シナン 上 夢枕 獏 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)聖《アヤ》ソフィア |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一番|優《すぐ》れたもの [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)わび[#「わび」に傍点]とさび[#「さび」に傍点] ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る]  シナン 上 [#挿絵(img/01_003.jpg)入る] シナン 上 夢枕 獏 中央公論新社  目 次  序 章  逆さチューリップ  第1章  デヴシルメ  第2章  聖《アヤ》ソフィア  第3章  イェニチェリ  第4章  オスマン帝国  第5章  壮麗者スレイマン大帝  第6章  ロドス島戦記  第7章  陰  謀  第8章  トプカプ宮  第9章  詩人の店 [#改ページ] [#ここから2字下げ] 存在は茫洋たる海、 波、絶えまなく荒れ騒ぐ。 この海を、人々 ただ波の騒擾《そうじょう》と見る。 見よ、底知れぬ海の深みから 数限りなく波の湧き起って 水面《みのも》は千々に乱れ散り、 波のみ見えて海はなく……。 ——ジャーミー [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#地から1字上げ]装  画 立原戌基    [#地から1字上げ]装  丁 祖父江慎    [#地から1字上げ]     +コズフッシュ [#地から1字上げ]資料協力 山下王世    [#地から1字上げ]D T P 平面惑星    [#改ページ] [#挿絵(img/01_009.jpg)入る]  序章  逆さチューリップ       1  ミマール・コジャ・シナンという男の話をしたい。  オスマントルコ時代の建築家である。  一般的にはミマール・シナンと呼ばれている。  ミマールが、トルコ語で建築家という意味で、コジャが、同じく偉大なという意味であるから、ミマール・コジャ・シナンで、偉大な建築家シナンということになる。  一四八八年に、トルコのカッパドキア地方のアウルナスというキリスト教徒の村に生まれ、二十四歳の時に、デヴシルメという少年徴集制度によって徴用され、イェニチェリと呼ばれる兵士団に入れられた。この時、シナンはイスラム教に改宗させられている。  時あたかもヨーロッパではルネッサンス運動のまっただ中であり、同時代人に、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、コペルニクス、マルティン・ルターなどがおり、その生涯の後半においては、ガリレオ・ガリレイとも生きた時代が重なっている。  死んだのが、一五八八年。  百歳まで生きた。  死ぬまでに、四七七の建築作品を造っている。  シナンは、それまでのトルコ建築、あるいはイスラム建築の歴史を一変させた人物である。  日本では、千利休《せんのりきゅう》という茶人が戦国時代に出て、それまで日本という国にあった美意識に、まったく新しいわび[#「わび」に傍点]とさび[#「さび」に傍点]という価値観をもたらしたが、ミマール・シナンがイスラム建築にもたらしたのも、そのようなものであったと考えていいかもしれない。  天才であった。  一種の異様人と言ってもいい。  シナンは、その百年の生涯をかけ、石をもって神を捕らえようとした人物である。  イスタンブールに、聖《アヤ》ソフィアと呼ばれる巨大な石の建造物がある。  西暦五三七年、つまりシナンの時代よりも一千年以上も昔、イスタンブールがまだコンスタンチノープルと呼ばれていた頃、ビザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌス一世によって造営された、ギリシア正教会の最も重要な聖堂である。  建物の上部に、半球状のドームが被《かぶ》さり、その直径は、およそ三十一から三十二メートル。およそ、というのは、余りにも長い歴史の中で、建物に歪《ゆが》みが生じ、一部の方向に直径が広がってしまったからだ。  ドームの内側の頂点にあたるところまで、床からの高さが五十六メートル。  奇跡のような巨大建造物であった。  一四五三年、オスマントルコのメフメット二世によってビザンチン帝国が滅ぼされ、コンスタンチノープルが陥落した時、聖《アヤ》ソフィアは、イスラム教のモスクに改められてしまった。  こうして、オスマントルコは、ヨーロッパとアジアに覇《は》を唱え、巨大な帝国を築いてゆくのだが、コンスタンチノープル陥落以来、キリスト教国から、一二〇年余りも言われ続けてきたことがあった。  曰《いわ》く—— 「野蛮人」 「トルコ人は、他人が築きあげたものを奪うことはできるが、文化的には極めて劣っている。それが証拠に、聖《アヤ》ソフィアより巨大な聖堂を、彼等は建てることができないではないか」  聖《アヤ》ソフィアよりも巨《おお》きなモスクを建てること——  これが、オスマントルコ帝国の歴代の王《スルタン》の夢となった。  多くの建築家にこの仕事をまかせようとしたが、それを為し得る者はいなかった。  スルタン・メフメット二世の命を受けて、ファティフ・モスクを建てた建築家がいた。  その名をアティク・シナンという。名前は似ているが、ミマール・シナンとは別人のこの建築家は、できあがったモスクが聖《アヤ》ソフィアよりも小さかったという理由から、メフメット二世によって、その両腕を切断されてしまったと言われている。  それが完成した一四七〇年当時は、聖《アヤ》ソフィアには及ばぬものの、オスマン最大のモスクであり、事実、この記録は、一五五七年、シナンがスレイマニエ・モスクを建てるまで、破られることはなかったのである。  何人《なんぴと》といえども、聖《アヤ》ソフィアより大きなモスクを建てることはできなかったのである。  しかし——  これを、コンスタンチノープルが陥落してから一二二年後、ミマール・シナンという天才建築家が為しとげてしまうのである。  トルコのエディルネに建てられたモスク、セリミエ・ジャーミーがそれである。  ドームの直径三十二メートル。  シナン八十七歳の時である。       2  一九九八年の年末に、シナンの生まれたアウルナス村まで出かけてきた。  アウルナス村は、カッパドキア地方の大きな街、カイセリの近くにある。  この連載を立ち上げる前にぜひともシナンの生まれ故郷を見ておきたかったのである。  一九九七年、シナンの取材で最初にトルコを訪れた時、ある方から、 「シナンのことをお書きになるなら、ぜひアウルナスへいらして下さい」  そう言われていたからである。  その方は、イスタンブールに住んでいる女性建築家のムアラ・エユプオウルさんである。  当時、すでに七十八歳の高齢で、お会いしたのは、ボスポラス海峡を挟んでトプカプ宮殿を望む、古いマンションの最上階、彼女の自宅であった。  ドアを開けてぼくをむかえ入れてくれたムアラさんは、笑顔に品のある魅力的な女性であった。  彼女の夫のロベルト・アンヘッガーさんは、トルコ学の権威で、学者である。年齢は、ムアラさんより上の八十五歳であった。  部屋は世界中から集められた、古いものや骨董品《こっとうひん》で溢《あふ》れかえっていた。  日本刀や根付、さらにはローマ時代の大理石像や、キュヴィエやラマルクの時代の博物画や、ぼくの見当もつかないような時代のものが、部屋中に並べられている。博物館に収められていて当然のような品物が、テーブルの上や本箱の間に無造作に置かれている眺めは壮観であった。  ぼくが、何度かチベットに行ったことがあるのを知ると、夫のロベルトさんが別の部屋へ案内してくれて、壁に掛かっている一枚の絵を指差した。 「これを、どう思いますか」  見ると、チベットの仏画《タンカ》であり、たいへんに古いものだということがわかった。  剣を持っている仏様—— 「マンジュシェリーですね」  日本風に言うなら文殊菩薩《もんじゅぼさつ》である。  チベットでも見たことがないほど、絵として美しく、表情もいい。 「たいへんに素晴らしいものですが、いったいどうして、これがここにあるのですか」 「父が昔インドにいたことがあって、そこで手に入れてきたものです」  彼はうなずき、もとの部屋に戻ると、我々から少し離れたソファーに腰を下ろした。 「よいものは、どこの国のものでも、どこの国にあっても、よいものです。異国のあなたがシナンに興味を持つのは素敵なことです」  彼はそう言って、視線だけをぼくに残して唇を閉じた。  その日の主役はムアラさんであり、シナンについても詳しい。その日は、ぼくがシナンの取材で来ているのを、ロベルトさんも知っており、取材の邪魔にならぬようにと、少し離れたソファーに座ったのである。  トプカプ宮殿の話から始まった。  この歴代のスルタンの王宮は、いずれ、シナンの話の主要舞台にもなるところであり、まずこの宮殿のことから、彼女に語ってもらおうと思ったのである。  彼女は、トプカプ宮殿のハレム部分の修復をした人間であり、そのおり、様々な発見が、彼女の手によってもたらされている。  しばらく前までのハレムの内側の壁は、旧ハレムの壁の上にさらに、レンガやタイルを重ねたものであり、それを剥《は》がすと、旧ハレムの美しいタイルの壁が出てきたというのである。  さらには、新しい壁によって古い壁の間に塗り込められていた当時の日常雑器や手紙なども出てきて、トプカプ宮殿の、これまで知られていなかった構造もわかってきたのだという。  ハレムのすぐ外側の、これまで庭だとばかり思われていた場所が実はプールであったというのを発見したのも彼女である。 「まわりの樹が、どれも大きくて古いのに、その一画に生えている樹だけが、低くて若いのよ。何かあるだろうと思って掘ってみたの」  そうしたら、そこからプールが出てきたというのである。  ハレムの女性たちがそこで水浴びをしていたのである。  ハレムが、俗に言われるような、歓楽の一画などではなく、実はかなり厳しい躾《しつけ》や厳格なルールによって存在していた神聖なる場所であるということがわかってきたのも、彼女の発見によるところが大きい。  彼女も現在は仕事を引退して、悠々自適《ゆうゆうじてき》の生活をしている。  話の最中に、時おり、夫のロベルトさんが、横から声をかけてくる。 「それはまだ証明されていないから、正確に�と思われる�と言うべきだろう」 「それにはもうひとつ考え方があることを言っておかないといけないのではないか」 「その説には、ぼくは反対だね」  なかなか学者らしい厳格な言い方をしてくるのである。  これに彼女が、 「はいはい、よくわかっているわ」  慣れた口調で答えているのが、ふたりの日常的な親密さを見たようで興味深かった。  そうして、話がシナンの子供の頃の事に及んだ時、 「私は、ずっと昔にカイセリで仕事をしていたことがあるんだけど、そこから見るエルジェス山のかたちが、シナンの建てたスレイマニエ・ジャーミーのかたちに似ているのよ」  ジャーミーとは、トルコ語でモスクのことであり、スレイマニエ・ジャーミーは、シナンがスレイマン大帝のために建てた美しいモスクのことである。  エルジェス山は、カイセリや、その近くにあるシナンの育った村アウルナスから見ることができる、富士山と同じくらいの高さの独立峰である。  正確には、標高三九一六メートル。 「あの山を、シナンは毎日眺めていたと思うから、おそらくその影響があるのかもしれないわ」  それで、最初に記した彼女の発言になってくるのである。  ぼくは彼女に言った。 「必ず見にゆきますから——」  その時の約束をはたしておきたかったのである。  アウルナスへ着いた時には、まだ雪が村のあちこちに残っていた。  役場の人に、シナンゆかりの地を幾つか案内してもらった。  村の中に、シナンが作った三つの泉が残っていた。  その泉は、シナンの兄弟の名前をとり、ふたつはアアナプルの泉、カラギョズの泉と呼ばれていた。最後のひとつは、シナン自身の名をとってシナンの泉と呼ばれている。  これらの泉はまだ現役であり、そこから溢れてくる水を手で掬《すく》って飲んだが、冷たく、石灰分の少ないすっきりとした味であった。  シナンの生まれた家が、現在も残っている。  何度も修理が加えられて、当時のものとはもう変わってしまっているが、それでも、かたちを残しているのはそれが石造りだからであろう。  無人。  壁には罅《ひび》が入っているが、二階に上ることができた。  ベランダに出ると、眼の前に農村の風景が広がり、正面に近い南に、エルジェス山が見えた。  左右のスロープが、ゆっくりと天に向かってせばまってゆき、その先に頂《いただき》が見えるはずであったのだが、残念ながら頂近くは雲がかかっていて見ることができなかった。  役場の人から写真を見せてもらった。  なるほど、頂あたりのシルエットは、金角湾から眺めるスレイマニエ・ジャーミーに似ていなくもない。モスクが建っている丘全体をエルジェス山のスロープと見立てて、頂上部がスレイマニエ・ジャーミーと考えれば、似ていると言うことができる。 「シナンが子供の頃の話なんですが——」  役場の人が言った。 「エルジェス山を指差して、いつか自分はあの山のように大きなモスクを建てると言ったそうですよ」  本当かどうか。  おそらくは、作り話であろうと思う。  この村にいる当時、シナンは木工事屋であり、建築にまるで関係のない仕事でこそないが、まさか子供の頃のシナンが、将来自分がモスクを建てるようになるとは考えていなかったはずである。  おそらくはシナンの高名が、後から、このような伝説を生んだのだろう。  しかし、そのような伝説が生まれ、それが今も村の人々の間で口の端《は》にのぼるくらいに、シナンという人物が神話化されているのであろう。  シナンについて語る時に、あえてこのような伝説的な部分を捨ててゆくという方法もあろうが、それではかえってこの人物の輪郭《りんかく》をぼやけさせてしまうことになるだろう。  噂にしろ、伝説にしろ、いかにもその人物らしいエピソードであるからこそ、時代の中に埋もれずに残されてくるのである。  この物語においては、そういった伝説化されたシナンについても、注意深く追ってゆきたい。  もうひとつ書いておきたいことがある。それは�モスク�という表記についてだ。  モスクというのは、イスラム教の祈りをささげるための集会場、あるいはキリスト教における教会の如きものなのだが、トルコにおいては、日常的には�モスク�ではなく�ジャーミー�の名が使われている。わかり易くするため、最初はモスクを使用したが、今後は基本的にはジャーミーを使用することにしたい。       3  エディルネの、セリミエ・ジャーミーにある�逆さチューリップ�の話をしておきたい。  すでに書いたが、シナンが八十七歳の時に建てた、聖《アヤ》ソフィアを超えるモスクがエディルネにある。  エディルネは、イスタンブールから西へ二三一キロ行ったところにある街である。  そこはすでにバルカン半島であり、ブルガリアとの国境にも近い。  街を見下ろす丘の上にこのモスクは建てられている。  シナンはこの丘に四本の鉄の棒を地中の岩盤にまで打ち込み、毎年、その棒と棒の距離を計らせて、わずかの歪みもないのを確認してから、モスク建設の場所として選んだのだという。  これには、若い頃に、シナンが聖《アヤ》ソフィアの構造を研究した経験が生かされている。  イスタンブールは、地震が多い。これによって、聖《アヤ》ソフィアを支えている岩盤は、わずかずつながら、動いている。さらに建物自身の巨大な重量のため、外側に向かって広がりつつある。このため、聖《アヤ》ソフィアは、北東と南西の方角に割れつつあって、ドームが開き、広いところでは直径が三十二メートルにもなっているところがあり、計る場所によっては一メートル以上も直径に差が出ているのである。  それを知っていたシナンは、強固な地盤を選ぶのにできるだけの注意をはらったのである。  このセリミエ・ジャーミーには、ふたつの不思議な現象がある。  ひとつは、泉の存在である。  ドームのほぼ真下に、十二本の柱によって支えられた説教壇《ミンバル》があるのだが、この下から泉が湧き出しているのである。  ドームを訪れる人々は皆、この泉の水を汲《く》んで飲むのだが、丘とはいえ、山の頂である。他に高い場所はどこにもない。にもかかわらず、そこからは冷たい透明な水が、今も滾々《こんこん》と湧き出しているのである。  奇妙なことのもうひとつも、この説教壇《ミンバル》に関係がある。  説教壇《ミンバル》を支える大理石の柱のうちの一本に、十五センチほどの大きさのチューリップが刻《きざ》まれているのである。しかも、このチューリップがなんと逆さに刻まれているのだ。  花が下を向き、二枚の葉も上から下へ伸びている。  他のどの柱にも、そして、どの壁にもどの床にも、逆さチューリップのみならず、まともなチューリップすら刻まれてはいない。  シナンが、他に建てたどのようなモスクにも、建築物にも、このような形式のものはない。  職人の悪戯《いたずら》であろうか。  しかし、モスクという建物の性格上、職人が内緒で刻めるものではなく、罰を覚悟で刻んだとしても、シナンが気づかぬわけはなく、明らかにこれは、シナンが知っていたものであるとしか考えようがない。  シナンの意にそぐわぬものなら、当然、これは、チューリップの刻まれている説教壇《ミンバル》の柱を建てかえたであろうからだ。  どう考えても、これはシナンが知っていたものであり、シナンの意志なくしてはそこに存在できないものなのだ。  そこまで考えてくると、この逆さチューリップは、シナンが刻んだか——あるいはシナン自身が命じて刻ませたものではないかというところへ、思考が自然に落ち着いてゆく。  では、何故、シナンはそこにそのようなものを刻ませたのか。  これについては、ひとつの逸話がある。  シナンにまつわる様々な伝説のひとつなのだが、これは案外事実であったのではないか。  こういう話だ。  もともと、セリミエ・ジャーミーが建っているその場所は、チューリップ畑であったというのである。  ちなみに、書いておけば、チューリップはオランダが有名だが、原産地はトルコであり、モスク等のタイルのデザインに、チューリップの紋様をあしらったものは多い。  話をもどせば、そのチューリップ畑の持ち主というのが、ひとりの老婆であったのだという。  その老婆の土地が、セリミエ・ジャーミーの建築場所に決まった。  モスクを建てるためには、まずその土地を手に入れる必要がある。しかし、その土地を買いたいと申し出ても、老婆は首を縦に振らない。  誰が行っても、老婆は断るばかりである。 「では、私がゆこう」  最後にシナン自身が老婆のもとまで出かけてゆき、この老婆をくどいて、ようやくその土地を買うことができたのだという。  この時、シナンは八十歳である。  おそらく、老婆も同じくらいの年齢であったろう。  ぼくは、その時の光景を、やや劇的に、次のように想像する。  晴れたエディルネの丘の上に、ぽつんと老婆の家がある。  独り暮らしの老婆である。  周囲はチューリップ畑で、陽が明るく注いでいる。  庭先に、木のテーブルが出され、椅子に老婆とシナンが座っている。  シナンは普通の庶民が着るような服を無造作に着ている。 「なかなかの眺めだ」  ふたりは、ぼつぼつとお茶を飲みながら、口数少なくチューリップ畑を眺めている。  庭には透明な水の湧く泉がある。 「なあ、婆さんよ」  シナンが、ぽつりと声をかける。  隣の爺さんのような気さくなものの言い方である。 「あんた、いったい幾つまで生きるつもりだね」  シナンの声は、限りなく優しい。  老婆は黙っている。  ただ、チューリップ畑を眺めている。 「おれは、八十になるよ。おれもいい歳だが、あんたも同じようなもんだ」 「——」 「百まで生きるかね。もう少し長くて、百七歳まで生きられるかね。どんなに生きたって、百二十歳や、百三十歳まで、人は生きられるもんじゃない……」  これがまた、優しい声である。 「おれが、あんたの名前を、千年先まで残してやるよ」  まあ、何ごとにつけても想いが過剰であったに違いないこの男は、自信たっぷりにそのくらいは言ったであろうと考えるのは、小説的な想像としては許されるだろう。  どのようにして、この老婆がくどかれたのか、それはまだ謎なのだが、シナンの出現によって、その老婆の心に何らかの変化があったのだろう。結局、シナンはその老婆から、土地を買うことができた。  その老婆を記念して、逆さチューリップが柱に刻まれたのだということになっている。  ちなみに、�逆さ�ということについては、トルコでは�頑固《がんこ》�、あるいは�頑固者�という意味がある。  だから、チューリップが逆さに刻まれているというのは、まさしく頑固であったその老婆を記念しているものであると、伝説は伝えている。  この話が事実であるかどうか、それはぼくの知るところではないのだが、この逆さチューリップが、説教壇《ミンバル》の柱の一本に刻まれているというのは、事実である。  ぼく自身も、一九九七年に同地を訪ねたおりに、それを見ている。  思いのほか小さく、何人もの人間の指に触れられたためであろうが、刻みは角が消えてなめらかになり、あらかじめこのことを知らなければ、気がつかずに通り過ぎてしまいそうなチューリップであった。 [#改ページ]  第1章  デヴシルメ [#ここから5字下げ] 君はそれに対応するものが 何も存在しない名前を知っているのか。 君は「ば」「ら」という文字から、 薔薇を摘み取ったことがあるのか。 君は神にも名前をつける。 それなら行って、君が名づけた実在を 探し出して来なさい。 ——ジェラール・ッ・ディーン・ルーミー [#ここで字下げ終わり]       1  奇妙な子供だった。  小さい頃から、妙なことを考えていた。  それを口にして、大人を驚かせたりもしたが、彼の口にする多くのことは、大人を困らせることの方が多かった。  名前は、シナン。  アウルナス村で、木工事屋をやっているアブドゥルメンナンの二番目の息子だった。  この、シナンとその父親の名であるが、あらかじめことわっておかねばならないことがある。  子供の頃、まだキリスト教徒であったシナンは、当然別の名前を持っていた。それが、デヴシルメによってイェニチェリとなり、イスラム教に改宗させられて、名もムスリム名のシナンと変えさせられたのである。  本来であれば、ここでは改宗前の名を使用すべきなのだが、シナンも、その父親も、キリスト教徒時代の名がわかっていない。それで、初めからこの�シナン�の名を使用しているのだが、これは、シナンの父親についても、他の人物の名についても、同様の理由で、初めからイスラム名を使っているケースがあることを、老婆心ながら、まずここに記しておきたい。  さて、このシナンである。  このシナン、子供の頃から、妙なことを考えるのが好きであった。  たとえば、シナンは、名前について考えたりすることも好きだった。  十歳の頃、自分の名前について、シナンは父のアブドゥルメンナンに訊《き》いたことがある。 「ねえ、お父さん。シナンていうのは、いったい誰のことなんだろう」  突然に問われて、父のアブドゥルメンナンには、それが何のことだかわからない。 「ねえ、シナンて誰のことなの」 「シナンというのは、おまえのことじゃないか——」  アブドゥルメンナンはとまどいながら言った。 「でも、ぼくはぼくだよ」 「だから、おまえの言うぼくがシナンなんだよ」 「でも、ぼくはぼくのことをシナンと呼ばないよ。ぼくはいつもぼくのことはぼくと呼んでいるじゃない。ぼくのことをシナンと呼ぶのは、お父さんや、お母さんや、みんなぼくじゃない人たちだよ」  言われて、アブドゥルメンナンは、ますますわけがわからなくなる。  いったいどうして、自分の息子がこのようなことを訊いてくるのか。 「名前というのは、本人のためじゃなくて、他人のためにあるんだと思う。シナンという名前は、ぼくにとって必要なものじゃなくて、ぼくじゃない人がぼくを呼ぶ時や、ぼくを知るために必要なものなんじゃないのかな」  この十歳の子供の思考に、アブドゥルメンナンはついてゆけない。 「お父さんも、お母さんも、ぼくのことをシナンて同じ名前で呼んでいるのに、お父さんが考えているぼくと、お母さんが考えているぼくとは、たぶんかなり違うんだと思う」 「——」 「たぶん、ぼくを知ってる人の数だけ、その人の考えるシナンがいて、それは全部違っているはずなのに、ぼくを呼ぶ時はいつも同じシナンなんだ」  なんとなく息子の言っていることはわかるような気もするが、しかし、それが何だというのか。  息子の言うぼくと、自分たちが呼んでいるシナンが違うにしたって、それがどうだというのか。  これまで、そんなことは考えたことがなかったし、考えなくともうまくやってきたのだ。何も、自分たちだけがこのことについてうまくやってきたのではなく、世界中の人間たちが、このことについてはうまくやってきたのである。  適当にあしらって、話をそらしてやり過ごしてきたが、しかし、その名前についての問いが、神にまで及んでくるのは、少々おだやかではなかった。 「ねえ、どうして神には名前があるの?」  十二歳になったシナンが、ある日、突然そのように訊いてきたのである。       2  シナンの生まれたアウルナス村は、キリスト教徒の村であった。  したがって、オスマントルコ帝国内にありながら、信仰している神はイスラムの神アッラーではない。信仰しているのは、キリスト教の神であるエホバである。  何故、このようなことがあり得たのかというと、トルコのイスラム社会は、国内での異教徒の信仰を許していたからである。  信仰を許されたといっても、それは、ユダヤ教徒とキリスト教徒のみであった。これは、ユダヤ教の神ヤハウェも、キリスト教の神エホバも、そして、アッラーもまた同じ神であると、トルコのイスラム教徒たちが考えていたからである。  同じ神のことを、ユダヤ教徒はヤハウェと呼び、キリスト教徒はエホバと呼び、イスラム教徒はアッラーと呼ぶ。  ただし、ユダヤ教もキリスト教も、同じ神を崇《あが》めながら、宗教としては不完全なものであり、イスラムが一番|優《すぐ》れたものであると、彼等は考えていた。  これは、それぞれの宗教の預言者《よげんしゃ》の能力の差であるとイスラムは考える。  ユダヤ教の預言者、モーセ。  キリスト教の預言者、イエス。  そして、イスラム教の預言者はマホメット——すなわちムハンマドである。  この三人のうち、一番優れた預言者が、ムハンマドであると、イスラム教徒たちは考えているのである。  つまり、ムハンマドが語った神アッラーこそが真実の神であると、イスラム教徒たちは信じているのである。  しかし、同じ神であるというそういう立場から、オスマントルコの歴代のスルタンたちは、ユダヤ教徒やキリスト教徒の存在を許していたのである。  アウルナス村が、キリスト教徒の村であるというのは、オスマントルコにおいてはそういう意味であった。  シナンが、父のアブドゥルメンナンに神の名前について訊ねた時、それはまず、キリスト教の神エホバのことであった。 「神が、もし、この世で唯一の存在ならば、名前なんていらないような気がするんだ——」  この問いにも、アブドゥルメンナンは答えることができなかった。  言われてみれば、たしかにそうなのだが、しかし、シナンのような思考はなじめなかった。  アブドゥルメンナンの仕事は、木工事屋である。  息子のシナンも、アブドゥルメンナンの仕事を手伝っている。  木を切り、彫《ほ》って加工し、それを組み合わせて様々のものを作る。ある時はそれが、馬車であったり、机や椅子などの家具であったり、聖書を読む書見台や、家の扉であったりする。 「名前は必要だよ」  アブドゥルメンナンは、シナンに向かって言った。  自分の仕事のことを語り、 「できあがったものを、全部、これは木であるといっても間違いではないが、そう言ってしまったら何がなんだかわからなくなってしまうではないか——」  そう言った。  ある木は、テーブルや椅子であり、またある木は馬車や扉になっている。  そういう名前があって初めて、作るものの注文も受けられるし、それを作ることもできるのである。 「でも、それがひとつしかないものだったらどうなの?」 「ひとつ?」  神が、この世で唯一のものなら、その神に名をつける必要があるのだろうか——  そもそも、神に名をつけたのは誰であるのか。  それとも、神自らが、自らの名を語ったのだろうか。  それを語った時に、神はどういう言語を使用したのか。  人の言語を使ったのか。  神に、神の言語があったにしても、人は神の言語を知らないから、その時神が語ったのは、やはり人の言語であったのではないか。  その時、神は、肉をもって語ったのか。  何故なら、語るということは、喉《のど》を震わせ、口を開き、唇と舌をもって音を出すことである。  神が人のような肉を持たないのなら、どうやって神は言葉を発したのか。  神は自分の姿に似せて人を創造《つく》ったというから、神もまた肉を持つ存在であるのか。  神は、人の頭の中に直接言葉を与えたのか。  いずれにしても、人の頭や心に直接語りかけるにしても、それは人の言葉によって語られねば、人には理解できないのではないか。  そのようなことを、このませた少年は父に向かって言ったのであった。  父は、息子の問いに答える言葉を有していなかった。  シナンは、神という存在そのものに疑いを持っていたわけではない。  信仰が、他の子供たちに比べて薄いというのとも違う。  ただ、どこかが妙であった。  神の存在そのものを疑うのではなく、神はどのような形式によって存在しているのか——そういうことに、この子供は興味を持っていたのである。  神と人間とが交信する時、どのような言語で、どのような方法をもってそれをなしたのか。  神はどこにいるのか——そのようなことも訊いてきたことがある。  不思議な子供であった。  父のアブドゥルメンナンは、一度ならず、村にある教会の神父に相談をしたことがある。  その神父の名は、ヨーゼフといった。  五十二歳——  ヨーゼフは妻を持たなかった。  アウルナス村——というよりも、その地方一帯のキリスト教は、ギリシア正教であった。  ヨーゼフは、 「ならば、一度、わたしのところによこしなさい」  アブドゥルメンナンにそう言った。  シナンは、ヨーゼフのところにやってきた。  この時が、十三歳である。  何故、神に名前があるのか?  シナンの問いに、ヨーゼフはまず次のように言った。 「シナンよ、おまえの疑問は正しい」  言われたシナンの方が、これに驚いた。  父は、同じこの問いに、曖昧《あいまい》な言葉を重ねるばかりで、最後には怒り出すこともあった。 「神について、そのような疑問を持つおまえが間違っているのである」  そのような言い方をした。 「神の深い御心《みこころ》については、人の知るところではない」  そうも言った。  しかし、何と言われようが、自分は意識してそのような問いを心に持つのではなく、自然に湧いてきてしまうのである。  シナンにとっては、呼吸をしたり、腹が減れば食事をするのと同様に自然なことである。人としての生理に関わる部分と同様の現象なのである。  それを、間違っている、疑問を持つなと言われれば、シナンの方が困ってしまうのである。その困ってしまう自分の方がいけないのかと、シナンは考えてしまうのだった。  それが——  初めて、ヨーゼフによって肯定されたのである。  シナンの全身に、この時、新鮮な驚きが駆け抜けた。 「本当ですか、神父さま——」 「本当だ」  神父は深くうなずいてから、 「何故ならば、人は、神がその御技《みわざ》によってお創《つく》りになったものだからである」  はっきりとシナンにそう告げた。 「つまり、神によって創られたその人が心に浮かべることもまた、神の御技によるものということになる。だから、おまえが心に浮かべるその疑問もまた、神の御技によるものということになる。およそ神の創られたもので正しくないものがこの世にあるであろうか——」  この理屈は、シナンにもよくわかった。  ここで、シナンが現代人であれば、当然次のような質問を、ヨーゼフに向かって発せねばならない。 �では何故、神は正しいのか?�  しかし、この時、シナンは神の存在そのものについては疑ってはおらず、神が存在する以上は、その神が正しいという考えには、まだ疑問を持つには至っていなかった。  神父の言葉に驚きを覚えはしたものの、シナンの方には、しかしまだ自分が発した質問には答えてもらってないという意識がある。  ヨーゼフは、まだ、シナンの発した疑問を肯定しただけである。  何故、神に名前があるのかという問いには、神父は答えてはいないのだ。 「どうして、神に名があるのですか」  シナンはもう一度問うた。 「それは、そのように名づけられたからである」  ヨーゼフは、答えた。 「誰が名づけたのですか。人が名づけたのですか、神自身がそう名のったのですか」 「人が名づけたのである」  これにもまた、ヨーゼフは明確に答えた。 「人が、神に名を?」 「おかしいかね」  逆に問われて、今度はシナンが迷った。  おかしいようにも、おかしくないようにもシナンは思っている。 「名というものは、そもそも、どういうものだね」  さらに、神父は訊ねてきた。 「どういうものなのですか」  逆にシナンは神父に問い返した。 「名というのは、便宜《べんぎ》上のものなのだよ」 「——」 「名があると、便利であるから我々はものに名をつけ、それを使うのだ。存在の本質に関わるものだが、本質そのものではない」 「——」 「シナン、おまえの名はどうだね」 「わたしの名ですか」 「おまえから、シナンという名をとってしまったとしよう。すると、おまえはこの世から消滅してしまうかね」 「しません」 「では、花でもよろしい。我々は、ある花にチューリップと名をつけた。これは、名をつけたからチューリップが存在したのかね。名をとってしまうと、チューリップは消滅してしまうかね」 「しません」 「神も、これと同じだ」  言われた途端に、シナンの身体に戦慄《せんりつ》に似たものが疾《はし》り抜けた。  なんということか。  眼玉を平手ではたかれたような気がした。 「名をつけたから、神が存在するのではない。名をつける前から神は存在しているのだ。名をとったからとて、神はこれまでと同様に存在する——」 「——」 「神の名そのものは、神の本質に比べたら重要でないのだ。おまえと他人とを区別するために、シナンという名がある。神も同様だ。異教の神と区別をするために、人が神に名を与えたのさ。このことによって、我々の神に対する信仰の何がどうゆらぐというのかね——」 「——」 「何もゆらぎはしないのだ」 「はい」 「つまり、神に名があろうとなかろうと、それはどちらでもよいのだ。どちらでもよいのなら、名がある方が便利ではないかね。神に名があるというのは、実はそれだけのことなのだ」 「はい」  興奮のため、シナンは、呼吸を荒くしてうなずいた。  シナンと、ヨーゼフが交わしているのは、一種の神学問答である。  ギリシア正教のみならず、神という存在については、様々な宗派が、論を重ねている。  インドのバラモン教典などにも見られるが、それを、極めて精緻《せいち》なかたちで練りあげ、世界史にも類を見ないほどの体系にまで高めたのが、イスラムの哲学者や詩人たちであり、そして、スーフィーと呼ばれるイスラム神秘主義者たちであった。  後に、シナンはスーフィーたちの難解な哲学的思想に触れてゆくことになるのだが、すでにその時のための思考的訓練を子供の頃にすませていたと考えていい。 「神は、肉の身体を持つのですか」  シナンは、さらにヨーゼフに訊いた。 「それもまた、最初の問いと同じである」  ヨーゼフは答えた。 「神は肉に宿りもするし、その肉を持つ人を通じて語りもするが、神の本質は霊である」  ここで、ヨーゼフが霊というのは、人間の霊魂——幽霊というものではない。 『聖書』でいう「父と子と聖霊」という意味において使用される霊のことである。 「その霊的な存在である神が、預言者の肉体に降《くだ》り、預言者の口を通じて、その教えを語るのである。つまり、その時神が操《あやつ》る言語は、預言者の操る言語なのである」  よどむことなく、神父ヨーゼフは言った。預言者がその時アラビア人であれば、その預言者の口を通じて神はアラビア語で語り、預言者がその時ユダヤ人であれば、その預言者の口を通じて神はユダヤ人の言葉で語る——  そういうことになるのだと、ヨーゼフ神父はシナンに告げた。 「神は、どこにいるのですか」  さらにシナンは訊いた。 「どこにでも——」  ヨーゼフは答えた。 「どこにでも?」  神はどこにでもいる——このニュアンスがシナンにはわからなかった。  シナンがそれを問うと、 「シナンよ、おまえは全てをわたしから聞こうというのかね」  ヨーゼフは言った。 「おまえは、おまえの神について自ら考えねばならない。おまえは、おまえの神の実在について自ら思い、考え、そして知るべきである」  ——と。 「もしもおまえが神について何かを知ったら、わたしのところまでやってきて、それをわたしに教えてくれないか」  シナンが、次にヨーゼフの元を訪れたのは、十日後のことであった。 「わかりました」  この少年は、眼に喜びの光を溜めながら、ヨーゼフに言った。 「ほう、何がわかったのかね」 「神の居場所が」  興奮した声でシナンは言った。 「それはどこかね」 「ここです」  右手を自らの胸にあて、 「神は、心の中にいるのです」  シナンは言った。 「ほう。どうしてそれがわかったのかね」  ヨーゼフは、落ち着いた声で、少年シナンに問うた。 「神は……」  と、シナンは言いかけて、口ごもった。 「神は?」 「神は……汚《よご》れです」  言いにくそうにシナンは言った。 「汚れ?」 「いえ、神が汚れそのものだと言っているのではありません。神は汚れのようなものだと言ったのです。いえ、それも少し違います。この世に汚れが存在するような在《あ》り方で、神もまた存在するのだと言いたかったのです」  シナンの声は、はずんでいる。 「気持を落ちつけて、わたしにわかるように説明しておくれ」  ヨーゼフは言った。 「はい」  シナンはうなずいてから、 「ヨーゼフ神父さま、汚れとは何でしょうか?」  いきなりそう訊いてきた。 「はて、何だろうね」 「汚れとはどこにあるのでしょうか?」 「どこにあるのかね」 「汚れもまた、神と同様に人の心の中に在るのです」 「ほう」 「わたしは、この十日間、ずっと神の実在について考え続けてきました。そして、やっとわかったのです」 「何がわかったのかね」 「この十日間、わたしはずっとそのことばかりを考え続けていて、仕事場の掃除をすることも忘れていたのです。それで、父に叱《しか》られました——」  シナンよ、どうしておまえは、おまえの仕事場をこのように汚したままでいるのか——  父のアブドゥルメンナンは、そのような言葉でシナンを叱った。  シナンの作業台の周囲には、木屑《きくず》が散乱し、仕事の道具も放り出されたままになっていた。 「それを見た時、急にわたしにはわかったのです」 「神が汚れと同じであると?」 「ええ」  シナンはうなずいた。 「わたしは、父に言われるまで、木屑がまわりに散らかっていることにも気がつきませんでした……」 「うむ」 「神父さま、木材は汚れでしょうか」 「汚れではない」 「では、木屑はどうなのでしょう」 「どうなのだね」 「木屑もまた、木材です。木材が小さくなっただけのもので、本質的には大きな木材も小さな木材も同じものです。では何故、小さくなった木材であるだけの木屑が汚れになってしまうのでしょう」 「——」 「たとえば、スープは、テーブルの上にこぼれた途端に、汚れになってしまいます。しかし、テーブルの上にこぼれたスープも、皿の中に入っているスープも、本質的に同じものです。どうして、一方が汚れとなってしまうのでしょう」 「教えておくれ」  楽しそうに、神父ヨーゼフは言った。 「わたしは、父に言われるまで、わたしの周囲に散らばっている木屑を眼にはしていたのですが、それを汚れだとは思っていませんでした。父に言われてはじめて、それが汚れであると理解したのです」 「ふむ」 「この時、わたしの周囲にある木屑が、本質的な変化をしたでしょうか。木屑は、どのような変化もしていません。ただ、そこにあるだけです。では、いったい何が変化をして、木屑が汚れとなったのでしょう」 「何が変化をしたのかね」 「わたしの心です」 「——」 「わたしの心が変化をして、それを汚れと認識するようになったのです。そして、その時、わたしは気がついたのです。神も、このようなものなのではないかと——」 「ほう」 「この世に、神を見る人も、見ない人もいます。神を見る人は、その心の中に神を持っているからなのです。ちょうど、汚れを見る人が、その心の中に汚れを認知する力を持っているように……」 「シナンよ。おまえの言うことはわかる。しかし、譬《たと》えがよくない」 「譬え?」 「おまえの言う汚れを、美《び》という言葉に置きかえてみなさい」 「美ですか」 「素晴らしい絵でも、風景でもよい。それを見る者がたとえ何人いようとも、心に美を持たない者は、その絵にも風景にも、美を見いだせぬであろう」 「——」 「心に美を持たぬ者にとっては、そこにある絵は、ただの様々な絵の具の量であり、面積であり、かたちであるにすぎない。人が描いてあれば人が描かれていると思うが、心に美を持たぬ者にとっては、ただそれだけのものだ——」 「——」 「しかし、美を理解できる心を持った者は、その絵に美を発見することができる。他人より、より多くの量の美を心に持つ者は、同じ絵の中にもより多くの量の美を見ることができるだろう」 「——」 「神もこれと同じだ。心により多くの量の神を持つものは、この世により多くの量の神を見ることができる。わかりやすく言えば、それは信仰心だ。より多くの量の信仰心を持つ者は、それを持たぬ者よりずっと多く神を見ることができるであろう」 「そうです、神父さま。そのことを、わたしは言いたかったのです!」  シナンは、声を大きくした。  シナンの呼吸が荒くなっている。 「神は、この世界に遍在《へんざい》し、預言者の肉に降《くだ》り、広大なる大地や天の裡《うち》にも住まわれている。しかし、稀《まれ》に、神は、人がその手によって造りあげたものの裡にも降《お》りてくることがある……」  神父は言った。 「人が造ったもの?」 「ああ——」 「神父さまは、それをごらんになったことがあるのですか?」 「ある。一度だけな」 「どこで?」 「イスタンブールだ」 「イスタンブール?」 「そこに建つ、聖《アヤ》ソフィアだ」  うっとりと、夢見るような口調で、ヨーゼフは言った。 「今でこそ、イスラムのジャーミーになっているが、もともとは、あれは我らキリスト教徒が一千年の昔に建てたものなのだ」 「一千年……」  それは、なんと遥かな時間であったろうか。 