シナン 下 夢枕 獏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)絨毯《じゅうたん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)巨星|墜《お》つ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)馬丁をスルタンにすることができる[#「馬丁をスルタンにすることができる」に傍点] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/02_000.jpg)入る]  シナン 下 [#挿絵(img/02_003.jpg)入る] シナン 下 夢枕 獏 中央公論新社  目 次  第10章  ヴェネツィア  第11章  ロクセラーヌ  第12章  愛  人  第13章  神の宿  第14章  陰謀の都  第15章  蜜月の終り  第16章  宮廷建築家  第17章  神の水  第18章  スレイマニエ・ジャーミー  第19章  巨星|墜《お》つ  終 章  チューリップの丘 [#地から1字上げ]装  画 立原戌基    [#地から1字上げ]装  丁 祖父江慎    [#地から1字上げ]     +コズフッシュ [#地から1字上げ]資料協力 山下王世    [#地から1字上げ]D T P 平面惑星    [#改ページ] [#挿絵(img/01_009.jpg)入る]  第10章  ヴェネツィア [#ここから5字下げ] 欲しいものならなんでも見つかるこの都。 惜しいことには高貴な人が見つからぬ。   ムタナッピーの詩句 [#ここで字下げ終わり]       1  シナンが、イスタンブールを出たのは、トルコ軍の出発よりも十日早い、五月一日であった。  この頃、イスタンブールからヴェネツィアへ行くのには、大きく三つのルートがあった。  ひとつ目は、まず、陸路をアドリアーノポリ——トルコで言うエディルネまでゆき、そこから西へ進んで、今で言えばブルガリア、ユーゴスラヴィア地方を通り、アドリア海の港町、ラグーザに出る。そこから船に乗ってヴェネツィアまでゆく。  ふたつ目のコースも、また、初めは陸路をゆく。イスタンブールから西へ向かい、ギリシアの北部を通り、ユーゴスラヴィア領に入り、アルバニアを抜けて、港町ドゥルチーノに出る。ここからまた、海路を通って船でヴェネツィアへゆく。  三つ目が、海路である。  イスタンブールの金角湾を出、マルマラ海を進んでエーゲ海に出る。  そのまま南下してペロポネソス半島を回って地中海に出、イオニア海、アドリア海と北上して、ヴェネツィアへ至る海の路である。  時間はかかるが、この海路を利用するのが最も安全なコースであったといっていい。  シナンが使ったのは、この海路をゆく道であった。  こうして、シナンは、絨毯《じゅうたん》商人として、ヴェネツィアの土を踏んだのであった。       2  イスタンブールからヴェネツィアまで、海路を行くと、およそ一カ月半かかる。  シナンの乗った船は、これを二カ月かけて移動した。  シナンがヴェネツィアに到着したのは、七月の初めであった。  夏——  五月十日にイスタンブールを出発した、スレイマン率いるオスマン軍団がベルグラード(ベオグラード)に到着したのも、ちょうど同じ頃であった。  ヴェネツィアの象徴《シンボル》は、翼を持った獅子である。サン・マルコ寺院や、街のあちこちにこの意匠《いしょう》が描かれ、刻まれている。  シナンが、アンドレア・グリッティに初めて会った時に受けた印象は、�知的な獅子�であった。  英智を備えた老いた獅子。  そして、この老獣は、苦悩する獅子でもあった。  会った時に、手を握った。  驚くほどに柔らかく、乾いた手をしていた。  まるで、この手の柔らかさが、アンドレア・グリッティの人格そのものであるような気さえ、シナンはした。  アンドレア・グリッティは、この時、ヴェネツィアの元首《ドージェ》であった。  元首《ドージェ》といっても、絶対的な権力を持っているわけでは決してない。  力を持っているのは、�C・D・X(十人委員会)�という、言うなれば議会であり、この�C・D・X�の承認なしには、アンドレア・グリッティも国家に関わる判断を実行に移すことはできなかったのである。  鷲鼻。  白い顎鬚《あごひげ》。  貌《かお》の彫りが深い。  皺《しわ》の数も多かったが、その皺が、その数だけ、この人物の人格に深みを与えていた。  シナンが、後になって、アロイシからの手紙を指輪を添えてアンドレア・グリッティに渡した時、 「きみは、わたしの客人として、当家にとどまってもらってかまわないよ」  老いた獅子はそう言った。 「アルヴィーゼが、この指輪を持たせたということは、きみが、信頼するに足る人物であるということだ」  アンドレア・グリッティは、アロイシのことを、ヴェネツィア発音で、アルヴィーゼと呼んだ。  こうして、トルコ人シナンは、アンドレア・グリッティの家に、客分として留まることとなったのである。       3  シナンは、眼の前に広がる青い海を眺めている。  海面には、幾つもの舟が浮かんでいる。  その大半は大きな船ではなく、十人も人が乗れば沈んでしまいそうな舟であった。  ヴェネツィアの島から島へ、人を渡したり荷を運んだりする舟であった。  ヴェネツィアは、海上都市と言っていい。  幾つもの島からなっているが、どの島も海面から申しわけ程度に顔を出しているだけである。  その島中に、ヴェネツィア人は家を建てた。  海から眺めると、海面から直接都市が建っているように見える。  事実、水深が浅いため、海底に何本もの杭を打ち込み、その杭の上に土台を造り、そこから建てている家もごく普通にある。  海水中の木材は、なかなか腐ることがないため、このような工法が可能なのだが、しかし、その上に石の建物が建っているのを見るにつけ、シナンは驚きの気持を禁じ得ない。  なるほど、その土地にはその土地に合った家の建て方があるものだと思っている。  海を挟んで、煉瓦《れんが》作りの都市があり、その上に、サン・マルコ寺院の屋根と、塔が見えている。  ジュテッカ島——  ヴェネツィアの中心、サン・マルコ寺院が見えるくらいの距離にある島なのだが、さすがに、海を隔てていれば、中心街の喧噪《けんそう》はここにはない。  シナンは、椅子に座って、あの鼻の曲がった男と向きあっていた。ふたりの間には木製のテーブルがあり、葡萄酒《ぶどうしゅ》の入った盃がふたつ、そこに置かれている。  美しい細工のあるヴェネツィアンガラスでできた盃であった。  シナンが眺めている窓の外には、午後の陽射しを浴びた海とヴェネツィアの都市が見えている。  十月——  九月にこの鼻の曲がった男——ミケランジェロ・ボナロッティに会ってから、シナンは、時おりこの人物と過ごすようになっていた。  分厚い手。  太い指。  自らをただの建築家であると、この男は言った。  すでに、シナンは、この、岩を鑿《のみ》で荒く削って作り出したような風貌の男が、どういう人物であるかを知っている。  本人からも、また、アンドレア・グリッティからも、ミケランジェロのことは聴かされた。  フィレンツェに、あの巨大なダビデ像をもたらした彫刻家。  ローマのシスティーナ礼拝堂の天井画を描いた画家。  九月に、ミケランジェロが、フィレンツェからやってきた時、ヴェネツィア共和国は、ふたりの貴族をこの偉大な芸術家の元へやって、滞在中に必要なあらゆる援助をすることを、申し入れたのである。  しかし、ミケランジェロが求めたのは、静かに時を過ごす場所であった。そして、ミケランジェロは、このジュテッカ島での生活を手に入れたのである。  もともと、ミケランジェロには、このヴェネツィアに長く滞在するつもりはなかった。  貴族たちの訪問や、儀式も、でき得る限り避けたいと思っていた。  祖国とも言えるフィレンツェから逃げてきた身であり、話がまとまり次第、フランスへゆくつもりであったからである。  その時、フィレンツェは、極めて危うい状況にあった。  そのきっかけを、歴史上のどの時点に求めるかは、とてもひと口には言えないのだが、二年前——一五二七年の、フィレンツェからのメディチ家追放は、まちがいなくそのきっかけのひとつにはなっているであろう。  それまで、フィレンツェという芸術都市は、メディチ家の支配の元にあったと言っても過言ではない。  時のローマ教皇クレメンテ七世も、メディチ家のジュリオ・デ・メディチが、一五二三年に即位したものであった。  フィレンツェから追放されたメディチ家は、このクレメンテ七世を頼ったのである。  ちょうど、スペイン王カール五世が、ローマに圧力をかけてきている時期であり、クレメンテ七世は、あっさりとカール五世に屈してしまった。カール五世とバルセロナ条約を結び、カール五世にイタリア全土の支配者となる資格を与えてしまったのである。  これが、一五二九年の春のことである。  その見返りとして、クレメンテ七世が要求したのが、メディチ家のフィレンツェ復帰であったのである。  フィレンツェは、メディチ家の復帰を、当然のことながら拒否した。  こうして、スペイン軍は、フィレンツェに攻め込むため、国境近くに集結することとなったのである。  カール五世は、自ら神聖ローマ帝国皇帝として戴冠するために、ローマを訪れることを発表した。  皇帝の戴冠は、ローマ教皇によってなされるのが当然であり、そのために、カール五世がローマ入りするというのである。もちろん、カール五世は、単身やって来るわけではない。軍を率いてやってくる。  この軍に、カール五世の弟であるオーストリアのフェルディナンドの軍を加えたら、フィレンツェに勝ち目はなく、それはそのままヴェネツィアの運命でもあった。  これを牽制《けんせい》する意味でも、オスマントルコのハンガリー侵攻は必要であったのだが、ミケランジェロは、この時、もっと切羽詰まっていた。  ミケランジェロは、対スペインのため、フィレンツェにおいて、築砦のための総監に任命されていたのである。  スペイン軍が、いつ攻めてきてもいいように、砦を築き、守りを固めねばならない。  ミケランジェロは、その司令官とも言うべき地位を与えられたのである。  しかし、これは、ミケランジェロが、建築家として優れた才能を持っていたこともあったろうが、ひとつには、一般市民の歓心を買うための策でもあった。  その時の任命書は、今も残っている。 [#ここから1字下げ]  われらの市民なるミケラニョーロ・ディ・ロドヴィコ・ブォナローティの天才と実際における技力を考慮し、かつかれが高尚なる芸術において最も秀抜せる技能あるに加えて、いかに建築においても優れたるかを、かれをして同時代作家の何人よりも超えたりとなす一般の信念によりて知り、かつ郷国に対する愛においてはかれもまた他の善良忠信なる市民と等しきことを確信し、かつ今日に至るまで該事業(築砦)においてかれが果せる労力と、無報酬、自由意志をもって披瀝せる勉励を胸に記し、また将来においても該事業に対するかれの努力奮励の敢行を希いながら、原動者、指導者たるわれらは、かれをして司令官、及び今日よりはじめて向う一年間継続の市城築壁、その他防寒事業、及びフィレンツェ市兵站部の総監に任ず。 [#ここで字下げ終わり] �無報酬、自由意志�  とある。  この仕事は、困難を極めた。  困難というのは、技術上のことではなく、政治上のことであった。  ミケランジェロは、フィレンツェにあるサン・ミニアートの丘を要砦にすることを主張したのだが、フィレンツェ共和国の| 長 官 《ゴンファロニオーレ》であるニッコロ・カッポーニは、これに耳をかそうとしなかった。  ミケランジェロは、それでも、作業を始めたのだが、築砦は思うように進まなかった。  ニッコロは、ミケランジェロを邪魔者扱いして、軍事委員会の名で、名砦として知られるフェッラーラの砦を視察するようにミケランジェロに命じている。  ミケランジェロが、この視察から帰ってきた時、築砦の仕事は完全に中断していたのである。  軍事委員会が欲しかったのは、ミケランジェロの名声だけであったのである。  フィレンツェには、当然、親メディチ派もいる。  謀反の噂は至るところで流れ、教皇軍やスペインに内通して、メディチ家をフィレンツェに迎え入れようとする動きも多くあった。  カッポーニは、やがて、| 長 官 《ゴンファロニオーレ》の位をカルドゥッチに奪われ、軍の指揮官には、マラテスタ・パリオーリがなってしまった。  このマラテスタが教皇軍にフィレンツェを売ろうとしている、という噂も絶えなかった。  やがて、それは、事実となるのだが、こういった状勢の中で、ミケランジェロは苦悩する。  フィレンツェにはいられない。  そして、ついに、九月二十一日、ミケランジェロは、フランスへ行くためフィレンツェを脱け出すのである。  これに従ったのが、リナルド・コルシーニと、弟子のアントニオ・ミーニであった。  九月二十五日、ミケランジェロは、ヴェネツィアへ入り、ここでフランスからの正式な招待を待つこととなったのである。  ヴェネツィアへ着いたその日、ミケランジェロは、共にフランスへ行くつもりであった友人のバッティスタ・デラ・パッラに手紙を書き送っている。 [#ここから1字下げ]  親しき友バッティスタ、君は知っているだろう。わたしはフランスへ行くためにそこを去った。そして、ヴェネツィアまで来た。わたしは路を尋ねた。そこへ行くには、ドイツの領分を通らなければならない。しかもそこを通るのは危険で、困難なことだ、と彼らは言った。それでわたしは、君がまだ行く気があるかどうか、よかったら君から聞いて、お願いしようと思った。それを知らせていただきたい。また、どこで君を待ったらよいかを。  君と一緒に行きたいのだ。わたしは友人の誰にも一言も言わずに、せわしいままフィレンツェを発ってしまった。知っての通り、わたしは何とかしてフランスへ行きたいと思って、幾度となくその許可を求めた。が、それを得られなかった。それで、全く何も恐れずにまずこの戦の終りまでこれを見ていてやろうと決心してしまったのだ。ところが、九月二十一日の火曜日の朝、ある人物が、わたしが防砦に従事していたサン・ニコロ門の外へ出てきて、わたしの耳に囁いたのだ。 「生命がほしかったら、これ以上ここにいてはいけません」  わたしは、彼の家へ一緒に行った。そこで食事をした。彼はわたしを馬に乗せてくれた。それから、彼は、わたしの傍を決して離れずに、わたしをフィレンツェの城外へ出してくれたのだ。そこで彼は、 「これはあなたのためです」  そう言ったのだ。  神か。悪魔か。あの男が誰なのか、わたしは知らない。  どうか、先に書いたことへの返事をくれたまえ。できるだけ早く。わたしは行きたくてたまらないのだ。もし、君がもう行きたくないのなら、そのことを知らせてほしい。そうすれば、わたしは最善をつくして行くことにするから。 [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]君のミケラニョーロ・ブォナローティ  バッティスタ・デラ・パッラは、フランス王フランソワ一世のために、美術品や古代作品をフィレンツェで取り扱っていた人物で、ずっと以前からフランスへ行きたがっていた。  それで、ミケランジェロは、バッティスタを旅の友として選んだのである。  そのミケランジェロは、今、シナンの前にいる。 「まったく、短すぎる……」  低い声で、ぼそりとミケランジェロは言った。  その声で、シナンは、海から視線をこの鼻の曲がった男に向けた。 「そうは思わんかね」 「何のことです?」 「人生のことだよ。何ごとかをなそうとするには、人の一生は余りにも短すぎる」 「ええ」  シナンは、素直にうなずいた。 「つまらんことのために、わたしは自分の時間を無駄に使わせられてばかりいる。尻に火が点けられた獅子が走るがごとくに、わたしは石と仕事をしたいのだ。しかし、それをさせてもらえない」 「——」 「正直に言うなら、フィレンツェが、スペインのものであろうが、教皇のものであろうが、メディチのものであろうが、もっと極端なことを言えば、君の国オスマンのものであったってかまわないのだよ。彼らが、わたしに、石と向き合うための時間と仕事をくれるならばね」  すでに、ミケランジェロは、シナンがイスタンブールから来た人物であることを知っており、シナンが、ヴェネツィアの有力者アンドレア・グリッティの家にいることも、シナン自身の口から聴かされている。 「オスマンでも?」 「驚くことはない。以前に、わたしはコンスタンチノープルへ来ないかと、トルコから誘われたことがある」 「イスタンブールへ?」 「コンスタンチノープルから、ペーラへ橋を架けるためにね。一五〇六年のことさ。ローマは、わたしに、サン・ピエトロのシスティーナ礼拝堂に絵を描かせようとしていた……」 「何故、行かなかったのです?」 「仕事があったからさ」 「仕事?」 「『カッシナの戦い』を描いていたからね。まったく、あの頃は、散々だった。ブラマンテは、教皇に讒言《ざんげん》して、わたしの生命を縮めようとするし、トルコは魅力的だった——」 「でも、行かなかった」 「忙しすぎたのさ。まだ、わたしも若かったしね」  その時、ミケランジェロは三十一歳——二〇年以上も昔のことである。 「今は、老い、残りの時間はどんどん短くなってきているというのに、仕事をする時間だけがなくなってゆく——」  溜め息と共に、この石の巨人は言った。       4 「ひとつ、伺いたいことがあります」  シナンは言った。 「何だね」  石の巨人は、海の青の映ったその憂いに満ちた瞳をシナンに向けた。 「大きさのことです」 「大きさ?」 「芸術家にとって、大きさとは何でしょう?」 「——」 「他の人間よりも、大きな絵を描くこと。他の人間よりも、大きな石を彫ること。他の人間よりも大きな聖堂を建てること——」 「それは、もしかしたら、わたしのことを言っているのかね」  フィレンツェの象徴ともいうべき巨大な石像——ダビデを彫った男は言った。  さらにその後、ミケランジェロは、ローマにあるシスティーナ礼拝堂の天井画も描いている。天地創造、アダムの誕生、楽園追放、ノアの方舟、イエス——『聖書』に書かれている情景を描くことによって、およそ一千平方メートルにもおよぶ面積を、ミケランジェロはなんと独力で埋めたのであった。  もうひとつつけ加えておけば、この後ミケランジェロは、サン・ピエトロ寺院の巨大ドームの設計まで手がけているのである。 「いいえ」  シナンは、首を左右に振った。 「わたしが訊ねたのは、その意味です」 「意味?」 「大きいということは、それを作る者——あるいは作られたものにとって、どういう意味があるのでしょう」  しかし、その問いに、ミケランジェロは自分では答えなかった。 「おまえはどう思う」  海の方向に突き出したベランダに立ち、さきほどからこちらを眺めている弟子のアントニオに向かって、ミケランジェロは言った。 「大きさというのは、芸術家にとって、実に興味のある問題です。これまで、歴史上どのような彫刻家も彫ったことのない大きな大理石像を彫るというのは、その芸術家の自尊心をくすぐるでしょう。それは、これまで、誰も描いたことのない構図をキャンバスの上に表現する画家も同じです。世界で唯一、自分だけがそれを為し得たという満足感は、大きなものではないでしょうか」 「ほう」 「もっとも、ただそれが大きなだけの像、大きなだけの絵では、意味がありませんが」 「大きさは意味がない?」 「いいえ、そうは言っておりません。作品として優れていて初めて、大きさも意味を持ってくると言っているのです」 「大きさと作品の価値とは別のものだと言っているわけではないのだね」 「はい」 「確かに、人は巨大なものに感動する。それが、人の作ったものであれ、神が創造したものであれ……」  つぶやきながら、ミケランジェロはシナンを見やった。 「しかし、きみの求めているのは、そういう答ではないのだろう?」  ミケランジェロが問うと、 「はい」  シナンは、うなずいた。  アントニオを見やり、 「もうしわけありません。わたし自身が、このことについてまだよくわかっていないため、この答を得るためには、どのような問いこそがふさわしいのか、それがわからないのです」  シナンはそう言った。  シナンが視線をもどすと、ミケランジェロと自然に眼が合った。 「初めて会った時、きみは、サン・マルコ寺院について、おもしろいことを言っていた……」  ミケランジェロは言った。 「おもしろいこと?」 「この寺院には神がいないと——」 「はい」 「あれから、きみとは何度か神の話をした——」 「ええ、しました」 「サン・マルコ寺院——あそこは、神に比べて人間が過剰なのだときみは言った」 「はい」 「その意味は、今は、わたしにもわかる。しかし、それは、きみに言われるまでは気がつかなかったことだ」 「——」 「確かに、あそこは、神に対して、人がしゃべりすぎている。あそこで聴こえるのは、人の過剰な祈りの声ばかりで、神の声が聴こえてこない。人の装飾が過多で、神の姿が見えてこない……」 「——」 「そのきみの言い方を使わせてもらえるなら、きみの問いたい事柄というのは、神の大きさのことではないのか。神の大きさについて、きみは問うているのではないのかね」  言われて、シナンの顔に、驚きの笑みが浮いた。 「ああ、その通りです、ミケランジェロ。わたしは、神の大きさについて、問うているのです」 「神には大きさが存在するのかと、そう訊ねているのかね」 「あなたは、何という方なのでしょう。そうです。つきつめれば、結局それこそが、わたしの問いたかったことなのです」  シナンは、興奮しながら言った。 「大きなものには、大きな神が宿るのか——わたしは、このように問えばよかったのです、ミケランジェロ」 「きみは、大きい神と小さい神が存在すると言っているわけではないのだね」 「もちろんです」 「それが、我々の神にしろ、きみたちの神にしろ、同じひとつの神についてきみは言っているのだろう?」 「はい」  うなずいたシナンの顔を見つめ、ミケランジェロは、ふいに何かに気づいたようにうなずいた。 「聖《ハギア》ソフィアか!?」  ミケランジェロは言った。 「そうです。そうです、ミケランジェロ。わたしは、聖《アヤ》ソフィアについて、訊いていたのです」 「まさか、きみは、千年超えられなかったあの大聖堂を超えるものを——」 「ああ、ミケランジェロ——」  シナンは、石の巨人の言葉を遮《さえぎ》るようにして言った。 「そこから先は、おっしゃらないで下さい。それを聴くと、わたしは目眩《めまい》がして倒れそうになってしまいます」  シナンは、これまで、どのような人間と会話をしていても、ここまでみごとに自分の心の裡《うち》を言いあてられたことはなかった。しかも、このミケランジェロは、シナン自身でさえ、うまく言葉にできずにいたことを、言葉にしてみせたのである。  このことに、シナンは、驚きを隠せなかった。  自分は、ミケランジェロにとっては、異教徒であり、さらに、無名の男である。  確かに、トルコ人でありながら、ヴェネツィアの元首《ドージェ》の家で生活しているシナンは、他人の眼には奇妙に映るであろう。そこには、秘密の匂いがあり、それは、シナンという人間を、その身分以上に大きく見せているかもしれない。こうして、ミケランジェロと親しく話ができるというのも、元首《ドージェ》アンドレア・グリッティに近い人間であるからかもしれない。  そういう人間とつながりをもっておくということは、ヴェネツィアにいる間は、ミケランジェロには必要なことでもあろう。  しかし、それにしても——  シナン——自分という人間に関心がなければ、ここまでのことを言いあてられるわけはない。 「君が、本当に絨毯商人であるかどうかは、わたしにはどうでもいい。わたしに興味があるのは、君のその考え方なのだ」  ミケランジェロは言った。  すでに、ミケランジェロは、シナンがただのグリッティ家の客人でないことに気づいているようであった。 「では、少し、言い方を変えるとしようか」  ミケランジェロは、落ち着いた声で言った。 「建築の中には、全てがあるということだ」 「建築?」 「ああ。優れた建築家は、あらゆることについて、精通していなければならない。数学のことも。石のことも。彫刻のことも。絵のことも。そして、人のことにもだ……」 「——」 「建築が、全ての芸術を統《す》べるのだと言ってもいい。きみが、幾らかでも建築のことにたずさわっている人間なら、それはわかるだろう」 「はい」 「さっきのきみの質問に答えよう」  ミケランジェロは言った。  ミケランジェロは、自分の両腕を持ちあげ、両手をシナンの前に突き出した。 「これだよ」  ミケランジェロは言った。  肉の厚い、節くれだった太い指。  その手を、何度か握ったことのあるシナンにはわかっている。その手が、どれだけ堅いか。どれだけ、傷があるか。どれだけの仕事をこれまでしてきたのか。 「仕事さ」  低いが、確信に満ちた声でミケランジェロは言った。 「わたしが彫刻家なら、彫刻の中に。もしもきみが建築家なら、建築の仕事の中に——」 「——」 「仕事をしなさい」  ミケランジェロは言った。 「それ以外に答を得る方法はないよ。人に問わずに、仕事に問うことだ。自分の手に問うことだ。仕事をしなさい」  力強い声であった。 「様々なことが、我々を襲ってくる。病。死。権力争い。戦《いくさ》。女。それこそ数えきれないほどのものが、常に我々を襲ってくるのだ。しかし、どのようなことが我々を襲ってこようとも、我々には、仕事がある。この手がある。仕事をすることだ。自分のはらわたをひり出してしまうほど、仕事をしなさい。仕事をしなさい、シナン。仕事をすることだ。どのような不幸も、禍《わざわ》いも、我々から仕事を奪うことはできないのだ。我々が仕事を望む限りはね。仕事をしなさい。仕事をするのだ。これは、自戒の念を込めて言うのだが、結局、我々にはそれしかないのだ。仕事をしなさい。きみの仕事が、きみのその問いに答えてくれるだろう。仕事が、きみにその答をもたらしてくれるだろう。仕事をしなさい——」  ミケランジェロは、言った。  ミケランジェロのその言葉が終るのを待っていたように、 「失礼します」  声がかかった。  部屋の入口の扉が開いていて、そこに、ひとりの若い男が立っていた。 「お知らせしたいことがあります」  男は言った。  ミケランジェロが、フィレンツェからヴェネツィアまで連れてきた、ふたりの弟子のうちのひとり、リナルド・コルシーニであった。 「何だね、コルシーニ」 「今、知らせが入りましたが、トルコがウィーンから退《ひ》いたそうです」 「なに!?」  ミケランジェロが、声をあげた。 「スレイマンは、ウィーンから去り、帰途にブダペストに立ち寄って、アンドレア・グリッティの息子、アルヴィーゼ・グリッティに、ハンガリー王国の財務担当官の地位と、アドリアの司教職を与えたとのことです」  アルヴィーゼ・グリッティ——つまり、アロイシ・グリッティのことである。 「それから、もうひとつ——」  コルシーニは続けた。 「バッティスタ・デラ・パッラから手紙が届いています」       5  スレイマン率いるオスマントルコの大軍——およそ十万の兵が、ブダペストに入ったのは、九月であった。  ブダペストを包囲してから六日で、スレイマンはこの都市を落とした。  このおり、イェニチェリたちは、略奪を禁止されていた。しかし、その埋め合わせとして、イェニチェリたちは、多くの住民を捕え、奴隷として売ったのである。  ブダペストにいたオーストリア人たちは虐殺され、首を落とされた。  斬られた首は、その数を数えるのが不可能なほどであった。  このブダペストの占領から一週間後、スレイマンの手によって、ヤノシュ・ザポリヤがハンガリーの玉座に就いたのである。  スレイマンは、この新しいハンガリーの王に、黄金の馬具を付けた馬三頭と、金糸で織った長衣三着を与えた。 「この王国は、おまえのものではない」  スレイマンは、醒めた眼で、このキリスト教国の新王を見つめながら言ってのけた。 「この王国は、このスレイマンが、フェルディナンドより奪い、おまえに与えたものだ。わたしがおまえに与えたものは、いつでもおまえから取りあげることができるのだ。この王国も、その臣民も、わたしの意のままにすることができる。それを忘れるな」  その言葉を残して、スレイマンは、いよいよこの遠征の目的地であるオーストリアのウィーンへ向かって出発したのである。  軍の人数は、さらに増えて、十二万。  荷を運ぶ駱駝《らくだ》は、二万八〇〇〇頭。  この軍が、ウィーンの前面——ゼムメリング村に到着したのは、九月二十七日である。ちょうど、シナンがミケランジェロと会うことになる三日前のことであった。  しかし、時期が遅すぎた。  冬の訪れる直前と言っていい。  スレイマンは、この戦いを急がねばならなかった。本格的な冬がやってくる前に、結着をつけねばならない。  スレイマンの幕宿は、豪華なものであった。  その外側を、黄金の飾りのついた柱が囲み、内部は金糸の織物が満たされていた。  その周囲を、一万二〇〇〇のイェニチェリが囲んだ。  アジア側の軍勢——アナトリアの総督《ベイレルベイ》。  大宰相イブラヒム。  ボスニアの| 知 事 《サンジャクベイ》。  セルビアの| 知 事 《サンジャクベイ》。  さらにルメリの軍。  大砲三〇〇門。  悪天候のためまだ到着していなかったが、これに巨大砲数門が加わることになっていた。  籠城するウィーン側は、兵二万。砲七二門という少なさであった。  トルコ軍は、ヨーロッパの心臓部に近い場所まで、やってきていたのである。  カール五世と対立していたルターも、ここに至っては、オーストリア王フェルディナンドと、その兄であるカール五世を助けないわけにはいかなかった。  この時、トルコの侵攻を歓迎していたのは、ヨーロッパでは、ヴェネツィアと、カール五世の軍によってその存在を脅《おびや》かされているフィレンツェだけだったのではないか。  しかし、ヴェネツィアにしても、トルコがフェルディナンドやカール五世を脅かしてくれることを望んではいても、トルコ軍がヨーロッパを征服してしまうのでは困る。  まことに微妙なバランスの上に、ヴェネツィアという共和国は存在していたのである。  ウィーンは、落ちなかった。  冬が近づいている。  食糧と、弾薬が不足し、兵やイェニチェリたちの間からも、不満の声があがりはじめていた。  しかし、トルコ軍は、ウィーンに迫っていた。  あと少しで、ウィーンは落ちる。  スレイマンは、最後の大攻勢をかけることにした。  すべてのイェニチェリに一〇〇〇アクチュずつが与えられた。  最初に城壁を登った者には、三万アクチュが与えられることを、スレイマンは約束した。  しかし、この攻撃にも、ウィーンは持ちこたえたのである。  雪も、降り始めた。  そして、この最後の攻撃の二日後、スレイマンはウィーンから撤退する決心をしたのである。  ウィーンからの帰途、スレイマンはブダペストに寄り、ここで、ヨーロッパを大きく揺るがす人事を行なった。  アロイシ・グリッティを、ハンガリー王国の財務担当官に任命し、アドリアの司教職を与えたのである。  アロイシ・グリッティは、ヴェネツィアの大使である。  これまで、イブラヒムと深くつきあい、スレイマンとも親交を結び、信頼を得ていたが、それはあくまでもヴェネツィア大使としてのことであった。  このたび、自ら兵をつのって、今回のウィーン遠征に参加をしたが、これも、ヴェネツィア大使としてのことである。  ヴェネツィアに、カール五世やフェルディナンドの手が伸びており、彼らの手から祖国を守るための行為と考えれば、他のヨーロッパ諸国には言いわけが立つ。  しかし——  ハンガリー王国の財務担当官となるということや、アドリア司教となるということは、もう、ヴェネツィア大使のすることではない。  新しいハンガリー王国が、トルコの属国であり、そこの王であるザポリヤが、誰の目から見てもスレイマンの臣下にしかすぎないことは明らかであり、つまり、アロイシはスレイマンの臣下となったことになる。  スレイマンの命を受けて、ザポリヤの監視をする役目として、アロイシは、ハンガリーに残ったのである。  すでに、アロイシは、ヴェネツィア大使ではなくなっていた。  この知らせは、瞬く間に、ヨーロッパ中の知るところとなり、どの国より先にその知らせを受け取ったのが、ヴェネツィアであったのである。       6  シナンは、ランプの灯りの中で、アンドレア・グリッティを待っていた。  もう、深夜である。  ミケランジェロは、あの手紙を読んで深い溜め息をついていたが、あれからどうしたのか。  ここで書いておくと、ミケランジェロに届いたバッティスタの手紙は、一緒にフランスへは行けぬというものであった。  結局、ミケランジェロは、フランスへは行かず、ヴェネツィアから、フィレンツェへもどっている。  ミケランジェロのところから帰ってきて、まだ、グリッティには顔を合わせてはいない。  自室で待っていてほしいという伝言が残されていただけである。  おそらく、グリッティは、今度のアロイシの件について、議会の連中と対策を練っているのであろう。  事は複雑であった。  アロイシが、スレイマンと共に、軍を率いてウィーン遠征に参加したことについては、すでに噂を流している。カール五世や、フェルディナンドにも手紙を送っている。  これは、ヴェネツィアの意志ではないと。止めたにもかかわらず、アロイシが勝手にやったことであると。  これを、完全に信用することはないにしても、ある程度は事実であろうと、カール五世もフェルディナンドも思うことであろう。  そして、それは、その通りなのだ。  アロイシが軍を率いて、その剣をヨーロッパに向けたことは困ることだが、そこには大義があった。  ヴェネツィアは、事実、トルコのウィーン遠征によって救われたのである。  しかし、今度ばかりは、ヨーロッパ中を、本当に敵にまわしてしまうことになりかねないのである。  おそらく——  とシナンは思う。  これは、イスタンブールを発《た》つ時には、すでに決まっていたことなのだ。  少なくとも、スレイマン、イブラヒム、アロイシの三人は、このことを知っていたろう。  ここに来て、ようやく、シナンは自分の役目に思い至った。  それで、この自分が——  アンドレア・グリッティが、ようやくもどってきたのは、シナンが、そのことに気がついた時であった。       7  その夜、遅く、シナンはアンドレア・グリッティと会うことができた。  シナンがその部屋に入ってゆくと、老いた獅子は、ビロードを張った椅子に深々と腰を沈め、両肘を肘掛けに載せ、両手を腹の上で組んでいた。  テーブルの上に置かれたランプの灯りが、この老人の彫りの深い顔を照らしていた。  眼窩《がんか》の奥は、陰になって、灯りが届いていないため、その眼までははっきりと見えていなかった。しかし、その瞳が、苦悩に満ちているのはわかる。  深い、暗い沼の底から、頭上のどこかにあるかもしれない光を捜そうとしている魚のように、グリッティの瞳は遠くを見つめていた。  ドアが閉められ、シナンはこの老いた獅子とふたりきりになった。 「お呼びですか」  シナンは言った。  しかし、グリッティは、すぐには答えなかった。  ゆっくりと顔をあげ、シナンを見た。  傷ましい顔であった。  確かに、アンドレア・グリッティの息子アロイシ・グリッティは、ヴェネツィアを救った。  それは間違いがない。  だが、ヴェネツィアを救ったその手を返すように、今またアロイシは、ヴェネツィアを新たな危機に陥れたのである。 「待たせたな」  白い髭《ひげ》の中で、グリッティの唇が動く。  シナンは、グリッティの前に立ち、 「いいえ」  静かにそう言った。 「我が息子、アルヴィーゼのことは、すでに聴きおよんでいよう」  グリッティは言った。  アルヴィーゼ——つまりアロイシのことである。 「はい」  シナンはうなずいた。 「わたしは、息子のことを、理解しているつもりでいた」  そう言って、グリッティはシナンから眼をそらせ、 「昨日まではだ」  飲み込めなかった異物を、外に吐き出すようにグリッティは言った。 「昨日まで?」 「今日、アルヴィーゼの新しい任務について耳にするまではということだ」 「——」 「たとえ、トルコ軍と共に、自身の兵士を使ってヨーロッパに攻め込んで来ようと、息子の心の中にあるのは、ヴェネツィアの平和であるとわたしは信じていた。しかし——」 「アロイシ様は、ハンガリー王国の財務担当官になられました」 「おお、そのことだ。どうして、アルヴィーゼがそんなことになってしまったのか——」 「ええ」 「それで、わたしは、手紙を開くことにしたのだ」 「手紙?」 「きみだよ、シナン」 「わたし?」 「そうだ」 「初めてお会いした時に、アロイシ様からの手紙は、お渡ししたと思いますが」 「確かにその手紙は受け取った。しかし、わたしが今言っているのは、その手紙のことではない」 「どの手紙のことでしょう」 「きみが、その手紙なのだよ、シナン」  グリッティは言った。  グリッティは、テーブルの上に眼をやった。  そこに置かれたランプの横に、手紙が置かれていた。  グリッティは、その手紙を手に取り、 「きみが持ってきた、アロイシからの手紙だ」  シナンに向かってそれを差し出した。 「これを読んでみたまえ」 「よろしいのですか」 「かまわん。最後の必要なところだけを抜きとったものだ。それをきみに読んでもらうのが、一番話が早いだろう」  シナンは、その手紙を受け取って、ランプの灯りがよく届く場所に立ってから、それを開いた。  グリッティの言った通り、手紙の途中からであった。  ヴェネツィアの言葉は、もともと多少ならばしゃべることができた。こちらへ来るにあたっては、あらためて言葉を学び、さらに、ヴェネツィアに着いてからも学んでいる。よほど特殊な文章でなければ読むことはできる。  読み始めた。 [#ここから1字下げ]  ああ、父上。  わたしがどんなにか、あなたや、家族やヴェネツィアを愛しているか、おわかりでしょうか。わたしは、わたしにできる、ヴェネツィアにとって、最もよいと思われる行動をとるしかないのです。それは、父上にとっても、ヴェネツィアにとっても、一時、辛い試練となるかもしれません。  わたしのやろうとしていることは、必ずしも、多くの人に理解してもらえることだろうとは思っておりません。  事がおこった時、あなたは、わたしを敵と呼ぶことになるかもしれません。たいへん哀しいことですが、もしもそうなった時、敵と呼んでもよいから、理解をしていただきたいのです。  わたしの行動がどのように道からはずれているように見えたとしても、わたしは常にヴェネツィアのことを考えているのだということを。御聡明な父上なら、必ずやそのことをわかって下さるであろうと思っています。  いずれ、それはおこることになるでしょう。しかし、それが何であるか、あなたの息子が何をしようとしているのか、わたしはそれを今ここで書くことはできません。  それは、その時が来るまで秘されねばならないことであるからです。  もし、この手紙にそのことを書いたら、きっと、父上は哀しまれることでしょう。それをやめさせようと、父上が思わぬ手を打ってくるかもしれません。そうなったら、これは、実を結ばぬままになってしまうかもしれません。いや、そうなる可能性が高いのです。それほど、これは重要なことなのです。  しかし、それがおこった時、父上は動揺されるでしょう。そして、その時、父上が、わたしの心をどこまで理解して下さるか。  ああ、父上。  偉大なるヴェネツィアの獅子、アンドレア・グリッティ。わたしがあなたをどんなに愛しているか、どんなに敬愛しているか、それはとても言葉では言い尽くせません。  事がおこった時、委員会の中で、あなたがどんなに辛い思いをすることになるか、あなたやわたしをののしる声の、どれだけ多くあることか。しかし、あなたは、必ずや、親子の私情を捨てて、ヴェネツィアのために、賢明なる判断をなさることでしょう。  あなたは、ヴェネツィアのために、息子をののしらねばならなくなるでしょう。  それでよいのです。  あなたに、あのヴェネツィアの父アンドレア・グリッティに、わたしを、息子をののしる言葉を吐かせることになるのが、わたしは辛いのです。しかし、あなたは、時が来たならば、それをしなければならないのです。どうかどうか、その時が来たら、わたしを糾弾《きゅうだん》して下さい。わたしのことを、もう息子ではないと、皆に宣言して下さい。  あなたは、ヴェネツィアのためにそれをしなければならないのです。  しかし、たとえ、あなたの口がわたしのことを息子ではないと言っている時でも、どうかどうか、その心はわたしのヴェネツィアへの愛を信じていただきたいのです。父上や家族への愛を信じていただきたいのです。  たとえ、このわたしが、野心という大きな魔物にこの心を激しく苛《さいな》まれている時でさえ、わたしは、父上とヴェネツィアを愛していることを忘れはしないでしょう。  このことについては、わたしは、もう一通の手紙を父上に書きました。  その手紙は、今は封がされたままですが、もしも、事あった時、その手紙を開いて下さい。  その手紙には、あらためて、わたしの本心がしたためられています。その手紙は、わたし以上に、わたしの心を、上手に父上に語ってくれることでしょう。  その事が何であるかは、おこった時に、それとわかります。アンドレア・グリッティであれば、必ずそれとわかります。  しかし、今の状勢では、それはおこらない可能性もまた充分すぎるほどにあるのです。  わたしが、あなたが今読んでいる手紙にそのことを書けない理由は、そこにもあるのです。  そのもう一通の手紙ですが、その手紙は、自らが手紙であることを自覚しておりません。また、自らに何が書かれているかも知ってはおりません。  しかし、事あった時、その手紙は自らが手紙であることを自覚し、自らに何が書かれているのかを自覚するでしょう。その手紙は、自らに書かれていることを、父上に語るでしょう。  その手紙は、紙ではありません。  人間です。  あなたが、今、お読みになっているこの手紙を、あなたのもとまでたずさえていった人間こそが、わたしが父上にあてたもう一通の手紙なのです。  その手紙の名は、シナンといいます。  このシナンは、イェニチェリです。  もともとは、我らの神を信仰していた人物であり、今は、異教徒の神を信仰しています。  しかし、○○○○○とはまた違った意味で、我らの神について理解しております。  神とはもともとひとつのものであるとシナンはわたしに言ったことがあります。