TITLE : 南十字星の戦場 〈底 本〉文春文庫 昭和五十八年一月二十五日刊 (C) Shouko Toyoda 2001  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 南十字星の戦場 ニューカレドニア あとがきにかえて 章名をクリックするとその文章が表示されます。 南十字星の戦場 南十字星の戦場 序  章  シドニー行きの飛行機がマニラ空港を離陸して二時間ほどたった頃、エンジンの調子がおかしくなった。  乗客の大部分は眠っていた。エンジンの不規則な震動が機体をゆすっていた。飛行機は揺れるものと考えているのか、他の乗客は不審を抱いていないようであった。  窓から空を見ると、左翼内側のエンジンが火をふいていた。ジェット機は三発で飛行を続けているらしい。  手元の地図によると、機の位置はセレベス島と西イリアン(ニューギニア)の中間あたりらしい。そろそろアラフラ海の北のバンダ海にかかる頃であろうか。  私はジェット機操縦の経験はないが、いずれの機種にとっても、震動が危険を予報するものであることに変りはない。この震動はかなり危険であると考えられた。機は徐々に高度を下げてゆく。この状態ではとてもシドニーまでは飛べない。下手をすると、海上に不時着であるが、その前にエンジンの推力のバランスが崩れて、一基がふきとぶようなことはないであろうか。そうなれば空中分解の危険は多い。  私は機の窓から深夜の海面を眺めていた。月はなく、星明かりに雲が浮かんでいるのが見えた。直下の海面には断雲が点在しており、水平線の近くに入道雲が見えた。断雲は碁盤上の白石のようにひろやかに、入道雲は、星明かりを反映して、色も淡く、昼間の活動をやめて静寂を保っているように見えた。もう、赤道を越えて、南緯五度あたりにかかる頃であろうか。震動は激しさを加え他の乗客も少しずつ起きて、ざわめき始めた。  私は雲のことを考えていた。  三十年前の昭和十八年四月七日、私が参加した機動部隊の攻撃隊は、ガダルカナルの上空に立ちのぼる、高度一万二千メートル以上と思われる積乱雲の前でゆき悩んでいた。  この日の攻撃は、い号作戦の第一次であるX作戦と呼ばれるもので、瑞鶴《ずいかく》、瑞鳳《ずいほう》、隼鷹《じゆんよう》、飛鷹《ひよう》等空母の艦載機二百五十余機をラバウル基地に集め、ガダルカナル島ルンガ沖泊地及び対岸のフロリダ島沖の連合軍艦船を攻撃しようとしたものである。  い号作戦は、この年二月、ガ島を失った日本軍が、虎の子の空母部隊をラバウルに揚げ、連合軍の艦船を叩いて、その北上の企図を阻止しようとしたもので、作戦の指揮は、連合艦隊司令長官・山本五十六が直接采配をふるい、彼はこの作戦終了直後、前線視察に出て、P38ロッキード戦闘機の待ち伏せをうけて、戦死している。  当時私は海軍中尉で、飛鷹の艦爆隊の一員として、この攻撃に参加した。第二中隊の第三小隊長機の操縦員であった。後席には祖川兼輔上等飛行兵曹が乗っていた。  ニュージョージアの上空にさしかかった頃、攻撃隊は、ガ島上空に大きな積乱雲を認めた。先頭をゆく攻撃隊総指揮官の瑞鶴の高橋定大尉は、この積乱雲に突っ込むと、部隊が混乱すると考え、大きく左の方に迂回し始めた。最後方にいた私の隊からも、それが認められた。アラジンの魔法のランプから、呪文《じゆもん》によって呼び出された巨人のように、積乱雲は、ガ島を踏んまえるように立ちはだかっていた。雲は熱帯の陽光を浴びて白銀色に光り、その白い壁にふりまかれた黒いゴマ粒のように、攻撃隊は迂回を始めた。そのゴマ粒を狙って、別のゴマ粒が急上昇して来た。グラマンF4F戦闘機であった。  前方では直掩の零戦隊とグラマンとの間に巴戦が始まり、落ちてゆく機が認められた。 「始まったぞ! よく見張れよ」  と私は偵察席の祖川兵曹に言った。 「了解!」  彼は後席で七ミリ七機銃を構えているはずであった。  飛鷹隊の近くでも、空戦が始まった。  迂回のため前の隊がスピードを落とすので、こちらもエンジンを絞り、つんのめるような形となっていた。  突然、エンジンの中心部を赤い火柱が通り抜け、黒い蝙蝠《こうもり》のようなものが、右上方に飛び抜けた。グラマンF4Fは、下方から私の機を狙ったのだった。咄嗟《とつさ》に私はスティック(操縦桿)を押して、機首を突っこんだ。間もなく、エンジンの火は消えたが、プロペラの回転も空転に変っていた。  高度は三千で、下方の海面には、サボ島が見えていた。敵地の上空であるから、このまま海中に突っこんで自爆すべきかと思いながらも、私は迷っていた。 「分隊士、右前方に不時着基地のセント・ジョージ岬が見えます!」  祖川兵曹の警告によって、私は機首をセント・ジョージ岬に向け、岬から五浬《カイリ》の海面に不時着した。  七日間の漂流の後、私は死ぬことが出来ずに、米軍の捕虜となり、ニューカレドニアへ送られた。(この間の事情は後に詳述する)  昭和二十一年一月三日、私は捕虜送還船で浦賀に着いた。私の同期生は、二百八十八名のうち、二百名が戦死していた。  それから、三十年、私は折にふれて考えた。あのとき、死ぬべきではなかったか、と。そのようなとき、私の眼前に甦《よみがえ》るのは、ガ島を蔽《おお》った巨人のような積乱雲の白い姿であった。あの雲があったために、私は撃墜された。しかし、あの雲に遮られたために、今も生きているのかも知れない。  私は、生のあるうちに、ソロモンを訪れたいと考えるようになっていた。ソロモンで死んだ多くの戦友を葬い、自分が撃墜され、漂流した場所を再訪し、自分の生の在り方について、考え直してみたいと考えていたのである。  昭和四十八年、三月一日、午後七時、私はシドニー行きの飛行機に乗った。  そして、赤道を越えて間もなく、私の機はエンジンを損じたが、そのとき私の脳裡に再生されたのは、ガ島上空の積乱雲であった。  火をふいたエンジンはストップし、反対の機窓からも、炎の色が見え始めた。二基目が火災を生じたのであろうか。機はますます高度を下げ、午前二時頃、ポート・ダーウィンの空港に滑りこんだ。  機が停止すると、私はタラップをおりて、エンジンを見た。焼けたのは一基で、カウリング(カバー)の内部が黒く焦げていた。私はそれを見ながら、——今度も死ななかった——と考えた。 一  シドニーに三泊した後、私は三月六日午後二時三十五分発のUTA機で、ニューカレドニアのヌーメアに向うことになった。  シドニーからヌーメアまでは二千四十キロ、ジェット機で三時間足らずである。  シドニーを午後二時三十五分に離陸したUTA(Union de Transports riens=フランス系)のボーイング七〇七機は、午後四時十五分にはヌーメアに着くはずであった。(シドニー、ヌーメア間には一時間の時差があり、時計を進ませなければならない)  シドニーの空港ではちょっとしたトラブルがあった。正確に言えば、ポート・ダーウィンで、トラブルがあったと言うべきである。  南緯十三度のこの町に不時着したため、私は思いがけず、かつての日本機動部隊が何度も攻撃を繰返した、ダーウィンの町と軍港を見ることが出来た。  しかし、深夜午前二時、香港からシドニーに向うジャンボジェット機に便乗のため、叩き起こされたため、ねぼけ眼の私は、老眼鏡と手帖をホテルのベッドのサイドテーブルに忘れてしまった。空港でそれに気づいた私は、係員に、シドニーのホテルをメモに書いて渡し、届けてくれるように頼んだ。  シドニーに着いた翌日、クアンタス航空から、忘れ物を預っているから連絡するようにという連絡が、外出中に、リセプションデスクにあった。五回ほど電話をかけて、やっと、忘れ物は、空港にあるので、私がヌーメア行きの飛行機に乗る一時間ほど前、通路で渡す、という航空会社の意向が明らかになった。  三月六日、午後一時半、チェック・インを終った私は、飛行場へ向う通路を歩いてみた。誰も出て来ない。二回、三回と長い通路を往復してみたが、それらしい人物に出会わない。飛行場への階段を降りる手前に、「Official only」という札の下がった扉があった。かまわずに扉を押してなかに入ると、立派なソファが並んでいた。壁にはVIPルームという札がかかっている。各国の元首や、大スターなどが、飛行機の時間待ちをする部屋であろう。並の背広を着て、カメラの袋を肩にかけ、お伴もいない私が、VIPに見えるはずはない。  しかし、奥のカウンターに待機していた若い女性は、すぐにオーダーを聞きに来た。私は疲れていたし、のどが乾いていたので、コーラを頼んだ。飲み物が運ばれると、私は用件を告げた。奥の部屋から、貴族の執事役の得意な俳優、ドナルド・クリスプに似た初老の肥った男が出て来て、もみ手をしながら、私の用件を聞いた。それは、承《うけたまわ》ると形容してもよい慇懃《いんぎん》さであった。  男は、二、三カ所に電話をかけ、十分ほどすると、ガードマンのようなユニフォームをつけた大きな男が現われ、大きな封筒を私に渡した。封筒は三重になっており、各層が厳重に糊で密封されていた。何の糊を使ったのかは知らないが、引きが強くて、なかなか口があかなかった。私は、内部から老眼鏡と手帖をとり出して確認した。そのとき、ドナルド・クリスプに似た男は、決してなあんだという顔を見せなかった。  礼を述べて、その部屋を出ながら、——オーストラリアは大国だ——と私は考えた。 二  シドニーを離陸したUTAのジェット機は針路をほぼ北東にとった。太陽の反対側である右側の窓際に席をとった私には、海面の様子がよくわかった。機の高度はわりに低く、六千メートル位であった。この海面は、珊瑚海とタスマン海の境界あたりらしい。昭和十七年五月八日、翔鶴、瑞鶴の攻撃隊がレキシントンを沈めた珊瑚海海戦は、ここから二千キロ北方の海面で戦われたのである。  シドニーとヌーメアの間には何も島はないと考えていたが、翼の向うから小さな環礁が近づいて来て、翼の下に入った。クアンタス航空がくれた南太平洋の地図を出してみると、確かに島の印が書いてあるが、名前はない。私は先ほどシドニー空港で返してもらった老眼鏡を出してかけた。この環礁の北東、丁度針路のあたりにミドルトンという島があるらしい。  私が外でも老眼鏡をかけ出したのは、五年ほど前である。老眼に気づいたのは十年ほど前で、家で長い仕事をするときはかけていたが、外ではかけないようにしていた。しかし、いよいよ小さな文字がかすんで見えなくなって来たので、外聞をかまってはおれず、新聞社の社内や、電車のなかでもかけるようにしたのである。私より若い同僚は、 「早くも来たね」  と冷やかしにかかったが、試みにその友人に老眼鏡をかけさせてみると、 「うーむ、これはよく見えるね、これは楽だ」  と言った後、 「こりゃあ、おれも来たかな」  と、彼は当惑した表情を示した。  それから間もなく、彼も家ではかけるようになり、以来、頭痛が減退した、とくすぐったそうな顔で私に報告したことがある。  私が老眼鏡をかけだした頃、私は自分が四十八歳に近づきつつあることに気づいていた。四十八歳は、私にとって画期的な年齢である。私の同期生の戦死者の半数に近い約九十名がラバウルを中心としたソロモン、ニューギニア方面の戦闘で戦死している。そして、彼らの平均年齢は二十四歳であった。  海に落ちたとき、私は満二十三歳と二十四日であった。私は早生まれであるから、ソロモン方面で戦死した同期生の大部分は、二十四歳で生涯を終った者が多いと私は計算していたのである。  自分が、戦死した同期生の二倍を生き、そして、視力二・〇であった操縦員が老眼になったことを自覚したとき、私はうしろめたいものを感じた。  中年を迎えた人に、生きることの含羞があるのは、珍しいことではなく、割腹した三島由紀夫にもその要素はあったであろうと考えられるが、私の場合は、当時の軍律として死すべき命を、虜囚として永らえたのであるから、長生きするにつれて、生の重みが加わって来ることを感じないわけにはゆかない。酒を呑んで酔っていても、ふいに醒《さ》めることがある。ソロモンの海底に眠っている同期生のことが頭をかすめる。四十五歳を越えて、動脈硬化と高血圧の診断を受けたとき、私の腹の片すみで、ほっと息をついているものがあった。間もなく、戦友のもとにゆける。恥の多い人生が終るのだ……。  しかし、その反面、私は生への執着の強い人間であった。戦死した同期生の倍の年齢、つまり四十八歳に近づいた頃から、私は外国旅行に精を出し始めた。東ヨーロッパ、中近東を含むソ連四回のほか、北アフリカ、南米などを回り、今回のソロモンへの旅は六回目の外国旅行にあたる。  私は自分のマニアックな海外旅行に、若くして死んだ戦友のかわりに、世界を回って、その後の様子を見て来るのだ、と理由をつけてみることがある。しかし、間もなくその言い方に実感がないことに気づく。  私の外国旅行の動機は、ソ連領シルクロードに住む、かつての遊牧騎馬民族に対面したいという素朴な願望にもとづくものである。  私の郷里は岐阜県の墨俣《すのまた》であるが、母は青森県野辺地《のへじ》の出身で、私は満洲の長春に近い四平街で生まれた。中学生になって、柔道をやるようになってから、脚が短くずんぐりした私の体を見て、父は、「お前には蒙古人の血が流れているな。青森の方から、蒙古系の血が入って来たのだ」と私を評することが多かった。  戦後、新聞記者となって、江上波夫氏の「遊牧騎馬民族日本上陸説」を読み、私の先祖は、ひょっとすると、中央アジアに残存するウズベク、カザフ、キルギースなど、かつての遊牧騎馬民族の先祖と同類であったかも知れぬ、と夢想するようになった。  昭和四十三年春、満四十八歳を迎えて間もなく、私は単身でソ連旅行を試み、シルクロードとコーカサスを回った。アルマ・アタ、タシケント、フルンゼ、サマルカンド、ブハラなどで、私は多くの遊牧騎馬民族の末裔《まつえい》と出会った。そして、期待は裏切られなかった。確かに私とよく似た人相骨格を備えた男がいた。私は彼らに親近感を感じ、向うも親しみをもってつきあってくれた。  ——私の先祖は、かつて中央アジアの草原を疾駆した遊牧騎馬民族だったのだ——そう考えて、私は自足した。旅の目的は果たされたのである。  この時、二つの副産物があった。  一つは、共産主義国についての関心であり、いま一つは、回教圏への好奇心であった。中央アジアはかつてサラセン帝国をはじめ、回教国の支配下にあり、大きな回教寺院や、幾何学模様で飾られた回教美術を残していた。  私はこの二つの関心に回答を与えようと考え、東ヨーロッパを回り、中近東を回った。きわめて興味深い旅であった。  プラハのバーツラフスカヤ広場で、真黒な国立美術館の柱に、点々と機関銃弾の痕が生々しく残っているのを眺めたとき、イスタンブールのアヤ・ソフィヤで、回教寺院の壁を削った奥にギリシヤ正教のイコン(聖像)を認めたとき、私は想い出したように、戦友のかわりにおれは世界を回っているのだ、と自分に告げた。しかし、その声は弱かった。私はやはり、自分の好みを満たすために、外国を回っているのに過ぎなかった。  しかし、かすかな救いが私にもあった。度々外国を回って、一カ月に二十回近く飛行機に乗っておれば、そのうちに海に落ちたり、高山にぶつかったりして落命するかも知れぬ。私は心のなかで、そのような死を恐れるかわりに、望んでいる自分を感じていた。  戦死した私の同期生の多くは海底に沈んでいる。もしくは名も知れぬ熱帯のジャングルのなかに、いまも骨を横たえている。内地に遺骨の戻った者はきわめて稀である。クラス会の芳名録の記録を見ても、××中尉、××上空の空戦において、被弾自爆、あるいは××潜水艦に乗組み、交戦中乗艦沈没戦死とあるのが大部分で、陸上で命を終った者は僅少である。  おくればせながら、私は自分も死ぬのなら、そのように死体の残らない方法がよいと考えるようになっていた。  血圧が上がって来たとき、私は長男と次男に、「お父さんが日本で死んだら、墓はいらないから、骨を灰にして、ソロモンの海にまいてくれ」と言ったことがある。  二人は、「面倒臭い」「お金がかかるからいやだ」といって、私の申し出を断わった。私は親子の縁のはかなさを感じた。  しかし、私が人に知れない所で死んでゆきたいと考えていたことは事実で、ソ連の黒海沿岸にあるソチから、コーカサス山脈の北側にあるミネラル・ボードイに飛ぶとき、イリューシン18機が嵐に出会って、海抜五千メートルのコーカサス山脈の稜線《りようせん》すれすれに飛んだことがある。山頂にはビザンチンの修道院が残っており、その尖塔が雲に蔽われている。機は雲の中に入ると震動が激しいので、雲と山頂の間にあるわずかな切れ間を縫って飛ぶ。操縦員の経験のある私は考えた。この飛行はきわめて危険である。突然、雲の中から高峰が前方に現われたならば、回避は不可能である。しかし、その反面、私はかすかな安息を覚えていた。ここで、岩山に衝突するならば、機体と共に、体も四散するであろう。ここならば、一個の物体として死んでゆけるかも知れない。ソロモンまで骨片を撒《ま》いてもらいにゆく手間が省けるというものだ……。  私の周辺では、機体の激しい動揺に危険を感じて、お祈りをしている老女もいた。共産国といえども、こういう時には、マルクスやレーニンに祈るのではなく、イエス・キリストや、聖母マリアに祈ることを知って、私は興味深く感じた。  そのとき、私は出来るならば、コーカサス山脈の最高峰、海抜五千六百二十メートルのエルブルース山にぶつかって死にたいと祈っていた。それは、何かの神や仏を対象として祈るのではなく、ただ単に自分のために祈ったのである。このようなときでも、私のなかのロマンチストは、エゴイストとの融合を止めなかったのである。  飛行機は無事にミネラル・ボードイの飛行場に着いた。操縦席から談笑しながら降りて来た操縦士の一人は、堂々たる体格をしたスラブ女性であった。私は自分が小さな道化を演じていたことを恥じた。  世界を回っている間に、いつも私につきまとっていたいま一つの考え、それは再度ソロモンを訪れねばならぬ、ということであった。ガダルカナルや、ラバウルを訪ねて、戦死した同期生の霊と再会することが、私には必要であった。それが生き残った私に出来る、ほとんど唯一の供養であった。  戦友のかわりに外国を回るなどというような口実は早目に打ち切って、ソロモンへ頭を指向すべきであった。それでいて、私はソロモンへ足を向けることをためらっていた。それは、犯罪者が犯罪の現場に惹《ひ》かれながら、抵抗と躊躇を感じているのに似ていた。  ソロモンは、私にとって、やはりうしろめたい土地であった。  しかし、やがてふん切りをつける機会が到来した。シドニー湾の特別攻撃隊の事蹟を調べることになり、その足でニューカレドニア、ソロモン、ラバウル、ポートモレスビーなどを訪れることを決意したのである。  この旅を決意したとき、私は未知の海上に墜落して無名の物体として消滅したいという願望を忘れていたが、それに関係なく、危険な飛行が私を待っていたのは冒頭に記した通りである。  ヌーメアに向うジェット機の翼のかなたに、また一つ新しい環礁が見えて来た。  老眼鏡をずり上げて、地図を探すと、ミドルトン環礁という名前が認められた。先ほどの環礁が、半ばくずれていたのに対し、今度のミドルトンは、見事な円形で、その中央に小高い島があった。一旦翼に隠れた後、眼下に近づいたところをみると、島には人家らしい小屋があり、環礁のリーフには椰子《やし》が密生しているらしく、濃い緑の環のように見えた。こんなところにも人が住んでいるのか、という感じよりも、こんな島にも植物の種子が流れつくのか、という感慨の方が深かった。  ミドルトンという名前にも私は何らかの感興をそそられた。ある英文学者が、イギリスの女流作家キャスリン・マンスフィールドを短編の名手としてほめていた文章を私は読んだことがある。マンスフィールドは、本名キャスリン・マンスフィールド・マリで、イギリスの批評家、ジョン・ミドルトン・マリの細君である。キャスリン・マンスフィールドはたしかニュージーランドの生まれであるが、ミドルトン・マリはどこの生まれか記憶がない。かりに、ミドルトン・マリがニュージーランドの生まれであったとしても、この環礁に名を残すほどえらくはなかったのではないか。私のように、マリの批評など全然読んだことのない人間が、勝手な推測をするのは、場違いであるかも知れないが……。  環礁の内側に、見事に凪《な》いだ内海があった。内海というより池に近く、尾翼の方に遠ざかってゆくその海面は、午後の陽を浴びて急に水面の色が変化し、鈍色《にびいろ》の銅鏡のように見えた。空は晴れており、海の水は見事なウルトラマリンだった。  主翼の向うに姿を現わし、尾翼の方に消えてゆく環礁を眺めながら、私は父のことを想い出していた。  父は大垣の病院に入院しているはずであった。病名は結腸癌である。  発見は今年の一月であるが、かなり遅かった。病巣はすでに小腸や肝臓にも広がっていた。  明治二十九年生まれの父は、数え年七十八歳であった。数年前、前立腺の手術をしてから、脚力の弱りを訴えていたが、癌の徴候は見られなかった。昨年九月、喜寿の祝いというので、子供たちが岐阜市に集まり、長良川畔の長良川ホテルで、祝宴をひらいた。  長男の私と次男の満穂《みつほ》がそれぞれ夫婦で出席し、長女の秀子が夫の五郎を同伴して和歌山県の田辺から駆けつけた。  中華料理に老酒で乾盃し、父は上機嫌であった。大垣商業を卒業すると同時に、満鉄の幹部職員養成所の試験を受けて渡満し、十六年間満鉄に勤めた父は、中華料理が好物であった。なかでも焼豚と蟹《かに》が好きで、私が帰省するとき、孝養を考えるときは、焼豚や蟹缶を買って帰ることがあった。しかし、父にとって、最高の味は、奉天の四季飯店で食べた芙蓉蟹《フヨウハイ》であり、鉄嶺の桜町で食ったニーヤンの店のすすけた焼豚であった。  段々本場の味がなくなって来る、といって嘆いていたが、この晩は喜んで、運ばれて来る皿に箸をつけていた。  弟夫婦は幼児を同伴していた。弟には長い間子供が出来なかったが、四十歳のときに久方ぶりに男児が出来たのである。父は「曾孫《ひこ》のような気がする」と言って可愛がっていた。誕生をすぎたばかりの純《じゆん》は、部屋中をよちよちと歩き回り、この日の人気者であった。  純は、まだ「のんだ」と「いやいや」ぐらいしかものが言えなかった。「のんだ」というのは、母親がミルクを与え、「飲んだ?」と聞くので、「のんだ」と答えるところから覚えたものらしい。  私は歩き回る純の姿を眺めながら、——この子が大きくなるまで、おれは生きられない——と考えていた。漠然とではなく、確実にそういう気がしたのである。純が二十五歳になるまで、二十三年かかる。私は今までの人生の半分近くを生きねばならぬ。及びもつかぬことである。私より五歳年少の弟は、考えを改めて、あと二十余年頑張ることにしたらしい。生きる目的がないよりは、あった方が人生は生き甲斐があるに決まっている。途中で倒れるにしても、その時点までは、充実していたということが言えるのである。  父はどう考えていただろう。  純が成人するまで生きれば百歳になる。父は純の成人した姿を見ることはあきらめ、そのために一層可愛く感じられたのであろう。 「今日は、わが生涯の最良の日じゃよ」  純を抱いた父は、相好《そうごう》をくずしてカメラにおさまった。  それから四カ月して、父は発病した。実際は、喜寿の祝いのときに、すでに病気は進行していたのであろう。何らかの理由で、父は受診を延ばしていたのである。  実のことをいうと、ソロモンを再訪するこの旅を、私は四月初旬に計画していた。  四月七日が、私がソロモンの海に落ちた日であり、その日にガダルカナルに着くように日程を考えていたのである。  一月の終りに大垣を訪れたとき、私は義母(父の後妻であるから、本当は継母であるが、こう呼ぶことにしておく)に父の病勢を尋ねた。 「お医者さんは、あと三カ月はもつが、それ以上は無理じゃろうというてみえますぞな」  と義母は答えた。  三カ月とすると、一番危いのは四月下旬である。私は、旅を繰り上げることにした。三月一日出発することにして、二月の終りに父を見舞った。  私夫婦のほかに、弟夫婦も純をつれて、病院に集まった。 「まあ、おれはな、満洲もあちこち回ったし、見たいところは見たし、食いたいものは食ったし、好きなことをやって来たで、何も思い残すことはない。純が大きくなるところが見られんだけが心残りじゃが、それは欲というもんじゃ」  ベッドに半ば起き上がった父は、患部と思われる左下腹部を拳骨で叩きながらそう言った。  父は十数年前、定年で日本通運を止めたが、その後は二人の兄とそれぞれ夫婦づれで、国内の温泉を回るのが楽しみであった。北海道から九州まで旅を重ね、目ぼしい温泉はほとんど回ったようである。 「一度香港に行って、中華料理を食いましょう」  と私が誘ったとき、父はかなり誘惑を感じたようであるが、 「脚が弱っとるので、そんなあわただしいところはたくさんじゃで」  と断わった。  医師は父に病名を教えなかったが、父は気配で察して、覚悟を固めているようであった。  私も空々しいことばが口を出なくて、 「悠々と生きて下さい。ゆっくり養生して、また温泉へ行って下さい」  とだけ言った。  そのとき、父はふいに私の顔を見た。眼がうるんでおり、馬の眼に似ていた。 「酒でも買って来ましょうか。口あたりのなるい酒を探して来ますよ」  と私は言ったが、 「いや、それがどうしても呑む気になれんのじゃが……」  と父は口ごもった。  晩年の父は酒好きであった。酒だけが楽しみという時代もあった。一月の初めに寄ったときは、まだ呑めたのである。それが呑めなくなっては、もう長くないと考えられた。まだ歩いて厠《かわや》へ行けるのであるが、やはり三カ月位かと考えられた。  ニューカレドニアに向う機上で私の脳裡を占めていたのは、そのような父への想いであった。  機は東へ向うので、日没が早まった。  ニューカレドニアに向う機のなかで、あらためて、三十年前の記憶が、私の脳裡に座を要求し始めていた。  私はニューカレドニアを第二の故郷だと考えるときがある。  くわしく言えば、私の生まれた故郷は、満洲で、育った所は岐阜県で、ここが父祖の地であるから、ニューカレドニアは第三の故郷ということになるが、私が第二の故郷というときの思考法は次のような事実に依る。  私がソロモンの海に落ちたのは、前述の通り、昭和十八年四月七日であるが、一週間の漂流の後、自決することが出来ずにひろいあげられたとき、私は完全に納得して生への道を選んだわけではない。飛行機でニューカレドニアに運ばれたときにも、私はまだ自分が禁じられた「生」を生きていると考えていた。  ソロモンの海水から先の人生は、私には禁断の時間であった。従って、ニューカレドニアの収容所に入れられてからも、私は自分の生き方に対するロジックを持っていなかった。しかし、ニューカレドニアにいる間に、私はロジックによってではなく、実感によって、自分の命を断つことなく、残された時間を生きてみようと考えるようになった。  その実態は後に述べるが、ニューカレドニアは、私にとって再生の場所であった。  太陽が西の水平線に近づき、海面が淡い青藍色から薄い紫色に変化しかけた頃、ニューカレドニアの島影が見えた。  ニューカレドニアは、南北四百キロに近い細長い島で、首都のヌーメアは、西海岸の南端に近い人口四万二千の港町である。島の面積は四国より少し狭く人口十二万で、ヌーメアから東京までの距離は七千キロで、ほぼ東京—ハワイ間に等しい。  今回の飛行は、シドニーからであるから、いきなり島の南端にかかるのであるが、前回すなわち三十年前は、ガダルカナルから南下し、エスピリツサント島の飛行場に寄り、島の北側からヌーメアに向ったのであった。  いま、私の手元に、昭和二十二年四月号の新潮がある。この号には、私の処女作「ニューカレドニア」が載っている。昭和二十一年夏、川端康成氏にやみくもに短編を書いて送ったところ、「このような根抵の浅いものを書いても致し方ありません。貴君の体験を丹心こめて書いてみることです」という手紙をもらい、自分なりに丹心こめて書いた作品が、新潮に採用されたものである。  この作品のなかには、自分の飛行機が撃墜され、漂流して捕虜となる様子がくわしく描かれている。そのなかから、ニューカレドニアに着くところの描写を引用すると次のようになる。 〈陽が大分西へ傾いた頃、一面積乱雲に蔽われた大きな島が右手に見え出した。ニューカレドニア島の様である。雲の断間《きれま》を縫うて、十文字形の大きな飛行場に降りた。収容所から来たらしいMPが二名、カチャカチャと拳銃を装填して、私達を受取った。私達を送って来たMP達は、口笛を吹きながら、夕陽に長い影を引いている宿舎の方へ、大股に歩き去った。  見事に舗装された、幅四間位の山間の道を私達をのせたジープは二時間位突っ走った。途中、ところどころに白壁赤瓦のフランス風農家や、オランダ式の大きな風車があって、斑《まだら》の牛を追う牧童の姿も見られ、のどかな農村風景であるが、山の中腹に下《おろ》してある白い阻塞《そさい》気球が、夕陽を反射しながらゆったりとうずくまっているのは、不気味であった。三つばかり灌木《かんぼく》に蔽われた低い山を越えると、急に視野が開けて、右の方に多数の船を浮べた入江が見えた。左の海岸の町がヌーメア港であろう。もうぼつぼつ窓から灯が洩れている。海岸の小高い丘を上りつめたところで、ジープは止った。〉  飛行機が接近するにつれて、ニューカレドニアの島影が露《あら》わになって来た。丘の斜面は夕陽を浴びて褐色に輝き、海岸に近い樹林は緑色のぼかしのなかに沈もうとしていた。陸地から一キロ近く離れたところに、長いリーフ(珊瑚礁)が防波堤のように延びており、礁を洗う海水が砕け、その飛沫が夕陽を金色に反射していた。昼間はこの波が白く砕け、近くの海底の珊瑚礁が淡青色の水の底に沈んでいるのが美しく透視されるのである。  三十年前、着陸したところと同じ飛行場に降りるのかどうか、私は自信がなかった。機はかなり大きな島を飛び越え、陸地にかかった。小さな港があり、小さな白い灯台があった。リーフの内側は波が死んだように静かだった。  飛行場は小高い丘の上にあり、あたりは茶褐色の禿山が多かった。三十年前の軍用飛行場は、滑走路が十字形になっていたが、今回のは、滑走路が一本であった。あのときは戦時中であったので、滑走路の近くには見渡す限り、グラマンF4F戦闘機が並べてあった。千機とも数えられ、二千機とも推定された。グラマンは、全部新品で、エンジンに新しいカバーをかけられ、工場から出来上がって来たばかりの商品のように思われた。——こんなにたくさんの機がガダルカナルに送られるんじゃあ、かなわんな——自分自身がグラマンに撃墜されたので、私は正直にそう考えた。  今回はそのような光景は見られず、滑走路の近くには、雑草の茂った空地があるだけであった。  機は飛行場の上で大きく旋回した。入江の突端にある灯台に火がともり、ゆっくり明滅し始めていた。滑走路にも夕闇が訪れており、私は近くの空地を埋める無数のグラマン戦闘機の幻影に襲われていた。そして、やはり、この飛行場が自分にとって懐かしいものであることを確認していた。 三  ヌーメアの空港は Tontoota と言った。これはメラネシアのことばであろう。ヌーメアも「赤い椰子」という意味である。キャプテン・クックが来訪したときには、海岸に赤い椰子が生えていたという。しかし、この島に豊富な火焔樹を、現地人たちが赤い椰子と呼んだのかも知れない。  ニューカレドニアはフランス領であるから、短期間の旅行ならばビザは要らない。税関ものんびりしている。入国手続きをすませて外へ出るとマイクロバスが待っていた。トントゥータからヌーメア市街までは六十キロ近くある、ということが、色の浅黒いバスの女車掌の話でわかった。料金は二ドル半(六百五十円)であった。してみるとこの空港はやはり私が以前に着陸した空港のようだ。ヌーメアではあまり進歩がないようである。車掌に確かめると、やはり戦争中からヌーメアには国際空港が一つしかないということであった。  バスは走り出したが、すでに陽が没しているので、かつて私が見たような白壁赤瓦の家や、斑《まだら》牛などは見えない。  そのかわり、遠くの丘の斜面に火が拡がるのが見えた。  ——野焼きかな?  日本では、草木の肥料にするため、冬期、野山の草を焼くことがある。しかし、車掌に訊《き》いてみると、これは落雷や、煙草の火のために出来た山火事を放任しているのだということであり、私を落胆させるに十分であった。  遠くに点々としていた火の群れは、近づくにつれて、華やかな火焔の列と変り、幻想的な色を帯び始めた。  ——野火……  私は大岡昇平氏の同名の小説の一節を思い出していた。 〈林が切れた。川向うには依然として野火が見えた。いつかそれは二つになつてゐた。遠く、人が向うむきに蹲《うずく》まつた形に孤立した丘の頂上からも、一条の煙が上つてゐた。  麓の野火は太く真直にあがつたが、丘の上の野火は少し昇ると、高い所だけに吹く風を示して倒れ、先は箒のやうにかすれてゐた。(中略)  丘の煙は恐らく牧草を焼く火であらうが、我々の所謂《いわゆる》「狼煙《のろし》」にかなり似てゐた。しかしなんの合図であらう。〉  やがてバスが近づくと、熾《さか》んな火焔にあおられている灌木や雑木が見え、火に焼かれている山肌と共に、それは無残な醜い近景と変った。  しかし、私は自分の三十年目の再訪を、ニューカレドニアが野火で歓迎してくれたことに満足し感激していた。  野火を背負った丘陵地帯を抜けると、盆地へ出、また丘陵地帯の狭間《はざま》に入ったが、今度は野火がなかった。さらに盆地と丘陵地帯を抜けると、海岸に出た。入江に船が碇泊しており、灯火が海面で静かにゆらめいていた。おだやかで平和な感じであった。海岸線が長く続き、入江がいくつも現われては消えた。大きな工場があり、車掌はこれがニッケルの製錬工場だと説明した。  やがてバスは灯火の明るい街に入った。岸壁に船が着いているらしく、マストが見えた。このへんがヌーメア港の中心部らしい。かつて、私がニューカレドニアから、フィジー経由でハワイに送られたときは、この岸壁から輸送船にのせられたのであろうか。  バスはメーンストリートを走っているらしい。手元の地図によれば、ジョルジュ・クレマンソー通りか、セバストポール通りあたりを走っているらしいが、大きな建物はない。白壁の明るい感じの家が多く、こざっぱりとして、南仏海岸の小都市を思わせる。  地図を見ると、フランス領の町らしく、ジョルジュ・クレマンソーのほかに、アナトール・フランス、ジャン・ジョレスなどの名前が見える。私は昭和十八年四月から六月まで、約二カ月ヌーメアの郊外にいたが、一度も街へは出してくれなかったので、初めて見る町並みを、このような町であったのかと、懐かしく眺めていた。  メーンストリートを抜けて、二つばかり入江をやりすごすと、海にヨットの灯が見え始めた。このへんが海水浴用の海岸であるらしく、ホテルもこのあたりに多い。バスは乗客をホテルに配給し始めた。私が予約した Ile de France は、セカンドクラスで、配給はシャトー・ロワイヤルなど、大きなホテルから始まるので、私は後の方であった。現在のヌーメアはリゾートだというので、イル・ド・フランスも海岸に面した見晴らしのよいホテルかと思っていたが、ベロドローム通りからかなり中に入った所で、海は見えそうになかった。しかし、この時、私はこの古めかしいホテルが、私が探している元収容所跡と背中あわせになっていることに気づいていなかった。  イル・ド・フランスはバンガロー風二階建ての簡素な造りで、部屋数もそう多くなかった。私の部屋は、裏側の一番奥の一階で、その裏は空地で、小高い丘につながっていた。  リセプション・デスクで宿泊カードに署名をしていると、となりのバーで音楽が聞えた。メラネシア人の客が数名ビールを呑んでいた。バーテンダーもメラネシア人であった。彼等は、気楽そうで、人が好く見えた。このへんの現地人はニューギニアにくらべて色もそれほど黒くはなく、かつて食人の習慣があったとは信じられぬほど穏和であった。  私は荷物をおくと、バーへ行った。のどがかわいていたので、ビールを頼んだ。グラスが来ると、かたわらにいた黒い客人がさっと自分の瓶からビールを注《つ》いだ。私は、 「メルシー」  と礼を言って、グラスを干した。別に警戒する必要はないようであった。彼等は見なれない異邦人に親愛の情を表しているのであった。五人のなかに英語の出来る男がいた。貨物船の火夫だと言う。彼の話で、この五人はホテルの客ではなく、呑みに来たのだということがわかった。彼等は呑みながら、歌い、手拍子をとったりしていた。  私は金を両替えすることを思いつき、リセプション・デスクに行った。私の持っている金は米ドルである。 「米ドルは今週一杯取引停止です」  と、若いフランス系らしい男が英語で言った。またドルが下がったらしい。私は当惑した。オーストラリアでも、ダーウィンに着いた途端に米ドルが下がり、米ドル百に対して、オーストラリア・ドル七十五であった。  私の日程はヌーメア二泊なので、明日中にタクシーを雇って、かつての収容所を探さなければならない。それにヌーメアの収容所で自決した二十余名の兵士の墓も探さねばならない。ホテル代も払わねばならぬし、何にしても、金が要るのである。私は下落しつつある米ドルと共に、アメリカをも恨んだ。 「What shall I do?」  と私は言った。  ヌーメアはフランス領であるから、少しはスマートな返事がかえってくるであろう、と期待していた。 「Consul will help you」  と彼は事もなげに言った。  私は自分の耳を疑った。出国前の日本での私の調査によれば、ニューカレドニアには、日本の在外公館はないはずであった。今度の旅行ではオーストラリアを除いては日本の外交機関はなかった。バガボンドの私も、少々心細く感じていたのである。しかし、コンスルと言えば、領事である。 「Japanese consul?」  と訊くと、 「Consul General」  だと彼は答える。コンスル・ジェネラルと言えは、総領事である。彼が間違っているのでなければ、彼は私をなぶっているのだ。日本の外務省で知らない総領事が、ヌーメアに駐在している筈《はず》はない。とにかく、電話してくれというと、男は、笑いながらオパレーターに、「コンスル・ジャポネー」とフランス語で告げた。女性のオパレーターは心得てダイヤルを回した。  相手が出たらしく、男は手元の受話器を私に渡した。 「アロー……」  と向うは言った。  私も、 「アロー」  と言った後、 「アロー、モシモシ」  と言った。 「ああ、日本の方ですか」  と向うは応じた。  私はホッとした。この島に少なくとも一人は日本人がいたのである。 「こちらは、東京から来た豊田と申しますが……」  私は自分の名前を告げた。意外なことに、向うは私の名前を知っていた。 「ああ、豊田さんですか。是非お会いしたいと思っていました。あなたがニューカレドニアについて書いた本は、全部集めております」  と彼は言った。 「あなたは総領事だそうですが……」 「はい、名誉総領事のツツイと申します」 「ああ、名誉の……」  それで、私は合点が行った。  彼は日本人の父とフランス人の母のもとに生まれた二世で、貿易商であるが、日本人の世話をよくするので、福田赳夫氏が外相のときに、名誉総領事の辞令をもらったのだそうである。 「金のことなら心配いりません。私が立て替えます。あなたがいた収容所の跡も大体わかっています」  と彼は続けた。  私は安心した反面、落胆を覚えていた。自分がいた場所を探すには、相当の困難が伴うはずであり、私はそれに少年に似たロマンチシズムを感じていたのである。 「明日の朝、九時に息子を迎えにやります。昼飯はわが家で日本食をやりましょう」  ということで、電話は一応切れた。  私は一段落したという感じで、半ば呆然とした形でバーにもどり、隣人とビールの献酬を始めた。  部屋に戻ったとき、私はかなり酔っていた。  ニューカレドニアに着いたら、三十年前に仰いだ南十字星を、いま一度眺めるのだ、と自分に言い聞かせた予定を忘れて、私は寝こんでしまった。 四  朝、私は雨の音で眼をさました。  南半球なので、ニューカレドニアの三月は、日本の晩夏から初秋にあたる。  南緯二十二度のヌーメアでは、日中の気温が、摂氏二十度から二十五度位であるが、陽ざしは強くなく、外を歩いても汗をかかない程度である。  ベッドのなかで雨の音を聞きながら、私はこれがヌーメアの夏の名残りか、と考えていた。雨は間もなくあがり、窓をあけると、清々《すがすが》しい空気が、一団となって流れこんで来た。私は、ソロモンの海を漂流中、私と祖川上飛曹の浮舟《ブイ》を襲ったスコールのことを思い出していた。  正確にいうと、それは襲来したのではなく、私たちの渇きをいやすためにやって来たのであった。連日熱帯の太陽に照りつけられて、私たちの唇は乾き、はれ上がっていた。そこへスコールの雨滴が当たると、吸取紙の上に落ちたインキのように滲透してしまうのである。湿った唇を舌でなめながら、私はひそかに天の恵みに感謝していた。乗機が撃墜されて自決も出来ず、海上に漠然と漂流している一個の物体のような私にも、天は恵みを垂れ給う、とその時は考えたものである。  スコールが去ったとき、私はシャワーを浴び終ったときのような爽やかさを感じた。海上では、雨はあがるのではなく、雨は積乱雲と共に移動し、去ってゆくのである。  一週間にわたるソロモンの漂流で、私が得たものは多いが、そのなかで、記憶に止まっているものの一つは、スコールの恵みと、雨が去った時の爽快感である。  ヌーメアの朝食はフランス風である。つまり、コンチネンタルというやつで、コーヒー、バター、ジャム、パンという簡素な献立で、注文しなければ、スクランブルも、ハムエッグスもつかないというわけだ。  私は外国旅行で、メニューの内容がよくわからないときは、卵料理を頼むことにしている。よほどのことがないかぎり、目玉焼の味は違わない。ハバロフスクでも、バグダッドでも、卵の味は同じである。それに注文しやすい。ことばがわからなくとも、自分の眼玉のところに両掌の指でめがねのような輪をつくり、ぽっと下におとす真似をして、ジューッと口で言えば、大抵目玉焼を持って来る。ソ連領シルクロードのフルンゼという、かつてのキャラバンの町へ行ったときのことである。昼飯時に、ガイドが一緒に行って注文しなくても大丈夫か、と訊くので、いや、目玉焼でビールを呑むだけだと言って、前記の、注文法を示したことがあった。ガイドは笑いながら感心して去った。  レストランの席についた私は、キルギース人のウエイトレスに、例の眼球がとび出す式の手真似で、目玉焼を注文した。ウエイトレスは心得て去った。やがて、運ばれて来た小さなフライパンには、フライになった卵が三個のっていた。午後、私はガイドに、今日の昼は、目玉が三個出て来た。