「聖《アヤ》ソフィアこそ、人が造り出した、最も神がよく見える場所なのだよ」 「本当に?」 「見れば、その瞬間に、それがわかる」 「見れば?」 「ああ」  しかし、アウルナスから、イスタンブールまでは、遥かな距離があった。  アウルナスから西へ、直線距離にしておよそ七〇〇キロ——。  この距離を、やがて、シナンは埋めることになる。       3  シナンが、デヴシルメというシステムによって、イェニチェリとなったのは、二十四歳の時であった。  これによって、シナンはキリスト教からイスラムへと改宗させられ、ベクターシ教団の人間となったのである。  デヴシルメというのは、もともとはアナトリア地方のトルコ語で、物を集める動作を意味する言葉である。しかし、オスマントルコの時代が成熟してゆくにしたがって、意味が固定化してゆき、オスマン帝国独特の徴用制度のことを指す言葉となっていったものである。  支配下に置いたキリスト教徒——多くはギリシア正教徒から、少年や若者を集め、オスマン王家に奉仕する宮廷の小姓、あるいはイェニチェリという兵士集団を作っていったのである。  ちなみに、シナンの時代の言葉ではないが、サライ・デヴシルメと言えば、前者のための徴用制のことであり、イェニチェリ・デヴシルメと言えば、後者のためのデヴシルメであった。  歴史上、稀にみる強大な帝国を造りあげていったオスマントルコの背景を支えていたのは、こういったデヴシルメの制度であったのである。  デヴシルメによって徴用された少年たちは、形式的には奴隷であったが、実質的にはそれまでになかった新しい階層を構成し、シナンの例で言えば、オスマン帝国の首席建築家にまでなっているのである。  イェニチェリという、異教徒出身の人間たちの軍事集団は、オスマン帝国内にあって、ひとつの大きな力となり、帝国の行政をも左右する権力を持つようになってゆく。  しかも、イェニチェリは、上からの一方的な命令によって役割が決められてゆくのではなく、兵士ひとりひとりの能力に応じて、その仕事が決められてゆくという、大きな特徴を持っていた。  このシステムなくしては、シナンという人間は生まれなかったろう。  デヴシルメの対象となるべき家族は、時代にもよるが、おおむね四〇戸のうちから一戸の割合で選出された。  対象者が一人息子の場合は、徴集適用から免除された。しかし、流動的ではあるが、その場合は父親が役務について、一定期間汗を流さねばならなかった。  二人以上息子のいる場合は、より優れた者が選ばれ、一人っ子、孤児、片親、あるいは貪欲な者が後見人の場合や、住民たちに評判の悪い者は、徴収の対象からはずされた。  病気の者、禿頭《とくとう》者も徴集されず、ユダヤ教徒の息子も徴集の対象からはずされた。  ある意味では、イェニチェリというのは、この時代における、一種の選ばれた人間たちの集団であったといっていい。       4  さて——  では、シナンがいかにしてイェニチェリになったのかということになる。  具体的に言うのなら、シナンは、自らデヴシルメに志願したのか、あるいは、無理やり徴用されてしまい、イェニチェリとなったのかということである。  これについては、確かな文献は残されていない。  シナン自身の自伝を読んでも、 �自分は二十四歳の時に、デヴシルメによってイェニチェリとなった�  ということが記されているばかりで、その実態についてはそれ以上のことは書かれていないのである。  原則的に、イェニチェリというのは、志願というかたちはないのだが、イスタンブールに行く手段として、シナンが心の中でそれを望んでいたとするのは、小説的には許されるであろう。  デヴシルメによる徴集を、シナンは喜んでいたのではないだろうか。 「何故だ?」  喜んでいるシナンに向かって、父であるアブドゥルメンナンはそのように問うたことであろう。 「どうしておまえはそのように嬉しそうな顔をしているのだ」  シナンは、木工事屋としては優秀な人間であった。  石造建築のアーチの型枠を作らせても作業が早く、正確であった。  同じものを作るにしても、その過程に独自の工夫をするため、だんどりそのものの効率もよい。  伝統的な家具などを作る時にも、その形に自分の新しいデザインを取り入れた。  それについては、アブドゥルメンナンとも何度か衝突したことがある。 「何故、決まり通りにやらないのか」  父親の言い分はそこにあった。  しかし、シナンにしてみたら、これまでと同じようにやるのなら、 �それは自分の仕事ではない�  ということになる。  これまでと同じようにやるのなら、それは自分ではなく、他の者がやってもよいし、誰がやってもいいことになる。  自分がやるのなら、そこに自分らしいものを取り入れたいし、また、そうすべきであるとシナンは思っていた。  何であれ、それがものを作る人間の仕事であり、そこにこそ、ものを作る時の喜びがあるのではないか。  シナン自身は、職人としても非常に優秀であり、技術も持っていたが、極端な話、その技術については、自分が持っていようが他人が持っていようが、それはどちらでもいいと彼は考えていた。  ものを作る人間に必要なのは、新しいものをイメージする力、能力であり、それを現実のものにするためには、誰か別の人間の技術を使おうが、自分の手で直接やろうが、それはどちらでもいいのではないか。  もしも、自分の持っているイメージを、自分と同様の技術を持っている人間に正確に伝えることができるのなら、それで充分ではないかと。  むしろ、その方が、新しい作品をたくさんこの世に生み落とすことができるのではないか。  それが思うようにできない今の仕事は、自分には窮屈すぎるとシナンは前から考えていた。  しかし—— �古い決まりは、自分には窮屈すぎるのです——�  とは、シナンは父親には言わなかったであろう。 「イスタンブールに行ってみたいのです——」  シナンは、そう言った。  その言葉に、自分の想いを籠めた。  このシナンの言葉についての反応も、父親は同じであった。 「何故か——」  シナンにそう問うた。 「どうして、イスタンブールに行きたいのか——」  と。  当時、シナンの周囲の多くの人間たちは、アウルナスという村で、自分を完結することができた。地方の村に生まれ、その村からどこに出ることもなく、一生を終ることができたのである。  出かけるといっても、それはせいぜいがカイセリの街までであり、わざわざイスタンブールまで行かずとも、どういう不自由もなかったのである。  どのような用事にしろ、コンスタンチノープルまで行くということは、それはその間、自分の仕事ができなくなるということであった。  片道で、十日から半月以上はかかる。  行って帰ってくるだけで一カ月。  この間、収入がなくなる。  経済的によほどのゆとりがなければ、このような旅ができるものではなかった。 「聖《アヤ》ソフィアを見てみたいのです」  そのくらいのことなら、シナンは言ったであろう。  神父のヨーゼフに、聖《アヤ》ソフィアのことを聴かされて以来、それを自分の眼で見るということは、シナンの夢であった。  コンスタンチノープルに行けば、その聖《アヤ》ソフィアを見ることができる。 「それなら、イェニチェリにならずとも、見ることはできるではないか」  とアブドゥルメンナンは言った。  それはその通りなのだが、そうすると、 �帰ってこなければならないではないか�  シナンはそう考えている。  もし、イスタンブールへ行き、聖《アヤ》ソフィアを見てしまったら。  もしも、聖《アヤ》ソフィアがヨーゼフの言う通りのものなら、自分は、このアウルナスにまたもどってくるだろうか。  おそらく、もどってこないのではないか。  そんなことも考えている。  だが、シナンは、それも口にはしなかったろう。 「どうしても行ってみたいのです」  シナンは、同じ言葉を繰り返すしかなかった。  ここで、アブドゥルメンナンが考えたのは、家のことであった。  木工事屋をやっており、なんとか家族が生きてはゆけるが、暮らしが楽であったわけではない。  この当時は、人頭税があったが、デヴシルメの対象となった人間からは、その税が免除されるならわしであった。  それだけで、かなり暮らしは楽になる。  さらに、もうひとつには、後継ぎの問題がある。  シナンには、兄がふたりいて、その兄たちも、父の木工事の仕事を手伝っている。  いずれは長兄が仕事を継ぐことになるだろうが、そうなればシナンは兄の手伝いをせねばならなくなる。  それが、このシナンにできるであろうかという不安がある。  アブドゥルメンナンから見ても、おとなしく兄の仕事を手伝うということが、シナンには勤まりそうにない。  兄の方は、教えられたことを、愚直《ぐちょく》なほどしっかりと、そのままできる人間であり、シナンとは人間の性質がまた違っていた。  自分が元気なうちはいいが、もし、死ぬか一線を退くようなことがあれば、シナンは兄とこれまで以上に対立することになるだろう。  一家全体のことを考えるなら、シナンがいない方がうまくゆくことであろう。  しかし——  アブドゥルメンナンにとっては、さらにふたつの問題があった。  それは——  デヴシルメによって徴用されたら、イェニチェリとなって、戦《いくさ》に出ねばならなくなる。  これがひとつ。  もうひとつは——これが、アブドゥルメンナンにとっては一番の問題であるのだが、それは、キリスト教からイスラム教に改宗せねばならないということである。 「よいのか」  と、アブドゥルメンナンは、これをシナンに訊いた。 「はい」  シナンは素直に答えた。  すでに、シナンは、そのことについては結論が出ている。  シナンにとって、改宗というのは、同じ神を別の名前で呼ぶというだけのことだ。  どちらでもよいではないか——  そう思っている。  神の名をヤハウェと呼ぶかアッラーと呼ぶかについては、その名を記号として考えるのなら、ヤハウェの方が自分にとってはずっと扱《あつか》い易《やす》い記号であった。しかし、それが仮にアッラーとなったところで、それは慣れだけの問題であろうとも思っていた。  アッラーという記号に慣れてしまえば、それもまた、扱い易い記号となるのではないか。  頭の中では、そのように理解をしている。  しかし、そのように理解はしていても、現実のこととして考えた場合、この改宗については、とてもひと口には言えぬ問題があるのだが、シナンの大元《おおもと》にある考え方は、神の名といえども、それは、人の名のような記号の一種であり、どう名づけようと、 �神は神ではないか�  という認識がある。  しかし、そこまでのことを、この時、父のアブドゥルメンナンには言っていないだろう。  父が、自分のそのような思考法を好まないことは、シナンもわかっていた。 「改宗といっても、それはかたちだけのことです」  父親には、そのような言い方をした。  結局、アブドゥルメンナンが折れることとなった。       5  四月——  シナンは、褐色の大地を、イスタンブールに向かって歩いている。  シナンと同様に、デヴシルメで徴用された少年や青年たちと、一〇〇人余りの集団を作って移動をしている。  彼らは、いずれも、黄色い内|外套《がいとう》の上に、クズル・アバと呼ばれる赤い外套を掛けており、頭には先端の尖《とが》った帽子を被《かぶ》っている。  これが、デヴシルメに受かった者たちに支給される着衣であった。  これらの費用は、出身者の村がひとりにつき二〇〇アクチェから三〇〇アクチェの金額を負担する。  途中の宿泊地での滞在費用は、全て地元民の現物支給でまかなうことになっていたから、帝国は、デヴシルメにかかる費用の心配は、ほとんどすることがないシステムになっていた。  シナンは、左右に広がる大地を、好奇心に満ちた眼で眺めながら歩いている。  カッパドキア地方は、冬には雪が積もり、かなりの寒さになるが、さすがに四月ともなれば、大地が春の化粧《けわい》を始めているのがわかる。  樹々に緑は芽ぶき、大地のあちこちからは、草が萌《も》え出《で》ている。冬の間眠っていた地の力が、そのまま、この眩しいような色となって、大地の表面に吹き出てきている。  自分もまた、そのような眠っていた力の一部なのであろうかとも、シナンは思っている。  自分は、それまで凍っていた大地から芽ぶいたばかりの草なのだ。  しかも、まだ名づけられていない草である。  まるで、自分自身を眺めるように、シナンは風景に視線を放っている。  そこへ—— 「おい」  背後から声をかけてきた者があった。  あまり話をしたことはなかったが、これまでの道中で、名前は知っている。  ハサンという男だった。  歳は、シナンと同じに見えるが、幾らか若いかもしれない。 「シナン」  ハサンは、シナンの名を呼びながら、横に並んできた。  横眼で、馬に乗った護送官の方をちらりと見やってから、また声をかけてきた。 「シナン、でよかったんだな」  名前の確認をした。 「ああ」  シナンはうなずいた。 「おれは、ハサンだ」 「知っている」 「そうか」  ハサンもうなずき、歩調をシナンに合わせてきた。 「おまえ、妙な奴だな」  ハサンは言った。 「妙?」 「なんで、そんな嬉しそうな顔をして歩くんだ」 「嬉しそうに見えるか?」 「見える」  ハサンは短く答え、顎をしゃくるようにして、周囲に視線をめぐらせ、 「他の連中に比べれば、ずっとな」 「そうか、嬉しそうか」  シナンは、ハサンの言葉を、肯定するでも否定するでもなく、そのままなぞってみせた。その顔を見やり、 「今夜、三人ほど死ぬことになっているそうだ」  ハサンは言った。 「死ぬ?」 「ああ。おまえも、その死ぬ仲間に入っているんじゃないのか」 「どういうことだ?」  シナンは問うた。 「おまえ、知らんのか」 「だから、何をだ」 「今夜、三人ほど脱走するんだよ」 「脱走?」 「それを、護送官が、上には死んだことにして、報告をするのさ」 「何のことだ?」  そう言われても、シナンには何のことだかわからない。 「賄賂《わいろ》だよ」  ハサンは声をひそめて言った。 「親から金をもらって、護送官がその子供を、道中で病気で死んだということにして、逃がしてやるんだよ」 「そういうことか」  ようやく、シナンにも話が呑み込めた。  このデヴシルメのシステムにも、色々の穴がある。  まだ、徴用が決まっていない者については、賄賂を受けとって徴用しないことにし、決まった者については、とりあえず徴用をしてから、護送の途中で死んだことにして逃がしてやるのである。  護送官が、金を稼ぐための、公然の秘密である。  それが、今夜、三人あるというのである。 「ふうん」  関心のなさそうな声で、シナンは答えた。 「馬鹿な奴らだ」  吐き捨てるように、ハサンは言った。       6 「馬鹿というのはどういう意味だ」  シナンは、このハサンという男に興味を持った。  金で徴用を逃《のが》れて自由になる——それをハサンは馬鹿だという。いったいどのような考えで言っているのか。 「あいつらは、自ら機会を捨てたのだ」 「機会?」 「そうだ。デヴシルメでイェニチェリとなれば、出世することができる。おのれの能力次第では、スルタンのお声がかりで、一個師団の長にだってなることができるのだ」  なるほど——  とシナンは思った。  そういうことか——  ハサンは続ける。 「村へもどったら、またただの村人ではないか。しかも、名前を変えねばならない」  ハサンの言っていることはわかる。  いったん徴用されたら、書類に名前が残ってしまう。しかも、それは死んだ人間として記載されている。死んだはずの人間が生きていては具合が悪い。次のデヴシルメのおりにそれがわかってしまう。親の仕事を継ぐにしろ、財産分与のおりなどに、また役人に賄賂を使って法の網をくぐることになる。  様々な不便がある。 「イェニチェリになったからといって、必ず戦《いくさ》で死ぬわけではない。今や、オスマンの軍は、この地上で一番強い。死ぬのはオスマンの相手をする軍の兵士だ」  ハサンは言った。 「だが、死ぬ、死なぬということを別にしても、あながち彼等が馬鹿とも言えないのではないか」 「何故だ」 「彼等が必ずしも出世を望んでいるとは限らないからだ。ただの村人でいいと彼等が考えているのなら、それはそれでいいではないか」  シナンの言葉に、ハサンは唾を吐き捨てた。 「出世も、金も望んでいない人間なぞ、この世にいるものか。出世もできない、金も手に入れることができないと、あきらめている人間だけがそういうことを言うのさ」 「ふうん」  はっきりしたハサンの言い方に、シナンは感心したような声をあげた。 「そういうものか」 「そういうもんだよ」  ハサンは自分でうなずいてみせ、 「もしも、出世にも金にも興味がない人間が本当にいるなら、そいつはもっと馬鹿な人間だよ。だから、どちらにしろ、馬鹿ということでは同じってことだ」  そう言った。  シナンは、声をあげて笑った。  明るい笑い声であった。 「何がおかしいんだ」 「あんたの言い方だと、この世には馬鹿と馬鹿じゃない人間と、二種類しかいないように聴こえる」 「おれはそう言っているんだよ」  言われて、またシナンは笑った。 「あんたの考え方は、わかり易くていい」  シナンは言った。 「笑うな」  ハサンは言った。  シナンを見やり、 「おまえはどっちなんだ」  ハサンが訊いてきた。 「さあ——」  シナンは、頭を掻いた。  自分は、馬鹿なのか、そうでないのか。 「——それが、よくわからない」  シナンはつぶやいた。 「イェニチェリには、徴用されてなったのか?」  ハサンは質問を変えてきた。 「いいや、なりたかったのさ」 「何故、イェニチェリになりたかったのだ」 「イスタンブールに行けるからだ」 「何故、イスタンブールに行きたいのだ」 「聖《アヤ》ソフィアがあるからだ」  そう言われても、ハサンにはシナンの言った言葉の意味がわからない。  ハサンは、怪訝そうな顔をして、 「聖《アヤ》ソフィアがどうしたというんだ」  シナンに問うた。 「神が見えるそうだ」 「なんだって?」  ハサンは、シナンの顔を、奇妙な生き物でも見るように見た。ハサンにもシナンのこの感覚は馴染《なじ》みがない。 「聖《アヤ》ソフィアをこの眼で見たいんだよ」  シナンはわかり易い言い方をした。 「そのためにイェニチェリになったのか」 「まあ、そういうことのようだ」  シナンは、他人事のような言い方をした。 「おかしなやつだ」 「よかった」 「何がよかったんだ」 「馬鹿と言われるよりは、おかしなやつの方がいい」  シナンは、また笑った。  シナンは、春の化粧《けわい》の始まりかけた広々とした大地の上を歩きながら、風の中で雲を眺めていた。 [#改ページ]  第2章  聖《アヤ》ソフィア [#ここから5字下げ] 駱駝《らくだ》めの行きたい道はわが背後《うしろ》、 わしの憶《おも》いはただ前途。 わが道と駱駝の道は喰い違い、 離ればなれに別れゆく。 ——ウルワ [#ここで字下げ終わり]       1  シナンが、聖《アヤ》ソフィアを見る機会は、意外に早く訪れた。  もっとも、それは建物として巨大なため、見るだけであれば、イスタンブールの多くの場所からよく見ることができたからである。  それほど、聖《アヤ》ソフィアは、他を圧してその地にそびえていたのである。  しかし、聖《アヤ》ソフィアは、初めからこの大きさであったわけではない。  ビザンチン帝国の歴史の中で、戦火にもあい、何度か建てなおされ、修復もされて、最大規模の聖堂としてそこに残ったのである。       2  聖《アヤ》ソフィアについて語る前に、まず触れておかねばならないのは、この奇跡的な大聖堂の建てられているイスタンブールという街についてである。  このイスタンブールは、オスマントルコがこの地を征服してからの呼び名であり、ローマ帝国時代は、コンスタンチノープルと呼ばれていた。さらに古くは、ビザンチウムと呼ばれていたこともある。  さて——  西洋と東洋という、ふたつの概念がある。  地理的に言えば、ユーラシア大陸を西のヨーロッパと東のアジアとに分けるものであり、これはそのまま、ふたつに分けられた人種的、文化的な概念でもある。  西洋と東洋——  これを、地図上において、どこで線引きするかということは、厳密に考えるとたいへんに難しい問題となってくるのだが、古来よりボスポラス海峡をもってそのラインとするのが一般的であった。  ボスポラス海峡——  北の黒海と南のマルマラ海とをつなぐ、長さ三〇キロメートルの海峡である。最も狭いところでは幅七六〇メートル。  この海峡からマルマラ海を通り、エーゲ海、さらには地中海まで抜けるラインが、西洋と東洋の境目である。  イスタンブール——コンスタンチノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。  古代シルクロードの東の端に、人口一〇〇万人の都|長安《ちょうあん》があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。  東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。  混沌《カオス》の都市である。  オスマントルコ時代、イスタンブールのトプカプ宮殿には、ギリシアやイタリアから運ばれた大理石に囲まれて、東洋から運ばれてきた陶磁器が溢れていた。  最初に、この地に街を創ったのは、ギリシア人であった。  アテネの西のメガラからやってきたビザスの一行がこの地に都市を建設したのである。 �盲人の国の向かい側に都市を建てよ�  これが、出発前のデルフォイのアポロン神殿から下された神託であった。  その地を求めて、ビザスの一行は海と荒野を彷徨《さまよ》い歩く。  そして、ようやくたどりついたのが、ボスポラス海峡を望むこの地であった。  こちら側——つまりヨーロッパ側は、大陸側に深く入り込んだ湾があり、大型船を停泊させることもできたし、背後の丘は冷たい北風をさえぎってくれる。陸には葡萄《ぶどう》造りに適した豊かな土地が控え、そこを流れるリコス川の二本の支流は、川にも海にも多くの魚を育《はぐく》んでいる。  これほどに地の利がある場所であるのに、先住民が住んでいるのは、海峡を挟んだ対岸のアジア側である。  その先住民の住む土地こそが�盲人の国�であると判断して、ビザスはその向かい側であるこの地に街を作ることを決心したのである。  これが、紀元前七世紀頃のことである。  ビザスの名をとり、この地に生まれた最初の街は、ビザンチウムと名づけられた。  これが、後にビザンチン帝国の首都となったのである。  ビザスの時より、およそ一千年後、この地にやってきたのが、コンスタンチヌス大帝であった。  この当時、ローマ帝国は、東西のふたつに分かれていた。  西のコンスタンチヌス皇帝が、東のリキニウス皇帝を破って、東西のローマ帝国を統一し、このビザンチウムに入って、都の名をコンスタンチノープルと改め、ローマ帝国の都としたのである。  これが、西暦三三〇年の五月十一日のことである。  ギリシア正教の大聖堂、最初の聖《アヤ》ソフィアが建てられるのは、この後である。  聖《アヤ》ソフィアは、もともとは聖《ハギア》ソフィアと呼ばれていた。 �ハギア�  は、ギリシア語で聖なるものを意味する言葉であり、 �ソフィア�  もまたギリシア語で知恵を意味する言葉であった。  このふたつを合わせて、聖《ハギア》ソフィアとこの大聖堂のことを呼んだのである。  聖《アヤ》ソフィアの�アヤ�はギリシア語の�ハギア�がトルコ語で訛《なま》ったものである。  最初の聖《アヤ》ソフィアが完成したのは西暦三六〇年二月十五日である。  この聖堂の正確な寸法は残されていないが、現在のものよりは、かなり規模の小さなものであった。  当時のバシリカや殉教堂によく見られたように、身廊《ネイブ》と四本の通廊、階上廊《ギャラリー》などからなる建物で、大理石の円柱で木造屋根を支え、中庭を含む全体を壁で囲んでいた。  石造建築物ではあったが、屋根など、かなりの部分が木造であった。  七世紀初期の『復活祭年代記』には、この最初の聖《アヤ》ソフィアについて、次のように記されている。 [#ここから1字下げ]  皇帝コンスタンチヌスはハギアソフィアの献堂式にあたり、金銀の大きな器、これも金や宝石をちりばめた祭壇の覆い布、さらに聖堂の扉を覆う金糸の垂れ布、外の大門のためにも黄金を奉納した…… [#ここで字下げ終わり]  テオドシウス大帝が、コンスタンチノープルに第二回教会会議を招集したのは、三八一年の五月である。  この時に、東西の教会の緊張が高まり、ついに帝国は二分されることになる。  テオドシウスは、その死にあたって、帝国を西と東に二分し、西をホノリウス、東をアルカディウスに与えたのである。  当然ながら、その時に、コンスタンチノープルも、聖《アヤ》ソフィアも、東のアルカディウス帝の支配下に置かれることになったのであった。  この若きアルカディウス帝の妻となったエウドキシアが、最初の聖《アヤ》ソフィア炎上の原因を作ることとなった。  エウドキシアは、後に、浪費、悪徳、肉欲の代名詞となった女性である。もともとは、ビザンチン帝国に仕えるゴート人将軍の娘で、その美貌で帝王アルカディウスを虜《とりこ》にしてしまったのである。  娼婦と同様に前髪を額に垂らし、噂によれば、後に跡を継いだ息子のテオドシウス二世は、アルカディウス帝の子供ではなかったとも言われている。  この時期——三九八年に、コンスタンチノープルの総大主教に任命されたのが、クリソストムであった。  東方教会四大学者のひとりとして称《たた》えられた人物で、生まれはアンティオク。多神教徒哲学者リバニウスの教育を若くして受けている。砂漠で数年間の苦行生活を体験したこともあり、厳格なる宗教者であった。  このクリソストムが、上流階級や皇后エウドキシアと対立したのである。  クリソストムは、都の金持ちたちは大人がひとりでも持ちあげられないような純金の大壺や、皿などを使用していると言って彼等を批判した。  クリソストムの批判は、上流階級ばかりではなく、自らが所属する教会にまで及んだ。たとえば、聖職者が平修道女を召使代わりに使うことなども禁じたりしたのである。  ある時——  クリソストムは、聖《アヤ》ソフィアでの説教で、横暴と色欲の権化として、『旧約聖書』にも記されている悪女ジザベルを引用して、これを批判した。聴衆はこれを、皇后エウドキシアのこととして理解し、当然ながらこの噂は本人のエウドキシアの耳にまで届いた。  ここで、エウドキシアがクリソストム大主教の追放を謀《はか》ったのである。  クリソストムの罪状を並べたリストが作成され、その罪状の中には、クリソストム大主教が教会の大理石を売り払ってそれを金にかえたことや、いつも女性の訪問を受けていることなどが、まことしやかに書き連ねられていた。  この査問の場への出席を、クリソストムは拒んだ。  本人不在のまま、査問委員会は、クリソストムを有罪とし、大主教の座を剥奪した。  しかし、野《や》に下《くだ》ってからも、クリソストムは皇后を、ジザベルやヘロディアスになぞらえて糾弾することをやめなかった。このためクリソストムはニコメディアに追放されることになったのである。  これを知った支持者たちが暴動を起こし、これと時を同じくするように、この地を地震が襲ったのである。  迷信深いエウドキシアは、これを懼《おそ》れてクリソストムをただちに呼びもどしたため、暴動はおさまったのだが、もどった後も、この真面目な男は、エウドキシアへの批判を続けたのである。  またある時——  クリソストムの説教の最中に、外から音楽や踊りのざわめきが響いてきた。  その日は、ちょうどアウグスティオンにエウドキシアの像が建てられた記念の除幕式の日にあたっており、それで人々が騒いでいたのである。 「またもや、あのヘロディアス(エウドキシアのこと)が騒いでいる。ヨハネの首を所望して踊らせている」  クリソストムはこのように言った。  そして、ついに皇帝アルカディウスと皇后エウドキシアは、クリソストムの永久追放を決心することになったのである。  まず、民衆の暴動に備えて蛮族の一部隊を呼びよせ、コンスタンチノープルの要所に配備してから、アルカディウスとエウドキシアは、クリソストムを捕えた。  そして、クリソストムを、タウロス山脈の端、カッパドキアとアルメニアの国境近くの街ククススに追放したのである。  それを怒るがごとくに、聖《アヤ》ソフィアから炎があがったのは、クリソストムが追放された夜のことであった。  この光景を、クリソストムの伝記作者パラディウスは次のように書いている。 [#ここから1字下げ]  彼がいつも座る席から吹きあげた炎は十字架梁へとかけのぼり、聖堂の裏手へと大蛇のごとく燃えあがった—— [#ここで字下げ終わり]  人々は、この火を超自然的なものと受け取ったが、おそらくこれは何者かが放火したものであろう。しかし、それが誰であるかは、今もわかっていない。  こうして、最初の聖《アヤ》ソフィアは炎によってこの世から消えたのである。  これが四〇四年である。  聖《アヤ》ソフィアに隣接していた元老院の建物も灰になり、今日、皇后エウドキシアの像も失われているが、斑岩《はんがん》製の柱の土台だけは、現在も残っている。  その台座に残るラテン語の銘《めい》は、今も読むことができる。 [#ここから2字下げ] 市長官クラリシムス・シンプリキウスより いとも気高きアエリア・エウドキシアへ [#ここで字下げ終わり]  その裏側にはギリシア語で次のように書かれている。 [#ここから2字下げ] この斑岩の円柱に乗った銀の皇后エウドキシアを見よ 至高の主権者の布告のその場に立つその方の名を知りたいのか それはエウドキシア この碑を建てた者の名を知りたいのか それは申し分なき知事シンプリキウス 偉大なるコンスルの末裔…… [#ここで字下げ終わり]  クリソストムは、流刑先で、三年生きた。  ここでも、クリソストムは戦うことをやめずに、各地の友人と意見をやりとりし、エウドキシアたちの批判を続けたのである。  最後は、ローマ世界の果て、黒海沿岸のピティウスに移されることになり、その移動の途中、コマナで死んだ。  奇怪なまでに、信念の人であった。  六十歳。  四〇七年九月十四日のことである。  後に、次の皇帝テオドシウス二世が、彼の遺骸をコンスタンチノープルに引き取り、聖使徒教会に埋葬したのである。       3  聖《アヤ》ソフィアを再建したのは、テオドシウス二世であった。  この第二の聖《アヤ》ソフィアの献堂式は、四一五年十月十日である。  この建物は、ほぼ最初のものと同規模のものであり、屋根もやはり最初のものと同じく木造であった。  テオドシウス二世の姉プルケリアは、信仰心が篤《あつ》く、その純潔を神のために捧げた。そのあかしとして、皇帝である弟と帝国のために、この第二の聖《アヤ》ソフィアに、黄金と貴石で造った祭壇を奉納したと伝えられている。  この第二の聖《アヤ》ソフィアは、一世紀以上も無事にこの地に建っていたが、五三二年、有名なニカの乱で焼け落ちた。  ユスティニアヌス大帝の時であり、この焼失によって、聖《アヤ》ソフィアは今日の巨大なものに建てかえられてゆくことになるのである。  ユスティニアヌス大帝については、宮廷史家のプロコピウスが、次のように記している。 [#ここから1字下げ] ……日々の睡眠には全く気を配らず、飲食もしかり、どこかへ出かける時、何か指でつまんで口に入れる程度だった。まるでその種の欲求は見当違いと思っているかのように、特にレント(四旬節)の時などは二昼夜も断食したり、野生のハーブと水だけですませるのである。  夜も一時間以上続けて眠ることなく、いつも用心深く警戒心をもち、何かしらに苦しみ、励んでいた…… [#ここで字下げ終わり]  ユスティニアヌスは、神経質で、自分の思考に深く沈んでいる時は、他人が近寄れぬほどに現世から遊離した怖い雰囲気を持っていたのではないか。  この男は、食事で摂取したエネルギーのほとんどを、肉体で運動するためでなく、脳で思考することに使ってしまったのではないだろうか。  ユスティニアヌスは、四十五歳で皇帝となった。  その妻、つまり皇妃のテオドラは、もと娼婦であった。  アルカディウス帝の妻のエウドキシアも悪徳の権化《ごんげ》のように後世では言われたりしているが、その出自《しゅつじ》は、異民族とはいえ、将軍の娘である。  しかし、テオドラの場合は、もともとは馬車競技場の熊使いの娘であり、後に踊り子となり、さらに高級娼婦となって、この時期にユスティニアヌスと知り合ったのである。  皇妃となる前、このテオドラがどういう女であったかを知るには、宮廷史家プロコピウスの記述を読めばよい。 [#ここから1字下げ] (テオドラは)長い間にわたり、売春宿でその不自然な行為を売りものにもした。しかし年頃になると舞台役者に、そしてすぐ娼婦の仲間入りをした。 [#ここで字下げ終わり]  テオドラに対するプロコピウスの筆は、その夫であるユスティニアヌス大帝の記述に比べ、かなりの悪意に満ちている。 [#ここから1字下げ]  娘らしい羞恥心などは微塵もなく、どんな要求にも尻込みすることなく即座にこたえた。(略)  身につけたものを脱ぎ捨てて裸になり、前も後ろも、どこもかしこも見せ、男たちの目から最低限隠すべしとされている部分まで平気であらわにした。(略)  しばしば十人、あるいはそれ以上の若い男を引き連れていかがわしい集まりに出かける。セックスを生活の至上目的と信じ、肉体的にも絶頂期にある彼等のすべてと次々に寝るのである。男たちが疲れ果て、ぐったりすると、今度は、時に三十人にものぼることのあった、彼等の従者たちのすべてを相手にする。しかし、それでもなお彼女の欲情は静まることを知らなかった。 [#ここで字下げ終わり]  プロコピウスの記録によれば、テオドラは、舞台の上で、自分の秘部の上に麦を撒《ま》き、それをガチョウに喰わせるという�芸�を得意にしていたらしい。  しばしば妊娠したが、それを、 �あらゆる手段を用いてすぐに処理していた�  という。  機知に富み、頭脳|明晰《めいせき》。  凄絶なる美貌。  ある意味ではこれほどに魅力的な女性もいない。  この自分とは対極にあるテオドラという存在に、ユスティニアヌス大帝が心を動かされたのも自然なことであったのかもしれない。  おそらくは、ユスティニアヌスが心の裡《うち》に抱いていたどのような暗い欲望も、このテオドラが、彼の望む以上のレベルで叶えたことであろう。  普通であれば、皇妃になどできるものではなかった身分のテオドラを、その権力を利用し、特別な勅令を元老院に承認させて、ユスティニアヌスは自分の妻にむかえたのであった。       4  六世紀——この当時、政治は、青組と緑組というふたつの組織に、大きな権力を握られていた。  もともとは、この青組と緑組は、馬車競技場で行なわれる戦車競技やアクロバットなどの元締めであった。  緑組は主に商工業者、青組は主に地主層が、それぞれ支持者にまわっていた。  このふたつの組織が、いつの間にか支持者を増やし、政治的な発言力を増《ま》していったのである。  どちらかの組織に属さねばコンスタンチノープルでの出世は望めず、皇帝自身でさえ、彼等の機嫌を損ねては、帝国の統治も難しかったのである。  ユスティニアヌスが皇帝となった当時、その広大な帝国は、弱体化していた。  北アフリカはヴァンダル族に奪われ、イタリアは東ゴートに奪われていた。西ゴートはスペインに王国を打ち立て、東方ではササン朝ペルシアが勢力を伸ばしていた。  帝国の国教たるキリスト教会内部も幾つかの派に分かれ、互いの憎悪は異教徒に対するそれよりも深い状態であった。  二番目の聖《アヤ》ソフィアがニカの乱と呼ばれる民衆暴動によって焼失したのは、ユスティニアヌスが皇帝となってから五年目の、五三二年一月十四日のことである。  当時帝国が抱えていた不安と乱れは、そのまま民衆が抱えていた不安と乱れでもあった。  国の弱体化を防ぐため、税の取りたては厳しくなっており、民衆の不満も爆発寸前の状態にあったのである。皇帝に対してさえ、もと娼婦の女に身も心も奪われているどうしようもない男と考えていたのである。  暴動のきっかけは、町中で喧嘩《けんか》をした�組�の関係者が捕らえられたことであった。  この関係者の釈放を要求して、市民たちが競技場に集結し、この抗議行動が暴動へと発展していったのである。  群衆は暴徒と化し、 「勝利《ニカ》!」 「勝利《ニカ》!」  と叫びながら、次々に街を破壊していった。  市長館の屋敷を襲い、抵抗する者を殺し、館に火を放った。  暴徒は勢いに乗り、皇帝の宮殿まで襲い、ついには聖《アヤ》ソフィアにまで火を放ったのである。  ユスティニアヌスは、粗末な服を身に纏《まと》って、群衆に混じって落ちのびようとしていたのだが、これを止めたのが皇妃テオドラであった。 「騒ぎが始まって、すでに六日。この間にあなたは何をしていたのですか。毎日毎日、どうしたらよいかという評議ばかり。もはや、暴徒たちと話し合う時期は終りました」  激しい言葉で、テオドラは、皇帝をなじった。 「逃げてどうなるのですか!?」  あちらこちらと逃げまどった挙げ句に、粗末な服を着たまま捕えられ、殺されて首がさらしものになるだけです——  テオドラは激しい口調で言った。 「何故戦おうとしないのですか。いいでしょう、あなたたちは逃げなさい。わたしは残ります。たとえ彼等に殺されようと、ただ独りとなってもわたしは戦います」  この言葉で、ようやくユスティニアヌス大帝が心を動かされ、戦う決心をしたのである。  この危機を救ったのが、ムンダス、ベリザリウスの両将軍であった。  彼等が、兵士を引きつれて、暴徒たちを鎮圧したのである。  殺された暴徒の数、およそ三万五千人。  まことに凄まじい乱であった。  さて——  乱が終結してみれば、コンスタンチノープルの重立《おもだ》った建物には全て火が点けられていた。  聖《アヤ》ソフィアも例外ではなかった。  これによって、ユスティニアヌスは、聖《アヤ》ソフィアを修理するのではなく、これまでとは違う、まったく新しい聖《アヤ》ソフィアを建てることにしたのである。  この三番目の聖《アヤ》ソフィアが、シナンの時代まで千年以上も残る聖《アヤ》ソフィアであり、さらには現代までイスタンブールに残っている聖《アヤ》ソフィアなのである。  この古い、偉大なる建築物は、一九九九年におこったトルコ地震で、近代的な建物が多く倒壊したにもかかわらず、壊れずに残った。       5  三番目の聖《アヤ》ソフィアのためには、むしろ、勝利《ニカ》の乱はプラスに作用したといっていい。  それは、二番目に建設された聖《アヤ》ソフィアが焼失したからであり、どうしてもそれにかわる大聖堂を建てねばならない状況が生まれたからである。  もうひとつには、この乱によって、その建設費用が捻出できたことがある。  この反乱で、死亡した反乱民だけでも三万五千人という人数がいた。実際にこれに加わった者の数は、さらに膨大なものになる。彼等の財産を全て没収することによってユスティニアヌスは潤沢な建設費用を得たのである。  歴史は、時おり、このような奇妙なことをする。  ビザンチン史料によれば、新しい聖《アヤ》ソフィアの建設が始まったのは、五三二年二月二十三日である。  これは、ニカの乱より、わずか一カ月しか過ぎていない時点での着工であった。  完成が、五三七年十二月二十七日。  わずか六年足らずの時間で、ユスティニアヌスはこの大工事を完成させてしまったことになる。  シャルトルのノートルダム寺院が完成までに三十年。  ロンドンの聖ポール寺院が完成までに三十五年。  これらの歳月を思う時、聖《アヤ》ソフィア完成までにかかった時間がわずか六年というのは、奇跡といっていい。  この早さから考えて、三番目の聖《アヤ》ソフィア建設は、かなり以前から計画されていたのではないかと考えられている。  この聖《アヤ》ソフィア建設にたずさわった建築家はふたりいる。  トラレスのアンテミウス。  ミレトスのイシドロス。  この二名が、聖《アヤ》ソフィア建築の責任者として、ユスティニアヌスより任命されたのである。  しかし、奇妙なことに、この二名は、どのような史料をさぐっても、それまでに建築家であったという記録が残されていない。  彼等が、今日建築家としてその偉大な名を残しているのは、この聖《アヤ》ソフィア建設によるものであり、それ以前は建築家としては無名であったといっていい。  記録は残っているが、それによれば、両名とも、メカナポイオイであった。  メカナポイオイ——つまり、建築家ではなく機械技師であり、技術や設計の問題解決のノウハウを指導する応用幾何学の専門家であった。  アンテミウスについて言えば、彼は数学者であり教師であった。アレクサンドリアに学んだ、射影幾何学の専門家である。  この彼の知識が、方形のベースの上に、巨大なドーム状の屋根を乗せるという困難な問題の解決におおいに貢献したといえるだろう。  ドームの直径三十一メートル。  その高さ五十六メートル。  それまでにあった巨大建築——四五〇年頃に建設されたコンスタンチノープルの聖ヨハネ・ストゥディオス教会を凌ぐ大きさであり、五二七年に完成した聖ポリエウクトゥス教会のドームが直径二〇メートルであったことを思う時、聖《アヤ》ソフィアの大きさが、いかに衝撃的なものであったかわかるであろう。  ユスティニアヌスが、完成した聖《アヤ》ソフィアに足を踏み入れた時、 「我、ソロモンに勝てり」  思わずそう言ったというのは、まさしく正直な実感であったろう。  聖《アヤ》ソフィアは、建築の奇跡であった。  数学者にしてエンジニアであったアンテミウスは、コンスタンチノープルでは、修辞学者ゼノンと同じ家に住んでいた。  このふたりは、あることでいさかいを起こし、これは裁判になってゼノンが勝訴している。裁判所における弁舌の争いとなれば、アンテミウスがゼノンに勝てるわけはない。  このゼノンに対し、アンテミウスはエンジニアらしい復讐をしている。  ちょうど、アンテミウスの部屋の上が、ゼノンの部屋にあたっており、アンテミウスはこれを利用した。  アンテミウスは、まず幾つもの水を満たした大きなヤカンと何本ものラッパ型のなめし皮のチューブを用意した。チューブの小さい方の口をヤカンの注ぎ口に取りつけ、一方の端の大きなラッパ型の口を天井に取りつけた。  全てのヤカンと全てのチューブにこの作業を終えると、アンテミウスはヤカンの下の薪に火を点けた。ヤカンの水が温められ、チューブは蒸気で膨らんだ。  その蒸気の逃げ道は、チューブのラッパ型の口と天井との接地面の透き間である。  ここを蒸気が通過する時に、チューブを震わせて、大きな音をたて、天井を震動させる。アンテミウスの部屋の天井ということは、これはつまりゼノンの部屋の床ということである。  ゼノンの部屋の床は、大きな音をたてて揺れた。 「地震だ」  慌てて外に飛び出したゼノンは、周囲の人間の失笑を買ったというエピソードなのだが、これが事実であるかどうかということよりは、こういった話がひとり歩きしてしまうほど、アンテミウスという人間が、エンジニアとしては周囲に知られていた人物であったということなのであろう。  