ひとつの神に、人によって多くの名がつけられているだけなのだと。  このシナンの語ることに、もしも事あった時は、ぜひ耳を傾けていただきたいのです。  その時まで、シナンをしばらく父上のもとにお預かりいただきたく、あらためてお願い申しあげます。  最後に、もう一度、繰り返しておきます。  父上を愛すること、ヴェネツィアを愛すること、神に誓って、このことは誰にも負けません。 [#ここで字下げ終わり]    敬愛する父上      アンドレア・グリッティ殿 [#地から1字上げ]あなたの息子アルヴィーゼ・グリッティ  手紙は、そう結ばれていた。  手紙の一部を、○○○○○とインクで消してあった。どうやら、前後の文脈からすると、そこには人の名前が書かれていたらしい。  書いた字の上からインクで消してあるのだが、文字に使用されているインクと、文字を消したインクとを比べると、どうやら別のインクのようであった。  その○○○○○という名前を人に知られたくなくて消したのだろうが、それをやったのは、書いたアロイシなのか、アンドレア・グリッティなのか、シナンにはわからなかった。  シナンは、手紙を読み終え、ゆっくりと顔をあげた。  アンドレア・グリッティと眼が合った。  グリッティは、シナンが手紙を読んでいる間中、ずっとシナンを見つめていたらしい。 「どうかね」  グリッティは言った。 「そこに、アルヴィーゼは、きみのことを手紙であると書いている」 「はい」  シナンはうなずいた。 「その通りです」 「アルヴィーゼが、何のことを言っているのか、きみにはわかるかね」 「はい」  シナンが持っていた手紙を差し出すと、 「手紙か……」  グリッティは、小さくつぶやいて、シナンの手から手紙を受け取った。 「つまり、この手紙に書いてある通りであるということかね」 「ええ」 「きみも、自分が手紙であると知らずにこのヴェネツィアにやってきたというわけか——」 「わたしもまた、必ずその時がくれば、自分の役目がわかるだろうと、アロイシ様からは言われていました」 「で、わかったのかね」 「はい。ついしばらく前にわかりました」  シナンは答えた。 「それで、どうなのだね。アルヴィーゼは、きみを通じて、わたしに何を言おうとしているのだね」  グリッティは訊ねた。 「まずは、その手紙に書かれている通りであるということです」 「と言うと?」 「アロイシ様は、あなたのことも、そしてヴェネツィアのことも、深く愛していらっしゃるということです」 「わたしも、それを疑ったことはないよ」  グリッティはうなずいた。  シナンは、グリッティを見つめながら、自分の手紙としての役割はなんであるのかと考えていた。  この、グリッティを安心させることなのか。  それとも、自分はただ、自分が思うところのことを正直に語るだけでいいのか。 「もちろん、その手紙に書かれている�事�というのは、今回のこと——つまり、アルヴィーゼがハンガリーの財務担当官となったことなのだろう」 「はい」 「きみもその知らせを聴いた時に、自分の役目について、気がついたということか」 「その通りです」 「ずい分と、回りくどいやり方をしたが、こうなってみれば、確かにアルヴィーゼのやり方も意味がある」 「はい」 「アルヴィーゼが、ハンガリーの財務担当官となるということは、これはようするに、トルコの名の下に、ハンガリー王ヤノシュ・ザポリヤを監視するということだ」 「はい」 「それはつまり、実質のハンガリー王は、今、アルヴィーゼであるということではないか」 「おっしゃる通りです」 「確かに、あの手紙には、このことは書けない」  しみじみと、グリッティは言った。 「シナン、きみにも、トルコ人としての立場があるだろうが、訊ねたいことがある」 「何でしょう」 「このことは、いったい、トルコの宮廷で、何人の人間が知っていたのかね」 「おそらくは、まず、御本人のアロイシ様——」 「うむ」 「スレイマン様もイブラヒム様も、当然これは御存知のことでしょう」 「あとは、ロクセラーヌ様。そして、何人かのパシャ——」 「いずれにしても、上部の者たちだけということか」 「はい」 「スレイマンは、聡明な人物だ。そのスレイマンが、いったい何故、異教徒であるヴェネツィア人アルヴィーゼ・グリッティに、ハンガリー支配の権利を与えたのだろう」 「それは、わたしが言わずとも、グリッティ様もおわかりのことなのではありませんか」 「いや、わたしはまず、きみの口からそのことについて聞きたいのだ」 「では、わたしの考えていることを申しあげます」 「おう」 「まず、今、グリッティ様が口にされたことが、そのまま、その理由となりましょう」 「——」 「スレイマン様が、御聡明であったこと、そして、アロイシ様が異教徒——つまりキリスト教徒であったことが、その理由でしょう」 「それは、どういうことかね」 「ハンガリーは、キリスト教国です。キリスト教国を支配するのは、イスラムのスルタンよりは、同じキリスト教徒の方が、収まりがよいと、スレイマン様はお考えになったのでしょう」 「わたしもそう思う。いずれにしろ、ハンガリーは、スルタン・スレイマンのものなのだからな。彼が思う時に、ハンガリーの王の首など、いつでもすげかえることができるだろう」 「はい」 「他には?」 「アロイシ様に、一国を支配するだけの器《うつわ》ありと、イブラヒム様、スレイマン様がお考えになったということでしょう」 「それほど、アルヴィーゼは、信頼されているということか」 「そうです。アロイシ様は、多くの武器を、戦《いくさ》のたびに、オスマンのために提供されました。その武器は、東にばかり向けられたのではありません。多く、ヨーロッパにも向けられました」 「ヴェネツィア人のアルヴィーゼに、ハンガリーの実権を握らせて、スレイマンには不安はなかったのかね」 「なかったと思います」 「アルヴィーゼがこのヴェネツィアと組んで、トルコに敵対するとは考えなかったと?」 「考えたとは思います。しかし、それはあり得ないだろうと、イブラヒム様もスレイマン様も考えたのでしょう」 「ほう」 「ハンガリーとヴェネツィアが手を結べば、フェルナンデスも、カール五世も黙ってはいないでしょう。さらに、トルコも敵にしなければならなくなります。ハンガリーは、トルコに操られながら、キリスト教国としてヨーロッパとは微妙な関係を保ってゆかねばなりません。もちろん、ヴェネツィアともです——」 「きみの言う通りだ」 「そのかけひきは、ザポリヤのような人物にはできぬでしょう。彼にできるのは、西や東の有力な王に頼ることだけです。ザポリヤは、ハンガリー王になるため、トルコを頼りましたが、いつ、カール五世に寝がえるかわからないところがあります」 「うむ」 「御国の事情はわかりますが、わたしが考えても、アロイシ様以上に、この役目に適した方はいらっしゃらないと思います」 「まさに、まさにアルヴィーゼほどの適任者はいないだろう」  グリッティはうなずいた。  シナンは、グリッティを見つめ、そして、覚悟を決めた。  この人物には、この件について、思うところを全て話した方がよいと。  そして、まさに、このためにこそ、自分はこのヴェネツィアにやってきたのだということを、シナンは、グリッティを見ながら、理解していた。 「アロイシ様の御意志は、グリッティ様が、御自分の息子——アロイシ様を、自分の息子ではないと、世間に告げることです。すでに、アロイシ様とは親子の縁を切ったと——」 「おお……」  グリッティは声をあげた。 「おお……」 「それこそが、このヴェネツィアを、スペイン王からも、オスマンからも守ることなのです。そして……」  シナンは、言葉を切った。  グリッティが、自分を見つめている。  その眼が、シナンの次の言葉を待っていた。 「アロイシ様が、おっしゃっていること、お父上とヴェネツィアを、何よりも愛していらっしゃるということ、これは誠です。しかし……」 「しかし?」 「そのアロイシ様にも、野心はあったということでございます」  シナンは言った。 [#改ページ]  第11章  ロクセラーヌ [#ここから5字下げ] そなたは刃である 刃であればこそ 刺そうとする 何故ならそれが刃であるから 刃になんの責任があろう 刃の行為に罪はない 罪があるとするなら そなたがそなたであること そのものなのだ ——バークー [#ここで字下げ終わり]       1  ひとりの女性によって、強大なる帝国の王が心を動かされ、ひとつの王国を存亡の危機にさらしたり、そのために誤った判断を下してしまうという例は、歴史上に幾つかある。  東に、大唐帝国の玄宗《げんそう》皇帝と楊貴妃《ようきひ》の例があるならば、西には——といってもこれはヨーロッパという意味ではないが——オスマン帝国のスルタン・スレイマンと、その妃ロクセラーヌの例がある。  あれほど聡明であったスレイマンが何故このような判断を下したのか——と思われるようなことが、スルタン時代に少なくともふたつある。  そのどちらの時にも、スレイマンにとって重要な人物が死をむかえているのである。  常に、その生涯において、スレイマンが正しい判断を下してきたとは限らないが、少なくともスレイマンは愚かではなかった。ハンガリーに続くウィーン遠征の失敗についても、それは結果的に失敗をしたということであり、一五二九年にそれを決断したスレイマンの判断は、必ずしも間違っていたとは思えない。少なくとも、そこに、愚かさは見あたらない。  だが、スレイマンは、その生涯に、二度、自分にとって——あるいはオスマン帝国にとって重要なる人物に死をもたらす決断をしてしまうのである。  そのどちらの場合にも、関わっていたのはロクセラーヌという女性であった。  そのふたりの人物の死については、おいおいに語ってゆくとして、まず、ここではロクセラーヌという女性について語っておきたい。  このロクセラーヌが、アロイシ・グリッティの運命にも、大きく関わってくることになるからである。       2  ロクセラーヌが、奴隷女として、スレイマン大帝に献上されたのは、一五二三年であったと、イスタンブールに滞在していたあるヴェネツィア人は日記に書き記している。  スレイマンがスルタンとなってから、三年後ということになる。  しかし、いったい誰が献上したのかを、その日記の主は記してない。  地方の太守が献上したとも、後宮《ハレム》で権力を持っている黒人の宦官《かんがん》が、奴隷商人から買った女奴隷を献上したのだろうとも言われているが、ポーランド人のある商人の語るところによれば、このロクセラーヌを献上したのは、他ならぬ大宰相イブラヒム自身であったという。  ヨーロッパ的な呼び方であるこのロクセラーヌは、本名ではない。ロッサーヌという呼び方もあるが、どちらもあだな——愛称であり、�ロシア女�というほどの意味である。  ロクセラーヌは、ルテニアのロハティンの貧しい司祭の娘として生まれた。  本名は、アレクサンドラ・リソフスカ。  彼女の生まれた地域は、ドニエプルの沿岸であり、ハンガリー、モルダヴィア、ポーランドの交界地にあたっており、ポーランドを侵掠《しんりゃく》していたタタール人がしばしば出没した。  アレクサンドラ・リソフスカは、このタタール人たちに攫《さら》われ、奴隷として売られたのを、イブラヒムが買いとり、スレイマンに献上されたのだと、件《くだん》のポーランド人商人は語っている。  このアレクサンドラ・リソフスカ——ロクセラーヌを見たヨーロッパ人がいる。  ヴェネツィア大使ブラガディーノがその人であり、彼によれば、ロクセラーヌは、 �愛想がよく陽気な性格�  であったという。  トルコ語で�ヒュッレム(快活)�のあだなが彼女につけられたが、まさにそのあだなにふさわしい女性であったとブラガディーノは語っている。  陽気に加えて、音楽の才能があった。  ロクセラーヌは、自らギターを弾き、スラブ地方の唄を若いスルタンのために歌った。  美人でこそないが、それを補って余りある才があった。  このロクセラーヌに、スルタン・スレイマンは溺れた。  ロクセセラーヌはスレイマンとの間にメフメットという男子をもうけ、第四夫人となってしまったのである。  そして、すでにいたスレイマンの三人の夫人を押しのけて、このロクセラーヌが後宮《ハレム》の支配者となってゆくのである。  何故、そこまでスルタンがこの�ロシア女�に溺れたのか。  フェルディナンドの大使ビュスベクは、 �愛の魔法と魔術の技巧�  によって、ロクセラーヌはスレイマンを虜《とりこ》にしたのだと語っている。  意味深な言葉だ。 �床上手な女にたぶらかされた�  日本語でわかり易く言えば、そうなるであろうか。  ビュスベクの言葉は、丁寧な分、この異教徒の王に対する揶揄《やゆ》の響きが強い。  ロクセラーヌの、もうひとつの特質についても触れておこう。  このロクセラーヌの才には、もうひとつ、嫉妬という言葉を付け加えておくべきであろう。ロクセラーヌは、嫉妬する才能があった。  嫉妬深く、頭のよい、陽気な女——頭のよいというところは、機知に富んでいるという意味のものではない。ここはむしろ、狡猾《こうかつ》と呼ぶのが、ヨーロッパ人が、この女性に対して抱いているイメージに近いかもしれない。  皮肉なことに、結局、イブラヒムの最大の政敵が、このロクセラーヌとなったのである。       3  何故、イブラヒムとロクセラーヌが対立するようになったのか。  その背景にあるのは、王位継承問題であった。  イスラムでは、妻を四人まで持つことが許されている。  その第一夫人《カドゥン》は、名をギュルバハールといった。ギュルバハールは、スレイマンとの間に一子ムスタファをもうけていた。  順当にゆけば、このムスタファがスレイマンの後を継ぐこととなる。  もしもそうなったら、第二夫人、第三夫人、第四夫人がスレイマンとの間に作った息子たちは全員が殺されることになる。第四夫人であるロクセラーヌの息子メフメットも例外ではない。  オスマンの昔からの慣例として、王位を継ぐのは、第一子と決まっている。その第一子——一番最初に生まれた息子の母親が、自然に正妻となることになる。  そして、他の夫人たちは、 �愛妾たちの墓場�  と呼ばれる建物の中に幽閉され、そこで残りの一生を過ごすことになる。  生きのびたければ、この次の王位争いに勝たねばならない。  ロクセラーヌとしては、なんとしてもムスタファではなく、自分の息子を王位につけたかったのである。  しかし——  ロクセラーヌにとって、最初は周囲の全てが敵であったといっていい。  スレイマンの母親ハフサ・ハトゥンが、まず第一夫人《カドゥン》のギュルバハールの味方であった。  ギュルバハール——�春の薔薇�という意味の名を持つこの夫人の味方は、もうひとりいた。  それが、大宰相イブラヒムであった。  そして、何よりも当のスレイマン自身が、ムスタファという息子の聡明さを愛していたのである。  すでに十代の半ばになっていたムスタファは、スレイマンに似て、知的な風貌を持っており、臣下からの信望も厚かった。スルタンとしての素質についても申し分のないものを有していたのである。  これに対して、ロクセラーヌが持っていた武器は、ただひとつである。  その武器が�女�であった。  そして、スレイマンは、その武器に屈し、このロクセラーヌを、誰よりも愛するようになっていったのである。  まず、三〇〇人はいた後宮《ハレム》の他の女に、スレイマンは手を出せなくなった。  新しく、美しい女が献上されても、ロクセラーヌの嫉妬を怖れ、スレイマンは彼女たちを後宮《ハレム》に入れることができなかったのである。  たまたまスレイマンが手をつけて、妊娠した女がいれば、その女は、知らぬ間に後宮《ハレム》から姿を消していた。  殺されて、後宮《ハレム》のはずれから、真下にあるボスポラスの海へその屍体《したい》は捨てられた。  これも、ロクセラーヌの仕業ではないかと噂された。ロクセラーヌが、人を雇ってそういう仕事をさせているのであると。  しかし、怪しいと思っても、スルタンもこれを追及できなかった。  そして、ある日、その事件はおこったのである。  ロクセラーヌとギュルバハールが、とっ組みあいの喧嘩《けんか》をしたのである。  仕掛けたのは、ロクセラーヌであった。  ある時、ロクセラーヌが�春の薔薇�の許へ出かけて行ったというのである。  そこで話をしている最中に口論となり、それがついにとっ組みあいとなった。  口論の原因についての記録はないが、後の展開から考えるに、これはロクセラーヌの確信犯的行動であったのではないか。ロクセラーヌが、�春の薔薇�を意図的に挑発したのだろうと思われる。  もちろん、そこにいたのはふたりだけではない。  黒人の宦官がいた。  しかし、その宦官たちがとめようとしてもすぐに収まるような争いではなかった。 「おやめ下さいまし。ロクセラーヌ様。ギュルバハール様」  宦官たちにしても、力ずくで強引にふたりをひきはがすことはできたであろうが、相手は犬ではない。オスマントルコ帝国のスルタンの妻たちである。  宦官たちが逡巡しているうちに、�春の薔薇�が、ロクセラーヌの髪を掴み、その頬に爪を立てていたのである。  この争いのあった翌日から、ロクセラーヌは、スレイマンに会うのを拒むようになった。 「頬に傷があります故、このような顔でスレイマンさまにお会いするわけにはゆきませぬ」  これが、ロクセラーヌの理由であった。  顔の傷のことは口にしたが、その傷を誰がつけたかは言わなかった。ロクセラーヌは、このスレイマンとの闘いの間中、�春の薔薇�のことは一切口にしなかったのである。  これは、ロクセラーヌの賭けであった。  自分とギュルバハールとどちらを取るのか——口にこそしなかったが、そういう問いをロクセラーヌはスレイマンに突きつけたのである。  折れたのは、スレイマンであった。 「あれとは、もう会わぬ」  その言葉を、スレイマン自ら口にしたのである。  しかし、スレイマンが何と言おうと、ギュルバハールが後宮《ハレム》にいる以上わからない。 「そのお言葉が、アッラーにかけて本当であるという証拠を、わたくしにお示し下さいまし」 「わかった」  スレイマンはそう言った。  一度、会わぬと口にして折れた以上、そう言うしかない。 「ムスタファを、マニサの総督にしよう」  オスマンでは、皇太子が十六歳を越えると、帝国の各地方都市の総督に任ぜられることになる。こうして、地方の都市を総督としてまわりながら、| 政 《まつりごと》について学ぶことになっているのである。  しかし、これは、十六歳になったら必ずというものではなく、皇太子のみというわけでもない。  その母親が、地方の総督となる息子についてゆくというのが、オスマンの慣例となっていたから、これは体《てい》のいい厄介《やっかい》払いとも言えた。  十六歳以上になる息子の母親と言えば、かなりの年齢に達していたであろうから、これは見方を変えれば床入りの辞退ということになる。 「まだ早すぎるのではありませぬか」  当然ながらイブラヒムは、このようにスレイマンに進言したことであろう。  イブラヒムは、昔よりスレイマンに仕えており、ギュルバハールとは強く結びついている。  次のスルタンはギュルバハールの息子であるムスタファであると信じていたから、これは当然のことであった。  スルタンがたとえ代わっても、今の自分の地位を守るためには、ムスタファとその母親との関係を強く保ち、信頼関係を築いておかねばならない。  ロクセラーヌとの一件がなければ、イブラヒムも、ムスタファのマニサ総督ということについては異存はない。  しかし、今、トプカプ宮からギュルバハールとムスタファがいなくなると、ロクセラーヌがどのような手を打ってくるかわからない。  美しい娘と思ってタタール人から買い入れ、自らスレイマンに献上したロクセラーヌであったが、まさか、ここまで頭がよく、考えたことを行動に移せる女であったとは、イブラヒムも計算違いをしていた。  イブラヒムとしては、もう数年、ギュルバハールとムスタファをイスタンブールに置いておき、その間にロクセラーヌがどのように策を弄《ろう》しようと、ムスタファの次王としての地位を動かぬものにしておきたかった。  しかし、今、ムスタファにマニサに行かれては、それはできない。  かといって、そこまでのことを、スレイマンに話せるものではなかった。  イブラヒムは、個人的にも、ムスタファの聡明さを愛していた。ムスタファとなら、うまくやってゆける気がしている。  しかし、あのロクセラーヌとは—— 「もう二年か、せめて一年半くらいは、イスタンブールにいらっしゃるのがよろしいのではありませんか」  イブラヒムは言った。  ギュルバハールからも、内々にそのことを頼まれている。 「しかし、もうムスタファは十六歳を越えている。マニサの総督とするのに、どういう不都合もあるまい」  スレイマンの言う方が筋が通っているのである。  イブラヒムは、スレイマンの母親にも手を回して、ムスタファのマニサ入りの件をもう少し先へ延ばすようにしようとしたのだが、スレイマンの意志は変わらなかった。  そして、このようなイブラヒムの動きは、全て、ロクセラーヌに筒抜けになっていたのである。 「イブラヒムからも言われているのだが……」  スレイマン自身が、イブラヒムとした会話について、ロクセラーヌに語っているわけだから、それも無理はない。  スレイマンにとっては、これは政治というよりは�家庭の事情�である。  しかし、イブラヒムもロクセラーヌも�家庭の事情�ではすまされない。  ロクセラーヌは、イブラヒムの意志がどこにあるか、その背後にどのような動きがあるのか、手に取るようにわかっていたに違いない。 �イブラヒムは敵�  ロクセラーヌは、ギュルバハールとの一件で、誰が自分の敵であるかをはっきり知ったに違いない。  真の敵は、ムスタファでもなく、ギュルバハールでもない。  大宰相イブラヒムであると。  この時から、ロクセラーヌは、イブラヒムの弱み、失敗についての蒐集家《しゅうしゅうか》となったのである。  こうして、ムスタファとその母親は、マニサ入りをした。  ふたりは、体よくイスタンブールを追い出されたことになる。  ギュルバハールの味方である、母后ハフサ・ハトゥンが生きていればこのようなことはなかったろうが、この時、すでにハフサ・ハトゥンはこの世の人ではなかった。  その後、ロクセラーヌは、自分の地位を不動のものにするため、驚くべき手を打ってきたのである。  ロクセラーヌは、ひとつのことをスレイマンに要求した。  それは、スレイマンと正式な結婚をすることであった。       4  オスマン帝国では、スレイマンの父、九代スルタンのセリム一世の時、正式な結婚をしない——という暗黙の法のごときものが生まれた。  法ではない法。  何故そのような暗黙の法が生まれたのか。  それは、トルコ民族が、小アジアの大地を、流浪の民として生きていた過去まで遡る。  ある時、敵に、スルタンの妻がさらわれたというのである。  そのスルタンの妻は、敵陣で全裸にされ、裸で敵将の面倒を見させられることとなった。  食事のおりには裸で給仕をし、裸で洗濯をさせられ、裸で召使いと同様の仕事をさせられたというのである。  誇り高きトルコ民族にとっては、屈辱的なできごとであった。  以来、スルタンは、どのような女を妻としようとも、正式な婚姻の関係を結ばぬようになった。  セリム一世の代の時には、これが、例外はあるものの、一種の不文律のごときものとなっていた。  もし、正式な結婚さえしなければ、ロクセラーヌでいうなら、いくらスルタンの子の母親であろうと、身分的にはただの女奴隷である。いわゆる皇后ではない。  これは、言うなればスレイマン自身の意志とはまた別のものであった。  人事でもなく、| 政 《まつりごと》をどうするかというものでもない。  これは、オスマン王朝の暗黙の約束事に対する、ロクセラーヌの挑戦であったのである。  それも、この申し入れがあったのは、スレイマンの母親が死に、ムスタファが母のギュルバハールと共にイスタンブールを去った直後のことであった。  宮廷の空気を読むのには聡《さと》いイブラヒムでさえ、ここまでの要求をロクセラーヌがしてくるとは思っていなかった。  もうひとつイブラヒムが驚いたのは、その速度であった。  もっと別のかたちで、もう少し後で何かをやってくるだろうとは思っていた。  しかし、これほど早くロクセラーヌが手を打ってくるとは。  それが、ムスタファとギュルバハールをマニサに追いやった直後であるというのは、もはや、これは偶然ではない。  はじめから、ロクセラーヌは、これを要求するために、邪魔なギュルバハールをイスタンブールから追い出したのである。そのことをイブラヒムは確信した。  こうなってみると、スレイマンの母親の死についても、裏で何かあったのではないかと思えてくる。  もしも、ギュルバハールがイスタンブールにいれば、当然、ロクセラーヌと同じ要求をしてくるであろう。そうなれば、第一夫人であり、スレイマンの長子の母親であるギュルバハールの要求が優先されることになる。 �もうギュルバハールとは会わない�  このようにスレイマンに言わせておいて、ギュルバハールをムスタファと共にマニサへ追いやった後、はじめて要求できることであった。  イブラヒムは、ロクセラーヌの頭の良さに舌を巻いていた。  油断をした——そう思っている。  自分とスレイマンとの間に存在する情の中に、どういうものであれ入ってくることができようとは思っていなかったのである。  もしもロクセラーヌが何かたくらんでいるのなら、それをいずれおりを見て潰してやればいい——そのくらいのつもりでいたのである。  しかし、そのような呑気《のんき》なことを言ってはおれない速度で、すでに事は進みはじめていたのである。  今なら、まだ、スレイマンの信は自分の方が厚い。  イブラヒムはそう思っていた。  今のうちに、手を打っておかねばならない。  スレイマンの眼を、外へ向けさせて、時間をかせがねばならない。  イブラヒムが、ヨーロッパ状勢を考慮に入れて、アロイシと謀《はか》り、ハンガリー、ウィーン遠征へとスレイマンをむかわせようとしたことの背景には、このような事情があったのである。  スレイマンとロクセラーヌの正式な結婚については、臣下のほとんど全員が反対したといっていい。  普段は政敵である人間も、この点については意見が一致した。  ロクセラーヌは、孤立した。  ロクセラーヌの味方は、ただひとりであった。  そのただひとりの味方が、スレイマンであったのである。  オスマントルコの最高権力者である。  このことにまず反対すべきは、イスラムの高僧たちであったが、彼らは賛成こそしなかったが、反対もしなかった。 「スレイマンさまの御意志のままに——」  彼らはそう言ったのである。  そして、スレイマンの意志によって、この結婚は実現してしまったのであった。  スレイマンは言った。 「アッラーと、預言者ムハンマドの名にかけて、わたしは宣言しよう。この女は自由だ。この女が所有するものは、それが何ものであれ、正式に彼女のものである。ロクセラーヌを、わが妻としてむかえたい——」       5  最高権力者——スルタン・スレイマンが決定した以上、これには、イブラヒムも逆らえなかった。 「わかりました」  イブラヒムはうなずくしかない。  代りに、イブラヒムはひとつの条件を出した。 「しかし、スレイマン様、ひとつだけ、ここでお約束下さい」  イブラヒムは言った。  スレイマンにしても、自分の決定が、近年のオスマンの歴史の中では異例であることを知っている。  イブラヒムを中心として、多くのパシャや重臣の反対を押し切っての決定である。イブラヒムや重臣たちの面子《メンツ》も立てねばならない。 「何を約束せよと言うのか」  スレイマンは訊ねた。 「マニサへお移りになられたムスタファ様のことでございます」 「何だ」 「今後、何ごとがあろうとも、皇太子はムスタファ様。このこと、お忘れなきよう」 「そのことか——」  スレイマンは、ほっとしたような声で言った。 「もちろんだ。皇太子はムスタファで、私も異存はない」  イブラヒムの危惧は、スレイマンもよく理解している。  もしも、ロクセラーヌが正式な妻となったら、次のスルタン候補として、メフメットや次子セリムの名が自然に上ってくることになる。  ムスタファをおいて、ロクセラーヌの息子が次のスルタンとなってしまうこともあり得よう。そうなったら、ムスタファについているイブラヒムの地位や生命までもが危くなってくる。  それがわからないスレイマンではない。 「あたりまえではないか」  念を押すように、スレイマンは言った。  もともと、イブラヒムに言われなくとも、スレイマンはそのつもりであった。  スレイマンは、ムスタファの聡明さを愛していたし、イブラヒムのみならず、イェニチェリや重臣たちの信頼も厚い。次のスルタンは、ムスタファでよいと思っている。  それを、あらためてここで表明し、皆と確認しあっておくのは、悪いことではない。  これを、スレイマンは喜んで約束した。  ロクセラーヌも、この段階で、このことについて異論を唱えるわけにはいかない。  しかし、だからといって、おとなしくしているロクセラーヌでもなかった。  すでに、賽《さい》は投げられている。 「もちろん、あなたの御心通りに——」  ロクセラーヌは言った。 「ですが、わたくしやわたくしの息子の身の安全についても考えていただけませぬか」  ロクセラーヌは、こういう時、間違えようのない言い方をする。  スレイマンも、ロクセラーヌの不安は理解している。  もしも、ムスタファがスルタンになったとしたら、ロクセラーヌもその息子のメフメットやセリムも確実に死ぬことになる。  オスマントルコ帝国に新しいスルタンが生まれる度にくりかえされてきた悲劇が、また起こることになる。 「もちろん、考えておこう」  スレイマンは言った。  だが、その言葉が、気安め以上のものにならないことは、言ったスレイマンも、ロクセラーヌもよくわかっていた。  スレイマンにとっては自分の死後のことだが、ロクセラーヌにとっては、スレイマンが先に死ぬことになった場合、間違いなく自分の身にふりかかってくることであった。  簡単にはロクセラーヌも引き下がれない。 「どう考えて下さるのですか」  そう言われても、そこまでのことは、まだスレイマンも考えてはいない。  ヨーロッパのことや、ペルシアのことで、ただでさえ、考えねばならないことが、このスルタンには山ほどあったからである。これは、さしあたっての問題だが、王位継承問題は、いずれにしても、もっと後のことである。 「急がずともよい。わたしは、これまでの王とは違う」  スレイマンはそう言った。  自分は、兄弟殺しをしていない——スレイマンは、言外にその意味を込めた。  それは、父のセリム一世が全てスレイマンの代りにやってしまったからである。スレイマンがスルタンになる時には、殺すべき兄弟は、皆、この世のものではなかったのである。  だが、それを、スレイマンは言葉にしなかった。言葉にするには、やはり生々《なまなま》しいことであったからである。 「いいえ。あなたが、そのことをお考えになっていないと申しあげているわけではありません。しかし、人の寿命というのは、アッラーのおぼしめしですから——」  ロクセラーヌは、イスラムの民の間に、スルタンよりも上位概念として存在するアッラーの名前を出した。  人は、いつ死ぬかわからない。  それは、スルタンとて同じである。  スレイマンよ、もしもあなたが明日にも何かのかげんでこの世を去ってしまうこととなったら——  ロクセラーヌは、それを言いたかったのである。  結局、スレイマンは、誓書を書くこととなった。  ムスタファがスルタンに即位した後も、ロクセラーヌと、その息子の身の安全を保障するという内容のものであった。  同様の誓書を、イブラヒムも書いた。  ムスタファがスルタンになることを前提とした誓書であるから、これは、イブラヒムも書かざるを得ない。  その誓書の中には、ムスタファが成年になった時、ロクセラーヌの娘と結婚させるという内容のことも記された。そうなれば、ロクセラーヌはムスタファの義理の母親ということになる。  オスマンの歴史を眺望する時、実の父や子を、そのスルタンが殺すことは幾度となくあった。  事が起こった時、この誓書がどこまで機能するかはまさしくアッラーのおぼしめしなのだが、この時点で、これ以上のことをスレイマンに求めるのは、ロクセラーヌも無理であった。  こうして、この件については、ひとまずおさまりがつき、ようやく、スレイマンとロクセラーヌは、正式の結婚をすることとなったのである。       6  スレイマン大帝とロクセラーヌの結婚は、正式に決まったものの、いや、正式に決まったからこそ、オスマン内部での評判は芳しくなかった。  オスマンの年代記作者は、誰もこのことについて言及していない。  ビュスベクがその書簡に記したところによれば、スレイマンは、ロクセラーヌのために莫大なる持参金を用意させた。  この行為によって、オスマンの法制上、スレイマンとロクセラーヌの結婚は正式なものとなったのである。  この結婚については、イタリア人が記している。 『サン・ジョルジォ・ジェノバ銀行日記』によれば、 [#ここから1字下げ]  今週、スルタンたちの歴史に未曾有のきわめて例外的な出来事がこの都市で発生した。スレイマンは、ロシア出身のロクセラーヌと呼ばれる女性を皇后に立て、盛大な祝賀が行なわれた。儀式は宮殿で挙行され、祝宴は前代未聞の華やかさであった。  民衆の行列と多くの贈り物があった。夜、主な街路は賑《にぎ》やかに照明され、音楽と祝宴が盛んに行なわれた。家々は花輪で飾り立てられた。馬場には壇がしつらえられ、ロクセラーヌと宮廷の者たちはそこに出て、騎士たちの騎馬戦や野生動物と天にも届くほど長い首をしたキリンの行進を見物した。  ……皆がこの結婚のことを話したが、結婚が意味するところについては誰もが口を閉ざした。 『スレイマン大帝とその時代』(アンドレ・クロー著 濱田正美訳) [#ここで字下げ終わり]  こうして、イブラヒムの最大の敵は、スレイマンの最も近い場所にその身を置くこととなったのであった。  この後に、スレイマンのヨーロッパ遠征とシナンのヴェネツィア行きは決まったのである。  スレイマンのこのヨーロッパ——二度目のハンガリー遠征に最後まで反対していたのが、実はロクセラーヌであった。 「異教徒どうし、勝手に争わせておけばよろしいでしょうに」  このようにロクセラーヌは言った。 「結局、あなたはヴェネツィアを助けるための道具にされているのではありませんか」  ロクセラーヌは、かなり正確に、アロイシや、イブラヒムの魂胆を把握していたことになる。  しかし、スレイマンは、ロクセラーヌの忠告を聞かなかった。  スレイマンは、当然、自分の遠征が、ヴェネツィアを救うことになるのは、理解している。  イブラヒムも、アロイシも、それを隠しているわけではない。ふたりは、ヴェネツィアを救いたいという言葉も口にしている。  何よりも、ヨーロッパ遠征は、スレイマンの——というよりは、オスマンの悲願であった。  こうして、オスマンの一五二九年のヨーロッパ——ハンガリー遠征は始められ、シナンはヴェネツィアに行き、そこで、ミケランジェロと遭遇したのである。 [#改ページ]  第12章  愛人 [#ここから5字下げ] 別離の苦しみを知らない心は 愛する者と結ばれる幸せに値しない ひとつひとつの苦悩には それにあった癒し方がある だが苦悩のない人々の苦悩は 癒しようがない 愛するとは 自らの魂を愛する者のいけにえとすること ——フズーリー [#ここで字下げ終わり]       1  一五三〇年——  カール五世が、神聖ローマ帝国皇帝として、ローマ法王から正式に帝冠を受けた年。  この年、すでにシナンはイスタンブールにもどっている。  この一五三〇年に限って言えば、オスマン帝国は、思いのほか平穏であったと言っていい。  今や、西はオスマンにとって脅威ではなくなっていた。西のヨーロッパが、東のオスマンを脅威と考えてはいても、ヨーロッパにできるのは、ヨーロッパに伸びてきたオスマンの触手を一本ずつ断ち切ることくらいであった。オスマン本体——イスタンブールにまではヨーロッパの剣は届きようがなかった。  東のペルシアとの事情も、かたちばかりは落ち着いている。  ロシアでイワン雷帝が即位するのは、これから三年後のことであり、オスマンもヨーロッパも、自国の事情の方が優先されていた。  当然、オスマンでは、イスタンブールにおいて、静かにその闘いは始められていたのである。  ザーティーの店で、シナンはカフヴェを飲んでいた。  ザーティーは、シナンがヴェネツィアに行っていたのは知っているが、どういう役目で何をしてきたかということについては、知ってはいない。  シナンが、そのことについて詳しい話をしていないからだが、ザーティーもまた、あまり細かい部分に立ち入ったことを訊ねたりはしない。  このあたりの機微を、ザーティーは心得ているらしい。  訊かれたところで、シナンも、自分のしたことについて、上手《うま》くしゃべることができない。言えないというよりは、自分の役目について、どう語ってよいのかがわからないのである。  ヴェネツィアでのことについての報告は、ハサンと一緒にイブラヒムにした。  イブラヒムは、細かいところには口をはさまず、シナンの言うことに黙って耳を傾けた。 「それは、アンドレア・グリッティ殿も、お辛かったであろう」  シナンの報告が終ってから、イブラヒムは低い声でつぶやいた。  一国を、己が手で動かす——  これは、どのような男の胸にも眠っている野心と言っていい。  そこから、遠い場所にいる者は、自分自身がそのような野心を持っていることに気づきさえしない。  しかし、そこに近い場所にいる者、手を伸ばせば指先がそこに触れるかもしれない場所にいる者にとっては、それは、自然に心の中に芽生えてくる意識であった。  それに、アロイシは手を伸ばしたのだ。  表向きは、ヴェネツィアのため——もちろん、それは、嘘の感情ではない。アロイシは、常にヴェネツィアのことを考えてきた。  そのために、ハンガリーの支配権を手中にしたのだと。  しかし、それは、そうではない。  アロイシの心の中では、いつの間にか、その順序が入れ替っていたのである。  ハンガリーを支配する力を持つことが、まず、一義としてアロイシにあり、その後に、ヴェネツィアのためという大義がある。  自分が、ハンガリーに対して大きな権力を握るための口実として、アロイシにはヴェネツィアが必要だったのである。  しかし、繰り返すが、アロイシのヴェネツィアへの愛は、本物であった。  そして、間違いなく、その時ヴェネツィアは、アロイシによって救われたのである。その事実は動かない。  アンドレア・グリッティは、頭がよい人物である。  こういう時に、間違った判断を下すような人間ではない。  自分の息子と縁を切るという手は、遅かれ早かれ、アンドレア・グリッティは打っていたろう。そうするしかない。  だが、カール五世も、それで騙《だま》せるほどのお人良しではない。  しかし、騙されたふりはできる。  そういう口実を、嘘でもいいから誰かが作ってくれないことには、ヴェネツィアのすぐ手前までやってきて、引くに引けなくなる。  アロイシ・グリッティがやったことと、ヴェネツィアとは、何の関係もない——そういう口実がなければ、あるいはヴェネツィアとの一戦はその時あり得たことであり、そうなれば、背後にトルコが控えたハンガリーが参戦してくる。  フェルディナンドも、カール五世も、そこまでやるつもりはない。  引くのによい口実ができたことでは、カール五世もありがたかったのである。  しかし、シナンという�手紙�があったればこそ、アンドレア・グリッティの判断も早かったと言える。  同じ結論を出すにしても、二日か三日は延びていたかもしれない。  そして、その二日か三日の間には、どういう事態も起こり得たのである。  もうひとつ、シナンの言葉によって、アンドレア・グリッティは、悩まずに済んだということがある。  息子のいったい何が、そのような行為をとらせたのか。  父親として、そのことについてアンドレア・グリッティは考えることになる。 「野心」  シナンが、そう告げた時、アンドレア・グリッティは、自分の内部にも浮かんでいた同じ言葉を、覚悟して呑み込むことができたのである。  まさか。  息子に限って。  そういう愚かしい親としての心の葛藤をせずに済んだとも言える。  やはり——  シナンという�手紙�が、その苦い石の塊《かたまり》を、早くアンドレア・グリッティに呑み込ませることができたのである。 「アンドレア・グリッティは、頭の良い方だからな」  イブラヒムはそう言った。  しかし——  とシナンは思う。  何故、イブラヒムが、ここまでのことをするのか。  オスマントルコの大宰相として、ヴェネツィアを駆け引きの道具に使うのはわかる。  アロイシを、ハンガリーに置いてくるのもわかる。  しかし、自分という�手紙�を、わざわざアンドレア・グリッティのもとに届けるために手を貸すというのは、そういう駆け引き以上のことではないのか。  どうせ、ヴェネツィアは——アンドレアは、間違わないはずであった。  こう考えてくると、まるで、シナンはアンドレアの心の痛みを少しでも柔らげるためにだけ出された手紙のようにも思える。  何故でしょう——  とは、シナンはイブラヒムに問わなかった。 「これでよかったのでしょうか」  そう訊ねた。 「充分だ」  イブラヒムはそう言った。  それで、シナンの手紙としての役目は終ったのである。  だが、ヴェネツィア行きは、シナンにとっては、刺激的な旅であった。  あのミケランジェロという人物のことは、まだ覚えている。  ——その時。  シナンの肩を、背後から叩く者があった。  振り返ると、そこにザーティーが立っていた。       2 「独りかね」  ザーティーは言った。  その声が、かすれている。  ここ数年で、ザーティーは驚くほど老いていた。顔の皺《しわ》が深くなり、身体の動きもゆっくりとなっている。 「はい」  シナンがうなずくと、 「独りはよい」  ザーティーは、そうつぶやき、愛情のこもった眼でシナンを見た。  そのまま、ザーティーは、詩句を囁《ささや》くように唱《とな》えはじめた。 [#ここから2字下げ] 独りはよい 何故なら独りの時に 多くのものは その人のもとにやってくるからだ 哀しみも それに耐える分別も 哀しみは人生の伴侶であると その分別がおまえに 教えてくれるだろう そして 老いもまた その人が独りの時に やってくるが 神もまた その人が独りの時に その人を訪れる 孤独は深い泉である 汲んでも汲んでも それは神の英知のごとくに 尽きることがない [#ここで字下げ終わり]  そこまで言って、ザーティーは言葉を切り、シナンを見やった。  