[#表紙(表紙.jpg)] 悪夢喰らい 夢枕 獏 目 次  鬼走《きばし》り  ことろの首  のけもの道  四畳半漂流記  八千六百五十三円の女  霧幻彷徨記《むげんほうこうき》  深山幻想譚《しんざんげんそうたん》 [#改ページ]   鬼走《きばし》り      1  いつもの場所で、老人の後ろ姿が目に入った。  まだ薄い闇の残るアスファルトの上を、老人の細長い脚が、やや大きめのストライドでひたひたと刻んでいる。  老人は、今朝も赤いジョギングパンツをはいていた。上半身には紺のランニングシャツを着、額に白い鉢巻きを巻いている。  禿《は》げあがった頭部にほとんど毛はなく、両耳のまわりに、わずかに白髪がからんでいる。  落ち着いたペースであった。  十月初めの早朝——。  陽が昇るには、まだいくらか時間がある。  キンモクセイの香りが、薄く大気に溶けている。  佐々木竜夫は、わずかにピッチをあげた。  ゆっくりと老人の姿が近づいてくる。  佐々木と老人の他に、道路に人影はない。  時おり、新聞配達と牛乳配達のスクーターに会うだけである。  佐々木は、軽い足どりで老人をぬいた。 「お先——」  ぬく時に低く声をかける。  老人は答えない。  いつものことであった。  老人は、顎《あご》を小刻みにふりながら、無表情な顔で前方を睨《にら》んでいる。学者か何かのように、いかめしい顔をしていた。  半開きの唇からもれる荒い喘《あえ》ぎ声が、横をぬいてゆく佐々木の耳にとどいてくる。無表情な顔とは別に、いかにも苦しそうな喘ぎ声であったが、それが老人の癖らしかった。  最初から終りまで、いまにも泣き出しそうな顔のまま、フルマラソンを走りきる選手もいるのだ。  老人をぬき、八〇〇メートルほど走ってから、佐々木は道を左に折れた。  左側が病院、右側が屋敷街の、塀に左右を囲まれたアスファルトの道である。この道を走りぬけ、一キロほど先の公園までが、いつもの佐々木のジョギングコースである。公園で約三十分の柔軟体操をし、同じ道をもどる。片道で五キロ、往復で一〇キロ。これを走りきるのが、雨の日以外は欠かしたことのない佐々木の日課だった。休日には、三倍の三〇キロを走る。  佐々木は三十五歳であった。  年に何度か、あちこちで開かれるマラソン大会に出場する。四二・一九五キロのフルマラソンである。成績はともかく、これまでその全てを完走していることが、佐々木の自慢だった。  二十八歳で結婚をし、急に増え出した体重を落とすためにジョギングを始め、それが病みつきになった。  佐々木が、背後にあしおとを聴いたのは、病院を通り過ぎたあたりであった。  ぴたぴたという小さなあしおとが、すぐ自分の後方からついてくるのである。  佐々木は始め、老人が自分に追いついてきたのかと思った。これまでになかったことである。  ——まさか。  佐々木は、すぐにその考えを打ち消した。  老人が、あの道から左へ折れるこのコースを利用しているらしいことはわかっているが、老人にしてはあしおとのピッチが早すぎた。  軽く、佐々木は速度をあげた。  あしおとの主は、ぴったりとついてきた。  ほんの二メートルほど後方である。 �もっともっと——�  ふいに、佐々木の頭に声[#「声」に傍点]が響いた。  はずんだ子供の声[#「声」に傍点]であった。  耳に直接響いてきたものではなかった。  気のせいだとしてすませることができるほど微かな声[#「声」に傍点]であったが、その声[#「声」に傍点]には生々しいまでの息使いがこもっていた。  佐々木は、走りながら後方に目をやった。  パジャマを着た六歳くらいの子供が、笑みを浮かべて佐々木を見ていた。  素足であった。  子供は、その素足でアスファルトの上を走っているのだった。 �もっと早く�  子供の赤い唇が、にっと左右に吊りあがり、またあの声が頭に響いた。  佐々木は前に向きなおり、つられたように速度をあげていた。  素足がアスファルトを打つ音が、それに少しも遅れずについてくる。 �もっともっと�  嬉々《きき》とした声が響く。  佐々木はさらにスピードをあげた。  もはや長距離のスピードではなくなっていた。一五〇〇メートルを走る、中距離並みの速度である。それも、練習用のものではなく完全に試合用の速度である。  だが、小さなあしおとは、少しの遅れも見せなかった。 �もっとだよ、もっと� �走るんだ� �走るんだ�  はずんだ声が響く。  そして、小さなあしおと。  子供についてこれる速度ではなかった。  恐怖が薄いセロファンのように佐々木の首筋に張りついていた。  それを払い落とすように、佐々木は首をふり、背後をふり返った。  佐々木の背後から走ってくるもの[#「もの」に傍点]は、子供ではなくなっていた。身体の大きさがそのままで、顔が、二十歳過ぎの青年のそれにかわっていた。  青年は、その顔に満面の笑みを浮かべていた。笑みのかたちに割れた肉色の口の中で、赤い舌が、生き物のようにひらひらと踊っていた。  佐々木の倍のピッチで動く小さな手足も、ブルーのストライプの入ったパジャマも、何かの冗談のようにさえ思えた。  自分でも気がつかないうちに、さらに速度があがっていた。  額にねばい汗が浮いていた。  もはや、全力疾走であった。  髪が、額に張りついている。  自分の手足ではないようであった。  もっと。  もっと。  声が言う。  こめかみで、心臓が鳴っている。  肺が痛かった。  肉体の動きに、肺がついていけないのだ。  その痛みから逃れるように、佐々木は走った。      2  老人は、ゆっくりとしたペースで、踏切りを渡っていった。  左右を確認するまでもなかった。  朝の早いこの時間では、一時間に数本も電車は走ってない。私鉄の踏切りだった。昼間は、上がっている時よりも下りている時の方が多いくらいのこの遮断機も、この時間帯ではほとんど上がったままである。  五〇メートルほど走って、右へ曲がる。  その通りに人通りはなかった。  無人のアスファルト道路が、トンネルのように続いている。  ジョギングシューズの靴底が、ひんやりしたアスファルトを確実に踏んでゆく。  いつもならば、やがて、後方からひとりの男が走ってきて、自分を追いぬいていくはずであった。  サラリーマン風の男であった。  いつも、男は、老人を追いぬいていく時に声をかけてゆく。  速くはなかったが、なかなか板についた走り方をする男だった。単に健康のために走っている自分とは違い、はっきりした目的を持って走っているようであった。  フルマラソンに出場しても、きちんと完走できるだけの実力はあるだろう。人と競うことよりも、少しずつでも自分の最高タイムをあげてゆこうという、そんなタイプに見えた。  企業の中で、どんな部署にまわされても、そこそこにはやっていけそうな男だった。  佐々木竜夫という、その男の名前を、今は老人は知っている。都内にある中堅企業の課長であったことまでわかっている。  四日前の新聞で目にしたのである。  それは、佐々木竜夫の死亡記事であった。  死んだのは、老人が、最後に佐々木を見た日のことだった。朝の八時頃、ここから四〇キロも離れた街で、死んだのである。ふらふらと走ってきた佐々木が、いきなり道路の真ん中で倒れたのだという。  多くの通行人が、その現場を見ている。  目撃者は他にもいた。佐々木が四〇キロ離れた街まで走ってゆく間に、何人かの人間が佐々木を見ている。佐々木は、青い、血の気の失せた顔で、時おり後方をふり返りながら走っていたという。  死因は心臓|麻痺《まひ》——新聞にはそうあった。  身元がわからないまま、佐々木の屍体《したい》は病院に収容され、昼近く、ジョギングに出かけたまま帰ってこない佐々木の家族から警察に連絡が入り、やっと身元がわかったのだという。  不思議なことであった。  家族の者にも、佐々木が何故そんなに遠くまで走ったのか見当がつかなかった。  勤め先の会社も、休みの日ではない。朝、得意先の営業担当者と会う約束もあった。  突然に、佐々木の精神のどこかがずれてしまったとしか思えない事件だった。  ——そんなものだろうよ。  と、老人は思っていた。  ——人とは、ある日、突然に狂うものだ。  老人はそう考えている。  その理由も、他人にはわからない。  ふいに狂ってしまった人間を、老人は、これまでに何人か見ている。  数十年前、老人は兵隊として大陸に渡ったことがある。そこで、骨を削るような辛い行軍を何度もやった。  その行軍の最中に、老人の横を歩いていた男が、いきなり笑い出したことがある。そのまま男は笑いやまなかった。  笑っている男に気づいた上官に殴られても男は笑うのをやめなかった。男の目は、遠くを見ていた。  男は狂っていたのである。  その日の朝まで、老人と話をしていた男であった。何かの狂気が、人知れず少しずつ男の内部で育ち、ある日突然おもて[#「おもて」に傍点]に姿を現わす。他人はむろんのこと、本人もそれに気がつかないことがある。  ——人間のことはわからない。  どんな狂気をその内側に秘めているのか。  あの戦争も、巨大な狂気であったのだと今は思う。何故、人が人を殺せるのか。戦場で狂ったあの男こそ、正常であったのではないか。正常であったからこそ狂ったのだ。  だとするなら、あの戦争で狂わなかった本物の狂人たちが造りあげたこの世の中が、狂っていないわけはない。  あの時狂わなかった自分もまた狂っている。狂気を内に秘めたまま数十年を生き、こうして走っているのだ。  その狂気が、いつか自分の表皮を喰《く》い破り、外に出てくると老人は思っている。  さもなければ、ゆっくりと狂っていくのだ。�じょぎんぐ�などというまね[#「まね」に傍点]をしている自分がどこか信じられなかった。  ゆっくりとやってくる狂気——老化と闘うために始めた走ることが、いつのまにか習慣になってしまっている。習慣になってしまった走るというこの行為こそが、むしろ自分の老化を証明しているようであった。  五年前妻が死んでから始めたジョギングだった。  家には息子の嫁がいる。細っそりと痩《や》せていた自分の妻とは対照的に、胸も腰も発達した肉付きのいいよく笑う女だった。それなりの苦労はしているのだろうが、老人から見ると、まるでくったくがないように見える。  どうかすると、息子の嫁に男として欲望さえ感じてしまう。  今の若い者がうらやましいと思う。  この時代に生まれたかったとも思い、いや、やはりそうではないとまた思う。  この世に、とりたてて未練はない。  だが、自分の生命には執着がある。  死にたくない。死ぬのが恐かった。  人が、人生の終焉《しゆうえん》において、老化という狂気をくぐりぬけるのは、天が人にあたえた功徳ではないかとさえ思うことがある。  いつか、それほど先ではないある日、自分の中でなにかがぶつん[#「ぶつん」に傍点]とはじけ、狂い、幼児のようにだだをこねながら死んでいけたらと思う。  あの男——佐々木は、たまたまそれが早くきてしまったのだ。  ——一度くらいは声を返してやるのだったか、と思う。 �お先——�  そう声をかけてくる男に、声を返してやれなかったことが、わずかに心残りだった。  すぐ先に、病院の通りの入口が迫っていた。  いつもは佐々木が先に曲がり、それにだいぶ遅れて老人が曲がる。その角にさしかかった時、前方からジャージ姿の男が駆けてくるのが目に入った。時おりこのあたりですれ違う若い男だった。 「ご精が出ますな——」  老人は、思わずそうその男に声をかけ、角を左に曲がっていった。  人に声をかけたのは初めてのことであった。  男が、きょとんとした顔をあげた姿が、視界の隅に残っていた。  馬鹿なことをしてしまったと思った。  いくらか早くなったピッチを元にもどしながら病院の前を通り過ぎた時、老人の頭の中に、不思議な声が響いた。 �だめだよ、スピードをゆるめちゃ�  子供の声だった。 �もっとスピードをあげて�  小さな素足がアスファルトを踏む音が、ぴたぴたと背後で響いた。  老人は思わずスピードをあげていた。 �そうだよ。走るんだ、おもいきり�  老人は背後をふり向いた。  六歳くらいの子供が、にこにこ笑いながら後を追っていた。 �走れ� �走れ�  嬉々《きき》とした目で子供が言う。  そこへ立ち止まろうとした自分の気持とは別に、脚の動きが速くなっていた。  たちまち呼吸が乱れていた。  額にぶつぶつと汗がふき出してくる。 �いいぞ!�  声が言う。  背後から追ってくるあしおとが、軽い小さな音から、次第に、びたびたという重い音に変わっていった。  追って来る子供の体重が、急に増したかのようであった。  老人の脚が、ますます速く動き出した。  老人は後ろをふり返った。  追ってくるのは、子供ではなかった。  老人よりも背の高い大人の男だった。  だが、顔だけは、つい今見たばかりのあの子供のものであった。  走りながら追ってくる男の胴体の上で、子供の顔がおもしろそうに笑っていた。  首筋の毛が、どっと立ちあがっていた。      3  いくらかゆるんだ腹の肉をゆすりながら、ひとりの男が走っている。  午前六時。  人通りのないアスファルトの道を、男は、あたりに視線をくばりながら走っていた。  周囲に視線をやるのは、その男——久保正二の癖であった。  自分のジョギング姿を、あまり人に見られたくないのである。  勤め先の同僚にも、自分がジョギングしていることは黙っている。無駄肉を落とすために自分が走っていることを知られるのは屈辱であった。  走ることなど、少しも楽しくなかった。  早く起きるのも辛かったし、走るのはなお辛かった。  それを続けているのは、自身への矜持《きようじ》である。  己れで決めたことを守り通す、その意地だけである。  走り始めてから半年がたっていた。  自分のアパートを出て、この先にある踏切りまで行って、同じ道をもどってくる。およそ、往復で三キロのコースである。  痩せることが目的であるから、ジョギングパンツや、ランニングシャツは着ない。ジャージの上下を身につけている。この方が汗をかく。  汗をかけばその分だけ体重が減る。  半年で四キログラムを減量した。  この数字が多いものか、少ないものか、自分では見当がつかない。  苦労のわりには、体重が減っていない気がしている。  もっとも、汗を流した分だけ、自分の部屋にもどって水を飲んでしまうからだろうと思っている。汗をかいた後で水を飲まないのは、苦痛に上のせをするようで、とてもやれるものではない。とにかく走ることだけは続ける——自分で決めたことだからである。しかし、水のことまでは、その決めたことの外であった。  走ってみると、意外に仲間が多いことに気がついた。  年齢はまちまちであったが、よく顔を合わせる人間が何人かいた。  彼等のしっかりした足どりを見るたびに、重そうな自分の足どりがいやになった。彼等にはきちんとした目標と楽しみがあり、自分にはそれがない——その差が重い足どりとなって現われているようであった。  しかし、今、久保の足が重いのは、そのためばかりではなかった。  この十日ほどの間に、顔を覚えたジョギング仲間の人間が、ふたりも死んでいるからである。  死んだのは、佐々木竜夫というサラリーマンと、柴田源一という老人であった。  十日前に佐々木竜夫が死に、それから五日後に柴田老人が死んでいる。  佐々木が心臓|麻痺《まひ》、老人が自動車事故であった。  しかも、老人が死んだその日、何を思ったのか、老人はわざわざ自分に声をかけてきたのである。  これまで、すれ違うことはあっても、一度も声をかけ合ったことなどなかった。老人は、いつも、ぶすっとした表情で、前方を睨《にら》むようにして走っていた。  久保のことなど目にさえ入っていないようであった。  それが、その日、いきなり老人が声をかけてきたのだ。 「ご精が出ますな——」  わずかにそれだけの言葉ではあったが、やはり突然であった。  始め、久保は、老人が誰に声をかけたのかわからなかった。  それが自分に向かって発せられた言葉であることに気がついた時には、老人は、もう角を曲がってしまっていたのだ。  さぞかし無礼に思ったことであろう。  挨拶《あいさつ》を返すこともできない若僧が、と気分を害したろうと思う。  そう考えると気が重かった。  次に顔を合わせた時には、こちらから声をかけてやろうと思っていたところへ、老人の死が記事になった新聞がとどいたのだ。  自動車事故、といっても、落度は明らかに老人の方にあった。  記事によれば、老人は、両手を狂ったようにふりたくりながら、赤信号を無視して車道へ飛び出したのだという。  背後をふり返り、何か叫びながら飛び出したところへ、やってきた自動車にぶつかったらしい。  早朝であり、車がスピードを出していたため、老人は即死であった。  後ろを見ていたため、車にも気がつかず、おそらくは自分が死んだことにさえ気がつかなかったに違いない。  老人に、声をかけてやることができなかったという、そのことが、心残りであった。  走ってゆくと、やがて、数日前に老人と最後に会ったT字路が見えてきた。  今、久保が走っている道に、右からきた道がぶつかっているのである。  老人が死んでからの数日、そのT字路にさしかかる度に、久保は、不思議な衝動にかられた。  ふとそのT字路を曲がってみたくなってしまうのである。  その角にさしかかった時、久保は、何気なく視線をあげて、病院を左手に見るそのアスファルトの道を覗き込んだ。  少しその道を入り込んだ左側にある病院の病棟が見えた。  その病棟の四階にある病室の窓が開いており、そこに、女が立っているのが見えた。  遠目にも色の白いのがわかる、髪の長い女だった。  その女は、凝《じ》っと久保を見つめていた。  それを目にした時、自然に久保の足は、その病院通りに入っていた。  曲がったとたんに、女の姿は見えなくなっていた。  すぐ左側にある病院の塀のためである。  道の、もっと右側にコースをとれば、またその女が視界に入ってくるだろうが、それがためらわれた。  女を発見したとたんに、心臓の鼓動が早くなった。  久保は、むしろ女の視線から身を隠すように、左側の塀寄りにコースをとった。  それでも、そのコンクリートの塀越しに、女の視線が正確に自分を追ってくるような気がした。  病院を通り過ぎた時、ふいに、久保は自分の背後にあしおとを聴いた。  人間の素肌が、直接、アスファルトの路面を打つ湿った音だった。 �だめだめ、もっと元気を出さなくちゃ�  久保の頭の中に、誰かの声のようなものが直接響いた。 �さあ、まっすぐに、おもいっきり走らなくっちゃ�  子供の声だった。  久保は後方をふり返った。  久保は、細い悲鳴をあげた。      4  十月半ばの早朝。  午前六時——。  すでに陽が昇っているはずだったが、低く雲がたれ込めた空は、どんよりと暗いままであった。  空の暗さが、そのまま街の全体を包んでいる。これから明るくなっていこうとする朝の気配が感じられなかった。  久保正二に柴田源一が初めて声をかけたT字路の角に、着古したグレーのスーツを着た男が立っていた。  男は、口にタバコをくわえたまま、困ったような顔で空を見ていた。  タバコの灰の長さが一センチを越えていた。そこから濃い紫煙が筋となって昇り、男の顔の方にたなびいている。  男は、その煙が目にしみるらしく、何度も目を閉じては顔をしかめているが、そのタバコを捨てようとはしなかった。  何か考えているらしい。  男の名前は高部和男、刑事であった。  目つきだけがいやに鋭い他は、これといって特徴のないただの四十男だった。  この時間帯に、この近辺をジョギング中の男が、十日ほどの間に三人も死んでいるのである。  いずれも事故死であった。  どの事件についても、他殺の線は浮かんでない。だが、そのどの事件もが、どこか奇妙な要素を持っているのである。  最初に死んだ佐々木竜夫は、いつものジョギングコースから、四〇キロも離れた街で心臓麻痺。  次に死んだ柴田源一は、信号無視による交通事故死。  つい五日前に死んだ久保正二は、この先の屋敷のブロック塀に、全速力で走っていってぶつかり、頭蓋骨《ずがいこつ》骨折と全身打撲で、救急車が着く前にこの世を去っている。  久保正二の死が、一番奇妙であった。  この病院のある通りは、病院を通り過ぎた三〇〇メートルほど先で、ゆるく右へカーブしている。  走っていた久保は、そのカーブを曲がろうとせずに、真っすぐに走りぬけて正面のブロック塀にぶつかったのであった。  それを見ていた者がいる。  犬を連れて散歩中の、七十二歳の老人だった。  引いていた犬が、低い唸《うな》り声をあげて、初めて老人は久保に気がついたのだという。耳が遠くて、久保のあしおとに気がつかなかったらしい。  老人が気がついた時には、久保は、ブロック塀に、もう数メートルのところまで迫っていたという。 「危ないっ」  と、老人は叫んだが、その声が久保にとどいたかどうかはわからなかった。  久保は、無茶苦茶なスピードをそのままゆるめずに、前を向いたまま、塀に激突した。まるで、そこに塀があるのを知らぬかのように、ぶつかるまで、自分の身をかばうどんな動作もしなかった。  老人が駆けつけた時には、久保はまだ生きていた。  どくどくと血のふき出す頭をもちあげて、 「子供が……」  そう言ってなおも起きあがろうとし、走るような動作をしかけて、また前につんのめったのだという。  久保は、それから五分ほど生きていたらしい。その間中、うわごとのように何かをつぶやいていたが、老人には、それがどういう意味の言葉かまるでわからなかったという。 「何かにひどく怯《おび》えて、それから逃げようとしていたようだった」  犬を連れていた老人は、その時の久保の様子について、そう答えた。 「子供か——」  高部はそうつぶやいて、ようやくタバコを吐き捨てた。  靴底でそれをねじりつぶしながら、また暗い天に顔をむける。  犬を連れた老人は、その時、子供の姿も、大人の姿も見てはいない。いたのは犬と、久保と、老人自身だけである。  事故としてかたづけたい心境であった。  犯罪に関係する匂いはほとんどない。  ただ、奇妙さだけがある。  三つの事件に共通して言えるのは、三人が、このT字路を曲がり、そして二度と帰ってこなかった——つまり、死んでしまったことくらいである。  いや、共通していることがもうひとつあった。それは、その三人が、走っている最中に死亡——もしくは死亡にいたる事故に遭遇したことである。  だからどうだというのか——高部はそう思う。  どう捜査の見当をつけたらいいのか、それがわからない。  しかし、三人もたて続けに死んだとあっては、放ってはおけないのもまた事実であった。  三人の周辺を洗い、この時間帯にこの場所を通る人間たちに訊《き》き込みをし、それで何も出てこなければ終りである。 「四人目が出なければだがな——」  高部は声に出してつぶやいた。  この周辺で訊き込みを始めて、今日で三日目であった。  収穫はなかった。  暗い空から、地上に視線を落とそうとした高部の目に、病棟の四階にある開いた窓が止まった。  窓に女が立って、外を見ていた。  高部は思い出していた。  昨日と、一昨日も、あの女の同じ姿を高部は目撃していたのだ。しかも同じこの時間帯であった。  今日で三日連続である。  この三日間だけでなく、もっとずっと以前から、同じ時間に女がああやって外を見ていたとするなら、今回の事件に関する何かを目撃しているかもしれなかった。      5  高部が刑事であることを知ると、病院は、特別にということで、面会を許可してくれた。  病棟の四階、あの窓の開いていた部屋は、個室であった。  高部が部屋に入ってゆくと、窓辺に立っていた女が、高部に向かって軽く頭を下げた。先ほど、下の通りから高部が見た女である。  右側の壁に寄せて寝台が置いてあり、その上に、ひとりの男が横たわっていた。  点滴の最中らしかった。  寝台の横に点滴用の器具が立てられ、そこに吊るされたビンから、透明な細い管の中に、飴色《あめいろ》の液体が、ゆるい間をおいて無音の拍子《リズム》を刻んでいる。ちびちびと、出し惜しみをしながら、男の体内に生命の素《もと》を注いでいるようであった。  管の先にある針が潜り込んだ男の腕は、枯枝のように細かった。  病室特有の、甘い、尿の匂いに似た香りが部屋の空気に溶けていた。  男の名前は生田《いくた》丈二、今年で二十六になる。  生田久江というのが女の名前で、久江は、丈二のふたつ歳上の姉であった。寝たきりの丈二の下の世話を、彼女がしているのである。  どこかに踏切りがあるのだろう、高部の耳に、窓から小さく踏切りの鳴る音がとどいてきた。  その音は、男の血管に注ぎ込まれてゆく点滴のリズムに、不思議と似かよっているように高部には思われた。 「さっき、あなたがあそこに立ってらっしゃるのが見えました」  久江はそう言って、窓からT字路の角を指さした。  下で考えていたよりも、驚くほど眺めはよかった。  高部が何のためにやってきたのかは、受付からの内線電話で、すでに久江は承知していた。 「何でも訊いて下さい。