Happiness むぅ ------------------------------------------------------- Happiness   「あの…すみません」  真剣に単語帳を眺めていたからだろうか。  その声が頭上から聞こえてきたとき、自分でも驚くほどの勢いで顔をあげた。  目の前には、お婆さんが一人。  身なりの良さそうな、しかし着飾った雰囲気はなく、ただどことなく気品を漂わせる、そんな人だった。  私の顔を見てお婆さんは再度、  「あの、すみませんけれど」  と弱いながらも張りのある声で私に言う。  きっとものすごく呆けた顔をしていたのだろう。  何しろ、先ほどまで私の世界は自分と、膝の上の単語帳だけだった。  揺れる電車の中で、がたんがたんと正しいリズムで刻む車輪の音すら、私にとっては全く別世界の出来事。  そんな閉鎖的な世界から急に引きずり出された私。  そう、きっと深海魚は空気中に出たらこんな顔をするのだろう。  どうでも良い思考ばかりが頭の中を駆け巡る。  ダメ。  集中しないと。  意識を単語帳に戻そうとして、ふと気づく。  そうだった、私がまずすべきなのは。  「……はい?」  お婆さんに応えることだ。  どうしてしまったのだろう、本当に。  最近はこんなことばかりだ。  「すみませんが、少しだけ、横を空けてもらえませんか?」  横?  その言葉が何か頭の中の導火線に火をつける。  瞬く間に引火していく脳内の感覚。  目覚める意識。  そして、私の顔もきっとそれと同時的に変化を遂げたのだろう。  「あ……す、すみません!」  私の声を聞いてではなく、明らかにそのお婆さんは私の驚きと焦りに変化する顔を見て破顔した。  良い笑顔だった。  こう、幸せがにじみ出るような。  きっと今の私にはそんな顔はできないだろう。  隣には、同じ制服を着た女の子。  制服のカーディガンに付いた校章の色から、多分下の学年。  さらにその下に「ト音記号」の小さな銀色のバッチが付いていることから、吹奏楽部なのだろう。  そんなどうでも良いことばかり意識がいく自分に嫌気が差す。  私はその子のほうに腰を動かして、少しスペースを作る。  お婆さんが座るには十分なスペース。  「ありがとうございます」  ゆったりと、私の隣に腰を下ろすお婆さん。  その様子をなんとなく見届けながら、じっと見ているのもバツが悪く、車内をこれまたなんとなく見渡した。  今日の電車は比較的空いている方だと思う。  座席が空いているわけではないが、しかし全員が座れているわけでもない。  しかし、朝のラッシュ時ということを考えるとかなり空いている方だろう。  いつもは相当混んでいる。  押し合いへし合いになるほどではないにしろ、明らかに体力が奪われてしまうほどの混雑は覚悟しなくてはいけない。  空いているのを不思議に思いつつ車内を眺め終わった私は、おばあさんが座り終わったのを確認して、再び膝の上の単語帳を持ち上げ、閉鎖世界へと足を進めた。  あと20分で単語テストだ。  それまでに覚えてしまわないと。  『まもなく〜、石突〜、石突〜』  車内アナウンスが響く。  しまった、訂正。あと15分。  残りあと2駅。  なのにまだまだ閉鎖空間に入りきっていない。   ページをめくる。  ここまでは全て覚えた。  だから、次はここから。  さらにページをめくる。  目に飛び込んできたのは、“happiness”という単語。  赤いシートに隠された向こうに、日本語の意味がある。  答えがある。  私は赤いシートを下にずらす。  こんな単語ぐらい知っている。  見る必要はない。  でも、見てしまう。  “happiness”————幸せ 幸福  ふと手が止まる。  幸せ。幸福。  考え込む。  幸せ。幸福。  私は確かに幸せだろう。  日本の一般的な家庭に生まれ。  なに不自由なく育ち。  父親とは最近口を聞いていないけれど、でもそれは私がどうしても不器用だからそうなってしまうだけ。  私のことを考えてくれていることは分かる。  そこまでバカじゃない。  左手を見る。  薬指に輝く、リング。  半年前の誕生日の時に、彼がプレゼントしてくれた。  そりゃもちろん、すごくうれしかった。  人前なのに、飛び跳ねたりした。  彼だって私のためにバイトをして買ってくれたのだろう。  最近忙しそうにしていたのも知っていたし、このリングがかなりのブランド物であることも知っている。  でも今になって思う。  私は何を思ってそう喜んだのだろう。  今でも嬉しい。  すごく嬉しい……のだと思う。  断定できない自分に腹が立つ。  どうしても満たされない今。  まるで単語帳が私の幸せを吸い取って、その力でhappinessという文字を具現化しているかのようだ。  どうしてこんなことになったのだろう。  さっさと次の単語へ移ろうと思ったそのとき。  「………幸せ」  そんな声が隣から聞こえてきた。  私はビックリしてその声の主の方に振り向く。  意外にもそれはさっきのお婆さんであった。  私の驚いた顔を見て、また破顔。  「あら、驚かせてしまったかしら」  にこやかに、でも少し困ったふうに笑いながらそのお婆さんは少し首をかしげた。  この歳になっても仕草の可愛い人だと思う。  いや、この表現は少し失礼か。  心の中で謝りながら私は平易を装い。  「いえ、大丈夫ですよ」  と苦笑しながら答えた。  平易は無理だった。  だって私は、深海魚だったから。  声が上ずっていたのだろう。  「ごめんなさいね。そこで止まっているみたいだから、なぜか気になって」  と、お婆さんは申し訳なさそうに言う。  そこまで畏まられると逆に恐縮とばかりに。  「い、いえいえ、少しボーっとしてしまっただけですから」  私はそう勢いよく返した。  お婆さんはそんな私の様子を見て。  「なるほど、色々お悩みなんですね」  と、妙に納得をし始めたから大変。  「別にそんなわけでは」  ない、と言い切れない自分が歯がゆい。  悩みはある。  何が悩みなのか分からない悩み。  「では、少しだけお詫びの意味も込めてこんな話はいかがですか?」  お婆さんはそう言ってこんな話をし始めた。  「世の中、いろんなものは自給自足できますよね」  「……はい」  そりゃ、田舎では自給自足も可能だろう。しかし、私はこうも付け加えておいた。  「多少窮屈な生活になるかもしれませんけど」  「ふふ、確かにそうかもしれませんね」  お婆さんは柔らかい微笑を保ったまま話を続ける。  「でも一つだけ、世の中にあるもので自給自足の出来ないものがあるのをご存知ですか?」  「自給自足の出来ないもの……」  「そうです」  「なぞなぞですか、これは?」  「いえ、そんな肩肘張らずに気軽に考えてくだされば」  気軽に考えるとは言っても。  『まもなく〜作間〜、作間〜』  もうこの駅を過ぎたら下車駅までもうすぐ。  「自給自足の出来ないもの、自給自足の出来ないもの…」  考える。  しかし、単語を覚えるという単純な作業しか頭になかった私には、考えるという作業がおぼつかない。  時間も無いため、あっさりと。  「すみません、分かりません」  と認め、苦笑した。  お婆さんも、つられるように顔に笑みをのせ。  「そうね、いきなりだしヘンな質問だったわね」  と自戒の意味を込めたのだろうか、取り繕うように。  「ごめんなさいね、時間も取らせてしまって。どうも話しかけてしまうのが昔からの癖で」  そう、私の手元の単語帳を見ながらそう言った。  「いえ」  こういうときはなんと答えればいいのか分からない。  そうですね、と言うのもおかしい。  私のさらに困った様子を見かねてか、あるいは、話しかけられていることに困惑していると受け取られたのか。  お婆さんは。  「実はね。答えは簡単なのよ」  そう切り出して、すらすらと何か思い出すかのように語り始めた。  「幸せはね、自給自足できるわ。何か好きなことをして、笑って、楽しんで。大きな幸せでなくてもいいのよ。 毎日の些細な、本当に些細な出来事が私にとってとても幸福で、それが降り積もっていく。 その降り積もった幸せを糧に、また何かで笑って、楽しんで。そうやって幸せは自給自足できるわ。 でもね」  そこまで語って少しだけの間が出来る。  大きなビルの影を通ったのだろうか。雲が太陽を覆ったのだろうか。車内が一瞬薄暗くなり。  「自給自足できないもの、それは愛なのよ」  そして再び明るくなる。  「愛だけは他給自足。自らで自らを愛することは不可能じゃないわ。でも、それは自分がかわいいだけよ。 愛っていうのは、誰かがいて初めて成り立つものだと、私はそう思うの。だから、あなたの幸せが愛によるものなら、 幸せの自給自足は無理なのよ」  「自給自足……」  思わず私はつぶやいていた。  そのお婆さんへの相槌も忘れて。  何か心の引っかかるものがある、と自然に思った。  お婆さんの話に違和感を感じて、ではなく。  ただただ、何か重要なことを私は日々の生活の中で見逃しているのではないかと。  そんな自己嫌疑の違和感。  