お前の国には、三つ目玉の人間がいるのか、と訊くと、彼は大笑いして、昔チンギスハン(ジンギス汗)が攻めこんで来た頃には、いたかも知れない、と答えた。  ハムエッグスと紅茶とパンで朝食をすませ、庭を散歩していると、午前九時かっきりに、ヌーメア名誉総領事、筒井譲二氏の長男、潤《じゆん》君が迎えに来た。譲二氏の細君は日本女性であるから、潤君には四分の一フランスの血が入っているというべきか。中肉中背で、ジェラール・フィリップに似た二十歳の好青年である。海底写真家志望で、柔道初段、ポリネシア地区の大会で優勝したことがあるという。日本に愛着をもっており、日本で写真の仕事をしたいと希望している。彼はヌーメアのハイスクールを出たのであるが、日本語が普通に話せた。外ではフランス語、家庭では日本語というふうに使い分けているらしい。  彼の運転する車は、朝のベロドローム通りを西へ走った。  ヌーメアの旧市街のはずれにハイ・コミッショナー(高等弁務官)の邸がある。ニューカレドニアを治める責任者で、土地の日本人は総督と呼んでいる。その近くの Vauban 通りに白亜のニューカレドニア議会があり、そのとなりに大きな寺院がある。寺院のはす向いが筒井さんの家である。日本画の額や日本の置物が飾ってある応接間で、私はムッシュー・ジョルジュ・ツツイと初対面のあいさつをした。名誉総領事は中肉中背で、よく見ればフランス人らしいところもあるが、日本人といっても通る面貌を持っていた。  彼は大正の終りにヌーメアで生まれたが、小学校を終ったとき、彼の父は彼を東京へ留学させた。フランス語の出来る彼は暁星中学へ入り、東京外語へと進学したところで、学徒動員で召集された。 「代々木の練兵場で、雨に降られながら、鉄砲を肩にして分列行進をやりましたよ。東条首相も雨のなかで、身動きもせずに立っていましたね」  とその時の印象を語る。  筒井さんは、豊橋の予備士官学校に入り、見習士官となって、当時の仏領印度支那(現在のベトナム)に渡った。フランス語の力をかわれたわけであるが、そこからスマトラに渡ったところで終戦になった。  筒井さんはフランスと日本の二重国籍を持っている。英軍の捕虜となった後、日本に復員し、さらにヌーメアに戻って、父君の貿易業を継いだのである。  私は筒井二世の潤君と組んで、私がかつて捕えられていた捕虜収容所を探すことにした。 「土地の人は、ワン・トロの西の凹地《くぼち》だろうと言っていますよ」  と筒井さんが教えてくれた。ワン・トロというのは、現地人のことばで、丘ということらしい。  地図を見ると、ヌーメアの町は、南へ長く突き出した半島の西側にある。半島の南端にある丘が、ワン・トロである。 「このワン・トロの北に小さな丘が二つあるでしょう。この間の草原じゃないか、というんですがね」 「今、何か残っていますか?」 「何もありません。あなたが探せば、何か出て来るかも知れませんがね」  そこまで聞いて、私は潤君の運転する車の助手席に乗った。  筒井邸のあるバウバン通りを右へ折れ、ニューオルリーンズというレストランのある最初の角を左折すると、セバストポール通りへ出る。この通りを南に下ると、新市街のメーンストリートであるベロドローム通りに出る。  セバストポール通りには、イギリス、オーストラリアなどの領事館、トゥーリスト・オフィス、警察署、博物館、カレドニアホテルなどがある。気のせいか、イギリス領事館は鉄門もいかめしく、大英帝国風であり、オーストラリア領事館はいくらか南国風で、開放的である。  一八七六年(明治九年)にニューカレドニアでニッケルが発見されたとき、イギリスは非常に残念がったらしい。  ニューカレドニアを最初に発見したヨーロッパ人は、フランスのブーゲンビルで、一七六八年(明和五年)というから、今から二百年ほど前、アメリカ合衆国が独立する八年前のことである。  彼は探険隊をひきいて、ポリネシア群島の西に長い大きい島があることを知ったが、あえて上陸はしなかった。ブーゲンビルは、ソロモン群島の北端に近いブーゲンビル島に名前を残している。この島は連合艦隊司令長官山本五十六の乗機が墜落して、長官が戦死した場所として知られている。  ブーゲンビルの次にニューカレドニアを発見したのは、イギリスの大航海家、ジェームズ・クックである。彼は初めてニューカレドニア島に上陸した白人である。一七七四年、五月九日のことであった。彼はこの島をニューカレドニアと命名したが、英領であることを宣言しなかった。なぜ領有を宣言しなかったかは明らかでないが、このとき、イギリスの旗を立てておけば、後に世界の埋蔵量の六十パーセントを占めるといわれるニッケル鉱は、イギリスの財産となったはずである。ジョン・ブルの無念や思うべし、というところである。  一七八八年、フランス人ラペルーズは二隻の船でこの島を訪れたが、暴風のため二隻共難破した。彼の名前は、ヌーメアの瀟洒《しようしや》なホテルに残っている。一七九一年には、ブルーニ・ダントレカストーという人がラペルーズを探しにニューカレドニアにやって来た。そして、彼はニューカレドニアの海岸や周辺の島々を探険し、島の概貌をつかんだ。  その後、一八四三年ドゥーアレという僧正が、最初のミッションスクールを建てた。そして、一八五三年九月二十四日、フランスの提督フェブリエ・デスプアンテが、この島をフランス領であると宣言したのである。  セバストポール通りからベロドロームの通りに入ると道が広くなり、町は官庁街から、リゾートの感じになる。モゼール湾やロルフェリーナ湾などの入江が見え隠れし、船やヨットが散見される。  競泳プールや陸上競技場のあるあたりから丘にかかり、ベロドロームの通りは終って、アンス・バータの通りに出る。この通りを南に突き抜けると、アンス・バータの海岸に出る。遠浅の砂浜が長く続き、絶好の海水浴場である。すぐ西のシトロン湾と並んでヌーメアの代表的なリゾートである。  このへんからワン・トロの丘が東に見えて来る。丘というよりは小山で、頂上には要塞砲の砲台がある。ヨットの浮かんでいるアンス・バータの海岸をしばらく行って左に折れると、ガブリエル・ラルクエの通りに入る。ワン・トロのふもとを北東に走っているこの通りは、半島を横断しており、間もなく、半島の東側にあるサント・マリー湾に出る。地図によれば、私のいた収容所はワン・トロの頂上から北二キロにある二つの小丘陵にはさまれた凹地である。ガブリエル・ラルクエの通りが海岸に出た所で車は左折し、浜に沿って北に走った。こちらは、サント・マリー湾と言い、ワン・トロと、マジェンタ村の突端にあるオーロンクー岬と、サント・マリー島に囲まれた内海になっている。海は静かで、こちらにも船が何隻かいたが、ヨットはいなかった。しばらく行くと、Despointes の港へ出た。  道の左手には、目ざす二つの丘の内、東側、つまり海に近い側の小丘が見えており、Despointes の港を右に見て、左折すれば、私のいた収容所の位置に達すると予想された。しかし、その地点まで来ると、左は湿地帯で、車は入れない。水のなかにニヤウリという白樺に似た木の林があり、上高地の大正池を小さくしたような景観を呈している。その池を見たとき、私は忽然として自分の記憶をよび醒ました。  現在のヌーメアにはほとんど蚊がいないようであるが、私がいた収容所では、蚊の異常発生に悩まされていた。その発生源は、収容所の近くにある沼であった。 「ニューカレドニア」には、次のような文章がある。 〈身体検査を受けている間に、私達は猛烈な蚊群の襲撃を受けた。丘の頂上から少し下った所に、五百坪ばかりの収容所があり、二重の鉄条網の中では、日本人とも南方土民とも見分けのつかぬ顔附の人々が、食器とバケツを叩いて、どんがらどんがらと俗謡らしいものを我鳴っていた。その雰囲気の何とも云えぬ世紀末的な哀調は、一寸脳裡から消え去り難い種類のもので、いかにも絶望感に満ちた、悲惨な響をふくんでいた。  収容所の夕食は丁度終った後なので、私達はMPの食堂で夕食をとった。缶詰ばかりであったが、ソーセージ、野菜サラダ、パン、クラッカー、苺ジャムなど、量はどっさりあった。私は、馬鈴薯の蒸したのを非常に美味しく感じた。  食器と蚊帳、毛布などを貰って、私達は被服倉庫らしい天幕に入った。  此処の蚊は一入《ひとしお》猛烈で、蚊帳の目をくぐって侵入し、毛布の間や、襟首からもずもずもぐり込んで、いやと云う程咬みついた。  次の朝、物凄い蚊群の羽音に私達が眼をさますと間もなく、緑色の作業服をつけた小肥りな米兵が入って来て、被服、タオル、歯刷子《ブラシ》等の日用品を出して呉れた。この男は鬚の濃い、丸いあから顔に、とんぼの様な愛嬌のある眼をくるくるさせ、ひょうきんそうな好人物らしかった。〉  なぜ、収容所の近くの沼から、このように大量の蚊群が発生したのか。  拙作『長良川』の「灯台」の章に、次のような文章がある。 〈四月二十九日、天長節の午後、勝野兵曹のひきいるオールド・キャンプの過激派は三度目のハンストにはいった。オールド・キャンプでは、所内の庭に柱を立て、この前に整列して国旗掲揚を行おうとした。収容所内では集団で行動することは許されていない。日本兵が集合し、号令で動くことを米兵は極度に恐れた。命令一下突撃する日本兵のスーサイドアタック(自殺的攻撃)の記憶が生々しい米兵も多かったのである。収容所の指揮官は、武装した小隊に、収容所の周囲を包囲させると、国旗掲揚塔をひきぬき、捕虜たちに解散を命じた。勝野兵曹がシャツを切り、赤インキで染めて作った日章旗が地面に落ちた。オールド・キャンプ組は、その日の昼からハンガーストライキにはいった。突撃して米兵と刺し違える以外に、捕虜たちが抵抗を示す手段といえば、ハンストしかない。米兵のコックは、勝野たち百人分の昼飯、分厚いソーセージや、ボイルされて粉のふいたじゃがいもや、コーンのスープをキャンプの近くの沼に捨てた。〉  つまり沼は、残飯の捨て場であり、蚊はそこから大量に発生したのである。収容所のなくなったヌーメアから蚊が減ったことは当然のことであろう。  蚊に刺された痛みの記憶から、私はその湿地帯がかつての沼であることを確認したが、水面の林を抜けて、丘の下の凹地に出る道はなかった。海に近い東側の丘の下は絶壁になっていた。  止むを得ず、私と潤君は、西側の丘の上に出ることを考えた。丘の上に、ただ一軒だけ、造りかけた鉄筋アパートがあった。私がいた頃は、両方の丘の上には一軒の人家もなかったが、今となっても、人家としては、この建築中のアパートだけである。周辺がかなり開発されているのに、ここだけ人家が建たないのは、湿地帯に近いせいではなく、軍の用地であるからかも知れない。 「あのアパートの屋上に登れば、昔の収容所の場所がわかるだろう」  二人の意見は一致し、車は、丘の北側の村落、フォーブル・ブランショに向った。村落の入口で、道は二つに分れ、広い道を真直ぐ北東へ行くと、セバストポール通りを経て、筒井邸のある中心街に出るし、左に折れて、丘のふもとの狭い道を西へ抜けると、ホテル・イル・ド・フランスの裏へ出るのである。私は昨夜、自分がかつていた収容所から、二キロと離れていない所に寝ていたのであった。  車は左に折れ、さらに左折して登り坂にかかった。低い丘のように見えたが、道は意外に急であった。左折点の近くに大きな白いスクリーンが立っていたが、坂を登ってみると、スクリーンの前面には広い駐車場があり、これがドライブイン・シアターであることを示していた。  坂を登りつめると、意外にもそこは行き止まりであった。登りつめて右折すれば、アパートの前に出られると考えていた私と潤君は、舌打ちをした。車をおりた二人は、徒歩で丘の稜線に出ようと試みた。左側に最前の湿地帯が見えており、崖はかなり急である。灌木の間に細い道があったので、それを辿《たど》ったが、それも行き止まりとなった。前方に六階建てのアパートが褐色の鉄骨と灰色に塗られた骨組みをさらしており、その下の凹みには、一面に強靱な枝を持った灌木が生えていた。その左側は、また丘にさえぎられており、その凹地が、私のいた収容所の位置であると考えられたが、そこまでは遠く、灌木の茂みを分けて踏み入る道は発見されなかった。  私たちは、やはり、アパートを捉《とら》え、その屋上から目的地に至る道路を発見する方法をとることで、意見が一致した。  車をバックさせ、映写スクリーンのところで左折し、少しゆくと、また左へ登る狭い道があった。試みにこれを登ってみると、右側に小住宅が三軒あって紅い花が咲いており、そこで左に曲がると、正しくアパートの前に出た。工事中のアパートの前では、メラネシアの工夫がセメントをこねていたが、私たちが、アパートのなかに入ることについては、無関心であった。アパートは骨組みが出来ているだけで、何も設備は出来ていなかった。エレベーターはついていたが、ドアはあいたきりであった。  打ちっ放しの素肌を見せているコンクリートの階段を踏んで、私たちは六階建てのアパートの屋上に登った。  ここからの展望は素晴らしかった。  すぐ東に、Port Despointes の港を越えて、青藍色の海が拡がり、その向うに、Point aux longs cous の岬が伸びていた。その右手にサント・マリー島が、サント・マリー湾を抱くように彎曲《わんきよく》した海岸線を見せている。  北から西にかけては、丘陵に住宅地帯が点在しており、はるか北東に教会の塔が遠望された。そして、東南の方向に当たる足元には、予想された通り、丈の高い灌木の林が拡がっており、その北西に近い一角に、私は一条の古い道を認めた。その道は、近くのハイウェイに通ずる枝道からさらに分れたもので、かなり老化していたが、私はこの道が私たちを捕虜キャンプに運びこんだ特設の軍用道路であることを確認した。 「あそこですよ」  私が指さすところを潤君も眺めた。戦後生まれのこの青年に、特別の感慨があるはずはないが、彼は懸命にそこへ至る道順を検討し始めた。  空には断雲があったが、初秋のニューカレドニアの陽ざしはうららかであった。私は、港の方を俯瞰《ふかん》した後、地図に見入っている潤君のうなじに、金色がかった髪がそよいでいるのを眺めた。  結局、アパートのある丘の崖を降って、密生した灌木の茂みを抜けて、キャンプの位置へ達することは極めて困難である、との結論に違した。私たちの収容所は、ほとんどがテントで、米兵の事務所と食堂のみが金網張りのバラックであったに過ぎない。従って三十年を経過した今となっては、建築物が残っていないのは当然である。どのような理由によるのかはわからないが、ここが住宅街にならず、空地であったために、私がかつてのキャンプの位置を確かめ得たことをまず感謝しなければなるまい。  潤君の考えでは、キャンプの位置に出るには、もう一度来た道を戻って、アンス・バータの通りに出、ベロドロームの通りに折れないで、しばらく直進し、右折すれば、西側の丘に近いキャンプの入り口に達するという計算であった。  私たちはアパートを降りて車に戻り、再び、Port Despointes の船の群れを左に見て、ワン・トロに向った。アンス・バータの海岸を左に見て、右折すると、アンス・バータ通りに入る。アンス・バータがベロドロームと交差するあたりの左側に、自転車競技場があり右側には大きなモーター・プールがある。そこを越して三百メートルほど行き、右折すると、西側の丘が左側に見え、その上の東端に近いところに先刻私たちが登った六階建てのアパートが見えた。 「間違いありませんね」  と潤君が言い、私も同意した。  道の両側は白壁の南欧ふうの住宅がまばらに建っている。しばらく行くと、住宅は右側だけになり、左側は一面、深い灌木の林となった。注意深く道路の左側を点検した結果、私たちは、一条の古い、しかし幅広いアスファルト道路の痕跡《こんせき》を認めた。それは正しく、道路の痕《あと》であった。アスファルトの剥《は》げ落ちた道が、灌木の林のなかに押し入るように続いていた。ぼろぼろになったアスファルトが、私にローマのアッピアの街道を連想させた。アッピアの街道は、古代ローマの軍道であり、ローマオリンピックの時にはマラソンのコースになった古い道である。アッピアの石畳は、未だに走るに値するのに、このヌーメア収容所の道は、僅か三十年の間にぼろぼろに風化して道とは呼べないほど荒れていた。  私はひきこまれるように、身の丈よりも高い灌木の林に挟まれた古い道に歩み入った。アスファルトの破片の間からは、雑草が顔をのぞかせていたが、この道は完全に人通りが絶えたわけではなく、人の歩いた痕跡や、自転車のタイヤの跡が認められた。しばらくゆくと、向うから人の気配が近づき、自転車に乗った少年が現われ、後ろの荷台には少女が乗っていた。私は、かつて私たち捕虜が、生き永らえるか、自決すべきかに悩んだ場所が、今はヌーメアの若い人たちのランデブーの場所として利用されていることを知った。  ——時が流れるのではない。人だけが変ってゆくのだ——といった哲人の言葉を私は想い出した。少年は口笛をふいて私たちとすれ違い、ハイウェイの方に去った。後席の少女は上気したように頬を赤らめており、それが初々しい感じに映った。  私たちは前進した。  左側の林が切れ、灌木の数が急にまばらになった。その空地に、私は黒い大きな箱が積んであるのを認めた。黒くて重そうなその箱はバッテリーであった。エボナイト製らしい箱の横に残るレリーフの文字を見ると、Detroit 1941 という字が読みとれた。アメリカ製である。私が捕えられたのは一九四三年の春であるから、一九四一年は、その前々年で戦争の始まった年に当たる。  私たちの収容所はテントの集団であるから、夜は焚火以外に照明はない。しかし、周囲のバリケードには裸電球がともっており、MPの事務所や食堂にも電灯があった。これらのバッテリーは、そのためのものである。  しばらく埃《ほこり》をかぶった黒っぽいエボナイトの箱の感触を懐かしんだ後、私は周囲の空地を探索し始めた。バッテリーがあるのなら、その近くに、MPの食堂の跡がある筈である。そして、私は夥《おびただ》しい数の錆びた空缶の山を発見した。つぶれて茶褐色に錆びていたが、それは正しく缶詰の空缶であった。  ニューカレドニアでの食事は前線の将兵並みであるから、ほとんどが缶詰である。ハム、ソーセージ、チーズ、それにアンチョビ、アスパラガスなど、すべて缶詰であった。米兵のコックは、缶詰をあけて飯を作り、残飯は沼へ捨てたが、大量の空缶は、食堂の裏に放置したのである。  ここが食堂の跡とすれば、アスファルト道路の反対側が収容所である。そのあたりは、一面、灌木の林であった。林といっても、こちら側は、六階建てアパートの下のあたりとは異なって、疎林であった。私がこの収容所に着いたとき、その半ばは、赤土がこねくり返されたばかりのような生々しい色をしていた。収容所の地域は、一度掘り返されたため、灌木やニヤウリの育ちが遅いのであろう。  収容所はオールド・キャンプとニュー・キャンプに分れ、ニュー・キャンプは食堂に近く、オールド・キャンプは沼に近かった。そして蚊の襲来する密度は同率であった。  私と祖川上飛曹は、最初、MP食堂に近い被服倉庫に入れられた。私はその位置を、アスファルト道路から歩幅で計ってみた。灌木があるだけであった。その近くには、ガダルカナルで捕えられた陸軍の兵士たちが天幕のなかで、昼も夜も焚火をしていた。私はその焚火の跡を探した。土が焦げていたり、灰が土にまみれていたり、黒っぽい木片の焼け残っている所を探した。しかし、そのような火力による変色の跡は認められなかった。要するに、三十年前私がいた、そして、多くのことを考え、遂に、生に踏み切った場所は、一面の灌木の林と化したのであり、私に想い出をもたらすものは、一物も残っていなかったのである。  私はガラスの一片を発見した。半分土中に埋もれていたものを靴の先で蹴り起こすと、鋭い切り口をもった残部が、新鮮な感じで現われて来た。私はそれを拾い上げ、土を払い落としてみた。ガラスの古さなど、簡単にはわからない。ただ、ニューカレドニアの収容所では、一切の刃物を持つことを禁じられたため、兵士の一部では、ガラスの破片をかみそりのかわりとして、鬚を剃ったり、鉛筆を削ったりした者がいた。このガラス片が、そのような歴史を持っているかどうかはわからぬが、ここで私は辛うじて、私の回想をそそる素材に出くわしたと言うべきであろう。  収容所は凹地にあり、私の足は自然に丘の方に向った。この丘は収容所の東側にあり、その向う側は絶壁で、その先にサント・マリー湾の水がある。この丘の斜面は、私にとって、多くの想い出のある場所であった。  丘の稜線のすぐ下に、捕虜たちの便所があった。 〈収容所は丘の斜面の草原を拓《ひら》いて設置されているが、この斜面は港と背中あわせになっているので、収容所から港を眺めることは難しい。しかし、斜面の上部は丘の稜線に近いので、上端に作られた便所にはいると港の一部が眺められる。便所といっても深い横穴を掘り、その上に肋骨のように横板を渡してあるだけである。肘関節の構造が明瞭になるほどやせていたガダルの兵士たちは、この上で用を足すのに困難を感じていたが、用便後立ち上がったとき、眼下に拡がる港の風景は彼等を慰めた。〉(『続・長良川』「たんすと野鳥」) 〈夜半、私は便意を催して厠に立った。厠といっても、捕虜たちが穴を掘って、上に板を渡しただけである。簡単な囲いはついているが、天井はない。穴をあまり深く掘ったので、やせた兵士が誤って落ちたときは、救出に苦心した。しかし、このような事件が、捕虜の日常に変化を与えるともいえよう。囲いをつけるとき、トイレにカバーはいらないといって、米兵はなかなか用材をくれなかった。米兵は洋式便所を並べて、お互いに話しあいながら用を足すのである。捕虜たちは外出作業の許可を受け、裏の林にはいって、白樺(ニヤウリ)の木を伐り、これを輓《ひ》いて囲いの板としたのである。  厠は丘の稜線近くにあり、収容所では一番高い所にある。ここまで来ると、ニューカレドニア港の一部が遠望出米る。米軍は灯火管制をしておらず、入港する船の灯火がゆるゆると動いていくのが見える。〉(『長良川』「灯台」)  この文章はさらに、私の生涯で最も懐かしさをそそる天体、すなわち、南十字星について語っている。 〈丘の稜線のすぐ上に南十字星があった。四個の一等星がソロモン王の玉笏《たまじやく》のように、明快で倨傲《きよごう》な十字を形成していた。空気が澄んでいるので、すぐ近くに感じられる。さそり座はすでにその上空にかかり、主星のアンタレスが、赤く無気味な光芒を投げていた。——勝野兵曹は、ここを脱出して、イカダを作って、サモアかフィジーの無人島へ行って再起を計ります、と語っていた。田宮兵長の密告がなければ、勝野兵曹たちは、今の時刻に突撃していたはずだ。米兵の油断に乗じ、脱出して無人島に行くイカダに乗れたかどうか。私は天を仰ぎながら考えた。南十字星を目印に、海上を放浪した多くの開拓者がいたが、現代にもその志願者はいたのである。著名な星座以外の星屑も、それぞれに輝きを増し始めていた。勝野兵曹もその星々の一つになってしまったのであろうか。私は心の中で勝野兵曹に呼びかけた。——天国と無人島とどのように違うのだろうか。違うのは、人間の心だけではないのか——。  厠を出て、シャワーの水をアルミニュームの食器に受けて飲んでいると、兵曹長が来た。 「武田中尉、捕虜になっても戦闘はありますね」  彼は食器に水を受けると、 「ニューカレドニア海戦が終りましたな」  と言い、水を飲み始めた。〉  ニューカレドニアは、捕虜たちに、自ら生と死を選ばせた残酷な場所である。森村桂さんがニューカレドニアを書いた本に「天国に一番近い島」というのがあるが、捕虜たちにとっては、“地獄に一番近い島”だったのである。ただ、その生と死のドラマを眺め下ろしていたのが、華麗な南十字星であったということは、捕虜たちのみじめな営みに、なにがしかの光彩を与えていたというべきであろうか。  私は丘の上に立ってみた。  ここに立つのは初めてである。収容所があったとき、丘の稜線には二重の鉄条網が張りめぐらされ、近寄ることは許されなかった。厠の位置で背伸びをすると、ようやく稜線を越えて、港の一部が眺められたのである。  今、私は正しく稜線の上に立ち、港の全景を眺めることが出来た。丘の東側は絶壁であり、意外なことに海岸と丘の間には、かなりの幅のハイウェイが通っていた。収容所にいたとき、私は丘の下はすぐ海になっていると考えていたのである。しかし、それは意外なことではなく、私たちの車がワン・トロのふもとから、Despointes の港へ抜けるときは、この絶壁の下の道を走ったのである。  この位置からは右に標高百三十メートルのワン・トロの頂上と、東に張り出した岬が見え、左前方にプワント・オーロンクーの岬がのぞまれた。 〈ヌーメアは米軍の重要な前進基地であり、港には多くの船舶が出入していた。しかし、兵士たちの関心はその船舶の大きさや数に軍事的な配慮を寄せることではなく、港の向うに横たわる半島の稜線上に構築されている幾つかの木造家屋群にあったのである。このころ私たちの通訳を担当していた米軍の一大尉はつぎのような情報を洩らした。  ——君たちは今は住居も飯も悪いが、港の向うの収容所にゆけば、電気洗濯機も冷蔵庫もある。大きな酒保があって、自分の給料でビールも飲める。むろん煙草も好きなだけ買える。 「女は?」と一人が尋ねた。大尉は表情を変えずに答えた。 「看護婦はみんな女だ」  米軍の看護婦が日本の病兵を看護してくれることは捕虜の一部が体験ずみである。捕虜たちは大尉のことばを信じた。この場合それが事実であるかどうかは別として、そのように信じた方が、精神の衛生に都合がよいことを彼らは知っていたのである。〉(『続・長良川』「たんすと野鳥」)  このあと、収容所内で階級制を自然消滅させた兵士たちが、煙草を財源とする賭博に熱中し、煙草を多く貯蔵した兵士が資本家的存在となってゆく説明があり、次のような文章に続く。 〈話を丘からの眺めに戻そう。賭博で煙草を奪われた非運な捕虜の多くは丘の稜線に近い便所を訪れる。用便をすませた後、彼らは立ち上がると、ズボンの紐を結びながら港を眺める。——港の向うの丘に行けば、すきなだけ煙草が吸える——彼らはそう考える。そこへ、今一人の不運な被奪略者が加わる。私は彼らが高揚した調子で語るのを聞いたことがある。 「向うの丘へ行けばな、煙草は吸いほうだい、酒は飲みほうだいだってな……」 「そうさ、くよくよしたって始まらねえ。いずれ、向うの丘へ行けばよ、パリッとした背広を着て、自家用車で映画を見に行けるし、女だって一人に一人ずつつくってよ」 「ベッドは自動式でよ、いつも湯の沸いている温泉があって、黒人の女がマッサージしてくれるってえじゃねえか」  人間は苦痛が激しくなると、日ごろの欲求を列挙し、それが突然見事に実現される場面を空想し、自分を慰めるという心理作用を自らに課することがあるらしい。この種の病像の最も極端なものを、精神病理学的には、「皇帝妄想」と呼ぶのだそうである。  実際に捕虜たちが、そのようなパラダイスに送られた事実はなかった。約一カ月後、古い捕虜たちが別のキャンプに送られたが、そこでは米兵との衝突が激しく、暴動が起こって、約二十名が自決したということが報じられたのみである。〉(「たんすと野鳥」)  私の記憶では、当時右手の丘の上に新しいバラックが多数建設され、捕虜たちはそれを設備のよい収容所と夢想していたようである。現在、右手のワン・トロには、かつての軍用宿舎は全然残っていない。頂上に古びた要塞砲が一門、東の方を向いているだけである。  丘の稜線には人の歩いたあとを示す細い道があった。私はその道を北へ歩いて Despointes の港を見下ろし、少し降って、かつての厠の跡を探してみた。何もなかった。二メートル以上も掘られた長く深い溝は埋められ、灌木がその上を蔽っているのみである。  その厠からさらに降った低地に将校テントがあった。オールド・キャンプ組が、パイタという二十キロほど離れた所へ移動した後、ここが将校用のキャンプになったのである。  将校キャンプのメンバーは、私と加藤陸軍中尉、大石陸軍少尉、中島海軍兵曹長、それに祖川上等飛行兵曹であった。祖川君は、私たちが海から拾い上げられて、ガダルカナルの収容所に送られたとき、別々になるのを避けるため、私が「二人共海軍少尉だ」と言ったので、以後将校待遇を受けることになったのである。このため、二人は浦賀に復員するまで、同一行動をとることが出来た。  将校キャンプには当番が二人ついた。捕虜になった将校に当番という使用人をつけることについて、一般の兵士は当然反対であったが、米軍はジュネーブ条約にもとづいて、Orderly(当番兵、従兵)を付随させることにしたのである。二人とも小柄な兵士で、一人は石田という二等兵であった。彼はガダルカナル組の例に洩れず大食であり、オイチョカブという賭博の名手でもあった。将校キャンプに来てから、彼は賭博によって煙草をかせぐことが出来なくなったことを悲しんだ。私たち将校は彼の機嫌をとるため、ソーセージやクラッカーを分けてやったり、またオイチョカブの相手をして、彼に煙草を巻き上げられたりした。  前にオールド・キャンプでハンストが行なわれ、米兵が大量の飯を沼に捨てることを書いたが、私たちが将校キャンプに移ってから、ニュー・キャンプ組がハンストをやったことがあった。作業を怠けたテントの住人に対して、MPが煙草の支給を停止する旨を言い渡したので、ニュー・キャンプ全体がハンストを決行することになったものである。この頃、ニュー・キャンプでは、十個のテントを一列とし、三列すなわち、三十個のテントに三百人近くが居住していた。移動してきた当時の混乱は徐々に治まり、各テントには長が選ばれ、テント長のなかから、テント列の長が選ばれ、この列の長が幕舎長と呼ばれ、三人の幕舎長が合議制によって所内の管理に当たっていた。日本の軍部から存在を認められないため、捕虜のなかには米兵に対して虚勢を張ってみせる雰囲気があり、些細なトラブルがハンストの原因となり得た。  そのときのハンストも、煙草をとめられたテントの長が米兵は横暴だといって幕舎長に訴え、三人の幕舎長は直ちにハンストを決議したものである。トラブルのもととなった作業は、テントの周辺のゴミを片づけ、テント内の煙草の吸いがらなどを掃除するといった程度のものであったと思う。やせ衰えたガダルカナルの兵士に、作業といえるほどのものが課せられなかったのは、当然のことである。  ニュー・キャンプの下士官兵グループがハンストをやると、将校キャンプも同調せざるを得なくなった。兵士たちがハンストをやって、米兵と戦っているのに、将校だけが敵の飯を食うというロジックは、捕虜収容所のなかといえども成り立たない。  ハンストは三日続き、大食の石田は空腹に悶《もだ》えていた。極度の空腹は、激しい腹痛と精神の錯乱を生ずる。石田は羊のように雑草を食い始めた。食器に水を入れ、焚火の火で茹《ゆ》でて食うのであるが、アクがぬいてないので、シャゴシャゴして食いにくい。 「ガダルカナルでは、泥を煮て食ったですたい」  と、石田は豪語したが、ひどい下痢をした。私はシャワーの水を呑んで空腹をなだめすかすことにしたが、やはり下痢をした。  夜半、長時間、厠の板の上にしゃがんで立ち上がると、南十字星が鮮やかであった。私は幼年時代を過ごした満洲の冬の夜空を想い起こした。空全体が凍りついた鉄板のように硬い感じで、そこに彫りこんだような星々が静かにまたたいており、冷たい感じであった。そのなかでオリオン星座と北極星だけはありありと覚えている。  しかし、私の生涯において、ニューカレドニアの丘から眺めた南十字星のような画然《かくぜん》とした燦《きらめ》きは、それ以前になく、今後もあるまいと思う。まことに、物体の形や色は、見る人の心の状態によって、さまざまに変化するものである。  ニューカレドニア収容所の丘から仰いだ南十字星の燦然《さんぜん》たる光芒を想うとき、私は神の恩寵に思いを致さないわけにはゆかない。神は兵士たちからすべてを奪ったかわりに、静かな天空にかかる星の輝きと安息を、与え給うたのである。 五  昼近く、私は潤君の車で、バウバン通りの筒井邸に戻った。  潤君の協力で、かつての収容所の位置に立つことが出来たことを告げ私は筒井氏に礼を述べた。  筒井家の応接間兼食堂の壁には、富士山の写真や浮世絵などが一面にかかっていた。 「五月には皇太子御夫妻がニューカレドニアに来られるんですよ」  と、彼は眼を輝かせて言った。オーストラリア、ニュージーランド訪問の途中、数時間立ち寄るのだそうである。  私は、昨年秋、ブラジルのサンパウロを訪れたときのことを想い出していた。私が訪問したのは十月の終りであるが、九月には海上自衛隊の練習艦隊がサントス港に入港し、サンパウロの在留邦人は歓迎に大童《おおわらわ》であったという。練習艦隊の司令官は私の同期生の石榑《いしくれ》という海将補で、同じく同期生でブラジル・トヨタ自動車KKの社長をしている酒巻和男が中心となって、練習艦隊の歓迎会を開いたらしい。私がサンパウロに着いた夜は、その歓迎会の役員の慰労会の日に当たっており、私もそのパーティに招かれた。 「日本人はだめですな」と口癖に言う進歩的文化人と呼ばれる人々が外地にゆくと、意外に愛国者になって帰って来る例を私は知っているが、私は外国を旅行する度に、特に日本が素晴らしい国だと感じたことはない。国土は狭いし、公害は多く、人々は利潤のみを追求して、人心は荒《すさ》んでいる。工業だけは進んでいるが、一旦原料の輸入を止められたら、じり貧の消費国と化するのは明らかで、この国土と国民とその富を守るべく、自衛隊の兵力は、その予算が論議を呼びつつあるにもかかわらず、大国の圧力をはねかえすほど強大とは認め難い。  にも拘らず、旅程が終りに近づき、帰国が迫ると、私は安息を感ずる。日本がどのような国であろうと、私は日本のパスポートを持つことによって、旅行者としての安全を外国の政府から保障され、日本人として、世界のなかに参加してゆくのである。かつて、私は日本の国土を守るために戦ったのであり、その結果がいかに悲惨であろうとも、日本を守り立ててゆくのは日本人しかいないということを、痛感せざるを得ない。  そのような考えが、海外にいる日本人のなかでは、望郷の想いとないまぜられて、もっとロマンチックな形で常に表出を迫られているのに違いない。それでなければ、異国のなかで、日本人として生きてゆくための緊張を保つことは困難なのであろう。  昼は筒井夫人が、ざるそばを御馳走してくれた。夫人は神戸の牧師の娘さんで、純粋な日本女性である。子供たちの日本語とくに文字の指導は彼女の役目らしい。  午後、私は筒井氏と共に、潤君の車でイル・ヌーという島を訪れることになった。  イル・ヌーはヌーメアの中心街の西にある大きな島であるが、今は細い道路によって、ヌーメアとつながっている陸繋《りくけい》島である。  ここでパリ・コミューンと、ニューカレドニアの関係について書いておこう。  ナポレオン三世の統治するフランスが、普仏戦争でビスマルクのため完敗したのは一八七〇年のことである。ナポレオン三世は退位し、そのあとに出来た国防政府は、屈辱的な講和条約をプロシャと結んだ。これに憤激した小市民、労働者による国民軍は、選挙により、世界最初のプロレタリア政権、コミューン(自治政府)を組織したが、プロシャの支持を受けた国防政府のため、一週間の戦いの後、敗北した。このときの政治犯がニューカレドニアに流されている。ヌーメアには、一八六四年から懲治監《ちようじかん》(刑務所)が設けられているが、パリ・コミューンの政治犯は、一八七一年この島に送られ、一八七二年には本国に送還されている。  島に入ると間もなく、海岸に残っている懲治監の廃墟が見える。一八七一年、パリ・コミューンに敗れた指導者たちが送られた場所である。崩れた煉瓦塀の上に残る錆びた鉄槍のバリケードが、歳月を物語る。  しばらく行くと、小高い丘の上に養老院があり、その先の海岸に養老院の墓地がある。このあたりは、南に面して、陽当たりがよく、汀《みぎわ》に打ち寄せる波もおだやかである。この島の事情を知らぬ人が訪れたならば、このような所で老後を過ごし、この浜に近い灌木に蔽われた墓地で眠るのも悪くはない、と考えるであろう。  しかし、私がこの島を訪れた目的は別にあった。 「このへんに埋められていたのですよ」  と筒井氏が、灌木の林を指さした。その一帯だけが墓がなく、土の掘り返された痕跡が認められた。この周辺には点々と墓があった。その多くは、墓石のまわりに小さな長方形の庭を持っていた。庭のなかに花の咲いているものがあり、枯れた茎が折れたままのものもあった。それらは養老院で生涯を終った人々のものであった。掘り返されたのは、パイタの収容所で自決を遂げた日本兵捕虜の墓地である。 「三十六体と言いますがね。五年前に本村哲郎海将のひきいる練習艦隊がヌーメアに寄港したとき、遺体を発掘してこの浜で火葬に付し、遺骨を分骨して、内地に持って帰ったのです。全部名札がついていましたから、遺族のもとに帰ったと思います」  と筒井さんは説明した。 「三十六体ですか?」  私は、墓地の方ではなく、海岸の方を眺めながら問うた。掘り起こした遺体を火葬に付したとき煙は海の上にも流れたであろうか。  私は首をひねっていた。パイタのオールド・キャンプで決起して、お互いに頸動脈を切り合ったりして最期をとげた日本兵は二十一名であると私は聞いていた。私はそれを生き残りの陸攻搭乗員東上等兵曹から聞いた。東兵曹は、ウィスコンシンのキャンプ・マッコイに着いてから私にこれを語ったので、彼の右の頸部にも、研いだスプーンで切った痕があった。刃物は頸動脈の紙一枚手前で止まり、出血は多量であったが、生命はとりとめたのである。  ヌーメアのオールド・キャンプには、昭和十七年八月以降のソロモン海戦で捕えられた海軍の佐藤兵曹を中心に古い捕虜たちがいた。佐藤兵曹は駆逐艦暁《あかつき》の先任下士官であったと伝えられる。  佐藤兵曹は「灯台」の章では勝野兵曹として登場する。 〈ガ島の陸兵は半年前の飢餓生活でやせおとろえ、米軍から与えられる糧食で体力を回復するのが、主な日課であった。しかし、海軍の水兵はそのように衰弱はしていなかった。いつかは脱走するか、または米兵と対決し、命を終り、捕虜の恥をすすぐことを考えていた。陸兵のうち体力のある一部がこれに同調した。これらナショナリストたちの首長と目されていたのが、勝野兵曹であった。駆逐艦の先任下士官であった彼は、水雷屋にふさわしいひげを貯えていた。〉(中略) 〈「武田中尉、私たちはいつかは決起しますよ。この柵をぶち破り、脱走するんじゃ。それができなければ、ヤンキーと刺し違えて事を終るんですわ」  彼は私に一種の好意を示しながらそう語った。 「脱走してどこへゆくのかね」 「無人島へ行くんですわ、海岸からイカダを組んで、海を渡る。行く先は太平洋の無人島ですわ。いずれ友軍はこのへんへ進攻するでしょう。それまでに、このへんの地理を調べておくのです」  彼はそういうと、声をあげて笑ったが、急に真剣な表情になると、 「武田中尉、一つだけ約束して下さい。我々が決起するときは応援して下さい。同じ行動をとってくれとはいいません。ただ、キャンプで事を起こして、我々の行動を助けてくれればよいのです」  と言って、私の掌を握った。  私は「うむ」と答えたが、私の心理の傾斜はあいまいであった。捕虜のままでよいとは思わぬが、勝野兵曹のいうように、簡単に無人島にたどりつけようとは考えられなかった。  しかし、勝野兵曹が握りしめると、私も反射的にその掌を握り返していた。〉  パイタはヌーメアから二十キロ北にある町で、パイタという大酋長がいたところからこの名前がついたという。私がヌーメアの収容所にいたのは、十八年の五月二十六日までであるが、その途中で、オールド・キャンプの人々はパイタに移動し、数十名が脱出を計画し、それが未然に洩れたため、佐藤兵曹以下の幹部は、米軍の裁判にかかることを拒否して自決したのである。  私はパイタには行ったことがない。佐藤兵曹たちの冥福を祈るため、訪れようと考えたが、こちらもテントはとり払われ一面の灌木の林があるだけだと聞いたので、遺体の埋められたイル・ヌーの島を訪れることにしたのである。  五年前、遺体を焼いたという跡には、灰や、焦げた土や、焼け残りの丸太などが残っていた。遺体を埋めた位置には、それぞれに木の札が立っていたという。してみると、彼らの遺体は確認されていたわけであり、ガダルカナルやニューギニアで、無名のまま土と化した兵士たちよりは、人間らしい扱いを受けたといえるであろうか。 「この海岸では、貝の大きな化石がとれますよ」  筒井さんが、海岸に私を案内した。  砂浜に大きな石がごろごろしており、そのなかから、彼は貝の化石を見分けて、私に一個を渡した。真っ白な扇形の厚みのある石に数条の条痕が残っており、帆立貝やあこや貝の一種かと思われる。縦径は十五センチほどで、重さは一キロもあろうか。  私は、佐藤兵曹たちの最期をしのぶため、その石を日本に持ち帰ることにした。  石を手にしたまま、私は海岸に立っていた。この島の南岸は、タスマン海に近い南太平洋の海である。佐藤兵曹たちは、南太平洋の無人島を目指した。しかし、私は彼らが、南十字星をとり囲む星々の一つに化したことを信じて止まない。その意味でも、今回の旅は南十字星を仰ぐ旅であったのだ。  イル・ヌーの海岸から町に戻った私は、「ラ・フランス・オーストラール」という新聞社に案内された。オーストラールとは南という意味で、この新聞社は、ニューカレドニアで一番大きいのだそうである。(といっても発行部数は数千らしいが)  編集長のジャン・ブルネ氏が私のインタビューを始めた。取材に行った私が逆に取材をされることになった。かつてヌーメアの収容所にいた日本人捕虜のうちで、この島を再訪したのは、私が初めてらしい。  私は、この島が自分の第二の故郷だ、と語り、それはブルネ氏の注意を惹《ひ》いた。私はこのように説明した。  ヌーメアに運ばれたとき、私はまだ、日本人は捕虜になる前に死ぬべきだという考えにとりつかれていた。従って捕虜収容所にいる間、いつかは死なねばならぬ、という考えを持っていた。しかし、そこで多くの兵士たちが裸で生きる姿を見ているうちに、私は人間とその生きる社会が面白くなって来た。私も裸で生きてみようと思った。このように興味ある人間というものを十分に観察しないで死んでしまうのでは、生まれて来た甲斐がないと思うようになって来た。私は、ニューカレドニアで行動者から観察者に変貌したのである。加うるに、空にはそのような私を毎夜眺めおろす燦然たる南十字星があった。悠久たる星座の動きにくらべて、いかに人間の争いが小さいかを知らされた。私は日本のナショナリストが考え出した悠久の大義のために自らを葬るかわりに、悠久の時間を運行する天体を仰ぎながら、時の流れの一点として生きることを決意したのである。時は無限に流れ、人の命は短い。生きて虜囚の辱めを受けようとも、昼は人の営みを眺め、夜は星座を仰ぐため、私は再び生きてみようと考えた。ニューカレドニアは、私にとって再生の島であった。もしこの島で南十字星を仰ぐことがなかったら、たとえ生きのびることはあっても、私の生はもっとみじめで、私の心はもっと貧しかったであろう。  