TITLE : 仄暗い水の底から 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわらず本作品を第三者に譲渡することはできません。 目 次 プロローグ 浮遊する水 孤島 穴ぐら 夢の島クルーズ 漂流船 ウォーター・カラー 海に沈む森 エピローグ 単行本あとがき プロローグ  東京から息子の一家が遊びに来るたび、佳《か》代《よ》は、早朝の散歩に孫娘の悠《ゆう》子《こ》を連れ出すことにしていた。行き場所は、三《み》浦《うら》半島の東端に位置する観《かん》音《のん》崎《ざき》と決まっている。自宅を出てぐるりと一周して二、三キロ、散歩には手頃な距離にあった。  岬の展望広場に来ると、悠子は、「ばあちゃん、ばあちゃん」と手を引きながら、海の向こうを指差し、「これは何、あれは何」と質問攻めにする。  佳代は、質問をはぐらかすことなく、丁寧に受け答えをした。昨日、夏休みを利用して遊びに来た悠子は、あと一週間ここに滞在するという。孫と一緒に過ごす時間を思うと、佳代はうれしくてならなかった。  京《けい》浜《ひん》工業地帯の向こうに東京湾の深奥部がかすんでいた。見通せることは滅多になく、東京湾の懐が意外と深いのがわかる。それに比べ、房《ぼう》総《そう》の山々は浦《うら》賀《が》水道を挟んですぐ間近に迫り、鋸《のこぎり》 山《やま》から鹿《か》野《のう》山《さん》にかけて、くっきりと稜線を浮かび上がらせていた。  悠子は、手《て》摺《す》りから手を伸ばし、手で何かを掴《つか》む真《ま》似《ね》をする。対岸の富《ふつ》津《つ》岬は細長く砂州を延ばし、手を伸ばせば届きそうな距離にあった。  富津岬と観音崎を結ぶラインは東京湾の入口であり、両側の岬によって狭められた航路には、上下二列になって貨物船が頻繁に行き交っている。悠子は、その位置からはおもちゃのように見える船に向かって、手を振った。  船の航路は、潮の流れが速く、場所によって縞《しま》模様ができることがあった。満潮時には湾の外側から潮が流れ込み、干潮時は逆に流れ出る。そのせいか、観音崎と富津岬には東京湾のゴミが全て流れつくと言われている。湾を心臓に喩《たと》えれば、両岸から張り出した岬はちょうど弁の役を果たし、ゆったりとした鼓動を伴って循環する海水から、老廃物を絡め取ってしまうのだ。  海水の循環だけではない。江《え》戸《ど》川、荒《あら》川、隅《すみ》田《だ》川、多《た》摩《ま》川といった太い血管が、東京湾に新鮮な血液をもたらす。したがって、漂着するゴミの種類は、タイヤ、靴、子供のおもちゃ、難破した漁船の残《ざん》骸《がい》等の他に、八《はち》王《おう》子《じ》あたりの住所が記された木製の表札も混じっていたりする。なぜこんなものが海に、と首をかしげたくなるものも多い。ボウリングのピン、車《くるま》椅《い》子《す》、ドラムのスティック、ランジェリー……。  悠子は、波間に漂う漂着物の一つ一つに興味を抱き始めた。  漂着物は、拾った人間の想像力を異様にかきたてる。オートバイのサイドカバーが波間に漂うのを見れば、埠《ふ》頭《とう》を走っていて海に転落するオートバイを思い浮かべるだろうし、ビニール袋一杯に詰まった使用済み注射器を見れば、何かしら犯罪の臭《にお》いを嗅《か》ぎあてるかもしれない。漂着物ひとつひとつがそれぞれのドラマを抱えている。  波打ち際を歩いていて、一際目を引く浮遊物を発見したとしても、不用意に拾うのはよしたほうがいい。手に取った瞬間、漂着物は自らのドラマを語り始める。語られるのが、心暖まる話ならともかく、身の毛もよだつほど恐《こわ》い内容であったら取り返しがつかなくなる。  ……海が好きなら、よけい注意すべきよ。ゴム手袋と思って拾い上げたら、実はちぎれた手首だったりして。拾った人は二度と海で遊べなくなっちゃうじゃない。手首を持ち上げた感触なんてなかなか消えないもの。  佳代はこともなげにそんなふうに話し、幼い孫を恐がらせる。恐い話を聞かせてとねだられるたび、佳代は漂着物を題材にしてストーリーを組み立てることがあった。  これから一週間、たぶん散歩に出るたびに悠子から恐い話を要求されるだろう。しかし、話のネタには事欠かない。散歩を始めたばかりの二十年前の朝、海で思わぬ品を発見して以来、佳代の想像力は活性化してしまったようだ。今では、漂流物を媒介にして、水辺に転がる不思議な話を自在に引き出すまでになっていた。 「宝物はないの?」  そんな恐いものじゃなく、素敵な宝物が海の向こうから流れついたことはないのかと、悠子は尋ねた。眼下の、狭い航路には大小様々な船がひしめいている。船のキャビンから宝石箱の類《たぐい》が落ちたとしても何の不思議もない……、悠子はそんなふうに考えるのだ。 「ないこともないわねえ」  まだるっこしい言い方だった。 「ちょうだい」  それが何か訊《き》く前から、悠子は単刀直入に欲しいと言う。 「あげてもいいけど……」  佳代は条件を仄《ほの》めかした。 「いいけど、って?」 「これから一週間、散歩に付き合ってくれるわよね」 「もちろん」 「悠子が東京に帰る日の朝、それをあげる」 「約束よ」  佳代と悠子は、約束げんまんしてから指をきった。その宝物を、悠子は別に喜ばないかもしれない。喜ばないどころか、宝物であると理解できるかどうかさえ怪しいものだ。理解させるためには、さらに物語を積み上げ、言葉が発せられた場所のイメージを、悠子の脳裏に鮮やかに浮かび上がらせる必要がある。  しかし、これからの悠子の長い人生において、宝物が本来の力を発揮する瞬間がいつか訪れるはずである。佳代は自信を持ってそう断言することができた。 浮遊する水  水道の水を飲もうとしてふと気になり、松《まつ》原《ばら》淑《よし》美《み》は流しの蛍光灯にコップをかざした。額の高さでコップをゆっくり回すと、細かな気泡の浮遊する様が見てとれる。コップの底に付着していたのか、もともと水に含まれていたのか、気泡と絡まるようにして無数のゴミが一緒に揺れている。二口目を口に含もうとして気が変わり、淑美は顔をしかめて水をこぼした。  やはり味が違う。武蔵《 む さ し》野《の》の借家から埋立地に建つ七階建てのマンションに越してきて三ケ月になるが、水道水の味にはまだ慣れることができない。これまでの癖でつい一口飲んでしまうけれど、カルキとも異なる妙な臭みが鼻につき、飲み干すことは滅多になかった。 「ねえ、ママ。花火、やろうよ」  もうすぐ六歳になる娘の郁《いく》子《こ》が、保育園の友達から分けてもらった花火の束を掲げ、居間のソファから声をかけた。淑美は、空のコップを手にしたまま娘の訴えを聞き流し、利《と》根《ね》川《がわ》の水源からの水の経路を頭に思い描いたりする。これまで住んでいた武蔵野の水の流れとはどこがどう違うのだろうと、水路を辿《たど》れば、なぜか黒々としたヘドロが脳裏に舞い上がる。この場所がいつ埋め立てられ、島と島の間を水道管がどのように這《は》い回っているのか、淑美は知らない。ただ、東京湾の変遷を示す地図を見たところでは、昭和の初年頃、確かに今住んでいる埋立地は存在しなかった。時代時代の残《ざん》滓《し》で礎を築く、そのあやふやな足元を思うと、淑美のコップを握る手から力が抜けかけた。 「ねえ、ママったら」  八月末の日曜の夕暮れ、ますます濃くなってゆく闇《やみ》に駆り立てられ、郁子は母に花火遊びを催促する。淑美は、流れる水をそのままに居間を振り返った。 「だって、花火をあげる場所なんて……」  運河に面したすぐ前の公園は現在工事中だし、近所に花火をあげる場所なんてないわよと言いかけて、淑美は、まだ一度もマンションの屋上に上がってないことに気付いた。  淑美と郁子の親子は、マッチとロウソクとビニール袋に入れた花火を持って四階のエレベーターホールに立った。上向きの矢印のボタンを押し、エレベーターを呼ぶ。 「いらっしゃいませ、何階ですか?」  ギューンと苦しそうな声をあげてやってきたエレベーターに乗ると、デパートのエレベーターガールを真《ま》似《ね》て、郁子が言った。 「七階をお願いします」  淑美は娘に合わせ、客になりきる。 「かしこまりました」  軽く頭を下げ、郁子は七階のボタンを押そうとするが、背が届かない。淑美は、その様子を見て、くすくす笑った。爪《つま》先《さき》立《だ》ちになって手をまっすぐに伸ばしても、郁子の人差指が届くのはせいぜい四階までのボタンだった。そのうち、エレベーターのドアは自動的に閉まりかけた。 「はい、残念でした」  と淑美が7のボタンを押すと、 「んもー」  と郁子は不服そうな顔をする。  指の先に階数ボタンのザラついた感触が残り、淑美は無意識のうちに麻のスカートでその手を拭《ふ》いていた。エレベーターに乗るたび、黒く焼けただれた階数ボタンに暗《あん》澹《たん》たる気分にさせられる。階数を表示した1から7までのボタンの表面が、タバコの火を押しつけられて焦がされているのだ。すぐ横に貼《は》られている禁煙のマークはなんの被害も受けてないのに、白いはずのボタンはひとつ残らず焼かれている。淑美は、こういった無意味な行為をする人間の心理を思うたびに、うそ寒さを覚えた。社会に対する不満が鬱《うつ》積《せき》しているのだろうが、その鋒《ほこ》先《さき》を他の人間に向けることはないのだろうかと。なにより恐《こわ》いのは、そんな男(彼女は男と決めつけている)が、間違いなく自分たちが住むマンションのエレベーターに乗り降りしていることだ。母子家庭だけに、いざというときのことを考えると、不安感は拭《ぬぐ》えない。しかし、だからといって、男と暮らすことなどもうこりごりだった。  夫と暮らした二年間、守られていると感じたことは一度としてなかった。四年半前に別居し、その一年後正式に離婚が決まったときは、心底ほっとした。もともと男と暮らすことに適応できないのだ。松原家の伝統なのか、淑美の祖母も母も同じ道を辿《たど》り、母と娘とのふたりだけの生活が三世代にわたって続いている。今こうやって手を握る郁子も、将来結婚して子供はつくるだろうけれど、なんとなく夫婦生活は長続きしないような気がする。  エレベーターが止まりドアが開くと、東京湾がすぐ目の前に見えた。廊下に出て、左右を見渡す。エレベーターの両側に、四戸ずつ住戸が並んでいるのだが、どの住戸にも人の住む気配はなかった。築十四年のこのマンションは、バブルがはじけた後の後遺症を抱えていた。  二年ばかり前、この地に超高層インテリジェントビル建設の計画が急浮上し、マンションは近隣の雑居ビルと共に一《いつ》旦《たん》は地上げの対象になった。しかし、住民の追い出しも思うに任せず、もたもたと足止めを食っているうちにバブルははじけ、ビル建設の計画は頓《とん》挫《ざ》した。総戸数四十八戸のうち約半数が買収済みだったが、転売もままならず、そのうちの二十戸が相場をかなり下回る家賃で賃貸しに出されることになった。淑美は、その情報を不動産会社に勤める友人から得、以前から憧《あこが》れていた海辺の生活を手に入れるチャンスとばかり長年住み慣れた武蔵野の借家を離れ、まったく環境の異なる埋立地に移る決意をしたのだ。夫の匂《にお》いの残る武蔵野の家には我慢ならなかったし、母の死んだ今となっては、保育環境の整った港区のほうが母子ふたりの生活も楽になるような気がした。彼女の勤める出版社は新《しん》橋《ばし》にあり、節約した通勤時間を育児へと振り向けることができるのが、なによりの魅力だ。  しかし移ってみると、もともと投資目的で購入した家主が多く、住居以外の目的で使用される率の高かったマンションは、ほとんどの部屋が事務所と化していた。そのせいで、夜になるとマンションの人口は激減する。独り者の住人が五、六人いるだけで、家族で住んでいるフロアは淑美の405号室だけだ。管理人から聞いた話によれば、以前二階に郁子と同じ年頃の娘がいる一家が住んでいたが、不幸な出来事のために去年引っ越してしまったとのことだ。以来、三ケ月前に淑美と郁子が越してくるまで、このマンションに子供の姿はなかった。  淑美は人気のない七階の廊下を見渡し、屋上に上る階段を捜した。エレベーターのすぐ右が階段ホールになっていて、そこから一階上に上れば屋上に出る。コンクリートの急な階段を、淑美は娘の手を引いて上った。エレベーターの機械室のすぐ前に、いかにも重そうな鉄の扉があった。鍵《かぎ》はかかってないらしく、ノブを回しながら押すと意外にたやすくドアは開いた。  屋上といえるほどの広さはなかった。四隅にコンクリート製の柱が立つ、ほんの十坪ほどの狭い空間で、腰の高さばかりの手《て》摺《す》りに取り囲まれている。端に寄ったときの郁子の動きを、淑美は絶えず気にかけなければならない。下を覗《のぞ》き込めば、頭の重さだけで落下しそうだ。  風のない穏やかな夕暮れの中、空に突き出したその空間で、淑美と郁子は花火に火をつけた。闇が深まるにつれ、花火の赤い炎が際立つ。右下の、黒い運河の表面が街路灯を受けてテラテラと光り、その反対側では、芝《しば》浦《うら》と台《だい》場《ば》を結ぶレインボーブリッジがまさに完成間近だった。釣橋の上部が、赤い灯火に縁取られていて、それこそ花火のように輝いている。  淑美は高みからの風景を楽しみ、郁子は手に持った花火を頭の高さにかざして歓声を上げた。そうして、数十本の花火が全部燃えつき、部屋に戻ろうとして、淑美と郁子は同時にそれを発見した。ふたりとも高架水槽の載った塔屋の壁に背を向けていたが、階段ホールも兼ねたその壁の下、小さな排水溝のところに、バッグのようなものが落ちていたのだ。落ちているというより、置いてあるといったほうが的を射ている。第一、こんな屋上にバッグを落とす人間などいるはずもない。  最初、手に取ったのは郁子だった。 「あっ」  と声を上げたかと思うとすぐに走り寄り、バッグを拾い上げ、 「キティちゃんだ」  とつぶやいた。暗くてよく見えなかったが、手に取って下からの街路灯の明かりに照らせば、ビニール製の安っぽいカバンの腹に、キティちゃんのマークが入っているのがわかる。手の中で、赤い色のビニールがふにゃふにゃと形を変えた。  強引に引き寄せ、チャックを開けて中のものを出そうとする郁子を、淑美は、 「かしなさい」  ときつく叱《しか》り、バッグを取り上げた。母がまだ生きていた頃、武蔵野の丘陵地帯を郁子と母はよく一緒に散歩し、落ちているものを拾って帰ることが多かった。母の世代から見れば、現代の人間がものを粗末にしすぎると映るのは当然だ。それはそれで構わない。だが、自分の娘がゴミの類《たぐい》を漁《あさ》る姿にだけはがまんならず、この点に関して母と口論が絶えなかった。落としものを拾ったときの心得は、いつでも娘に言い聞かせてある。  ……たとえ、どんなものであっても、ねこばばはだめ。  真顔でそう言う淑美に、母は「融通がきかないねえ」といつも顔をしかめたものだ。  郁子からバッグを取り上げたはいいが、さてこれをどうしようと、淑美は頭を悩ませた。バッグの中からはゴツゴツとした感触が伝わってくる。潔癖な淑美は、中身を確かめようともせず、こんな場合はマンションの管理人に相談するのが一番だろうと、一階の管理人室に足を運ぶことにした。  管理人の神《かみ》谷《や》は早く妻に先立たれ、運輸会社を退職して以来十年間、管理人としてこのマンションに住み込んでいた。給料は安いが部屋の維持費はかからず、独り者の老人にとってはかっこうの働き場だ。  バッグを受け取ると、神谷はためらうことなくチャックを開け、中のものを管理人室のカウンターに並べた。バッグと同じキティちゃんが描かれた真っ赤なコップ、ゼンマイ仕掛けで両手両足が動くプラスチック製のおもちゃのカエル、浮き輪を抱えたクマの人形……、出てきたのは、幼児用お風呂遊びのセットとすぐわかる三点だった。  郁子は、喚声をあげ、並んだおもちゃのほうに手を伸ばしかけたが、母ににらまれ、はじかれたように手を引っ込める。 「変ですねえ」  管理人が不思議に感じたのは、屋上にバッグが落ちていたことよりも、明らかに幼児用の持ち物がなぜこのマンションに存在するのかということだった。 「貼《は》り紙でもして、持ち主を捜してみたらいかがでしょう」  淑美は提案した。カウンターにバッグを載せて貼り紙をしておけば、ひょっとして持ち主が現れるかもしれない。 「だって、ここには郁ちゃんしかいないじゃないですか。ね、そうでしょ」  母の傍らで、キティちゃんのバッグとコップをじっと見つめる郁子に、神谷は同意を求めた。今、郁子が何を望んでいるのか、その顔を見ればだれにでもわかる。欲しくてならないのだ、バッグとその中身のおもちゃの両方が。そんな物欲しげな顔に苛《いら》立《だ》って、淑美は娘の肩に手をかけて、カウンターから強引に一、二歩後退させた。 「以前、二階に住んでいたという家族……」  淑美が言いかけると、神谷は驚いたように顔を上げた。 「ああ、あれね」 「五、六歳の女のお子さんがいらしたって……」 「ええ、おりましたよ、確かに。でも、もう二年も前のことですから」 「二年前? 去年引っ越したって、そうおっしゃいませんでした?」  管理人は、背中を丸めて足首のあたりをぼりぼりとかいた。 「ええ、まあ、引っ越したのは去年の夏でしたけど」  三ケ月ばかり以前、淑美は管理人からこんなふうに聞いたのを覚えている。不幸な出来事があったために、去年、二階に住む一家が引っ越していった……。だから、淑美は推理したのだ。その一家が屋上にバッグを忘れていったんじゃないかと。  ところが、目の前のバッグにしろ、プラスチック製の中身にしろ、一年もの間屋上で野《の》晒《ざら》しになっていたとはどうも考えにくい。たった今、店で買ってきたばかりのような、ほこりひとつ被《かぶ》らない真新しいキティちゃんが、一年にもわたる放置を否定している。 「わかりました、しばらくカウンターの上に置いて、持ち主を捜してみましょう」  神谷はそう言って会話を切り上げようとした。こんな安物のバッグの持ち主など、彼にはどうでもよかったのだ。  だが、淑美はまだ管理人室のカウンターの前を離れようとはせず、言い出そうかどうしようかと迷いながら、栗《くり》色の縮れ毛に手をあてている。 「もし持ち主が見つからなかったら、郁ちゃん、これもらっちゃったら?」  郁子に向かって神谷が笑いかけると、淑美は毅《き》然《ぜん》とした態度で、首を横に振った。 「いえ、いけません。そのときは、捨ててください」  まるで汚物から引き離そうとするかのように淑美は郁子の背中を押し、そそくさと管理人室を後にした。  だが、エレベーターに乗っている間、彼女は気になってならなかった。他人の不幸を話題にして喜ぶ類の人間と思われるのが嫌で、わざと聞かなかったが、どうも胸にひっかかる。一体、二階に住んでいた家族はどんな不幸に見舞われたのだろう。  翌月曜日の朝、淑美は普段よりも長く髪に櫛《くし》をあてた。居間からは、幼児向けテレビ番組のテーマソングが流れていた。その曲が時報の代わりだった。今朝は出勤までに、まだずいぶん余裕がある。九時までに娘を保育園に連れていき、園のすぐ前からバスに乗れば、二十分で新橋にある職場に着く。武蔵野に住んでいた頃と比べると、通勤に費やす時間とエネルギーははかりしれないほど軽減された。それだけをとっても、越してきた価値は十分にある。武蔵野に住み続けていたら、娘を保育園にあずけて働くなんてことはできなかっただろう。職場を変える手もあったが、淑美には出版社の校正部以上の職場があるとは思えない。大好きな活字の世界に身を浸し、頻《ひん》繁《ぱん》に他人と接することもなく、残業もなく、それでいて給料はそこそこに貰《もら》えるのだ。 「ねえ、ママ。髪の毛、結んで」  娘の郁子が、ピンクのリボンを持って、母のもとにやってきた。見ると、さっき結んだばかりのリボンがほどけ、髪の裾《すそ》は両肩の上に広く被《おお》いかぶさっている。  淑美は娘の髪に触りながら、自分の遺伝子が正確に娘に伝わったことに今更ながら驚いた。栗色の縮れ毛。白い肌。両目の下のそばかす。そっくりな顔がふたつ、開いた三面鏡に並んで映っている。片方は三十代半ばを迎え、片方はもうすぐ六歳になる。  ……ラーメン。  高校時代、男子生徒が自分に向かってそんなふうに言うのを耳にしたことがある。  ……あいつ、頭にラーメンをぶちまけたような髪してるよな。  天然のパーマも、顔も、そばかすも、痩《や》せた身体も、自分のすべてが嫌いだった。しかし、高校時代、一体何人の男子生徒から愛を告白されただろう。数えたこともない。淑美には、まるで合点がいかなかった。美的な感覚が、自分と他人とではまったく異なるのではないかと、そう思われてならない。日本人離れした茶色の髪に縁取られた小さな顔を、だれもがみな美しいと言う。そばかすだらけにもかかわらず……。わからない。そうして、振られたと悟ると、男たちは陰で赤い縮れ毛を笑うようになる。もっとじょうずに振る舞っていた女生徒はたくさんいた。男をいいようにあしらっても、決して陰口をたたかれないタイプ……、中学高校と一緒だった裕《ひろ》美《み》がその典型だった。  髪を結び終えると、母にではなく、鏡の中の自分に向かって、 「ありがと」  と言い、郁子はテレビのある居間へと駆け戻っていった。  別れた夫の面影は、娘の後ろ姿のどこにも見当らない。せめてもの救いだ。男と女の交わりを、楽しいと思ったことなど一度もなかった。苦痛という以外に表現する言葉を知らない。だが、世の中はセックスに関する話題でいつも賑《にぎ》やかだ。やはり理解できない。自分と、他人との間には、越えることのできない高い壁がそびえているらしい。美醜の感覚から快楽に至るまで、全部異なっている。自分の目に映る世界と、他人の目に映る世界には大きなズレがある。  自分の求めに妻が応じないと知ると、夫はよくひとりで処理し、ティッシュペーパーを無造作にソファの下に投げ捨てた。翌朝、なにげなく拾い上げた際、ねばついた体液が指先に触れたことがあった。淑美は夫の無言の抗議を理解するより先に、その呆《ほう》けた顔を思い浮かべた。そうして、嫌悪感と軽《けい》蔑《べつ》のあまり身体を激しく震わせたのだ。  聞き慣れた女性アナウンサーの声が、テレビから流れ出す。そろそろ保育園に行く時間だった。  ドアを勢いよく開けてエレベーターに走り寄ると、郁子は母よりも早く、下向きのボタンを押した。エレベーターを降り、表玄関から外に出るには、管理人室の前を通らなければならない。そのカウンターの上の赤いバッグに、淑美と郁子は同時に目をとめた。昨夕、屋上で拾ったキティちゃんのバッグは、チャックが閉じられ、貼り紙の上に置かれてあった。貼り紙には、こう書かれている。   お心当りの方、お申し出ください。 管理人 神谷    管理人は、言われた通りに策を講じたのだろうが、淑美にはなぜか持ち主が現れるとは思えなかった。  九月に入って、暑さは引くどころか今夏の最高気温を記録するほどの昂《たか》ぶりを見せた。異常ともいえる炎暑の続いた三日間、キティちゃんの真っ赤なバッグは、管理人室の黒いカウンターの上に載っていた。淑美は、朝と夕方、カウンターのバッグに目をとめるたびに、理由のわからない強迫観念にとらわれた。真っ赤なバッグは、炎の象徴のようだ。そして、それを証明するかのように、カウンターからバッグが消えるのと同時に、残暑はすうっと一歩引き下がる気配を見せた。持ち主が見つかったのか、あるいは管理人が勝手に処分してしまったのか、もはやどちらでも構わなかった。一切縁が切れたのだ。代わって今の淑美を悩ますのは、仕事上の憂《ゆう》鬱《うつ》だった。六年ぶりで、また例のバイオレンス作家の書き下ろし長編小説を校《こう》閲《えつ》することになり、今朝出社すると同時に初校ゲラを主任から手渡されてしまった。  原稿の誤りを見つけて訂正するという校閲の仕事柄、淑美は作品を繰り返し丹念に読まざるを得ない。六年前、何の心構えもなく、彼の作品に目を通したときは、精神が壊れるんじゃないかと思うくらいの打撃を受けた。作品に描かれた残虐なシーンが脳裏にこびりつき、夢の中にまで現れて彼女を悩ませ、誇張でもなんでもなく、その影響を拭い去るべく、精神科クリニックを訪れようとしたほどだ。彼女の胃の中身は数度にわたって氾《はん》濫《らん》を起こし、食欲は減退し、体重は三キロも減った。淑美は、しばしば妄想と現実との区別がつかなくなってしまうことがあった。  淑美は担当の編集者に文句を言った。なぜ、こんな作家の本を出すのかと。彼……、まだ二十代半ばの初《うい》々《うい》しさの残る担当編集者は、したり顔でこう答えた。 「だって、しょうがないでしょ。売れるんだから」  ここでもまた、淑美は自分と他人とを隔てる障壁の高さを実感した。お金を払ってまで、こんな気持ち悪い小説を読む人間がいるのが信じられない。自分とはまったく異なった神経回路を持った人間の群れが、障壁の向こうに屯《たむろ》する。しかも、よりによって、翌年他社から文庫で発行された同じ本の一部は思いがけない場所、自宅の夫の本棚に収まっていたのだ。淑美は、夫の本棚にその本があるのを見るとすぐ恐怖に近い感情を抱き、次の瞬間には、本によって喚起される血なまぐさい空想を楽しんでいる夫の姿を目に浮かべていた。そうして、離婚の決意をますます強固にしたのだ。  キティちゃんの赤いバッグを、翌土曜日の朝、今度はある程度予想のできる場所で淑美は見かけた。マンション専用のゴミ集積場。不燃ゴミを出そうとしてポリバケツのふたを開けると、黒いビニール袋の間に、赤いバッグが挟まっていた。しばし手を止めて見入ったが、解釈を与えるのはたやすかった。持ち主が見つかりそうもないから、管理人が捨てたのだ。淑美は、何事もなかったかのように、バッグの上に分別ゴミの詰まった袋を置き、ふたを閉めた。  それで終わりのはずだった。バッグは他の不燃ゴミと一緒に運搬車で埋立地の新しい礎になる運命を甘受する予定だった。  九月に入って最初の日曜日、娘と一緒に近所のコンビニエンスストアに買物にいくと、売れ残った花火が定価よりずいぶん安い値で売られていた。郁子にねだられても、出費がかさむからと拒めないほどの安さだ。棚に残っている花火を売り切ったところで、たぶん夏の残り火は姿を消してゆく。品薄の儚《はかな》さが漂っていて、夏の好きな淑美でさえ思わず手を伸ばしたくなる。だから、今晩また花火を上げたいと郁子が言い出したのを、淑美はごく自然な成り行きとして受け止めた。  ふたりは一週間前と同じ夕刻、屋上に上った。塔屋のドアノブを掴《つか》んだ瞬間、淑美は嫌な予感に襲われ、赤いイメージが脳裏に明滅するのを感じた。ドアを押すと同時に、それとなく淑美は顔を右に向けた。最初からそこにあることを知っていたかのような、一気に狙《ねら》いを絞る視線。防水加工された濃い灰色の屋上の床に、真っ赤なアクセントが添えられている。一週間前と同程度の薄暗さにもかかわらず、燃えるような赤い色を放ってそれは目に飛び込んできた。 「あ」  と口を開いたまま、淑美は身体を硬直させた。声もなく後《あと》退《ずさ》り、手を泳がせて背後にいるはずの娘を捜したが、郁子はさっと母の手をくぐり抜け、一週間前と同じ場所に置かれたキティちゃんのバッグに走り寄った。 「待ちなさい!」  呼び止める淑美の声が震えている。なぜ、恐怖を感じるのか、理由がわからない。郁子がバッグを拾い上げようとする間際、淑美は追いつき、娘の手を払いのけた。バッグの片腹に描かれたキティちゃんが、ふにゃふにゃと形を変えながら、コンクリートに二転三転する。間違いなく、同じ品だった。一週間前に屋上で発見され、三日間管理人室のカウンターに放置されたうえでゴミと一緒にポリバケツに捨てられたキティちゃんのバッグが、またここにある。転がったバッグになおも手を伸ばそうとする郁子を、淑美は強く打った。 「やめなさいって言ってるでしょ!」  鼓動が激しかった。娘には、触れてほしくない。異物に対する本能的な嫌悪感。  郁子はもの欲しそうな視線を赤いバッグに注ぎ、母の顔を見上げ、またバッグに視線を戻し、顔をくしゃくしゃと崩して泣き声を上げていった。  花火は中止だった。淑美は郁子の肩に手を回して、塔屋の内部に戻り、ドアを閉めた。金輪際、あのバッグには触れたくなかった。管理人に手渡すのも御免だったし、二度と屋上には来たくない……、淑美は心底そう思っていた。  だれかに教えてもらいたい。どうして、こういったことが起こるのか。ポリバケツにあったはずのバッグがなぜ屋上に舞い戻っているのか。こめかみのあたりが痛んだ。無意識のうちに〓“舞い戻った〓”という言葉を使っている。バッグ自体に生命があるような言い方だった。  部屋に入るとすぐチェーンをかけようとしたが、手がいうことをきかない。脱ごうとして足も震え、サンダルが思わぬ方向に飛んで子供用の長靴を倒した。恨めしそうな顔で、サンダルと長靴を整理する郁子の顔には、キティちゃんのバッグに対する未練がはっきりと刻まれている。  娘よりも先に風呂から上がり、淑美はバスタオルで身体を拭いた。バスルームの中からは娘のくぐもった声が聞こえる。湯に浮かべたオモチャを片付けた後でなければ、娘は風呂から上がろうとしなかった。しかも、出る際には必ず栓を抜くように躾《しつけ》られていた。  バスタオルを胸に巻いたまま、淑美はダイニングの冷蔵庫から牛乳のパックを取り出しコップに注いだ。寝る前には必ずコップ一杯の牛乳を飲むよう心がけていた。翌朝のお通じをよくするためだ。飲み終わってもまだ、郁子は風呂から上がろうとしない。ドアのところで身をかがめ、「もう出なさい」と声をかけようとして、淑美は郁子の途切れ途切れの独り言を聞いた。 「……ひとりで遊んでるんだもん。…………だって…………クマ……、ずるいよ………………ミ……ちゃんのじゃ、ない……、でしょ」  淑美は、友達の名前と思われるミ……ちゃんという言葉を耳にとめた。しかし、保育園にも、以前住んでいた武蔵野の近所にも、ミ……ちゃんという友達はいないはず。郁子は一体だれを相手におしゃべりをしているのだろう。同じクラスにミキヒコという男の子ならいるが、彼のことは名字で呼んでいる。  淑美は、バスルームのドアを開けた。バスルームは洋式便器とバスタブが一体になったユニット式だった。クリーム色の浴槽に張られた湯の上には洗面器が浮かび、その中央で、水浸しのタオルが円柱の形に盛り上がっている。小首をかしげた、お地蔵様のような格好だった。郁子は、円柱形に巻かれた濡《ぬ》れタオルを人にみたて、話しかけていたようだ。水道の水が細く湯に注ぎ、蛇口と湯の面は一本の線で繋《つな》がれている。浮かんだ洗面器が落下する水に触れると、洗面器は少し傾いて回転した。 「郁ちゃん、なにしてるの、もう出なさい」  ドアに背を向けて湯に浸《つ》かっていた郁子は、その姿勢のままで答える。 「だって、この子ったら、お風呂が好きなんだもん。ひとりでいつまでも入ってる」  淑美は再び自問する。  ……この子って、だれ? 「いいから、出なさい」  郁子は洗面器を流しに置くと、勢いよく立ち上がった。淑美はその身体にバスタオルをかけて抱き上げた。郁子の身体は、長く湯に浸かっていたにしては肩のあたりが妙に冷たい。  布団に横になって絵本を読んでいるうちに郁子は寝入っていった。淑美は、起きて本でも読もうかと迷ったが、部屋の明かりを消して眠ることに決めた。タオルケットを胸に引き上げるとすぐ、淑美も寝息をたて始めた。  二時間ばかりたった頃、ふと伸ばした左手の先が、当然あるはずのぬくもりを察知しなかったせいで、意識は徐々に覚《かく》醒《せい》へと向かい、淑美は突如はじかれたように身体を揺らした。横に手を這《は》わせるが、何も触れてこない。まどろみが一気に吹き飛んでゆく。上半身を斜めに起こし、郁子の寝ていた布団をまさぐりながら、 「郁ちゃん」  と声を出す。足元に置かれたスタンドの豆電球でも、四畳半の内部を浮かび上がらせるには十分だった。郁子は、部屋の中からいなくなっていた。 「郁子、郁子」  淑美は声を大きくした。過去にこんなことはなかった。夜、布団にもぐれば、一度も目覚めず、朝までぐっすりと眠るのが常だった。トイレに立つこともほとんどなく、郁子の睡眠は深い。  居間とダイニングを見回してから、トイレを覗《のぞ》こうとしたが、バスルームの灯《あか》りが消えていることからも、いないのは明らかだ。そのとき、マンションの外廊下に小さな足音が響いた。  玄関に走り、ドアを見るとチェーンがはずれている。思い出せない。屋上から戻って、チェーンをかけたのかどうか。それとも郁子がはずしたのか。  淑美は、ネグリジェなのも構わず廊下に走り出た。エレベーターが動く音がする。廊下中央のエレベーターホールに立ち、階数を表示する七つの数字に、徐々にランプが点《とも》っていくのを見た。5のランプが消え、6が点り、6が消え、7が点ったところで、エレベーターは動かなくなった。だれひとり住んでいない最上階の、七階。たった今だれかが七階で降りたのだ。それが、娘の郁子だと淑美は閃《ひらめ》き、閃きは確信に変わってゆく。キティちゃんの赤いバッグを屋上に放置してきたのが、娘には耐えられないのだ。欲しくてならないに違いない、あのバッグが。だからといって、捨てられたものを拾うのを母が許すはずがないと、十分心得ている。だから、夜中、母が眠っているのをいいことに、屋上に取りに行こうとしている。闇を恐がるはずの郁子にそんな勇気があるのかと疑いながらも、淑美はボタンを押して七階からエレベーターを呼び戻した。  七階に停止していたエレベーターは、四階に降りてきて大きく口を開いた。淑美は、ネグリジェの胸のあたりをかき合わせるようにして乗り込むと、七階のボタンを押した。ところが、上昇するとばかり思っていたエレベーターは、ふわっとした落下感覚を残して下降を始めた。淑美は、二歩三歩と後退して、壁に背をくっつけ、折り曲げた両《りよう》肘《ひじ》でさらに胸を被《おお》った。  ……やだわ。だれか、乗り込んでくる。  淑美がボタンを押すよりも早く、下の階のだれかによって、エレベーターは呼ばれていたことになる。おそらく一階だろう。五階か六階に住む独り者の男性が、酔《よ》っぱらって帰ってきたに違いない。深夜の一時を回る頃だ。からまれるのを恐れるあまり、他に逃げ場のない狭い空間を淑美は憎んだ。たばこで焼け焦がされた七個のボタンの奥で、光が下降してゆく。  突然、エレベーターは停止した。頭上を見上げると、階数表示のランプは2で止まっている。  ……どうして二階なの?  淑美は身構えた。何度味わっても、深夜のエレベーターは緊張する。ドアが開くと、しかし、そこにはだれもいない。思わず、息をとめていた。淑美は、そろそろと前に進み、首だけを外に出して、ドアの外を左右二度ずつ見回した。人気のない、暗い廊下が、果てもなく延びているような錯覚。もちろんだれもいない。一体、このエレベーターはだれに呼ばれたのか。自動的にドアが閉まりかけたその瞬間、淑美はさっと身を引いたが、ドアが閉まり切る直前、気配がすうっと忍び入るのを淑美は確かに感じた。気のせいか、一坪もない空間の温度が下がったように思える。自分だけではない。このエレベーターの中には、なにかがいる。寒い冬の日、吐く息が白くなるような呼吸が、下腹部のあたりに吹きかけられている。  エレベーターは上昇して、七階で止まった。  七階と屋上を結ぶ階段の踊り場で、淑美は塔屋全体の灯りを点した。ちかちかとまたたきながら、天井に二本並んだ蛍光灯が点り、その明るさに力を得て、淑美は一気に屋上までの階段を駆け上った。  塔屋内の蛍光灯の光が屋上を照らすよう、ドアを大きく開け放つ。 「郁子!」  目を凝らしても、小さな人影は見当らない。西側の縁から見下ろしたが、道路脇《わき》の街路灯に照らされる路面には、それらしき黒い染みもなく、まずはほっと胸を撫《な》でおろす。落下したわけではない。北と東と南は、七階のバルコニーに面しているので、転落したとしても生命に別状はないはずだった。  ……どこにいってしまったのだろう。  胃が、喉《のど》にまでせりあがってきそうだ。案外娘は部屋にいるのかもしれない、淑美はそう祈りたい気分で、塔屋を振り返った。漏れ出る蛍光灯の白い明かり。その真上の櫓《やぐら》に組まれた鉄柱には、クリーム色の肌をした高架水槽が載っていた。晴れ渡った夜空の真ん中に、棺《かん》桶《おけ》の形をした直方体の物体がせり出し、下からの光を浴びている。中に満たされているのは、水。水道水はここに一旦 貯《たくわ》えられた上で、各戸に供給される。  高架水槽を持ち上げる鉄柱の陰に、紐《ひも》状《じよう》の物体が二本、揺れているのが見えた。さらに目を凝らすと、高架水槽の下腹に小さな影がゆらめいている。淑美の立つ位置から影だけが見え、その本体が見えないのが不思議だった。高架水槽の真下に、女の子がうずくまっている……、そんなイメージが淑美の脳裏に形づくられる。 「郁子、そこにいるの?」  返事はない。塔屋の上を見渡すには、コンクリートに埋め込まれたアルミ製の梯《はし》子《ご》に両手両足をかけ、壁面を二メートル以上垂直に上らなければならない。壁を這う蜘《く》蛛《も》に似た動きは、華《きや》奢《しや》な身体の淑美にはかなり苦しいはずだ。それでも彼女は、上の様子を探りたい一心で、ゆっくりと身体を引き上げていった。ほんの一メートルばかり上ったところで顔を下に向け、上った距離を確かめる。塔屋の壁に沿って走る排水溝の暗がりに、黒っぽい物体が挟まっているのが見えた。キティちゃんのバッグは、夕方、振り払われて転がったと同じ場所に、今もある。頭が混乱しかかった。どこかおかしい。なにか重要なポイントを忘れている。  ……郁子のはずがない。  ふと思い当ると同時に、淑美は右足を一段踏みはずしかけた。考えてみれば、エレベーターに乗って七階まで上がったのは、郁子であるはずがないのだ。なぜなら娘は7のボタンを押すことができない。背が届かないからだ。悪寒が背筋に走った。見上げれば、高架水槽の下腹で、影がいよいよ濃く浮かび上がっていく。確かに、なにかがいる。衣《きぬ》擦《ず》れの音もするし、無理に関節を曲げたときに鳴る骨の音が、キキキとかすかに聞こえた。  ……娘ではないとすれば、だれ?  あともう少し引き上げれば、顔全体が縁の上部に出るところまできて、淑美にはその勇気が湧《わ》かなかった。イメージが次々に湧き上がり、身体《からだ》を硬直させたまま登るのも降りるのもままならない。  そのとき、すぐ下から懐かしい声が響いた。 「ママ」  淑美の身体から一切の力が抜けかけた。脱力感のあまり、両手両足がアルミの梯子を滑りかけたのを、淑美はどうにか堪《こら》え、左脇下に顎《あご》をくっつける格好でパジャマ姿の郁子を見た。 「もう、ママったらそんなところでなにしてるのよ」  郁子のすすり泣く声には非難の響きが含まれていた。  朝、いつも通りの時間に娘の手を引いてエレベーターに乗ると、ワイヤーのきしみ音が深夜のそれと微妙に変わっているのに気付いた。どこがどう変わっているのかはうまく説明できない。ただ単に、日差しのあるなしによって印象が変わったというだけなのだろうか。淑美は知らず知らず郁子の手を握り直していた。  郁子が嘘《うそ》をついているか、それとも自分のほうが妄想に駆られて軽はずみな行動に走ってしまっただけなのかと、淑美は眠れぬ布団の中で何度も自問した。  ……あたしがトイレに入っている間に、ママったら、外に飛び出しちゃうんだもん。屋上まで階段上るの、けっこうたいへんだったのよ。なにしてたの、あんなところで。  塔屋の壁にへばりつく母を見上げながら、たった今階段を駆け上ってきたのを証明するかのように、郁子の胸は激しく波打っていた。声に怒りが含まれたのは、一人残された恐怖のせいだ。乳児の頃、目覚めたとき隣にだれもいないと、郁子はきまって泣き喚《わめ》いた。芝居であるはずがない。実際、娘の言う通りなのだろう。明かりもつけずにトイレに入っていたのを、ついうっかり見逃して廊下に飛び出し、エレベーターの階数表示から屋上を連想してしまった。他に解釈のしようがない以上、娘の言葉を認める他ない。なにかに憑《つ》かれたような行為を恥じる一方で、釈然としない思いも残る。なぜ、エレベーターは二階に停止しなければならなかったのか。そして、二階にはだれもいなかった。忍び込んだ気配、暑い空気が凍りついた一瞬を、淑美ははっきりと覚えている。  エレベーターのドアが一階で開くとすぐ、淑美はマンションロビーの中程まで差し込んだ朝日に目を向けた。その強い日差しに、昨夜の異様な雰囲気が洗い落とされてゆく。帚《ほうき》を持った管理人が視線の先に立っていた。  口もとを綻《ほころ》ばせながら、 「おはようございます」  と挨《あい》拶《さつ》する管理人を、淑美は伏し目がちの軽い会釈でやりすごそうとしたが、ふと足をとめ、 「すみません」  と声をかけた。  管理人は立ち止まり、 「ああ、そういえばあのバッグ……」  と先回りをする。 「いえ、それはいいんです」  淑美にはまだ、尋ねることにためらいがあった。管理人は、帚を持った手をだらりと下げ、郁子に向かって、 「今から保育園なの」  と愛想を振りまく。 「あの、つかぬことを伺いますけど、以前二階に住んでいたという家族、ご不幸な目にあわれたって、一体、どんな……」  淑美は、尻切れトンボに言葉尻を濁した。管理人は、それまで浮かべていた笑顔をひっこめ、他人の不幸を語るのに似合った表情を作り上げる。 「いえね、もう二年前のことですが。ちょうど郁ちゃんくらいの女の子が、近所で遊んでいて、いなくなっちゃったんですよ」  淑美は郁子の肩に手をかけ、自分のほうに引き寄せた。 「いなくなった……って、誘《ゆう》拐《かい》?」  管理人は首を傾《かし》げた。 「身代金目当てじゃないと思いますよ。警察は、公開捜査に切り替えましたからね」  営利誘拐の可能性のあるうちは極秘で捜査を進めるが、その可能性が消えるとすぐ警察は公開捜査に切り替えマスコミに発表する。より早くより多く、情報を得るためだ。 「それで、結局……」  管理人は、首を横に振る。 