ザーティーは、自分の息子でも見るような眼つきで、しばらくシナンを見つめていた。  やがて—— 「孤独は、人を賢くするからね」  ザーティーは言った。 「もともと、あんたは賢い方だったが、今は深みのようなものまで出てきたような気がするよ——」  誉められているのだが、シナンは、どう反応してよいかわからない。 「深みですか」  シナンは、ザーティーの言葉をなぞった。 「歳月は人を深くする。旅もまた、人を深くする。シナンよ、あんたもまた、ヴェネツィアで、色々な経験をしたようだね」 「ええ」  シナンはうなずいた。 「ハサンも、似たようなことを言っていたな——」 「ハサンも?」 「ヴェネツィアへ行ってから、おまえさんは変わったと言ってたよ」 「どう変わったと?」  シナン自身には、ヴェネツィアから帰ってきて、自分がどう変わったのか、よくわからない。  ヴェネツィアでは、多くのものを見、多くの人に出会った。  豪奢できらびやかなサン・マルコ寺院。  そこに集まる人々。  アンドレア・グリッティ。  そして、ミケランジェロというフィレンツェから来た彫刻家。  ミケランジェロが言った言葉は、まだ耳に残っている。 �仕事をしなさい�  おりにふれ、あの男について考えるたびに、必ず思い出すことがふたつあった。  ひとつめのそれは、最初に彼の手を握った時に感じた、分厚い、堅いその感触である。  温かみのある、血の流れている岩。  そういうものがあるとするなら、まさしくミケランジェロの手がそれであった。  仕事をしぬいた手。  その仕事が作った手であった。  そして、ふたつめは口である。 �仕事をしなさい�  という言葉。  ミケランジェロの口も、手も、まったく同じことをシナンに語っていた。 �仕事をせよ�  あの言葉と手が、忘れられない。  あの男が体験した、全てのこと——哀しみであるとか、悦《よろこ》びであるとか、あらゆるものが、あの手の厚みの中に刻まれているような気がした。  おそらく、ザーティーの言った言葉をかりるのなら、仕事もまた、人に深みを与えるのだろう。  そして、人だけでなく、歳月や仕事は、その人の手にも深みを与えるのだろう。 「ほら、今のおまえさんのその顔さ——」 「顔?」 「どこを見ているのかわからなかった。いったい今、何を考えていたのかね」 「手のことを——」 「手?」 「あなたが、今、言っていたことですよ」 「何のことかね」 「深い手のことです」 「——」 「仕事もまた、その人の手に深みを与えるのだろうということを考えていたのです」 「シナン、おまえはまた、わたしなどよりも上手に詩のような言葉をその口から吐き出すのだね——」 「——」 「そういう手をした人物に会ったことがあるのかね」 「ええ」 「ヴェネツィアで?」 「そうです」 「その人物のことを、いずれ、ゆっくりと聴かせてもらいたいものだね」 「いずれ?」 「おまえさんに会いたがっている人物が来たからさ——」 「誰のことです」 「ほら」  ザーティーが顔をあげて、入口の方を見やった。  シナンが顔をあげてそちらへ眼をやると、そこに、ハサンが立っていた。 「言い忘れていたが、あの男、おまえに会いたがって、この三日ほど、毎日顔を出していたのさ。おまえが変わったとハサンが言ったのも、実は、昨日のことだよ」  ザーティーは、シナンの肩をぽんと叩き、いそいそと店の奥へ足を運んでいった。  ザーティーと入れ代るようにハサンがやってきて、シナンの横に立った。 「どうした、ハサン」  シナンは、ハサンに声をかけた。 「話がある」  ハサンは言った。 「話?」 「会ってもらいたい人間がいるのさ」 「誰だ?」 「女だ」 「女?」  ハサンは、周囲に視線を放ってから、「時間はあるか」  そう言った。 「ああ」  シナンはうなずいた。 「ならば、ちょっとつきあってくれ。歩きながら話をしよう」  ハサンは言った。       3  イスタンブールの街を、シナンはハサンと並んで歩いている。  街は、賑わっていた。  大きな戦《いくさ》も、近々予定されている遠征もない。  イスタンブールは、平穏であった。  街路を歩く人々も、表情には明るさがある。  明るい陽光が注ぎ、街は春の化粧《けわい》に満ちていた。  道端に生えている楡《にれ》の樹にも、新緑が芽ぶいている。  ハサンは、ザーティーの店に来る時は、いつもそうであるように、ひとりであった。  最近は、部下や従者を連れて出かけることもできるようになっているのだが、この男は自由なのが好きらしい。  しばらくは、たわいのない話をしながら歩いた。  金角湾の方に向かって、ふたりは下りながら石畳の上を歩いている。  やがて、言葉が途切れた時を見はからって—— 「どうしたのだ」  シナンが問うた。  問われたハサンは、何から話し出そうかと思案するように、しばらく沈黙してから、 「最近、どうも妙なのだ」  そう言った。 「妙?」 「うまく言えぬのだが、どうも、何かよくない方向に向かっているような気がするのさ——」 「どういうことだ」 「イブラヒムのことだ」  ハサンは、シナンとふたりきりの時には、この大宰相のことを�イブラヒム�と呼ぶ。 「イブラヒム様がどうした」 「どうも臭うのさ」 「臭う?」  シナンは、ハサンの口にした言葉で問いかけた。 「ああ」  ハサンがうなずく。  ハサンは、臭う、という言い方をした。  その臭う、という言葉を、ここでは悪い意味でハサンが使っているのだということが、シナンにはわかっている。 「臭うというのは、イブラヒム様御自身のことか。それとも、これから先、将来のことか——」 「両方だ」  ハサンは答えた。 「ロクセラーヌ様との確執のことか」 「ああ」  低い声で、ハサンはうなずいた。 「問題としては、それが、一番大きいといっていい。しかし、それだけでもない」 「何だ」 「うまく言えぬのだ」 「それで、臭うということか」 「そうだ」  ハサンは、人が放つこの臭いについては敏感な男であった。  臭いを読む力に長《た》けている。  その能力があったればこそ、ハサンはここまでイブラヒムの懐深く入り込むことができたと言っていい。それで、うまく世を渡ってきた。  この男は、出世する男かどうか。  今の情勢は、どう動いているか。  誰の庇護の下《もと》にいればよいか。  誰の味方をし、誰のために働けばよいか。  そのハサンが、イブラヒムの周辺に何かいやな臭いを嗅ぎとっているというのである。 「あのお方は、何かおれに隠している」  ハサンは言った。 「何か?」 「ああ」 「それは、何だ?」 「うまく言えぬ」 「しかし、人は誰でも隠し事を持っているものだ」 「そういうのとは違う」 「——」 「どこかに、大金を隠しているだとか、そういうことでもなさそうだが」 「おれは、あのお方にお仕えして、何年にもなる。色々と、世間では知らぬようなことを、あの方については知った」 「うむ」 「その中には、直接、あのお方が教えて下さったこともあるし、あのお方は口にしなくとも、長年お仕えしている間に、わかってきたこともある——」 「——」 「しかし、さっき、あのお方が何か隠していることがあると言ったのは、今おれが色々と言ったこととは、まったく別ものさ」 「別もの?」 「金を隠しているだとか、誰かを陥れただとか、そういう類《たぐい》のこととは違う、何かこう、あのお方にとって根本的なことのようなものだ——」 「ほう」 「それが、何か、おれにもわからぬのさ。しかし、うまく言葉にならぬのだが、ぼんやりとは、それが見えているような気もしてはいるのだ」 「何だ」 「だから、それをうまく言えぬのだ——」 「ほう……」 「どうも、それはヴェネツィアに関係がありそうな気もしているし、そうではないような気もしているのだが——」 「——」 「いつであったか、この近くで、暴漢に襲われていたあのお方を、おれとおまえとでお助けしたことがあったろう」 「ああ」 「考えてみれば、あの時からおれは運が向いてきたのだが、あのお方の隠し事というのは、その時のこととも関係しているようなのさ」  シナンの脳裏には、この時、ひとつの光景が浮かんでいた。  ヴェネツィアでのことだ。  アンドレア・グリッティの屋敷——  ランプの灯りの下で広げた、アロイシから父に宛てた手紙を見た。  あの時、その手紙には誰かの名前が書かれていたはずだ。しかし、その名前の部分を誰かが消してあった——  あの、消されていた名前は……  しかし、シナンは、それをハサンには言わなかった。 「それで?」  シナンは、ハサンをうながした。 「しかし、確信が持てない。もちろん、これをあのお方に直接問うわけにもゆかぬ。そんなことをしたら、場合によっては生命をなくしてしまうかもしれないからな」 「それほどのことか」 「おそらくな」 「——」 「これは、誰にも口外してほしくないことだが……」  言って、ハサンは、この男にしては珍しく口ごもった。 「誰にも言うな。これは、おれだけが今、思っていることだからな」 「わかった」  シナンがうなずくと、ハサンは、いったん顔をあげて、ぬけるように青いイスタンブールの空を見あげ、再び視線を地上にもどした。 「ロクセラーヌ様とあのお方との争いだが、あのお方がもしも負けることがあるとすれば、この隠し事が原因となるだろうと、おれは思っているのさ」  今、ふたりは、海の上にいる。  金角湾の上にかかったガラタ橋を、歩いて渡っているところであった。  どうやら、ハサンは、ガラタ地区に向かっているらしい。  大きな帆船が、幾艘《いくそう》も停泊している。  その上に白い雲が動いている。 「負けるか、イブラヒム様が——」  シナンがその名を口にすると、 「しっ!」  するどい声で、ハサンは言って、周囲を見回した。  しばらく、無言で、ふたりは歩いた。 「だから、おれは、あのお方が何を隠しているのか、それを知りたいのさ」 「知ることができるのか」 「わからぬ。わからぬが、知らねばならぬ」 「知ったら?」 「知ったら、このおれも、色々と考えねばならぬだろうということさ」  シナンには、ハサンの言った言葉の意味がわかった。  考えねばならぬというのは、このままイブラヒムを主として仕えてゆくか、その仕える先をかえるかということである。  それは、つまり—— 「生命がけだな」  シナンは言った。 「その通りだ」  ハサンは、うなずいた。  橋を渡り終えた。 「なつかしいな」  ハサンがぽつりとつぶやいた。 「ああ」  シナンもうなずいた。  かつて、イェニチェリとして初めてイスタンブールにやってきた時、この近くの寄宿舎に皆で住んだのである。  あれから、すでに十数年がたっている。 「シナン」 「何だ」 「おまえからは、色々と、細かくヴェネツィアでのことを聴きたいのだ」 「それはかまわぬが、今日は、そのためにおれをここまで連れてきたのではないのだろう?」 「ああ」 「女と言っていたな」 「そうだ。会わせたい女がいるのだ」 「どういう女だ」 「おれの女さ」 「おまえの?」  シナンは、声を高くした。  ハサンは、これまで、妻を娶《めと》っていない。  ずっと独り身を通してきている。  ハサンが、女嫌いでないのはシナンもわかっていた。  戦のおりに、戦利品として連れてきた女をしばらく屋敷に置いていたこともあったし、色々な国の女を機会があれば抱いている。  しかし、特定の女が、ハサンにいるとは思ってもみなかった。 「もう、五年になる——」  ハサンは言った。  ふたりは、ゆるゆると坂道を登りながら歩いてゆく。  ヴェネツィア人が住んでいるガラタ地区を通り過ぎ、さらに丘の上に登ってゆく。  向こうに、ちらほらと、ボスポラス海峡が見えている。  陽光が当り、青い波がうねり、光っている。 「五年——」 「そうだ」  ぽつりとハサンは言った。 「その女を好きなのか」 「ああ」  ハサンはうなずき、 「本気で惚れているのさ」  そう言った。  やがて—— 「ここだ」  ハサンが、石の塀で囲まれた屋敷の前で足を止めていた。       4  石の門をくぐって入ってゆくと、中央に大きな槐《えんじゅ》が生えている石畳の中庭に出た。  中庭には、馬が三頭つながれている。  石畳の上を歩いていくと、馬の世話をしていた召使いと見える男が、ハサンに気がついた。男は走り寄ってくると、ハサンの前で足を停め、 「これはハサン様、気がつきませんで、失礼いたしました」  そう言った。 「かまわん」  ハサンはそう言って、あたりを眺めた。  誰かを捜しているらしい。 「ピュスティアは?」  ハサンが男に訊いた。 「あちらです」 「外か」 「ええ」 「おれが来ることは、伝えてあったと思うが——」 「はい。ですが、あちらの方がいいとおっしゃられて——」 「そうか」 「お呼びいたしますか」 「いいや、おれがゆこう」  ハサンが歩き出した。  シナンがその後に続いた。  シナンとハサンが中庭に入ってきた門の、ちょうど向かい側に、もうひとつ門がある。  小さな門だ。  この屋敷の向こう側へ出入りすることができる。  その門へ向かって、ハサンは歩いてゆく。  門をくぐって、ハサンと共に外へ出た時、シナンはそこで息を呑んでいた。  そこに見た光景に、シナンは圧倒されていた。  シナンがそこに見たのは、眼のくらむような広さと色彩であった。  赤と青。  シナンの眼の前に、空と海が広がっていた。  青い碧空。  抜けるような天。  その下に、群青《ぐんじょう》のボスポラス海峡が広がり、そのさらに向こうに遠くマルマラ海までが見えた。  ボスポラスとマルマラ海を分けるように、右側から半島が突き出ており、その上に聖《アヤ》ソフィアの丸い屋根が見えていた。  なんという広さであろうか。  その広さを際立たせていたのは、シナンの足元から広がる大地の丸みと赤い色彩であった。  ボスポラスへ向かって、ゆるいスロープを描いて下ってゆく大地の全てが、赤い色彩で埋め尽くされていたのである。  一面の花。  チューリップであった。  赤いチューリップの花が、今出てきたばかりの屋敷の建っている丘を覆っていたのである。  百?  それでは足らなかった。  千?  それでも足らなかった。  万。  十万のチューリップが、そこに咲き、海から吹き寄せてくる風に花を揺らしているのである。  そのチューリップの群落の中に、ひとりの女が立っていた。  女は、こちらに背を向けて、海を眺めていた。  その光景が、絵のようにシナンの眼に焼きついた。 「ピュスティア」  ハサンが声をかけると、女が振り向いた。  顔を隠すためのヴェール——ヤシュマクが掛かっているため、顔は見ることができなかったが、振り向いたその眼の色は見てとれた。  碧《あお》い双眸《そうぼう》が、ハサンとシナンを見た。 「ハサン」  女の声が、海からの風に乗って、思ったより大きく届いてきた。  女は、膝でチューリップを分けながら、海を背に歩いてきた。  女は、シナンとハサンの前で立ち止まった。 「ピュスティアだ」  ハサンは、シナンにその女を紹介した。 「おれの女だ」  ハサンの言葉は短い。  必要なことしか言わぬように心がけているようであった。 「シナンだ」  ハサンは、女——ピュスティアにシナンを紹介した。 「いつも、あなたのことは、ハサンからうかがっています」  ピュスティアは、シナンを見ながら言った。  眸《ひとみ》が、遠目よりずっと碧い。  白い絹のブラウスを着ていた。  その胸元は、エメラルドのボタンで留められている。  穿《は》いているシャルワール(パンタロン)は、銀色の花を刺繍《ししゅう》した薔薇色のダマスカス織であった。細かい刺繍の入ったサテンの帯をしている。  靴は、白い子山羊《こやぎ》の皮でできており、そこにも金糸で刺繍がされていた。  頭のトック帽には、真珠の飾りがついている。  普段着ではない。  来客の前に姿を現わすことを初めから意識していたとしか思えない姿である。  その来客というのは、自分のことであろうかと、シナンは思った。  自分が来ることを、あらかじめ、ピュスティアは知らされていたのかもしれない。  シナンを見つめるピュスティアの眸《め》が、細められている。  笑っているのだ。  思わず、ヤシュマクを取りはらって、その素顔を見たくなるような眸であった。       5  絨毯《じゅうたん》の上にクッションを置き、そこに座して、シナンはハサンと食事をしている。  ケバブ——焼いた羊の肉とヨーグルトが、すでにたっぷりと腹に入っている。  給仕たちは、食事を運んできて、空いた皿をかたづけたりはするものの、その部屋に長くとどまったりはしない。  用事がすめば、すぐに部屋を出てゆく。  シナンとハサン——部屋にはふたりしかいないと考えてもいい状態だった。  ハサンが、そのようにするよう、あらかじめ給仕たちに言いふくめておいたのであろう。  屋敷にもどってから、どこかに姿を消したまま、ピュスティアは姿を現わさない。  男の客の食事に、たとえ主人が同席していようと、その妻がその場所にいないというのは、特別に珍しいことではない。  しかし——  ハサンがここへ自分を連れてきた目的が何であったのかを、シナンはまだ測りかねていた。  ピュスティアに自分をひき合わせるつもりなら、もう、その用事は済んだと言える。  だが、何のためにハサンは自分とピュスティアをひき合わせたのか。それを知りたかったが、シナンは急《せ》かなかった。  必要なら、そのうちハサンが語ってくれるだろう。  そう考えているところへ、 「どうだ」  ハサンがシナンに訊ねてきた。 「どうだとは?」  シナンが訊いた。 「ピュスティアのことさ」 「美しい眸《め》をされていたな」  シナンは答えた。  確かにピュスティアの眸《ひとみ》は美しかった。  しかし、ハサンが訊いてきたのは、眸のことではあるまい。  だからといって、シナンは他に答えようがない。 「ギリシアの方《かた》だな」  シナンは言った。  ピュスティアは、ギリシア語である。  アポロン崇拝の中心であったデルフォイの巫女《みこ》が、たしかピュスティアと呼ばれていたはずであった。  この巫女のピュスティアに神託が降り、ピュスティアはそれを美しい詩句で答えるのではなかったか。 「そうだ」  ハサンはうなずいた。 「もともとは奴隷女だった——」  奴隷女を、自分の女にしたり妻にしたりするというのは、この時代のイスラムにとって、別に珍しいことではなかった。  スレイマンとロクセラーヌがそういう関係であったし、歴代のスルタンにもそういう人物はたくさんいる。 「あのチューリップは?」  シナンが、ぽつり、ぽつりとハサンに訊ねてゆく。 「もともとあそこに生えていたわけではない。ピュスティアが植えたのさ」 「独りで?」 「まさか。人を使ってやらせた」 「どうしてまた、あんなことを」 「知らん」 「知らない?」 「チューリップが好きなんだろう」 「それならわかる」  シナンはうなずいた。 「ところで、シナン」  ハサンが、あらたまった口調で言った。 「どうした」 「ザーティーの店でも話をしたことだが……」 「宮廷のことか」 「ああ。今は落ち着いているが、いずれ、またひと悶着あるだろうとおれは考えている」 「イブラヒム様とロクセラーヌ様のことだな」 「そういうことだ。おまえは話が早くていい」 「で、どっちが勝つと?」 「わからん」 「——」 「しかし、どちらにつくかと問われれば、ロクセラーヌ様ではあり得ぬだろうよ」 「これまでのいきさつがあるからな」 「はっきり、ロクセラーヌ様の勝ちとわかっていればともかく、今のおれはこのままゆくしかあるまい」  ハサンは、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。 「初めてだな」  シナンは言った。 「何が初めてなんだ」 「おまえが、自信なさそうにしているのがだ——」 「そう見えるか」 「ああ」  シナンはうなずき、 「イスタンブールへ出てくる時に会ったおまえが、一番自信たっぷりに見えた」  そう言った。 「あの時のおれには何もなかったからな」 「今は?」 「今は、あの時のことを考えたら、おれは比べものにならぬくらいたくさんのものを手に入れたよ。しかし——」 「しかし?」 「だんだん、自由に動けなくなってきた。物を手に入れれば入れるほど、臆病になってくる」 「——」 「特に、ピュスティアを手に入れてからはな」 「ピュスティアか」 「ああ。昔のおれは、いつ死んでもいい——そういうところがあった。だが、今は——」 「死にたくない?」 「ああ、死にたくない」 「それが普通さ。人並みになっただけだ」 「おれのような人間が、人並みになったら、それは、もう終りだってことだ」 「——」 「今日、おまえをここに連れてきたのは、そういうことだ」  ハサンが、シナンを真剣な眼で見ている。 「いいか、もしも、おれに何かあった時は、ピュスティアを頼む」 「突然に何を言うのだ」 「必ず、何かあると言っているわけではない。もしもの時だ」 「もしもか」 「おれに何かあったということは、おそらくは、イブラヒム様にも何かあるということだろうからな。そういう時に、おれには頼れる人間がいない。いるとしたら、おまえだ、シナン」 「何をすればいいのだ、おれは——」 「おまえにまかせるさ。おまえはただ、おれを安心させるために、今、うなずいてくれればそれでいい」 「わかった。おれにできるだけのことをしよう」  シナンがうなずくと、ハサンは、ほっとしたような顔つきになった。 「安心した」 「安心?」 「おまえは、一度口にした約束は守る男だからな」  ハサンは、懐に手を入れて、そこから、小さな、刺繍入りの布の袋を取り出した。 「これを——」  その布袋をシナンに向かって差し出した。 「何だ、これは?」 「中身は知らなくていい。もしも、おれに何かあった時、ピュスティアに渡してくれ」  ハサンはシナンの眼を見つめながら言った。 「ああ、わかった」  シナンはうなずくしかない。  その時——  どこからか、こうばしい匂いが、部屋の空気の中に漂ってきた。  シナンの知っている匂いだ。 「これは——」 「カフヴェさ」  ハサンは言った。 「どうしたのだ」 「ザーティーのところから手に入れたのだ」  ハサンが言い終らぬうちに、部屋に、女が入ってきた。  先ほど、チューリップ畑の中に立っていた女だ。  ピュスティアである。  ピュスティアは、銀の盆を両手に持っていた。  そこに、カフヴェの入ったカップが載っていた。  男でもなく、召使いでもなく、女——しかもピュスティア本人がこのようなことをするとは。普通、来客があっても、そのもてなしをするのは男である。  主人か、男の家宰が給仕をする。  宴会があっても、その席に女がいることは、イスラムではめったにない。  男たちだけで、宴会をし、踊り、詩を詠《よ》み、唄う。  とにかく、他人の前で成人した女が素顔を見せたり給仕をしたりということがないのである。  身分の高い女は、外出するということを、あまりしなかった。身分の低い女は、外出する機会は、身分の高い女よりもあったが、それでも顔をヤシュマクで覆う。  地位がさらに高い女は、布で囲われた輿《こし》に乗り、移動式の天幕を運んで、着いた先にそれを建て、その中に入って他人に姿を見せぬようにした。  家の中にいる女も、夫と息子以外の男にはその素顔を見せぬようにするのが、イスラム世界のルールであった。  仮に、女がお茶を出す場合でも、壁に作られた小窓などを使って、それを出し入れするようなやり方をした。  それを考えると、ピュスティアのしていることは、イスラムではかなり異例のことと言えた。  ピュスティアは、カフヴェの入ったカップを載せた盆を、ハサンとシナンの前に置いた。  そして、自らも、絨毯の上に座したのである。  ハサンが、驚きも咎《とが》めもしないところを見ると、いつもこうなのか、それとも今日は初めからこうするつもりであったのかのどちらかであろう。 「飲んでくれ」  ハサンが、シナンをうながした。  シナンがカップを手に取るのを見てから、ハサンもカップに手を伸ばした。  カフヴェの香りが、シナンの鼻腔をくすぐった。  シナンとハサンがカップを手に取っても、まだ、もうひとつ、カフヴェの入ったカップが盆の上に残っていた。初めから、三つのカフヴェの入ったカップが用意されていたのである。  これは、どういうことなのか。  自分たちと一緒に、ピュスティアもここでカフヴェを飲むということなのか。  もしそうなら、どうやって飲むのか。  飲みものや食べものを口に運ぶのなら、顔の前を覆っているヤシュマクが邪魔になる。それを持ちあげてカップを口に持ってゆくのだと、たいへんであり、ヤシュマクをカフヴェで汚すことになりそうであった。  と——  シナンの眼の前で、ピュスティアは自分のヤシュマクに指をかけて、はらりとそれを取りはらってしまったのである。  美しい顔が、その下から現れた。  微笑した唇は赤く、その内側からは白い歯がこぼれていた。  鼻は、思った通りに高く、すっきりと通っていた。  考えていた以上に美しい。  年齢は、二十代の半ばをやや過ぎているくらいであろうか。 「わたしも、カフヴェをいただくわ」  ピュスティアは、手を伸ばし、白い指先でカフヴェの入ったカップをつまんだ。 「驚かなくていい」  ハサンが言った。 「ピュスティアは、ムスリムではない」  そういうことか。  シナンは心の中でうなずいた。  もともと、シナンの出身地であるアウルナスは、キリスト教徒の住む土地であり、シナン自身も、ハサンもキリスト教徒であった。  それが、デヴシルメによってイェニチェリとなり、イスラムに改宗させられたのである。  女が、素顔を見せることも、来客と一緒に食事をすることも、日常的に体験してきているのである。 「ピュスティアは、キリスト教徒だ」  ハサンは言った。  イスラムの男が、キリスト教徒の女を妻にすることは、イスラムでは許されている。  だから、ハサンがキリスト教徒の女をどこに住まわせておこうが、それはオスマンの法に触れるわけではなかった。  ピュスティアは、カフヴェを口に含み、 「おいしいわ」  よく通る声でそう言ったのである。 [#改ページ]  第13章  神の宿 [#ここから5字下げ] 抜き身の刀ひっさげて 預言者の生命《いのち》を狙ったオマルだが、 神のしかけた罠に落ちて、 有難や、目が覚めた。 ——ジェラール・ッ・ディーン・ルーミー [#ここで字下げ終わり]       1  すでに書いたが、一五三〇年は、オスマン帝国にとって、かなり平和な年であったと言っていい。  それを象徴するような催しがあったのは、その年の六月二十七日であった。  スレイマンの三人の息子たちの割礼式典が、この日、行なわれたのである。  この式典の豪華さは、スレイマンの治世——というより全オスマン史を通じても、三本の指に入る盛代なものであった。  ムスタファ、メフメット、セリム——三人の息子たちのためのこの式典は、午前中から始まった。  まず、黄金に輝く天幕の中心にある玉座に、スレイマンが座した。  その周囲にいるのは、イブラヒムを始めとする宰相たちであり、ベイレルベイ、イェニチェリの長官《アー》たちである。  この席で、スレイマンは、多くの高官や、外国人大使たちから、祝辞と贈り物を受けたのである。その翌日にも、元宰相や、クルド人エミール、ヴェネツィア大使たちから贈り物を受けている。  その幾つかを挙げてみれば、次のようになる。  インドのショールとモスリン。  ギリシアの上質のラシャ。  ヴェネツィア製のビロード。  金貨が一杯盛られた銀の皿。  宝石を象嵌《ぞうがん》した金の杯。  ラピスラズリの盆。  中国の磁器。  ロシアの毛皮。  アラブ種の牝馬《めすうま》。  エチオピア人とハンガリー人の奴隷たち。  その他、贈り物ではないが、曲芸師、楽士、道化師、奇術師たちも、磨きあげた自分の技を見せ、たくさんの拍手をもらった。  こういうことが、一四日間も続いたのである。  一四日目——  喝弁《かつべん》大会——つまり宗教者たちによる、宗教論争もこの時行なわれている。  一人のウレマーは、反論の言葉を口にすることができず、それを苦にして自殺したりした。  この一五三〇年にカール五世が帝冠を受けたものの、翌々年——一五三二年のオーストリア遠征までは、比較的オスマンは平和の中にあったと言っていい。  そして、一五三三年、ロシアにおいてイワン雷帝が即位し、いよいよこの獅子のごとき人物が、世界史の表舞台に登場してくることになったのである。  この時期、シナンは、まだ無名であった。  シナンの�仕事�が、記録上歴史の中に登場してくるのは、その翌年——一五三四年のイラク遠征からである。  この一五三四年を前後する年は、シナンの周囲で、実に様々のことが起こった時期であった。  幾つもの風が、世界のあちこちからイスタンブールに向かって吹き寄せ、シナンもまたその風にさらされることとなったのである。  その最初の風は、一五三四年——ハンガリーから吹いてきた。  その風を、いったいどのようにしてシナンとイスタンブールが受けたのか。  それを語るには、一五三三年の、ささやかなる、しかし重大なイブラヒムの発言から書き記さねばならない。       2  シナンがいるのは、ガラタにあるハサンの屋敷であった。  絨毯《じゅうたん》の上に座して、ハサンとカフヴェを飲んでいる。  暖炉の前であった。  暖炉では盛んに火が燃やされており、部屋は充分に暖まっていた。  昨年——一五三二年の十一月に、ふたりは、ヨーロッパ遠征からイスタンブールに帰ってきていた。  今年に入って、ヨーロッパとは休戦状態となり、束の間と言ってもいい和平の状態にイスタンブールはあった。  スレイマンとイブラヒムは、ヨーロッパでは勝利した。  宿敵であるカール五世は、イタリアを通り、スペインに戻っている。  スレイマンは、ヴェネツィアにあてた書状に、次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  大君主殿《グラン・セニョール》は、かの恥ずべき逃亡者のかつての棲み家であるグラーツの市にまで至った。かの者は生命惜しさにその場から逃走し、悪魔の道に従う彼の不信の臣民たちを棄て去った。 [#ここで字下げ終わり]  恥ずべき逃亡者というのは、もちろんカール五世のことである。  しかし、この勝利はあったものの、スレイマンは、一方ではモレア半島のコロンの要塞を、カール五世の提督アンドレア・ドリアによって落とされている。  逃げ帰ったとオスマンから言われたカール五世の側から言わせれば、逆に、逃げてゆくスレイマンを、追わずに逃がしてやったのだということになる。  ともあれ、この勝負は、痛み分けであった。  スレイマンがヨーロッパをさんざん荒らしたかわりに、カール五世の部下であるドリアは、コロンについで、パトラスを取り、コリント湾への入口を扼《やく》するふたつの要塞も落としてしまったからである。  このふたりの王は、この戦《いくさ》に疲れ果てていた。  カール五世の側が休戦を申し込み、これをスレイマンが受けたと言うのも、ふたりの王が、束の間の休息を欲しがったからである。  シナンもハサンも、この休息が、そう長くは続かないことをわかっていた。  オスマントルコには、西のヨーロッパのみならず、東からはイランの脅威も迫っていたからである。  シナンにとっては、久しぶりのハサンの家であった。  しかし——  ハサンの顔色が、どうも優れない。  暖炉の炎が、赤々とハサンの顔を照らしてはいるのだが、どこか、心がそこにないといった様子であった。 「どうした」  シナンが問うても、 「うむ……」  ハサンは、曖昧にうなずくだけである。 「何か考えごとでもあるのか」 「ある」 「何だ」 「あることはあるのだが、おれにはどうしたらよいのか、よい思案が浮かばないのだ。だから何だと問われても答えられぬ」 「別に、よい思案が何かを教えろと言っているのではない。何を考えているのかと訊いたのだ。言いたくなければ言わなくともよいのだ」 「言いたくないとは言っていない」 「では何なのだ」  シナンが再び問うと、ハサンは小さく溜め息をついた。 「シナン」  改まった口調で、ハサンは言った。 「何だ?」 「おまえは口が堅い」 「うむ」  シナンは、ここではうなずくより他はない。 「それに、この件は、まるでおまえに関係のないことでもない。いつであったか、ピュスティアの件では約束もしたことだしな」 「それで?」 「実は、イブラヒムのことさ」 「イブラヒム様がどうかしたのか」 「危《あやう》い」 「危い?」 「そうだ」 「どういうことだ」 「口が走っておられる」 「口が走る?」 「何か、油断されているようにしか、おれには思えぬのだ」 「何があった?」 「よいか、シナン。この件は内緒にはできぬ。おれが言わずとも誰かが言うであろうし、もともと、何人もの人間が、イブラヒムの口から、その言葉が洩れるのを聴いていたのだ。隠せることではない。だから、おまえに言うのだ——」 「——」 「しばらく前に、オーストリアから使者が来たろう」 「ああ」  シナンはうなずいた。  オーストリア——つまりそれは、フェルディナンドからの使者であり、フェルディナンドからの使者ということは、その背後にいるカール五世からの使者ということになる。  かたちばかりの和平の申し込みの使者であった。  その使節団を率いてきたのは、ジェローム・ド・サラという人物であった。  このジェローム・ド・サラと会ったのが、イブラヒムであった。 「そこで、イブラヒムが口を滑らせたのだ」  そう言って、ハサンは唇を噛んだ。       3  この使者は、慇懃《いんぎん》であり、そして、態度は控え目ながら、はっきりとした口調で用件を告げた。 「我々は、今、戦うべきではありません」  ジェローム・ド・サラはそうイブラヒムに告げた。  彼より渡されたフェルディナンドからの書状には、休戦の申し込みが書かれてあった。  あらかじめ、用件はわかっている。  スレイマンは、ただちにこの休戦の申し入れを受諾した。  しかし、この休戦協定において、主導権を握っているのは、もちろんスレイマンであった。  フェルディナンド側は、スレイマンに休戦を頼み込む立場にあった。  休戦の条件としては、フェルディナンドが、グラン(エステルゴム)の市の鍵を、スレイマンのもとへ送り届けることが、この会見によって約束された。  すぐに、第二の使節団が、今度はカール五世の書状を持って、イスタンブールにやってきた。  この使節と会ったのもイブラヒムであった。  この使節団は、多くの贈り物をたずさえてきた。  大宰相イブラヒムがこの時受け取ったのは、金のメダルであった。そのメダルには、巨大なるダイヤモンドと、それより大きなルビー、さらには西洋梨の形をしたみごとな大きさの真珠が飾られていた。  カール五世からの書状には、和平協定にあたって、幾つかの要求が書かれていた。  それは、ハンガリーを返して欲しいという内容のものであった。  そのかわりに、先の戦で落としたコロンを返還するというのが、カール五世の示した条件であった。  これを、イブラヒムは一蹴した。  コロンは、オスマンにとっては、いつでもその気になれば武力で取りもどせるものであった。  そして、ハンガリーについては、そこにアロイシ・グリッティというトルコ側の総督を置いてはいるものの、王は、ヤノシュ・ザポリヤであり、表向きはトルコのものではないことになっている。 「何とも、妙な申し入れをなさることよ」  イブラヒムは、こう言って、ジェローム・ド・サラ等カール五世の使者をからかった。  さらに、このカール五世からの書状を使者が朗読している最中に、ひとつの事件が起こった。  カール五世の長い称号の長いリストを読みあげている中に、 �イェルサレムの王�  という称号をジェローム・ド・サラが口にしてしまったのである。  それは、ジェローム・ド・サラの責任ではない。そこにそう書かれていたのだ。彼はそれを読んだだけであった。 「これは、いかがな意味でしょうかな」  最初は、慇懃にイブラヒムは言った。 「イェルサレムは、今、我がオスマンの領土であり、王はもちろん、スレイマン様でございます。神聖ローマ帝国皇帝におかれましては、何かの御記憶違いではありませぬか」  この言葉に、使者たちの顔は、たちまち青ざめた。  その使者たちに向かって、イブラヒムはたたみかけるように言った。 「いや、これは失礼。御聡明なるカール五世にあられましては、御記憶違いなどということはあり得ませぬな」  使者たちの顔からは血の気がなくなり、おろおろとした表情が、その顔に浮かんだ。自分の心に生じた動揺を、必死に隠そうとしているその姿が、可愛く見えるほどであった。  ここで、イブラヒムは、自分が完全に相手より優位に立っていることを自覚した。  それが、この聡明なる宰相の口を滑らせたのであった。 「何故、彼《か》の人物は自らをイェルサレムの王と自称されるのか。これは、意図《はか》って我らの王《スルタン》スレイマン様を侮辱なさるおつもりということですかな」  イブラヒムの口は止まらなかった。 「彼の人物は、我々との闘いについて語られました。彼の人物は、ルター派を改宗させようと望まれました。しかしそれは、実現されなかった。我らに勝利することもなく、お国ではルター派を改宗させることもできなかった。企てておきながら、それを成せず、口にしながらそれを実行できぬというのは、もはや皇帝の資格として不充分ではありませんか——」  イブラヒムは、ここで、その生涯で最大の失敗をしたと言っていい。  震えおののいているオーストリア使節団が驚愕するような言葉を、次にイブラヒムは口にしたのである。 「よいか」  念を押すように、イブラヒムは言った。 「わたしは、望めば馬丁をスルタンにすることができる[#「馬丁をスルタンにすることができる」に傍点]。このわたしは、スルタンからどのようにささいな監察を受けることもなく、わたしの望む人間に所領を与えることができるのだ」  イブラヒムが自らの言動を律していた何かの箍《たが》が、はずれたとしか思えなかった。 「たとえスルタンが命令しても、それがわたしの望まぬことであれば、それは実行できぬのだ。行なわれるのは、我が意向であり、スルタンの意向である」  そこまでのことを言ってしまったのである。  和平の協定は、もちろん、オスマン優位に結ばれたのだが、イブラヒムの言葉は、そこに居た全員の耳に残ることとなってしまったのである。  イブラヒムは、自分の権力は、スルタン・スレイマンよりも上であると、そう言ってしまったことになる。  そのイブラヒムの言葉を、護衛として傍に立っていたハサンは聴いてしまったのである。  それを、ハサンはシナンに語ったのであった。       4  話を聴き終え、 「まさか」  そう言ったのは、シナンであった。  あり得ない。  あの頭のいいイブラヒムが、他者のいる前でそのような言葉を口にしてしまうとは。  もしも、これがハサンの口から出た言葉ではなく、噂として耳に入ってきたのなら、ただちにシナンはそれを否定したことであろう。  イブラヒムとは、数えられるほどしか会ったことはないが、間違っても、そのように不用意な言葉を口にする人物では決してなかった。  魔が差したとしか思えない。 「これで——」  と、ハサンは溜め息と共につぶやいた。 「これで、ロクセラーヌが、イブラヒムよりも、優位に立つことになるだろう……」  その時、 「いらっしゃい」  女の声が響いた。  シナンが声のした方を振り向くと、ピュスティアがそこに立っていた。  はじめから、ピュスティアはシナンがいることを知っていたのだろう。  素顔であった。  ふたりの前では、ピュスティアも、自分がキリスト教徒であることも、顔も隠す必要がないとわかっているのであろう。 「なんのお話をなさっていたのかしら」  ピュスティアは言った。  シナンにともなく、ハサンにともなく問いかけた言葉であった。  ふたりの傍まで歩いてくると、 「ロクセラーヌ様と、イブラヒム様がどうかなさったの?」  ピュスティアはそう言った。 「聴いていたのか」  言ったのはハサンであった。  ハサンの眼が、とがめるような表情になっている。 「聴いていたのではありません。聴こえていたのです」 「同じことだ」  ハサンは言った。 「おまえは心配しなくていい」 「——」  ピュスティアは、何かを言いかけたように開いた唇をそのまま閉じ、不満そうに口をつぐんだ。 「心配は、おれがする」  ハサンの言葉に、閉じかけたピュスティアの唇がまた開いた。 「心配いたします」  ピュスティアははっきりと言った。 「前は、無茶をしそうなあなたを心配して、今は逆に臆病になったあなたを心配してしまうのです」  ピュスティアは、言いながら、そっと右手を自分の腹にあてた。  その腹が、以前よりわずかに大きくなっていることに、シナンはようやく気づいていた。 「ハサン……」  シナンは、思わずハサンを見た。  すぐに、ハサンはシナンの言葉の意味を悟っていた。 「ああ——」  ハサンはうなずいた。 「ピュスティアの腹の中には、おれの子がいる——」  ハサンは、シナンを見やり、 「おれも、臆病にならねばならんということさ——」  低い声でそう言った。       5  ハンガリーという国家の不幸は、ハプスブルクとオスマンというふたつの強大な王朝に、左右からその手を握られていたことにある。  どちらの手も、自らはなすことができない。  一方が強く引く時はその一方へ、別の一方が強く引く時はその別の一方へ身体を寄せてゆくしかない。  左右から手を引く二国が、たとえば同じ宗教に所属する国家であったのなら、もう少し違う身の処し方もあったろうが、一方はキリスト教国、一方はイスラム教国であった。  たとえそうでも、もしもハプスブルクかオスマンか、一方が相手よりもずっと強大な力を持っていたら、世界史におけるハンガリーの運命ももっとわかり易いものになっていたろう。だが、このふたつの国家の力は拮抗していた。  アロイシ・グリッティの不幸も、そこにあったと言っていい。  一五三四年のその時、ハンガリーには、三人の王がいた。  いや、もっと正確に書こう。  この時期のハンガリーには、ひとりの王と、ひとりの総督と、ひとりの有力なる司教がいたのである。  この王というのは、スレイマンの後ろ盾によってその地位に座っているヤノシュ・ザポリヤのことである。  司教というのは、この王のことをおもしろく思っていない——つまり、王の背後にいるオスマンとイスラムを嫌っているヴァラスディンの司教ツィバツォのことである。  そして、総督というのは、基本的にはキリスト教国であるハンガリーが、オーストリア——つまりその背後にいるハプスブルク家のカール大帝になびかぬように監視するためにオスマン側がその地においたヴェネツィア人アロイシ・グリッティのことであった。  