私はそのように説明し、 「ニューカレドニアは、世界中で、南十字星が最も美しく見える場所だと信ずる」  と言った。  筒井さんの通訳で、ブルネ氏は私の発言を納得し、 「私たちも、南十字星を眺め直し、その美しさを再認識する必要がありそうだ」  と言った。  ブルネ氏は、フランス人であるが、アルジェーの生まれで、アルベール・カミュとは、小学校も高等学校も同級で、同じ新聞社の編集局で働いていたという。 「カミュは労働運動に熱心で、私はナショナリストでドゴール支持なので、二人はよく議論をした。カミュは小説も書いていたが、あんなにえらくなるとは思わなかった」  と彼は語った。  私はカミュの「異邦人」や「ペスト」を愛読していたので、ブルネ氏の話に聞き入った。彼は日本のカミュの愛読者のために、カミュの青年時代という短い原稿を書くことを約束した。  ラ・フランス・オーストラール社を出た私たちは、名和さんという日本人の老人を訪ねることにした。名和さんは第五回のニューカレドニア移民である。日本人のニューカレドニア移民は、ブラジルなどよりはずっと早く明治二十五年が第一回であるが、古い人はみな死んで、生存者では九十歳をこえた名和さんが最年長である。ニッケル鉱夫として移民したのであるが、いろいろ苦労して、今は息子たちが大きくなり、安楽に暮らしている。  話してみると名和さんは岐阜県の生まれであった。私の郷里が墨俣であることを語ると、「オー、オー、スノマタナモ、エートコロジャッタガナモ」と言って、懐かしがっていた。岐阜には名和という姓が多く、岐阜市の公園内には、名和昆虫研究所という世界的に有名な研究所がある。  私の岐阜弁はよく彼に通じた。  帰り際に名和さんは、私の手を握り、 「もう、日本にも岐阜にも帰ることあらへん。ヌーメアで死んで、ニューカレドニアの土になるだがや」  と岐阜弁で言った。彼は両眼に涙を浮かべていた。彼の乾燥した掌を握りながら、私は九十歳をこえても、涙というものは、出るものかと意外に考えていた。寒巌枯木に近い名和さんに別れを告げて外へ出ると、街はたそがれに近かった。太陽は、イル・ヌー島のウーンボ山の肩に傾きつつあった。 「今夜は、日本人会長が、ナイトクラブに招待するそうです。面白い人たちですよ」  と筒井さんが言った。  私は、名和老人の言ったことを反芻《はんすう》していた。私も、もう少しでニューカレドニアの土になるところだったのだ。  私は群馬県の生んだ天才的な女流歌人、江口きちの歌を想い出していた。 流れ来て異国の土の祖《おや》となりぬ母が悲しき命思ほゆ  これは、昭和六年群馬県利根郡川湯村谷地《やち》で死んだ、きち女の母いわのため、その墓碑に彼女が刻んだ手向《たむ》けの歌である。  いわは栃木の生まれで、旅人宿の女中をしているうちに、旅人《たびにん》の江口熊吉と夫婦になり、前記の川場村に流れて来て、街道筋で栃木屋というけとばし(馬肉鍋)屋を営むようになった。  いわには一男二女があったが、長男の広寿《ひろとし》は白痴で、二人の娘は並すぐれて聡明であった。長女のきちが十八歳のとき、いわは脳出血で急逝した。いわは旅人の夫と一緒に流離の身をはかなみ、故郷に帰りたいと願っていたが、ついに他国の山峡の村で生を終ったのである。  きちは高等小学校の頃から歌作に志したが、進境著しく、河井酔茗の主宰した「女性時代」の社友となり、生活をうたったその詩才は高く評価されていた。  昭和十三年十二月二日未明、きちは白痴の兄に青酸加里を呑ませて殺し、自分も同じ薬で自殺を遂げた。理由は同村の素封家の息子との恋を清算するためとも言われ、きちの厭離《おんり》の思想からともいわれる。二十六歳であった。  川場村の寺に母の碑と並んでいる江口きちの墓石には、次の辞世が刻まれている。  大いなるこの寂《しず》けさや天地《あめつち》の時刻《とき》あやまたず夜は明けにけり  江口きち女の歌作については、酔茗の妻島本久恵さんの「江口きちの生涯」(図書新聞社刊)にくわしい。  ニューカレドニアから上州まで話がとんだが、人間がどこの土になるかは難しい問題である。最近のアメリカでは、海上の空中に灰をまく空葬《くうそう》が流行しているそうであるが、大きな戦争があると、自分がどこの国の土となるかを自分で決めることは困難である。  ガダルカナルやニューギニアには、望まずして異国の土となった多くの兵士が今も眠っているのである。 六  夕刻、私は筒井氏に案内されて、ヌーメア日本人会長、ジャン・橋本という二世の家を訪れた。日本人会長といっても、三十八歳のムッシュー・ジャン・ハシモトは、全然日本語が出来ない。止むを得ず、私もフランス語であいさつをする。  橋本夫人のマダム・スザンヌは、長身で、脚が恐ろしく長い。色がかなり黒く、フランスとメラネシアとの混血かと思われるが、陽気で愛想のよい女性である。これからパーティに出かけるということで、兄妹や知人が集まっていたが、みな陽気である。筒井氏の通訳を待たずに、私に、 「Quellge suis-je?(私をいくつだと思うか)」  などと問いかけてくる。  スザンヌ夫人に、お世辞のつもりで、 「Voustes vingt huit(二十八歳だと思う)」  と答えると、大喜びであった。  二十八で十五歳の子供がいるなんて……というわけである。実際は三十五歳ぐらいと思ったのであるが、サバを読んだのである。  やはり、日本語の出来ない男性の二世がいて、おれはいくつかと訊くので、これは正直に、 「Trent huit(三十八だ)」  と答えると、ぴたりと当たっていて、拍手を受けた。  ジャン・橋本の家は新築で、かなりの部屋数がある。応接間のホームバーと、キッチンに大きな冷蔵庫が二つあり、洗濯場には新式の乾燥機が備えつけてあった。スザンヌ夫人は得意気に各部屋を見せて歩き、夫婦の寝室も見せた。底抜けに明るく、これが植民地のヌーメア気質というのであろうか。  冷蔵庫や洗濯機、カラーテレビはすべて、フランスかオランダ製で、この島にはニッケル鉱業以外には、工業らしいものはないらしい。  パーティは、丘の上のヒル・トップという新しいクラブで開かれ、キャンドルをつけて、ワインを呑むことになった。私も参加したが、途中で、どうやら私を歓迎するためのパーティらしいことがわかって来た。この島には日本人の旅行者は少ないらしい。島の資産家は、何かにつけてパーティを企画する。  会の途中で、若い日本人が紹介された。彼は、日本の航空自衛隊のパイロットで、フランス空軍に留学中であるが、長距離訓練飛行でニューカレドニアを訪れたところだという。彼も今夜の会の主客である。  スザンヌはこの夜のホステスらしく、盛んに愛嬌《あいきよう》をふりまき、何度も私にダンスを申しこむ。ハイヒールをはいた彼女は、一メートル七十五センチ近い。ダンスといっても、サンバに近いリズミカルなもので、足を踏み鳴らして手を叩いておればよい。この島のメラネシアにも、独特の踊りがあるのであろう。  スザンヌの会話はヌーメアらしくあけすけである。子供は何人いるか? と訊くので、deux fils(息子二人だ)と答えると、 「Comment vont-ils?」  と訊く。ちょっとわからなかったが、コマンタレブーの変形だと気づき、 「Ils vont tr bien」  と答えると、 「Comment votre premier fils?」  と私の下腹を掌で突いた。 「Aussi tr bien, il est la plus sant」  と、「フランス語四週間」を想い出しながら、単語をつなぎ合わせて答えると、彼女は大喜びで、他の女性たちにその会話を披露し、 「A votre san(あなたの健康のために)」  ということで、乾盃を繰返すことになった。  フランスでは、亭主の見ている前で細君が浮気を始めるのが珍しくないといわれるが、植民地のヌーメアでは、sexy な会話で来客をもてなすのが歓迎のしるしなのであろう。それが客の性的魅力を認め、つまり、相手に敬意を表することになるのであろうか。  私は、キャンドルの光のなかで、活発に談笑する日本人会長夫人の浅黒い顔を眺めながら、そんなことを考えていた。  宴は果て、私はホテルに戻ることになった。クラブ・ヒルトップの外に出たとき、私は南十字星はどちらに見えるか、と訊いた。 「Etoile!」 「ridional croix……」  二世たちは騒然となり、空を仰いだ。  貿易商である彼らにとっては、酒を呑んで陽気に騒ぐことが楽しみであって、星座には興味がないらしい。  私は丘の上から南の方を遠望した。  この丘から南端のワン・トロまでは、いくつもの小丘が起伏し、市街の灯がまだ残っている。西の水平線は見えるが、南の水平線は見えない。私は、ワン・トロの肩のあたりに、ひときわ光るさそり座の主星アンタレスの赤い光を発見し、その右上に、南十字星が昇りかかっているのを発見した。市街の灯にさえぎられるので、その光はさやかではない。やはり、南十字を観賞するには、収容所の厠のあった丘が最良であったことを私は確信した。  今夜は収容所の丘に寝ころがって、終夜南十字星を眺めたいと考えたが、日本人会長夫妻が、ホテル・イル・ド・フランスまで送ってくれたので、一応部屋に戻った。ワン・トロの北の丘におきざりにしてくれ、と言ったら、マダム・スザンヌは、眼を丸くしたであろう。  部屋にカメラをおくと、私は庭に出た。時刻は十一時を回っており、ホテルのあかりはほとんどが消えていた。庭から東の方へ、つまり、収容所の方向へ歩くと、雑草の密生した空地へ出る。ここからならば、ホテルの建物にさえぎられることなく、南の方に視野はひらけている。私は、ワン・トロの左方に昇りつつあるアンタレスと南十字を再認識すると、部屋に戻って毛布を一枚持参し、雑草の上にそれを敷いた。  頭を北にして、毛布の上に横たわると、私は星座を仰いだ。  南十字星は、南半球にゆけばいつでも見られるというものではない。北極星は天球のほとんど北極にあるので、夏でも冬でも北を向けば見ることができる。しかし、その近くにある北斗七星になると、季節によって、夜間の現われ方はまちまちである。  南十字星は、天球の南極よりかなりずれているので、南半球でも冬の夜には見えにくいらしい。私は昨年の十月南米に旅行したが、ついに南十字星を明確に認めることが出来なかった。  私がニューカレドニアの収容所にいたのは四月から五月にかけてであるが、南十字星は一夜ごとに、その姿を明確にして来た。してみると、北半球の初夏から盛夏、つまり、南半球の晩夏から冬にかけてが、南十字星を眺める好シーズンなのであろうか。私は天文学の知識はあいまいであるが、かつて、四月に鮮やかに認められたならば、三月七日であるこの夜にも、南十字星は確認されるべきであるという推定が私の頭の中にはあった。  私の推定がどの程度当たっていたかはわからぬが、南十字星は徐々にワン・トロの上に昇り、アンタレスを主星とするさそり座はタツノオトシゴのような形で、南十字星を巻きこむように、その上方に昇りつつあった。これが五月六月になれば、星の出はもっと早くなり、日没後間もなく、さそり座を肩にかついだ形で南十字星が南の天に輝いているのではないか。私の記憶では、日本の真夏、七月下旬の夕刻に、真南の地平線近くにさそり座が横たわっているのを見たことがある。このとき、さそり座の下方に南十字星が燦然と輝いている筈であるが、地平線の下にかくれて見えないのである。  私は毛布の上に横たわったまま、天空の上方に向って上昇を続ける四つの星をあかずに眺めた。十字星といっても、十文字の形に星が並んでいるわけではなく、左右、上下にある四つの星を結ぶと、十文字を形成するという意味である。四つのうち、二つは特に光度が強く、一つは弱い。もやがかかって来ると、一つが見えなくなり、三角形を形成することがある。  南十字に付随してその周囲を回るさそり座も面白い星座である。サソリが尻尾《しつぽ》を巻いた形をしているが、時間によって、南十字の左側に立つ形をしたり、その真上に寝ころんだような形となる。女王の王冠を守護する巨竜のようにたとえることも出来る。  私はガダルカナルの近海で漂流しているときにも、南十字を雨雲の間に認めたことがあるので、南十字星に関する想い出は多い。  しかし、最も印象的なのは、ニュー・キャンプがハンストを行なったとき、丘の斜面の厠に立って、南天に仰いだ十字星であろう。  私はしばらく眠った。  眼覚めると、十字星はワン・トロの右の肩に傾いていた。  ——ニューカレドニアに来た甲斐があった——と私は考えた。  ヌーメアの収容所で私は再生を経験したが、この度の再訪で、多くの記憶をよびさまし、それが、私の心身に新たなる代謝を招くことは確実であった。  ヨーロッパでは、星座の登場するドラマや話が多い。バグダッドの南方九十五キロのバビロンから、バグダッドに帰る途中、東の空に手にとるように見えたオリオン星座の華麗な姿も私には忘れ難い。日本では月に関する詩歌は多いが、星をうたったものは少ない。ましてや、南十字星が登場する詩歌は稀であろう。しかし、日本人の一兵士が、十字の星を仰ぐことによって、再び生きる勇気をかき立てられたと知ったならば、南十字を象《かたど》る四つの星も、その輝きが無意味ではなかったことに気づいてくれるであろう。  ——いずれにしても、私は南十字星に感謝しなければならない。天行は健なり、というが、人間は時に天体の運行を仰ぎ、無窮の時の流れに身をおいてみることが必要であろう——  私はそう考えながら、毛布を巻いて、自分の部屋に戻った。そして、かつてあのように蚊の名所であったヌーメアの草原に横たわって、一匹の蚊にも襲われなかったことにあらためて気づいた。  翌日、私は午後八時トントゥータ空港発のUTA機で、フィジー島のナンディ空港に飛ぶ予定であった。ニューカレドニアからガダルカナルへ飛ぶのには、ニューヘブリデースのポート・ビラ空港へ飛び、ここで一泊して、ガダルのホニアラ空港へ飛ぶのが直線コースで早道である。かつて、私がガダルカナルのヘンダーソン飛行場からヌーメアへ運ばれたときも、ニューヘブリデースのすぐ北にあるエスピリツサント島の飛行場に一旦降りて、ニューカレドニアに飛んだのであった。  しかし、現在、ニューヘブリデース島は英領であり、ポート・ビラ滞在のビザは、英本国照会となるので、一カ月位かかるという。従って旅行者は一旦フィジーへ飛んで、さらにガダルのホニアラへ飛ぶという煩瑣《はんさ》な方法をとらなければならないのである。  この日、三月八日の昼、私は筒井さんの案内で、ヌーメア郊外の丘の上にある日本人墓地を訪れた。日本人墓地といっても、日本人専用の墓地ではなく、大きな広い墓地のほぼ中央に、かなりの広さ(百坪位?)の日本人墓地があり、その中央に、「日本人之墓」と大書した、高さ三メートルほどの墓碑が出来ているのである。  前述のように、日本人は明治二十五年以来、多くの移民をこの島に送ったが、ここで生を終る人も増加して来た。江ロきちの歌を借りれば、「流れ来て、異国の土の祖《おや》となりぬ」人も多かったのである。  初期の移民は貧しく、立派な墓石も建てられなかったが、そこへ大正三年の第一次大戦が勃発した。ヌーメアは南太平洋の軍事基地となり、ニッケル鉱山は好況を呈し、貿易商、雑貨商、農業関係の日系人たちの懐ろも大いにうるおった。戦争が終ったとき、彼らは金を出し合って立派な墓石を建立した。それが現在残っているもので、墓石の周囲には、そのときまでにこの島で死亡した百二十数名の日本人の名前が刻んである。  私は墓石の裏に回ってみた。建立の年月日は大正九年となっている。私の生年と同じである。私は写真をとるため、墓石の裏の丘の中腹に登ってみた。  ここからの眺めはよろしい。壁の白と木々の緑が交錯するヌーメアの町を越えて、港が見え、貨物船や客船の向うをヨットがゆるゆると帆をはらませて南へ走り、その向うに、養老院のあるイル・ヌーの島が物憂げに横たわっていた。ホノルルのパンチボール墓地からのワイキキの眺めも悪くはないが、ヌーメアの墓地からの眺めは、もっとひなびて、南半球的にのどやかであった。  ——どうして外国の墓地は、このように眺めのよい所にあるのだろう——私は横浜の外人墓地を想い出しながら、シャッターを切った。外人の墓地はバラエティがあって、訪れる者を楽しませる。ふたたび、「たんすと野鳥」の一節を借りてみよう。 〈墓地全体を見おろす位置で長男は足をとめた。墓石は日本の墓よりはるかに多様である。十字架だけという単純なものから、イエス像をとりつけたもの、教会堂を模し小さな住居ほどもあるもの、丸型、菱型、角型、さまざまである。欧米においては、これほど雑多ではなく、もっと統一性があるように思われる。彼等が新開地に等しい東洋人の国に来て、その死を弔うのに、このような多様性を示したのは何故であるか。先進国としての自負心から奇異を競ったのであるか、異邦人として、未知の土俗に虚勢を示したのか、それとも単に旅愁をまぎらわすためのすさびに過ぎなかったのであろうか。  黙したままポーズをとっている群衆のようにみえるそれらの墓碑の向こうに、フェリス女学校の尖塔が冬の朝陽を浴びて立っている。長男は伏し目のような表情でそれらの光景を俯瞰している。私は近づくと声をかけた。 「墓地が気にいったか」  長男はかすかにうなずいた。〉  フランスの植民地であるヌーメアの墓地は、横浜の外人墓地に似ている。異なるとすればこちらは、常夏の島であり、ブーゲンビリアやポインセチアなどが、赤色の花々を、墓石の間に点在させていることである。  墓石と花の群れを眺めている私の胸に、ふたたび、江口きちの歌が甦った。 流れ来て異郷の土の祖《おや》となりし法名記すべき石は貧しき 受けつぎし流離の血かもふるさとへかへるなかれと言ひし餞《はなむ》け 親なくてかにかくに汝《なれ》も生ひ立ちし三界にひとり生《あ》れしと思へよ  あとの二首は、きちの妹たきが東京へ奉公に行くときに贈った歌で、きちはこの半年後に自殺している。  墓地の中央に、三本の椰子の木があった。そのうち一本は五十メートルに近い巨木である。樹齢は百年を越えるといわれる。その梢に、大きな葉が風にゆれているのを見上げたとき、私はふいに父の病気のことを想い出した。収容所の跡を探し、南十字星を仰ぐことに懸命になっていて、病床にある父のことを忘れていたのである。父が死んだら墓石を建てなければならない、と私は考えた。穂積町の共同墓地に父が求めた小さな墓地がある。 「おれが死んだら、あそこに豊田家の墓というのを建てて、今までの皆の名前を書きこんでくれい。これからは墓地も高うなるで、一人に一つずつというわけにはゆくまいでなあ」  と父は言っていた。今までの皆というのは、私の母のいとし、妹の郁子《いくこ》、亡妻久喜《くき》子のことである。私には、満洲の長春で生まれて間もなく死んだ次郎という弟があったそうであるが、この弟は今まで家族のなかに入ってはいない。私は、父の墓石が出来たら、次郎も仲間入りをさせてやろうかと考えていた。  肉親の死は、家族にとって大きな事件であるが、わずらわしく感じられることもある。人間の死には儀礼が伴う。私は儀礼がきらいである。儀礼が華やかであればあるほど、人の心は空疎になってゆく。儀礼の進行に熱中している人を、私は冷ややかに眺めることがある。その人の心は、儀礼の執行に占められていて、故人への哀悼はいずこかへ押しやられているのである。  日本人墓地を出た私たちは、ワン・トロの西にある Baie de Citron(シトロン湾)に面した水族館を訪れた。この水族館はユニークなもので、珊瑚のコレクションに関しては世界的なものらしい。私の知らない珍しい海生物が多数あった。近く皇太子夫妻が来島するそうであるが、生物学者の天皇が来られたら、大いに喜ばれるであろう。  水族館を出て、シトロン湾を眺め、正しくシトロンを呑みながら、筒井さんは私に、潜水艦の話をした。 「一九四三年の五月といいます。日本の潜水艦がパイタの沖で沈みました。連合軍の駆逐艦と交戦して、一旦は浮上したのですが、デッキの乗員をそのままにして沈みました。被害が大きいので、その近海に沈んでいると思われます。海図にはない障害物があるので、赤いブイを浮かせて、航行の船に警告をしているのです」  私はその潜水艦を知っていた。  昭和十七年春、アメリカのカリフォルニア州サンタバーバラの重油タンクを砲撃して、アメリカ人の心胆を寒からしめた伊号十七潜水艦である。伊十七潜は、ヌーメア沖で通商破壊に従事し、一万八千トンの商船を撃沈したが、駆逐艦に追われて、パイタ沖の島影をめざした。破孔があり、潜水が無理なので、浮上して砲戦を挑んだ。しかし、致命的な被害を受け、艦は、甲板上にいた砲台員や司令塔の航海科員をそのままにして急速潜航した。甲板上にいた数名は浮流中を捕えられ、パイタに送られたので、私は後にその兵士たちと会ったことがある。パイタの収容所で彼らを迎えた古い捕虜は、 「収容所の近くで捕まるなんて、ヤンキーも手間が省けて喜んどるじゃろう」  といって、彼らを冷やかしたそうである。  彼らのなかには、饗庭《あえば》兵曹、園田兵曹、山梨寿一兵長らがおり、清水市に住んでいる山梨君とは、今も文通がある。  私はその潜水艦を引き揚げることに賛成で、まず、位置の確認を筒井氏に依頼する一方、日本に帰ったら、引き揚げ運動に協力することを約束した。  午後五時、私は筒井家を辞して、トントゥータの飛行場に向うことになった。短い滞在であったが、多くの収穫があり、それはすべて筒井家の協力の賜物であった。私は、筒井名誉総領事を始め、夫人、潤君、妹の光子さんに厚く礼を言って外へ出た。雨が降り始めていた。  バスは、雨のなかを、懐かしい町ヌーメアの街路を抜けて、郊外の道を空港へ向った。三十分足らずで、バスはパイタの町に入った。広場があり、その近くに教会があり、小さなわびしい町であった。私はこの近くに、佐藤兵曹たちが最期を遂げた収容所があったことを想い、またここから西の海底に伊号十七潜が沈んでいることを考えた。  ニューカレドニアは、ソロモンの主戦場ガダルカナルから千五百キロ南で、日本軍は全然上陸しなかったのであるが、ここでも戦いは行なわれ、未だに海底には遺体が残っているのである。  パイタを出る頃、雨はあがり、UTA機は、定時、フィジーを指してトントゥータ空港を離陸した。私は心のなかで、今一度ニューカレドニアを訪れることになるであろう、と考えていた。機窓からふりかえってみると、島は黒々とした細長い塊と化しつつあった。灯火の少ない島であった。 七  ヌーメアからフィジー島の北側にあるナンディ空港までは千二百六十キロである。ジェット機ならば一時間半そこそこの行程である。ダイヤによると、ヌーメア発午後八時で、ナンディ着午後十時四十五分となっている。これは時差のためフィジーが、一時間時計が早まるためであろう。  午後十一時近く、飛行機はナンディ空港に着いた。明朝は八時十五分にここを離陸してガダルカナルのホニアラ空港へ飛ばねばならない。今夜は早く寝なければならないな、と考えながら、私はカメラのバッグを提げて、タラップに向った。日本を発《た》つとき、ある友人は私のスケジュールを見て首をひねった。 「君、フィジーに夜着いて、朝八時にガダルに出発するんでは、この地上の楽園に着きながら、何も意味がないではないか」  しかし、私の考えは違っていた。椰子の葉蔭に寝そべって音楽を聞きながら、女たちの踊りを見るのが、地上の楽園であるとは私には思えない。地上には、人間の多い所と少ない所、忙しい島とひまな島があるだけで、楽園などはない、と私は考えている。未開の島で金を費消して怠惰に時間をすごすのが楽園だという考えは、都会生活の幼稚なる反動にすぎない。  但し、私がフィジーに寄ったことは、たとえひと晩であっても、無意味なことではなかった。  タラップを降りる私の耳に、 「ミスター・トヨダ!」  という女の叫び声が入った。  オーストラリア人らしい背の高い女がタラップの下で待っていた。彼女は私に一通の電報を渡した。緊張した表情であった。電報は、 「FATHER IS SERIOUSLY ILL」  とだけあって差出人はなかった。(後からの調べで、この電報は妻の依頼で旅行社が打ったものとわかった) 「チチキトク」  と私は呟《つぶや》いてみた。 「父危篤」と頭のなかで漢字にしてみると、事の重大性がわかった。 「Anything can I do for you?(何か出来ることがありましたら)」  と彼女は言った。若い女であったが、心配げな面持であった。父危篤の電報を受けとった私のことを心配してくれているようである。  私は頭のなかで計算してみた。ここから東京へ戻る一番早い近道は多分ガダルカナル経由でラバウルからポートモレスビー、マニラ、羽田というコースである。ナンディからハワイ、東京というコースがあるが、フライトが予約してないし、恐らくラバウル回りの方が早かろうと思う。ラバウルまで行けば、モレスビーまでは毎日航空便があるが、ラバウルまでは予定のスケジュールで飛ぶほかはない。  私は予定通り、ラバウル回りで帰国することにした。父が本当に重態ならば、今から直行しても間に合わぬし、ガンが悪化したというのなら、一週間か十日は長引くのではないかと考えていた。医師が義母に告げた最悪の時期は四月下旬であった。いずれにしても、かつての戦跡をめぐり、多くの戦友の死を弔う旅であるから遅延は許してもらわねばならぬ、と私は考えた。父は七十八歳を生きたのであるから、ソロモンの孤島に二十二、三歳で命を終った人々に較べれば、はるかに恵まれていると考えるべきだ、という思考法も私の脳裡にはあった。 「Anyway I must fly to Honiara tomorrow early morning(いずれにしても、明早朝私はホニアラに飛ばねばならない)」  私がそう言うと、女子職員は了解して、私の航空券を受けとり、明朝のフライト・コンファームのため、サウス・パシフィック・エアラインのカウンターに向った。  この夜のホテルは、空港と目と鼻の先にあるフィジー・ゲートウェー・ホテルである。ヨーロッパふうのリゾートホテルで、庭園のプールには、底の方から照明があり、陽にやけた白人の男女が泳いでいた。庭には熱帯樹が茂り、二階のバーからは笑声が聞え、観光地のホテルらしいムードが漂い、深夜とは思われなかった。遠くに海を眺める部屋に案内され、荷物をおいたが、私は落ちつかなかった。  フィジーは独立国である。空港で換えたフィジーの金をポケットに入れて、私は二階のバーに向った。ヌーメアより蒸し暑く空気がよどんでいたが、バーには窓がなく、吹き抜けで、従って冷房もなかった。私は額の汗を拭いながら、ビールを頼んだ。  旅の疲れが出たようで、何ものかに押えつけられるような気持でビールを呑んでいると蚊が襲って来た。ここの蚊は数が多く、マラリア蚊ではなさそうであるが、かなりしつこく、手で追ってもなかなか逃げない。頭を押されても血を吸っており、それ以上押すと、つぶれてしまうというのもある。私はニューカレドニアの収容所の蚊を想い出した。こんな蚊の群れでお客を歓迎して、何が地上の楽園だ……と私は腹立たしくなり、腕や足首を叩いた。黒人には蚊はよりつかないらしく、バーテンダーも、私のとなりのフィジー人も平然としている。私はますます不愉快になり、気が滅入って来た。父のことを考えたが、八千キロ離れたフィジーではどうにもならない。もう一本ビールをアンコールして、腕の蚊を叩きながら飲んでいるうちにいくらか酔いが回って来た。  ——私がフィジーのこの島すなわちヴィティレブ島を訪れるのは初めてではない。昭和十八年五月末、ニューカレドニアからハワイに送られる途中、私たちをのせたイギリスの輸送船は、この島の南側にあるスバ港に入港している。 〈私はいくつもの灯台を知っている。(中略)そのなかでも印象に残っているものが二つある。一つはポリネシア群島のフィジー諸島にあるヴィティレブ島スバ港の灯台である。(中略)三日ほど航海して船はフィジーの港にはいった。私たちには上陸はなく、蒸し暑いケビンに閉じこめられていた。空気が動かず、捕虜たちは退屈していた。丸い舷窓が一つあり、そこからかわりばんこに外をながめた。外国の軍艦や帆船やクレーンや曳き船などではなく、海岸通りのフェニックスの並み木に、一同の目は吸いつけられた。白いオープンカーが、赤いセーターの娘と水兵をのせて走る。そこには確実に異国の生活があった。そして私たちには「生活」はなかった。コッペとハムの破片を与えられ、木製の応急ベッドを寄せあって、そのきしみを聞きながら、塗りの剥げた天井をながめている。私たちの毎日は無為であった。  夜、私たちの船は荷役を終って出港した。昼間見た海岸通りに、ヘッドライトが流れた。昼間は気のつかなかった浮き灯台に灯が入り、それが舷窓からながめられた。浮き灯台は波に揺れ、気ままそうに見えた。しかし、その底には鎖があり、海底の錨《いかり》に固縛されていた。好きな所に行くわけにはゆかないのだ。頭の上にあるランプを明滅させ、航路を知らせるにすぎない。船がスピードを増し、旋回すると、浮き灯台が船尾に吸いこまれた。〉(「灯台」)  今、私はその浮き灯台を懐かしく想い起こしている。あれからいろいろなことがあった。あのとき、私は二十三歳であるから、二回り上の申《さる》歳である父は満で四十七歳であったはずだ。あれから三十年たって、父はいま死のうとしている。私は、父の死に目にも会えないのではないか、と思った。私の母は昭和二十年四月二十日、私がウィスコンシンのキャンプ・マッコイにいたとき、肺炎で世を去っている。多分、父の死に目にも会えまい。それも戦争が残した余燼《よじん》の一つかも知れない……。私はそう考え、ビールを切り上げると部屋に帰った。疲れていたと見えて、間もなく眠ることが出来た。 八  六時半のモーニングコールで私は起こされた。飛行機の出発は八時十五分である。私は自分のスケジュールを見て首をひねった。ガダルカナルのホニアラ着は午前十一時三十五分になっている。ナンディとホニアラは二千キロはなれているが、ジェット機ならば、二時間半で十分である。それに、ホニアラは時差で、一時間時計が遅れるので、午前九時半にホニアラ到着が至当である。  しかし、その疑問は離陸後間もなく解けた。FJ五〇三便は、ニューヘブリデースのポート・ビラに着陸し、その後、ホニアラに向うのである。  何ということだ。ポート・ビラは英領でビザが手間どるというから、ナンディ経由ホニアラという遠回りのコースを選んだのではないか。それが、ヌーメア、ナンディ、ポート・ビラ、ホニアラでは、大変な遠回りになってしまう。私はポート・ビラのビザを持っていないが、それでもかまわないのだろうか……。  そのとき、私は東京で旅行社の社員が説明していたのを想い出した。 「ヌーメアから直接ポート・ビラに飛ぶと、一泊しなければホニアラへの便がないのでビザがいるのです。しかし、ナンディからならば、たとえポート・ビラに寄っても、トランジットでそのままホニアラへ出発しますから、ビザはいらないのです」  このあたりは、世界でもフライトの不便なところで、トランジットでもポート・ビラへ立ち寄ると、IT料金という割引き制度は受けられなくなるのである。  ——何たることだ。何が世界の楽園だ——と私はかなり憤慨したが、考えてみると、日本軍も随分へんぴな世界の果てまで戦線を拡張したものである。米豪分断作戦といって、アメリカとオーストラリアの間にクサビを打ちこむため、ニューヘブリデース、エスピリツサントから、ニューカレドニア、ニュージーランドまでを占領する作戦を軍令部では立案していたが、四月十八日の東京空襲の影響などもあって、ミッドウェーを先に攻めたという。もし、米豪分断作戦が実施されて、ニューヘブリデースや、ニューカレドニア、ニュージーランドに上陸していたならば、補給線は完全に寸断されて、もっと多くの遺体が島に残っていたであろう。  しかし、大本営の参謀あたりの頭は特別製だと見えて、戦後ある参謀はこういう意見を洩《も》らした。 「ガ島のような何もないジャングルで戦うから苦労するのだ。ミッドウェーに用いた大艦隊をひきいて船団を掩護し、ずばりニュージーランドに上陸する。ここならば、食物も豊富だし、設備も整っている。イギリス領だから、アメリカも真珠湾ほどは防備に躍起になっていない。産業もあって自給自足できるから、ここを基地として、ニューカレドニア、ソロモンの線を確保する。米艦隊はこの時とばかり、日本本土を襲うだろう。心配することはない。陸上基地の航空部隊で迎え討つのだ。どちらが強いかはマレー沖のプリンス・オブ・ウェールズで実験ずみだ。このあと、シドニー、ブリスベーンなどの軍港を封鎖しておいて、まずイギリスと単独講和を行なった後、アメリカと講和にもちこむのだ。これは荒唐無稽な説ではない。現にマッカーサーは、frog jumpといって、蛙とび作戦で、奥へ奥へと斬り込んで成功しているではないか」  私は太平洋戦争の作戦方針におけるディメリットの一つは、実戦の経験のない参謀が、机上で計画を立てて、前線の司令官に指令を出したことだと考えている。しかし、このように飛躍した構想には興味がある。米豪分断作戦は、昭和十七年初頭、軍令部第一部長福留繁《しげる》少将が熱心に研究し主張したものだという。ミッドウェーの代わりにこちらをやってみたら面白かったかも知れない。もっとも、五月初めの珊瑚海海戦で、空母祥鳳《しようほう》を失い、翔鶴を中破されて、ポートモレスビー上陸作戦をあきらめたくらいであるから、日本のGF(連合艦隊)にfrog jumpをさせて、ニュージーランドを狙わせるのは、無理であったろう。この時期において、米空母部隊は、レキシントンを失い、ヨークタウンは大破、サラトガは潜水艦の雷撃を受けて軍港で修理中、使用可能なのはエンタープライズとホーネットの二艦であった。日本軍は、一航戦赤城、加賀、二航戦飛竜、蒼竜《そうりゆう》、五航戦瑞鶴のほか、竜驤《りゆうじよう》、隼鷹を入れて七隻が行動可能であった。これに金剛《こんごう》、榛名《はるな》などの高速戦艦と、利根《とね》、筑摩《ちくま》などの重巡部隊を護衛につけて、急遽、ニュージーランドのオークランドを急襲したら有効であったかも知れない。ミッドウェーで空母を失い、ソロモンで消耗戦を繰返すくらいならば、この程度の飛躍した作戦を、戦力充実したうちに決行してみるべきではなかったのか。  山本五十六は名将ではない、と言って、私は五十六ファンからにらまれたことがあるが、彼が本当の名将ならば、緒戦に乾坤一擲《けんこんいつてき》の大勝負を挑んでもよかったのではないか。この時期ならば、米空母も、潜水艦も少なく、こちらが輸送船や油槽船を連れてゆくことは可能であったのである。  戦争というものは、囲碁将棋と同じく、あとから感想を述べるのはやさしい。捕虜になった一海軍中尉ですらも、三十年後には、以上のような大作戦構想について解説を付加する位であるから。 九  午前十時、飛行機はニューヘブリデースのポート・ビラ空港に着陸した。時差があるので、現地時間は午前九時である。この島にも、私は少々の因縁をもっている。ガダルカナルからヌーメアに運ばれる途中、私は、この島のすぐ北にあるエスピリツサント島の飛行場に着陸した。「ニューカレドニア」には、次のような簡単な叙述が見られる。 〈太陽の方向から判ずるに、機は南東方、エスピリツサント島を経て、ニューカレドニアへ向っている様に思われる。ニューカレドニアまでの燃料があれば、ラバウルまではゆっくり帰れる。そんな事も私は考えてみたが、何となく気圧されて、飛行機を分捕ろうと云う考えは起らなかった。  高度四千五百位で機が上昇を止めると、急に気流が悪くなり、動揺が激しくなって来た。平気な顔をしているのは、私と相沢(実在の祖川兵曹をモデルとした)だけで、先刻ドロップスを呉れたMPがゲロゲロと青黒い胃液を吐くと、他のMP達が、 「ガッデム」と低く叫んだ。  昼近い頃、エスピリツサントと思われる島へ着いた。予備の飛行機が無数に並んでいるのを見ながら、私達が小便をしている間に、機は燃料を積み、今度は午後の陽を右に見ながら、南西方に機首を向けた。  水兵がいなくなったかわりに、唇を真赤に塗った女兵が二人乗って来て、盛んに談笑していたが、高度四千位になると、どちらも青い顔をして黙ってしまった。〉  当時、エスピリツサントには連合軍の大基地があり、今も軍事基地があるので、民間機はニューヘブリデースのポート・ビラに降りるらしい。  午前十時、機はポート・ビラを離陸した。リーフと波の美しいエスピリツサント島を右下に見て、機は北西に向った。右側の座席にいる私の窓に南緯十二度の朝の陽がまばゆかった。遠ざかって行くエスピリツサントを眺めながら、私はかすかなときめきを感じていた。いよいよ私が漂流した海面に向うのである。三十年ぶりのガダルカナルはどのように変貌しているであろう。漂流している私を眺めていたサボ島の山々は、昔と変りないであろうか。私は昔の恋人に会いにゆくような興奮を覚えていた。  地理書によると、ソロモン群島は、数万年前に噴火した火山列島で、北からニューアイルランド、ブカ、ブーゲンビル、チョイスルと続き、このへんから二列に分れ、北側はサンタイサベル、マライタ、南側はベララベラ、コロンバンガラ、ニュージョージア、ラッセル、ガダルカナル、サンクリストバルと続くのである。  この火山列島は、ニューアイルランドの西にあるニューブリテン島とも関係があり、ニューブリテンの北東端にあたるラバウルに温泉が噴出するように、ガダルカナルの北西に位置するサボ島にも温泉が湧いているのである。  なぜ、南海の島であるガダルカナルで、日米併せて三万に近い人命を賭けた死闘が生起したか、その理由は必ずしも定かではない。先に触れた米豪分断作戦の一環として、日本軍がソロモン群島に進出していたことは事実であるが、ガ島自体がそれほど重要な島であったとは思われない。昭和十七年八月七日、米軍がこの島に上陸して来たため、それまで不敗、不退却を誇っていた帝国陸軍が、この島から米軍を一掃して面目を保とうとした心理はわかるのであるが、出来かけの小さな飛行場が一つあるだけのガ島を黙殺して、ラバウルの線を固めるか、あるいは、frog jumpによって、エスピリツサントの基地を奪い、米軍の輸送線を断ち切る方策もあったのである。一旦、敵に奪われたヘンダーソン飛行場をとり返すという面子のために、二万の陸兵を犠牲にし、百隻に近い艦船を沈めるという戦法は、未だに合点がゆかない。日露戦争のとき、日本軍は旅順の占領に万を越す犠牲を払っているが、旅順は制海権の上からも、満洲の野戦のためにも、重要な拠点であった。それにくらべると、ガダルは、軍港でもなければ、野戦の要地でもない。戦争は、往々にしてこのような理由不明の戦闘を生起させ、無名の島の名を史上にとどめることがあるらしい。ミッドウェー、レイテもその一例である。  正午近く、機はガ島の上空にかかり、高度を下げ始めた。ガ島の東側海岸は、ニューカレドニアや、エスピリツサントに劣らず、リーフの美しいところである。  ガダルカナルは、東西百八十五キロ、南北四十〜五十キロ、いも虫のように横たわり、四国の半分に近い面積を持つ、南緯九度の熱帯の島である。  機はその中央よりやや西寄りを流れるルンガ川の川口に近いヘンダーソン飛行場に着陸した。この位置はかつて昭和十八年七月、日本軍の設営隊が建設したルンガの飛行場とまったく同じであり、滑走路を延長し、舗装したほかは、昔と変っていない。  着陸する寸前、私は滑走路の左前方に、低いがしかし、けわしい山を認めた。日本陸軍が万斛《ばんこく》の恨みを呑んだアウステン山である。地図によると頂上は四百十メートルとなっているが、実際戦闘が行なわれた前丘は、百五十メートルほどの小山である。ヘンダーソン飛行場を奪取するための天王山となった山で、ここでは数限りない争奪戦が演じられ、遂に食糧と火器の不足から、日本軍はこの山から撤退したのである。  機が静止し、タラップを降りると、私はカメラを四方に向けて、シャッターを切った。この飛行場一つのために、二万の日本軍将兵がジャングルに骨を埋めたのである。  そして、私にとっては、昭和十八年四月十七日、捕虜となって三日目の混乱した精神状態で、ここからニューカレドニアに飛び立った想い出のある飛行場でもある。 〈次の朝、陽が出るか出ないかに、武装したMPが三名、ガチャガチャン、とキャンプの扉を開けて私達を連れに来た。  熱帯の朝は爽かである。  私と相沢は、二夜きりの宿に淡いものを感じながら、ジープ上の人となった。海岸の椰子林を十分ばかりも揺られると、二千米位の細長い飛行場に着いた。大小さまざまの飛行機が、ひっきりなしに離着陸しているのは、日本の飛行場と変りないが、トラクターが地上を馳《か》けまわり、赤や黄のズボンをはいた女が、三々五々作業に従事している姿は少し珍しかった。  八時半頃、私達は、双発のダグラス輸送機でガダルカナルを後にした。高度千米位の断雲を上へぬけると、からりとしたよい天気である。海岸のリーフを洗う水は、濃緑色と、淡黄色が適当に調和して、南洋の海とも又一種異なった、毒々しいまでの美しさで、三日ほど前まで、冷然と二人の運命を傍観していたサボ島が段々水平線の向うに沈んでしまうころ、機の高度は三千五百位に上って、空気が急に冷たくなって来た。〉(「ニューカレドニア」)  現在、ガダルカナルは、イギリスの信託統治で、飛行場の近くには、軍事基地といえるほどのものは見当たらない。滑走路の近くにも、ダグラスDC3が一機と、あとは島内を飛ぶ小型連絡機が数機あるだけで、軍用機らしいものはなかった。  ちなみに、ヘンダーソンという飛行場の名前は、ミッドウェー海戦のとき、ミッドウェー島にいた米海兵隊の爆撃隊長の名前である。ヘンダーソン少佐は、ダグラス急降下爆撃隊をひきいて、飛竜に突入し、真っ先に日本軍戦闘機のために撃墜された。海兵隊はその最期を記念するため、ガダルに上陸したとき、最初に占領した飛行場に彼の名を冠したのである。  ヘンダーソン飛行場は、いまホニアラ空港と呼ばれている。飛行場の西五キロに、ホニアラという人口二千の町があり、ここに、イギリス領ソロモン群島の政庁がある。以前は対岸のフロリダ島ツラギにあったが、暴風雨のため、ツラギが被害を受けたので、ホニアラに移ったのである。  ホニアラ空港正面の庭には、旧日本陸軍の高射機関銃が一台おいてあるだけで、ほかに戦争を想わせるものはない。待合室にいる乗客も、原住民のメラネシア人が大部分で、白人は少ない。私は飛行場の周辺にめぐらしてある柵に目をつけた。普通のバリケードではなく、鉄板が突き刺してある。その鉄板には、丸い穴が無数にあいていた。——これだ——と私は考えた。この鉄板は飛行場に敷いてあった鉄板である。米軍は穴のあいた幅五メートルほどの鉄板をロールに巻いてガ島に運び、日本の爆撃機が滑走路に穴をあけると、この鉄板を穴の上に延ばして、緊急の補修をした。また新しい飛行場を造るときも、ブルドーザーで椰子の木を引っこぬくと、そのあとをならし、この穴あき鉄板を上に繰り延べて、即席の飛行場を造ったのである。  