋はあって、古典的なものには、駒が何枚も余るものがいくらでもあるんですよ。駒が余っちゃいけないなんぞというのは、将棋連盟だの好き者のアマチュアのお偉方が自分たちで勝手に決めたことでね、こちらには関係がない。わたしらのような商売の者は、別に将棋連盟に入ってるわけじゃないしね——」 「————」 「大正の初めから、わたしらはこの商売をやってますんで——」  笑みを絶やさない革ジャンパーの男の顔は、かえって凄《すご》みがある。口に笑みを残したまま、男の眼が急に刃物のような光を帯びた。 「詰めりゃあんたの勝ち。詰まなきゃあ負けだ。もんくがあるんなら金はいらねえよ。さっきの勝ち分だけ置いてってもらおうか——」  伝法な口調になっている。 「わかった——」  客の男は、ポケットからサイフを出し、きっちり四千円をテーブルの上に置いて、舌打ちをして背を向けた。  その金を、男は、無造作に革ジャンパーのポケットにねじ込んだ。  その間に、革ジャンパーの男は、一方の手でもう次の駒組みを始めている。  駒をあつかう手さばきが鮮かであった。  たちまち盤上に駒が並んだ。 「今よりは簡単だよ。持ち駒はなし。詰め方の二十三手で詰みだ——」  革ジャンパーの男が言った時、最後の焼き鳥を食い終えた老人が、すっと前に出た。  手に持っていた串《くし》を、ひょいと足元に投げ捨てる。  指に付いていたたれ[#「たれ」に傍点]を赤い舌で舐《な》めた。 「やるのかい、爺《じい》さん——」  革ジャンパーの男が言った。  老人は、盤面にちらりと視線を走らせ、 「うん」  つぶやいた。  玉側の守りの駒は、と金一、飛車一、金一、歩一、桂一の五枚である。  詰め方の駒もまったく同じである。ただ陣形と王がないのだけが違っている。 「いいのかい、もう——」  老人が言うと、革ジャンパーの男がうなずいた。  ひょいと老人が、細い指先で、自陣の飛車をつまみあげ、まっすぐ上にあげて、玉の腹にぽんと成りつけた。小石を拾って投げるように、あっけない動作であった。  飛車が成って、龍になっている。  最初の一手から、あっさりと大駒《おおごま》を捨ててゆく手である。 「さ」  と、老人が言う。  それまで薄嗤《うすわら》いを浮かべていた革ジャンパーの男の顔が引き締まった。笑みが消えていた。 「手慣れたもんだね、爺さん——」  玉の下方にいた金で、革ジャンパーの男がその龍を取りながら言った。 「ああ」  老人の歩が、玉の鼻先に成り込んだ。  そのと金を、龍を取ったばかりの金が、斜めにあがって取る。  同じリズムでひょいひょいとふたりの手が動く。  何度も練習し、反復した動作を、そこでもう一度繰り返しているような、リズミカルな動きだった。  老人の桂が、玉を斜めから睨《にら》むかたちで成り込んで、ふたりの動きが止まった。  ぴったり二十三手目であった。  革ジャンパーの男が、黙ってポケットから千円札を出した。  それを、老人が、男の手からひょいとひき抜いてジャケットのポケットにねじ込んだ。 「じゃあな——」  老人が男に背を向ける。 「待ちなよ、爺さん——」  ジャンパーの男が声をかけた。  老人が振り返る。 「この銭を返せってのかい——」 「そうじゃない、そうじゃねえんだよ」  男の声が、堅くなっている。 「もうひとつだ、もうひとつやっていかねえかって言ってんだよ」 「ほう」 「今のような遊びのやつで帰られたんじゃ、たまらねえよ」 「————」 「次のをだ。次のをやってみないかい、爺さん——」 「次の?」 「千五百円でいい。詰んだら千五百円払う——」  男の口調が真剣であった。 「見てからだ。それから決めさせてもらうよ——」 「ああ。かまわねえさ、それでな——」  言っているうちにも、男の手が動いている。  その手が、たちまち駒を組みあげてゆくのを、老人の眼が眺めている。  盤面に、半分近くの駒が並べられていた。  さっきまでとは比べものにならないくらい複雑な駒組みだった。  その盤面を老人が睨む。 「やれよ、爺さん——」 「やってみろよ」  見物人が声をかける。  大道将棋師が、通りすがりの老人に、果たし合いを申し込んだのである。見物の野次馬たちを奇妙な興奮が包み始めている。  老人が盤面を睨んでいたのは、およそ五分であった。  老人の持ち駒は、桂が一枚のみである。  五分の間にざわめきが広がり、祭《まつり》囃子《ばやし》の音が遠のいていた。老人が、顔をあげ、革ジャンパーの男を、鋭い眼で睨んだ。ふたりの眼が合った。  見物人のざわめきが、一瞬静まり返り、消えていた祭りの囃子が、ふいの静寂の中に鳴った。 「やるよ」  老人がそう言って、盤面の駒に指先を伸ばした。  どっと見物人の間にどよめきが走った。  先ほどと同じであった。  ふたりの手が、リズムを持って交互に盤面の上を動く。  盤面の駒が、次々に消えてゆく。  老人は、取った駒を惜し気もなく打ち込み、相手に取らせてゆく。老人の駒は、盤上に龍と角が一枚ずつ、そして、さっきから使用しないでいる、最初からの持ち駒の桂が一枚だけになった。  その時には、玉を包んでいた玉側の駒のほとんどが、玉の周囲から離れていた。  角の利いている玉の頭へ、横から老人の龍が動いた。  それで老人の動きが止まった。  玉は、かろうじて残った自軍の駒に邪魔をされ、龍の利き筋[#「利き筋」に傍点]から逃れることができない。  玉が詰んでいた。  百六十九手——詰め方の手数だけでなら八十五手の詰みであった。  最初からの詰め方の持ち駒である桂が、手を触れられないまま、最初に置かれた場所にそのまま残っていた。  革ジャンパーの男と、老人の視線が、盤上でぶつかっている。 「駒は、余ってもよかったんだな——」  老人がつぶやいて、右手を差し出した。 「ああ」  老人の右手に、革ジャンパーの男が、千五百円を乗せた。 「次だ」  革ジャンパーの男が言った。  指が、もう将棋の駒をつまんでいる。  たちまち、駒を並べ終えた。  駒の数がさっきよりも増えている。  野次馬たちの数が、さきほどまでの三倍以上になっていた。  ある人数以上になると、急速に野次馬の数がふくれあがる。 「いくらだ?」  老人が言う。  盤を眺めもしない。 「一万——」  革ジャンパーの男が言った。 「詰んだら一万、払ってやる」  見物人の間にどよめきがあがった。 「よし」  老人が盤に視線を落とした。  二分、三分と時間が過ぎてゆく。  詰め将棋には、一種独特の勘と、天才的な閃《ひらめ》きが必要である。普通、新聞に載るような問題なら、プロ棋士のA級《クラス》の者なら、早ければ一秒、遅くとも十数秒とかからずに詰ませてしまう。  ひと眼盤面に視線を走らせるだけで、瞬間的に解答が浮かぶのである。十歳になるかならぬ頃から、すでに神童と呼ばれ、天才と呼ばれてきた者たちが、その歳の頃からただひたすらに将棋に打ち込んできて、さらにその中からわずか数人がプロ棋士になれるのである。  A級ともなれば、もはやいずれも超のつく天才である。  老人の手が動き始めたのは十二分後であった。  玉が詰んだのは、詰め方の手数で、百七手目であった。  初めはあれほどあった駒が、詰んだ時には、玉と、玉を詰ませた詰め方の金と歩以外は、きれいに消えていた。 「きれいな煙詰めじゃねえか」  老人が、右手を差し出した。  その右手に、男が一万円札を渡した。 「じゃあな」  また、背を向けかけた老人に男が声をかけた。 「それはないぜ、爺《じい》さんよ」  男の眼がぎらついている。 「そんな煙詰めなんてのは、遊びにもならねえじゃねえか。わかってるだろう。これからだ。これからがおもしれえんじゃねえか——」  熱くなっていた。 「ほう」  老人が言った。 「三万だ」  革ジャンパーの男が、三本の指を立てて、叫んだ。 「次のやつが詰んだら、三万やるよ」 「いいのかい?」  老人がぼそりと言った。 「かまわねえよ」  男は、ポケットから千円札の束をつかみ出した。  さすがに、雰囲気が異様なものになってきて、見物人のざわめきもさっきまでのにぎやかさが失くなっていた。 「駄目よ——」  その時、見物人の中から、澄んだ女の声が響いた。 「由利子《ゆりこ》——」  革ジャンパーの男が、呻《うめ》くような声をあげた。      3  ジーンズ姿のセーターを着た女が、見物人の中から出てきた。  ショートカットの、眼の大きな女だった。  化粧をまるでしていないが、どきりとするほど美しい女だった。肌の色が卵のように白い。  その肌が荒れている。  荒れているというよりは、やつれであった。  二十八歳くらいかと見えるが、どこかにまだその年齢より若いものを残している。  二十四歳くらいの女を、ほんの一、二年で急速に老けさせると、このような顔になるのかもしれない。  男の前に出てくると、小さく首を振った。 「それは、つかえないお金のはずよ。そのお金が失くなったら、どうなると思うの——」  女が言った。 「こんな場所で、男どうしのことに口を出すな——」  男が言う。 「あばよ」  そのすきに老人が背を向けていた。  人混《ひとご》みの中に消えようとした老人に、男が叫ぶ。 「待てよ。まだ終わっちゃいねえぜ」 「もう終わったよ。女が出てきたからな」  老人がそう答えた時、鈍い音が老人の後方で響いた。  人の肉が人の肉を打つ音だ。  男が、女の頬を叩《たた》いたのである。 「ひっ」  と、女の声があがり、テーブルの上に何か重いものが倒れる音が響いた。  老人が振り返った。  女が、テーブルの上に上体を伏せていた。 「やろうぜ」  男が、唇を吊《つ》りあげて笑みを浮かべていた。  強烈な笑みであった。  テーブルの上の女を押しのけ、男の手が、もう、駒《こま》を握って並べ始めている。 「ふん」  鼻を鳴らした老人の顔にも、男と同じ種類の笑みが浮いていた。  青白い顔で、女が、男を見つめている。  男の額がやはり青白くなっており、そこに小さく汗の玉が浮いている。  駒が組みあがった。  その盤を、老人が睨《にら》む。  一分が経った。  二分が経ち、三分が経ち、四分が経ち——。  十分が経ち、十三分が経った。  男も老人も動かない。  その時、また、人混みの中から、声があがった。 「爺《じじ》い!」  太い男の声であった。  人垣が割れて、そこから、ふたりの男が姿を現わした。  柄の大きな男と、やや体型の細い男だった。 「この爺いだな——」  大柄な男が、横の細い男へ向かって訊《き》いた。  その男がうなずく。 「てめえが、うちの屋台から、焼き鳥を盗みやがったか——」  大柄な男が、つかつかと老人に歩み寄り、いきなり胸倉《むなぐら》をつかんだ。 「何をしやがる」  言いかけた老人が、たちまちそこにねじり倒された。 「警察へ行くか、銭を払うか、好きな方を選ぶんだな——」 「何のことだ?」  下から老人が言う。 「焼き鳥のことなんぞ知らんぞ」  呻《うめ》いた。 「うちの者がちゃんと見てるんだよ。てめえが、おれの屋台から焼き鳥を盗むのをよ——」 「知らん」 「ならば、警察だな」  おい、と男が顎《あご》をしゃくると、細い男が走り出した。  その途端、 「ま、待て——」  それまで知らん知らんとわめいていた老人が声をあげた。  上半身を起こし、地面に正座をする。 「すまん」  土下座をした。  両手を突いて額を地面に擦《こす》りつける。 「銭が無くてよ、おまけに腹が減っとってなあ。でき心だ。かんべんしてくれ——」  大柄な男がとまどいをみせた。  自分の親父くらいの年齢の老人が、いきなり土下座をして、許してくれと言っているのである。  老人が顔をあげる。  すぐ眼の前に、大柄な男の股間《こかん》があった。  地面に突いていた右手をひょいと持ちあげ、こんもりとした男の股間をぽんと叩いた。  男が、うっ、と呻いて股間を押さえた。  叩いた時には老人は立ちあがっていた。  立ちあがった時には走り出していた。  人混みの一番薄い所へ、どんと身体をぶつけるようにして、身体を潜り込ませる。  邪魔をする者はいなかった。  野次馬の列が割れた所を、風のようにあっという間に駆け抜けていた。わずかの逡巡《しゆんじゆん》も見せない鮮かな逃げっぷりであった。  祭りの人混みの中に、たちまち老人の姿が見えなくなった。 「く、糞爺《くそじじ》いめ——」  大柄な男が、そこにしゃがみ込んで、自分の股間を手で押さえている。  革ジャンパーの男が、あきれた顔で、老人が消えた人混みを見つめていた。      4  小さな一杯飲み屋であった。  客が十五人も入れば、いっぱいになってしまうだろう。  ふたつのテーブルと、小さな木造りのカウンターがある。  その席の半分ほどが客で埋まっていた。  カウンターには、三人の客が座っている。  男のふたり連れと、白髪の老人が独りである。  その日の夕刻、大道将棋の男から、一万二千五百円を取って行った老人である。  加倉文吉《かくらぶんきち》——。  それが、老人の名前だった。  老人とはいっても、背筋は、かなりしっかり伸びている。背がやや前かがみに曲がっているが、それは、歳のせいというより、若い頃からの加倉文吉の癖のようなものであるらしい。  文吉は、焼酎《しようちゆう》をコップで飲んでいた。  文吉の前に、焼き鳥が、大皿にてんこ盛りになっている。  焼き鳥が好物であるらしい。  老人の頭の中には、革ジャンパーの男が最後に組んでみせた、詰め将棋の盤面が浮かんでいる。 「野郎め——」  小さくつぶやいた。  みごとな盤面であった。  詰ますでもなく、文吉は、その盤面を、酒の肴《さかな》にするように、頭の中でもてあそんでいる。  駒組みはきちんと頭の中に残っている。十数分間も睨《にら》み続けた盤面である。しかし、どこからどう攻めたらいいのか、その見当がつかない。  普通、簡単な詰め将棋ならば、陣形を見ただけで、瞬時に、玉の詰み上がりの形がまず見える。次に、その手順が順に頭に浮かんでくるのだ。  稲妻がまず閃《ひらめ》き、続いて雷の音が響いてくるのにも似ている。  少し難しいものでも、自然に詰みの流れが見える。その流れを頭の中で追ってゆけば、自然に玉の詰みの形が見える。もう少し難しいものになると、詰みの形を頭で追ってゆく過程で、何度か枝道に入るが、枝道に入れば、何手も読まないうちに、すぐに詰み筋でないのはわかる。  ——しかし。  大道将棋には種本がある。  古典的なものから、最近に造られたものまで、かなりの数が、文吉の頭の中には入っている。大道将棋専門の、詰め将棋の造り手がいるのである。一見、簡単に見えるが、ふたつ以上の詰め手があったり、余り駒があったりする。随所にワナが仕かけられているのである。  見たことがない詰め将棋でも、その詰め筋や駒組みの癖から、造り手の見当さえつく場合もある。  しかし、今日、見たのは、それ等のどれとも違っている。  独創的なのである。  将棋の名人は、詰め将棋を詰ますのがうまい。しかし、詰め将棋を造るということになると、名人には平手戦《ひらてせん》でまるでかなわないような棋士が、名人が造るものより遥《はる》かに難解な詰め将棋を造ったりする。  在野のアマチュア棋士の中には、それがずっと極端な人間もいる。将棋の腕は駄目でも、プロ顔負けの詰め将棋を造る人間がいるのである。  何年もかけて、商売をやめ、妻にも逃げられ、八百手以上にもなる詰め将棋を考える人間もいる。学生ながら、千五百十九手詰めを造った人間すらいるのである。玉が詰んだ時、残った駒で、盤上に�イ��ロ��ハ�などの文字の形が残るように、詰め将棋を造ったりもするのだ。�あぶり出し�と呼ばれる詰め将棋である。詰ますのに、何日も何カ月もかかるものもある。  勝負師ではなく、研究者《マニア》なのである。  芸術家といってもいい。  プロ棋士への道を,中途で挫折《ざせつ》した人間が、そういう道に踏み込む場合もある。  今日、文吉が出会った男も、そういう人間の一人なのかもしれなかった。  文吉が最初に詰ましたものはともかく、その後の詰め将棋は、大道でやるには難解すぎた。高段のアマチュアならともかく、一般の人間を相手にしての商売では、とてもつかえない。  ふたつ目のものは、革ジャンパーの男のさぐりである。その次のものは、文吉の実力を試すもの。  最後に男が組んでみせたものが、男が文吉に挑んできた正式な勝負であった。  おそらく、今日見たどの詰め将棋も、あの男の創作なのであろう。  芸術家タイプでも、研究者《マニア》タイプでもなさそうだった。  ——野には奇妙な男がいる。  文吉はそう思う。  商売にならない詰め将棋を造り続けながら、プロへの道を閉ざされたまま、自分の才能をもてあましてきた男。  当っているかどうかわからないが、そんな男の構図が見える。  自分を睨んでいた男の眼を、まだ覚えていた。  ノラ犬が、ノラ犬に喧嘩《けんか》をふっかけてきたようなものである。  ——哀れな。  その思いがある。  焼酎《しようちゆう》を飲み干して、文吉は、焼き鳥を包ませた。  今晩の夜食である。  今夜中に電車でこの町を出るつもりだった。  軽い酔いのまわった頭の中に、革ジャンパーの男の造った詰め将棋が浮かんでいる。  奇妙な嬉《うれ》しさがある。  詰み筋の方は、まだ、昼間の十三分から進んではいない。  ——本気で取り組んで、一時間はかかるわ。  文吉はそう踏んでいる。  包みを受け取り、文吉は外へ出た。  数歩歩いたところで声をかけられた。 「待ってたぜ、爺《じじ》い」  聴き覚えのある声だった。      5  焼き鳥屋の、屋台の男の声だった。  店を出た狭い路地であった。  声は背後から聴こえてきた。  聴こえた途端に、文吉は走り出していた。  いくらも走らないうちに、足を何者かにすくわれた。  大きく前へつんのめって、地面に転がっていた。 「逃がさねえぜ、爺い——」  ふたりの男が、立っていた。  そのうちのひとりは、声をかけてきた大柄な男と一緒にいた、身体の細い男だった。  テキヤ仲間のようであった。 「とっとと逃げねえで、同じ町で酒なんぞ飲んでやがったのが運のつきよ——」  テキヤ仲間の誰かに、偶然ここで飲んでいるのを見られたか、もしくは彼等が文吉を捜していて、発見されたのであろう。  すぐに、この町を出るべきだったのだ。  いきなり背を蹴《け》られた。  文吉は呻《うめ》いた。 「哀れな爺いを苛《いじ》めんでくれ——」  悲鳴に近い声をあげた。 「うるせえ!」  胸倉《むなぐら》をつかまれ、引き起こされた。  引き起こしたのは、大柄な男だった。拳《こぶし》を顔面に叩《たた》き込まれた。  文吉は、地面に転がった。転がった文吉を三人の男の足が蹴る。  文吉は、背を丸めて、腹と股間《こかん》、そして頭部だけをかばって、蹴られるにまかせた。  口の中が、甘いものでぬるぬるしていた。  血であった。 「もう、やめろよ——」  その時、低い男の声が響いた。  文吉を蹴っていた男たちの足が止まった。  文吉が、頭をかばった腕の間から、その声のした方を見た。  あの詰め将棋の男が、男たちの前に立っていた。 「木崎か——」  大柄な男が言った。  二日続いた祭りの間、店を並べているうちに知り合いになったらしい。  名前は知っているが、それほど親しい間柄ではないことは、男の口調から想像できた。 「おめえもこの爺いの仲間か——」  言われて、革ジャンパーの男——木崎は小さく唇に嗤《わら》いを浮かべた。 「まあ、仲間みたいなもんかな——」 「なに!?」 「これでかんべんしてやってくれ——」  地面に、千円札の束を放り投げた。 「三万、ある」 「————」 「おれの全財産だよ」  木崎が言う。 「拾えよ——」  大柄な男が言った。 「拾っておれに渡せよ……」  言われた、木崎の顔に、すっと血が昇った。 「なんだと!?」  横に足を開いて、腰を落とした。 「やるか」 「てめえ」  ふたりの男が木崎に殴りかかった。  木崎が、そのうちのひとりに、気持のいいストレートをぶち込んだ。  しかし、もう一方の男に、腰にしがみつかれていた。 「糞《くそ》!」  動けなくなった木崎の腹と顔面に、ストレートを叩き込まれた男が、拳を打ちつけてきた。  木崎は、頭に血が昇り易いが、それほど喧嘩《けんか》が強いわけではないらしい。  たちまち、叩きのめされた。  転がった木崎と、文吉の背を、どん、どん、と、大柄な男が一度ずつ爪先《つまさき》で蹴ってきた。  文吉の懐に手が差し込まれ、ジャケットの内ポケットに入れてあった一万円札が抜き取られた。  男たちの足音が遠ざかった。 「大丈夫かい、爺《じい》さん」  木崎が言った。  唇から流れ出た血を、右手の甲でぬぐいながら、木崎が顔をあげ、起きあがった。  凄《すご》い顔になっていた。 「行ったか、奴等……」  驚くほどしっかりした文吉の声が、丸くなって頭を抱え込んだ腕の中から響いた。  顔をあげて、地面に座り込む。  鼻血を流していたが、木崎よりはまだダメージが少ない。  むっくり立ちあがり、身体の汚れを、ぱんぱんと手で払った。 「警察は呼ばんでいいぞ——」  飲み屋の店先から顔を出している人間に声をかける。 「狐みてえな爺さんだな——」  木崎が苦笑している。 「けっ」  文吉が、血の混じった唾《つば》を吐き捨てた。 「奴等、ぶん殴っといて、きちんと金だけは持って行きやがった」  木崎が、地面を眺めながら言う。  さっき投げた金がそこから失くなっていた。 「三万か——」 「この二日間の、ふたり分の宿賃だよ——」 「ふたり分? あの女とか——」 「ああ」 「どうしてよ、ここがわかったんだ——」 「奴等と飲んでた同じ宿の仲間が知らせてくれたんだ」 「————」 「奴等が爺さんの居場所を見つけて、ぶちのめしに出かけたってね」 「それで、場所を聴いて、ここまで来たってわけか」 「そんなとこだよ」  木崎が、ハンカチで血をぬぐいながら言った。  そのハンカチを、文吉に投げてよこした。  宙でハンカチを受けとめ、鼻の血をぬぐいながら、文吉がかがみ込んだ。  奇跡のように、無傷のまま、焼き鳥の包みがそこに転がっていた。 「こいつだけが無事だったか」  その包みを拾いあげる。 「あんた、何者だい」  木崎が言った。  わずかに沈黙があった。 「真剣師さ——」  ぼそりと文吉が言った。  ——真剣師。  将棋連盟に属さない、一方の将棋のプロである。  将棋の勝負に金を賭けて、それで生活をしている人間たちのことを、その名で呼ぶ。 「他に仕事は——」 「ねえよ」  文吉が答える。  右手の人差し指と中指をそろえ、その下に親指の腹をあてて、ひょいと前へ突き出した。 「これだけさ」  他に仕事を持たずに、真剣だけで食っていると、そういう意味である。 「まだいるのか、あんたみてえな爺さんがよ」 「これしか他に、食う道を知らねえんだ」 「もうひとつ、これ[#「これ」に傍点]もだろ」  木崎が、右手の握り拳《こぶし》の中から人差し指を一本立て、その指を曲げてみせる。  文吉が焼き鳥をかっぱらったことについて言っているのである。 「からかうねえ、ばか——」  焼き鳥の包みを文吉が脇に抱え込む。  まだ失《う》せてない温かみが、包み越しに微《かす》かに伝わってくる。 「行こうか——」  ふらりと、木崎が、文吉の前に出て歩き出した。 「どこへだ」  木崎の背に文吉が声をかける。  やや細い眼の中に、鋭い光がもどっていた。 「夕方の続きをやりにだよ」  足を止めずに、木崎が言った。      6  八畳の、和室であった。  座卓が脇へのけられ、かたちばかりの床の間の前が、広く空いていた。  その、黄ばんだ畳の上に、将棋盤が置いてあった。  宿から借りた、二つ折りにできる板の盤である。  その板をはさみ、床の間を横にするかたちで、文吉と木崎が向かい合っていた。  どちらも、畳の上に直接、胡座《あぐら》をかいている。  木崎の横の、少し離れた畳の上に、由利子という、あの女が、夕方と同じ姿で正座をしていた。 「始めようか」  と、木崎が言った。 「始めるのはいいがよ——」  文吉は、頭を掻《か》いた。 「どうした?」 「こちとら、真剣師よ。この意味がわかるか」 「————」 「そっちも大道将棋の先生[#「先生」に傍点]だ」 「————」 「何を賭《か》ける?」  文吉が言った。  文吉には金がない。  金があれば、いくら好きでも焼き鳥を盗んだりはしない。  今日の夕方、やっと稼いだ金も、さっき懐から奪われている。  残っているのは、飲み屋で受け取った釣り銭の百二十円のみである。  木崎の方も同じであった。  ここの宿代になるはずの三万が、すでにない。 「おれは、こいつを賭ける」  文吉は、脇の畳の上に置いてあった、焼き鳥の包みを、ずっと、畳の上を滑らせて前へ押し出した。 「おまえは何を賭ける?」 「おれか——」  木崎が言葉につまった。  ちらりと、由利子に視線を走らせる。  文吉がうなずいた。 「そこの女を賭けろ」  文吉が言った。 「やらせろたあ、言わねえよ。おまえが負けたら、そこの女のあそこを舐《な》めさせてくれ」 「————」 「ここしばらく、商売女のさえ舐めてない」  真面目な顔で言った。  女はうつむいたままである。  表情は見えない。  舐めさせろと言った文吉の言葉を意識してというより、木崎がどう答えるか、それを全身で聴き逃すまいとしているようであった。 「よし」  木崎がうなずいた。  木崎は、女の方を見なかった。 「どうやる?」  文吉が言う。 「一時間だな」  木崎が言う。 「手頃なとこだ」  文吉が答え終わらないうちに、木崎が駒組《こまぐ》みを始めていた。  壁にかかった時計を文吉は見つめ、 「用意ができたら声をかけてくれ——」  そう言った。  駒組みの音がやんだ。 「いいぞ」  木崎が言った。  文吉は、盤上に眼を落とした。  それまで頭の中に浮かべていた駒組みの映像が、盤上の駒にぴったりと重なった。  痛いような沈黙があった。  時計の秒針が時を刻む音だけが響いている。  その音に、小さく女のすすりあげる声が、やがて混じった。  ふいに、すっと文吉の手が動いた。      7  それに合わせて、木崎の手が動く。  一定のリズムで、ふたりの手が盤上を走る。  盤上の駒が、二枚以上減ることはなかった。  取った次には、すぐ取ったその駒を互いに打ち込んでゆくのである。  それを繰り返しながら、盤面の端から端へ、ゆっくり戦場が移動してゆく。  次第に満ちてゆく潮を見るようであった。  まさに芸術品とも言える詰め将棋であった。  玉側と詰め方の手数が、合わせて五百二十四手になった時、ふいに、文吉が手の動きを止めていた。  五百二十五手目の駒を、右手の指に握っていた。  文吉の額に、細かい無数の汗の粒が浮いている。 「どうした?」  木崎が言った。  木崎の眼が赤くなっている。  その声が微《かす》かに震えを帯びている。 「その金を打てば詰みじゃないか——」  木崎の言う通りであった。  その金を玉の頭に打ち込めば、初めに盤上に在ったのと同数の駒が盤上に並び、玉が詰む。 「もう、一時間経っちまったんだよ——」  文吉が言った。  木崎が部屋の時計に眼をやった。  その顔がひどい顔になっている。  しばらく前に殴られた場所が、大きく腫《は》れあがってきているのである。  青く痣《あざ》が浮いている。 「まだ十分も時間が残ってるじゃないか」  木崎が言う。  文吉は、持っていた金を、盤上にころりと落とした。 「夕方によ、もう十三分使っちまってるじゃねえか——」  にっ、と力なく笑った。 「何!?」 「おれの時間切れさ——」  文吉がつぶやいた。 「馬鹿にするな」  男が言った。 「馬鹿になんかしちゃあいねえよ——」  男の視線を受けてから、文吉が顔を落とした。  木崎は、一瞬、文吉が泣いているのかと思った。  文吉は顔をあげた。泣いてはいなかった。憑《つ》いていた鬼が落ちたように、切ない表情をしていた。  互いの顔を見つめ合った。  やがて、文吉が、唇を開いた。 「何でよ、おめえやおれみてえな人間が、世に出れねえで、こんなとこでこんな勝負をしてるんだろうなあ——」  しみじみと言った。 「けっ」  わかってるじゃねえかという言葉を木崎が呑《の》み込んだ。 「おれの負けだよ」  文吉が立ちあがった。 「どうした?」 「便所はどこだ?」  文吉が言う。 「部屋の外だよ」  木崎が言った。 「行ってくる」  そうつぶやいて文吉は淋《さび》しく背を丸めて外へ出て行った。 「けっ」  木崎が、仰向けに畳の上に転がった。  十分経ち、十五分経っても、文吉は帰って来なかった。  ふと、木崎が顔をあげると、盤の横の畳の上にあったはずの、焼き鳥の包みが消えていた。 「逃げたか、爺《じじ》いめ——」  声をあげて、立ちあがりかけた。  立ちあがりかけた姿勢のまま、木崎の動きが止まった。  逃げるも何も、自分たちには、どこにも逃げる場所などありはしないのだ。  冬が近い夜風の中を、冷えた焼き鳥を噛《かじ》りながら歩いている文吉の後ろ姿が眼に浮かんだ。  そして、木崎は突然、自分がまだ老人の名前も知らず、自分もまた老人に自分の名を名告《なの》ってはいないことを思い出して苦笑した。  女のすすり泣きがやんでいた。  明日の夜明けまでに、この女とどうやってこの宿を抜け出そうかと、そんなことを木崎は考えていた。 [#改ページ]   くすぶり      1  あまり賑《にぎ》やかでない商店のはずれに、細い路地がある。  酔っぱらいが、立ち小便をするために、入り込みたくなるような路地であった。奥に入れば、夜になると赤い提灯《ちようちん》がぶら下がるような店も何軒かある。生ゴミの入ったポリバケツが、昼間でもふたつみっつは出ている。  小便の臭いとも、生ゴミの臭いともつかない腐臭が、常にその路地には漂っていた。  人の汗やら体臭やら、生活の垢《あか》のようなものが、その路地に吹き溜《だ》まっているのだ。 �底歩《そこふ》�は、その路地に入って、左側の三軒目にあった。  その小さな街にいくつかある将棋道場のひとつが、この�底歩�であった。  古い、公民館に似た二階建て木造家屋の一階が道場になっている。  二階は、麻雀屋《マージヤンや》になっている。  一階の、路地に面した壁にガラス窓があり、木目の浮いた木枠にガラスが入っている。  畳は黄ばんでいて、表面が摩《す》り切れていた。黄色く枯れた匂いが、部屋の中にこもっている。  その中に、駒《こま》と盤の独特の木の匂いが漂っている。人の手垢や脂が染み込んだ、黒光りする駒や盤が、その匂いから想像できそうであった。  二十畳くらいの、縦に長い部屋であった。  窓際に沿っていくつか盤が並んでいて、その盤を挾んで、何組かの対戦が行なわれていた。使用されている盤は、脚のある盤もあれば、折りたたむことのできる薄い板の盤もあった。その薄い板を利用している者の中には、胡座《あぐら》をかいて、その上に身を乗り出すようにしている者もいる。脚のある厚い盤の横腹に、次に打ち込むつもりらしい駒を指につまんで、それをぴしゃぴしゃと打ちつけている者もいる。  道場にあがったすぐの場所が板の間になっていて、そこに机が置いてあり、手合い係りが座っている。  手合い係りは、五十歳を過ぎたと見える男で、机の上に広げた週刊誌に眼を落としていた。  板の間の隅に、盤と駒の入った箱が並んで積みあげてあり、道場に入った人間が、そこから自由に盤と駒を持ってゆき、空いている場所で対戦するというシステムになっているらしい。  時おり入ってくる人間が、手合い係りに声をかけ、勝手に盤駒を持っていく。ほとんどが、手合い係りと顔見知りの常連客ばかりらしい。  手合い係りの男が、わざわざ相手を捜してやらなくとも、常連客どうしは、自由に相手を見つけてやっているようであった。  平日の午後であった。  つい三日ほど前に、梅雨明け宣言があったばかりである。  窓が東側にあるため、直接西陽が入り込んでくるわけではないが、それでもかなり暑かった。  開け放たれた窓から、時おり通行人が中を覗《のぞ》き込んでゆく。窓の下の縁が、通行人の肩の高さくらいであるため、それほど無理をしなくても中が覗けるのである。  将棋を指している人間は、明るい窓側に集まっているのだが、そうではない五、六人の集団がいた。  わざわざ、窓から一番遠い部屋の隅の一角を陣取って、将棋を指しているのである。  窓の近くの人間たちとは別の、異様な雰囲気が、その隅の集団の中にはあった。  この道場のくすぶり[#「くすぶり」に傍点]の連中である。  金を賭《か》けて将棋をやる人間たちであった。一勝負に、およそ五百円から千円の金を賭けてやる。  くすぶり[#「くすぶり」に傍点]どうしでやる時もあれば、普通の相手と賭けてやる時もある。  彼等を、真剣師[#「真剣師」に傍点]と呼ぶ者もいるが、はっきりくすぶり[#「くすぶり」に傍点]と真剣師[#「真剣師」に傍点]とを分けている者もいる。  現代においては、本物の真剣師は、ほとんどいない。将棋連盟に属している一方のプロが棋士ならば、真剣師は、連盟に属さない一方のプロと言ってもいい。他に定職を持たず、賭け将棋のみで喰《く》っている人間が、本物の真剣師である。  戦後のある一時期には、そういう真剣師が巷《ちまた》にかなりの数いたが、現在ではめったにそういう真剣師に出会うことはない。  金を賭けて真剣[#「真剣」に傍点]はやっても、それを業《なりわい》としている真剣師はいない。  時おり、業界で名の通った男たちの間で、スポンサー付きの真剣が、行なわれたりする。そんな時には、何十万から、百万単位の金が賭けられたりもする。  現在では、金を賭けて将棋を指すことは禁じられているが、どこの道場でも、金を賭けてやるひと握りの将棋指し[#「将棋指し」に傍点]がいる。定職を持っている者も、持っていない者もいる。どこかで金を造ってきては、道場に顔を出し、真剣[#「真剣」に傍点]をやる。  そういった人間たちを、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]と呼んでいるのである。  道場では、そういうくすぶり[#「くすぶり」に傍点]連中が一番の常連客なのである。  ほとんどの道場が、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]を黙認している。  一般の客の中にも、半分はくすぶり[#「くすぶり」に傍点]のような人間がいて、金を賭けて指したりする時もある。くすぶり[#「くすぶり」に傍点]の連中も、そういう人間を敏感に見つけ出し、互いに声をかけあっては、金を賭けた勝負をやっているのである。  くすぶり[#「くすぶり」に傍点]とそうでない人間との境目ははっきりしていないのだ。  窓の外を歩いていた老人が、途中で立ち止まって、ひょいと中を覗き込んだ。  みごとな銀髪をした、痩《や》せた老人であった。  髯《ひげ》までが、白い。  陽に灼《や》けた、浅黒い皮膚をしていた。その黒の中には、垢の汚れも何割かは混じっていそうであった。  ぼうぼうとした銀髪にも、あまり櫛《くし》を入れたことがないらしい。  皺《しわ》の中から、鋭い眼が、部屋の内部を見回した。  鋭いとはいっても、猛禽類《もうきんるい》の眼が持つ、射抜くような眼ではない。どこかに怯《おび》えを含んでいる、ぎざついたブリキのようなノラ犬の眼である。  骨張った鼻が、高く前に突き出ている。  顔中に皺が刻まれており、皮膚の色が陽焼けと汚れとで黒っぽいためわかりにくいが、皮膚そのものは意外と若い。  六十代に手が届いたばかりのようであった。  老人——加倉文吉《かくらぶんきち》である。  奥の隅で、ひと塊りになっている人間たちに、老人の視線が止まった。  あまり上等でない笑みが、文吉の唇に浮いた。  道場に文吉が入ってきた。  文吉は、よれた綿のズボンをはき、素肌に直接綿の白っぽいシャツを着ていた。その上に、夏物の薄い上着をひっかけ、その袖《そで》を肘《ひじ》までまくりあげていた。  時おりは洗濯をしているのだろうが、着ているものには、ぼうっと汚れが染みついていた。  右手に、古びた革のバッグを下げていた。  手つづきを済ませると、文吉は、慣れた仕種《しぐさ》で、奥まで歩いてきた。  くすぶり[#「くすぶり」に傍点]の前で足を止めた。  ふた組の男が、そこで、将棋を指していた。  その傍《そば》で、ひとりの男が胡座《あぐら》をかいて、ふたつの盤面に、視線をそそいでいた。その五人の男たちの他に、もうひとりの男がいた。  身体つきのがっしりした、素足にジーンズをはいた男であった。  胡座をかき、奥の壁に背をあてて、酒を飲んでいた。  短い髪をした、三十歳をいくらか越えたくらいの男である。顔が赤かった。  男は、すぐ目の前で行なわれている勝負には無関心のようであった。焦点のはっきりしない眼を、時おり盤面に向けながら、酒を口に運んでいた。  ウイスキーのポケット瓶であった。  透明なプラスチック製のミニカップにウイスキーを注いでは、それを口の中に放り込むようにして飲んでいた。 「ちょっと観戦《み》させてくれるかい——」  立ったまま、文吉は男たちに声をかけ、ひょいとそこに座り込んだ。  ほんの一瞬だけ、対戦者の視線が文吉にそそがれ、 「ああ——」  と、盤面に眼をやっていた男が低く答えただけであった。  ウイスキーを飲んでいる男だけが、何のアクションも起こさなかった。 「しるし[#「しるし」に傍点]をつけてるんだろ?」  文吉は、傍の、盤面を眺めている男に向かって訊《き》いた。  しるし[#「しるし」に傍点]をつける——つまり、文吉は、金を賭けているのだろうと男に訊いたのである。  無言で、男はうなずいた。  文吉は、しばらく両方の盤面に目をそそいでいたが、やがて、一方の盤面の方に視線を固定させた。  手前の盤面である。  四十歳くらいの男と、三十五、六歳くらいの男が指している。  指し手は、かなり早いペースであった。  一勝負で、軽くて五百円から千円である。ひとつの勝負に長い時間はかけてはいられない。一日に何度も指さねばならないのである。  終盤に入っていた。  四十年配の男の方が、明らかに優勢であった。  四十年配の男が、先ほど取ったばかりの角を張って、王手をかけた。その時点で、若い方の男が投了した。  王が詰む四手前であった。  アマチュアの三段から四段の実力は、どちらも充分にありそうであった。  投了した男が、ポケットから皺だらけになった千円札を出した。  それを受け取り、ポケットにしまいながら、四十年配の男が、文吉に眼をやった。 「おたくもやる[#「やる」に傍点]のかい?」  文吉に訊いた。 「やるよ——」  短く文吉は答えた。 「どのくらいなんだい?」 「まあ、二枚ってとこかな」 「二枚?」 「飛車角の二枚落ちでね」  文吉が言うと、相手は、怪訝《けげん》そうな顔をした。文吉の言う意味がよくわかっていないらしい。 「二枚落ちって、あんた——」 「こっちが大駒《おおごま》を二枚落として、あんたとちょうどいい勝負ができるだろうと言ったんだよ」  声を大きくするわけでもなく、淡々と文吉は言った。かえって、その方が相手の気持を逆撫《さかな》でするような効果があるのを承知している口ぶりであった。  男の顔が、さすがにむっとした表情になった。 「本気かい」 「本気さ。二枚落ちでいい——」  そう言った文吉の顔を、男が睨《にら》んだ。 「逃げるなよ」  低く言って、男は、駒を並べ始めた。  盤上に散った駒をつまんでは、自分の陣に並べてゆくのだが、一度の動作だけで、きれいに駒が並んでゆく。  若い男が、横へどいた。  文吉が、そのどいた場所に腰を下ろした。  駒を並べ始めた。  文吉も、ひょいひょいと駒を細長い指でつまんでは、自陣に並べ出した。  駒を並べ終えた。  いったんきちんと並べておいてから、文吉は、飛車と角とを取り去った。 「いくらだ?」  男が、挑むような眼で、文吉を見た。 「いくらでも」  と、文吉が答えた。 「三千円」  と男が言った。 「いいよ」  無造作に文吉が答えた。  接戦であった。  勝負がついたのは、およそ四十五分後であった。  文吉が勝った。 「悪いね、あんた」  文吉は、男から三千円を受け取った。 「へえ」  いつの間にか、横でやっていた勝負が済んで、ふたりの男が見物に加わっていた。 「次は、おれとやってもらえるかい」  一方の男が言った。 「いいよ」  文吉が答えた時、 「待て——」  今、文吉に敗れたばかりの男が、その男を制した。 「おれともう一番だ」  低い声で言って、盤に駒を並べ始めた。 「おれだったら、負ける勝負はやらねえな」  その時、ぼそりという声が響いた。  