この頃、ハンガリーは、完全にオスマンのものであったわけではなかった。  オスマンには、それができるだけの力があったのだが、それをやってはいられぬ事情があったのである。  それは、背後の問題であった。オスマンの背後にあるペルシア——サファヴィー朝との抗争に、スレイマンは気を使わねばならなかったのである。  もうひとつには、政治的にオスマンの側についているならば、ハンガリーが異教徒の国であった方がオスマンには都合がよかったのである。  この状況を、おもしろく思わない人物が、ハンガリーにいた。  それが、司教ツィバツォであったのである。  ツィバツォは、ヤノシュ・ザポリヤとは、事あるごとに対立していた。  このツィバツォが、ハンガリーの民衆を煽動して、ついに蜂起したのである。その背後にハプスブルク家の影がちらつくのはしかたないにしても、民衆そのものがオスマンの傀儡《かいらい》であるヤノシュ・ザポリヤを心よく思っていなかったということになる。  この蜂起を知って、現地にやってきたのが、総督アロイシ・グリッティであった。  ハンガリーがふたつに分かれて争っていれば、ハプスブルク家に大きなチャンスを与えてしまうことになる。  司教ツィバツォとザポリヤ王との対立を解消しなければならない。  スレイマンが、キリスト教徒のヴェネツィア人を総督としておいたのはまさにそのためであった。  ハンガリーをスレイマンの意志のもとにまとめることは、そのままハプスブルクの手から祖国ヴェネツィアを守ることになる。  この時、アロイシ・グリッティに従ったのは、一〇〇〇人のイェニチェリと、二〇〇〇人の騎士《シパーヒー》であった。  さっそくアロイシは、総督の名において、ザポリヤ王とツィバツォ司教、そしてハンガリーの貴族たちの全てに招集をかけた。  しかし、この席にツィバツォ司教は現れなかった。  現れたところで、皆の前でアロイシ・グリッティによって追放されるだけとわかっていたからである。  どうあってもツィバツォを呼んできたいアロイシは、兵五〇〇をさし向けて、ツィバツォ司教の捕縛を命じた。  このままツィバツォを放っておけば、自分の威信にも関わることであったからである。  ところが、帰ってきた兵士たちがぶら下げていたのは、ツィバツォ司教の首であった。  これは、アロイシにとっては誤算であったが、充分に予測のできたことでもあった。  何人の兵が来ようが、すんなりツィバツォもやってくるわけはない。ツィバツォにとってみれば、行けば追放されることはわかっていたし、場合によっては反逆の罪で殺されてしまうことも考えられたからである。  当然、ツィバツォも抵抗した。  連れに行った兵士たちも、これ幸いとばかりに、ツィバツォを捕えて首をはねてしまったのである。  これが、事態を一変させた。  信心深い農民たちが、司教の死によって、一斉に蜂起したのであった。それを知って、それまでアロイシに従っていたハンガリー人たちまでが、蜂起に加わってしまったのである。  四万の兵と農民たちに城塞を囲まれ、アロイシはそこから動けなくなってしまった。  この知らせは、当然、速《すみ》やかにイスタンブールにまでもたらされた。 「アロイシ・グリッティを救出せねばなりません」  イブラヒムは、このように主張した。 「これは、わがトルコの威信に関わることでございます。トルコが、ハンガリーとアロイシ・グリッティを見捨てたとあれば、軍の士気にも影響が出るでしょう」  おそらく、通常であれば、この意見は受け入れられたであろう。このイブラヒムの意見に、スルタン・スレイマンも耳を傾けたはずであった。  だが、これに強く反対する者がいた。  それが、ロクセラーヌであった。 「何故、ひとりのヴェネツィア人を救うために、トルコ人が血を流さねばならないのでしょう」  トルコ宮廷では、イブラヒムは親ヴェネツィアを代表する人物であった。  そして、イブラヒムにとって、ヴェネツィアとは、すなわちアロイシ・グリッティのことだったのである。  ここで、アロイシ・グリッティを見捨てる決心をスレイマンがすれば、イブラヒムはその片腕を失うことになる。もし、生き残ったとしても、一度、スレイマンが見捨てたとあらば、宮廷内での発言力は、今よりずっと弱くなる。 「今は、ペルシアに力をそそぐべきではありませんか」  実際、ロクセラーヌの言う通りであった。  オスマントルコは、その時、ペルシアのサファヴィー朝との闘いに、その力を奪われている最中であったのである。  ハンガリーは、実情はトルコの支配下にはあったが、他国であり、領土ではない。しかし、背後の敵は、オスマンの領土そのものを脅かしかねない相手であった。 「ハンガリーなど、いつでもその気になればこの手に取りもどすことができる」  スレイマンの頭の中に、このような考えがあったことは否定できない。  それはあった。 �ハンガリー王の首など、このわたしの意志で、いつでもすげかえることができる�  事実、そのような発言をスレイマンはしていたのである。  宮廷内では、イブラヒムの力がだんだんと弱まりつつある時期であった。 「今は、ハンガリーに兵を出している時期ではない」  これが、スレイマンの結論であった。 「アロイシ・グリッティを見殺しになさるおつもりですか」  イブラヒムは言った。 「別に、見殺しにせよとは言っていない。現に、あの男には、イェニチェリやシパーヒーを預けてある。それで、この件についてはあの男自身が解決すればよい」  それ以上の議論を、スレイマンは許さなかった。  これで、アロイシ・グリッティの命運は決まってしまったのである。  これまで、アロイシ・グリッティは、自らがキリスト教徒であることを、オスマン宮廷内でも利用してきた。  オスマンの味方のキリスト教徒。  それ故に、アロイシ・グリッティは、ハンガリーの総督にも任命されたのである。  だが、今回は、それらが全て裏目に出た。  オスマンにとっては、アロイシ・グリッティは、異教徒である。  ハンガリーにとっては、彼はオスマンそのものだ。  祖国ヴェネツィアにとっては、国の危機を救ってはくれたものの、今やアロイシ・グリッティはオスマン側の人間である。表立って援軍を送るわけにはいかない状況にあった。  アロイシ・グリッティは、三者から見捨てられたのだ。  危い綱渡りの綱から、アロイシ・グリッティは落ちたのである。       6  アロイシ・グリッティは、それでも数カ月籠城をした。  この間には、何度もトルコに使者を送っている。  しかし、イスタンブールからは、援軍はやってこない。  食料も尽きようとしていた。  そして、アロイシ・グリッティは、自力で脱出を試みることにしたのである。  しかし、この時、ようやく遅まきながら、イスタンブールではハンガリーへ援軍を送るという気運がたかまっていたのである。  スレイマンは、ペルシアへの遠征に勝利を収めて、九月にはイスタンブールへもどってきていた。  そして、オーストリアのフェルディナンドも動きはじめていたのである。  蜂起した農民たちを、ハプスブルクが本気になって援助しようとしていたのである。  放っておけば、ハンガリーは、完全にハプスブルクの支配下に入ってしまう。  ゆとりのできたスレイマンは、これを恐れたのである。  だが、アロイシ・グリッティは、そんなところまでは知らなかった。  これまでに、三度、城外に討って出て、農民たちと戦っている。  同じ人数であればともかく、農民たちの数は圧倒的に多かった。  トルコ兵三〇〇〇に対して、むこうは四万人である。  背後からは、ハプスブルクの後押しもあった。  もはや、脱出以外に道はないと、アロイシ・グリッティが判断したのも無理はない。  ある夜——  数人の部下と共に、アロイシ・グリッティは、城からの脱出を試みた。  アロイシ・グリッティと数人の仲間は、貧しい農民の姿に身をやつして、ひそかに夜の闇にまぎれた。  この脱出は半分は成功した。  少なくとも、城を囲んでいる農民たちからは見つけられずに、その外側へ逃げることができたからである。  ようやく自由になったかと思った時に、 「おい」  声をかけられたのである。  相手は、ハンガリー兵であった。  アロイシ・グリッティは、ハンガリー兵に囲まれ、松明《たいまつ》の灯りを顔にかざされた。  これが昼間であれば、あるいは助かったかもしれないのだが、夜であったため、かえって灯りの中でまじまじとその顔を見られてしまったのである。 「これは、アロイシ・グリッティだ」  ハンガリー兵の中に、アロイシ・グリッティの顔をよく知っている者がいたのである。 「総督さまではないか」  たちまち、アロイシ・グリッティは捕えられ、ハンガリーの兵営に連れてゆかれた。  しかし、まだ、アロイシ・グリッティはあきらめていなかった。 「どうだ、このわたしを助けぬか」  アロイシ・グリッティは、ハンガリー兵に言った。 「もしも、このわたしを見逃してくれたら、一〇万ドュカートの金を、イスタンブールから届けさせようではないか」  兵たちにとっては、この世のものではない大金であった。  しかも、この時代の暗黙のルールとして、こういった身代金は、踏みたおされるということが極めて少なかった。  敵国の重要人物を、金で売り買いすることが、自然に行われていた時代である。  ハンガリー兵たちは、いったんはアロイシ・グリッティのこの申し出を受けていた。  彼らにしても、このアロイシ・グリッティを捕えたからといって、金が入るわけではなかったからだ。  しかし、アロイシ・グリッティにとって不幸であったのは、これが、農民たちの知るところとなってしまったのである。  アロイシ・グリッティが捕えられたことを、農民がすぐに知ってしまったのである。  これによって、ハンガリー兵も、アロイシを逃がすわけにはいかなくなった。  アロイシ・グリッティは、その朝に、まず両腕を切り落とされた。  出血で死なぬように止血をされ、昼になって両脚を切り落とされた。  そして夕刻、皆の見物する中で、この希代の人物は、その首を切り落とされたのである。  アロイシ・グリッティは、それでも、最後まであきらめなかった。  腕を切り落とされる時も、脚を切り落とされる時も、交渉を続けた。 「どうだ、このわたしの生命を助けてくれたら、金をやるぞ」 「おれの生命を買わぬか」 「わが生命を救えば、五〇万ドュカートの金をやろうではないか」  首を落とされる時は、ほとんど虫の息であったが、それでも、この男は自分の生命を金で買おうとしたのである。  ヴェネツィア商人として、この戦乱の世を生きぬき、ついにはハンガリー総督の地位まで昇りつめたこの男らしいと言えば、まことにこの男らしい最期と言える。  たとえ、両手両脚のない状態で交渉が成立したとしても、この男は間違いなく、その金を払ったことであろう。  それが、ヴェネツィア商人であり、アロイシ・グリッティであった。  アロイシ・グリッティの死とその顛末は、イスタンブールにも、そして、ヴェネツィアの、アンドレア・グリッティのもとにももたらされた。  シナンは、イスタンブールで、それを聴いた。 [#改ページ]  第14章  陰謀の都 [#ここから5字下げ] 蝋燭《ろうそく》と蛾が出会った時 ほかのものはその場を立ち去った 王と王と蝋燭が残った時 太陽と月が重なりあったようであった 九重にも布団を重ね そこに金の梯子《はしご》をかけた ——ザーティー『蝋燭と蛾』より [#ここで字下げ終わり]       1  ハンガリーにおいて、アロイシ・グリッティが苦闘していた時期、スレイマンはその多くの時間をペルシア遠征に割《さ》いていた。  この遠征に、シナンもイェニチェリとして参加をしていた。  そして、この遠征の最中に、シナンという才能が初めてオスマンの歴史に登場することとなったのである。  一五三四年から一五三六年にかけて、スレイマンは長い遠征に出ている。  相手は、ペルシア——サファヴィー朝のイランであった。  この時、スレイマンの率いる軍が、ヴァン湖でペルシア軍と戦闘になった。  敵の攻撃は執拗であり、スレイマンの二〇万の兵をもってしても、簡単には倒せなかった。  この遠征について言えば、この二〇万という大軍が、スレイマンの足を引っぱった。人数が多すぎたことに加えて、重装備であった。  オスマン軍は、機動力において、ペルシア軍に劣ったのである。  事実、この遠征で、スレイマンは、用意してきた三〇〇門の砲のうち、一〇〇門を途中で放棄せねばならなかった。悪天候に行手をはばまれ、荷を運ぶための駄獣が死んだりしたからである。  砲車は焼かれ、大砲は地に埋められた。  しかし、これを相手が掘り出した。  オスマン軍は自らがイスタンブールより持ってきた砲で、自らがねらわれることになったのである。  ヴァン湖に話をもどしたい。  ヴァン湖は、トルコの東にある、この高原最大の湖であった。  この湖から、スレイマンの軍は動けなくなった。  圧倒的な数の兵力があり、まず相手に負けることはないが、しかし、勝つことも難しかった。  ペルシア軍は、少人数でちょっかいをかけてきては、すぐに逃げて姿を消してしまう。  ほとんど、闘いらしい闘いはできない。  そのうちに、オスマン軍にとっては、自軍であるはずの二〇万という兵の数そのものが敵となった。  オスマン軍にとって、一番負担であったのは、何もしないことであった。  ただ、何もせずにそこにいるだけで、一日にきっかり二〇万人分の食糧がなくなってゆくのである。 「もしも、ここに軍艦があれば——」  スレイマンは考えた。 「大砲を積み、この巨大な湖を自由に動くことのできる船さえあれば——」  湖面から、砲によって攻撃を加えることもできるし、敵の背後に船でまわることもできる。ペルシア軍の様子を船上からうかがうこともできる。  しかし、船の用意はない。  大砲はなんとかイスタンブールから運ぶことはできても、船は運べない。  ここで造るしかなかった。  しかし、船を一艘造るのに、一カ月もかけてはいられない。  それも、小さな舟ではない。一〇〇人から三〇〇人は乗ることのできる船が、三艘は必要である。それだけのものを、たとえば一カ月かからずに建造することができるかどうか。 「誰か、船を造ることのできる者はおらぬのか——」  スレイマンは言った。       2  その夜——  シナンが野営している天幕に、ひとりの男がやってきた。 「シナンはいるかい」  ハサンであった。  眠ろうとしていたシナンは、天幕から出てきて、 「どうした」  ハサンに声をかけた。 「いたか、シナン」 「何の用だ」 「話がある」  そう言ってから、ハサンは、視線を湖の方へ向けた。  向こうへゆこうと、ハサンは無言でシナンに告げた。  ハサンとシナンは、幾つもある天幕の間を歩きながら、ヴァン湖の汀《みぎわ》まで歩いた。  やがて、踏んでいる土が湿地になり、すぐ向こうに湖の水面が見えた。  もう、天幕は周囲にはない。  乾いた草を選んで踏みながら、ハサンとシナンは、汀近くまで行って足を止めた。  月が、東の空に昇っていて、明るい光を湖面に揺らしていた。  小さな波が、すぐ先にある岸に寄せている。  ハサンは、あらためて周囲に眼をやった。  人は誰もいない。  隠れるものはまわりになかった。  湖の岸に沿って並んでいる天幕と、炎の灯りが、背後の闇の中に点々と見えている。  もし仮に、向こうからシナンとハサンがふたりでいるのを見られたとしても、話までは聴こえない。 「イブラヒムが困っている」  ふいに、ハサンは言った。  ハサンは、いつも本題に入る時は直接的であった。 「どうしたのだ」 「イスケンデル・チェレビーが、色々とまた動いているのだ」 「イスケンデル様が?」 「ああ」  ハサンはうなずいた。  イスケンデル・チェレビー——オスマン帝国の財務長官である。  イスケンデルは、彼《か》の英雄アレクサンダーのトルコ語読みであった。  この英雄の名を持つイスケンデル・チェレビーは、これまで、事あるごとにイブラヒムと対立をしてきた。 「モハチの時も、そうだった」  ハサンは、言った。  ハサンが、何のことを言っているのか、シナンはわかっていた。  八年前——  ヨーロッパ遠征で、オスマンがハンガリーに大勝利した時のことだ。  この時、イブラヒムは、幾つかのものをブダから持ち帰っている。  兵士やアクンジュたちが、黄金細工や宝石を、| 恣 《ほしいまま》に略奪している時、イブラヒムは部下たちに命じてハンガリー前王マティアス・コルヴィンの蔵書の全てを持ち出させたのである。  さらに、ヘラクレス、ダイアナ、アポロンという、ギリシア神話の英雄と神々の青銅の像を三体、自分の船に乗せてイスタンブールまで運ばせたのである。  蔵書の全てはそのままイブラヒムの所有となった。  さらに、イブラヒムは、ブダより持ち帰った三体の像を馬場に置いたのである。  異教の神々の像を、自らの館に置く——これは、イブラヒムであればこそできたことであった。  イスラムの法によって、たとえ美術品であろうと、オスマンでは偶像は飾らない。  神の姿を人にかたどったりもしないし、実在した聖人の絵ですら置かない。飾らない。  イスラムを起こした祖師のムハンマドの肖像画でさえも、寺院《モスク》には飾られないのである。そもそも、肖像画を描くことができなかったのだ。  イスラムの寺院《モスク》には、偶像は、それがたとえ動物の姿ですら描かれないのが基本であった。  イスラムの寺院《モスク》を飾るのは、幾何学模様に近い、植物の絵くらいである。  そして、『コーラン』からとられた神の言葉か神を讃える言葉がそこに描かれるだけである。  これが、ユダヤ教やキリスト教の教会とイスラム教の寺院《モスク》との大きな違いであった。  偶像を拝しない。  これは、キリスト教もイスラムも教義としては同じだが、現実的にはキリスト教においては歴然として偶像崇拝がある。  イスラムにおいては、キリスト教と比べてのことになるが、全くと言ってもよいほどに偶像崇拝はない。  そこへ、イブラヒムが、公然と三体の�偶像�を持ち込んだ。  これが、話題にならぬわけはない。  イスタンブールの民の多くが、イブラヒムを偶像崇拝者と呼んだ。  このイブラヒムを風刺して、詩人のフィグハーニーが詩を作った。 [#ここから2字下げ] 世にはふたりのアブラハムがいた ひとりは偶像を毀《こぼ》ち ひとりは建てなおした [#ここで字下げ終わり]  イブラヒムは、アブラハムのアラブ語形での読みである。  イブラヒムでないもうひとりのアブラハムは、もちろん『聖書』に出てくるアブラハムのことである。  この風刺詩は、イスタンブールの民衆の間に、たちまち広がった。  これに、イブラヒムは激怒したのである。  イブラヒムは、もともとはキリスト教徒であった。  それが、奴隷としてオスマンに捕えられ、そこでイスラムに改宗させられたのである。  イブラヒムが信仰しているのは、まだキリスト教なのではないか。  このような噂が、まことしやかにイスタンブールの人々の間で、語られた。  激怒したイブラヒムは、詩人フィグハーニー・チェレビーを捕え、死刑を宣告した。  フィグハーニーは、驢馬《ろば》に乗せられ、イスタンブールを引き廻され、その後に首を切られた。  この時に、ひとつの噂が流れた。  それは、イスケンデル・チェレビーとフィグハーニー・チェレビーの関係についてである。  ふたりは、血がつながっており、この詩人を背後から操っていたのが、イスケンデル・チェレビーであると言う者もいた。  しかし、スレイマンは、これらの噂のいずれにも耳を貸さなかった。  イブラヒムが、キリスト教をまだ信仰しているという噂についても、そして、詩人にあのような詩を書かせたのはイスケンデル・チェレビーであるという噂についても、黙殺をした。  どのような噂であれ、宮廷に常に噂はつきものであり、そのような噂のひとつひとつに心を揺らしていては、スルタンは勤まらない。  少なくとも、この時はまだ、スレイマンとイブラヒムは、信頼関係にあったのである。  しかし、このイブラヒムにまつわる噂は、確実にスレイマンの心に影を落としていたのであった。 「では、やはりイブラヒム様に対するあの噂の背後には、イスケンデル様の意があったということか——」 「そういうことだ」  ハサンはシナンにうなずいた。 「それで?」  シナンはハサンに問うた。 「この遠征でも、イスケンデルは、たびたびイブラヒムを陥れようとしている」  前年、イブラヒムは、バグダードまでの進軍を途中で思いとどまり、アレッポに留まって、そこで冬を越した。  オスマン軍はすでにキルクークとモスルに前進しており、アッバース朝の首都を占領するというオスマンの夢は、この時、イブラヒムの腹ひとつで、可能であったのである。  事実、この時期、バグダードは手薄であり、手を伸ばせばもぎとることのできる果実として、目の前にぶら下がっていたのである。  その果実をもぎとることを、自分にさせなかったのは、イスケンデルの陰謀であったのだと、イブラヒムは今、近くの者に漏らしている。  それもこれも、今、戦局がうまくいってないからのことであった。  ペルシアへのこの遠征が始まったのは、昨年のことである。  最初にイスタンブールを出発したのは、イブラヒムであった。  これが、一五三三年の秋である。  スレイマンのための地ならしをしておいて、あとからスレイマンと合流する——そういう作戦であった。  しかし、すでに書いたように、スレイマン抜きで、事は予想以上にうまく運んでいた。  バグダードは目前であった。  いっきにバグダードまで進軍するかどうかという時に、イスケンデルが次のように言ったのである。 「此度《こたび》の遠征は、我がオスマンのかねてよりの宿願。スレイマン様がおいでにならぬ時に、イブラヒム殿が先にバグダードに入ってしまっては、よろしくないのではありませんか」  バグダードを落とすのは、スレイマン様と合流してからになされよと、イスケンデルは進言した。  これを、イブラヒムは受けて、アレッポで冬を越すことを決めてしまったのである。  仮に、進んだとしても、冬の寒さで、兵の士気は下がる。もしものことを考えれば、スレイマンの本隊と合流してからの方が確実であった。  しかし、結局、スレイマンと合流したのは、一五三四年の九月に入ってからであった。  この間に、イブラヒムはタブリーズを落としたものの、ペルシア側は、戦の準備を整えてしまっていた。  そして今、オスマン軍は、思いもよらぬ抵抗を受けているのである。  イブラヒムは、内心、焦っていた。  今、戦局が思わしくないのは、イブラヒムのせいである——イスケンデルはそういう空気を、軍の中に作りあげようとしているのだと、ハサンはシナンに言った。 「で、おまえに頼みがあるのだ」 「頼み?」 「船だ」 「船?」 「船を三艘ほど造ってもらいたいのだ」 「もちろん、船を造ることはできるが……」 「戦船《いくさぶね》だ」 「戦船?」 「大砲を八門載せる」  ハサンは言った。 「湖上で、敵の船と戦ができて、しかも船から、ヴァンの街を大砲でねらえる船だ」  戦船か——  シナンは、無言で、ハサンの言ったことを頭の中で考えている。  そこへ、たたみかけるように、 「問題は時間だ」  ハサンは言った。 「三艘で、ひと月かけずに造ることができるか?」 「この場所で?」 「もちろん」  他で船を造っても、このヴァン湖まで陸路を運んでこなければならない。  船を造るなら、どうしても、このヴァン湖でなければならない。  木材を集め、足場なども造設せねばならず、足らなければ、樹を切り出すこともしなければならない。 「まあ、できるだろう」 「ひと月かからずにか?」 「二〇日もあれば——」  シナンは言った。 「二〇日だと?」 「できるさ」  こともなげに、シナンは言ってのけた。 「確かか?」  ハサンは訊いた。 「ああ。おれに、全てをまかせるならばだ」 「どうして、そんなことができるかは、訊かない。訊いてもおれはわからぬ。おまえは、今と同じことを、これからイブラヒム様の前で言うことができるか」 「できるさ」 「明日、スレイマン様の前でもだいじょうぶか」 「ああ」  シナンはうなずいた。 「おれは、これまで、おまえが約束したことで、おれを裏切ったことがないのをよく知っている。どうしてできるかはいい。おれには、おまえがうなずいたという、それだけで充分だ」  ハサンは、シナンの肩に手を置いて、 「もし、できなかったら、おれの首は胴から離れることになる」 「だいじょうぶだ。おれもおまえも、口から食べたものを、ひと月後も尻から出すことができるだろう」 「では、ゆこう」 「ゆく? どこへだ」 「イブラヒム様のところへだ」  言った時には、もう、ハサンは歩き出していた。       3  イブラヒムの天幕の中で、シナンは同じことを言った。 「二〇日でできるというのか」  イブラヒムは、驚きの声で言った。 「はい」  シナンは、静かにうなずいた。 「おまえには、これまで、何度か助けられている。おまえの進言で、予定よりも五日も早く川に橋を架けたこともあった」  イブラヒムは、これまでシナンが知っているどの時よりも、やつれて見えた。  だが、まだ声にも、眼の光にも力はあった。  やつれて見えるのは、頬の肉がいくらか落ちたことと、髭が常に比べて乱れているからであった。 「で、どうすれば、二〇日でできるのだ」 「一艘船を造り、それができあがってからまた一艘船を造るのでは、とても、二〇日で三艘は造ることができるものではありません」 「うむ」 「三艘を同時に造ります。人数は三倍になりますが、これなら一艘を二〇日で造るのと同じことになります」 「しかし、それだけの技《わざ》を持った人間がいるのか」 「心あたりがございます。ただし、これまでのやり方を、全てかえていただくことになります」 「かえる?」 「はい。これまでは、見習い期間が過ぎねば、材木の寸法をとらせないとか、材を切る職人の中でも、あれこれと役が決まっておりましたが、たとえ、ある仕事の経験が一年であっても、できる者にその仕事を与えるということです。よろしいでしょうか」 「もちろんだ」  イブラヒムはうなずいてから、 「おまえにまかせよう」  そう言った。  覚悟の決まった眼であった。 「明日、スレイマン様の前で、今、わたしに言ったのと同じことを言うがよい」 「はい」  返事をしたシナンに、 「どうだ、神は見えたか」  ふいに、イブラヒムは言った。 「神が!?」 「最初におまえに会った時、おまえは神の話をしていた……」  イブラヒムは、昔を思い出そうとするような眼をして言った。 「そうでした」 「あれは、何年前であったか——」 「わたしが、デヴシルメでイスタンブールにやってきた年でございますから、二十二年前でございます」 「二十二年か……」  イブラヒムは遠い目つきになってつぶやいた。 「今は、幾つになる?」 「四十六歳になります」 「わたしも、もう、四十歳だ」  イブラヒムは低い声で言った。 「歳をとるわけだ。二十二年も経っているのではな」 「はい」 「なんと、はるばる月日は過ぎてしまうものか……」  独り言のように、イブラヒムは言った。 「あの頃は、まだわたしは若かった。スレイマン様も、わたし以上に若かった。よくぞ、ここまで生き残れたものだ……」 「——」 「おまえたちふたりには、一度、助けられている」  イブラヒムは言った。  シナンは、イブラヒムが何のことを言っているのかわかっていた。  ハサンと一緒に、夜、歩いているおりに、暴漢に襲われている人物を助けたことがあった。  顔を隠してはいたが、それがイブラヒムであったのである。その縁で、ハサンは今イブラヒムに仕えている。  だが、あの時暴漢に襲われていたのは自分であるとは、これまでイブラヒムはひと言もハサンにさえ言っていない。  口にはしないが、互いにそれをわかっている——そういう関係であった。  今、初めて、イブラヒムがそれを口にしたのである。 「あの漢《おとこ》たちを雇ったのは、イスケンデルさ——」  イブラヒムは言った。 「イスケンデル様が?」 「ああ」  イブラヒムはうなずいた。 「あの時はまだわからなかった。しかし、今はわかっている。イスケンデルは、わたしをおとしいれようとして、常にこのわたしの動きを追っていたのだ」 「あの時も?」 「イスケンデルが、このわたしの後を、あの男たちにつけさせていたのだ。機会があれば殺すつもりでな——」 「——」 「イスケンデルめ、エジプトでもわたしとうまくやっていると見せかけて、わたしを追い落とすことを常に考えていたのだ。あの夜以来、わたしは夜にひとりふたりの人数で歩くのはやめた」  何故、イスケンデル様が?  シナンは、そのように問おうとして、口をつぐんだ。  あの晩、どうしてイブラヒムのような身分の者が、ただ供の者をひとり連れていただけで出かけていたのか。  いったいどのような理由があって、どこへ出かけていたのか。  それを問いたかったが、シナンはその誘惑に耐えた。  シナンの心の裡《うち》を察したのかどうか、 「誰にでも秘密はある……」  イブラヒムは言った。  それを耳にした時、シナンが思い出したのは、ハサンの言葉であった。 �危い�  ハサンがそう言ったのはどのくらい前であったろうか。  たしか、ピュスティアの家であったはずだ。  ハサンが、イブラヒムに対して、そう言ったのである。  シナンもまた、今、眼の前にいるイブラヒムに対して、危さを感じていたのである。  シナンが知っているこれまでのイブラヒムとは、微妙に違っているような気がした。 �誰にでも秘密がある�  イブラヒムのその言葉が、シナンには、 �自分には秘密がある�  はっきりそう言っているような気がした。  以前のイブラヒムは、イェニチェリに対して、このようなことを口にする人物ではなかったはずだ。どのような弱みも、見せなかったはずだ。だが、今、眼の前にいるイブラヒムは、そうではなかった。  シナンの知っているこれまでのイブラヒムであればこのようなことは言わない。  もし、仮に言ったとしても、今、自分が感じているようなことを、相手には感じさせなかったはずだ。  イブラヒムが弱みを見せた——これが、仮に、いままでのイブラヒムであれば、同じ言葉であっても、このような危うさは感じさせなかったはずだ。  イブラヒムが持っている、相手を圧倒するような威光《いこう》——それが今は感じられないのである。 「シナン……」  イブラヒムは言った。 「はい」 「おまえは、アロイシ・グリッティの死については、すでに聴きおよんでいよう」 「はい」  シナンはうなずいた。 「死なせたくはなかった……」  イブラヒムは、シナンに向けていた眼を伏せた。 「わたしは、何度かスレイマン様に、ハンガリーに兵を送るよう進言したのだが……」  スレイマンは、イブラヒムの言葉に耳を貸さなかったのである。  ハンガリーなど、いつでも取り返すことができる——ロクセラーヌのその言葉の方が、スレイマンにとっては重かったのである。 「この間には、幾つもの大事が重なった。スレイマン様の母ぎみがおなくなりになられたのも、しばらく前のことだ。スレイマン様のお気も弱くなろうというものだ——」  イブラヒムは、自分に言い聴かせるように言った。  シナンの脳裏に浮かんだのは、アロイシ・グリッティの父、アンドレア・グリッティのことであった。  アンドレア・グリッティとは、彼の自室で、ふたりきりで会ったことがある。そこで、アンドレア・グリッティは、自分にアロイシからの手紙を見せてくれた。  老いた獅子——  アンドレア・グリッティは、いったいどこで、息子の死の知らせを聴いたのであろうか。  あの暗い、ランプの灯りの点った部屋であろうか。  あの時、ランプの炎は、アンドレア・グリッティの顔の皺を、深く浮き立たせていた。その皺の間までは、ランプの灯りは届かなかった。 �ロクセラーヌがいなければ——�  イブラヒムは、その言葉は、さすがにシナンの前では口にしなかった。 「シナン……」  イブラヒムは、再び、シナンを見つめた。 「明日は、今日、わたしに言ったのと同じことを、スレイマン様に言うがよい」 「はい」 「翌朝、ハサンがむかえにゆく」  その言葉は、もう退がってよいという合図のようなものであった。 「承知いたしました」  シナンは、片膝をつき、イブラヒムに挨拶をしてから、その場を辞した。       4  翌朝、シナンは、イブラヒムに言ったのと同じことを、スレイマンに言った。 「まことか」  スレイマンは言った。 「はい」  シナンはうなずいた。 「もしできねば、そなたの首は胴からはなれることになるぞ」 「二〇日後、わたしの首は、まだ胴についているでしょう。わたしの耳は、スレイマン様の悦びの声を聴くことができるでしょう。何故なら、二〇日後の朝には、ヴァン湖に、スレイマン様の望む三艘の船が浮いているからでございます」  シナンは、気負いもなく、静かな声でそう言った。       5  その通りとなった。  シナンは、自分の言ったことを、実行したのである。       6  オスマン軍は、ヴァン湖での闘いに勝利した。  きっかけは、シナンが二〇日で建造した三艘の船である。  戦船——ガレー船だ。  幾人もの漕《こ》ぎ手が左右の舷側《げんそく》に乗り込んで、手で櫂《かい》を漕ぐ。  ただし、どのような飾りも、シナンの船にはない。シンプルな船だ。  きっちり二〇日後の早朝に、三艘の船はヴァン湖の水面に浮かんでいた。  飾りを捨てた、実用だけのフォルムを持った船であった。 「美しい」  それを見て、スレイマンは溜め息をついた。 「シナン」  スレイマンは言った。 「おまえの船が、我々に勝利をもたらすことになろう」  オスマン軍の負けはなかったとしても、勝利の大きな要因となったのが、この三艘の船であった。  勝利の後、シナンは、スレイマンから、その豪華な天幕に呼ばれている。  そこには、イブラヒムがいて、四人のパシャ、そして、イスケンデル・チェレビーがいた。  天幕の外に控えている者たちのなかには、ここまでシナンを連れてきたハサンもいる。 「よくやった、シナン」  スルタン・スレイマンが、じきじきに声をかけた。 「おまえの船がもたらした勝利だ」 「いいえ」  シナンは、首を左右に振った。 「わたしは、ただ命ぜられた仕事をこなしただけでございます」 「二〇日で三艘の船を造ることができると言ったのは、おまえだ。そしておまえは、その通りに船を造った——」  スレイマンは、シナンを見やり、 「しかし、造るのが早かったというだけではない。おまえの造った船は美しかった」 「それは、野を走る獣の姿が美しいのと同じでございます」 「ほう」 「走る鹿の姿が美しいのは、走るという目的のために鹿の脚ができあがっているからでございます」 「——」 「あの船に乗っているのは、機能という名の神でございます」  シナンは、だいたんな発言をした。  イスラムにとって、神はひとりである。  神と言えば、アッラーのことであり、唯一であり無二の存在である。  たとえ、比喩であれ、アッラー以外のものを、シナンは神と呼んだことになる。  しかし、スレイマンは、シナンに寛大であった。 「ほほう」  スレイマンは、興味深げにシナンを見やり、 「ジャーミーもそうか」  そう言った。 「はい」  シナンは、迷うことなくうなずいた。 「完全なるジャーミーには、神そのものが宿るとおまえは言っているのだな」 「神は、全《まった》き御方にておわしますれば、全きジャーミーには、全き神がそこにおわすことになるでしょう」 「二十二年前を、覚えているか」 「覚えております」 「イブラヒムから聴いた。あの時、聖《アヤ》ソフィアでおまえと会った……」 「はい」 「おまえは、あの時、自分が何と言ったかも覚えているか」 「はい」  シナンは、またうなずいた。  忘れることはない。  聖《アヤ》ソフィアであったことは、いつのことでも、どんなことでもよく覚えている。あの時——  自分はまだイスタンブールに来たばかりだった。  二十四歳。  スレイマンは十七歳ではなかったか。 �何か見えるのですか�  聖《アヤ》ソフィアにいたシナンに、声をかけてきた少年がいた。  憂いを含んだ口元——細い身体をした長身の少年。  それが、スレイマンであった。 �神が……�  シナンはそう答えている。 �どこに?� �ここに�  いるがしかし、 �ここにいる神は、どうも不完全なのです�  シナンは少年にそう言った。 �神とは、全きもの、完全なものです。その神が不完全であるとは——�  少年のスレイマンは、そのように問うてきたはずであった。 �いえ、神が不完全なのではありません�  シナンは、言った。 �この聖《アヤ》ソフィアが、神を入れるための器であるなら、その器として、この聖《アヤ》ソフィアは不完全なものではないかということです�  不完全なものには、不完全なものが宿る——シナンはそう思っていた。  これが完全なものであれば、そこには完全な神が宿るであろう。  いったい、何故に、あの偉大な奇跡の建造物を、自分は不完全なものと思ったのであろうか。  それは、ヴェネツィアで、サン・マルコ寺院を見た時にも感じたことであった。  あそこにあったものは、素晴らしいものばかりであった。  人の手と意志がなしうる最良のものがあそこにはあった。  だが、何か、もの足りなかった。  それは、何か。  いや、考えるまでもない。  自分にはもう、それが何であるかわかっているはずであった。あとはただ、すでにわかっていることが何であるかに気づくだけでいいのだ。  自分はもう、答を得ている。  あとはそれに気づくだけだ。  気づきそうで気づかない。もどかしいものが、自分の体内を駆けめぐっている。 �仕事をしなさい�  と、ミケランジェロは言った。 �仕事がおまえを救うだろう�  と。  あの時、聖《アヤ》ソフィアで、スレイマンは、遅れてやってきたイブラヒムに、このように言った。 �こちらのお方が、我らイスラムのために、この聖《アヤ》ソフィアより偉大なジャーミーを建ててくれるそうだ� 「覚えております」  シナンは、天幕の中で、スレイマンに向かってそう答えた。 「おまえは、わたしに、あの聖《アヤ》ソフィアより大きなジャーミーを造ってくれると言ったのだったな」 「申しあげました」 「早いものだ。あれからもう、二十二年が過ぎているとはな……」  スレイマンは、過去をなつかしむように言った。 「はい」 「どうだ、できそうか」  スレイマンは言った。 「何がでございますか」 「今ここで、わたしが命じたら、おまえはどのくらいで、約束のジャーミーを造ることができる?」 「聖《アヤ》ソフィアより大きなジャーミーでございますか」 「そうだ」 「今、ここでということであれば、無理と答えるしか、術《すべ》はありません」 「いつならばよい」 「わかりません」 「わからぬ?」 「わたしは、まだ一度も、ジャーミーを作ったことがございません。その後でなら——」 「答えられるというのか」 「はい」  答えたシナンに向かって、スレイマンは小さく笑ってみせた。 「不思議な男だなあ、シナン——」 「——」 「おまえと話をしていると、一千年の時を経て、我がイスラムが、本当に聖《アヤ》ソフィアよりも巨大なジャーミーを造り出すことができるような気になってくる——」 「できます」  シナンはきっぱりと言った。 「わたしは、老いた……」 「——」 「おまえより、七歳も若いというのに、わたしはもうぼろぼろになった雑巾のようだ……」  両手を持ちあげ、スルタン・スレイマンは自らの両手をしみじみと見た。 「シナン。此度《こたび》は、おまえのおかげで、戦に勝つことができた」 「スレイマン様の御威光です」 「いずれ、おまえには、ジャーミーを作る機会がめぐってこよう」 「——」 「このスレイマンが、その機会をいずれ作ろう。わたしの生命《いのち》と、そなたの生命がその時まであればな」 「はい」  シナンは、うなずいた。  こうして、この会見は終ったのである。       7  結局、スレイマンは、その年のうちにバグダードを落とした。  そして、オスマンが手に入れたばかりのバグダードで、ひとりの人間が処刑されることとなった。  バグダードの市中で絞首されたのは、財務長官のイスケンデル・チェレビーであった。  イスケンデル・チェレビーは、イブラヒムから告発されたのである。  バグダードが落ちてから二日後、イブラヒムがスレイマンに次のように言ったのである。 「我らの中に、裏切り者がいます」  刺激的な言葉であった。 「その裏切り者は、我らを騙し、サファヴィー朝に通じており、この冬にバグダードまで攻めのぼる機会を持ちながら、彼の意見でそれが取りやめとなり、途中で冬を越すこととなってしまいました」  イブラヒムは言った。 「その人物は、かつて、このわたしの生命まで亡きものとしようといたしました」 「何者だ、その人物とは?」  スレイマンが訊ねた。 「イスケンデル・チェレビーでございます」  この言葉によって、イスケンデルは処刑されることとなったのである。  イスケンデルも、ただ黙って処刑を待っていたわけではない。 「裏切り者は、わたしではありません。イブラヒムこそ、裏切り者で、サファヴィー朝と通じておりました」  逆に、イブラヒムを告発したのである。 「イブラヒムは、ムスリムではありません。いまだに、イブラヒムはキリスト教徒なのです」  とんでもないことまで言い出した。 「イブラヒムが、モハチのおりに、偶像を持ち帰ったのは、あの男がキリスト教徒であったからです。イブラヒムは、時おり、夜にアロイシ様のもとまで出かけてゆき、そこで——」  と、イスケンデルは言葉を切り、 「そこでイブラヒムは、キリスト教の神に祈っていたのです」  それを、これまで黙っていたのは、はっきりとした確証がなかったからであると、イスケンデル・チェレビーは言った。  イブラヒムに対するスレイマンの信は絶大であり、確証もなくそのようなことを口にすれば、たちまち自分は死をたまわることになってしまうでしょうと——  だが、今、死をたまわる身となったからには、おそれるものは何もない——このようにイスケンデルは言った。 「イブラヒムが信仰しているのは、我らの神ではありません」  イスケンデルは、かつて、イブラヒムがエジプトに遠征したおりにも、財務官として共に彼《か》の地に赴いている。  少なくとも、その頃は、表面上はふたりはうまくいっているように見えた。  それが、今、どうしてこのようなことになってしまったのか。 「イブラヒムが信仰しているのは、キリスト教の神であり、であるからこそ、モハチのおりに、偶像を自分の屋敷に運んだりしたのです」  しかし、この告発を、スレイマンは聴こえぬふりをした。  少なくとも、勝利を目前にしていながら、冬に彼の地にとどまるように言ったのはイスケンデルであるのはわかっていたからだ。  偶像を家に持ち込んだと言っても、それはキリスト教の神ではなく、アポロンやアテナのギリシアの神の像である。 