「結局、見つかりませんでした。ご両親、一年ぐらい諦《あきら》めがつかなかったようですね。なにしろ、マンションが買収されかかったとき、二階の河合《かわい》さんが一番抵抗しましたから……、取り壊してしまったら、娘の帰る場所がないってね。でも、まあ、ようやく諦めがついたのか、去年の夏、横浜のほうに引っ越しちゃいましたけど」 「カワイさん、っておっしゃるんですか。その方」 「ええ、いなくなったお嬢ちゃん、みっちゃんっていうんですけど、すごくかわいかったんですよ。悪い奴がいますからね、世の中には」 「みっちゃん?」 「美津子って名でした」  ミ……ちゃん、ミッちゃん、ミツコ、昨夜、お風呂で郁子が語りかけていた相手。それまでぼやっとしていたのが、ミツコという名前の枠に収まり、脳裏に定着してゆく。洗面器の中央にタオルを円筒形に巻いて立て、お地蔵様のようなその像に向かって、娘はミツコちゃんと呼びかけていたのだ。  淑美の顔から血の気が引きかけた。こめかみに手を当てながら、マンションの壁に肩をもたせかけ、ゆっくりと息を吐き出す。 「どうしました?」  管理人の気遣いを避けるようにして、淑美は腕時計に目をやった。説明している暇はない。急がなければ、いつものバスに乗り遅れてしまう。軽く頭を下げ、淑美はその場から離れた。  それ以上の知識を得たければ、仕事の合間に新聞の縮刷版で調べればいい。事件の起こった正確な日時が不明でも、二年前の新聞をしらみつぶしにあたれば、カワイミツコという名の少女が失《しつ》踪《そう》した記事は、すぐに見つかるはずだ。管理人の口振りから察すれば、明らかにミツコちゃんは発見されてはいない。変質者に誘拐されたか、あるいは運河に転落したか……、発見されぬまま、おそらく遺体となって、彼女はどこかに眠っているのだ。  同じ日の夜八時頃、浴槽にお湯を落とそうと蛇口をひねったとたん、電話のベルが鳴った。淑美は、蛇口を開いたまま居間に走り、受話器を持ち上げた。管理人室からだった。 「すみません、左足を捻《ねん》挫《ざ》しちゃいましてねえ」  いきなりそう切り出されても、淑美は、 「はあ」  とあやふやに答えるほかなかった。用件が何なのか、見当がつかない。  管理人は、足をくじいたわけを説明してからようやく本題に入っていった。 「荷物が届いてるんですよ、奥さん宛《あて》に」  なるほどそういうことかと、ここで初めて淑美は管理人の意図を理解した。宅急便が配達される昼間はほとんど留守のため、管理人が代わりに受け取ってくれることが多い。普段なら四階の淑美の部屋にまで持っていくところだが、足をくじいたせいでそうもいかず、もし急ぎの品だったら取りに来ていただけないかと、管理人はそう言いたいのだ。差出人の見当はついていた。急ぎの品ではなかったが、淑美は、礼を述べた上で、 「今からすぐうかがいます」  とつけ加え、受話器を置いた。  降りていくと、管理人室のカウンターの上に段ボール箱が置かれ、そこに肘をついて管理人が立っている。思った通り友人の裕美からの荷物だった。小学生になる娘を持つ裕美が、娘が着られなくなった洋服や靴などを、郁子のためにわざわざ送ってくれたのだ。  持ってみると、何が入っているのかかなり重い。なるほど、くじいた足で運ぶのはちょっと無理だ。 「だいじょうぶですか、足」  淑美はいかにも心配してるふうに、眉《まゆ》根《ね》を寄せた。 「年寄りの冷水ってやつで」  管理人は笑いながらそう言い、捻挫したいきさつを、もっと詳しく聞いてもらいたそうな素振りを見せた。  しかし、淑美の興味は、そんなところにはない。昼間、出版社の調査室で、二年前の七月から十月までの新聞に目を通したが、ミツコちゃんの事件を扱った記事は発見できなかった。二年前というあいまいな表現が、淑美には気にいらない。正確な年月日が知りたかった。  まさかこの老人が覚えているはずはなかろうと、さして期待もせず問うてみると、 「ちょっとお待ちください」  と、管理人はカウンターの内側に回り込んでぎこちなく身を屈《かが》め、擦り切れた分厚いノートをぽんとカウンターの上に載せた。  ノートの表紙には、『管理日誌』と黒のマーカーで書かれている。管理会社への報告のため、日々の出来事を日誌に書き記してあるらしい。管理人は、口の中でなにやらぶつぶつ唱えながら、指の先に唾《つば》をつけ、ページをめくり始めた。 「あ、ありましたよ。ほら」  管理人は、ノートを逆にして淑美のほうに差し出した。日付は、二年前の三月十七日になっている。今は、九月。正確に言えば、二年前ではなく、二年半前だ。時間まで記されていた。205号室の河合美津子失踪、営利誘拐の線が消え、公開捜査に切り替えられたのは、午後十一時半。淑美はその日時を正確に記憶する。ノートを管理人に返そうとして、ふと肌色をした高架水槽が脳裏に思い浮かんだ。なぜ、急にそんなイメージが湧いたのか。言葉からの、連想。連想を与えた言葉が、同じ三月十七日の項の、上部に書き込まれている。   受水槽、高架水槽の清掃および水質検査実施。  ……高架水槽。  満天の星の下、棺桶のように浮かんでいた高架水槽。その清掃が、河合美津子がいなくなったと同じ日に、行われている。管理会社の委託を受け、清掃員がふたり水槽の内部に入っているのだ。  淑美は、声にならない悲鳴を漏らした。 「高架水槽……」  そこまで言って、淑美は一呼吸置いた。 「高架水槽の、フタには、普段、カギが?」  管理人は、なぜ淑美が高架水槽を話題にし始めたのかと首を傾《かし》げたが、同日のノートに記載された清掃の記録に目を走らせ、納得顔になった。 「ああ、これね。もちろん、普段は厳重にカギがかけられてますよ」 「開けるのは、清掃のときだけ?」 「ええ、そりゃもちろん」  淑美は、段ボール箱に両手を回した。 「その後、高架水槽の掃除は、されたんですか?」 「このマンション、ごらんの通り、管理組合が機能してないもので」 「されたんですか?」  苛立ちも顕《あらわ》に、淑美は問い直す。 「もうそろそろやらなくっちゃいけないんですがねぇ。なにしろ、二年ですから」 「そう」  淑美は、段ボール箱を抱えようとして後ろによろめき、そのままふらふらと離れた。転ばずに部屋にまで戻れたのは不思議なくらいに、彼女の足取りは覚《おぼ》束《つか》無《な》かった。  浴槽に張られた湯に触れぬよう注意して栓を引っ張り上げると、湯の表面が徐々に下がっていく。とても入る気にはならない。郁子は、「どうして今日はお風呂に入ってはいけないの」とさんざん質問を繰り返し、たった今寝ついたばかりだ。見た目には、汚れのないきれいな湯だった。だが、淑美には浮遊する澱《おり》が想像できてしまう。  キッチンの戸棚を開け、料理用に置いてある日本酒を取り出し、コップに注いだ。酒はあまり強いほうではなかったが、アルコールの力を借りなければ今夜は眠れそうにない。  意識して、他のことを考えた。校閲を担当している例の作家の小説でもいい。凄《すさ》まじいシーンを思い浮かべ、連想を断ち切るのだ。だが、できない。湧き上がる妄想は一点に収《しゆう》斂《れん》してゆく。屋上に落ちていたキティちゃんの赤いバッグ、行方不明になった美津子という名の女の子、高架水槽の下腹に見え隠れした黒い影、呼ばれもしないのに二階に停止したエレベーター。昨夜、細い水の線で、部屋の浴室と屋上の高架水槽とは結ばれていた。郁子は、湯に浸りながら、まるで目の前にいるかのように、ミツコちゃんに語りかけていたのだ。導く先はひとつしかない。淑美は、強引に思考を切断した。小説のシーン。敵対する暴力団に拉《ら》致《ち》されたチンピラが受けるリンチの数々、血の臭《にお》いに満ちた虚構の世界。そして、偶然……、そう偶然だと思えばいい。美津子ちゃんがいなくなった日、高架水槽の清掃が行われていたなんて、単なる偶然に決まってる。考えてみれば、すべてに合理的な解釈が可能だ。近所に住む子供たちが、屋上にキティちゃんのバッグを置いた、きっとなにかのおまじない、UFOへの合図とか、子供らしい空想の産物。それがたまたまゴミ収集場所にあるのを見て、慌てて元に戻す。二階にエレベーターが止まったのは、単に二階の住人が下に降りようとしてボタンを押しただけ、でも、四階あたりでモタモタしているのにしびれを切らし、階段を使って降りてしまった。だから、ドアが開いてもそこにはだれもいない。  事象と事象を強引に切り離し、淑美はブツ切りの断片に論理的な解釈をあてはめようとした。だが、いくら強引に切り離しても、思考の切断面はいつの間にか元どおりにつながってしまう。癒《ゆ》着《ちやく》するたびに巨大化する蛇のように。彼女はとっくに気付いている。だが認めたくはない。導かれるたったひとつの結論。当然の帰結。  そう、間違いなく、今、ミツコちゃんは、屋上に据えられた高架水槽にいる。  制御する間もなく、淑美の脳裏にその光景が広がった。清掃員が昼食をとっているすきに転落したか、あるいはだれかの手によって故意に投げ込まれたか。腐乱した死体。握りしめたキティちゃんの赤いバッグ。水の一杯詰まった狭い棺桶。この三ケ月間、その水を飲み続けた……。煮物、コーヒー、沸かしていれた麦茶。腐敗した無数の細胞の浮かぶ浴槽に、何回浸かったことか。手を洗い、顔を洗った。数え上げたらきりがない。  淑美は口元を押さえた。酒の臭いとともに胃液が溢《あふ》れ出てくる。あわててバスルームに駆け込み、便器の上に屈んで吐いた。目は充血し、鼻の奥のほうに燃えるような刺激があった。レバーを引くと水が流れ出し、すぐ目の前で胃の内容物は渦《うず》を巻いて下水に呑《の》み込まれてゆく。後に残ったのは、見た目には透明な水。皮膚から剥《は》がれた細胞を含み、細い産毛の浮かんだ水が、便器をちょろちょろと洗っている。吐き気は収まらなかったが、もう出るものもない。  トイレットペーパーで口を拭きながら、淑美は何度か激しくむせた。身を屈めたままの姿勢で、呼吸が落ち着くのを待つ。すると、聞こえ始める。横にある浴槽の底に、ピチャピチャと水滴の滴る音。蛇口をしっかり締めたはずなのに、水が細く漏れているらしい。淑美は両《りよう》膝《ひざ》をついて便器を抱き、妄想が実像へと発展する以前にどうにか防ごうと、必死の形相で唾を飲み込む。幻覚。わかりきっている。血管の中を妄想が駆け巡っているのだ。浴槽に溜《たま》った汚水に少女の遺体らしきものが浮かんでいるのが見える。顔は紫色に変色して、ぶよぶよと二倍近くに膨らんでいた。やめて、と叫ぼうとして、淑美は濡れた床に尻もちをついた。死体の胸のあたりには赤いコップが浮かび、ゼンマイ仕掛けの緑色のカエルは両手両足を水平に動かして泳ぎ、死体の肩にぶつかり、また戻ってはぶつかり、プラスチック製の指先で皮膚の一部をごく少量ずつ剥がし取ってゆく。骨の見える手にしっかり握られたまま、キティちゃんの真っ赤なバッグは浮き沈みしていた。  短い息が、ハッハッと口から漏れるだけで淑美の呼吸は止まったも同然だった。バスルームに充満した死臭を嗅《か》ぎ、生ゴミの腐ったようなその臭いに思わず顔を背けたとたん、淑美の頭はドアにぶつかり、そのまま倒れ込んで廊下に頬《ほお》を擦りつけた。冷やりとしたフローリングの床。意識が閉ざされようとしている。遠くから、小鳥のさえずりに似た声が届き、意識の明暗の境目にすうっと入り込んできた。 「ママ、ママ」  だぶだぶのパジャマを着た郁子の姿を網膜がとらえる。  母の項《うなじ》に手をあてがい、震え声を涙声に変えてゆく郁子。小さな手が、淑美の耳のあたりを行き来する。淑美にとって唯一の現実。郁子の手の暖かさ、小ささ。妄想をふりはらうに十分なだけの、生身の小さな身体。 「ママを、起こしてちょうだい」  かすれた囁《ささや》き声だった。郁子は、母の両脇の下に手を差し入れ、 「よいしょ、よいしょ」  と声に出して引き上げる。上半身が持ち上がると、淑美は片手を浴槽の縁にかけ、自力で立ち上がった。部屋着のジャンパースカートの腰から下が水浸しだった。ちらっと浴槽に目を向けると、今にも流れ落ちそうな水滴をたくさん付着させて、浴槽のクリーム色の曲面が艶《つや》やかに光っている。幻覚とわかっていながら、防禦できなかった。郁子は嗚《お》咽《えつ》を漏らして母を見上げ、ただ「ママ、ママ」とだけ呟《つぶや》いている。強《きよう》靭《じん》な精神力を持たなければ、この子の母はつとまらない。崩れかけた自分が情け無く、淑美は娘の泣き声につられて涙を流した。  運河にかかる橋を渡りながら、淑美はマンションを振り返りたい衝動に耐えた。貴重品と着替えの入ったバッグを何度も持ち替え、そのたびに郁子は左右に回って、あいているほうの母の手を強く握る。  ひどく馬鹿らしい行動に思えた。しかし、水の使えない部屋では一日たりとも過ごすことはできない。今晩一晩だけでも、ぐっすりと眠りたかった。確認するのは明日でいい。管理人を説得し、高架水槽の蓋《ふた》を開け、中を確認するのは明るい日差しの中でなければとても不可能だ。  運河にかかった橋を渡り終え、埋立地の島から抜け出しても、あやふやな地盤の上にいるという感覚は消えない。空車のサインをつけたタクシーが来るのを見て、淑美は手を上げた。後部シートの奥に郁子を押し込み、乗ろうと身を屈めるとき、淑美はマンションの屋上にちらっと目をやった。肌色の高架水槽が、埋立地の上方十数メートルの空間に、小さく浮かんでいる。そこ、密閉された直方体の浴槽で、美津子ちゃんは今も水遊びに興じているのだろうか。とにかく、今夜だけはぐっすり眠ろう。淑美はシートに身を滑らすと同時に、運転手にホテルの名を告げた。 孤 島  1  幾度教師を辞めようと思ったかしれない。ここ数年同じことの繰り返しで、自分が進歩しているという実感が得られず、いやになってくる。今年の五月、一際強くそんな思いにとらわれた。だが、ボーナスをもらい、夏休みを目前にしてみると、もうしばらくこの世界でがんばってみようかという気にもなる。去年もそうだった。五月に辞めようと思い、七月にはまあもう少し続けてみようかと気を取り直す。夏休みとは、生徒のためばかりにあるのではない。放っておくと転職しがちな教師を教職に引き留めておくための餌《えさ》だ。もし夏休みがなければ、教師などとっくに辞めている、間違いなく。  午前最後の授業を終え、職員室へ向かう廊下を歩きながら、末《すえ》広《ひろ》謙《けん》介《すけ》はそんなことを考えていた。都内の国立大学を卒業してすぐ教職に就き、今年で丸八年になる。師範学校を前身とする大学を出たせいか、クラスメートで教職に就く人間は多く、周りに影響された結果ふと気がつけば先生になっていたという具合だった。  職員室のデスクにノートの束を置こうとして、謙介はメモを発見した。 「城西中学の佐《さ》々《さ》木《き》先生よりTELあり」  メモにはそう走り書きされている。  ……佐々木先生。  思わず懐かしさがこみ上げてきた。謙介にとっては恩師ともいえる大切な人である。教職に就いて最初に配属された都内の中学校で、佐々木は学年主任をしていた。謙介と同じ理科の教師ということもあり、彼からは自然科学一般に関して様々な教えを受け、公私にわたって数え切れないぐらいの世話になった。生徒たちを引き連れて山間の沼地に蝶の採集に出掛けたり、夜を徹して彗《すい》星《せい》の観察をしたりと、知識を詰め込むだけではなく、自然に触れることで人間の潜在能力を高めようとする教え方は彼ならではのものだ。教師という職に対して情熱が薄れたのは佐々木と職場が離れてからのことである。たったひとり、佐々木というユニークな個性が他の学校に去っただけで、謙介はやる気が失せてしまった。職場が離れてからもう五年になるが、この二、三年は正月に年賀状をやりとりする関係が続いているだけで、深い付き合いはなにもない。だから、佐々木から電話があったという知らせは、謙介にとってこの上なくうれしいものであった。  謙介はさっそく受話器を上げて城西中学校の番号を回し、教頭を呼び出してもらった。春の人事異動で佐々木は教頭になったばかりだ。 「末広謙介ですが」  名乗ったとたん、佐々木は、 「おれだ、おれ」  と野太い声を上げてくる。教頭になっても昔の癖はそのままで、謙介はどこかほっとする思いだ。 「ごぶさたしています」  電話なのも忘れ、謙介はペコリと頭を下げた。 「おう、すまなかったな、授業中に電話しちゃって。教頭になると、勘が狂っていかん。授業を持っていたときのほうが余程おもしろいわな」  たぶん本音だろう。佐々木のような教師は、教頭から校長へと地位を昇るより、現場で教え続けるほうがずっと似合っている。できることなら、謙介は佐々木が教頭を務める城西中学に移りたかった。彼のような上司の下でなら、仕事上のストレスはずっと減るはずだ。 「ところで、っと。おまえ、第六台《だい》場《ば》に行ってみる気はないか」  時候の挨《あい》拶《さつ》など抜きにして、佐々木はいきなり用件に入っていった。 「第六台場って、あの?」 「そう、東京湾レインボーブリッジの下の、あの第六台場。幽霊島だ」  謙介は声を失った。まさか、佐々木からの電話が第六台場への誘いだとは夢にも思わなかった。第六台場……、東京湾に浮かぶ無人の人工島は、この九年間、謙介にとって特別の場所であり続けたのだ。 「どうやって渡るのですか」  謙介は声をうわずらせた。 「ま、おれに任せておけ」 「あそこは立入禁止のはずですよ」  佐々木は低い声で囁《ささや》く。 「夜中に、泳いでこっそり渡るんだよ。おまえ、泳ぎは達者か?」  第六台場は文化財保護の目的で、東京都により立入を禁じられている場所である。 「そんな、先生はいみじくも中学校の教頭でしょ」  佐々木は笑った。 「はは、いみじくも、ときやがったか。相変わらず気の小さい野郎だな。社会的地位のあるこのおれが、法に背いてこっそり上陸するはずもなかろう。実地調査だよ、実地調査」 「実地調査……」 「港区から頼まれて、実地調査の責任者になったってわけよ」  それから佐々木は説明を始めた。区議会の特別委員会からの要請を受け、第六台場の植物や動物、土壌等に関する調査を引き受けたいきさつ。東京都の職員や、区議会の委員も同行するが、まだ人員に余裕があり、自然科学に興味を持つ人間を募集していることなど、最初に話していれば混乱をきたさなかったであろう事項を、いくらか自慢気に話す。まず相手を驚かせておき、あとで種明かしをするという、これもいつもの手だ。 「で、いつなんですか」  一通りの説明を聞き終わると、謙介は調査の日程を尋ねた。 「ほう、行く気だな」 「もちろんですよ。行くに決まってるじゃありませんか」  合法的に第六台場に渡れるチャンスが舞い込んだのだ。行きさえすればはっきりする。九年前から頭の中に棲《す》み続けていた艶《なまめか》しい生き物は、渡った瞬間に消滅するはずだ。  佐々木から集合場所と日時を告げられると、謙介は深々と頭を下げ、 「ありがとうございます」  と礼を言った。それに対して佐々木が返したのは、 「ま、がんばれよ」  という意味不明の励ましだった。  2  第六台場に棲みついてしまった艶しい生き物とは中《なか》沢《ざわ》ゆかりの幻影であり、霊魂などの類《たぐい》ではない。謙介は、中沢ゆかりが第六台場以外のどこかでたくましく生き続けていると信じているし、そうあってほしいと願っている。  彼女と初めて会ったのは、九年前の今頃、大学四年の夏休みに入ったばかりの頃であった。クラクションの音を聞き逃していたら、謙介はゆかりの存在を知ることはなかったに違いない。クラクションを聞くまで、阿《あ》相《そう》敏《とし》弘《ひろ》がひとりで訪ねてきたものとばかり思い込んでいたのだ。  謙介と阿相は小中学校の同級生であった。ふたりが通っていたのは、大学までエスカレーター式に進める名門私立校だったが、高校に進学する際、謙介はどうしてもその校風になじめず、都立高校に転校することになった。内気で引っ込み思案の謙介とは逆に、阿相はラグビー部のキャプテンを務める上に、成績も常にトップクラスで、小学校からの希望通り医学部に進学していた。高校からは別れ別れになったふたりだが、親交は途切れることなく続き、付き合いはもう十年以上になる。落ちこぼれと、学校中のヒーローともいえる両極端のふたりは妙に気が合った。  その夜、九時を過ぎた頃、謙介の住む麻《あざ》布《ぶ》のワンルームマンションに、阿相はふいに現れ、 「飲もう」  と冷えた缶ビールを一ケース差し出してきたのだ。ほんの一時間足らずで、ふたりは缶ビールを一ダース以上空け、阿相は十分と間隔を置かず、トイレに立ってばかりいた。酒には強いほうで、ビールごときで酔う阿相ではない。だが、一定量を超すとトイレの回数が急に増えるようなのだ。わざとそうするかのように、阿相の小便は一際高らかに便器を打ち、終わっても水を流さずしばらくたたずんでいるふうだった。その束《つか》の間《ま》の静寂の中、謙介はクラクションの音を聞いた。ふと気になってバルコニーに出て、マンションに面する一方通行の道路を見下ろした。四階ぶんの高さがあったが、クラクションを鳴らされているのが阿相のBMWであることはすぐにわかった。曲がり角の手前に駐車したため、全長のあるキャラバンが曲がり切れず困っている。阿相のBMWを移動しなければ……、とそう思った瞬間、BMWがバックし始めた。無人の車が動くはずはない。だれかが乗っているのだ。  謙介はトイレから出てきた阿相に尋ねた。 「車に、だれか待たせてあるのかい?」  阿相は鼻から「ふん」と息を吐き出す。 「気にするな、そんなこと」 「うちの車庫に停めて、部屋に呼べばいいじゃないか」  謙介の住むマンションは、旧《ふる》い家屋を壊して両親が建て替えたもので、一階のフロアー全部を自宅として使用し、その上の三階分を賃貸しにしている。同居する余裕は十分にあるのだが、謙介は独り暮らしがしたいからと四階のワンルームをもらい受けたのだった。両親用の駐車スペースは専用庭にたっぷり二台分とってある。詰めればもう一台駐車が可能になるはずだ。なにも人に車の番をさせて路上駐車する必要はない。  謙介は阿相の同意も得ずに下に降りて、両親の車を入れ直して駐車スペースを作った。そうしてから、BMWのフロントガラスをコンコンと叩き、ここに駐車するようにと指示を出す。運転席に座っていたのは、色白で髪の長い女性だった。  謙介はそれほど驚かなかった。阿相はしばしばガールフレンドを車に残したまま部屋に上がり込むことがあったからだ。しかし、その場合でもせいぜい三十分が限度で、 「ちょっと待たせてあるから」  と言い置いてそそくさと立ち去ることが多い。今晩のように一時間以上女を待たせるなんてことは、謙介が気付いた中では最長の記録だ。 「どうもすみません。阿相の奴、何も言わなかったものですから」  阿相の代わりに謙介が女に謝った。もっと早く気付いていれば、一時間もこんなところで待たすことはなかったと、言い訳をしたつもりだった。女は、恥ずかしそうに首を振るだけで、視線をダッシュボードから離そうとしない。 「よかったら部屋に来ませんか」  阿相がなんと言うかわからないが、謙介はとりあえずその女を部屋に誘った。女はこくりとうなずくと車から降り、舌足らずのしゃべり方で名を名乗った。 「わたし、中沢ゆかり、といいます」  廊下を歩くときも、エレベーターに乗ってからも、謙介は中沢ゆかりという女を観察し続けた。これまで幾度となく阿相からガールフレンドを紹介されたが、ゆかりは阿相を取り巻く女たちのどのタイプとも異なっている。まず第一に華がない。小柄な身体は抜群といえるほどに整っているが、顔は十人並み以上ではなく、うつむき加減の歩き方は実に陰気臭いのだ。小《こ》脇《わき》に挟んだ赤いバッグは、高校生でさえ恥ずかしがるほど子供っぽく、着ている服は安物の通信販売とすぐに知れてしまう。だが、スカートからのぞく足は、みごとにすらりとして、足首は締まっている。謙介は、ゆかりの素足に目を奪われた。彼女の魅力はすべてその部分に集中していた。  ゆかりを連れて部屋に戻ると、阿相は目に見えて不機嫌になった。阿相はすぐに帰ると言い出したが、謙介はそれをなだめ、せっかくだから三人でもう少し飲もうと、柄にもなく場を盛り上げようとした。そうして三人で話すうちに謙介は少しずつわかってきた。阿相は、ゆかりを謙介に会わせたくなかったのではないかと。ゆかりは、阿相のそれまでのガールフレンドと比較すれば、確かに見劣りがする。だからかもしれない。まるで自分の弱点を暴かれたかのように、やけになってゆかりの悪口を喚《わめ》きたてるのだ。 「知ってるか、こいつ高校もろくろく出てないんだぜ」 「バカだからよぉ、おれたちとは話、合うわけないんだよな」 「おまけに変な宗教に凝っちまってよ」 「こんな女、あまり人目に晒《さら》したくねえんだけどさ」  罵《ば》詈《り》雑《ぞう》言《ごん》がポンポンと阿相の口から出ても、ゆかりは寂しそうに口もとを歪《ゆが》めるだけで怒りひとつ見せない。駐車禁止の場所に車を停め、待っていろと言われれば、たぶん何時間でも待ち続けるのだろう。徹底的に虐待されても反抗しないで付き従う女は、今の時代にはかなり珍しく映る。阿相がなぜゆかりと付き合っているのか、謙介には皆目見当がつかなかった。そんなに悪く言うのなら、何も付き合うことはないではないか。ゆかりにしても、もっと自分に合った男性が見つかるはずだ……。  和気あいあいと三人で会話を楽しむはずだったが、酔う程に阿相の浴びせる悪《あつ》口《こう》は激しさを増し、聞くに耐えなくなって、謙介はとうとう自分から、ぼちぼちお開きにしようかと言い出す始末。考えられないことだった。阿相に向かって、帰ってくれなどと言うのは。  謙介は車のところまでふたりを見送った。かなり酔いの回った阿相を助手席に座らせ、ゆかりがハンドルを握ろうとしたのだが、阿相は自分が運転すると言い張り、缶コーヒーを買ってこいとだれにともなく命令を下す。謙介が自動販売機に走り、冷えた缶コーヒーをまずゆかりに渡すと、ゆかりはバッグから名刺を一枚取り出して謙介に渡そうとした。 「今度暇なとき、遊びに来てください」  阿相はそれを見逃さなかった。 「ばかやろう」  手を強く払い、渡そうとしていた名刺を飛ばす。さらに、ゆかりの手首をひねり上げ、頭を押さえつけて言った。 「こいつはおれの大事な友達なんだから、くだらないところに引っ張り込むんじゃねえ」  ゆかりは「痛い」と小さく悲鳴を上げてボンネットに上半身を倒し込んだ。阿相は助け起こそうともせず、運転席に乗ってエンジンをかける。ゆかりはスカートを直しながら車の前に回り、助手席に座った。 「じゃあな、また来るよ」  阿相は、謙介にだけ明るい笑顔を見せ、車を発進させた。  車が見えなくなると、謙介は、ゆかりが渡そうとした名刺を路上に捜した。庭の植え込みの中にそれはすぐに見つかった。街灯に照らして読んでみる。聞いたことのない宗教団体の名称と、中沢ゆかりの名前、住所、電話番号が記されていた。住所と電話番号が、宗教団体のものなのか、それともゆかりのものなのかは不明だった。謙介は名刺をポケットにしまって部屋に戻った。その夜はなぜかいつまでも興奮が冷めなかった。  3  謙介が中沢ゆかりと会ったのは結局その一回だけだった。たった一回ではあったが、彼女の幻影は謙介の胸に棲《す》みついてしまった。すべて阿相のせいだ。阿相があんなことを言わなければ、執《しつ》拗《よう》に絡みついてくるイメージに悩まされることもなかったのだ。  初めてゆかりと会った日から二ケ月近くたった八月の終わりに、阿相は同じ時間に今度はひとりで訪ねてきた。玄関先に立つ阿相に、謙介はまずそのことを確認した。 「今日はひとりなのかい」  阿相は深刻な表情でうなずき、 「上がっていいか」  と神妙に聞く。何かどうしても言いたいことがあって来た、そんな感じだった。そういえば前回来たときも、阿相は言いたいことがあったのではないか……、謙介はふと二ケ月前の夜の出来事に思い至った。ゆかりが部屋に来て、阿相が突然不機嫌になったのは、ゆかりという幾分魅力に乏しい恋人を見られたからではなく、彼女がいるせいで言いたいことが言えなくなってしまったからではないのか。  だが、その夜、阿相はとりたてて相談事があったわけでもなく、小中学校時代の懐かしい思い出をとりとめもなく思いつくまま謙介と語らっただけで、小一時間もたつと、 「帰る」  と腰を上げたのだった。 「まだいいだろ」  謙介が引き留めると、阿相はにやにやと自《じ》嘲《ちよう》気味の笑いを浮かべた。 「キリがねえからな。おまえだけだよ、ガキの頃のことを話せるのは。よかったよな、あの頃は」  そう言うと、阿相はどこか遠くを見るような目つきになって、思い出話をまたひとしきり繰り返した。共に過ごした軽《かる》井《い》沢《ざわ》の夏……、昭和三十五年まで軽井沢と草《くさ》津《つ》を結んでいた草軽線の廃線跡を辿《たど》って歩くうち、山に迷い込んで帰れなくなり、死を覚悟したエピソードは、これまで何回となくふたりの話題に上ったものだ。夕暮れの山中で道に迷い、その夜は野宿するよりなかった。不安のあまり泣き言ばかり並べる謙介に、阿相は、日が昇るのを待って廃線跡を捜そう、そうすれば絶対に帰れると勇気づけた。恐怖に震えながらの一夜。しかし、今になって思い起こせば、濃密な、わくわくするような一夜でもあった。友情が一気に深まったのは、あの体験を共有したからに他ならない。  口調は、いつもの阿相と違っていた。しつこく、感傷的になって、子供の頃の思い出話にふける阿相など、謙介には初めてだ。謙介の頭に浮かんだ戸惑いの表情に気づいたのか、阿相はふと我に返ったように話を切り上げ、 「じゃ、これで」  と片手を上げた。  駐車場のところまで阿相を送ると、謙介は聞いた。 「ゆかりさんは元気かい?」  彼女が元気かどうかを尋ねたのではなく、関係がまだ継続しているかどうかを聞いたつもりだった。 「知らないね、あんな女。捨てちまったから」  予期していた答えだった。長く続くわけがないのだ。阿相の好む女性のタイプとは明らかに異なっているし、ゆかりにしても虐待に長く耐えられるはずもない。 「そうか、残念だな」  ゆかりの印象は鮮やかに謙介の脳裏に残っている。謙介はなぜか彼女に興味が湧いてならない。 「どこに捨てたか、教えてやろうか」  阿相は言いながら、BMWのドアロックを解除し、運転席に乗り込んだ。 「捨てた場所があるのか?」  謙介は驚いて聞き返した。女を捨てるといっても、それは縁を切るという意味であって、ゴミ箱のようなものにポイと捨てるわけではない。あたり前のことだ。 「絶好の場所があったんだ。知りたいか」  阿相は挑発的な目を向けてくる。謙介はもう少し、このたちの悪い冗談に付き合うことに決めた。 「ああ、知りたいね」 「第六台場だよ」  第六台場……、東京湾に浮かぶ無人島。ペリーの黒船来航直後、外敵の来襲に備えて幕府が築いた砲台島である。現在残っているのは第三と第六であるが、第三台場はお台場海浜公園と防波堤でつながっていて、もはや島と呼べるものは第六台場だけだ。  謙介は笑った。ゴミの処分場近くに浮かぶ第六台場は、結局砲台としては一度も使われなかった代物であり、不要になった女を捨てる場所としてはまさにうってつけと思われたからだ。謙介は、阿相のセンスに今更ながら感心した。さすがにジョークがうまいと。 「外は暑い。車に乗れよ」  まだ話し足りないことがあるのか、阿相は謙介を車に招き入れようとする。ドアを閉め、カーエアコンをかけると、阿相は話し始めた。ゆかりを第六台場に捨てたいきさつをこと細かに……。  ゆかりは阿相の子供を胎《はら》んでいたという。だが、ゆかりの入信している新興宗教団体では堕胎を禁じていた。そこで彼女は阿相に結婚を迫った。よくあるパターンだ。新興宗教はともかく、これまで阿相からその手の話は幾度となく聞かされていた。 「だから捨てたのか?」  謙介は話の先を急いだ。阿相ひとりのペースでしゃべらせておくと、嘘《うそ》が本当のように思われてくる。 「あいつはおれにこんな絵を見せやがった」  阿相はグローブボックスを開けて、四つに折り畳んだA4サイズのカラーイラストを取り出した。謙介はそのイラストを覗《のぞ》き込む。稚拙な絵柄だった。金色で表現された太陽の下で樹木は瑞《みず》々《みず》しく育ち、その樹木の下には成人した人間の男女が寝そべり、またその傍らには男の子や女の子が遊んでいる。犬、猫、ライオンまでもが木々の合間を楽し気に闊《かつ》歩《ぽ》しているのだ。しかも、よく見るとその理想郷は海で囲まれている。南洋の楽園なのか、ヤシのような実もたわわに実っている。だれが描いたものなのか、すぐにピンときた。 「ゆかりさんが描いたのかい」 「そうだ、あいつの信じている宗教理念を絵柄で表現するとこうなるらしい。平和、安寧、病気も老いもなく、永遠の命。どう思う、おまえ」  口下手のゆかりには、自分の胸に描く理想郷を言葉で説明するより、図柄で表現するほうがたやすかったに違いない。  謙介は絵に見入るだけで、阿相の問いには答えなかった。いきなり「どう思う?」と聞かれても戸惑うだけだ。 「わたしたちで理想郷を作り上げましょう!」  阿相は胸で両手を組み、ゆかりの口《くち》真《ま》似《ね》ですっ頓狂な声を上げた。それから、顔を謙介のほうにぐいと近づける。 「二十三年間生きてきて、これほど頭にきたことはねえ。永遠に生き続けるということが、どれほど悲惨なものなのか、あのバカにはちっともわかってないんだ」 「いいじゃないか、人それぞれ考えは違うさ」  謙介はゆかりの肩を持った。 「よかねえさ。あいつは、おれにくだらない理想を押しつけようとした」 「だから、捨ててきたのか、第六台場に」 「そうだ、島流し。相応《ふさわ》しい刑罰じゃねえか。理想郷を作りたいのなら、ひとりで勝手に作ればいい」 「あそこは立入禁止のはずだが」 「夜中にこっそりゴムボートで上陸したのさ……」  ゆかりは第六台場が立入禁止になっていることを知らなかったらしく、深夜の冒険になんら不安の色を見せなかったという。車に積んであったゴムボートを膨らませたのも、オールを漕いだのもほとんどゆかりの仕事だった。ゆかりは阿相の行くところなら、何の疑いも挟まずについてゆく。台場に上陸すると、用意したクロロフォルムを嗅がせ、意識を失った彼女をひとり残して第六台場から離れた。造作もないことさ、と言わんばかりに阿相は、ゆかりを第六台場に置き去りにした経緯を語った。  しかし、謙介は納得できなかった。第六台場から海浜公園まではほんの三百メートル、泳いだとしてもそう遠い距離ではない。仮に泳げなかったとしても、付近を行き交う屋形船は数多い。土塁の上に立って叫べば声は届きそうなものだ。渡るのも楽な分、脱出も容易ではないかと、謙介はその点を追及した。 「大丈夫、服を剥《は》いでおいたから」 「裸で放り出したっていうのか」 「おれはあいつの性格をよく知っている。公衆の面前に肌を晒《さら》すぐらいなら、間違いなく死を選ぶ。そんな女さ」  謙介は二の句がつげなかった。阿相とゆかりの間に本当は何があったか知らない。付き合っている以上、心が通い合うこともあったはずだ。たとえ悪ふざけであっても、素っ裸にして置き去りにしてきたなどと、言ってしまっていいものかどうか。真実かどうかではなく、言葉にして第三者に語ること自体、既に残酷な仕打ちなのだ。  重苦しさの中で、謙介は口を閉ざしていた。そっと横を盗み見ると、阿相は何か言おう言おうとして、何度も言葉を呑《の》み込んでいるようだ。 「そろそろ行くよ、おれ」  阿相はシフトレバーをPレンジからDレンジに入れ、ハンドブレーキに手をかける。  謙介は車のドアを開けてから、最後の質問をした。 「いつなんだ、ゆかりさんを捨てたのは」 「お盆の頃だったかな、街中がガランとして人があまりいなかった」  お盆の頃……つまり今から十日程前ということになる。謙介は車から降りて運転席のほうに回った。  阿相は運転席のウインドウを下げ、表側にだらりと下げた手で車の腹を軽く叩いていたが、その手を謙介のほうに差し出し、 「じゃ、あばよ」  と言う。手を差し出したのは、握手を求めるためだ。謙介は反射的に手を握っていた。冷たい感触だった。冷たいくせに、じっとりと汗ばんでいる。阿相と握手を交わすのは、ほとんど初めての経験だった。 「またな」  謙介が言うと、阿相は二つ大きくうなずいて、BMWを発進させた。  走り去る車を目で追いながら、謙介はあることを確信していた。前回も、今回も、阿相が来た目的は同じで、それは別れの挨拶を言うためではなかったのだろうかと。「あばよ」という声と、冷たい手の感触が甦《よみがえ》る。交差点の手前でブレーキランプが光り、ウィンカーも出さずに阿相のBMWは左に曲がって消えていった。  4  それからしばらく謙介は妄想に悩まされた。無人島の奥深くに身を潜める裸の若い女は、恋人のいない謙介の性欲をむやみにかきたてた。  森に遊ぶ夢をよく見た。森には、さるすべりのような肌色をした木の幹が、一枚の葉もつけずに地中からニョキニョキ伸びている。木々の間を歩くうち、湾曲した枝に絡み取られ、地の底に呑み込まれていく夢だった。分析するまでもなく、すべすべとした木の幹はゆかりの足の象徴である。蛇の夢も繰り返し現れた。大地をのたくる蛇が、ゆかりの手足に姿を変えてゆく夢。未開の土地やはっきり島とわかる場所を舞台に、ゆかりは様々な植物や生物に肢体を変え、生き続けていく……。  阿相の言ったことが嘘《うそ》か本当なのか、本人の口から確かめることはできない。たとえ、阿相が「嘘だ」と白状しても、謙介の疑惑は晴れそうになかった。「嘘だ」という言葉自体が嘘である可能性がずっと残り続けるだろうから。  謙介は、ゆかりから渡された名刺の番号に電話をかけてみた。そこはゆかりの実家でもなければ、独り暮らしをする彼女のアパートでもなく、新興宗教団体の信者が寝起きを共にする寮のようなものらしかった。電話口に出た細々とした声の女性に、ゆかりを呼び出してほしいと頼んだところ、女性はただ一言、 「いません」  とだけ言葉を返してきた。意外とあっさりゆかりが電話口に現れるのではないかと期待していた謙介は、「え?」と声を詰まらせ、ひと呼吸おいて尋ねた。 「彼女がどこにいるかご存じですか」  女性の答えはあっさりしたものだ。 「知りません」 「ゆかりさんは、いつからいないのですか」 「ここ二週間ばかりあの人の顔を見ておりませんが」 「実家の連絡先、わかりますか」  謙介はついでに、実家の電話番号を聞こうとした。だが、女性は、その問いに逆に問い返してくる。 「中沢さんに、実家なんてあるのですか」  口ぶりからは、ゆかりは実家のない、天涯孤独の身の上のように聞こえる。 「ないのですか」  そう念を押すと、女性はまたあっさりと答える。 「さあ、よく知りませんけど」  本当に実家がないのか、あるいは何も聞かされてないだけなのか、はっきりしなかった。謙介は受話器を置いた。確認できたのは、ゆかりが二週間ばかり自分の寮に戻ってないということだけだ。困ったことに、阿相の話に信《しん》憑《ぴよう》 性が出てきてしまった。  第六台場を訪れて彼女の不在を確認しようにも、そこは東京都によって立入を禁じられている。教職に就くため、都の採用試験を受けることになっている謙介は、不用意な行動を慎む必要があった。東京都とのいざこざなどもってのほかだ。そうでなくとも、謙介には、夜中にこっそり第六台場に上陸する勇気などあるはずもない。  もう一度阿相に会って、確認する必要を感じた。阿相の言ったことが真実だとすれば、手遅れにならないうちに手を打たなければならない。女性の服を剥いで第六台場に置き去りにするのがどんな罪になるのか、謙介にはよくわからない。餓死したりすれば罪は免れないだろうと見当はつく。  連絡を取らなければと思っていた矢先、謙介は、母校の付属病院に阿相が入院したことを知らされた。胸部エックス線撮影により、肺に影が発見されたからだという。気管支鏡検査等の結果、極めて進行の速い癌《がん》が身体の各部位にまで浸潤していることが判明した。脳にまで転移して手術はまったく不可能。化学療法でだましだまし治療を続けたとしても、寿命はあと二ケ月かそこらと見られた。  この知らせを聞いて、謙介は不思議とたじろがなかった。むしろ、来るべきときが来たと両目を閉じ、落ち着いた気持ちで事実が浸透するに任せた。その間、ふたりに共通の懐かしい風景が、入り乱れて脳裏に展開したが、「信じられない」という思いはついぞ湧《わ》かず、ただ、自分と同じ二十三歳という年齢の死が、強烈な痛ましさを伴って身に迫ってきた。  阿相は、入院して検査する前から、自分の命がそう長くないことを、たぶん感づいていたのだ。だから、あの日、別れを告げにやって来た。死を前提とすれば、阿相のこれまでの言動に理由がつく。阿相が自分の死を知っていたと同様、謙介もまた阿相の寿命がそう長くないことを察知し、いつかこんな知らせを受けるのではないかと覚悟していたに違いない。  事実を呑み込んでから十分ほどして、謙介は突如、嗚《お》咽《えつ》を漏らし始めた。悲しみからではない。訳のわからない感情に、胸の奥のほうをぎゅうぎゅうと押された。そんなふうにしばらく泣くうち、むしょうに阿相に会いたくなってきた。今度は謙介のほうから別れを告げに行く番だった。  見舞い客が少ない時間を見計らったつもりだったが、阿相の個室には母親の他に、二、三の知らない顔が見られた。阿相はまともに会話ができない状態で、ベッドに身体を横たえていた。ほんの一ケ月前、車を運転してうちに訪ねてきた人間が、今は呼吸すら満足にできず、体中にチューブを巻きつけている。阿相の身体に巣くった癌細胞は、短期間でかくも急激な変化をもたらした。左の肺はまったく能力を失い、気管支にたんがつまればそれで終わりだという。謙介は、帰り際に彼の枕《まくら》もとに寄り、小さくやさしい声で聞いた。 「第六台場のこと、本当なのかい?」  死を目前にして、まさか嘘はつかないだろうという確信があった。もし、首を横に振ってくれていたら、疑惑は晴れるはずだった。