男は、その声の方に眼をやった。  壁に背をあずけて、ウイスキーを飲んでいた男が、今の言葉を発したのであった。  男は、上眼遣いに、ウイスキーをプラスチックのカップに注ぎながら、文吉の方を見ていた。 「省《しよう》さん」  駒を並べかけた手を止めて、四十年配の男が、ウイスキーを飲んでいる男に向かってつぶやいた。  宇津木省二《うつぎしようじ》——それが、このウイスキーを独りで飲んでいる男の名前であった。 「今さら負けて勉強しなくちゃいけない歳じゃないだろう?」  言いながら、宇津木省二は腰をあげた。  ウイスキーのポケット瓶が空になっていた。 「省さん……」  宇津木に、男が声をかけた。 「酒を買ってくる——」  男の声が耳に入らなかったように、宇津木は背を向けていた。      2  闇の中で、文吉は、風の音を聴いていた。  背中に、堅い木の感触がある。  枕《まくら》にしているのは、いつも持ち歩いている革のバッグである。  眼を閉じていると、風の音ばかりが耳に届いてくる。いや、正確には、風の音というよりは、風に揺れる樹々の葉擦れの音である。  頭上の高い闇の中で、銀杏《いちよう》の葉が揺れている。その音は、細やかで、乾いている。  うねるようにざわついているのが、桜の葉である。欅《けやきく》や楠《すのき》も、どこか似たようなうねりがある。風に、枝や梢《こずえ》がたわみ、葉を揺らしながら上下に揺れている様が眼に見えるようであった。  その音を、ひとつずつではなく全体として耳にしていると、遠い海鳴りを聴いているようであった。  実際に、その音の中には、潮騒《しおさい》も混じっているのかもしれなかった。  風の加減で、どうかすると、鼻孔に潮の香りが届いてくるのである。  それほど遠くない場所に海があるのはわかっているのだが、それがどの方向かとなると、文吉にはわからない。  静岡県の清水市——。  この街には、つい昨日、来たばかりであった。  昨夜は、きちんと宿に泊まることができたのだが、今夜は、野宿であった。  昼間、�底歩�という将棋道場で稼ぎそこねたのである。手に入れたのは、三千円という金だけであった。  宇津木という男が声をかけたため、なんとなく座が白け、そのままになってしまったのだ。  奇妙な男であった。 �底歩�のくすぶり[#「くすぶり」に傍点]連中が、一目も二目も置いているらしい。彼等と同レベルの者が、あの宇津木のような口をきいたのなら、逆にあの男も熱くなって、文吉にとってはありがたいくらいである。かえって勝負にのってくる。  適当にアメをくれながら、あそこにいた連中からかなりの金を巻きあげることもできたはずだ。三日や四日は通いつめてもよさそうな雰囲気さえあった。  それが逆に醒《さ》めた。  宇津木が、彼等に余程強い影響力を持っているということである。  影響力——つまりそれは、宇津木の将棋の棋力が彼等のレベルを大きく上まわっているということである。  ——あの男を相手にすべきだったか。  と、文吉は思う。  待ち合わせは、明日の午後一時である。  午前中に、また�底歩�に顔を出してみようかと文吉は考えていた。  ——それにしても。  と、文吉は思う。  つくづく、いいカモをとり逃がした。  うまくいっていれば、こんな神社の境内ではなく、もう少しマシな寝ぐらに潜り込めたのだ。  昨夜、女をねぎったのがいけなかったと思う。そういえば、昨夜の女も奇妙な女であった。 「お独りじゃ、淋《さび》しくありませんか——」  昨夜泊まった旅館で、風呂《ふろ》から上がった文吉に、番頭が、女を呼ぼうかと声をかけてきたのだ。 「まだ、あっちの方はごさかんなんでしょう」  金がないよ、と文吉は答えた。 「お客さん、この土地の方じゃありませんね」  と番頭が言った。  そうだと、文吉は答えた。  この土地に寝ぐらがあれば、そこに泊まる。 「ならばちょうどいい娘《こ》がいるんですけどね」 「どんな娘だい?」 「人妻ですよ。亭主には内緒でね、この土地の者じゃなければ、いいんですよ——」 「へえ、そうかい」  そう答えて、文吉は部屋にもどった。  床がのべてあった。  四畳半に、申しわけ程度の床の間がついた部屋であった。壁には染みが浮いていて、窓はきちんと閉まらない。  小さな座卓を隅によせて蒲団《ふとん》を敷くと、もうほとんどスペースが埋まってしまう。  浴衣《ゆかた》で、蒲団の上に胡座《あぐら》をかき、文吉は、古びたバッグの中から、布の袋を取り出した。  袋の中には、将棋の駒《こま》が入っている。  それを、蒲団の上に出して、駒を眺めていた。  古い駒であった。  文吉の、唯一の財産といってもいい。  それで、三十分も過ぎた頃、部屋の戸を叩《たた》く者がいて、文吉が声をかけると、その女が入ってきたのであった。  やや化粧の濃い、三十六、七歳の女であった。  眼の周囲や、頬のあたりに、影に似たやつれが張りついていたが、美人といってよかった。ゆるんではいそうだったが、身体全体にほどよく肉がついている。  唇が厚めで、情のこわそうな感じがある。  半袖《はんそで》の、ワンピースを着た女だった。  女が入ってきた途端に、文吉は、その女が、さっき番頭の言っていた�ちょうどいい娘《こ》�であることがわかった。 �そうかい�と答えた文吉の言葉を、女を呼んでもいいと番頭は解釈したらしい。  入ってきた女は、目敏《めざと》く、文吉の持っている駒に眼を止めた。  駒のひとつに、赤いマニキュアを塗った指を伸ばして、それをつまんだ。 「いい駒じゃない」  女は言った。 「虎斑《とらふ》の入った黄楊《つげ》というと、たぶん伊豆七島の御蔵島《みくらじま》ね——」  女は、駒に使用されている木の種類とその産地をみごとに言いあてていた。 「あんた、駒のことがわかるのかい」 「少しなら——」  女は答えて、蒲団の上から、王と玉とを拾いあげた。  王の方の尻《しり》に�露風《ろふう》作�とあり、玉の方に�香山《きようざん》書�と朱《あか》く文字が入っている。 「岩田《いわた》香山の書で、辻村《つじむら》露風の作ね——」  駒には書かれていない、駒の作者と書作者の姓まで言ってのけた。  どちらも、今はこの世にはない故人である。 「驚いたな、あんた」 「お客さんは、将棋を指すの?」 「ああ、少しね」  文吉は答えた。 「あんたもやるのかい」  文吉が言うと、一瞬、女は顔を伏せた。 「わたしは、やらないわ」  手の中の駒を、さらりと蒲団の上にこぼした。  文吉は、蒲団の上にこぼれた駒を拾いながら、それを袋の中に入れてゆく。 「実はよ——」  と、文吉は言った。 「わざわざ来てもらってもうしわけないんだがな——」  さきほどの番頭との話をした。 「だからよ、おれは金を持ってねえんだ」  女は、小さく眼を伏せてから、また視線をあげた。 「そんなに高くはないわ。もう歳だしね」 「おれに比べりゃ、充分過ぎるくらい若いよ——」  文吉が言うと、女は小さく微笑した。 「いくらなんだ」 「二時間で、一万五千円——」 「おっぱいを触わるくらいの金しかねえんだよ」 「いくらならあるの——」 「ここの宿代を払ったら、三千五百円も残らねえよ——」 「本当?」 「ほんとさ。三千五百円でやらせてくれるんなら、残りの金全部を、今ここで使っちまったっていいんだけどよ」 「やっぱり、胸を触わるだけね」  いきなり怒り出すかと思った女は、溜息《ためいき》のようにそう吐き出した。 「してからでなくてよかったわ。してからそんなこと言われたら、怒っちゃうところね」  言いながら立ちあがった。 「胸を触わらせてくれるんじゃなかったのかい?」 「やめときなさいよ。有り金はたいて、胸だけだなんて」  女は、文吉の前に膝《ひざ》を突いて、右手と左手の人差し指を襟に差し込んで、布地と肌との間に大きな透き間を造った。 「はい」 「なんだ?」 「触わってもいいわよ」  自分の胸を触わってもいいと、女は文吉に言っているらしい。 「これは将棋の駒《こま》を触わらせてくれた分よ」  眼を閉じた。 「いいのかい?」 「少しだけ」  文吉は、そろりと右掌を差し込んだ。  温かな温度と、柔らかなものに指が触れた。その指先が一瞬、乳首に触れた。  女はブラジャーをしていなかった。 「はい」  女が上体を引いた。  乳首にほんの一瞬指先が触れただけで、文吉の右掌は女の襟の中から抜け出ていた。  そのまま立ちあがり、この次にまた声をかけてくれと文吉に言い残し、女は出て行った。  その時触れたものの感触が、神社の境内で寝ている文吉の指先にまだ残っていた。  眼を閉じて、風の音を聴いていると、指先に、久しぶりに触れた女の乳房の甘みがじんわりと広がってくる。  ——と。  下方の闇のどこからか、人声が聴こえてきた。  男の声である。  数人の男が、この神社へと続く石段を、下から登ってくるのである。  荒い声が、届いてくる。  穏やかではない雰囲気があった。  あまり、大きな神社ではない。  樹木に囲まれた境内ではあるが、街の中にある神社である。下の通りを少し歩くだけで、すぐ、飲み屋が建ち並ぶ一角に出ることができる。  文吉は、神社の周囲をテラス状に包む、板の上に、横になっていた。  声が近づいてきた。  怒ったような声がしている。  文吉は起きあがって、板の上を神社の横手に移動した。  腰を沈めて、角から顔だけを覗《のぞ》かせて、階段の方に視線を向けた。  階段を登りきった所に、今では珍しい、裸電球の外灯が立っている。いや、電球は裸ではなく、もうしわけ程度のアルミの笠《かさ》を、その上にかぶっていた。  階段の上に、五人の男が姿を現わした。  石の階段を登りきると、そこは石畳になっていて、境内の中央を、その石畳が神社の正面に向かって続いている。  男たちは、その石畳の中央で立ち止まった。  四人が、ひとりの男を囲んでいた。  囲んでいる男たちも、囲まれている男も、堅気風には見えなかった。  囲まれている男の顔に、見覚えがあった。  ——あの男か。  と、文吉は思った。 �底歩�で、文吉と四十年配の男の勝負に、自分だったら負ける勝負はやらないと、声をかけてきた男——壁に背をあずけて、ひっそりと酒を口に運んでいた宇津木省二であった。  宇津木と、宇津木を囲んだ男たちが、短く言い合いをした。  声が重なって、全部は聴き取れないが、金のことについてもめているらしかった。 「ならば、勝負に負けりゃいいんだよ——」  宇津木に向かって、囲んだ男たちのひとりが言った。 「そうすりゃあ、金は返さなくていいんだぜ——」  宇津木は、首を小さく振って、いきなりその男の顔に唾《つば》を吐き捨てた。 「糞《くそ》!」  宇津木に唾を吐きかけられた男が、いきなり宇津木の顔にストレートパンチを叩《たた》き込んだ。  肉と肉とが骨を軋《きし》ませてぶつかる音が、鈍く文吉の所まで届いてきた。  宇津木が、その男の脛《すね》を右足の爪先《つまさき》で蹴《け》った。  乱闘が始まった。  ひとりに対して四人がかりである。  たちまち宇津木は地に這《は》わされていた。  地に這った宇津木の横腹や顔に、男たちの蹴りがぶち込まれた。  宇津木は、背を丸め、両腕の中に頭を抱え込んで攻撃を受けていた。  蹴られる度に声をあげていた宇津木の声が、小さくなった。  攻撃が止んだ。 「けっ!」  と、男たちのひとりが、宇津木の上に唾を吐いた。  最後に、もう一度、その男が宇津木の腹を蹴りあげた。  宇津木に、唾をかけられた男であった。 「考えとけよ」 「そっちがその気なら、こっちにも考えがあるからな」  男たちが、背を丸めている宇津木に吐き捨てて、宇津木に背を向けた。  男たちの姿が階段の下に消えた後、ゆっくりと、文吉は境内に出て行った。  うずくまっている宇津木に歩み寄った。  強い酒と血の匂いがした。  宇津木は、ぼろくずのように、そこで動かなかった。 「おい」  と、文吉は声をかけた。 「もう少しやると思ったんだが、案外だらしがねえんだな——」  うずくまった宇津木が血と泥とで汚れた顔をあげた。 「あんたか——」  言ってから、小さく呻《うめ》き、軽く咳《せ》き込んだ。 「酒さえ入ってなきゃ、あんな奴等……」  立ちあがりかけて、腹を押さえて尻《しり》をついた。 「さんざんだったな。立てるか——」 「しばらくこうしてれば大丈夫さ。奴等だって、本気でおれを痛めつけちまうわけにゃいかねえんだからな。そのくらいは手加減してるだろうさ——」 「なんだ、今の連中は?」 「サラ金の取りたて屋さ——」 「それだけじゃない雰囲気だったがな」 「あんたには関係のない話さ」 「それはそうだな」  文吉が答え、しばらくの沈黙があった。  薄く潮の香を含んだ風が、木の葉を揺する音に文吉は耳を傾けていた。 「海は近いのか」  ぽつりと文吉が言った。 「海?」  腹を押さえながら宇津木が答えた。 「海だ」 「わからん。それほど遠くじゃないはずだ」 「知らねえのか」 「興味がないから行ったこともない。この土地の人間じゃないんでな」  立ちあがろうとして、宇津木はまた座り込んだ。 「手加減を知らないアホが混じってたんだな」  文吉が言った。  宇津木が、低い声で笑った。 「あんたに、また会えるとは思ってなかったよ」  文吉が、笑みを向けた宇津木に言った。 「おれに?」 「明日、また�底歩�に顔を出そうと思ってたんだ」 「なんのためにだ?」 「あんたと真剣[#「真剣」に傍点]をやってみたくなったんだよ」 「真剣[#「真剣」に傍点]?」 「やるんだろう?」 「やるよ」  宇津木がやっとうなずいて立ちあがった。よろめいたが、なんとか立てた。  文吉は、バッグを取りに行き、すぐにもどってきた。 「肩を貸してやろうか」 「結構だよ」  宇津木は、苦しそうに前方の闇を睨《にら》み、小さく首を振った。 「これまでだって、独りで歩いてきたんだ。不良をやる時だって、独りだった。転んだって、起こしてくれるような親はいなかったよ」  文吉は、横に並んで歩き出した。  すぐに階段にさしかかる。文吉は、別に手を貸そうとはしなかった。横に並んで降りた。  階段の途中で、宇津木は、二度ほど吐いた。  丸めた背がひきつるように波打つのを、文吉は黙って見ていた。 「おめえ、将棋はどこで習ったんだい?」  階段を降りきった所で、文吉が訊《き》いた。 「兄貴に習ったんだよ——」 「へえ」 「小学校四年の時だよ。その時中学生だった上の兄貴と指してさ、こっちは、将棋の駒《こま》の動かし方も知らなかったからね、日曜日の朝から晩まで、一日中やっても負けっ放しだった。しまいにゃ泣きながら指してたよ。それがくやしくってね。兄貴に勝ちたくて将棋を始めたんだ——」  前の闇を睨むようにして、宇津木は話し出した。  アスファルトの道であった。時おり、タクシーが音をたてて通り過ぎてゆく。空のタクシーもあったが、宇津木も文吉も、それを止めようとはしなかった。  意地を張っているかのように、宇津木は、前につんのめるようにして歩いていた。 「半年でさ、その兄貴より強くなった。将棋の本を買い込んでね、それをまるまる覚えたんだよ。兄貴は町道場の初段でね、中学生としては強かったんだが、それより強くなっちまった。その時にはもう将棋にのめり込んでた。小学校の時には市の大会で優勝してさ、中学の時には県代表になってたよ」 「ほう」 「天才と言われてさ、こっちもいい気になって、磯村《いそむら》八段の所に弟子入りしたのが、高校二年の時さ。高校は中退。別に後悔なんかはしなかったよ。将棋指しになるつもりだったしね」 「それが、今は、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]か」 「ああ。行ってみたらね。もう高校生じゃ遅すぎるくらいだよ。まわりは天才だらけだった。小学校で県代表なんてのが、奨励会にゃごろごろいてね。中学生で県代表じゃ恥ずかしくて天才の仲間にも入れてもらえないよ。二十歳までにはなんとか初段にはなったんだがね——」  そこまで言って、宇津木は口をつぐんだ。  黙々と歩を運んだ。  プロ棋士になるためには、将棋連盟の規約では、まず奨励会に入り、二十歳までに初段にならなければならない。  なれなければ、自動的に、奨励会を退会させられる。二十歳までに初段になっても、次は、二十五歳までに四段にならなければならない。なれなければ、やはり規約で、奨励会をやめさせられることになる。  二十五歳の誕生日までに四段になって、初めてプロ棋士になれるのである。  地方で天才と呼ばれてきた少年たちが、奨励会でその天才を比べ合うのである。  A級のプロ棋士は、まさに異様な超人たちの集団と言える。 「兄貴はずるかったな。おれに将棋の味を覚えさせておいて、自分は将棋はほどほどで東大に入学したんだからな」  宇津木は、アスファルトの上に赤い唾《つば》を吐いた。 「知ってるかい——」  宇津木は言った。 「何をだ?」 「みこみのない弟子に、師匠が引導を渡す時だ」 「知らんな」 「ある日、いきなりね、おい一番やろうかと先生が弟子に声をかけるのさ。平手《ひらて》でだよ。こんなことはめったにない。緊張してね、将棋を指すと、こちらが先生に勝っちまうんだよ——」  宇津木は、さぐるように、文吉を見た。 「——こちらが喜びかけると、先生が言うのさ。強くなったなあ、宇津木、おれに勝てるくらいなら、もうおれに教えることはないなってね——」  それが、師の別れの挨拶《あいさつ》だったというのである。 「涙が出るじゃないか。それが、二十四の時でね、八年前さ——」 「————」 「で、どうしたと思う?」  宇津木が言った。 「さあな」 「師匠のカミさんと手をつないで駆け落ちだよ」 「駆け落ち?」 「師匠のカミさんというのがね、当時まだ二十八歳でね、そのしばらく前からおれたちはできてたんだよ。それで駆け落ちさ——」 「ほう」 「磯村はね、おれたちの仲を知ってたんだろうな。それでおれを追い出そうとしたのかもしれない。やめてからもね、おれは努力したよ、将棋についてはね。それ以来へんにふっきれちまってね、かえって前よりも強くなったよ」  宇津木は、しゃべり過ぎたとでもいうように、口をつぐんだ。  しばらく歩いてから、文吉に向かって言った。 「あんたは、どこで覚えたんだ」 「忘れたよ——」 「ずるいな、おれにさんざ女のことまで言わせといて」 「そこまではおれが訊《き》いたわけじゃない。おめえが自分で言ったんだ」 「ちぇ」 「駒を初めて握ったのは、おめえさんが生まれるのよりもっと前なんだ。そんな昔のことは覚えちゃいられねえな」  宇津木は、アスファルトの道から、路地に入り、二度ほど角を曲がった。 「ここだよ」  宇津木が立ち止まったのは、木造アパートの前であった。 「寄っていけよ」  宇津木が言った。 「うちの[#「うちの」に傍点]も、もうすぐ帰ってくるからよ」 「うちの[#「うちの」に傍点]?」 「駆け落ちしたって言ったろう」 「おめえ、磯村の女とまだくっついてたのか——」 「今は磯村じゃない。正式に離婚して、今は旧姓の水野芙美子《みずのふみこ》さ」 「————」 「クラブで働いてるんだ。芙美子は、クラブでホステスをやってるんだよ」 「おめえヒモか——」 「くすぶり[#「くすぶり」に傍点]だよ、ただの——」  ふたりの部屋は、アパートの二階にあった。  中へ入ると、意外と綺麗《きれい》にかたづいていた。 「適当に座ってくれよ」  流しで、水道の蛇口をひねりながら、宇津木が言った。  涙と血で汚れた顔を、宇津木が洗い始めた。  女の香水の匂いが、微《かす》かに漂ってくる居間であった。  テーブルの上にある、スタンドの写真に眼をやって、思わず文吉はそこに眼を止めていた。  海岸で撮った写真を、キャビネサイズに伸ばしたものであった。  男の方は、今よりまだ若い顔をした、宇津木であった。そして女の方は——。  昨日の晩、文吉が泊まっている部屋までやってきて将棋の駒《こま》の産地をあてた女が、宇津木の横で微笑していた。  ——まさか!?  と思い、すぐにそうかと文吉はうなずいた。  磯村八段の妻であるなら、色々と将棋のことに詳しかったことにも納得がいく。  天性のものとは見えないが、努力して明るくふるまうことを知っている女だった。  宇津木がもどってきた時に、電話のベルが鳴った。宇津木は、舌うちをして、その受話器を手に取った。  受話器を耳に当てている宇津木の顔が、ふいに堅く強張《こわば》った。 「だめだ、それはできねえよ」  しばらく相手の言葉に耳を傾けてから、宇津木が言った。 「だめだ」  もう一度短く言って、宇津木は受話器を置いた。 「ちっ!」  と舌を鳴らしてから、宇津木はポケットから煙草を取り出した。二度、ライターの火を点《つ》けそこなってから、煙草に火を点けた。 「どうした?」  深く煙を吸い込んだ宇津木に向かって、文吉は言った。 「芙美子がさらわれた」 「なに?」 「さっきの連中だよ。おれが事故をおこしたからと、芙美子を店から呼び出して、車で連れてったんだとよ」 「————」 �こっちにも考えがあるからな�  そう言った男の声を、まだ文吉は覚えていた。 「糞《くそ》!」  宇津木が、自分の拳《こぶし》でテーブルを叩《たた》いた。 「奴等は何だと言ってるんだよ——」 「対戦に負けろと言っている」 「対戦?」 「将棋の対戦さ」 「ほう」 「明後日《あさつて》にやる、将棋の対戦のことだ——」 「その対戦相手に負ければどうなる」 「芙美子も返すし、借金は帳消しにすると——」 「ならば考える余地があるまい——」 「負けろと言うのか」 「勝てば?」 「現金が五十万と、そして芙美子を取りもどす」 「やはり考える余地はない」 「負けろと言うのか——」 「ああ」 「だめだ」 「他人に負けろと言っているのではない——」 「なに!?」 「このおれに負けるんだ」 「————」 「明後日の対戦相手は、たぶんこのおれだ」 「何だって!?」      3 「四国にな、知りあいの手合師《てあいし》がいてな。その男が、十日ほど前、おれの所へ連絡をとってきた——」  文吉は語り始めた。 「奨励会くずれの強い男がいるんでな、そいつと対戦してもらいたいと、その男は言うのさ。毎年一度、このあたりの親分と、どこかの中小企業のおっさんが、互いに子飼いの真剣師どうしを闘わせて、金を賭《か》けてるらしいな——」 「ああ」 「鬼田沼《きだぬま》組と、北原土建——」 「そうだよ」 「鬼田沼組に頼まれて、知り合いの手合師がこのおれを鬼田沼組に紹介したのさ。これまでは、鬼田沼組の連敗らしいな——」 「四年前、このおれが、この土地に流れてきてからはだ」 「へえ」 「北原の社長には、�底歩�で知り合ってね、そこで腕を見込まれて話があったんだよ。まとまった金が欲しかったからね、引き受けたんだ」 「手合師とは、明日の昼、駅で待ち合わせて、その後、鬼田沼組に顔を出すことになっている」  文吉は言った。 「せいぜい、がんばってくれ。おれも相手が弱いんじゃ、張り合いがない」 「あんたはどうする?」 「負けるわけにゃいかんさ。将棋で八百長をやったら、首をくくるよ。おれに弟子がいて、その弟子に引導を渡す時でも、わざと負けてやったり[#「わざと負けてやったり」に傍点]はできねえな。そんならヤクザに袋叩《ふくろだた》きに合って海に沈められた方がいい」  きっぱりと宇津木が言った。  痣《あざ》の浮いた顔で、文吉に鋭い視線を向けた。 「はっきりした男だな」 「将棋だけが取り柄なんだ。プロにはなれなかったがね——」 「女のせいだと、まだ思ってやがるのかい」 「わからねえよ、そんなことはよ。少なくとも、もう、プロ棋士にはなれないってことだけはわかってる」 「そのおめえが、どうしてサラ金に借金を造ったんだ。鬼田沼組の息のかかったサラ金だったんだろう?」 「言ったろう。きちんとしてるのは将棋だけだって。丁半《ちようはん》の方と、競輪でこさえた借金だよ——」 「いくらだい」 「四百五十万ほどさ——」 「へえ——」 「実際に借りたのは、その半分以下の金額さ。それがたちまち倍だ——」 「社長は知ってるのかい、そのことをよ」 「知らねえさ。言ってねえからね。関係ないことだよ」 「おれの勝ちだな」  ぼそりと、文吉が言って、唇を吊《つ》り上げた。 「なに!?」 「この世界はよ、あんたの思ってるほどかっこよくは生きちゃいけない世界だってことさ」 「どういうことだ」 「見てな。どんなことしたって、たとえどんな汚ない手[#「汚ない手」に傍点]を使ったって、おれはあんたに勝ってやるよ。そうすりゃあ、みんな丸く収まるってことだ。あんたはわざと負ける必要もないし、女も無事に帰ってくるしね」  座っていた文吉が立ちあがった。  銀髪を揺らして、宇津木に背を向けた。 「どこへ行く——」 「あの神社だよ」 「泊まっていかないのか」 「泊まったら、あんたに勝ちにくくなるからね——」 「————」 「あそこが、おれのねぐらにはちょうどいいのさ」  床に置いてあったぼろのバッグに、手をかけて持ちあげた。  玄関で靴をはいた。  すぐ後ろに、宇津木が立っている気配はあるが、文吉は後方を振り向かずに言った。 「なあ、おれの方が先輩なんだぜ、おい。あんたがガキの時分から、この稼業をやってるんだ」 「年功序列は、この世界にはないんじゃないのかい」 「そうだよ」  文吉は、宇津木を振り向いた。 「ただね、いい女がくっついている男に、女のいない爺《じじ》いが負けるわけにゃいかねえじゃねえか——」  靴をはき終え、ドアのノブに手をかけた。  その指先に、昨夜触れた、女の乳首の甘い感触が蘇《よみがえ》った。  いい女だったな、と思う。  爺いで、女もいなくて、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]をやらせてくれる道場もない、そんな自分が、将棋にも負けたら——。  ドアを半分開けて、文吉は立ち止まった。 「なあ、おい——」  振り向かずに声をかけた。 「ノラ犬どうしを噛《か》み合わせてさ、こちとらの気の遠くなるような金を賭けてる旦那衆《だんなしゆう》がいるんだねえ」  後方で、宇津木のうなずく気配があった。 「もっとも、それで、こちとらノラ犬をやらせてもらってるんじゃ、もんくは言えねえや——」  ドアを開けて、外へ出た。 「勝つよ」  文吉は、そうつぶやいて、握っていたノブを離した。  ドアが閉まった。      4  対戦は、午前九時に始まった。  場所は、清水市内の旅館、�長寿庵�である。  竹林のある庭が見える離れの部屋であった。  互いの持ち時間は六時間半。  一番勝負である。  時間をはかるのには、チェスクロックが使用された。  チェスクロックというのは、ふたつの時計が内蔵された、チェスで使用される時計である。スイッチ操作で、交互に一方の時計のみが動くようになっている。  自分が手を指してスイッチを押すと、相手の時計が動き、相手が手を指してスイッチを押すと、こちらの時計が動くようになっている。  持ち時間がなくなると、あとは一分以内に一手ずつ指して行かねばならない。  加倉文吉と宇津木の他には、記録係りが二名、秒読みの係りが二名、立ち合い人が二名、鬼田沼組と北原土建から各一名ずつ出して、その人間のみが、この離れの部屋に出入りできることになっている。  立ち合い人は、北原土建の社長自らと、鬼田沼組組長とがつとめることになった。  北原土建の社長は、五十代の、ごつい身体をした肉厚の男であった。首も胴も太い。  指などは、関節がきっちり曲がらぬほど太かった。  細いのは、眼だけであった。  そういう男が、和服を着てどっかり腰を下ろしていると、奇妙な迫力があった。  鬼田沼組の組長も、やはり和服を着ていたが、身体つきが痩《や》せているため、北原土建の社長ほどの迫力はない。  年齢は、やはり五十代の半ばらしいが、北原土建の社長と比べると、老けて見える。胃が悪いのがひと眼でわかるほど、皮膚の色が青白い。  宇津木も、どこで見つけてきたのか、きちんとした紺のスーツを着込んでいる。  文吉の服装だけが、いつもと変わりがなかった。  さすがに、きちんと風呂《ふろ》に入ったらしく、顔は垢《あか》じみてはいない。  身にまとっている、綿のズボンもシャツも、洗剤をたっぷり使用して洗濯したようで、古びた感じはあっても、汚れたような印象はない。  文吉にとっては右手、宇津木にとっては左手に庭を見るかたちになっている。  竹の葉を揺する風の音が、静かに届いてくる。  竹の葉に吹いたのと同じ風が、文吉の銀髪を揺すっている。  振《ふ》り駒《ごま》で、宇津木が先手を取った。  宇津木は、黙ったまま、飛車先の歩を突いた。  文吉は、角道を開けるかたちに、歩を突いた。  気の遠くなるような長い闘いが、静かに始められたのであった。      5  先に食事をとったのは、文吉であった。  食事といっても、腹に重く溜《た》まるものではない。  ほどよく冷やしたメロンと、トマトがひとつ。それを、文吉は、闘いが始まって四時間後の一時に食べた。  小便に行ったのは二度である。  食事も、用足しも、自分の持ち時間の中でやらねばならなかった。自分の持ち時間の中でなら、眠ってもかまわないのである。  普通、プロの対局の場合は、その日のうちに決着がつかねば、封じ手[#「封じ手」に傍点]をして、対局は翌日に持ち込まれる。  しかし、今回の場合には、それはない。  封じ手[#「封じ手」に傍点]なしで、両者の持ち時間が失くなれば、一分将棋で、闘いが終わるまで勝負が続けられることになる。  これは、体力のない文吉には不利な闘いであった。  盤面は、居飛車対振り飛車である。  まだ序盤の陣形であった。  宇津木が食事をとったのは、二時半であった。  近所のレストランからとった、レアのステーキと、コーヒーである。  それまでに、文吉は三度目の小便に立っている。  食事を済ませて、初めて宇津木が用便に立った。  大便である。  盤上では、二カ所で歩が頭を合わせていた。  角交換が済み、互いの手に一枚の歩と一枚の角があった。  ほとんど互角の展開であった。  四時に、文吉がまた食事をとった。  梅干と、塩ジャケの切り身をのせた茶漬けである。  その間に、一度だけ、文吉は小便に行った。  五時に、宇津木がサンドイッチと牛乳をとった。  サンドイッチと、牛乳を口に運びながら、指し、それが失くなったところで小便に立った。  六時——。  朝にはきれいだった宇津木の顎《あご》の周囲に、薄く不精鬚《ぶしようひげ》の陰が浮いた。  四十分前から、宇津木は長考に入っていた。長考に入ってすぐ、宇津木は正座をくずして胡座《あぐら》をかいた。  宇津木が、これまでの四年間に対局したどの相手よりも、時間がかかっていた。  宇津木の長考の間、二度、文吉は庭に出た。  五十分。  宇津木の長考はまだ続いていた。  両膝《りようひざ》に両手を乗せたまま、盤面を睨《にら》んで動かない。  プロの棋士は、長考の時には、一直線に数えるなら、三ケタをこえる数の手を読む。枝の手まで入れれば、一時間の間に、数千手、一万手近くは読む。  ただ読むだけなら、誰でもそのくらいは読む。超人である。  それほどの読み合いをやって、どうして勝敗がつくのか。強い者と弱い者との差が出るのか——。  どこで、その差が出るのか。  それは、読んだ手のうちの、どの手を選ぶか。その段階で勝敗が決まってゆくのだという。  では、いったい何が、そのたくさんある手の中からひとつの手を選ばせるのか。  論理ではない。  理詰めの次元なら、プロ棋士の五段以上のクラスは、全て同じレベルであるといってもいい。  考え抜いた理詰めのあげくに、どうにも理詰めでは選択しようのない手が、二手か三手残る。  その二手か三手のどの手を選ぶか。  個性が、そのたったひとつの手を選ばせるのだという。  理詰めのあげくに、その棋士の個性《キヤラクター》、人格が、対局の結果を決めてゆくのである。  文吉と、宇津木とは、すでにその個性の闘いの中に突入していた。  一時間十二分三十二秒の長考をして、ようやく宇津木の手が動いた。  次の手で、文吉が長考に入った。  長考しながら、文吉は二度、用便に立った。  小便が一度、大便が一度である。  一時間九分八秒で、文吉は次の手を指した。  夜の十時を、わずかに前後して、文吉と宇津木は一分将棋に入った。  互いに、ぎりぎりと限界近くまで精神をしぼりあげている。  一分将棋に入って、ごっそりと宇津木の頬の肉が削《そ》げ落ちた。髯がはっきりと濃くなっている。  文吉の眼の周囲には隈《くま》ができ、眼球の周囲の肉が深く窪《くぼ》んでいた。  髯におおわれて頬は見えないが、宇津木と同じように、ごっそりと肉が落ちているに違いなかった。  盤上の空気が、ぴりぴりとささくれたもので張りつめているようであった。  見ているだけで、こわい[#「こわい」に傍点]ものが盤上に張っているのがわかる。ふたりが精神を集中して、凄《すさ》まじいエネルギーを使っているのである。己れの血肉を削りとっているのだ。  勝負は続いていた。一分将棋になれば、すぐに勝負は決する。それがつかずに、時間が経ってゆく。  文吉も宇津木も、これまで、互いに、まったく言葉をかわしあってはいなかった。  食事をとる時にだけ、声を出すだけであった。  文吉と宇津木とは、横に盆を置き、その上に、栄養ドリンクとサンドイッチを置いて、それを時おり口に運びながら、指していた。 「バケツを頼む——」  しわがれた声で、文吉がそう言ったのは、夜の十一時三分であった。  ポリバケツが来た。  一手を指し、文吉が立ちあがると、そのポリバケツを手に取って、その中に放尿した。  たっぷりと、濃い黄色い液体が出た。  小便に立つ時間もなくなっているのである。  三十分後に、バケツがふたつになった。  午前一時になった。奇跡のように、一分将棋が続いた。  文吉と、宇津木の荒い呼吸が、部屋の中に響いている。  ふたりだけが眠っていなかった。  聴こえているのは、ふたりの呼吸音と、駒《こま》を盤に打つ時の音、一分将棋の秒を読む声だけである。  組長も、北原も、他の人間も、交代で仮眠をとっていた。  午前二時をわずかにまわった時、文吉の出した小便に血が混じった。  にっ、と、初めて文吉がひきつった笑みを見せた。 「おい」  低い声で、宇津木に声をかけた。  宇津木が顔をあげた。 「おめえ、自分は、いつでも独りで歩いてきたって言ってたな——」  ぎらつく眼で宇津木を見た。 「女に喰《く》わせてもらって、それが独りで歩いてきたってことか」  飢えたノラ犬の眼であった。 「なんだと!?」  同じ眼で、宇津木がそれを受けた。 「おめえの女、クラブで働いていると言ってたけどよ、おめえ、他に何か副業をやらせてたんじゃないのかい」  言った途端に、宇津木の眼の中に、不安の色が浮きあがった。 「知らん。何のことだ?」 「その眼つきじゃ、薄うすは気づいてたんだろう」  手を指しながら、文吉が言う。 「何が言いたい?」 「いい女だなあ、あれは——」 「————」 「おめえの女の芙美子をよ、金で買わせてもらったぜ——」 「何!?」 「この土地へ来た最初の晩に宿に泊まったらよ、この土地の人間じゃない男にだけ、身体を売りたいっていう女がいると、宿の番頭が言うじゃねえか。サラ金に手を出したくすぶり[#「くすぶり」に傍点]の女で、その男の博打《ばくち》の銭を、自分の身体をはって稼いでるっていうんだよ——」  ぼそぼそと、文吉は言った。  声に力はないが、眼だけがぎらついていた。  宇津木の眼の中に、異様な光が育っていた。 「涙が出たよ。それでな、その芙美子って女を、おれは買ってやったんだよ」 「嘘だ!」  宇津木が言った。 「本当さ。この右手で、ちゃんと乳も触わらせてもらった」 「それが、あんたの言った汚ない手[#「汚ない手」に傍点]か——」 「そうだよ」  文吉が答えた。  宇津木が投了したのは、午前二時八分十七秒であった。      6  文吉は、ぼろのバッグを尻《しり》の横に置いて、ふてくされた表情で、右側の窓の外を流れてゆく風景を見ていた。  午後の明るい田園が窓の外に広がっている。  東海道線の、各駅停車——。  西に向かっている。  四人がけのボックスに、進行方向を向いて、右肘《みぎひじ》を、開け放した窓に乗せている。  入り込んでくる風が、文吉の銀髪を揺すっている。  ——ちえっ。  と、文吉は何度も心の中で舌打ちをした。  勝ったら五十万。  負けても十万はもらえるという約束でやった仕事であった。  それが、勝負がすんでまる一昼夜眠って起きてみたら、十万しかよこさないという。  宇津木とは、八百長の約束ができていて、わざと向こうが負けたというのである。  頭にきた。  もんくを言うと、食事代を差し引くぞと脅されて、十万で泣き寝入りをした。  だから、  ——ちえっ。  と、舌打ちをするのである。  何度目かの舌打ちをした時、ふいに声をかけられた。 「そこ、空いてるかい」  男の声であった。  顔をあげると、そこに宇津木がぶすっとした表情で立っていた。  その横に、あの、芙美子という女が立っていた。  一瞬顔を見つめ合った。 「見た通りさ」  文吉が言った。 「じゃ」  そう言って、向かいの席に、宇津木と芙美子が座った。膝《ひざ》の上に、カバンが乗っている。  座ってから、宇津木は立ちあがって、膝の上の荷物を網棚に乗せ、また座った。  宇津木は、ぶすっとした顔で、外を睨《にら》んでいる。 「トイレに行ったらね、あなたの姿が見えたのよ。それで、向こうからわざわざこの席まで来たの——」  小さな声で女が言った。  文吉は答えなかった。  しばらくの沈黙があった。 「八百長でわざと負けたろうって、社長さんに言われてね、あの土地にいられなくなってしまったの」  それで、ふたりでこれから大阪へ行くのだという。  金は手に入らなかったが、借金が失くなったと芙美子は言った。  その分、こっちの取り分が減ったのだと文吉は言いたかったが、これはがまんした。  少なくとも、あの闘いは八百長ではない。  一生のうちに何度できるかという、互いの全身全霊を込めての闘いであった。  それは、自分と、宇津木とが一番よくわかっている。それでよかった。  ——しかし。  と、文吉は思う。  芙美子を抱いたと嘘をついたことが、まだ頭の隅にひっかかっているのである。それをどう説明しようかと考えた。  しかし、わざわざ宇津木と女がこの席にやってきたということは、その件については、どういうかたちにしろ、決着がついているのだろう。  文吉とは、何もなかったことを宇津木が納得したにしろ、女が、金で身体を売っていた事実は動かない。もめたはずだ。しかしそれでも、別れられないふたりなのであろう。  嫉妬《しつと》が湧いた。  時間が過ぎた。  文吉は、宇津木と一緒に、ふてくされた顔で窓の外を眺めていた。  長い時間が経って、ふいに、宇津木が口を開いた。 「いい対戦だったな、あれは——」  文吉に、というより、窓の外に向かって、ぼそりと独り言を言ったようであった。 「そうだな」  しばらくして、窓の外を見たまま、文吉が答えた。  答えた途端に、ふいに涙が出そうになった。  わけがわからない。  わけのわからないことで涙を出すのはくやしかった。  黙って、窓の外を見ていた。  宇津木も、窓の外を睨んだまま、外を見ていた。  文吉の指先に、女の乳首の感触がまだ残っていた。 [#改ページ]   浮 熊      1  酒と、煙草の匂いとが、店内にはあふれていた。  座敷と、テーブル席とが、半々くらいの飲み屋であった。入口を入って、手前がテーブル席で、奥が座敷になっているが、襖《ふすま》などのしきりはない。  左側が厨房《ちゆうぼう》で、そこから魚を焼く匂いが漂ってくる。  人の話し声や笑い声、どこの飲み屋でもある酒の席の喧噪《けんそう》が、満席に近い店内の空気に溶けていた。  師走が近いせいか、どことなく店内もせわしげであった。席に出ている品も、鍋《なべ》ものが多かった。  時おり、入口の戸が開いて、コートを着た男たちが、外の冷気をまとわりつかせて、店内に入ってくる。その冷気も、店内の熱気に、たちまち消え去ってしまう。  鍋ものが多いため、各々のテーブルで火を使っており、店内が暖房の効果以上にあたたまっているのである。  シャツの袖《そで》を肘《ひじ》までめくりあげて、猪口《ちよこ》を口に運んでいる者もいる。  どこにでもありそうな光景だが、この店の場合は、少し変わっている。  店内の喧噪のトーンが、他の店と比べてやや違っているのである。  静かな熱気のようなものが、その底にこもっているのである。  客の半数以上が、それぞれペアを組んで向かいあっていた。将棋を指しているのである。  