弟の丈二にはどうせ聴こえませんから——」  二十年ほど前の九月に、丈二は路上で車にはねられ、それ以来、寝たきりなのだという。俗に言う植物状態であった。  身体も自分では動かせず、意識もこれまで一度ももどってないという。  このベッドの上で、丈二は二十年をすごし、そして、子供から大人へと成長したのであった。  食事は、鼻から管で、直接胃まで流動食を流し込む。医学的にはマーゲンサクションと呼ばれる方法である。そして、必要な栄養を、定期的に点滴で血液の中に送り込む。  ずっとそれだけで、丈二はこの二十年間生きてきたのである。  母親は、三年前にこの世を去り、今は父親の収入だけでなんとかやっているのだという。  久江は、ひかえめな声で、それだけを簡単に高部に語った。 「今度の事件のことは、御存知ですね——」  高部は訊いた。 「はい」  久江が、うなずく。  高部は、形式的なことだがと前置きして、今度の事件に関係のありそうなことを、この窓から目撃したかどうかを訊《たず》ねた。 「三人の方の姿は、時々この窓から見たりしましたが、事件に関係のありそうなことは、何も見ていません」 「どんな小さなことでもいいんですが——」  久江はしばらく何かを考えるように口を閉じ、そして、何事か思い出したようにしゃべり出した。 「あの朝——」 「あの朝?」 「久保さんが死んだ朝ですが、あの日、久保さんの様子が少しおかしかったみたいなんです——」 「どういうことですか」 「久保さんは、いつもこの前の道は走らないんです。いつもは、向こうから走ってきてそのまま真っすぐ走って行くんですが、あの朝だけは、久保さんはこっちへ曲がってきたんです。自分でも、最初は曲がろうかどうか迷ってたみたいだったんですが、それが急に——」 「彼が、いつもとコースを変えたのは知っています。私が知りたいのはその時の状況なんですが、久保さんは、あのT字路で、こちらへ曲がるかどうか迷ったあげくにこっちのコースを選んだというんですね」 「いいえ、そんな風に見えたというだけです。迷ったあげくというのとは、少し違うようでした。立ち止まって迷ったわけではなく、走りながらどうしようかと考えて、そのまま、何かに誘われるみたいにこっちの道に——」 「その時、他に、誰かの姿は見ませんでしたか——」 「いいえ、誰も——」  高部は、窓から首を出して外を眺めた。  久保がブロック塀にぶつかった現場も、この窓からは見えなかった。  高部はさらに久江に色々訊ねてみたが、特に新しい情報は得られなかった。  高部は重い溜息《ためいき》をついた。 「すみません。お役にたてなくて」  久江が言った。 「いいえ。もともと、何か出てくると期待してたわけじゃありませんから」  高部は、恐縮して久江の顔を見た。  線の細い、色の白い娘だった。  知的で美人のはずなのに、華やかな感じが希薄だった。全体に暗い影がある。  それは無理もなかった。  ほどほどに、他の人間と代わりながら弟の面倒をみてきたのだろうが、誰でもできることではない。 「たいへんですね」  高部は言った。  久江は小さく笑った。 「この夏頃から、まぶたの下で、弟の眼球が時々動くようになったんですよ」 「ほう」 「もしかしたら、いつかはなおるんじゃないかって、そんなことも考えたんですけど——」  久江は自嘲《じちよう》ぎみに淋《さび》しく笑った。  高部は、背を向けかけ、思い出したように久江に訊ねた。 「つまらないことを訊きますがね、あなたは、その窓から、いつも何を見ているんですか」 「わたし、朝が早いんです。それと、朝早いと、この下の道を何人かの人がジョギングで走って通るんです。わたし、その人たちの姿を見るのが好きで——」 「へえ」 「弟が、もし元気だったら、きっと、あんな風に走ってみたいんだろうなって、そんなこと考えてしまうんです。見ているうちに元気で走っていられるあの人たちが、うらやましくなってしまうんですけど——」  久江は、軽く言葉を切って、ベッドの上の丈二の顔に目をやった。  毛布の下から、ブルーのストライプの入ったパジャマの襟が見えていた。 「今月に入ってから、朝、時々、弟が笑ったような表情をすることがあるんです。ほんとにごく微かなんですけど。お医者様は気のせいだって言うんですけれど、わたし、もしかしたら弟が楽しい夢を見てるんじゃないかって思うんです」 「夢ですか」  高部は、丈二の顔を見ながら、そんなこともあるのかもしれないと、重い息を吐いた。 「ええ」  嬉《うれ》しそうな表情をわずかに見せて、久江がうなずいた。 「自分の脚で、おもいきりどこかを駆けてる夢を見てるんじゃないかって——」      6  高部が病院の外に出た時には、時計は七時半をまわっていた。  通行人の数が増えていた。  気のせいか、空が明るさを増しているようであった。  ——この事件はもう終りだ。  高部は声に出さずにつぶやいた。  ——もともと、始めから何もありはしなかったんだ。  そう自分に言いきかせる。 「ジョギングか——」  久江の言葉を思い出しながら、高部は声に出してつぶやいた。 「おれもやってみるか」  急に、走り出したい気分になった。  軽く足を前に出して、高部はゆるく走り始めた。 �もっとだよ�  ふいに、高部の頭の中に、子供の声が響いた。 �もっと速く走って!�  はっきりと聴こえた。  そして、後方から聴こえてくる小さな素足のあしおと——。  高部は、自然に自分の脚が速く動き出すのを感じていた。 �そう� �そう�  楽しくてたまらないように、声が言う。  高部は、後方をふり返った。  小さな六歳くらいの子供が、にこにこと高部に微笑みかけながら走っていた。  パジャマ姿であった。  見覚えのあるブルーのストライプが入っていた。  子供の顔が、ふいに変化し、大人の顔に変わった。  今、ベッドで見たばかりのあの青年の顔であった。  その青年の顔が、きゅうっと唇の両端を吊りあげて笑った。  ぞっとする笑みであった。  高部の全身の体毛が、立ちあがっていた。  高部は、自分の身に何がおこったのか、死んだ三人の身に何があったのか、瞬時に理解していた。  止まろうとしたが、脚は自分のものではないように動く速度をあげていった。  通行人が、あきれた顔で高部の顔を見ていた。彼等には、高部の背後から走ってくるもの[#「もの」に傍点]が見えていないのだ。  自分の顔は、今、ひきつって歪《ゆが》んでいるに違いないと高部は思った。  T字路を、凄《すご》い勢いで曲がった。  数人の通行人を突き飛ばしていた。  さらに走り、高部は左に曲がった。  前方に踏切りが見えた。  カン  カン  と音をたてて、遮断機が下りてくるところだった。  おそろしい恐怖が、高部の全身を貫いた。 「ひいっ!」  ひきつった叫び声をあげ、後方をふり返り、夢中で両腕をふりたくった。  大人の身体の上に乗った子供の顔が、上気して、楽しそうに笑っていた。  遮断機を跳び越え、高部の身体は軽々と踏切りの真ん中に躍り込んでいた。 [#改ページ]   ことろの首      1  ひと[#「ひと」に傍点]をからかうのはおもしろい。  友人と、そこにいない誰かの悪口を言うのもまた実に楽しい。  とくに意味などはない。  おもしろいからやるのである。  気の合った仲間と、鍋《なべ》をつつき、酒を飲みながらの他人の噂話はもう最高である。これほど楽しい娯楽は、ちょっと他にないのではないかと思う。  少なくともおれはそう思っている。  もう少し具体的に言ってしまおうか。  おれたちサラリーマンにとって、気心の知れた同僚と、酒を飲みながら上司の悪口を言うというのは、何ものにもかえられないお楽しみ[#「お楽しみ」に傍点]のひとつなのである。  悪口、と言っても、ただ悪口を言うだけではつまらない。できるだけおもしろく、その場がどっと盛り上がる悪口がいいのだ。どう話をねじ曲げようと、どう誇張しようと、むろんそれはかまわない。  相手がおもしろい冗談を言うと、もっとおもしろい冗談を言いたくなるのが人間であり、悪口にも熱が入ってくる。  燃えてくるのである。  相手よりもっときつい冗談を言ってやろう、もっとひどいことを言ってやろうと思う。当っている冗談ほどおもしろいのだ。  相手だってそうである。  勢い話はエスカレートする。  話題になっている上司について、自分だけが知っていて相手の知らないできごとを、おもしろおかしく吹聴するのは、まことに痛快なのである。  特に愉快なのは、当人を目の前にして、数人でその当人の悪口を言うことである。  むろん当人にはわからないように言う。  ある架空の人物を設定して、そいつの悪口を言うのである。  しかし、まるでわからないように言うのではつまらない。当人が、もしかするとおれのことを言っているのではないかと思うくらいにはやるのである。  これを上司に対してやる時は、ぞくぞくしてまさに生命がけ[#「生命がけ」に傍点]、お楽しみの極致である。ヘタをすれば出世にも影響してくるのだ。  その危険を冒してやるところに、この遊びの醍醐味《だいごみ》があるのである。  鈍いやつでも、これをやられているうちに、こいつはもしかすると自分のことではないかと気がつく。  しかし、まさか、とも思う。  座は大いに盛り上がっているのである。  当人を目の前にして、当人の悪口を言うわけはないじゃないか——そういう心の動きがこちらには手に取るようにわかる。おもしろい。  だが、それは自分のことかと訊《き》くわけにはいかない。  もし訊かれてもこちらはとぼけるだけである。  ついには、当人に自分の悪口を言わせてしまうのである。 「どう思われますか」 「——うん、何と言ったかな、そいつ、まああまりたいした男ではないだろうな」 「でしょう」  どどっと御当人のコップにビールを注ぐのである。  当人は何とか帰るきっかけをつかもうとする。  煙草の本数が多くなり、便所へ立つ回数が多くなる。  そのトイレにまでついてゆく。  便所からもどってきた上司が、それじゃこれで、と言い出す前に、酔ったふりをして抱きついてしまう。 「ボク、課長の下で働けて、幸福《しあわせ》でえっす」  席につかせて、 「ビールもう三本ね」  大声で追加の注文をする。 「カチョー、一杯どーぞ」  仲間が高い声で、また、課長氏のコップにだばだばっとビールを注いでしまうのである。  絶対に帰さないのである。  さんざ楽しんでから、やっと解放してやるのである。  上司が帰ってからがまた楽しい。  今までの上司の有様を、みんなで再現しては笑い合うのである。  数人も仲間がそこに集まっていると、中にはものまねのうまいひょうきんな男がいて、必ず、たとえばそのいなくなった課長氏のまねを始めるのである。  そのひょうきんな男が立ちあがると、たちまちやんやの喝采《かつさい》があがる。  ひょうきんな男は唇を尖《とが》らせ、左手の親指をベルトの中に差し込み、胸を反らせる。  課長のまねである。 「仕事というのはだな、キミ——」  声色をまね、右手でぱんとカウンターを叩《たた》く。  まさにその瞬間に、何か忘れ物をした課長氏がもどってきたらどうなるか——。  教えてあげよう。  そのひょうきんな男は、翌日から次の休日が来るまでの地獄のような一週間を、暗澹《あんたん》たる気持ですごし、休日になって、ふいに思い立ってふらりと山へなど登ってしまうのである。  実は、そのひょうきんな男というのは、このおれのことなのだ。      2  春山である。  久しぶりの入山だった。  考えてみれば、大学を卒業してからの五年間、あれほど登っていた山に、ほとんど登らなくなっていたのだ。その回数は片手の指で数えられるほどである。しかも、その半分以上は、入社した最初の年に登ったものであった。  この二年近くは、登山靴に足を突っ込んだことすらなかったのだ。  仕事に追われ、いつの間にか、山との距離が遠のいていたのである。  週末は、仲間と酒を飲むか、雀卓《ジヤンたく》を囲むことの方が多かった。  気の合った女と、楽しい週末をすごすことができた時期もなかったわけではないが、その期間は悲しいほど短いものであった。  女にはほとんど縁がないまま、いまだにおれは独身である。  週休二日——。  それが月に二回ある。  おれの勤めている会社の取り柄はそれくらいである。  今週が丁度、その週休二日の週にあたっていた。  昨夜、金曜の晩に東京を出、電車とバスを乗り継ぎ、今朝から登り始めたのである。  歩き出して一時間がたっていた。  背中に薄く汗をかいていた。  身体が、重く火照っている。  だいぶ肉体がなまって[#「なまって」に傍点]いるのである。  五年で五キロも太っていた。  呼吸も荒くなり、疲れてはいたが、おれは休まなかった。  これまでだらけていた自分を、鞭打《むちう》つようにして登った。自分に、まだどれだけの体力があるのか、それを試すつもりだった。  久しぶりに担いだザックのベルトが、肩に喰《く》い込んでくる。  歩き出した時にはなつかしかったその重さが、今は、はっきりと苦痛に変わっていた。  体力はなくなっても、山で必要な物の量は変わらない。五年前と、ほぼ同じだけの重量がおれの肩にかかっているのである。その同じはずの重量が、倍近くも重く感じられた。  風は冷たかった。  天気は良かったが、山の稜線《りようせん》や谷の奥には、まだ雪が残っていた。それほど高い山ではなかったが、それでも頂上とそこから続く稜線は、二五〇〇メートルを越えている。  そこではまだ冬である。  おれは、その稜線に向かって、うねうねと続く谷沿いの道を登っていた。  新芽のふきこぼれ始めたシラビソの林の中には、処どころに、冬の顔をした雪が残っていた。裸に剥《む》かれた女が、白い肌をさらしてそこにうずくまっているように、どこか傷々《いたいた》しい白だった。  飯零《いこぼ》し山——。  それが、南アルプスの北西にあるこの山の名前である。  昔から、鳥獣が多く、かつては多くの猟師が、この山の中に小屋をかけ、獲物を獲っていたらしい。  時には、食事をする間もないほど、獲物がよく獲れたという。食事をしているすぐ目の前に、獣が姿を現わしたりするそうである。  飯零し山は、そこからきた名称だという。  まさか、野生の獣が、のこのこ猟師の前に鼻面を突き出したりはしないだろうが、それだけ獣が多かったということなのだろう。  おれにとっては初めての山である。  学生時代から、一度は来たいと思っていた山だった。  それが、おかしなきっかけで、こうして実現してしまったわけである。  ——あの晩。  課長は何も言わずにおれの顔を見、皆の顔を眺め、黙ったままカウンターの上の自分のライターを拾いあげ、店を出て行ったのである。  いきなり、怒り出すかと思っていたが、照れたような、おどおどした笑みを、課長は口元に浮かべていた。しかし、目だけは笑っていなかった。困ったような、哀しそうな目をしていた。  課長が出て行ったあと、いっぺんで座は白け、全員は悪酔いをし、おれは激しく落ち込んでしまったのである。  部下にはうるさく、上役には揉《も》み手をする気に入らない課長ではあったが、おれは、何故かひどく悪いことをしてしまったのだと思った。  家には、年上の奥方と、中学生になる息子がいるのだという。  その課長が、あの晩のことなどまるでなかったことのように、いつものごとく振る舞っているのを目にし、おれはさらに激しく落ち込んだのである。  変わったことと言えば、一日に一度はやっていた、あの晩おれがやりかけたあのポーズを、まったくしなくなったということくらいである。  そこが、おれには何とも傷々しく、またおそろしく不気味でもあった。  そのプレッシャーが耐えがたくなり、仲間の麻雀《マージヤン》の誘いを断わって、おれは久しぶりに山に登ってみる気になったのだ。  山に登れば、この落ち込んだ気分も、少しはどうにかなるかと思ったのである。  だが、いくら登っても、気分は暗いままであった。  残雪の匂いも、新芽の香りも、おれの気持をうきうきさせてはくれなかった。  おれの頭に浮かんでくるのは、あの晩の、課長の哀しそうな、おどおどした目つきばかりであった。  いっそのこと、謝ってすむものなら、そうしたかった。しかし、謝るタイミングは完全に逸してしまっている。また、謝って、ますます、話がこじれる可能性もある。 「何のこと、それ? ああ、あのことね。あんなことわたしは気にしてないよ」  ヘタな演技でそうとぼけられるのはますます困る。  課長もおれも、こういうことは必ず根[#「根」に傍点]に持つ、根の暗いタイプの人間であることがわかっているからである。  午後になって、空が曇り始めた。  天気までが、おれの気分に合わせているかのようである。  いずれ雨になりそうであった。  稜線へ出、尾根を歩いて今日中に頂上に向かうつもりだったが、何もない吹きっさらしの稜線で雨にやられるのはたまらない。  予定のコースを変え、手前の飯零し峠を越えて、ひとまず山の向こう側へ出ることにした。  地図で見ると、あまり使用されていない道らしかったが、こんな気分の時に雨に濡《ぬ》れるのは、ますます自分がみすぼらしくなる。峠を下れば、今晩泊まるはずの山小屋には、一時間は早く着く。  頂上に向かうのは、天候次第だが、明日でもいい。  しかし、雲の動きは、おれの予想よりも遥《はる》かに速かった。  雨が降り出したのは、おれがまだ峠に出る前であった。  峠の手前でポンチョをかぶった。  峠に出た時には、信じられないほどの、どしゃ降りになっていた。  防水力の落ちたポンチョは、たちまち紙のようになり、冷たい水がセーターを透しておれの肌を濡らした。  半ばやけくそで、おれは峠を下った。  腹が立つほど何度もすっ転んだ。  雨で濡れた木の根に登山靴の底が乗ると、おもしろいように滑るのである。  おれは、ずくずくの泥まみれになっていた。  寒かった。  しかし、立ち止まるのは、もっと寒い。  どうせ雨の中にいるのなら、歩いている方がまだ温かかった。とにかく、どんなに濡れようが山小屋に着いてしまうつもりだった。  おれは、山小屋で身体を乾いたタオルでぬぐい、濡れた下着を新しい下着と取りかえ、熱い茶をすすることだけを頭に描いて足を速めた。だが、どれだけ歩いても山小屋は見つからなかった。到着予定時間を、一時間オーバーしても、まだ山小屋に着かないのだ。  おそろしい予感がおれの頭をかすめた。  ——どこかで道を間違えたのか。  コースをはずれてなければ、どんなに雨が降っていようと、小屋に気づかずに通り過ぎるということなど、まずない。  雨が降っているとはいえ、通常よりはずっと速いペースで歩いてきたのだ。地図に記された時間よりはずっと早く小屋に着くはずであり、誤差があったとしても、せいぜいが十分か十五分である。  考えられることはひとつだった。  道を間違えたのだ。  雨の中で、おれは立ち止まっていた。  新芽の出たシラビソの梢《こずえ》を叩《たた》き、絶え間なく冷たい雨がおれの上に降り注いでくる。  体温が急速に奪われてゆくのがわかった。  おれの身体を包んでいたぬるい湯が、どんどん冷たい水にかわってゆくようであった。  おれの身体を包んでいるのは、冷気と、そして低い地鳴りのような雨の音であった。その音が、まったく無音の状態よりも、さらに深山の静寂を深めていた。  途方に暮れたおれの耳に、奇妙な音が聞こえていることに、おれはふいに気がついた。  雨の音に混じり、その音が微かに聞こえている。  いや、それも雨の音には違いなかった。  だが、それは、シラビソの林を叩き、梢を濡らし、地面に降り注ぐ雨の音ではなかった。  それは明らかに、金属、それも、おそらくはトタンを叩く雨の音であった。      3  おれの目の前で、黄色い炎が揺れていた。  おれの身体は、濡れて気持の悪い下着ではなく、乾いた新しい下着に包まれていた。  この小屋を見つけ、濡れたものを脱ぎ捨てて乾いたものを身に着けた時には生き返る思いがした。今までおれが着ていたものは、パンツからセーターまで、小屋の中にロープを張って、そこにかけてあった。  奇妙な小屋であった。  木造りで、屋根だけがトタンでできていた。  床は、全部が土間になっており、広さは十二畳ほどである。部屋の隅に薪が積んであり、その近くに黒くなった鍋《なべ》とヤカンが転がっていた。  他には何もない。  小屋の内部に、強い獣臭が満ちていた。  そして、生臭い血の匂い。  猟師がかけた猟師小屋のひとつであるらしかった。  この小屋で、獲った獲物の皮を剥《は》いだり、肉を調理したのであろう。  放置されたままのように見えるが、時おりは使用されているらしかった。そうでなければ、これほど強い獣臭がするはずはない。  猟師、と言っても、それを生業《なりわい》としているものは、現在ではいない。この小屋も、地元のハンターか、農業か他の仕事の合い間に獣を獲《と》っている地元の人間が建てたものであろう。  あそこで立ち止まらなければ、おそらくこの小屋の存在に気がつかなかったに違いない。思いがけなく近い林の中にこの小屋を見つけなかったら、今頃は、まだ雨の中をうろついていたかもしれないのだ。  雨が、まだ激しく屋根を叩いていた。  おれは、土間の上に胡座《あぐら》をかき、不思議と落ち着いた気分で炎を見つめていた。  火を熾《おこ》し、黄色っぽい炎を眺めているうちに、おれを捕えていた苛立《いらだ》たしい気持が、嘘のように退《ひ》いていったのである。  雨の音さえもが、今はなつかしかった。  食料は充分にあったし、自炊の道具も揃っている。  迷ったとは言っても、同じ道をもどることはできる。それほど悲観した状況ではない。今日よりもっとひどい山をやったことは、何度もあった。むろん、五年以上も昔の話ではあるが——。  こうなってみると、予定していた山小屋に泊まるよりも、こちらの方がよかったような気さえしていた。  夜になり、食事をすませてしまうと、もうすることがなかった。  おれは、持ってきたウィスキーの口を切り、濃いめのホットウィスキーにして飲んでいた。  雨はまだ止まなかった。  獣臭と血臭の混じる、おどろおどろしい気配が、小屋の内部に満ちていた。闇の重い圧力が、ひそひそとおれの身体を押し包んでいる。  都会では味わえない、はらわた[#「はらわた」に傍点]まで届いてくる孤独感である。  闇に満たされたはらわたの中で、ウィスキーを流し込んだ胃のその部分だけが、ぽっと火を点《とも》したように火照っている。その小さな火を腹の中に抱えながら、おれはぼんやりと炎を見つめていた。  どのくらい時間がたったのだろうか。  ふいに、小屋のドアの軋《きし》る音が響いた。  おれが顔をあげると、そこに、のっそりと大きな影が立っていた。  髭面《ひげづら》の男であった。 「こんばんは」  と、野太い声で男が言った。 「やっと満月の晩ですね」  言いながら、のっそりと、入口につかえそうな巨体をゆすりながら、男が入ってきた。  太い唇に、人なつっこい笑みを浮かべて歩いてくると、炎の前にどっかりと腰を下ろした。  いかにも慣れた仕種《しぐさ》であった。  どこかの飯場から、そのままぬけ出してきたような格好をしていた。  おれは、この男がこの小屋の持ち主なのかと思った。 「すみません。雨に降られてしまって、勝手に小屋を使わせてもらいました」  おれは頭を下げた。  だが、おれの言葉にはまるで関心がないように、男はにっと笑っただけだった。 「雨はもう止んじまってるよ」  男が言う。 「え」  おれは思わず、トタン屋根を見あげた。  さきほどまで聞こえていた雨の音が止んでいた。  いつの間に止んだのだろうか。  おれは、穴の底から夜空を見あげる獣のように、呆《ほう》けた顔で、炎の灯りにぼんやりとくすんで見えるトタン屋根を見つめていた。 「おい」  と、男の声がした。  顔を下げて男を見ると、黄色く男の目が光っていた。 「そいつをおれにも飲ませてくれないかね」  男の視線は、おれの膝《ひざ》の先に転がっている、ウィスキーのビンに注がれていた。 「どうぞ——」 「気が利くねえ、あんた」  男は、大きな身体で四つん這《ば》いになって焚《た》き火を回り、おれの右横までやってくると、ウィスキーのビンを手にとった。 「もうすぐみんな集まってくるからね。みんな、こいつを見たら喜ぶぜ、きっと」  唇を、大きく左右に引いて笑みを浮かべた。  黄色い歯が見えた。      4  男は、ビンの口に、直接厚い唇をあてて、ウィスキーを飲んだ。  かーっ  目を細めて熱い息を吐く。 「はらわたまでずんとくるね」  ビンを土の上に置き、腕で唇をぬぐった。かなりの量が減っていた。 「みんなの分を残しておかなくちゃあな」  おれを見て、ぬめり[#「ぬめり」に傍点]と笑った。  その時、また、入口のドアの軋る音が響いた。  そこに、赤いワンピースを着た女が立っていた。 「こんばんは」  少し尻上《しりあ》がりの高い声で言った。 「こんばんは」  おれの横に座っている男が、野太い声で答えた。 「満月の晩ですね」 「満月の晩ですね」  ふたりで同じ言葉を口にした。  女は、おれの左横までやってくると、おれの身体に身をすりよせるようにして座った。  きれいな女だった。  