アンテミウスの相方であり助手でもあったイシドロスもまた、アレクサンドリアやコンスタンチノープルの大学で、幾何学や機械学を教えていた。  このイシドロスも、建築の人間と言うよりは、学者である。  聖《アヤ》ソフィアは、このふたりの学者なくしては、この世になかったと言っていい。  こうして、ふたりの学者を中心にして、聖《アヤ》ソフィアの建設は進められていった。  九世紀に書かれた文書によれば、それは、およそ次のようなものであった。 [#ここから1字下げ]  まず、五〇〇人ずつふたつの組がつくられた。それぞれ五〇人の親方が指名され、聖堂の両面から競い合って工事は進められた。  この聖堂の設計図は天使により皇帝陛下に啓示されたものである。  大麦と楡の樹皮で作った特別なモルタルを基礎に流す。ドームのレンガはロードス島で特別に焼きあげられたもので、並のレンガの重さの十二分の一という軽いものである。レンガ十二枚ごとに聖遺物が嵌《は》め込まれ、敬虔《けいけん》な祈りと共に工事が進められた。 [#ここで字下げ終わり]  聖《アヤ》ソフィア内部に使用された円柱にしても、実に様々な場所から運ばれてきた石が利用されている。  たとえば赤斑岩の円柱は、皇帝アウレリウスが、バールベック神殿をモデルにしてローマに建設した太陽神殿から運ばれた。この石の原産地は上エジプトのテーベであると言われている。  ともあれ、聖《アヤ》ソフィア建設に利された石の何割かが、他の建築物に使用されていた石を再利用したものであることは間違いがない。  このようなことは、当時一般的に行なわれており、イスタンブールの地下宮殿の柱が、あちらこちらの遺跡から運ばれて利用されたものであることはよく知られている。  聖《アヤ》ソフィアの身廊の両側に並ぶ蛇灰石《じゃかいせき》の一枚岩があるが、これは、古代世界の七不思議のひとつとされているエフェソスのアルテミス宮殿から運ばれてきたものとされている。  完成した聖《アヤ》ソフィアが神に奉献されたのは五三七年十二月二十七日である。  この時を待たずに、建設責任者のひとりであったアンテミウスは、五三四年にこの世を去っている。  奉献の祝宴のため、六千頭の羊、一千頭の牛、一千頭の豚、一千羽の鳥、そして五百頭の鹿がローストされたという。  式典のおり、この巨大なる聖堂に歩み入ったユスティニアヌスは次のように叫んだという。 「我にこの事業を成し遂げさせ給うた神に栄光を。おお、ソロモンよ、我は汝に勝てり」  この日より、九一六年間、オスマントルコの前にコンスタンチノープルが陥落する一四五三年五月二十九日まで、聖《アヤ》ソフィア大聖堂は、国家や教会の主要な儀式、戴冠式や凱旋《がいせん》式典、皇帝の結婚式や教会会議などの舞台となったのである。  しかし、どうしてドームであったのか。  どうして、巨大な丸天井を聖堂の上部に冠《かぶ》せねばならなかったのか。  ただ収容人員を多くするだけの建物であれば、形を方形にして、柱を多く使用すれば、いくらでも巨大なものができたはずである。  どうして、支えのない半球を、人々の頭の上に戴《いただ》こうとしたのか。  ドームの屋根は、古代ローマの時代から神殿や教会の屋根に使用されてきている。  その半球の意味するものは、神である。  頭上に仰ぐ半球は、そのまま天であり宇宙であった。  人々は、神の象徴的意味、表現として神殿の天井に半球を使用してきたのである。  そして、聖《アヤ》ソフィアのこの巨大なドームは、一〇〇〇年の後に、自らを超えるものをこの世に生み出すために、カッパドキア地方からイスタンブールにやってきたひとりの男を、その内部に受け入れるのである。  その男は、まだ、自分がどのような運命を持っているかを知らずに、聖《アヤ》ソフィアの内部に足を踏み入れてきた。  その男の名は、シナンといった。  その男は、神を空間の中に捕えようとしていた。 [#改ページ]  第3章  イェニチェリ [#ここから5字下げ] 尊くも恩寵《おんちょう》を下し給う御神《おんかみ》は この世界など要らぬ方。 自ら全宇宙の魂にまします御神は ちっぽけな魂などは要らぬ方。 人間の心に浮かぶあらゆるものは 神一筋に伏し拝む、がその神は どんなものにも用はない。 ——シャリーフ・バーイ・スーフテ [#ここで字下げ終わり]       1  イスタンブールに着いて、シナンはすぐに聖《アヤ》ソフィアに出かけたわけではない。  デヴシルメによって集められた少年や若者たちには、すぐに自由が与えられるわけではなかったからである。  デヴシルメによって集められた者たちは、アジェミー・オウラーンと呼ばれた。これは、アジェミー軍団の新人たちを指す言葉である。  アジェミー軍団とは、いずれ、中央直属の軍団、つまりイェニチェリに補充されることになっている兵士たちのことである。イェニチェリ候補兵とでも言えばよいかもしれない。  このアジェミー軍団内に収容された若年層が、アジェミー・オウラーンである。  デヴシルメによってイスタンブールに連れて来られた少年や若者たちは、おおよそ次のような段階を経てイェニチェリとなってゆく。  まず、アジェミー・オウラーン。  次に、アジェミー軍団。  次が、イェニチェリ。  概《おおむ》ね、何年間かの教育期間を経た後に、イェニチェリとなってゆくのだが、この期間は、個人の能力、年齢によってさまざまであり、中には、イェニチェリとなれずに、宮廷の小姓——イチェ・オウラーンになる者もあった。  デヴシルメで、イスタンブールに着いたアジェミー・オウラーンたちは、まず、金角湾を望むガラタにある建物の幾つかの大部屋《コウシュ》に集められた。  ここで、三日ほど旅の疲れをとってから、アジェミー・オウラーンたちは、キリスト教からイスラム教に改宗するため、シャハーダと呼ばれる儀式をすることになる。  近くのモスクが、そのシャハーダの場となった。  アジェミー・オウラーンたちは、ひとりずつ、右手の人差し指をあげて、入信の告白をする。 「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドは神の預言者なり」  これで、儀式を終了し、キリスト教徒であった者たちは、イスラム教徒となる。  シナンは、イスタンブールに到着して、四日後にこのシャハーダを行った。このおりに、正式なムスリム名ももらうことになる。その儀式が、しばらく前に終ったところであった。 「おい」  後ろから声をかけてきた者があった。  振り向くまでもなく、シナンにはそれが誰だかわかる。  シナンが、後ろへ身体を向けるのよりも早く、ハサンが前に回り込んできた。 「どうだった?」  ハサンが訊《き》いた。 「何のことだ」  シナンが言う。 「アッラーのほかに神はなし。ムハンマドは神の預言者なり……」  ハサンは、儀式のおり、シナンも言った言葉を口にした。 「シャハーダだよ」  ハサンの眼がシナンを覗き込む。シナンの顔に点《とも》るどのような表情も見逃すまいとしている眼であった。 「泣いたやつもいたではないか——」  ハサンは言った。  確かに、ハサンの言う通りであった。  シャハーダのおり、簡単なその句を、何度も言いなおした者もいれば、声を震わせながら口にした者もいた。  中には、涙を流していた者もいた。  下は、十歳くらいの子供から、上は、シナンやハサンのように、二十歳を過ぎた者まで、アジェミー・オウラーンの中にはいる。  そういう中にあって、眼に涙を滲ませた者には、子供だけではなく、二十歳前後の者までがいたのである。  それも、さすがに無理はない。  故郷をどれだけ離れようと、家族や民族の絆《きずな》までが、離れてしまうものではない。しかし、シャハーダによって、宣誓し、違う神の名を口にするということは、残った最後の絆までも断ち切られることになる。  信仰を異にする——  これこそが、彼等にとっては永遠の別離を意味するものであった。  シャハーダの儀式は、つまり、オスマンにとっては、二重に意味のあることであった。  ひとつには、異教徒を減らし、イスラム教徒——ムスリムを増やすことであり、もうひとつには、少年たちを、過去からきっぱりと訣別《けつべつ》させるという意味がある。 「季節が変われば、上着も新しくせねばならぬだろう」  シナンはハサンを見やり、 「しかし、何を着ていようと、おれはおれだ——」  そう言った。  シャハーダが済んで、すでに全員がガラタの大部屋《コウシュ》にもどってきている。  多くの仲間は、自分用の寝台の上に座るか、そこに仰向けになるかしていた。あるいは、大部屋《コウシュ》の一画で、今回の旅の間に知り合った者どうしが、集まって話をしていたりもする。  シナンは、そのざわめきを避けるようにして、大部屋《コウシュ》の外へ出、横手にある石の階段を登りはじめた。 「どこへゆく」  ハサンが、シナンの後を追ってきた。  階段を登りきると、屋根の上にあるテラスに出る。  そこからは、金角湾がよく見えた。  青い海に、幾つもの船が浮いている。  イスタンブールに立ちよった商船が多い。  西からやってきて、これから東へ向かおうとする船もあれば、その逆に東から西へ向かおうとする船もある。  シナから運ばれてきたらしい荷を、港で降ろしている船もあった。  東から運ばれてきた陶磁器や絹、香木、香辛料などが、また大量にイスタンブールの街に溢れることになるだろう。  そういう風景のどれもが、シナンには新鮮であった。  その先に視線を転ずれば、金角湾をはさんだその向こうに、樹木の生い繁った丘が見える。  その上に——  トプカプ宮殿《サライ》が見えている。  その右横に、小山のように聖《アヤ》ソフィアが見えていた。  四日前、この建物に入る時に、 「聖《アヤ》ソフィアはどちらですか?」  案内の兵士に、シナンは問うている。 「あれだ」  無造作に、その兵士が右手をあげて指差したのが、今、シナンが見ている建物であった。  周囲の樹に下部が遮《さえぎ》られて、聖《アヤ》ソフィアの全てがここから見えるわけではない。  かといって、まだ、自由に外出ができるわけではないから、その丘に登って近くから聖《アヤ》ソフィアを見にゆくわけにもゆかない。シナンは、遠くからそれを眺めているだけである。 「何を見ている?」  丘の方を見やっているシナンに、ハサンが問いかけてきた。 「空だ」  シナンはそう答えた。       2  シナンがイスタンブールに入った一五一二年は、オスマントルコにとって、激動の年であった。  この年の五月に、スルタンが、バヤジット二世から、セリム一世に変わっているのである。  このために、多くの血が流れた。  それも、敵国や異民族の血ではなく、同胞の血であり、セリム一世にとっては、家族、兄弟の血であった。  バヤジット二世には、王座を継承すべき息子が五人いた。  後継者問題が起こった時、この五人の全てが王座を要求したのである。まだ、バヤジット二世が王座にあったが、このスルタンはこの五人のうち、誰をも後継者に指名しなかったために、もめごとが巨大化したのである。  オスマントルコの歴史を眺めて見る時、王位継承問題に必ずついてまわるのが兄弟殺しである。兄弟のうち、誰かが王位を継ぐと、王となった者が必ず残った兄弟の全てを殺している。  メフメット二世が定めた法により、王になった者は兄弟殺しを認められていたのである。  バヤジット二世の五人の息子たちの思いは、誰もが同じであった。 �自分が王にならねば殺される�  五人が五人とも、王位を要求するのは当然のことでもあった。  五人の間で、王位継承問題が起こった時、はやばやと、二人の兄弟が死んでいる。  その死について、具体的な事実こそあがってないが、これが暗殺であったことは、まず疑いがない。  王位は、最年長のアフメド。  コルクト。  そしてセリムをあわせた三人の間で争われることとなった。  この争いを分けたのが、イェニチェリの存在である。  王位争いが起こった時、誰が勝利するかということは、イェニチェリが誰の味方をするかで決まった。  アフメドは、政治家として秀れており、民衆の人気もあったが、イェニチェリからは嫌われていた。  コルクトは、軍人であるよりも詩人であり、神秘家であって、イェニチェリの評価は低かった。  イェニチェリが支持したのは、セリムであった。  イランのサファヴィー朝を攻撃した際に見せたセリムの軍事的な才能が、イェニチェリに愛されたのである。  王位の継承は、時のスルタンが死んだ時に、誰が一番早くイスタンブールに駆けつけるかで決まる。  そのため、スルタンの息子たちは、できるだけ首都イスタンブールに近い県の知事になろうとする。  アフメド、コルクト、セリムも同じであった。  しかし、いくらイスタンブールに近かろうと、王の死を知るのが他の兄弟より遅れたらどうにもならない。王の周囲にいるのはイェニチェリであり、このイェニチェリが、他の兄弟には王の死を隠し、自分たちの支持する人物だけにその死を知らせるつもりであれば、その知らせを受けない者は、いくらイスタンブールに近い場所に居てもその意味がないことになる。  先手を打って、叛乱を起こしたのは、アジア側にいたコルクトであった。  父王であるバヤジットに戦《いくさ》を仕掛け、自分を王にするよう迫ったのである。  続けて叛乱を起こしたのは、ヨーロッパ側にいたセリムであった。  しかし、セリムは、エディルネで敗北し、クリミアに亡命した。  これに合わせるようにして、アフメドも武器を取り、父王バヤジットに対して叛乱の旗を揚げた。  自らの生命が危くなったスルタン・バヤジットが頼ったのが、セリムであった。  バヤジットは、クリミアからセリムを呼びよせた。  セリムは、自分に味方をするイェニチェリの力を背景に、父王バヤジットに譲位を迫った。これを受けて、バヤジットは退位し、故郷のディメトゥカに帰ることになり、イスタンブールを出たのだが、その途上で死が彼を襲った。  これは、セリムがバヤジットを毒殺したのだろうと考えられている。  スルタンに即位したセリムは、コルクトと、その子供たちを扼殺《やくさつ》させた。  続いて、戦場でアフメドの軍を倒し、アフメドをも扼殺せしめたのである。  五人兄弟のうち、セリム以外の全ての兄弟とその子供たちが、この王位継承争いで死んだことになる。  父バヤジットを含めて、誰も生き残らない戦いであった。  詩人でもあったコルクトは、自分の処刑命令を受けた時、一編の詩を作り、それをセリムに送ってその冷酷を責めたと言われている。 「許せ。これも運命だ」  セリムは、コルクトの送ってよこした詩を読み、血涙《けつるい》を流して哭《な》いた。  こうして、セリムが新しいスルタンとなったのが、シナンたちがイスタンブールにやってきた五月のことなのであった。  さらに書いておくならば、これより十八カ月と二十四日後、セリムは、自らの息子たちを、殺している。  セリムには、スレイマン、ムラド、マフムード、アブドゥッラーの四人の息子たちがいたが、スレイマンただひとりをのぞいて、他の三人の息子全てを殺してしまったのである。  凄まじい話であった。  逆に考えれば、これほどの厳しい状況の中で勝ち残った王であるからこそ、オスマントルコの、発展があったともいえるかもしれない。  イスタンブールにシナンたちが足を踏み入れた時、 「ちょうどいい時に来たな」  ハサンはシナンに言った。 「こういう時期の方が、出世の機会がたくさん転がっているものだ。新スルタンは、新しい人材を欲しがるものだからな」  シナンたちは、イスタンブールに着いてから、改めてイェニチェリの係官から質問を受けている。  名前、年齢、職業の確認をし、個々にどのような適性を持っているかを調べるためである。このアジェミー・オウラーンになった者たちは、この後、予備的な訓練を受け、幾つかのコースに分かれてゆく。  眉目秀麗《びもくしゅうれい》で、知的な才能を持った者がいれば、いずれ宮廷用務に就かせるため、選抜されて、さらに高度な知的訓練を受けることになる。この者たちは、イチェ・オウラーンと呼ばれた。  この中から、時には去勢されて宦官《かんがん》になる者も稀にいた。  エミン・ジェンクメンの著わした『オスマン宮廷と服飾』によれば、 [#ここから1字下げ]  引き抜かれて宦官にされた者の音声は、須臾《しゅゆ》のうちに荒々しさが取れ、婦人のごとき気質を示し鬚《ひげ》も消えてしまった……この故に君主にいっそう身近な状態で使役された。 [#ここで字下げ終わり]  このように書かれている。  宦官は、基本的には別のシステムによって決められるのだが、こういう例外的な場合もあったのである。  同著によれば、イチェ・オウラーンとなった者は、 [#ここから1字下げ]  頭部にさまざまの色合いのごく普通のカブクを被《かぶ》り、肩には色とりどりの刺繍《ししゅう》を施したクマシ製のカフタンを着け、腰には飾りのついた帯を巻き、端の部分を下に垂らし、フェルマイスの赤いズボン、紺青の短靴をはいていた。 [#ここで字下げ終わり]  という。  イチェ・オウラーンにならなかった、体躯屈強な者たちの中から、何割かがボスタンジュの軍団《オジャク》に分配された。  ボスタンジュに、ふさわしい日本語はといえば、それは、 �お庭番�  という言葉だろう。  といっても、忍びの者たちを指すのではなく文字通りの意味であり、バフチェと呼ばれる宮殿内の庭園の管理、警備にあたった。  彼等は、ボスポラス海峡やマルマラ海に面したパシャ・バフチェや、イスタンブール近郊の海浜離宮、避暑地にある庭園や菜園の配属となった。  イスタンブール周辺の防衛には、このボスタンジュたちがあたることになっていた。  このボスタンジュ・オウラーンの中から、必要に応じて横滑りをしてイェニチェリ軍団に入る者たちもいた。  しかし、デヴシルメで徴集された人間の多くは、アーと名のる吏僚《りりょう》を通じて、トルコ国内にある村の各家に、一時、身柄を貸し出された。  元キリスト教徒であった彼等を、イスラムの生活に馴じませるためと、具体的な労働力を農村地帯に提供するための、ふたつの意味があったのである。  さらに、年齢の高い者たちは、教育の目的で、王宮《サライ》や寺院《ジャーミー》、施水台《チェシュメ》、橋梁《キョプリマ》、施療院《ハスタ・ハーネ》、学林《メドシャ》などの建築や修理の現場にゆかされ、ここで働かされたりした。  おそらく、シナンは、このような現場のひとつに行かされたものと思われる。  もし、シナンに、聖《アヤ》ソフィアに行く機会があったとするなら、そういう現場に配属される直前のことであろう。  イスタンブールが夏に入る頃、シナンは、ただひとりで、聖《アヤ》ソフィアに出かけていった。       3  これは、山ではないか。  シナンは、その巨大な石の建造物の前で、そう思った。  この積みあげられた石の量感は、まさしく山であった。その山の量感が、そこに立った瞬間、シナンに襲いかかってきたのである。  山を、人間が作ることができるのか。  シナンは、感嘆の声を心の中で洩らしている。  これほど圧倒的な量感を持った巨大なものを、千年も前に、人間が作ったということが信じられなかった。いったいどのような力がこれを作るのか。どのような精神と技が、このようなことを可能にするのか。  単純に巨大であること。  大きいこと。  それが、眩暈《めまい》にも似た感動を、シナンに味わわせているのである。  シナンの時代よりさらに千年前というと、日本では古墳時代の終り頃である。  その頃に、キリスト教徒が、神の名のもとにこの構造物を作ったのである。  新緑が、この建物を周囲から押し包んでいる。その、歳経たどの樹よりも、このモスクのドームの頂《いただき》は高い。  初夏の、午後の陽射しを浴びて、聖《アヤ》ソフィアのドームは、天の気を呼吸しているかのようであった。  ゆっくりと、分厚く重い木製の扉を押し開けて中に入ってゆく。  中は、薄暗かった。  ひんやりとした空気が、シナンを包んだ。  石の床。  石の壁。  石の柱。  そういうものに囲まれた回廊であった。  天井はアーチ状になっていて、その半球に聖母マリアや、キリストの絵がモザイクで描かれていた。  シナンにとっては、おなじみのイコンである。  色彩が美しい。  一四五三年に、オスマントルコによってコンスタンチノープルが陥落した時、このキリスト教の聖堂は、イスラムのモスクに改修されている。  本来であれば、聖母マリアやキリストの肖像は消されるところなのだが、オスマントルコはそれをしなかった。  ただ、多くの絵の上から漆喰《しっくい》を塗って、イコンをその下に封じこめた。しかし、漆喰を塗りきれなかった場所や、塗ってもそれが剥《は》がれ落ちて、下の絵が見える壁や天井もあったのである。  もともと、イスラムのモスクの壁や天井に描かれる絵は、幾何学模様か、植物や文字をデザインしたものばかりである。人間や動物などの姿が描かれることはない。  イスラムの教義からすれば、人や動物を教会の壁に描いたりして、それを拝することはしてはいけないことになっている。  だから、イスラムのモスクには、預言者ムハンマドの絵すらないのである。  描かれるのは、『コーラン』の詞句か、せいぜいが植物の葉や茎をデザインしたものくらいである。  それが、この聖《アヤ》ソフィアの天井や壁には、神の子の姿が残っている。  モザイク画のあまりのみごとさに、これを消すのをためらったのではないかと言われている。  これが事実ならば、戦争には負けたが、美においてビザンチン帝国はオスマントルコに勝利したことになる。  かつてはキリスト教の聖堂であり、今はイスラムのモスクになっている建物の中へ、かつてキリスト教徒で、今はイスラム教徒となったシナンが入ってゆく。  シナンはまだ新しい神の名に馴じんではいない。  理屈においては、神をどの名で呼ぼうとその本質にかわりがあるわけはないと理解はしているが、さすがに、馴じんだ神の側の絵がそこにあれば、どこかほっとしている自分の心の裡《うち》をシナン自身も気がついている。  不思議な感覚をシナンは味わっている。シナンは、ひんやりした大気を呼吸しながら、石畳の床を踏んで歩いていった。  回廊の内側が、ドームの空間である。  また、木製の扉があった。  これも、表面が黒々と鈍く光る分厚い扉であった。高さがシナンの背丈の四倍近くもある。  人はいない。  まだ、祈りの時間には間があるのだ。  イスラムのモスクには、キリスト教の教会のように牧師や僧がいるわけではない。  押すと、重い音をたてて、扉が向こう側に開いた。  そして、ゆっくりと、シナンはドームの空間に足を踏み入れていったのである。  しん、  と澄んだ空間がそこにあった。  外の熱や温度は、この中までは届いてこない。  足を踏み入れた途端に、シナンは、自分の身がドームの空間に浮きあがるような感覚をおぼえていた。  おう——  と、シナンは、溜め息のような声なき驚嘆の声をあげていた。  なんと——  思わず、声が出そうになっていた。  とてつもなく巨大な空間、とてつもなく巨大な存在の内部に、自分が足を踏み入れたことに、シナンは気づいていた。  まさか。  とシナンは思っている。  外から眺めていた空間より、もっと巨大な空間がそこにあったからである。  外からこの建物を眺めた時、確かに大きく感じたが、それは、これほどの大きさであったか。  この内部の空間の方が、数倍、数十倍も巨大なように思えた。  まるで、宇宙そのものの内部にいるような気が、シナンはしていた。  何もない空間——  たとえば真上の天を見上げている時、その天の大きさはわからない。  しかし、このようにして囲うことによって、初めて空間の巨大さというものは見えてくるのか。  とてつもない肉体的な衝撃をシナンは味わっていた。  自分は今、神の中にいる。  シナンは、それを実感した。       4  その時—— 「何か見えるのですか」  シナンの背に声がかかった。  シナンが後方を振り向くと、そこにひとりの少年が立っていた。  背の高い、痩身《そうしん》の少年であった。  年齢は、十七歳くらいであろうか。  高く突き出て、鷲《わし》の嘴《くちばし》のように大きく曲がった鼻をしていた。眼は、神経質そうであったが、強い光がこもっている。瞳は、女のように大きくて黒い。  その眼を見た時、シナンは、この少年が、今までそこで泣いていたのかと思った。それほどに、少年の眼は、不思議な哀しみに満ちていたのである。 「何か見えるのですか」  振り向いたシナンに、少年は、もう一度、同じことを訊《き》いた。  袖《そで》無しの、サテンの胴着《イエレク》を着ていた。  赤い絹の糸や、金糸銀糸で縁どりされたチューリップの模様が刺繍《ししゅう》してあった。  金のある商人の息子でもあろうか。 「神が……」  シナンは、少し口ごもるようにして答えていた。 「神?」  少年は、興味を覚えたらしく、シナンの方に歩み寄ってきた。 「ええ」  うなずいたシナンに、 「どこに?」  少年は訊いてきた。  近くで見れば、さっきまであった哀しみに満ちた光は眼の中から消え、今は、理知的な光がその眼に宿っている。 「ここに……」  頭の上のドームを見あげてから、シナンはあることに気がついた。  もしかしたら、まだ、ここには神がいないのではないか——そういう感覚が、自分の内部にあることに気がついたのである。 �ここに神がいる�  さっき味わったあの感覚、あれは、自分の間違いであったのかもしれないという感覚——  いや、間違いではない。  さっき自分は、確かにここに神がいると思っていた。あれは、単なる錯覚以上のものだ。  だが、しかし——  この奇妙な感覚をどう呼べばいいのか。  どう表現すればいいのか。 「いるのですか?」  少年が、好奇心に満ちた眼で訊いてきた。 「います」  シナンはうなずいてから、 「いますが、しかし——」  口ごもった。 「どうなんですか」 「どうも、ここにいる神は——」 「神は?」  少年に問われた時、ふいにシナンの脳裏に浮かんできた言葉があった。  神はいないのではない。いるのだ。いるのだが、しかし—— 「いますが、ここにいる神は、どうも不完全なのです」 「不完全!?」  少年は、シナンが口にした言葉をもう一度繰り返した。 「それは、矛盾していませんか」 「矛盾?」 「神とは、全《まった》きもの、完全なものです。その神が不完全であるとは——」  少年は、シナンの眼を覗き込み、 「今の言葉は聞かなかったことにしましょう。その赤い服からすると、デヴシルメで、イェニチェリになるためにイスタンブールまで連れてこられた人でしょう」 「はい」 「将来イェニチェリになる人間が、神が不完全であるなどと言ったことがわかると、これはたいへんなことになります。出世もできません……」 「いいえ、神が不完全なのではありません。あれは、わたしの言い方が不充分でした」 「不充分……」 「この、聖《アヤ》ソフィアです」 「ほう」 「この聖《アヤ》ソフィアが、神を入れるための器であるなら、その器として、この聖《アヤ》ソフィアは不完全なものではないかということです」 「この聖《アヤ》ソフィアのどこが不完全なのですか?」 「もともとは全きものであるはずの神の姿の全てが見えないからです」 「——」 「正確に言うのなら、そのように私には思えたということなのですが……」  シナンは、まだ自分の内部にある、あの奇妙な感じのものを名づけられない。  この偉大なる人類の構築物——  圧倒的な建物の内部にあって、シナンは、その名づけられないものについて考えていた。  もし、それがわかったら……  もし、それがわかるのなら、いつか自分はこれ以上のものを作ることもできるということではないのか。  ふいに、そういう考えが、シナンを襲った。  思ってから、その考えのあまりの途方のなさに気がついて、シナンはその身体を震わせた。  その震えで、背中の体毛がそそけ立っていた。  あるいは——  もしかしたら——  自分なら——  これを超えるものを建てることができるかもしれない。  今、感じているこの奇妙な感覚がわかるのなら。  興奮が、シナンを襲っていた。 「そうか……」  シナンの前に立っていた少年は、何かふいに理解したように、眼を光らせ、 「もし、それがわかれば、貴兄《あなた》ならそれを建てることができるということですね」  そうシナンに言った。  まさか——  そう答えようとしたのだが、そっくりそのまま、自分の心の裡を言いあてられてしまったシナンは、 「はい」  そううなずいていたのである。 「わかれば、建ててみたいと思います」 「それは凄い」  少年は大人びた口調になって、 「この聖《アヤ》ソフィアは、人類の奇跡です」  厳《おごそ》かな声でそう言った。 「このような偉大な建物が、一千年以上も昔に建てられたとは、いまだに信じられません。ここへ来るたびに、私は、新たな強い感動を抑えることができません」 「ここへは、礼拝の時以外にもよく来るのですか」 「来ます」  少年は呟《つぶや》いた。 「心が萎《な》えそうになる時、心が昂揚《こうよう》している時、心が静かな時……イスタンブールにいる時は、いつも——」 「——」 「私にとって、これはたいへんにくやしいことなのですが……」 「くやしい?」 「キリスト教徒の造ったものに、感動していることがです」 「——」 「キリスト教徒の建てたものに、心を奪われていることがです」 「——」 「異教徒がこの世に生み出したものに心を震わせ、心の中でこの聖《アヤ》ソフィアを讃美している自分を知った時、私はこのくやしさを味わうのです」  少年は、ドームを見あげた。 「しかし、それでも、これを私は讃美せずにはいられない。たとえ、異教徒の建物であろうとも……」  少年は、その視線をシナンにもどし、 「それが、くやしいのです」  そう呟いた。  少年は沈黙した。  不思議な少年であった。  年齢よりも、ずっと大人びているところがある。  生まれつき——と言っていいのだろうか、しゃべる時のその声の調子や、態度にも、不思議な威厳があった。  哀しみ、純なもの、強い意志、心の弱さ——矛盾するようなものが、全てひとつのものとしてこの少年の内部に宿っているようであった。 「まるで、異教徒の前に、膝を折っているようです。イスタンブールは、いや、イスラムがこの聖《アヤ》ソフィアに膝を折っているようです」  少年は、また、シナンを見た。 「異教徒が、我々のことを何と言っているか知っていますか?」 「いいえ」  シナンは、首を左右に振った。 「イスラムの連中に、あの聖《アヤ》ソフィアよりも偉大な建物を造ることができるのかと——」 「——」 「イスラムは、ただの獰猛《どうもう》な獣なのだと。彼らは、街を襲い、征服し、略奪をする。他人のものを自分のものにはするが、自らは何も造らない。何も生み出さない」 「——」 「私には、この聖《アヤ》ソフィアが疎《うと》ましいのです。この聖《アヤ》ソフィアが邪魔なのです。こんなものは、いっそこの地上から消えてしまえばいいとも思っています。しかし、これを壊すことができないのです。壊すには、これは、あまりにも偉大すぎる……」 「まるで、あなたがそう望めば、これを壊すことができるような言い方ですね」  シナンが言うと、 「そうでしたね」  少年は微笑した。  また、ドームを見あげ、 「我々の聖戦《ジハード》は、まだ終っていないのです。イスラムが、イスラムの手でこの偉大な建物よりさらに偉大な建物を建てるまでは、まだ、イスラムとビザンチンの闘いは続いているのです」  少年は言った。  その時—— 「やはり、こちらにいらしたのですか」  シナンと少年の背後から声がかかった。  男の声だった。  近づいてくる靴音に、シナンが後ろを振り返ると、もう、夏が来るというのに、涼しげに綿の長衣《カフタン》を着た男が歩いてくるところだった。  少年と、幾らも歳は変わらないだろう。  長身の男だった。  男は、近づいてくると、少年の前に立った。  理知的な眸《め》をした男であった。 「ひとりで、勝手に出歩くものではありません」  男は言った。 「わかっている、イブラヒム」  少年は言った。  シナンに向かってしゃべっていたのとは、口調がかわっている。  その声を耳にした時、こちらの声の方が、さきほどまで自分に向かってしゃべっていたあの口調よりは、ずっとこの少年に馴じんでいるようにシナンには思えた。  このイブラヒムと呼ばれた男がここに現れた瞬間から、少年の表情から少年らしさが消えて、青年の顔つきになっていた。 「何をしておられたのですか?」  男——イブラヒムが、青年に訊いた。 「話をしていたのだ」 「話?」 「喜べ、イブラヒム」  青年は言った。 「こちらのお方が、我らイスラムのために、この聖《アヤ》ソフィアより偉大なジャーミーを建ててくれるそうだ」  青年は、シナンに向かって笑みを向け、すぐにその顔を出口の方に向けた。  歩きかけた青年が、シナンを振り返った。 「名を聴かせてくれませんか」  そう言った。 「シナン」  シナンが言うと、青年はうなずき、イブラヒムを見やった。 「ゆこう」  青年は、床の石の上に、靴音を響かせて、イブラヒムと共にシナンの前から去っていった。  これが、後に立法者、壮麗王《そうれいおう》として、世界史の中の最も偉大なる王として、その名声を| 恣 《ほしいまま》にした、スルタンの中のスルタン、スレイマン大帝とシナンの最初の出会いとなったのであった。  シナン、二十四歳。  スレイマン、十七歳。  スレイマンが、スルタンとなって、この世界史上|稀《まれ》な大帝国オスマントルコを、ほとんど黄金一色に染めあげるかのごとき華麗なる国としてゆく途につくのは、これより十年後のことである。 [#改ページ]  第4章  オスマン帝国 [#ここから5字下げ] わたしの愛は わたしの上を 楽園の鳥のように 飛翔する おまえの門に 物乞いすることで わたしは 世に上なき身となった ——詩人ムヒッビー(スレイマン大帝) [#ここで字下げ終わり]       1  セリム一世には息子が四人いたことは、すでに書いた。  このうちの三人——つまり、実の息子にセリム一世は死を与えている。  生き残ったのは、スレイマンただひとりである。  殺されたのは、  ムラド、  マフムード、  アブドゥッラー、  の三人である。  いったいどのような背景のもとに、このようなことがおこったのか、定説はない。  史料によっては、この三人の子殺しの時期も意見が分かれている。  歴史家アフメド・テヴヒード・ベイによれば、セリム一世は、自分の兄弟の最後のひとりを殺してから、十八カ月と二十四日後の、一五一四年十一月二十日に、この三人に死を賜《たまわ》ったとされている。  別の史料には、セリム一世がスルタンとなった数カ月後には、もうこの三人はすでに殺されていたはずであると書かれていたりもする。  その時期はともかく、セリム一世の意志が、この三人の死の背景にあったということは、どれも一致している。  また、もっと別の説によれば、スレイマン自身が、スルタンとなった時にこの三人の兄弟を殺したのだとも言われているが、これはあり得ない。  ここは、セリム一世が、スレイマンひとりを殺さずに、残る三人の息子を殺したとするのが、妥当であろう。  しかし、何故、三人を殺し、スレイマンを殺さなかったのか。  これは、スレイマンを除く三人が、セリム一世に対して叛逆《はんぎゃく》を企《くわだ》てたからであるとされているのだが、実は、スレイマンも、この父セリム一世からは生命をねらわれているのである。  セリム一世即位後、スレイマンは短期間、イスタンブールの| 知 事 《サンジャクベイ》の座にいたのだが、すぐに、エーゲ海沿いの地マニサ(サルハン)の| 知 事 《サンジャクベイ》に任ぜられて、彼《か》の地へおもむいている。  セリム一世の第一回イラン遠征に際して、エディルネ、そしてイスタンブールの支配をまかされたこともあったが、その期間をのぞき、スレイマンはスルタンに即位するまで、ずっとマニサの地にいたことになる。  この地にいる時に、スレイマンは、何度か父のセリム一世から生命をねらわれている。  美しい刺繍の入ったシャツを、セリム一世からもらったが、スレイマンの母がこれをあやしく思い、試しに小姓のひとりにそれを着せてみたところ、たちまちその小姓は血を吐いて死んでしまったというのである。  この説を支持する学者は少ないが、少なくとも、このような説が出る程度には、セリム一世とスレイマンとの間には、微妙な緊張関係があったのではないか。  つまり、セリム一世は、四人の息子の全てを殺そうとして、三人の息子についてはそれに成功したが、スレイマンについてはしくじったのだと考えることもできる。  兄弟が、王座をめぐって殺しあうというのは、世界の王朝の歴史を見る時、それは、特別に珍しいことではない。  それが、父子であるというケースも、兄弟同士ほどではないにしても、ないことではない。  しかし、この時期のオスマン王朝というのは、肉親殺しについては、世界史の上でも、異常なほどである。なにしろ、国の法の中に、兄弟殺しを認める法律が存在していたのである。  後に、スレイマンがスルタンとなったきっかけというのは、当然ながら、父王であるセリム一世の死にあるのだが、これにも疑問が投げかけられている。  セリム一世は、一五二〇年、イスタンブールからエディルネへ移動中にこの世を去った。  この死は、セリム一世の父王バヤジットの死と似ている。  バヤジットもまた、イスタンブールからディメトゥカへの移動中に亡くなっているのである。これは、セリム一世が毒殺したのではないかと考えられている。セリム一世が病没したのはほぼ定説となっているが、セリム一世もまた、スレイマンの手によって、自身が父にしたように、毒殺されたのだと考える者たちもまたいるのである。  セリム一世のこの死が広まれば、帝国に危機がせまるであろうと考えた取り巻きの人間たちは、その死を、まず隠し、一番最初にスレイマンに知らせたのである。  イェニチェリにすら、知らせなかった。  侍従長、財務長官などは、セリム一世の死を、スレイマンのイスタンブール到着の日まで隠し続けたのである。  スレイマンという人物の一生を考えてみる時、一番生命の危険にさらされていたのが、あるいは、この時期であったのかもしれない。  密接な関係にありながら、スルタンと、イェニチェリの関係は、決して一方的なものではなかったのである。  イェニチェリは、兄弟のうち、望む人間を次のスルタンにすることができるだけの、強い力をもっていた。  歴代のオスマンのスルタンは、常にイェニチェリの顔色をうかがいながら、| 政 《まつりごと》をやってきたのである。  しかし、父の死の知らせを受けた時、スレイマンは、すぐにはマニサを動かなかった。  もしかしたら、父の罠ではないかと、これを疑ったのである。  大宰相ピーリー・パシャがすでにイスタンブールに向かって先行しているとの情報を得て、ようやくスレイマンは動いたのである。  このあたりのことを考える時、やはりスレイマンが、父セリムに毒を盛ったと考えたくなってしまうのであろう。  父に毒を盛った。  しかし、父セリム一世は毒に気づき、すぐにこれが誰の意志かを理解した。  そして、自分が死んだとの偽の噂を流し、やってきたスレイマンを捕え、これを殺そうとした——そういう背景もあり得たのではないかという異説を、小説的には支持したくなってしまう。  セリム一世の八年の治世は、恐怖政治であった。  他人であるか肉親であるかを問わず、この王ほど、人間の首を、その胴から切り離すことに無頓着であった人物はいないであろう。  そういうことを繰り返してきたオスマン王朝の歴代のスルタンの中でも、セリム一世のこの性質は際立っている。  知的で、教養人であったセリム一世の精神の中にある、自分以外の生命に対する関心のなさは、次のエピソードからもうかがい知ることができる。 「わが帝国の臣民三分の一の最大の福利のために、残り三分の二を殺すことは許されぬであろうか」  ある時、禁令を破ってペルシアと交易した四〇〇人の商人に対する死刑判決に同意しない大ムフティー(法的見解を出す者)に対し、セリム一世は、こう言って反問したという。  このセリムであれば、ただひとり残った、王位継承者であるスレイマンを殺そうとすることもあり得たであろう。いや、むしろ、王位継承者を、ひとりにしてしまったことで、かえって、セリムは、自分の身に危機感を抱いたのかもしれない。  ある人物を殺せば、自分が王になれることがわかっていれば、人はそれをするであろうとの考えが、セリムの中にあったことになる。  それは、とりもなおさず、 �自分であったらそれをするであろう�  ということだ。  ともあれ、一五二〇年九月三十日——  スレイマンは、ボスポラス海峡のアジア側——ウスキュダルに到着した。  スレイマンは、そこから船に乗ってイスタンブールに入り、父セリム一世の葬列に加わったのであった。       2  セリム一世の在位は、シナンがデヴシルメによってイスタンブールにやってきた一五一二年から一五二〇年までの、わずか八年にすぎなかった。  しかし、この八年間に、セリム一世はふたつの大きな仕事をなしとげている。  それは、一五一四年から一五年にかけてのイラン遠征と、一五一六年から一七年にかけてのエジプト遠征である。  このふたつの偉業によって、後にオスマン帝国最大の繁栄を築くことになるスレイマン大帝の時代への基礎が完全にできあがったといっていい。  二十代のシナンは、このふたつの遠征にイェニチェリとして参加している。  建築家としてのシナンの基礎もまた、この時期にできあがったと考えていい。  それにしても——  セリムという人物は、なんと激しくこの短い治世を生きたことであったろうか。  しかも、自らの兄弟殺しも、三人の息子たちを殺してのけたことも、前述したふたつの遠征も、結果として全てスレイマンのために行ったような感がある。  日本で言うなら、信長が釣りあげた魚を秀吉が料理し、それを食べたという家康の役どころがスレイマンであろうか。  セリム一世は、優れた行政家であり、勇敢なる軍事指導者であり、寡黙で、猜疑心《さいぎしん》が強く、自分以外の誰も信用していなかった。  大臣を殺し、高官の首を幾つも刎《は》ねた。  冷酷者《ヤヴズ》の異名をとったのもうなずける話である。  セリム一世が王位に就いた時、オスマン朝には、さしあたって、ふたつの大きな脅威があった。  ひとつが、イラン遠征の原因であるサファヴィー朝であり、もうひとつがエジプト遠征の原因であるマムルーク帝国である。  セリム一世が、最初に手をつけたのが、サファヴィー朝との闘いであるイラン遠征であった。  このオスマン帝国とサファヴィー朝との闘いは、同じ宗教同士——つまり、イスラムとイスラムの闘いであった。オスマンがイスラムのスンナ派、サファヴィーがイスラムのシーア派。  結局、セリム一世が始めたこのオスマン対サファヴィーの闘いは、一五一四年から十八世紀まで続くことになる。  イスタンブールを落としてからも、オスマントルコの視線が向いていたのは、常に西側——ヨーロッパであった。  