私のホテルはマタニカウ川に近いホニアラ・ホテルである。メラネシア人の運転するタクシーに乗ると、車はすぐにルンガ川の鉄橋にかかった。ルンガ川は流程四十キロに近く、ガダルでも一番か二番の長流である。しかし、川幅は河口に近いこのあたりでも、三十メートルそこそこである。上流にスコールがあったと見え、川の水は黄褐色に濁っていた。私は飛行機の上から、ジャングルのなかをうねっているこの戦史に有名な川を眺め、一つの感慨に打たれていた。この川の上流には川口支隊が苦闘した血染めの丘(Bloody Ridge)とアウステン山があり、河口付近はルンガ泊地といって、無数の米艦船が碇泊し、砂浜に物資が山積みされていたのである。私が爆撃隊に参加したときも、その目標はルンガ泊地の艦船であった。しかし、日本兵でルンガ川を渡った者はきわめて少数である。緒戦期、ヘンダーソン飛行場の東四キロに上陸した一木大佐の隊はテナル川とイル川の線で全滅し、ルンガに達していない。一木大佐は、下流にワニが多いので、アリゲーター・クリークと呼ばれるイル川のほとりで、軍旗を焼いて自決している。  九月中旬以降の戦闘は、主としてマタニカウ川周辺もしくは、西のコカンボナ方面で行なわれ、結局、日本軍はルンガを渡渉して、ヘンダーソンに達することは出来なかったのである。  ホニアラ・ホテルは、ククム・ハイウェイという舗装された道路を西へゆき、マタニカウ川の鉄橋にかかるすぐ手前にある。  ルンガの橋を渡ると、道は海岸に出た。このあたりはジャングルではなく、学校、教会、病院や椰子園がある。海岸は珊瑚礁の磯になっており、海の色は淡い青色で美しい。海上五十キロほど西方に、私は突兀《とつこつ》とした山頂をもつ島を発見した。大きな島ではないが、海面からそそり立つようで、山容は峨々《がが》と形容するに値するほどの険しさを持っている。 「Savo island?」  と訊くと、黒光りのする運転手は、 「Yes, Savo」  とこともなげに答えた。  それがサボ島であった。  一週間の漂流の間、一日ごとに私たちの浮舟《ブイ》が接近し、ついに、その沖合一キロで、私と祖川上飛曹が、ニュージーランドの哨戒艇に捕えられた、それがサボ島であった。私の今度の旅行の一つの目的は、実際に小舟を出して、サボ島を訪れ、自分が漂流した海面を彷徨《ほうこう》してみることであった。  不思議なことにサボ島は、私が想像していたよりもはるかに険しく、また大きく思われた。同じ頃、サボ島の反対側に、長く延びているガ島のエスペランス岬が視界にあり、ガ島への恐怖が大きかったので、サボ島が小さく見えたのかも知れない。  私があかずにサボ島に見入っている間に、車はホニアラ・ホテルの門をくぐった。中国風の門を持つこのホテルは、華僑の経営らしく、建物は椰子の葉で屋根をふいたバラックであるが、装飾はメラネシアと中国がミックスになっている。  部屋も粗末であるが、冷房がある。空腹であったので、レストランへ行くと、上半身裸体で、腰にピンクの布を腰巻のように巻いたメラネシアの青年が給仕してくれる。鶏肉入りの麺とチキンカレーとパパイヤの入ったサラダを食ったが、なかなかうまかった。三十年前、サボ島の沖で飢えながら自殺を考えていた青年が、今、マタニカウの近くでチキンカレーを食っていることについて、私は自分がそれほど感傷的になっていないことを不思議に思っていた。  ここの戦跡を回るには、在留の日本人を探さねばならない。私はニューカレドニアの筒井氏からある程度の知識を得ていた。  リセプション・デスクにいるスペイン人と現地人の混血らしい女性に、ジャパニーズはいるか? と訊くと、すぐに応じて、電話をつないでくれた。出て来たのは渡辺さんという正しく日本の青年で、ブリティシュ・ソロモンズ・トレイディング・カンパニーという貿易会社に勤めているという。  間もなく彼は自分の車でホテルまで私を迎えに来てくれた。三十歳すぎのシャープな感じの青年で、イギリス系の会社に勤めているオフィスマンらしく、半ズボンの下にソックスをつけており、それがソロモンらしい感じを与えた。  渡辺氏の会社は、ホニアラ町の入口にある免税品売り場の近くにある。ホテルを出ると、その前一帯はチャイナ・タウンで、道はすぐにマタニカウの橋にかかる。この川の両岸にジャングルが残り、川幅は二十メートルほどであるが、川の相はルンガに似ている。ただし、水ははるかに澄んでいた。  マタニカウは、ガ島で激戦を経験した人にとっては忘れられない地名である。  ガ島の戦闘で日本軍を最も悩ませたものは、カクタス隊と呼ばれる米軍の飛行機であり、飛行場奪取は、日本軍上陸部隊の至上命令でもあった。そして米海兵隊としては、ヘンダーソンとルンガ泊地を守るためには、アウステン山とマタニカウの線を死守する必要があったのである。  ガ島で餓死した日本兵は万を越えるであろうが、ガ島は米海兵隊にとっても餓島であった。  八月八日夜の第一次ソロモン海戦で、アストリア、キャンベラなど五隻の重巡洋艦を失った連合軍は、九日、空母を含む機動部隊をルンガ沖からニューカレドニアに向けて避退させた。サラトガ、エンタープライズなど貴重な空母を、ラバウルから来襲する日本空軍の攻撃によって失いたくはなかったからである。  従ってガ島の海兵隊は艦隊の掩護と共に、補給の道をも絶たれた。私は、ハワイの収容所にいたとき、リチャード・トレガスキスという記者の書いた「ガダルカナル日記」というルポルタージュを読んだことがあるが、このなかに、次のような描写がある。 〈雨は降り続いたが、輸送船が一隻入ったので、明日は二食になるという期待があった。しかし、Doughboy(海兵隊員)たちは腹をすかし切っていた。 「ガッデム! こうなったら、JAPのサプライ(補給部)を襲って、米の飯でもいいから食ってやりてえ」  とサージャント(軍曹)が言った。  皆、それに同意し、レーンコートをかぶって、どしゃぶりの雨のなかで震えながら、マタニカウ川の対岸を見張っていた。夜になると、JAPはいつバンザイ突撃をしかけて来るかわからないのだ。〉  これによると、米軍も決して楽に戦ったのではないことがわかる。  渡辺氏のオフィスは平屋建ての簡素なものであるが、氏はディレクターということで、一室を与えられていた。むろん、彼には戦争の経験はなく、ガ島は単に椰子のコプラや砂糖キビ、木材、漁業などのため、ビジネスの場所となっているに過ぎないが、私の来島の意図を聞くと、協力の意思を示してくれた。  彼はまず下僚を呼び、一・五オーストラリアドル(六百円弱)を奮発して、十五万分の一のくわしいガ島の地図を買わせ、私にくれた。私は、小舟をチャーターして、サボ島付近を航行してみたい、という自分の計画を述べたが、 「それはだめです。このへんは鱶が多いので、海水浴も禁じられています。モーター付きのボートはありますが、スコールが来ると大波で転覆するおそれがあるので、遠くへは出ません」  ということであった。  なるほど、ここには素晴らしい海と浜があるのに、沖には一隻のヨットも見えず、海岸で泳いでいる人影もなかった。私の多年の計画は、かつて私を脅かした鱶のために、挫折せしめられたのである。  私のガ島滞在は二泊三日の予定であったが、渡辺氏は、「今日は今からババエアの丘に登りましょう。サボ島がよく見えますよ。明日の午前は、家内にアウステン山とブラッディ・リッジを案内させます。午後は大洋漁業の人に頼んで、エスペランス岬までドライブしてもらいましょう。サボ島がすぐ前に見えますよ。スコールが来なければよいですがね。この島には橋のない川があって、増水すると、車が渡れなくなるんですよ」  と、手筈を決めてくれた。  間もなく彼は車で、ホニアラの市街の背後にあるババエアの丘に、私を導いてくれた。ここからは、ホニアラの市街を越えてアイアン・ボトム・サウンドと呼ばれるガダルとフロリダに挟まれた海峡がよく見え、左の方に、サボ島が明確に認められた。彼が買ってくれた地図によると、サボ島は直径十八キロほどの円形の火山島で、主峰のフィッシャー・ボガラ山は海抜四百八十四メートルで、近くには径三キロの旧火口が残っている。  時刻は午後四時に近く、サボ島の峰々も夕陽を浴びて立っていた。このあたりは空が見事に晴れ、濃藍色の水と、淡紫色に暮れてゆく東の空とが接するあたりに、フロリダ島や、サンタ・イサベル島の西南方にあたるセント・ジョージ島(私の機が撃墜されたのはこの島の近くである)などが、おぼろに浮かんでいた。そのなかで、サボ島だけが屹然《きつぜん》とそびえているのが、ババエアの丘からは、絶佳といえる画然とした姿に映えるのである。私はこの島に来た目的は半ば達せられたと考えていた。  この丘には、日本軍の壊れた高射砲が一基残されており、子供たちが遊んでいた。  丘を降りると、渡辺氏の車は、メーンストリートであるメンダナ・アベニューを西に走り、海岸の住宅街にある彼の家に私たちを導いた。白壁の、広いホールを持った植民地風の家で、サボ島はこの家の庭にあたる海岸からも、暮れてゆく姿を見せてくれた。  渡辺氏には武君という四歳の坊やがいる。となりのイギリス人の子供と遊んでいるので、日本語は全然しゃべらない。私はこの子と話してみて、自分の英語が四歳の日本児童に及ばないことを確認した。武君は親友のチャーリー君と一緒に大きな箱を私の前に運んで来た。 「ガン、ブレット、ブン! ブン! ブン!」  と鉄砲を撃つ真似をしてみせる。  みると、三八式歩兵銃の銃弾の打殻薬莢《うちがらやつきよう》である。 「このへんの庭を掘ると、いくらでも出て来るんですよ。あまり出て来るんで、近頃は子供たちもあきて掘らなくなりましたがね」  と渡辺氏が説明する。百数十個はあるだろう薬莢のなかには、まだ銃弾がついたままのものがあり、うしろの雷管の部分を見ると、撃針で突いた跡のないものがある。明らかに未使用弾である。 「これは危いですね。石で叩くと爆発するおそれがありますよ」  と説明すると、渡辺氏は、 「そうですか、すぐ処分しましょう。今頃、タマに当たって死んではつまりませんからね」  と納得してくれた。  このあたりは、丸山中将の仙台第二師団司令部のあったコカンボナに近い。薬莢と共に、東北の兵士の血も、このあたりの砂にしみこんでいるのであろう。  夜六時、渡辺夫人の君子さんが帰って来て、それまで台所で働いていた混血らしいメイドが、チャーリー君を隣家に送り届けた。  この夜、私は渡辺夫妻からメンダナ・ホテルで、バーベキューの招待を受けることになった。メンダナ・ホテルは町のほぼ中央、ホニアラの漁港に近い海岸にあるスペイン風の大きなホテルである。  武君とメイドを家に残し、君子夫人の運転する車で、私と渡辺氏はメンダナ・アベニューをホテルに向った。メンダナは十八世紀の航海家で、ガダルカナルに最初に上陸した白人だそうである。その位置は漁港の東に突出しているクルツ岬の地点と伝えられる。メンダナはスペイン人で、ガダルカナルの命名者だという、そういわれれば私にはうなずける点がある。一昨年、スペインのセビリア、コルドバなど、アンダルシアを旅行したことがあるが、このあたりを流れている大きな河はグアダルキビール河という名前であった。昨年訪れたメキシコでは、グアダラハラという大きな町があった。グアダルというのは巨大なというような意味であるのであろうか。もしそうだとすれば、Guadal Canal というのは、大きな運河、もしくは海峡という意味であろうか。(後にスペイン語辞典で調べたところによると、Guadal というのは、「水のたまった荒地」という意味で、私を落胆させるに十分であった)  ソロモン群島の地名は興味深いものが多く、北のニュー・ブリテン、ニュー・アイルランドは当然英国人の命名であるが、その次のブーゲンビルは、ニューカレドニアの項でも述べたとおり、最初にニューカレドニアを発見したフランスの探険家の名前である。チョイスルはフランス系、ニュージョージアはイギリス、サンタ・イサベルはスペイン、マライタはよくわからぬが、サンクリストバルはスペインというように考えられ、大航海時代の列強の競争ぶりがうかがえて面白い。  メンダナ・ホテルのバーベキューは、野外でもうもうと煙をあげてロストルの上で鶏や牛肉を焼くもので、焼き方のコックはメラネシア、食い方は白人、と明確に区別されていた。ガダルカナルにもビールを作る工場が出来たそうで、その国産ビールを試飲したが、悪くはなかった。南緯九度は明らかに熱帯で気温は三十度位であるが、煙をあげる焼き肉のそばでビールを呑んでいても、さして暑いとは思われない。この島は三十年前、私が連れて来られたときも、マラリア蚊はいたが、気温はそれほどでもなく、南緯五度のラバウルの方が、はるかに蒸し暑かったように思う。現在、ラバウルにもガダルにも、マラリア蚊はいないので、予防薬を呑む必要はないという。平和というものは、人間の生活を文化的にするが、その平和を得るためには殺し合わねばならぬのが人類の宿命とすれば、絶望を感ずるほかはない。但し、人間は絶望しても生きてゆくことが出来るし、絶望の壁を突き破れば、別の世界が開けることを、私は捕虜生活で体験している。  夜九時、君子夫人運転の車でホテルに送ってもらった。南十字星が見えないかと、庭を散歩したが、南側の照明灯が邪魔になって見えない。マタニカウの鉄橋の位置まで歩いてみたが、時間が早すぎるのと、南の空が曇っているのとで、星は見えず、ニューカレドニアで堪能しているので、強いて探ろうとも考えなかった。この日はサボ島に対面したことで、私は満足していた。 十  翌日は三月十日であった。  午前九時、君子さんが車で迎えに来てくれた。  車は、熱帯の朝の爽やかな空気のなかを、ククムの部落から南へ折れて、アウステン山への登りにかかる。  アウステン山の主峰は、海抜四百十メートルであるが、激戦の行なわれたのは、それより少し低い「ギフ要塞」や、米軍が Gallopping horse(駆ける馬)、あるいは Seahorse(タツノオトシゴ)と呼んだ丘などである。  昭和十八年一月初旬、米軍の指揮官、パッチ陸軍少将は、マタニカウ川の西岸に進出し、日本軍を島の西端に追いこもうと考えた。この頃、アウステン山では福岡出身の岡明之助大佐の指揮する歩兵百二十四連隊と、第三十八師団に属する歩兵二百二十八連隊の一部が立てこもり、ギフ要塞を維持していた。  一月十三日、パッチはまず、ギャロッピング・ホース(駆ける馬)高地を爆撃し、ついで部隊を突撃せしめ、この丘を奪った。続いてタツノオトシゴの丘を攻め、そして、ギフ要塞で頑強に抵抗する岡部隊の攻略にかかった。百武軍司令官は戦線を縮小し、岡部隊の孤立を防ぐため、マタニカウ北西の地域に撤退するよう岡部隊長に伝令を送ったが、岡大佐は、九州男児の面目にかけて撤退は出来ないとして、アウステン山のギフ要塞を最後まで死守し、部隊長を始め大部分がこの地点で戦死した。  私たちの車は、そのギフ要塞跡に向っているのである。ガ島には愛知、岐阜の部隊も参加しているので、私と同郷の岐阜県人がここで戦ったことは確実である。ガ島の地図を見ると、The Gifu と今もその地名が残っている。私の郷里の墓地では、ガダルカナル島あるいはソロモン群島において戦死、と記された墓碑を見ることがあるが、戦史で名高いガ島にギフの地名を残したことは、いくらかでも彼らの勇戦奮闘を伝えるよすがになるであろう。  地図で見ると、アウステン山は、平凡な連丘にすぎないが、登ってみると、なかなか坂が急である。前夜スコールがあったと見えて、道がぬかっている。大体、車の通れるような道ではない。現地人の家が点々とあって、昔、日本軍の工兵かあるいは米軍が作ったらしい未舗装の泥んこの道がうねうねと続いているのみである。若い渡辺夫人は、なかなかの運転技術を持っており、難路をよく健闘して登ったが、ザ・ギフの展望台が見えるあたりで、車が大きな水たまりに落ちこみ、車輪が空転を始めた。私も降りて、ズボンを泥水のはねだらけにしながら、後から押したが、車は前進も後進も出来ない。 「困ったわ。こうなったら、ボーイを呼んでくるしかないわ」  彼女は、近くに一軒だけある現地人の家を訪ね、大声をあげた。最初に少年が出て来て、続いて、家長と思われる大男と、子供を抱いたその妻が現われたかと思うと、六人の少年が勢ぞろいした。彼らはみなはだしで、かまわずにぬかるみに入ると、車の両側について、叫び声をあげながら押し始めた。なかでも、家長である父親が、見事な筋肉の持ち主で、彼が全筋肉を怒張させながらのひと押しは、ついに車を水たまりから脱出させるのに成功させた。このとき、私はメラネシアが多産系であることに感謝すべきであると考えた。  君子さんが、謝礼に何枚かのコインを与えると、彼らは声をそろえて、 「アリガトー」  と言った。この丘へ来る旅行者といえば、日本人しかいないのであろう。島の中年男のなかには今でも日本語の片ことを話すものがいるという。  ザ・ギフの要塞は、今では見晴らしのよい展望台と化していた。ホニアラの町も見えるし、肝心のヘンダーソン飛行場も一望の下である。ここからヘンダーソンまでは八キロそこそこなので、ここに野砲を据えつければ、常時飛行場を砲撃出来るし、ルンガ泊地をも砲撃出来るのである。旅順の戦いにおける二〇三高地と同じ意義を持つ丘であったので、日本軍はここを占領したが、争奪戦を繰返すのが精一杯で、重火器を揚げて、有効な攻撃は出来なかったようである。  ここには簡素ではあるが木製の慰霊碑が建っており、その前に小さな卒塔婆《そとば》のようなものがうずたかく積まれていた。最近は飛行機の便もあり、この島を訪ねる遺族も増えているらしい。  合掌した後、私たちはアウステン山を降って、Bloody Ridge(血染めの丘)に向うことにした。  米海兵隊にとっては、アウステン山よりもモニュメンタルである Bloody Ridge は、アウステン山の北東七キロ、ヘンダーソン飛行場の南一・七キロにある。アウステン山やマタニカウが主戦場になる前は、ここで激戦が行なわれ、十月二十四日の総攻撃のときも、東海林部隊、那須部隊は、この丘を奪ってヘンダーソンに突入しようと計り、第七海兵連隊の勇戦に持ちこたえられて、この丘を奪取することが出来なかった。  しかし、ブラッディ・リッジが、その名の通り、全山血に染まったのは、十七年九月十二日から十四日にわたる緒戦期の激闘である。  八月十八日、最初の増援部隊としてガダルに上陸した一木清直大佐の部隊がテナル川畔の戦いで壊滅した後、第二陣として、川口清健少将が九月初旬ヘンダーソンの東二十キロに当たるタシンボコに上陸し、第百二十四連隊の二個大隊をひきいて、ヘンダーソンの攻略をめざした。九月十二日夜、川口少将は部下の二個大隊と、一木支隊の生き残り一個大隊をひきいて、ヘンダーソンの南、すなわち血染めの丘の方向から攻撃を開始した。一方、第四連隊の田村少佐のひきいる大隊はテナル川を渡って、飛行場の南東から攻撃をしかける手筈になっていた。  川口少将は、ジャングルの向うに横たわる丘の手前に、秘蔵の渡辺大隊と国生大隊を展開させた。この丘を日本軍はムカデの丘と呼んでいた。ムカデのように横たわっていたか、それとも、ムカデが多くて日本兵を悩ませたか、恐らく前者であろう。この時、川口少将は知らなかった。丘の上向う側には、ガ島米軍最高指揮官バンデグリフト少将の第一海兵師団司令部がおかれてあったのである。  日本軍は十二日夜から、十四日にかけて、猛攻を繰返した。十三日夜には、バンデグリフトの司令部が見える地点まで、白ダスキをかけた日本兵が肉薄した。この攻撃を支えたのが、メリット・エドソン中佐の第一突撃大隊と、チャールス・ミラー少佐の第一落下傘部隊であった。  日本兵の斬りこみ隊はバンデグリフトの司令部に斬りこんだが、バンデグリフトは幸い難を免れた。  十四日朝、川口少将は敗北を認め、残兵をまとめ、西方に向い、ルンガとマタニカウ川を越え、ジャングルのなかで、再編を計った。この三日間の戦いで、日米併せて千人近い死傷者が出た。  現在、血染めの丘には、オベリスクを小さくしたような三角錐の記念碑が建っており、英文で、九月十二日以降の戦闘の模様が記されている。血染めの丘の戦いは、米軍の勝利と見なされているらしい。丘の中腹には、バンデグリフトがいた司令部の跡があり、コンクリートのトーチカと地下壕が残っている。  川口少将は十月二十四日の総攻撃のときも、残兵と東海林部隊の二個大隊をひきいて、血染めの丘を攻めている。しかし、川口部隊は東側に迂回することを主張したため前進が遅れ、部隊の展開と攻撃開始に手間どったため、丸山中将から解任され、東海林大佐に指揮権を譲っている。川口少将の事績を聞くと、私は石田三成を想い出す。三成は内応軍の裏切りに敗れ、川口少将はガダルの密生したジャングルと圧倒的に優勢な米軍の重火器の前に敗れたのである。  血染めの丘からは、ヘンダーソンが指呼の間である。十月二十四日の総攻撃のとき、日本軍の一部は、飛行場の一角に達したと報告して、第二師団司令部に「バンザイ」を大本営に打電させた。「バンザイ」は「我、敵飛行場ヲ占領セリ」の暗号文である。しかし、そこはヘンダーソンの東にある草原で、飛行場ではなかった。この「バンザイ」は、海軍にも打電されたので、翌朝、零戦隊の一部はヘンダーソンに着陸しようとした。米軍は驚いて射撃し、零戦はあわてて急上昇したが、最初に着陸した一番機はタイヤを撃ち抜かれて転覆した。操縦員の佐藤兵曹は、格闘の末米軍の捕虜になった。私は彼とヌーメアの収容所で一緒になった。気の強い男で、ルンガの収容所でも脱走を計ったことがある。彼はオールド・キャンプ組のリーダー、駆逐艦暁の佐藤兵曹と気が合った。パイタの収容所に移され、決起事件のとき、石で研いだスプーンの先で頸動脈を切り、自決を遂げた。  このあと、イル川、テナル川を回って、午前の見学を終った。  午後は、大洋漁業の川崎氏が、エスペランス岬まで、四十キロの道を案内してくれる筈である。クルツ岬に近い漁港に面した海岸に、大洋漁業の営業所がある。五人ほどの所員はみな元気で、 「惜しいですね、船が入っておれば、カツオのタタキ(土佐づくり)がご馳走出来たんですがね」  と残念がる青年もいた。この近海は、マグロ、カツオなどの好漁場であるが、マグロは日本に送るよりも、アメリカに送って缶詰の材料になるものが多いという。  川崎氏は、 「エスペランスへ行く前に、昨日発見された遺体にお参りにゆきましょう」  という。  手にはビールの小瓶と、少量の線香を持っていた。現地人の少年が、マタニカウの上流で二体の遺骨を発見して通告して来たのである。 「日本人に知らせると、金がもらえるので、時々知らせに来ます。まだ奥にはかなり残っているでしょうね。謝礼は我々のポケットマネーで、政府は何も面倒をみてくれませんが、もっと積極的に遺骨の収集と取り組んでもらいたいですな。もう、三十年もたっているんですからね」  と、温厚な川崎さんが、ふんまんやる方ない、という調子で言う。私も同感である。  二体の遺骨は、マタニカウの一キロほど上流で、ザ・ギフの台地に近い川岸に眠っていた。川ふちの崖が内側に深くえぐられて、上から丈の長い雑草が蔽いかぶさっている。雑草を払いのけると、二体の遺骨が肩を寄せあうようにして、穴の斜面によりかかっていた。一体は大きく口をあいて、無念というよりもあきらめの様相であり、一体はあごの骨が分解していて、表情をうかがい知ることは出来なかった。飯盒や剣帯の止め金はあったが、鉄兜や小銃はなかった。現地人がいち早く持ち去ったのかも知れない。鉄兜は一ドル、小銃は三ドルぐらいで旅行者に売れるのである。  このへんで戦ったのは仙台の第二師団の四連隊が多いから、その部隊の兵士であろうか。あるいは初期にルンガからマタニカウに後退した舞鶴の海軍特別陸戦隊員かも知れない。日本の寒地から南半球の島に運ばれて、三十年間放置されるとは、さぞや無念なことであったろう。認識票が見当たらないので、遺族に知らせる術《すべ》もないが、肉親がこれを知ったらどのように嘆くことか。戦争をやりたがる為政者は、一度ガダルカナルに来て、この遺骨の表情を見るがよかろう。  大きく口をあけている遺骨の表情を見ているうちに、私は父のことを想い出した。「父危篤」の電報を受けとったのは、一昨日の夜であるが、父はもう死んでいるかも知れない。しかし、三十年間マタニカウの川畔に放置された兵士の運命にくらべれば、七十八年を生きて、病院のベッドで死ぬ父は、幸せというべきであろう。  川崎さんが、ビール瓶の栓をあけて、遺骨にビールをかけ、残りを遺体の前にそなえ、線香に火をつけた。線香の匂いを鼻にしながら、遺骨の写真を撮っているうちに、私は父の死を確認した。父の死に目にも会えないが、より不幸な人々を葬う旅の途中であれば、父も諒《りよう》としてくれるであろうと願った。  私は父の遺体にも焼香する気持を併せて残りの線香に火をつけて合掌した。煙の穴のなかにくぐもり、赤土のかびた匂いと一緒になって、私の鼻をついた。(父は、この前日、三月九日の午前一時二十五分、私がフィジーのホテルのバーで、ビールを呑んでいたとき、臨終を迎えていた)  焼香を終ると、私たちは、ホニアラの町を通りぬけ、西へ向った。  ホニアラの町を後にしてコカンボナの部落へ入ると、車は止まった。道の右側に、立て札がある。英文で Headquarter of 2nd Division と書いてある。丸山中将がひきいた第二師団の司令部があったところである。司令部は何度も移動しているが、十月四日集結したとき、最初はここにあり、また弾薬食糧の補給所もここにあったのである。  さらに海岸の道をゆくと、サボ島が近づいて来る。タサハロングの部落で車はまた止まった。ここは岬のように突き出ていて、海岸に、赤褐色に錆び朽ちた輸送船が一隻、船首を天に向けて波に洗われている。 「たくさんあったでしょうが、いまはこの九州丸一隻が残るだけとなりました」  と川崎さんが説明してくれる。  タサハロングは、日本軍の初期の揚陸地点で、物資の集積所もここにあった。部落のなかに広い庭を持った現地人の家があって、いろいろなものを庭のなかに展示している。鉄兜や日本刀はもちろん、機関銃から高射砲、小型戦車まである。小屋のなかには、鉄兜と小銃、銃剣が並んでいた。 「ちょっとした戦争博物館ですな」  というと、 「いや、売るんですよ。日本刀は外人が高く買ってゆきます。機関銃は十ドル、高射砲は二十ドルですが、買っても運ぶのが大変ですわ」  ということである。  遺棄された武器を売るのが、ガダルカナルでの小さな企業なのである。  近くの道ばたで椰子の実を売っていたので、一個割ってもらった。椰子の実のなかの水は、冷たくてとてもうまいという説を聞いたことがあるが、事実は生ぬるく、青くさくて、私は半分でやめてしまった。川崎さんがはじめから呑まないところをみると、やはりうまくないのであろう。但し、ガ島の将兵にとっては、この水や、コプラや、椰子の新芽は、貴重な食糧源だったのである。  タサハロングから、さらに車は海岸の道を西北に向う。左側はかなりの高地で、川が多い。ホニアラからエスペランス岬までには五十本近い川が海に流れこんでいる。タサハロングから、五キロほど先のムボフという部落まではバスが通っているが、その先は川に橋がなく、バスもゆかない。現地人たちは、もっぱら歩くのである。  車は橋のない川を、次々に水しぶきをあげて渉《わた》ってゆく。 「上流でスコールが来なければええですがな」  と、川崎さんは空を仰ぐ。山岳地帯に雲が低かった。スコールが来て、濁水があふれると、進むことも戻ることも出来なくなる。水量が減るまで数時間は立ち往生である。ガダルカナルは、今でもあまり便利な島ではない。かつて、漂流中、スコールは私たちののどをうるおしてくれたが、島では必ずしも歓迎はされていないらしい。  幸いに、スコールに襲われることなく、午後三時半ごろ最西端のエスペランス岬に着いた。  小さな灯台があり、その向うに、六浬《カイリ》(十一キロ)ほどの海水をへだててサボ島が浮かんでいる。ここまで来ると島の様子はきわめて明瞭である。地図を見ると、島の南側に、REKOという部落があり、その海岸に、椰子のプランテーションの印がついている。私が捕えられたのは、あの沖合であろう。 〈漂流第五日目の朝は、素晴らしい上天気であった。私達はサボ島まで五百米位のところにいた。  熱帯特有の断雲も今日は姿を見せず、朝の太陽が海面に反射して、疲れた眼に一層まばゆい。のどと胃の腑が焼けつく様にひりひり痛み、生への欲求が具体的な形をとって現われて来ていた。海はサボ島の白い砂浜に、快い波頭を見せながら砕け散り、その向うに椰子林がみずみずとした緑を見せていた。  相沢は腹が空《へ》ってこのままではとても駄目だ、と云うし、私も同感であったので、とりあえずサボ島の白い砂浜まで漕ぎつけ、バナナでも見つけて万事はそれからと云う事に話を定めた。  昼頃まで漕いで約百米位に近寄った時、一休みと云うので相沢が眠りだした。ガダルの方では、爆音がひっきりなしに聞えていた。私も一眠りして、波の荒くなったのに気がついて、眼をさますと南の方の波間に星条旗が現われ、二百噸ばかりの船が此方へやって来るのが見えた。〉(「ニューカレドニア」)  このあと、私は相沢(祖川)兵曹と逃げるのだが、ついに捕えられ、舌を噛んだが果たさず、ニュージーランドの哨戒艇に引き揚げられてしまうのである。  ガダルの上空には雲が低かったが、サボ島の方向では、この日も空がよく晴れていた。私はあかずにその山容と、近くの海面を眺めた。一隻の船も見えず、空に爆音はなかった。三十年の歳月は、この海峡をまったく静謐《せいひつ》なものに変えてしまったが、私の胸には未だに騒いでいるものがある。  ──あのとき、俺は生きのびた。しかし、戦死した多くの人に対して、それはどういう意味を持つのか。つまり、死んだ方が正しかったのか、生きた方が賢明であったのか。私は肚《はら》のなかで、今でもあの時私は死ぬべきであった、と考えている。それは単なる感傷ではない。人間は意識無意識のうちに、死に惹かれている。単機で八千メートルの上空を飛び、下界を俯瞰すれば、いかに生が醜く、蒼穹《そうきゆう》に吸いこまれる死、すなわち無と化することが素晴らしいかが理解出来る。しかし、それでも、操縦士は死なずに下界へ降りて着陸し、ふたたび地上の汚濁にまみれるのである。  サボ島の沖合で生起した混乱は、未だに私を捉えて放さない。私の捕虜生活は二十八年前に終っているが、二律背反的なカオスから、未だに私は解放されていないのである。  私の海兵六十八期生は、二百八十八名が卒業して、二百名が戦死しているが、そのうちソロモン、ニューギニア関係は、九十名に及んでいる。私と同じ、艦上爆撃機の操縦員であった千頭栄生《ちかみさかえ》、高橋良一の二人もソロモンで死んでいる。クラス会が出している「芳名録」には、写真と共に、戦死の状況と、生前の性格が略記されている。 〈海軍大尉正七位勲六等功四級、千頭栄生、昭和十八・一・五、第五八二航空隊附として艦爆隊を率い、ラバウル基地発進、ソロモン群島ガダルカナル島南方の敵艦船を攻撃、戦死。長崎中出身、寡黙重厚の偉丈夫、誠心誠意の男。顔に似合わず、好人物で細かいところにも気がついて期友から信頼された。〉  千頭は、クラスで一番黒かった。ガダルのメラネシア人でも、少し色の薄いのは、千頭にかなわない。ニックネームは船頭《せんどう》、気のよい男で私の相撲の好敵手であった。五八二空はラバウルからブーゲンビル島のブイン基地に進出していた艦爆隊で、始終ガダルの攻撃をやらされるので消耗率は高かった。  静岡県三島中学出身の好漢、高橋良一も、十八年三月十日、五八二空の一員として、ガダルに近いルッセル島沖で戦死している。ラバウルで聞いた話によると、千頭は敵艦に降下投弾して帰る途中、グラマンF4Fに喰われたという。高橋の方は、降下投弾しても帰投せず、ルッセル島の格納庫や列線のグラマンを銃撃していたため、地上砲火にやられたのだという。ルッセル島はエスペランス岬の西方、七十キロの海上にオハジキ玉のように浮かんでいる。この島はサボとは対照的に平べったい。私が漂流しているときも、西方に白い碁石のように浮かんでいた。高橋が銃撃したルッセル島の飛行場は、今、ヤンディナ空港といって、民間機がホニアラから出ている。  ソロモン、ニューギニア方面作戦で戦死した九十名の同期生のうち、戦闘機は十五名で、三十五人の戦闘機操縦学生の半数近くがこの近くで戦死している。ちなみに、戦闘機の生き残りは、中島大八、塩水流《しおずる》俊夫、三森一正の三名に過ぎない。中島は日航のパイロットとなり、塩水流も航空関係に勤め、三森は証券会社に勤めている。三人とも、ほとんど前線で戦い、生き残ったのであるが、戦闘機は九十パーセント以上が戦死し、その半数近くがソロモン方面というのは、消耗の激しさを物語っている。  他の科目では、偵察が陸上機水上機併せて十七名、潜水艦が意外に多く、十名となっている。駆逐艦が五人であるが、このなかには首席で卒業した山岸計夫《かずお》が入っている。  この方面で最初に戦死したのは戦闘機の村田功で、十七年八月十三日、ニューギニアのブナ作戦で戦死している。その次が池田四蔵で、艦爆偵察員として翔鶴に乗組み、八月二十四日の第二次ソロモン作戦に参加、エンタープライズを攻撃して戦死している。その次が戦闘機の結城国輔で、八月二十六日ガ島上空で戦死している。結城はクラスで一番小さく、一メートル五十二センチの合格身長ぎりぎりで体格検査にパスした男である。負けん気で運動神経が鋭く、相撲も強かった。「芳名録」には〈大阪天王寺中学出身、短身これ胆、トビ色の鋭い眼をしたポーカーフェース。頭がよく機敏で、要領よく物事を判断する「核心把握型」であった。〉となっている。結城と村田功は有名な小園安名《やすな》中佐(当時)が飛行長兼副長を務める台南航空隊の分隊士であった。台南空にはラバウルのリヒトホーフェンと呼ばれた笹井醇一中尉を始め多くの撃墜王がいた。台南空は、後に小園中佐を司令と仰ぐ二五一空となり、ラバウルの東飛行場を基地として勇戦し、「ラバウル航空隊」は、二五一空の代名詞かといわれるほどの働きをするが、くわしくはラバウルの項で述べたい。ここでは、結城の戦死が、一期上の笹井中尉と同じ日であったことを記すに止めておく。  エスペランスからの帰りは雨がぽつぽつ降り始めたが、幸いにスコールに道をふさがれることもなく、夕刻、ホテルにたどりつくことが出来た。ホテルの玄関に現地人が一人うずくまっていた。前に木彫の大きな面を三、四個おいている。このへんには土産物屋らしいものはないので、こうやってマンツーマンで商売をするらしい。自分が彫ったのを売るのであるから、生産地直売である。面白そうであったが、エスペランスとサボ島の印象が強烈すぎて、土産物を漁《あさ》る気持にはなれず、値段を訊くこともしないで、部屋に入った。  明朝のラバウル行きは、午前六時半発、TAA航空のダグラスDC3機である。午前五時には起きなければならないので、一旦ベッドに入ったが、眠れなかった。夜の気温は二十五度位で、クーラーもあるので、決して蒸し暑くはないのであるが、戦死者のことと父のことを考えると、寝つかれなかった。  起き上がって、スリッパをはいてレストランに行った。外国のホテルでは、スリッパで外へ出るな、と言われるが、ここではレストランのウエイターも、マネージャーも上半身裸体ではだしであるから、客もスリッパに開襟シャツが似つかわしい。  ニューギニアのビールがうまいとメラネシアのウエイターがすすめるので、呑んでみると、少々度が強いが悪くはない。 「Why do you speak good English?」  と会計の混血女性が訊くので、捕虜でアメリカのキャンプにいたからだ、と答えると、うなずいていた。私がサボ島の近くで漂流し、鱶に追われたと語ると、若いウエイターは、眼を丸くしていた。  彼らは日本に憧《あこが》れを抱いている。ホニアラの免税店にある品物には、ソニー、キャノンなど日本のものが多い。ソロモン群島は、ブーゲンビルから北がオーストラリアの信託統治で、ショートランドから南はイギリスの信託統治である。しかし、彼らはイギリス国民でもなく、植民地の住民でもない。国連が彼らに相談なく、勝手にイギリスの統治下においただけである。ポートモレスビーを州都とするパプア・ニューギニアには大学を出たインテリもおり、オーストラリアに独立を要求し、それは可能性があるらしいが、ブリティッシュ・ソロモンでは、そのような動きはないらしい。未だに小区分の酋長の支配下にあり、彼らには国家という観念はない。日本ならば、古事記の時代である。英語の出来るウエイターや、タクシーのドライバーは上流の方で、奥地に入れば、野生の果実を食って、千年前と同じ生活をしている。ガダルには椰子のプランテーションのほかに大きな産業はないが、ブーゲンビルには大きな銅山があるので、出かせぎにゆくものもいるらしい。そのような連中はアロハを着て靴をはき、飛行機に乗るので、他の現地人から羨ましがられる。大部分の現地人にとって、飛行機は戦争中も今も、眺めるだけの存在にすぎない。  学校へゆかない現地人の勘定は十までで、それ以上は“たくさん”というだけである。従って商人には向かない。  十時頃、レストランが閉まるので、部屋へ帰ろうとすると、玄関の前で、まだ面売りの現地人がしゃがんでいた。アラブの物売りなどと異なって、ここの現地人は騒がしく呼びかけたりしない。自分の作品の前にしゃがみこんで、上目遣いに客の方を見るだけで、声をかけることもない。この彫刻家は、英語が出来ないのである。メラネシアは、門の前に魔除けの面を飾る習慣があるので、面を彫る技術はなかなかのものである。武器や食器も木で造るので、刃物の痕は冴えている。ウエイターの通訳によれば、径五十センチ位のものが、一個五オーストラリアドルで、ラバウルやモレスビーではもっと高くなるというが、荷物になるのでやめた。彫刻家はそれを知ると、黙々と店仕舞いをして帰途についた。彼は私一人を待っていたのである。ガダルの面売りは無口でおとなしく、哲人の如くに瞑想《めいそう》的である。  私はいくらか気持が和らぐのを感じながら、部屋に帰って寝た。この夜、ホニアラ・ホテルの宿泊客は三人であった。 十一  三月十一日、午前六時半、私はダグラスDC3機で、ホニアラのヘンダーソン飛行場を離陸した。DC3に乗るのは久方ぶりである。四年ほど前、東ヨーロッパの共産圏を回ったとき、ブルガリアの国内航空で乗ったことがある。ユーゴスラビアの、ベオグラードからサラエボへ飛んだ時も、この飛行機であった。  DC3は、世界で最も安定性があり、寿命の長い双発機であるが、エアコンディションがないので、高度三千を越すと万年筆のインキがとび出し、高度五千を越すと呼吸困難に陥り、時計のガラスがはずれるといわれる。とに角、高度三千以下で、ゆっくり飛ぶので、下界の島々を眺めながら、感慨にふけるのには適している。  客席は三分の二ほど埋まっているが、イギリス、オーストラリア、中国、インドなどの人間が多く、さすがにメラネシア人は少ない。  DC3はゆっくり離陸すると、ルッセル島に機首を向けた。このフライトはローカルなので、ラバウルまでにムンダ、キエタ、ブカの三箇所に着陸し、ラバウル着は午後零時十分となっている。千百キロを飛ぶのに六時間かかるのである。この点だけは戦争中と変っていない。  機はサボ島を右に見て西北西に向った。サンタ・イサベル島のセント・ジョージ岬が右手に見えた。私の機はこの岬から五キロのところに不時着し、五日間に百キロを流され、サボ島とガダルの間に吸いこまれようとしたところで、拾い上げられたのである。セント・ジョージ岬は、当時陸軍の船舶工兵が大発という舟艇を用意しており、不時着基地に指定されていた。日本兵がまだいるらしいというので、先ごろ捜索隊が派遣されたが、見つからなかったようである。  い号作戦の一環として、ガダルカナルのルンガ泊地に、日本の空母の航空部隊が空襲をかけたのは、昭和十八年四月七日、日本軍がガ島を撤退してから、二カ月後であった。  私は飛鷹艦爆隊の一員としてこの攻撃に参加したが、被弾して落ちてゆくときの様子は「ニューカレドニア」の冒頭に次のように描かれている。 〈「死ぬ間際には、鼻先がつーんときな臭くなって、生れてから今までの一切の思い出がパノラマの様に頭の中を馳《か》けめぐるもんだよ」  そんな話を私は或る先輩から、聞いたことがある。してみると、この時の私はまだ、全然寿命が尽きたわけでもなかった様に、思われる。  火山の噴煙のように硫黄臭い匂は、つんつん私の鼻先を衝き上げ、こめかみのあたりは、風の日の電信柱のように、じーんと云う唸り声でしびれた様になっていたが、生れてから今までの思い出と云うものは、一向に脳裡に浮んで来なかった。つまり、感覚は働いていたけれども、想念は活動を停止していたと云えよう。(中略)  ガダルカナル島沖合八千米の上空で、およそ人間の為し得る最大の努力を払っている私の姿は、神様の眼から見て、憐れにも滑稽なものであったに相違ない。十三粍機銃の弾丸を何発も喰って、蜂の巣の様になった発動機が、再び動き出すわけはないのである。(中略) 「分隊士、不時着しましょう。左にサンタイサベル島が見えます」と云う相沢の声が耳に入った。気がついてみると、弾丸に当った時から、彼は盛んに何かガンガン喚き立てていた様であるが、一向私の耳はそれを受附けていなかった様である。〉  というわけで、私は機をサンタ・イサベルのセント・ジョージ岬に向けるのである。機が海面に落ちて転覆したとき、私は遮風板のふちで鼻の先を切られた。 〈私は、口の上に何かまつわりついているので何気なく払ってみると、鼻の頭に鈍い痛みを感じた。鼻の頭から上唇の両端まで、厚さ一センチ位に削がれて、その尖端があごの辺まで垂れ下っているのである。血が大分出たと見えて、附近の海水が赤黒い縞を引いていた。〉  そして漂流が始まる。 〈東の方五浬位のところにサンタイサベル島が、緑色の山形を連ね、遥か西の方にオハジキ玉のようにうすくかすんでいる平べったい島はラッセル島(ルッセル島)らしい。その南に大きく横たわっているのは、ガダルカナル島の様である。真昼の太陽は濃緑色の水面に、きらきらと眩しい金色の縞を照り返して、なまぬるい南海の水は油を流した様に凪いでいた。〉  南十字星はこのときも私に強烈な印象を与えてくれた。 〈夕方になった。ガダルカナルの東南方青く澄み切った水平線近くに、玉笏《たまじやく》の様な南十字星が燦然と瞬きはじめ、その肩のあたりに、蠍《さそり》座の巨大な姿が、徐々に輝きを増して行った。  生れて始めて見る南海の夕空は、ラッセル島のあたりに、真赤な夕焼雲の縞を棚引かせながら、やがて黒ずんで行く東の空から荘厳に暮れて行った。紅と黄の美しく入りまじった、海面のきらめきが、冷やかに燻《くろず》み、夕陽に見事なシルエットを浮ばせていた。ラッセル島とガダルカナル島がやがて暗《やみ》に溶けこむと、おしころした様な沈黙のうちに夜が来た。昼間、激しい空戦が行われたであろうフロリダ島のあたりもひっそりとして、降る様な星々だけが、静かに強く冴え返って行った。〉  