月蝕姫のキス 芦辺 拓 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)暮林《くればやし》少年 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)連絡|事項《じこう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)あれ[#「あれ」に傍点]を? ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/01_000.jpg)入る] 〈カバー〉 高校生の暮林《くればやし》少年は、なにごとも論理《ろんり》的に考えぬかないと気がすまないというやっかいな性格の持ち主だ。 まるで、かの名探偵エラリー・クイーンのように。 ある日、学校の近くで起こった奇妙な殺人事件。 偶然《ぐうぜん》巻き込まれてしまった暮林少年は、考えに考えるうちに恐ろしい事実に気づく。 クラスメートのあの子が犯人だとすれば、すべてのつじつまが合うということに。 しかし、静かな町を揺《ゆ》るがすさらなる事件が起きる……。 本格的な謎解きの要素に満ちた叙情《じょじょう》あふれるミステリー! [#挿絵(img/01_001.jpg)入る] 月蝕姫のキス THE KISSES OF PRINCESS LUNAR ECLIPSE 芦辺 拓 TAKU ASHIBE RIRONSHA  月蝕姫のキス  contents  置き忘れられたプロローグ  CHAPTER 01  CHAPTER 02  CHAPTER 03  CHAPTER 04  CHAPTER 05  CHAPTER 06  CHAPTER 07  CHAPTER 08  CHAPTER 09  CHAPTER 10  CHAPTER 11  CHAPTER 12  CHAPTER 13  CHAPTER 14  CHAPTER 15  CHAPTER 16  CHAPTER 17  CHAPTER 18  CHAPTER 19  誰も知らないエピローグ  あとがき [#改ページ]  置き忘れられたプロローグ  生まれて初めて、自分の手でマッチに火をつけたときのことを覚えているだろうか。  ぼくははっきり覚えている。マッチなんて理科の実験で初めて使ったなんて人も、まわりには多いけど、ぼくの場合は小学校のまだ低学年のときだった。  大人たちが、いろんな場面でそれを使っているのを見て、自分もいつかはと思っていた。年上の人たちが当たり前のようにやっていて、でも自分はしたことのない事柄《ことがら》の一つとしてね。  たまたま自分ちのトイレに小箱入りのが落ちているのを見て、つい手に取ってしまった。いや、落ちていたのではなくて、父が中でタバコを吸ったついでに置いて行ったんだろう。  おそるおそる取り出した軸木《じくぎ》の先っぽを、外箱の茶色いような紫《むらさき》っぽいような部分——それぞれ頭薬《とうやく》と側薬《そくやく》っていうそうだけど——に、そっとこすりつけてみた。大人たちの手つきや、テレビの場面を思い出しながらね。だが、何ごとも起こらない。  もう一度、今度はやや強く。やっぱりだめだ。三度目、パッと小さな火花とともに煙《けむり》が立ち昇り、びっくりして手を離《はな》してしまったが、火がついたかどうかもわからないぐらいで、でも床《ゆか》のタイルに落ちたマッチの先っぽは確実に黒くなっていた。  そのときはそれでおしまいだったが、ちゃんと火がつくようになるまでに時間はかからなかった。でも、裏庭で試してみた燃えがらを、そのまま地面に捨てたりしたものだから、とうとう母に見つかって大目玉をくらった。いま思えば、当然の話だ。  マッチにまつわる思い出というのは、それだけだ。そのあと、火事を起こしかけたとか、やけどしたとかいうこともない。熱い思いをしたことは何度もあったが。  だが、ぼくは今も忘れられずにいる。その何度目だったかは忘れたが、初めて自分の手の中で小さな炎《ほのお》が燃え上がり、そのまわりに光の暈《かさ》が広がったときのことを。  そのとき味わったのは何か甘く、ドキドキする気分で——などというと放火魔のようだけれど——半面、はかなく切ない感じがした。  その後、日常生活でマッチを使うことは、意外なほど少なかった。火をつけるためならライターや着火器はいくらでもあるし、それさえ必要としない場合も多い。タバコでも覚えていれば別だったろうが、ぼくはあいにく吸ったことがない。  だが……このときの、パッと光を放つマッチのイメージは、意外な形で、それも繰り返しよみがえることになる。ただし、ぼくの心の中、脳内スクリーンに限ってのことだが。  その炎は、何かのひらめきが生まれたときに、ぼくの頭の中できらめく。だが、それはあまりに無力で、無意味だった——それこそ、幾千《いくせん》幾万本のマッチに火をつけたみたいな紅蓮《ぐれん》の炎の前では。  ——それは、初めてマッチを手にした日から十年後に、ぼくが目の当たりにした光景だった。  燃え上がる壁《かべ》、焼け落ちる柱や梁《はり》、火柱を吐《は》いて崩《くず》れる屋根。まるでトランプの家を突《つ》き壊《こわ》してゆくみたいに、一つまた一つと建物が猛火《もうか》と白熱の光にのみこまれてゆく。  その一部始終を、ぼくは間近にあって火の粉《こ》を浴び、熱風をまともに受けるよりも生々しく見つめていた。どうしようもない無力感と罪の意識にさいなまれながら、総身にからみついてるはずの痛みも感じる余裕のないままに。  といっても、幼い日のマッチ遊びが高じて、とうとう大火事を起こしたわけではない。いや、いっそそうだったなら自業自得、いさぎよく罪を認め、罰《ばつ》に服しもしよう。  だけど、そうではないのだ。それどころか、ぼくは何とか防ごうとしたのだ。防げるかもしれないと、はかない期待を抱《いだ》いていたのだ、このカタストロフを、自分なりの知恵のきらめきでもって。  つくづく、ぼくはバカだった。バカの国があったら、王様になれるほどに。だって、そうじゃないか——悲しいぐらいちっぽけなマッチ一本の炎で、こんな地獄《じごく》の業火《ごうか》に立ち向かい、封《ふう》じ込《こ》めることができると夢想しただなんて。しかも、よりによって、このぼくが!  悪い冗談《じょうだん》、とんだ妄想《もうそう》……だが、そう言って笑い飛ばすには、目の前の地獄絵図は否定しようのない現実だった。  どこかで、誰かの悲鳴らしい声が聞こえたような気がした。 (まさか、ひょっとして——?)  ぼくはハッとわれに返った。そのとたん、半ば忘れかけていた五官の感覚がよみがえり、と同時にここに至るまでの出来事が、奔流《ほんりゅう》のようによみがえってきた——。 [#改ページ] 「ファントマ」 「なんとおっしゃいましたか?」 「ファントマ、と申しあげたんですよ」 「それは、どういう意味ですか?」 「何でもありません。けれども、すべてを意味しています」 「しかし、それはいったい何者なのですか?」 「誰でもありません。けれども、誰かなのです」 「それで結局、その誰かは何をするのですか?」 「恐怖をまき散らすのです」 [#地から1字上げ]——ピエール・スーヴェストル&マルセル・アラン [#地から1字上げ]『ファントマ』(佐々木善郎・訳) [#改ページ]  CHAPTER 01  それは何だかやけに肌《はだ》寒い、教室の窓から見える何もかもが鉛《なまり》色に塗《ぬ》りつぶされたホームルームでのことだった。 「えー、それでは、創立祭の準備については、いま発表した通りの日程でお願いします。もちろん、飛び入り参加も大歓迎《だいかんげい》です」  クラス委員長の的場長成《まとばおさなり》が、やる気のあるんだかないんだかわからない、いつもの調子で言った。聞く方も聞く方で、こんなどうでもいい連絡|事項《じこう》なんかさっさとすませろよ、なんて投げやりな調子でわき見したり、関係のないおしゃべりに夢中になったりしていた。  そんな中で、ぼく——暮林一樹《くればやしかずき》だけは例外だった。妙《みょう》にワクワクした、ちょっと誇《ほこ》らしくさえある気分で、的場の言葉の続きを待ちかまえていた。だが、ぼくの予想に反して、 「じゃ、この件はそういうことで、えっと、次の議題は……」  彼は同じ委員の京堂広子《きょうどうひろこ》に、彼女の身長に合わせたローアングルで、視線を投げた。太ぶちで度の強い眼鏡《めがね》の下の顔は、年じゅうあまり機嫌《きげん》がよさそうではないが、このときも例外ではなく、 「あ、あれはもう……」  とか何とか、小声で言った。的場は「あ、そっか」とうなずくと、 「じゃ、今日はこんなとこで。どうも、みんな、お疲《つか》れさんでした」  言うなり、京堂広子ともども引っ込みかけた。それを受け、みんながいっせいにガタガタとそれぞれの席から立ちかかる。 「あの、ちょっと」  ぼくは思わず、手を挙げていた。挙げたあとで、しまったと後悔《こうかい》したが間に合うわけもない。クラスメートの大半は、このあとの部活やら何やらに早くも心が行っていて、ぼくの声や動作など気にもとめなかったが、それでもクラス委員の二人や、何人かは「ん、何だ?」と言いたげな表情で、こちらを振《ふ》り返った。 「あ、あのさ」  ぼくはジワリと冷汗《ひやあせ》がわくのを感じながら、おずおずと中腰になり、切り出した。 「創立祭の人員配分の件なんだけど……あれは、あのまんまでいいの?」 「あのまんまって、どういうこと?」  京堂広子が、デフォルトよりいっそう不機嫌そうに顔をしかめ、聞き返してきた。一方の的場はポカンとして、ぼくの問いかけに応じる意思さえないみたいだった。 「いや、だから」ぼくは続けた。「クラス企画《きかく》のスタッフをどう出せば、スケジュール的にOKか、前のホームルームで決まんなかったのは、あれは、今日は検討しなくっていいのかなと……ちょっと、まあ、そんなことを思ったりして……」  言いながら、だんだん声が弱々しくなるのが自分でも情けなかった。それ以上に、自分で自分の発言内容をどうでもいい、大して重要でないことのように言いつくろおうとしていることに。  だが、それも無理はなかった。ぼくの行動に目をとめたクラスメートの大半は、もうとっくに興味を失って帰り支度や雑談にとりかかったり、とっとと教室を出て行ってしまっていたし、そうでないほんの少数や黒板の前の二人からは、ひどく冷ややかで白けた視線しか返ってきていなかったからだ。 「ああ、そのことね」  京堂広子が、かすかに唇《くちびる》をゆがめると言った。 「それなら、たった今、的場君が言ったように、めいめいが空いた時間に自主的に参加するってことになったんじゃないの。ていうか、もともとクラス企画とかって、そういうもんじゃなかったっけ」 「いや、まぁ、その……」  ぼくは卑屈《ひくつ》な笑いを浮《う》かべながら、ゆっくりと椅子《いす》に尻《しり》を着地させた。 「そうだよね。ごめん、ちょっと訊《き》いてみたかっただけなんだ」  壇上《だんじょう》で、的場と京堂のどちらかがフッと鼻を鳴らし、誰かが舌打ちするのが聞こえた。それが誰なのか、伏《ふ》せ気味にした顔を上げて確かめる勇気は、ぼくにはなかった。  また、やってしまった——そんな後悔が、冷たい爪《つめ》で胸を引っかいた。  とはいえ、これはいつものことだった。唯一《ゆいいつ》の救いは、誰もぼくのやりきれない思いなど知っちゃいないということだったが、これも毎度同じことなのだった。  五分後、みんなが帰宅部を含《ふく》めた部活やその他の用事に散ってゆく教室で、ぼくも帰り支度を急いでいた。机の中身をカバンに移そうとして、一冊のノートが目にとまった。  ぼくは自嘲《じちょう》のため息をついた。それこそは、ここ何日かの思索《しさく》の産物であり、ことに昨夜などは貴重な睡眠《すいみん》時間を割《さ》いてつくりあげたプラン——創立祭のクラス企画のための人員配置について記したタイムテーブルなのだった。  ぼくは苦心の作であるそいつを乱暴《らんぼう》にひっつかむと、つかつかと教室の端《はし》っこまで歩いて行った。そこにあるゴミ箱めがけてポーンと投げつけると、あとを確かめもせずにクルリと背を向け、自席に戻《もど》った。まるでそのノートが全ての元凶であるみたいに、 (ざまあみろ)  心の中で、憎々《にくにく》しくつぶやいてやった。  だからといって、うさが晴れるわけでないのはわかっている。問題はぼく自身の性格にあり、いつのころからか身についた厄介《やっかい》な性癖《せいへき》にあったのだ。  とにかく、ものごとをとことんまで考えないではいられない。それも、あくまでも自分の頭で、自分なりのやり方でだ。  数学の問題や古文の解釈《かいしゃく》といった勉強関係をはじめ、小遣《こづか》いの使い道や交通機関の乗り継《つ》ぎ方といった日常の行動まで、考えに考えぬいてしまうのだ。たとえば、学校で新たに告知ボードを設けるに当たって、どこにしたらいいのかというような、普通どうでもいいことまで最適最善の場所を選ぼうと悩《なや》んでしまう。  いったんそうなったら、答えにたどり着くか、デッドロックに突《つ》き当たり、もうどうにもならないことがわかるまで止まらない。  こんな風にいうと、ぼくのことを勉強家の優等生とカン違《ちが》いしてくれる人がいるかもしれないが、現実は正反対だ。もし、そうありたいのなら、自分の頭で自分なりに考えるのはやめて、あらかじめ用意され、期待された通りの答えを、そこへ至るルートごと丸のみにするのが一番だ。  何より困ったことに、ぼくのやり方——いっそ病気といった方がいいが、こいつは時間がかかりすぎる。テストの時間は、一から幾何学《きかがく》の定理や物理法則を打ち立ててゆくには短すぎるし、ちょっとしたクラスの決めごとに何日も費やすことは、小学校だってあまり歓迎はされない。  そのことは十分わかっていた。わかっていながら、今度もまた同じあやまちを繰《く》り返し、同じ後悔をかみしめるはめになったのだが……ただ、このときは、いつもと違うリアクションがあった。 「ふぅん、クラスのみんなのスケジュールを書き出して——それに、これは一人ひとりの多忙《たぼう》度を数値化したもの? それを、作業全体を細かいユニットに分解したものとにらみ合わせたわけか。すごく、よくできてるじゃない」  パラパラとページを繰るらしい音とともに、背後から聞こえてきた声があった。 (ま、まさか、捨てたはずのあれ[#「あれ」に傍点]を?)  ぼくはギクッと立ちすくんだ。そういえば、ちゃんとゴミ箱にたたきこめたかどうか確かめなかったが——だが、あのノートを拾われたらしいこと以上にぼくを狼狽《ろうばい》させたのは、その声の主《ぬし》が誰かということだった。  ぼくはおそるおそる、だが極力さりげない風を装って、ゆっくりと振り向いた。そのとたん、 「これ、あなたが全部作ったの、暮林君?」  声の主——クラスメートの行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》が、あのノートを手にぼくの方に微笑《ほほえ》みかけていた。 「あ……う、うん、そうだけど?」  どぎまぎと答えながら、ぼくは相手の顔をぬすみ見た。信じられないことに、ぼくを見つめる瞳《ひとみ》の奥には、畏敬《いけい》の念さえ浮かんでいるように見えた。それが、決して希望的観測ではなかった証拠《しょうこ》に、 「すごいじゃない、この分担表。どうして捨てたりなんかしたの」  行宮美羽子はそう言うと、長い黒髪をちょっとかきあげ、ぼくの方を見つめた。ぼくはどうにかこうにか平静を装い、でも現実にはうれしさと困惑《こんわく》を丸バレにしながら、 「いや、まぁ……さっき見た通り、すっかり無視されて、提出するチャンスも失《しっ》しちゃったみたいだし」  と小声で言った。 「そうなの」  彼女はそう答えると、薄《うす》く微笑みながらゆっくりとぼくの方に歩み寄ってきた。まさに、思いもよらない展開だった。  そのとき、ぼくの心臓がいつもより大きく、早く脈打たなかったといったら嘘《うそ》になる。だが、そのときのぼくの内心が、昔ならもっぱら女の子向けの雑誌に、今なら少年マンガにあふれてるみたいなドキドキとときめきに占《し》められていたかというと、それはちょっと違う。  確かに、それらはぼくの胸の中にあった。あったどころか、体じゅうを駆《か》け回り、飛び跳《は》ねていた。だが……それだけではなかった。  ふいに崖《がけ》っぷちに立たされたみたいな戦慄《せんりつ》、剽悍《ひょうかん》な肉食獣《にくしょくじゅう》と直面したような緊張《きんちょう》——人が聞いたら「お前は女性|恐怖症《きょうふしょう》か」と笑われかねないが、確かにそんな冷たいものが、ほんの一瞬《いっしゅん》だが全身を駆け抜《ぬ》けたのだ。 「——はい、これ」  行宮はぼくの手にノートを載《の》せてくれると、言った。 「捨てたりしちゃだめじゃない」 「あ、うん……」  ぼくは口ごもり、そのあとに「ありがとう」と付け加えようとした。だが、彼女はそれに耳を貸すことのないまま、まるで床《ゆか》を滑《すべ》るかのように間近を通り過ぎていった。彼女の髪がぼくの横顔をなで、甘い香《かお》りが鼻をくすぐったと思ったときには、その後ろ姿はもう教室の出入り口の方へと遠ざかっていた。  だが、ぼくは確かに聞いた。彼女の唇がぼくの耳元と最接近した刹那《せつな》、こんなささやきをもらしたのを……。  ——君のその才能が、生かされるときがきたらいいね。  と。  決して幻聴《げんちょう》などではなかった。でなければ、ぼくは空耳か電波のメッセージに小躍《こおど》りし、ひそかに赤面したことになってしまう。あれはまさしく現実の出来事だった。その直前、彼女から感じた戦慄と緊張が錯覚《さっかく》ではなかったのと同じように。  行宮美羽子とは、どんな女の子だと訊かれたら、さてどう答えたらいいだろう。  身長はぼくより少し低いぐらい。といっても、ぼく自身は平均より下回る方なので、女の子として特に大柄《おおがら》なわけではない。それどころか、ほっそりして華奢《きゃしゃ》な体つきだ。  中高《なかだか》のうりざね顔というのか、日本的な物静かさが漂う顔立ちでありながら、どこか異国的な気配が感じられる。鼻も口元もちんまりとして、しかし彫《ほ》り付けたようにくっきりしているのだ。何よりの特徴《とくちょう》は、どこか夢見るような瞳と、抜けるように白く、それでいてあえかなピンクに染まった肌で、どんな化粧《けしょう》も不要であり無用と思われるほどだった。  こんな風に表現すると、さぞ学校じゅうのあこがれの存在であり、もててもててしょうがないだろうと想像するかもしれないが、そうでもない。といって、近づきがたいというのでも決してない。  決して派手ではなく、どちらかといえば地味で、うわさに上ることも少ないけれど、それでも修学旅行とか臨海学校とかの晩に、男子連中がお気に入りの女の子たちの人気投票なんかする際、意外なほど多くの隠《かく》れファンがいることが発覚する——そういったタイプだと言えばわかってもらえるだろうか。  そういうぼくは、彼女のファンだったかどうかって? まあ、それは想像に任せておくことにするが、ほんの二言三言、言葉をかわしただけで、今日のみじめな失敗も孤立《こりつ》感も全部帳消しになったのだから、そうでないと言っても信じてはもらえないだろう。  確かなことは、この放課後のちょっとした一コマが、ぼく——暮林一樹にとって一つの始まりだったことだ。もっとも、そのときのぼくは自分の目の前に非日常へのブラックホールがぽっかり口を開いているなどとは気づきもせず、行宮美羽子ともう少し仲良くなれそうなきっかけを得たのではと、ほんのり喜んでいたのだが。  そう……要するにぼくはバカだった。底なしのお人よしだった。つまりはそういうことだ。 [#改ページ]  CHAPTER 02  ともあれ、その日を境に、ぼくが行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の存在を意識するようになったことだけは確かだった。そして、おそらくは彼女の方も。  で、ぼくがその後、彼女と積極的に話すような間柄《あいだがら》になったかというと——それはご想像に任せる(たぶん、ご想像の通りだ)。  少なくとも目を合わせたり、何となく会釈《えしゃく》をかわす機会が、以前と比べものにならないほど増えたことは確かだ。一度なんてニコッと笑いかけられたことだって……いや、ラブコメはこのぐらいにしておこう。みんなが求めているのは、もっと血なまぐさく物騒《ぶっそう》な話だろうから。  というわけで、あの放課後の一コマから一週間とちょっと後——安っぽい照明効果みたいな夕焼けが街を染めた、たそがれどきの出来事について話そう。  その日そのとき、ぼくは学校からの帰りがけ、いつも通り屋敷町《やしきまち》の真ん中を貫《つらぬ》く通学路をテクテクと歩いていた。  学校におけるぼくは、この日もパッとしなかった。まあ、これは日課のようなものだが、意味もなく考えに考えて空振《からぶ》りに終わるということがまた一つあったのだ。  よくしたもので、いやなこと、うっとうしいことがあった日も、たまたま手にした小説のストーリーに引き込まれたり、結末でハッと胸をつかれたりすると、まあいいかと帳消しにできた気になる。これは自宅でのことだが、テレビで何の予備知識もないまま見た昔の映画の出来がよかったときも、けっこううさが晴れたりする。  あいにく、このときはそういうアイテムというか、特効薬の持ち合わせがなかった。だから、何かこう日常にあきたりないというか、何もかもが引っくり返ってしまうような事態をほんのり期待しながら、家路を急いでいた。  そんなさなかのことだった——何の気なしに振り返った背後に、行宮美羽子の姿を見出したのは。道がゆるやかに屈曲《くっきょく》しているせいで、あれっと思った次の瞬間《しゅんかん》には死角に隠《かく》れてしまったが、確かに彼女に間違《まちが》いなかった。  声をかけるには遠く、そのまま立ち止まるのも変だし、といって後ろを向きながら歩き続けるわけにもいかず、またとぼとぼと歩を進めるほかなかった。  だが——笑いたい人は、ここで笑ってもらってかまわないのだが——ぼくは思いがけず美羽子の姿を見かけたことで、ちょっぴり得をしたような気がした。その意味で、彼女はぼくが日ごろ愛読する小説家たちに匹敵《ひってき》したといえるかもしれない。  それにしても、この通学路を通って何百ぺんになるか知れないが、これまで行宮美羽子の姿を見かけたことはない。単にタイミングがずれていただけか、それともこれまではほかの道を使っていたのだろうか。考えてみれば不思議《ふしぎ》な話だったが、そのときのぼくにはもっと別のことが気になっていた。  当然今度は目が合うかもしれない、そしたら声をかけてみよう——そんな淡《あわ》い、くだらない期待を抱《いだ》いて、そっと首を後ろにねじ向けた。そのとたん、 (なぁんだ……)  ぼくはがっかりしてつぶやいた。そこには、熟れたような朱色に染まり、静まり返った街路があるばかり。いったい何を期待してたんだと、ひどく小《こ》っ恥《ぱ》ずかしい思いにかられ、やや前かがみになり、ことさらザッザッと足音をたてながら帰り道を急いだ。  ——あの男[#「あの男」に傍点]に出会ったのは、それからまもなくしてからだった。  さっきも少し記した通り、ここはいわゆる屋敷町というやつで、クルマ一台半ほどの道幅《みちはば》をはさみ、たった一か所を除いて両側にどこまでも長く高い塀《へい》が続いている。殺風景なブロック塀に、うっそうとした緑の生《い》け垣《がき》、竹をすき間なく組み合わせたものや上に瓦《かわら》をのっけた土塀などなど。それらの向こうに見える建物も立派なものばかりだ。  とりわけこのあたりは、ずっと一本道が続き、敷地《しきち》と敷地の間に路地などはないから、もし間違えて入り込んでしまったが最後、適当に角を曲がって別の区画に出るわけにはいかない。そのままひたすら歩き続けて一帯を通り抜《ぬ》けてしまうか、来た道をえんえんと取って返すしか方法がないのだ。  塀はどれも高いし、いくら閑静《かんせい》だとはいっても人の目はあるから、よほど大胆《だいたん》な行動にでも出ない限りはほかに逃《のが》れようもない。つまり、翼《つばさ》を持たず、ここに面したどのお屋敷の住人でもない人間にとっては、ここは一種の�密室�のような空間となっていた。そう呼ぶには、おそろしく細長いしろものだったが……。  ちょうど、ぼくから見て進行方向左、方角でいうと北側に赤レンガの塀が始まろうとするあたりにさしかかったときのことだった。ここで断わっておくが、ここらあたりの家々の塀は先にも記した通り千差万別、どれ一つとして同じようなものはなく、したがってレンガ塀というのもここだけだった。  長年の風雪に耐《た》えてすっかり古び、あちこち傷ついたレンガ群の真横にさしかかったとき、ふと顔をあげたぼくは、すぐ前方から歩いてくる一人の男の姿に気づいた。  年のころは四十代半ばぐらいだろうか、一瞬、ホームレスか? と思ったほど、うらぶれた感じの人物だった。  背広もズボンもよれよれ、ワイシャツはくしゃくしゃに着崩《きくず》れて、ネクタイはひものよう。となれば、髪の毛が整っているわけもなくボサボサに逆立っていた。おまけにがっくりと首うなだれて、足つきも何となくおぼつかない。  サラリーマンが会社に出勤したまま放浪生活に突入《とつにゅう》し、そのあと年季を重ねたら、こんな風になるかもしれなかった。  その男を見た瞬間、ぼくは何ともいえないいやな感じに襲《おそ》われた。どうにもこうにも不吉でおぞましい感じ——といっても、それはその男当人から受けたものでないところが妙《みょう》だった。この人は無害というか無気力そのもので、なのにどうしようもなく暗い影《かげ》がさしているように思われたのだ……。  ——赤レンガの塀の真ん中あたりで、ぼくとその人はゆっくりとすれ違った。  ぼくはほんの一瞬、彼のことをぬすみ見たが、先方はぼくのことなど気づきもしないようだった。ぼくだけではなく自分を取り巻く世界の全てから目をそむけているようだった。  少し行ってから、何とはなく振り返ってみたが、そのときにはもう塀がわずかにカーブした先の死角に入って見えなかった。  ——それが、ぼくがその人を見た最初で最後だった。と同時に、これはその後に果てもなく連鎖《れんさ》してゆく悲劇にぼくがかかわる、ほんの端緒《たんしょ》に過ぎなかった。  そのままぼくは、道を進んだ。赤レンガの壁はたちまち過ぎて、竹垣やブロック塀をいくつか過ぎて、見上げるような板張りの塀に左右をはさまれた一帯にさしかかり、その半ばあたりまで来たとき、路上に何かキラリと光るものが目に入った。 (あれは……鍵《かぎ》か何かかな?)  近づくにつれ、どうもそうらしいことがわかった。オレンジ色をしたプラスチック製の、ありふれたキーホルダー付きの何の変哲《へんてつ》もない鍵——。それが、すぐ足元の地面を通過しようとする瞬間、ぼくは歩みを止めた。  拾おうかどうか、二、三秒の間|躊躇《ちゅうちょ》した。どんなにありふれた鍵だろうと、なくして不自由でないはずがない。といって、いま拾ってどこかに届けてしまうと、持ち主があわてて捜《さが》しに戻《もど》ってきたとき、見つからないということになりかねない。そう考えて、いったんは行き過ぎたが、なぜだか気になって引き返した。  立ち止まると、足下の地面と、さっきあの男の人とすれ違った方角を見比べた。だが、誰もやってくる気配《けはい》はなかった。あの男も、ぼくの後から来るはずの行宮美羽子も。  コインロッカーのキーらしいな——そう見当をつけて、「357」という数字が結びつけられた鍵をポケットに放り込んだ。この先の帰り道にある交番に届けるつもりだった。 [#挿絵(img/01_026.png)入る] [#改ページ]  CHAPTER 03  翌朝の登校時は、うっとうしいほどの晴天だった。ちょっとおかしな言い方もしれないが……。  昨日の夕方とは逆に、東から西へ進むいつもの通学路。立て続けに出るあくびも、退屈《たいくつ》で死にそうになる授業の合間に(いや、ほんとは真っ最中にもだけど)生き返るため、詰《つ》め込《こ》んだ本の分だけ重たいカバンも、何もかもいつもと同じだった。  いや、重さについてはちょっとばかり変動があったのだが、それも大したことではなかった。まして、道すがらに見る風景に何一つ変わりがあるはずは——いや、それがあったのだ。  いつもだったら、同じルートを使っている連中がちらほらと見えるぐらいの道のそこここに、見なれぬ人たちが行ったり来たりしていた。  あちらに制服姿のお巡りさんが立っているかと思えば、こちらには作業衣《さぎょうい》のようなものを着、同色の帽子《ぼうし》をかぶった人がうずくまって何かしている。加えて、背広やジャンパー姿の勤め人風だが、どうもそうとは見えない男たちが通りかかるものに鋭《するど》い一瞥《いちべつ》を投げかけ、呼び止めて話しかけたりしていた。  むろん、ぼくも例外ではなく、生徒証の提示を求められ、名前とクラスなんかを聞き取られた。  いったいここで何があったというのか——だが、そのことよりぼくの心を占《し》めていたのは、テレビドラマや小説ではあれほどおなじみなのに、現実にはお目にかかったことのない「刑事」なるものの、それも本物に遭遇《そうぐう》したという事実だった。  だが、ことは、そんなのんきなことでは収まらなかった。教室に入ると、誰も彼もが一つの話題でわきたっていた。あるとき、団体で乗車した新幹線にアイドルタレントが乗り合わせているという噂《うわさ》が広まって、みんなが大はしゃぎしたことがあったが、あれにちょっと似た騒《さわ》ぎだった。  実のところ、この朝の評判の主体はアイドルでもなければ、何かその手の有名人でもなかった。では、何だったかといえば—— 「死体だよ、死体!」  教室に入ろうとしたとたん、同級生の誰かれ——いまだかつてダルそうな姿しか見たことのない連中までもが、興奮気味に話していた。 「死体って、猫か何かの?」 「違《ちが》うよ、人間のだよ。何でも昨日の夕方、あっちの通学路で……」 「あっちってどこさ」 「ほら、ずーっと塀にはさまれた一帯があんだろ。あそこで……」  雰囲気《ふんいき》を盛り上げるつもりか、タメるような間を置いてから、 「人殺しがあったんだってさ!」  死体? しかも、それだけじゃなくて人殺しだって?  その瞬間《しゅんかん》、何の根拠《こんきょ》も脈絡《みゃくらく》もなく、ぼくの中で一つの光景が鮮《あざ》やかによみがえった。ひょっとして、あのときの……いや、まさかと打ち消しかけたとき、大げさな身振《みぶ》り手振りで盛り上がる奴らの向こうに、かいま見えた人影《ひとかげ》があった。  行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》だった。騒ぎとはまるで無縁《むえん》なようすで、きちんと自席についた彼女は、カバーを掛《か》けた文庫本に読みふけっていた。ときおり髪をかき上げるしぐさに、なぜか見とれかけた折も折、 「よう、どしたい」  陽気な声とともに、背中を思いきりどやしつけられた。ぼくはその勢いもあって振り返りざま、 「ああ、夏川《なつかわ》か」  すぐ間近にあった屈託《くったく》のない笑顔に向かって言った。背後にいたのは夏川|至《いたる》といって、向こうはともかく、こっちからは唯一《ゆいいつ》の親友といっていい存在だ。一年のときに知り合って、大いに気が合ったのだが、あいにく今年は別々のクラスになり、しかも彼の方ははるかに活発な行動派なので、話のできる機会がめっきり少なくなってしまった。 「お前んとこも、例の話題でもちきりみたいだな。全く、みんなしょうがないというか——」 「え、例の話題って……死体とか、そのぅ、人殺しとかいう?」  ぼくは後半ちょっと声をひそめながら、訊《き》いた。声のついでに、胸のうちでにわかに頭をもたげた�もしかして……�という思いも抑《おさ》えつけた。  夏川はむろん、ぼくの内心の動揺《どうよう》など知るはずもない。「ああ」とうなずくと、うれしそうに騒いでいる連中に、気が知れないなと言わんばかりの表情を投げてから、 「ま、くわしいことは知らんけどな。何でも、あの屋敷町《やしきまち》を抜《ぬ》けて行く通学路の途中で人が一人、死んでるのが見つかったんだってさ。西寄りの、もう少しで学校ってあたりのブロックに一軒《いっけん》だけ家の建ってないとこがあるだろう?」 「ああ、あの草ぼうぼうの?」  そこのことなら知っていた。先に、たった一か所を除いてと述べたのがそこで、人間はもちろん猫でも通り抜けるのに苦労しそうなほど、隣《となり》同士の塀《へい》がくっつき合った中にあって、そこだけが歯の抜けたように空き地になっており、何の管理もされないまま荒《あ》れ放題となっていた。 「そう、あそこだ」夏川至はうなずいた。「今朝、あそこの草むらの中で、サラリーマンだかホームレスだか、とにかくうらぶれた感じの中年男が倒《たお》れているのが見つかったんだ。本当かうそかは知らないが、噂じゃあ心臓を何かで一突《ひとつ》きにされてね」  そう聞いたとたん、ぼくの中でにわかに昨夕目にした光景がプレイバックされた。ひょっとして、あのときの……いや、そんな、まさか! 「そういえば、お前もあの道が通学ルートだったっけ。え、さっき警察の人に名前を訊かれた? じゃあ、覚悟《かくご》しといた方がいいかもな」 「覚悟って何の?」  すると夏川はあきれたような苦笑いを浮《う》かべて、 「決まってるじゃないか。警察の事情|聴取《ちょうしゅ》だよ。何でも死んだのが昨日の夕方で、その時間帯にあの道を通った人間に話を聞きたいってことらしいぜ」 「え……」  戸惑《とまど》うぼくの背中を、夏川は思いっきりどやしつけると、 「いいじゃないか。お前の大好きなミステリを実体験できるんだから。おまけに、授業をサボれるかもしれないしさ。——じゃな、あとで話を聞かせてくれよ」  言うだけ言って、自分のクラスの方に戻《もど》って行ってしまった。ぼくは、しかたなく自分の席につきながら、 (やれやれ、変なことになっちゃったな……)  何だかひどくいやな胸騒《むなさわ》ぎを打ち消そうと、ことさらに心の中でつぶやいた。  と、それとタイミングを合わせたように、京堂広子《きょうどうひろこ》がいつもにも増して肩《かた》をそびやかし、何だか自慢《じまん》げなようすで、的場長成《まとばおさなり》ともども教室に入ってきた。  そのとき初めて、ぼくは仕切り屋のクラス委員コンビの姿が、珍《めずら》しく教室内に見えなかったことに気づいた。すぐあとから一限目の担当教師が到着《とうちゃく》し、殺人事件(?)という非日常な出来事にわきたっていた空気は、たちまちにいつもと同じ退屈さの中に吸い込まれて消えてしまった。だが、そうなる直前、ふと頭の中でひらめいた疑問があった。 「待てよ」ぼくは独りつぶやいていた。「あの二人も確か、同じ通学路を使っていたんじゃなかったっけ。ひょっとして、彼らも警察から話を——?」  案《あん》の定《じょう》だった。次の休み時間に、的場長成と京堂広子は何かとてつもない冒険でもしてのけたかのように、自慢たらしく自分たちの経験談を語り始めた。 「そうなの、今朝空き地で見つかったっていう死体ね、実はそれが私と的場君が昨日の帰り道ですれ違った男だったのよ。そりゃもう、びっくりしちゃった。死体の写真見せられて気持ち悪いわでもう大変! でもね、私たちの証言で犯人が捕《つか》まるかもしれないし、これも国民の義務っていうか、しかたないよね——ねっ、的場君?」 「え? あ、まぁ、そういったところかな」  京堂広子に水を向けられ、的場はぼそぼそと答えた。めったにない体験を話したくてうずうずしているらしい彼女の方とは対照的に、彼は漫才《まんざい》の下手なツッコミ担当みたいな相づちを打つばかり。しまいには「そのへんでいいんじゃない?」などと牽制《けんせい》して無視されたあげく、自分たちをとりまく輪の外に逃《のが》れようとして、彼女に引っ張り戻されたりした。  野暮《やぼ》なぼくには今いちわからなかったが、クラスメートの一人が半笑いで、 「おいおい、今さら隠《かく》さなくたっていいだろうがよ。お前がいつも京堂といっしょに帰ってることをさ」  と的場に言ったことで、やっと理解できた。ひょろりとした的場と、ちんちくりんの京堂の凸凹《でこぼこ》コンビは、底意地の悪そうなところも含《ふく》めてお似合いのカップルだったが、どうやら委員長の仕事をきっかけに、いつのまにかつきあい始めてもいたらしい。だが、的場の方は彼女とそうなったことを自慢するどころか、あまり知られたくないと思っているようで……。  京堂広子にとっては聞き捨てならない一言だった。そのとたん、彼女は関係のないぼくまでビクッとさせられるほど、ものすごい勢いで茶々を入れた奴をにらみつけ、だがすぐに何ごともなかったように話を続けた。 「でね、何で私たちの証言が重要かと言うと、私とカレが(彼女はそこで的場のことをいとおしそうに見上げた)すれ違ったとき、その男の人はすでに犯人にやられていたらしかったからなのよ。今にして思えば、の話なんだけどね」  これには聞いている側もエエッとなって、二人の交際問題などどうでもいいとばかりに身を乗り出した。むろん、ぼくも例外ではなかった。 「そう、きっとそうに違いないわ。だって、あのときもうようすがおかしかったもの」  京堂広子は、小柄《こがら》な体をせいいっぱいそびやかすと、芝居《しばい》がかった調子で、 「あの男の人は照りつける西日を受けて、前かがみになりながらやってきた。胸のあたりをこんな風に押えながら、あっちへふらふら、こっちへふらふらと、まるで酔《よ》っ払《ぱら》いみたいにね。場所はちょうど、あの高い木の塀があるお屋敷のあたりで……」 (えっ?)  その一言に、ぼくは耳をそばだてた。思わずこう問いかけていた。 「高い木の塀って、通学路の東寄りの家にあるやつのこと? 片っぽが何も塗《ぬ》ってない白木で、向かい側が黒板塀の……」  あんまりこういう場で口をはさむ方ではないので、自分でも驚《おどろ》いたが、まわりの連中もちょっと変な顔をしていた。このとき、ぼくの脳内には彼女の話に基づいて現場の情景——むしろ一つの図が思い浮かび、そのせいでそんな質問をしたくなったらしかった。 「そうだけど、それがどうかしたか?」  妙《みょう》につっけんどんに答えたのは、京堂広子ではなく的場長成の方だった。とんだ事件のせいで彼女との仲が公認のものになってしまったことにヤケ半分だったのか——いや、相手がぼくと見て威丈高《いたけだか》になった可能性の方が大きかった。 「いや、その」ぼくは口ごもった。「ちょっと、訊いてみたかっただけだよ。その人とすれ違ったのは、あの道のどこなのかなと思ってさ」  またこいつが、よけいな詮索《せんさく》で話の腰《こし》を折りやがって……という気まずい空気が漂《ただよ》いかけたとき、思いがけず救いの手を差しのべたのは、何と京堂広子だった。 「そういえば、暮林《くればやし》君もあそこが通学路だったのよね」  彼女は、あまりゾッとしない笑顔をぼくに振り向けて、 「そう、私たち[#「私たち」に傍点]が最初にその人の姿に気づいたのは、いま言ったお屋敷の手前にあるおうちに差しかかったときのこと……こっちが木の塀にさしかかったあたりですれ違って、そのまま東と西に別れたの。あんまり危なっかしい感じだったから、すれ違ってしばらくしてから振り返ってみたら、まだ後ろ姿が見えたのを覚えてる。あの足のノロさじゃ、この道を抜けるまでだいぶかかりそうだなって、思ったこともね。でも、いま思えば、それどころじゃなかったのね。だって、あのとき私たちが見たのは……」 「おい、そのことは……だろ」  ふいに的場長成が、いつになく強い口調《くちょう》で京堂広子をひじで突っついた。とたんに彼女はこびるように彼を見上げ、 「あ、そうだったね」  二人だけの秘密を確認するかのように言った。それから、何ごともなかったかのように、再びぼくに向かって、 「ま、それはともかくとして……私たちの話が、どうかした?」  意味もなく勝ち誇《ほこ》ったような表情で言った。  的場が何を押しとどめたのかはしらないが、彼女にすれば、めったになさそうな出来事、それも的場といっしょのときの体験について、くわしく訊いてくれるものは大歓迎《だいかんげい》だったのだろう。だが、ぼくはせっかくの期待を裏切り、いつもの調子で言った。 「いや、別に……あぁいや、ちょっとね」  すでにそのとき、ぼくの頭は別のことで占められていた。ぼくが昨日すれ違ったのが、的場と京堂が目撃《もくげき》したという男と同一人物だったとして、東から西へ向かって歩いていたその男と、逆方向に進んでいたぼくは西寄りのレンガ塀の前で、的場と京堂の二人組は東寄りの木の塀のあたりですれ違ったということは、彼らがぼくの前方を歩いていたということにほかならない。さっきの脳内図面にそれらのデータを書き込めば、こんな感じになるだろうか。 [#挿絵(img/01_038.png)入る]  と、いうことは——ぼくはいつもの癖《くせ》で、考えをめぐらし始めていた。こうなると、まわりの状況《じょうきょう》など目にも耳にも入らず、誰がどんな視線を向けていようといまいとどうでもよくなってしまう。こうなると楽は楽なのだが、といって、ずっとそのままというのも困りものではある。  だが、そのときはそんな心配の必要はなかった。 「おい、暮林」  ふいの声にわれに返ると、クラス担任の、ヒゲそりあとも青々とした顔がすぐ近くにあった。受け持ちの科目でもないのに、何でまた教室に現われたのかといぶかる間もなく、 「あとでちょっと生徒指導室に来てくれ。警察の人がお前からも話が聞きたいんだとさ」  と言った。 [#改ページ]  CHAPTER 04 「ささ、そんなとこに突《つ》っ立ってないで、こっちへ……。そう硬《かた》くならなくても、すぐすむんだから」  ドアを開けたとたん、こっち向きに腰掛《こしか》けていた中年男がニコニコと笑いかけてきたので、ぼくもあいまいな微笑を浮《う》かべて返した。本物の刑事ってこんなに愛想のいいものかなと、ちょっと安心したり拍子抜《ひょうしぬ》けしたりしながら、お粗末《そまつ》な机をはさんで相手と向かい合った。  担任教師が付き添《そ》ってくれるのかと思ったら、ぼくだけ残して出て行ってしまったのには驚《おどろ》くより呆《あき》れてしまったが、ぼくが万一きつい取り調べを受けたとしても、あまり助けてくれそうにはなかったし、見たところそんな心配は無用のようだった。  何より、さっさとすみそうなのがうれしかった。というのも、ひょっとして授業をサボれるのではと期待したのだが、担任が言った「あとで」というのは何と昼休みで、おかげで空きっ腹のまま生徒指導室に行かされ、そのまま昼飯を食いそこねることにもなりかねなかったからだ。  その刑事の笑顔にうながされるまま、ぼくはぼく自身の住所氏名、クラス、それに昨日の下校時の状況《じょうきょう》などを話し始めたが、やがて妙《みょう》なことに気づいた。相手の笑顔が少しの変化も見せないのだ。  赤ら顔や変につやつやした肌質《はだしつ》のせいか、まるで木彫《きぼ》りの仮面のようだ。よく目だけは笑っていないとか言うが、この男の場合は、細めた目の奥にどんな光が宿っているのか、まるでうかがい知れなかった。 「それで」  刑事は、ぼくの中に生じた薄気味《うすきみ》悪さをお見通しなのか、そんなのは知ったことじゃないのか、猫なで声で言った。ふいに机上に置いてあった白いカード——それは裏返しに置いた写真だった——を取り上げたかと思うと、それをぼくの鼻先に突きつけて、 「君がすれ違《ちが》ったというのは、この男だった?」 「!」  ぼくは一瞬《いっしゅん》、ひるまずにはいられなかった。そこには草むらに横たわる中年男の、明らかに死に顔としか思えないものが大写しになっていたからだ。 「あの……」  ぼくはゴクリとつばをのみ下し、ジワリと汗《あせ》がわいて出るのを感じながら続けた。 「これは、ひょっとして、そのぅ——?」 「そう、この近くの空き地で見つかった死体だよ」  刑事は妙に楽しそうに、格別表情は変えないまま答えた。だが、そのとき口元からチロッと舌の先がのぞいた気がしたのは、錯覚《さっかく》ではなかった。 「生きてるときとは人相も変わっているだろうが、こいつに間違いなかったかい?」 「は……はい」  ぼくはかすれた声で、小さくうなずいてみせた。 「確かに……こ、この人だった、と思います」  よく刑事もののドラマや小説に出てきて、容疑者のアリバイやなんかを証言するチョイ役は、何で判で押したような受け答えしかできないのかとおかしく思っていたが、今日からは笑えなくなりそうだった。 「で、君はこの男と、このあたりですれ違った、と。——間違いないね?」  刑事は机上に、住居地図の拡大コピーらしいものを広げると、あの赤レンガ塀《べい》の屋敷《やしき》のあたりを指差し、ぼくがうなずくのにつれて△印をつけた。見ると、その右寄りにはすでに○印がついていて、それは京堂広子《きょうどうひろこ》が言っていた「高い木の塀があるお屋敷」に違いなかった。  そして左の方に視線を滑《すべ》らせると、あの通学路|脇《わき》の、地図上では空白になった小さな一画に×印がしてあって、それが何を意味するかは言うまでもなかった。  と、その上にスッと重ねられたものがあった。そうしげしげとは見たくない死体写真だった。 「さて、それで……」  刑事は何食わぬようすで、しかし明らかにぼくの反応を楽しみながら言った。 「この男のようすはどうだった? さぞかし瀕死《ひんし》の状態だったろうね。君がそのとき一一〇番でも一一九番でもしていてくれれば、まだ何とかなったかもしれないが……いや、これは別に君を責めているんじゃないんだよ。ただ、ねぇ……」  言葉とは裏腹な内心が、わざとらしくちらついていた。 「あ、あのぅ」  ぼくはあわてて、さえぎった。話が妙な方向に転がりだしたからだった。 「それはどういうことなんでしょうか。ひょっとして、この人は、ぼくがすれ違ったときにはもう——?」 「決まってるじゃないか」  刑事は一転、不機嫌《ふきげん》そうになって、 「君の前方にいて、この男とは当然君より先にすれ違った二人組——的場《まとば》君と京堂君だっけか、彼らはこの男のようすが明らかに変だったのを証言してる。あっちへよろよろ、こっちへふらふらと足取りもおぼつかなかったとね。このことは口外無用に願いたいんだが、女の子の方なんか、そいつの前をはだけた背広の下から銀色に光るもの——凶器《きょうき》の刃物《はもの》らしいものを見た、とまで証言してる」  あいつがそんなことを! とぼくは驚かずにはいられなかった。あのとき彼女が言いかけ、的場|長成《おさなり》が押しとどめたのはそのことだったのか。たぶん、今のぼくのように警察から口止めされたのだろう。  ぼくは、京堂広子のあのときの顔を思い浮かべた。何がそんなに自慢《じまん》かと思ったら、自分たちが重大な目撃《もくげき》証言をしたのがうれしかったのだろうか。それへの反発もあったのだろう、ぼくは半ばむきになりながら、 「でも……ぼくが見たときには、そこまで変な感じではなかったですよ。そりゃ、顔色は悪かったし、足取りもしっかりはしてなかったけど、まさかあのときもう刺《さ》されてたなんて……そんな刃物も見えませんでしたし」  だが、話すにつれ、笑顔のままで固まっていた刑事の表情が、ゆっくりと渋面《じゅうめん》に変わっていった。おかげで何もかぶってなどいないことが明らかになったが、だからといって安心できたわけではなく、むしろ正反対だった。 「ふうん……だとすると、ちょっと困ったことになりはしないかねぇ。だってそうじゃないか。君より先にこの男を目撃した二人が明らかに瀕死の状態だと証言し、うち一人は凶器らしいものさえ目撃したというのに、そのあとこいつと遭遇《そうぐう》した君が、これらを全否定するというのは……」 「いえ、別にそこまでとは」  弁解しながら、ぼくは京堂広子の奴、さぞ得意げに目撃談をしたのだろうなと推測していた。刑事はさらに、 「かりにその証言が、何かの間違いか思い込みによるものだとすればだよ。その時点では、まだ刺されていなかったことになる。では誰に——? 君を含《ふく》めた、後から来た誰かに」 「!」  ぼくは不意打ちをくらった感じで絶句した。確かにそういうことになるが、まさかこの刑事はぼくのことを——?  いや、そうではない、と相手の表情から気づいた。彼は、せっかく組み立てかかった推理(ともいえない程度のものだが)を崩《くず》されるのが、いやなのだ。まして、ぼくのような一介《いっかい》の高校生に。  むろん、ぼくが見も知らない男に切りつけるわけもなし、といって、的場たちの証言もあながち無視はできない。男の服の下に凶器らしいものを見かけたという京堂広子の言い分が、記憶《きおく》の後付けに由来する錯覚や誇張《こちょう》の可能性が、多分にあるとしてもだ。  確かなことがあった。目の前にいる刑事が、そうしたことも含めて、一つの死体をめぐって互《たが》いに矛盾《むじゅん》する�事実�のパズルピースを検討してみる気などないということだった。  相手はひたすら、ぼくの口から「あの人は今にも死にそうでした。あとから思えば、そのときもう致命傷《ちめいしょう》を受けていたのでしょう」と言わせようとし、何なら勝手に言ったことにする腹で、それ以外のことに耳を貸す気はないようだった。  この刑事もどうしようもない男だったが、ぼくも別の意味で困ったものといえた。相手が、まして警察が白を黒と言いくるめたがっていたら、素直に従っておくのが賢明《けんめい》な態度だろう。まして、こちらにとっても白と確信があるわけでなく、せいぜいが灰色なのだから。  だが……どんな些末《さまつ》なことでも、考えて考え抜かずにはいられない悪癖《あくへき》と同様、事実をねじ曲げ、自分にうそをつくのは断じてできないことだった。全く、それができさえすれば、このときに限らず、どんなに楽な人生を送れたことだろう!  だが、できないものはできない。そのあげく、目の前の相手だけでなく、自分との葛藤《かっとう》にほとほと疲《つか》れはて、虚《むな》しくなりかけたときだった。 「そうだ!」  大げさに言えば天啓《てんけい》のようなものがひらめき、ぼくはいきなり立ち上がっていた。  な、な、何だ? と、初めてあわてたようすを見せる刑事をおかしがりながら、ぼくは小走りに生徒指導室を出て行きかけた。戸口のところで振《ふ》り返りざま、 「ちょっと、待っててください。見せたいものがあるんです」 (あの鍵《かぎ》だ……)  ぼくは心中、つぶやいていた。言うまでもなく、昨日あの男とすれ違った直後の路上に見つけ、ついつい拾い上げたキーのことだが、実はまだぼくの通学カバンに入ったままになっている。  いや、あのあと確かに最寄りの交番に届けるつもりだったのだが、立ち寄ってみると誰もいなかった。不在交番とか空き交番とかいうやつで、一般市民に面倒《めんどう》な訴《うった》えを持って来させないため、通り魔《ま》や強盗《ごうとう》に襲《おそ》われて逃《に》げ込んだ被害者を見捨てるため、なるべく警察官を配置しないことになっているらしい。  まさか、そこに拾得物を放置しておくわけにもいかず、机の上に本署への連絡用の電話はあったのだが、何となくおっくうでそのまま立ち去ってしまったのだ。この点に弁解の余地はないが、どこかでお巡りさんに遭遇《そうぐう》し次第、ちゃんと届け出るつもりだった。  考えてみれば、今こそその絶好のチャンスではないか。そして、それだけではなかった。 (あれがもし、この事件にかかわりがあるとしたら? ひょっとして、あの男の人と、ひいてはその死とかかわりがあるのでは——?)  むろん何の根拠《こんきょ》もないことだった。だが、無残な死体となって発見された男と、その通り道で発見された鍵とが、全然無関係だと考える方が、無理があった。  何より、ぼくは自分が望む答えにしか耳を貸そうとしない刑事に、一矢《いっし》報いてやりたかった。ぼくの証言と同様、あっさり無視できるものなら無視してみろという気だった。 「あっ、こら、まだ話はすんでないんだぞ」  狼狽《ろうばい》と憤慨《ふんがい》を半々にブレンドしたみたいな声を背中で聞いて、廊下《ろうか》に飛び出したときだった。見知らぬ大人と危うくぶつかりそうになった。 「おっと」  ちょっとおどけた調子で言い、身軽に飛びのいたのは、三十歳ぐらいで顔のやや青白い男。引き締《し》まった体を、まるで葬式《そうしき》帰りみたいに黒ずくめのスーツに包んでいた。もっとも、お弔《とむら》いならワイシャツは白にするだろうが、そんな風に表現したくなるような不吉な気配《けはい》があった。  今のも警察の人間だろうか? さっきの奴に比べると、やけにニヒルというかクールな感じだったが……。  だが、そんな詮索《せんさく》は後回しだった。ぼくはそのまま教室に駆《か》け戻《もど》った。  ちょうど昼飯の最中だった連中の何人かが�おや?�という感じで顔を上げたが、大半は気にもとめなかった。  そのまま自分の席に歩み寄ると、机の脇に置いたカバンを取り上げ、その中を探った。  ——ない!  そんなはずはなかった。確かにあのとき拾ってつい届けそびれたまま、一度も出し入れすることはなかったはずだ。  ぼくは何度も何度も、しまいには中身を全部ぶちまけかねない勢いで、あの鍵を捜《さが》し求めた。だが、全ては徒労《とろう》だった。  カッと頭に血が上り、背中には汗をかいていた。そのくせ全体としては、うそ寒いような脱力したようなところもあったりして、やがて手の動きも止まってしまった。  数分後、ぼくはたとえようもなく情けない気分で、重い足を生徒指導室に向け引きずっていた。 (確かに入れたはずなのに……一度も出しはしなかったのに……家の誰かが間違って持って行ってしまったのか……いや、そんなはずはない、今朝、授業中に読む文庫本を放り込《こ》むときに見たら、確かにあのオレンジ色のキーホルダーらしいものが……いや……)  いっそ、そのまま戻らずにすませようかと思った。だが、相手は警察、しかも校内での尋問《じんもん》のあととあっては逃《のが》れられるわけもない。  いきなり席をけり、いかにも何ごとか重大なことでもありげに出て行っていながら、手ぶらですごすご舞《ま》い戻ってきた。そのことの説明をつけ、あの底意地悪そうな刑事にかんべんしてもらうしかなかった。だが、いったいどう言えばいいのだろう。  戸口でさんざん躊躇《ちゅうちょ》してから、取っ手に指先をかけた。大きく息を吸ってから、 「あ、あのぅ」  消え入るような声で言いながら、思い切ってドアを開いてみた。  次の瞬間、ぼくは思わず立ちすくんでいた。  ドアの向こうにあった刑事の顔は、もはや笑ってはいなかった。たとえ作り笑顔でも、ないよりあった方がずっとましであることを、今ごろになって思い知らされた。  いや、部屋の中から笑みが消えたわけではなかった。というのは、くだんの元・笑い仮面の刑事のほかに、いつのまにか加わった人物がいて、彼がニヤリニヤリと皮肉な笑みを浮かべながら、こちらを見ていたからだ。  黒ずくめの服のポケットに両手を突っ込み、斜《しゃ》に構えた体を手近な壁《かべ》にもたせかけている。そして、青白い顔色と冷笑するような表情の主は——そう、ついさっき、ここを出るときにぶつかりかけた人物だった。  やはり彼も刑事で、ここへは同僚《どうりょう》の応援《おうえん》にでもやってきたのか。それとも——と心の中でつぶやいたとき、その男がふいに口を開いた。 「さてと……暮林《くればやし》君だっけ、君はこちらの彼になかなかユニークな証言をしたうえに、何か相当に興味深いものを見せてくれるんだって? よかったら、このおれもお相伴《しょうばん》にあずからしてもらえないもんかな。え、どうだい?」 [#改ページ]  CHAPTER 05  寒風にほっぺたをなぶられながら考えた——自分のことをあまり賢《かしこ》くないとは思っていたが、これほどまでとは考えもしなかった、と。思い切りの悪さについても同様だ。  あらためて思い知らされた事実は、ぼくがこんなにも自分の考えに執着《しゅうちゃく》する人間だったか——ということだった。 (そして、そのおかげで)  ぼくは、独りつぶやかずにはいられなかった。 (こんなところで、張り込《こ》みみたいなことをしなくちゃならなくなったわけだ。誰に命じられたわけでもないのに……それも、よりによって、こんな寒空の下!)  ぼくがいるのは、駅前の繁華街《はんかがい》の一角。目の前にあるのは、ショッピングセンターの脇《わき》にあるコインロッカー・コーナーだ。あの刑事の態度につい意地になり、さらに深みにはまった先が、ここというわけだった。  ——あのあと、笑い仮面を完全に脱《ぬ》ぎ捨てた刑事に、ぼくがたっぷりと油を絞《しぼ》られたのは言うまでもない。いったい何のつもりで勝手に席を立ったのか、いったい何をしに行き、どうしてまた手ぶらで帰ってきたのか?  質問する方も要領を得なかったが、答えるこちらはいっそうしどろもどろ。解けない数式が書かれた黒板の前でさらし者にされるときの何倍か汗《あせ》をかくはめになった。  あとから来た黒ずくめの衣服に、青ざめた顔の男は、そんなぼくをさも面白そうに、ニヤリニヤリと意地の悪い笑みを浮《う》かべながら、ながめていた。  この男もやはり警察の人間らしく、つまり二人は同僚《どうりょう》ということらしかった。だが、仲は決してよくないようで、特に、ぼくを尋問《じんもん》した�笑い仮面�は黒ずくめの刑事が大嫌《だいきら》いなようだった。ちょっとした言葉のはしばしや、投げかける視線からもそのことが見てとれた。  かたや黒ずくめの刑事は、彼から嫌われていることをむしろ楽しんでいるようで、それが証拠《しょうこ》に、彼とぼくとのやりとりに、いちいち「おやおや、何てこった」「ほい、どうした?」などと茶々を入れてきた。だもんで、相手はますますいきり立ってしまって、おかげでぼくまでとばっちりを喰《く》わされた。  全く迷惑《めいわく》な話だった。加えて迷惑だったのは、そうこうしているうちに昼休みが終わってしまい、とうとう昼飯を食べそこねたことだった。  やりきれなさと腹ペコなのが合体して、どうにも心の収まりがつかなかった。何もかもが不条理きわまりない中で、その筆頭は、あのとき確かに拾い、カバンに入れてきたはずの鍵《かぎ》が、いつのまにか消え失せていたことだった。  家に忘れてきたはずはない。まして勝手に消えてなくなるわけがない。となれば——誰かが盗《ぬす》んだのか?  ばかばかしい。そんなわけがあるもんか。  ひょっとしたら、いや、ひょっとしなくとも一番筋の通った推測を、ぼくはあっさり捨て去った。いま思えば、何かと面倒《めんどう》なことになりそうなのを恐《おそ》れ、知らず知らず意識の外に追い出していたのだ。  いったい誰が、何の目的で鍵を盗んだのか。クラスの連中にいきなりそんなことを訊《き》くわけにもいかず、近くの席の奴にそれとなく、 「あの、昼休み中にぼくの席に近づいて、そのぅ、このカバンを……」  などと尋《たず》ねても、ハァ? と変な顔をされるばかりだった。  むろん、あの調子では警察も相手にしてくれそうにない。現物があってこそ検討もしてくれたかもしれないが、「確かにあったんです」と主張するだけでは無理に決まっている。  そんなことを思い悩《なや》むうちに、本当にカバンにあのキーを入れたのか、だんだんと記憶《きおく》があいまいになってきた。授業がすむや、ホームルームも素っ飛ばして家に帰り、調べてみたが、やっぱり見つからない。だが、そのことは学校でなくしたことの証明にはならず、ひょっとしてわが家に何者かがこっそりと——という、さらにいやな可能性を思いつかせるきっかけとなった。  しまいには、キーを拾ったことさえ現実の出来事だったかどうか、ぐらついてくるありさまで、これはさすがに即座《そくざ》に否定したものの、混迷は深まるばかりだった。  では、どうすればいいというのか。どうもしないのがいいに決まっていたが、なぜかそうはできなかった。  テストの一夜漬《いちやづ》けのときには、さっぱり働いてくれない記憶力が、そのときだけは変に研ぎすまされていた。何と、あのキーについていたプラスチックのホルダーに刻まれた数字が、まざまざと脳内スクリーンに映し出されたのだ——3・5・7と、字画のかすれまではっきりと、自分でもびっくりするぐらいに。  何のことはない、お節句の七五三の逆読みだから覚えやすかっただけのことだが、それだけではなかった。その裏っかわに「××北口」と記された文字までもがまざまざと思い出された。  そのとたん、ピンとくるものがあった。これらの四文字から連想されるものは、ここからさほど遠くない駅名であり、そこにある出入り口の一つであった。  駅には、今では時代|遅《おく》れになりかけたショッピングセンターがあり、その一角には——とここまで言えばもうおわかりだろう。  ぼくはあいにく、コインロッカーとトイレを着替《きが》えのための中継ポイントにして、あちこち遊び回る女子高生ではない。だから、あそこのコインロッカーを利用したことはなく、そこにどんなキーが使われているかは知らない。  したがって、あの鍵とキーホルダーが本当にそのショッピングセンター脇から持ってこられたものなのかどうか、わかるわけがない。まともな頭の持ち主なら、そんなあやふやなことで用もない場所に、今さらわざわざ出かけて行ったりはしないだろう。いや、しないに違《ちが》いないし、してはならない。 「フッ……フワックシュ!」  無理にこらえたせいで、よけい妙《みょう》ちきりんなものとなったクシャミが口から飛び出した。折悪《おりあ》しく通りかかった女子中学生たちが露骨《ろこつ》にプッと噴《ふ》き出しながら、通り過ぎてゆく。まあ、ここにいることでまともな頭の持ち主でないことを実証した以上、しかたがないのかもしれなかった。  ——あのキーは、やはりここのものらしかった。記憶の中にあったそれと、鍵そのものの形状も、数字の見た目も、それから「××北口」の文字も、何もかもがコーナーに並んでいるロッカーに挿《さ》されているものと一致《いっち》していた。  そして、357番のボックスは——まだ使用中だった。まだ、とあえて付け加えたのにはわけがあって、扉《とびら》の小窓には三日分の料金に相当する数字が表示されていたからだ。ということは、今日の昼休みを境にぼくが鍵の所在を見失ってから、誰もこのロッカーの施錠《せじょう》を解いていないということだ。  と、いうことは——? もし、あの鍵を手にした誰かがこの357番に預けた何かを受け出しにくるとすれば、それはまだこれからということになる。この手のコインロッカーは、一定期間が過ぎると管理者側がマスターキーで開錠し、中身を遺失物として回収してしまう。それがいやなら、その前に駆《か》けつけなければならないはずだった。  そこここに貼《は》り付けてある約款《やっかん》によると、ここの利用限度はたいがいそうであるように三日間。管理する側が使用時間をどんな風にチェックし、いつ回収することにしているのかは知らないし、タイムリミットとなった瞬間《しゅんかん》にやってくるとも思えないが、それでも預ける側としては規定の時間を守るのが安全に違いなかった。  だとしたら……ここで待っていれば、ひょっとしてあの357番のロッカーを開けにくる誰かと遭遇《そうぐう》できるのではないか。そして、その誰かとは、ぼくが拾ったあのキーをいつともしれない機会に、何らかの方法で奪《うば》い取った人物なのでは……。  そう思い当たってしまったのが運の尽《つ》き、ぼくはそのままコインロッカーのある一角から離《はな》れられなくなってしまった。こうして、しだいに日が翳《かげ》り、しんしんと冷え込んでもきた黄昏《たそがれ》どきに、ぼくは刑事ドラマもどきの張り込みを敢行《かんこう》するはめになったのだった——。  あいにく通りすがりの人からは、張り込みというよりは、わらにもすがる思いで取りつけたデートの約束をあっさりすっぽかされたモテナイ君ぐらいにしか見えなかったろう。われながらはまり役だと思わずにはいられない、そんな自分の姿を思い浮かべながら、ぼくの中では自己|嫌悪《けんお》まじりの後悔《こうかい》と、半ば以上意地になっての探究心が綱《つな》引きを繰り広げていた。  結局のところ勝負は後者が優勢で、ぼくはえんえんと張り込みを続けるはめになった。といっても、ぼくが監視《かんし》しようとする357番ロッカーは、コーナーを入ったところの中段ぐらいにあって、外からは開閉するところを直接目にすることができない。  だからといって、用もないのに入りびたっているわけにもいかない。ちょっとの間ならともかく、怪《あや》しまれるのが落ちだ。となれば、コーナーへの出入りが見える場所から、そっとながめているほかなかった。  これも決して楽な作業ではなく、体はどんどん冷えるし、その場を動くわけにはもちろんいかず、加えてすぐに単調さと退屈《たいくつ》に耐《た》えられなくなってきた。というのも、すぐに気づいたことだが、けっこう稼働《かどう》率が高く空きの少ないここのコインロッカー・コーナーに出入りする人間は、意外と少なかったのだ。  それでも最初の一人がコーナーの奥に消えていったときには、興奮と緊張《きんちょう》をこらえながら、あとに続いた。だが、その人が立ったのは全く別のロッカーの前で、これにはがっかりするやらホッとするやら。大変だったのはそのあとで、何食わぬ顔でコーナーから出て行くのにかなり汗をかいてしまった。  もし、そのときのようす——コインロッカーがズラリと並んだ真っただ中に入ってきて、まだ空きはあるのに荷物を入れるでなし、といってキーを取り出して扉の一つを開けるでもなく、わざとらしく踵《きびす》を返して戻《もど》ってゆく姿を見られていたら、限りなく怪しい奴に映ったに違いない。  その次も、三度目の利用者のときも似たようなことがあって、ほとほと疲《つか》れ果ててしまった。で、357番を開けるかどうか、じかに確かめるのはやめにし、誰かがコーナーに入っていったら、その人が出てくるのを待って、問題のロッカーが開けられたかどうかを調べることにした。ただし、同時に二人以上が中にいるような状況《じょうきょう》になったら、じかに見に行く必要があるだろう。  そのうえで、キーが戻されていたり、もう一度預け直して料金表示がリセットされていたら、急いで外へ飛び出し、あとを追う——いや、笑わないでほしい。そのときは真剣にそうしよう、やればできるはずだと考えていたのだ。  だが、そうまでする機会はいっこう訪れないまま、時間だけがむなしく過ぎていった。体感温度はますます下がり、それと負の正比例をなして(こういうときに�反比例�という言葉を使うのは間違いだと、うちの親が言っていた。なるほどそうだ)自分で自分をバカだと認定する度合いは高まっていった。  そもそも、何でこんなことになったのか。全てはあの気の毒な男とすれ違い、その直後にキーを見つけて拾ってしまったりしたからだ。  では、どうしてあそこにあんな鍵が落ちていたのか。わざと置いたのでなければ、誰かが落としたからだろう。では、いったい誰が?  あのときは、そうまで強く結びつけて考えなかったが、最も可能性が高いのは、あの男だろう。いや、きっとそうに違いない。 (だとしたら……)  ぼくは寒さと足のだるさから逃《のが》れるために、しきりと足踏《あしぶ》みをしながら、心の中でつぶやいた。 (殺された人にこんなこと言っちゃ悪いけど、何で自分でさっさと気づいて鍵を拾っておいてくれなかったんだろう。そしたら、意地になってこんな刑事か探偵ごっこみたいなことをしなくてすんだろうに)  勝手な理屈をこねたあと、「いや、待てよ」とあることに思い当たった。  あの男は、鍵を落としたことに気づいたのかもしれない。だが、当人が見つけるより先に、ぼくが拾ってしまったのだとしたら?  それだったら、あの人が拾えなかったのは当たり前で、ぼくはとんだお節介《せっかい》をしてしまったのかもしれない。それどころか、ぼくが鍵を言わば横取りしてしまったことが、あの無残な最期につながったとしたら——などとあらぬ方向に思いが向かってしまうと、ますます心がざわついた。  こういったよからぬ想像とか、それにともなう後悔とかにさいなまれるとき、ぼくのものごとを考え抜きすぎる性格は、最悪の結果をもたらす。とにかく悪い方向へ悪い方向へと妄想《もうそう》がふくらんで泥沼《どろぬま》に陥《おちい》ってしまうのだ。  だが、幸いにも、そのときにはそんなことにならずにすんだ。というのは、あの殺された男と、彼にかかわる目撃《もくげき》証言、それにあのコインロッカーの鍵をめぐって、全く新たな考えが浮かんできたからだ。 (ん、待てよ。ひょっとして……)  そうつぶやいた瞬間、ぼくは寒さも疲れも、ばかばかしい思いも自己嫌悪もきれいに振《ふ》り落としていた。それら一切と無縁《むえん》になって、ただひたすらに一つの論理を組み立てようとしていた。  そして、その刹那《せつな》、ぼくは生まれて初めてはっきり感じたのだ——あの幼い日、いたずらに手にしたマッチの火にも似て、頭の中にパッとはじけた閃光《せんこう》を。それには、ありとあらゆる日常のくびきを取っ払《ぱら》い、学校生活のうっとうしさも何もかもを忘れさせるだけの輝《かがや》きがあった。  何というか、それは——誤解を恐れずにいえば、一つの快感だった。どんなごちそうよりも舌なめずりさせそうな誘惑《ゆうわく》に満ち満ちていた。 「そうだ」  ぼくはわれ知らず、声に出していた。けっこうまわりに響《ひび》く大きさだったものだから、あわててあたりを見回すと、そのあとは自分でも聞こえないぐらいに声を押し殺して、 「もし、あの男の人がコインロッカーの鍵を落としたとして、その後そのことに気づいたとしよう。そのためにはどうする? いったん立ち止まって、来た道を西から東へ戻るはずだ。となると、そのまま西へ進んで行ったのより、ずっと進行が遅れるはずで……」  こんがらかった糸がスルスルとほどけてゆく心地よさに、ぼくは酔《よ》いしれていたのかもしれない。そのせいで、今また一人の人物がコインロッカー・コーナーに入って行ったのだが、アッとあわてて視線を向けはしたものの、ほとんど気もそぞろといったありさまだった。  ちなみに、その人物というのは、時代遅れの長髪に太い黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけ、体型はひょろりとして何とも頼《たよ》りなさそうな二十代の男性だった。何となく滑稽《こっけい》な外見といい、変に哀《あわ》れっぽい雰囲気《ふんいき》といい、どう見ても恋愛ドラマの主役にはなれそうにない。その点では、ぼくも人のことは言えないが……。 「これに対して」なおも夢中で考え続けた。「ぼくやあの委員長コンビは、そのまま学校帰りのルートをたどっていた。となると、これまで考えられていたのとは状況が全然違ってくるわけで……」  ぼくは気づいていなかったのだ——解けて延びゆく糸の先には、思いがけずおぞましい真実が結びついていることを。だが、幸か不幸か、その怪物《かいぶつ》めいた姿を引きずり出してしまう前に、すぐ目の前で事態が一気に展開した。いや、むしろ爆発[#「爆発」に傍点]したというべきか。 (な、何だ!?)  ぼくは、ぎょっとして目を見開いた。とたんに、心臓の鼓動《こどう》が痛いほどに高鳴った。  今も述べた、新たな人物がコインロッカー・コーナーに入っていってしばらくしてから、パンッという音が突然《とつぜん》鳴り響いたのだ。風船かカンシャク玉でも破裂《はれつ》したかのようだった。  決して空耳や錯覚《さっかく》ではなかった証拠に、ちょうど近くにさしかかっていた通行人たちがハッと立ち止まり、中にははっきりとコーナーの入り口を振り返った人もいた。 (あの中で、何かが? それにしても、今のパンッていうのは、いったい……)  ぼくはすぐにも確かめに走らねばとはやりながら、しかし臆病《おくびょう》さのせいで一歩も動くことができなかった。だが、その必要はなかった。今の破裂音の正体はさておき、その結果何が起きたかの答えが数十秒後、恐ろしいほど具体的な形をとって現われたのだ。  最初に見えたのは、入り口からヌッと出て、そばの壁《かべ》にからみついた腕《うで》だった。次いでズズッとはみ出した足……と思った刹那、体全体が転げるように飛び出してきた! (あ、あれは……)  ぼくは息をのまずにはいられなかった。と同時に、周囲で次々と悲鳴やわめき声があがった。  それは、確かにコインロッカー・コーナーに入っていった男だった。服装も容姿も、当然ながらついさっきと全く変わりない。だが、その表情はあまりに大きく変わりすぎていた。  黒縁の眼鏡はずれて顔に垂《た》れ下がり、髪はおどろに乱れていた。目も鼻も口も、顔面のパーツ全てがすさまじい苦悶《くもん》と恐怖《きょうふ》を表わし、それらの間を細かく枝分かれした血潮が網目《あみめ》のように彩《いろど》っていた。  その源は——男の額にぽっかりとうがたれた赤黒い穴だった。このうえもなく明らかな〈死〉そのものの刻印だった。  にもかかわらず、男は驚《おどろ》くべき生への執着を示した。よろよろと一歩また一歩、ときには激しく痙攣《けいれん》しながらも、逃《に》げ惑《まど》う人々の間を突《つ》っ切って行った。それも何を思ったのか、よりによってぼくのいる方に向かって!  なお悪いことに、あまりの恐ろしさに、ぼくは足をその場に釘《くぎ》づけされたようになっていた。焦《あせ》るうちにも、男は間近に迫《せま》り、もう何も見えるはずのない白目でキッとぼくを見すえた——ような気がした。  次の瞬間、男は体をググッと傾《かし》がせると、棒か何かみたいに地面に倒《たお》れ込んだ。危ないところでぼくの肩《かた》をかすめる拍子《ひょうし》に、血しぶきを一、二滴ばかりプレゼントしてくれながら……。 [#挿絵(img/01_068.png)入る] [#改ページ]  CHAPTER 06  そのあとのぼくは、半分夢の中にいたようなもので、何がどうなったのか、正直はっきりとは覚えていない。  とにかく、ろくでもないことばかりだったのは確かで、気がつくと、ぼくは警察署の一室らしい寒々として小汚《こぎたな》い部屋で、今日の昼休みに会ったばかりの刑事——�笑い仮面�ではなく、あとから来た黒ずくめの方だった——と、机をはさんで向かい合っていた。 「あの若いのの死因は銃殺《じゅうさつ》……それも、おでこのところに至近距離《しきんきょり》からぶちこまれたんだから、たまったもんじゃない。どんなマッチョだって即死《そくし》しておかしくないところ、しばらくは生きていたというから、人は見かけによらないね。あいにく意識は最期まで戻《もど》らなかったから、凶行《きょうこう》前後の状況《じょうきょう》については何一つ聞き出せなかったが、当人にとっちゃその方が幸せだったかもしれん。ま、そういったことはともかくとして……」  刑事はひとしきりしゃべったあと、青白い顔に冷笑めいたものを浮《う》かべながら、ぼくに問いかけた。 「さて、と……何でまた、君がよりによってあんな血なまぐさい現場に居合わせたのか、そのわけを聞かせてもらおうじゃないか」 「いや、ぼくはただ、あのぅ……」  とっさにどう説明したものかわからず、言葉を濁《にご》した。すると黒ずくめの刑事は口元をニヤリとほころばせて、 「そういえば君は、昨日の学校からの帰り道で何か落とし物を拾ったとかどうとか言っていたねぇ。結局は見せてくれなかったが……。いや、ちゃーんと耳を傾《かたむ》けていたし、覚えているとも。都合のいいことしか耳に入れない入らない、あんなやつといっしょにしてくれちゃあ困るな」 �あんなやつ�とは、ぼくの事情|聴取《ちょうしゅ》をしていた刑事のことだろうが、その口ぶりには、露骨《ろこつ》な侮蔑《ぶべつ》が含《ふく》まれていた。彼はさらに続けて、 「あのとき、君は鍵《かぎ》がどうとかもらしていなかったっけ。あのコインロッカー・コーナーのあたりにいたのは、ひょっとしてそれと関係があったのかな?」 「いえ、それとこれとは、別に……」  はっきりと「鍵を拾った」とか、ましてそれがコインロッカー用のものらしかったなどとは言わなかったはずだった。どこまで見抜《みぬ》いているのかはわからないが、カマをかけられているような気もする。  別に隠《かく》す必要もなかったが、あの笑い仮面の刑事にいやな思いをさせられたこともあり、すでに消えてなくなってしまった鍵のことで、これ以上|突《つ》っ込《こ》まれるのもおっくうだった。で、なおも口ごもっていると、黒ずくめの刑事はふいに腕《うで》をのばして、ぼくの肩《かた》をつかんだ。 「わかってるんだよ。君があのコインロッカー周辺をうろうろするだけじゃなく、中に入りさえしていたこともね。何なら、あのコーナーの防犯カメラの映像を見せてやろうか?」  ぼくはぐっと言葉に詰《つ》まり、冷たいものが背中を走るのを感じた。まさかそんなものが撮《と》られていたとは——というより、防犯カメラの存在なんていう当然のことに気づかなかった自分が情けなかった。 「ずいぶんと面白いものが写っていたよ。ここに録画があるから見るかい?」 「いや、そのぅ、別に……」  尻込《しりご》みするぼくに、刑事は押っかぶせるように、 「見た方がいいんじゃないかな、自分の行動を確認するためにも」 「…………」  ぼくが返事に困っていると、刑事は椅子《いす》の背もたれがひん曲がるぐらいふんぞり返り、ドンと片っぽの靴《くつ》を机の上にのっけて、 「あの近辺の店屋さんの、それも複数の証言によると、問題のコインロッカー・コーナーには一人の高校生らしい男の子が、何度も出たり入ったりを繰《く》り返していてね。それがどうしたことか、制服といい、背格好《せかっこう》といい、どうもおれの心当たりの少年と特徴《とくちょう》が一致《いっち》するんだよなあ。しかもこの少年、被害者があんなことになったときも、すぐ近くにいたわけで、彼がもし自分は無実だと身のあかしを立てたいならば——」 「見ます」  ぼくはさらに縮み上がりながらうなずいた。すると、刑事は上機嫌《じょうきげん》で、ひょいっと椅子から起き直ると、 「そうか、じゃあ」  と、部屋の隅《すみ》にあるモニターとつながれた小型のデッキを操作した。やがて、モニターの画面に映し出されたのは、妙《みょう》に色あせて、しかも輪郭《りんかく》がにじんでいるせいで現実感を欠く、しかしまぎれもなくあのコインロッカーの光景だった。  カメラは天井《てんじょう》部分の角っこに据《す》えられていたらしく、やや左|斜《なな》め上方から俯瞰《ふかん》した構図でロッカーの列とそれらにはさまれた通路をとらえていた。しばらくは、何の変化もなかったが、 「何だ、なかなか出てこんな」  刑事が舌打ちして映像を早送りすると、まもなく一人の利用客が現われ、そのあとに何人かの出入りが続いた。いずれも全く見覚えがなかったが、やがてハッと画面を注視せずにはいられなくなった。  それは、確かにぼくが張り込みを開始して、最初にコインロッカー・コーナーに入って行った人物だった。ということは、もちろん、このあとに——? 「ほらほら、どっかで見たようなのが出てきたぜ」  刑事はからかうように言った。指摘《してき》されるまでもなく、それはぼく自身の姿だった。  そして、また何とぶざまな姿だったろう。妙な足つきで入ってきたのからして、まるでコントに出てくるステロタイプのこそ泥《どろ》だ。しかもコマ落としでちょこまかと動き回っているときては、滑稽《こっけい》さもひとしおだった。  そのあと、きょろきょろと周囲に視線を走らせたのは、怪《あや》しまれないよう空きロッカーを探すふりをしたのだが、こうして見ると何ともわざとらしい。あげく、先客が何かの拍子《ひょうし》に振《ふ》り向いたとたん、あわてて背を向けたところなど、まるでバネ仕掛《じか》けの人形で、どうにも見られたものではなかった。  唯一《ゆいいつ》の収穫《しゅうかく》といえば、画面上ではわかりにくかった357番のロッカーがどこにあるかが、自分の立ち位置から判明したことぐらいか。だが、自分では自然なつもりでロッカーの状態を確認するしぐさときては、いっそ死んでしまいたいほどの迷演技だった。 「そらそら、まただ」  悲惨《ひさん》なことに、死ぬほど恥《は》ずかしいコントは、刑事の茶々をまじえて何度か繰り返された。脱走《だっそう》だか公務執行妨害《こうむしっこうぼうがい》だかのかどで逮捕《たいほ》されてもいいから、とにかくこの部屋を逃《に》げ出しかけたくなったとき、ふいに画面の中に現われた人影《ひとかげ》があった。  その瞬間《しゅんかん》、ぼくは恥ずかしさを忘れ、息詰《いきづ》まる思いで目をこらした。そこにとらえられていたのは、あの長髪に黒縁眼鏡《くろぶちめがね》のひょろりとした青年にほかならなかったからだ。 「さて、ここからが見せ場というかクライマックスだ」  刑事は、そんなことをつぶやきながら、再生速度を標準に切り替《か》えた。にもかかわらず、この青年の持つ、どこかおかしげで哀《あわ》れっぽい印象は薄《うす》れなかった。同じ雰囲気《ふんいき》を持つ人間をどこかで見たような……そうだ、あの通学路で見かけた中年男だ!  そのことに気づいたぼくが、悪寒《おかん》のようなものを感じるのをよそに、眼鏡の青年は、目当てのコインロッカーを見つけたとみえ、いそいそとその前に歩み寄った。それこそが357番のコインロッカーだった。  扉《とびら》に記された番号を確かめるかのように指でなぞり、視線はそこに吸い寄せられたまま、ズボンのポケットを探る。  あらかじめ用意しておいたのだろう、中からつかみ出したコインを次々と投入口から流し込んでゆく。続いてキーを取り出し、やや震《ふる》えているようにも見える手つきで鍵孔《かぎあな》に挿《さ》し入れ——ひねった。  カメラがとらえた角度からは、青年の表情はほとんどうかがえない。にもかかわらず、ぼくは青年がその瞬間、ほっと安堵《あんど》の笑みをもらしたように思えた。  