線は細いけれども、はっきりとした貌立《かおだ》ちをしていた。肌の色が抜けるように白い。キラキラした黒い瞳《ひとみ》をおれに向け、次にその視線をウィスキーのビンに移した。 「あら——」  白い指を伸ばし、ウィスキーのビンを握った。 「赤虫《あかむし》、それはこちらの兄さんのものだよ。欲しければ、こちらの兄さんにことわってから飲みな——」 「あなたはもういただいたの、黒男《くろお》」 「少しだけどよ」  黒男と呼ばれた男が、女に答えた。  女の名前は赤虫というらしい。 「どうぞ」  おれが言うと、女——赤虫の赤い唇の両端がきゅっと吊りあがった。切れるような笑みだった。白く、尖《とが》った歯が並んでいた。  いきなり赤虫がおれの首に両腕をからめ、唇を合わせてきた。避けようのない素早さだった。  柔らかなぬめりがおれの唇にかぶさった途端、鋭い痛みがおれの唇に跳ねた。  女が顔を退いた。  女の唇に赤いものが付いていた。  おれは右手の甲で自分の唇をぬぐった。右手の甲が赤く染まっていた。血であった。  女が、鋭い歯でおれの唇を噛《か》んだのだ。  舌でぬぐうと、血の味が口の中に広がった。 「またやったな」  黒男が言った。 「ごめんなさい。わたし、嬉《うれ》しいとすぐ噛んじゃうのよ」  ピンク色の舌で、赤虫は、自分の唇に付いたおれの血を、おいしそうに舐《な》めあげた。  生臭い女の息が、薄くおれの顔にかかる。  いったいこのふたりは、何なのか。おれは、ふいにおそろしくなった。  その時、ドアの開く音がして、こんばんはと頭を下げながら、三人の人間が入ってきた。 「満月の晩ですね」 「満月の晩ですね」 「満月の晩ですね」  三人が言った。 「満月の晩さ」 「満月の晩よ」  黒男と赤虫が答えた。  三人は思い思いに焚き火の周囲《まわり》に腰を下ろした。  ずんぐりした男と、長身の茶色のスーツを着た男——そして白い服を着た女。  白い服を着た女は、赤虫という女よりも若く、まだ、あどけない顔をしていた。 「いい匂いがするじゃないか」  ずんぐりした男が言った。 「酒の匂いだね」  スーツを着た男が言った。 「ウィスキーよ」  白い服を着た女が言った。 「牙一《きばいち》、角太《かくた》、耳緒《みみお》、これでみんなそろったな」  黒男が言った。 「そろったわね」  と、赤虫。 「うん」 「そろった」 「そろったわ」  三人が答える。  ずんぐりした男が牙一。  茶色のスーツを着た男が角太。  白い服を着た女が耳緒。  それが三人の名前らしい。  おれの隣りの赤虫の横に角太、その横に牙一、その横に耳緒、その横に黒男、そして黒男の横におれが座って焚き火を囲む形になった。  奇妙で、賑《にぎ》やかな酒盛りが始まった。  得体の知れない連中だったが、酒がまわってくるにつれ、そんなこともだんだん気にならなくなってきた。  一本目がたちまちなくなり、おれがとっておきの二本目の小ビンをザックから取り出すと、皆は手を叩《たた》いて喜んだ。 「酒が入ると傷がうずくねえ」  赤い顔をして角太が言った。 「うん」  顔をしかめて、黒男が太い声をあげた。 「傷がね」 「傷がね」  数人がうなずいた。 「そろそろ始めましょうよ」  赤虫が高い声で、思い出したように言った。 「うん、始めよう」  牙一が、嬉しそうに身を小刻みにゆすった。 「始めるって?」  おれが訊《き》くのと同時に、手拍子が鳴り始めた。  赤虫が手を打ち始め、それに合わせてたちまちみんなが手を叩き出したのである。  しゃん  しゃん  しゃん 「あなたもやりなさい」  手を打ちながら赤虫が言う。  誘うように皆が手拍子を打つ。  おれも、彼等の仲間に加わって、手を打ち始めた。  しゃん  しゃん  しゃん  急に楽しくなってきた。  全員が、互いの顔を見合わせながら、顔中に笑みを浮かべている。  唄《うた》が始まった。  こおとろ  ことろ  くびをとろ  くびがおしけりゃ  みせやんせ  くびがおしけりゃ  だしやんせ  さあさ みせねば  くびがとぶ  さあさ ださねば  くびがとぶ  手拍子に合わせて、全員が合唱する。  童謡とも民謡ともつかない不思議な節まわしだったが、覚えやすいものであった。  それを何度も繰り返して唄うのである。  三度目からは、おれも、皆に合わせて声に出して唄うことができた。 「最初は誰だ?」  黒男が叫ぶ。 「そこのお兄ちゃんは一番後だな」  牙一が言う。 「じゃ、わたしから!」  おれの横で、赤虫が立ちあがった。 「よう!」 「赤虫」 「いいぞ」  声があがる。  しゃん  しゃん  と、手拍子が鳴った。  こおとろ  ことろ  くびをとろ  手拍子に合わせ、赤虫が身をくねらせながら服を脱ぎ始めた。  くびがおしけりゃ  みせやんせ 「あ、見せやんせ!」  と、全員が手を打って声をはりあげる。  赤虫の服が土の上に落ちた。  赤虫はその下に何も身に着けてはいなかった。白い裸をくねらせて、赤虫が踊る。 「見せやんせ!」  皆が声をそろえる。  赤虫は、両手で乳房をすくいあげるようにして、皆の前に腰を突き出した。  白い太股《ふともも》の内側に、炎の色が揺れる。  淫《みだ》らな眺めだった。  赤虫は、腰を突き出したまま、両脚を大きく開き、両手を股の内側にあてて、さらにそこを押し開いた。  赤い淫らな肉の色が覗《のぞ》く。 「違う違う!」 「そこじゃない!」  皆が笑いながら、口々にはやしたてる。  赤虫はにっこり笑いながら皆に背を向けた。  その背中に、ぞっとするような傷痕《きずあと》があった。  赤黒く肉のはじけた痕——。  銃で打たれた傷痕のようであった。 「そうだ、そうだ!」  黒男が声を高くした。  しゃん  しゃん  手拍子が鳴った。  くびがおしけりゃ  だしやんせ  さあさ みせねば  くびがとぶ  さあさ ださねば  くびがとぶ  皆が唄う。  その唄に合わせて、赤虫はぴょんぴょんと跳びはねながら舞い始めた。すごい跳躍力だった。  跳ぶたびに背を丸めるのだが、その背が屋根のトタンに今にも触れそうになる。  赤虫の踊りが終った。 「さすがは赤虫だな」 「そうね」 「これなら首はとばないね」 「うん、とばない」  まだ手拍子をとりながら、皆が言う。 「さ、次は?」  手を叩《たた》きながら、赤虫が、裸のままおれの横に腰を下ろした。 「おれだよ」  赤虫の横の角太が立ちあがった。  しゃん  しゃん  手拍子に乗せて、また唄が始まった。  そのリズムに合わせて、角太が服を脱ぎ出した。  こおとろ  ことろ  くびをとろ  くびがおしけりゃ  みせやんせ  角太がシャツを脱ぎ捨て、襟の下に隠れていたものを露《あら》わにした。  今の赤虫の背にあったのと同じ、不気味な傷痕がそこにあった。 「痛かったか?」  手を叩きながら黒男が問いかける。 「痛かったよ、うんとね」  踊りながら角太が、答えると、皆が、手拍子を打ちながら�おお�とか、�ああ�とか、悲鳴に似た声をあげる。  そして、角太は全裸になり、先ほどの赤虫のように、跳びはねるような踊りを始めた。  やはり、驚くほど高く跳ぶ。  おれには、ようやくこのゲームのシステムが呑《の》み込めた。  まず、唄が始まり、服を脱ぎながら、�みせやんせ�のところで、自分の身体のどこかにある傷痕を見せればいいのである。  次に�だしやんせ�で、自分の持ち芸を演じて見せる——それを順ぐりに皆に回していくのがこのゲームのやり方なのだろう。  角太の踊りが終った。 「うーん」 「いまいちだな」 「そうよね。跳びはねるのは、今赤虫がしたものね」 「そうね」  皆が手拍子をしながら言うと、角太の顔が青くなった。 「だめだな」 「首がとぶね」 「うん、首がとぶ——」  そう牙一が言い終える寸前、角太の首が、ごろん、と音をたてて土の上に転がった。  首のない両肩の間から、ざっと血がしぶいた。温かく生臭いそのしぶきがおれの顔にも飛んだ。  自分の首の上に、どっと角太の裸体が倒れ込んだ。 「きいっ!」  おれの前に座っていた耳緒が、ぴょんと角太の屍体《したい》に飛びついた。  可愛い顔が歪《ゆが》み、目が吊り上がっていた。  小さな歯で、角太の肉にかぶりついた。 「ごうっ!」  と吠《ほ》え、おれを残した全員が、角太の屍体に襲いかかっていた。  全員が、がつがつと、角太の屍体を貪《むさぼ》った。  凄《すご》い血の臭いだった。  歯の下で噛《か》み砕かれる骨の音——。  血肉をすする湿った音——。  おれは声もあげられなかった。  立ちあがろうとしたのだが、足が動かなかった。完全に腰がぬけてしまっているのである。  皆が顔をあげた時、角太の屍体の肉の、半分近くが失くなっていた。  屍体をそこに残したまま、全員が、また元の位置に腰を下ろした。 「さ、また始めましょうかね」  血だらけの唇で黒男が言って、手を叩き始めた。  しゃん  しゃん  しゃん  こおとろ  ことろ  くびをとろ  くびがおしけりゃ  みせやんせ  くびがおしけりゃ  だしやんせ  さあさ みせねば  くびがとぶ  さあさ ださねば  くびがとぶ  牙一がのっそり立ちあがる。  手拍子が一段と高くなった。  おれは生きた心地がしなかった。  おれは、歯をガチガチ鳴らしながら、手拍子を打っていた。      5  だんだんとおれの順番が近づいてきた。  今、服を脱いでいるのは黒男である。次はおれの番であった。  これまで、何度も逃げようとしたのだが、その隙がなかった。  小便をしたいと言って席を立っても、必ず誰かがついてくるのである。  小便がすむまで、背後に凝《じ》っと立って待っている。  とても逃げ出せるものではなかった。  大きく両腕を振り、足を踏む黒男の踊りが終った。 「ステキだったわ」 「さすがは黒男だ」 「これなら首はとばないわね」 「うん、とばない」  黒男がおれの横に座り、また手拍子が始まった。  しゃん  しゃん 「次は誰だい?」 「そこのお兄ちゃんだよ」  光る目で黒男がおれを見た。  おれはもうたまらずに立ちあがっていた。  悲鳴をあげて逃げ出したかった。 「どうしたんだい、お兄ちゃん」  黒男が言った。 「しょ、小便に行きたくなってさ——」  おれは言った。  自分の声が震えているのがわかった。 「またかい」 「あなたの番なのに——」  牙一と耳緒が言う。 「まさか、逃げるんじゃないだろうね」  手拍子をやめ、凄い目つきで黒男がおれを見あげた。 「おれも一緒に行くよ」  のっそりと、裸の黒男が立ちあがった。  おれと黒男は、ゆっくりと外に出た。 「足が震えてるよ」  後方から、黒男が声をかけてきた。  おれはその震える足を踏みしめながら、しっとりと濡《ぬ》れた草を踏んだ。  雨は止んでいた。  月が出ていた。きれいな満月であった。シラビソの梢《こずえ》が、さらさらと夜の風に鳴っている。  おれは、いまにも崩れそうながくがくする膝《ひざ》を伸ばし、草の上に立ち止まった。  膝の下あたりまで、風にゆれる草が触れている。  冷たい夜気の中に、濃い濡れた植物の匂いが満ちていた。  おれは、震える指で、ファースナーを下ろし、すっかり縮こまっているそれを、夜気の中に出した。  小便など出るものではなかった。  性器をむき出しにしたまま、おれは死にそうな思いでそこに立っていた。  すぐ背後に立つ、大きな黒男の気配がある。  ぬうっと、背後から、黒男が覗き込んできた。 「なんだ、ちっとも出てないじゃないか」  黒男が言った瞬間、わあっ、と声をあげておれは走り出していた。  もう我慢の限界だった。  絶対に後方を振り向かなかった。いや、振り向けなかったのだ。もし、後方から追ってくる黒男の形相を見たら、その瞬間に、おれは恐怖のあまりそこにへたり込んでしまうだろう。  月があるとはいえ、山の中である。何度もおれは転がった。手や顔が傷だらけになった。  へとへとになって、おれは走った。  足がもつれ、木の根につまずいて、おれは大きく前のめりに転がっていた。  どっと、全身が土に叩《たた》きつけられた。  息が止まっていた。  もう動けなかった。  荒い呼吸を繰り返しながら、おれは草の中から顔をあげた。  おれは息を呑《の》んだ。  すぐ目の前の闇の中に、あのトタン屋根の小屋が、月光に照らされてぼうっと浮かびあがっていたからである。 「もどってきたのかい、お兄ちゃん」  頭の上で声がした。  顔をねじって、おれは、視線を上に向けた。  おれの首筋の毛がそそけ立った。  すぐ上から、あの黒男の笑顔がおれを見下ろしていた。 「ひいっ」  おれのあげた悲鳴は、おれの耳にはとどかなかった。  その前に、おれは気絶していたのである。  暗黒がおれを包んだ。      6  気がつくと、朝になっていた。  鳥の声と、眩《まぶ》しい陽光とで、おれは目を覚ましたのであった。  小屋の入口近くの草の中に、おれは仰向けに倒れていたのである。  草に付いた雨の雫《しずく》で、おれの全身はぐっしょりと濡れていた。  おれは立ちあがった。  森の、濡れたきらきらしい新緑がおれを包んでいた。  おれは、よろけながら小屋に歩みより、ドアを開けた。  小屋の中には、おれの荷物が雑然と散らばり、火の消えた焚《た》き火跡の横に、空になったウィスキーのビンが転がっていた。  小屋の中に、昨日は気がつかなかった奇妙なものが転がっていた。  動物の毛皮らしかった。  キツネ、クマ、ウサギ、シカ、イノシシの毛皮であった。  いつのものかわからなかったが、それ等は皆、古ぼけて、あちこちの毛が抜け落ちていた。  猟師がここで動物の毛皮をはぎ、そのままここに捨てていったのだろうか。  そう思った時、ふいに、昨夜のことがおれの脳裏に蘇《よみがえ》った。 「これは——」  おれは、声をあげた。  そこに落ちている毛皮は、昨夜、黒男や赤虫たちが服を脱ぎ捨てたのと、丁度同じ場所に転がっていたのである。  おれは、干涸《ひから》びた黒い毛皮を拾いあげた。  ツキノワグマの毛皮であった。  その毛皮からは、微かにウィスキーの匂いが漂っていた。 �ひと[#「ひと」に傍点]をからかうのはおもしろい�  あの課長の淋《さび》し気な顔が頭に浮かんだ。  おれは、毛布を抱えて外に出た。  溜息《ためいき》の出そうな新緑の匂い。  山の中に、おれの身体がそのまま溶けてしまいそうだった。  すると、その時、ふいにどこからか、のんびりとした声が響いてきたようにおれは思った。 �昨夜《ゆんべ》のあれは、おもしろかったなあ�  黒男の声のようであった。  ざわざわと、小屋の周囲《まわり》の樹々や繁みが揺れ、さざめくような笑い声が、明るい森の中にどっとあがった。 [#改ページ]   のけもの道      1 「それではあ、これから発情期のスピッツをやりまあす」  北山は、卑屈な笑いを口に浮かべ、広間を見わたした。  広間には、四十人近い人間がいた。  畳の上に胡座《あぐら》をかき、皆、思いおもいに酒を飲み、テーブルの上の料理に手を伸ばしている。  前に出た北山に注目している者はひとりもいなかった。  北山を指名し、前にひっぱり出した幹事で司会役の野田も赤い顔にだらしない笑みを浮かべ、女子社員のそそぐビールをコップに受けているところだった。  北山の声も、まるで野田の耳にはとどいてない様子だった。  北山は、仲間はずれにされた子供のような目で、広間の騒ぎを眺めたあと、自分の喉《のど》に右手をあてた。  右手でリズムをとり、バイブレーションをつけ、ひとしきり犬の哭《な》きまねをやってみせた北山は、軽く頭を下げて自分の席についた。  まばらに拍手があっただけであった。  その拍手も、北山の芸が終ったのを知った数人が、いいかげんに手を叩《たた》いただけのものである。いつ北山が前に出、そこで何をやり、いつひっこんだのかなど、誰も気にとめてはいない。  手酌で酒を飲む。  近くの席から女子社員の嬌声《きようせい》があがる。 「やめてえ」 「エッチ」 「——さんたら、もう」  誰かが尻《しり》でも触ったのだろう。  いやねえという声がそのあとに続く。 �いや�とは言っても、酒の入った男の耳にはそうは聴こえない�いや�であった。  罪のないじゃれあいである。  そんなじゃれあいとは、北山は無縁であった。  同僚の男たちが、酒の席とはいえ、どうしてああも簡単に女の尻が触れるのか、北山には不思議だった。いっぱしの仕事をきちんとやってのけ、頭もいい彼等がどうしてああなれるのか。妻子のいる男もその中にはいる。その男たちが、平気で卑猥《ひわい》なジョークを言い、赤い顔で女子社員の身体に手を伸ばす。  それに応《こた》え、日頃北山が知っている彼女等とは思えぬほど艶《なま》めかしい声を、女子社員があげる。  真面目な顔をした仕事場の彼女たちを知っているだけに、それが北山には驚きだった。  はたで見ていると、男たちの方が彼女たちに軽くあしらわれているようにさえ見える。  彼等は楽しそうだった。  自分もやってみたいと北山は思う。  が、自分にはそれができないことが北山にはわかっている。  笑ってはいても、彼女たちは本当はいやがっているのではないか。それに、誰に触られても楽しいわけでもあるまい。自分がある日いきなり、他の男のように、彼女たちの胸か尻に手を伸ばしたら、彼女たちは自分をどう見るだろうか——。  どっと不安が渦を巻くのである。  たちまち座がしらけるのが目に浮かぶようだった。  男たちの全部が、そうして女子社員に手を伸ばしているわけではない。手を伸ばしている男たちにしても、誰かれかまわずそうしているわけでもない。  この女にならば、このくらいはいいだろうという、見切り[#「見切り」に傍点]の内で触ったり触られたりをしているらしいのである。その見切り[#「見切り」に傍点]——男や女たちの間にある微妙な暗黙のルールが、北山には見当がつかないのだった。  ——年に一度の慰安旅行。  旅行も酒も、北山には苦痛だった。  ひとりで旅に出、酒を飲む方がずっと気分が安まった。仕事をしている方がまだ気が楽である。  今|演《や》ったばかりの�発情期のスピッツ�の哭きまねも、北山にできるただひとつの、芸とも呼べない芸であった。  唄《うた》も踊りも駄目な北山が、やっと覚えたのが、この犬の哭きまねだった。  毎回、宴会の席上で、マイクをわたされて何もできないでいる苦痛から逃れるために練習をしたのである。マイクを断わる苦痛よりも、人前で犬の哭きまねをする苦痛の方がまだ北山には我慢できた。  ここ数年は、これしかやったことがない。  だが、受けたのは最初の一回だけであった。芸のおもしろさではなく、あの北山がやったという、その意外性が受けただけのことであった。  楽しい宴会の仲間に入れてもらえたのは、その時くらいしか記憶にない。  手酌の酒を口に運ぶ。  いかにもこの宴会を楽しんでいるように、意味のない笑みだけは口元から絶やさない。  まわりの騒ぎから、北山だけがとり残されていた。  子供の頃からそうだったと北山は思う。  これは、別に今始まったわけではない。小さい頃から、楽しい仲間に、北山は入れてもらえなかった。誰かが特別にいじわる[#「いじわる」に傍点]をして、彼を仲間はずれにしているのではなかった。それならばまだよかった。いじわるをされるという関係を、彼等との間に持つことができるからだ。  北山は、自然に、遊びの仲間からはずれてしまうのである。  一緒にいる仲間が、何か楽しい遊びを始めようという時に、その輪の中に入りそこねてしまうのである。  たとえば、遊びの前にルールが決められ、じゃんけんをすることがある。北山は、そのじゃんけんの輪の中に、どういうタイミングか、入れない時がよくあった。  ふたりずつのじゃんけんの時は、その時の仲間の人数が奇数の場合、ひとりとり残される役は、いつも北山だった。じゃんけんからもれた北山を残したまま、ゲームが始まってしまうことも珍しくなかった。  北山があぶれているのを知らずにゲームは始まり、ゲームは終る——。  北山は、彼等の傍で、じっとそのゲームを見ているだけであった。  誰もそのことを不自然に思わない。  影が薄いのである。  いてもいなくてもいい人間、それが北山であった。  北山は、今年で三十一歳になる。  大学を卒業してこの梶原物産に入社し、そのまま営業を九年やっている。得意先の外回りである。  入社してからずっと同じである。  人事異動でも動いたことはない。これは梶原物産でもかなり異例のことであった。だが、そのことに誰も気がついてはいないらしかった。  わずかに部長の高橋が、時おり気を使ってくれるだけであった。透明人間のような北山を、他の社員なみに見て[#「見て」に傍点]いてくれるのが高橋だった。  現在北山の妻になっている佐知子との仲をとりもってくれたのも高橋である。佐知子は特別な美人でもなく、いくらか気の強い女であったが、肉体だけはよく発達していた。自分にはもったいないほどの女だと、北山は思っていた。  佐知子は、北山と同じ歳で、やはり梶原物産の社員だった。三年前、当時経理で事務をやっていた佐知子を北山とひき合わせ、高橋が色々と世話をやいてくれたのだ。北山が二十八歳の時であった。  今日の慰安旅行には、高橋は来ていなかった。上司がいては窮屈だろうと、社長以下部長クラスまでが出席していないのだ。  北山が、手酌の杯を何度か口に運んだ時、わっと周囲に歓声があがった。  見ると、幹事の野田が、威勢よく宿の浴衣《ゆかた》を脱ぎ捨てたところだった。 「よう」 「待ってました」  賑《にぎ》やかな手拍子がしゃんしゃんと入り、野田が踊り始めた。  杯を置き、北山は、懐から煙草を取り出した。  ケースから一本を引き出し、口にくわえる。さらにライターを取り出そうとして、北山は、ライターを部屋に忘れてきたことに気がついた。  ——上着のポケットか。  部屋のハンガーに吊るしてきた、くたびれた上着のことを思い出した。軽く舌を鳴らしたその時、浅く唇にくわえていた煙草が、ころりと畳の上に落ちた。  煙草は、テーブルの下に転がった。  身をかがめて北山は手を伸ばしたが、あと三センチほどのところで、指先は煙草にとどかなかった。  ——と。  ふいにその煙草が、北山の手元に向かって、ころりと転がった。  風もないのに、畳の上三センチの距離を煙草が動いたのである。  その煙草を指先につまんだまま、北山は、周囲に視線を走らせた。  ——誰か、今のこれを目にしたろうか。  おどおどした目であった。  また、ついあれ[#「あれ」に傍点]を使ってしまったのだ。  今のことを目にした者は、誰もいないらしかった。ほとんどの者が、前で行われている野田の踊りに目をうばわれていた。男女の性の体位をデフォルメした野田の踊りに、盛んな拍手と笑いがあがっていた。  北山は、指先の煙草を�く�の字に折って、テーブルの上に置いた。  北山は、ゆっくり立ちあがった。  部屋へ帰って眠るつもりだった。  この後になにがあるかはわかっている。  宴が終り、皆で外の温泉街へくり出すか、それぞれの部屋へ帰って酒を飲むかマージャンを打つかである。  そのどれとも北山は縁がなかった。  誰も北山を止める者はいない。  猫背ぎみの痩《や》せた身体を前にかがめ、北山は広間から廊下へ出た。      2  北山が初めて自分の能力に気がついたのは、中学の時であった。  受験勉強の最中、机の上にエンピツを立て、それを眺めていた時に、ふいにそのエンピツが倒れたのがきっかけだった。無意識のうちに、受験に失敗した自分の姿と、そのエンピツが倒れた映像とを重ね合わせた瞬間のできごとである。  水平な机であった。  その上に立てたエンピツが、何の震動もないのに倒れたのだ。エンピツの尻《しり》の水平が狂っていたのだと北山は思った。  受験の失敗を予告されたようで、気持が悪かった。  もう一度エンピツを立てた。  エンピツは、まっすぐに立っていた。  目で見た限りではどちらにも傾いているようには見えなかった。が、傾いていると見れば、どちらの方向にもわずかに傾いているようでもあった。しかし、それでそのままエンピツが倒れると思えるほどではない。  さっきは、知らぬうちに自分で机に震動を与えたか、自分のゆるい呼吸がかかったためにエンピツが倒れたのだろうと思った。  エンピツが倒れたことを、受験の失敗と暗示的に結びつけてしまった自分がおろかしくもあり、またいくらかほっとしてもいた。  そう考えた途端に、エンピツの倒れる映像が再び頭に浮かんでいた。  とん——。  と、小さな音をたててまたエンピツが倒れた。  心臓の鼓動が速くなっていた。  またエンピツをたてた。  それを見つめながら、今度ははっきりと、エンピツに向かって、�倒れろ�と念じた。  エンピツが倒れた。  何度やっても同じだった。念じれば何度でもエンピツは倒れた——。  広間の騒ぎを背にして部屋にもどった北山は、蒲団《ふとん》の中に潜り込みながら、その頃のことを思い出していた。  確かにあの時エンピツは倒れた。  しかし、それはそれだけのことであった。立てた時に不安定なエンピツは倒すことができるが、バランスのいいエンピツは倒すことができなかった。  翌日、学校でそれを実演してみせた時、友人のひとりが、おれのエンピツでやってみせろと言った。  