「イブラヒムとアロイシが繋がっていたのは、そこなのです。イブラヒムがキリスト教の神を信仰しているからこそ、アロイシはこの男とくっついたのです。その弱みも握っていたのです。イブラヒムは、あのように執拗にアロイシのハンガリーに援軍をさしむけるよう、何度も言ったのです」  イスケンデルは、言うだけのことを言った。  そして、その後、バグダードで処刑されたのであった。  この時、イブラヒムを救ったのはシナンであったと言っていい。  シナンが建造した船があったからこそ、ヴァン湖での勝利があったのである。ヴァン湖での勝利があったからこそ、バグダードをオスマン軍が手に入れることができたのである。  それもこれも、イブラヒムがシナンに船を建造させることをスレイマンに進言したからであった。  スレイマンといえども、ここで、イブラヒムにはどういう罰も与えられない。  そうして、イブラヒムは、告発があったにもかかわらず、無事にイスタンブールにもどることができたのであった。  そこでイブラヒムを待っていたのは、最大の敵であるロクセラーヌであった。 [#改ページ]  第15章  蜜月の終り [#ここから5字下げ] 王者よ、真理を語る人々の王よ、 卑怯者だとこのわしを思わば思え。 生者と共に生き、死者と共に死ぬ、 これぞこの、わしという男 ——ジェラール・ッ・ディーン・ルーミー [#ここで字下げ終わり]       1  大宰相イブラヒムの死について、史書は多くのことを伝えていない。  宮廷史家も、これについて書き残していることはわずかである。  わかっているのは、イブラヒムの死体が発見されたのが、一五三六年三月十五日の朝だということである。  場所は、トプカプ宮殿の、スルタンの居室に近い、イブラヒム自身の寝室であった。  だいぶ後になってのことだが、その死体の着衣が乱れて引き裂かれていたことや、壁に血痕——血の手形が残っていたことなどがわかった。  これは、つまり、その死にあたって、イブラヒムが抵抗したことを意味する。  病死や自殺ではなかったということだ。  イブラヒムは、誰かによって殺されたのである。  その死体は、造船廠《ぞうせんしょう》の背後のジャーンフェダーのデルヴィシュ(スーフィー教団員)たちの墓地に埋葬された。  しかし、その場所には墓碑ひとつ建てられることはなかった。  それにしても、イブラヒムの死については、それまでの彼の実績や、オスマン帝国で果たした役割の大きさから考えて、情報が少なすぎる。  何故か?  それは、イブラヒムの死の真相が意図的に隠蔽《いんぺい》されたということだ。  これらが何を意味するかは明白である。  誰がイブラヒムを殺したにしろ、それは、スルタン・スレイマンの意にかなっていたということだ。  その隠蔽を図ったのは、誰か。  大宰相の死の真相を隠蔽できる人物と言えば、大宰相より位が上の人物しかいない。そして、大宰相より位が上の人物と言えば、オスマンにはただひとりしか存在しない。  そのひとりというのは、もちろん、スルタン・スレイマンのことである。  スレイマン自身が、イブラヒムの死の真相を隠そうとしたのである。       2  最初に人々に知らされたのは、イブラヒムの死という事実のみであった。  死体が発見されたのが、三月十五日の朝——つまり、イブラヒムは三月十四日の夜に殺されたことになる。断食月《ラマダン》の夜である。  病死とも、自殺とも、他殺とも、その知らせは伝えなかった。ただ、イブラヒムの死のみが知らされた。  そして、それだけであった。  大きな葬儀も執り行われることなく、墓には碑さえ建てられなかった。  この知らせは、イスタンブールのみならず、世界中を震撼《しんかん》させた。 「ロクセラーヌが、大宰相を殺させたのであろう」  との噂が、都には流れた。 「いや、ロクセラーヌの意志だけではあるまい。これはスルタンの意志でもあろう」  そうも言われた。  ロクセラーヌには、イブラヒムを亡きものにせねばならない理由がある。  それは、保身のためだ。  イブラヒムは、ずっと、マニサに行ったムスタファと通じていた。贈りものを届けたり、都の情報はその都度手紙で書き送っていた。  マニサに追いやったとはいえ、いまだにムスタファは次のスルタン候補の筆頭であり、スレイマンが死ねば自然に次のスルタンはムスタファになる。  そうなれば、オスマンの悪しき伝統である王位継承時の�兄弟殺し�がまた行われることになる。  ロクセラーヌは、ムスタファの母ではない。  もしもムスタファがスルタンとなれば、これまでのいきさつからして、まず、自分と息子たちの生命はないものと思わねばならない。  それは、誰でもが知っていることだ。  そのムスタファの一番強い味方が、イブラヒムであった。  イブラヒムにしてみれば、自分は自分で、保身の策を考え、手を打っておかねばならない。スルタン・スレイマンが自分より先に死ぬ場合を考えて、後継者であるムスタファにはとり入っておく必要があった。  すでに、ロクセラーヌの長子のメフメットは病でこの世を去っている。  ロクセラーヌにしてみれば、息子セリムを次のスルタンとして擁立《ようりつ》するのに、一番邪魔な相手がイブラヒムであった。  だからといって、ロクセラーヌ自身の意志だけで、イブラヒムを暗殺できるものではない。イブラヒムは、そこまで権力の階段を昇りつめている。事前に必ずスレイマンの同意が必要であった。  つまり、イブラヒムの死について、スルタンは同意していたことになる。  誰もが、それを知っていた。  だが、それを表立って言う者はいない。  イブラヒムが死んだ——このことで騒ぐ者がいるとすれば、マニサのムスタファだけであるが、ムスタファもまた沈黙を守った。  もしもここで、イブラヒムを擁護するようなことをすれば、それは父スレイマンの意志に反するからである。  たとえ、イブラヒムが死のうと、自分が次のスルタンの最有力候補である事実は動かない。  今ここで事を荒立てる必要はなかった。  しかし——  シナンは、ハサンのことを考えていた。  ハサンはどうしているのか。  常にハサンは、イブラヒムと共にいた。  ハサンが家に帰るのは、イブラヒムが自分の屋敷にもどった時だけである。  そこに自分専用の部屋があるにしろ、トプカプ宮は、イブラヒムにとっては外出先である。  おそらくハサンはイブラヒムと共にあったはずだ。  同じ部屋でイブラヒムと寝ることはないにしても、イブラヒムと共にトプカプ宮にはいたはずである。  もし、イブラヒムの部屋の前で彼を守っていたとすれば、イブラヒムと共に殺されてしまったのか。  だが、そのような噂は流れてはこない  イブラヒムの、スルタンに次ぐ財産の全ては没収され、それはスレイマンのものとなった。  ハサンは?  イブラヒムの死を知ってから三日後、シナンは、ガラタ橋を渡ってピュスティアの住む屋敷まで出かけている。  しかし、そこには、もう誰も住んでいなかった。  ピュスティア本人も、子供も、召使いの姿もなかった。  いったい、何があったのか。 「おれに何かあったら、ピュスティアを頼む」  ハサンはそう言っていた。  だが、ハサンに何があったかはわからず、ピュスティアの行方も知れない。  そうして、イブラヒムの死から十日が過ぎた。       3  夜——  シナンは、道を歩いていた。  ザーティーの店から出てきたばかりである。  独り。  街の、あちこちの家には灯が点っている。  むこうに聖《アヤ》ソフィアのドームが見える場所まで来た時—— 「シナン……」  低い声で名を呼ばれた。  シナンは、足を止めて、声のした方に顔を向けた。  煉瓦塀で左右を挟まれた路地が見えた。 「シナン、おれだ」  その路地の暗がりからまた声がした。  その時には、もう、シナンにはその声の主が誰であるかわかっていた。 「ハサン……」  シナンは、路地の暗がりの中に足を踏み入れた。  腕をつかまれ、奥に引き込まれた。 「ハサン」 「しっ」  ハサンが、シナンの口に手をあてた。  そっと顔を出し、シナンが歩いていた通りの様子をうかがった。 「大丈夫だ。誰もいない——」  ハサンは、自分に言い聴かせるように言った。  ハサンは、シナンの腕を引いて、路地の奥へと連れていった。 「どうしたのだ、ハサン」  ようやく立ち止まった時、シナンはハサンに問うた。 「頼みがあるのさ」  ハサンは言った。 「頼み?」 「ああ。おまえの顔も見ておきたかったしな——」 「どういうことだ?」 「ずらかるのさ」  ハサンは言った。  闇の中で、ハサンの眼が光っている。  ハサンの身体からは、獣のような臭いがしていた。  この男が、こういう臭いをさせているのは久しぶりであった。 「イブラヒム様の件か」 「そうだ」 「何があった?」 「おれが殺した」 「なに!?」 「おれが、イブラヒムを殺したのだ」  ハサンは言った。 「おそらく、おれの屋敷だけでなく、ザーティーの店も、おまえの家も、誰か見張りがついているはずだ」 「見張り?」 「金を貸してくれ。いや、おそらく返す機会はないかもしれんから、金をくれ」  シナンは、懐に手を入れ、袋を取り出した。  それを、ハサンの手に乗せた。  重い。 「今持っている全部だ」 「助かる」 「足りなければ、家に戻ればある」 「そんな時間はないだろう」 「追われてるのか」 「ああ」 「いったい何があったのだ」  シナンは訊いた。  ハサンは、闇の中でシナンを見つめ、 「それをここで話しておく時間くらいは、あるだろう」  押し殺した声でそう言った。       4  その宦官《かんがん》が、ハサンのもとへやってきたのは、イブラヒムがスレイマンとただふたりきりの食事をしている時——つまり、イフタール(断食月の間の日が沈んで最初の食事)の最中であった。  すぐに、ロクセラーヌ付きの宦官とわかった。  その使者を、ハサンは五分ほど待たせた。  五分ほど待たせてから、ハサンはその使者と共に部屋を出た。  同じ、トプカプ宮の中である。  その使者は、ハサンをトプカプ宮の奥へと案内した。  これまで、一度も来たことのない場所。  ——これは、後宮《ハレム》ではないか。  ハサンの首筋の毛が、ぞくりと逆立った。  男が、入るのを禁じられている場所だ。  入ってもよい男は、スルタンと、男でなくなった男——つまり、宦官のみである。いや、宦官ですら、誰でも入っていい場所ではない。  その部屋には、分厚く絹の絨毯《じゅうたん》が敷きつめられていた。  ヴェネツィアングラスのランプが幾つも点っていた。  ビロードの肘掛け椅子があり、そこにひとりの女が座っていた。  女の前の暖炉には、赤々と火が燃えていた。  金糸銀糸の刺繍《ししゅう》の入ったガウンを掛け、ヤシュマクで顔を隠してはいるが、ハサンにはすぐに、その女が誰であるかわかった。  ヒュッレム——  スルタンの妻、ロクセラーヌであった。  女が合図をすると、案内した宦官はすぐに部屋から出て行った。  いったい、何が起こっているのか。  喉がからからに乾いていた。  もしも、見つかったら、生命はない。  剣が欲しかった。  あったとしても、その剣で身を守ることのできる場所ではない。  眼の前の女がひと声かければ、たちまち人が集まってきて、自分は殺されてしまうだろう。  剣があれば、もう少し、落ちつくことができる。  オスマンでは二番目の権力者であるイブラヒムと会った時でさえ、これほどに緊張はしなかった。  しかし——  すでに、腰の剣は、後宮《ハレム》の手前で案内の宦官に手渡している。 「わたしが誰だかわかりますね」  女は言った。 「はい——」  ハサンはうなずき、その名を口にしようとした。  それを、女が遮《さえぎ》った。 「わたしの名前を口にしてはいけません」  女は言った。 「ハサン……」  女は、静かにハサンの名を口にした。 「はい」  ハサンの声はかすれていた。  自分が、どうしてここに呼ばれたか、それが何の用であるかわかっていたからだ。  それ以外の用事で、この女が自分を呼ぶわけはない。  それは、あの宦官が来た時から、わかっていた。 「あるお方がお呼びです」  宦官が、ハサンにそう告げた時に、わかったのだ。  だから、あの宦官を五分待たせたのだ。  このところ、ハサンの神経は張りつめていた。  どのような小さな情報も噂も聞き逃《のが》さないようにしてきた。  頭を素早く回転させてきた。  宦官がやってきて、ハサンに声をかけた時、ハサンが考えた時間は、二秒に満たなかった。  いや、用件については、一秒もかからずに理解していた。  何故、おれが——  残りの一秒で考えたのはそのことであった。  しかし、それもすぐに呑み込めた。  ただ、 �ここまでか�  そう理解するまでに、十秒ほどかかった。  ここまでか。  その思いを、ハサンは呑み込んだ。  これまで、生き残るために、必死で考えてきたのだ。  イブラヒムが危《あやう》くなってきてからは、そのことのみを考えてきた。  だから、このロクセラーヌが何を考えているのかわかったのだ。  この女もまた、生き残るために、そのことのみをずっと考えてきたに違いない。このオスマン帝国の宮中で、どうやれば自分が生きのびることができるか。  この女も自分と同類なのだ。  だから、この女の考えていることがわかるのだ。  すでに、覚悟は決めている。 「あなたは、聡《さと》い方です」  ロクセラーヌは言った。 「その顔は、もう、私の用件がわかっているようですね」 「はい」  ハサンはうなずいた。  ロクセラーヌは、ヤシュマクのむこうで、小さく微笑したようであった。 「あなたも、私の返事がひとつしかないことを、わかっておいでのはずです」  ハサンは言った。  ロクセラーヌは、沈黙した。  そして—— 「やはり、おまえはわたしの思った通りの男です」  満足そうにそう言った。  あなたとハサンのことを呼んでいたのが、おまえになっている。 「おまえは、何にも、忠誠を尽くさない。オスマンにも、そして、おまえの主人にも……」 「——」 「おまえについては、この二年余り、気をつけて見てきました。おまえが忠誠を尽くすのは、利に対してです」  ハサンは、ヤシュマクのむこうにあるロクセラーヌの眼と、しばらく見つめ合った。  やがて—— 「今夜ですか」  低い、乾いた声でハサンは訊いた。 「そうです」  ロクセラーヌはうなずき、 「わたしは、おまえに何も頼んではいません。命じてもいません」 「はい」 「しかし、おまえは、おまえが今夜やるべきことをわかっている」 「はい」  ハサンはうなずいた。  その通りであった。  ハサンは、自分が何をなすべきかをよく理解していた。 「では、おまえは、それをここで口にしなさい。今夜、おまえが何をせねばならないのかを口にしなさい」  ロクセラーヌには勝てない。  自分は、それをひと言も口にせずに、ハサンにそれをさせようと言うのだ。  しかたがない。  すでに胆《はら》は決まっていた。 「今夜、わたしは、イブラヒム様を亡きものにいたします」  ハサンは言った。  ロクセラーヌはうなずかなかった。  ただ、満足気な溜め息を、ヤシュマクの向こうであげただけだ。  イブラヒムを殺す——  暗殺するのに、ロクセラーヌは今日という日を選んだ。  その暗殺をここで頼まれたら、自分はもうそれを断わることはできない。  断わったら、すぐにこの場で殺されてしまうだろう。  ハレムの中だ。  どういう言いわけも通じない。  口にこそしないが、ロクセラーヌはハサンにイブラヒムの暗殺を命じたのである。  ここで、いったん返事をしておいて、イブラヒムにすぐにそれを告げたら?  もしも、これが、ロクセラーヌだけの意志ならば、あるいは生命は助かるかもしれない。  だが、そんなことはあり得ない。  イブラヒムの死は、スルタンの意思でもあるのだ。  そうであれば、自分とイブラヒムは、間違いなくここを生きて出ることはできないであろう。  それを、それだけを確認しておかねばならない。 「これは、スルタンの御意思でもあるのですか——」  ハサンは訊いた。 「そう訊ねてくると思ったわ」  ロクセラーヌは、手を三度叩いた。 「お呼びでしょうか」  さっきの宦官が入ってきた。  ロクセラーヌは、自分の指に嵌《は》めていたダイヤの指輪をはずし、 「これを、お食事中のスレイマン様にお渡ししてきて——」  そう言った。  宦官は、うやうやしくその指輪をおしいただき、部屋を出ていった。  ほどなく、無言でそこに姿を現わしたのは、イブラヒムと食事中のはずの、スレイマンその人であった。  ただ独り——  ロクセラーヌが立ちあがった。  ハサンは、床に片膝を突いた。 「予《よ》は、ここへきて、おまえに顔を見せた。それが答じゃ」  スレイマンは、低い声でそう言った。  すぐに姿を消した。 �予が意思じゃ�  口にせずに、スレイマンは、それをハサンに告げたことになる。  ハサンは、胆をくくった。       5  震えた。  膝が震えた。  覚悟は決めていたが、いざ、部屋に入る直前になって、ハサンはその身を震わせた。  腰に下げていた剣が、小さく音をたてた。  鞘《さや》の上から、剣を左手で押さえた。  静かに呼吸を整えた。  こちらには、三人いる。  ハサンと、そして、聾唖の宦官がふたり。  ロクセラーヌから、あてがわれた人間だ。  闇の中で、ハサンは、ゆっくりと息を吸い込み、そして、ゆっくりと吐いた。  胸が、大きく上下する。  このふたりの宦官は、ハサンに対する見張りの役でもある。  それを、ハサンはよく承知していた。  ふたりは、手伝いはするが、直接手を下すのはハサンの役であった。  イブラヒムが、最も信頼している部下がハサンであった。  そのハサンが、イブラヒムを手にかける。  どうしてこういうことになってしまったのか。  考えても始まらない。  ともかく、自分は今生きている。生きているというその状況の中で、生きのびるための最善のことをする。  それが、今、イブラヒムを殺すことなのだ。  他にできることはない。  イブラヒムを殺したからといって、自分が生きのびられるとは限らない。  ロクセラーヌかスレイマンが、真相を知る者を、このまま生かしておくだろうか。  可能性は低い。  低いが、ロクセラーヌの意にさからえば、確実な死があるだけだ。話を断っていたら、今も、こうして息をしていることはないだろう。いずれ、殺されるにしても、少しでも長く生命のある方を選べば、生きのびる機会もあるかもしれない。  歯が鳴った。  いいかげんにしろ。  これしかないのだ。  呼吸を整えながら、ハサンは自分に言い聞かせた。  これしかない。  他に選択肢はない。  それを、何度言い聞かせても、呼吸は楽にならなかった。 「血を流さぬよう」  事の前に、ロクセラーヌは言った。ロクセラーヌは、絹の紐《ひも》をハサンに渡し、 「これで首を——」  囁くように言った。 「これも、スレイマンさまの御意思でございますか」  ハサンは訊いた。  ロクセラーヌは答えなかった。 「行きなさい」  それだけを言った。  その絹の紐を、ハサンは今、懐に忍ばせている。  おそらく、これは、スレイマンの意思であろう——ハサンはそう思っている。  仮にも、長い間、深いつきあいをしてきた相手だ。  どのような身内よりも、心を許し合っていた時期もあったろう。臣下であるイブラヒムはともかく、スルタンは、心を許した時期があったはずだ。  だからこそ——  だからこそ、このような日がやってくることになったのだ。  その肉体を傷つけない。  その血を流させない。  それが、イブラヒムを殺すにあたって、スルタンがロクセラーヌに対して示した条件であったのだろう。  ハサンは、息を吸い込み、腹をくくった。 「行くぞ——」  低い声で言い、宦官ふたりの背を叩いて合図した。  宦官のひとりが、扉に掌をあて、押した。  ゆっくりと、扉が内側に向かって開いていった。  暗い。  奥に、イブラヒムが眠っている寝台があるはずであった。  せめて——  せめて暗いことが、ハサンにとっての救いであった。  誰かが自分を殺しに来たのがわかったにしても、それが誰であるかイブラヒムにはわからぬであろうからだ。  その時——  ハサンは、首筋のあたりに、異様な気配を感じていた。  その時、ハサンの生命を救ったのは、これまで何度も戦場で死線をくぐってきたその経験であった。  首をすくめ、おもいきり上半身を前に倒していた。  頭のすぐ上を、剣風が横に薙《な》いでいった。 「おぐっ」  ハサンの頭をかすめていった剣が、後ろにいた宦官の頬をえぐったのである。  その時には、ハサンは全て理解していた。  わかっていたのだ。  イブラヒムには、今夜、何がおこるかわかっていたのだ。  今夜、何故、久しぶりにスルタンが自分を食事に誘ったのか。  考えればわかることだ。  ハサンが気づいたことなら、イブラヒムもわかる。  イブラヒムが生き残る唯一の方法は、騒がぬことだ。  騒がず、誰にも知られぬよう、部屋にやってきた刺客を全て殺す。  生かしてはおかない。  生かしておいたのなら、 �誰が命じたのか�  イブラヒムがそれを問い、答を聴きだしていたことになってしまうからだ。  これでは、スレイマンの立場がない。  たとえ刺客が何人いようとも、その全てを殺し、 「賊が忍び込んできましたので、殺しました」  このように言うしかないのだ。  そうすれば、スレイマンも、イブラヒムを殺すのを思いとどまるやもしれないからだ。  その可能性は低い。  低いがしかし、それしか方法がない。  それが、イブラヒムの出した結論であった。  さすがは——  ハサンは舌を巻いた。  ハサンは、嬉しかった。  さすがはイブラヒム。  これまで、ロクセラーヌに対して後手にまわっていたが、最後の土壇場になって、イブラヒムらしさを見せた。  しかし、その思いも一瞬だった。  無意識のうちに、ハサンの身体が反応していた。  頭を下げながら、腰の剣を引き抜き、横ざまに右側の空間に突き出していた。  手応えがあった。  人の肉の中に、剣が潜り込む感触があった。  床に、イブラヒムの握っていた剣の落ちる音がした。  ハサンは、剣を引こうとした。  しかし、剣は動かなかった。  イブラヒムが、自分の腹に潜り込んできた剣の刃を、両手で握ったからだとわかった。 「ハサンだな……」  イブラヒムが言った。  わかっていたのか。  そうか。  イブラヒムにはわかっていたのだ。誰が、この役をすることになるかを。  答えるかわりに、ハサンは、ねじるように剣を逆に押し込んだ。  くぐもった呻《うめ》き声が、闇の中に響いた。  ぱらぱらと、床に何かが落ちる音がした。  刃を握っていたイブラヒムの指だ。  剣が抜けた。  イブラヒムが、後方に倒れ、その身体が壁にぶつかる音がした。  頬に傷を負った宦官と、もうひとりの宦官が、イブラヒムに向かって飛びかかっていた。闇の中だ。  剣の落ちる気配があったので、それをたよりに組みついたのである。  争うような音は、一瞬であった。  すぐに静かになり、あとは、荒い呼吸音と、床に落ちる液体の音がするばかりであった。ハサンは、闇の中で灯明台の位置を捜しあて、剣を鞘に収めて灯を点けた。  イブラヒムがいた。  ふたりの宦官に、左右から両腕を押さえられ、背を壁に押しつけられていた。  イブラヒムは、倒れるのを拒むように、自ら壁に背をあずけているようにも見えた。  イブラヒムの着ている着衣の右の脇腹あたりが、血で赤く染まっていた。  ハサンは、イブラヒムを見た。  イブラヒムもまた、荒い呼吸に、胸を上下させながらハサンを見ていた。  ハサンは、動けなかった。  口を開こうとしたが、言葉が出てこなかった。  先に、言葉を発したのは、イブラヒムであった。 「すまんな、ハサン……」  言ったその唇から、血がこぼれ出てきた。 「このイブラヒムも、ここまでだったということだ」  ハサンは、イブラヒムを見つめていた。  言葉が出てこない。 「おまえは、おまえのするべきことをするがよい」  お許しを……  ハサンは、そう言おうとしたが、やはり言葉は出てこなかった。  ハサンは、イブラヒムに向かって歩いた。  その前で立ち止まった。 「わたしはこれまで、多くの生命を奪ってきた。今夜は、自分の番がきたということだ」  ハサンは、懐から、ロクセラーヌから渡された絹の赤い紐を取り出した。 「ハサンよ、わがスルタン、わが友、スレイマンさまにお伝え申しあげてくれ。わが生涯、楽しゅうござりましたとな」 「必ず……」  ようやく、ハサンは声に出してうなずいた。 「人の生命はつかの間ぞ……」  イブラヒムは、独り言のように言った。  ハサンは、ゆっくりと、イブラヒムの首に絹の紐を巻きつけた。  ハサンの眼から、涙が溢れていた。 「生きよ、ハサン」  ハサンが、紐の両端を握った手に力を込めた時—— �アーメン……�  イブラヒムの唇が動いた。  しかし、それは、声にならなかった。       6 「そういうことだったのか」  シナンは、うなずいた。 �アーメン�  イブラヒムも、そして、ハサンもキリスト教徒であったのだ。 「ああ——」  ハサンはうなずいた。  これでわかる。  イブラヒムをハサンと助けた晩、イブラヒムはアロイシの家から帰るところだったのだ。キリストに祈っての帰り——そこで、イスケンデルの放った刺客に襲われたのだ。  アンドレア・グリッティへの手紙で、誰かの名前が消されていたが、それが誰であったか、今はわかる。  ○○○○○——イブラヒムの名が、あの手紙から消されていたのだ。  アンドレア・グリッティが、シナンに見せる前に消したのだ。  そうか、そうだったのか。  路地の奥であった。  ハサンの声は、極度の緊張のためか、ざらついていた。  喉や口の中が、何度、唾を飲み込んでも乾いてしまうらしい。 「逃げているのか、今——」 「ああ」  ハサンは、言いながら、路地の向こうへ視線をやった。 「おれの生命が狙われるのは、確実であったからな」 「どうやって逃げた?」 「奴らを油断させた」 「どうやって?」 「策をつかった」 「どのような」 「手強《てごわ》いのは、ロクセラーヌだけだ。その意味では、スルタンはまだなんとかなる」 「——」 「おれは、こう考えた。スルタン・スレイマンは、イブラヒムの最期の様子を、必ずおれの口から聴こうとするであろうとな」  ハサンと一緒にイブラヒム暗殺に加わったのは、ふたりの宦官であった。  ふたりとも、唖者である。  舌を切られていて、しゃべることができない。  必ず、ハサン自身が、誰かにそれを語ることになる。  イブラヒムがいない以上、それは、ロクセラーヌか、スレイマンが、直接聴くべきことであった。 「だから、それを報告するまでは、おれの生命はあるということさ」 「なるほど」  頭のまわる男であった。 「最初はロクセラーヌが来た」  宮殿内の一室に、体《てい》よくハサンは独りで閉じ込められた。  武器は全て、取りあげられた。  やってきたロクセラーヌに、ハサンは、あらましのことを語った。  そして最後に—— 「死の前に、イブラヒム様は、スレイマンさまに伝えてほしいと、あることを言い残されました」  そう付け加えた。 「それは何じゃ」 「スレイマンさまに、直に申しあげるよう言われている言葉なれば、ここでは申しあげられません」 「このわたしにもか」 「はい」  きっぱりと、ハサンはうなずいた。 「かまわぬ、申せ——」 「申しあげられませぬ」  ハサンは、頑《かたく》なにそれを拒んだ。  ロクセラーヌにしてみれば、気になる。  死に際に、イブラヒムが何と言ったのか。  しかも、それは、スルタンに伝えてもよい言葉であったのかどうか。 「それを、ロクセラーヌが迷っている間、おれの生命は伸びたということさ」  ハサンは言った。 「ロクセラーヌは、ふたりの宦官に訊ねたろうさ。イブラヒムが死ぬ前に何を言ったのかをな」  だが、ふたりは、舌を切られており、さらには耳も潰されている。 「紙に文字を書いて訊ねても、彼らは見たことと、体験したことしか語れない」 「なるほど」  それで、ようやく、ロクセラーヌとスレイマンがやってきた。 「さあ、言うがよい」  ロクセラーヌは言った。  しかし、それでもハサンは答えなかった。 「他の者を交えず、スレイマンさまのみに直接申しあげるよう、イブラヒム様からは言われております」 「かまわぬ、申せ」  スレイマンはそう言った。 「自らの手で亡きものにした、わが主イブラヒム様の、最期の願いにてござりますれば、その約定たがえるくらいであれば、ここで死をたまわろうとも覚悟の上のことでござります」  ハサンは、自分の主張を通した。  しかし、だからといって、スレイマンとハサンをふたりきりにできるものではなかった。 「おそらくな、かまわぬからおれを殺せとロクセラーヌは言ったことだろうよ。スレイマンにな。死ぬ間際に、イブラヒムが何を言ったかなど、あの女にはどうでもよいことだからな。もしも、自分に都合の悪いことでも、最期にイブラヒムが言っていたとしたら、ロクセラーヌも困る。なにしろ、あのイブラヒムの最期の言葉だ。まだ、内容によってはスルタンを動かす力はある——」  聴きながら、シナンは、今さらながら、このハサンという男のしぶとさには舌を巻いた。 「それで、おれは、機会を待ったのさ」 「機会?」 「ロクセラーヌが、痺《しび》れを切らす機会をだ」 「どういうことだ」 「あの女のことだ。何があっても、このおれを殺そうとすることだろう」 「——」 「毒殺はできぬだろう。何か、おれを殺すいい理由を捜さねばならぬ」 「ああ」 「おれは考えた。死ぬほど考えた。おれがロクセラーヌであったら、どうするかとな」 「それで——」 「おれを、わざと逃がすだろう」 「——」 「おれが、逃げやすい状況を作り、おれが逃げ出そうとするところを、殺す——これならば、おれを亡きものにする理由になる」 「そうだな」 「その時が、おれにとっても逃げる機会さ——」 「——」 「おれは、待った」 「それで——」 「何日かして、案の定、それまでずっと窓の外にいた見張りが、消えた」  塀の裏門にあたる場所から、兵の姿が見えなくなり、扉が、いかにも鍵が掛かっていないことを示すように、浅く開いている。  それが、二日続いた。  そして、三日目の夜—— 「おれは逃げた」  窓から、抜けだし、庭へ出た。  誰もやってはこない。  どこかで、誰かが見張っているのはわかっている。  襲ってくるとしたら、門の外へ出ようとした時だ。  門の外には、何人もの兵士が抜き身の剣を持って待っていることだろう。  それもわかっている。  ハサンは、月明かりの中を、門に向かって、ゆっくりと歩いた。  そして、いきなり——  ハサンは横へ向かって走り出した。  門のない方向。  そちらは、海——  ボスポラス海峡のある方角であった。 「逃げたぞ」 「向こうだ」 「追え!」  そういう声が、あちこちからあがった。  ハサンは、塀の上によじ登り、その上を走った。  下を、兵士が走って追ってくる。  そのまま、塀伝いにボスポラス海峡沿いの塀に移り、ためらうことなく、遥か下方にある海に向かって、ハサンは身を躍らせたのである。  それが、二日前のことだ。 「それで、おまえを捜してたのさ」  ハサンは言った。  そういうことであったか。 「ピュスティアのところに行った」  シナンは低い声で言った。 「ピュスティアはいなかったろう」 「ああ」 「おれが逃がした」 「逃がした?」 「何があるかわからんのでな。もしもの時のための用意をしておいた。イブラヒム暗殺の件で、おれのところに使いの者が来た時、それが何の用事かおれにはすぐわかった……」  それは、すでにシナンは、ハサンの口から聞かされている。 「だから、使いの者を待たせ、おれは、ロクセラーヌと同じことをしたのさ」 「同じこと?」 「自分の指輪をはずして、それをピュスティアのところへすぐ持ってゆくよう、仲間に頼んだのだ」 「——」 「それが、おれとピュスティアとの間のとり決めだったのだ」  もしも、ハサンの指輪が届けられたら、すぐに逃げよというとり決めであった。 「あらかじめ、おち会う場所は決めてある。事情に応じて、何カ所かそういう場所を決めておいたのだ」 「ではこれから、そこへ——」 「ああ。行く」  ハサンはうなずいた。 「悪いがシナン、その場所は、お前でも言えぬのだ」 「わかっている」  シナンはうなずいた。 「もう、ゆく——」  ハサンは言った。 「もう、二度と、おまえと会うことはないだろう」 「たっしゃでな」 「シナン、おまえはこれからだ。おまえは、おまえの生きたあかしを己れに示すために生きよ」  そう言って、ハサンは背を向けた。 「死ぬなよ」  シナンは、ハサンの背に声をかけた。  路地から大通りへ出て、すぐにハサンの姿は見えなくなった。       7  シナンが、次にハサンに会ったのは、五日後であった。  聖《アヤ》ソフィアに近い広場に、盗人の首がさらされた。  あるパシャの家に盗人が入った。  それが捕らえられて殺され、その首がさらされたのである。  ハサンの首であった。 [#改ページ]  第16章  宮廷建築家 [#ここから5字下げ] そなたこそは そのひとなり そなたこそは そのひとなり 神の御前にぬかずきて その口づけを受くるべく この世に生まれし果報者 そなたこそは そのひとなり ——バークー『土と炎の龍』より [#ここで字下げ終わり]       1  イブラヒムの死後、代わって大宰相となったのは、それまで宰相のひとりであったアヤス・パシャであった。  セリム一世の頃から、イェニチェリの長官《アー》を務めていた長老である。  イブラヒムの資産は、全てが没収された。  その宮殿は、小姓養成学校となり、金角湾をのぞむスュトリュジェの庭園は民衆に開放された。  イブラヒムの遺物は、ほとんど残らなかったと言っていい。  このイブラヒムの死とともに、スレイマン大帝の大征服時代は、事実上終った。  この後にスレイマンの行なった、東部アナトリア、エーゲ海諸島、北アフリカ、紅海の征服は、チェスで言うなら最後の詰めのごときものであり、オスマントルコの領土の拡大ということで言えば、ここで止まったと言っていい。  オスマントルコ帝国に絶頂期があったとすれば、スレイマンがスルタンになってから、イブラヒムが死ぬあたりまでということになろう。  イブラヒムの死の翌年——  一五三七年、チェニスの遠征で、シナンは将校となった。  翌一五三八年、モルダヴィア遠征で、シナンは沼地に橋梁《きょうりょう》を建設する。  これについての細かな記録はないが、 �驚くほどの短期間で作りあげた�  と宮廷史家は記している。  これによってシナンは、スレイマンの信頼を勝ち得たのであった。  そして、この一五三八年に、これまでオスマントルコの首席建築家であったアジェム・アリシが、病でこの世を去ったのである。       2 「誰《だれ》がよいか」  次の首席建築家を誰にすべきか——これを、スレイマンが問うた。 「ちょうどよい人材がございます」  そう言ったのは、リュトフィー・パシャであった。 「誰じゃ」 「シナンにござります」  リュトフィー・パシャは、迷うことなくその男の名を口にした。 「ほう?」  スレイマンは、意外そうな顔をした。  シナンの名が出たことが意外であったのではない。  その名が、リュトフィー・パシャの口から出たことが意外であったのである。  リュトフィー・パシャは、スレイマンの顔色をうかがって、 「なにか、お気にめさぬことが?」  そう言った。 「そうではない。余は、おまえがあの男のことを——」 「——嫌っていると思っていらっしゃったのですね」 「うむ」 「嫌ってはおりませぬ」 「ほう」 「たとえ、嫌っておりましても、それはそれ。あの男が、我がオスマンの首席建築家としてふさわしい人間であることとは別でござります。先頃のモルダヴィア遠征では、あの男——シナンがおらねば、今、我々はまだ遠征の最中でたいへんな苦難を味わっていたかもしれませぬ」 「であろうな」 「三年前、ヴァン湖に軍船を浮かべることができたのも、シナンがいたからこそでござりましょう」  そこで、リュトフィー・パシャは言葉を切り、あらたまった眼でスレイマンを見た。 「その後のプルット川の件でも、シナンについては、私は評価をしております」  リュトフィー・パシャは言った。 「本当か」 「はい」  リュトフィー・パシャはうなずいた。       3  三年前——  ヴァン湖の戦いの後に、スレイマンはバグダードを落としている。  そのおり、スレイマン軍は、プルット川を渡っている。  プルット川——日本人に馴染みの呼称で言えば、ユーフラテス川のことである。  オスマン軍は、この川を渡るために、そこに丈夫な橋を掛けねばならなかった。  何度も、プルット川に橋が掛けられたが、それらの橋は全て崩壊し、オスマン軍は対岸に渡ることができなかった。 「ヴァン湖で船を作ったシナンにやらせてみてはいかがでしょう」  そう言ったのは、リュトフィー・パシャであった。  この時期、まだ、シナンは将校になっていない。  ヴァン湖で、シナンが船作りの指揮をとったのは例外的な手段であり、プルット川に橋を掛けるにあたっては、シナンの上官が指揮を取ることになる。  上官のセフディーにしてみれば、戦場での橋掛けは常のことであり、ここで自分の力を示しておかぬことには、顔が立たない。  しかし、橋を掛ける試みは、ことごとく失敗した。  三度、試みて、三度ともうまくゆかなかった。  川は、汚泥のようであり、岸辺には沼地が広がっている。  いくら杭を打ってもそれが役に立たず、橋が流されてしまうのである。  別に渡河する場所を捜すとなると、一カ月近くも上流に移動し、そこでまたあらためて橋を掛けねばならない。さらにまた、対岸のこの場所までもどってくるのに一カ月——橋を作ることを考えに入れれば三カ月もかかってしまうことになる。  三度目の橋が流された晩、ハサンがシナンを訪ねてきた。 「おまえならどうする」  ハサンはシナンに言った。 「できるか、シナン」 「できるさ」  こともなげにシナンは言った。 「どうするのだ」 「船さ」 「船?」 「船を作る」 「船で、向こう岸まで、軍を渡すのか」  ヴァン湖の時のように、一部の兵だけを乗せるのではない。  十万を越える兵、馬、大砲、食料を乗せて降ろすことになる。  それならば、三月をかけて、丈夫な橋を作る方がまだ楽である。 「まさか」  シナンは言った。 「まあいい。方法はともかく、おまえができるというのなら、できるのだろう。しかし——」 「なんだ」 「それを、おまえは言ったのか」 「二度目に橋が流された時にな」 「どうだった」 「とりあげていただけぬ。無理だと言ってな——」 「上の人間にも面子があるだろうからな」 「ああ」 「イブラヒム様も、それを考えて、まだこの件については口を出されてない。しかし、三度も流されたとあっては、そう黙ってはおられぬだろう」 「だろうな」 「明日にも、イブラヒム様がスレイマン様に言うことになるだろう。シナンにやらせてみてはどうかとな」 「それで来たのか」 「ああ。おまえの名を出して、おまえができぬと言うのでは困るからな。だからおまえにそれを訊きに来たのさ」 「できるさ」  シナンはまた言った。 「何日かかる?」 「半月」 「本当か——」 「ああ、できる」  シナンの言葉に迷いはない。  ハサンが考えたのは、わずかな時間であった。 「おまえができると言った。それで充分だ。イブラヒム様にはそう伝えておく」  そう言って、ハサンはもどって行った。  しかし——  翌朝、評議の席で、最初にシナンの名を出したのはイブラヒムではなかった。  イブラヒムがシナンの名を出すより先に、リュトフィー・パシャが、シナンの名を口にしたのである。  リュトフィー・パシャも、直接スレイマンに言ったのではない。  そもそも、ヴァン湖において最初にシナンの名を出したのはイブラヒムであり、これを無視してシナンの名を口にするわけにはいかない。リュトフィー・パシャは、スレイマンのいる前で、イブラヒムにうかがいをたてるというかたちをとった。 「できると言っております」  イブラヒムは言った。 「おお、すでにシナンには話をしたのか」  スレイマンは、言った。 「人をやって、内々に問えばできると——」 「何日かかる?」 「半月」  イブラヒムは言った。 「半月だと?」 「はい」 「セフディーが、ひと月かかってできなかった橋掛けだぞ」 「シナンが、半月と申しております」  スレイマンの沈黙もわずかであった。 「シナンを呼べ」  スレイマンは、リュトフィー・パシャにそう言った。  すぐに、シナンは、評議中の天幕の中に呼びよせられた。 「シナンよ」  スレイマンは、直接シナンに向けて言った。 「はい」 「おまえは、半月あればプルットに橋を掛けることができると言ったそうだな」 「申しました」 「本当か」 「はい」 「ヴァン湖に船を浮かべる時も、おまえの言う通りとなった。今度も、おまえの言う通りになると?」 「はい」  シナンは、うなずいた。  気負いがない。  条件もつけなかった。  ただ、できると、シナンはうなずいた。  まるで、足元に小石が落ちていて、それを拾うことができるかと問われて、できると答えているようであった。 「船を作ると、おまえは言ったそうだな」 「はい、申しあげました」 「船を作ってどうする」 「川に浮かべます」 「川に?」 「船と言っても、戦船《いくさぶね》ではなく巨大なものでもありません。小さなものでよいのです」 「小さなもの」 「はい。六〇艘もあれば——」 「六〇艘の船をどうする」 「太い綱を、こちらの岸から向こう岸に渡します。その綱に、その船を繋いで並べてゆき向こう岸まで届いたら、次には船と船の間に板を渡せばそのまま浮き橋となります」 「むう」  スレイマンは、声をあげた。 「しかし、それが、半月でできるか」 「余裕をもって、半月と申しあげました。うまくゆけば、もっと早くできるでしょう——」  船を一艘建造するのに、十五人で十日。  九〇〇人でやれば、同じ十日で六〇艘の船を作ることができる。 「その樹はどうする」 「上流に半日行った場所に手頃な森があります。樹を切り、枝を落として、川へ流せば、自然にここまで流れてきます」  九〇〇人全員が、同時に作業を始められるわけではない。  流れついた樹から順に使っていけば、何日かの時間差ができる。それは、かえって好都合であり、できあがった船から順に川に浮かべて板を渡してゆけば—— 「全ての作業は、半月もあれば十分に終るでしょう」  全ての船を作りあげてから橋を作ってゆくのではない。  船を作りながら橋を作ってゆくのである。  なにしろ、人手だけはありあまっている。 「シナン、おまえにまかせよう」  スレイマンは言った。  橋は、十三日でできあがった。  予定より二日早かった。  