この間に、アナトリア半島の東部で、オスマン帝国への反乱が始まっていたのである。もともとは、オスマン帝国の税法を肯《よし》としない、旧主に忠実な人間たちが集まって、決起したものである。  これを背後から煽《あお》っていたのが、イランの新たな支配者となっていたサファヴィー朝であった。  オスマン朝も、サファヴィー朝も、宗教はアッラーを信奉するイスラムであり、民族も同じトルコ系である。  違いは、オスマンが、預言者ムハンマドの範例《スンナ》をよりどころとするスンナ派で、サファヴィー朝がシーア派なのだが、サファヴィー朝は、もともとイスラムの神秘主義《スーフィー》教団の長老《シャイフ》の血を引き、アナトリア各地方の地元信仰との繋がりが深い。  サファヴィー朝の君主《シャー》イスマーイールは、この異端的で諸教が渾然《こんぜん》となったイスラム教に、中央アジアのステップで古くから信仰されていたシャーマン信仰を組み入れて、アナトリア東部の各民族から熱狂的な支持を受けていたのである。  前イスラム的なムスリム、クルド族の土着信仰などが混淆《こんこう》した異端的セクト全体の指導者にシャー・イスマーイールはなっていたのである。  オスマントルコに自分たちの財政的な特権を侵害されて、激しい敵意を持っていたクズルバシュ、つまりテュルクメンの遊牧民ともシャー・イスマーイールは結びつき、このシーア派の王は、東部アナトリアからバグダードとアムダリアに至る間にまで、その領土を拡大していたのである。  シャー・イスマーイールは、エーゲ海方面においても反乱を煽動し、セリム一世の父であったバヤジットの死後、セリムの弟のアフメドを支援したこともあった。  アナトリアから始まった反乱の狼煙《のろし》は、今、シャー・イスマーイールを叩いておかなければ、オスマン王朝崩壊のきっかけともなりかねないものであった。  シャー・イスマーイールの本来の故郷は、アゼルバイジャンにあった。  一五一四年、セリム一世はこのアゼルバイジャンを叩くべく、東へと進軍したのである。  シャー・イスマーイールは、イスラムでありながら、ヨーロッパのキリスト教世界の列強の潜在的同盟者であった。  セリムが即位する前、まだバヤジットの在位中に、このシーア派の王は、オスマントルコに対する共同作戦を、ヴェネツィアの元老院に申し出ていたことさえあったのである。  幸いにも、ヴェネツィアはこれを拒否したのだが、いつ、その申し出を受けるかわからない状況であった。もしヴェネツィアがこれを受けずとも、その周辺の者たちがこれを受けることも考えられた。  セリム一世は、東への遠征に先立って、西のヴェネツィア共和国との和平を更新し、この危険を遠ざけている。  さらに、出発前、セリム一世はウレマー(法学者)の長、シェイヒュリイスラームより、シャー・イスマーイールとその同調者を非とする教旨《ファトワー》を発せしめた。これによって、セリム一世の遠征は聖戦《ジハード》となった。  そしてアナトリアのクズルバシュの指導者たちが捕えられ、処刑された。  これだけのことを短期間にやってのけた上での遠征であった。  アナトリアのヴァン湖の北東、タブリーズとの中間あたりのチャルディランの野で、セリム一世の軍と、シャー・イスマーイールの軍は対戦した。  この戦いで、充分な火器を有していたオスマンの軍がシャー・イスマーイールの軍を破り、セリム一世はタブリーズを占領したのである。  この時に、セリム一世は、多くの豪奢《ごうしゃ》な写本や、画家、職人を手に入れ、これをイスタンブールに連れ帰り、王家の工房に住まわせたのである。  オスマン美術——とくにその細密画に、ペルシアの影響が強く残っているのはこのためである。  セリム一世は、この戦いにおいて、慈悲のかけらも見せなかった。  捕虜の全員を処刑してしまったのである。  兄弟殺し、息子殺し、そしておそらくは父殺しまでしてのけたセリム一世にとって、敵軍の捕虜の処刑は、いらなくなった邪魔なゴミを処理するほどの感覚でしかなかったろう。  逃げるシャー・イスマーイールを、セリム一世は追った。  しかし、この追撃戦によって、オスマン側も大きな傷を負うことになった。  シャー・イスマーイールを信奉する、勇猛なクズルバシュの反撃にあったのである。加えて、苛酷な気候と荒れた土地が、セリムの行く手をはばんだのである。何よりも、冬の到来と、越冬の必要が、セリムの作戦継続のネックとなった。食料の補給も充分にできない。  イェニチェリ軍団も、これ以上の進軍を拒み、ついに、セリム一世は、イスタンブールにもどることを決心せざるを得なかったのである。  アナトリアの平定という当初の目的は完遂したものの、サファヴィー朝を滅ぼすには至らなかったことで、セリム一世のシーア派に対する弾圧は、さらに激しさを増した。  さらにズールカディル侯国を征服し、シリアへの道を開き、サファヴィー朝に服していたクルド族諸侯を服属させ、これによって、オスマンはついに、イラン、コーカサス、レヴァントへ向かう重要な、戦略的、経済的通路を支配したのである。  ほとんど休むことなく、セリム一世が次に手をつけたのが、エジプトのマムルーク帝国を打ち倒すための遠征であった。  滅ぼされずに生き残ったサファヴィー朝と、マムルーク帝国が、手を繋ごうとしたのが、直接のきっかけとなった。  もしも、マムルーク帝国のスルタン、カンスーフ・アル・ガヴリがシャー・イスマーイールと手を結んだら、オスマン帝国も危くなるからである。  マムルーク帝国は、イスラム世界最強の勢力であり、カイロを中心に、アラビアのメッカとメディナの聖地を制している。  この当時、預言者ムハンマドの後継者であるカリフもまたカイロに住んでいた。最後のアッバース朝カリフのアル・ムタワッキルは、スンナ派イスラムの精神的指導者であった。  カリフというのは、�神の使徒の後継者�という意味の言葉で、ムハンマドの歿後《ぼつご》、その後継者となったアブー・バクルが最初に用いた称号である。イスラムのもうひとつの称号であるスルタンが、人間の世俗的な首長を意味するなら、このカリフは、イスラムの宗教的な世界での首長ということになる。イスラムにおいては、正式にはこのカリフの委任によって、ある地域や部族のスルタンが決まることになっているのである。  オスマントルコ帝国においては、やがて、その支配者が、スルタンとカリフの双方を兼ねるようになるのだが、それは、このセリム一世以降——一八世紀になってからのことである。  しかし、この時はまだ、カリフはエジプトのカイロに住む、アル・ムタワッキルであった。  この時期、アル・ムタワッキルには政治的権力こそなかったものの、大勢の君主たちが、その地位の確認のため、彼のもとを訪れていたのである。  セリム一世の目的は、マムルーク朝を滅ぼし、このカリフのムタワッキルを手に入れることであった。  セリム一世の軍が、このエジプト遠征のため、イスタンブールを出たのは、一五一六年六月五日のことであった。  マムルーク朝のスルタン、カンスーフ・アル・ガヴリは、すでに、自らの軍をサファヴィー朝の軍勢と合流させるため、カイロを出立している。  戦いが行なわれたのは、八月十四日。場所は、マルジ・ダービクであった。  この戦いで、カンスーフ軍は敗北し、スルタンのカンスーフ・アル・ガヴリが殺された。その四日後に、セリム一世はアレッポに入城し、その大モスクにおいて、アル・ムタワッキルから�両聖都(メッカとメディナ)の守護者�の称号を受けたのであった。  十月九日、セリム一世はダマスカスに入り、以後四世紀もの間、この土地はオスマン領となるのである。  こうして、いよいよ、セリムの前にカイロへの道が開けたのである。  しかし——  すでに殺されたスルタン、カンスーフは、カイロに、マムルーク朝の高官のひとりであるトゥマン・ベイを摂政として残してきた。  このトゥマン・ベイが、カンスーフの死の知らせを聴いて、新しいマムルークのスルタンを自称し、セリム一世を迎え撃ったのである。  大砲と、逆茂木《さかもぎ》を埋めた壕《ほり》で防御された塹壕《ざんごう》陣地が、リダニヤに築かれた。  もしも、何も知らずにこの地にセリム一世の軍が入っていたら、オスマンはここで敗北していたかもしれない。  しかし、マムルークからの脱走兵がこれを通報したため、セリム一世はその戦法を変えたのである。  セリム一世は、まず、手前からの砲撃でこの戦《いくさ》をはじめたのである。  さらに、セリムは、裏をかいて敵陣の後ろにまわって攻めた。  マムルークの火器は貧弱で、オスマンの火器の方が優れていたことから、戦局はオスマン軍に有利となった。  トゥマンは、リダニヤからカイロへ退却した。  かくして、一五一七年一月、カイロでの戦闘となったのだが、三日三晩の激戦の末、カイロはセリム一世の手に落ちたのである。  トゥマンは、カイロを逃れて、アレクサンドリア南方で、四〇〇〇の騎兵とともに、追ってきたセリム一世の軍と戦ったのだが、ついに敗れ、捕えられてカイロに護送され、城門のひとつで絞首刑にされた。  こうして、オスマントルコ帝国のセリム一世は、二五〇年続いたマムルーク朝を滅ぼし、エジプトの主人となったのである。  アラブのエミール(領主)、ドルーズの首長、レバノンのキリスト教支配者たちは、セリム一世に服従し、セリム一世は、新しくエジプトの総督を任命した。  さらにセリム一世は、メッカのシャリーフの服従をも受けることになったのであった。  カリフのアル・ムタワッキルをイスタンブールにつれ帰り、セリム一世は今はイスラムのモスクとなった聖《アヤ》ソフィア大聖堂において、アル・ムタワッキルから正式にカリフの称号を受けた。これが後代(一八世紀)からの伝統となったのである。       3  セリム一世の、このふたつの遠征に、イェニチェリとなったシナンが参加していたことは、すでに書いた。  シナンは、イェニチェリ歩兵師団の軍人建築家としてこの戦いに加わった。  もともと、建築現場に近い木工事の専門家であったシナンが、イェニチェリになるための訓練期間であるアジェミー軍団時代に、モスクや橋などの様々な建築現場で教育を受けていたであろうことは、想像に難《かた》くない。  後のことから考えても、シナンがかなり優秀な生徒であったことも間違いはないであろう。  しかし、イェニチェリの軍人建築家として、戦いの現場に出ることは、シナンにとっても初めてのことであり、当然ながら彼の役割は、まだ下働きである。  しかし、下働きながら、シナンがその能力を発揮する機会は、何度かあったろうと思われる。  戦の現場では、突発的に、様々なものを建設することが要求される。ある時は、それは砦《とりで》であり、ある時は、それは、河や谷を渡るための橋である。  しかも、その作業にあたる人数も、時間も限られている。  材料も道具も充分でない。  そういった限られた状況の中では、その時その時の現場に応じた、臨機応変なやり方が必要になる。常に、そういう現場では、新しい考え方や技術が試されることになる。  そういう現場で、作業をしながら舌打ちをするシナンの姿が想像できる。 「なんでこのような無駄な人の使い方をするのか——」  腹の中で、シナンがそう思ったことは、何度もあったことであろう。  おれならば—— 「自分であったら、ここの作業の人数をこれこれにし、あそこの作業をこのようにすれば、半分の時間でこれができるのに——」  また—— 「この川に橋を架けるのに、この方法は根本的に間違っているのではないか。このやり方だと、一日半は時間がよけいにかかってしまうではないか」  時には、上司にあたる現場の親方に、そのような進言もしたことであろう。  そのおり、上司の心証などには、あまり頓着せず、単純な理《ことわり》をもって、シナンは自分の考えた方法を説いたのではないか。  上司も、シナンのそのような進言は不快に思ったことであろう。  シナンが、そういう時に気にしたのは、上司がどう思うかということより、事の理《り》であり、シナン本人にとっては数学のように明快で単純なことであった。  人の心の揺れにまで、シナンは思い至らない。いや、思い至りはしても、 「それとこれとは別である」  そのような考え方がシナンにはあったのではないか。  だが、上司にとってはいくら不快ではあっても、事は戦のことであり、生死の問題でもある。  シナンのやり方の方が優れていれば、それを採用しないわけにはいかない。  あとで、何かあった時に、弟子の人間が進言したことを、親方の自分が却下したことがセリムに知られたら、どういう処罰を受けるかわからないからである。  いつもとは、やり方が違う橋の建設を見て、 「これは、いつもとは違うではないか」  セリムが、親方に問う風景もあったろう。  その時、親方が、 「これは、わたくしが新しく考えました方法でございます」  と言ったか、あるいは正直に、 「これは、弟子のシナンという人間が進言してきた方法です」  と言ったかどうか。  ともあれ、この時、まだ、シナンは無名であった。  しかし、様々な場所で、様々な地方や都市の建築を眼にすることができたのは、後のシナンにとって無駄なことではなかった。  後年、シナンは、このふたつの遠征を振り返って、次のように語っている。 [#ここから1字下げ]  私の仕えた四人のスルタン(セリム一世、スレイマン大帝、セリム二世、ムラト三世)のうちの最初の二人は、オスマン帝国の最も高貴な剣を持ち、アラブおよびその周りの土地を征服し、広大なる帝国を築きあげました。  バヤジット大帝の息子セリム!  神の希望によって、彼の行き着いた地が天国でありますように。  私はスルタン・セリムの時代に徴用されました。カイセリ地方で男子の徴用があった時に、私もその中にいたのです。新兵のみんなが体験するように、私もみんなと一緒に行軍に参加しました。  上官のそばで、疲れも知らず、間をあけることなく働きました。職業に関するいろいろなことをここで学びました。  地位の向上するのをじっと待ちました。  その間、私が最も望んだことは、海外の地に行き、いろいろなことを見聞し、学ぶことでした。  ヤヴズ・スルタン・セリムとともに、アラブとその周りの国々を訪ねることができました。そこで見た数々の建物の知識をもって、イスタンブールにもどりました。  そして、その後、いろいろな奉公をする機会を得たのでした。 [#ここで字下げ終わり]  これは、セリム一世の死よりおよそ五〇年余り後に、シナンの友人であった詩人ムスタファ・サイが、シナンから聞き書きした本の中に記されている言葉である。 [#改ページ]  第5章  壮麗者スレイマン大帝 [#ここから5字下げ] ひとつの情熱を断ち切るためには もうひとつの情熱が要る ——ファハル・ッ・ディーン・グルガーニー [#ここで字下げ終わり]       1  前《さき》のスルタンであるセリム一世のことを、人々は冷酷者《ヤヴズ》と呼んだ。  そのセリム一世に代って新しいスルタンとなったスレイマン大帝は、立法者《カーヌーニー》と呼ばれた。  このスレイマン大帝の時代に、オスマントルコは帝国の最大の広さを誇り、建築、美術、科学、あらゆる文化の最良のものが花ひらいた。  これまでの、オスマンの歴史全ては、まさにこのスルタンのためにあったといっていい。このスレイマンの時代のために、オスマントルコの過去の歴史においてあらゆる準備がなされたのである。セリム一世などは、その短いスルタンの時代の数年間、馬車馬の如くに働いて実らせた果実をもぎとりもせず、そのまま、スレイマンのために残してこの世を去っていったのであった。  しかし、スレイマンは、食卓に並べられたこの果実をただ食しただけの人物ではない。  むしろ、スレイマンであったからこそ、この歴史の中に実った奇跡のごとき果実を熟させ、食することができたのだと考えるべきであろう。  スレイマンには、その資格があった。  人々は、このスレイマンのことを、立法者とは別のもうひとつの名でも呼んだ。ヨーロッパ諸国の間では、立法者よりも、そのもうひとつの呼び方の方が知られている。  名づけて、壮麗者——  しかし、そう呼ばれるようになるのはもっと後の世になってからのことである。  スルタンとなったばかりのスレイマン大帝は、まだどのような呼び方もされてはいない。  一五二〇年、オスマンの剣を佩《は》いた時、スレイマン大帝は、まだ、二十五歳であった。       2  スレイマンが、スルタンとなって最初にやった仕事は、イェニチェリたちに、即位の下賜金を与えることであった。  イェニチェリたちは、ひとりあたり五〇〇〇アクチェの金額を要求した。  ここにも、スルタンとイェニチェリとの間の微妙な関係が見てとれる。下賜金の額を、スルタンが一方的に決めるのではなく、その配下であるところの軍人が、スルタンと交渉をし、自分たちの希望する額を要求することができたということである。  しかし、これを要求通りに払うわけにはいかない。  結局、その金額は三〇〇〇アクチェに落ちつき、そのかわりに、スルタンは、三月に一度支払われる給与を、これまでより上げることを約束したのである。  では、ひとりあたり三〇〇〇アクチェという金額が、いったいどれくらいのものかということになってくるのだが、これが簡単に現代の金額に換算できない。  ちなみに、アクチェというのは、小さな銀貨幣で、スレイマン当時、およそ〇・七二三グラムの銀が使用されていた。五〇アクチェが、金貨一枚である一アルトゥンに相当した。  銀でいうなら、三〇〇〇アクチェというのは、二一六九グラム。ひとりあたり、二キログラムあまりの銀が支払われたことになる。  では、このイェニチェリの人数がどのくらいだったかということになってくるのだが、その実数がわからない。  ひとつの遠征に加わったイェニチェリの人数にしても、資料によって数字が違ってくる。  例をあげておけば、スレイマン大帝が、一五二二年にロドス島を攻めたおりには、海路で一万人、陸路で十万人、合わせて十一万人の兵が、これに加わったと言われている。しかし、キリスト教徒側の資料によれば、この数は、もっと多かったとも言われている。  仮に、スレイマン大帝が、持てる兵力の半分をこの戦に割《さ》いたとしたら、その人数は二十二万人ということになる。  この兵士二十二万人のうち、一万人前後がイェニチェリであったと考えていい。  一万人として、この一万人に、二一六九グラムの銀を与えたとすると、その重さは、二一六九〇〇〇〇グラム——二〇トンを超える。  膨大な量の銀になる。  イェニチェリ以外の兵たちも特別手当を受け、給料もあがった。さらには皇太子時代のスレイマンに仕えていた高官たちにも、莫大な額の報賞が与えられたという。  このあたりは、�冷酷者�の異名をとった父セリム一世のイメージを、意識的に払拭《ふっしょく》しようとスレイマンが考えていたことがうかがえる。  自分は父とは違う——  そういうスレイマン新スルタンの肉声が聴こえてきそうであった。       3 「なかなか、評判がおよろしいようですね」  そう言ったのは、長身の青年であった。  髪は柔らかく、女のように唇が赤い。  口髭《くちひげ》さえなければ女と間違えられるほど、肌の色が白い。 「おまえのおかげだ、イブラヒム」  そう答えたのは、玉座に座したスレイマンである。 「人をやって、あちこちで話を集めてきましたが、悪い評判はありません」  スレイマンから、イブラヒムと呼ばれた青年は答えた。 「わたしは、あの男とは違うからな」 �あの男�とスレイマンが言ったのは、父であるセリム一世のことである。  スレイマンも、部屋にイブラヒムとふたりきりしかいないからこそ、口にした言葉であった。  当然ながら、イブラヒムには、�あの男�が誰のことを指しているのかよくわかっていた。 「それには、あれは一番よい方法でした」  イブラヒムがうなずいた。  イェニチェリへ下賜金を与えることと並行してスレイマンがやったのは、父セリム一世によってイスタンブールに捕えられていた、六百人の身分の高いエジプト人、およびエジプト人商人の即時釈放であった。  さらに、商品を没収されていた他の外国人商人にはその商品を返し、返せないものについては金で補償した。  チャルディランの戦いで、トルコに捕えられていたペルシア人商人と職人たちも、国へ帰ることを許された。  これによって、イスタンブールとイランとの交易が再び自由にできるようになったのである。  セリム一世が布《し》いていた専制的な法や決まりが廃止され、責任者は罰せられた。  セリム一世のもとで、権力をほしいままにしていた、�残忍�という異名を持つ大提督ジャーフェル・ベイは絞首された。  イブラヒムが�あれ�と言ったのは、この異国人の解放と、ジャーフェル・ベイの絞首のことである。 「これで、人がたくさん動くでしょう」  イブラヒムは言った。 「人が動けば、物が動き、物が動けば金が動く——」 「イスタンブールは、西と東の要《かなめ》です。動いた金の多くが、このイスタンブールに落とされることになります」 「イスタンブールが栄えることは、このオスマンが栄えることだ」 「はい」  イブラヒムはうなずき、 「十番目というのは、縁起のいい数です」  そう言った。  十という数は、ムスリムにとっては完璧な数を意味する。  両手の指の数であり、預言者の教友の数である。  そして、スレイマンは、ちょうどオスマン王朝の十代目のスルタンであった。 「あなたは、あなたの御名の如くに、この世の全てのものを支配するでしょう」  イブラヒムは言った。  かつて、この新しいスルタンとなった人物が生まれたおり、その名はコーランを開いて決められた。  コーランを開き、そのページの一番最初に出てきた名前を付ける——それが、ソロモン王であった。スレイマンは、このソロモンのアラブ語名である。  イブラヒムの言葉は、それをふまえてのものであった。  イブラヒムは、この時期、誰よりもスレイマンに近い場所にいた。  スレイマンの生涯を通じて、このイブラヒムほど、スレイマンに近い場所にいた者はいない。  イブラヒムは、もともとは、奴隷であった。  奴隷の身分から登りつめて、後には、実質的に、スレイマンに次ぐ地位である大宰相にまでなってしまうのである。  オスマンにおいて、奴隷という身分は、必ずしも悪い立場の者ではない。  身分の高い人物の奴隷であるということは、それは逆に出世の機会を与えられたということであり、奴隷の身分から、主の妻になった例や、権力者となった例は無数にある。もともと、そういう文化がオスマンにはあったのである。  その代表的な例が、このイブラヒムであった。  この時、イブラヒムは、スレイマンより一歳年上の二十六歳であった。  もともとは、キリスト教徒であり、ギリシア人である。  漁師の息子であった。  一四九三年、コルフ対岸の、アドリア海沿岸の島パルガでキリスト教徒の家に生まれている。  オスマントルコにパルガ島が略奪されたおり、捕虜となり、当時カッファにいたスレイマンに奴隷として献じられた。  しかし、これには異説もある。  それによれば、パルガ島を略奪したのは、オスマンではなく海賊であったという。この海賊にさらわれて、マニサのある未亡人に売られたというのである。  この未亡人が、イブラヒム少年の才能と聡明さに驚嘆し、教育を授けたのだという。  イブラヒムは、母語のギリシア語は言うまでもなく、イタリア語、ペルシア語、トルコ語を、しゃべり、読み、書くことができた。さらには、音楽の才能にも優れたものがあり、幾つかの楽器を、上手に演奏することができたと言われている。  イスタンブールの宮廷の学校で教育を受け、その頃、マニサの| 知 事 《サンジャクベイ》であったスレイマンに、小姓として仕えはじめたのが、出世のきっかけとなった。  捕虜であったにしろ、海賊にさらわれたにしろ、いずれにしても、もと奴隷であったというのは共通している。  さらに書いておけば、どちらの説でも共通していることは、もうひとつあった。  それは、イブラヒムというこの少年が、当時から、そして死ぬその時まで有していた、並はずれた美貌についてである。  頭脳は明晰《めいせき》で、その容姿は、女とも見まごうばかりに美しかったと史料は記している。  スレイマン自身は、深い沈黙と思考とを愛する、口数の少ない少年であった。  鼻は鷲鼻。  口髭と短い顎鬚《あごひげ》。  快活なところもあるが、肌は常に青白かった。  父のセリム一世よりは、曾祖父である征服者メフメットに似ていたと言われている。  性格は、厳格——  そのためか、ターバンを、常に眼のすぐ上のあたりまで引き下ろして被《かぶ》っていたと言われている。この、ターバンを深く被るという癖は、一生スレイマンから抜けなかった。  父のセリム一世は、激しく、逆上しやすい性格であったが、スレイマンはそれとは対照的に、静かで、沈着であった。  狂信とは縁のない、敬虔《けいけん》なムスリム——これがスレイマンであった。  スルタンとなった治世の初めにおいても、スレイマンは、イスラムの教えの通りに、キリスト教徒に対しては寛大で、イスタンブールにおいて彼らがその納税義務を果している限り、その信仰については、どういう要求もしなかった。  王として、というよりは、人間として、きわめて精神的なバランスがとれていたのが、このスレイマンであったのである。  スレイマンが愛したのは、法であった。  統治の初めに、スレイマンは、次のような書状をエジプトの総督に書き送っている。 [#ここから1字下げ] 「わが至高の命令は——運命のごとくに呼ばわり、人を捕えるこの命令は、貧富、都鄙を問わず、臣民たると隷属民たるを問わず、すべての者が急ぎ汝に服従するよう命ずるものである。もしいささかなりとも義務の完遂を怠る者あらば、貴賤を問わず彼らに最終の極刑を下すに躊躇するなかれ」 『スレイマン大帝とその時代』(アンドレ・クロー著 濱田正美訳) [#ここで字下げ終わり]  スレイマンは、まず、自分が新しい統治者となったオスマントルコ帝国が、断固たる、しかし、イスラムの教えと正義にかなった法によって統治されるであろうことを、統治の初め、全ての者に理解させようとしたのである。  この時、そのよき片腕となったのが、前記したイブラヒムであった。  スレイマンは、よほどこのイブラヒムのことを気に入っていたらしく、イブラヒムはオスマン王朝史の中でも、異例の早い出世をした。  スルタンとなったおりに、ただちにスレイマンは、イブラヒムを鷹匠長に任命し、さらに間を置かずに、オスマン位階制の最高の地位のひとつであるスルタンの御座所の長(ハス・オダ・バシ)に任じたりしているのである。  このハス・オダ・バシは、常にスルタンの傍らに侍して、睡眠中でもその身辺の警護にあたるのがその役目であった。スルタンからの絶対的な信頼を得られなければ指命されぬ役であった。  さらに、スレイマンは、帝国の三つの印章のうちのひとつを、このイブラヒムに与えたのである。  あまりの出世の早さに驚いたのは、まず当人のイブラヒムであり、十七世紀の年代記作者ボーディエは、次のようなことを書き記している。  ある時、イブラヒムは、このスレイマンのもとにやってきて、 「わたしを、そんな高位に昇らさぬようお願い申しあげます」  このように言ったという。 「わたしの奉仕は充分にむくわれております。あまりの出世の早さは、わたしを不安にします。宮廷内でわたしを嫉妬する者も増えましょう」  この言葉に、かえってスレイマンはイブラヒムを賞賛し、最高位を与えてしまうのである。 「自分が王位にある限り、いかなることがあろうと、おまえを処刑させるようなことはない」  だが、やがてスレイマンは、自分のこの言葉を自ら裏切ることになる。 [#ここから1字下げ] 「しかし、移り気で人間的弱さを持つのが王の常であり、思い上がり恩を忘れるのが寵臣というものの常であってみれば、こうした事柄がスレイマンには誓約を忘れさせ、イブラヒムには、忠誠と忠実を失わしめた——」 『スレイマン大帝とその時代』(アンドレ・クロー著 濱田正美訳) [#ここで字下げ終わり]  このようにボーディエは記している。  しかし、それは後のことだ。  スレイマンがスルタンとなった当時、ふたりはまだ蜜月時代にあった。 「イブラヒム——」  若いスルタンは、イブラヒムに向かって言った。 「わたしは、ソロモンの栄華を手に入れることができるだろう」 「はい」 「かつて、ローマが手にした以上の領土を、我がオスマンは手にすることもできるかもしれない」 「はい」  イブラヒムはうなずき、若いスルタンを見やった。 「その輝かしい未来に、何かご不満でもあるのですか」  問われたスレイマンは、口を閉じ、一度その眼を伏せてから、また視線をあげた。 「いや、このオスマンの栄光に比べたら、とるに足らぬことだ」 「とるに足らぬこと?」 「そうだ。気にするようなことではない」 「しかし、それが心に掛かっておいでなのですね」 「——」 「ささいな魚の骨でも、喉に刺されば気になるものです。それが何であるか、お話しいただけませんか」 「話をしたところで、どうにかなるものではない」 「お話し下さい。話すことで、お心の安まることもございます」  イブラヒムが言うと、スレイマンは、イブラヒムの眼から視線をはずし、深い溜め息をついた。 「領土において、たとえどれだけローマを凌《しの》ごうと、持てる財において、たとえどれだけローマを凌ごうと、あれは依然として、このイスタンブールに聳《そび》えているであろうということだ」 「あれ?」 「聖《アヤ》ソフィアだ」  スレイマンは、短くその名をつぶやいた。 「なるほど、お心に掛かっていたのはそのことでしたか」 「とるに足らぬことだ。今は、とてもそんなことに関わってはいられぬ。スルタンとしてなさねばならぬことが、わたしには無数にある……」 「はい」 「ささいなことだ。しかし、心に刺さった小骨のように、常にそのことが、我が頭の中にはある……」  スレイマンは、イブラヒムに視線をもどした。 「わたしは、スルタンとなった。このオスマンの内にある全てのものを、わたしは自由に手にすることができる。美しい娘も、宮殿も、宝石も。領土が欲しければ、手に入れることもできる。ないものは、命じて作らせればよい。しかし、あの聖《アヤ》ソフィアは……」  スレイマンは、言葉を切った。  イブラヒムをその碧《あお》い眸《め》が見つめている。 「命ずれば、誰かが作ることができるというのか——」 「——」 「作れと命ずれば、誰かが、あれを凌ぐものを建てることができるというのか——」 「——」 「まだ、ローマは、ビザンチウムは生きている。このイスタンブールで、まだ生き続けているのだ。それが、あの聖《アヤ》ソフィアなのだ」 「しかし、今は、その大聖堂も、スレイマン様のものです」  イブラヒムは言った。  しかし、スレイマンはうなずかなかった。  しばらくの沈黙の後、 「我が生あるうちに……」  ぽつりと、スレイマンはつぶやいた。       4  時代は、スレイマンを休ませなかった。  新スルタンの治世にあって、最初の叛乱は、エジプトからおこったのである。  一五二〇年九月三十日にスレイマンが即位してから、その叛乱の知らせを聞くまでの、ほんの数カ月の間が、イェニチェリにとっても、束の間の休息であったといっていい。  この時期、シナンは、イスタンブールにいた。  三十二歳。  イスタンブールに初めてやってきてから、八年の歳月が流れていた。  この間、聖《アヤ》ソフィアに対するシナンの想いは、冷めてはいなかった。  シナンは、これまで、戦場で多くの建築現場に立ち、仕事をした。  イランへの遠征では、数多くの建物を見分することもできた。  そういう体験を経るにつけても、つい、心に浮かべてしまうのは、あの、聖《アヤ》ソフィアのことであった。  建築について知れば知るほど、あの聖《アヤ》ソフィアという建造物の偉大さが見えてくる。  イランで、大きなモスクを見ても、聖《アヤ》ソフィアを見た眼にはもの足りなかった。 「聖《アヤ》ソフィアの方が上だな」  そういう感想を持ってしまう。  ここには、神はいない—— 「あれは、人類の奇跡だ」  シナンはそう思っている。  イスタンブールで時間があるときは、つい、聖《アヤ》ソフィアに足を運んでしまうのである。  その時も、シナンは、聖《アヤ》ソフィアにいた。       5  暗い、光の中にシナンは立っていた。  周囲を囲んだ石の重みに、シナンは包まれている。  天空から荘厳な音楽が、絶え間なく静かに注いでくるような気がする。  空間を囲う——  空間を設計する——  それだけのことで、それだけでないものがそこに生じてくることは、シナンにはわかっていた。  まるで、この石で囲われた巨大な空間に神が宿り、この空間でまどろんでいるような気がする。そのまどろむ神の気配のようなもの——それが、耳には聴こえぬ音楽となって、上方から注いでくるのではないか。  耳を通さずに、直接魂に注いでくる音楽——  なるほど——  と、シナンは心の中でうなずいている。  ものを作る、創造するというのは、こういうことなのか。  ものを作る——たとえば、建物や橋などの建造物を建てるというのは、ひとつには実利のためである。  遠征にゆけば、たとえば川に橋を掛けることが必要になる。そうなれば、現場で材料を調達して、橋を掛けねばならない。  どういう材料が手に入るのか。  何人の兵士が渡るのか。  馬も渡るのか。あるいは、馬車や大砲はどうなのか。  どれだけ急いでいるのか。  この場だけの使用に耐え得る橋でいいのか。二年、三年、十年以上も持つ橋にせねばならないのか。  そういうことで、造る橋はだいぶ変化をすることになる。  ともかく、人や馬が渡れるものでなければならない。  これが実利である。  しかし、この聖《アヤ》ソフィアは、同じ建造物でもそういった実利からかけ離れたものであった。  何故なら—— �これは神のための建造物であるからである�  シナンは、そのように理解している。  実利とは別の考え方、思想によって創られたもの。  遠征で、あちこちの建物を見、多くの砦《とりで》や橋を造ったりしたが、そのたびにシナンが思い出していたのが、この聖《アヤ》ソフィアであったのである。  イスタンブールに戻り、こうしてまた聖《アヤ》ソフィアの内部に入ってみれば、この建物の偉大さを思い知らされるばかりであった。  シナンは、うっとりと眼を閉じて、石が語る声——音楽に耳を澄ませていた。  魂に心地よい響き——  しかし、その響きに、どこかもの足りぬものがあるような気もしている。だが、それが何だかわからない。  その時—— 「おい」  シナンの後方から声を掛けてきた者があった。 「気がすんだか、シナン」  言ったのは、シナンと同じくらいの年齢のイェニチェリであった。  名は、ハサン。  三十歳を幾らか過ぎているだろうか。  シナンは、眼を開いて、後方に向きなおった。  ハサンが、そこに立ってシナンを見つめている。  シナンとハサンの他に人はいない。まだ、次の礼拝には間のある時間であった。 「確かにこの聖《アヤ》ソフィアは凄い。千年も昔にこれが建てられたとは、おれもまだ信じられぬくらいさ——」  ハサンは、数歩歩いて、シナンの前に立った。 「しかし、おまえにつきあっていると、ずっとここにいることになってしまう——」 「ああ」  シナンはうなずいた。 「どうだ、ここを出て、少しかわったところへつきあわんか」  ハサンが言った。 「かわったところ?」 「浴場《ハマム》さ」 「ハマム?」  ハマムというのは、日本でいう銭湯のことである。  公共浴場——  日本風の、湯船に湯を溜めて、その中に入るというものとは違う。  トルコ式の風呂だ。  大理石の床下で火を焚《た》き、その暖気を浴室に満たし、発汗させた後で身体を洗う。  個室ではなく、大きな石の部屋に、他人同士が座したり寝そべったりしながら入浴をする。  蒸風呂《むしぶろ》である。  サウナに近い。  しかし、この大衆浴場のハマムは、イスタンブールのどこにでもある一般的なものであり、ことさらにかわったところというほどのものではない。  シナンにしても、むろん初めてではない。日常的に足を運んでいる場所である。 「まあ、来ればわかるさ」  ハサンが、意味ありげな顔で笑った。       6  シナンとハサンは、大理石の石の上に横になっていた。  ハサンは腹這いになり、両腕の上に頬を乗せて眼を閉じている。  シナンは、仰向けになって、暗い天井を見上げていた。  石で覆われた、ドーム状の天井で、明りとりの窓が幾つか空いている。そこから、外の光が斜めにハマムの中に幾筋も差し込んでいた。  全裸ではない。  シナンもハサンも、腰に綿の布を巻きつけている。  ハマムは混んでいた。  ただひとりで来ている者もいれば、何人かで連れだって来ている者もいる。多くの人間たちの話す声が、石の天井や壁に反響して、心地のよい音として響いてくる。仲間同士で話をする者も、入った時は他人でも、中で隣りの人間に声をかけて言葉を交わしている者もいる。  シナンのよく知っているハマムの風景であった。 「おい——」  シナンの横から、ハサンが声をかけてきた。 「どうだ?」  ハサンがシナンに向かって問いかけてきた。  どうだと言われても、それが何に対する問いであるのか、シナンにはわからない。 �かわったところ�とハサンが言っていたことについてなら、まだ、そのかわったところは感じられない。  強いて言うならば、賑やかである。  これまでシナンが知っている雰囲気よりも、ハマム全体に、活気のある声が満ちている。 「活気がある」  シナンは、問いの意味がわからぬまま、素直に思ったままを口にした。 「だろう」  ハサンはうなずいた。  どうやら、ハサンが望んでいた答えを、シナンは口にしたらしい。 「なかなかのものだな、今度のスルタンは——」  ハサンは、眼を開いて、シナンを見やった。  ハサンの背には、汗の玉が浮いて、それが脇腹へと流れ下っている。 「イスタンブールに流れている噂は、全てはこのハマムが源さ。いい噂も悪い噂も、みんなこのハマムから始まっている。宮廷で新スルタンが、昨夜どういう食事をされたかということから、そこの絨毯《じゅうたん》屋の親父が他に女を作っただのという話まで、みんなここでは筒抜けさ」  ハサンは言った。  ハマムは、イスラム社会——特にイスタンブールでは、一種の社交場であった。  ほとんど身分のへだてのない会話が、ここでは交わされる。  汗をかいて、身体を洗って出る——それだけではない場所がハマムであった。  人々は、ここで長時間くつろぎ、おしゃべりをし、それを楽しむ——身体を洗うというのは、ハマムでやることのごく一部でしかない。 「おれがスルタンだったら、イスタンブール中のハマムに、気の利いた人間を自分の耳として置いておくね。自分の評判を知るには一番いい場所だからな」 「そうだな」  シナンはうなずいた。 「新しいスルタンの評判がいい」  ハサンは言った。  ハサンは、まだシナンを見ている。 「エジプト人の解放も、ペルシア人の解放も、ジャーフェル・ベイの絞首も、みなイスタンブールにとっていい結果をもたらした。おれたちも、充分な金をもらうことになったしな」  ハサンは、眼を閉じた。  シナンは、まだ、天井を見上げている。 「おそらく、叛乱がおこるだろう」  ハサンは言った。 「叛乱?」 「イスタンブールじゃない。オスマンが支配している国のどこかでだ」 「——」 「スルタンがかわったばかりの時は、誰も夢を見るものさ。あいつがスルタンなら、この自分でも、とな」 「ああ」 「その叛乱がおこった時に、イスタンブールがうまくまとまっていないんじゃ、安心して兵も出せない」 「うん」 「だから、スレイマンはイスタンブールをまとめておく必要があったのさ。新スルタンは頭がいい——」 「——」 「おそらく、横にいるイブラヒムあたりが色々と入れ智恵をしているんだろうが、それにしたって、その入れ智恵を理解できるだけの器がないことには、どうしようもないだろう」 「叛乱と言ってたが、どこでおこると思う?」 「エジプト、シリア、まあ、そんなところかな」 「東は?」 「東?」 「サファヴィーのシャー・イスマーイール……」 「あるにしても、一番最初じゃない。あれはオスマンの外部だ。まず、オスマンの内部からだな。その裏に、イスマーイールがいるにしてもだ」 「そういうものか」  シナンは、あまり、関心がなさそうにうなずいた。 「ああ、そういうものだ」 「叛乱がおこった方がいいと言っているように聴こえる」 「そう言っているのさ」 「何故だ?」 「戦《いくさ》があれば、出世の機会が増える」  ハサンは言った。 「おまえらしい」  シナンは、口元に微笑を作った。 「おまえ、あそこで何を考えていた」  ハサンは言った。 「あそこ?」 「聖《アヤ》ソフィアだ」 「神のことだ」 「神?」 「あそこには、神がいる……」 「神ならば、どこにでもいると、学者は言っているぞ」 「そういう在《あ》り方《かた》ではない。あそこは特別だ」 「どう特別なんだ」 「あそこは、神がよく見える」 「なに!?」 「神の存在感が濃いのさ」 「何だと」 「しかし、どうも、よくわからぬところがある」 「何がわからん?」 「他の場所よりも、ずっとあの場所は神の存在感が濃いというのに、しかし、それがどうも……」 「どうも、何なのだ」 「どうも妙なのだ」 「何が妙だというのだ」 「あそこに、聖《アヤ》ソフィアにおわす神は、どうも完全ではないような気がするのさ」 「神は完全ではないのか」 「いや、完全なる神の、その一部しか見えていないとおれは言っているのさ」 「よくわからん」 「おれもよくわからん。だがそんな気がするのだ」 「——」 「それがわかれば——」 「わかれば?」 「神を捕えることができるような気がするのだがなあ——」  溜め息のように、シナンは言った。       7 「なるほど、これか」  シナンは言った。  すでに、シナンもハサンも服を身につけている。  ふたりは、浴室《ハラーラ》から出て、ハマムの広間《マスラハ》の横手にある別室に入ったところであった。  普通は、マスラハで水を飲んだり、ヨーグルトを飲んだりしてくつろぐのだが、ハサンは、風呂番の男に、わけ知り顔で小銭を与え、この部屋に入ってきたのである。  何枚かの絨毯が床に敷かれ、そこに卓が置かれている。  そこに、何人もの男たちが座して、談笑し、物を食べ、葡萄酒《ぶどうしゅ》を飲んでいる。  酒は、イスラムでは禁止されている。  当然、オスマントルコ支配下のイスタンブールでも酒は禁止されているのだが、実際には、葡萄酒は人々に隠れて飲まれている。  シナンもそれは承知していたが、まさか、このハマムでそのようなことがなされているとは——  ハサンが言っていた、 �かわったところ�  というのは、ここのことであったのである。  絨毯の上に座して、 「どうだ、飲むか」  ハサンはシナンに訊いた。 「葡萄酒か」 「いいや」  ハサンは首を左右に振った。 「何だ」 「カフヴェさ」 「カフヴェ?」 「まあいい。おれが注文するから、黙って飲んでみろ」  ハサンが、慣れた口調で、入口近くに立っている男に声をかけると、やがて、陶器のカップが運ばれてきて、卓の上に置かれた。  中に、濃い褐色の液体が入っていて、湯気をあげていた。  かなり熱い。  