だが、阿相は、笑みを浮かべて首を縦に動かした。  信じられぬ思いで、謙介は再度確認する。 「本当に?」  続けて二度、阿相はうなずいた。気のせいか、阿相の顔には満足気な表情が浮かんでいるように思える。謙介は阿相の手に手を重ね、 「がんばれよ」  と言って個室を出た。偽りの激励などより、素直に「さようなら」と言ったほうがよほど気がきいていたかもしれない。その二日後、阿相は二十三歳の若さで死んだ。  5  集合場所である夢の島マリーナのレストルームで、佐々木はソフトクリームをなめるのに忙しかった。佐々木と謙介の他には東京都の職員である内《ない》藤《とう》がいるだけで、港区議会の委員はまだ姿を現していない。約束の午前十時を十分ほど超過していた。夏休みに入ったばかりの平日とあって、マリーナには学生風の男女が多く、若い女性がそばを通り抜けるたび、佐々木はソフトクリームから舌を離し、女性の歩き去る方向に顔を巡らすのだった。 「団長、みっともないですよ。いい年して」  謙介は佐々木の横腹を軽く肘《ひじ》でこづいた。 「団長はねえだろ、団長は」  佐々木は苦笑いを浮かべる。 「調査団、なんて言い出したのは、佐々木先生ですからね」 「ま、そういじめるなって」  謙介の皮肉がちくちくと刺さるらしく、佐々木は煩《わずら》わしそうに蝿《はえ》でも追い払う素振りをする。  針小棒大とはまるで佐々木のためにある言葉だった。一のことを十に、十のことは百にと話を大きくするのは佐々木の専売特許で、今回の第六台場の調査にしても、佐々木の口ぶりからイメージするのは都下から一流の学者を集めた大調査団であったが、来てみればなんのことはない、都の職員の他にいるのは佐々木だけという体たらく。拍子抜けして、 「他の先生方は」  と目を丸くする謙介に、佐々木は縮こまって言い訳をした。 「みなさんいろいろと忙しいみたいで、キャンセル続出」  どうも話が違うと、内実を都職員の内藤に問いただせば、もともと港区議の委員会と都職員だけで現場を視察するつもりのところに、佐々木が強引に同行させて欲しいと頼み込んできたという。「区議会に調査を頼まれた」「調査団を組織して」などというのは口から出まかせもいいところで、ひとりで同行するのは格好がつかないから謙介にも声をかけたのが本当らしい。 「あ、加《か》納《のう》さんが見えました。そろそろ出発しましょうか」  港区議の加納が到着し、内藤が腰を浮かせると、つられて謙介と佐々木も同時に立ち上がった。  桟橋に横づけされた小型クルーザーには、同じく都の職員である船長とクルーが待ち構えていた。総勢六人となった一行は、夏の日差しの中、午前十時半に夢の島マリーナを出港し、ほんの目と鼻の先である第六台場へと向かった。  途中、四ケ所ばかり橋をくぐり、そのうちのひとつは手を伸ばせば届きそうなぐらい桁《けた》は低かった。日差しが遮られ、橋全体が強い圧迫感をもってのしかかってくる。最後の橋をくぐると、レインボーブリッジが見え、その向こうに第六台場が現れ始めた。レインボーブリッジが完成した当初、謙介は遊歩道を渡りながら第六台場を見下ろしたことがある。展望室に備えられた双眼鏡から、台場に茂る木々の奥の奥を覗いたりもした。しかし、ほぼ海面の位置から水平に第六台場を見るのは初めてだった。  徐々に島影が大きくなるにつれ、謙介の期待は膨らんでいった。この九年間、勝手に肥大し、様々に態を変えた妄想の舞台が、現実に目で見られるのだ。面積約五千六百三十六坪、周囲五百五十メートルの変形五角形の島は、高さ五メートルほどの石垣に囲まれていて、海の中の人工島にもかかわらず真水の出る井戸があるという。水さえあれば、なんとか生き延びることもできるのではないかと、謙介は九年もの間、ゆかりを石垣で囲まれた島に生かし続けていたのだ。馬鹿げた空想であるとよく心得ていた。だが、死の間際に阿相が見せた妙に満足気な表情を、謙介は無視することができない。脳まで癌細胞に冒され、自分のついた嘘を現実のことのようにとらえていたのか、あるいは、まだどこかに自分の生きる場所があるのではとの願いを込め、死んだ後に昇る天国のイメージを無人島に重ねていたのか……。  餌を求めてなのだろう、クルーザーの周りにはカモメの群れが多く飛んでいた。海面すれすれに飛んでいたカモメは、第六台場をかすめて急上昇してゆく。クルーザーはカモメを追い払うようにして第六台場の船着き場に横づけされていった。  6  佐々木がカメラにビデオ、スケッチブックと用意万端なのに比べ、謙介はほとんど何も荷物を持っていなかったが、長靴の用意だけは怠らず、上陸する前にスニーカーから履き替えた。桟橋に飛び移ると、佐々木はまず一声上げた。 「昔と変わらねえなあ」  謙介は、おやっと思って尋ねた。 「昔って、佐々木先生、ここは初めてじゃないんですか」 「十年前に一度来たことがある。やはりこういった調査に同行してな」  十年前……、阿相が死ぬ一年前、佐々木はこの地を訪れているのだ。 「見ろや」  佐々木は狭く土塁の途切れた隙《すき》間《ま》を指差した。樹木が作り出す仄《ほの》暗《ぐら》い空間が奥に延び、その手前の、まだ水際といえるところに、セリの一種とみられる草が群生していた。 「セリですかねえ」 「アシタバだ。伊《い》豆《ず》や大《おお》島《しま》では一般的に見られる。遠くから流れてきたんだろうなあ。あの茂みは十年前と変わらんよ」  どこからともなく種が流れつき、定着し、勢いよく成長していくアシタバの生命力の強さに、佐々木は嘆声を発した。第六台場に来てまず第一に感心するのは、流れつく種の多さと強さであると、佐々木は何度も繰り返すのだった。人の立入を禁じられたこの場所は、だからこそ自然の宝庫であり、調査する価値があるのだと。  内藤と加納のふたりは土塁を巡ってまず外側からざっと観察してみようと主張したが、佐々木はすぐにでも中心部に向かって歩きたい素振りを見せた。結局二手に別れることになり、謙介は佐々木と同行することにした。船長とクルーは船着き場に残り、外周をぐるりと一周する加納と内藤の組と、内部に進む佐々木と謙介の組は、それぞれレシーバーを持つことにした。一辺が百メートルほどの小さな島で、大声を上げれば聞こえないこともなかったが、せっかく準備したレシーバーを使わない手はない。 「では後ほどまた」  軽く手を振って別れると、内藤と加納は土塁に飛び乗って歩き出した。  佐々木と謙介は、アシタバの茂みを踏みわけ、さらに奥、仄暗い場所へと入っていった。興味深い植物を目にするたびに、佐々木はカメラを構え、ビデオで撮影し、スケッチをしたりする。謙介の知らない草木で、佐々木に答えられないものはなく、さすがに自然科学の専門家としての面目躍如たるものがあった。日頃の剽《ひよう》軽《きん》さが嘘のように、彼の眼《まな》差《ざ》しは真剣だった。謙介は今更ながら佐々木を見直した。  人間の足に踏み固められてないために、土は柔らかく、踏みしめるたびに、腐植土からは黒い水が染み出してきた。長靴を履いてなければ、足はとっくにびしょ濡れになっているところだ。空気までも湿っている。タブノキやツクバネウツギなどの、都心ではめったに見られない草木はなぜか不気味な匂いを発散させ、島独特の異様な雑木林を作り上げていた。海風に梢がざわめくと、四方から同時に舞い降りる音のせいで、今いる場所がどこかわからなくなることがあった。謙介は、ゆかりのことなど忘れかけていた。空想に描いた場所とここはあまりにも異なっている。  奥に入るほど闇は濃くなり、佐々木は寡黙になっていった。カメラやビデオのファインダーを覗く回数も減ったようだ。あちこちに顔を巡らせながら足を止め、佐々木はふとつぶやいた。 「変だなあ」  佐々木のすぐ後ろに続いていた謙介も足を止めた。 「何がですか」  しかし、佐々木は、 「うーん」  と考え込んだまま、何が変なのか、その原因を言おうとしない。  ふたりは無言のまま、その場にしばらく立ちつくした。 「先生、どうかしたんですか」  謙介が心配気な表情で声をかける。 「桟橋のあたりで見られたアシタバの茂みは昔と変わらない。しかしだなあ、奥に行くにつれ、なにか変なんだよな」 「違うんですか、以前と」 「はっきり、どこがどう違うと言えるわけではない。だがな、感じるんだよ」  佐々木の言葉を聞いて、謙介は不安気にあたりを見回した。なんとなく嫌なムードが漂ってくる。第六台場は、大正から昭和にかけて、幽霊島と呼ばれたこともあったらしい。最近では、海浜公園で練習中のウインドサーファーが、第六台場の陰に隠れたとたん、サーフボードもろとも忽《こつ》然《ぜん》と姿を消したという話を耳にしたばかりだ。謙介は、その種の不気味な噂《うわさ》を思い浮かべ、背筋に悪寒を走らせたのだった。 「まあとにかく先に行ってみましょう」  勇気を奮い起こそうとしたつもりでも、謙介の声は震え気味になった。 「ちゃんとした調査が入るのは、十年ぶりなんだよなあ」  歩き始めた佐々木は、事実を確認するように独り言を言った。港区議の委員会が調査に入るのは今回が初めてで、念入りな現地踏査は十年前に行われて以来だと、クルーザーの上で内藤から説明を聞かされていた。  謙介が黙ったままでいると、佐々木は再度足を止めて空を見上げ、 「おい。この森はなにかを養っている」  と叫び声を上げた。 「あたりまえでしょう。樹木というのは常に周りの生命を養うものですから」  佐々木は斜め前方を指差す。 「あれは柿の木だぜ。そのむこうのはビワだ。前に来たときには果実のなる木なんてなかった」  言い終わらぬうちに、佐々木は駆け出していた。 「待ってください」  と後を追う謙介だったが、佐々木の足は早くなるばかりで、ついていくのも容易ではない。汗みどろになり、もうだめだと音を上げかけたころ、急に視界は開け、直径十メートルほどの広場が現れた。島の中央らしく、その位置を中心に四方を見回すと、樹木の厚みはどこも同じに見える。北の頭上にはレインボーブリッジが架かっていた。未開のジャングルに似た島の中心部から近代的な建築物を見て、謙介は強い違和感を覚えた。ガクンと次元がずれ、異界に迷い込んだ気分だ。  昼時の太陽は、草に被われた広場に日をさんさんと降り注いでいる。蝉《せみ》の声が喧《やかま》しい。この広場をどう形容すべきなのか、謙介はすぐに思い浮かんだ。畑だ。トマトやナス、キュウリなどの夏野菜が、うまい配置で植えられている。ここまでくるともはや自然以外の力を信ずるよりほかない。野菜は、だれかの手によって、ある意思のもとに、植えられたものなのだ。漂着した種子が自然に芽を出したわけではない。謙介と佐々木は、無言で視線を交わし、そのことを確認し合った。  佐々木は顎《あご》をしゃくり、広場の東端を指し示した。 「おい、あれ」  盛り上がった土の上に、細長い木の板が三枚ばかり立てられてあった。歩み寄ってよく見ると、木の板は卒《そ》塔《と》婆《ば》らしく、墨で書かれた文字でどうにか読めるのは「南」と「尼」の二文字だけ、あとの文字はすっかり剥《は》がされてしまっていた。なぜこんなところに卒塔婆が……、やはりどこかから流れてきたものなのか。だが、しっかり土に差されているのはどういうわけだ? 「なんですかねえ、これは」  卒塔婆の下の土の盛り上がりから、佐々木と謙介は同じ連想を得た。 「どうみても墓だな、こりゃ」  こんもりとした土の表面には、蟻《あり》が列を作って蠢《うごめ》いている。墓……。他には考えられない。  そのとき、謙介が肩にかけていたレシーバーが反応した。 「加納です。聞こえますか、どうぞ」 「はい聞こえます」  謙介は通話ボタンを押して答える。 「西側の土塁の上で、黒い小さな影を発見。影は林の中に消え、中程に向かった模様。充分注意してください」 「影?」 「ええ、たぶん動物かなにかでしょう」 「犬や猫の類ですか」 「いや、違います」  加納は即座に否定した。 「といいますと?」 「わかりません、追いかけようとしたら、すごい勢いで林の中に駆け込んでしまいましたもので」 「西側ですね」 「そうです」 「了解」  通話を終えると、謙介は佐々木の顔を見て指示を待った。 「行こう」  佐々木は、黒い影が消えたという西側の林へと移動してゆく。謙介はその後に従った。ふたりは、茂みの手前にくると足をとめ、音をたてないように内部の様子をうかがう。まだ何の物音も聞こえなかったが、黒い影は、すぐ前方の茂みの中をこちらのほうに進んでいるのだ。謙介は息を殺し、なにかが現れ出るのを待った。  中腰に身を屈めた謙介のすぐ鼻先を、羽音をたてて蚊が飛んでいた。動かずにじっとしていると、肌のあらわなところは蚊の餌《え》食《じき》になる。待ち構える姿勢のまま、小刻みに身体を動かし、蚊を追い払うのは疲れる作業だった。  前方の灌《かん》木《ぼく》の中に、もやもやと草の揺れ動く気配を感じた。そうして、接近しつつある気配は、枝を払うざわざわとした音に変わり、突如、黒い小さな物体が謙介の眼前に躍り出たのだった。  あっと思った瞬間、謙介は地面に仰《あお》向《む》けに転がっていた。堅い物体に顎《あご》を突き上げられ、一瞬気を失いそうになったが、両手は本能的に飛び出してきたものを掴《つか》んでいた。野獣のような雄《お》叫《たけ》びが、耳許で湧き起こる。直後、腕に激痛が走った。なにがどうなっているのか皆目見当がつかない。さらに上からのしかかる圧迫を覚え、軽くなったなと感じて目を開けると、強い日差しの中、黒く小さなシルエットが佐々木に抱きすくめられ、手足をばたばたと動かしているのが見えた。佐々木によって引きはなされたその生き物は、七、八歳と思われる人間の男の子だった。  上半身を起こし、信じられぬ思いで、謙介は茫《ぼう》然《ぜん》自失する。男の子は、人間の言葉ではなく野獣の叫びを上げていた。声には必死の訴えが含まれているのだが、意味はまったく不明で、謙介を心底怯《おび》えさせた。噛みつかれたのだろう、痛みを感じた腕には血の滴《しずく》がある。謙介はその個所を手で押さえながら立ち上がった。同時に、背後の林から加納と内藤が飛び出してきた。佐々木に取り押さえられた少年を見ると、加納は、レシーバーでクルーザーの船長を呼び出し、矢継ぎ早に指示を与え始める。 「出港準備……、警察に連絡…………」  加納の言葉が断片的に脳裏に届く。  めまいを感じた。どうにか理解すべく、一瞬の出来事を頭で確認しようとした。後ろを振り返りながら走ってきたため、少年はすぐ前に謙介がいることを知らず、頭をぶつけてきたらしい。なぜこんなところに少年がいるのだろう。加納たちは名前や住所を少年に問いただしている。だが、意味不明の叫びを返して首を振るだけで、少年からは何の情報も得られない。日本語でもなく、ましてや外国語でもない叫びを聞いているうち、謙介は再度めまいを覚えた。  7  少年はデッキの床に座り込み、クルーザーの縁から顔だけを出して、第六台場に目を据えていた。その顔に表情はなかった。普通、生まれ育った地を離れるときには特別の感慨が湧くものだが、少年はそういった感情を表現する手段を持たないらしい。クルーザーに乗り込むや、観念して少年は暴れなくなり、さっきからずっと同じ姿勢を保っている。  とりあえず、調査を一《いつ》旦《たん》中断するほかなかった。少年を陸に連れ戻し、しかるべき筋に身柄を渡すのが先決と思われたからだ。加納と内藤は、予期しなかった獲物に興奮を隠せない様子で、少年の素姓に関して互いの推理を交換し合い、狼に拾われ育てられた野生児を見るがごとき好奇心を少年に注いでいた。  みんな何も知らないのだ。唯一謙介だけが、第六台場でのこの九年間をある程度正確に把握することができる。少年の顔を見れば一《いち》目《もく》 瞭《りよう》然《ぜん》だった。伸び放題の髪に縁取られているとはいえ、こぢんまりと整った鼻《び》梁《りよう》、澄んだ冷淡な眼、薄い唇、どこをとっても瓜ふたつだ。小学校三年のときに、謙介は初めて阿相とクラスが同じになり、親交を結ぶようになったのだが、すぐ正面に座る少年の横顔は当時の彼とまさに生き写しだった。疑いもなく、少年は中沢ゆかりが産んだ阿相の息子である。  阿相はゆかりを裸に剥いて第六台場に置き去りにしたと言ったが、それは嘘だ。手近な無人島を楽園に変えようという無茶な計画は、ゆかりの提案なのだろうが、阿相はそのばかさ加減に辟《へき》易《えき》しながらも協力した。でなければ、第六台場に育つ果実や、野菜などの出所が説明できなくなる。第一、少年は裸ではなく、ボロ布同然とはいえ、ちゃんと服を着ていた。生活に必要な最低限の品は、最初から用意され、運び込まれていたに違いない。  では、少年の母親であるゆかりはどこにいるのか。たぶん土の中。生きてれば第六台場以外のどこかだろう。とにかく島にはいない。阿相の言葉が真実なら、ゆかりは九年前の夏に妊娠してその翌年に出産したことになる。少年の年齢は八歳。もし、現在まで母親と共に暮らしていたとすれば、言葉は通常に理解できるはずだ。五歳頃までに少年は母を失い、その後の独り暮らしで母から教わった片言の言葉を忘れ去った。ゆかりが第六台場で死んだのか、それとも子供を放置して脱出したのかは、卒塔婆の立つ土の下を掘り起こせば明らかになるだろう。謙介の勘では、ゆかりは今、盛り上がった土の下に眠っている。  死の間際に見せた阿相の満足気な表情……、今ようやくその理由がわかった。だれにも知られず、地上のどこかに種を残すことに成功したという、密やかな笑いなのだ。流れついた種子を育てる力は、何も植物にだけ働くのではない。その証拠を、謙介は今、目の前に見ている。  少年は、視線に気づいて謙介と目を合わせたが、ほとんど無表情のまま、次第に離れてゆく第六台場に顔を向けていった。 穴 ぐ ら  1  富《ふつ》津《つ》岬の突端には五葉松を模した大展望台があり、頂上に登ればすぐ目と鼻の先に横須賀や観《かん》音《のん》崎《ざき》を見渡すことができる。息子と連れだって展望台に登るのは、稲《いな》垣《がき》裕《ひろ》之《ゆき》にとってずいぶん久しぶりのことであった。  第一海《かい》堡《ほ》と第二海堡の間は見た目にも潮の流れが早い。その手前の岬からは砂州が弓なりに延び、あと少しで先端が第一海堡に触れようとしている。終戦直後は、干潮のときにジープで沖の第一海堡にまで渡ることができたらしいが、今は不可能だ。砂州は点線状になって海上わずかに顔を出すだけで、歩いて渡るのもままならない。歩いているうちに潮の流れが変わり、遭難した人間がいることを、裕之は子供の頃に聞かされたことがある。その人は海に流され、死体はとうとう上がらなかったという。  初夏の土曜の午後、風は強い。裕之は、さっきからずっと、第一海堡と第二海堡の間の早い流れに目をやっていた。この位置からだと、航行する船はほんの豆粒程に見えた。その海域こそ彼の仕事場だ。富津のあなご漁師である裕之は、一ケ月のうち二十五日は、第一海堡と第二海堡の間であなごを漁《と》る。父親から仕事を引き継いでもう十五年たつが、その間、東京湾は刻々と姿を変えていった。沖に延びる砂州にしても、以前と比べれば先端は大きく北に向きを変えている。埋立地をつくったり、海底を掘り下げて航路を広げたりした結果、潮流のバランスが崩れ、砂が洗われて南側から消失したのだ。  だからといって裕之には特に感じることもなかった。目標としている月百万円以上の水揚げさえあれば、東京湾の地形がどう変わろうと、知ったことではない。月に百万は女房に叩《たた》きつけてやりたかった。それだけ渡せば、妻にとやかく言われる筋合いはない。 「さ、行くぞ」  裕之は、海を眺めている息子の頭をぐいと押した。息子の克《かつ》己《み》は極端に口数の少ない子供だった。克己は、返事をするでもなく、名残惜しそうに三《み》浦《うら》半島の方面に顔を向けていた。だが、階段を降りてゆく父親の後ろ姿を見るや、慌てて後を追った。  展望台の階段を降りたところでは、露天商が焼きとうもろこしを売っていた。 「食うか」  と、聞きはしたものの、裕之は返事も待たず顔見知りの露天商に声をかけて一本買い、釣り銭を受け取りながら訊《き》く。 「よお、このへんでうちの女房見なかったか」  だが、露天商は笑って首を横に振るだけだった。  裕之は息子にとうもろこしを渡し、醤《しよう》油《ゆ》の染みた手で、 「こい」  と手招きした。  克己は、とうもろこしなど欲しくはなかった。だが、父の差し出したものを拒めば、怒り出すに決まっている。殴られないとも限らない。克己は、黙ってとうもろこしを受け取り、父の顔色をうかがいながら、舐《な》めるようにかじりつき、父の後に従った。母からは間食を厳重に禁じられている。しかし、母の言いつけなど頓《とん》着《ちやく》なしに、というより、わざとそれに背くように、父は駄菓子の類《たぐい》を買い与えることがあった。そのたびに克己は板挟みにあう。母の言いつけを守らなければ母から叱《しか》られるし、いらないと拒めば父から殴られる。さらにやっかいなのは、欲しくもないものばかりを、父が買い与えることだ。  だらだらとした足付きで、克己は父から数メートル遅れて、岬の北側の浜を歩いた。突き出た岬を境にして、南側は波が荒いが、北側はまるで穏やかだった。その穏やかな波打ち際には、都会から押し寄せた4WDが横一列に並び、車から降り立った人々はそれぞれ土曜の午後のマリンレジャーを楽しんでいる。若者たちはマリンジェットを乗り回し、家族連れはバーベキューをさかなにビールを飲む……、そんな光景で浜は埋め尽くされ、楽しげな喧《けん》噪《そう》に満ちあふれていた。  裕之は歩をとめて振り返った。息子との距離は十数メートルに広がっている。息子はあっちへよろよろこっちへよろよろ、ふらつく足取りで進みながら、実にまずそうな顔でとうもろこしを食べている。見ていて、むしょうに苛《いら》立《だ》った。  父の苛立ちをよそに、克己は水しぶきをたてて海面を滑るマリンジェットを目で追っていた。だが、海の遊びを羨《うらや》ましく思うわけではない。なぜか、克己は水を死ぬほど恐《こわ》がった。学校の水泳の時間はなにかと理由をつけて休み、風呂に入るのも嫌った。そのせいか小学校五年になってもろくに泳ぐこともできない。漁師の息子にあるまじき背信行為と、父には思えるのだ。  裕之は大声で息子の名を呼んだ。 「克己」  数隻のマリンジェットがエンジンを轟《とどろ》かせて旋回し、父の声は音にかき消された。息子は海に顔を向けたまま、だらだらと浜の砂を蹴《け》っている。 「克己!」  裕之は息子のほうに歩いた。  ふっと影が差し、父の存在を身近に感じると、克己は本能的に肩をすくめていた。殴られると思ったからだ。父は、 「よこせ」  と怒鳴ってとうもろこしを取り上げ、すさまじい勢いで平らげていく。 「いいか、とうもろこしはこうやって食うんだ」  食べ終わると、裕之は芯《しん》を投げ捨て、手の甲で口を拭《ぬぐ》った。  そのとき、すぐ傍らで「あー」という悲鳴に近い声が湧《わ》き上がった。直後に、克己は腹のあたりを押さえてうずくまる。何が起こったのか、裕之には理解できなかった。 「すみませーん」  と声を上げながら近づいてくるふたつの影があった。彼らは手に野球のグローブをしている。  目を息子の足元に落とすと、ボールが転がっていた。松林の手前でキャッチボールをしていた親子がボールを大きく逸《そ》らせ、逸れたボールが息子の脇《わき》腹《ばら》のあたりを直撃したらしい。 「すみません、大丈夫ですか」  頭をペコペコさせて近づいてくる親子に、裕之は、 「気を付けろよ」  と怒鳴ってボールを投げ返した。  息子はまだ砂の上にしゃがみ込んでいる。手を引いて立たせて、ボールが当った脇腹のあたりを調べた。たいした変化は見られない。Tシャツをめくると、赤い痣《あざ》が薄くできているだけだ。 「大丈夫だ。なんともない」  裕之はそう太鼓判を押し、脇腹をさすってみた。  歩き始めたはいいが、息子の歩みは以前にもまして遅くなっていった。脇腹を手で押さえ、オーバーな表情で顔を歪《ゆが》める。そのうちに、足を引きずり出した。半開きの口から舌を出し、ハーハーと溜《た》め息まで漏らす始末。裕之の苛立ちは増した。どこかにぶつけなければすまない程の苛立ちだった。  松林のほうでは、ついさっきボールをぶつけた親子が、キャッチボールを再開していた。ふたりともブランドもののポロシャツを着て、全身から都会的な匂《にお》いを漂わせている。子供のほうは克己と同じくらいの年格好で、都会人にしては動きが機敏だった。 「おい、ちょっと、あんたら」  裕之は、苛々の捌《は》け口を発見するやドスの利いた声を上げ、近寄っていった。  親子はキャッチボールを中断し、不安そうな顔を向けてくる。火に油を注ぐようなものだ。相手のおどおどとした目の色は、裕之の肝を据えさせる。こってり絞ってやろうと、裕之は腹を決めた。  数歩の距離まで迫ると、裕之は立ち止まった。 「よお、名前と住所、聞かせてもらおうか」  相手は嫌悪感もあらわに顔を曇らせ、 「はあ?」  と、首をかしげてくる。 「痛くて歩けないって言ってる。肋《ろつ》骨《こつ》でも折れていたらどうしてくれるんだ」  裕之はそう言って、左手を背後に伸ばし、息子のほうを指差した。だが、指差した場所に息子はいなかった。  ほんの少し同情させるつもりで、痛いふりをしただけだったが、父の剣幕に触れると、克己は恐怖のあまり喉《のど》の奥がからからに渇いた。父の怒りは、今のところ自分に向けられてはいない。にもかかわらず、克己は恐ろしかった。遠ざかっていく父の背中には憎悪があふれている。放っておけば暴力沙《ざ》汰《た》に発展しないとも限らない。絶対に見たくない光景だった。克己は、自分が暴力を振るわれるより、怒りを爆発させて他の人間に殴りかかる父を見るほうがもっと恐かった。特に、怒りが母に向けられたときは、恐怖のあまり息ができなくなる。  手を引かれて初めて、裕之は息子がすぐ右横に来ているのを知った。 「お父さん、お父さん」  震える声で、さっきから何度も息子は父を呼んでいたらしいのだが、興奮しているせいで気づかなかった。難癖を吹っかけようとしていた裕之は、出鼻をくじかれ、 「なんだ」  と強く息子の手を振り払う。 「ぼく、だいじょうぶだから」  息子はそう言って、再び父の手を引き、後ろに下がろうとする。もういいから帰ろう、人に怒るのはやめようよ、と諭すように。 「だいじょうぶだと? じゃ、おまえのさっきの顔はなんだ」  怒りの鋒《ほこ》先《さき》はころころと変わった。キャッチボールをしていた親子は、グローブをはめた手をたらしたまま動こうともせず、事の成り行きを見守っている。怒りの対象がズレたからといって、まだ安心はできないといった面持ちだ。 「ごめんなさい」  くしゃくしゃと顔を歪《ゆが》め、息子ははんべそで謝った。 「ばかやろう、簡単に謝るな」  裕之は手を振り上げていた。  父の目の色が変わる瞬間を、克己は見逃さなかった。怒りを爆発させる直前、父の目からは黒い部分がすうっと上に引いてゆく。黒から白への変化……、だから克己は本能的に両目を堅く閉じ、手で頭を被《おお》っていた。  殴っただけでは気が収まらず、裕之は蹴って息子を砂浜に転がした。 「ごめんなさい、ごめんなさい」  濡《ぬ》れた顔を砂まみれにして、息子は詫《わ》びてばかりいる。だれに教わったのか、卑屈なその謝り方が、しゃくに触るのだ。  怒りの発作は長くは続かなかった。はたと手を止め、裕之は、両手を添えて息子を立たせた。回りの視線が気になったわけではない。彼の身体を通り過ぎる嵐《あらし》は、いつも一瞬なのだ。過ぎ去ってみれば、何が原因で怒りを爆発させたのかさえわからなくなる。息子の脇腹にボールが当った、息子は苦痛に顔を歪める、だからぶつけた奴を懲《こ》らしめようとした、ところが息子は急に大丈夫だと言い出した、その結果、息子は本当に痛い目にあった。ばかばかしい限りだ。裕之は、このばかばかしさをどう表現すべきかわからない。ゆっくりと首を振り、胸に呟《つぶや》いた。  ……おれもおやじに似てきたな。  目の前でしゃくり上げる息子は、幼い頃の自分にそっくりだ。そして、殴っている自分はおやじそのものだ。しかし、そう思っても自分を変えることはできなかった。暴力の血がどこに由来するかわかっても、衝動は止むことがない。深く、得体の知れない感情が、どこからともなく突き上げてきて、身体《からだ》を揺さぶる。  顔を上げると、キャッチボールの親子はいつの間にかいなくなっていた。浜を埋める都会の人間は、いつもしゃれた遊び道具を持参している。ボールとグローブはそのうちのひとつに過ぎないのだろう。すっかりやる気が失せ、彼らは別の遊び道具を取りに車に戻ったに違いない。  裕之は息子の頭をこづきながら、公園のほうに向かって浜を歩いた。時間をもてあましているのだが、心の奥深くには妙に緊張して怯《おび》えた部分がある。 「ばかやろうめ」  裕之は声に出してそう呟いた。むしょうに神経が苛立つのは妻がいないせいだ。すべての風景が憎々しげに映り、普段は心地よく響く波の音までが神経を逆なでしてくる。  ……どこに行きやがった。  日曜日は市場が休みのため、富津の漁師たちは概《おおむ》ね土曜日に漁を休む。一週間にたった一度の休日だった。その休日の朝、目を覚ますと、妻の姿はなかった。  目を覚ましたのは、漁が休みの日とあっていつもより数時間遅く、九時ちょっと前だった。二日酔いの朝の猛烈な渇きで目を覚まし、布団に転がったまま、 「水!」  と何度も怒鳴り声を上げたが、どこからも返事はない。起き上がって台所に歩くまでの間に、家の様子がいつもと違うことに気づいた。いつもならこの時間、妻は、朝の家事を終え、リビングのソファに座ってテレビを見ているはずだった。テーブルの上には裕之の朝食が用意され、流しの食器はきれいに洗い上げられ、洗濯も掃除もすんでいる。それがいつもの土曜の朝の風景だ。  ところが今朝はどこもかしこも雑然としていた。流しには食器が積み重ねられ、汚れ物もカゴにつっこまれたままだ。 「奈《な》々《な》子《こ》」  妻の名を呼びながら、裕之は二階の子供たちの部屋を覗《のぞ》いた。そこにも妻の姿はなかった。  しかたなく、裕之は冷蔵庫を漁《あさ》ってあり合わせの朝食をすませ、息子が学校から帰るのを待って、散歩がてら妻を捜しに出たのだった。  公園を横切りながら、裕之は、昨夜のことを思い出そうとした。休みの前日とあって酒の量は増したが、そう遅くない時間に布団に入ったような気がする。毎朝二時半に起きる裕之は、普段は九時前に寝ることにしていた。昨夜は何時に床に入ったのだろうか、まったく記憶はない。妻もほぼ同じ時間に、布団に入ったはずだ。六畳間に布団を二組敷いて寝るため、横を向けば妻の寝顔に出合う。確かに、昨夜、熟睡した妻の顔を見た。寝息もたてず、深く眠る妻の顔が、枕《まくら》もとのスタンドの明かりで浮かび上がっていた。小さな明かりで照らすようにして、裕之は妻の顔を観察したのだ。  突然、頭が割れるように痛んだ。裕之は水飲み場に走って水を飲み、軽く頭を叩いた。考えようとするとすぐ、黒い力で跳ね返されてしまう。もやもやとして、どうも掴《つか》み切れない。昨夜、なにかあったのだろうか。思い出せない。  噴き上がる水で、裕之は顔を洗った。 「漁協のほうに行ってみるか」  水を止め、濡れたままの顔を息子のほうに向けた。 「うん」  素直にうなずいたものの、克己は、喩《たと》えようのない不安に襲われていった。このままずっと母は帰らないかもしれないという怯えだった。  2  漁港前を東西に走る通りは、普段から交通量があまり多くなかった。空き地に野ざらしになる廃船が、漁が休みの漁港のうら寂しさを強調している。あさりを売る露店が二、三見受けられるだけで、潮干狩りを楽しむ観光客たちも、この通りまで足を延ばすことはなかった。  街路樹の根本から草が伸び放題に伸びて歩道は歩きにくく、裕之は車道を堂々と歩いた。息子のほうはそのつど草をよけて、歩道から一歩も踏み出ないように伝っている。  ……トロい奴だ。  歩道から出ないで歩けという母の言いつけに無条件に従うだけの息子の姿は、見るだけでうんざりしてくる。  漁協の正面に魚介類の仲買人が出す店があり、奥をのぞくと、前掛けで手を拭《ふ》きながら、かみさんがのっそりと出てきた。裕之は軽く頭を下げ、弱り切った声を上げる。 「うちの奴、見なかったすかねえ?」 「見てないねえ、今日は」  親しい付き合いがあるわけでもなく、それ以上会話を交わす気にはならない。一《いつ》旦《たん》話し始めると、だれかれ構わずくどくどと引き留めがちなかみさんを、裕之はさっとかわして店の角の路地を折れた。  近所の海岸や公園、漁協のあたりをうろうろしながら、一体何人に声をかけたことだろう。 「おれの女房を見なかったかい?」  知った顔と出合うたびに、同じことばかり訊いていた。自分から挨《あい》拶《さつ》し声をかけるなんて、裕之らしくなかった。彼は無愛想で通っている。行為の理由が、裕之自身にも掴《つか》めない。なぜこんなことをするのかと、不思議に思う。女房を捜し歩く自分の姿をアピールするかのようだ。  裕之の家は、仲買人の店から二ブロック奥まった角に、五十坪の敷地いっぱいに建っている。漁港の西端にもやってある彼の船、浜勝丸までは歩いて二、三分という近さだ。二年前に増築して以来、旧《ふる》い家屋は倉庫のようになっていた。裕之は、今は漁具置場となってしまった家で生まれ育った。三十三年間というもの、彼はこの地を離れて暮らしたことがなかった。 「おい、帰ったぞ」  玄関を上がっても返事をする者はだれもいない。案外、見飽きた女房の顔に迎えられ、拍子抜けするんじゃないかと期待していた裕之だったが、その思惑はあっけなく破れた。「まだ帰ってねえのか」  彼は舌打ちし、リビングルームを大またで横切って、和室の襖《ふすま》を開け放った。  和室では、父の勝三と長女の春《はる》菜《な》が向かい合って座り、あんパンをかじっていた。勝三はまだ五十五歳だが、痩《や》せ細った身体と白髪のせいで八十過ぎの老人に見える。二十年前に、彼は海で遭難しかけた。出港するときは凪《なぎ》だったが、途中から風向きが変わり、南風が作る追い波で船が激しく揺れ、顔を船の縁に打ちつけた上で海に投げ出されたのだ。運よく命は助かったものの、そのときの事故が引き金となって徐々に痴《ち》呆《ほう》に陥り、認識、記憶、言語等すべてにわたって障害が及び、ここ数年、食べて排《はい》泄《せつ》して寝るだけという生活が続いている。純粋に事故のせいなのか、もともとそういった素質があったところへ、事故の影響で早く発症したのか。たぶん後者のほうだろうと、裕之を始め家族の者たちは見当をつけているが、それには根拠があった。というのも、七歳になる長女の春菜に、失語症らしき症状が現れ始めたからだ。  普通に言葉を覚え、話すことができたにもかかわらず、つい三ケ月ばかり前から、春菜は、「アー」とか「ウー」と唸《うな》ったまま、言葉が出てこなくなった。イメージは浮かんでいるようなのだが、それがうまく口から出てこない状態が一ケ月ばかり続いたかと思うと、突然、彼女は喋《しやべ》ろうとする努力を放棄し、うんともすんとも言わなくなった。もともと風変わりな子で、学校でも手を焼いていたらしいが、以来、登校しなくなり、家にいて暇さえあれば、祖父とふたりであんパンをむさぼり食っている。あんパンさえ与えておけば、とりたてて世話をする必要はなく、面倒臭さが先に立ち、ついつい余分に買い与える始末だ。家族を立て直そうという気力など、裕之からはまったく消えかかっていた。  裕之は、向かい合って黙々とあんパンを食べる父と娘を見て、今さらのように暗《あん》澹《たん》たる思いに駆られた。留守の間に、妻が戻らなかったかどうか、ふたりに訊《き》きたくてもできないもどかしさ。というよりも、上下から圧してくる黒い壁に挟まれ、押し潰《つぶ》されるような気分になってくる。血を受け渡した者、受け継いだ者、両者によって前後が塞《ふさ》がれていた。  彼は和室の襖《ふすま》を閉めた。これ以上ふたりを眺める気にはならない。自分もいつか脳に障害を受けるだろうと半分 諦《あきら》めていたが、やはり目をそむけたい現実だった。  ……どこに行っちまったんだ。  裕之は途方にくれて腕を組んだ。  五時近くになると、空腹のために裕之は益《ます》々《ます》苛立った。家族をほったらかして姿を消してしまった妻が憎くてならず、かといって怒鳴り散らす対象もなく、苛立ちだけが無《む》闇《やみ》とつのってゆく。  ……家出しやがったのか。  他に考えられなかった。家族を捨てて逃げ出したいという思いに、裕之自身何度か駆られたことがある。  ……出るなら勝手に出てうせろ。だがな、親と子供を殺してから出やがれ。  胸のなかで言葉にすると、昂《たか》ぶってくるものがあった。子供の頃の自分の餓《かつ》えた思いが甦《よみがえ》り、缶ビールを持つ手で、裕之は涙を拭った。  ふと思いつき、裕之は、食器棚の引き出しを開けて貯金通帳を取り出した。開いても、別に変化は見られなかった。最近になって大金が引き出された形跡はどこにもない。家を出たとしても、衝動に駆られてのことだろう。とすれば、すぐに帰ってくるに違いない。単に魔がさしただけだ。  気分を入れ替え、裕之は外に出ることにした。スナック「まりえ」にでも行けば、食べ物には困らない。 「あんパンでも食ってろや」  裕之は、息子にそう言い残して、サンダル履きで表に出た。  漁港前の通りを、裕之は公園のほうに歩いた。堤防に囲まれた漁港は、夕暮れの曇り空を映して灰色にわずか朱を垂らしている。波も風もなく、岸壁に横一列に並んだ漁船は静止したままだ。無意識のうちに、裕之は自分の船がもやってある場所に目をやっていた。  舷《げん》側《そく》に記された「浜勝丸」という船名が、その位置からでもはっきりと読み取れた。彼ははっとして足を止めた。なぜか、心臓がせり上がってくるような感覚を覚える。胸の鼓動が早まり、黒々とした恐怖が一点に湧き起こり、全身に広がっていった。裕之は、唾《つば》をごくりと飲み込んだ。耳の奥にはツーンと低く鳴る音が残っている。  何が原因でこうも不安な気持ちに襲われるのか、裕之にはわからなかった。港のほうを眺め、自分の船が目についたとたん、胸のあたりが締めつけられたのだ。長年乗り慣れた船。家にいるときよりも、船に乗っている時間のほうが長いくらいだ。一体、何が引っ掛かってくるのか。最近は物忘れがひどく、つい昨日の記憶がとんでしまうこともある。船の整備や漁具に関して、やり残した仕事でもあるのだろうか。思い出そうとしたが、まるで浮かばない。  前方左手では、スナック「まりえ」の赤いネオンがチラついていた。釈然としないながらも裕之は、そのドアに吸い込まれていった。 「あら、いらっしゃい」  スナックのママは、満面に笑みを浮かべて、裕之を迎えた。金離れのいい彼は、店の大事な客である。  ママの声を聞くとすぐ、裕之の頭からは、たった今感じたばかりの不安が消えていった。  3  午前三時ちょっと前に、いつも通り裕之は目を覚ました。目覚まし時計の助けを借りず、ここ何年か勘を頼りに起きている。もとより、漁を開始する正確な時間があるわけではない。たったひとりでするあなご漁だ。早く出港すれば、それだけ早く漁が終わり、早く酒が飲めるってだけだ。  布団の上であぐらをかいたまま、裕之はしばらくぼうっとしていた。彼以外の家族は皆眠っている。  すぐ横に布団を敷いて寝ているはずの女房の姿がない。いても邪魔なだけだが、いなければいないで面倒な手間が増える。  ……まったく、どこに行きやがった。  いなくなった妻を捜し出す方法など彼は知らなかった。いつもと同じように漁に出て、女房が戻ってくるのを待つだけだ。 「くそったれ」  裕之は枕を畳に叩きつけた。 「だれかおれの朝メシを作らんかい!」  家中に響き渡る声で怒鳴ったが、反応は何もない。息子と娘は二階で、父親はリビングの奥の和室で、それぞれ寝ている。たとえ起きていても、生命の迸《ほとばし》りのあまり感じられない三人だった。  裕之はそのまま動こうとしなかった。朝飯を作るのが嫌で、動かないわけではない。どうも気分が乗らないのだ。今朝に限って、漁に出る気がしない。正当な理由をつけて休めるのはシケの日だけだ。シケになれば出なくてすむ、彼はそうちらっと考えた。  自らシケを望むなんて滅多にないことだった。他の漁師が出港を見合わせるような天候の日でも、裕之はよく出漁した。富津の漁師の間で、彼の度胸のよさは知れ渡っている。そのせいで浜勝丸の水揚げ高は群を抜いていた。金のためだけではない。移動するあなごを追い、勘を的中させて大漁したときの喜びを得るため、彼は出漁する。そして、自分の漁獲高を他人に誇るために。稲垣裕之という人間の価値を認めさせる方法が他にあるとは思えないのだ。  どっこらしょ、と裕之は重い腰を上げた。外気と遮断された部屋の中にいても、外の様子は知ることができる。シケの気配ではない。気分が乗らないからといって、漁をサボるわけにはいかなかった。それにもうひとつ、今日はどうしても海に出なければという強迫観念が、どこからともなく突き上げてくる。嫌なんだけど海に出なければならない。矛盾した感情だった。  雨戸を開けると、外はまだ真っ暗だ。一年でもっとも日の長いこの季節、あと一時間もすれば東の空は白々としてくる。  一昨日は、底引き網にまであなごのめそが大量にかかり、裕之の船もかなりの水揚げを記録した。今日もまた豊漁になるかもしれない。裕之は、自分を暗示にかけ、奮い立たせようとした。  Tシャツにジャンパーをはおり、ジャージの裾《すそ》をゴム長靴の中にたくし込むのがいつものスタイルだ。ただひとつ、今朝は帽子を替えた。気温が上がってきたため、ハンティングキャップの代わりに麦わら帽子を被《かぶ》ることにしたのだ。そんな格好で、裕之は、冷凍イワシの入った袋を担ぎ、岸壁から船の艫《とも》に渡された三十センチ幅の板を渡り、浜勝丸へと乗り込んだ。  漁に出る時間は各船ともまちまちだ。