橋を渡り終えた時—— 「みごとじゃ、シナン」  スレイマンは言った。 「このような仕事は、普通は遅れるものだ。しかし、おまえは、自分の言った日数より二日も早く橋を作りあげた」  その時—— 「では、シナンよ、おまえはこちら側の岸に砦を建て、この橋が敵の手に落ちぬように守るのだ」  このようにリュトフィー・パシャは言った。 「お言葉ではございますが、この件について、わたしの考えを申しあげてよろしゅうござりますか」  シナンは言った。  その言葉に、その場にいた誰もが驚いた。  リュトフィー・パシャと言えば、オスマン帝国の重臣である。  頂点に、スレイマン、次に大宰相イブラヒム、その下に宰相アヤス・パシャとリュトフィー・パシャが並んでいる。  スレイマンの息子や、裏の権力者であるロクセラーヌなどを別にすれば、オスマン帝国の三番目の位を持つ人物である。  このリュトフィー・パシャの言ったことに対して、軍人建築家のシナンが反対意見を述べようというのである。  その現場には、スルタン・スレイマン、大宰相イブラヒム、アヤス・パシャ、ソコルル・メフメット・パシャも居る。 「よい、申せ」  リュトフィー・パシャは言った。 「この橋を守るために、ここに砦を築き、多くの兵を残すのは得策とは申せません」  シナンは、もの怖じしない。 「何故じゃ」 「今は、一兵でも多く、カラボーダンへと向かう時でござりましょう。川に渡した綱のみをこちら側に残し、船は燃やして流してしまうのがよろしいかと思われます」 「ほう」 「必要とあらば、すでに勝手のわかっていることなれば、いつでもわたしが今度は一〇日でまたこの場に橋を掛けましょう」  シナンは言った。 「シナンの言う通りじゃ」  そう言ったのは、ソコルル・メフメット・パシャであった。 「その昔、我がオスマン軍が、初めてヨーロッパ側に渡った時、時のスルタンは、使用した全ての船を燃やしたというではないか。ここに橋を残すということは、我がオスマン軍が、敗退する可能性をここで作るようなものじゃ。自ら退路を断ってこそ、カラボーダンでの勝利も約束されるというもの——」 「なるほど、その通りじゃ」  スレイマンはうなずいた。 「橋は壊し、船には火を放て」  そう言ってから、スレイマンはシナンを見やり、 「ひとつ訊くがシナン、今、リュトフィー・パシャがおまえに砦を作るよう命じたこと、このわたしが口にしても、おまえは同じことを言うたか」  そう問うてきた。 「はい」  迷うことなく、シナンはうなずいていた。       4  スレイマンが、リュトフィー・パシャに、 �シナンを嫌っているのではないか�  そう考えたのは、そのようなことがあったからである。 「モルダヴィア遠征のおり、湖沼地帯に橋を掛けたのもシナンでござりました」  リュトフィー・パシャは言った。 「覚えておる」  スレイマンはうなずいた。 「スレイマンさま、そもそも今度の件は、わざわざわたしの口から、シナンの名を言わせるおつもりであったのでしょう」  リュトフィー・パシャが言う。 「スレイマンさま御自身の口からシナンの名を出したのでは、わたしが胆《はら》に何か含むものがあってもそれを口にできないとお思いになられたのではござりませぬか。御懸念にはおよびませぬ。誰が考えても、次のオスマンの首席建築家に誰がふさわしいかは自明のことでござります。シナン以外に、その席にふさわしい者はおりませぬ」  こうして、シナンはオスマン帝国の首席建築家となったのである。  一五三八年——  シナン、五〇歳の時であった。       5  首席建築家となったその年に、すぐにシナンは最初のモスクの建築にとりかかることとなった。  その最初の依頼者は、思いもよらぬ人物であった。  シナンに、使者を送ってよこしたのは、リュトフィー・パシャであった。  使者が持ってきた手紙に、二日後にトプカプ宮まで出向くようにという意のことがしたためられていた。  ある人物がおまえに会いたがっている——手紙にはそう記されてあった。  二日後——  トプカプ宮に出かけたシナンは、謁見の間に通された。  そこで、リュトフィー・パシャが待っていた。 「よく来た、シナン」  リュトフィー・パシャは言った。 「これから、あるお方がここに姿を現わすが、くれぐれも粗相のないように」  リュトフィー・パシャがこれまでになく緊張している。  スルタン・スレイマンに対しても、常より言うべきことは口にするこの男にしては珍しい。  あるお方としかリュトフィー・パシャは言わなかったが、その相手は誰か。  たとえ、首席建築家になったとはいえ、トプカプ宮は、シナンが勝手に足を運べる場所ではない。わざわざ、ここを会見の場所として指定できる人物というと、このイスタンブールにもそう多くはいない。  その�お方�というのは、スレイマン本人であるのか。  シナンがそこまで考えた時、その人物が姿を現わした。  何人もの女官や、黒人の宦官《かんがん》に付き添われて部屋に入ってきたのは、女であった。  金糸銀糸で刺繍された絹の衣裳。  右手には、白|孔雀《くじゃく》の羽根で作られた扇を持ち、首には、幾つものダイヤ、サファイヤ、ルビーなどを惜しげもなく使ったネックレスを下げている。鳩の卵よりひと回りは大きなエメラルドがそのネックレスには使用されている。  金細工をあしらった被り物の下から覗く赤い髪——  顔はもちろんヤシュマクで隠されていて見えないが、シナンには、すぐ、その女性が誰であるかわかった。  間違えようがない。  イブラヒムによって見いだされ、スレイマンに奴隷として贈られた女。  そして、イブラヒムを死に追いやった女。  ヒュッレム・スルタン——ロクセラーヌであった。  あり得ないことであった。  スルタン・スレイマンもいない場所で、このようなかたちでシナンが会える人物ではない。玉座に腰を下ろし、シナンや他の者が口を開くよりも早く、 「わたしが誰であるかわかりますね」  ロクセラーヌは言った。 「はい」  シナンはうなずいた。  シナンが、その名を言うより先に、 「わたしの名を口にしてはなりませぬ」  ロクセラーヌはシナンに告げた。  なるほど——  とシナンは思う。  その名を口にさえしなければ、ここで誰と会ったかはわからぬことにできる。  しかし——  今は自分が口を開くべき時ではないことを、シナンはわかっていた。  もうしばらくは、ロクセラーヌの語るにまかせるべき時だ。 「まず、最初に申しておきますが、これは、全てスルタンの御承知のことです。わたしが、こういったかたちでそなたに会いたいとスルタンに申しあげ、お許しをいただきました——」 「はい」  ここではまだ、シナンはうなずくだけである。 「そなたとは、以前より話をしたいと思っておりました」  思いがけない言葉であった。 「以前から?」 「イブラヒムに仕えていたハサンという男と仲が良かったそうね」 「はい」  間を置かずに、シナンはうなずいていた。  ヤシュマクの向こうで、ロクセラーヌは怪訝そうに言葉を止めた。 「何か?」 「違うとおっしゃるか、うなずくにしてももう少し考えてからそうするのかと思っていたわ」 「何故でございます?」 「人とは、そういうものだから——」  シナンには、ロクセラーヌの言う意味がわかった。  イブラヒムの死については、その裏にロクセラーヌの意志が働いているというのは、イスタンブールでは、公然の秘密のごときものであった。誰もがそれを知っているが、口にできない。  イブラヒムの死の後、捕えられたハサンの首が、盗人としてさらされた。  ハサンに近い者であれば、当然それはおかしいと思う。  自然に導き出されるのは、ハサンが、イブラヒムの死に関わって、その結果として死んだのだろうということであった。イブラヒムの死にロクセラーヌの意志が働いているのなら、ハサンの死にも同じ意志が働いていると考えるべきであろう。  そのハサンと親しかったということを、ロクセラーヌ本人に対して認めるというのは、まかり間違えばハサンの仲間として、ロクセラーヌに裏で処理されることもあり得なくはない。  普通であれば、ハサンと仲が良かったかとロクセラーヌから問われれば、知り合いではあるが、仲がよいというほどのつきあいではない——そう答えてしまうところである。  それを、シナンは迷うことなくうなずいた。 「二十六年前、デヴシルメによって、一緒にイスタンブールにやってまいりました」  感慨をもって、シナンは答えた。 「頭のよい男でした——」  ロクセラーヌは言った。 「はい」 「あのような男なら、私も傍に仕えさせたかった……」  耳にしているリュトフィー・パシャの方が、青くなりそうな会話であった。  具体的にこそ口にしてはいないものの、これでは、ロクセラーヌは、ハサンのことを自分は知っていると言っているも同じであった。それはつまり、ハサンが盗人として首を斬られたのではないことも承知しているという意味になる。 「ありがとうございます。あなたさまにそう言っていただければ、もし生きていたらハサンも悦《よろこ》ぶでしょう」 「シナン」  ロクセラーヌは、きっぱりと言った。 「あなたの噂は、耳にしております」 「はい」 「プルット河に橋を掛けたことも、モルダヴィアの時にも、橋を短い時間で掛けたそうですね。ヴァン湖で船を建造した話も——」  ロクセラーヌは、リュトフィー・パシャを見やり、 「こちらのリュトフィー・パシャに、プルット河では反対の意見を唱えたそうですね」  そう言った。  シナンは、うなずくだけである。 「ジャーミーを作ったことは?」 「ござりませぬ」 「一度も?」 「一度も」 「では、このわたしに、あなたの最初のジャーミーを作ってもらえますか」  まさか——  シナンが思わず口にしそうになったほどの、申し出であった。  なるほど——  ロクセラーヌは、今や、大オスマンの第二番目の権力者と言ってもいい。そういう人物から、ジャーミーを建てよと、依頼を受ける。スレイマンの許しもすでに得ているという。  シナンは、自分の心の中でうなずいた。  オスマン帝国の首席建築家となるということは、こういうことなのだ。 「悦んで——」  シナンは、心から言った。 「どのようなジャーミーを?」 「これまでにないものを」  迷うことなく、ロクセラーヌは言った。  いかにも、ロクセラーヌらしい言葉であった。 「承知いたしました」  シナンの答にも、迷いがない。 「何か、あなたに考えはあるの、シナン?」 「ございます」  シナンは頭を下げ、 「これまで、機会があれば、ぜひ試したいと思っていたことがございます。もし、お許しがいただければ、それをここで試みてみたいのですが——」 「それは、何です?」 「街を作ることでござります」  シナンは言った。       6  シナンの建築の特長のひとつに、サイト・プランニングがある。  建築物を結合させ、幾つもの都市施設を結びつけ、そこに小さな街を作りあげてしまう。  今日で言えば、ひとつの巨大ビルの中に、商店、ホテル、病院、スポーツ施設、学校——そういうもの全てを入れて、ビル自体をひとつの街化してしまうのと似ている。  複合建築《コンプレックス》——トルコ語では、これをキュリィエと呼ぶ。  今日の巨大ビルの場合は、その中心となるべきものや概念が欠如しているケースが多いが、キュリィエの場合は、その中心となるべきもの、思想がそこにある。  キュリィエの中心は、モスク——ジャーミーというキリスト教で言えば教会にあたる建物であり、中心となる思想はイスラムである。  シナンがジャーミーを建てる時、まず一番最初に建てるのが、トルコ式蒸風呂——ハマムである。その後に、ジャーミー本体や複合施設の建築に取りかかる。  できあがったキュリィエの中心は、ジャーミーである。その周辺に、神学校、病院、学校、孤児院、|隊 商 宿《キャラバン・サライ》、ハマム、店舗……が建ち、これらが有機的につながっている。  このキュリィエには、スポンサーの名が付けられ、そのスポンサーであった人物が死ねば、キュリィエの中心にあるジャーミーの中庭に霊廟《れいびょう》が建てられ、そこに葬られる。  店舗は賃貸しであり、その家賃収入が、ジャーミーの管理や修理費にあてられることになる。  キュリィエは、財団《ワクフ》であり、その財団《ワクフ》によって運営され、管理され、ずっと続いてゆくのである。  このシステムを確信犯的に作りあげ、かたちにしていったのがシナンであった。  シナンが作ったこのキュリィエのシステムは、幾つかは、現在も残っている。  イスタンブールにまだ建っているリュステム・パシャ・モスク(ジャーミー)はそのひとつの例であろう。  壁一面にタイルが嵌《は》め込《こ》まれた美しいこのジャーミーは、二階部分に建てられており、その一階部分には何十軒もの商店が入っている。  当時のキュリィエのシステムが、現在も機能しており、このモスクを守っているのは、一階部分の商店主たちである。  このジャーミーを中心としたキュリィエ・システムの、シナンにとっての最初の実験作品が、ロクセラーヌから依頼されたジャーミーであった。  これは、ロクセラーヌの実名であったハセキ・ヒュッレムの名をとって、ハセキ・キュリィエと呼ばれるようになったのである。  一五三九年、シナンがこのハセキ・キュリィエを作っている最中に、アヤス・パシャが死に、リュトフィー・パシャが大宰相となった。  そして、シナンは、この間、次々とジャーミーや橋、水道橋などの建築にとりかかってゆく。  ロクセラーヌの娘ミフリマフが嫁《とつ》いだのは、リュステム・パシャである。  この二人の間に子供が生まれたのは、ロクセラーヌが三十五歳の時である。ロクセラーヌは、三十五歳にして、孫を持ったことになる。  これが、一五四〇年。  オスマンとヴェネツィアは、この年に講和条約を結ぶ。  この年に、サボヤイ・ヤノシュ病死。  同じ年、ミフリマフのために、ミフリマフ・ジャーミーを、シナンはウスキュダルに作り始める。  その翌年、一五四一年には、リュトフィー・パシャが解任され、スレイマン・パシャが大宰相となった。  一五四三年に、シナンは、死んだメフメットのためのシェフザーデ・ジャーミーの建設も始めている。  シナンは、常に同時並行して、幾つもの仕事を抱えていた。  ミフリマフ・ジャーミーは、八年後に完成。  シェフザーデ・ジャーミーは、五年後に完成。  シナンは、ジャーミーを建てながら、常に実験を続けてゆく。  ハセキ・ジャーミーでは、正方形平面の上に、半球のドームが乗ったものを作った。  ミフリマフ・ジャーミーでは、大ドームを、三つ半のドームと、ひとつのアーチで支えた。  シェフザーデ・ジャーミーでは、大ドームを、四つ半のドームで支え、幾何学の定理に順ずるかたちで、これを設計した。  一五三八年に首席建築家になってから、一五五〇年にスレイマニエ・ジャーミーの建設を始めるまでの間に、シナンは百に余る建築物を建てている。  その土地も、イスタンブールを始めとして、アレッポ、アンカラ、バグダード、イズニック、ブダ、ブルサ、ダマスカス他、オスマン帝国の広大な領土のほとんどに及んでいる。  スレイマン大帝が、オスマンの威光を全国に行きとどかせるために、シナンの才能を、これでもかこれでもかというように使いまくった歳月であったといっていい。  もっとも、シナンは、現場で直接の作業をするわけではない。設計をし、その監督にあたるのがシナンの仕事であり、建築に直接関わるのは、現場の職人たちであり、労働者たちであった。  しかし、それにしても、凄まじい量といっていい。  百歳で死ぬまでに、シナンが手がけた建築物は、四〇〇以上。  ひと月に、ひとつ近くは、建築物を作っていたことになる。       7  ザーティーに、シナンが呼ばれたのは、一五四八年——まだ、ミフリマフのキュリィエとシェフザーデのモスクを建設中の時であった。  シナンが、久しぶりにザーティーと対面したのは、ザーティーの自室である。  ザーティーは、病の床にあった。  ランプをひとつ点しただけの、暗い部屋で、ザーティーは寝台の上に横たわっていた。 「お久しぶりです」  シナンは言った。  会うのは、ほぼ一年ぶりであった。  オスマントルコの首席建築家となってから、なかなかザーティーの店には顔を出せなくなってしまったのである。 「よいことだ……」  寝台に仰向けになったまま、ザーティーはシナンに視線を向けた。  ザーティーは、驚くほど痩せていた。  頬の肉が落ちており、炎の灯りで見てさえ、その肌の色のよくないのはわかる。  しかし、ザーティーは、シナンに向かって微笑した。 「何がでしょう」 「久しぶりに会うということがだ」 「御無沙汰してすみませんでした」 「いや、そういうことではない。おまえが、ここしばらくわしの所へ顔を出さなかったという、そのことが、よいことだと言っているのさ」  シナンは、すぐには、ザーティーの言う言葉の意味を把握できなかった。 「それは、おまえが、仕事をしていたということだからさ。わしの所へ、そういつまでも顔を出していては、駄目だということさ。この世がそうであるように、わしの店は仮の宿なのだ。その人間が、いつか、自分の本当の居場所を見つけるまでのな」 [#ここから2字下げ] いつまでも あると思うな黒い髪 あると思うな心の炎 旅人の髪は 旅の途中で白くなる 旅人の心に燃える炎も 旅の途中で消え果つる 恋さえも ああ そして憎しみさえも 旅の途中に枯れてゆく それを哀しむ心さえも 野の風のように どこかへ行ってしまう ああ それでもなお それでもなお 人は旅人である 人は旅に向かって足を踏み出す ああ 御神よ 御神よ 旅は今もなお 老いてなお 青葉萌え 青葉風にきらめき まだわたしを 野の果てに誘うのである [#ここで字下げ終わり]  歌うように、ザーティーは、その詩句を低くつぶやいた。 「今、お作りになったのですか」 「そうじゃ」  ザーティーは、また微笑した。 「忙しいのは、よいことだ、シナン。仕事のあるのはよいことだ」 「似たようなことを、ヴェネツィアでも言われました」 「ほう」 「ミケランジェロという方です」 「ミケランジェロ・ボナロッティかね」 「はい」 「その人物なら知っている。システィーナ礼拝堂の天井画を描いた男だな」 「御本人は、御自分のことを、建築家であると言ってました」  シナンは、ヴェネツィアで会ったミケランジェロのことを語った。 「仕事をせよと、そう言ったか」 「はい」 「よい話だ」  ザーティーは、骨ばった右手を口にあて、乾いた咳をした。 「わたしも、これまで黙っていたのだが、ひとつおもしろい話をしておこう」 「何でしょう」 「最近、わしのところに顔を出すようになった、バーキーという若者がいる」 「バーキー?」 「マフムッド・アブドゥール・バーキー、詩人だよ。名は知らなくて当然さ。まだ無名だ。以前、ここへ来たばかりのおまえさんのようにね」  二年前——  そのバーキーが、ザーティーを訪ねてきたというのである。  年齢は、十七、八歳。  自作の詩を持っていた。 「その詩を読んでみてくれないかというのさ」  ザーティーは、イスタンブールでは、当時有名な詩人であった。  宮廷に、知人が多く、スレイマン大帝とも親交があった。  若い詩人が、自作の詩を持って、ザーティーの元を訪ねてくるというのは、珍しいことではなかった。 「その詩を読んで、驚いた」  とても、十代の若者が書いたとは思えぬほど、詩句は含蓄に富み、表現上の技術も優れている。 「これは、本当にきみが書いたのかね」  ザーティーは言った。 「はい」  若者は、うなずいた。 「あまり誉められたことではないね」 「この詩がですか」 「詩は素晴らしい。誉められたことではないと言ったのは、きみのことだ」 「わたしの?」 「誰かの詩を勝手に盗んだのではないのかね」  ザーティーが問うと、 「嬉しいです」  若者は頬笑んだ。 「何を笑うのかね」 「誰かの詩を盗んだのかと思われるほど、ザーティー先生がこの詩を評価して下さったのですから」  これにはザーティーが驚いた。 「待ちなさい」  ザーティーは、しばらく前に書いたばかりの詩を、そのバーキーという若者に見せた。 「その詩について、思うところを言ってみなさい」  バーキーは、それを見た。 [#ここから2字下げ] そなたはわたしに支えられていると言う わたしはそなたに支えられていると言う では我々ふたりは いったい何ものに支えられているのか [#ここで字下げ終わり]  そういう詩が書かれていた。  その詩を眼にしていたバーキーの唇から、詩句がこぼれ出てきた。 「この世の全てのものは  互いに支えられあって存在する  なんとあやうい存在として  我らはここに在るのか  この宇宙のいずれかに  最初の全《まった》き支えの存せねば……」  バーキーが、そこまで口にした時—— 「そんなことは、書かれてない」  ザーティーは言った。 「でも、この詩は、その後、今、わたしが言ったように続くのです。ここにあるように、 �支えもなしにおわすのは  アッラーよ  御身おひとり�  ではありません」  その通りであった。 「何故、それを知っているのかね」 「これは、わたしが一年前に書いたものだからです」  バーキーは言った。 「シナン、それを耳にして、わしは驚いた。わしがバーキーに見せたその詩の頭の部分は、その頃読んだどこかの若い者が書いたという詩の詩句を使わせてもらったものであったからだ。その詩の、わしが書きかえたところから先をそらんじて口にできる人間は、作者をおいて他にはいまい……」  ザーティーの言う通りであった。 「恥をかいた」  ザーティーは微笑した。  試すつもりで自分の詩を見せたつもりが、実は試す相手が書いたものを利用したものであったのだ。 「真似はよくない。真似をするなら、元のものよりもっと優れたものにせねばならぬ。それが、真似をする者の務めじゃな」  これが、これまでザーティーが黙ってきたことだという。 「で、そのバーキーは?」 「時おり、わしのところへ通ってくる。まだ二〇歳そこそこだがな——」 「——」 「いるのだなあ、ああいう若者が。シナンよ、おまえもそうであったが、このバーキーも、いずれは世に出ずにはおかぬ才を持って生まれついておる」  ザーティーは、眼を閉じ、呼吸を整えているようであった。  シナンは、寝台の脇に立ったまま、ザーティーの顔を見つめていた。  ほどなく、その眼が開き、 「シナンよ、わしも、もう長くない」  ザーティーはつぶやいた。 「何を言われます」 「本当のことだ」 「——」 「しかし、あのハサンというのは、おもしろい男であったな」  ふいに、ハサンの話になった。 「ええ」 「ああいう男の行く末を見てみたかった。しかし、あのような男、多くは長生きはできぬものだ……」 「——」 「シナン、どうだ?」  ザーティーは言った。 「はい?」 「わかったかね」 「何のことでしょう」 「おまえと、初めて会った時のことだ。その時、神と聖《アヤ》ソフィアの話をした」 「覚えております」  シナンはうなずいた。  確かに覚えている。  三〇年以上も昔の話だ。  まだ、イェニチェリになったばかりの頃であったか。  ハサンとハマムに行き、そこで、このザーティーと会ったのだ。  ひそかに、イスタンブールに持ち込まれていたカフヴェもそこで飲んでいる。 �神に量はあるか�  そのような話を、そこでしたのではなかったか。 「あの時、おまえは言った。神を見るための機能として、聖《アヤ》ソフィアは不完全であると——」 「言いました」 「わしは問うた。聖《アヤ》ソフィアのいったい何が不完全なのかと——」 「はい」 「おまえは、その時、わからぬと答えた——」 「おっしゃる通りです」 「あの時の問いを、もう一度おまえに問うているのだよ。聖《アヤ》ソフィアのいったい何が不完全なのかとね。その答を、まだ、わしの息あるうちに、ぜひ聞きたいと思うていたのさ。どうかね」 「今ならばお答えできます」  シナンは、気負いのない声で答えていた。 「おう、それは嬉しい。それが聞けるのなら、忙しいおまえをわざわざここまで呼んだ甲斐もあるというものだ。何なのだね、シナン。それは何なのだね」 「人です」 「人?」 「人が、騒がしすぎるような気がします」 「どういう意味かね」 「このことにわたしが気づいたのは、ヴェネツィアでした」 「ほう」 「サン・マルコ寺院を、わたしは見ました。確かに、あれは人の造り得たものとして、実に素晴らしいものでした。建築としても芸術としてもみごとなものでしたが……」 「何だね」 「あそこには神がいないのです」 「神がいない?」 「ええ。このことを、ミケランジェロが、うまく言葉にしてわたしに教えてくれました」 「なんと?」 「人の過剰な祈りの声ばかりが、あそこには満ちていると——」 「ほほう」  キリストの像、聖人の像、キリストのモザイク、聖人のモザイク——  絢爛《けんらん》たる色彩。  黄金。  神よ。  神よ。  わたしの祈りを聴いて下さい。  わたしの声を聴いて下さい。  わたしを見て下さい。  わたしは、あなたをこれほど愛しております。  わたしは、あなたをこれほど表現いたしました。  わたしは——  わたしは——  わたしは——  シナンは、そのおりのことを語った。 「偶像を拝しない——というのは、キリストの教えの中にもイスラムの教えの中にもありますが、現実には、キリストの教会は偶像に満ちております」 「確かに」 「聖《アヤ》ソフィアには、そういう香りが残っております。それがようやくわかってまいりました」 「ほう」 「聖《アヤ》ソフィアは、イスラムが、ビザンチンよりこの地を手に入れたおり、全ての偶像を消し去りました。像を運び出し、天井や壁の絵やモザイク画の上に漆喰《しっくい》を塗り固めてしまいました」 「うむ」 「しかし、その内側からなお、その絵やモザイク画たちが、人の声を響かせているのです。一部の漆喰ははがれ、下の絵が見えております。もともと、聖《アヤ》ソフィアは、そういう偶像を配する建築物として建てられたものです。建築物そのものの構造として、神に近づこうとしたものではありません」 「不完全とは、そういうことか」 「はい」  シナンはうなずき、 「にもかかわらず、聖《アヤ》ソフィアは建築の奇跡であることに変りはありません。この一千年以上もの間、イスラムであれ、異教徒であれ、世界はまだこの建築物を超えるものを創造しておりません」  小さく身震いした。 「先ほどわたしは、聖《アヤ》ソフィアのことを不完全と申しあげました」 「うむ」 「それこそが、わたくしへ投げかけられた、聖《アヤ》ソフィアの大いなる問いかけなのではないかと思っています」 「問いかけ?」 「我を超えるものを、おまえは創造することができるのかと——」 「できるのか?」 「わかりません」 「わからぬ?」 「それには、幾つかのものが必要です」 「それは何かね」 「ひとつは、偉大なる王と資金です」 「ほう」 「それは、もう、オスマンに存在します」 「うむ」 「ひとつは、神の宿としてふさわしい、偶像にかわる理を持った構造——」 「偶像にかわる理?」 「数学です」  きっぱりと、シナンは言った。 「数学?」 「もしも、この世で神をよりよく見ようとするならば、それは、数学をもってすべきと考えております」 「どういう意味かね」 「この世のあらゆる事象の背後に存在するものは数学です。それは、あらゆる事象の中に神が存するのとまったく同じです。神の語られる言語がもしあるとするなら、それは数学です。もし、神を語ることができる言語があるとすれば、それは数学です。偶像によって神を描くのではなく、数学によって、神を描くのです」  シナンは饒舌《じょうぜつ》になった。  これまで、ずっと、心の裡《うち》で考えてきたことなのであろう。 「ほう」 「数学でできた空間、数学でできた建築こそが、神の空間としてふさわしい」 「しかし、どのような建築であれ、数学は必要ではないのかね」 「わたしが、ここで言っているのは、美しい数学のことなのです」 「美しい?」 「神を描くなら、それはまず、まったき球をもってせねばなりません。そして、その球には、常に、どの方向からも光が溢れていなければなりません。その球は、垂直の柱によって、天に持ちあげられ、壁の装飾は、光によって育つ、植物の幾何学模様こそがふさわしいものとなるでしょう」 「われら詩人がつむぎたる言の葉の響きは、どうかね」  ザーティーは訊ねた。 「ああ、ザーティーよ。詩人の詩句は、人の口により発せられ、神と我らとの間に響き合うものの象徴です。建築という空間に、人の声が響いてはじめて、それは神を見るための空間として機能するでしょう」 「それは、嬉しい言葉だ、シナン。で、必要なものというのは、まだあるのかね」 「あります」 「何だろう」 「偉大なる王、そして偶像にかわる理——あとのひとつは、それにふさわしい技術を持った建築家です」 「ならば、すでにオスマンはそれを全て持っているのではないかね」 「偉大なる王と資金についてはそうです」  シナンはうなずいた。  偉大な王——すなわちスレイマン大帝のことである。  スレイマン大帝が動かすことのできる財力は、ヨーロッパのどの大国にも増して多かった。  スレイマンが望めば、その金で為しとげられぬものはないといっていい。 「では、何が足りないのだ」 「建築家です」  シナンは言った。 「それなら、ここにいるのではないのかね、シナン」 「いえ。わたしはまだ未熟です。多くのものが、今、私の周囲に整いつつあるというのに、わたしだけが、まだ充分でないのです」 「おまえが駄目だというのなら、この世の全ての建築家は、その荷をになうことはできぬだろうよ」 「——」 「シナン。人にはその人にふさわしい人がよりそうように、神は、神にふさわしいものによりそうものだ。神は、神に似るものによりそいたもう……」 「それは、今、お創りになった詩句ですか」 「そうだ」  ザーティーはうなずき、 「安心するがよい。いつの日か、おまえは、おまえの望むことをなすだろう。その時、その場にこのわたしがおらぬのが残念だが、それもアッラーのおぼしめしであろう。人はいずれも旅の途上で死ぬものだ。おまえは、おまえの旅を続けねばならぬ……」 「はい」 「今日は、おまえに会えてよかった、シナン。……」  ザーティーは言った。 「わたしもです」  ザーティーは、寝床の中から、皺《しわ》だらけの手を伸ばしてきた。  シナンは、その手を握った。 「次に会う時は、アッラーの御前《おんまえ》じゃ、シナン」  それが、シナンとザーティーの交わした最後の言葉となった。  シナンと会った七日後、ザーティーは自分の家で静かにその七十六年の生涯を終えた。 [#改ページ]  第17章  神の水 [#ここから5字下げ] わたしの眼に針を刺しておくれ あの方を見てしまわないように わたしの耳に杭を打ち込んでおくれ あの方の声を聴いてしまわないように わたしの舌をその剣で切りとっておくれ あの方に愛の言葉を囁けないように わたしの心臓に杭を打ち込んでおくれ あの方にときめかないように わたしの肉の全てを御身にささげましょう しかしお許し下さい どうかどうかわたしの心だけは あの方の傍によりそわせていただきたいのです ——バークー『眼に針を』より [#ここで字下げ終わり]       1  新緑の林の中に、シナンは立っていた。  微風が、耳にかかったシナンの髪を絶え間なく揺らしている。  ちょうど、シナンの立っているところで林は終り、大地はゆるやかに草原となって下っていた。  下り終えたところが、一面の畑である。  シナンの横に、サテンの赤いカフタンを纏《まと》ったスレイマンが立っていた。  シナンとスレイマンは並んで立ち、少し離れた後方に、供の者たちが控えている。  鳥の声が、林の中に響く。  とだえることのない水音が、耳に届いてくる。 「あれを見よ、シナン」  スレイマンは言った。  あれ、というのは、水道橋のことであった。  石で造られた水道橋が林の中を通り、林を抜けたところで崩れている。その崩れた場所から、水がこぼれ出ているのである。  水道橋は、林を出て畑へ伸び、さらに向こうの森の中まで続いているが、眼に見える三分の二以上が崩れ、原形をとどめていない。  イスタンブールの郊外——キャートゥハーネ地区。  ビザンチン時代に造られた水道橋であった。  スレイマンは、ゆっくりと水道橋の方に向かって歩き出した。  シナンが、その後に続く。  水音が大きくなった。  水道橋からこぼれた水は、林の終るあたりに溜り、そこから小さな川となって畑へ下っている。  水の溜った場所に立つと、水中に魚影が動いた。  すぐ先の草の中から、セキレイが飛びたった。  ここは、野生の小動物や、鳥たちの水場になっているらしい。 「美しい……」  スレイマンは言った。 「はい」  シナンはうなずく。  確かに美しい光景であった。  こぼれた水によって大地は潤され、作物が豊かに育っている。 「あの水を、わが都まで引け」  スレイマンは言った。 「悦んで」  シナンは、迷うことなく返事をした。 「この水だけではない。さらに都の四方から、清い水を引かなくてはならぬ」 「いかほど——」 「あと六カ所ほどは必要であろう」 「マディヤンの七つの泉でござりますな」  シナンは言った。 「うむ」  スレイマンはうなずく。  マディヤン——ヤンコ・ビン・マディヤンのことである。  ビザンチン帝国時代のイスタンブール——コンスタンチノープル建設に関わった人物である。このマディヤンが、コンスタンチノープルまで、周囲から水を引き込んだ。  それが、七カ所ある。  その水場が、マディヤンの七つの泉と呼ばれていたのである。  そこへ水を引くための水道橋は、現在そのほとんどが壊れたまま放置されている。  今、シナンがスレイマンと共に眺めているものもそのひとつであった。 「わがイスタンブールは、水が足りぬ。疫病《えきびょう》を減らし、オスマンを豊かにするためには、都に溢れるほどの水が必要なのだ」 「はい」 「おまえにまかせよう、シナン。イスタンブールの周囲から、わが都にどれだけの水を引いてくることができるか、おまえが調べるのだ」 「承知いたしました」  シナンはうなずいてから、 「ひとつ、お願いがござります」 「何だ」 「ここの水ですが、こぼれている全ての水をイスタンブールに運んでしまっては、ここの地味が悪くなりましょう」 「うむ」 「さらに多くの水を、ここまで引きまする故、ここにはこれまで通り、水が流れるようはからってよろしゅうござりましょうか」 「皆まかせよう」  そして、この一件は、シナンに預けられたのであった。       2  シナンが、報告のため、スレイマンとまた会ったのは、およそ一カ月後であった。 「どうじゃ、シナン」  スレイマンは、やってくるなり、そう訊ねた。  場所は、トプカプ宮の、謁見の間であった。 「どれだけの水が、イスタンブールを潤すことになる?」  スレイマンの問いは、直截《ちょくせつ》であった。  細かいことは訊ねない。  まず、結論を知ろうとする。 「一〇〇ルレでござります」  シナンはすぐに答えた。 「ほう、かなりの量だな」 「これでも、少なめに報告いたしました。お望みなれば、さらに五〇ルレは増やすことができましょう」 「その場所は?」 「はい」  シナンは幾つかの候補地について説明をした。 「だがシナンよ、おまえの言った場所の幾つかには、これといった川がないはずだが——」  スレイマンは訊ねた。 「おお、偉大なるスルタンの中のスルタン、スレイマン様、川は必ずしも地表ばかりを流れるものとは限りませぬ。表面上はわずかの水しか見えなくとも、その地中には地上より多くの水の流れる川もござります」 「本当か」 「神にかけて——」 「神にかけるな。おまえの首をかけるか」 「もしも、わたしが都にもたらす水が、一五〇ルレより少ない場合、いつでもわたしの首をさしあげましょう」 「たいした自信だが、ここでこのスレイマンがうなずけば、その時になって取り消せぬぞ」 「わたしの申しあげることが嘘か真《まこと》か、御自分の目で御覧になれます。いつでも、わたしに命じて下されば御案内申しあげましょう——」 「では、明日ゆこう」  スレイマンは言った。  翌日——  シナンが最初に案内した川には、すでに板によって�水の道�が設置されていた。  そこを、三〇ルレの水が流れ、水はそこからさらに一〇ルレほども溢れて流れ去っている。 「これと同じ量の水をとることのできる川が、さらにふたつござります」  シナンは、ふたつめ、みっつめの川を案内した。  スレイマンは、いずれの川でも、そこで水を汲ませ、これを飲んだ。 「良き水じゃ」  そして、シナンは、さらに次の川へとスルタンを案内した。  スレイマン自身が、そこに水はないはずだと指摘した地である。 「おう」  その場所へ着くなり、スレイマンは声をあげた。  川岸に、白い、大理石の管が何本か、置かれていたからである。 「これは何か」 「水を運ぶための管でござります」 「なに!?」 「この地を試掘しておりましたところ、川底より出てまいりましたものでござります」 「川底より!?」 「これが、マディヤンの七つの泉の秘密でござりましょう」 「秘密?」 「イスタンブールは、コンスタンチノープルより数えて、すでに一千年を越える都でござります。様々なものが、この地中に埋まっております。何百年か前までは、確かに、この管によって、水が都にもたらされていたものと思われます」 「——」 「まだまだ、このようなものはいくらも見つかりましょう。これらを利用すれば、考えていたよりもずっと早く、都に必要な水をもたらすことができましょう」 「シナンよ、そなたは、はじめからこのようなものが埋まっているとわかっていたのか」 「いえ、知っていたのではござりませぬ。しかし、想像はしておりました。わたしの考えが正しければ、地中よりこういったものが現れるであろうとは思っておりました」  シナンは、淡々と言った。 「都へもたらされる水の量を、わたしは、一五〇ルレと申しあげましたが、これは、水の最も少ない秋、冬のことでござります。雪の溶ける春から夏にかけては、決して二〇〇ルレ以下になることはあるまいと思われます」 「工事は、いつから始められる?」 「いつからでも——」  シナンは答え、 「ただし、その前に、スレイマン様にはひとつの御決断をしていただかなくてはなりません」 「それは、何だ、シナン」 「この工事でござりますが、これを為すのにふたつの方法がござります」 「申せ」 「スレイマン様は、この地上では最も力のあるお方でござります。スレイマン様の御命令ひとつで、数知れぬ兵や民たちが、生命をかけてこの任務を遂行することでしょう。これが、まず、ひとつめの方法でござります」 「ふたつめは?」 「偉大なるオスマン帝国の財産から労働する者たちに賃金を支給し、これをやらせることでござります」 「考えるまでもない」 「それは——」 「我がオスマンの財を使い、これを為しとげるということじゃ」  スレイマンは、きっぱりと言った。  そして、工事は始められた。  しかし、大臣たちの中には、これに反対する者たちもいた。 「大事な帝国の財産をここで使ってしまっては、いざという時に、何をもってこの国を守ることができましょう。シナンひとりが言うだけで、この事業に見合うだけの水量が本当にあるかどうかは、やってみるまではわかりませぬ——」  しかし、スレイマンは考えを変えなかった。 「オスマンの財産は、民草ぞ。もし、シナンが間違えたのなら、シナンの首をはねればよいだけのこと——」       3  シナンの言う通りとなった。  工事が完成した時、シナンが予言した以上の清い水が、イスタンブールに供給されたのである。  この巨大都市の四〇カ所に、シナンがもたらした水場ができた。  これは�クルック・チェシメ・スラル(四〇の泉の水)�と呼ばれ、そのうちの幾つかはまだ現存しており、実際に使用されている。  このおりに建設された水道橋のひとつは�ウズン・ケメル�と呼ばれ、高さは二〇ズィラ(15・16メートル)、長さは一二二〇ズィラ(924・76メートル)もあった。�マーロワ・ケメリ�は、三重構造になっており、それぞれの階は人が渡ることのできる構造になっていた。このうちのひとつは、馬に乗っても充分通ることができ、実際に使用されてもいたのである。  高さは六五ズィラ(49・27メートル)、基礎部分の高さは一八ズィラ(一三・64メートル)はあったと言われている。 �ムデリス・ケメルレリ�は、幾つかの水道橋でできあがっている。これらの水道橋でダムに水を集めたのだ。このダムの壁の高さは、ガラタ塔と同じくらいはあったと、シナン本人が晩年に語っている。 「御苦労であった」  スレイマンは、シナンをトプカプ宮に呼んで、その労をねぎらった。 「わたくしは、何ほどのこともしておりません」  これは、シナンの本音であった。 「水は高きより低きへ流れるのが自然の理——わたしは、その水の流れる道を作ったにすぎませぬ。この自然の理を定められた神の御技《みわざ》に、わたくしは感謝するばかりでござります」  水路を作るとひと口に言っても、平らな場所に溝を掘るだけの工事をすればいいのではない。  山を削り、岩に穴を穿《うが》ち、谷を渡り、イスタンブールに届けるまでには、数多くの実測や、計算をせねばならない。  山、谷、どれもがその現場はひとつずつ特殊であり、現場ごとに新しい技術やアイデアが必要になってくる。  そのほとんどを、この男は独りでやってのけたのだ。  それだけではない。  シナンは、この工事の間中も、モスクを建て、建物を作り、橋を作り続けていたのである。  この男は、全ての時間と全ての力を、建築というひとつのことに捧げきっていた。 「これを、そなたに与えよう」  スレイマンは、自ら身に纏っていたカフタンを脱いで、シナンに歩み寄り、これを自らの手でシナンの肩に掛けたのである。 「高きから低きへ——神から人へ。水はまさしく神からの賜《たまわ》りものにござります」  シナンは言った。 [#改ページ]  第18章  スレイマニエ・ジャーミー [#ここから5字下げ] 虚無なる地より 光は放たれ 影なき糸杉は 光をまとうて煌く ヨーゼフを見し者は 手首を切りてとまどう 月はふたつに裂け そなたの頬を照らす 何ものにおいても そなたに勝るものはなく 預言者の印を身につけ 無限の才能を持つ 私の望みは 楽園の木陰で 信仰深き人々と 同じ影の下に集うことだ ——ザーティー [#ここで字下げ終わり]       1  シナンは、暗がりの中にいた。  ランプがふたつ、点されているが、充分な明るさとは言い難い。  宮殿の|謁見の間《アルズオダス》——  そこにいるのは、シナンの他には、白人の宦官《かんがん》がふたりだけだ。  無口なふたりであった。  何もしゃべろうとしない。  だから、まだ、シナンは自分が何のためにここにいるのかわからない。  しばらく前に、眠ろうと思っていたシナンのもとへ、スレイマンからの使者がやってきたのである。  