今、この文章を書き写している私の心中は複雑である。二十七年前の処女作から、自分にどれほどの進歩があったかを訝《いぶか》る気持と共に、自然は常に荘厳であり、人間の営みはその一点景に過ぎないが、近頃は外国を旅しなければ、そのような自然に接することは困難であることを悼む気持とが交錯しているのである。  私と祖川(「ニューカレドニア」本文中の相沢)は、鱶に追われながら、七日間この海面を漂流したが、四日目の夜、一つの試練があった。 〈死んだ様になって相沢が眠り出した頃、私は又拳銃を引張り出した。自殺するつもりではなく、自殺に迫られた時に役立つかどうか、試射をして見る積りであった。黒い海面に銃を向けて、人指ゆびに力を入れてみたが、引金はギギと云うだけで仲々動かない。私は波に揺られながら真暗な空を仰ぎ、黒い水面にちらつく夜光虫の光を眺めて、ぼんやりしていた。(中略)  理窟はともかくとして、今私にやれる事はこの試射だけである。一応はやってみなければならぬ様な気がする。私は両手の指を引金にかけて、力一杯引いてみた。今度は動いた。然し「ガチン」と鈍い音がしただけで弾丸《たま》は出なかった。私はほっとした。ほっとしていいのか悪いのかわからぬが、兎に角一応ほっとした。弾丸が出なくてほっとするのなら、弾丸が出たらどきっとしたかも知れない。(中略)  私は此処で第一の人間発見をした。それは貴重なしかも苦しい発見である。人間が自己を発見する為には、この位苦しまねばならぬのかと私はひそかに驚いていた。此処に浮いているのは、国籍も伝統も、因習も係累も、地位財産すべての仮面を剥ぎとられ、一切の玩具を奪われた一個の人間に過ぎない。飢餓と寒さと銃声とに脅かされ、鱶の顎の恐怖に戦きつつ暗い海上で呼吸している、人類の一員に過ぎなかった。私は、自分が軍人である前に先ず人間であり、日本国民である前に先ず人類の一員であると云う事を認めない訳にはいかなかった。私はひそかに、私はもう少し同情されてもよいと思った。  黒いガダルカナルの恐怖はまだまだ心底から去っていなかったが、拳銃の試射に依って何かしら新しいものを発見した私は、微かな満足と、訴え様のない軽い反抗心とを感じながら、拳銃を懐に突込んで波の音を聞いているうちに眠ってしまった。〉  私に多くのことを考えさせ、私の人生を死の方向から生の方向に転回させたサンタ・イサベルとルッセルとサボ島に囲まれた海面は、三十年前と同じく美しい朝陽を浴びて、静かな凪《なぎ》を見せていた。  機はその海面を右に見て、ルッセル島の上空を通過し、ニュージョージアに向った。  午前七時四十分、ダグラスDC3は、ニュージョージア島の北西にあるムンダ空港に着陸した。この飛行場はソロモン作戦の間、日本軍が不時着基地として使用した飛行場で、今も、縁のジャングルを電気バリカンで刈った痕のように見える滑走路は、狭く短かった。  ムンダの基地には、ガダル帰りの被弾機がよく不時着し、これを迎える整備員は、送り狼のように追いかけて来るグラマンや、双胴体のロッキードP38の影を気にしながら、炎熱の上で機の修理を急いだ。ここで倒れた搭乗員の数に劣らず、連日の空襲でここで生を終った整備員の数も多いのである。  ガ島を占領した米軍は、昭和十八年六月、ニュージョージアの南のレンドバ島に上陸して来た。当然のように、激しい海戦が繰返された。  私の同期生では、戦闘機の大野竹好、斎藤三郎、藤巻久明、陸攻操縦の牧野嘉末らがこの戦いで戦死している。  大野は前述の小園鬼司令の二五一空に属していたので、ラバウルでも少々顔の方であった。彼は大分の戦闘機学生教程を卒業するとすぐに結城や村田と共に小園司令の台南空に配属され、ラバウルに飛んだ。そして、“ラバウルのリヒトホーフェン”笹井中尉と共に八月以降のガ島作戦に従事した。大野は四年生から海兵に入り、二十六分隊伍長を務めたが、常に活動的で、クラスの名物男であった。短艇巡航にゆくと、夜は騒ぎ回り、四号生徒をきたえるときは、おっかない一号生徒であった。居眠りの上手なことと、食欲旺盛なことは定評があったが、無類の要領のよさを持ち合わせていた。酒保でうどんの前に並ぶのも早いし、外出はいの一番、短艇巡航で上陸すると、いつの間にか饅頭やアイスクリームを手に入れて来る才能を持っていた。  彼がラバウルで最も消耗率の激しかった、台南空、二五一空に一年余籍をおいて、よく戦闘に従事し得たのは、この機敏さによるものであろう。 「日本海軍戦闘機隊」(酣灯社刊)の「エース列伝」には大野に関して次のような記述がある。 〈初陣は八月二十七日のブナ上空で列機二機をひきいて哨戒中単機でP39と交戦、撃墜したが、十一月初旬本土へ帰還するまでに五機を撃墜する急成長ぶりを見せ、戦死した笹井中尉の再来として斯待された。十八年五月二五一空のラバウル再進出にあたり、分隊長として進出、五月十四日のオロ湾攻撃を手始めに、六月七日、十二日ノルーセル島航空戦、十六日のルンガ沖艦船攻撃に中堅指揮官として出撃し、とくに十二日、十六日の攻撃では若年ながら二五一空戦闘機の総指揮官の任を果たし、単独で二機、協同で二機を撃墜した。しかし、六月三十日のレンドバ島攻撃に、分隊長として出撃したが、乱戦のうちに自爆戦死した。公認総撃墜機数八機。〉  ソロモン上空で八機撃墜、これが六十八期最高の撃墜王である。戦闘機では、一時台南空にいて、終戦直前、松山航空隊で、紫電改の三四三空の隊長を務めた鴛淵《おしぶち》孝がいるが、撃墜数のデータが手元にない。勤務が長いだけに、協同撃墜では鴛淵の方が上であろうと考えるが、ラバウル航空隊では、大野が勇名を馳《は》せていた。大野は生徒のときから二・〇というすぐれた視力を持っていた。西沢広義、坂井三郎、杉田庄一、武藤金義といった支那事変以来の撃墜王に伍して、よくラバウルで一年余空戦に参加し得たのは、彼の機敏さと共にこの視力によるところが大きいであろう。  クラス会の「芳名録」には、大野に対する次のような短評が載っている。 〈金沢一中出身、目から鼻に抜ける秀才とは彼の事、気の強さも相当なもので、敏捷、活発、闘志あふれる行動家。典型的な戦闘機乗り、居眠りと漫画の名人でもあった。〉  大野竹好のニックネームは、チクコウであった。チクコウは今もレンドバの沖に眠っている。視力二・〇の両眼を見ひらいて、敵機を見張っているのであろうか。  レンドバの付近は、入江が多い島が幾重にも入り組み、椰子林が静かな水に影を映している。  ムンダの飛行場には、小さな休憩室があり、そこの床に、例のお面や、ワニの彫刻や、小さな木彫のブローチやペンダントなどが並べられている。休憩室と一般待合室の間には柵があり、十人余りの現地人が柵にもたれてこちらを見ていた。飛行機を見に来たのかと思うと、そうではなく、彼らは皆その木彫の製作者なのである。ここでも、作品は作者直売であり、彫刻家たちは、自分の作品と客の方を眺めているだけで一言も発しない。英語の出来る一人だけが、休憩室に入ることを許されて、客との通訳に当たる。オーストラリアの女性が、お面の形をしたブローチとペンダントを買った。黒く堅い木を彫り、眼や口の部分に貝を象嵌《ぞうがん》したもので、一個三十セントである。  私は、長さ五十センチのワニの彫刻が気に入っていた。リアルでいて、モダンでもある。眼と歯は貝で出来ている。十ドルというのを五ドルに値切ると、通訳が柵の向うの白髪の男に訊いた。この男が製作者である。男は簡単にまけたので、私はワニのほかに、ブローチとペンダントを定価で買った。何の木か知らないが、ワニはずしりと重みがあり、尾のうねりも力強い。日本の彫刻家では、これだけの勁《つよ》さが出せまい。この作者は、一群のなかでも最年長で、ニュージョージアの無形文化財というところであろうか。よく見ると、お面にも上手下手があり、メラネシアンのすべてが彫刻の天才ではないことがわかる。  ムンダの滑走路は両側を椰子に挟まれているので、開豁《かいかつ》なガダルのヘンダーソンよりは蒸し暑い。椰子林のなかに、飛行機の残骸が一つころがっていた。ここで一人の日本人が乗りこんで来た。商社の社員で、これからキエタの銅山へ行くという。  機はムンダを離陸し、コロンバンガラからベララベラの方向に向った。いずれも火山島で、千メートル以上の山がある。コロンバンガラには、陸軍の高射砲隊があった。私たちがガダルを攻撃に行くとき、この高射砲隊に射撃された。 「分隊士、下から撃って来ます」  と偵察員の祖川兵曹が言った。 「どうせ届かない。当たらないだろう」  と私は答えた。  高射砲の射距離は四千メートルで、こちらの高度は六千に上がっていた。  ムンダの近くには、豪州軍の Coast Watcher がいた。通称ケネンリーと呼ばれ、スペインの宣教師ということで、教会に住んでいた。彼は上空を通る日本軍の機数をルンガの無電基地に報告していた。無電のアンテナには教会の尖塔にある十字架を代用していた。海岸に不時着して彼に捕えられた日本のパイロットは多いが、コースト・ウォッチャーの話は、ラバウルの Coast Watchers' Hill の項に譲りたい。  機は、べララベラの上空にかかった。この付近でも激戦が行なわれた。ジョン・F・ケネディの魚雷艇が、駆逐艦天霧の体当たりをうけて、真二つに切断されたのは、十八年八月二日のことである。  しかしここでは、ここで戦死した二人の同期生について語りたい。一人は、大連出身の藤原敬吾である。彼と私は江田島で二年間三十五分隊で席を並べていた。二号生徒(三学年)のとき、彼は私の右隣に席を占めていた。身長が私よりやや高かったからである。一号になると、彼は伍長になった。数学や物理がよく出来た。私は伍長補となり、ふたたび、彼の左隣にすわることになった。彼はやせ型でまじめ、アイスホッケーの選手で体操や卓球が得意。こちらは肥満型でずぼら、柔道や相撲は強いが、体操や登山は駄目。性格はまるで反対であったが、二年間席を並べていると、親しくならざるを得ない。それに、二人とも第一外国語はシナ語だった。ここでも、彼は私の右隣、左隣は、真珠湾の特別攻撃隊で、捕虜第一号になった酒巻和男である。  霞ヶ浦の飛行学生でも、二人は一緒だった。最初の外出の日、彼は私を新宿御苑の内藤町にある相川家に誘った。相川家と藤原家は、大連以来の古い知り合いだった。相川家の長男潔君は、作家阿川弘之氏と広島高校の同級生で、当時は千葉医大の学生だった。潔君は六人兄弟で、母の波美《はみ》子さんは、女傑型で面倒見のよい人だった。藤原は早く父を亡くし、母と弟妹は大連にいた。霞ヶ浦にいる間、私は藤原と一緒によく相川家を訪れた。相川のおばさんや、息子潔君と映画を見に行ったり、浅草へ行ったりした。おばさんは私と藤原が訪れた昭和十六年に夫を亡くしていたが、少しも未亡人くさくない明るい人だった。  十七年二月、宇佐航空隊に転勤と決まり、いよいよ前線勤務が近くなったことを告げると、おばさんは、 「死んだら駄目よ。生きて帰って来るのよ。死んで帰れと励ますなんてウソよ。絶対に生きて帰るのよ」  と何度も念を押した。  十八年四月、私の戦死の報が伝わると、おばさんは「豊田さんのバカ、バカ」と言って泣いたそうである。そして、同年七月、隼鷹分隊長を命ぜられた藤原が、別れのあいさつに行き、 「豊田の仇をとって来ますよ」  というと、 「そんなことより、死んだらだめよ。みんな死んでしまうんだから……。あんたは生きて帰ってらっしゃい」  と言ったそうである。おばさんは軍国の母ではなくて、心やさしい女性だった。  しかし、藤原はその年、八月十五日、ベララベラ沖で戦死してしまった。「芳名録」の記述は次のようになっている。 〈戦闘機隊を率いソロモン群島ブイン基地発進、ベララベラ島沖艦船攻撃の艦爆隊掩護中、同島上空において敵機と交戦、戦死。〉  藤原と同行した隼鷹隊のパイロットが後日語るところによると、彼は二機の零戦をつれて、新しく現われた十数機のグラマンのなかに突入し、乱戦のなかに火を吐いて落ちて行ったという。「芳名録」は次のように続いている。 〈大連二中出身、豪気果断、真面目で馬力あり。といってユーモアも解した。誠に男の中の男、戦闘機に乗るために生れて来た男だった。〉  戦争中、物のないとき、私たちが平気で相川家に遊びに行くので、物資の欠乏を心配した私の父は、トランクに一杯、米や菓子を詰めて、相川家を訪れたことがある。  戦争の末期、藤原の妹の芳子さんは、相川潔君と結婚した。戦後も私はよく相川家を訪れた。昭和二十六年秋、失業中ここに下宿し、小説が売れなくてしょげていたとき、「人生はマラソン競走よ。くじけちゃだめ。最後まで頑張るのよ」と、おばさんに激励された話は、「続・長良川」の「たんすと野鳥」の章にのせた。  相川のおばさんは七年前世を去り、潔君も一昨年、まだ若いのに故人となった。昨年十二月、私は潔君の長男幸一君の婚礼の仲人を務め、そのとき、相川のおばさんに励まされた話をして、「人生はマラソン競走だから、最後まで頑張って欲しい」ということばを新郎新婦に贈った。  DC3がベララベラの上空を飛ぶとき、私の胸にはそのような感慨があった。(その頃私の父は世を去っており、私を「敬吾の代わりのように思います」と言っていた藤原の母岸野さんも、去る五月末世を去った。父と同じ七十八歳であった)  いま一人、この地域で戦死した山岸計夫についても語らねばなるまい。山岸は下町の貧しい家から、府立三中の夜間部に通い、昼は中学の給仕をしていた。家はよかったが、父が死んでから没落したという。くわしいことはわからぬが、一度調べてみたいと思う。給仕をしながら夜学で勉強して、海軍兵学校に合格した。「海兵四号生徒」に出て来る十条生徒は、彼がモデルである。入校したときは一番ではなかったが、三年生から一番になり首席で卒業した。温厚なやさ男で、人と争うところを見たことがないが、クラスの信望は厚かった。私は彼に惹かれて、わりに親しくしていたが、元来、孤独な男で、休日には、食堂で作ってもらった弁当を持って、一人で古鷹山に登っていた。家が貧しく送金がないので、倶楽部や酒保で飲食することを避けていたのである。私が彼に感心したのは、いつ勉強するのかわからないが、学科のことなら何を訊いても知っていたことである。 「どうしてそんなに覚えているのだ?」  と尋ねると、 「講堂で教官が説明している間に覚えるのだ」  と答えた。私たちは講堂ではよく居眠りをした。山岸は眠くないらしい。右近という口の悪い奴がいて、「山岸は夜学出身だから、眠くならないのだ」と説明していた。  人生には考えも及ばない人間に出会うことが多くて、山岸のように、難解な魚雷の構造を、一度聞いたらその場で覚えて忘れないという頭脳構造を持った人間もいるのである。私は山岸を、六十八期唯一の天才であると考えているが。 「芳名録」には次のように記述されている。 〈駆逐艦夕雲水雷長として昭和十八年十月六日ベララベラ島沖夜戦に参加、同島沖において敵駆逐艦部隊と交戦、乗艦沈没、戦死。  府立三中出身、冷静沈着、常に微笑をたたえ、温かさと和やかさを感じさせる男だった。頭脳明晰な上に努力家であり、あらゆる面で、クラスヘッドとして期友の敬愛を一身に集めていた。〉  山岸は家が貧しいため官費の学校を志願したのであるが、彼の知能と性格は、学者か外交官に向いていたのではないかと思う。兵学校を一番で卒業するには数学が抜群でなければならないが、彼はその上に異常な記憶力に恵まれていた。戦場で殺さずに、学問の場でその才能を生かさせてやりたかったと思う。 十二  ベララベラを後にすると、間もなくブーゲンビルが見えて来る。この島は火山島で、二千メートルから三千メートルの高山が多い。ブーゲンビルの南端にあるブインは、五八二空はじめ、艦爆隊、零戦隊の基地がおかれ、常に米空軍の奇襲にさらされた、もっとも辛酸をなめた基地であるが、残念ながら、この機はブインに寄らず、島の東側にあるキエタに向う。ブインに行くにはキエタからさらにトイン・オッターなどという小型機に乗り換えなければならない。  ブインはタクアム山という海抜二千メートルの休火山の南麓にある。タクアムが近づいたとき、私は眼下の小群島をけんめいに探した。左手に水上機基地のあったショートアイランドがあり、直下にファウロ島が見える。その中間に、バラレという島が見えるはずである。しかし、椰子林をいただいた島が点在するのみで、どれがバラレかは判別出来ない。今は飛行場もなく、単なる小島に帰ったのであろう。しかし、この島は私自身にとっても、日本海軍にとっても、忘れることの出来ない島であった。  私はルンガ泊地攻撃のとき、ラバウルからガ島へ飛んだが、途中ブインの南にあるバラレ島の出来たばかりの飛行場に着陸して、燃料を補給した。小さなバラックがあるだけの小島で、整備員が甲斐甲斐しく働いていた。私たちはラバウルの暑気にあてられて、少々南方ボケを来たしていた。ここを離陸するとき、二中隊一小隊二番機の御宿《みしゆく》少尉の機が、編隊につくのを急いだため、急旋回をして失速を生じ、高度三百ぐらいから海面に落下して殉職するという事故が起きた。私はそれを上空から見ていた。攻撃直前に殉職するとはなんという非運か、と傷ましい思いで海面に上がった飛沫を見ていた。(そのとき、私はその機の操縦者を知らなかったが、昨年、私の隊の生き残りである矢板少尉〔当時〕から事情を聞き知ったのである)  私は昭和十八年四月七日にこのバラレ島から離陸した。そして、その後、どこの飛行場からも操縦桿を握って離陸したことがない。バラレは、私が最後に離陸した島であり、今その名前は地図の上からも消えてしまったのである。  いま一つ、バラレは山本五十六の死と関係がある。私が撃墜された日から十一日後、四月十八日、山本長官をのせた陸攻一号機は、ブーゲンビル南端のモイラ岬付近でP38に撃墜され、山本長官はジャングルのなかで生を終ったが、この時の行先が、バラレであったのだ。当時、バラレは最前線であったが、なぜ山本長官がバラレに行こうとしたかについては未だに謎がある。私も一度これを解明してみたいと考えている。  一般には、ソロモン方面の頽勢挽回のため、長官自ら最前線を視察し、士気を鼓舞しようとしたものだ、とされている。そして、さらに、「開戦以後一年半は十分に暴れて御覧に入れる。しかし、その後は、政治家の方でお願いしたい」と当時の近衛首相に断言した山本五十六は、そろそろ一年半経《た》つが、ミッドウェー以降、戦況が思わしくないので、このへんで死ぬ覚悟で前線へ出ることを決意した、とも伝えられる。しかし、それは海軍の指揮系統に関する内部事情、近代的提督たる山本五十六の戦略思想を知らない者の妄説である。死ぬことだけが忠義ではない。前線で死ぬことによって士気を鼓舞しようと考えていたのは、押しの強い宇垣GF(連合艦隊)参謀長であって、山本五十六は、諸般の事情から、宇垣少将(当時)に押し切られて、ブーゲンビルの前線に出て来たものと考えられる。  私は宇垣中将の伝記を書くとき、関係のある多くの参謀に集まってもらって参考意見を聞いたが、そのとき、ある参謀は、渡辺安次GF戦務参謀からのまた聞きであるが、とことわって次のような話をした。 「山本長官はラバウルに進出することに反対だった。幕僚たちにも、『ニミッツが真珠湾で指揮をとっているのに、なぜおれがラバウルまで行かねばならないのか。柱島で十分じゃないかな』と疑念を表明していた」  山本五十六は、無電の発達した今日、日本海海戦の東郷元帥のように、旗艦先頭の陣頭指揮は必要ない、大和を瀬戸内に帰して、そこから指揮をとれば十分だ、と考えていたのである。彼はまだやる気だった。つまり、い号作戦で米軍の攻勢を押し返し、次の作戦で強烈な打撃を与えておいて、講和に持ちこむ手はないか、という夢を捨ててはいなかったのである。  元来、山本は軍政家であって、戦術家ではない。戦術、用兵ならば、山口多聞、小沢治三郎、角田覚治といった提督の方が実戦的である。何らかの理由で、東条内閣が退陣し、講和の動きが見えた場合には、山本の海軍大臣任命は必至である。そのためにも、柱島にいた方が、動きやすかったと考えられる。  しからば、出かけしぶる山本をラバウルに引きずり出したものは何か。それは、海軍の年功序列制ではないか、と私は考える。  前にも書いたが、い号作戦は、翔鶴、瑞鶴、飛鷹、隼鷹、瑞鳳など、GFの虎の子である第三艦隊(航空艦隊)の空母の艦載機二百五十機をラバウルにあげて、地元の南東方面艦隊(前の十一航空艦隊)の陸上機動隊とあわせ、五百機をもってガダルとニューギニアの東部泊地を叩こうという作戦である。  問題はこの全航空部隊の指揮を誰がとるかということである。この作戦の眼目は、疲労した基地航空部隊の戦力を補うため、精鋭の空母部隊をラバウルに進出せしめることにある。しからば、第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将が指揮をとるのが当然と考えられるが、ラバウル駐在の南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は、海兵三十七期生で、卒業席次二十一番、小沢治三郎は同期であるが、席次は四十五番である。中将進級が同時ならば、当然草鹿が先任者として指揮をとるのが、海軍の常識である。この点、非常に官僚的に見えるが、実戦では次々に旗艦が被災したり指揮官が戦死したりするので、誰が戦死した場合は、誰が次席で指揮をとるという序列は明確になっているのが普通である。  草鹿、小沢といえば、三十七期でも名うての酒豪で、強気の荒武者である。そこで、GF参謀長の宇垣纒は考えた。この際山本長官の出馬を仰ごう……。彼は前から草鹿任一には手を焼いていた。草鹿は十一航空艦隊司令長官としてラバウルに進出した頃から、始終、GF司令部に注文をつけていた。要するに飛行機と搭乗員が足りない。それに、空母の搭乗員には優秀な者を集めるが、現地のソロモンには、その残りを呉れているではないか、というのである。草鹿には毎日攻撃隊を見送る現場の指揮官としての悩みと憤懣があり、それを管理職である宇垣にぶっつけたくなるのは、無埋からぬことである。  現場と後方司令部の確執については、さらに二つ、宇垣に苦い経験があった。一つは、十七年十月二十六日に戦われた南太平洋海戦である。このとき、トラックにあったGF司令部は、前線で死闘している南雲忠一の第三艦隊に、刻々に無電で指令を与えた。しかし、そのなかには実情に即しないものもあった。被弾して、火災を生じ、飛行機の発着も出来ない旗艦翔鶴に対し「なぜ後退するのか、そのまま敵陣に突っこめ」と命令したのなども、その一つである。宇垣は後に、トラックに入港した翔鶴の被害の大きさに驚き、このまま突入すれば、敵の餌食となるだけであったことを知った。  いま一つは、二月初旬のガ島撤退である。前線でトカゲを食いながら、骨と皮になって撤退し、連絡のためトラック島の大和を訪れた陸軍の参謀は、GFの司令部が刺身を食い、酒を呑んでいるのを眺め、「弾丸《たま》の音も聞えない大和ホテルにいては、餓島前線の状態がわからんのも、無理はないですな」とせい一杯の皮肉を言ったという。  自信家の宇垣もこれには参って、いずれ次期作戦では、弾丸の飛んで来る最前線に行かねばなるまいと考えていた。出来れば前線で戦死して、GF司令部は決して弾丸なんか恐れてはいない、必要とあらば、いつでも前線へ出る覚悟は出来ているということを前線の将兵に知らせねば、士気は上がらない、ということも考えていたのである。  宇垣の大著「戦藻録」四月三日の項には次の記述が見える。 〈今回の南下直接作戦指導に当るに関しては、連合艦隊司令部としては大なる決意を有す。若し夫《そ》れ此の拳に於て満足なる成果を得ざるに於ては、当方面の今後到底勝算なかるべし。(中略)茲《ここ》に於て余輩はブカ、ブヰン、ショートランドは勿論、コロンバンガラ、ムンダ迄出向くの希望を述べたり。(中略)  日露戦争満洲軍参謀長児玉大将の旅順攻略促進の為決死行ありたる其の精神と何等撰ぶ所無しと謂ふべし。不運にして此の行に斃るるも決して犬死にあらず。連合艦隊参謀長の重職は軽《かろん》ずるに非ざるも、本戦局を打開せざる限り第一段作戦以来の殉国の英霊二万に対し如何なる心を以て酬ひ得ん。吾斃れて本局面の重大性を一般に了解せしめ海陸軍真に一致して愈々其の本質を発揮するに至らば、以て万事を解決し戦勝の前途を瞭然たらしめ得べしと信ずればなり。〉  これが宇垣の覚悟であるが、実際の問題として、草鹿と小沢の両長官を統括する指揮官としては、山本五十六よりほかになかった。  宇垣の精神主義が、合理主義者山本五十六のプラグマティズムを押し切ったかに見えるが、司令部の内部事情としては、海軍の年功序列制が、山本五十六を死に追いやったと考えられなくもないのである。  宇垣は、山本をラバウルに進出させ、さらに、バラレ行きの途中で戦死させたことについて、深く責任を感じていたようである。  機は海抜二千メートルのタクアム山を西に見て、キエタの空港に近づきつつあった。タクアムの南六十キロにブインがあり、山本五十六が戦死したモイラ岬は、その六キロ西南に当たる。私は機の上で宇垣纒のことを考えていた。宇垣の機は海上に不時着し、重傷の末、生き残ったが、彼はその時から長官の後を追うことを考えていた。昭和二十年八月十五日、第五航空艦隊司令長官であった宇垣は、終戦の玉音放送を聞いた後、十一機の彗星《すいせい》艦爆をひきい、最後の特攻隊として沖縄に突入した。その理由は多くの特攻隊員を出したとき、「必ず後から行く」と明言したその約束を守ったものと言われる。しかし、彼の胸底には、常に山本五十六をブーゲンビルで死なせた責任がわだかまっていたのではないか。宇垣が最後に特攻機に乗るとき、持参したのは、山本五十六から贈られた脇差であり、彼はこれを手にして、山本の後を追ったのである。 十三  午前九時すぎ、機は海に面したキエタ空港に着陸した。銅山に行くという日本の商社マンはここで降りた。ここの空港はムンダよりは近代化している。しかし、ここではムンダのような彫刻家は見られなかった。  間もなく機は離陸し、左側に海抜二千五百メートルのバルビ山が見えて来た。このあたりは、南緯六度であるから雪をかむるようなことはないが、ブーゲンビルは山が険しい。私が攻撃に行くときは、この島の西側を飛んだが、バルビ山のあたりで、山の中腹から高い滝が、一枚の白布のように見えていた。火口湖の一方が切れて水が流れ出したものであろうか。そこは絶壁で、滝の高さは千メートル近くに見えた。今度の飛行で、その滝を確かめて見たいと考えていたが、島の東側を飛んだので、それは果たせなかった。  ブーゲンビル島の北に、狭い水道をへだてて、相対しているブカ島にも日本軍が造った飛行場がある。DC3はここにも着陸した。このあたりもひらけて、飛行場の西には工場や住宅街がある。  ブカを離陸すると、飛行機は西北西に針路をとり、ラバウルに向った。この機のスチュアーデスは、体格のよいメラネシアンであるが、私が「三十年ぶりにラバウルを訪ねに来た」と言うと、 「ラバウルでは右側に飛行場や火山が見える。ここで写真をとるとよい」  と、翼が邪魔にならない席を選んでくれた。  機はニューアイルランド島の南部を横切り、平べったいデューク・オブ・ヨーク島を右に見て、ラバウルに接近した。  懐かしい母山が見えて来た。霧島の韓国岳《からくにだけ》に似ており、海抜六百六十四メートルある。その左に伯母山、手前右側に四百八十メートルの妹山、その左にラバウル在勤者には馴染深い花吹山がうずくまっている。これらはすべて休火山で、花吹山のふもとでは、いまも温泉が湧いている。  ラバウルは、ニューブリテン島の北に突出しているガゼル半島の北端に近い町であるが、湾は東に向ってひらけ、日本軍が西吹山と呼んだ小さな火山によって、北と南に二分され、北をシンプソン湾(ラバウル港)南をカラビ湾と呼ぶ。シンプソン湾の東にマトピ島(松島)があり、その東はマトピ港(松島港)と呼ばれ、その東に花吹山がある。そして、これらの湾を総称して、ブランシュ湾と呼び、この湾自体がかつての火口であったと考えられる。その点、鹿児島湾と類似しているのである。  機は、松島を右に見て、湾上で大きく右旋回を続けた。ラバウルの飛行場は、松島の北、ラクナイと呼ばれる突角の地域にあり、滑走路は北西から南東に向い、ほとんどラクナイを突っ切る形で残っている。これが戦争中、東飛行場と呼ばれたところであり、正しく、笹井中尉や、大野竹好や、西沢義広、遠藤幸男などが活躍した「ラバウル航空隊」なのである。  機はラバウルの町を左に見ながら高度を下げてゆく。官邸山が左手に見えた。草鹿長官が常駐し、山本五十六や宇垣纒が宿泊した長官官舎のあった山である。針路の丁度前方に花吹山が見える。高さ百メートルに満たない小火山であるが、私は意外なことに気づいた。昭和十八年三月、私がラバウルへ来たときは、この花吹山も、対岸の西吹山も灰をかむって真っ白であり、少し上から見ると、煙をふいている火口がよく見えた。ところが、今度来てみると、花吹山は、緑の樹木に蔽われた小丘と変り、あの小さいながらも倨然《きよぜん》とした火山の異様な迫力は失われている。手元の案内書によると、花吹山と西吹山は一九四二年、同時に噴火したとなっている。私が訪れたのは四三年春であるから、両火山とも地上に新しい姿を現わしたばかりで、生々しく、また愛らしくもあったわけだ。瑞鶴の艦爆隊長高橋定大尉は、い号作戦で戦死した部下の遺品を、花吹山の火口壁に埋め、慰霊の木片を突き刺して来たそうであるが、今となっては探すのは困難であろう。  機はラバウル空港に着陸し、私は懐かしさと共に、ある重みを感じながら、滑走路に降り立った。今は舗装されているが、かつては草原に過ぎなかった。ここから多くのパイロットたちが離陸し、「ラバウル航空隊」の名誉にかけて、戦闘を演じ、その大部分は、ソロモンの海底に消えたのである。  ラバウルからガダルカナルのルンガまで、約千二百キロある。これを零戦の巡航速度で飛ぶと、片道四時間近くかかる。ガダルの上空で増槽を落として、三十分足らずの空戦をやり、また四時間近くを帰る。往復八時間余の連続飛行である。高度六千以上では熱帯といえども冷えるので、小便は、機のなかで操縦桿にひっかける。こうすると、座席のなかで舞い上がって顔にかかることが少ない。マラリアが出ると発熱があったり、ひどく寒くなって操縦桿を握る掌がガタガタ震えたりする。デングにかかると下痢がひどいので飛行止めになるが、被害が多くて定員の足りないときは、尻に布をあてて操縦席にすわる。スピードの遅い艦爆や中攻を護衛してゆくときが一番辛《つら》い。自分だけが撃墜機数を誇っても、攻撃隊が目標に行きつくまでに半数も落されるようでは、直掩隊の任務を果たせたとは言えない。  くわしい統計はわかっていないが、ラバウルを基地とした戦闘機操縦員のうち、戦死者は、五十名以上に上る。艦爆、陸攻、水上機を入れれば、数はその数倍に上るであろう。一式陸攻は、一機が撃墜されれば、十数名が機と運命を共にするのである。  祖国を守るという情熱と義務感からラバウルを飛び立って、南海の雲の彼方に消えた戦士達……。彼らを弔う慰霊碑は、第二の故郷ともいえるラバウルの地に建てられているのだろうか。  花吹山の方に向けて、ラバウルの市街に向けて、ラバウル港の中央に突出している中島に向けてシャッターを切りながら、私の心はやはり重かった。  私は空を仰いだ。  時刻は正午を回り、太陽はほぼ天心にあった。三月十一日であるから、太陽は赤道のやや南にある筈であった。私は足元を見た。南緯四・二度のラバウルでは、自分の頭の形が、爪先に落ちた。直立すると、自分の影は自分の体の平面図とほぼ同じ面積を占める。すなわち、太陽は人間の直上に在り、それはこの土地では珍しくないことであった。  東飛行場は舗装されているほかは、昔とさして変りがない。無論、居並んだ零戦の姿はないし、滑走路の北にあったバラックはオーストラリア風の空港の建物と変っている。空港のすぐ左はゴルフ場で、右側に昔のジャングルが残っており、そのなかに、古いエンジンや翼など、飛行機の残骸が残っているが、ほかにラバウル航空隊を偲《しの》ばせるものはない。  私のホテルは空港に近い、トラベロッジというホテルだった。ゴルフ場の横を抜けて、左に曲がると、Sulphur creek Street という通りに出る。実際に硫黄の匂いのする細長い入江があり、戦時中の地図を見ると、この入口に温泉鼻という名前がついている。戦闘が激しくない頃には、夕方になると、航空隊員が手拭いをぶらさげて、この海中温泉につかりに行ったものである。私の頃は温泉に行く暇はなかった。  海岸に出た所で車は右折し、マンゴー・アベニューというメーンストリートに入った。五百メートルほど行くと、左側の海岸にプールとヨットクラブがあり、その先がトラベロッジで、これは南国風の軽快なリゾートホテルで、中庭のプールでは、オーストラリア人らしい男女が泳いでいた。  三十年前の三月、私はラバウルにいた。そのときはひどく蒸し暑く感じたが、今はそれほどでもない。赤道直下であるから、日射は強いが、暑さは堪え難いほどではない。海岸なので、適度の風があり、日蔭では快適とも言える。早くも私は二度目のラバウルに幻滅を感じ始めていた。私にとって、ラバウルとは、もっと厳しい所でなければならなかった。連日空襲があり、そのなかを縫って味方の攻撃隊と直掩の戦闘機隊が離陸し、そしてその何分の一かは、いくら待っていても帰って来なかった。毎日人間の運命がチェックされ、極めて幸運であった者以外は、この島から北へは戻れなかったのである。  ホテルの私の部屋は海に面した二階の角で、湾を越えて、対岸に西吹山が見えた。私たちの宿舎はこの山の上の崖っぷちにあった。毎夜空襲があり、敵の爆弾よりも、味方の高射砲弾を避けるため、蒸し暑い防空壕のなかにもぐりこんだ。そして今、湾には、ヨットと釣り舟が浮かんでいた。私はいきどおろしいものを感じながら、ガイドブックを繰った。意外なことに、ラバウルには、モテルを入れて六軒のホテルがあり、そのすべてがトロピカル料理をはじめ、各国料理を自慢にする冷房つきのリゾートホテルであった。  さらに地図を見ると、ラバウルには四つの教会と四つの銀行、ゴルフ場、ヨットハーバー、二つのナイトクラブのほか、ボウリング場があることがわかった。 「何たることだ……」  私は冷房のスイッチを入れるのも忘れて、ベッドに腰をおろした。  ラバウルにボウリング場が出来るとは……。  この要塞を守るために、どれだけの日本兵が命を賭け、どれだけの部隊がこの島で飢えと戦ったであろう。その島で玉ころがしを楽しむなどは許せない、と私は思った。ここは、人間が苦しんだところで、人生を楽しむところではないのだ……。  そう力んでみたが、結局はあきらめの微笑を口辺に上せるほかはなかった。三十年の歳月が、この島をオーストラリア人のお遊びの島に変えてしまったのだ。ハワイに遊びに行く日本人が、フォード島の岸に今も沈んでいる戦艦アリゾナ号に目もくれず、ワイキキの浜でサーフィンを楽しむように、オーストラリアの若人は、この湾内でヨットを走らせるとき、かつてこの上空で、斜銃《ななめじゆう》を積んだ遠藤幸男大尉の月光が“空の要塞”B17の下にもぐりこんで死闘を演じたことなどは念頭にないのである。それでいいのだろうか。人間が命を賭けて戦ったその営みが、その意味も明確に究明されないうちに、子や孫にきれいに忘れ去られてしまってよいのだろうか……。  私はベッドに腰をかけたままそう考え続けていたが、やがてこの島での時間の貴重さに気づいた。とに角、見るべきものは見ておかねばならない。私はまず、レストランに降りて、魚料理を注文した。このへんで多いのは南米のピラルクーと呼ばれるハタに似た大きな魚で、これは白身をから揚げにすると、平目に似た味になる。ここのレストランは、ガダルカナルよりは近代的で、ウエイターもはだしではなく、シャツをつけており、メラネシアンのウエイトレスもいた。このへんでは髪をピンクに染めて、珊瑚の一種みたいに、もしゃもしゃにふくらませるのがはやっているらしく、三人いたウエイトレスは皆そのスタイルで、髪に赤や黄の花をさしていた。  食事が終ると、私は電話帳で在留の日本人を探し始めた。ここには木材会社と漁業会社に日本人が勤めているということを、私はガダルカナルで聞いてきていた。  木材会社の蓮沼さんという人がこの土地に長く、戦跡にもくわしいそうであるが、彼は今ニューアイルランドのキャビエンに出張中で、この弟夫婦がラバウルにいるが、二人とも二世で日本語は話せないという。結局、蓮沼氏の弟の細君が車で私を迎えに来てくれて、海外漁業という会社に私の身柄を預けることになった。この会社も漁船は操業中で、経理課長代理の儀保《ぎぼ》盛次郎という人と、その下の金子君という青年が留守番をしていた。海外漁業は、ホテル・トラベロッジから北へ百メートルほどの、ナショナルバンクの隣にあり、この日から三日間、私はこの二人に大変世話になった。  この日の午後は、儀保君が官邸山周辺を案内してくれた。  トラベロッジの近くに、チャイナ・タウンがあり、その南を、ナマヌラ・ロードという広い道が北東に走っている。これは、かつて梶江峠と呼ばれた峠を越して反対側の海岸、つまり、母山の北にある楠瀬《くすせ》浜に出る道である。梶江峠まで登ると左手に海抜五百二十五メートルの姉山が見える。峠から姉山の方向に、荒れた道が分れており、五分位登ると、かつて海軍司令部のあった官邸山の頂上に着くわけである。  儀保君は、まず私を官邸山のふもとの水交社跡に案内した。水交社と言っても、バラックの料亭で、芸者が来ており、将校たちが酒を呑み、芸者のとりあいをして、軍刀を抜いてけんかをしたという伝統のある所である。い号作戦の直前、海兵三十七期の草鹿任一、小沢治三郎、鮫島具重《さめじまともしげ》、大河内伝七らがここでクラス会をやり、山本五十六もとび入りとして参加したことになっている。現在はオーストラリアのスマートなロイヤルクラブが建っている。  坂に向って左側にかつて慰安所があった跡がある。椰子の葉で屋根をふき、ベニヤ板で仕切った部屋で、上海や長崎から流れて来た女たちが、兵士の性の処理場として酷使された場所である。彼女たちは一日数人から十数人の兵士を相手にした。五千円から二万円の金を貯《た》め、内地に帰る途中、輸送船と共に沈んだ者も多い。彼女たちの夢は、かつて自分たちが娼婦《しようふ》として働いた町で、一軒の料亭を経営することであったが、その夢も輸送船と共に沈み、かつてこの島に、日本が戦争に勝つために、という理由で、兵士の欲望を充足させるために体を張った数十名の女がいた、という口碑《こうひ》が残っているのみである。私はこの事実にくわしい人が、その史実を書き残すことを望んでいる。  慰安所の跡は今、ハイスクールのバレーコートになっており、若い女学生が元気にボールと戯れていた。彼女たちは、三十年前、ここで日本の若い女が、どのようななりわい《ヽヽヽヽ》をしたかを知らないであろう。  バレーコートの近くに大きな防空壕が残っていた。入ろうとすると、近くにいた現地人が入場料を請求した。一人二十セントである。内部はかなり広く、無電機、機関銃、日本刀、軍服、寄せ書きつきの日の丸の旗、水筒、拳銃などさまざまなものが展示してある。現地人のガイドは、一番奥の室に我々を案内した。そこは直径三メートルほどの円筒形の部屋で、周囲の壁には、ソロモン方面の地図がペイントでびっしりと書きこんであった。 「ここが司令室だったらしいというんですがな」  と儀保君が説明した。  壕を出ると、近くに十五サンチ野砲がおいてあった。  坂を登り、梶江峠で左折すると、私たちは官邸山の標柱の前で車を降りた。コンクリートの標柱にはめこんであった鉄板はとりはずされてないが、南東方面艦隊司令部と書かれてあったのであろう。官邸山の敷地には、いま何も残っていない。魚雷に使ったらしい酸素ボンベの空になったのが、敷地の周囲に並べられ垣根のかわりになっている。  ここからは市街の展望がよく利く。ラバウルの街には椰子よりもパームトリーやフェニックスに似た熱帯樹が多い。  この山はラバウル市街の北東端に当たるので、左手にはビジネスセンターであるマンゴー・アベニューやクイン・エリザベス公園の緑が見え、右手には、海岸通りであるマラグナ・ロードが、真っ直ぐブナカナウ(西飛行場)の方に延びており、その途中左側に商船桟橋が見え、その向うに、倉庫とマーケットの屋根が銀色に輝いているのが見える。  時刻は午後四時に近く、桟橋の方を見ると西陽が眩《まぶ》しい。空を仰ぐと断雲があるが、その間を埋める空は見事なコバルトブルーだった。  私は、この空中六千メートルで艦爆の試飛行をやっているとき、双胴体のP38に襲われたときのことを思い出していた。P38は雲の間から現われて、私に一斉射撃を加えるとそのまま急上昇して南方に消えた。偵察に来たものが、ついでに一撃したものであろう。私は機を切り返して、エンジンを全開し、射撃をする積りで高度をとり、見張りをきびしくした。時速七百キロに近いP38と五百キロに満たない九九式艦爆とでは勝負にならない。ただ私は戦う手続きを示したに過ぎない。  官邸山の下で、私の回想は、笹井醇一中尉の上に移っていった。 “ラバウルのリヒトホーフェン”と呼ばれた笹井は、海兵六十七期生で、昭和十二年四月一日、私が江田島の第二分隊に入校したとき、彼は同じ分隊の三号生徒であった。大正七年、海軍造船大佐笹井賢二の次男に生まれ、東京府立一中卒、背のすらりとしたやさ男であったが、柔道と相撲が強かった。私もよく相手をしたが、柔道は私の方が強く、相撲は彼の方が強く、下手投げが得意であった。  昭和十四年海兵卒、十六年十一月第三十五期飛行学校卒、直ちに小園中佐の台南空に配属になった。彼の幸運は、開戦前から、坂井三郎、西沢義広、太田敏夫などという撃墜王の中隊長として、実技を教わったことであろう。後にソロモンに配属された他の若い士官は、いきなりガ島上空の激烈な空中戦闘に投入されるので、不意打ちをくらって撃墜されるものが多かったが、笹井は、八月七日、敵がガ島に上がって来るまでに、十分に実技を習得していたのである。  以下「日本海軍戦闘機隊」の記述によれば、笹井は開戦直後、台南基地からルソン島に進撃、その後、十七年二月、ジャワ上空の空戦で第一機目を撃墜、相手は英空軍のホーカーハリケーンか、ブルースターバッファローであろう。  台南空は四月、ラバウルに進出、笹井は中隊長として列機に前述のようなエースを連れて出撃し、撃墜機数を増した。台南空の主な戦果は、四月から七月までに、五十一回、主として東ニューギニア方面へ出撃、撃墜二百四十六機(内、不確実四十五)を記録し、これに対して被害は二十機であった。  八月七日、米軍がガ島に上陸した日、中島少佐のひきいる零戦十八機は、中攻隊を掩護してガ島を襲い、この日一日でグラマン四十三機を撃墜している。しかし、この日、笹井中隊の先任下士官である坂井三郎は、側頭部を撃たれ、眼が不自由となり、戦列を離れることとなった。この頃から、リヒトホーフェン・笹井の技術も冴えが弱くなって来た。ニューギニアでの相手は豪州空軍のP39ベル・エアラコブラで、旋回性能が悪いが、ガ島の主力は海兵隊のグラマンF4Fで、なかなかファイト旺盛である。