薬に似た匂いが立ち昇っているが、不快な匂いではなかった。 「何だ?」  シナンが問うと、 「これがカフヴェだ」  ハサンがカップを右手に持って、それを口に運んだ。  ひと口それを啜《すす》って、 「飲んでみろ」  ハサンは言った。 「酒か?」 「酒じゃない。飲めばわかる」  言われて、シナンは、カップを手にとった。  指先に、中に入った液体の温度が、カップを通して伝わってくる。  カップの縁《ふち》に唇を付けて、ひと口啜った。  苦い。  苦いが、しかし、味に深みがある。  鼻で嗅いでいた香りが口の中に広がった。 「貴族の連中の中には、これを異国から運ばせて、ひそかに飲んでいる者もいる。それが、ここでは、おれたちも飲める。多少は金がかかるがな」  ハサンがシナンに飲ませたのは、コーヒーであった。  エチオピア産のコーヒーが、オスマントルコのアラブ世界を経由して、イスタンブールに入ってくるようになるのは、一五五〇年代からである。  スレイマン大帝の治世の後半には、イスタンブールのあちこちに喫茶館《カフヴェハーネ》と呼ばれる、コーヒーを飲ませる店ができ、詩人たちや芸術家たちのサロン風の場所になってゆくのだが、シナンとハサンが、ハマムの別室で飲んでいるこの時期、まだ、コーヒーは一般的飲み物でない。ハサンが見つけてきたこのハマムだけが、特別に飲ませているのである。 「妙だが、悪くない」  シナンは正直な言い方をした。  うまい——と積極的に言うような味ではないが、妙な深みと、後をひくものが口の中に残る。それを、シナンは、悪くない、と表現したのである。  その時—— 「カフヴェはうまいかい——」  声がかかった。       8  シナンとハサンは、声のした方に眼をやった。  そこに、ひとりの男がいた。  年齢は、四十代半ばから五十歳の間くらいであろうか。  その男は、卓の前に座して、シナンたちと同様に、カップでカフヴェを飲んでいた。 「うまいというよりは——」  シナンは持っていたカフヴェの入ったカップを卓の上にもどし、 「おもしろい」  そう言った。 「おもしろい?」 「ああ、おもしろい」 「このカフヴェの味がか?」 「カフヴェの味もおもしろい。イスタンブールもおもしろい——」 「ほう」 「ここに集まってくるのは、富や権力だけではないということです」 「うむ。こういう変ったカフヴェのようなものも集まってくるし、人も集まってくるからな」 「そうです」 「人が一番おもしろかろう」  男は確信を込めて言った。  妙な男だった。  しゃべりながら、いちいち舐《な》めるような視線で、シナンを見つめてくる。 「あんたみたいな男もいるからなあ」  その男は言った。 「わたしのような?」  シナンが問うと、男はうなずいた。  そして、男は、次のような詞句をその唇から発し始めたのである。 [#ここから2字下げ] 心はこんなに恋《こ》い焦《こ》がれているのに わたしは盲《めしい》のように そなたを捜してしまう どこにでも咲き乱れている花を どうしておまえは 自分の庭に咲かせようというのか おまえの庭は今でも 花でいっぱいだというのに おまえにはその花が見えないのか ああそれでもわたしは捜してしまう そなたを捕えて わたしの庭に咲かせるために 愚《おろ》かで傍若無人《ぼうじゃくぶじん》 それでもわたしはそなたの僕《しもべ》 わたしはそなたにお仕えするために そなたを捕えたいのです そなたの奴隷《どれい》となるために そなたを捜すのです [#ここで字下げ終わり]  即興《そっきょう》の詩であるらしい。  声もよく、リズムもある。  耳にしていて心地良い韻律《いんりつ》であった。 「いかがかな」  男は、シナンを試すような眼で見やった。 「ハマムで、我々の話を聴いていたのですか——」  シナンは言った。 「ほう——」  驚いたように、男は右眼の眉を持ちあげた。  どうやら、シナンが、自分の作った詩の意味を理解したことにびっくりしているらしい。 「何のことだ?」  ハサンは、シナンに訊《き》いた。 「今言った通りだ。こちらの方が、さっきのおれたちの話を聴いていたということだ」 「なに!?」 「ハマムで、おれたちは神の話をした。こちらの方が今|詠《よ》まれたのは、そのことだ」  シナンは、ハサンに説明をした。 �恋い焦がれている�  というのは、これは、 �神に恋い焦がれている�  という意味である。 �そなた�というのはつまり�神�のことであり、�花�もまた�神�のことである。  神は、この世界のどこにでも遍在《へんざい》している。おまえはその神をわざわざ捕えてどうするのか——そのような意味の詩であった。 「そういえば、おまえ、神を捕えるだとか何だとか言っていたな」  ハサンは言った。 「偉大なるジャーミーには、神が住まわれたもう——このようにあなたはおっしゃっておられるわけですな」  横から、男が、さらにシナンに声をかけてきた。 「ええ」  シナンはうなずいた。 「しかし、偉大なる神アッラーは、この世界のどこにでも平等に存在なされている」 「はい」  これもまた、シナンはうなずくしかない。 「それが、たとえ、小さなとるにたらない田舎のジャーミーであろうと、また、たとえ偉大なる異教徒の建てた異教徒のためのジャーミーであろうと、そこに存在する神の量は同じであるはずではないのかな」 「神を、量で呼ばれましたか?」 「わかり易《やす》く、量という呼び方をしたがな。もちろんのこと、神は常にそこにおられるか、おられないかであり、おられるなら、どこにおられようと、それは神として全《まった》きものであり、完璧なる量の神がそこにおられることになりましょう。そして神は、全きものでおわせられる以上、どこにでも平等に、同じ量の全き神がおられるのではありませぬかな」 「その通りです」 「このカップのカフヴェの中におわせられる神の量も、この卓の中におわせられる神の量も同じであろう」 「おっしゃる通りです」 「では、何故に、どこにでも同じ量存在する神を、わざわざ捕えねばならぬのですかな——」 「あなたの言われることはもっともなのですが、しかし、にも拘《かか》わらず、この世には神を見ることのできる者と、できぬ者があります」 「ほう」 「ある者は神をよく見ることができ、ある者は少しならば神を見ることができ、またある者は神をまったく見ることができない——こういったことが、実際にありましょう」 「ありますな」 「あなたの言い方を借りるなら、神は見えるか見えないかであり、見えるのならそれは全き神であり、よく見えるとか、少し見えるとかの差はないはずでしょう。見えるのならそれは常に全き神でなくてはなりません」 「言われることはよく理解できるよ」 「にも拘わらず、今言ったように、神をより見ることのできる——感ずることのできる者と、そうでない者が、この世にはおります。これは、何故でしょう」 「何故ですかな?」  男は、シナンの問いを、そのままシナンに返してきた。 「それは、神の側に問題があるのではありません」 「ほう」 「それは、見る側の、人間の方に問題があるからなのです」 「ほほう」 「神は、それを見る、あるいは感ずる人間の能力に応じて——その信仰心に応じて、その見える量や姿が変化するのです。それは、神に責任があるのではなく、見る側の人間の方に問題があるのです」 「言われる通りじゃ」 「わたしが、ハマムで言っていたのは、そういう意味のものだったのです。神を捕えると言ったのは、話をわかり易くするための言葉の綾《あや》であり、実際は、神がもっとよく見える場所——空間を、このわたしは作りたいと、それを言いたかったのです」 「では、次のように言いなおしましょうか。あなたは、聖《アヤ》ソフィアは神を見るための施設としては非常に優れたものではあるけれども、まだそれは機能としては不完全であると、そのように言っているわけですかな」 「ええ」 「神を見るために、より完全な機能を持ったジャーミーを、自分であれば作ることができると、そのようにおっしゃられるわけですな」 「いえ、そういうものを作りたいと言ったのです」 「なるほど——」  男はうなずき、 「あの聖《アヤ》ソフィアの、いったい何が、どこが不完全なのかな?」  そのようにシナンに問うてきた。  それは、以前、聖《アヤ》ソフィアで会った若い青年にも訊かれたことであった。だが、その時、シナンはその問いに答えることができなかった。  そして今も—— 「それが、わたしは、その問いに答えることができないのです」 「わからない?」 「ええ、それがわたしにはわからないのです——」  シナンの答えを聴き、男は、何ごとか納得したようにうなずいた。 「おもしろい」  男は言った。 「おもしろい?」 「ええ、あなたはおもしろい」  男は、自分のカップを持って、シナンとハサンの卓へ移動してきた。 「失礼。この方が話がし易いと思うてな——」  男は、カフヴェの入ったカップを卓の上に置いた。 「まだ、名前を申しあげておりませんでしたな」  男は、あらたまってシナンとハサンに向きなおり、 「わたしは、ザーティーと名のっておる者じゃ——」  そう言った。 「シナンです」  シナンは、自分の名を、ザーティーと名のった男に告げた。 「ハサンだ」  機嫌がいいとは思えない声で、ハサンは言った。 「おふたりとも、イェニチェリのお方ですかな」  男——ザーティーは言った。 「そうだ」  ハサンが答える。  イェニチェリは、所属する隊によって、それぞれ、身につけるものにその隊を表わす印章を付けている。  それをザーティーは見たらしい。 「あんたは?」  ハサンが訊いた。 「イスタンブールの、しがない露天商の親父さ」  ザーティーは言った。  このザーティーの店は、セリム一世のジャーミーの近くにあった。  そして、ザーティーは、次のような言葉を口にした。 「薔薇《ばら》色をした商品の酒は今、杯のうちにある。凝り固まった信心と偽善の織り物は常に元値を切って売られる」  それを聴いて、 「い、今、何と言ったのだ?」  ハサンは怪訝《けげん》そうな顔をして訊ねた。 「薔薇色をした商品の酒は今、杯のうちにある。凝り固まった信心と偽善の織り物は常に元値を切って売られる」  ザーティーは、また同じ言葉を口にした。 「それは……」  ハサンは、何か言おうとしているらしいのだが、それをどう言葉にしたらいいのか、自分でもわからないでいるらしい。  シナンは、ハサンの混乱を理解していた。  今、ザーティーという男が口にした言葉は、そのまま、一字一句をそのまま正確に発音しても、また、別の意味にもなってしまうからである。 「薔薇色をした商品の酒は今や価値が下がった。凝り固まった信心と偽善の織り物は常によく売れる」  ザーティーの言った言葉はそのままそういう意味の言葉でもあったからである。  言葉が、二重の意味を持ち、なおその言葉は、韻を踏んだ詩句になっていたのである。  まるで、言葉の魔術のようであった。 「どうですかな」  ザーティーは言った。 「あなたの言葉を借りれば、言葉で神を捕えることは、どこまで可能でしょうかな」 「——」 「石を積みあげて神を囲う——建築と言葉と、神を囲う檻《おり》としては、はてさて、いったいどちらが優れているのでしょうかなあ」  ザーティーは、シナンを見やりながら、にこやかに微笑していた。       9  新スルタンを戴《いただ》いたオスマンに対して、周囲の諸国は、 �時来たれり�  このように思ったことであろう。  先王セリムの統治していたオスマン帝国は、恐怖の対象であったが、新王スレイマンであれば、 �与《くみ》し易し�  このように考えていたに違いない。  オスマンに新しい王が立つ時、先王の息子たちの間で、凄まじい殺し合いが起こることは、諸国も承知をしていた。  この殺し合いに勝った者が新スルタンとなる。  長兄も、末弟も関係がない。  周囲の諸国にしてみれば、この殺し合いが長びくことがあれば、それを利用して、オスマンへ侵攻する機会をねらうことになる。  しかし、すでにスレイマンの兄弟の全ては、スレイマンただ独りを残し、この世の者ではない。  父セリム一世が、スレイマンを除く他の全ての兄弟を殺してしまっていたからである。そのことは、諸国も知っている。  セリムの死の後、すんなりとスレイマンが王位につくことになる。  だから、王位争いのどさくさに戦《いくさ》を仕掛けるということはできなかった。  しかし、そういう王であるからこそ、周囲の国々にしてみれば、逆に侵攻する機会がある。  スレイマンは自分の力で王になったのではない。父セリムが、スレイマンを王にしたのである。新王スレイマンに、どこまでスルタンとしての実力があるのか。  統治力がどこまであるのか。 �たいしたことはあるまい� �スレイマンと言えば、二十代半ばではないか�  オスマンをこの地上から消すことはできぬまでも、これを機会にその勢いを弱体化させてしまおうと、特にヨーロッパのキリスト教諸国は考えたことであろう。  しかし、新スルタンの最初の敵は、帝国の外部からではなく、内部から出現した。  すでに書いたが、帝国内部の最初の叛乱は、エジプトから起こったのである。  これは、スレイマンにとっては、大きな試金石となった。  もしも、この叛乱をうまく治めることができねば、外部からもオスマン帝国に対して兵を向けてくるところも出てこようし、内部のあちこちからも叛乱の烽火《のろし》があがることになる。  このエジプトの叛乱は、どのようにして起こったのか。  何年か前、セリム一世がエジプトを征服したおり、ジャンベルディ・アル・ガッザーリというひとりのエミールが、マムルーク朝のスルタンを裏切って、オスマン朝に味方をした。  これによって、オスマンはマムルーク朝に勝利したといっていい。  その報賞として、シリアの太守にガッザーリは任命されたのである。  このガッザーリが、マムルーク朝を裏切ったのと同様に、スレイマンが新スルタンとなった途端に、オスマンを裏切って叛乱を起こしたのであった。  ガッザーリは、次々に近辺の都市を制圧していった。  まず、ダマスカスの要塞を落とし、これを占領した。次に、ベイルート、トリポリ、そしてこの両都市間の沿岸の全てを占領した。  この叛乱に合わせて、あちこちの太守たちが同時に事を起こしていたら、あるいはこのガッザーリの叛乱は別の局面をむかえていたかもしれない。  当然ながら、ガッザーリもそれを積極的に煽《あお》ろうとした。  ガッザーリは、エジプトの太守ハユル・ベイに対して、自分に味方をして叛乱を起こすよう使者を送ったのである。 �我と共に起《た》て——�  しかし、ハユル・ベイは、この誘いにのらなかった。  だが、表向きはガッザーリの誘いにのったように見せかけ、 「承知をした。貴殿はまず、次にアレッポを占領されよ。さすれば貴殿の企ては全て容易に運ぶことになろう。しかる後に、貴殿に対して、我は軍隊を送るであろう」  このように返事をした。  こうして、ガッザーリがアレッポへ軍を送っている間に、ハユル・ベイは、事の次第を全てスレイマンに通報してしまったのである。  ガッザーリは、一万五千の騎兵と八千の火縄銃兵をもってアレッポを包囲した。しかし、アレッポは一カ月経っても落ちなかった。  この間に、スレイマンが派遣したフェルハド・パシャ麾下《きか》の軍が、ガッザーリ軍の背後から迫ったのである。  これを知って、ガッザーリはダマスカスへもどろうとした。  しかし、すでにフェルハドが、四万の騎兵と砲兵隊をダマスカスの城壁の下に布陣しており、もどってきたガッザーリを迎え撃ったのである。  ガッザーリは、自軍の四倍にあたるフェルハドの軍と闘い、これに敗れて追撃戦の最中に死亡した。  こうして、スレイマンの治世最初の叛乱は、鎮圧されたのである。  シリアの統治は、ガッザーリに代わって、イェニチェリの長官《アー》であるアヤスがパシャとなって行うこととなった。  この叛乱鎮圧に功のあったフェルハドは、東の要《かなめ》、中央アナトリアのアクサライに赴き、そこでサファヴィー朝の動きを監視することとなった。  そもそも、ガッザーリの叛乱の裏には、サファヴィー朝のシャー・イスマーイールがいたのである。  イスマーイールは、あらかじめ、ガッザーリの叛乱を知っており、むしろ、これを積極的に煽っていたのである。ガッザーリの叛乱がうまくゆきそうであれば、自らの軍を再び動かして、チャルディランの敗北の報復を、オスマンに対して仕掛けるつもりでいたのである。  イスマーイールの目論見は、ガッザーリの敗北によってはずれてしまったのである。  しかし、ここがイスマーイールの喰えぬところなのだが、彼は、叛乱が不首尾に終ったという知らせを受けた後、スレイマンに対して叛乱鎮圧の成功を祝う書簡まで送っているのである。 「見よ、イブラヒム」  新スルタン・スレイマンは、イブラヒムを呼んで、その眼の前で、シャー・イスマーイールからの書簡を、誇らしげに広げて見せた。  当然、スレイマンは、イスマーイールがこの叛乱の裏にいたことを知っている。  そのイスマーイールに、このような書簡をださせたのだ。これを書く時、イスマーイールの心情は穏やかではなかったろう。  新スルタンが誇らしげな表情になるのも無理はない。 「これが、わたしの、まず最初の勲章だ」  この時、スレイマンの言葉は、自信にあふれ、顔には赤みが差している。 「なさねばならぬことは、まだ、わたしの前に無数にある」 「はい」  イブラヒムも、この若い王を、熱い眼差しで見つめた。 「しかし、わたしは、その全てをなしとげるだろう」 「わたくしもそう思います」  イブラヒムのその言葉は、世辞ではない。  心からそう思っていることを口にしただけである。  イブラヒムの顔も、興奮のため熱っぽい。  イブラヒムは、この若いスルタンの裡《うち》に秘められていた才に、早くから気がついていた人物である。  その才が、今、イブラヒムの眼の前で大きく開花しようとしているのである。 「次は、どこだ、イブラヒム」  若いスルタンは、すでにわかっていることを、美麗の青年に訊《たず》ねた。 「西です」  イブラヒムは答えていた。 [#改ページ]  第6章  ロドス島戦記 [#ここから5字下げ] 心は肉体よりも 欲深い 肉体は飽くことが あっても 心はいつまでも 欲し続ける あれもそれも これもどれも そんなに地上のものを 欲しがったあげくに おまえは 神の愛まで 欲しがるというのか ——バークー [#ここで字下げ終わり]       1  ここで、シナンと壮麗王スレイマン大帝の生きた時代——一五〇〇年代を、世界的な視野で俯瞰《ふかん》しておきたい。  まったく、一五〇〇年代——つまり十六世紀というのは、なんという奇跡のような時代であったことか。  それは、人類史上、世界が最も物語に満ちていた時代であった。  活劇。  冒険。  発見。  知識。  人類が、ようやく、自分たちの住んでいる世界が球形であることを認識しつつあった頃である。この知識にたどりついたのは、地球の生命史において、人類のみである。  これにもとづいて、コロンブスや、ヴァスコ・ダ・ガマが、ヨーロッパから世界に向けて帆《ほ》をあげたのである。  コロンブスのアメリカ大陸発見が、一四九二年。  スレイマンの誕生が、このわずか二年後であった。  十四世紀末から、十六世紀にかけて、イタリアから起こったルネッサンスの運動が、世界中に広まった。当然ながら、オスマントルコもその影響を受けずにはいられなかった。  すでにこの物語の冒頭にも書いたが、シナンの同時代人に、あのレオナルド・ダ・ヴィンチも、ミケランジェロも、コペルニクスも、マルティン・ルターなどもいたのである。  おそらく、シナンも、スレイマンも、この大地が球形をしていること、天ではなくこの大地が動いていること——地動説などを知っていたはずである。信じていたかどうかはおくとしても、そういう世界認識があるということくらいは、少なくとも知識としては知っていたことであろう。  この頃、世界は四人の王によって支配されていたと言っていい。世界は、その四人の王たちの持つ権力の力学で動いていた。  その四人とは——  イギリスのヘンリー八世。  フランスのフランソワ一世。  スペイン王にして神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルク家のカール五世。  そして、オスマントルコの壮麗王スレイマン大帝であった。  ヘンリー八世が生まれたのが、一四九一年。  フランソワ一世が生まれたのが、スレイマンと同じく一四九四年。  カール五世が生まれたのが、一五〇〇年。  わずか十年の間に、時を同じくしてこの四人の王が生まれているのである。  一五〇九年に、ヘンリー八世が十九歳で即位。  一五一五年に、フランソワ一世が二十二歳で即位。  一五一六年に、カール五世が十七歳でスペイン王に即位。続いて、一五一九年に同じくカール五世は二十歳で神聖ローマ帝国皇帝に選出されている。  そして、スレイマン大帝の即位が、すでに書いたように一五二〇年であった。  この一五二〇年の時点で——  ヘンリー八世、二十九歳。  スレイマン大帝、二十六歳。  フランソワ一世、二十六歳。  カール五世、二十歳。  そして、このスレイマン大帝の即位に遅れること十三年、一五三三年にロシアにイワン雷帝が即位して、この興味つきない世界史の中に参戦してくるのである。  彼等が世界史を動かしていた一五〇〇年代の中頃から後半と言えば、日本は戦国時代のまっただ中であった。  関ヶ原の戦いが、一六〇〇年。  ヨーロッパの大国が、そろって世界へ向かって覇を唱えようとしていた時期であった。当然、日本もその影響下にあった。信長などは、もろにルネッサンスの影響を受けた人物ではないか。  マルティン・ルターの破門が、一五二一年。  スペイン人コルテスが、アステカを征服したのも、フランシスコ・ピサロが、インカ帝国を征服したのもこの時期である。コルテスやピサロが、アステカやインカから持ち帰った文化的価値の極めて高い夥《おびただ》しい量の黄金細工は、そのほとんどが溶かされ、神聖ローマ帝国皇帝カール五世の野望のための資金となっていったのである。  一五一九年には、ポルトガル人フェルディナンド・マゼランが、カール五世の後ろだてのもとに、スペインのセビーリャから旅立っている。  この時期は、キリスト教徒が世界中へ進出し、各地の文化や宗教を、根こそぎ滅ぼしていった時期でもある。  地球は丸い。  この大地は動いている。  そして、ルネッサンス。  人類は、神からその関心を人に移そうとしており、その知識欲とエネルギーは、地球を覆い尽くさんばかりに溢れていた。  そういう知識とエネルギーの洪水の中で、神もまた昔と同じではいられなかった。神もまた、この新しい世界観、宇宙の中で、変貌せねばならなかった。  神についての哲学的な問答を、スレイマン大帝は、ことのほか好んでいたという。  大地が球形をしていること。  神が創《つく》りたもうたこの大地が有限であることを知ったスレイマンは、どのような会話を、神学者たちとしたことであろうか。  さらに書いておくなら、東の帝国中国は明《みん》の時代であり、スレイマンのすぐ背後には、イランのシャー・イスマーイールの存在も控えていたのである。  四人の王の力関係は、最終的には最も強大なるふたりの王——スレイマン大帝とカール五世との対立へと、その図式を移してゆく。  この力学の中で、なんと、キリスト教国であるフランスのフランソワ一世と、イスラム教国であるオスマントルコのスレイマン大帝とがやがて手を結び、フランソワ一世にとっては同じキリスト教徒のカール五世に挑むというスキャンダラスな歴史的事件も発生するのである。  ことの始まりは、神聖ローマ帝国の皇冠をめぐっての、フランソワ一世とカール五世との争いにある。  一五一九年、マクシミリアンの死後、神聖ローマ帝国の次の皇帝をめぐって、選挙が行なわれた。  これに立候補していたのが、フランス王のフランソワ一世とスペイン王のカール五世であった。  皇帝の座を手にしようと、ふたりは激しく争った。カール五世は票を集めるため財産の多くをこれにつぎ込み、結局、フッガー家の為替手形によって、この争いに勝利したのである。  七人いた選帝侯の票を、彼らの言い値で買いとったのである。これが可能となったのも、フッガー家が一億五〇〇〇万金フランという金額を、カール五世に貸したからであった。皇帝となるための資金として、その金額の全ては使い果たされた。  このおり、イギリスのヘンリー八世は、フランソワ一世にもカール五世にもつかず、このふたりを、長い期間にわたって巧妙に翻弄《ほんろう》し続けた。  ともあれ、カール五世は神聖ローマ帝国の新皇帝となった。  この新皇帝のやろうとしたのが、十字軍計画であった。  対オスマントルコのため、キリスト教国で十字軍を結成して、トルコ人たちをアジアへ押しもどそうと図ったのである。  金はいくらでも必要であった。  中南米の巨大文明、アステカやインカが滅ぼされ、キリスト教徒の手によって骨の髄《ずい》まで略奪されていったことの背景には、ヨーロッパの、あるいはカール五世のそのような事情があったのである。  このことを思う時、歴史の無慈悲さに心が痛くなる。  それ等の国々から奪った黄金は、泡のごとくにこの世界史のエネルギーに呑み込まれ、歴史に消費されてしまったのだった。  場合によったら、日本も、そういった中南米の文明と同様の運命をたどっていたかもしれないのである。  これを、スレイマンは知っていた。常に世界の情報を集めていたスレイマンは、新皇帝カール五世が、オスマンにとってどれだけの脅威となるかよくわかっていたのである。  自分がスルタンであれば、彼らの思い通りにはさせぬのに——そんなことを、スレイマンは考えたろうか。  スレイマンが新スルタンとなったのはこういう時期であり、エジプトの叛乱などに余計な時間を使ってはいられなかったのである。  エジプトの叛乱を押さえ、イランのシャー・イスマーイールをおとなしくさせて、いよいよスレイマンが向かうべきは、西——カール五世新皇帝の支配するヨーロッパの神聖ローマ帝国であったのである。  イブラヒムが、スルタン・スレイマンに、次はどこだと問われ、 「西です」  そう答えていたのは、この事情をよく理解していたからである。       2  西——  それは、とりあえず、ベルグラード(ベオグラード)のことであった。  とりあえず、オスマントルコにとって、東ヨーロッパの主要な敵は、まず、ハンガリーであった。  ハンガリーこそが、オスマントルコが西へ向かう時に、まず突き当らねばならない壁であった。  このハンガリーは、ビザンチン帝国を滅ぼして以来の、オスマン・トルコの敵であった。  かつて、ヤノシュ・フンヤンディと、その息子マティアス・コルヴィンの統治下にあったこの国は、オスマントルコという異教徒国家に対して、ヨーロッパの——キリスト教国の壁の役目を充分に果たしてきた。  しかし、マティアス・コルヴィンは、スレイマン即位時にはすでにこの世になく、ハンガリーは弱体化していた。コルヴィンの死後、王となったのは、凡庸《ぼんよう》なるラディスラス・ヤゲロンであった。  そして、スレイマンがこの西への遠征を企てたおり、その後継者となっていたのはラヨシュ二世という、無能な王であったのである。  ラヨシュ二世は、スレイマンのオスマントルコが、ペルシアとエジプトの叛乱で忙殺されているおり、自分の王国を建てなおし、戦いの準備をすることがほとんどできなかった。  一五〇三年に、かたちばかりの和平条約が締結されてはいたが、スルタン配下のパシャたちと、ハンガリーとの戦闘は、ほとんどこの間も止むことなく続いていたのである。  そのかたちばかりの和平が、破られる時がきた。  和平の更新のため、ハンガリーに出かけていたオスマントルコの使節が、ハンガリー人の手によって暗殺されてしまったのである。  和平条約といっても、立場の強いのはオスマンの側であった。オスマンは、和平の条件として、ハンガリーに対して貢納を要求しており、ハンガリーはこれを呑んでいたのである。その貢納を受け取りに出向いていたスルタンの使節が殺されてしまったのだ。  スレイマンは、これに激怒した。  いや、激怒してみせた。 「おい、イブラヒム」  スレイマンは言った。 「ついにハンガリー人は、自らこのおれに口実を与えたぞ」  スレイマンは、言ったその唇に笑みを溜めている。  それが、イブラヒムの目の前で、みるみるうちに満面の笑みとなった。 「ベルグラードを落とす」  ダニューブ地方への関門ベルグラードを落とせば、ダニューブ・サヴァ・ディサの河谷に沿って、スレイマンの軍は、いっきにウィーンとブダペストに達することができる。  かつて、オスマンの王メフメド二世は、ベルグラードを前にして挫折している。  その敗北の報復をする時がきたのである。  戦《いくさ》の準備は、スレイマンがスルタンとなった一五二〇年から続けられていた。  ハンガリー人は、ヨーロッパに救いを求めたが、どの諸国もこれに応じなかった。  もしも、オスマンがハンガリーに侵攻すれば、いずれは自分の国が危うくなることを知りつつも、まず、自分の国が可愛かったのである。  ヴェネツィアは、オスマンとの間に有利な通商協定を結ぶべく交渉中であり、ポーランドの王も、神聖ローマ帝国の皇帝カール五世も、まだオスマンとぶつかるには準備が足りなかったのである。  ハンガリーの使節が、ドイツの国会に救援を求めたその同じ月に、マルティン・ルターも、ローマ教会との関係を絶っていた。  ドイツは、トルコ人に関わってはいられなかった。 「スレイマンと休戦条約を結ぶがよい」  皇帝カール五世は、ハンガリー王ラヨシュに、泡のごとき言葉を吐いた。  相手が、いきり立って、戦をしにやってこようというのに、 「まあ、仲よくやりなさい」  何の足しにもならぬことを、皇帝は言ったことになる。  自分の言葉の空しさを、一番よく知っていたのは、他ならぬカール五世本人であったろう。  この時期、カール五世はカール五世で、自国のことで忙しかった。  ひとつにはマルティン・ルターの件があった。カール五世はこの頑固な男にも手をやいていたのである。  さらには、フランスのフランソワ一世も気にかかっている。  他人の家の火事を消しに行っている時ではなかった。自分の家に火が点いているのである。  当然ながら、スレイマンはこの休戦の申し出を拒否した。  一五二一年二月六日。  スレイマン大帝は、大軍を率いて、その最初の遠征へと、イスタンブールを出発したのであった。       3  先導するのは、皇帝近衛兵団の六〇〇〇騎である。  飾りのついた馬具、鞍《くら》。  きらびやかな武具。  身に纏《まと》っているのは、華やかな色の着いた絹やビロードである。  肩に弓。  右手には短い剣。  左手には矢と楯を携《たずさ》えている。  靴に下げているのは槌矛《つちほこ》である。  胸には宝石で飾られた三日月刀を帯びている。  青色をした薄い木綿の被りものの上では、黒い羽根飾りが風に揺れている。  兜《かぶと》も鎧《よろい》も身につけてはいない。  戦場では、この方が身軽で動き易い。  これに対して、重い甲冑《かっちゅう》を身につけたヨーロッパ側の騎士たちは、戦いになると自由な動きを欠く。動けば、甲胄の重さのため、すぐに疲労し、さらに書いておくならば、日中はたまらなく暑い。自分の身体の周囲を鉄板で包み、陽差しの中に放り出されたらどうなるかを想像してみればよくわかるだろう。  戦場では、身軽なオスマンの近衛騎士の方がずっと有利なのである。  その後ろに続くのが、天下のイェニチェリ軍団である。  彼等は皆同じ色の制服を着、先端が後方に垂れているフェルトの帽子を被っていた。  この中には、シナンもハサンもいる。  このイェニチェリ軍団は、近衛騎士団よりも圧倒的に数が多い。  その後に続くのが、スレイマン大帝の一団である。  その一団の先頭が、あでやかな姿の宮廷の高官たちである。そのすぐ後ろに近衛兵と弓を手にした歩兵が続き、その後ろが飾りたてた馬具で身を包んだ馬の手綱《たづな》を引く馬丁たちである。  この後に、スルタン・スレイマンその人がいる。  重そうな、刺繍《ししゅう》の入った絹の衣服を身に纏っているスレイマンは、丈の高いターバンを被っている。小鳥の卵ほどもあるダイヤモンド、そしてそれに倍する大きさのエメラルドやルビーの飾りのついたピンをターバンに付けている。  風を受けながら、このスルタンは、悠々として雲のごとくに馬上でその身体を揺らしていた。  三人の小姓が、水差し、外套《がいとう》、手箱を捧げ持ってこれに従い、最後に、スルタンの身近に仕える宦官と親衛隊が続いた。この数が二〇〇人。  もしもこれを、気の弱いハンガリーのラヨシュ王が見たら、気を失ったことであろう。  このオスマントルコの軍団は、厳格な鉄の規律によって、律せられていた。  この行進の最中に、道中の民の私有財産に損害を与えれば、これは必ず補償された。ものを買えば、その代金は必ず支払われた。  畑を荒らした者は、即座に処刑された。  オスマンのこの厳しい法には、キリスト教徒も驚愕《きょうがく》した。  そして、ベルグラードは落ちたのである。  スレイマン新スルタンの最初の遠征は、みごとな勝利で終ったのである。  次がロドス島であった。       4  スレイマン最初の遠征の勝利は、ヨーロッパ諸国を震撼《しんかん》させた。  キリスト教国の王たちは、この新スルタン——若きオスマンの王が、当初彼らが願望もまじえて想像したような、好色で無能な王でなかったことを思い知らされたのである。  まず、スレイマンは、ヨーロッパへの陸の扉を押し開いた。  次が、海路であった。  後のことであるが、イスタンブールに駐在していたフェルディナンド一世の大使ギスラン・ドゥ・ビュスベクは、このスレイマン率いるオスマントルコ軍を評して、 �雨で増水した大河のごとく�  このように表現した。  その大河は、次に海に向かったのである。  海——それは、ロドス島のことであった。  ロドス島は、アナトリア半島南西端沖——エーゲ海南東部に浮かぶ島である。  南北七十八キロメートル、東西三十五キロメートルの、サツマイモ形の島だ。  青銅器時代、すでにエーゲ海域とオリエント世界を結ぶ、海上交通の要衝《ようしょう》であった。  クレタ文明、ミュケナイ文明の拠点が確認されており、前十世紀には、すでにギリシア人が定住していた。  アレクサンダー大王が東征したおり、ペルシア側に立っていたため、前三三二年、マケドニア軍の進駐を受けている。  十三世紀の末、サン・ジャン・ダークルを去った僧兵たちがこの島に住みつき、以後、ロドス島は、聖ヨハネ騎士団の島となっていった。  彼らは、この島を軍事基地として、小アジアとシリアの沿岸を荒しまわり、海賊行為を働いて、常にイスタンブールとアレクサンドリア間の航路を脅《おびや》かしていたのである。  キリスト教国の交易船や海賊は、彼らから保護や援助を受けていたが、オスマントルコは、ロドス島の聖ヨハネ騎士団によって、常に被害にあってきたのである。  トルコの交易船は、臨検され、積荷は没収された。乗組員は捕虜となった。海路、メッカへ赴くムスリムの巡礼者は、捕えられ、奴隷にされるか、あるいは殺された。  カイロにおいて、ジャン・ベルディ・アル・ガッザーリが反乱を起こした時も、ロドス島はこれに援助をしたのである。  このロドス島の聖ヨハネ騎士団をなんとかしない限り、オスマントルコの海の脅威は失くならない。  スレイマンが、次の遠征先にロドス島を選んだのは、自然な流れであったと考えていい。  オスマンの征服王メフメドも、一四八〇年に、この島を攻めようとして挫折している。  それからおよそ四〇年後に、スレイマンはこのロドス島を攻めることを決意したのであった。 「イブラヒム——」  ハス・オダと呼ばれるスルタンの私室で、スレイマンは、イブラヒムに言った。 「おまえの考えはどうだ?」  そこにいるのは、スルタン・スレイマンとイブラヒムだけである。  トプカプ宮殿の内廷《エンデルン》——その中に、スレイマンの私室のひとつがある。  スレイマンは、そこへイブラヒムを呼んでこの美貌の青年と様々なことを相談するのが常であった。  スレイマンが着ているのは、絹で織られた赤いカフタンである。  そのカフタンには、金糸銀糸で、チンタマニ紋様が刺繍《ししゅう》してあった。 「心配しなければならない相手は、フランスでしょう」  イブラヒムは、迷うことなく答えていた。  ロドス島を攻めるにあたって、スレイマンが心配したのは、他のキリスト教国の出方であった。  フランス、ベルギー、イギリス、スペイン、ドイツ——これらの国が、いったいどう出るか。  ロドス島に軍を進めている間に、イスタンブールを攻められるのも困るし、直接ロドス島の聖ヨハネ騎士団に味方をされても困る。  敵はロドス島のみではなかったのである。  フランスの王フランソワは、すでに一五一八年——スレイマンがスルタンになるよりも二年ほど前に、オスマントルコに脅威を感じて、ロドス島にプレジャン・ドゥ・ビドゥーとシャノワを派遣している。  その翌年、シャノワ指揮下の小艦隊を東部地中海に送ったが、シャノワはベイルート攻撃中に戦死している。  そして、一五二一年六月、フィリップ・ヴィリエ・ドゥ・リラダンが、ロドス島騎士団の総長に選出されたのである。  フランソワは、このリラダンに援助を約束したのだが、すぐにフランスはそれどころではない状況に突入してしまうのである。  スペイン王カール五世との間に、戦争が勃発《ぼっぱつ》してしまうのである。  ロドス島へゆくはずであった艦隊は、オスマンとの戦いのためではなく、スペイン人との闘いのために、フランスを出ることになってしまったのだ。  オスマンにとって、フランソワの次に脅威であったカール五世も、フランスとの戦いのために時間をとられており、マルティン・ルターの反乱にも手を焼いていた時期であり、実はオスマンどころではなかったのである。  オスマンにとって脅威であったヨーロッパのふたりの王がいがみ合ってくれたのが、スレイマンには幸いした。  他に、このロドス島遠征にちょっかいを出してきそうなのは、ヴェネツィアであった。  ヴェネツィアが有している艦隊は、もし、彼らがロドス島側につくのなら、充分に脅威となり得た。  これを恐れて、スレイマンは、ヴェネツィアと三〇カ条にわたる条約を結んだ。ヴェネツィアにとって有利な内容のものであったが、かわりにロドス遠征のおりヴェネツィアがかかわらないという約束を手に入れたわけだから、スレイマンにとってはありがたい条約であった。  ヴェネツィアは、自国のキプロスがオスマンの脅威にさらされぬことがわかると、あっさりとこの件から手をひいてしまったのである。自国の地中海交易が無事であれば、あえてオスマンに敵対する必要はなかったからだ。  こうして、ロドス島の聖ヨハネ騎士団は、ヨーロッパから見捨てられてしまったのであった。  一五二二年六月一日——  イスラム法にのっとって、スレイマンは、ロドス島のヴィリエ・ドゥ・リラダンに対して、書簡を送り降伏を要求した。  リラダンは当然のごとくにこれを呑まなかった。  こうして、スルタン・スレイマンは、一〇万の軍勢と共に、陸路ウスキュダルを発《た》ったのである。  海路を行ったのは、遠征軍の総司令官《セル・アスケル》ムスタファ・パシャである。  七〇〇隻の艦隊を率いた。  この軍に、さらにルメリとアナトリアの軍が、キュタヒヤで合流した。  この異様な数の軍団が、ロドス島に向きあうマルマリスに到着したのは七月二十八日であった。  年代記によれば、一〇〇門を超える包囲陣の大砲が、この時礼砲を打ちあげたという。  そのうちの十二門は、巨砲である。さらにその十二門のうちの二門は、十二パルム(掌大)の石の弾を発射した。  砲撃が開始されたのは、八月一日である。       5  シナンは、イェニチェリとして、この戦いの中にいた。  この時のシナンの仕事は、坑道を掘り、城壁の向こう側まで地下の道を作ることであった。  シナンのいる作業班は、このおり、幾つもの坑道を、短い期間で掘った。  ひと口に坑道を掘るといっても、楽な作業ではない。  兵を送り込むためのものであるから、それなりの広さが必要であり、かといって広すぎたら、今度は掘るのに時間がかかってしまう。  掘るだけではだめであり、掘った土を外へ運び出す作業も同時に行わねばならないのである。  掘ったら掘ったで、崩れぬよう天井を補強することもする。  さらに言うならば、岩盤があれば、それを砕くこともする。  九月二十三日、夜——  シナンは、泥のようになった身体で、地面の上に仰向けになっていた。  身体が火照《ほて》って、眠ることができないのである。  ようやく、坑道を掘るという作業が全て終ったのである。  しばらく前に、伝令官がやってきて、城壁を囲む兵たちに、次々にスルタンの命令を伝えていった。 「明日、総攻撃」  伝令官はそう告げて、 「石と土はパーディシャーにくれてやれ。血と財物は勝利者のものぞ!」  そう叫んだ。  兵士たちの間から、歓声があがった。  生命を賭けた戦《いくさ》を、イェニチェリたちは、ただ仕事としてのみやっているのではない。生命を賭けるかわりに、充分なる報賞を彼らはスルタンに要求する。  その報賞は、スルタン自らが彼らに与える分もあるが、ひとつの都市を占拠したおりに、その都市から、兵たちに自由に略奪させるということも、その報賞の中には含まれている。  民間人——戦いに関係のない自国の農民の畑を荒らすことは厳しく戒《いまし》めたが、敵の都市からの略奪は、勝利後、およそ一日か半日、自由にイェニチェリたちに行わせることを、オスマンの歴代のスルタンたちは旨としてきた。  戦における、兵士たちの数少ない楽しみのうちのひとつに、その略奪行為があったことは、間違いがない。  戦が終った解放感。  勝利の喜び。  敵への恨み。  金や、宝石への欲。  女。  あらゆるものが、そこで爆発するのである。  明日——  勝利したら、| 恣 《ほしいまま》に取れ。  略奪せよ。  伝令官は、そう伝えていったのである。  これで、兵たちの士気があがったのは言うまでもない。  ぽつり、ぽつりと、大地のあちこちに篝《かが》り火《び》が燃えている。  その炎の色が、闇に映っている。  シナンは、眼を閉じた。  工事の総指揮者でこそないが、ひとつの班の現場をまかされるくらいの立場にはなっている。  しかし、そうは言っても、実情は、現場に入ってしまえば工夫と同じことをする。  土や石を運び、捨てたりという現場の作業もこなさねばならない。  言うなれば技術職であるから、坑道を通って攻め込む時に、先頭に立たねばならないということはない。  だが、いったん坑道が通れば、シナンも剣を握ることになる。  眠っておかねばならない。  攻撃は、早朝である。  ロドス島の抵抗は、これまで熾烈《しれつ》を極めた。  八月一日から、二カ月近い時間が経つというのに、抵抗がやまないのである。  これは、スルタンの誤算であった。  これほどロドス島が持ちこたえるとは、スレイマンも思ってはいなかったのである。 「おい——」  仰向けになったシナンの上から、声が降ってきた。  