あなご漁の場合、裕之と同じぐらいの時間に出漁する船もあれば、彼が帰港する午後二時頃に出漁する船もある。  日の出前の静かな漁港に、ぽつぽつとエンジン音が響き始めた。裕之もまた、発電機を回して付近一帯を支配していた静寂を破り、サーチライトでデッキを照らし出す。出漁前にひとつやるべき仕事があった。直径十五センチ長さ七十センチほどの、あなごを捕る丸い筒の中に、イワシを放り込んでいく作業だ。浜勝丸は、前部デッキ左舷よりに約二百本、合成樹脂でできた円筒が積み重ねられている。裕之は、その一本一本にイワシを入れ、ゴムひだのついた蓋をしていった。イワシの臭《にお》いにおびき出され、筒の中に入ってきたあなごは、ゴムひだのせいで二度と筒の外には出られなくなる仕組みだ。  みち綱の長さは約五キロに及び、その間に二百本の筒がロープで結ばれている。一定の速度で船を操りながら、みち綱を繰り出して海の底に筒を沈め、頃合いを見計らって、今度は引き上げるのが一般的なあなご漁だ。筒は空の場合もあるが、たいていは数匹、多いときは十匹近くも入っていたりする。  あなごは、ゴムひだのせいでけっして外に出られず、ぬるぬると暗い筒の中で動き回っている。めったに比《ひ》喩《ゆ》など使わない裕之であったが、彼には、その細長い穴と、中でうごめくあなごが、男女の営みそのもののように思えてならない。臭いに誘われて罠《わな》にはまり、動きがとれなくなった哀れな生き物。裕之自身がそうだった。遊びたい盛りの二十二歳の頃、女の穴に入り込み、抜け出せなくなって家庭を持った。女の腹に、長男の克己ができ、結婚するほかなくなったのだ。愛があったわけではない。後から湧くと思い込んでいた愛は、とうとう彼のもとにやってこなかった。今でもそうだ。女房や子供に愛情を持っているかと訊かれれば、首を横に振る。なりゆきでそうなっただけのことだ。人間を好きになったことなど、一度もない。  作業を終える頃、東の空はすっかり明るんでいた。裕之は、イケスを被う蓋の上に腰を下ろし、タバコを一服しながら、鹿《か》野《のう》山《さん》上空にかかる雲の動きを追った。朝起きてまず日の出の空を見、出漁前にはもう一度前後左右の山にかかる雲を見る。風が吹くかどうか、雨になるかどうか、今日の天気を読むために漁師は常に山を見る。漁場付近の観天望気を知り抜いていなければ、命にかかわる遭難事故につながる恐れがあった。  中天はほぼ晴れていたが、鹿野山や 鋸《のこぎり》 山《やま》の方角は薄く曇り、しかも笠《かさ》をかぶっているように見える。上空のちぎれ雲は、沖から陸へと流れ、海のほうでは既に南の風が吹いていると予想できた。昼前までにかなり強い南風が吹きそうだ。長年の勘で、裕之は「まずいな」と胸に呟いていた。  漁に出るとしても、あまり遠くまでは行かれそうにない雲行きだ。沖で様子をうかがい、風が強くなればさっと港に逃げ込む他ない。  今日の漁場を、裕之は第二海堡の南側と決めていた。東京湾に浮かぶ漂流物は、湾内をぐるりと一周して、富津岬の北側の浜か、三浦半島の観音崎に漂着するといわれる。富津岬と観音崎を結んだ線よりも南側に出た漂流物は、漂着することなく外海に流れ出る可能性があった。今日、裕之の胸には、その線よりも南の海域に出たいという欲求がある。特別の理由があるわけでもなく、今日に限って裕之は、その海域まで出たくてならなかった。  くわえタバコの灰が膝《ひざ》に落ち、手で払うとイケスの蓋《ふた》の上に散った。イケスの蓋はくすんだ緑色をして、ところどころ剥《は》げかかっている。そのとき初めて、裕之は自分がイケスの上に腰かけていることを意識した。とたんに、身体中の皮膚が毛羽立った。尻から背筋へと悪寒が伝って、ぶるっと大きく胴震いをする。  船のほぼ中央に出っ張っているイケスは、人間の背丈ほどの深さで、幅二メートル、長さ三メートルの大きさがあった。中央の船底深々と、イケスが占めている格好だ。捕ったアナゴを入れるためのものだが、使わないときは転落を防ぐために二枚の板で蓋がしてある。その蓋の下の、海水の溜《たま》った穴ぐらから妖《よう》気《き》がたち昇っている。海の猛《も》者《さ》である裕之も、たまらずに腰を浮かせるほどの、強烈な気配だった。  腰を浮かせたとき、またの間に、ずれた蓋の割れ目が黒い亀裂となって見えた。裕之は、足で軽く蹴って蓋の隙《すき》間《ま》がなくなるように調整した。その間も、身体の震えはやむことがなかった。  風が出るにつれて船は小刻みに揺れ、その動きに合わせて、イケスにたまった海水がピチャピチャと跳ね上る。いつもと微妙に音が違っていた。なにかにぶつかる音がする。  裕之はもう一度、空を仰ぎ見た。雲の流れはいよいよ早い。南風はかなり強くなりそうだ。だからといって漁は休めない。風が強くなる前に、ひと仕事片付けなければならない。  岸壁に飛び移ると、裕之は船をもやってあるロープを解き、ロープの端を手に持って船に戻った。船は惰性で徐々に岸壁から離れ始めた。  4  浜勝丸のエンジンは切られた。二百本の筒を全て海に放り出せば、その後の二時間、あなごが罠《わな》にかかるのを待つことになる。投縄の後は、束《つか》の間《ま》の休憩であり、食事の時間であった。午前八時頃、裕之は、いつも通り二度目の朝食をとることにした。  浦賀水道航路を航行するタンカーの影が船にのしかかりつつある。航路からわずか逸《そ》れているため、衝突の危険はない。タンカーと比べれば、六トンの浜勝丸など海に浮かぶゴミのようなものだ。そんな小さな船であっても、キャビンの中にはそこそこの居住空間が確保され、いざとなれば寝泊まりも可能だった。  キャビンでくつろぎ、握り飯をかじりながら、裕之は、不安定な居心地の悪さを感じていた。予想通り南風は強く、船の揺れは激しい。朝のうち晴れ間の見えた空は一面雲に被われ、濃淡重なりあって早く動いている。本当なら漁を一旦切り上げ、帰港すべき頃合いだった。食欲もわかず、裕之はキャビンから出て、食べかけの握り飯を海に捨てた。  胃がせりあがってくる。吐き気ではない。緊張と恐怖が交錯する思いだった。雲の動きは不気味な様相を呈しているが、不安の出所は他にあるように思えた。さっきからイケスが気になってならない。裕之は、キャビンのドアに手をかけ、すぐ足元のイケスを見下ろした。ぴったり閉めたはずの蓋がいつの間にずれたのか、再度、黒い亀裂がのぞいている。ピチャピチャという水音が、底から響いていた。まだあなごは一匹も入れてない。だが、何かがいる。船が大きく揺れた際、それはイケスの壁に当って鈍い音をたてた。  裕之は覚悟を決め、イケスの蓋の間に手を差し入れ横にずらした。強烈な臭気が立ち昇ったが、首にかけていたタオルで鼻を被って耐え、さらに蓋を持ち上げた。  暗いイケスの内部に光が斜めに差し、その鋭角の部分が人間の足をとらえた。白い足の裏を、底にたまった海水が洗っている。裕之は、頭を下げて奥深く覗《のぞ》き込んだ。腰から背中、そして脂肪の浮き出た白い肩。船が揺れた拍子に、頭が壁に当ってもう一度ゴツッと鈍い音をたてた。うつ伏せの姿勢で、女が漂っている。顔は見えなかったが、裕之にはだれなのかすぐにわかった。 「奈々子」  裕之は妻の名を呼んだ。 「おまえ、こんなところにいたのか」  言った瞬間、裕之の脳裏には、シーンがまざまざとフラッシュバックしていった。喉《のど》にあてた手の感触も甦《よみがえ》る。口をパクパクと開ける妻の顔。言葉は聞こえない。だが、自分に向けられた罵《ば》詈《り》雑《ぞう》言《ごん》の数々は、じわっと頭に沁《し》み入ってくる。一昨日の夜、裕之と妻は激しく諍《いさか》ったのだった。  さんざん酔《よ》っぱらって帰り、口を開けてテレビを見ていると、妻は急につっかかってきた。 「なによ、だらしない顔して」  手鏡を持ち出してきて、ほら見てごらんとばかり顔の前にかざしてくる。確かに、だらしない顔が映っていた。鏡をかざされても口は半開きのままで、よだれのついた口もとには、つまみで食べたさきいかのカスがついている。醜い、疲れ切った顔。年齢よりも老けている。自分自身うんざりした。妻の言葉は的を射ていた。その通りだ。にもかかわらず、むしょうに腹が立った。毎月百万以上もらっておいて何の文句がある、と。  手鏡が、蛍光灯を反射させてキラリと光った。行為を促すような光だった。  手鏡を振り払い、裕之は、呂《ろ》律《れつ》の回らない口で喚《わめ》いた。 「なんだと!」  妻は、裕之の顔色が変わるのを見て、さっと身構えて目を逸らす。暴力へと昂ぶってゆく彼が恐ろしくもあり、出かかった言葉を呑《の》み込んで、怒りを一旦内に収めたのだろう。  だが、「なんだと」と言ったまま力なく上半身を崩し、畳に頬《ほお》をすりつけて、裕之は息を吐いた。そんな夫の姿を、死に損なった怪物でも見るような目つきで、しばらくじっと眺めていた妻は、一旦引っ込めた言葉を一気に吐き出していった。酔った頭で、裕之は妻の言葉を聞き、胸のなかで反論する。言い合う気にはならない。負けるだけだ。  ……この女は何を文句ばかり言っていやがる。おれの頭が悪い? てめえこそ何様のつもりだ。わたしの通信簿は4と5だけだっただと。勝手にぬかせ。漁師に頭なんているか。腕と勘だけで月に何百万も稼ぐんだ。遺伝する? だれに? 息子と娘? それがどうした。娘が失語症になったのはおれのせいだと。高圧的な態度が原因? なに訳のわからねえこと言ってやがる。  初めて聞く内容ではなかった。毎晩繰り返される諍いのなか、必ず出てくる決まり文句だった。ボケた義父と失語症の娘を抱え、おまけに夫は暴力的で家庭を一切顧みない。まるで牢《ろう》獄《ごく》のよう。もうこんな暮らしは嫌、嫌、嫌。それに対する裕之の反論は、ただひとつ。おれは月に最低百万は稼ぐ、だ。  ……なに、出ていくだと? 行くあてでもあるのかよ。拾ってもらった恩を忘れやがって。第一どうやって食う? 能無しのくせに野たれ死ぬのがオチだ。  これもまた決まり文句だった。家を出ると言っても、脅しにもならない。出る出ると言って、妻が実際に出たためしはない。頼るべき実家もなく、生活費や子供のことが気にかかるのだろう。  だが、その次に妻の口から出た言葉は、裕之にとって初めてのものだった。妻は、不平を浴びせるのに疲れたのか、ふっと肩の力を抜き、自問するように小さく呟《つぶや》いた。 「嫌よね、あんたと同じになるのは」  釣り針のように、その言葉は裕之の胸に引っ掛かってきた。前後の脈絡からして明らかだった。妻が何を言いたいのか。妻が子供たちを置いて家を出る。すると、母を失った息子は、裕之のように育ってしまう。それが「嫌」だと、妻は言いたいのだ。  二十年前、裕之の父が海で遭難しかけたのと相前後して、母がいなくなった。ちょうど息子の克己と同じくらいの年齢のとき、裕之は母を失った。若い男を作った母は、家族を捨てて駆け落ちした……。裕之は、母のいなくなった理由を、父からそんなふうに聞かされていた。当時、父の痴《ち》呆《ほう》は徐々に進行しつつあり、喋《しやべ》る内容をどこまで信じていいか見当がつかなかった。だからといって、母の蒸発した理由が他にあるとも思えない。子供の頃の記憶を掘り起こせば、父と母はいつも喧《けん》嘩《か》ばかりしていた。父の暴力に耐えかね、母が蒸発してもおかしくない境遇であったのは確かだ。  母に捨てられたことを、裕之は無表情で受け入れたつもりでいた。もともと母に愛されたという記憶もあまりなく、父から受ける虐待の捌《は》け口《ぐち》としてしか存在価値を認められなかったような気がする。だが、母に捨てられたという事実は、年齢をとるにつれ、自分はこの世界から必要とされてないという不安へと変わり、むやみに苛立ち、裕之は、ひと突きで自信を失いかねない脆《もろ》さを身につけていった。  そのとき、だから彼は崩れたのかもしれない。湧き上がる炎の理由がわからぬまま、裕之は立ち上がり、タンスの角に頭をぶつけ、そのままよろよろと妻におおいかぶさっていった。毛穴という毛穴から、火が噴き出しそうに昂ぶっている。口よりも先に蹴ったり殴ったりする裕之だったが、その攻撃方法がいつもと異なり、妻は自分の身に降りかかろうとする災厄にすぐ気づいたのだろう。声も出さず、観念したように目を閉じ、首に巻かれた夫の手に自分の手を添えている。もっと強くと、力を込めさせるような行為に煽《あお》られ、裕之は馬乗りになって全体重をかけた。そっと手を離したとき、妻はあっけなく事切れていた。  裕之は立ち上がって、なぜか蛍光灯を消した。代わりに枕もとのスタンドを灯《とも》し、妻の顔を照らしてみる。眠るようにして死んでいた。牢獄からの解放。満足気な表情さえ浮かんでいる。  耳を澄ます。物音は聞こえない。父と息子と娘は二階で寝ていた。三人の寝息が聞こえそうなほどの静けさだ。  妻の死体をどうすべきか、とっくに答えは出ていた。海に捨てるのだ。第二海堡より南の海域に沈めれば、まず発見される恐れはない。  ナイロン製の薄い網で妻の身体を包み、肩に担いで船に運び、とりあえずイケスの中に放り込んだ。今日はここまでだ。この続きは明後日にやればいい。漁に出たついでに死体を沈める。そう自分に言い聞かせ、裕之はイケスの蓋を閉じて家に戻った。  寝床でコップ酒を呷《あお》り、眠りに落ちると、妻の死体をイケスに放り込んで蓋をしたと同じことが、彼の頭に生じた。彼の脳細胞は、つい今しがたの記憶を、深奥部に閉じ込め、蓋をしてしまったのだ。いつかまた開かれるべき蓋ではあったが。  5  イケスの蓋は二枚あり、裕之は、そのうちの一枚を取り払ってデッキに立てかけた。  ……なんてことをしでかしたんだ。  裕之は、空を仰ぎ見、デッキにへたり込んでいった。胃の奥がせりあがってくる。激しい後悔に身を焼かれた。行為の結果が白日の下に晒《さら》されれば、もはや忘却に逃げ込むこともできない。  物言わぬ妻の身体は、挑発するように現実を突きつけてくる。 「ほら、どうにかしなさいよ」  揺れる妻の身体は、笑いを堪《こら》えているようにも見えた。  まず何をすべきか。ロープの端を持って、自らイケスの中に入り、妻の身体をロープに結んで引き上げる。それから後、重りをつけて海に沈めるのだ。  初夏に、丸一昼夜と半、海水のたまったイケスに放置された死体は、この世のものとは思もわれぬ臭いを発散させている。臭いは約十立方メートルの空間にこもり、取り去られた蓋の間から炎のように立ち昇っていた。こんな中に入るぐらいなら、まだ燃え盛る火の中に飛び込んで死体を拾うほうが楽だ、裕之にはそう思える。  死体の処理は、妻が与えた罰だった。裕之は、自分のしでかした行為を呪《のろ》った。だが、やらなければならない。  タオルで鼻と口を被って後頭部でしっかり結んでから、裕之は、ロープの先をウィンチにゆわえた。もう一方の先を手に持ち、今更のようにイケスを覗き、漂白された妻の足を見る。ふやけて皮がめくれかかっている。  船が大きく揺れ、裕之は両手をイケスの縁に添えて、身体を支えた。危うく頭から転落するところだった。海は、さっきよりも流れている。回りを見渡せば、そうそうに退散したのだろう、漁をしている船の影はひとつもなかった。  東京湾でたつ波を、人は皆恐いと言う。波には、うねりと三角波とふたつあり、東京湾の入りくんだ海岸線は、いとも容易に三角波を作り上げる。波は不規則に、あっちからもこっちからも押し寄せ、波頭を白く砕けさせていた。油断していると、思わぬ方向で三角波が砕け、デッキを水浸しにする。  裕之はひとまずロープを置き、シーアンカーを流して船を風に向かってたてた。横腹に波をくらえば転覆する恐れがある。  そして、はっきりと悟った。  ……ぐずぐずしている暇はない。さっさと死体を捨て、引き上げるのだ。でないとたいへんなことになる。  すぐ近くで砕ける三角波に促され、彼は即、行動に移ることにした。  イケスの縁に両手を懸け、ぶらさがるようにして底に降り立つと、裕之は、なるべく死体を見ないようにして妻の足首を探った。両足首をロープで縛って引き上げるのが一番てっとり早そうだ。しかも、うつ伏せになった妻の顔を見ずにすむ。  船が不規則に揺れるたびに裕之はよろけ、妻の足は手からするりと逃れてゆく。  ……くそったれ!  毒突いたその口に、ロープの端をくわえた瞬間だった。裕之の全身を、不吉な予感が貫いた。船体に不気味な衝撃が走り、これまでに経験したことのない揺れ方をひとつして、船は傾いていった。そこからの光景はスローモーションで流れた。ゆっくりと、ごくゆっくりと、それまで上にあったイケスの出入口は横になり、残りの蓋を音とともに放り投げた。光の注ぎ口であるはずの出入口は、すっぽりと海の下に隠れ、と同時に裕之のいる世界は暗黒に覆われていった。  足元から流れ込む海水は、あっという間に裕之の腰から胸へと迫り、身体全体を上へ上へと押し上げてくる。  ……転覆しやがったのか。  転覆という言葉が脳裏に浮かぶ前に、裕之の肉体は現実を察知し、同時に死を覚悟していた。パニックに陥り、息を吸うどころではない。ほとんど呼吸を止めたままの状態で、裕之は空気を求めて上に逃れ、船底に頭を押さえつけられる格好となった。優に頭ひとつ分の空間を残して、水の動きは止まりつつある。裕之は、その真っ暗な、わずかな空間に顔を出して、激しくむせた。知らぬ間に、水を大量に飲んでしまったらしい。  文字通り心臓は縮み上がっている。パニックを克服しなければ、間違いなく死ぬのだ。どうすればいい、どうすれば助かるのか……、答えは瞬時に出た。息を思いっきり吸い、潜水してイケスの出入口を捜しあて、そこから外に出るほかない。  ……冷静になれ。  自分に言い聞かした。まだ空気は充分に残っている。あわてる必要はない。  ……やみくもに外に出てもだめだ。船から離れてしまえば、確実に溺《おぼ》れる。  ふと思い出した。さっきまで、ロープを持っていたはずではないかと。ロープの先はデッキのウィンチに巻き付けられている。ロープで妻の足首を縛ろうとしていた矢先、船は転覆したのだ。ロープをたぐって外に出れば、船から流されずにすむ。  手探りでロープを捜してみたが、手の先はどうしてもロープに触れない。時間がなかった。こうなればロープを頼らずに潜るほかないと諦《あきら》め、裕之は、ハッハッと何度も空気を吸って、肺に充分な酸素を送り込む。暗く狭い場所にたまった空気は、吸っても吸っても、逆に息苦しくなるばかりだ。緊張のために呼吸が浅くなっている。たった二、三メートルの深さを潜って外に出られるかどうか、裕之は自信が持てない。  思い切って、彼は頭を下にして潜った。するとすぐ、暗い底に、一メートル四方の正方形が切り取られているのが見えた。淡い光が下から差し込んでいる。イケスの出入口はすぐそこにあった。なんのことはない、と縁に両手をかけ、頭をくぐらせ、胸と腰をくぐらせた。身体がちょうどくの字になったとき、裕之は自分の足が何かに引っ張られる力を感じた。上半身がイケスの外に出たというのに、足が動かないのだ。息は切れつつある。力を込めて足を引いた。しかし動かない。戻る他なかった。躊《ちゆう》躇《ちよ》していれば、身体をくの字に曲げたまま息は絶えてしまう。  せっかく外部に出した上半身を元に戻し、裕之は浮かび上がった。勢いあまり、船底に強く頭をぶつけ、激痛が走る。空気の層はさっきよりも狭くなっていた。船は徐々に沈みつつあるようだ。もはや、顔を斜めにして鼻と口を水面に出さなければ、呼吸ができなかった。  一体何が起こったのか。足を曲げ、手で探ってみる。たった今、足にロープが絡んだような感触を受けたのに、触ってみると何もない。それとも何かに掴《つか》まれたのか……。  あれこれ考えている場合ではなかった。残り少ない空気を肺に入れ、裕之は再度頭を下にして潜った。  だが、顔を下に向けるや、裕之は、ぼんやりと切り取られたイケスの出入口に、髪を広げた人影がゆらーっと漂い出るのを見た。まるで出口を塞ぐように横合いから姿を現した妻の肢体は、下からの光を受け、黒い影となってゆらめいている。  思わず水を飲んでいた。意思を持つかのような妻の動きが恐ろしく、裕之は瞬時に息を使い果たしていた。  ……出口が塞《ふさ》がれている。  もう一度浮上する他なかった。  船底を舐《な》めるようにして息をして、裕之は声にならない悲鳴を上げた。機関室から流れ出たのだろう、軽油の臭いが鼻をつく。  ……だめだ、もうだめだ。  小便と同時に、涙が流れた。上からは船底、下からは海水が迫り、唯一の出口は妻が塞いでいる。裕之の生きられる空間はもうほとんどなくなりつつあった。  罠《わな》にかかったあなごとそっくりの状況だった。筒の出口につけられたゴムひだと同じ役目を、妻の死体が演じている。両手足を一杯に広げて、出口から通り抜けられないよう、ねちねちと絡みついてくる。  裕之には、この皮肉な現実を笑う力も残っていなかった。暗い筒の中に、無数のあなごを捕らえてきた人間が、同じように捕らえられて後は死を待つだけとは。  外から波を受け、本当はもっと轟《ごう》音《おん》が響いてもいいはずだった。だが、裕之の回りはやけに静かだ。確実に死が近づきつつある。逃れようもなく、それはやってくる。  間近に迫った死を思うと、裕之の脳裏には閃《ひらめ》くものがあった。二十年前、自分の親父が海で遭難しかけたと同じ頃、母は姿を消している。これまでは疑ったこともなかった。だが、今、死を目前にして、はっきりと真相が見えてきたと思う。父も自分と同じように妻を殺し、漁を装って海に捨てたのではないか。精神に異常をきたしたのは、船の縁に頭をぶつけたからではない。恐ろしい行為が父を徐々に狂わせていったのだ。  同じ血が流れている。同じことの繰り返しだった。自分が生きて戻り、息子の克己を男手ひとつで育てたとしても、成人した息子はたぶん同じことをするに違いない。連鎖をどこで断ち切ればいいのか。  死だ。自分が死ねばいい。両親とも失えば息子の生きる環境は変わる。そう思うと、裕之の気持ちは少し楽になった。従容として死を迎えられそうな気がする。  一定の間隔を置いてふたつ、頭上で音がした。もう一度、やはりふたつ、音がする。波のぶつかる音ではない。もっと人工的な音だった。初めのうちぼんやりと聴いていた裕之であったが、脳に届く音の意味を悟ると、はっとして顔を上げていた。空気はまだ少し残っている。さらに何度か、竜骨のあたりが外側から叩かれている。  身体はすぐ、その音に反応した。裕之は右手で拳《こぶし》をつくり、船底をゴツゴツと突き上げた。それに応《こた》えるように、また音がふたつ。もう一度、裕之は船底を二度打つ。やはり返事はふたつあった。  ……助かった!  生を諦めかけていた裕之に、再び生きるチャンスが舞い込んだのだ。数年前、裕之は同じ光景を自分の目で見たことがある。操船を誤って転覆した漁船に、海上保安庁の救助艇が駆けつけ、キャビン内に閉じ込められた人間の有無を確かめる方法。裕之は、漁を中断して、すぐ傍らでこれを眺めていた。海上保安官たちは、ひっくりかえって海に浮かぶ竜骨にまたがり、生存者が中にいるかどうか、もしいる場合、すぐに助けにいくから大丈夫だと安心させるため、船底をどんどんと叩く。そして、中から応答があれば、専門のダイバーが派遣される。ダイバーは予備のレギュレーターを持って潜り、溺《おぼ》れかかった人間の口にレギュレーターを突っ込むのだ。取り巻いて、救助活動を見守っていた他の漁船の乗り組み員たちは、遭難者が無事救出されるのを、やんやの喝《かつ》采《さい》で迎えたものだ。  頭上から降り注ぐ音は、海上保安庁がやって来たことを知らせるものだ。時間の感覚を、裕之は完全に失っていた。船が転覆してから一体どれぐらいの時間が流れたのだろう。付近を航行中の巡視艇に偶然発見されたという可能性もなくはない。  裕之は我が身の幸運に快《かい》哉《さい》を叫んだ。もう一度生きられる。もう一度空気を吸うことができる。  顔を水につけて、下を覗いた。イケスの出入口を塞いでいたはずの妻が、いつの間にか消えている。波に揺られて、外に流れ出たのかもしれない。妻はイケスを出て、深く沈んでいった。裕之は、そう考えようとした。妻の死体がなければ、犯罪が証明されることもない。  ある一点を境に、物事はすべて好転した。処理に困っていた妻の身体は勝手に消え、その直後に救助がやってくるのだ。裕之は、ダイバーが迎えにくるのを、今か今かと待ち兼ねた。  突如、強い力で、彼の身体は抱きかかえられた。来た、と裕之は実感する。声は聞こえないけれども、 「もうだいじょうぶ」  と勇気づける言葉が、腹の底に届く。裕之はダイバーの腕をたぐり寄せ、身体にしっかりと抱きついた。ダイバーは裕之の肩に腕を回し、レギュレーターをがっちりと口に差し込んできた。上下の歯でレギュレーターを噛《か》み、裕之は息を吸った。芳《ほう》醇《じゆん》な高原の味がする。これまでに空気がこんなにおいしいと思ったことはない。二度と離すものかと強くレギュレーターをくわえ、裕之は、流れ込む空気を何度も何度も吸い込んだ。  幸福な気分だった。生きて戻れれば、息子や娘、痴呆症の親父までも、愛せそうな気がした。自分を覆っていた殼が、嘘《うそ》のように剥《は》がれてゆく。もとの自分に戻りたかった。妻に対しては心底詫びるつもりだ。死んだ人間にどうやって詫びればいいかわからない。だが、それが正直な気持ちだ。  ダイバーに抱かれて下に潜るとばかり思い込んでいた裕之は、ふわっと浮き上がる感覚を得た。いつの間にか、彼の目は、海面すれすれに浮かぶ浜勝丸の竜骨を眺めていた。木の葉に似て、今にも沈みそうなはかなさがある。接近しつつある巡視艇のデッキでは、幾人かの人影が右往左往していた。口々に叫んでいるようだが、声は聞こえない。  視界は三百六十度に広がり、海と空の全てを同時に見渡すことができた。雲を突き破り、隙間から日が注いでいる。砕け散る波頭は、その光を受けて宝石のような輝きを四方に飛ばしていた。子供の頃から見慣れてきた海。富津岬がまっすぐ自分の方に延びていた。波も風も強い。これほど神々しい海を、彼は見たことがなかった。キラキラと光彩を放っている。たとえようのない安《あん》堵《ど》感に包まれ、身は軽くなっていった。  彼は、生まれて以来、一度も口にしたことのない言葉を胸に思い浮かべていた。 「すべてよし」  そうつぶやいてみる。しっかりとした手《て》応《ごた》えがあった。もう一度、彼は同じ言葉をつぶやいた。  二体の遺体は同時に巡視艇に収容された。女のほうは死後二、三日が経過し、男はたった今、息を引きとったばかりだと、見ただけですぐにわかる状態だった。この事実が何を意味するのか、いずれ明らかになるだろう。  ただ、わからないのは、男が、両手で女を抱き締めたまま息絶えていたことだ。パニックを起こし、無我夢中で抱きついたようにも見えない。男の顔には、苦《く》悶《もん》というより、安息の表情が浮かんでいた。しかも、もうひとつ海上保安官たちを悩ませたのは、女の右手親指が根もとまで、男の口の中に突っ込まれているという事実だった。既に死んでいるはずの女が、指を男の口に突っ込むはずはない。だが、遺体の格好を見た人間は皆、そんな印象を持った。  突っ込まれた指を、男はよほど強く噛んだのだろう、巡視艇のデッキに収容してもなお、男の口は女の親指を放さなかった。口をこじ開け、女の親指を引き抜くと、それは半分ちぎれかかっていた。念のため、男にだけ人工呼吸を試みたが、無駄だった。蘇《そ》生《せい》する気配も見せず、男は死んでいる。あともう少し救助が早ければ、助かったかもしれない命だった。  男の穏やかな顔つきが、救助した者の気持ちを和らげた。強く指を噛みつつ、なお穏やかな表情を浮かべるのは並大抵のことではない。しかし、男はその矛盾をやってのけていたのだ。 夢の島クルーズ  榎《えの》吉《よし》正《まさ》幸《ゆき》はマストに背をもたせかけ、バウハッチに両足を投げ出していた。その格好はいかにも投げやりで、デッキ上の居住空間でもあるコックピットへわざと背を向けているようにも見える。メインセイルとジブセイルが張られた状態では、方向転換の際の邪魔になり、バウハッチの上に居座ることはできない。だが、今、二十五フィートの小型ヨットは、東京湾の中の東京湾ともいえる、埋立地に囲まれた水路を船外機の力で航行していた。全ての帆は下ろされている。マストに帆を張ったまま、交通量の多いこの海域を航行することは他船の迷惑にもなり、事実上禁止されていた。  帆を下ろすための正当な理由ができ、さぞほっとしているだろうと、榎吉は、ヨットのオーナーである牛《うし》島《じま》夫婦の心中を推しはかる。まだ経験の浅い牛島は、風を自由に操るとはほど遠い状態で、はたから見ていてもどかしいばかり。初めてヨットに乗る榎吉にもはっきりとわかる程、彼の操船技術は未熟だった。牛島は、風の方向を読み切れないのか、おどおどとした表情でシートを引いたり緩めたり、コックピットで小刻みに身体を動かしてばかりいた。風上を見やり、「変だな」と首をかしげる仕草からも、イメージ通りヨットが航行していないのは一《いち》目《もく》瞭《りよう》然《ぜん》、ヨットのよろめき具合というより、牛島の表情を見ていて、榎吉は無事マリーナに戻れるだろうかと、幾度となく不安に襲われたものだ。  だが、その牛島は今、すぐ後ろのコックピットでティラーと呼ばれる舵《かじ》棒《ぼう》を握っている。九馬力の船外機で航行するぶんには、操《そう》舵《だ》手《しゆ》の意思は的確にヨットに伝わっていく。ヨットは、中央防波堤埋立地と有《あり》明《あけ》フェリー埠《ふ》頭《とう》の間を、白い航跡を残して静かに横切っていた。若《わか》洲《す》海浜公園の突端を回り込み、荒川を少し上れば、夢の島マリーナに戻り着くことができる。安定した航行にすっかり自信を取り戻し、牛島は片足をベンチに乗せ、気取った格好でティラーを握っていた。牛島の妻、美《み》奈《な》子《こ》は下のキャビンで、飲み物でも漁《あさ》っているのだろう、デッキ上に姿は見えない。会話のないこの静けさが、榎吉には有り難かった。  榎吉は腕時計に目をやった。午後六時ちょっと前。東京湾の深奥を舐《な》めるように巡るクルーズは、夕方までに航海を終えて夢の島マリーナに戻る予定だった。  太陽は西の地平に沈みつつある。これが外洋であれば、遮《しや》蔽《へい》物《ぶつ》ひとつない水平線を染める壮大な夕焼けを拝めたであろうが、外洋に出るだけのテクニックも度胸も持ち合わせない素人船長ゆえ、見られる風景は埠頭からのものとそう変わりない。臨海副都心の開発地区に建築中の超高層ビル群が、埋立地のゴミを養分にして伸びる竹の子のように、西の空に数棟浮かび上がっている。黒い鉄骨の節々を、夕暮れの薄《うす》靄《もや》が包み込もうとしていた。シルエットは、朱色を背景に黒く際立っている。日曜日で、工事は休みのはずなのに、どこからともなくドーンドーンと地響きのような音が聞こえ、そのたびに榎吉の不安感は大きくなっていった。理由のない不安感、なぜこんな気持ちになるのか見当もつかない。海の底のほうから響いてくる音が、船底を突き上げ、さらに内臓を刺激するせいなのだろうか。  美奈子がキャビンから出てくると、夕日と反対の方向を指し示し、年に似合わない嬌《きよう》声《せい》を上げた。 「ねえ、見て!」  そのとき、美奈子にちなんでつけられた小型ヨット「MINAKO」号は、若洲海浜公園の突端を回り込もうとしていた。突端をかわすと同時に、まっすぐ前方にディズニーランドが見えてくる。ちょうど、あちこちに明かりが点《とも》り始める頃だった。美奈子は、ディズニーランドと、その海側に立ち並ぶホテル群の明かりを指差し、「見て、見て」と子供じみた声を上げている。無邪気さというより、他人をも巻き込まんとする強引さが声に含まれていて、榎吉はチラッと反応しただけで顔を元に戻し、知らん顔を決め込んだ。 「榎吉さん、そんなところでぼうっとしてないで、こっちに来てビールでもいかが?」  榎吉はマストを抱きながら振り返った。美奈子は手に缶ビールを持ち、軽くかかげている。 「はあ……」  まず曖《あい》昧《まい》な返事を返してから、さてどうしようかと榎吉は考える。はっきり拒絶できないのが、自分でももどかしい。船上で唯一隔離されたこの場所を守り通し、愚にもつかないお喋《しやべ》りの相手にならないでいるか、それともビールにありついた上で延々と『勧誘』を浴びるのか。確かに喉《のど》は渇いている。ビールは魅力だった。  榎吉はマストとブームに手を添え、這《は》うようにしてコックピットに移動し、美奈子からビールを受け取った。 「あ、どうも、いただきます」  軽く頭を下げて受け取ると、榎吉は幾分乱暴にプルリングを引き上げ、喉に流し込む。よく冷えていて実にうまい。榎吉の顔に満足気な表情が浮かぶのを見計らって、美奈子は言った。 「どう、すばらしいと思わない?」  とたんにビールの味が落ちていく。今日一日で何回聞かされたセリフだろう。一方的に相手におしつける口調で、「どう、すばらしいと思わない?」 「はあ」  榎吉は話を転じようとして、別の話題を捜したが見つからない。ヨットにいる三人には共通の話題など何もなかった。榎吉自身、牛島と会うのはこれで三回目だし、美奈子に至っては今朝が初対面だった。 「君だって、手に入れることができる」  しばらく無口だった牛島が口を開いた。榎吉は黙っていた。もう一度帆を張ればいい。帆を張りさえすれば、ジブセイルとメインセイルの扱いにてんやわんやで、悠長に話しかけている余裕はなくなる。だが、夕《ゆう》凪《なぎ》の穏やかな海を船外機で航行するぶんには、ビール片手にティラーを握っていさえすればいいのだから楽なものだ。  ちょうど二ケ月前、七月の初めに、榎吉は高校の同窓会で牛島と出会った。同窓会といっても、全OBが出席する数百人規模のもので、毎年同じ時期に開かれている。卒業以来十年間、榎吉は一度も会に参加したことはなかったのだが、偶然に週末のスケジュールが空いてしまい、飛び込みで参加することにしたのだ。来てみると、同級生の知った顔にはなかなか出会えず、懐かしい友人の顔を捜して榎吉は会場をうろうろと歩き回ってばかりいた。ちょうどそんな折り、榎吉と牛島は言葉を交わす機会を持ち、互いに名刺を交換した。牛島は榎吉の七年先輩で、名刺の肩書きには『農林水産省』とあった。一ケ月後、榎吉は牛島から飲みに誘われ、その席で、今日のヨットの遊びに誘われたのだった。  今から思えば、最初から魂胆を疑ってかかるべきだった。何年かぶりで旧友から電話を受け、会ってみると、実は勧誘なりセールスであった経験が榎吉には何度かある。同じ高校の卒業生とはいえ、初対面の人間を誘い出すからには、なんらかの思惑があって当然なのだ。学生ならともかく、社会人になってからの付き合いには、どうしても利害関係が絡んでくる。 「君の欲しいもの、手に入れたいものを、まず胸にイメージしてみるんだ」  牛島の顔は榎吉のすぐ間近にあり、彼の声は耳のうしろのほうから聞こえた。夕暮れの弱い日差しを受け、牛島の額には年相応の皺《しわ》が刻まれているのがわかる。顔を下に向ければ、頭頂の髪の薄さもかなり目立っている。最初のうち年より若いと見えていた人間の顔が、急に老け込んだような印象を受けた。 「君の欲しいのは何だい?」  牛島が期待する答えが、ヨットやベンツ等、大金で手に入るものであるのは間違いない。だから、そうではないものを榎吉は選んだ。何でもいい、とにかく金では手に入らないもの……。 「欲しいものといえば、そうですね、さしあたって子供、かな」  榎吉は結婚してなかったし、今のところその予定もない。しかも、独身であることは、牛島に話してある。  牛島夫婦は「えっ」と顔を見合わせた。 「あなた、結婚してらっしゃるの?」  美奈子は、両目を大きく見開いたかと思うと、その目を夫に向け、徐々に険しくさせていった。ちょっと、話が違うじゃない。目はそう語っている。 「独身だと、君は言わなかったか」  牛島はムッとして、下から榎吉の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「ええ、独身ですよ。でも、同《どう》棲《せい》中《ちゆう》 の彼女がいまして、彼女に子供ができれば、結婚へのふんぎりがつくだろうと……。ま、そんなわけです」  嘘《うそ》だった。榎吉に同棲中の女性はいない。罪のない嘘であっても、榎吉は自己嫌悪にかられた。断固として拒絶できない自分が情け無く、大人になり切れない子供のように思えてくる。できることといえば、辻《つじ》褄《つま》の合わない話をせいぜい並べたて、相手が悟るのを待つぐらいのものだ。  やる気のないことを早く悟ってくれという願いも空しく、美奈子は「嘘」をたぐり寄せようとする。 「仮に子供ができ、結婚したとしてよ、結婚費用や住居費はどうするの、子供を育て上げるのに、一体いくらお金がかかると思ってるの」  牛島夫婦に子供はなかった。にもかかわらず、彼らは交替で、榎吉に説いて聞かせる。サラリーマンとして得られる収入だけでは、妻子を養うに十分ではないこと。そうして、そんなかつかつの生活をしていては、夢を実現するチャンスは永久に訪れないこと……。  牛島夫婦が誘い込もうとしている外資系マルチ商法の組織が、決して法に触れるものでないことを、榎吉はよく知っていた。無店舗販売によって浮いたコストを販売員に還元するというシステムは、確かに合理的ではある。販売員はピラミッド型の階級に組織され、上にいくほど販売成績に伴うボーナスは高額になる。牛島夫婦は下から三つ目のランクにいるらしく、あともう一息で上のランクに上がれるらしかった。しかし、そのためには強引に仲間を増やさなければならない。熱心に活動し、本社で製造される製品を売りさばいてくれる人間を傘下に入れ、優秀な販売員として育て上げなければ、ランクが上がっていかないのだ。車のセールスマンである榎吉は、販売に関するノウハウを既に心得ているに違いなく、しかも本社の製造する製品にはカーケア製品も含まれているため、見事牛島夫婦のお眼鏡に適ってしまったらしい。  ランクが上がれば収入は増え、年収二千万三千万を稼ぎ出すのも不可能ではない。現在、牛島夫婦は公務員としての給料の約二倍の収入をこの商法から得ているという。ヨットを維持できるのも、もちろんそのためだ。ヨットは、彼らの商売にとって必要欠くべからざる小道具だった。勧誘しようとするターゲットを一《いつ》旦《たん》海に連れ出せば、逃げられる心配もなく存分に説得できるし、夢の実現の証拠でもあるヨットを見せびらかすことにもなる。彼らにとって、ヨット遊びは商品販売のためのホームパーティと同じなのだ。 「イメージすることが大切なんだ。胸に強くイメージした夢は、結局現実のものとなるんだよ」  牛島は熱弁を振るっているが、榎吉は聞き流していた。榎吉にはまったく興味のない世界だった。金《かね》儲《もう》けに興味がないというのではない。人間関係を崩してまで、金儲けをしたくないだけだ。販売員のランクを上げ高収入を追求していけば、その結果どうなるか、榎吉にはある程度予測がつく。宗教団体のように、同じ考え方、同じ目的、同じ理想を持った仲間内でまとまり、その輪から離れられなくなる……。漠然と、そう思われるのだ。  現に、牛島夫婦のリアクションには不満や苛《いら》立《だ》ちがあからさまになり始めた。これだけ言ってもわからない人間は愚か者だと、一段低い人間として榎吉を見《み》做《な》し、想像力のなさを決めてかかる。さしたる夢も抱かず、ただ生きるに汲《きゆう》 々《きゆう》と人生を終えていく哀れな奴と、得意のイメージ力で人の将来をも予言してかかる。  榎吉は反論する気にもならなかった。確かに、一介のセールスマンで一生を終える公算は大きい。だからといって、それでいいじゃないかと、この夫婦に言ったところでどうにもなるものではない。疲れるだけだ。ただ、榎吉は早くヨットを降りたかった。海の上という不安定な状況にも、他《ひ》人《と》のヨットという居心地の悪さにも、もう耐え切れなかった。不慣れな状況のせいで、へりくだり、卑屈になっている自分にも、すっかり嫌気が差していたのだ。  ヨットは、南北に細長い若洲ゴルフリンクスに沿って、東側の沖合百メートルばかりを北へ北へと進んでいた。荒川湾岸橋まではあと二、三キロ、橋を渡り終えれば夢の島マリーナの入口が現れる。もう少しの我慢だった。ヨットを降り、別れてしまえば、それで一切終わりだった。二度とこの夫婦と付き合うつもりはない。  だが、早く早くという榎吉の願いも空しく、「MINAKO」号のエンジンは息を切らすようにして止まってしまった。停止の仕方の異常さに、牛島は会話を中断してごくりと唾《つば》を飲み、船外機の上へ首を伸ばす。 「変だな」  榎吉は、無意識のうちに腕時計に目をやっていた。午後六時二十七分、それがヨットの行き足がぴたりと止まった時間だ。京《けい》葉《よう》線の電車が独特の音をたてて、前方の鉄橋を走り去ってゆくのが見える。車窓から漏れる明かりは、白い光の帯となって、荒川の河口の上空を流れていった。海を取り囲む陸地の、ほとんど全ての建物には明かりが点《とも》り、黒い海面がその明かりをチラチラと反射させ始める頃、ヨットは行き足を止めてしまったのだ。  航行中の海域から判断して、座礁ということはまず有り得そうもなかった。葛《か》西《さい》臨海公園のすぐ南、旧江戸川の河口付近に広がる「三《さん》枚《まい》洲《ず》」と呼ばれる浅瀬からは数百メートル西に離れている。浅瀬は、危険区域を示す鉄のポールで囲まれ、夜になればその先端には灯りが点る。強風や、濃霧の日でない限り、間違って踏み込んでしまう恐れはあまりない。夢の島マリーナの出入り口近くの浅瀬のため、マリーナの職員からは再三にわたって注意を受けていた。浅瀬に迷い込んで、座礁しないようにと。そうして、牛島は特にそのことだけを気にかけ、ティラーを握っていたのだ。 「エンジン、止まってしまいましたね」  他人事のように榎吉は言い、ベンチに座ったまま立ち上がろうともしなかった。  いぶかしげな表情で、牛島はまずガソリンタンクのフタを開け、空でないことを確認するや、恐る恐るハンドスターターを引いてみる。