[#表紙(表紙.jpg)] 鬼平犯科帳の真髄 里中哲彦 [#改ページ]   はじめに 『鬼平犯科帳』にたいする私の想いは、気ばっていうが、部分的共感ではなく全面的支持である。したがって本書は、極私的な『鬼平犯科帳』論になり、文章は公私混同文になる。だから、論理的思弁をその武器とはしない。情緒的、感傷的、扇情的な文体でヨガってみせる。  ご存じのように、『鬼平犯科帳』の作者・池波正太郎は、一九九〇(平成二)年に他界した。作家が亡くなれば、もはや新作はない。「死人に新作なし」である。となると、「去る者日々に疎し」というやつで、作品自体も徐々に忘れ去られていくのが通り相場である。でなければ、「古典」か「名作」におさまってちょこちょことか細《ぼそ》く読みつがれるというのが現実である。  ところが、『鬼平犯科帳』の場合はちがった。原作者の生前にも増して広く読まれるようになり、新しい読者の参入を見たのである。  どうしたというのか。  そう、テレビ「鬼平犯科帳」に中村吉右衛門が登場してしまったのである。原作者・池波正太郎をして「まさに天の配剤」といわしめた稀代の名優・中村吉右衛門がついに鬼平となって登場してしまったのである。この役者の登場により、『鬼平犯科帳』という大山の裾野がまた大きく広がったのだ。  しかし、こういっては口はばったいのであるが、私は『鬼平犯科帳』が多くの読者を獲得していることや、テレビ「鬼平犯科帳」が視聴率が高いということに、べつだん興味もなければ、また驚いてもいない。  私が興味をもち、そして驚いているのは、『鬼平犯科帳』という作品がこうも私の心を掴んではなさないという事実のみである。  この数年、私は鬼平中毒症といってよい状態に陥ってしまっている。ちょっとでも気をゆるすと、つい「鬼平」に手がでてしまう。ボーッとしていると、ビデオを鑑賞し、本に目を走らせてしまっているのである。  池波正太郎はまぎれもない人性研究家《モラリスト》、つまり人間の本性を探究する小説家であった。実人生の鉄床《かなとこ》で鍛えあげたリアリズムを下敷きにして、世態人情にさまざまな視線で臨み、そのことで人間の正味を浮き彫りにするという構えをとった作家であった。  また、中村吉右衛門は「稀代の名優」という形容がふさわしい梨園(歌舞伎界)の立役《たちやく》であり、その卓抜した演技と明晰をきわめた口跡は、観る者、聞く者を唸らせずにはおかない当代随一の役者である。  まちがいなく私は、こうした池波正太郎が描くところの『鬼平犯科帳』に、そして中村吉右衛門が演じるところの長谷川平蔵に魅了されているのである。  ご恩返しというようなご大層なものではないが、そんな気持ちも少々あって、きょうからこの作品と役者のために机に向かおうと思う。  肝に銘じていることは、説明調にへたりこむ愚をおかさないでこの作品の魅力を描ききることである。多くの本が引用と説明に腐心するあまり失敗している。そうした愚だけはおかさないようにしたいと思っている。  それにしても、『鬼平犯科帳』を読むことは、池波正太郎ふうに書けば、 〔倦《う》むことがない〕  のである。  また、テレビ「鬼平犯科帳」を見ることは、 〔こたえられない〕  のである。 『鬼平犯科帳』の「倦むことない」、そして「こたえられない」魅力を、思う存分気ままに論じてみようと思う。  わが愛、疑うまじ。  それにしても、誰にでも書けるであろうことを、私にしか書けないと思いあがれるまで、けっこうな時間を要してしまったような気がする。 [#地付き]著 者  [#改ページ]    目 次 [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ] 第一章 極私的『鬼平犯科帳』論[#「第一章 極私的『鬼平犯科帳』論」はゴシック体]     『鬼平犯科帳』は極上の世間小説である     スタイリッシュな「鬼平犯科帳」     悪人の作法     私の鬼平     達人の「勘ばたらき」は何処からきたのか     人望こそがすべて     平蔵が語らなかったもの 第二章 中村吉右衛門の魅力[#「第二章 中村吉右衛門の魅力」はゴシック体]     おやじ殿の残した宿題     やっぱり吉右衛門     中村吉右衛門 語録     中村吉右衛門を素描する 第三章 『鬼平犯科帳』はこう読め[#「第三章 『鬼平犯科帳』はこう読め」はゴシック体]     彦十がいちばん幸せ     失われた岸井左馬之助を求めて     忠吾は兎ではなくチワワである     粂八が密偵になった理由《わけ》     おまさは悲母《ひぼ》観音である     久栄はつねに妻である 第四章 言上《ごんじよう》したきことあり[#「第四章 言上《ごんじよう》したきことあり」はゴシック体]     テレビ版「五月闇」に怒りの拳《こぶし》を     映画『鬼平犯科帳』に苦言を呈する     役者は勝手に太るな     子役養成所の設立を!     佐嶋忠介を勝手に拉致するな     憂鬱なる酒井祐助     峰竜太よ、あなたは何処へ行くのか     なぜ「鬼平犯科帳」は終わったのか 第五章 この役者がいい[#「第五章 この役者がいい」はゴシック体]     風来坊の蹉跌《さてつ》     沢田小平次は真田健一郎である     多岐川裕美の久栄は女性も認めている     じっと見つめる梶芽衣子     蟹江敬三の「前世」は、小房の粂八ではなかったか     いなせな三浦浩一     綿引勝彦は大滝の五郎蔵をもこなす     五鉄の三次郎を演《や》る藤巻潤も善き人である     「密偵たちの宴」は何度も見るべし     「鬼平賞」発表 第六章 テレビ「鬼平犯科帳」の周辺[#「第六章 テレビ「鬼平犯科帳」の周辺」はゴシック体]     「インスピレイション」は脳味噌がふるえるほど美しい     君はあの人になれない     恐るべし、猫どの 第七章 池波正太郎の世界[#「第七章 池波正太郎の世界」はゴシック体]     池波正太郎の人間観     端正でなめらかな文体     無言のゆたかさ     命名の達人     足跡を勝手にたどる [#ここで字下げ終わり] あとがき 文庫版あとがき [#改ページ]   本書に登場する主な人たち[#「本書に登場する主な人たち」はゴシック体] 長谷川平蔵[#「長谷川平蔵」はゴシック体](中村吉右衛門)  火付盗賊改《ひつけとうぞくあらため》(方《かた》)の長官。火付盗賊改(方)とは、火付けを取り締まり、盗賊を逮捕するための幕府の役職。略して、火盗改《かとうあらた》メともいう。 久栄[#「久栄」はゴシック体](多岐川裕美)  平蔵の妻。十八歳で平蔵の妻となり、二男二女を産む。 辰蔵[#「辰蔵」はゴシック体](長尾豪二郎)  平蔵の嫡男。女遊びに余念がない。剣の筋はよくない。 岸井左馬之助[#「岸井左馬之助」はゴシック体](江守徹・竜雷太)  平蔵の親友。高杉道場で平蔵とともに剣の腕を磨いた。平蔵には「左馬《さま》」と呼ばれている。 井関録之助[#「井関録之助」はゴシック体](夏八木勲)  高杉道場の同門。平蔵より四歳年下。托鉢坊主をやっている。 佐嶋忠介[#「佐嶋忠介」はゴシック体](高橋悦史)  筆頭与力。平蔵から絶大なる信頼をおかれている。 酒井祐助[#「酒井祐助」はゴシック体](篠田三郎・柴俊夫・勝野洋)  筆頭同心。重厚な人柄。変装が得意。 沢田小平次[#「沢田小平次」はゴシック体](真田健一郎)  同心。剣は超一流。生真面目。独身で老婆と二人暮らし。 木村忠吾[#「木村忠吾」はゴシック体](尾美としのり)  同心。女好き。うまいもの好き。剣のほうはダメ。 猫どの[#「猫どの」はゴシック体](沼田爆)  同心。食へのこだわりはすさまじい。村松忠之進が名。 相模の彦十[#「相模の彦十」はゴシック体](江戸家猫八)  密偵。若い頃の平蔵の取り巻きの一人。平蔵より年長。 おまさ[#「おまさ」はゴシック体](梶芽衣子)  密偵。盗賊の娘で、元盗賊。十か十一の子どもの頃から平蔵を知る。 小房の粂八[#「小房の粂八」はゴシック体](蟹江敬三)  密偵。元盗賊。平蔵の拷問をうけ、すべてを白状し、密偵になる。 大滝の五郎蔵[#「大滝の五郎蔵」はゴシック体](綿引勝彦)  密偵。元盗賊の首領《しゆりよう》。のちに、おまさと夫婦になる。 伊三次[#「伊三次」はゴシック体](三浦浩一)  密偵。活躍したが、「五月闇」で命を落とす。 お熊[#「お熊」はゴシック体](北林谷栄・五月晴子)  茶店《ちやみせ》〔笹や〕の女あるじ。若い頃の平蔵を知る。気骨ある老婆。 三次郎[#「三次郎」はゴシック体](藤巻潤)  軍鶏《しやも》鍋屋〔五鉄〕の亭主。善き人。 [#改ページ] [#改ページ]   鬼平犯科帳の真髄 [#改ページ] 第一章 極私的『鬼平犯科帳』論  『鬼平犯科帳』は極上の世間小説である[#「『鬼平犯科帳』は極上の世間小説である」はゴシック体]  どんなインテリや知的肥満児が才を恃《たの》んで「社会」の条理や効用を説明してみても、多くの心情を通過してきた「世間」にはかなわないというのはよくある図である。また、ものごとにたいして性急に黒白をつけたがる「社会」に、「世間」が�待った�をかけるのもよくある話である。つまり、雑誌『世界』に書いてあることは、往々にして世間では通用しないのである(雑誌『世間』にしたら、もっと売れそうな気がする)。 「社会」は脆《もろ》く、「世間」はしぶとい。  成人たる者、このことは肝に銘じておかねばならない。 「社会」と「世間」、どちらがいいとか悪いとかは、ここでは論じないが、少なくとも現代日本においては、「世間」の力を無視したり軽視していたら何もできない、それほどまでに「世間」は強情なものだ、と認識しておいたほうがよい。  では、この「世間」を縦横無尽に描いて、生きていくうえでのさまざまなヒントを与えてくれるものはあるのか。  ある。  それは時代小説である。  時代小説は大衆文学もしくは娯楽のための読み物として扱われ、純文学よりもワン・ランク下であるようにいわれることが多いが、そういうことを口にする人々は、間違いなく世間知らずの社会の人だと考えてよい。  時代小説には、「世間」が圧倒的な力をもって描かれている。山本周五郎や司馬遼太郎の著作がそうであるし、藤沢周平や隆慶一郎の作品群がそうである。むろん、池波正太郎の仕事もそうである。  私は、時代小説を読まぬ者はどんなに齢《よわい》を重ねていようとも「世間」がわからない子どものような者だと思っている。なぜというに、彼らには「世間」を意識的に観察してみようという姿勢が見られないからだ。腹の足し、頭の足しになるものばかりに夢中になって、眼の足し、耳の足しになるものはうっちゃっておくというのでは成熟した大人とはいいがたい。  時代小説にはさまざまな「世間」のかたちが描かれている。ならばこそ、何はともあれそこから学ぶことが成熟した大人というものではないか。時代小説には、人間の業《ごう》とともに、日本人の「世間」が存分に描かれている。時代小説を読まぬことは、一生の痛恨事だといいたい。  よく時代小説はチョンマゲ時代の物語だから読んでも現代に生かせるものではない、などという、それこそ頭のなかにチョンマゲを結《ゆ》ったようなことをいう人がいるが、それはちがう。すぐれた時代小説は、過去を描いて現在を映しだす合わせ鏡なのである。そして、『鬼平犯科帳』こそ、正真正銘の、掛け値なしの、まごうかたなき秀逸の世間小説である。 「妖盗|葵小僧《あおいこぞう》」という話がある。  この物語は、寛政三(一七九一)年、将軍家の葵の紋付を着て盗みをはたらき、そのうえに婦女子を犯しまくり、江戸市中を震えあがらせたという実在の悪党の話である。  平蔵は、この神出鬼没の葵小僧に煮え湯を飲まされた。平蔵をここまで手玉にとったのは、網切《あみきり》の甚五郎《じんごろう》とこの葵小僧の二人だけである。のちに平蔵は「わしが捕らえた盗賊どもの中で、いまもって憎い奴は、彼奴《きやつ》めだ」(「蛇苺」)と葵小僧のことを回想するが、それほどまでに平蔵はこの葵小僧に翻弄されたのだった。  葵小僧に手を焼く平蔵を見て、旗本や幕閣のなかには「長谷川平蔵も焼《やき》がまわったらしい」と噂する者もいた。老中・松平定信も、なかなか捕縛されないこの悪党に業を煮やし、火盗改メだけでは不十分と判断、ついには南町と北町の両奉行所に「葵の御紋を汚《けが》す盗賊、一日も早く召し捕えよ」と指令をだしたほどである。そればかりか、なんと火付盗賊改方の長官をもう一人ふやせという声もあがり、幕臣・桑原主膳《くわばらしゆぜん》が「加役《かやく》」として就任することになった。  ここに至って、平蔵率いる火盗改メの面目は完全に丸つぶれとなった。  さらに、江戸の町人たちまでもが追い討ちをかけた。「さすがの鬼の平蔵も、葵小僧だけには手も足も出なかったねえ」との噂が広まり、平蔵と火盗改メの信用はいっきにガタ落ちとなった。  なぜ「独自の機動性をもつ」火盗改メが、雑魚《ざこ》一匹、この葵小僧ひとりにここまで翻弄されたのか。  それには隠された理由《わけ》があった。自分の目のまえで葵小僧に凌辱《りようじよく》される妻や娘を見た商家の主人がそれを届けでず、店の者にも口外を禁じたからである。つまりは、事件は起きても、その情報提供者が少なかったというわけである。  はたして、やっとのことで平蔵は葵小僧をつかまえた。  ところがである。平蔵は、この非道を尽くした悪党をつかまえると、きちっとした取り調べもせずにあっさりと首をはねてしまった。 [#ここから1字下げ] ≪「お前はなあ、今夜、死ぬのだ」 「なに、なになになに……」  平蔵をにらむ葵小僧芳之助の顔かたちは、まるで舞台で大見得をきっているように見えた。  平蔵は、この夜のうちに、妖盗の首をはねてしまった。≫(「妖盗葵小僧」) [#ここで字下げ終わり]  むろん平蔵のこの独断専行の処置に、幕府の役人や各奉行所は黙ってはいなかった。その処刑があまりにもあっさりと行なわれてしまったことに、「独断すぎる」と非難の声があがった。逃げた仲間の情報も得ずして首をはねるなどもってのほかだというのだ。  じっさい平蔵は、町奉行所にも伺いをたてず、また若年寄や老中の裁断も仰いでいなかった。しかし平蔵は動じることなく、「われら火付盗賊改方は、無宿無頼《むしゆくぶらい》の輩《やから》を相手に、めんどうな手つづきなしで刑事にはたらく荒荒しい御役目。いわば軍政の名残りをとどめるが特徴でござる。ゆえに、そのたてまえをもって此度《このたび》の事件《こと》も処理いたした。もしも、それがいかぬと申されるなら……」火付盗賊改メを廃止したらよろしい、と言い張り、こうした圧力にビクともしなかった。そして、極悪非道な「煮ても焼いても食えぬ奴」との判断をくだせば、火盗改メは寸分の容赦もなく迅速で果敢な処置を行なう、ということを世間に知らしめたのであった。  ところが、話はここに落ち着かない。  この平蔵の「独断専行の処置」に手を合わせて感謝している者たちがいた。葵小僧に恥辱をうけた女たちとその家族である。 [#ここから1字下げ] ≪「お前がな、油紙へ火のついたようにぺらぺらとしゃべりまくった気の毒な女たちのことは、この場かぎり、おれの胸の中へしまいこんで他にはもらさぬ」 「そ、そんなばかな……そ、それでも手前《てめえ》は御公儀の役人か、やい」≫(「妖盗葵小僧」) [#ここで字下げ終わり]  自暴自棄になった葵小僧がペラペラと犯した女たちのことを喋りまくる惧《おそ》れがあったために、平蔵はすぐさま口封じをしたのだった。きちんとした記録を残そうとしたら、葵小僧が凌辱したすべての女たちから事情聴取をしなければならなくなる。そんなことをしたら、犯された女とその家族が苦しむのは目に見えている。彼らの残りの人生が台無しになってしまうことだってありうる。平蔵はこのことをもっとも危惧したのである。だからこそ平蔵は、周囲から何をいわれようともすばやく事件を処理したのである。まさに花も実もある裁断であった。  人情の機微を巧みに綴ったこの「妖盗葵小僧」は、「世間」を活写して傑作である(テレビドラマは、パチパチパンチの島木譲二が葵小僧になって、言及したくないほど劣悪に仕上がっている。コメディアンだから悪いというのではない。俳優としての演技力を観察していうのである。期待していただけに失望もまた大きかった)。 『鬼平犯科帳』の原作者・池波正太郎は、まごうかたなき世間小説家であった。人事に遭遇し、物に触れ、事に感じる人間の営みを情理を尽くして丹念に描いた。そして世の中の掟や約束事、そしてそれらが巨大になったとき生まれる「世の中の生理」、つまり「世間」を熱心に描出した。 「妖盗葵小僧」の例でもわかるように、『鬼平犯科帳』は読んだあとにさわやかな気分に浸ることができる極上の世間小説である。『鬼平犯科帳』を読んでいないという人は、すぐに書店に走るべし。カネのない学生たちは、親の首を絞めてでもカネをせしめて読むべし。最初の二巻まで読みとおせば、あとは舌なめずりしながら、この世間小説を読むことになるであろう。  スタイリッシュな「鬼平犯科帳」[#「スタイリッシュな「鬼平犯科帳」」はゴシック体] 「鬼平犯科帳」は、他の時代劇とはちがう。完全に一線を画しているといってもいい。  テレビ放映されている他の人気時代劇、たとえば「水戸黄門」「銭形平次」「大岡越前」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」「桃太郎侍」「大江戸捜査網」などにはいっさい目もくれず、「鬼平」だけに夢中だという人は多い。というか、鬼平ファンで他の時代劇にも同じように�狂っている�という人に私はこれまで会ったことがない。そういえば、今朝《けさ》もこんな投書が『朝日新聞』にでていた(一九九八年一月十八日付)。 [#この行2字下げ]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661] [#この行2字下げ]「鬼平犯科帳」が大好きな小学三年生の娘。「い」がつく言葉を集めなさいという宿題に、「いそぎばたらき」「いちみのかしら」と書いていた。(新潟市・先生の顔を想像した母・39歳) [#この行2字下げ]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]※[#ハート白、unicode2661]  朝ごはんを食べながら、のけぞった。  娘よ、いくらなんでも「いそぎばたらき」はやめなさい。  この一例でもわかっていただけると思う。鬼平ファンとは、かような�狂った�存在なのである。鬼平ファンのおよそ九割は「鬼平病」という一種の中毒症状に陥っているのではないか(それも急性ではなく、慢性であろう)。  で、この「鬼平」の対岸にあるものといったら何か。それはいわずと知れた「水戸黄門」である。この番組は、一九六九(昭和四十四)年にはじまったというから、もう三十年ほどもやっている最長不倒番組である。  この長寿番組にして「国民的な人気番組」は、天下の副将軍であるところの黄門さまが諸国を漫遊して、行く先々で思いがけなく出会った事件を印籠《いんろう》ひとつで解決していくという、おそろしく単純な物語である。  この番組の人気の秘密は、単純な勧善懲悪、わかりやすいキャラクター、そしてパターン化された物語展開それ自体にある。ひと言でいってしまえば、マンネリ化した娯楽性にこそ、その人気の秘密はある。で、どのくらいマンネリ化しているか。ためしにその�不変�の物語を紙上展開してみよう。 [#4字下げ]○  諸国を訪ね歩く黄門さま一行。たまたま立ち寄った先で、悪代官やら悪家老やら(川合伸旺か高野真二が多い)の悪い噂を耳にする。「これは放ってはおけませんな」と直感する黄門さま。まずは情報の収集にかかる(ここでもう印籠をだしてしまえばいいのにそうしない)。このとき、町人や村人からせっせと情報を拾いあつめるのであるが、むろん正体は明かさない。「ご隠居さまはいったい、どこのどなたで?」という問いかけには「ただの旅の爺いですよ」とトボけ、名のらなくてはならないときは「越後のちりめん問屋の隠居・光《みつ》右|衛門《えもん》」とウソをいう。そして、懲《こ》らしめのための策を講じておこうとするも、結果的には相手に悪行をはたらかせるような環境を整備していく。このへんで、「おじいちゃんたちの回春剤」として名高い露出狂気味のかげろうお銀の入浴シーンが挿入される(なぜかポニーテールの髪はきちっと結ったまま)。そうこうしているうちに、味方から犠牲者がでる(黄門さまから笑みが消える)。このあたりで、やおら風車の弥七が登場。はずれることのない貴重な情報を黄門さまに提供する。黄門さまの「許しません」のひと言をうけて、一同事態収拾に向けて動きだす。しかし、敵もさるもの、なかなか歯向かうことをやめない。業《ごう》を煮やした黄門さま、「助さん、格さん、ぞんぶんに懲らしめてやりなさい」と烈火のごとく怒る(でも、あんまりこわくない。このとき、「格さん、助さん」の順では決して呼ばない。これは徹底している)。乱闘がはじまる(黄門さまも杖《つえ》をもって闘うことがあるが、敵を含め、周囲が黄門さまを守ることに協力しているため、黄門さまは安心感に支えられた余裕さえうかがわせている)。八時四十五分。「もういいでしょう」と黄門さま。つづいて「控えおろう」と助さん(この役は、きまって助さん)。「このお方をどなたと心得おるか。畏《おそ》れおおくも前《さき》の副将軍、水戸中納言光圀公なるぞ。頭《ず》が高あい」とつづく。そして格さん、ついにというか、やっとというか、印籠を懐《ふところ》から取りだす(印籠をだすのは、きまって格さん。黄門さまは助さんよりも格さんのほうを信頼していると見える。それにしても、黄門さまはこんな大事なものを他人にあずけていていいのか)。「ははあ」と平伏する悪党ども(このとき、黄門さまをたんなる爺さんとしか見ていなかった善男善女も米つきバッタのように頭を地面にこすりつける)。地べたにはいつくばった悪党と民衆をまえにして、黄門さまのお説教がはじまる(およそ二分間)。しめくくりは、「のちのち藩公からきついお咎《とが》めがあるでしょう」で一件落着と相成る(しかし数年後にこの地を訪れると、また同じような事件が起こっている。ほんとにきついお咎めをしているのかという素朴な疑問が頭をよぎる)。そして翌日、晴れやかな空のもと(かならず日本晴れで、雨の日はない)、土地の人に見送られて黄門さま一行は新たな世直し旅に出かける。うっかり八兵衛をフィーチャーした和気あいあいの会話。一行の朗らかな笑い声。そして、ひときわ大きな黄門さまの高笑い。かっかっかっ。 [#4字下げ]○  とまあ、毎回ほぼこんな具合になるのであるが、この何が面白いのだろう。いったいこの何が人を「水戸黄門」へとみちびくのだろう。キツい。あまりにもキツい。そして他愛もない。「蓼《たで》食う虫も好きずき」(「趣味は説明できない」という意味)ということわざがあるが、この蓼はとうてい私には食えない。 「水戸黄門」に課せられた使命は、いつもとは違う小道具(=ゲスト&漫遊地)で、いつもと同じ物語をつくることである(この一連の展開を「円熟の凡庸さ」とか「偉大なるマンネリズム」と称して好意的にとらえる向きもあるが、私にはこういう何でも愉《たの》しんでしまおうとするポスト=モダン的な構えはない)。  テレビのまえに座った人間は緊張を嫌い安堵を好む、というのはわかるが、いくらなんでもこれはやりすぎである。安堵というよりも弛緩《しかん》という形容のほうがふさわしいのではないか。  己《おのれ》を善人だと思い込んで悦に入っている人間ほど始末に負えないものはない、とつねづね考えている私にとって、「水戸黄門」はあまりにも精神的に不衛生な番組である。また、弱者がつねに善人であり、かつまた人間的であり、強者はいつも傲慢で奸智《かんち》に長《た》けていると設定するのもひどく幼稚にすぎる。  だが友よ、驚くなかれ、この「水戸黄門」は視聴率が絶頂期にはなんと四三・七パーセントを記録、この二十五年間の平均視聴率は二六パーセントを上回っているという(ちなみに視聴率一パーセントは、およそ百万人と考えられている)。  つまり、「水戸黄門」を敵にまわすことは、すなわち国民の大多数を敵にまわすことであり、また、ということは、時代劇といえば百人中九十九人が「水戸黄門」の名を挙げるということであり、断乎として私はちがう、という人がいたら、その人が残りの一人であり、多くの場合、それが鬼平ファンである、ということになる。  わかっていただけただろうか。かように「水戸黄門」のファンは多く、かように「鬼平」のファンは特定少数なのである。  さて、友よ、テレビ「鬼平犯科帳」の魅力といったら、あなたは何を挙げるだろうか。「人情への機微」「情況への決断」「朋友への信義」「盗人への憐れみ」「密偵への情愛」「異性への思慕」「性への情熱」「食へのこだわり」などの返答が具体的にかえってきそうだ。勘違いしないでいただきたい。テレビ「鬼平犯科帳」の魅力ですよ。小説『鬼平犯科帳』の魅力じゃないですよ。  テレビ「鬼平犯科帳」のいちばんの魅力といったら、スタイリッシュなところだ、と私は言い切りたい。テレビ「鬼平犯科帳」は、見る者の予想を裏切るも、そこに納得と快感を与えるという、きわめてスタイリッシュな魅力に満ちあふれていると申し述べたい。  ひとつ例をだそう。「お峰《みね》・辰《たつ》の市《いち》」という作品を覚えているだろうか。  この作品は、盗賊から足を洗った辰の市(市川左団次)が、昔の盗賊仲間から盗みの手助けをもちかけられ、それを拒んだために女房のお峰(田島令子)がさらわれる、そして事件が一件落着したあと、平蔵はその夫婦の心中を深く察して見逃してやることにする……という物語なのだが、この最後のシーンで見せる平蔵(中村吉右衛門)の表情としぐさは身震いするほどスタイリッシュであった。  江戸追放を命ぜられ、旅立つその日、平蔵のまえに現われたお峰と辰の市は、垣根の向こうから土下座をして平蔵に感謝の気持ちを伝えようとするのだが、平蔵はいっこうに何もいう気配を見せない。ただ、かぶっていた編み笠をちょいとあげて二人を視界に入れると、「もういい。とっとと行け」というふうに手にしていた煙管《きせる》をひょいひょいと二度振るだけだ。  瞬間、感動の戦慄が背筋を駆けあがり脳細胞を貫通した。  スタイリッシュだ。心がくすぐられ、しばし陶然となった。  平蔵は、その夫婦が二度と盗賊たちの片棒を担ぐような真似をするまいとわかっていた。だから、ねちねちとご託宣を述べたり、くどくどと説教を垂れたりしない。むしろ柔和な顔つきで、何もいわず見送ることで粋なはからいとした。煙管で「もういい。あっちへ行け」とやるのは伝法《でんぽう》だが、それを照れと色気でつつんで、スタイリッシュなものへと変容させている。  スタイリッシュとは別名、屹立《きつりつ》する上品さのことである。テレビ「鬼平犯科帳」のいちばんの魅力はそこにある。そして、中村吉右衛門の水際立った男っぷりのよさがその九割を担っている。  悪人の作法[#「悪人の作法」はゴシック体]  悪人に魅力がない。現代の話である。  世の中が粋でなくなったぶん、悪人も粋でなくなってしまったようだ。暴走族はうるさいだけ。ごくつぶしはヤクをやるだけ。不良はイジメるだけ。悪人という自覚すらない輩《やから》が多すぎやしないか。  ツッパる理由がないのに、ツッパるのは恥ずかしいことだ。ここに気づいていない悪人が多すぎる。  いっそ悪人になる条件として、「悪人認定試験に合格すること」を課したらどうか。そう考えたくなるほど現代日本の悪人には魅力がない。  最近のやくざ映画というかチンピラ映画を観てもそうだ。タンカの切り方が形式的模擬的でしらけてしまう。タンカを切ったら五分後に担架に乗っているような奴ばかりがでてくる。ああ、いやだ。  いまの世の中では、悪人はたんなる馬鹿の代名詞になってしまったような気がする。ズルいし、セコいし、だいいちカッコわるい。  正義の味方と同じくらい悪であることの迫力と魅力をそなえている人物はどこへいってしまったのだろうか。「弱きを助けて強きを挫《くじ》く」という任侠道の真髄を実践する男はどこにいるのだろうか。たとえ周囲からやくざ者と呼ばれようが、自分の生き方には自信をもって己《おのれ》の美学に死を賭する者はもう絶滅してしまったのだろうか。  それもこれもどれも悪人どもが命を大切にしはじめたことが元凶ではなかろうか。ひどいのになると健康長寿に気を配り、暴飲暴食をやめて、摂生やダイエットに励む者までいるらしい。規則正しい生活をしている悪人など面《ツラ》も見たくない。  そもそも悪人の魅力とは、極言すれば、己の美意識に反すれば簡単に命を張ってしまえるところにある。こんなことに目くじらをたてなくてもと思われることに、とことんイッてしまえるところにある。「身は鴻毛《こうもう》より軽し」の言葉どおり、他人を巻き込まず、些細なことで、無造作に死んでいくのである。そして、その決然たる態度の潔さに世人は心を打たれるのである。それがどうだ。命を張れない悪人ばかりが、はびこるようになった。  そして、命を張れないぶん、キザでもなくなった。  悪人の魅力のもうひとつは、なんといってもキザである。地道な仕事に矜持《きようじ》をもてないぶん、キザに磨きをかける。だが、そのキザもずいぶんいい加減なものになってきた。  で、キザでなくなったぶん、どうなったか。粗野になった。 �隙間風《すきまかぜ》�の異名をとった雨引《あまびき》の文五郎《ぶんごろう》をすこしは見習ったらどうか。  雨引の文五郎は、その�隙間風�という異名どおり、どこからともなく忍びこんで盗みばたらきをしてのける盗賊であった。もとは伊勢の盗賊・西尾の長兵衛のところにいたのであるが、長兵衛亡きあと、「おれは、先代のお頭《かしら》の跡目をつぐつもりはねえ。おれは雨引の文五郎で、西尾の長兵衛お頭ではねえからだ」と言い切って西尾一味から身をひき、ほとんど単独でお盗《つと》めをした。権力と野暮ったいことが大嫌いなイキな兄さんであった。  お盗めの際には、「雨引文五」の四文字を朱で刷りこんだ木版の名札を残していくという�芸当�まで見せる。あるときなどは、自分の人相書《にんそうがき》を役宅の平蔵|宛《あ》てにとどけてよこし、「鬼平さん、またの|お目もじ《ヽヽヽヽ》まで、さらばさらば」などと書きそえて、平蔵を切歯扼腕《せつしやくわん》させたりもした。  お盗めのやり口も華麗であった。もちろん、ただの一人も殺傷したことはない。老密偵・舟形の宗平をして、「雨引の文五郎ほどの芸がある盗人《ぬすつと》に、御縄を頂戴させる」のは、「ちょっと、その、惜しい気がいたしまして」といわしめるほどであった。  こういう盗人であったから、同業者であろうとも、人を殺傷するような輩《やから》は断じてゆるせなかった。事前に押しこみの日時がわかれば、先方へ手紙を書いて連絡をし、お盗めの邪魔をするようなことまでする。雨引の文五郎とはそういう盗賊であった。  さて、その雨引の文五郎、捕縛されたのちは平蔵に心服して火盗改メの密偵となるのであるが、牢内の盗賊を逃がすという大それたことをしでかしている。  自分の女房が病《やまい》にたおれたとき、その面倒をみてくれ、死水《しにみず》をとり、手厚く葬ってくれた仲間に、恩に着て義理をたてるつもりで牢破りをしてのけたのである。  むろんこのことは平蔵への裏切り行為である。  もちろん雨引の文五郎ほどの男である。最初からそれなりの覚悟はあった。  はたして、雨引の文五郎は短刀を己の胸へ突き刺して命を絶った。まことにあっけなく、またそっけないが、なんともいえず、すがすがしい。 『鬼平犯科帳』には、雨引の文五郎のような魅力的な悪党がたくさんでてくる。『鬼平』の面白さは悪の魅力をじゅうぶんに描きだしているためだ、といっても過言ではなかろう。また、魅力ある盗人たちがいるからこそ、平蔵もよりいっそう大きく、また光彩を放って見えるのである。  いうまでもなく平蔵の生きた時代は、捨て子、孤児が多い時代である。裸身で投げ出され、身ひとつを曠野《こうや》に叩きつけて生きるほかなかった人間たちがたくさんいた。  だが、そうした悪人たちの暗い過去を散文的に描いただけでは、なんの面白味もない。『鬼平犯科帳』がすぐれているのは、悪人自身に、悪の道に入らざるをえなかった境遇をほのかな自嘲をまじえながら淡々と語らせているところだ。 「悪人の自覚とは、悪ぶることでもなく、救いを打算することでもない。自分の心の中に巣くふ情欲や物欲のあさましさをみつめて、けんそんになることだ」というのは亀井勝一郎だが、『鬼平』には亀井勝一郎がいうところの「自分の心の中に巣くふ情欲や物欲のあさましさをみつめて、けんそんになる」悪人がたくさん登場する。  反世俗であることの矜持《きようじ》をいっぽうでもちながら、そのまたいっぽうで情欲物欲の虜《とりこ》になっている自分をあさましいと恥じる。そういう悪人が次から次へとでてくる。そしてそのとき、善人ぶっている読者は、善人を表看板にだしている自分を恥じ、自分も罪を犯すおそれをもったまま日常を送っているのだということに、しぜんと気づかされる。  そうではない、といえる人がいるだろうか。  自分が飢えて金がないとき、人を脅して金をまきあげることを考えないだろうか。好きな女がいたら、想像のなかで犯してはいないだろうか。  それは「想像のなかでのこと」といくら弁解してみても、犯していることにはかわりはない。だとしたら可能性がまったくないとは言い切れないはずだ。自分は善人だ、といってみたところで、しょせんはその程度のものだ。 [#ここから1字下げ] ≪人間という生きものは、悪いことをしながら善《い》いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている……≫(「谷中・いろは茶屋」) [#ここで字下げ終わり]  これは、盗賊・墓火《はかび》の秀五郎《ひでごろう》の言葉である。  そして、この墓火の秀五郎を捕らえたあと、平蔵が次のようにいうのである。 [#ここから1字下げ] ≪人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ。≫(「谷中・いろは茶屋」) [#ここで字下げ終わり]  火盗改メの長官《おかしら》が盗人と同じようなことをいうのである。  人間は不可思議な存在である。平蔵がいうように、人間は善事を行ないつつ、知らぬうちに悪事をやってのけるし、悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしんでいる。そしてまた、正義と信じて為《な》した行動が恐ろしい悪をもたらすことがあり、私欲のためにやったことが人々の共感を呼び、公益に寄与することがある。こうしたことを『鬼平』に登場する悪人たちは繰りかえし教えてくれる。  私の鬼平[#「私の鬼平」はゴシック体]  長谷川平蔵は実在の人物である。  しかし、池波正太郎が描くところの長谷川平蔵は、いくつかの点において作者・池波による想像の産物である。  池波正太郎の描く長谷川平蔵を素描してみよう。  姓名は、長谷川平蔵|宣以《のぶため》。幼名を銕三郎《てつさぶろう》といった。旗本・長谷川|宣雄《のぶお》と長谷川家の下女であったお園《その》とのあいだに生まれるが、「妾腹の子」であったため、長谷川家からは祝福されなかった。  生まれた年は、天明七(一七八七)年に数え年で四十二歳とあることから、延享三(一七四六)年になる。  母親のお園は銕三郎の出産後に他界、銕三郎は母方の実家である巣鴨の大百姓・三沢|仙《せん》右|衛門《えもん》宅で育てられることになった。  宝暦十二(一七六二)年、十七歳のとき、長谷川屋敷へ入る。これは、長谷川家の後継を考えたうえでの親類たちの配慮であった。しかし、継母の波津《はつ》は、妾腹の子を長谷川家におくことなどもってのほかだと考え、銕三郎に辛くあたり、いじめぬいた。  で、銕三郎はこの仕打ちに我慢ならず、長谷川家にはあまり寄りつかず、本所・深川界隈を根城《ねじろ》にして放蕩無頼の生活を送った。二十一歳の頃、岸井左馬之助、井関録之助とともに無頼二十余人と喧嘩をし、一人を殴り殺してしまったこともある。  このような平蔵であったから、周囲からは「本所の銕《てつ》」とか「入江町の銕《てつ》つぁん」などと呼ばれて恐れられた。この頃、のちに密偵として平蔵を助けることになる相模の彦十、そしておまさと知り合う。  明和四(一七六七)年、継母・波津が病死。こののち、家との関係は徐々に修復されていくも、酒、女、喧嘩は依然としておさまらなかった。  翌年、江戸城で徳川将軍・家治《いえはる》に拝謁する(「将軍に会う」ということは、家督相続者として公儀に認めてもらうことを意味する。平蔵、二十三歳のときのことであった)。  安永二(一七七三)年、父・宣雄の死去に伴い、家督を相続する。そして、妻・久栄とのあいだに長男・辰蔵生まれる。  天明七(一七八七)年、堀帯刀《ほりたてわき》のあとを受けて、火付盗賊改方長官に就任(四十二歳)。目白台の私邸から清水門外の役宅へ引っ越す。翌年、一時解任された加役にふたたび任ぜられ、以後八年間、異例ともいえる長さであるが、火盗改メの長官として活躍する。  寛政七(一七九五)年五月二十日、心臓発作で急死。死の三日前まで火付盗賊改方の役職についていたという。享年五十歳。  とまあ、こんな具合になるのであるが、むろんこれはすべて真実ではない。虚実ないまぜになっている。そして、そこを指摘する人がいる。  長谷川平蔵の�実像�を伝えるものは、徳川幕府が十四年の歳月をかけて編纂した武家系譜集『寛政重修諸家譜《かんせいちようしゆうしよかふ》』、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』、松平定信(一七五八〜一八二九)の自叙伝『宇下人言《うげのひとごと》』、松平定信の腹心のひとりであった水野|為長《ためなが》(一七五一〜一八二四)の日誌『よしの冊子《そうし》』、平蔵のあとを継いで火付盗賊改に就任した森山源五郎孝盛《もりやまげんごろうたかもり》(一七三八〜一八一五)の随筆『蜑《あま》の焼藻《たくも》』、岡藤利忠という京都に住む浪人が書いた『京兆府尹記事《けいちようふいんきじ》』などがあるが、そうした資料を吟味して、池波正太郎描くところの長谷川平蔵の�真実�を暴くといったペンがある。少し覗《のぞ》いてみよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] (一)平蔵の生地は、本所でも佃《つくだ》島の対岸にある築地湊町でもなく、赤坂の築地中之町である。 (二)平蔵の役宅は、清水門外ではなくて本所三ッ目の菊川町の屋敷であった(現在の東京都墨田区菊川町三の一六あたりで、都営新宿線菊川駅の「A3」出口の一角)。 (三)平蔵の義母は「波津《はつ》」ということになっているが、実際の名はわかっていない(私は池波正太郎の創作ノートを見たのだが、最初「波奈《はな》」と記したのを、赤鉛筆で消して「波津」としていた。おそらく「波奈」ではやさしそうな感じが漂ってしまうと考えたのだろう)。 (四)平蔵の義母は、平蔵が五歳のときに死去している。したがって、平蔵が義母にいじめぬかれて家を飛びだしたとされる時期には、もうこの世にはいない。 (五)実母の「お園」は巣鴨村の大百姓である三沢仙右衛門の次女とされているが、それは虚構である。「お園」という名も池波正太郎の想像の産物である。『寛政重修諸家譜』には「母は某氏」とだけある(「某氏」とは、たいてい農民・町人の娘。これにより、平蔵の父が女中に手をつけたことは明らかである。つまり、平蔵が妾腹の子ということだけは間違いがなさそうである)。 (六)実母の実家は巣鴨村の大百姓ということになっているが、おそらくは長谷川家の知行所である上総の武射郡、あるいは山辺郡あたりの名主の娘であろう。 (七)実母は平蔵を産んでまもなく死んだことになっているが、じつは平蔵の死後まで生き残って、文化十二(一八一五)年四月に亡くなっている。 (八)妻の「久栄」もじっさいの名は明らかではない。『寛政重修諸家譜』には「妻は大橋|与惣兵衛親英《よそべえちかひで》が女」としか記されていない。 (九)平蔵の子どもは、原作では二男二女、テレビではほとんど辰蔵のみしか登場していないが、じっさいは五人いた(うち三人は女)。 (十)平蔵が高杉銀平道場で剣の腕を磨き、岸井左馬之助や井関録之助という剣友に出会ったというのはフィクションである。どこの道場で誰に教わり、またどんな剣友がいたのかはいっさいわかっていない。 (十一)平蔵が「本所の銕《てつ》」と渾名《あだな》されていたのは本当だが、「鬼平」と呼ばれたという史実はない。 (十二)「鬼」のニックネームをつけられたのは平蔵ではなく、火付盗賊改の長官からのちに大目付にまで出世した中山勘解由直守《なかやまかげゆなおもり》である。「鬼勘解由」とか「鬼勘」と呼ばれていた。 (十三)平蔵のことを山師だとか、上司にへつらうおべっか野郎だとか、学問のない奴だという人もいた。 (十四)平蔵はうぬぼれが強く自慢することが大好きで、何かにつけ計算高く、出しゃばりたがるという風評もあった。 (十五)老中・松平定信に「目をかけられていた」ということになっているが、じっさい松平定信は平蔵を好ましく思っていなかった。それが証拠に、隠遁後に書いた自叙伝『宇下人言』には「盗賊改をつとめし長谷川何がし」と名もきちんとあげず小物扱いしている。 (十六)「密偵」は、目明《めあか》しとか岡《おか》っ引《ぴき》と呼ぶのがふつうである。火付盗賊改の場合には「差口《さしぐち》奉公」と呼んだという資料が残っている(差口とは、告げ口、密告を意味する)。 (十七)与力《よりき》は、その昔「寄騎」といっていたので、「十名」などという数え方はせず、「十騎」というのが正しい。 [#ここで字下げ終わり]  とまあ、「池波正太郎による長谷川平蔵」はざっとこんなふうに検証されているのであるが、わざわざ列挙しておいてなんだが、いったいそれが何だというのか。  こうした�事実�の暴露は、正直いって、鬼平ファンの神経を逆撫《さかな》でする。がしかし、こうした指摘は小説『鬼平犯科帳』の本質や魅力とは元来無関係のものである。小説は、作品がただ作品として読まれることを前提として成り立っているのだから。  だから鬼平熱愛者たちは、これら史実と池波正太郎が描くところの長谷川平蔵とのあいだに食い違いがあってもすこしも気にしてはいけない。ましてや、実像とやらをまったく知らなくたって、そんなことはいっこうにかまわない。作品をただ作品として読めばいいのである。  小説に描かれている平蔵は、権威に背を向け、世俗的成功を断念し、不幸を背負った人々への強い共感を示した人物である。少なくとも私にとっての長谷川平蔵は、そういう人間として実在している。  考えてみるといいが、そもそも池波正太郎が『鬼平犯科帳』を書かなかったら、どれほどの人間が長谷川平蔵の名を知りえたというのか。『鬼平犯科帳』が存在しなければ、長谷川平蔵という人物がこれほど有名になることはなかっただろうし、熱心に調べてみようという歴史家もそんなにはいなかったはずである。その点をよく考えてみるといい。「はじめに、『鬼平犯科帳』ありき」だったのである。人足寄場《にんそくよせば》の研究をやっていた滝川政次郎など、ほんの少数の歴史学者をのぞけば、おそらく長谷川平蔵の名を知る者はなかったであろう。  長谷川平蔵研究は、おそらくそれ自体意味のあることだろう。長谷川平蔵の業績や実像を調査研究するというのなら、ちゃんとした歴史研究書で、小説『鬼平犯科帳』とは離れてやったらどうか。『鬼平犯科帳』の人気に乗じつつも、それを指弾するような筆で得意がるとは下品このうえない。池波正太郎が描くところの長谷川平蔵は虚飾に満ちているというような言いっぷりでもって、「じつはこうなんだよなあ」と実像とやらを語るやりくちは健全な精神が宿っているとはとうてい言い難い。  むろん、多くの史実を知ること、それ自体は愉しいし、興味もないわけではない。しかし、それでもって小説『鬼平犯科帳』をひやかすとはもってのほかである。 『鬼平犯科帳』のなかの長谷川平蔵は、歴史上の長谷川平蔵から自由であっていい。鬼平ファンはこのことをしっかりと頭に入れておいていただきたい。が、このことに関連していうと、鬼平ファンにひとつ朗報がある。それは、中村吉右衛門が鬼平となってテレビに登場したことにより、若い人たち、とりわけ若い女性たちが『鬼平犯科帳』を読みだし、作品がただ作品として読まれ、それは小説にとってはあたりまえの、しかしながら『鬼平犯科帳』という作品にとってはことさらに幸せともいえる状況が到来したことである。 [#ここから1字下げ] (追記)その後、久田俊夫の手によって、これまでにない新たな長谷川平蔵の解釈がなされた。久田は『鬼平がよみがえる』(東洋経済新報社・一九九九年)のなかで、池波正太郎の「創作としての鬼平」は決して実像を裏切るものではないと述べたあと、「長谷川平蔵の実像」について次のように記している。 ≪実在した長谷川平蔵は、ピンカートン探偵社のように、火盗改として大きな貢献をした「名探偵」というだけでなく、寄場の創設という労働政策を通して、社会的正義の実現に直接に貢献した「体制内革命家」であると同時に、封建主義を脱却するために生涯を賭けた「革命思想の持ち主」であった、ということである。≫ [#ここで字下げ終わり]  達人の「勘ばたらき」は何処からきたのか[#「達人の「勘ばたらき」は何処からきたのか」はゴシック体]  書店の「経営・企業」コーナーのところをうろついていると、「人の上に立つ者は完璧であらねばならない」みたいなフレーズがよく躍っているが、平蔵がそれを見たら何というだろうか。おそらく「フン、戯言《ざれごと》よ。完全無欠な人間なんてどこにもおらぬわ」と一蹴するにちがいない。  平蔵は、人間というものを不条理で不可思議な存在として捉えていた。原作者の言葉をかりれば、「人間と、それを取り巻く社会の仕組みのいっさいが不条理の反復、交錯である」と考えていた。  ところが、いかな盗賊といえども、いったん平蔵の視野におさまると、お釈迦さまの掌の上を駆けずりまわる孫悟空のように見えてしまう。どうして平蔵は人の行動が読めたり、事のなりゆきが予測できたのだろうか。 「うしろに池波正太郎がついていたから」  ま、それはそうだ。でも、それではジョークにもならない。 「無記」という言葉をご存じだろうか。「むき」と読む。  これは仏教用語で、善でも悪でもないものを指す。無記の「記」は記録することで、無記は善も悪(不善)もまったく記されていない状態のことをいう。  この「無記」という概念については森政弘(東京工業大名誉教授)がわかりやすいたとえをしているので、それを借用させていただくことにする。 「ドス」というのがある。やくざなどがよく使う、日本刀の弟みたいな刃物である。 「メス」というのがある。手術のときなどに執刀用として使う小刀である。  この二つの本質的な違いは、「シャープな鉄のへら」というその形状自体にあるのではなく、執刀者の心構えにある。すなわち、人殺しのために使おうとすると「ドス」になり、人助けに使用しようとすると「メス」と呼ばれる。で、この場合、「シャープな鉄のへら」という本性が「無記」になる。つまり、「無記」とは、善でもなく悪(不善)でもない、もうひとつのものということになる。言い換えれば、「無記」とは、ものごとに善悪のレッテルを貼らず、ひたすら存在と本性を眺めることをいうのである。  