そのまま取っ手をつかむと、ロッカーの扉を開けにかかる。蝶番《ちょうつがい》は向かって左側についており、レンズも同じ方向から見下ろしている関係で、中のようすは開いた扉にさえぎられてしまう。青年の顔もその陰《かげ》に隠れて見えなくなり、ぼくが思わず身を乗り出した——まさにそのとき。  357番のコインロッカーの中から、パッと煙《けむり》のようなものが広がった。音のない防犯ビデオのただ中で、明らかに何かが爆発《ばくはつ》したようだった。と同時に、青年ははじかれたように後ずさりし、後方のロッカーに激しく背中をぶつけた。 「——!」  その瞬間、ぼくは声にならない叫《さけ》びをもらしていた。いや、正直に悲鳴だったと白状しよう。角度の関係で、青年の身に何が起こったのかがはっきりわからないのが、むしろ幸いだった。 「…………」  そっと黒ずくめの刑事のようすをぬすみ見ると、彼は無言のままモニターの方をあごでしゃくってみせた。どうしても見ないわけにはいかないらしかった。  一方、画面の中の青年は、それきり動かなくなった——ように見えたが、やがてギクシャクと腕をもたげると、両手で顔を覆《おお》った。それと合わせたかのように頭部が、いや、上半身全体が前にのめった。  そのままガックリと倒《たお》れかかると思いのほか、あやういところでバランスを取り戻し、ゾンビさながらの奇怪《きかい》な足取りで歩き始めた。それも、レンズのある方へ向かって——ぼくからすれば、まるで自分に近づいてくるかのように見えた。しかも、自分で自分の腕を支える力も尽《つ》きてきたらしく、顔面を覆った手のひらがズルッ、ズルッと下がり始めた。それにつれ、眼鏡がぶざまにずり落ちる。 (ま、まさか? やめろ、やめてくれ……)  心の中で哀願《あいがん》しても、無駄《むだ》なのはわかっていた。一番手っ取り早いのは目を閉じることだったが、なぜかそうはできなかった。いつのまにかガチガチにこわばった首根っ子を無理にねじ向け、せめて目をそむけようとしたときには遅《おそ》かった。  画面の中から、たとえようのない苦悶《くもん》に満ちてぼくを見すえた顔——何てことだ、あんなものを二度にわたって見せられるはめになるなんて。とりわけ、太い鉄串《てつぐし》でも力任せに突き通されたみたいな、あのおぞましい傷跡《きずあと》を!  ごていねいにも、黒ずくめの刑事が静止画にしてくれたものだから、ぼくは哀れな青年の苦悶の表情と対面し続けなければならなかった。  それから、どれぐらいの時間が過ぎただろう。つと立ち上がった黒ずくめの刑事は、冷ややかにぼくを見下ろしながら、 「もうだいたいわかったと思うが、これがあのコインロッカーを開けた結果、起きたことの全てだ。おや、どうしたね。そんな青い顔をして、おまけに小刻《こきざ》みに震えだしたりして……ひょっとして、こうなるのは自分だったかもしれないと思い当たりでもしたのかい?」  ぼくは思わず、彼を見上げた。そうなのだ、もしあの鍵をあのまま持っていて、しかも自分で357番ロッカーを開けようなんて無用の冒険心を起こしていたりしたら……? 「どうやら話してくれる気になったようだね。君があのコインロッカーの鍵を拾い、わざわざあそこへ張り込みに出かけるまでの顛末《てんまつ》を、包み隠さずに」  その言葉に、ぼくは幼児のようにこっくりとうなずくほかなかった——。 「ほほう、そういうことだったのか」  刑事は、ぼくの話を聞き終わると満足げにうなずいた。 「しかし、たまたま拾っただけのキーホルダーの数字や文字をよく覚えていたもんだ。一晩手元に置いていたし、たまたま覚えやすい数字だったから? ふん、ずいぶん損な性格をしてるようだな、君は……。そんなことはともかく、自分が拾ったその鍵が、殺された男の落とし物ではなかったかと思いついた君は、せっかくの証言を取り上げようとしないあの阿呆《あほう》に目にもの見せてやろう——え、そこまで考えたわけじゃなかった? まあいいじゃないか。で、君は教室に取りに戻ったが、どうしたことかどこにも見当たらなかった——と」 「そういうことです」  ぼくは素直かつ正直に答えた。 「どこでなくしたか、心当たりは?」 「それは……わかりません」  ぼくはこれまた素直に答えたが、こちらは必ずしも正直とはいえなかった。最も可能性の大きいのは、やはり学校に来てから、それもあの教室においてだが、それを言えばまた厄介《やっかい》なことになるような気がしていた。それ以上に、自分自身でもその可能性を検討することが恐《おそ》ろしかったのだ。 「ふむ、そうか」  刑事はそう言ったきり、しばらく考え込んだ。それから、あのグロテスクな死に顔——正確には違《ちが》うが——が静止画像になったままのモニターに気づいて、これを消すと、 「そうそう、あのコインロッカー・コーナーで何が起きたかについて教えてやろうか。ありゃ要するに——」 「何らかの自動発射装置ですか、おそらくはドアの開閉と連動した……」  ぼくは、ついついよけいなことを口にしていた。 「ほう?」  刑事は少しだけ感心したようだったが、 「ふふん、まあそれ以外に方法はないからな。ざっと説明すると、ロッカーの中に、扉の裏側と連結された金属フレームがひそませてあり、その中には拳銃《けんじゅう》が組み込まれている。拳銃の用心鉄《トリガー・ガード》——引金をとりまく輪っかの部分だ——には金属の棒が通されており、この部分は固定されて動かない。だが、扉を開くにつれて拳銃はフレームごと前へせり出す仕掛けになっているから、当然この金属棒は引金を後ろへ押すことになる。かくてBANG! というわけさ」  そういうことだったのか、と思った。いわゆる機械的トリックというやつだ。密室殺人や不可能犯罪もののミステリではあまり人気がないが、真っ暗なロッカーの中で、静かに作動のときを待ち続けている殺人マシンというのは、十分におぞましかった。 「つ、つまり」ぼくは訊《き》いた。「その仕掛けは、最初から357番のコインロッカーを開けようとする人間を狙《ねら》って?」 「そういうことになるな。つまり、何らかのいきさつで鍵を手にしたことが、死の宣告だったわけだ」 「で、でも、もしそうだったとしたら」ぼくは息をのんだ。「関係ない人が撃《う》ち殺されてたかもしれないわけですよね。もし鍵を持ってる人間が、来なかったとしたら、三日たったあとにロッカーの管理者が中身を回収にくるんだから、そのときに……」  すると刑事は呆《あき》れたような、感心したような笑いをもらして、 「君はなかなかいろんなところに気がつくようだな。というより、若いのにいろいろ気苦労なこった。なかなかいい指摘だが、幸いその心配はなかったようだよ」 「というと?」 「ついさっきのことだが、問題のからくり[#「からくり」に傍点]を鑑識《かんしき》にかけてるさなか、どうかした拍子に、フレームがバラバラに分解しちまったんだ。どうやら何かの拍子で内部のスイッチが切れたらしく、各部品を結び合わせていたマグネットが磁力《じりょく》を失ったらしいんだな。これが本来は一種のタイマー——調べると、確かにそれらしいものがついていた——の作用によるもので、どうやらロッカーの収容期限を過ぎたあとに扉を開いたものに対しては、何らの危害も及ばないようになっていたらしい。あんな手口で人ひとり額をブチ抜《ぬ》いておきながら、標的以外の人間に対しちゃそこまで気配りするなんて、ずいぶんおかしな話だろ?」 「た、確かに……」  ぼくはうなずいたものの、そうした行動原理を持つ犯罪者というものに激しい興味を燃やさずにはいられなかった。二人の人間の死の現場に足を踏《ふ》み入れ、死を直前にした彼らの姿を目撃したという事実が、ぼくを奇妙《きみょう》な興奮に駆《か》り立てていた。 「どうせなら、そんな凝《こ》った代物《しろもの》を誰かがロッカーに設置してるとこが防犯カメラに残ってりゃよかったんだが、あいにく当日の分以外はないそうだ。たぶん、そのあたりも計算ずみじゃなかったかな」  刑事がブツブツと言うのを、ぼんやり聞いていた、そのときだった。ぼくの頭の中で、きらめいた光があった。あのコインロッカー・コーナー前での張り込みのときと同じ、マッチの火にも似てささやかな、しかし熱くまばゆい輝《かがや》きだった。 「——おい、どうした?」  ぼくのようすに気づいた刑事が、訊いた。この、ものに動じなさそうな男がけげんそうな顔になったのだから、よっぽど変に見えたのだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。  そのときぼくの脳内では、一つの考えが動き始めていた。いや、再開というべきだろう。その考えというのは、中年男殺しの際の自分を含めた人間の動きに関するもので、とんだアクシデントで中断された、その続きだったからだ。 「どうした、何を急に黙《だま》り込んでる。何とか言えよ」  かすかに不安さえのぞかせながら、刑事は言った。  その言葉に、ふとわれに返ったぼくは彼を見、口を開きかけた。これまでの自分の考えを、とりあえず誰かに聞いてほしい。だが、この刑事に明かしていいのかと迷っていると、そこへ、 「おい、黒河内《くろこうち》。そんなとこで何やってんだ。あんときといい今度といい、捜査《そうさ》にゃ何の関係もないくせに勝手に動き回りやがって」  この部屋のドアが乱暴《らんぼう》に開かれたかと思うと、いきなりまくしたてたのは、あの�笑い仮面�の刑事だった。黒河内と呼ばれた刑事は、しかしいっこうこたえたようすもなく、 「ああ、ちょっと事件の目撃者から聞き取りをね」 「き、聞き取りだァ?」  あとから来た刑事はますます激高したが、そのあとにフッと憫笑《びんしょう》とも嘲笑《ちょうしょう》とも何ともいえない表情——あの�笑い仮面�復活だった——を浮かべ、続けた。 「おいおい、もう誰もお前のことを凄腕《すごうで》だとも腕利きだとも思っていないんだぜ。お情けで押し込んでもらった部署で、おとなしくしてたらどうだ。ま、そんなガキの相手をしてるようじゃ、どうあがいても同じことだがな」  そのあとに続いた痛烈《つうれつ》な罵倒《ばとう》とさげすみの言葉の数々を、黒河内という刑事は平然と聞き流していた。  そのとき気づいたことだが、今度の悲劇にからんで、警察内でぼくに関心を持っているのは、目の前にいる黒ずくめの刑事だけらしかった。そしてこの黒河内刑事が、組織の中で置かれている立場も、うすうす見当がついた。ということは——何もかも個人プレイということか? そんなものに、ぼくをつきあわせたのか! 「……さぁて、と」  浴びせられる悪口雑言《あっこうぞうごん》の雨が、ようやく小止みになったとき、黒河内刑事は大きく伸《の》びをした。ふいに立ち上がると、ぼくの肩をたたいて、 「ほい、坊や。もう帰っていいよ。ご苦労さんだったな」  相変わらずの調子でぼくをうながし、顔を真っ赤にして息を切らし、次なる言葉を探し出そうとしている同僚《どうりょう》のわきをすり抜けて、ぼくを外へ連れ出した。  こうして、ぼくは解放された。安堵もあったが、ひどい脱力感《だつりょくかん》と徒労感《とろうかん》にやられて、警察署の廊下《ろうか》を、ずんずんと先に立って歩く後ろ姿を追っかけるのがやっとだった。  その最中にも、すれ違う制服・私服の人々が黒河内刑事の姿にさまざまな反応を示した。あるものははっきりと驚《おどろ》きを表わし、あるものは縁起《えんぎ》の悪いものでも見たように顔をしかめ、だが大半のものは見てみぬふりをするように視線をそらした。 「さ、駅はあっちだ。あとは一人で帰れるだろ」  黒河内刑事は、署の玄関口まで来たところで当然のように言い放った。このあと家まで送ってくれるのかもと、かすかな期待を抱《いだ》いたが、どうやら甘かったようだ。 「……わかりました」  この男に、ほんのわずか感じかけていた親しみ——とりわけ、あの�笑い仮面�刑事の言い草を耳にして——もたちまち吹《ふ》っ飛んで、ぼくは憤然《ふんぜん》と歩き始めた。その実、今日のことをどう家族に説明したものか、とりわけ明日の学校でまた何か言われるのではと考えると憂鬱《ゆううつ》でしようがなかった。  と、その背後から声があった。 「おう、暮林《くればやし》くんとやら」  振り返ると、思いがけず黒河内刑事がまだ玄関前に立っていた。彼はぼくに向かって、何とも意味ありげな笑みを振り向けながら、 「あんまり、よけいな詮索《せんさく》はしない方がいいぞ。世の中には役割分担ってものがあるんだからな」  ぼくは、うるさいことだと思いながら「わかってますよ」と返し、こう付け加えてやった。 「——あなたもね」  そのとたん、あっけにとられた黒河内刑事にくるりと背を向け、ぼくはポケットに手を突っ込み、肩を怒《いか》らせて警察署の敷地《しきち》をあとにした。ひときわ冷え込みが身にしみた。  すると、またも背後から彼の声で、 「いいか、くれぐれも……女には気をつけろよ」  ちょうどそのとき、走り込んできた警察車両のせいで、黒河内刑事の言葉は切れ切れにしか聞こえなかった。だが、振り返ったときには彼の姿はすでになく、ぼくはその場を立ち去らざるを得なかった。さまざまな思いでたださえ|過 負 荷《オーヴァーロード》気味の脳内に、さらに新たな疑問を植えつけられながら。 (女には気をつけろ? 何のことだろう。その前に何か一言あったようだが……) [#改ページ]  CHAPTER 07  その晩、やっとのことで家に帰り着いたぼくが、どういう目にあったか、それをどう切り抜けたかは大して重要ではないし、第一あまり思い出したくもないので省略させてもらうことにする。  といっても、後で家族関係がギクシャクすることは心配せず(それが難しいのだが)、居直ってしまえば大したことはなかった。それに、いかに家族に詰問《きつもん》されたとしても、 「しょうがないだろ、警察に言われたんだから」  と言えば、グッと詰《つ》まってしまうのがおかしかった。じゃあ、なぜ警察に引っ張られるようなことになったのかと訊《き》かれたのに対しては、 「知らないよ。たまたま居合わせただけ……ただの偶然《ぐうぜん》なんだよ」  で押し通した。その結果わかったことは、この国の大人を黙《だま》らせるには「警察」と「偶然」が効果的らしいということだった。  だが、相手が同年代の連中の場合はどうか。白状すると、ぼくはいつでも彼ら彼女らが苦手だった。もっと小さいときは、怖《こわ》くさえあった。  大人は原則として、わけのわかったことしかしないが、子供は何をしでかすかわからないからだ。とはいえ、幼稚園から小・中・高に至るまで、いやおうなく子供の中に投げ込まれて子供をやっているうち、多少の免疫《めんえき》はできた。  だが、今度はちょっとばかり特別だった。殺人事件がらみで警察に呼び出されたということが、どういう結果をもたらすか。まして、それが偶然ではなく、ストーカーよろしくわざわざ出かけて行って、変質者みたいに現場にへばりついていたとなれば、何を言われるかわかったものではない。大人(それも身内)と同じ言い訳が通用するとは思えなかった。  そんなわけで、かなり憂鬱《ゆううつ》な気分で、いつもの通学路をたどった。同じ学年の連中はもちろん、見知らぬ生徒たちと視線が合ったり、背後で声がしたりしただけで、いちいちビクビクしなくてはならなかったのは、われながら情けなかった。  結論から言うと、その心配は無用だった。もちろん、自分たちの行動エリアの中にあるショッピングセンターで、しかも学校帰りに制服から着替《きが》えて遊びに繰《く》り出す女子たちが利用してもいるらしいコインロッカー・コーナーで、こともあろうに射殺|騒《さわ》ぎがあったというのは、かなりホットな話題となっていた。  だが、ぼくがその間近におり、あの青年の死にゆく姿を目の当たりにしたなどとは、誰も知らないようだった。ひょっとしたら、知っていながら誰も問題にもせず、毛筋ほどの興味も引かなかったのかもしれなかった。  それはそれで、さびしいものがあったが、だからといって、こちらからみんなを集め、あの委員長コンビみたいに一席ぶつ気にもなれなかった。  結局、この日のぼくがしたことと言えば、退屈《たいくつ》な授業をじっと耐《た》え抜《ぬ》き、長い長い時間をやり過ごすいつもの難行苦行《なんぎょうくぎょう》を除いては、たった二つしかなかった。  一つは、ひたすらあることを考えることであり、もう一つはといえば、行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》のことをちらちらとぬすみ見ることであった。この二つは、全く別の事柄《ことがら》であるはずだった。少なくとも、ぼくはそう思い込んでいた。  ——行宮美羽子はいつも通り、きれいで物静かで、とりわけ今日は周囲の喧騒《けんそう》から超然《ちょうぜん》としているように見えた。休み時間も自分の席を離《はな》れず、静かに読書にいそしんでいるらしい姿は、ちょこまかとコマ落としの映像のように動き回るクラスメートの中にあって、まるで別の時間が流れているようだった。  本当は、もっとじっくりとながめていたかった。美羽子の長くつややかな黒髪、額のはえ際から鼻筋、口元からあごに至る優美なライン、何か強い意志が感じられるようになった瞳《ひとみ》、ほんのりと赤身を帯びつつも抜けるように白い肌《はだ》——それから、ときおりページを繰り、髪をかきあげるしぐさまで含《ふく》めた全てを。  何とも陳腐《ちんぷ》な表現で申し訳ないが、そういった要素を漠然《ばくぜん》と思い浮《う》かべながら、ハッとした。いつからぼくは、彼女にこんなにも魅《ひ》きつけられるようになったのだろうか、と。  以前から、好感を抱《いだ》いていたことは間違《まちが》いない。だが、用もないのに声をかける勇気もなく、そもそも恋心といえるほどのものはぼくの中にはなかった。  思いがけず、ぼくのプランをほめられた放課後以来のことだろうか? いや、確かにあれをきっかけに、彼女のことを意識するようにはなったものの、まだぼんやりとしたものでしかなかったはずだ。そう、少なくとも一昨日の放課後までは……。  明らかに、どこかに心の段差があった。だが、ぼくにはそれ以降、これといって彼女のことを強く印象づけられるような機会はなかった。  その間に、あった出来事といえば……そう考えて、何かしら冷たいものが背骨を這《は》いのぼるのを感じた。 (あの殺人事件! それも二度にわたり、死を目前にした男を目撃《もくげき》するはめになった……)  そのことに思い当たったときだった。ふいに彼女がこちらを振《ふ》り向いた。 「!」  とっさに視線をそらし、知らぬ顔をしたものの、視線はひしひしと感じられた。ぼくは、苦手な授業で教師から指されそうなとき以上の必死さで顔をそむけた。  よほどたってから、ぼくはギクシャクと首をねじ向け、顔は真正面に向けたまま、可能な限りの横目を使って彼女の方をうかがった。  行宮美羽子は、もうぼくのことなど見てはいなかった。だが、その横顔は明らかに微笑《ほほえ》んでいるように見えた。  アルカイック・スマイル——古代の謎《なぞ》めく微笑。そんな場違いな単語が、ふと思い浮かんだとき、ぼくの脳裡《のうり》でまた一本のマッチが光り輝《かがや》いた。たった一本ではあったけれど、これまでよりいっそう大きく、まるで狂《くる》い咲きのような炎《ほのお》だった。 「どうしたんだよ、暮林《くればやし》。そんなに思いつめた顔をして……何かまた変なことでもあったのか?」  夏川至《なつかわいたる》は呆《あき》れたような、しかし邪気《じゃき》のない笑いを浮かべながら言った。学校の近くにある、今どき珍《めずら》しいほど喫茶店《きっさてん》喫茶店した喫茶店の二階でのことだった(言ってる意味がおわかりだろうか)。 「いや、まぁ……変なことといえば、そうかもしれないんだけどさ」  答えながら、ぼくは内心ホッと安堵《あんど》せずにはいられなかった。部活を終えたとたん、着替えもそこそこに呼び出されて、いやな顔一つしないのは夏川ならではだ。ちなみに、今でこそテニス部一本に絞《しぼ》っているものの、一時はバスケ部を掛《か》け持ちするほどの活躍《かつやく》ぶりだった。  そんな彼と、この店はいかにも似合わないし、そもそも高校生の姿などめったに見当たらない。だからこそ、ここを選んだわけだが、夏川はぼくがこんな場所に入りびたっていると思ったのか、面白そうに、珍しそうに、ぼくとくすぶったような内装を見比べたあと、 「何なんだよ、いったい」  彼らしく、単刀直入に訊いてきた。  ぼくは「うん、それが……」と説明のしように困ったあげく、いきなりこう切り出した。 「実は、例の殺人事件のことなんだ」  相手の率直さを見習ったつもりだったが、これには、さすが何ごとにも動じない夏川もぎょっとしたらしく、 「さ、殺人事件!? それって、どっちの」  と目をパチつかせ、面食らったようすで聞き返してきた。素《す》っ頓狂《とんきょう》といってもよかった。  彼の隠《かく》れファンを自称《じしょう》する女子たちにとっては、こんな彼はイメージ違いだろうか。いや、案外ウケるのかもしれなかった。  どう転んでも、そういったことはあり得ないぼくは続けて、 「あの空き地で死体が見つかった方だよ、通学路沿いにある。ほら、ぼくや、うちのクラス委員長やってる的場《まとば》と京堂《きょうどう》が、殺された人とすれ違った……」 「もちろん、知ってるさ。もちろん細かいことは除いてだけどね。で、それがどうしたっていうんだ?」  夏川は真剣そのものの調子で、身を乗り出してきた。それが何だと言われそうだが、ぼくには「何を今さら」と一笑に付さない彼がうれしかった。何しろ、そんな言葉を投げつけなさそうな相手といったら、この夏川至しか思い当たらなかったのだから。 「実は」ぼくは思い切って話し始めた。「そのときのことなんだけど……ぼくと的場たちの証言が微妙《びみょう》にズレてたっていうのは知ってるかい?」 「は? そんなもん、知るわけないじゃないか」  夏川は一瞬《いっしゅん》あっけに取られてから、苦笑まじりに答えた。それも当然といえば当然だった。  そこで、ぼくは全て話した。あの夕方、自分たちと中年男性がすれ違ったときの状況《じょうきょう》を、二つの遭遇《そうぐう》ポイントの位置関係からして、委員長コンビが目撃したときに被害者がすでに凶行《きょうこう》を受けており、相当危ない状況にあったとしたら、当然ぼくはそれ以上に瀕死《ひんし》の状態になった彼を見ていなければならないこと、だが実際にはそれほどまで切迫《せっぱく》しているようには見えなかったことを。 「それで、取り調べの刑事にしぼられたわけか。ひどいもんだな」  夏川は、その不条理さをぼくと分かち合うかのように、憤懣《ふんまん》の色を表わして言った。 「だが、理屈のうえでは、どうしてもそういうことになってしまうんだろう。お前がすれ違ったときには、その男はすでに誰だか知らない犯人によって傷を負わされていたことに?」 「それが、そうでもないかもしれないんだ」  ぼくはようやく話が本題に入ってきたことに、はやる気持ちを抑《おさ》えながら答えた。 「えーっと、どう説明したらいいか……そうだ、ちょっと待ってくれ。今、図に描《か》いてみせるから」  ぼくは戸惑《とまど》い顔の夏川を前に、あわててカバンを探ると、レポート用紙をつかみ出した。それをテーブルの上に広げると、ありあわせのペンで縦横に線を引き、それらにはさまれた区画を作ってみせた。数学でいう第一象限というやつだった。 「いいかい、このとき横軸が時間、縦軸が距離《きょり》だとするよ。横軸を右に行けば行くほど時間が経過し、縦軸は下が西、つまり学校側に当たり、上へ行くほど東に進むってことになる。もちろん大ざっぱなもんだけど、この図の上でまず的場と京堂の二人の動きをグラフにしてみると……」  ぼくは縦軸と横軸の交わる原点から、右|斜《なな》め上約四五度に直線を延ばし、その出発点に�A�と書き添《そ》えた。次いで、それと右に数センチ平行移動した形で同じような線を引き、これには�B�と印をつけながら、 「ほら、この直線Aで表わされるのが彼らであり、右寄りの直線Bが少し遅《おく》れて出発したぼくってわけだ。一方、被害者は反対方向から来たわけだから……」  言いながら、今度は右|肩《かた》下がりの線を引いて、先に引いた直線A・Bとクロスさせた。その交点をペン先で示すと、それを縦軸の方にずらしながら、 「これらは当然、ぼくたちがそれぞれあの男と出くわした、木の高塀《たかべい》と赤レンガ塀のある地点ということになるわけだ。ぼくらにとっては正体不明の人物だから、彼を表わすこの線はQとでもしておこうか」 [#挿絵(img/01_097.png)入る]  夏川は「なるほど」と腕組《うでぐ》みしながら、即製《そくせい》のグラフをのぞきこんだ。 「こうして見ると一目瞭然《いちもくりょうぜん》だな。さしずめ、これは鉄道のダイヤグラムってとこか。とにかく、やっぱりお前がすれ違ったときには、男はもう死にかかっていなくちゃおかしいわけだ。ということは、そっちの記憶《きおく》か印象そのものに誤りがあったってことかい?」 「それが……そうとも限らなさそうなんだ」ぼくは答えた。「その時点では、被害者は傷一つ負っていなかったという可能性が出てきたんだよ」 「何だって?」夏川は目をパチクリとさせながら、「え? じゃあ何かい、的場と京堂の証言の方が勘違《かんちが》いだったとでも?」 「いや」  ぼくは静かに首を振った。ペンを構え直すと、もう一枚同様な図を描きにかかった。ぼくら目撃者の動きを表わす二本の平行線を書き(ただしAともBとも銘打《めいう》たなかった)、次いで被害者を表わした直線Qを右斜め下に引き始めるまでは同じだったが、そのあとが少し違った。  一本目の直線とクロスし、二本目の直線との中間あたりまで来たところで、ペン先をUターンならぬVターン(ずいぶん平べったいVの字だったが)させたのだ。そのまま右上に引っ張り、しばらく行ったところで、またVターンし、やっと二本目の直線とクロスさせた。 「これは、いったい……?」  夏川は、何ともけげんそうな顔で、ぼくとその奇妙《きみょう》な折れ線グラフを見比べた。  そんな彼に、無言で深くうなずき返しながら、ぼくは一種の誇《ほこ》らしさと、奇妙な昂揚感《こうようかん》のようなものを感じていた。これまで経験のない、胸のうちからわき起こる感覚に背中を押された格好《かっこう》で、ぼくは再び口を開いた——。 「もし、被害者がこんな風に行ったり来たりの動きをしたのなら、ぼくをさんざん悩《なや》ませた証言の矛盾《むじゅん》が解けてしまうってことだよ。ぼくと的場たちの前後関係が入れかわることでね」 「な、何だって、前後関係が!?」  ちょうどコーヒーカップを口に運んでいた夏川は、思わずその中身を噴《ふ》き出してしまいそうになった。ぼくは静かに続けた——。 「このグラフを最初のと見比べてくれ。いま描いた折れ線Qと、二本の平行線が交差する点が、それぞれ赤レンガと木の塀のある位置を示すのは同じこと。だけど、さっきと入れ替わってしまうものがある。直線AとBの関係だよ。ほら、こんな風にね」  言いながら、ぼくはさっきとは逆に、二本の平行線に左から�B��A�と書き込んだ。 [#挿絵(img/01_100.png)入る] 「…………」  夏川至は、とっさにその意味をとりかねたように押し黙ってしまった。ぼくは軽く息を吸い込むと、 「Bはぼく、Aは的場と京堂を表わすのはさっきと同じ。だけど横軸——時間の流れの中でのスタート地点は逆になり、AよりBの方が先行していたことになってしまう」 「待ってくれよ、ということは——?」 「そうなんだ」ぼくはうなずいた。「あのとき、ぼくは的場|長成《おさなり》と京堂|広子《ひろこ》に続いて通学路を歩いていたんじゃなかった。実は彼らの方こそ、ぼくの後ろにいたんだ——要はそういうことだよ」 「おい、ちょっと待て。そりゃいったい……」 「まあ、聞いてくれ」  ぼくは、いささか惑乱《わくらん》したようすの夏川を制し、さらに続けた。 「これまでは状況から見て、彼らの方がぼくより時間的には先に被害者とすれ違ったと考えられてきた。東から西に進んでいた被害者は、まず木の塀のあるあたりを通り過ぎてから赤レンガの塀にさしかかったに違いないと考えられていたからね。でも、そうではなかったとしたら? いま描いてみせた折れ線グラフみたいに……。  被害者は、いったん西寄りにある赤レンガの塀まで進み、ぼくとすれ違ったあとで後戻りし、東寄りにある木の塀を過ぎて再び道を折り返した。彼が的場と京堂に目撃されたのは、そのときのことだったんだ」 「はぁはぁ、なるほど、そういうことか」  夏川は、やっと納得できたように言った。だが、すぐに疑問を顔に浮かべて、 「だけど、もしそうだとして、殺された男は何でそんなややこしい歩き方をしたんだ? 東から西へ、くるっと回って東へ、また西へ、なんてことを」 「それは」  ぼくは、なおいっそう高鳴る胸に、苦しささえ覚えながら言った。 「鍵《かぎ》——を拾うためじゃなかったのかな」 「鍵?」 「そう、自分が落としたコインロッカーの鍵を拾うために」  その言葉を口にした瞬間、あのコインロッカー・コーナーでの惨事《さんじ》がプレイバックされ、ぼくはあわてていまわしいイメージを振り払《はら》わなくてはならなかった。  やっと気を取り直すと、ぼくは夏川に語り始めた——あの夕暮れどき、うらぶれて疲《つか》れきり、だが決して死にかかってはいなかった中年男と、赤レンガ塀のあたりですれ違ったあと、オレンジ色のキーホルダーつきの鍵を地面に見出し、つい拾ってしまったことを。  さらには、その鍵を警察に届けようとしたものの、交番が無人だったために果たさず、翌朝に通学路近くでの死体発見騒ぎを知ったこと。あの�笑い仮面�の刑事に、的場たちと自分の目撃証言の矛盾を追及され、嘘《うそ》つき呼ばわりさえされかかったこと。そして、くだんの鍵のことを思い出し、何か事件にかかわりがあるのではと教室に駆《か》け戻《もど》ったら、カバンに入れたはずのそれが消え失せていたこと——その一部始終を。 「もし、その鍵があの被害者の落とし物だったとしたら、ぼくとすれ違ってしばらくしてからそのことに気づいて、来た道を逆戻りしたことは十分に考えられるよね。そのまま東寄りの、木の高塀のあるあたりを過ぎて、でも結局は見つからずに——ぼくがよけいなことをしてしまったせいで——しかたなくもういっぺん回れ右して、再び西向きに歩き始めた。で、再び——じゃない、最初通り過ぎたときを含めると三度目に木の塀のあたりにさしかかったとき、ちょうどやってきた的場長成と京堂広子のカップルと遭遇したのだとしたら……」 「なるほど、そういうことか!」  夏川至は、初めて納得がいったかのように何度もうなずいてみせた。 「確かにそう考えると、何もかも辻《つじ》つまが合うよな。なるほど、さすがは暮林というか、よくそこまで考え抜いたもんだよなぁ」  彼はしきりと感心したようすだったが、それ以上に彼がぼくのやたら考え込む性格を理解していてくれたとわかったのがうれしかった。だが、手放しで喜ぶわけにはいかなかった。ぼくの推理——などというと、まるでミステリに出てくる探偵のようだが、それにはまだ続きがあるからだった。  夏川もそのことに気づいたらしく、「ん、待てよ」と小首をかしげると、 「まずお前がまだ無傷だったその中年男とすれ違い、その次が的場たちで、彼らの証言もうそではなかったとすると……男はその間に出くわした誰かにやられたということになりゃしないか?」  どこか中空を見すえ、一気にまくしたてた表情に、もう笑みはなかった。 「そうなんだ」  ややあって、ぼくはうなずいた。二枚目のグラフの、直線BとAの間に指を滑《すべ》らせ、Qの折れ線グラフを斜めに横切りながら、 「被害者は、ぼくのあとから来た誰か——Xに襲《おそ》われたことになる。そして、あのときぼくの後ろにいたのは……」  ぼくの脳裡にまざまざと映し出された、一人の人間の姿があった。今やぼくにとって消し去りがたいものとなった、あるひとのたおやかな影《かげ》が、その顔が、そこに浮かんだかすかな微笑がちらつくうち、ぼくは決して言うまいとしていた名前をつい口にしてしまっていた。 「行宮美羽子」  と——。 [#改ページ]  CHAPTER 08  とうとう言ってしまった——そう思った。  あの黄昏《たそがれ》どきから数えて三日間、ものごとを考えて考え抜《ぬ》くというぼくの性癖《せいへき》が、こんなにも強く発揮《はっき》されたことはなかった。と同時に、そうしたやみがたい衝動《しょうどう》を、こんなにも呪《のろ》わしく思ったこともなかった。  これまでも、周囲の人々だけでなく自分自身までうんざりさせてしまうことは、たまに……いや、何度もあった。だが、それはもっぱら思考のプロセスそのもので、そこから導き出される解答ではなかった。  それが、今度ばかりは違《ちが》ったのだ。自分がこの目で見た事実と、その他のデータを正しい位置に並べ直し、何とか筋道の通ったものにしようとするうちに、ぼくには一つの答えが思い浮《う》かんできた。  マッチの火のたとえで言えば、真っ暗な道のりの行く手が、一瞬《いっしゅん》ながら明るく照らし出されたとでも言おうか。だが、ぼくがそこにかいま見たものは、何とも恐《おそ》ろしい怪物《かいぶつ》の輪郭《りんかく》——絶対にありえない、あってはいけない答えだった。  下校ルートを西から東へ進んでいたのが、当初考えられていたように、㈰的場長成《まとばおさなり》・京堂広子《きょうどうひろこ》、㈪ぼく、そして㈫行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の順ではなく、㈰ぼく、㈪美羽子、㈫的場・京堂たちという並びだったとして、㈰の時点ではまだ傷ついていなかったあの男が、㈫の段階では致命傷《ちめいしょう》を負っていたとすると、凶行《きょうこう》は当然その㈰と㈫の間になされたのでなくてはならない。と、いうことは——?  こないだ読んだSF小説に、こんなのがあった。  ある若い科学者が、原子核《げんしかく》のかすかな揺《ゆ》らぎを計測することで、宇宙の誕生から現在までの時間、つまりこの世界の年齢《ねんれい》を算出できるのではないかと思いつく。やがて、その説に基づいた実験装置がはじき出した結果は、約六十万秒——何とたったの一週間でしかなかった!  科学者とその仲間たちは、あまりにもばかげた結果に笑いだし、だが念のため実験をやり直してみる。だが、その結果は、最初の実験からの経過時間がプラスされただけで、何度やっても同じだった。  やがて彼らは恐ろしい事実に気づく。本当にこの宇宙はほんの一週間前に生まれ出たのではないか、と。もし、そうだとしたら——これまで信じていた全てが崩壊《ほうかい》してしまうではないか。  そう長くもない短編小説だったが、ぼくには強い衝撃《しょうげき》を与えた。作者の奇想と、それを支えるべく念入りに組み立てられた背景に舌を巻くと同時に、自分が足元からエントロピーの大海にのみこまれてゆくような不安を覚えずにはいられなかった。  何より印象に残ったのは、実験を重ねれば重ねるほど、最も信じたくない、呪わしい真実を突《つ》きつけられてしまう主人公の恐怖《きょうふ》だった。宇宙的なスケールとは桁《けた》が違うものの、まさにぼく自身が同じ思いを味わうことになろうとは!  そうなのだ。ぼくの記憶《きおく》と、あの委員長コンビの目撃《もくげき》証言の喰《く》い違いを論理的に説明しようとすれば、時間的な前後関係を入れ替えるほかなく、となると殺された男がいったん西から東へ後|戻《もど》りをしたとしか考えられなかった。だが、その推理は当然に、殺人者はぼくの前方ではなく、背後からやってきていたという結論を導き出す。  ということは——? いや、そんなばかな!  ぼくは何度も首を振《ふ》り、とうてい受け入れられない�真実�を振り払《はら》おうとした。だが、考えれば考えるほど、それは疑いのないものとなり、加えてぼくの因果な性格は、考えやむことを許してはくれなかった。  ぼくは、あのとき自分の後方に見た美羽子の姿を何とか否定しようとした。誰かの人違い、いや、いっそ幻覚《げんかく》だったと思い込《こ》もうとした。だが、それができるぐらいだったら、これまで悩《なや》みはしないのだった。  だから、ぼくは信頼《しんらい》できる誰かに話を聞いてもらいたかった。ぼくを悩ませ、苦しめている思考のプロセスを吐《は》き出してしまいたかったのだ——できることなら、結論は抜きにして。  だが、そうはいかず、ぼくはついに彼女の名を口にし、次いで固唾《かたず》をのみながら夏川至《なつかわいたる》の反応を待つことになった。  こちらは真剣そのもの。だからこそ、いつもの彼らしくアッハッハと笑い飛ばしてほしかった。否定されても、いっそ侮蔑《ぶべつ》されても、それでぼくを絞《し》めつけている論理の呪縛《じゅばく》から解き放ってくれるなら、その方がよかった。  だが、彼が示した反応は、そのどれでもなかった。 「おいおい、お前正気か? そりゃつまり、行宮美羽子が、あのオッサン殺しの犯人ってことか」  という問いかけこそ、冗談《じょうだん》めかしてはいたものの、頭ごなしに否定するような態度はみじんも感じられなかった。 「そういうことに……なるな」  ぼくは、夏川の真摯《しんし》さにたじたじとなりながらも、うなずいてみせた。 「そういうことになるって、お前」夏川は一瞬絶句した。「いくら何でも、そんな……あくまでも理屈《りくつ》の上のことだろ、それは?」 「ああ」ぼくは答えた。「だからこそ困ってるんだ。理屈の上では、どうしてもそうなってしまうんだから」 「そうか、なるほどな」  夏川は妙《みょう》に納得したように言い、「いかん、おれまで調子が狂《くる》っちまったじゃないか」と苦笑まじりに付け加えた。それから、やや気を取り直したようすで、 「要するに、お前が言いたいのは、あの男が刺《さ》されたのは、お前とすれ違ったあとで、的場・京堂の委員長コンビの前。そして、お前の後ろにいたのは、行宮美羽子——ということか。だが、彼女だけとは限らないんじゃないか、間にいたのは?」 「それはむろん考えたし、検討もしてみたよ」ぼくは答えた。「だけど、ぼくと彼らの間に、そう何人もの人間がサンドイッチになっていたとは考えにくいんだ。かりに、そんな人間がいたとして、そいつは行宮美羽子の後から来たことになる。なぜって、ぼくと彼女の間には誰もいなかったことは確実だからね」  ぼくは、あのとき振り返りざま美羽子の姿を見かけたことを説明し、そのときの情景を脳裡《のうり》によみがえらせた。続けて、 「だとすると、彼女はまだ無傷な状態の中年男とすれ違っていたはずだが、ぼくが警察の連中に絞《しぼ》られた限りでは、そんな証言が彼女の口からされた形跡《けいせき》はない。おかしいじゃないか、あの頭脳明晰《ずのうめいせき》にして品行方正な行宮にしては?」 「ま、そりゃそうかもしれないが……」  夏川は不承不承答え、だがやっぱり納得できなさそうに、 「だけど証言しなかったのは、単に警察から訊《き》かれなかったからじゃないのか? 彼らだって、あそこを通った全員を呼び出したわけじゃないだろうし……」  夏川は、納得できなさそうに問いを投げ返してきた。ぼくはその言葉をおうむ返しに、 「警察から訊かれなかったから、か……。そう、彼女はまさにその通りのことを言ったよ」 「その通りのことをって」夏川は目をパチつかせた。「お前、行宮に直接|尋《たず》ねたのか?」 「ああ」  ぼくはうなずいてみせた。そのとたん、美羽子が見せたアルカイック・スマイルが、ふいに脳内スクリーンいっぱいに映し出された。そう……あのとき、彼女の笑みに圧倒《あっとう》されつつも、ぼくはいくつかの質問を投げかけたのだった。 「ぼくは、思い切って彼女に訊いてみた——あのとき、君は殺されたあの男とすれ違ってたんじゃなかったかい、ってね。そしたら……」 「そしたら?」  夏川が先をうながす。 「彼女は答えた——『ええ、そういえば、そんなことがあったかな』と、こともなげにね。だもんで、『そのときの、男のようすはどうだった? 何か重い傷を負っているように見えたか、それともそんなようすはなかったかい』とさらに突っ込んでみた」 「で……行宮はどう答えた」  夏川の声は、心なしかかすれているように聞こえた。ぼくはといえば、何だか息苦しい思いで、 「彼女の答えはこうだった。『さあ、覚えてないな。でも、強いてどうだったかって言われたら、特別何かあった風には見えなかったと答えるほかないかも』」  そう聞いたとたん、夏川は「ということは、だ」と勢い込んで、 「彼女がすれ違ったときには、まだオッサンは襲《おそ》われてなかったってことになる。つまり、何かあったとしたらそのあとで、つまり彼女と委員長コンビの間にいた何者かのしわざってことになる。彼女の言葉を信じる限りはな。——暮林《くればやし》、行宮が嘘《うそ》をついてたように見えたか?」 「いや……そうは見えなかった」  ぼくは、ゆっくりと首を振ってみせた。すかさず「それみろ」と言いかける夏川を手で制して、 「だけど、彼女はこうも言ったんだよ。