すぐにエンジンは始動した。「なんだ」という安《あん》堵《ど》感《かん》が夫婦の顔に浮かんだが、長くは続かなかった。というのもギヤを前進に入れたとたん、エンジンはさっきと同じ音を残して停止してしまったからだ。  安易にエンジンをかけようとはせず、牛島は、ドライブユニットをチルトアップ(プロペラ部分を海面上に出すこと)させた。 「なんだ、こりゃ」  牛島の素《す》っ頓《とん》狂《きよう》な声に、榎吉は弾《はじ》かれたように腰を上げ、三人同時にプロペラを見た。  宵《よい》闇《やみ》の中で、それは海水をどっぷりと吸って黒っぽく見えた。牛島は、ドライブユニットに手を伸ばし、トリムタブとプロペラの隙《すき》間《ま》に挟まれた、子供用の青いズック靴を引っ張り上げた。海面を漂っていて、靴ひもがシャフトにからまり、プロペラに巻き込まれてしまったらしい。  甲の部分にミッキーマウスの図柄が描かれたディズニーの商標製品だった。ひっくり返して足のサイズを調べると、十九センチ。小学校低学年の男の子のものらしい。  牛島は肩をすくめながら靴を榎吉に手渡し、顔をしかめて見せた。好きに処置してくれと、そう言いたいのだろうか。海には様々な浮遊物がある。子供用の靴が流れていても、別に不思議はない。しかし、牛島はなにか不吉なものを感じて、この靴自体を恐れているように見えた。榎吉に手渡したきり、それまで靴を載せていた右手の平を、執《しつ》拗《よう》にタオルで拭《ぬぐ》っている。  目で急《せ》かされ、海に流そうとして、榎吉はかかとの部分に名前が書かれているのを発見した。 「かずひろ」  黒のマジックで、縦にそう書かれている。 「かずひろ君か……」  榎吉がつぶやくと、牛島は押し殺した声で言った。 「早く捨てろよ!」  捨てるのではなく、榎吉は船のように靴を海面に浮かべ、かかとの部分をちょんと押した。まだ真新しい部類に入る左足用の靴は、不安定にぐらぐらと揺れ、ヨットから離れてゆく。荒川河口のせいで、この海域にはかなり早い流れがあった。靴は南へ南へと流れ去り、すぐに黒い海面に溶けて見えなくなってしまった。もう片方の、右足用の靴だけを履き、片足でピョンピョンと飛び跳ねる男の子の姿を、榎吉はふと思い浮かべた。  牛島はドライブユニットを元に戻し、エンジンを始動させた。エンジントラブルの原因である靴を取り除いたのだから、もう何も問題はないはずだった。時計は六時三十五分を示している。五分ばかり道草を食ってしまったが、帰港予定の七時にはちょうど間に合うはずだ。 「よし、行こう」  牛島はギヤを前進に入れた。エンジンは止まらずに、確かな回転を続けている。だが、その時の感覚を、なにに喩《たと》えればいいのだろう。ドライブユニットの後方で海水はごぼごぼと泡立ち、プロペラの回転で、船体を前に進めようとしているのはよくわかる。ところがヨットはその場から動こうとしない。夢の中で味わう感覚にそっくりだった。怪物に追われ、走って逃げようとしても、両足は空をかくばかりで地面を蹴ろうとせず、前へ前へという必死の思いだけが空転するあの感覚。ヨットにいる三人は、少なからず同じ感覚を味わっていた。船底とデッキという二重構造で海と隔たっているとはいえ、自分たちの足そのものが海底から延びたロープに絡まってしまったような気分。  榎吉と牛島はまったく無言のままだったが、美奈子は耳障りな、悲鳴に似た声を上げながら、ベンチに座ったり立ったりしている。 「ねえ、どうしたのよ。なぜ、動かないの」  牛島はギヤを変え、後進をかけてみた。だが、ヨットは後ろにも進まない。 「ちょっとすまないが、左《さ》舷《げん》側に寄ってみてくれないか」  牛島の指示に従って、榎吉と美奈子は左舷側に寄って身を乗り出した。ヨットが大きく傾く頃合いを見計らって、牛島は前進をかけてみる。状況は同じだった。さらに右舷側に重心を移動させた上での前進、左舷重心で後進、右舷重心で後進と、何度か試みたが、ヨットはまるで根が生えたように微動だにしない。  牛島はエンジンを切った。美奈子が何か言いかけたが、牛島は手で制した。 「ちょっと黙って」  牛島はひとり考え込み、沈黙してしまった。乏しい経験を手探りし、ヨットが動かなくなったときの処置方法を捜し出そうとしているのだ。早くマリーナに戻り、ふたりから解放されたいと願っていた榎吉だったが、今、この状況のもとで、牛島を急かすつもりはなかった。牛島の表情は真剣というより、深刻そのものだ。マルチ商法への勧誘など、遠い彼方《かなた》に飛び去ってしまったに違いない。 「よし」  牛島は自分に号令をかけるようにして立ち上がると、これからとるべき行動を声に出した。 「水深を測ってみよう」  サイドロッカーを開け、ロープの先端に結ばれたアンカーを取り出し、そろそろと水中に沈めていく。数メートル、何の手《て》応《ごた》えもなく呑み込まれたところで、牛島は約十秒間手を止めて大きく溜《た》め息をつき、ロープを巻き上げ始めた。水深が十分であることを確認できたのだ。つまり、ヨットの船底から下に延びたキールが、浅瀬の砂にめりこみ、そのせいでヨットが動かなくなってしまったのではない。ヨットは座礁以外の理由で、動きを止めてしまったことになる。 「なんだか、妙ですね」  榎吉は率直に自分の気持ちを表現した。他に言いようがない。陸の上で、こんなふうに足元の覚《おぼ》束《つか》無《な》い不安な感覚を抱いたことはなかった。  牛島は元の場所にロープとアンカーをしまうと、乱暴にロッカーのフタを閉め、その上に腰をおろした。だれも、何も言いたくない気分だ。美奈子はキャビンライトと航海灯を点して、ハッチを開け放った。キャビンから漏れる明かりが、コックピット表面の純白さを蛍光塗料のように輝かせている。  恐らく、榎吉の抱いた危機感は、牛島夫婦のそれとは比べものにならないくらい小さいに違いない。榎吉は、「MINAKO」号のクルーではなく、客である以上、何の責任も持つ必要はなかった。しかも、陸の影すら見えない沖合遠くならともかく、わずか百メートル程西には若洲ゴルフリンクスの照明灯が点り、北にも東にも陸が迫っている。湾岸線を流れる光の帯も見えるし、車の排気音と溶け合った夜の音も聞こえる。  それに対して、牛島と美奈子は時間とともに不機嫌になっていった。牛島は、ヨットが自分の意思を離れて動かなくなったのが不思議であり、悔しくてならず、美奈子は、そんな夫が不《ふ》甲《が》斐《い》無《な》く感じるらしく、これみよがしに鼻や喉を鳴らし、「早く動けるようにして」と言葉を使わずに催促する。海にヨットを浮かべる暮らしを、「すばらしいと思わない?」と、他人に見せびらかし、榎吉を自分の領域に誘い込もうとしていた美奈子にとって、この状況は手《て》酷《ひど》いしっぺがえしだった。芸達者が自慢のペットが、いざ芸の披露というときになって無《ぶ》様《ざま》な無能ぶりをさらけだすようなものだ。  足元から立ち上る不安感はともかく、榎吉には牛島がこの危機をどうやって乗り越えるのかに、興味が湧《わ》いてきた。 「キールの部分に、なにか、ロープのようなものが絡まっているとは考えられないでしょうかねえ」  榎吉が素人考えを口にすると、牛島は顔を上げ、「うん、うん」とうなずく。 「ぼくもそう考えていたんだ。定置網のようなものが、キールに絡まったんじゃないかってね」 「この辺には定置網が仕掛けられてるんですか」  牛島は首を横に振った。 「いや、有り得ない。ここは、船の航路だから」 「とすると……」 「おそらく、定置網のようなロープの束がどこかから流れてきて、キールに絡まったのだと思う」  とすると、榎吉にもすぐわかることであったが、ロープのもう一方の先端は、海底にしっかりと固定されていなくてはならなくなる。果たしてそんな偶然が有り得るのだろうか。カウボーイが牛の首めがけてロープの輪を投げるように、海底から浮かび上がってきたロープの輪がヨットのキールを捕らえる……、そんなシーンを思い浮かべると、榎吉はなんとなくおかしくなってしまう。 「もし、そうだとすれば、じゃあ、どうすればいいの」  美奈子が口を挟んだ。厚い唇を歪《ゆが》めて、夫の横顔にきつい視線を投げかけている。榎吉は、色白で下ぶくれの美奈子の顔がどうにも好きになれない。背伸びしようとする姿勢が、顔のつくりや、メーキャップのしかたによく現れている。たぶん、彼女のほうが先に手を染め、夫をマルチ商法の販売員に誘い込んだのだ。そうして、販売のパートナーとして常にハッパをかけているに違いない。 「キールに絡まったロープを取るしかない、だろうな」  榎吉には、これから牛島がやろうとすることが容易に想像できる。簡単だ。ヨットの下に潜り、手探りで、絡まっているはずのロープをはずす、ただそれだけだ。しかし、今さらのように黒い海面を見ただけで、足はすくんでしまう。日は完全に沈み、もともと黒い海面は、夜空を映して黒を重ねている。息を止め、この水の中に潜ると想像しただけで窒息しそうになる。  マスクや防水ライトの備えもなく、手探りで作業をしなければならないのだ。もしマスクをかぶっていたとしても、東京湾のヘドロのような海の中で、視界はほとんどきかないだろう。  だが、牛島はおし黙ったまま、動こうとしなかった。思いつめたように唇を噛みながら、意味ありげな視線をチラッチラッと榎吉のほうに飛ばしてくる。やるべきことはひとつしかない、なぜさっさと腰を上げないのかと訝《いぶか》る間もなく、榎吉は牛島の心中を察知していた。潜りたくないのだ。代わりに潜ってもらいたいのだが、自分からは言い出せず、榎吉から申し出るのを待っているのだろう。  ……冗談じゃない。  榎吉は、潜る意思がまったくないことを態度で示そうと、不機嫌な顔で立ち上がって背を向けた。身の危険を冒してまで、「MINAKO」号ごときのために働く義理はない。  キャビンに入ろうとしたところで、榎吉は呼び止められた。 「榎吉君」  振り向くと、牛島はシャツのボタンを一個一個上からはずしにかかっている。人に頼らず、自分で解決しようと覚悟を決めたようだ。それでいい、榎吉は胸につぶやいた。  二回三回とロープを自分の身体に巻き、もやい結びで縛ると、牛島は端を榎吉に手渡した。流されるのを防ぐための命綱だ。 「たのむよ」  牛島に肩を叩《たた》かれると、榎吉はロープをきつく握ってみせた。 「だいじょうぶ、任せて」  牛島は足先から海に入り、徐々に肩まで沈めていった。そして、船尾側のヘリに両手をかけ、懸垂をするように両手を屈伸させ、「ハッハッ」と呼吸を整える。まだ九月初めとあって、水温はそれほど冷たくはないはずだ。水面を上下する牛島の顔は、キャビンライトに照らされて、灰色がかってきた。さっさと事をすませたいのだが、どうも踏ん切りがつかない……、そんな表情だ。だが、次の瞬間、牛島は一際大きく海面上に伸び上がり、ふっと息を止め、反動で海中へと潜っていった。  ヨットの場合、船底のちょうど中央あたりに、キールと呼ばれる板が垂直に張り出している。「MINAKO」号の場合、キールの幅は約一メートル、長さは約一・二メートルといったところだ。だから、潜るといっても、キールの先端までのせいぜい二メートルに過ぎない。たぐり出すロープの長さは知れたもの。それでも榎吉は、余裕を持たせて数メートルを海面に放り投げた。  三十秒ほどで、牛島は海面に顔を出した。舷側にすがろうとして滑り、立ち泳ぎをしながらどうにか顔だけを出している。 「どうでした?」  榎吉が声をかけると、牛島はますます灰色がかってくる顔を激しく横に振った。目的を達成するどころか、キールの位置を確認する程度で一回目は終えたのだろう。  呼吸を整え、牛島は二回目の潜水にチャレンジした。潜って一分もしないうち、足元からごつごつと何かがぶつかる音が響き、牛島がもがいているなという感触が船体を伝わり、ロープにも伝わってきた。すぐ下に牛島がいるとわかっているのだが、不安に駆られ、榎吉はロープを少したぐり寄せてみる。  ちょうどそのとき、ロープを握る手にカツンという衝撃を受けた。大きな獲物がかかったかのようにロープはピンと張られ、反動で榎吉の上半身は海側に乗り出してゆく。 「すみません、ちょっと!」  ベンチに座っていた美奈子を傍らに呼ぶと、念のためにロープの端を持たせ、榎吉は力強くロープを引いた。腕には牛島の体重のすべてが感じられる。嫌な予感がした。なにか事故でもあったのか。  ヨットから二メートルばかり離れた海面を破って、牛島の顔が現れた。立ち泳ぎをしてるのだろうが、一向に浮力は増さず、後方にのけぞって牛島の身体はともすれば沈みがちだった。 「しっかり!」  掛け声をかけ、上に引っ張り上げるようにして、榎吉はロープをさらに引いた。牛島は必死でなにか言おうとしているのだが、言葉にならない。それとも、悲鳴を上げようとしているのか。凄《すさ》まじい形相……、かと思うと急に表情を緩め、薄い頭髪を海草のようにゆらめかして沈みかける。溺《でき》死《し》する寸前のようで、榎吉は腕に力を込めた。  舷側から身体を上げるのは不可能だった。牛島の肩から上を海面に出したままの状態で、榎吉は船尾へと回り、脇に両手を差し入れて身体を一気にコックピットへと引き上げた。腹を船尾側のヘリにあて、牛島は身体をくの字に折り曲げた。そうして、頬《ほお》を床にこすりつけた姿勢のまま、牛島は嘔《おう》吐《と》した。飲んだ海水だけでなく、昼に食べたサンドイッチやビールが間欠的に喉から流れだし、そのたびに身体には痙《けい》攣《れん》が走った。まだ両足の先は海水に浸ったままだ。美奈子は「キャッ」と叫んでその場から飛びのき、なおも悲鳴を上げながらタオルを取りにキャビンへと走った。  牛島は自力で上半身を起こし、必死で前へ前へと這《は》い進もうとしていた。そうして、両足が海の上に出るやいなや、俯《うつぶ》せの姿勢からゴロンと仰《あお》向《む》けにひっくり返り、大きく息をつこうとして咳《せ》き込んだ。  溺《おぼ》れ掛けた人間にどのような処置を施せばいいのか。榎吉は、「だいじょうぶですか」を連発し、美奈子から手渡されたタオルを肩にかけ、背中をさすった。牛島は舷側から顔を出し、まだゲーゲーと胃の中のものを吐こうとするのだが、出るものといったらよだれと涙以外には何もない。にもかかわらず、牛島はまだ、身体の中のものを出そうとする。痙攣と見まがうばかりの震えに促されて、胃の表裏を逆にするかのように。  キャビンのベッドに寝かせたほうがいいだろうと判断し、榎吉は牛島に肩を貸して歩かせようとした。一、二歩歩いただけで、両《りよう》膝《ひざ》から下の力が完全に抜けてしまっているのがわかる。腰が抜けるというより、膝から下の足をなくした感じだ。それでもどうにかベッドに寝かせると、バスタオルやトレーナーなど、掛けられるものを全て牛島の身体にかけてやった。震えは収まるどころかますます激しく、真っ白な唇からは時々獣のような呻《うめ》き声が漏れる始末。あまりの変わりように、美奈子と榎吉は声もなく茫《ぼう》然《ぜん》自失してその傍らにたたずむ他なかった。  最初のうち、榎吉は、牛島の身に起こったことをこんなふうに想像していた。呼吸が苦しくなり、すぐに浮上しようとしたのだが、水面に顔を出す前に息を使い果たし、海水を飲み、パニックに陥った……、あるいは命綱のロープがキールに絡まったか、とにかく、牛島はパニックを起こして溺れかかったのだと。真っ暗な海の中を手探りで浮上する際の恐怖は計り知れない。ちょっとしたミスもパニックにつながる。  だが、牛島の今の怯《おび》えようは、想像の域を越えていた。焦点の定まらぬ目は、おそらく何も見てはいないだろうし、聴覚や嗅《きゆう》覚《かく》が機能を果たしていないのは明らかだった。感覚器官はすべて、ついさっき被った「衝撃」によって縛られている。  榎吉はふと思いつき、ビール以外にもっとアルコール度の強い酒がないかどうか、美奈子に尋ねた。 「ワインなら」  美奈子は、ギャレーの下から、赤ワインのハーフボトルとアルマイトのマグカップを取り出してくる。 「気付け薬としては、ちょっと弱いかもしれないが……」  榎吉は、牛島の上半身を起こし、口の中にワインを流し込んでみる。最初のうち、にじむようにしか入らなかったが、徐々に喉の動きは活発になり、二杯目のワインは素早く飲み込まれていった。と同時に、牛島の目がいくぶん生気を取り戻してきた。身体の震えも和らぎ、呼吸も落ち着いてきたようだ。  榎吉はまず、所期の目的通り作業を終了させたのかどうか聞いてみた。つまり、キールに絡まったはずのロープを取り除くことに成功したのかどうか。 「作業は終わりましたか?」  牛島は激しく首を横に振った。 「じゃ、キールに絡まったロープは、まだそのままなんですね?」  ところが、今度もまた牛島は、以前にも増して激しく首を振る。榎吉は同じ質問を繰り返したが、牛島の反応は変わらなかった。作業が終わったかと問えば、終わってないと首を振る。キールに絡まったロープはそのままかと問えば、いや違うと首を振る。牛島の返答を信じ、なおかつ合理的に判断すれば結論はひとつだ。ヨットが停止してしまった原因はまだ取り除かれてなく、ロープはキールに絡まってはいない。つまり、ロープ以外の原因で、ヨットは止まってしまった……。そのとき、グラッと二回、ヨットが揺れた。波のせいで揺れているのではなく、下に引きずり込もうとする力のようなものが、船底の一点に感じられる。  不安は一瞬で恐怖に変わった。ヨットに乗るのが初めてとはいえ、榎吉は、海にまつわる怪《かい》奇《き》譚《たん》を子供の頃から幾編か好んで読んでいた。もっともオーソドックスな幽霊船の物語に、どれほど背筋をぞっとさせられたことか。生活の匂《にお》いを残したまま、巨大な帆船から乗り組み員が全て消えてしまう。一体、船の上で何が起こったのか。疑問を投げ出しただけで、この種の物語は終わってしまい、船から人間が消えた理由を解き明かすことは決してない。海自体が謎《なぞ》そのものであり、生の世界と死の世界がいり混じった空間であることを、読者の胸に強く印象づけるだけだ。  榎吉はあわててキャビン内部を見回した。陸の世界との命綱ともいえるもの……、彼が捜したのは無線機だった。だが、何度見回してもそれらしきものはどこにもない。 「この船に無線機は?」  榎吉が美奈子に目をやると、美奈子はそのまま目を牛島に向け、力なく横たわる夫の肩をゆすった。自分では答えず、夫に答えてもらおうとしているのだ。  榎吉はもう一度同じ質問を繰り返した。牛島はどんよりとした目を横に動かす。 「無線はないのですね」  榎吉が念を押すと、今度は首を縦に振る。無線が積まれてないのはこれではっきりした。すぐそこに見えているのに、陸地と連絡を取ることができないのだ。連絡さえ取れれば、夢の島のマリンサービスに頼んで、引き船を回してもらえばいい。高馬力のディーゼルエンジンで曳《えい》航《こう》してもらえば、たぶん脱出は可能だろう。だが、それもできない。  緊張のあまり喉が渇き、牛島が使ったマグカップにワインを注いで一息で飲んだ。唯一の経験者である牛島は、強いショックを受けて頼りにならず、美奈子はそんな夫にすがるだけで、自ら道を展《ひら》こうとはしない、気楽な客を決め込んでいた榎吉の肩に、ずしりと重みがかかってくる。  何度も唾を飲み込み、腕時計にばかり目をやった。時間は八時を過ぎている。今晩一晩、海の上で過ごすことになるのかと思うと、ぞっとした。明日の月曜には大事な商談をまとめなければならない。うんざりだった。さっさと自分のアパートに帰り、慣れたベッドに身を横たえたい。できることなら……。  榎吉はその可能性を思いつくや、コックピットに出て、西の方角を見渡した。若洲海浜公園を取り囲んでコンクリートの土手が南北にまっすぐ走り、その手前には無数のテトラポッドが土手と平行に並べられ、長靴のような突起を水面から露出させている。テトラポッドによじ上れば、土手に飛び移るのは簡単だ。ヨットからテトラポッドまでは、目算で百メートルあるかないかの距離。闇のために目算を誤ったとしても、榎吉には十分泳げる距離だ。心臓が高鳴っている。一か八かやってみようか。それにしても、夜の東京湾を泳ぎ切るのはかなりの冒険に違いない。ふっと湧《わ》き上がりかけた決意が、夜の海を見つめるうちに萎《な》えてゆくのが感じられた。  キャビンのハッチが開き、牛島が這《は》い上がってきた。性急に榎吉の耳に入れたいことでもあるかのように、身体よりもまず唇が動こうとしている。榎吉は手を貸してベンチに座らせようとしたが、牛島は、自らコックピットの床にうずくまった。 「気分はどうです?」  自力で動こうとすることからも、肉体的な回復の兆しは明らかだった。だが、牛島は、両肩を大きく揺らせ、絶望的な声を出す。 「この船は動かんよ」  頑固な老人を思わせる口調だった。 「なぜですか」 「触れたんだよ、この手が」  言いながら、牛島は自分の手の平を上にする。 「何に?」 「手だよ」  ……牛島の手が、手に触れた?  聞くんじゃなかったと、榎吉は後悔した。泳いでいて、海で死んだ人の幽霊に足を引っ張られたという怪談はそれこそ枚挙にいとまがない。海の底から伸びた手がキールを握って離さないと言うのであれば、そんな戯《たわ》言《ごと》を聞きたくもなかった。  一瞬の沈黙の後、牛島が先に口を開いた。 「子供っていうのは、案外に力持ちなんだなあ」  榎吉は相づちを打つことができない。なんと返事をすればいいのだ。ショックのあまり、牛島は狂ってしまったのではないか、そんな疑惑が脳裏をかすめた。 「子供?」  同じ言葉を繰り返すしかない。 「子供が、しがみついているんだよ、キールに」  榎吉は息をつめた。突如脳裏に、キールにしがみつく子供の水死体の映像が浮かんだ。 「昔流《は》行《や》った抱っこちゃん人形のようだった。顔は風船のように膨れ上がっていたがね」  牛島はしみじみと言う。  ……落ち着け!  榎吉は自分に言い聞かせた。他人の想像力によって作り上げられた化け物を、自分の内部に引き寄せたりしたらロクなことにならない。慎重に、確認しなければならない。どのような経緯で、牛島が化け物を自分の内部に形成させていったのか。 「男の子、でしたか?」  榎吉が聞くと、牛島は「うん」とうなずく。やはりそうだ。 「小学校一、二年生ぐらいの?」  少し考えてから、やはり牛島はうなずいた。間違いない、と榎吉は確信を抱く。何もないところに、イメージは像を作り上げないものだ。今度の場合、想像力の下地ともいえるのは、間違いなく、プロペラに絡んでいた男の子の靴だ。  榎吉は、順を追って牛島の心理を追ってみた。海に潜ろうとする前、牛島の頭の片隅には、ミッキーマウスの靴が残っていて、それは連想の種子となっていった。少年はどこで左足の靴を流したのか。橋の上? それとも土手の上? それとも、少年は海で溺れ、片方の靴だけが脱げてしまったのではないか。とすると、その水死体はこの近辺を今でも漂っているのでは?  ヨットの下に潜った牛島は、両目を堅く閉じて船底を探るうち、おそらくキールに巻きついた海草か何か、ヌルッとした、いかにも溺《でき》死《し》した少年の皮膚を思わせるものに触れてしまったに違いない。一瞬で、牛島の脳裏には映像が閃《ひらめ》いた。第一、夜のヘドロの海中で見えるわけがない。牛島は目を開けてそれを見たのではなく、得意のイメージ力に結ばれた仮象を、心の目で捉《とら》えたのだ。溺死した少年がキールに抱きつく姿。顔を風船のように膨らまし、両目をぶよぶよとした肉の奥にめりこませ、開いた口から白い舌の先をのぞかせている。抱っこちゃん人形のように、ひっしとキールを掴《つか》み、ヨットの行き足を止めている溺死体……。  だから榎吉には、今から牛島に聞こうとする問いの答えに自信があった。 「牛島さん、あなたが見た男の子は、片方の靴を履いてなかったでしょ?」  ……もちろん「うん」とうなずくに決まっている。プロペラに挟まっていたのは、左足の靴だけなのだから。  榎吉は、答えを予期して、反応を見守った。ところが、牛島は目を細め、夜空を振り仰いだかと思うと、「いや」と首を横に振って否定してきた。 「じゃ、靴を履いてたの?」  榎吉が確認すると、牛島ははっきりと答える。 「男の子は、両足とも、裸足《はだし》だったよ」  言い方にあやふやなところが微《み》塵《じん》もなく、そのことが榎吉にはどうも解せなかった。  とにかくじっとしていてもしかたがない。もう一度エンジンをかけて前進を試みるべく、榎吉はハンドスターターを引こうとした。シャツの袖口が邪魔になり、めくり上げるよりも脱いだほうがいいだろうと、彼はシャツのボタンをはずしにかかる。足元には、さっきと同じ姿勢で牛島がしゃがみ込んでいた。開いたハッチの下に美奈子が立ち、シャツを脱ごうとする榎吉を見て、溜め息混じりの声を上げた。 「やっと潜る気になったのね」  シャツを脱ごうとする行為が誤解を招いたのだろう。榎吉には潜る意志などさらさらなかったのだが、美奈子の言《い》い種《ぐさ》にはかなりむっとするものを感じた。男である以上、潜って原因を取り除くのが当然だという思い上がりが、言葉の端々に表れている。榎吉には、美奈子のためにこのヨットを救わねばならぬ義理はなかった。  エンジンをかけ、前進と後進を交互に繰り返してもやはり船の位置は同じままで、にっちもさっちもいかない。思う通りにいかない苛《いら》立《だ》ちは、美奈子の無神経な言葉とあいまって、怒りにまで発展しかけた。これまでの自分の優柔不断さにも腹立たしくなってくる。すぐにでもこのヨットを捨てられるということを、見せつけてやりたかった。実行に移す自由を持っているのだということを。  一旦萎《な》えかけた決意が、またむくむくと頭をもたげてくる。考えてみれば、他に術《すべ》はなさそうだ。泳いで岸にまで渡り、マリンサービスに電話をして引き船を要請してやるのが、一番てっとり早いのではないか。  榎吉はギャレー下の小物入れから大型のポリ袋を取り出すと、脱いだ服や靴を詰めていった。空気を少し入れ、口のところをきつく結ぶ。  最初のうち、服を脱いでいく榎吉を不《ぶ》躾《しつけ》な視線で眺めていた美奈子は、その行為の異常さに気付くと、おろおろとした表情を浮かべてきた。 「ちょっと、あなた、何をするつもりなの?」  榎吉は、ポリ袋を右足の太《ふと》股《もも》にしっかり結わえ付けると、もう片方の足で挟み、ベンチの上に立ち上がった。  美奈子は手を伸ばしてきたが、その指先が身体に触れるより先、榎吉は海に飛び込んでいた。すぐには泳ごうとせず、立ち泳ぎをしながらポリ袋を股《また》の間に挟み替えた。そうしながら、ヨットのほうに顔を向けると、段ボール箱から外を窺《うかが》う二匹の小犬のように、牛島夫婦が舷側からちょこんと顔を出しているのが見える。美奈子は泣き言を一杯並べているらしいのだが、浮き沈みする榎吉の耳まで内容は届かない。 「大丈夫、マリンサービスに電話してやるから」  そう言ったつもりだが、果たして聞こえたかどうか。美奈子の泣き言はまだ続いている。引き船が来るまでの、小一時間ばかりの辛抱だった。だが、その間、美奈子たちは、「どう、すばらしいと思わない?」と人に強要する世界の、板子一枚下が地獄であることを、徹底的に思い知ることになるのだ。  方向を転じると、榎吉は浮力のあるポリ袋を足に挟み、手だけのストロークで前へ前へと身体を押し進めていった。ビート板を足に挟んでクロールの練習をしたことは何度もある。その状態で、二十五メートルプールを十往復はできるのだ。自信を持てと、自分に言い聞かす。だが、問題は体力ではない。榎吉は、腹から足にかけての、下の面が気になってならない。もし、この瞬間、ヌルッとした感触を腹にでも感じたら……、そう思っただけで心臓は縮み上がる。少年はキールに抱きつくのをやめて、後を追ってくるのではないか。今、水中で目を開けると、すぐそこには水膨れした少年の顔があるのではないか。妄想は次々と湧き上がり、そのせいでストロークの切れも悪くなりがちだった。力が空転して、疲労ばかりが増し、喉の奥から胃がせり上がってきそうだ。吐き気とともに、榎吉は命の危険を察知した。パニックを起こせば、即、死につながる。月のきれいな、雲ひとつない夜空の下、若洲海浜公園の常夜灯はなかなか近づいてこない。もどかしいほどに土手までの距離は縮まらない。  思い切って榎吉は手を動かすのをやめ、仰向けに浮かんで休息を取ることにした。鼻と口を水面から出し、ハッハッと呼吸を繰り返し肺に大量の空気を送り込む。止むことのない妄想を、榎吉は、付き合い始めたばかりの女性の裸体を思い描き、退けようとした。手の届く具体的なものを想像する以外、妄想から逃れる術はない。  顔を起こすと、ヨットからかなり離れているのがわかった。振り返って岸を見れば、岸のほうがはるかに近い位置にある。三分の二以上は泳いだ勘定だ。身体に力が甦《よみがえ》ってきた。まだ先と思っていた岸は、すぐそこにあるのだ。あとひと泳ぎで、陸に立つことができる。榎吉は身体を反転させ、両手で力強く水をかいていった。  手前のテトラポッドをよじ上り、全身が海の外に出ると、ようやく榎吉は人心地がついた。テトラポッドの下のほうは海水を浴びていたが、上のほうは濡れてなく、乾いたザラついた感触はさらに榎吉をほっとさせた。沖を眺めると、「MINAKO」号は同じ位置に停泊して、いかにも頼りなげにマストを横に揺らせている。  交差するテトラポッドの下から、波のぶつかる音が立ち上ってきた。隙《すき》間《ま》に落下すると、やっかいなことになりそうだ。両手両足を使って土手に渡るほうが賢明だろうと、身を低くしかけたとき、榎吉は、凭《もた》れ合うテトラポッドの隙間に、小さな靴がはまっているのを発見した。  手を伸ばせば届く距離に、それはあった。常夜灯の淡い光に照らされ、やはり水を吸ったように黒々としている。榎吉は顔を近づけた。青い靴の先端が、コンクリートの隙間にめりこみ、そのまま脱げてしまった格好だった。靴の主は、テトラポッドの上で遊んでいて、つまずいたのだろうか。甲にはミッキーマウスが描かれ、さらによく観察すると、靴は右足用のもので、かかとの部分には名前が書かれている。黒いマジックで、夜目にもはっきりと「かずひろ」と読める。間違いない。ヨットのプロペラに挟まっていた靴の、もう片方だ。  榎吉は顔を上げた。冷静な気分でいられるのが不思議でならない。彼は冷静さを保ったまま、胸に呟《つぶや》いた。  ……なるほど、こんなところに右足の靴があったんじゃ、あの子、両足とも裸足に決まってるよな。  沖に目をやると、完全に凪《な》いだ海の上でヨットが一際激しく揺れている。裸足のまま、キールにしがみついて遊ぶ子供の姿が、はっきりと榎吉には見えたような気がした。 漂 流 船  1  白い滝のようなスコールが、遠洋マグロ漁船第七若潮丸をかすめて、南の海上へと去っていった。そのあとにかかる虹《にじ》は、船を母港に迎えるための凱《がい》旋《せん》門のようにも見える。つい数時間前に小《お》笠《がさ》原《わら》沖を通過し、あと少し北上すれば鳥《とり》島の島影が見えてくるはずだ。さらに進めば八《はち》丈《じよう》 島。白《しら》石《いし》和《かず》男《お》は、日本に戻ったと同様の安《あん》堵《ど》感を抱いていた。  第七若潮丸のブリッジでワッチ(航海当直)に立ちながら、和男は、一年に及ぶ航海が今ここに終わろうとしていることを実感していた。彼にとっては三回目の航海であった。しかし、長いブランクを置いたせいか、初航海のときより感慨深いものがある。  七年前、二回の航海を終えた和男は、荷役担当として魚《ぎよ》艙《そう》に入り、マグロの選別等の仕事に当ることになった。二回目の航海では、あまりいい思い出がなく、特に船の中で醸成される男同士の険悪なムードには辟《へき》易《えき》するものがあり、半ば申し出るかたちで陸に上がったのだ。  そのまま五年間、機関士の資格を有するにもかかわらず、若潮水産の社員としてずるずると陸の仕事にしがみつき、船に戻るのを拒み続けた。だが、二年前、会社のバンを運転して東京に向かう途中、ひどい渋滞に巻き込まれ、前後左右をトラックに囲まれた圧迫感の中、突如彼は、陸は自分のいるべき場ではないと直感を得たのだった。自分のいるべき場所……、それは何ひとつ遮るもののない海だ。海に沈む夕日の大きさを喩《たと》えるとき、和男は、両手で輪を作って人に説明するのだが、それでもまだ足りないくらいに海の夕日は大きく見える。渋滞の道路で、海の光景を思い浮かべれば、その美しさは特に際立つ。耳障りな車の騒音に比べて、凪《なぎ》の夜の静寂のいかに深いことか。和男は今更ながらその魅力に目覚め、三度目の航海に出るべく会社に働きかけたのだった。  機関士の助手として乗り組んだ今回の航海に、和男は満足だった。そこそこのキャリアを積んだ和男を、船のだれもが一人前の船員と認め、以前のように素人扱いする者もなく、グループに分かれていがみ合うこともなかった。南太平洋での操業は成功に終わり、第七若潮丸の冷凍庫にはおおぶりのミナミマグロが満載されている。命が脅かされる程の時《し》化《け》にも出合わず、航海は概《おおむ》ね順調に進んだ。ただ、ニュージーランド沖で操業中、二人の落水者を出すという事故を起こしたのが汚点といえば汚点だ。うち一人は奇跡的に救出されて新聞種にもなった。劇的な救出劇ばかりがクローズアップされ、失われた人員の命が相殺される格好だった。船員たちは、一人の仲間の死を悲しむ以上に、死んだと諦めていた者の生還に驚きかつ喜んだ。痛ましいはずの事故が妙なお祭り騒ぎに変わってしまったのは、死んだ人間が皆の嫌われ者だったせいもある。  虹の凱旋門に迎えられ、日本まではもう二、三日の距離だった。ブリッジで見張りに立つ和男の顔には、無意識のうちに笑みが浮かんでいた。大漁のため、陸に上がって手にする金はかなりの額になる。その金を何に使おうかと考えると、思わず笑みがこぼれるのだった。  結婚資金というのも選択肢のひとつだ。航海途中で二十七歳の誕生日を迎えた和男には、結婚を考えている女性がいる。彼女に正式に結婚を申し込もうと、今度の航海で決心はついた。結婚後も船に乗るかどうかは、ふたりで相談して決めるつもりだった。もし彼女が反対すれば、和男は船を降りることになる。ひょっとしてこれが最後の航海になるかもしれない。そう思うと、より一層こみ上げてくるものがあった。  スコールをもたらした雲が後ろに流れると、前方、雲の切れ間から日が差し始めた。午後三時の夏の日差しは、スポットライトで照らすように、はっきりとした明暗の境界線を海面に作り出している。左手前方、暗い領域から明るい領域へと、ヨットらしき船影が進み出るのが見えた。和男はその方向にじっと目を凝らしてから、双眼鏡で確認した。小型の外洋クルーザーだった。クルーザーはまるで雲間から湧《わ》き出るような現れ方をし、自動操舵装置で前進する本船の航路を邪魔するように、左手から近づいてくる。和男は、汽笛を単音で五回連続して鳴らした。相手船の動作が理解できないと同時に、注意を与える意味もあった。そうしてから、また双眼鏡を覗《のぞ》いた。クルーザーの帆は下ろされていて、デッキ上に人影は見えない。航海する場合、どんな場合でもワッチに立つ者がいるはずである。見張っていなければ、衝突事故を起こす可能性があるからだ。  和男はもう一度汽笛を鳴らし、双眼鏡で見てみた。やはり人影は現れない。クルーは皆キャビンで熟睡しているのだろうか。他には考えられない。まるで幽霊船のように、そのクルーザーは第七若潮丸の進路を妨害しようとしていた。  和男はすぐに船長の高《たか》木《ぎ》を呼び、状況を説明した上で指示を待った。  無言のまま、肉眼で観察していた高木船長は、 「変だな」  と呟《つぶや》き、エンジンを中立にさせた。船は惰性でしばらく進んだが、デッキからすぐ下にクルーザーを見下ろす位置で、行き足は止まった。  間近から見ると、小型クルーザーと思われていたヨットは、四十フィートほどの船体を持つ豪華なものであることがわかった。デッキは白、それ以外の船体はエンジと色分けがなされ、舷《げん》側《そく》に二本のラインが走り、美しい曲面を描くスターン(船尾)には、スイミングプラットホームが設置されている。オーナーがかなりの金持ちであることは、一見して明らかだ。  船員たちは三々五々左舷よりのデッキに集まってきて、クルーザーに向かって声をかける。 「おーい、だれかいないのか」  口々にそう叫ぶのだが、キャビンの中からはだれも顔を出さない。四十フィートのクルーザーなら最低四、五人、クルーが乗り合わせているはずだ。 「どうします?」  甲板長の芝《しば》崎《さき》が、苦り切った顔を船長に向けてきた。なにも見なかったことにして、早く母港の三《み》崎《さき》に戻りましょうや、彼はそう言いたそうだった。 「見過ごすわけにもいかんだろう」  高木は、組んでいた両手をほどくと、若い船員たちに、ボートを下ろすように命令を下した。クルーザーは遭難したのかもしれず、放ったまま行き過ぎることはできない。遭難した船を救助するのは船乗りとしての義務であった。  本船から放られたロープを、クルーザーのバウクリートにしっかりと結び、離れないようにした上で、一人の船員がボートからクルーザーに乗り移っていった。  彼は、さっとキャビンの中を見回し、大声を上げた。 「だれもいません!」 「バース(寝台)やヘッドもよく調べろ」  船長の命令で、男はもう一度キャビンに戻り、一分ほどでまた顔を出す。 「やはりだれもいません!」  その後、男は震え声で小さく言った。 「なんか、変ですよ、これ……」  しかし、船長は、その声をかき消すように怒鳴った。 「よおし、その船の登録記号を知らせろ!」  男は、両舷に書かれた登録記号を読み上げる。 「KN2−1785。以上です」  KNという登録記号から、クルーザーの登録場所が神奈川県であることがわかる。 「わかった。そのまま待機していてくれ」  船長は、デッキからブリッジに上がると、横浜にある第三管区海上保安本部にインマルサット電話をかけ、北緯二十九度、東経百四十一度の地点で、無人の漂流船を発見した旨を伝えた。海上保安官から、発見時の状況をさらに詳しく尋ねられると、船長は見たままを正直に語った。  ……船の近辺での漂流者の有無は?  無し。  ……漂流物は?  無し。  ……鳥や魚の妙な動きは?  無し。  全て「無し」と応《こた》える他なかった。クルーザーは帆をおろし、海面を乱すことなくきれいに浮かんでいただけだ。  第三管区海上保安本部は、羽《はね》田《だ》の航空基地に連絡を入れ、その海域に向けてすぐに飛行機を飛ばすことにした。飛行機が到着するまでの二、三時間、第七若潮丸は、その場を動くことなく、無人のクルーザーを見張っていなければならない。  十九人の乗り組み員たちは、事の成り行きに二通りの反応を示した。日本を間近にして足止めを食い、苛《いら》立《だ》ちをあらわにする者。降って湧《わ》いた奇妙なクルーザーに興味を示す者。和男はといえば、後者のほうだった。いつか豪華クルーザーで外洋を航海したいと願う和男にとって、目前に現れた優雅なヨットは、夢の実現の予兆と思われた。できるものなら乗り込んでみたい、彼は強くそう感じていた。  待つこと二時間半で、飛行機の爆音が聞こえ始めた。海上保安庁が差し向けたものだ。第七若潮丸上空を何度か旋回し、漂流者等のいないことを確認するや、飛行機は三十分程で来た方向へ去っていった。  そうして、再度、第七若潮丸と第三管区海上保安本部は電話でつながれた。この後の処理をどうすべきか、話し合うためである。第七若潮丸の義務は、遭難したらしい漂流船を発見し、海上保安庁に連絡を入れた時点で終わっている。海上保安庁は飛行機を飛ばし、連絡に間違いないことを確認したが、その間も第七若潮丸は現場を監視し続けた。これ以上どんな強制力も受ける余地はなかった。  だが、現実問題として、漂流船を放ったままこの場を去るわけにもいかない。海上保安庁から派遣される巡視艇が、どこをさまようかも知れぬ無人の漂流船をそう簡単に発見できるはずもなく、海上保安庁としては、巡視艇が到着するまでの間、第七若潮丸に現場で監視してもらいたいというのが本音だ。  海上保安庁がやんわりとそう申し出ると、高木船長はしばらく考えた。海上保安庁の申し出を、拒否することは簡単だった。こちらとしても帰港を急いでいる。母港を目前にして何日も足止めを食えば、船員たちの不満は膨れ上がるだろう。船長としてもっとも気を遣うのは、船員たちの苛立ちや不満をどううまく押さえるかだ。  だが一方で、第七若潮丸はニュージーランド沖で二人の落水者を出すという失態をやらかしていた。一人は助かったが、一人の命は失われている。単なる事故にせよ、帰港するやいなや海上保安庁から厳しい追及を受けるのは必至だ。ここは快く協力して、恩を売っておいたほうが得策ではないか。  高木船長は折衷案を出した。 「クルーザーを途中まで曳《えい》航《こう》しましょう」  第七若潮丸はクルーザーを曳航して北上し、下《しも》田《だ》を発って南下する巡視艇と連絡を取り合い、どこかで落ち合って引き渡そうというのだ。曳航することによって船の速度を五、六ノットまで落とさざるをえないが、巡視艇の到着を待って動かずにいるよりずっとましである。  その線で海上保安庁との合意が得られ、クルーザーを曳航することが決まると、和男はまっさきに船長に訴えた。 「いざというときのために、だれかひとりクルーザーに乗り込んだほうがいいと思うのですが」  確かに、曳航される船に人が乗り組んでいたほうが、いざというときに都合がいい。機関に異常がなければ、微妙な動きにも自力で対処できるし、問題が生じた場合、いちいちボートを下ろさずにもすむ。 「おまえが乗りたいんだろう」  高木船長は、和男の表情を読み取っていた。 「はい」 「いいだろう、乗れや」  嬉々として豪華クルーザーに乗り込もうとする和男に、高木船長は、ハンディトーキーを渡した。五十メートルほどの距離なら充分声は届き、無線より便利な代物である。  結局、クルーザーに乗り込むことになったのは和男一人であった。