またしてもボーっとしていたのか。  お婆さんは。  「あら、ごめんなさい。こんなわけの分からない話、つまらなかったわよね」  と今までで一番苦笑した。  その顔を見て思う。  きっとこの人はこれを何度も話してきて、何度もこういう顔をされたんだろう。  「いえ、とても…興味深かったです。…とても…」  自然と、口からそんな言葉が漏れていた。  それを聞いておばあさんは、  「そう言ってもらえて嬉しいわ。ありがとう」  今日見た中で一番、笑顔だった。  そしてタイミングを見計らったかのように、車内アナウンス。  『中月〜中月〜』  スピードが緩まる。  慣性の法則にしたがって、体が傾くのを感じながら、単語帳を鞄にしまって。  「それでは、私、降りますね」  そうお婆さんに告げ、立ち上がる。  「こんな日にまで熱心な学生さん、頑張ってください。…ありがとう」  果たしてそれは、何に対してのありがとうだったのだろうか。  今の私には分かるはずもなく。  「いえ、どういたしまして」  と軽く会釈をして、電車を降りた。  心が不思議と軽く、しかし不思議と何かのしこりを抱えている。  それはまるで、今までの視界をさえぎっていた霧が凝縮されこぶし程の大きさとなり、手のひらの上でもてあそんでいるような感覚。  私にはその霧の塊を捨てることが出来ない。  出来ればきっと楽なのだろうけれど、先ほどのお婆さんの話がそれを躊躇させた。  なぜだろう。  不思議と気になる。  「自給自足…他給自足」  なんなのだろう、この感覚は。  きっと何かが見つかるはず。  そんな予感がある。  でも何を見つけたいのか、何を知りたいのか。  その尻尾すら私は見つけることが出来ないでいた。  顔を前に向ける。  私の隣に座っていた子は、もう前方5mほど前を歩いていた。  揺れるその子のポニーテール。  周囲には学生はまばら。  普通の人もまばら。  だからその子のポニーテールがよく見える。  その左右に動くポニーテールを自分がつかむところを想像して、私は苦笑した。  一体何を考えているのだろう。  ポニーテールなんてつかまえてもしょうがないのに。  私の中のしこりの尻尾の代わりに、あのポニーテールをつかまえることが出来るのなら、どんなに楽だろう。  つかまえて、一言謝ればそれで終わりである。  でも、それで何を得られるというのか。  別にポニーテールをつかまえたいのではない。  つかまえたいのは、私のしこりの尻尾。  でもそこで、はたと気がつく。  私は本当にそのしこりの尻尾をつかみたいのだろうか。  つかんでどうするのだろう。  何が分かるというのか。  「そもそも…」  私は、何を知りたいのだろう。  あのお婆さんの話から私は何を得ようとしたのだろう。  頭がぐちゃぐちゃ。  ダメだ。  こんなことを考えている場合じゃない。  そう、単語テスト。  鞄から単語帳を出した。  さっきのページを思い出し、また開く。  Happiness。  意味を見るために、赤い透明なシートを下にずらす。  シートの同色で消えていた赤色の文字が、見えてくる。  幸せ 幸福。  またさっきの話がよみがえってきそうになるのを頭の中で押さえつけた。  今はこんなことしている場合じゃない。  早く覚えないと、時間が無い。  もう10分後にはテストが始まっちゃう。  私は鞄から携帯電話を出した。  そして、それを見て愕然とした。  そうだ、お婆さんも言っていたじゃない。  『こんな日にまで熱心な学生さん』  と。  そりゃ、そう言うはずだろう。  だって携帯電話には。  日付の後ろに赤色で(日)の文字が書いてあったんだから。  「はぁ……」  今日、何度目かのため息と苦笑をした。  頭の中には今日はもうどうでもいい知識となった単語たち。  目の前には単語帳。  そこにある文字、Happiness。  そして、幸せ、幸福。  私はずらしていた赤いシートを元に戻す。  元に戻すだけ。  それなのに、幸せと幸福という文字が消えてしまう。  霧が、広がる。  前が見えない。  見通しがまた、利かなくなる。  単語帳の答えは目の前にある。  でも、私の幸せはどこにあるのだろう。  私の幸せの答えは、どこに隠れているのだろう。  それとも、私が隠してしまったのだろうか。  赤いシートを再びずらそうとした。  でも出来なかった。  そんなわけ無いのに、無性に怖くなったのだ。  なぜか、そこには幸せという文字も、幸福という文字も消えてしまっているような気がして。  初めから無かったんじゃないか、そう思うことが異様に恐ろしかった。   日々に忙殺されるというのはこういうことを言うんだろうか。  成績がなまじ良かったばっかりに、進学塾なる戦場へ私は赴くことになった。  それが7ヶ月前。  初めはむしろ楽しいぐらいだった。  気兼ねなく問題も解いていたし、負担も少なかった。  なのに、それが一変したのが3ヶ月前の3月。  もうすぐ3年生ということで次第に運動部の人たちのやる気が変わってきたのを皮切りに、塾全体の空気がピリピリとし始めた。  そう、まだ1年間もあるのにすでに入試に向けた動きが起こり始めたのだった。  浪人生は1年以上のストックがあるから有利なのだという言葉を何度も聞くようになる。  塾の日も、週に2回から4回に増えた。  塾の先生は「この張り詰めた雰囲気を感じるようになると受験だなと思う」と笑顔で言っていた。  この空気が好きだ、とも付け加えていた。  はっきり言って、冗談じゃない。  私はその空気がイヤだった。  耐えられなかった。  なんと息苦しい世界。  なんと目の眩む空間。  ありえないほどの宿題が出され、それを片していくことで日々が終わる。  何も出来ない。  他に何もすることの無い日々。  そこで気がつく。  あぁ、なるほど。  運動部の人たちの目つきが変わったのも納得が出来ると思った。  つまり、これしかやることが無いのだ。  だから勉強をする。  勉強をするとイヤでも受験を意識する。  受験を意識すれば、対抗意識も出てくるだろう。  あいつには勝つ。  絶対に負けない。  合格してみせる。  そんな雰囲気が、空気を張り詰めさせる。  張り詰めた空気に触れたものもまた、対抗意識を燃やすのだろう。  そいつには負けない、と。  ゆえに連鎖的に重苦しい空気を生み出していく。  瞬く間に広がったピリピリ。  しかし、それはあくまで空虚だ。  彼らの目標は何か?  私の目標は何か?  そもそも、私はどうしてこの塾に入ったのか。  すべてが、空虚だ。  からっぽの空気だ。  だから私はその塾にいる意味を見出せず、1ヶ月前にやめた。  大学に行くために勉強するのではないのか。  受験に通るために勉強するのではないのか。  争うべきは目の前の他人では無い。  紛れも無い、鏡に映る自分自身ではないのか。  世の中の数十万といる受験生全員なのではないのか。  ならばどうしてピリピリする必要があるのだろう。  彼らと私は生み出す空気が違う。  好んで住み着く空気が違うんだ。  だから、息苦しい。  彼らの空気を私は、吸えない。   塾をやめた5月。  ゴールデンウィークのさなかに突然やめて、5月3日〜6日の間、久々にのんびりと勉強して彼氏と遊んだ。  6日が日曜日で4連休となったのが非常にありがたかった。  羽根を伸ばしたかったのだ。  ゆっくりと自分のペースで自分の弱点をしっかりと勉強した。  復習した。  1ヶ月近くの間、1日中遊ぶことのなかった彼ともしっかり遊んだ。  「少しやせたんじゃない?」  彼の質問に、私はおどけて答える。  「スリムになったりするかな」  「むしろやつれた感じ」  見ている人はちゃんと見ているものだと思う。  もう大丈夫、と告げてその日の晩は、ずっと彼に抱かれていた。  家に帰らずしかも受験生という、なんと不良少女な自分。  とは言っても、親には今日は友達の家に泊まると言ってあるし、そういう意味では問題は無い。  ただ、またお父さんの機嫌が悪くなるぐらいだろう。  そうやって楽しんでいたのに、なぜか心の中に不安がある。  何に起因するものなのかこのときは分からなかった。  しかしそれはすぐこの身に迫ってきた。  5月中旬。  季節外れの実力テスト。  その日が刻一刻と近づくにつれて周囲の雰囲気が少しずつ変わってきた。  みんな、勉強しているのだ。  そして私も勉強した。  なぜかみんなが勉強しているのを見て、ひどく焦った。  理由は分からない。  自分が置いていかれるような、そんな疎外感に似た焦燥を持つようになった。  一番ショックだったのが、クラスで一番アブナそうな男子である阪谷君が真面目に勉強していたということ。  それを見て、私も勉強しようと思った。  なぜかは分からなかったが、不安が膨れ上がった。  そして、決定的な出来事がこの後に起こる。  実力テストの後、運動部の人たちが部を卒業し始めたこと。  これによって教室の空気ががらりと変わった。  これには非常に驚いた。  私が嫌悪していた、ピリピリに近い空気を感じられるようになってしまったのだ。  