『でも、通り過ぎてしばらくたってから振り返ったときには、何だかようすが変わっていたの。ひどくフラフラして、苦しそうな後ろ姿に見えて、どうしたのかとも思ったんだけど、そのときにはすぐ見失っちゃった』——そして、そのときも嘘をついているとは思えなかった」 「つまり、行宮美羽子とすれ違う前は無傷で、その直後には何らかの異変が——って、おい!」  夏川は、数少ない店内の客たちが振り返るほどの大声をあげた。あわてて声をひそめたものの、それとは裏腹なえらい剣幕《けんまく》で、 「まさか、彼女が自分の犯行だと認めたとかいうんじゃないだろうな。本気でそんなことを信じてるのか。答えろ、答えるんだ暮林!」  ぼくの胸倉をつかまんばかりにしながら、詰《つ》め寄った。 「そ、それは……」ぼくはやっとのことで答えた。「ぼくにもわからないんだ。自分が立てた推理というかロジックが、とんでもない人物を名指ししてしまったこと、しかも当の本人がそれを裏付けかねない言葉を放ったのを、どう考えたらいいのか。いったいどうしたらいいのか、さっぱりわかんないんだよ!」  言うほどに、ぼくは頭をかきむしり、ついにはテーブルの上に突っ伏《ぷ》してしまった。  それから、どれほどの時間が過ぎただろう。ふいに、何かが肩《かた》の上に置かれるのを感じて、はっと顔を上げた。  それは夏川至の手だった。彼の温かい手のひら、力強い指先が優しく、ぼくを励《はげ》ますかのようにたたいた……かと思うと、えらい力でぼくの首根っこを引っ張った。 (え、いったい何!?)  惑乱《わくらん》するぼくの間近に、夏川は真剣そのものの顔を寄せ、これまた同様な声音で、 「どうしたらいいか、わからないだと? 決まってるじゃないか。ことの真相を確かめるんだよ。お前の推理だかロジックだかが間違ってるってことをな。お前だって、内心そのことを望んでるんだろ? それでいて、怖《こわ》くて手も足も出せずにいるんじゃないのか?」  ズバリと、こちらの本心を突いてきた。 「で、でも、どうやって……」 「どうやってだと? そんなもん、ただ行動あるのみだよ!」  夏川は、ぼくの体を激しく揺すぶった。続けて、やや感情を抑《おさ》え気味にしながら、 「がっかりしたよ、暮林。ほかの奴らはどうか知らないが、おれはこれまで、お前のものごとを考えて考え抜く癖《くせ》というか、能力についちゃ敬意を払ってたんだぞ。さっきまでのお前の話は、いつもにも増してみごとだった。だが、一つとてつもなく重要な可能性を忘れちゃいませんかてんだ」 「重要な可能性?」 「そうだとも。確かにお前は、自分を含《ふく》めた目撃証人とあのオッサンの遭遇《そうぐう》順序が、これまで考えられていたのとは違っていたのではないかと指摘《してき》し、犯行が行なわれた時間と空間に、ほかの誰より近くにいたのは行宮美羽子じゃないかという結論を導き出した。だからといって、なぜ彼女が犯人じゃないかってとこまで短絡《たんらく》しちまうんだ」 「え、どういうこと……」  問い返しかけて、ぼくはドキッと心臓が高鳴るのを感じた。時を同じくして、脳内の奥深くで小さな火花が散った気がした。 「それは、つまり……」  言いかけたぼくに、夏川は大きくうなずいてみせた。 「おう、さすがにわかりが早いな。だが、ここはおれに言わせてくれ。——もし、あのオッサンに加えられた致命傷が、出合い頭に切りつけるといった単純なものではなく、もっと未知な、そして巧妙《こうみょう》な手口の結果だとしたらどうだ。推理もののトリックとしちゃアンフェアかもしれないが、何かこう特殊《とくしゅ》なやり方で、遠くから人目につかず狙《ねら》い撃《う》ちにしたのなら、疑いをかけるのは何も行宮美羽子に限った話じゃなくなるぜ」  そうか! と思った。と同時に、あのコインロッカーにひそんでいた自動発射装置が思い出される。もし、あれより少しばかり複雑巧妙な仕掛《しか》けが使われていたとしたら——そうとも、どうしてそんな風に考えてはいけないんだ? (そう……そうなんだ!)  ぼくは、心の中で何度もうなずいていた。ぼくは間違っていた。行宮美羽子もまた犯人であり得るという、間違った前提でものを考えていたことに気づいたのだ。  そうとも、シャーロック・ホームズも言っているではないか。不可能なこと全てを取り除いたあとに残ったものが、それがどんなに奇妙に見えたとしても真実なのだ——と。そのことを忘れ、小理屈をこね回した結果、たどり着いたのが、真っ先に取り除くべき�不可能�だったとは、何というお笑いぐさだろう!  そしてまた、間違うことは、というより間違いを認めることは、何と楽しいのだろう。温かい安堵《あんど》が胸いっぱいに広がって、何て晴れ晴れした気持ちになれるんだろう……そう思い込もうとする一方で、ズキッと痛みが心を駆《か》け抜けた気がしたが、無視しておいた。  思えば、それまで自分も周囲も悩ませてきたぼくの性癖は、一種の呪いのようなものだった。それが、あっさりと解けたというか、無意味なものになってしまったのには、拍子《ひょうし》抜けする思いだった。  要は、それだけぼくは、今回たどり着いた結論をもてあまし、うとましく思い、恐怖さえしていたということだ——これまでの自分を否定されても平気なぐらいに。 「あの、ところで」  ぼくは、ふと気づいたことがあって、夏川に尋ねた。 「さっき『行動あるのみ』って言ったよね。あれはいったい……」 「何だ、お前ともあろうものが、まだわかんないのか」彼は呆《あき》れたように、「いいか、お前の推理は肝心《かんじん》のところで間違っていたとしても、行宮美羽子があのオッサンの死の一番近くにいたことは確かだ。ということは、何か重大なことを目撃してしまったとしてもおかしくない」 「でも、彼女はそんなことを言ってなかったよ。潔白《けっぱく》である以上、嘘をつく必要はないと思うけど」  ぼくが反駁《はんばく》すると、夏川は首を振りながら、 「さあ、犯人がそう考えてくれるといいんだが……」 「えっ、それって、どういうこと?」 「いいか、あのオッサンを殺した真犯人にとって、彼女は何かと厄介《やっかい》な存在のはずだ。何か不都合な事実を目撃していた場合はもちろん、何も見ていなけりゃいないでね」 「あ、そうか……」  ぼくは思わず声をあげてしまった。そのあとに、独り言なのか彼に聞かせたいのか、自分でもはっきりしないまま、 「被害者が何らかのトリックにより、通学路から離《はな》れた場所から致命傷を負わせられたのだとしても、犯人としてはそう思われたくなかったに違いない。一番いいのは、時間的にも空間的にも被害者の間近にいた誰かに罪をかぶってもらうことだけど、それが可能な相手とそうでない相手がいる……」  行宮美羽子が、どちらに当てはまるかは言うまでもない。今さらながら、ぼくは自分の推理もどきの恥《は》ずかしさに、カッと顔が火照《ほて》るのを感じた。 「とうてい、その人物には犯行不可能だと思われてしまえば、当然、捜査側の目は犯人が用いた手段を見破ろうとする方向に……え、ということは、まさか!?」  ぼくはハッと夏川の顔を見上げた。 「そういうことだ」  彼は、小さくうなずいてみせた。それまでにも増して真剣そのものの面持《おもも》ちで、一つの決意さえ浮《う》かべながら、 「行宮美羽子が危ない——」  短く放った言葉に、ぼくは心臓が跳《は》ね上がる思いだった。彼は続けて、 「ただの考え過ぎ……むしろ妄想《もうそう》なのかもしれない。だが、可能性はゼロじゃない。そうだろ、暮林?」  ぼくは思わず立ち上がっていた。「おい、どうした?」と問いかける夏川の言葉をさえぎるように、口をついて出た言葉があった。 「彼女を守らなくっちゃ。何ができるかはわからないけど、とにかく守らなくっちゃ、真犯人の手から!」  無謀《むぼう》というか、滑稽《こっけい》でさえあるヒーロー気取りの言葉だった。ふだんなら、口が裂《さ》けたって口にしないセリフを恥ずかしげもなく吐いたのは、あらぬ疑いをかけた行宮美羽子への贖罪《しょくざい》の気持ちがあったのかもしれない。  だが、それ以上の意味がぼくにはあったのだ。ここしばらく自分を苦しめてきたロジックだか推理だかが、まるきり間違っていたことを立証するのに、これほど確かな方法はなかったからだ。そのうえで、これまでの自分と訣別《けつべつ》し、ぼくにかけられた呪いから解放されるなら、願ったりかなったりだった。 「しょうがないな、全く」  フッと吹《ふ》きかけられた言葉に見直すと、夏川が苦笑まじりに腕を組み、ぼくをながめていた。 「その話、おれも乗らせてもらうよ。お前だけじゃ危なっかしいからな」 「で、でも、何で君が——?」 「決まってるだろう」夏川は、さもおかしそうに、「今のところ、行宮が狙われてるかもしれないなんて妄想し、それをほんのちょっとでも信じることができてるのは、おれたちだけだからさ。それに暮林、おれが自分のことを棚《たな》に上げて『行動あるのみ』なんてことを言うとでも思ったか?」  ぼくは無言で首を振ることしかできなかった。そのあとにやっと一言、 「ムチャクチャだな、相変わらず」 「ああ、ムチャクチャだとも」夏川は答えた。「だが、別にそれでいいんじゃないか?」 「まぁ……ね」  答えながら、ぼくは胸に温かいものが広がり、心臓がさっきまでとは別の意味でワクワクと高鳴るのを感じていた。  全くもってムチャクチャな、論理のかけらもない話だった。だが、そのときしみじみと感じていた。非論理的であることは、こんなにも楽しいものかと。  と同時に、一抹《いちまつ》の哀愁《あいしゅう》とともに自覚せずにはいられなかった。つくづくとぼくは主役には向かない人間だと。ミステリでいえば決して名探偵ではなく、よくてワトスン役、せいぜい助手がふさわしいのだと。だが、夏川至を目前にその事実を認めることは、半面とても楽であり、快適ですらあるのもまた事実だった——とりわけ主役を譲《ゆず》る相手が、目の前にいる夏川至である場合には。  こうして——ぼくらの探偵ごっこが始まった。  探偵ごっこというからには、相手となる悪漢が必要だが、それはなるべく正体不明であるのに越したことはなかった。それも、できるだけ時代離れした、現実の犯罪者などではない奴で、それでいて狙いをつけた美少女をあっさり引き渡《わた》してくれそうな……。 [#改ページ] 「ある人物を想像してみてくれ——長身で、痩せていて、いかり肩で、シェイクスピアのような額で、悪魔のような顔をしている。きれいに剃りあげた頭、猫を思わせる緑色の瞳、磁力のように視線をひきつける切れ長の目。東洋人の狡猾さと英知を一身に集めた、偉大なる頭脳。天才なみの知性、過去および現在の科学知識、豊かな政府の資力を備えている——もっともかの政府は彼の存在そのものをいっさい否定しているが。ともかく、これが黄色い悪魔の化身ともいうべき、フー・マンチュー博士の実像なのだ」 [#地付き]——サックス・ローマー『怪人フー・マンチュー』 [#地付き](嵯峨静江・訳) [#改ページ]  CHAPTER 09  黄昏《たそがれ》どきのセピア色に染められた街角の向こうから、行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》が歩いてくる姿を認めたとき、ぼくは心臓が大きく高鳴るのを感じた。喜びと後ろめたさがないまぜになった、何とも複雑な気分だった。  工場の薄汚《うすよご》れた塀《へい》や営業してるのかいないのかわからない店屋、どうやら無人のようにも見える家々——そんな平凡《へいぼん》で退屈《たいくつ》きわまりない風景が、一瞬《いっしゅん》にして生き生きとしたものに変わった。  無性にその中に飛び込んで行きたい気がしたが、それは許されないことだった。身を乗り出して彼女を見つめることすらはばかられて、物陰《ものかげ》から見守ることしかできなかった。それが、|のぞき屋《ピーピング・トム》には分相応というものだった。  ぼくと夏川至《なつかわいたる》の探偵ごっこが始まって、三日目の夕方——。といっても、それは単純かつ単調なもので、ただひたすら行宮美羽子を見守り、彼女の身に何か起こればただちに駆《か》けつけるというものだった。  ぼくらは、通学路で彼女と遭遇《そうぐう》するよう登校時間を調整し、校内では絶えずその姿を視野の片隅《かたすみ》に入れておくようにした。下校時ともなれば、もちろん尾行開始だ。  ちょっと見方を変えれば、いや、変えなくても立派なストーカーといえた。だが、その点については立派な言い逃《のが》れがあって、ぼく一人ならともかく、二人連れのストーカーというのはあまり聞いたことがない。いや、いるのかもしれないが、相棒が夏川至であることは何よりの否定材料となった。  そういう�保険�がかけられていたおかげで、ぼくは安心してこのゲームに没頭《ぼっとう》することができた。  実際、これは楽しいゲームだった。あの、どこか近寄りがたい行宮美羽子を、当人の知らないままウォッチ対象とすることで、自分が優位に立ったような錯覚《さっかく》に陥《おちい》ることができた。手の中で踊《おど》らせることさえできるように思えた。  だが、そんなのんきな思い上がりがこなごなに粉砕《ふんさい》され、ぼくがたっぷりと報いを受けるときが、やってこようとしていた。それも、今この瞬間に……。  それは、まさにあっという間の出来事だった。黒塗《くろぬ》りで今どき見かけないようなスタイルの、いかにも高級そうな乗用車がふいに視野に割り込んできたかと思うと、美羽子を覆《おお》い隠《かく》すようにして急停車した。 (な、何だ?)  思わず二、三歩前へよろめき出し、真っ黒な車体の向こうに目を凝《こ》らした。天井越《てんじょうご》しに複数の人物の頭がのぞき、窓と車室を通して、美羽子のものと思われる黒髪や白い肌、制服の一部が、何やらめまぐるしい動きをともなってかいま見えた——そのとき、 「おい!」  びっくりするような声とともに、思いっきり背中をどやしつけられ、ぼくはあやうく悲鳴をあげそうになった。 「あ……夏川」  と振《ふ》り返りかけたぼくの首を、夏川至はグイと元の方向にねじ向けながら、 「『あ……』じゃないよ、あれを見ろ!」  そう言った語尾と、自動車がドアを荒々《あらあら》しく閉じ、と同時に走りだす音が折り重なった。黒塗りの車体は一気に視界をフレームアウトしようとし、あとにはがらんとした家並みだけが残された。  ということは、美羽子は——? 言うまでもなく、今の車に乗せられたのだ。だが、それが何を意味するのか、いったいどうすればいいのか、頭の中が白くなってしまって、とっさには判断がつかなかった。  それを教えてくれたのも、夏川だった。彼は「何してる!」と常になく乱暴《らんぼう》な、たたきつけるような口調《くちょう》で、 「行宮はあの車に押し込《こ》められて——そう、拉致《らち》されたんだ!」  ら、拉致? とぼくが聞き返すより早く、 「何してる、すぐ追っかけなきゃ……」 「で、でも、どうやって?」  情けなくも、おろおろと訊《き》くぼくの肩《かた》を、夏川はやにわにひっつかむと、 「いいから、これに乗れ!」  叫《さけ》びざま、ぼくを何やら古びた自転車の荷台に引きずり上げるのと、路面を一蹴《ひとけ》りしてそいつを発進させるのとがほぼ同時だった。  数秒後、われに返ったぼくは、座り心地最悪の座席に必死にしがみつきながら、目の前に突進《とっしん》してくる街並みや足元を流れ去るアスファルトを茫然《ぼうぜん》とながめ、容赦《ようしゃ》なく吹《ふ》きつける風を感じていた。  その、まるで魔法みたいに現われた自転車が、もともと夏川の所有物だったのか、それとも不運な持ち主がたまたま鍵《かぎ》をかけずにいたものか、考える余裕も問いただす勇気もなかった。せめて、誰かが道端《みちばた》に捨てていった不用品(それでも、占有離脱物横領罪《せんゆうりだつぶつおうりょうざい》というのには当たるのだそうだ)であることを祈《いの》るばかりだった。  自転車で自動車を追う、しかも二人乗りで? バカげたことだと笑う人もいるだろう。だが、それ以外に方法はなかったし、今さら降りるわけにもいかなかった。  さすがはスポーツ万能の夏川で、ぼくを荷台に乗せていながら、そんな重みなどまるで感じていないみたいに軽やかにペダルをこぎまくり、街路を風のように疾駆《しっく》した。実際、ぼくの存在を半分以上忘れ去っていたみたいで、急なコーナリングの折など、荷台から何度こぼれ落ちそうになったか知れなかった。  だが、それだけの甲斐《かい》はあって、ぼくらはほどなく黒塗りの高級車の影《かげ》をとらえることができ、そのかなり間近まで肉薄《にくはく》しさえした。ぼくらにとって有利だったのは、車がすぐに住宅街に入り、昔の農道のあとでもとどめているのか、舗装《ほそう》されていても割合に道幅《みちはば》が狭《せま》く、しかもうねうねと屈曲《くっきょく》の多いために、ろくにスピードが出せないことだった。  そのおかげで、リアウィンドウ越しに、まぎれもない行宮美羽子の後ろ姿を見出すことはできた。ぼくらの気配《けはい》を察したのか、ほんのわずか振り返った刹那《せつな》があったが、その横顔はまぎれもない彼女のものだった。 (彼女が気づいてくれた……ぼくらに?)  そう思うと胸がカッと熱くなったが、たぶん単なる願望の産物だったろう。せめて、彼女が恐《おそ》れているのかおびえているのか、いま何を思っているのかを読み取りたかったが、それはかなわぬまま、次の瞬間には一気に引き離《はな》されてしまった。  そのあとも、そんなチャンスがあった。もっとも、それ以上は何とすることもできず、結局はツルリと取り逃《に》がし、ついには見失ってしまうのだったが。それでも、夏川は倦《う》むことなくペダルをこぎ続け、再び三たび黒い車体を視野に取り戻《もど》すのだった。  いつしかぼくらは、いまだかつて見たこともない、住宅街の奥にひそむ未知なる一角へ入り込んでいた。道はますます狭く、小刻《こきざ》みに曲がりくねって、おかげでターゲットの速度がぐんと落ちて追跡《ついせき》には好都合だったものの、果たして帰り道をたどれるのか心もとなかった。  だが、そんな心配をせせら笑うかのように、 「うわあああぁっ」  けたたましいブレーキ音に素《す》っ頓狂《とんきょう》な叫びを重ねながら、ぼくは大きく傾《かし》いだ自転車の荷台から放り出された。ぼくのまわりで世界が一回転し、その中で夏川が鮮《あざ》やかなターンを決めて自転車を停止させるのが見えた。  だが、幸いけがはなく、そんな暇《ひま》もなかった。オットットと珍妙《ちんみょう》なステップを踏《ふ》んだあげく、ぶざまに尻《しり》もちをつくかつかないかのうちに、ぼくは夏川にグイと腕《うで》をつかまれ、引きずり上げられていた。 「……見ろ」  ささやきにしては大きすぎる声が耳の穴に吹き込まれ、ぼくは目を見開いた。次いで、息をのまずにはいられなかった。  そこにあったものは、西洋館——といっては、あんまり大ざっぱで、パターン通りでもあるけれど、確かにその名を冠《かん》してもおかしくなさそうな古風な邸宅《ていたく》だった。  二階建てで、傾斜《けいしゃ》のきつい屋根から三角形の破風が突《つ》き出している。壁面《へきめん》はテラコッタというのか、一見石かレンガのようなつや消しのタイル張り。そんなお屋敷《やしき》が、こんなところにあるとは知らなかった。  たぶん、もとは広々とした原っぱにでも建っていたものが、しだいに宅地開発の波に取り囲まれ、庭も切り売りしたりして、ますますありふれた住宅群にうずもれていったのだろう。  ぼくらのいるのは、その間にかろうじて残された私道らしい路地で、目の前には球形の門灯《もんとう》をのっけた一対の積石柱が立っていた。幸い門扉《もんぴ》は開け放たれており、そこからやけに立派な玄関と、その前の車寄せまでがよく見通せた。  そこに長々と横付けになっていたのは——言うまでもなく、あの黒塗りの高級車だった。 「じゃ、じゃあ、彼女はあの屋敷の中に?」  ぼくは息をはずませながら、夏川の方を振り向いた。 「そういうことだ」  彼は硬《かた》い表情で、ろくにぼくを見もせずに答えた。同じぶっきらぼうな調子で続けて、 「ということは……助け出さなくちゃな」  ああ、と反射的にうなずいてしまったあとで、ぼくはぎょっと夏川の方を見た。そこには、このうえもなくいい笑顔を浮《う》かべた彼がいて、いきなりぼくの肩をたたいた——いや、より正確には思いっきり突きを喰《く》らわせてきた。 「そう、それでこそお前だ!」  ぼくの記憶《きおく》に間違《まちが》いがなければ、この国の法律には住居侵入罪《じゅうきょしんにゅうざい》というものがあるはずだった。住居といっても普通の家屋に限ったことではなく、たとえ建物そのものに忍《しの》び込まなくとも、敷地内《しきちない》に入った段階で罪が成立する——とまぁ、確かそんなようなことだったと思う。 (だとすると、もうこの時点で十分にヤバいわけだな)  夏川至のあとについて屋敷の裏庭に回り込みながら、ぼくはつぶやいていた。  門柱には表札がないから誰の家とも知れないが、しかし誰かのものであることは間違いないわけで、だからそうあっさりと中に立ち入るのは……などという、確かに正論ではあるけれど、何でこの非常事態にそんなつまらないことをと、自分ながら嫌気のさす言葉が口をつくより早く、夏川は門の内側へと足を踏み入れていた。そのまま、ズカズカと玄関に向かいかけるのを、 「お、おい、まさか、真正面から入ってくつもりか?」  と肩をつかんで押しとどめると、彼は「そうだな」と少し考えてから、 「いきなりインタホンを鳴らしたって、行宮の居場所を教えてくれるわけないもんな。よし、こっちだ」  そのまま方向を右九〇度に転回させると、今度は建物の外壁《がいへき》に沿って歩き始めた。内部からの視線を避《さ》けるつもりだろう、身をかがめながら押し殺した声で、 「何してる、こっちこっち!」  彼の言葉に反して踵《きびす》を返し、その場から退散するという選択肢《せんたくし》もむろんあったろうし、賢明な人はたぶんそっちを採るのだろう。だが、そうしようにも、ぼくには数少ない友である夏川を裏切るような度胸はなく、それに劣《おと》らず行宮美羽子の安否を心配していた。  ——かくして、ぼくの不法侵入行為は、ますます深みにはまっていくことになったのだった。  ぼくらは、まず何らかの手がかりと、できることならば潜入《せんにゅう》経路を求めて、西洋館の右側面に回り込んだ。左側は塀《へい》が迫《せま》っていて、大げさに言えば猫ぐらいしか通れそうになかったからで、上空から見れば反時計回りに建物を迂回したことになる。  こちらも大して広くもない、路地みたいな狭い空間を抜けると、意外に広い裏庭に出た。そこはおせじにも手入れが行き届いているとはいえず、雑草が生え放題の枯《か》れ放題になっていた。  だが、注目しなければならないのは足元ではなく、頭上だった。  ぼくらが建物の角を曲がり、裏手に足を踏み入れてまもなく、二階の窓に灯りがともったのが見えた。ほかはどれも暗いままで、ということは今その部屋に誰かが入ってきたのに違いなかった。そして、それがおそらくは美羽子ら一行であることも。  明るくなったのは、向かって左側の窓二つで、それらが部屋一つ分に当たることは見当がついたものの、中のようすは何一つわからなかった。夏川は大胆《だいたん》にも、雨樋《あまどい》だとか壁のわずかな出っ張りを頼《たよ》りによじのぼろうとしたが、やがて裏庭の真ん中あたりに目をやると、 「あれだ」  と、ささやきかけた。  あれ[#「あれ」に傍点]とは、おそらく樫《かし》と思われる樹木だった。高さは優に屋根に達し、幹周りは二抱えほどもあって、節くれだった太い腕を四方に張り出している。しかも、それらが枝分かれする股《また》の部分は、ちょうど二階の窓とほぼ同じ高さにあるように見受けられた。 (…………!)  ぼくは息をのんだ。ことここに至っては、木登りが苦手というより、ほとんど経験がないことなど問題にはならなかった。 [#改ページ]  CHAPTER 10  監視《かんし》のためには、確かに絶好のポイントだった。いや、最上の桟敷席《さじきせき》といった方がふさわしかったかもしれない。  ぼくらがよじ登り、体をねじこんだ枝はがっしりと頼《たの》もしく、あと二人や三人の体重なら余裕で支えられそうだった。何より、そこからはこの西洋館の二階——とりわけさっき電気のついた部屋のようすを、舞台さながらに見渡《みわた》すことができた。  窓|越《ご》しに見たところでは書斎兼《しょさいけん》応接室といった感じで、テーブルや椅子《いす》が配置され、本棚《ほんだな》や暖炉《だんろ》も備わっていれば、額縁《がくぶち》入りの絵も掛《か》けられている。もっとも、どれも古びてすすけてはいたけれど……。ぼくらと対面《たいめん》の壁《かべ》にはドアがあり、たぶん廊下《ろうか》に通じているものと思われた。  そこには、いかにもうさん臭《くさ》そうな大人たち三人がいた。年齢《ねんれい》は三十路《みそじ》から四十代、男二人に女が一人という取り合わせで、あるものは壁に寄りかかり、あるものは腕組《うでぐ》みをし、またあるものはテーブルに手を添《そ》えて妙《みょう》なポーズを取ったりしていた。そして、そんな立ち姿の彼らにまじって—— 「おい」  夏川至《なつかわいたる》が、声を低く押し殺し、ぼくをそっと突っついた。  ぼくは「うん」と小声でうなずき、痛いほどに動悸《どうき》を感じながら、心中つぶやいていた。 (君はそこにいたのか……行宮《ゆくみや》)  そう、彼女はその部屋にいた。いま記したような連中に囲まれ、ただ一人|肘《ひじ》掛け椅子に座らされて。こちらには、やや斜《なな》めの角度をなしつつ背を向けているせいで、顔はよく見えないが、時折ちらりとかいま見えたプロフィルは、まぎれもなく行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》のものだった。 [#挿絵(img/01_137.png)入る]  彼女のとびぬけた若さと可憐《かれん》さ、加えてぼくらの学校の制服をまとった姿は、その部屋にあって異様なまでのコントラストをなしており、それに比べれば三人の男女はあまりに見苦しく、下品で、同じ人間とは思えないような気さえするのだった。 「あいつらだな。彼女を車で拉致《らち》したのは」  夏川が吐《は》き棄《す》て、グッと拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。おそらくそうだろうと、ぼくも思った。  彼らのうち、美羽子の一番間近にいるのは、この中で一番若い——もしくは若作りをした男だった。服装は派手なブレザーに丸首シャツ、大ぶりな顔に眉《まゆ》あくまで濃《こ》く、目鼻立ちのくどいところは、昔の二枚目映画スターみたいだった。  たぶん今の時代ではそんなにモテそうにないその男は、いやに押しつけがましい笑顔を浮《う》かべ、行宮美羽子の椅子にのしかかるようにして、しきりと話しかけている。むろん内容はわからないが、おためごかしに無理難題を押しつけているように見えた。  二人目の男は彼よりさらにド派手にして悪趣味《あくしゅみ》で、玉虫色とでもいうのか、細かく縫《ぬ》い取りが施《ほどこ》されてやたらキンキラした|立て襟《スタンド・カラー》の服をまとっていた。髪形はいっそう怪《あや》しく、自毛だかカツラだかわからない、マッシュルームカットを波打たせたみたいな髪形をしており、おまけに妙な色つきの丸|眼鏡《めがね》をかけていた。  もう一人の同室者である女は、いささか短く切りすぎたオカッパ頭に頬骨《ほおぼね》の突《つ》き出た黄色い顔が、ひどく意地悪そうに見えるうえに、手足も何もかもが竹ざおみたいに細長く、同性でありながら美羽子と最も生物学的に縁《えん》遠い存在に見えてならなかった。  彼らは入れかわり立ちかわり、美羽子のいる椅子に歩み寄り、しばしば身を乗り出して、何ごとか話しかけていた。昔の二枚目風の男はにこやかに大げさな身振《みぶ》り手振りで、キンキラ色眼鏡は蜘蛛《くも》みたいにしなやかに忍《しの》び寄りつつ、竹ざおオカッパ女はもともと怖《こわ》そうな顔をクシャクシャさせながら——だが、あいにく話の内容はさっぱりわからない。そのことをもどかしく思ったとたん、 「あいつら何を話してるんだ。行宮をどうしようっていうんだ?」  夏川がぼくの思いを代弁するように、いらいらと言った。そう訊《き》かれても、とっさには答えようがなく、 「さあ……」 「『さあ』とは何だよ、この非常事態に」  夏川がいら立ちの矛先《ほこさき》を転じるように、にらみつけてきた。ぼくはいつもながらの自分の性癖《せいへき》を呪《のろ》い、しかし今さらごまかすわけにもいかず、 「いや、いったい、そもそも彼らは何をしたいんだろうと思って」 「何をしたい? そんなもん拉致|監禁《かんきん》に決まってるだろうが」  夏川はあきれたように言った。ぼくはもう引っ込《こ》みがつかなくなって、 「だとしても、何のために?」 「そりゃ、口封《くちふう》じのためだろう。あの通学路での殺しで何かまずいものを見ちまった彼女に対する……」 「それにしては、少しご大層すぎないか? 第一、口封じをするためのおどしに、あんな風に顔をさらすなんて矛盾《むじゅん》もいいとこじゃないか」 「でも、そのあとで殺すつもりなら……ああ、そうか。なら、さっさと始末しちまうか」  自分で自分の言葉が怖くなったらしい夏川は、次いで安心したように言った。 「だからといって」ぼくは続けた。「これが身代金《みのしろきん》目的の誘拐《ゆうかい》とか、彼女を人質にとって恐喝《きょうかつ》するつもりとかなら、さっさと家族に連絡すればいいわけだし、やっぱり妙だよね。ほかにも一味がいて、もう電話でもしてるのかもしれないし、接触《せっしょく》のタイミングを見計らっているとも考えられるけど、それにしたってこんなに総がかりで相手にする必要はないだろうし……」  言いながら、ぼくは行宮美羽子の家族はおろか、どこでどんな暮らしをしているのかについて何一つ知らないことに気づいた。一方、夏川はそんなことはおかまいなしに、 「そうか!」  いくら窓ガラス越しとはいえ、聞こえてしまいそうな大声をあげた。 「奴らの目的は、行宮そのもの——いや、むしろ彼女が持っている何か。あいつらはそれがほしくて、彼女をこんな屋敷《やしき》へ連れ込んだというんだな?」 「そう」ぼくは小声でうなずいた。「それが財産とか何か大事な品物といった具体的なものなのか、秘密だとか情報とかの形のないものかはわからないけどね」 「畜生《ちくしょう》、それであんな風になだめすかしたり、おどしたりしてやがるんだな」  夏川は、ますますいきりたった。「まずいな、この分だときっと……」などとつぶやきながら、ちょっとの間考えていたかと思うと、やにわに手近な枝をつかんだ。 「あ……」  と間抜けな声をあげたときには、夏川はもう体を宙に躍《おど》らせていた。そのままみごとに地面に着地するや、ぼくに向かって、 「じゃな、ちょっと行ってくるわ」 「ちょっと行ってくるわって、おい……」  こんなとこに置いてけぼりはたまらないと、つられてぼくも木から下りようとした。だが、あわてて幹にしがみついたそのとたん、 「こらっ、お前はそこにいろ」 「で、でも……」 「いいから、そこで彼女と奴らのようすを見守っててくれ。万一何かあったときには、警察への連絡を頼む」 「万一って、いったい何するつもりなんだ」  思わず尋《たず》ねたぼくを見上げ、夏川至はニヤッと不敵な笑みを浮かべた。右手の親指をぐいっと立ててみせると、 「決まってるさ。行宮を助け出しに行くんだよ、あいつらがこれ以上ひどいことをしでかさない前に。じゃな!」  そのままダッと駆《か》け出し、もと来た道を戻《もど》っていってしまった。  おい、待て! とあげかけた大声を、あわててのみ下した。あいつ、まさか、建物の中に忍び込むつもりか? そんなむちゃな!  そして、このぼく自身はいったいどうしたらいいのだ。やっぱり、彼のあとを追い、行動をともにした方が……と木を下りかけたところ、ズルッと足を滑《すべ》らせてしまった。  悲鳴をあげそうなのをこらえ、冷や汗《あせ》かいて必死に幹にへばりつく。やっとのことで元の場所にはい上がったとき、一つの衝撃《しょうげき》がぼくの総身《そうみ》を貫《つらぬ》いた。  行宮美羽子が、ぼくを見た。ほんの一刹那《いちせつな》だが、椅子に腰《こし》掛けたまま横顔をふと後方にねじ向けた彼女と、視線が合った——確かにそんな気がしたのだ。 (彼女が……気づいてくれた?)  もしかして、そうかもしれないと思った瞬間《しゅんかん》、急に元気がわいてきた。今すぐ救いに行きたいのはやまやまだが、夏川のあとを犬っころみたいについていったってしょうがない。ここに踏《ふ》みとどまって不測の事態に備え、何か起きたら自分一人で決断し、行動するまでだと腹を決めた。  とにかく、彼女に自分の存在をもっとはっきりと伝えたかった。ここにいて見守っていること、いざとなれば助けに行くこと、少なくとも君はもう孤立無援《こりつむえん》ではないこと——それらの事実を教えてあげたかった。  だが、それきり彼女はこちらを向くことはなかった。そのかわり、かろうじて見える片頬に、さっきまではなかったかすかな笑みが浮かんでいるような気がしてならなかった。 (ということは——行宮はぼくらの、いや、ぼくの存在に気づいたんだ。ほんのちょっとかもしれないけど、そのことで安心してくれたんだ!)  その思いは、ぼくをさらに大きく力づけた。こうして猿《さる》みたいに木の上にいたって、やれることはいくらだってある。そして、とりあえず今のぼくにできることは、待つことと観察すること、そして考えることだった……。  あの中年の男女は、いったい何がしたいのか? さっき夏川に話したように、身代金目的の誘拐といった、ほかに恐喝する相手が必要なことでないとすれば、彼女自身が目的だということになる。そこには、彼女の身に暴行《ぼうこう》——考えたくないことだが——を加えることも含《ふく》まれるが、どうもそのようでもないし、いささか人間|離《ばな》れしているとはいえ女性が一人まじっているのも否定材料だ。だとすると、やはり行宮美羽子から有形無形の何かを奪《うば》い取ろうとしているということになる。  それはいったい何なのか。ぼくには、あの通学路の殺人など、そのほんの一部に過ぎないような巨大な何かのただ中に彼女がいるような気がし始めてならなかった。  たとえば、彼女には莫大《ばくだい》な遺産《いさん》の相続権があって、あの連中はそれを横取りしようと権利の放棄《ほうき》を迫《せま》っているのかもしれない。あるいは、連中にとって重要な秘密を握っていて、それを吐かせようとしているのかもしれない。ぐっとロマンチックなことに埋蔵金《まいぞうきん》だか財宝のありかについて先祖から言い伝えられたのを、聞き出したいという場合だってあり得るかもしれなかった。  どんなに冗談《じょうだん》っぽい理由にせよ、当の三人が真剣そのものであることは見ていればわかった。三者三様の表情の下には、しだいに焦《あせ》りや困惑《こんわく》が垣間見えるようになり、ことに仲間どうし顔を見合わせるときには、はっきりわかった。  これに対し、美羽子はどこまでも気丈《きじょう》だった。三人組に返す言葉は、彼らのそれと同様一切聞き取れなかったが、それでも一言二言発するたびに連中を手こずらせ、ときには逆に追いつめてゆくようだった。  これも、彼女がぼくの存在に気づいたせいかもしれない。だが、いかに頼もしく立派な態度ではあっても、このままでは連中の憤激《ふんげき》を買い、「小娘だと思っておとなしく出てりゃ、つけあがりやがって」——申し訳ない、こんな紋切《もんき》り型《がた》のセリフしか思い浮かばなかった——などということになりかねない。  だからといって、どうすればいいのか。こっちから行動を起こそうにも、夏川が何かやるつもりかもしれないし、共倒《ともだお》れにならないためには彼の動きを待つほかない。とはいえ、これも言い訳じみていて、自分の臆病《おくびょう》さと優柔不断《ゆうじゅうふだん》さを思い知らされる結果となった。たぶん夏川なら、おとなしく木の上に取り残されてはいないのだろう……。  そのことを思い、あらためて何ともいえない焦燥《しょうそう》にチリチリと身を焼かれたときだった。窓枠《まどわく》の中のドラマに一つの変化が生じた。  それまで、主導的に彼女への尋問《じんもん》もしくは詰問《きつもん》を繰《く》り返していた二枚目男が、いつのまにか後ろに退き、あとの二人に場を任せる形になっていた。  さらにゆっくりと、さりげなく——だが、ぼくの目からすると相当にわざとらしく後ずさりしながら、戸口の前に立った。後ろ手に何かをつかんだようなのは、たぶんドアのノブだったろう。それが証拠《しょうこ》に、左に蝶番《ちょうつがい》のあるドアは外側に向かってゆっくりと開き始め、男はその空隙《くうげき》へと身をうずめていった。  あとの二人は、いっこうに気づく素振《そぶ》りもなく、相変わらず美羽子を責め立てている。その間抜けな状況《じょうきょう》は、二枚目男がスルリと戸口の向こうの暗がりに姿を消し、ドアが音もなく(特にリアクションもなかったところからすると、そうだったのだろう)閉じられたあとも続いた。  次なる変化は、その十数秒後に起こった。  先に述べたように、美羽子があの連中に連れ込まれたらしき部屋は、二階の向かって左側にあって、その隣《となり》の部屋の窓は暗いままだった。やや小さい以外、造りは大して変わらないようだったが、それ以上のことはよくわからなかった。ただ、ふだんは使われていないらしく、家具にはシーツみたいな布が掛けられているのが見て取れる程度だった。  そこに、にわかに灯りがついた。どうやら、さっきの部屋とは廊下でつながっていたらしく、左の�尋問室�にあるのと位置も大きさもほぼ同じドアが、これまた同様に外開きになって、そこから二枚目男が半身を滑り込ませるところだった。  戸口のすぐ脇《わき》を手で押えているのは、そこにあるスイッチを入れたためだろう。男はそのまま部屋の中に入ると、ミュージカルみたいな身のこなしと泥棒《どろぼう》コントみたいな抜き足差し足忍び足で、ぼくから見て右の壁へと歩み寄った。  舞台でいうと上手《かみて》の端《はし》っこに当たるそこには、額縁入りの絵が掛かっていた。二枚目男はしばしその前で立ち止まったあと、その片端に手をかけた。ややあって、思い切ったように自分の方に引き寄せる。  すると驚《おどろ》いたことに、額縁がひょいと小さなドアのように開いたではないか。もう片端が蝶番のようなもので固定されていたらしい。男はその向こうに手を突っ込んで、しきりと何かをいじくっているようすだ。  ぼくは必死に目を凝《こ》らし、首をねじった。その結果確認できたのは、額縁よりさらに何回りか小さな金属製の扉《とびら》らしきもの、その中央に突き出たダイヤルだった。 (これは、ひょっとして……?)  そう、そこにあったのは、隠《かく》し金庫だったのだ。それも、よりによって額縁の裏とは、古式ゆかしいことだった。  男は金庫の扉に顔をくっつけんばかりにして、右に左にダイヤルを回す。その横顔には、ひきつったような笑みが浮かんでいたが、それはスリリングな緊張《きんちょう》とともに、隣室《りんしつ》の仲間二人を出し抜《ぬ》いてやったという喜びから来たものかもしれなかった。  だが、彼ら二人もそれほど間抜けではなかった。壁を隔《へだ》てた左の部屋では、キンキラ色眼鏡と竹ざおオカッパ女が、急にぎょっとした顔を見合わせ、弾《はじ》かれたように背後を振り向く。何か言おうとするオカッパを色眼鏡が手で制し、彼一人だけがそっとドアを開き、廊下へと出て行った。  それから、どれくらいの時間がたったろう。二、三分だったような気もするが、たかだか隣の部屋に移動するにしては長すぎるようでもあり、そのあとの劇的な展開を考えると十分短いようにも感じられた。  右側の部屋の壁際で、引き続き金庫と格闘《かくとう》している二枚目男の後方でドアがそろそろと開き始めた。さっき他の二人を出し抜いたときとは立場逆転した格好《かっこう》で、彼は気づく気配《けはい》もない。  なおも見守るうちに、ドアのすき間からヌーッと突き出たものがあった。あのキンキラした玉虫色のジャケットの袖《そで》と、その先っぽでうごめく右手だった。  そいつが延びてゆく先、といっても戸口のすぐそばだが、そこにはやはり白いシーツを掛けられた長椅子があり、手はそこから探り当てた何かをスッと取り上げた。五十センチ角ばかりの正方形をした、布製で何やらふっくらとした代物だった。  あれは枕、いやクッションのたぐいか。とにかくそういったものをつかみ取ったまま、手はいったんドアの陰《かげ》に引っ込んだ。  いったいこのあと何をしようというのか? と見守るうちに、ドアがもう少し開かれ、今度は腕の部分だけなく、キンキラしたジャケットをまとった人物の本体[#「本体」に傍点]がズイと身を乗り出させた。  