和男には、自分の他に名乗り出る者がいないのが、不思議でならない。航海当直ならいざしらず、帰途につくだけの船内で、やるべき仕事もないはずだ。四人部屋の二段ベッドで寝るより、クルーザーのキャビンで寝るほうがどれほど快適か知れない。ダブルバースで、身体を大の字に広げて寝ることができるのだ。  ボートからクルーザーに乗り移ると、ベテラン船乗りの上《うえ》田《だ》から水と食料を手渡された。平均年齢三十七歳の第七若潮丸の船員中、もっとも若いのが二十七歳の和男で、もっとも年寄りなのが五十九歳の上田だった。海の修羅場をくぐり抜けてきた上田は、気が知れねえよ、とばかりに皺《しわ》だらけの顔をしかめ、よく聞き取れぬ声で呟いた。 「……幽霊船だなんてよお、滅多にお目にかかれるもんじゃねえ」  その言葉は、和男の胸に引っ掛かった。  ……幽霊船。他のみんなは、このクルーザーのことをそんなふうに感じていたのか。  和男を好奇な視線で眺める同僚たちの胸の内を、彼はようやく理解した。だれ一人乗り込もうとしないのもうなずける。彼らは、憧れの豪華クルーザーとしてではなく、おぞましい幽霊船として、この船を見ていたのだ。  離れていくボートに目をやりながら、和男は初めて疑問を抱いた。  ……ところで、クルーザーの乗組員は、どこに消えてしまったのだろう。  それまで、和男は、単純にひとつの答えを導き出し、それ以外の可能性を考えようとはしなかった。  ……落水。  横波を食らったショックで複数が同時に落水したか、落水者を助けようとして次々に落水したか、いずれにせよ、乗組員は事故によって海に投げ出されたと、彼は考えていた。救命ボートは船に備えられたままで、使用された形跡はなく、従って、危機的な状況に陥り、救命ボートで脱出したという説も否定されていた。他の船員たちも皆、似たりよったりの落水説をとっていると、彼は思い込んでいたのだが、ここにきて初めて、もっと他の要因があったのではないかと、ふっと背筋の寒くなる感覚を覚えた。  ボートが収容されると、第七若潮丸はゆっくりと前進し、曳航用のロープはピンと張られていった。静かな海面を、クルーザーは滑ってゆく。和男は、しばらくの間デッキに立ち、第七若潮丸の船尾を名残惜しそうに見つめていた。去ってゆくわけではない。約五十メートル前方を先行するだけだ。ロープはバウクリートに結ばれている。話し相手が欲しければ、ハンディトーキーを使って気軽に話すこともできる。心配することは何もない。和男は自分に言い聞かせた。  西の海面に夕日が沈みつつあった。朱の色合いが、いつもと違うような気がする。どこがどう違うのか、はっきり説明できるわけではない。ふと彼は血の色を思い浮かべた。  今夜一晩、たったひとりクルーザーのキャビンで過ごすことになるのだ。うきうきとした気分は影をひそめ、代わりに二度ばかり、彼は大きく胴震いをした。  2  日が沈むと、和男はキャビンに降り、ゴブラン張りのシックなソファに深く座って、テーブルの上に両足を投げ出した。クルーザーのオーナーになった気分である。メインキャビンのソファは、十人が優に座れるスペースがあった。ふと彼は、このクルーザーには何人のクルーが寝られるのか気になり、調べてみることにした。  フォア、メイン、アフトに各二人ずつ、計六人分のバースが用意されている。その他にも予備のパイプバースが二人分あり、最大八人までが快適な睡眠を得られる設計だ。さっと眺め渡し、和男は、今晩を過ごすべきバースを決めた。アフトにあるオーナーズルームだ。バースは広く、ベッドのクィーンサイズはある。文字通り大の字で寝られる広さだ。寝るにはまだ早い時間だったが、彼は試しに横になってみた。  背面をぴったりとバースにつけ、じっとしていると、波をかき分ける船底の振動を肌で感じ取ることができた。凪《なぎ》でよかったと、つくづく思う。波が荒ければ、かなり揺れるに違いない。  ゆったりした姿勢で横たわり、身体がリラックスしてゆくにつれ、久しぶりで性衝動が湧き上がった。だが、そんな衝動も束《つか》の間《ま》、和男は、反射的に上半身を起こして耳を澄ましていた。なにか、人の声に似た物音が聞こえたような気がしたのだ。メインキャビンからのように思う。だが、この船には和男以外の人間はいない。  和男はキャビンに戻り、不審気にあたりを見回した。ギャレーの下には冷蔵庫があり、その後ろのほうで電気が唸《うな》り声を上げている。なんだ冷蔵庫の音かと、和男はほっとしてそのドアを開けた。中には、白ワインが何本か冷えている。飲みかけのものもあったが、新しい一本のコルクを抜き、瓶に口をつけてラッパ飲みした。グラスを使う気にはならない。  冷えたワインを味わうのは何年かぶりだ。マグロ船には白ワインなどという気の利いた酒は置いてなかった。ほとんどが度の強い焼《しよう》酎《ちゆう》 である。そのせいか、ワインのうまさが格別に感じられる。  半分ほど飲み干し、腹から身体のすみずみに心地いい酔いが浸透すると、和男は落ち着いた気分になった。  ……一体、この船で何が起こったのだろう。  幾度も頭に上ってくる疑問だった。クルーザーに乗るのがまったく初めての和男には、航海中に起こり得る事故をあれこれ想像するのは難しい。クルー全員が同時に落水するという偶然が、現実に起こり得るものかどうかさえ、彼には判断できなかった。  ……幽霊船。  考えるたびに、同じ言葉を思い浮かべてしまう。  和男は、子供の頃に幽霊船の話を読んだ記憶がある。百年以上も前に起きたマリー・セレスト号の事件はあまりに有名だ。  あるイギリスの帆船が、大西洋上で不審な動きをする帆船マリー・セレスト号を発見し、船内を調べてみることにした。ところが、乗り組んでいるはずの、船長の家族と七人の船員の姿が見当らない。今まさに食事をとろうとしていたところらしく、食堂のテーブルにはコーヒーカップやパン、玉子などが並んでいる。食料も飲料水もたっぷりと残されているし、帆の一部が裂けているだけで、船にはどこといって故障した個所はない。ついさっきまで、キャビンには人間がいて、洋上の生活を満喫していた痕跡はあちこちに見受けられる。にもかかわらず、人間だけがすうっと煙のように消えてしまっていた。一八七二年に起こったこの事件の謎《なぞ》は現在に至っても解き明かされてはいない。  子供心に、和男はこの謎に挑戦しようとした。船内で喧《けん》嘩《か》が起こり、互いの身を海に投げ合った結果、だれもいなくなってしまった。船内で流行した伝染病を恐れ、船員たちはとるものもとりあえずボートで脱出し、運悪くボートは転覆してしまった……、その程度の推理ならすぐに頭に浮かんだ。しかし、色濃く漂っている生活の匂いを、どう解釈していいかわからなかった。喧嘩や伝染病にしろ、そういった騒動などなにもなかったといわんばかりに、食堂のテーブルには食事が整然と並べられている。これをどう解釈すべきか……、結論には至らず、和男は、疑問を放り投げる他なかった。  マリー・セレスト号と同じく、クルーザーのキャビンは整然としている。食事の用意こそされてないが、清水も燃料も充分に残っていて、破損個所はどこにもない。オーナーはよほどのきれい好きらしく、キャビン内は整理整頓が行き届いている。乗船していたのが一家族四人であったせいか、スペースにかなり余裕があり、各自の荷物はロッカー内に収納されていた。  航海日誌によれば、クルーザーがホームポートのベイサイドマリーナを発ったのが六日前。航海の様子が子細に記された航海日誌は、四日目で突如終わっている。つまり、今から二日前、この船にのっぴきならない事故が発生したことになる。そのあたりの事情は、曳航を始める前にざっと調べ、海上保安庁にも知らせたはずであった。だが、和男は、航海日誌に書かれてある具体的な内容を、まだ読んでなかった。  チャートテーブルに置かれた航海日誌を取ってソファに腰をおろし、ワインの残りを飲み干した。  皮の表紙にはクルーザーのオーナーの名前が記載されている。 「艇長、善《よし》国《くに》孝《たか》之《ゆき》」  ページをめくってみる。日誌は、ホームポートを発った日から始まっていた。 「七月二十一日 金曜日  快晴。  東京湾はベタ凪《な》ぎだが、行き交う船のたてる引き波で、ときどき思わぬ方向に揺れる。  息子も、娘も、学校は夏休みに入った。毎年恒例の、夏のクルーズにいざ出発。  子供たちは大喜びだが、妻だけは浮かぬ顔をしている。お嬢様育ちの妻は、上げ膳《ぜん》据え膳の大名旅行が好みらしく、深夜ワッチに立たなければならない外洋クルーズは、きつく感じるらしい。日焼けを嫌って、デッキに立つときはいつも大きな麦わら帽子を被っている。ヨット乗りらしからぬ格好だ。  しかし、二人の子供たちは立派にヨット乗りとして成長しつつある。長男の尚《たか》久《ひさ》は、五月に行われた全国高校選抜ヨット選手権スナイプ級で優勝するという快挙をなし遂げ、長女の洋子も小学生ながらホビークラス・オープンレガッタに参戦し、総合三位の好成績を上げた。といっても参加艇は全部で四艇であったが……。  ふたりの子供たちはもう立派なクルーであり、わたしの片腕である。妻があてにならないぶん、子供たちががんばってくれれば、かなり遠洋までの航海が可能だ。  というわけで、今回のクルーズは日程を大幅に延ばし、およそ十日間で、鳥島をぐるりと回航してくる予定だ。本当は小笠原まで行きたいところなのだが、それは来年のお楽しみにとっておいたほうがいいだろう。………………」  ここまで読んだところで、和男の脳裏にはオーナー一家のプロフィールがかなり明確に頭に浮かんだ。高校生の息子と小学生の娘がいることから、オーナー夫婦の年齢は四十代であろうと予測がつく。高校生の息子はヨット部に所属し、小学校の五年か六年であろうと思われる娘もヨットに夢中。そして、育ちのいい妻だけが、海に出るのに難色を示す。文面からは、経済的になに不自由のない、絵に描いたように幸福そうな家族の肖像が浮かび上がる。父親の職業は何だろう。この時期にまとめて十日以上の休日が取れ、しかも豪華クルーザーを維持できるとなれば、普通のサラリーマンとは考えにくい。企業のオーナーか自由業といったところだ。  さらに航海日誌を読みすすむにつれ、和男は、妬《ねた》みを通り越し、妙にすがすがしい気分になっていった。妻への愛、子供たちへの愛をこうもあからさまに書き連ねてある文章を読むと、オーナーの恵まれた環境を羨《うらや》むどころではない。逆に晴れやかな気持ちになってくる。和男の育った海辺の漁師町では、絶対に見ることのできない家族だった。両親は常に喧《けん》嘩《か》が絶えず、クルーザーどころか自家用車も持てないような貧困家庭で、和男は育った。四人兄弟の上から二番目。勉強にしろ、スポーツにしろ、親からは何ひとつ期待されなかった。ほめられた覚えもない。家族みんなで温泉に一泊旅行をした経験もない。このオーナー家族が実現している家族の理想を、どれひとつとしてかなえてはなかった。いや、というより、オーナー家族が全てを満たし過ぎているのだ。  だが、そんな楽しげな航海も、三日目になってちょっとした波乱が起きた。いや、波乱というのはオーバーかもしれない。父親の抱いた嫌な予感が、文面から読み取れるといった程度だ。 「七月二十三日 日曜日  曇り、時々雨。  ………………、  ………………、偶然かどうかはわからない。ただ、海の上でこんな話を聞かされると、あまりいい気持ちはしないものだ。できれば、夢を見たこと自体、黙っていてもらいたかった。  洋子が、昨夜見た夢の話をすると、妻ははっとして口をつぐんでしまった。妻はこの手の話に弱い。きっと妻もまた同じ夢を見たに違いない。  わたしもたぶん同じ夢を見たような気がする。あやふやな表現を使わざるを得ないのは、夢の内容をはっきりと覚えてないからだ。洋子の話を聞いているうち、自分も同じ夢を見たような気分になってしまっただけなのかもしれず、断定はできない。  なす術《すべ》もなく、愛する家族が海で溺《おぼ》れるのを眺めるのは、実に嫌なものだ。しかも、手には、つき落としたときの感触が残っている。なぜ、願望とは裏腹の、あんな嫌な夢を見るのか。恐怖なのかもしれない。愛する者を失いたくないという恐怖に縛られるあまり、その最悪の姿を垣《かい》間《ま》見てしまうのかもしれない。そう解釈して、夢の話はおしまいにしたいところだ。ああ、二度と思い出したくもない。…………」  書かれてあることの意味はすぐに理解できる。昨夜見た夢の話になったとき、家族全員が同時に、同じ夢を見たことが知れたのだ。しかも、夢の内容はどうも自分の手で他の家族を海に突き落とすものらしい。  航海日誌には、その後延々と順風満《まん》帆《ぱん》な航海の様子が描かれている。不吉な夢を吹き払うような、わざとはしゃいだ調子があり、和男は急いで読み飛ばしていった。 「七月二十四日 月曜日  晴れ、Nの風三、四メートル。  気温三十度。  …………  洋子がまた妙なことを言い出した。あいつの癖にも困ったものである。自分が変な能力の持ち主であると信じ込んでいるのではないか。この手のよた話が学校で流《は》行《や》っているに違いない。夏休み前の臨海学校で他の生徒をおどしたのだろう。想像はつく。洋子が泊まったのは四人部屋のはずだ。夜になって、あいつはこんなふうに言う。 『この部屋にはだれかいる』  もうひとり、五人目の『何か』が部屋に潜んでいると仄《ほの》めかし、同室の生徒たちをびっくりさせた。そして、同じようにわたしたちをおどかそうとしたのだ。洋子のやりそうなことである。  でもね、洋子、よくお聞き。この船の上にいるのはわたしたち四人だけだ。五人目の人間などどこにもいやしない。去年パパのお友達のクルーを同船させたところ、おまえは嫌がった。いい人なんだけど気を遣って疲れる、ってね。だから今回は家族だけの航海にした。わかったね、ここにいるのはわたしたち家族だけ。おまえがそう望んだのだから…………」  時間が明記されてなかったが、この文章が書かれたのは夜だろう。というのも、日誌は、次の文章で唐突に終わっていたからだ。 「……、明日の朝には、鳥島の南の沖合いをぐるりと回航できる。天気は上々、穏やかな航海を神に感謝しなければならない。おや、今、だれかの悲鳴が聞こえたようだ。この時間、ワッチに立つのは尚久だが、たぶん鮫《さめ》の背ビレでも目にしたのだろう。月の光の中で、あんなものを見ると、あまりぞっとしないからな。そういえば、今日の夕刻、」  書きかけのままふと何かに気を取られ、席を立つような格好で日誌は終わっていた。  これを書いている時、息子の尚久はワッチに立ち、妻と娘は眠っていたと思われる。そんな中、父親は、娘の言動を思い出しながら書いたのだ。娘は、この船には自分たち以外の『何か』が乗っていると、父親に訴えたらしい。だが、たわいもない戯《ざれ》言《ごと》と父は相手にせず、日誌の上でやんわりとたしなめている。普段から、娘は、オカルトめいたことを口にしやすい質《たち》なのか。  和男は、皮の表紙を閉じ、航海日誌をテーブルに投げ出した。記述通りだとすれば、七月二十四日、つまり一昨日の夜、ちょっとした事件が起こったことになる。その夜のうちに四人は姿を消してしまったのか、それとも翌朝になって落水事故が起きたのか、はっきりしない。ただ、読み終わってふたつだけ気になった。四人が同時に同じ夢を見たらしいこと。船内に、家族以外の何者かの気配があったらしいこと。そのふたつを除けば、順調な航海の様子を克明に記した、ごく普通の航海日誌であった。  和男は冷蔵庫から二本目のワインを取り出した。もう少し酔わなければ安らかな眠りは訪れそうになかった。  3  和男は今、自分が夢を見ているということを意識していた。だが、目覚めることもなく、彼は海水に洗われる岩の上にしゃがんで、足元の蟹《かに》を握《にぎ》り拳《こぶし》大の石で叩《たた》き潰《つぶ》している。叩いても叩いても蟹は海から顔を出し、和男の足から這《は》い上がろうとした。石を当てると、まず甲殻が潰れる堅い手《て》応《ごた》えがあり、そのあと不気味に柔らかな手応えが続いた。岩の上は潰された蟹だらけで、地肌はほとんど隠れてしまっている。強迫観念に駆られて蟹を殺しまくる自分を眺める視線を、和男は、背後に感じた。覚めた自分の意識が、夢の中の自分を眺めているのだろうか。いや違う。視線には、無意味な殺生に駆りたてる、強い意志が込められている。だから和男は、石を振り上げる他なかったのだ。  やがて、生きている蟹は、一匹残らず岩の上からいなくなってしまった。だが、殺し尽くそうという衝動はなくならない。衝動の捌《は》け口《ぐち》をどこに求めればいいのか。見られているという感覚はいよいよ強く、視線に促され、その期待に応えるように、和男は石を高く振りかざして、自分の足の甲を打ちつけた。皮膚が破れ、骨の砕ける鈍い音が、身体の内側から湧き上がってくる。痛みはなかったが、自らの肉体を砕くという行為は恐ろしいほどの苦《く》悶《もん》を産む。何度も何度も、両足の骨が粉々になるまで石で殴り続け、その責め苦の中、和男はようやく目覚めた。  両目を開け、天井を仰ぎ見たまま、和男は、はっとして呼吸をとめていた。蟹の死臭をあたりに撒き散らしたまま、夢の情景はすっと遠のき、入れ替わるように、船の揺れや波切り音等、現実の世界を取り巻く状況がクローズアップされていく。どことなく以前と違うように感じられた。悪夢にうなされた結果の目覚めであると同時に、船乗りとしての本能が異変を嗅ぎ取っての目覚めでもあった。夢の内容など瞬時に忘れ、今、和男は全神経を集中させて、船の動きを探っている。眠る前の動きと微妙に違うように思う。  起き上がってキャビンに行き、そこで呼吸を整えた。落ち着けと言い聞かせながら、時計を見る。針は、午前零時半を指していた。三時間ばかり寝た勘定だ。心臓の鼓動が激しい。船の行き足が止まっていると思えてならなかった。  キャビンからコックピットへ出るには、階段を五段上がるだけだ。背の高い和男は、前かがみの姿勢で急いで駆け上り、ハッチを開けて外に出た。眠りにつく前に航海灯が点灯しているのを確認したはずだが、それが消えていた。チーク張りの広々としたデッキを照らすのは、月と星々の明かりだけだ。そうして、すぐ前方にあるはずの、第七若潮丸の船尾が見えない。  ……そんなばかな。  和男は我が眼を疑った。四方を見渡しても船の影はどこにもなく、空と海とを分かつ線は濃い闇となって周囲を取り巻いている。深夜、たったひとり、洋上に取り残されてしまったのだ。喉《のど》の奥からすっぱいものがせり上がってくる。  這《は》うようにして、和男は、船首のほうに進み、第七若潮丸からのロープがもやわれていたはずのバウクリートを調べた。ロープは消えている。バウクリートから解けてしまったらしい。和男は、唾《つば》を飲み込んでいた。絶対に有り得ないことだった。ロープを結んだのは素人ではない。ベテラン船乗りはだれもロープワークには長《た》けている。バウクリートにクリート結びでゆわえつけ、さらに二重三重に巻き付けたロープが、自然に解けるわけがない。曳航が始まってからも、その点は何度も確認した。和男に恨みを持つ船員が、自然に解けるように細工をしたとは到底考えられない。では一体だれがやった? この船には他にだれもいないはずだ。それとも、自分でやったのだろうか。漠然としていた。和男は両手を広げてみる。何者かに促されてロープを解く自分の姿を、どこか遠くのほうから見たような気もする。やはり夢の中のワンシーンなのか。  航海日誌に書かれた内容が、ふいに脳裏に閃《ひらめ》いた。  ……この船にはもうひとりいる。  予感というより、確かな気配があった。見られているのだ。船のどこかに身を潜め、じっと動向をうかがうものがいる……。  跳び退《の》くように、和男は前後左右を見回し、悲鳴を漏らした。しかし、どんな大声を上げても無駄だ。目の届く範囲には一隻の船も見当らない。  怯《ひる》んでいる暇はなかった。至急連絡を取らねばならない。和男はキャビンに戻ると、ハンディトーキーを手に取り、通話ボタンを押した。 「もしもし、応答願います」  返事はない。ロープが解かれたのが二、三時間前なら、第七若潮丸との距離はかなり開いてしまったことになる。遠すぎて電波が届かないのだ。何度試みても、無駄だった。ハンディトーキーは使い物にならない。だが、諦め切れず、和男は声を嗄《か》らして叫んだ。 「応答願います、応答願います」  和男は耳を澄ませた。手に握り締めたハンディトーキーの、奥の奥のほうから、小さく音が聞こえたような気がした。ジジッジジッと雑音とも判別できぬ音が、言葉らしきものを形成する直前、和男は反射的にハンディトーキーを床に投げつけていた。だが、一瞬遅く、雑音は言葉を脳に伝えてきた。 「叩《たた》き潰《つぶ》せ」  そんな意味に受け取れた。深い海の底からのメッセージらしく、湿った暗い響きを伴っている。和男は、混乱をきたした。ヒステリー状態に陥る一歩手前だった。  罵《ば》詈《り》雑《ぞう》言《ごん》を浴びせかけ、自分のたてる物音に勇気を奮い起こし、どうにか無線機の前へと身体を移動させた。  ……惑わされるな!  強く自分に言い聞かす。  ……神経がおかしくなっているだけだ。今、とりあえずやるべきは、第七若潮丸と連絡を取ることだ。  無線機を正確に操作できる自信はなかったが、触っているうちなんとかなるかもしれなかった。だが、スイッチをオンにしても、電源が入らない。背後を探ると、バッテリーと接続するコードが切られている。故意にやられたものだ。  ……なんてこった。  連絡手段は全て断たれた。  ……落ち着け、落ち着くんだ。  冷静さを失えば、かならずミスを犯す。ゆっくりと、落ち着いて考えるのだ。焦ることはない。いずれ第七若潮丸の当直は、曳航しているクルーザーが消えたことに気付く。いや、もうとっくに気付いているに違いない。とすれば、必ず引き返してくる。今頃、水平線上に姿を現しているかもしれない。  和男はコックピットから顔を出し、北の方角を眺めた。船影はどこにもなかった。耳を澄ましても、懐かしい汽笛の音は聞こえない。  まだ気付かれてない可能性を、和男は思い浮かべた。ワッチに立つ人間が警戒するのは前方だけの場合が多く、後方を見張ることはあまりない。曳航中ではあっても、長年の癖は抜けないものだ。第一、繋《つな》いであるロープが解けようなどと、だれが想像しようか。しかも、クルーザーの航海灯は消えたままだ。発見されるのは、朝になってからかもしれない。  日が昇るまであと数時間。しかし、その時間のなんと長いことか。それまで、船を被う異様な気配に耐えられるかどうか、和男は自信がなかった。船乗りの例に漏れず、和男は迷信の類を信じるほうだ。今なお自然の力に支配される海に出れば、人智で計り知れない出来事に幾度か遭遇する。陸にいるときよりも、超常現象に出合う機会はずっと多い。  もはや疑う余地はなかった。オーナーの家族がなぜ消えてしまったのか。単純な事故ではなく、もっと理解を超えた力が働いたに違いない。夢で見たとおりのことが行われたのだ。邪悪な力に駆りたてられ……。そうして、その力は、今この瞬間、和男にも及ぼうとしている。 「助けてくれ」  和男は祈った。信じるべき神を持たぬ彼ではあったが、そうしなければ恐怖に負けてしまいそうだ。  なにか理由があるはずだ。和男は、なるべく論理的に考えるよう努力した。考え、行動することによって、気を紛らせるしかない。  ……もともとこの船は呪《のろ》われていたのか?  いや、違う。今度の航海の途中で何かが起こった。  ……それはいつだ?  和男は、航海日誌を持ってきて、ページをめくった。七月二十三日の夜、家族はみな同じ夢を見て、翌日には娘の洋子が何者かの気配を感じている。ということは、二十三日以前に、何かを拾ったことになる。「拾う」という言葉が、いともあっさりと彼の口をついて出た。そう、彼らはまさに災厄を拾ったのだ。航海日誌にそういった記述はあっただろうか。どこか引っ掛かるものがある。ほんの些《さ》細《さい》な出来事のため、書き手である父親自身さっと書き飛ばし、読むほうも注意を向けなかった。  和男は慌ててページをめくり、その個所を捜した。海でなにかを拾った……、確か、そんな件があった。 「これだ!」  日付は七月二十三日、となっている。時間はたぶん昼頃だ。 「…………、  洋子の癖にも困ったものだ。貝殻と見るとすぐに拾ってくる。しかし、なぜこんなものが海に流れているのか、考えてみれば不思議だ。二枚貝に似た手の平サイズの貝殻はガラス瓶の中にすっぽりと収まり、コルクの栓がしてある。ビンの入口より大きな貝殻を、損なうことなく、どうやって中に入れたのだろうか。まさかビンの中で成長したわけでもあるまい。  捨てろ、といっても聞かず、洋子はどこかに隠してしまった。『わかんない場所に隠しちゃったもん』と、洋子は言う。見つかれば捨てられると危《き》惧《ぐ》してのことだ。でもパパはそんなことはしない。洋子の宝物を勝手に捨てるわけがない。たとえ、あんな貝にしてもだ。洋子は不気味に思わないのだろうか。貝の模様は、なんだか目に似ている。ビンを高くかかげて観察すると、こっちが見られているような、ぞっとした気分になってくる。  そう、あれはどう見ても『目』だ。普通なら半分に割れた貝殻の内側は、つるりと真珠色に輝いているはずだ。しかし、あれの両側からは肉片が盛り上がっていた。貝柱とも異なる、赤い毛細血管の浮き上がった肉。水晶体とゼリー状の角膜は褐色に濁り、全体はいびつに歪《ゆが》んでいる。腐ったマグロの目に似て、邪悪な意志を発散しているようにも思える。不吉な眼《まな》差《ざ》しというべきか。やっぱり捨てよう。いくら洋子の宝物であっても、あればかりはどうにも我慢ならない。しかし、洋子の奴、一体どこに隠したものか……」  二十三日の昼頃、波間に漂う小瓶を、娘は拾い上げたのだ。中には二枚貝に似た、貝殻が入っている。しかも、その模様は『目』にそっくりだという。  ……間違いない、災厄の源はこれだ。  問題は、娘がそれをどこに隠したかだ。早急に発見しなければならない。見つけてどうするのか。もちろん、元どおり海に流す。  アフトバースが夫婦の寝室ならば、子供たちはフォアバースを使用したに違いなかった。和男は、背後を気にしながら、フォアバースのロッカーを探っていった。  すうっと意識の飛ぶ感覚があった。ふと気付くと、ロッカーのノブに伸ばした手を、他人ごとのように見つめている。手は、自分の身体から離れてしまった器官のようだ。微妙に動くその手を、叩き潰してしまいたい衝動に駆られた。動くもの全て、生きているもの全てを、抹殺してしまいたい……。どこからともなく降り注ぐ視線が、そう働きかける。  唸《うな》り声を上げてのけぞり、和男は衝動と戦った。早くしなければ、負けてしまう。負ければ、夢で見たと同じことが起こるだろう。  フォアバースだけでなく、メインキャビンもアフトバースも、物の隠せそうな場所はすべて調べた。だが、どこにもビン詰めの貝殻は発見できない。 「あのガキ、どこに隠しやがった!」  怒りは理不尽な方向に向けられ、和男は、ことさら乱暴に船内を荒らし回った。  いつの間にか、右《みぎ》肘《ひじ》から血が流れていた。乱暴な行為の中、テーブルの角にでもぶつけたのだろうか。あるいは、わざとそうしたのか、記憶はない。数秒前の記憶にも靄《もや》がかかっている。左手で生暖かなぬめりに触れ、目で血の色を確かめると、動転して彼はますます暴れ回った。小瓶を捜すための行為なのか、自分を傷つけるための行為なのか、もはや区別はつかない。割れたワインボトルの破片で脛《すね》を切り、流した自分の血に滑って尻を強く打った。  しかし、どうしても小瓶は見つからなかった。  ……ここにいてはだめだ。  和男は、脱出を思いついた。どちらがより安全か、比べている余裕はない。とにかくここにいてはだめだと、彼は呪《じゆ》文《もん》のように唱え、懐中電灯を持ってデッキに出た。  外に出れば回りは海。身を投げ出そうとする衝動に堪えなければならない。  ……逃げるのだ。  彼は、コックピット後方に格納されてある救命ボートを求め、デッキを懐中電灯で照らしながら進んだ。そこに救命ボートがあることは、曳航が始まる前に確認してあった。  祈るような気持ちでロッカーを開け、目当てのものを発見すると、和男は安堵の溜め息をついた。最後の望みはこれだけだ。朝になれば、海上保安庁は再度飛行機を飛ばしてくるだろう。救命ボートは上空からも目につきやすいよう、鮮やかな塗装が施されている。きっと発見されるはずだ。火炎信号弾も数本備え付けられている。  和男は、デッキの端に救命ボートのコンテナを乗せ、説明書通りにタグを引いた。すると、ゴム製のボートは静かな音をたてて膨らみ始めた。細いロープでもやった上で、ボートを海に降ろし、乗り込む前にもう一度あたりを見回す。ロッカーの中には、『装備袋』と記された防水性の袋が三つほど転がっていた。ボート内に常備される緊急品を補うため、オーナーが自前で用意したものらしい。たぶん水や食料が入っているだろうと、念のため三つともボートの中に放り投げ、続いて和男も飛び乗った。  波がないせいか、一連の作業は思ったより楽にこなすことができた。円形のボートは直径二メートルもなく、六人乗りと記されている。だが、ひとりでも狭いくらいだ。  最後にもやい綱を放つと、ボートはゆらゆらとクルーザーから離れていった。呪われたクルーザーが徐々に遠ざかるのを眺めても、ほっとした気分にはなれなかった。ゴム製ボートの頼りなさが、不安をもたらすに違いないと、和男は解釈した。両足を投げ出すと、尻に海水の動きが伝わってくる。クルーザーに比べれば、ボートはまるで木の葉のような代物であった。  クルーザーとの距離は数十メートルに達していた。見られているという気配は、もっと薄まっていいはずだった。だが、薄まるどころか、気配はますます濃くなったように思われる。アドレナリンの分泌が激しい。和男にはもう逃げ場はなかった。ボートの外に待つのは死のみだ。  クルーザーとの距離が完全に離れ、闇に紛れて見えなくなると同時に、和男の思考回路は断たれた。朦《もう》朧《ろう》として、自分がどこにいるかすら把握できない。頭の中では、無数の人間が会話を交わしている。支離滅裂で、株式市場に飛び交う怒号のように聞こえた。無数の声は、やがてひとつに合わさり、背後から働きかけてきた。和男は両手を海面下に差し入れ、海水をすくって額を濡らした。ボートから身を乗り出し、顔を水につけて海の中を覗いてみる。夜の海の底には果てしない暗黒が渦《うず》を巻き、見つめているうち呑み込まれそうになった。  結局、和男は気付くことはなかった。娘がどこにガラスの小瓶を隠したのか。救命ボートのすぐ横に置かれた装備袋の中に、娘は貝殻の入った小瓶を仕舞い込んでいたのだ。それは、和男の手によってボート内に放り込まれ、今、ゴムの床とチューブの隙《すき》間《ま》にすっぽり挟まっている。銀色の袋の中、水や缶詰と混じって『目』はじっと息を潜めていた。 ウォーター・カラー  1  夏の終わりの夕方、芝《しば》浦《うら》運河にかかる橋が風のせいで揺れていた。運河の両側には、新旧入り乱れてビルが立ち並び、その合間を縫って風が強く吹き込んでくる。橋の中央に立って視線を南にずらすと、手前から三番目のビルの背後から側面にかけて、壁面が墨を流したように黒くすすけているのがわかる。年月を経ての汚れなのか、人工的なデザインなのかちょっと判断がつきにくい。  一昨年の夏まで、この七階建てのビルの三階、四階、五階には、『メフィスト』という名のディスコが入っていた。各フロアーごとに入口は別になっていて、客はその時々の気分や好みに応じてフロアーを選んで入店するシステムの店だ。階が上にいくほど、音楽、ファッション、インテリアとも過激になり、五階のフロアーで踊るのは、黒のボンデージファッションに身を包んだ半裸の女性ばかりで、ほとんどの男性客はその陶酔の輪に入り込めず、見物の側に回るほかなかった。  当時、この界《かい》隈《わい》を少し歩けば、ボンデージファッションに身を包んだ若い女性を必ず何人か見かけたものだ。彼女らは、ディスコで踊るそのままの服装で街を歩き、電車に乗るときは軽くコートの類《たぐい》を引っ掛けて露出した肌を隠した。  下着同然の女性たちの姿は、バブルの崩壊とともに街のどこかに消えてしまった。どこに消えたのだろう。少なくとも、そのうちのひとり、菊《きく》池《ち》紀《のり》子《こ》が辿《たど》り着いた場所は判明している。彼女は舞い戻ってきた。紀子は、『メフィスト』で踊り狂うことによって自己表現の楽しさを知り、小劇団の女優へと転身し、かつて一世を風《ふう》靡《び》した同じビルに戻ってきた。  東京には無数の小劇団がある。その数、三千ともいわれているが、正確な数字を把握するのは不可能に近い。プロデュース公演のように、公演のたびに集合離散を繰り返す集団が多く、数えるたびにその数は変わってくるからだ。  小劇団の多くは、観客動員数三百にも満たない、仲間を集めて芸を披露するといった程度のものであるが、その中からは、ときとして紀《き》伊《の》國《くに》屋《や》ホールや本《ほん》多《だ》劇場に到達する劇団も出てくる。小劇団に関わる者にとって、その規模の劇場で公演を打つのが、最初のゴールであった。  紀子の属する劇団『海臨丸』は、ゴールを目前にした、上り調子の劇団だった。先の公演では観客動員数千五百人を超え、今度の公演で二千人を超えれば、紀伊國屋ホールへの切符は手に入れたも同然と見られていた。超人的なエネルギーを持つ主宰者兼演出家、清《きよ》原《はら》健《けん》三《ぞう》に、劇団員はそれぞれの夢を託していた。劇団が大きくなれば、マスコミの目に触れる機会は多くなり、役者として成功する可能性は高くなる。劇団員の将来は、清原の手腕にかかっていた。  今回、清原が芝居を打つ小屋として選んだのが、芝浦運河と首都高速一号線に挟まれたビル、一昨年まで『メフィスト』があった場所である。照明や音響等の設備はそのまま残されていて、芝居小屋として使ったとしてもそう不自然さはない。ディスコがつぶれてからは、小さなイベントホールとして貸し出されるぐらいが関の山、本格的な芝居の公演など皆無の場所だ。公演を打つのはかなりの冒険に違いなく、主だった劇団員の何人かは強硬に反対した。しかし、ビルの構造をうまく利用した舞台セットや、重層的な芝居の構造など、脚本のアイデアを聞くに及んで、劇団員たちが抱いていた危《き》惧《ぐ》は逆に感服の声に変わった。難しいけれど、やるだけの価値はある。一同そう判断したのだ。  清原は常に新機軸を打ち出した。小屋の形状が変われば、自然に脚本の内容も変わり、同時に演技も変わるというのが彼の持論だった。十回以上も公演を重ねれば、どんな劇団でも大概はマンネリに陥るところだが、劇団『海臨丸』だけはその難を逃れていた。常に新しさを求める清原のヴァイタリティによるところが大きい。  だが、舞台は水もの、ふたを開けるまではわからない。清原を始めとする劇団員たちは、不安と期待の入り混じった顔で、初日のステージを迎えることになった。目《もく》論《ろ》見《み》が当れば、一気に紀伊國屋ホールのステージに到達できるが、失敗すれば、ゴール目前にして何回か足踏みをすることになるのだ。  2  ビルの三階と首都高速道路はほとんど同じ高さにあり、トラックが走り抜けるたび、震動はビルにも及んだ。轟《ごう》音《おん》は、客席に侵入したが、ステージに見入る観客たちは気にもとめず、役者の演技を見守っている。  演出家である清原もそのなかのひとりだ。彼はいつも観客の視点からステージを眺め、ダメなところがあれば、幕が下りた後、役者に向かって容赦なく指摘する。ダメを出された役者は、もう一度役を考え直し、翌日には演技を変えなければならない。したがって、彼らの芝居は、初日から千秋楽まで休みなく変化する。二ケ月間の稽《けい》古《こ》を積み、完成したと思い込んでいた芝居が、初日でひっくりかえされることも珍しくない。客席からのフィードバックにより、より熟成させようというのが、清原の流儀だ。  ざっと見回したところ、初日のステージに空席はない。ディスコとして使用されていたスペースは、床面がフラットなため、客席にするには平板を積み重ねて、雛《ひな》段《だん》を作らねばならず、それだけでもたいへんな労力を要した。だが、苦労して作った客席が人で埋まれば、労は報われたといえる。このペースで客が入れば、楽日までの十五ステージで目標とする二千人は突破するに違いない。清原は、ステージに向けていた目を休め、やれやれと胸を撫《な》でおろした。  ステージ上では、電話のベルが鳴り、菊池紀子演ずるところの若い女性が、受話器に手を伸ばしたところであった。紀子は頭に三角頭巾を巻き、ディスコに通いつめていた頃には決して着なかったであろう、ジャージの上下に身を包んでいる。もう少しで受話器に手が届くという瞬間に、彼女は背後から男の声に呼び止められ、振り向こうとする。だが、そのとき、清原は感じ取った。稽古のときにはけっしてなかった、集中力がふっと横に逸《そ》れるような雰囲気が、紀子とその背後にいる役者の両者間に漂ったのだ。紀子は、受話器に伸ばしかけた手を一《いつ》旦《たん》自分の頬《ほお》にあて、目だけをわずかに上に向け、天井の一点を見た。その動きに合わせ、後ろにいた男も天井に視線をずらす。清原は驚いて、腰を浮かしかけた。天井からは水が滴り落ちていた。ポツポツと滴る水滴が、紀子の頬を濡らし、その思いもかけぬアクシデントに、役者の集中力は脇に逸れたのだった。  音効室の中で、神《かみ》谷《や》隆《りゆう》一《いち》は腐っていた。清原と意見の食い違いが出たため、直前になって役を降ろされ、スタッフに回されたのがまだ納得できない。表面上は、自分から役を降り、代役を務めていた後輩に役を譲ったという形を取っている。だが、劇団員は皆、真実を知っていた。ワンマンな主宰者である清原に逆らえば役を奪われる……、彼はその見せしめにされたのだ。  二ケ月間にわたって稽古を積み、役を完成させてきた苦労が水泡に帰すのは、役者にとって最悪の悲劇だ。スタッフに回れば、チケットのノルマがなくなり、逆にわずかながらギャラがもらえる。経済的な負担が軽くなることが唯一の慰めと、神谷なりに納得したつもりでいた。しかし、音効室の中で、ミキサー助手として、手持ち無沙汰に座っているだけの仕事には、心底うんざりしていた。  神谷は、客席の後ろに設置された音効室から、無気力な視線をさまよわせていた。音効室は一段高い場所にあって、ステージも客席もよく見渡せる。客席に座る清原の後ろ姿が目についた。百八十センチを優に越す長身、レスラーのように厚い胸板、おまけに脱色された長髪はうなじのあたりで束ねられている。舞台照明だけの仄《ほの》かな明るさの中でも、清原はすぐに判別できた。見下ろしているうち、神谷の視線には、憎しみが込められていった。役を奪い、自尊心をずたずたに引き裂いた男に対する憎しみ。だが、神谷は、清原の呪《じゆ》縛《ばく》から逃れることはできそうもない。  憎しみと畏《い》怖《ふ》の念、神谷が清原に対して抱くのは、その両方の感情だった。演出家としての清原の才能に見切りをつけられれば、神谷はとっくに劇団を退団していただろう。傲《ごう》岸《がん》不《ふ》遜《そん》な、人を人とも思わない態度は、もはや我慢の限界を越えている。にもかかわらず離れられないのは、手《て》応《ごた》えとしてはっきり感じられるほど、清原には演劇人としての才能があるからだ。  劇団『海臨丸』結成直後に入団し、五年たった今、神谷は中堅の劇団員として皆から認められる存在になった。退団して、他の劇団に入るとなれば、また一から出直し、研究生として始めなければならない。おまけに『海臨丸』は、紀伊國屋ホールを目前にしている。清原から、くそみそに怒鳴られようが、役を降ろされようが、じっと我慢するよりしかたがない。しかし、だからといって、憎しみは募る一方だ。  すぐ横に座るミキサーからの指示で、神谷は手元のスイッチを押した。すると、ステージでは電話のベルが鳴り始めた。ベルに反応して、紀子ははっと動きを止め、受話器に手を伸ばしかける。紀子は、顔の表情や手の動きで、不安と期待の入り混じった心情をうまく表現していた。神谷は彼女の一挙手一投足に見とれた。小ぶりで色白のコケティッシュな顔立ち。今はジャージの上下で身体のラインは隠されている。だが、役によってはステージで服を脱ぎ、整った肢体をさらすこともある。  神谷は、紀子が女優としてここまで成功するとは思ってもいなかった。ディスコ『メフィスト』で知り合った紀子を清原に紹介し、劇団に入団させたのは神谷だった。『メフィスト』の閉鎖により、自己を表現する場がなくなった彼女に、 「芝居にでも出てみない」  と、軽く声をかけた神谷ではあったが、それは単に、かわいい子をナンパするときの常《じよう》套《とう》句《く》に過ぎなかった。まさか、たった二年で劇団の看板女優にまでのし上がるとは思いもよらず、自分を押し退けて幅をきかす紀子に、今は複雑な思いを寄せている。神谷は一時期、本気で紀子を愛しかけた。だが、すぐに諦めることにした。なぜなら、清原と紀子が、ただならぬ関係に陥っていると、わかってしまったからだ。  清原は全ての劇団員を平等に扱うわけではなかった。下手な演技をして怒鳴られない人間もいるし、いい演技をしても怒鳴られてばかりいる人間がいる。どこでどう区別しているのか、その線は清原の胸のうちにだけしまわれていて、個人的な好き嫌いの差が出るのとは明らかに違った。だが、紀子は特別だった。稽古となると、紀子だけは特別の扱いを受けた。優しくされるのではない。背筋も凍るほどの虐待を受けるのだ。  罵《ば》倒《とう》されはしても、どの劇団員も清原から暴力を受けることはなかった。しかし、ある時期を境にして、清原は紀子にだけ凄《すさ》まじい暴力を振るうようになった。 「てめえ、なに考えてやがる!」 「芝居なんてやめちまえ!」 