友人の取り出したエンピツは何度北山が念じても倒れなかった。 「おまえのエンピツは、立てる所を削ってあるんだろう」 「鼻息で倒してるんだ」  友人たちはそう言った。  すぐに北山は相手にされなくなった。  苦い味が、北山の口の中に蘇《よみがえ》った。その時に噛《か》んだ屈辱の味だった。  エンピツを念じて倒すなど、たいした能力ではないと北山は思った。他にできることと言えば、水平にした板の上に乗せた煙草を、数センチほど動かすことができるだけであった。煙草より重いものは、びくともしなかった。  それ以来、北山は、人前でその能力を見せることをやめた。  ただ一度だけ、梶原物産に入社した年に、同僚の前で、煙草を転がしてみせたことがあったが、同僚は、やはり鼻息でやっているんだろうと言っただけだった。  煙草を転がせるというそれだけの能力を、相手に信じ込ませてどうなるというものではなかった。インチキと言われればそれまでで、信じてもらえても、社内でいかがわしい噂の種にされるだけであろう。  ひとしきり続いた超能力ブームの時も、北山は沈黙した。  テレビに出た超能力者だという外国人が、超能力とやらでスプーンを曲げるのを見ても、そんなものかと思った。自分でもやってみたが、スプーンは曲がらなかった。  北山にできるのは、ただ煙草を転がす程度のことだけであった。  そんなことを考えているうちに、北山は眠りに落ちた。      3  夜半近くなって、北山は目を覚ました。  喉《のど》が乾いていた。  軽い尿意もある。  時計を見ると、十一時近かった。二時間ほどは寝たらしい。  同室の者は、ひとりももどってきてはいなかった。  どこかの部屋でマージャンでも打っているか、酒でも飲んでいるのであろう。  北山は起きあがり、廊下に出た。  目が覚めたついでにもう一度温泉につかり、便所に行って小便をしてから、また眠るつもりだった。ビールを二杯くらいなら飲んでもよかった。  この一角にある部屋は、ほとんどが梶原物産の人間で埋まっていた。ドアの前を通ると、パイをかき混ぜる音と共に、知った声が聞こえてくる。  酔ったダミ声——。  同僚の噂話。  皆楽しそうであった。  あるドアの前を通り過ぎようとした時、ふいに耳に飛び込んできた声があった。  野田の声であった。  北山は立ち止まっていた。  野田の声だったからではない。野田の声が自分の名前を口にしたからである。 「北山さんなあ、もう寝たんだろ——」 「ああ。さっき部屋へ顔を出したら、もうひとりでいびきをかいてたよ」  北山と同室の男の声が答えた。 「あの人を見てるとさ、いったい何が楽しくて生きてるのかって、おれ、考えちまうよ」 「奥さんとやる[#「やる」に傍点]ことじゃないの」 「案外、あの顔で、あっちの方はものすごかったりして——」  別の声がそれに答え、笑い声があがった。 「でも、市村さんなあ——」 「うん?」 「北山さんの奥さんだよ」  市村は、佐知子の旧姓であった。 「彼女、高橋部長のコレだったんだろう?」 「そうらしいね」 「部長もひでえよなあ。さんざ自分でやっといて、それを北山さんに押しつけちゃってさあ——」 「北山さんが人がいいんだよ」 「人がいいんじゃないよ。あれはただ鈍いんだよ」 「でも、意外と、北山さん、みんな承知で市村さんをもらったのかもしれないぜ。ほら、高橋部長、よく北山さんに声かけてるじゃないか——」 「出世したくてかい」 「おれ、人のおふる[#「おふる」に傍点]をもらってまで出世したくはねえなあ」 「でも、北山さん、結婚してからも別に出世なんてしてないけどなあ——」 「ほんと」 「まだ、部長と彼女、できてるんじゃないか」 「まさかあ」  ひとしきり笑い声が響き、話題は、他の同僚の噂話になっていた。  だが、その会話はほとんど北山の耳にはとどいていなかった。北山の頭には、今しがた耳にしたばかりの言葉が、どっと渦を巻いていた。 �彼女、高橋部長のコレだったんだろう?� �部長もひでえよなあ�  そして笑い声——。  北山は、自室に向かってゆっくりと歩き出した。  ドアのむこうから聴こえてくる声は、今はもう耳に入らなくなっていた。  顔が青ざめていた。  何度もドアを開けそこない、引くべきドアを押していたことにようやく気がつき、やっとドアを開けて部屋の中に入った。  北山は、暗い部屋の中に、ぼうっと立ちつくした。  さきほど聴いた言葉が、ひどくたちの悪い冗談のように思えた。  だが、それが冗談ではないことを、北山は知っている。  思いあたることがあるのだ。  高橋部長と妻の佐知子との間には、肉体をからめ合った男と女とが持つ、どこかぬめり[#「ぬめり」に傍点]としたものがあった。 「佐知子さんは元気かい——」  ふいに部長がそう訊《き》いてくることもあった。  その時の言葉の中に含まれるどこか湿っぽいニュアンスが、今は理解できた。  ——自分だけが知らなかったのだ。  皆が知っていて、おれ[#「おれ」に傍点]だけが知らなかった——。  いい笑いものであった。  北山の脚が、細かく震えていた。  何かぞくぞくしたものが全身を走り抜けていた。      4  北山は、アスファルト道路を、狂ったような早足で歩いていた。  凄《すご》い顔をしていた。  目をむいて前方を睨《にら》んでいた。  北山は、駅に出るつもりだった。  終電があれば、それに乗って東京へ帰るつもりだった。  なければタクシーを拾ってでも家に帰る。  帰って佐知子に問いただすのだ。  さっき聴いた言葉が本当なのかどうか。  ——そうだ。  訊くのだ。  何度、や[#「や」に傍点]ったのか。  あの高橋に何度や[#「や」に傍点]ってもらったのか、どういう風にや[#「や」に傍点]ってもらったのか、どれほど気持よかったのか、どんなことをされどんなことをし、どんな声をあげたのか——。  通行人が、凄い顔をした北山を避ける。  北山の目は完全にすわっていた。  全身の筋肉に、針で刺されるような、ちくちくする、むずがゆい感触があった。  どん、と、北山の身体が何かにぶつかった。  人の身体であった。  前から歩いてきた三人連れのひとりに、北山の身体がぶつかったのだ。 「馬鹿野郎!」  怒声があがり、北山は激しく突き飛ばされていた。  北山は、アスファルトの上に仰向けに転がった。  顔をあげる。  三人の男が目に入った。  堅気とは思えない人相と、服装をした男たちだった。  三人共、赤い顔をしていた。  かなり酒が入っていた。暴力的な匂いを、あからさまにその肉体から発散していた。 「けっ!」  男たちのひとりが唾《つば》を吐いた。  それが北山のズボンにべっとりと付く。  北山は、ものも言わずに起きあがり、男たちに背を向けて歩き出した。  その背をいきなりつかまれた。 「おめえ、人にぶつかっといて、挨拶《あいさつ》もなしに行っちまうつもりかい——」  強引に後ろをふり向かされた。  すぐ目の前に、赤い男の顔があった。  酒臭い、顔をそむけたくなるような匂いが北山の顔にかかる。 「何とか言えよ、おら」  胸をつかまれ、上体をゆすられた。 「口がきけねえのか、おめえ」  平手で頬をぴしゃぴしゃと叩《たた》かれる。 「わ、わたしは——」  北山はどもりながら声をあげた。 「家に帰るんです」 「家だと——」  男の目がふっとこわく[#「こわく」に傍点]なった。 「返事になってねえんだよ」  もうひとりの男が、北山の胸をつかんだ男の横に並んだ。  温泉街の十一時、まだ人通りはある。  ゲーム場の灯りや、原色のネオンがあちこちに点《つ》いている。 「見せものじゃねえぞ」  立ち止まる通行人に、三人目の男が凄みのある声で唸《うな》る。  北山は完全にカモにされていた。 「い、家へ——」  そう言いかけた北山の顔面に、男のパンチが叩き込まれた。かっと、顔中に何かが爆発したようであった。胸元をつかまれているため、顎《あご》をのけぞらせはしたが、北山は倒れなかった。  顔が火のように熱かった。  生まれて初めて殴られたのだ。  痛みというより、北山が感じたのは温度であった。殴られた部分に炎を押しつけられているようだった。  口の中に、ぬるぬるしたものが溜《たま》っていた。  鼻の方から流れてきたものであった。  北山は、それを吐き捨てた。  まっ赤な血が、胸を握っていた男の袖《そで》にかかった。 「てめえ!」  男の膝《ひざ》が、激しく北山の腹にめり込んだ。  北山は身体を�く�の字に折って、腹を抱えた。  どん、と後頭部を叩かれた。  北山は、前かがみにアスファルトの上に崩おれた。  額をアスファルトにぶつけていた。  目尻《めじり》から、細く涙がこぼれていた。  痛みのためか、くやしさのためかは、北山にはわからなかった。 「助けて、ください」  通行人に向かって声をかけながら、北山は、何で自分がこんな目に会わなければならないのかと思った。  何故、この男に自分は殴られねばならないのか。  ぶつかった挨拶をしろと男は言った。  何が挨拶なのか、北山にはわからなかった。  とんでもない言いがかりであった。  生まれて初めて、自分はいじめっこ[#「いじめっこ」に傍点]にいじめられているのだと北山は思った。  いじめられるのはこんなに痛くて苦しいものなのかと思った。  腹にぶち込まれた膝頭のため、呼吸が苦しかった。  北山は、息をつまらせて喘《あえ》いだ。  北山を殴ったことにより、男たちの内部から、さらに凶暴なものがひきずり出されたようであった。  北山は、襟をつかまれ、引き起こされた。  ごっ、ごっ、と男たちの拳《こぶし》がまとめて顔面に叩き込まれた。  男たちの顔が、残忍な笑みでひきつっていた。  北山は大きくよろけ、後方に下がった。  その身体を、後ろに回った男たちのひとりが背後から抱えた。  北山は、自分の口の中に、石のような異物を感じていた。ぬるぬるした血の感触に混じり、数個の堅いものが舌にあたっていた。それを、北山は大量の血と共に外へ吐き出した。  吐き出された異物が、アスファルトの上にあたって音をたてた。折れた血まみれの前歯が、そこに転がっていた。 「ひいっ!」  北山はわめいて、両手を無茶苦茶にふりたくった。  背後から、北山の脇の下に差し込まれた男の手は、びくともしなかった。  さらに殴られた。  顔面を、腹を、おもいきり殴られた。  何度も殴られた。  悪夢のようであった。  部長の高橋の顔がふいに脳裏に浮かんだ。  高橋の顔は笑っていた。  高橋の身体の下で、白い肉体をふたつに折られて貫かれている佐知子の姿態が浮かんだ。佐知子の両脚の間で、高橋の尻が動いていた。  佐知子は、北山との時には見せたことのないような歓喜の表情を浮かべていた。  ふいに浮かんだその映像は、想像とは思えぬほど生々しかった。  目の前が、まっ暗になる憎しみの炎が、北山の全身を貫いた。  怒りで、一瞬目が見えなくなった。  その映像は、まさしく今この瞬間に、どこかで演ぜられているのと同じものなのだと北山は想った。  北山の視界一面が、まっ赤になっていた。 「糞《くそ》!」  北山は呻《うめ》いた。  糞!  糞、糞、糞!  何かが、自分の肉体の奥に生じたのがわかった。  それが、全身の細胞をぶちぶちとふきちぎりながらふくれあがる。  肉体をふたつに裂かれるような、強烈な苦痛があった。骨という骨が軋《きし》み、血管という血管が血袋のようになって破裂する感覚であった。  それが、北山の全身に爆発し、暴風のようになって外にほとばしった。  北山を背後から抱えていた男は、自分の腕の中で、異様なものの気配がふくれあがってくるのに気がついた。  ——おまえらはエンピツだ! 「ぶっ倒れろっ!」 「転がっちまえ!」  北山は叫んだ。  北山の前にいたふたりの男が、太い丸太でぶん殴られたように後方にふっとび、アスファルトの上に転がった。 「て、てめえ、何をしやがった!」  北山を背後から抱えていた男がわめいた。  その男の腕が、北山の身体から離れた。 「い、痛え——」  男が呻いた。  男の両腕が上に持ちあげられていた。  しかも、外側に大きくねじられている。  男は、爪先立ちになり、苦痛に顔を歪《ゆが》ませていた。  まるで、見えない巨人に両手首をつかまれ、それをねじられながら上空へ持ちあげられようとしているかのようであった。 「ひいいいっ」  男が笛のような声をあげた時、男の両肩で、ごきりという不気味な音が響いた。  男は、爪先立ちで天に伸びあがったバレリーナのような格好のまま、前にぶっ倒れた。  見物していた通行人の間から、細い悲鳴があがった。  さっき転がされた男のひとりが立ちあがり、正面から北山に向かって走った。  腰にためた両手の中に、白い金属光があった。  どっと男の身体が北山にぶつかった。  ぶつかった瞬間に、何かの爆発に叩《たた》かれたように、男の身体が大きくはじき飛んでいた。  男は、アスファルトに後頭部を打ちつけ、すぐに動かなくなった。  北山の腹から、にょっきりと、不気味な角度で、匕首《あいくち》の柄《つか》がはえていた。  激しい痛みがあったが、その痛みはまるで他人のもののようだった。      5  北山は、自分の家の前に車を停めた。  あの温泉街から、鍵《キー》を差し込んだままになっていた車に乗り込み、自分で運転してここまでやってきたのだ。  車の運転席は、北山の流した血でずぶ濡《ぬ》れになっていた。バケツに溜めた血を、おもいきりそこにぶちまけたようであった。  北山の下腹からは、まだ、匕首の柄が突き出ていた。動くと、腹の中に潜り込んだ刃先が自分の内臓をかきまわすのがわかった。その度に激痛が走る。  普通なら、とうに死んでいるだけの血が、北山の体内から流失していた。  凄《すさ》まじい血臭が車の中に満ちている。  北山は車を降りた。  午前二時——。  鍵《かぎ》を差し込んで回すと、細い金属音が響いた。  ゆっくりとドアを開ける。  家の中を、闇が包んでいた。  足音を忍ばせて歩く。  昔やることができなかった遊びを、今自分はしているのだと北山は思った。  かくれんぼ——鬼に見つかって名前を呼ばれたら負け。  自分はその鬼で、家の中に隠れている友達の名前を呼ぶために、こうして忍び足で歩いているのだ。  やっと、おれ[#「おれ」に傍点]が、自分でゲームに参加する番が来たのだ。  闇の中を、寝室に向かって歩く。  ひそひそという小さな声が、さっきから聴こえていた。男と女とが、ベッドの上でかわす甘やかな睦言《むつごと》の声——。  そうして、時おり混じる、女の高い細い声。  男の指が、女の身体のどこに触れているのか、はっきりとわかる声だ。  さあ、そうやって楽しんでおいで、と北山はつぶやく。  もう別のゲームが始まっているんだからね。  もうすぐ君たちの名前を呼びに、ボクがそこに行ってあげるからね。  靴を脱いだ北山の足が、べっとりと赤い足形を廊下に残してゆく。  身体が石のように重いのに、心は鳥のようにはずんでいた。  さあ、もうすぐだよ。  もうすぐ、そのドアを開けてやるからね。  ぞくぞくするような興奮が北山の肉体を包んでいた。  北山は、寝室のドアの前に立った。  舌なめずりをし、舌の先で、血でぬらぬらする歯の失くなった歯茎をさぐる。 「ああ——」  という、佐知子の愉悦の声。  とろけるような音楽に、北山は耳を傾ける。 「どうだ」  ここか、ここか、という男の声。  タカハシくんの声だった。  そこそこと答えているつもりの女の声は、もう言葉になっていない。  ドアのノブに手をかけ、北山はそっとそれをひねる。  ドアを細く開く。  部屋には小さな灯りが点《つ》いていた。  ベッドの上で、男が女の上にのしかかっていた。  女の長い両脚を両肩にかつぎあげ、男は女の身体を二つ折りにするように上体を倒している。  男が唇を落とすと、それを待っていたように、下から女がそれを貪《むさぼ》る。  からみ合う舌と舌。  休まずに動き続ける男の尻《しり》。  合わさった唇の間からもれる女の声。  とうとう見つけたよ、タカハシくん。  北山は、ゆっくりと部屋の中に入って行った。  ふたりは、すぐには北山に気づかなかった。  最初に北山に気がついたのは、男であった。  女の身体を裏返し、尻をあげさせ、背後から挿入しようとしたその時、ドアの前に立った北山を目に止めたのだ。  一瞬、呆然《ぼうぜん》とし、次に男の顔がひきつった。 「き、きみ——」  やっとそれだけ言った。  女も、ようやく北山に気がついた。 「あなた、どうして——」  毛布を引きあげ、それを持ちあげて下半身を隠す。 「もう隠れたって駄目さ。もうかくれんぼうは終りだよ——」  低い声で北山がつぶやいた。  別人のような声だった。  血まみれの口を吊りあげて北山は微笑んだ。  おびただしい血でずぶ濡れになったズボンの布が、血を吸っていかにも重そうだった。  血だらけの北山の姿に、高橋と佐知子は次の声をあげられずにいた。  腹からはえた刃物の柄。  佐知子の喉《のど》がひきつった音をたてた。  佐知子の下半身にかぶさっていた毛布がふわりと持ちあがり、広がって天井に張りついた。  天井から下がった照明を包んだその部分だけが、男の性器がそこにあるように盛りあがっている。  毛布の中で、ガラスとプラスチックの砕ける音がして、毛布がいきなり裂けた。  裸のふたりの上に、砕けたガラスとプラスチックの破片がふり注ぐ。  女の片脚が、いきなり高く持ちあがった。  透明な巨人が、女の足首を握って上に持ちあげようとしているのだ。  女が悲鳴をあげる。  濡れた秘部がむき出しになった。  女の身体が浮きあがった。 「何をするのよ——」  叫んだ佐知子の身体が、逆さ吊りになったまま、大きくねじれた。  巨人が、両手で女の身体を雑巾《ぞうきん》のようにねじっているようであった。  女の身体がいっきにねじれ、骨の関節という関節が、一斉にひしゃげてゆく不気味な音が部屋に響いた。  大量の血が、女の口からベッドの上にこぼれた。  高橋は、獣のような声をあげて走り出した。  北山の横をすりぬけ、裸のまま外に飛び出してゆく。  音をたてて、佐知子の身体がベッドの上に落ちた。  のっそりと、北山は部屋を出てゆく。  家の外に出た。  外灯の明りはあるが、家の外は暗かった。  さあ、どこに隠れたのかな、タカハシくん。  車のエンジンのかかる音がした。  さっき、家の前に北山が乗り捨てた車が動き出していた。  ——いたいた。  運転しているのは、全裸の高橋だった。  強烈なヘッドライトの光芒《こうぼう》が闇を裂いた。  その光の中に、幽鬼のように、北山の姿が浮かびあがる。  全身血まみれであった。 「ひいっ」  声をあげたのは高橋だった。  おもいきりアクセルを踏み込む。  車が狂った獣のように北山めがけてぶつかっていった。  鈍い音が響いた。  人の肉と骨がつぶれる音だった。  北山の身体は、背後の電信柱と車のバンパーとの間に、みごとにはさまれていた。  北山は、上半身を車のボンネットの上に倒したまま動かなかった。  車のエンジンが止まっていた。  こわばった顔でハンドルを握っている高橋の顔が、さらにひきつった。  ボンネットの上に上体を伏せた北山の身体が動いたのだ。  北山が、ゆっくりと顔をあげた。  その顔が青黒くふくれあがっている。  北山は、ぬらりと歯茎をむいて笑った。  じりじりと、北山の身体が、ボンネットの上に這《は》い出てきた。  腰と腹が完全につぶれていた。  それを、むりに這い出てきたため、腹の肉がバンパーにおおかたこそげ落とされていた。  あふれ出た内臓をひきずりながら、ボンネットの上に北山が立ちあがった。  ドアを開けて逃げようとした高橋の首が、何かにねじられたように、真横を向いた。  その目に、子供のように笑っている北山の顔が映った。  みしみしと、首の骨が軋《きし》んでいる。 「さあ、こんどは何をして遊ぶ?」  北山が、ささやくように言った。  にっ、と笑った。  高橋は、自分の首の骨が、ごりっと鳴る音を聴いた。 [#改ページ]   四畳半漂流記      1  男の恋というのは、案外根が暗いのではないかとおれは思う。  おれがそうだから、それをそのまま他人にあてはめたくなるのだが、男なら、おれの意見にうなずいてくれる人が多いのではないか。それとも、それは性格によるのだろうか。  おれも何度か恋をしたことがある。  それも、全部片想いばかりだった。  一度として、女の子とうまくつきあえたことがない。�おともだち�でいる間はいいのだが、いったん好きになるともういけない。まず、その女の子とうまく口がきけなくなる。とんでもない冗談など言ってしまうし、その女の子がたまに髪型を変えたり、めかし込んだりした姿を見ると、 「なに、それ」  などと、ぽろっと言ってしまうのである。  似合うねとか、せめては、お、いいじゃないかとか言えばいいのだが、それがなかなか言えないのだ。どこかわざとらしく、お世辞のように聴こえそうで、つい冗談のように反対のことを言ってしまうのだ。  素直でないのである。  その女の子が、ほんとに可愛く見えても、それを口に出せないのである。  こっちがどんなに冗談のつもりであっても、めかし込んできた女の子に、 「ひええ」  などとやってしまってはいけないのである。たとえお世辞であっても、ステキだ、美人だと言われる方が、女の子の耳には快く響くのである。それはわかっているのである。ほんとにわかってはいるのである。  しかし、おれには、女の子に向かって、 「綺麗《きれい》だね」  などというセリフは、どうしても言えないのである。 「なんだ、そのタヌキみたいな眼は」  などとつい口走ってしまう。そんなことを言っておきながら、ほんとうのおれの気持ちをわかってほしいと思うのは、実に実に勝手なことなのだとは承知しているのである。しかし、それでもなお、わかってほしいのである。歯の浮くようなことを言う、カッコマンのにいちゃんに、好きな女の子をさらわれていくのは、まったく辛《つら》いのである。ひいきの野球チームが負け、留年し、やけ酒を飲んだあげくに、頭からドブにはまってしまうよりももっと苦しいのである。切ないのである。そんな自分は許したくないのである。  そんなもんだから、まったくある日突然に、その女の子に、 「好きなんだよお!」  と叫んで飛びかかってしまうのである。  それまでの想いのありったけをここぞとばかりに吐き出して、しかもいきなり胸に手などを差し込んで、 「やらせろやらせろ」  と、ぎらぎらはあはあと迫ってしまうのである。  女の子が逃げてあたりまえなのである。  その女の子が、他の男とあっという間にくっついて、しかも肉体の関係まで結んでしまうというのは、なんとも信じられず、またみじめなものなのである。  おれの顔が悪いのか、と思う。  おれのスタイルが悪いのか、と思う。  それとも車を持っていないから、いけないのか。はたまた金がないからいけないのか。  おれの足がそんなに短いのか、と叫んでしまうのである。  激しく自分にムチ打ってしまうのである。  く、暗い性格だなあ。  それにしても、女ってのは、どうしてああいう風に、同じセリフを並べるのだろう。 �あなたはいいひとよ� �いいおともだちでいましょう�  けっ、だ。  イイヒト、オトモダチ、安い西部劇のインディアンみたいじゃないか。  一度くらいはもててみたい——これが、おれ島田美智彦二十二歳の、力いっぱいの雄叫《おたけ》びなのである。  おれは、まったくもっていい事なしに、この年の暮れをむかえていた。  大学の方は、もう一年の留年がすでに決まっていた。  この秋、留年が決定的となった時、おれはありったけの金を持って、半分やけになって山へ入った。まるで、でたらめな山行をした。  重いザックを背負い、宇都宮、日光をまわって尾瀬へ入り、さらに新潟へぬけ、そこでカゼをひいた。それでもよろばいながら信州までたどりつき、霧ケ峰のなじみの小舎《こや》で一泊し、松本へ出て北アルプスに入った。上高地で台風にぶつかり、槍《やり》ケ岳《たけ》へ登るのをあきらめて、涸沢《からさわ》で台風をやり過した。そこから穂高へ登り、そうして這《は》うようにして帰ってきた。  その十日間で、バイトでかせいだ金が、あらかた無くなっていた。  おれは、ジングルベルの鳴り響く街の中を肩を薄くすぼめて歩いていた。  沙織にやるプレゼントを買うために、なけなしの金をポケットに突っ込んで、街に出てきたのである。この金は、万年筆を買うためにとっておいたものだ。秋の山行で三年間使い慣れた万年筆を落としてしまったのである。モンブランのけっこういい値段の万年筆で、授業を受ける時にも、麻雀《マージヤン》のつけ[#「つけ」に傍点]を記しておく時にも、おれには欠かせないものだった。  おれは、やたらと筆圧が高く、鉛筆やボールペンは、つい力を入れ過ぎて手が痛くなってしまうのである。  沙織というのは、今、おれがひたすら熱をあげている娘の名前だった。彼女は、おれと同じ大学の後輩である。浪人しているため、学年はおれより一年下だが、歳は同じであった。  こんどこそ、こんどこそ、と、おれは熱烈に思っているのである。