さきほどからさんざん見飽《みあ》きた、マッシュルームカットが波打ったような髪形に色眼鏡——だが、そこから下は例のクッションに覆《おお》われて見えなかった。  まさか、あんなもので顔を隠そうというのか? だが、そんな目的でなかったことはすぐにわかった。その人物はクッションを左手に持ち替《か》え、空いた方の手をポケットに突っ込んでいたが、そこからおもむろに何かを取り出した——太字のLのような形をし、黒くて金属製らしき何かを。  その何とも不吉な代物が、顔の前にかざされたクッションの陰に隠れるのと、二枚目男がハッとして振り返るのとがほぼ同時だった。 (…………!)  ぼくが思わず息をのんだそのとき、二枚目男は何か叫《さけ》びだそうとするように大口を開き、身をひるがえそうとした。次の瞬間、クッションのほぼ中央に小さな穴がうがたれ、中から閃光《せんこう》もろとも羽毛が飛び散った。そこから飛び出したのが、ただの詰《つ》め物だけでないことは、窓ガラスがビリッとかすかに震《ふる》えたことからも明らかだった。  とたんに、二枚目男は苦悶《くもん》の表情もものすごく体をくねらし、バレエダンサーのように回転《スピン》すると、たまたま手近にあったテーブルにすがりつくようにして倒れ込んでしまった。ひん曲がったようなおかしな格好で、そうしてなおオーバーアクションの癖《くせ》は改まらないようだったが、それも時間の問題かもしれなかった。  一方、キンキラしたジャケットに色眼鏡の人物は、顔の前にかざしたままのクッションの陰から右手を出した。そこに握られていたもの——それは見まがいようもなく小型の拳銃《けんじゅう》だった!  ——狙撃者《そげきしゃ》は、そのまま凝然《ぎょうぜん》と二枚目男の断末魔《だんまつま》を見下していたが、やがてドアのあわいに身を滑り込ませ、姿を消した。そのあとで、穴の開いたクッションがポイと投げ入れられた。  全てはサイレント映画さながら、ぼくの目前で恐ろしいほどの沈黙《ちんもく》のもと繰り広げられた。言うまでもなく、クッションは銃口《じゅうこう》を押しつけ、発射時の音を殺すためのものだった。  むろん、それで完全な消音が可能なわけはなく、まして二枚目男が倒れる音を防ぐことなどできるはずはなかった。少し離れた場所にいるぼくですら、発砲《はっぽう》の衝撃《しょうげき》を感じたのだから、隣部屋に聞こえないわけがなかった。  今やたった一人ぼっちとなった竹ざお女は、発砲があったとたん、ハッとして廊下の方を振り返った。ひどくソワソワしたようすで、背後のドアと目前の美羽子を見比べていたが、彼女が何か言いかけた——たぶん「どうしたんですか?」とでも尋ねたのだろう——のをきっかけに、ダッとドアの向こうに飛び出して行った。  竹ざお女の姿は、すぐに右側の部屋に現われた。二枚目男の死体(まだ生きていたかもしれないが、少なくとも動きはやんでいた)を目にしたとたん、ギクンと手足を痙攣《けいれん》させ、そのまま操り糸の切れたマリオネットみたいに、爪先《つまさき》立ちのおかしな格好で硬直《こうちょく》してしまった。  そのときだった。左側の窓越しに、行宮美羽子がこちらを振り向いた。そして、今度こそはっきりとぼくのことを見た——そう確信できた刹那、 「!」  ぼくの心臓をなおもドキつかせたことに、彼女のこちらを見すえた表情には、あるメッセージが込められていた。固く引き結ばれた口元は、かすかに微笑んでいるようでもあり、意を決しているようにも見えたが、確かめている暇《ひま》はなかった。  次の瞬間、肘掛け椅子からスッと立ち上がった彼女は、しなやかな足取りで戸口に歩み寄った。それら一連の動作には、ひとかけらの躊躇《ちゅうちょ》も見出せはしなかった。  その間にも、右側の部屋では新展開があった。  なおも立ちつくす竹ざおオカッパ女に、いつのまにか背後霊よろしく寄り添う人影があった。開け放たれたままの戸口から、入り込んできたらしい。人影は、特徴《とくちょう》のあるマッシュルームカットに丸い色眼鏡というご面相を、相手の首筋に息のかかりそうなほど近づけていった。  だが、女もさすがに気配を察したらしく、はじかれたように真後ろを振り向こうとした。そのとたん、キンキラしたジャケットの袖が電撃《でんげき》のように動いて、さきほどの拳銃で女の頭部を激しく殴《なぐ》りつけた。  遠目にも痛みが伝わってくるほどの勢いだったが、竹ざお女もただやられてはいなかった。たちまちクタクタと崩折《くずお》れつつも、女は相手の襟元《えりもと》を引っつかみ、床《ゆか》への道連れにしようとした。  したたかに殴りつけはしたものの、どうやら急所をわずかに外れていたらしい。だが、ぼくにその勝負の行く末を見届ける余裕はなかった。そんなことより、はるかに大事なことがあった。 (そうだ、このすきに彼女を!)  ぼくは再び左の部屋に目をやった。すると、ドアの陰に身を寄せていた美羽子と、まるで打ち合わせていたように目が合ったではないか。  ——奴らは三人とも隣の部屋にいる。今なら大丈夫、早く逃《に》げて!  ぼくに手話の心得はなく、ジェスチャーゲームも得意な方ではなかったが、とにかくその旨《むね》を、身振り手振りは言うに及《およ》ばず、顔面筋肉まで動員し、冗談ではなくテレパシーさえ試みて何とか伝えようとした。  驚いたことに、それは成功した。美羽子はドアのすき間から廊下のようすをうかがったかと思うと、もう一度ぼくの方に視線を投げてから、戸口の向こうの暗がりに身を躍らせた。 「やった!」  小さく快哉《かいさい》の声をあげながら、ぼくもまた行動を開始していた。もうこれ以上、こんな木の上にとどまっている理由はなかった。彼女の脱出を助けるのだ。どんな形でもいいから援護《えんご》するのだ。  どうやら木登りの才能はなくても、早降りの方はそうでもなかったらしい。着地の際に根っこのあたりにしたたかに靴底《くつぞこ》をぶつけながらも、ぼくは屋敷の表を目指して駆け出していた。  何が飛び出してこようと、そのときはそのときだ……そう度胸を決めて玄関の扉に手を掛けると、これが難なく開いた。  すぐにも彼女が飛び出してくると期待したが、中はシンと静まり返り、奥へとつながる廊下と上へ延びた階段が、どちらも洞窟《どうくつ》を思わせる暗がりの中へ、ぼくをいざなうかのようだった。  美羽子はいったいどうしたろう? 迷っているのか、それとも別に出口があって、そちらへ向かったのか、それとも誰かに捕《つか》まってしまったか——。どれであるにしろ、このまま玄関ホールで立ちすくんでいるわけにはいかなかった。 (よ、よし……)  意を決し、古風な飾《かざ》りを施した手すりをつかみながら、まさに一段目に足をかけようとしたそのとたん、背後で「うわーっ」という男の叫びもろとも、ガッシャーンとガラスの砕《くだ》けるえらい音が鳴り響《ひび》いた。  あわてて振り向いたぼくは、玄関の真上から何かの塊《かたまり》が降ってきて、そのまま黒塗《くろぬ》りの乗用車の屋根にたたきつけられる光景を目の当たりにした。  その何かが正真正銘《しょうしんしょうめい》の人体であることは、すぐにわかった。それだけではなく、墜落《ついらく》時のショックのせいでおかしな風にズレてしまってはいたものの、丸い色眼鏡とマッシュルームまがいの髪形をしていることも見て取れた。 (あれは、さっきのあの男?)  当然の疑問に答えるかのように、ワンテンポ遅《おく》れてひらひらと舞い降り、さしもの高級車の屋根をひしゃげさせた男の体に覆いかぶさったものがあった。それはもちろん、あのキンキラした玉虫色のジャケットだった。  一瞬、どうしようかと思った。だが、取って返して、あの男がどうなったかを調べてもしかたがないし、第一、どんな事情があったにせよ、あの二枚目男をあっさり射殺し、竹ざお女にも襲いかかった一番|物騒《ぶっそう》な奴がもういないとなれば、突入《とつにゅう》には好都合というものであった。  あと一人、敵はあの女一人だけ……そう自分に言い聞かせながら、階段を上がっていった。とはいえ、あの部屋にいた三人組の中では、あの竹ざおオカッパ女が一番の苦手かもしれなかった。  それでも、ぼくは囚《とら》われの行宮美羽子を助け出せるかもしれないという希望に夢中になっていた。そう、ほかならぬこのぼくが、だ。そのためとあっては、もう尻込《しりご》みしてはいられなかった。  そのとき、ぼくは確かに主人公だった。塔《とう》の中の姫君《ひめぎみ》を救い出す王子様だった。だが、そんな自分への過大評価は、階段を上りきった直後までしかもたなかった。 「わわわっ……」  何ものかに足を引っかけられたぼくは、頓狂《とんきょう》な叫びを半分はのみこみながら、派手にすっ転んだ。痛ててて……いったい何なんだ、とすぐに体を起こしたぼくは、そのままのけぞって、後ろに手を突いてしまった。 「な、夏川……!」  それは夏川至だった。ついさっき、意気揚々《いきようよう》と木を下りてこの屋敷内に乗り込んで行ったはずの夏川が、すぐ目の前に倒れていた。それも、頭からタラタラと血潮《ちしお》をしたたらせ、彼のファンの女子たちには見せたくない、阿呆《あほ》のような、どこか恍惚《こうこつ》とした表情を浮かべながら……。  邸内《ていない》に潜入《せんにゅう》したのはいいものの、誰かに手ひどくやられた結果に違いなかった。とっさに上体を抱《だ》き起こして、 「お、おい……どうした?」  震え声で呼びかけたが答えはなく、温もりさえも感じられなかった。  まさか、ひょっとして? 彼の体以上に冷たいものをわが身に感じながら、とにかく必死に彼の頬をたたき、肩《かた》を揺《ゆ》すぶった。だが、ここに来て新たな焦燥と不安にさいなまれだした、まさにそのさなか、 「…………!」  ぼくは、半ば自分の意思ではなく全ての動きを止めた。夏川を抱いて二階の廊下にへたりこんだ姿勢のまま、前方を見すえた。いや、あまりの恐《おそ》ろしさ、というより厭《いと》わしさのために、目の玉と首筋その他を担当する筋肉が硬直してしまった結果、視線をそらすことができなかったのだ。  あの竹ざおオカッパ女が、真っすぐこっちに向かってやってくる。いや、もう、そんなおかしげな名前で呼ぶにふさわしい相手ではなくなっていた。  顔つきや体格、服装は、むろんさっきのままだが、長くもない髪は乱れに乱れ、しかもその身には顔面といわず手足といわず、大小のガラスの破片《はへん》が突き刺さっていて、そこから異様に赤い血が漏《も》れにじんでいた。それが、うつろな、どう見てももはや正気ではない表情で、フランケンシュタインの怪物《かいぶつ》よろしく、よろめくように歩いてくるのだ。  その先には玄関の真上に当たるらしい窓があり、そこのガラスがめちゃめちゃに破られていた。 (あの女が、あの男を突き落としたのか!)  いや、そんな小学一年の算数ドリル並みの結論はどうでもいい。さらにぼくの心臓を跳ね上がらせたことに、竹ざおオカッパ女の背後には行宮美羽子がとりすがるようにくっついていたではないか。  いや、彼女が自発的にそんなことをするわけがないから、これは無理やり手をつかまれ、引きずられていたのだ。大方、すきを見て逃げ出そうとしたところを、キンキラ眼鏡との争闘《そうとう》に勝利したばかりの女に捕まってしまったのに違《ちが》いない。  化け物じみた女は獲物《えもの》が一人では満足しないのかのように、ますますこちらに近づいてくる。 「お、おい……」  情けないことに、ぼくはこの期《ご》に及んで、頼みの夏川を起こそうとした。共に戦ってくれる仲間がほしかったのだ。いや、いっそ彼に任せてしまいたかった。けれど、彼は相変わらずピクリとも動こうとしてはくれなかった。  だが、そのときぼくは見てしまった。女の陰からすがるような視線を向ける美羽子の顔を。こんな表情の彼女を見るのは初めてだった。  ——た・す・け・て。  彼女の震える唇《くちびる》が、おびえた瞳《ひとみ》が、いつもにも増して蒼白《そうはく》な面《おもて》が、ただその言葉を伝えてきていた。 (よ、よし……)  そう心の中でつぶやくより、体が自然と立ち上がる方が早かった。  あとはもう破れかぶれだ。ぼくはやや体勢を低めると、ウォーッともヤーッとも自分でもよくわからない奇声を発しながら、ただもうやみくもに化け物女めがけて突進して行った……。 [#改ページ]  CHAPTER 11 「なるほど、クラスメートの女の子が、下校途中に怪《あや》しい車にさらわれて、それで後を追っかけていったら、変な屋敷《やしき》に入り込《こ》んでしまって、何やかんやあったあげく、彼女を助け出そうと中に飛び込んだ——そういうわけか」  再びの訪問となった警察署で、取り調べに当たった制服警官は、どこか小馬鹿《こばか》にしたような態度で、ぼくが話した内容を繰《く》り返してみせた。  ——あのあと、ただもう夢中で、竹ざおオカッパ女あらためガラス片|突《つ》き刺《さ》さり化け物女にぶつかっていったぼくは、何とか相手に尻《しり》もちをつかせ、とっさに行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の手をつかむのに成功した。  生まれて初めて触《ふ》れた彼女の指はびっくりするほど冷たく、ぼくはハッとしながらも叫《さけ》んだ。 「逃《に》げるんだ、行宮!」  彼女の名を一対一で、しかもこんなに強い口調《くちょう》で呼び捨てにしたのも初めてだったが、それらの行動を躊躇《ちゅうちょ》なくさせたのは、自分がこの場の主役だという思いだった。いったんはあっさりその座を明け渡《わた》した夏川至《なつかわいたる》が、目の前でのびてしまっているという事実が、ぼくの尻を思いっきり蹴飛《けと》ばした、といってもいい。  その夏川の体を抱《だ》き起こすと、何とかこの場から救い出すべくありったけの力で持ち上げようとした。だが、その意気込みもつかの間、 (ぐっ……お、重い!)  体格がいいだけあって、予想以上の重さに早くも挫折《ざせつ》しかけたときだった。肩《かた》にのしかかる力がスッと軽くなった。  見ると、かすかにうなり声をあげながらも、いまだ目を閉じたままの夏川の頭をはさんだ向こう側に、行宮美羽子の横顔があった。彼女が華奢《きゃしゃ》な肩を貸してくれていたのだ。  さ、暮林《くればやし》君、早く——確かにそう告げている彼女の瞳《ひとみ》に励《はげ》まされて、ぼくは力を込め直した。いくらぼくが非力でも、彼女に半分も負担をかけるわけにはいかない。今度はかなり軽く持ち上げることのできた夏川をエイヤッとかつぐと、ぼくは苦労しいしい階段を下り、半ば彼を引きずるようにして、ようやくこの屋敷の外に逃《のが》れ出たのだった……。 「——で、そのあと」  警官は、手にした鉛筆をもてあそびながら続けるのだった。 「救急車を呼ぶとともに、一一〇番にも通報したというわけか。ま、死人が二人も出たんじゃ、知らぬ顔もできないだろうがね」  どこか学校の教師を思わせる、何もかもわかっているよと言いたげな口調が、いやに気に障った。それはどういう意味ですか、と聞き返したかったが、警察官相手にそこまでする度胸《どきょう》はなかった。 「とにかく、君の言うんじゃ、一つの部屋に中年の男が二人、同じく女が一人いて、男の一人がこっそり隣《となり》の部屋に移ったところ、もう一人があとを追っかけてドアの陰《かげ》からピストルでズドンと一発発射。そのあと女もそっちに駆《か》けつけたところ、またもどこかに隠れていた男と争いになって、あげく女は男を玄関に面した窓から突き落として——と、ざっと、そんなようなことだったな」  警官は、机上の走り書きに視線を落としてから、 「だが、警察《われわれ》が駆けつけたときには、その女もどこへトンズラしたのか、行方《ゆくえ》知れずになってたから、確かめようもない。せめて君らも、もうちょっと何とかしようがなかったもんかねぇ」  とがめるような目を向けてきた。あのときは、竹ざおオカッパ女がとにかく怖《こわ》くてならず、あとを追っかけてくるのではと気が気ではなかったが、奴は奴で自分のしでかしたことが恐《おそ》ろしかったらしく、そのままどこかへ逃げてしまったらしい。  それを何とかしておけばよかっただなんて、とんでもない無いものねだりというしかなかったが、それに対してぼくができた反抗《はんこう》は、 「それは……そんなの無理でした」  と弱々しく反駁《はんばく》することだけだった。だが、警官は別にどう答えようとよかったようで、 「まあ、それはともかくとして……そもそも、君たちがあの屋敷に忍《しの》び込んだ理由はいったい何だったんだね。ただの探偵ごっこにしちゃ、度が過ぎてると思うんだが」 「え」  あまりのことに、ぼくは一言、いや一音口にしたきり絶句してしまった。まさか、この人はぼくがこれまで長々としゃべってきたことを何一つ聞いていなかったとでもいうのか。ぼくは何とか気を取り直すと、 「いや、だから、それはぼくと夏川——って、けがをした友達ですけど、彼とぼくとでクラスメートの女の子がむりやり車に乗せられるところに出くわして、それであとを追いかけたんです。そしたら、あそこに……」 「ほう、盗《ぬす》んだ自転車でかね?」  警官は腰《こし》を折るように口をはさんだ。 「それは夏川が……」 「友達のせいにするつもりか?」  ぼくはぐっと返答に詰《つ》まりながらも、必死に続けた。 「……確かにそれも、他人の家に入り込んだのも、よくないことかもしれません。だけどそれは、とにかく彼女が何者かに——たぶんあいつらにさらわれたのを見て、何とか助けなくちゃと考えたからで……」 「あいつらにさらわれる? あいつらってのは、君が窓|越《ご》しに見たっていう中年男女のことか」 「もちろん、そうです」  何を当たり前のことを訊《き》くのか、と怒鳴《どな》りたくなるのをこらえながら答えた。 「ふーん……で、そのさらわれたというのは、いったい誰のことかね?」  今度という今度は、唖然《あぜん》となってしまった。とっさには返す言葉も見つからないまま、それでも何とか、 「それは……そんなの決まってるじゃないですか。クラスメートの行宮美羽子君が——」  初対面の相手に彼女のことをどう呼んでいいかわからず、とっさに君づけなどしてみたが、なんだか妙《みょう》な感じだった。 「確かに見たのかね」  もちろん! と答えかけて、疑念とも違和感《いわかん》ともつかないものが頭をもたげた。それを振《ふ》り切ろうとして、 「それは、彼女に訊けばわかることじゃないですか」 「彼女にねえ」  警官が何を思ったか妙な笑いをもらしたときだった。この小部屋のドアが開いて、私服の若い男が入ってきて何ごとか耳打ちし始めた。  警官は「そうか、うん……わかった」などと受け答えしていたが、やがてぼくに向き直ると、 「君の言う、彼女のことだけどな。どうも君の話とは一致しないようなんだ。というより、そもそも何も話してくれないんだよ。自分の身に何が起きたのかについて何一つね。かたくなというか、よっぽど怖いことがあったのかはわからないが、ついさっき帰らされるまで、とうとう一言もしゃべらなかったらしい」 「!」  ぼくは今度こそ言葉を失ってしまった。彼女が自身を巻き込んだ大事件について、何も証言しなかったとは、いったいどういうことだ。いや、そのわけもさることながら、大事なのはそれがどんな結果をぼくにもたらすか、だった。 「つまり、だね」  警官は気の毒そうに、だがその一方でぼくをいたぶるかのような優しい口調で言うのだった。 「君の話を証明するものは、何もないということなんだ。そこで質問なんだが、何であの屋敷に忍び込んだ? ひょっとして、君らがあの女の子を連れ込んだんじゃないのか? 死んだ二人の男のことは、本当に何も知らないのか。それに……何だかさらに疑うようで悪いんだが、そのオカッパ頭で竹ざおみたいに細長い女ってのは実在したのかね?」  ——朝の登校時というのは、いつだって憂鬱《ゆううつ》なものだと思っていた。  前の晩は一日の|毒抜き《デトックス》のために、いつも遅《おそ》くまで本を読んだりラジオを聴《き》いたりするせいで、慢性的寝不足《まんせいてきねぶそく》の頭はガンガンし、したがって朝食もおいしいと感じたことがあまりない。そのあと向かう場所が場所、過ごさねばならない時間が時間だけに、楽しく愉快《ゆかい》に鼻歌まじりでというわけにはいかなかった。  だが、この日——住宅街の奥にある洋館での大冒険(なんて呼びたくなるようなご陽気なものではなかったが)の次に迎《むか》えた登校時の気の重いことときては、これまでのブルーさを全部合わせたよりもひどかった。これに比べれば、ふだんの通学路なんてスキップスキップで行きたいぐらいなものだ。  家を出がけに見た新聞によると、あの屋敷に残されていた時代遅れの二枚目スター風とキンキラ衣装の色|眼鏡《めがね》男の死体の身元は、まだ不明とのことだった。ぼくらが現場を脱出《だっしゅつ》するのと前後して逃走《とうそう》したと思われる女については、存在すら触《ふ》れられていない。  記事そのものの扱《あつか》いもあまり大きくはなく、おかげでぼくらのことについてもくわしくは載《の》っていなかった。  とはいうものの、こうして公になったからには、あの騒《さわ》ぎがどんな風に学校に伝わっているのかは気になるところだった。何らかの形で伝わっているには違《ちが》いないとして、相当な好奇《こうき》の目で見られ、しつっこく詮索《せんさく》されることは覚悟《かくご》しなくてはならなかった。  警察での冷ややかな反応から類推《るいすい》してみても、それが決してポジティブなものであり得ないことは想像がつく。そして、何かはみ出した行動をとったものに対しては、ことの善悪にかかわらず、ネガティブな扱いしかしないのが、ぼくらの暮らす社会——とりわけその縮図というか出荷前の養魚池に相当するスクールライフの掟《おきて》ってものだ。  夏川至ならそんなことは気にしなかったろうし、彼さえいればはるかに気が楽だったろう。だが、彼はあのとき病院にかつぎこまれて以来、頭部の打撲が予想以上に深刻だったせいで、ずっとベッドに横たわったままでいる。そのことはぼくの気持ちをたまらなく重くしていたし、状況《じょうきょう》をよりうっとうしいものにするに違いなかった。 (よ、よし、行くぞ……!)  ぼくは校門の前で大きく息を吸い込み、そのままズカズカと校舎に足を踏《ふ》み入れ、階段を駆け上がった。その時点で、誰もが自分のことを見、こそこそと噂《うわさ》をしあっているような気がして体がカッと熱くなったが、今さら逃げ出すわけにはいかなかった。  いつもは開けっ放しなのに、今日に限って意地悪く閉じられていた教室の扉《とびら》を開く。思いがけず大きな音がして、中にいた連中がいっせいにこちらを見たが、それ以上これといった反応もなく、ぼくから視線をそらした。  その、とてつもなく長く感じられた数秒間のあと、ぼくは全身の力が抜《ぬ》けてゆくような気がした。  なぁんだ、誰も気にしてなんかいない、というより知りもしないのだ。ぼくのことはもとより、ひょっとしたら事件そのものさえも。だが、そんなことがあり得るだろうか?  大ありだ。警察がぼくの名を学校に告げなかったとは考えにくいが、だとしてもベラベラと生徒に明かす理由はない。そして、うちの学校の連中が、見知らぬ町での事件と生徒仲間を結びつけることができるほど、豊かな想像力を持ち合わせていないことは、ぼくが一番よく知っている。  ああ、心配して損した! そうとも、別に悪いことをしたわけじゃなし、ほかのみんなとちょっとばかり違う体験をしたからといって、何を後ろめたがることがあるもんか。  決して軽くないけがを負った夏川のことを考えるとチクリと胸が痛んだが、とりあえずぼくはいつものように、いてもいなくてもいい存在に甘んじることにした。それがこんなに快適なものだとは、今日初めて知ったことだった。 (それにしても、行宮は——?)  ぼくはあらためて教室内を見回した。だが、美羽子の姿は彼女の席にも、ほかのどこにもなかった。  要するに、ぼくは一人ぼっちだった。あの非日常どころか異常そのものだが、今も胸を高鳴らせるものがある記憶《きおく》を分かち合う仲間はどこにもいなかったのだ。  誰もあのことを知らない、誰もぼくが特別な体験をしたなどとは、想像さえしようとしない。ついさっきまでの卑屈《ひくつ》な安堵《あんど》はどこへやら、そのことに一抹《いちまつ》のさびしさといら立ちさえ覚え始めたころだった。ぼくは、ぼくを取り巻く連中の奇妙《きみょう》な反応に気づかされた。  それは、授業中ぼくを指名した教師の、妙に思わせぶりな態度と薄《うす》ら笑いとも何ともつかない表情だった。  どうにかこうにか質問への答えを述べるぼくに、教師は「ふーん」とか「へーぇ」などと、こちらの調子を狂《くる》わせるような合いの手を入れ、やがて「ふん、そんなもんでよろしい」と評したあとに、ボソリとこう付け加えたのだ。 「ま、お前もいろいろあるみたいだからな」  え? と思わず声に出して聞き返しそうになった。だが、そのときには教師は何喰わぬ顔で背を向け、板書を始めていた。  だが、今のが聞き違いではなかった証拠《しょうこ》に、茫然《ぼうぜん》と立ちつくすぼくの周囲には、見世物《みせもの》でもながめるような視線がまつわりついていた。そういえば、最初に名を呼ばれて立ったときにも教室内がザワッと波立ったようで、気のせいだと思い込もうとしたのだが……。  ぼくは、学校に着いて早々に感じたカッとした熱さを総身《そうみ》に満たしながら、ゆっくりと席に着いた。まるで、いやらしい藻《も》だらけの湖底《こてい》に沈《しず》んでいくような気がした。  そのあとは、もう針のむしろだった。休み時間になっても教室の外に出るなど思いもよらず、といって自分の席に張り付いていてもいたたまれない。誰もがぼくのことを噂しているようで、問いただせば藪蛇《やぶへび》になりかねない。  人が聞けばおかしく思うかもしれない。何一つ悪いことをしたわけではないのに、なぜそんなみじめな気持ちにならなければならないのかと。実際、ヒーローたちが冒険のたび、学校なり職場なりで小さくなっている物語など見たことがなかった。  ゆるやかな拷問《ごうもん》のような何時間かが過ぎ、やっと昼休みになった。さまざまな理由から、あいにく今日は弁当を持ってきていない。持ってきていたところで、教室で食べる気にはなれなかった。  といって、どこへ行けばいいのか。やっとのことで、客の途切《とぎ》れた隙《すき》にパンと牛乳を手に入れて——売店のおばちゃんにまで面《メン》が割れてはいないだろうと信じたかった——うろうろと場所を探すうち、 「おい、暮林」  人気《ひとけ》のない階段口で、ふいに声をかけられ、ビクッと立ち止まった。だが、すぐにどこかで聞いたような声だと気づいて振り向くと、 「よう、どうした」  クラス委員の的場長成《まとばおさなり》が、相変わらずのとぼけた表情と頼《たよ》りなげな風情《ふぜい》で立っていた。となれば、その相方はと探すと、小柄《こがら》な体を彼にへばりつかせるようにしながら、こちらをにらみつけている京堂広子《きょうどうひろこ》が目に入った。 「いや、別にどうもしてないけど……」  ぼくは、パンと牛乳入りの袋を彼らの鼻先に示してみせながら、 「どこかで昼メシにしようと思ってさ。そういう君らこそどうしたんだ?」 「われわれか?」  的場はそう答えかけ、だが京堂広子に脇腹《わきばら》をつつかれて「いや、まぁ」とか何とか咳払《せきばら》いまじりにごまかした。続けて、 「その何だ……いろいろあったみたいだが、実のところはどうなんだい」  訳知り顔で、その実何もわかっちゃいないことを暴露《ばくろ》しながら、探りを入れてきた。瞬間《しゅんかん》、苦《にが》いものが胸にこみ上げてきたが、この際むしろ強気に出てやれと、 「実のところって、何が?」  ぶっきらぼうに聞き返してやった。  的場は、とたんにひるんだようすを見せたが、またしても京堂にうながされて、 「いや、何か警察《けいさつ》沙汰《ざた》を起こしたとか何とか……」 「へえ、警察沙汰ね。で、そっちにはどんな風に伝わってるんだ?」  どうせロクな答えは返ってこないだろうとは承知の上で、訊いてみた。みんなの間に広がっている噂の実態について、この際知っておこうと思った。 「いや、そのぅ……まあ、お前が夏川と行宮美羽子を追っかけて、どこかの屋敷に迷い込んで——」  的場はへらへらと妙な笑みを浮かべながら、言った。言外に、いろいろくだらない臆測《おくそく》を含《ふく》んでいるのに違いなかった。と、そこへ、 「違うでしょ」  京堂広子がピシャリと口をはさんだ。彼女は、自分は恋人だと考えているらしい相棒を押しのけると、 「夏川君は、行宮さんを助けようとして、悪い奴らにやられちゃったのよ。あんた? あんたはどうせ卑怯《ひきょう》なまねをして自分だけ助かろうとしたに決まってるわ。何しろ、そんなストーカーごっこをするぐらいだものね。そのせいで、夏川君がけがをすることになっちゃって……」  言うほどに憎々《にくにく》しく、ぼくをにらみつけながら、まくしたてた。  なるほど、そういうことか。どうせ正しい姿が伝わっているわけがないし、そうだとしてもうさん臭《くさ》い扱いを受けるに決まっていると覚悟していたが、そこまでゆがめられていたとは。ほかに流布《るふ》しているであろう、別バージョンの�真相�も想像できないことはなかったが、気分が悪くなるのでやめておいた。  白状すると、ぼくは自分が踏み込んだ非日常の体験について、賛辞《さんじ》や羨望《せんぼう》までとは言わないまでも、ちょっとぐらいは感心してくれるものもいるのではないかと期待していなくはなかった。だが、それはあまりに甘い考えだった。  とりわけ、女性陣の評価は相当に辛辣《しんらつ》なものがあると推察された。彼女らにとっては、自分たちの好悪こそが全てであって、夏川の方こそ無謀《むぼう》だったとか、実はぼくが彼を救い出したのだという事実などはどうでもいい——いや、それどころか、書き換《か》えなければならない事実であるらしかった。  やれやれ……と嘆息《たんそく》しつつ、ぼくは女子たちに大人気の、とある運動部の選手を、彼女らにはなぜか嫌《きら》われている奴(その理由が、同性からはさっぱりわからないのだが)が打ち負かし、栄冠《えいかん》を勝ち取ってしまったときのことを思い出した。かわいそうに、彼女らの歓声《かんせい》と拍手《はくしゅ》はもっぱら人気者の方に向けられて、真の勝者はもののみごとに無視されてしまったどころか、まるでよけいなことをしでかしたとばかりのブーイングを浴びせられたという。  つくづくモテないというのはつらいものである。まして、ぼくなど、そいつより女子に不人気の点では、はるかに上回るのだから。  それにしても——と悔《く》やまれるのは、夏川が暴走《ぼうそう》ともいえる行動に出、あんなことになっていなければ、状況はまるで違っていたろうということだ。だが、そうなったのも、そもそもはぼくが巻き込んだせいだと思うと、ひしひしと罪の意識にさいなまれる。いったい誰が、あんなことを——。 (待てよ)  そのとたん、ぼくの中で何かが激しく頭をもたげた。そうだ、そういえば——何でこんな当然のことを疑問に思わなかったんだ?  あとはいつものパターンで、周囲の音も光も急速に遠ざかっていった。ひたすら考えに考える。脳内を記憶《きおく》の断片《だんぺん》が駆け巡《めぐ》り、論理がそれを次々とっつかまえては組み立て、それにしくじっては四散させ、またかき集めにかかる——そんなイメージがくっきりと見えた気がした。  だが、いつもと違っていたのは、純粋《じゅんすい》な知的作業であるはずのそこに、何ともいえない痛みと苦みがともなっていたことだった……。 「お、おい……急にどうした?」  的場長成がぼくの異変に気づいたか、あわてたようすで訊いた。そばから京堂広子が、 「ほっときなさいよ」  と毒づいたが、どちらの言葉もぼくの心にはろくすっぽ届いてはいなかった。そのまま踵《きびす》を返し、彼らに背を向けると機械人形のようにスタスタと歩き始めた。 「おい、どこへ行くんだ?」  的場の面喰《めんく》らったような問いに、ぼくはほんの少しだけ首を後ろにねじ向けると答えてやった。 「決まってるだろ、教室だよ。もっとも、そのあとは早退するから、適当に処理しといてくれないかな、委員長さんの権限でさ」  これまで風邪《かぜ》でも何でも、めったに学校を休んだことのないクソ真面目人間としては、なかなか上出来のセリフだった。これには、クラス委員コンビも毒気を抜かれた格好《かっこう》で、 「早退って……どこへ行こうっていうんだ?」  半ば茫然と訊いた的場長成に、ぼくは投げキッスするみたいに軽く手を振りながら言ってやった。 「ちょっと、お見舞《みま》いにね」 [#改ページ]  CHAPTER 12  ぼくも何度か訪れたことのある市民病院は、この手の施設《しせつ》特有の冷たい光と、こもったようなざわめきと、それに薬品の臭《にお》いに満ちていた。案内係の人から目指す病室を教えてもらうと、これも病院独特の、やけに奥行きのあるエレベーターで指定の階まで上がっていった。  午後の授業をサボったのは、正解だったと思った。もし、律儀《りちぎ》に最後の科目まで受けていたら、見舞《みま》いにやってきた夏川《なつかわ》のクラスメートや部活仲間、それにファンの女の子たちと鉢合《はちあ》わせしていたかもしれない。そうなると何かと面倒《めんどう》だし、目的も果たせなくなるだろう。  もっとも、夏川のお母さんとか誰かが付き添《そ》っている可能性もある。肉親にしてみれば、事情はどうあれ、けがの原因を作ったぼくに思うところがないわけはない。だが、それならそれで真摯《しんし》に対応するまでだった。  病棟《びょうとう》の廊下《ろうか》は意外に明るく、寝間着姿の患者《かんじゃ》さんや白衣の医師、看護師《かんごし》、それに見舞い客らが行き交って、なかなかにぎやかだった。  ナースステーションで尋《たず》ねる必要もなく、すぐに目的の部屋の前にたどり着くことができた。そこに掲《かか》げられた「夏川至《なつかわいたる》様」の名札を見ながら、ちょっとの間、考えにふけった。  彼はもう意識を取り戻《もど》したろうか。一人でいるだろうか。どちらか一方でも満たされていなかったとしたら、ここへ来た意味はない。  なぜといって、ぼくは夏川に問いたださなくてはならないことがある。そのためには、ぜひとも回復した彼と一対一で話をしなければならなかった。  ぼくは軽く息をととのえると、病室のドアをノックし、おもむろに中に足を踏《ふ》み入れた。次の瞬間《しゅんかん》、ぼくは右に挙げた条件が、二つながらかなわなかったことを知った。にもかかわらず、この部屋を訪れた価値は十分にあったという事実をも。  ——夏川至は、ベッドに横たわっていた。頭部には痛々しく包帯が巻かれ、点滴《てんてき》の管やら何だかよくわからない装置らしきものを結びつけられて、昏々《こんこん》と眠《ねむ》りこけているようだった。  まさか、無理に揺《ゆ》り起こすわけにはいかない。また揺すぶったところで、永久に目覚めないかもしれなかった。とにかく、現時点では彼に質問をぶつけることは不可能とあきらめざるを得なかった。  そして——夏川は一人ではなかった。 「————!」  ぼくは、思わず息をのまずにはいられなかった。  ベッドサイドの椅子《いす》に寄りかかるようにしながら、今ゆっくりとこちらを振《ふ》り向いた人影《ひとかげ》。ここにいようとは思いもしなかった、しかし心のどこかで予期していた気もする病室の先客は、ぼくに微笑《ほほえ》みかけると言った——。 「あら、暮林《くればやし》君」  あくまで落ち着いたその声音に対し、ぼくの返事はおかしいほどに上ずっていた。 「や、やあ、君もお見舞いに来てたのか。行宮《ゆくみや》……さん」  先客——行宮|美羽子《みわこ》は、黙《だま》ってうなずいてみせた。  それから、もう一つの椅子に腰掛《こしか》けたぼくは、彼女と当たりさわりのない会話を交わした。どれぐらい当たりさわりがなかったかというと、美羽子が今日学校を休み、直接この病院にやってきたということさえ、当人に確かめられなかったほどだった。  ましてや、彼女がなぜ警察で一切を黙《もく》して語ろうとしなかったのか、そもそもあの中年男女は何者で、どんなかかわりがあるのか、あの部屋でいったい何が起き、どんなことが話されていたのかについて切り出すことなどできはしなかった。  そんなわけで、ぼくらの会話は早々に途切《とぎ》れてしまった。他人《ひと》が見たら、傷ついた親友のかたわらで、分不相応な相手に恋の告白をしようとしてモジモジしている三枚目——といったシーンに見えたかもしれない。  そう、確かにぼくは一つの重大な�告白�を抱《かか》えていた。それは本来、夏川にぶつけるつもりで抱えてきたものだったが、考えてみれば美羽子にこそ向けられるべきものだった。だが、それはあまりに恐《おそ》ろしい部分をはらんでいて、躊躇《ちゅうちょ》せずにはいられなかったのだ。  だが、そのチャンスはふいに向こうからやってきた。 「ね」  行宮美羽子は、さしずめ三枚目ボーイの恋心にいっこう気づかず、無邪気《むじゃき》に微笑むヒロインといった感じで、ぼくに言いかけた。 「ひょっとして暮林君、夏川君に何か話があってきたんじゃない?」 「え? ああ、まぁね。でも、彼がこんな状態じゃあ……」  ぼくはどぎまぎしながら、答えた。美羽子はぼくをじっと見つめると、 「よかったら、かわりに聞かせてくれないかな、私に」 「え……」  ぼくは思わず相手を見返していた。これほど間近に美羽子の顔を凝視《ぎょうし》したことはなく、またこれほど彼女のことをきれいだと思ったことはなかった。  思わずその魅力《みりょく》に引き込《こ》まれそうになったのを、ぼくはあわてて踏みとどまった。何とか心臓と脳《のう》味噌《みそ》をクールダウンさせると、極力冷静に淡々《たんたん》と、いっそ非情といっていいほどの態度で話し始めた。 「あのときの、洋館みたいな建物でのことなんだけど、ちょっと気づいたことがあってね」 「そう、どんな?」  美羽子はちょっと目をみはり、少なからぬ興味を示した。——ぼくは軽く咳払《せきばら》いし、彼女からやや視線をそらしてから、 「うん……結局のところ、あそこでは何があったのか。ぼくが見たものは、見えたままに解釈《かいしゃく》していればいいのか、それとも——ということさ」  美羽子の笑みが濃《こ》くなった。その唇《くちびる》から、甘やかな言葉がこぼれる。 「面白いわ、とても。よかったら、もっと聞かせて」  美羽子は、心持ちぼくに身を寄せた。ぼくは彼女の匂《にお》いを、息遣《いきづか》いをさえ感じながら、 「ああ。あの部屋で、君を取り囲んでいた三人のうち、まず一人目の男が隣《となり》の部屋にこっそりと移動し、そこの隠《かく》し金庫みたいなものをいじくり始めた。そのことは、この目ではっきり見届けたから間違いない。続いて、二人目の男がそのあとを追って部屋を出、隣室《りんしつ》の戸口から一人目の男を狙《ねら》い撃《う》った。  けど、ぼくは二人目の男が君のいた部屋から出て行くのを確かに見はしたけれど、一人目の男のようにはっきりと隣室に移ったと確認したわけではない。ぼくが見たのは、彼の特徴《とくちょう》のある髪形と色|眼鏡《めがね》、それに派手な衣装の一部だけで、しかも銃声《じゅうせい》を殺すために使われたクッションのせいで顔のかなりの部分が隠されてしまっていた」 「そのことが、何か?」  美羽子が絶妙《ぜつみょう》の間合いで、先をうながす。 「そう」ぼくは唾《つば》をのみこんだ。「特徴のある眼鏡が見えたからといって、それが必ず持ち主の顔にのっかっていたとは限らない。服装もまたしかり。そして、ことによったら髪の毛もまた」 「髪の毛も?」  彼女はさもおかしそうに笑った。ぼくは「そう」とうなずいて、 「ぼくがあの男を次に見たのは、玄関前に停めてあった車の屋根に落下したとき。そのとき、彼の個性的といったらいいのか、あのマッシュルームカットまがいの髪は、おかしな具合にずれてしまっていた。あれはおそらくカツラだったんだ。それも、おつむがさびしくなった対策のためとかいうんじゃなく、玉虫色の衣装や色眼鏡と同様に本来の自分を覆《おお》い隠し、別のキャラづけをするためのね。つまり、それらは着脱《ちゃくだつ》可能のパーツであり、ある程度の条件さえととのえば、誰にでも利用できるものだった。  ということは——一人目の男をピストルで撃ったのが、本当に二人目の男だったという確証はどこにもない。いま思うと、彼が君のいた部屋を出てから、隣室に現われるまでずいぶん間が空いた記憶《きおく》がある。あれは、一人目の男に気取られないように中のようすをうかがうためではなく、人間の入れかわりのために必要な時間だったんだ」 「人間の入れかわり?」 「そう。二人目の男が部屋を出たあと、壁《かべ》の向こうで行なわれたことだ。一人目の男を追って廊下に出た直後、彼は何者かに襲《おそ》われ、衣装と眼鏡と、それからカツラを奪《うば》われた。そうして、まんまと彼になりかわったその何者かは、一人目の男を射殺し、何ごとかとやってきた女と争いになった。