賑《にぎ》やかな中に、他の店とはやや違うトーンの熱気がこの店にこもっているのは、そのためである。  ——天狗《てんぐ》道場。  それが、この店の名前であった。  酒を飲みながら将棋を指すことのできるのが、この店の売りものであった。  店内の何カ所かに、将棋盤が高く重ねられている。  脚のついているやつではなく、ふたつに折りたたむことのできる板の盤である。  客は、思い思いに、そこから盤と駒《こま》を持ち出して指すことができる。  サラリーマン風の男たちが多い。  そういう男たちに混じって、ひとりだけ、奇妙に人眼をひく人間がいた。  老人であった。  老人は薄汚れた服を身につけていた。  黒いズボンをはき、黒い上着を着ていた。その上着や黒いズボンが、汚れのため、どことなく灰色の膜をかぶったように見える。  浮浪者とまでは呼べないまでも、新宿あたりの地下街の隅で、そのまま寝ころがっていたとしても、あまり異和感はない。  しかし、その老人が眼をひくのは、その汚れた服装のためばかりではない。髪が、みごとに真っ白なのだ。櫛《くし》も入れたことがないらしく、ぼうぼうと逆立ってはいるが、その髪だけがやけに目立っている。白というよりは銀色の髪である。  老人は、胡座《あぐら》をかいて、右腕の肘《ひじ》を、自分の右膝《みぎひざ》の上に乗せ、右手の上に顎《あご》を乗せて、盤面を睨《にら》んでいる。  右前かがみになった老人の額に、銀色の髪が垂れていた。  その髪の下から、老人のやや細い眼が、盤面の駒をひとつずつ睨んでいるのである。  皺《しわ》の浮いた顔が、困ったような表情をたたえていた。あさ黒いその頬が、大ぶりのスプーンですくったように、削《そ》げている。  やつれて見えた。  老人の肌の黒さは、陽《ひ》に灼《や》けてもいるのだろうが、何割かは垢《あか》の汚れである。この何日かは風呂《ふろ》に入っていないように見える。  老人の方が、旗色が悪いらしい。手の上に乗せた顎の肉が、手に押されて変形し、唇を歪《ゆが》めている。  前に尖《とが》った鼻が、その唇の上にある。  老人の相手は、三十代初めと見えるサラリーマン風の男であった。  テーブルに乗った盤の横に、ビールの入ったコップが置いてあった。  男は、そのビールを時おり口に運びながら将棋を指しているのである。  男の顔が赤い。  唇がほころんでいる。  老人よりも、男の方が優勢であるらしい。 「ゆっくり考えたっていいんだぜ」  男が、老人に声をかけた。  その声の響きには余裕すら感じさせる。  老人は答えない。  盤面を睨んでいる。 「恨まねえでくれよな、爺《じい》さん。握ろうかと言ったのは、あんたの方なんだからよ」 「ああ」  初めて、老人がうなずいた。  握る[#「握る」に傍点]、というのは、賭ける[#「賭ける」に傍点]ということである。  普通、将棋ではしるし[#「しるし」に傍点]と呼ばれているものだ。  どうやら、老人と男とは、賭《か》け将棋をしているらしかった。  怯《おび》えを含んだ老人の眼が男を見上げた。  老人の王が上にあがっている。  本来ならば歩が並ぶ位置である。  王の尻《しり》ががら空きになっている。  男の側の飛が、次の手では深く成り込んでくるのがわかっている。  どこかで老人がその飛を受けなければ、飛が成り込んだ時点で、ほとんど勝負は決まってしまう。尻から、金銀で攻められて、上へ逃げた途端に王は詰み筋に入ってしまう。  五千円がかかった勝負であった。  これが五番目である。  最初は、一番千円の勝負であった。  最初は男が勝ち、二番目も男が勝った。三番目にようやく老人が辛勝した。  その時点で、老人がしるし[#「しるし」に傍点]の値をあげようと話を持ちかけたのである。一番、二千円ということになり、その四番目は男が勝った。  もう一度、今度は五千円でやろうと老人が言い、この五番目が始まったのである。  男は、この店では常連らしく、時おり、知人らしい人間が盤面を覗《のぞ》きにくる。  金が賭かっているのを知っているから、口は出さない。  しかし、きちんと老人の分が悪いのを見てとり、知り合いのその男にちらりと微笑を送る。 �いいカモを見つけたな�  そういう笑みである。  金の賭かった勝負をするのは初めてではないらしかった。  金を賭けた勝負の場数をそれなりに踏んでいるのだ。  将棋道場にいるくすぶり[#「くすぶり」に傍点]連中とはまた違う種類の男たちである。きちんと定職を持っており、金を賭ける将棋はやっても、将棋では身を持ち崩しそうにない男たちだ。  いわゆる真剣師とは別の人種である。  展開は、ほとんど同じであった。  互いに相矢倉《あいやぐら》で勝負が始まる。老人は、ほとんど定跡通りの手を指した。この序盤の段階では、勝負はほとんど互角に見える。しかし、それも、互いの駒《こま》がぶつかり合うまでであった。駒組みが終わり、それぞれの駒がぶつかって、駒の取ったり取られたりが始まると、あっけなく老人の陣形は崩れてしまう。定跡には強くとも、乱戦に弱いというタイブのようだった。実戦よりは、本で将棋を覚えた人間に、このようなタイプが多い。  相手がアマの有段者になると、そこらの入門書で覚えた程度の定跡を知っているだけでは、とてもかなうものではない。  男は、アマ三段くらいの実力はありそうであった。 「どう?」  さっきも盤面を覗きに来たひとりの男が、またやってきて声をかけた。  小用に立つついでに、盤面を見に来たらしい。 「まあまあさ——」  男が答えた。 「岩ちゃんは、ゆるめてくんねえからなあ——」  覗きに来た男は、立ったままそうつぶやいて、背を向けた。  老人の手が動いたのはその時であった。  飛は受けずに、相手の玉の筋にある歩を突いて、相手の歩に鼻先を合わせたのである。攻めの手であった。  その歩を取らずに、男は、いっきに飛を老人の桂馬の横に成り込ませてきた。  老人の眼が、一瞬、すっとすぼまって小さくなった。      2  さっき覗きに来た男が、小用からもどってきた時、盤面は一変していた。 「あれ!」  声をあげた。  岩ちゃんと呼ばれた老人の相手をしている男の顔が、堅くなっていた。  玉の周囲にいた金物《かなもの》の駒が左右に散らされて、しかも、数が減っていた。  逆に、老人の方の陣形には、ほとんど変化はなかった。  入り込んできた飛——龍を避けるように、桂馬が跳んでいる程度であった。その桂馬の跳ねあがりが絶妙の手であったのだ。  まだ、その桂馬は玉から遠いが、老人が、角を成り込ませて、それを玉に取らせ、玉を上にあげると、その桂馬が利いて詰み筋に入るのである。角を成り込ませた時点で、老人の手には、金が手に入る。その金で斜め上に玉を誘われ、同玉と金を取れば、その途端に桂がもう一度跳ねあがって、玉に利[#「利」に傍点]いてしまうのだ。その後は、二級クラスでもわかる詰み筋である。さきほど突いた歩が、最後になって利いてくるのだ。  男の方に、老人の王を追う手はあるが、詰みの前に老人の方にいい受けがあり、一手だけあき[#「あき」に傍点]が出てしまうのである。あいたその時に、老人の手を受ける方にまわったのではおそいのだ。その時には老人の手に、新たに銀が入っているのである。どう受けても、次にはその銀を使っての別の詰みがあった。  跳ねた桂馬を龍で取る手があったが、その桂には、老人の銀が利いていて、桂馬と龍の交換になってしまう。  桂馬の跳ねあがりで、男はそれに気がついたのである。  男は、受けにまわった。  しかし、老人の攻めは執拗《しつよう》だった。これまでとは別人のように、鋭い手をよどみなく指してくるのである。受けねば、すぐ次には詰み筋に入る手ばかりであった。 「どうなっちゃったのよ、岩ちゃん——」  もどってきた男が言っても、男は答えない。  盤面を睨《にら》んでいる。  さらに、三手を指してから、男は投了した。 「じゃ、いただこうか——」  老人が、皺《しわ》の浮いた手を差し出した。  その眼に、狡猾《こうかつ》そうな光が宿っている。 「あんた……」  と、男が言った。 「さっきまで、手を抜いて指していたろう?」 「いたよ」  ぶっきらぼうに老人が言った。  それまでの怯《おび》えが嘘のように消えていた。 「さあ——」  老人が手を差し出したまま言った。 「真剣師《プロ》だな、あんた——」 「それがどうしたんだい」 「それならそれで、指し方があったというんだよ」  男の顔が赤くなっていた。 「どんな指し方だい。そんならもう一度やったって、おれはかまわねえんだぜ。ただ、その前にもらうものはもらっておかなきゃあな——」  老人の眼つきがそれまでとは別のものになっていた。  手を出せば噛《か》みついてきそうなノラ犬の眼であった。  老人——加倉文吉《かくらぶんきち》である。 「ああ、もう一度だ」  男は、サイフから、五枚の皺の入った千円札を取り出して、それを、差し出した。 「ヘヘ」  ノラ犬が、落ちていたエサをかすめとるように、文吉がその金を男からひったくった。 「また五千円でいいのかい」  文吉が言った。 「いい」  男が言った。 「もう手は抜かないよ」  文吉が、男を挑発するように言った。  男の顔が、赤くなった。  男は、無言で駒《こま》を並べ始めた。      3  その女は、ひっそりと、黒いコートを着て入ってきた。  いったん店内に入ってから、背を向け、右手の白い指でぴったりと戸を閉めた。  ゆっくりと、店内に視線をまわしながら歩き出した。  女を包んでいた冷気が、たちまち店の熱気に溶けてゆく。  女は、肩から小さな黒いハンドバッグを下げていた。新しいバッグではない。すれて、革に塗った染料が、所どころ皺になってはげている。  コートのデザインにも、どことなく今の感覚からはずれたものがある。  汚れというものではないが、その黒がどこか色褪《いろあ》せて見える。何年も着込んだものらしかった。  髪の長い女だった。  癖のない髪が、さらりと細い肩に触れて、背の方に下がっている。  年齢は二十八歳くらいに見えた。  色が白い。  薄く化粧をしているが、どこかその化粧が女の肌から遊離していた。ひかえめではあるが、赤い口紅がその唇からめくるようにひきはがせそうな感じがある。  物腰は静かだったが、その眼には、太めの針をしのばせたような光が溜《た》まっていた。 「将棋を指せると聞いてきたんですが——」  女は、盆を持った、紺のゆかたに赤い帯を締めている女を呼び止めて訊《き》いた。 「ええ、指せますけど——」  盆を持った丸顔の女が答えた。  童顔をしているが、近くで見ると、コートの女といくらも年齢は違わないように見える。  滝子、というのが、この盆を持った女の名前だった。  滝子は、ウェイトレスのような仕事もするが、実際は、客の将棋の相手をするために、週に三日だけ店にやとわれて顔を出している女である。女流アマ名人戦では、毎年ベスト4には残る。その滝子と将棋仲間だった店主が、この店を開く時に、滝子を助《すけ》っ人《と》としてやとったのだ。  滝子の持った盆の上には、客が帰った後、テーブルからかたづけてきたものが載っている。 「初めてでひとりなんですが、どなたか相手をしていただける方を紹介していただけますか」 「お客さんは、どのくらい指すんですか——」  滝子は、黒いコートの女に訊いた。 「三段の方と、指し分けになるくらいかと思います——」 「凄《すご》いじゃない」  滝子が、眼を光らせた。  コートの女の言葉を値踏みする色が、その眼の光の中に含まれていた。 「五分くらい待っていただければわたしが指しますけど——」  滝子が言った。  コートの女の実力を、自分で試してみたくなったらしい。  滝子の棋力は、新宿の道場で二段の上である。しかし、地方の三段クラスであれば、三番やって二番はとる自信があった。 「いえ、女のひととは——」  女が言いかけて、口をつぐんだ。  さすがに、滝子の顔に、むっとしたものが疾《はし》った。  将棋で有段者になるくらいだから、気は強い。  それを察して、女は口をつぐんだらしかった。 「じゃ、お願いします」  女が、頭を下げた。  女は滝子にビールとつまみを注文し、コートを脱いで、座敷のテーブルについた。  黒いスカートをはいていた。  白いブラウスの上に、紺のカーディガンを着ていた。  正座をしている背が、すっきりと伸びている。  すぐに、滝子がビールと肴《さかな》を持ってやってきた。  盤を、テーブルの上に載せて、向かい合った。  すぐに勝負が始まった。  かたちだけ、コップにビールが注がれているが、女は、そのビールにも肴にも手を触れなかった。  滝子は、乱戦を好むタイプであった。  定跡を知らないわけではないが、定跡通りにやっていたら、とても男にはかなわない。  定跡というのは、一手一手針の穴を捜すようにして造られた、序盤における互いの必然手の指し合いである。それが、生理的にも好きではない。  だから、チャンスがあれば、強引にでも、乱戦に持ち込む。  滝子も女も、指し手によどみがなかった。すっ、すっ、と、互いに指し手が出てゆく。時おり、滝子が数分の長考[#「数分の長考」に傍点]に入るくらいである。  無言であった。  背筋の伸びている女と、背筋を丸めて前に首を落とし、盤上に顔をかぶせるようにして指す滝子とは対照的であった。  やはり、途中で滝子が乱戦に持ち込んだ。  いつの間にか、ふたりの周囲に、数人のギャラリーが集まっていた。 「熱くなってるね、滝ちゃん——」  誰かが声をかけても、滝子は盤面から眼を離さない。丸い頬が、赤くなっている。  滝子の強引な攻めを、女が受けきって、女が攻める番になった。  そこから十数手指したところで、滝子が投了した。  見物している男たちの間から、ほう、という溜息《ためいき》が洩《も》れた。  黙って滝子が駒《こま》を並べ始めた。  二番目をやろうという無言の合図である。  二番目も、滝子が負けた。 「だめだめ、とてもかなわないよ」  それまで黙っていた滝子が、声をあげた。  声は明るいが、くやしさがこもっている。 「誰がいいのかしらね——」  滝子が、言った。 「どなたか、真剣をやる方はいませんか——」  女が言った。 「真剣?」 「お金を賭《か》けて指す男の人はいませんか——」 「いないことはないけど……いいの?」 「はい」  答えた女の顔をしばらく見つめ、 「後藤さーん……」  滝子が店のどこかに向かって声をあげた。 「なんだい」  男の声が、座敷の奥からあがった。  五十年配の、スーツ姿の男が立ちあがってやってきた。さきほど、文吉が、五千円を巻きあげる勝負をしているのを、小用のついでに見に来た男であった。  後藤は、その文吉と岩ちゃん[#「岩ちゃん」に傍点]の勝負を眺めていたのである。 「あっちの勝負もおもしろいんだけどな。どうしたの、滝ちゃん」  銀縁の眼鏡をかけた後藤が、滝子の横に立った。  どっしりした、中堅企業の部長タイプの男だった。 「この人強いのよ。四段の後藤さんでもどうかっていうところ。わたしのかわりに相手をしてあげてくれる?」  くやしいわあ——。  そう言いながら滝子が横へのいた。 「滝ちゃんを負かす女の人がいるのかい」  後藤が、滝子のどいた場所に胡座《あぐら》をかいた。 「この人、真剣がいいんだって——」  滝子が言った。 「え、真剣?」  後藤は言いながらとまどった眼で女を見つめた。 「おれ[#「おれ」に傍点]はいいんだけどさ——」  女を見つめたまま後藤は頭を掻《か》いた。 「ぼく[#「ぼく」に傍点]でかまいませんか——」  後藤が言うと、はい、と女がうなずいた。 「じゃ——」  と、後藤が駒を並べようと手を伸ばすと、女が後藤に声をかけた。 「すみませんが、駒は、わたしが用意してきたものを使うということでよろしいでしょうか——」 「いいですよ」  後藤が答えると、女は、かたわらに置いてあったバッグを開いて、布製の袋を取り出した。盤上の駒をかたづけて、細い白い指でその袋の口を縛っているひもを解いた。  駒を、盤の上にこぼした。  古い駒であった。  黄楊《つげ》である。  手造りらしく、駒の形はまちまちであったが、奇妙に味のある字が、その駒の上に彫られていた。それを見ながら、後藤は終始微笑を浮かべていた。 「へえ」  後藤が駒を並べ始めた。 「いくらにします——」  並べながら女に向かって言った。 「いくらでも」  女が、やはり駒を並べながら、よどみなく言った。  後藤のにこやかな顔に、堅いものが、一瞬、疾《はし》った。それが、すぐに、もとの笑みを浮かべた顔にもどる。 「三万円——それでもいいかい」 「はい」  女の答えにはよどみがない。  へえ——という低いどよめきが、ギャラリーの間に洩《も》れた。  このような居酒屋でやる将棋に賭ける金としては、破格といえた。普通は、二百円から千円の金を賭ける。金が欲しければ、それで数をこなすくらいである。金は賭けても、もともとが、真剣師と呼ばれる人間たちではない。麻雀《マージヤン》に金を賭けるのと同じくらいの感覚である。負けがこんで、そのトータルが三万円になることもないではないが、一番で三万円というのはこの店では初めてだった。  この店では、後藤と、今、文吉と指している岩ちゃん[#「岩ちゃん」に傍点]のグループが、そういう真剣師という色あいを持っている程度である。そのグループの中では、後藤の実力が抜きん出ている。  そのことは、この店の常連ならば皆知っている。その後藤が、三万円と言ったのに、女はよどみなく、はいと答えたのだ。  三万とは言ったが、後藤は、むろん、本気ではない。  女が、それでは高すぎると言えば、五百円、千円の勝負にするつもりでいた。あまり表情を変えない女を、軽く脅しただけのことだ。それは、見物している男たちもわかっている。 「ほんとにいいのかい?」 「三万円でけっこうです」  女が答えた。 「そのかわり、お願いがあります」  女が言った。 「お願い?」 「あなたに先手をとっていただきたいのですが、かまいませんでしょうか——」  後藤を見つめた。  後藤は、女の視線をしばらく受け、 「いいよ。そのかわりに三万は、そちらが負ければきっちりもらうよ。こちらが負ければ、もちろんきっちり払わせてもらう」  後藤の顔から、笑みが消えていた。  後藤が盤上に、すっと右手を伸ばした。背筋を伸ばして正座している女が、その右手の指先を喰《く》い入るように見つめた。  後藤の右手の指が、動いた。  きれいに爪を切っている人差し指と中指が、飛車の頭の歩に乗って、2六歩と、その歩を突いた。  女が、ほっと溜《た》めていた息を吐いた。  ——勝負は、一時間半でついた。  勝ったのは女であった。  白熱した展開ではあったが、終始、押していたのは女の方である。  しんと静まり返った見物人の視線の中で、後藤が、黙ったままサイフの中から三万円を取り出して、女に渡した。女は、白い指先で三枚の一万円札を取ると、それを、後藤が投了したままの形になっている盤の上に置いた。 「どなたか、わたしと対局して下さる方はいらっしゃいますか——」  澄んだ女の声が静かに響いた。 「その三万円を、また賭けるのかい」  見物人の背後から、声がかかった。 「ええ」  女が答えて、声の方に顔を向けた。  見物人の背後に、ぼうぼうとした銀髪を立てた、皺《しわ》の多い老人が立っていた。老人の双眸《そうぼう》が、エサを見つけたノラ犬のように、ぎらぎらと女を見つめていた。  加倉文吉であった。      4 「あなたが先をとっていただけますか——」  向かい合って駒《こま》を並べ終えた時、また、女が言った。 「かまわねえさ、どちらでもよ」  ひょいと文吉の右手が無造作に動いた。  細いけれども、女の指のように白くない褐色の指が、歩の尻《しり》を押した。爪の伸びた指であった。  どっと、どよめきが疾った。  文吉は、9六歩と、初手に端歩《はしふ》を突いたのであった。  女の顔つきが変わっていた。  眼を大きく見開いて、盤上の、今文吉が突いたばかりの歩を見つめていた。白い顔から血がひいて、青白くなっていた。  それは、かつて、「南禅寺の決戦」として棋史に残る戦いを木村義雄《きむらよしお》と戦った坂田三吉《さかたさんきち》が、先手7六歩と角道を開けた木村義雄に対して、後手の初手でやった手であった。  先手後手の違いはあるが、まさに意表をついた文吉の手であった。  9六歩を見つめていた女の顔があがった。  文吉を見た。  文吉は、胡座《あぐら》をかいたまま、噛《か》みつきそうな眼で女を見た。 「あんたの番だぜ——」  にっ、と笑った。  女の白い指が動いた。  女の初手を見た時、また、ギャラリーに低いどよめきが疾った。  すでに、店の常連のほとんどが、女と文吉の周囲を囲んで、勝負の成り行きを見ていた。 「女もやったぞ」 「どういう意味だ?」  低い囁《ささや》きが、ギャラリーの中からあがった。  女の、後手の初手が、また意表をつくものであった。女は、その初手に、1四歩と、文吉のあげたのと同じ1筋の端歩を突いたのである。  将棋の場合、先手にしろ後手にしろ、その初手は飛車の頭の歩を突くか、角道を開けるための歩を突く場合がほとんどである。これは、プロもアマチュアも同じである。  そのセオリーを無視した戦いを、双方がやろうとしているのである。  しかも、その手を指した坂田三吉は「南禅寺の決戦」で負けているのである。  歩から、ゆっくりと指を離し、女が、文吉を睨《にら》んだ。その眼が、炎を宿していた。 「おもしれえ……」  文吉は、唇を吊《つ》りあげて、ノラ犬の牙《きば》をむいた。  異様な緊迫感に満ちた勝負が、静かに始まった。  女が、小さく声をあげたのは、九手目に、文吉が自分の王を右に移動させた時であった。  それまで、スムーズに動いていた女の手が止まった。  女が長考に入った。  次の手を女が指したのは、二十分後であった。  文吉が、飛車側に王を動かしたのに対し、女は、角側に玉を動かしたのである。  その時から、女が、手に迷うようになった。  考える時間が、文吉の倍近くになった。  勝負がついたのは、一時間半後であった。  女が投了したのである。  文吉の、ほとんど一方的な勝利であった。 「この金はもらうぜ——」  文吉が、テーブルの上に乗っていた三万円に手を伸ばした。 「約束だからな」  上着のポケットに、その金をねじ込んだ。  立ちあがった。 「帰らせてもらうぜ。今日の稼ぎはこれで充分なんでね」  皆の視線を受けながら、文吉は勘定をすませ外へ出た。  呆《ほう》けたように盤を見つめていた女が、我にかえって立ちあがったのは、文吉が外へ出てから三分後のことであった。      5  文吉は、唇にあまり上品ではない笑みをへばりつかせたまま、夜の街を歩いていた。  押さえようとしても、笑みがこぼれ出てくるのである。  池袋の駅に近い、飲み屋の灯《あか》りが点々と続く道であった。 「へへ」  足が自然にはずんでいる。  寒風が吹いてはいるが、懐は温かい。  岩ちゃん[#「岩ちゃん」に傍点]から一万七千円を手に入れ、そのあと、ひと勝負で奇妙な女から三万を手に入れたのだ。  どこかの店に潜り込んで、酒と焼き鳥で軽く一杯やってから、金でなんとかなる女のいる所に出かけてもいい。  ネオンの灯りが、文吉のかがめた上着の肩に色を落としている。  ジングルベルが鳴っている。  クリスマスが近いのだ。  大勢の人間が、文吉の周囲を歩いている。男や女、若いカップル、勤め帰りのサラリーマン、酔っぱらい——。  その雑踏の中に身を埋《うず》めておくことが、楽しかった。  それにしても、おかしな女だったと文吉は思う。  あの女が自分の端歩突《はしふづ》きを真似してきた時は、一瞬どきりとした。  しかし、驚いたのはそこまでであった。  確かに強い女であった。あの女が、後藤という男の玉を詰めてゆく手際はみごとであった。無駄な手を指さないのだ。  だが——。  この女にならば勝てる。文吉はそう思った。そう思ったからこその、挑戦であった。  端の歩を突いたのは、けんせいである。  先手の場合には、端の歩を突く手はある。しかし、文吉は、その端歩突きに特別の意味を持たせたわけではない。先に端歩を突いておき、次の手からは後手のつもりで指すつもりであったのだ。  先手をとれと女に言われて、はいそうですかと先手をやるのはしゃくである。意地になって振り駒《ごま》で先を決めるのも、あの女の落ち着きぶりを揺さぶることにはならない。  先手をもらっておいて、初手に意味のない端歩突きをやって、逆に相手の女に先手を譲るつもりだったのだ。  それを、女も端歩を突いてきた。  自分の気持を読んで、女が、また自分に先手を譲ったのだと文吉は思った。  文吉が�おもしれえ�と言ったのはそういう意味である。  だが、女は、奇妙な受けをした。文吉の攻めを、まるで誤解しているような受けと攻めであった。  それが、はっきりわかったのは、文吉が王を右に寄せた時であった。女の態度に、はっきりとした動揺が現われたのだ。それからの女は、実力の半分も出せなかったはずだ。あれなら、岩ちゃん[#「岩ちゃん」に傍点]とどっこいどっこいである。  文吉は、女のことを考えるのをやめた。  とにかく金が入ったのだ。  その金で焼き鳥を腹いっぱいに詰め込むのだと思った。  前方の、右手に見えた飲み屋の灯りに文吉が眼をとめた時、文吉は、後方から声をかけられていた。 「すみません——」  女の声であった。  後方を振り返ると、そこに、あの女が立っていた。 「なんだい。金を返せと言いに来たのかい」 「違うんです」  女が、小さく首を振った。  黒いコートを、肩からはおっただけで、前が開いたままであった。 「お訊《き》きしたいことがあって——」  声がはずんでいた。  文吉を追って、走ってきたらしかった。 「何だ、訊きたいことってのは?」 「あなた、真剣師なんでしょう?」 「まあ、そんな風に言われる稼業をしているよ」  背を丸めて、雑踏の中を文吉が歩き出した。  上着のポケットに両手を突っ込んでいる。  文吉の横について、女が歩き出した。 「わたし、人を捜しているんです。たぶん、あなたと似たような稼業の人——」 「へえ」 「あなたは、そういう世界の人のこと、よく御存知なんでしょう?」 「まあね。真剣師の数なんてのは、驚くほど少ねえからな。こいつだけで飯を喰《く》ってる人間なんて、もうどこにもいやしねえよ——」 「あなたはそうじゃないの?」 「おれは、自分で選んでこの稼業をやってるんじゃないんだよ。だからニセモノさ。おれは、他に何もできねえからな。だからこいつで飯を喰うしかないんだよ。若い頃は、金が失くなりゃ、土方まがいの仕事にはありつけたんだけどね。もうおれにはこれしかないんだよ。だから、これで飯を喰っていけなくなりゃ、それでしまいさ。野垂れ死には覚悟しているよ。それよりも、誰を捜してるんだ?」 「それが——」 「どうした?」 「名前がわからないのよ」 「なに?」 「年齢もわからないし、どこの生まれで、今何をしているかもわからないの。わかっているのは、たぶん、四十歳以上の男の人っていうことくらいかしら——」 「いくら真剣師の数が少ないったって、名前の知れているやつならわかる。一年くらい前にどこにいたかくらいはね。しかし、名前もわからねえやつのことは知らねえよ」  言っているうちに、さっき入ろうと文吉が考えていた店の前を通り過ぎていた。 「真剣師ってのは、皆一匹狼さ。皆敵どうしだよ。会って酒を飲んだりする時もあるが、そんな時だって、相手の懐具合のことを考えてるんだ。こいつはいくら持ってるのか、それをどうすれば巻きあげることができるかってよ。ノラ犬どうしが噛《か》み合って、殺し合ってるようなもんさ——」  黙った女にというよりも、独り言のように文吉は言った。 「家族はいるの?」  女がふいに別のことを訊いてきた。 「いるよ」  文吉がつぶやいた。 「文平《ぶんぺい》ってガキがね」  言ってから、文吉は遠い眼つきになった。 「ごめんなさい」  女が言った。  よけいなことを訊いたと思ったらしい。 「いいさ。それより、そっちの話だ。その男のことだが、年齢くらいしかわからねえのかい?」 「ええ」 「しかし、それじゃ駄目だな。おめえの捜してる男は見つからねえよ。どっかで、おろく[#「おろく」に傍点]になっちまってたって、不思議はねえんだからよ——」 「でも、捜す手がかりはあるわ」 「なんだ」 「さっきのあの手よ」 「あの手?」 「わたしの捜している男は、先手の初手に、必ず9六歩と端歩を突いてくるの——」 「なに?」 「そういう人に覚えはない?」  文吉は、何事かを考えるように沈黙し、そして言った。 「覚えはねえな。ねえだけじゃねえ。そんな真剣師はいねえよ。いるわけはねえ」 「どうしてなの?」 「いつも必ず同じ手を指してみろ、たちまちその筋を読まれて、使えなくなる。そうか、なるほどな。それでおめえ、ああいう所に出入りしちゃあ、真剣をやって、相手に先手をとらせて将棋を指してるのか——」 「でも、その人がいることは間違いないわ」 「いても捜せねえと言ってるんだよ。おれは、それこそ、あんたがまだ親父のふんどしの中にもいねえうちから、この稼業で生きてるんだ。そのおれが知らねえってんだからよ」 「まだ、言ってないことがあるわ。その男はね、何のために端歩を突くんだと思う?」 「わかるかよ、そんなことがよ」 「その男独特の戦法があるの。そのためよ」 「何?」 「穴熊《あなぐま》って戦法があるでしょう。その男は、その穴熊にとてもよく似た陣形を組むの」 「ほう」 「普通の穴熊っていうのは、隅の9九に王を移動させるでしょう?」 「ああ」 「でも、その男の穴熊は違うの。9九のひとつ上の、9八に最終的に王が来るのよ。それに、攻めが変わっているの」 「どう変わってるんだ」 「戦っているうちに、いつの間にか、王が、9筋を昇っていくのよ。入玉をねらうための穴熊なの——」  女がそこまで言った時、文吉が立ち止まっていた。 「どうしたの?」  女が、立ち止まって文吉を見た。 「その手を指すやつを、おれは知ってるぜ」 「え!?」  女が息を呑《の》んだ。 「その手が、あんたの言っている穴熊の新戦法と同じなのかどうかは知らねえがね。先手で端歩を突いてから、王を9八に寄せて昇ってくるやつと、おれはやったことがある」 「誰なの? どこでやったの?」 「一年前——福岡だ」 「九州!?」 「しかし、相手は、真剣師じゃない。まだ学生だった。そうだ、確か、浮熊《うきぐま》と、その戦法のことを呼んでいたな」  文吉は、ネオンの灯《あか》りの映る女の瞳《ひとみ》を見つめながら言った。      6 「わたしの父は、とても将棋が強かったわ。将棋の駒《こま》も、自分で造ったりしてね。段は持っていなかったけれど、アマ五段くらいか、それ以上の実力はあったはずよ。アマチュアの五段の人とやっても、父が勝つ時の方が多かったから——」  女——金森三千子《かなもりみちこ》が、自分の名を文吉に告げ、そう語り出したのは、酒をふたりで一合ほど空けてからであった。  小さな小料理屋の、カウンターの端の席であった。  文吉と三千子の前で、鍋《なべ》がぐつぐつと音をたてていた。カキと野菜の煮える匂いが、大量の湯気と共に、とどいてくる。 「へえ」  文吉が言うと、三千子がまた唇を開いた。 「わたしは、父を憎んでいたわ。父が三年前に死ぬまでね——」 「死んだのか」 「ええ。わたしは、子供の頃から、そして今でも、死んだ父を憎んでいるわ」  静かな口調の中に、堅い鉄に似た意志がこもっていた。 「わたしには、父に冷たくされた記憶しかないの。わたしにだけじゃなくて、父は、母にも辛《つら》くあたっていたわ——」  三千子は、ブラウスごと、カーディガンの左袖《ひだりそで》を、肘《ひじ》よりさらに上に引きあげた。 「見て」  三千子の白い二の腕の肘に近い肌の上に、斑点《はんてん》が三つあった。そこの肌が、赤くひきつれているのである。 「これは、火傷《やけど》の跡。誰がやったと思う? 父が、六つのわたしを柱に縛りつけて、赤く焼けたビール瓶を押しつけたのよ——」  三千子が、父を憎んでいると言った言葉の意味を、文吉はまざまざとそこに見た。 「火傷の跡はここだけじゃないし、わたしの母の身体にも、同じような跡があるわ」  三千子は、袖を下ろした。 「あれは、十四年前——わたしが中学二年の時よ——」  三千子が、静かに語り出した。      7  三千子が、学校から帰ると、家には誰もいなかった。  食事の仕度がしてあるテーブルの上に、母の夏美の手紙が置いてあった。  用事があって出かけることになり、自分も父も帰りが遅くなるはずだから、先に食事を済ませて寝ていなさいという意味の文章が記されていた。  眠っていると、もの音がして眼が覚めた。獣の声がした。いや、獣ではなく父の孝《たかし》の唸《うな》る声であった。  ——夜半の十二時半である。  居間のあたりで、どん、と壁を叩《たた》く音がした。続いてテーブルの倒れる音——。  帰ってきたのは、父の孝ひとりらしかった。  酔っているのがわかった。さすがに、酒が入ってない時には暴力をふるいはしないが、酔っている時の父は恐かった。赤く焼けたビール瓶を押しつけられたのも、孝が酔っている時である。母の夏美がいる時には、母がかばってくれるが、母はいない。  眠ったふりをしようと思ったが、今夜の父は様子がおかしかった。起きて、母親が帰って来るまで窓から外に逃げていようと思った。靴下をはき、パジャマの上からセーターを着て窓から出ようとした時に、孝が部屋に入ってきた。  父親の顔を見た。鬼の顔をしていた。殴られたような痣《あざ》が顔にあった。  三千子は悲鳴をあげた。孝に背骨をおもいきり蹴《け》られていた。激痛で呼吸が止まった。息ができずに畳の上に倒れた。その三千子を、孝が髪をつかんで引き起こした。顔を殴られ、腹を蹴られた。 「おまえもおれから逃げるのか」  孝が呻《うめ》くように言った。  また殴られた。 「おまえもあいつの所へ行くんだろう。夏美と同じように行くんだろう」  咆《ほ》えた。  三千子には意味がわからない。  孝は泣いていた。泣きながら三千子を殴った。 「あいつに先《せん》をとられたら負けることはわかってたんだ。真剣[#「真剣」に傍点]をやるんじゃなかった。夏美を賭《か》けるんじゃなかった。殺してやればよかったんだ。畜生。端の歩を突いてくるのがわかっていながら。あいつが先手の時はあの手ばかりだというのは知っていたのに。畜生——」  三千子は、途中で気を失った。  気がついた時には、横で、父の孝がいびきをかいて眠っていた。  いびきがやむと、ぶつぶつと何かをつぶやいた。 「9六歩、3四歩——」  将棋の手順をつぶやいているらしいということは、三千子にもわかった。  三千子は起きあがった。身体中が痛かった。自分の吐く息が、血の匂いで臭かった。  明け方であった。  流しで口をゆすいでいるところに、母の夏美が帰ってきた。  玄関に夏美が立って、放心したように三千子を見ていた。  三千子が、走って行って母の名を呼ぶと、いきなり夏美は三千子にしがみついてきた。 「三千子——」  夏美は、身体を震わせて泣いていた。  父の孝が四十四歳、母の夏美が三十八歳の時であった。      8 「あとで、だんだんとわかってきたんだけど、あの日、父は、誰かと母を賭けて真剣[#「真剣」に傍点]をやったのよ。それで、父が負けたのね——」  負けた孝が先に帰り、母親はどこかでその相手の男に抱かれ、明け方に帰ってきたのだと三千子は言った。  その日を境に、孝の性格が極端なものになったのだという。  酒の入っていない時は、おどおどとした卑屈な人間になり、酒が入った時には、前にも増して乱暴になった。  母親は、その日に何があったかは口をつぐんでいたが、孝は酔うと必ずその日のことを口にした。  何度やられたのか、何度やったのか、あいつ[#「あいつ」に傍点]のものがどれだけ大きかったのか、どんな格好をしたのか、そばにいる三千子が耳をふさぎたくなるような言葉で訊《たず》ねた。  眠った時には、その勝負の手順を何度も寝言で繰り返した。 「それですっかりその手順を覚えてしまったわ——」  孝が倒れたのは、それから六年後の五十歳の時であった。  ——脳軟化症。  身体の自由がほとんど利かなくなった。  それからさらに二年後に、母親の夏美が死んだ。原因は過労によるものである。看病疲れに、風邪をひき、肺炎になった。体力があれば死なずにすんだろうと、医者は三千子に言った。  それから孝の面倒は三千子が見た。孝は半分頭がおかしくなっていた。排便、排尿の下の世話まで三千子がした。  五十五歳の春に、孝が死んだ。  そして、三千子は独りになった。 「父に内緒で将棋を始めたのは、まだ父が生きていた高校の時よ。それも、あの、初手9六歩をどうやぶるかとそればかり考えていたの。その初手が、それまではそれでもなんとかやっていたわたしたちの家族をめちゃくちゃにしたのよ——」 「復讐《ふくしゆう》か」 「わからないわ。わたしはとにかく、その男に会って、その男の初手9六歩に勝つことだけを考えて、あの日から生きてきたのよ」 「その勝つ手が、あの、後手の同じ端歩突《はしふづ》きかい」 「ええ」  三千子がうなずいた。  この一年間は、あちこちを転々としながら、将棋を指す人間たちの集まる場所を捜しては、そこで真剣をやってきたのだという。 「そんなやり方で、その男を捜すのは、一生かかっても無理だろうな」 「でも、あなたが言っていた、その浮熊《うきぐま》を使う学生というのは、どうなの——」 「わからねえな。ことによったら、その学生が何か知っているかもしれねえがよ」 「その学生に会うことはできないの?」 「どうかな。いきずりの男だったからな」 「会わせて。お礼はするわ——」  三千子が文吉の腕を握った。強い力がこもっていた。 「会えたら、二十万——」  文吉が言った。 「実費は別だぜ」 「いいわ」 「会えなかったら——」  と、文吉は三千子に向きなおった。ノラ犬の顔に、どこか照れたような笑みが浮いた。 「あんたのおっぱいをひと晩中触わりてえんだけどね」  文吉は、三千子の眼を覗《のぞ》きこんだ。  その視線を、真っ直《すぐ》に三千子が受けた。 「へへ——」  先に眼をそらせたのは文吉であった。  カウンターの、まだ手がつけられないまま煮えている鍋《なべ》を見た。  猪口《ちよこ》に手をかけ、残っていた酒を飲んだ。文吉が、それを飲み終えるのを待っていたように、 「いいわ」  三千子が答えた。      9  寒風が吹いている。  福岡市、桜坂——。  国体通りから入る細い路地の入口に、加倉文吉は立っていた。  夕刻であった。  陽が沈み、街に灯《あか》りが点《つ》いてはいるが、まだ完全に夜になってはいない。歩道の上を、コートの襟を立てた男や女が、左右に通り過ぎてゆく。  文吉は、上着のポケットに両手を突っ込み、背をビルの壁面にあずけていた。  ひとりの男を待っているのである。文吉の頭上の三階の窓に、�と金大将�の看板が出ている。窓ガラスに、赤いテープを張って書いた文字である。そこが、将棋道場になっているのである。  一年前の秋、文吉は、そこでひとりの学生と対局したことがあった。一局千円で二局をやり、二局とも文吉が勝った。  きっかけはささいなことであった。  文吉がしるし[#「しるし」に傍点]をつけて指している横で、その学生が、もうひとりの学生と対局しながら話をしていたのである。文吉が指している相手は、二段クラスで、文吉の敵ではなかった。自然に横手の学生の話が耳に入ってくる。  話の様子から、ふたりは、どうやら近くの大学の将棋クラブの部員らしかった。 「おまえの浮熊は、堅いからな——」  と、一方の学生がその学生に向かって言った。 「この前なんか、真剣をやったぜ」  と、その学生が答えた。 「真剣師だっていうからちょっとびびったんだけど、やってみりゃあたいしたことはないよ。せいぜいアマチュアの三段もあればいいところさ——」  もう本当に強い真剣をやる人間はいない。強いやつはみんなプロになっているし、今いる真剣師たって、所詮《しよせん》は皆アマチュアクラスの実力しかないんだと、その学生はしゃべっていた。  自分の対局が済んでから、文吉は、その学生に声をかけた。 「それが済んだら、ちょっとおれとしるし[#「しるし」に傍点]をつけてやってみるかい」  学生が、文吉のその申し出を受けて、二局を対戦した。勝っても負けてもその二局のみという約束であった。二局目は、一局目の先手と後手を入れかえてということになった。  駒《こま》を振り、一局目の先手は文吉がとった。  その学生は、かなりの棋力があった。今対戦した男よりはずっと強い。