善と悪、そして無記を加えてこれを仏教では「三性《さんしよう》の原理」というのだが、平蔵はつねにこの「無記」の心境に照らしてものごとを眺めていたように私には思われる。平蔵の「勘ばたらき」を考える場合、私はどうしてもこの「無記」にたどりついてしまう。原作者の池波正太郎がこの「無記」の心を平蔵に移植したかどうかは不明だが、私にはどうしてもそう思われるのだ。  ヤドカリは自分の体に合う貝殻を借りるというが、人間もそれと同じで、自分の器量を背負っている。そして悲しいかな、人間は自分の器量ていどにしか他人の器量をはかれない。お猪口《ちよこ》にはどんぶりの心境がわからないし、茶碗やどんぶりにはお猪口の気持ちがわからないのである。そこで「無記」の出番となる。お猪口も茶碗もどんぶりも「無記」の力を借りれば他人を推し量ることができるのである。  たとえば、嫌なやつがいるとしよう。そしてあなたはそいつに過度の敵対意識をもっている。あなたならどうするか。  あなたは、相手の劣っているところを見つけ、その部分を肥大化させたイメージにしがみつき、あえて曲解と錯覚をすることで不安になりそうな自分の気持ちを落ち着かせようとする。  ハイ、もうここで「勝負あった」である。  もうあなたはその相手に完全に支配されている。あなたはもはや冷静さを失い、的確な判断をくだせなくなっている。過度の執着が意識の固着を招いて、勘ばたらきどころではなくなっている。  では、わが平蔵だったらどうか。平蔵なら逃げる。思考の蛸壺にハマりそうな自分がいたら、逃げて逃げて逃げまくる。傾向へ執着するな。平蔵ならこのことを自分に言い聞かせるであろう。  平蔵ならまず、その人間がまとっている衣裳を剥ぎとってみる。出自、経歴、性格、借金の有無など、もろもろの衣裳を剥ぎとってみる。そして、その人間の生身をじっと眼でなめまわす。贅肉のつき具合、しぐさ、表情など、一つひとつを丁寧に観察する。だが、言葉にはしない。次に、その剥ぎとった衣裳のことを考えてみる。いつ、どこで、どんなふうにして手に入れたか。それから、そのことを考えている自分自身を、わきに用意しておいたもうひとりの自分に分析させてみる。そして、湧きあがってきた言葉とは正反対のことをひとまずつぶやいてみる。つまり、「考えたくないことを考えた者が勝利する」という構えをあくまでも堅持するのである。ここに至れば、あとは身体がやってくれる。平蔵ならそうしたであろう。 「ものに観見《かんげん》の違いあり」というが、無定見にひとつの方向に思いを馳《は》せると、誤りに気づいても軌道修正するのはなかなか容易ではない。意欲は集中をもたらし、集中は執着を招くが、過度の執着は傾向への埋没を意味することが往々にしてあるのである。 [#ここから1字下げ] ≪平蔵は曲折に富んだ四十余年の人生経験によって、思案から行動をよぶことよりも、先ず、些細《ささい》な動作をおこし、そのことによってわが精神《こころ》を操作することを体得していた。  絶望や悲嘆に直面したときは、それにふさわしい情緒《じようちよ》へ落ちこまず、笑いたくなくとも、先ず笑ってみるのがよいのだ。  すると、その笑ったという行為が、ふしぎに人間のこころへ反応してくる。≫(「兇剣」) [#ここで字下げ終わり]  これこそが「無記」による自分自身の誘導である。そして、こういう人間だからこそ、平蔵はものごとを大観し、細見することができたのである。  平蔵が人間や事象を広く深く見ることができたのは、あることに熱中している自分を、離れた場所から冷たい頭で眺めることができたことによる。平蔵が多くの場合、柔軟さと自在さを手に入れることができたのはこのためである。  言語そのものより、声の調子などから人間を鋭く見抜いたり、しぐさなどの身体言語からさまざまなヒントを引きだして行動できたのも、すべては「無記」による誘導である。平蔵の勘ばたらきの凄さはここにあるとみた。  人望こそがすべて[#「人望こそがすべて」はゴシック体]  英米人に向かって「あなたはユーモアのセンスがない」といえば、いわれたほうの人は全人格を否定されたような気持ちになるという。  これを日本人にあてはめた場合、これほどまでに決定的な破壊力をもつ言葉とはいったい何であろうか。 「アホ」「バカ」「最低」「クズ」「下衆《げす》」「偽善者」「詐欺師」「愚か者」「頓馬《とんま》」「愚鈍」「ろくでなし」「ひとでなし」「おたんこなす」といろいろと挙げてみたがどうであろう。  どれも耐久性に欠ける。一時的な衝撃力はそれなりにあろうが、我慢したり解釈を変えたりすればなんとか聞き流せてしまえるものばかりである。少なくとも向こう十年は立ち直れない、そういう破壊力をもった言葉はないだろうか。  ある。  それは、「あなたには人望がない」である。  これに尽きるのではないか。冗談っぽく笑っていってもこれだけはダメである。これだけは冗談にならない。 「きみは能力もあり、実力もあるけど、なんていうか、その、人望がないね」  このひとことで、おおかたの人間はイチコロである。前途が絶たれたも同然と思い、再起不能に陥ること必定である。少なくとも、向こう十年は立ち直れないであろう。「人望がない」とはそれほどまでに恐ろしい言葉なのである。 『人望の研究』という書物をものにしている山本七平によれば、指導者にとにかく必要なものは「人望」であり、それ以外はないとまで言い切っている。人望こそが人を動かす原動力となるというのだ。  天明七(一七八七)年九月十九日、平蔵が火付盗賊改方の長官《おかしら》として目白台の屋敷から清水門外の役宅にうつってきたときのことである。 [#ここから1字下げ] ≪「今度の御頭はな、お若いころ、本所三ッ目に屋敷があってな、そりゃもう、遊蕩三昧《ゆうとうざんまい》で箸にも棒にもかからなんだお人らしい」  という者もあれば、 「遊ぶことも遊んだが、本所深川へかけての無頼《ぶらい》の者たちが、鬼だとか、本所の銕《てつ》だとかいって、大いに恐れていたほど顔が売れていたそうな」  などと洩《も》らす老与力もいた。≫(「唖の十蔵」) [#ここで字下げ終わり]  平蔵が火付盗賊改方の長官として赴任してきたときの評価は、せいぜいよくてもこの程度であった。放蕩無頼をしていた頃のことだけが大きく取り沙汰されて、人望どころか、まるで出自だけでこの地位に昇りつめた食わせ者のような評価しかもらえなかった。  しかし、平蔵はこうした噂をまったく意に介さなかった。  もとより平蔵は小賢しく立ち回ったり、自己の保身に汲々とするような人間ではない。  剛《ごう》にして塞《そく》。軽々しく弁解したり、虚勢を張ったりする人間ではなかった。で、その平蔵がやがて与力や同心を心服せしめ、絶大な人望を得ることができたのはどうしてであろうか。  山本七平によれば、人望を考えるうえでのヒントは朱子の『近思録《きんしろく》』にあるという。この『近思録』は徳川時代における朱子学の入門書で、明治になってからも読み継がれ、明治の指導者たちや知識階級の若き日の読書に欠かすことができなかったといわれる名著である。『近思録』は、人望を得るに必要な九つの徳を披露している。列挙してみよう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] 一[#「一」はゴシック体] 寛《かん》にして栗《りつ》(寛大だが、しまりがある) 二[#「二」はゴシック体] 柔《じゆう》にして立《りつ》(柔和だが、事が処理できる) 三[#「三」はゴシック体] 愿《げん》にして恭《きよう》(真面目だが、丁寧で、つっけんどんではない) 四[#「四」はゴシック体] 乱《らん》にして敬《けい》(事を治める能力があるが、慎み深い) 五[#「五」はゴシック体] 擾《じよう》にして毅《き》(おとなしいが、内が強い) 六[#「六」はゴシック体] 直《ちよく》にして温《おん》(正直、率直だが、温和である) 七[#「七」はゴシック体] 簡《かん》にして廉《れん》(大まかだが、しっかりしている) 八[#「八」はゴシック体] 剛《ごう》にして塞《そく》(剛健だが、内も充実している) 九[#「九」はゴシック体] 彊《きよう》にして義《ぎ》(剛勇だが、義《ただ》しい) [#ここで字下げ終わり]  なるほどと思う。言い得て妙。書き写していて、感心してしまった。  私なりにこれを強引に解釈すれば、中庸と自制を心得る者が、極端と粗暴を嫌い、率先垂範を旨として柔軟果敢に事にあたれば人望をあつめることができる、と説いている。  だが、ひとつ足りない。生意気を承知でいうのだが、ひとつ足りない。平蔵を見ていて思うのだが、私はこの九つの徳にもうひとつの徳を加えてみたい。  そのもうひとつとは、「自分より年下の有能な者をきちんと評価できるという能力」である。もっといったら、自分とは考えのちがう若者をどこまで認めることができるかという能力である。  平蔵は、沢田小平次、松永弥四郎、竹内孫四郎などをはじめとする同心たちの能力をうまく引きだし、正当な評価を与え、それをあくまでも尊重している。才能は見いだされ引きだされてこそ開花するものだということを考えると、このことは指導者としての力量をもっとも問われるところのものだと私には思われる。  自分より年下で、しかも自分とは考えが異なる意見の持ち主をどれほど評価し、またその若者にいかなる道を開いてやれるかということは、人望をあつめるうえできわめて肝要である。  おおかたはその若い才能に嫉妬してだんまりをきめこむか、場合によってはきわめて陰湿なかたちで排除しにかかる。  年齢が下というたったひとつの理由で、これまでどれほど多くの才能がこの日本では埋もれてきたことか。「年下の者が何をいうか」とか「年上にたいして生意気だ」と年長者にいわれて、どれほど多くの非凡な才能が塩をかけられたナメクジのようにちぢこまってきたことか。枚挙にいとまがないとはこのことであろう。  しかし、悲しいかな、この国の若者の多くは反発しない。肩書きと権限をもった人間の人事報復が恐いのである(まあ事実、恐い)。で、その結果、どうするか。酒でオダをあげるか、その上司の似顔絵を描いてシュレッダーにかけるのである。そして、そうこうしているうちに、その若者は「ただの人」になっていってしまうのだ。  日本人は敵対する者との議論がヘタだとよくいわれる。たしかに意見の対立は意見の対立にとどまらず、世代的&人格的批評の様相を帯びて、下品に口汚く罵《ののし》るという光景はよく目にするところだ。意見は意見というふうに片づけることができない。ましてや「上」の者に意見しようものなら、即座に生意気な奴だということになってしまう(近世までは「意見」を「異見」と書き、文字どおりの意味として解していたという)。  学問的業績よりも人柄の良さや社交のうまさで教授などのポストが与えられる大学や、果敢な創造性よりも羊のような従順さが出世のカギとなるような企業の話をよく耳にするが、そういう組織が遅かれ早かれ柔軟性を失い、硬直化していくのは目に見えている。  いくら自分とソリが合わなくても、能力のある者を引き上げる。そうすれば、それとひきかえに組織は柔軟性と活力を手に入れることができる。平蔵はこのことの重要性を熟知し、また実践してきた男である。 「自己が敗北することで、組織は大局的および長期的には勝利することがある」という発想がないかぎり、組織は日々「縮小《ヽヽ》再生産」をつづけるいっぽうであろうが、平蔵はこのことをよく心得ていた。  平蔵は自分自身の能力のみならず、他人の能力をも正当に評価できる力があり、またそれを組織の将来構想のなかにきちんと反映させることができたために人望をあつめることができた男なのである。  平蔵が語らなかったもの[#「平蔵が語らなかったもの」はゴシック体] [#ここから1字下げ] ≪いのちがけで物事を仕たてようなどという男は百人に一人、いや千に一ほどもいまい。戦国乱世のころとて同じことじゃ。≫(「雲竜剣」) ≪亭主の罪(平蔵に毒を盛ろうとしたこと)を何とおもう……と、こう訊いてみたところ、……何事も女房の私ゆえにしてのけたことゆえ、私は、うれしくおもっております、と、こういった。いかにも女さ。≫(「白い粉」) ≪人間《ひと》とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合うた友をだまして、このこころを傷つけまいとする。ふ、ふふ……これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ。≫(「明神の次郎吉」) ≪悪を知らぬものが悪を取りしまれるか。≫(「蛇の眼」) ≪浮浪の徒と口をきいたこともなく、酒をのみ合うたこともない上《うえ》ツ方《がた》に何がわかろうものか。何事も小から大へひろがる。小を見捨てて大が成ろうか。≫(「殿さま栄五郎」) ≪人間という生きものは、悪いことをしながら善《い》いこともするし、人にきらわれることをしながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている……≫(「谷中・いろは茶屋」) ≪人のこころの奥底には、おのれでさえわからぬ魔物が棲《す》んでいるものなのだ、ということだ。おれだっておまさ、ひょんなことから久栄も捨て、お上《かみ》の御用も捨て、どこかの岡場所の女と駈け落ちをするやも知らぬ、ということよ。≫(「むかしなじみ」) ≪金と申すものは、おもしろいものよ。つぎからつぎへ、さまざまな人びとの手にわたりながら、善悪二様のはたらきをする。≫(「雲竜剣」) ≪人というものは、はじめから悪の道を知っているわけではない。何かの拍子《ひようし》で、小さな悪事を起こしてしまい、それを世間の目にふれさせぬため、また、つぎの悪事をする。そして、それを隠そうとして、さらに大きな悪の道へ踏み込んで行くものなのだ。≫(「殺しの波紋」) ≪鬼には鬼、蛇《じや》には蛇の油断があるものだ。≫(「浅草・鳥越橋」) ≪平蔵「小むすめの勘は、するどいものだぞ」  彦十「ところが女も、年を食うにつれて、間がぬけてきやすからねえ」  平蔵「ちげえねえ」≫(「二つの顔」) ≪|人のうわさ《ヽヽヽヽヽ》というものの半分は嘘《うそ》だ。≫(「狐雨」) ≪人のうわさほど狂うているものはない。≫(「麻布ねずみ坂」) ≪死ぬつもりか、それはいけない。どうしても死にたいのなら、一年|後《のち》にしてごらん。一年も経《た》てば、すべてが変わってくる。人間にとって時のながれほど強い味方はないものだ。≫(「妖盗葵小僧」) ≪(女は)嘘をついているうちに、その嘘が真《まこと》のものになってしまい、前後の見さかいも何もなくなり、無我夢中となる。……おのれの嘘が、すぐに露顕《ろけん》をするか、せぬか……それがわかるような女は、先ず千人に一人というところであろう。≫(「助太刀」) [#ここで字下げ終わり]  かように長谷川平蔵の名言・箴言《しんげん》はたくさんある。  そして、このような「鬼平名言集」はあちらこちらの本に散見できる。  だから私はもうここには興味がない(といいつつ、まとめてしまったが)。  語られない部分こそ重要である。  鬼平は何を語らなかったか。  以下に、長谷川平蔵が「語らなかったもの」を語ってみたい。  むろん、すべて私の想像の産物である。 [#ここから1字下げ] ≪信用のおけないやつは、安全地帯から説教する。≫ ≪正しい人生などない。怪しい人生があるのみだ。≫ ≪人間というものは、運命に身を委ねることはできても逆らうことはできない。≫ ≪他人が喜ぶのを見て自分の喜びとする心踊りは人間がもつ究極の美徳である。≫ ≪「ある人は食卓でいつまでも食べているからという理由で、別な人は風邪をひいていて、のべつ鼻をかむという理由だけで、私は憎みかねない。私は人がほんのちょっとでも接触するだけで、その人たちの敵になってしまうだろう。その代わり、個々の人を憎めば憎むほど人類に対する熱は熱烈になっていく」というのが『カラマーゾフの兄弟』にあるらしいが、おれにもその気持ちがよくわかる。≫ ≪おれの毎日は、今日《きよう》でしかない。きのうは過ぎ去った今日、あすはこれからくる今日だ。≫ ≪強さは厳しさに、厳しさはやさしさに、やさしさはゆとりに裏打ちされる。そして、ゆとりは、おいしい食事、十分な睡眠、満足のゆくセックスによって得られる。≫ ≪潔さと楽天性。この二つを心がけていれば、おおよそのことはなんとかなる。≫ ≪女は肉置《ししお》きが豊かなのがいい。まずはこれだな。≫ ≪チョコマカしている人間は忙しいのではなく、ただ混乱しているだけだ。≫ ≪自信というのは、自分の欠点を他人よりたくさん知っていることだ。≫ ≪こっそりいうが、「人間の最高のよろこびは、人間を支配することだ」といったマキャベリの気持ちが、おれにはよくわかる。≫ ≪ハッタリのひとつも利《き》かせることのできないやつは、人の上に立つべきじゃない。≫ ≪指導者は、肉眼では見えない事象を洞察する心眼をもたねばならない。≫ ≪部下を叱らないのは、往々にして小賢しい自己保身であることが多い。≫ ≪人間、金持ちになると気難しくなる。≫ ≪盗みと博打《ばくち》は、神になろうとする行為である。そこには、運命を支配する側に立ちたいという強い願望がある。しかし、心のどこかでその願望が挫《くじ》けることを予想している。つまりは、死にたいと思いながら生きているんじゃないか。≫ ≪「貞淑は情熱の怠惰だ」とラ・ロシュフコーがいったらしいが、あんなのは嘘だ。貞淑の下にはものすごい情熱が隠されていることのほうが多い。≫ ≪人間を成熟させるのは、悲しいかな、悲しみである。≫ ≪事実と願望の区別がついていない者が多すぎる。≫ ≪予測と希望的観測の区別をつけようとしない者に勘ばたらきはできまい。≫ ≪イギリスのことわざに「幸せな生活を送ることが最高の復讐だ」というのがあるらしいが、おれはそう思わない。おれはかならず本人に復讐する。かならず。≫ ≪仇討ちをなくしたってほんとうか。日本人は狂ったのか。いますぐ仇討ちを復活させよ。≫ ≪強いから勝つのではない。勝つから強いのだ。≫ ≪おれは、やはり、強い。≫ [#ここで字下げ終わり]  たぶん、平蔵はこう思っている。 [#改ページ] 第二章 中村吉右衛門の魅力  おやじ殿の残した宿題[#「おやじ殿の残した宿題」はゴシック体]  白鸚《はくおう》(吉右衛門の実父・先代松本幸四郎)が退いてのち、 「次の鬼平は吉右衛門に」  と、池波正太郎は、白鸚の息子・中村吉右衛門に白羽の矢を立てた。鬼平を演じてみないかというのである。  しかし、吉右衛門はこれをきっぱりと断わった。「まだ若いから」というのが辞退の理由であった。  鬼平は若造がやるもんじゃないという戒めの声を吉右衛門はみずからの胸のうちに聞いていたのである。吉右衛門、三十半ばの頃の話である。  しばらくの時を経て、吉右衛門は再度の打診を受ける。しかし、そのときも吉右衛門は首を横に振った。つまり、かたちとして吉右衛門は鬼平役を二度にわたって断わったのである。  吉右衛門にとって、鬼平といえば実父・白鸚以外に考えられなかった。じっさい、池波正太郎は白鸚をモデルにして長谷川平蔵を描いたと公言している。それを若輩の自分がやるだなんてもってのほか。そう感じていたのである。 「白鸚の鬼平」はそれほどまでに見事で、また強烈であった。じっさい吉右衛門は「白鸚の鬼平」を目のあたりにしている(吉右衛門はこのとき、長男・辰蔵役として出演している)。おそらく吉右衛門はそのイメージから自由になることができなかったのであろう。熱心な申し出であるのにもかかわらず、吉右衛門はどうしても首を縦には振らなかった。  やりたくなかったのではない。やりたかったのである。しかし、鬼平をやるにはまだ早い、そう自戒して、みずからに許しを与えなかったのである。  生半可な気持ちで引き受ければ、あとでとんでもないしっぺ返しをこうむることになる。やるのであれば、とうぜん父と、いや役者として前任者と比べられる。同じ役者としてその力量を比較される。そこは非情だ。だからやるからには、「白鸚の鬼平」を超えるものにしたい。せめて、拮抗《きつこう》できるものにしたい。  吉右衛門は鬼平役を二度にわたって固辞したが、長谷川平蔵を己《おのれ》の射程に入れることによって「鬼平犯科帳」を見守った。  けっきょく白鸚のあとを継いだのは丹波哲郎であった。  しかし、丹波による鬼平は、残念ながらわずか半年あまりの短命に終わってしまう。なにもかもがチグハグだったのである。  そもそも丹波哲郎という役者は豪放|磊落《らいらく》な役づくりこそうまいが、声が一本調子になりやすくメリハリがないのが欠点である。配役からして誤っていた。  次に登場したのは萬屋錦之介であった。  人気俳優・萬屋錦之介のハリのある演技にくわえて、彦十役の植木等、笹やのお熊役の北林谷栄、久栄役の三ツ矢歌子などの名優が参入、脇が固められて長寿番組になった。  個人的な趣味をいうと、萬屋錦之介という役者は静かにしゃべっているときはいいのだが、声を張りあげるとキンキンいってドスがきかないのである。なんだかヨークシャーテリアが吠えているようで私の好むところではない。  で、人気を博したといってよい萬屋錦之介による鬼平は、彼のプロダクションが倒産したりするなどのゴタゴタにより、七十九本を放映して、一九八二(昭和五十七)年十月十二日に終了した。  そして爾来《じらい》、「鬼平犯科帳」はぷっつりと茶の間から姿を消した。  放映を待ち望むファンの声も虚しく、月日はいたずらに積み重なった。  五年という歳月がながれた。  この間《かん》、多くの役者から鬼平役をやりたいという打診があった。しかし市川久夫プロデューサーは、いいでしょう、とはいわない。  池波正太郎もじっと待った。  彼ら二人の頭のなかには、もはや吉右衛門しかなかった。 「次の鬼平は、どうしても吉右衛門」  二人はそう思っていた。  吉右衛門も齢《よわい》をかさね、四十半ばにさしかかっていた。  原作者・池波正太郎の「次の鬼平は吉右衛門に」という言葉ばかりが、重く虚しく市川久夫プロデューサーの耳にとどくばかりであった。  そして、一九八九(平成元)年、辛抱の甲斐あって、中村吉右衛門がついに鬼平こと長谷川平蔵となってテレビに登場することになった。  機は熟したのだ。  あれほどまでに固辞しつづけた吉右衛門が、ついに鬼平役を受諾したのである。  引き受けた理由は何だったのか。これをまず訊かずにはいられない。吉右衛門は、あるインタビューでこう答えている。 「お引き受けした最大の理由はヒマだったから」  ガクッ。  思わず膝の力が抜けた。  ものすごい破壊力である。期待を裏切るこれ以上の言葉は、おそらくあるまい。  吉右衛門よ、いくらなんでも「ヒマだったから」はないだろう。 「お引き受けした最大の理由は」というのも、妙にもったいぶって慇懃無礼《いんぎんぶれい》にすぎる。  よくもまあ、いってくれたものである。最初はそう思った。しかし、冷静になって考えてみると、なんだか微笑ましく思えてきた。ひょっとして、これは計算された発言ではなかろうか。となれば、これはじつに頼もしい発言だ。  なにか仕掛けとたくらみがこの発言にはあるのではないか。  これほどまでにファンを苛立たせ、ハラハラさせておいたあとの発言である。注目されるにきまっている。吉右衛門もあれこれと考えたであろう。そして、考えぬいた結果、「ヒマだったから」を採択したのではなかろうか。そう思いはじめたのである。  そもそもとっさに口をついてでてきたというわりには言葉にケレン味がありすぎる。ひょっとしたら、「ヒマだったから」というフレーズを流行《はや》らせようとしたんではないか。そう勘ぐりたくなってきた。よくよく考えてみると、この「ヒマだったから」は使いようによっては快刀乱麻を断つごとくやっかいな質問をさばき切れる。吉右衛門はここまで考えたのではなかろうか。  中島らもがどこかで「愛です」と答えれば、たいがいの質問はOKだと書いていたが、この「ヒマだったから」と「愛です」の二本立てでいけば、どんな質問もさばき切れ、またどんな状況も乗り切れそうな気がする。  たとえば、こんなふうに使う。 「里中さん、この本を書いたきっかけは?」 「ヒマだったから」 「あなたにとって、鬼平とは?」 「愛です」  いいな、これ。何にでも使えそうである。 「猪木さん、そんな高齢になって、何でまた桜庭さんと対戦することになったんです?」 「ヒマだったから」 「あなたにとって、プロレスとは?」 「愛です」  これで決まりである。  と、ここまで書いてきて、また気が変わった。気合いを入れてじっくりと考えてみると、やはりその場で口をついてでてきた言葉であるような気がする。  そもそも吉右衛門はそんなことに気をつかう役者ではない。きっとお得意の遊び心がムクムクと頭をもたげてきたのだろう。  吉右衛門は恬淡《てんたん》たる性格の持ち主で、気張ることを嫌う人であり、ものごとにがっぷり四つで取り組んでいるところを人に見られるのを嫌がる人である。綱引きで力んでるような顔は他人様《ひとさま》にはお見せしません、という御仁なのである。「もうどうでもいい」というところをいつも周囲に感じさせ、なげやりなところを見せて、すかしてしまうタイプの人である。  つい最近(一九九七年)も、「鬼平」をやって何か変わりましたかというインタビュアーに「全然ありません」と、ミもフタもないというか、取りつくシマもない返答をしている。まわりが「鬼平」は吉右衛門でもつとか、長谷川平蔵と中村吉右衛門は一卵性双生児ではないかしらんといっている最中《さなか》にである。  吉右衛門はこういうことを平気でいってしまえる男なのである。  しかし、吉右衛門がいうと、どういうわけかこれが嫌味に聞こえないから不思議である。というか、稚気《ちき》というか、はにかみすら感じられて、上品さが漂うほどだ。  稚気といえば、吉右衛門の稚気はものすごいものがある。随想集『半ズボンをはいた播磨屋』(淡交社)を読んでみるといい。  上品な茶目っ気はとどまるところを知らない。まさに波状攻撃なんである。これじゃ、女が放っておかないって。読んでいて、そう思った。  吉右衛門は、容姿端麗眉目秀麗家柄良好のうえに上品な稚気をかもしだす男なのである。  だが、この稚気はストレートな幼児性ではない。少年っぽさとも違う。照れがまず上質の男の色気になってかもしだされ、さらにまたその照れを隠そうとするところに稚気が見え隠れするという高度な存在の仕方をしているのである。  であるからして、やはり「ヒマだったから」は口をついてでてきた言葉であり、本人もまたおそらくはもう忘れているだろう言葉として胸におさめていただきたい。  最初の話に戻ろう。  では、あれほどこだわった年齢についてはどうなのだろうか。「若造に鬼平はできない」といった発言である。あるインタビューで吉右衛門はこう答えている。 「四十五歳になった時にできるかなぁと思いました。平蔵は小説の中でも四十五歳くらいなんですが、当時の四十五歳というのは今でいうと五十五歳とか、六十歳ぐらいの感じですよね。それを考えると、老けている分にはいいんでしょうけれど、若すぎるとちょっと……。あれだけの組織を引っ張っていかなければならない人間だと困るでしょう」  ひとつの役をやるのに自分が老けるのをじっと待っていたというのである。  この奥ゆかしさ、人品《じんぴん》を感じるほどである。  で、吉右衛門が語るのはここまでである。ここでプツリと切れる。じつにそっけなく話を打ち切るのである。  吉右衛門は、鬼平を引き受けるにあたっての心境の変化など、内面的な話題になると急に貝になって口を閉ざしてしまうか、冗談ではぐらかしてしまう。意識的に会話の周波数を合わせようとしないのである。  語るのは、自分が少々歳をとったとか、テレビカメラは無情にも人間をありのまま映しだすから怖いとか、自分を取り巻く周囲の世界のことだけなのである。  ここは自信をもっていうが、吉右衛門のこれら一連の返答はひじょうに意識的である。  心境の変化を語って共感や同情を喚《よ》んだりするようなことを吉右衛門は排除したいのだ。そのテの質問に真剣に答えることは野暮なことだと思っているのである。  役者論は真剣にやればやるほど滑稽味を増すということを吉右衛門は知っている。役者は、作品における演技こそがすべてである。そう思っているのだ。  恋愛論を語る者が恋愛上手でないように、役者論をまとめあげる俳優がいい役者とはかぎらない。むしろ、その逆であることのほうが多い。吉右衛門はそのへんのところをよく心得て発言しているのである。  歳をとり、芸能の世界になじみ、中年の頑迷さを身につけると、考え方や発想が依怙地《いこじ》になり、説教を好み、場合によっては世のすね者を気どりたがるものだが、吉右衛門は断乎として自分はそういう役者ではないというメッセージをおくっているのである。  吉右衛門は、私たちの知らない宿題をひとり気ままに(つまり、吉右衛門にとっては本気になって)やっているのである。宿題とは、もちろんおやじ殿・白鸚(先代・松本幸四郎)と先代・中村吉右衛門の残した宿題である。吉右衛門とはそういう人なのだ。  やっぱり吉右衛門[#「やっぱり吉右衛門」はゴシック体]  時代劇はもともと歌舞伎から出発して、主に立役《たちやく》中心の演劇として発達してきた。歌舞伎では男の主役をとくに「立役」というが、時代劇は長いことその立役を中心とするドラマであった。  立役は、「中年で、物事に理解と分別があり、度量が広く寛容で、判断力に富み、襲いかかる苦難によく堪え、厳しい局面を切りひらいていく──そういう『男の中の男』、男の理想像を体現する役」(服部幸雄)である。  つまり、立役とは、強くて逞《たくま》しくて聡明な、完全無欠の「理想的人物」なのである。  また、立役は女にたいしてはバリバリの硬派である。おいそれとは女に恋をしない。心のうちでは淡い恋心を抱いたとしても、それをけっして表情、しぐさ、声にはださない。ひたすら儒教精神にのっとって、名誉と勇気を尊び、主人にたいする忠誠心を重んじて日々を過ごすのである。けれど、妻を傍らに置くことはよしとし、妻の名誉と権利のためならその代理人として身を挺し、ことと次第によってはすさまじい反撃にでる。  立役とはそういう男である。そして、封建制の身分社会や、またその名残をのこす雄々しい時代はそれでよかった。  しかし、星霜は流れ、世はうつり変わった。  とりわけ、一九四五年の敗戦という痛手は日本男子のあり方を大きく変えた。  まず、それまで理想とされた立役的男性像に疑いがもたれた。その声の主は、それまで発言権が与えられなかった女性たちであった。耳を傾けてみよう。 「ひょっとしたら彼ら立役は、態度に見せているほど頼りにならないんじゃないかしら」 「そうよそうよ、ぜったいにそう。立役なんて、そもそもが嘘っぽいわ」 「現実ばなれしていて滑稽よね」 「立派で正しい男なんて、いい加減なもんよ」 「悩める美しい男のほうが人間っぽくてカッコいいわ」  嫌疑は確信に変わった。  で、男は女が好きだから、立役を演じる男はどんどんその数を減らしていった。  そして戦後の日本では、悩み、苦しみ、ときには弱さをも見せ、女にはすすんで言い寄る男が人間味のある男であり、それが理想とはいえないまでも、好ましい男になった。むろんそうなれば、立役の出番はますます少なくなる。 「もっと、これっていう、誰かいい人、いないかしら」 「ハイハイ、います。ボクでどうでしょう」 「あなた、誰?」 「二枚目です」  そこへ登場したのは「二枚目」と称される役者たちであった。  二枚目は、典型的な美男子、色男を指す日常語として現代に流布されているが、これもまたもともとは歌舞伎の世界からでた言葉である。番付の初筆(一枚目)の次に並べられたので、そう呼び慣らわされたのである。  もっとも、歌舞伎の世界における二枚目は古くからあり、「和事」「やつし」「濡事《ぬれごと》」をその本分とし、間の抜けた失敗をするも憎まれず、女と戯れるのが好きで、また女にも好かれるという|やさ男《ヽヽヽ》ぶりをその領分としていたわけであるが、戦後日本の演劇、映画、テレビドラマにおいては、この「失敗もするが憎めぬ美男子」がことさらに愛されつづけてきた。  もとより、けっして恋に溺れない立役的男性に、女たちは不満であった。そしてその不満が戦後、一気に爆発したのである。  そしてついには、二枚目の人気が一枚目(立役)を追い越してしまったのである。それは戦後リアリズムの武士道的様式美にたいする勝利でもあった。  むろん時代劇とて、その例外ではない。  時代劇は立役の独壇場であったわけだし、現に時代劇が生みだした大スターは、尾上松之助の昔から、そのほとんどが歌舞伎出身者であった。片岡千恵蔵、市川歌右衛門、嵐寛寿郎、長谷川一夫、萬屋錦之介、市川雷蔵など、みな歌舞伎界からでたスーパースターたちであった。彼らは時代劇にあって、立役的人物を演じきることになんら疑問をもたなかった。というより、扱っている内容が封建身分社会の精神であることを考えれば、それはまったく致し方ないことであった。ニヤけたり、ずっこけたり、愛嬌をふりまいたりすることは、彼らの望むところではなかったのである。  この点、西洋の映画や演劇は趣《おもむき》をおおいに異にする。  ヒーローと称される人物の多くは、力強く聡明であると同時に、女に恋する男である。逞《たくま》しくて明敏であるいっぽう、求愛の言葉を惜しまず、情熱的に行動し、恋に勝利する。ジャン・ギャバン、クラーク・ゲーブルがそうであるし、ローレンス・オリヴィエ、ゲーリー・クーパーがそうである。  しかし、立役はちがう。求愛の気持ちをあからさまにしたり、愛嬌をふりまくことなどもってのほかであったし、またそれは何よりも史実としての時代精神に反することであった。  だが、もはやそうした立役的ヒーローは人々に願望されなくなってしまった。つまり、時代劇は立役一本槍では共感を得ることができなくなってしまったのだ。  さて、ここで考えてみたいのだが、「鬼平犯科帳」というテレビ時代劇の人気がここまで高まったのはどうしてか。  小さな正解はいろいろあるだろうけど、大きな正解は、主人公・長谷川平蔵が立役と二枚目を同時に兼ね備えたタイプの人間だったからである。  いうまでもなく、平蔵は立役的要素を一方でもちながらも、また同時に色気をもった無類の女好きであった。硬軟、両方をもち合わせたキャラクターであったわけである。そしてまた、そういう長谷川平蔵を、中村吉右衛門という稀代の名優が演じたことに、この作品の成功と幸運があった。  壮健な体躯、堂々とした風格、闘争的な目つき、どっしりと腰を落とした刀構え、力強い殺陣《たて》、快活な挙措《きよそ》などにくわえて、瑞々しい十指の動き、健やかな笑顔、色気ある照れ、やんちゃ坊主っぽいニヤけ顔など、立役と二枚目を見事に重ね合わせて中村吉右衛門は原作に貢献するのである。 「鬼平犯科帳」の人気がここまで高まったのは、誰が何といおうと、立役と二枚目を優美に融合させた中村吉右衛門という役者の手柄である。  嵐寛寿郎が鞍馬天狗で、大河内伝次郎が丹下左膳なら、市川雷蔵は眠狂四郎である。そして新たにめくられたページには「中村吉右衛門の長谷川平蔵」が書き加えられることは間違いない。なぜなら、中村吉右衛門の長谷川平蔵にこそ、現代社会が理想とする男の基本的要素が凝縮されているのだから。私が若い娘だったら、きっと吉右衛門の�追っかけ�をやっている。 [#ここから1字下げ] (追記)おまさ役を演じた梶芽衣子は、吉右衛門について次のように述べている。 ≪私がこんなことを申し上げるのは僭越ですが、吉右衛門さん以外の鬼平は考えられません。「仏」と「鬼」の使い分けが本当に素晴らしくて、惚れ惚れしてしまいます。お芝居をしていても、思わず見とれてしまい、自分のセリフを忘れそうになったこともありました。そのくらい素敵だったのです。着物の着方から小道具の使い方、ちょっとした所作まで──共演なさった男優さんたちも、どれだけ勉強になったことでしょうか。≫ [#ここで字下げ終わり]  中村吉右衛門 語録[#「中村吉右衛門 語録」はゴシック体] ※ 断わりつづけてきた鬼平役を引き受ける  人気シリーズにけちを付けてしまうのではと迷いに迷って私が(池波)先生に電話すると、「大丈夫。君の思う通りにやりなさい」という励ましのお言葉をくださいました。ここまでして頂いてお受けしなかったらそんな奴は豆腐に頭をぶっつけて死んだほうがましだと思い、決心したのです。(「小説新潮」95・9月号 新潮社) ※ 鬼平をやるにあたって、池波正太郎から何か注文があったかという質問に  何もおっしゃいません。きみの好きなようにやりなさい、ということでしたね。前から存じあげておりますし、ずっと僕の芝居をご覧いただいていますから、わりと信用してくださってたといいますか、そんな感じでしたね。(「ノーサイド」96・1月号 文藝春秋) ※ 鬼平をやることの不安と自信  頼みの綱は、父から受けた竹刀の痛みと池波先生の、次の鬼平は吉右衛門に演《や》らせろとのお言葉です(白鸚版の頃、辰蔵役で出演した折、父・白鸚に竹刀で叩かれるシーンがあった=筆者)。(「オール読物」89・7月臨時増刊号 文藝春秋) ※ テレビ放映がはじまって  放映されたあと必ず(池波)先生のところへお電話を入れ、ご教示を仰ぎました。先生は決まって「いいよ! いいよ! 君はいいんだが、誰々に君からこう注意してやりなさい」とおっしゃるばかりでした。(「小説新潮」95・9月号) ※ 「鬼平犯科帳」と中村吉右衛門 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  阿川「『鬼平』をおやりになられてから、ご自身が変化したことはありますか」  吉右衛門「全然ありません。ただ、これをやり始めて、中村吉右衛門という名を知っていただけましたね。それ以前は、松本吉右衛門だの、市川吉五郎だの、何て名前だっけあの人だのと言われてましたから。最近、松たか子の叔父さんと言われるように戻っちゃいましたけど(笑)」(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて 文藝春秋) [#ここで字下げ終わり]  長い間、鬼平役を演じてまいりまして、最近では、もし許されるならば、実在の平蔵を演じてみたい、という思いに駆られております。〈中略〉と申しますのは、長谷川平蔵こそ、閉塞状況に陥っている現代日本に一番いてほしい人物ですし、彼が孤軍奮闘している姿は、汗水たらして働く人々の共感をよぶと思えるからです。(「歴史街道」98・9月号 PHP) ※ 「鬼平!」  歌舞伎の舞台に出ていて「鬼平!」って声が掛かることもあります。善意なのか悪意なのか、どんな思いで掛けてらっしゃるのかはわかりませんが、こういうときには「そういうふうに見られているんだな」ということを実感します。でも、こういう生涯の当たり役というのは、持とうと思ってもすべての役者が持てるわけではありませんから、僕は恵まれていると、心から思っていますよ。(『物語り』96年 マガジンハウス)  鬼平の評判がいいのも考えもので、こちらは弁慶のつもりでやっていて、お客さまもそのつもりでご覧になっているときに「鬼平」といわれますと、その瞬間、お客さまの方も、芝居から心が離れてしまうと思うのですね。  私も、舞台で生きているなとやっと思えるようになったのですし、死ぬときは新聞の死亡欄に「中村吉右衛門(歌舞伎役者)」と書いていただけるように生きよう、と考えております。(「朝日新聞」夕刊98・4・30) ※ 鬼平の魅力は?  うーん。まずは優しさですね。奥さんに対しても誰に対しても、その人の心がよく分かる。女心などというのもよく分かって、だからこそおまさなんていうのも惚れて、惚れてね。しまいには大滝の五郎蔵と一緒になるけれども、若い頃の平蔵に対する思いを忘れるためになんていうこともあるんじゃないでしょうか。その優しさ。  優しいだけじゃダメだから、その裏には強さがものすごくあるわけですね。思い上がった盗賊を独断で殺しちゃって、上からの圧力があるけれども、それに対して「じゃ、俺をやめさせりゃいいじゃねえか」なんていうことを傲然《ごうぜん》と言い放つという強さですね。その表裏のありようがすごくいい。(「本の話」95・10月号 文藝春秋) ※ 小説『鬼平犯科帳』全作品のなかでのベスト3は?  ベスト3は「本所《ほんじよ》・桜屋敷《さくらやしき》」「熱海《あたみ》みやげの宝物」「雲竜剣《うんりゆうけん》」。(「本の話」95・10月号)  *ちなみに池波正太郎は「盗法秘伝《とうほうひでん》」「山吹屋《やまぶきや》お勝《かつ》」「大川《おおかわ》の隠居《いんきよ》」「本門寺暮雪《ほんもんじぼせつ》」「瓶割《かめわ》り小僧《こぞう》」の五篇を自選作品として挙げている。 ※ 「本所・桜屋敷」の魅力は?  なんていうのかなあ、男同士の友情の世界と、その二人がいだいている女性観というものがみごとに出ていて。すべてを忘れたかった女の人の気持ちみたいなこともよく分かるし、高杉道場で稽古に励んでいる若き日の平蔵が彷彿としますからね、あれがまず第一に好きですね。(「本の話」95・10月号) ※ 「熱海みやげの宝物」のどこが好き?  熱海の温泉のゆったりした雰囲気があって、その中で平蔵が盗賊の嘗役《なめやく》に出会い、親しくなる。第一、この嘗役とか嘗帳《なめちよう》なんていうのも、たぶん(池波)先生の創造でしょう(嘗役は、押し込みに適当な商家や豪家を探し回るのをその役目とする。嘗帳は、その覚え書)。旅先のほんわかした雰囲気のなかで盗賊とかかわりあいになり、その人間関係が一転して長官・鬼平の力になるという、そのへんが僕にはなんともいえず好きなんです。(「本の話」95・10月号) ※ 「雲竜剣」に惹かれる理由《わけ》は?  長篇ですけど、僕はこうしたつくり方のほうが好きなんですよ、親子のあの関係に心ひかれるし、それと鬼平の剣がよく出てますね。(「本の話」95・10月号) ※ 「本所・桜屋敷」「熱海みやげの宝物」「雲竜剣」以外で好きな作品は? 「むかしの女」も若い日の平蔵と現在の平蔵がいて好きです。(池波)先生は「妖盗葵小僧」がお好きだとおっしゃってましたが、あれは役者の世界なもんですから(笑)。あれはなるほどトリックという点で、意外性という点で大変なものなんでしょうが、僕は、役者がこんなふうに思われてるのかなと思ってどうも(笑)。(「本の話」95・10月号) ※ 怖い雰囲気をかもしだしていた先代・幸四郎(白鸚)が、兎忠《うさちゆう》(木村忠吾)にニコッとやるのが魅力的だったというインタビュアーに  実父の鬼平の場合はそこが限界だったわけですよ。ちょっとのニコッがテレビ向けに考えた大変なサービス。だけど僕のやり方でも、今の若者にとってはまだ足りないんじゃないか、と思います。(「CREA」96・12月号 文藝春秋) ※ 役づくり  とにかくオヤジ(先代・幸四郎)のイメージを崩さないようにとやってます。ただ、場所、道具の制約があって時代劇を撮るのは年々難しくなっている。といって、�江戸のにおい�は池波作品の重要な要素。歌舞伎役者は江戸のことを伝える、いわば専門家でもあるわけで気になります。それを言い出したら撮影にならなくなるしねえ。(「日本経済新聞」夕刊95・11・10)  幸い、長谷川平蔵は実在の人物ですので、研究をされている方もいらっしゃいまして、様々な本が発刊されております。それらを買い集め、読みまして、何とか平蔵の思いを忠実に再現するようにいたしました。  余談になりますが、役づくりをするのには二つのタイプがあります。僕のように、原作や脚本だけでなく、周辺資料からイメージをつくっていき、そこに自分を合わせていくタイプと、役の方を自分に取り込んでしまうタイプです。僕は前者のタイプですので、資料読みは欠かせないことになります。(「歴史街道」98・9月号) ※ 庭先に密偵が来ると縁側に出ていき、そこで立膝《たてひざ》をやるのだが、その立膝について  あれはまあ、昔|博打《ばくち》のひとつもしたという感じで、やっぱり立膝にしながら飲んだり打ったりすることが多いもんですから、そういうのがひょっと出てしまうんじゃないか、とかいうことは考えてちょっとやらせていただいて。(「本の話」95・10月号) ※ 女房・久栄  久栄は、池波先生の理想の女性像だと思うのですが、ふわーっとしていて、なんだかつかみどころのないような女性です。しかし、やるべきところは揺るぎなくやり遂げるような強さがあり、夫のわがままを受け入れながら、出入りするたくさんの男たちすべてに、かゆいところに手が届くような気配りをします。それは、男には持ちえない強さで、私にすれば、マリアさまのようです。そういう女性がいたから、男は男らしくなければいけないという関係でもあったのでしょう。(「いきいき」97・12月号 東京いきいきらいふ推進センター) ※ 「鬼平犯科帳」の人気の要因は?  池波先生の素晴らしい原作が第一。あとはスタッフの皆さんの作品に対する姿勢。(「産経新聞」95・11・18) ※ 鬼平と池波正太郎  池波先生はまさに長谷川平蔵その人でした。小説の中には人に対する優しさ、思いやり、その上での厳しさが書かれています。夜鷹を人並みに扱ったり、人非人《にんぴにん》と見極めると容赦なく処刑したり、役作りは勿論、人間としての生き方も私は小説の中の先生の声に教えられています。(「小説新潮」95・9月号) ※ グルメですか?  池波正太郎先生がグルメだったから、「鬼平」も食にはうるさいですけれども、僕自身は、まったくグルメではありません。(『物語り』96年) ※ 好物は何?  いまだに好物というほどのものはないし、何でもいただきます。(『物語り』96年) ※ 役者というもの  役者というものは因果な商売で、他人様はもちろんのこと、親子であろうが兄弟であろうが皆商売敵、ライバルです。(「日本経済新聞」95・11・4) ※ 創る人間  複雑な心のひだに触れるには、創る人間がのっぺりしていたらダメなんでしょうね。(「歌舞伎俳優大百科」93年 実業之日本社) ※ 二代目・中村吉右衛門 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  阿川「吉右衛門の名に恥じないだけのことはやってるぞ、とは思いませんか」  吉右衛門「全然。恥じてる、恥じてる(笑)。僕のなかの役者像は理想が高いのかもしれませんね。先代と比べちゃうから」(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて) [#ここで字下げ終わり] ※ 先代・幸四郎(白鸚)  父ほど生真面目に理想を追い求めていた役者を知らない。(『半ズボンをはいた播磨屋』93年 淡交社) ※ 芝居 ≪破蓮《やれはす》の動くを見てもせりふかな≫っていうのは初代吉右衛門の句ですけど、そんなふうになったらおしまいだなと思ってたんですけどね。こう、時間も体力もなくなってくると、あとはもう、芝居しかないんですねえ、これ。�ここをこうしよう�とか�ああしてみよう�とか、そういうことを考えてるのが、何より楽しくなってきつつある。まあ、まだ完全にそうなったわけではなく、進行形ですけどね。そういうのは、きらいだったのにねえ。自然と、なるもんなんだなあ……。(「楽」96・12月号 マガジンハウス) ※ 少年の頃の夢  小学校六年生のときかなぁ、石原(慎太郎、裕次郎)兄弟が片や作家、片やスターとして活躍しているのを見て、僕は実母に「兄弟で同じ役者やってるのはイヤだ。僕は作家の道に行きたい」と言ったんです。