これまでの、どの娘の時よりも、おれは、ときめき、また落ち込んでいるのである。  沙織は、実にほんとにいいやつなのである。化粧気がないところが好きだったし、気どってないところがいいし、ほどよく美人で、おっちょこちょいのところが、可愛くて可愛くてもうたまらないのである。愛《いと》しくて愛しくて地団駄を踏んでしまうのである。  そばにいると暖かいのである。泣いていればかばってやりたくなるのである。まるで、がさつなおれのために誰かが用意しといてくれたような女なのである。  沙織のことを思うと、今までおれをふった女たちに感謝さえしたくなる。  しかし、このおれがもてるわけはないという、絶対的な確信めいたものがおれにはあった。これまで一度ももてたことのないおれのひがみかもしれないが、あんないい女がこんなおれに惚《ほ》れてくれるわけはないと思っている。彼女の顔を見ると、かっと頭に血が登り、眼が合えば心臓が口元までせりあがってくる。胃が痛くなる。そうなるとまだふられずにいることが、かえって辛かった。こうなるともうマゾの域である。  おれは、おもいきって年内にふられてしまうために、彼女にプレゼントをすることにしたのであった。  その時、おれは、相当に凄《すご》い顔をして夕暮れの街を歩いていたに違いない。  前から歩いてくるやつが、おれを避けるようにすれちがってゆく。ざまあ見ろという気分だった。  寒さもほとんど気にならなかった。  素足である。下駄をはいている。その下駄をガラゴロ鳴らして歩く。  ふいに、右肩にどんと衝撃があった。  前から来た男と、ぶつかったのだ。男が、わざと左肩を出してきたのである。 「馬鹿野郎!」  男が立ち止まって吐き捨てた。  サングラスをかけていた。見るからにそれ者[#「それ者」に傍点]風の男である。いつものおれなら、卑屈に頭を下げて、逃げ出すところだったが、この日のおれは違っていた。  すっかりふられる覚悟ができているのである。 「ぶつかってきたのはあんたじゃないか」  おれの口から、完全にケンカ腰の言葉が滑り出てきた。  やばい、と思ったが口の方が勝手に動いていたのである。 「ほう」  男の口元がにやりと吊りあがった。  右手でサングラスをはずした。凄い眼がおれを睨《にら》んでいた。ケンカ慣れした眼光である。  それを見た途端に、おれはもうびびっていた。おれの肩をいからせていた気力が、あっという間に萎《な》えていた。  我ながら情けない限りだった。 「いい度胸だな、てめえ」  サングラスをポケットにしまいながら、男が近づいてきた。  ——恐いよう。  できることなら、そう叫んで逃げ出したいところだった。その決心をする前に、男が、おれの胸ぐらをつかんでいた。 「もう一度言ってみろよ」  男が、低い声で、静かに言った。  その方が大声を出すよりもかえって迫力がある。 「な、何をですか」  おれの声がだらしなく震えていた。  完全に男にの[#「の」に傍点]まれていた。  ちらちらと回りに視線を走らせると、頼みの世間は、冷たい眼で、通りすがりにこちらに視線を向けるだけだった。離れた所で立ち止まり、じっと様子を見ている者もいる。  誰も、男にやめろと言ってくれる者はいない。  もっとも、おれが彼等であっても、わざわざ他人のケンカに仲裁に入ったりはしない。  こんな目にあうのも、半分は自分が蒔《ま》いた種から生まれたものである。 「今言ったろうが。ぶつかってきたのはあんただと? この糞《くそ》ガキが——」  おれはもう、殴られるのを覚悟した。  こうなったらひたすら謝って、被害を最小限度にくい止めるしかなかった。  見物人は、さぞやいくじのない男と思うことであろう。おれは、ちらちらと横眼で見物人の方に眼をやった。  そのおれの視線がふいにこわばった。どきん、と心臓が跳ねあがった。  おれたちを見ている人間たちの中に、沙織の姿があったのである。  かっと身体が熱くなった。  どうしてこんなところに彼女がいるのか、そんな疑問すら、のぼせあがった頭からはすぐに消し飛んでいた。  ——彼女に見られている。  そう思った途端に、おれの中に変化がおこっていた。自分でも気がつかないうちにおれの身体が動いていた。下駄で、おもいきり男の脚を蹴《け》りつけていた。  だが、下駄は空を切った。  かわりに、おれの鼻柱に、どっと熱い塊りが爆発していた。男の右拳《みぎこぶし》が、きれいにおれの顔面に決まっていたのである。痛みはほとんど感じなかった。感じたのは、溶岩に顔を突っ込んだような温度である。  一瞬、くらっとなったおれの腹に、男の右膝《みぎひざ》がめり込んだ。  おれは前かがみになり、肩から歩道の上に転がった。  頬が歩道をこする。  頬がくっついた歩道の上に、赤い染みがじわじわと広がっていくのが見えた。おれの鼻血だ。口の中にも、甘臭い、ぬるぬるしたものが、鼻から流れ込んでくる。  ——最悪だな。  と、おれは思った。 「やめて下さい」  女の声がすぐおれの上で響いた。  沙織の声だった。 「もう充分でしょう」  沙織が、男に向かって言う。  見あげると、しゃがんでおれの顔を覗《のぞ》き込んでいる沙織の顔があった。肩に彼女の手がかかっている。 「島田さん、どうしたのよ」  沙織の黒い瞳《ひとみ》がおれを見つめていた。  今、ぶん殴られた痛みの分を、いっぺんにとりもどした気分だった。 「へへ。ちょっとね——」  おれは笑おうとしたのだが、それがうまくいったかどうかはわからなかった。沙織が顔をいたいたしそうにしかめたのを見ると、あんまり成功はしなかったようである。 「このガキの知り合いか」  男が言った。 「そうです」 「ほほう」  男が沙織の腕をつかんで立ちあがらせた。 「あんた、このガキの何なんだい?」  沙織を見つめ、軽薄な笑みを口元に浮かべ、沙織の顎《あご》から左頬まで、右手の甲でそろりと撫《な》であげた。  その手がまた顎までもどり、強い力で沙織の白い顎をはさんだ。  それを下から眼にした途端、おれの血がまた逆流した。  恐ろしいほどの憤怒が、ふきこぼれた。  怒りで、眼の前が一瞬暗くなった。 「やめろ!」  叫んで、おれは、目の前の男の両脚にタックルしていた。  男が、尻《しり》から歩道の上に落ちた。  ごん、と男の後頭部が歩道の上にぶつかる音がした。  おれは立ちあがっていた。  凄い顔をして、男も立ちあがってきた。  もう、誰かが警察に通報しているかもしれなかった。  その時、おれの耳に、ふいに、素《す》っ頓狂《とんきよう》な男の声が響いてきた。 「いけませんねえ。ケンカなんておやめなさいな」  場違いなほど、間延びした、明るい声だった。  声の方を見ると、にこにこと顔いっぱいに笑みを浮かべた中年の男が、そこに立っていた。中肉中背で、どこにでもあるような紺のスーツを着ていた。 「誰だ、おめえ——」  男が、眼をぎらつかせて吠《ほ》えた。  だが、中年の男はそよ風ほどにもそれを感じてはいないらしい。 「ほらほら、そんな恐い顔しちゃあいけませんよ。そんな顔するからケンカになるんです。ケンカなんてつまらないことですよ」 「なに」 「いけません」  ぴしゃっと中年の男が言った。  恐い顔をし、そして悲しそうに眉《まゆ》をよせ、 「だめだめだめ。ケンカはわたしがあずかります。ね——」  またあの笑顔になった。  暗さというものが、微塵《みじん》もない、もののみごとな笑顔だった。  その笑顔に、おれと男との体内に溜《たま》っていた毒が、嘘のように抜け落ちていった。 「はい。そうそう。さあ、もう解散かいさん。もうこれでおしまい——」  ぱんぱんと手を叩《たた》いた。  男の顔から、凶暴なものが消えていた。 「ちっ」  男は、軽く舌うちをすると、背を向けて歩き出した。  それと同時に、見物人たちも、それまでの用事をふいに思い出したように、歩き出していた。  中年の男がぱんぱんと手を叩いてから一分もしないうちに、そこには、おれと沙織と中年の男だけがぽつんと顔を見合わせて立っていた。 「助かりました」  沙織が、中年の男に向かってペこんと頭を下げた。 「ほんとにどうもありがとうございました」  あわてて、おれも頭を下げた。  沙織の顔をまともに見ることができなかった。  中年の男は、おれと沙織とを交互に見つめ、おれに視線を止めた。 「ははあ」  中年の男の眼が、まぶしいものを見るように細められ、瞳の中に、おもしろいものを見つけた子供のような光が輝いた。 「あなた、恋をしておりますね」  いきなり言った。  おれは、突然のパンチをくらったように、身体を縮ませた。汗がふき出した。 「いやあ、どうもこれは、とんでもないことを言ってしまったかな。気にしないで下さい」 「いえ」  おれは小さい声で言った。  沙織が渡してくれたハンカチで、鼻血をぬぐった。まるで立場がなかった。 「たいした縁ではありませんが、それでもこれでご縁ができたようですな。それで、というわけではありませんが、ちょっと私を助けていただきたいことがあるんですが、頼まれていただけますかな——」 「はい!?」 「なに、たいしたことではありません。しかしその前に、その血を何とかせにゃいけませんね——」  中年の男の眼は、街のクリスマスのイルミネーションに負けぬほど、キラキラと輝いていた。      2  おれは、おれの眼が信じられなかった。  おれの眼の前に、ジーンズをはいた沙織が座っているのである。しかも、そこは、おれのアパートの四畳半の部屋なのである。  頭に血が登り、止まった鼻血がまた出てきそうだった。  沙織は、買い物をすませて、自分のアパートに帰る途中で、あの場面に出会ったのだという。  沙織の横では、おれを助けてくれた、あの不思議な中年の男がきゅうくつそうに正座をしていた。おれと沙織とを優しい目つきで眺めているが、正座はあまり得意ではなさそうだった。  おれは、「わたしがお茶を入れます」と言う沙織をむりに座らせ、今おれが入れたばかりのインスタント・コーヒーを、盆に載せて運んできたところだった。  沙織の膝元には、彼女のバッグが置いてあり、男の膝元には、紙袋が置いてあった。ここに来る途中に男がマーケットに寄って買い込んできたニンニクとタマネギが、その紙袋の中に入っている。金を払ったのは沙織である。 「私は、あいにくと金を持っとらんのです」  普通の男がそう言ったのなら、さすがに不快になるところだったが、天性の得な性格というのか、中年の男の言葉にはまるでくったくがなく、とても怒るような気にはなれなかった。  おれが胡座《あぐら》をかいて座ると、男はそれを見て、おれのように胡座をかいた。 「こう座っても良かったのですな」  まるで、これまで胡座を知らなかったような口調で言う。どうも、今までは沙織のマネをして座っていたらしかった。 「どうぞ」  おれは、かしこまってふたりにコーヒーをすすめ、おれ自身も熱い液体を口に運んだ。  ひと口ふた口コーヒーをすすり、中年の男が、口を開いた。 「さて、何から申しあげたらよろしいのかな」  ひとり言のようにつぶやいた。  ここへくるまでに、おれと沙織は名を名のっている。今度は男が名のる番になっていた。 「私の名前はミック……いや、それともエリイと呼んでいただいた方がいいかもしれませんね——」 「エリイ……」 「はい。それからもちろん信じていただけるとは思っていませんが、実は、その、私は人間でないんです」  とんでもないことを言い出した。  男——エリイと並ぶように座っていた沙織は、心もちエリイから身体を遠ざけようとした。エリイと言う男が人間でないと考えたからではなく、頭の方が正常でないのかもしれないと思ったからであるらしかった。  自分のことをエリイと呼ばせるのもどこか歯車がずれている。漢字でどう書くかはわからないが、仮に女なら恵理という名前もあるのだろうが、男の呼び方としてはどうも異様である。  しかし、目の前で、あの笑みをたたえた顔を見ていると、少なくとも本人には、自分が嘘をついているという自覚はないらしかった。そうでなければ、これほど邪気のない笑みを浮かべられるものではない。  自分は人間ではない——そんなにでたらめな発言でなければ、たとえ皇族の出だと言われても信じたことであろう。  それほど、この中年男の笑みは世俗離れしているのである。 「いいんです、いいんです。信じてくれなくていいんです。信じる方がおかしいですから。でも、まあ、夢の話だと思って、私の言うことだけは、ひとつ聴いて下さい——」  おれがうなずくと、男は続けた。 「実は、事故に会いましてね。私は、私のもといたところに帰れなくなってしまったんです。そうですね。燃料とでも言うんですかね、�ペム�があれば、私はそこへ帰ることができるんですが�ペム�を失くしてしまったんですよ。お恥ずかしい話なんですが、相棒のルーシーとケンカをしてしまいましてね。それで�ペム�が失くなるのに気がつかなかったというわけでして。可哀そうに、ルーシーはおっぽり出されて、今ごろは無事な姿じゃないでしょう。私だけが助かってしまって。で、私はこれから�ペム�を見つけなければならないのですが、おふたりにそれを手伝っていただけたらと思いましてね。それで、こんなところまであつかましくついて来てしまったわけなんです——」 「�ペム�って——」 「ええ。�ペム�です」  さっぱりわからなかった。 「手伝うというのは、いったいどうすればいいんですか」  おれは言った。 「なに、簡単なことなんです」  男は立ちあがって、流しを物色すると、箱型のおろし金《がね》を見つけて持ってきた。 「こいつをちょっと貸してくれませんか」  おれがうなずくのを確かめてから、男は、紙袋をあけて、タマネギの皮をぱりぱりとむきはじめた。  そして、タマネギとニンニクを、そのおろし金でおろし始めたのである。  三個のタマネギと、十個のニンニクをおろし終えた時には、部屋中に凄《すご》い臭いが充満していた。 「いやあ、凄いものですな。これは——」  男は、眼をまっ赤にして、涙を浮かべながらつぶやいた。  ボールに、その臭いと涙のもとになったやつがいっぱいになっていた。  いったいどうなるのかと、おれは少し不安になっていた。  男は、ふきん[#「ふきん」に傍点]を見つけてくると、おろしたやつをそれでこ[#「こ」に傍点]した。どんぶりの中に、タマネギとニンニクのエキスの汁が溜った。 「さあ、できました」  男は、どんぶりを持って立ちあがり、窓に近づいた。汁に指をひたして、その指で窓ガラスに十字を描いた。 「何をするんですか」 「まあまあ、黙って見ておいでなさい」  男はおれの声におかまいなく、こんどは西の壁に、同じように十字を描いた。結局、男は、東西南北の方向の壁にその十字を描き、続いてイスを部屋の真ん中へ持ってくると、天井にもその十字を描いた。それがすむと、次は床——つまり畳だった。全部で六箇所にその十字を描いたことになる。 「これでよろしい」  男はようやく腰を下ろし、汁の残ったどんぶりを、とんと膝元《ひざもと》の畳の上に置いた。 「これでいつでも�ペム�を捜しにゆけます」 「捜しに?」 「はい。あなたさえよければいますぐにでも」  男は、くったくのない微笑を目元に浮かべて、おれに言った。  沙織は、もうとっくにおれの横にきていて、身体の触れそうな距離の所に座ってなりゆきを見守っていた。おれは、それがもうひたすら嬉《うれ》しく、どきどきしていた。 「出かけてよろしいんですか」  男が言う。 「どうぞ、自由に出かけて下さい」  おれが答えると、男はひょいと立ちあがり、つかつかと歩いてくると、沙織の前で立ち止まり、しゃがみ込んだ。 「失礼いたしますよ」  いきなり、その手で沙織の胸をつかんだ。 「きゃっ」  沙織が悲鳴をあげた。 「何をするんだ!」  おれは立ちあがっていた。  思わず男の肩を手で突いていた。  男はあっけなく畳の上に転がった。 「いや、すみません。ほんとにすみません」  男が身を起こしながら言った。  さすがに笑ってはいなかった。申しわけなさそうな表情を、顔いっぱいにためていた。 「あなたの�怒り�をエネルギーにして出発しなければならなかったものですから——」 「出発?」 「はい。もう出発いたしました」 「どういうことだ」 「ですから、�ペム�を捜す旅に出発したのですよ」 「——」  おれにはわけがわからなかった。 「あなたのお部屋ごと出発いたしました。ちょっと窓から外を見て下さい。そうすれば私のいう意味がわかります」 「窓?」  おれと沙織は、窓ぎわに立って、ガラス戸を開け放った。 「何だ、これは!?」  おれは悲鳴を呑《の》み込んだような声で、低く呻《うめ》いていた。  窓の外には、ただ一面の暗黒が広がっていたのである。  おれの部屋は二階にある。本来ならば、下の通りの街灯の灯りや、近所の家の灯りが眼に入るはずなのだが、それ等の何ひとつ見えなかった。下の通りを通る車のヘッドライトの灯りもない。いや、道そのもの、街そのものが、消滅していた。灯りだけではなく、外からのもの音、匂い、気配の一切が消えていたのである。 「ね」  男の声がした。  おれがふり返ると、男がおれを眺めながらにこにこと笑っていた。 「ひき返すんだ」  おれは叫んだ。 「それが、駄目なんですよ。�ペム�がなければひき返すことはできないんです」  男が、言った時、沙織の声がおれの耳に飛び込んできた。 「ね、あれを見て!」  沙織が、窓から身をのり出して、遥《はる》か暗黒の下方を指さしていた。  おれはそれを見た。  声をもらすことさえできなかった。  遥か下方の暗黒の底を、おそろしくでかいものが、悠々と泳いでいた。その長さは数百メートル、いや、数千メートルはあるだろうか。ことによったら、それよりももっと大きいかもしれなかった。  スケールの基準になるものがないので、その大きさがわからないのだ。 「竜……」  細い声を、沙織が喉《のど》からしぼり出した。  それはまさしく、竜であった。  暗黒の中を、朧《おぼ》ろに燐光《りんこう》を放ちながら、一匹の巨大な竜が、いずこかへ向かってゆったりと泳いでいるのであった。      3  このおれの四畳半が、はたしてどこへ向かっているのか、おれにはわからなかった。 「流されているのだ」  と、エリイはそう答えるばかりで、その先がどこなのか、そこに�ペム�があるのかどうか、教えてはくれなかった。知らないのだとエリイは言う。  そう言われては、ひき下がる他はなかった。あとは腕ずくで吐かせるしか、方法はない。しかし、あの笑顔を見せられては、暴力に訴える気にはなれなかった。それに、おれが勝てるとの保証もない。  おれたちは、果てしない暗黒淵《やみわだ》の海を、遥かに流されてゆく漂流者だった。  玄関のドアの向こうも、やはり同じ暗黒が広がり、畳をあげてみたが、その下もやはり不気味な暗黒があるばかりだった。  この四畳半全体が、得体の知れない宇宙の闇に、ぽつんと浮かび、漂っているのだ。  暗黒の中から、異形の化獣たちが、姿を現わしては、漂いながらどこかへ消えていく。  魚に似たものもあれば、グロテスクな臓物の塊りのようなやつもあった。 「やつらは、自分からはこの中へは入って来れません。私が封印をしておきましたから」  エリイの言うところでは、ニンニクとタマネギの汁で描いた十字がその封印なのだという。 「ここでは、生き物の想念が、実体化するのです」  エリイはそうも言った。  もと、おれたちのいた世界とこの世界を行き来できるものは、�想い�だけなのだとエリイは言う。 「想いの粒子とでも言いますか。厳密には少し違うんですがね。そういうものがあるんで す。�思想子�とか仏想子《ブツデイニウム》とでも呼べばいいんでしょうかね——」  そういう粒子だけが、こっちと向こうを行き来できるらしい。ひとつだけ違うのは、こちらではその粒子を実体として見ることができるということであった。  意志の力で、こちらへ�想い�を届けられる者も、何人かはいるらしい。  だが、時々、偶然に、向こうの世界とこちらの世界がつながることがあるという。向こうとこちらの空間の波動《リズム》がたまたま重なる時があり、その時、ほんの数瞬、空間の境目がぼける[#「ぼける」に傍点]らしい。そのぼけ[#「ぼけ」に傍点]を貫けるだけの力《パワー》を持った�想い�が、偶然そのぼけ[#「ぼけ」に傍点]の向こう側にあると、その�想い�がこちらに流れ込んで実体化するのだ。 「その実体化する場所に、私とルーシーはぶつかってしまったんですよ」  エリイは、軽くため息をつくように言った。  その�想い�が実体化する光景を、おれは一度だけ見ることができた。 「ほら、あれがそうですよ」  と、エリイが指さして教えてくれたのである。  それは、おそろしく華麗な光の爆発だった。  闇の底に、一瞬白光がきらめき、それがたちまち、紅蓮《ぐれん》の炎のかたちにふくれあがったのだ。大きさは、数百キロメートルはあるのだろうか。強烈な赤が広がり、その中心からさらに青《ブルー》の色彩が、赤い炎の後を追うようにうねりながら輪を広げていくのである。青が赤を追い越し、その巨大な輪の中で、無数の燐光を放つ光の微粒子がきらめくのであった。  わずかに一分足らずの時間だった。 「向こうの世界の、ほんの数|刹那《タサーナ》の時間が、こちらでは一分近くひき伸ばされて見えるのです。その間の感情の動きがあのような色の変化となるのですよ——」  おれはそれを見ながら、いったいどんな感情が、あれだけの巨大な光の乱舞を造ったのかと思った。 「あれは誰かが悲しんでいたのですね——」  ぽつりと、エリイが言った。 「青はね、基本的には悲しみの色なんです。おそらくは子供に死なれた母親のものでしょうね……」  おれの腕時計で、五日後に食料が底をついていた。  冷蔵庫に残っていた食料を、おれが山に持っていくラジウスで料理し、食べていたのだが、ついに、今目の前に出ているひと握りの米と、一本のソーセージが最後となっていた。ひとりの一食分にも満たない量であった。 「いよいよですね」  他人事のように、エリイが言った。 「あんたが、おれたちをここに連れて来たんだ。あんたがなんとかしてくれるんじゃないのか——」  おれは、こらえていたものを吐き出すように言った。 「私にはどうにもできません」 「嘘だ」 「嘘ではありません」 「あんたのせいで、おれも沙織もひどい目に会ってるんだぞ」  その時、エリイの顔の笑みが、初めて皮肉っぽいものに変わった。 「そう言いますがね。我々がここにいるというのも、いくらかはあなた自身の責任でもあるのですよ」 「なに!?」 「ほら、つい先日も見たでしょう。あの想いの爆発を——」  エリイが、初めて出す低い声だった。 「私とルーシーがぶつかったのは、あなたの憎しみのエネルギーの嵐だったのですよ」 「——」 「覚えてますか。あの街角で、あの男がそこのお嬢ちゃんに手をかけた時、あなたの中に吹き荒れた嵐に、私とルーシーはぶつかったのです」 「ほんとうか」 「ええ。あの憎しみの嵐をまともに受けて、ついにルーシーと私は、戦うことになってしまったのですよ。その戦いの最中に、私もルーシーも�ペム�を失くしてしまったのです。私は心に憎しみを育て、ルーシーは変形《へんぎよう》し、この世界に同化してしまったのですよ。私はルーシーの身体に生じた変形からはまぬがれることはできましたが、帰ることができなくなってしまったのです。で、少しばかり時間を調節いたしまして、その爆発のあった空間の中心近くからあの世界へ入り込むと、ちょうどあの現場だったというわけです」 「よくわからん。そのルーシーというのは何なのだ」 「ルーシーは、私の古い友人でしてね。いいやつだったのですが、彼は思想的に、私たちとは違う考えを持っていたのです」 「違う考え?」 「はい。彼は変化[#「変化」に傍点]を求めたのです。あなたたちの言葉で言えば、進化[#「進化」に傍点]をね。ルーシーは螺旋[#「螺旋」に傍点]になってしまったのですよ」  おれは、言う言葉を失っていた。  エリイの言うことを理解したからではない。その半分も理解はしていない。  理解はしていなかったが、その言葉の不思議な迫力に圧倒されていたのである。 「あなたはやがて、ルーシーと戦うことになるでしょう。このお嬢ちゃんをはさんでね。それは、彼《ルーシー》が、螺旋[#「螺旋」に傍点]だからです。彼《ルーシー》が女だからですよ。螺旋《らせん》というのは、本質的に女の構造をしているのです。ルーシーは、男のあなたは殺さずに、女の沙織ちゃんを殺そうとするでしょう。私に、�ペム�を手に入れさせないためにね——」 「しかし、もう食料がないんだ。ルーシーとかいうのが来る前に、おれたちは飢え死にだ」 「食料はありますよ」 「——」 「ほら、外を泳いでいる連中がいるでしょう。あれ[#「あれ」に傍点]をつかまえて食べなさい——」  その言葉を言い終えないうちに、エリイの身体が、白色に輝き始めた。 「ちょうどいいので、これでおわかれです。私などいない方が、�ペム�にはいいみたいですからね——」 「�ペム�とは何だ!」  おれは、もうまぶしくて見つめていられない白光に向かって叫んだ。  エリイはおれの質問に答えようとしなかった。  光の中で、エリイの眼が一瞬遠くを見つめ、そしておれを見た。 