攻めには鋭さがあり、守りは厚い。仲間うちでしるし[#「しるし」に傍点]をつけあっている連中では、とても歯がたつまい。  一局目は、文吉が勝った。  三十分近く指したところで、学生が投了したのである。  次は、学生が先手だった。  その初手にその学生が指したのが、9六歩の端歩突《はしふづ》きであったのである。その手を指してから、自信ありげな顔で、学生は文吉を見、にやっと笑ったのである。  文吉が、初めて眼にする戦法を、その学生はとった。それは、一見、穴熊に似ていた。しかし、穴熊ではない。玉が、完全に隅に入らないのである。しかも、端の歩を突いている。その玉と、玉を囲む駒全体が、攻防を繰り広げるうちに、だんだんと浮いてくるのである。  入玉するぞ、入玉するぞと、その玉が脅しをかけてくるようであった。結局、その玉の尻《しり》から攻めて、二時間後に文吉が勝った。  先手を取った途端に、その学生の棋力がぐんとあがった。先手ならばそこらの県代表クラスと、対等にやれるくらいの棋力があった。  それで、文吉はその学生のことを覚えていたのである。  しかし、手がかりはそれだけだ。  どこの学生なのか、旅行者なのかもわからない。話していた言葉は標準語か、それに近かったような気がする。ふたり共に九州の人間であれば、どこかに九州弁が混じる。それが標準語で話したということは、ふたりが九州の大学に在学中の人間であるにしろ、どこか他の土地から来た人間である可能性が強くなる。一方が九州の人間としても、一方は九州の人間ではない可能性もある。他の土地の人間と話す時には自然に標準語に近い言葉遣いになるからだ。もしふたりが九州の人間であったとしても、福岡の人間でなければ、暮れにはそれぞれの土地に帰る。  こうして、その学生がいつ顔を出すかもわからない状態で待つには限度がある。  クリスマスは、一昨日で終わっていた。  すでに七日の間、文吉は、こうして同じ場所に立って、道場へ上っていくビルの入口を眺めている。  時々は道場に上って、端歩を突く学生のことを訊《たず》ねるのだが、知っているらしい人間には出会えない。  文吉も、今は、あの奇妙な戦法に興味を持っていた。  誰が、あのような戦法を考えたのか——。  しかし、いつまでも、こうして来るか来ないかわからないひとりの男を待てるものではない。  いつの間にか、陽が暮れていた。  上で将棋を指している三千子に声をかけて、食事をとらねばと文吉が考えた時、文吉は、その学生を見つけたのであった。  黒い上着をひっかけ、雑踏の中を、向こうから独りでポケットに手を突っ込んで歩いてくる若い男の顔に見覚えがあった。  文吉は、男に向かって歩き出した。  男の前に立った。  男は立ち止まって、怪訝《けげん》そうな顔で文吉を見た。 「おれを覚えてるかい——」  文吉は言った。      10  暗い和室の奥に、身じろぎもせずに、その男は座っていた。  正座である。  両手を膝《ひざ》の上に乗せて、心持ち顔を伏せている。額がきれいに禿《は》げあがっていた。両耳の周囲に、わずかに髪がからんでいるだけであった。  その男の前に、将棋盤が出ていた。将棋盤の上には、駒が乗っていた。三千子が持っていた、あの駒であった。  男は、凝《じ》っとその駒を見つめていた。  文吉は、男の前に胡座《あぐら》をかいて、男を眺めていた。  狭いアパートの部屋であった。  流しも便所も何もかもが、部屋の中央で顔を巡らせば見てとることができる。流しには、洗ってない食器が転がっており、便所の臭気が部屋の空気にこもっている。古い畳から立ち昇ってくる臭気も、どこか黴臭《かびくさ》かった。  その臭いのもとは、皆この男の身体から出ているのだと思った。  男の名前は、成川鉄男《なるかわてつお》。  この男の住所を、学生から聴き出したのは昨夜であった。 「中洲《なかす》で、爺《じい》さんの酔っぱらいを見つけてさ、そいつのうちまで連れてってやったんだよ。こっちも酔っぱらってたからね。そしたらそこに将棋盤が置いてあったんだ。で、将棋の話になってね。こっちも将棋をやってるもんだから、じゃ一局いこうかということになったんだけど、この爺さんが酔ってるくせに強いんだよ。その時、爺さんのやってたのが、あの浮熊《うきぐま》戦法さ。それで、おれは爺さんの所に通って、教わったのさ。爺さんが、この浮熊を、誰かに教えておきたいっていうからね——」  そう言った学生の言葉が、まだ文吉の耳の奥に残っている。  男——成川は、盤上から顔をあげ、文吉を見、その視線をまた盤上の駒《こま》に移した。 「あの男は、確かに、いつも自分で造ったこの駒で指してましたよ……」  成川が言った。  年齢は、六十歳よりもやや若いかどうかというところだ。 「そうですか、あの男——金森の娘が、わたしを捜していましたか——」  そう言ってから、成川はぽつりぽつりと話し始めた。 「わたしのことを訊《き》いたって、将棋の世界じゃ、知ってる人はほとんどいませんよ。対戦はほとんどあの金森としかやったことがありませんでしたしね。もともと、あの金森に勝つためにだけ始めた将棋でしたから——」      11  金森と自分とは、広島の出身でね。同級生だったんですよ。ガキの頃からの知り合いでね。何をやってもあいつにはかないませんでした。運動も、勉強も、遊びも。あいつはどう思ってたかわかりませんでしたけれど、わたしはあいつを恨んでたんですよ。ずっとね。  あいつの一番得意だったのが将棋でね。それで、ある日、わたしは考えたんです。他の何は負けてもいいから、あいつの一番好きな将棋だけでも、あいつに勝ってやろうってね。それが十九の時でしたよ。  その時から、懸命になって、将棋を勉強しました。指し方くらいは知ってましたから、色んな本を買い込んでは、ひとりで並べて覚えたんです。でも、このくらいではあいつもやっているし、あいつにはかなわない。何かあいつの知らない手はないかと、何年も考え続けましてね、そういうのをねちねちと考えるのも体質に合ってたんですよ。それでできたのが、あの浮熊ってやつです。  できてからも、二年間は、何度も何度もこれでいいのか、あいつがどう来たらどういくかと考え続けましたよ。それで、二十五の時にね、あいつに対戦を申し入れたんですよ。  あいつは笑って、本気か、と言いましたよ。  本気だが、おまえが将棋については先輩なんだから、先手は自分の方にとらせてもらえるかとわたしは言いました。  それでいいというのでやったんですが、わたしはみごとにあいつに勝ったんですよ。浮熊でね。最高の気分でしたね。  その日は、何度もあいつとやりましたよ、先手をとればわたしの勝ち。後手の場合は五分。あいつのくやしがる顔を見るのが、わたしは嬉《うれ》しくてね。あいつは、わたしが将棋を指すことを誰にも言いませんでした。こっちだって、誰かに言うつもりはありません。あいつに勝って、あいつのくやしがる顔を見るためにだけ始めた将棋でしたから。  二十九の時にね、ふたりして、同じ女を好きになりました。それが、夏美だったんです。 わたしは、てっきり夏美は金森のものになると思い込んでいたんですが、なんと、夏美が惚《ほ》れてくれたのは、このわたしだったんですよ。  結婚の約束をしたのが、三十の時です。  ところが、金森のやつがね、わたしの眼を盗んで、無理に、犯すようにして夏美と関係を持ってしまったんですよ。わたしは、そのことを知って恨みましたよ。夏美を殴って、そのまま広島を飛び出しました。  それっきり広島にはもどってないんです。  東京で暮らしてました。風のたよりに、ふたりが一緒になったのは耳にしていました。おかしいと思われるかもしれませんが、それからずっと、わたしは、女とやってないんです。独りでいる時はいいんですが、いざ、女を前にした途端に、不能になってしまうんですよ。  ある日、何気なく眼に止まった将棋雑誌を読んでいたら、金森の記事が載ってました。小さな記事だったんですが、ある大会で彼が優勝して、プロと、飛落ちで対局することになったという記事でした。  たまたま金森の住んでいる市の名前まで入ってました。それも、広島ではなく、神奈川県の横浜でした。すぐ近くじゃありませんか。  そうなると、もう、何をおいても夏美の顔を見たくなりました。どうしているのか、もし夏美が相手ならわたしの不能はだいじょうぶなのではないか。毎晩のように夏美の夢を見ましたよ。それで、ついにわたしはあの日、会いに行ってしまったのです。電話帳で調べましてね。それで、夏美を呼び出したのですが、駅前の喫茶店で会っているところを、金森のやつに見つかってしまったんです。金森は、わたしと夏美とが、自分に隠れて今までも会ってたのではないかと言い出しました。出て行けと、金森は夏美に言いました。おまえにくれてやると。わたしはそのつもりはない、ただ、夏美の顔を見たかっただけなのだと言いました。ただ、一度だけ抱かせてくれ、それも無理にではなく、将棋を指してもし自分が勝ったらばでいいと、わたしは金森に言いました。  あとは、あなたが知っている通りです。      12 「しかし、わたしは、夏美を抱いたわけではありません。これは違います。夏美の話を、わたしが訊きながら、朝近くまで、ふたりで過ごしただけです。夏美の話では、金森は三千子が自分の子ではなく、ずっとこのわたしの子供だと考えていたようでした。そのことでは、何度も辛《つら》い思いをしたと言っていました——」  成川は、淡々と言った。 「実際はどうなんだ?」 「わからないのです。わたしも金森も血液型は同じ、しかも、生まれた時期が、どちらとも決めかねる時期でしたから——」  悲哀に満ちた顔を、文吉に向けた。  文吉には、答える言葉がない。  黙っていた。 「何だったんでしょうね——」  成川が、ぼそりと言った。  文吉が黙っていると、成川がぽつぽつとしゃべりだした。 「わたしの、これまで生きてきた人生ですよ。なんにもない。普通の者よりは将棋が強いという、それだけのものです。何の取り柄もないはずが、将棋だけが、残りました——」  文吉を見た。 「けれど、わたしくらい指す人間は、大勢います。結局、この歳まで、女もなく、子もなく、ごらんの通りの有様です。歳だけ老い、この身体だけが、昔も今も、自分のものであるというそれだけのことです。哀しくてねえ。何かを、残したかった。わたしに残っていたのは、さっきも言いましたが、将棋だけでした——いえ、将棋ではありません、正確に言うとね——」 「————」 「わたしに残っていたのは、将棋というよりは、浮熊《うきぐま》という、あの戦法です。わたしだけのものが仮に何かあるとしたら、この浮熊だけ——」 「それでも、あるだけいいやね」  文吉が言うと、成川は、淋《さび》しく微笑した。 「もう、将棋なんて、いいと思ってたんですよ。実を言うとね、夏美とは、何もなかったんじゃなくて、何もできなかったんですよ。夏美と会っても、やっぱりわたしは不能のままでした——」 「————」 「自分のせいだと、夏美は泣いてくれました。あの涙だけで、充分です。もう、将棋はいい、そう思いましたが、ひとりになれば淋しくてどうしようもなくてねえ。浮熊なんてのも、所詮《しよせん》は我流で、どうということはない手だと思ってたんですが、つい、欲が出て、知り合った学生に、ふとした縁で、教えたことがあるんですよ——」 「その学生から、あんたのことを聴いてね、やっとここを捜しあててきたんだよ」 「そうですか」 「ああ」 「金森の娘が、そんなにまでして、わたしを捜してたんですか」 「あんたの子供かもしれない娘だ——」  文吉が言うと、成川は口をつぐんだ。  しばらく盤上に視線を落としてから、成川は言った。 「夏美は?」  文吉に訊《き》いた。 「死んだそうだよ。あんたが訪ねていった八年後だ」  静かに文吉は言った。  成川は答えなかった。  黙ったまま、長い間、下を向いていた。  ふいに、盤上の、金森の造った駒《こま》の上に、水滴が落ちて小さな染みを造った。  成川は、静かに、肩を震わせ、声を押し殺して泣いていた。 「で、どうする?」  文吉が訊いたのは、しばらく経ってからであった。 「三千子との対戦の件ですか——」  成川が言った。 「そうだ。今、外で待っている」  文吉が低く言うと、成川はこくんと小さくうなずいた。      13  対局は、静かに始められた。  成川が、先手の初手を、9六歩と突いた。  三千子が、それを受けて、やはり端歩《はしふ》を1四歩と突いた。  互いの無言の思いが、盤上に溶けあった。  局面が進むにつれて、三千子の中にこわばっていたものがゆっくりと溶けてゆくようであった。  三千子は、涙を浮かべながら指していた。  静かな戦いであった。  文吉は、ふたりのもの言わぬ対話に押されたように、途中で外に出た。  アパートの前の路地に立って、夜空を見上げた。  夜半であった。  凍《い》てついた空に、ひとつ、ふたつの星が見えている。  文吉は、結局触われなくなった、三千子の乳房のことを思った。  成川の部屋の窓に灯《あか》りが見えている。  親子ふたりがそこに住んでいてもおかしくない温かい灯りであった。  文吉は、それを見ながら、二十万の金を本当にもらうかどうかを、考えていた。  考えているうちに、文吉は夜風のように歩き出していた。  文吉は、吹いてゆく方向《アテ》のない、風であった。 [#改ページ]   妄執の風  プロローグ  寒風が吹いている。  暗い、凍《い》てついた道であった。  雪こそないが、アスファルトが凍りついている。  その道を、走っている男がいた。  老人である。  七十歳を越えているようであった。  浴衣《ゆかた》を着ていた。  身にまとっているのは、その浴衣のみである。  筋張った、細い脚が見えている。  素足だった。  素足が、直接、凍った路面を踏んでいるのである。  足の指先には、血が滲《にじ》んでいた。  どこかへぶつけたのか、左足の親指の爪が割れ、そこから血がこぼれ出し、路面に血の跡をつけている。  マイナス二度——。  浴衣の合わせがずれて、薄いあばらの浮いた胸や、腹が見えている。ろくに肉が付いてない。痩《や》せた身体であった。痩せているのに、骨の上に薄く付いた肉がゆるんでいる。足が、路面を踏むたびに、その肉が浅く揺れる。  腰に巻いた紐《ひも》がゆるみ、老人の身体の前面は、ほとんど見えてしまっている。  下着すら身につけていない。  陰毛の中から、だらりと垂れたしなびたものが、老人の股間《こかん》で揺れている。  額の禿《は》げあがった老人であった。  髪は、細く、白かった。  ごみのように、その白髪が、両耳の周囲にからんでいる。  濁った赤い眼をしていた。  その眼が、前方の、遠い闇を睨《にら》んでいる。  泣きそうな顔をしていた。  深夜であった。  午前零時をまわっている時間である。  時おり、車が通り過ぎてゆくが、この奇妙な老人の前で、車を停める者はいなかった。  老人も、車を停めようという気はないらしい。  ただ、走っている。  いや、それはもう、走るというよりは、歩くスピードである。  格好だけが、走っているように見える。  脚が、時おりもつれた。  自分の脚が、自分の脚にからむ。  前に踏み出した自分の脚に、後方から持ちあげてきた脚がぶつかってしまうのだ。  よろける。  倒れた。  すぐに起きあがって、またよろよろと走り出す。  すでに、普通に歩くよりも、速度は遅くなっていた。  左肘《ひだりひじ》に、傷がついていた。  倒れた時に、肘がアスファルトにぶつかったらしい。  呼吸が荒かった。  息を吸い込み、吐く度に、ごろごろと喉《のど》が鳴る。  大量の痰《たん》がからんでいるらしかった。  しかし、老人は、それを吐き出すだけの力も、その気もないようだった。  老人の体力が、根こそぎ尽きようとしているのが、見ていても、わかる。  道の脇に立つ街灯が、老人の姿を、幽鬼のように浮きあがらせる。  ふいに、後方から走ってきた車が老人を追い越し、少し先で停まった。  分厚いセーターを着た男が降りてきた。  道の端に駆け寄って、小便を始めた。  男が、小便を済ませた時、老人が、やっとそこまでたどりついた。 「おい……」  老人が、荒い呼吸の間から、男に声をかけた。  男が、気味悪そうな表情で振り返った。 「松本、松本はどっちだ?」  老人が訊《き》いた。  ごろごろと喉が鳴った。 「松本? 信州のかい?」  男が訊くと、老人がうなずいた。  それで、男は、老人の言う松本が、人の名前ではなく、土地の名前であることに気がついたらしい。 「松本なら、むこうだけど……」  男は、老人の走ってゆこうとする方向を指差した。  すると、老人は、またのろのろと走り出した。  男に礼も言わない。  遠くを見ていた。 「おい、爺《じい》さん、あんた、そのまま松本まで行くつもりかよ——」  男が、老人に声をかけた。  老人は答えない。  老人の浴衣《ゆかた》から、ふいに、アスファルトの上に、乾いた音をたててこぼれてくるものがあった。  懐に入っていたものが、こぼれ出たものらしい。  男が、数歩あゆみ寄って、そのこぼれ落ちたものを、ひとつ、拾いあげた。  街灯の灯《あか》りに照らして見てから、男は声をあげた。 「これは——」  将棋の駒《こま》であった。  香《きよう》である。  ただ、前に行くだけで、後方に下がることを知らない駒であった。 「おい」  男が、老人に声をかける。  まだ、ここは、やっと名古屋市内を抜け出たばかりの場所である。  高速道路に入って、車を飛ばしても、松本まで、二時間以上はかかる。  しかし、老人は振り返らなかった。 「ねえ」  車の中から声があがった。  女の声であった。  男は、もう一度、老人の背を見つめ、車にもどった。  車が発進した。  たちまち老人を追い越し、すぐにその車は闇の中に消えた。  老人は、立ちながら、空中を這《は》うように、前に足を踏み出している。  もはや、走っているのか、歩いているのか、本人にはわからない。  ただ、足を前に出す。  老人は、口の中で、小さく何かをつぶやいていた。  人の名前のようであった。 「文吉ィ……」  細い声であった。  老人の口元に耳を寄せなければ、それが人の名前だとはわからない。 「文吉よォ……」  倒れた。  動かない。  ゆっくりと顔をあげた。 「おれは、死んじゃうよォ……」  手を突いて、起きあがる。  後方を振り向いた。  誰もいない。  闇の道を、風が吹いている。 「殺されて、たまるかよ」  言って、老人は、赤い眼をむいた。  歯を噛《か》む。  老人の身体がぶるりと震えた。  寒さのためではないようであった。  また前を向いた。  歩き出そうとした。  しかし、足が前に出ない。  身体だけが、前に傾く。  膝《ひざ》が折れて、ふいに、老人の身体が沈んだ。  手を突いた。  起きあがろうとした。  ぶるぶると、身体が震えた。  すごく力がこもっているらしい。  しかし、実際には、どれほども力がこもってはいないのかもしれなかった。  やっと起きあがった。  萎《な》えそうになる膝を突いて立ちあがった。 「やだよう、死にたかねえよ」  五歩歩いてまた転がった。  起きあがるのに、今度はさっきの倍以上の時間がかかった。  また歩き出す。  唇が紫色になっている。  寒さのためであった。本人は寒さを感じていなくとも、肉体の方は、はっきりと寒気を感じとっているのである。  風の中に立ち止まった。  いや、立ち止まったのではなかった。  もう、前へ歩けなくなっていたのである。  身体がぶるぶる震えている。  骨から震えていた。 「畜生……」  呻《うめ》くようにつぶやいた。  誰にも聴こえない、聴く者のいない声であった。 「畜生……」  前へ、前へ——。  老人の意志が、身体が、そうしようとしているのがわかる。  しかし、足が前に出ない。  虚空を睨《にら》んだ。  一生懸命、視線を前に凝らした。  歩けないのなら、視線だけでも前へ向かわせようとしているのである。  見えるのは、闇であった。  何も見えなかった。  そこに何もないから見えないのか。  闇だから見えないのか。  それとも、視力そのものがなくなっているのか。  老人にはわからなかった。 「見えねえよォ——」  成らずに、どん詰まりまで行きついた香のようであった。  老人の身体が、傾いた。  後方に倒れそうになった。  老人は泣きそうな顔になった。  後方にだけは倒れたくない。  奇跡のように、老人の身体は、持ちなおした。 「畜生……」  前のめりに倒れた。  老人の身体が、路面と同じ温度になるのに、三十分とかからなかった。  第一章      1  ——と金|倶楽部《クラブ》。  大阪の吹田《すいた》市にある将棋道場である。  マンションの五階にある一室が、そのまま道場として使われている。  洒や肴《さかな》が置いてあり、品数は限られているが、どこかの飲み屋に入るつもりで入口をくぐれば、最終的にはずっと少ない値段で、何時間かを過ごすことができる。  座敷はなく、折りたたみの椅子に座り、長いテーブルを挾んで指す。ひとつのテーブルで、詰めれば四組、三組ならばゆったりと指すことができる。  そういうテーブルが、五卓ある。  初顔でも、入口で自分の段位か、級を言えば、適当な相手をすぐに紹介してくれる。  常連の人間は、金だけ払って中に入り、勝手に仲間うちの人間を見つけては、自由に指している。  くすぶり[#「くすぶり」に傍点]の連中も、常に四、五人は、隅の決まった場所にたむろしている、そんな道場であった。  その晩の入りは多かった。  いつもは、ばらばらに集まる常連組が、どういう加減か、同じ時間に次々に顔を出し始め、新顔も何人か入っている。  珍しく、九割近くの席が埋まっていた。  部屋には、煙草の煙が充満していた。  そして、酒の匂い。  狭い飲み屋とあまり変わらない。  変わっているのは、雰囲気である。  そんなにざわついてはいないのだ。ざわめきはむろんあるが、大きな声で話す人間もいなければ、むろんカラオケもない。  しかし、奇妙な熱気がある。  その熱気が一番こもっているのは、奥の隅であった。  くすぶり[#「くすぶり」に傍点]連中が、いつも使っているテーブルが、熱気の中心のようであった。  そのテーブルで行なわれているのは、ひと組の対局だけであった。  そのひと組の対局を、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]や、他の連中が囲んで眺めているのである。  常連のくすぶり[#「くすぶり」に傍点]のひとりが、新顔の人間と指しているのである。  くすぶり[#「くすぶり」に傍点]の男の方は、四十歳くらいである。  グレーの上着を着ていた。  額が心持ち禿《は》げあがっている。  その額が赤く染まって、表面にぼつぼつと汗が浮いている。  ビールを飲みながら指しているのである。  しかし、そのビールは、途中から、一滴もその男の口には運ばれていない。  勝負に真剣になっているのである。  刺さるような視線を、盤面に向けている。  相手の男は、老人であった。  きれいな銀髪をしていた。  顎《あご》に生えている鬚《ひげ》も白い。  みごとな白であった。  蓬髪《ほうはつ》が、ぼうぼうと伸びている。  細い、鋭い眼をした老人であった。  狐——というよりは、犬の眼だ。  飢え、他人の食い物を掠《かす》めて生きる、ノラ犬の眼であった。  小狡《こずる》さと、卑屈そうな媚《こび》が、同じくらい、その眼に溜《た》まっている。  六十歳初めくらいに見える。  肌の色が黒かった。  陽《ひ》に灼《や》けたためばかりではなく、垢《あか》と汚れがその色の何割かを占めていそうである。  あまり、風呂《ふろ》に入っているようには見えない。  着ているものにしても、そうだ。  ひと昔前のジャンパーを着ているが、何日前に洗濯をしたのか、誰もそれを訊《き》く気にはなれない。  老人自身よりも、老人の体臭を放っていそうな上着であった。  老人は、折りたたみの椅子の上に、直接|胡座《あぐら》をかいて、座っている。  男と同じように盤面を睨《にら》んでいるが、その眼つきには余裕がある。  盤面は、終盤をむかえていた。  互いの玉と王が、五段目の左右にあがっている。  男の額に浮いていた汗の玉が、大きくなっている。  男の指し番なのだが、男が長考に入っているのである。  やっと、男が指した。  玉の前の歩を突いた。  放っておけば、入玉するぞという意味を含んだ手であるらしい。  同時に、玉の横にいる角道を開けたかたちになる。  次の手番で、角が成り込めば、五段目に浮いた老人の王を、下から追う手筋になる。 「へえ——」  老人はつぶやいた。 「いい手だね」  どこか、人を小馬鹿にしたような口調だった。  老人は、自分の王を下に引いた。  男の、角が成り込んだ時に、王手にならないための手であり、王の右斜め下にいた自分の角道を開けたことになる。  それで、男の入玉の筋が消えた。  男が、考えたのは、およそ一分ほどであった。  一分後、左手に握っていた自分の持ち駒《ごま》を、盤上にこぼし、投了した。 「惜しかったな、一手違いだね」  老人が言った。  言いながら、左手を差し出している。  男は、黙ったままその手を見つめていた。 「約束だからな」  老人が低い声で言った。  男は、黙ったまま、上着の内ポケットに手を入れて、サイフを取り出した。  そのサイフの中から、三千円を取り出して、老人の手の上に乗せた。  老人は、その金を左手にして、右手に唾《つば》をつけた。 「ひい、ふう、みい……」  誰が見ても三千円とわかる金を、数え出した。  みい、で数えるのをやめ、 「ひい、ふう、みい……」  もう一度数えた。 「おかしいね、約束した額に足りないね」 「————」 「約束したのは、五千円だったはずだけどな——」  老人は、男を見た。  ノラ犬の眼だった。 「ない」  男が、堅い声でつぶやいた。 「ない?」 「それしか金はない」 「ほう?」  老人の唇が、つうっと吊《つ》りあがって、笑みの形になる。 「それじゃ、あんた、約束の金もないのに、おれと勝負をしたのかい?」 「————」  男は唇を噛《か》んだ。 「ここじゃなにかい、銭もないのに真剣[#「真剣」に傍点]をやって、勝ったら新顔の爺《じじ》いからでも一万の金をふんだくり、負けたら、金はない、それで通るのかい——」  老人は言った。  言葉にも、声にも、刺《とげ》がある。  真剣[#「真剣」に傍点]というのは、金を賭《か》けてやる将棋のことだ。  一番ごとに、賭けた金を清算するという、その約束で始められた勝負であった。  最初は、互角に近い勝負だった。  三番目あたりから老人に負けがこみ始めて、途中で、一万円という金が、老人の手から男の手に移っている。  そこから、千円から始まって三千円だった賭け金が五千円になり、老人が、たて続けに三番を勝ったのであった。  平手《ひらて》の戦いであった。 「騙《だま》したな」  男が言った。 「騙した? おれが、あんたをかい?」 「最初、わざと負けたろう」 「わざとなんか負けやしないよ」 「あんた、真剣専門のプロだろう」 「だったらどうなんだい。おれが真剣師として、それがあんたを騙したことになるのかい?」  老人が言う。  男が声につまった。  将棋のプロにも、色々といる。  まず、将棋連盟に属し、対局で金をもらっているのが、いわゆるプロ棋士だ。  そのプロということを広く捉《とら》えれば、将棋専門誌の記者や、観戦記のライター、将棋の入門書や技術書を書いている人間も、プロと言えるかもしれない。  詰め将棋を造って、収入を得ている者もいれば、将棋道場の片隅で、金を賭けては将棋を指しているくすぶり[#「くすぶり」に傍点]連中もいる。  将棋道場の経営者まで含めると、かなりの数になろう。  しかし、将棋を指すことのみで、生活をしてゆける人間は、プロ棋士の中でも多くいるわけではない。  それはひと握りだ。  しかし、そういうプロ棋士よりも、さらに人数は少ないが、やはり将棋を指すことだけで生きている人間もいるのである。  それが真剣師である。  将棋連盟に属さず、かといって、将棋以外に生きる術《すべ》を持たない、将棋指しがいるのである。  彼等の収入は、賭け将棋である。  将棋の勝負に金を賭けるのだ。  やはり将棋に金を賭けはしても、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]は、それで生活しているわけではない。  そこが、真剣師とくすぶり[#「くすぶり」に傍点]との根本的な違いである。  違いではあるが、実際には、それがどれだけ明確に分かれているかというと、その境目は、現代では曖昧《あいまい》である。  他に仕事をしながら、真剣師まがいのことをしているくすぶり[#「くすぶり」に傍点]もいる。その時々に、うまい金儲《かねもう》けの種があれば、真剣師を廃業にして、一年も二年も、ずっと、そちらの仕事を続けてしまう人間もいるのである。 「将棋にはよ、はめる[#「はめる」に傍点]手はあっても、騙す手がないことくらいは知っているだろうが」  老人が言った。 「ち……」  男が舌を鳴らした。 「言いたいことがあるんなら聴いてやる。そのかわりに、金を払ってからにしてもらいてえな」 「金は、ない」 「それじゃ通らねえぜ。そうだ、あんた、ここの常連だろう——」  老人は、周囲の人間に視線を向けた。 「この中の知り合いから金を借りて、おれに払ってもらおうじゃないか」 「なに!?」 「金を貸してやろうという人間がいるんなら、もう一番やるかい。なんなら大駒《おおごま》を落としてやろうか——」  老人が言った。  その時、男の後方にいた、やはり四十くらいの男が、ぽん、と男の肩を叩《たた》いた。 「柴田——」  男に、小さく声をかけた。  ポケットから、その男はサイフを出し、中から千円札を二枚、取り出した。 「加藤さん」  柴田と呼ばれた老人の相手をしていた男が、肩に手を置いた男の名を呼んだ。 「おれがかわりに払おう——」  男——加藤が言った。  老人が、にいっと笑った。  男は、右手の人差し指と中指の間に、二枚の札をはさんで、差し出した。 「これでもんくはないんだろう」 「ないよ」  老人が、右手を伸ばした。  老人の右手の指先が札に触れる寸前で、加藤が、その札をすっと引いた。  人差し指と中指の間が開いて、その間にはさまれていた二枚の札が、はらりと落ちた。  テーブルの上には落ちずに、加藤とテーブルとの間の空間に、札は舞い込み、テーブルの下に落ちた。 「悪いな、落としちまった」  立ったまま、加藤が微笑した。  悪いとは言っても、下にかがんで、札を拾おうとはしない。  明らかに、わざと、札を落としたのだ。  老人に、金を拾わせようということらしかった。  金は捨てる、その捨てた金を拾えという意味である。  あからさまであった。 「おやおや」  老人は言って、椅子から降りた。  テーブルの下に、四つん這《ば》いになって潜り込んだ。  わずかもためらわなかった。 「あったあった」  老人は、テーブルの下から顔をあげ、起きあがった。 「どこに落ちても、金は金でね」  二枚の札を右手に握っていた。  それを、無造作にポケットに突っ込んだ。 「行こうぜ——」  加藤が、柴田に向かって言った。  一瞬、凄《すご》い眼で、ふたりは老人を睨《にら》んだ。 「誰か、次の相手をしてくれるのはいるかい。駒落ちでもいいんだぜ——」  出口へ向かうふたりの背に視線をやってから、老人は言った。  老人——加倉文吉《かくらぶんきち》である。      2  外へ出た時には、夜の十時をまわっていた。  四時から入って、六時間余りも将棋を指していたことになる。  十一月である。  夜ともなれば、空気は冷え込んでいる。  風が吹いている。  冷たい風であった。  加倉文吉は、ゆっくりと歩き出した。  この先にある、飲み屋街に、足を向けるつもりだった。  入った時よりも、七千円ほど、懐がふくらんでいる。  あれから、二千円で、飛落ちの勝負を別の男とやり、勝っている。  それで出てきたのだ。  軽く飲んでから、安い宿に潜り込んでもいいし、見つからなければ、どこかで野宿をするのでもかまわなかった。  風の来ない場所さえ見つければ、まだ夜をしのぐことはできる。  文吉は、金を貯め始めていた。  十二月に入ったら、二月の上旬あたりまでは、せめて、三日に二度は、屋根の下で眠りたいからである。  本格的な冬が来る前に、四国をまわって、九州あたりに足を延ばしておきたかった。  よれよれのズボンに、シャツを着、その上に上着を着ている。  黒い、古い上着であった。  アスファルトの道を、いくらも行かないうちに、後方から声をかけられた。 「おい、爺《じい》さんよ——」  聴き覚えのある声であった。  さきほど、自分に負けて出ていった、柴田という男の声であった。  文吉は、後方を振り返った。  柴田と、加藤がそこに立っていた。 「あんたたちか——」  文吉が言うと、柴田が、かっと地面に唾《つば》を吐いた。  きつい眼をしていた。  その間に、文吉は、周囲を確認していた。  それでも人通りのある道であった。  少ないが、途切れることはない。  しかし、ふたりが本気ならば、これくらいの人通りは問題ではない。  ふたりがかりで、いっきに文吉を殴り倒し、あばらの一本も折るのに、それほどの時間はかからないだろう。  まさか、ふたりが、領収書をよこせと言って来ないだろうし、酒を奢《おご》りに来たとも思えなかった。  そう思った時、文吉の肚《はら》は決まっていた。  決まった時には、もう、ふたりに背を向けて走り出していた。  走り出した途端に、どん、と誰かにぶつかっていた。  あっさりと、左腕をつかまれていた。  若い、身体の大きな男だった。  ゆっくりと、後方からふたりが歩いてきた。 「大駒《おおごま》を落として、もう一度やる気になったかい?」  顔をふたりに向けて文吉が言った。 「とぼけた爺《じじ》いだ」  加藤が言った。 「なめた真似をしてくれたな、恥をかかせやがって——」  柴田が、文吉の胸倉《むなぐら》をつかんだ。  息がつまった。 「年寄りをいじめるな」  文吉が言った。  しかし、柴田も加藤も耳をかさなかった。 「顔を貸してもらおうか。もう少し人気《ひとけ》のない所までな」 「話なら、そこらの飲み屋でやろう。奢らせてもらうよ」  文吉は言ったが、ふたりは文吉のその言葉を無視した。  若い身体の大きな男が、文吉の腕をつかんだまま歩き出した。  公園に連れて行かれた。  初めから予定してあったらしい、小さな公園だった。  砂場、ジャングルジム、滑り台、それだけのものが、狭い敷地の中にある。  周囲を、樹が囲んでいる。  中央よりやや端よりの、ジャングルジムと砂場の間に街灯が立っている。  文吉は、ジャングルジムに、背を押しつけられて、そこに立った。 「このあたりじゃ見かけねえ面だな、爺さんよ」  柴田が言った。 「金を出しな」  加藤が言った。 「金?」 「おれたちから巻きあげた金だよ」 「ちゃんとした金だぞ、あれは」 「けっ」  柴田が吐き捨てた。 「こけにしやがって、ちゃんとした金も糞《くそ》もねえよ。てめえは、おれを騙《だま》したんだよ——」 「いつ騙した」 「なに!?」 「こちらは、負ける度に、あんたに銭を払ってたんだ。そりゃあ、わざと手は抜いたがな、途中であんたがこれでやめると言えば、あの金はあんたのものだったんだ。それだけの危険を承知で、おれが稼いだ金だ。今さらみっともない真似はせんことだ」 「黙んな」  柴田が、ポケットに右手を突っ込んで、何かを取り出した。  パチン、  と音がして、柴田の右手に、金属光を放つものが出現した。  ナイフであった。  柴田が、その刃を文吉の頬にあてた。  いきなり、その刃先を浅く潜らせて、小さく横へ引いた。  ぷっつりと、文吉の頬が割れて、血があふれ出した。  ナイフが離れた。  離れた瞬間に、腹に衝撃があった。  柴田が、右膝《みぎひざ》を、文吉の腹にめり込ませてきたのである。  腹を押さえて文吉は呻《うめ》いた。  眼尻《めじり》から涙が滲《にじ》んだ。 「出しな」  柴田が言った。 「てめえで出すんだ。おれたちが出すと、たとえそれがおれの金でも、強盗になりかねないからな。てめえが自分の手で金を出して、おれたちのポケットに入れるんだ」  加藤が、柴田のやや後方から言った。 「冗談じゃねえやい」  文吉が言った。 「こちとら、これで飯|喰《く》ってるんだ。仕事で稼いだ銭を、何でてめえらにやらなきゃいけねえんだよ——」  そこまで言った文吉の頬に、柴田のパンチが叩《たた》き込まれた。  文吉の後頭部が、ジャングルジムの鉄パイプにあたって鈍い音をたてた。  文吉の頬と、唇から血が滲んだ。  血の混じった唾を文吉は吐き捨てた。 「銭を持って行きたきゃ、おれを殴り倒して、てめえらの手で、おれの懐から持って行きやがれ!」  血の付いた唇で叫んだ。  叫んだ途端に、また殴られた。  今度は鼻であった。  鼻からも血が流れ出した。  文吉は、そのまま地面に膝をついた。  土下座をした。 「頼む。哀れな爺いから金を持って行かんでくれ、お願いだ——」  額を地面に擦《こす》りつけた。  さすがに、一瞬、柴田が動きを止めた。  その一瞬であった。  文吉は、顔をあげながら、ひょいと右手を下から跳ねあげた。  文吉の右手の甲が、柴田の股《また》の底を叩いた。 「ぎっ!」  柴田が、股間《こかん》を押さえて、上体をふたつに折った。  そのまま文吉は走った。  その文吉の身体が、大きく前につんのめって転がった。  若い、身体の大きな男が、文吉の足を横から払ったのである。  意外に素速い動きであった。 「この爺い!」  若い男が、背を丸めて両腕で頭をかばっている文吉に、蹴《け》りを入れた。  その蹴りが、文吉の背に当たる。 「糞《くそ》——」  まだ、柴田は、股間を押さえて呻いている。 「おい、そのくらいでやめておくんだな——」  その時、ふいに闇の奥から声が響いてきた。  どこか、のんびりしたような男の声であった。  若い男と、加藤が、その声の方に眼をやった。  入口の方角の闇の中に、ひょろりとしたひとりの男が立っていた。  右手に、ひとつのバッグを無造作に下げていた。  ゆっくりと、その男が歩み寄ってきた。  街灯の灯《あか》りの届く範囲に来て、男の顔が見えた。  人なつこい笑みを浮かべた男であった。  髪は、それほど長くはないが、くしゃくしゃである。  やや癖のある髪をしている。  櫛《くし》も入れずに、風呂《ふろ》あがりに、髪を軽く手で撫《な》でつけておくだけのタイプである。  乱れも、軽い癖のある髪も、あまり気にならない。そういう髪型が、この男によく合っているのである。  年齢は、三十代の初めから、半ばくらいかと見えるが、もっと歳上でもおかしくない、不思議な落ち着きがある。  奇妙な、独特の雰囲気を身に纒《まと》った男であった。 「誰だい、あんた?」  加藤が言った。 「そこの爺《じい》さんの知り合いでね——」  男が答えた。  ジーンズに、Tシャツを着て、その上に、古い革ジャンパーをひっかけている。  その袖《そで》を、肘近《ひじちか》くまで、ふたつほど折って腕を出していた。  ひょろりとした体躯《たいく》に似合わず、意外に逞《たくま》しい腕であった。 「彦六《ひころく》」  文吉が、地面の上から、男に声をかけた。 「久しぶりですね」  男——彦六が答えた。  文吉は、血の滲んだ顔をあげて、立ちあがった。  飢えた犬の光を宿した文吉の眼が、ふと、和んでいる。  彦六が身に纒った奇妙な雰囲気が、文吉をそうさせてしまうらしい。 「助けてくれや、彦六——」  文吉が起きあがった。 「得意のあれ[#「あれ」に傍点]をやったんですか——」  彦六がいまだ股間を押さえている柴田に眼をやってから、文吉に言った。  あれ[#「あれ」に傍点]——土下座をして、相手の隙をみて股間を攻撃する方法のことである。 「おう」  と、文吉が答えて、彦六に歩み寄った。 「しかし、もう歳らしくてな、逃げ足が遅くなっていかん」  くく、と彦六が笑った。  文吉が、苦笑いをして、頭を掻《か》いた。  小さく顔をしかめた。  叩《たた》かれた顔のどこかが痛むらしい。 「おい」  加藤が声をかけてきた。 「何だ」  文吉が加藤に向きなおった。 「とぼけるなよ。こっちの話はどうするつもりだ」 「それか、それはもう終わりだ」  文吉が、片手をあげて、あばよというように手を振った。 「なにい!」  加藤の声が荒くなる。 