(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて) ※ 絵描きか仏文学者に [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  吉右衛門「小学生の頃から絵を描くのが好きで、高校生のときに文人画をやろうとある方に弟子入りしたこともあったんです。ところが、その方に『役者が女でも買ってる年頃に、絵なんか描いてていいのか』と言われて。で、辞めまして、女|漁《あさ》りのほうにいきました」  阿川「素直なんですね」  吉右衛門「そこは御曹司のいいところで(笑)。その後も、仏文学者になれればいいなと、早大の仏文に入ったりしたんですけどね」(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて) [#ここで字下げ終わり] ※ モネとセザンヌ  なぜモネやセザンヌが好きかというと、文化的な記号や社会的背景など、絵を鑑賞するための予備知識の類を、彼らの絵の前では考慮する必要がないからなんです。(『物語り』96年) ※ クラい  このところ暇がなくて全然描けませんが、絵を描くのは昔から好きでしたね。五月に出した本(『半ズボンをはいた播磨屋』)の表紙も、自分で描いたんですよ。だいたいひとりで何かするのが好きで、要するに暗いんですよ。人と何かしてると疲れちゃう。それがなんで役者やってるんでしょうかね。いつも疑問なんですよ、ほんとに。(「歌舞伎俳優大百科」93年) ※ ひとりが好き  僕は小学生のころから、しゃべるのが億劫《おつくう》で、みんなから離れて、ひとりで何かしてるのが好きだったんです。ハタから見ると、寂しそうだとか、偏屈だとか、ヘソ曲がりというふうに見えたらしいんですが、自分として、そのほうが楽だっただけなんです。(『物語り』96年) ※ ナイトクラブ  中学校に入ると、もうナイトクラブ通いがはじまります。「コパカバーナ」とか「ラテンクォーター」とか、昔は赤坂にこういうナイトクラブがひしめいていて、とても流行っていたんです。(『物語り』96年) ※ 女性とのつきあい  根が真面目ですから、ひとりの人だけに真剣になって、ほかには目もくれない状態になるんです。同時に何人かの人とつきあう、ということなどできない。ただし、厭きるのも早くて、だいたい長くて三年から、早いとこ三カ月ってとこですか。まあ、行動はするけど、マメではないってことですね。(『物語り』96年) ※ 歌舞伎を辞めたいと思ったことがある [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  阿川「一番強く、この仕事を辞めたいと思ったのは、いつ頃ですか」  吉右衛門「そうね……、三十七、八のときに思いましたかなあ」  阿川「そんなお年になって、まだ辞めたいと思ってらしたんですか」  吉右衛門「ええ。四十ぐらいまではそう思ってましたね」  阿川「辞めて、どうされようと?」  吉右衛門「四十の面下げて、ほかの道には行けませんからね。食っていけないなら、残された道はひとつしかないでしょう」  阿川「エッ、そんなことまで考えたんですか。もうご家族がいらしたんでしょ」  吉右衛門「ええ。でも、かなり思いつめていましたから」  阿川「本気でですかア」  吉右衛門「本気、ほんとにほんとに」(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて) [#ここで字下げ終わり] ※ あぶない性格  僕はあぶない性格で一度は死ぬことも考えました。(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて) ※ 人間関係で悩んだとき  僕はわりと人に聞かないで、そのかわり自分をイジめるほう。(「週刊文春」97・6・19号 阿川佐和子のインタビューに答えて) ※ 座右の銘  私の座右の銘は「人間万事|塞翁《さいおう》が馬」(人間の幸不幸は予測できないという意味=筆者)という句です。(『半ズボンをはいた播磨屋』93年) ※ オペラ  休みが取れるとイタリアに。オペラを見るとほっとするんです。(「AERA」95・11・27号 朝日新聞社) ※ ジャンヌ・モロー 『死刑台のエレベーター』は、ちょうどジャズに凝っていた時期でもあったので、マイルス・デイビスの音楽にも相当惹かれましたが、とにかく、ジャンヌ・モローに惚れて惚れて。(『物語り』96年) ※ 好きな女優さんは?  マリリン・モンロー。(『物語り』96年) ※ 車  やはりスピード感が好きなんですね。ほんとはレースに出たかったほどなんですが、ライセンスを取るのが大変なのと、怪我をしたらいけないと反対されたのとで、やめました。(『物語り』96年) ※ 愛車・ダイムラー  いま乗っているのは、ダイムラーのダブル・シックスという車です。もともと英国王室御用達の車だけあって全部手づくりで、とても凝った車なんですよ。(『物語り』96年) ※ 寝坊  私は寝坊で朝が弱い。(『半ズボンをはいた播磨屋』93年)  中村吉右衛門を素描する[#「中村吉右衛門を素描する」はゴシック体]  終戦の前年の一九四四(昭和十九)年五月二十二日、父・八代目松本幸四郎(のち白鸚《はくおう》/本名・藤間順次郎)、母・藤間|正子《せいこ》の次男として東京牛込若宮町の養父(初代・吉右衛門)宅で生まれる。久信《ひさのぶ》と命名される。 [#4字下げ]○  一九四八(昭和二十三)年、母方の祖父・初代中村吉右衛門(本名・波野辰次郎)の養子にとられ、波野久信となる。「実母が、初代吉右衛門のひとり娘だったので、四歳のとき、吉右衛門の家に養子にだされたんです。私は父というと、初代吉右衛門なんで、幸四郎を実父と言わせていただきますが、実父のほうの名は藤間で、僕は戸籍も名字も父のほうの波野なんですよ」 [#4字下げ]○  母・藤間正子は初代・中村吉右衛門のひとり娘。「その母が嫁に出てしまっては跡取りがおりません。嫁に行くことをなかなか許さなかった初代をあきらめさせたのは、『男の子を二人産んでひとりを里へ養子に出す』という母の言葉でした。母は一途《いちず》な性格プラス何事も前向きにしか考えない質《たち》でしたので、約束した以上は何がなんでも男の子を二人産むと決意したことでしょう。そしてみごと、兄(九代目・松本幸四郎)と私を産み、終戦後ほっとしたように妹(麗子)を産んだのでした」 [#4字下げ]○  幼い頃は、ばあやに育てられる。「私たち兄弟が『ばあばあ』と呼んでいたこのばあやは、村杉たけといって、初代のところにお手伝いとして奉公していました。母の嫁入りと一緒について父のところに来ました。そしてわれわれ兄弟を実質的に育ててくれた大恩人です」。小さな頃は、向こう意気が強かったが、体が弱く甘やかされて育ったので、そのぶんひねくれるのもうまくなって、「好意をゆがんだ形でしか表せない性分」になった(という)。 [#4字下げ]○  一九四八(昭和二十三)年、四歳のとき、中村萬之助として初舞台。「子役時分の芝居に関して父はいっさい口だしせず、もっぱら母がコーチ役にまわりました。これがものすごい鬼コーチでした。母の言うとおりできるまで、泣こうがわめこうが決して許してくれませんでした。しかし、初舞台のときは厳しく叱られた覚えがないのです。多分、厳しくして舞台に出るのを嫌がられるより、だましすかしておだてに乗せて、とりあえず初舞台を踏ませてしまおうという魂胆であった、と推察されます」 [#4字下げ]○  少年になると、ガキ大将ぶりを発揮。女形の踊りを稽古するのがたまらなく嫌だった。その頃は「木に登っては日がな一日下界を眺め」ることを好む少年だった。 [#4字下げ]○  小学校は一年生が渋谷の常磐松小学校。二年生から暁星学園へ転学。そこで中学、高校と進み、大学は早稲田大学文学部仏文学科へ。「仏文学者になれればいいなと、早大の仏文に入ったりしたんですけど」、結局は中退した。 [#4字下げ]○  一九六六(昭和四十一)年、二十二歳で二代目・中村吉右衛門を襲名(このときの身長は一七七センチ。体重は六五キロ)。「(初代)吉右衛門のあとをつぐ人に、この人が生れて来たのは、まことに天の配臍《はいざい》の妙だ」(浜村米蔵)といわれ、将来を嘱望された。「同時に本名もそれまでの波野久信から辰次郎に改名しました。姓名判断で、それまでの久信は弱い名前だと言われたからです。そこで母は、どうせ襲名するのだから初代の本名の辰次郎に改名すれば一石二鳥とばかり役所にかけ合ったのでした」 [#4字下げ]○  現代の歌舞伎役者では最高峰の一人。「芝居のうまさは現代の歌舞伎役者中では一、二を争う実力」(渡辺保)であり、「押しも押されもせぬ見事な座頭役者」(福田恒存)である。 [#4字下げ]○  屋号は播磨屋《はりまや》。「現在播磨屋は、私と中村又五郎のおじさんだけ」しかいない。 [#4字下げ]○  性格はやや内向的。しかし、みずからを「縁の下のモヤシ」(身体が細かった二十代頃のジョーク)と称する茶目っ気もたっぷりある。 [#4字下げ]○  四女の父。美大へ進学した娘あり、宝塚に興味のある娘あり。「娘たちには自分で選んだ道を歩んでほしい」 [#4字下げ]○ 「人間万事|塞翁《さいおう》が馬」が座右の銘。「ご承知のとおり、『何が幸いで何が不幸かわからない。何事もなるようにしかならない』ということですが、あきらめとも違うし、といって懐疑的でもないし宗教的でもない。まあいい加減といったらこんないい加減な考えはありませんが、そこがまた何ともいえない滋味を感じるのです」 [#改ページ] 第三章 『鬼平犯科帳』はこう読め  彦十がいちばん幸せ[#「彦十がいちばん幸せ」はゴシック体]  密偵・相模《さがみ》の彦十《ひこじゆう》は、本所《ほんじよ》松井町の岡場所あたりに巣喰っていた香《や》具|師《し》(見世物師・大道商人)あがりの無頼者である。  若い頃からワルで、数々のお盗《つと》めにも手を染めてきた。  その彦十、三十そこそこの頃である。十いくつも年下の平蔵と岸井|左馬之助《さまのすけ》をたきつけて、盗みの手つだいをやらせようとしたことがあった(原作は「泥鰌《どじよう》の和助始末」、ビデオでは「下段《げだん》の剣」を参照されたし)。  平蔵と左馬之助は、彦十の口車《くちぐるま》にのせられて手を貸すことを了承するも、土壇場で運よく、その難をのがれるということがあった。  テレビで見るかぎり、彦十は愛嬌のある好々爺《こうこうや》風情である。しかし原作では、かなりのしたたか者であり、|ぐうたら《ヽヽヽヽ》爺いであり、軽佻浮薄な与太者である(これはけっしていいすぎではない)。  いったい彦十はどれくらいいい加減な人間であったか。検証してみたい。  彦十は平蔵を「銕《てつ》つぁん、……いや、長谷川さま」と昔の|よしみ《ヽヽヽ》で気やすく呼びかけることがあるのだが、まずこのことを考えていただきたい。  彦十はどんなに平蔵と頻繁に会っていても、まず「銕つぁん」といわなければ気が済まないようだ。  くどい、と感じることがたびたびあるが、これは意識的に失言しているからである。  つまり、彦十は意識的に失言することで、平蔵に、また平蔵のまわりにいる部下や密偵たちに、付き合いの長さと親密の度合いをそのつど確認させているのである。  こういう姑息ともいえる手を彦十はつかうのだ。  これが笹やのお熊であったらどうか。むろん、そんなセコい真似などしない。「銕つぁん」とだけ呼んで、すぐに用件に入る。「銕つぁん、……いや、長谷川さま」などと彦十のようにわざわざ言いなおしたりしない。さすがに、世は自分を中心に回っているという天動説の立場をとる老婆だけある。じつに堂々としているのだ。  だが、彦十はそうではない。意識的に失言して、自分の存在を誇示するのである。彦十とはそういう打算的な一面をもった爺さんなのだ。  そんな彦十であるから、陰にまわれば、もっと露骨に本性をあらわす。 「鬼の平蔵が若いころは、このおれと親類づきあいをしていたものだよ」などとうそぶくのである。  そうそう、あの場面を覚えているだろうか。 [#ここから1字下げ] ≪友五郎は親しくなった相模の彦十へ、ささやいた。 「それなのによ、この御役宅で寝ころんでいるなんて、まったくどうも、長谷川様も罪なお方ではねえか」 「友五郎どん。銕公《てつこう》は、きっと、おれなんざ爺《じじい》だから役に立たねえとおもっていやがるにちげえねえよう」  彦十は、僻《ひが》んで毒づいた。  友五郎が、目をまるくして、 「そ、その銕公というなあ、だれだね?」 「いまの長谷川平蔵よ」 「へへえ……お前、凄《すげ》え口をきくね」 「あたりめえよ。野郎が若いときを、おらあ、よく知っているんだ。むかしは本所《ほんじよ》の銕《てつ》とか何とかいわれて、そりゃもう手がつけられねえ暴《あば》れ馬だったのだよう」≫(「鬼火」) [#ここで字下げ終わり]  わかっていただけただろうか。彦十とはこういう爺さんなのである。  威勢のいい頃は、平蔵を「兄き兄き」とたてまつり、酒を飲ませてもらったり女を抱かせてもらい、「入江町の銕さんのためなら、いのちもいらねえ」などと調子のいいことをいい、年老いてからは、「入江町の銕さんのおためなら、こんなひからびたいのちなんぞ、いつ捨てても惜しかあねえ」といいふらしつつも、その実《じつ》しっかりと平蔵に寄生している。  また、面と向かえば、「どんなことでもいたしますから、どうぞ長谷川さま、人足寄場《にんそくよせば》へだけは入れねえでおくんなせえましよ」と甘えることを忘れず、小づかいをもらえば、「へへっ。すみませんねえ、銕つぁん。おらあ、小づかいをもらうのが大好きだ」といって、恬《てん》として恥じることがない。  調子づけば、「|たま《ヽヽ》にゃあ、奥方さまのお眼をぬすみ、あぶらっ濃いのを抱いて若返って下せえよ。このごろどうも、銕つぁん老《ふ》けちまって、いやだよう」と火付盗賊改方長官の情欲をあおったりもする。  こんなこともあった。 「小むすめの勘は、するどいものだぞ」という平蔵に、「ところが女も、年を食うにつれて、間がぬけてきやすからねえ」と彦十がいいさす。  そこへ、平蔵の妻・久栄があらわれた。  と、そのときである。 「いまのはなしは、奥方さまのことを申しあげたのではねえのでごぜえます」  彦十は|すまして《ヽヽヽヽ》こんなことまでいってしまえるのだった。  彦十は、親戚のおじさんにかならず一人はいるといわれる「人前にだせない、場をわきまえない人」なのである。  じつのところ、彦十は、 〔平蔵、与《くみ》しやすし〕  と思っていたのではないか。そう思えるほどに、彦十は思いどおりにことを運んでいる。  きわめつけなのがある。  見張りに出向いた上州高崎で、密偵であることも忘れ、しばらく住みついてしまうことがあった(「麻布ねずみ坂」)。それも、女をつくってである。受けた恩はすぐに忘れるタイプの人間であったようだ。  そうそう、あれも忘れてはいけない。 「密偵たちの宴」でのことである。  率先してお盗《つと》めの計画を練り、他の密偵たちをそそのかし誘惑するのだ。  そのときの彦十の言葉にいま一度、耳を傾けてみよう。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] ≪彦十「この六人で、久しぶりに、ひとつ、お盗めの手本《てほん》を見せてやろうというのは……みんな、黙っちまったな。そいつは長谷川さまのことを考えているからだろうが、どうだね。長谷川さまにもわからねえように、盗《と》ってもいいところから盗《と》るのだよう。それもだ、長い月日をかけてはいられねえ。それはそうだ。だって、おれたちは、ほかならぬ盗賊改メの手先をつとめて、毎日がいそがしいものなあ。だから、急ぎばたらきでやるのさ。それぞれに暇《ひま》を見つけて、目ざす相手の内外《うちそと》を探《さぐ》っておき、時をえらんで一気にやっつけるのだ。おもしれえぜ、こいつは……急ぎばたらきにはちげえねえが、支度は充分《じゆうぶん》にやるのだよう。な、な……そして、三ヵ条の掟をきっちりまもってなあ」  伊三次「どうやら爺つぁんには、押し込む相手が、もう胸の中に浮かんでいるようだね」  彦十「そのとおり」  おまさ「まあ、呆《あき》れた……」≫(「密偵たちの宴」) [#ここで字下げ終わり]  読者の皆さんも、呆れてください。彦十が率先してお盗《つと》めをやりたがっているのである。彦十は、模範となるべき老密偵という自分の立場というものをまったく自覚していない。  また、このあと調子づいて、おまさに「そうだ、その引き込みには|まあ《ヽヽ》ちゃんがいいや」などと、あと先のことをまったく考えず、幼児のようなことをいいだしている。並々ならぬバカの才能を感じるというか、バカの原点を見るかのようである。  彦十とは、無節操という点においては申しぶんなく信頼してよい男なのである。  自由奔放に生きたといえば聞こえはいいが、好き勝手なことをいい、やりたい放題をやった|ならず者《ヽヽヽヽ》である。  だが、どういうわけか、彦十は不幸とは無縁の男であった。  あれほど誘惑や欲望と添い寝ばかりしてきたにもかかわらず、塀の向こう側へ落ちて辛酸をなめたということがない。捕らえられて拷問にかけられたということが一度もないのだ。つくづく、いい人生を送ったものだと思う。  また、身分の上下にやかましかった封建の世にあって、火盗改メの長官である平蔵に目をかけられ、衣食住の全般にわたって面倒をみてもらったのだから、まったく天下無敵の果報者というしかない。 『鬼平犯科帳』の全編をつうじて、いちばん幸せな男は、誰が何といおうと、相模の彦十である。  平蔵の激務と心労を思えば、彦十は平蔵の数百倍も幸せであったにちがいない。  彦十の今日《こんにち》があるのは、あれもこれもそれもどれも、みな平蔵のおかげである。だから、彦十よ、陰で「銕公」というのだけはやめなさい。  さて、その彦十を演《や》るのは、江戸家猫八である。  これまで見てきたように、原作の彦十には、深刻さも悲愴感も漂ってはいない。彦十にあるのは気負いと打算としたたかさだけである。  そんな彦十を、猫八はけっこううまくこなしている。  長いセリフになると思いだしながら喋っているようでなんともあぶなっかしくなるが、伝法《でんぽう》な口調のものになると途端にうまくなるという役者である。  とはいえ、この役者の取り柄は、やはり動きであろう。とくに、腕ぐみをして歩いたり、ちょこちょこと走ったりするときの動作がいい。  こまごまとしたしぐさも美点である。なかでも格別なのは、アゴを掻きながら下唇を上の歯で噛んで思案したりあきれたりするときのしぐさである。あれは原作の彦十にかなり接近していると思う。  もうひとつ、猫八の彦十で注目すべきは、無精|髭《ひげ》をのばしているところだ。彦十役は、さっぱりと髭を剃り、きちんと着物をきているようではダメである。猫八のように、月代《さかやき》をのばし、無精髭をたくわえ、素袷《すあわせ》一枚でやるのがいい(春や夏の時期の話では、もっと胸を|はだけ《ヽヽヽ》ていてもよかった。「本所・櫻屋敷」で登場したときの彦十がいちばん彦十らしかった)。  池波正太郎も、猫八の彦十を気に入っていたという。  彦十も幸せ、猫八も幸せといったところである。  失われた岸井左馬之助を求めて[#「失われた岸井左馬之助を求めて」はゴシック体]  岸井左馬之助《きしいさまのすけ》の魅力はどこにあるとお考えだろうか。  おふささんへ抱いた純粋な恋心。そしてその一途《いちず》さ。これを挙げる女性は多いであろう。   瀬をはやみ岩にせかるる滝川の    割れてもすゑにあはむとぞおもふ  左馬之助のおふささんへの思慕は、「百人一首」にうたわれたこの崇徳院《すとくいん》の気持ちに相つうじるものがある。浮気男がやけに目立つようになった昨今、無垢で一途な恋心を男に期待する声が女性からあがるのはむべなるかな。  いやそうじゃない、という声もむろんあがるだろう。  やはり平蔵とともに高杉道場で�龍虎《りゆうこ》�と異名をとった、その精悍《せいかん》な風貌《ふうぼう》と剣術の腕前だよ、という人もいよう。  あるいは、「背の高い、がっしりとした体躯」に筒袖と軽衫袴《かるさんばかま》を身につけた、そのちぐはぐさに象徴される滑稽さが可愛らしい、という声もあがりそうだ。  また、男くさく粗野だが、善良で情にもろいところだ、と言い張る人もいよう。  無邪気さという人もいるかもしれない。  欲ばって「それら全部」という人もいよう。 [#ここから1字下げ] ≪「お前さんの御役目を蔭ながら手伝ってみたいな」 「むうん、そうか。やってくれるか」 「いいかな」 「人手が足りなくて困っている。左馬之助のような|わけ知り《ヽヽヽヽ》がはたらいてくれるなら大いに結構。ただし、一文も出ないぞ」 「そこがいいところさ」≫(「暗剣白梅香」) [#ここで字下げ終わり]  これは平蔵と左馬之助の会話だが、岸井左馬之助が、いやそこに井関録之助を加えてもいいのだが、この平蔵の昔からの友人が私にとって好ましく思えるのは、たんに彼らが純情であったり一途であったりするからではない。  彼らが魅力ある人間に見えるのは、平蔵の力を借りて自分をひとかどの人間に見せようとか、利益を得ようとか、そういう気がまったくなかったことによる。  彼らは、平蔵の火付盗賊改方の長官という立場を利用して、甘い汁を吸おうとはしなかった。火付盗賊改方の長官を友人にもっているからといって、それを利用して自分の生活を変えようとか、うまい具合に金儲けをしてやろうなどという、日本|低国《ヽヽ》の政治家や官僚がやりそうなことをいっさい企《たくら》んだりはしなかった。  よくある話だが、仲間のひとりが有名になったりすると、それに乗じて自分を売ろうとする人間がでてくる。  才能がある人間がそばにいて、その人と友だちづきあいをしていると、自分にも同じような才能があるのではないかと、ものすごい勘違いをする人がでてくる。彼らは、そういう恥ずかしい過《あやま》ちをしでかさなかった人たちである。まず、私はこのことをグッといっておきたい。  さて、岸井左馬之助の魅力だが、それをたんに「無邪気で純粋」といってしまうと、なんとも滑稽味が漂い、間が抜けた人のように聞こえるが、はたして、そうである。じっさい、現代に生きる私たちの眼から見ると、左馬には子どもじみたところがある。  ひとつ例を引こう。  あるとき、奈良で平蔵が高津《こうづ》の玄丹《げんたん》一味の刺客に襲われたことがある。  状況はひじょうにマズく、平蔵は、もはやこれまでと観念の眼《まなこ》を閉じた。  と、そのときである。  間一髪で平蔵の命を救ってくれた男がいた。岸井左馬之助である。  地獄で仏。まさにリング中央、フォール寸前の平蔵のまえに駆けつけた若き日のアントニオ猪木であった。  平蔵を助けた左馬之助は、悪党どもを相手に暴れに暴れ、平蔵にかわってその場を見事におさめた。そのはたらきたるや、まさしく�龍虎�の異名にふさわしい暴れっぷりであった。  そして、このことによって、左馬は平蔵の「いのちの恩人」となった。  人の、それも敬愛する人の「いのちの恩人」になるのはうれしいものだ。  もちろん平蔵もそのことが重々《じゆうじゆう》わかっている。感謝の念も素直に伝えた。平蔵は、ほどこした恩は忘れても、受けた恩を忘れるような男ではない。  ところが、である。左馬は「いのちの恩人、いのちの恩人」とみずからの手柄を平蔵に幾度も確認させるというようなことをやってしまうのだった。なかなかにいやらしい。 「こやつ、やたらに恩を着せる男だ」と平蔵も冗談まじりに寸鉄をくらわすが、左馬は笑いとばして愉快がっている。  しまいには「どうも、岸井さまは恩に着せすぎます。やたらにもう、いのちの恩人の安売りを……」と、かの木村忠吾にまでいわれる始末である。  岸井左馬之助は、とにかく平蔵に惚れていた。そして、惚れた男にはとことん尽くすという律儀者であった。だから、惚れた男の命を救ったとあらば、それをことあるごとに話題にして、褒《ほ》めてもらいたいのである。  左馬は、こういういわば軽々しさというべきものをときとして見せる。そして、それを自覚したうえでわざとやっている。ハテ、これをどう解釈したらいいのだろう。  現代を生きる私たちの眼には、左馬のこうした行為は思慮深さを欠いた子どもじみた行為に映る。どう考えても、成熟した大人の行儀作法とはいえない。  たしかに現代では、結婚してしまった女に恋心を抱きつづけるなど、ストーカー予備軍のウジウジ男だと見なされるだろうし、「男が男に惚れた」などといえば、「おまえ、オカマか」などとからかわれるのがオチである。  勘違いしないでいただきたいのだが、現代の男が純情でなくなったというのではない。純情のままで生きているということをあけっぴろげに表明することが、現代では、単純で、かつ皮相と見なされてしまうといいたいのである。  いまの時代では、精神の奔放闊達さをなんの臆面もなくあらわせば、それは粗野で浅薄な人間がやることだと受けとられてしまう。 「本音」などというチャチで下品な言葉を、なんの恥じらいもなく声高にいってはばからない現代では、純情さのあからさまの表明はよほどのことがないかぎり信じてもらえない。純情話や手柄話には打算と狡猾《こうかつ》をあえて注入しないと、本音として受けとられないのである。それが純情を存在しえないものにしている。かりに純情というものが存在しえたとしても、それは道化として存在するのみだ。  純情さのひとことをもって、それが岸井左馬之助の魅力だというのは簡単だし勝手である。だが、少なくとも岸井左馬之助の幸福とは、生涯をつうじて、愛すべき女性とめぐりあえたことでも、男が惚れるような男に生涯に出会えたということでもない、と私はいいたい。  左馬の幸福は、「俺は、男に惚れ、女を愛した」となんの照れもなく丸腰でいって、それが冗談にとられなかった時代に生きたことにある。純情の一途さが嗤《わら》われない、そういう時代に生きたことが左馬の幸福であった。  そして、そういう左馬を私たちが好ましいと感じるのは、そうした時代に生きた左馬を、ちょっとだけ羨《うらや》ましいと感じているからである。  忠吾は兎ではなくチワワである[#「忠吾は兎ではなくチワワである」はゴシック体]  木村|忠吾《ちゆうご》は、童顔で、ぽってりとした色白の柔らかい躰つきをしている。それが芝・明神前の菓子舗「まつむら」の名物〔うさぎ饅頭《まんじゆう》〕にそっくりなので、仲間の与力や同心から「兎忠《うさちゆう》」とか「兎《うさぎ》」と呼ばれている、というのは鬼平ファンなら誰もが知るところである。  勇猛果敢で鳴る火盗改メにあってこんなありがたくない名を頂戴するわけだから、いかにまわりから見くびられていたかわかろうというものである(じっさい、忠吾は密偵・伊三次と相撲を取っても負けたという)。  そもそも剣術からして、からっきしダメであった。大刀を腰に差してはいても、その威力を存分に発揮させたことはない。犬の尻尾と同じで、ただ出ているだけだ。だから、そういう忠吾を上役たちは「とても使いものにならん」と決めつけている。  それだけではない。気力も充実していなかった。忠吾は、みずからすすんで何かをやろうとすることを知らぬ男であった。いつなんどきでも、休みたい、ラクをしたい、が先行する青年であった。  いっちゃあ悪いが、忠吾にあって目立つものは、愛嬌と根拠のない自尊心だけだ。  だが、得意とするところがないわけではない。筆が立つところと、時間はかかるが書類をきちっと作成できるというところが、得意といえば得意である。  ところがである。こういう忠吾でも、いったん火盗改メの任務から離れれば、人より抜きんでているところがいくつかあった。  あまり自慢できることではないが、とくに色気と食い気では他の同心たちの追随をゆるさなかった。女に関しては、こういう指摘がある。 [#ここから1字下げ] ≪そもそも木村忠吾ほど、盗賊改方の与力・同心のうちで、 「女遊びの激しかった男《やつ》はいない……」  のである。≫(「影法師」) [#ここで字下げ終わり]  この分野における忠吾は相当なもので、婚礼の十日前でも品川へ妓を買いにいくほどであった。  また、新しい食いもの屋を見つけてくるのはお手のもので、食に関して猫どのを挑発できるのは忠吾だけである。  しかし、これではなんとも情けない。屈強なる盗賊たちを相手にする火盗改メにあっては、それこそお荷物にこそなれ、手柄をたてる男にはなれない。  むろん、本人もそれを気にしないわけではなかった。臍《ほぞ》を噛《か》んだり落ち込むこともときにはあった。しかし、生来の無邪気さとノンキさで、失敗や反省が身にしみないうちに、たやすく立ちなおってしまうのだった。 [#ここから1字下げ] ≪とにかく忠吾は、心身ともに萎《な》え切ってしまった。  それでいて、三度三度の食事を《うまい》と感じる自分がうらめしい。≫(「男色《なんしよく》一本|饂飩《うどん》」) [#ここで字下げ終わり]  と、原作者の池波正太郎にも書かれる始末であった。  現代に生きていたら、おそらく忠吾はしっかり者の若い娘たちに甲斐性のない男としていたぶられていたことであろう。  しかし、どういうわけか、長谷川平蔵はこの無邪気で頼りない若者を愛した。目を細めて薫育をほどこしたのである。  平蔵にとって、忠吾とはいったいどういう存在であったのだろうか。  冒頭でもふれたように、忠吾は「兎」と呼ばれていた。しかし、平蔵は、忠吾のなかに犬を感じていたのではないか。私はそう見ている。  外皮が兎なら、内面は犬だったのではないか。読み込めば読み込むほど、忠吾は兎の皮をかぶった犬に見えてくる。しかし、ひとくちに犬といってもいろいろある。のら犬もいれば忠犬もいる。闘犬もいれば番犬もいる。  忠吾はどうか。忠吾はのら犬でも忠犬でも闘犬でも番犬でもない。忠吾はお座敷犬である。犬の種類でいったらチワワである。  けっしてドーベルマンやグレート・デーンや土佐犬といった�体育会系�の犬ではないし、ゴールデン・レトリバー、コリー、プードルといった優美で上品な犬でもない。どう考えても、チワワである。  チワワは勇猛果敢ではない。どちらかというと見栄っぱりの甘えん坊タイプで隠れてペロッと舌をだしたり、ラクをしようとして狡《ずる》いことをやる犬だ。  すねるのもお手のものだ。が、しかし、グレる度胸はない。一瞬たりともオオカミにはなれないのである。また、なにか問題が生じたとき、チワワは解決策を講じようという建設的な行動はせず、ただひたすらにキャンキャンと騒ぎたてる。これは、まさしく忠吾ではないか。  忠吾とは、そういう存在として平蔵のうちにあったのではないか。私は忠吾をそう捉えている。  さて、その忠吾役を尾美《おみ》としのりがやっている。  尾美としのりは、四代目の忠吾である。初代は古今亭志ん朝、二代目は荻島真一、三代目は中村歌昇(のちに小林金弥役に抜擢される)だった。  このなかで抜群に評価が高いのは古今亭志ん朝で、いまでも酒場では語り草になっている。プロデューサーの市川久夫は「高麗屋さん(白鸚)が志ん朝をつかまえて、�うさぎ!�と大喝すると、どぎまぎしてちぢみあがる風景は、小説がのりうつっている感さえあった」といい、監督の小野田嘉幹は「あのトボケた味、絶妙の間は忠吾そのものであり、原作の味をそのまま絵にしたような存在だった」とベタ褒めである。  尾美としのりはどうか。  私は、うまくこなしていると思う。  時代劇は「鬼平」がはじめてだそうだが、なかなかどうして|さま《ヽヽ》になっている(というか、|さま《ヽヽ》になったように思う)。  力《りき》みかえるところや、返答に窮して|へどもど《ヽヽヽヽ》するところがうまいし、あたふたするところや、ほうほうの体《てい》で引きさがるところも自然である。また、しどろもどろになりながらも小心者のこすっからさを見せるところも軽妙である。うろたえて饒舌になるところも見逃せない。また、甘い言葉にほだされたときのゆるむ顔がいいし、ききわけのない子どものように口をとがらせていまいましげに怒るのもたいした演技である。  しかし何といっても、尾美としのりが抜群にうまいのは、ものを食べながらしゃべるところである。だんごなどをほおばって「いかになんでも、そのおっしゃりようは、ひどうございます」などとしゃべっているのを見ると、その演技上の達成に思わず唸ってしまう。あそこまで口のなかに入れてよくもしゃべれるものだと感心せざるをえない(からかっているのではない)。  ああした役をこなせる役者はじつは意外に少ないんじゃないか。そう思う。  でも、そんな尾美としのりも、最初のうちは職人肌のスタッフに囲まれてずいぶんと苦労をしたようだ。 「東京からきたよそ者という感じで、挨拶しても無視される(笑)。時代劇なんて、まるではじめてだから、着物の着かたもわからない。緊張でセリフも吃りっぱなし……。こんなとこ半年でやめてやると思ってたんですけど(笑)」(『ノーサイド』96・1月号)  こういう尾美だが、最後まで続けたところを見ると、けっこう気に入ったようだ。  じじつ、初期の作品を見ると顔が少々こわばっているが、近年では余裕すら感じられた。そういえば、顔も最近チワワに似てきたような気がする。  粂八が密偵になった理由《わけ》[#「粂八が密偵になった理由《わけ》」はゴシック体]  小房《こぶさ》の粂八《くめはち》は、平蔵が見込んで密偵にした男である。  とはいっても、それは平蔵が「どうしても」と所望したことではなかった。平蔵のなかには、うまくゆけば密偵としてはたらかせてみようという気持ちはあったようだが、結果としては粂八のほうから願いでている。  粂八は、ワルでとおした人間である。強情我慢の男でもある。このことから考えると、粂八は生半可なことで仲間を裏切ったり、ましてや公儀《おかみ》の密偵になるような男ではない。みずからの命とひきかえにしても、公儀《おかみ》の、それも自分を拷問にかけた火盗改メの狗《いぬ》になることだけは何としても拒むと思わせる男である。  その男が、平蔵の密偵としてはたらくようになった。  なぜか。 �通説�では、粂八の敬愛する大盗・血頭《ちがしら》の丹兵衛《たんべえ》が急ぎ盗《ばたらき》の誘惑に負け、お盗《つと》めの三カ条(殺さず・犯さず・貧乏人からは盗《と》らず)に背くようなことをやりだし、そのことに粂八が落胆し、そこに目をつけた平蔵が粂八を密偵として採用したということになっている。つまりは、自分の犯した罪を悔い、そして改心した元盗賊というふうに粂八は捉えられているのである。  そういう、いわば�改心した善き人�扱いを粂八はうけている。少なくとも私が目にしたものでは、ひとつの例外もなくそう書いている。  これではまるで子どもだましである。粂八にとって虫がよすぎる話ばかりではないか。 「血頭丹兵衛の名をかたるにせものの化けの皮を|ひんむいて《ヽヽヽヽヽ》やりてえと思います」との発言を額面どおりにとれば、粂八はかつてのお頭・血頭の丹兵衛の名を汚す�にせ者�を見つけだそうとする「正義の人」である。むろん、粂八にその気持ちがなかったとはいわないが、この発言にはもうひとつの重要な心情が隠されている。  確認をしておくが、粂八はまっとうなお盗《つと》めばかりをしてきた盗賊ではない。お盗めの三カ条を破ることもやってきた。  捕縛されたときは凶悪無慙《きようあくむざん》な仕事ぶりで名を売る盗賊・野槌《のづち》の弥平《やへい》のところにいた。そもそも血頭の丹兵衛のところを追いだされたのだって、押し込み先の飯たき女を嬲《なぶ》ったからである。少なくとも駆け出しの頃は、女を犯すことに歯止めがかからぬ盗賊であった。  それが成長していくにつれて、気が変わった。お盗めの三カ条を守るのが真の盗賊だと思うようになったのである。  しかし、捕縛されたあとでそれを表明しても誰がそんなことを信じるというのか。また、たとえそれが、万が一、信じてもらえたとしても、お盗めの三カ条を守る見上げた奴だということで処罰をうけずに済むなどという話には至らないはずだ。  人を殺傷したり女を犯したりという畜生|盗《ばたらき》の横行が我慢ならぬのなら、そういう稼業から足を洗えばよかった。  また、捕縛された身ならば、潔《いさぎよ》く拷問をうけ、島流しになり、そこで畜生盗が横行する時代の風潮を嘆き、己の境遇を悲しめばよい。  しかし、粂八はそうしなかった。捕縛されたあとに、お盗めの三カ条は己の金科玉条だといい、急ぎ盗《ばたらき》や畜生盗の横行を嘆くのである。  あるいはまた、こんな�定説�も流布されている。  粂八が平蔵の密偵になったのは、「粂八の仲間である助次郎とおふじという盗賊夫婦のあいだに生まれて孤児になった赤子を平蔵が養女としたからだ」というものである。  次の会話は平蔵と妻・久栄のものである。 [#ここから1字下げ] ≪「おれたちが、その子を引き取ってやろうとおもう。どうだな」 「はい。おこころのままに」 「こころよく、引きうけてくれるか、そうか」  あたたかい、冬の朝の陽ざしが縁いっぱいにながれこんでいるのをながめつつ、長谷川平蔵は、つぶやくように、こういった。 「おれも妾腹《めかけばら》の上に、母親の顔も知らぬ男ゆえなあ……」≫(「唖の十蔵」) [#ここで字下げ終わり]  盗賊夫婦のあいだに生まれた赤ん坊を平蔵夫婦がもらいうけて養女にしたことに、粂八が感激し、そして密偵としてはたらくようになったというのだ。  いくらなんでもこれはないだろう。まったく説得力がない。これでは、密偵になるかならないかという選択が、粂八のほうにあったことになってしまうではないか。  自白し改心したことで粂八の意志が加味されたとはいえ、粂八自身は自分が密偵になるということの決断の主体では断じてなかった。どう考えても、そうである。  ここで、私見を述べるまえに、粂八のたどってきた半生を猛スピードでたどってみたい。  粂八の生いたちは不遇であった。両親の顔を知らずに育っている。雪深い山村の小さな村で「おん婆《ばあ》」と呼んだ祖母らしい老婆と暮らしていた。粂八の記憶に残っているものは、この老婆に連れられて長い旅をつづけているときの空腹と疲労、そして夕闇の街道で倒れて動かなくなった「おん婆」をまえにして大声で泣いたことだ。  そして、この「おん婆」が急死してのちは、売りとばされたりして転々と諸方を渡り歩いた。一時は大坂の見世物《みせもの》芸人・山鳥銀太夫《やまどりぎんだゆう》の一座で綱渡りをしていたこともある。身寄りのない粂八がいつしか盗賊の世界に足を踏み入れたのは、そんな境遇にたいする逃避と復讐であった──。  そんな境涯を振りかえって、粂八は「両親の顔を知らねえということは人間の生活《くらし》の中に何ひとつ無《ね》えということで……」と平蔵に洩らす。  自分という人間に愛すべきものや守るべきものがないという人間は、人間としての営みを何ひとつしていないのではないか、と回想する粂八に同情の念は禁じがたい。それはわかる。  そして、こういう両親の顔も知らずに育った粂八が、その盗賊夫婦の赤子に自分の境涯を重ねあわせてひどく感動するという美談はあっていいが、それが理由で、粂八が|自分の意志で《ヽヽヽヽヽヽ》密偵になっていくという読み方にはどうしても同調できない。  粂八が密偵になった理由はただひとつ。  死にたいする恐怖である。  死の恐怖心から逃れるために、粂八は密偵になったのである。 [#ここから1字下げ] ≪「粂、元気かえ」  牢格子からのぞきこむ平蔵へ、 「よく、帰っておくんなさいましたね。長谷川さまが盗賊改メの御頭《おかしら》をおやめになったときいて、この五カ月というもなあ、この首が今日飛ぶか、明日飛ぶかと、いえもう、びくびくもんでございましたよ」 「やはり、生きていたいか?」 「ばかなことで……こうして御牢内におりますと、めっきり、気が弱くなります」≫(「血頭の丹兵衛」) [#ここで字下げ終わり]  みずからも語るように、粂八はめっきり弱気になっている。  この弱気は、死の匂いをひとたび嗅いだ者の謙虚さとでもいおうか。挑《いど》みかかる能動性がまったくない。  粂八に死の恐怖が忍びよってきたのは、平蔵によるすさまじい拷問をうけて以後のことである。この拷問は、平蔵が火盗改メの長官になって見せた、はじめての仕置きであった。  この日までの平蔵は、笑顔を絶やさぬ、人あたりのよい温和な新長官であった。 「若いころは大変なあばれものときいたが、すこしも、そのようなところがない」 「まるで、ねむり猫のような……」  そんなふうに噂されていた。  しかし、その日の平蔵はいつもの平蔵ではなかった。それほどまでに平蔵の拷問はすさまじかった。  せせら笑っている粂八に、「お前、だいぶんに人を殺したな、そうだろう、そういう面《つら》をしているものな」とものやわらかに語りかけたかと思うと、次の瞬間には粂八の足の甲に五寸|釘《くぎ》を打ちこむ。それはそれはメリハリのある効率的な拷問であった。  はじめのうちは、にやりにやりと、とぼけたことをいっていた粂八だったが、徐々に死のイメージにとらわれていった。そしてやがて、死の恐怖が、粂八の全身を覆いつくしたのだった。  死はいずれ万人におとずれるものだからそれなりの覚悟もできようが、恐怖の覚悟だけはどんなに肝《きも》が太くても具体的に予想されるものではない。ましてや、自分が殺される当人になることへの恐怖の想像図は、あまりにも曖昧にすぎる。  恐怖をどんなに分析しようが、またそれにたいしてどんなに達観の境地に至ろうが、しょせんはじっさいの恐怖をまえにするまでの虚勢にすぎないのではないか。  粂八は盗賊である。ならば、自分が捕らえられ責め苦を負い、挙げ句の果ては死に至らしめられるであろう可能性については幾度も考えたことがあるはずだ。いや、というより、日々の暮らしのどの瞬間もが、そうした死の想念を払拭《ふつしよく》しようとする闘いだったかもしれない。少なくとも、人生は死と隣合わせの、はかないものとして粂八の心には映っていたはずである。  粂八が恐《おそ》れたのは、死そのものではない。粂八は、自分が死を恐れていることに恐怖したのである。死のイメージに恐怖したのだ。 「こんなことで音《ね》をあげるな。きさまが今までにしてきたことにくらべれば何の苦しみでもあるまい」  平蔵は粂八に、自分の手では死ねないことの恐怖を思いしらせた。  死──それ自体は怖いものではないかもしれないが、自分の死が他人の手に委ねられ自分の手ではどうにもならないと自覚することほど怖《こわ》いものはない。恐怖心とは、そういう事態に追い込まれたときに顔をだすものだ。  平蔵は、粂八を叱咤し�激励�しながらも苦痛をあたえつづけることで、粂八のうちに芽ばえた死への恐怖心をどんどん膨らませていった。そういう拷問を平蔵はしてのけたのである。それほどまでに平蔵のやり口は手だれていた。  それは、日頃みずから仕置きの任にあたっている与力・同心たちでさえ、「顔面を硬直させ、ただもう顔を見合わせるばかり」というすさまじい拷問だった。  強情でとおした粂八も、この平蔵の壮烈にして巧妙な拷問のまえには屈伏した。くいしばった口が、ついに白状《はくじよう》におよんだのである。  粂八はこのとき、肉体のすさまじい苦痛と、その苦痛がおびき寄せる死への恐怖をはじめて実感した。  粂八が白状におよび、仲間を裏切って盗賊改メの密偵になったのは、お盗《つと》めの三カ条を何とも思わぬ盗人がはびこることに嫌気がさしたのではない。粂八は、ただ苦痛に耐えられなかったのであり、死ぬことに心底恐怖をおぼえたからである。  生きることに未練が残ったというのともちがう。ただ、他人の手によって殺されるという予感に怯《おび》えたのであり、またそのことに恐怖心を抱いたからである。  粂八をとりまいている�美談�は、こう解釈されなくてはならない。  おまさは悲母《ひぼ》観音である[#「おまさは悲母《ひぼ》観音である」はゴシック体]  女密偵・おまさは平蔵にとっての悲母観音である。平蔵を母性という名の慈悲でつつみこむ観音様である。そう考えると胸におさまりがいいし、この『鬼平犯科帳』という物語も味わい深くなる。  もちろん、「おまさは平蔵にとっての悲母観音」と呼ぶにはそれなりの理由《わけ》がある。そのことをいうために、まずはおまさの少女時代にまでさかのぼることにしよう。  読者諸氏は、おまさが居酒屋〔盗人《ぬすつと》酒屋〕をいとなむ鶴《たずがね》の忠助《ちゆうすけ》の娘であることを知っていよう。  ハテ、自分の経営する居酒屋を町衆に〔盗人酒屋〕と呼ばせていたこのオヤジ、いったいどんな父《とつ》つぁんだったのか。 �鶴《たずがね》�と異名をとるわけだから、むろん細身であった。牛蒡《ごぼう》ではなく鶴だから、その容姿たたずまいは優雅で、いい男であったと考えていいだろう。  気質はどうか。自分の経営する居酒屋に〔盗人酒屋〕なる看板を堂々とだすくらいだから、相当に人を食ったというか、肝《きも》が太いと見るべきである。現代でいうと、さしずめ密造酒や自主流通米をつくって「何が悪い」と政府役人に居直る反権力のかたまりみたいな、そんな頑固一徹のオヤジだったのだろう。  ところが、このオヤジ、反権力でもチト度を過ぎていた。もとは盗人《ぬすつと》であったのである。諸方の盗賊の親分に頼まれては、そのつど盗みの手助けをするという「ながれ盗《づと》め」をやっていたのである(密偵・彦十もこの忠助にくっついて、お盗《つと》めを手伝ったこともある)。しかし、盗んで難儀するようなところへは盗みに入ったことはない。むろん、人を殺傷したり、女を手ごめにしたりするようなあくどいこともしない。お盗めの「三カ条」を守る昔|気質《かたぎ》の盗賊、つまりは�正義感の強い盗人�であったわけである。  平蔵と知り合った頃はもうお盗め稼業から足を洗っていたが、その性根は変わってはいなかった。それが証拠に、平蔵と継母との諍《いさか》いを聞くや、「ようござんす。やっつけやしょう」と、その仇を討つべく継母・波津《はつ》のもとへ仕返しに出向いている。  で、何をやったか。なんと夜中に長谷川邸へ忍び込み、波津の寝間に侵入、結いあげた髪をほぐし、その髪をばっさりと切るというスタイリッシュな芸当を見せたのである。そして平蔵(この頃の名は銕三郎《てつさぶろう》)が「やったな」というと、「銕つぁんのかたき討ち」と少年のようなことをいって笑うのだった。愉快で痛快なオヤジであった。  その頃の平蔵は、まだ二十歳《はたち》そこそこで血気盛ん、義母・波津とのケンカが絶え間なく、家へはあまり寄りつかなかった。  きっかけはこうだ。ある正月の晩、夜遊びで遅くなった平蔵は、閉ざされた門をのりこえて帰邸した。義母・波津はここぞとばかり、平蔵を叱りつけた。  義母・波津は、なにかにつけて平蔵を「妾腹の子」と言いたてる女であった。いっぽうの平蔵もそういう波津にたいしては日頃からうっぷんがたまっていた。その夜は酒もだいぶ入っていた。 「うるせえ!!」  平蔵の怒りが爆発した。そして、酔いにまかせて義母をなぐりつけてしまった。  以来、平蔵は屋敷には寄りつかず、白粉《おしろい》の匂いがたちこめる深川の岡場所(私娼のいる遊里)や、無頼仲間のねぐらを泊まり歩いた。酒と女と喧嘩に明け暮れる日々がはじまった。グレて、本所から深川へかけての盛り場や悪所《あくしよ》をうろつきまわり、あちこちでゴロをまいた。  しかし、捨てる神あらば拾う神あるというやつで、おまさの父・鶴の忠助は、侍《さむらい》のなかにもこんな向こう意気の強い男《の》がいるのかと、平蔵をいたく気に入り、〔盗人酒屋〕で酒をふるまった。  二人は互いの気性《きつぷ》を好み、意気投合した。