眼を開けると、綺麗な星空を背景にして、人影がシナンを見おろしていた。  ハサンであった。 「眠っていたのか」  ハサンは言った。 「いいや」  シナンはそう言って、上半身を起こした。 「よく生きていたな」  ハサンはそう言いながら、シナンの横に腰を下ろした。 「穴を掘るのが仕事だからな」  シナンは言った。 「何人死んだか、知っているか?」  ハサンが訊ねた。 「知らん」  シナンが答えると、 「二〇〇〇から三〇〇〇——」  ぼそりとハサンが言った。 「凄い数だ」 「ああ」  ハサンは、うなずいた。  この時、リラダンが率いている兵士の数は、およそ、七〇〇〇人。このうち騎士の数が六五〇人。ジェノヴァとヴェネツィアの水夫が三〇〇人。残りは、戦闘経験のない志願した島民たちである。  これが、兵士七〇〇〇人の内情であった。  弾薬の貯えも充分ではない。  スレイマンも、戦闘前には、そのくらいの情報は集めている。  攻むるに難しく、守るに堅い城塞ではあるが、まさかここまでの抵抗にあうとはスレイマンも思ってはいなかったのである。  圧倒的な兵力を、リラダンの前に見せて、一、二度攻撃をかければ降伏するであろうとスレイマンは思っていた。二度の攻撃が、三度、四度になることはあっても、まさかこの闘いが、そこまで長びくことはあるまい——  しかし、ロドス島は、この攻撃に耐えた。  それは、ひとえに、ロドス島側には希望があったからである。  彼らは、まさか、ヨーロッパが、自分たちを見捨てるとは、本気で考えてはいなかったのである。  闘っているうちに、必ず、どこかの国が救援に駆けつけてくれると思っていた。  少なくともフランスは——  リラダンはそう思っていた。  フランソワの、カール五世に対する遺恨の深さを、リラダンは浅く考えていたことになる。  フランソワは、救援の艦隊をロドス島に向けず、スペインに向けてしまったのである。  それでも、リラダンは——この信仰|篤《あつ》き老人は、痛々しいほど実直に救援を待った。  待ち続けた。  それが、ロドス島唯一の希望である以上、島民もそこにすがるしかなかったのである。 「スルタンは、苛《いら》だっている」  ハサンは、シナンを見やり、 「まさか、ここまで、ロドスが抵抗するとは思ってもみなかったんだろう」  そう言った。  砲兵隊司令ギョー・ドゥ・マルサラックを失ったものの、ロドスはまだ士気を落としていない。 「妙な気分だ」  ふいに、声をひそめて、ハサンはつぶやいた。 「妙?」 「もともと、おれたちイェニチェリは、キリスト教徒だった」 「——」 「そのもとキリスト教徒が、キリスト教徒の島を攻めて、お互いに殺し合っている」 「しかし、それを言うなら、フランスとスペインの戦も、キリスト教徒どうしの争いではないか」  シナンは言った。 「その通りだ」 「同じ宗教でも、異教徒でも、人は争うようにできているのだろう」 「——」 「これは、神の教えに原因があるのではないな」  今、その場で、そのことに気づいたようにシナンはつぶやいた。 「では、何に原因があるのだ」 「人だ……」  ぽつりと、シナンは空を見あげながら言った。 「人?」 「戦の原因は、神ではなく、人の方にあるのだろうな」 「妙なことを言う男だな、おまえは——」  ハサンは、立ちあがり、シナンの肩を軽く叩き、そこから去っていった。       6  払暁《ふつぎょう》、攻撃が始まった。  イェニチェリたちも、一斉に、剣をとった。  全ての兵士が全ての稜堡《りょうほう》を攻撃した。  この日に、決着をつける。  そういう攻撃であった。  しかし、一〇万人を超える兵士の攻撃を、ロドス島の兵士たちは凌《しの》いでしまった。  史書は記す。  僧も、老人も、女も、少年もこの戦いに加わった。  女たちは、城壁の上から、オスマンの兵の頭上に落とすための石を運び、自らも剣をとった。  少年や少女は、戦闘員に、パンや葡萄酒《ぶどうしゅ》を届けてまわった。  この戦いで、夫をオスマン兵に殺されたギリシア人の女は、この日の朝、死を覚悟した。  死んだ夫の、まだ濡れた血の付いた外套《がいとう》を身につけ、ふたりの子供に接吻《せっぷん》し、その後、自らの剣でそのふたりの心臓を貫いて殺した。 「トルコ人たちに、そなたたちが凌辱《りょうじょく》されぬように」  そう言って、彼女はふたりの死体を炎の中に投じて燃やした。 「たとえ、屍体《したい》といえども、トルコ人たちの手には触れさせぬ」  凄まじい。  これだけの覚悟で、島民は、オスマンに抵抗したのである。  この総攻撃は、数日続いたが、ロドスは落ちなかった。  トルコ側の死者、四万五〇〇〇人。  すでに、ロドス側の兵の総数を、トルコ側の死者の数が上まわっている。  スレイマンは、総攻撃が失敗に終ったことを認めねばならなかった。  この責任をとらされて、ルメリのアヤス・パシャは罷免《ひめん》された。  この翌日に、気をとりなおしたスレイマンによって、アヤス・パシャはもとの地位にもどされたが、スレイマンの妹の夫である、総司令官《セル・アスケル》ムスタファ・パシャは、失敗の責任をとらされて、エジプト総督に降格された。  十月十二日、イギリス稜堡を攻撃。  十一月三十日、スペインとイタリア稜堡を攻撃。  この攻撃で、さらに、三〇〇〇人の死者がトルコ側の死者の数に加わった。  ここに至って、ついに、アフメド・パシャ第三宰相は、攻城機械と大砲以外では攻撃しないことをスレイマンに提案した。  これによって、トルコ側に死者が出なくなった。  十日後——  スレイマンは、リラダンに使者を送った。 �もし、市が三日以内に開け渡されるのなら、守備隊は自由に生きてここを出ることができるであろう�  この時、すでに、ロドスの騎士団参事会は降伏を決めていたが、三日以内というのは、 「短すぎる」  これがロドス側の返事であった。  すぐに、攻撃は再開された。  新たに坑道が掘られ、大砲が城壁に撃ち込まれた。  そして、ようやく、この長い戦いが終る時がやってきたのである。       7 「リラダンから、使いが来ています」  それを、スレイマンに知らせたのは、イブラヒムであった。  スレイマンの居住する、豪奢《ごうしゃ》な天幕の中である。 「ほう、降伏を決めたか?」 「いいえ、どうもそうではないようです」 「なに!?」 「スルタン・バヤジット様の書簡を持ってきています」  バヤジットは、スレイマンの祖父である。すでにこの世にない。  スレイマンは、やってきた二名のキリスト教徒に会い、その書簡に眼を通した。  書簡は、本物であった。  その昔、ロドス島の騎士団総長にあてて、バヤジットが書いた書簡であった。  内容は、騎士団がロドス島を領有することを保証する、というものであった。 「リラダンも、下らぬ時間稼ぎをする——」  スレイマンは、その書簡を、ふたりの眼の前で、破り捨てた。  スレイマンの言う通り、もう、ヨーロッパからの支援はあり得ない。 「このふたりの両耳と鼻を削《そ》ぎ落とせ」  その命令は実行された。  両耳、鼻を削ぎ落とされたふたりのキリスト教徒は、破かれた書簡を持って仲間の許に帰還した。  リラダンは、自分のやるべき全てのことを、これでやり終えたことを知った。  一人の騎士と、ふたりの島民がスレイマンの許にやってきた。  この時、スレイマンが彼等に約束した条件は、公平に考えても、かなり寛大なものであったと言えよう。  それは、次のようなものであった。  騎士団は、十二日以内に島から退去する。  その時、騎士団から二十五人、島民から二十五人——合わせて五十人の人質を島に残してゆく。  トルコ軍は、一マイル後退する。  ロドス島に残った島民——キリスト教徒たちは、税とデヴシルメを五年間免除される。  その約束は、誠実に守られたが、市内に入ったイェニチェリたちがやった次のような行為までをも、規制するものではなかった。  イェニチェリたちは、聖ヨハネ大聖堂へ入り、そこで、壁に描かれた多くのフレスコ画を削り落とした。歴代の総長たちの墓を暴き、死者の灰を撒き散らした。立っている十字架を押し倒し、土と泥の上で、その十字架を引きずりまわした。祭壇をひっくり返し、それを、足で踏みつけた。  それは、降誕祭の日の朝に行なわれたものであり、その行為に加わったイェニチェリたちは、全て、もとキリスト教徒であった。  シナンは、しかし、この暴虐に加わらなかった。  仲間のイェニチェリたちが、大聖堂のフレスコ画を剣で削り落としている中で、大聖堂の柱や壁を手で触りながら、それを眺めてまわっていた。  柱や壁には、幾つかの砲弾が当り、ある場所は壊れ、ある場所は思いのほか無事に残っていたりする。  そういうカ所を丹念に見て回りながら、なるほどここはこういう具合に石を積みあげているのか、心の中でそんなことをつぶやいている。 �ここは、存外に丈夫なものだな� �こういう造りはもろい�  柱の数や、その上に乗っている石の天蓋《てんがい》の重さなどを目で量《はか》っている。  周囲で行なわれている破壊を眺めながら、なんとももったいないことをするものだとも思っている。  しかし、戦いに敗れるということは、こういうものであろうとも思っている。  戦いの渦中にその身を置いていながら、さらには勝者としてその現場に立ちながら、当事者ではないような眼で、シナンはそういう光景を眺めている。  しかし、こうして大聖堂を眺めるにつけても、シナンの心の裡《うち》に湧いてくるのは、 「聖《アヤ》ソフィアの方が上だな」  という思いである。  この、ロドス島の大聖堂程度のものであれば、何年か経験を積めば、 「この自分にも、建てることができるだろう」  そういう思いがある。  しかし、あの聖《アヤ》ソフィアだけは、何年の時間と何人の労働力が与えられれば建てることができるのか、その見当がつかない。  まったく、あれを造った者は天才だな——と、シナンは考えている。  略奪や、強姦にも、シナンは興味がない。  シナンの欲は、ある意味ではもっと深かった。  シナンの欲は、いくら金銀の皿や器を奪おうが、満たされるものではなかったのである。  シナンが相手にしていたのは、神であった。       8  翌日——  早朝、フィリップ・ヴィリエ・ドゥ・リラダンは、スレイマンの陣までやってきた。  この、敗北した老人を、スレイマンは長時間、外で待たせた。  雪と雨——みぞれの中で、凍《こご》えながらリラダンは待った。  宰相や高官たちが、入れ代りにスレイマンの許へやってきては、勝利を寿《ことほ》ぐ言葉をのべている間、哀れな老人は、待つという最後の自分の仕事を外で続けていたのである。  ようやく、スレイマンの天幕に招じ入れられた時、リラダンの唇は紫色に変じ、支えなしには歩けないほどであった。  火が焚《た》かれ、天幕の中は春のごとくに暖かかった。  ふたりは、対峙し、長い時間、沈黙したまま見つめ合った。  最初に、口を開いたのは、スレイマンであった。 「これも、そなたの運命である」  静かにスレイマンは言った。 「はい」  老人は、短く答えて、頭を下げた。 「そなたは、そなたの望む時に、自由に島を出ることができる」  スレイマンが言った時、老人は、低く嗚咽《おえつ》した。  老リラダンは、四つの黄金の器をスレイマンに献上し、一五二三年一月一日の深夜、生き残った二〇〇人に満たない騎士と、そして一六〇〇人の兵と共に船に乗り、島を出ていった。  数年後——  彼らは、カール五世から与えられたマルタ島に移り、騎士団自体はナポレオン戦争に至るまで存続した。 [#改ページ]  第7章  陰謀 [#ここから5字下げ] もしもかの聖なる霊が 帳《とばり》をあけて立ち現われれば 人の子の理知も精神も、すべて 粗雑な形骸と見えるであろうに ——ルーミー [#ここで字下げ終わり]       1  シナンは、ハサンと一緒に歩いている。  夜——  すでに、風はぬるんでいる。  ロドス島から帰ったばかりの頃は、大気はまだ凍《い》てついていたが、三月に入って、季節は大きく春に向かって動き出したようであった。  月が出ている。  歩くのに、特別な不便はない。  明るい月であった。  地面の上に、シナンとハサンの影が、くっきりと映っている。 「しかし、妙な親父《おやじ》だな、あれは——」  ハサンが言った。  妙な——と、そう口にはしているが、ハサンの口振りには、親しみがこもっている。 「うむ」  シナンはうなずく。  ザーティーの家から、しばらく前に出てきたところであった。  ハサンが、�妙な親父�と言っているのは、ザーティーのことであった。  ザーティーとは、シナンもハサンも、しばらく前に一緒に出会っている。ハマム(公衆浴場)に行き、そこでカフヴェを飲んでいる時に話しかけてきたのが、このザーティーであった。  まだ、ロドス島に行く前である。  そこで話が合い、ザーティーに招かれて、彼の家に通うようになったのであった。  ザーティーの家といっても、ただの家ではなかった。  店である。  食事をする店だ。  この店に、ハサンの言葉を借りるなら、�妙な�人間たちが集まってくるのである。  自称詩人が何人か。  絵描きも、建築家もいた。  シナン自身も、そういう妙な[#「妙な」に傍点]人間たちのひとりである。  興が乗ってくれば、自作の詩を詠《よ》む者までいる。  詩や、コーランの一節の解釈をめぐって、議論がよくおこったりした。  そういう中には、シナンは混ざらず、ただ彼等のしゃべるのを聴きながら、それを楽しんでいる。  サロン——そういうものとかなり近い空間が、ザーティーの店にはあったのである。  そこからの帰りである。  夜道——  周囲の人家は、寝静まっている。 「あれが、楽しみなのだろう」  シナンは言った。  若い人間たちが、自分の店に集まって、熱っぽい会話をしている。それを横から眺めている。そういうことが、ザーティーという男の楽しみなのだろうという意味であった。 「しかし、スルタンの評判が、なかなかいい」  話題をかえて、ハサンは言った。  ハサンの言う通り、ザーティーの店でのスレイマンの評判は、かなりのものであった。  まず、戦《いくさ》に勝ち続けている。  陸のハンガリー、海のロドス島。  陸と海の脅威を取り除き、ヨーロッパへの扉を押し開いた。  多くの人間が死んだが、勝ち戦はまた、多くのものをイスタンブールにもたらしたのである。  船で大量の物資を、安心して流通できるようになったことは大きい。イスタンブールには、今、ヨーロッパの磁器を初めとして、金や銀の細工したものや、エジプト方面からの品物が溢れている。  これを、イスタンブールにもたらしたのが、スレイマンであった。 「風通しがいい」  シナンは言った。 「風通し?」 「色々な話が、自由にできるということさ」  たしかに、今、イスタンブールでは政治の話であれ、何の話であれ、自由にできる。これもスレイマンの自信からであろう。  ふたりは、金角湾に向かって、ゆっくりと道を下っている。  街並が途切れ、森になった。  道の中央近くは、月光が照らしているが、両端は、樹木の枝や葉に月光が遮られて暗い。  と——  声が聴こえた。  叫び声のような、あるいは大きな声で誰かを叱咤《しった》する時のような——  続いて、金属音。  金属と金属が、触れ合う——というよりは、激しくぶつかり合う音だ。  ふたりにとっては、戦場で馴染みの音だ。  剣と剣が打ち合わされる音であった。  重いものが、地面に倒れる音。  これも、シナンとハサンは、どういう音か理解している。ただの塊《かたまり》となった肉体が、地面に倒れ伏す時の音だ。 「逃がすな」 「追え」  そういう声が聴こえた。  続いて聴こえてきたのは、人の走る音だった。  シナンとハサンは、剣の柄《つか》に手をあてて、身構えた。  坂の下から、黒い人影が駆けあがってくる。  右手に剣を握っている。  その後ろからも、人影が走ってくる。  数人いる。  ひとりの男が、何人かの男に追われている——  坂道を駆けあがってきた男は、布を、顔に巻きつけ、素顔を隠している。  男は、シナンとハサンの姿に気づき、足を止めた。  しかし、敵でないとすぐに判断をしたらしい。 「賊に襲われた。助けてくれ」  男は、懐に左手を入れ、小さな布袋を取り出し、それをハサンに放り投げた。  ハサンが、右手で、それを受けた。  重い音。 「金貨か!?」  ハサンがつぶやいた。  その間に、追ってきた男たちが、追いついていた。  追手の男たちは、三人。  それぞれ、剣を右手に握っている。  睨みあったのは、ほんの数瞬であった。 「まとめて、三人殺せ」  三人の男のうち、中央に立っているひとりが言った。  残ったふたりの男は、おう、とも、わかった、とも答えない。  無言で左右に分かれた。  手慣れた動きであった。  シナンも、ハサンも、剣を抜いた。 「凌《しの》げ、シナン」  ハサンが言った。  言い終らぬうちに、左右から、シナンと顔を隠した男に向かって、追手の男たちが襲いかかってきた。  その剣を、シナンは受けた。  顔を隠した男も、同様に横からの攻撃を受けた。  金属と金属のぶつかる音。  シナンは、もともと、剣は得意ではない。  しかし、戦場の経験は積んでいる。  相手の剣をしばらく凌ぐくらいのことはできる。凌いでいるうちに、目の前の男をかたづけて、おまえに加勢してやる——ハサンが言った言葉をシナンはそう理解していた。  顔を隠した男も、多少は剣が使えるらしい。鋭い剣|捌《さば》きではないが、剣をあやつって、相手の攻撃が自分の肉体に加えられるのを防いでいる。  ハサンは、正面の男と、対峙していた。 「イェニチェリか!?」  正面の男は、そうつぶやき、剣で、いきなりハサンの顔のあたりを払ってきた。  それで、ハサンが後ろに下がったら、ひと息に間合を詰めて、剣で突いてこようというつもりらしかった。  剣の扱いに慣れている。  しかし、ハサンは、顔をのけぞらさなかった。  身を沈めて、逆に前に出たのである。  大きく足を前に踏み出して、剣先で、男の胸を突いていた。  まだ、剣を一度も触れ合わせてはいない。  どう、と男は地面に倒れ伏した。  それを振り向きもせず、ハサンは、次にシナンを襲っている男に向かって疾《はし》った。  横から、剣を握っている男の右腕を払った。  剣を握ったままの右腕が、地に落ちた。  ハサンは、もう、その男を見ていない。  次にハサンが迫ったのは、顔を隠した男を襲っている男であった。 「どうだ、受けられるか」  わざと声をあげ、相手に見えるよう、月光の中に剣を大きく上に持ちあげ、それを投げた。  男は、飛んできた剣を、自分の剣で横に払って受けた。  その隙を、顔を隠した男が突いた。  剣で、ハサンの剣を横に払ったばかりの男の喉を突いていたのである。喉を突かれた男は、前のめりに倒れた。  その時、片腕になった男は、もう、坂の下に向かって走り出していた。  逃げてゆく。  それにかまわず、布で顔を隠した男は、まだ生きている男に向かって歩み寄った。  ハサンに、胸を突かれた男だ。  肺まで剣先が届いたらしく、男は、咳込んでいる。  血の泡が、口から出ている。 「誰に頼まれた?」  顔を隠した男が言った。  倒れている男は、かろうじて、まだ剣を自分の右手に握っていた。  男は、その剣の刃を、両手で直接つかみ、切先を自分の喉に向けた。  喉を突いた。  すぐに、男は動かなくなった。  屍体がふたつ。  ひとりの男は、右腕を残して、そのまま逃げ去った。 「盗賊じゃねえな」  ハサンはつぶやいた。 「盗賊なら、自分で死んだりはしねえよ」  そう言って、月明りの中で、ハサンは顔を隠した男に視線を向けた。 「危ないところだった。待ち伏せされていたのだ……」  男は、低い声で言った。 「礼を言う」 「まだ、誰かいたはずだが……」  ハサンが訊いた。 「ひとり、連れがいたのだが、その男が殺された……」 「何があったんだ?」  ハサンが問う。 「さっきの金はやる。口止め料と、それから余計なことを訊ねないための金だ」 「わかった」  ハサンが、男から数歩下がって、剣を鞘《さや》に収めた。  シナンも、同様に、剣を収めた。  呼吸が荒くなっている。  ハサンの呼吸も速くなっているが、それは疲れのためではない。  興奮のためだ。  闘いになると、ハサンは実に生々となる。 「イェニチェリか?」  男が、シナンとハサンに問うてきた。 「ああ」  ハサンが答えた。 「名は?」  男が、問いかけてきた。  その口調に、威厳がある。  そういう言葉遣いに慣れているらしい。 「ハサン」 「シナン」  ハサンとシナンは、自分の名を告げた。  男は、ハサンを見やり、 「いい腕だ。判断も疾《はや》い」  そう言った。 「いずれ、あらためて礼はさせてもらう」  男は、そう言って、自分の剣を鞘に収めた。  男は、ゆっくりと後方に退がってゆく。  立ち去ろうとしているのがわかった。  ただ、すぐに、ハサンやシナンに背中を向けたくないらしい。  安全な距離をとってから、男は、足を止めた。 「屍体は?」  ハサンが訊いた。 「明日、役人が始末する。放っておけばよい」  男は言った。  背を向け、そのまま坂の上に走り去っていった。  月光の中に、シナンとハサンが取り残された。       2  スレイマンが、イブラヒムに、臣としては最高位である大宰相《だいさいしょう》の地位を与えてしまったことは、すでに書いた。  それは、ロドス島の戦いが終り、イスタンブールに帰ってから数カ月後のことである。  一五二三年六月——  青葉の薫りを含んだ風が、イスタンブールに吹き渡る頃であった。  大宰相と言えば、オスマントルコ帝国における、実質上のナンバー・ツーである。これより上は、スルタン・スレイマン本人しかいない。  政府——行政組織の長であり、イェニチェリ軍団を除く全軍の長でもあった。  これで、イブラヒムは、スルタンに諮《はか》ることなく、様々な重大な決定を下すことができるようになったのである。  周囲の反応は、 �やはり�  であった。  やはりあの男が大宰相となったか。  イブラヒムがスレイマンと密接に繋がっていることは帝国内の誰もが知っており、しかもただの臣ではないことも知られていた。イブラヒムは、スレイマンの助言者であっただけではない。スレイマンに対して、貴重な助言をする者は何人もいたが、友情という特殊な感情によって、このスルタンと繋がっていたのは、イブラヒムただひとりであったのである。  そして、さらに記しておくならば、スレイマンは、情に流されて政治的な判断を誤るような人物では決してなかった。これは、この若いスルタンに情がなかったという意味ではない。むしろ、情において、このスレイマンは、歴代のスルタンの中でも特に濃いものを持っていた。  もちろん、人は情というものによって流される生き物である。その意味で言うなら、スレイマンもまた例外ではない。しかし、その情によって、大宰相にふさわしくない人物をその地位につけてしまうような底の浅い人間ではなかった。  つまり、イブラヒムには能力があったということである。  政治力、智力において、イブラヒムは他の誰よりも優れたものを持っていたのであり、それを、スレイマンは分かっていたのである。  そのイブラヒムの才を、スレイマン以外の臣下たちもまた認めていた。 �やはりあの男が大宰相となったか�  という臣下たちの感想は、当然ながらイブラヒムの能力を評価してのことでもあったのである。  しかし、その才があろうとなかろうと、イブラヒムの出世が異例の速さであったことは否めない。  人は、才能のないものが出世してゆくのにも嫉妬するが、才能のあるものが出世してゆくことにも嫉妬するのである。時によっては、その才そのものにも嫉妬したりする。  類稀《たぐいまれ》なる才を持つものが人々から嫉妬されずに済む方法はひとつしかない。それは、不幸であることである。  才能はあるが、不幸——天才が同時代の人々から愛されるには、常に彼は自分の傍に不幸を立たせていなければならない。  しかし、イブラヒムは不幸ではなかった。  というよりも、ここはもっと正確に記しておくべきであろう。  イブラヒムは、他人の眼には不幸であるようには見えなかったのである。       3  シナンは、温度を持ったざわめきの中にいた。  人と人との話す声。  話すというよりは、言い合う声。  しかし、それは、喧嘩《けんか》ではない。議論である。  向こうでは、三人ほどの男が、政治の話をしている。いや、政治というよりは、戦《いくさ》の話に近い。  どうやって、オスマンがヨーロッパを切り取ってゆくかという話だ。  ハンガリーを手中に収め、陸路からと言う者もいれば、ロドスの脅威がなくなった以上、海路からゆく方法もあると言う者もいる。  別の四人は、コーランの解釈をめぐって、互いに思うところを大きな声で述べている。  シナンのすぐ横では、詩の話をしている。  ルーミーの詩句は、天上より天使によってもたらされたものであろうとある者が言えば、いや、詩人の才こそが天使そのものなのだとある者が言う。  ならば、いずれにしろ天使がその詩句をもたらしたということでは同じではないかと別の者が言う。  シナンは、そのどの仲間にも入らず、独りでそのざわめきの中に浸っている。  まるで、ハマムの熱気の中でくつろいでいるかのような心地がする。気分がいい。  羊の肉の焼ける臭いに混じって、濃いカフヴェの薫りが漂ってくる。  ザーティーの店だ。  そこで、シナンは、カフヴェを飲んでいる。  カフヴェは、まだイスタンブールではほとんど飲めなかったが、どこから調達してくるのか、ザーティーの店ではそれを飲むことができるのである。  この店の、この雰囲気が、シナンは気に入っていた。  密告者のことを気にせずに、自由に自分の思うところの話ができる——スレイマンの治世になってから、このような店がイスタンブールにも幾つかできた。  その中でも、ザーティーのこの店は、特に熱気がある。 「話には、加わらんのかね」  シナンに声をかけてきた者があった。  いつの間にか、シナンの横にザーティーが立っていた。  長い髭《ひげ》を鼻と顎の下に生やしたザーティーは、興味深そうにシナンを眺めている。 「戦や、コーランや、詩には興味がないのかね」 「いいえ」  シナンは言った。 「興味はありますよ」 「しかし、話には加わらないんだね」 「こうやって、聴いているのが好きなんです——」 「アッラーの住まわれる家のことでも考えてるのかい」 「ええ」  とシナンが答えると、 「目あきにも、盲《めしい》にも……」  ザーティーが、歌うように何かを口にしはじめた。  それは、即興の詩句であった。 [#ここから2字下げ] 目あきにも 盲《めしい》にも 御神《おんかみ》の 御姿《みすがた》は見ることができように 時には盲《めしい》の方が 御神の 御姿が見えてしまう 見える目は 御神を捜すのに なんと不便なことであろう 見える目には アッラーの御前に ゆく道も アッラーの居ない花園に ゆく道も 見えてしまう 時には 盲《めしい》たる者 耳の聴こえぬ者の耳にこそ しばしば神の御声《おんこえ》が 美しい鐘の音の如くに 鳥の囀《さえず》りの如くに 響きたもう 目の良し悪しでもなく 耳の良し悪しでもない 御神《おんかみ》の御姿《みすがた》を見 御神《おんかみ》の御声《みこえ》を聴くのは その者の心であるからである 心が神を見る 心が神を聴く 神を見るのに 遠くを見る必要はない 神を聴くのに 遠くに耳を傾ける必要はない そなたの心に目をこらしなさい そなたの心に耳をかたむけなさい [#ここで字下げ終わり] 「どうだろうね、これは?」  語り終えてザーティーは言った。 「これ?」 「これは、我がオスマンのことを言ったのさ」 「オスマンの?」 「おお、アッラーよお許しあれ。あなたを譬《たと》えにして、わたしは今、オスマンを語ってしまいました」 「何のことでしょう」 「今、オスマンの目も耳も、外へ向けられているということさ」 「外へ?」 「オスマンは、これから、西へも東へも広がってゆき、さらにその領土を大きくしてゆくことだろう」 「はい」  と、シナンはうなずく。 「若いスルタン・スレイマンはほんとうにそれができるお方であろう」 「でしょうね」 「しかし、そうなればなるほど、オスマンの帝都にはそれにふさわしいものが必要になってくるだろうね」 「ふさわしいもの?」 「強大な帝国を持てば持つほど、それにふさわしい詩が必要になるのさ。オスマンが大きくなればなるほど、それにふさわしい宮殿が必要になる。オスマンの民が増えれば増えるほど、それにふさわしい| 政 《まつりごと》が必要になる」 「——」 「一方の手に剣を握って、その切先を外に向けているならば、一方の手には『コーラン』を持って民の礎《いしずえ》とせねばならない。わかるかね」 「ええ」 「オスマンには、このイスタンブールには、いずれ、あんたのような人間が必要になるだろうよ」 「わたしのような?」 「そうさ。外に剣を向ける人間も必要だが、内部に目を向ける人間も必要だということだ」  ザーティーは、ちらりと戸口の方へ目をやり、 「ほら、剣がやってきたぞ」  そう言って、シナンの肩を叩き、向こうへ歩いて行ってしまった。  シナンは戸口へ視線を向けた。  そこにハサンが立っていた。  ハサンは、シナンを見つけ、大またで歩み寄ってきた。 「シナン」 「ハサンか」 「やっぱりここにいたな」  ハサンは、シナンの横の椅子に腰を下ろした。 「ザーティーと何の話をしていた?」 「剣の話だ」 「剣?」 「おまえは、剣だそうだ」 「おれが?」  ハサンは、シナンの言うことがよく理解できないでいる。  シナンが、今ザーティーと交していた会話について語ろうとすると、 「その話は、後で聴こう」  ハサンが、シナンの言葉を遮《さえぎ》った。 「話がある」 「話?」 「ああ」  ハサンはうなずき、 「おれにもそろそろ運が向いてきたという話だ」  声をひそめて言った。 「なにかあったのか」 「あった」 「何だ」 「イブラヒム大宰相と、じきじきに会ってきたのさ」  ハサンは言った。       4  こういうことであった。  三日前——  ハサンは、大宰相になったばかりの、イブラヒムの使いと名告《なの》る男の訪問を受けた。 「大宰相がお呼びになられている」  とその使いは言った。  馬車で出かけた。  連れてゆかれたのは、宮殿であった。  トプカプ宮殿。  スルタンとその一族が住む王宮である。  ハサンも、めったにその内部に入ることはない。  これまでに、ただ二度だけ門より中に入ったことがあるが、それでも庭までであった。建物の中まで入るのは初めてである。  その宮殿内のある一室に入ってゆくと、そこにイブラヒムがいた。  イブラヒムは、金糸銀糸で刺繍《ししゅう》のされている、チンタマニ文様の長衣《カフタン》を着て、黄金の飾りの付いた椅子に座していた。  その左右に三人ずつ——六人の王宮付きの兵士が立っている。 「ハサンか」  とイブラヒムは言った。  この時、まだイブラヒムは三十一歳であった。  その若さで、この美貌の男は、政治の頂点にまで昇りつめてしまったのである。それより上には、ただスルタン・スレイマンがいるのみである。  美貌も、若さも、まだこの時のイブラヒムからは損なわれていなかった。  そのふたつに加えて、さらにイブラヒムには威厳が備わっていた。 「はい」  ハサンはうなずいた。 「イェニチェリのハサンでございます」  ハサンは、イブラヒムより五歳上で、三十六歳であった。  シナンと共にイェニチェリとなって、すでに十年以上の歳月が過ぎている。 「おまえのことは調べた」  イブラヒムは、ハサンを見ながら言った。 「腕が立つそうだな」 「はい」  控え目な口調でハサンはうなずいた。  うかつな答えはできない。  自分のことを調べたとイブラヒムは言ったが、いったい何を調べたというのか。  これまで、戦で手柄をたてたことはあるが、何かでしくじったことはない。  何かのとがめだてがあって呼ばれたのなら、宮殿まで呼ぶはずもないし、じきじきにイブラヒム大宰相が会うはずもない。  では、どういう用事か。 �腕が立つ�  イブラヒムはそう言った。  では、話というのは、その�腕が立つ�という部分に関わることなのであろうか。 「戦場での働きも耳にしている」  イブラヒムは言った。 「恐縮でございます」 「どうだ、ハサン」 「は!?」 「我が元で、働かぬか」 「働く?」 「その腕を、我がために使ってくれぬかと言っているのだ」 「イブラヒム大宰相のじきじきの御申しつけとあらば、いかなる仕事であろうともいといはいたしませぬが——」 「何だ」 「わたしは……」 「イェニチェリであるということか」 「はい」  ハサンはうなずいた。  大宰相といえども、イェニチェリ軍団だけは、その指揮下にない。大宰相がその命によって自由に動かせるのは、ムフズールというイェニチェリの従者くらいである。 「そのことならば、すでに上のものと話がついている」  静かにイブラヒムは言った。 「なれば、いかなる問題もございません」  ハサンは頭を下げた。 「アブドゥル・ホジャ」  イブラヒムが声をかけると、イブラヒムの右横に立っていた兵士のひとりが前に歩み出てきた。 「このアブドゥル・ホジャが、我が親衛隊の頭《あたま》に立つ」 「はい」  ハサンは、ただうなずくだけである。 「おまえとホジャの下に、二十人の兵士をつける。それで、このわたしを守れ」 「イブラヒム様を?」 「我が出世を気に入らぬ連中もいるということだ」 「生命にかえて、お守りいたします」 「宮殿と、このわたしの部屋については、これよりおまえは出入りが自由だ。報酬は、イェニチェリのそれの十倍ほどになろう」  イブラヒムは、表情を変えずに言った。       5 「ま、そういうことだ」  ハサンは、カフヴェをすすりながら、シナンに言った。 「で、それはいつからなのだ」  シナンは訊いた。 「明日には、大宰相のところへゆく」 「これまでのようには会えなくなるな」 「うむ」 「しかし、何故、わざわざイェニチェリの中からおまえを?」  シナンが問うと、ハサンは、しばらくシナンを見つめた。 「どうした?」  シナンが訊く。 「言うなよ」 「何のことだ」 「これから、おれが言うことは、おれの想像だ。だから誰にも言うな。おまえだから言うのだ、シナン」 「わかった」 「三月《みつき》ほど前の、あれを覚えているか」 「あれ?」 「ここからの帰りに、妙な男を助けたことがあったろう」 「覚えている」 「あの時助けた男が……」  そこまで言ってから、ハサンはさらに声をひそめ、 「イブラヒム殿ってわけさ」  そう囁いた。 「本当か」 「だと思う。声を聴いて、おれはそう思った——」 「ほう」 「あの時、おれの腕が見込まれたんだろう——」 「何故、イブラヒム様は、あの時、襲われたのだ」 「知らぬ」 「訊かなかったのか?」 「馬鹿だな、シナン。向こうが言わぬのに、こちらから訊くようなことではないのさ、こういうことはな」 「そういうものなのか」 「ああ、そういうものなのだ」  確信を込めて、ハサンは言った。  シナンを見つめ、 「このあたりの気遣いができるかできぬかが、あそこで長生きできるかどうかの秘訣《ひけつ》だぞ」  ハサンは言った。 「あそこ?」 「宮廷だよ」 「——」 「いいか、シナン。おれは、まだまだ登るぜ。行けるところまで行く」  昔から言っていたことを、ハサンは言った。  ハサンは、その唇に、切れるような笑みを浮かべていた。 [#改ページ]  第8章  トプカプ宮 [#ここから5字下げ] 我と我が血をわしは啖《くら》う、が そなたは酒でも飲ませたつもりか。 わしの生命を取りあげながら、 そなたは生命をくれたつもりか。   作者不明の詩 [#ここで字下げ終わり]       1  ハサンが、イブラヒムの私的な親衛隊に入るのに前後して、シナンはアトルゥ・セクバンという地位に就いている。  もはや、歩兵ではない。  馬付きである。  国境付近の警備がその主な仕事だが、イスタンブールにもどってくることもしばしばあり、大きな戦《いくさ》や遠征がある場合にはそれに参加をした。  オスマンの兵は、今や常勝軍団であり、スレイマンは、その軍団の長であった。  そして、イブラヒムは、オスマン第二の権力者であった。  金曜には、イブラヒムはスルタンと同様に壮麗な行列を連ね、礼拝に赴いた。  イブラヒムは、自らの宮殿に、高官たちや総督を迎え、会議を開くこともやった。  儀礼上は自分と同格である「イスラームの長老《シェイフ》」シェイヒュルイスラームを除くあらゆる高官に対して、イブラヒムは上席権を持っていた。  イブラヒムが、臣としての礼をとらねばならぬ相手は、スルタン・スレイマンただ独りであった。  このイブラヒムに対して、スレイマンは、さらにルメリの総督《ベイレルベイ》職を与えている。  ルメリというのは、この当時のヨーロッパのトルコ領である。ボスニア、ハンガリー、アルバニア等がそれにあたる。  これでイブラヒムは、ヨーロッパのトルコ領の各知事たちに対して、支配権を持ったことになる。  オスマンの歴史を眺め渡しても、奴隷の身分からここまで登りつめた者はいない。  このイブラヒムの権力を磐石のものにしたのが、スルタンの妹ハディージュ・ハヌムとの結婚であった。  この婚礼が執り行なわれたのが、イブラヒムの宮殿であった。  オスマンにおいて、スレイマンに次ぐ財力を有していたイブラヒムが、金にまかせて建てた宮殿であった。  これによって、オスマン帝国の内部に、もうひとつのイブラヒム王国とでも呼ぶべきものが誕生したのである。       2  しかし、イブラヒムも、決してぬくぬくとしてその地位を手に入れたのではない。  彼は、自らの力と、才と、努力とによってその地位を手に入れ、守ったのである。  イブラヒムが大宰相になったことによって、帝国内にあらたな叛乱の烽火《のろし》があがった。  その場所は、またもやエジプトであった。  この反乱は、第二宰相アフメド・パシャによって起こされた。  イブラヒムが大宰相となるまで、その地位にいたのはピーリー・パシャである。  このピーリー・パシャの後に大宰相に就くべき人物といえば、順序から言えば第二宰相であるアフメド・パシャでなければならなかったが、オスマントルコにおいては、そういった順で大宰相が決まることはむしろ希であった。このアフメド・パシャの頭を飛び越えて、イブラヒムが大宰相となってしまったのである。 「これで、自分が大宰相となるべき道は永遠に閉ざされた」  アフメド・パシャはそう考えた。  有能で、実力もあるアフメド・パシャには、これが我慢できなかった。 「辞職いたしましょう」  アフメド・パシャはスレイマンにそう言った。 「そのかわりに、お願いがございます」 「何だ」 「エジプトへ行《ゆ》かせて下さい」  アフメド・パシャは、第二宰相の座から降りるかわりに、エジプト総督の地位を要求したのである。  これを、スレイマンが了承した。  スレイマンに異存はない。新大宰相イブラヒムの元で、アフメド・パシャが不満なくやっていけるとは、スレイマンも考えてはいない。望まれなくともそうするつもりだったのだ。  こうして、アフメド・パシャはエジプト総督となったのである。  そして、アフメド・パシャは、エジプトにおいて、さっそく叛乱の旗をあげたのである。  カイロに到着したアフメドは、まずマムルークの貴顕たちを味方につけた。  その次には、なんと教皇と、オスマンの宿敵とも言える聖ヨハネ騎士団総長とも関係を結んだのである。 「わたしは、スレイマンに対して叛乱を起こすことにいたしました」  聖ヨハネ騎士団総長に向かって、アフメドは言った。 「もしも、あなた方キリスト教徒が艦隊を送ってくれるのなら、あのロドス島からオスマンの守備隊を追いはらってさしあげましょう」  アフメドが手を結ぼうとしたのは、何も西のヨーロッパばかりではなかった。アフメドは、オスマンの旧敵ペルシアのシャー・イスマーイールにも、自分に協力してオスマンを背後から脅《おびや》かすよう、要請したのであった。  アフメド自身は、カイロに駐屯していたスルタンの忠実なる兵であるイェニチェリたちを、まず全員虐殺してのけた。  そして、アフメドは、エジプトの地でスルタンを自称した。  自分の名で貨幣を打たせ、祈祷をさせた。  このアフメドの叛乱は、成功するかに見えたが、意外にあっけなく挫折をした。アフメドに味方をするはずであったマムルークとアラブ人の首長たちが、この自称スルタンを見捨てたのである。  アフメドは、彼らの手によって暗殺され、この叛乱は幕を閉じたのである。  しかし、アフメドの叛乱は終ったものの、エジプト自体は、それで収まらなかった。  幾つもの叛乱が、エジプトとその周辺から起こったのである。  一五二四年の初めにも、叛乱が起こり、失敗をした。  その次の叛乱は、ジャヌム・カーシフィーというマムルークによって起こされた。  これは、数千人がナイルデルタに集まり、トルコ人総督は、そこにイェニチェリと砲兵隊を差し向けることになった。それで、ジャヌムは殺され、この叛乱は鎮圧されたが、しかしさらにまた続けて叛乱は起こったのである。  このことの背景には、もともとオスマン支配を、エジプトとその周辺の住民たちが喜んでいなかったということがある。  住民は、常に不満を抱え、機会さえあればオスマンに歯向かおうとしていたのである。       3 「エジプトへゆく」  久しぶりにシナンを訪ねてきたハサンは、そう言った。  場所は、ザーティーの店である。  シナンは、カフヴェを飲みながらハサンと話をしている。 「エジプトへ?」 「昨日、決まったのだ」 「それは、つまり、イブラヒム様がエジプトへ行くということか?」 「まあ、そうだ」 「何故、エジプトへ?」 「イブラヒム様御自身が、お申し出になったのだ」 「スルタンに?」 「その通りだ」  ハサンの話では、それは、金角湾を見降ろす、スルタンの居室であったという。  もちろん、ハサン自身は、その現場には居あわせていない。  しかし、イブラヒムを護衛して、トプカプ宮の中までは入っている。  後になってから、イブラヒムに聴かされた話を、ハサンはシナンに語ったのである。 「もとはと言えば、これは、わたくしに責任のあること——」  イブラヒムは、スレイマンにそう言った。 「わたくしが大宰相になったのをきっかけに、エジプトの不満分子が動き出したということでしょう」  これに、スルタンは首を振った。 「そなたに責任はない、イブラヒム——」  スルタンは、イブラヒムではなく、そこから見える金角湾を眺めている。 「責任があるとするなら、それはこのわたしだ。おまえを大宰相としたのは、そもそもこのわたしなのだ。それに、エジプトはもともと、あのような不満分子たちの数も多いのだ」  そう言ったスルタンの背へ、 「わたしが行きましょう」  イブラヒムは言った。 「なんだと!?」  スルタンが、イブラヒムに向きなおった。 「今、何と言った」 「わたしが、エジプトへゆくと言ったのです——」 「そなたが!?」 「はい」 「しかし……」 「これは、良い機会です」 「機会?」 「これを利用して彼《か》の地に秩序をもたらすことができると考えています」 「できるというのか、それが」 「やらねばなりません」  答えたイブラヒムの顔をしばらく見つめてから、 「わかった」  スルタンはそう言った。  