「終わりだよ」 「そっちはよくても、こっちはまだ話はすんじゃいねえ」 「爺《じじ》いを三人がかりでいじめやがって、何を言いやがる。おれは、これからこの男と飲みに行くんだ。おめえらの相手はしてられねえよ。本当なら、この傷の分の金をふんだくりたいところだが、特別に許してやるから、もう帰れ——」 「なんだと?」 「やめとけよ、この男は強いぞ。将棋の方はおれの方が強いが、喧嘩《けんか》は、この男の方がずっと強い」 「この馬鹿が——」  やっと、声が出せる状態になったらしく、柴田が声をあげた。  右手にナイフを握っている。 「やる気かい。やる気なら、三人まとめて来い。その方が早く終わるから、早く飲みに行ける——」  さっきからしゃべっているのは文吉ばかりである。  彦六は、苦笑いしながらただ黙ってそこに立っているだけだ。 「事情は、見当がつきますよ。さっき、と金倶楽部で聴きましたからね」  彦六がようやく口を開いた。 「おまえも、この爺いの仲間か?」 「仲間ではなく、知り合いなんだけどな」 「うるせえ」  柴田が、ナイフを握った右手を、脅すように振ってきた。  彦六の顔の前である。  自分の眼の前四センチほど先の空間を、ナイフの切先が疾《はし》り抜けてゆくのを、彦六は、表情を変えずに、瞬《まばた》きもせずに見ていた。  柴田の頭に、かっ、と血が昇った。 「こいつ!」  本気で突きかかってきた。  自分に向かって動いてくる柴田の、ナイフを握った右手首を、彦六が宙で右手に捕えていた。  柴田の身体をそのまま前に流しながら、柴田の手首だけを引き寄せ、横にまわり込んだ。 「つううっ」  柴田の手首の関節が極《き》められていた。  下に落ちそうになったナイフを、バッグを握った左手の、余った指——親指と人差し指でつまみとった。  バッグを握ったまま、器用にナイフをたたんだ。  それを、柴田の上着のポケットに入れた。  柴田の右手首を放した瞬間に、横から、若い男が蹴《け》りを入れてきた。  どこで学んだのか、ひと通りの型になっている蹴りであった。  実戦的な、ローキックである。  彦六の左膝《ひだりひざ》の横に入れてきた。  その蹴りが空を切った。  彦六が、後方に退《さ》がって、その蹴りをかわしたのである。  極端に無駄の少ない動きであった。  無造作に見えるが、男の動きよりも、遥《はる》かに疾《はや》い。  実力のレベルが、数段違っている。 「手合い違いだぜ、こいつは——」  文吉が、横から声をかけた。 「くうっ」  次の蹴りを男が放とうとした時、彦六が逆に前に出ていた。  右掌で、ぽん、と男の胸を突いた。  どれほども力を込めたようには見えなかった。  軽く触れたように見える。  しかし、それだけで、大きく男の身体が後方にふっ飛んでいた。  仰向けに倒れた。  男は戦意を喪失したらしい。  信じられないという眼で、尻《しり》を地に突いたまま、彦六を見ていた。 「あんた、何かやってるな」  加藤が言った。 「少しだけどね」  彦六が言った。  まだバッグを下げたままだ。  毛ほども呼吸は乱れていない。  男が立ちあがり、加藤と並んだ。  柴田は、まだ右手首を左手で押さえ、ふたりの後方に、やはり戦意を喪失した顔で立っている。 「あとは、おめえだけだ。試してみるかね?」  文吉が、加藤に向かって言った。  加藤が、後方に、浅く身体を引いた。  もう、加藤にもやる気がないのは、わかっていた。 「ちっ」  小さく舌を鳴らして、加藤が背を向けた。 「行くぞ」  歩き出しながら、ふたりに声をかけた。  柴田と若い男が、加藤の後方に続いた。  すぐに、三人の姿は、公園から見えなくなった。  文吉と彦六が、顔を見合わせた。 「久しぶりだな——」  文吉が言った。 「はい」  彦六が言った。 「どうして、ここがわかった?」 「梅田の投了館[#「投了館」に傍点]に顔を出したら、まだ大阪にいるらしいって聴きましてね、あちこちと、道場を捜し歩いてたんですよ」 「へえ」 「ついさっき、と金倶楽部に行ったら、やけに将棋の強い、真剣[#「真剣」に傍点]の爺《じい》さんが帰ったばかりだと、手合い係りが教えてくれたんですよ」 「そうかい」 「あのふたり、あの道場でも、かなり、タチのよくない人間たちらしいですね。あの爺さん、危ないかもしれないよと、出る時に、手合い係りが教えてくれました。それで、近くをうろうろしているうちに、ここを見つけたんです」 「もう少し、早く来りゃあ、いいものをよ」  文吉は、頬を押さえながら、言った。  浅く切られた傷から流れていた血が、もう、止まりかけていた。  文吉には、その傷よりも、殴られた痛みの方が効いているらしい。 「しかしまあ、会えたのは、嬉《うれ》しいな」  文吉が歩き出した。  その横に、彦六が並んで歩き出す。 「会えてよかった」  彦六が言った。 「それにしても、おめえ、大阪にはどうして来たんだ。おめえも、特別な用事なんぞなしに、あちこちうろついてるんだろうけどよ——」 「今度は、用事があって、大阪に来たんですよ」  彦六は言った。 「用事?」 「ええ」 「なんだ」 「あなたを捜してたんですよ」 「おれを?」  文吉は、驚いた顔になって、横を歩いている彦六を見た。 「今年の三月からですよ」 「三月から?」 「あちこち歩くたびに、加倉文吉らしい人間が顔を出したかどうか、その土地の道場に顔を出しちゃあ、聴いてまわってたんですよ」 「それでか——」 「ええ、清水で、一度噂を聴きました」 「へえ」  文吉は、歩きながら、頬を押さえる。 「しかし、どうして、おれを捜してたんだ?」 「文平《ぶんぺい》に頼まれましてね」 「文平に?」 「はい」 「何を頼まれた?」  しかし、彦六は、その問いには答えなかった。 「もう、しばらく松本には帰ってないんでしょう?」  文吉に訊《き》いた。 「ああ。一年半以上になるか——」 「手紙は、葉書が一通だけ来たと、文平は言ってました。元気でやってると、それだけ書いてある、ぶっきらぼうな手紙だと、文平は笑ってましたよ」 「あのガキが——」  文吉の顔に、小さく微笑が浮いた。 「文平は、大学に行きましたよ」 「そうか、もうそういう歳だったなあ」  思い出したように、しみじみと、文吉は言った。 「東京の、大学です」 「あいつは、親父に似なかったからな」  文吉が言うと、彦六が微笑した。 「で、その文平が、どうしておれを捜してるんだ?」 「お知らせすることがありましてね」  彦六が言った。 「知らせる? 何をだ」 「久住伊蔵《くずみいぞう》が死にました」  彦六が小さな声で言った。 「なに!?」  文吉が足を止めていた。  第二章      1  店内に低く流れているのは、何年か前に流行した演歌だった。  さびさびと乾いた女の声が、男への未練を歌っていた。  入口に近い、カウンターの席に、文吉と彦六は座っていた。分厚い木製のカウンターである。  その上に、空になった銚子《ちようし》が四本、転がっている。  文吉と彦六は、五本目を、互いに手酌で自分の猪口《ちよこ》についだ。  口数は少ない。  文吉は、彦六から、久住伊蔵の死について、ひと通りを聴かされていた。  彦六が語り、文吉がその話を聴きながら、三本の銚子が空いた。  四本目の銚子は、互いに、ほとんど無言で飲んだ。  五本目の銚子の最初の一杯ずつが、文吉と彦六の猪口の中に、まだ飲まれないまま残っている。  縁に、小さく山盛りに溜《た》まった酒を、文吉は眺めている。  低い、女の歌声。  安い、一杯飲み屋のつもりで暖簾《のれん》をくぐったら、思いのほか、店内は小綺麗《こぎれい》で、値段もやや高めであった。  しかし、他に、店を捜す気になれず、ふたりは、このカウンターに席をとったのだ。  店内の半分以上が、客で埋まっていた。  奥には、座敷もあるらしい。 「そうか」  文吉は、つぶやいた。 「死んじまったかよ、伊蔵——」  文吉は、杯の横に眼を移した。  そこのカウンターの上に、五枚の葉書が、重ねて置いてあった。  文吉の息子の文平が暮らしている松本の住所が書いてあり、 �かくらぶんきちさま�  と、小学生のような字で記してあった。  全部平仮名である。 「字を書くのをいやがってよ」  文吉が、低くつぶやいた。 「字を——」  彦六が訊《き》く。 「伊蔵がだよ。一緒に旅をしてた時があってよ、その時、宿で、宿帳に名前を書くじゃねえか——」 「ええ」 「伊蔵め、みんな、おれに書かせやがって——」 「————」 「こちとらの字だって、たいした字じゃねえんだよ。しかし、漢字のいくつかは書けるよ、おれはな。おれが、字のことで、やつをからかうと、自分は、将棋に命をかけてるんだと言いやがった」 「将棋に?」 「だから、他のことは何も知らない。そのかわりに将棋が強ければいいんだと言ってたよ。漢字が書けないのは恥じゃない。漢字なんか習わなかったんだから。そのかわりに、将棋が弱いのは恥だ、将棋に生命をかけてきたんだからってな——」 「強かったんですか」 「将棋がかい」 「はい」 「三番やって、ふたつは、おれがとったよ」 「じゃあ、かなり強かったんですね」  彦六が言うと、ふふん、と文吉は微笑した。  酒を飲んだ。  また、葉書を見た。  文吉に会いたい、また、ふたりで旅に出たいと、拙《つたな》い字で書いてあった。  何度も何度も書いてあった。  五枚とも、内容は同じであった。  古い二通は、旅先からのもので、三通は、広島の消印がある。同じ場所から投函《とうかん》したものであった。  ずっと自分はここにいるから、いつか遊びに来いと、必ず最後に、そう記してあった。一番新しいのが、昨年の十二月のものであった。 「字を書くのなんか、いやだと言ってたくせによ……」  文吉が言った。 「会いたかったんですね、文吉さんに」  彦六が、しんみりと言った。 「けっ、馬鹿——」  文吉が、舌を鳴らした。 「死んじまってよ。死んじまっちゃあ、お終《し》めえだぜ」 「いくつだったんですか?」 「おれより、十歳は上だったかよ——」 「七十代?」 「数えるない。自分の歳なんか、忘れちまったよ」  文吉が言った。      2  久住伊蔵は、文吉と同じ、真剣師であった。  あちこちを転々としながら、くすぶり[#「くすぶり」に傍点]や、同じ真剣師と勝負をし、それを飯のタネとしてきた男である。  文吉と一緒につるんで、半年近く、日本全国を渡り歩いたことがある。  五年前だ。  文吉が、まだ五十代、伊蔵が六十代の頃だ。  それぞれの顔の効く将棋道場に顔を出し、そこで数日、同じ客ばかり相手にして真剣をやったり、時にはその道場に泊まり込んだりもした。  将棋|三昧《ざんまい》の日々であった。  あの時期ほど、将棋将棋で過ぎた時期は、文吉の生涯でもそうはない。  女も買った。  酒も飲んだ。  今よりは若かったにしろ、老いてから、そのような日々があろうとは考えてもみなかった毎日であった。  伊蔵は、いつも、自分の将棋の駒《こま》を持ち、それを使って指していた。 �たのしかったなあ、あのころは——�  葉書には、繰り返し、繰り返し、その言葉が書かれてあった。  将棋しか、頭の中になかった伊蔵であった。 「他のことだったらとてもここまでは生きちゃあこれないよ。こそどろをやって、一生ブタ箱と娑婆《しやば》を行ったり来たりだったはずさ」  伊蔵は、酒を飲んだおり、ふと、文吉にそう言ったことがある。 「そのおれが将棋で生かせてもらったんだ、将棋でくたばったってかまわねえよ」  伊蔵にどのような過去があるのか、文吉にはわからない。  訊いたことはないし、訊いても言わないだろう。言ったとしても本当のことを言うかどうかはわからない。  文吉にしろ、それは他人には言いたくない。 「おれたちは、プロなのかな——」  ある時、伊蔵が、文吉に訊いた。  宿のテレビで、名人戦の対局のニュースが流れた時だ。 「プロさ」  文吉は言った。 「本当にか?」 「ああ。真剣で飯を喰《く》ってるんだからな」 「しかし、どうして、あいつら[#「あいつら」に傍点]と、おれたちと違うんだ」  あいつら[#「あいつら」に傍点]というのは、テレビに出ているプロ棋士のことだ。 「知らねえよ」  文吉は言った。  プロ棋士は、全員が、例外なく、日本将棋連盟に属している。  属していれば、棋士である。 「まさか、名人とまではいかなくてもよ、おれたちより弱い連中だって、連盟の中にはいるだろう?」 「そりゃあ、いるだろうよ」  しかし、誰でも望めばプロ棋士になれるわけではない。  年齢制限があり、しかも、あるレベル以上の実力がなければプロ棋士にはなれない。  そういうシステムになっているのである。 「笑うなよ、おい——」  伊蔵が、急に真剣な顔つきになった。 「なんだ」 「もし、年齢制限さえなければ、おれたちでもプロになれるのかな」 「馬鹿」  文吉は言った。  文吉自身も、それは何度も考えたことであった。  ——もし、プロ棋士になれたら。  その思いが、どうかすると、自分の中に燻《くすぶ》っていたりするのを知って、驚く時がいまだにある。  しかし、結論はいつも同じだ。  プロ棋士にはなれない。 �なければ�  も何も、年齢制限は、間違いなくあるからである。  奨励会に入り、二十歳までに初段、二十五歳までに四段にならなければならない。  文吉と伊蔵では話にもならない。  それに、プロは強い。  アマチュアとプロとの差が、歴然としすぎている。  アマチュアで、四、五段、時おり県大会の代表になるクラスの人間が、奨励会の、十四歳の少年に勝てない。  アマチュア名人クラスで、やっとどうにか対等の勝負ができるくらいである。  いくら、文吉や伊蔵が強いといっても、それは、所詮《しよせん》は野においての話である。  奨励会クラスの相手ならともかく、プロ棋士が相手となると——。  夢の話であった。  そのような話も、伊蔵とはしたことがあった。  その伊蔵が、将棋を指さなくなったのは、四年前である。  神奈川県の、ある大会に、伊蔵が出たのだ。  賞品の電気製品目当ての出場である。  勝って、冷蔵庫かカラーテレビを手に入れ、それを金にかえる。  これまで、そういう大会に出れば、一位か二位を、ほぼ確実にとってきた。  顔を知られていて、出場を断わられる時すらある。  入口でごねれば、多少の金が手に入った。  しかし、神奈川県の横浜で開かれたその大会で、伊蔵は、一回戦で負けた。  名もない、アマチュアが相手であった。  二十六歳の、学生である。  浪人を四年やったとかで、歳はくっていたが、学生は学生で、アマチュアはアマチュアだ。  その男に負けた。  信じられなかった。  相手の手は荒いし、勢いだけの将棋である。  その将棋に負けたのだ。  その学生が、大会で優勝した。  その学生の帰りを、伊蔵は待ち伏せた。  待ち伏せて、もう一度勝負をしろと迫った。  学生は、興味がなさそうな顔をした。 「金を賭《か》けて指そうじゃないか」  伊蔵が言った。  さっきは、金を賭けてないから負けたのだと思った。  たかがアマチュアの大会の一回戦の相手だと思って、油断したのだ。  今度は油断はしない。  少なくとも、大会で優勝するくらいの実力はある男なのだ。  本気で相手をする。  それも金を賭けてだ。  金を賭ければ、いやでも本気になる。 �金�  という言葉を耳にした途端に、学生の眼の光が変わった。 「金?」  伊蔵に訊《き》いた。 「ああ、金を賭けてやろう」 「勝ったらば、金をもらえるのか」 「負けたらば払うんだよ」 「負けたらね」  学生は涼しい言い方をした。 「いくら賭ける?」  学生が訊いた。 「いくらならやるんだ」 「いくらでも。そっちで決めてよ」 「ひと勝負で五千円」  伊蔵が言った。 「いいよ」  学生がうなずいた。  そのまま、ふたりで近くの将棋道場に潜り込んだ。  そこで、伊蔵は負けたのである。  たて続けに、七番やって、七番とも負けた。 「もう一番、もう一番……」  伊蔵は言った。  しかし、有り金の全てが、その時には失くなっていた。  それで、そこまでの勝負となった。  その時から、伊蔵は将棋を指せなくなったのである。      3 「広島の�捨て駒《ごま》�に、伊蔵さんが顔を出したのが、二年近く前で、その時には、伊蔵さんは、もう、腑抜《ふぬ》けのようになっていたそうです」  彦六が言った。 「広島まで、行ったのかい」  文吉が訊いた。 「ええ、葉書の住所を見ましたから——」 「�捨て駒�の高梨《たかなし》は、元気だったかい」 「ええ。文吉さんに会ったら、また顔を出すように言ってくれと——」 「高梨が、伊蔵の面倒をみてくれたのか——」 「そうらしいですね。道場に寝泊まりしながら、最初は、掃除や、手合い係りのようなこともやってたらしいんですが、そのうちに、何もしなくなって、ただ、ごろごろしてる毎日だったようです」 「————」 「いつも、怯《おび》えていて、誰かに殺されるとか、ぶつぶつ、言ってたみたいですね。寝てると思ったら、いきなり立ちあがって、窓の外を覗《のぞ》いて、叫んだりしたとか——」 「そうかい」  彦六は、文吉を見やって、杯の酒を口に含んだ。  彦六は、淡々と、伊蔵のことを、文吉に語った。  広島の将棋道場�捨て駒�の高梨から聴いた話であった。  いなくなる一カ月くらい前から、伊蔵は、小便や大便を、垂れ流すようになったという。  いつ、小便が出るのか、大便が出るのか、自分でもわからなくなっていたらしい。  昼間、道場で異様な臭気がする。  糞《くそ》の臭いである。 「高梨さん、あの爺《じい》さん、どうもやっちゃってるみたいですよ」  常連客のひとりが、高梨のそばまでやってきて、そう耳打ちをした。  伊蔵が、部屋の隅に座ったまま、ズボンの中に大便を垂れ流していたのである。  ある時は、道場の中を歩きながら、そのまま、畳の上に小便を洩《も》らした。歩いているズボンの裾《すそ》から、ぽたぽたと畳の上に、小便が垂れてきたのだ。 「情けねえよなあ、自分の小便までわからなくなっちまってよう」  伊蔵は、泣きながらそう言ったという。  高梨が、何度か病院へ行くことを勧めたが、伊蔵は行こうとしなかった。  伊蔵がいなくなる前の晩であった。  高梨は、眠る前に、妻の幸江から話があると言われた。  話というのは、伊蔵のことであった。 「いつまであの人をここに置いておくのですか——」  幸江は言った。  寝室である。  自宅の一階が将棋道場で、二階が高梨と幸江の生活の場である。  共に、四十五歳である。  子供はない。 「しかし……」  高梨は答えられなかった。  いつまでも置いておけるものではないことはわかっている。  しかし、もう置いてはおけないと言うつもりもない。  伊蔵がいるのは、迷惑である。しかし、その迷惑を承知で、伊蔵を道場に置いた。  伊蔵が好きだったからである。  伊蔵というよりは、伊蔵の生き方が好きだったのだ。  自分も、この伊蔵のように生きたかったと思う。  将棋のみで世を渡り歩き、奔放に生きてみたかった。  最初は、プロ棋士になろうと思った。  しかし、その道は閉ざされていた。  年齢の制限があったからである。  それならば、腕一本で生きてゆく真剣師になろうかと思った。  半分は、その覚悟を決めていた。  その時に、この幸江と知り合ったのだ。  あるいは、幸江と知り合わなければ、自分は伊蔵のような生き方を選んでいた人間のはずである。いや、もしかしたら、幸江と知り合わなくとも、自分には、伊蔵のような生き方はできなかったかもしれない。  だが、少なくとも、伊蔵のように生きたいとは思っていたはずなのだ。  今でも、やれるわけはないのは百も承知で、その思いは胸のうちに燻《くすぶ》っている。  伊蔵と知り合ったのは、三十五歳の時だ。  道場にふらりと現われて、常連の客をたちまち、伊蔵が破った。  金を賭けての勝負である。  最後に高梨が相手をした。  たて続けに、三番、負かされた。  最初からゆるみのない手を指す男だった。  弱い所へ、あらゆる駒《こま》で攻め込んでくるのだ。  しのぎきれば、受け手の勝ちである。  しかし、それがしのげない。  喧嘩《けんか》殺法であった。  その時から、伊蔵が広島に顔を出した時の常宿は、高梨の�捨て駒�になっている。 「あなたが、あの人のような生き方をしたかったと思っているのはわたしも知っています。けれど、他人は他人です。もう、充分なことはしたはずです——」  一年近くも、伊蔵を�捨て駒�に置いていたことになる。  幸江の気持もわかる。  だが、出て行けとは言えない。  どこにも、伊蔵の行くあてのないことはわかっている。  つい、声が大きくなった。  その時、階段の下で、物音がした。  襖《ふすま》を開けて、階段の下を覗き込んだ。  階段の下に、伊蔵が立っていた。  右手に白い布を持っていた。  その布から滴が垂れていた。  小便で濡《ぬ》れた、伊蔵の下着であった。  下着をはいたまま、また小便を垂れ流し、それを洗いに来たのである。  階段の下に、便所があり、その前に流しがあるのだ。 「伊蔵さん——」  高梨は言った。 「また、やっちまったよ……」  伊蔵は、薄笑いを浮かべて、ひひ、と声をあげた。  翌日の朝、高梨が眼を覚ますと、伊蔵がいなくなっていた。  書き置きも、何もなかった。  自分のものだけが、そっくりなくなっていた。 「そうですか、名古屋の病院にいたんですか——」  訪ねてきた彦六に向かって、高梨はそう言った。  彦六が葉書の話をすると、高梨は、広島から、伊蔵が、文吉あてに何度も葉書を書いていたことを知らなかった。 「よほど、会いたかったんでしょうねえ」  高梨はつぶやいた。 「加倉文吉と一緒に旅をした時のことばかりよくしゃべってました。将棋は一度も指さなかったんですが、最後に一度、文吉と指したいと——」 「————」 「借りがあるんだと言ってました」 「借り?」 「高崎での借りだと言ってました。なんのことだかは、わかりませんでしたけどね」  高梨は言った。  伊蔵は、名古屋で倒れた。  疲労と、栄養失調とである。  そこで病院に担ぎ込まれたのである。  着ているものには、糞尿《ふんによう》がこびりつき、すごい有様であったという。  老人性の痴呆症《ちほうしよう》になりかけていた。  病院にいる間も、何度か抜け出そうとし、病院に連れもどされた。  そして、二月の晩であった。  伊蔵は、病院を抜け出し、松本へ向かって夜の木曾《きそ》街道を走ったのである。  道に倒れている伊蔵の死体が発見されたのは、早朝であった。  死体の懐に、松本の、加倉文平の住所の書かれた紙片が入っており、それで、加倉文平と連絡がとれた。  もし、その紙片がなければ、伊蔵の死体は、無縁仏として処理されていたはずである。 「文平が、全部ひとりで、伊蔵のことをやったそうです」  彦六は、文吉に言った。 「文平が——」 「一度だけ、会ったことがあるそうですね」 「ああ。一緒につるんで歩いている頃、松本に連れて行ったことがある」 「えらい男ですよ、文平は——」 「墓は?」 「ありません。しかし、埋められたのは松本です」 「どこだ?」 「城山の林の中に穴を掘って骨だけを埋めたそうです。伊蔵の死体の懐に入っていた将棋の駒を、一緒に埋め、その上から酒をかけたと言ってました」  彦六が言った。  空になった文吉の杯に、酒を注いだ。 「伊蔵の馬鹿が、くたばりやがってよ」  文吉はつぶやいた。  杯の酒を、飲み干した。  赤い眼で、空になった杯を睨《にら》んだ。  その杯に、彦六が酒を注ぐ。 「やつと真剣をやりながら歩いた時は、楽しかったよ。年がいもなくな。こんな毎日が、ずっと続けばいいと思ったよ——」 「どうして、別れたんですか」 「別れたって、それが端《はな》っからの約束だったからよ」 「————」 「半年、ふたりでまわって、半年後には別れようってよ。爺《じじ》いふたりが、楽しいあまり、相手を頼りにするようになっちゃあ、もう、お終《し》めえじゃねえか——」 「————」 「半年経っても、いよいよ別れようかって話をどちらも言い出せずに、一日、二日と、ずるずる日が過ぎていくようになっちまってさ。それで、ある晩、おれの方から、そろそろ、また一匹狼をやろうぜって、声をかけたんだよ」 「それで?」 「伊蔵は、別れたがらなかった。これからも一緒にやろうと言った。しかし、おれは言ってやったよ。どうせ別れるんだって。一緒ったって、一年、二年はもちやしねえ。もったところで、どちらか一方がよいよい[#「よいよい」に傍点]になってみろ、面倒を見れるわけがねえじゃねえか。相手の懐から有り金かっぱらって、そのままあばよさ。それが、おれたちのやり方だろうって、伊蔵に言ったんだよ。おれは、おめえの懐から金を持ち出すのはいやだし、おめえに懐をさぐられるのもいやだってな。ようするにおれたちは、敵どうしじゃねえか。真剣師どうしが、つるんで半年歩けたのが不思議なくらいなんだ。本当なら、どうやって相手の懐に入ってる銭を巻きあげるか、そういうことを互いに考えるのが、おれたちのやり方なんだ——」  文吉は、やや、声を高くして、ひと息に言った。  彦六は、黙って、文吉のその言葉に耳を傾けていた。 「喧嘩《けんか》になったよ」  ぼそりと、文吉が言った。 「ならば、勝負をしようじゃねえかと、いうことになった」 「————」 「朝まで、眠らずに、何番でも指して相手の金がなくなるまでの勝負だった」 「それで——」 「おれの方が優勢だったよ。さっきも言ったろう。おれが、三番にふたつはとってたんだ。明け方近くにはやつの金は、ほとんど失くなってたよ。最後の一番になって、やつは、残りの金の全部を賭《か》けてきた。それと、自分の駒《こま》を賭けるから、おれに、おまえがこれまで勝った分全部を賭けろと言ってきた——」 「駒を?」 「いい駒だよ、一水《いつすい》の作だ。やつが自分でいつも持ち歩いてるやつでね。いい木を使っている。売れば、かなりの値になる」 「————」 「それで、その勝負を受けた」 「どうなりました?」 「負けたよ、おれがね」 「へえ」 「そうしたら、やつが、怒り出した。おれがわざと負けたんだろうってね。今も覚えてるよ。高崎の宿だ——」 「高崎? 彼が、高崎で借りがあるって言ってたのは、そのことだったんでしょうか——」 「どうかな」 「わざと負けたんですか?」 「けっ。おれは、ちゃんとした勝負しか、これまでにやったこたあねえよ」  杯の酒を、口の中に放り込むように飲んだ。  文吉の顔が赤くなっている。  しかし、頭はひどく醒《さ》めているような眼をしていた。 「なあ、彦六よう」  文吉は言った。 「はい」 「おめえに会えて、よかった。今晩はおめえ、ずっとつきあわせるぜ」 「つきあいますよ」 「奇妙な男だなあ、おめえ——」 「どういう風にですか」 「旅先でよ、一度、将棋を指しただけの縁だぜ。それも、真剣をやって、おれの方が、おめえから、銭をふんだくったんだ」 「その後で、酒をおごってもらいました」 「あんまり勝っちまったからよ。もとは、あんたの金だ。妙に、あんたが好きになっちまったんだ。本当なら、その土地はとんずらこいてるところさ」 「そうですか」 「わざわざ、ここまで、他人の世話をやく男は、普通はいねえよ。下心がなけりゃあな」 「下心はありますよ」 「ある?」  文吉が言うと、彦六は微笑した。  酒を飲んだ。 「何だい、その下心ってのは?」 「文平ですよ」 「文平?」 「あの男が、気に入ってるんです」 「————」 「文平に、中国|拳法《けんぽう》を教えました」 「おまえさんのやってる、あれか」 「そうです」 「わからねえな」 「東京の大学に受かりましたよ。文平は——」 「聴いたよ、さっきな」 「ついでに、おせっかいをひとつ、させてもらいました」 「なんだ」 「文平を、武林館の、赤石文三《あかいしぶんぞう》に紹介しました」 「武林館?」 「空手の道場ですよ。赤石文三は、そこの館長をしています——」 「文平は今、そこにいるのかい」 「はい。そこで空手を学んでいます」 「で、素質があるのかい、文平のやつは?」 「あります」 「へえ、あいつに、そんな素質がね」 「真っ直《すぐ》に伸びますよ、文平は——」  彦六は、楽しそうに眼を細めた。 「真っ直にか」 「ええ」 「親父はこんなに曲がりくねってるがね」  言って、文吉は微笑した。 「しかし、真っ直ってのはいけねえや。それじゃあ、本人は辛《つれ》えよ。この世の中を真っ直になんか、渡っていけやしねえ——」 「はい」 「将棋だって、あれで、せこい手や、汚ない手のあれこれがあるんだ。定跡はあるが、定跡だけじゃ勝てねえ——」 「でも、文平の真っ直は本物ですから——」 「本物?」 「曲がりくねる時も、文平は真っ直です」  彦六が、きっぱりと言った。  彦六の言いまわしそのものは、文吉にはわかりにくかったが、はっきりとよどみなく言いきった彦六の言い方の方に、文吉はひどく納得したようであった。 「そんなものかい」 「文平は、強くなりますよ」 「ふうん」  文吉はつぶやいて、彦六を見た。  見ながら、杯を口に運んだ。 「あんたの下心ってのは、そのことかい」 「そうです」 「————」 「文平がどれほど強くなるのか、どういう生き方をするのか、それを見てみたいんですよ——」 「そんなのは、下心たあ、言わねえよ」 「下心は下心ですよ」 「ちえっ」  文吉は、舌を鳴らした。 「どうしました」 「あんたと話をしていると、別の人間に、なっちまうよ」  文吉がつぶやいた。  その文吉の眼が、ちらっと横に動いて、そこで止まった。  入口の方角である。  彦六も、つられてそちらの方に視線を動かした。  そこに、ひとりの男と、女が立っていた。  戸を開けて、店に入ってきたばかりらしい。  男は、五十代の初めといったところであろうか。  額がやや禿《は》げあがり、太い黒縁《くろぶち》の眼鏡をかけている。  腹が前に出てはいるが、見苦しいほどではなかった。  女のように、白い肌をしていた。  ぼってりと唇があつい。  おっとりした風格があった。  女は三十代の半ばくらいに見えた。  和服を着ていた。  髪をアップにしているため、項《うなじ》のあたりのラインがほっそりと見えている。そこにかかったほつれ毛が、色っぽかった。  文吉は、その男の方を見つめていた。 「どうしました?」  彦六が訊《き》いた。 「有村花泉《ありむらかせん》だ」  文吉がつぶやいた。 「有村花泉?」 「有村八段だよ。A級プロ棋士だ」 「へえ」  彦六も、その男を見つめた。 「昨年も、今年も、名人への挑戦者になった男だよ」 「初めて見ました」 「おれもさ」  文吉が言った。  他の客は、女と入ってきたその男が、A級のプロ棋士だとは、むろん、気づいていない。  軽く店内を見まわして、男——有村は、カウンターの親父に声をかけた。 「奥は、空いてますか?」  奥にある、座敷の席に眼をやった。  座敷に人はいないが、誰かの予約があって、そこが空いたままになっているのかどうかという意味の問いであった。 「空いてますよ」  親父が答えた。  ふたりは、文吉と、彦六の後ろを通って、座敷にあがった。 「化粧がきついな」  文吉が言った。  有村が連れていた女に対する評であった。  そしてまた、伊蔵の話になった。  しばらく伊蔵の話をしているうちに、彦六は、ふいに思い出したように、ポケットに手を突っ込んだ。 「そうだ、忘れてましたよ」  ポケットから手を取り出した。 「なんだ?」 「これです」  彦六は、右手の指にそれをつまんで、文吉の手の上に、ほろりと落とした。  将棋の駒《こま》であった。 「香《きよう》じゃねえか」  それは、手垢《てあか》と脂とがついて、黒光りするほど汚れている香であった。  いい黄楊《つげ》の材料を使った駒であった。 「一水の作か!?」 「はい」 「伊蔵の駒じゃあねえか」 「死んでいた久住伊蔵の右手に握られていたそうです」  彦六がつぶやいた。  第三章      1  腰をあげたのは、それから一時間が経ってからであった。  店を出た時には、かなりの酔いがまわっていた。  冷たい風が、文吉の頬を打った。 「宿を捜すか」  文吉が言った。 「ええ」  彦六が、空を見あげながらうなずいた。 「なければ、どこかのベンチか——」 「久しぶりに、それもいいですね。そのつもりで、酒とつまみを手に入れておきますか」  彦六が飄々《ひようひよう》と歩き出し、その横に、肩をすぼめた文吉が並ぶ。  人通りが、わずかに減っていた。  すぐ横手に、仰々しく赤い飲み屋の看板があり、その前に、ジャンパーを着たひとりの男が、ポケットに両手を突っ込んで、下を向いて立っていた。  歩き出してすぐ、後方で、戸の開く音がした。  文吉と彦六に続いて、すぐ店を出てきた者がいるらしい。  ——と。  いきなり、飲み屋の看板の前に立っていた男が動いた。  歩くというよりは、走る速度に近い。  文吉と彦六の横を摺《す》り抜けて、文吉たちが出てきたばかりの店の方へ向かってゆく。  つられて、何気なく後方を見た文吉は、そこに、意外な光景を見た。  今しがた、自分の横を摺り抜けていった男が、店から出てきたふたりの客の前で、いきなり土下座をしたのである。 「お願いします」  正座をした男が、地面に額を擦《こす》りつけた。 「有村じゃねえか」  文吉がつぶやいた。  男が土下座した相手は、さきほど入ってきた有村と、和服の女であった。  その時には、彦六も向きなおっている。  はっきりとした困惑の色が、有村の顔に湧いていた。 「わたしと、一番だけ、指してくれませんか」  土下座した男が下を向いたまま言った。  沈黙があった。  有村は、長い間その男を見つめ、やっと、何事かを理解したらしい。 「君か——」  低くつぶやいた。 「お願いします」  男が言う。 「立ってくれませんか」  有村が言った。 「指してくれますか」  男が土下座したままなおも言った。 「そうは言っていない。とにかく立ってくれ——」 「自分と指してくれるんなら、立ちます」 「しかし、その件については、前に断わったはずだ」 「だから、こうして頼んでるんです」 「それはできないことだ」 「何故ですか」  男が顔をあげた。  三十歳くらいの男だった。  やつれた顔をしていた。  頬がこけて、不精髯《ぶしようひげ》が浮いている。 「立ってくれなければ、話はできない」  有村は、歩き出した。  その後方に、女が続く。  男が、立ちあがって、有村の後を追った。  前に出て、また土下座をした。  さすがに、周囲の視線が集まっている。 「君——」 「お願いします」  男が、また額を擦りつける。  有村は、懐に右手を入れて、札入れを取り出した。  中から数枚の一万円札を取り出した。  それを、地に突いた男の手の先の地面に置いた。 「行こう」  女をうながして、歩き出した。  今度は、男は動かなかった。  有村と女の姿は、すぐに、人混《ひとご》みにまぎれて見えなくなった。  文吉と、彦六は、凝《じ》っと、その男を見つめていた。  何人かの野次馬も、男を見ていた。  やがて、男は、その札を右手でつかんだ。  ゆっくりと立ちあがり、その場で、札の数を数えはじめた。  五枚、あった。  男は、それを、上着のポケットにねじ込んだ。  いやな光が、男の両眼に湧いた。  なげやりな笑みが、その口元に浮いた。  自分という人間を嫌いぬいている人間が、そういう微笑を浮かべられるのかもしれなかった。  また、両手を上着のポケットに突っ込んで、男は歩き出した。  文吉の横を通り過ぎて、歩いてゆく。 「こいつは驚いたな」  文吉が言った。 「何がですか?」  彦六が訊《き》く。 「今の男に、見覚えがあるからだよ——」 「え?」 「大仁田敬介《おおにたけいすけ》……」 「大仁田!?」  彦六の声が、低く堅くなった。 「そうだよ。四年前と、三年前と、二年連続して、アマチュア名人になった男さ。おそろしく強い男だ」 「へえ」 「平手戦《ひらてせん》で、確か、プロの八段に勝ったこともあるはずだ」 「そうだったんですか」  彦六は言った。  何か思い出そうとしている風であった。 「ならば、あの男ですよ」  彦六は、文吉に向かって声をかけた。 「あの男って——」 「言いませんでしたか、久住伊蔵に勝った学生の話を……」 「なに!?」 「伊蔵に勝った学生は、大仁田敬介という名であったと、広島で聴きました」 「なんだって!?」  文吉の声が、高くなった。      2  大仁田は、夜の街を歩いていた。  いやな笑みを口元に浮かべている。  飲み屋の灯《あか》りが、足元や、頭上にちらほらとある。  その横を、男や女たちが歩いてゆく。  その人混みの中を、大仁田が歩いている。  一軒の、飲み屋に寄って、そこで、焼き鳥を三本と、焼酎《しようちゆう》のお湯割りをひっかけ、三十分ほどでその店を出た。  また歩き出してから、五分近くが過ぎている。  どこか、興奮しているような足取りであった。  時おり、飲み屋を覗《のぞ》き込むが、その店に入ろうとはしなかった。  どこか、落ち着ける場所を捜しているらしかった。  ひょろりと背の高い男だった。  知的な風貌《ふうぼう》と言えなくもないが、やつれて貧相な顔つきになっているため、凶相になっている。  文吉の顔つきと、どこか似たものがある。  何軒目かの赤提灯《あかちようちん》の前に、大仁田が立った時、肩を叩《たた》かれた。  大仁田は、後方を振り返った。  そこに、加倉文吉と、羽柴《はしば》彦六が立っていた。 「何か?」  大仁田は言った。 「一杯おごろうか——」  文吉が言った。  ——え?  という顔つきをして、大仁田は後方に退《さ》がった。 「あんた、大仁田敬介さんだろう?」  文吉が言うと、大仁田は首を振った。 「人違いじゃありませんか」 「とぼけなくたっていいんだよ。こちとら、これでも将棋で飯を喰《く》ってる人間でね。あんたの噂は知っているよ」  しかし、大仁田の警戒の色は、まだ溶けてはいない。 「加倉文吉って名前は、どこかで耳にしたことはないかい?」 「加倉文吉?」  大仁田はつぶやき、すぐに何ごとか思い出した顔つきになった。 「あの、真剣をやってる加倉文吉か」 「それがおれだよ」  文吉が言った。 「どういう用なんだ」  大仁田であることを認めた発言をした。 「あんた、昔、久住伊蔵って爺《じい》さんと、勝負をしたことがあったんじゃなかったかい?」  訊《き》いた。 「昔?」 「四年も前になるかな。あんたが、初めて、アマチュア名人になった年だよ。写真で見たが、あの頃は、まだ、あんたも、ハンサムないい男だったなあ——」 「あの爺さんか」 「そうだよ。その爺さんに、七番たて続けに勝ったんだろう?」 「あれは、ちゃんとした勝負だ。あの爺さんの方から、やろうと言い出して——」 「わかってるよ」 「————」 「おれたちの世界じゃ、あたりまえのことを、あんたはしただけだ——」  文吉は言った。 「————」 「その久住伊蔵って爺《じじ》いは、おれの友達《ダチ》でね。この世界じゃ、少しは知られた爺さんだったんだよ」 「それが、何か——」 「どうだい、あんた、おれと、真剣をやってみないかい」 「真剣?」 「伊蔵の時だけじゃないって顔だよ、それは。あちこちで、握って[#「握って」に傍点]るんだろう?」  握る[#「握る」に傍点]——つまり金を賭《か》けているのだろうという意味である。 「けど、持ち合わせが……」 「あるじゃねえか」 「ある?」 「見たよ。さっきのをな」  文吉が、唇の端を、小さく吊《つ》りあげた。 「さっきって——」 「あれは、有村八段だろう? あの男から、うまいこと、金をせしめたんだろうが」 「見たのか、あれを」 「見たよ」  文吉が言った。 「しかし、真剣といったって、どこで——」 「駒《こま》は、いつでも持ってるよ。それに、紙の盤でよければな」  文吉が言うと、大仁田が、唇を閉じた。 「やってもいい。しかし、問題がひとつあるな——」 「何だ?」 「あんたに金はあるのかい」 「あるよ」  言って、文吉は、ポケットから、二枚の一万円札を取り出した。 「あんたよりは持ち合わせは少ないがね」 「信用できるか」 「信用だと?」 「おれが勝った時、あんたが、間違いなくその金を払うかどうかってことだ」  大仁田が言うと、文吉は、低い声で嗤《わら》った。 「可愛いことを言うじゃねえか。おれは、自分で自分のことを信用してねえんだ。他人に信用してもらおうたあ、思っちゃいねえよ」 「————」 「少なくとも、おれもあんたも金を持っている。それで、五分と五分じゃねえのかい」 「五分と五分?」 「おれが勝ったとして、あんたが銭を払ってくれる保証もないってことさ」 「なるほど」  初めて、大仁田が、文吉に向かって笑ってみせた。 