急の呼び出しであった。  すぐに、宮殿までやってこいというのである。  シナンは、簡単に身仕度を調え、使者としてやってきた男たちと一緒に、トプカプ宮殿までやってきたのである。  着いてこの謁見の間に通され、そのままここで待たされているのである。  かれこれ、一時間近くは待ったかもしれない。  こういうことは、めったにない。  深夜に、呼び出されることは、これまでにもあった。  戦場で、スレイマンの天幕に呼ばれ、そこで話をしたこともある。  そういう時、スレイマンは待たせない。  すぐに用件に入る。  めったにないというのは、深夜に呼び出されて待たされるということだ。  つまり、これは、スレイマンがわざと待たせているということだ。  何故、待たされるのか。  それを考えろという意味であろう。  シナンには、想像がついている。  十日前のあの件について、スレイマンはあらためて話をしたいということだ。  自分が断ったあの件——  あの時、スレイマンは、驚くほど落胆の色をその顔に見せた。  そういう顔を、めったに他人に見せることのないスレイマンが、 「何故じゃ、シナン!?」  激しくシナンに問うてきたのである。  それでも、シナンの返事は変らなかった。  もう一度、またその話を、スレイマンはするつもりなのだ。  しかも、このような深夜に——  あの時、それを言い出す前のスレイマンの顔を、シナンはまだ覚えている。  勝ち戦《いくさ》に出かける前の顔だ。  眼に、力があった。  言葉に、力があった。  自分がこの地上の王だという自負に満ちた顔。  自分が望んで成らぬことなどこの地上にないと信じている瞳。 「シナンよ、ついにオスマンが、異教徒に対してその力を示す時が来たぞ」  自信に溢れた声であった。  そして、スレイマンは、それを口にしたのだった。 「どうじゃ、シナン」 「おそれながら——」  と、シナンは前おきして言った。 「わたしはそれを成すことができません」  そのシナンの言葉を、スレイマンはすぐには理解できなかった。  当然、できる、という返事が返ってくると思い込んでいたからだ。  その言葉が呑み込めずに、 「どういう意味じゃ」  スレイマンが問うてきた。  そして、シナンは、同じ言葉を繰り返したのである。  それから、十日、どういう話も、スレイマンからはしてこなかった。  場合によっては、あるいは死を賜ることもあるかとシナンは覚悟もしていたのである。  そして、ようやく、十日目にスレイマンから呼び出されたのである。  深夜に——  そして、待たされている。  待たされているこの時間は、スレイマンが自分に最後の猶予《ゆうよ》を与えているのだとシナンは理解している。  この間に考えよと。  考えて、決心せよと。  シナンは、それをわかっている。  そして、一時間半ほどが過ぎたかと思える頃——  入口のあたりに、手燭の灯りが動いた。  大きな、黒い人影が姿を現わした。  シナンも、顔を知っている黒人宦官長《クズラール・アー》が入ってきた。 「お待たせいたしました」  黒人宦官長《クズラール・アー》は慇懃《いんぎん》に頭を下げた。 「スレイマン様がお呼びでございます」 「はい」  シナンは立ちあがった。 「こちらへ——」  黒人宦官長《クズラール・アー》が歩き出した。  シナンは後をついてゆく。  外へ出た。  黒人宦官長《クズラール・アー》が、庭を横ぎるように歩いてゆく。  月が、空に出ていた。  ふたりきりだ。 「こちらです」  黒人宦官長《クズラール・アー》が、シナンを振り返ってそう言った時、さすがに、シナンは足を止めていた。 「ここは——」  思わずシナンは声に出して問うていた。 「ほんとうに、ここへ?」 「はい」  黒人宦官長《クズラール・アー》はうなずいた。 「ここは、ハレムです」 「はい」 「入ってよいのですか」 「はい」  黒人宦官長《クズラール・アー》はうなずいた。  シナンと黒人宦官長《クズラール・アー》が立っていたのは、ハレムの入口の前であった。  男が、このハレムの中へ入れば、即、死罪である。  王と王の子供以外の男で、ハレムの中へ入ってよいのは、男の能力を持たぬもの——すなわち宦官のみである。  この黒人宦官長《クズラール・アー》が、それを知らぬわけはない。  自分の知らぬところで、何かがたくらまれているのか。  誰かが、スレイマンの名をかたり、ハレムの中へ自分を引き入れて、それを理由に殺そうというのか。  それもおかしい。  もしも、スレイマンの知らぬところでそのようなことがたくらまれてるのだとしても、事の後には知られることになる。  首席建築家の死の真相を、スレイマンは知ろうとするだろう。  それを、スレイマン以外の誰かが隠しきれるとは思えない。  ただ、自分を殺すつもりなら、このようなややこしいことをするわけがない。  いずれにしろ、これは、スレイマンが承知のことに違いない。  もしそうなら、今さらここで自分がじたばたしても、どうにかなるものではない。  シナンは、覚悟を決めた。 「わかりました」  シナンがうなずくと、黒人宦官長《クズラール・アー》は、扉を開いた。 「どうぞ」  シナンをうながした。  シナンが先に入り、すぐに黒人宦官長《クズラール・アー》が中に入って、扉を閉めた。  また、黒人宦官長《クズラール・アー》が、先になって歩き出した。  石を敷きつめた廊下を歩き、何度も複雑に角を曲がって、黒人宦官長《クズラール・アー》は、ある扉の前に立ち止まった。  深夜であるためかそう言いきかせてあるのか、ここまで誰も人には会わなかった。 「この扉の向こうで、スレイマン様がお待ちでござります」  黒人宦官長《クズラール・アー》が言った。  シナンは、扉を開いた。       2  シナンの眼を射たのは、眩《まばゆ》い光であった。  黄金の光——  四方の壁は、青い模様の描かれたタイルで全面を覆われていた。  植物の葉、花、茎を幾何学模様にしたものだ。  唯一、赤い色が使用されているのは、天井のタイルだけである。  その部屋の中央に、黄金の玉座が置かれ、スレイマンはそこに座していた。  床は、全て、敷かれた絨毯によって覆われていた。  そして——  スレイマンの背後に、床からうず高く黄金色を放つものが積みあげられていたのである。  黄金の水差し。  黄金のカップ。  黄金の鍋。  黄金の馬。  黄金の鉢。  黄金の短剣。  黄金の皿。  黄金のスプーン。  黄金の壺。  黄金の弓。  黄金の矢。  黄金の剣。  黄金の靴。  黄金の帯。  黄金のカフタン。  いったい、幾つあるのであろうか。  百。  千。  万。  中には、黄金の上に、ダイヤやサファイアが埋め込まれたものもある。  巨大なエメラルドを幾つも嵌《は》め込んだ短剣もあった。  それらの黄金色が、シナンの眼を射たのである。  灯りは、六つ。  いずれも、蝋燭である。  その六つの炎の灯りを受けて、黄金の製品が光っているのである。  シナンは、ゆっくりとスレイマンの前まで歩み寄り、そこに片膝をついた。 「お呼びでございますか」  黄金については問わなかった。 「よく来た、シナン」  玉座に座したまま、スレイマンは言った。  ふたりは、しばらく互いの顔を無言で見つめあった。  やがて、スレイマンは言った。 「シナン、そなたは、今年で幾つになる?」 「六十二歳でございます」 「わしは、五十五歳じゃ」  スレイマンはつぶやいた。 「互いに、老いた」 「はい」  シナンが、静かにうなずいた。 「どうじゃ、シナン」  スレイマンは言った。  自分の背後に、小山の如くに積みあげられた黄金を、スレイマンは見やった。  視線をシナンに戻し、 「この黄金、全ておまえにくれてやろうではないか、シナン——」  スレイマンは言った。 「これを?」 「そうじゃ」 「——」 「これだけではない。この十倍、百倍、いや一千倍一万倍の黄金であろうと宝石であろうと、我がオスマンがそなたに用意してやろうではないか。これで、このスレイマンのためのジャーミーを建てよ」 「それなれば喜んで——」 「あの、聖《アヤ》ソフィアよりも巨大なものを」  スレイマンは言った。  沈黙があった。  シナンは、口を開かない。  ただ、スレイマンを見つめた。  スレイマンの周囲に、うず高く積みあげられた黄金が、その沈黙の中で光っている。 「お許し下さい」  シナンは言った。 「スレイマン様、それはできませぬ」  シナンは、声を喉の奥から絞り出すようにして言った。 「スレイマン様のためのジャーミーであれば、このシナン、何をおいても、生命を賭《と》しても、お造りいたしましょう。ただ、あの聖《アヤ》ソフィアより大きなものは、造ることができないのです」 「何故じゃ、シナン。あの聖《アヤ》ソフィアを凌《しの》ぐものを建てるというのは、そなたの夢ではなかったのか。そなたは、それを建てると、三十八年前、聖《アヤ》ソフィアで初めて会《お》うた時に言うたではないか」 「申しあげました」 「では、何故、それをやらぬ?」 「やらないのではござりませぬ。できないのです」 「できぬ」 「はい」 「何故じゃ」 「あの時のわたしは、無知で、まだ何も知らない子供でござりました」 「なに!?」 「聖《アヤ》ソフィア——あれは、この世の奇跡にござります。その名のごとく、�|聖なる英知《ハギア・ソフィア》�——」 「——」 「あれは、数学的に、全《まった》き建築にござります」 「全き?」 「スレイマンさま。数学とは、時も、場所も選びませぬ。いつ、いかなる時であろうと、いかなる場所であろうと、同じ式には同じ答が出てまいります。聖《アヤ》ソフィアはそういうものでござります」 「な……」 「アンテミウス、イシドロス——この両名は天才でござります」  どちらも聖《アヤ》ソフィアの建築にたずさわった建築家である。しかし、この両名は、もともとは建築家ではなく機械技師であった。  アンテミウスは、建築家ではなく、応用幾何学の専門家であった。  聖《アヤ》ソフィアは、このふたりが心血を注いだ傑作であった。  ユスティニアヌスが命じた、 「方形の建物の上に、ドームを載せよ」  という難題を、英知《ソフィア》によって解決したのである。  それまで、教会は、ストゥディオス修道院教会堂のように、聖堂は長方形——横より縦が長いバシリカが一般的で、後部が円形に張り出していた。  この方形の教会の上に、ローマ神殿パンテオンの円形ドームを載せて、まったく新しい権力の象徴を大地の上に組みあげようとしたのである。  ローマ神殿とキリスト教の融合——これは、簡単なことであった。  当時、最大のドームは、その直径だけで言うのなら、ハドリアヌス皇帝が二世紀に建てさせたパンテオンが一番であった。  ドームの内径、およそ四十三メートル。  しかし、これは、方形の建物の上に、柱によって支えられている球ではない。地面から直接たちあげられた壁によって支えられているのである。  柱によって、宙に持ちあげられた半球——そういうイメージはない。  そうでないと、それだけ巨大なドームは支えられないのである。  壁の厚さだけでも、およそ六メートル。  これだけのものによって、ドームを支えないと、ドームは崩れてしまう。  ユスティニアヌスが命じた、方形の建物の上に半円球のドームを載せるというのは、それまでとはまったく違う発想と技術が必要であったのである。  方形の建物の上に、巨大ドームを載せる——これは、ローマの長い間のテーマであった。しかし、ローマの出した結論は、 �不可能�  であった。  方形の上に、円は載らない。  円を上に載せられるのは円であるとローマは結論したのである。  ユスティニアヌスが命じたのは、このローマが不可能と言ったことを可能にせよということであった。  そして、天才数学者が選ばれたのである。  アンテミウスと、イシドロスは、これを解決した。  まず、ドームを載せる土台として、四面のアーチが必要であった。もし、理論的に可能であったとしても、この上に巨大ドームを載せたら、アーチは崩壊してしまう。  このアーチはできるだけ大きくしなければならない。しかし、アーチの大きさは、そのアーチを造る材料の重さによって決まる。材料が重くなると、アーチは崩壊してしまう。このアーチを支えるために、ふたりがとった方法というのは、土台面積六〇〇平方メートル以上の、巨大な四本の柱で、アーチを受けることであった。  そして、もうひとつ——アーチとアーチの間を埋める球面三角形——ペンデンティブと呼ばれるものを考え出したのである。  これによって、ついに、方形の壁の上に、円の土台を造ることができたのであった。  さらに、巨大なドームには、今日《こんにち》フープ応力と呼ばれている力がかかる。この力によって、ドームを支える土台や壁に亀裂《きれつ》が走ることになる。  パンテオンは、この亀裂が幾つも入っている。  このフープ応力を少なくするために、アンテミウスとイシドロスが考え出したのが、ドームに幾つもの窓を造ることであった。この窓によって、ドームを軽くし、フープ応力を小さくしたのである。  さらに、ふたりがやったのは、材料そのものを軽くすることであった。  まず、ドームに使われるレンガを、低温で焼いたのである。高温で焼かれたレンガは締まって重くなる。それを防いだのである。  次は、材料を繋いだりするのに、コンクリートではなく、モルタルを使ったことである。  砕いたレンガを粉にして、石灰、水、砂を混ぜ合わせ、モルタルを作ってこれを使用したのである。  このモルタルは、引っ張られる力に対して極めて強い。  地震に対して耐性がある。  もともと、イスタンブールには地震が多い。  その地震によって、これまでの一千年、イスタンブールでは多くの建物が倒壊したが、いまだに、聖《アヤ》ソフィアは無事に立ち続けている。  それまで、地震に強いのは、重い剛構造の巨大な建物であると考えられていた。 「実は、そうではござりませぬ」  シナンは、スレイマンに言った。 「では、どういう建物がよいのだ」 「軽い建物にござります」  シナンは、聖《アヤ》ソフィアの材料と構造について説明した。  アンテミウスとイシドロスが、発想の転換をして、これまでとは違う軽い材を開発し、それを使うことによって、巨大ドームを方形の上に載せることに成功し、かつ、地震に強い建造物としたのである。  そうして、まさに�黄金の鎖によって天国よりつり下げられた�が如きドームが、そこにできあがったのだ。  スレイマンにとっては、初めて耳にすることばかりであった。 「シナン、おまえは、それだけのことをどうやって知った——」 「スレイマン様、わたくしも、三十八年前口にしたことは、片時も忘れたことはござりませぬ」  時間があればシナンは聖《アヤ》ソフィアに出かけてゆき、計測し、計算をし、材料を調べた。  それをシナンは語った。  今、シナンは、歴史上、アンテミウス、イシドロスに継ぐ、聖《アヤ》ソフィアの理解者であった。 「聖《アヤ》ソフィアは、今なお、地上の奇跡にござります」  シナンは言った。 「それだけ、聖《アヤ》ソフィアのことを知っていながら、まだ、あれを凌ぐものが建てられぬというのか、シナン——」 「はい」 「そんなことがあるか。おまえは、常に、不可能と思われることを可能にしてきたではないか。ヴァン湖で、船を造った時も、プルット河に橋を架けた時も、水道橋を造った時もそうであった」 「——」 「どの時も、我々は無理だと考えた。しかし、どの時も、おまえは言った。できると——」 「——」 「今、初めて、おまえの口からできぬという言葉を聴いた。これまでとは逆だ……」 「はい……」  シナンは、うなずいた。 「そんなことが……」 「建築にも、石にも、決まりがあります。どれだけの大きさのアーチを作るには、どれだけの大きさの石を使うのがよいか。これは、アーチが大きければ大きいほど、その決まり事の範囲が狭くなります。わたくしは、何度も実験をくり返しました」 「実験とな?」 「ドームを造るのに、石を重ねていきますが、聖《アヤ》ソフィアのドームに使用されている以上に大きな石を重ねると、必ずある高さで、それが滑り落ちてしまうのです」 「なに!?」 「私が思いつくあらゆる方法を試してみても、アンテミウス、イシドロスがやった方法以外では、あの大きさのドームは造ることができないのです」 「しかし、パンテオンは——」 「おう、スレイマン様、あのように、土台の壁を丸く造り、その上にドームを載せるというのなら、話は別でござります。しかし、それでは、逆にパンテオンを凌ぐことはできないでしょう」 「——」 「スレイマン様、あの、聖《アヤ》ソフィアと同じものなら、このシナンが造りましょう。それは、間違いなく造ることができます。聖《アヤ》ソフィアと同じ大きさ、同じ設計、同じ材料。しかし、それに、どれほどの意味がござりましょうか——」 「オスマンは、自分では造ることができずに、異教徒の真似をしたと言われるか」 「——」 「しかし、シナン。わしの生命も、そう長くはない。我が名を冠したジャーミーを建てるのなら、今をおいて他にない——」 「そのような、お気の弱いことを——」 「シナンよ、すでにメフメットも病死した。そのメフメットをしのんでシェフザーデ・ジャーミーをおまえは建てた……」 「はい」 「駄目なのか、シナン。聖《アヤ》ソフィアより巨大なジャーミーを、我が手で造ることはかなわぬのか」 「今は——」 「今?」 「——」 「いつならできると言うのだ、シナン。いつなら——」 「わかりません」  シナンは小さく首を振った。  スレイマンに何事かを命ぜられて、わからぬとシナンが答えるのは初めてであった。  スレイマンは、ただ、シナンを見つめている。  シナンは、黙ってスレイマンの視線を受けている。  スレイマンの眼から、涙が零《こぼ》れた。  ただ、ひと筋。  すぐに、その涙は止まった。 「わかった」  スレイマンは言った。 「シナンよ、あらためて命ずる。我がジャーミーを建てよ」 「はい」 「これまで、この世になかったものを——」 「はい」 「大きさ以外は、全ての点で、聖《アヤ》ソフィアより勝るものを」 「承知いたしました」 「すでに、そなたの中に考えはあるのか」 「ござります」 「何年かかる?」 「足かけで八年——七年あれば——」 「では、造れ、シナン。その七年、なんとしても、わしは死なぬようにしよう」  スレイマンは言った。       3  その年、一五五〇年から、シナンの大傑作スレイマニエ・ジャーミーの建設が始まった。  この間、オスマン帝国は、ひとつの大きな事件で揺れた。  それは、スレイマンがもっとも愛した息子、ムスタファの死であった。  しかも、その死は、スレイマン自身の命によって下されたのである。  この当時、スレイマンには、四人の息子がいた。  ムスタファ、セリム、バヤジット、ジハンギールの四人である。  ムスタファは、ロクセラーヌ以前よりスレイマンの傍にあったギュルバハールとの間に生まれた息子であった。  ロクセラーヌの長子メフメットはすでにない。  残りの三人はいずれも、ギュルバハールを追いやって、正式の妻の座を手に入れたロクセラーヌとの間に生まれた子供である。  宮廷では、もちろん、ムスタファが次のスルタンになるものと考えられていた。  オスマンと親交のある国も、敵対する国も、 「次のスルタンはムスタファ」  そう考えていた。  ひとつには、ムスタファが、一番の年長であったからだ。  もうひとつには、すでに死んだとはいえ、イブラヒムとの約束があった。  イェニチェリもまた、四人の息子の中ではこのムスタファを一番信頼し、この人物を立てていたのである。  これは、ロクセラーヌの陰謀により、ムスタファがマニサへ行かされてからもかわりなかった。  しかし、最も大きな理由は、ムスタファの聡明さにあった。  頭がよく、決断力に富み、民からも外国の要人からもこのムスタファは愛された。  このムスタファがスルタンとなったら、オスマンに仇《あだ》なす諸国にとってはスレイマン以上の脅威となるであろうと、誰もが考えていたのである。  外国の要人たちは、ムスタファのことを�聡明者�と呼び、セリムのことを�酔っぱらい�と呼んだ。  だが、ロクセラーヌにとっては、ムスタファが、次のスルタンになることは、身の破滅を意味していた。  もしも、スレイマンが死んだ後にムスタファがスルタンになることがあれば、どういう抵抗もできまい。  自分の息子、セリム、バヤジット、ジハンギールの生命はない。  自分は、生かされるにしても、生涯旧|宮殿《サライ》の中で外に出る自由を与えられずに死ぬまでそこに暮らすことになるであろう。  そんなことがあってはならなかった。  そして、ロクセラーヌは、このムスタファを抹殺するための陰謀を、常に温め続けてきたのである。  ムスタファにとって不幸であったのは、ロクセラーヌに宮廷内で対抗できるただひとりの人物、イブラヒムがすでにこの世の人間ではなかったことである。  逆に、ロクセラーヌにとって強い味方となったのは、大宰相にして娘婿であったリュステン・パシャであった。  リュステン・パシャは、�卑賤の出であった�——と史料にある。  その史書は、子供の頃は豚飼いであったと記している。  金と権力を手に入れるため、この人物は可能な限りのことをしたのである。  ヴェネツィア大使ベルナルド・ナヴァジェロは書いている。 「彼に多くを与える者たちを、彼は重視した」 「金で何でも望むことをさせることができた」 「スルタンの庭園に生えた薔薇やすみれさえ売り、捕虜の甲冑《かっちゅう》と馬を売却するために取っておかせた」  背は、低かった。  顔色は、紫色に見えるほど黒く、容貌は醜《みにく》かった。  しかし、その記憶力は驚異的であったという。  彼は、イブラヒムの死後、それ以上の財産をその倉に溜め込んだと言われている。  もっとも、その財産によって、多くの街にジャーミーを建て、ワクフを設立し、シナンもそのうちの幾つかには関わっている。  このリュステン・パシャとロクセラーヌは、常にムスタファを亡きものにする機会をうかがっていたのである。  その機会が訪れたのは、一五五二年のことであった。  一五五二年、またもや、オスマンはペルシアと戦うことになったのである。  スレイマンは、リュステン・パシャを総司令官《セル・アスケル》に任命し、アナトリア高原に向かわせた。  遠征軍は、トルコ南部のカラマニアを冬営地とし、リュステン・パシャはこの地に軍を止《とど》めた。  この地で、陰謀が企てられたのである。  リュステン・パシャは、イスタンブールに、シパーヒーの長官《アー》シェムシーを派遣した。  そして、スレイマンに対して次のように言わせたのである。 「ムスタファ様にはご謀叛の疑いがござります」  スレイマンは、最も信頼する長官《アー》のひとりであるシェムヒーに、このように言われ、動揺した。 「どういうことだ」 「このたび、遠征にスレイマン様が加わらなかったことで、兵の中にスルタンを軽んずる者たちが増えております」  これが、現スルタンであるスレイマンを廃して、ムスタファを立てようとする動きに繋がっているのだとシェムシーは告げた。 「ムスタファ様、この動きに同調している御様子にござります」  さらにシェムシーは、スレイマンの心に毒を注ぎ込んだ。 「ムスタファ様、どうやら、ペルシアと内通しているとの噂でござります」  まだイブラヒムが生きている頃のスレイマンであったら、耳はかさなかったであろう。  冷静に考えれば、次のスルタンたるムスタファが、どうして、自分をスルタンにすると言っている父のスレイマンに対して謀叛を企てねばならないのか。  だが、スレイマンは、それがわからなかった。  イスタンブールの宮廷では、リュステン・パシャと繋がっているロクセラーヌが、日々、スレイマンの心に毒の種を蒔いている。  すでに、スレイマンには、心を許して話のできる人間が近くにいなくなっていた。 「リュステン・パシャを呼びもどせ」  ペルシアとの交戦をさせずに、遠征軍をイスタンブールに呼びもどし、翌一五五三年夏、スレイマンは、自ら軍を率いてカラマリアのエレイリに陣を敷き、そこに出頭するよう、ムスタファに書簡を送った。 [#ここから1字下げ]  彼(ムスタファ)は、糾弾されている罪に対して身の潔白を示すであろう。彼が出頭するなら恐れるべきことは何もない。 [#ここで字下げ終わり]  その書簡にはこのように書かれていた。  ムスタファを死に追いやったのは、ムスタファ自身の類希《たぐいまれ》なる人間的特質であった。  それは、勇気であり、決断力であり、高潔さであった。  ムスタファは、かつて聡明であった父スレイマンを信じたのである。  会って話をし、理と誠意をもって語れば、必ずや疑いは晴れるであろうと考えたのである。  ムスタファは、実の父に命ぜられたとおり、エレイリにやってきて、単身、父の待つ本陣に入っていったのである。  天幕の中に入った途端、四方の幕が上がり、無言で、武器を持った男たちが入ってきた。  誰にもことを語ることのない、舌のない者——唖者たちであった。  彼らを見た瞬間、ムスタファは全てを理解した。  父スレイマンは、初めから自分を殺すつもりであり、自分の話など聴くつもりはなかったのだということを。  取り押さえられたムスタファは、叫んだ。 「哀れなり、御父上。これほどまで愚鈍なるスルタンとなられたか!!」  ムスタファの哀しみと怒りは凄まじかった。 「おのれ、ロクセラーヌ!!」  ムスタファは叫んだ。  この叫びが、外にいるはずのイェニチェリたちの耳に届けとばかり大声をあげた。  もしも、この時のムスタファの叫びが、イェニチェリたちの耳に届いていたら、その瞬間にイェニチェリたちは蜂起《ほうき》したであろう。イェニチェリは、ムスタファの味方である。  あるいは、もしも、イェニチェリたちが指揮者と仰ぐ人物がここにいたら、彼らは立ちあがったであろう。  ムスタファを助け、スレイマンを殺して、新しいスルタンがそこで誕生したであろう。  しかし、ムスタファの声は、天幕の外まで届かなかった。  もしものことを考えて、スルタンは、騒ぎが外に漏れぬよう、天幕の外に、もうひとつ幕を張りめぐらせて、声を塞ぎ、声を聴く者の耳を遠ざけていたのである。  そして、イェニチェリを指揮するべき人間もいなかった。  それでも、ムスタファは、一度は、唖者たちの手を振りほどいた。  そして、唖者たちと闘ったのである。  しかし、すぐに、唖者たちに取り押さえられ、引き倒された。  仰向けにされ、四人の唖者たちに手足を押さえつけられた。 「父上、父上、眼を醒まされよ」  そう叫んでいるムスタファの喉が、ひと息に掻き切られた。  こうして、ムスタファは死んだのである。  それを、父であるスレイマンは、天幕の隙き間からずっと見つめていた。  これを知ったイェニチェリたちは、怒った。 「これは、ロクセラーヌとリュステン・パシャの企みである」  スレイマンにそう詰めよった。  スレイマンが、イェニチェリたちをなだめるためにしたことは、リュステン・パシャを大宰相の地位からはずすことであった。       4  死んだムスタファには、ムラドという息子がいた。  ロクセラーヌの目的は、ムスタファの血統の根絶やしである。  彼女は、何ごとにも徹底していた。  情をかけない。  自分が生き残るために、このムラドも死に追いやった。 「ムラドは、父ムスタファの仇《かたき》を討つため、イェニチェリを蜂起させようと企てております」  ロクセラーヌは、スレイマンに言った。  スレイマンは、もう、それを事実かどうか確認しようともしなかった。  ここまできたのなら、もう、ムラドを亡きものにするしかないのはよくわかっていた。  すぐに、ムラドの元へ、使者が送られた。 「スルタンは、あなたがただちに死ぬことをお望みです」  使者は、そう告げた。 「わかった」  ムラドはうなずいた。 「しかし、わたしが死ぬのは、スルタンの命によるのではない。神の命に従って、わたしは死ぬのだ」  そして、ムラドは、自ら喉を剣で突いて死んだのである。  そして、そのすぐ後、ロクセラーヌの四番目の息子、スレイマンの愛したジハンギールも死んだ。病死と伝えられたが、二番目の息子であるセリムをスルタンとするため、ロクセラーヌが毒を盛ったのだとも噂された。  メフメットは、すでにこの世にない。メフメット亡きあと、ロクセラーヌが一番愛したのが、セリムであり、セリムをスルタンにするためには、ジハンギールが邪魔だったからであると。  もしそうなら、スレイマンが、皇太子としてジハンギールを指名する前に、その生命を奪っておくことが必要であった。  セリムが、いずれスルタンになれば、ジハンギールは死なねばならない。  三番目の息子のバヤジットは、史書によれば、 �不具�  であり、 �万が一にもスルタンにはなれぬ人物�  であったために、この時殺されずに済んだのだろうと言われている。  ともあれ、シナンが、スレイマニエ・ジャーミーを建設している最中に、このような事件が起こったのである。       5  ジャーミー(モスク)の始まりは、六二二年である。  イスラムの預言者ムハンマドが、その年メディナに移った時、信者たちが集まって祈る適当な建物がなかった。そこで、ムハンマドの家が、その祈りの場所となった。  それで、ムハンマドの家が「|ひれ伏す場所《マスジド》」とアラビア語で呼ばれるようになった。このマスジドが訛《なま》って、モスクとなったのである。  一五五七年に完成したスレイマニエ・ジャーミーは、シナンの数ある作品の中でも、傑作中の傑作であった。  それまでシナンがやってきた仕事の集大成と言っていい。  ロクセラーヌの依頼を受けて建てたハセキ・キュリィエをさらに発展させたものを、このスレイマニエ・ジャーミー建設でやってのけたのである。  その街は、スレイマニエ・ジャーミーを中心として、金角湾を望む小高い丘の上に建てられた。  学校、病院、食堂、公衆浴場《ハマム》、|隊 商 宿《キャラバン・サライ》が併設された、巨大な複合建築《コンプレックス》であった。  その全てを合わせれば、ドームの数は四百を超える。  その中心に、スレイマニエ・ジャーミーが聳《そび》えている。  スレイマニエ・ジャーミーの中央ドームの直径は、二十六メートル。  聖《アヤ》ソフィアに比べれば、五メートル小さいが、それでも、それまでオスマントルコが産んだドームの中では最大のものとなった。  スレイマニエ・ジャーミーにあるドームの数だけでも、五〇を超える。  海に生じた無数の大小の泡が、天に向かって盛りあがり、重なり合い、中央の巨大ドームを宇宙に浮きあがらせている。  どこから眺めても美しい。  四本の尖塔《ミナレット》が、ジャーミーを囲み、聳えている。  シナンは、自ら住む家を建築現場に建て、わずかの時間も惜しんでこの作業に当たった。  ジャーミーの中心施設だけでも、広さは三万五〇〇〇平方メートル。これに、周辺の病院や学校などの施設を加えると、その広さはさらに増える。  ここで、ひとつ、特筆しておきたいのは、まるでシナンがオスマントルコの首席建築家となるのと呼応するがごとくに、この時代のトルコに様々な才能や技術が開花したことである。  代表的な例を挙げれば、それはイズニックのタイルである。  シナンの建築物を様々に飾ったタイルのほとんどは、イズニックで造られたものであった。緑、紫、青、赤、白、黒といった絵具で下絵を描き、それに透明な釉薬《うわぐすり》を塗って焼くといった新しい技法が開発されたのもこの頃である。  しかし、このイズニックタイルの盛期は、シナンの時代のほんの二十数年間だけであった。  その後、もののみごとに多くの技術がすたれてしまったのである。十七世紀の初頭に三〇〇人いた職人は、一六四八年にはわずか九人になってしまっていた。  その理由は、職人たちが、その技術を自分だけのものとして、弟子に伝えぬままこの世を去ってしまったためであろうと言われている。  現在、イズニックでは、研究者がなんとか当時の技法で当時の色を出そうと色々と試みているのだが、チューリップの赤だけが、なかなかまだ再現できないのだという。  その他、ステンドグラスを作る技術や、象嵌《ぞうがん》細工の職人たちがいた。  日本と中国には、文字を芸術にまでした�書�というものがあるが、オスマントルコなどのイスラムにも、文字を芸術として描く�| 書 法 《カリグラフィー》�が存在する。  イスラムでは、極端に偶像を廃したため、寺院を飾る�絵�に人や動物が登場しない。そのため、発達したのが、文字を芸術として描く書法や、多くの幾何学模様である。  植物をモチーフとした幾何学模様や書は、多くのジャーミーを飾った。  これらの書や、幾何学模様は、多くの才能によって、限られた制約の中で生み出されていったものであり、生み出した人間が極限まで自分の感情や感性を高め、それを昇華して形にしていったものである。西洋で言う絵画の職人——画家たちが有していたのと同等の芸術性と情熱がそれに捧げられたのである。  書で言えば、オスマントルコで最大の才能を持った書家、アフメド・カラヒサリーと、ハサン・チェレビーもこの時代の人間である。  アフメド・カラヒサリーは、シナンのスレイマニエ・ジャーミーの多くの場所をその書で飾っている。  サーカシア出身のハサン・チェレビーは、大ドームの天井に、 「神は天国と地上の光である」  という『コーラン』の一節を書いている。  ステンドグラスの天才職人、サルホシュ・イブラヒムも、スレイマニエ・ジャーミーを飾ったステンドグラスを製作している。  それについては、シナン自身が、 「比類なき天使の羽のように様々な光によって色を変え、常に春の庭の美しさを表現していた」  と語っている。  天才詩人、バーキーは、すでにこの時、名をなしつつあった。  奇跡の時代であった。  そのあらゆる才能、技術を、シナンがひとつのジャーミーに集結させたのである。  スレイマニエ・ジャーミーの扉は、黒檀《こくたん》に象牙と貝真珠で象嵌細工が施された荘厳なものであった。  ジャーミーの扉は、神の国への入口であり、特に念入りに作られたのである。  聖なるメッカの方角を示すミフラブは、灰色の大理石で作られ、緑と金のカリグラフィー(書法)で装飾され、その両側には、細くて高い優美な大理石の円柱が立てられた。  ミフラブの横には、説教壇《ミンバル》が作られた。これには、繊細な緑と白の模様の彫刻が施された。  シナンが、このスレイマニエでやった新しい試みは幾つかあるが、そのひとつは、壁に一三三個の素焼きの甕《かめ》を埋め込んだことであった。  これによって、イマム(導師)の声や祈りの声が、ドーム内に大きく反響し、よく通るようになった。  シナン自身が語っている。 [#ここから1字下げ]  イスラムの信仰の庭において、天空を指すが如き人工の木々、つまり聖エブベキル、聖オメール、聖オスマンと聖アリを象徴する四本の大理石は、それぞれ別々の場所から運ばれてきたものである。  この中のひとつはイスタンブールのクズタシ地区にあったもので、太古の昔にひとりの乙女によって立てられたと伝えられているものであった。故にクズタシ「乙女の石」と呼ばれていた。ひとつの岩からできているこの柱は、それだけでミナレの高さがあった。  地上のよりどころであるスルタンの命により、「ビュク・カルヨン」と呼ばれる柱が立てられ、幾重もの足場が組まれ、人体程の太さの綱が鉄の滑車に縛り付けられた。横たえられた柱は帆柱によって補強され、二カ所で人間の胴程もある綱で縛られ、鉄の滑車が結び付けられた。  それから千人にものぼる見習イェニチェリと千人以上のキリスト教徒捕虜の努力により、柱は、 「アッラー、アッラー」  の掛け声の中、建設現場まで持ってこられた。  運搬作業が終ると生贄が捧げられ、貧しい人々に配られた。スルタンの命により、柱の余分な部分は切断され、適当な長さにされた。  モスクに必要な四本の大柱の二番目は、イスケンデリエから船で、三番目はバアルクから海岸まで運んでからイスタンブールまで船で運ばれた。  四番目の柱はトプカプ宮殿にあったものだ。  モスク建設に必要な白い大理石はマルマラ島にある大理石切り出し場から持ってこられた。  緑の大理石はアラビアから、赤い濃淡の大理石は各地の石切り場から入手した。  誠にこれらの大理石は比類ない程に美しく、眼から流れ落ちる涙ほどに価値が決めがたい宝石のようなものであった。  モスクにおける芸術作品である扉の「キュンデキャーリ」の部分はアバーズ材から作られ、必要な個所は貝細工で飾られた。誰もが称賛した美しい飾りは、名のある職人たちから未来への贈り物である。これらと比較できるものは、過去にも将来にも無いであろう。  モスクのドームは海面を飾る波のようであった。大きなドームは天空の下に描かれた絵画を連想させた。このドームとミナレは、あたかもイスラムのドームとしての愛すべき預言者と彼の四人のともを象徴していた。 [#ここで字下げ終わり]       6  首席建築家の下には、ハサス・ミマルと呼ばれる建築家集団がいた。  一五二六年には、ハサス・ミマルの人数は十八名であったが、その二年後の一五二八年には十四名に減少している。  ハサス・ミマルの人数は、時代によって違うが、明らかであったのは、それを構成する人間の中に、かなりの異教徒がいたということである。  一五八二年の記録によれば、十七名のハサス・ミマルのうち、半分以上の九名までがイスラム教徒ではなかった。  これには、シナンの影響が強いと言われている。  シナン自身が、もとキリスト教徒であり、イェニチェリによって、イスラムに改宗した人間である。このことが、ハサス・ミマルを選ぶ時に作用した。  ムスリムでなくともよい——技術と才能を優先する人選が行われたということだ。  現に、シナンは、スレイマニエ・ジャーミーを造る時には、アルメニアから人を呼んで現場監督としている。  このハサス・ミマルの下に、木工事、石工事の親方たちがおり、助建築家、修復建築家があって、さらにその下に、壁職人、石職人、大理石職人、大工、足場職人、左官職人、タイル職人、絵描き職人がいた。  その下にも、道路工職人、鍛冶屋職人、ガラス職人、瓦職人、鉛職人たちがいたのである。  不思議なことがある。  それは、シナンが四〇〇に余る建築作品をその生涯に手がけておきながら、その図面が、ただの一枚も残っていないということだ。  もっとも、これは、シナンが五十歳になってからのことであり、四〇〇と言えば、毎月ひとつの建物を手がけていたことになる。  この全てに、シナンが図面を描いていたとは思えない。  だからと言って、図面のないことの理由にはならず、研究者によっては、模型を作ってそれを図面のかわりとしたのだろうとする者もいるが、その模型を作るにしても図面は必要であろう。  トプカプ宮殿の資料によれば、スレイマニエ・ジャーミーや、セリミエ・ジャーミーなどは、ほとんどの資料が残されている。  石工職人への指示、大理石の張り方、職人たちの給料、材料費からその運送費まで細かく残っているのに、図面だけが、これまでただの一枚も発見されていない。  シナン存命中は、月に一〇を数える建築家としてシナンの関わった建物が、並行して建てられていたのだが、それらのどの一枚も残っていないというのは、なんとも不思議なことである。  もっとも、トプカプ宮殿の歴史資料のうち、公開されているのは、まだ全体の百分の一程度であり、あるいはその残りの百分の九十九の中から、シナンの図面が出てくる可能性はあり得よう。       7  スレイマニエ・ジャーミー建築中の逸話が、幾つか残されている。  今となっては、事実かどうか確かめようのない、古代であれば伝説となるような類《たぐい》のものであるが、それを紹介しておこう。  エジプト、あるいは周辺諸国から、多くの財宝が贈られてきたというのである。  夥《おびただ》しい量の黄金、宝石、金——スレイマニエ・ジャーミーを造るのには金がかかるであろうから、費用の足しにしてもらいたいという意味の献上品であった。  スレイマンは、これを聴いて、 「わしもみくびられたものよ」  世界中の財宝の三分の一を有していたと言われる男は、鼻の先で笑った。 「埋めてしまえ」  送られてきた全ての財宝を、スレイマニエ・ジャーミーのドーム直下の床下に、埋めてしまったというのである。  もうひとつは、シナンに関わるものである。  敵国ドイツから、船荷が届いた。  巨大な大理石である。  ドームを支える柱に利用してもおかしくないほど立派なものである。  その大理石を、現場でシナンは凝《じ》っと眺めた。  むろん、ドイツから直接届いたものではない。  シナンは、大理石を、指で叩いたり、撫でたりしている。 「どうやって届いたのですか」  シナンは問うた。 「フィレンツェ、ヴェネツィアを経由して船でイスタンブールまで」 「ふむ」  と腕を組んでいたシナン、何か思うところがあるらしく、 「槌《つち》と鑿《のみ》を——」  そう言った。  渡された槌と鑿を手に取ったシナン、鑿を石の一部に当て、槌で叩いた。  その瞬間、ひとつのものだとばかり思っていた大理石が、ばかりとみごとにふたつに割れた。その巨大な大理石は、一度、ふたつにして、また張り合わせたものであったのである。  割れた面の一方に、キリスト教のシンボルである十字が彫り込まれていた。 「どうしてわかったのですか」  シナンの弟子は訊いた。 「叩いてみれば、音が違うのでね」 「しかし、こんなことが」 「できる人物を、わたしはひとりだけ知っているよ」 「誰ですか、それは?」 「遠い昔に、ヴェネツィアで会ったお方だ」 「名前は?」 「ミケランジェロ・ボナロッティ……」  ドイツが、ミケランジェロに依頼したのか、それとも、どこへ届けられる石であるかを知ったミケランジェロが、勝手にやったのか。 「あの方が、わたしを試されたのだろう。スレイマン様のジャーミーを建てるにふさわしい人間かどうかをね」       8  そして、一五五七年、スレイマニエ・ジャーミーはできあがった。  そして、初めて、オスマンは、イスタンブールに聖《アヤ》ソフィア以外の中心を得たのであった。  式典が行われたのは、晴れた日であった。スレイマンはもとより、ロクセラーヌと、その息子セリム。  リュステン・パシャを始めとする宰相たちや多くの高官が出席した。  シナンは、ジャーミーの正面扉を開けるための鍵を手に持ち、それを、スレイマンの手に渡した。  スレイマンが、その鍵で、ジャーミーの扉を開くのが、この式典のクライマックスである。  鍵を受け取ったスレイマンは、スレイマニエ・ジャーミーを見上げた。  美しい球が、青い空の中にそびえている。  悠々と雲が動いている。  視線をもどし、周囲の者たちを振りかえって、この地上の王は言った。 「皆の者、この偉大なるジャーミーの扉を開けるに、真にふさわしい人物は誰であろうか——」  答える者はない。 