「そうじゃないって言ってるだろ!」 「裸になれ!」 「自意識を消せ!」  罵倒するだけではすまず、追いうちをかけるように、清原は紀子のもとに駆け寄り、足を払い、頬を張る。倒れ込んだ紀子は、目を涙で濡らすだけで、決して泣き声は上げず、きっと清原の顔を見据え、無言で演技をあらため、表現し直し、違うからと言われ、またぶたれる……、その連続だった。見ているほうが、もうやめてくれと悲鳴を上げたくなるほどの激しさだ。こんなことが半年も続けば、いくら勘の鈍い神谷であっても、ふたりの仲を察することができた。肉体的に結ばれ、互いを強く信頼してなければ、できるはずのない行為だと。激しくぶつかり合うのは、清原と紀子の魂と肉体、その両面における結合の強さの証《あかし》だった。  それが証拠に、稽古が終われば、一切後を引かず、清原と紀子は和気あいあいと話に夢中になった。ついさっきまで殴る蹴《け》るといった暴力に見舞われていた女が、清原の話にケラケラと笑い転げ、憧れに満ちた目で演劇理論を拝聴したりする。皆、暗黙のうちに了解していた。劇団員たちは、清原と紀子の噂ひとつするでなく、彼らの仲を了解したのだった。  初日のステージにむけて、清原に鍛えられてきた紀子が、今、その成果を客の前で表現している。紀子の表情が、一瞬凍りついたのを、神谷もまた見逃さなかった。音効室の高さからは、ステージ真上の天井を見ることができない。だが、紀子の仕草から、神谷は理解することができた。天井から滴り落ちる水滴が、彼女の頬を濡らしたらしいと。  3  客席で腰を浮かす巨体が、すぐに神谷の目についた。腰を浮かせかけ、清原はそっと後ろを振り返り、音効室のほうを見上げている。遠く離れていても、音効室のガラス一枚を隔て、神谷と清原は目と目が合った。  清原は顔と手をうまく使って、回りの客に悟られないよう、ステージの天井あたりに異変が起こったことを神谷に伝えた。ほぼ同時に異変に気付いていた神谷は、即座に清原の指示を察し、天井に向けて指を差す。そのジェスチャーを受け、清原は大きくひとつうなずき、苛《いら》立《だ》ちを押し殺したような顔を徐々に正面に向けていった。神谷は、清原の出した指示を理解したつもりだった。  上の階に一番近い位置にあるのが音効室である。ステージ中央の天井から水が漏れているとすれば、その対処にあたるには神谷がもっとも適している。  ……上の階に上って、水漏れの箇所を発見し、至急処置せよ。  清原の指示を神谷はそう解釈した。  ぐずぐずしている暇はない。役者ではあっても、小劇団の人間は皆、大道具も照明もこなす。だから、ことの重大さはよく認識できた。「水」というのは極めて危険なシロモノなのだ。客席からは見えないが、ステージには照明の配線がはりめぐらされている。コネクター部分が水に濡れれば、一系統が死んでしまう。ヘタをすれば、ステージ全体が真っ暗になる恐れもある。そんなことになれば、芝居はめちゃくちゃだ。  慌てて音効室を出たはいいが、神谷はそこでふと立ち止まった。どうやって上の階に上ればいいのか、その方法を知らなかった。一昨日、このビルに入り、ステージのセットを作り、客席を作り、照明や音響の配線を整えた。すべての作業に付き合ってきたが、上の階に上がる必要など一度もなく、上るための道順も確認してなかった。  もっとも近くにあって、外につながるドアは、非常階段に出るドアだった。神谷は鉄製の重いドアを開け、外の踊り場に出た。  ドアを開けたとたん、すぐ間近に、首都高速一号線を走るトラックの風圧を感じた。そこはまさに異空間だった。夜八時過ぎの首都高速は、ときに停滞し、かと思うとかなりスピードを取り戻したりする。手を伸ばせば届きそうな距離を、ヘッドライトの列が流れていたことに、神谷は驚かされた。彼はまた、ステージという異空間にどっぷりと浸っていたのだ。  円を描いて東京湾上に至るレインボーブリッジは、イルミネーションに彩られ、橋というよりも東京タワーに似た雰囲気を漂わせている。その下に広がる東京湾の黒い海面は、階段の踊り場からは見えない。だが、海からの強い風によって、匂いは嗅《か》ぐことができる。  神谷は、非常階段を駆け上り、上の階のドアノブを回した。施錠はされてなく、ドアは難なく開いた。中は真っ暗だった。ドアを開けておけば、隙《すき》間《ま》から漏れ入るわずかな明かりで、廊下の形状ぐらいは判別できる。だが、廊下の奥に向かって進むためには、ドアを支える手を一旦離さねばならない。どこかに明かりのスイッチがあるはずだった。電気が止まってなければ、スイッチをいれれば明かりはつくはずだ。神谷は、闇《やみ》の奥に目を凝らし、スイッチのありそうな場所の目星をつけた。  歩き始めるとすぐ、ガチャと重い音をたてて背後でドアは閉まり、行く手は闇に閉ざされた。壁に手を這《は》わせ、おそるおそる足を前に出してゆく。使命感に駆られているせいか、恐怖心はあまり湧かない。もしこれが、無目的な行為だったら、足はもっとすくんでいただろう。  手の先が突起物に触れた。プラスチックのような肌触りだ。明かりのスイッチだろうと確信し、神谷は動かしてみる。カチッと音がし、一瞬間を置いて、廊下の蛍光灯が灯った。長い廊下の先に、洞《どう》窟《くつ》のような入口がのぞいているのが見えた。どことなく見覚えのある眺めだった。既視感だろうと判断しかけて、神谷は、 「なあんだ」  と声に出して呟《つぶや》いた。ここがかつてディスコだったことを忘れていたのだ。何度か足を運び、菊池紀子と知り合うきっかけになった『メフィスト』である。見覚えがあって当然だ。洞窟の入口に見えたのは、ディスコの入口だった。  神谷が今立っているのは、以前クロークがあった場所だ。入口のところまで歩き、再び明かりのスイッチを入れた。それによって灯ったのは、ディスコ内部の蛍光灯だった。  なんと表現すればいいのだろう。宇宙船の内部、洞窟、世紀末の地下街……、極彩色を施された壁面は、極端な凹凸があって、当時のまま色は褪《あ》せてもいない。だが、原色の照明の中でこそこの派手な内装は映えたのだ。蛍光灯の、生白い光に照らされると、急に間の抜けたものに感じられてくる。  緩くカーブした天井にはミラーボールが吊《つ》り下がり、隅のボックス席は埃《ほこり》に被われている。お立ち台はそのままの形で残っていた。しんと静まり返った室内。だが、目を閉じると、以前の喧《けん》騒《そう》が甦《よみがえ》る。お立ち台の上、音のうねりに身を任せ、半裸の格好で踊り狂う紀子が目に浮かぶ。紀子は、友人とつるむでもなく、たったひとり、踊ることだけを目的にディスコに通いつめていた。その彼女は今、この下で……。  神谷は我に返った。感傷に浸っている場合ではない。紀子の顔を直撃した水の出所を探るために上がってきたんじゃないか。はやく処置しなければ、芝居どころの騒ぎではなくなる。  水……、この階にある水回りといえば、厨《ちゆう》房《ぼう》とトイレぐらいのものだろう。下の階の配置を頭に思い浮かべ、ステージの真上になる場所はどこかと、神谷は考えた。トイレの位置は覚えている。お立ち台のちょうど反対側。そこなら、位置的にみて、ステージの上にあたる。  かつて厨房であった場所をチラッと覗《のぞ》き、水漏れがないのを確認してから、神谷はトイレに向かった。  トイレまでの廊下には分厚い絨《じゆう》毯《たん》が敷きつめられ、ダンスフロアーの硬質さはこの部分でだけ一旦途切れた。  ドアを開けるまでもなく、神谷は問題の場所がここであることを悟った。水の流れる音がかすかに響いている。ドアを開けようと、一歩足を踏み込んだとき、絨毯の表面からジュッと音をたてて水が染み出てきた。たぶん、トイレの床一面はもう水浸しに違いない。神谷は、その覚悟を持ってドアを開けた。  予期した通りの光景だった。五センチほどの厚さにたまった水は、小さく表面を波打たせている。水がこぼれ落ちているシンクがひとつあり、その下を中心に、波紋が広がっているのだ。  靴が濡れるのも構わず、水漏れを起こしているシンクへと、神谷は近寄った。手洗い用のものではなく、用具を洗うための底の深いタイプだ。  神谷は腰を屈め、顔を近づけて観察する。蛇口の付け根の部分が緩み、その隙間から水が吹きこぼれていた。しかし、それだけならなにも問題はなかった。受け皿となるシンクが水をちゃんと排水すれば、外部への水漏れなど起こるはずはないのだから。問題なのは、シンクの排水管が詰まっていることだ。  外部に漏れる水の量を減らすにはどうすべきか、神谷は知恵を絞った。蛇口を直すのが先か、それとも排水管の詰まりを直すのが先か。ためしに、彼は蛇口の部分を手で押さえ、上へ上へとネジ込んでみた。だが、無理な力をかけたのが災いして、緩みはさらに広がり、水の圧力に抗し切れず、蛇口の部分がすっぽりとはずれてしまった。 「なんてこった」  水漏れどころではない。すさまじい音をたてて、水道管と同じ太さの水柱が、シンクにたまった水の表面を叩き、滝のように床へと流れ落ちていく。  神谷は、咄《とつ》嗟《さ》に水道管に指をつっこんだ。強い水圧のせいで指の隙間から水は迸《ほとばし》り、トイレの壁面や顔を打ち付ける。 「このやろう!」  生き物を相手にするかのように、神谷は罵《ば》声《せい》を浴びせた。ますます傷口を広げてしまったのだ。ステージに与える被害を考えると、神谷の身体は恐怖のあまり凍りついた。このままなにもかも放って、逃げ出したくなってくる。  水道管に指をつっこんだまま、神谷はもう一方の手で、シンクの排水管を探った。残る手段はただひとつ、排水管のつまりを取り除くだけだ。  指をつっこみ、詰まったカスを引き抜いた。脱色された長髪が指に絡みついている。犯人は髪の毛なのだ。髪の毛が排水管に詰まって、水の流れを遮断しているらしい。  神谷は、強く手を振り下ろし、くっついた髪を払ったが、なかなか離れなかった。生きもののような、妙な感触がある。髪は、生きもののように絡みついていた。  構わず、何度も排水管に手を入れ、詰まった髪の毛を引き出した。いくら繰り返しても、たまった水は引く気配を見せない。疲れを癒すため、手を止めてふと振り返り、足もとを見るや、神谷は跳び上がりかけた。捨てた髪の毛は床一面を埋め、海中でゆらめく藻のように漂っている。床の色を埋め尽くす、その髪の量、そして色彩。  黒一色ではなく、黄色や白、赤やピンクと、髪が混ざり合ったときの色合いはなんとも説明のしようがなく、薄気味悪さのあまり、神谷は足を交互に上げて、足もとから絡みついてくる髪の毛を避けた。  しまいにはシンクの縁に横座りになり、尻が濡れるのも構わず、神谷は作業を続けた。なぜ、掃除用具を洗うはずのこんなところに、大量の髪が詰まっているのか、納得のゆく説明は見つからない。だが、理由などどうでもよかった。神谷はただひたすら、危機を乗り越えることだけを願った。役を降ろされた自分ではあっても、劇団に対する愛着は十分に持ち合わせている。ここは被害を最小限に食い止めねばならない。  その甲斐あってか、ゴボッと音をたててシンクの中央から泡がたち、と同時に、小さく渦《うず》を巻き始めた。水が抜けた手応え。神谷は手を休めず、なおも詰まりを取り除くのに必死になった。細く水が通ったくらいでは、水漏れはなくならない。十分に排水した上で、壊れた蛇口に応急処置を施す。そこまでやって初めて、危機を乗り越えたといえる。  排水管が完全に通ったのを見届けると、神谷は蛇口の修理に移った。どうやって直すべきか、まず考える。水圧が強すぎ、栓をしただけでは水の放出は止められそうにない。蛇口を水道管に差し込み、ワイヤ等でしっかりゆわえつけるのが一番だろう。  手頃なロープやワイヤの類がないかどうか、トイレを見回してみる。そうして初めて、神谷は今自分がいるのが女子トイレであることを知った。小便用便器の列がないことを今まで意識しなかった。女子トイレ。滅多に入ることのない領域……、だが、余計な妄想を膨らます余裕はない。神谷は、すぐ隣にある用具置き場のドアを開けてみた。棚の上には未使用のトイレットペーパーが並び、床にはバケツが重ねられ、モップが二本置かれてあった。  蛇口を固定できるほど、丈夫な紐《ひも》ならなんでもよかった。神谷は狭い用具置き場を這《は》いずりまわって捜した。  ……紐、紐。  重ねられたバケツの横で、緑色のチューブがとぐろを巻いている。ホースだった。蛇口を固定するにはちょっと太すぎて、扱いにくそうに見える。  だが、両手で引っ張ってみると、思った以上に弾力性があり、縛るのに適していそうだ。神谷は、ホースの束を引き出していった。  シンクの底に沈んでいた蛇口を拾い上げ、手に取ってみる。水道管から離れた蛇口は、切り落とされて口を開いた竜の頭のようだ。栓を開いた上で、水道管に差し込み、ホースでぐるぐる巻きにして、きつく縛りつけた。しっかり固定したのを確認した上で、神谷は栓をゆっくり閉じていった。  水は止まった。滴ひとつ垂らすことなく、水は完全にシャットアウトされたのだ。 「やったー」  神谷は深く溜め息をついた。創造的な作業ではなかったが、やり遂げたという実感は十分に感じられた。  ……もしこれが演技であれば。  神谷は、今この瞬間の安《あん》堵《ど》感《かん》を、自分ならどう表現するだろうかと、考えた。派手に飛び跳ねるのは馬鹿げている。笑みは出ない。自分の顔を鏡で見れば、放心状態であろうと想像できる。笑顔というより、苦悶の表情に似て見えるのではないか。  神谷は、自分の顔を見てみたくなった。今の心が、鏡にどう映っているのか確認したい。そこにこそ自然な表現があると思われた。  二本のモップで床に溜った水を吸い取りながら、神谷は鏡の前に移動した。鏡の前に立って、顔を近づける。ふと背筋に悪寒が走った。何に反応したのか一瞬わからなかった。理性よりも先に五感が、なにか不自然なものを嗅ぎ取ったらしい。二年前につぶれたディスコ、他にはだれもいないはずの女子トイレ。なにかが変だ。辻《つじ》褄《つま》が合わないところがある。  なぜ今まで気付かなかったのか、不思議なくらいだ。たぶん、気が動転していたせいで、見てはいても認識されなかったのだろう。それが一仕事終えたとたん、意識レベルに浮上してきたに違いない。  鏡には、女子用トイレのドアが五つ映っている。左右ふたつずつ、ドアは開いたままになっていた。だが、中央のドアだけが閉じているのだ。ここのトイレのドアは、使用中にだけ閉じる仕組みになっている。  ……ということは。  神谷は振り返って、閉じたままのドアをまじまじと見つめた。  ……中にだれかいるとでもいうのか。  この階に上がったとき、すべての照明は落ちていた。トイレも真っ暗だった。スイッチを入れたのは神谷だ。  どうしようかとためらった。妙なことに関わり合うのはごめんだ。自分の仕事はもうすんでいる。さっさと持ち場へ戻れという声が聞こえた。だが、一方では、無《む》闇《やみ》に好奇心が膨らんでいった。役者である以上、好奇心は大事にしなくてはいけない。いつも清原から言われていることだ。  神谷は、一歩二歩と近づき、モップの柄の部分でドアをつついてみた。  ドアは開かない。  今度は手を伸ばし、押してみる。  ドアには内側からしっかりとカギがおろされていた。たてつけが悪く、開かないわけではなかった。 「だれか、いるの?」  そう声に出そうとして、神谷は言葉を引っ込めた。間の抜けた問いかけ。返事でもされたら、心臓は縮み上がる。  神谷は好奇心に折り合いをつけ、徐々に後じさった。音効室に戻ろうと、自分に言い聞かす。  足を動かすたび、かかとのあたりに排水管から引き出した髪の毛が絡みついてきた。床にたまった水には、いつの間にか流れができている。閉ざされたドアの内部にむかって、水は流れ始めていた。水洗のレバーが押されて、ジャーと勢いよく迸る水の音が聞こえた。音に反応して、床にたまった水は閉じたドアの中に流れ込んでゆく。  神谷は身体を硬直させた。何者かは知らないが、トイレの人物は、たった今、用を終えたのだ。カチッと錠のはずれる音がして、ドアが開きかけた。ドアの隙間では、黒い物体がうごめいている。ひとりではない。無数の物体がうごめく気配があった。  一斉に息をつめる気配が感じられた。短い悲鳴が同時に起こったことにより、神谷の意識はほんのわずか現実に戻されかけた。だが、それまでは、なぜ観客の視線を感じるのかもわからないほど、表現することに没頭していたのだ。彼自身、自分の演技の世界に入り込んでいた。  4  劇団『海臨丸』の第十三回公演『ウォーター・カラー』が終わって一ケ月ばかりすると、演劇関係の雑誌はこぞって彼らの劇評を取り上げた。概ね好評を博したといって差し支えないが、何人かの演劇評論家は、奇をてらい過ぎたその構成に苦言を呈した。  さて、その中から主だったものを取り上げてみよう。   「月刊プレイガイド 十一月号」  ……主宰者である清原健三氏が、一体どこまで意識的にあの場所の意味を物語に取り入れたのか、未だにわからずにいる。またしても、彼特有の、装置から芝居に入るという手法に目を奪われてしまったというべきか。  テーマは水であろう。だが、最初からテーマが頭にあったわけではあるまい。『メフィスト』として一世を風《ふう》靡《び》したビルの構造をうまく利用するため、便宜上、水を出さざるを得なかったというのが本音に違いない。  しかし、うまく考えたものである。三階、四階、五階、それぞれの階で演じられる芝居は、上から流れ落ちる水によって、縦一本につながっている。小劇団のステージでかくも大量に水を扱うのは、排水その他の点を考えれば、大きな冒険なのである。あえてこのタブーに挑戦したのはいかにも清原健三らしい。  出色の出来だったのは、天井からの水漏れを処理するため、ひとり奮闘する神谷の演技だ。ほとんど一人芝居ともいえる彼の演技には、鬼気迫るものがあった。しかし、あえてホラー仕立てにする必要がどこにあったのか。そう考えると、首をかしげたくなる場面でもある……。   「ステージ・ギャラリー 十月号」  …………  役者が客席にまで降り、客席を含めた小屋全体を舞台にしてしまう手法は別段新しいものではない。この手法を取ったことのない小劇団など皆無といってよかろう。しかし、清原健三の仕掛けはもっと複雑だ。以前、『メフィスト』というディスコは、階によって趣向を変え、階ごとに入場料をとって客を入れるというシステムをとっていた。清原は、このシステムを踏襲し、三階、四階、五階とそれぞれ別の芝居を上演し、舞台と舞台を「水」によって結んだのである。  重力により、水は常に上から下に流れる。たとえコンクリートだろうと、隙間があれば水は漏れ落ちてくる。漏れてくる水を効果的に扱うことで、舞台と舞台を縦に結ぶことは可能なのだ。  それにしても清原が商売人なのは、階ごとに入場料を設定したことである。三階の芝居を見た人間は四階の芝居を見たくなり、四階の芝居を見た人間は五階の芝居へと駆り立てられる。たとえば、水浸しになったトイレから現れた者の意味を知りたいと思えば、五階の芝居を見る他ない。こうして、観客は三日連続して劇場に足を運ばされてしまう。   「季刊 舞台芸術 冬号」  …………  舞台一面はほとんどプールと化し、ところ構わず水は飛び散る。排水処理はかなり難しかったに違いない。それでも、やるだけの価値はあった。色とりどりの髪の毛が水の中でゆらめくシーンには圧倒された。効果的な照明の使い方により、身体中の細胞が粟《あわ》立《だ》つほどの不気味さ、美しさを覚えた。  原色の髪の色は、かつてそこで踊っていた少女たちを象徴している。群舞のシーンに移行する橋渡しとして、髪の毛が重要な役割を担っているのだが、四階の芝居だけではそれがわからず、観客への説明不足は否めない。だが、水の静寂から大音声の舞踏シーンに至る見事なコントラストが、一切の説明を拒絶しているのもまた事実だ。演出の意図が純粋な美にあるとしたら、筆者はその術中にはまってしまったことになる。理屈抜きで、その病的な世界を美しいと感じてしまったのだから……。 海に沈む森  1975年 初冬  柔らかな土を踏みしめていたつもりが、いつの間にか堅い岩盤の上を歩いていた。雑木林を抜けると、岩の段差に行き当った。ごつごつとした岩の感触を確かめながら縁に寄り、下を覗《のぞ》くと、ほぼ身長と同じ高さの、小さな断《だん》崖《がい》絶壁であるのがわかる。雑木林はそこで一《いつ》旦《たん》途切れ、段差の下には、落ち葉で被《おお》われた帯状の斜面が広がっていた。  せせらぎ程度の水の流れが、山の東側を蛇行していたはずだが、ここからは沢も見えず、流れの音も聞こえない。ついさっきまで、昼の日差しが水に反射するのを幾度となく目にした。せせらぎは、大地に呑《の》み込まれ、消えてしまったのだろう。  地図で確認するまでもなかった。この一帯の山々から湧《わ》き出た地下水は多摩川の支流に注ぎ、太く合わさって、東京湾に流れ込んでいる。足もとのごつごつした岩の下、雨水は細く染み渡って地下水となって流れているのだ。その透明な水の色を思うと、杉《すぎ》山《やま》文《ふみ》彦《ひこ》は妙な違和感を覚えた。多摩川沿いの、ほぼ東京湾に面した高層マンションで生活している彼は、毎日見る多摩川の色をはっきりと覚えている。黒みがかった灰色としか形容できない汚さ。水源地の純粋に透明な水が、東京湾に注ぐ間際、なぜこうも醜く変わってしまうのか。水源から東京湾まで、水の色が移り変わる一瞬一瞬をつぶさに観察できればおもしろい……、ちょっとした岩の段差に立って、杉山はそんなことを考えた。  岩の上から跳び降りようとして、杉山はためらった。楽に跳び降りられる高さであったが、なにか嫌な予感が脳裏をよぎったのだ。崖《がけ》下は厚く積もった落ち葉に被われ、足場がふわふわと妙に頼りなく感じられる。山を歩いていて、落ち葉に足を取られたことが何回かあった。岩肌に張りついた濡《ぬ》れ落ち葉は特に滑りやすい。落ち葉の下にあるのが柔らかな腐葉土ならともかく、岩の凹《くぼ》みや木の根が隠れていたりすると、足をくじく恐れがある。くじくだけならいい。落とし穴に似た底無しの闇《やみ》が隠れていたりしたら大変なことになる……、杉山はそんな幻想を抱き、足をすくめたのだった。  がさごそと灌《かん》木《ぼく》の茂みをかき分ける音が背後から迫っていた。追いつくまでに一分もかからないだろうと、杉山は、その場で榊《さかき》原《ばら》の到着を待つことにした。  息を切らしながら近づいて来る榊原に、杉山は顎《あご》を突き出して、崖の下方を指し示す。跳び降りようかどうしようかという迷いを、表情に込めたつもりだった。だが、榊原は、持ち前の無神経さを発揮し、足もとを確認しようともせず身を躍らせ、落ち葉の上にどすんと着地した。わずかに傾斜した地面のせいでそのまま尻《しり》餅《もち》をつき、後方に両手を据えて顎を上げ、おまえも早く跳べとでもいうように杉山に笑いかけている。巨体ともいえる榊原は敏《びん》捷《しよう》 性とは程遠く、しかし、性格は無鉄砲そのもので、杉山は何度か冷やっとさせられた経験があった。 「だいじょうぶか」  杉山が声をかけると、苦笑いを残したまま榊原は立ち上がり、落ち葉に足を滑らせてまた尻餅をついた。声に出して、杉山は笑った。だが、榊原は何かに気づいたように、仰《あお》向《む》けの身体を岩の真下に引きずり、真剣な表情で付近の様子をうかがい始めた。 「おい、ちょっと」  榊原は手を振り上げて、早く跳び降りろと合図をよこす。杉山は斜面の角度を考慮にいれた上で跳び降り、片手をついただけで、バランスを崩すことなく立ち上がった。  振り返ると、榊原は腹《はら》這《ば》いになって、岩の下のほうに顔を近づけている。丸味を帯びた榊原の顔のすぐ横に、顔と同じぐらいの大きさの闇がぽっかりと口を開けているのが見えた。杉山は、榊原の横に並んで腹這いになり、穴の中を覗いた。 「洞口かな」  相手に尋ねるというより、自分に尋ねるような口調で、杉山が言う。期待と呼べるまでには、感情は昂《たか》ぶってはいない。というより、期待がはずれた場合を考慮して、昂ぶらないように押さえているのだ。半日山を歩き、穴をいくつか発見したが、どれもみな岩の亀裂に毛の生えた程度の、身体どころか、腕一本通すのもやっとというものばかりだった。これもまた動物の巣かなにかだろうと、杉山は無理に考えるようにした。  榊原は、真剣な表情で穴の周囲の落ち葉を、両手でかき分け始めた。やがて、湿気を帯びて柔らかな土が顔を出したが、榊原は手を止めようとしなかった。  穴の内側へと、外気が吸い込まれる気配がある。洞内には空気の流れがあるようだ。小さな穴ではない。かすかにではあるが、杉山の期待は膨らんだ。  もどかしい思いでバックパックを背中からおろし、中から折りたたみ式のスコップを取り出して、穴の下側の土をかき出した。十分もしないうちに、人間ひとりが這って通れる程に穴は広がった。そうして、ふたりは交互に、上半身を穴の内部に差し入れ、懐中電灯で照らして中の様子を探った。 「やった、間違いない」  榊原は悲鳴に似た声を上げた。ここに至ってようやく、杉山も確信を得た。穴の奥には計り知れないほどの空間がある。山肌を昇る空気は穴の奥へと吸い込まれ、闇の向こうに耳を澄ませると、かすかな水の滴りが残響となって響いてきた。 「……たぶんな」  確信があるにもかかわらず、まだ杉山はあやふやな表現を使った。人跡未踏の洞《どう》窟《くつ》を発見するなど、そうたやすくできることではないからだ。  二年半前に長男が生まれ、ふたり目の子が妻の腹に宿った今、杉山は、以前よりも冒険心の薄くなったのを実感していた。しかたのないことだと思う。子供をふたり持つ身で、ハメをはずすわけにもいかない。究極の冒険など、半分 諦《あきら》めてはいる。  三十そこそこで老成しかけている自分に、時として苛《いら》立《だ》つのも事実だ。バイクを運転していて、速度に余裕があるにもかかわらず、その先の事故を想像してアクセルをゆるめてしまうことが近頃多い。結婚して子供ができるまで、そんなことはなかった。疾走感に酔い、目前に迫る危険を直感で察知し、限界ギリギリのラインを攻めてばかりいた。十代、二十代の前半は、生と死の間に、生きているという実感を求めたものだ。  しかし、金の貯《たくわ》えはあまりなく、自分亡き後、妻と子供たちに何を残してやれるだろうと考えれば、冒険心は萎《な》える。これまでの三十一年の人生で、冒険をし尽くしたとは到底いえない。やり残したことは山ほどある。新聞社系列の調査会社で、十年近く同じ仕事に就いたのもよくなかったと思う。同じ場所に腰を落ち着けるのではなく、新しい椅《い》子《す》を狙《ねら》って常に腰を浮かせていれば、フットワークはもっと軽くなったに違いない。  よく言えば自制心が身についた、悪くいえば臆《おく》病《びよう》になった。さて、今、目の前にぽっかり開いている穴に対しては、自制心を働かせるべきなのか、それとも勇気をもって立ち向かうべきなのか……。  とりあえず、杉山は、バックパックから地図のコピーを取り出し、おおよその現在位置を記入した。再度訪れても位置を見失わないよう、付近の景色を写真におさめるのも忘れなかった。  杉山の迷いを知るよしもなく、榊原は、その巨体を穴の内側へ無理に押し込めようとしている。鍾《しよう》 乳《にゆう》 洞《どう》の内部に入ろうというのだ。木綿のつなぎを着用し、ケイビング(洞窟探検)ができる装備は背中のバックパックに軽く整えてあった。しかし、その程度の装備では、本格的なケイビングには不充分である。  杉山は、榊原のつなぎを手で掴《つか》み、軽く引き戻した。 「やめといたほうが、いいんじゃないか」  今日の山歩きの目的は、洞口を発見することであって、洞内に入ることではない。目的を達成しただけでも、その僥《ぎよう》倖《こう》に感謝して帰途につくべきだろうと、杉山は判断を下そうと努めた。だが、榊原を引き戻す力は、それほど強くない。彼自身、洞窟の中に強い興味を抱いている。それは事実だ。 「ここで引き返す手はない」  榊原は、強い口調で言い放ち、身をよじって杉山の手をふりほどく。 「おい、榊原」  杉山は、「ちぇ」と舌を打ったが、どこかふっ切れる思いもあった。そうして、自分に言い聞かせた。  ……深みにはまるな。軽く中の様子を探るに留《とど》めておこう。それなら危険はない。  洞口から十メートルばかりは、ようやく人ひとりが這って進めるスペースしかなく、杉山は、キャップライトに照らされて揺れる榊原の尻を見ながら匍《ほ》匐《ふく》前進した。榊原の尻に塞《ふさ》がれて、横穴の先は何も見えない。榊原のような体型をした男が、なぜケイビングにのめりこむのか、杉山にはさっぱり理解できなかった。そして、今日の山歩きに榊原を誘ったのがよかったのかどうかも。榊原にはどこか無鉄砲なところがあった。どんな冒険であっても、無鉄砲さは命取りになる。  榊原との付き合いはそれほど長くなかった。八王子にある『パイロットケイビングクラブ』に入ってからの付き合いだから、まだ三年にも満たない。大学時代、探検部に籍を置いた杉山は、山と海の両方を守備範囲におさめ、山でのロッククライミング、海でのダイビングへと若いエネルギーを注いできた。だが、就職して冒険にかける時間と金が制限されると、山と海、両方の要素を合わせ持つケイビングへと傾斜するようになった。  何十メートルもの高さの縦穴の登り降りにはロッククライミングのテクニックを要する。また、石灰岩が水に溶けてできたのが鍾乳洞である以上、洞内に水はつきもので、透明な水の流れが行く手を塞ぐ場合、その先に進もうとすれば、ダイビングのテクニックが必要となる。始めてすぐ、杉山はケイビングに夢中になった。日本には石灰岩の台地が多く、探検場所には事欠かない。しかも、都心からそう遠くない山の中、冒険の宝庫ともいえる鍾乳洞は、未発見のまま隠れていたりする。手軽であると同時に、冒険心もそこそこ満たしてくれるのが、ケイビングであった。  もっとも醍《だい》醐《ご》味《み》を味わえるのは、既に発見された洞窟ではなく、人跡未踏の処女洞窟を発見し、そこに自分の足跡を刻む瞬間である。一回でもこの僥倖に恵まれれば、ケイビングの持つ魔力から永久に抜け出せなくなるといわれるぐらいだ。  ……今、自分は本当に、未発見の洞窟にいるのだろうか。  腹這いで進みながら、杉山は自問する。もしそうだとすれば、初めての経験だった。何ケ月も前から、杉山は地図をつぶさに調べ、付近の地質や地形、川の蛇行のしかたなどにより、この付近に未発見の鍾乳洞があるに違いないと目星をつけてきた。昨夜、電話で榊原とそんなことを話しているうち、今日が日曜ということもあり、洞窟の入口を捜しがてらぶらぶら山歩きでもしようかという成り行きになった。  早朝に家を出て二時間走り、林道に車を乗り捨てて山に入ったのが、つい数時間前。車を乗り捨てた場所から五、六キロ歩いただろうか。たったそれだけの散策で、まさか本当に洞口を発見できるとは思ってもいなかった。仮に発見できたとしても、今日のところは中に潜らないで、後日、クラブの仲間を集め、完全装備の調査隊を組織しようと、榊原と口約束を交わしていたぐらいだ。  ……完全装備の調査隊。  この言葉を、榊原は冗談めかして口にした。わざとオーバーな表現をして、処女洞窟の発見など万が一にもありえないと仄《ほの》めかすように。  落盤によるドームと思われた。懐中電灯を天井に向けても、光は最深部にまで届かず、高さをうかがい知ることはできない。少なくとも三十メートルの高低差はある。  狭い横穴を進んだ先に空間が現れ、立ち上がってその広大さを知るや、杉山と榊原は驚きのあまり声を上げることもできなかった。行き止まりを覚悟したにもかかわらず、想像を遥《はる》かに超える地下ホールに到達できたのだ。  海に浮遊する生物の遺《い》骸《がい》が堆《たい》積《せき》してできたのが石灰岩である。したがって、このあたりの大地は、遥か昔、海の底に沈んでいたことになる。大地は隆起して陸となり、森となり、さらに水の浸食を受け、かくも巨大な空間を築き上げた。空間の広がりというより、それを作り出した年月の、気が遠くなるような長さを思い、杉山は茫《ぼう》然《ぜん》と天井を仰いだ。  数十秒に及ぶ沈黙の後、ふたりは同時に口を開いた。 「すっげえ」  ほかに何と言えばいいのだろう。間違いなく関東で最大規模の鍾乳洞を発見したことになるのだ。ついさっきまで歩いていた山の下に、これほどの空間があるとは思いもよらなかった。じわじわと、身体の奥底から興奮が湧き上がってくる。 「だから、ケイビングはやめらんねえ」  榊原は、浮かれたように、調子はずれの口笛を吹き、懐中電灯を当てながらホールを一巡している。杉山には、榊原の吹く口笛が、この場所にあって不快な音に聞こえた。なにか場にそぐわないのだ。いつもは気にならない下手な口笛が、やけに耳について離れない。杉山はふと、不吉な予感に襲われた。  細い通路から広いホールに出た場合、うっかりしていると、帰りのルートを見失う恐れがある。杉山は、磁気コンパスを取り出し、方位を計って図面に書き込んだ。しかし、書き終えるとすぐ、 「なにやってやがる」  と自分に言い聞かせた。帰りのルートを確認し、記憶にしっかり刻むのは、先へ先へと進む場合のみではないか。装備不充分の上、たったふたりで、発見したばかりの新洞に潜るのは、危険が多すぎる。今日のところは引き返すべきだ。  だが、榊原は既にホールの端まで進み、さらに先に進めるルートはないかと、下方にライトを照らしていた。彼はまだ口笛を吹いている。その音は、鍾乳石に囲まれた空間の中、残響をともなって不気味に響いた。 「おい、榊原、戻ろう」  背を丸め、熱心に下を覗く榊原に声をかけると、榊原はようやく口笛を吹くのをやめた。「来てみろ、縦穴がある」  榊原は杉山の言葉に耳を貸そうとせず、勝ち誇ったような顔で立っている。戻る気などさらさらないのだ。  縦穴と聞いて、杉山の心は揺れた。パイロットケイビングクラブの仲間内で、縦穴におけるテクニックは杉山が随一とされていた。榊原などとは比較にもならない。  どの程度のものか覗いてみよう……、杉山はごく軽い気持ちで、榊原のライトに近づいていった。  ざっと調べたところ、今いる釣り鐘状のホールには、榊原がライトで照らす縦穴以外に、先に進むルートはなさそうだった。ホールの壁はカーテン状に垂れ下がり、地面から上った石《せき》筍《じゆん》とところどころで結ばれている。かつてはホールの端に通路があったのかもしれない。だが、おそらく落盤による瓦《が》礫《れき》で閉ざされてしまったのだ。  杉山は、榊原が待ち構える縦穴の縁に立ち、下を覗いてみる。垂直ではなく、わずかに傾斜し、しかも最深部が緩く湾曲しているのが見てとれた。それほどの深さはない。ラダーやロープを使わなくても、充分に登降可能な縦穴だ。  杉山の背筋に悪寒が走った。武者震いかどうかの判断がつかない。寒気というより、快感に近い血の流れのように思う。  榊原はニヤついた笑いを浮かべ、 「さ、行ってみっか?」  と囁《ささや》く。杉山の心を見透かすような言い方だった。  杉山は背後を振り返り、今辿《たど》ってきたルートをもう一度確認した。そうして、絶対にこれが最後だと、何度も自分に言い聞かす。縦穴の底に達したら、何があろうともそこで引き返すのだ。  榊原の照らすライトの輪に入り、斜面に背中を押しつけて、杉山は降下を始めた。半分ほど降りたところで、榊原が、 「どうだ」  と訊《き》く。  杉山はそれに答えず、一切の動きを停止して耳を澄ませた。どこからともなく、かすかに、水の滴る音が聞こえる。そういえば、洞窟の入口でもこれと似た音を聞いた。 「水の音がする」  杉山がそう答えると、榊原は大きな尻を縦穴に差し入れかけた。 「おれも行く」  いてもたってもいられず、榊原は杉山の後を追い始めた。  底の、湾曲した部分をくぐると、また平坦な空間に出た。さっきと同じ形の、釣り鐘状のホールであったが、規模はずっと小さい。壁のすべすべとした表面を、薄い水の膜が被っていた。近づいて、手を差し入れなければわからないほどの、壁面に密着した水の流れだ。天井の亀裂から染み出た水は、静かに鍾乳石の肌を伝い、底に溜《たま》ることなく、下に消えている。ライトで照らし出し、杉山はその美しさに見とれた。この光景を見るのは、人類で自分が最初だと思うと、強い歓喜が湧き起こる。一生に一度あるかないかの瞬間だった。その一瞬の力に、杉山は、縦穴に潜る寸前にたてた誓いを忘れた。水が溜ることなく下に消えているということは、この下にかなりの空間があるかもしれないのだ。  杉山と榊原は、下の空間に到達するルートを捜し始めた。杉山の自制心はすっかり取り払われ、今はもう夢中になっている。うまい餌《えさ》に釣られ、奥へ奥へとおびき寄せられるかのようだ。  杉山は、ある位置で、ちょっとした空気の流れを感じ取った。一ケ所だけ、下のほうから、ふわっと暖かな空気が吹き上がってくる場所がある。  杉山は榊原をそこに招き、どう思うかと尋ねた。榊原はじっと考え込んで、眉《まゆ》をしかめている。確かに、彼もまた空気の吹き上がりを感じている。だが付近を見回してもそれらしき縦穴はない。  ……どこからだろう。空気を吹き上げる穴はどこにある。  杉山は、微風を肌で受けながら、ゆっくりと足を動かし、瓦礫の積もった凹地の上に立った。足もとには、大小様々な石が転がっている。ライトで照らし、もう一度地形をよく観察した。凹地は、蟻《あり》地《じ》獄《ごく》に似た、小さなすりばち状になっているようだ。落盤によって閉ざされたドリーネかもしれないと、杉山は思いついた。もしドリーネなら、石をどけた下に、縦穴があるはずだ。  杉山と榊原は、手早く石をどけていった。するとかなり大きめの岩が顔を出し、その下の隙《すき》間《ま》から、より濃密な空気の流れが感じられた。間違いない。縦穴の入口が岩によって塞がれている。  杉山と榊原は力を合わせ、片方から岩を押してみた。岩は斜めに傾き、その下から円形の縦穴が半分ばかり現れた。手を離せば、岩はそれ自体の重さで元に戻ろうとする。もう一度力を込め、岩の下面を真横に向けたところで、隅に石を挟んで岩を固定した。これで完全に縦穴の入口は顔を出したことになる。動くたびに、足もとの石は穴の中に転がり落ち、鍾乳石にぶつかって雷に似た響きを上げた。ふたりは、落ちるべき石が落ち、どよめきが鎮まるのを待った。縦穴を降りている最中、頭上からの落石を受けたくはない。  杉山は覚悟を決めていた。ここまできたら引き返せない。最後まで見届けてやるのだ。  杉山はロープを岩に巻きつけ、もう一方の先を縦穴の底に向かって放った。ロープの助けがなくても充分に降下可能と思われたが、帰りのことを考え、念には念を入れたつもりだった。 「おまえはここで待っていてくれ」  杉山は、ごく穏やかな口調で、しかしはっきりと榊原に命じた。ふたりは同年齢であったが、パイロットケイビングクラブでの活動年数は榊原が上回る。いわば後輩ともいえる杉山に命令され、榊原は渋々とうなずいた。クラブでの経験年数が少ないとはいえ、ケイビングテクニックにかけては、杉山のほうがはるかに上だ。足もとが不確かな以上、一方が洞口の縁に留まって、ロープを確保する他ない。その任務にあたるのは、この場合榊原のほうが適切であった。  身体全体をすっぽりと穴の中に収めたとき、杉山はまた嫌な予感に襲われた。なぜ、こんな気分になるのか。榊原の吹く口笛のせいだ。榊原は調子はずれの口笛を吹きながら、下を見下ろしている。その様子にどこといって緊張感が見られないのが、杉山に嫌な予感を抱かせる。  杉山は、出っ張りに足をかけ、レストポジションを取った。そうして、たった今、得たばかりの感覚は何だろうと、吟味する。ここは、人類がまだだれも足を踏み入れてない鍾乳洞のはずだ。だが不意に、遠い過去、自分と同じようにこの縦穴を登降した人間がいたのではないかという、直感に襲われた。なんらかの形跡をふと目にし、触発され、無意識のうちにイメージが形作られたに違いない。  杉山は、キャップライトをつけた頭を鍾乳石に近づけた。時間をかけてよく観察すると、壁に施された奇妙な模様が浮かび上がってくる。地肌の黄土色と異なる、濃い灰色がかった泥が塗り込められているのだ。杉山は手を伸ばして、その表面に触れた。地肌の模様とは明らかに異なっている。だれかの手によって故意に塗られたものなのか……、いやそうではない。杉山と同じように、この縦穴を登降した人間が過去にいて、彼の背にこびり着いた泥が、付着してしまったと見るのが妥当だろう。  杉山の気力は急速に萎えた。人跡未踏の鍾乳洞だと思えばこそ、無茶な冒険に駆り立てられたのだ。先陣を切るのと、後《こう》塵《じん》を浴びるのとでは、雲泥の差がある。 「榊原」  杉山は、このへんが潮時だろうと、榊原の名を呼んだ。だが、その顔を小さな石が数個襲い、あわててヘルメットに手を添えてガードする。落石が治まるのを待って顔を上げると、榊原のブルーのつなぎがもこもこと動き、縦穴を塞ぎかけているのが見えた。 「おい、榊原!」  杉山は一際強く声を発した。 「待ってろ、おれも行く」  矢も盾もたまらず、榊原は、仰《あお》向《む》けの姿勢で、狭い縦穴に身体を沈めようとしているらしい。 「だめだ、出るんだ」  下に降りろ、いや上に登れと、言い争った時間は数秒にも満たなかった。細かな石が雨のように降り注いだかと思うと、一際大きな音がドンと響き、短い悲鳴と、骨を砕く嫌な音が後に続き、落石は途絶えた。入口を塞ぐ榊原の下半身のせいで、杉山は、自分の身に降り掛かった災難を見極めることができない。 「どうした?」  杉山は上に問いかけた。勘で異変を察知し、声が震え始めた。榊原の返事はない。代わりに、呻《うめ》き声がひとつこぼれた。  杉山は、榊原の両足に頭が触れるまで近づき、だらりと垂れ下がった下半身の隙間から上に光を当てた。驚いたことに、開いていたはずの縦穴の入口が岩で塞がれている。  ……なんてこった。  杉山は言葉を失った。身体中の血液が一気に下降し、めまいを起こしかけたが、どうにか堪えた。  