「やるかい」 「やろう」 「場所は?」 「少し歩いた所に、公園がある。そこの街灯の下でいいか」 「いい」  大仁田が答えた。  彦六が苦笑した。  文吉と会った時に、文吉が、三人の男に殴られていた公園のことだったからだ。 「つきあうかい、彦六」  文吉が言った。 「いいですよ。久しぶりに、文吉さんの将棋を見てみたい」  微笑して言った。      3  四人の男が、公園に入ってきたのは、寒い街灯の下に、文吉と大仁田が向き合って座り、盤を書いた紙を、地面の上に置いた時であった。  将棋を並べようとしていたふたりと、その横に立った彦六を、四人の男が囲んだ。 「何か用かい?」  文吉が言った。  文吉は、尻《しり》の下に、途中で拾ってきたダンボールを敷いている。  大仁田も、同じようにしていた。  ふたりの横には、ビールと、簡単なつまみが置いてあった。  しかし、風は冷たかった。  飲み屋でやろうかとの話も出たが、結局、この公園でやることになった。  飲み屋ではわずらわしいし、ギャラリーが集まってくるかもしれなかった。  来る途中で、深夜喫茶でも見つかればそこでというつもりでいたのだが、ここに来るまで見つからなかったのだ。  この公園まで来て、駒を並べかけたところで、今、三人を囲んでいる四人の男がやってきたのである。 「いや、用があるのは、そこの男だ」  四人の男のひとりが、大仁田に向かって顎《あご》をしゃくった。 「おれに——」  言って、大仁田が立ちあがった。  その大仁田の顔面に、いきなり、男の右ストレートが飛んだ。  がつん、  という音がして、大仁田がのけぞった。  後方へ退《さ》がった大仁田の腹に、足が蹴《け》り込まれた。  倒れかかる大仁田を、背後から、別の男が支えた。  たて続けに、ボディと顔に、拳《こぶし》が打ち込まれてゆく。  いかにも、慣れたやり方だった。  暴力の専門家らしい。  ふたりの男は、にやにや笑いながら、それを見ていた。 「やめろよ」  彦六が言った。 「すぐ終わる。関係ないんだったら、黙って見ていることだ。関係があるんなら、この男と同じ目に合うことになる」  文吉は、その時には、将棋の駒をポケットにねじ込み、立ちあがっていた。 「関係はないが、黙って見ているわけにはいかないな」  彦六が言った。  すると、それまで黙ってにやつきながら見ていたふたりの男が、すっと彦六に向かって動いてきた。 「せいっ」  いきなり、ふたりが、彦六に向かって、パンチと蹴りを放ってきた。  右掌と左掌で、その蹴りとパンチを、彦六がきれいに横に流した。  流しておいて、そのまま前に出た。  大仁田を殴っていた男の右の拳をつかんだ。  ひょいとねじあげる。 「痛《つ》うっ」  男が、彦六が手首をねじってゆく方向に、身を傾けてゆく。  傾けておいて、くるりと男の身体を、向こうに向かせた。  ぽん、  と、軽く男の尻を蹴った。  みっともない格好で、数歩、男は前へ泳いだ。 「その手を放すんだ」  彦六が、大仁田を背後から抱えている男に向かって言った。  男は、仲間たちに視線を送って、どうしたものかと眼で問いかけた。 「おれの強いのはわかったろう?」  彦六は言った。 「わかったよ」  彦六に、軽く尻を蹴られた男が言った。 「しかし、あんたは、勘違いをしているよ。強い男がいましたからと、どこにも傷をこさえずに、のこのこと大の男が帰るわけにはいかない世界で飯を喰《く》っているんでね」  男は、上着の内側に、右手を突っ込んだ。  そこから、ぎらりとした、冷たい光を放つ金属を引き抜いた。  匕首《あいくち》であった。 「好きな所を、蹴るなり、殴るなりしてきな。こいつで、おめえの足でも手でもえぐってやるぜ」  腰を落とした。  肝のすわった男であった。  彦六の強いのを承知で、覚悟を決めているのである。 「困ったな」  彦六は言った。 「さあ、来いよ」  男が言った。  他の男たちも、彦六を囲んだ。 「もう、用件は済んだことにしろよ。痛めつけるだけなら、もうやったんだ。他に、まだ用件が残ってるのかい」 「黙って、その男に、この土地から出て行ってもらえばそれでいい。それで、その男には、充分意味は通じるはずだ」  男が言う。 「なるほど——」  彦六は言った。 「大仁田さん、これは、あんたの事情だ。おれが返事をするわけにはいかない。あんたが返事をしてくれ」  彦六が言うと、 「わかった、出て行くよ——」  鼻からこぼれた血が入り込んだ唇で、大仁田が答えた。 「放せ」  匕首を握った男が言った。  背後から、大仁田を抱えていた男が手を放した。  大仁田が、そこに膝《ひざ》を突いた。  顔が、血にまみれていた。  眼尻《めじり》が切れ、そこからも血が流れていた。 「行くぜ」  男が言うと、四人の男が、すっと身を引いた。  すぐに、公園から見えなくなった。  公園の、寒い風の中に、大仁田敬介、羽柴彦六、加倉文吉の三人が残った。  第四章      1  ——大仁田敬介。  四年前、アマチュア将棋界にふいに現われた、天才的な将棋指しであった。  大仁田の名前が、初めて、将棋関係者の口の端にのぼったのは、五年前である。  加島大学の将棋クラブに、素人《アマチユア》離れの将棋を指す男がいる——初め、大仁田は、そのようなかたちで、将棋関係者の口にのぼった。  それを最初に言い出したのは、「将棋春秋」という将棋専門誌であった。  その雑誌の主催する大学対抗将棋大会で、大仁田が、いきなり優勝した時であった。  大仁田は、当時、二十五歳で学生であった。大学の三年生である。他人よりも四年遅れて大学に入学したからである。  大学に入学して、将棋クラブに入り、そこで初めて将棋を本格的に始めたのだ。  二年後には、そのクラブで大仁田よりも強い者はいなくなった。そして、三年目に、大学対抗の将棋大会で優勝をさらったのであった。  その一年後、つまり四年前、日本将棋連盟の主催する、アマチュア名人戦に出場し、初出場で名人の座についたのであった。  その年、二大新聞の主催するタイトル戦にも出場し、二タイトル共、大仁田がさらった。  その翌年も同様であった。アマチュア将棋界の三大タイトルを全て、この大仁田がその手にしたのである。  天才的な強さを持った男であった。  大仁田が伊蔵と真剣をやったのは、最初にアマチュア名人の座につく直前であった。まだ、大仁田が、ごく一部の間でのみ、その名を知られていた頃だ。  そして、その年、大仁田は、アマチュア将棋界における、ビッグタイトルの全てをその手にしたのである。  全日本学生将棋連盟の主催するタイトル戦。  朝日新聞主催によるアマ将棋名人戦。  読売新聞主催による実力日本一戦。  日本将棋連盟主催によるアマ名人戦。  この四つの大会に優勝した。  その翌年が、二大新聞の主催するタイトル戦と、日本将棋連盟主催によるアマ名人戦の三大タイトルである。全日本学生将棋連盟のタイトル戦が抜けたのは、大仁田が大学を卒業し、出場しなかったからである。  出場していれば、まず大仁田の優勝は動かなかったであろう。  三大タイトルといっても、それぞれの大会には個性がある。  たとえば、朝日新聞主催の将棋名人戦では、優勝者には、賞品は出るが賞金は出ない。優勝者に与えられるのは、賞品と、プロ棋士との駒落《こまお》ちの対局である。  対戦方式も、プロ棋士の名人戦とほぼ同じだ。  全国ブロックから、トーナメントにより勝ち残った者が、前年度のタイトル保持者と挑戦手合いをすることになる。  出場者には、学究肌の人間が多い。  読売新聞主催の実力日本一戦は、トーナメント戦で、優勝者を決定する。  優勝者には、七ケタの数字の賞金が出る。�実力日本一�とあるだけあり、野に伏す思いがけない強豪が、出場する。  名誉だけではなく、七ケタの金がかかった勝負になると、独特の粘りと、勝負強さを発揮する人間がいるのだ。  一方の新聞の主催する大会の優勝者が、もう一方の新聞の主催する大会で優勝できるかというと、これは極めて難しいこととなる。  それに、どの大会も、半年近い期間をかけて、ブロックごとに勝ちあがってゆく方式になっている。  その年に、アマチュアがいくつかの大会の優勝をねらうことは可能だが、実際に優勝できるのはせいぜいひとつの大会くらいである。  日本将棋連盟の名人戦は、三大タイトル戦の中でも、最も権威があるものとされている。  これには、新聞のカラーに関係なく、あらゆるタイプの人間が出場してくるからだ。  優勝者は、賞品の他に、A級プロ棋士との、角落ちの対戦がある。  この三大タイトルの全てを、二年連続して手中にするというのは、まず、あり得ないことと言ってもいい。  それを、大仁田敬介がやったのだ。 �大仁田敬介プロ挑戦� 「将棋春秋」が、その対戦を企画したのは、大仁田が、日本将棋連盟——つまりプロの将棋団体が主催する大会で、二年続けてアマ名人になった年であった。 �角次第《かくしだい》�  それが、「将棋春秋」が企画した、アマ対プロの対戦方式であった。  まず、一番目が、角落ち戦である。  大駒の角をプロ棋士側が落とし——つまり角を盤面からはずすというハンデをつけての対戦である。  その勝負に、アマ側が負ければ、プロ側は、次は飛車を落とす。その勝負にさらにアマ側が負ければ、飛香落《ひきようお》ち——つまり大駒と小駒の二枚の駒を落としての対戦となる。  逆に、最初の角落ち戦で、アマ側が勝った場合には、二番目は、ただの香一枚を落としただけの勝負になる。その勝負にもアマ側が勝ったら、三番目の勝負は平手戦《ひらてせん》となる。  平手戦——つまり、ハンデなしの、対等の勝負である。  これが、角次第という対戦形式である。  相手は、A級のプロということになった。  当時の日本将棋界にあっては、プロ対アマの対戦においては考えられない対戦方式であった。  A級プロ棋士とアマとが、公式の場で、平手で対戦するという可能性を、少なくとも含んでいるからである。  対戦相手は、中沢二三男《なかざわふみお》八段に決まった。  A級の、プロ中のプロである。  その前年には、名人に挑戦までした男である。  現役中のプロとしては、日本の将棋界で五指に入るビッグ・ネームである。  その中沢八段と戦い、大仁田は、一番目の角落ち戦を勝ち、二番目の香落ち戦を勝ち、三番目の平手戦を勝った。  角次第の三番の全てを、ストレートで勝ってしまったのである。  それは、ひとつの事件であった。  プロ棋士の世界は、純粋培養された人間たちの世界である。  天才が、まだ少年のうちに集められ、天才の比べ合いをし、その中から勝ち残った天才たちの集団である。  名人に挑戦できるというのは、その中でもさらに限られた人数しかいない。  その選び抜かれた異常天才が、いくら強いとはいえ、たかだかアマ名人に平手戦で負けることなどあり得ない——あってはいけないことなのである。  大仁田が、中沢八段に勝ったというのは、相撲で言えば、現役の横綱が、学生相撲の横綱に負けてしまったようなものだ。しかも、公式の対戦でである。  あと三回予定されていた、大仁田と他のプロ棋士との対戦が、全て中止になった。  日本将棋連盟が、中止するように、「将棋春秋」に申し入れてきたのである。  大仁田が、特例としてプロになるというような話があったとか、そんな話は初めからなかったとか、様々な噂が流れたが、その年以降、将棋界から、大仁田の名がふっつりと消えたのであった。      2 「ちっ」  と、舌を鳴らしたのは、文吉であった。  地面に胡座《あぐら》をかいて、頬を押さえている大仁田を、立ったまま見降ろしていた。 「大丈夫かよ、おめえ——」  文吉が言った。 「あ、ああ」  大仁田が答えて、顔をあげた。  鼻から血が流れ、右眼の上が、赤くふくらんでいる。  明日になれば、眼の周囲は青痣《あおあざ》になっているはずであった。  羽柴彦六は、黙ったまま、横に立ってふたりを見つめていた。 「ケチがついちまったな」  文吉が言った。 「ケチ?」 「今の連中だよ。どうやら、さっきの土下座の分じゃねえのかい」 「あんたには、関係のないことだろう——」 「あるさ。おめえとやるつもりだった勝負ができなくなった」 「やるさ、勝負は勝負だ」 「本気か?」 「言ったろう。あんたとは関係がないって。やるよ」 「ここでかい」 「ああ。初めからの約束通りさ。何も変わっちゃいない」  暗い、強い光が、大仁田の眼に宿った。  おどおどしている男が、将棋のことになると、その眼の中に、ふいに暗い狂気を宿らせる。  文吉は、大仁田の眼を見つめた。  文吉の顔にも、さきほど殴られた跡が残っている。  どちらも、将棋のことでつけた傷には違いなかった。 「そうだったな」  文吉が、大仁田を見つめたまま言った。  文吉の眼にも、大仁田の眼の中にあるものと同じような光が宿っている。 「やるさ」 「やろう」  それで夜の公園で、勝負が始まった。  振り駒《ごま》で、先手を、大仁田がとった。  大仁田が歩を突いて、角道を一手目で開けた。  その歩を、文吉がじろりと睨《にら》んだ。 「そう言えば、おめえ、奇妙な矢倉《やぐら》を使うってのを、耳にしたぜ」  歩を眺めた視線を、そのまま大仁田に向けた。  文吉は、やはり歩を突き、角道を開けて、大仁田と同じ型になった。  文吉が突いたその駒を、大仁田が睨む。  そうして、勝負は始まったのであった。  角交換か空中戦になるかと思われたが、そうはならなかった。  大仁田の陣形は、奇妙であった。  矢倉に似ていた。  角が動いて、角の居た場所に王が入っているが、普通の矢倉とは違う。  三間《さんけん》の筋に、銀二枚、金一枚が縦に並んでいるのである。  自陣の下方、つまり一段目がほとんど開いた状態になり、その底に飛車が降りている。  相手の変化に合わせ、その底を、飛車が自在に左右に動く。 �一本矢倉、底振り飛車�  これが、大仁田が使う独特の戦法であった。  一本の矢倉では、受けに弱いが、底を飛車が自由に動くことによって、その弱さをカバーしているのである。  寒風が吹いているが、文吉は、すでに寒さを感じなくなっていた。むしろ、熱のようなものを、自分の肉に感じていた。  寒風の中に、ひしひしと相手の闘志が伝わってくる。  さっき、文吉が声をかけた時、一瞬|怯《おび》えた顔をした男と同一人物とは思えなかった。  ——これがあの男か。  大仁田の手は、どれもよどみがなかった。  中盤になって、飛車が、下から滑り出てきた。  それまで互角の勝負であった攻防のバランスが、そこで崩れた。  文吉が圧《お》され始めたのである。  圧倒的、といってもいい、大仁田の攻めであった。  文吉が完全に受けにまわった。  それでも、文吉は、おそろしいほどの粘りを見せた。  大仁田の攻めを受けながら、自分が攻撃するタイミングをねらっているのがわかる。  もし、文吉に、攻撃の先がとれたら、その時には、立場は逆になる。  大仁田が受けにまわらねばならなくなる。攻めていた側が、一度受けにまわると、もろい。  それまで攻めていた分だけ、自分の陣形に隙ができているからである。相手には、しのぎきってためたバネと勢いがある。  持ち駒も、それまでの出入りで、多く手にしている。  基本的に、攻めていた側の持ち駒は減っている。攻める側は、捨て駒が自然と多くなるからだ。  だが、文吉の攻め番は、まわってこない。  一見、ゆるんだような手を大仁田が指してくるが、それが実は詰めろ[#「詰めろ」に傍点]であったりする。 「強ええ……」  文吉は呻《うめ》いた。  舌を巻いた。  まったく、つけ込む隙がないのである。  大仁田は、淡々としていた。  ほとんど、指し手のリズムが狂わない。  次々と、あがいている文吉の動きを止めてゆく。  眼の奥に、燠《おき》のように燃えている光がある。  しかし、呼吸は荒かった。  喘《あえ》いでいる。  左手を、腹に当てている。  さっき、かなり叩《たた》かれたダメージが、思いのほか、深いらしかった。  罐ビールは地面に置かれたままで、どちらも唇《くち》をつけようとはしない。 「ちっ」  文吉が、強引な攻めに出た。  大仁田の王の頭に歩を叩き込み、王を上に誘いあげた。  三枚の歩を使って、五段目まで、王を持ちあげ、いっきに攻めに転じていた。  その攻めを、腹を押さえながら、淡々と大仁田がかわしてゆく。  針で突いたような隙間を、大仁田の王が摺《す》り抜けてゆく。  文吉の攻めは、強引ながら、しかし的確であった。  綱渡りに似た、きわどい攻めと、受けであった。  文吉の攻めが止まった。  両手を膝《ひざ》にあて、盤面を睨んでいる。  凝《じ》っと睨んだ。  あと一歩《いつぷ》。  あと一歩さえあれば、文吉が勝利を握ることのできる局面であった。  しかし、その一歩がない。  王を、上に誘い出す時に、全ての歩を使ってしまっていたのである。 「ねえよ」  言って、文吉は、持っていた駒を、地面に敷かれた紙の盤面の上に落とした。 「おめえの勝ちだ」  つぶやいた。  完敗であった。  確かに、あと一歩あれば、文吉の勝ちである。  しかし、逆に言えば、その一歩がないからこその、大仁田の攻めである。もし、文吉にあと一歩があれば、文吉に攻め込む隙を与えなかったはずであり、手をひかえる時には、きちんと受けの手を打っていたはずである。  そのことがわかる。  ——こういう負け方をしたのか。  文吉は思った。  伊蔵がである。  ——伊蔵は、この男にこういう負け方をしたのか。  それも、一度や二度ではなく、何度もである。  あの時、伊蔵が相手にしたのは、ただの名もない学生の大仁田だ。しかし、今、文吉が相手にしたのは、アマ名人に、二年連続してなったことのある男である。  プロ棋士の中沢八段に、平手《ひらて》で勝った男である。  そのことを知っていての対戦であった。  伊蔵はそれを知らない。  伊蔵のショックは大きかったはずだ。  将棋しか能のなかった人間である。  伊蔵は、特に、学生の将棋を嫌っていた。 「こちとら、学問がねえかわりに将棋を指してるんでえ」  伊蔵が、ある時、そう言ったことがあったのを、文吉は思い出していた。  一緒に旅をしていた頃だ。  ある将棋道場で、学生と真剣をやった時のことだ。  伊蔵が勝負に勝ち、約束の金を受け取ろうとした時、その学生が、金がないと言い出したのだ。  その学生に向かって、伊蔵が突然怒鳴ったのである。 「こちとら、女房をたたき売ったって、銭払う覚悟で指してるんだ。それで飯|喰《く》ってるんだよ。それだから飯を喰えるんだ。これ以外に飯を喰う方法がねえんだよ。銭はもらうよ。無《ね》えって言うんなら、その学問で銭を造ってきな。学問じゃ銭ができねえってんなら、親ァ騙《だま》しても銭は造ってこい。人を殺してふんだくってきたって銭は銭だ。その銭だけはきちんともらうぜ」  その学生は、電話をした。  学生の友人が、約束の金を持って、将棋道場にやってきた。  それで、伊蔵は、約束の金をきっちり受け取ったのである。 「やい伊蔵、おめえに女房《カミ》さんがいたとは初耳だったな」  後で、文吉が訊《き》くと、伊蔵は、苦笑いをした。 「言葉のあや[#「あや」に傍点]だよ。あや[#「あや」に傍点]——」  そう言って顔をしかめた。  その伊蔵が、こともあろうに、無名の学生に負けたのだ。 「学生《やつら》に学問で負けるのはいい。しかし、将棋だけは負けるわけにゃいかん。もし、学生《やつら》に将棋で負けるようなことになれば、その時が将棋をやめる時さ……」  そう言っていた伊蔵であった。  相当なショックであったに違いない。  おそらく、まるでゆるみのない手で、少しもいいところなく負けたのであろう。  頭に血を昇らせ、顔を赤くして、盤上にかぶさるようにして指したのであろう。  その顔が、最後には青白くなったはずであった。  将棋に生き、将棋に倒れたのだ。 「おかしな爺《じい》さんが、ここまで指すとは思わなかったよ……」  大仁田が言った。 「けっ」  盤の上に、文吉は、約束の金を置いて立ちあがった。  大仁田が、その金を手に取って、上着のポケットに押し込んだ。  立ちあがった。  立ちあがった途端に、右手であばらを押さえて、膝《ひざ》を突いた。  ふいに、そこに激痛が走ったらしい。 「どうしたい?」  文吉が言った。  彦六が、大仁田の横にかがみ込んだ。 「ここか」  彦六が、大仁田の胸に指をあてる。 「むう……」  顔をしかめて、大仁田が呻《うめ》いた。 「折れているな」  彦六がつぶやいた。 「折れてる?」  文吉が訊く。 「あばら骨だ。罅《ひび》くらいは入っている。さっき、膝でやられた時だろうな」  彦六が言った。 「いいさ。放っておいてくれ。自分で帰れる」  大仁田が、腹を押さえながら、立ちあがった。 「糞《くそ》」  文吉が、小さく吐き捨てて、大仁田に歩み寄り、肩を支えた。 「金までふんだくられてよ、何でおれがおめえを送ってやらなきゃならねえんだよ」 「だから、放っておけと言ってるじゃないか——」 「うるせえ」  文吉が言った。 「かわりましょう」  彦六が、文吉にかわって、大仁田に肩を貸した。 「放っといてくれ」 「馬鹿」  彦六が大仁田を支え、文吉がその後に続き、三人は、暗い夜の公園を出て行った。      3  質素な、アパートの部屋であった。  六畳ひと間である。  玄関をあがった所に、狭い台所があり、流しがある。その流しの横が便所だ。  風呂《ふろ》はない。  それだけの部屋であった。  六畳間も台所も同じ部屋だ。  その台所と六畳間とを、かたちだけ、カーテンで仕切ってあった。  畳は、黄ばんでいる。  その六畳間の窓寄りに、電気|炬燵《ごたつ》がある。  その電気炬燵に、三人の人間が入っていた。  ふたりが男で、ひとりが女である。  窓を背にしているのが、羽柴彦六であった。  彦六の左側に座っているのが、加倉文吉であった。  炬燵をはさみ、文吉と向かい合って座っているのが、女であった。 「筒見恵子《つつみけいこ》です——」  女は、さきほど茶を運んで来た時に、小さい声で、文吉と彦六にそう名告《なの》った。  色の白い、頬の痩《や》せた女であった。  眼だけが大きい。  肌に生気がなかった。  年齢は、三十代の半ばくらいに見える。  寝巻の上に、上着をひっかけただけの姿である。  病弱そうだが、妙な色気をその肉体に含んでいた。  乳房も大きくないし、腰にもそれほど肉がのっているようには見えないが、不思議にその姿態に男の視線が張りついてしまう。  恵子の後方に蒲団《ふとん》が敷いてあり、そこで大仁田が眠っていた。  文吉と彦六が、大仁田を抱え、この部屋のドアの前に立ったのは、十五分ほど前であった。  タクシーを利用して、このアパートの前まで来たのだが、タクシーを降りた途端に、大仁田が気を失ったのだ。  張りつめていた気がゆるんだらしい。  その大仁田を抱え、アパートの二階にある、この部屋まで来たのである。  サインペンで、大仁田と書かれた白い紙が、ドアに張りつけてあった。  ノックをすると、恵子が出てきた。  気を失っている大仁田を見、驚いている恵子に、大仁田を預け、そのまま立ち去ろうとしたのが、そうもいかなくなった。  大仁田を部屋の中まで運び、蒲団に寝かせるのを手伝ったのだ。 「何があったのですか?」  大仁田を寝かせてから、恵子が問うてきた。  何があったのかを、この女にそのまま言っていいのかどうか、文吉にはわからない。  大仁田が目覚めていれば、本人が止める可能性もある。  しかし、そこまで気をつかうのはわずらわしかった。 「本人に訊《き》いてみてくれよ」  そう言って立ち去ろうとした。 「あばらに罅《ひび》が入っているかもしれない。今すぐ救急車を呼びたければ、そうした方がいい」  彦六がそうつけ加えた。 「あばら骨を?」  それで、恵子は、大仁田の脈をとり、呼吸を数えた。  大仁田の胸をはだけ、手でそこの肌に触れていった。 「ここですね」  恵子の白い指が、止まった。  さっき、彦六が指で触れて、大仁田の顔をしかめさせた場所であった。  そこが、小さく熱を持っているらしい。  無駄のない動きだった。 「おっしゃる通り、罅が入っているかもしれません。でも、今は、寝かせておいた方がいいでしょう。明日——といってももう、今日の朝になりますが、大仁田が眼を覚ましたら病院に行かせます」 「へえ、あんた、何かの心得があるのかい?」  文吉が言った。 「昔、三年ほど看護婦をしていたことがあります」  文吉と彦六に向かって言った。  しっかりした女のようであった。 「何があったのですか?」  恵子が訊いた。  文吉は、頭を掻《か》いた。  夜が遅い。  すでに午前零時をまわっている。  自分と彦六が、この女にどのように見えているのかは想像がつく。  あまりまともな格好ではない。  文吉の着ているものは汚れている。顔にも痣《あざ》がある。彦六の方がまだマシであったが、それでも、夜半に、寝巻を着た初対面の女と長時間一緒にいる服装ではない。  しかし、女の表情は、真剣であった。 「殴られたんだよ」  文吉が言った。 「殴られた?」 「たちのよくない男たちにだよ。理由はわからん。それで、たちのよくないおれたちに、ここまで運ばれてきただけのことだ」 「最初から話して下さい。お願いします」  女が頭を下げた。  それで、文吉と彦六は、こうなったいきさつを話すことになったのである。  炬燵《こたつ》に入った。  恵子が茶をいれてきた。  それから、文吉は、これまでのことを、簡単に恵子に話して聴かせたのだった。  茶は、誰も唇をつけないまま、三つの湯呑《ゆの》み茶碗《ぢやわん》から細い湯気をたてていた。 「そうでしたか——」  恵子がつぶやいた。 「有村さんの所へ、大仁田は行っていたのですか」  恵子の声は、落ち着いていた。  声の調子は、それを予期していたかのような響きがあった。  文吉と、彦六に視線を向けて、 「ありがとうございました」  深々と頭を下げた。  文吉は、自分と大仁田とが、しるし[#「しるし」に傍点]をつけて将棋を指したことを話している。  そして、自分が負けたこともだ。 「失礼ですが、いくらお金を賭《か》けてやったのでしょうか?」  恵子が訊いた。 「いくら? それを訊いてどうしようっていうんだい?」 「お金をお返ししなければ——」 「冗談言っちゃ、困るな。おれは、これで金を稼いでるんだぜ。おれは、他人から、真剣でふんだくった銭を返したこたあねえよ。そのかわりに、返してもらおうと、そういう考えも持ったこたあない。誇りなんて大袈裟《おおげさ》なもんじゃない。それがおれの決まり[#「決まり」に傍点]なんだ。そりゃあ、その銭は欲しいさ。しかし、その銭をもらっちまったら、もう、おれは真剣師じゃなくなっちまう。真剣師でなくなったおれは、もうおれじゃないんだ。それだったら、これから外へ出ていって、最初に出会ったやつをぶん殴って、そいつから金をふくだくる方が、まだマシってもんだ」  文吉は、言った。  女の眼を見た。 「わかりました——」  恵子は、すぐにうなずいた。 「すみませんでした。わたし、失礼なことを言ってしまったようで」 「気持だけもらっとくよ。それからタクシー代もな」 「タクシー代?」 「ここまでタクシーで来た分さ。大仁田がおれから巻きあげた分の金で払ったんだ」  文吉は言ってから、しみじみとした視線を女に向けた。 「いい女だな、あんた……」 「————」 「どうしちまったんだい、その男はよ」  文吉は、恵子の背後に視線をやって、言った。 「おれが知っていた大仁田は、そんなんじゃなかったはずだがな。もっとも、おれは知ってるって言ったって、将棋の雑誌で眼にするか、将棋仲間から耳にするだけのものだけどよ」 「ええ」 「しかし、将棋の強さそのものは、本ものだ。とても、こんな爺《じじ》いのかなう相手じゃねえ」 「————」 「何があった?」  文吉は言った。  恵子は、眼を伏せて下を向いた。 「いや、また、つまらねえことを訊《き》いちまったもんだな、このおれは。あんたが、それに答える必要はまるでねえのによ——」  すまねえな、そう言って、文吉が立ちあがろうとした時、それを押し止《とど》めるように、恵子が口を開いた。 「大仁田がこうなったのも、わたしが原因なんです」 「なに!?」 「————」 「何故、あんたが原因なんだ」  文吉が訊いた。  恵子は、後方に首を向けて、大仁田が眠っているのに眼をやった。  その眼を文吉にもどした。 「わたしがね、この大仁田の最初の女だったんですよ」 「それが、どういう関係があるんだ」 「大仁田は、わたしじゃないと、だめなんですよ」 「————」 「大仁田は、わたしじゃないと、役にたたないんです」 「なんだと?」 「このわたしが、いなければ、大仁田は、こうはならずに済んだかもしれません」 「————」 「有村さんとの件についても、大仁田ひとりであったなら、なんとか立ちなおれたはずだわ」 「有村花泉と何かあったのかい……」  文吉が言うと、恵子は口をつぐんだ。  下を向いた。 「二度目のアマ名人になった三年前から、急にこいつの噂を聴かなくなった。そのことと関係があるのか」  恵子は、下を向いたままうなずいた。  うなずいてから、小さく首を振った。 「可哀そうな人なんです、この人……」  つぶやいた。  顔をあげて文吉を見た。 「将棋のプロには、二十歳を過ぎたら、もう、なれないんでしょう?」 「まあ、そうだ」  文吉はうなずいた。 「大仁田は、プロになりたいんです。プロの棋士になりたかったんですよ」 「————」 「大仁田は、二十歳を過ぎてから、将棋にとりつかれたんです。この人は、もう、将棋しかやれないんです。色々な仕事を転々としましたが、続かないんです。一番長くて、同じ仕事を一週間しかやったことがないんですよ——」 「————」 「大仁田より強い人間は、もうプロ棋士の中にしかいないんです……」 「だろうな」 「どうして、将棋指しになるのに、年齢制限があるんですか?」 「————」 「二十歳を過ぎてから、将棋に自分の天分を発見した人間はどうすればいいんですか——」 「知らねえよ、そんなこたあ——」  文吉は言った。  口の中の異物を、吐き出すような言い方だった。  プロ棋士になるためには、未成年——十四歳から、十七歳くらいまでの間にその自分の進路を決定しなければならない。  二十歳を過ぎたら、もう、なることはできないシステムになっているのである。  大学に通いながらプロ棋士になるということはあり得ても、大学を卒業してからプロ棋士になるということはあり得ないのだ。  早い人間では小学生のうちに、普通でも中学生か高校生のうちに、プロ棋士になる決心をしなければならない。  プロ棋士になるためには、奨励会という、プロ棋士を養成する会に入らねばならない。奨励会に入るためには、プロ棋士の弟子にならなければならない。  大相撲における部屋[#「部屋」に傍点]というシステムに似ている。  奨励会の人間で、大学に入学する人間は極めて少ない。  高校に入学するかどうかでも、プロ棋士としてのその将来が大きく左右されると言われている。  プロ棋士の集団というのは、ある視点から見れば、そうやって純粋培養された、特殊な人間集団である。  異様な天才集団だ。  あるプロ棋士は、子供の頃から、雀の数を数えるのが得意であったという。  電線に、雀がとまっている。  十羽、二十羽という数ではない。  三ケタの数の雀である。  下から石を投げて、雀を脅す。雀が電線から空に舞いあがる。  その宙に舞った雀の数を、そのプロ棋士は正確に数えることができたという。 「どうしてわかるのか?」  大人が訊《き》いた。  そのやり方というのはこうだ。  まず、宙に雀が舞った瞬間に、その一瞬の光景を頭の中に焼きつける。きっちり記憶してしまうのだ。  その後、その記憶の映像に映っている雀の数を、ひとつずつ頭の中で数えてゆくのである。  写真を撮って、その写真に映っている雀の数を数えるのと同じだという。  話を聴けば、なるほどと思う。  なるほどと思うが、誰にでもできることではない。  天才的な記憶力があって初めてできるのである。  大なり小なり、そういった天才の子供ばかりが、奨励会には、日本全国から集まってくるのである。  奨励会で、その天才ぶりを比べるのだ。  二十歳までに初段になり、二十五歳までに四段にならなければならない。  四段から、プロ棋士になれるのだ。  二十歳までに初段に、あるいは二十五歳までに四段になれなければ、自動的に退会である。  プロ棋士になる道を閉ざされてしまうのだ。  それだけ、プロ棋士になるのは難しい。  奨励会に入った人間の、十人に二、三人ぐらいである。  タイトルをとれる人間となるとさらに少数である。  現在、七つのタイトル戦がある。  名人戦。  王将戦。  棋聖戦。  棋王戦。  十段戦。  王位戦。  王座戦。  この七つのタイトル戦のうち、その頂点にあるのが、名人位である。  他の六つの位全てを独占することよりも、たったひとつのこの名人位を手中にすることの方に、プロ棋士たちは異常なまでの執念を持つ。  それは、そこが天才の集団で築きあげられた、プロ棋士界のピラミッドの頂点だからだ。  正真正銘の実力のみが、その頂点の座を守ることができるのである。  しかし、その頂点に登りつめる道を閉ざされた人間もまた、この世には存在する。  大仁田のように、二十歳を過ぎてから将棋に己れの天分を見出した人間がそうだ。  いかに天才であり、いかに将棋が強くても、その人間はそのピラミッドを登る権利を与えられないのである。 「エライのが勝手に決めたことだからな」  文吉は言った。  東京を中心に、あるいは大阪を中心に、東京将棋連盟ができ、十一日会ができた時もそうだった。  歳上の伊蔵から、文吉はその時のことを聴いている。 「結局は、エライ人間たち同士の、くっついたり離れたりだからな」  伊蔵はそう言った。  東京の組織と大阪の組織とがひとつになり、将棋大成会ができた時もそうであった。  現在の日本将棋連盟ができた時もそうであった。  もともと、最初から縁などなかった世界なのだ。  誰でもなれるような決まり[#「決まり」に傍点]ができた時には、もう、文吉はその決まり[#「決まり」に傍点]の外にいた。なんのことはない、自分たちを閉めだす決まり[#「決まり」に傍点]のようなものであった。  プロ棋士になるという夢は、もう、すでに文吉にはない。  夢はないが、傷み[#「傷み」に傍点]がある。  もし、と思う。  もし、棋士になれていたら——。  そんなことを思う。  しかし、プロ棋士であったら、おそらくもう自分は、現役ではなかったはずだと思う。  真剣師だからこそ、六十歳を過ぎたこの年齢までやってこれたのだ。  ざまあみやがれと思う。  プロ棋士にならなかったからこそ、どんなプロ棋士よりも、長く、将棋で飯が喰《く》えるのだ。  将棋と心中できるのだ。 「しかたのねえことで、ごちゃごちゃするよりは、今日の自分の飯のことで、こちとら手いっぱいなんだ」 「でも——」 「おれはな、真剣師だよ。はっきり言やあ、飯のタネさ。好きでやってるんじゃねえ。意地でやってんだ。他に飯を喰う方法を知らねえんだよ」 「————」 「どんな事情があるのか知らねえが、やりなおしが利かねえ歳じゃねえだろうが。やりなおしが利かねえってんなら、腹ァくくって、将棋と一緒に野垂れ死にする覚悟をすりゃあいいだけのこった。それだけの自由は、あるはずだよ。野垂れ死にの自由くらいはな——」  恵子に、というより、自分に向かって文吉は言っているようであった。  ふいに、文吉は口をつぐんだ。  自分でもそのことに気がついたらしい。  下を向いた。  笑った。  低い、短い笑いだった。 「けっ」  顔をあげた。 「歳をとると、話がグチっぽくなるねえ」  むっくりと立ちあがった。 「行こうか、彦六よ——」 「ええ、そろそろ」  彦六が立ちあがった。 「どこか、宿は決まってらっしゃるんですか——」  もう、玄関に向かって歩き出した文吉に向かって、恵子が立ちあがって言った。 「ねぐらはいっぱいあるさ」  言いながら、文吉は靴をはき、ちらりと恵子を見た。  薄く微笑した。 「そこいら中がねぐらだよォ」  背を向けて、ドアを押し開いた。 「なあ、彦六」  文吉は言って、外に出た。  冷たい風が文吉を包んだ。  続いて彦六が外へ出た。  女が、何か声をかけてきたが、ドアを閉めたために、その言葉は最後まで聴きとれなかった。  第五章      1  文吉が、大仁田敬介と再会したのは、翌年の二月であった。  二月の初めの東京である。  新宿であった。  雪の多い年であった。  昨年の十二月中頃から、すでに雪が降り始め、今年に入ってからも、合わせて十五日、雪が降っている。  一月末に降った雪が、道路と歩道の間にまだ残っていた。  人の膝《ひざ》くらいの高さに盛りあげられた雪に、泥と塵芥《ごみ》が混ざっていた。  道路と歩道に積もった雪を、脇へのける時に、混ざったものだ。  夜であった。  痛いほど白い雪の一部が残っているだけに、その雪の塊りの中の汚れは、ことさら汚なく見えた。  ネオンが、その雪に映っている。  文吉は、人の流れにのって、歩いていた。  軽く酒が入っている。  以前に顔を出したことのある、道場で、今晩の飲み代くらいは稼いだのだ。  寒い。  歩道に、雪がこびりついた場所があり、それが凍って、うっかり足を乗せると滑る。  そういう雪の上に足を乗せて、危うく転びかけた文吉は、体勢をたてなおしたところで、足を止めていた。  すぐ前方の歩道の横に、ひとりの男が倒れていた。  左側の、道路との境目に近い場所であった。  その男に、文吉の視線がとまっていた。  その男は、よれよれのロングコートを着ていた。  コートの下には、セーターを着ていた。  コートの前のボタンが開いていて、そのセーターが見える。  男は、尻《しり》を歩道に落としていた。  背を、後ろの雪にあずけているのだが、半分滑り落ちて、座っているというよりは倒れているように見える。  ざんばらの髪をしていた。  濃く髯《ひげ》が浮いていた。  ほとんど眼を閉じている。  顔が赤かった。  だいぶ酒が入っているらしい。  歩道の上に、空になった、ウイスキーのポケット瓶が転がっていた。  ぶつぶつと、口の中で、何かつぶやいていた。 「大仁田……」  文吉は、小さくつぶやいていた。  そこに倒れていたのは、昨年の晩秋に、大阪で会った大仁田敬介であった。 「ちっ」  文吉は、大仁田から眼をそらせた。  そらせたまま、大仁田の前を通り過ぎようとした。  通り過ぎて、文吉はまた足を止めた。  大仁田の前を歩いた時に、大仁田のつぶやいている言葉が、耳に入ったからである。  女の名前をつぶやいていた。  恵子ォ……  恵子ォ……  確かにそう聴こえた。  大阪で、大仁田と一緒に暮らしていた女の名前であった。  また歩きかけ、文吉はその足を止めた。  振り返った。  振り返ったその眼が、大仁田と合った。  しかし、大仁田は、文吉を覚えてはいないらしい。  うつろな眼であった。  すぐに大仁田は、その眼をそらせた。 「くそ……」  唇の中で文吉は呻《うめ》いた。  自分に向かって発した言葉であった。  大仁田に向かって歩き出した。  大仁田の前にかがみ込んだ。 「おい」  声をかけた。  大仁田は、声をかけられ、おどおどと、のけぞった。  雪面を大仁田の背が滑り、後頭部が歩道に当った。  通行人が、この奇妙なふたりに視線を注いでは通り過ぎてゆく。 「あんた、大仁田敬介だろう」  文吉は言った。  大仁田は怯《おび》えた眼でうなずいた。  いきなり、歩道に両手をついた。  土下座をした。  文吉は苦笑した。  まるで自分のやり方ではないか。 「ゆ、ゆるしてくだ、さい……」  大仁田が、もつれる舌で言った。  何かと勘違いしているらしかった。 「おれだよ」  文吉は言った。 「おれを覚えてるかい」  大仁田の顔をあげさせた。  大仁田の眼が、文吉を見た。  その眼に、小さな光が宿った。  思い出したらしかった。 「昨年、大阪で真剣をやったろうが」  文吉が言った。 「あ、ああ——」  大仁田がうなずいた。  酒臭い息が、文吉にかかった。 「大阪は出たらしいが、どうして、こんな所にいるんだ」  大仁田は首を振った。  子供のような首の振り方だった。 「一緒にいた女はどうした」  文吉がそう訊《き》いた時、大仁田が声をあげた。  悲鳴に似た声であった。  大仁田の顔が歪《ゆが》んでいた。  文吉を見つめている、赤く濁った眼から、不思議なほど透明な涙が、ふいにあふれ出していた。  大仁田が、いきなり文吉にしがみついてきた。  