従って、思うようには墜《おと》すことが出来ない。  八月二十六日、笹井は零戦八機をひきいて、ガ島上空に向った。十五機のグラマンを相手に激闘を交えたが、ついに帰らぬ人となった。このとき、笹井の相手は、きわめて手強《てごわ》いテクニシャンで、戦後の調べでは、海兵隊のエースといわれたマリオン・カール大尉であろうといわれる。マリオン・カールは飛行機の曲乗り師上がりで、異常な操縦技術をもって、日本のパイロットを翻弄した。ついに、日本のパイロットは彼をマークし、協同攻撃によって、彼をルッセル島上空で撃墜するのである。拙作「空の剣」はこの戦いをモデルとして、ソロモンの空中戦闘技術を描いたものである。  笹井の協同撃墜を含む記録は五十四機で、彼はリヒトホーフェンの八十二機を追い抜くつもりであった。個人としての公認撃墜数は、二十七機であるが、四月から八月までの四カ月間で、しかも相手がシナ戦線の未組織空軍ではなく、米豪軍の高性能機であるから、二十四歳の青年士官としては立派な記録といえよう。  笹井醇一はその死後、功績を全軍に布告され、二階級特進して少佐に進級している。  笹井の輝かしく短い生涯を考えるとき、私は“あけの明星”と呼ばれる金星を連想せずにはいられない。太陽が昇る直前、燦然と東の空に輝くが、世の多くの人はまだその光に気づいていない。やっと気づき始める頃、太陽が昇り、金星の光は陽光のなかに溶けこんでしまうのである。  戦死者のなかにも幸不幸はあるが、ラバウル航空隊の零戦中隊長笹井醇一は、幸せなパイロットであったと言える。彼は精一杯自分の技倆《ぎりよう》を発揮し、日本の敗北を知らずに死んだ。残っている彼の写真は、どれも若々しく美しい。死者の特権は永遠に老いないことだ、と考えるときが私にはあるが、笹井醇一も、その特権をフルに行使しているといえよう。 十四  夕刻、ホテルヘ戻り、リセプション・デスクで鍵を受けとって、部屋へ行こうとすると、プールサイドの通路に現地人が十人ほど並んでいた。のっそりつっ立っているが、足元には、大きなお面や、ワニの彫刻をおいている。例の木彫の芸術家たちである。私が通ると、 「コニチワ」 「アノネ」 「アリガト」  などと声をかける。  ここのメラネシアンは、ガ島のメラネシアンよりも、いくらか商業的で、半数位は靴をはいている。  私が行きすぎると、 「サヨナラ」 「マタネ」  と声が追って来た。  夕食のとき、私はウエイトレスの一人と仲よしになった。同じように色が黒くて、髪をピンクに染めているだけでも、やはり美人とそうでないのがある。ホテルの従業員は大体ラバウル美人といえる程度の娘を採用しているらしい。但し、乳房は日本人がパパイヤ・パイと呼ぶ垂れたおっぱいが多く、アフリカ系の黒人のような胸を突き出した女は少ないようで、特に既婚の子持ちの女性はそうである。  私のテーブルに着いた娘は二十歳位で、いかにも娘らしくやさしい感じで、英語が話せた。私は彼女から現地の言葉を教わった。元来この地区では、ピジョン・イングリッシュと言って、ブロークン・イングリッシュでもない独特な言葉を話すそうであるが、私にはよくわからない。私は、 「Your native language」  と言って、教えを乞うたのであるが、これが果たして彼女の種族がジャングルのなかで話す土語なのであるか、それともラバウルなど外国人のいる町で通用しているピジョン・イングリッシュなのかよくわからない。 「今日は」=「キ・ヤケ」 「おやすみ(グッドナイト)」=「マ・ルーン」 「有難う」=「ボイナ」 「さよなら」=「ターター」  私はいろいろな国を旅行するが、最初に覚えるのは、「今日は」「有難う」「さよなら」である。次に町へ出るときは「いくら?」と「何々して欲しい」というのを覚える。数字は筆談でも通じる。  ソ連領シルクロードで覚えた「アソローム・アレークン」=「あなたに平和を」=「今日は」はその後中近東の回教圏で大いに有効であった。カサブランカの王宮の入口で、ガードの長に向ってこれをやったところ、彼は「どうして日本人が回教のあいさつを知っているのか」とえらく感心していた。彼はそれをアラビア語で言い、それをスペイン人の知人が通訳してくれたのである。  私は翌日から現地人を見ると、「キ・ヤケ」や「ボイナ」や「ターター」を乱発するようになった。赤子を抱いた女性に写真のモデルになってもらうときは、まず「キ・ヤケ」と言って近づき写真をとると、「ボイナ」と礼を言い、「ターター」と手を振って別れるのである。  翌日も好天であった。今日も儀保君が私を案内してくれることになった。  車はシンプソン湾つまり、ラバウル港の、北岸に沿って西へ走る。この広い道をマラグナ・ロードと呼ぶ。日本軍は港道と呼んだ。途中左側に桟橋がいくつも見える。戦争がたけなわであったころは、湾内にあった艦船は連日のように爆撃を受け、海岸にも傾いた船が多かった。今は取り片付けられて、一隻も壊れた船は残っていない。  右手には石打山と呼ばれた丘があり、その向うに姉山が山頂を少し右へ傾けた形でそびえている。道が海岸からはなれた所で車は止まった。右側はタピオカ芋の畑である。畑のなかをゆくと垣根があり、その向うに茶褐色の崖が見える。現地の青年が出て来て、門の鍵をあけてくれた。ここで一人二十セントとられる。崖の下に大きな洞窟があり、陸軍の大発が三隻入っている。といっても、入口の二隻は見えるが、奥の一隻は暗くてよく見えない。なぜこんな所に大発を隠しておいたのか。海岸までは一キロほどある。大発は錆びてはいるが、三十年経ったにしてはそれほど傷んではいない。 「陸軍の司令部が最後に脱出するときのために、とっていたんだとも言いますが……」  と儀保君が言うので、そうかな、とも思う。何にしても無気味な灰色をしている。ラバウルは遂に連合軍の上陸を迎えることなく終戦となったが、このような壕は到るところに掘られていたのであろう。  そこを出ると、車は左にカーブし、登りにかかった。これからかつて私が離陸した西飛行場(ブナカナウ)へ向うのである。こちら側は大昔の火口壁らしく、高さ二百メートルぐらいの切り立った崖になっており、その内部にブナカナウがある。  途中、車は Coast Watchers' Hill という展望台に寄った。ここは記念碑台といってかつて陸軍司令部のあった図南嶺の南に当たる台地である。図南道、記念碑道、富士見道などがここに会している。土地の呼び名はタラクワと言うらしい。ここからラバウル湾が一望の下である。台地の中央に立って、東を見ると、西吹山を越えて、マトピ(松島)、花吹山、母山が遠望される。ラバウル湾の海水は、ガダルカナルあたりにくらべるとかなり色が濃く、日本近海の黒潮に似ているが、海岸のあたりは透明である。  台地のすぐ下に零戦が一機飾ってある。それは下においてあるのではなく、太い木の柱の上に固定してあり、正に飾ってあるのだ。保存のよい零戦は機首の右の方すなわち、南の方を向いていた。 「ラバウルでは満足な形をした零戦はこれだけです」  と儀保君が説明してくれた。  この台地の南端には、十五サンチ野砲が海の方を向いて残っており、その近くに、二基の慰霊碑が立っていた。ここを記念碑台というから戦時中に日本兵によって建てられたのであろうが、高さ一メートルほどの粗末なものである。ラバウルはオーストラリアの信託統治であるが、近くパプア・ニューギニアの一部として独立するそうであるから、その際はこの国の政府と交渉して、この丘にももちろんであるが、何とかして東飛行場の近くに「ラバウル航空隊の碑」を建立したいものである。  ここで、コースト・ウォッチャーについて説明しておきたい。日本人にはほとんど知られていないが、第二次大戦開戦時、豪州軍はニューギニアとソロモン群島に沿岸監視員をおいた。私がラバウルのマンゴー・アベニューの書店で九十五セントで買った Australia at war series の一巻である「The Coast Watchers」という本によると、一九三九年、ドイツが英仏と戦端をひらいたとき、オーストラリア海軍は、彼らが東北地区と呼ぶこの水面の監視と情報伝達の組織を密にしたが、この制度は遠く一九一七年頃、第一次大戦の終末期にさかのぼるという。というのは、当時のオーストラリアは、メルボルンを中心に南東部に都市がかたまっており、北と西は無防備に近い。そこで、各要地に無給のコースト・ウォッチャーを委託することを始めた。彼らは郵便局長や、港湾局員、鉄道員、教師などであった。この制度が第二次大戦開始と同時に強化され、日本軍がこの地域に進出した時点では、百名を越す沿岸監視員が各地にばらまかれ情報活動を行なっていた。  彼らは、現地人を手なずけ、携帯用無電をもって、海岸に出没した。日本軍が十七年春ラバウルに進出したときの様子も、くわしくオーストラリア本国に打電されている。この年四月にはオーストラリアに来ていたマッカーサーの下に、コースト・ウォッチャーの司令部が出来ている。  彼らはこれ以後二年間にわたって南東太平洋の島でひそかな見張りを続けるのであるが、ガダルカナルの海兵隊司令部バンデグリフト中将は、島を去るに当たって、「わが少数の協力者たちは、その数にくらべて、きわめて広く我々に貢献してくれた」とウォッチャーたちの助力に感謝の意を表している。  一例をひけば、ガダルの戦闘がたけなわであった十七年八月から十月にかけて、日本の駆逐艦は、輸送のため「トーキョーエクスプレス」と呼ばれるほど頻繁にラバウルとガダルを往復したが、彼らが正午にショートランドを出発すると、その動きはベララベラにいたジョセリンとキーナンという二人のウォッチャーの視界に入ると同時に、チョイスルにいたワッデルとセトンというウォッチャーの双眼鏡にもキャッチされる。この二組のウォッチャーたちは競争で日本艦隊の動きをルンガの米軍司令部に打電する。そこで、日没前に、ヘンダーソンから飛来したSBD爆撃機が、日本の水雷戦隊を襲うということになったのである。  ではこのようなウォッチャーの動きを日本軍が全然知らなかったかというと、そうではなく、チョイスル島の北西端に二人のウォッチャーが基地を設営したとき、日本軍はすでに海岸に基地を持っており、日本軍についた現地人は、白人のスパイが来たことを日本軍に知らせたことがあった。しかし、日本軍に島を占領されることを喜ばぬ現地人もいて、日本兵がウォッチャーを捕えに行ったときには、現地人の通報で彼らは逃げた後だったという。  しかしながら、日本軍がガダルやニュージョージアで死闘を続けていたとき、ラバウルやブインを発進した日本の航空部隊の動きが、ウォッチャーたちの無電によって、ルンガの司令部に通報されていたことは戦後明らかにされている。  また、コースト・ウォッチャーのベテランは、こういう仕事もやった。  ニューカレドニアの収容所に中島という零戦乗りの兵曹長がいたが、彼はニュージョージアの東海岸で捕えられた。彼はルンガ上空の空中戦でエンジンを撃たれ、ここに不時着したのである。ムンダには基地があるので、現地人に案内させてそこへ辿りつこうと考えたのである。その後、現地人たちは貴重な鶏をつぶし、焚火で焼いて食わせ、椰子酒で歓待してくれた。そして深夜、泥酔した中島兵曹長は、縄で縛り上げられ、狸汁にされる狸みたいに棒で吊され、長時間の輸送の後、古い教会の地下室に監禁された。二、三日すると六尺豊かな白人が来て、無電で米軍のカタリナ飛行艇を呼びよせた。飛行艇は夜ニュージョージアの東海岸に着水し、縛りあげられた兵曹長をルンガの泊地に運んだ。白人の名前はケネンリーと言い、イギリス人ということであった。  このような例は少なくなく、私が捕えられたい号作戦でも、中川という艦爆の兵曹が同じ方法でニュージョージアで捕えられ、偵察員と共に飛行艇でルンガに送られている。彼の場合も相手は長身のケネンリーである。「The Coast Watchers」によると、ニュージョージアを担当していたのは、ケネンリーではなく、ダグラス・ジョージ・ケネディである。D・G・ケネディは初めサンタ・イサベルにいた地区の責任者で、後にニュージョージア島の南端セギに移っている。同書によれば、ケネディは強烈な個性と決断力を持った中年のニュージーランド人で、生涯の大部分をソロモンで送り、現地人たちとは親しかった。彼は熱血漢で統率の才能があり、ソロモンの戦闘で、ついに彼の才能を発揮すべき場所を発見した、となっている。こういう男がムンダ基地の近くにひそんでいて、不時着する日本の搭乗員を待っていたのであるが、日本軍は最後まで、ケネンリーことD・G・ケネディの存在には気づいていなかった。  ラバウルではどうであろうか。  十七年一月、日本軍がラバウルに上陸する意図を示したとき、オーストラリア海軍は、ギルとストーンをトマの部落に送った。トマは、ブナカナウ(西)飛行場の南東〇・四キロにある部落で、後には南街道、ゴム林道、花園道、追分道などがここに会した。ストーンは無電技師で、トマに電信所を仮設し、日本軍の上陸の様子を報告した。その後彼らは、五十キロ南のワイド湾に移り、やがてライトとフィギスが交替し、近くのオーフォード岬に無電を据えつけ、日本軍の動きをガダルに知らせた。彼らはその後増強され、潜水艦の補給を受けたり、魚雷艇の基地をここに設けたり、戦争終結までここで頑張った。彼らの長であるライトは、戦後、イギリスの特別十字勲功章を受け、他の者は十字勲章を受けている。  このように、コースト・ウォッチャーは、日本軍の知らないところで活躍を続けた特務機関であるが、現在のコースト・ウォッチャーズ・ヒルに彼らがいたわけではない。ここには陸軍の司令部があったので、そこにはスパイももぐりこめない。ただウォッチャーたちの功績を記念するため、オーストラリア海軍がこの台地をそのように命名したにすぎない。現在この丘には、コースト・ウォッチャーはいなくて、そのかわりに、現地人の少年少女の観光客ウォッチャーがいる。彼らは、観光客が来ると、まわりに集まって手製の土産物を売りつける。木の実で作ったネックレスが五十セント、ビーズのように糸で綴ったバッグが一ドルから二ドルであるが、数多く買うと値引きするということを彼らは知っている。ガダルの彫刻師にくらべると商魂逞《たくま》しく、いくつでも売りつけようとするが、ここにも縄張りがあるらしく、私と儀保君が数個を買って、写真をとっていると、中年の男がやって来て、少年たちを怒鳴りつけ、私たちに、土産物を返せという。つまり、彼の許可なしに商売をしてはいけないというのであろう。私たちが相手にならないでいると、彼は少年たちに金を返せと迫った。少年たちは叫び声をあげて散ってしまった。土地の占有による資本主義的搾取は、かつての激戦地にも及んでいるらしい。 十五  コースト・ウォッチャーズ・ヒルこと記念碑台に別れを告げて、図南道を南下すると右側は図南台で左側は中央高地である。右へ折れて南街道に入り、芋畑のなかをしばらく行くと、部落に入る。左側の大きな建物が警察学校である。このへんの地形は鹿屋《かのや》航空隊のある鹿児島県の大隅《おおすみ》半島に似ている。どちらも火山灰地に腐蝕した植物が堆積《たいせき》したものであるが、日射が強いだけに、こちらの方が植物の育ちはよい。この部落がブナカナウで、部落を抜けると、西飛行場の北西端に出た。二千メートルの滑走路が、今も残っている。周囲は砂糖キビの畑であるが、飛行場には三十センチほどの雑草が生えているだけで、耕作の跡はない。ラバウルでは、現在マトピに近い東飛行場を使っているが、花吹山がいつ噴火するかわからないので、この西飛行場を予備に保存してあるのだそうである。  私は車を降りて想い出深い西飛行場の滑走路を歩いてみた。朝スコールがあったらしく、草が濡《ぬ》れており、草の下に水たまりがあって、私の靴を濡らした。——あのとき、このように草が茂っていたら——と私は考えていた。私たち飛鷹の艦爆隊がここに進出した昭和十八年四月は、まだ飛行場は整備中で、滑走路はむき出しの赤土であった。そこへスコールがやって来ると、摂氏三十八度の気温で熱せられた水蒸気が、下から顎をなであげる。トラック島では半袖半ズボンの防暑服であるが、ここは戦場なので、カーキ色の第三種軍装を着け、その上に、飛行服を着け、落下傘のバンドを背負って即時待機なので、なかの体は汗で蒸れている。そこへスコールがやって来ると涼しいように見えるが、実はあとの熱気が堪え難いのである。  下が火山灰地なので、裸の滑走路に雨が降ると、土がどんどん沈下してしまう。B17の爆撃であけられた穴のなかにドラム缶をつめ、その上に土をかぶせても、土が沈下し、ドラム缶が頭を出し、同期生の藤巻良明は、零戦で着陸するとき、脚をとられてとんぼがえりをうち、顔面を負傷したことがあった。このように草が茂っておればそのような事故も防げたのである……。私の想いは三十年昔にさかのぼりつつあった。  飛行場の端に小高い丘が残っていた。飛行指揮所の跡である。  い号作戦のとき、山本五十六は、この指揮所に立って、出撃する飛行隊を見送った。帽子を振ったと伝えられるが、私の知っている限り、そのようなことはなかった。彼は、両掌を腰に当て、離陸して行く飛行機をみつめ、上空で編隊を組みつつある攻撃隊を仰ぎ、凝然と佇立《ちよりつ》していた。私が離陸してゆくときもそうであった。上空から、長官の白い第二種軍装を眺め下ろしながら、——長官は何を考えているのかな——と考えてみたことがあった。  いま、指揮所のあたりは雑草が生い茂っているだけで、バラックの破片も残っていない。戦争が終ったとき、日本兵が片づけたのであろう。南半球の三月は晩夏か初秋であるが、南緯五度のラバウルには四季はない。従って「夏草や兵《つわもの》どもがゆめの跡」という芭蕉の句は、いつのシーズンでも、ラバウルの西飛行場には通用するものである。  飛行場の南の方で、メラネシアの青年たちがフットボールをやっていた。警察学校の学生たちである。儀保君の話によると、メラネシアの青年は警官に適しているそうである。彼らは体力があり、犯罪を憎む。パプア族の間では、人のものを取ったら死刑になるところもあるらしい。ワイロをとるという文明的なことを知らないから、買収されることもない。交通違反もきびしく取り締まるそうである。  現在、ニューギニア島の西部は西イリアンといってインドネシア領であるが、島の東部とニューブリテン、ブーゲンビル等は、パプア・ニューギニアといって、オーストラリアの信託統治である。このへんのメラネシアをパプア族というらしいが、パプアにも、山パプアと海パプアがある。海パプアは比較的文化がひらけており、学校へもゆくし、インテリも出る。山パプアは、開化が遅く、昔ながらの部族のタブーを守り、今でも部族同士の戦いがある。ニューギニアの奥地では、石器時代と同じ生活を送っている部族があり、今でも人肉を食う。といっても、蛋白質を補うために食うのではなく、肉親が死んだ場合、その死を悼むあまり、皆で食って腹中に葬ってしまうのである。火葬、土葬、風葬、鳥葬といろいろあるが、これは食葬とでもいうべきものであろうか。若い娘なら食っても味がよいかも知れないが、お婆さんでは、葬式を出すのも、胸の焼ける想いがするのではないか。  娘といえば、メラネシアの女を口説くのは考えものだそうである。女は財産であるから、口説いてものにしたら、相当の結納を払わねばならない。ニューブリテンの奥地では今でも、貝の貨幣が通用しているそうであるが、野豚や野生の鶏を捕えて贈るのが普通というから、これも大変である。女は結婚したら夫の物になるので、絶対に浮気はしない。姦通をした人妻は部落の中央の広場で死刑になるという。従って、現地人の娘を口説いたら、どこまでもつきまとわれると覚悟しなければならない。彼女たちは気立てがやさしく、献身的であるというが、日本まで連れてゆくのでは負担が重いというものである。  私の記憶では、ブナカナウ飛行場の宿舎は海岸の崖の上にあった。ドイツ人が作ったという教会があり、そこに宿舎と防空壕があった。その崖からは西吹山が見下ろせた。この小さな火山は、昔の火口壁である崖よりも低く、真っ白な可愛い形で、生意気にも、中央の火口から噴煙を上げていた。花吹山と同時に前年爆発をしたばかりなのである。  この教会の宿舎には、翔鶴、瑞鶴、飛鷹、隼鷹など、空母部隊の士官が泊まっていたが、夜、ブリッジをやっていると、B17の空襲があった。 「ルーズベルト定期だ!」  というので、防空壕にもぐりこむのであるが、B17の狙いは湾内の艦船で、爆弾は徒《いたず》らに水柱をあげるだけでなかなか当たらない。むしろ危険なのは味方の高角砲弾の破片である。少し北の図南砲台から撃ち上げたのが、丁度このへんに落ちて来る。 「困ったもんだな。味方の砲弾を避けるためにこんな所に入るなんて。しかし、陸軍に射撃をやめてくれとも言えんしな……」  飛鷹飛行長の小林少佐がそう言ってぼやいていた。  士官たちのなかにただ一人、報道班員がいた。朝日新聞の竹田道太郎記者である。彼は四月七日の攻撃で、私の機が海中に突っこんだと聞くと、大変勇壮な記事を日本に送った。私の父はそれが息子のことだというので、大切に保存していた。その要点は次の通りである。  昭和十八年四月三十日付、朝日新聞。「フロリダ島沖海戦の全貌」〈〔南太平洋○○基地にて竹田特派員(海軍報道班員)発〕『ガダルカナル島周辺にある敵艦船、(主として輸送船団)を攻撃し、敵の企図を粉砕すべし』といふ命令に対する去る七日フロリダ島沖海戦の戦果は、実に敵艦船十五撃沈破、敵機約四十機撃墜であつた。(中略)  しかし、この健闘にも若い優秀な海鷲が幾人か、未だ還らざる数に入つてゐる。  爆撃隊の○隊長○○中尉は敵艦船を発見する前、既に襲ひかかるグラマン戦闘機と空戦して被弾のため後席の偵察員が負傷したが、飽《あく》まで戦闘意識に燃える○○中尉は、負傷した偵察員○○飛曹長を伝声管で励ましながら僚機と共に敵船団に急降下爆撃を敢行、機を引起して帰途についたが、○○キロの地点まで来た時、突如雲の上から降つてきた二機のグラマン戦闘機の銃撃にあつて、燃料タンクを射ち抜かれた。  グンと高度の落ちた○○中尉機は、然し何とかして味方の基地まで辿りつかんと、機尾から燃料の白い白い尾を引きながら飛び続けたが、ああ遂に発動機が止まつてしまつた。  わが一戦闘機は傷ついたこの機の周囲を廻りながら、八方激励したが、今は尽すべき手段も絶え果てた。敵海上に不時着するやうなことは、○○中尉には出来ないことだつたのだ。  それまで、グツタリしてゐた偵察員が、この時ムツクリ頭をあげて僚機を仰ぎ見た。おお、その手には軍艦旗がへんぽんとひるがへつてゐるではないか。伝声管で自爆を決意した二人の爆撃隊員の最期を飾る軍艦旗である。そして○○中尉は一瞬、操縦桿から手を放して「天皇陛下万歳」を絶叫したのだらう。両手を高く高く差しのべた後、再び握つた操縦桿でグツと機首を下げ、まつしぐらにソロモンの海面目がけて自爆したのだつた。アツと思はず瞑目した戦闘機の戦友が目を開いた時、海面には飛散した機体の破片が僅かに浮かぶのみ、早や襲つて来た心ないスコールが、それさへまたたく間におほひかくしてしまつた。〉  竹田氏は戦後、朝日新聞名古屋本社で美術記者として著名であった。名古屋では会えなくて、数年前、東京のあるパーティで、二十数年ぶりに再会して、握手をかわした。氏は現在女子美術大学の教授として健在である。  戦争中の記事であるから、この文章についてとくに言うことはないが、この記事の前の方に、当日のガ島上空の気象を説明してあるのが、私の注意を惹く。 〈攻撃隊はガ島の南方海上から一挙に敵艦船集結地へ雪崩れ込むべく断雲が撒き散らされる海上を進んだが、ああ何たる無念ぞ、同上空一帯には一万メートル以上の積乱雲が聳えてゐる。これを突破して編隊を乱すのは、策の最も下とすべきところ、やむなく同島を東に迂回した。東端に達した時、すでにわが航空部隊の急襲に驚愕しきつてゐる敵は、数十機のグラマン戦闘機と猛烈な地上砲火を浴びせて来た。〉  これは事実であって、私はあの時の一万メートルを越える積乱雲の形を忘れない。それは、白色というよりも灰色で、丁度ガ島を蔽い隠すように、その上にかぶさり、エスペランス岬のあたりを露出しているに過ぎなかった。猛々しいというべきか、兇々《まがまが》しいと表現すべきか私に不吉な予感を抱かせた雲の形であった。あれ以来、私はあのように巨大な積乱雲を見たことがない。あの積乱雲を東へ迂回しているうちに私はエンジンに被弾したのであるが、もし、あの積乱雲がなくて、ガ島上空が晴れていたなら、爆撃は順調に行なわれて、私はルンガ沖に沈んで、この世にはいなかったかも知れない。  ブナカナウは、海抜四百メートルに近い台地にあり、海岸のラバウルよりはスコールが多かったように思う。午前日照が強いと午後はスコールが来て、飛行場が水びたしになる。スコールは夜も去来し宿舎の窓越しに激しい雨脚の土打つ音を聞くことがあった。  そのような日の朝は、飛行場へ行く坂道がぬかった。ラバウルは東経百五十二度であるが、東京時間を用いていたので、午前三時には夜があける。従って、午前一時に起きて、真暗なジャングルのなかを飛行場に向うのである。ぬかった坂道で車が立ち往生し、ブレーキをかけてもそのままずるずると後退し、椰子の根元に支えられて止まったことがあった。飛行長以下全員降りてトラックを押す。やっと押し上げて、一息ついたとき、闇のなかで、 「オハヨー!」  という声が聞えて驚いたことがある。すぐ眼の前に白い歯が見える。星あかりにすかすと、墨汁のような色をした現地人の少年がバナナをかついで立っている。  日本軍がブナカナウに進出したとき、現地人は煙草を欲しがった。最初は煙草一本で、房が五個位ついた枝が一本であった。一房にはバナナが十数個ついている。日本兵の数が増えると、煙草がインフレになり、バナナも値上がりして、私たちが行った頃は、煙草一本でバナナが五本から十本だったような気がする。  メラネシアの少年は、トラックがエンコする場所を知っていて、商いのために待ち構えていたのである。今でも私は闇のなかに浮いて、笑っていた少年の白い歯並みを懐かしく思い浮かべることがある。 十六  翌日の午後、今度は若い金子君がココポ方面を案内してくれることになった。  ココポは、ブナカナウの東十キロにある町で、戦争中はここに南飛行場と呼ばれる飛行場があった。  しかし、私たちの間では、ココポにはドイツ系の修道院があり、若い尼さんが大勢いるというので話題になっていた。  教会の尖塔の上にある金色の十字架が、無電のアンテナに使われ、スパイをしている疑いがあるというので、警備隊が調査に行ったことがあるらしい。黒衣に白いベールをかむった院長の老女が出て来て、案内をしてくれ、結局スパイの事実はなかったが、若い修道尼たちは牛の乳を搾ったり、鶏の世話をしたりして働いていたそうである。  しかし、最近は、金子君の話によると、 「ラバウルで一番金持ちなのは修道院です。彼女たちは、戦争前から広い土地をもらっていたので、今は酪農や農作はもちろん、広い椰子のプランテーションを持って、製材所まで経営しています」  ということである。  ラバウルの町を出はずれ、丸木浜から南に下ると西吹山のふもとに出る。西吹山の西を通り海岸へ出ると、これがココポ道である。南崎を左に見て、海岸を南東に下がってゆくと、かつて伊勢岬、一軒屋岬、烏賊《いか》岬、三島岬と呼ばれた岬が次々に現われる。ココポの手前の泉浜に大きなクレーンが一基残っていた。半ば身を海中に漬け、クレーンは悶えるような姿で、赤錆びた鉄骨を陸の方に傾けていた。ココポにはかつて桟橋がいくつかあり、補給物資の揚陸に使われたが、今は修道院の製品を運び出すのに使われている。  修道院はココポ原と呼ばれる高台にあり、聞いた通り、工場のように広いものだった。若い尼さんが現地人を使って、製材やチーズ造りをやっている。老女の尼さんは戦争を経験しているが、中立を守っていたので被害はなかったそうである。門を入って芝生の広場を横切った所に大きな教会があり、尖塔の上に金色の十字架が光っていた。この日は晴天で、トタンぶきの屋根が、午後の陽光を銀色に照り返し、それがヨーロッパのくすんだ感じの教会を見つけている私には異様に見えた。内部も新しく、かなりの席のベンチが並んでいる。現地人のなかには信者がかなりいるらしい。  ココポを出ると、車は近くのビタパカに向った。ここには第一次大戦以来の豪州軍の戦死者の墓がある。中央に無名戦士の墓があり、両側に墓碑が並んでいる。入口の大きな石の壁には戦死者の名前が刻みこんである。清潔でよく整頓されており、公園のような感じである。日本軍の戦死者には、コースト・ウォッチャーズ・ヒルの二基の木の慰霊碑しかないのかと思うと、淋しい思いを禁じ得なかった。  帰りにもう一度、ブナカナウの飛行場に寄ってもらうことにした。鬱蒼と茂るゴム林道をくぐり抜け、かつてコースト・ウォッチャーの基地であったトマの部落を通り、南街道を北西に走ると西飛行場に出る。  陽はかなり西に傾き、飛行場の草原で遊んでいる子供達の影も長くなりかけていた。  かつての指揮所の近くを歩きながら、私は納富《のうとみ》健次郎大尉のことを考えていた。納富大尉は海兵六十二期生で、私が霞ヶ浦の飛行学校学生のときの主任指導官であった。私たちの一号生徒が六十五期で、六十五期の一号が六十二期生である。六十二期は開校以来殴ったクラスといわれ、従って私たちも六十五期からそれに近い頻度で殴られた。納富大尉は体のがっしりした豪快な性格の戦闘機乗りであった。十七年六月、私が宇佐航空隊の飛行学生教程を卒業して、宮崎県の富高(現日向市)基地で着艦訓練をやっていたときの分隊長が納富大尉で、戦闘機の隊長は赤城の隊長であった板谷茂少佐であった。  納富大尉はその後竜驤の飛行隊長に転じ、十七年八月二十四日の第二次ソロモン海戦では、零戦十五機をひきいてガ島のヘンダーソンを襲い、グラマン十五機を撃墜し、味方も五機を失った。母艦に帰投してみると、竜驤は、サラトガの攻撃に捉えられ、防戦中であった。納富隊はここで十一機を撃墜したが、竜驤が沈んだため、不時着水して駆逐艦に救助された。  その年十一月、納富大尉は瑞鶴の戦闘機隊長となり、私が出撃したい号作戦のときは、全直掩戦闘機隊の隊長であった。  攻撃の前の打ち合わせで納富大尉は、 「敵のグラマンは二段、三段の構えでかなり上から降って来るから、こちらも二段構えで、一機も喰われんように掩護したい」  と腹案を述べていた。  瑞鶴の戦闘機隊は四月六日ブインに進出したが、その前日、ブナカナウの指揮所で顔を合わせたとき、納富大尉は私の肩を叩いて、 「君のクラスも大分死んだな。明日はしっかりやってくれい」  と言った。  それが別れとなった。私は撃墜されて捕虜となり、納富大尉はその後ラバウルに居残り零戦隊を指揮し、一旦トラックに戻った後、十一月一日ふたたび瑞鶴隊を率いてラバウルに進出し、ブーゲンビル進出を狙う米軍を迎撃し、連日空戦を行なっているうち、十八年十一月八日ブーゲンビル島トロキナ上陸を狙う米艦船攻撃中、空戦のさなかに、F4Uコルセア戦闘機、P38ロッキード双胴戦闘機多数を相手にして格闘し、戦死を遂げた。その死は全軍に布告され、二階級特進して中佐となった。  瑞鶴戦闘機隊で納富大尉の下で分隊士を務めた斎藤三朗兵曹長(終戦時少尉)が書いた「零戦虎徹」(今日の話題社刊)は、瑞鶴戦闘機隊の戦いぶりを描いてくわしいが、そのなかで、山本五十六長官をラバウルに迎えたとき、長官や納富大尉の訓示を次のように記録している。 〈「御苦労」  中央に立った長官は、軍刀の柄を握りしめて、整列した私たちの敬礼に答えながら、そういって一同を見渡した。 「目下、わが軍は苦戦に陥っている。しかし、苦しいと思うときは、敵も亦同じ状況なのである。諸子は長期に亙って艦隊訓練を受けたわが海軍の虎の子であり、これを陸上に転用することはまことに惜しい。その諸子をラバウルに進出せしめるに至ったのは、目下、展開中の航空撃滅戦に於て、諸子に期待すること大なるものがあるからである」  このように前線に大将旗がひるがえったことは、私たちにも、戦局の重大さを痛感させ、士気を昂めたことであった。その上に「虎の子」といわれたことが私たちを感激にひたらせるのだった。そのままの姿勢で長官一行を見送った後、隊長納富大尉は、 「長官の意を体し、只今より航空撃滅戦を展開する。日頃の訓練を思う存分発揮し、艦隊搭乗員の名誉にかけて働いてもらいたい」  そう激励する隊長も亦、声をこわばらせていた。〉  納富さんは明けっ放しの性格で、部下を愛し、部下からも人気があった。男性的な納富さんは芸者にももてた。私はある小説で、納富さんが芸者遊びをする話を書いたところ、納富さんの同期生から、そういうことを書くのは、納富夫人に悪いから、今後気をつけた方がよい、という意味の手紙をもらった。しかし、納富さんが芸者にもてたのは、男性的でエネルギッシュであったからで、決して夫人をないがしろにしていたからではない。納富さんは、愛妻家としても有名だったのである。要するにスケールの大きい戦国時代型の英雄であったので、その意味で後輩の尊敬をかち得ていたのである。  納富大尉の戦死したのは十一月八日であるが、瑞鶴戦闘機隊は十一月二日からブーゲンビルに進攻して来る米空軍を迎えて連日激戦を交え、被害も大きかった。  斎藤三朗「零戦虎徹」によれば、八日午前五時、搭乗員整列がかかったとき、納富大尉は次のように訓示している。 〈「二日以来の戦闘で、我々の中から多くの犠牲を出した。お前たちも疲れているのを知っている。しかし、ここひと踏ん張りが大切な戦いの山である。本朝、味方艦偵の功により、敵大艦隊を発見、只今よりこれを攻撃する。自分もいずれ、亡き戦友の後に続く覚悟であるが、互に生あるうちは全力を尽くして戦おう」〉  これが納富隊長最後の訓示となった。  納富さんの回想を書いたなら、瑞鶴戦闘機隊で奮戦した同期生吉村博のことも書かねばなるまい。  吉村は昭和十八年秋、瑞鶴乗組となり、戦闘機隊の分隊士として、南太平洋海戦にも参加している。十八年一月以降ラバウルに進出し、四月七日、私が参加したフロリダ島沖海戦では、直掩隊として上空にあった。同年十一月八日、納富隊長が戦死した日の戦闘機隊第一中隊編制は、「零戦虎徹」によると、納富大尉が中隊長として六機をひきい、吉村は小隊長として、後尾の二機を指揮している。このとき、吉村機は下方から上昇して来たP38に狙われたが、納富隊長機がこれを攻撃したので、救われた。しかし、隊長機とその二番機である市川一飛曹の機はこの日未帰還となってしまった。  吉村はその後も武運強く生き残り、新造空母竜鳳の分隊長を経て、十九年三月十日、空母搭乗員を集めた六五二航空隊の戦闘機分隊長となり、同六月十九日グアム島基地に移動、マリアナ沖海戦に参加し、F6Fヘルキャットと戦い、六月二十日グアム島上空において戦死を遂げた。  私と吉村は同じ分隊にいたことはないが、わりに顔を合わせる機会が多かった。彼は土佐の生まれであるが、極めて都会的で、女性にももてた。水泳が得意で、卓球も強かった。岐阜県出身の田舎者である私とは反《そ》りが合わなかった。霞ヶ浦航空隊にいたとき、彼は東京の新橋や横浜の日本橋の花街に出入りし、それを得意になって私たちに吹聴《ふいちよう》していた。金持ちの親戚がいたらしい。私たちが、土浦の安い料亭で田舎芸者を揚げて酒を呑むのを、“山賊の酒盛り”と称して彼は軽蔑していた。ある夕方、土浦の霧月楼でクラス会が開かれることになった。私たちは隊門でバスを待っていた。吉村は不満そうであった。私の所へ来ると、 「おい、田舎芸者に会うのが嬉しいか、このお兄ちゃん!」  と言って、私の顎を下からコチョコチョとくすぐった。私は腹が立ち、いきなり、彼の腰を抱えると、腰車で投げた。彼は地面にころがり、にやにや笑いながら、 「おう、恐《こわ》いのう」  と、思わず土佐弁で言って立ち上がったが、かかって来ようとはしなかった。  それ以来、私と吉村は変に親しい仲になった。彼はもう私を軽蔑しようとはしなかった。宇佐の航空隊を卒業して富高へ行ったとき、彼も一緒であった。常に華やかな存在であり、瑞鶴のガンルームでも、ひときわ目立っていたようだ。南太平洋海戦の直前、アメリカの飛行艇を撃墜したとき、腕に負傷をしたことがある。飛行長は治療のため、内地に帰そうとした。吉村は怒って、士官室まで出かけ、大暴れして、あたりのものを破壊した。そこで飛行長もその闘志を認め、転任を取りやめたという話がある。 「芳名録」の略伝には吉村のことを次のように書いてある。 〈土佐中出身、きりっとした好男子。南国特有の情熱家でオシャレでもあり、ズベ公の面もあったが、とに角よい男だった。〉  この「とに角」という言葉は意味深長である。  回想にふけっている間にブナカナウの飛行場にも黄昏《たそがれ》が迫っていた。自分の影が雑草の上に長く延びるのを眺めながら、私は歩き続けた。「低回措く能わず」というのは、こういうときの心境を言うのであろうか。  私は山本五十六が立っていた指揮所の方を見た。丘の草が夕陽を浴びて金色に光っていた。——去った人は帰らない——と私は考えた。そして、——よき人はすべて去った——とも考えた。  ——人間の生とは何だろう。死ぬことがどういう意味を持ち、生き残ることがどういうことを意味するのか。死んだ人間が生き残った人間に記憶されるのはどういう価値を持つのか。若くして死ぬよりも、醜くても生き残った方がよいのか——私はもう一度初心に立ち戻って考え直さなければなるまい。  その夜、私はロビーから客室に通ずる廊下で、現地人の彫刻家たちの前に立った。ここの作品は、ガダルやムンダよりは洗練されている。英語の出来る男も三人ほどいるし、一番年長の男は、日本語の片ことがしゃべれた。  何という木かわからぬが、真っ黒な堅そうな木で出来た高さ一メートル近いお面が一番高く、二十五ドルであった。パプアの皮膚のように黒く堅そうであった。私はそれが欲しかったが、とてもスーツケースに入りそうになかった。  ワニもあったが、ここのはかなり装飾的で、私がムンダで求めた野性にあふれ、しかもモダンな味を持っているそれにはかなわなかった。  私は一人の男の前に立った。年はよくわからぬが三十歳位であろう。彼の作品は私の心を打った。チークに似た茶色の木で、先ほどの黒い木よりは少々柔かそうであった。高さ四十センチほどのこの面はよく見ると死人の顔であった。パプアは、悪魔よけに、死者の顔を面にして家の入口に飾るのだそうである。彼らのいう悪魔とは、マラリアやコレラや、そして、他部族の襲来である。  私は能面を想い出していた。能面も死者の顔を象《かたち》どったものだといわれる。この面は両眼に貝を入れ、中央に割れ目のある貝が、丁度瞑目した表情に似ている。鼻は長く大きく、鼻の穴はふくらみ、鼻梁の先が垂れ下がっている。唇は幅狭く、きゅっと結んで突出し、斜にゆがんでいる。この面にはユーモアがなく、無念の表情がうかがえる。私は、この作者が、実際の死者をモデルにしてこの面を彫ったことを確信した。面の額には尻尾を彎曲させた小さなワニがしがみついており、このワニもよく出来ていた。ワニは力の象徴かそれとも死を意味するものか。私は十五ドルというのを、十ドルに値切って面を買った。  部屋に戻って、その面に見入っているうちに、私は父のことを想い出した。私はベッドに腰かけたまま、面を手にとってみた。かなりの重みがあった。面は相変らず無念そうな表情を浮かべていた。——父は死んだ。そうに違いない——私は確信をもってそう考えた。帰ると葬式が待っている。私の帰りが遅いので、義母や弟や妻が心配しているだろう。そう考えると、気が重くなって来た。  私はベッドの上に横になり、面を自分の顔の上にかぶせたまま、しばらくじっとしていた。 十七  翌朝、私は午前九時四十五分ラバウル発のアンセット航空機で、ポートモレスビーに出発する予定であった。  朝八時半、海外漁業の金子君が来て、空港まで送ってくれた。上天気で、朝日がシンプソン湾の海面に眩《まばゆ》かった。  飛行機はフレンドシップで、このフライトはニューギニアのラエに寄った後、オーエン・スタンレー山脈を越えてモレスビーに午後一時に着く予定であった。  東飛行場に着いた私は長い間花吹山を眺めていた。三十年前私が訪れたとき、真っ白な出来たての砂糖菓子のようであった花吹山が今は緑に蔽われ、火山としての風貌を失いつつある。当然のことであるが自然も変ってゆくのである。移りゆくのは人間の姿だけではない。  しかし、三十年後、この飛行場を訪れる日本人がいるだろうか。その頃には、ラバウルで戦った大部分の人が世を去っている。もし、訪れる日本人があったとしても、それはビジネスやレジャーのためであって、戦跡を葬うためではない。その例はグアム島の例を見ても明白である。  移り変るのは人間だけではない。しかし最も多く変ってゆくのは人間なのではないか。  飛行機が、花吹山を左下に見て離陸してゆくとき、私はいま一度考えていた。このように移り変る人の世に、若くして美しく死ぬのがよいことか、生き残って醜く永らえるのがよいことなのか、と。  離陸したフレンドシップは、母山や伯母山を左に見て、シンプソン湾の上で大きく右旋回し、ブナカナウの飛行場を右に見て針路を西南西にセットした。  機は海抜二千五百メートルのスィネウィット山を左に見ながら高度を上げてゆく。私はガラス窓に額をすりつけながら、ブナカナウの飛行場を眺めていた。完全にブナカナウが見えなくなると、前方に、コニーデ型の火山が見えて来た。海抜二千六百メートルのマウント・ファーザーつまり父山で、ラバウル周辺の火山群の主峰である。  このあたりから、断雲が多くなった。ニューブリテンの南、かつて日米軍が激戦を交えたあたりの海面には無数の断雲が点在し、ところどころに積乱雲があった。積乱雲の下はスコールらしく、暗くなっている。この海は珊瑚海に続く海である。  マウント・ファーザーを左に見て過ぎると、機はキンベ湾の上に出た。この北がビスマーク海で、そのなかにアドミラルティ諸島がある。米軍は、ブーゲンビルと東ニューギニアを制して、ラバウルを無力化すると、アドミラルティに機動部隊を集結させて、トラックやパラオをうかがった。それに対して、ラバウルは何も出来なかった。最後の一機まで使い果たしていたのである。これを無念に思った整備兵たちが、スクラップのなかから、使える部分をひろい出して、二機の爆撃機を作り出し、アドミラルティの泊地にいた航空母艦を爆撃して、米軍を驚かせたこともあった。  キンベ湾にも、その北のビスマーク海にも断雲が多かった。そして、ところどころに、積乱雲がラマ塔のように屹立していた。  ホスキンスの町を左に、テラセアの町を右に見て、機は断雲の上を西進する。このあたりの港はみな美しい。濃紺の水の上に水上部落が浮いているところもある。  やがて機は、グロセスター岬を左に見て、ダンピール海峡の上にかかった。グロセスター岬は対岸のフィンシュハーフェンと共に、十八年秋、米豪軍が上陸して来て、日本軍を悩ませたところである。  フォン湾の奥にあるラエの空港に着いたのは、十一時半ごろであった。