忠助は、平蔵を信用して盗賊としての経歴をすっかり語り聞かせ、平蔵もまた、妾腹の子に生まれた難儀と義母との確執をあますところなく語った。  こうして二人は親交を深めていった。若き日の平蔵、つまり「入江町《いりえちよう》の銕《てつ》」といわれていた頃の平蔵は、そんなふうにしてこの〔盗人酒屋〕にいりびたるようになったのだった。  そして、飲みすぎて泊まりこんだ翌朝などは── [#ここから1字下げ] ≪その小さな手で、器用に白粥《しらがゆ》に梅干《うめぼし》、香の物をそえたものをこしらえ、平蔵のいる中二階へはこんで来てくれたものだ。≫(「血闘」) [#ここで字下げ終わり]  この「小さな手」の持ち主が、おまさである。平蔵は、まるで自分の家のような気やすさで、忠助・おまさ父娘《おやこ》の世話になった。  この頃のおまさは十か十一歳である。十か十一歳といえば、少女である。しかし、少女ではあっても、大人の身のまわりの世話をやくことのできる少女であった。  大人の世話をやくことのできる少女とは、どんな少女であるか。それは、大人の表情や気持ちが寸分狂いなく読みとれる少女である。  いるのである。たまにだけど、そういうおそろしく頭がよくて勘のするどい少女はいるのである。少年にはいないが、少女にはいるのである。  さて原作者・池波正太郎は、こうした忠助・おまさ父娘の〔盗人酒屋〕を、若き日の平蔵にとって「我が家のようなもの」であったと書く。だとすると、とうぜん読者は、平蔵がおまさを自分の妹のように可愛がったなどという想像をしがちだ。だが、その想像は浅薄にすぎる。平蔵は、|無意識のうちにせよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|おまさを母親のような存在として意識していた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  平蔵は、少女おまさに母親を感じていた。擬似的であるにせよ、平蔵はおまさのうちに母を見ていた。それで威張りながらも甘えていたのである。でなければ、年下の少女にたいしてそう気やすく威張ったり甘えたりできるものではない。  女は、男に甘えられて成熟していく。そして、自分が女であることを意識させられた女は、男との関係を考える女になる。  しかし、おまさの場合は、少々事情がちがった。おまさは、平蔵によって、いきなり母親にされてしまった。恋人ではなく、処女にしていきなり母親の役割を担う女にさせられてしまったのである。ここに、おまさの、女としての悲劇があった。  ここでちょっと脇道にそれるが、おまさの母親については、全編をつうじてどこにもその記述がない。忠助は平蔵にだけはそのことを語ったかもしれないが、おまさには語り聞かせてはいない。たぶん、「わけありっていうわけでもないんだがね、ちょいと知り合った女で……、わりない仲になって、……それで、おまえを産むとすぐに流行病《はやりやまい》にかかって死んじまったんで」とか何とかいっていたのだろう。  だから、おまさはまったく母親の情愛をうけていない。母親の情愛は、他人様《ひとさま》の家にしかなかった。隣近所の母子が見せる情愛を、おまさは眼で見て知るのみであった。だから、おまさが平蔵に向けるまなざしも、しぜん、どうしようもない放蕩息子に世話をやく母親のそれになっていったのではないか。  母親の情愛に飢えていた平蔵が、無意識のうちにせよ、おまさに母を感じていたことはさっき述べたが、おまさもおまさで、母子の情愛関係を、平蔵とのあいだにつくりたかったのではないか。私にはそう思えてならない。  たとえそれがままごと遊びの世界であったにせよ、そのときのおまさは平蔵の母であり、平蔵はおまさの息子であった。二人はそういう時間を共有しあっていたのではないのか。二人は情愛関係で結ばれる母と息子であったのではあるまいか。  さて、そうした日々から二十余年経ったある日、おまさが突然、火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵のもとに姿をあらわした。そして旧交を温める間もなく、おまさはいきなり「密偵《いぬ》になりたい」と申しでた。聞けば、盗みの世界にはもう愛想を尽かしたのだという。おまさもまた、父親同様、盗賊の世界に足を突っ込んでいたのだった。  平蔵はこのとき、おまさを密偵にするつもりはなく、適当な結婚相手を見つけてやるからと、やさしくその要望をいなしている。  しかし、おまさは笑って、これをうけつけない。おまさの心のうちは、もう決まっていた。  このときのおまさを見て、あとで妻・久栄がこういったものだ。 「おまささんは、若いころのあなたさまのことが忘れられないのでございましょう」  平蔵はこのとき「ばかな……」と口では一蹴しているが、それは図星であった。  しかし、勘違いしないでいただきたいのだが、それは久栄が想像しているような乙女の恋ごころなどではない。おまさの平蔵にたいする思慕《しぼ》は、恋する女としてのそれではなく、母としてのそれであった。  もとより平蔵に恋心を抱く者が密偵としてつとまるはずがないし、またそういう女を平蔵が密偵につかうなどとも思われない。  それはおまさと平蔵だけが知るところのものであった。  おまさは密偵になったのち、自分が「男にしてやった」二代目|狐火《きつねび》の勇五郎と夫婦になるも、勇五郎を流行病《はやりやまい》に奪われてしまう。  そのとき平蔵は、おまさにむかって、「お前も、男運のない女だのう」というのであるが、おまさはさびしく微笑するだけであった。  のちに、おまさは大滝の五郎蔵と夫婦になるのであるが、変わらぬ母の情愛をもって平蔵を見守りつづけている。  だから、おまさは平蔵にとっての悲母観音なのだ。  久栄はつねに妻である[#「久栄はつねに妻である」はゴシック体]  なんとも、もう書くまえから恥ずかしい。他人事《ひとごと》なれど、顔も赭《あか》らむ思いである。  平蔵の妻・久栄《ひさえ》は、夫を慕い、見守る妻である。  などと書かなくてはならないからだ。  感心するのだが、久栄は、タテ、ヨコ、ナナメ、どこから眺めわたしても妻である。四六時中、つねに長谷川平蔵の妻なのである。それも、夫をバカにしたりみくびったりする妻ではない。承知する妻なのである。  とある女友だちは「妻」という字がときおり「毒」に見えるときがあって我ながら呆《あき》れるといっていたが、久栄はそういう非道《ひど》い女ではない。頭のてっぺんから足のつま先まで夫・長谷川平蔵を慕い、見守る妻なのである。  よく夫に服従する素ぶりを見せて会計学的には夫を支配するという妻がいるが、久栄はそういうあくどい妻ではない。久栄は、いつなんどきであっても夫・長谷川平蔵にしたがう妻である。久栄が平蔵にたいして抱いているのは、下半身にたいする若干の不信感をのぞけば、情愛と畏敬の念だけだ。  たまに冗談まじりで平蔵をからかったりするものの、それは愛の洪水がちょっと傍らにほとばしっただけであり、軽侮といった気持ちはこれっぽちもない。とにかく、久栄は平蔵のことが好きで好きでたまらないのである。  息子・辰蔵《たつぞう》を語るときでさえ、久栄は妻であることを忘れない。辰蔵の頼りなさを案じて、「あれでは、行末《ゆくすえ》が案じられてなりませぬ」といちおう母親らしく心配してみせるものの、長谷川平蔵の妻であることの悦《よろこ》びは隠そうともしない。たとえば、こうである。 [#ここから1字下げ] ≪「おれの若いころをおもい出してみよ。箸《はし》にも棒にもかからぬという……むかしのおれは、まさに|それ《ヽヽ》であった」 「そうおっしゃられますと……」 「なるほどと、合点が行ったであろう」 「なれど、やはり、辰蔵《たつぞう》とはちがいまする」 「どこがちがっていた?」 「どことなく、ちがっておいでになりました」≫(「秋天清々」) [#ここで字下げ終わり]  臆面もなくこういうのである。読んでいるほうが、恥ずかしさに身をよじりたくなる。読むほうが照れるのだから、面と向かっていわれた日には、平蔵もさぞ照れたことであろう。  またあるときなど、辰蔵に剣術の稽古をつけている平蔵に向かって久栄はこういう。 「もっと、おやりなされませ。息の根が絶えてもかまいませぬ」(「隠居金七百両」)  一見、厳しい気持ちから平蔵をけしかけているように見えるものの、そのじつ夫婦の仲がいいところを息子・辰蔵に見せつけている。これを愛の洪水といわずして何といおう。  青年の辰蔵にはまだわからなかったであろうが、息子に夫婦のアツいところを見せてしまったのではないかと平蔵も内心ヒヤヒヤしたはずだ。  あるいはまた、平蔵が亡父・長谷川|宣雄《のぶお》の墓参りに京都へ出向こうというときである。 [#ここから1字下げ] ≪「京には、いろいろと|なつかしげ《ヽヽヽヽヽ》なこともござりましょうほどに、ゆるりと行っておいでなされませ」  |にんまり《ヽヽヽヽ》と、夫を見やった。≫(「盗法秘伝」) [#ここで字下げ終わり]  久栄はこうしないではいられない妻女なのである、といいたいところだが、ここだけは久栄を一方的にからかうわけにはいかない。この|にんまり《ヽヽヽヽ》には理由《わけ》がある。平蔵は久栄にチクリとやられても仕方のないことをしてきたのだ。  平蔵と久栄が夫婦《めおと》になって間もない頃である。  平蔵の父・宣雄が京都町奉行に任ぜられたとき、平蔵は新婦の久栄をともなって京都で暮らしたのであるが、すぐさま京洛《けいらく》の遊興へおぼれこみ、新妻を放ったらかしにしたのである。ときに平蔵、二十七歳。そして、折しも久栄は、長男・辰蔵を身ごもっていた。その懐妊中の妻を放って平蔵は放蕩に明け暮れたのである。  のちに平蔵は、剣友・岸井左馬之助に当時をふりかえってこんなふうに語りきかせている。 [#ここから1字下げ] ≪「……いやもう、さすがに皇都《こうと》よ。酒の香も女の肌も江戸とはまるでちがうのだなぁ。これは町の|たたずまい《ヽヽヽヽヽ》も、川の水も、山も木もちがうということなのだ。なにとはなしに|みやびやか《ヽヽヽヽヽ》で、風雅で、落ちついていて、ものやわらかな女たちの京のことばに、ふんわりとつつまれているうち、まだ相手の肌へふれぬからに、もうあとを引いて、別れぬうちに明日通うことを胸に想《おも》うている。遊女や茶汲女《ちやくみおんな》でさえこれなのだ。ま、京にくらべると江戸《こちら》は雑駁《ざつぱく》なものよ。こうおもってな。ついつい、わが父が町奉行の役《しよく》にあることも、女房どのが身ごもっていることも、忘れてしまってなぁ……」≫(「艶婦の毒」) [#ここで字下げ終わり]  好色でない青年は、青年ではない。と思うが、平蔵ともなるとさすがである。いちおう弁解じみたことをいってはいるが、ウハウハ気分で語っているのが手にとるようにわかる。「いやもう、さすがに……」とか「ついつい……」などと、火盗改メの長官が、居酒屋・つぼ八で「寝た女」自慢をする大学生みたいなことをいっているのである。  気の毒なのは、久栄である。ましてや、身重《みおも》ときている。平蔵の父・宣雄とて、打つ手に困った。 「なに、案ずることはない。すぐに落ちつこうから辛抱《しんぼう》してやれ」  こう久栄をいたわりなぐさめるのが精一杯であった。  しかし、そこは下半身の暴れん坊将軍である平蔵、すぐには落ち着かなかった。愛欲におぼれる日々がそれから幾日もつづいた。  平蔵の遊蕩が熄《や》むのは、情をつうじたお豊《とよ》という女が盗人の一味とわかったときであった。  お豊は、気丈夫なというか、たいそう度胸のすわった女盗《によとう》であった。  のちに捕縛されたとき、盗人であることを欺きつづけた亭主に向かって、「堪忍どっせ」とにこやかに語りかけ、「どうぞ長生きしておくれやっしゃ」といって悠々と縄をうたれたほどである(テレビ版「艶婦の毒」では、このお豊役を山口果林がやったのであるが、これがまた絶品であるので、この作品を見ていない読者はビデオを借りてきて見ていただきたい)。  若い頃の平蔵は、情欲の烈しい女が好みであった。で、お豊の情欲の烈《はげ》しさときたら、「そのころの女として瞠目《どうもく》に価《あたい》するもので、あそびなれた平蔵が目眩《めまい》するような仕|ぐさ《ヽヽ》をしてのける」ほどであった。  であるからして、平蔵はその寛闊《かんかつ》な技法に狂いに狂った。お豊がくりだす性技の虜《とりこ》になっていったのである。  平蔵には、そういう恥ずかしい過去があった。 「京には、いろいろと|なつかしげ《ヽヽヽヽヽ》なこともござりましょうほどに」と久栄がいったのは、そういう平蔵の行状《ぎようじよう》をさしている。  あれから、二十年という歳月が経過した。平蔵の浮気の虫もいちおうはおさまった。平蔵自身はそう思っている。  だが久栄は、平蔵の下半身にまだ若干の不信を宿していた。平蔵の下半身は、平蔵の下半身に苦労させられた久栄がいちばんよく知っている。  そのうえ、旅先が京だという。京は久栄にとって、忘れようにも忘れられない屈辱の日々を送った地である。久栄は、旅先が京と聞いて、若かりし頃のことを思いだしたのだった。  だから、「では、久しぶりに羽をのばしてくるかな」という平蔵へ、久栄は「病みあがりの羽がうまくのびましょうか……」となおも執拗にからんでいる(このちょっと前まで平蔵は日頃の激務で体調を崩していた)。  どうも久栄は、男の下半身に苦労させられた女のようである。  読者諸氏は知っているだろうが、久栄は処女で結婚した女ではない。十七歳のときに、近藤|勘四郎《かんしろう》というチンピラにむすめのあかしを奪いとられている。  いまでこそ処女であるとかないとかはべつだん問題にされないが、当時はそうではなかった。武士の娘ともなれば、結婚するまで処女であることは常識であった。ましてやチンピラに武士の娘が処女を奪われたなど、ぜったいにあってはならぬことであった。  そういう娘であっただけに、久栄の父・大橋|与惣兵衛《よそべえ》は心を痛めた。そして、周囲には「もう久栄も、嫁にはいけぬ」とこぼしてばかりいた。  久栄の父は、平蔵や左馬之助と同じ高杉道場で剣術を学んでいた。平蔵にとっては、三十二歳も年長の老剣友である。あるとき、与惣兵衛は平蔵に娘・久栄のことを語りはじめる。 [#ここから1字下げ] ≪「もう久栄も、嫁にはいけぬ」  と、こぼしぬく与惣兵衛へ、事もなげに平蔵は、 「そのようなことはありますまい」 「や、もういかぬよ。久栄《あれ》はごく温和な、やさしい娘《こ》だけに、わしも可愛《かわ》ゆくて……それだけに、なさけなくてたまらぬ」 「ごもっとも」 「ああ、もう、実にまったく、とんでもない男にだまされた……」 「なげいたところではじまりませんよ」 「だからと申して……」 「よろしければ、私がいただきましょう」 「え……?」 「久栄さんを、嫁に……」 「なんと……」 「道楽者の私では、不足かなあ」 「そりゃ、まことか?」 「ああ、左様です」 「まことに、まことか?」 「まことにまことですよ」 「むすめは、傷《きず》|もの《ヽヽ》だぞ」 「私だって、傷ものの点ではひけはとらない。おたがいさまですよ」≫(「むかしの男」) [#ここで字下げ終わり]  じつに、あっけらかんとして、平蔵は久栄をもらってしまうのである。  あまりにもあっけらかんだが、さわやかである。  平蔵は久栄を見ていた。じつは好みであったのだ。  こうして久栄は平蔵の妻になった。  ──初夜である。  久栄は平蔵に「このような女にても、ほんに、よろしいのでございますか……?」と問うている。  このとき平蔵は、「このような女とは、どういう女なのだ?」といったあと、 「きいたが、忘れた」  とやさしい言葉をかけ、 「どちらでもよいことさ」  と関心のなさを示し、 「おれはとても極道者《ごくどうもの》だ。それでもよいか、と、お前さんに問わねばなるまいよ」  と問題を我が身のものにして、久栄を抱き寄せ、ふくよかな乳房をば押さえて、 「お前、いい女だ」  と耳もとで囁《ささや》き、 「前から、そう思っていたのさ」  と押し倒している(ここは想像)。  そして久栄も、 「あれ……ああ……」  とそれに応じている。  以来、平蔵はただの一度も、久栄の過去へはふれたことがない。  のちに、久栄の処女を奪った男・近藤勘四郎が盗人の手先になり火付盗賊改方の手にかかったとき、久栄は平蔵に「女は、|男しだい《ヽヽヽヽ》にござります」といっているが、それは本心からの言葉であったろう。  また、平蔵に向かっては「近藤勘四郎など、あなたさまにくらべたならば、塵《ちり》|あくた《ヽヽヽ》も同然」といっているが、これもまた偽りの言葉ではないであろう。  久栄の、たおやかさの底に蔵された勁烈《けいれつ》さは「むかしの男」にくわしいが、その日々は平蔵を信頼し、平蔵に甘える毎日であった。  それにしても久栄は、長谷川平蔵の妻をアピールすること、旺盛である。  久栄は平蔵のことが好きで好きでたまらないのである。  もう書き終えても、恥ずかしい。 [#改ページ] 第四章 言上《ごんじよう》したきことあり  テレビ版「五月闇」に怒りの拳《こぶし》を[#「テレビ版「五月闇」に怒りの拳《こぶし》を」はゴシック体]  とてつもない深刻が私をつつんでいる。  それにしてもいけない、あんなことをやっては。  テレビ版「五月闇《さつきやみ》」のことである(95・11・1放映)。  どういう理由か明らかではないが、鬼平スタッフは「五月闇」を放映してしまった。  三浦浩一の伊三次《いさじ》に慣れ親しんでいくにつれて、「この作品はシリーズ最終で放映だな」と密かに決めていた私にとって、これはまさに寝耳に水の出来事であった。 「五月闇」は、あとでくわしく言及するが、他の作品とはちがう特別な意味をもつ。たんに密偵・伊三次の葬送だけにとどまらない。  この時期に「五月闇」を撮らなくてはいけない理由というのがあったのだろうか。いまだに不分明である。  一時間ドラマに仕立ててしまったのも気に入らない。これでは伊三次も三浦浩一も成仏しようにも成仏できないじゃないか。やるならやるで、せめて特番というのが筋である。スペシャルで一時間半、そうするのが、伊三次への、そして三浦浩一へのせめてもの供養というものである。このバチあたりめが。 「五月闇」のことを考えるたびに、腹が立って不機嫌になる。  伊三次と三浦浩一の仇討《あだう》ちのため、これより五人の刺客をおくりこむ。  先鋒《せんぽう》、いでよ。  まず、そもそもこの時期に「五月闇」を撮る理由があったのか。 「五月闇」を撮るということはすなわち、以後、三浦浩一は「鬼平」に出演しないということを意味する。  役者としても三浦浩一はいまが旬で、ファンもまた、三浦浩一の「いなせな伊三次」を堪能していた。くわえて若竹のように固くしまった肉体。俊敏な動作。三浦浩一の伊三次がいない「鬼平」など、誰が想像できようか。そう思っていた。だから、よもや「五月闇」をシリーズの途中で放映するまいと思っていた。「やるのならシリーズ最終」である。それが、うかつであった。だからこそ、また腹が立つ。  万が一、「五月闇はまだやってなかったかあ。そうか、それじゃこんどやってみっか」というような無自覚無節操無見識な発想でつくられたのだとしたら、怒りが昂じて不整脈がでてきそうだ。  訊くが、三浦浩一が「もう降りたい」といったのか。本人が「もうやめたい」といったのならば、納得しよう。しかし、それ以外の理由で撮ったのだとしたら、三浦浩一を断乎としてかばうぞ。  次鋒《じほう》、いけ。  ここでは一時間ドラマにしてしまったことを糾弾する。まずは原作「五月闇」の評価からはじめよう。  原作「五月闇」は傑作である。じつにいい。 『鬼平犯科帳』を「僕のバイブル」と呼ぶ常盤新平だって、「五月闇」は「ベストの一編にかぞえたいほどの傑作である」と述べている。  常盤は池波をつねに「先生」と呼び、「銀座で先生のお姿を見かけても、しゃしゃりでて挨拶するのがはばかられる」というまことにご奇特な方である。その、眼力もあり人物でもあるお方が、「五月闇」はベストであり、また傑作である、といっている。  もう一度いう。 「五月闇」は傑作である。  では、テレビ版「五月闇」はどうだったか。  原作に匹敵するほどうまく書けている。脚本を三度読み返したが、安倍徹郎は素晴らしい脚本をものにしたものだと思う。安倍は一時間ドラマのつもりであの脚本を書いたのだろうが、一時間半でちょうどよいという感じの仕上がりになっている(安倍もじつは一時間半でやりたかったのではないか)。  しかし、「五月闇」は一時間ドラマで放映された。  事情があるなら聞こう。  一時間半という時間がすぐには取れないというのならば、一年でも二年でも待てばいいではないか。  映画にしたっていいほどの脚本だ。映画なら充分見応えのあるものがつくれたであろうし、三浦浩一という新たな名優を生みだすきっかけになったかもしれぬ。それを一時間ドラマで仕上げてしまうとは、なんたる軽率、なんたる無分別であることか。  次、中堅。  忠吾との絡みで話をする。  制作者たちよ、「五月闇」の次におかれた「さむらい松五郎」をいま一度再読したまえ(文春文庫第十四巻)。あの兎忠《うさちゆう》こと、木村忠吾が、目黒村の威徳寺にある木村家の墓のうしろに立てた伊三次の墓標のまえで「泪《なみだ》があふれるにまかせている」情景があるはずだ。  読むたびに悲しみが怒濤《どとう》のように押し寄せる。一度など、涙もろくないこの私でさえ、涙が準備されたほどである。  抜粋はしない。もう一度読んでくれたまえ。  冒頭のその詠嘆的描写は深く沈鬱である。それが、また忠吾だけに。  この「さむらい松五郎」の冒頭は、殺害という運命に服した伊三次への深甚なる哀悼追慕の挽歌である。  忠吾のこのときの心中を察すれば、生半可な気持ちで「五月闇」は撮れなかったはずである。ましてや一時間ドラマで仕上げてしまうなどという暴挙はできなかったはずである。反論があるなら聞こう。言い訳でも構わない。  さらにいう。  副将、いけ。  ここでは伊三次と忠吾の関係について論じる。  テレビ版「五月闇」への大きな不満がひとつある。それは、伊三次と忠吾のあいだに通じ合っている友情が立ちのぼっていないということだ。テレビ版「五月闇」では、むしろ、身分と生いたちからくる伊三次と忠吾の精神的|乖離《かいり》ばかりが強調されすぎているというきらいがある。  先述した「さむらい松五郎」の冒頭にこういう描写がある。  伊三次を刺した強矢《すねや》の伊佐蔵に、忠吾がいうのだ。 「おい。きさまが刺した伊三次は、すっかり元気になったぞ」  むろん、これは嘘である。  しかし、これを聞いた強矢の伊佐蔵は、愕然とした。そして、うなだれ、見苦しい死にざまをさらした。  忠吾の言葉を聞くまでは、ふてぶてしく落ち着きはらっていた強矢の伊佐蔵だったが、忠吾による、この言葉の一撃をうけたとたん、狼狽《ろうばい》しはじめたのだ。  伊三次を死にひきずりこめなかったとあっては、死んでも死にきれない。それが強矢の伊佐蔵の死を見苦しくさせた。  それが忠吾にできる精一杯の復讐だった。 (伊三次。おれにできることといったら、あんなことぐらいだったよ……)  伊三次と忠吾。二人に通じ合っていた友情は、この場面に象徴的に集約されている。  しかし残念ながら、テレビ版「五月闇」には、この二人にかよい合っていた友情は映しだされていない。むしろ、お坊ちゃんで育った忠吾とそうでない伊三次との溝が表層的に強調されすぎている。忠吾の名誉のためにも、伊三次とのあいだに存在した友情の描写はどうしてもほしかった。  安倍徹郎は素晴らしい脚本をものにしたが、ここだけは足りなかった。時間的な制約があってここまで書き込むことができなかったのだと思いたい。  この「さむらい松五郎」にまだこだわる。  大将、とどめだ。  最後に、池波正太郎にご登場いただく。  伊三次の死は、「鬼平」熱愛者だけでなく、原作者・池波正太郎にも重くのしかかっていた。  池波は、「さむらい松五郎」の冒頭で、おっちょこちょいで愛嬌のある木村忠吾を起用したのであるが、それは、伊三次の暗い死をなんとか払拭《ふつしよく》したかったからである。  伊三次の死は、作者・池波にとっても重くのしかかっていた。シリーズ全体にも影響を及ぼしかねないほど伊三次の死は大きな出来事であったのである。そこを読みとらなくてはならない。  池波正太郎が生きていれば、放映後、「とつぜんの出来事におどろいている。胃の腑《ふ》を|ぎゅっ《ヽヽヽ》とつかまれたような気がした」ぐらいの嫌味はいったであろう。  スタッフよ、羞恥と背信に苦悶せよ。  まだ、やめない。 「五月闇」で伊三次が殺害されたとき、作者・池波正太郎のもとへ「なぜ、死なせた」という手紙が読者から届いたそうである。「仕方ないから、伊三次のお通夜をしました」などというのもあったそうだ。  そうした伊三次の死を悼む手紙を読んだ池波は、「作者|冥利《みようり》につきることだ」と述べて、伊三次の死を感慨深げに語っている。  その「五月闇」を、あの時期に、それも一時間ドラマで、まとめあげてしまうとは残酷な冗談ではないか。まさに千慮《せんりよ》の一失《いつしつ》というよりほかない|しくじり《ヽヽヽヽ》だ。 [#ここから1字下げ] (追記1)「五月闇」は、なんとも後味の悪い作品になった。恐縮せずに私事をいうが、私はこの「五月闇」を三回しか見ていない(ふつう最低十回は見る)。理由は、まだ怒りがおさまらないのと、見ればまた伊三次の殺害に自分自身も加担するような気がするからだ。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] (追記2)本稿は、「五月闇」が放映された二週間後に書いた。あろうことか、その後、伊三次は復活し、私の失笑をおおいに買った。この頃から、視聴者としての私と制作スタッフのあいだに精神的|齟齬《そご》が生じたようだ。 [#ここで字下げ終わり]  映画『鬼平犯科帳』に苦言を呈する[#「映画『鬼平犯科帳』に苦言を呈する」はゴシック体]  映画『鬼平犯科帳』は、「松竹創業百周年記念作品」として制作された一九九五年度の�記念碑的�な作品であったらしい。社運をかけた大企画だったかどうかは知らないが、宣伝の仕方などを見ていると力《りき》を入れたことだけはたしかである。  その頃、テレビ「鬼平犯科帳」は、中村吉右衛門の登場で視聴率はうなぎ登り、「鬼平ブーム」と呼んでいいほど、その人気は高まっていた。  また巷《ちまた》では、「おにへい」という名の焼酎が登場したり、小料理屋や居酒屋の屋号に「鬼平」の名がついたりもして、その人気にいっそうの拍車をかけていた。  まさにその人気たるや、後顧《こうこ》の憂いなく、前途も洋々、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。映画づくりの環境はまさに十全に整っていたといってよい。  監督は池波正太郎からもっとも厚い信頼をおかれていたという小野田嘉幹、脚本には、井出雅人とともにテレビ版「鬼平犯科帳」をはやくから手がけてきた名手・野上龍雄があたった。音楽は、映画、テレビでもお馴染みのベテラン津島利章を起用、御意見番にはもちろん御大・市川久夫がついた。  配給の松竹は気合いをいれ、精鋭のスタッフは丁寧な映画づくりに励んだ。そんな雰囲気に包まれた映画であった。  映画『鬼平犯科帳』は、まさに「鬼平ブーム」の頂点を極める金字塔ともいえる快挙であった。めでたし、めでたし。  さっそく私もいそいそと映画館に足をはこんでみた。  私が行った吉祥寺(東京)の映画館では、平日の午後であるにもかかわらず、鬼平中毒症患者とおぼしき老若男女が多数つどっていた。  おお、来てる来てる。おじいちゃんがいればおばあちゃんもいる。OLもいれば女子高生もいる。仕事をさぼって観にきたサラリーマンがいれば、自主的に休講にしてしまった(とおぼしき)大学生がいる。平日にこれだけの人をあつめるとは、さすがは鬼平だ。  館内も落ち着いた雰囲気である。熱帯魚みたいな派手な服装の人がいないし、余分な声をあげる者もいない。はやる胸のときめきを抑えつつ、私はお気に入りの右後方の席についた。  静かである。館内の隅々にまで謙虚がゆきわたっているかのような感じだ。ときおり聞こえるのは咳払いだけ。館内はじつにしみじみとしている。  満足満足。私は太平楽的笑みを浮かべ、のんびりと上映を待った。  上映を告げるブザーの音。  待ちに待ったというべきか、来るべくして来たというべきか、とにかく私は顔をひきしめた。  さあ、はじまった。  風がうなり、枯れ落ちた葉が舞う。  出だしはいい。  おっ、峰岸徹か。  峰岸徹はいい悪役だ。凶盗がよく似合う。口を斜めにとがらすところが何ともいえずいい。そんなことを考えながら、私は苦しゅうない状態であった。  ところが、五分が経過した頃からだろうか。どこからともなく違和感が忍びよってきた。なんとなく居心地が悪い。ちょっとヘンだぞ。苛立ちが津波のように押し寄せてくる。  三十分経過。駄作の気配がしてきた。違和感が焦燥感にかわった。  興奮。焦燥。暗澹《あんたん》。失望。落胆。憤怒。  結論からいうと、私の心情はこのような動きをたどった。  そして、上映開始から一時間四十五分後、私の期待は無慙《むざん》にも裏切られていた。  惑乱と昏迷、苦悩と疲労の一時間四十五分であった。  映画は終わった。もっていき場のない怒りが全身を覆った。たぶんこのときの私は、映画『シャイニング』のジャック・ニコルソンのような形相ではなかったか。  私は不満げに席を立ち、明るい通路にでて、あたりの様子をうかがうと、やはり冴えない表情ばかりが目につく。皆、陰々滅々としている。  そうだよな。わかるな、その気持ち。  と、そのときである。 「なんか、テレビのほうが、やっぱりいいな」  大学生ふうの男が、連れの大学生ふうの女にいっているのが耳に入った。  彼のその言葉は、この映画を観た者たちの代弁であった。映画館の通路にはそういう雰囲気がたしかに充満していた。  中村吉右衛門は、あるインタビューに答えて、映画『鬼平犯科帳』についてこう述べている。 「僕としては、歌舞伎としてやりたかった。そうなれば、だれからも何もいわれなかった」(「AERA」95・11・27号)  これを読むかぎり、映画『鬼平犯科帳』は吉右衛門にとっても満足のいくものではなかったようだ。そして、誰かが何か批判めいたことをいい、それを吉右衛門は気にしているということがここから読み取れる。しかし、この取材記者はその先の話をなんら記しておらず(愚か者め)、また誰に何といわれたのかも訊きだしてはいない(粗忽者め)。  ここから読み取れるのは、ただ吉右衛門が映画『鬼平犯科帳』にたいして不満に思っているということだけである。  吉右衛門も感じているように、どうみても映画『鬼平犯科帳』はよい出来ばえだとはいえない。  いや、こういう言い方はやめよう。愛しているがゆえに、あえて苦言を呈そう。憤怒に堪えないと思っていたことを、いまここに正直に吐露してしまおう。  映画『鬼平犯科帳』は、正直いって、退屈であった。はっきりいって、駄作である。  原因は何か。  盛り込みすぎである。みんなのハリキリが裏目にでてしまったのだ。  意味のある登場人物が多すぎるし、それぞれの個性を随所で生かそうとするあまり�名場面�が連続してしまい、逆にそれぞれの個性を圧殺してしまっている。デンマークのことわざに「すべての人の意見を入れて家を建てると、ゆがんだ家ができる」というのがあるが、まさにそんな感じの映画であった。  推察するに、脚本というより、企画の段階における打ち合わせでもう失敗していたのではなかろうか。制作スタッフは役者を褒めちぎり、役者は制作スタッフを褒めたたえたのではないだろうか。  役者というものは、制作スタッフが与えるどんな思いがけない過分の贈り物でも、当然のことのように大きな顔をして受けとってしまうものだ。そしてスタッフは、「あなたたちこそがホンモノをつくっている」などという役者のホメ言葉に酔って、その役者を過大評価するという悪癖をもつ。この二つが不幸にも出会ってしまったのではあるまいか。そんな印象をもった。  思い入れたっぷりの�名場面�が連続してつづき、それを愉しむ余韻の時間が与えられず、まるで「吉本ギャグ百連発」ならぬ「鬼平名場面百連発」を見せられたようだった。恣意的で意図的な見どころが多すぎて、下品な下心がミエミエの映画になってしまっていた。  だからというべきか、さらにというべきか、そんなふうだから、わざとらしい演技も鼻につく。  それぞれの持ち味が持ち味として画面に滲《にじ》みでていないのだ。持ち味が嫌味っぽく、わざとらしく感じられるのであった。  日頃お馴染みの密偵たちの演技にしてもそうだ。  蟹江敬三(粂八)は苦味ばしっているだけだったし、梶芽衣子(おまさ)はたんに瞬きをしない思いつめた女でしかなかった。また、江戸家猫八(彦十)はあご鬚《ひげ》を指でかいているだけの爺さんだったし、綿引勝彦(五郎蔵)は皆が冗談をいっているときでも目を笑わせない盗賊の元お頭《かしら》だった。そんな印象しか受けなかった。  かわいそうに。  個性を盛り込むことだけに大忙しで、なんだか�急ぎ盗《ばたらき》�の仕事を見せられたようだ。  吉右衛門とて例外ではない。映画に慣れていないせいか、不完全燃焼に終わっているとの印象をうけた。表情のつくり方、声のだし方が歌舞伎してしまっていた。  たとえば、おまさ(梶芽衣子)をひどく叱る場面があるのだが、「たわけ!」と大喝するときに大きく息を吸い込んでしまうところがなんともわざとらしく、すくみあがるどころか苦笑したくなるほど、気迫のないシーンになってしまっていた(これは前々から気になっていることだが、吉右衛門は大声をはりあげて怒ったり叱ったりするのが苦手のようだ。たぶん怒鳴ることが嫌いな人なのだろう。一案だが、大声をだすことを考えず、低音をだすことを心がけたらどうか)。  荒神《こうじん》のお豊《とよ》役をやった岩下志麻もダメダメダメであった。じつはこれが私のいちばんの不満であるが、ほとんど絶望的といってよい醜悪な出来であった(ベタぼめの記事がたくさんあったのには驚いた)。  以前、上岡龍太郎が「やくざの親分をやらせて、いちばんコワそうなのは菅原文太でも八名信夫でもなく、桂枝雀」といっているのを聞いて感心したが、たぶん岩下志麻はこのことを理解できないであろう。  岩下には、悪ぶってタンカをきりさえすれば極道になると思っているところがある。「なめたらいかんぜよ」とか「覚悟しいや」などといえばそれで極道の女になれると思い込んでいるのである。  それにしても、これみよがしな、あのヘンな力《りき》み方は何だろう。当人はキマっているとでも思っているのだろうか。見ているほうは鼻白むどころか恥ずかしい。少なくとも私は正視に堪えない。悪ぶればワルになれるのだったら苦労はしない。ほんとうのワルは自分がワルであることをできるだけ隠そうとするものである。  知り合いのタクシー運転手もいっているよ。三下のチンピラヤクザは乗せてもすぐわかるが、任侠道の大親分はまったくわからないって。  人をひとり殺《や》ったって、朝顔の花でも摘んできたようなさわやかな顔をしているのがやくざの親分というものである。ウラの顔はけっしてオモテにださないようにつとめるのである。  ところがどうだ。岩下志麻は、相も変わらずのウラの表情でオモテの世界にでてきてしまうのである。岩下の演技は、見ている者を赤面させるばかりである(ホント、見ていて恥ずかしかった)。  いそいで言いたすが、上岡龍太郎も私も、桂枝雀がほんとうのワルだといっているわけではない。ほんとうのワルは、たとえば桂枝雀のなかに見えるように、トボけたお地蔵さんというかニコやかな七福神のような円満な顔相を表向きはもっていることが多いのではないかといっているだけである。 「池波さんの本から考えるとね、盗賊とか元締というのが、最初から表に出ちゃいけないと思うんです。どこからか出てきたご隠居という感じでやっていながら、盗賊だというのを見せなくてはいけない。表と裏を区別してね」というのは、「暗剣白梅香」で三の松平十を、「春の淡雪」で池田屋五平を、「討ち入り市兵衛」で蓮沼の市兵衛を、そして「寒月六間堀」で市口瀬兵衛を演《や》った中村又五郎である。  さすが、池波正太郎の『剣客《けんかく》商売』の老剣客・秋山小兵衛《あきやまこへえ》のモデルにもなったという大物役者である。いいことをいっている。  では、誰が適役だったか。こういうことがわかっている女優は誰か。  奈良岡朋子だ。彼女がやってくれたならば、ずいぶんとちがったものになっていただろう(二番目の候補は、小畠絹子である。「鬼平」には「礼金二百両」で横田芳乃役で登場している。三番目は草笛光子。じつは彼女、悪役がよく似合う)。  私はこの奈良岡朋子という女優の演技にこれまで幾度となく唸らされてきたのであるが、凄味と柔和を同居させた女の役者といえば、私は迷わず奈良岡朋子にまず指を折る。  たとえば、たやすく手に入れやすい『夜叉《やしや》』(主演・高倉健)を観てみるとよい。ほんのちょっとの時間しか演じていないのであるが、その凄味といったらなかった。背すじが寒くなるほどの迫力があった。  というわけで、多くの苦言を呈してしまったが、これも『鬼平犯科帳』を愛するがゆえのことだと思って堪忍していただきたい。  それにしても、映画『鬼平犯科帳』は、吉右衛門が田圃《たんぼ》のなかで見せた凄烈な殺陣《たて》をのぞけば、ちょっとした静かな興奮さえも得られぬ駄作であった。  役者は勝手に太るな[#「役者は勝手に太るな」はゴシック体]  山本夏彦の辛口コラムは、愉快痛快爽快なものがたくさんあってけっこう気に入っている。  年端もいかぬ頃はこの翁《おきな》が綴るコラムに何ら興味がもてず、またその面白さも咀嚼《そしやく》力がなくてまったくわからなかったが、この数年はせっせと読み漁《あさ》ってはニンマリしている。  さて、そうしたコラム集のひとつに『やぶから棒』(新潮文庫)という傑作があるのだが、そのなかに「役者のくせに勝手に太る」というぶっちぎりの痛快コラムがある。ちょっと古いものだが、ぜひ紹介したい。  清元志寿太夫の舞台生活六十五年記念公演(昭和五十五年)に出演した歌舞伎役者たちを目にした山本夏彦は、舌鋒鋭く、次のように文句をいいだすのである。 [#ここから1字下げ] ≪歌右衛門ひとりを除いて、あとは太りすぎである。梅幸の静のごときはウエストもバストもヒップもない、「俵はごーろごろ」である。役者があんなに太っていていいものだろうか。≫ [#ここで字下げ終わり]  ふふふ。  私もつねづね役者の太りすぎには文句のあったひとりであるから、これを読んだときは心づよい老用心棒を雇い入れた気分になった。  それにしても、最近の、とくに中高年の役者の、あの太り方はなんだ。  しまりのないたるんだ顎《あご》、もっこりと盛りあがった頬、つやつやの太った手足、ぶくぶくの三段腹、見えないアキレス腱。こんな役者がゴロゴロいる。  細く尖った顎の持ち主はどこへいってしまったのか。繊維の長い筋肉の束をもった役者はいずこへ消えてしまったのか。  いままさに細身の中年役者は絶滅の危機に瀕している。月形龍之介や宮口精二のような痩躯で俊敏な中年役者はもう無きものになろうとしているのか。  いっておくが、肉体を太らせることで貫禄をだそうとするのなら、それは間違っている。貫禄は、肉体が発散する凄味にしか宿らないものだ。  杉良太郎、小林旭、里見浩太朗、松方弘樹、北大路欣也、高橋英樹、松平健、西田敏行など、時代劇で主役をとる有名どころを思い浮かべていただきたい。どれもこれも肉づきのよい役者ばかりではないか。デブのおじさんの揃い踏みといった観がある。  いくら飽食の時代とはいえ、時代劇にでる役者がこんなことでいいものだろうか。  見るからに栄養たっぷりという役者は現代劇の役者ならまだしも、時代劇の役者には似つかわしくないというか、ほとんど犯罪的である。  つらつら考えてみると、彼らの若い頃はそうではなかった。誰もいまのようには太っていなかった。彼らは、いまよりもずっとひきしまった肉体で人気を博し、中年の声を聞いてぶくぶくと太りはじめたのである。  若い頃と比べれば、彼らは明らかに太ってしまった。とりわけ西田敏行に至っては、ほとんど絶望的な太り方といってよい。存在の耐えられない役者だ。もはや見たくない役者のひとりになってしまった。  西田敏行はもともとお世辞にも痩身とはいいがたかったが、デブを感じさせないキビキビとした体の動きがあった。私にとっての西田敏行は『釣りバカ日誌』で太鼓腹を見せてバカ踊りに興じる浜ちゃんではけっしてなく、『襤褸《らんる》の旗』からせいぜい『植村直己物語』に至るまでの彼であった(はっきりいうと、西田に見切りをつけはじめたのは「もしもピアノが弾けたなら」などという悪趣味このうえもない歌をうたって紅白歌合戦に出場した一九八一年からだ)。 「時代劇」の舞台となっている時代のことを、数秒のあいだ考えてもみてほしい。  栄養面から考えても、頬のこけた骨ばった武士が大多数であったろうくらいのことは、サザエさんちのタラちゃんでも容易に想像がつくはずだ。  ところが、最近の役者はぶくぶくと太って、平気で画面におさまっている。武士は食わねど高楊枝どころか、食いまくって高楊枝なのである(杉良太郎などは、ヌード写真集までだして高楊枝なのである)。  髷《まげ》を結った武士が、傘張り浪人が、茶店の娘が、みんな栄養たっぷりで丸々と肥えているだなんて、そもそも作品にたいする冒涜《ぼうとく》ではないか。やつれてくれとはいわないが、もう少し身体を締めてはどうか。このままでは、重量オーバーによる人材不足となって、時代劇は落ち目になっていくだろう。  さて、山本夏彦翁の悪態はさらにまだつづく。こんどは「鬼平」でもお馴染みの役者・江守徹(岸井左馬之助)がやり玉にあげられる。 [#ここから1字下げ] ≪こないだテレビのCFのなかで江守徹を見て、その太ったのに驚いた。気味が悪い。えくぼをつくって婉然《えんぜん》と笑ったのにはキモをつぶした。  役者は太ってもやせてもいけない。契約違反である。それは興行主との契約ではなく見物人との契約で、見物人が贔屓《ひいき》にしたのは中肉中背の俳優江守徹である。江守ばかりではない、玉三郎もよく聞けよ。≫ [#ここで字下げ終わり]  そのとおりである。  山本夏彦がいうとおり、役者は見物人との契約に違反してはいけないのである。  ところが、現実はどうだ。自分にファンがついたのはいまよりも痩せていた「あのときの自分」だということを多くの役者はスコーンと忘れて、ぶくぶく太ってしまっている。私の知り合いで結婚と同時にぶくぶくと太りはじめ、妻に「詐欺師」と呼ばれている男がいるが、このことは最近の役者たちにもあてはまることではないか。ちょっと人気がでて、まわりからチヤホヤされると、すぐ太ってしまう。「華麗なる転身」ならぬ「醜悪なる変身」を遂げてしまうのだ。  じっさい、山本夏彦がいうように、江守徹もずいぶんと太ってしまった。  若い頃の江守徹は、あの冷静沈着ないい声が似合う締まった肉体をもっていた。江守もまた、おいしい酒と栄養たっぷりの食事の犠牲者になってしまったようだ。  江守さん、痩せて骨ばってくれとはいわないが、せめてあと六、七キロは落としてほしい。  江守徹は、山本夏彦がいうように、中肉中背がよく似合う。六、七キロの減量、せつにお願いしたい。  ついでにいっておくと、小林金弥役の中村|歌昇《かしよう》もそのひとりである。  いくらなんでもあんなに肥えていてはいけない。ナイフとフォークでみずからの墓穴を掘っているのに気づいていないのだろうか。  江戸時代の、それも火盗改メの武士があんな太り方をしていてはいけない。あれでは火付盗賊改方の荒々しい仕事がつとまるわけがないではないか。  歌昇に凄味が感じられないのは、落ち着きだけを強調したようなノッペリとしたあのセリフまわしにあるのではない(発声のときに口をゆがめるのも悪い癖だ。落ち着きは権威の表皮にすぎない、ということもお忘れなく)。  歌昇の場合、いかにもセリフをきちっと覚えましたという、あの妙に力《りき》み返った芝居が鼻につかないというわけではないが、デブっとしたあの肥え方にこそ問題はある。  はっきりいって、「鬼平」で見せる歌昇の肉体には凄味がない。歌舞伎の踊りはメリハリが利いてうまいと思うのだが、どう見たってあの肉体は火盗改メで通用するような肉体ではない。あの肉体は、火盗改メの与力として数々の修羅場をかいくぐってきたことを見る者に想起させない。一九五六(昭和三十一)年に生まれて、マンガとハンバーガーが好きな少年が大きくなりましたというふうにしか見えないのである。  歌昇は以前、「俄《にわ》か雨」で同心・細川峯太郎役をやったが、この役者にはああした役がよく似合う。ひどい目に遭う男を演じるとじつにいいのだ。気の弱そうな細川が見せる失態ぶり腑甲斐《ふがい》なさぶりは、じつに見応えがあった(がむしゃらな間抜けぶりを演じさせると見事なのである。じっさい私は、「助演男優賞」の候補に歌昇をノミネートしている。「鬼平賞」の項参照)。  あるいはまた、映画『鬼平犯科帳』で見せた書き役同心・岡村啓次郎の、悲劇を惨めにこうむるといった役どころなら、この役者の十八番《おはこ》である。  くどくどいうが、火盗改メは極悪人と真《ま》っ向《こう》から対決する武闘集団であり、たえず死と隣合わせのお役目である。当然、捕縛の際には乱闘になり、場合によっては斬り殺すことだってある。  歌昇よ、あなたのいまの肉体で、それができるか。いまの肉体では、その身のこなしに不自由を感じるはずである。あの動きではいつ殺《や》られてもおかしくないぞ。歌昇よ、生き延びたいのなら、節制を心がけ、肉体を鍛え、せめて十キロは減量してくれ(おとき役の江戸家まねき猫もそうだ。お願いだから、もうそれ以上は太らないでね)。  そういえば、粂八役の蟹江敬三もちょっとあぶないんじゃないか。  映画『犯す!』や『十九歳の地図』の頃の蟹江敬三を知っている者にはそう思われるはずだ。  粂八は、もと見世物一座で綱渡りをしていたのである。軽業師なのである。身軽が売り物なのである。それが太るだなんてことは、言語道断、あってはならないことである。  目立たないけど、蟹江敬三は確実に太ってきている。お願いだ。あなただけには太ってほしくない。少なくとも四キロは痩せていただきたい。  肉体は役者のいちばん大切なセリフである。  このことを役者たちよ、とくと肝《きも》に銘じてほしい。  子役養成所の設立を![#「子役養成所の設立を!」はゴシック体]  悪役の層も薄いが、それよりもひどいのが子役である(この場合、未成年者の役者をすべて子役とする)。  チョイ役で登場しても、作品全体を台無しにしてしまう可能性を秘めている。たとえそれが主菜にたいするつけ合わせみたいなものであるにせよ、あまりにもすごい破壊力をもっている。  それほどまでにこの国の子役は貧弱である。  乱暴な言葉づかいをしてしまうが、どいつもこいつもロクなのがいない。  彼らは演劇空間を台無しにする破壊力をもった顕在的《ヽヽヽ》脅威である。  しぐさが型どおりにすぎるし、セリフまわしも聞くに堪えない。笑顔がいただけないし、不満げな表情がなっていない。泣き方がダメだし、沈黙の仕方がヒドい。  子役を見たあとは、全身のアドレナリンが狂ったようにどよめきたつ。なんで、ああもヘタなのか。  判でも押したように、両手の甲を目にそえて「えーん、えーん」と泣いてしまうあれは何だ。