泣き出した。  幼児のようであった。  幼児のようであったが、泣き声そのものは太い大人の声であった。  おおん  と、そういう声のようでもあり、  おう  おう  という獣の声のようでもあった。 「馬鹿」  文吉は、大仁田を突き放した。 「恵子とかいったな、あの女がどうかしたのか——」  文吉が言った。 「死んだよ」  大仁田が言った。  言って、また声をあげた。  立ち止まって、ふたりを眺めている通行人もあった。 「死んだ?」 「死んだ。死んじまった。恵子が死んじまったんだよ……」  泣きながら言った。  また文吉にしがみついてきた。  わけがわからなかった。  ふいに、文吉の中に、いらだたしいものがこみあげた。  喉《のど》が熱くなった。  理由などわからないが、この男の哀しみに、あやうく、自分も同調しかけたのだ。 「泣くんじゃねえ、ガキがっ」  文吉は、大仁田を突き放した。  顔を叩《たた》いた。 「泣くな」  叩かれた大仁田が、さらに泣き出した。 「この馬鹿!」  わけもわからず、文吉は大仁田を叩いた。  もう一度叩いた。  何故か文吉はくやしかった。  声をかけてしまったことを後悔しながら、大仁田を叩いた。 「馬鹿野郎!」  文吉は声をあげた。  文吉は怒っていた。  しかし、何に向かって怒っているのかわからなかった。      2  大仁田敬介が、高校卒業後、そのまま大学に行かなかったのは、理由がある。  大仁田が高校三年のおり、父親の京三が死んだのである。  癌であった。  京三は、小さな印刷会社を経営していた。  大仁田印刷という、それでも株式会社であった。  大仁田が高校三年——十八歳の時だ。  京三には、借金があった。  京三の入っていた生命保険から、金が出た。その金で払っても、まだ、一千万円、借金が残っていた。  債権者が、大仁田の家に怒鳴り込んできた。  泣きながら、金を払ってくれと言ってくる人間もいた。  しかし、それは、京三の造った借金である。  京三の遺産を相続する気がなければ、母親秋江にも大仁田にも、払う義務はない。  遺産といっても、たいしたものはない。  印刷機械と、自宅とその土地くらいである。  工場のある土地は、借りている土地だ。  自宅の建っている土地を売るにしても、建っている家が、もう、古い。その家があることが、逆に土地を売る時にはマイナスになる。 「おれはね、その親父の借金をさ、母親とふたりで引き受けたんだよ——」  大仁田は、言った。  蒲団《ふとん》の上に、正座し、うつむきながら畳に向かってしゃべった。  荻窪《おぎくぼ》にある、安宿の四畳半であった。  木造の建物で、歩けば、廊下も床も、軋《きし》み音をたてる。  新宿で倒れていた大仁田に肩を貸し、なんとか、文吉がここまで連れてきたのだ。  部屋に入り、コートを脱いだところで、大仁田は、大きな鼾《いびき》をかいて眠り出した。  文吉が蒲団を敷き、そこに大仁田を寝かしたのである。  ここまでしてやる義理もなければ、恩もない。そういうつきあいではなかった。  大阪でしるし[#「しるし」に傍点]をつけて指したとはいえ、それだけの縁であった。  その時だって、文吉の方が金をとられたのであった。  ついに、自分もやき[#「やき」に傍点]がまわったかと思った。  あそこで、声をかけなければよかったと思った。  声をかけてしまった自分に悪態をつきながら、大仁田をここまで運んできたのだ。  いや、声をかけたにしろ、わざわざ、ここまで連れてこなくてもよかったはずだ。  以前に、何度か利用したことのある宿であった。  宿の親父が将棋好きで、何年か前に、一度相手をしてやったことがあり、それから、この宿を利用するようになった。この宿ならと思って、文吉は大仁田を連れてきたのだ。  今年で五十三歳になる親父は、文吉のことはむろん覚えていた。  大仁田の名前も知っていた。  大仁田が眠ってしばらくして、酒を持って親父があがってきた。  できたらば、元アマ名人の大仁田と一番やろうと思っていたらしい。  大仁田が眠っているのを見て、残念そうな顔をして、部屋を出て行った。  その後も、文吉は、自分の愚かさを責めながら、独りで酒を飲んだ。  黄ばんだ畳の上に、胡座《あぐら》をかいて、苦い酒を飲んだ。  頭の上に灯《あか》りはあるが、螢光灯の一本が切れていて、中途半端な明るさだった。  胡座の膝《ひざ》の間に、徳利が二本乗った盆が置いてあった。  それを、独り、手酌で飲んでいた。  大仁田の鼾は、煩《うる》さかった。  寝ているのを見れば、薄汚れたただの男——それも、できの悪い方の男にしか見えない。この男が、仮にもアマ名人になれたのかと思えるほどだ。  ——何故、この男の面倒を見るのか。  いや、今日のは、気まぐれだ。  酒を飲み終えたら、とにかく金だけ払って、独りでこの宿を出て行ってもいいのだ。  ——だが。  妙に気になっている。  この大仁田敬介がである。  伊蔵を徹底的に打ちのめした男である。  自分も負けた。  いや、自分や伊蔵だけではない。  A級プロ棋士の、中沢八段でさえ、平手《ひらて》でこの男に負けたのだ。  あの伊蔵が、そのことを知っていたかどうか。  A級プロに平手で勝ってしまうほどの男に負けたのなら、その男がたとえ学生でもしかたがないと思ったろうか——。  そこまではわからない。  それほど強かったこの大仁田が、なんでこんなになってしまったのか。  当然ながら、棋力の方も落ちてきているはずであった。  酒を飲んでいると、考えはとりとめがない。  この男と一緒に暮らしていた恵子という女の、やつれた細い色香のある項《うなじ》が、眼にちらついた。  何故、あの女が死んだのか。  羽柴彦六や、息子の文平のことも思い出した。  あれやこれや、思い出すことは、皆とりとめがない。  いつの間にか、酒が失くなっていた。  このまま、自分も蒲団を敷いて眠るか、宿を出てゆくかを考えている時に、大仁田が起きたのだった。  大仁田は、初め、自分がどこにいるのかわからなかった。  水をコップに三杯飲み、ようやく、数時間前に何があったのかを、思い出した様子であった。  文吉に、深々と頭を下げた。  ——何があったのか。  そう、文吉が問うたわけではなかった。  話し出したのは、大仁田の方からである。酒臭い息を吐きながら、大仁田は、ぽつりぽつりと、自分の身の上を語り始めたのであった。 「おれのね——」  と、大仁田は言った。 「——おれの前でさ、大の男が泣きながら、銭を払えと、おれのおふくろに言うのを見たよ」 「ふん」 「ある男は、払えなければ、首をくくれとおふくろに言った。そうすれば保険金がおりるだろうって。その保険金で借金を返せばいいだろうってね」  言ってから、大仁田は文吉を見た。 「どこの生まれだい?」  文吉が訊《き》いた。 「新潟だよ。新潟の、あんたなんかに名前を言ったってわからないような小さな町だ。一年の三分の一は雪の中の町さ——」 「————」 「よくもこんなにと思うくらい、貧乏人ばかりだったよ。中小企業の社長だから貧乏じゃないのかと思っていたら、サラリーマンなんかより、ずっと、そういう男の方が金できゅうきゅうとした生活をしてるんだって、おれはわかったよ」 「へえ」 「借金踏みたおしたら、もう、その町にはいらんないよ。親戚《しんせき》だって、おふくろや親父の両親だって、おれの友達だって、その町で生きてたからね。おふくろがさ、借金を背負い込んで、印刷会社を続けることにしたんだよ。おれも、高校を出て、その会社を手伝った。本当は、大学に行きたかったんだけどね。おふくろのことを見てたら、そうもいかなくなっちまった——」 「————」 「しかし、借金は減らなかったな。なんとか、増やさないようにするんで、手いっぱいだった。で、結局、四年後におふくろが死んでさ、その時もらった保険金で、借金を返したんだ。家も土地も売って、その金を合わせてね。少なかったけれど、その時働いていた従業員に、退職金まで出してね。そうしたら、ちょうど、おれが大学へ行く分の学費くらいが残ったんだよ」  大仁田は、また、畳に向かってしゃべっていた。  それでも、酒臭い息が、文吉のところまで届いてくる。 「二十二の時だ。そこでおれは、初めて将棋に出会ったんだよ。おもしろかった。将棋はね。金持ちも貧乏人もなかった。いい道具を使ったからも糞《くそ》もない。単純に、強いやつが勝つ。そういうゲームだった。運なんてない。あるのは実力だけだ。それが、おれにはおもしろかったんだよ——」 「————」 「なにしろ、あの時は、毎日毎日、朝から晩まで将棋だった。授業にも出ずにね、将棋ばかりやってた。眠っていても、頭の中に将棋盤が出てくる。出席をとる授業だけには、出た、最低、単位がもらえるくらいにね。授業に出ても、将棋はできた。頭の中で、覚えた棋譜《きふ》を並べるのさ。頭の中じゃ、誰にもわからないからね」 「で——」 「筒見恵子と知り合ったのは、大学の四年の時だったよ。あんたの知り合いの爺《じい》さんとやった年だ」 「へえ」 「おれが、喧嘩《けんか》をして、怪我して担ぎ込まれた病院に、恵子がいたんだよ」 「喧嘩?」  文吉が訊いた。 「ああ」 「どんな喧嘩をした?」  文吉が訊くと、大仁田は押し黙った。  文吉も黙る。  しばらくして、また大仁田が口を開いた。 「女だよ」 「女?」 「女が原因さ」 「わからねえな」 「女を買ったんだよ——」 「————」 「金を出せば、女を抱けるところがあるじゃないか」 「あるよ」 「そこへ行ったんだ。金が入ったからね。新聞のタイトルをとって、その金があったんだよ」 「ふん」 「そうしたら……」  大仁田がまた黙った。 「どうしたい?」 「女が、おれを馬鹿にしたんだよ」 「馬鹿にって——」  文吉が言うと、大仁田は文吉を見、また、視線を畳に落とし、その視線をまたあげた。 「おれのが、役にたたなかったんだよ」  ぼそりと大仁田が言った。 「たたないっておめえ——」 「だから立たなかったんだよ」  大仁田が、吐き捨てた。  黙った。 �大仁田は、わたしじゃないと、役にたたないんです�  あの晩、恵子が言った言葉を、文吉は思い出していた。 「いつもじゃないんだ。女とやろうとすると駄目なんだ。自分でやる時には、ちゃんとうまくいくんだ」  大仁田は言った。  いつの間にか、また、視線が下を向いていた。  畳に向かって、大仁田はしゃべった。 「おれが、小学生の四年の時だよ。親父とおふくろがやってるのを見ちまったんだ——」  覚悟を決めたしゃべり方であった。 「狭い家だったんだよ。親父とおふくろが寝ているのは、襖《ふすま》ひとつむこうの部屋でね。夜中に眼を覚ましたら、呻《うめ》き声が聴こえるんだよ。おふくろの声だった。何ごとかと思ったよ。おれだって、半分は寝ぼけてた。苦しそうだった。苦しそうだったくせに、どこかおかしかった。なんだか妙に興奮したよ——」 「それで——」 「それで、おれは、襖をそっとあけて、その部屋を覗《のぞ》いたんだ。暗い灯《あか》りの中で、親父とおふくろが……」  また、大仁田が黙った。  黙ってから、大仁田は、唇だけで嗤《わら》った。 「いやらしいガキだったな、おれも。たっぷり、五分くらいは、おれはそこに突っ立って見ていたよ。もしかしたら、一分かそこらだったかもしれないけどね——」 「————」 「親父が先に気がついてね——」 「どうなった」 「ぶん殴られた。おもいきりね」 「————」 「それが原因なのかな。役にたたなくなったのは」 「————」 「高校の時にね、一度、チャンスがあった。相手は同級生の女だったんだが、その時、おれはできなかった。印刷所をやってた時もさ、二十歳の時に行ったんだよ。女を買いにね。その時もだめだった……」 「その時のことが原因かい」 「たぶんね。立つことは立つんだ。自分でやる時はね。あの時見たことを思い出しながらやれば、まず間違いなくね」 「——で」 「二十六の時、さっきの話にもどるんだが、おれの買った女が、あれこれさんざしたあげくにおれのが役にたたないもんだからね、ついに匙《さじ》を投げてね。煙草を吸いはじめてさ。あんたどうしたのって言うから、他の女なら立つんだって、うっかりおれは言っちまったのさ——」 「ははあ」 「それで、女は傷ついたらしくてね。逆に言ってきたよ。誰なら立つのかって。おれは答えられなかった。そうしたら女は、おれの顔をじろじろ眺めてね、急ににやりと笑うんだよ。 �そうなの。それなら、ママにやってもらいなよ�  そう言ったんだ。おれが怒って立ちあがるとね、おれが前金で払った金を女が突っ返してきたんだよ。それで、おれは、かっとなって、その女をぶん殴っちまったんだ——」 「そういうことかい」 「女が大声をあげてさ。そうしたら、恐そうなおっさんが、ふたり飛び込んできてね。外におっぽり出されて、袋叩《ふくろだた》きさ。それで病院に行ったら、肋骨《あばらぼね》に罅《ひび》が入ってた。その時に会った看護婦が、恵子だったんだ——」  恵子の名前を口にしても、今は、大仁田は泣いたりはしなかった。  酔いが醒《さ》めてきているのである。 「恵子は、五つ歳上の女でね。初めて会って、一年近く経ってから、恵子と、できたんだ。おれが二十七の時さ」 「できた?」 「ああ。恵子だと、可能なんだ。恵子のアパートに転がり込んで、二カ月くらいしてからだよ、本当にできたのは、それまで、恵子は黙っておれと添い寝をしてくれてたんだ——」 「————」 「おれはね、二十七のその時まで、童貞だったんだよ。恥ずかしい話だけどね。今思えば、将棋だって、おれが、それまで女を知らなかったから、強くなったのかもしれない。指す時にね、こんちくしょうと思ったよ。この男は、きちんと女とやってるんだ、女とできるんだ、そう思うと、絶対に、将棋ではこの男には負けたくないって思うんだよ。女とやれない分の恨みで、将棋に勝ってたようなもんだよ」 「なるほど、それでね」  文吉は言った。 「なるほどって——」 「いや、なにね。将棋は、素質だけじゃ、勝てねえからね」 「————」 「素質だけなら、プロの名人や、名人に挑戦するような奴等は、似たりよったりじゃねえか。それなのに、名人を長くやるやつもいれば、一度も、何のタイトルも取ったことのないやつもいる——」 「ああ」 「それはもう、素質の差じゃあないよ。何か別のさ、うまく言えねえんだが、その将棋指しの生まれつき持っている個性とか、性格とかのね——」 「————」 「たとえば、局面の読み合いだけなら、みんな、変化を入れて百手二百手千手の先まで読める。ところが、その百手二百手のうちに、ほんの一手か二手、どちらの手を指していいのかわからない手がある。読み合いでは互角。最後に、どちらを選べばいいかの一手か二手、それをどちらを選ぶかという、それが勝敗を分けていくのさ——」 「————」 「そのどちらかを選ばせてしまうのが、その人間の個性なんだよ」 「でも——」 「わかってるよ。おれは別に、個性だけで将棋が勝てるって言ってるんじゃねえよ。素質だけじゃ、勝てねえってことを言おうとしたのさ。素質は、磨かれなけりゃあな。素質を磨いて磨いて磨きぬいて、もうこれ以上はないところまでやってさ。その後さらに磨くことができるかどうかってことさ。普通の人間は、いくら天才だのいい素質があるだの言われても、その後のさらにができない。底の底まできて、その後、その底のもう一枚下の底まで行けるかどうかってことさ——」 「————」 「将棋の強い人間はね、どこかで、人間の箍《たが》が、他人とは違っちまってるんだよ。将棋が本当に強い人間てのは、なんてえのかね、ようするに、どっか狂ってるってことさ。心のどっかに、�鬼�みてえなものを棲《す》まわせてるってことだ——」 「————」 「その�鬼�がね、底の底の、もう一枚底の板をめくらせるのさ」  文吉は、つぶやいて、どこか、照れたように頭を掻《か》いた。  いかな名人といえども、また、名人なら名人であるほど、その体質、性格のどこかに、狂気を秘めている。  将棋のA級プロ棋士ともなれば、皆、そのどこかに、他人とは違う�奇�を有しているはずなのだ。  伊蔵にも、その�鬼�が棲んでいたと文吉は思う。  自分にも、そういう�鬼�が潜んでいるのだと思う。  そして、この大仁田にも、�鬼�が棲んでいる。  その�鬼�を棲まわせることなしに、将棋が強くなるわけはないのだ。  大仁田の場合は、その�鬼�が、女だったのだ。恵子という女以外には勃起《ぼつき》しないという鬼だ。  もし、大仁田が、人並みに女を抱ける人間であったら、おそらく、今の大仁田はあるまい。  その�鬼�は、まだ大仁田の内に潜んでいる。  そして、さらに大仁田は、別の�鬼�を、その身の内に棲まわせていた。  将棋の泥沼に入り込んでいた大仁田は、当時、大学の卒業すらも危ぶまれていたのだが、恵子が、無理に大仁田を卒業させた。  大学を卒業しても、大仁田は就職しなかった。  ただ、将棋のみに狂った。  生活の面倒は、全て、恵子がみた。 「二十八歳の時だよ、『将棋春秋』から話があったのは——」 「中沢八段との対戦の話だろう」 「いや、あの有村花泉との話さ」 「有村花泉!?」 「あの時、大阪で、おれが土下座した相手の有村八段さ」 「覚えてるよ。その有村花泉が何だっていうんだい」 「有村花泉が、おれに会いたがっているっていうんだよ。『将棋春秋』の編集長がね。会ったよ。『将棋春秋』がお膳《ぜん》だてしてくれた料理屋で、有村花泉とね」 「ほう。どういう用件だったんだ」 「プロ棋士になる気はないかと言うのさ、有村花泉が——」 「プロ棋士に?」 「特例としてね、認めてやってもいいと言うんだ。これ以上、プロ棋士を、アマチュアに平手《ひらて》で負けさせるわけにはいかないってね」 「ほほう」  アマチュアが、奨励会を経ないでプロ棋士になったという前例は、皆無ではない。戦後に、ひとりだけ、そういう棋士がいる。しかし、それは、将棋界が、完全に今のような体制になりきる前だ。  現在では、まず、あり得ないことと言ってもいい。 「将棋連盟に、『将棋春秋』の企画だったアマ名人とプロ棋士との�角次第�の対戦をやめさせられた直後で、おれも落ち込んでいた時でね、嬉《うれ》しかったよ。信じられなかった」  大仁田の口調が、強くなっている。  軽い興奮が、大仁田を包んでいた。 「私は、とりあえず、今日は有村個人としてやってきたんだが、君さえその気なら、根回しをして、総会で君がプロになれるよう、なんとか考えてみようと思っている」  有村花泉は、大仁田にそう言ったという。 「奨励会員の何人かと対戦してもらい、その成績に応じた待遇をしようと思っている」  ただのプロ棋士の言葉ではない。  有村花泉の言葉である。  現在、名人でこそないが、その挑戦者としての場数を一番踏んでいる。過去においては、一期ながら、その名人位にいたこともあるのだ。 「で、おれは、舞いあがっちまったのさ」  大仁田は、文吉を見て、つぶやいた。 「それで、有村花泉と指したんだよ」 「やったのか、有村八段と?」 「やった」 「————」 「有村花泉が、その前に、おれの棋力を見ておきたいっていうんでね。非公式に『将棋春秋』の編集長立ち合いで、日をあらためて、指すことになったんだ」  場所は、先日使用された、料亭が使われることになった。  その日、和服を着込んで、その場に行った大仁田は、失望した。 「今日は、君の棋力を見ればいいわけだから、平手ではなく、香落《きようお》ちでやろう」  そう、有村八段が言ったのだという。 「やったよ、香落ちでね。有村八段が香を落として、それで指したんだ。持ち時間は、お互いに一時間半ずつ。時間が過ぎたら、一分将棋ということでね」  大仁田は、自分に言い聞かせるように言った。  プロ棋士とアマチュアが指す場合、基本的に、アマの棋力に応じてプロ側が駒《こま》を落とす。  飛車と角行を落とす大駒の二枚落ちから始まって、香落ち、香桂落ち、四枚落ち、六枚落ちと、様々な種類がある。  平手の勝負はまずやらない。  これには、ふたつの意味がある。  ひとつには、駒を落とすことによって、プロとアマにある棋力の差を失くすためである。  もうひとつには、プロ側が負けた場合のリスクを失くすためである。  もし、駒落ち戦でプロが負けても、それには、駒を落としたからだという、立派な理由ができるからだ。 「騙《だま》されたような気がしたよ。なんだと思った。しかし、それでもよかった。これでプロ棋士になれるんならってね」  大仁田は指した。  大仁田は、意地になって指した。  駒落ち戦にも、きちんと、落とした駒に合わせた定跡がある。  公式の席での戦いでなければ、アマチュア側が、その定跡通りに指してゆけば、プロ側が勝ちを譲ってくれる場合がある。よく勉強しましたねという、御褒美の意味なのだ。  しかし、いったん、その対戦が、雑誌などの企画による公式の対決となると、プロ側のゆるみの手がなくなる。  アマ側は、あくまでも定跡通りに指してゆき、プロ側が、その定跡をぬらりとかわして、勝ってしまうのである。  基本的に、駒落ちの定跡はプロが造ったものだ。  それをアマチュアに教えておいて、その定跡をかわす。  ずるいと言えばずるい。  大仁田は、その定跡を指さなかった。  大仁田がその時使った戦法は、穴熊であった。  玉が、盤の一番隅に入り込み、その周囲を、歩、香、桂、金、銀で囲んでしまうやり方だ。  攻めの方法ではない。  守り主体の囲いだ。  しかし、いったん、完全にこの体勢になると、そう簡単には破れないのが、この陣形である。  攻めの手ではないため、駒落ちの定跡の中には、穴熊はない。上手のプロ側に対して失礼になるからだ。  それを、大仁田はやった。  結局、焦《じ》らしぬいて、大仁田の勝ちであった。  どちらも、秒読みの将棋に入ってからの、決着である。  有村は、帰った。 「それから、何の連路もなかったのさ」 「なかった?」 「有村花泉が、おれのことを、プロ棋士に推薦してくれたのかどうか、そんなことすらわからなかった。おれは、待ったよ、五カ月近くもね——」 「ほう」 「それで、『将棋春秋』の方にも、何度もかけあったんだよ。あの話はどうなってるのかって。『将棋春秋』の方も歯切れが悪くてね。そしたら、編集長に呼ばれたんだよ。それで、またあの料亭で会ったんだ、編集長とね。そうしたら、あの話はなかったことにしてくれと、そう言うじゃないか。有村花泉がそう言ってきたというんだよ——」 「何故だ?」 「知るもんか。知ってたら、こっちが教えてもらいたいよ。まあ、想像はつくけどね」 「どんな、想像だ」 「ようするにだよ、どんなに強くたって、アマチュアは、プロ棋士にはしてもらえないんだよ」 「————」 「編集長じゃ、らちがあかない。電話を入れても留守。それで直接会いに行ったんだ」 「有村花泉にか」 「そうだ。待ち伏せたんだよ。夜、家の前で、帰ってきた有村花泉をつかまえて、おれは訊《き》いた。どうして、おれはプロ棋士になれないのかとね。そうしたら、申しわけない、あれは自分の勇み足だったと言うじゃないか——」 「勇み足?」 「きちんと説明をしてくれないのさ。アマチュアが、きちんとしたルートを通らずにプロになるということが、どうやら、せっかくできあがったプロ棋士界の権威を壊すことになるらしいんだよ」 「そう言ったのか」 「そう言ったわけじゃない。言葉の端々から、そういう雰囲気がわかるのさ。根回しをしかけたのだが、皆が、ほとんどそういうことに関心をしめさないんだとさ。実力が足らないんですかと、おれは訊いたよ。それにも、答えは曖昧《あいまい》だった。あの時、おれはあんたに勝ったじゃないかとおれは言った。すると、有村花泉が、不快そうな顔をするのさ——」  大仁田は言った。 �あれではね。あれは、わたしの望んでいたものではありません�  そう、有村は言ったという。 「あれ?」 「つまり、おれが穴熊をやったのが気に入らないらしいんだよ」 「なるほどな」 「ちっ」  大仁田は、怒ったように、下を向いた。 「案外、あんたが、中沢八段に勝ったのがフロックだと、むこうは考えてたんじゃないのかい」 「フロックって——」 「あんたが、たまたま、中沢八段に勝ったってことさ。むこうは、駒落《こまお》ち戦で負けて、かっかとしてる時だったろうしね。それで、あんたの実力がどれほどのものか見にきた……」 「有村花泉が——」 「ああ。それほど強くなく、やはりあれがフロックだったということがわかれば、奨励会の強いのをあてて、あんたを負かしてよ、やっぱりあれはたまたまあんたが勝ったんだ。プロにはなれないよと——ところが、途中で有村花泉は不安になった。もし、自分も平手《ひらて》で負けたらとな。それで、香落ちということになったんだろうよ」 「そうなのか——」 「わかるかよ、そんなことがこのわしによ。想像さ」 「————」 「有村花泉個人の意志ではなく、あれは、将棋連盟の意志であったと、そういうことも、あろうよ」 「まさか」 「まあ、そこまではわかるまいよ。それが、有村花泉個人の意志にしろ、将棋連盟の意志にしろな。とにかく最終的に、将棋連盟が、大仁田敬介はもう放っておけと、そういう結論を出したことは確かだろうよ」 「しかし、おれはどうなるんだ。声をかけてきたのはむこうからだ。むこうから声をかけてきておいて、それはないじゃないか——」  大仁田の声が高くなっていた。 「それで、おぬし、狂うたかよ」  文吉が言った。  大仁田が、小さく顎《あご》を引いてうなずいた。  しばらく黙ってから、また大仁田がしゃべり始めた。 「一度ね、プロになれるかもしれないと、そういう夢を見ちまうとね、もう、もどれないんだよ」 「————」 「それも、奨励会でがんばった挙句に、実力がなくて、プロをあきらめたわけじゃない……」 「やけになったか」 「なったよ。酒ばかり飲んで、荒れた。恵子をぶん殴ったりもしたよ」 「————」 「なあ、あんた、将棋ってやつはさ、どこがおもしろいと思う?」  大仁田が、ふいに文吉に訊いてきた。 「さあね。こちとら、将棋がおもしろかった時期は、ガキの頃だけだったがね」 「負けるからさ」  大仁田が言った。 「負ける?」 「そうさ。勝ちが初めから決まっていたら、こんなもの、何もおもしろくはないよ。負けがあるから、いいんだ。負けるから、次は勝ちたいと思い、負けがあるから、勝った時が嬉《うれ》しいんだよ。極端なたとえになるけどね、子供と角力《すもう》をとって、勝ったからって嬉しい大人がいると思うかい」 「————」 「おれは、その負けがどこかへ行っちまったんだよ。アマチュアじゃ、もう、おれの相手がいないんだよ。おれが一番強いんだ。傲慢《ごうまん》な言い方だけどね。少なくとも、当時は、おれは本気でそう思ったよ。そりゃあ、ちょっとでもぬるい手を指せば、やられてしまうような連中はごろごろいるよ。だけど、おれは絶対に気を抜かない……」  大仁田が、文吉を見た。  睨《にら》んだ。 「おれは、将棋が好きなだけなんだ。本気で将棋をやってみたいだけだったんだ。それができない。もう、アマチュアには、おれの相手がいないんだよ——」 「————」 「だけど、あそこには、プロの中には、いるんだ——」  大仁田は言った。  厳しい言い方であった。 「しかし、おれは、あそこに入れてもらえなかったんだ。アマチュアだからだ」  吐き捨てた。  プロの将棋界を支えているのは、基本的には、アマチュアの将棋界である。アマチュアの将棋指しである。  アマチュアの将棋指しが、将棋の専門誌を買い、定跡本を買い、雑誌の記事や、新聞を読む。  野球や、プロレスは違う。  草野球をやってない人間、レスリングなどまるでやったことのないファンがほとんどだ。  しかし、将棋は違う。  自分で将棋を指さない人間は、絶対に将棋の本も記事も読まない。  だから、プロ棋士とアマチュアとを区別しなければならないのだ。  プロ棋士界は、プロがアマチュアよりも絶対に強いという、そういう基盤において成り立っている。  アマチュアがプロより強かったら、話にならない。  プロ棋士を養成する、奨励会のシステムそのものが疑われてしまうのだ。  アマチュアの方がプロより強ければ、誰もプロをありがたがらなくなる。  プロ棋士界は、プロがアマよりも絶対に強いという、そういう神話があって、初めて成り立っているのである。  アマチュアよりも弱いプロ棋士の本などは、アマチュアが読むわけはない。  また、アマチュアでも、トップにある人間はプロ棋士と対等の勝負をするとの印象を、世間に与えるわけにもいかない。  才能が同じなら、プロとアマの差は、ようするに、将棋にどれだけの時間と人生をかけたかという、そのエネルギーの量の差だよと、そう言う人間もいる。  所詮《しよせん》、アマチュアは、将棋で飯を喰《く》ってるわけではない。  サラリーマンもいれば自由業もいるし、学生もいる。  将棋以外に、社会的なポジションを持っていて、そのポジションが生活の基盤になっている。  その社会的なポジションを守りながらでは、アマチュアの四段までがいいところだ。そこまでは、仕事をしながらでもたどりつける。  しかし、そこから先になると、仕事を捨てねばならない。学生であることをやめ、あるいは夫や父であることをやめ、時には家庭が崩壊するところまで将棋にのめり込まねばたどりつけない場所もあるのだ。  アマチュアでは、そこまではできない。  プロにはそれができる。  アマチュアがプロに劣るとすれば、そのあたりにひとつの原因がある。  しかし、ここに、プロと比較してもトップクラスの素質のある者が、あらゆる生活を投げ捨てて、将棋にのめり込んだらどうなるか。  しかも、その人間が、二十歳を過ぎてから、自分のそういう才能に気づいたとしたら——。  それが、文吉の眼の前にいる大仁田であった。      3  大仁田は、恵子と一緒に、各地を転々とした。  その挙句に、大阪で一緒に暮らすようになった。 「あんたと会った一年前だったよ、あの有村を大阪で見たのはね」  大仁田は言った。 「ほほう」 「有村花泉の旦那《だんな》が、大阪に住んでるんだ——」 「旦那?」 「ああ。田沢運送の社長の、田沢久善《たざわひさよし》さ。田沢土建もやっている、半分、これ[#「これ」に傍点]ものさ——」  大仁田は、これ[#「これ」に傍点]というところで、自分の頬に、人差し指の先で、すっと斜めに線を入れた。  旦那というのは、プロ棋士にも、真剣師にもいる。  プロ棋士でいうなら、それは、生徒である。その旦那に将棋を教えることで、旦那から教授料をとるのである。  人によっては、破格の金を出す人間もいる。  角力《すもう》でいう、タニマチと力士の関係といえなくもない。  真剣師の場合は、旦那[#「旦那」に傍点]がお客である場合が多い。  日本中に、何人かの旦那がいて、その旦那の所をまわって、真剣をやりながら喰っていけた時代もあったのだ。  そういう旦那が、時には、大きな真剣の勝負のスポンサーになったり、そういう仕事[#「仕事」に傍点]を自分で見つけてきてくれたりもする。 「月に一回ほど、有村は、田沢久善に、将棋を教えに、大阪に来るのさ」 「ふむ」 「有村には、大阪に女がいてね。東京にいるカミさんとは別の女だ。大阪へ来た時には、必ず、二泊か三泊していって、その女とねんごろにやってるんだ。あんたも見たろう。あの店に有村が連れてきていた女、あれがそうさ——」 「あの女か——」 「最初に会ったのは偶然さ。むこうは女連れだった。いい女でね。見ていたら、なんかこう急に自分が情けなくなってね——」 「————」 「飲み屋さ。あそこじゃない、別の店だったけどね。別の席から、こう、凝《じ》っとあいつを見ていたら、あいつがおれに気がついた。おれは立ちあがっていたよ。半分酔ってたんだ。有村さん、おれと平手《ひらて》で指してくれよって、おもわずそばへ行って、おれはそう言ったんだ——」 「どうした?」 「そうしたら、有村は、これで、別の店で酒でも飲んでくれと、おれに金を握らせやがった。五万、あったよ……」  大仁田は、低く、つぶやいた。 「それからだよ、あの有村が大阪へ来るというのがわかると、たかり[#「たかり」に傍点]に行くようになったのは。あんたに見られたあの時が四回目だ——」 「じゃ、あの時、チンピラが大阪から出て行けと言ってきたのは、やはり有村が——」 「どうかな。有村か女が、田沢に、なんとかしてくれませんかと、それくらいは言ったかもしれねえな——」 「どっちにしろ、田沢のところの人間だろうが」 「そりゃあ、まあ、そうだ」 「で、恵子のことはどうなったんだ」  文吉が訊《き》くと、急に、大仁田の顔が歪《ゆが》んだ。  歪みはしたが、泣きはしなかった。 「おれは、本気でさ、あの有村と指したくなったんだよ——」  恵子のことは言わずに、有村のことを言った。 「有村と?」 「ああ。あんたと、あの晩、いい将棋を指したじゃないか。あんな将棋を久しぶりに指せてね。おれは、なんか、こう急に本気になりたくなったんだよ。どうしても、あの有村とやりたくなったんだ。平手でね。指したくて指したくて我慢できなかった。血を吐くような勝負をしたかったんだよ。骨まで削るような、将棋を指してみたくなったんだ。相手はもう、有村だった。有村しかおれの頭の中になかったんだよ——」 「それで?」 「恵子に話した。どうしても有村とやりたいってね。そうしたら、恵子が、行って来なさいと言うんだよ。有村の所へね。まだ大阪にいるはずだからって。それで、行くんだったらこれを持って行けって、封筒に入っていた金を出した。二十二万あったよ」 �これは、あなたが、これまで有村さんからいただいたお金です。これは、使うわけにはいきませんから、こうしてとっておきました。これを有村さんにお返しして、その上で、有村さんに、一局だけ、対戦してほしいと正直にあなたの気持を伝えてみればいいでしょう。有村さんも、きっとわかってくれるはずです�  恵子はそう言ったという。 「恵子が、水商売で、造った金だよ。このおれのために、水商売をやって、挙句のはてに身体を壊して寝込んでたんだ。昔から心臓が悪くてね。だいたい、有村からせしめた金ったって、ほとんどおれが飲んじまって、恵子が持ってるわけはないんだ。恵子が、自分の身体をはって稼いだ銭だよ。おれは、泣いたよ」  大仁田は、今は、畳も、どこも見てはいなかった。 「その金を持ってさ、おれは、有村の泊まっているホテルに行った」 「どうだった」 「断わられたよ。ホテルのロビーでね。また金を出そうとした。おれは、金ならいらねえ、勝負をさせてくれって、これまでの金の全部を床に叩《たた》きつけてね、わめいちまった。馬鹿なことをさ。おれと平手で指してくれ。頼む。いやだってんなら、女のことを、週刊誌に言ってやる。東京のおまえの家へ電話して、おまえの女房にみんな話してやるぞってね——」  大仁田は笑った。  笑った眼に、みるみる涙があふれてきた。 「その晩、酒を飲んでね。遅く帰ったんだ。そうしたら、アパートの前に、あの時の男が三人立っていてね。めちゃくちゃにやられたよ。途中で、恵子が気がついて出てきた。その恵子まで、奴等はぶん殴りやがった——」 「——へえ」 「一週間後に、おれと恵子は大阪を出た。新幹線で、東京に出るつもりだった。知り合いもまだ東京にはいるからね。東京へ行く途中の名古屋で、恵子が気分が悪いと言い出した。名古屋の駅で下ろし、病院に運んだんだが、その晩のうちに、恵子は死んじまったよ——」 「名古屋でか」 「ああ。過労と心労で、心臓に負担がかかり過ぎたらしいよ」  大仁田の眼から、涙がこぼれ落ちた。 「糞《くそ》!」  大仁田が言った。 「糞!」 「糞!」  宙を睨《にら》んだ。  宙を睨んでも、涙はこぼれ落ちた。 「おれが殺したようなもんなんだよ」  大仁田が呻《うめ》いた。  文吉は、あの、やつれた、細い首をした女の顔を思い出していた。  大仁田の、初めての女であった。  文吉と彦六とを、恐れもせずに、アパートの部屋へ入れてくれた女であった。 「すまん、すまん……」  大仁田は、言いながら、歯を噛《か》んだ。 「やりてえよ。おれはやりてえよ。あの有村とさあ。もう、おれには将棋しかねえんだよ。そのたったひとつしかない将棋で、有村とやりてえんだよう……」  声をあげた。  声をあげて泣いた。  きりきりと歯を噛んで、首を振った。 「やりてえよなあ。ほんとうに、ほんとうにやりてえよなあ。鼻血が出るまで、有村とやってみてえよなあ……」  ——馬鹿。  と、文吉は思った。  馬鹿。  できるわけはねえじゃねえか。  つまらねえ夢なんか見やがって。  このガキがよ。 「てめえ、本気でやりてえのか。本気で、あの有村とやりてえのか」 「やりてえよ。平手《ひらて》で指して、あいつにまいったと言わせてやりてえよ」 「よし」  文吉は、自分の唇が、思いがけない言葉を発するのを聴いていた。 「おれがやらせてやる。おれが、てめえをあの有村とやらせてやるぜ」  第六章      1  春が来たかと思えるほど明るい陽が、その公園に注いでいた。だが、風は、まだ冷たかった。  午後の陽差しだ。  寒さを感じてないのか、ひとりの半ズボン姿の小学生が、芝生の上で、サッカーボールを蹴《け》って遊んでいる。  遊んでいるというよりは、時間を潰《つぶ》しているように見えた。  あまり楽しそうには見えない。  公園のあちこちに立っている樹にも、まだ新芽はふくらんでいない。  公衆便所の陰や、大きな樹の根の北側には、まだ雪が残っているのだ。  大きな楠《くすのき》があり、その陰に残った雪のそばで、幼児がふたり、雪をいじって遊んでいる。  四歳くらいの女の子と、三歳くらいの男の子である。  男の子の方が、その雪をしきりと口に運ぼうとするのだが、女の子が、それをさせまいとしている。  男の子が手に握った雪を、自分の手で払い落とす。  さっきから、何が楽しいのか、ふたりはそんなじゃれ合いをくり返しているのだった。  姉弟らしい。  ふたりの母親らしい女が、その近くに立って、ふたりを眺めながら時おり声をかけている。  それを、ぼんやりと、ベンチに座った加倉文吉が眺めている。  文吉の横に、ひとりの男が立っていた。  若い。  十九か、二十歳くらいの男だった。  白い、空手着を身につけていた。  身体つきが、がっしりとしている。  その男の視線も、さっきから文吉と同じように三人の母子の方に注がれていた。  朴訥《ぼくとつ》な顔をした男であった。  気のせいか、同年齢の人間たちよりも、貌立《かおだ》ちがしっかりとしていた。美男子という意味ではない。若いながら、しっかりと腰のすわったものが感じられるのである。  加倉文平であった。  文吉が、文平を武林館に訪ねたのは、四十分ほど前のことであった。  文平は、道場で練習中であった。  決められて、みんなでやる合同練習ではない。  それは夕刻から始まることになっている。  大学の講義がない時には、皆よりも何時間も早めに道場に来て、文平は黙々とひとりで練習をする。  そういう仲間が何人かいるが、その中でも文平は、特に熱心だった。  その練習の最中に、ふらりと文吉がやってきたのである。  そのまま、外へ出た。  どこかの喫茶店にでも潜り込むつもりだったのだが、なんとなく歩いているうちに近くのこの公園に入り込み、そのままここで、話を続けていたのであった。  文吉は、伊蔵のことを、ひと通り、文平から聴き終えたところであった。 「たいへんだったな——」  そう文吉がつぶやき、そのまま、静かな沈黙が続いているところだった。 「彦六さんから、武林館のことを聴いたんですか」  遊んでいる子供を見ながら、文平が訊《き》いた。 「ああ」  文吉が答えた。 「親父に会ったって、彦六さんから葉書が来ましたよ」 「へえ」 「喜んでたな、彦六さん。久しぶりだったって——」 「そうか——」  言って、文吉は、横の文平に眼をやった。  その視線に気づいて、文平が、文吉に視線を向けた。眩《まぶ》しいほど、素直な、真っ直《すぐ》な視線だった。  文吉は視線をそらせて、また、遊んでいる子供に眼をやった。 「寒くはないのか」  文吉が訊いた。  文平は、素肌に、直接、道着を着ているだけである。練習中は身体を動かしているから温かいが、動くのをやめて立っていれば、たちまち身体の熱が奪われてゆくはずであった。 「平気です」  文平が答え、また、言葉がとだえた。  気になる沈黙ではない。  不思議な沈黙だった。 「どうした?」  文吉は言った。  文平の平気です[#「平気です」に傍点]と言った言葉の中に、文吉の問うた寒さとは別の意味を持った響きがあったからである。 「いえ」  文平は答えた。  答えてから、すぐに、また口を開いた。 「友達と、やりあいました」  ぽつりと言った。 「友達?」 