大げさに聞こえるかもしれないが、もう教室に居場所は無いと覚悟した。  それと同時にどこに行けばいいのだろうと途方にくれた。  だってそうだろう、逃げ場がもう無い。  受験という口実でピリピリとした緊張感が広がるのなら、私にも何か口実が必要だ。  違う空気を吐く、理由が。  そう思っていたのに、そんな失敗はあっさりと粉砕される。  そして何より、自分自身が一番驚いた。  私はあの空気に、嫌悪感を抱かなかったのだった。  結局、私自身、不安に抗うかのように週に3回ある単語テストも真剣に受けるようになった。  のんびりと勉強することができなくなり、毎日何問も問題を解いた。  学校で出た宿題だけでは怖くなり、自発的に解いた。  解いて解いて解きまくった。  そして。  塾にいた頃となんの大差も無い忙しさが戻ってきた。  私は、ピリピリした空気を吐き出すようになっていたのだった。   だからこそ、ふとしたときにあの懐かしい、柔らかい空気を吐き出す。  「はぁ…」  それはため息としてしか出てこないらしい。  私はどこで何を間違ったのだろう。  何を不安に思っているのだろう。  受験?  それは当たり前だ。  でも、それだけでこうなるはずが無い。  まだ6月。  では何に?  …それは分からない。  自分がどう進むべきなのかもわからない。  何をする必要があるのだろう。  何をしたいのだろう。  目の前には濃い霧が広がっていて。  だから振り返ろうとした。  そこにはきっと、私が歩いてきた道がきっとあるはず。  そう思って。  それなのに、どうだろう。  思い返してみる。  3月より以前。  私は何の不安も無く、普通に塾に通い、彼氏とデートして。  5月のゴールデンウィーク。  ゆったりと勉強して、彼氏と遊んで。  それなのに、そんな記憶すらかすんで見えてしまう。  輝いていない。  あの頃はきっと楽しかった。  見る角度が変わってしまうだけでこうも違うのだろうか。  何かのフィルターが私の前にあって。  それをどけようと必死になってもがいてみても結局どけられない。  それはそうだろう、だってそれが霧なのだから。  私は目の前に広がっている霧から目をそらそうと後ろを向いたのに。  後ろにも霧が広がっていて。  そしてようやく気がつく。  あの柔らかい空気は過去でも未来でもない、今の自分しか吐けないのだと。  過去も未来も、霧の向こうにあるのだから。  霧を通してしか見れないのだから、それが柔らかい空気だったのか判別が付かない。  全てが霧に見える。  まるで赤い透明シート。  あの日の楽しさも、幸せも、すべて霧の彼方。  だから今日もまた。  「はぁ…」  柔らかい空気だと信じて、肺から空気が漏れ行く。   お婆さんの話を、帰りの電車で思い出していた。  帰りは座れなかったので入り口のドアのところに立って、移り行く景色を眺める。  眺めるが、理解していない。  ただ目は呆然と流れる景色を追っているだけ。  頭の中では何度も何度もお婆さんの言葉が反芻している。  それと同時に、一つの疑問が浮かんでくる。  「どうしてお婆さんはあんな話を」  したのだろう。  わざわざ私に話したのはどうしてなのか。  その理由が思い浮かばない。  私の顔を見て話したくなったのだろうか。  それとも、ただただ自分の考えを表わしたかっただけなのだろうか。  いくら考えても疑問は円を描いて回り続けるだけで、どれだけ考えてもまた同じところに戻ってくる。  まるで禅問答。  まるで巻き戻し。  思考がぐるぐると、先に進もうとしない。  進むべき標が無い。  さっき尻尾をつかんだと思ったのに。  霧が手のひらの上で操れるほど小さくなったと思ったのに。  だから、私はもう一度お婆さんの話を思い出す。  『幸せは自給自足できるが、愛は自給自足できない。  しかし幸せが愛に由来するものなら、幸せもまた自給自足できないだろう』  小さくまとめてみても、その言葉の意味を理解することも、まだ17の私には難しかった。  幸せをどうして自給自足できるのか。  確かに本を買ったり、CDを買ったりして幸せに浸ることはできる。  彼氏と一緒にいることが出来れば確かに幸せだ。  しかしそれを自給自足と呼んでもいいのか。  「そもそも自給自足って、一体何なのかな……」  謎は深まるばかり。  愛が自給自足できない、他給自足という言葉を、あのお婆さんは使っていた。  他とは、他人のことなのだろうか。  それとも何か他のものなのだろうか。  余計に頭ぐちゃぐちゃ。  でもなんだかすっきりしたような、そんな気もする。   気がついたら私の降りる駅だった。  ずっと考えていたから気がつかなかったのだろうか。  いや、多分考えていても途中で思考を放棄してしまったから、何も気がつかなかったのかもしれない。  結局、電車に乗って色々考えてみたものの何一つはっきりとはわからなかった。  頭の中がぼんやりとした感じ。  そんな頭ではロクに考えることも出来ない。  家にたどり着き、玄関のドアの鍵を外して「ただいま」の一言。  「お帰り。早かったのね」  の返事がリビングの方から聞こえてくる。  何か勘違いしているのだろうか、今日は日曜ということに気がついていないのだろうか。  確かに母は世間で言うところの“天然”な感じがする。  どちらかといえば、であるが。  リビングのドアが開き、エプロン姿のお母さんが靴を脱いでいる私のそばまでやってきた。  「ホントに早かったのね。もう済んだの?」  「ほら、今日は日曜だし」  とにかく頭がぼんやりするから、今はベッドで横になりたかった。  お母さんのと話もなるべく早く切り上げたい。  「あれ?でも昨日言ってたじゃない」  「…何て?」  「『明日は佐紀の部活練習を見に行くんだ〜』って」  そうだった。  友達の練習を見に行くんだった。  思わずぐったりとしてしまう。  なんで帰ってきたのか、どうして私は今日、何のために学校に行ったのか、それすら忘れていたのか。  きっとあれのせいだ。  単語帳を開いたから。  電車の中で単語帳を開くのは催眠効果でもあるんだ、きっと。  ようやく両方の靴の紐を外して脱ぎ終わったところなのに、それが無駄になってしまうなんて。  今日はダメだ。  本当にツイてない。  「あぁ〜……、いいや、今日だけじゃないし。また今度見に行くことにする」  「そう?ならいいけど」  お母さんはそう言うと、昼ごはんは家で食べるのよね?とだけ確認してまたリビングへと戻っていった。  私は妙にぐったりとしたまま、両手を使って階段を文字通り登り、部屋に入るやいなやベッドへと倒れるように寝転んだ。  仰向けになって天井をぼんやりと眺める。。  何かを考えるのもしんどい。  今はこの低落に身を任せたい。  今日出かけたことも家に帰ってきたことも全てが無駄になった。  受験に失敗したらそれまでの勉強も無駄になる。  あ、そうかと気づく。  無駄になるというのが嫌いなんだ。すごく。  新たな自分を見つけた。  そんな感動を頭の片隅に押しやって、残る気力で私と同じようにベッドにもつれこんだ鞄から携帯を引きずり出し、佐紀にメールを送る。  「ごめん!今日行けそうにない(>_<)家で死んどく〜」  最後まで打ち終わり、送信ボタンを押して携帯の画面が変わった瞬間、私の意識は途切れた。  ああ、なんで日曜にこんなわけの分からない疲労を負うことになったのだろう。  体は元気だけど頭が限界。  少しだけ、少しだけ。  そんな眠りは、予想を遥かに上回るほど深かった。   「ほら、起きなさい。ご飯よ」  声が聞こえてくる。  「……ん………」  私は眠い目をこすり、壁にかかっている時計を見た。  「もうお昼ご飯の時間よ。片付かないから食べちゃって。あと、制服のまま寝たらしわになるわよ」  そう言ってお母さんは部屋を出て行った。  「………んん〜ぅ」  少し、良く寝た。  頭の中がさっぱりしているのが分かる。  こう、どちらかといえば電車の中やバスの中で寝るような感じ。  短時間でぐっすりと眠れた。  では起きようと右手を動かしたときに、右手に触れる金属質。  あ、これは。  眠る前の記憶がパッと出てくる。  「返信……来てるかな………?」  まだ完全に開ききらぬ目で、携帯の画面を見る。  視界がぼやけるけど、頑張る。  そこには“受信1件”  うん、来てる。  『残念(+。+)それにしてもどしたの?調子悪かったりする(?_?)』  良いとは言えないなと心の中で思いながら。  「返信送れてゴメン(^^;)そんなに悪くないよ〜。すぐに治ると思うからダイジョブ」  と書いて送信。  またベッドであお向けになる。  だいぶん頭の疲れは取れた。  少しだけ冴えてくる。  何が問題なのか。どうすべきなのか。  今どういう状況なのか。  寝起きの頭でもしっかりと考えられる。  そして一つの結論に至った。  そう、まず私がすべきなのは。  「……ご飯食べよ」  のっそりと起き上がってキッチンへ向かった。   キッチンではお母さんが後片付けをしていた。  私の分だけテーブルの上においてある。  