本来なら、あっさりとやっつけてしまえるところ、そうしなかったのは、とっくみあいが廊下にまで持ち越《こ》されたかのように、間抜《まぬ》けな目撃者《もくげきしゃ》のぼくに見せかけるため——現実には、そこまで見届けるまでもなく、木を下りてしまったんだけれどね」 「じゃあ、窓から車の屋根に突《つ》き落とされて死んでいたのは?」  美羽子は、このうえなく明るい声で言った。 「むろん、本物の方さ。かわいそうに、殴《なぐ》られるかどうかして気絶させられたあと、まだ朦朧《もうろう》とした状態のまま窓を破って突き落とされたんだ。その直前、トレードマークの眼鏡とカツラは返してもらえたんだろうけどね」 「なるほどね。でも……」  美羽子は考え深げに、あごに白い指をあてた。 「確かに、そんなことが行なわれたって証拠《しょうこ》はあるの?」 「証拠ってほどでもないが」ぼくは答えた。「ぼくは、あのとき彼のキンキラした服が、持ち主を追うように落下してきたのを見ている。あれは、窓を破って墜落《ついらく》するまでの格闘《かくとう》で脱《ぬ》げてしまったのではなく、あとから投げ落とされたのだとした方が自然じゃないか。眼鏡やカツラよりは、装着させるのに手間がかかったろうしね」 「じゃあ、あの女の人が襲われ、あべこべに投げ落とすまでの間に、また人間が入れかわったというの?」  彼女はますます興味深そうに訊《き》いた。ぼくは首を振って、 「違うよ。本物の二人目の男を突き落としたのは、あの竹ざおオカッパ女じゃない」  竹ざおオカッパ女? つい口に出たぼくだけの呼び名がおかしかったと見え、美羽子が噴《ふ》き出した。だが、ぼくはかまわずに、 「それをやったのは、二人目の男を襲い、髪の毛も含《ふく》めた彼のコスチュームを横取りしたのと同一人物——」  気がつくと、美羽子がぼくの視線の向かう先を追おうとしていた。あわてて目をそらすと、彼女はいたずらっぽい表情でのぞきこんできて、 「それは、誰?」 「それは」  言いかけて、ぼくはぶざまなことに軽く咳き込んだ。やっと一息つくと、あえて目を閉じてから続けた。 「それは、あのときあの屋敷《やしき》内にいた、君と中年男女三人組以外の人物。そして、それに当てはまるのはたった一人……」  言いながら、なぜか悲しみがこみあげてきた。そのことを言ってしまったが最後、何かが永久に失われることはわかっていた。だが、それでも言わないわけにはいかなかった。今のぼくを、かろうじてぼくでいさせている「推理」の結果を。 「そいつは、ぼくの身近にいて、ぼくが何を考え、何をしようとしているかを知っていた。いや、むしろそのためにぼくに近づいてきたのかもしれない。何者かの手先となってね。そうなったのは、せめて彼とぼくが親友——彼の方からすればそれほどではなかったかもしれないが、とにかく気の合う友達になった方が先だったと信じたいんだが……。  彼は、このところ立て続けに事件に巻き込まれ、やがて一つの疑惑《ぎわく》にたどり着いていたぼくに急接近し、相談に乗るふりをして、その疑惑をみごとに消し去ってしまった。そのうえで、むしろ自分主導で探偵ごっこに駆《か》り出し、木の上にまで引っ張り上げて、一場のお芝居《しばい》の目撃者に仕立てたというわけだ。今にして思えば、何と都合よく君が怪《あや》しい連中に拉致《らち》されて自動車に乗せられるシーンを目撃したことだろう!  警察で指摘《してき》されて気づいたことだけど、ぼくは君がむりやり車に押し込まれるシーンを見たわけじゃない。車体の陰《かげ》に隠れて見えなかったからね。なのに、そうだと思い込んでしまったのは、その人物がそんな風に決めつけて、ぼくを暗示にかけたからだ。  全ては織り込みずみだった。でなければ、いかに住宅街で細い道が入り組んでいたにせよ、自転車でああもうまく追尾《ついび》できるはずはなかったんだ。  そうとも、ぼくはまんまとだまされていたんだ。そこに横たわっている夏川至に、まるで赤子の手をねじるみたいにあっさりとね!」  言い切った瞬間、ぼくは目を開き、と同時に愕然《がくぜん》とした。ベッドの上の夏川至が、いつのまにか目覚めて、奇妙《きみょう》にゆがんだ笑みを浮《う》かべながらこちらを認めているような気がしたのだ。 (な、夏川、お前、意識を取り戻していたのか——!)  驚《おどろ》きとともに、大いなる喜びをも感じ、と同時に今の告発を聞かれてしまったのかという悔恨《かいこん》もからみ合って、ぼくの心は乱れた。  だが……それきり、夏川の表情に変化はなく、開いたと思ったまぶたもまもなく閉じられてしまった。彼が目覚めてぼくの方を見たというのは錯覚《さっかく》で、そう思えたのは、一種の顔面の痙攣《けいれん》みたいなものに過ぎないことを、ぼくは知らなければならなかった。 「すると……こういうことね」  ややしばらくして、行宮美羽子が口を開いた。 「夏川君は、暮林君を残してあの建物の中に入り込み、一人目の男の人が私のいた部屋を出て行くのをやり過ごし、二人目の男の人がそれに続いたところを襲い、素早く彼にすりかわって一人目の男の人にピストルを発射した。そのあと女の人と争いながら廊下に出たあと、本物の二人目の男の人を突き落とした——というわけね。そして、そのあと、飛ばっちりを受けるかしてガラスまみれになった女の人はどこかに逃《に》げて行ってしまった、と」 「そういうことだ」  ぼくはひときわ深く、うなずいてみせた。美羽子はすっかり感心しきった面持《おもも》ちで、 「すごい、すごいわ、暮林君。……あれ、でもそれだとおかしなことになりはしない? もしそうだったとしたら、夏川君はいったい誰に大けがを負わされ、こんなことになったのかしら。やっぱり、あの女の人——あなたの言う『竹ざおオカッパ女』のしわざということになるのかしら」 「いや」  ぼくはきっぱりと言った、絶対の自信と名状しがたい痛みをともないながら。 「あの女にそんな余裕はなかった。やったのは——君だよ。夏川を操り、あの殺人劇をほぼ即興《そっきょう》で企画《きかく》演出し、その他いろいろな策謀《さくぼう》をめぐらし、このぼくをいいようにコケにしたのと同様にね」  そのあとに、長い間があった。行宮美羽子は花のようにあくまで明るく、かつ清楚《せいそ》に。片やぼくはといえば、自分で自分は見られなかったものの、彼女が「どうしたの、お腹でも痛いの?」と真顔で訊いたところを見ると、よっぽど情けなくも痛苦に満ちた表情をしていたのだろう。 「違う、そんなんじゃないよ」 「そうなの、ごめんね」  知らず知らず顔を伏《ふ》せ気味にしながら、かろうじて答えたぼくに、彼女はいやに素直に謝った。そのあとぼくの心を見抜いたかのように、 「一つ訊きたいんだけど……あなたがよりによって夏川君に疑いの目を向けたのは、何からだったの? やっぱり、彼がいつ誰に気絶させられたのかを、きちんと考えたのがきっかけ?」  それに関しては、できれば口に出したくなかった。唯一の友といってよかった夏川への信頼《しんらい》を、いまわしい病変のように猜疑心《さいぎしん》が塗《ぬ》りつぶしていった過程は、それ自体消し去りたいものだった。 「それもある。だけど、そもそものきっかけは、夏川の奇妙な発言だった。あの下校ルートでの件を、ぼくが『例の殺人事件』と呼んだとき、彼は『殺人事件? それって、どっちの』と訊いてきた。ぼくは自分がかかわるはめになったもう一つの殺人事件、すなわちコインロッカーの一件を含めての質問だと考えた。だけど、これはとてもおかしな話だった。どっちのも何も、ぼくがロッカーの方の事件にかかわったことは警察そのほかのわずかな人間以外知らないはずで、夏川がそんなことを口走るはずはなかったんだ……」 「なるほどね」  美羽子はあながち嘘《うそ》でも皮肉でもなく、感心したようすで言った。 「もう一つ」ぼくは続けた。「ぼくは『例の殺人事件』のときに拾い、あとでコインロッカー・コーナーでの悲劇につながったキーを、確かにカバンに入れてきたはずなのに失くしてしまった。いったい誰にそんなことが可能だったのか見当もつかなかったけど——君だってぼくの席には近づかなかったんだからね——一人だけ心当たりがいることを思い出した。あの朝、わざわざぼくのクラスにまでやってきた夏川至だよ。彼になら、ぼくのカバンを探り、キーを盗《ぬす》み取ることができたという事実にね……」  やり切れぬ思いでその事実を明かしたあと、ぼくはふいに顔を上げた。記憶にある限り、初めて彼女を強く見すえながら続けた——。 「何にせよ、全ての中心にいたのは行宮——君だ。君はあの黄昏《たそがれ》どきの下校ルートで、あの男を刺《さ》し、その人がキーを持っていたコインロッカーのからくりで青年を射殺した。そして今度は、隠し持った携帯電話か何かの通信手段で夏川を傀儡《くぐつ》に使い、逃げたのを加えれば男女三人の生き死にを操って一場の芝居を打たせた。——いったい君は何者なんだ? なぜあんなことをした? いったい何のためなんだ? いや、そんなことより、君は夏川に——ぼくの友達にとって君はいったい何なんだ? そして……君はこのあと何をしようというんだ!?」 [#改ページ]  CHAPTER 13  病院を出ると、いつのまにか雨が降っていた。  もちろん傘《かさ》など持ってはいない。たとえ持っていたにしても、考えられる限り最悪のシチュエーションであることは同じだったろう。それだけに、おあつらえ向けの雨といえなくもなかったが。  ぼくは肩《かた》を怒《いか》らせ、目を伏《ふ》せたまま街を歩いた。悲しくてさびしくて、しようがなかった。これほど自分がみじめで、一人ぼっちだと思い知らされたことはなかった。  いったんは罪なきものと信じた美羽子《みわこ》が、実はやはり恐《おそ》るべき元凶《げんきょう》であったことがショックだったのはもちろんだ。だが、それ以上に、ひとかけらの疑いも抱《いだ》いていないどころか、誰よりも信頼《しんらい》していた夏川《なつかわ》が彼女の同類であり、ひょっとしたら忠実なしもべだったかもしれないという事実は、深くぼくの心を傷つけた。  たった一人の親友に裏切られた、というならまだいい(それだって、耐《た》えがたいことではあるが)。最初から友達でも何でもなかったものを、ぼくが勝手にそう思っていただけというのは、あまりにも残酷《ざんこく》ではないだろうか。  友達が多いとはいえないぼくにとって、夏川|至《いたる》はとても大事な存在だったし、彼がいることでぼくに向けられる目もずいぶん違《ちが》ったような気がする。もし彼がいなければ、とりわけ女子からの視線は、もっと厳しいものになっていただろう。  だが、よく思い出してみれば、ぼくが彼に好感を抱いていたのはだいぶ以前からのことでも、彼からぼくへのリアクションは、常に| one of them《ワンノヴゼム》 ——その他大勢に対するお愛想でしかなく、本当に一対一のつきあいになったのはつい最近のような気がする。  そんなことはない! と否定しても、証明するものは何もない、いや、ぼくと彼はずっと友達だったんだと思い込《こ》もうとすればするほど、どうしようもなくみじめったらしい気分に打ちひしがれてゆくのだった。  最初は霧《きり》のようだった雨は、しだいに勢いを強め、やがて大ぶりな水滴《すいてき》となって容赦《ようしゃ》なく打ちつけてきた。それでも、あえて雨宿りもせず歩き続けたのは、自棄《ヤケ》になっていたこともあるが、一つにはあふれる涙《なみだ》を雨粒《あまつぶ》で洗い落とし、泣いてなんかいないんだぞと自分に言い聞かせるためでもあった。  だが、そんなあさはかな目論見《もくろみ》はあっさりと外れてしまった。雨はこのうえなく冷たかったのに、涙はいやになるほど温かく、とうていごまかしはきかなかった。  身も心も冷え切り、びしょ濡《ぬ》れだというのに、顔面の一部だけが生温かいというのは、服を着たまま風呂に入るのに似た感じがあった。その気持ち悪さが、ぼくに感傷にひたり、孤独《こどく》に酔《よ》うことを許さなかった。  それがよかったのかどうかは別にして、ぼくの脳内では、ついさっき夏川の病室での美羽子との対話が、傷だらけの古いフィルムのような感じで再生されていた——。 「さあ、何から話したらいいかな。たぶん信じられないとは思うけど、できたらばかばかしいって笑わないでほしいな。いや、むしろ笑ってくれちゃった方がいいかもしれないね。一つお願いできるとしたら、さっさと忘れてほしいってこと。なぜって、それが暮林《くればやし》君のためだから……」  彼女はあくまでも明るく、微笑《ほほえ》みを絶やさずに言った。だが、そんな前置きのあと、いきなり切り出したことには、 「私と夏川君はね、一つの目的で結ばれているの。いっそ、使命といってしまってもいいかもしれないけれど、そんなにきれいなもんじゃないから——そう、復讐《ふくしゅう》という名の目的によってね」  言い放った内容の衝撃《しょうげき》に、とっさには声も出なかった。そんなぼくをしりめに、美羽子はちらとベッドの夏川の方をかえりみてから、 「私の父は……といっても、学校に保護者として届けてあるのとは別の、本当の父親だけど、彼は大学の理工学部の教授で、小さいけれどもほかにない高度な技術を売りにした工場を経営していた夏川君のお父さんといっしょに、画期的な製品の開発に取り組んでいた。大げさに言えば、世界を一変させてしまうかもしれないほどの新発明にね。で、それがうまくいってれば、お父さんたちも私たちもお金持ちになり、ほかの人たちも便利になり幸せにもなってめでたしめでたしとなるんだけど、あいにくそううまくは運ばなかった。お話は、感動のドキュメンタリーになりかかったところで、三流の犯罪ドラマに切り替《か》わっちゃったの。呆《あき》れるぐらいありきたりで、でも残酷さだけは一流のサスペンス物に」 「と、いうと——?」  ぼくには、そう訊《き》くのがせいいっぱいだった。彼女は、たぶん深刻そのものだったろうご面相を笑い飛ばすような陽気さで、 「要するに、とんでもない奴らに目をつけられちゃったのよ。名を出せば誰でも知ってるような大企業《だいきぎょう》なんだけど、彼らがいざとなったらどれほど汚《きたな》く、恐ろしいことをするかを知ったら、もうのんきにテレビCMなんか見ていられなくなるでしょうね」 「それは……たとえば、その新発明を横取りして、自分たちが作って売り出そうとしたとか、そういうこと?」  ぼくは、やっとのことで口をはさんだ。自分から言いたいことがあるというより、美羽子の、底知れない恐ろしさをはらみつつもあくまで明るい口調《くちょう》のおしゃべりに、ところどころで休止符《きゅうしふ》を打ちたかったのだ。 「ううん、それならまだよかったんだけど」彼女はかぶりを振《ふ》った。「横取りなら、その新発明は世に出るわけでしょ。たとえ、私や夏川君のお父さんたちの努力はふいになるとしても。でも、その大企業の連中が考えたこと、そして現実に行なったことは、それより何倍もひどいことだった……」 「横取りよりひどいこと?」  ぼくは、驚《おどろ》きのあまり聞き返さずにはいられなかった。  美羽子は「そうなの」とうなずいてみせると、 「つまり、発明自体はもちろん、それにかかわった人や事実そのものを抹殺《まっさつ》しよう、初めからなかったことにしようとたくらんだの。自分たちが業界に占《し》めるシェアや、莫大《ばくだい》な設備投資の結果できた生産ラインをフイにしないためにね」 「そ、そんなことが……」  ぼくはかすれた声をあげた。  すると、美羽子は「あったんだな、これが」とつぶやくように言い、ちらっと天井《てんじょう》の照明に視線を投げてから、 「蛍光灯《けいこうとう》にまつわるこんな伝説を知ってる? ガラス管の中に封入《ふうにゅう》されたガスを放電によって発光させるというアイデアそのものは、かなり早くから知られていて、それを応用したネオンサインも第二次大戦の始まるずっと前から都会の夜景を彩ってきた。なのに、同じような原理に基づく蛍光灯の普及《ふきゅう》は、ずっとあとのことという感じがしない? 実際、蛍光灯が広く使われるようになったのは、日本では戦後になってから——でも、赤や青といった色とりどりの屋外広告がめざましく発達したのに、白くプレーンな光を放つだけの灯りが発明できないわけがなかった。消費電力も少なければ、寿命もはるかに長い蛍光灯がね。どうしてこんなことになったかわかる?」 「さあ、確か……」  そのエピソードは、どこかで聞いたことがあったが、そのときのぼくはかすれ声でそう答えることができただけだった。 「ある国の世界的大企業が、白熱電球を作るための巨大な工場施設を完成させたばかりで、そこへ蛍光灯なんて発明が明るみに出たら大変な損害になる。そこでその会社は蛍光灯の特許を買い取って、自分たちのほかには作ることを不可能にしておいて握《にぎ》りつぶしたの。ほかにもあの国には、ごくわずかな量のガソリンや、それ以外のタダ同然の燃料で動く自動車を発明したりすると、その人は必ず行方《ゆくえ》不明になるって伝説があるらしいけど、この国も大して変わりはないみたい。それが証拠《しょうこ》に、まさにそういった災難が父やほかの人たちに降りかかったのよ。それも、放火殺人というダイレクトなやり方で」 「!」 「その日、夏川君のお父さんの工場には、私の父をはじめとする研究開発スタッフがそろって、発明の完成を祝うささやかなパーティーが開かれていた。でも、そのとき建物の一角に火の手が上がり、それは資材や燃料に次々引火して、あっという間に人も物も何もかも一切が猛火《もうか》に包まれてしまった。ここに不思議《ふしぎ》なのは、一人や二人、現場を逃《のが》れ出て助かった人がいてもよさそうなのに、誰もそんな幸運児がいなかったこと……まるで、火の手が上がる前に全員が殺されていたか、何者かが逃《に》げ出してきた人たちを始末していたみたいに。  それどころか、当日工場にいなかった人たちや焼け死んだ人たちの遺族《いぞく》、たまたま出火を目撃《もくげき》したり、通報してくれた人たちまでもが、不慮《ふりょ》の事故にあったり、飛び降り自殺をとげたりした。なのに、全ては失火、もしくは原因不明の事故として処理され、警察も消防も放火としての捜査《そうさ》はおろか、何一つ解明のために動いてはくれなかった……」 「まさか、そんなことが……」  疑いを差しはさむつもりはなかったが、あまりといえばあまりな内容に、そうとしか言いようがなかった。 「信じられない? かもしれないよね、暮林君みたいな平和な人には」  美羽子はキッとぼくをにらみすえ、だが次の瞬間には哀《あわ》れむような視線になりながら、 「暮林君は、この病院へはどうやって来たの?」 「え……電車でだけど」  それは、ぼくがよく利用する路線だった。 「その途中、ちょうどドブ川が流れてるあたりに、ぽっかりと空き地みたいなのがあって、とても大きな屋根の骨組みだけが残ってるのが見えなかった?」 「え……」  彼女が言う空き地、いや、むしろ廃墟《はいきょ》のことなら、何度も見たことがあった。背の低いビルや瓦《かわら》屋根の住宅がひしめく一帯に、まさにぽっかりという感じで残された空白が存在しているのだ。  大きさは校庭ぐらいか。黄土色っぽい地面は、季節によっては青々と生い茂《しげ》った雑草に覆《おお》われていることもあるが、全体の印象としては不毛の一語に尽《つ》きる。あちこちにガラクタや瓦礫《がれき》のようなものが積み上げられているのも、いっそう荒涼《こうりょう》とした印象をかきたてないではおかない。  ただの更地《さらち》ではなく、土地の半分以上は建物が占めているのだが、実のところはそう呼ぶのがはばかられるような残骸《ざんがい》でしかない。かつては巨大な屋根だったと思われる部分は、大半が欠け落ちて枠組《わくぐ》みだけといっても過言ではないし、柱もかろうじてそれを支える程度しか残っておらず、壁《かべ》に至っては一面もありはしない。あえてたとえるなら、恐竜《きょうりゅう》の骨格標本というところだが、それにしては部品が足りなさ過ぎる感じだった。  これまで何度となく車窓から見かけた街中の廃墟。どんな由来を持ち、何でまたあんな姿をさらしているのかと想像をめぐらしてみたことも一度や二度ではない。火事にあった工場跡《こうじょうあと》だと言われれば、まさにそれ以外の何ものでもないが、まさかあそこがそんな悲劇の舞台だったとは……。 「そう、あそこが夏川君のお父さんが経営し、私の父が長年の夢を実現しようとしていた場所だったのよ。その夢を完全に抹殺するためには、あんなになるほど一切を焼きつくし、破壊《はかい》しつくす必要があったというわけね」  美羽子はぼくの心の中を見透《みす》かしたように言い、さらに続けるのだった。 「そして……それから何年もの歳月が過ぎて、ほとんど唯一《ゆいいつ》の生き残りだった私も夏川君も、その後預けられた養育先で大きくなった。全てはいまわしい過去の悲劇として封印《ふういん》され、私たちは何も知らされないままだったし、それは今後ずっと変わらないはずだった。ところが、ここに来て絶対のタブーであったことに変化が生じたの。父たちが心血を注ぎ、そのせいで命まで奪《うば》われた発明が、にわかに脚光《きゃっこう》を浴びだしたの。この国ではいつでもそうであるように、海外での技術革新やそれにともなう変化に追いつくために、国内では一度抹殺されたものが必要になったというわけ。  で、奴らは私たちに目をつけた。失われた発明の秘密を、ひょっとしたらそのパテントを、哀れな遺児たちが握っているのではないかとね。こうして、私たちの身辺にうさん臭《くさ》い連中が見え隠れし始め、そいつらの口から父たちの凄惨《せいさん》な最期と、それをもたらしたものたちの正体が見えてきた——。  幸い彼らは一枚岩ではなく、主犯格の企業やその手先となった殺人・放火の実行犯、それをかぎつけた強請《ゆすり》屋たちなどが入り乱れ、互いに出し抜《ぬ》きあいながら接近してきた。おためごかしに秘密を明かし、恩に着せ、なだめすかし、ときにはドスをきかせ、暴力《ぼうりょく》に訴《うった》えようとしたりしながら……。私たちはその裏をかき、発明のディテールやら権利やらをエサにちらつかせて、逆に彼らを一人ずつ罠《わな》にはめ、滅《ほろ》ぼしていったのよ。当然の権利であり、義務でもある復讐のために!」 「それが……」  言いかけて、絶句してしまった。ぼくの中で、いくつかの〈死〉に直結した光景がフラッシュバックされた。  それが、あの真相だったのか。黄昏《たそがれ》どきに出くわした中年男性も、コインロッカー・コーナーの青年も、それからあの屋敷《やしき》にいた連中も、その名目のもとに操られ、抹殺されていったというのか。  むろん、それらは犯罪であり、しかもよりにもよって殺人だ。そんな罪を犯したからには、法によって罰《ばっ》せられなければならない。たまたま網《あみ》の目を逃れたものを見つけたとしたら、それを通報し告発しなければならない——はずなのだが。  だが、ぼくにはもうそうするだけの気力が失われていた。今から警察に駆《か》け込んで、実はクラスメートが犯人でしたと主張して、信じてもらえるだろうか。信じてもらえたとして、それがいったい何になるというのだろうか。  行宮《ゆくみや》美羽子に、そして夏川至にまであざむかれ、手のひらの上で踊《おど》らされた事実に変わりはない。彼らが首尾よく逮捕《たいほ》でもされれば、仕返しぐらいにはなるかもしれないが、そのあとぼくはどうしたらいいのだろう。  彼らがいなくなってしまった学園生活は、今よりずっとむなしく、孤独なものになるに違いなかった。周囲はぼくをもてはやすどころか、うさん臭い奴として白眼視することだろう。といって、ぼくの目の前でのうのうと、次の犯罪計画でも練られた日には、いっそう耐えられないかもしれなかった。なお、きわめつけに、 「暮林君の推理は、なかなかみごとだったけど」  おためごかしに前置きしてから、彼女は明かした——ぼくにとって、ある意味最も恐ろしい事実を。 「一つだけ大きく実際と異なる点があったわ。あなたの言うのだと、一連のプランで重要な役割を果たした夏川君を、こんな風になるほどひどく殴《なぐ》りつけたのは私だということらしいけど、それは全然違うの。夏川君はね、自分で自分の頭部を思い切り打ちつけたの。私は凶器となった品を始末しただけ。そのことだけは信じてくれる?」  にこやかに問いかける彼女の前で、首を縦にも横にも振ることができなかった。どうしようもない敗北感と疎外感《そがいかん》が、ぼくを石人形と化さしめていた。もし人間の心の何分の一かが死ぬなんてことがあり得るとしたら、そのときぼくの中の大事な部分が亡くなっていったのは確実だった。  どのみち、ぼくのことなど美羽子たちにすれば眼中にないのだ。ぼくに真相をつかまれたことが、自分たちにとって不利に働くとは考えてもいないらしい。だからこそ、進んで秘密を明かしたりもしたのだろう。  そして……それ以上に、美羽子が言う「復讐」に、ぼくが口をはさむ余地はなかった。語られた動機の深刻さ、そのきっかけとなった過去の悲劇の酷烈《こくれつ》さの前では、何一つ批判することなど不可能だ。正義の味方面して告発したり非難したりといったことはもちろん、いさめたり忠告することさえ、おこがましくてできそうにはなかった。 (どうしたらいいんだろう、いったいどうしたら……)  という身を焼かれるような思いと、 (どうしようもないんだ、ぼくなんかにはどうしようも……)  との、らせん階段を果てしなく下りてゆくような気分が、堂々めぐりのように交錯《こうさく》し続ける。そんな中で、ぼくにできたことといえば、雨の中をひたすらさまよい続けることだけだった。  そして、それからどれほどの時間が流れただろう。どこをどう歩いたのか、当然乗るべき電車を利用した記憶《きおく》すらない——いや、雨にけぶる景色の奥にあの廃墟を見た覚えだけはあるから、乗ることは乗ったのだろう——というありさまで、気がついたときにはすでに自宅近くまで来てしまっていた。  もし、そのままの状態だったら、玄関をくぐり、自分の部屋に逃げ込むまで、夢遊病同然に何も覚えていないということだってあり得たかもしれない。  そうならなかったのには理由があった。いよいよ降りしきる雨の中、ふいに巨大なコウモリでも飛び来《きた》ったみたいに、黒い傘が頭上にさしかけられたかと思うと、やにわにぼくの肩をつかんだ手があったのだ。 「よう、しばらくだな」  黒ずくめの服の上に、いっそう黒い笑いを浮かべた男の顔があった。 「聞いたぜ、聞いたぜ。また何か面倒《めんどう》なことを引き起こし……もとい、巻き込まれたんだってな。つくづく運のない少年だな、お前さんも」  強烈《きょうれつ》なまでに特徴《とくちょう》のある声音、表情。にもかかわらず、その男が誰であるかを思い出すのに時間がかかった。思い出して、その名を口にするまでさらに数秒を要したあと、 「黒河内《くろこうち》……刑事さん?」 [#改ページ]  CHAPTER 14  その翌日、打って変わって晴れ渡《わた》った午後の空の下、ぼくはこれまで一度も降りたことのない駅で下車した。  幼稚園か小学校低学年のころにタイムスリップしたみたいな、せせっこましい店屋の並ぶ道をうねうねと抜《ぬ》けて行く。かすかに漂《ただよ》ってくるのは、汚水《おすい》らしき臭気《しゅうき》だ。そんな中、火花を散らし、轟音《ごうおん》をあげる機械の陰《かげ》で黙々《もくもく》と働く人たちに後ろめたい思いをしながら歩くこと数分、ふいに視界が開けた。  近くに来てみると、あらためてかなり大きな建物だとわかった。  赤|錆《さ》びてはいるが、まだまだどっしりした鉄骨や、破れ目だらけで魚のウロコのようにも見える大屋根は、かつての規模を想像させるに十分だった。 (これが、かつての悲劇の舞台か……)  そう考えると、ただの工場跡《こうじょうあと》とは違《ちが》う気がして、何とも重たい気分に包まれた。それも、自分がよく知っている人物——正確にはその父親だが——が巻き込まれた悲劇だときては、なおさらだった。  腕《うで》時計に視線を落とす。少し早く来すぎてしまったようで、約束の時間にはだいぶ間があった。  しかたなく、何となく周辺をうろうろと歩いているうち、針金で簡単に仕切りをしてあるだけで、しかもあちこちが切れているのに気づいた。加えて人目がないのを幸い、中に入り込んだ。  過去と現在の死をつなぐその場を踏《ふ》むことで、ますます心がどんよりとなるのは覚悟《かくご》の上だった、のだが……。 (————?)  ぼくは、あることに気づき、それまで漠然《ばくぜん》とめぐらしていた視線に注意深さを加えた。もしぼくが信じた通りであったとするなら、当然なくてはならないはずの痕跡《こんせき》を探し求めた。  だが、見つからない……探し方が悪いせいだろうか。それとも、年月がたちすぎたせいで、雨風に流されたり地面にうずもれてしまったのか。いや、そんな見苦しいものをそのままにはしておけないと、誰かの手で始末されてしまったのかもしれない。うん、きっとそうだ……。  ぼくはしかし、そうした結論では自分を納得させられずに、再び敷地《しきち》の外に出ていた。一番手近にあって、一番このあたりの昔のことを知っていそうな和菓子屋さんに入って行くと、そんなにほしくもない饅頭《まんじゅう》を買うついでを装って訊《き》いてみた。軽く息をととのえると、極力さりげなく、 「ねえ、あそこの工場跡地って、いつごろからあんな風になってるんですか?」  と。 「へえっ!?」  見なれない客からの、いきなりな質問に、店番のおばあちゃんは当然ながら、うさん臭《くさ》そうな視線を返してきた。一瞬《いっしゅん》ひるんで引き下がりそうになったのをグッとこらえ、この近くを走る電車の中からよくあの建物を見かけて不思議《ふしぎ》に思ったこと、今日たまたまここのお店にお使いを頼《たの》まれたので、立ち寄ったついでに訊いてみたくなったこと——などと言い訳してみた。  すると、おばあちゃんは「ああ、そうなの」とあっさり納得してくれて、 「あそこ、確か服地か何かの工場じゃなかったかしらね。それより前も、入れかわり立ちかわりいろんな会社が入ってたみたいだから、いちいち覚えちゃいないけど……あんな風になったのはいつごろからって、少なくとも三十年は前のことだねえ。ちょうどうちの娘が高校生でアルバイトをしたがってて、あそこがまだあればすぐ近くで都合がよかったのにって残念がってたから間違《まちが》いありませんよ」 (さ、三十年……?)  服地か何かの工場というのからして、こちらの予期とはだいぶ違っていたが、その数字は思ってもみないものだった。 「そんなに前のことなんですか、あそこが火事になったのは?」  訊いたとたん、おばあちゃんはびっくり仰天《ぎょうてん》した顔になって、 「火事!? いえ、あそこは火事なんてことになってませんよ。ただ、公害だ何だとうるさくなってきたのと、会社の方が業務を拡大するとかでよそへ移転してしまっただけですよ。いったんは取り壊《こわ》しかけたんだけど、それも費用がかかるのか途中でやめちゃって……それっきりですよ」 「火事にはなってないんですね、本当に」  炎がなめた焦《こ》げ跡や、炭化した残骸《ざんがい》といったものがまるで見当たらなかった、ついさっきの探索《たんさく》結果を思い起こしながら、念を押した。そのしつっこさのせいだろう、おばあちゃんはにわかに不審《ふしん》顔になりながらも、答えてくれた。 「ええ、確かですとも。あれほどの工場が火事になったら、うちだってただではすみませんもの。そのあとどうなったっかって? さあ、資材置き場とか駐車場とかに使われてたみたいだけど、ご近所とはいいながら、今は誰の持ち物でどうなっているのやら、よくは知らないねぇ」 「そうですか……」  答えながら、ぼくは少しずつ後ずさりした。おばあちゃんの視線が、再びうさん臭いものを見る目に戻《もど》ったばかりではなく、みるみる険しいものとなり、家族を呼ぶためか「ああ、ちょっと……」と背後を振《ふ》り返ろうとしたからだった。 「ありがとうございました!」  ペコリと一礼すると、買ったばかりの菓子包みを抱《かか》え直し、猛《もう》ダッシュでその場を逃《に》げ出した。  もとの工場跡地まで取って返しながら、ぼくの中ではいくつもの疑問符《ぎもんふ》が泡《あわ》のようにはじけていた。それもシャボン玉のようなお手軽なものではなく、沸々《ふつふつ》と煮《に》えたぎる溶岩《ようがん》の泡のように。  ——あの工場は火事になどあってはおらず、廃業《はいぎょう》したのは三十年も前? しかもおばあちゃんの記憶《きおく》が確かなら、服地か何かを作っていただと? これはいったいどういうことなんだ?  行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》、それに夏川至《なつかわいたる》の�本当の父親�たちを焼き殺したという火事が、もし本当にあったとしたら、それはどう考えてもぼくが生まれたのより以前ではあり得ない。だって、彼らはぼくと同い年なのだから。それとも、ああ見えて実は三十過ぎだとでもいうのだろうか?  第一、ここで操業していたのが服地関係の工場だというのは、世界を一変させかねないほどの画期的発明を研究開発していたという話と、どうにも結びつかない気がする。電子工業だとか化学関係の分野とでもいうなら、いざ知らず……。  ということは——いったい、どういうことなんだ?  考えられる可能性は二つ。あのとき美羽子が言った「ぽっかりと空き地みたい」になった場所に「とても大きな屋根の骨組みだけが残ってる」工場跡というのは、こことはまるで別物で、彼女らが生まれたあとに火事となり、多くの人たちの命をのみこんだ本物はほかにあるというのが一つ。そして、もう一つは——。 (違う、そっちじゃない!)  この期に及《およ》んで、ぼくは往生際《おうじょうぎわ》悪くかぶりを振った。  今さら彼女の言葉を嘘《うそ》ではなかった、悲しい真実の告白だと信じたかったからではない。またしても、うまうまとだまされてしまい、心をもてあそばれたことを認めたくなかったのだ。  ふいに、コインロッカー事件のあと、警察署を去りぎわに聞かされた言葉が耳の奥によみがえった。  ——いいか、くれぐれも……女には気をつけろよ。  あのときは、わざわざそんな忠告——それも、えらく一般的な処世訓《しょせいくん》めいたものをしてくれた意図を解しかねてしまった。何か欠け落ちた個所があるような気がしつつも、それきりになっていたのだが、今ははっきりとわかった。  ぼくが聞き逃《のが》したのは、たった二文字。それを補えば意味は、たちまち明らかとなる。すなわち、  ——いいか、くれぐれもあの[#「あの」に傍点]女には気をつけろよ。  そして、それが誰を指していたかといえば、むろん言うまでもなかった。そのことに気づいたのと同時に、 「よう、待たせたな」  あのときと全く同じ声が、同じ調子で背後からかけられた。あまりのタイミングのよさに、暗合めいたものさえ感じながら振り返ると、ぼくは声の主の名を呼んだ。 「あ、黒河内《くろこうち》さん……」 「おう」  黒河内刑事は、やや赤みをまじえたものの、まだまだ明るい空を見上げた。次いでぼくの顔を無遠慮《ぶえんりょ》にのぞきこみながら、 「ふん、雨も涙《なみだ》も、もう品切れになったようだな。けっこうなこった。で、どうだい。実際に現場を踏んでみての感想は何かあったか?」  ——あのあと、ぼくは近くのうらぶれた、これまで入ったこともない喫茶店《きっさてん》に連れ込《こ》まれ、彼としばらくの時間を過ごした。そのとき何を話したのか、細かいところは覚えていない。ただ、そこは商売というのか、その日の�対決�のあらましについて聞き出されてしまったようだ。  進んで警察に対し、美羽子を告発するつもりはなかったものの、彼という格好《かっこう》の聞き手を得たことで、たまりにたまった思いが一気にあふれ出したのかもしれない。どっちみち、自慢《じまん》できるような話ではなかった。 「ええ、まあ」ぼくは答えた。「少なくとも、ここが火事になったという事実はないみたいですね」 「ほほう……こりゃ、遅刻《ちこく》したおかげで一つ手間が省けたかな」  黒河内刑事は、感心したのか小馬鹿《こばか》にしたのかわからない調子で言った。ぼくは、そのあとに付け加えて、 「もっとも、ほかに該当《がいとう》しそうな工場があれば、また話は別かもしれませんけど」 「念の入ったことだ」刑事は皮肉に笑った。「だが、幸いというか、お気の毒にというべきかはわからんが、この沿線一帯に工場跡が空き地のまま残されているようなところはほかにない。つまり、お前さんはまんまと……というわけさ」 「そういうことらしいですね。じゃあ、わざわざこんなとこへ呼び出した用事はこれでおしまいですか」  ぼくが硬《かた》い表情で言うと、黒河内刑事は「いやいや」と首を振って、 「それだけじゃあないとも。せっかくだから、警察官の職権を利用して面白いものを見せてやろうと思ってね。ほら、これをさ」  言いながら、ジャケットの内ポケットから鮮《あざ》やかな手つきで、細長く折りたたまれた書類のようなものを差し出した。 (…………?)  戸惑《とまど》いながら開いた書類——二通あった——の文面に、ぼくはハッとせずにはいられなかった。  淡々《たんたん》と、何の説明もなく書き並べられた人名、地名、それに年月日は、どこをどう見たらいいかもわからない。にもかかわらず、そこに含《ふく》まれた「行宮」「夏川」という苗字《みょうじ》、「美羽子」「至」という名には引きつけられないわけにはいかなかった。 「こ、これは……?」と顔を上げて訊いたぼくに、 「そうとも、お前さんが昨日言った二人の戸籍《こせき》の写しだよ」  黒河内刑事は答えると、ぼくの肩越《かたご》しに書類をのぞきこむようにして、 「さあ、よく見てみろ。行宮美羽子に、それに夏川至だったっけか。その二人が現在とは別の家に生まれ、今の両親に引き取られたのかどうか、数奇な運命のもとで育ったという話が本当かどうかを確かめてみるんだな」  言われるまでもなく、ぼくはその痕跡を求めて書類に目を通した。だが、それらしい記述は何一つ見つからなかった。 「念のために教えといてやるが」黒河内刑事は言い添《そ》えた。「痕跡を残さずに戸籍を操作する方法はないではないが、おれが戸籍をさかのぼって目を通した範囲《はんい》では、それらしいほころびは見つからなかったな。あと、ついでに調べておいてやったが、そこに記されている夏川至の父親は、いわゆるエンジニアではあるが、ごく普通の勤め人で、もちろん工場など持っちゃいない。世界的発明にかかわっているかどうかは、そりゃ人間どこでどう転がるかはわからないから何とも言えないが、少なくともこれまではそういうことはなかったようだな」 「そう……ですか」  ぼくはかすれた声で、やっとそれだけ答えた。  とにかくこれではっきりした。ぼくが行宮美羽子から聞かされた話は、一から十まで嘘だったということだ。工場の火災という事実が存在せず、実の親を失ったあとの他家への入籍も認められなかった以上、復讐《ふくしゅう》という動機もまた全くのフィクションでしかなかったわけだ。  全ては、砂上の楼閣《ろうかく》よりもなお虚《むな》しい幻《まぼろし》——。だが、そうだからといって、これまでぼくをも巻き込んで起きた惨劇《さんげき》、ばらまかれた死の数々までが架空《かくう》の存在となるわけではない。何一つ謎が解けたわけではないのだ。それどころか、それらの中心に君臨《くんりん》する行宮美羽子という少女の正体は、いよいよ不可解なものとなり、よりいっそう恐怖《きょうふ》に満ちた存在となりつつある……。  そんなぼくの思いを察してか、黒河内刑事は自嘲《じちょう》めいた笑みを口元にはりつけたまま、さらに言葉を続けた。 「ま、夏川至についちゃ、ここに記した通りの人物——ごく普通の家庭に生まれ育った高校生で、だがどうしたわけかおかしな道に誘《さそ》い込まれたということで説明がつくんだが、あいにくもう一人の方はそう簡単にはいかないんだな、これが」  行宮美羽子に関する方の書類を、スッとぼくの手から抜き取ると、 「こっちに関しては、戸籍に記された情報そのものの真偽《しんぎ》が定かじゃない。家族やら、そこからさかのぼったご先祖様やらが真実その通り存在したのかどうかさえ、知れたもんじゃないんだ。何とも底知れぬものを抱えた、とんでもない人間なんだよ。いや、いっそ人間以外のものと考えた方が筋が通るぐらいなんだ……」  人間以外のもの? その言葉の異様さに、ぼくは思わず彼の顔を見直した。相変わらず皮肉っぽく、自分を含めた全てを嘲弄《ちょうろう》しているような態度は変わらないものの、そこに一抹《いちまつ》の畏怖《いふ》のようなものがまじっているような気がしたのは、単なる錯覚《さっかく》だったか、それとも——。  そのあとに、一種異様な沈黙《ちんもく》があった。  にわかに廃墟《はいきょ》を吹《ふ》き渡った風の中で、ぼくは何十秒間、ことによったら何分間も黒河内刑事と向かい合っていた。  その間、ぼくは何とも奇妙《きみょう》な感覚に襲《おそ》われていた。目の前の、年齢《ねんれい》もずっと上なら体格・体力にも開きがあり、人生経験や手にしている権力に至っては天と地以上の差のある相手が、だんだんと対等な存在に思えてきたのだ。