「はい」 「喧嘩《けんか》をしたのか」 「喧嘩ではありませんが、うまく説明できませんから、喧嘩でいいです」 「へえ」  文平が、誰かと喧嘩をしたということに、文吉は軽い驚きを覚えた。 「そうか、喧嘩か——」 「はい」 「おまえでもするんだな。少し安心をした——」 「安心?」 「おまえは、喧嘩なんかしない男かと思っていた」 「そんなことはないです」 「相手は?」 「高校の時からの友達です」 「松本のか?」 「はい。志村礼二《しむられいじ》というんですが——」 「志村?」 「同じ、武林館で空手を学んでいます」 「へえ、空手をやってるどうしかい」 「組手をやろうと言われて——」 「組手?」 「練習の試合みたいなものです」 「その試合で、本気になったか?」 「はい」  文平が答えた。  文吉は、何を思ったか、嬉《うれ》しそうに眼を細めた。 「じゃあ、その相手が強かったんだろうが」 「はい」 「へへえ」 「強かったです」  文平は言った。 「そんなものさ。相手が弱ければ、なかなか本気にはなれねえもんさ。将棋でもな——」 「————」 「で、どっちが勝った」 「————」 「おまえが勝ったか?」  文平は答えなかった。 「負けたか?」 「うまく言えません」  文平は言った。  志村に、ふいに組手をやろうと言われたのは、練習の時である。  自由組手だ。  覚えた技を、それぞれの力量に合わせて、実戦に近いやりとりを行なう練習法だ。  最初から、志村には、殺気があった。  本気の組手が始まり、文平は、志村の本気の攻撃を受けた。  実戦と同じか、それ以上の攻撃だった。  鋭い攻撃であった。  文平も、つい、本気になった。  羽柴彦六から教わった中国|拳法《けんぽう》の技を使った。  ——通臂拳《つうひけん》。  掌《しよう》を、志村にあてたのである。  文平の勝ちであった。  その日から、志村は道場に顔を出していない。  その日から、まだ、一カ月も経ってはいないのだ。  その志村のことが気になっている。 「彦六がな、おまえのことを、褒めていたぞ——」  文吉が言った。 「彦六さんが?」 「ああ。おまえは、真っ直なんだとさ。悩む時も真っ直だと言っていた」 「真っ直ですか」 「真っ直だ」 「————」 「悩むのに、真っ直もくそもないが、曲がりくねる時も、おまえは真っ直に曲がりくねるんだとさ」 「————」 「その言葉が、なんとなくわかるような気がする。おまえを見ているとな」 「————」 「やつめ、おまえに下心があるんだとさ——」 「下心? 彦六さんがですか」 「ああ。おまえが、どんな風に強くなってゆくのか、どんな生き方をするのか、そんなことを見てみたいんだとさ」 「そんなことを……」 「安心しろ、文平」  文吉が、文平の肩をぽん、と叩《たた》いた。 「人間てのはよ、結局、その人間のやり方でしか生きられねえようにできてんのさ。どうじたばたしたってよ。おれは、こういう風にしか生きられねえ。おまえも、おまえのようにしか生きられねえんだよ。だから、安心しろ——」  文吉にしては、ひどく優しい言い方をした。 「彦六さんに会いたいな——」  文平がつぶやいた。  空を見た。  その空に、雲が浮いている。  その雲を、文平は、遠い眼で眺めた。 「その彦六だがよ、今、どこにいるか、おめえ、わかるかい?」  文吉が訊《き》いた。 「ええ。今はともかく、四日前なら、どこにいたかはわかります」  文平が言った。 「わかるのか」 「ええ。三日前にも、葉書が来たんです」 「どこだ?」 「名古屋です」  文平は言った。      2  文吉が、その道場に彦六を訪ねた時、彦六は、道場の隅の板の間に、胡座《あぐら》をかいて、昼間から酒を飲んでいた。  練習は始まっていない時間で、道場にいるのは彦六が独りであった。  窓からの陽差しが、道場の板の上に、四角く窓の形に陽溜《ひだ》まりを落としていた。  その陽差しを避けるように、彦六は、酒を、猪口《ちよこ》で飲んでいたのである。  文吉が道場の入口から、中を覗《のぞ》き込み、声をかけようとしたら、そこに、ぽつんと独りで胡座をかいている彦六を見つけたのである。  見つけた途端に、文吉は眼を細めた。  しばらく彦六のその姿を見つめてから、文吉は声をかけた。  広い道場ではない。  普通の声でも、充分に道場の端と端で話ができる。 「おい、彦六……」  文吉が言うと、酒の空いた猪口を床に置こうとしていた彦六の手が止まった。 「文吉さん」  彦六が微笑した。  人なつっこい笑みが、その顔に溜まった。 「久しぶりだな」  言って、文吉は周囲を見回した。 「あがって下さい」  彦六が言った。 「いいのかい」 「誰もいませんから——」 「じゃ、あがるぜ」  文吉は、ちらりとまた、周囲に視線を走らせてから、道場へあがった。 「いい身分じゃねえか、昼間っからよ——」  歩きながら彦六に声をかける。  彦六の前まで歩いてくると、その前に、同じように胡座をかいた。 「居候ですよ」  彦六が言った。 「居候が、昼間から酒を飲めるのかい?」 「自由なところでね、昼間は、道場主も道場生も来ませんから、好きにさせてもらってます——」 「道場主って?」 「ここの道場主は、学校の教師をやってるんですよ。わたしは、だから、昼間は留守番です——」 「へえ——」  答えた文吉の前の床に、空の猪口を置いて、彦六が、それに酒を注いだ。 「もらうよ」  遠慮なく文吉が猪口に手を伸ばして、洒を飲み干した。  冷やである。 「東京からですか——」  彦六が訊いた。 「ああ」  文吉が、猪口を置いて答えた。 「文平は元気でしたか?」  彦六が言った。 「わかるか?」 「ええ。文平しか、わたしがここにいるのは知らないはずですから、文吉さんがここへ来たのは、東京に寄ってからだと——」 「なるほど」 「久しぶりですね」 「ああ」 「あの時以来です」  あの時[#「あの時」に傍点]というのは、大仁田との件で、大阪で文吉と会って以来という意味である。  酒を互いにやりとりしてから、ぽつりと文吉が言った。 「世話になっちまったなあ、彦六よ——」 「世話?」 「文平のことさ」 「会ったんでしょう?」 「会った」  答えて文吉は微笑した。  わずかにはにかみを含んだ、いい笑顔だった。 「真っ直《すぐ》でしょう、あいつは?」  彦六が言った。 「ああ、いい面をしていたよ」 「いい漢《おとこ》ですね、文平は——」  彦六が言うと、文吉は、なお、眼を細めた。  文平のことを褒められるのが、文吉には何よりも嬉《うれ》しいらしい。 「け……」  小さく文吉が言った。  その文吉を見て、彦六が微笑した。 「ほんとに世話になっちまった。元気で安心したよ。親父はこんなにはぐれ[#「はぐれ」に傍点]ちまってても、ガキはきちんと育つんだなあ——」 「————」 「あいつ、おまえに会いたがっていたよ——」 「そうですか」 「親父のおれよりも、あんたの方が、よっぽど親父らしい……」  言ってから、文吉は、手酌で、猪口《ちよこ》に酒を注いだ。  注いだが、それに手を伸ばさなかった。  猪口に溜《た》まった酒を見ていた。 「なあ、彦六よ——」  文吉は、酒を見ながら、つぶやいた。 「おまえ、気づいてるだろう?」 「何をですか?」 「今、親父と、自分のことを言ったけどよ、文平のやつ、本当は、おれのせがれ[#「せがれ」に傍点]じゃねえんだよ」  文吉が言った。  顔をあげて、彦六を見た。  彦六は、黙ったまま、文吉を見ていた。 「おめえの顔を見てると、つい、いらねえことを言っちまうな」  文吉が、猪口の酒を飲んだ。 「たぶん、文平のやつも、そのことには気づいてるはずだがな——」  言いながら、猪口を置いた。  また彦六を見た。  彦六は、微笑を溜めたまま、うなずいただけであった。 「まあ、そういう余計な話を、今日はしに来たんじゃねえんだよ。用事は別にあったんだ——」  文吉が言った。 「どういう用事ですか——」 「さっき話の出た、大仁田のことだよ」 「大仁田の?」 「ああ」 「元気なんですか、彼は——」 「寝てるよ」 「寝てる?」 「ああ。東京の、おれの知り合いのやってる宿でね」 「————」 「やつのことで、ちょっと、やばい橋を渡らにゃならなくなっちまってな。こんなことを頼めた筋じゃねえんだが、ひとつ、力になってもらいたくてよ——」  文吉は、彦六を見つめながら言った。        豪勢なシャンデリアが、高い天井から下がっていた。  そのシャンデリアの周囲にも、大小のシャンデリアが下がっている。  それ等のシャンデリアだけで、小さな家の一軒や二軒は建ってしまいそうだった。  その下にある、革のソファーに、文吉と、羽柴彦六は座っていた。  名古屋の空手道場で、居候をしていた彦六と再会したのは、昨日であった。  それで、文吉は、彦六をここまで連れ出したのである。  ——大阪。  ホテルニューグランド。  大阪でも三指に入るホテルであった。  そこのロビーだ。  落ち着きのあるシックなムードのホテルであった。  文吉も彦六も、服装は、昨年この大阪で会った時と同じである。  四人掛けのテーブルを挾んで、文吉と彦六は向きあって座っていた。  ふたりの姿だけが、周囲から浮きあがっているが、彦六はそんなことを、まるで気にしていないらしい。  ソファーの背もたれに背をあずけ、脚を組んでいる。  どんな格好をしている時でも、その周囲に飄々《ひようひよう》としたものの漂う男であった。  文吉の眼が、やや落ち着かないが、場違いな場所に足を踏み入れてしまったということよりも、何か別のことに気を取られているようであった。 「ある所には、あるもんだなあ、彦六よ——」  文吉が言って、天井から下がっているシャンデリアを視線で示した。 「ええ」  彦六は答えた。 「おれには、まったくの無駄にしか見えねえな」  うらめしそうに、上を見る。 「あれひとつをかっぱらって金にすりゃあ、このちんけな爺《じじ》いの老後くらいは、いくらでもどうにでもなるってのによ——」  絨毯《じゆうたん》の上に、唾《つば》でも吐きたい気分になっているらしい。 「大仁田敬介は、大丈夫でしたか——」 「ああ。電話を入れといた。熱が下がって、もう、調子はいいそうだよ」  文吉は言った。  大仁田を、馴染《なじみ》の宿に泊めたはいいが、翌朝になっても、大仁田は起きなかった。  熱があった。  風邪をひいたらしかった。  それだけではなく、気持がゆるんだのか、これまでの生活の無理が祟《たた》ったのか、あちこちから、どっと病気が出た。  ひとつひとつは、たいした症状ではないが、それ等が重なって、大仁田は動けなくなっていた。  咳《せき》が出、下痢をし、関節の痛みを訴え、横になったままであった。  それが、十日経った今日、だいぶよくなったようであった。 「しかし、来るのかな」  文吉がつぶやいた。 「今日のことは、先方の田沢久善と有村花泉の方から、連絡があったんでしょう?」  彦六が訊《き》いた。 「ああ。時間も場所も、向こうが指定した通りさ——」 「ならば、大丈夫ですよ」  彦六が言った時、彦六の背後に向けられていた文吉の視線が止まった。 「来たぜ」  文吉が言った。  テーブルの横に、黒いスーツを着た男が、ぬっと立った。  文吉も、彦六も、すでに顔を知っている男であった。 「あんたかい」  文吉が言った。 「久しぶりだね」  その男は、文吉を見、次に彦六を見た。  昨年、吹田市の公園で、文吉と大仁田が将棋を指そうとしたおり、やってきた男たちのひとりだった。 �強い男がいましたからと、どこにも傷をこさえずに、のこのこと大の男が帰るわけにはいかない世界で飯を喰《く》っているんでね�  そう言って、懐から匕首《あいくち》を引き抜いた男であった。  妙に胆《きも》のすわった男であった。 「志倉だ」  と、その男は、文吉と彦六に名を告げた。 「加倉文吉はどっちだ」  訊いた。 「おれだよ」  文吉は言った。 「そっちの男は?」 「羽柴彦六だ」  彦六が言った。 「今日の助《すけ》っ人《と》にね、おれが呼んだんだよ」  文吉が言った。  男——志倉は、文吉を見つめ、小さくうなずいた。 「来てもらおうか」  言った。 「どこへだ」  文吉が言う。 「上の階だ。田沢先生と、有村先生が待っている」  言った途端に、さらにふたりの人間が、文吉と、彦六の座っているソファーの背後に立った。      4  田沢久善は、五十代半ばの、肉の厚い男であった。  肉の量が多いが、肥満しているという印象はなかった。  肉が、その量のわりには引き締まっているからである。  猪首《いくび》であった。  額が禿《は》げ、顔全体にやや赤みが差していた。  その田沢が、ホテルの部屋で、窓を背にして、ソファーに腰を下ろしていた。  下で、文吉と彦六が座っていたものより、さらに高そうなソファーであった。  その横に、和服姿の有村花泉が座っていた。  田沢は、葉巻を銜《くわ》えていた。  文吉と彦六は、ふたりの前に立っていた。テーブルの上には、田沢の宛名が記された封筒がのっていた。  その封筒の横に、二枚の写真があった。  男と女が写っている。  男の方は、有村花泉であった。  女の方は、昨年、文吉と彦六が飲んでいた店に、有村と共に入ってきた女であった。  写っているのは、ホテルである。  ホテルの内部にあるらしいエレベーターに、ふたりが乗り込もうとしている時の写真であった。  モノクロである。 「この写真を送ってくれた、加倉文吉さんはどちらかね」  銜えていた葉巻を置いて、田沢が言った。 「おれだよ」  文吉が言った。 「そちらは?」  田沢は、彦六に向かって訊いた。 「羽柴彦六——」  彦六が答えた。 「用心棒か?」  田沢が彦六に訊いた。 「そんなところです」  彦六が答えた。  文吉と彦六を、まとめて挾むようにして、左右に、男がひとりずつ立っていた。  さきほど、ソファー後方に立った男たちであった。  志倉は、田沢と文吉たちとの間に立ち、相方の眼の動きを追っていた。 「用件からゆこうか。加倉文吉とか言うたな」  田沢が訊いた。 「おう」  文吉が答えた。 「この写真はどういう意味だ」  訊いた。 「どうという意味はないさ。いい写真だろう? だから有村さんに差しあげようと思ってね。有村さんの住所がわからないから、田沢さんの所へ送っただけさ——」 「手紙を読んだよ。有村花泉と、指したがっている男がいるそうだな」 「大仁田敬介——」 「知っているよ。手紙にも書いてあったんでな」 「アマチュア将棋のタイトルを、総なめにした男だよ」 「それも知っているよ。これでも、将棋が好きだからね。これまで、有村に色々とまとわりついていたこともね——」 「あんたのとこの若いのとは、昨年会ったよ。そこの、志倉ってのにね」 「それも聴いた」 「ならば、話は早い。どうだい、有村花泉と大仁田とを、対戦させてもらいたいんだがね」 「脅しかな、それは?」  低い声で、そろりと田沢が言った。  いつの間にか、横に立っていた志倉が、右手に匕首《あいくち》を引き抜いていた。  刃を出し、その刃を、赤い舌でちろりと舐《な》めた。  口元に、きつい笑みを浮かべたまま、舌で濡《ぬ》らした刃の上を、親指の腹で撫《な》でている。 「いつ脅したい? その写真と、有村花泉と大仁田敬介の対戦の話とは、別だよ。その写真が気に入ったんなら、ネガまであげてもいいしね——」 「金が欲しいのか」 「そんなことは、ひと言だって言っちゃいないよ。金なんかいらない。大仁田と、有村とを、やらせたいだけなんだ——」  文吉が言った。  志倉の鋭い眼が、ちらりと、彦六を見た。  彦六の表情に変化はなかった。 「胆のすわった男だな、きみは——」  彦六にむかって田沢が言った。 「強いよ、この男は——」  文吉が言った。 「ほう」  田沢が眼を細くした。 「どのくらい強いんだね」 「この前、あんたのとこの若いのが四人ほどこの彦六とやったが、まだ人数が足らなかったよ」 「そこの志倉よりもか——」 「ああ」  文吉が答えた。 「見てみたいな」  田沢が言った。 「なんだって?」 「そこの志倉と、羽柴彦六とやるのを見てみたいと言ってるんだよ」  彦六の顔色をうかがいながら、田沢が言った。  本気の口調かどうかわからなかった。  彦六を試しているのかもしれなかった。 「どうかね」  言った。 「困ったな」  彦六が頭に手をあてた。 「怖いか」  田沢が訊《き》いた。 「怖いです」  彦六が言った。  あっさりとした言い方だった。 「そちらは、この有村と、大仁田とをやらせたがっている。こちらは、その男と志倉とをやらせたい。似ているじゃないか、状況が——」 「待てよ。強いとはおれは言ったが、それとこれとは別の話だぜ」 「いいじゃないか。強い男を見るのは、将棋でも、喧嘩《けんか》でも、わしは好きなんでね」 「ただ、一緒にくっついているだけでいいと言われてきたんですがね」  彦六がつぶやいた。 「そう言わずに、やってみせてくれんかね。そうすれば、今のことは、考えてやってもいい」 「困りました」  彦六が言う。  志倉も、田沢の肚《はら》をさぐりかねている表情であった。 「やりなさい、志倉」  低いが、はっきりした声で、田沢が言った。  すっと、部屋に緊張が疾《はし》った。  ふたりの男が、あわてて壁際に下がった。  そこに、文吉と彦六が残った。 「どういうことだ」  文吉が言った。  しかし、田沢の表情は変わらない。  有村は、無表情に、なりゆきを眺めているだけであった。 「匕首は、捨てんでいいぞ」  田沢が言った。  志倉の眼が、ぎらっと金属の光を帯びた。  腰を落とした。 「下がっていて下さい」  彦六が文吉に言った。 「彦六——」 「本気のようです」  彦六が片手で、ぽん、と文吉の胸を押した。  文吉が下がった。 「恨みっこなしだぜ」  志倉がつぶやいた。 「はい」  彦六が言った。  彦六は、無造作に、まだそこに立ったままであった。  志倉が、匕首を右手に握って構えた。 「ちい〜〜〜」  声をあげた。  その声が高くなる。  高くなるにつれて、みるみる凶暴なものが志倉の肉の中に育っていった。  顔が赤くなった。 「ちいいいいいいいいいいい!」  それが、さらに脹《ふく》れあがり、はじけた。  志倉が動いていた。  立っている彦六に向かって、おもいきり突きかかった。  体重を乗せたひと突きであった。  彦六は逃げなかった。  逆に、前に向かって動いた。  半歩であった。  半歩、足を前に踏み出し、身体を横に開いた。  ひゅっと、小さく彦六の唇が笛の音をたてた。 「おわっ」  声があがった。  志倉の唇から洩《も》れた声であった。  志倉の身体が宙に舞っていた。  宙で一回転し、背から落ちた。 「ぐうっ」  声をあげた。  彦六の右手に、それまで志倉の持っていた匕首が握られていた。  部屋に満ちていた緊張が、ふいにゆるんだ。 「こんなところで……」  彦六が、前に動いて、持っていた匕首を、テーブルの上に置いた。  それに眼をやり、田沢が溜息《ためいき》をついた。 「おまえたち、それを納めろ」  田沢が、彦六の背後に向かって声をかけた。  壁際に退《さ》がっていた男たちの手に、それぞれ、匕首が握られていた。  男たちが、田沢に言われて、それを懐に納めた。 「みごとなものだったよ」  田沢が言った。  倒れていた志倉が、起きあがった。 「すみません」  田沢に向かって、ぺこりと頭を下げた。 「いや、腕が違いすぎた。やらせたわしが悪かったな」  惚《ほ》れぼれと彦六を見た。 「じゃあ、話をもどさせてもらえるかい」  文吉が言った。 「大仁田のことだったな」 「ああ、そうだよ」  文吉は言った。 「有村と大仁田のことだがね、大仁田にも責任はあるが、有村にだって、責任はある。先にちょっかいをかけてきたのは有村の方なんだ。それは知ってるだろう? おまけに……」 「なんだ」 「有村、あんた、知らんだろうが、大仁田の女は死んだぜ」  文吉が言った。  口調が強くなっていた。 「昨年だよ。最後にあんたのところへ頼みに行った時だ。その時、大仁田と一緒に暮らしていた病気の女までついでに殴られたんだよ」 「————」 「それが直接の原因だとは言わねえよ。しかし、それさえなきゃあ、もっと長生きはできたはずだろうよ——」  大仁田が、有村とやりたいと言った時に、貯めていた金を、大仁田に出してきた女である。  大仁田が、たったひとり、この世で心を許せた女であった。 「本当か——」  有村が言った。 「嘘なんか言わねえ」 「————」 「大仁田は、あんたとやりたがってるんだよ。それだけが、やつの望みさ——」  文吉は、田沢を見た。 「なあ、あんただって、見てみたいだろう? 見てみたいはずだ。大仁田と有村の対局だぜ。他の人間が、望んだって、見られるもんじゃない。その棋譜《きふ》を、あんただけが手に入れることができるんだ。涎《よだれ》が出るだろうが。あんたが、本当に将棋が好きなら、見たいはずだ——」 「それは、見てみたいがな——」 「なんだ」 「しかし、所詮《しよせん》、アマチュアだ。プロの、トップクラスに勝てるわけはない」  きっぱりと田沢は言った。 「そうかい」  文吉は言った。 「やっぱりあんたも、そう考えてるのかい。しかし、大仁田は違うぜ。並みのアマチュアだと思わんことだ」 「有村も、並みのプロではない」 「おもしれえじゃねえか。え? ならばそれを試してみようじゃねえか。有村と、大仁田とどちらが強いか、やればわかるんだ。やればな——」  文吉が言った。 「こちらだって、彦六と、そこの男とやったんだ。今度はそっちの番だぜ」  文吉が言うと、田沢は、有村を見た。 「ああ言うておるが、どうなんだ」  田沢が言った。 「プロとアマとは、根本的に違います。アマと平手戦《ひらてせん》でやって負けたプロは、あがって[#「あがって」に傍点]しまうから負けるのです。アマに負けてはいけないというプレッシャーに負けてしまうのですよ。実力そのものは、プロが上です——」 「ならばどうなんだ。やるのか、やらねえのか——」  文吉が言った。  有村は文吉を見た。 「わしが、有村に、やれとは言えんよ。それは、有村の自由意志だ。有村がやるというなら、その場所を、わしが提供してやってもいい——」  静かに田沢が言った。 「どうなんだ。有村!」  文吉が言った。 「田沢先生は、わたしと、大仁田の対戦を、本当にごらんになりたいと思ってるのですか——」  有村が訊《き》いた。 「ああ、思っているよ」  田沢がうなずいた。 「プロがどれだけ強いのかをな——」      5 「決まったぜ」  文吉が、そう言って、宿にもどってきたのは、その日の夕刻であった。 「決まったんですか?」  大仁田が、身を乗り出した。 「場所も日時もこれからだ。たぶん、一カ月くらいは先のはずだ」 「しかし、よく、あの有村が承知をしましたね」 「汚ねえ手を使わせてもらったけどよ」 「汚ない手?」 「大阪のあの女さ。ふたり一緒にいる所を写真に撮った。その写真を、テーブルの上に置いて、話をしたのさ。こちらは、その写真をどうこうするとは、ひと言も言っちゃいないがね。つまり、脅迫はしてねえってことさ。金をよこせとも言っちゃいねえ。あんたと指したがっているやつがいるから、そいつとぜひ平手で一局やってくれってね——」 「そうですか」 「この写真が気に入ったんなら、対局する日に、ネガと一緒に差しあげましょうとね」 「しかし」 「何がしかしだ」 「それだと、有村がわざと負けるというか、そういうことになりはしませんか?」 「だいじょうぶだよ。有村には、勝てと、そう言ってある。わざと負けたら承知しねえぞとね」  文吉は、部屋の隅に置いてあった、将棋盤を取り出した。  分厚い、榧《かや》の盤であった。  この宿の親父が使っているものを、用意してもらったのだ。  その盤を、自分と、大仁田との間に置いた。 「何ですか?」  大仁田が言った。 「おれと、もう一回勝負だよ。有村とやる前にな」 「文吉さんと?」 「もんくはあるかい。てめえには、一回負けてるからな」 「しるし[#「しるし」に傍点]はつけるんですか?」 「あたりめえだと言いてえんだがよ、今回はしるし[#「しるし」に傍点]はなしだ」 「真剣[#「真剣」に傍点]じゃないんですか」 「真剣[#「真剣」に傍点]じゃねえが、真剣の勝負だぜ」 「どうしてまた?」 「久しぶりに、銭のかかってない勝負をしたくなったんだよ。もうひとつ、理由《わけ》があってな」 「わけ?」 「ああ。先手をおれが指したいんだけどね。それが理由さ」 「かまいませんよ」 「この前は、あんたが、駒《こま》を振って先手をとったから、今度はおれが先手で、お互いっこの勝負だ」  文吉は、懐から、駒の入った袋を取り出して、盤上に出した。 「いい駒ですね」  大仁田が、駒を手に取って言った。 「露風《ろふう》の作でね」 「露風の——」 「わけありの駒さ」  勝負が始まった。  第一手目を、文吉はいきなり端歩《はしふ》を突いた。 �9六歩�  である。  大仁田が、奇妙な眼で、その駒を睨《にら》んだ。  無言で、その駒を睨んで長考した。  長考した後、 �3四歩�  と、角道を開けた。  勝負が進むうちに、大仁田の額に汗が浮いた。  文吉の手が、あまりに奇妙であったからだ。  基本的には、角側に寄った穴熊《あなぐま》の陣形である。  しかし、玉の位置が、隅ではなく、ひとつ上の9八の位置にある。しかも、闘っているうちに、その玉と、穴熊が、次第に変化しながら上に昇ってくるのである。  大仁田が、初めて見る定跡らしかった。  しかも、それは、定跡の中に、最初から玉が浮くこと——つまり入玉の筋も含まれているらしい。  大仁田が投了したのは、三時間後であった。 「何だったんですか? 今のは——」  大仁田は、興奮した声で訊《き》いた。 「浮熊《うきぐま》という戦法さ」 「浮熊!?」 「おかしな縁で一年ちょっと前に知り合った成川って男が造った戦法でね。なに、今は勝ったが、棋力で言えば、あんたの方がおれより上さ」  文吉は、答えた。 「何故、この手を、あの晩に使わなかったんですか」 「あんたなら、すぐにわかると思うがね、この浮熊には欠点がある」 「欠点!?」 「後手の場合には、基本的にはない手なんだ」 「そうなんですか」 「ああ。相手とよほど棋力に差があるならともかく、先手番の時だけの手さ」 「こんな手があったとは思いませんでした」 「しかし、これが、あの有村に通用するかどうかは、わからん」 「ええ」 「だが、おれではなく、あんたほどの力量のある人間が使うのなら、あるいはと思ってね。しかし、使うにしても、先手番の時、それも一回だけだ——」 「————」 「9六歩に対して、相手が、9四歩と合わせてきたら、それで、この手はないことになる」 「————」  大仁田は、文吉の言っている言葉が耳に入っているのかどうか。  ただ、凝《じ》っと黙って自分が投了した盤を睨んでいた。  興奮が、大仁田を包んでいるらしい。 「凄《すご》い……」  大仁田がつぶやいた。 「凄い」  文吉を見た。 「凄いですよ、これは——」  指を伸ばして、盤上に駒を並べ始めた。  何かの発想が湧いているらしい。 「待てよ、その前に、ひとつ、このおれの頼みを聴いてくれるかい」 「はい?」  文吉は、ポケットから、一枚の将棋の駒を取り出した。  香《きよう》であった。 「これは?」 「おめえも知ってる伊蔵が、死んだ時に、手に握っていた駒だよ。この駒を、有村と対戦する時に、使ってほしいんだ」      6  大仁田敬介と、有村花泉の対戦が行なわれたのは、それから一カ月後であった。  場所は、大阪——。  ホテルニューグランドの、スイートルームである。  和室のついた部屋だ。  田沢久善が、この日のために取った部屋であった。  夕刻、定時の十分前に、大仁田敬介と文吉は、二十八階にあるその部屋に入った。  ふたりに、彦六がつきそっている。  部屋には、すでに、有村花泉と田沢久善、そして志倉がいた。 「来たか」  田沢久善が言った。 「ああ」  答えたのは、文吉であった。  応接間のソファーに腰を下ろしている田沢と有村に、文吉は視線を向け、上着の内ポケットに右手を入れた。  途端に、立っていた志倉が、すっと田沢と文吉との間に割って入った。 「あわてるなよ、何も、ぶっそうなものを出そうってわけじゃない」  文吉が出したのは、茶封筒であった。 「これを受け取ってくれ——」  文吉が、それを、志倉を押しのけるようにして、応接セットの、テーブルの上に置いた。  大理石の、分厚いテーブルであった。 「なんだ、これは?」  田沢が言った。 「例の写真と、ネガだよ」 「ほう」 「汚ないまねをしてすまなかった。これを最初に渡しておかねばな」  文吉が、小さく、唇の端を吊《つ》りあげて、微笑した。 「勝ったとしても、寝醒《ねざ》めが悪いか——」  田沢が言った。 「そんなところだ」 「受け取っておく」  有村が言った。  文吉の後方にいる、大仁田を見た。 「これをもらってももらわんでも、こちらは同じだ。手抜きはないよ——」  大仁田に視線を向けたまま言った。  大仁田は、答えなかった。  有村を睨《にら》んでいた。 「じゃ、始めようか」  田沢が言った。  和室に入った。  すでに、そこには、対局の用意ができていた。  無言で、ふたりは向かい合った。  ルールはすでに、互いの間で了解ができている。  先手後手は、振り駒《ごま》で決める。  互いの持ち時間は、三時間。  チェスクロックを使用。  持ち時間を使いきったら、一分将棋になる。  無言のまま、駒が並べられていった。  駒が盤にぶつかる音のみが、小さく、鋭く部屋に響く。  駒を並べる手の動きによどみがない。  大仁田は、微《かす》かに赤い顔をしていた。  駒を並べ終えた。  そこで、大仁田が、9九の位置の香を右手につまんで、それをのけた。  かわりに、上着のポケットから、手垢《てあか》で汚れた、一枚の香を取り出して、それを空いた9九の位置に置いた。  有村は、黙ってそれを見ていた。 「この香を使わせてくれるか?」  大仁田が言った。  死んだ久住伊蔵の駒であった。 「かまわんさ。香は香だ」  低く有村が答えた。  振り駒をした。  大仁田が先手になった。  大仁田は、深く息を吸い込み、有村を見、それから盤を睨み、静かに溜《た》めていた息を吐いた。  大仁田の右手が動いた。  大仁田の右手の指先が、9六歩の端歩《はしふ》を突いた。  それを見ていた有村の眼が、ぎらりと光った。  そうして、闘い[#「闘い」に傍点]は始められたのであった。      7  聴こえているのは、大仁田と有村の呼吸音と、駒が盤上に置かれる時の音だけであった。      8  大仁田は、盤上を睨んだまま、一度も顔をあげて有村を見ようとはしなかった。      9  大仁田は、まだ盤上のみを睨んでいた。      10  ふたりの呼吸音。  ふたりの心臓の音。      11  大仁田は、まだ顔をあげない。      12  文吉が、小さく溜息《ためいき》をついた。      13  大仁田は、まだ顔をあげない。      14  無言。      15  大仁田が、何か痒《かゆ》みを覚えたように、右手の指先で、鼻を掻《か》いた。  つうっと、大仁田の右の鼻の穴から、赤いものが滑り落ち、盤の上に、ぽたりとそれが落ちた。  血であった。      16  駒をつまむ有村の指が、小さく震え始めていた。      17  午前零時を前後して、ふたりとも一分将棋に入っていた。  エピローグ  ——真夜半。  街の雑踏の中であった。  夜半を過ぎても、その街には、まだネオンと人通りが続いていた。  ひとりの老人と、男が、歩いていた。  文吉と、大仁田である。  ふたりは、無言だった。  そのふたりの少し先を、やはり無言で、羽柴彦六が歩いている。  大仁田がとった戦法は、浮熊《うきぐま》と、自分の底振《そこふ》り飛車《びしや》とを合わせたものであった。  長い闘いであった。  有村が、投了したのは、昨夜の、真夜半を過ぎてからであった。  投了するかどうかを迷いぬき、力つきての投了であった。  大仁田は、その時になって、初めて、顔をあげた。  有村を見た。  ほんの数時間で、有村の頬の肉がごっそりこそげ、濃く髯《ひげ》が浮いていた。  別人のようであった。  大仁田自身の顔も、似たようなものであった。  大仁田は、静かに頭を下げ、立ちあがった。  無言のまま、外に出た。  文吉も、大仁田も、妙に肩から力が抜けている。  ふわふわと、足取りがたよりなかった。  どこが哀しいのかはわからないが、哀しかった。  風が吹いている。  その風に運ばれてしまいそうなほど、身体がおぼつかない。  まるで、自分は風のようだと文吉は思った。  自由で、哀しかった。  どうしようかというあてはない。  有村に勝ってみれば、こんなものであったかと、足を前に運んでいる。  人混《ひとご》みの中だ。  酔った男や女。  タクシーの群れ。  クラクション。  ネオン。  人。  人。  自由だ。  自由で、どこに行っていいかわからない。  ふいに、女の肌が恋しくなった。  彦六の顔を思い浮かべた。  どんな顔をして歩いているのか。  彦六の背中を見た。  そのまま、彦六がいなくなってしまうような気がした。  声をかけたかった。  しかし、声をかけた途端に、彦六は消えてしまいそうだった。  彦六もまた風である。  自分もまた、老いた風だ。  このまま別れ別れになってしまう風と風だ。  風ならば、風のままに、どこへなりとも吹かれてゆけば、また、ふたつの風は出会う時もあるだろうと思った。  ふいに、涙があふれそうになったが、別に、涙などは出やしなかった。 「おい」  文吉は大仁田に言った。 「どっちへゆく?」  歩きながら訊《き》いた。  大仁田は答えなかった。  大仁田は、コートのポケットに手を突っ込んで、下を向いて歩いていた。 「おい」  文吉は訊いた。  大仁田は答えなかった。  ふいに、大仁田の足元の歩道に、涙が染みをつけた。  大仁田は、歩きながら、眼に涙を溜《た》めていた。 「け」  文吉は言った。 「馬鹿」  ひどく優しい力で、とん、と、肘《ひじ》で大仁田の脇腹を突いた。  馬鹿——。 [#改ページ]  あとがき  実は、ひそかな興奮を、今、味わっているのである。  夢枕獏としては、まったく新しいタイプの小説を、本として世に送り出すことの興奮である。  ひとりの将棋指しを主人公にした物語だ。  将棋小説という分野があるのかどうかぼくにはわからないが、これはまさしくそういう本である。将棋にからんで殺人事件がおこり、その事件解決に将棋が重要なポイントを占めているといった風な話ではない。将棋に題材をとったSFでもオカルトでもバイオレンスでもアクションでもない。将棋そのものが、この物語の太い骨になっているのだ。  このくらいは書いておかねば、夢枕獏の名前を見て、本書を書店で手にとったあなたに対してフェアではないと思うからである。  ああ、しかし、安心しなさい。  この物語は、間違いなくおもしろいからだ。  そして、エキサイティングである。たとえあなたが将棋などまるで知らなかったとしてもである。  これは、将棋に取り憑《つ》かれた男たちの物語である。  ぼく自身が耳にしたり、活字で眼にしたりした、将棋にかかわる男や女たちの話は、どれも、哀しく、そしてなおエキサイティングであった。一見は静かな勝負の中に、あらゆるものが詰まっている。  前述したように、この本の中には、オカルトもバイオレンスもない。アクションもエロスも、その量の占める割合は、少ない。  ただし、闘い[#「闘い」に傍点]はある。  将棋の闘い[#「闘い」に傍点]は、凄《すさ》まじい。  それも、直接己れの肉体を使わない分だけ、ねっとりと濃い闘いがある。互いの精神力と体力とをふりしぼる闘いである。  肉体を直接にはぶつけあわない、そういう闘いにぼくは、興味を持ったのだった。座って、睨《にら》み合うだけで、つう、と鼻血の滑り落ちてくるような闘いに、ぼくは魅《ひ》かれたのである。  主人公の加倉文吉は、真剣師である。  真剣師とは何か。  それは、日本将棋連盟に属さない、一方の将棋のプロである。  将棋の勝負に金をかけ、その金で�おまんまを喰《く》っている�人間が真剣師である。  おそらく、現代には、真剣をやる人はいるかもしれないが、そういう意味での真剣師は、もういないはずだ。  そのいないはずの真剣師の話を、夢枕獏流に書いてみたかったのだ。  ぼくの中には、抜きがたい放浪への憧《あこが》れが、いまだに残っている。  しかし、漂泊の末の野垂れ死にという格好のいいことは、もう、ぼくにはできない。  たぶん、できない。  できないけれども、いつかそういう旅に自分は出て行ってしまうのではないかという、奇妙な、期待と不安がある。おそらく、そういう想《おも》いは、どんな男の中にも、小さな炎のように、ちろちろと燃えているのではないか——。  以前に、何かの本のあとがきにも書いたが、男なら誰でも、一度は、世界征服[#「世界征服」に傍点]という野心を、その胸に点《とも》したことがあるはずだ。クラスで一番足の速い男になること、クラスで一番腕相撲の強い人間になること、クラスで一番勉強のできる人間になること、望みの女を手に入れること——世界征服[#「世界征服」に傍点]とは、そういう意味も含んでのことだ。  放浪への憧れは、そういう世界征服とは反対の極へ向いたベクトルである。  堕《お》ちること——。  そういうことへの憧れが、ぼくの中には間違いなくある。  世界征服[#「世界征服」に傍点]に夢破れた人間たちは、その破れた夢と、もう一方の、望めば可能な漂泊への憧れという夢との中間で生きている。  勤めを捨て、妻を捨て、子を捨て、ただの風となって流れてゆくことは、たぶん、男に残された最後の夢ではないだろうか。おそらく、それは、一生抜かれることなく胸の奥に秘めておかれるはずの刃《やいば》である。  だが、世の中には、そのような刃をその手に握ってしまった人間もいる。  本人の意志とは無関係に、その刃を握らざるを得なかった人間もいるのだ。  その刃がどんなに錆《さ》びていたところで、一度握ったそれを放すことができない生き方を選んでしまった、選ばざるを得なかった人間がいるのである。  それが、真剣師[#「真剣師」に傍点]なのではあるまいか——。  とまあ、ついつい、ごたいそうなことを書いてしまったよ。  けけけ。  いやいや、つい筆が滑ってしまったのだった。  かんべんして下さい。  この物語の背景について、簡単に触れておかなければならなかったのだ。  この物語の主人公である加倉文吉は、加倉文平の父親ということになっている。  本書にも、その加倉文平がちらっと出てくるシーンがあるのだが、この文平は、実は、別の物語——光文社でやっているシリーズ『獅子《しし》の門』の登場人物のひとりなのである。  羽柴彦六という人物も、実はそちらの方の登場人物で、このふたつの物語は、時間的には同じ速度で進んでいる。つまり、加倉文平の父親である加倉文吉の名は、『獅子の門』にも実は出てきているのである。  加倉文平と志村礼二とのくわしいいきさつなどは、『獅子の門』を眼にしていただければ、わかるはずだ。  しかし、どちらを読まねばどちらがわからないという話ではないので、興味を持たれた方のみ、そちらを読んでいただければ、それなりにおもしろいと思う。  さて。  本書を書くにあたって、だいぶお世話になってしまった友人が、実はいるのである。  なにしろぼくは、将棋を指すには指すけれども、調子のいい時で、せいぜい三級の上といったところで、将棋のあれこれに関しては、知らないことばかりだった。そこを、好きをたよりにえんやこらと書き出してしまうというのが、夢枕獏のアホなところなのだが、仕事中にわからないところにぶつかるたびに、ぼくはその友人のところへ電話をして、教えを乞《こ》うたのだった。  この本を読もうとするくらいの方なら、名前は御存知かもしれない。  最近本を出した女流アマ名人の湯川恵子さんと、ライターで、やはり最近たて続けに本を出された御主人の湯川博士さんである。  恵子さんなどと、さん[#「さん」に傍点]をつけてしまったが、彼女は、実はぼくの高校のクラスメートで、タキモトと呼んでいたその当時は、棋力はだんぜん、ぼくの方が上だったのだ。  今は、彼女の方が強い。  ありがとう。  今度、真剣[#「真剣」に傍点]をやろうな。    昭和六十二年一月十七日 小田原にて [#地付き]夢 枕  獏   [#地付き]単行本「あとがき」より   角川文庫『風果つる街』平成15年7月25日初版発行