「ようやく起きてきたのね」  私の足音で分かったのか、こちらを向くまでもなく食器を洗いながらしゃべっている。  「うん」  「起こしに行ってから20分ぐらい経っちゃったから冷めてるかもね」  驚いた。起こされてからすでに20分も経っていたなんて。  「ささっ、食べちゃって食べちゃって。もうみんな食べ終わったから」  そう言って全ての食器洗いが終わったらしく、タオルで手を拭いてこちらに向き直った。  「あら、まだ制服なの?」  さらに驚いた。そうだ私、着替えてなかった。  「…忘れてた」  「あらあら。しょうがないわね」  母親は苦笑しながら麦茶をコップに入れて出してくれた。  「ありがと」  おいしい。生き返るみたい。  温まっていた思考がいっぺんに冷やされ、冷静になる。  「あら、もう飲んじゃったの?」  そう言ってもう一杯入れてくれる。  「のど乾いちゃってて」  今度は軽く口をつけるだけにしておいた。  コップをおいて、椅子に座る。  いつも座る椅子は決まっている。  いつの間にか決まっていた。  不思議だなと、何気なしに思う。  どの椅子に座っても良いのに、やっぱり座るのはいつもの定位置。  ここじゃないと落ち着かない。  でも、寝ぼけているのだろうか、いやきっとそうだろう。  なぜか他の椅子にも座ってみたいと、ふと思った。  お父さんの椅子。  あそこに座ったらどんな景色が広がっているのだろう。  お兄ちゃんの椅子。  どんなふうに私やお父さんが見えているのだろう。  お母さんの椅子。  料理を運んできて一息つくかのように座るとどんな気分なのだろう。  何かそこに新しい発見があるような気がして、私は珍しくお父さんの椅子へと移ってみた。  「あら、そんなところに座るなんて珍しいわね」  お母さんはもの珍しそうに言いながら、ご飯やおかずなどを私の前に移してくれた。  「どうしてこんなところに座ろうと思ったの?」  「んー、なんとなく」  「なんとなく?」  「そう。だって何か面白そうで」  「ヘンな子ね〜」  苦笑しながら、お母さんは自分の椅子に座った。  今日は苦笑をよく見かける。  私の周りでは流行っているのかもしれない。  「お母さんも移ってみたら?」  生ぬるい味噌汁をすすりながら聞いてみた。  「別にいいわよ、そんなの」  手のひらを左右に揺らしながら答えるお母さん。  「結構違うよ」  「何が?」  「色々と」  何がと聞かれて具体的に答えることは出来ない。  お父さんの椅子に座って見える景色は、確かに何かが私の椅子から見える景色とは違っていた。  テレビとの距離も違う。  お母さんとの距離も違う。  見える景色も微妙に違う。  でもだからと言ってそれらを挙げていったところで何かが分かるというわけでもない。  発見があるというわけでもない。  違いがあるけど、挙げるほどの違いは無い。  違うけど違わないのだ。  だからなんともいえない。  でも、これだけはいえる。  「色々と、って具体的には?」  「感じ方が全然違うよ」  「そうなの?」  「うん、ここからしか見えない景色が広がってる」  ちょっと演劇や舞台っぽいかもしれない。  佐紀の練習風景を見にいけなかったからこんなところで自分で埋め合わせをしているのだろうか。  ちょっと苦笑。  「じゃあ、私も移ってみようかな〜」  そう言って、お兄ちゃんの椅子に座ったお母さん。  「どう?」  「へぇ、確かに違うね〜」  やたらとキョロキョロしている。  「どう違う?」  「そうね……。何かが違う、かな」  「ふふ、確かにね」  思わずお母さんの言葉に笑ってしまった。  だって同じこと思ったんだもん。  はっきりとはいえない、でも違う。  この景色を普段見ている人は私ではなく、お父さん。  だからお父さんがいなければこの景色の所有者はいない。  こんな眺め、発見すらされなかったかもしれない。  それ以前に、お父さんがいなかったら私もお兄ちゃんも生まれてないし、お母さんもここにはいなかったはず。  不思議。  すごく不思議。  私の心に同調するかのように、お母さんはつぶやいた。  「でも何でかしらね、もう10年近くこの家に住んでいるのに、こんな眺めを知らなかったなんて」  「うん」  「なんだか…なんていうのかしら。こう、すごく、悔しい……でもないかな。う〜ん」  「言い表しにくいよね」  「そうね。なんて言ったら良いのかな〜」  「……」  「簡単に言うと、知る必要の無いことを知ったから世界が広がったという感じかな」  私は思わず箸を止めた。  「どういう意味?」  「知らなくても別にいい事じゃない、景色が違うなんて」  確かに。  「そりゃそうだけど」  「人間一人が扱えたり救えたりする世界なんて狭いものよ。ヒーローなんてウソウソ。それこそ手のひらに乗るような」  お母さんは笑いながら、手の上で玉を転がすようなしぐさをする。  今、地球でも転がしているのだろうか。  それとも、他の何か、他の誰か、例えば私やお父さんを転がしているのだろうか。  「いや、乗らないでしょ」  私の苦笑をよそにお母さんは真剣そのもの。  「それがね、乗る程度のサイズなのよ」  「………え?」  「私が救える世界なんて、ほんのお玉一杯分しかないわ」  なんて変な話。  「それは何?不思議の国のアリスとかにあったの?」  「別に水タバコやクスリでおかしくなってるわけじゃないわよ、失礼ね」  「じゃあ、どんな話?………その心は?」  一瞬ニヤリとして。  「“すくえる”のはその程度なのよ」  「………」  「………」  「ご馳走様」  「あぁっ!そんな待って〜。お父さんに聞いた渾身の一撃だったの〜」  すがりつく母親をなだめる。  というか、出元はお父さんなのね。  この椅子に座りながら、この景色を見ながらお母さんに話しだのだろうか。  「分かったから」  「とにかく、ご飯は食べてちょーだい。片付かないから」  結局話がそこに戻る。  諦めつつもご飯を食べることにした。  しかし、ご飯を口に入れて、ふと思う。  『知る必要の無いことを知ったから世界が広がる』  それは本当に世界が広がるのだろうか。  仮に広がったとしてもそんな世界は必要ないんじゃないのか。  必要がなかったらそれだけでダメなんだろうか。  ダメって、何がダメなんだろうか。  ダメじゃなかったら、必要の無いことも別に良いのではないのか。  いや、そもそも良い悪いの話ではなかったはず。  じゃあ世界が広がることに何の意味があるのだろう。  また思考が回る。  頭が沸騰しそう。  「どうしたの、固まっちゃって?」  お母さんの言葉で目が覚める。  箸を咥えたまま固まっていることに気がついた。  慌てて箸を口から抜いてご飯を噛む。  「い、いや別に」  「………なるほど」  「な、なに?」  「悩んでるのね」  うんうんと感慨深げにうなずくお母さん。  いや、そんなふうにうなずかれても。  「別に悩んでるわけじゃ」  「いいのよ。若いうちに悩んでおきなさい」  絶対勘違いしてるよ、この人。  「そうじゃなくて」  「佑くんのことでしょ、悩んでるの。分かってるからお母さん」  あー、やっぱり。  ちなみに、佑くんとは私の彼氏のこと。  お母さんは必ず私の彼氏を名前で呼ぶ。勘弁して欲しい。  「ほんとに違うんだって」  「もう〜、照れちゃって」  ダメだ。  こうなったら、あれだ、あれ。  酔ってないことを証明する難しさと同じである。  酔ってないという人に限って酔ってる、とか言うらしい。  お父さんが酔いながらこの前、親戚の結婚式場で言っていた。  『必ず斉藤君は、酔ってないですよ〜とか言うんだ。あいつは。全く。一番酔ってるくせになに言ってんだってんだ』  お父さん、アンタが一番酔ってたよ、あのとき。  「とにかく、そんなんじゃないから」  「じゃあなんなの?」  「なんなのって……」  何なんだろう。  それが分からなくて私は困っているんだ。  「悩んでるんでしょ?」  「何に悩んでるか分からない」  「でも悩んでる?」  「うん」  「………そっか」  「うん」  何を話せば良いのかわからない。  言いたいことや話したいことはあるような気がするのだけど、それを言葉に表せない。  「じゃあ、さっきの話の続き、してあげる」  私の様子を見てか、こんな話をお母さんは始めた。  「私の世界はね、ないのよ」  「ない?」  「正確に言うと、目には見えないもの、かな」  「透明なの?」  「そうじゃないわ。でも透明かもしれないわね。私の世界は、家族とのつながりの中にあるの」  「つながり……」  「そう、つながり。結婚する前は私のお父さんやお母さん、つまり美帆のおじいちゃんやおばあちゃんとのつながりが一番強かった。 そんな中に私の世界はあったわ。すごく不器用なお父さんだったけど、それでも私のことを考えてくれているのは 良く分かってた。お母さんはすごく私のこと心配してくれてた。今でこそ元気だけど、昔は体が弱くて」  そういうと、お母さんはちょっと苦笑しながら、懐かしむように目を細めた。  ちなみに、私の名前が美帆。  