「この扉を開けるのに、最もふさわしい人物は誰か」  スレイマンは、もう一度言った。 「偉大なるスルタン、スレイマン様。それは、誰も口にできませぬ」  そう言ったのは、ロクセラーヌであった。 「わたくしが、代りにそれを口にしてよろしゅうございましょうか」 「かまわぬ、申せ」 「それは、シナンをおいて、他にござりませぬ」  きっぱりと、ロクセラーヌは言った。  ロクセラーヌは、シナンを見て微笑した。 「よう言った」  スレイマンは、鍵を持って、ゆっくりとシナンに歩み寄り、 「わしは、そのふさわしい人物にこの鍵をゆだねよう。これは、アッラーの御心《みこころ》である——」  そう言って、シナンにその鍵を渡した。 「開けよ、シナン」  スレイマンは言った。 「アッラーの宿りしこの家は、心からの祈りと共に、おまえの手によって開けられるのがふさわしい」  シナンは、鍵を受け取り、そして、その最初の奇跡の扉を開いたのであった。 [#改ページ]  第19章  巨星|墜《お》つ [#ここから5字下げ] 嗚呼 汝野望と栄光の網のうちに捕われし者よ 休息を知らぬこの世の事どもに いつまでとてか情熱を抱き続けるのか。 ハンガリーの不信者ども 彼の赫々たる剣の前に頭を下げ フランク人どもは 彼の刃の鋭利さを思い知りたり。 陽は昇りたるに 世界の王は眠りより醒めずや。 天のごときその幕舎より出で来たらずや。 われらが眼《まなこ》は道の上を探し求むるも 栄光の宿りたる玉座の方よりの便りは空し。 顔色は生気を失い 唇は乾き 彼は横たわれり 樹液を奪われし薔薇のごとく。   スレイマンへの悲歌——バーキー [#ここで字下げ終わり]       1  シナンが、スレイマンと最後に会ったのは、一五六六年の四月末のことであった。  スレイマニエ・ジャーミーを建ててから、九年が経っていた。  夜——  海を望む、トプカプ宮の一室であった。  灯りは、ランプの炎がひとつだけである。  この地上の王は、疲れきった顔で、玉座に座していた。  シナンのための椅子が用意されていた。  普通は、スレイマンと会う時に、臣下の者が座すことはない。  宴の席で、共に座すことはあっても、それは絨毯の上でのことだ。  椅子に座すことはない。  木製の椅子——  シナンが、途方にくれていると、 「座るがよい」  スレイマンが言った。 「しかし……」  シナンが座りかねていると、 「かまわぬ、座れ」  スレイマンにうながされ、ようやくシナンはそこに腰を下ろした。  灯りの下でさえ、スレイマンの顔色はよくなかった。  シナンが座すと、スレイマンは、沈黙した。  長い沈黙であった。  やがて—— 「あれは、素晴らしいできであった……」  スレイマンは、独り言のようにつぶやいた。 「スレイマニエのことだ」  スレイマンは、自分の言葉に言い添えた。 「夾雑物《きょうざつぶつ》が、何もない。何もないのに、神が居る……」 「——」 「あれほどよく、神の見える場所があろうか——」 「ありがとう存じます」 「なんと純な、なんと美しい光と空間に満たされている場所であろうか」 「——」 「大きさでは、およばずとも、確かにおまえは、あれで聖《アヤ》ソフィアを超えたのだ」  スレイマンは、そうしゃべっただけで少し疲れを覚えたのか、呼吸を整えるようにまた沈黙した。 「だが、依然として、まだ聖《アヤ》ソフィアは偉大である……」 「はい」  シナンはうなずいた。 「シナンよ、聖《アヤ》ソフィアは、そなたが造ったスレイマニエより不完全でありながら、まだ偉大だ……」 「——」 「このスレイマンは、いや、オスマンは、これまで多くの敵を打ち倒してきたが、あの聖《アヤ》ソフィアだけは打ち倒せなかった」 「——」 「どうじゃ、シナン。今、わしが命ずれば、あの聖《アヤ》ソフィアより巨大なジャーミーを建てることができるか」 「いいえ」  シナンは、小さく首を左右に振った。 「正直な男だ。こういう時には、嘘でもできると言うものだ」  スレイマンは微笑した。 「しかし、方法はあります」  シナンは言った。 「何!?」 「壁を使わずに、柱のみで、あの神の球《きゅう》を天に持ちあげることができると思います」 「本当か——」 「ベシクタシのジャーミーで六角形の壁から球を支え、その後にカラ・アフメット・パシャのジャーミーで、全ての壁から独立した柱のみで球を支えることができました。あと、ひと息でござります——」 「そうか」  スレイマンは、うなずき、 「そうか……」  もう一度、今度は、自分に言い聴かせるようにうなずいた。 「シナン——」  スレイマンは、愛おしそうにシナンを見つめ、 「おまえに、もう一度、機会を与えようではないか」  そう言った。 「機会?」 「そうじゃ」 「何の機会でござりましょう」 「今一度、あの聖《アヤ》ソフィアを超える大きさのジャーミーを造る機会じゃ」 「——」 「いくら、おまえが、よい方法を考えついたとて、わしが生きている間は、このスレイマンの名を持つジャーミーをまた建てるわけにはゆくまいよ」 「——」 「わしが死ねば、次のスルタンのために、おまえは望むものを作ることができるであろう——」 「何をおおせになられるのです」 「我が生命、もう、そう長くはない」  スレイマンは、シナンを見やり、 「幾つになった?」  そう問うた。 「七十八歳にござります」 「わしは、七十一歳じゃ……」 「——」 「お互いに歳をとったものだ……」  スレイマンは、視線を窓に向けた。  暗い海が、窓の向こうでうねっている。  月が、上から海を照らしている。 「わしの一生は、栄光に満ちた、しかし、罪深いものであった……」 「——」 「わしは、我が父を亡きものにし、イブラヒムを殺し、そして、我が子ムスタファまで殺した」  スレイマンの眼から、涙がひと筋、こぼれた。 「ムスタファの喉が切られる時、わしは、それをこの眼で見た……」  シナンに、言葉はない。 「ロクセラーヌは悪くない。あれはあれで、生きるに必死であったのだ。愚かであったのは、このわしただ独りじゃ……」  今は、もう、スレイマンが口にしたロクセラーヌもこの世の人間ではない。  スレイマニエ・ジャーミーが完成した翌年、ロクセラーヌは病でこの世を去っている。  五十三歳の生涯であった。 「スレイマン様」  シナンは言った。 「何だ」 「これまで、申しあげねばならぬと思いながら、ずっと口にできなかったことがございます……」 「口にできなかったこと?」 「はい」 「申してみよ」 「イブラヒム様のことでございます」 「何?」 「わが友、ハサンから聴かされたことでござります」 「——」 「イブラヒム様、御最期のおり、こう申されたそうでござります。我が生涯、楽しかったと……」 「楽しかったと?」 「そのようにスレイマン様にお伝えしてくれとハサンに——」 「イブラヒムが……」 「はい」  シナンがうなずいた。  スレイマンは沈黙した。  スレイマンの頬に、涙が伝った。 「遠い話じゃ……」  スレイマンは言った。 「よく言うてくれた。今、その話を聴けて、わしは嬉しい……」  スレイマンは、涙を袖でぬぐった。 「ハンガリーにゆくことになった……」  ぽつりと、スレイマンはつぶやいた。 「ハンガリー?」 「うむ」  ハンガリーとの戦《いくさ》が、また、始まっていたのである。  そして、この十年、スレイマンが軍を率いて遠征したことはなかった。  多くのムスリムや、イェニチェリたちは、そのことでスレイマンを非難していた。  マルタでの敗北があった直後であり、今度ばかりは、遠征へ出なければならない事情にスレイマンはあった。 「スルタンと言えども、思うようにできるというものではないのだ。そなたが、そなたであるように、このわしも、神のおぼしめしによってさずかったスルタンという役をまっとうせねばならぬのだ。それが、どれほど、悲しみに満ちたことであろうとな——」 「——」 「シナンよ、そなたに出会えて、わしは本当によかった。できることなら、もう少し生きて、やがてそなたが聖《アヤ》ソフィアを超えるジャーミーを建てるのをこの眼で見たかった……」  スレイマンの声には力はない。  シナンは、スレイマンを祈るような眼で見つめた。 「我が生あるうちに、おまえに、造らせたかった」  スレイマンの言葉が終わるまえに、シナンは口を開いていた。  しかし、言葉が出ない。  声をつまらせ、口を閉じてから、また唇を開いた。 「できますとも。御命じ下され。あの聖《アヤ》ソフィアを超えるものを、ただちに造れと。このシナンに御命じ下され。このシナンが、作ります。明日から作ります。必ず作ります。このわたしに、御命じ下され」  叫んでいた。  思いがけず、シナンの眼から涙が溢れ出ていた。 「初めて、嘘をついたな、シナン……」  スレイマンは言った。 「できぬことは、口にしなかったおまえが……」 「できます。できますとも。その土地も、捜させております。候補地もあります。どうか、どうか——」 「よい、シナン」  スレイマンは微笑した。 「そなたを、得たことは、このスレイマンの、いや、わがオスマンの歴史にとって、僥倖《ぎょうこう》なことであった……」 「——」 「そなたとは、もう、会えぬであろう。遠征先で、この身は果つることになろう」 「——」 「さらばじゃ、シナン。五日後には、イスタンブールを出る。その前に、おまえに会って話をしておきたかった」       2  スレイマンは、五月一日に、イスタンブールを発《た》ち、その言葉通り、遠征先の天幕の中でその生涯を終えた。       3  スレイマンの最期の様子を、少し記しておこう。  この当時のスレイマンの肖像画が残っているが、髪には白いものが混じり、頬はくぼみ、猫背で痩身であった。  かつての壮麗王の面影はない。  遠征中、スレイマンは馬車で移動した。  すでに、騎馬するだけの体力がなかったのである。  さらに、スレイマンは、痛風を病んでいた。  悪天候で、川が増水し、架橋したが、した途端に橋は流された。  すでにシナンは、その場にはいなかった。  ダニューブ河を渡り、ゼムンに入城した時には、スレイマンは疲れきっていた。  八月五日、セゲド到着。  そして、一カ月後の九月五日に、スレイマンは、自軍がギューラを占領したことを知らずに、幕舎の中で死んだ。  医師と、大宰相であったソコルル・メフメット・パシャのふたりだけが、その臨終に立ち合った。       4  スレイマンの死後、その後を継いだのはセリムであった。  他に、候補はなく、セリムはオスマンの悪習である兄弟殺しをすることなく、スルタン・セリム二世となった。  スレイマンの遺骸《いがい》は、シナンがスレイマニエ・ジャーミーの傍に建てた廟《びょう》に葬られた。  イスラムの慣習通り、きわめて簡素な葬儀であった。  ムスリムの墓は、それがたとえスルタンであろうと、死者の亡骸《なきがら》を最後の審判まで留めおく仮の宿にすぎない。  この偉大な、しかし哀しみに満ちた生涯を送ったスルタンの墓のすぐ近くに、彼が愛したロクセラーヌの墓がある。 [#改ページ]  終 章  チューリップの丘       1  シナンは、杖を突きながら歩いていた。  ゆっくりとした足取りで、その丘を登っていた。  丘は、一面のチューリップ畑であった。  赤いチューリップ。  その色に丘がまるまる埋ずもれている。  その丘の赤い半球の上に、大きな青い空がある。  その蒼穹《そうきゅう》に、風が吹いている。  白い雲が動いている。  長く伸びたシナンの白髪と、顎髭《あごひげ》を、同じ風が揺らしている。  ただひとりであった。  途中、何度も歩を止めては、空と、赤色に埋もれた大地を見やり、風を呼吸した。  エディルネの街は、すでに眼下にある。  シナン——  八十歳。  チューリップ畑の中を、道はゆるゆると登っていた。  急坂ではない。  どうということはない坂だ。  昔なら、走るように登ることができた。  八十歳になると、さすがに走っては登れないが、そのかわりに坂の登り方はわかってきた。焦らない。  ゆっくりと。  自分の速度で。  生き方と同じだ。  立ち止まって、風の中でエディルネの街を見下ろした。  いい街だ。  家壁のレンガの色が重なりあって、遥か向こうまでそれが続いている。  杖を握った右手を見る。  太く、長い。  そして、節くれ立っている。  かつて、このような指をした人物に会ったことがあるのを、シナンは思い出していた。  いつであったろうか。  歳をとると、昔のことを思い出すのが億劫《おっくう》になる。  もう、四十年近くも昔のことだ。  ヴェネツィアで会った人物。  ミケランジェロ・ボナロッティ——  フィレンツェの彫刻家にして、建築家。 �仕事をしなさい、シナン�  あの、重々しく、よく通る声が、ふいにシナンの耳に甦った。 �その仕事が、きみを救うだろう�  仕事か—— 「仕事をしていますよ、ミケランジェロ……」  シナンは、小さくつぶやいた。  風が、その言葉を蒼穹にさらってゆく。  スレイマニエ・ジャーミーを建てる時には、ミケランジェロから、思いがけない贈りものまでもらってしまった。  そのミケランジェロも、今はこの世にいない。  九十歳か、九十一歳まで生きたか。  仕事をして、仕事をして、そして、二年ほど前に死んだと耳にしている。  たしか、ローマに大聖堂を建てようとしていたのではなかったか。  その志の半ばで、ミケランジェロも逝った。 �人は、いつ死ぬにしろ志半ばで死ぬのだよ�  ミケランジェロの声が、風の中に響く。 �あなたの神はどういう神なのかね� 「わたしは、ようやく、神をこの手に捕えることができそうです」  シナンは、そうつぶやいて、また歩き出した。  神を捕える——  それが、キリスト教の神であろうと、イスラムの神であろうと、シナンにはもうどちらでもよかった。  その神を、どのような名で呼んでもよい——  シナンは、すでに、その認識に達している。  どういう名で呼んでもよいのであれば、それをアッラーと呼ぶのでもよい。  神に固有の名を与えるのは、ある意味ではそれは、神を偶像化することではないかとシナンは思っている。  神を、この世に現わすには、偶像化はふさわしくない。  どのような姿に似ていてもいけない。  それが、人の姿であろうと、動物の姿であろうと、植物の姿であろうと。  どうすればいいかは、シナンにはもうわかっている。  はっきりとわかっている。  そして、それを現わす技術も自分は身につけている。  神を捕えるとしたら、それは、空間をもってせねばならない。  神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せねばならない。  宇宙の形に似せてこそ、そこに神の魂が宿るのである。  その宇宙の形状は——  球である。  シナンは、そう思っている。  もっとも自然な、もっともまろやかな球。  そして、その神に意志があるのなら、心があるのなら、それは——  光である。  シナンは、そう思っている。  人が作ることのできる最も巨大な球、そして空間、その内部に溢れる光——  自分の頭上に、宇宙を現わす巨大な半球をたちあげる方法を、すでに、自分は持っている。  ああ——  あの偉大なる聖《アヤ》ソフィアを、自分は超えることができるのだ。  この場所に——  この丘に、神が降臨する空間を創造する。  しかし、そのためには、まだやらねばならぬ仕事がある。  シナンは、丘の上に視線を向けた。  チューリップ畑に囲まれて、レンガ造りの小さな家があった。  ゆっくりと、また、シナンは歩き出した。  その家に向かって。       2 「どうしても、うんと言わないのです」  困りきった顔で、そう言ったのは、弟子のセラハッティンであった。 「金はいらぬというのだね」  シナンは弟子に言った。 「はい」  セラハッティンは、顎を引いてうなずいた。 「確か、持ち主は、七十歳くらいの——」 「婆さんひとりです」 「名前は、サンムラマートというのだったかな」 「そうです」 「サンムラマートか」  不思議な名だ——  シナンはそう思った。  最初にその名を耳にした時も、同じ感想を抱いた。  今また、自らの口でその名を言った後も、同じことを思った。  サンムラマート——  古代のアッシリア王朝を統治した女王の名であった。  このサンムラマートが、人類史上初めて、去勢された男性の召使い——宦官《かんがん》を使ったと言われている。  男の能力を奪った女。  その女が、どうしてそこに住むようになったのか。  これまで、シナンは、長い時間をかけて、聖《アヤ》ソフィアを凌ぐジャーミーを建てる場所を捜してきた。  まだ、スレイマンが生きていた頃からだ。  候補地には、三カ所にわたって地中の岩盤まで鉄の棒を打ち込み、毎年その鉄の棒と棒の距離を測らせている。  エディルネのその丘は、どんな地震のおりでも、その鉄の棒から鉄の棒までの距離が変わらなかった。  エディルネのその丘については、もう、十七年も計測を続けている。  しかし、地盤が堅牢《けんろう》であるという場所は、他にもたくさんあった。  エディルネのその場所が、他のどの場所にも増して素晴らしかったのは、その丘に泉が湧いていることであった。  そういう場所は他にない。  その土地の持ち主には、ジャーミーを建てるということなどは話していなかった。スレイマンにも内緒で、シナンが自分の判断で進めていたことである。  十五年前、そこに、ひとりの女が住みついた。  どこから金を用意してきたのかは知らないが、土地の持ち主からその丘を買いとった。  そして、そこにチューリップ畑を作り始めたのである。  チューリップを育て、その花を売った。  独り暮らしであった。  近在の人間を何人か雇い、その人間たちに畑をやらせた。  いよいよ、そこにジャーミーを建てることになって、使いの者をやって、その土地の新しい持ち主となった女に話をした。  ここに、ジャーミーを建てたい。  土地を売ってほしいと申し入れた。  値段は、その土地の価格の十倍以上をつけた。  しかし、その女は、首を縦に振らなかった。  何度か使いの者が出かけていって、値段もその都度高くなったが、やはり女はうんと言わなかった。  最後には、脅した。  ここに建てるジャーミーは、亡きスレイマン大帝の息子、セリム様のジャーミーである。土地を売らぬと言うのなら、スルタンの名において、おまえを追い出すこともできるのだぞ——  このように使いの者は言った。 「ならば、あたしを殺してこの土地を手に入れるんだね」  女はそう言った。 「今度のスルタンは、ペルシアからもキリストの国からも土地がとれなくなって、ついにはこんな弱い婆さんから土地を奪うことしかできなくなっちまったっていうんだね」  そう言われてしまったのだと、使いの者はシナンに告げた。  シナンの弟子、セラハッティンが出かけて行ったのは、その後である。  女を説得しに行った。  それに失敗をして、セラハッティンはイスタンブールにもどってきたのである。 「最後に、その婆さんは、奇妙なことを言ってました」 「奇妙なこと?」 「ええ。帰り際に、訊ねられました」 「何と?」 「そのジャーミーを建てるのは、スレイマニエ・ジャーミーを建てたシナンという人物かと、そのように言っておりました」 「それで?」 「そうだと答えると——」 �では、そのシナンという人物に、ひとりでここへ来るように伝えてもらえまいか�  このようにその女が言ったとセラハッティンはシナンに告げた。 「わたしに?」 「ええ」 「わたしが行けば、あの土地を売ると?」 「いえ、そこまでは言っておりませんでしたが——」  とにかくここへそのシナンに来るように伝えてはもらえないか——女はそのように言ったというのである。  それで、シナンは今、ただひとりで丘を登っているのである。  下に、弟子たちは残してきた。  せめて中腹まで、と言うセラハッティンを下に置いて、シナンは、ここまでやってきたのである。  丘の上に着いた。  そこには、美しい水を湛《たた》えた泉があり、小さなレンガ造りの家が建っていた。  その家の前に立った時、シナンは、なつかしい匂いを嗅いだ。  カフヴェの匂いであった。       3  声をかけて、中へ入ってゆくと、女がいた。  ヤシュマクで顔を隠している。  絨毯の上に座して、シナンを見あげていた。  その女の膝先に、盆があり、その上にカフヴェの入ったカップがふたつ載っていた。 「あなたが、サンムラマート?」  シナンが問うと、 「ええ」  小さな声で、女がうなずいた。 「シナンといいます」  シナンは言った。 「存じあげております。どうぞ、お座りになって下さい」  女——サンムラマートにうながされて、シナンは、絨毯の上に座した。 「サンムラマートというのは、たしか——」  シナンがそこまで言った時、 「男から男の能力を奪って、自分に仕えさせた女の王です——」  女は自ら言った。 「いかがですか」  女がシナンに、カフヴェを勧めた。 「いただきましょう」  シナンは、手を伸ばし、カップを持ちあげて、それを口に運んだ。  なつかしい香りが、シナンの鼻孔ををくすぐった。  カップを置き、 「美しい丘です……」  シナンは言った。 「ええ」  女はうなずいた。 「家の前に、泉がありますが、なんと綺麗な水がこんこんと溢れていることでしょう」  シナンは、まるで壁の向こうにチューリップ畑と泉が見えているかのように、そちらに顔を向けた。  その泉は、丘の一番高い場所にあった。  地中から、透明な水が溢れて、それが泉になり、細い流れとなって丘を下っている。  他に、この泉より高い場所はどこにもない。にもかかわらず、そこから水が湧き出してくるのである。  水が湧き出すためには、近くにそこより高い場所がなければならない。その高い大地の内部にある水が、それより下方から湧き出すのである。  それが、どうして、丘の頂《いただき》から水が湧いてくるのか。  不思議なことであった。  まるで、天上から直接丘のその場所へ水が湧きだしているようである。 「この丘は、特別な場所です」  シナンは、そう言って女に顔をもどした。  しばらく、女はヤシュマクの向こうからシナンを見つめているようであった。 「ここに、ジャーミーを建てたいのでしょう?」  女が訊いてきた。 「はい、その通りです」 「どのようなジャーミーをお建てになりたいと考えていらっしゃるの?」  言われたシナンの眼が、夢見るように天に向けられた。 「人が、神に出会える場所を——」  シナンは言った。 「神に?」 「ええ」 「神は、本当にいらっしゃるの?」 「おります」  シナンは、迷うことなく答えていた。 「本当に?」 「ええ」 「昔も、そして今も、神の御名において人が人を殺し、互いに殺しあって、多くの人が死んでゆくわ。それでも、神はいると」 「はい」 「それは、どんな神なの?」 「——」 「あなたは、あなたの神を捕える方法を、ついに見つけたの、シナン」  女は、そう言いながら、ヤシュマクに手をかけ、するりとそれを取り去った。  そこに、シナンの知っている顔があった。  変わってはいるが、忘れられない顔であった。  最後にその顔を見たのは、いつであったろうか。  三十年以上も前——イブラヒムが死に、ハサンが死んだ年だ。それなら、三十二年前のはずだ。  あの時は、まだ、三十代ではなかったのか。  最初に会ったのは、それよりもっと前だ。  その時、まだ、この顔は二十代であったのではないか。  シナンは思い出した。  最初に会ったその時も、この女性は、このようにして、ヤシュマクを取り、素顔を見せたのではないか。  あの時の輝くような顔。  しかし、今、その顔は老いていた。  セラハッティンは、何歳と言っていたか。  七十歳?  そんなになるのか。  顔には、肉がつき、その肉がゆるみ、今は垂れ下がっている。  深く刻まれた皺。  美しく澄んでいたその瞳も、今は、薄い膜が張ったように濁りが入っている。  自分の顔だって、この顔と同じ歳月が通りすぎたのだ。自分の方が歳をとっている分、さらに深い老いがこの顔に刻まれていることだろう。 「ピュスティア……」  シナンは、その名を呼んだ。 「思い出していただけたのね」  その老婆——ピュスティアは言った。  唇の端に、小さな笑みが点《とも》った。 「ああ、ピュスティア、覚えているとも。忘れるものか」 「シナン……」  そして、沈黙が訪れた。  言葉はない。  何から話していいかわからない。  いったい、どこでどうしていたのか。  どうして、ここに住むようになったのか。  あの後、たとえ一時《いっとき》にしろ、ハサンとピュスティアは会えたのか。  ふたりの間に子供がいたはずだ。  その子はどうしたのか。  そういう言葉が出て来ない。  あまりに多くの時間が流れた。あのころ身近にいた人間は、ほとんどが今はこの世の人ではない。  アロイシ・グリッティが死んだ。  ハサンが死んだ。  その後、スレイマンの息子ムスタファも、父スレイマンによって殺された。  ロクセラーヌも死に、そして、スレイマンも死んだ。  ザーティーもまた、この世の人ではない。  アウルナス村の神父ヨーゼフ——思えば、彼から聖《アヤ》ソフィアのことを聴かされたのが始まりであったのか。  そのヨーゼフも、今は亡い。  かつて生きていた人間の多くが死んだ。  シナンより歳上であった人間のほとんどが。  シナンより歳下の人間も、その多くがこの世を去った。  自分だけが残っている。  そう思っていた。  しかし、ここにピュスティアが生きていた。  窓から入り込んできた風が、シナンの頬を撫でてゆく。  ああ——  シナンの眼から、涙が溢れ出していた。 「何故、泣いているの、シナン」  そう言った、ピュスティアの眼からも涙は流れていた。  シナンは、ピュスティアを見た。  初めて、シナンがピュスティアを見た時、ピュスティアは海を見ていた。  チューリップ畑の中に立って、青いボスポラスの海を——  あの眩しいほどの青が、シナンの脳裏に甦った。 「ああ、ピュスティア……」  シナンは言った。 「わたしには、できぬよ……」 「何のこと?」  ピュスティアが訊いた。 「この土地をあなたから奪うことはできぬ……」 「——」 「スルタンには、この土地は、ジャーミーを建てるのにふさわしい場所ではなかったと申しあげよう。わたしの考え違いであったと——」  シナンは、懐に右手を入れ、小さな布の袋を取り出した。 「わたしは、いつも、これを持ち歩いていた……」  その布袋を、ピュスティアに向かって差し出した。 「これは?」 「ハサンから、あずかっていたものだ。自分にもしものことがあったら、これを、あなたに渡してほしいと——」 「ハサンから?」  ピュスティアは、シナンの手から、それを受け取った。 「まだ、一度もその中のものを見たことはない。もしかしたら、このまま一生、あなたに渡すことができずにこの生涯を終えるのかと思っていた。しかし、会えてよかった……」  ピュスティアは、口を縛ってあった紐《ひも》を解き、袋の底をつまんで逆さにした。  ピュスティアの左手の中に、ころんと落ちてきたものがあった。  美しい、緑色の輝きが、ピュスティアの手の上に載っていた。  ウズラの卵ほどの大きさのエメラルドであった。 「ハサン……」  ピュスティアは、声をあげて、泣き出した。  シナンは、膝でピュスティアの傍に寄って、左手でピュスティアの手を握り、右手でその頭を優しく抱いた。  長い間声をあげていたピュスティアが、やがて、泣きやんだ。 「いいのよ、シナン……」  シナンの腕の中で、ピュスティアは言った。 「お造りなさい、この場所に。あなたは、あなたの望むものを、この場所にお造りなさい——」 「よいのか……」 「わたしと、それからハサンが、あなたの大きな仕事のために役立てるのでしょう。お造りなさい。あなたは、あなたの心の命ずるものを、ここにお造りなさい……」  ピュスティアは言った。  シナンは、無言で、ピュスティアの頭を抱えている腕に力を込めた。       4  シナンが八十歳の時に、工事は始められ、それから七年後、シナンが八十七歳の時に、セリミエ・ジャーミーは完成した。  ドームの直径は、三十二メートル。  聖《アヤ》ソフィアのドームの、大きい方の直径と同じ大きさであった。  もともとの直径三十一メートルよりは大きい。  壁ではなく、六本の独立柱と二本の付柱によって、このドームは軽々と天に向かって持ちあげられている。  シナンがたどりついた八角形システムがこれを可能にした。  窓の数は、九百九十九。  人の気配は、その建物にはなかった。  あるのは、空間と、そこに溢れる光。  そして、数学。  そして、美。  そして——  日中、どの方向からも、ドームの内部には陽光が差し込み、その光が内部を満たした。  イスラム世界における、ドーム形式のモスクは、その巨大さにおいても、芸術性においても、ここにその頂点を得たのである。  シナンは、その後も、さらに十三年を生き、多くの橋や建物を建築した。  シナンが死んだのは、一五八八年——百歳であった。  死ぬまでに、四百七十七の建築作品を造った。  ひとりの人間の仕事としては、前人未到の量である。  死ぬまで仕事をし続けた。  セリミエ・ジャーミーの説教壇《ミンバル》の大理石でできた柱の一本には、ひとつの逆さチューリップが刻まれているというのは、この物語の冒頭で語ったように、本当のことである。  このセリミエ・ジャーミーが完成した後、シナン自身がひとりの老いた女性を案内してこの説教壇《ミンバル》の前までやってきたという。  ふたりから離れて、様子を見守っていた弟子のひとりの話によれば、ふたりは説教壇《ミンバル》のチューリップを指差し、楽しそうに笑いあった。  その後、ふたりは、小さな声で神についての話をした。  それが、どういう話であったかは、離れていたため、よく聴きとれなかったという。  長い間、ふたりはドームの下で、光が動いてゆく様《さま》を眺め、やがて、シナンが老女を送って出て行った。  その女性が、どういう人であったかを、シナンは語っていない。  以下、語ることは、もう、あまり多くはない。  シナンの廟《びょう》は、スレイマニエ・ジャーミーの裏手に、ひっそりと建っている。  その墓に、シナンの友人であった詩人、ムスタファ・サイの言葉が刻まれている。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] おい 地球というこの城で ほんのひと夜 ふた夜宿りして いってしまった者よ ここは安息の地ではない スレイマン大帝の建築家であった この選ばれた者は モスクを建て 天国の姿を我らに見せてくれた 泉を救いの天使のごとくに溢れさせ 天の川を渡る橋を この地上に掛けた 四百以上の祈りの場と 八十のモスクを建て 百歳を生き そして死んだ あらゆる建築家の師であるシナンが 今 この世から旅立ってゆく 神よ 彼の眠る場所を 天国の庭の如くにされんことを [#ここで字下げ終わり] [#地から1字上げ]完 [#地から5字上げ]二〇〇四年九月二十二日 [#地から9字上げ]小田原にて—— [#改ページ]  あ と が き  NHKの紀行番組『千のドームに光は満ちて』で、トルコまで出かけて行ったのは一九九七年のことであった。  トルコの建築家シナンの建てたモスクやハマムなどを歩きながら、シナンとその時代について、阿木燿子《あきようこ》さんと一緒に語ってゆくのが我々の仕事であった。  それまで、トルコには興味はあったものの、シナンという建築家のことなどまったく知らなかった。  この番組に声をかけていただいて、それでにわか勉強をして、シナンのことを知ったのである。  知ってみたら、これがまことにおもしろい。  トルコに行き、聖《アヤ》ソフィアというモスクに初めて入って行った時に、まず、その巨大さに圧倒された。  まさしく、ここには神が宿っていそうな気がした。  九日間の旅の最後に近くなって、いよいよエディルネの、セリミエ・モスクに行った。  これを見た時はさらにまた驚いた。  聖《アヤ》ソフィアにあった、人間の香りというか、体臭の如きものがみごとに抜けていて、いよいよ清く、透明で、 「神は光である」  シナンが、この建築を通してそう語っているような気がしたのである。  たとえば、 「神とは何か」  という問いをキリスト教徒とイスラム教徒に発したとすると、まず、キリスト教徒は十字架にかけられたイエスや、人の姿を思い浮かべるような気がする。  しかし、イスラム教徒は、 「それは球と光である」  そのような答え方をするのではないか。  あるいはそのようなイメージをもっているのではないか。 「ああ、おれはこのシナンという人物とこのドームについて書かねばならない」  その時、そう思い込んでしまったのである。  よせばいいのに、勢いだから、その番組の中で、 「書きます」  と宣言してしまったのである。 『神々の山嶺《いただき》』が書きあがって、それほど間のなかった頃であり、その後の�神�とか�人�について、新しい領域に踏み込んだものを書けそうな気がしたのである。  思うのはいい。  しかし、書き出してみたら、なんとなんとたいへんなことの連続であったことだろう。  オスマントルコの王朝のことなど、ほとんど知らぬも同然であり、喰いものや、着るものだってわかっていない。  イスラムのことだって、わずかな知識の持ちあわせしかない。  おまけに、シナンについての日本語の資料は、ほとんど無いも同然であった。  ただただ、番組で見た、あの巨大なドームを前にした時の感動を支えにして、ここまで書いてきたようなものである。  おまけに、書くとどんどん長くなるという体質で、約束の回数書いてもまだ終らなかった。  掲載誌は『中央公論』である。  すでに次の連載の方が決まっており、ともかく、いったん終らせて、あとは書き下ろしで書き足すことになった。  これがたいへんであった。  月に、三日以上ゆとりができると、その全てが、この『シナン』のためにつぶれてしまうのである。  資料を読みなおし、作品の中に入るのに二日はかかるので、いつも、三枚か四枚しか進まないのである。  およそ三年かかってこの書き下ろしの作業を終えて、今、ようやく自由になった気分である。  書きあげて、気分はよい。  書いていて思ったのだが、イスラムはおもしろいということだ。  おもしろくて、深い。  現在のイスラム文化とアメリカの対立の図式も、実は一千年以上も続いている対立の中の一部であるというのも実感としてわかった。  これについて書いておけば、アメリカが傲《おご》らずに、もう少し頭を低くし、東洋と向きあうだけで、世界はだいぶ住みやすくなるような気がするのである。  おいおい、日本よ、本当にこのまま、アメリカに犬ころみたいにくっついて行っちゃっていいの——  そうも思っているのである。  実は、三日前までアメリカにいて(ブッシュがニューハンプシャーに来た同じ日に、ぼくは同じ街にいた)、土地の人が口にするブッシュ批判を耳にするにつけ、なんだかおそろしくなってくるのである。 「ブッシュを大統領にしたくないが、かといって、ケリーが好きというわけじゃない。しかたないからケリーを応援する」  ぼくの周囲のアメリカ人は、こういう考え方の人が多かった。  あらら、今の日本と似てるよなあ。  と、時事ネタをあまり書いてもしかたがない。  ここで書いておきたかったのは、イスラムは、もともとは、そんなに恐怖するような宗教ではないということだ。  イスラム教国とキリスト教国は、何度も戦っているかわりに、何度も同盟を結んだりしているし、時には、キリスト教国と争うために、キリスト教国がイスラムと手を結んだりもしているのである(今と同じだ)。  そういう、千年二千年の歴史の中で、あの偉大なるドーム建築が、今もなお建ち続けているというのが凄いのである。  実際、あらためて、ヴェネツィアに取材に行った時には、まだ残っていたアンドレア・グリッティの屋敷だったところに泊まった。今は、そこがホテルになっているのである。  今回、多くの方にお世話になった。  トルコ在住の建築家、山本達也さん。  同じく、仁田原康子さん。  同じく、鈴木和枝さん。  そして、東京大学の鈴木|董《ただし》さん。  鈴木教授には、この『シナン』を書くにあたって、様々なかたちでアドバイスをいただいた。  これがたいへんにありがたかった。  こちらが、思い込みで書いてしまった間違いなどを、その都度御指摘いただいて、内容的にも深みを増したのではないか。  しかし、 「ここは少しおかしいのではないか」  と御指摘いただいたにも関わらず、小説的な勢いで、なおさずにそのままにしてしまったところもある。  したがって、本書中に、もしも間違いがあったとしても、その責任の一切は、作者であるぼくにあるということを、ここにはっきり書いておきたい。  それから、NHKの角野《かくの》さん、ぼくが勝手に言い出したことながら、 「書く」  と言った言葉の責任は、ここでようやくとりましたぜ。  思っていたことの百倍大変で、結局八年かかってしまったけれど、この八年、実に有意義な旅を、書くことでさせていただきました。  もう、ぼくは次の旅、次の物語のことを考えています。 『大江戸恐龍伝』はすでに書き出しており、次々に新しい物語を始めてゆく予定です。  読者の皆さんは、ぼくが八年かかった旅を、いっきにひと晩で楽しんで下さい。  では。 [#地から1字上げ]二〇〇四年九月二十三日     [#地から1字上げ]小田原にて——     夢枕獏 [#改ページ]   主 要 参 考 文 献 スレイマン大帝とその時代 アンドレ・クロー 濱田正美訳 法政大学出版局 トプカプ宮殿の光と影 N・M・ペンザー 岩永博訳 法政大学出版局 オスマン帝国衰亡史 アラン・パーマー 白須英子訳 中央公論社 世界の歴史15 成熟のイスラーム社会 永田雄三・羽田正 中央公論社 ルーミー語録 井筒俊彦 中央公論社 イスラム事典 平凡社 世界の都市の物語4 イスタンブール 陳舜臣 文藝春秋 オスマン帝国の栄光 テレーズ・ビタール 鈴木董監修 創元社 世界史リブレット17 イスラームの生活と技術 佐藤次高 山川出版社 世界史リブレット19 オスマン帝国の時代 林佳世子 山川出版社 オスマン帝国の栄光とスレイマン大帝 三橋冨治男 清水新書 イスラム教入門 中村廣治郎 岩波新書 イスラーム哲学の原像 井筒俊彦 岩波新書 モスクが語るイスラム史 羽田正 中公新書 イスタンブールを愛した人々 松谷浩尚 中公新書 オスマン帝国 鈴木董 講談社現代新書 食はイスタンブルにあり 鈴木董 NTT出版 イスラム聖者 私市正年 講談社現代新書 古代ユダヤ教 マックス・ヴェーバー 内田芳明訳 岩波文庫 イスラムの神秘主義 R・A・ニコルソン 中村廣治郎訳 平凡社ライブラリー イスラム幻想世界——怪物・英雄・魔術の物語 桂令夫 新紀元社 図説海賊大全 ディヴィッド・コーディングリ 増田義郎・竹内和世訳 東洋書林 イスラムの建築文化 アンリ・スチールラン 神谷武夫訳 原書房 16世紀のモスク 三省堂図解ライブラリー ハギアソフィア(上製版) ファティ・ジモク編 原田武子訳 A Turizm Yayinlari ハギアソフィア(軽装版) ファティヒ・ジモク編 原田武子訳 A Turizm Yayinlari トプカプ NET BOOKS トプカプ宮殿 トゥルハン・ジャン 万里子・清水・シャルマン訳 ORIENT PUBLICATION 図説世界建築史10 ルネサンス建築 ピーター・マレー 桐敷真次郎訳 本の友社 図説イスタンブル歴史散歩 鈴木董 河出書房新社 建築巡礼17 イスタンブール 日高健一郎・谷水潤 丸善 建築探訪8 トルコの民家 山本達也 丸善 望遠鏡 イスタンブール[トルコ] ガリマール社/同朋舎出版 カッパドキア——はるかなる光芒 立田洋司 雄山閣出版 サン・ピエトロ大聖堂 石鍋真澄 吉川弘文館 芸術神ミケランジェロ ポール・バロルスキー 中江彬訳 ありな書房 ミケランジェロ伝 アスカニオ・コンディヴィ 高田博厚訳 岩崎美術社 ミケランジェロの生涯 ローズマリー・シューダー 鈴木久仁子訳 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本書は「中央公論」一九九九年七月号〜二〇〇二年七月号に連載された同名作品に、第十六章〜第十九章を書き下ろして加え、全篇に大幅な加筆訂正を行ったものです。 [#ここで字下げ終わり] 夢枕 獏(ゆめまくら ばく) 1951年、神奈川県小田原市生まれ。東海大学文学部卒。89年に『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞、98年に『神々の山嶺《いただき》』で柴田錬三郎賞を受賞。伝奇バイオレンス、SF、格闘、山岳、時代・歴史など多彩なジャンルで活躍。著書に「キマイラ」シリーズ、「魔獣狩り」シリーズ、「餓狼伝」シリーズ、「闇狩り師」シリーズ、「陰陽師」シリーズ、『平成講釈安倍晴明伝』、『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』(全四巻)など多数。  公式サイト「蓬莱宮」 http://www.digiadv.co.jp/baku/ [#改ページ] 底本 中央公論新社 単行本  シナン 下  著者 夢枕《ゆめまくら》 獏《ばく》  二〇〇四年一一月一〇日  初版発行  発行者——早川準一  発行所——中央公論新社 [#地付き]2008年11月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・だが、そのような噂は流れてはこない ・シェムシー ・シェムヒー ・ファティ・ジモク ・ファティヒ・ジモク ・佐藤藤幸三 置き換え文字 唖《※》 ※[#「口+亞」、第3水準1-15-8]「口+亞」、第3水準1-15-8 噛《※》 ※[#「口+齒」、第3水準1-15-26]「口+齒」、第3水準1-15-26 掻《※》 ※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]「てへん+蚤」、第3水準1-84-86 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 掴《※》 ※[#「てへん+國」、第3水準1-84-89]「てへん+國」、第3水準1-84-89 顛《※》 ※[#「眞+頁」、第3水準1-94-3]「眞+頁」、第3水準1-94-3 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6 蝋《※》 ※[#「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71]「虫+鑞のつくり」、第3水準1-91-71