新しい大宰相となったイブラヒムに必要なのは、あとは大宰相としての、有無を言わせぬ実績である。多数の民族の住むあのヨーロッパ以上にややこしい国をまとめてみせれば、これは、大宰相の実績として申し分ない。  そういうイブラヒムの思惑を、スレイマンは見てとった。  それに、この男なら——  スレイマンはそう思っている。  この男なら、自分が言った通りのことをやってのけるであろう。  これまで、イブラヒムは口にしたことは必ず実行してきた。  この男なら、エジプトをまとめてくれるであろう——  こうして、イブラヒムのエジプト行きが決まったのである。 「これについては、アロイシ様も乗り気でな。それとなくイブラヒム様を、陰から助けてくれるそうだ」 「アロイシ様?」 「ガラタにいる、ヴェネツィア商人さ。武器の調達が早い。頭もいい」  そのアロイシか、とシナンは思う。  名前は知っている。  ヴェネツィア人でありながら、イスタンブールではトルコ人に好かれているらしい。 「イブラヒム様も、少し気にしていることがあるしな。ここでまた地固めもしておきたいところだろう」 「気にしてること?」 「ロクセラーヌ様さ」 「ロクセラーヌ様?」  ロクセラーヌというのは、スレイマンの近くにいる妃《きさき》も同然の女性のことだ。 「いや、口が滑った。おまえは知らなくていいことだ。シナン——」  ハサンは言った。 「で、おまえも一緒にゆくのだな」  シナンはハサンに訊いた。 「初めにそう言ったではないか」 「あちらの建築は、こちらとはまた違うからな」 「建築?」 「建物さ」 「おう」 「あちらには、古い神殿の跡が幾つもある——」 「それを見たいのか」 「ああ」 「先王スルタン・セリムの頃に、我々もエジプトの遠征に加わったではないか——」 「あの時は、何も見ていないに等しいからな。それに、見てもわからなかった——」 「今は?」 「今なら、多少のことは、わかる」  自信ありげに、シナンはハサンに答えたのであった。       4  スレイマンは、友人である大宰相イブラヒムに、できるだけのことをしてやったと言っていい。  まず、五〇〇のイェニチェリ、二〇〇〇の兵を、イブラヒムに付けた。  そのあと、さらにスレイマンは、遠征にゆくイブラヒムに同行して、マルマラ海の皇子諸島まで共に旅をしているのである。  イブラヒムがまず着いたのは、ダマスカスとアレッポであった。  このふたつの州を、イブラヒムは短時間のうちに掌握してみせた。  何人もの軍人や、役人の首が胴から離れた。  この地方は、ダマスカス、アレッポ、トリポリをそれぞれの首邑《しゅゆう》とする三つの総督区に区分された。  その後で、イブラヒムは、まるでスルタンのごとくに、カイロに入ったのである。  兵とイェニチェリは、輝くばかりの衣装を身につけ、小姓たちでさえ、金色の衣を纏《まと》った。  イブラヒム自身は、スルタンからの贈物であるきらびやかな馬具を着けた馬に跨《またが》っていた。その馬具だけで、普通の人間が一生働いても稼げない金額であったと言われている。  もちろん、これは、住民の視線を意識してのことだ。  マムルークの支配にとってかわる新しい権力の威勢を見せつけておくためであった。  それでも、幾つもの部族は、まだ反抗を続けていた。  そういう部族は、力によってまず服従させられ、そして、首長の首が刎《は》ねられた。  この後、不正に悩まされていた人間たちは、あらためてオスマンに訴え出ることをゆるされたのである。  借財が原因で牢に入っている者は、釈放された。  法は改正され、これに違反したり、権力を利用した役人たちの多くは、死刑となった。  そうして、エジプトは平定されたのであった。  これに、イブラヒムはおよそ一年の時間をかけたのである。  一年も——というよりは、わずか一年で、と考えるべきであろう。  これで、エジプトは、実際に十九世紀まで、叛乱を起こすことはなかったのである。  イブラヒムは、胸を張ってイスタンブールに帰ってきた。  そして、この間に、オスマンにとっては常に背後の危機であったペルシアのシャー・イスマーイールがこの世を去っている。  オスマンは、長い間の懸案であった、エジプト、ペルシアのふたつの問題に、カタをつけてしまったことになる。       5  シナンは、まだ、無名であった。  この時、シナンは、まだ何者でもない。  この時期のシナンについては、ほとんど資料は残っていない。  シナンが、最初にその名を人々に知らしめるまでには、まだ、あと十年の歳月が必要であった。  その時、シナンは四十六歳である。  スレイマン大帝のイラン大遠征のおりに、初めてシナンはスレイマンにその名を覚えられることになるのだが、それまでにシナンは自分の前半生のほとんどを使ってしまったことになる。  並の天才であれば、その前半生においてさっさと優れた作品を作り、三十代であっという間にこの世から去ってゆくのだが、シナンは、違っていた。  三十六歳——まだ無名。  四十六歳にして、やっと名の残る仕事をして、その生涯最大の仕事をやってのけるのは、なんと、さらに四十一年後の、八十七歳の時なのである。  そのかわりに、五十歳からのシナンは、狂ったように仕事をすることになる。  四〇〇に余る建築物にこの男がサインをすることになるのは、五十歳を越えてからである。  シナンは、まだ、熟していない果実であった。       6  さて——  ここで、ひとりの異教徒について話をしておきたい。  異教徒——というのは、シナンの所属するイスラムから見た時にそうなるという意味であり、かつてはシナン自身が信仰していた宗教の徒である。  キリスト教徒。  イタリア人。  建築家であり、芸術家であった。  シナンがまだ無名であった頃、すでにこの人物は、名を知られていた。  彫刻家で、画家。  一四七五年、アペニン山脈の一小村、トスカーナ地方のカプレーゼに生まれている。  シナンは、一四八八年の生まれであるから、シナンより十三歳年上ということになる。  同じトスカーナ地方生まれの人物に、芸術家にして異能人、レオナルド・ダ・ヴィンチがいる。  レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれた一四五二年から、二十三年後に、この男は生まれている。  父親の名は、ロドヴィコ——カプレーゼの一六九代行政官であった。  母親の名は、フランチェスカ。  父の任期終了後、一家はフィレンツェにもどり、まだ生まれたばかりの彼も、そこで暮らすこととなった。  彼は、一家がフィレンツェにもどってほどなく、里子に出されている。その先は、一家の農場があったフィレンツェ近郊セッティニャーノの石切人の家であった。この石切人の妻が、彼の乳母《うば》となった。  一四八八年——シナンの生まれたこの年に、十三歳で、彼は本格的に絵を学び始める。  しかし、ここを一年で出て、ロレンツォ・デ・メディチ壮麗公に謁見。十四歳でロレンツォ美術学校に入学。  同年、「階段のマドンナ」、「ラピタイとケンタウロスの戦い」を彫刻。  十八歳——ローマに出るも極貧の生活。  一四九八年、二十三歳——「ピエタ」製作のための大理石を手に入れる。  一五〇〇年、二十五歳——大理石像「ピエタ」完成。  一五〇四年、二十九歳——大理石像「ダビデ」完成。  同じ年、このダビデ像をどこに設置するかを決めるための委員会三〇名が指名される。そのメンバーの中には、ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチもいた。  ローマ、サン・ピエトロ大聖堂設計。  システィーナ大礼拝堂の天井画の製作。  石切場で、巨大な大理石を見て彼が言った言葉—— 「この石の中には女神が眠っている。わたしのやることは、それを彫り出すことだけである」  晩年——  ロンダニーニの「ピエタ」の彫り直しにかかるも、志ならぬうち、八十九歳で病没。  その異教徒の名前は、ミケランジェロ・ボナロッティといった。       7  シナンは、歩いている。  雑踏《ざっとう》と喧噪《けんそう》の中を歩いている。  異国の言語が耳に届いてくる。  様々な人種と、様々な言葉が、自分の周囲に満ちている。  黒人もいる。  チュニジア、アルジェリアの方からやってきたと思われる商人たちもいる。  スペイン人たちの操る、跳ねるような発音の混じる言葉。  そして、エジプト人たち。  イスタンブールとはまた違った活気が街全体に満ちているのである。  シナンの心は、浮き浮きと湧き立っている。  東方系の貌《かお》立ちの者もいるが、多いのは瞳が青く金髪の男や女たちである。  様々な人種の汗や香料の匂いが、潮の香のする大気の中に溶けている。  ヴェネツィア。  港が、この雑多で巨大な都市の中心になっている。  大理石の柱廊に囲まれた壮大な空間に、あきれるほどの人種と人がひしめいている。  露店が、いたるところに店を構えていて、その店から通る人間たちに声がかかる。  肉の焼ける匂い。  海でとれたばかりの魚を焼き、オリーブオイルを塗って、塩をふりかけたものを、店の親父が売っている。  注文すれば、それをパンの上にのせて渡してくれる。  サン・マルコ広場。  このマルコは人の名前だ。『新約聖書』にある、四福音書——マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの、マルコである。  すぐむこうの空に、サン・マルコ寺院の丸いドーム屋根が見えている。  サン・マルコ寺院の前の広場を、シナンは、歩いている。  サン・マルコ寺院から、しばらく前に出てきたばかりであった。そこで見たものについて、シナンは考えている。興奮が、まだ、シナンの身体の中を駆け巡っている。  血が、熱くざわめいている。  何故、気づかないのか。  シナンはそう思っている。  あれほど、素晴らしいものを作ることができる人間たちが、何故、気づかないのか。  この雑踏の中で、もしかしたら、それに気づいているのは、この自分だけなのかもしれない。  いや、もしかしたら、この地上で、この自分だけが、それに気づいているのかもしれないと思う。  そういう興奮が、シナンの血を熱くざわめかせているのである。  サン・マルコ寺院は、九世紀の初めに、エジプトから移された聖マルコの遺体をまつるために建てられた寺である。  ビザンチンの様式の建物。  五つの巨大なドーム。  内部はモザイク画や金箔で、これでもかこれでもかというぐあいに飾られている。  その技術や細工は素晴らしい。  この国の生んだ、粋《すい》の結晶体のようなものだ。  これだけのものを作りあげる工人たちの能力の高さは驚嘆に価《あたい》する。  シナンは、その光景に圧倒され、感動を味わっていた。  もともとは、シナンは、キリスト教徒である。  今はムスリムだが、キリスト教の何たるかは理解している。  多くの聖人たちの絵や、大理石の像。  しかし——  シナンにとっては、どこかに不満があった。  どれだけ、モザイクが美しかろうが、絵が立派であろうが、どこかもの足りないのである。  これほどのものを眼にしながら、いったい何が不満なのか。  それは、以前にも味わったことのある感覚であった。  外へ出た。  外へ出て、明るい陽光にさらされたその瞬間に、シナンは、理解していたのである。  いったい、自分が、何をもの足りなく思っていたのか。  何が不満であったのか。  それは、神の不在であった。  神がいない。 「あそこには、神がいない」  シナンは、それに気づいたのだ。  神のための寺院でありながら、あそこには神がいないのだ。  神が見えない。  そのことに誰も気づいていないのではないか。  これだけのものを創造できる人間たちの誰もそれに気づいてない。  その発見に、シナンは興奮しているのである。  あそこにいるのは、人間だけである。  あそこで見えるのは、人間だけである。  人間しかいない。  神を賛美する人間。  神を敬う人間。  神を祈る人間。  神を信仰する人間。  あそこに存在するのは、人間だけだ。  どれほど、素晴らしいものであろうが、どれほど、みごとなものであろうが、そこからは、人の臭いが立ちのぼってくるばかりである。  神は、自分の姿に似せて人を創造《つく》ったというが、それは間違いであろうと、シナンは思っている。  神が人を創造したというのはわかるが、何故、神が人の姿であらねばならないのか。  イスラムは、そうは教えない。  寺院のそこここにある溢れるばかりの、人の肖像。  それは、どんなに美しくみごとに描かれても、人である。  なんという、装飾の過多であることか。  神の住みたもう宿は、もっと無機質なもの——たとえていうなら、幾何学や数学のようなものではないか。  むしろ、あのような石の建物よりは、幾何学こそが神の宿としては、よりふさわしいような気がする。  イスラムは——  と、シナンは発想する。  この時、シナンの心に浮かぶイスラムは、 �わがイスラム�  ではない。  ただ、�イスラム�である。  シナンは、無宗教者のように、頭の中の皿の上に、キリスト教とイスラムを並べて眺めている。  イスラムは、人の像を寺院に描かない。  イスラムは、神を何かに似せて、描かない。  人の姿にも似せない。  動物の姿にも似せない。  神を像にしない。  神のたとえをもって、人を語ることはあっても、人や動物のたとえをもって神を語らない。  私は神を愛します。  私は神を信仰します。  私は神に祈ります。  私は神に懺悔《ざんげ》します。  私は——  私は——  私は——  そういうものが、あの石の建物には溢れすぎている。  あの聖《アヤ》ソフィアの単純明快な巨大さ——あの方がまだ、神に近い。  いくら大きいといっても、サン・マルコ寺院は、聖《アヤ》ソフィアの大きさとは比ぶべくもない。  このやり方ではない——  シナンは、そう思っている。  神をとらえるにはあのやり方ではだめだ。  おそらく、建物、建築こそが、神をそこに降ろすもの——神の依代《よりしろ》として最もふさわしいのではないか。  ザーティーは、それは詩であると言った。  それは、むろん、詩であってもいい。  絵であってもいい。  音楽であってもいい。  しかし、自分にとっては、それは建築なのであるとシナンは思っている。  イスラムの方式。  幾何学の紋様。  人の肖像を描かないやり方。  神を何かに似せない方法。  それこそが、自分の方法であると、シナンは思っている。  そういうことに気がついているのは、この雑多な人種、多くの人間がいる中で、ただ独り、この自分だけなのだと思っている。  そのことに、この自分だけが気づいている。  自分なら、できるのではないか。  神が、そこに宿るための空間を、おれならば創造できるのではないか。  おれなら——  その思いに血を滾《たぎ》らせながら、シナンは雑踏の中を歩いているのである。  サン・マルコ寺院の全体が見える場所までやってくると、シナンは、そこに足を止めた。  手に、紙を束ねた冊子を持っている。  それを左手に広げて、右手にペンをとった。  サン・マルコ寺院の外観を、その上に描きはじめた。  しばらく前にも、同じことをしているのだが、今は、また別の発想が湧いてきたのである。  シナンが、ペンを走らせていると、 「ほう……」  横手から、声がかかった。  シナンが、左を見ると、そこに、ひとりの男が立っていた。  シナンより、ひとまわりは身体の大きそうな、分厚い肉体を持った男であった。  年齢は、五十歳前後であろうか。  その男の貌《かお》を見やり、シナンはそこで視線を止めていた。  異相であった。  まるで、岩に鑿《のみ》を当て、粗く彫り出したような顔をしていた。  鼻が、鷲鼻で、しかも大きかった。  そして、その鼻が、大きく左に曲がっていたのである。 「どうしたのかね」  その男は言った。 「わたしの顔に、何か付いているかね」 「いいえ」  シナンは、手を止めて言った。 「この鼻は、生まれつきみたいなものさ」  岩と岩をこすり合わせるような声だった。  耳障りな声ではなかった。  深みがある。  自分の鼻のことより、男は、シナンが紙の上に描いているものの方に興味を持っているようであった。  男の碧《あお》い眸《め》が、シナンが止めたペンの下にある紙に描かれた絵に注がれている。 「サン・マルコを描いているようだが、少し違うように見える……」  男は、右手の人差し指で、シナンの描いている絵を示した。  太い、節くれだったごつい指だった。  分厚い皮。  指のタコ。  シナンは、どういう職業の人間がこういう指になるのかわかっていた。 「ドームの数が違う……」  男は言った。 「それに、サン・マルコのドームは、まん中が少し高いだけで、どれも大きさがあまりかわらないが、これは、中央のドームが大きくて、その周囲のドームが小さい……」  男は、シナンの返事をまたずに、 「まるで、無数の泡がより添って、ひとつの大きな球を、天に向かって立ちあげているようだ……」  男は、シナンが紙の上に線でしか描いていないものが、眼の前にそびえているのを見るような口調で言った。  シナンは、驚嘆していた。  今、この男が言ったことは、そのままシナンが心の中にイメージしたものであったからである。  何故、わかったのか。  あらためて、シナンは、男を見やった。  男のごつい唇に、微かな笑みが点《とも》っている。  あんたは何者だね?  そう問いかけてくるような笑みであった。 「そうです」  シナンはうなずいていた。 「サン・マルコのドームを見ながら、これに足りないものを考えているうちに、こういうかたちのものになってきたんです」 「この中央のドームは、様式が、サン・マルコのものじゃない。何かに似ているように見えるがね」  男は、自分の記憶をさぐるように、眼を細めた。 「ああ……」  男はうなずき、眼を開いて、 「コンスタンチノープルから来たのかね?」  そう言った。  コンスタンチノープル——イスタンブールのことである。  その通りであった。  しかし、何故、そのことがこの男にわかるのか。  シナンは、男の質問には答えず、逆に問いかけた。 「何故、それがわかるのですか」 「この中央ドームが、コンスタンチノープルにある聖《アヤ》ソフィアに似ているからさ」 「コンスタンチノープルに行ったことが?」 「ない。しかし、絵では何度も見たよ。あれは、この世で最も偉大な人間の仕事のうちのひとつだよ」  男は、人間という言葉を強調した。 「君のこの絵は、理屈に適《かな》っている。このドームを支える柱の数まできちんと見えてくるようだよ」 「そうですか」  シナンは、うなずいた。  この奇妙な男は、いったい何者なのかという興味が湧いている。 「建築か、彫刻をやっていらっしゃるのですか」  シナンは訊いた。 「この指のことだね」  男は、小さくまた微笑した。 「ところで、あの、サン・マルコに足りないものがあると言っていなかったかね」 「はい」 「その足りないものとは?」 「神です」  シナンは言った。  男は、一瞬沈黙し、 「ほう」  溜め息に似た声を洩らした。 「どういうことかね」 「あそこは、人間が過剰過ぎます」  シナンは言った。 「人間が過剰?」  男がつぶやいた時、 「お話中、すみません」  男の後ろから、声がかかった。  二十歳くらいと思える男がそこに立っていた。 「今、フィレンツェから使者が来ました」  若い男は、鼻の曲がった男に向かって言った。 「フィレンツェから?」 「手紙を持ってきています。できれば、フィレンツェにもどってきて欲しいと、そう言っています」  若い男は言った。       8 「放っておけ」  鼻の曲がった男は、若い男に向かってわずらわしそうに言った。 「しかし、共和国は、あなたの才能を必要としていると言っています」 「フィレンツェ共和国は、その必要としている人間からも、財産をとりあげようとしているのだ」 「あなたがいないと、築城の作業がはかどらないそうです」 「知らん」  鼻の曲がった男の答は素っ気ない。  その会話は、シナンの耳にも届いている。 「しかし……」 「わたしは、バッティスタとフランスへ行くつもりだ」 「しかし、まだ、フランソワ一世からの使者はやって来ません」 「必ず来る」 「ですが……」 「この話は、これで終りだ」  男は言った。  突然、激しい嵐が自分の内部に襲いかかってきたように、この男の肉の温度が上昇するのが、傍にいるシナンにもわかった。  その温度に、しばらくの間、男は耐えているように見えた。 「フィレンツェの使者には、待ってもわたしの考えは変らぬと伝えてくれ」  その口調には、岩のように堅い意志がこもっていた。  この鼻の曲がった男が、フィレンツェ防衛のためのノヴェ・デッラ・ミリツィーアの一員に指名されたのは、この年——一五二九年の一月十日のことであった。  四月六日には、フィレンツェ築城長官と代理将軍をかね、六月にはピサ、リヴォルノの城塞を検閲している。  この男が、フランスへゆく決心をして、フィレンツェを脱出したのは、同じ年の九月二十一日であった。  二十三日に、フェッラーラに着き、二十五日にヴェネツィアに着いた。  このヴェネツィアで、この鼻の曲がった男は、フランス王からの使者を待っていたのである。 「わかりました」  若い男はうなずいた。 「あきらめるかどうかわかりませんが、そのように伝えるだけは伝えておきます」  若い男は、鼻の曲がった男と、それからシナンに向かって会釈して、 「失礼します」  背を向けて、去っていった。  人混みの中に、その姿が消えるのを見送ってから、鼻の曲がった男は、荒あらしい獅子の如き溜め息をついた。 「まったく、自分の仕える王は、選ばねばならない」  まだ、荒い息で鼻の曲がった男は言った。  今の会話の中で、激しい感情がこの男の身の内にこみあげたらしい。  それを、無理に押さえ込んで話をしたため、走った後のように呼吸が乱れているようであった。 「わたしは、仕事をするために生まれてきたというのに、わたしはわたしの仕事のための金を出すことができないのだ。その金を握っているのは、あのいまいましい、王や、教会のわからず屋たちだというのが、神がわたしに与えたもうた最大の試練だな」  ひと息に言ってから、あらためて、男はシナンの存在に気づいたようであった。 「すまなかった。きみとの話の途中だったな……」  男は言った。  シナンは、奇妙なものでも見るような眼つきで、この男を見た。  まるで、この男は、胸に剣を突き立てられたまま街の中に解き放たれた獅子のようだと、シナンは思った。  その刃の痛みに、常に耐え続けることがこの男の日常になってしまっているのだろう。 「あなたは……」  思わず、シナンはその男に問うていた。 「建築家だよ」  その男は言った。 「ただの建築家だ」 「お名前は?」 「ミケランジェロ——ミケランジェロ・ボナロッティだ」  言ってから、その男は、 「きみは?」  逆にシナンに問うてきた。 「シナン」  シナンは、顎を引いてうなずいていた。  ミケランジェロ、五十四歳。  シナン、四十一歳。  一五二九年、九月三十日——  このふたりの石の巨人は、ヴェネツィアで、初めての邂逅《かいこう》を得たのであった。 [#改ページ]  第9章  詩人の店 [#ここから5字下げ] 正義が城門の前に現れると 奴隷は解放された ヌシルバンは奴隷を拘束しない ただ自分の鎖をしっかりとつないだ ——ザーティー [#ここで字下げ終わり]       1  一五二九年に、イェニチェリであったシナンが、どうしてヴェネツィアにいるのか。  このことについて、触れておかねばならない。  話は、その年の四月まで遡《さかのぼ》る。  場所は、ザーティーの店であった。  この店で、シナンはハサンを待っていた。  三日前に、ハサンからシナンの元に手紙が届けられたのである。  三日後に、ザーティーの店で会いたいとその手紙には書かれていた。  用件は、書かれていなかった。  手紙を持ってきた男に、返事を伝えてくれと手紙にあったので、 「承知したと——」  シナンは、男にそう伝言をした。  約束通りに、シナンはザーティーの店にやってきて、ハサンを待っているのである。  カフヴェを飲んでいる。  カフヴェ——コーヒーは、まだ、この当時トルコでは一般的な飲料ではない。  イスタンブールに、本格的にコーヒーが入ってくるのは、もっとずっと後になってからである。  ザーティーは、アラビア商人の誰かに話をつけ、コーヒーをイスタンブールまで持ち込ませているらしい。  もともと、コーヒーの原産地はエチオピアである。そこで飲まれていたものが、東西の交流や戦争、遠征で、アラビアを経由し、各地方に広まっていったのである。  いつかシナンがザーティーと初めて会ったハマムの特別室と、このザーティーの店だけが、イスタンブールでカフヴェを飲むことができる場所だ。  今、世界で普通に飲まれているコーヒーと、この当時のカフヴェとでは、だいぶ違う。  トルコのコーヒーは、粉がもっと細かく、味もずっと濃い。  粉の上から湯を注いで、下でそれを受けて飲むスタイルのものではない。  直接、粉を溶かして飲む。  飲み終えた時には、どろりとした軟泥状のものが、カップの底に残る。  ちょうど、今、シナンはそれを飲み終えたところだった。  飲み終えて、皿の上にカップをもどした時、後方から手が伸びてきて、そのカップを持ちあげた。  シナンが振り返ると、そこに、右手にカップを持って、ザーティーが立っていた。 「久しぶりだな、シナン……」  ザーティーは、そう言いながら、カップを皿の上に伏せた。 「いいかね」  ザーティーは言った。 「どうぞ」  シナンが言うと、ザーティーはシナンの横の席に腰を下ろした。 「何でカップを伏せたのですか」 「もう少し待てば、教えてあげよう。それよりも、シナン、今、若い連中が騒いでいるのは知っているかね」 「若い連中?」 「老いは深い英知をもたらすが、若さがもたらすのは花の如きおろかさである……」  ザーティーは、詩の一節らしき言葉を口にした。 [#ここから2字下げ] 老いは深い英知をもたらすが 若さがもたらすのは花の如きおろかさである おろかなるが故に若者は恋をし 恋をするが故に若者は賢くなる 神の御園《みその》には老いたる者こそが足を踏み入れることができるのだ 若い時は恋を 老いてからは賢さを 神はその僕《しもべ》にお与え下される [#ここで字下げ終わり] 「何なのですか、それは——」 「今、即興で作った詩だよ」 「何があったのです」 「どうやら、若い連中は、このわしが彼らの詩を使うことが気に入らぬらしい——」 「ははあ、そのことですか」  シナンはうなずいた。 「瑣末《さまつ》なことだ」  口の中に残った杏《あんず》の種を吐き捨てるようにザーティーは言った。 「わしは、花を見て詩を創る。小鳥が囀《さえず》ればそれで詩を創る。風が吹けばそれで詩を創る。アッラーがわしに微笑みを下さればそれを詩にする——」  ザーティーは、シナンを見た。 「しかし、花がわしに文句を言うかね。どうして私を詩にしたのですかと怒るかね?」  シナンは、答えず、ザーティーに向かって微笑してみせた。 「小鳥が詩にされて、文句を言うかね。風が詩に書かれて怒るかね。アッラーがわたしに罰をお与えになるかね」  ザーティーは深く息を吸い込み、 「花は文句を言わない。小鳥は怒らない。風は風のままだ。アッラーはアッラーであるままではないか」  ひと息にそう言った。       2  ——ザーティー。  シナンとハサンが、数年前にイスタンブールのハマムで知り合った、この奇妙な詩人について、しばらく語りたい。  ザーティーは、回歴八七六年——西暦一四七一年に、小アジア北西部バルケシル県の小さな町で生を享《う》けた。  シナンよりは、十七歳年齢が上である。  父は、靴職人であった。  当初は、父の仕事を手伝って靴を作ったり売ったりしていたのだが、言葉に対する独特の才があった。  眼に見えるもの、あるいは見えないもの——心の裡《うち》に動く感情や風景について、即座に言葉にできるのである。  自分が、父の仕事を手伝って靴を作っている作業を、最初から最後まで、ずっとしゃべっていることができるのである。しゃべって、語り止むということがない。  しかも自分が、動き、行為したことや、その時眼に見えているものを次々に描写できるだけではなく、自分の心の裡に揺れ動く感情や想いについてまで、連続して語ることができた。  そして、その語る言葉が美しく、聴いて耳に心地よいのである。  ある時期からは、実際に風景や行為、自分の心に浮かぶ感情すらも必要がなくなった。  増殖する言葉——  ある力とイメージを持つ言葉をひとつ発想するだけで、その後は、その言葉自身が次々に別の言葉を生み出してゆくのである。言葉自身が、ザーティーの内部で自己増殖作用を持ち、洪水のごとくにその口から溢れ出てくるのであった。  これをもって世に名をなそうと決心をして、バヤジット二世の時代に、ザーティーはイスタンブールに出てゆくのである。  ザーティーは、イスタンブールに出てゆき、バヤジット二世に一編の頌詩《カシーデ》を捧げた。  バヤジット二世の栄光を讃える詩を作って、これをスルタン本人に送ったのである。  ザーティーから捧げられた詩を読み、耳にした途端に、スルタン・バヤジット二世は、その言葉の奔流の虜《とりこ》となってしまった。  バヤジット二世は、ザーティーを手厚くもてなした。  このことがあってから、一気にザーティーの人気は宮廷で高まったのである。  ザーティーは、多くの高官たちと親交を結んだ。  大宰相アリー・パシャ。  軍人の法官ムエイード・ザーデ。  国璽尚書《ニシャンジュ》のジャフェル・チェレビ。  財務長官ピーリー・メフメット・パシャ。  彼らが、ザーティーの——日本的に言うならばタニマチとなったのである。  しかし、この頃のオスマン帝国は、まだ、世界の中で不安定であった。いつ、どの戦《いくさ》で大敗するかわからない。その結果によっては、大宰相といえども、いつその地位を追われるかわからない。  いや、宮廷内部での勢力争いに敗れて、その地位を追われるかもわからないのである。  高官のパトロンといえども、いつ、その首が胴から離れるかわからない。  事実、バヤジット二世は、ほどなくスルタンの座を、息子のセリム一世に奪われている。  それと同時にアリー・パシャもこの世を去り、ジャフェルはもっと後のことだが、斬首刑に処せられた。  ムエイード・ザーダはその地位を追われた。  ザーティーは、またただの詩人となった。  ただの詩人では生きてゆけない。  それで、まだバヤジット二世がスルタンのうちに、ザーティーの始めたのが、占いの店であった。  土占い。  客に箱の中の砂に手で触れさせ、その時、砂についた跡で、過去や未来を占う。  古代から伝わる占いだが、詩人同様に、占い師であろうと、それで充分な収入があるわけではない。  この時期、ザーティーは耳が聞こえなくなった。  完全に聞こえなくなったのではないが、普通に会話する時の声は、ほとんど聴きとれなかった。  耳元で、大きな声で叫べば、会話はなんとかできるものの、口で詩を吟《よ》み、耳でその韻律《いんりつ》を聴くのが主な詩の鑑賞法であったこの時代にあって、聴力の不足は致命的であった。  ザーティーは、スルタン・バヤジット二世のモスクの近くに、占いの店を開いていたのだが、ほとんど客が寄りつかなくなった。  客が、何を占って欲しいのかを告げても、ザーティーにはそれがわからない。  金はない。  未来もない。  あてにしていた、パトロンたちは、戦と宮廷内政治に明け暮れて、金をまわしてくれない。  そういう時期に、セリム一世が、父であるバヤジット二世からスルタンの座を奪ったのである。  ザーティーは、たちまちにしてまた一編の頌詩《カシーデ》を創ってのけた。  この、詩の華麗な詩句にセリム一世は称賛の言葉を送り、またもや、ザーティーは宮廷内で高い評価を得ることとなったのである。  しかし、セリム一世もまた、戦に明け暮れたスルタンであった。ただし、一級の詩人でもあった。  スルタン即位直後は、ザーティーのパトロンとして、色々の面倒はみたものの、すぐにセリム一世は戦の日々に入っていってしまったのである。  このセリム一世が死んで、次にスルタンとなったのが、スレイマン大帝であった。  またもや、ザーティーは、堂々たるスレイマンを讃える頌詩《カシーデ》を作り、これを送った。  これを、スレイマンはおおいに気に入り、ザーティーを宮殿に出入りさせるようになったのである。  スレイマンは、ふたりの前王のごとくに、ある一時だけザーティーの面倒をみたのではない。  それは、ザーティーの死まで続いた。  これは、スレイマン自身が、詩の才をもって生まれつき、自らも詩人ムヒッビー(恋する者)として多くの詩を残した人間であったからこそのことであろう。  スレイマンもまた、多くの戦を戦い、それに勝利を収めてきた人間であるが、壮麗王の異名のあるごとく、スレイマン自身は、武の人であるよりも、文の人であった。  このスレイマンが、ザーティーから捧げられた頌詩《カシーデ》の中で、特に気に入ったのが、次の二行連句であった。 [#ここから2字下げ] 正義が城門の前に現れると 奴隷は解放された ヌシルバンは奴隷を拘束しない ただ自分の鎖をしっかりとつないだ [#ここで字下げ終わり]  東ローマ帝国に屈しなかったササン朝ペルシアのヌシルバンをひきあいに出して、スレイマンを誉めたのである。  しかし、ザーティーは、自分の店をやめなかった。  占いをやり、そして、靴を作り、露店でそれを売った。  ザーティーの店は、占いの店というよりは、いつの間にか、イスタンブールに住む芸術家や詩人たちの溜り場——サロンのようになっていた。  この頃には、もう、ザーティーは、しゃべる人間の唇の動きで、相手が何を語っているのかわかるようになっていた。  まだ世に出る前の詩人たちが、ザーティーの店でたむろし、そして、自作の詩をザーティーに見せた。  それらの詩を、ザーティーという人物は、平気で自分の詩として自作の中に取り入れ、どういうことわりもなく、それを自分の『詩集《ディヴァン》』の中に収録した。  他人の詩句は自由に自作として使用しても、若い詩人たちが、逆にザーティーの詩句を盗作すると、彼は烈火のごとくに怒ったという。  ちょうど、このような時期に、シナンはザーティーの店で、ハサンを待っていたのである。 「さて、では、そろそろだな」  ザーティーは、カフヴェの入っていたカップを持ちあげ、その中を覗き込んだ。 「ほほう」  ザーティーは、おもしろそうな声をあげた。 「どうしたんです?」 「シナンよ、あんた、近いうちに遠出をすることになるぞ」  ザーティーは、まだ、カップを覗き込みながら言った。       3 「何故、そういうことがわかるんですか」  シナンは訊いた。 「ここに出ているからさ」  ザーティーは、カップをテーブルの上に置いて、その中を指差した。 「中を——」 「中?」  言われて、シナンは上からカップの中を覗き込んだ。  カフヴェの粉が、生乾きになって、カップの内側にこびりついていた。  逆さにしていたため、カップの縁に向かって、粉が底から流れ下った跡もある。カフヴェを飲み終えても、カップの底に、大量の粉の多いどろりとした液体が残る。それが、逆さにふせられたカップの内側に様々な模様を作っているのである。  粉の濃いところは黒。  薄いところは、カップの地の色が透けて見えるため、白っぽく見える。白っぽく見えるところは、底に溜っていた液が流れ下ったところだ。 「ごらん」  ザーティーの指は、その白い筋を指差していた。 「これは道だ」 「道?」 「川と考えてもいいが、この場合は道だ。こちらに駱駝《ラクダ》の模様があるからね」  ザーティーの指が移動して、別の模様を指差した。  なるほど、それは駱駝に見えなくもない。 「精神的な道、きみの生き方としてこの筋を捉えてもいいが、ここに駱駝がいるから、実際の道と考える方がいいだろう。そして、この駱駝は、旅を暗示している」 「——」 「そして、この道は、カップの底近くから、縁まで続いている。これは、その旅が長いものになるということを示している。遠出をすることになると言ったのは、そういう意味だよ」 「旅ですか」 「幾つかの障害があるな」 「障害?」 「この筋が、途中、曲がったり、細くなったりしている。これは、その旅で、きみが出会う試練だな」 「どんな試練なんですか」 「さあ、そこまではわからない。しかし、この駱駝は、荷を積んでいるように見える」  なるほど、駱駝の背に荷が積んであるように見えなくもない。 「この荷を、行きと考えるか、帰りと考えるかだが、帰りと考えるなら、きみは多くの実りを持って、このイスタンブールにもどってくることになるだろう」 「本当にそういうことがわかるのですか」 「最近、わたしが始めた、新しい占いだよ。砂の模様を、カフヴェの模様に置きかえただけなんだがね」 「へえ」 「何事も、アッラーのおぼしめしさ。アッラーは、ある時は砂を通じて、ある時はカフヴェを通じて、我々に、我々の運命をお示しになられる——」  ザーティーは、詩句でも唱えるような口調で言った。 [#ここから2字下げ] 人の生き死に 恋の行方 今夜のパンの量にいたるまで 何事もアッラーのおぼしめし あなたにできるのは アッラーをあがめることだけ わたしにできるのは アッラーをうやまうことだけ 宝の山が 目の前にあったとて 美しい女が 色よい返事をくれたとて アッラーのおぼしめし次第 アッラーのお許しのないうちは 宝石のひと粒 女の白い指一本だとて 我らは手にすることが かなわない [#ここで字下げ終わり]  ザーティーは、即興の詩句を歌うように口にした。 「わたしのその旅が、どれだけ実りが大きいのかも、アッラーのおぼしめし次第ということですか」  シナンが言うと、 「まあ、そういうことだな」  ザーティーがうなずいた。  その時—— 「おい、シナン」  横手から声がかかった。  シナンが振り向くと、そこに、ハサンが立っていた。       4  挨拶は、短かった。  ザーティーが席を立った途端に、ハサンは用件を切り出した。 「シナン。おまえにやってもらいたい仕事がある」 「なんだ」  シナンは問うた。 「ヴェネツィアへ行ってもらいたい」 「ヴェネツィア?」 「そうだ」  ハサンはうなずいた。 「ヴェネツィアから、もしできるのなら、ローマ、フィレンツェまで足を伸ばしてもらいたいのだが」 「どういうことだ」  シナンは訊いた。  基本的に、ヨーロッパのキリスト教国は、オスマンにとっては敵国である。  そう簡単に、オスマントルコの人間が入ってゆけるものではない。  現在、ヴェネツィアとは、そこそこ均衡を保ってはいるが、いつまた戦《いくさ》になるかはわからない。  しかし、ヴェネツィアやフィレンツェから、このイスタンブールに人も来ているし、商人たちの特別な者は、互いの都市の間を行き来したりもする。  イスタンブールには、ローマからやって来た人間たちが生活する一画もある。  だが、イェニチェリであるシナンが、そういう都市へ出かけてゆくわけにはいかない。行くとするなら、イェニチェリの身分を隠してということになる。 「色々と、見てきてもらいたいのだ」 「何をだ」 「たとえば、橋だ」 「——」 「たとえば、城壁」 「何のために?」 「戦のためさ」 「戦?」 「戦となれば、長い遠征をする。幾つも川を越えねばならない。橋のない場所に橋を架けねばならぬことはよくある。我らオスマンを前に進ませぬために、わざわざ橋を、奴等が自ら落としてしまうこともある。そういうところを、よく見てきてもらいたいのさ」 「しかし、何故、それがおれなんだ」 「見に行くといったって、ただの人間が行くんじゃだめだ」 「——」 「多少は、そちらの方面のことがわかる人間でないとな」 「ふむ」 「かといって、イスタンブールに残っていてもらわねばならぬ人間を行かせるわけにもいかぬのさ」 「それで、おれか」 「おまえは、何かを建てたり、橋を造ったりということに、妙な才能がある」 「——」 「こういう時に、どこを見ればいいかは、おのずとわかっている」 「だが、どうしておれなんだ。多少建築のことがわかる人間なら、まだいるではないか」 「おれが、推薦したんだよ」 「推薦? 誰にだ?」 「イブラヒム様にな」 「大宰相の?」 「今夜、つきあってもらうぞ」 「つきあう?」 「トプカプ宮までな」 「——」 「イブラヒム様が、そこで待っている。おまえに話があるそうだ」       5  大宰相イブラヒムは、イスタンブールに、自分の屋敷を持っている。  それとは別に、トプカプ宮の内部にも居室があった。  トプカプ宮に用事がある時にイブラヒムがくぐる専用の門があり、さらに、トプカプ宮内部に、専用の部屋までが用意されていた。  代々の大宰相が使用した部屋を、今、イブラヒムが使っている——そういう部屋ではない。  イブラヒムという個人のために設けられた部屋であった。  その部屋に、シナンはいる。  青い模様の入ったタイルで部屋の壁は飾られていた。  細かい模様の絹の絨毯《じゅうたん》。  部屋のそこここに置かれているシナから渡ってきた壺や、黄金細工の盃。  シナンの正面には、玉座とも見まごう椅子がある。  尻と背のあたるところは、刺繍《ししゅう》の入ったビロードの布でふっくらと覆われていた。肘掛けや、背もたれの縁は、細工の入った黄金でできており、サファイアやエメラルド、ルビー、真珠などの宝石がちりばめられている。  シナンは、ハサンと並んで、やがてそこへ腰掛けるべき人物を待っていた。  廊下の方に、人の動く気配があった。 「参られたぞ」  ハサンが言った。  扉が押しあけられ、そこから、赤い刺繍のふんだんに入った長衣を身につけたイブラヒムが入ってきた。  供の者が、二人、イブラヒムに従っている。  シナンは、ハサンと礼をとった。  頭を下げている間に、イブラヒムは椅子に腰を下ろしていた。 「シナンか」  言われて、シナンは顔をあげた。  眼の前に、イブラヒムがいた。  貌《かお》だちが整っている。  近くで見ると、その顔には皺《しわ》もあり、疲れのようなものがその身体にまとわりついているが、普段遠目に見るより威厳がある。  奴隷の身分から、ここまで登りつめた男であった。 「はい」  シナンは言った。 「いつぞやは、世話になった」  ハサンと一緒に、襲われていたこの人物を救った時のことについて言っているのである。  何故、あのような目に——そうは問わなかった。 「お役に立てて光栄でした」 「昔も今も、色々と、このわたしを陥《おとしい》れようとする者や、生命をねらう者が少なくないのだ」  イブラヒムは言った。 「はい」  シナンは、短くうなずいた。 「わたしの敵は、オスマンの外にばかりいるのではない。このイスタンブールにも——いや、このトプカプ宮にもいるということだ……」  シナンの返事を期待しての台詞ではない。  シナンは、答えず、次のイブラヒムの言葉を待った。 