「と言っても入院したのは1度だけで、しかも2日で退院だったから、学校に友達がいないとかそんな 病弱少女じゃなかったわよ。ただ、目立たない子だった。友達もそんなに多くなかったしね。 だから余計にお母さんやお父さんとのつながりを求めたのかもしれない」  「………」  「わたしは、ね。別にそれが悪いとか良いとか、そんなふうには思ってないわ。 ただ、そういう世界に生きていた、それだけなのよ。だから、相手がいなければ私の世界は無いの。 でも今は、家族がいる。私にはちゃんと世界があるのよ。すごく幸せな世界」  世界。  私の世界はどんな感じなんだろう。  「じゃあどうしてお父さんと結婚しようと思ったの?」  「う〜ん、そうね、理由は簡単なんだけど……」  おや、もじもじしてらっしゃる。  「知らない世界が広がるんだよ。無駄な世界かもしれないのに」  「いや、無駄じゃないと分かってたよ」  「どうして?」  「だって、この人となら世界を広げても良いと思えたから。好きだと言えるのだから、それは決して無駄じゃないわ。 必ず幸せになれる。どんな結果でも。 逆に好きでもなんでもないのに、いやいや何かをすればその世界は無駄になるのよ、必ず。どんなハッピーエンドでも 不幸しかそこにないのよ」  「必ず?」  「………たぶん、必ず」  そう言ってお母さんは多少自信なさげながらもうなずいた。  「そっか〜」  正直良く分からなかった。  でも、何か伝えたいことがあるんだということだけはわかった。  だからちゃんと受け止めておきたいと思う。  「じゃあ、美帆の世界はどこにあるの?」  「………私の?」  「そう。お母さんも言ったんだから、美帆も言ってよ〜」  そんな、修学旅行の夜に好きな男の子を教えあうような感じじゃないんだから。  「私の……私の………」  それでも真剣に考えてみる。  私の世界。  それはどこにあるんだろう。  「どう、分かりそう?」  「う〜ん……」  「………」  よく考えてみるけれど。  「う〜、ちょっと分からなさそう」  「そっか〜。漠然としすぎたかもね」  そう言ってお母さんは今日一番の苦笑を顔に浮かべた。  あれ?この光景どこかで見たことがあるような気がしたんだんけど。  気のせいかな。  ちょっと思い出そうとして視線をずらしたら、そこには2時近くを指す時計が。  「うわっ!もう2時」  思わず叫んでしまう。  「えー!お買い物もまだなのに!」  そういって、早く食べるように私をせかしてくる。  「ちょ、ちょっと待って」  「早く食べちゃって、早く!」  急いでご飯を口に入れて終了。  うわっ!もう固くなってる。  「ご、ご馳走さま……」  「はいはい。じゃあ、私は片付けたらすぐにお買いものに行くからね」  「はーい」  その言葉を背に、私は自分の部屋へと戻った。  ……自分の世界について考えながら。   もし、自分の世界は何ですか?と聞かれたら、真っ先に。  「霧のない世界です」  と答えるだろう。  あるいは閉鎖空間と答えるかもしれない。      受信済み      『すぐに治るって、やっぱり調子悪いんだ(>_<)お見舞いに行こっか?』  でも、それではあまりに暗い。  別に私は勉強したいのではない。  受験だから仕方なしにしているだけ。  閉鎖空間にいるぐらいなら、友達や佑くんと遊んでいた方が楽しいだろう。  何より、ピリピリした空気も好きじゃない。  だからそういうのから逃れた世界が私の世界だ。  私が私らしく笑っていられる世界。      『そこまで酷くないよ(^0^)/ でも、せっかくだから来て。話したいこともあるし。手土産所望☆』      送信  そんな世界、どこにあると言うのだろう。  全てが霧の向こうにある。  全てが、赤い透明シートの向こうにある。  私の幸せは霧の彼方。  ピリピリした空気から逃れたいのなら、ため息を吐こう。  私も普段はそんな空気を吐いているのだから、ため息ぐらい許されるだろう。  でも思う。  そんな生活に、何の楽しみがあるのだろう。      受信      『病人のクセに注文多いな(笑)分かった〜、部で使う予定の手のハリボテを持って行ってあげる』  今だけなんじゃないかとも思う。  この受験が終われば全てが楽になる。  何もかもから開放されてそれで終わり。  とりあえず目の前の壁は乗り越えられるのだ。  だからあと9ヶ月ほど我慢すればそれで良い。  今は閉鎖空間にこもり、そこを自分の世界としておく。  それも一理だろう。      『そ、そんな文字通りの手土産いらない!(^^;)とりあえず、何時ぐらいにこっちに着きそう?』      送信  でも、もし。  受験も終わって苦痛の勉強から開放されて。  それでもなお霧がかかっていたら、私はどうしたらいいのか。  楽しい日々も、辛い日々も、全てが霧の向こう。  よくみえない、よく思い出せない。  なんとなく楽しかったような辛かったような、そんな思い出ばかりが残るというのか。  それは耐えられない。  時間がすぎ、全てが霞む。  確たる思い出さえなく、私は生きていくだろうか。      受信      『もう練習も終わったから、すぐそっちにいけると思う。』  そこで気がつく。  霧は決して受験によるものだけではないのだと。  勉強や受験の精神的な苦痛、あるいは周囲のピリピリした空気だけが霧を生み出しているのではない。  それだったらきっと、過去を振り返ったときに霞むのは楽しかった思い出だけだ。  同じ霧である辛い思い出や苦痛は霞むはずが無い。  だって霞みそのものが霧なんだから。  苦痛までも霞むのなら、それは霧が別のものであるという証拠だろう。      送信      『オッケー。待ってるo(^-^)o』  だからこそ、私は分からない。  霧とは一体何なのだろう。  だからこそ、私は分からない。  私は一体、何に苦しんでいるんだろう。  どけたい、霧。  でもつかめない。  どけたい、赤い透明シート。  でもそこに幸福という文字が無かったら。  私の世界は透明シートの向こうにすら無く。  どこにあるというのか。   ピンポーン。  インターン越しに声がする。  『あのすみません、山辺ですが』  「あっ、佐紀?入って入って〜」  『ありがと〜』  ………って、玄関閉まってるんだった。  急いで玄関まで行って鍵を開ける。  「ごめん!鍵かけてるんだった」  「あはは、いいよ」  佐紀はおじゃましますと元気良く言って、家の中に入る。  「いらっしゃい」  「本日はお招きいただき恐縮です」  「うむ、楽にするがよい」  そう言って笑いあった。  佐紀といるとすごく気が楽になる。  「そんなわけで、これが本日の手土産ですが……」  そう言ってかばんに手を入れる佐紀。  「ま、まさか本当に持ってきたの、手!?」  すこしのけぞってしまう。  だって気持ち悪いのはすごく苦手だし。  「まさか。道具を勝手に持ち出したら周りからすごく怒られちゃうよ」  そう言って佐紀が取り出したのは。  「……ミルクボーロ!」  ミルクボーロとは直径1cmぐらいの大きさでドーム型、黄土色でサクサク柔らかくほんのり甘いお菓子である。  何を隠そう、私はこれが大好きなのだ!  袋詰めで100円ほどという安さながら、とても安心できる甘さと味のおかげで幸せになれる。  「そう。美帆はこれでも食べて、元気出しなよ〜」  そう言って佐紀は笑顔を浮かべ、ミルクボーロの袋を私のほうに差し出してくれる。  「ありがとう!」  私は早速リビングに麦茶を入れに行く。  あ、その前に廊下で振り返って。  「私の部屋に行っておいて」  と言っておいた。  「はいはい、分かってますよ。あ、でも一つだけ聞かせて」  「なに〜?」  リビングの方に向きかけた体を、再度玄関の方へ向きなおさせる。  「どうして美帆は制服を着てるの?」  しまった。  まだ着替えてなかったんだ、私。  なんてうっかり。  「これが普段着なの」  これまたうっかり。   「な〜んだ、そんなことがあったんだ」  今日一日の私の話を聞いて、佐紀はクッションの上に座りながらそう言った。  「な〜んだ、って。ほんと無駄足だったんだから」  「無駄足も何もそもそも、友の部活練習を見に行くという用事を忘れているのが悪い」  「それについては、謝るしかないわ、ほんと」  「反省したら、罰としてミルクボーロを3つほど食べなさい」  「はーい」  どんな罰なんだか。  きっと佐紀は今の私のこととか分かってるんだと思う。  この子は昔からそうだった。  私の心が見えるんじゃないかと思うときもあった。  そんな過去の回想を一瞬しながら、ミルクボーロを食べた。  柔らかい甘さが口の中に広がる。  すごく好き。  「はぁ〜。私、ミルクボーロと佐紀がいたらそれで十分」  「なにそれ。何の話?」  けたけた笑いながら、佐紀が尋ねてくる。  「世界、だって」  「世界ぃ〜?」  「そう、自分の世界」  「あ、もしかして、無人島に行くときに3つしか持ち出せないとしたら何を持って行くかってヤツ?」  「残念。ちょっと違う」  私は笑いながら佐紀にミルクボーロを3つ渡す。  「ありがと。