かつて、ブナ、サラモア、ウエワク、マダンなどと並んで、日本軍のニューギニア作戦の基地であったラエは、いま、モダンな都市設計による町として近代化されつつある。ここからは、海岸のマダン、ウエワク、高地の中心であるゴローカ、マウント・ハーゲン、そして、パプア・ニューギニアの中心であるモレスビーに航空便があるし、マウント・ハーゲンやゴローカへゆくハイウェイもここから出ている。パプア・ニューギニアは不思議なところで、未だにモレスビーから、マウント・ハーゲンや、ゴローカなど山間部に行くハイウェイは出来ていないのである。こういう不便な所を歩兵の脚で攻略しようとしたのであるから、日本軍も苦労したわけである。  ラエでは、日本のテレビ会社の取材グループに出会った。ニューブリテンを取材して、これからニューギニアにかかるという。ジャングルの奥地に入ると、暑いのと、食い物になじめないので、皆参るらしい。話をしていると、日本女性が近づいて来た。リーキ・筆子といって、イギリス人と結婚している女性で、アンセット航空のラエ営業所に勤めているという。私の取材のテーマを聞くと、彼女は、「それでは是非ここの奥地に入ってみて下さい。まだ山の中に一面に遺体が残っています。ニューギニアにくらべたら、ソロモンは随分整理が行き届いている方です。こちらは本当にひどいんです」  と力説した。  私は残念ながら時間がなかった。  この地域にはまだまだ戦争の痕跡が残っているのである。私は日本へ帰ったら、遺体の整理を呼びかけることを約束し、リーキ・筆子さんと別れ、ポートモレスビー行きの飛行機に乗った。  機がラエ空港を離陸すると、海抜四千メートルのサラワケット山脈が右手すなわち北側に見えた。この山中には日本兵の死体がまだ残っているという。  第十八軍司令官安達中将の率いる第五十一師団が、ラエとすぐ南のサラモア地区に上陸したのは、昭和十七年十二月のことである。  この年、八月から九月にかけてのブナからポートモレスビーを占領する作戦が失敗したため、その北方のラエを増強する必要を感じたのである。  しかし、十八年八月、米豪連合軍が強力な空軍の協力によって、この地区に強襲をかけると、マラリア、デングの病魔も手伝って、サラモア地区の第五十一師団は急激に消耗した。八月二十四日、第五十一師団長中野中将は玉砕を決意して、最後の訓示を伝達したが、安達軍司令官は、第五十一師団にラエ北方百キロのキヤリ海岸へ撤退することを命じた。このため第五十一師団の残兵は、海抜四千二百メートルのバンゲッタ山を主峰とするサラワケット山脈を越えてキヤリに向った。そして、飢餓とマラリアと高山の寒さのため二千人がこの山中に倒れた。リーキ・筆子さんが言う山中の遺体とは、これを指すのであろう。山が深いため、ガダルほどは整理が進まないらしい。  機は、針路を南にとり日本海軍にとっていま一つの怨み深い戦場オーエン・スタンレー山脈を越えて南下する。オーエン・スタンレーの主峰、海抜四千百メートルのビクトリア山が前方に雪を冠った頂きを見せている。このあたりは南緯九度に近い。機は針路を少し東に寄せ、ビクトリア山を右に見て、ココダの上を通る。高原に飛行場が見える。今使っているのかどうかはわからない。  しかし、昭和十七年夏、百武中将の率いる第十七軍は、このココダ飛行場をめぐって戦闘を続けたのである。北海岸のブナからココダを通って、要衝ポートモレスビーを占領するのが十七軍の任務であった。  百武司令官は、堀井富太郎少将の率いる南海支隊にポートモレスビー攻略の命令を下し、それに先立って、十七年七月二十二日、槇山与助大佐の率いる独立工兵第十五連隊を先遣隊としてブナ地区に上陸せしめた。槇山連隊がモレスビーへの道を開拓している間に、八月十八日、堀井少将の南海支隊はブナ北方のバザブアに上陸し、ココダ—モレスビーを目ざした。この頃第十七軍の川口支隊は、ガダルのルンガ東方海岸に上陸していたのである。  ガ島と同じく、ニューギニアも苦戦であった。元来、オーエン・スタンレーを越える道は一本しかなく、ブナ付近のギルワからココダを通ってモレスビーへ抜ける現地人の道で、ココダ・トレールと呼ばれた。南海支隊はジャングルと空襲に悩まされながら、前進し、八月二十三日ココダに到達した。予想以上の速度であるが、これは槇山大佐の先遣工兵隊が道をひらき、すでに七月二十九日ココダを占領していたためである。  ココダは海抜四百メートルでここからいよいよオーエン・スタンレーの踏破にかかる。ここで、堀井少将ははたと当惑した。道らしい道がほとんどないのである。ココダ・トレールは、ブナからココダまでの道であって、ココダから先の道を意味してはいなかったのだ。しかし、モレスビーの飛行場を占領しなければ、ラバウルが危険であるし、豪州に対する作戦も成り立たない。  相変らずの食糧不足とマラリアに悩みながら、南海支隊の主力である楠瀬大佐の百四十四連隊は、海抜二千メートルの峠でオーエン・スタンレーを越え、九月十六日、遂にモレスビーまで五十キロのイオリバイアを占領した。この高地からはパプア湾の海が見え、夜は、木の間からモレスビーの街の灯が見えた。目ざすモレスビー飛行場までは、普通ならば、二日の行程であった。  しかし、この頃、補給線は伸び切っており、ブナ海岸に連合軍が逆上陸するという情報が入ったため、堀井少将はイオリバイアの占領に先立つ九月十四日撤退の命令を下していた。南海支隊は、食糧のないままに再びオーエン・スタンレーを越えてココダに向った。堀井南海支隊長が撤退命令を下した九月十四日は、ガダルの川口支隊が血染めの丘を攻めあぐみ、撤退を決意した日と同じ日である。  しかし、堀井少将の不運はそれだけに止まらなかった。南海支隊は十一月十日、全面的な退却を決意し、ブナ・ギルワ地区に向った。十九日、堀井支隊長は、いかだでクムシ河を下り、途中でカヌーに乗りかえ河口まで下った。しかし、ギルワ地区の戦闘を指揮するため、カヌーで海上を北に向った堀井少将は、雷雨の為カヌーが転覆し、四キロほど泳いだが、「天皇陛下万歳」を唱えて海面下に没し、ここにモレスビー攻略作戦は終結を迎えたのである。  私は機上からココダ・トレールを探していた。確かにジャングルのなかに見え隠れしながら、細い道が続いている。今も細く険しい道であり、この道の周辺にも南海支隊の遺体が残っているのであろう。  やがて、日本軍が二千名の生命を犠牲にして、遂に取ることの出来なかったポートモレスビーのジャクソン飛行場が前方に見えて来た。 終  章  三月十八日午後三時、私はマニラ経由で羽田に着いた。  税関を出ると、妻が待っていた。私は真っ先に、 「おやじは?」  と訊いた。  妻は眼を伏せた後、 「お父さん、亡くなったわよ」  と言った。  私はスーツケースの重みを感じた。  昭和二十一年一月七日夜、私が捕虜生活から復員して、穂積にある自宅に帰った夜、玄関で、真っ先に父に発した言葉は、 「お母さんは?」  であった。  それに対して、父は、 「お母さん、死んでまったがや」  と岐阜弁で答えた。  私はその時の情景を想い起こしながら、タクシー乗り場の方に歩いた。おやじの死に目にも会えなかった、と私は考えていた。ガダルカナルで見た二体の遺骨と、ラバウルで買った現地人の面の死者の表情が私の胸のなかにあった。  父の葬儀は、三月二十日、大垣市内の寺で行なわれた。  前日、私は妻と共に大垣、世安《よやす》町の父の家を訪れたが、私の評判はよろしくなかった。親の臨終を知りながら外国旅行を続けている長男に対して、城下町の老人たちの見る眼は冷たかった。義母は看病の疲れと、長男が帰らぬため、周囲の人から、「いつになったら葬式をやるんやね」と訊かれるので、ノイローゼになっていた。  私は義母に二十三年間、父の面倒を見てくれたことに対して礼を言った。義母が父の後妻として豊田家に嫁して来たのは、昭和二十五年春のことであった。その頃、私の家では、昭和二十三年に長男が生まれ、二十五年の夏には次男が生まれることになっていた。父は、私の妻一人では家事に手が回り兼ねることを考え、後妻を探していた。  義母のいくえは、小学校の教師を二十年近く勤め、手堅い人柄であった。二十五年八月に次男が生まれた後、しばらくの間おっぱいを奪われた長男は、義母の乳首をしゃぶっていた。  父には二人の兄のほか、町内の老人会に親しい多くの友人がいた。老人たちは次々と父の家を訪れ、仏壇の前でお経をあげてくれた。しかし、父の友人たちのうち、誰一人として、私に「お父さんの死に目に会えなくて、淋しかったでしょう」と慰めてくれる者はいなかった。彼らは父が死んだ時に、息子がどこにいたのかを知ろうとし、それを非難しようとする視線を示した。  幼いときから私を可愛がってくれた、墨俣《すのまた》の伯父は、 「旅行中で、賢(父賢次郎のこと)に会えなくて残念やったな。仕方ないわな、それも仕事やで……」  と私を慰めてくれた。伯父は八十二歳であったが、まだぼけてはいなかった。この伯父だけが私を理解してくれている、と私は考えた。  葬儀の日は好天であった。  多くの父の知人が参列してくれたが、その視線は依然として私に冷たいように思えた。  葬儀の始まる前、私は弟の満穂《みつほ》と寺の本堂の横にある墓地を散歩した。この寺は古い寺で江戸時代からの墓があり、そのなかに太平洋戦争で戦死した陸軍歩兵伍長の墓などもまじっていた。  私は弟と墓石について語った。  父は遺言で、この際、「豊田家之墓」というものを建て、死んだ母や妹や私の亡妻を一緒に葬ることを希望していたそうである。「土地の高い時代やで、一人に一つというのは、もったいないでな」と父は語っていたらしい。 「おれの墓を残しておけばよかったな」  と私は言った。  私が戦死になったとき、父は立派な墓を作ってくれた。三段積みの台石の上に一メートル以上ある墓碑がのっており、「空華院釈義穣居士」と私の戒名が彫ってあった。この墓は長い間、村の共同墓地にあって、私が来るのを待っていたが、数年前、姿を消した。共同墓地が移転することになったとき、組長が父を呼んで、 「近頃は墓地も土地不足やで、この際生きて見える人には遠慮してもらいたいんですがな」  と通告したので、父は岐阜の石屋を呼んで、私の墓碑を壊させたのである。 「あの墓は立派な墓やったわねえ。しかし、今度は本家と同じ墓地やで、本家より大きいやつを建てるわけにもゆかんでなも」  と弟は言った。  私は東京周辺を動きそうにないので、墓碑の建立とそのお守りは、弟夫婦の役目になりそうであった。  葬儀の時間が迫り、本堂の境内には、参列者の数が増えつつあった。  喪主である私は、本堂に入る義務を感じていたが、しばらく墓地に佇《たたず》んでいた。  私は空を仰いだ。西美濃の三月は晴天が多いが、この日もよく晴れていた。高度二千ぐらいのところに、刷毛《はけ》ではいたような巻雲が残り、その上空に、秋空を思わせる高層雲がゆるやかに動いていた。  私は二つの死について考えていた。父の死と、ソロモンやニューギニアのジャングルに今も埋もれている日本兵の死についてである。  私は父と私のつながりについて考えてみた。父は大垣商業学校を卒業するとすぐに、満鉄の幹部職員養成所の試験を受けて、満洲にとび出した野心的な少年で、ロマンチストでもあった。明治二十九年生まれの父は、時に短気をおこして、弟妹をいじめる私を殴り、また両掌を縛って、物置にほうりこんだこともあった。しかし、明治の気質を受けついだ平均的日本人で、その意味でよき家長でもあった。父が公主嶺の駅に勤めているとき、私は幼稚園の児童であった。幼稚園が終ると、よく駅に遊びに行った。助役であった父は、私が電信機をいじりたがるので、三十銭の駅弁を買い与えて、私を追い返した。私はその駅弁を公園で食べた。  父が平頂堡《へいちようほ》という小駅の駅長になったとき、私は小学校の三年生であった。毎日汽車で鉄嶺の小学校に通った。朝寝をして駅へ駆けつけると、列車はすでに発車していることがあった。駅長の父は私を横抱えにして列車のデッキにとび乗り、私を置くと、かなりのスピードで走っている列車からとび降りた。その頃、父は三十三歳で、私の体重は二十一キロぐらいであった。父と私は二回り違いの同じ申《さる》年である。  私は考え続けた。今、寺の境内につめかけている人々は、父の死を悼みに来ているが、彼らはかつて南方のジャングルを埋めている兵士の死について考えてみたことがあるのか。  私の父は七十八年を生きて、病院のベッドの上で死んだ。どのような死も、人間の死は悲しむに値するかも知れないが、ソロモンの熱帯樹の下で飢えて死に、未だに骨を曝《さら》している無名の人々の死にくらべれば、誰一人父の死を悼む権利などはないのだ。  父の生涯はそれ自体完結しており、長男である私が心のなかで懐かしいと考えていれば、それで十分なのだ。人は儀礼を好むが、儀礼の内容は往々にして空疎であることが多い。  父の死に、晴天の日にこのように集まってくれるならば、ラバウルに墓石の一基も建ててはもらえないだろうか。  私は寺の墓石の列を眺めながら、ラバウルからラエに飛ぶときに眺めた、ソロモンの海上に無限に浮かぶ断雲の群れを想起していた。それは一列横隊になり、あるいは二列縦隊を形成していた。  ソロモンで死んだ兵士たちには墓石はない。しかし、ソロモンの海上に浮かぶ断雲は、常に海面に白い姿を映して消えることがない。あの断雲が墓標なのだ。  昼は断雲が海面に列をつくり、夜は南十字星が黄金の十字架をかざして椰子の梢に静寂な光を投げる。それが、無名の戦士たちへの荘厳な夜毎《よごと》の葬礼なのだ。  私はそう考えながら、父の葬儀の喪主の席に着くべく、本堂の方に歩を運んだ。 ニューカレドニア 一 「死ぬ間際には、鼻先がつーんときな臭くなって、生れてから今までの一切の思い出がパノラマの様に頭の中を馳《か》けめぐるもんだよ」  そんな話を私は或る先輩から、聞いたことがある。してみると、この時の私はまだ、全然寿命が尽きたわけでもなかった様に、思われる。  火山の噴煙のように硫黄臭い匂は、つんつん私の鼻先を衝き上げ、こめかみのあたりは、風の日の電信柱のように、じーんと云う唸り声でしびれた様になっていたが、生れてから今までの思い出と云うものは、一向に脳裡に浮んで来なかった。つまり、感覚は働いていたけれども、想念は活動を停止していたと云えよう。私はただ夢中になって、右手で操縦桿をぐるぐるふり廻し、左手で絞弁《シボリ》や高度弁を押したり引いたり、その他操縦席にある、ありとあらゆる把手を、ひねりまわしていた。  ガダルカナル島沖合八千米の上空で、およそ人間の為し得る最大の努力を払っている私の姿は、神様の眼から見て、憐れにも滑稽なものであったに相違ない。十三粍機銃の弾丸を何発も喰って、蜂の巣の様になった発動機が、再び動き出すわけはないのである。  硫黄臭い匂はやがてガソリンの燃える匂に変り、私の愛機は真赤な焔と、真白な噴煙に包まれて行った。右にも左にも、逃げまどう友軍機の間を、黒い蝙蝠の様に不吉な、グラマン戦闘機の影が飛び交した。  私は心身共に全く錯乱したと見えて、大脳は判断力を失い、手足は運動の統一を失った。機は何時の間にか垂直降下に移っていた。速力計の指度は、急に一五〇節《ノツト》から三二〇節に増え、体はふわふわと宙に浮いた。高度六千米位から背面飛行になり、すぐに背面錐揉に入った。火焔間で、青い空と黒い水がかわるがわる交替し、白い雲と茶色の陸地が、私の視野の中で入れ違った。体が妙に座席に押しつけられて、自由が利かない。あぶないあぶないと、私の背筋のあたりで、何かがわめき続けた。私は不意に操縦桿を一杯前に突き込んだ。機は偶然水平に戻り、火焔は消えて白い煙だけが余燼を引いていた。然し、まだ海と空の位置が反対である。思い切って操縦桿を右に倒すと、やっと青空が頭の上に来た。やれやれと思うと、 「分隊士。不時着しましょう、左にサンタイサベル島が見えます」と云う相沢の声が耳に入った。気がついてみると、弾丸に当った時から、彼は盛んに何かガンガン喚き立てていた様であるが、一向私の耳はそれを受附けていなかった様である。高度は丁度三千米であった。私は膝のポケットを探って、航空糧食のキャラメルが、一箱まだあるのを確かめてから、機首をゆっくり左に捻った。全身の血が頭に上ってしまったと見えて、統一のとれた行動はまだ全然とれて居らない。ただその時その時の衝動によって、動いて居るに過ぎない。  すぐ左下に見えていたサンタイサベル島は、高度が下るにつれて、段々遠く感ぜられて来た。相沢は後席で一生懸命に救命浮舟《ブイ》をふくらませているらしい。私は高度計と島とを半々に睨みながら、慎重に滑空を続けた。高度が十米を指した時、私は一杯機を引き起した。速力は五二節まで減った。すーっと車輪が海面を撫でる感触がして、機がガタッと前にのめったと思うと、ガバーンと云う恐ろしい音響と共に、私の記憶は一時完全に中断された。  次の瞬間、つーンと鹹《から》い潮の香が鼻から背筋に沁み通り、別段呑もうと云う意志もないのに、ガボッガボッと海水が、否応なしに胃の中に一杯になった。眼を開いてみると、あたりは真暗である。矢鱈に手足を動かしているうちに、すーっとあたりが明るくなって、ゴツンと固いものに頭をぶっつけた。飛行機の翼である。脚を曲げてそれを蹴ると、ぽかりと水面に出た。丁度発動機の横のあたりである。機は両脚を天に向けて、だらしなく腹を出している。本能的に後をふりかえると、相沢が、尾翼の横から顔を出した。彼もしこたま鹹い奴を呑まされたと見えて半分泣いた様な顔をしていた。  三米ばかりわきの方に、赤白だんだらに染めた長さ二米ばかりの、ゴム製救命浮舟が、半分ふくらんで浮いていた。私はあの混乱の中で、悠々と浮舟をふくらませた相沢の沈着ぶりに、敬意を表した。  相沢はすぐ浮舟に泳ぎついて、 「上で半分ふくらましたんですが、座席一杯になっちまったもんですから」  と云いながら、ポンプでぱくぱく空気を入れ始めた。  私は、口の上に何かまつわりついているので、何気なく払ってみると、鼻の頭に鈍い痛みを感じた。鼻の頭から上唇の両端まで、厚さ一センチ位に削がれて、その尖端があごの辺まで垂れ下っているのである。血が大分出たと見えて、附近の海水が赤黒い縞を引いていた。機からほうり出される時に、遮風板の縁《ヘリ》で、打たれたらしいのであるが、もう一寸上をやられていたら、私はこの小説を書かなかったに違いない。手を放すと、鼻の先はすぐに顎の上に垂れ下って来た。  相沢の方に近寄ると、彼は私の顔を見て、びっくりした様にポンプの手を止め、 「分隊士、やられましたね。鱶が来ると危いですよ」と云った。 「うん、やられた」と私は云った積りであるが、これは声にならなかった。私の下唇は内側を一寸近く横に裂かれ、同じく顎のへんまで、だらりと垂れ下っていたのである。  ソロモン名物の鱶は、まだ姿を現わしていなかった。  私達の最後を見届けに来て呉れたらしい零式戦闘機が一機、低空で頭上を廻って、人の顔がぼんやり見えた。  金属製の飛行機が沈むのは早いものである。脚を上にしたまま、きらりと青白い反射を残して、加速度的に沈んで行く愛機を横眼で見ながら、相沢は熱心にポンプを動かしていた。零戦は何べんも翼を左右に振り振り南へ飛んで行った。私はふと、この辺の水深を考えていた。幅一米、長さ二米のゴム浮舟は、二人のると真中が飛び上って、両端が沈むので、前こごみに坐っていると首がだるかった。鼻の頭は何遍押し上げてくっつけてみても口の上にぶらりと、垂れ下って来た。相沢が、 「分隊士、相当ひどいですね。白い骨が見えてますよ」と云いながら、首に巻いていた白い手拭を取って裂いて呉れた。タオルを首の後へ廻して、鼻の頭を縛りつけると、私はほっとしてあたりを見廻した。  東の方五浬位のところにサンタイサベル島が、緑色の山形を連ね、遥か西の方にオハジキ玉のように、うすくかすんでいる平べったい島はラッセル島らしい。その南に大きく横たわっているのは、ガダルカナル島の様である。真昼の太陽は濃緑色の水面に、きらきらと眩しい金色の縞を照り返して、なまぬるい南海の水は油を流した様に凪いでいた。  今日は四月八日である。これからどうしてよいか、二人共全然見当がつかなかった。  ふと相沢が、 「分隊士、私の見張りが悪かったもんですから……。済みません。——ぼんやりしていて」  とはっきりした声で云った。子供子供した色白な丸い顔が、かすかに歪んでいた。  私は「ううん」と云いながら、何の何のと云う風に首を振ってから、唇を歪めて、低い声で、 「お前は怪我はなかったかい」  と訊いた。彼は、 「ええ、横腹を一寸打っただけで、大した事はありません。……此処の水は案外鹹いですね」  と云って、澄んだ水底の方を眺めた。熱帯魚らしいあくどい色彩の魚が、二三匹ゆっくりおよいでいた。  三十分位経った頃、五六百米位彼方を味方の爆撃機が二機、全速力で、海面すれすれに帰って行った。二人は盛んに手を振って、遠くなるまで見送っていた。 「不時着地点を電信で打って置きましたから、夕方頃、水偵(水上偵察機)かなにかで収容に来るでしょう」  と相沢は真剣な顔をして、気楽そうな事を云った。  間もなく私達は、着のみ着のままの飛行服姿で浮舟の上の客となり、あてのない漂流生活を始めていた。  夕方になった。ガダルカナルの東南方青く澄み切った水平線近くに、玉笏の様な南十字星が燦然と瞬きはじめ、その肩のあたりに、蠍座の巨大な姿が、徐々に輝きを増して行った。  生れて始めて見る南海の夕空は、ラッセル島のあたりに、真赤な夕焼雲の縞を棚引かせながら、やがて黒ずんで行く東の空から荘厳に暮れて行った。紅と黄の美しく入りまじった、海面のきらめきが、冷やかに燻《くろず》み、夕陽に見事なシルエットを浮ばせていた。ラッセル島とガダルカナル島がやがて暗に溶け込むと、おしころした様な沈黙のうちに夜が来た。昼間、激しい空戦が行われたであろうフロリダ島のあたりもひっそりとして、降る様な星だけが、静かに強く冴え返って行った。  首がだるくなったので、二人は浮舟の引き綱をつなぎ合せて、首にかけた。  夜半近くから、急にあたりが冷え始め、冷たいスコールの来襲と共に、海は荒れ始めた。どぶんどぶんとゴム浮舟にあたる海水が砕けて、暗のなかで夜光虫がちらちらと光るのが、夢の様に美しかった。濃い密雲に蔽われ始めた空の隙間で、冷たい星がゆっくり、左右に揺れ動きながら瞬いていた。  浮舟は洩《も》ると見えて、バチャンバチャンと中で水の動きが感ぜられ、冷たい波は二人の肩を越す程度に高くなって来た。襟首から入り込む海水が冷たさを増して、時々洩らす尿水が、下腹に火の様に熱く感ぜられた。  夜半過ぎた頃、飛行機らしい爆音と共に、二つ並んだ赤と青のランプが、二組私達の横を低空で何度も廻った。私は思わず力の限り「オーイ」と叫んで塩水を呑んだ。相沢は視覚に訴えようとして、盛んに両手で波を掻き立てて、無数の夜光虫を乱舞させていたが、たまらなくなった様に、 「オーイ」と叫んだ。何度叫んでも二人の声はすぐ波と風に打ち消された。  飛行機のランプが遠ざかり、やがて見えなくなってしまうと、私はしみじみ淋しくなって来た。首にかけた綱で摺れた後に、海水がしみて、ひりひり痛むのが感ぜられて来た。明方まで二人は、波に揺られながら少し眠った。夢は見なかった。  あくる日は終日ひどい豪雨であった。私達は体温の発散を恐れて、二人とも小さくちぢこまったままうつむいていた。周囲は真白な雨のふすまに立て籠められて、視界が殆ど利かず、島は全然見えなかった。 「こう云う日には飛行機が低空で救助に来るのに、持って来いなんですがねえ」と相沢が云った。  昼過ぎ一寸雨が小止みになった頃、低く垂れ籠めた雨雲と水面との間に、ちらと鳥の様な機影が見えた。二人の方へ針路を向けた様に見えた時、私達は思わず、 「オーイ」と声を合せて、手を振りながら浮舟の上に立ち上った。浮舟は忽ち平衡を失って顛覆し、私達は飛行靴と、浮舟に空気を入れるポンプとを失った。機影は黒い豆粒の様になり、やがて白い雨雲の中に消えて行った。  次の日は二人とも相当疲れて来ていた。雨は止んで雲だけが残っていた。  相沢の少し伸びた不精鬚に青黒い水垢がたまっていた。眼が少し落ち込み、睫毛についた塩が白く光っていた。私は右肩と右膝とに、新しい傷の痛みを感じ始めていた。腹が空ったらしく、胃の腑が焼ける様な痛みを訴える。手は塩水でふやけて豆腐の様にぶよぶよで、浮舟の底に張ってある網目の間から、時々変な魚が喰いつくので、靴下がところどころ破れていた。  スコールが止むと、のどがひりひり乾いて来た。鼻の傷は血が一塊りこびりついたまま、がさがさに乾いていた。  私達の南方三浬位のところに、こんもりと熱帯樹に包まれた小さな島があり、その十浬位西南の方に大きな島が、なだらかな海岸線を長く海上に引いていた。二人は始め希望的観測から、昨日一日のうちにニュージョージア島に流されたのだろうと云い合った。ニュージョージア島のムンダには、味方の飛行場があった。私が膝のポケットから航空図を取り出すと、べとべとになったキャラメルが箱ごとついて出て来た。地図で調べて見ると、これはどうもガダルカナルとサボ島らしかった。不時着基地のあるサンタイサベル島のセントジョージ岬は遥か東北に離れて、十五浬位はありそうに思えた。  私は喋舌《しやべ》る度に歯が下唇の傷跡に入り込んで、激しく痛むので、憂鬱そうに黙りこくった。  海が凪いで雲が去ると、熱帯の太陽はじりじりと二人を照りつけた。飛行服は肩のあたりから白っぽく乾いて来た。相沢は思い出した様に、 「腹が空りましたね」と云って、 「確か握り飯を入れておいたんですが」と云いながら、膝のポケットからどろどろになった握り飯をすくい出した。私は、 「これから先に食おう」と顔をしかめながら云って、熱糧食のキャラメルを半分ずつ分けて食った。塩味のついたキャラメルの味は、仲々うまかった。相沢の握り飯は地図に包んで、二人の真中に置いた。食物が喉を通ると、二人は急に元気づいた。私はやっと頭がはっきりしかけて来た。  サンタイサベル島まで十五浬として、この浮舟を一時間に半浬漕ぐと、三十時間でセントジョージ岬に到達する。必死になったら漕げぬことはあるまい、と思って相沢にそれを告げた。相沢は私の方を向いたまま、私はセントジョージ岬を睨みながら、二人は手で浮舟を漕ぎ始めた。皮肉な事に、二人を載せるのに小さ過ぎる浮舟は、四つの掌で推進させるには些か大き過ぎた。何か漕ぐ道具を欲しく思っていた時、近くに大きなボール箱が浮いているのを見つけたので、私達はその方へ漕ぎ寄った。そばへ行ってみると、垂直に立った黒い木片が三つばかり、悠々とボール箱の周りを廻っていた。ソロモン鱶であった。二人はゾッとして、慌てて首からマフラーを脱して海に流した。  白いマフラーに書いてある二人の名前が、よく卒塔婆などに書いてある故人の俗名の様に青白い海水の間でゆらゆらと揺れ動いた。 「もう少し小さければ叩き殺して食うんですがね」と相沢は残念そうに云った。  一番大きい奴は二米位ありそうに思われた。工合の悪い事に三匹の鱶は箱をはなれて、私達のまわりを廻り出した。親子連れらしく大きいのが二匹と小さいのが一匹であった。私は鱶に食われる事だけは、どう考えて見てもいやであった。  太陽が斜に西へ傾いた頃、ごうごうと爆音を立てながら、ボーイングらしい大型爆撃機が三十機ばかり、編隊で西の方へ飛んで行った。するとまもなく、北の方の水平線に双発らしい機影が現われて、真直に私達の方に向って来るのが見えた。 「陸軍の百式(司令部偵察機)かも知れませんね。あいつは早いですからね」と相沢が云った。  然し今度は二人とも立ち上らなかった。やがて頭上すれすれに飛んで行ったのは、ロッキードP三八の双胴戦闘機で、上からのぞいている操縦者の眼鏡がきらきら西陽を反射して光っていた。夕方私達は握り飯をわけて食った。  私は懐に入れてある拳銃を思い出して、引張り出してみた。ところどころ赤く錆び付いていた。私はそれをひねくり廻しながら、「弾丸が出るだろうか」と云った。微笑したつもりであったが、鼻の傷と、不気味な緊張とで顔が少し歪んだだけの様であった。 「さあ、どうですかねえ」と同じく自分の拳銃を弄びながら相沢が答えた。  鱶は執念深く二人のまわりを廻って、ときどき跳ね上って、真白な腹を不気味に光らせた。  夕陽はやはり美しかった。ソロモンの島々は今日も荘厳な入陽に包まれて、静かな暗の中に沈んで行った。そしてその夜の星々も、やはり澄んだ光を冷たく投げていた。  四日目の朝、私達は異様に大きな島に近づいているのを発見した。私達はまだニュージョージア島であってくれればよい、と云う一抹の希望を捨てていなかったが、島の一端から一斉に戦闘機らしいものが飛び立つのを見て、 「ガ島ですね」と相沢が叫んだ。私は重苦しくうなずいた。私達は丁度ガ島とサボ島との中間位にいた。椰子やマングローブなどに取り囲まれたガダルカナル島は、満面の朝陽を浴びてお伽噺の魔法の島の様に、ゆったりと浮んでいた。  陸地に近づいたので、もう鱶は居なかった。二人は黙って漕ぎ出した。どこへ行くと云うあてはなかった。兎に角この島から遠ざかる事が必要の様に思われた。昼頃まで二人は黙々として漕ぎ続けた。物凄い努力と共に、多大のエネルギーが消耗された。  昼頃になって、サボ島と、も一つ向うに見えているフロリダ島の見通し線の推移から、私達は明らかに潮流によって、ガダルカナルとサボ島との中間の水道に吸い込まれて行きつつある事を知った。私達は漕ぐ元気を失って、茫然とブイの上に坐っていた。飢えと疲労以上に恐ろしいものが、私達の胸の底に暗い影を落していた。  夕方頃私達はガダルカナルから二千米位に近づいていた。青々とした椰子の密生した海岸を洗う波しぶきが、ちらちらと白く光り、崖の中腹に望楼らしい小さな白い丸木小屋が、ぽつんとかかっていた。  私は何気なく飛行帽をはずしてみた。生乾きの皮の上に、塩がところどころ白いしみを残している。これに着いている青色の飛行眼鏡は浜崎のものであった。攻撃に来る途中バラレの基地で、古参の大根兵曹長が車輪をパンクさせたので、私は一番若い浜崎の機をその代機に当て、浜崎を残らせることにした。 「分隊士、最初からおいてけぼりは、余りひどいです」と真剣に喰ってかかる浜崎を、 「まあそう云うな。この次は屹度《きつと》連れて行ってやるからな。その代りこれを貸せ、お前の代りに連れて行ってやろう」  と取り換えて来たのが、この飛行眼鏡であった。——浜崎は俺の帰りを待っているだろうな——と私が眉に八の字を寄せて考え込んでいた時、 「分隊士、グラマンが来ましたよ。四機ばかり」と相沢が叫んだ。高度五百米位で哨戒隊形を作った、グラマン戦闘機が四機、此方に向っていた。その内一機が急に高度を下げたかと思うと低空射撃の姿勢を取った。 「あ、来ましたよ」私達はどぶんと海中に飛び込んだ。  真向うに下りて来たグラマンの両翼が火を吐いて、「ササササササササ」とあたりに白い飛沫が立ち籠めた。弾丸は白い泡沫を残しながら海中に消え、弾道は海中に入ると光線の様に屈折すると云う事実を私は否応なしに見せつけられた。私達には一発も弾丸は当らなかった。グラマンは一航過すると、あっさり友機の跡を追って行った。  暗くなってから私は思い切って、 「おい。こうなったらいっその事……。相沢兵曹、操縦は出来るかい?」 「ええ、練習生の頃、三時間半ばかり操縦したことがあります」 「ふん、三時間半か。……ガ島に上って敵の飛行機をぶんどって逃げようと思うんだがね」 「そうですね。やり損ったら、舌を噛んで死にましょう」二人は今度は島の方へ全力で漕ぎ出した。  今夜は暗夜で星も見えなかった。二人に毛嫌いされていた、悪魔の様に黒いガダルの島影は、今度は救世主の住む希望の島の様に親しく感ぜられた。然し依然として変らぬものは、二人の浮舟を漕ぐ能力であった。どちらが云い出すともなく漕ぐのを止めて、ぐったりとなっていた時、私達の五百米位彼方を四つばかり赤や青の灯火をつけた黒影が通った。 「あ、潜水艦らしいですね」 「うん」 「分隊士、ガ島へ上るのはもう少し待って見ましょう。いつかもこの辺で味方の潜水艦に救い上げられて帰って来た搭乗員が居ったでしょう」 「うん」  死んだ様になって相沢が眠り出した頃、私は又拳銃を引張り出した。自殺するつもりではなく、自殺に迫られた時に役立つかどうか、試射をして見る積りであった。黒い海面に銃を向けて、人指ゆびに力を入れてみたが、引金はギギと云うだけで仲々動かない。私は波に揺られながら真暗な空を仰ぎ、黒い水面にちらつく夜光虫の光を跳めて、ぼんやりしていた。  鼻先はきなくさくならなかったが、断片的な思い出がぽつりぽつり現われては消えた。私は雪枝の事を考えた。彼女は鹿児島に居る。この次は七月頃作戦を終えて帰ると云ってあるから、待っているかも知れない。母の事が頭に浮んだ。私が航空隊へ入った時から私の事は諦めていたから、無事に帰る事は当にしていないだろうが、死んだと聞いたら悲しむに違いない。私はこの外に思い出すべき女性を知らない。私は今日無事に攻撃を終えて帰って行った、戦友の事を考えた。  同期生の村瀬の事を考えた。彼等もいつかは私の轍を踏む運命におかれている。それを考える苦しさを紛らわす為に、私達は酒を飲んだのかも知れない。  私には、何故日本がこの戦争をしなければならないのか、まだよく理解出来ていなかった。私は二十四歳である。私は自分に今度の戦争の為に死ぬ事の、合理性、合目的性を理解させようと努力した。然し私は自分の心の底で、いやいやをしながら首を振っている自分を見出していた。今、私には生命の危機の上に、もう一つ信念の危機が蔽いかぶさって来ている。  死と云う黒幕をすかして、妙な輪廓の文字がぼんやり浮び上っていた。私はその文字自体に、本能的な恐怖を感じている自分を思った。それは内容にではない。外形に対してである。丁度、子供が恐い顔をした小父さんを本能的にこわがり、理由もなしにくら闇を恐れるように。その恐怖の殻を破って、一歩突き進んだなら、案外つつましい安息があるのかも知れない。然し今の私はそれを突き破ったあとの事は考えていなかった。兎に角、私は今、真剣に考えるべき時である。  寸毫も自己を偽ってはならない。今私の頼り得るものは自己だけである。あらゆる仮面と衣裳とを剥ぎとられ、完全に赤裸々となった自己のみが、私の伴侶であり、行為の指針である。  日本の港を出る頃から、私は心の底に、何かしら——危い。危い。——と警告を発している、重苦しい黒色の塊があるのを感じていた。私はかなりスケプティックになっていた。その黒い塊のみが、愛国者と云う空虚な美名や、子供だましの勲章などの為に、一つしかない生命を、石ころの様に捨ててしまうことの愚かさを知っていたと云えよう。  中学二年の時に漠然と海軍士官に憧れ、受験に決してから、私は相当過度に勉強した。海軍兵学校に於けるスパルタ式訓練は、その苦業に輪をかけた。私はその苦しい試練にも堪えた。海軍の学校は私の夢見た様な理想的快男児の集う、日本の梁山泊ではなかったようである。  私の単純なヒロイズムと苛烈な人生の半面とは、この頃から喰い違いを生じていた。私の懐疑心もこの頃に芽生えたものと云えよう。私は今、幼いヒロイックな情熱の冷め切った後に、凝固しつつ傲然とうずくまっている、人間性の本体を見せつけられていた。私は、「死して虜囚の辱めを受けず」とか「武士道とは死ぬ事と見つけたり」などと云う言葉を盲目的に有難がるほど、狂信的な武士道精神の持主ではなかった。私は、軽薄なヒロイズムから軍隊へ入ったのである以上、人一倍愛国者ではあり得なかった。又、敵に捕われる前に死ぬと云う事が、必ずしも国を愛する所以《ゆえん》であるとも考えられなかった。  過ぐる日、上海戦で中国軍の手に捕われ、奪還されてから自決の止むなきに到った某少佐に、私は一掬《いつきく》の同情を感じていた。そして今同じ事態は、のっぴきならぬリアリティを以って、私自身を根本からゆすぶる問題となって来ている。  私は偶然、高垣の事を思い出した。真珠湾攻撃の特攻隊に加わり、今米国に収容されていると云う噂のある、私の同期生の事を……。  私は自分の生存に理由をつける様な生き方はしたくないと思った。高垣が果して生きているかどうかはわからぬ。又生きているにしても、どんな状況で捕われ、どんな考えで生きているかは知るべくもない。ただ私は自分の性格から、不可抗力で捕虜になった、などと云う云い脱れをする前に、信念の上から生死いずれを選ぶべきか、はっきり決着をつけて置きたいと思った。私は今敵の海面に漂って、物質的には殆ど無力である。私としてはこのまま流れて行って、のたれ死ぬか、自ら死を選ぶか、敵手に甘んずるかの三つしか運命を持たない。私は今、死を選ぶか選ばないかによって、日本国民と人類との境界面、そして武士道と云う直線と人間性と云う円との切点に立たされている様である。私は考えざるを得ない。正しい理想の為に戦う時、人は死を恐れてはならない。デモクラシイの権化と云われる米人が、あれだけ勇敢に戦い、あれだけ多くの血を流しているではないか。——然し全力を尽した後捕虜になったからと云って、それが必ずしも死に値する罪であるとも考えられない。そこまで日本国民であると云う事に束縛されたくない。況《いわ》んや今度の戦争の目的が、私に充分理解されていない事実に関してをやである。つまり、或る一線までは国民としての義務に服するも、それから先は人間としての権利を主張してもよかるべきではあるまいか。……然し、この理論的当為らしきものは、まだ歴史的な根柢を持つ旧い概念を突き破るまでに固まっていなかったと見えて、私はまだ多分に懐疑的であった。私の様なぼんくらは、よくよく生命の危険に曝されないと云うと、生命の本質がわからないらしい。生命力の強い要求に気づかないのである。私は一方では否定しながらも、どこかで自分の生存に理由をつけ、生を合理化しようとしている自分を感じた。そして、敵の飯を食って生きるのは卑怯である、と恐い顔で睨みつけている鬚面も、どこかに幻影を止めていた。私の信念はまだ安定していなかった様である。それに、海上で干乾しになる事と、その前に自ら生命を断つ事とは私の自由であるが、救助されて捕虜になるか、その前に殺されてしまうかと云う事になると、これは私の選択圏外に出てしまうのである。いくら捕虜になりたくても、拾いに来て呉れなければそれまでである。私は好むと好まざるとに拘らず、忠勇なる日本軍人としての道を踏まされてしまうのである。戦争と云うものは、厳酷なる宿命である。  理窟はともかくとして、今私にやれる事はこの試射だけである。一応はやってみなければならぬ様な気がする。私は両手の指を引金にかけて、力一杯引いてみた。今度は動いた。然し「ガチン」と鈍い音がしただけで弾丸は出なかった。私はほっとした。ほっとしていいのか悪いのかわからぬが、兎に角一応ほっとした。弾丸が出なくてほっとするのなら、弾丸が出たらどきっとしたかもしれない。  私は死を恐れぬ勇敢な(盲目的なと云う言葉を使っていいかどうか、判断出来る程私の眼はまだよく開いていなかった——)日本軍人でもなければ、死を選んでも敵に捕われるのを潔しとしない、日本固有の武士道に徹し切った崇高な(——封建的なとか旧弊なと云う様な言葉は、まだ私の辞書には載っていなかった——)日本精神の持主でもなかった様である。  私は此処で第一の人間発見をした。それは貴重なしかも苦しい発見である。人間が自己を発見する為には、この位苦しまねばならぬのかと私はひそかに驚いていた。此処に浮いているのは、国籍も伝統も、因習も係累も、地位財産すべての仮面を剥ぎ取られ、一切の玩具を奪われた一個の人間に過ぎない。飢餓と寒さと銃声とに脅かされ、鱶の顎の恐怖に戦《おのの》きつつ暗い海上で呼吸している、人類の一員に過ぎなかった。私は、自分が軍人である前に先ず人間であり、日本国民である前に先ず人類の一員であると云う事を認めない訳にはいかなかった。私はひそかに、私はもう少し同情されてもよいと思った。  黒いガダルカナルの恐怖はまだまだ心底から去っていなかったが、拳銃の試射に依って何かしら新しいものを発見した私は、微かな満足と、訴え様のない軽い反抗心とを感じながら、拳銃を懐に突込んで波の音を聞いているうちに眠ってしまった。  漂流第五日目の朝は、素晴らしい上天気であった。私達はサボ島まで五百米位のところにいた。  熱帯特有の断雲も今日は姿を見せず、朝の太陽が海面に反射して、疲れた眼に一層まばゆい。のどと胃の腑が焼けつく様にひりひり痛み、生への欲求が具体的な形をとって現われて来ていた。海はサボ島の白い砂浜に、快い波頭を見せながら砕け散り、その向うに椰子林がみずみずとした緑を見せていた。  相沢は、腹が空ってこのままではとても駄目だ、と云うし、私も同感であったので、とりあえずサボ島の白い砂浜まで漕ぎつけ、バナナでも見つけて万事はそれからと云う事に話を定めた。  昼頃まで漕いで約百米位に近寄った時、一休みと云うので相沢が眠りだした。ガダルの方では、爆音がひっきりなしに聞えていた。私も一眠りして、波の荒くなったのに気がついて、眼をさますと南の方の波間に星条旗が現われ、二百噸ばかりの船が此方へやって来たのが見えた。私は思わず相沢の顔を見た。何かいい夢でも見ているのか、彼はげっそり頬がこけ、鬚の伸びた顔をほころばせて、ニコーッと笑っていた。私はゾーッとした。私は彼を揺り起して、 「相沢兵曹、来たわい」と云った。 「あ、とうとう来ましたね。然し、分隊士、逃げるだけ逃げて見ましょう」  二人はどぶんと海中に飛びこみ、潜るつもりでコルクの救命胴衣を脱ぎ、拳銃を捨てた。飛行服の重みと疲労とで、私は途端にぶくぶくと海中に沈んだ。少し息を止めていると、どっくどっくと鼓動が高まって来て、たまらなく息苦しくなって来た。私が浮き上ると相沢も顔だけ出してあっぷあっぷしていた。  間もなく哨戒艇らしいその船は、近寄ってランチを下した。半裸体に青ズホンのセーラーが四人乗っており、軽機関銃を持った大きい男は胸毛をもじゃもじゃと生やしていた。機関銃の銃口が私の方を向いた時、私は観念した様にがっくりと首を垂れ、顔を水につけたまま、舌を噛んだ。上顎と下顎をやられている上に、舌を噛むなどと云う事は経験がないので、仲々うまく行かなかった。波間に浮き沈みしながら、私が舌を歯の間で、つるつる滑らせている間に相沢は救い上げられてしまった。間もなく私も引張り上げられた。重い服を着け、肥満した私の体は彼等二人の手には仲々重いらしく、 「ツーヘビイ(重いぞ)」と云う、私にとって最初の彼等の言葉が耳に入った。  上甲板で濡れた衣服を脱がされた二人は、ボイラーの傍の温い部屋に入れられた。キューピーの様な顔をした、若い水兵が、熱いブラックティーとハムサンドを持って来た。私が相沢の方をちらと見ると、彼は、 「分隊士、まだ舌を噛まんでもいいんですか」と思いつめた様な顔附で問うた。私は、 「まあ、一寸待て」  と低く云ったが、声がのどに引っかかって、うまく出て来なかった。水兵は「ホイッ」と短く口笛を吹いてから、手真似で盛んに呑め呑めと合図をした。私はまだ、がたがたふるえる手で、熱いブラックティーの大きなカップをとりあげた。相沢も私に倣った。カップの中で、黒い液体がゆさゆさと揺れた。茶の香に、恐る恐ると云う感じを、私は味わって見た。 二  ルンガ河口と思われるあたりで船を下りて、私達はジープにのせられた。