子役憎けりゃ、もみじのような手まで憎たらしい。  風車をもって「わーい」と走る、あの没個性的な走りっぷりは何だ。キミたちはアホか。学芸会じゃないんだぞ。画一が走っていると思わぬか。形式が露骨にすぎると思わぬか。  時代劇にでてくる子どもは、現代の大人が頭のなかでこしらえた架空の子どもであるにしても、あまりにも画一的に描かれすぎている。あれは日本時代劇協会の規格品なのかと皮肉のひとつもいってみたくなる。責任者は猛烈に反省していただきたい。  テレビ「鬼平犯科帳」も例外ではない。  これまで数多くの子役が出演したが、長谷川真弓(「兇剣」のおよね役)と宮沢美保(「二つの顔」のおはる役)、吉沢梨絵(「おみよは見た」のおみよ役)と永井紀子(「おみよは見た」のおしん役)の四人をのぞけば、その全員に不満である。とくに男の子がダメである。本来ならば、名をだして、その一人ひとりの未熟な演技を指弾したいところだが、未成年なので温情をかけてやめておく。  まったく、こればっかりは海外の事情がうらやましい。あっちでは小さな名優たちがザクザクと掘り出されている。  とりわけ欧米の映画に登場する子役たちを見てみるとよい。ダスティン・ホフマンと張り合える男の子がゴロゴロいるし、ジーナ・ローランズとわたり合える女の子がウヨウヨいる。 『クレイマー、クレイマー』のジャスティン・ヘンリー、『私の中のもうひとりの私』のマーサ・プリンプトンなどはその最たるものである。最近では、『アダムス・ファミリー』のクリスティーナ・リッチが驚くほど丁寧な演技を見せている。すこしは見習ったらどうか。彼らの爪の垢でも煎じてのんでほしい。  けれど、昔の日本映画を観ると、いい子役がたくさんでている。「鬼平」でも「霧の朝」で登場した二木てるみなどもその一人で、幼い頃から卓抜した演技を見せている。  ところが子役たちの多くはいま、主役を引き立てるどころか、反フィルム的な存在として画面におさまっている。  主菜の味までも損ねてしまうつけ合わせとして存在するのである。  池波正太郎の言葉に「つけ合わせは、主体の料理を侵《おか》してはならないが、さりとて、つけ合わせに心がこもっていないと、せっかくの主体料理が旨くできていても興ざめとなる」(『旅は青空』)というのがあるが、これがそっくり主役と脇役、主役と子役の関係にあてはまる。  また、「我国では、日本料理や最高級の贅沢《ぜいたく》なレストランは別にして、洋食のつけ合わせがまことに貧弱だ。念を入れて調理してあっても、こころがゆたかになる分量がない」(『旅は青空』)という指摘があるが、これもまた日本の子役たちにあてはまる現状である。  欧米の役者は役づくりのために入念なトレーニングをやるというが、日本の子役たちもこれを範としなくてはならない。  二木てるみの例でもわかるように、日本は子役がもともとダメというわけではないのである。現在、作り手になっている人たちの指導がダメなのである。  大袈裟にいうのではないが、日本の映画演劇界は子役の育成について真剣に考えるべき時期にきているのではないだろうか。  そこで提案なのだが、日本演劇界はまず、子役になるためのセンター試験を実施したらどうか。そして、全寮制の子役養成学校をつくって優秀者を入学させる。ブロードウェイの有名なアクターズ・ステュディオ(アン・バンクロフト、アル・パチーノ、ジェーン・フォンダ、ダスティン・ホフマンなどもここの出身)に匹敵するような子役養成所をつくるのである。  むろん私立ではなく、国立だ。そんな学校ができたら、よろこんでもっと税金を払うつもりでいる。  佐嶋忠介を勝手に拉致するな[#「佐嶋忠介を勝手に拉致するな」はゴシック体] 「実務の人であり、ナンバー|2《ツー》である」  筆頭与力・佐嶋忠介《さじまちゆうすけ》はよくこんなふうに形容される。  正直いって、不快である。  このひとことをもって、そうした本への読書意欲までも萎《な》えてしまう。  たしかに全編をつうじて佐嶋は実務をきちっとこなしているし、平蔵の信頼を得て、参謀としての役目を全うしている。また、平蔵の前任者である堀帯刀《ほりたてわき》のときも与力をつとめ、「忠介で保《も》つ堀の帯刀」などと噂されたほどの実力を誇っている。  がしかし、「佐嶋といえばナンバー2」みたいな論調には、思わず「待った」をかけたくなる。ましてや企業の副社長や専務にたとえられる話を聞くと、即応性をもって反発したい衝動にかられる。 「佐嶋を�チョンマゲを結《ゆ》った重役�などにするな」  と、文句のひとつもいってやりたくなる。  昨今、『鬼平犯科帳』を組織管理法や人材活用術の面から|過剰に《ヽヽヽ》論じる向きがあり、佐嶋をナンバー2として普遍化、固定化、マニュアル化したがるという傾向があるが、あれはいったい何なのだ。あんなのに感心する人間がいるのだろうか。  己が身の処し方を模索するうえで佐嶋を参考にするのはよい。だが、佐嶋を組織管理法や人材活用術の面からしか論じえないのだとしたら、はっきりいうが、それは佐嶋を矮小化していることになる。  司馬遼太郎にしても藤沢周平にしても、そして池波正太郎にしても、彼らの描いた物語が企業社会になぞられ見立てられるとき、得られるものよりもむしろ失われるもののほうが多いのではないか。  たんに小説として読んで愉しめばいいじゃないか。インテリといわれたい人たちは、時代小説というとすぐに会社や組織のあれこれと結びつけたがるが、あれはほんとうに悪い癖である。  佐嶋を勝手に拉致するな。佐嶋は�着物を着た企業人�なんかじゃないぞ。  ましてや、妬《ねた》み、嫉《そね》み、僻《ひが》みで身のうちを充満させたそこいらの副社長や、酔うと昔の自慢話や手柄話を繰り返すリフレイン重役などと、断じて一緒にしてはいけない。これではいかになんでも、佐嶋がかわいそうである。  佐嶋忠介は豪の者である。酒場で全共闘時代の純文学的挫折とやらをとくとくとしゃべったり、可愛い娘《こ》ちゃんの尻をさわって「こら、ふざけないの」などといわれてスネているそこいらのナンバー2とはそもそも気合いの入れ方が違うのである。なんなら佐嶋をそういう店へ連れていってみたらどうか。そして訊いてみるがいい。「どう?」って。佐嶋はいうね、「頼むから、こいつらとだけは一緒にせんでくれ」って。  では、佐嶋忠介はどう理解されるべきか。  正直いって、ひとことでキメるのはむずかしい。 「謹直の人」という言葉を捧げることができるかもしれない。佐嶋の場合、大きく「謹直」と縫い込んだ羽織をまとっていてもべつだん違和感がないほどだ。 「地味な人」というレッテルを投げかけてもいいかもしれない。たしかに佐嶋忠介という人間をながめるとき、その真摯剛直ぶりに思わず「うーん、地味だ」とつぶやかずにはいられない瞬間が数多くある。  がしかし、どれもこれも定義した瞬間から、こぼれ落ちるものがあまりにも多いような気がする。  読者諸賢は、世の中が広いことを知っていよう。この世の中には、こちらが投げつけた極《き》め言葉をスルリとかわしてしまう人物がいる。そしてそれは傑物であるか否かに分かれない。  では、どういう人物がそうか。  寡黙で武骨でありながらも、細心さとしなやかさを感じてしまう、だが、いかんせんやっぱり地味で華がない、という人物がそれである。  佐嶋がまさにそれに当てはまる。だから、佐嶋に極め言葉を放ってもムダである。佐嶋とはそういう人物である。  しかし、だからといって、魅力がないわけじゃない。いや、むしろ佐嶋の魅力は、しみじみとこの物語に浸透している。  文春文庫全二十四巻をじっくり読んでみるといいが、自分自身をけっして語らないのが佐嶋忠介の大きな魅力である。愚痴をいわないし、オダもあげない。ましてや、自慢話をとくとくと喋ってご満悦というような人間でもない。佐嶋はそんな隠微な停滞からは無縁の人である。  とはいっても、分際を心得てじっと抑圧に耐えていさえすれば、きっといつかはいいこともあるだろうといった忍従の人でもない。もとい、いや忍従の人ではあるが、それは情況にたいして我慢強いのであって、将来吸えるかもしれぬ甘い汁を期待して耐え忍ぶ人間ではない。棚から落ちてくるボタモチを期待するような男ではけっしてないのである。むしろ棚にボタモチをあげて、その棚を他人のために揺する人である。  このほかにも佐嶋の魅力はたくさんあろうが、私のいちばん好きな佐嶋は、自分をなんとかしてくれみたいな泣き言をいっさい口にしないことだ。そうした苦渋に満ちた泣き言や言い訳は、どこをさがしても見あたらない。  佐嶋は、弱音を吐かず、言い訳もせず、歯をくいしばって我慢づよく生きる人間である。鬱勃《うつぼつ》たる勇気をもった、土性っ骨のある独立の人なのである。佐嶋とはそういう男なのだ。  もう一度いっておく。佐嶋を�チョンマゲを結った重役�などにするな。  さて、その佐嶋忠介がテレビ版「鬼平犯科帳」から姿を消した。佐嶋役の高橋悦史が亡くなってしまったからだ。適役だっただけに、惜しむ声は大きい。いまにして思えば、あの剛毅な馬面《うまづら》自体、作品全体に悲劇的風格を与えていたと感慨深い。  原作『鬼平犯科帳』を読んでみてもわかるように、佐嶋はひじょうに重要な役目を果たしている。平蔵を支え、同心を引っぱり、火盗改メの屋台骨となっている。  じっさい登場回数も、百六十一話中百三十一話にのぼるという。平蔵をのぞけば、もっとも頻繁にその姿を『鬼平犯科帳』に見せている(鬼平研究家・西尾忠久の調べによれば、その登場率は七割九分九厘を誇るという)。  佐嶋のいない「鬼平」は、|うに《ヽヽ》の入っていないにぎり鮨のようだ。  佐嶋忠介の復活を望む。ぜひとも佐嶋を復活させてほしい。  誰が適任であるか。  ある友人は、ぜったいに児玉清だといっていた。  児玉清か。武骨さがちょっと足りないんじゃないか。  中尾彬という声もあがった。  中尾彬は最近、肝がすわった男というのをよく演じるが、ひとつだけ気になるところがある。運動神経が発達していないところだ。「鬼平」にも一度ゲスト出演したことがあるのだが、その殺陣のまずさといったらなかった。ぎこちなくてぎこちなくて、しなやかさとは千里の隔たりがあった。「はぐれ鳥」で女剣士・津山薫役を演《や》った毬谷友子と剣をまじえたら、おそらく五秒ともたないであろう。  ならば、長塚京三でどうだ。  気分にムラっ気のある、つぶやきの多い佐嶋忠介になりそうだ。  私の推薦する役者は、藤岡弘だ。  風貌といい、身のこなしといい、申し分ない。武道のほうもトータルで二十段という武術の達人であるらしい。考えれば考えるほど、藤岡弘だ。 [#ここから1字下げ] (追記)けっきょく佐嶋忠介がいないままシリーズ最終を終えた。途中より小林金弥(中村歌昇)がその替わりともいえる役どころについたのだが、高橋悦史の佐嶋と比べると、やはりどっしり感がなく、もの足りなさを感じた。 [#ここで字下げ終わり]  憂鬱なる酒井祐助[#「憂鬱なる酒井祐助」はゴシック体]  筆頭同心・酒井祐助は、べつだん目立たなくてもいい存在である。  そもそも厚みのある演技が期待されている役ではない。  出番が少ないし、セリフもあまりない。「長官《おかしら》、ただちにひっ捕らえましょう」とせっかちな意見をだす程度の役だ。大半は、「なれど……」とか「なればこそ、長官《おかしら》……」といってるだけで済んでしまう、そんな役だ。  しかし、目立ってしまうのだ、勝野洋は。  吉右衛門による「鬼平」がはじまって以来、篠田三郎、柴俊夫、勝野洋という三人の俳優が筆頭同心・酒井祐助を演じてきたわけだが、いずれの酒井祐助にも私は不満である。  酒井祐助は、口数が少ない。かといって、言葉の中身もさほどあるというわけでもまたない。だから、声の抑揚だけが言外の真意を読みとる唯一の手がかりになる。言葉の背後にあるものは声の抑揚をとおしてしか伝わらないのである。しかし、この三人、とりわけ勝野洋はそこへの配慮があまりにも希薄である。私の不満はそこにある。彼らはきちっと原作を読んだのだろうか。  問題を現在演じている勝野洋だけに絞って、具体的に論じてみよう。  中高年の方ならご存じであろうが、勝野洋は人気刑事番組だった「太陽にほえろ」で一躍有名になり、飾らない、というか飾ることができない役者ということで人気をだした俳優である。いい意味でいえば純朴。悪い意味でいえば不器用な役者としてスタートをきったわけである。  以後、勝野は一貫して「不器用ながらも誠実な人」を演じつづけ、勝野洋の名があるだけで登場人物の役どころがわかってしまうという、役者としてはけっして幸福とはいえない道を歩んできた。 「鬼平」の場合もそうだ。筆頭同心・酒井祐助は「いかにも武士」というまっすぐなものの考え方をする火盗改メの攻撃隊長である。おそらく、そんな融通のきかないところ、愚直なまでに誠実なところが似ていなくもないということで勝野洋はこの役に抜擢されたのだろう。  たしかに勝野洋は履歴書の「本人の特性」という欄に�真面目�とか�誠実�と書きそうだし、死んだら「謹厳実直居士」などという戒名をもらいそうである。その意味でいえば、勝野洋は酒井祐助にピッタリであった。  しかしである。酒井祐助をやる勝野洋はいただけない。「俺たちの朝」で長谷直美や森川正太を相手に「オッス」といっているうちはよかったが、酒井祐助をやる勝野洋は、必要以上に態度がものものしく、律儀さよりも堅牢《けんろう》さのほうが先走ってしまっている。そのぎこちないこと、はなはだしい。まさに「浮いている」という感じだ。酒井祐助もさぞ憂鬱な気分で勝野洋を眺めているにちがいない。  とにかくセリフまわしがひどいのである。ちょっと長めのセリフが入ると、その場の空気が一変してしまうほどに棒読みになる。  さっき見た「見張りの見張り」でもそうである。意地悪く観察していうのではないが、宿の女中をからかって情報を得ようとするときのセリフまわしには思わず耳を覆いたくなった。「立て板に水」という言葉があるが、勝野のセリフまわしは朴訥《ぼくとつ》という表現をはるかにとおり越して、「横板にトリモチ」である。  三国連太郎は台本を「四百回から五百回は読む」とあるインタビューでいっているが、あの三国連太郎にしてもそこまでやるのである。勝野ももうちょっと台本を読み込んでみたらどうか。  スケジュールを縫って時間をつなぎあわせ、やりくり算段でカメラの前に立つ役者が最近は多いと聞くが、これをやって許されるのはごく少数の名優だけである。名優とは、天賦の才という協力者をつねに自分の友とし、まわりの�言外の期待�にこたえることのできる役者である。だが、名優でない役者はそんな天才役者の真似をしてはならない。名優でない役者はひたすら台本を読み込むことでしか作品に貢献できないのだから。台本の読み込みは、役者の権利ではない。義務である。それで飯を食っているのだから、果たすべきとうぜんの義務なのである。  ついでにいうと、山田市太郎役の三ツ矢真之もそうだ。まわりの空気を読み取れず、浮きっぱなしである。内面演技ができていないというか、演技が上滑りしてしまっている。  でも、お二人よ、「努力している」などと反論しないでいただきたい。努力なんて、そもそも人間の最低の条件じゃないか。皆、それなりに努力してるのである。どういう努力をするか、これが大切なのである。  少々きついことをいったが、どうか堪忍していただきたい。大根でも煮ればうまくなるというではないか。笠智衆、志村喬、三船敏郎、佐分利信、鶴田浩二、高倉健、池部良、三国連太郎なども皆、はじめのうちは「大根」とか「不器用」といわれていた。彼らは台本を読み込むことで一流と呼ばれる役者になったのである。  あの阪東妻三郎だって、発声法に血の滲むような訓練を重ね、しまいには相手役のセリフもすべて覚えてしまうほどに台本を読み込んだというではないか。杉村春子だってそうである。北林谷栄だってそうである。みんな台本を読み込んで読み込んで大根役者から大役者になったのである。  峰竜太よ、あなたは何処へ行くのか[#「峰竜太よ、あなたは何処へ行くのか」はゴシック体]  このことのためにわざわざ稿を起こすまでもないと考えたが、黙認できるほど寛容でもないので、律儀に、短く、こってりと批判しておく。  峰竜太よ、あなたは「新・諸国漫遊記」(97・6・7放映フジテレビ)で、ゲスト出演した中村吉右衛門に何をいったかおぼえているか。 「峰さん、その節はまあどうもありがとうございました。『鬼平』にでていただきまして」という吉右衛門に、「古い話なんで、私、あんまりよくおぼえていない……すいません」といったのだ。  一瞬、わが耳を疑った。が、間違いなくそういった(さいわいビデオ録画してあったので、確認もしている)。  怒りの炎が瞳のなかで燃えあがってしまったではないか。  不埒千万。大逆無道。  よくもまあ、ぬけぬけといってくれたものだ。よくもまあ、しゃあしゃあとぬかしてくれたものだ。  それも芸能界の至宝であり梨園の名優であり、何にもまして「鬼の平蔵」である中村吉右衛門さまを御前にしてだ。  世が世なら、峰竜太のような山猿のごときは吉右衛門さまに声をかけていただくどころか、拝眉の機会すら与えられなかったろう。ああ、これだから民主主義はいやになる(おっと、意識的に失言してしまった)。  一九九〇(平成二)年十月十七日、峰竜太は「おみね徳次郎《とくじろう》」の徳次郎役としてテレビ「鬼平犯科帳」に登場、じつに見事な演技を見せた。まえまえからけっこういい役者だとは思っていたが、これほどまでにうまい役者だとは思ってもいなかった。正直いって私は、峰竜太という役者に目を見張った。相手役の宮下順子《おみね》の演技も素晴らしかった。で、私はこの二人の演技に唸りに唸ったのだった。  結果、「おみね徳次郎」はテレビ「鬼平犯科帳」全作品のなかでもトップランクに入ると思われる出来に仕上がっている。「おみね徳次郎」は傑作である。これは宮下順子と峰竜太の手柄であるといってよい。  それを、峰竜太よ、「あんまりよくおぼえていない」というのはないだろう。非道《ひど》いぞ。忘れたというのなら、思いださせてやろう。  峰竜太よ、あなたは「おみね徳次郎」に出演したのだ。互いに別の盗賊の一味でありながら、その正体を隠して一緒に暮らすおみねと徳次郎。その徳次郎役をあなたはやったのだ。  徳次郎は、表向きは|まわり《ヽヽヽ》髪結いだが、じつは大盗・網切《あみきり》の甚五郎《じんごろう》の一味で、「山彦《やまびこ》」と異名をとった腕利きの盗人である。引き込みと錠前外しの名手として重宝がられている。そして……いや、もうやめた。ビデオを見てくれ。なんなら送ってやってもいい。  峰竜太よ、いろんな番組にちょこちょこと顔をだす忙しい毎日だろう(台本なんてほとんど読まなくてもいい番組ばかりだろうからじっさいラクかもしれないが)。  神楽坂あたりに豪邸も建てたというから、いやな仕事も引き受けなくてはならないだろう(日当がいいので、けっこう素直にやっているのかもしれないが)。  でも、これだけは忘れないでほしい。  あなたは、もっといい役者になれる。少なくともバラエティー番組にかけている情熱を役者修業のほうに向ければ、かなりの役者になれると思う。  ラクな金儲けが好きなのなら、役者の世界に戻ってこなくてもいい。それはそれでいたしかたないことだ。でも、役者の端くれなら、自分の演じたものくらいはせめておぼえておいてくれ。  中堅役者の仲間入りをしたという自負で知らんぷりをしたのなら、失礼千万だ。  照れで、「あんまりよくおぼえていない」といったのだとしたら、二十年早い。  志がさもしいぞ。  なぜ「鬼平犯科帳」は終わったのか[#「なぜ「鬼平犯科帳」は終わったのか」はゴシック体]  テレビ「鬼平犯科帳」が終わった理由は、ゲスト出演する役者に大根が多すぎるからだ。このことに吉右衛門もスタッフも嫌気がさした。私はそうにらんでいる。  吉右衛門は名優だ。吉右衛門が名優でないというのは、ジャイアント馬場は背が低いというに等しい。  脇を固める役者も一流である。蟹江敬三、綿引勝彦、梶芽衣子、多岐川裕美といった布陣で固めている。  だが、その他が悪すぎる。というか、悪くなった。  初期から中期に至る作品においては、ゲストの役者が一流で、まさに役者という名にふさわしい演技を披露してくれた。島田正吾、遠藤太津朗、草薙幸二郎、内藤武敏、田村高廣、北林谷栄、山田五十鈴、二木てるみ、浅利香津代など、錚々《そうそう》たるメンバーが出演した。  また、こういう一流どころを支える名脇役として、井川比佐志(「兇剣」の浦部彦太郎)、小鹿番(「泥鰌の和助始末」の大工の孫吉)、北村和夫(「女掏摸お富」の三沢仙右衛門)、田武謙三(「浅草・御廐河岸」の卯三郎)、花上晃(「四度目の女房」の仁吉・「流星」の藪原の伊助)、平泉成(「浅草・鳥越橋」の押切の定七)、河原さぶ(「殺しの波紋」の犬神の竹松)などが登場、画面を活気づけた。  だが残念なことに、回を重ねるにしたがって「役者」の登場回数は少なくなっていった。いったいこれはどうしたことか。  答えはいたって簡単である。「役者」といえる俳優の数が少ないのである。池波正太郎も晩年は「役者がいなくなった」とよくこぼしていたそうだが、この国は役者の層が薄すぎるのである。  自称「役者」はたくさんいる。それは知っている。だが、ほとんどが学芸会レヴェルである。なんてたって、映画や舞台に一度もでたことのないガキが、「役者やってます」とか「女優やってます」といって許される国なのだ。エクササイズをきちっとやっていない輩《やから》がいとも簡単に役者の看板をだせる野蛮な国なのである。  で、そういう役者たちがこの日本では、雨後のタケノコのようにあちこちからでてくる。ラクにもうかる仕事に人が殺到するのは市場の原理とはいえ、「役者」を名乗ってしまえばドラマの仕事がくるというのではあまりにも破廉恥にすぎやしまいか。  だったら、不満を述べればよい。そうです、不満を述べればよろしい。だが、たとえ不満を申し述べても、それが苦情となって彼ら役者の耳に入ることはない。制作会社、スタッフ、所属事務所が三つ巴となってもみ消してしまうからだ。だから、大根は増えるいっぽう。結果、見渡すかぎり、大根ばかりになってしまった。で、そういう大根役者が、「鬼平」にも出演するようになった。そしてまた、その三流役者のまわりに、もっとひどい四流、五流の役者が付着して画面を汚しはじめた。彼らは、存在が画面の従者になっているというか、セリフまわしが棒読みっぽいというか、声が悪くて聞きづらいというか、内面演技ができていないというか、「顔の説得力」が欠如しているというか、非フィルム的な存在の仕方をしているというか、情感のあらわし方が粗雑だというか、演技が上滑りしているというか、要するに、まあ、直截的な言い方をしてしまえば、「ヘタ」なのである。日頃は温厚な私であるが、さすがに彼らにはカッとなった。思わず画面に向かって中指を立てて凄んでしまったほどだ。  じっさい、後半の「鬼平」は、彼らヘボ役者に侵食されつつあった。その傍若無人ぶりは、後期の作品のいくつかを見れば、たちどころにわかるだろう。  見ていて吉右衛門が憐《あわ》れに思えた。これじゃあいくらなんでも吉右衛門がかわいそうだ、そう思った。  彼らと吉右衛門の力の差は歴然としていた。あたかもそれは、鉄棒の逆上がりもできない子と、トカチェフ級の技を習得したオリンピック選手ほどのレヴェルの差であった。  吉右衛門をはじめ、その他の一流役者が、やる気をなくすのも当然である。スタッフだって同じことだ。「やっちゃあいられない」と思うだろう。 「そうではない」と吉右衛門はいうかもしれない。「梨園(歌舞伎界)に戻りたいだけだ」と。 「ちがう」とスタッフもいうかもしれない。「私たちはつづけたいのだ」と。  ならばいう。だったら、なおさらやめていただきたい。  あんなヘボ役者たちと仕事をするくらいなら、身のためです、やめていただきたい。どんなに苦労しても、大根役者たちと組むかぎり、よい作品にはなりません。  役者は作品の命である。役者が悪ければ、作品も悪くなる。どんなに丁寧につくっても、役者が悪ければ、どうしたって「粗製乱造」のレッテルを貼られてしまう。  だから、もう何もいわずに、吉右衛門を梨園へ帰してあげることだ。本人も「歌舞伎役者として死にたい」といっている。もう存分に愉しませてくれたではないか。  だから、もう、さよならだ。  いまは「帰ってきた鬼平犯科帳」とか、「鬼平犯科帳エース」などの文字が画面に登場しないことを祈るのみである。 [#ここから1字下げ] (追記1)巷間、「鬼平犯科帳」が終わったのは「原作がもう底をついてきたからだ」と囁かれている。じっさい池波正太郎は生前、「原作がなくなったら、やめてくれ」といっていたそうだ。市川久夫プロデューサーによれば、池波正太郎は「原作が消化されたあと、シナリオライターのオリジナルによるものなのに、未練がましく原作者として名をつらね、原作料をもらうなどは作家の恥としていた」そうである。だが、やむをえないときは、「ほかの(池波)作品で転用できるものがあったら、してもいいよ」ともつけくわえていたそうだ。じっさい、これまでも『にっぽん怪盗伝』や『殺しの掟』から転用したものがいくつかある(「四度目の女房」や「夜狐」など)。その意味においては、つづけようと思えば、つづけられたのである。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] (追記2)「鬼平」のいい加減な復活がないよう切《せつ》に願っている。「鬼平」終了後、吉右衛門は「歌舞伎役者として死にたい」とあちこちのインタビューで述べている。これは「もう鬼平は勘弁していただきたい」とのメッセージとして受けとるべきである。そこに斟酌《しんしやく》あれ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第五章 この役者がいい  風来坊の蹉跌《さてつ》[#「風来坊の蹉跌《さてつ》」はゴシック体]  男は、世間を疎《うと》んじていた。  そして、世間もその男のことを疎んじていた。  世間がその男を疎んじていたのは、たんに身なりのせいである。  中身がどうのこうのというのではない。  平蔵がその男に再会したとき、男は半年も湯に入っていなかった。  文字どおり、垢《あか》と埃《ほこり》にまみれていた。  それが男の常《つね》であった。  男はボロをまとい、髪を結《ゆ》わず、乞食のような生活をしていた。  だが、といって、それを恥じているというわけではない。  むろん、誇ってもいない。  性《しよう》にあっているというか、まあ気に入っている。  なにかと不便はあるが、不幸な身の上だとは思っていない。  平蔵は昔、四つ歳下のこの男を弟のように可愛がっていた。  同じ妾腹《しようふく》の子というのが心底にあったのかもしれない。 〔五鉄《ごてつ》〕で軍鶏《しやも》鍋を囲んだこともあるし、一緒に白粉《おしろい》の匂いを嗅《か》ぎにいったこともある。  いまでも平蔵は、なにかというとこの男に金を恵んでやる。  なんとか身を立てる手だてを講じるきっかけになればという思いがそうさせるのである。  しかし男は、その金をみんな酒にかえてしまい、平気である。  男にはそこから脱しようとする気配さえない。  無頼《ぶらい》を気どっているわけではない。  べつだん人間嫌いというわけでもない。  どちらかというと、おしゃべりなほうだし、社交性もある。  ただ、ちょっとだけ社会性を欠いていた。  とはいえ、不恰好に不貞腐《ふてくさ》れているようには見えない。  気はたしかだし、一本気だ。  声も背骨からきちっとでる。  少々いい加減で勝手なところもあったが、人情だけはわきまえていた。  だから憎めない男であった。  丁寧な人間には、丁寧に接した。  そういうふうに躾《しつ》けられてもきた。  男の父親は、名を三《さん》右|衛門《えもん》といい、三十俵二人|扶持《ぶち》の御家人だった。  徳川将軍の家来のなかでは、もっとも身分の軽い武士であった。  とはいっても、町衆からみれば高い身分であることにはちがいない。  しかし、男の父親はそんなことはおかまいなしだった。  男はその妾《めかけ》の子として生まれた。 「親父《おやじ》どのは、美《い》い男ですからね」と男はいう。  妾といっても、女のほうから入れ揚げたのである。  男の父親はすこぶる女にもてた。  ただ直情すぎる人だった。  そこが男と似ていないこともない。  のちに男の父親は、吉原の遊女と心中を図った。  またしても女がらみであった。  粋《すい》だ、という人もいるが、命を落としてしまえば粋もなにもない。  それで家名は断絶となった。  平蔵はその頃、京都町奉行に就任した亡父・長谷川|宣雄《のぶお》に従い、江戸を離れていた。  だから、男の相談にものってやれなかった。  男は路頭に迷い、挙げ句、大坂にながれた。  大坂には、母方の遠縁にあたる親類がいた。  男は、大坂市中の南というか外《はず》れといってもよい阿倍野《あべの》の王子権現《おうじごんげん》社の裏側に居をかまえた。  住まいといっても、それは農家を改造しただけの道場であった。  男はそこで小さな町道場をひらいた。  男には剣の腕があった。  子どもの頃から、剣術はまなんでいた。  最初は、湯島で一刀流の道場をかまえていた菊地夏之介《きくちなつのすけ》に手ほどきをうけた。  次に、本所《ほんじよ》の高杉道場へとうつった。  そこに若き日の平蔵や岸井左馬之助がいた。  剣士としての腕前は、平蔵や左馬之助にはかなわぬが、そのへんの侍が三、四人|束《たば》になってかかったとしても、|びく《ヽヽ》ともするものではない。  門人には、近くの百姓や町人があつまった。  しかし、彼らは面白半分で剣術を習いに来るのだった。  男は容赦することなく彼らを鍛えようとした。  それがその男のやり方だったし、そのようにして男も鍛えられてきたのだった。  それ以外にどうやれというのか。  たまらず、ひとり、またひとりと門人は去っていった。  道場は、たちまちのうちに閑古鳥が啼《な》き、さびれていった。  三年、辛抱した。  だが、芽はでなかった。  男はくさった。  母方の遠縁にあたる親類も、もう面倒はみきれないときっぱりいってきた。  再び途方にくれる日々がやってきた。  自分自身をどうしたらいいのかわからなかった。  うす暗い道場で空腹を感じながら、男は将来を悲観した。  三日間、なにも食べないこともあった。  もともとが大食《おおぐ》らいであるだけに、これはひどくこたえた。  近くの畑へ大根を盗みに行くようなこともやった。  そんなある日のことだ。  香《や》具|師《し》の元締である名幡《なばた》の利兵衛《りへえ》が、男に仕事の話をもちかけてきた。  香具師の元締といえば、暗黒街の顔役と相場はきまっている。  名幡の利兵衛も例外ではなかった。  三十両で人殺しを請け負えというのである。  三十両といえば、大金である。  ひと家族がゆうに三年は暮らしていけるという金額である。  殺しの相手はこの世に生かしておいても為《ため》にならぬ奴だ。遠慮はいらぬ。  そういわれて、男は殺しを引き受けた。  男は、やけになっていた。  半金の十五両が、男のまえに積まれた。  男はもらった金で、餓鬼《がき》のように食って飲んで、ぐっすり眠った。  しかし、泥のように眠って目がさめると、昨日とはちがう自分がいた。  こいつはいけない、と思った。  気がかわったのである。  金ずくで人殺しをやるなぞ、もってのほかだ。  そこで男は、すぐさまその話を断わりに行った。  飲み食いにつかった二分《にぶ》ばかりは足らなかったが、金も返した。  しかし、名幡の利兵衛は「はい、そうですか」と引きさがるような相手ではない。  男は、その世界の掟《おきて》に背《そむ》いたのだった。  そして、掟に背いた者は死なねばならぬのであった。  利兵衛は、男に刺客をさし向けてきた。  刺客は�凄い奴�だった。  男には、背中から腰のあたりにかけて、袈裟《けさ》がけに切られた深い刀痕《とうこん》がある。  それは�凄い奴�に負わされた傷である。  男は淀川へ身を投じることによって九死に一生を得た。  男は傷の治療もそこそこに、ほうほうの態《てい》で江戸へ戻ってきた。  のちに、この�凄い奴�は平蔵に斬り捨てられるのだが、運が味方しなかったら平蔵も「あわや」と思わせるほどの腕をもった刺客であった。  そんなことがあって、男は再び江戸へ戻ってきた。  道場を開く気はもうない。  男は�凄い奴�に出会ったことで、強さの恐《おそ》ろしさというものを知ってしまったのだ。  半端な気負いでもって道場を開くなど、怖《こわ》くてできるものではないと悟ったのである。  男は、渺渺《びようびよう》たる曠野《あれの》を前途に予感した。  かなしくて、わびしくて、せつなかった。  なにをやろうというわけでもない。  なにができるというわけでもない。  だが、そこは侍《さむらい》の端くれ、�いのちがけ�のことをやってみたい。  しかし、�いのちがけ�のことができなければ、眺めて過ごす人生であってもいい。  その日その日をなんとかやりすごし、どうにかこうにか食べていけたら、それでいい。 �いのちがけ�は、ひとまずおあずけだ。  気持ちのうえで折り目正しく生きることを忘れなければ、それでいいじゃないか。  男は、のんきを友とし、悠々と過ごすことにした。  男にできることは|ひとりごと《ヽヽヽヽヽ》をつぶやくことと、日々を祈ることだけだった。  横着な気持ちがないこともなかった。  はたして、男は、托鉢《たくはつ》して歩くことを選んだ。  汗と埃にまみれ、異臭を放つ法衣をまとって商家の門口へ立ち、妙な経文《きようもん》らしきものをわめきだすのが、男のやり方だった。  やられるほうは、たまったものではない。  商売の邪魔になるというので、たいていの商家では銭をつつんで男に渡した。  ボロは着てても心は錦ヘビ。したたかなところもあった。  道行く人のなかには、「おや、あの、面白い乞食坊主が歩いているよ」などと指さす者もいた。  だが、男は笑われても、馬鹿にされているとは思わなかった。  男は、漠然とした�いのちがけ�とやらを求めて、あてどもなくあちこちを徘徊しつづけた。  男の歩んだ道は、「功成り名を遂げた人生」とはまったく無縁のものであった。  むしろ、決心の数だけ絶望を味わったといってもいい。  でも、いいじゃないか。 「男は結果で評価される」などと言いたてる人間よりもいいではないか。  男は結果がすべて。  正しいがゆえに、臆面もなくふんぞり返ってこんなふうにいわれると、腹が立って気が遠くなるものだ。読者諸氏もそう感じてほしい。  男は、功績を求めず、のんきに彷徨《さまよ》いつづけた。  へたな理屈を思いつかないのもこの男のいいところだ。  男は、平蔵を訪ねることも、そんなにはなかった。  どこへいくのかは、本人にもわからなかった。  あるときは神社の縁の下などに息をひそめ、あるときは月明かりの遍照《へんしよう》のなかを歩いた。  幽愁《ゆうしゆう》の影だけが、たえず男の後ろ姿を追った。  男は、土の上でも草の中でも、悠然と眠りについた。  男は、柔らかな香りを漂わせる雑草のような人間であった。  男の名を、井関録之助《いぜきろくのすけ》という。  のちに、小石川の西光寺の僧になったというが、その後は知らない。  この乞食坊主・井関録之助を演じる役者は、夏八木勲である。  陽光をまぶしげに受けとめたり、目を凝らして彼方《かなた》を眺める風情がよい。そこには孤独を漫然と飼いならした男の、譲れぬ気品が滲《にじ》んでいる。  また、井関録之助に宿るだらしなさと紙|一重《ひとえ》で存在する、梃子《てこ》でもうごかぬ一途《いちず》さも、この役者によってうまく立ちのぼっている。  卓抜な演技力の持ち主である。  険《けん》のある風貌もフィルム的でよい。  沢田小平次は真田健一郎である[#「沢田小平次は真田健一郎である」はゴシック体]  沢田小平次《さわだこへいじ》は真田健一郎《さなだけんいちろう》が演じている。  念のためにいっておくと、沢田小平次が作中人物であり、真田健一郎が役者である。 「鬼平」の固定視聴者ならばこんなことは基本的知識であろうが、ともすると私はごっちゃになってしまうのである。  それほどまでにこの二人はよく似ている。  名前が似ているというだけではない。作中人物と演じる人間のキャラクターがぴったりと合っているのだ。  作中人物の火付盗賊改方同心・沢田小平次は、小野派一刀流の剣士で、平蔵をして「まともに斬りあったら、おれもかなうまい」というほどの腕前の持ち主だ。  いっぽうの真田健一郎は、シンコクゲキ出身の役者である。深刻劇ではない。新国劇である(新国劇の創始者は沢田正二郎。私は知らないが、大正末期から昭和初期にかけて「国民俳優」というべき偉大な存在だったという。その沢田は、辰巳柳太郎と島田正吾という名優を後継者として残した)。  新国劇出身の役者はだいたいにおいて、殺陣《たて》、チャンバラを得意とする。そして、真田健一郎はその代表格といっていい存在である。  テレビに映しだされる剣さばきを見ていると、真田のそれはその道の達人だと思わせるほどの腕前である(と、褒《ほ》めておいてなんだが、もうちょっと刀を重く扱ったほうがよいのではないでしょうか)。  大刀をふるう姿は、役者・真田健一郎の真骨頂である。だからテレビで見ていてもそれが演技とは思えず、立ち回りのときなど、江戸時代からやってきた人がひとり紛れ込んでいるような気にさせられる。  ふだんは画面の隅に身をひそめるようにしているのだが、捕り物となると独壇場といった感じで暴れまわる。五百円玉でも入りそうな大きな鼻の穴をいっそうふくらませ、口をとがらせて、「とおっ」とか「たあっ」という声とともに大刀を振りおろす表情は、自分がテレビに映っているということを忘れているんじゃないかとさえ思わせる。無《ヽ》意識過剰の境地に入り込んでいるかのようだ。類猿人《ヽヽヽ》っぽい顔がよりいっそう猿っぽくなり、野性味を帯びてくるのだ。それほどまでに真田健一郎は剣豪・沢田小平次に肉薄している。  沢田小平次役に真田健一郎を起用したことはまったくもって正しい選択であった。  ご存じのとおり、沢田小平次(作中人物)は、質実剛健、真摯剛直な男である。武家社会の倫理を守り、また武士としての信義に忠実であろうとする男である。  成長は勤勉とともにあり、勤勉こそが才能を大きくすると信じている人である。そしてまた、失敗すれば失敗したで、反省の厳しさが成長をうながすものだと思い込んでいる人である。  要は、まっすぐなものの考え方をする人間なのである。  で、そういう人間によくありがちなのだが、口数が少なく、また気のきいたことをいえない。  ゆえに、活力、忍耐力、決断力はあっても、革新力、表現力、想像力に欠けるという欠点をもつ。  とうぜん、話をしていても面白味がない。  雷《かみなり》の音を耳にすれば「ん? 雷か」とだけつぶやき、盗賊をまえにすれば条件反射的に「覚悟しろ」とか、「神妙にせよ」というだけである。  意見することもめったにない。まわりの同心たちと交わっても、あるいは平蔵のそばにいても、すすんで意見を述べたり、進言をしたりということをしない。当たり障りのない相づちを、あたりまえに打つのみである。じっさい、同心たちのまえでは「よいな」と念を押したり、「ほお」と感心する以外はほとんど発言らしい発言はしない(これが発言かどうかも疑問だが)。  こういう人物であるから、平蔵のまえではほとんど言葉を失った人となる。ほとんど、「はっ!」と、「もうしわけございません」と、「面目しだいもござりません」だけである。 [#ここから1字下げ] ≪沢田が平蔵の居間へ行くと、 「御苦労だが、今日は、役宅からはなれぬように」 「はっ」 「なれど、一同へおれがそう申したともらすなよ」 「は……」  これは、何か秘密の事件がある、と沢田は直感した。その事件に自分ひとりが選ばれたらしい。これはうれしいことだ。≫(「礼金二百両」) [#ここで字下げ終わり]  万事がこの調子なのである。単純といえば単純、まあ善き人といえば善き人である。  じゃあ、面白味のない人物かと問われたなら、「まあ、そういってもいいでしょう」と答えるほかない。  だが、沢田が「迷惑な正義の人」という印象がないのは、四角ばった堅苦しさのなかに、丸くくだける可笑《おか》しみを宿しているからだ。  沢田は、ときおり魔がさしてヘマをやったり、一時の感情に激して目が眩《くら》んでしまうということがある。だから厳密にいえば、沢田小平次は、たまにポカをやる真摯剛直な男、あるいは、ときおり誘惑に負けてしまうこともある真面目な男ということになる。  こう考えると、沢田小平次役はけっこう難しい役どころであるといわねばならない。簡潔な演技にくわえて、ユーモラスな味つけもまた同時に要求されている。  そのへんのところはどうだろうか。真田健一郎はうまくこなしているのだろうか。  私は、見事だ、といいたい。剣さばきだけでなく、相づちにしても真田健一郎は、ほぼ完璧に沢田小平次になりきっている。  たとえば、沢田小平次の相づちに「いやはや」というのがあるのをご存じだろうか(真田健一郎による「いやはや」を私は異常ともいえるほど愛している)。 「いやはや、忠吾も……」とやるのである。  この「いやはや」は、手もとにある国語辞典によると「おどろきあきれたときにいうことば」と定義しているが、これでは何もいっていないに等しい。 「いやはや」は、まず子どもはつかわない。大人の言葉である。ここへの言及がないといけない。  この言葉は、人知を超えた、いかんともしがたい運命の歯車に抗しきれないことを予感し、天を仰いで嘆いてみせるものの、こういうことってよくあることです、という大人としての諦観《ていかん》と判断を漂わせるときにつかうのである。  真田健一郎による、沢田小平次の「いやはや」は、もはや芸術的レヴェルにまで磨きあげられた珠玉の「いやはや」である。  この真情あふるる主観的な独白は、ひとり真田健一郎のものである。見ている者にそう思わせるほどの達成である。 「しかし……」というのもある。  文句をいいたいのだが、次の言葉をのんでしまうというアレである。  そこはそれ、沢田小平次であるからして、いうにいわれぬ葛藤がある。考慮と配慮によって導きだされた遠慮というものがある。  自分の意見はある、しかし、それを口にだしてしまっていいものだろうか、まあ、いい、いってしまえ、いや、だめだ、長官《おかしら》や佐嶋さまに向かってそんな図々しい真似はできない、やっぱり、やめておこう、と考えて、「しかし……」とだけいうのである。  うまい。真田健一郎はこの「しかし……」がじつにうまいのだ。  自己犠牲的なあの顔で「しかし……」とやられると、沢田小平次役はこの人しかないと思ってしまう。私は、この「しかし……」を聞くたびに顔面に笑みが浮かぶのである。 「いやはや」とか「しかし……」というセリフに少なからず精力を傾注している役者がいると思うと、それだけで私はしあわせな気分に浸れる。  いいぞ、沢田小平次。……じゃなかった。いいぞ、真田健一郎。 [#ここから1字下げ] (追記1)沢田小平次らしさをうまくだせたと真田健一郎が挙げるのは「雨引の文五郎」という作品。網を張っていたにもかかわらず、盗賊の頭《かしら》を取り逃がしてしまった沢田と忠吾。言い訳に終始する忠吾の傍らで、沢田はひたすら申し訳なさそうにしている。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] (追記2)新国劇における真田健一郎の舞台を見た池波正太郎は、その殺陣を「おそらく他の劇団、舞台では見られない」ほど「凄烈」だと述べたことがある。 [#ここで字下げ終わり]  多岐川裕美の久栄は女性も認めている[#「多岐川裕美の久栄は女性も認めている」はゴシック体]  かつて女房持ちのヒーローというのがいただろうか。  考えていただきたい。  いても少数だろう。  そもそもヒーローには独り身が似合う。女にはモテるが、所帯はもってないというのが理想だ。  かりに所帯をもっていたとしても、それはあんまりオモテにださないほうがいい。所帯じみた男にどんな女がふりむくというのか。  ところが、中村吉右衛門演ずるところの鬼平は、こんな定説をものともしない。むしろ、妻・久栄(多岐川裕美)と仲睦まじいことで視聴者に好感を与えている。  仲睦まじいといっても、「愛してる」「そう。うれしいわ」などとやるわけではない。言葉少なに会話するのみだ。 「ときに、腹がへっていよう。これ、久栄。おまさへ何か……」 「心得ておりまする」  この程度の短い会話をするだけだ。  すべては、|あうん《ヽヽヽ》の呼吸で結ばれているのである。  平蔵が「久栄」とだけいえば、それだけで久栄はなにからなにまで察知する。そしてこのひとことで心中にたくわえているこまやかな感情さえ互いに往復させてしまうのである。  たとえば、テレビ版「おみね徳次郎」の冒頭にこんな場面が映しだされている。  居間でくつろぐ平蔵と久栄。  庭から鈴虫の音が聞こえてくる。 「鈴虫が」と久栄。  平蔵は、「久栄」とだけ返す。  すると、久栄が蝋燭《ろうそく》のところに歩み寄り、やさしく息を吹きかけて火を消す。  鈴虫の鳴き声。  静かに庭を眺める二人。  と、こうくるのである。  この場面がなんともいいという女性がいた。何とはなしにゾクゾクするような悦びが背筋を走ったそうだ。彼女はビデオで繰り返しこの場面を見たという。そして、夫と妻が高次のレヴェルで精神的に結ばれており美しい、というのであった。  私にも「美しい」と映った。胸の底に灯がともったように安らかな気持ちになったのである。  なぜ、私の眼に美しいと映ったのか。  理由は三つある。  ひとつには、二人が以心伝心、|あうん《ヽヽヽ》の呼吸で結ばれているからである。  ふつう、なかなかこうはいかない。一般家庭においてはおおむね、「久栄」とだけいえば、わずかな沈黙ののちに「なによ。はやくいいなさいよ」と怒鳴られるのがオチである。あとは夫の舌がもつれて終わりである。  言葉より雄弁なものが夫婦のあいだを行き交《か》い、またそれが誤解や悪意と結びつかないというのは理想である。夫婦が|あうん《ヽヽヽ》の呼吸で結ばれているということはじつに美しいことなのである。  ふたつめは、二人の心が受け身になっているということだ。  トマス・アクィナスはその昔、「よきものは獲得するのではなく、授かるのだ」といったが、その言《げん》やよし、心が受け身になっているときにこそ、よきものは授かるのである。 「努力で獲得したものだけが尊く、また価値があるものだ」と考えるのは近代の傲慢であり、おめでたい錯覚である。  考えてみれば、自然も生命も境遇もすべて授かったものである。けっして自分の力で生みだしたものではない。  しかし、ともすると私たちは、自分という存在が授かった存在だということを忘れてしまいがちだ。  積極性、主体性、能動性ばかりに価値をおく日常では、受け身になってものごとを眺めるという情緒をないがしろにしすぎるきらいがある。  受け身になることで小さな恍惚感を手に入れることができる人こそ幸いである。感謝することの意味を知り、充実した落ち着きのある人生を送ることができるからだ。  受け身になることを知らぬ人間は、感謝することの意味も知らぬままに、あくせく働いて不満なだけだろう。  この夫婦が美しいのは、心を受け身にして鈴虫の鳴き声に耳を澄ませているからだ。おそらくこの二人には小さな恍惚感がおとずれ、おのずと感謝の気持ちが宿ったにちがいない。  