岩をしっかり固定しなかったのがいけなかったのだ。落石のたびに自重で傾き、岩は、もと通りの位置にすっぽり収まろうとして、途中にあった榊原の頭を潰《つぶ》してしまった。持ち場を離れた人間に与えられた罰にしては、残酷すぎた。それでも杉山は、榊原に対して「ばかやろう」と叫びたい気持ちを、押さえることができない。  杉山は、ライトの光をずらした。榊原の顎《あご》が一際白く照らし出され、その下には伸び切った首筋が見える。鼻から上は、縦穴の縁と岩の角に挟まれて岩の間に消えていた。  信じられぬ思いで、杉山はしばらくこの光景を眺めた。  腰が震え、胃が激しくせり上がってくる。 「だいじょうぶか」  そう言ったつもりだったが、かすれて声にならない。一目 瞭《りよう》然《ぜん》だった。声をかけても無駄だ。伸び切った首の両側に、太い血の筋がある。生死を確認しようと、榊原の足に触れようとした瞬間、足は後ろに反り返って痙《けい》攣《れん》を始めた。その動きは断末魔の不自然さにあふれ、眺めているだけで、杉山は吐き気を伴う悪寒に襲われた。  絶望的な状況なのは、疑う余地がない。マンホールに入っていて、上から一トンの蓋《ふた》をされたようなものだ。今、杉山は、罠《わな》にかかった鼠《ねずみ》であった。  暗黒の中で過ごした二日間は、それ以上の長さに感じられた。閉じ込められた最初の頃は、どうやって脱出しようかとあがき回り、体力と時間を無駄に消耗させたが、四十八時間が経過した今、杉山は、残された道は二つしかないと観念して、ほとんど身体の動きを停止した状態で、水のほとりで縮こまっている。道はふたつ。問題はどちらを選択するかだ。  縦穴の出口を塞いだ岩を持ち上げようと、考えなかったこともない。しかし、杉山は、岩の重量を身体で覚えていた。榊原と力を合わせ、足をふんばってようやく動いた岩を、足場のない縦穴に半分ぶら下がった状態で、垂直に押し上げられる道理がないのだ。しかも、頭を挟まれた状態で榊原が垂れ下がり、スペースを塞いでいる。身体が邪魔になって岩に手が届かず、かといって徐々に冷えてゆく榊原の身体を、岩の隙間から抜き取る勇気もなかった。  杉山は、縦穴の出口を見捨て、逆に下方に向かうことにした。鍾乳洞の中は、どこも迷路のように入り組んでいる。別ルートからの出口が発見できないとも限らない。  ところが、行きついたのは薩《さつ》摩《ま》芋《いも》の内部を思わせる半径十メートル程のホールであり、傾斜した床面の半分は地下水をたたえていた。地底湖である。  どう辿っても、そこで道は途切れている。地底湖の周囲をくまなく捜しても、ほかの空間につながる通路を見つけることができない。杉山は、閉《へい》塞《そく》洞に追い込まれてしまったと悟った。  ここ十時間ばかり、時計の針を見る以外に、キャップライトをオンにすることはなかった。キャップライトはふたつ携帯していたが、乾電池はとっくに予備のものに替えてあった。もはや無駄は許されない。  火曜日の午後五時半。それが現在の時間だった。普段の杉山なら、そろそろ会社からの帰り支度を始める頃だ。最低週に三日、杉山は家族と一緒に夕飯をとるようにしている。帰宅して、ドアを開けると同時に駆け寄る息子の武《たけ》彦《ひこ》の、覚えたての言葉を聞くのが好きだった。抱き上げてやると、その日のできごとを逐一報告しようとして、たどたどしく口を開く。ほっとする一瞬であった。その喜びを得ようとする思いは、仕事を早く終わらせるエネルギーとなり、杉山を家へと駆り立てた。  杉山は、妻から、オイルヒーターを出してほしいと頼まれていたことを思い出した。押し入れの奥にしまい込んであるオイルヒーターは、かなり重量があって、出し入れは妻の手に余った。そろそろ寒くなる季節、唯一の暖房器具であるオイルヒーターがなければ、妻と息子が寒がるかもしれない……、そう思うとむしょうに気にかかる。日曜日の朝、出かける前に出しておくべきだったと後悔した。年間を通して一定気温に保たれているとはいえ、洞窟内はかなり冷える。たぶん今の気温は十度程度と思われた。そんな環境に身を置く人間が、人の心配をするのは、いかにも矛盾していたが、杉山はその矛盾に気づかない。  出なければ、という強い感情が湧き上がった。どうしても家族のもとに帰らねばならない。もう一度、杉山は、あらゆる可能性を吟味してみる。頭の中で何度も繰り返したことであるが、どこかに漏れがあるかもしれない。  おとといの朝、家を出るとき、家族には「ちょっと山歩きをしてくる」と告げただけだ。「鍾乳洞に入る」と言って出たわけではない。榊原に迎えに来てもらい、白岩山の麓《ふもと》の林道に車を乗り捨て、五、六キロ歩いた山中で偶然、鍾乳洞の入口を発見した。榊原が家を出るとき、ここに来ることをだれかに告げただろうか。いや、独り者の榊原に、行く先を告げる相手はいない。もとより新洞を捜しがてらの山歩きのはずで、洞内に入るという計画は立ててなかった。  今頃、心配性の妻は大騒ぎしているだろう。遭難した可能性を考え、とっくに警察に連絡を取っているはずだ。だが、彼らに、捜す手立てはあるのか。唯一の手がかりは、林道に乗り捨てた車だが、それすらも発見される見込みは薄い。仮に車が発見されたとして、ここまで辿り着くのは至難の業だ。地図に載っていないどころか、発見された記録さえない鍾乳洞である。  ……外部からの救助隊が来る確率は極めて低い。  まず第一に、そう判断せざるを得ない。ではどうすべきか。  ……自力脱出を考える。  当然の帰結だった。  救助隊が来るのをじっと待つべきか、あるいは自力で脱出する方法を考えるべきか。選択肢はふたつにひとつ。当然といえば当然の選択肢だ。だが、自力脱出を試みるには、想像を絶するほどの勇気が必要となる。杉山は、徐々にそのことを理解しつつあった。  ……勇気。  必要とされるのは、生半可な勇気ではないのだ。  何者かが通過した痕《こん》跡《せき》を縦穴の壁面に発見しなければ、杉山は、脱出方法など思いつかなかったかもしれない。  よく調べると、壁面以外にも痕跡はあった。水辺に垂れ下がるつらら状の鍾乳石の先端が不自然に欠けていたり、フローストーンの表面にひっかき傷があったりするのだ。身体の一部が触れ、破損したに違いない。同程度の傷は随所に見られた。最初、杉山は、内部を荒らしたのは、どこかのケイビングクラブの探検家ではないかと考えた。だが、この洞窟が発見されたという記録を、杉山は知らない。ケイビングクラブ同士、横の連絡は常に取りあっていて、関東近辺で未知の鍾乳洞が見つかったりすれば、大きなニュースとして伝わるはずだ。  ……人間でないとすれば。  答えは、動物以外には考えられない。  ……ある程度の大きさの獣が、どこかから迷い込んで荒らし回ったのではないか。  その考えに到達したとき、杉山は、はたと膝《ひざ》を打った。縦穴の入口は岩で塞がれていた。とすれば、別ルートを通って、動物は忍び込んだことになる。それはどこだ。見落としているだけで、秘密のルートが必ずどこかにあるに違いない。  しかし、ホールの周囲には、小さな亀裂さえ発見できない。これをどう説明すべきか。  キャップライトを消して、杉山は考え込んだ。暗黒に身を浸し、じっと思考を集中させる。ホールの内部は、完全な静寂というわけではなかった。絶えず水の滴る音が響いている。天井のつららから垂れ、ポチャリポチャリと地底湖の表面に落下する水滴。暗黒の中でも、湖面を揺らす水の滴が見えるようだった。音に喚起され、杉山の脳裏には水のイメージが増幅された。  ……水、そう水だ。  地底湖の底のほうに流れがあるとしたらどうだろう。  杉山は、バックパックからカメラのフタを取り出し、水の表面に置いてみた。フタは、右から左へと流れていく。もう一度、場所を変えてやってもやはり同じように動く。どこで浮かべても、フタは右から左へと流れていった。  地底湖の底には、右から左への水流がある。それもかなり早い流れだ。地底湖のように見えて、実はこれが地下の川であることに、杉山はそのときようやく気づいたのだった。  十一月に入ってから、大雨を伴う台風が二度ばかり関東近辺を通過したことがあった。その影響で、今、地下の水位は普段より高くなっているのだ。だから、外部に通じるルートが水の下に隠れてしまっている。右から左に流れている以上、左手の下のほうに、水を外部に排出する横穴があるはずだ。どこか広い空間に排出されるのでなければ、これほど早い水流ができるわけがない。  時間がたつほど、左側の水面下に外部につながる横穴があるのは確実と思われてきた。しかし、だからといって、どんな手段があるというのだ。出口があるとわかっていても、そこに足を踏み込むことができない。待ち受ける危険も予測できぬまま、絶対に引き返せない第一歩を踏み出す勇気が、杉山にはまだ湧かないのだ。  外の光に到達したときの歓喜は計り知れないだろう。山を歩いているとき、山の東側を蛇行する川がいつの間にか消えていたことがあった。磁気コンパスによれば、ここから見て左側が東にあたる。地下水は、東側の川に注いでいるとみて間違いなさそうだ。洞窟の入口から東へ東へと進んできたのだから、距離的にもかなり排出口に近づいているに違いない。  閉塞した空間から広々とした外部へ躍り出た瞬間の、光の強さをひたすら思う。光を浴びる喜びを空想して、勇気を奮い起こすのだ。しかし、脱出を望めば望むほど、寸前で手に入らなかった場合の恐怖と無念さが、逆に際立ってくる。  スキンダイビングは得意であった。真っ暗な中、水流を肌で感じ取り、水面下にある横穴へ潜り込むことは可能だ。しかし、その先の長さはまったく予想がつかない。水流に乗って進む以上、出口がないからといって、後戻りは絶対できない。排出口に到達する前に息が切れれば、それで終わりだ。うまく排出口に辿りつけたとしても、人ひとり通り抜けできない小さな穴であった場合、生を求めてのあがきは激痛を伴うに違いない。悔しさ、無念さ、絶望、肉体的な苦痛……、人間が味わうであろう苦しみの感情が、その瞬間、一気に凝縮されてしまう。  ここでじっと待っていれば、そんな苦痛は味わわなくてすむ。待つ? 一体何を待つのだ。数年前、沖縄の鍾乳洞を探検中、探検隊のひとりがライトを失って道に迷い、四日後に無事救助されるという事故が起こった。迷った鍾乳洞が明らかな上、地元のケイバーが総出で捜索し、なおかつ救助までに四日を要したのだ。  助かる確率はどちらが高いか。数日のうちに救助隊が来ることなど、まず有り得ない。確率としては、水の排出口へ向かうほうが上だろう。問題は、待ち受けるかもしれない苦痛を克服できるかどうかだ。  さらに二日が経過した。閉じ込められてから丸四日たったことになる。  もはや迷っている余裕はない。決断するなら、今が最後のチャンスだろう。四日間で口にしたのは、バックパックに常備してあったクッキー一箱だ。体力が失われたとはいえ、今ならまだ潜水は可能だった。しかし、あと二、三日もすれば、体力の衰えは急激に早まり、ふたつの選択肢は必然的にひとつに絞られる。長く、苦痛の少ない、穏やかな死。助かるチャンスはなくなってしまう。  杉山は、三十一年間の人生を振り返り、どの瞬間で切っても、自分の人生が幸福であったかどうか、自分に問うてみた。満足のいく人生だったと答えたいところだが、なによりもここに至るまでの軽率な行動に腹が立つ。やり足りないこともまだ山ほどあった。息子の武彦が成長したら、一緒にしようと考えていた冒険の数々。武彦には何を教えよう。これまで自分が経験したことをすべて注ぎ込みたかった。武彦はまた、父から得た情報をもとによりよく生き、さらに情報を上乗せし、次世代に伝えるのだ。人間が生きるというのは、そういうことであると、杉山は思う。妻も、妻の腹にいる子どものことも気にかかったが、今はなるべく考えないようにした。保険金も、マンションのローンも、老父母の面倒をだれがみるかも……、気にかけていてはキリがない。ただひとつ、息子にだけは、意志を伝えたかった。  杉山は、キャップライトの弱まりつつある光の中で、地図のコピーを裏返し、余白に文字を書き記していった。自分に言い聞かすように、一字一句に力をこめて。書き終わると、紙を小さく巻いてフィルムのケースにしまった。ビニールテープでフィルムケースを密閉し、さらに住所氏名が明記された防水ケースに入れ、念入りに封をする。ためしに水に浮かせてみると、充分な浮力が確認できた。防水という点でもまず申し分ない。  杉山はひとつの事態を想定していた。水の排出口が身体を通せないほど狭かった場合である。そのときは、家族にあてた手紙を、出口に向けて放るつもりだった。排出口のすぐ手前で離さなければ、手紙は外部に届かないだろう。横穴に押し込めたとしても、浮力がある以上、手紙は、上部から垂れる無数の鍾乳石に引っ掛かり、動かなくなってしまう恐れがある。  家族への手紙を書いたことで、杉山の腹はいよいよ決まった。可能性を信じる他ない。調子がよければ、無呼吸のまま潜水で五十メートル泳ぎ切ることができる。流れに乗ればもっといけるだろう。鍾乳石の出っ張りに備え、ヘルメットをかぶり、つなぎと靴をつけたままの格好で潜るのだ。  キャップライトをオンにし、地底湖の左側を照らすように手頃な岩の上に載せた。いつ消えてもおかしくないほど、光は頼りなく揺れている。徐々に身体を水に浸し、冷たさに慣れるのを待って全身を沈めた。そのまま泳いで、左側の岩棚に手を載せると、顔を水面から出して呼吸を整える。岩の上のキャップライトが消えかかっていた。杉山は、何回も短く息を吸い込み、肺に充分な空気を送った。なくさないよう、手紙のケースは腰のベルトに挟んである。ベルトに手を触れ、手紙の存在を確認したと同時に、ライトの光が消えた。  それを合図に、杉山は、岩棚に沿って潜水を始めた。二メートルばかり潜ると、一際激しい水流が顔を襲い、ヘルメットが流されそうになった。手で探ると、横穴が開いているのがわかる。横穴の中へと、周囲の水が流れ込んでいた。推理は正しかったのだ。杉山は意を決して流れに身を任せた。  1995年 夏  十二人の一行は、洞口のすぐ前に広がる緩やかな斜面にベースキャンプを張った。部長の杉山武彦に率いられたS大学探検部の部員たちである。  木陰を選んでテントを張ったつもりだったが、午後三時を過ぎる頃から、強烈な日差しがそれぞれのテントを直射し始めた。機材を運び入れる部員たちの顔はどれも汗に濡れている。ケイビングの装備のほかに、潜水用機材を運び上げねばならず、それだけでも一苦労だ。麓《ふもと》の空き地に乗り捨てた車から、片道二キロの上り坂を、機材と重いタンクを背負って、おのおの二往復していた。  普通の会話が成り立たないほど、蝉《せみ》の声がやかましい。部員たちは、あまり喋《しやべ》ることもなく、ベースキャンプの設置に精を出した。予定よりも早くことが進んでいた。武彦は、部員たちの手際よさに満足気な笑みを浮かべ、機材を置いて休み、腰を伸ばす。  すぐ正面に、鍾乳洞の黒い口が開いていた。二十年前、父が訪れたときより、洞口は広げられている。その奥に延びる闇の濃さは、父の見たものと変わらない。武彦にとって、ここはいつか来るべき場所であった。  父によって発見された鍾乳洞は、その後、専門的な調査団が何十チームと入り、今では『白岩洞』という立派な名前がつけられていた。去年までは、村役場の主導で、観光の目玉として開発が予定されていたが、地元の環境保護団体の反対や、道路等の整備に多額の予算が必要とされることから、開発はほぼ断念され、鍾乳洞は放置されてある。一般人の入洞は禁じられ、探検調査等の名目がある場合のみ、営林署の許可をとって入洞することができた。  自宅から車で三時間、来ようと思えばいつでも来られる距離にある。腕のいい仲間にはこと欠かず、父が最期を遂げた地底湖にも、潜ろうと思えばいつでも潜ることができた。武彦は、その機会をわざと先送りにしてきたのだ。ここ十数年、毎日のように空想し、夢の中にまで現れた地底湖。水と闇の圧迫に呼吸は乱れ、夜中に目覚めた回数は数え切れない。  今、彼の人生は、とりたてて困難な状況に直面しているわけではなかった。だが、そろそろ潮時だろうと、武彦は思う。夏休みが終われば、探検部の活動からは手を引き、卒論と就職活動に全力を注がねばならない。来年には社会人になる。今をおいてほかにはなさそうだ。  地底湖の底から父の遺体が引き上げられたとき、武彦はようやく三歳になったばかりで、「死ぬ」ということの意味もわからない年齢だった。毎日触れていたごつごつとした逞《たくま》しい身体が、ある瞬間を境にふっと消えてしまった……、そんな感覚しか持ち得ない。  遭難から半年後、地元のケイビングクラブの探検隊により、父の友人であった榊原の遺体が偶然発見された。その直後、地底湖が調査されると、さらに父の遺体が発見され、半年前の遭難事件は、ようやく解決を見るに至った。岩をどかしてもなお、榊原の腐乱した死体は垂れ下がったままで、後頭部を鍾乳石にめりこませて岩と化した様に、ライトを向けた探検家は皆震え上がったという。  警察は、父の身に起こったことを、母にこう説明した。 「闇に閉じ込められ、錯乱したのでしょうねえ」  警察は、父が、錯乱のあげく地底湖に自らの身を沈めたというのだ。長い漂流の果て、生への望みを捨てて入水自殺する例は、海難事故等ではよく見られるらしい。事件性がない以上、こんなことで争っても無意味であったが、母は承服せず、危機に臨んでパニックを起こすような人間ではないと、頑強に言い張った。母は、父の性格をよく理解していた。  翌日の午前十一時に、洞窟ダイビングの準備はすべて整った。最初に潜るのは武彦を始めとする六人の部員で、残りの六人はバックアップに回ることになる。女性二名を含め部員はすべてスキューバダイビングのライセンスを持ち、海での経験は豊富だった。だが、洞窟ダイビングとなると、経験者はわずか三人しかいない。残りの九人を、神秘の世界に導くのが、部長である武彦の役目である。  念入りにチェックが行われ、器具に異常がないかどうか調べると、六人は地底湖の岸に並んだ。武彦は、注意事項を再確認する。 「フィンはできるだけ動かすな。堆積物が舞い上がると、視界は一切きかなくなる。いいか、パニックを起こし、急浮上しようとしても、浮上するスペースはないと思え。決してパニックを起こすな。常に冷静を心がけろ。何事も冷静に対処するんだ」  武彦が言うと、部員たちは無言でうなずき、レギュレーターのマウスピースを口に含んだ。ヘルメットに装着した水中ライトの他、手にも強力なサーチライトを持ち、各人は一定間隔をおいてライフラインで繋《つな》がれている。タンクは背中に固定されてはいなかった。狭い空間を潜るとき、タンクが邪魔にならないよう、状況に応じて抱き抱えられるよう工夫されている。  二十本を越すライトは地底湖の水面に反射して壁面を照らし、独特の雰囲気を醸し出す。煌《こう》々《こう》たる光と完全な装備。身ひとつで水中の横穴に挑んだ父ならば、過剰な装備と笑うかもしれない。  長かった梅雨のせいで地下水の量は多く、武彦はその豊富な水の中、静かに身を沈めて部員たちを先導した。  潜るとすぐ、左側の壁面に直径一メートルほどの楕《だ》円《えん》形の横穴があるのがわかった。無数の泡が、そこに向かって流れ込んでいる。排出口に向かう横穴に違いない。武彦は、父がしたと同じ体験をしてみようと、わざと呼吸を止め、怪物の腸を思わせる横穴を流れに沿って進んだ。  水中ライトで前方を照らすと、天井から垂れ下がる鍾乳石が通路を必要以上に狭くしているのがわかる。背後から水の圧力を受け、身体は前へ前へと押し出されるのだが、ただ流れに任せていてはすぐ突起にぶつかってしまう。頭上間近の出っ張りを避け、横から張り出した柱をかわすのには、相当のテクニックを要した。たえず両手で水をかきわけ、フィンを激しく上下させ続けねばならない。見通しがきいていてさえ、鍾乳石にぶつからないように進むのは至難の技だ。  武彦はそっと目を閉じ、さらに父と近い状況に身をおこうとした。だが、一秒ともたない。目を閉じた瞬間、イメージの力によって、鍾乳石は鋭利な刃物へと肥大し、異様な迫力で脳裏に迫ってくる。何度も試みたが、危険を察知する本能によって、武彦の目は無理やり開かされた。  武彦には、父が無傷でこの横穴を通過できたとは思えなかった。たぶん頭や腕に無数の傷を負ったに違いない。暗黒の中で血を流しながら、息を止め、それでも前へ前へと進み続けた父の執念を思うと、込み上げてくるものがある。その圧迫に、武彦は、肺の中の空気を全部使い果たした。  これ以上息が続かないと観念しかけたとき、横穴は漏斗のように急に広がっていった。上を見ると水面が揺れている。天井との間に空間があるらしい。武彦は一旦浮上して、タンク内の空気を吸い込んだ。父もまたここで浮上して、呼吸を整えたに違いないからだ。  この荘厳な光景を何に喩《たと》えたらいいのだろう。緩くカーブする天井からストロー状の鍾乳石が、頭上まで無数に垂れ下がっている。剣山を逆にしたような鋭さだった。鍾乳石の長さは数メートルに及ぶ。しかし残念ながら、父はこの光景を見ることができなかった。  さらに進むと、横穴は以前と同じ程度にせばまり、天井との隙間はなくなった。武彦は再度息を止めることにした。  横穴は、わずかに傾き、水の流れが早くなった。焦るほどのものではない。武彦は、父と同じ立場を保とうとするあまり、安全に対する考慮を忘れかけていた。流れは急激に早くなり、あっと思った瞬間、滝に呑み込まれていた。滝といっても、ほんの二、三メートルの高さしかなく、水の中で二回転したに過ぎない。だが、衝撃で手に持っていたサーチライトを失い、背中を強く岩に打ち当ててしまった。  水流に運ばれて、身体はズズッズズッと横滑りする。息を止めていられる、これが限界だった。しかし、呼吸を再開しようとした矢先、武彦は数メートル先に縦の線が浮かび上がるのを見た。  壁面に背中を押しつけながら、武彦はそこに近づいていく。近づくほどに、縦の線が何なのか、明らかになった。岩に刻まれた亀裂である。幅二十センチばかりの亀裂が縦に走り、その隙間から水が外部へと流れ落ちている。これこそが水の排出口だった。気泡をともなった水の層を通して、外の淡い光が差し込むのがはっきりと見えた。  流れ出る水と差し込む光が、亀裂の内部で交錯していた。水圧で岩肌に押さえつけられながら、武彦は無理な姿勢で、光の帯に片手を差し入れてみる。この隙間に、父は最後の「言葉」を投げ入れたのだ。  父の死が確認されて一年後、杉山家には、フィルムケースにしまわれた地図のコピーが届けられ、裏には父の最期の行動を示す文章が記されていた。死の直前に書いたと思われる、父からの手紙だった。  確かに、ここ地底湖と東京湾は、水によって結ばれている。地下水は支流へ流れ込み、やがて多摩川の太い線となって、東京湾に達する。しかし、だからといって、その線を辿《たど》って、手紙が届けられるという偶然があるものだろうか。奇跡というほかないのだが、隙間から漏れる荘厳な光の帯には、そんな奇跡を信じさせる強い力がある。  手紙はフィルムケースに入れられたまま郵便受けに投函されていたが、差出人の名前はなく、いつ誰の手で拾われたのかは不明だった。奥多摩の地元の人間に拾われたのか、あるいは多摩川の河口付近で働く漁師の網にかかったものか、想像に任せる他ない。拾った人間は、フィルムのケースから手紙を抜き出して文面を読み、家族に宛《あ》てられた重要なメッセージと判断し、親切にも送り届けてくれたのだ。  手紙にはこう書かれていた。   武彦へ。   たとえ出口なしとわかっても、ばくぜんとした出口を求め、進まなければならないときがある。   母さんと新しく生まれる子を、たのむ 父より    一字一句丁寧に、区切るように書かれた文章は、間違いなく父の筆跡だった。死に対する覚悟が、文面から伝わってくる。  なぜ父の死体が地底湖の底の、水の排出口付近にあったのか、疑う余地はなかった。父は、たとえ出口なしとわかっていても、漠然とした出口を求め、水面下に沈んだ横穴を通過しようと試み、果たせなかった場合は、最後まで死を諦《あきら》めない強《きよう》靭《じん》な意志を、手紙に託して息子に伝えようとしたのだ。妻への手紙ではない。当時まだ二歳半の、字も読めない息子に、強く生きろという意志が届くことを願ったのだ。  この手紙によって武彦が得た力は計り知れない。彼は、何度も繰り返して読み、勇気を持たなければという局面で、父の言葉と、父が克服しようとした困難を思い出した。父と肌を触れ合わせたのはたった二年半であり、その間の記憶はほとんど残ってはいない。しかし、父が呼吸を止めて立ち向かった闇《やみ》は、夢にまで現れて彼を呼吸困難におちいらせ、目覚めればまた奮い立たせた。手紙を受け取って以来、武彦の人生で、恐れるものは何もなかった。  武彦は、肩先まで亀裂に差し入れてから、腕を抜き出した。あともう少しだった。亀裂の幅があと十数センチ広ければ、父の願いは達成され、燦《さん》々《さん》とした光の中に出られたかもしれないのだ。  決して忘れないように、武彦は、今の光景を目に焼きつけていった。意志は確かに受け取った。そう胸につぶやきながら……。 エピローグ  観《かん》音《のん》崎《ざき》は、古くは仏崎と呼ばれていたという。しかし、もうすぐ七十二歳になる佳《か》代《よ》でも、ここが仏崎という名称で呼ばれていた時代を知らなかった。  早春の夜明け前、佳代はいつもの散歩コースを早足で歩いていた。観音様は救いを求める声を聞くとすぐ救済の手を差しのべてくれる……、彼女はそう信じて、ここ二十年間、早朝の散歩を欠かしたことがない。  仏様にしろ、観音様にしろ、名前から思い浮かべるのは何かありがたいイメージである。だが、そんな名称からは逆に、ここがいわくつきの場所であることがわかる。事実、遊歩道を歩いていると、道からはずれた茂みの中に、地蔵とも墓ともとれる石碑の一群が突如現れたりする。たぶん、岬に流れついた水死体を祀《まつ》るためのものだろうが、本当の由来を付近の住民はだれも知らない。ただ、石碑の数の多さには驚かされる。  佳代は、まだ薄暗い海沿いの道を、ややうつむき加減で歩いていた。春休みになれば、孫の悠《ゆう》子《こ》が遊びに来ることになっていた。そうすれば、また一緒に散歩ができるのだ。連れがあったほうがやはり散歩に張り合いが出る。  吐く息でメガネを曇らせ、時々歩をゆるめて腰にセットした万歩計を覗《のぞ》いた。万歩計を確かめるまでもなかった。目標の地点までを何歩で歩いたか、数歩のずれもなく言い当てることができる。ここ二十年間、ほぼ毎日続けてきた習慣だから、それも当然のことだ。  崩れた岩の洞《どう》窟《くつ》の前で立ち止まり、表示された歩数を見ると、ちょうど二千歩だった。鴨《かも》居《い》の自宅を出て、約一・五キロ歩いた計算になる。  腰を伸ばしながら海側に寄り、昇ろうとする朝日に向かって両手を合わせた。祈る言葉もまたここ二十年あまり変化はない。東京と札幌で暮らす二人の息子の健康と、彼等が抱える家族の健康、さらにその時々に応じて自分の望みをたったひとつだけ口にする。決して多くを望もうとはしなかった。観音崎の東端に立ち、昇る朝日に手を合わせることによって、全ての願いは聞き入れられたと、佳代は信じていた。上の息子が若くして課長のポストを手に入れたときもそうだった。願掛けをし始めて二ケ月もたたないうちに、課長の辞令を受け取ったとうれしそうに報告する息子の声を、電話で聞くことができた。 「観音様がかなえてくれた」  そう答えると、 「ばかいえ、おれの実力だよ」  と笑いながら息子は言った。  もともとはリハビリのために始めた早朝の散歩であったが、今はすっかり、家族の安寧を祈るための散歩に変わっていた。  二十年前、横《よこ》須《す》賀《か》の街中で倒れたとき、佳代はまだ五十代だった。救急車で病院に運ばれると、クモ膜下出血の診断を受け、即手術ということになった。幸い手術は成功したが左足に後遺症が残り、退院して数ケ月は、夫の肩に頼らなければ歩くこともままならなかった。それが今は、左足を引きずるのが目立たないほどに、症状は回復している。残り少ない人生をずっと足を引いて生きなければならないのかと、一時は絶望したものだが、足の障害を克服したことで自信が湧《わ》き、逆に生きる張り合いが生まれた。手術前より後のほうが、本当の人生を生きているような気がする。佳代に言わせれば、これもまた観音様の御利益だった。  いや、観音様だけではない。要因はもうひとつある。一瞬に目を射た鋭い光の帯。彼女の網膜には、あのとき目にした光景が今も焼きついている。早朝の散歩を日々欠かさずするようになったのは、波打ち際の潮《しお》溜《だまり》から放たれた光の帯の影響が大きい。二十年近く前の、退院して半年後のことである。  その頃、佳代は医師から歩くことを勧められていたが、億《おつ》劫《くう》がって、始める日を一日延ばしにしていた。「このまま寝たきりになってしまいますよ」という医師の言葉に奮起し、ある日の朝、突如散歩に出かけてみようと思い立った。  重い足を引きずり、それでもどうにか岬の突端までやって来て、遊歩道の手摺りから身体を乗り出し、佳代は呼吸を整えた。身体《からだ》の一部であるはずの左足は、前に進もうとする意志を阻み続け、その格闘の末、精も根もつき果てていた。退院してからずっと、思い通りに身体が動かないという苦痛にさいなまれてきた。元来身体を動かすのが好きだったせいで余計、不自由な身体をうとましく思う。  手摺りに横座りし、息をあえがせながら、数枚重ね合わせたティッシュペーパーをポケットから取り出し、鼻をかみ、目を拭《ぬぐ》った。そして、使い終わっても捨てることなく、紙をポケットに戻す。さっきから何度も、同じ紙で、同じ行為を繰り返していた。  手摺りを境にして、その先はもう岩場だった。すぐ足もとで波が砕け、風向きによって滴《しずく》が飛び、頬《ほお》を濡《ぬ》らしたりする。手摺りのちょうど真下には、紫色の草が茎を伸ばしていた。太く短い幹から数本ずつ小枝を出し、見るからに逞《たくま》しそうな草だ。五月になれば小枝の先端には淡黄色の花が集まって咲き始めるが、まだその季節には早い。  草の名前とその由来を、彼女は知っていた。「明日葉」と書いて「アシタバ」と読む。摘み取っても明日にはもう葉が伸びるのでこう呼ばれるようになったという。生命力の証《あかし》ともいえるアシタバを眺めているうち、手を伸ばして、その葉を何枚か折ってみたくなった。いじわるな気持ちからではなく、強い生命力が宿るなら自分もその恩恵にあずかりたいという願いから出た行為だった。  葉を手に取り、折り口を観察すると、黄色の汁がにじみ出ている。鼻を近づけても、匂《にお》いを嗅《か》ぐことはできなかった。鼻水のせいで嗅《きゆう》覚《かく》が鈍くなっているのか、それとももともと匂いがないものなのか、わからない。  ……また明日もここに来なければ。  佳代は胸にそうつぶやいた。名前どおり、明日にはまた折れた葉を伸ばすのかどうか、確認しに来なければならない。それを励みにすれば、早朝の散歩は毎日続けられるだろう。アシタバを折り、明日に伸びる葉を見るために、毎日ここに来るのだ。  決意を胸に宿し、顔を上げたときだった。小さな光の帯が、彼女の目を射た。最初のうち、光の正体がわからなかった。水平線上に顔を出す太陽が直《じか》に目を射たのではなく、瞬間的な、強い残像を網膜に残して光がきらめき、消えてしまったような印象を受けた。  光が消えたあたりに目を凝らしてみる。するともう一度、さっきよりも弱い光が、同じ角度から彼女の目に飛び込んできた。波打ち際に岩の凹《くぼ》みがあり、その潮《しお》溜《だまり》の中で海水に弄《もてあそ》ばれる物体が、光を反射させているらしい。その角度によって、鋭い光の帯が佳代の目に届くのだ。  手摺りを越え、潮溜のすぐ近くにまで寄ってみる。水に濡れないようにしゃがみ込み、よく観察すると、光を反射させているのが、ビニール袋に包まれた半透明のプラスチックケースであるとわかる。波に運ばれて岩場に打ち上げられ、そのまま置き去りにされてしまったものらしい。  円筒形のケースは意志を持つかのように、潮溜の中で動き回っていた。拾ってほしいと訴える声を、彼女は聞いたように思う。水際の漂着物に手を伸ばすことなど滅多にない。しかし、彼女は手を伸ばさずにはいられなかった。  海水の滴るビニール袋を指でつまみ、朝日にかざした。中身のケースはゴムテープでしっかりと封がされ、中にはさらに丸められた紙が封じ込められている。  ……手紙。  直感を得て、彼女はビニール袋を破り、ケースだけを取り出した。すぐに閃《ひらめ》いたのは、どこか遠くから流された手紙を、たった今受け取ったのではないかという、ロマンチックな空想だった。あるいは子供の悪《いた》戯《ずら》かもしれない。上の息子が小学校のとき、運動会のフィナーレで、思い思いの手紙をつけた風船が空へと一斉に放たれる光景を目にしたことがある。同じようなことが、海を舞台にして行われた可能性を、思い浮かべたのだ。  その場で読もうとしないで、ケースごとポケットに入れ、佳代は帰路につくことにした。来たときよりも、幾分足が軽くなったような気がする。  家に帰ってケースを開いてみると、中からはきれいに折りたたんで丸められた秩《ちち》父《ぶ》山地付近の地図のコピーが出てきた。その裏に、なにやら文字が書き連ねてある。佳代は、無意識のうち、声に出して読み上げていた。だが、一回読んだだけでは、何の感慨も湧かない。説教じみた文句に過ぎないと思われた。  差し出し人の名前は杉山文彦とあり、文末には一年以上前の日付が入っている。どうも杉山文彦という人間が、息子である武彦に宛《あ》てて書いたものらしい。どんなシチュエーションのもとで書かれたのか、佳代には想像ができなかった。秩父山地の地図が何を意味するのかも、理解に苦しむ。ただ宛名の住所は大田区多摩川となっていて、番地まで正確に記されていた。地図で調べると、場所はすぐにわかった。多摩川河口の、東京と神奈川のほぼ境界線上である。  手紙は、しばらくの間タンスの引き出しにしまわれることになった。だが、しまい込まれたわけではなく、佳代は時々思いついたようにそれを取り出し、ためつすがめつ眺めたりした。読み返すほどに、文面からは強い意志の力が発散してくる。本来あるべき場所に手紙が届けられれば、意志力はもっと増すようにも思われた。  ……宛名のところに手紙を届けよう。  郵送するのではなく、自らの足を使って届けに行かなければと、佳代の心は自然と決まっていった。半月にわたって手紙を眺めるうち、手紙から強い力を与えられたように感じる。与えられた力を確認し、恩を返すためにも、ぜひ宛名の場所に赴こうと思うのだ。  同時に、それは新たな目標となった。横須賀から大田区の多摩川まで、誰にも頼らず、電車を乗り継いで往復する……。観音崎を苦もなく一周できるようにならなければ、実行は覚《おぼ》束《つか》無《な》い。  それからというもの、日の出前に起きて岬を一周し、アシタバの葉を折ってお地蔵様に供え、足がよくなりますようにと拝むのが朝の日課となる。  手紙が書かれて既に一年半近く経過しているため、少々の遅れは許されるだろうという甘えもあった。しかし万が一、宛名の家族が手紙の存在を知っていて、届くのを心待ちにしていないとも限らない。そう思うと、のんびりもしていられず、駆り立てられるように、佳代はリハビリに精を出した。  そうして、アシタバの花が咲く頃になってようやく、佳代の足は、独力で多摩川まで往復できる程度に回復した。佳代は、天気のいい午後を選んで実行に移すことにした。  宛名にあるマンションは、電車の駅からそう遠くなく、直線距離にすればたかが知れていた。しかし、途中で道に迷い、行きつ戻りつしたあげく、目当てのマンションを発見したとき、佳代の足は、もうこれ以上歩くのは無理と思われるほど、疲弊し切っていた。マンションのロビーに至る三段の階段を上がるのにも、身体を横向きにして、全体重を杖《つえ》にかけるありさまで、どこかでゆっくりと休息を取らなければ、駅に戻れそうにない。  ひっそりとした玄関ロビーを入ったところに、ソファが二脚向かい合わせに置かれてあり、しばらくそこで休もうと決めてから、とりあえず集合ポストを捜した。  手紙に書かれた宛名のポストには、四人の名前が記されている。杉山文彦、京子、武彦、昭彦。手紙の差し出し人である父が文彦で、宛名にある武彦が息子のはずだ。父から息子への手紙であることは、文面を読んでおよそ見当がついていた。だが、ポストに記された名前を直に見て、佳代は、一家の家族構成を再確認した。また様々な空想が脳裏をよぎる……。父は一体どんな状況で、息子に手紙を書いたのか。父は、今、どこで何をしているのか。父の名前はポストから消されてはいない。家族と一緒にここに住んでいるのだろうか、それとも……。  拾ったときと同じく、フィルムケースに手紙を戻して投《とう》函《かん》すると、コトンと音がして、しっかりと届いたという手《て》応《ごた》えが感じられた。  役目を果たし終えた満足感と疲れの中、ソファに小さく身体を沈ませ、あれこれ溢《あふ》れ出るままの空想に身を委《ゆだ》ねているときだった。にわかに玄関ロビーが活気づく気配に目をやると、四、五歳と思われる男の子が、玄関のガラスドアをぐいぐいと押し開け、「ママ、早く」と大声を上げているのが見えた。呼ばれた母親は、泣き喚《わめ》く乳児を寝かしたバギーを、佳代がしたと同じように横向きの姿勢になって、三段の階段を押し上げていた。階段を上り切り、男の子が開いてくれたドアを母が通り抜けると、男の子は再び先陣を切り、跳びはねながら母の先回りをする。集合ポストの前でも、自分のポスト目がけて跳びはねるのを止めなかった。しかし、背が届かず、後から追い付いた母がさっと中身を取り出して掲げると、不服そうな叫びを上げ、母の手にある小さなフィルムケースを獲物と見《み》做《な》し、さらに高く跳びつこうとする。ポストから出てきたフィルムケースを不審気な表情で眺める母親の傍らで、男の子は、「よこせー」「見せろー」と元気な雄《お》叫《たけ》びを上げ続けていた。だが、エレベーターが開き、三人が中に吸い込まれてドアが閉じると、ロビー全体はこれまで通り、ひっそりとした静けさに包まれていった。乳児の泣き声と、男の子の上げた雄叫びが、静寂の中、いつまでも強く耳に残った。そして、音の余韻が消えぬうち、佳代は重い腰を上げたのだった。  一瞬の隙《すき》をついて差し挟まれた喧《けん》噪《そう》が、よほど印象深かったのだろう。二十年たった今も、佳代は、ピョンピョンと跳びはねている男の子を思い浮かべることができる。「母さんと新しく生まれる子を、たのむ」と父から託された子の、生き生きとした表情が懐かしい。  もちろん、手紙の文面は一字一句正確に暗記していた。去年の夏の終わりに、海で拾った宝物と称し、孫の悠子の耳もとで手紙の文面を読み上げたところ、彼女は怪《け》訝《げん》な顔で見返してきた。なぜその言葉が宝物なのか、まったくわからない様子なのだ。佳代にも、言葉の裏にある真実がわかっているとはいえない。しかし、徐々に身体に沁《し》み渡り、心の支えとなったのも事実だ。早朝の散歩は欠かさず、左足はあれ以来順調に回復する兆しを見せ、今ではもうすっかり回復している。  もうすぐ春休みになる。悠子が遊びに来るのもじきだ。佳代は、アシタバの葉を折ってお地蔵様に供えると、うきうきした気分になって家路を急いだ。 単行本あとがき  もう二十年近く、港区のはずれにあるマンションに住み続けている。部屋の窓から東京湾を見渡すことはできないが、都会の喧噪がふと途切れた深夜、海がすぐ間近なのを実感することがある。東京湾を航行する船の警笛が、電車の音よりはっきりと聞こえたりするのだ。  大正十年当時の地図を広げてみると、東海道線の東側はすぐ海であったことがわかる。品川沖には台場が六つ並び、その延長線上に夢の島はまだ存在しなかった。これが昭和三十年頃になると、埋立地に呑み込まれて台場は五つに減り、荒川放水路の河口付近に夢の島がぼんやりと浮かび始める。そして現在、海に浮かぶ台場は唯一第六台場のみ。夢の島の礎は確固として、その上にはハイウェイと電車が走るまでに成長を遂げた。  東京湾の変遷を地図の上で眺めるだけで、想像力は刺激されてしまう。埋立地は日常のゴミが堆積し、人々の足に踏み固められて、独特の音や匂いを発散するかのようだ。時代時代の残《ざん》滓《し》が、足の下に積み重なっているのが、なんともいえずおもしろい。そこは、海でも陸でもない妙に不安定な領域であり、その足もとの不確かさが、ホラー小説の舞台として、うってつけのように思われた。 『仄暗い水の底から』は、部屋に流れ込む海の音と、東京湾変遷の地図からヒントを得て生まれたものである。「野性時代」をはじめ「小説すばる」「小説宝石」「SFマガジン」に順次発表した作品をきれいにまとめ上げたのは、企画段階からつかず離れずして世話を焼いてくれた角川書店の堀内氏である。各誌の担当編集者と、堀内氏にはたいへんお世話になりました。感謝します。   一九九六年一月 鈴木光司   本書は一九九六年二月小社より刊行された作品を文庫化したものです。   仄《ほの》暗《ぐら》い水《みず》の底《そこ》から  鈴《すず》木《き》光《こう》司《じ》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成13年12月14日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社  角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Kouji SUZUKI 2001 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『仄暗い水の底から』平成 9年 9月25日初版発行               平成13年12月5日15版発行