恐ろしく口径の大きい二連装銃を持った、セーラーが二人両脇に乗って来たので、私はやっぱり殺すのかな──と思った。  診察室らしいところで診療を受けている間に、少佐らしい背の高い将校と、二世の通訳が二名ばかり入って来た。私の鼻の傷は、もう殆ど治療を要しない程度に癒着し、赤黒い血糊がかぱかぱになってこびり付いていた。  少佐は名前と階級を尋ねた。 「海軍予備少尉、真田弘」と咄嗟の間に私は答えた。相沢は、 「相沢……五郎」と名前だけ偽り、階級を答えあぐんでいた。 「そちらも、海軍予備少尉です」  と私が横から答えた。この答えが、先々どれほど重苦しい負担になって相沢を苦しめるか、私はまだ全然予想していなかった。死ぬにしても、生きるにしても相沢と離れたくない、と云う考えが、咄嗟の間に私にそう云う嘘を云わせたのかも知れない。  診察が終ると、再び二連装銃のセーラーに警戒されながら、私達はガダルカナル島の仮収容所と思われるキャンプに送られた。  門の標札には "Prisoner of War Camp" と書かれ、中では槌の音がしていた。最前線の基地なので、収容所は余り大きくなかった。四隅に見張塔のついた、二重の鉄条網の中に、大きな小屋が二つと、天幕が六つ位、然しちゃんと水道がついていて、網戸張りの炊事場には色々な食糧が並んでいた。キャンプには私達の先客が五名ばかり居り、その内の一人が天幕の中で、大きな事務机を作っていた。私と相沢はその隣の天幕に別々に入れられた。先客の一人が、食事と一緒に防暑服と蚊帳を持って来て呉れた。大きな椀の中に、日本式の五目飯の様なものが、山盛りに盛られて、太い木箸が添えてあった。  此所まで来てしまうと、案外私は食慾がなかった。この五日間、あれだけ生命と信念の危機に曝されながら、殆ど際立った印象を残していないのを私は不思議に感じていた。それは人為でなく、天為であったかも知れない。人は天災には割合従順なものである。悲惨は、想像していた時より、実際直面した場合の方が軽いのかも知れない。私の頭は、混乱と不安が渾沌《こんとん》とした均衡を保って、不気味な統一のなかに、漠然と静まりかえっていた。  簡単に食事をすませた後へ、二世の通訳が二人、航空少尉だと云う、六尺豊かの大男を連れて入って来て、日本の話、飛行機の話、今度の戦争に関する感想等色々尋ねた。まだはっきり捕虜になった様な気がしないので、返答に筋道が立たず、口数少なく言葉を濁した。彼等は、 「貴方の名前は、飛行服に書いてある名前と違いますが、サナダヒロシが本当なのですね」  と尋ねた。私はうなずいた。 「貴方は、ラッキーボーイです。生命を大切にして下さい。後二三日したら、後方の大きな収容所へ送られるでしょう。此処は何もありませんが、臨時ですから、我慢して下さい」と彼等は云った。  私はサナダヒロシサナダヒロシと口の中で呟いて、腹の底でにやりと苦笑してからラッキーボーイラッキーボーイと胸の中で繰り返して見た。最後に彼等は、 「貴方は、この戦争は何年位続くと思いますか」と尋ねた。私が、 「自分にはよく見当がつかないが、日本では百年戦争などと云っておる様だ」  と答えると、彼等は笑いながら、横の大男に通訳した。その男は、「ヒョウー」と甲高く口笛を吹いてから、 「ハンドレッド・イアーズ」  と叫びながら、両肩をすぼめ、掌を開いて前へ突き出し、眼球をひょうきんそうに、くるくると廻した。  彼等が出て行くと、私は相沢の事が心配になって来たので、天幕の外に出て、彼の気配をうかがってみた。もうたそがれに近く、夕陽が椰子の葉越しに美しい薄紫色の縞を投げていた。すぐそばに飛行場があるらしく、ボーイングの重爆撃機や、双胴体のP三八戦闘機、私に宿命の賽を投げたグラマン戦闘機などが、ひっきりなしに頭上を飛び交している。相沢は眠っているのか、物音一つさせない。突然、私は激しい、不安に襲われた。今、私の本能はひそやかな喜びに満ち、理性は大きな悲しみに打たれている。一切の係累を振り払って素っ裸になると云う事は、何と云う素晴らしい事であろう。而もこの私が捕虜に……。とても考える事の出来なかった事が現実となって、今私を心の底からゆすぶり上げて来ている。余人はいざ知らず、自分だけは捕虜になどなりっこない、と云う考えは、俺だけは死なない、と云う考えに次いで、私の中では強いものであった。それが今、否応なしに現実と云う姿をとって、展開されて来ている。この分では、自分の死などと云う事も、案外あっさりと事実になる時が、来るのではあるまいか。こう現実の力を、水際立った素晴らしさで見せつけられてみると、宿命などと云う言葉も、結局現実をロマンチックに云いかえてみたに過ぎないのであって、原因を持たぬ総ての結果の綜合的名称であるところの現実こそ、全智全能の神であり造物主なのではあるまいか、と云う様な気持さえして来るのである。日が暮れてから、木製の折畳式寝台に蚊帳を吊っていると、衛生兵らしい米兵が、マラリア予防剤のアダブリンと云う白い錠剤を、二粒ばかり置いて行った。  寝る前にもう一度外へ出て見た。もう暗い。爆音も幾分減って、海岸と思われる方から、かすかな波の音に混って、レコードのジャズが聞えている。気が附いて見ると、此方へ来た時からずーっとやっていた様である。米国人も仲々陽気なところがある様である。  一歩一歩、自分は捕虜になったのである、と云う事を確かめる様な足どりで、附近を散歩していると、椰子の梢に十夜位の大きな月が上って来た。空気が澄んでいるせいか、南国の月はまことに静かである。  バラックの方に入っている先輩の連中が、一杯聞し召したかの様に朗かな調子で、合唱を始めた。 「俺が捕虜になったなら 女房は浮気をするであろう」  などとやっている。始めは苦笑いしながら聞いていた私も、段々節が哀調を帯びて来ると、そこはかとない郷愁に胸が一杯になりそうになって来たので、又自分の天幕に帰った。 三  次の朝、眼をさましてみると、もう陽が椰子の梢に高く上っていた。  大工をやっている旗中と云う男が、オートミールと乾ぶどうとミルクを持って来て、しばらく話し込んで行った。  彼等はこのガダルカナルの戦闘で捕えられ、彼等の外にも四百名ばかり此処にいたが、一週間ばかり前、後方に送られ、自分達は後から捕えられて来る者の世話係として残った。まだこの附近の島には、数千の日本兵が糧食を持って隠れているらしい。ガ島の戦闘は悲惨を極め、将校は極めて卑劣な事をやったので、非常に評判が悪いから、貴方も将校だったらこれから先、気をつけた方がよい。パイロットさんも最近まで二三人居ったが、夜天幕の中で脱走計画をやったので、今は警戒が厳しい。然し待遇は仲々上等で、糧食、煙草等もふんだんに呉れるし、日本の設営隊が残して行った、味噌、醤油などの外に酒やウイスキーなどもある。酒を呑みながら、歌でも唄うのが唯一の慰めになって来ました。などとしゃべって行った。  昼飯の後で昨日の通訳が来て、もう一度私の名前と階級を確かめてから、隣の天幕を指しながら、 「あの人は、昨日から何も云わないで、只殺せ殺せと云うばかりなので、困っています」  と云った。私は薄く笑っただけであった。 「明日の朝、貴方達は後方に送られます。今夜支度をしておいて下さい」  と云い置いて、彼達は出て行った。たった二晩で去るには、何がなし名残り惜しい収容所である。  相沢の天幕は終日、人の気配がなかったが、夕方私が外へ出てみると、便器の前に彼がしゃがんでいた。どちらからともなく、二人は慌てて視線を外《そ》らした。彼の目の色には、思いつめた深い悲しみの色が見えていた。彼は私を恨んでいるかも知れない、と私は思った。  暗くなってから、旗中君が酒を呑みに来ないか、と呼びに来たが、私は断った。私は酒は嫌いではなかったが、今はとてもそんな余裕はなかった。  次の朝、陽が出るか出ないかに、武装したMPが三名、ガチャガチャン、とキャンプの扉を開けて私達を連れに来た。  熱帯の朝は爽かである。  私と相沢は、二夜きりの宿に淡いものを感じながら、ジープ上の人となった。海岸の椰子林を十分ばかりも揺られると、二千米位の細長い飛行場に着いた。大小さまざまの飛行機が、ひっきりなしに離着陸しているのは、日本の飛行場と変りないが、トラクターが地上を馳けまわり、赤や黄のズボンをはいた女が、三々五々作業に従事している姿は少し珍しかった。  八時半頃、私達は、双発のダグラス輸送機でガダルカナルを後にした。高度千米位の断雲を上へぬけると、からりとしたよい天気である。海岸のリーフを洗う水は、濃緑色と、淡黄色が適当に調和して、南洋の海とも又一種異なった、毒々しいまでの美しさで、三日ほど前まで、冷然と二人の運命を傍観していたサボ島が段々水平線の向うに沈んでしまうころ、機の高度は三千五百位に上って、空気が急に冷たくなって来た。相客は私達の警護のMPが四人、佐官級らしい麻の背広を着た紳士が一人、休暇にでも帰るらしい、ブルーのセーラー服を着た英国の水兵が二人で、水兵達は、衣服袋から毛布を出して引っかぶった。MPのうち一番背の高い、一寸映画俳優じみた顔の男が、ポケットからドロップの缶を出して、私達にも分けて呉れた。この男は、私が時々明け放しの操縦席の方へ眼をやるたびに、サックを開いてある腰の拳銃へ眼をやった。  太陽の方向から判ずるに、機は南東方、エスピリツサント島を経て、ニューカレドニアへ向っている様に思われる。ニューカレドニアまでの燃料があれば、ラバウルまではゆっくり帰れる。そんな事も私は考えてみたが、何となく気圧《けお》されて、飛行機を分捕ろうと云う考えは起らなかった。  高度四千五百位で機が上昇を止めると、急に気流が悪くなり、動揺が激しくなって来た。平気な顔をしているのは、私と相沢だけで、先刻ドロップスを呉れたMPがゲロゲロと青黒い胃液を吐くと、他のMP達が、 「ガッデム」と低く叫んだ。  昼近い頃、エスピリツサントと思われる島へ着いた。予備の飛行機が無数に並んでいるのを見ながら、私達が小便をしている間に、機は燃料を積み、今度は午後の陽を右に見ながら、南西方に機首を向けた。  水兵がいなくなったかわりに、唇を真赤に塗った女兵が二人乗って来て、盛んに談笑していたが、高度四千位になると、どちらも青い顔をして黙ってしまった。  陽が大分西へ傾いた頃、一面積乱雲に蔽われた大きな島が右手に見え出した。ニューカレドニア島の様である。雲の断間を縫うて、十文字形の大きな飛行場に降りた。収容所から来たらしいMPが二名、カチャカチャと拳銃を装填して、私達を受取った。私達を送って来たMP達は、口笛を吹きながら、夕陽に長い影を引いている宿舎の方へ、大股に歩き去った。  見事に舗装された、幅四間位の山間の道を私達をのせたジープは二時間位突っ走った。途中、ところどころに白壁赤瓦のフランス風農家や、オランダ式の大きな風車があって、斑の牛を追う牧童の姿も見られ、のどかな農村風景であるが、山の中腹に下してある白い阻塞気球が、夕陽を反射しながらゆったりとうずくまっているのは、不気味であった。三つばかり灌木に蔽われた低い山を越えると、急に視野が開けて、右の方に多数の船を浮べた入江が見えた。左の海岸の町がヌーメア港であろう。もうぼつぼつ窓から灯が洩れている。海岸の小高い丘を上りつめたところで、ジープは止った。  身体検査を受けている間に、私達は猛烈に蚊群の襲撃を受けた。丘の頂上から少し下った所に、五百坪ばかりの収容所があり、二重の鉄条網の中では、日本人とも南方土民とも見分けのつかぬ顔附の人々が、食器とバケツを叩いて、どんがらどんがらと俗謡らしいものを我鳴っていた。その雰囲気の何とも云えぬ世紀末的な哀調は、一寸脳裡から消え去り難い種類のもので、いかにも絶望感に満ちた、悲惨な響をふくんでいた。  収容所の夕食は丁度終った後なので、私達はMPの食堂で夕食をとった。缶詰ばかりであったが、ソーセージ、野菜サラダ、パン、クラッカー、苺ジャムなど、量はどっさりあった。私は、馬鈴薯の蒸したのを非常に美味しく感じた。  食器と蚊帳、毛布などを貰って、私達は被服倉庫らしい天幕に入った。  此処の蚊は一入《ひとしお》猛烈で、蚊帳の目をくぐって侵入し、毛布の間や、襟首からもずもずもぐり込んで、いやと云う程咬みついた。 四  次の朝、物凄い蚊群の羽音に私達が眼をさますと間もなく、緑色の作業服をつけた小肥りな米兵が入って来て、被服、タオル、歯刷子等の日用品を出して呉れた。この男は鬚の濃い、丸いあから顔に、とんぼの様な愛嬌のある眼をくるくるさせ、ひょうきんそうな好人物らしかった。私は始めて片言の英語をしゃべる気になって、 「ウォッチュアネーム」とやってみた。彼は、 「サージャント」と答えた。然し、これは下士官と云う意味で、本名はミッセリーと云う事が後からわかった。彼は大変日本語修得に熱心で、後で又話しに来ると云って出て行った。  八時頃、士官が数名ジープで丘へ上って来た。私が最初、訊問に呼ばれて、小屋の一つに入って行くと、 「やあ、真田さんですね。さあ、どうぞ」と、歯切れのよい江戸弁で迎えられた。髪も眼も黒いその士官の外に、やせぎすな男と、色の白い小肥りな男とがいた。私は、少々どぎまぎしながら腰を下した。 「お疲れだったでしょう。昨夜はよく眠れましたか」 「有難う御座います」  彼はラッキーストライクの口を切ってすすめた。 「まあ、貴方は日本人だから色々考える事もあるでしょうが、何も心配する事はありませんよ。私の知っている人では、ミッドウェーで捕った海軍中佐の人も居る位ですからね」 「ほう。で、今その人は何処にいますか」 「いや、今それは云えません。然し、いずれ後方へ行かれれば会えますよ」 「真珠湾攻撃で、若い少尉が捕っていると云う話ですが……」 「ええ、その人にも後方へ行ってから、会われるでしょう」  私は、やっぱり高垣も生きていると思って、単なる好奇心以外に、漠然とした将来への期待を湧かせた。 「ああ、それから外の士官を紹介しましょう」と云って、彼は、銀の樫の葉を襟につけた、やせた男が、陸軍のオウエン中佐、金色の樫の葉をつけた小肥りの男が、マリンのベルン少佐、彼自身はランス海軍大尉だ、と云った。 「丁度アーミイ、ネイビイ、マリンと三つ、サンプルを揃えたわけです。ところで貴方も私と同じ海軍でしたね。一つ心安く頼みますよ。貴方は東京でしたっけ。——懐かしいですね。僕も東京で生れて、十八の年まで育ちましたよ。どうです……。新宿、浅草などの話でもして呉れませんか」  彼は、その黒い瞳を懐かしげに輝かせた。私はまだとても東京の話をするどころではなかった。 「此処に来ている人達は、非常に悩んでいる様ですね。捕虜になった事に対して……。解決出来ない悩みでしょう、それは……。結局自分達で故意に作った悩みなんだから……。貴方は、どう思います」  ランス氏は真面目な顔に戻って訊き始めた。 「そうですね。日本人である限り、捕虜になる前に死ぬべきであって、捕虜になったら生きては故郷の土は踏まない、と云うのが普通の考え方ですからね。つまり生きていては日本人である事は許されない。ところが自分達は生きている。では自分達は何になるのか。これがわからないから、自暴自棄になるんじゃないんでしょうか」 「大体そうですね。彼等の考え方は……。で貴方はどう思います」 「日本人だ、何国人だと云う事は、今の場合余り問題にならないんじゃないんでしょうか……。私は一個の人間と云う立場から考えてみたいと思っています。そしてそう云う考え方で行く場合、私達は米軍の手に捕虜になった事を、不幸がり残念がるよりも、貴重なる生命を救助された事に対して感謝し、一度捨てた生命を更にもう一度活用する時機を待つべきだと思うのですがね……」 「そう、貴方は話せる。話がわかる」 「いや、ところが私個人として理論的にはそう考えるんですがね……。実際に他の連中の前で堂々と公言するだけの強力な根拠があるかと云うと、そうではないんですよ。又自分が生きると云う事は肯定しても、さて、これから先何をやり、又何が出来るかと云う事になると、相当疑問なんですがね」 「いや、先には屹度貴方方の腕を揮うに足る仕事が待っていますよ。まあ貴方の様な進んだ考えを持った人が居ると云う事は嬉しい。なに、此処はまだほんの経過ステイションで何の設備もありませんが、後方に行って御覧なさい。数千名収容出来る所に、運動から娯楽から、すべて設備が整っていますからね。やけを起さずに、体を鍛えて勉強して下さい。その内早い便で本国へ送ってあげますからね。……ところで、此処はどこだか知っていますか」 「さあ、多分ニューカレドニアのヌーメアじゃないかと思いますが……」 「ほほう」 「途中降りた所が、エスピリツサントでしょう」  ランス氏は少なからず驚きの色を見せた。 「ふーん。——よくわかりましたね。ほう。流石《さすが》はパイロットだ」と盛んに頭を振った。  外の二人は余り日本語がうまくなかった。歯の抜けたオウエン中佐は、 「私は今、一生ケンメイに日本語を勉強しています。カンジはムズカシインですね——。私はよくわかりまシェン。……ホリョとフリョとどう違いますか」 「………」 「ある人は陸地で捕えられると捕虜で、海の上で捕えられると俘虜だと云いました。ホントーですか」 「そうかも知れませんね」 「貴方は海中に浮いていたから、フリョですね」  中佐は味噌っ歯を出して笑った。彼のフリョと云う発音は非常に特徴があり、一寸聞くと不良と云う風にも聞えた。  ランス氏が図書室から出して呉れた数冊の本を抱いて私が帰ると、相沢が呼ばれた。  彼が帰って来ると、二人は久しぶりで口をききあった。 「実際お前まで一緒に道づれにしてしまってすまなかったな。——俺がはっきり態度を定めなかったものだから……」  拾い上げられた哨戒艇の上で(分隊士、舌を噛まんでもいいんですか)と思いつめた相沢の顔を想い起しながら、私はしんみりと云った。 「いや、分隊士、とんでもない。——私がしっかり見張りをしておればこんな事にはならなかったんです。……本当に何と云って申訳してよいやら……」彼も余り食事が進まないのか、色白の丸顔がげっそりとやせて、不精鬚の濃いのも痛々しかった。 「然し、これから先どうしてよいか、一寸見当がつきませんね」相沢は私と同年の二十四歳の筈であった。 「うん。まあさしあたり成行きに任せるより仕方なかろうね」  蚊帳越しに外を見ると、私達と同様だぶだぶの青い作業服を着た連中が、手拭を首にまきつけて右往左往していた。  四百名ばかりの先輩は、ガダルの敗残兵らしい。作業服の中身は骨と皮の者が大部分である。不精鬚ばかりぼうぼうと生やした骸骨が、タオルを首に巻いて、煙草を吸っているのは、いかにも人生のたそがれと云う感じで、悲惨などと云う言葉を遥かに通り越した、つまり、言葉とか、思想とか、感情とか云う文化人的な要素がすべて枯れ尽して、最も簡単な人間そのものが残っている、と云う感じであった。  ガダルで捕えられてから二カ月、特別豊富な給与を受けていながら、まだあれ位しか肥り切らないのでは、以前はどの様であったろうかと眉をひそめさせる様な彼等の衰え方であった。歩く度に、体の骨がかたかたと音をさせるものがいる。尻の骨が飛び出して、痛くて便所に坐れないと云うものがいる。私と相沢は、格別やせていない自分達の体を眺めて、肩身のせまい思いをしないわけには行かなかった。  其の夜、方々の天幕から、陸軍の重立つ者が話をしに来た。将校も四五名いるらしかったが、別の天幕で、交通を許されていないらしかった。記野曹長と云うのが最も中心人物らしく、 「じゃ、貴方方の攻撃隊でしたか。丁度一週間位前、私達が、船でガ島からこちらへ送られる時、空襲に来たのは……」 「あの時は、吾々の船も錨を切って逃げ出したですたい」 「大熊少尉が、絶対、船に乗らん。俺は日本の弾丸に当って死ぬんだちゅうて、頑張るもんじゃけん、MPが苦労しよった」 「強硬なんですね。その人は」 「いやあの人は、これじゃけん」とその男は細い指で、自分の耳のあたりに円を描いてみせた。 「矢張り、今でも時々心から死にたいなあ、と思うことがありますね……。もう捕ってから四カ月になるんですがね」  大楠公の様な、どじょう鬚を生やして、弓削の道鏡と自ら名乗る男が、沈々とした調子で云い出した。 「ガ島の戦闘はひどかったそうですね」 「ひどいとも何とも、口では到底云い現わせませんよ。——あんなものは戦争じゃありません。生地獄ですよ」 「兎に角、敵も味方も、弾丸を射つ事より、食糧の取り合いじゃけん」 「おいどんなんども、去年の十月から五カ月ばっかと云うもん、てんで食物らしいものを喉へ通したこたあ、なかじゃっか」  前の天幕で蚊よけに焚いている焚火の光が、鬚だらけの彼等の凄惨な影を、天幕に落しながら、相沢の丸顔だけを白く照らしていた。しばらく話の途切れた後で、記野が、 「同じ友軍同士が、襲撃して糧食を取り合ったり、後方で味方の歩哨がいなくなったかと思うと、糧食庫が空になって居ったり……。何しろ、駄目なもんですね。日本人なんて、食がなくては戦争どころじゃないんですからね……。然し吾々も紀元節の総攻撃だけは当にしていましたよ。軍司令官自ら陣頭に立つってんですからね。——ところが司令部や、古参将校連は、吾々に前線の死守を云いつけて置いて、二月七日にわれ先に逃げて帰ってしまったんですからね」 「そやそや。捕って此処に来てるもんは、皆最後まで頑張った、実直な人間の丸いもんばかりやさかい」 「要するに、要領の悪い奴が捕ったのさ」噛んで吐き出す様に、弓削道鏡君が云った。 「俺が二月七日の夜、引揚げ予定港のカミンボへ行った時は、丁度、最後の潜水艦が出た後だったよ。一晩中、カンテラを振って、泣きわめいたけれど、駄目だった」又しばらく話が途切れて、記野が、 「……まあ、然しこうなってしまったら仕方がない。どうなるか、行けるところまで行ってみるんですな」 「どうせ殺すに定ったるんやで……。そやけど、糧食もりもり寄越すのは、ちと合点が行かんのやけど」 「いや、殺しやしないよ。ちゃんと条約で保護する様になっているんだ、ってランス大尉が云ってたぜ」 「そんな事はあてになりやしないさ。体を恢復《かいふく》させておいて、思い切り労働にこき使って置いてから、ばっさりと云う手もあるんだからな。食えるうちに食っとくんだ」  長谷川君が横の方から、 「いや、よんべ、夢で親父に会っちゃったたい」 「ふーん」 「太平、てめえ、捕虜になんかなりやがって、のめのめ生きとる奴があるか、首でもくくって、早くくたばっちめえってんで、手に太い日本刀をぶらさげとるじゃっとが。——俺も困ったばってん……。そりゃ命なんか、ちっとも惜しくはなかとが……」 「で、どないしてん」 「お父っつぁん、わしも、捕われた最初は、死のう死のうと夢にまで見たばってんが、今じゃ、皆と割合愉快にやっとるし、自殺するにも武器がなかとですけん、——まあ、その内ガ島で食い足りなんだ分を食い足してから、何とかしますばってん、てんで謝ったら」 「だまされん、とおやじが云ったろうが」 「いや、大きな眼玉して、にらみよったたい」 「ワッハッハッハ──」  彼等は一時に笑い出したが、その笑の余りに白々しく生々しいのに気圧されてか、すぐ又もとの陰鬱さを取り返した。  天幕の屋根に月が上って、哨兵塔の上で、自動小銃を片手に、番兵がものうさそうに口笛を吹いていた。 五  ——人間は現在だけでは生きられない。未来を持たぬ人間と云うものは考える事が出来ない——誰かの言に、こんな言葉があった様に、私は記憶している。ところでその考える事の出来ない、未来を持たぬ人間と云うものが、今この金網の中に入れられて居るようである。彼等には現在だけしか与えられない。彼等は執行期日の定まらない死刑囚である。彼等はそう思い込んでいた。(尤も、広い意味から云えば、総ての生物はそうであるけれども……)米軍が彼等を殺すと信じている者は殆どいなかったけれども、戦争が終った場合、自分達は自決を迫られるか、日本へ帰ってから銃殺に処せられるかのどちらかである、と思い込んでいるものは殆ど大部分の様であった。日本が負ければ、或は自分達は助かるかも知れない、と云う考えは誰でもこっそり腹の底に隠している様であるが、うっかりそんな事を云うと、忽ち非国民扱いをされるのは分り切っている事だし、事実、戦況は正に右四つにがっぷり組合い、暫時水が入ったと云うところで、表面上日本はまだ負色を見せていなかった。自分達は、捕虜になる前に自殺する事が出来なかった。——そして、自分達には将来の幸福と云うものは全然考える事が許されず、少なくとも、もう二度と生きて故山に見《まみ》える事は出来ないのだ、——こう云う考えが、彼等にデカダン的な雰囲気を醸させ、棄鉢な行動を取らせているのであった。然し、この考えは他人が彼等に強制したわけではない。彼等が、日本人が勝手に造り出したものなのである。自分で作った妄念の城壁は自分で取り壊すより外に手段はない。彼等は真剣にその城壁と取り組む事の苦しさをさけるために、一見子供じみた、出鱈目な明朗さを以て、日々を極めて屈託なげに送っていた。  彼等の仕事は、食う事と寝る事以外には、天幕附近の草刈、清掃がある位で、その他の時間を米兵から貰ったトランプと手製の将棋とに注入し、夜は焚火の周りに集って、猥談に時を過すのである。各天幕ではひねもす賭場が開帳され、オイチョカブとか、トーニーワンなどと称する博奕で煙草がやりとりされた。  二三日、私は蚊帳の中でランス氏から借りた「日本古代の貨幣制度に就て」と、穂積重遠博士著すところの「日本の家族制度」を読んでいたが、やがて彼等に混り、首にタオルを巻きつけ、鼻唄まじりで各所の賭場をのぞきまわる様になった。  バケツを叩き、食器を鳴らして、彼等はいかにも気楽そうに放歌高吟し楽天的を装っていた。そして私は、彼等がこの強烈な虚脱から来るところの一種極端な明朗さの裏に、天を仰いで号泣せんばかりの、深い悲愁と哀訴を籠めている事実を見逃すわけには行かなかった。日本人の道徳思想の固陋さと、それに踏みにじられてもがき悶える、人間性の惨めな宿命に、私は満身の憤怒を禁じ得なかった。  彼等はよく口論をし、他人の悪口を云い合った。彼等は愛情に飢えていた。自分達の生活の空虚な部分を埋める為、彼等は真剣になって愛情の対象を求めた。そしてその結果、彼等は余りにも疑り深くなってしまっている自分達の心に打突《ぶつ》かって、愕然として絶望したのである。過去に於て彼等が交際した人々は今、全然愛情の対象にはならない。彼等は飽くまでも、今一緒に居る四百名の人々の中に愛情の対象を求めなければならない。而も、悲惨な戦争の間に培われた一切の他人に対する不信、物質を伴わない精神的愛情と云うものに対する深刻な懐疑から、彼等は殆ど脱する事が出来なかったのである。この意味に於て、捕虜達は最も不幸であったと云えよう。  彼等の不幸をもたらしている最も大きな原因、そして彼等が犯している根本的な過ちは、彼等が自己を忘却している事であった。彼等は更めて人間自身を発見する必要があった。彼等が現在自分の言葉であり、思想であると思い込んでいるものは、決して彼等自身の個性を帯びたものではなかった。それはあくまで日本人として、大和民族と云う外から強制されたものであって、内から湧き出たものではなかった。而も、彼等がその事実に気附かず、果しのない闘争を自己の内部に繰り返している限り、悲劇は深まるばかりであった。彼等に残された仕事は、この恐ろしく切羽つまった現在のみの生活の中に、その空虚な現在の中から、強いて希望と価値とを創造して行く外にはない筈であった。而も彼等はこの様な羽目に陥っても、まだ他人から押しつけられた概念の中でキリキリ舞いをさせられている憐れな人々であった。私は彼等に自分の言葉で自己を語る事の、楽しさ美しさを知らせたいと思った。然しそう云う事は此処では憚らなければならなかった。このキャンプは、思想と行為とが全然反対に働いて、而もそれが不気味な均衡を保っている、不思議な世界の一例であった。その均衡を破るべく、余りにも無力な自分を知るが故に、私は黙然として傍観者の立場を守るのみであった。  ——人は誰でも人生の旅路に身を託すべき、一本の杖を持っている。その杖を放す時は、その人の倒れる時なのである。そして今、毒蛇の笞《しもと》と化したその杖によって、惨めに叩きのめされながらも、なおその杖に執着しなければならない……。これが「忠勇なる帝国軍人」の宿命なのであろうか。私は、自分をも含めて、その呪われた宿命に翻弄されつつも、果敢に末期《まつご》の踊りを舞い続ける、可憐な人間群像を冷然と凝視していた。 六  五月十五日ごろ、このキャンプの哨兵の中から、数名の下士官が士官候補生として本国の学校へ入る事になった。サージャント・ミッセリーもその一人であった。夕刻、彼はチョコレートと雑誌ライフを持って、別れに来た。 「自分は君達を敵とは思わない。——人間は皆兄弟だ。いずれ本国で会うか、でなければ戦後何処かで会おう、その時は友人として仲良く交際しよう」と云って、彼は私の手を握った。太い眉毛の下で、大きな円い眼に一ぱい、涙がたまっているのを、タヌキは不思議そうな眼附で見上げていた。  彼はビッグニュースを残して行く、と前置きして、——近い内に、君達に正規の俸給が渡る。それで、キャンデーでも、煙草でも好きなだけ買う事が出来るし、本国に渡ったら、野球用具も買えるし、ビールも飲める——と云った。彼がキャンプを出る時、私達は送別の曲として、彼が何時も中田君に習いに来た、富士の白雪ゃのーえ、と云うフジヤマソングを歌いながら、ジープを見送った。  彼の後にキャンプ係になったのは、タセと呼ばれる若い下士官であった。彼は以前から私にジュウジツを教えて呉れ、とせがんでいた男で仲々の好人物であった。ハーバード大学で槍投げの選手をしていたと云って天幕の支柱を取り、六尺に余る逞しい体をくねらせてそのフォームを示したり、故郷に残したローズメリイと云う許嫁《フイアンセ》の写真や彼女から来た手紙を見せたりした。  冷たい雨が二三日降り続いて、キャンプの赤土をどろどろにこねまわすと、この南国の地にも冬の訪れが見えた。  五月二十五日の夕刻、タセが、大熊少尉と相沢は明朝別のキャンプへ移るから、と云って来た。その夜は新キャンプの事で、話が持ち切った。向うは食堂や居室も立派だし、浴場など完備もしている、とタヌキが見て来た様な事を云った。  次の朝、相沢、大熊の二人はジープでこのキャンプを去った。相沢は、大きな眼をうるませて——分隊士、お達者で——と云った。——又、会えるよ、君も元気でな——私はこみ上げて来るものを感じながら彼の手を握り、煙草を五箱、餞別に贈った。  二人が出て行くと、残った私達はがっかりした。特に私は、相沢に別れて、一ぺんに心の奥に空虚なものを生じてしまった。大熊さんのパラオの歌が聞けなくなったのも、淋しかった。三人で淋しく午飯を食って、しめやかにトランプをやっているところへ、トラックが着いて、どやどやと十名ばかりの日本人が下りた。見知らぬ顔に混って、意外にも、相沢、大熊の二人の顔が見えた。相沢は入って来ると、 「真田さん、船で何処かへ行くらしいですよ。真田さんや、中田さんも一緒だと云う話ですよ——」と云った。  夕刻、私と中田君と、相沢、大熊の四人は、泣きそうな顔をしているタヌキの手に、煙草とチューインガムと、私の買ったブライアのパイプとを残して、金網のそばに並んで手を振っている記野君や、弓削の道鏡や、渡辺君達に送られて、一月余りの懐かしい思い出と共に、この丘の上のキャンプを後にした。同行は私達四名の他に、今迄のキャンプから五名、新しいキャンプから腰野、勝永の二将校を入れて三名で合計十二名であった。でこぼこ道の丘を下ると、ユニオンジャックを船尾に掲げた八千噸位の輸送船が岸壁で待っていた。後部の士官室の横の小部屋に、私達四名と、腰野、勝永の両君が入り、前部の兵員室に、坂井、木内、大阪さん、長谷川一夫、森の石松、それに、新しいキャンプでストライキを起した張本人と云われる、吉田と云う陸軍曹長が入った。腰野君は、部屋へ入るとすぐ、 「やあ、貴方が有名な真田さんですか。——これは、どうもお見それ致しまして」  と芝居気たっぷりに腰をかがめ、勝永君は、陸軍式に敬礼して、 「勝永少尉であります。どうぞよろしく」  と云った。やせぎすの背の高い男で、細く通った鼻筋に、やや下った眼尻を持っていて、全体から受ける感じが、何となく黄色っぽくしなびた感じであった。小柄な腰野君は、壮士風な骨ばった顔にチョビ髭を貯え、時々櫛で長く伸びた赤っぽい髪をなでつけた。二人とも、年配から来る世間ずれとでも云うのか、若い私とは何となく肌の合わぬものを感じさせた。話をしてみると、この人達はもう大分自暴自棄に陥って、自嘲的に、世の中を茶化して渡ろうと云う気分が強かった。勝さん、と蔭で呼ばれている勝永少尉は、ガ島の鬼と呼ばれた岡部隊の落武者で、腰野君はツラギで全滅した横浜航空隊唯一の生き残りであった。 「去年の夏、米軍がガ島上陸に来た時、哨戒に出ていたのは、実を云うと私の飛行艇なんですよ。——私があの時居睡りをしていて、敵の船団が来るのを発見しそこなったもんだから、とうとう上られちゃいましてね」  と腰野さんは、面白そうに語った。勝さんは、——戦争の話は、止めましょうや、それよりブリッジでもやりましょうや——と、小さい袋から、赤いトランプを取り出した。中田さんや、相沢が、ブリッジの講義を聞いている時、若い英国水兵が、食事を持って来た。大きな皿の上に、綺麗に並べて、スプーンやフォークがついていたが、量は少々少なかった。 「英国のものは、とにかく形式は綺麗ですな。——然し、米国の飯の方が、実力があったですな」  と、厚いテキを頬張りながら、勝さんが云った。  ブリッジの講義が一通り終って、勝負が始められた頃、私達の下のあたりでゴトン、ゴトンと、スクリューの廻る単調な音が聞え始めた。夜陰に乗じて、出港するのらしい。何処へ行くのかは、まだ私達には、わかっていなかった。ひとり、トランプの仲間からはずされた大熊さんは、隅のソファに寝転んで、チューインガムをしゃぶりながら、パラオの歌を口誦《くちずさ》んでいる。  無意識の諦観と、強制されたデカダンスとを、船腹にはらませて、英船ジブラルタル号は、ゆっくりゆっくり暗のヌーメア港を離れて行った。 あとがきにかえて 一 ニューカレドニアについて  この本に収録した「ニューカレドニア」は、私が昭和二十二年四月号の新潮に発表した処女作である。当時、私は二十六歳であった。  私は捕虜収容所時代に小説を書いてみようと考えた。作家を志したのではなく、漫然とマージャンなどの遊戯に時間をつぶしているのが無為に思えたので、何かをやってみよう、と考えたのである。  当時、私は宗教を勉強していた。宗教に凝っていた、と言ってもよい。  日本の軍隊においては、捕虜となって生存することは認められていないので、私は軍人として戦場に復帰することを諦めていた。すると、私の日々が無為に思えて来た。朝起きて体操をやり、山林の伐採にゆく作業隊の指揮官兼通訳として山に出かけ、帰ると読書かカード遊び、晩飯《ばんめし》を食って雑談をして寝る、という日々が空白の連続に思えた。  軍人として生きる権利を抛棄《ほうき》した以上、他に生きる道を求めねばならない。人生とは何か、人生いかに生きるべきかという大問題に、ここで私は逢着《ほうちやく》したのである。  他の青年が中学生の終りから高校時代にかけて大いに悩むこの問題に、私は二十四歳にして初めて直面したのであった。  中学生時代の私は、柔道選手として県下大会に優勝すること、海軍兵学校の入校試験に合格することを目標に、体を鍛え、受験勉強をした。直線的な青春であった。太陽に向って進むロケットのように、積極的ではあったが、やがて燃え尽きることに気づいてはいなかった。  軍人として死ぬだけが人生のすべてではないと気づき始めたのは、捕虜の二年目、昭和十九年の夏頃である。  この年の四月八日、私はミシガン湖に近いキャンプ・マッコイ収容所に着いた。ソロモンの海に不時着し、漂流を始めた日から、丁度一年目である。同級生の酒巻和男が、スパルタという駅まで出迎えてくれた。酒巻は真珠湾特別攻撃隊の生き残りで、後に捕虜第一号としてジャーナリズムにとりあげられた男である。  この頃はまだ収容所のキャンティーン(酒保)にビールの小瓶があった。酒巻は私をバラック造りのうす暗いキャンティーンに招じ入れ、アメリカのビールを呑ませてくれた。これが初めて呑んだアメリカのビールであったが、泡立ちが悪く味もよくわからなかった。わびしいクラス会であった。  余談であるが、この収容所には、日本人のほかにかなりの数のドイツ人と、少数のイタリア人、ポーランド人がいた。  イタリアは前年の秋すでに降服していたが、収容所で罰を受けたイタリアの捕虜が残っていたのである。ポーランド人は、連合国側のはずであるが、ドイツ軍に捕えられ、北アフリカでロンメルの指揮下に連合軍と戦い、捕えられたものである。彼らのなかには四回捕虜になったものがいた。ドイツがポーランドに侵入した際捕虜となり、ロシアに進軍してロシアの捕虜となり、再びドイツ軍に奪回されてその指揮下に入り、そして北アフリカに送られたものである。  ドイツ人とポーランド人は何かのパーティがあると、その居住区に日本の捕虜たちを招待してくれた。ドイツ人はきちんとしていたが、ポーランド人の部屋は不潔で臭かった。彼らは男同士でダンスを踊り、唇を吸いあった。ポーランド兵は服を洗わないらしい。清潔好きの日本兵とは対照的であった。  五月末、米軍の司令官は、日本兵の捕虜に、米軍師団が演習をした後に残った天幕の撤収作業を命じた。収容所の指揮官であったK大尉はこれを断わった。  五月三十一日、米軍は日本兵の将校二十一名を陸軍病院の精神病棟に隔離した。 「日本の将校は頭がおかしいから精神病棟に入れるのだ」  と連絡係の下士官は言ったが、事実は、バリケードを張りめぐらした兵舎は、精神病棟以外にはなかったのである。  その日から九月下旬まで約四カ月間、二十一名の日本軍捕虜将校には無為の日が続いた。私は小説を書くことを思い立った。元来、私は中学生の頃から片方で柔道の練習に励み、片方で芥川、菊池寛、吉川英治などを耽読《たんどく》するという不思議な文学少年であった。  人間は生きるならば、何かをやらねばならない。その「何か」は、その人間の性向に適しているもの、つまりもっとも個性を伸ばすものがよろしい、というのが、その頃の私の簡単な人生観であった。  精神病棟のなかで、私は恋愛小説を一つと歴史小説を一つ書いた。むろん習作であったが、ノートに書かれたその小説らしきものを、他の士官たちは争って読んでくれた。それだけ彼らは無聊《ぶりよう》に苦しんでいたのである。  私は精神病棟における流行作家となったわけであるが、この小説を書きつけた数冊のノートは、戦争終了後テキサスの収容所からシヤトル行きの汽車に乗るとき、ドキュメント、ダイアリーの類はすべて不可、というので、MPにとりあげられてしまった。  神奈川県の浦賀に復員したのは、二十一年一月三日のことである。私は荒廃した祖国に帰り、郷里で母の死を知った。  二月、私は名古屋の中日新聞に就職した。当時の日本は文芸復興の波に洗われており、社会部には、太宰やドストエフスキーを論じる文学青年の一団があった。そのなかで揉《も》まれながら、私は小説を書くことを考えていた。内面から表現を迫るものがあった。  身近にあった事件を描いた短編に、自分の略歴を添えて、川端康成氏に送った。 「このような片々たるものをお書きになっても致し方ありません。根柢が浅いのです。貴君の体験を丹心こめて書いてみられることです……」  これが川端さんの返事であった。丹心という字が大きく紙面に躍っているのが、長く私の印象に残った。私は丹心《ヽヽ》をこめて、百枚足らずの作品を書きあげた。それが「ニューカレドニア」である。今日、読み直してみると稚拙な点が目立つが、あえて手を入れないで公表することにする。二十六歳の頃の私の思考がそこにあり、若い筆で表現された漂流者の姿とその心理は、かなりの実体をもってそこに描き出されていると思われるからである。  この前年創刊された群像では、毎号創作合評会をのせていた。私の「ニューカレドニア」がとりあげられ、青野季吉氏は、「この作品には実体がある」と評された。 「長良川」で直木賞を受賞して以来、私がニューカレドニアのことをよく書くので、「貴君の処女作『ニューカレドニア』を読んでみたい」という意味の手紙をよくいただく。  今回、海に墜ちて三十年ぶりに私はニューカレドニアを訪問し、作品「ニューカレドニア」に描かれた漂流地点を再確認することが出来た。この際、「南十字星の戦場」と共に、処女作「ニューカレドニア」を併載することにも何らかの意義があろうと考えられる。ある人は、そこに処女作の初々しさを感じ、ある人は、三十年間という歳月が、作家の文章にさしたる進歩を加え得ないことに、疑問を感じられるであろう。筆者としてもただ懐かしいというだけでなく、再読して考えさせられることの多い文章である。 二 戦場について  三十三年前、私は海軍少尉候補生として、練習艦隊に乗り組み、大連に入港した際、旅順の二〇三高地を訪れ、その何もない荒涼とした風景に心打たれたことがある。  そこにあったのは、まだ色の生々しい赤土の塊だけで草木もろくに生えていなかった。  今回、ガダルカナルの血染めの丘やアウステン山、マタニカウ川付近を訪れ、私は再びその何もなさに驚いた。マタニカウからアウステン山に到る草原は、ほとんどの樹木が喪失し、雨が降ると水が奔流となって土をえぐる不毛の丘と化している。負けた日本軍が、英領であるこの島にほとんど手を加え得ないのは、わからぬでもないが、勝ったはずの米軍も、血染めの丘に一つ記念碑を建てただけで、あとは共同墓地すらも見当たらなかった。  私の郷里は岐阜県の大垣の近くなので、関ヶ原の古戦場には、少年の頃からよく行っている。  ここもなにもないところである。笹尾山や松尾山、桃配《ももくばり》山などが、昔の姿で起伏しており、やや高い南宮山がそれを眺めおろし、その間を電車が走ってゆく。近ごろ古戦場パノラマのようなものが出来たらしいが、私はそのような見世物には不賛成である。  多くの人が死んだ戦場には何もない方がよいような気がする。訪ねた人は、そこに無限の空想を抱くことが許され、夜ともなれば無数の精霊が飛び交って会話をかわすことが可能だからである。  その意味で、私はソロモン海域やミッドウェー海面のような海の古戦場は、何もなくて、そこにすべてがあるようで、死者を葬うには向いているのではないかと、考えている。    昭和四十八年十二月 豊田 穣  初出誌 「南十字星の戦場」 別冊文藝春秋 第125号(48・9) 「ニューカレドニア」 新潮 昭和二十二年四月号 単行本 昭和四十九年文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 南十字星の戦場 二〇〇一年三月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第三版 著 者 豊田 穣 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Shouko Toyoda 2001 bb010309