「どうやら、ルーシーにも、あなたがたのことがわかったようですよ。やがてやってくるでしょう——」  光球がふわっと浮きあがり、窓が開いて、外の暗黒へと飛び出していった。 「�ペム�というのは�るあぶ�の結晶したものですよ」  外の暗黒からその言葉が、おれの耳に届いてきた。  光球はたちまち見えなくなっていた。      4  二日が過ぎていた。  おれと沙織とは、ほとんど口をきかなくなっていた。  残った米を炊き、それを半分に分けて喰《く》った。  全部おまえが喰えと言って沙織に渡したソーセージが、手つかずのまま残っていた。  沙織は、それを喰べようとしなかった。  餓死にはまだ時間があった。しかし、おれの身体に、もうほとんど力は残っていなかった。沙織とておれと同じである。  いずれ、残ったソーセージを、沙織と奪い合うことになるだろうと思った。そうなれば、力の強いおれの方が勝つ。飢えた沙織を組みしいて、その目の前で、おれがあのソーセージを貪《むさぼ》り喰うのだ。その映像が頭に浮かぶ。  しかし、今なら、まだ今ならば、おれは、沙織があのソーセージを喰べるのを、じっと耐えられるだろうと思った。だが、それは今なのだ。これ以上それを先に延ばせば、おれはそのソーセージのために、沙織を殺すことさえやってのける獣になっているかもしれなかった。  昨日、ソーセージのかけらで、釣りをした。  家にあった釣り竿《ざお》と、テグスと針を使って仕掛けを造り、闇の奥に針を送り込むと、すぐに魚信《あたり》があった。しかし、あがってきたのは、魚とは似ても似つかぬものだった。  毒々しい赤い腹をした、猫ほどのヒルであった。肛門《こうもん》のようにすぼめた口の中に、テグスと針が飲み込まれていた。それは、ぬめぬめと動き、伸び縮みしながらゾッとするような声で鳴いた。  その時の沙織の悲鳴は、まだ耳の奥にこびりついていた。  とても喰えるようなシロモノではなかった。  仕掛けごとテグスを切り、それをおれは外に放り出した。  あれを喰うなら、飢え死にの方がまだマシだと思った。 「沙織——」  と、おれは言った。 「それを喰え。あんたをこんなところに連れてきちまったのはおれの責任だ——」 「あなたは、無理にわたしを連れてきたわけじゃないわ。わたしは自分の意志で、あなたのアパートへ行ったのよ」 「しかし、こんな目に会うとは思っていなかったはずだ」  おれは、ソーセージをひろいあげ、沙織の鼻先に突きつけた。  沙織は、目を閉じて顔をそむけた。  耳からうなじにかけての曲線が、おれの目に入った。閉じたまぶたが震えていた。それを見た途端、おれの頭の中で何かがはじけとんでいた。  いきなり沙織にしがみついて、おれはその細くなった身体を押し倒していた。 「やめて!」  沙織が叫んで、おれの下から這《は》い出ようとした。すごい力だった。  思いがけない抵抗に、おれはさらに凶暴になっていた。 「いいじゃないか。どうせ死ぬんだ!」  どうせ死ぬんだ——自分の口から出たその言葉を耳にした時、おれは、自分の理性が音をたてて崩れ落ちるのを感じた。  外の暗黒よりもなお暗いおれ自身の内奥に、これまで閉じ込められていた黒い獣がぬうっと頭を持ちあげていた。  沙織を押えつけ、ジーンズの中から、シャツの裾《すそ》を引き抜いた。白い腹が、まぶしくおれの眼の下に広がった。  手をシャツの下に差し込み、ブラジャーをおもいきりひきちぎった。シャツを沙織の顎《あご》までめくりあげた。  白い柔らかな乳房を夢中で右手に握った。  左手一本で押えていた沙織の右手が、おれの手の下から逃げ出した。  おれの左頬が、激しい音をたてて鳴った。  沙織が渾身《こんしん》の力をこめて、おれを叩《たた》いたのだ。  おれは動きを止めていた。  沙織の力に負けたためではない。沙織がおれを拒否しようとするその意志の強さそのものに、おれは驚き、急速に欲望が萎《な》えたのだ。  ——またやってしまったのだ。  おれの心に、激しい後悔と、そしてぽっかりと開いた空洞があった。  沙織がおれの下から抜け出し、部屋の隅にうずくまった。肩が細かく震えていた。  泣いているのだった。 「なんでなんだ。なんでみんな、そうやっておれを嫌うんだ」  叫んだそのすぐあとから、嗚咽《おえつ》がもれた。  ——みんなくたばりやがれ。  ——死んじまえ。  そう思った。  沙織が、しゃくりあげながら、自分のバッグをひきよせ、その中から小さな包みを取り出した。それは、きれいな包装紙につつまれ、その上にはリボンが結んであった。 「あの日、私が買い物に出たのは、これを買うためだったのよ」  その包みを、沙織が畳を滑らせておれに投げてよこした。  それはするすると畳の上を滑り、おれの膝《ひざ》にあたって止まった。  沙織は立ちあがり、玄関のドアの前まで行っておれに背を向けた。  おれから一番遠い距離をとったのだ。  おれは、ゆっくりとそのリボンをほどき、包みを開いて中身を取り出した。  モンブランの万年筆が入っていた。  クリスマスカードが添えてある。そのカードを読んだ時、カードを握ったおれの手は激しく震えていた。 「沙織!」  おれは、呻《うめ》くように、喉《のど》からその声をしぼりあげた。  その時、ふいに、沙織の眼の前のドアが鳴った。  誰かが、外からノックしたのである。  ぞっとする響きであった。 「私です。やっと�ペム�を見つけましたよ。開けて下さい——」  エリイの声だった。  が、そんなはずはなかった。  沙織がドアのノブに手をかけた。  瞬間、おそろしい恐怖がおれの背を走り抜けた。 「やめるんだ、沙織!」  沙織がドアを開けるのと、おれが絶叫するのと、ほとんど同時であった。  沙織が悲鳴をあげていた。  不気味な黒い触手が悪夢のように入り込んで来ると、沙織をからめとって、外の闇にひきさらった。 「沙織いっ!」  おれは、根限り愛《いと》しい女の名を呼んで、咆哮《ほうこう》した。  おれの手は、白くなるほど、沙織のくれたクリスマスカードを握りしめていた。  そのカードには、次のような文字が記されていた。  この万年筆で私に手紙を書いて下さい。  島田美智彦様 [#地付き]沙織      5  おれは、開け放たれたドアから、外を見た。  そこに、螺旋[#「螺旋」に傍点]がいた。それが、エリイがルーシーと呼んでいたもの[#「もの」に傍点]であることが、おれにはわかった。  それは、暗黒の中にとぐろを巻いた、巨大な蛇であった。しかも、その頭部は人間の女のそれであった。  巨大な顔であった。  その顔のすぐ鼻先に、沙織が浮かんでいた。  沙織の大きさは、ルーシーの鼻の穴ほどの大きさもない。沙織を捕えた触手は、ルーシーの髪の毛だった。  女の顔が笑っていた。もの凄《すさ》まじい、狂喜にひきつれた顔だ。赤い唇がぷつぷつと裂け、血がふき出て血玉になっている。それを、ぞろりと自分の舌で舐《な》めあげながら、ルーシーが笑っているのである。 「さあ、姿を現わすがよい、ミカエル。この娘の生命は、我が手中にあるぞ。出でてこの娘の血肉を喰《く》らい、我と共に螺旋の果てまで輪廻の旅に出かけようぞ[#「螺旋の果てまで輪廻の旅に出かけようぞ」に傍点]」  ルーシーは、まったくおれに注意をはらっていなかった。  おれは、床を蹴《け》って、夢中で巨大な暗黒の空間の中に飛んでいた。  しかし、その距離はあまりに巨大すぎた。おれの身体は、距離の半分も沙織に届かず、宙に止まった。  たちまちおれの腕に鈍い痛みが跳ねた。  あのヒルが、おれの腕に吸いついていた。  おれはそれをつかんでひきちぎった。  ぬるぬるした体液が飛び散り、球状になってまわりの空間に浮いた。 「ルーシー!!」  おれは叫んだ。 「その女を放せ。喰らうのならおれの肉を喰らえ!」  おれの中に、肉体がふきちぎれるほどの業火が燃えていた。それが、おれの肉をみりみりとひきはがし、ふくれあがってくる。  ルーシーは、まるでおれの存在を無視していた。 「どこだミカエル。我は、邪魔をするおぬしと戦って、�憎しみの想念の炎�をこの身に浴びたのだぞ。おまえですら、一時は憎しみの甘美な炎に身をゆだね、�ペム�を失くしたではないか。その�ペム�のない限り、二度とはあそこへ帰れぬぞ。さあ、この�ペム�を生む娘を自ら喰らい、螺旋《らせん》となり果てよ!」 「沙織!」  おれは、ありったけの力をふりしぼり、咆哮した。今は、身体中に、あの化獣どもが喰らいついていた。 「島田さん」  沙織の声がおれにとどいた。  ——くそ!  死んでもいい。  おれはそう思った。  おれが死んでも沙織を助けることができるならどんなことでもするつもりだった。  そのとたん、おれの肉体がはじけとんでいた。一瞬、おれは、自分の身体が黄金色の光となって爆発するのを感じていた。  白金色の光がおれを貫き、沙織に向かって走っていた。おれの想いがまばゆい光となって実体化してゆく——そんな感じであった。  その光が沙織を包んだ。  ルーシーの髪がちぎれとんでいた。 「おのれ」  ルーシーが叫んで、初めておれの方へ顔を向けた。その顔が怒りでグロテスクに歪《ゆが》んでいた。  巨大なルーシーの尾が、青白い炎を放ちながら、凄《すご》い勢いでおれにぶつかってきた。尾がおれにぶつかる瞬間、尾とおれとの中間に、ふいに光球が出現した。尾が激しくその光球にぶつかったが、光球はびくともしなかった。  光球が、人の形になった。  見たことのない異国人の顔が、おれを見て微笑していた。その笑顔には見覚えがあった。 あの男、エリイの笑顔であった。 「よくやったな、あんた」  それは、まさしくあのエリイの声であった。  エリイの背中には、純白の翼が生えていた。 「ミカエル!」  ルーシーが呻いた。 「ルシフェルよ」  ミカエルが、螺旋[#「螺旋」に傍点]に向かって言った。 「�るあぶ�に包まれたその娘には、もう手は出せまい。この上はすみやかに去り、おぬしはおぬしの螺旋をめぐるがよい——」  その途端、ルシフェルの身体が、狂おしくのたうちはじめた。 「おのれ、おのれ、おのれ!」  きりきりと歯をきしませた。  己が歯で己が肉を喰いちぎり、咆哮する。 「しゃーっ」  呼気と共に、その口から紅蓮《ぐれん》の炎が暗黒を裂いた。  ゆっくりと、螺旋が動き始めた。ゆるい潮流に乗ったように、暗黒の彼方に向かって漂い出した。  唸《うな》りながらルシフェルの姿が遠ざかってゆく。地獄の業火に身をやかれるような、苦悶《くもん》の声が、いつの間にか、嬌笑《きようしよう》にかわっていた。笑いながらつぶやく声が、ゆっくりと小さくなってゆく。 「ふふ。はは。ミカエルよ、おまえが帰るあそこ[#「あそこ」に傍点]には何もないのだぞ。あそこ[#「あそこ」に傍点]は、動かない、永遠に閉じただけの世界なのだ。螺旋の道[#「螺旋の道」に傍点]こそが正しいのだと、やがておぬしも知る時が来るぞ——」  ルシフェルが消え去ったあと、そこに、黄金の光球に包まれた、沙織が浮かんでいた。  ミカエルがおれと沙織をあの四畳半に運んでくれた。  沙織の身体を包んでいた光が消えていた。  ミカエルは、横たわった沙織の口から、黄金色の玉を取り出した。  沙織が眼をあけた。  おれの顔を見ると、身体を起こしてしがみついてきた。  沙織の身体は暖かく、そして小さく震えていた。 「これが�ペム�さ。まさに愛《るあぶ》の結晶というやつだな」 「それが欲しかったのか」  おれは言った。 「ああ、これでようやく帰ることができる。おれも、おまえも——」 「あんたが帰るというのは、いったいどこのことなんだ」 「天国《パライソ》さ」  至福に満ちた顔でミカエルが言った。ミカエルの姿が浮きあがり、薄れ、溶けるように、窓の向こうに消えていった。 「ミカエル——」  おれが窓にかけよって、ガラス戸を開け放つと、そこに、見なれたおれの街の風景が広がっていた。  見なれた街の灯り。  自動車の音。  街の匂い。  聴き慣れた街のざわめきが、遠い海鳴りのように耳にとどいてくる。  ——やっと帰れたのか。  つぶやいた時、後ろに、沙織の立つ気配があった。  おれがふり返るよりも、沙織の方が早かった。  沙織が、後ろから、おれにしがみついてきた。  おれの背に触れた沙織の胸から、温かな心臓の鼓動がとどいてきた。 [#改ページ]   八千六百五十三円の女  もう時効だと想うので書く。  ぼくが、生まれて初めて�女を買った�のは、大学を卒業した年の春である。  今から十年近く前のことだ。  その頃、ぼくは、池袋にある学生相手の安アパートで暮らしていた。ネオン街が近く、夜半に酔っぱらいがへど[#「へど」に傍点]を吐くにはもってこいの露地の奥、木造の二階にぼくの部屋はあった。六畳一間に流しと便所が付き、ベッドと机を置くと、もういっぱいという部屋だった。山の道具とマンガ本が、いつも乱雑に散らばり、何日も前の牛乳ビンからはタバコの吸い殻があふれ、ベッドのシーツはもうずっとそのままになっていた。  もっとも、ぼくの部屋が特別だったわけではない。独り暮らしの学生の部屋など、まあみんな似たりよったりのものだ。  大学は卒業したものの、就職はまだ決まっていなかった。  焦りはなかったが、ただ、金のないのだけは困った。  歳相応に女にも飢えていた。  とりあえず、仕事《バイト》を見つけねばならなかった。好きだった山に入り、どこかの山小舎《やまごや》にしばらく潜り込もうかとも考えていた。  その日——  マージャンにあぶれ、暇を持てあましていたぼくは、夕方になって新宿へ出た。  歌舞伎町の、いくらか顔の利くようになったのれん[#「のれん」に傍点]をくぐり、二時間近くをそこで過ごした。ほどほどに席がふさがってきたところで外へ出、コマ劇場の前をぬけ、ラブホテルが林立する方へ向かった。そちらにも、つけ[#「つけ」に傍点]の効く店があるからだ。  ほどよく酒がまわっていた。  五合近くは飲んでいる。  人通りが少なくなった。あたりに灯りが少なくなったせいか、街燈が目立つようになった。  すぐ先の角をまがれば、その店があるという所まで来た時、背後から声をかけられた。 「もしもし、ちょっと——」  男の声である。  ふり向くと、そこに、中年というより、初老に近いと思われる痩《や》せた男が立っていた。男の傍には、まだ十代と見える娘が立ち、奇妙に涼しい目でぼくを見ていた。 「なにか?」  ぼくは、下から上まで、ふたりを視線でなめあげた。  男は、黒い帽子をかぶり、黒縁のメガネをかけ、きちんとしたグレイのスーツを着ていた。安ものではない。手には、小さなバッグを下げていた。  女の方は、ジーンズに、この季節の夜には、まだ寒そうな綿のシャツを着ていた。だが、寒そうな様子はなかった。細っそりした身体つきだったが、腰のラインは肉づきが良く、きちんと張っていた。長い髪に、白いうりざね顔——少し幼なさの残る、ぼく好みの顔だちだった。大きめの黒い瞳《ひとみ》が鮮やかだ。  親子なのであろうか。  ちょっと見当がつかなかった。カップルとしては、どこかアンバランスなものがあった。  男が、軽く頭を下げた。 「よろしかったら、三十分ほどお時間をいただけませんか」 「——」 「どこかで、何か御馳走《ごちそう》させていただきながら、わたしの話を聞いていただけるとありがたいのですが——」  こんな時間に、こんな場所で、知らぬ男から声をかけられたら、早々に逃げ出すのが賢明というものだろう。ぼくがそうしなかったのは、御馳走[#「御馳走」に傍点]に魅かれたからではない。好奇心からだった。ぼくは男の目をさぐるようにのぞき込んだ。 「ぼくの知っている店でかまいませんか」 「はい。プライベートな話さえできれば、どこでもかまいません」  その言葉でぼくの気持は決まった。  男が、自分で店を選ぶつもりであったなら、ぼくはあっさりとそこを立ち去るつもりだった。そうでないのなら、ひとまず安心していい。だが、まだ油断はできない。やばい雰囲気になったら、すぐにでもすっとんで逃げるだけの覚悟は必要である。  持ち金は、たいした額ではなかった。せいぜいが、一番安い女性と、やっと御休憩にしけ込める程度だ。ひと目で貧乏学生(卒業はしていたけれど)とわかる男に声をかけたのは、金が目的なら、むこう様の眼力不足というものだ。もし、これが新手の美人局《つつもたせ》だとしたなら——まあその時はゆっくりお手並み拝見というところだ。  ぼくが入ったのは、駅に近いドルメンという喫茶店だった。一階から三階まである広い店で、三階は同伴席になっている。二階はほとんどガラあきで、ぼくらはその奥に席をとった。  レストランで食事でもよかったのだが、話しだいでは、ワリカンか、こちらの驕《おご》りということまで覚悟しておかねばならない。ぼくのふところ具合では、まあこんなところだろう。  男が、低い声で口をひらいたのは、コーヒーが運ばれてきて、しばらくたってからだった。 「理由《わけ》があって、わたしの名前は言えませんが、そのかわりに、あなたの名前も聞こうとは想っておりません。よろしいですか——」  ぼくはうなずいて娘を見た。  娘の顔には、ほとんど表情らしいものは浮かんでいなかった。ぼくの方を向いてはいたが、目の焦点は、どこか別の所にあるようである。暗い、人工の照明に照らされた顔を見ていると、十代とふんだ彼女の年齢が急にあやふやなものになってきた。 「この娘《こ》をどう想います?」  ぼくの視線に気づいたように男が言った。 「どうって——」  ぼくは答に窮して、冷めかけたコーヒーに手を伸ばした。コーヒーは苦かった。男が、ぼくの後を追うように、コーヒーに手を伸ばす。その手が、ごく微かに震えていた。  ぼくはあらためて男の顔を見た。どうやら、ぼくよりも男の方が緊張しているらしかった。さっきまでわからなかった、心痛の色が、薄くひげの伸びた頬のあたりに見てとれる。  娘が横から、じっと男の喉《のど》のあたりを見ていた。ぼくを見ている時にはなかった、ねっとりとからみつくような視線だ。その視線の先に、ワイシャツの襟に半分隠れて、汚物のようにキスマークがあった。  ぼくの動悸《どうき》が早くなった。 「こういうことは、つまり、わたしは初めてなのですが——」  つっかえながらしゃべる男の声は、緊張でしわがれていた。 「これは、商売とか、そういうものではないのです。わたしはごく普通の市民で——これは、その、わたしがヤクザとか、そういった方面の人間ではないという意味で——」 「——」 「この娘を買っていただきたいのです」  つかえていたものを吐き出すように、男は言った。汗をかいている。  ポン引きだとするなら、この男は完全に失格であろう。少なくとも商《プ》売|人《ロ》ではない。  ぼくが黙っているのを見て、男は勘違いをしたのだろう。 「一万円——いえ、九千円、正確に言うなら、八千六百円以上であるなら、いくらでもいいのです」  早口にそう言った。 「どういうことですか」 「この娘に関するいっさいをあなたにお売りするということです。何時間とか、一晩とか、そういうことではないのです。この意味がわかりますか」  男は、ぼくに�春�を売ろうとしているのではなく、文字通りの人身売買を持ちかけているのだった。  当の彼女は、自分が売買される話を横でされているにもかかわらず、不思議な目で遠くを見ていた。  男がぼくにしてくれたのは、奇妙な、といってもいい話であった。  男は、彼女の素性も何も知らなかった。  男本人が、ちょうど一か月前、やはり見知らぬ男から、彼女を買った[#「買った」に傍点]のだという。その見知らぬ男の言ったという台詞《せりふ》をそのまま、男はぼくに語った。 「この娘を買った者は、買った日から数えて二十八日以内に、この娘をまた別の者に売らねばなりません。しかも、必ず、自分が買った時より、高い値で売らねばならないのです。そう決められているのだそうです」 「決められて?」 「はい」 「売らなかったらどうなります?」 「彼女に——」  男は口ごもった。 「彼女に?」 「彼女に喰われて[#「喰われて」に傍点]しまうのだそうです」  まさか、とぼくは想った。  それがあからさまに顔に出たのだろう。男が弁解するように言った。 「わたしもそれを信じているわけではありません。けれど——」  男は、彼女から顔をそむけるようにしてうつむくと、ハンカチを取り出して、額の汗をぬぐった。 「——けれど、彼女を見ていると、最近は時々そのことを——」 「信じたくなると?」  男は、ぼくの言葉には答えなかった。 「今日がその二十八日目です。わたしは、彼女を、八千六百円で買いました。今日は、もうあと二時間余りしか残っていません」  男の声には、心なしか、恐怖の色があった。  誰かに売ろうとしても声をかけられず、何時間かうろついたあげくに、店を出るぼくを見つけ、あとを追ってきたのだという。 「この人の言う通りなの?」  ぼくは彼女に聞いた。  彼女は口をつぐんだままだった。 「答えなさい」  男が言うと、彼女が赤い唇を開いた。 「パパ[#「パパ」に傍点]の言う通りよ」  幾分ハスキーな、耳触りの良い声だった。  パパ[#「パパ」に傍点]の顔が赤くなった。  そう呼ぶように言っておいたのだろう。  男はまた汗をふいた。 「妻に知られてしまってね——」  つぶやくように言った。  そして——  結局ぼくはその娘を買った[#「買った」に傍点]のだった。  八千六百五十三円——五十三円というのは、その時ぼくが持っていた小銭の全部の額である。  別れぎわの、あの男の目を、ぼくは一生忘れないだろう。おそらく、自分のひとり娘を嫁にやる父親でさえも、あんな目つきはしまい。内臓を、素手で引き出されるような、悲痛な目をしていた。最後にふり返った時の目には、ぼくに対する憎悪の色さえ感じられた。  ぼくは、男の話を信じたわけではなかった。  おかしなこのゲームに興味を持ったのである。ゆっくり時間をかけて、彼女から話を聞き出すつもりだった。おもしろい話でもしこめれ[#「しこめれ」に傍点]ばありがたかったし、八千六百五十三円という、ぼくにとっての大金もそれで元がとれる。あっさり彼女に逃げられるかもしれなかったが、もしも彼女を抱けるようなことにでもなれば、もう金について口にするのは贅沢《ぜいたく》というものだ。  彼女は、充分以上に魅力的だった。  男が去ると同時に、彼女はぼくに身をすりよせ、腕をからめてきた。  名前を聞くと、 「アミ」  とだけ彼女は言った。  アミが、亜美であるのか他のAMIであるのかはわからなかった。 「亜美——」  と、ぼくは彼女を呼んだ。 「あなたのものよ」  ぼくの首に、彼女の息がかかり、ぼくはぞくりと全身を震わせた。赤い唇から、白すぎるほどの、小さな鋭い歯がのぞいていた。  黒い濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》が、下からぼくを見ていた。  信じられぬほど妖艶《ようえん》な顔がそこにあった。  亜美が、ぼくに向かって、にっ[#「にっ」に傍点]と笑った。  初めて亜美の素肌を見た時、ぼくの内にこみあげてきたのは、激しい怒りだった。 「何だ、これは!?」  ぼくはベッドの上に半身を起こしていた。  亜美の、白い滑らかな肌に、無数の赤い筋が這《は》っていた。ぐるりと両の乳房を這い、腹、太股《ふともも》、足首、腕と、全身を蛇のように取り巻いていた。人の素肌を、長時間縄で強く締めあげた時に、こういう跡が残る。  ——あいつだ!  あの男だ。  亜美をぼくに売ったあの男がやったのだ。しかも、このま新しい縄の跡は、つい数時間前まで、縄がこの肌にくい込んでいたことを示している。  あの男が、ぼくに会う前、そこらのホテルで、たっぷり最後の別れを惜しんだ跡なのだ。男の紳士面と、手に下げていたバッグを想い出した。おそらくはあの中に、亜美の肌に赤い筋を刻み込んだものが入っていたにちがいない。瞬間、視界がまっ暗になるほどの憎悪がふきあげた。 「あいつか、あの男がやったのか!」  声がささくれていた。 「そうよ」  亜美の手が、下からぼくの首にからみ、柔らかな乳房の上に顔を埋めさせた。ぼくは目を開いたまま、ピントのずれた数センチ先の赤い筋を睨《にら》んでいた。 「これは、きみの趣味なのか——」 「違うわ。これはあの人の趣味——。あなたは、あなたのいいように、あたしにしていいのよ。それとも、あたしにしてもらいたい?」  亜美の指が、ぼくの髪の中を這う。ぼくの顔をゆっくりと自分の方へ引きよせ、唇を合わせてきた。ねっとりとした舌が、ぼくの舌を捕えた。  暗い、凶暴な獣が、ぼくの中で目を醒《さ》ました。唇を合わせたまま、ぼくは細い嗚咽《おえつ》の声をあげ、亜美の肉体にむしゃぶりついていた。  それからのぼくは、完全に亜美の肉体の虜《とりこ》となっていた。  男が、どれほど女の肉体にのめり込めるものなのか、ぼくは初めて知った。亜美は、ぼくの肉体から、とめどなく快楽を引き出していった。これより先がまだあるのかと想うほど、ぼくの肉体のさらに深い所から愉悦が、わき出てくる。  ぼくは、完全にアパートの他の住人の目や耳をはばからなくなっていた。  亜美がそなえているのは、単なるテクニックとかを越えたものだった。ぼくは亜美によって、いくらでも可能な状態になった。