さて、もうひとつは、はっきりいうが、中村吉右衛門と多岐川裕美の二人が演じているからである。  たとえば、これが梅宮辰夫と泉ピン子、武田鉄矢と西川峰子などという組み合わせなら、私は画面に向かってミカンの皮でもぶつけて、「自衛隊よ、出動せよ」と叫んでいただろう。  ここから導きだされる結論は、中村吉右衛門と多岐川裕美という組み合わせが素晴らしいということである。  多岐川裕美の久栄がいいのは、匂い立つような淑《しと》やかな印象をあたえつつも、自分の美貌や挙措《きよそ》にうっとりしないところだ。  湯呑みを盆にのせて楚々《そそ》とあらわれても、存在を控えめにしている。  演技派と呼ばれる美貌の女優は、ちょっとしたしぐさにしても、往々にして自分の手足をうっとりと眺めるようなところがあるが、この女優はそうした|なよなよ《ヽヽヽヽ》したところがまったくなく、意識のうえできっぱりと断ち切って演技しているような印象を与える。  着付けの手伝いをしても、世話する手つきのこまやかさを目立たせ、家政に明るいことをきちっと見る者に印象づけるような演技をしてみせる。すこぶる聡明である。また、それでいて、しぐさの一つひとつに艶《つや》があり、色香を漂わせている。  だから、久栄は多岐川裕美でOKだ。  セリフまわしもいいし、クスクス笑いも可愛い。身につけている着物の光量と色彩がやや過剰であることをのぞけば文句のつけようがない。吉右衛門と一緒に画面におさまる様子もフィルム的だ。  二人とも平蔵と久栄になりきっていて苦しゅうない。 「自分のことってよくわからないんです。他人のことはわかるけど。吉右衛門さんなんか変わりましたよ。鬼平の魂がほんとに入ってしまったみたい」(「ノーサイド」96・1月号)というのは多岐川裕美である。 「いやいや、あなたこそ」などという声が吉右衛門からも聞こえてきそうだ。  多岐川裕美が久栄であったために、女房持ちのヒーローという存在を多くの人が認めている。  多岐川裕美の久栄はもっと評価されてよい。彼女はたんなる小造りの艶《あで》やかな美人ではない。  でも、原作の平蔵はちょっと意地の悪いところがあり、こんなこともいう。 [#ここから1字下げ] ≪「久栄」 「はい?」 「ちかごろは……」 「ちかごろは、何でございます?」 「大分《だいぶん》に……」 「大分に?」 「肥えたな」≫(「毒」) [#ここで字下げ終わり]  願わくば、この場面をテレビで見たかった。  じっと見つめる梶芽衣子[#「じっと見つめる梶芽衣子」はゴシック体]  鬼平研究家の西尾忠久によれば、おまさの起用はテレビ放映を意識した市川久夫プロデューサーの発案によるものだという。  おまさは、記念すべき『鬼平犯科帳』第一巻の「浅草・御厩河岸《おうまやがし》」に登場してから、第四巻の「血闘」までのあいだ、チラリともその姿を見せていない。  全編をつうじて登場率七割七厘を誇るおまさが、前半のこれだけ長いあいだ欠場しているのはどういうことか。これには何かきっと訳がある。そこが気にかかった西尾忠久は、次のような推論をする。 『鬼平』のテレビ放映がはじまったのは、先代・松本幸四郎(白鸚《はくおう》)が鬼平をやった一九六九(昭和四十四)年十月である。そして、「血闘」(通算二十五話目)が『オール読物』に掲載されたのが、一九七〇年二月号である。つまり、テレビ放映と「血闘」執筆の時期が併走しているというわけだ。 「テレビ化にあたっては画面に色を添え、男性視聴者はもとより女性視聴者をも引きつける魅力的なヒロインが必要、とだれかが強く主張したのだろう……」  その「だれか」とは誰か。それは、松本幸四郎(白鸚)、丹波哲郎、萬屋錦之介、中村吉右衛門とつづくテレビ版「鬼平犯科帳」のプロデューサーを務めてきた市川久夫ではあるまいか。  そこで西尾は直接、市川久夫プロデューサーに訊いてみることにした。 「お察しのとおり」  西尾忠久の推測どおり、市川久夫がヒロインの起用を原作者・池波正太郎に進言していたのである。  それで、おまさが復活した。 [#ここから1字下げ] ≪小肥りな少女だったおまさは、すっきりと〔年増痩《としまや》せ〕していた。肌は、江戸の女の常で浅ぐろいが荒れてもいず、身なりもきちっとしてい、黒くてぱっちりとした双眸《りようめ》と|おちょぼ《ヽヽヽヽ》口がむかしのおもかげをやどしていた。≫(「血闘」) [#ここで字下げ終わり]  こうして、おまさが再び『鬼平犯科帳』に戻ってきた。  おまさは、初代が冨士真奈美、次が野際陽子、それから真木洋子、そして現在の梶芽衣子と引き継がれてきたわけだが、年増痩《としまや》せして、肌は浅ぐろく、おちょぼ口で、黒くてぱっちりとした双眸《りようめ》とくれば、やはりこのなかでは梶芽衣子に軍配をあげざるをえない。  池波正太郎は冨士真奈美を「まさに適役のおまさ」といったらしいが、私は冨士真奈美のおまさを知らないので、容貌と外見で強引に梶芽衣子を贔屓《ひいき》にする。  さて、梶芽衣子のおまさだが、その魅力はなんといっても「瞬きをせずにじっと見つめる双眸《りようめ》」にある、とファンの多くはいう。あの大きく見開いた双眸がいいのだと。  そして、あの「思いつめたような双眸」こそが、おまさの内面の葛藤をあらわしているのだとつけくわえる。  そうだろうか。  たしかに、梶芽衣子の眼は大きくて、ものいう眼だ。いつも炯々《けいけい》として光っており、大きく見開けばもの哀しくなり、眼に力をこめれば「必死の眼《まな》ざし」になる。なるほど、そういう眼をしている。  じっさい注意して見ると、こまやかな思いを心中にたくわえていることを相手に知らせる眼をしているととれないこともない。 「依頼心の強い人は黙して視線を合わせたがる」というのは私の持論だが、その意味でいえば、平蔵を信頼敬慕しているおまさが平蔵に「黙して視線を合わせたがる」のはよくわかる。  だが、梶芽衣子の場合、視線の合わせ方が、いささかあからさまにすぎるように思う。凝視の仕方があまりに露骨だ。口調は丁寧だが、眼は挑みかかっているように見える。密偵であることを考えれば、もっとうつむきかげんでもいいのではないか。  黙して視線を合わせることが、演技と美貌における自信のあらわれと映ってしまっては逆効果だ。そこへの配慮があっていい。  あんまりやりすぎると、「愁《うれ》いを秘めた思いつめた双眸」は、「自信と余裕と虚飾に満ちた双眸」になってしまうおそれがある。気をつけていただけたらと思う。  発声、抑揚、しぐさは申しぶんない。  原作の行間を読んだその演技は、拝みたくなるほどの達成である。丁寧だし律儀である。たぶん梶芽衣子という女優は、原作や脚本を繰り返し読むのであろう。入念さ、周到さをそこかしこの演技に感じる。脚本から人物が立ち上がっているかのようだ。だから平板な演技に陥るということはない。おまさは、心が高揚すると逆に言葉に抑制がはたらくタイプの女であるが、梶芽衣子はそのへんのところをじつによく読み込んで、きめ細かく演じている(たとえば「女密偵・女賊」を見てみるとよい。「勘弁しておくれ、お糸さん。勘弁しておくれ」の場面は、おまさが梶にのりうつったようで、シリーズ屈指の名場面となっている)。  難をいえば、化粧の濃さか。メリハリが利きすぎている。もともとがはっきりした顔立ちだから、化粧は気持ち程度にしたほうがいいのではないか。紅《べに》はなるたけささないほうがいい。ときおり、薄い紅で登場するときがあるが、あれくらいがちょうどいい(なんか俺、小舅《こじゆうと》になったみたいだ)。  さらにもうひとつ難点をあげさせてもらえれば、立ち回りというか、刃物のよけ方がぎこちない。あまりにも早めに防御の手を準備してしまっている。あれでは、周囲を味方につけているというか、敵に助けられているといわれても仕方ない。  昔からそうだったかな。気になったので、梶芽衣子が出演しているビデオを片っぱしから借りてきて見てみた。  やはりぎこちない。『修羅雪姫』(「しゅらゆきひめ」と読む。笑えるタイトルだ)など、カメラワークに助けられてさほど気にならないのもあるが、全体的にいうとやはり、つたなさが目立つ。とっくみ合ったり、もみ合ったりするときが、どうもいけない。腰はひけてないが、刃物が泳いでしまっている。ここが今後の課題である。  さて、梶本人は、おまさ役をどう思っているのか。  いろいろ調べたが、コレという具体的な発言は何もしていない。  また、梶はバラエティー番組やトーク番組にまったくといっていいほど出演しないから、番組の裏話なども何ひとつ伝わってこない(一度ぜひインタビューをしてみたい)。  わかったのは、薬草風呂に入って花粉症を撃退したということや、西麻布にあるラ・フェドールのりんごゼリー「パリソワール」が好きだということ。あとはおしゃべり仲間が泉ピン子ということぐらいだ。  そのかわりといってはなんだが、梶芽衣子の「鬼平」にかける意気込みを次の発言で感じとっていただこう。 「撮影に入った時は専念したいと思って、掛け持ちは一切しません。オーバーなことじゃなく、命をかけてやろうと」(『「鬼平」を極める』94・5 フジテレビ出版)  これくらい梶芽衣子は、おまさ役に惚れ込んでいる。  うれしいな。  それから、梶芽衣子の本名が雅子《まさこ》というのも、鬼平ファンをいたく泣かせるところである。 [#ここから1字下げ] (追記)梶芽衣子は、テレビ「鬼平犯科帳」の終了に際し、「私の四十代は『鬼平』とともにありました。この年で女として演じられるすてきな役に巡り合えたのは、本当に幸運」と語っている。テレビ画面から受けた印象をいわせてもらえば、梶芽衣子がもっとも誠実にこの作品に取り組んできたし、またその誠実さを最後まで失わなかったように思う。感謝。 [#ここで字下げ終わり]  蟹江敬三の「前世」は、小房の粂八ではなかったか[#「蟹江敬三の「前世」は、小房の粂八ではなかったか」はゴシック体]  蟹江敬三(小房《こぶさ》の粂八《くめはち》)は、どんな場面でも、何かやっている。丁寧に観察すると、「うーん。ここまでやるか」と感心したくなるほど、その芸はこまかい。  尾行を開始するときは「いきまっせ」という感じで右手の人差し指で耳をかいてみせるし、照れるときは風邪をひいているわけでもないのに鼻をすすったりしている。だから、「しかしあれだな、とっつぁん」と彦十に話しかけるときであっても気が抜けない。じっさい注意深く見てみると、折り入った話かそうでないかを、胡座《あぐら》のかき方ひとつでさりげなく伝えていたりする。  画面の片隅で沈黙しているときでさえもそうだ。映しだされる自分を緻密に計算して押し黙っている。あるときは獣のような暗い光を瞳に宿しながら、またあるときは小鳩《こばと》が驚いたときのような表情をつくって、口をつぐんでいる。  誰もが指摘するように、蟹江敬三は芝居巧者である。とりわけ、沈黙、憤怒、嘲笑、嫉妬、復讐心といった「負の感情」をあらわすときにその技量を発揮する。「どの表情やしぐさにも不幸がしみついている」という感じだ。それくらい精妙な演技を見せる。  さて、蟹江敬三の粂八である。やはりうまくこなしている。映画『犯す!』や『十九歳の地図』などで見せたアクの強い演技もそれなりによかったが、粂八役の蟹江敬三を知るいまとなっては、粂八役こそが彼のはまり役だとおごそかに申し述べたい。  最初に登場したときから、蟹江敬三の粂八はもうできあがっていた。いきなりでてきて、すでに完璧であった。  あれは忘れもしない「血頭《ちがしら》の丹兵衛《たんべえ》」でのことだ。素袷《すあわせ》の裾を端折《はしよ》り、旅籠《はたご》の番傘をさして、冷たい雨のなかを急ぐという場面があるのだが、それはもう、粂八はこの役者以外には考えられないと思われるほどにピッタンコであった。  素袷の裾の端折り方がまさに粂八だったし、番傘のさし方もまさしく粂八だった。水たまりを跨《また》ぐ所作も粂八ならば、首をすくめて猫背にする恰好も粂八そのものだった。この場面は物語のうえでべつだん�見どころ�というわけではないが、思わず「粂八だ」と私につぶやかせるほどリアルであった(私のなかで実在する粂八にリアルであるという意味)。  くわえて蟹江敬三が、小房の粂八と同様、「苦味《にがみ》の利いた顔貌《がんぼう》」(「血頭の丹兵衛」)だということも私をひどくよろこばせる。蟹江敬三は、はっきりいって、ヤキの入った不敵な面構《つらがま》えをしている。地顔がそもそも因縁をつけたがっている顔だ。「苦味の利いた顔貌」とは、具体的に言いなおせば、そういう顔である(いわれのない因縁であろうが、蟹江敬三に「東京生まれ」は似合わない。願わくば岡山の山奥あたりで生まれてほしかった。それも農家の四男坊あたりがいい。どう見たってあの顔は辺境最深部から中央を撃つ顔だ)。  で、「苦味の利いた顔貌」をもつ者は、じっくり観察してみるとわかるのだが、「せせら笑い」をその特徴としていることが多い。 「せせら笑い」といえば、これまた蟹江敬三である。蟹江の「せせら笑い」は、幾千語にも匹敵するほど、とはいわないが、ひじょうに雄弁である。  蟹江敬三を知る者ならば、彼の「せせら笑い」を記憶に宿しているであろう。殺気を孕《はら》みながらも唇の端だけでフンと笑う、あの左右非対称の「せせら笑い」である。「せせら笑い」をさせたら、蟹江敬三の右へでる役者はそうざらにはいない、と私はふんでいる。  粂八は、蟹江敬三によってひとつの達成をみたといってもよいであろう。粂八を演じきるこれ以上の俳優は、おそらく今世紀中葉まではでてこないと断言できる。  その蟹江敬三の演じる粂八のなかで、忘れがたい名場面がひとつある。それは、一九八九(平成元)年八月二日放映の「血頭の丹兵衛」のなかで静かに起こった。  なんと中村吉右衛門(平蔵)と島田正吾(蓑火《みのひ》の喜之助《きのすけ》)、そして蟹江敬三がひとつ画面におさまってしまったのだ。この名優三人があつまって何かが起きないはずはない。互いの表情のやりとりだけで、テレビ「鬼平犯科帳」のなかでも屈指の名場面になっている。  わけても、島田正吾の演技が圧巻だった。  蓑火の喜之助は、平蔵が密《ひそ》かに一目《いちもく》も二目もおく大盗賊なのだが、島田正吾はその最大公約数的姿を演じきって何から何まで見事であった。髪の垂れ具合、声のだし方、足の運び方、どれをとっても「ははあ」と平伏したくなるほど隙《すき》がなかった(願わくば、もう少しの時間だけ見ていたかった)。  で、蟹江敬三だが、中村吉右衛門と島田正吾という稀代の名優二人をまえにして、互角に勝負しているのである。二流、三流の役者は、一流の役者のまえにでると、その未熟さが露呈するとよくいわれるが、蟹江敬三は、中村吉右衛門や島田正吾のまえにでても、ちっとも見劣りしない。  無茶な話を承知でいうが、蟹江敬三は粂八を演じるために生まれてきたのではないか。幼稚園のときも、高校生のときも、ひたすら粂八になるためだけに存在してきたのではないか。いや、蟹江敬三の「前世」は、小房の粂八ではなかったか。そう思わせるほどに粂八役は蟹江敬三にピッタンコである。  いなせな三浦浩一[#「いなせな三浦浩一」はゴシック体]  三浦浩一が旬《しゆん》である。三浦浩一の伊三次《いさじ》を知るいまとなっては、伊三次はこの役者以外に考えられないほどだ。ほぼ完璧にこなしているといっていい。  何がいいかって、颯爽《さつそう》としていて、いなせなところがいい。  原作を読むと、伊三次には「狼は生きろ。ブタは死ね」をモットーに生きたという感じが漂うが、三浦浩一はそういう捨て身の男がもつ磨きあげた男の色気とでもいうべきものを、じつに見事に表情やしぐさに浮かびあがらせている。そしてまたそれがいなせに映る。  いなせな男とは、無欲捨て身の孤独の底にあって自嘲気味に自分をフッと笑うことを知っている男だが、三浦浩一はそういう役どころがじつによく似合う。  ニヤける顔がまずいい。左斜めまえに首をかしげ、口もとをちょっとひきつらせるというのをよくやるのだが、ワルな感じが存分に醸しだされてよい。サギ師としての素質があり、またスケコマシとしての才能もあるのだけど、そっちのほうにはいかなくて、ぎりぎりのところでふんばっているという感じをうまくだしている。  走る姿もさまになっている。脇をキチッとしめず、腕を左右に開くかたちでふくらませて走るのがいい。  画面の脇に佇《たたず》むときも見逃せない。優柔不断に立っていないし、弛緩《しかん》した表情も一度として見せていない。  背景とのかかわりもいい。月明かりをうけて自分がどう映しだされているかに配慮があるし、岡場所あたりのちょうちんの遍照《へんしよう》をうけるときの自分もきちっと計算している。  雨が降りやんだ翌朝のようなすがすがしさも魅力である。青い縦縞が入った着流しの襟を正し、涼しい眦《まなじり》で平蔵を見つめるたたずまいは、薄青い紫陽花《あじさい》のようだ。  いいぞ、三浦浩一。  けなすために褒めたわけではないが、これまで放映されたもので気に入らなかったのは二つだけだ。  まず、「密告」のセリフまわしがいただけなかった。棒読みになっているところがあった。「密告」だけはいつもの三浦浩一じゃなかった。セリフをきちっと覚えていないような印象をうけた。  それから「五月雨坊主」のときだ。鏡に「ばか」と練り白粉《おしろい》で書く場面があるのだが、あまりにも文字を書き慣れているという感じがした。伊三次が文字を書くことに達者なわけはない。もうすこし、戸惑いとぎこちなさがあってよかった。  あとはすべていい。  わけても「五月闇」の演技がとりわけ素晴らしかった。「五月闇」については別稿で述べたので詳しくは書かないが、死の淵にあって、暗澹たる無明《むみよう》の世界へ吸い込まれそうになるのを堪《こら》えながら、うつろな眼で自分という人間を回想するときの伊三次は、徹頭徹尾、伊三次その人であった。  なかでも「暗いな。やけに暗いじゃねぇか……まだ、雨が、降ってるのか……」とつぶやくシーンは忘れがたい(中西龍による「伊三次は、まだ生きていた。医者の来診が遅れ、断続的に襲う激痛に、いくどか意識を失ったが、伊三次は、まだ生きていた」というナレーションも忘れがたい)。  忠吾とのやりとりも格別だった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] ≪忠吾「焦るな、伊三次。なぁ、今度の手柄は、彦十の爺っつあんにゆずってやれ。なぁ?」  伊三次「そんな、くだらねぇ話じゃありませんよ」  忠吾「……!? な、なにぃ?」  伊三次「盗人が背負ってる傷の深さは、木村さん、あんたみてぇな苦労知らずのお人にはわからねぇ。(立ち上がり、表障子をあけて)さ、帰《けえ》っておくんなさい」  忠吾「……!?」  伊三次「帰《けえ》れといってんだ!」  忠吾「……なんだ!」(目を丸くし、口をとがらせて出ていく)≫(「五月闇」テレビ版) [#ここで字下げ終わり]  この場面はほとんど感動的といってよい。  といいつつも、他の作品にくらべ、私は「五月闇」をそんなに見ていない。三回だけだ。見るたびに自分が伊三次の死に加担しているような気がするからだ。何もしてやれない自分自身が伊三次殺しの共犯者になるようで、なんとも気が重くなるのだ。視聴者にそこまで思わせる演技をした三浦浩一はじつにたいしたものである。  で、その死んだ伊三次が「五月雨坊主」で復活した。「五月闇」をやることは、伊三次をもう「鬼平」に出演させないということだと思っていた私にとっては、まだわだかまりが残っている。理屈ではわかっても気持ちがおさまらないのだ。  綿引勝彦は大滝の五郎蔵をもこなす[#「綿引勝彦は大滝の五郎蔵をもこなす」はゴシック体]  大滝《おおたき》の五郎蔵《ごろぞう》は、大盗・蓑火《みのひ》の喜之助《きのすけ》のもとで|みっちり《ヽヽヽヽ》と修業をつんだ盗賊で、のちに火盗改メの密偵になった男である。  密偵の粂八《くめはち》は、大滝の五郎蔵とはどんな男か、と平蔵に問われたとき、自分自身が公儀《おかみ》の密偵であるということも忘れ、思わずこんなふうに口をすべらせている。 「へい、この五郎蔵どんというのは、蓑火の親分にみっちりと仕込まれただけあって、そりゃもう、何から何まで、立派なもので……」  むべなるかな。粂八がこういうのもよくわかる。  五郎蔵はちびた小物ではない。大盗・蓑火の喜之助のもとで修業をつみ、独立をゆるされて頭《かしら》になったほどの男である。いっときは四十人ほどの盗賊を束ねる大親分であった。いわば盗賊界のサラブレッドであったわけである。  むろん、そういう盗人であったから荒っぽいお盗《つと》めはしない。殺《あや》めず犯さず、盗まれて難儀するところからは奪わず、という三カ条の掟を守ってきれいに仕事をしてのける。またそうであるから、これといった盗人《ぬすつと》からの信頼は厚く、一目《いちもく》も二目も置かれていた。  だが、五郎蔵には大きな欠点があった。盗人としてやっていくには致命的な欠点がひとつあったのである。それは、情《じよう》にもろいことだ。五郎蔵は、義理には厚いが、情にはもろかったのである。情にもろいことは、盗人稼業をつづけていくうえでは致命的である。  いうまでもなく、盗賊の世界は、非情の世界である。義理には厚くていいが、情にほだされてはいけない。情にほだされるような盗人は、いつなんどきどんな大失敗をしでかすかわからないからだ。そして、その情にもろいところがやはり徒《あだ》になった。平蔵にそこを見破られて、密偵にされてしまったのである。やさしさとか思いやりをかけられると、過剰とも思えるほどに感奮して号泣する五郎蔵に、盗賊稼業はやはり向いていなかったというべきであろう。  さて、綿引《わたびき》勝彦である。大滝の五郎蔵をこなせる役者は、原作に照らし合わせていうと、みっしりと肉がついた巨漢であり、五十をこえて押しだしがあって、涙が似合う男ということになる。  誰が指名したのか知らないが、綿引勝彦に白羽の矢を立てたのは慧眼《けいがん》である。綿引勝彦はどう贔屓《ひいき》目にみても二枚目の役者とはいいがたい。というか、よく見ると大砲の玉みたいでけっこうワイルドな風貌である。だが、役者としては一流である。  まず視線が入念である。木の実のような小さな目であるのに、目つきが雄弁である。「敵《かたき》」を見ていただければ一目瞭然なのだが、くまなく全体を見まわす目つきがいいし、数人で話しているときの、それぞれへ向ける目くばりが十全である。とくに、「目に光がない」というか、心ここにあらずというときのどんよりとした鈍色《にびいろ》の目が絶品である。輝きを失った目というのがとくにいいのである。  また、「ふたり五郎蔵」と「掻掘《かいぼり》のおけい」の二つを見れば納得していただけると思うのだが、落ち着いて諭すセリフもよければ、棒をのんだような素頓狂な声をあげるのもうまい。なんにつけてもこの役者は塩梅《あんばい》というものを知っているのである。  いったいこの役者は何なんだろう。何をやっても明晰に演じきってしまう。密偵・五郎蔵をやっても子持ちのサラリーマンをやっても何でもこなしてしまう。痴漢やヒモだってうまそうである。やくざや借金の取立人もうまそうだし、オカマだって見事に演じそうだ。まさに日本のロバート・デ・ニーロといったところである(ちょっとホメすぎか)。  たとえば、「掻掘のおけい」を見てみよう。  うどんを食《しよく》しながら、かつて配下であった砂井の鶴吉(沖田浩之)の言葉に耳をかたむける場面があるのだが、沈黙をしているときでさえも、名優としての本《ほん》だしの香りを漂わせている。その沈黙は三流の饒舌俳優よりも多くのことを伝える沈黙であった。  また、鶴吉の語る言葉に驚いて、食したうどんを「ブッ」と吹きだす場面があるのだが、これにいたっては溜め息がでるほどの見事な出来ばえであった。  ひとつだけ文句をいわせてもらうなら、声量にある。ふだんは鷹揚《おうよう》な愛すべき大声に聞こえるのだが、むやみに大声だ、と感じるときがある。舞台してしまっているのである。ときにささいなことも大仰なものに感じられるというきらいがある。そこだけが難点といえば難点だ。  五鉄の三次郎を演《や》る藤巻潤も善き人である[#「五鉄の三次郎を演《や》る藤巻潤も善き人である」はゴシック体]  五鉄とはいい名である。  小説のなかにでてくるように〔五鉄〕と括《くく》ってみると、頑丈さがでてなおいい。 「あれは、僕らの子供の頃、〔五鉄〕という名前の小さな店があったんですよ。本所じゃありませんけど」  池波正太郎は、江国滋との対談で〔五鉄〕がじっさいにあった店だと述べている。  さて、この武骨な名をもつ軍鶏《しやも》鍋屋に善き人がいる。  ご存じ、三次郎である。三次郎は誠実で実直な男である。陰《かげ》ひなたのない善き人である。  で、「陰ひなたのない人」というのは、往々にして影が薄いものである。三次郎もその例にもれない。だから、とりたてて評するほどの人物でもなかろうが、私はこの三次郎役を演《や》る藤巻潤が、えもいえず好きなのである。  まず演技に押しつけがましいところがなくて好感がもてる。言い換えれば、演技に衒《てら》いというものがないのである。長いセリフはないが、きちっと見せるし、しっかり聞かせる。  三次郎のセリフですぐに浮かぶのは、「長谷川さま」である。  平蔵を認めるや、掛けていた|たすき《ヽヽヽ》をはずして、「あ、これは長谷川さま」という。「もう、わかってるっちゅうに」といいたくなることもしばしばだが、ああも頻繁にいわれると味わいがでてくる。見聞きしたものを口にだしていわないと気がすまないタチなのか。 「さあさっ」もこの人の口ぐせである。料理や酒をすすめるときや、人を店に招き入れるときに「さあさっ」とかならずいう。「もう、わかってるっちゅうに」とここでもいいたくなるが、ああもしつこくいわれると、やはり味わいがでてくる。  無言で、二階へ|あご《ヽヽ》をしゃくるしぐさも見逃せない。彦十やおまさに「長谷川さまがもう来てますよ」と無言で知らせるときにこれを使うのだが、何度見ても、どういうわけか飽きない。  藤巻潤は、「あ、これは長谷川さま」と、「さあさっ」と、|あご《ヽヽ》しゃくりの三つでその存在を誇示している。すごいといえば、すごい。脇役とはこうでなくてはならない。  藤巻潤は、見るからに脇役が似合う男である。体力は主役並みにありそうだが、やはり脇役がよく似合う。昭和四十年代の半ばに人気テレビ番組だった「ザ・ガードマン」に出演していた頃からそうである。主役の宇津井健のうしろにいたという印象ばかりがある。  藤巻潤はこれまでに主役をやったことがあるのだろうか。画面で見ているかぎり、主役を狙おうという意欲をまったく感じさせないが、藤巻潤はそれでいい。いまのままでいてほしい。  また、見るからにやさしそうな人でもある。じっさいはどうだか知らないが、テレビを見ているかぎり、万事に控えめで、遠慮がちに生きているような、そんな印象をあたえる人だ。  そういえば、あるテレビ番組で「奥さまのことをいつも何とお呼びしているのですか」というレポーターの質問に、「すいません、です」といったのには笑えた。家庭でも脇役なのか。 [#ここから1字下げ] (追記)藤巻潤はアデランスをやめたほうがいい。ショーン・コネリーがカツラをとって人気を復活させた役者なら、藤巻潤はカツラをつけて注目をあつめた役者である。しかし、あれは似合わない。むしろ、坊主頭のほうがよく似合う。以前どこかで坊主頭の役をやったのを見たことがあるのだが、とてもよく似合っていた(ショーン・コネリーに似ていなくもなかった。嘘ではない)。どうしてもカツラをつけたいというのなら、いかにもカツラをつけていますというような、あの|もっさり《ヽヽヽヽ》とした暴力的なカツラだけはやめてほしい。 [#ここで字下げ終わり]  「密偵たちの宴」は何度も見るべし[#「「密偵たちの宴」は何度も見るべし」はゴシック体] 「ほんとうにいいものを見させていただきまして」という気分にさせていただいた。  一度見て興奮し、二度目で陶酔し、三度目には耽溺した。四度目以降は、初孫をあやす爺さんの気分でこの作品を溺愛している。  いい役者があつまって、しのぎをけずり合うとこういう傑作ができるんだな。プロフェッショナルの仕事とはこういうのをいうんだな。テレビ版「密偵たちの宴」はそう思わずにはいられない作品である。思わず合掌したくなるほどの出来ばえだ。  テレビ「鬼平犯科帳」に登場する密偵たちは芝居巧者ぞろいである。おまさに梶芽衣子、五郎蔵《ごろぞう》に綿引勝彦、粂八《くめはち》に蟹江敬三、彦十《ひこじゆう》に江戸家猫八、伊三次《いさじ》に三浦浩一とくる。麻雀にたとえていうと、まさしく天和《てんほう》。最初に配られた牌《パイ》を見たら、魂消《たまげ》たことにもうあがっていた。まさにそんな感じの配役だ。  梶芽衣子と三浦浩一の二人がきりっとした合理主義的とでも呼びたい顔貌をもち、綿引勝彦と蟹江敬三、そして江戸家猫八の三人衆がのほほんとした農耕的な顔をしている。この融合もいい。これも天の思召《おぼしめ》しである。  そんな彼らが活躍する「密偵たちの宴」が面白くないはずはない。細部まで検証していうのだが、この作品はシリーズ最高傑作の出来ばえである。  物語は、密偵たちが久しぶりに興趣を深めようと宴会を開き、酒が入り、いい気分になってきたところからはじまる。  話題は当然、お盗《つと》めのことになり、このところ横行する急ぎ盗《ばたらき》はけしからんという展開になった。盗《つと》めの芸を重んじることなく、殺傷を行ない、金品を強奪するだけの急ぎ盗《ばたらき》は、畜生|盗《ばたらき》も同然、盗人の風上にもおけない、というわけだ。  そしてここから話はじりじりとすすみ、そうした急ぎ盗をやる盗賊どもに本格的な盗みの手本を見せてやろうじゃないかということになった。  盗んだ金はまた元どおりに返せばいい。  そうすれば、悪事にはならない。  金貸しの医者・竹村|玄洞《げんどう》(戸浦六宏)のところを狙うのはどうか。  世間の評判も悪いし、狙うのだったらあそこがいい……。  そうと決まれば、話は早い。五郎蔵を頭《かしら》に、彦十、粂八、伊三次たちが「独自の機動性」を発揮して動きはじめた。彼ら密偵たちが血を沸き立たせたのはいうまでもない。昔取った杵柄《きねづか》というやつで、生き生きとそつなく動きまわった。むろん平蔵は、密偵たちの、この神をも恐れぬ計画を知らない。  結果、お盗《つと》めは見事、成功した。  しかし、やはりというべきか、残念ながらというべきか、ひとり平蔵だけはこれに気づいたのであった。  密偵たちが祝宴をあげている場にひょいと顔をだした平蔵。かしこまる密偵たちをまえにして、帰り際《ぎわ》、叱るでもなく責めるでもなく、さりげない口ぶりでそのことを告げるのであった。  密偵たちが魂消たのはいうまでもない。互いに顔を見合わせることも忘れ、ただただ茫然とするのみであった。  さて、このときの粂八(蟹江敬三)の表情である。目をむいて口をゆがめるのだが、その表情に私は一気に「苦しゅうない」状態になってしまった。  伊三次(三浦浩一)もそうだ。まさに「顔色をうしなった」という表情をうまくだしていて完璧であった。  この「止まった時間」を破ったのは、おまさ(梶芽衣子)である。  誰よりもまずはじめに我に返ったおまさが、頭に血をのぼらせてこういうのである(このときの梶芽衣子の、そのただならぬ顔つきには度胆を抜かれる)。 [#ここから1字下げ] ≪それごらん。それごらんな。だからあたしは、はじめっから嫌だっていったんだよお。あしたからどんな顔して長谷川さまの前にでりゃあいいんですよ。何とかいったらどうなんだい、五郎蔵さん、彦十のおじさん、粂さん、伊三の次。みんな何を黙ってやがるんだよ、ばかやろ。女のあたしにこんなにいわれても悔しくないのかよ。……よおし、もうこうなったら酔いつぶれるまでのんでやる。どんなになったって知らないからね。≫(「密偵たちの宴」テレビ版) [#ここで字下げ終わり]  おまさが爆発した。沈黙に堪えかねて、おまさがまくしたてた。他の密偵たちの�暴走�を止められなかった無念さと、その暴走に目をつむった自分の愚かさとが怒濤《どとう》のごとく押し寄せてきたのだった。  日頃は冷静なおまさだけに、この場面は見ものであった。いやあ、梶芽衣子はうまい。じつに、キメている。 「それごらん。それごらんな……」から、「よおし、もうこうなったら酔いつぶれるまでのんでやる。どんなになったって知らないからね」までのおよそ三十秒は、圧巻という形容がふさわしい。つぶやくようにクダを巻いてから息をつかせず一気にまくしたてるのであるが、何度見ても圧巻である。  そして、このおまさの言葉を聞いて、彦十(江戸家猫八)が重い口をあける。 「まったく、どうも……。こうなったら何もかも忘れて|のむ《ヽヽ》よりほか手はねえな」  彦十は、やはり彦十である。のむしかないという彦十らしい決着をつけている。仕方ないといえば仕方ないが、やはりここにおよんでも彦十は|のんき《ヽヽヽ》である。  注目は、この悪事の頭《かしら》をつとめた五郎蔵(綿引勝彦)である。  どんな反応でこれに応じるのか。  彦十の「こうなったら何もかも忘れて|のむ《ヽヽ》よりほか手はねえな」をうけて、五郎蔵はほぼ間髪を容れず、「そうだとも。きょうはのんでのんで、くそぉ、いいか、みんな、いくら反吐《へど》をはいてもな、横にさせねぇからそのつもりでいろ。酒だ、酒だ、おい、酒屋ごとひっかついでもってきやがれ」と、こうである。  やはり、キメている。おまさも圧巻だったが、五郎蔵もド迫力で押しまくっている。  綿引勝彦は、いざというときにはキメるのだ。いやいや、この役者はいざというとき以外でもキメている。  そもそもこの役者、むやみにでかい顔なのに(関係ないか)、どこか知的な雰囲気を漂わせ、どんな役でもこなしてしまう。五郎蔵役でもそうである。なんなくこなしている。  重戦車を思わせるガタイをもちながらも動作が素早いというのも、いかにも五郎蔵っぽい。盗賊のお頭《かしら》であったという過去も、落ち着いた物腰のなかにうまく醸しだしている。  綿引勝彦の五郎蔵は、柔和な笑みを浮かべながら鋭い眼光を周囲に向けることを得意とするのだが、この「密偵たちの宴」でもスッとぼけながらも、得意の�目くばり�は忘れていない。  しかし、この目くばりも今回ばかりは利かなかった。最後の最後で�事件�の首謀者として平蔵に首ねっこをつかまえられるのである。  さきほども見たように、この密偵たちのお盗《つと》めは不意をつかれるかたちで平蔵に指摘されるのだが、そのときの五郎蔵の表情といったらなかった。瞬間、動作が止まり、鳩のようなキョトンとした目つきをするのだが、見事見事見事であった。  そしてそのあと、「そうだとも。きょうはのんでのんで、くそぉ、いいか、みんな、いくら反吐《へど》をはいてもな、横にさせねぇからそのつもりでいろ。酒だ、酒だ、おい、酒屋ごとひっかついでもってきやがれ」とこうヤケになって叫ぶのだが、とりわけ「酒だ、酒だ、おい、酒屋ごとひっかついでもってきやがれ」の部分がド迫力である。大声がいいし、手の動きがいい。  綿引勝彦は期待を裏切らなかった。というより、期待以上のはたらきをしてくれた。 「密偵たちの宴」は五郎蔵がしまらなければ、しまらない作品になる。綿引勝彦は脚本の期待に見事にこたえている。  そうそう、この人にもふれておこう。密偵の豆岩《まめいわ》(青木卓司)である。テレビ版ではお馴染みではないが、小粒ながら山椒になっている。彼もまた、この作品に貢献した一人として名を挙げておきたい。  忘れてはいけない人がいた。吉右衛門である。この作品の最後で吉右衛門が少女のように首をすくませて舌をペロッとだすシーンがあるが、これも吉右衛門らしい愛嬌がでていて、チャーミングであった。 「密偵たちの宴」は、脚本、演出が素晴らしく、極上の仕上がりである。まだ見てないという人はビデオがでているので、ぜひとも見ていただきたい。顔だけでなく、胃袋や肝臓までもニコニコするはずである。  「鬼平賞」発表[#「「鬼平賞」発表」はゴシック体] 「鬼平賞」の発表をします。すべて独断で決めました。 「作品賞」「助演男優賞」「助演女優賞」「ワースト俳優」の順に発表します。  主演男優賞と主演女優賞を発表しないのは、候補者が中村吉右衛門と多岐川裕美以外にありえないからです。  では、まず「作品賞」からです。  三作品選びました。  対象となった作品は、第一作目の「暗剣白梅香《あんけんはくばいこう》」(89・7・12放映)から最終作品「鬼平死す(さらば鬼平犯科帳スペシャル)」(98・6・10放映)までの全百三十三作品です。  それではまず、候補作の紹介です。次の二十六本が受賞候補作に決まりました。  放映順に発表します。カッコ内はその作品のゲストであったり重要なはたらきをした俳優さんたちです。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  1「本所《ほんじよ》・櫻屋敷《さくらやしき》」(江守徹・萬田久子)  2「血頭《ちがしら》の丹兵衛《たんべえ》」(蟹江敬三・島田正吾・日下武史)  3「血闘《けつとう》」(梶芽衣子・磯部勉)  4「狐火《きつねび》」(梶芽衣子・速水亮)  5「兇剣《きようけん》」(藤岡啄也・長谷川真弓・井川比佐志)  6「笹《ささ》やのお熊《くま》」(北林谷栄・江戸家猫八)  7「盗法秘伝《とうほうひでん》」(フランキー堺)  8「浅草《あさくさ》・御厩河岸《おうまやがし》」(本田博太郎・浅利香津代)  9「むかしの男《おとこ》」(多岐川裕美・鹿内孝)  10「山吹屋《やまぶきや》お勝《かつ》」(風祭ゆき・森次晃嗣・菅貫太郎)  11「敵《かたき》」(綿引勝彦・江守徹・浜田寅彦)  12「雨《あめ》の湯豆腐《ゆどうふ》」(清水健太郎・黒田福美・大出俊)  13「流星《りゆうせい》」(蟹江敬三・犬塚弘・金田龍之介)  14「殿《との》さま栄五郎《えいごろう》」(長門裕之・鳳八千代・中谷一郎・高橋長英・橋本功)  15「おみね徳次郎《とくじろう》」(宮下順子・峰竜太・小松方正)  16「本門寺暮雪《ほんもんじぼせつ》」(夏八木勲・草薙幸二郎・菅田俊)  17「雨乞《あまご》い庄《しよう》右|衛門《えもん》」(田村高廣・江守徹・小野進也)  18「熱海《あたみ》みやげの宝物《たからもの》」(いかりや長介・江戸家猫八)  19「妙義《みようぎ》の団《だん》右|衛門《えもん》」(財津一郎・菅原謙次)  20「おみよは見《み》た」(近藤正臣・吉沢梨絵・草薙幸二郎・永井紀子)  21「密偵《みつてい》たちの宴《うたげ》」(綿引勝彦・梶芽衣子・蟹江敬三・江戸家猫八・三浦浩一・青木卓司・戸浦六宏)  22「討《う》ち入《い》り市兵衛《いちべえ》」(中村又五郎・下川辰平・江戸家猫八)  23「土蜘蛛《つちぐも》の金五郎《きんごろう》」(遠藤太津朗・赤塚真人・尾美としのり・竜雷太)  24「艶婦《えんぷ》の毒《どく》」(山口果林・尾美としのり)  25「迷路《めいろ》」(石橋蓮司)  26「五月闇《さつきやみ》」(三浦浩一・池波志乃) [#ここで字下げ終わり]  お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、候補作のほとんどがシリーズ半ばあたりまでの作品になってしまいました。これをどう理解したらいいかという問題は簡単に考えてみてください。初期の作品に名優が多数登場したということです。  さて、このなかから「ベスト3」を選ぶというのは、悶え苦しんだとは申しませんが、ひじょうに苦しい作業でした。  では、いきます。まずは、「作品賞」の発表です。 第1位 「密偵たちの宴」 [#この行2字下げ]・「これぞまさしくプロの仕事」という気持ちにさせられました。密偵たち一人ひとりの個性が生き生きと描かれ、またそれをそれぞれの役者が見事にこなしています。脚本、演出、役者、どれをとっても一級品です。舌を巻くというか、思わず舌も盆踊り、ぞんぶんに堪能させていただきました。 第2位 「土蜘蛛の金五郎」 [#この行2字下げ]・脚本もいいのですが、土蜘蛛の金五郎を演じる遠藤太津朗の演技が素晴らしいの一語に尽きます。盗賊の老獪《ろうかい》さを怒濤の迫力と絶妙な間《ま》でくりだしてきます。子之次《ねのじ》役の赤塚真人も忘れられません。江戸っ子の心意気をユーモラスに演じきっています。 第3位 「盗法秘伝」 [#この行2字下げ]・脚本に連続感があり、演出にしても演技にしてもムダがないというか、贅肉をまったく感じさせません。また、フランキー堺のセリフまわし、身のこなしはさすがに『幕末太陽伝』を演じた一流役者だと思わせます。  この三本を見ていないという人は、いますぐレンタルビデオ店へ走ってください(右の三作品はすべてビデオ化されています)。  さて、「鬼平犯科帳」はご存じのとおり、毎回、盗賊に豪華ゲストをむかえるのを恒例としていますが(「盗賊に豪華ゲスト」というのがいたく泣かせますが)、悪役の層の薄さが最近気になりはじめました。チンピラっぽい役はできても、大盗賊、悪代官、悪徳商人を演じきることのできる人がどんどん少なくなってきているような気がします。  次に「助演男優賞」の発表をしますが、若手の俳優はこの方々の演技をぜひ学んでいただきたいと思います。  では、ノミネートされた方々を放映順に発表します。 [#ここから1字下げ] ・島田正吾 (「血頭の丹兵衛」) ・米倉斉加年 (「兇賊《きようぞく》」) ・フランキー堺 (「盗法秘伝」) ・本田博太郎 (「浅草・御厩河岸」) ・鹿内孝 (「むかしの男」) ・清水健太郎 (「雨の湯豆腐」) ・中谷一郎 (「殿さま栄五郎」) ・峰竜太 (「おみね徳次郎」) ・左とん平 (「白《しろ》い粉《こな》」) ・目黒祐樹 (「雨引《あまびき》の文五郎《ぶんごろう》」) ・浜村純 (「雨引の文五郎」) ・菅原謙次 (「盗賊二筋道《とうぞくふたすじみち》」) ・草薙幸二郎 (「本門寺暮雪」) ・花沢徳衛 (「女賊《おんなぞく》」) ・西岡徳馬 (「四度目《よどめ》の女房《にようぼう》」) ・田村高廣 (「雨乞い庄右衛門」) ・江藤潤 (「夜狐《よぎつね》」) ・いかりや長介 (「熱海みやげの宝物」) ・財津一郎 (「妙義の団右衛門」) ・花沢徳衛 (「二《ふた》つの顔《かお》」) ・中村又五郎 (「討ち入り市兵衛」) ・中村歌昇 (「俄《にわ》か雨《あめ》」) ・草薙幸二郎 (「むかしなじみ」) ・本田博太郎 (「密偵《いぬ》」) ・丹波哲郎 (「老盗《ろうとう》の夢《ゆめ》」) ・遠藤太津朗 (「土蜘蛛の金五郎」) ・米倉斉加年 (「蛙《かわず》の長助《ちようすけ》」) ・市川左団次 (「お峰《みね》・辰《たつ》の市《いち》」) ・内藤武敏 (「墨斗《すみつぼ》の孫八《まごはち》」) [#ここで字下げ終わり]  十人の方が受賞されました。  ひとりで二作以上出演されている方もいらっしゃるので、合わせ技というテも考えましたが、やはりそれは不公平になるのでやめました。また、密偵・同心などの�身内�も授賞対象から除外しました。  それでは、発表します。 第1位 遠藤太津朗(「土蜘蛛の金五郎」) [#この行2字下げ]・顔と容姿を見るかぎり、「主役はちょっと……」という気分にさせられますが、こういう役者がいることで主役が引きたつのだなとつくづく思い知らされました。凄味のある胡乱《うろん》な男を演《や》れる役者が少なくなっている現在、菅貫太郎(悪役でならした名役者)亡きあとは、この人と草薙幸二郎で牽引していただくしかないでしょう。 第2位 フランキー堺(「盗法秘伝」) [#この行2字下げ]・とぼける、おどける、すかす、恥じ入る、うぬぼれる──どれをとっても一級品です。とりわけ、感嘆の声が豊富で研究対象にさえなりえると思います。映画の主役を数多くこなした役者さんだけあってリズム感があり、カメラの写され方も上手です。物故されたのが残念でなりません。 第3位 島田正吾(「血頭の丹兵衛」) [#この行2字下げ]・島田正吾をまったく知らない主婦と女子高校生が本作品ではじめて�島田正吾体験�をして、思わず「この人、すごくうまくない?」「あたしもそう思った」とつぶやきました。島田正吾とはそういう存在です。 第4位 草薙幸二郎(「本門寺暮雪」) [#この行2字下げ]・凄味の人です。五郎蔵に「おまはん、盗賊改メの手先やないのか」という場面では思わず瞳孔が開いてしまいました。たったこれだけのセリフなのに、その凄味といったらありませんでした。恐怖の一匙《ひとさじ》を添えられる役者です。暴力の味を知っている役者だなと思いました。若い役者さんにはこの名優の演技をぜひ見習っていただきたいと願います。 第5位 中村又五郎(「討ち入り市兵衛」) [#この行2字下げ]・顔に品があり、笑うと表情に天使がやってくるようです。顔の皺を取りのぞいたら、まるで生まれたばかりの赤ちゃんです。お盗《つと》めの三カ条を守る真の盗賊とは、こういう言葉遣い、こういう顔相の人だと思わせます。 第6位 田村高廣(「雨乞い庄右衛門」) [#この行2字下げ]・この役者の演技で不満に思った作品はひとつもありません。脚本に書かれている言葉がきちっと読める人なんだろうなと思いました。内面の表情が身体、しぐさのあちらこちらに宿っていて、芸の奥深さを感じさせてくれます。 第7位 菅原謙次(「盗賊二筋道」) [#この行2字下げ]・デブの役者が多いなかで、こういう「骨」を感じさせる名優がでてくるとホッとします。意志の強そうな目鼻、固く結んだ唇、握力の強そうな手。どれをとっても時代劇向きです。 第8位 内藤武敏(「墨斗の孫八」) [#この行2字下げ]・森茉莉(作家)はこの人の演技を評して「芸が煮つまっている、いい役者である」といったことがありますが、本作品でもその実力を充分に発揮しています。落ち着いた様子のなかにも、自分の死を意識した人間の、不安とあせりをうまく織りまぜて演じています(カメラワークもよく、演技を完璧なものにするのに貢献しています)。 第9位 財津一郎(「妙義の団右衛門」) [#この行2字下げ]・芸域の広い役者です。コメディーもうまいし、シリアスな現代劇もいけます。時代劇も違和感がなく、本作品でも好演しています。セクシーでかつイヤラシイ役をここまでイヤラシくこなせる俳優は少ないでしょう。ゾクゾクしました。 第10位 米倉斉加年(「蛙の長助」) [#この行2字下げ]・その演技には、長助が長年にわたって飼いならしてきた哀しみを漂わせます。名優という名にふさわしい演技を披露しています。声に特徴がありすぎますが、セリフまわしのうまさで気になりません。むしろ、いい声の役者であるという印象を与えるほどです。  おめでとうございます。  それでは次に「助演女優賞」の発表です。ノミネートされたのは、次の方々です(放映順)。 [#ここから1字下げ] ・長谷川真弓 (「兇剣」) ・北林谷栄 (「笹やのお熊」) ・坂口良子 (「女掏摸《めんびき》お富《とみ》」) ・浅利香津代 (「浅草・御厩河岸」) ・風祭ゆき (「山吹屋お勝」) ・池波志乃 (「金太郎《きんたろう》そば」) ・黒田福美 (「雨の湯豆腐」) ・鳳八千代 (「殿さま栄五郎」) ・宮下順子 (「おみね徳次郎」) ・山田五十鈴 (「むかしの女《おんな》」) ・森口瑤子 (「四度目の女房」) ・二木てるみ (「霧《きり》の朝《あさ》」) ・野川由美子 (「鯉肝《こいぎも》のお里《さと》」) ・池内淳子 (「炎《ほのお》の色《いろ》」) ・吉沢梨絵 (「おみよは見《み》た」) ・山田五十鈴 (「正月四日《しようがつよつか》の客《きやく》」) ・三ツ矢歌子 (「掻掘《かいぼり》のおけい」) ・岡まゆみ (「女密偵《おんなみつてい》・女賊《おんなぞく》」) ・岡本麗 (「白根《しらね》の万左衛門《まんざえもん》」) ・山口果林 (「艶婦の毒」) ・奈良富士子 (「五月雨坊主《さつきあめぼうず》」) ・真行寺君枝 (「おれの弟《おとうと》」) [#ここで字下げ終わり]  受賞された方は十一人です。