いや、むしろ同類[#「同類」に傍点]とでもいうべきものに。 「刑事さん、あなたはひょっとして」  ぼくは、一語一語区切るようにしながら尋《たず》ねた。 「以前から、行宮美羽子のことを追っていた——?」  風はいよいよ強く、不毛の地面に砂塵《さじん》をまきあげ、秩序《ちつじょ》なく積み上げられたガラクタをさえ揺《ゆ》るがせた。そのままどれぐらいの時間、ぼくらはそんな風にして向かい合っていただろう。  黒河内刑事は一瞬真顔になり、次いでフッと自嘲めいた笑いを浮《う》かべると、その笑みにゆがめたままの口をおもむろに開いた。 「そうだ、おれは二年前……もっと以前のような気がしてならないんだが、ある事件で行宮美羽子と遭遇《そうぐう》した。いや、そのときは奴のこととは気づかなかった情報の断片《だんぺん》としてなら、さらにずっとさかのぼりはするな。とにかく、そのときのおれは、清楚《せいそ》の一語に尽《つ》きちまうような女の子を疑うことなんて、思いもよらなかった。ましてや、その後もいくつもの事件にちらつく影《かげ》として、その存在に接することになろうなんて予想もしちゃいなかった。あるときは現場に居合わせた人物のリストに、あるときは目撃証言に含まれた特徴《とくちょう》との一致《いっち》として、またときには防犯カメラに残された一瞬の映像として——といった具合に。  そうこうするうち、だんだん……だんだんと行宮美羽子という女の存在は、おれの中で真っ黒い雲みたいに大きくなっていった。もっとも、大きくなればなるほど、いよいよ奴の正体はわけのわからないものになるばかりだったがな。そんなものにこだわり、上司の指示や周囲の忠告を無視して追っかけ続けたおかげで、おれはしだいに孤立《こりつ》し、ついにはつまはじきにされるようになっちまった。信じられんだろうが、これでも敏腕《びんわん》刑事とうたわれ、将来を期待されてもいたんだぜ。  だが、そうやっていろんなものを失ったかわりに、一つだけはっきりと見えてきたもの、この手にしっかりとつかめたものがあった。あの女がかわいらしい見かけによらない、どころか、人間の皮の中には収まりきれないぐらいの悪念の塊《かたまり》であり、言うなれば犯罪の天才児だという信念がな!」  そのあとも黒河内刑事は、ぼくなんかにしゃべっていいのかと怪《あや》しまれるような事件の裏事情や捜査の内幕を長々と語って聞かせた。その全ては、美羽子の真の姿を白日《はくじつ》のもとにさらすことはできないまでも、浮かび上がらせるには十分だった。  その内容は、ぼくの中でゆっくりと生成され、今や急速にふくらみつつある彼女のまがまがしい幻像《イメージ》とぴったり重なり合うものだった。  にもかかわらず、ぼくは彼の話を一切、これっぱかりも信じはしなかったし、そのつもりもなかった。  だってそうだろう。美羽子の言葉を信じてあんなにもみじめな思いをしたぼくが、彼のことを嘘つきと考えずにいられるわけがないではないか。そうとも、ぼくがどれほどバカにもせよ、あんなあやまちを二度と繰《く》り返してたまるものか! [#改ページ] 「ぼくはこの秘密のベールを暴こうと、ずっと苦労してきたんだが、とうとう手がかりをつかんだ。それをたぐって、巧みにはりめぐらされた網の目をいくつもくぐり抜けた末にとうとうたどりついたのが、高名なもと数学教授、モリアーティという人物だった。  ワトスン、あの男はいわば犯罪界のナポレオンだよ。この大都会の悪事の半分と迷宮入り事件のほとんどの、黒幕だ。しかも天才で、哲学者で、理論家で、第一級の頭脳の持ち主といえる。あの男は、巣の中心にじっとしているクモみたいなものだ。その巣は、放射線のかたちに広がる無数の糸の網目になっていて、どの糸のどんなにわずかな震えでも、すぐにあの男に伝わる……」  ——アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの回想』より「最後の事件」 [#地付き](日暮雅通・訳) 「だがね、モリアーティを犯罪者よばわりしたら、名誉毀損で訴えられるぞ。それこそが、みごとであり驚嘆すべきことなんだ! 古今東西随一の陰謀家にして、ありとあらゆる悪事の首謀者。暗黒街を牛耳る頭脳。国の運命を左右してもおかしくないほどの頭脳。それがあの男だ。  なのに、世間から疑いをかけられることもないし、非難も受けない。うまく身を処しておもてに出ないようにすることにかけては、あっぱれとしか言いようがないんだ……」 [#地付き]——同『恐怖の谷』(同・訳) [#改ページ]  CHAPTER 15  学校の図書室はいつも通り、ひどく寒々としていた。  保健室と並んで、校内に居場所の見つけにくい生徒の避難《ひなん》場所にふさわしいここは、しかし妙《みょう》な敷居《しきい》の高さもあってか、それほど利用されてはいなかった。  少なくとも、保健室《あちら》の養護の先生に比べて、図書室《ここ》の司書のやる気のないことだけは確実で、それはどう考えてもここ十年、いや、どうかすると二、三十年以上は変化のなさそうな本棚《ほんだな》にも表われていた。とにかく、新しい科学技術や時事問題についてのレポートを書くには、何の役にも立たないというのだから恐《おそ》れ入ってしまう。  何でも、見かねた卒業生から本の寄贈《きぞう》の申し込みがあったときも、「別にいらないです。どうせ誰も借りませんし、なまじいい本を入れても生徒に盗《ぬす》まれるだけですし」と答えて呆《あき》れ返らせたそうだ。要するに本棚の入れ替《か》えが面倒《めんどう》なのだろう。そんなぐらいだから、利用者などなるべく少ないに越《こ》したことがないと考えているに違《ちが》いなかった。  だが、それでも、ここがぼくにとって保健室より魅力的《みりょくてき》だったのは、時の止まったような雰囲気《ふんいき》と、もともと時代の変化とは無関係であるがゆえに、これ以上は古びようもない蔵書の数々だった。  とりわけ、そのときのぼくにはそれらが必要だった。もう誰の顔も見たくなかった。クラスメートの中に、ただ存在しているのすら苦痛だった。  そのあげく、昼休みになったとたん図書室に逃《に》げ込《こ》んだのは、そこしか行き先がなかったからだ。とうに読み慣れて中身もあらかた知れており、手あかのついたような活字群こそが、自分を癒《いや》してくれるような気がしたからだった。  だが、甘い期待に反して、古なじみの物語たちは、ぼくをちっとものめりこませてくれなかった。やや変色した紙に刷られた、今の印刷に比べると小っこく読みづらい活字の隊列《たいれつ》は、追うほどにイメージを喚起《かんき》し、ここではないどこかへ誘《さそ》ってくれるのに、今日ばかりは違っていた。  どんなに目を凝《こ》らしても、本の中に入ってゆこうとすればするほど、それは無味乾燥《むみかんそう》なただの文字、インクのしみであり続けた。わが愛する主人公も仲間たちも、ちっともイメージとなって現われてはくれず、まるで手がかりのない壁《かべ》をむなしく引っかいているような焦《あせ》りと、みじめさがぼくの心をむしばんだ。  と、そんなさなかのことだった。  同じテーブルの、ぼくのいる端《はし》っこの席の正反対に、スッと何者かの影《かげ》が腰掛《こしか》けるのが見えた気がした。  長い髪、たおやかなシルエット、最近になってあらためて認識させられたのだが、抜《ぬ》けるように白く端正《たんせい》な顔立ち——。それらの主《ぬし》が誰であるかは、ことさらに視線を投げかけてみるまでもなかった。 (…………!)  その名をつぶやきかけて、あやうくのどの奥に落とし込んだ。何があろうと断じて相手のことなど見てやるもんか。気づいたことさえ知られたくない。まして、言葉を交わすなどもってのほかだった。  そのあとに、何とも気まずい沈黙《ちんもく》が流れた。いや、気まずいのはぼくだけで、相手はたぶん何とも思ってはいなかったろう。そのことがまた、腹立たしいのだった。  だが、いくら無視しようとしても、視野の片隅《かたすみ》に映り込んだ彼女の姿を消すことはできなかった。ほんの少し視線をそらすか、首をねじ向ければすむことなのに、その簡単なことがどうしてもできなかったのだ。  それから、どれぐらいの時間が過ぎたろう。ひそかに恐れていたことが起きた。目にはまぶたがあっても、耳にはそれに当たるものがないという残念な事実を思い知らされる事態が。 「——暮林《くればやし》君は、よくここに来るの?」  彼女——行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》は、テーブルの反対側から屈託《くったく》もなく、ひとかけらの底意《そこい》もないようすでぼくに話しかけてきた。  誰が返事なんかしてやるものか。そう決意しつつも、ぼくの口からもれ出たのは、世にもつまらない答えだった。 「ああ……まあね」  言ってからしまったと思った。何でこれぐらいの沈黙が守れないのか、まるでロボットみたいに美羽子の言葉に反応したのはなぜだと、情けなさに歯噛《はが》みするぼくをよそに、 「やっぱり、そうなんだ」  美羽子はどこまでも朗らかに、まるで仲間が見つかったことを喜んでいるみたいに言った。 「私もね、図書室にはよく入りびたってるのよ。だから、暮林君の姿を見かけたことも何度もあった。いつもそんな風に、古びた本を——もっとも、ここに新しい本はあんまりないけど——読んでいたよね」 「まあ、いろんな奴がいるからね、この図書館の中に限っても、まして学校全体となれば……」  あくまで視線を合わさず、ふてくされた調子で吐《は》き棄《す》てたとたん、胸の奥から真っ黒いものがこみ上げてきた。それは、あの工場跡《こうじょうあと》での会見以来、わだかまっていたものだった。 「そういえば、ある人が言っていたっけな。『世の中にはごくまれにだが、お前さんのような若造には想像もつかないようなとんでもない奴がいる。姿形はかわいい女の子のくせして、中身はモリアーティ教授みたいなのが』って」  黒河内《くろこうち》刑事のゆがんだ笑みと、嘲弄《ちょうろう》するような声音を思い出しながら、せいいっぱいの言葉の刃《やいば》を突《つ》きつけた。どうせなら、毒針でも投げつけてやりたいところだった。  だが美羽子は、ぼくが必死に放った告発を、羽毛の切れっぱしででもあるかのように軽く受け流して、 「へえっ、モリアーティ教授って、シャーロック・ホームズの宿敵のお爺《じい》さんでしょう? それって何だかいやなたとえだなぁ。……あ、わかった。それで暮林君、そんな本を読んでたのね」 「べ、別にそういうわけじゃないよ」  席からのびあがるようにして、こちらの手元をのぞきこもうとするのを、あわててさえぎりながら言った。実のところ、適当に選んでテーブルに積んだ本の中に、シャーロック・ホームズ・シリーズの一冊がまじっていることも、言われて気づいたほどだった。 「そういう君は、何を読んでるんだ。やっぱり犯罪事件を扱《あつか》った本かい。それも、ぼくみたいに他愛のないフィクションじゃなく——」 「ちょっと歴史の本をね」  彼女は、ぼくの言葉をさえぎって言った。ぼくは思わず美羽子の顔を見てしまいながら、 「歴史の本?」  見ると、彼女の手元には確かに分厚い書物が置かれていた。 「そう……そんなところがあったとさえ、とうに忘れられてしまった国の、全てから見捨てられた人たちの、誰も知らないお話をね。どう、興味ある?」  美羽子は、まるで歌うように言った。  そんなものに興味はないし、聞きたくもないね、と答えるべきところだった。でなければ、黙《だま》って席を立つか。  なのに、ぼくはそうしなかった。なぜだろうか。彼女の�歌声�に聞きほれた、とは死んでも認めたくないのだが。  ともあれ彼女は語り始めた——いつの時代、どこの国のものとも知れず、およそありそうになく、とても信じられぬ、だが美しい物語を。 「大海原《おおうなばら》に浮《う》かぶ大陸の、国と国の谷間のような場所に、そう呼ぶのもはばかられるような小さなお国がありました。その国の人々は、いわゆる文明とも繁栄《はんえい》とも無縁《むえん》だったけれど、彼らは彼らなりの文化と生活と、何より誇《ほこ》りを持って暮らしていました……。  けれど、その国のお伽噺《とぎばなし》のような美しさと清らかさ、ささやかではあるけれども実りの豊かさは、周囲の国々のあこがれであり、わけても最も強く大きな国のねたんでやまないところでした。  その強く大きな国は、自分たちこそが世界の中心であり、その小さな国もわが領土のうちであり、そこの富も美も一切合財が自分たちのものだと信じて、少しも疑っていませんでした。  そして、ある年ある月の、とある一日——悲劇は起きました。その強くて大きな国が、大軍をもって小さなお国に襲《おそ》いかかったのです。ほしいものを根こそぎ奪《うば》い取り、それだけではあきたらずに、自分たちが奉じる�主義�だの�思想�といった愚《ぐ》にもつかない代物を押しつけるために。  ちなみに、彼らの考えでは、自分たちの教えを広め、それに基づいて国の仕組みを作りかえるためには、どんな暴力《ぼうりょく》や不正も許されるし、またどんな悪事もそうした口実のもとでは名目が立つのでした。  むろん攻《せ》められる側からすればたまったものではありません。小さなお国は、むろん必死に抵抗《ていこう》しましたが、強くて大きな国の兵力の前ではしょせん敵ではありませんでした。  かろうじて守られてきた国ざかいは、いともあっさり破られ、兵たちの足の下に、田畑も道ばたに咲いた花もむざんに踏《ふ》みにじられてしまいました。  たちまち繰《く》り広げられた破壊《はかい》、略奪《りゃくだつ》——。けれど、そのこと自体のいまわしさもさることながら、なおおぞましく憎むべきだったのは、強くて大きな国に阿諛追従《あゆついしょう》し、あるいはことを荒立《あらだ》てたくない国々が、この恐ろしい不正に見て見ぬふりをしたことでした。  そうした手助けもあって、孤立無援《こりつむえん》となった小さなお国の、それに見合って小さいけれども美しい都は、たちまち敵の手に落ちてしまいました。  そして、とうとう——恐ろしい殺戮《さつりく》が始まったのです。それは、奇《く》しくも何年かに一度の月蝕《げっしょく》の夜のことでした」 「月蝕……の?」  ぼくは思わず口をはさんだ。何かしら、その単語が心に引っかかってしようがなかったのだ。  美羽子は、妖《あや》しいとしか表現しようのない微笑を浮かべると、うなずいた。 「そう、地球が自ら太陽を覆《おお》い隠《かく》し、おのが影で満月の輝《かがや》きを消してしまう、ね。……お話を続けてかまわない?」 「あ? ああ」  問われてぼくは、答えていた。このモリアーティ教授の心を持つ少女の話など、これ以上は一言だって聞きたくもなかったはずなのに。いや、最初から聞いてなどいなかったはずなのに。 「さて……その都の中心に一軒《いっけん》の家があり、一組の家族が住んでいました。そこには、たわむれにつけたものか、それとも本気の呼び名だったのかはさて置くとして、〈姫〉と呼ばれる娘がいて、このうえなく幸せに暮らしていたのですが、強くて大きな国の凶手《きょうしゅ》は当然その家族に——そして〈姫〉の身にも及《およ》びました」  そう言い切った瞬間《しゅんかん》、美羽子の顔がかすかにこわばり、声も震《ふる》えたような気がしたのは、錯覚《さっかく》ではなかった。  効果を狙《ねら》った演出、つまらない小芝居《こしばい》さ——ぼくはひそかに吐《は》き棄《す》てた。だが、彼女には、そんな思いが通じるわけもなく、 「ところで」  なおも臭《くさ》い小芝居を引きずりながら、続けた。だが、その一語のあとは、瞬時に氷の刃のような冷たさと鋭《するど》さを発散させながら、 「この悲劇は、はるばると大陸を渡《わた》り、海の向こうにある島国にまで伝わりましたが、はるかに遠い無縁の地のことであり、血なまぐさい惨劇《さんげき》も、そのために振《ふ》り絞《しぼ》られた叫《さけ》びも涙《なみだ》も、何やらぼんやりしたものとしか受け取られることはありませんでした。もとより、その島国の為政者《いせいしゃ》たちに救いの手をさしのべるつもりなど毛頭なく、かかわることさえほとんどなかったのでした。  にもかかわらず、小さなお国からの救いを求める声は、わらをもつかもうとする思いゆえに、その島国にも届きました。それは、あの〈姫〉と呼ばれる少女とその一家からのものでした。というのも、彼らはそちらの国において、それなりの地位や名声を持ち、知識にも恵まれた人たちに知り合いがいたからです。  彼らから一縷《いちる》の望みを託《たく》されたものたちは、求められ、しかしあっさりと救いを求める声を無視し、握《にぎ》りつぶしました。それどころか、強く大きな国の側に、そのことを内通し、みすみす彼らが捕《つか》まるように仕向けさえしたのです。実際、そのせいで何人もがむごい刑罰《けいばつ》を受け、命を奪われてしまいました。  いったい、どうしてまたそんな卑劣《ひれつ》なまねを——保身のため? 損得を考えたから? それとも、いつのまにか敵方についていたから?  どれも正しく、しかしそれが全てではありませんでした。最も正しく、最も下劣で醜悪《しゅうあく》きわまるその理由というのは、次のようなものでした。  その人たちは、強くて大きな国が掲《かか》げる�主義�ないし�思想�に強いあこがれを抱《いだ》き、それが実現されているその国を訪れたこともなく、実態を見たこともないくせに、勝手に理想郷《りそうきょう》のように信じ込み、決めつけていたのです。そこをこの世の楽園のように言いなす以外の言葉は何一つ心に響《ひび》かず、それとは正反対の現実を突きつけられるような情報は、断じて認めようとしなかったのです。  そう……その人たちは、愚《おろ》かしくも甘やかな夢をいつまでも破られたくないために、いつかは自分たちもユートピアの住人となると信じ続けるために、それとは正反対な血みどろの現実に目をつぶったのです。生身の人間の苦悶《くもん》や悲鳴から耳をふさいだのです、いや、それどころか、自分たちの身勝手な幻想《げんそう》にとって不都合な私たちを抹殺《まっさつ》させようとさえした……」 「私たち?」  ぼくは驚《おどろ》いて聞き返した。  まさか、今の話に出てきた〈姫〉というのは——? だが、美羽子は意味ありげな微笑をたたえたまま、答えようとはしなかった。 「とにかく」  長い間《ま》のあと、彼女は真偽《しんぎ》も定かでない歴史物語の語り手から、もとの彼女自身——それが何かは見当もつかなかったが、とりあえずさっきまでの美羽子に戻《もど》ると、言葉を継《つ》いだ。 「これほど恥《はじ》知らずな、自らは手を汚《よご》していないとはいえ、汚《きたな》らしく穢《けが》らわしい罪悪があるとはね。しかも、これがほんとにあったことだっていうんだものね。——暮林君はどう思う?」  いきなり話を振られ、ぼくは答えに詰《つ》まった。だが、そんなことではいけないと、必死に皮肉のスパイスを利かせて、 「どう思うって……何とも大時代というか、『モンテ・クリスト伯』に出てくるエデ姫の話をちょっと思い出したよ。裏切り者のフランス軍人のせいで父親であるジャニナ太守を殺され、奴隷《どれい》に売られる、ね。まあ、およそあり得そうになくて共感しにくいという点では、あの話とおっつかっつかな。ほら、火事になってない工場で、ありもしない新発明のために、いもしない肉親を焼き殺されたってのと」  せいいっぱいの口撃《こうげき》の矢は、しかし少女の白い手のひらの中に簡単につかみ取られてしまった。 「面白いこと言うのね、暮林君って」 「…………」  ひょいっとばかりに投げ返された言葉は、ぼくの唇《くちびる》を封《ふう》じるに十分だった。 「ところでね、暮林君」  くやしさに再びそっぽを向いたぼくにかまわず、美羽子はひどく楽しそうに話し続けるのだった。 「知ってた? 私はずっと君に注目してたのよ。暮林君の考え深さ、誰もがどうでもいいと流してしまうことにこだわって、最善の解答を得ようとする。それも単なる理屈《りくつ》のための理屈じゃなく、みんなにとっての最良の結果を導くために、ひたすら考えに考えて考え抜く——どこまでも誠実に、そして愚直《ぐちょく》にね。そう、探偵でいうとホームズよりはむしろエラリー・クイーンかな」 「愚直で悪かったね」  憤然《ふんぜん》と言いはしたものの、ぼくのひそかな英雄であるエラリー・クイーン——探偵役も数ある中で、徹底した論理《ロジック》の積み重ねと、その華麗《かれい》なアクロバットでもって謎を解く推理の達人——のようだなどと、彼女にほめられて悪い気持ちがしなかったのも事実だった。  だが、それで感激するには、ぼくの心は傷つきすぎていた。 「夏川《なつかわ》にもそんな風に言ったのか」  ぼくは、かろうじて感情を抑《おさ》えながら言った。すると、美羽子は心底びっくりしたみたいに、目をまん丸に見開いて、 「夏川君に? 彼と君とは違うのに、何で同じ接し方をしなくちゃいけないの?」  逆に聞き返してきたではないか。予想外の反応に、ぼくはぼくでとっさには何のことだかわからずに、 「どういうことだ?」 「どういうことって……」  美羽子はなおも戸惑《とまど》ったように言ったが、ふいにぼくの目の中をのぞきむように、こちらを見すえると続けた。 「たとえば、暮林君は私に味方してくれる? やろうとしてることを手伝ってくれる気があるかしら?」 「そんな……そんなわけがないじゃないか!」  ぼくは一瞬、震えのようなものを感じながら、激しく首を振った。きっと、見られたものではない形相《ぎょうそう》になっていたことだろう。 「君を手伝うなんて……人殺しの片棒をかつぐなんて、できるわけがないだろう」  ぼくはかすれた声で、とりわけ�人殺し�という単語は、自分でも聞こえないほどに押し殺しながら続けた。 「でしょう? だったら、そんな君に、夏川君と同じように言うわけがないじゃない。彼と暮林君は、全然違う存在なんだから。とりわけ、私にとってはね」  にっこりと言う美羽子に、ぼくはぶざまにも言葉を詰まらせてしまった。  では、夏川|至《いたる》は、彼女にとってどういう存在であり、どのようなプロセスを経て積極的に共犯者、いや、むしろ手下となったのか。どういう口先と手管《てくだ》で彼女にたらしこまれて、他人を殺《あや》め、自ら鈍器《どんき》で頭を一撃するに至ったのだろうか。  具体的にはさっぱり見当もつかないが、きっと相当に巧妙《こうみょう》で魅力的な手口であり、見返りもまた大きかったに違いない。何しろ、ぼくなんかと親友ごっこを演じる苦痛を耐《た》え忍《しの》べたのだから! 「じゃあ、行宮は、ぼくにいったいどんな役割を期待してるっていうんだ。徹底的《てっていてき》にコケにされる道化《どうけ》か、バッサリ斬《き》られる役か、それとも通行人Aか? どれも願い下げだけどね」  ふつふつと煮《に》えたぎる思いを感じながら、挑《いど》むように訊《き》いてやった。すると——  美羽子は、再びぼくを見つめた。こちらの眼球の奥まで見通すかのような視線を向けながら、ゆっくりと口元の微笑を深めてゆく。催眠術《さいみんじゅつ》にかけられてしまいそうな危うさを感じながらも、ぼくはなぜだか視線をそらすことができなかった。 「——あいつの影が私を包む。あいつが私をとらへようとすれば」  ふいに彼女はぼくに横顔を向けた。次いで、その唇からこぼれ落ちた言葉があった。 「えっ、何だって?」  あわてて聞き返したぼくを無視して、美羽子は続けた。 「——あいつの光りがいつまでも目に残る。追はれてゐるつもりで追つてゐるのか」 「いきなり、何を言ってるんだ?」 「——そんなことは私にはわからない。でも夜の忠実な獣《けもの》たちは、人間の匂《にお》ひをよく知つてゐる」 「おい、行宮?」 「——人間どもが泊つた夜の、踏み消した焚火《たきび》のあと、あの靴《くつ》の足跡《あしあと》が私の中に」  どうやら、彼女は何かの引用文をそらんじているようだった。 「——法律が私の恋文《こいぶみ》になり」  そのあとに、美羽子は再びぼくを見すえた。そんなことがあるわけもないが、まるで恋しているかのような微笑を向けると、 「——そして最後に……」  その続きは、ほとんど口の動きだけのささやきとなって聞こえなかった。何とかそれを読み取ろうと目を閉じ、神経を研《と》ぎすます。だが、次いで鼓膜《こまく》に届いたのは、ガタリという椅子の音だった。 「おい、どこへ行くんだ?」  あわてて目を開け、呼びかけた。だが、そのとき見えたものは、つかつかと靴音も軽やかに遠ざかってゆく行宮美羽子の後ろ姿だった。さっきまでとは打って変わり、まさに取りつく島もないそっけなさだった。  最初から最後まで、あまりにも人を小馬鹿にしたふるまいに、追っかけて行って引き戻そうかと思った。だが、考えてみれば、ぼくと行宮美羽子の間に交わすべき言葉など、もはやないのだった。  ぼくは力なく椅子に腰掛けた。  たった今まで彼女のいた席に、気抜けしたような視線を投げかける。と、そこに二冊の分厚い本が残されているのが目に入った。  この後始末をしろというのか、あいつはどこまでもぼくのことを……と舌打ちしながらも、さっきのたわごとのような歴史物語の本とはいったいどんなものかと、自席を立って歩み寄り、手に取ってみた。  一冊目は、こんな書物がこの図書室にあったのかと怪《あや》しまれるほど、古びて珍奇《ちんき》なものだった。本革らしい装幀《そうてい》には金色の文様《もんよう》が細かく施《ほどこ》されており、本文はといえば日本語はおろか、ぼくにはどこの国のものか見当さえつきかねる、およそ見たこともない文字と言語でもって綴《つづ》られていた。  これはいったい何の本なのか——と、ためつすがめつページを繰ってみたが、まるっきり見当もつかない。しかたなくもう一冊の方を見ると、それは三島由紀夫《みしまゆきお》全集の戯曲《ぎきょく》編で、こちらは一読してすぐ正体がわかったものの、貧弱とはいえ数多くある図書室の蔵書から、なぜこれを選んだのかという意図のわからなさでは、ほぼ同様だった。  あいにくぼくは、異国の言葉に通じていないと同時に、三島のいい読者ではない。だが、何気なくパラパラとめくっているうちに、ある個所でハッとして指を止めずにはいられなかった。そこには、ついさっき彼女が口走った奇妙なセリフがそのまま記されてあったからだ。  それは、この芝居の主役をつとめる男女二人が、それぞれ舞台の上手と下手に分かれ、片や自分のオフィス、片や隠れ家と、互いに遠く離《はな》れた場所にいながら、時を同じくしてセリフのかけ合いを繰り広げるという場面らしかった。  美羽子が言った「あいつの影が私を包む」うんぬんというのは、女主人公《ヒロイン》のセリフで、その前には男主人公《ヒーロー》が、 「この部屋にひろがる黒い闇のやうに」  と言う。さらに彼女の先のセリフを受けて、 「あいつは逃げてゆく、夜の遠くへ。しかし汽車の赤い尾燈《びとう》のやうに」  次いで「あいつの光りが……追はれてゐるつもりで追つてゐるのか」のあとに、 「追つてゐるつもりで追はれてゐるのか」  と絶妙な一対をなす言葉が放たれる。あとも美羽子が言ったのと寸分違わぬセリフをはさんで、 「人間たちも獣の匂ひを知つてゐる」 「いつまでも残るのはふしぎなことだ」  とヒーローが語り、ヒロインの「法律が私の恋文になり」を受けて、 「牢屋《ろうや》が私の贈物《おくりもの》になる」  というセリフとなる。そして、そのあとに二人の主人公が声をそろえて、 「そして最後に勝つのはこつちさ」  と言い放つのに合わせて、舞台は暗転となる——。  あのとき美羽子が言いかけ、あえて声に出さなかったのはこのセリフだったのだ。そして、この戯曲の指定によれば、男女が同時にこの言葉を発することになっている。と、いうことは——?  ひょっとして、行宮美羽子は自分をヒロインに、そしてあろうことかぼくをヒーローに擬《ぎ》し、勝手にセリフのかけ合いを演じていたとでもいうのか。 (まさか)  ぼくは、あることに気づき、ぎょっとせずにはいられなかった。  まさか、これがぼくがさっき放った「行宮は、ぼくにいったいどんな役割を期待してるっていうんだ」への答えだというのだろうか?  ぼくはあわててこの戯曲のページをさかのぼり、震える指先はほどなく扉《とびら》ページに達した。そこには、このように記されていた。   江戸川乱歩原作に據《よ》る    黒《くろ》 |蜥 蜴《とかげ》    三幕  そう、これは乱歩の探偵小説『黒蜥蜴』を三島由紀夫が、彼独自の耽美《たんび》と逆説の世界に取り込んで脚色《きゃくしょく》した、あまりにも有名なお芝居であった。言うまでもないことだが、ここにいうヒロインとは稀代《きたい》の女賊《じょぞく》・黒蜥蜴であり、ヒーローとは日本一の名探偵・明智小五郎《あけちこごろう》にほかならなかった。 (ぼ、ぼくが明智? こ、このぼくが……?)  いつしかぼくは低く笑いだしていた。それは、まばらな図書室の利用者たちが薄気味《うすきみ》悪そうに身を引き、あるいは席を立ち、例のやる気のない学校司書がカウンター裏の準備室から、「だから、ここにはなるべく人が集まらないようにしたいんだ」とばかり、あからさまな嫌悪《けんお》の表情をのぞかせても、容易にやむことはなかった。 [#挿絵(img/01_251.png)入る] [#改ページ]  CHAPTER 16  その後、黒河内《くろこうち》刑事からは何度か連絡があったが、ぼくはいつも適当にあしらうか無視しておいた。  彼としては、ぼくをスパイか手下に使い、行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の動きだの学園内の異変だのを報告させたかったのかもしれない。それとも、周囲からうとまれながらの孤独《こどく》な捜査《そうさ》に耐《た》えかね、ときにぼくをおちょくったり、愚痴《ぐち》をこぼしたりしたかったのかもしれない。  後の方だったとしたらお気の毒だが、とにかく彼に——というよりは、彼の追っているものにかかわりたくなかったのだ。第一、ぼくの方から捜査に協力したくとも、これといって報告するような情報などなかった。  なぜなら、何も起こりはしなかったからだ。退屈《たいくつ》な日常を突《つ》き破るような出来事は何一つ。だが、退屈な日常というものの、何と恐《おそ》ろしいことか!  モリアーティ教授の心を持つ少女が同じ教室にいて、先方はぼくがそうと知っていることをお見通しだ。彼女はこのままおとなしく一人の女子高校生のままでいるつもりはなさそうだし、そればかりかぼくに並々ならぬ関心を寄せているようだ。  そして——ぼくもまたそうなのだ! 正直に言ってしまおう。ぼくは美羽子から目も、それから心も離《はな》すことができない。ぼくから彼女へ向ける思いは、ただの卑小《ひしょう》な人間の感情に過ぎなくて、たぶん彼女からのものとはかなり違《ちが》っているはずだが、それでもぼくにすればいっぱいいっぱいだった。  いつ、この危うい均衡《きんこう》が崩《くず》れるのか。そのときいったい何が起こるというのか。これほど恐ろしい日常が、ジリジリと身を焼かれるような退屈さがあるだなんて、夢にも思わなかった。  教室にいても居場所はないし、いれば美羽子の澄《す》みきった瞳《ひとみ》と目が合い、奥底の知れない微笑と出会う確率はきわめて高い。それを避《さ》けるためもあって、ぼくは以前よりしばしば、そしてずっと長い時間を図書室で過ごすことが多くなった。  その目的の一つに、彼女が読んでいた書物の正体を突き止めたいという思いがあった。あのとき、ぼくはあの本をどこに戻《もど》していいかわからないまま、机の上に残したまま図書室をあとにしたのだが、誰か——まさか、あの司書ではあるまい——が後始末をしてくれたとみえ、あとで奥まった棚《たな》の一隅《いちぐう》から掘《ほ》り出すことができた。とはいえ、いくら中身とにらめっこをしても、内容はさっぱりわからなかった。  文章はもちろん、文字も見慣れないものばかり。時折|挿入《そうにゅう》される記号とも紋章《もんしょう》ともつかないものに興味を引かれ、これが解読の手がかりになるかと思ったが、そう簡単にいくはずはなかった。  ここに、彼女が言う�月蝕《げっしょく》の夜に、強大な軍勢によって理不尽《りふじん》にも攻め滅《ほろ》ぼされた国�のことが記してあるのか、それとも、読めない言葉で書かれているのを幸い、まるで関係のない本をそれらしい小道具に使ったのか。美羽子のことだから、おおかた後者だと思うのだが、しかし……。  それより、まだしも脈がありそうなのは、彼女が夢見るような調子で物語った「小さなお国」の話に、何らかのバックグラウンドがあるのかどうかについての調査だった。もとより美羽子と、その国なり〈姫〉なりの間にどんなつながりがあるとも思えないが、どうせ何か元ネタ——事実にせよフィクションであるにせよ——があるに違いなく、それを突き止めて、ギャフンと言わせてやりたかった。  だが、歴史の本を調べ始めてまもなく、ぼくは何ともいえない気分になった。実に多くの「小さなお国」が悲劇的な最期をとげていることを知ったからだ。  それも、何百年もさかのぼる必要はない。アジアに限っても、ビルマ王国では英国軍により国王や王妃《おうひ》が処刑《しょけい》され、王女たちはみな悲惨《ひさん》な境遇《きょうぐう》に落とされたし、アンナン国王でありベトナム皇帝《こうてい》ともなった人物は、祖国を追われたまま二十世紀末まで生きながらえていた。  そして、何の罪もなく中国の侵略《しんりゃく》を受けたチベットの、同じくアメリカに攻《せ》め込《こ》まれたカンボジアの悲劇——。ヨーロッパでは、チェコスロバキアにポーランド、バルト三国と呼ばれるエストニア・ラトビア・リトアニアといった国々が、ソビエト連邦《れんぽう》のため蹂躙《じゅうりん》された。  誰にも止められはしなかったし、止めようともしなかった。情けない話だが、日本のインテリと呼ばれる連中は、当然の自由を求めた人たちが、社会主義の美名のもとに弾圧《だんあつ》されるのをむしろ歓迎《かんげい》し、「せっかく理想の政治体制の下にいるのに、なぜ逆らうのか」と抵抗《ていこう》をあざ笑ったという。まさに美羽子の話そのままだが、聞くだけでも胸のむかつくような気がした。  ともあれ、痛ましい悲劇は数え切れないほど起きてきたわけだが、そこでぼくはふと考えずにはいられなかった——おそらくは、おのおのの舞台に、それぞれ〈姫〉と呼ばれる存在がいたのではないだろうか、と。  何も、王族とか高貴な身分とは限らない。その名にふさわしい、周囲から愛された美しく賢《かしこ》い少女は、きっとどこの国にもいたことだろう。そして、殺戮《さつりく》や略奪《りゃくだつ》のただなかで、彼女らがどんな凄惨《せいさん》な体験をしなくてはならなかったか……ぼんやりと想像ぐらいはできるが、その真の痛みや心の深傷《ふかで》がどんなものであったかは、しょせん理解できるわけもなかった。  そう、〈姫〉といえば、こんな人もいた。二十世紀の始まる少し前に、白人たちの卑劣《ひれつ》な陰謀《いんぼう》のため滅亡《めつぼう》したハワイ王国のカイウラニ王女——�|妖精の姫君《フェアリー・プリンセス》�という呼び名がぴったりの、美しく可憐《かれん》な容姿とはかなくも哀《かな》しい生涯《しょうがい》は、本当にこのような人がいたのかと怪《あや》しまれるほどだった。  そうした驚《おどろ》きや感動はともかくとして、あの物語がいったいどのあたりからネタを引っ張ってこられたものなのかについては、ついに手がかりを得られなかった。むろん、美羽子が何のつもりであんな話をしたのか、思い入れたっぷりに語られた〈姫〉とは何者なのかについても。  あてのない、やればやるほど取りとめのなくなる資料調べに、いいかげんあきてきた放課後だった。図書室を出てグラウンドに下り、ほこりっぽいけれど新鮮《しんせん》な空気を吸っているところへ、それぞれ制服と体操着姿の男子二人組が通りかかって、 「何だ、するとお前ら、今夜は学校に泊まり込みか。大変だな」  いかにも運動部っぽい、色浅黒く筋肉質な方が、やや色白で眼鏡《めがね》をかけた連れに声をかけた。どちらもぼくとクラスは違うが同じ学年で、前者は確か陸上部の選手、もう一人の方は確か……。 「ああ、地学部の宿命だよ。こういう天文学的イベントのあるときは、必ずといっていいほどな。で、これからちょっと食料の買い出しに出かけようと思ってさ」  すると、陸上選手は首をかしげて、 「イベント……? 今晩あたり、流星群でも降るってのか」 「あいにく、そんな派手なのじゃない。といっても、そうしょっちゅうあるもんでもないけどな」 「何なんだ、そりゃあ」 「月蝕だよ」  眼鏡をかけた地学部員は、あっさりと答えた。陸上選手は目を丸くしながら、 「月蝕って、あの月の欠ける月蝕か」 「その月蝕だよ。ほかに月蝕はなかったと思うが」  わざわざしなくてもよさそうな質問に、これまた同様な答えが返された。だが、ぼくはその単語に凍《こお》りつき、その場に立ちつくしてしまった。 「今夜は、月蝕——?」  心の中でつぶやいただけのつもりが、ひょっとしたら声に出して叫《さけ》んでいたかもしれない。というのは、地学部員と陸上選手の二人組が、一瞬《いっしゅん》立ち止まってこちらをけげんそうに見た気がしたからだが、ぼくの中でグルグルとめぐり始めた想念に比べれば、そんなお体裁《ていさい》なんかもうどうでもよかった。  ——いつの時、どこの地かも知れず起きた悲劇。そのヒロインである〈姫〉の名も、今となっては調べようもない。唯一《ゆいいつ》はっきりしていることは、それがとある月蝕の夜に起きたということ。ということは、まさか——? (いや、そんなばかなことが……ハハハ、いくら何でもこじつけだ、妄想《もうそう》もいいとこだよ。いくら月蝕に因縁《いんねん》めいたものがあるにしたって、そして今夜たまたま太陽と月の間に、地球がうまくはまり込むからって、何か起きると限ったもんじゃない。だが、もし万一、今の均衡状態が破れるとしたら、何かが起きるとしたら、それは……)  今夜、なのではないか?  ぼくは思わず、そうつぶやいていた。  これでも、本当は「今夜だ!」と叫びたかったのを、やっとのことでこらえたのだ。そのうえで、念のため心の中でこう付け加えるのを忘れなかった。 (まさか、そんなことがあるわけがない——美羽子が今夜、何か行動を起こすだなんて!)  と。  いつかそのときは来るとしても、それは今ではないはずだ。今であるわけがない。今であってほしくはない。どうか、せめて今では……  同じ言葉を、むなしい予測というよりはただの願望を、何度頭の中でリピートさせたことだろう。  そのまま放課後を迎《むか》え、日は翳《かげ》り、家路に着き、やがて月の出を迎えたころおいのことだった。その不毛なループを断ち切るものが、心臓をドキつかせるような電子音(それは、いつもの何倍ものけたたましさで鳴り響《ひび》いたような気がした)とともに現われたのは……。 「もしもし、暮林《くればやし》君だな? おれだ、黒河内だよ! 悪いが今晩出てこられるか。いや、何としても出てきてもらわなくちゃ困るんだ。奴が、あのモリアーティの心を持つ小娘がとんでもないことをやらかそうとしてるんだ……そうとも、どういう意味があるのかは知らないが、何年かに一度のこの月蝕の夜に!」  むろん、行くつもりなど毛頭なかった。断じて、絶対に、たとえ欠けた月が頭の上に降ってこようとも、自分の家の自分だけの部屋でぬくぬくと過ごすつもりだった。  ——数時間後、月はかけらとなって落ちてくることもなく、ぶじに天空に浮《う》かんでいた。  にもかかわらず、ぼくは迷路みたいに入り組んだ屋敷町《やしきまち》のただ中にいて、夜風を肌《はだ》に感じていた。 (やっぱり、来てしまったか)  ぼくは憂鬱《ゆううつ》さと不安のいりまじった気分で、何とはなく視線をもたげた。ふうぅ……と思わずため息が口をつきかけた次の瞬間、ぼくはハッと息をのまずにはいられなかった。  すでに蝕は始まっているとみえ、満月の左側のかなりの部分が黒く塗《ぬ》りつぶされていた。そうだ、太陽と月の見かけの大きさがほぼ同じである日蝕《にっしょく》とは違い、月はたとえ部分月蝕であっても、はるかに大きな地球の影《かげ》に、まるでのみこまれるように覆《おお》われてしまうのだ。まして、確か今夜は……。  気がつくと、ぼくは一軒《いっけん》の屋敷の前に立っていた。それは、あの西洋館——ぼくが文字通りの殺人劇の観客になることを強いられた場所だった。 �いいか�  ふいに、黒河内刑事の声が耳の奥によみがえった。 �もし、お前さんがこれまでのいろんな厄介《やっかい》ごとにケリをつけたいのなら、今からあそこの敷地《しきち》内に入り込め。正面の門からでも塀《へい》を越《こ》えるんでも、壁《かべ》の破れを捜《さが》すんでも何でも、やり方は自由……ただし誰にも見つからず、とっ捕《つか》まりもしないという条件つきだがな�  そんな危険なんか冒せるもんかい——そう吐《は》き棄《す》てつつも、ぼくは灯り一つない西洋館に向かって歩を進めた。