「おまえのことは、前から耳にしている、シナン」 「はい」 「このハサンから聴かされなくとも、ロドス島で、おまえのやった仕事については、評価が高い」 「あの、穴のことでございますか」 「そうだ。城壁の内側まで掘った穴——あれはどれも、ぴたりとねらった場所に出た。おまえの示したやり方で、二日も早く作業を終えることができた……」 「恐縮でございます」 「よく、聖《アヤ》ソフィアへゆくそうだな」 「はい」 「それで思いだしたことがひとつある」 「——」 「実は、おまえと会ったのは、あの夜が初めてではない」 「と言いますと?」 「十年以上も前に、おまえとは会っている」 「イブラヒム様と?」 「わたしと、スレイマン様とだ」  そう言って、イブラヒムは、シナンを見つめた。 「場所は、聖《アヤ》ソフィア」  イブラヒムが言った時、ようやく、シナンは思い出していた。 「あの時の——」  シナンの声が高くなった。       6  十年以上も前——若き大宰相はそう言った。  正確には、十七年前だ。  西暦一五一二年。  デヴシルメによって、シナンがイスタンブールに出てきた年の夏。  その時のことは、シナンはよく覚えている。  生まれて初めて、聖《アヤ》ソフィアの内部に入っていった日のことだからだ。あの巨大な空間に包まれた時の、どきどきするような至福感。  その時の感覚が、シナンの胸に蘇ってきた。  あの時——  声をかけてきた、少年がいたはずだ。 �何か見えるのですか�  その少年は、シナンにそう問いかけてきた。 �神が……�  シナンはそう答えている。  その少年と、聖《アヤ》ソフィアについて話をした。 �しかし、それでも、これを私は讃美せずにはいられない。たとえ、異教徒の建物であろうとも……�  少年はそうも言った。  これまで、何度も思い出した光景であった。  少年の言葉も、細かく思い出せる。  その時の、声の抑揚。  少年の唇の動き。 �まるで、異教徒の前に、膝を折っているようです。イスタンブールは、いや、イスラムがこの聖《アヤ》ソフィアに膝を折っているようです� �イスラムの連中に、あの聖《アヤ》ソフィアよりも偉大な建物を造ることができるのかと——� �私には、この聖《アヤ》ソフィアが疎《うと》ましいのです。この聖《アヤ》ソフィアが邪魔なのです。こんなものは、いっそこの地上から消えてしまえばいいとも思っています。しかし、これを壊すことができないのです。壊すには、これは、あまりにも偉大すぎる……� �我々の聖戦《ジハード》は、まだ終っていないのです。イスラムが、イスラムの手でこの偉大な建物よりさらに偉大な建物を建てるまでは、まだ、イスラムとビザンチンの闘いは続いているのです�  少年の言葉が、シナンの耳に、蘇ってくる。  あの時、少年には連れがいたはずだ。  少年は、その連れのことを、何と呼んでいたか。  確か—— �イブラヒム�  そのように呼んでいたはずだ。  それが、このイブラヒムであったということか。  ならば、あの時、このイブラヒムと一緒にいた少年こそ——  スルタン・スレイマン!?  あの時は、まだ、スルタンになってはいなかったはずだ。  スルタンとなったのは、それから八年後ではなかったか。  スルタン・スレイマンも、イブラヒムも、これまで、何度かその姿を見たことはあった。しかし、それは、遠目であり、たまに近く見ることはあっても、スルタンの衣裳に身を包んだ姿からは、あの時の少年の面影まで想像できなかったのだ。  近く見るとは言っても、それでも、眼の前というわけではない。  遠征のおりに、馬上の人として、その衣裳や、姿は見ても、顔まで見る機会は少ない。 「覚えております」  シナンはうなずいた。 「それは嬉しい」 「しかし、イブラヒム様が、どうして、わたしのことを覚えていて下さったのですか」 「あの時、おまえは、聖《アヤ》ソフィアが不完全なものだと言った」 「はい」 「その原因がわかれば、聖《アヤ》ソフィアより偉大なジャーミーを建てることができるとも——」 「——」  たしかに、そういうことを言ったような気もする。  しかし、それは、ここでうなずくにはあまりにも傲慢すぎる発言であった。 「デヴシルメでイスタンブールにやってきたばかりのイェニチェリが、そんなことを言っていれば、長く記憶に残る——」 「——」 「しかし、その時のシナンが、ここにいるシナンと同一の人物であるとわかったのは今だ。ハサンから、おまえの話は色々耳にしていたのでな、もしかしたらと思ってはいたのだが——」 「では、あの時、御一緒にいらっしゃったのは——」 「スレイマン様だ」  イブラヒムは言った。  シナンは、恐縮して頭を下げた。  それを、ハサンが、驚きの顔で眺めている。  その時、シナンは二十四歳であった。  スレイマンは、まだ十七歳で、スルタンとなるのは、八年後である。  イブラヒムは、十八歳で、もちろんまだ大宰相ではない。  今、シナンは四十一歳。  スレイマンは、三十四歳。  イブラヒムは、三十五歳。  十七年の歳月が流れていた。 「時おり、おまえの話は、耳にしていた」  イブラヒムは言った。 「わたしの?」 「さっきも言ったが、ロドス島の時は、おまえの発案したやり方で、早く、正確に城壁のむこうまで穴を掘ることができた」 「——」 「モハチのおり、ドラヴァ河に橋を架《か》けたが、そのおりにも、おまえの進言が役にたったと聞いている」  イブラヒムの言うモハチのおり、というのは、三年前——一五二六年に行なったハンガリー遠征のことである。  その年の、四月二十一日、スルタン・スレイマンは、ベルグラード目指してエディルネ門からイスタンブールを発《た》った。  二人の宰相、ムスタファとアヤスも同行した。もちろん、大宰相イブラヒムも一緒であった。  軍勢一〇万。  大砲三〇〇門。  その行軍は、嵐と豪雨に悩まされた。  川が氾濫《はんらん》し、多くの橋が流された。  それでも、オスマン軍の鉄の規律は、このおりさらに厳格となった。  播種の終った畑を踏み荒らしたり、そこへ馬を放った者は、その場で処刑された。その処刑された人間の中には判事もまじっていたのである。  この当時、ハンガリーは、ヨーロッパの強国のひとつであった。  オスマンが、ヨーロッパをねらうにあたって、目の前にそびえている巨大な壁が、このハンガリーであった。  オスマン軍は、ペトロヴァラディンの要塞を、まず落とした。  この時、大宰相イブラヒムは、要塞守備隊の首級五〇〇をあげたが、失ったオスマン軍の人数はわずかに二十五であった。  遠征隊は、ダニューブに沿い、ブダに向かって進軍した。  イロク市、エセク市を取り、スレイマンの軍は、ここでいよいよドラヴァ川を渡らねばならなくなった。  そこで、このドラヴァ河に橋が架けられることとなったのである。  この建設に、シナンも参加をした。  橋の長さ二八〇オーヌ(三三二メートル)、その幅二オーヌ(二・四メートル)。  この橋を、シナンたちは、わずか五日で完成させたのである。  イブラヒムが言ったのは、このおりの架橋のことであった。  全軍が橋を渡り終えると、スレイマンは、軍の見ている前で、この橋に火を掛けさせ、焼き落とした。 「退路はない」  スレイマンは叫んだ。 「生きてイスタンブールに帰るには、勝利する以外にない」  そうして、オスマン軍はモハチの平原に到達したのである。  ハンガリー王ラヨシュ二世は、軍を率いて、そこでスレイマンを待っていた。  この戦いにあたって、ラヨシュ二世は、イギリスに援軍を乞い、イランのシャーには、背後からオスマンを牽制するよう使者を送っていたのだが、イギリスも、イランも動かなかった。  この時、スペインにいたカール五世もまた動かなかった——いや動けなかった。  このカール五世の異教徒に対する動きを阻んだのは、皮肉なことにキリスト教国であった。ヨーロッパの一部と教皇が手を結んだコニャック同盟への対応に追われて、カール五世はそれどころではなかったのである。  カール五世の弟であるフェルディナンドは、ドイツ国会に火のごとき熱意をもって、出兵を要請した。 「ハンガリーは、確かにあなた方にとっては、他国でありましょう。しかし、この他国ハンガリーが落とされれば、次にハンガリーと同じ運命をたどるのは、ドイツとなりましょう」  そして、ようやく二万四〇〇〇の兵を送る決心を国会はしたのだが、その時にはすでに戦いにけりがついてしまっていたのである。  モハチでの戦いは、八月二十九日、午後三時に始まった。  ハンガリー側のペレニ司教は、 「この戦いで、二万人のハンガリー人が殉教することになるでしょう」  このように予言をした。  ハンガリーの貴族たちは、この予言を信用しなかった。 「まさか」 「そのようなことのあるわけがない」  確かに、ペレニ司教のこの予言は当らなかった。  ハンガリー側の死者は、ペレニ司教の予言した二万人を遥かに上まわっていたのである。  トルコの歴史家ケマルパシャザーデは、このモハチの戦いについて、次のように記している。 [#ここから1字下げ]  アクンジュ(不正規騎兵)たちが激浪の中へ身を投じた時、血の海は泡立ち波を立て始めた。彼らの赤い被り物は、戦いの庭をチューリップの花壇となさしめた。楯は薔薇の花弁が開くごとくに裂け、兜はつぼみの薔薇のごとくに血に満たされた。血煙は真紅の雲となり天に昇り、勝利の約束として、頭上に薔薇色の天を現わした。 [#ここで字下げ終わり]  しかし、ハンガリー人たちは、勇敢であった。  スレイマン大帝が、その生涯の中で、もっとも生命の危険にさらされたのが、この時の戦いであった。  ハンガリーの騎士たちの一団——三十二名が、スレイマンの肉体に息がかかるほどの近くにまで、剣を突き出しながら迫ったのである。  この時、スレイマンを守ったのは、スレイマン自身の胆力と、そして、イェニチェリたちであった。  スレイマン自身も剣を抜き、彼らと刃を交えたのである。 「このスレイマンの首が欲しくば、己が剣で奪いに来るべし」  そう叫んだスレイマンの甲冑に、次々に矢が当った。  幾人ものイェニチェリが死んだが、ついに彼らはこのスルタンを守り通したのである。  この戦闘は夜まで続き、そして、オスマン軍は勝利した。  ハンガリー人は、敗走した。  その多くの者は、沼地にはまり、ラヨシュ王もここで戦死した。  翌日——  スレイマンは、赤い幕舎の中で、黄金の玉座に座して、高官たちからの祝辞を受け、彼らにも多くの報賞を与えた。  幕舎の前には、うず高くピラミッド状に、敗者の首級が積み重ねられた。  その数、およそ、二〇〇〇。  その中には、七人のハンガリー人司教の首も混ざっていた。  ハンガリー軍の死者、三万人。  ペレニ司教の予言した数より、一万人も多かったことになる。  この勝利は、あらためてヨーロッパ諸国を震撼させた。  この戦いからはるか遠いイギリスでさえ、 「トルコ人が来る」  そう言えば、泣く子も泣き止んだという伝説も生まれた。  モハチにおけるこの勝利に、大きく貢献したのがイブラヒムであった。  この大宰相は、自らルメリ遠征部隊の最前列に立って、この戦いの趨勢《すうせい》を支配したのである。ケマルパシャザーデは、このイブラヒムを、次のような記述をもって讃えた。 [#ここから1字下げ]  イスラム史上、最も栄えある勝利であり、不信者にとっては致命的なこの輝かしき勝利は、戦いを好むエミール、周到なる宰相、イブラヒム・パシャのおかげであった。その槍は猛々しい鷹の嘴《くちばし》のごとく、血に渇いたその剣は勇敢なる獅子の爪のごとし。 [#ここで字下げ終わり]  この饒舌《じょうぜつ》なる歴史家は、イブラヒムのことを、 「宇宙に光を注ぐ太陽」 「餌食を執拗に追跡する獅子」 「幹から剣をはやした糸杉」  に喩《たと》えている。  スルタン・スレイマンもまた、一歳年上の友人のことを讃える言葉を惜しまなかった。  勝利を知らせる、母后あての書簡の中で、スレイマンは、イブラヒムのことを、 「天賦の才を発揮した英雄」  であると書いている。  スレイマンは、自らの手によって、この大宰相のターバンに、ダイヤで飾られた青鷺《あおさぎ》の羽を付けた。  それは、歴史家の言葉によれば、 「恩寵の翼のごとく、その影もて彼を覆った」  という。  スレイマンは、この勝利を記す書簡を、次のように結んだ。 [#ここから1字下げ]  著名なるスルタンたち、最強のハンたち、さらには預言者の教友たちの誰一人として手に入れることができなかったような勝利を、鷹揚なる神はわが軍勢に与えたもうた。不信の民の生き残りは根絶された。世界の主たる神を称えよ。 [#ここで字下げ終わり]  こうして、スレイマン率いるオスマン軍は、九月十日、ブダに到ったのである。  スレイマンは、この都での略奪を禁じたが、それは守られなかった。  多くの兵士たちが、この宝の山を前に狂ったようになった。  ダイヤ、ルビー、エメラルド、眼につく限りの宝石、黄金が略奪され、女は犯された。多くの人間が殺された。  イェニチェリたち全員が、彼らの帽子を略奪した黄金で一杯にしたと、トルコ側の歴史家ケマルパシャザーデ自身が記しているのである。  ブダを去る前に、イブラヒムはふたつのことをした。  まず、イブラヒムは、ブダのすべての大砲、城の財宝、そしてヘラクレス、ダイアナ、アポロンの青銅の像を船に積ませたのである。  そして、世界的にも有名であった、ハンガリー前王マティアス・コルヴィンの蔵書をイスタンブールまで持ち帰ったのである。  イブラヒムの栄光時代の頂点であったと言っていい。  しかし、今、シナンの眼の前にいるイブラヒムには、疲れの色があった。 「ところで、シナン——」  このシナンよりも歳若い大宰相は、あらためて言った。 「はい」  シナンは、イブラヒムに向かって頭を下げた。 「今日、おまえをここに呼んだのには理由がある」 「はい」  シナンはうなずくだけだ。 「ハサンからは、どう聞いている?」 「ヴェネツィアへ行けと——」 「その通りだ。何のためにという話は聞いたか——」 「色々、見てくることが仕事であると——」  シナンは、ハサンから言われたことを語った。 「その通りだ。おまえには、ヴェネツィアへ行って、色々と見てきてもらいたい」 「はい」 「しかし、その橋を見たり、川を見たりというのは、表向きの仕事だ」 「表向き?」 「おまえに、見てきてもらいたいことは、まだあるということだ」 「——」 「すでにわかっていると思うが、来月、五月には我々はまたハンガリーに向かって進軍することになる」 「はい」 「しかし、おまえは、このわたしの申し出を受ければの話だが、この遠征には参加しなくてよいのだ」 「はい?」 「ちょうど、その頃には、おまえもヴェネツィアへ向かって、このイスタンブールを発ってもらいたいのだ」  そう言われてもまだ、シナンには話がよく飲み込めない。 「ハサン」  イブラヒムは、ハサンに視線を向けた。 「は」 「お呼びしなさい」  イブラヒムが言うと、ハサンは、すぐに部屋を出てゆき、ひとりの男と一緒にもどってきた。  黒い巻き毛の青年が、ハサンと一緒に部屋に入ってきた。  瞳の色は青。  鼻が高く、鼻筋がきれいに通っている。  年齢は、三十歳を超えているだろうと思われた。  しかし、どのくらい超えているのかというと、その見当がつかない。  その男は、うやうやしくイブラヒムに挨拶をして、あらためてシナンに向きなおった。 「ヴェネツィアの大使、ルイジ・アロイシ・グリッティ殿だ」  低い声で、イブラヒムはその男をシナンに紹介した。 「しばらく前に話をした、シナンと言います」  イブラヒムは、次にシナンをその男——ヴェネツィア大使のアロイシ・グリッティに紹介した。  アロイシ・グリッティ——いつであったか、シナンは、ザーティーの店で、ハサンからその名を聞かされている。 「本題に入る前に、シナン、おまえに少し訊ねておきたいことがある」  大宰相は言った。 「何でしょう」 「アロイシ殿の前で、おまえが、ヨーロッパの事情について、どれだけのことを理解しているのか、それを話してみてはくれまいか」  ヨーロッパの事情——いきなりそう問われても、すぐに言葉が出ない。 「ヨーロッパの何についてお話しすればよろしいのでしょう」 「そうだな。では、アロイシ殿の御国である、ヴェネツィアが、今、どういう事情にあるのか、それを話してはくれまいか」 「わかりました」  シナンは、うなずき、 「ヴェネツィアは、今、たいへん強大なる剣を、喉元と、背に突きつけられております」  まず、そう言った。 「ほう」  イブラヒムは、小さく声をあげた。 「一方の剣は、右手に握られ、もう一方の剣は左手に握られていますが、これを握っているのは、同じひとりの人間であるということです」 「誰かね、それは?」 「神聖ローマ帝国皇帝——スペイン王カール五世です」  シナンは言った。       7 「ほう、それはどういうことかね?」  イブラヒムが訊いた。 「喉元に突きつけられた剣とはローマのことです」  シナンは言った。 「背は?」 「オーストリアです」 「なるほど、そういうことか」  イブラヒムはうなずいたが、それは話の流れを中断させぬためのものだ。  イブラヒムは、シナンの言ったことの意味は初めからわかっている。しかし、それを自分の口から言ってしまうのでは意味がない。シナンの口から言わせたかったのである。 「まさに、その通りだ」  イブラヒムは、満足そうに言った。  二年前——  一五二七年の五月、ローマはスペイン王にして神聖ローマ帝国皇帝であるカール五世の軍によって占領されている。そこで、大きな掠奪が行なわれた。  ローマ法王は、捕囚同然の境遇となり、カール五世の言うことは何であれ聞かねばならない立場にあったのである。  ナポリから南はカール五世の領土になってしまっている。  背に突きつけられた剣、オーストリアを治めているのは、カール五世の弟フェルディナンドである。  この頃、北はジェノバもミラノも、スペイン軍のものとなっており、その剣は、いよいよ、フィレンツェとヴェネツィアにも迫りつつあったのである。  つまり、フィレンツェとヴェネツィアの北と南は、カール五世とフェルディナンド——つまりハプスブルク家のものとなってしまったと言っていい。 「いずれ、ローマ法王は、イタリア全土の支配権を、神聖ローマ帝国皇帝に与えることになるでしょう」  シナンは言った。 「ほう」  声をあげたのは、ルイジ・アロイシ・グリッティであった。 「それは、そなたの考えか。それとも誰かから聞かされた話か」 「わたしの考えです」 「何故、そう思う」 「カール五世の意志がそうだからです。法王クレメンテ七世は、その意志に従うほかはないでしょう」  シナンは言った。  事実、これより二カ月後の六月、ローマ法王は、シナンの言った通りの講和条約をカール五世との間で結ぶことになる。 「そうなれば、フィレンツェ、ヴェネツィアを攻める大義を、カール五世は手に入れることになる」  ルイジ・アロイシ・グリッティは言った。 「はい」 「で、法王の見返りは?」 「まず、その生命」 「他には?」 「メディチ家のフィレンツェ復帰——」 「なるほど」  ルイジはうなずいた。  かつて、フィレンツェを事実上支配していたメディチ家は、今はフィレンツェを追われてしまっている。  そのメディチ家を再びフィレンツェに復帰させることは、このメディチ家出身のローマ法王の大きな願いでもあったのである。 「カール神聖皇帝は、まずフィレンツェを落とし、続いてヴェネツィアを手に入れようとするでしょう」 「わがヴェネツィアの危惧の一番大きなものはそこだ」 「はい」 「わがヴェネツィアの一番の脅威は、異教のオスマンではなく、同じ神を信奉するキリスト教国なのだ」  若い大使は言った。 「このたびの、オスマンのオーストリア遠征は、まず、ヴェネツィアに迫りつつある背の剣を牽制することになりましょう」 「その通りだ」 「このオスマンの遠征には、ルイジ大使の——いえ、ヴェネツィアの意志も大きく関わっていると考えてよろしいのでしょう?」  シナンは言った。 「それについては、イブラヒム様には実にお世話になったのです。スレイマン様に、オーストリア遠征について、進言してくださったのもイブラヒム様です」  ルイジは、イブラヒムを見やりながら言った。 「もともと、オーストリア遠征は、スレイマン様——オスマンの望むところでもあったのだ」  イブラヒムは答え、シナンを見やった。 「シナンよ、それだけ心得ていれば、我らの役目を充分に果たすことができるだろう」 「役目?」 「ああ」  イブラヒムはうなずき、眼でルイジをうながした。 「わたしが書く手紙を持って、ヴェネツィアにいる、わが父の元に届けていただきたいのです」 「お父上と申されると、あのアンドレア・グリッティ殿のことですね」 「ええ」  ルイジはうなずいた。 「手紙を、お届けするだけでよろしいのでしょうか」 「いいや、届けたら、しばらく、ヴェネツィアにとどまっていただきたい」 「何故でしょう」 「今度の遠征は、ヴェネツィアの近隣諸国に、大きな衝撃をもたらすことになる。その結果によっては、ヴェネツィア自身を追いつめてしまうことにもなりかねない」 「大きな衝撃というと?」 「——」  シナンの言葉に、ルイジは口をつぐんだ。 「たしか、ルイジ様は、兵を募集しておられました……」 「その通りだ」 「大きな衝撃というのは、そのことですか」 「それもある」 「それも」 「ああ」 「まだ、何かあるのですか」 「あるかもしれない。ないかもしれない」 「何のことですか」 「それが何であるかは、残念ながら、今、教えるわけにはいかないのだ。事があまりに重要なことなのでな」 「——」 「しかし、そなたがヴェネツィアにいて、その報告を受けた時、ああ、これがそうであったのかと、わかるであろう」 「必ず?」 「必ず」  ルイジはうなずいた。  今度の遠征では、ルイジは、自らの兵を募集し、その集まった兵たちを配下にして、スレイマンと一緒に遠征に加わることになっている。  一国の大使が、大使として在駐している国のために、自ら兵を集め、遠征に参加をする——めったに起ることのないことであった。  ましてや、ルイジの場合は、キリスト教徒でありながら、キリスト教国の敵であるオスマン軍に味方をして、キリスト教国であるオーストリアと戦《いくさ》をしようとしているのである。  オーストリアに剣を突きつけられているとはいえ、ヴェネツィアもキリスト教国である。  イスタンブールに在駐しているヴェネツィア大使が、オスマン軍の一隊を指揮してキリスト教国を攻めたということは、すぐにヨーロッパ中に知れわたることになる。  そうなったら、困るのはヴェネツィアである。  ヴェネツィアが、ヨーロッパのキリスト教国の中で孤立することになる。  確かに、ヨーロッパのキリスト教国は、互いに反目しあっているところもある。  しかし、こと、対オスマンということになれば、それは話は別である。反目しあっている国が、協力しあってオスマンに対するということは珍しいことではない。  そのオスマンの一員に、大使であるルイジがなってしまうというのは、ヴェネツィアとしてはおおいに困ることであったのである。  それが、ひとつ目の憂いであることは、ルイジも認めたが、もうひとつの憂いについては、ルイジは口をつぐんだ。  それは、ひとつ目の憂いよりは、さらに困った事態をヴェネツィアにもたらすことであるのか。 「それが、何であるかをあなたには教えられない。教えられない理由も教えられない。理由を教えれば、それが何のことであるかわかってしまうからなのだ」  ヴェネツィア大使、ルイジ・アロイシ・グリッティは言った。       8  ヴェネツィアとオスマンとは、他のヨーロッパ諸国と比べれば、これまで、かなりうまくやってきたと言える。  時には戦などもしたが、関係は良好であったと言っていい。  その�友好関係�は、全て、ひとりのヴェネツィア人がもたらしたものであった。  そのヴェネツィア人こそ、ルイジ・アロイシ・グリッティの父、アンドレア・グリッティであった。  後に、アンドレア・グリッティは、ヴェネツィアの元首《ドージェ》にまでなっている。  アンドレア・グリッティは、一四五五年に、ヴェネツィア貴族グリッティ家の長男として生まれた。  このアンドレア・グリッティの祖父は、ヴェネツィアの大使として、多くの国に派遣された人物であった。ヨーロッパで言えば、イギリス、フランス、スペインなどにも大使として駐在したことがあるのである。  この駐在の多くに、アンドレア・グリッティも同行している。  アンドレア・グリッティは、若いうちから、他の国家、他の民族についての理解を深めていったのである。ヨーロッパの国々の生《なま》の情報が行き交う場所に身を置き、教育は、やはりこの祖父の意思で、最高のものを受けている。  母国語であるイタリア語に加え、ラテン語、フランス語、スペイン語、ギリシア語、トルコ語まで話すことができたと言われている。  ある戦闘を指揮していた時、相手方のトリヴルチィオ将軍に捕らえられたおりも、わずかな時間のうちに、アンドレア・グリッティは、この将軍と食卓を囲むようになり、やがて、脱走に成功したのだが、トリヴルチィオは追手もかけなかった。  フランス王フランソワ一世の捕虜になった時も、王に惚れられて、生まれたばかりの王女の名付け親になったりもした。  大使としてトルコ滞在中も、アンドレア・グリッティは、スルタンや宰相と友人づきあいをし、多くの利を、母国ヴェネツィア共和国にもたらしている。  後年、アンドレア・グリッティが、元首《ドージェ》となった時のことだ。  フランスとスペインの間で戦争となり、フランス王フランソワ一世が、スペインの捕虜となった。  スペイン王カール五世の特使は、ヴェネツィアにやってきて、 「もはや、フランスを見捨てねばならない時期が来た。ヴェネツィアはスペインにつくべきではないか」  このように言って、元首《ドージェ》アンドレア・グリッティに迫った。  この時の、アンドレア・グリッティの言葉は、今も残っている。 「スペイン王、フランス王ともに、わたしの友人である。その一方にどのような不幸が訪れようと、これを見捨てることなどできようか。また、その一方に勝利の喜びがもたらされたのなら、それを友人としてともに喜ばないわけがあろうか。勝利した友とは、ともに喜びあおう。不幸な友とは、ともにその不幸を嘆こうではないか」  これが通用したのである。  ヴェネツィア共和国の独立は、この言葉によって保たれたのであった。  外交の技術——というよりは、アンドレア・グリッティという人物の魅力、その力が、ヴェネツィア共和国を支えていたのである。  アンドレア・グリッティは、不思議な星のもとにめぐり合わせている。  イスタンブールがオスマン軍によって陥落したのが、グリッティの生まれる二年前である。  ギリシアのネグロポンテが、オスマントルコによって占領されたのは、グリッティが十五歳の時であった。  これより九年後、オスマントルコとヴェネツィア共和国との間に講和が結ばれ、ヴェネツィアは、交易の自由を手に入れるのである。  アンドレア・グリッティが、イスタンブールに入ったのは、この講和が結ばれたすぐ後である。  一四七〇年、グリッティ二十四歳の時である。  大使としてトルコに行ったのではない。  交易商人として、グリッティはトルコに入ったのである。  この時のスルタンが、バヤジットである。  スレイマン大帝が生まれる二十四年前だ。  オスマンのスルタン・バヤジットもアフメット宰相も、グリッティとは友人づきあいをした。  このトルコ滞在中の二十年間に、グリッティは、ギリシア人女性との間に、三人の子をもうけている。  その三男が、ルイジ・アロイシ・グリッティであった。  しかし——  アンドレア・グリッティのトルコ滞在二十九年目に、オスマントルコとヴェネツィア共和国との間に戦争が起こった。  この時、グリッティは、とんでもないことをした。  普通、自分が滞在している国と母国との間に戦争が起こったら、周囲全てが自分と家族の敵となる。こういう時は、派手な動きをせずに、できるだけじっと耐えるものだが、グリッティは違っていた。  敵国イスタンブールで、密かに兵を募り、トルコ軍の造船所に火を点けたりしたのである。  この犯人としてグリッティは捕らえられ、死刑と決まった。  しかし、スルタンも、宰相も、他のトルコ人も、グリッティのことが好きであった。母国のために兵を募り、少ない人数で造船所を襲ったことも、ある意味では好もしい。  ついに、敵であるトルコ人たち自身の助命運動によって、グリッティは死をまぬがれたのである。  もっとも、この時、トルコ側にも思惑はあった。  グリッティを生かしておいて、ヴェネツィアとトルコがあらたに結ぶ講和条約のために使うことにしたのである。  ヴェネツィアにもどったアンドレア・グリッティは、トルコとヴェネツィアとの間を何度も往復し、トルコとヴェネツィアの講和条約を、三年かかってまとめあげてしまったのである。これは、ほとんどアンドレア・グリッティが、ただ独りでなしとげた仕事であると言っていい。  まことに、希代なる人物という他ない。       9  ルイジ・アロイシ・グリッティは、アンドレア・グリッティの息子であった。  生まれたのは、しかし、ヴェネツィアではない。  トルコのイスタンブールで、アンドレア・グリッティの三男として生まれている。  一四九九年に、第二次ヴェネツィア・トルコ戦争が始まった。  これによって、アロイシの父親のアンドレア・グリッティが、まず、ヴェネツィアに呼びもどされた。  そして、グリッティはついにたったひとりで、この講和条約をまとめてしまったのである。  しかし、その後、アンドレアはトルコに帰ることはなかった。  トルコでの貿易の仕事は長男、次男、ふたりの息子たちにまかせ、自身は、ヴェネツィアに住むことにしたのである。  そして、三男のルイジ・アロイシ・グリッティだけが、イスタンブールからヴェネツィアに呼びもどされたのである。  母親は、ギリシア人であった。  そのためか、アロイシは、ギリシア風のよく鼻筋の通った貌《かお》だちをしていた。  黒い巻き毛。  十四歳で、石弓兵として商船に乗り、エジプトのアレクサンドリアをはじめとして、シリア、アレッポ、チュニス、アルジェ、ロンドンまでもその足で踏んでいる。  当時で言う�世界�の大半をその眼で眺め、これによってアロイシは、世界の国々の事情に通ずることとなった。  二十歳を過ぎて、アロイシは、再びオスマントルコの都、イスタンブールにもどってきた。  アロイシが、再びイスタンブールに住むようになってすぐ、スルタンが、セリム一世からスレイマンにかわった。  この若き王の元で、アロイシは、異教徒としては例外的な出世をしてゆく。  それは、あのアンドレア・グリッティの息子であるということも大きく影響したが、アロイシ個人の才覚によるところもまた大きかった。この人物について特筆すべき点は、バランス感覚であった。  自分と他者との距離のとり方、国と国との間に生まれる力学——それを読むことに長《た》けていたのである。  このことによって、アロイシは、自分が表に出ることなく、常に、上手にヴェネツィアに利益をもたらしてきたのである。 �いかなる他国とも戦《いくさ》をしない�  これこそが、この複雑なヨーロッパの政治情勢の中で、ヴェネツィアが生き残ってゆくための最良の方法であることを、父アンドレア・グリッティと共に、最もよく理解していたのがアロイシであったのである。  アロイシのバランス感覚が、そのままヴェネツィアの対トルコのバランス感覚であったのである。  ヴェネツィアは、他国と戦をして領土を広げながら大きくなってゆくタイプの国ではなかった。  通商——  他国との友好、ビジネスによって生きてゆくことこそが、ヴェネツィア繁栄の道であった。  ヴェネツィアが食糧危機に陥った時、一度ならず小麦を大量に祖国にもたらしたのも、アロイシであった。  アラビア人が運んでくるオリエントの香辛料も、アロイシによってヨーロッパにもたらされる。シルクロードの絹、ペルシア絨毯《じゅうたん》、真珠。  これらのものの多くは、アロイシの手をいったん通って、ヨーロッパやヴェネツィア、そしてオスマントルコ帝国にもたらされたのである。  スルタン・スレイマンの元に集まってくる宝飾品も、アロイシの手を通ることになっていた。  そして、大宰相イブラヒムが飲むキプロス産の葡萄酒《ぶどうしゅ》もまた、アロイシが手配したものであった。  スルタン・スレイマンとアロイシとを繋いでいたのは、イブラヒムであった。  スレイマンを動かすためには、イブラヒムを動かすことが必要であるということを、誰よりもよく理解していたのがアロイシであった。  そして、何よりもアロイシとオスマンとを強く結びつけていたのは、トルコ軍が使用する武器の調達を、このアロイシがやっていたということである。このことが、アロイシに莫大《ばくだい》なる富をもたらしたのである。  大使——これはそのまま商人であった。  アロイシが、父アンドレア・グリッティと違う面を持っていたとするなら、それは、野心であった。       10 「シナンよ」  ルイジ・アロイシ・グリッティは、シナンに向かって言った。 「このたびの、オスマンのハンガリー遠征については、わたしも微力ながら、陰で力を尽くした。この遠征は、わが父アンドレア・グリッティの意思であり、わたしの意思でもある。それがヴェネツィアにとって、大きな利益をもたらすからだ。カルロス(カール五世)を牽制《けんせい》するのに、東から突きつけられた、オスマンという強大なる剣は、大きな力となるだろう」  自分に、言い聞かせるように、アロイシは言った。 「わがヴェネツィアのために——それは、わたしは、イブラヒム様を通じて、スレイマン様にも正直に申しあげている」 「ええ」  シナンはうなずいた。 「しかし、先ほども言ったが、わたしがこのハンガリー遠征そのものを企てたのではない。それはわかるな」 「はい」 「オスマンにとって、この遠征は、もともと為すべきものであった。わたしごときが、それを左右できるものではない。もしもわたしが、このことについて微力ながら貢献できたことがあったとするなら、遠征の時期をわずかながら早めたことくらいであろう」  この言葉に無言でうなずいたのは、イブラヒムであった。  アロイシは続けた。 「このたびの遠征で、わたしが心を痛めているのは、このわたしの名で集められた兵士たちが、トルコの旗のもとに、ヨーロッパに進軍することなのだ」 「——」 「わが父、アンドレア・グリッティは、わたしの名がこのようなかたちで表に出ることは好まぬであろう。当然、父は、�C・D・X(十人委員会)�から、厳しく詰問されるだろう。キリスト教国からの突きあげも、ヴェネツィアに対してあるであろう」  語っているアロイシの貌が、その身の裡《うち》に、見えぬ刃物を突き立てられているように微《かす》かに歪《ゆが》んだ。 「しかし、このわたしがやろうとしていることは、必ずや、わが祖国ヴェネツィアのためにもなることなのだ。もしも、事がおこり、父アンドレア・グリッティが、その息子のことで心を痛めるようなことがあったら、このわたしの胸の裡を父に伝えてもらいたいのだ」 「アロイシ様のおやりになっていることは、ヴェネツィアのためになることであると?」 「そうだ」  深い溜め息と共に、アロイシはうなずいた。 「シナンよ——」  そこで口を開いたのは、イブラヒムであった。 「おまえにヴェネツィアでしてきてもらいたいのは、見ることだ。このオーストリア、ハンガリー遠征時のヴェネツィアの様子を、ヴェネツィアの眼ではなくトルコの眼で眺めてきてもらいたいのだ」 「——」 「この遠征で、ヨーロッパには多くのことが起こる。それを、ヴェネツィアを通しておまえの眼で見てきてもらいたいのだ」 「トルコの眼で?」 「さきほどはそう言ったが、正確には、今言ったおまえの眼でということだ」 「どういうことでしょう」 「ヴェネツィアのことは、このアロイシからも色々と聴かされている。ヴェネツィアのみならず、各国にはオスマンに内通する者もいれば、こちらから間者として送り込んでいる者もいる。しかし、それは、内通者——キリスト教徒の眼であり、間者の眼だ。そのどちらの眼でもないおまえの眼で、西を見てきてほしいということなのだ」 「わたしの眼……」 「おまえは、神について不思議な考え方をする。もとキリスト教徒であり、今はアッラーを信仰する者だ。しかし、なお——」  イブラヒムは、そこで言葉を切った。  用心深そうにシナンを見つめ、アロイシを見、ハサンを見た。 「なお?」  シナンの問いに、イブラヒムは決心したように口を開き、 「アッラーを信仰しながら、なお、アッラーに囚《とら》われていない」  低い声で、早口に言った。  深く息を吐き出し、 「そういうおまえの眼が、必要なのだ」 「まだ、わたしは、わたしの役目がよく理解できておりません」 「おまえの役目は、見てくることだ。何を見よとか、特別にはこちらからはそれを言わない。見てきて、そして見てきたことを我々に報告する——それが、わたしが望むお前の役目と言えば役目なのだ」 「アロイシ様とイブラヒム様と、ふたつの御用をおおせつかったわけですね」 「そういうことになるが、実はそのふたつは同じ用事と考えてよい」 「わたしは、ヴェネツィアへゆき、わたしの望むように動いていいと?」 「うむ」 「このたびの遠征について、アロイシ様のことで、アンドレア・グリッティ様が心痛めるようなことがあれば、アロイシ様はヴェネツィアのためにそうしているのであるとお伝え申しあげればよいわけですね」 「そうだ」  アロイシがうなずいた。 「ここでは口にできない事情があちらで生じた時も、同じことをせよと——」 「そうだ」 「イブラヒム様には、ヴェネツィアでわたしが見聞したことについて、お話し申しあげればよろしいのですね」 「うむ」  イブラヒムはうなずいた。 「シナン、おまえのことは、イブラヒム様から時おり聴かされていた。今度のことで、誰をヴェネツィアにゆかせるかという相談をした時も、一番にあがったのがお前の名であった……」  アロイシは言った。 「わたしのことが、それほど——」 「ただの密偵を放つのなら、人はいる。現にそういう密偵もヴェネツィアにはいるのだ。しかし、この仕事は、ただ、向こうの事情を調べてくるというだけのことではない——」  イブラヒムは言った。 「さっそく、わたしは父に手紙を書こう。ヴェネツィアには、イェニチェリとしてではなく、絨毯の商人として行ってもらうが、父上の屋敷内で過ごすことができるよう、書いておこう。もしも、そなたの仕事が密偵であれば、わたしもそのような手紙を書くことはできぬ」  アロイシは、懐から、美しい、緑色に輝くものを取り出した。  エメラルドの指輪であった。  人差し指の先ほどの大きさのエメラルド——リングには、グリッティ家の紋章が刻まれている。 「そなたが出発する時には、これを持たせよう。父アンドレア・グリッティとふたりきりになる機会を得たら、そなたの手からこれを父上に渡してくれ。それだけで、父は、そなたがどういう事情でヴェネツィアまでやってきたのか、察してくれよう」 「はい」  シナンはうなずいた。 「シナンよ」  イブラヒムが、シナンに声をかけた。 「おまえも知っていようが、わたしも、もともとはキリスト教徒であった」  イブラヒムの両親は、ギリシア人であった。  したがって、イブラヒムの宗教は、もとはギリシア正教派のキリスト教徒である。  生まれたのは、イオニア海の港町パルガである。パルガは、二〇年あまり前まで、ヴェネツィアの植民地であった。  そのことを、短く語ってから、 「ヴェネツィアは、わたしのもうひとつの故郷のようなものだ」  イブラヒムは言った。 「わたしたちが、親しくおつきあいさせていただけるのも、イブラヒム様が、ヴェネツィアを愛して下さっているからなのだ」  アロイシは言った。  必要な話は、それでひと通り終り、イブラヒムとアロイシが退出した後、シナンもハサンと共に部屋を出た。 「今日は、まだ時間がある」  ハサンは、もう一度、ザーティーの店へゆこうとシナンを誘った。  その道々に、ぽつりぽつりと、ハサンはシナンに語った。 「今の話だがな——」  ハサンは、周囲を歩いている者に聴こえぬよう、低い声で言った。 「何だ」 「まだ、裏がある」 「裏?」  シナンは訊いた。 「おれも、まだ直接には聴かされてないが——」  ハサンはシナンの耳元に唇を寄せ、 「ロクセラーヌ様だよ」  小さい声で囁いた。 「ロクセラーヌ様?」 �ロクセラーヌ様�と言えば、このイスタンブールでは、ただひとりの方のみを指す言葉である。  このオスマン帝国最高の権力者であるスルタン・スレイマンの妃のことであった。 「イブラヒム様は、ロクセラーヌ様のことをたいへん気にしておられる」 「——」 「イブラヒム様とロクセラーヌ様の対立の話は知っているだろう」 「ああ」 「イブラヒム様は、ロクセラーヌ様には負けられぬ。そのためには、ひとつでも、手柄を増やし、味方を増やしておきたいのだ」 「それが、今回のヴェネツィア行きと関係があると?」 「ああ」  ハサンはうなずき、 「おれも、いよいよ表に出る機会がめぐってきたということさ」  不敵な笑みを、その口元に浮かべたのであった。 [#地から1字上げ](上巻 了) [#改ページ] [#地から1字上げ]冒頭の引用詩は井筒俊彦訳によりました。 夢枕 獏(ゆめまくら ばく) 1951年、神奈川県小田原市生まれ。東海大学文学部卒。89年に『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞、98年に『神々の山嶺《いただき》』で柴田錬三郎賞を受賞。伝奇バイオレンス、SF、格闘、山岳、時代・歴史など多彩なジャンルで活躍。著書に「キマイラ」シリーズ、「魔獣狩り」シリーズ、「餓狼伝」シリーズ、「闇狩り師」シリーズ、「陰陽師」シリーズ、『平成講釈安倍晴明伝』、『沙門空海唐の国にて鬼と宴す』(全四巻)など多数。  公式サイト「蓬莱宮」 http://www.digiadv.co.jp/baku/ [#改ページ] 底本 中央公論新社 単行本  シナン 上  著者 夢枕《ゆめまくら》 獏《ばく》  二〇〇四年一一月一〇日  初版発行  発行者——早川準一  発行所——中央公論新社 [#地付き]2008年11月1日作成 hj [#改ページ] 底本のまま ・長老《シャイフ》 ・長老《シェイフ》 ・メフメット ・メフメド 置き換え文字 掻《※》 ※[#「てへん+蚤」、第3水準1-84-86]「てへん+蚤」、第3水準1-84-86 躯《※》 ※[#「身+區」、第3水準1-92-42]「身+區」、第3水準1-92-42 繋《※》 ※[#「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94]「(車/凵+殳)/糸」、第3水準1-94-94 祷《※》 ※[#「示+壽」、第3水準1-89-35]「示+壽」、第3水準1-89-35 頬《※》 ※[#「夾+頁」、第3水準1-93-90]「夾+頁」、第3水準1-93-90 莱《※》 ※[#「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6]「くさかんむり/來」、第3水準1-91-6