おめでとうございます。 第1位 北林谷栄(「笹やのお熊」) [#この行2字下げ]・堂々の第1位はこの方です。象印賞からなにからたくさん差しあげたいほどです。食い入るように見つめてしまいました。大女優という名にふさわしい演技です。とにかく画面に引き込む力が圧倒的で、見る者は瞬きするのを忘れるほどです。眼球が乾かないように注意してください。 第2位 山口果林(「艶婦の毒」) [#この行2字下げ]・色っぽいです。艶っぽいです。盗賊の一味であることが亭主に発覚するも、「堪忍どっせ。どうぞ長生きしておくれやっしゃ」との言葉をのこし、悠々として縄をうたれる場面は凄味すら感じました。背中を羽毛で撫でられたような感触とでもいいましょうか、ゾクッとしました。また、眼の色に|もの《ヽヽ》をいわせる演技も見のがせません。 第3位 山田五十鈴(「むかしの女」) [#この行2字下げ]・映画評論界の巨匠・淀川長治がいちばん好きな女優だったというだけあって、とにかく魅力と威厳にあふれています。画面に引き寄せる吸引力がすごいです。何度見ても、けっこうなものを見せていただきました、という心もちにさせられます。画面に映しだされるだけでただならぬ気配が漂うのは、やはり�格�というものでしょうか。「正月四日の客」でもノミネートされましたが、本作品のほうが高い評価を得ました。 第4位 宮下順子(「おみね徳次郎」) [#この行2字下げ]・声にツヤがあるので、ひじょうに聞き取りやすい女優さんです。ゆっくりと落ち着き払って喋っても間延びすることがありません。表情、しぐさも文句なしの出来ばえです。しどけない姿も耽美的でまた格別です。思いがけない眼福にめぐまれました。 第5位 岡本麗(「白根の万左衛門」) [#この行2字下げ]・狡猾《こうかつ》で陰険で卑怯でタチの悪そうな性悪《しようわる》女をやらせたら、この人の右にでる人はなかなかいないでしょう。本作品でも「フン。何さ」と存分に不貞腐《ふてくさ》れて見事です。 第6位 浅利香津代(「浅草・御厩河岸」) [#この行2字下げ]・おっちょこちょいで元気な女の役がよく似合います。笑うと、まさに破顔一笑。天を衝くような歓喜の表情が魅力的です。こっちまで「よかったよかった」という気分にさせられます。 第7位 二木てるみ(「霧の朝」) [#この行2字下げ]・江戸の女って、じつはこういう感じの女だったのではという心もちにさせられました。上手を感じさせるうまさではなく、天才的なうまさを感じました。久松静児の作品には欠かせない子役であったことや、黒沢明の『赤ひげ』で見せた演技を考えると(当時、十四歳)、さもありなんというところでしょうか。脱帽。 第8位 三ツ矢歌子(「掻掘のおけい」) [#この行2字下げ]・色年増の役です。なかなかこういう役を大女優といわれる人がやってくれません。というか、できないようです。うそぶいたり、みくびったり、こまっしゃくれたりの演技は彼女のものだと思わせます。 第9位 長谷川真弓(「兇剣」)・吉沢梨絵(「おみよは見た」) [#この行2字下げ]・子役に感心したことはほとんどありませんが、長谷川真弓と吉沢梨絵だけは別格の子役だと感じました。このレヴェルの子役がもう少し多くなれば、いろんな作品にも厚みがでるのに……と感じないではいられませんでした。 第10位 黒田福美(「雨の湯豆腐」) [#この行2字下げ]・もっといろんな作品に出演すればもっといい役者になるような気がしました。いい女も似合いますが、凄味をきかせた演技もいけそうです。不肖この私が保証します。ファンです。  おめでとうございます。  最後は「ワースト俳優」の発表です(子役は温情をかけて除外しました)。アイウエオ順に並べます。  男優では、うじきつよし(「逃げた妻」の藤田彦七)、小西博之(「鬼火」の高橋勇次郎)、島木譲二(「妖盗葵小僧」の葵小僧芳之助)、坂東八十助(「さむらい松五郎」の山口平吉)、ベンガル(「蛇苺の女」の針ケ谷の宗助)などが目立って拙《つたな》かったです。  女優では、沢たまき(「女賊」の猿塚のお千代)、長与千種(「市松小僧始末」のおまゆ)、美保純(「隠し子」のお園)、伊佐山ひろ子(「二人女房」のお増)が拙劣《せつれつ》でした。 [#ここから1字下げ] (追記1)テレビやビデオというのは恐ろしい。はばかることなく他人の顔や表情をこまかく見ることができるのですから。生身の人間にはこうはいきません。画面を見るようにはなかなか直視できないものです。テレビは人を意地の悪い小舅《こじゆうと》にかえる力があります。「こんな私に誰がした」という気分です。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] (追記2)悪意のない批判は、成し遂げた仕事にたいする「勲章」と考えることができます。最大の侮辱は無視なのですから。そこに共感あれ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第六章 テレビ「鬼平犯科帳」の周辺  「インスピレイション」は脳味噌がふるえるほど美しい[#「「インスピレイション」は脳味噌がふるえるほど美しい」はゴシック体] 「インスピレイション」は美しい。  脳味噌がふるえるほどだ。  音色《ねいろ》に吟味が尽くされており、まさに珠玉の芸術品である。 「インスピレイション」を聴くひとときは、ささやかな自己を回復しながら、物語の余韻に漂う時間である。「鬼平」の世界に引きずり込まれていた者たちが、あの哀愁の旋律を聴くことで、「鬼平」の世界から帰還、我に返り、しばし物語の余韻に浸る。そういう儀式のための時間である。 「鬼平」の成功は、この素朴な協力者たる「インスピレイション」に少なからず負っているといっても過言ではないであろう。  そして、この「インスピレイション」に重ね合わせるように映しだされるのは四季折々の江戸情緒である。  春は、桜と舟遊び。  初夏は、紫陽花《あじさい》とけむる雨。  盛夏は、花火と川遊び。  秋は紅葉。  冬は雪と二八蕎麦《にはちそば》(うどん粉二分、そば粉八分の蕎麦)。  瞼に焼きついているはずだ。  そして、そこには同時にいくつもの橋が映しだされる。  モチーフは、勝手に決めるが「明日に架ける橋」である。  まったくもって心憎い演出だ。  エンディングにこれほど凝るとは、じつに頭がさがる。「鬼平」に賭けるスタッフの執念をみるかのようである。情熱を注いでくれてありがとう。 「インスピレイション」を聴きながら物語の余韻にふけることは、鬼平熱愛者だけに許された至福の時間である。  だから、物語が終わったからといって、あるいは何度も聴いた曲だからという理由で、テレビのまえから離れたり、チャンネルをかえたり、ビデオ録画をやめるなどという愚かな真似はしてはならない。そのような行為は、ほとんど犯罪的である。  ドラマの余韻にひたるこの権利を放棄するとは、なんたる怠惰、なんたるバチあたりな行為であることか。  そんなやつらは、 〔なんにもわかっちゃいない〕  のである。  また、「インスピレイション」があまりにもいいのでCDを買ったという人がいるが、「鬼平」の余韻が存在しないところでこの曲を聴いても、べつの感覚が訪れるだけであろう。お生憎《あいにく》さまである。「鬼平」の感動をひとりでこっそりと増幅させようと思っても無理なのだ。「鬼平」はそんな小市民的|贅沢《ぜいたく》は許してくれないのである。  ゆえに、「インスピレイション」を聴くことは、「鬼平」を本日ただいま見ましたという者だけに許されている、すぐれて特権的かつ独立排他的な時間であると理解されたい。 「インスピレイション」タイムは、網膜に焼きついた場面の一つひとつを丁寧に反芻《はんすう》する時間である。反芻という言葉は、まさにこの時間のためにあるようなものである。  さて、ジプシー・キングスによるこの曲「インスピレイション」は、なんと訳され、どのように解されるべきであるか。  インスピレイションであるから、霊感? それとも、ひらめき?  ちがう。 「勘ばたらき」である。  笑うな。  これは、けっして言い過ぎではない。  虚心坦懐にあのギターに耳を傾けてみるとよい。  あのギターの弦は、神経である。  毎回毎回、平蔵が「鬼平」を見た者の神経をつまびいているのである。  平蔵が、視聴者の神経をつまびきながら、「どうぞ、皆さんの勘ばたらきが冴えますように」との願いをこめているのである。  じっさい私は「インスピレイション」を聴いていて幾度か意識の下から「お告げ」がきたという経験の持ち主である。  右のこと、こころして、とどめておくように。  ちなみに、ジプシー・キングスによるこの「インスピレイション」は鈴木哲夫プロデューサー(フジテレビ)の発案によるものだという。  感謝。  合掌。  君はあの人になれない[#「君はあの人になれない」はゴシック体]  あのナレーションには味わいがある。  本編のまえに、あの冒頭のフレーズを、あの独特の声で聞かないと、どうも落ち着かない。これから「鬼平」を見るぞという心の準備ができないのである。だから、おちおちトイレにも行けやしない。  とはいっても、毎回同じことをいっているのであるから(録音だからあたりまえだが)、とうぜん飽きがきそうなものだが不思議と飽きがこない。ひょっとして今回はなんか違うことをいうのではないか、そういう期待も若干はある。  あのフレーズが詩情豊かな出来ばえかというとそうでもないし、内容に深遠なる意味が隠されているかというと、それもまたそうではない。でも、味わいがある。  となると、残るはあの声しかない。  そうだ。あの声だ。あの声自体に、たまらなく人を惹きつける何かがある。  あの声はいったい何なのだろう。 「虚を衝《つ》かれた」という言葉があるが、最初の印象はまさにそれである。  鼻風邪をひいたナレーターがやっているのか。それとも蓄膿症の人か。  とにかく、「なんか、ヘン」なのである。でも、それでいて人を惹きつけてやまない。  あのナレーションを聞くひとときは、階段を一段踏み外したときの、自分ではどうにもならないあの宙に浮いた時間に似ている。あの声には、聞く者をまるで魔法にかけたかのように魅了してしまう不思議な力がある。「独特」という言葉は、あの声のために存在するのではないか。そういってみたくなる。  そして、その�あの声�がこのフレーズにのる。 [#ここから1字下げ] ≪──いつの世にも悪は絶えない。  その頃、徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を設けていた。凶悪な賊の群れを容赦なく取り締まるために、独自の機動性を与えられた、この火付盗賊改方の長官こそが、長谷川平蔵、人呼んで�鬼の平蔵�である。≫ [#ここで字下げ終わり]  読者諸氏も�あの声�で読んでくれたことと思う。  あの声の主とは、そう、中西|龍《りよう》である。  さて、この冒頭のナレーションを毎回毎回、飽きもせずに聞くという鬼平ファンがいる。本編に入るまえに、たとえそれがビデオで録画してあったものにせよ、かならずあのナレーションから聞くという人がいる。  いったい彼らは、どんなご利益《りやく》を期待してこのナレーションに耳を傾けるのか。  はっきりいって、ごく少数の物好きをのぞけば、ここに積極的意味など見いだす者など一人もいまい。  大多数はこれを聞いて、あたかも超人気アトラクションを催している「鬼平館」への入場券を手にしたという気分に浸ることができるというだけである。せいぜいその程度の認識しかもっていないであろう。  あるいは、ただ「鬼平に間に合って帰宅できた」ということを確認するための時間にすぎないとあっさり認める人もいよう。じっさい、「鬼平」を見るという、ただそれだけのために、仕事を強引に済ませ、用事を手ばやく終わらせ、誘惑を適当にあしらって帰宅するというファンは多い。彼らにしてみれば、冒頭ナレーションを聞くひとときは、「間に合って帰宅できた」という安堵に耽《ふけ》るための時間でしかない。  しかし、私はそんな彼らに問うてみたい。ほんとうにそうなのかと。ほんとうにそれだけなのかと。あのナレーションがなくなってもいいのかと。いや、もっとストレートにいおう。あの声がちがう声に替わってもいいのかと。  一度なくなったときのことを考えてみてほしい。おいしい食前酒にたとえてもいいあの声がいきなりなくなっていいのか。友よ、冷静に考えてほしい。  たぶん、あの声を聞かなければ本編に入っていけないという非難の声が、たちどころにあちこちからあがることであろう。  中西龍の声はそれくらい魅力的なものなのだ。  つまり、なんだかんだいっても、皆、あの声なしでは済ませられなくなっているのである。どうしてもあのナレーションを聞くことから「鬼平」をはじめたいのである。  あの冒頭のナレーションは、ディナーの食前酒なのである。いまやあのナレーションはそれくらいにまで高められた存在になっていると私は申し述べたい。  メロディーとはべつに、声が好きになってしまうと、その歌い手にメロメロになってしまうということはよくあることだが、メロディーもないナレーションという分野でここまで人を�イカせて�しまう声の持ち主はおそらく稀有な例であろう。  どうして中西龍の声はかくも人を惹きつけるのか。  べつだん格調が高いというわけではない。深みがあるというのでもない。落ち着いた声ともちがう。いや、むしろ聞き慣れないうちは、「滑稽味が漂う」と失礼に言い切ってしまったほうが賛同の声を得られそうな気がする。そんな声の持ち主だ。 「ふつうの人とちょっと違うじゃない、あの人」  知り合いの鬼平ファンは異口同音にこういう。  抑揚? それとも声? 「両方。抑揚も声もふつうじゃない。そのうえに、あの独特の名調子」  テンポがあり、名調子なのだという。  じゃ、名調子って、なに? 「話しっぷりというか、語り口」  そんな返答がまわりから返ってきた。  では、この大問題を当の本人はどう思っているのだろう。 「句読点、ですね。ほかの人が切って読むところを切らないとか」  中西龍は、みずからの�中西節�をこう分析する。  読み方に、あの�中西節�の秘密が隠されているんだと。  そうかなあ。ご自分でもわかっていらっしゃらないのかなあ。  たしかに、中西龍は句読点でひと休みしない読み方をする。  だが私には、どう考えても�中西節�はあの声でないと成立しないように思う。  声そのもの。  ほかの人が真似しても、けっして似るということがないであろうあの声。  中西龍のナレーションの特徴は、その抑揚とか発声法にあるのではなく、声そのものにある。  たとえば淀川長治や黒柳徹子なら、口調を真似てみせさえすれば、それなりに彼らになりきれる。スピードと抑揚と常套句を習得すればよいのである。彼らは真似ることができる対象であり、習得可能な話法である。  だが、中西龍はだめだ。どうしてもだめだ。  どんなに喋るスピードを守り、その抑揚と発声法を習得しても、中西龍にはなれない。そうかなあと疑念を抱く向きには、ためしに句読点で休まず、「いつの世にも悪は絶えないその頃徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を設けていた凶悪な賊の群れを容赦なく……」とやってみることをおすすめする。  どうだったろうか。  問うまでもあるまい。 �中西節�には遠く及ばないというより、まったく�中西節�の体《てい》をなさなかったはずだ。  彼の声は、ほとんど異種である。声自体が、多くの人がもっている声とちがうのではないか。  以前、「日本人がもっとも心地よく感じる声の持ち主」といわれた城達也《じようたつや》(FM東京の音楽番組「ジェットストリーム」のナレーションを二十年近くつとめた人)の声を聞いた人たちの脳波を調べたところ、リラックスをしている人がだすとされる�アルファ波�の数値が、他の人の声を聞かせたときよりもグーンとはね上がったという話を聞いたことがある。  中西龍でこれをやったらどうか。たぶん、いやおそらく、その逆の、興奮状態にあるとされる�ガンマー波�の針が計器の数値をふりきるだろう。 �中西節�の正体、見つけたり。  中西節は、声そのものにある。  指紋ならぬ声紋という言葉が存在するが、この言葉のもつ意味は、人の声にはひとつとして同じものはない、というものである。その意味においては、中西龍の声も私の声もそれぞれに�独特�ということになる。がしかし、中西龍の声は、タイプがちがうというか、カテゴリーが異なるというか、圧倒的に独特であるような気がする。あんな妙な声の人は声優、役者多しといえども、そうざらにいるものではない。あたかもそれは、近似の声をそばに寄せつけない土俵が、はるか宇宙の彼方《かなた》にポツンとひとつ存在するかのようである。  土俵ひとつ、力士ひとり。ポツンと離れて存在している。そんなイメージだ。  以前、ある声を聞いて、うつむいていた顔を思わずあげたことがある。「セブン‐イレブン」のおでんのCMだった。声の主は、そう、やはり中西龍であった。  自信をもっていうが、声に聞き覚えがあるということで、顔をあげたのではない。突然やってきた違和感に打たれたのだ。それは日常空間に突如としてやってきた非日常と形容してもおかしくはない経験であった。  中西龍の声には、「唯一無二の」という冠《かんむり》がよく似合う。似かよった声というのがないのである。  ゆえに、中西龍のナレーションは継承されない。一代で終わる。  仕方ないが、そういうものである。ならば、「鬼平犯科帳」がつづくかぎり、中西龍のナレーションを味わいつくそうではないか。 [#ここから1字下げ] (追記1)中西龍をテレビ「鬼平犯科帳」のナレーターに起用したのは、フジテレビの能村庸一《のむらよういち》プロデューサーであるらしい。ここに記して、その眼力というか、耳力に感謝の意を捧げたい。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] (追記2)美空ひばりもまた、中西龍の声に惚れた一人であったようだ。NHK時代に(中西龍は元NHKアナウンサー)、民放で放送されるリサイタルの語りを「どうしてもやってほしい」と中西龍に頼みこんだという。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] (追記3)最初のうちは、冒頭のナレーションだけでなく本編のほうも中西龍がやっていたのだが、病気のため、途中から本編は仁内建之に替わった。そして一九九八(平成十)年十月二十九日、�あの声�はついに帰らぬ声となった。享年七十歳。合掌。 [#ここで字下げ終わり]  恐るべし、猫どの[#「恐るべし、猫どの」はゴシック体]  無類の食通として知られる�猫どの�こと村松忠之進《むらまつただのしん》(沼田爆)の存在をめぐっては賛否両論がある。  猫どのは、テレビのオリジナル・キャラクターであるだけに、その存在意義は論議の的になりやすい。  じっさい、「あれがあるからなおいい」という人がいるかと思えば、「滑稽にすぎる。即刻やめてほしい」という人までいる。とりわけ、池波文学を愛するオジサン玄人《くろうと》筋からは「やりすぎだ」という声をよく聞く。  池波正太郎を師と仰ぐエッセイスト・筒井ガンコ堂も、「講釈や問答が聞き苦しい」ので、「どうもいただきかねる」と不満げに語り、「小説に出てくる料理はもっとあっさり紹介してあって、なお美味《おい》しそうに読めるのだが、テレビで画面と音声でやられると興醒めしてしまうと思うのは私ひとりだろうか」と堂々とガンコに批判している。  私は、あっていいと思う一人である。  理由は単純。なごむからだ。 「あー、頼むからやめてくれ。無芸大食の輩《やから》はこれだから困る」とくれば、緊張から解き放たれ、「ああまた例の講釈がはじまるな」と、しぜんと期待で胸がふくらむ。  テレビというメディアを考えた場合、緊張ばかりを強いるのはちょっと酷ではないか。茶の間に緊張の連続はそぐわない。ちょっとした息抜きが必要だ。緊張の連続ばかりでは、やはりチト辛い。  猫どのは、緊張を生かすための、ほどよい緩和剤になっているのではないか。これによって物語にがぜんメリハリがつく。私は、そう思っている。  では、猫どのの何が面白いのか。  とりあえず、次の発言を聞いていただきたい。 [#ここから1字下げ] ≪卵の食い方は、あつあつの飯にそのままかけて、醤油をちょいとたらす。生卵、醤油の雲に黄身の月。まさにこれは一幅の絵だ。うん、これしかない!≫(「山吹屋お勝」テレビ版) [#ここで字下げ終わり]  ひとりで喋ってひとりで有卦《うけ》に入っているところが私には笑える。活字にするとけっこう「重そう」な印象を与えるが、じっさいの喋りはメチャクチャ軽い。「重そうで軽いもの」といえば啄木の母だが、これに猫どのの語りを加えたいほどだ。終始、屈託がないのである。笑えないという人がいたら、もはやここまでだ。好みの問題だから仕方ない。  卵ひとつでもレトリックを駆使し、「生卵、醤油の雲に黄身の月」とか「一幅の絵だ」などとやる。この形容がなんともアホらしく、また気が抜けてよい。  次は、にぎり飯の講釈だ。 [#ここから1字下げ] ≪握り飯はおむすびともいうが、これはな、関東と上方では形が違う。どう違うかというと、上方のは俵型で黒胡麻をまぶすが、江戸では丸型、三角で塩で握る。どちらもうまい。うまいといえばな、この、米のうまさがしみじみわかるのが、この握り飯だ。いやあ、まったくもってありがたい。まぶす材料を変えただけで様々に変化する。いい女がそうだな。ほんのちょっと化粧を変えただけで、まるで別人のように変わる。おむすびはつまり、いい女だ。≫(「熱海みやげの宝物」テレビ版) [#ここで字下げ終わり]  どうだろう、このレトリック。いつのまにか、おむすびはいい女にされてしまっている。  真面目に語れば語るほど、猫どのは大袈裟になり、また喜劇の人となる。そこがまた面白い。  猫どのの語りの特徴は、なんでも大袈裟に、かつ断定的に語るところにある。これは教えたがり屋の特徴でもあるのだが、食べ物のこととなったら、猫どのは休むことを知らぬ攻撃の人となる。  また、論争の相手が口のへらない部下の忠吾ともなると、いっそう高飛車になってまくしたてるから愉快である。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] ≪猫どの「天麩羅蕎麦《てんぷらそば》などと近ごろ大はやりで、どこの店でも趣向を凝らしているそうだが、フン、ばかばかしい。まったく邪道というべきものだぞ、あれは」  忠吾「それは聞き捨てならぬ」  猫どの「蕎麦は�もり�にかぎる。あの香りと歯ざわりを味わいつつ食うものだ。どっぷりとだし汁をかけた�かけ�などは野暮の骨頂。ましてや、天麩羅蕎麦などと称するものにいたってはもう……」  忠吾「しかし、うまいものはうまい」  猫どの「おぬしはな、味がわからんのだ」  忠吾「味がわからないのはどっちです!」  猫どの「若い者は話にならんな」≫(「蛇の眼」テレビ版) [#ここで字下げ終わり]  これは木村忠吾を相手にやった有名な天麩羅蕎麦論争であるが、「蕎麦は�もり�にかぎる」という猫どのは、天麩羅蕎麦が好きだという忠吾にむかって、容赦なくというか、ほとんど頭ごなしにきめつけて、この論争にケリをつけようとしている(じっさい、二人は後日、この論争に決着をつけるべく、蕎麦を食べにいこうということになったのだが、猫どのが持説を曲げないのは火を見るよりも明らかである)。  ところで、猫どのの食にたいする基本的な構えをご存じだろうか。  いろいろと講釈をするのであるが、その基本コンセプトは、「食は飾らずをもって良しとする」(「流星」)である。  猫どのは、これを座右の銘とし、金科玉条のごとく守りぬいている。これを覚えておくと、いっそう「鬼平」を愉しむことができるから、ぜひ覚えておいてほしい。  で、話をもとに戻すが、食に関していうと、猫どのはリベラルな立場はとらない。コモンセンスとかコンセンサスという概念を最初《ハナ》からもちあわせていない。妥協とか譲歩は敗北を意味すると考えている。徹底した「食のファンダメンタリスト(根本主義者)」なのである。  また、大人の教養は人前にだすとき、ふつう角《かど》を殺《そ》いで相手に劣等感をもたせないようにするものだが、猫どのはそこへの配慮もない。徹底的に完膚なきまで相手をヘコますのである。  相手が平蔵になってもそうだ。口調は丁寧になるが、持論は頑《がん》としてゆずらない。  あさりと葱《ねぎ》の深川飯の味つけをめぐって、猫どのと平蔵は次のようなやりとりをしている。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ] ≪猫どの「でも、あれはあの、醤油味でないと……」  平蔵「何をいうんでい。深川飯は味噌にかぎるわ」  猫どの「いえいえ、何とおっしゃろうと、醤油味でございますよ」  平蔵「そんなに気取ったってうまかねえんだ。これは味噌にかぎるんだよ」  猫どの「いえいえ、これは曲げるわけにはまいりません」≫(「用心棒」テレビ版) [#ここで字下げ終わり]  猫どのは、かように頑固なのである。  ほかにも、「こら、あさりを馬鹿にするな」(「女密偵・女賊」)、「ああ、頼むからやめてくれ。無芸大食の輩《やから》はこれだから困る」(「流星」)ではじまる�名演説�があるが、いずれも持説を開陳し、まくしたて、一方的に決着をつけている。  恐るべし、猫どの。  女性たちが「猫どのは面白いけど、亭主にはしたくないタイプ」というのがよくわかる。 [#ここから1字下げ] (追記)ひとつだけわからないことがあるのだが、猫どのが登場するときはほとんど野上龍雄の脚本になっている。どういうわけだろうか。この人、食べ物に詳しいのだろうか。それとも沼田爆が好きなんだろうか。この人がいなくなったら、猫どのは見られなくなってしまうような気がする。だとしたら、とても寂しい(沼田爆のもつ真面目顔の不真面目さは、努力しても手に入らないもののような気がする)。野上龍雄のリリーフができる脚本家の養成は焦眉の急である。とにかく急いでほしい(と書いた数カ月後、「鬼平」は最終シリーズを迎えることになった)。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第七章 池波正太郎の世界  池波正太郎の人間観[#「池波正太郎の人間観」はゴシック体] 「お母さま、私ね、こないだ考えた事だけれども、人間が他の動物と、まるっきり違っている点は、何だろう、言葉も智慧《ちえ》も、思考も、社会の秩序も、それぞれ程度の差はあっても他の動物だって皆持っているでしょう? 信仰も持っているかも知れないわ。人間は、万物の霊長だなんて威張っているけど、ちっとも他の動物と本質的なちがいが無いみたいでしょう? ところがね、お母さま、たった一つあったの。おわかりにならないでしょう。他の生きものには絶対に無くて人間だけにあるもの。それはね、ひめごと、というものよ。いかが?」  こうあるのは、太宰治の小説『斜陽』である。  ひめごとをもっているのが人間だという。誰にもいわない、誰にもいえないものを、ひたすらに自分のなかに押しとどめておける、それが人間というものであるという。  池波正太郎も株屋時代を振り返って(池波が最初についた職業は株屋)、「秘密の生活がいっぱいあるんですよ」とニンマリする。そして、「その秘密の生活が、いま時代小説を書いている源《もと》なんですよ」とほくそ笑む。  池波少年は、株屋時代、それから十七歳くらいからはじめた吉原《よしわら》通いで、さまざまな「秘密の生活」を謳歌した。親に内緒で博打場に顔をだしたり、お女郎に金を預けたりと、さまざまな秘密をもった。そして、それが『鬼平犯科帳』にも反映されているという。 [#ここから1字下げ] ≪『鬼平』も、平蔵の父の隠し子、つまり妹のお園《その》が現われたところで、また連載を再開するわけだけど、平蔵は「これは父の隠し子だ」ということは、誰にも言わないんだよ。言ってもいいんだけどね、女房の久栄には。  だけど、言ったほうがいいか、言わないほうがいいか、ここなんだな、問題は。秘密っていうのは、言ったほうがいいのか、言わないほうがいいのかってとこなんだよ。そこを考えると、やっぱり言わないほうがいい。  読者としては「なんで言わないんだろう」と考えるかもしれませんね。でも、それは理屈じゃないんだよ。「なんで言わないのか」というのは理屈なんでね。平蔵は平気なんだからね、そのことについては……。  だけど、こわいのは、言ったことによって、その腹ちがいの妹のお園の人柄が変るかもしれないってことなんだよ。すべてそうよ、物ごとはね。秘密を言ったがために、その言った相手が変ることが、いいことか悪いことかということだよ。そのことを考えなきゃいけないんだよ。  ぼくの若いころの秘密はね、まだ、いっぱいあるけど、ちょっとね。言ったとたんに、それはもう、秘密でなくなっちゃうものねえ。≫(『新私の歳月』) [#ここで字下げ終わり]  これを読むかぎり池波正太郎にもまだまだ隠された秘密がたくさんありそうだが、それはさておき、池波正太郎という作家は�秘密�というものをこのうえなく好んだ作家だといえる。登場人物に秘密をもたせ、そこに舌なめずりせんばかりの好奇心を抱き、執拗なペンでもって彼らの秘密を読者に暴露した。  たとえば、初期の『秘図』という短篇を読んでみるといい。  そこでは、威厳|俊邁《しゆんまい》の風格をもつ火付盗賊改方の長官・徳山五兵衛秀英《とくのやまごへえひでいえ》の秘密の生活が丹念に描かれている。  五兵衛は夜ごと、秘戯《ひぎ》画を描く趣味があった。男女の交歓、ありていにいってしまえば男女の性交図を描くのである。誰にも見つからぬように、五兵衛は寝間でこっそりと筆をはこぶのであった。  昼の謹厳と夜の痴愚の狭間で、五兵衛は苦しんだ。 「恥を知れ、恥を──あまりにも情けない。このようなものに魅入られるとは……」と思いつつも、五兵衛はやめられなかった。胸のうちでは「五兵衛よ。お前は何という愚か者なのだ」という声を聞くのであるが、どうにも歯止めがきかなかった。そして、「その愚かさを恥じる心は、無意識のうちにこれを隠そうとして、五兵衛は一日一日と、謹厳の衣を厚くまといはじめ」るのであった。  そしてやがて、「歳月の波濤《はとう》に揉《も》まれ、習慣の反復に押し均《なら》され、やがて五兵衛は、その矛盾を事ともしなくなって」いくのであった云々《うんぬん》。  池波正太郎もまたみずから絵筆をとった人であるから、読んでいて、思わず五兵衛と池波正太郎を重ねあわせてしまった。想像力はまことにもって無礼である。  さて、この『秘図』という作品は一九五九(昭和三十四)年に発表されたものであるが、池波は初期の頃からこうした秘密をもつ人間に興味を抱き、生涯をつうじてそこへの好奇心を衰えさせることのなかった作家である(のちに、この作品は『おとこの秘図』の題名で長篇として書き改められている)。『鬼平犯科帳』にも、こんな描写がある。引いてみよう。 [#ここから1字下げ] ≪「久栄……」 と、長谷川平蔵が五日目に役宅に帰って来て、いつもの|うす《ヽヽ》汚れた変装用の着物をぬぎ、平服に着替えて、夕餉《ゆうげ》の膳に向かったとき、妻女へ、 「どうも、このところ、おもしろくて仕方ない」 「何がでございます?」 「こういうのを、化《ば》けの|たのしみ《ヽヽヽヽ》というのだ」 「化けの……?」 「つまり、自分でありながら、まったく別の人間に化けるたのしみ。まあ、役者になったような気分《きぶん》だな」 「まあ、そのような……」  眉《まゆ》をひそめる久栄に、 「人間はな、みんな、こうしたところがあるものなのだよ、久栄」  |にやり《ヽヽヽ》として、 「どうだ。明日は二人で、出かけて見るか」  と、いったものである。≫(「土蜘蛛の金五郎」) [#ここで字下げ終わり]  秘密の生活が面白くてしょうがないといわんばかりの平蔵がここには描かれている。  池波正太郎は、見た目はどんなに謹厳実直、公明正大な人物であろうとも、人間であるかぎり秘密の生活があり変身願望があり、こっそりとそれをやったり、またそれをやることで悩んだり愉しんだりするものだ、という考えを信仰にちかいかたちで抱いていた。  冒頭の太宰の小説にもあったように、人間は思っていることや考えていることを人にいわないでも生きていける。企《たくら》んでいることや目論《もくろ》んでいることを、人に開陳せずにも暮らしていけるのである。シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』にも「みんな顔つきは神妙だが、手は何をしていることやら」というのがあるが、考えていることをおくびにもださず、心情とはべつの表情をつくりだすというのは、二十年も人生をやれば誰もが身におぼえがあることであろう。  表情と本心はちがい、言葉と心のうちはかけ離れる。そういうことを人間は平気でやってのけることができる。池波正太郎は、そういう存在だからこそ人間であるといいたかったようだ。そういう類《たぐい》の人間がいる、のではなく、そういう存在だからこそ人間であるといいたかったのではあるまいか。  いくら科学が発達したとはいえ、人間の内面はいまだ暗黒の曠野《あれの》で、わからないことだらけである。私たちの心のなかは未知なるもので満ちあふれている。人間の内面はいまだに解明されていないどころか、解明の糸口さえきちっと掴《つか》めていないのではないか。  人の心の深みには、神もいれば魔物もいる。阿弥陀仏がいれば、阿修羅もいる。また、腹の底には怨念や冷酷や執着がとぐろを巻いて横たわっているかと思えば、そのうえをやさしい天使たちが飛びかっている。まさに人間の内部においては魑魅魍魎《ちみもうりよう》が跳梁跋扈《ちようりようばつこ》しているのである。  こんなふうに考えると、人間が人間によって完全に�理解�されるなどということはありえないという結論に達する。頭のいい人間が眼球をひっくり返して人間の内面を覗《のぞ》いたところで、目にするものは多くの謎と疑問だけであろう。  たとえば、『鬼平犯科帳』の全編をつうじて響きわたっている「悪」という主調音に耳をそばだててみるといい。たんに悪だといって片づけられないその他の音が主調音にこびりついているではないか。  現象面の悪だけではなく内面における悪の存在を考えるとき、誕生から臨終まで徹頭徹尾あまねく善人をつらぬきとおした人間などおそらく誰一人としていないであろう。そう考えると、完全無欠な人間など、この世には一人としていないという確信に至らざるをえない。  池波正太郎はここに気づいたからこそ、人間という存在の定義にたいしては謙虚になり、俗と脱俗の境界に深く足を踏みいれ、悪と秘密の世界を執拗に描いたのである。  長谷川平蔵の有名な言葉に「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らぬうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識らず善事をたのしむ。これが人間だわさ」(「谷中・いろは茶屋」)というのがある。  また、「人間《ひと》とは、妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事をはたらく。こころをゆるし合うた友をだまして、そのこころを傷つけまいとする。ふ、ふふ……これ久栄。これでおれも蔭へまわっては、何をしているか知れたものではないぞ」(「明神の次郎吉」)というのもある。  こういった描写に出会うとき、池波正太郎という作家の、人間を見る眼の奥ゆきの深さを感じないではいられない。  池波正太郎の人間解釈を私なりに要約していうと、「人間は他人《ひと》にはいえぬ秘密をもつ矛盾だらけの存在であり、どんなに完全をよそおっても不完全な生きものである」というものだ。これが広汎な世間への目配りをした池波正太郎の人間観の臍《へそ》である。  池波正太郎は、さまざまな矛盾を背負い、善と悪と清濁あわせもつのが人間だと考えた。池波の眼に映る人間は、けっして高踏的な存在ではなかった。だからこそ、池波正太郎の文章には生活の細部への慈愛の念があふれているのである。  端正でなめらかな文体[#「端正でなめらかな文体」はゴシック体] 『鬼平犯科帳』には、「……するやも知れぬ」とか「……してい、……」などの表現がよくでてくる。 「辰蔵め、何かの拍子に剣術のおもしろさが、すこしわかってきたやも知れぬ」(「泥鰌の和助始末」)とか、「青白い光りが平蔵の両眼に凝《こ》ってい、怒りというか、軽蔑というか……」(「白根の万左衛門」)などとやるのである。  これをやられると、ハテ、作者は江戸時代の人であったかな、という錯覚にとらわれることがあるのだが(たぶん池波正太郎はペンをもって原稿用紙に向かえば、江戸時代の人となっていたのだろうけど)、現代に生きる私たちが読んでもその文体と表現の彩りに違和感は感じられない。また、作文技術的なことをいうと、 [#ここから1字下げ] 一、改行を頻繁にやる。 二、むやみに漢字を連続させない。 三、「盗みの三カ条は厳としてまもりぬくのである」というように語尾の述語(動詞・形容詞)を漢字にしない。 [#ここで字下げ終わり]  などの特徴があげられるのであるが、とにかく池波正太郎の文章といったら、「読みやすい」の一語に尽きる。簡潔であり明確であり端正であるからだ。短い言葉のなかに要を尽くしているといった感がある。言葉をかえれば、池波正太郎の文章は、抑制がきいた、切れ味のいい、効率的かつ機能的な文章である。  池波正太郎の文章がむずかしくてわかりにくいという人を私は知らない。読みすごせるというか、読みとばせてしまえるほどわかりやすい。開高健は「読んだとわからないうちに読みすごせます(笑)」と、ある鼎談《ていだん》のなかでいっているが、そんな気さえしてくるほどに読みやすい。  溺れるように読むという言い方があるが、池波正太郎の文章は流れにまかせてすいすいと読めてしまう。本が向こうからページをめくるという感じで読めてしまうのだ。  たしかに、池波正太郎の文章には難解で生硬な言葉はいっさいない。つねにわかりやすい平談俗語で書かれている。池波正太郎はけっこう難しい本も読んだというから、難解な言葉を知らなかったわけではなかろうが、そういう難解な言葉は意図的に避けられている。  池波正太郎は、難解な言葉を避け、いわくありげな表現を嫌い、複雑に入り組んだ文構造をとにかく排除した。高級めかした複雑な言いまわしや、ためにする粉飾を、池波は徹底的に嫌ったのである。そして、それはしぜんに冗漫を厭《いと》い、大仰を蔑《さげす》み、誇張を見下すわかりやすい文体へと結晶化していった。  自分を論理的な思考の持ち主であるかのように見せかける賢《さか》しらぶった文章を書くなど、池波にしてみればたぶん身の置きどころもないほどに恥ずかしいことであったにちがいない。  池波が心がけたのは、自分が実生活のなかで咀嚼《そしやく》できた言葉を使い、着眼を新鮮にして、文意を明確にすること。そして、難解な言葉を使わず、平談俗語を歯切れよく費やして、展開に滞りや澱《よど》みがないようにすること。このことであった。つまりは、言葉の集約力と文構造の伝達力を文章を書くうえでの要諦《ようてい》としていたのである。  日常の言葉を使って、どれだけ効率よく物語のなかに収めることができるか。また、そうすることによってどれほどの余韻を読者の胸中に響かせることができるかに心を砕いたのである。そして最終地点に到達して池波が見渡したのは、それらの言葉がさりげなく、そして眼に心地よく佇んでいるかどうかであった。  ある人たちはこうした池波正太郎の文体を捉えて「軽い」とあしらうが、まわりくどさ、わかりにくさのほうが池波にとってみれば、おてんとうさまに顔向けできないくらい恥ずべきことであった。 「重厚」「深遠」といわれる文章を書くことに、東京下町生まれがもつ照れというものがあったのかもしれない。また、生来のせっかちな性格が「格調」「深遠」といわれるもったいぶった文体を嫌ったのかもしれない。いずれにせよ、とにかく池波正太郎はじれったい文章を好まなかった。  で、そういう池波正太郎の文章を「軽い」とだけいって一蹴してしまう人がいるが、池波正太郎の文章は軽いのではない。よく思うのだが、問題は、物語を快く読ませる作家を「軽い」という言葉で形容してしまう読み手の、もっといえば煩瑣《はんさ》と冗漫しか�高級�とみなせない読者の持病にある。  池波正太郎はこういう読者の声を知らなかったはずはないのだが、最後まで知らんぷりをきめこんだ。おそらく「趣味がちがう」ということで片づけていたのだろう。  稀代の名文家に数えていいだろう山本夏彦は、文章を書くときの心構えとして、耳で聞いてわかる言葉しか使わないといっているが、池波正太郎も山本夏彦と同じく、このことを自分に言い聞かせていたのではあるまいか。小説の世界は自分の日常と地続きであって、小説だからといって難解めかして書くなどということはおよそ考えてもみなかったのではあるまいか。  えらんだ言葉が、自分の頭ではなく、多くの心情を通過してきた言葉であるか。そしてその言葉が、自分のウチからわきあがってきたものか、それともソトから借用してきたものか。池波正太郎はたえずそのことを心でつぶやいていたのだと思う。  てっとりばやい難語にたよらず、自分のなかにたくわえられた日常語を駆使して物語を展開させてゆくその手際は、まさに職人芸といってよいであろう。  無言のゆたかさ[#「無言のゆたかさ」はゴシック体]  作家はふつう、自分以外の作家を褒《ほ》めないものだ。ましてや、その作家が存命とあらばなおさらである。定まった評価がくだされていないうちから称賛の声をあげるのは、自分のお手つきにもなりかねないからだ。ところが、池波正太郎の場合は生前より多くの作家や評論家から比較的多くの賛辞をうけている。  江国滋、常盤新平、南原幹雄、長部日出雄、今川徳三、筒井ガンコ堂、佐藤隆介、森茉莉、有吉佐和子、逢坂剛、八尋舜右、つかこうへい、北方謙三、西尾忠久、中島梓などがその代表格にあたるのだが、なかでも中島梓は『鬼平犯科帳7』(文春文庫)の「解説」で、池波正太郎の文体がもつ魅力について存分に褒めたたえている。  その内容を要約してみよう。  中島梓は、まず和田誠による文体パロディに感心する。その文体パロディとは、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」ではじまる川端康成の『雪国』の冒頭を池波正太郎ふうに書いたものである(『倫敦巴里』所収)。その和田誠の手による文章とは、次のようなものである。 [#ここから1字下げ] ≪それは……  文筆家・島村が、再び〔湯沢温泉〕を訪れるための汽車の旅であったが、〔国境〕の長いトンネルを抜けると、 〔あっという間であった……〕  そこは〔雪国〕であった。≫ [#ここで字下げ終わり]  池波正太郎の文章は、どこで、たまたま、どんな切れはしを目にしてもそれとわかる、と中島梓はいう。たとえ著者名が欠け落ちていても、〔池波正太郎〕という大きなハンコが押してあるようにそれは一目瞭然だという。中島は、三島由紀夫の『文章読本』を読んで、文章の要諦《ようてい》は「簡潔に、平易に、清澄に、そして感情ぬきの叙述体で、できれば漢文のように正確に」書くことだと思うに至るが、いざ自分が物書きになってみるとなかなかそれができない。とりわけ長いものを書くときは、饒舌体の文章にならざるをえないと慨嘆する。  しかし、池波正太郎の文章は長篇ものであっても「簡潔にしていさぎよい」。うらやましい、というよりは「憧れる」。長篇はだらだらと描写するほうがラクだからだ。池波正太郎の文章は「描写のもどかしさ」をいっさい排除して、生き生きとしている。まるで「行間に絵がある」ようだ。平蔵の息子・辰蔵にしたところで、顔がひょろ長くて、顎も長い、とは書いてあるが、具体的にどういう顔なのかとはただのひとことも書いていない。顔や表情の微細についてはいっさい触れないのである。「池波名物」の食べ物にしてもそうだ。ああいう味で、こういう色で、などとは一行も書いていない。池波正太郎の文章は、そうした「余白の多い」文章だが、その行間には「無言のゆたかさ」がある。湯豆腐を、ただ「湯豆腐」と言い切って筆をおいてしまう。そして、あとは読者に委ねてしまう。しかし、読者に「なまなましく、唾をのみこむように湯豆腐の舌ざわり、湯気の感触、味わい、におい、ぬくもり、を思いうかべる能力がなかったら」、その湯豆腐は台無しである。そういうきわどさもいっぽうにもっている。だが、池波正太郎は余白を余白のままに、行間を行間のままにおいて毅然としている。それは、ひとつの姿勢であり、また意志でもある。そして、その意志はまた、「きわめて毅然とした、剛毅でさわやかな意志」である。とはいっても、簡潔がすべていいというわけではない。池波正太郎の簡潔は、「その奥に無限のひろがり、蓄積、池波正太郎という一人の人間の、経てきたすべての歴史や感じかた、ものの見かた、それらを全部とかしこみ、漉《こ》し去った、その上の簡潔、その上の清澄だからこそ」、白く熱いだけの湯豆腐も、敷いた昆布やかつおぶし、その他のさまざまなエキスを含んだ湯豆腐になるのである。  とまあ、中島梓はこのように書くのであるが、これは卓見である。「無言のゆたかさ」という表現をキーワードにしたのもいい。  私なりに言い換えれば、語数を節約して、辞句を緊縮して、意味を充実させる。これが池波正太郎の文体の特徴である。  池波正太郎は感情に溺れて、登場人物のために天を恨んだり、神を罵ったり、その境遇を嘆いたりといったことを熱心にやらない。これみよがし、というのが池波は嫌いなのである。  くどくどやらず、「老いて尚、雨乞いの庄右衛門は〔孤独〕に強かった」とか、「盃に二つほどのんだ」などと、そっけなくさらりといってのけるだけだ。平明でありながら勁《つよ》いのである。  また、それが異様なもの、理不尽なもの、奇異なものであったとしても、わいわいがやがやと描写しない。抑制を利かせ、淡々とした筆致で物語をすすめる。大仰に心情を吐露したり、内面を告白するといったようなことをいっさいやらないのだ。  私は最初、池波正太郎のこうした練達の文章に接したとき、驚くというよりも、むしろ腹を立てた。こんなことがあっていいのか。こんなにすんなり描写して、それで読者にわからせてしまう力量というものが存在していいものか。そしてまた同時に、その力量がどこからくるものか皆目《かいもく》わからなかったので、ほとんど怒りにちかい感情をもったのだった。 「盃に二つほどのんだ」とやることで、その人物の体調やら胸のつかえをだしてしまう。「体調はかんばしくなかったが、気分がよかったので盃を手にした。だが、明日のことを考えて二杯にとどめておいた」などと、くどくど説明しない。「盃に二つほどのんだ」と短い言葉でさらりとやってしまう。そしてそれだけで余韻までも構成してしまうのだ。  正直いって、これには参った。