う〜ん、違うかぁ」  まず1つ食べる佐紀。  私は3つともいっぺんに食べちゃったけど。  「そう。自分の世界はどこにあるのかな〜という話」  「自分の世界とは、これまた曖昧だね」  「うん、そう思う」  佐紀は私の返事を聞いた後、2つ目を食べて尋ねてくる。  「で、その話をどこで聞いたの?」  「お母さん」  「おばさんが何を言ってたの?」  「私の世界は人とのつながりの中にある〜みたいな、話」  「なるほど……ね」  3つ目も食べて、麦茶を一口。  そして一言。  「美帆の世界はどこにあるの?」  核心。  「それが分からないのよ」  私も麦茶を一口。  「で、私とミルクボーロがあればそれが世界なの?」  佐紀は少し笑いながらさっきの話を思い出すようにそう言った。  「そう。そういうわけ。だって世界なんて突然いわれても……」  「確かにそうかもね」  「じゃあさ」  「ん?」  「佐紀の世界って、何?」  私は自分の口にミルクボーロを2つ入れて、佐紀に4つ差し出す。  「う〜ん、私の世界かぁ……」  受け取りながらそう言う佐紀。  「ね、結構難しいでしょ?」  「確かに。それでも……私には言えることがあるよ」  「ん?演劇?」  佐紀は高校の間、ずっと演劇に力を入れてきたはず。  「ん〜ん、そうじゃないよ」  「あれ?違うの?」  「演劇はすでに私の一部になってる。世界とかそんなのじゃなくて、私を構成する一つの要素。  だから私から演劇を取ったらぽっかりと穴が開いちゃう。それもかなり大きな」  そう言って、少し笑いながら佐紀は一つ、口に放り込んだ。  「じゃあ他に何があるの?」  「そうね〜、私の世界は………」  「うん」  「私自身の中にあるよ」  「………え?」  「別に何か自分以外のものでなくてはいけないなんて、そんな決まりは無いでしょ?」  確かに。  私は返事の代わりにうなずいた。  それを見て佐紀はもう一つ口に放り込んで話を続ける。  「自分が自分らしくある場所は、私の中しかないと思うんだ。あ、別に美帆といたり誰かといたりしたら 本当の私が出せないとかそういう意味じゃないから、気にしないでね。えっと、私自身、気づいていない私が 自分の中に眠ってて、それがふとした瞬間に出て来るんだと思う。その場が演劇なんじゃないかなあ〜って」  さらにもう一個。  「でもそれは私自身のようで実は違うんだよね。心の中の自分と表に出てきた自分は、多分“私”という 外枠を超えた瞬間に別物になっちゃうんだよ。全くの。だから、最初の出発点である私自身が存在するのは きっと私の中しかないと思うんだ」  と、ここまで話して、最後付け加えるかのように。  「……ちょっとヘンだよね」  そう言って、恥ずかしそうに苦笑した。  みんな苦笑してる。  今日で、何回目だろう。  何度同じ光景を見ただろう。  「ううん、そんなことないよ。すごく、自分の意見を持ってて良いと思う」  そう言うと、佐紀は。  「……ありがと」  と照れながら嬉しそうに言った。  手に持っていた最後の一個を口の中に入れる佐紀。  この子の心の奥深いところが少し出てきたんだろう。  演劇というのは彼女の一部であって、そして彼女を守るものでもあるんだ。  それをなくして本当の自分が晒されてしまうと、今みたいにすごく恥ずかしく思ってしまう。  また一つ佐紀のことを知ることができた。  そっか。  こういう子なんだ。  なんだかちょっと嬉しい。  「あ〜もう〜。攻守交代!」  そう佐紀は赤くなりながら叫ぶと、テーブルの上にあったミルクボーロの袋を自分の方に向けて、中から4つ、私に差し出した。  「交代って……」  「いいの。それ、4つ食べ終わるまでに話しちゃいなさい」  「えぇぇぇっ!」  「えー、も、うー、もないの。さぁ、考える。美帆、あなたの世界はどこ?ネバーランド?」  「……いつまでも子供はイヤ」  「あれは大人になれない人の物語よ。フック船長がいい例」  「そんな屁理屈はいいから」  私は口にミルクボーロを放り込もうとして、やめた。  食べるなら一度に食べたい。  机の上に4つとも置いて、話し始めようとしたときに、佐紀が口を開いた。  「どうして一つずつ食べないで4つともいっぺんに食べるの?」  どうして?と聞かれても。  「理由は無いけど」  「一度、少しずつ食べてみたら?」  「え〜」  「えー、じゃない。試してみる」  佐紀に押されて、仕方なしに一つだけ食べてみた。  「どう?」  「もう一個食べたい」  私の答えに、噴き出すように笑いながら。  「あははは!そうね、そう思うのが普通よね」  そう言って、佐紀は袋から一つ取り出して自分の口に入れた。  「だって、おいしいけどもっと食べたくなるし」  「そうそう。それで良いんだと思うよ」  「………え?」  佐紀は試しに6つ手のひらに乗せて一気に食べた。  「ふご…ふ……ふぁふぃはひ」  「とりあえず飲み込んでからしゃべって」  笑う私をよそに、佐紀は麦茶を飲んで落ち着いたようだ。  「ふう、口の中の水分が一気になくなった」  「そりゃ6つも食べたらそうなるよ」  「4つでも結構きついでしょ?」  「5つという壁があるのよ」  「なに言ってるのよ」  再度口を潤し、佐紀は口を開いた。  「今、美帆は9つ一気に食べてる」  「だからぁ〜」  「受験という名のボーロを9つ」  「え?」  少しだけ真面目な顔をして。  「あと9ヶ月ある。受験まで。どうして9つも一気に食べるの?」  「食べてないって」  「ううん。私には、今すぐに食べてしまおうとしてるように思える。いい?受験のボーロはすごく苦いの。 一つでもかなりの苦さ。だから、9つなんて一気には無理。さらに、時々甘いボーロを食べなくちゃダメなの。分かる?」  「どうして?」  「じゃあ私から質問。苦いボーロを食べる理由はなんでしょう?」  わ、私が聞いたのに逆に質問されてる。  「受験して、試験に受かるため?」  「そう。ちょっと外れてるけど、大体あってる。受験のときも、ボーロを食べるの。すごく苦い、とびきり苦いヤツ」  「うん」  「だから、試験で苦さを感じないように、慣れないといけない。だから少しずつ苦いボーロを食べていくの。 これは分かるでしょ?」  「分かるよ、でもそれじゃ」  「じゃあ、ずっと苦いのを食べ続けてたらどうなるの?」  「慣れるじゃん」  「そう、苦さに慣れるよね」  「慣れるためにやってるんだし」  「それだ。根本的に間違ってるのが」  「え?」  ………間違ってる?  「そう、間違ってる」  「だって、さっき佐紀が慣れるためって」  「慣れなくちゃダメだよ」  「でも慣れるのは間違ってるって」  「うん、間違ってる」  もう!  「ちょっと、遊んでるの!?いい加減にしないと怒るよ!」  「ゴメンゴメン。あのね、9つの苦いボーロを食べるのは何のため?」  「受験に受かるため、受験の苦さを感じないため」  「そうだよね。でも苦いボーロを食べ続けてたら、絶対その苦味が分からなくなってくる」  「………」  「分からなくなって、次第に、食べることの意義がなくなっちゃう。食べてさえすれば受験に受かるような 気になってくる。………でも本当かな、それ。食べてさえすれば受かるのかな。 無論、受かっちゃう人だっていると思うよ。でもね、それじゃあ、後に何も残らない」  「残る?」  「受験で何も得られない。ただ勉強して、受かっただけ。それでもいいのなら何も言わない。 でも、私はそうありたくない。苦味しか知らない人とどれだけ話しても甘みの話は分からないんだよ。 私は、いろんな話の分かる人になりたい」  「……うん」  「美帆」  佐紀は再度私の方に向き直って。  「今一度言うよ。美帆は、もう少しゆっくりすべき。9つも一気に食べることなんて出来ない。 それを無理に食べようとして苦しんでる美帆を見るのも辛いよ、すごく。のんびり行こうよ。 ちょっと前まで、のんびり構えてたじゃない。なんでそんなに余裕無いの? どうして甘いボーロを食べようとしないの?甘えないの?」  「………………うん」  あ、ヤバイ。  そう思ったときには遅かった。  「誰もそんな必死なのを求めてない。自分のペースで頑張れない人は、苦味に負けてしまうよ。 一つずつ食べようって。絶対、もう一つ食べてやるって、そう思う時が来るから。 頑張れるようになるから。無理なら支えてくれる人が美帆、何人もいるじゃない。 もっと周りを見なって。美帆、美帆!」  一つ溢れたら、もう止まらない。  「………うん………うん」  ぽたり、ぽたりと出てきた雫はまるで、私が必死になって食べようとしていた苦いボーロが出てきたみたいで。  それを埋めるかのように、泣きながら、私は一つ、一つとミルクボーロを食べた。  甘かった。  すごく、ほのかな甘さ。  でも、それがすごくおいしい。  物足りない。  4つ一気に食べるのに比べたら全然味が物足りない。  でも、それなのに、満足できる。  満ち足りる。  4ついっぺんに食べる必要なんてなかったんだって。  今更ながらそんなふうに知ることが出来た。  食べれば食べるだけ涙が止まらなくて。  