昼夜を問わず、その気になれば、亜美に手を伸ばし、亜美もまたぼくに手を伸ばしてきた。仕事がなかったため、ほとんどの時間を亜美と過ごした。都内に残っていた数人の友人のほとんどから、金をかりた。ぼくのアパートを訪ねてきた友人のひとりは、ドアをあけ、顔をしかめて早々に帰っていった。おそらくすごい匂いがしたことだろう。あたりまえだ。買い物に行く時間さえ惜しんで、毎日可能な限り番《つが》い合っていたのだから。  一度だけ独りで買い物に出た時は、気が狂いそうになって、途中で走って帰ってきた。ぼくのいない留守に、誰かに亜美をとられはしまいかと思ったのだ。あの男が、ぼくを憎悪の目で睨んだのも、今はわかる。  亜美の白い肉体は、信じられぬほど自由に屈曲した。できないことなどなかった。  ぼくの肉体は、日を追って痩《や》せていった。胸の肉がごっそりこそげ、あばらが浮いて見えた。だが、活力だけは衰えない。逆に、あれほどの荒淫《こういん》の限りを尽くしても、亜美の肉体は衰えず、かえってますます妖艶さを増していくようだ。亜美に喰《く》われてしまうというのは、このことだったのかもしれない。それならそれでかまわなかった。  亜美を売ることなど、もう考えられなくなっていた。  二十日目を過ぎた頃から、行為の最中に、亜美が、ぼくの喉《のど》に唇をおしあてるようになった。すると、そこから、甘い疼痛《とうつう》が広がり、さらに深い快楽の底へぼくを沈めた。  男の喉に見た、あの赤いしるし[#「しるし」に傍点]をぼくは想い出していた。  ——あの男もここまで亜美にのめり込んでいたのだろう。  熱湯に似た嫉妬《しつと》と共に、男に対する奇妙な同胞意識がわいた。  いったい何人の男が、亜美を手放せずに、こうして亜美に喰われて[#「喰われて」に傍点]いったのだろう。  愉悦の海におぼれながら、微かにそんな想いが頭をよぎった。  あの男が、ぼくの部屋のドアを叩《たた》いたのは、二十七日目(あとでわかったのだが)の夕刻だった。  あの時の、紳士然とした雰囲気は、微塵《みじん》もなくなっていた。よれよれのスーツ、垢《あか》じみたシャツ、乱れた髪、無精ひげ、驚くほどやつれきった姿だった。  ぼくを見つけた店で、ぼくを知っている人間を待ち、情報を集め、なんとか見当をつけ、九日かかってこのアパートを捜しあてたのだという。 「妻とはわかれた……」  つぶやいて、男はいきなり土下座をした。 「工場も人手に渡った。頼む、亜美をわたしに売ってくれ。わたしは、もう亜美なしではいられないのだ」  悲痛な声をしぼり出した。  だが、ぼくに亜美を再びこの男の手に渡すつもりはなかった。 「売る気はありません」 「だが、あと一日しかないんだぞ。君は、亜美に——」 「亜美はぼくのものです」  男は、座ったまま、あたりをゆっくりと見た。荒れた部屋の有様と匂いに、やっと気づいたようだった。ぼくの喉に視線を移し、そこにとめた。 「君は、亜美と——」  目を閉じて首をふった。 「——やったのだな」  目を開けてぼくを睨んだ。 「やりました」 「何回もか」 「何回もです」  ぼくの声も、男の声も、しだいに高くなっていた。 「縛ったのか、叩いたのか。やったのだな、みんなやったのだな!」  男の声は悲鳴に近かった。 「出て行って下さい」 「君は自分の顔を見たか。死ぬぞ。亜美に喰われてしまうぞ。あと一日だ。わたしに亜美をくれ。わたしはもう死んでもいいんだ」 「出ていけ!」  ぼくは叫んだ。  いつの間にか、部屋の入口、男の後ろにふたりの男が立っていた。ひとりはサングラスをかけていた。肉体から発せられる暴力的な内圧で、まわりの空気が歪《ゆが》んでいる。どう見ても、健全な市民とは言い難い男たちだった。 「やってくれ」  睨むようにぼくを見ていた男が、低く言った。  土足のまま、ふたりの男があがり込んできた。  男が、金でどこからか雇ってきた男たちらしかった。 「くそっ」  先手をとったつもりで、ぼくはおもいきり殴りかかった。だが、全力をこめたはずの拳《こぶし》は、情けない音をたてて、先頭の男の胸を叩いただけだった。体力がないのだ。おそらく、とまっているハエも殺せないようなパンチだったにちがいない。  ぼくは、あっさり畳の上に突き転がされた。せまい部屋のため、尻《しり》をあげ、上半身をねじくれさせたみっともない格好だった。 「なあ、あんちゃん。もうたっぷりとやったんだろうが——」  サングラスの男が言った。  優しい声音だった。  いきなりぼくの鼻先に、どん、と刃物が突き立てられた。ゆっくりと腕がねじりあげられていく。 「このおっさんの言うようにしたくなってきたかい」  ぼくは、苦痛に顔を歪め、下から亜美の顔を見ていた。亜美の顔は、初めて新宿で会った時のように、不思議な、涼しい表情をしていた。あれほどぼくの下で悶《もだ》えていた女とも想えぬほどだった。美しい亜美の顔が、ひどく遠く感じられた。情けなかった。無惨だった。苦痛が遠のき、冷たい炎が燃えあがった。  顔が、熱いもので濡れていた。 「おや、あんちゃん、泣いてるのかい」  嘲《あざけ》る声が頭の上でする。  すぐ目の前十センチほどのところに、あの男の顔があった。 「な、な、頼む、頼むよ——」  突き立てられた刃物のすぐむこうで、頬を畳にこすりつけてつぶやく。 「わたしには、もうこの女しか残っておらんのだ。あんたはまだ若い。わたしにはもう後がない。年寄りにゆずってくれ……」  泣いていた。  この男が、ぼくよりも前に亜美を自由にしたのだ。縛り、叩き、ぼくが何度も彼女にそうしたように、彼女の肉体を開いたのだ。  瞬間、ぼくの意識は暗黒の中にはじけとんでいた。 「百万だ!」  うめくような自分の声を、ぼくは聞いていた。 「百万出せ。亜美を百万でくれてやる!」  ぼくの身体に加えられていた力がすっとぬけた。刃物が畳からぬかれた。  バサッと、ぼくの鼻先に落とされたものがあった。札束だった。 「わたしの、ほぼ全財産だ——」  亜美の立ちあがる気配がした。ぼくは我にかえって身体を起こした。亜美が男の腕をとっていた。  おそろしい恐怖がぼくを襲った。 「だめだ。今のはウソだ。金は返す。亜美を連れていかないでくれ!」  ぼくが立ちあがった。  男がふり返り、静かに首をふった。  憐《あわ》れむような目だった。 「亜美!」  亜美はふり向かなかった。  かわりに男がもう一度ふり返り、やつれてはいたが、ひどく柔和な表情で、微かに頬笑んだ。  淋《さび》しげな肩を見せ、男は亜美と、ぼくの前から去って行った。  まもなくふたりの男がもどってきて、畳の上の札束を持ち去って行くのを、ぼくはうつろな目で眺めていた。 「亜美……」  誰もいなくなった部屋に立ち尽くしたまま、ぼくはもう一度彼女の名を呼んだ。  それからのひと月近くを、ぼくはふぬけのように過ごした。  残っていた金をほんの一週間で使い果たし、酒ばかりを飲んでいた。  男の消息が知れたのは、およそひと月後だった。  たまたま手にした新聞に、男の死亡記事がのっていた。都内の安アパートの一室で、すっかり痩《や》せこけた、男の死体が発見されたのだ。血の量が、平常時の半分以下になっていたという。  倒産を苦にしての自殺?  ——新聞にはそう記してあった。  亜美については、一行も触れてはいなかった。  亜美と男との間に何があったのか、あれから亜美がどうなったのかを、ぼくは知らない。  そして、ぼくはその年の夏が来る前、北アルプスの山小舎《やまごや》へこの身体をあずけた。  やがて、ぼくがまた町で暮らすようになるまでに、七年の歳月が経っていた。 [#改ページ]   霧幻彷徨記《むげんほうこうき》      1  奇妙な霧だった。  冷たく、粘液質で、肌にねっとりとからみつく。爬虫類《はちゆうるい》の細い舌で、舐《な》めまわされるような感触があった。  濃い霧である。  樹林帯の中にいるはずなのだが、数メートル先の樹が、もう見えない。樹々の影は、一〇メートルより遥《はる》か手前で、白い世界に溶け込んでいた。樹林帯の中で、このような霧に出会うのは初めてのことであった。  今朝、姉《あね》不遣《やらず》ノ沢に入った時には晴れていた空が、今は、もう何も見えなくなっていた。沢の途中から不遣《やらず》尾根に向かって登り始めたのが一時間前である。あと一時間も登れば尾根へ出るはずだった。  まだ昼までには時間がある。霧に時間をとられたとしても、昼前には尾根に出ることができる。遅れることよりも、怖いのは雨だった。  六月の初めである。一五〇〇メートル足らずのこの場所で、まず、雪が降ることはない。しかし、雪よりも始末の悪いのが雨である。  濡《ぬ》れるからだった。雨具の用意があるとはいえ、本格的に降り出したら、濡れずにはすむまい。この時期の雨は、恐ろしく冷たいのだ。  梶尾は足を早めた。梶尾の身体を包む霧は、全体に、仄《ほの》かな燐光《りんこう》を放っているようであった。うっすらと、カッターシャツの表面に、水滴が凝固していた。  ゆるい登りであった。もう少し上へ行けば、雪が残っているかもしれない。いずれは、ザックからピッケルをはずさねばならなくなるだろう。足を早めたためか、背に薄く汗をかいていた。軽くザックを揺すりあげた時、梶尾は、ふいに気がついた。  何かの気配がするのである。あると想えばある。ないと想えばない。それほど微妙な気配である。それが、梶尾の後ろからついてくる。  ふり向くとその気配は消え、前を向くと、その気配はまた現われるもののようであった。背後の、見えない霧の奥から、自分と同じ呼吸で、ひたひたと何者かが追いかけてくるようである。この感じは、初めてではない。  山を独りで歩いているとそんな気持になることは、よくある。しかし、今回のそれは、執拗《しつよう》に梶尾にまとわりついていた。見えない蜘蛛《くも》の糸を背にくっつけているようであった。 「霧には気をつけた方がいいよ」  梶尾は、昨夜、姉沢山荘の主人が言った言葉を想い出していた。 「あの山は人を欲しがってるから——」  幕営料金を収めに行った梶尾に、山荘の主人はそう言ったのである。  姉沢から姉不遣ノ沢、不遣尾根を経て姉呼《あねよばい》岳へ向かうのが、梶尾の決めたコースである。そのコースを説明した時、山荘の主人が何気なく口にしたのがその言葉だった。 「人を欲しがってる?」  梶尾は訊《き》いた。 「時々ね、遭難者が出るんです。と言うより、行方不明と言った方がいいかもしれませんが」 「今頃の季節にですか」 「いえ、特に冬山とか、今頃とかいうわけではありません。何年かに一度、あるかなしかというくらいですが——。このあたりの地名も、そんなところからきているらしいですね」 「姉不遣ノ沢とか、姉呼岳とかですか」 「ええ。この地方の民話なんですがね、いやな結婚をせまられた娘がこの山へ逃げて、そのまま神隠しにあったとかで——」  娘の入ったのが、この姉沢で、捜しに来た村人たちがそこに立って娘の名を呼んだというのが、姉呼岳ということであるらしい。  その時には、大して気にもとめていなかった言葉が、こうして霧の中にいるとずっしりと重いものに変わってくるようであった。  霧は、重く梶尾を包んでいた。道が崩れ、ガレ場になっている斜面を、何度か渡った。  足を早めてから、二時間以上が経過していた。まだ尾根には出ていなかった。もう、とっくに出ていていい時間である。  まだ、樹林帯の中にいるようであった。  おかしい、と梶尾は想った。道を間違えたとしても、これだけ登り続けていれば、植物層に変化がなければならなかった。森林限界を抜け、這松《はいまつ》の岩稜《がんりよう》を、堅い登山靴の底が踏んでいても、おかしくはない。不安が、ささくれのように、梶尾の心を蝕《むしば》み始めていた。  梶尾が立ち止まったのは十分後であった。何気なく靴の底が踏んだ岩の形に、見覚えがあったからである。岩の横に、顔を覗かせている木の根の形までがそっくりだった。  ちょうど、ガレ場の斜面が始まったばかりの所で、すぐ先の右手の霧の中から、こちらに突き出している岩の具合にも見覚えがある。  そんなはずはない、と梶尾は想った。とにかく登っているのだ。登り続けているなら、道を間違えたとしても、同じ場所へ出るわけはなかった。  ゆっくりとそのガレ場を渡る。斜面の下、左手は、霧に閉ざされ、この斜面がどれだけの高さを持ったものなのか、見当がつかなかった。  樹林帯に入り、やがて、再び目の前に現われてきたガレ場を目にした時、梶尾の背に、軽い怖気《おぞけ》が走った。さっきと同じ場所なのである。無言のまま梶尾にまとわりついてくる霧が、ふいに恐ろしいものに変貌《へんぼう》したようであった。  梶尾は、登山靴の底で、足元の土に字を書いた。 �梶�  自分の苗字の始めの一字である。字を書きながら、梶尾は、自分は恐ろしく馬鹿げたことをしているのだと想った。偶然の錯覚に怯《おび》え、幼児のように動揺しているのだ。  錯覚を確認するために始めた行為が、かえって梶尾を不安におとしいれ、怯えさせた。  その�梶�という一字に、すがろうとする自分がくやしかった。この霧がいけないのだ。 そうも想った。  恐れていたことが起こった。  歩き出した梶尾は、十五分後、再びその�梶�の文字の前に立っていたのである。 「落ち着け——」  梶尾は、声に出してつぶやいた。  ポケットから磁石《コンパス》を取り出した。 「これは」  磁石に目をやった梶尾は、低く呻《うめ》いた。磁石の針は、不気味な早さで、くるくると回っていたのである。      2  梶尾は途方に暮れていた。  いったい、自分に何が起こっているのかと考えていた。前に進んでも、道をもどっても、同じ現象が起こる。元の場所にもどってしまうのである。  これは、夢なのだと想った。それも、とびきり丁寧に造られた悪夢だ。しかし、これが夢でないことは、梶尾にもわかっていた。鼻孔から吸う霧の、湿っぽい匂いも、その中に混じる針葉樹の薄い香りも、はっきりと感じられる。リアルな感触であった。  残っているはずの体力が、すっかり抜けきってしまったような脱力感があった。  あと、やってみる方法がふたつある。上と、そして下へ行ってみることであった。おそらくは無駄に終るであろうが、やってみないことには、その後の方策が立たない。  何者かに追われているような感じはすでに消えていた。が、その何者かの気配がまるっきり無くなったわけではなかった。  梶尾が感じているのは、視線であった。  梶尾の後を追っていた何者かは、今は、梶尾と同じように、この霧の奥にうずくまり、身を潜めて、じっとこちらをうかがっているようであった。それがひしひしと伝わってくる。  初めは気のせいかと想っていたそれも、今は重い実在感を持って、感じられた。梶尾は、決心をして、まず下に下ることにした。もし、この奇妙な現象が起こらなければ、姉不遣ノ沢に出ることができるはずだった。  霧の中を、注意深く下る。  斜面の表面にこぼれた砂に、登山靴の底が乗って滑りやすかった。大きな岩の出っ張りを左に巻いて下へ回ろうとした時、梶尾の頭の中に、声が響いた。 �そっちへ行っては危い�  踏み出しかけた右足を、梶尾は思わず引こうとした。が、それより一瞬早く、右足首はふわりと何かにすくわれていた。  バランスを失った梶尾の身体が一転し、どん、と背のザックが岩にぶつかった。眩暈《めまい》に似た感覚が梶尾を襲い、身体が宙に投げ出されていた。瞬間、梶尾は次に襲ってくるはずの、激しい落下のショックを覚悟した。だが、そのショックは襲ってはこなかった。軽い浮遊感と吐き気があり、梶尾の身体は蜘蛛の巣に捕えられたように止まっていた。  目を開ける。あたりを見回した梶尾は、その世界に、色というものがまったくないということに気がついた。ハイキーに焼きつけた、白黒写真の世界なのである。  登山靴の底で、何かが折れる細い音がした。足元を見た梶尾は、想わず声を漏らしていた。 「骨だ——」  音を立てたのは、登山靴に踏まれた骨だったのである。しかも、それは人骨だったのである。  梶尾が折ったのは、その人骨の左手の指の骨だった。しかし、よく見れば、それは、骨というよりはミイラに近いものであった。骨のまわりを、ひからびた肉が薄く包んでいるのである。普通であれば、茶褐色をしているのであろうが、ここではそれが白く見える。  梶尾が、初め、それを骨と見たのはそのためである。  色の白さが、その陰惨さを半分に見せているが、その分だけ不気味であった。  丸い穴となった眼窩《がんか》の奥から、その人骨は、泣きそうな顔で下から梶尾を見上げているようであった。  だいぶ以前に果てたのであろう。梶尾は、ザックを下ろし、あたりを見回した。  ミイラ——骨は、いたる所にあった。すごい骨の数であった。人骨だけではない。小さな鳥と思われるものの骨や、動物のものと思われる骨もあった。見当のつかぬほど巨大な骨もある。遥《はる》かな太古に、まだこの日本列島に棲息《せいそく》していた何かの巨獣のものであろうと想われた。  とんでもない場所に迷い込んでしまったらしい。  この山で神隠しにあったという女の屍《しかばね》も、この骨の群の中にあるのだろうか。  風景には、遠近の感覚がなかった。遠くも近くも同じように見えた。  天も地も、ただ白い。  その地平まで、累々と生き物の屍が重なっている。古生物学者が見たなら、舌舐《したな》めずりしそうな光景だった。  これがまともな世界なら、恐ろしいほどの腐臭や死臭がたちこめているのだろうが、ここでは、それがただ白く澄んでいる。  さっきまで梶尾を捕えていた焦燥感は無くなっていた。人智を超えたものを目の前にした時のショックが、かえって梶尾を冷静にしていた。  ——ここで死ぬのか。  醒《さ》めた意識でそう想った。  食料は三日分ある。水は二リットル。コンロもある。何もせずに生きるだけなら、これで、十日や十五日くらいはもちそうだった。その自信はある。しかし、それだけ生きのびたとして、それが何になるのか。  冬山でのビバークとはわけが違う。待てば助けがやってくるわけではないのだ。こうして、乏しい食料で身体を弱らせながら、死体の群の中で死を待つのはたまらなかった。  ではどうするか。  梶尾の腹は決まっていた。できるだけのことはしたかった。まず自分を閉じ込めた世界がどんな場所であるのか、それを見極めるつもりだった。  ザックを再び背にした時、梶尾は、さっき自分に呼びかけてきた声の主のことを想い出していた。その時、再びあの声が響いた。梶尾の耳にではなく、直接頭の中にである。 �そこから動くな……�  さっきよりだいぶ弱々しい声である。 「誰だ」  梶尾は、ゆっくりとあたりに視線を這《は》わせながら言った。 �今説明しているヒマはない。いいか、そこから動かずにおれの言うことを聞け�  その声は、波調の合わないラジオ放送のように、とぎれとぎれであった。 「誰なんだ」 �おまえがいるそこから、抜け出したことのあるものだ。いいか、出口はおまえのすぐそばにある。見ることはできないが、間違いなくあるのだ。おれの言う通りにすれば、そこから出ることができる——�  せっぱつまった声だった。 「わかった」  梶尾が言うと、すぐに声が言った。 �磁石を出せ�  梶尾は、左ポケットから磁石を出した。 「出したぞ」 �針を見るんだ� 「回っている」 �そうか、どちら回りだ� 「右回り、時計と同じ回り方だ」 �わかった。いいか、そこからゆっくりと歩き出せ。少しずつだ。今いる場所を中心に、円を描きながら歩くんだ。そして、歩きながら円の輪を少しずつ広げていけ� 「何のために」 �言われた通りにしろ。歩きながら磁石を手に持って、針の動きに注意しているんだ。針の動きに変化があったら知らせるんだぞ�  梶尾は、言われた通りに歩いた。ゆっくりと、円を描きながらその輪を広げていく。と、針の動きが変わった。右回りが左回りになったのである。そのことを言うと、ほっとしたような声が響いた。 �よし、いいぞ� 「これからどうするんだ」 �少しもどってみてくれ。さっきとは逆に、後ろ向きでだ。針の動きがもとの右回りになったら、そこで立ち止まって知らせてくれ�  梶尾がそうすると、数歩ももどらないうちに、針が右回りになった。 「ここがそうだ」 �これからが少し難しいが、間違えるなよ。こんどは、また、ゆっくりと前に歩いてゆけ。すぐに針が左回りになるはずだ。それと同時に、こんどはおまえ自身が針と反対方向、つまり右回りに身体を回転させるんだ。回転させながら、おれの声を聞いているんだぞ。おまえの名をずっと呼んでいてやるから、その声が一番はっきり聞こえた処で、ためらわずに前へ出ろ——�  有無を言わせぬ口調だった。  梶尾は、声の命ずるままに、細心の注意をはらってそれを行なった。針が左回りになった地点で、すかさず自分の身体を右回りに回転させる。 �梶尾、こっちだ……�  声が、梶尾の名を呼んでいた。何故、声の主がおれの名を知っているのか、と梶尾は想った。その時、ずれていた波調が合うように、声がふいに鮮明なものになった。  梶尾は、目を閉じて前へ出た。軽い眩暈と吐き気があった。  宙に浮きあがるような感覚。目を開けると、梶尾は、再びもとのガレ場の斜面に立っていた。  さきほど巻こうとした岩が、目の前にあった。霧が薄れ、さっきよりも鮮明にあたりの風景が目に入った。上に、ガレ場を渡っている道が見てとれた。先ほど、梶尾がいた道である。 「助かったのか——」  梶尾がつぶやいた時、これまでよりずっとはっきりしたあの声が、響いてきた。 �まだだぞ。上を見ろ�  梶尾は空を見あげた。十数メートル上を、あの白い霧がおおっていた。 �もとの状態にもどっただけだ。こんどは、この閉じた世界から抜け出さなくてはならない——� 「抜け出す?」 �ああ。今はこの場が少し安定したらしい。それで霧が薄くなったのだ。霧が濃い時には、この空間のどこかがほころびかけているらしい。どうかしたはずみで、その時、ここに生き物が迷い込んでしまうのだろう。おまえが、つい今までいたのは、この閉じた世界の結び目のような処だ。おれにもよくわからんが、おそらくそうだ。おれは、その結び目に沿って、おまえをそこから抜け出させてやったのだ。だが、この世界そのものから、うまく抜け出せるかどうかは、これからの話だ——�      3  ガレ場の道にもどった梶尾に、声が話しかけてきた。 �ここは、空間的にだけではなく、時間的にも閉じているらしい。ここでは、時間が、過去も現在も未来もわずかにずれただけで重なっている。だから、おれとおまえとも、こうして話ができるのだ。あの結び目はな、この世界に迷い込んだ者たちの墓場だよ。この世界をさまよっているうちに、あそこに入り込んでしまうのだ。おれがあそこを出られたのはまったくの偶然から、磁石の回転の変化に気づいたからだった。九日かかってしまったがね。抜け出ることができたのは、おそらくおれが最初だろう——� 「それよりも、今、おまえはここは時間も閉じて重なっていると言ったな」 �ああ、言ったよ。おれは、おまえがいる時間よりも、十五日ほど未来にいる� 「ほんとうか」 �嘘じゃない。自分に嘘をつく必要もないからな� 「なんだと」 �おれはおまえさ�  梶尾は言葉をつまらせた。少しの沈黙があり、声が再び話し出した。 �霧の中を歩いていた時にな、変な感じがしなかったか� 「した。誰かに後をつけられているようだった」 �あれはおれさ。おれが、おまえのすぐ後ろを歩いていたんだ。もっとも、何日か未来のことだがね。色々な方法を試していたんだよ。ここから出るためにね——� 「出られるのか」 �わからん。何度か試したのだが、過去の自分とうまく重なることができれば、なんとかなりそうなのだが� 「どういうことだ」 �おまえとおれとをうまく重なり合わせて、この世界に不自然なもの——うまく説明できないが、重い存在みたいなものを造ることができれば、この世界そのものが、自然にその重いものを外へはじき出してしまうのではないかと想ったのだ� 「確かか」 �あてずっぽうさ。しかし、試してみる価値はある。だが、重なるとひと口に言っても難しい。どう説明していいかわからんが、重なってもいい感じのところで、肉体が肉体をすり抜けてしまうのだ。時間が重なっていると言っても、次元の違う存在なのだからな� 「駄目なのか」 �あきらめるのは早い。ついさっき考えついたのだが、何かひっかかりのようなものを身に付ければだいじょうぶだと想う� 「ひっかかりだって——」 �ああ、おれは駄目だが、おまえと、もうひとり、この世界に入ったばかりのおまえとならできるかも知れない。ぴったり重なり合うだけではなく、ひっかからせるためには、この方法しかないだろう� 「どんな方法だ」 �そのひっかかりを、こちらからそっちへ送る。もう少し前へ歩いて来てくれ。そう、そこだ。そこでいい。どうだ、目の前の地面に何か見えないか——� 「何も見えない」 �目で見ようとしては駄目だ。念をこめて見るんだ。おれのことを考えろ�  必死の思いで、梶尾は足元の地面を睨《にら》んだ。そこに、ぼんやりと何か影のようなものが横たわっているようであった。その影を透して、下の地面がすけて見えている。 「見えるぞ」  梶尾は興奮して言った。 �こちらへ手を伸ばせ�  梶尾が影に手を伸ばすと、それが、ふいに温かいもので包まれた。