恥ずかしいことを告白するが、餓鬼の頃の私は、華麗な比喩で充満する文章だけが名文だと思い込んでいた。だから最初に池波正太郎の文章に出くわしたときは、その読みやすい文章がなんだかもの足りず、とくに関心を払うということもなかった。字句の下に沈潜する作者の意志と仕掛けにちっとも気づかなかったわけである。  しかし、齢《よわい》を重ねるうちに、字句の背後にひそむ「無言のゆたかさ」に感づくようになった。的確にえらばれた言葉の背後に、言葉にされなかった言葉が、おれたちもいるぞという感じでうごめいているのがだんだんと見えてきたのである。  池波正太郎の文章は、文章技術や文章作法といったもので分析されうるものではなく、言葉上手とでもいったほうがいい仕方で評されるべきもののように思う。  比喩と形容に心を砕かぬ作家は、ひとつ間違えば、平凡、凡庸、平板のレッテルを貼られることにもなりかねないが、池波正太郎はそんな私たちの心配など、まるっきり眼中になかった。まさに平気の平左衛門《へいざえもん》であった。  じっさい、池波正太郎のこういう文体を好まない人もいる。比喩を駆使していない文体だからという理由で、あるいは構文のゆたかさがないという理由で、池波正太郎の文章から遠ざかっていってしまう人たちがいる。  これは好みの問題だからとやかくいうべきものではないが、私は「もったいないことをして」と思っている。何もすることのない雨の降る憂鬱な日曜の午後にはもってこいの作家であるし、文章それ自体も成熟した大人のものであるように思う。  池波正太郎は、観念をもてあそぶ青白きインテリ作家でもなければ、難語をふりかざす悩める小説家でもなかった。池波は、ひたすらに人間の正味を値踏みして、面白がったり呆《あき》れたりしながら、実人生のリアリズムを追求した人性観察者《モラリスト》であった。  早くから実社会にでて、俗界になじみ、そのなかで自分を相対化する術を身につけ、そうすることで遠慮や沈黙の仕方を知り、理屈にさからう感情や常識に気を配ることを知る人間通であった。  池波正太郎の文章に「無言のゆたかさ」が漂うのは、池波正太郎自身が大人であったという証《あかし》である。文章に浮ついたところがなく、それでいて如才ない。へんに深刻ぶったところもなければ、軽薄じみたところもない。でいながら、意味を充実させている。これぞ成熟した大人の文章である。 「文は人なり」というが、池波正太郎の文体はそのまま人体《にんてい》につながっているといっていい。手塩にかけた文章、砥石《といし》にかけた文体、という形容こそ、池波正太郎にはふさわしいであろう。 [#ここから1字下げ] (追記)文筆家では、花田清輝、植草甚一、尾崎秀樹、河盛好蔵、黒岩重吾、竹中労、中島誠、いいだもも、川本三郎、嵐山光三郎、佐高信、縄田一男、吉川潮、江坂彰、馬場啓一、落合恵子、森まゆみなどが、詩人では中桐雅夫、白石公子が、プロレスラーではジャイアント馬場が、漫画ではさいとう・たかをと黒鉄ヒロシが、写真家では熊切圭介と浅井慎平が、経済界では簗瀬次郎と長岡實が、政治家では小此木彦三郎、不破哲三、岩國哲人、伊藤正義などが、また元警視総監の吉野準が、池波正太郎の、あるいは『鬼平犯科帳』のファンであることを表明したことがある。 [#ここで字下げ終わり]  命名の達人[#「命名の達人」はゴシック体]  内容はともかく、大江健三郎と沢木耕太郎は自著にいいタイトルを与えている。  大江には『ピンチランナー調書』『懐かしい年への手紙』『人生の親戚』などの秀作があり、沢木には『一瞬の夏』『馬車は走る』『路上の視野』などの傑作がある。  いかにも何かありそうだ、何かが起こりそうだ、と思わせるタイトルだ。この二人はコピーライターになっても、たぶんすぐれた作品を残したであろう。  ほかに誰かいないかな。そうそう林真理子がうまい。元コピーライターだけあって、いいセンスをしている。それから村上龍もうまい。彼もまた、言葉の微震計を高度に発達させて、いいタイトルを自著に与えている。林真理子には『葡萄が目にしみる』『食べるたびに、哀しくって……』などの秀作があり、村上龍には『コインロッカー・ベイビーズ』『テニスボーイの憂鬱』などといった洒落た命名がある。  とはいってみたものの、最近の日本語は語感や表情が急速に変化してしまうので、良いタイトルだと思われたものが、数年経てば逆にダサいとの印象を与えてしまうことはよくあることだ(「来夢来人」と書いて「ライムライト」と読ませるスナックなどを思い浮かべていただきたい。いまとなっては無性に恥ずかしいではないか)。  さて、面白いものはほとんどナマモノ扱いされている今日《こんにち》、時代小説の書き手たちはどのような著作名をみずからの作品に献じているのだろうか。  著作目録をいくつか眺めてみるとしよう。どれどれ。時代小説の場合、漢字二文字で片づけるか、人名や異名をつけるか、あるいは何々の何々というように「の」をいれて小さくまとめているのが圧倒的に多い。  一頭地を抜いていると思わせるのは司馬遼太郎である。私自身がほとんどの作品を読んでいるということもあるのだろうが、『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『国盗り物語』『翔ぶが如く』など、これしかないと思わせる作品名を連発している。まとめて見直し、あらためて含蓄と余韻を感じた。  控え目なのは藤沢周平である。『暗殺の年輪』『海鳴り』『蝉しぐれ』『玄鳥』『夜消える』『半生の記』など、地味で落ち着いたものが多い。著者独特のはにかみや照れが先行するのか、どれもそっけないとの印象をうける。しみじみとしていてよいという人もいるだろうが、内容が素晴らしいだけにちょっともったいない感じがしないでもない。  池波正太郎の場合はどうか。  悪くはない。悪くはないが、あまりにもハマりすぎていて面白味に欠けるものがけっこうある。たとえば、『烈女切腹』がそうだし、『戦国幻想曲』や『スパイ武士道』などがそうである。  傑作はやはり『鬼平犯科帳』であろう。実在の人物・長谷川平蔵を「鬼平」と呼んだのもいいし、それをまた「犯科帳」で結んだのもいい。 「犯科帳」とは、もともと長崎奉行所の刑事判決の記録を指す言葉だったそうだが、いわゆる謎解きの捕物帳とは違うということを暗示しており、またこの物語のピカレスク性(悪人を主役に立てるという仕立て)も言いあらわしており、見事なタイトルになっている。 「仕掛人・藤枝梅安」も傑作である。「仕掛人」という、池波正太郎によるこの造語が広く日本社会に浸透し、いまではごく普通の日常会話でも使われるようになったのは周知のことである。  しかし、池波正太郎の場合はむしろ、タイトルというよりも作中人物に与えている名前に注目したい。司馬遼太郎も「池波正太郎さんは、ごく自然な意味での隠喩《いんゆ》がうまかった」といっているが、短い隠喩や形容でスパッと切り込む手練は見事であった。そしてそれは、とりわけ作中人物の命名によくあらわれている。  池波正太郎は、命名の達人である。 『鬼平』には、土蜘蛛《つちぐも》の金五郎《きんごろう》、霧《なご》の七郎《しちろう》、雨乞《あまご》い庄《しよう》右|衛門《えもん》、雨引《あまびき》の文五郎《ぶんごろう》、犬神《いぬがみ》の権三郎《ごんざぶろう》、馬蕗《うまぶき》の利平治《りへいじ》、狐火《きつねび》の勇五郎《ゆうごろう》などといった忘れがたい盗賊が登場するが、これら異名の見事さには瞠目《どうもく》せざるをえない。  また、大泥棒には、夜兎《ようさぎ》の角《かく》右|衛門《えもん》、蓑火《みのひ》の喜之助《きのすけ》、野槌《のづち》の弥平《やへい》、生駒《いこま》の仙《せん》右|衛門《えもん》、血頭《ちがしら》の丹兵衛《たんべえ》、墓火《はかび》の秀五郎《ひでごろう》などがおり、小泥棒には船明《ふなぎら》の鳥平《とりへい》、蓑虫《みのむし》の久《きゆう》、霰《あられ》の小助《こすけ》などがいる。  どれもいわくありげな、いい名前だ。見事なネーミングといってよい。  作家であれば、例外なくどの作家も作中人物の�本名�の命名には気を配るであろうが、異名をつけてその人物に過去をそれとなく背負わせることは、「作家」という肩書きを頂戴はしていても、なかなかにできることではない。  異名とは、その人物に関する特徴を簡潔に集約したものであるが、そのうまさといったら、池波正太郎の独壇場であるといってもほとんどさしつかえないのではないか(池波正太郎に肉薄できそうな作家は、森茉莉と野坂昭如くらいか)。  考えてみるといいが、俗称、変名、通称をもって、読者を惹きつけるということは相当な手腕がないとできないことである。相当な眼力がそなわっていないとできない妙技なのである。  こうしたことに長《た》けているのは、人生の鉄床《かなとこ》で鍛えあげてきた観察者だけである。職場でも学校でもそうであろうが、しぐさへの観察眼、こころへの洞察力を欠いた者が、異名や渾名《あだな》の命名者になることはありえないことだ。  盗賊ばかりではない。密偵たちにしてもそうだ。おまさ、粂八、伊三次、彦十、五郎蔵、舟形の宗平、豆岩とくる。それぞれの言葉のもつ響きと視覚的なたたずまい。そしてそこから連想される顔だち、体躯、性格、過去。いずれも見事に集約している。  池波正太郎は、小説の行手《ゆくて》もわからぬままに書きはじめる作家であった。登場人物に名前を与え、それを手もとから解き放ち、その行方《ゆくえ》を追っていくという書き方をした。そして、与えられた名前に応じてその人物は行動した。  いうなれば、作者が小説中の人物に引っ張られていくという手法をとった作家である(逆に、最初の一行を書くときはもう最後の一行が決まっているという作家に森鴎外、三島由紀夫、浅田次郎などがいる)。  言い換えれば、池波の場合、「まず名前ありき」だったのである。だからこそネーミングには人一倍気を配ったのだろうし、またそこにこそ作品の出来不出来もかかっていた。池波正太郎が命名の達人となるには、こういう事情があったのである。 [#ここから1字下げ] (追記)ちなみに池波正太郎は少年の頃、「物ぐさ太郎」だとか「日本一」という渾名を母方の祖母からもらったそうである。「日本一」というのは、「日本一の怠け者」という意味で、またそれは「日本一の無器用者」という意味も含まれていたそうだ。のちにあれだけ多くの作品を残した池波正太郎のことを考えると、渾名や異名もつけようによっては、どう人間を変えるかわからない。 [#ここで字下げ終わり]  足跡を勝手にたどる[#「足跡を勝手にたどる」はゴシック体] 『鬼平犯科帳』の作者・池波正太郎とはどんな人物だったのか。あちこちから剽窃《ひようせつ》して、その足跡を追ってみた。独断専行、勝手放題。赦《ゆる》し乞う。  一九二三(大正十二)年  一月二十五日、父・富次郎、母・鈴《すず》の長男として、大雪の日に生まれる。  産声《うぶごえ》をあげたのは、東京・浅草|聖天町《しようでんちよう》(現在の浅草七丁目)。天保年間に越中富山から江戸に出た宮大工の家柄で、そこから数えると七代目の江戸っ子になる。 [#ここから1字下げ] ≪父方の方が東京に来たのは天保の初めです。富山県の礪波《となみ》って、宮大工の町ですね。そこから東京へ来て宮大工になった。母方のほうは、天保よりかもっと前です。それは千葉の多古《たこ》藩っていう一万石ぐらいの大名の江戸詰めの侍です。それが維新で没落しちゃったということですね。≫  父親は日本橋小網町の綿糸問屋の番頭だったが、世間の常識から見るとかなりの変わり者であった。正太郎が生まれた日のことである。父・富次郎は、その日は大雪ということで仕事はズル休みし、朝から自宅の二階で酒を飲みだした。しかしその酒も昼まえには切れてしまい、女房・鈴に買いに行くようにいいつけた。鈴は身重であった。それもいつ生まれてもおかしくないという状態であった。鈴は酒屋でにわかに産気づいた。すぐさま家に運ばれ、産婆も駆けつけた。まもなくして、正太郎が生まれた。ところが、この父親、驚くでもなし、喜ぶでもなし。いくら産婆が「池波さん、男のお子さんですよ」といっても、布団にもぐったまま、「今日は寒いから、明日、見ます」といって、その日は階下に下りてこなかったという。 [#ここから1字下げ] ≪産婆さんは「こんな父親を、はじめて見た」と憤慨したそうだが、私は、こういう父が好きなのだ。というのも、やはり私には、父の|こういうところ《ヽヽヽヽヽヽヽ》がないでもないからである。≫ [#ここで字下げ終わり]  この年の九月、関東大震災。「浅草の家を焼け出され」、五歳までを埼玉・浦和で過ごす。のち、東京・下谷の上根岸へ引っ越す。  一九二九(昭和四)年 六歳  下谷・根岸小学校に入学。まもなく両親が離婚(七歳のときであった)。一人ぼっちになった正太郎は、浅草|永住町《ながずみちよう》(現在の元浅草二丁目)の母方の実家で暮らすようになる(これを機に下谷・西町小学校に転校)。 [#ここから1字下げ] ≪永住町という町は職人が多いところですね。弓師がいる、鍛冶屋がいる、大工がいる、下駄屋がいる。うちの祖父も錺《かざり》屋をやっていました。≫(錺《かざり》屋というのは、かんざしや指輪や帯止めを金属で細工する職のこと) [#ここで字下げ終わり]  こうして正太郎少年は、「江戸町人文化」を煮しめたような環境で幼少期を送ることと相成った。 [#ここから1字下げ] ≪この時代の生活が、いま、時代小説を書いている私にとり、どれほど実りをもたらしているか、はかり知れぬものがあるといってよい。≫ [#ここで字下げ終わり]  その後、母・鈴は「再婚し、弟を生み、またしても離婚して」、帰ってきた。 [#ここから1字下げ] ≪「それは、どこの子?」  と、私がいったら、 「お前の弟だよ」  事もなげに、こたえた。  こうして、私は父方の姓をつぎ、弟は母の姓をついだ。≫ [#ここで字下げ終わり]  母親の鈴は、几帳面で義理堅く、照れ屋で短気。映画と芝居が大好きで、食べ物にもうるさい。これは、そのまま息子・正太郎に受け継がれた。しかし、本人は「几帳面でいながら怠け者」だと生涯をつうじて照れまくった。 [#ここから1字下げ] ≪池波さんは、派手なことや晴れがましい場が苦手だったようで、文壇のパーティにも積極的に顔を出される方ではなかったが、いたってざっくばらんで気さくなお人柄だった。≫(逢坂剛・作家) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪お袋に着物つくってやったら、女房のとくらべてグズグズいやあがるんだよ。そんなに気に入らないなら着るな! って、着物に水ぶっかけてやった。≫(テレビ「鬼平犯科帳」の総指揮者・市川久夫に、池波正太郎はこう語ったという) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪万事に几帳面な人で、毎年の干支が描かれた賀状は夏のころには完成していたというし、原稿も早め早めに書かれて、編集者を困らせたことはない。≫(渡辺淳一・作家) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪池波さんはタクシーに乗ると、かならず心づけを運転手にわたした。そうすれば、運転手は嬉しいだろうし、つぎに乗る客に対しても愛想もよくなるだろう、それが大事なのだよと言われたことがある。≫(常盤新平・作家) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪池波さんと長部日出雄さんと、映画について語り合う座談会が「オール読物」であったんです。当時ぼくは市川市に住んでいて、電車で行くといったのですが、ハイヤーがやって来て、乗り込むと案の定大渋滞。四谷の福田家に着いた時は五十分くらい、遅れたんじゃないでしょうか。そうしたら、池波さんは座談会の間じゅう、ぼくのほうを向かないんです(笑)。ぼくのことは全く無視して長部さんとだけ、話す(笑)。≫(井上ひさし・作家) [#ここで字下げ終わり]  一九三三(昭和八)年 十歳  小学校の三年生のとき、谷中《やなか》の伯父(父方)に引きとられる。 [#ここから1字下げ] ≪伯父の家には、もっとも私を可愛がってくれた従兄《いとこ》がいたし、別に居心地が悪いわけではなかったのだが、何といっても生まれてこの方、なじみの深い浅草のほうがなつかしい。それでまた、一年ほど後に、浅草へ帰って来てしまうことになる。≫ [#ここで字下げ終わり]  その従兄に連れられて、新国劇『大菩薩峠』を観て、感動する。主演は辰巳柳太郎(机竜之助役)と島田正吾(宇津木兵馬役)。 [#ここから1字下げ] ≪舞台全体が異常な熱気をはらみ、十歳の私は頭を絶えず金槌でなぐりつづけられているような興奮のうちに舞台を見終った。  この一日がなかったら、後年になって、おそらく私は、芝居の世界へ足を踏み入れることもなかったろう。≫ [#ここで字下げ終わり]  その従兄は太平洋戦争で戦死。 [#ここから1字下げ] ≪個人の人生なんていうのは、恐ろしい動乱、人災や天災の前には、ひとたまりもない。いまの若い人には実感わくまいけれど、その事実を、まざまざとわが眼にたしかめた者にとって、あのときの衝撃は生涯、ついてまわる。≫ [#ここで字下げ終わり]  よく写真で目にする池波家の応接間に並ぶこけしは、この従兄の遺品である。  一九三五(昭和十)年 十二歳  下谷・西町小学校を卒業。卒業してすぐ茅場町の商品取引所に勤め、まもなく兜町の株式仲買店へうつる。大人の真似をするのを好む|ませた《ヽヽヽ》少年で、芝居、映画を友とした。 [#ここから1字下げ] ≪むかしの東京の下町の子供たちは、一日も早く大人になりたくて、何事につけ大人の|まね《ヽヽ》をしようとしたものだ。≫ [#ここで字下げ終わり]  十四歳のときにフレッド・アステアとジンジャー・ロジャースのミュージカル映画『トップ・ハット』を見て感激。「真の洋画ファンになったのはこのときから」だという。ちなみに「池波正太郎が選ぶベスト3」は、『孔雀夫人』『商船テナシチー』『アラビアのロレンス』で、番外で『トップ・ハット』、日本映画では大河内伝次郎の『丹下左膳』である。また、男優ではジャン・ギャバン、ハンフリー・ボガート、大河内伝次郎、女優ではジュリエッタ・マシーナ、ジーン・アーサー、伏見直江の名を好きな俳優として挙げている。監督はフェデリコ・フェリーニが贔屓《ひいき》であった。  流行《はや》りの飲食店にもおおいに興味をもった。食べ物にたいする好奇心はこの頃に芽生える。日本橋の洋食屋・たいめいけん、銀座の洋食屋・煉瓦亭、それから資生堂パーラーなどが贔屓の店であった。 [#ここから1字下げ] ≪好物は肉類で、カツ丼などはとても喜んでいました。高価な素材や珍しいものよりも、味を重視していました。≫(池波豊子・池波正太郎夫人) [#ここで字下げ終わり]  煙草を吸いだしたのもこの頃であったが、老け顔のせいで、くわえ煙草で交番の前を通っても一度も注意されたことがなかったという。  一九三九(昭和十四)年 十六歳  この頃から吉原通いがはじまる。 [#ここから1字下げ] ≪わたしをさいしょに吉原へつれていったのは|はとこ《ヽヽヽ》で、同じ株屋にいた人だけれども、正太郎にはこういう女がいいだろうって、一年も前から考えてくれてたんです(笑)。それで十六のときはじめて上がった。≫ [#ここで字下げ終わり]  相手をしてくれた娼妓は、東北の生まれで名は|せん子《ヽヽヽ》。色白のふくふくと肥えた女で、池波より十歳年上だった。酒の飲み方、金の使い方、女のあつかい方、生活の実際で役立つようなことを何から何まで教えてくれたという。このせん子に池波は生涯をつうじて感謝の気持ちを忘れなかった。  一九四二(昭和十七)年 十九歳  太平洋戦争がはじまると、「どうせ苦労するなら、楽なことをやめて辛さに慣れておこう」と考え、親しんだ兜町から離れ、国民労働訓練所に身をおく。ここで旋盤の技術を身につけるが、この体験が後年、脚本や小説の構成をつくりあげるうえで大きな精神的な支えになったと述懐している。 [#ここから1字下げ] ≪こうして、私は、四尺旋盤の複雑な製品を消化し、工場内で小型旋盤ならば池波、といわれるほどになった。自慢しているのではない。初めの苦しみが長かったのがよかったのだ。このために、製品の図面への理解と機械の〔ごきげん〕をうかがうことを、私はおぼえたのである。  このときの私の生活が、現在、小説や芝居の構成をするときの基盤になっている。≫ [#ここで字下げ終わり]  また、この頃から小説を書きはじめ、所内の訓練風景を描いた作品『駆足』などを執筆した。  一九四四(昭和十九)年 二十一歳  横須賀海兵団に入る(次いで三浦半島の武山海兵団で新兵訓練をうける。さらに横浜・磯子にあった八〇一空に転属)。このとき母親の鈴は、正太郎の�馴染み�がいる女郎屋へ挨拶に行き、「正太郎がながながお世話になりまして」と礼をいったという。しかし、軍隊での生活は気に入るものではなかった。 [#ここから1字下げ] ≪私は海軍にいたころ、無頼上官どもに反抗し、銃把で顔を殴られたとき、下の歯を大分《だいぶん》に折られ、それがもとで、上の歯はよいのだが下の歯が、ほとんど入れ歯になってしまった。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪私の顔は西瓜《すいか》の化け物みたいになった。  人間の顔というのが、これほど巨大に腫れ上がるものとは知らなかった。このときの話はとても書き切れない。二十余年たった今でも|はらわた《ヽヽヽヽ》が煮えくり返ってくるし、当時いためつけられた体の傷は、いまも冬になると疼くのである。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九四五(昭和二十)年 二十二歳  日本海に面した弓ケ浜半島の美保航空基地で敗戦を迎える。 [#ここから1字下げ] ≪悪質で愚かな軍人や、一部の政治家たちに騙され、悲惨で愚劣な戦争を、正しいものと信じ込まされていた悔しさはさておき、その片棒を担いでいたジャーナリズムが恥も外聞もなく、旧体制を罵倒し、自由主義に酔いしれているありさまは、実に奇怪《きつかい》だった。  終戦を境いにした、この昭和二十年夏に、私の心身へ植えつけられた不信感は、いまもってぬぐいきれない。  私事はさておき、それからの三十余年、時代が移り変るたびに、私は悪い方へ悪い方へと、物事を考えるようになってしまっている。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九四六(昭和二十一)年 二十三歳  東京都職員(下谷区役所・現在の台東区役所)となる。DDT散布等に従事する。 [#ここから1字下げ] ≪当時、敗戦後の虚脱状態だった私は、半ば退屈しのぎに一篇の戯曲を書いて送ったところ、これが佳作に入り、選者の一人だった故・村山知義が、これを上演してくれた。復員したばかりの宇野重吉が出演していたのをおぼえている。  これが、私の脚本の処女上演だった。  そして、そこに自分のすすむ道を、私はつかんだ。それまで無意識のうちに、私の体内に眠っていた願望が敗戦によって目ざめたのは、まことに皮肉なことだった。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九四七(昭和二十二)年 二十四歳  読売新聞の第二回演劇文化賞に『南風の吹く窓』が佳作入選。その選者のひとりに生涯をつうじて恩師と仰ぐことになる長谷川伸がいた。  長谷川伸は、股旅《またたび》ものという大衆演劇、小説の流行をつくりだした作家で、『一本刀土俵入』『荒木又右衛門』『瞼《まぶた》の母』などの代表作がある。『荒木又右衛門』と『ある市井の徒』の二作を読んだ池波は、掛け値なしに感心したとのちに述べている。 [#ここから1字下げ] ≪長谷川伸は、「万国の労働者よ団結せよ」というスローガンには加担しなかったが、「万国の貧乏人、流れ者、そして娼婦やスリのようなあわれな者たちはすべて兄弟のようであるべきだ」ということなら信じていたようである。≫(佐藤忠男・評論家) [#ここで字下げ終わり]  一九四八(昭和二十三)年 二十五歳  長谷川伸に手紙を書き、訪ね、創作指導を仰ぐ。 [#ここから1字下げ] ≪先生は、どこかの会合から帰られたところだったが、コチコチになっている私を見ると、 「君。らくにし給え」  こう言われて、いきなり下帯ひとつになられた。それで、私もいくらか気がらくになり、いろいろと話しはじめたのである。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九五〇(昭和二十五)年 二十七歳  区役所前の代書屋につとめていた片岡豊子と結婚。駒込神明町の六畳一間の棟割長屋で所帯をもつ。 [#ここから1字下げ] ≪うちの家内は再婚ですからね。ぼくは処女って知らないんだな。ま、知ろうとも思わないけどね。過去に何があったかということじゃなく、その人の実際の心根が大事なんですよ。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪男が気をつかわなくてはならないのは、妻の実家に対してだ。妻の母を私の母とともに何度旅行に連れて行ったか知れない。妻に対しても、そうだ。妻は指輪一つ持っていないが、日本中、いろいろなところへ連れて行った。生きているうちに、ああしてやればよかったが、ついつい忙しくて、何もしてやれなかった、などというのは、男の愚の骨頂といわねばならぬ。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九五一(昭和二十六)年 二十八歳 『鈍牛』が新国劇で処女上演される。主演は、十歳のときに『大菩薩峠』で感動を与えてくれた島田正吾(「鬼平犯科帳」には血頭の丹兵衛役で登場)。当時は新国劇が隆盛をきわめ、のちに「座付《ざつき》作者」と呼ばれるほど、この劇団と交わりを深めていく。 [#ここから1字下げ] ≪私が、劇作家としてデビューしたのは、昭和二十六年夏の新橋演舞場だった。劇団は新国劇で、辰巳柳太郎・島田正吾の二大スタアを軸に、すばらしいアンサンブルを誇るこの劇団は、戦後における興隆期(第二次)を迎えようとしていた。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪新国劇の創始者は「沢正《さわしよう》」とよばれた沢田正二郎で、そのときから、辰巳・島田の時代に移るまでに、この劇団の芝居を観て、自殺を思いとどまった人を私は何人か知っている。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九五四(昭和二十九)年 三十一歳  長谷川伸のすすめで小説を書きはじめる。 [#ここから1字下げ] ≪そこで、しぶしぶ小説を書きはじめた。小説も戯曲も技法がちがうだけで根本は同じだ。やりはじめてみると、おもしろくなってきた。≫ [#ここで字下げ終わり]  短篇小説『厨房《キツチン》にて』を発表。  一九五五(昭和三十)年 三十二歳  都職員(目黒税務事務所)を辞め、以後、執筆に専念する。ラジオ、テレビドラマの脚本も多数手がける。  一九五六(昭和三十一)年 三十三歳 『恩田木工《おんだもく》』で直木賞候補になるものの、受賞できず。以後、毎回候補どまりで「万年候補」の陰口も叩かれたりした。「直木賞ガイトウなし、これで三度目なり。いささかくたびれる」「直木賞落ちる、これで4回メなり、一寸くさる」などと当時の日記に書いている。 [#ここから1字下げ] ≪私が、何度も直木賞候補にあげられ、そのたびに落ちていたころ、一度だけ、母が家人に、 「あんな奴が書いたの、どこがいいんだ」  と、吐き捨てるようにいったことがあるそうだ。  あんな奴、とは、そのとき、直木賞を受賞した作家のことである。  むろん、母は、その作家の受賞作を読んだわけではない。まことにもって、けしからぬ暴言ではある。その作家にも申しわけもないことだ。  だが、しかし、その母の言葉に、私は、はじめて、母の私に対する愛情の表現を看たのである。≫ [#ここで字下げ終わり]  またこのころ、『寛政重修諸家譜《かんせいちようしゆうしよかふ》』を手に入れ、火付盗賊改方長官・長谷川平蔵に興味をもつ。しかし、「江戸の世話物は四十すぎないと、浮《うわ》ついてしまって、うまく書けないのではないか、そんな考えもあって、すぐには筆にしなかった」。  一九六〇(昭和三十五)年 三十七歳  直木賞の選に洩《も》れること五回、ついに六度目にして『錯乱』で念願の直木賞受賞。これをきっかけに芝居の仕事から離れ、小説に専心する。 [#ここから1字下げ] ≪昭和三十五年、仕事先の京都の宿で手にしたオール読物で『錯乱』を読んだのです。体が震えました。小説で心をこんなに揺り動かされたのは初めてです。〈中略〉  そのとき、心のうちにいつかは池波作品に欠かせぬ役者になるぞという目標が芽ばえたのかもしれません。≫(田村高廣・「必殺仕掛人」では彦次郎役、「鬼平犯科帳」では「雨乞い庄右衛門」の老盗・庄右衛門役をつとめる) [#ここで字下げ終わり]  一九六三(昭和三十八)年 四十歳  六月、恩師・長谷川伸が死去。 [#ここから1字下げ] ≪池波君が、後年恩師(長谷川伸)の病いが篤くなったとき、ぼくをつかまえてこんなことを言うんですよ。 「いま死なれると困るんですよ。奪い足りないんですよ。もっと奪いたいんですよ!」あの折の闘志に満ちたまなざしが忘れられませんね──≫(島田正吾による回想) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪私が師・池波正太郎から直接|訓《おし》えられたことは多々あるが、その中で一番、現在身にしみて教訓としているのは、「人間は四十歳を過ぎたら、一日に一度、死ということを考えた方がいい」という言葉である。≫(筒井ガンコ堂・エッセイスト) [#ここで字下げ終わり]  一九六四(昭和三十九)年 四十一歳 『江戸怪盗記』(「週刊新潮」)ではじめて長谷川平蔵を作中に登場させる。  この年、東京オリンピック。都内は工事だらけで、あちこちにブルドーザーの爪が入る。「池波さんは、適応性にとぼしい小動物のように自分から消えてしまいたいとおもっている様子で」、「京大阪にうつりたい」と洩らしたこともあった(司馬遼太郎の回想による)。 [#ここから1字下げ] ≪東京オリンピックのころから、人びとの生活は見る見るうちに変った。私の家でも例外ではない。テレビや冷蔵庫や電気掃除機などが母や家人をよろこばせたのはよいとしても、資源の乏しい小さな国が、がむしゃらにメカニズムをむさぼり食うありさまに、(こんなことをしていて、大丈夫なのだろうか?)  不安は、つのるばかりだった。≫ [#ここで字下げ終わり]  そして、その不安は不幸にも的中してしまったようで、後年「家」と題されたエッセイのなかで次のように書きしるす。 [#ここから1字下げ] ≪他国から来た政治家や木《こ》ッ端《ぱ》役人が、私どもの町々を滅茶苦茶に掻きまわし、叩き毀《こわ》してしまった。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九六五(昭和四十)年 四十二歳 『看板』(「別冊小説新潮」)で、またしても長谷川平蔵が登場。『鬼平』への道が開けてくる。  一九六七(昭和四十二)年 四十四歳 『浅草・御厩河岸』(「オール読物」十二月号)を発表。『鬼平犯科帳』の事実上の第一作となる。 [#ここから1字下げ] ≪長谷川平蔵に興味を持ったのは昭和三十一、二年ですからね、けれども文章の力がまだまだだったので、やっと四十二年になって書き始めることができたんです。≫ [#ここで字下げ終わり]  また、自伝的エッセイ『青春忘れもの』が「小説新潮」ではじまる。  一九六八(昭和四十三)年 四十五歳  連作『鬼平犯科帳』が「唖の十蔵」でスタート。 [#ここから1字下げ] ≪池波さんは主人公に、銭形平次、鞍馬天狗、眠狂四郎といった若くて恰好のいい男たちをえらばなかった。自分によく似た年恰好の男を主人公に据え、時には風邪をひかせたり、時にはうまい物を喰べさせたり、実人生の自分も重ねながら物語をすすめて行った。鬼平や秋山小兵衛のリアリティは、多分そういうところから生まれたはずである。≫(藤沢周平・作家) [#ここで字下げ終わり]  一九六九(昭和四十四)年 四十六歳  この年の秋よりNET(現・テレビ朝日)で「鬼平犯科帳」が放映される。長谷川平蔵役は、八代目・松本幸四郎(のち白鸚)。これは池波正太郎の強い要望で実現した。 [#ここから1字下げ] ≪若き日の「鬼平」はなにやら私の若き日に似ているし、俳優、松本幸四郎の若き日にも似ているような気がする。テレビ放映のさい幸四郎氏に演じてもらいたいと思ったのは、そういうことがあったからである。  それにもまして、私の「鬼平」の風貌は、幸四郎氏にそっくりだったのである。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九七〇(昭和四十五)年 四十七歳 『鬼平犯科帳』が「オール読物」の巻末に指定席を得る(二月号から)。 [#ここから1字下げ] ≪疲れて、気が滅入っているとき〔鬼平犯科帳〕は、それを癒してくれる妙薬である。しかし、当の本人はこの妙薬を創るために、身をけずり、生命を縮めたという気がしてならない。 〔鬼平犯科帳〕とはお前にとって何だったのかと訊かれたら、それは、 「僕のバイブルだった」  と答えるしかない。≫(常盤新平・作家) [#ここで字下げ終わり]  一九七二(昭和四十七)年 四十九歳 『鬼平犯科帳』と並ぶ、人気シリーズ『剣客商売』(「小説新潮」)、『仕掛人・藤枝梅安』(「小説現代」)がそれぞれはじまる。 [#ここから1字下げ] ≪池波正太郎の真骨頂は、短い言葉のなかに、男の喜怒哀楽を凝縮させる力にある。≫(川本三郎・文芸評論家) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪池波先生の小説は冒頭から読者を楽しませる。小説は書きはじめの二、三枚が勝負だという意味のことを先生は言われていた。それが先生の小説作法だった。はじめがおもしろくなければ、読者は読んでくれない。≫(常盤新平・作家) [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪時代小説というものを、たまたま食わず嫌いで読んだことのないという人は、とりあえず近くの本屋へ走り、何でもいい、池波正太郎の小説を一冊でも二冊でも読むことだ。これが時代小説なのかと一驚し、何故今まで読まなかったのかと髪をかきむしり、これこそ探し求めていた「われわれ自身の小説」だと確信するだろう。それぐらいモダンで、シャープで、洗練されしきっている。池波文学の醍醐味は最も優れた最も新しい外国映画を観るときのそれに似ている。≫(佐藤隆介・食文化研究家) [#ここで字下げ終わり]  また、食べ物エッセイとして名高い『食卓の情景』が「週刊朝日」で連載される。 [#ここから1字下げ] ≪女の人は毎日毎日気持ちが変わるから味も違ってくるんだ。それで、きょうはおれが作るから。おれが作るからって言ってもチャーハンぐらいのものなんですよ。ところがそれが大変なの。それこそ、タマネギから、お肉から、全部刻んで、そしてフライパンを熱して、卵まで用意してあげましてね。宅がすることといったらただかき回すだけ。それでいて講釈がすごくて、ご飯を入れたらすぐに卵を入れてかき回す、お醤油はふちからシュッとこうすればいいのだとえばっているの。〈中略〉それでご飯つぶをいっぱいそこらじゅうに散らして。〈中略〉それに味つけしませんでしょう。〈中略〉それなのに「おいしいだろう」って催促するのよ。まずいとも言えないから、「そうね」と言っておくんですけど、料理をすると言ってもそのくらいですよ。≫(池波豊子・池波正太郎夫人) [#ここで字下げ終わり]  一九七七(昭和五十二)年 五十四歳  第11回吉川英治文学賞を『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』(必殺仕掛人)の三シリーズで受賞。豊子夫人は、夫の原稿のすべてに目をとおしたという。「まあ、書くでしょ。そうすると、必ず読んでくれと言うの。字が落ちていたりすることもあるでしょう。だから、それは全部一応読みました」。豊子夫人は、人物では『剣客商売』の秋山小兵衛、作品では『あほうがらす』(昭和四十二年)、『うんぷてんぷ』(昭和三十五年)が好きだという。  初夏。ジャン・ギャバンの本を書くために、はじめてのフランス旅行。  一九七九(昭和五十四)年 五十六歳  幼い日の思い出や日常生活のこまごまを語った『日曜日の万年筆』を「毎日新聞」に連載(のち「新潮文庫」)。 [#ここから1字下げ] ≪過去十五年間、毎日食べた物を日記につけてある。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪私のところでは、むかしから猫を飼っているので、猫のいない自分の家など考えられなくなってしまっている。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪いずれにせよ、父の酒を見ていた所為《せい》か、 (ヤケになったとき、酒をのんではいけない)  ということが、少年の私の頭に、こびりついてしまったにちがいない。  苦しいとき、哀しいときの酒を、私は一滴ものまぬ。うれしいとき、たのしいときしかのまない。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪人間は、生まれ出た瞬間から、死へ向かって歩みはじめる。  死ぬために、生きはじめる。  そして、生きるために食べなくてはならない。  なんという矛盾だろう。  これほどの矛盾は、他にあるまい。  つまり、人間という生きものは、矛盾の象徴といってよい。  他の動物は、どうだろうか。  他の動物は、その矛盾を意識していない。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪人間という生きものは、苦悩・悲嘆・絶望の最中《さなか》にあっても、そこへ、熱い味噌汁が出て来て一口すすりこみ、 (あ、うまい)  と、感じるとき、われ知らず微笑が浮かび、生き甲斐をおぼえるようにできている。  大事なのは、人間の躰にそなわった、その感覚を存続させて行くことだと私は思う。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九八五(昭和六十)年 六十二歳  咳とともに喀血《かつけつ》。「念のため」入院。「病気で入院というのは、生まれて初めてのことだった」。その感想は、「人間の躰は、実に丈夫で、うまくできている。同時にたとえようもなく脆《もろ》い」。  一九八六(昭和六十一)年 六十三歳  春、紫綬褒章を受章。五月、母・鈴が死去。 [#ここから1字下げ] ≪老母についても、親しい人びとに、 「おふくろは丈夫で、なかなか死んでくれないよ」  などといい、 「結構なことじゃありませんか。そんなことを口に出すものじゃありません」  と、たしなめられることがある。  これは、母より先に私が死んでしまうこともあり得ると想うから、つい、そうしたことばが口に出てしまうのだ。  私のあとに、老母が生き残ったら、これはもう可哀想だ。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九八七(昭和六十二)年 六十四歳  この頃、気学に興味をしめす。 [#ここから1字下げ] ≪気学は、人間に〔謙虚〕を教える学問である。≫ [#ここで字下げ終わり] [#ここから1字下げ] ≪私は六白の星で、衰運のどん底が三年後にやってくる。≫ [#ここで字下げ終わり]  一九八八(昭和六十三)年 六十五歳  第36回菊池寛賞受賞。 [#ここから1字下げ] ≪午前一時から明け方の四時までが私の仕事の時間だ。朝のうちに、今日は|これ《ヽヽ》をやろうときめたことはかならずやってしまう。以前は、その後でウィスキーをのんだものだが、この夏からは少量のブランデーにした。そのほうが体調がよい。何といっても、私の一日は、この三時間にかかっている。この三時間にすることを朝から考えつづけている。≫ [#ここで字下げ終わり]  しかし、「いまの私は、酒を受けつけぬ体となってしまったし、食べ歩く気力もなくなってしまった」。  一九八九(平成元)年 六十六歳  五月、銀座の和光で初の個展、「池波正太郎の絵筆の楽しみ展」を開く。作家・山口瞳によれば、「あの照れ屋の池波さんが個展を開くというのが一寸妙」だった。「池波さんは出場のいい銀座に親しい人たちを呼んで、�別れの挨拶�をしたいんだなと思った」。  六月、『鬼平犯科帳の世界』を責任編集。 「オール読物」十二月号で「誘拐──新鬼平犯科帳」(未完)の掲載がはじまる(一九九〇年四月号まで)。  一九九〇(平成二)年 六十七歳  三月十二日、三井記念病院に検査のため入院。「急性白血病」と診断される(老人性白血病ともいうらしく、百万人に一人という珍しい病気で、まず助からないといわれているものだそうだ)。本人には「血液の病気」とだけ伝えられた。四月下旬頃までは「帰るから車を呼べ」といい、豊子夫人を困らせる。 [#ここから1字下げ] ≪まさに流れ弾に当たったとしかいいようがない。≫(渡辺淳一・作家) [#ここで字下げ終わり]  五月三日午前三時、眠るように息を引き取る。享年六十七歳。  生前は、「私は他人様より早くから世の中に出て、働き通してきたので、十年早く疲れているのですよ。しかし、眉毛が真っ白なのは長寿の相だといいますからね。まだ頑張ります。気学によると、平成二年は衰運の年なので、せいぜい気をつけてね」といっていた。 [#ここから1字下げ] ≪こんなに早く六十七歳で逝ってしまって……。せめてあと十年元気でいてほしかったと思います。それも母と同じ五月だなんて、よくよく因縁の深い親子だったんですね。≫(池波豊子・池波正太郎夫人) [#ここで字下げ終わり]  五月六日、東京・千日谷会堂で告別式。法名は、華文院釈正業。  現在、西浅草・西光寺(東京都台東区西浅草一─六─二)に眠る(営団地下鉄銀座線田原町駅下車)。 [#改ページ]   あとがき  本書のおおよそを脱稿したのは、一九九五年の七月三十日であった。  その頃、私は本書の出版に向け、着々と準備をすすめていた。  ところが一九九八年春、いままさに最終校正にさしかかろうというとき、テレビ「鬼平犯科帳」に「最終シリーズ」なる冠がかぶせられ、番組の打ち切りが突如として発表された。「んもう」とは思ったが、べつだん焦らなかった。そうと決まれば最後まで見とどけよう、急ぐ本でもなし、と考えて、「最終シリーズ」が終わるまでのんびり待つことにした。  だから、本書のおよそ九割はテレビ「鬼平犯科帳」がこれからも存続するものとして書かれている。  番組打ち切りの詳細は知らない。  表向きの理由は、原作が底をついてきたのと、中村吉右衛門丈が梨園へ戻りたいと切望したということになっている。  だが私は、本書でも述べたように、そうは考えていない。  だから、番組の打ち切りが決まっても、私はべつだん哀しい気持ちにはならなかった。  その頃の私は、もはやテレビ「鬼平犯科帳」に冷たい男になってしまっていた。  本編にも書いたが、この数年、私は、ゲスト役者と、その役者を取り巻く大根役者たちの、その役者らしからぬ醜悪な演技にウンザリしどおしであった。  まちがいなくこのことが原因で、番組の打ち切りが哀しくなかった。  はたして、「最終シリーズ」の出来もよくなかった。やはりゲストの役者に多くの不満が残った。  あれだけ夢中になったのに、「かくなり果つるは理の当然。もう勝手に打ち切ってくれ」という気持ちになった。これでは吉右衛門が哀れだ、吉右衛門のためにも打ち切りはやむをえない、とも思った。  いまもその気持ちに変わりはない。 「鬼平」のいい加減な復活がないことを、心から願っている。 [#4字下げ]一九九八年 初秋 [#改ページ]   文庫版あとがき  つい先ごろ、池波正太郎先生が拙宅へやってきた。どういうわけか一緒に近所のプールへ行くことになり、水の中をウォーキングしながら、「なかなかいいことを書くじゃないか」と本書を褒《ほ》めてくださるのであった──おそろしく無防備なほど我が田に水を引く書きだしになったが、これは私の夢の中で起こった椿事《ちんじ》であり慶事である。  私の場合、何か気にかけていることがあると、夢の中へまでも思わぬ人がやってきて、相談にのってくれたり意見を聞かせてくれたりするのである。ちなみにこの数週間では、向田邦子、ザ・バンドのリチャード・マニュエル、津田梅子などがやってきて、知恵のあるお言葉を授けてくださった。そんな折も折、私の願いがつうじたのか、本書が文春文庫の編集部長・庄野音比古氏の目にとまり、文庫に入れていただけることになった。正しく誠実に悩んでいると、たまさか好《よ》きことは起こるものである。  さて、「はじめに」のところでも書いたのだが、原作者が亡くなると、その作品の多くは骨董品の扱いをうけ、しだいに忘れられていくのが常である。だが、『鬼平犯科帳』の場合は、忘れられるどころか、ますます読者を獲得し、書店の棚でもその存在を以前にもまして誇示しているようである。これはひとえに作品それ自体がもつ埋蔵量にほかあるまい。 『鬼平犯科帳』をはじめとする池波文学が、著者が泉下《せんか》の人となったいまも多くの読者を魅了しているのは、おそらく池波正太郎という人間がもっていた美学によるものであろう。  ひと言でいえば、池波正太郎の美学とは、何かをしたいという情緒的熱狂を、しないと強く自分に言いつづけることによって抑えこむ自律心である。いうならば、池波美学の父は禁欲と自制であり、母は歳月の波濤《はとう》である。池波正太郎は、熱狂を嫌い、流行を追わず、数々の禁止を自分に課すことによって、人生の軸となる扇の要《かなめ》をつくった作家であった。読者の多くはそこに理非曲直をわきまえた成熟した大人としての共感を得ているのだと私は勝手に思い込んでいる。  日本人が幼稚になったといわれて久しいが、そのいっぽうで池波文学の隆盛がつづいているのは、なんともうれしいかぎりである。そして拙著がその隆盛にわずかばかりの手を貸すことができれば、筆者としてこれにまさる喜びはない。  編集にあたっては文藝春秋の庄野音比古さんと福田華さんにとくにお世話になった。本づくりにおける手際のよさと丁寧さとはどのようなものなのかということをお二人から学ばせていただいた。記して、深く感謝の意を述べたい。   二〇〇二年仲冬 [#地付き]著 者  [#この行2字下げ](追記1)二〇〇一(平成十三)年十二月十日、彦十役の江戸家猫八さんが心不全のため永眠。 [#この行2字下げ](追記2)テレビの「鬼平犯科帳」はその後、録画録りしてあったものを数本放映したにとどまり、新シリーズを企画しているという話は聞かない。 [#この行2字下げ](追記3)本書は、一九九八年に現代書館より刊行された『「鬼平犯科帳」の真髄』に若干の加筆と訂正をほどこしたものである。 [#改ページ] [#この行2字下げ]単行本[#「単行本」はゴシック体] [#この行2字下げ]一九九八年十月 現代書館刊 〈底 本〉文春文庫 平成十四年二月十日刊