「………ぉ、おいしぃ………」  かすれかすれの声になったけど。  「うん………そうだよね」  そう言った佐紀の声も涙ぐんでいて。   霧がね、晴れたよ。   うん、良かったね。  そんな会話を佐紀と出来たような、気がした。  「じゃあ、改めて、聞くよ」  「………うん」  「美帆、あなたの世界は何?どこにあるの?」  「私の世界は………」  「うん」  「私を支えてくれるみんなにある」  「うん」  「お父さん、お母さん、お兄ちゃん、佑くん、そして美帆。みんな、み〜んなにあるよ」  「なるほど、それが答え?」  私は胸を張って。  目は真っ赤だろうけど。  「そう、私の答え。………あ」  「どうしたの?」  そっか。  こんな気持ちなんだ。  「………ヘンかな?私の答え?」  私は今日一番の苦笑をした。  恥ずかしい。  恥ずかしいけど、なんだか嬉しい。楽しい。  お婆さんの気持ちも、お母さんの気持ちも、佐紀の気持ちも、今なら理解できるよ。  今日で4番目。私。  それを見て。  「……ぷっ」  佐紀ったら!  笑うなんて酷い!  「わ、笑うことないでしょー!!」  「あ、あはははははは」  「もう………ふふふ」  「あははははは!!」  「はははははははは!!」  おなか一杯、笑った。  本当に久しぶりに。   うん、私頑張れるよ。  なんだかホントに、不思議だよね、たったこれだけのことなのに。  どうしてあんなに必死になって勉強してたんだろう。  周りのピリピリした空気が怖かったあの日。  塾をやめたあの日。  学校までだんだんピリピリしてきたあの日。  そして、今日。  ずっと思い返して初めて分かる。  すごく不安だったんだ。  受験が。逃げたくて、逃げたくて。  ずっと言い訳してた。  でも、言い訳できなくなって、ただただ勉強するようになって。  それでは辛くて、しんどくて。  確かにまだまだ道は長い。  しんどくてたまらない。  でも無理というほどでもない。  だって、一気に9つ食べる必要も無いんだから。  少しずつ、自分のペースでやればそれでいいんだから。  周りの雰囲気に流される必要なんて、どこにも無いんだから。  私は思いっきり笑った。  すべての霧を吹き飛ばせるように。  いつかまた霧が出てきても、吹き飛ばす方法を覚えておけるように。   次の日。  私はいつもより早めに起きた。  「あら、今日は少し早いのね」  「うん、ちょっと用事があって」  「朝から?」  「そう」  「あらぁ。あんまり朝遊びしちゃダメよ」  「どんな遊びよ、それは!」  あ。  「ふふっ、久々に美帆ちゃんのツッこみが来たわね。お母さん嬉しい〜」  クルクル回ってリビングの方に消えていった。  そっか。  ずっと最近、心の中で思うだけで口に出してなかったんだ。  何かを言うことすら出来なくて、その方法すら分からなくて、一人悶々としてたんだ、私。  いつもどおりでいいんだ。  前みたいに普通に過ごせばいいんだ。   通学路も、こんなに気持ちよくて空が高かったなんて。  急いで駅に向かうと、私は電車に飛び乗り、降りるべき駅の4つ前で途中下車した。  どうしても話したい人がいた。  ここに来るはず。  今日は会えないかもしれない。  でも、明日には会えるかもしれない。  学校が始まるまでだから、電車を乗る時間を含めてあと40分しかないけど。  電車に乗ってから学校に着くまで20分かかるから、実質自由な時間は20分。  来るのを待つだけ。  でも、なんとなくだけど。  本当になんとなくだけど会えるような気がしていた。  そして、私の勘は間違ってなかった。  「お婆さん!」  「おや、あなたは確か昨日の勉強学生さん」  私を見てそういうのだからなかなかこのお婆さんもスゴイと思う。  私の服装は普通の制服だけど、髪は茶色だし、化粧だってうっすら軽くしてる。  全然勉強してるふうには見えない、と自分では思う。  佐紀には、あんたは真面目な方だとか言われてるけど。  「こりゃどうも。どうしましたかな」  お婆さんはのんびりと私のそばまでやってきてそう言った。  そうだ、何て言おう。  かなり説明しづらい。  だって私がお婆さんの話を聞いて勝手に悩み、勝手に答えを出しただけなんだから。  それでも、伝えたいことがある。  聞きたいことがたくさんある。  「あの時はありがとうございました」  私が頭を下げるとお婆さんは恐縮したように。  「はて、何かしましたかな……」  と私に頭を上げるよう言った。  「実は私、あの時すごく悩んでまして、で、おばあさんの話を聞いてすごく参考になったのでそれのお礼を言いたかったんです」  別に今思うとおばあさんの話がそこまで参考になったわけではない。  きっかけになっただけ。  それでも、やっぱりそのきっかけを作ったのだから、やっぱり参考になったといえると思う。  「おやまぁ、こんな年寄りの戯言が役に立つとは。長生きしてよかったのぉ」  そう言ってお婆さんはにっこりと笑った。  昨日と同じく、お年の割りにすごく張りのある声が印象的だ。  お婆さんは続けて話した。  「自給自足云々の話だったかの、確か。あんな話をして、さぞつまらんかっただろうと思っておったのだけれど」  「いえいえ、そんな!」  あの話がなければ、きっと今も悶々と悩んでいたことだろう。  「しかし、あれですな。昨日の学生さんとは別人のように明るいのぉ。いや、昨日の方が別人だったのかな」  「………そう、ですね。そうかもしれません」  「元気なのはいいこと、そう思っております」  「はい」  そこまで話したときに電車が来た。  「お嬢さん、今日も学校ですか?」  いや、実は今日“は”なんですよ。  そう言いたいのをこらえつつ。  「はい、そうです」  「では降りるのは中月ですか?」  「ええ」  「なら、そこまで一緒に行きますか」  「はい!」  もとよりそのつもり。  私はおばあさんと電車に乗った。  昨日より混んでいたため座ることが出来なかったが、なに、すぐに着きますからと言ってお婆さんは自ら立つことを提案した。  なら、何で昨日は私の隣に座ろうと思ったのか。  「不思議と、あのときはお嬢さんの横のスペースに座ろうと思ったのですよ」  と語るお婆さん。  やはりどうやら完全な運命のめぐり合わせらしい。  その後、時間も無いため私はお婆さんに軽く、どういうことがあったのかというのを話した。  「なるほど、そんなことがあったのですか。私の話がきっかけに」  「はい」  「いやはや、良かったです」  お婆さんは心底嬉しそうにそう言った。  幸せそうだった。  「それでは、私の話もいたしましょうか。時間の許す限り」  お嬢さんだけに話してもらうのは申し訳ないですからね、と付け加えて。  おばあさんはとつとつと、何かを思い出すかのように語り始めた。  「私には昔、好きな人がいてましね。陸軍学校へ通っていた頭のいい人でした。当時はまだ戦争前。 交際なんて今の時代のようにおおっぴらに出来るものじゃありません。でも、人目を忍んでは 何度も逢っておりました。あの人さえいれば、他に何もいらないと思える、そんな毎日でしたよ」  「………」  「ただ、何が悪かったのでしょうか。時代…といえばそれまでなんでしょうが、 戦争が始まってしまいまして。あの人は敵地へ赴き、そして現地で非業の死を遂げたとすぐに電報が届きました。 それでも信じられなくて、戦後数年経ってもまだ、ふらふらとあの人の影を探していましたね」  「本当に好きだったのですね」  「ええ、恥ずかしながら」  そう言って本当に恥ずかしそうにお婆さんは微笑み、話を続けた。  恥ずかしがる仕草もすごくかわいらしい。  「私にとってあの人が全てでしたから、もうどうして良いのかわかりませんでした。 誰にも頼ることが出来ず、一人悩んでいたんです。2度は自殺しかけました。後を追おうと思って。 でもどうしても死ぬことが出来なかった」  「怖くて、ですか?」  「半分正解です。ですが、もっと大きな理由がありました。……実はお腹に子供がいたんです、あの人の。 電報が届いたのがお産2ヶ月ぐらい前でして、発狂しそうになりました。どうやってこの子を産めばいいのか、 誰がこの子の親になるのか。私しかいない状況の中で誰に頼ればいいのか。そう、自分しか頼れなかったのです。 もともと親にも忍ぶ恋でしたから。子供が出来たときは親が発狂しそうになってましたよ」  そう言って軽く目をつぶり、そしてまた開いて話を続けた。  「精神的な疲労がたたったのでしょう。子供にまで影響を与えてしまったのか、 出産予定日の3週間前に急に破水しまして。………死産でした」  「………」  「身も心もボロボロになって、再度、死のうと思ったのですが、その頃には周りにも戦火の手が伸び、 なぜか本能的に生きようとしてしまい、結局終戦まで生き残りました」  「そんな、残念そうにおっしゃらずに」  そう私が言うと、  「いえいえ、残念というわけではないですよ。今となっては感謝しているぐらいです、死なずに済んで。 しかし当時は逆に呪ったものでした。どうしてあの人の元に逝かせてくれないのかと。