向こうの世界で、もうひとりの梶尾が梶尾の手を握っているのだ。  その手の中に、堅い感触のものが出現した。梶尾は、力をこめてそれを握った。手を開いてみると、梶尾の手の中に自分が今ポケットに入れているのと、そっくり同じ磁石があった。 �送ったぞ�  声が言った。もうだいぶ弱っていた。 「ああ、受けとった。しっかりとな」 �それをポケットに入れて、うまくこの世界に入ったばかりの自分と重なるんだ。やり方はわかるか——� 「どうするんだ」 �霧がまた出てきたら始めるんだ。この世界がほころびかけると霧が出てくる。その時に念をこらしていれば、数時間前の自分が歩いてくるのがわかるはずだ。呼吸を合わせながら後ろから自分に近づいてゆけばいい——�  そして、声がとぎれた。未来で、もうひとりの自分が死んだのだということが梶尾にはわかった。      4  奇妙な霧だった。  冷たく、粘液質で、肌にねっとりとからみつく。爬虫類《はちゆうるい》の細い舌で、舐《な》めまわされるような感触があった。  梶尾は、不思議な気配を感じとっていた。目に見えぬ何者かが、背後の霧の中を、ずっとつけてくるような感じがするのである。ゆっくりと、確実に、それは梶尾に歩調と呼吸を合わせ、迫ってくるのである。それが、すぐ背後に迫った時、梶尾はふり向いた。  自分の顔を、ふり向いたすぐ鼻先に見たように想った。が、それは錯覚で、背後には霧が流れているばかりであった。  梶尾は、再び歩き出した。  梶尾は、自分の左のポケットが重くなっているのに気がついた。そこに手を入れると、ふたつの堅いものの感触があった。それを握って外へ出す。  手を開いた梶尾は、小さな驚きの声をあげていた。手の平の上には、まったく同じ形の磁石がふたつ、ころんと載っていたのである。  霧が晴れかけているのにも気づかず、梶尾はつっ立ったまま、そのふたつの磁石を見つめていた。 [#改ページ]   深山幻想譚《しんざんげんそうたん》      1  夜になって、風がかわった。  風の中に、這松《はいまつ》と、稜線《りようせん》の雪の匂いが混ざっている。  頭上の闇に、梢《こずえ》のうねりが大きくなった。  葉擦れの音が、幾重にも重なって、暗い谷底から、低いどよもしとなって伝わってくる。山鳴り、とでもいうのだろうか。眠りながら聴く、潮騒《しおさい》にも似ていた。夜の底で、山が呼吸しているのだ。  焚《た》き火の焔《ほのお》がちろちろとゆれ、黄色い火の粉がはぜる。  山がよく聴こえる晩だ。  紅い焔を見つめ、腹を抱えて耳を澄ませていると、次第に、山の呼吸《リズム》に肉体が溶けてゆく。眠れる巨人の腕の中で、ひっそりと火を焚きながら、その心臓の鼓動を聴いているようなものだ。胎児が、羊水の中で聴く母の心音も、このようなものなのだろうか——。  食事をすませたあと、コッフェルを放り出したまま、私はコーヒーを飲んでいた。  ——ブルーマウンテン。  インスタントではなく本物である。今回私が持ち込んだ、唯一の贅沢品《ぜいたくひん》であった。  夜気の中に、その芳香が溶けている。  新緑の匂い。  目をつむる。まぶたの裏に、焔の色が残っている。昼の間|山麓《さんろく》をうろつきまわった肉の興奮が、ゆっくりと血の中に拡散してゆく。  こんなにくつろいでいる自分が信じられなかった。  昔——学生の頃は、もっと激しい山だったような気がする。体力にまかせ、独りで、ずいぶんでたらめな登山をした。疲れること。汗をかくこと。自分の肉体を酷使することだけが目的だった。眠くなるまでは、夜どおしでも歩き続け、眠くなれば、夏ならそこでそのままうずくまって眠った。  無茶をしたものだと想う。  あれは何だったのか——。  満たされることのない飢え。やりどころのない盲目的な情動《エネルギー》。ふいに襲ってくる、嵐のような欲望。己れの肉の奥にひそむ、不気味な黒い生き物。女の肉への激しい渇望。不安。  夢——。  山に向かって、肉体を叩《たた》きつけても、叩きつけても、なお、足りなかった。 �肉は愛《かな》し、すべての書は読まれたり——�  そんな言葉を知ったのもその頃だった。  冷たい雨に濡《ぬ》れながら、新緑のカラ松林を、歯をきしらせ、何時間も黙々と歩いたこともある。陽光を浴びながら、何千何万もの黄色いダケカンバの落葉が、風に舞い、谷を吹きあげられてゆくのを、一日中、ただひたすら睨《にら》みつけていたこともある。  かつて、私の中で、あれほど荒れ狂っていた凶暴な獣が、いつの間にかいなくなっていた。  あの頃が私の夏なら、もはや、私の夏は去っていた。  冷めかけたコーヒーをすする。  不思議と心安らぐ場所であった。  自分が、山の一部となって、山に同化してしまいそうである。  こんな気分を、ずっと昔に味わったような気がした。日常の隙間に時おり訪れる、似たようなことが以前あったのではないか、という感覚——。  私がコーヒーの残りを飲み干した時、はじめて、私はそこにその男が立っているのに気がついた。  その男は、焚き火の数メートル先の地面に立って、キスリングを背負ったまま、眼を細め、なんとも奇妙な眼つきでじっとこちらを見ていた。  ひどく遠いものか、霧の中のものを見定めようとするような、不思議な眼であった。  その視線の中に、思わずぞくりとするようなこわい[#「こわい」に傍点]ものがあった。      2 「こんばんは」  男が頭を下げた。 「こんばんは」  私が言うと、男の表情の中にあったこわい[#「こわい」に傍点]ものが消え、そこに、ふいに人なつっこい笑みが浮かんだ。 「いやあ、まさかこんな所で人に会うとは想ってもいませんでしたよ」  そう言って、男は焚き火のすぐむこうまで歩いてくると、キスリングを背からおろし、地面にあぐらをかいた。だいぶ年季の入ったキスリングだった。背と同じ幅のザックが主流の現在にあって、これだけ使い込んだキスリングを見るのは久しぶりだった。もとの色がすっかり落ち、白茶けた、乾いた土色をしている。  男が、こんな所で人に会うとは想ってもいなかった、と言うのももっともである。入っている山自体が、それほどポピュラーな山ではないし、何よりも、ここまでの正規の道《ルート》などないのだから。 「よかったのかな、ここに座って」 「どうぞ」  男は、好奇心に満ちた目で、私と、そしてあたりを見まわした。  私の背後には、テントが張ってあり、すぐまわりには、コッフェルだのラジウスだの、ここ何日間かの所帯道具が散らかっている。  森林限界にはまだいくらか下あたりの樹林帯の中である。早い石南花《しやくなげ》が、もう咲き始めていた。その谷の中途の、いくらか平らな斜面に、私と男とは、焚き火をはさんで向かいあっているのである。  熊が出たとしても、おかしくはない場所であった。 「何日くらいになるんですか」  男に言われて、私は答えようとしたのだが、咄嗟《とつさ》に言葉が出なかった。もうずっと昔からこうやっているような気がしていたからだ。 「三日目、になるかな——」 「三日間もここに?」 「はあ」  私は曖昧《あいまい》にうなずいて、そして、自分自身に言い聞かせるようにつけ加えた。 「ここがね、気に入ってしまったんですよ」 「ははあ」  男がうなずいた。  声のイントネーションが、どこかはずれている。高校の頃の校医が、よくこんなしゃべり方をしていたようである。  不思議な男だった。  年齢の見当がまるでつかなかった。  笑うと、二十代のいくらかやぼったい青年とも見えるくせに、目のまわりに浮かぶしわは、もう四十代のものであった。真面目な顔つきになると、その両方が一緒になって、年齢不詳の顔になる。 「三日間も、ここで何をなさってたんですか」  男が言った。 「ええ、まあ——」 「ぶしつけな質問でしたか」 「いえ。ぶらぶらと、このあたりを」 「散歩ですか」 「そんなところです」  ここへ来てからの三日間、私はこれといった目的もなく、気のむくままに近辺の山麓をうろついていたのである。ほんとうに、何年ぶりかの入山だったのだ。しばらく山を怠っていた四十歳を越えた肉体にとっては、テントや食料を背負っての縦走はハードすぎる。どこか気に入った、人も来ないような所にテントを張って、山の雰囲気を肉体全部に染み込ますことができれば、それでよかった。  そして、これは、私の最後の山行となるはずであった。  私は、下界をふり捨てるようにして、ここまで逃げ出してきたのである。  ここには、債権者たちの罵声《ばせい》もないし、ヒステリックな妻の顔もなかった。  小さな広告会社ではあったが、私がなんとかここまでささえてきた会社が倒産したのである。親の残した金で始めた会社であった。始めて一年もしないうちに、みごとに行きづまった。それでも十年近く、血を吐く思いで、会社を維持してきたのだが、二か月前、ついに取り返しのつかない不渡りを出してしまったのだ。  それからの二か月は、悪夢のような日々であった。取り引き先の態度が、手の平を返したように変わった。泣きながら、たまった支払いをしろとどなり込んできた、下請けのデザイナーの顔を見た日の晩には、血の小便が出た。  疲労で、疲れさえもが感じられなくなったある日、ふいに頭の中によぎったのが、昔歩いた山の風景であった。蒼天《そうてん》にそびえる残雪の峰が、清冽《せいれつ》な夢のように脳裏に広がった。  もう我慢できなかった。気がついた時には荷造りを始めていた。  妻にさえ言わずに、何もかも放り出してここまで来てしまったのだが、おそらくむこうではひどい騒ぎになっているはずだった。妻との間に、子供がなかったことが、せめてものなぐさめである。  私の保険金と、家を処分した金をあわせれば、借金を返し、なお幾らかの額が残るはずである。妻の、次の身のふりかたが決まるまで、しばらくは女ひとりが生活していけるくらいの額のはずだった。  私は、ここへ自分の死に場所を求めてやって来たのである。      3 「奇妙なことをうかがいますがね」  男の顔が、あの年齢不詳の表情になっていた。  強い焔ではなかったが表情を見てとるには充分であった。  男の声にも目つきにも、私の素肌をなめまわすような、ねばいものがある。 「あなたは、どうしてここを選んだのですか。さきほど、ここが気に入ったからだとおっしゃってましたが、始めからこの場所を知っていたわけではないんでしょう——」 「ええ、あなたの言う意味はわかります」  普通の登山者なら、まずやって来ないような場所に、どうしてやってきたのかと、男は言っているのだ。  私がこの場所を見つけたのは、むろん偶然である。だが、この偶然にしても、普通に山に登っている者が出会える類のものではない。  私にしても、わざわざ人が来ないような場所を捜してさまよっていたからこそ、たまたまこんな場所を見つけることができたのである。  だが、その奇妙さという点では、男も私と同様である。何故、こんな所へやって来たのか——。  私の顔に浮かんだ警戒の色を、敏感な人間なら、感じとれたにちがいない。  私は、ゆっくりと、男に向かって言った。 「若い頃は、体力にまかせてどんな山でもやっつけられたんですがね。この歳になると、できるだけ人の来ない、たまたま見つけたこのような場所で、ごろごろしている方が楽なんですよ」 「ははあ。では、あなたは、ご自分がこの場所へ来たのは偶然で、他に理由はないとおっしゃるのですね」 「ええ」 「ほんとですね」  念をおすように、男の瞳《ひとみ》に炎がゆれた。  男の眼が、数瞬の間、さぐるように私の眼を見つめた。 「ならばよかった。わたしは、またあなたがわたしと同じ趣味を持っておられるのかと想いましてね。そうなら、先着順みたいなものですから、この場所はあなたにゆずらにゃならんのかと想ってたのですよ。何しろ三年ぶりですからね、これほどの場所を見つけたのは——」  男の眼の中に、妖《あや》しい光の色がきらめいていた。 「———」 「そんな顔をなさらないで下さい。ご説明するつもりですから。いえ、いつもならめったにこんな話はしないんですがね。なに、信用されないからしないんですが、ここにあなたがおられるんじゃ、話さないわけにはいきませんでしょう。それに、あなたになら、この話もわかってもらえるはずです」      4 「山には、何か、こう、不思議な作用があるでしょう」  男が言った。  私は、コーヒーを新しく入れて、それを飲んでいた。  男は、私のすすめたコーヒーを断わって、自分のキスリングのポケットから取り出したウィスキーの小壜《こびん》に、時おり口を運んでいた。 「これはつまり、わたしだけの感じ方かもしれませんがね。山に、その、人格のようなものを感じることはありませんか」 「———」 「そんなに具体的なものではなくて、雰囲気みたいなもの——こういう言い方ならわかるでしょう」 「ええ」 「その雰囲気というのが、山によってどれもこうみんな違うんですね。たとえば、南アルプスの北岳と、北アルプスの槍《やり》ケ岳《たけ》とでは、同じ季節の、同じ晴れた日に登ったとしても、まるで違うものがあるんです。これはもう人間みたいにね。あなたも、山に登っているのなら、好みの山、というのがあるでしょう」  私はうなずいた。 「誰にでも、好みの山がある。山なら何でもいい、という人間もいるけれど、その人間にでも、つい多く出かける山と、そうでない山とがあるのです。好み、と言うよりは、これは、相性と言った方がいいでしょうね——」  男は、ウィスキーを口に運び、壜を眺め、飲みすぎてしまった、というように、ふたをして地面に置いた。  手の甲で口をぬぐう。 「穂高と明神のように、尾根がつながって隣りあった山でも、やはり違うものがあります。たとえば、水の味や、植物相のクセなんかが、微妙に違うんですね。穂高では、ミヤマキンポウゲやハクサンイチゲが、ほとんど同じ場所に、どっと混ざりあって咲いているのに、明神では、あっちにひとかたまり、こっちにひとかたまりと、別々に咲くような傾向がある。理由は、と言われてもこれがまるでわからないのです。山の持っているクセとしか言いようがないものがあるわけです。もっとも、わたしが知らないだけで、どこかにちゃんとした理由というものがあるのかもしれませんが——」  男はさぐるような眼で私を見た。 「どうぞ、続けて下さい」  私が言うと、男はうなずいた。 「人間の貌《かお》やかたちが違うように、山の形も高さも違います。そして、たとえ双子でも、その個性が異なるように、山も、それぞれに異なる個性を持っているのです。個性、というのが不自然なら、さきほどのように雰囲気と言いかえてもかまいません」  男は、再びウィスキーの壜を取りあげて、ふたをあけた。ひと口飲み、壜をそのまま右手で握っている。  男は、しばらく口をつぐんだ。  私が、今の話を、どのくらい理解したのかうかがっているようであった。 「何故でしょうね」  男が言った。 「え?」 「どうしてでしょうね。どうしてこのように、山それぞれに、微妙な個性の差が出てくるのだと思います?」 「さあ」 「やはり、ただあたりまえに、山の格好や高度、岩質などによるのだと思いますか」 「そうではないんですね」  私は無難な言い方をした。 「山の形状や、岩質、土質、植物、むろんそれらのものが合わさって山の個性をつくっているのですが、それだけではないのです。もうひとつ、個性のもと[#「もと」に傍点]とも言うべきものがあるのです」  最後の『あるのです』に、男は力を込めた。  またウィスキーを飲んだ。  男の顔が赤くなっている。  風が強くなっていた。頭上の闇の中で、梢《こずえ》が騒いでいる。  私は、火に薪を足していなかったことに気がついた。だが、炎は、強くはないが、まだそれまでの火勢を保っている。 「不思議ですねえ」  男は、重いため息のように、その言葉を吐き出した。 「山はね、どんな山でも、どこかに一か所、時には数か所の聖域を持っているんです。地球からの〈気〉が抜け出てくる場所みたいなもの、とでも言うんでしょうか。いえ、山だけでなく、どんな土地にもそういったものはあるのでしょうが、地球が宇宙に向かって出っぱっている場所、山には特にそれが強いようです。その〈気〉というのがね、さっき言った、個性のもと[#「もと」に傍点]ってやつなんですよ」  男は、私の顔色をうかがっている。 「こいつはね、こじつけとか、そんなんじゃないんだ。事実なんですよ。証拠を見せたっていいんだけどね、わたしは、ちゃんと、その〈気〉ってやつを見たことがあるんだ。それだけじゃない。とっつかまえて、あなたに見せてやることだってできる。わたしはね、その〈気〉を、こうやって山を歩きながら、集めてまわってるんですよ」 「集めて?」 「ええ。と言ったって、誰にでもできる芸当じゃない。第一、普通の人間には、その〈気〉の出て来る場所がわからない。わかったって、つかまえる方法まではわからない。それにね、〈気〉なんてものがあることを、まず信用しやしませんからね」  ウィスキーをあおる。  顔がさっきより赤くなっていた。目の中に、小さく、偏執狂めいた光が宿っていた。 「いいかね」  少しずつ口調がかわっていた。  小さな狂気が、彼に張りついたようであった。 「山の聖域——地球からの〈気〉が抜け出てくる場所にはね、なんと言うか、宇宙と同質の〈気〉とでもいうものがあるんです。どのくらい昔かわたしにゃわかりませんがね、大昔、地球ができる時に、この大地はその宇宙の〈気〉みたいのを、いろんなものとごっちゃに抱え込んでしまったらしい。もちろん、わたしの想像ですがね。まあつまり、その場所の〈気〉と相性のいい人間が、しばらくそこにいるとね、なんかこう、気持がしっくり落ちついて、そこにいつまでもいたいような気分になるというか、山と一緒になったような気分になれるってわけらしいんですよ。で、はじめの話にもどると、それで、自然と好みの山みたいのができちまうってことになる」  男が立ちあがった。  その眼がやや吊りあがっている。 「へへ、信用してない眼だね。いいよ、見せてあげようか。わたしが三年前につかまえた〈気〉をね」  男は、自分のキスリングのひもを解くと、中に手を突っ込んで、もとはウィスキーか何かが入っていたらしい壜を取り出した。ガラスは透明なのだが、その内側に、半透明の薄い膜が張っているようである。 「どうだ、これがそうだ」  口調が完全にかわっていた。  男の内部にあった狂気が、ついに肉を喰《く》い破って、皮膚の表面に顔をのぞかせたようである。 「見ろ!」  壜を高々と頭上にさしあげた。  壜の中には、何も入っていなかった。      5  焚《た》き火をまわって、男が私の傍にやって来た。 「何も入っていないと思ってるんだろう」 「———」 「見てろ」  男は、壜を、己れと私との中間にさし出して、ものすごい形相で壜を睨《にら》みつけた。  きりきりと音の伝わってくるような念のこめ方だった。男の額に汗が浮いた。顔面の筋肉が、細かく震えている。  ——と。  壜の内部に、白いもやのようなものが現われた。それが、次第に形をととのえていく。薄い膜があるため、はっきりとは見えないが、どうやら人間のようであった。  それは、緑色をした、女の裸体となった。緑色の表面に、光の粒が、いくつもきらめいては消える。緑色自体も、濃く、薄く、また微妙に色あいをかえる。時おり現われるピンク色のパール質の光が、その緑と溶けあう様は、まるで壜に閉じ込められた妖精《ようせい》が、身をゆらせているようにも見えた。ファンタスティックな光景だった。  私が言葉を忘れてそれを見つめていたのは、ほんの三分くらいであったろうか。  すっと女の姿形が薄れ、現われた以上の早さで消えてしまった。 「見たか」 「———」  私は声もなくうなずいた。 「今のが〈気〉だ。三年前の、ちょうど今頃の季節だ。赤石岳《あかいしだけ》の北側のある谷の途中でな、おれはこいつをつかまえたのさ。こことよく似た場所さ。谷の底にはな、時々、〈気〉のカスばかりが溜《たま》っている場所があるがね、あれはだめだ。ここくらいの場所が一番いいんだ。おれは、こいつをつかまえるまでに、七年かかった。いいか、七年だぞ。初めにつかまえた北岳のやつは、なくなってしまった。次につかまえた立山《たてやま》のやつも、なくなってしまった。壜《びん》に入れておいたのが、いつの間にか消えてしまうのさ。へへ。わたしは考えたよ。それこそ気がおかしくなるくらいにね。それでやっとわかったのさ。やつら、どんなにしっかりとふたをしておいても、無機質のものは通り抜けてしまうのだ。だがな、おれはついにやった。〈気〉を閉じ込めておく方法を発見したのさ。それがこれだ」  男は、手に持った壜を、私の目の前に突きつけた。 「どうだ。壜の内側に、薄い膜のようなものが張ってあるだろう。わかるか、え?」 「わ、わかる」 「へへ。そうか、わかるか」  男は、笑った。  それは、もはや、あのなつっこい笑いではなかった。見る者をぞっとさせる、不気味な笑いだった。 「これはな、おれ[#「おれ」に傍点]の尻《しり》の皮膚さ」 「———」 「はは。いい考えだろ。やつらは、人間の皮膚だと通り抜けることができないのさ」 「あれは、人のかたちをしていたぞ」 「ふふん」  男は、再び焚き火のむこう側にもどり、ウィスキーの壜をひろいあげて、ラッパ飲みをした。  男は、左手に〈気〉の壜、右手にウィスキーの壜を握っている。 「〈気〉ってやつはな、見る者の想う通りの姿に格好を変えるのさ。女でも、男でも、金でも、車でも、花でも、何でもね。〈気〉はまわりの雰囲気に化けるのさ。〈気〉自体はただの〈気〉。幽霊なんてのもね、人の死に際の気持が乗り移っただけの〈気〉さ——」  男は、ウィスキーを飲み干し、空になった壜を放りなげた。男の背後の闇に、壜の落ちる音がした。  男は、キスリングの中を手でさぐり、もう一本の、〈気〉を閉じ込めるための壜を取り出した。 「おれはね、一年半をかけて、この場所を見つけたんだ。ここはね、この山の聖域なんだよ。ここから出てくる〈気〉が、この山の持っている、この山らしさ[#「この山らしさ」に傍点]みたいなもののもと[#「もと」に傍点]になるんだ。おれは、ここへ、〈気〉をつかまえにやって来たんだよ」  男は、〈気〉の入った壜をキスリングにもどし、新しい壜を持って立ちあがった。 「これは、まだ空の壜——」  よろけた。  それでも壜は落とさなかった。 「こいつにはね、さっきのとは反対側の尻の皮膚が張ってある」 「それで、その〈気〉は、このあたりの、いったいどこにあるんです」  私は、まだ手に持っていたコーヒーカップを置いて、視線をまわりの闇にむけた。  ここは、谷の斜面の樹林帯である。そのどこかに、地から〈気〉の湧き出ている所があるのだろう。  谷の底から、微かに水音がする。  雪から溶けてきたばかりの、清麗な、冷たい水音だ。  闇に、点々と石南花《しやくなげ》が白い。 「ごらんになりますか。わたし[#「わたし」に傍点]が〈気〉をつかまえるのを」  男の、おれ[#「おれ」に傍点]が、またもとのわたし[#「わたし」に傍点]にもどっていた。 「ぜひ」  私は言った。  とたんに、男がけたたましく笑い出した。 「失礼。酒を少し飲み過ぎましたかね」  まだ赤かったが、男の表情が、真面目なものにかわっていた。 「いいですとも。見せてあげますよ」  と言って、男が私を見つめる。  誘われるように、私も立ちあがっていた。  男が、私に向かって真っすぐに歩いてきた。 「あ——」  私は声をあげた。  男と私とを結ぶ直線上に、焚き火があったからである。  私の声を聴いて、男が立ち止まった。 「そこは」  私はもう一度声をあげていた。  男が立ち止まったのは、焚き火の真上だったのだ。 「ここがどうかしたのですか」  男が言う。  涼しげな声であった。 「そこは焚き火の上です!」  男は、笑いながら、すねをなぶっている炎の中から出てきた。 「さっき言いませんでしたかね。〈気〉はよく化けるんだと——」  男の顔が、すぐ目の前にあった。 「たとえば火にだって人間にだってね」  にたり、と笑った。 「だから、逃げられないように、人間に化けた〈気〉を騙《だま》したりしなくちゃならないんですよ。たとえば、酔っぱらったふりなんかしながらね——」  私の首に、鈍いショックがあった。  跳ねるように、男の身体が焚き火のむこう側に舞いもどっていた。  男の手に、私の首が抱えられていた。  私は、それを、焚き火のこちら側から、首の失くなった身体で見ていた。  私の首が、男の手に持った壜の中に、器用におさめられた。  焚き火や、テントや、コッフェルや、私の身辺のものが、急速に存在感を失っていった。  私の手や足が透けて、下の地面が見てとれる。 「そうか」  と、私はつぶやいた。  それは、もう声になっていなかった。  私はようやく想い出していた。  私は、二年前の今頃、ちょうどこの場所で死んだのだった——。 本書は昭和六十年十月に角川文庫にて刊行された『悪夢喰らい』を再文庫化したものです。 なお、角川文庫版に収録されていた「中有洞」「骨董屋」の二篇は、自選恐怖小説集『雨晴れて月は朦朧の夜』(角川ホラー文庫既刊)に再録されたため、本書では割愛させていただきました。 角川ホラー文庫『悪夢喰らい』平成14年7月10日初版発行