自分で死ぬ勇気も無い人が 何を偉そうにと、今の私はそう思ってしまいます」  「………」  「と。少し答えにくい話題でしたね」  お婆さんは話の先を急ぐように話し始めた。  車内アナウンスがもうすぐ作間に到着することを知らせる。  中月まであと一駅。  「戦後、私は塞ぎ込みました。もう幸せなんて何一つなかった。生きていくのも精一杯の時代。 どうして生きているのか不思議に思う時なんて毎日でしたよ。 過去を思い出してもなぜか全てが灰色に見える。あんなに楽しく話していたのに。 しかし、それでも生きてました。そんなときでしたでしょうか、あの人の手紙を偶然見つけたのは」  「手紙……ですか」  「はい。あの人の実家に預けてあったようなのです。人づてに私のことをご両親が知ったらしく、 わざわざ送ってくださいまして。その手紙を見て、号泣しました。そこにはすごく短文で、 私のこれからのことを心配する旨と、最後に一句こんな歌が書いてありました。  生ありて 生ける体で 君を愛づ 死すれば心 君を包まん」  「………」  「私を愛してくれている人が今なおいるということに、気がついたんです。それ以来、私は 生きようと決意しました。あの人が愛してくれている限り、私は幸せですから。 ………そんな年寄りの昔話なんですよ」  そう言ってお婆さんは軽く笑った。  本当に、いい笑顔だった。  「そうだったのですか」  「だからあなたを見たときに、ピンときたんです。この子から感じる雰囲気は何かが違うと。 なんとなく、昔の自分と似ているような、そんな気がしたんです。気を悪くされたらごめんなさいね」  「いえいえ、そんな」  そういうことがこのお婆さんにあったんだ。  だからこそ、愛は他給自足だとそう言ったのだろう。  その上でこれだけいい笑顔で笑えるこのお婆さんは、本当にすごい人だと思う。  でも、私の場合は愛の意味が違う。  他給自足の“他”の意味が違う。  私は、このお婆さんが昨日話してくれたことを違うふうに受け止めた。  そしてそれもまた決して間違ってはいないと思う。  おばあさんが話したかったこととは大いに異なったかもしれない。  でもこれも悪くないんじゃないかと、そう思う。  だって。  「お嬢さんはまだ若い。誰かに必要とされ、誰かを愛し、愛され、周りに人がいるということ、 自分を思ってくれる人がいるということを実感できるようになれば、それは素晴らしいことだと分かってもらえれば それだけで十分です。私の戯言が初めて、誰かの役に立つというものですからね」  私はお婆さんの役に立つことができたから。  きっとこうしてお婆さんの話を聞いて私がそれを役立てることで、お婆さんは幸せになるのだと思う。  『まもなく、中月〜中月〜』  車内アナウンスが聞こえる。  「それじゃ、お婆さん、本当にありがとうございました。お婆さんが話しかけてくれなかったら  きっと私はまだずっと、暗いままでした」  「いいえぇ。私の方こそありがとうね。若い人とお話できて、楽しかったわ。私もこれでようやく心のつかえが取れたよ。 やっと眠れるわ」  「ははは、寝不足だったんですね」  「長い間、ね。では、またいつかお会いしましょう」  「はい!」  そう言って、私たちは別れた。  また同じ電車を使っているんだ、会うこともあると思う。  そのときに色々話を聞こう。  私は気持ちを切り替えて学校へと向かった。   「おはよー」  教室に入り、友達と挨拶をして自分の席にかばんを置く。  すると。  「おっはよー。元気になったじゃん」  そう言って笑いながら佐紀が私のところまでやってきた。  「うん、もう大丈夫」  「そりゃぁね〜、あれだけ人に心配かけてくれたから」  「え、そんなに?」  「うん。なんて言ったって、1ヶ月ほど前から」  あちゃー。  やっぱり分かってたんだ、佐紀は。  「ゴメンね〜」  「まぁいいよ。それにしても今日はちょっとだけ早いね。いつもギリギリなのに。どしたの?」  「お婆さんに会ってきた」  「お婆さん?」  え?  「昨日話したでしょ?」  「全然。お婆さんの話なんて全く聞いてないよ」  「あれ?そうだったっけ?」  「そ」  あー、そうかも。  昨日は世界云々で話し終わっちゃったし。  「とにかく、ちょっとお世話になったおばあさんがいて。その人に会ってきたの」  「そうだったんだね」  「うんうん」  ほんと偶然の出会いなんてあるもんだな、と思う。  佐紀との出会いも偶然みたいなものだし。  などと過去を思い出していたら、佐紀がとんでもないことを言い始めた。  「でさ」  「どしたの?」  「今日は開かないんだね」  「何を?」  「……単語帳」  ………え?  「え?」  「ふふっ」  「え、えぇぇぇぇぇぇぇぇっ!今日ってもしかして!」  「そう、いとしの単語テストの日よ」  そ、そんなぁ。  そういえば昨日そのために電車の中で単語帳を広げていてそしてお婆さんに会って………って思い返している場合じゃない!  「べ、勉強する!」  がたっと椅子に座り、時間を確認。  あと………は、8分!?  あ、あわわわ。  単語帳を出そうとかばんの中をあさって単語帳を出す。  つるっ。  が、こんなときに限って手が滑って単語帳が飛ぶ!  「あああああ!単語帳!!」  飛んでいった単語帳を佐紀が拾って渡してくれた。  「はい。…全く、焦らないの。本当に精神的に弱いんだから」  「ありがとーうるさいなー」  「感情こもってなさすぎ!………まぁいいわ。とりあえず、邪魔にならないように自分の机に戻っとくから」  ありがとう、佐紀。  本当に、ありがとう。  感謝してもしきれないぐらいだよ。  でもそれは。  単語テストの後にするから勘弁して!  さて、どこまでやったのかを思い出す。  赤いシートの挟んであるページを開くと、そこには。  「あっ」  “Happiness”の文字。  日本語の意味が、赤い透明シートに隠れて見えない。  そう、見えなかった。  シートをずらすのも怖かった。  そこにあるべき文字がなかったらどうしようと思った。  でも、今は違う。  シートなんていらない。  もうこんなものは必要ないんだ。  だってHappinessの意味は………。  「幸せ 幸福、なんだから」  今の私には、赤いシートの奥にある文字も見えるよ。  シートを外して、さぁ、勉強開始!   ……放課後。  職員室で。  「どうしたんだ、この点数は。今までとは全然違うじゃないか」  「す、すみません〜!」  私は謝るばかり。  はぁ、ホントに。  私らしくがんばるのと、必死に勉強すること。  両立はなかなか難しそうです。  でも、ま。  やっていけるかな。  「こら、話を聞いてるのか!」  「す、すみません〜〜!!」  ………前途多難みたいです。すごく。 - Fin - Happiness あとがき  どうも〜。 「あとがき」という名の、恒例の言い訳コーナーです(笑  さて、今回のHappiness。 実はもっともっと分かりやすい短編にする予定でした。 5000字ぐらいの。 それなのに、気がつけば3万字弱ですよ。 6倍ですよ、6倍(汗 何でこんなことになったんだか(笑  しかしまぁ、ほんと僕の書く話は前向きなのが多いですね。 暗いお話とかダークなお話とか(一緒ですよ)、 そんなのがないのが自分でも不思議。 ほら、アレです。 僕自身が暗いものですから、お話ぐらいは明るく書こうかと(マテ  今回のテーマは、ごく普通の日常と、悩みからの開放という二つをテーマにしました。 お話の筋自体はすごくそのまんまでしたね。 ですが、問題なのはお話の盛り上がりなどなど。 どうも文才の無い僕には上手く書けないシーンが多く、そういう瞬間に出くわすたび、 「あぁ、ほんと物書きのみなさんは表現が上手いなぁ」 と心底思います。 どうやったら、文章読むだけで場面が思い浮かぶとか、そんな表現力を身に付けられるんでしょうね。 誰か余ってる人がいたら下さい。  前回の小説のときに 「次は絶対に恋愛小説にしない!」 と宣言したので、今回はそういうのから少し外れたものにして、 彼氏さんの登場も最小限度にとどめました。 というか、今思うと別に彼は出てこなくても良かったような気もします。 ………実はですね。 ここだけの話なんですが、裏設定があったのですよん。 読者の皆さんが 「うそっ!?」 と思うようなED(エンディング)にしようと思ってあれこれ考えていたのですが、 結局最終的にはそっちの方が懲りすぎて設定がぐだぐだになったため、 すっぱり諦めました(涙 情けない……。 なんかこう、すごく「ありえねぇ!」と言いたくなるようなEDにしたかったんですけどね。 今回の裏設定をいつの日か、別の小説で使うことにします。 ストックストック。  さて、それではあとがきすらグダグダになってきたので、もうこの辺でw ちなみに、僕が好きなんですよ、ミルクボーロ。 「乳ボーロ」とか言ったりしますよね。 なお僕は一気に6つぐらい食べるのが好きです。 ………ダメダメですね(笑  それでは〜。  むぅ 出展「むぅのいえ」 http://muuhouse.com/shousetu.html