苦々しさと一抹《いちまつ》のスリルと、あとの九割はやけくそな気分だった。 �あの建物の向かって左側に回り込むと、塀にはさまれた小道がのびている。少々|狭《せま》っ苦しいが辛抱《しんぼう》するんだな。すると……�  そのコースは、屋敷を反時計回りに迂回《うかい》したあのときとは逆方向だった。そのまま進めば、樫《かし》の木の生えた裏庭に抜《ぬ》けるが、目的地はそちらではなかった。 �すると、その先に、建物の壁面《へきめん》に沿って階段が設けてある。そこを下りると、ほんの何段かで半地下って感じの入り口に行き着くから、そこのドアを……� (それが、このドアか。引き返すなら今のうちだが……)  ぼくは、古びて黒っぽく変色したノブをつかむと、いつしかドキつき始めた心臓をなだめながら、手にグッとひねりをくれた。  ドアはかすかなきしみ音を立て、おかげでこちらの背中に冷や汗《あせ》を垂らさせながら、ゆっくりと開いた。そのとき、何か白いものがハラリと落ちたのに、いっそう肝《きも》を冷やしたが、目を凝《こ》らせばそれは何の変哲もなさそうな紙切れだった。  手帳のページをちぎって折ったらしいそれを開いてみて、そこに何行かの走り書きとともに「クロ」という署名を見つけたとき、ぼくはほんのちょっとだけ安堵《あんど》した。  少なくとも、この薄気味《うすきみ》の悪い廃屋《はいおく》にぼく一人ぼっちという状況《じょうきょう》ではないことがわかったからだ。あとになってみれば、その方がどんなによかったか知れないのだが……。  そこに記されたメモには、ぼくがこのあと落ちるべき地獄《じごく》——もとい、向かうべき道筋が示してあった。  ドアの向こうには、外と同様な暗がりが広がっていた。だが濃密《のうみつ》さにおいては、屋内の方がはるかにまさっている気がした。  さきほどより欠けを増したように思われる月の光に、紙切れの文面を照らし、内容を頭にたたきこむ。次いでぼくは第一歩を踏《ふ》み出した——自分でも意外なほど躊躇《ちゅうちょ》なく、そして無謀《むぼう》に。 (まずは前方へ約五メートルか。次に右に折れて、それから……)  手足をからめ取られてしまいそうなほどに、ドロリとよどんだ闇《やみ》だった。その中に身を投じたぼくは、ひたすら神経をとぎすまし、用心深く、けれどとどまることなく進んでいった。 (えーっと、その次は壁沿いに……おっと、こんなところに段差が! ちゃんと書いといてくれよ、そういうのは)  勇敢《ゆうかん》とか大胆《だいたん》とか、そんなのじゃない、ちょっとでも逡巡《しゅんじゅん》して立ち止まったりしたら、それきりすくんで動けなくなるような気がしたからだ。そして、そのまま自分自身が黒一色に塗りつぶされた中に溶《と》けていってしまいそうな、そんな恐怖《きょうふ》さえ感じずにはいられなかった。  あの紙切れに記されたルートは、ほんの一度目を通しただけにもかかわらず、しっかりと脳裡《のうり》に刻まれていたし、それに従って手足もテキパキと動いてくれた。  まったく、学校の勉強、それから体育の時間もこうあってほしいもんだ——そう自嘲《じちょう》っぽく嘆息《たんそく》しかけて、発想のアホらしさに気づいた。人間の知恵とかいろんな能力って、こういう生死をかけた闘《たたか》い、サバイバルのためにこそ与えられたものだろう。  なのに、ぼくらは試験でいい点を取ったり、スポーツでいい格好《かっこう》をしてみせたり、場の空気を読んで仲間はずれにされないといったことのために、それらを最優先に使うように教えられてきた。全くバカだ、バカばっかりだ。  じゃあ、ぼくはどうしてまた、こんな闘いなりサバイバルに身を投じているんだろう。好奇心《こうきしん》? 意地? どれも違う。  もしかして、それは——相手が行宮美羽子だから? ぼくが、彼女にどうしようもなく魅《ひ》かれているから?  これまでのぼくなら、「違う!」と激しく首を振《ふ》っていたかもしれない。だが、今のぼくは、あえて否定しなかった。そうだとも、それで何が悪い!  ……いけない、よけいなところで力を込めたものだから、ちょっと感覚が鈍《にぶ》ってしまった。といっても、方向を見失ったわけではないが、それでもちょっと立ち止まって考える必要があった。 (黒河内さんの指定では、このあたりでいったん待てということだったが……)  実のところ、開け放たれた戸口と壁に囲まれているらしい�このあたり�が、小部屋なのか物置なのか、それとももっと別のものなのかはよくわからなかったが、あの紙片にそこまでの指示しか書いてなかったからにはしかたがない。  そのとき、ふと思った。黒河内刑事も、ひょっとして美羽子に特別な思いを……?  ぼくは、思わず息をのまずにはいられなかった。  そのことが、あのいい大人を果てのない追跡《ついせき》に追い込み、自称敏腕《じしょうびんわん》刑事だった男を組織の中でのはぐれ者にしてしまったのではないか。だとしたら、それはぼく自身の運命でもあるのではないだろうか?  そのことに気づき、これまでで最も強い戦慄《せんりつ》を覚えた、そのときだった。間近で荒《あら》い息づかいとともに、ささやきかけてきた声があった。  ——暮林……君。  ぼくは仰天《ぎょうてん》するとともに、ただちに状況を理解した。飛び出しかけた叫びを、あわててのみこむと、 「黒河内さんですか? ひょっとして、さっきからここに?」  ——そんなことは……どうでもいい。やっぱり来てくれたんだな。  黒河内刑事の返事はかすれて低く、しかし聞き取りにくくはなかった。単に、誰かに聞かれるのをはばかっての小声か、ほかに何か理由があったのか訊《き》きたかったが、なぜかそうさせない迫力《はくりょく》のようなものがあった。  ——ついに、あいつ……行宮美羽子がやらかしやがったんだよ。電話でも話したが、とてつもないことをな。 「それは——いったい、どんなことを?」  ぼくの質問に、黒河内刑事は直接には答えず、  ——今夜、こっから少し離れたところにある、どでかい超一流ホテルでパーティーが開かれる。××××ってとこで、そこの国の政府と協力して大々的な開発事業を進行中の企業《きぎょう》関係者、その国と縁《えん》の深い政治家や学者、文化人を招いての一大イベントだ……。  伏字《ふせじ》で記した個所には、固有名詞——それも地名らしきものが入るのだが、ひどく早口で、しかもくぐもった調子だったため正確には聞き取れなかった。にもかかわらず、その瞬間、ぼくが電気を浴びせられたようになったのは、その地名をごく最近目にしたような気がしたからだ。  そう、あの図書館で、美羽子が話した「小さなお国」と〈姫〉の元ネタを暴《あば》いてやろうと読みあさった本の中に、確かそれと似た名前が……何といったっけ、何だか不思議《ふしぎ》な響きを持つ地名だった気がするのだが。  いや、そんな記憶《きおく》を掘り返している場合ではない。ぼくはあわてて訊いた。 「で、そのイベントだかパーティーで、行宮が何をするっていうんです」  ——…………。  返ってきたのは、言葉ではなく、いっそう荒く小刻みな呼吸だった。気をもませるような間を置いてから、  ——あいつがやろうとしてること、それは……。 「それは?」  そう問いかけたのと、フーッと生温かい息がぼくの横っ面に吹《ふ》きかかるのが同時だった。その息にのせるようにして、  ——み・な・ご・ろ……。 「く、黒河内さん……!?」  思わずそちらを振り向いたぼくは、闇の中から現われ出た顔の輪郭《りんかく》にぎょっとし、次いでかろうじて判別できそうな目鼻立ちを目の当たりにした。まるで、暗くて冷たい水面にぽっかりと浮かび上がった溺死体《できしたい》のようだった。  むろん、本当に水につかっていたわけではないのだから、少しもぬれてはいない。だが、よける間もなくぼくにズシリと寄りかかった刑事の体は、凍りついた水底に沈《しず》んでいたかのように冷たかった。 「!」  あまりのことに声も出ず、のしかかる黒河内刑事をよけることもできないまま、ぼくはみるみる体勢を崩していった。その果てに、恐怖のあまりか、それとも何らかの人為的な手段によってか、急速《きゅうそく》に意識を失っていったのだった——。 [#改ページ]  CHAPTER 17  ——ねえ、暮林《くればやし》君……暮林一樹《くればやしかずき》君。  闇《やみ》の中で語りかける声がした。透《す》きとおったような響《ひび》きの、少女のものらしいささやきだった。  ——やっぱり、来てしまったのね。ううん、来てくれたというべきかな。 (誰だ……その声は——もしかして行宮《ゆくみや》?)  夢うつつの状態だったぼくは、そう問いかけながら飛び起きようとしたが、体は少しも動いてくれず、声も出はしなかった。  いや、自分で自分の動きが実感できず、声が聞こえなかったのかもしれない。それが証拠《しょうこ》に、相手にはぼくの言葉がちゃんと届いたらしく、  ——そうよ。最近は、あまり話せなくって残念だったけど、ちょうどよかったかも。 (ちょうどよかった……どういうことなんだ)  ぼくが呆《あき》れて言うと、行宮|美羽子《みわこ》は小さく笑ったが、そこにはいつもと違《ちが》う響きが含《ふく》まれていた。  ——だって、ひょっとしたら、今夜でもうお別れなのかもしれないんだもの。 (今夜で……ということは、まさか)  ぼくは——夢うつつの中にしてはおかしな話だが——ハッとせずにはいられなかった。 (君は、何かやらかすつもりなのか、この月蝕《げっしょく》の晩に?)  ——おやおや、お別れだと言ったら、もうすこし名残《なごり》でも惜《お》しんでくれるかと思ったら、そんな話? (いや、その……)  ——いいの、いいの。暮林君の言う通り、確かに今夜あることを決行するつもりなんだから。 (いったい何をしようというんだ。それは、どこかのホテルで開かれるパーティーに対してか?)  ——さあね。でも、世の中には自分たちがどんなに恐《おそ》ろしい、そして浅ましい悪事をはたらいて、どんなに多くの人たちから恨《うら》まれているかも知らない人たちが、のんきに乾杯《かんぱい》! なんてやってるのかもしれないね。たった今、この瞬間《しゅんかん》にも。  予期されたことだが、返ってきたのは意味ありげなはぐらかしと、いたずらっぽいクスクス笑いだけだった。 (じゃあ、一つだけ教えてくれ。君は……君こそが〈姫〉なのか、あの物語の中の?)  ——そうでもあるし、そうではないとも言えるってとこかしら。第一、暮林君の探し出したどの〈姫〉が、私だっていうの? (そ、それは……)  ぼくは返答に詰《つ》まってしまった。すると、美羽子はさもおかしそうに、  ——じゃあ、せっかくだから〈姫〉の話をしてあげる。〈姫〉のお国には、大昔からあるものが伝わっていてね。それは天の運行を受け、地上に善悪を問わず絶大な力をもたらすんだけど、あいにくそのお国が攻《せ》められたときには、裏切り者の手で効力を封《ふう》じられていてね。で、あっけなく滅《ほろ》び去ってしまったわけ。で、その�あるもの�はめぐりめぐって、遠くの国に渡《わた》ってきたんだけど、たまたまそのことを知った連中が争奪戦《そうだつせん》を繰《く》り広げてしまって、それが実は暮林君を巻き込んだあの三つの事件にも発展したのよ。 (三つの事件というと……あの通学路のとコインロッカー・コーナーのと、それにこの屋敷の二階で起きたやつか)  ——そう、もちろん。あのときあの中年男が落としたキーを暮林君が拾い、それを夏川《なつかわ》君に取り返してもらったのを、二人目の男に渡したらああいうことになったんだけど、もともと彼らは、いろいろと切羽詰《せっぱつ》まってたり、追い込《こ》まれたりしててね、それで一攫千金《いっかくせんきん》を狙《ねら》ったり、寝返ろうとしたりと欲をかいたりしたあげく、ああいう最期をとげることになってしまったの。  まるで他人《ひと》事《ごと》みたいに言っているが、ああいう最期をとげさせたのは、彼女自身ではないのか。いや、それ以前に切羽詰まらせたり、追い込まれたりするように仕向けたのも、ひょっとして……? そう思ったから、 (たとえば、こんなようなことかい。彼らは彼らなりの思惑《おもわく》や事情があって、その�あるもの�とやらにかかわり、たぶんそういう自覚はないまま、君の計画の部分品となって働き始めた。だが、ついついよけいなことまで知り過ぎたか、あるいは恐ろしさに逃《に》げ出したくなってとか、あるいはよそに寝返ろうとして、行きがけの駄賃《だちん》につかんだのが、例のコインロッカーのキーだった。実はそれこそ罠《わな》であって、そこにとんでもない殺人装置がひそんでいた。  いや……あの中年男はそのことを百も承知で、動かぬ証拠となるキーを持ち出したのかもしれない。で、そのことを知って追ってきた殺人者の手にかかってしまったという方が理屈《りくつ》が通るな。そのあと、ちょっとした紆余曲折《うよきょくせつ》を経て戻《もど》ってきたキーを、こちらも始末される予定だった若い方の男に渡し、本来の処刑《しょけい》目的に使った——そんなところじゃなかったか)  考え考えしながら、喝破《かっぱ》してやると、美羽子は喜びに満ちた声で、  ——すてき、すてき! 何てみごとな推理なの。初めて私のことをわかってくれる人が現われたことに感謝しなくっちゃ。最初こそ偶然だったけど、そのあとことさら暮林君を一連の事件に巻き込んでいったのは間違いじゃなかったみたいね。 (何だって? すると君はぼくをまるでゲームの駒扱いにして……)  聞き捨てならない言葉に、ぼくは口調を荒《あら》らげたが、美羽子はほがらかな笑いで、あっさりとそれを押し返して、  ——いいじゃない、今さらそんなこと。それより、この屋敷《やしき》での一幕劇については? (あれこそ、君の言う�あるもの�をめぐっての駆《か》け引きであり、彼らはそのことに乗じた君にマリオネットのように操られて殺し殺される関係となった。男の一人が金庫の中から取り出そうとしたのは、その�あるもの�につながる何かで、もっともそれは君が投げ与えたガセネタ、ただの疑似餌《ぎじえ》に過ぎなかった……)  そこまで話して、ぼくは絶句し、胸が早鐘《はやがね》のように打つのを感じた。  ……美羽子がそこにいた。  それは最初、漆黒《しっこく》の闇に白糸で刺繍《ししゅう》された少女像のようだった。それがゆらりとゆらめいて、白くにじんだような光に包まれた彼女の姿となった。  と見る間に、ひどく現実感を欠いたそれが、ふぅわりと滑《すべ》るように近づいてきたではないか。それに対し、ぼくは身じろぎもできず、まっすぐにこちらへ向けられた相手の瞳《ひとみ》を見返すことしかできなかった。  ほどなく、ぼくは漆黒の中に姿を浮《う》かび上がらせた美羽子と向き合っていた。ただの幻覚《げんかく》にもかかわらず、体温や息づかい、甘やかな香りまでが感じられたのは妙《みょう》だったが、そのことを怪《あや》しんでいる余裕はなかった。  ——やっぱり、私のことを見ていてくれてるのは、暮林君だけね。たとえ、それがまるで怪物《かいぶつ》を見る目でもあったとしても。それに……。  彼女の唇《くちびる》から、いつもとは違うニュアンスの言葉がこぼれ落ちた。 (え……?)  ——ううん、何でもない。そうだ、私の数少ない理解者へのささやかなお礼として、いいことを一つ教えてあげる。さっきから話してる�あるもの�についてなんだけど、それが動きだしたが最後、もう容易なことでは止めることはできない。ひとたび特別な光を浴び、天の動きとシンクロし始めたら、どんな方法で�あるもの�とのつながりを断とうとしても、もう駄目《だめ》。そうなったら、とにかくできるだけ遠くへ逃げること。天と�あるもの�の中で再現される現象が、ともに頂点に達するときに解き放たれる力は、遠くの標的を焼きつくし、消滅《しょうめつ》させてしまうだけでなく、間近にあるものにどんな力を及《およ》ぼすかわからないからね。でも、そうはできない、そうしたくないというなら……。 (なら、どうしろというんだ?)  ——死か、パズルを解くか、その二択《にたく》ね。  あっさりと言ってのけたのには、絶句せずにはいられなかった。そのせいで、ぼくは死と天秤《てんびん》にかけられた「パズル」について訊《き》く機会を失《しっ》してしまった。  ——さてと……じゃ、私、行くね。やらなければならない使命が、果たさなければならない望みがあるから。  言いながら、彼女はゆっくりと身を退《しりぞ》かせていった。今にもくるりと背を向け、そのまま闇の奥に溶《と》け消えるかと思われたとき、 (おい、待てっ、待つんだ!)  ぼくは叫《さけ》び、手をさしのべようとした。だが、まるで金縛《かなしば》りにでもあったように——いや、むしろ体そのものがなくなってしまったかのようで、指一本|触《ふ》れることもできなかった。  だが、ふと気がつくと、いったん遠ざかったはずの美羽子の顔が間近にあり、そればかりか彼女の手がぼくの両頬《りょうほお》に触れ、優しく包み込んでいた。  その思いがけない冷たさに、あっと思ったときだった。全く予期しないことに、美羽子の唇がぼくのそれに重ね合わされた。  キス……あろうことか、行宮美羽子とキス! その行為が、彼女の内心の何かを吐露《とろ》したものであったとしても、徹頭徹尾《てっとうてつび》ぼくをコケにするためであったとしても、あるいは何か魔術的な意味があったとしても、その効果はてきめんだった。  次の刹那《せつな》、美羽子を含めた世界の全てが消え失せ、ぼくは暗闇の世界から放り出されたからだ。まるで、かみ捨てられたガムも同然に……。 (待ってくれ! お願いだ、美、羽……)  それは、ぼくが初めて彼女に面と向かって口にした、ファーストネームでの呼びかけだった。 「美羽子!」  自分の叫びに自分でたたき起こされて、ぼくはガバッと身を起こした。やみくもに腕《うで》を振《ふ》り回し、行宮美羽子の衣服のすそでもつかみ取ろうとむなしい試みたあと、ハッとわれに返った。 (今のは夢、だったのか……?)  そう認識したとたん、何ともいえない失望と自嘲《じちょう》が胸の中にひたひたと流れ込んできた。心地よい眠《ねむ》りの中で願いがかなえられ、そのあと迎《むか》えた目覚めのときに感じるむなしさ、恥《は》ずかしさ。そのとびきりむごくて身にこたえるやつが、ぼくを責めさいなんだ。  だが、待てよ。だとしたら、この唇に今も残る感触《かんしょく》は、五感に残された彼女の記憶《きおく》はいったい——? (そうだ、美羽子はやはりここにいたんだ!)  ぼくは心の中で叫んだ。  だが、それはそれとして、ここはいったいどこなのだろう。たぶん、あの屋敷と一つ屋根の下なのだろうが……。  ぼくがいるのは、電灯もないのになぜかほの明るい光に照らされた部屋の端《はし》っこで、目を覚ましたときには、そこに積み上げられた木箱やら正体不明のガラクタやらに寄っかかってへたりこんでいた。  壁《かべ》も柱も天井《てんじょう》も時を経て小汚《こぎたな》く、どこもかしこもほこりっぽい部屋だった。特に汚らしいのは床《ゆか》だったが、ふと視線をめぐらした片隅《かたすみ》にボロ切れみたいに倒《たお》れている人物が目に入った。それが誰かは、もはや言うまでもなかった。 「黒河内《くろこうち》さん! 大丈夫ですか?」  すっ飛んでいって抱《だ》き起こしたが、幸い息はしていたものの、いくら叫んでも揺《ゆ》すぶっても白目をむくばかりで、それ以上何の反応もない。よかった、とりあえず死んではいないという安堵《あんど》と同時に、もしかして生ける屍《しかばね》に? という最悪の想像までしてしまったりもした。  とにかく、このままこんなところにいてはと、脱出口《だっしゅつこう》を求めて立ち上がったときだった。背後でカチコチ、チクタクと刻まれる金属質のリズムを耳にした。いや、さっきから気づいていたのだが、それどころではなかったのだ。  一度意識したが最後、もう無視はできなかった。心なしか、よりいっそう大きく鳴り響き始めた音源を確かめるべく、思い切って後方を振り返った。  次の瞬間、ぼくは今まで視野をさえぎっていた木箱その他の山越《やまご》しに、とんでもないものを見た——いや、むしろ見てしまったというべきか。 「な、な、何なんだ、これは……?」  この部屋は、全体としてはちょっとしたダンスパーティーぐらい開けそうな広さなのだが、その中央に鎮座《ちんざ》ましましていたそれを、さていったいどんな風に表現したらいいだろう。ぼくをして思わず目を疑わせ、次いで噴《ふ》き出させ、すぐそのあとに笑いを引っ込めさせてしまった代物を。  一言で表わせば、金色燦然《こんじきさんぜん》として巨大なからくり[#「からくり」に傍点]仕掛《じか》けといったところか。あるいはファンタジーに出てくる|魔 法 陣《マジック・サークル》——数学|遊戯《ゆうぎ》の|魔 方 陣《マジック・スクエア》ではなく——を立体化したとでも言った方が、イメージしやすいかもしれない。  だが、ぼくがそのとき連想したのとは、それとは全く別のもの、別のエピソードだった。  それは、まだ幼かった昔、母親にタンスの奥から取り出した「おじいさんの持ち物だった」という懐中《かいちゅう》時計を見せてもらったときのことだ。何でも銀製だそうで、外側は黒っぽく薄汚《うすぎたな》くなっていたが、布でこすってみると、たちまちピカピカの地肌《じはだ》が輝《かがや》きだしてびっくりさせられたものだ。  古いものだし、もう壊《こわ》れて動かないだろうと思っていたが、竜頭《りゅうず》と呼ばれるネジの部分を回すと、たちまちチクタクと音を立てて時を刻み始めた。まるで長い眠りから覚めたみたいだった。  もっと驚《おどろ》いたのは、母親がパチンと音をたてて、裏ぶたを開いたときだった。そこには外側からは想像もつかない、まるで新品のようにピカピカの金色や銀色をした大小の歯車、さまざまな形をした名も知れない部品が、規則正しく動いていた。  全てが冷たい金属製で、刻むリズムも正確そのもの。なのに、まるで生き物のように息づき、脈打っているように見えたのはなぜだろう。ともあれ、ぼくはその時計の機械仕掛け——ムーヴメントというらしい——にすっかり魅了《みりょう》されてしまったのだった。  だからといって、機械いじりに興味を持って、それが得意になったりはしなかったが(何しろ、不器用なもので)、ぼくが妙に理屈っぽく、ロジックの美しさみたいなものを求めるようになった一因は、ここらあたりにあるのかもしれない。  で……何が言いたかったかというと、ぼくの目の前にあったのは、その懐中時計の中身を何十倍にも拡大したような代物だったということだ。  ——部屋いっぱいを占《し》めそうなほど巨大な黄金の円盤《えんばん》が、腰《こし》の高さほどに据《す》えられていた。よく見ると、それは一枚板ではなく、十個ほどの同心円が重なり合うことで成り立っていた。  中央の球体と、それをとりまく細いリング群という構成だった、それらのすき間からは複雑精妙な機械仕掛けがめまぐるしく作動し、駆け回っているのが見てとれた。どうやら、一つひとつの環《わ》は異なった動きをしているらしいが、唯一《ゆいいつ》中心にある、美しく彩色された円盤のみは不動だった。  いっそう不思議《ふしぎ》なのは、からくり全体がきらきらと輝き、金色に照り映えていることで、この部屋には灯りもないはずなのにと怪しまれた。どうやら自ら光を発しているらしく、さっき目覚めたとき、まわりがほの明るく感じられたのもそのせいだった。  各パーツには、細かく刻印が施《ほどこ》されていたが、絵とも文字ともつかないそれらを見たとたん、ぼくはあるものを思い出した。あのとき図書室で、美羽子が読んでいた異国語の本、あの中に書かれていたのと同じではないか。文字も、文章の間に挿入《そうにゅう》されていた記号のような紋章《もんしょう》のようなものも、何もかもが。  だからといって、このからくりの正体が割れるわけでないのは本と同じことだったが、その場を去ることも、そもそも逃げ出さねばいけないことも忘れて見入るうち、ふとあることに気づいた。これはひょっとして、天体の運行を表わしたものではないかということだ。  よく見ると、個々のリングには(全てではなかったが)ややふくらんだ円形のコブのような部分があり、それ自体が細かく震《ふる》えながら動いているようだ。だとすると、黄金のリングは各天体の軌道《きどう》であり、それに付属する小さな円が星そのものなのではないか。それ自体が回転しているのは、もちろん自転にほかならない。  そう気づいた瞬間、ぼくはとっさに頭上を見上げた。そこに空などないことははっきりしているのに、ましてここは半地下のはずなのに、そうせずにはいられなかったのだ。 「!」  次の瞬間、ぼくは息をのんでいた。ベタ一面に真っ平らだとばかり思っていた天井は、そこだけ吹《ふ》き抜《ぬ》けのように高くなっていた。内壁《うちかべ》に沿って階段がめぐらされており、てっぺんには天窓がはめこまれていた。むろん、それぐらいで驚きはしない。  ぼくを愕然《がくぜん》とさせたのは、その天窓の向こうに月が見えたこと、しかもそれが血に染まったようにドス赤かったことだった。  ——それ自体は、何の不思議なこともない。皆既月蝕《かいきげっしょく》のときは、月は地球の影《かげ》にすっかり覆《おお》われてしまうが、だからといって太陽から一切の光が届かなくなるわけではなく、地球の大気をすり抜けた光によって、ほの暗くではあるが照らされる。このとき、波長の短い青い光は大気によって散乱されやすいが、波長の短い赤い光はそうならずに通過するので、月はもっぱら赤っぽく照り映えるというわけである。  だが、それは単なる科学豆知識、だからといって何の役に立つわけでもなかった。それよりはるかに重要であり、疑いようもなく明瞭《めいりょう》な事実はほかにあった。  その一つは、美羽子が言った「天の運行を受け、地上に善悪を問わず絶大な力をもたらす」という�あるもの�が、このからくりを指していたに違いないこと。そして、もう一つは、今まさにクライマックスに達しようとする月蝕が、これを作動させる原動力らしいということだった。 (ど、どうしよう)  どうしようも何も、まともな人間なら選択肢《せんたくし》は一つしかないはずだった。一目散《いちもくさん》に逃げること、それだけだ。見れば、からくり——プラネタリウムの原型となった太陽系儀《オーラリー》というものがあったそうだが、こんなものだったかどうかは知らない——は、まさに頭上で進行中の天文現象と歩調を合わせたかのように、歯車やカム、レバーの響きがいっそう高鳴り、それどころか装置全体が金色の輝きを増し、白熱の光を放ち始めたように見えた。  このあと、どうなるかは見当もつかない。だが、ただではすまないことは間違いなかった。何しろ美羽子が示した選択肢の中には「死」も当たり前のように含まれていた。ここに来て、ぼくにいくばくかの哀れみを感じたのかは定かではないが、とにかく逃げるのが第一だった。  だが、そもそもここから逃げ出すことなんてできるのか? 天窓のほかには窓一つなく、扉《とびら》はおそらく閉ざされていて——あれ? (あ、開いてる?)  黄金の太陽系儀《オーラリー》の反対側にあった、壁と見分けのつかないほど薄汚れた扉《とびら》をダメもとで押してみたところ、何とすんなりと開いたではないか。となれば、もう一目散に——いや待てよ、自分一人で?  ここに倒れている黒河内刑事を、放ってゆくつもりか。かついで逃げる? 彼の倒れている場所に戻《もど》ってやってみたが、ことはそう簡単ではなかった。  かろうじて意識があって、ほんの少しでも自分で自分の体を支えてくれるとか、いっそ丸太ん棒の様に固まっていてくれれば、ぼくの非力でも何とかなったかもしれないが、まるで大きな人形みたいにグニャグニャしてつかみどころがなく、しかも発作的に暴れだしたりして始末におえなかった。  といって、彼を置いて立ち去ることもできなかった。おそらくうちのクラスでテレパシーもしくは自白薬を用いたアンケートを取ったら、全員が「見捨てて逃げる」と答えたろう。なのに、そうできなかったのは、この男に妙な同情と共感を覚えていたからだった。  ならば、いったい、どうすればいいのか。ぼくの中で、とうに答えは決まっていた。  美羽子がぼくに挑《いど》むように、試すかのように投げかけた「パズルを解く」——あの言葉を実行に移す。それだけ、たったそれだけのことだった。 [#挿絵(img/01_287.png)入る] [#改ページ]  CHAPTER 18  それは確かにパズルだった。それも超高難度のだ。  黄金のからくり——太陽系儀《オーラリー》は、無数の部品から成り立ち、しかもそれらは一瞬《いっしゅん》の遅滞《ちたい》もなく、さまざまなリズムを刻みつつ、渾然一体《こんぜんいったい》となった動きをなしている。  美羽子《みわこ》の話によれば、「特別な光」——おそらくはあの不気味な赤い月を指すのだろう——を浴び、天とシンクロし始めたが最後、もうつながりを断つことはできなくなるという。つまり、今さらあの天窓をふさいで月光を遮断《しゃだん》しても無駄《むだ》だということだ。だが、もし天空と同時進行で再現される現象——これはもう皆既月蝕《かいきげっしょく》に決まっているが、そいつを阻止《そし》してしまえばいいのではないだろうか。それだったら、できないことはあるまい。  とはいえ、壊《こわ》そうにもネジ一本外すどころか、ゆるめることさえできず、うっかりと手を差し入れたりしようものなら、たちまち歯車だの名も知れない物騒《ぶっそう》な形をした部品だのにかみ砕《くだ》かれて、大けがを負いそうだった。実際、指を飛ばされかけたり、腕《うで》を巻き込まれそうになったことも一度や二度ではなかった。  まず一番外側のリング——星形をびっしりちりばめてあったから、たぶん太陽系の外に広がっていると考えられた恒星界《こうせいかい》を表わすのだろう——をくぐって、次の惑星軌道《わくせいきどう》との間に入り込んだのだが、われながらばかなことをしている——そう思ったとたん、何かがぼくめがけて素っ飛んできた。  中心の軸《じく》につながれた時計で言えば秒針のようなもので、その先にはこれも天体を表わすのか鉄球のようなものがついていて、あやうくよけなければ額を砕かれているところだった。同様なものは何本もめぐっていて、不意打ちのように襲《おそ》ってくるのだった。  幸いなのは、リングすなわち惑星軌道の数が少ないことで、このことからしても(機械そのものは真新しく輝いていたものの)、やはり古代に創られたものらしかった。確か天王星から先は近代以降の発見で、古くから知られていた惑星といえば、水星・金星・地球・火星に木星・土星の六つだけ。にもかかわらず、惑星のためのリングがいくら数えても七つあるのはどうしたことか。  この太陽系儀が生み出されたときには、すでに天王星の存在が知られていたのか。それとも、これが作られた国ではわれわれの知らない星を一つ仲間として加えていたのだろうか?  だが、そんなことを不審《ふしん》がっている暇《ひま》にも、一瞬の油断を突《つ》いてからくりの部品たちが攻撃《こうげき》してくる。ぼくは、おじいさんの懐中《かいちゅう》時計に入り込《こ》んでしまった小さな虫けらも同然だった。精密かつ着実に仕事をやってのける、拷問《ごうもん》および処刑《しょけい》のための機械にわが身をゆだねてしまったようなものだった。  悪戦苦闘《あくせんくとう》の末、どうにか内側から三番目、地球と思われる軌道にたどり着いた。言うまでもなく月蝕は、太陽と月の間に地球がはまりこむことによって起きる。だが……。 (月がない[#「月がない」に傍点]!)  ぼくはあわてた。地球を示すらしい円形の部分に、当然付属しているべき月がない。いくら探しても、ほかの星にもそれらしい衛星は付属していない。月がなくて、どうやって月蝕を再現し、現在進行中の天体ショーとシンクロしようというのか。  そういぶかるうちにも、からくりはますます歯車の回転を、さまざまな部品が刻むリズムをめまぐるしくさせ、そればかりかギラギラと輝《かがや》きを増して、リングなどは触《さわ》っていられないほど熱くなってきた。  しまった、いよいよか——と焦《あせ》りと後悔《こうかい》と敗北感、それに不安をごちゃまぜにした感情にかられて立ちつくしたときだった。ふいに背中から、いっそう強烈《きょうれつ》な光と熱を浴びせられた。驚《おどろ》いて振《ふ》り返りかけたが、とても直視できないまばゆい光に顔をそむけずにはいられなかった。  そこには内側から数えて四番目の惑星、現代の知識に従えば火星があるはずの場所だった。これはいったいどうしたことだろう。このからくりをこしらえた人々は、夜空に赤く輝くあの星を、灼熱《しゃくねつ》の世界とでも考えていたのだろうか。  いや、違《ちが》う——もう少しで服地は焦《こ》げ、露出《ろしゅつ》した肌《はだ》には火ぶくれができそうな苦痛に見舞《みま》われた。あわてて身を伏《ふ》せ、拷問から逃《のが》れようとしたとき、ぼくの中でひらめいた一本のマッチの炎があった。 (何でこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。今、背にしているのは惑星の一つなどじゃなく、れっきとした太陽[#「太陽」に傍点]だということに!)  そう……この太陽系儀は、天動説[#「天動説」に傍点]に基づいて作られていたのだ。このからくりがいつの時代に作られたものかは知らないが、その根本が遠い昔にさかのぼるとすれば、現在信じられている太陽中心の地動説に従っている方がむしろおかしい。  天動説——ということは当然、中心にあるのは太陽ではなく地球ということになる。  では、月はどこだ? 決まってる、地球の一番近くを回っているのがそれだ。次いで水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順となる。  どうせなら擬人化《ぎじんか》したお日さまとお月さまの顔でも描《か》いておいてくれればいいものを、奇妙《きみょう》な記号と文字のみだからわかりようがなかった。だが、落ち着いて考えていれば、すぐにわかったはずだ。  先ほど、星の軌道を表わすそれぞれのリングにはコブのような部分があって、それ自体も回転していると言った。てっきり惑星の自転を示したものかと思ったが、違っていた。これは天動説ならではの周天円を表現したものだったのだ。  惑星もしくは遊星という呼び名通り、これらの星々は天球上を一定方向に進んだと思ったら急に逆戻《ぎゃくもど》りしたりして、天動説が説くシンプルな宇宙像ではどうしても説明がつかないのが、天文学者たちの悩《なや》みの種だった。そこでひねり出されたのが周天円という概念《がいねん》で、各惑星はある点を中心に小さな円を描きながら大きな円、すなわち公転軌道をめぐっているという——ああ、そんなことはこの際どうでもいい。要は太陽と月に関しては、周天円が設定されてないのだから、それを表わす仕掛《しかけ》けがなく、単に球体のみのものを探せばよかったのだ。  見れば、今まさに宇宙の中心にある�地球�をはさんで、灼熱の�太陽�と�月�が一直線に並ぼうとしている。�太陽�はいよいよまぶしい白光を放ち、�月�は血の赤に変じている。そして中心にある�地球�までもが、あの放電球《プラズマボール》——手を触《ふ》れるとガラス球の中で妖《あや》しく光が波打つ玩具《がんぐ》みたいに、異形《いぎょう》というほかない変貌《へんぼう》をとげかけていた。  何とか止めなければ、何とか……そう必死に考えて、ある考えに突き当たった。  なぜ止めなければならないんだ? 確かに、止めなければおまえ自身の命も危ない。だが、あえて残ったのは何のためだ? 黒河内《くろこうち》刑事のためか、この屋敷《やしき》の近くに住む見知らぬ人たちに災禍《さいか》が及《およ》ぶことを恐《おそ》れてか?  それもないとはいえないが、決してそれが主ではなかった。ぼくは、美羽子のもくろみを阻止したかった。何としても邪魔《じゃま》をしてやりたかった。意地でもない、復讐《ふくしゅう》でもない。彼女にこれ以上、罪悪を重ねさせたくなかったのだ。  だって、ぼくは彼女のことを……。 (違う!)  そんなんじゃ、そんなんじゃないんだ! 激しく自分で自分を否定したときだった。�地球�とその他二つの天体を表わす球体の間で、虹《にじ》のように光芒《こうぼう》が飛び交い始めたかと思うと、やがて一本の光の柱となって垂直に立ち上がった。ただの光などではなく、ある種の〈力〉を感じさせるそれは、天窓を跡形《あとかた》もなく打ち砕き、さらなる高みへと駆《か》け上がってゆく。  サラサラと頭上から降りかかるガラスの破片《はへん》を、腕であやうくよけながら、あらためて美羽子の警告がただのおどしや誇張《こちょう》ではないことを思い知った。しかも、光の柱は内側に螺旋《らせん》のようなねじれや光点の乱舞《らんぶ》、のたうつ火焔《かえん》の舌をはらんでグングンと太く、輝きと熱を増していった。そして、その果てに——。 「うわああぁっ」  ぼくは機械にはさまれて不自由な身を必死によじり、恐怖《きょうふ》の叫《さけ》びをあげた。光の柱がひときわまばゆい光に包まれたかと思うと、まるで逆向きの雷撃《らいげき》さながら、ぼくの体のほんの数ミリそばをかすめて打ち上げられたからだった。  地響《じひび》き、土煙《つちけむり》、この建物の屋台骨が揺《ゆ》らぐ不吉な響《ひび》き。だが、それらがぼくをおびやかしたときには、光の柱はいつのまにか元の穏《おだ》やかな(あくまで比較の問題だが)ようすに戻っていた。 (い、今のは……?)  それが何かはわからなくとも、美羽子がその実行に全てをささげてきた、まがまがしくも血なまぐさい使命とつながっていることだけは間違いなかった。  では、これで何もかも終わりか。ぼくのしたことは、しょせん何の役にもたたなかったのか。幸か不幸か、そうではなかった。というのも、光の柱は再び勢いを増し、正体不明の〈力〉を込めて天に打ち上がったからだった。  そしてまた、いったん平穏《へいおん》になったかと思えば、またすぐに——といった具合で、どうやら月蝕が続き、その魔力が持続する間は、幾度《いくど》でも作動し続けるらしい。ということは、美羽子がその〈力〉を及ぼし、滅《ほろ》ぼしたい標的は一つや二つではなく……?  となれば、こちらもやるまでだ。といって、手には何の得物もないのに、いったいどうしようというのか?  その答えとは——�地球[#「地球」に傍点]�をわしづかみにすること[#「をわしづかみにすること」に傍点]だった。なるほど、太陽と月のはざまにあって光をさえぎる地球がなくなってしまえば、月蝕は起こりっこない。  だが、それがいかに本末転倒《ほんまつてんとう》な発想であるかに、その瞬間のぼくは気づいていなかった。だって地球がなくなってしまえば、どんな天体現象であれ、いったい誰がそれを見るというのか。  だが、どんなに本末転倒ではあれ、全てをめちゃくちゃにしてしまうという点では効果的な選択《せんたく》といえるかもしれなかった。ともあれ、これがぼくの出したパズルの答えというわけだった。  とはいえ、いかにも恐ろしげな光を放ち、妖しく彩られた�地球�をつかみ取るには、相当な躊躇《ちゅうちょ》なしではいられなかった。だが、そうするうちにも、またまた光の柱は不吉な徴候《ちょうこう》を見せ始めていた。  もうしかたがなかった。ぼくは大火傷を負うのも衝撃《しょうげき》を受けるのも、それどころか自分の身も心も元素の霧《きり》となって飛散することさえ覚悟《かくご》して、手をのばした……。  その刹那《せつな》、ぼくのまわりで世界がめまぐるしくスピンした。きらめく光の波濤《はとう》が次々打ち上げられ、花火のようにはじけた。ぼくもまた天高くジャンプしていて、例の血の色の月が、視野いっぱいに広がって見えたほどだった。  だが、それでも近づき足りなかった。ぼくは何としても月にたどり着きたかった。そこにいるかもしれない行宮《ゆくみや》美羽子とめぐり合って、むりやりにでも地上に引きずりおろしたかった。  その思いが通じたのか、ふいに月がまるでコインのように裏返り、美羽子が一瞬姿をのぞかせたような気がした。 「どうしたんだ、行宮、その格好《かっこう》は?」  ぼくは何だか愉快《ゆかい》でたまらず、叫んだ。光と音の奔流《ほんりゅう》のただ中で身をよじり、ゲラゲラと笑い転げながら、 「何だ、そりゃいったいどこの国の衣装だい? まるで王女様みたいじゃないか。月蝕の姫君《ひめぎみ》——そうだ、月蝕姫とお呼びしよう!」  どうしてだか、その思いつきがすてきなものに思え、ぼくは誇《ほこ》らしく美羽子に呼びかけた。その声が届いたのか、何ともエキゾチックな——アジアのどこかのようでもあり、西洋のお伽話《とぎばなし》本かアラビアン・ナイトの世界から抜け出したようでもあり、と同時にどこにも存在しない国のもののようにも思える装束に身を包んだ月蝕姫《かのじょ》からも、微笑《ほほえ》みかけてきた。  彼女の手がぼくのそれをつかみ、ふうわりと引き寄せる。そして——。  目覚めたときには、暗闇《くらやみ》の中にいた。  さっきまでと同じ部屋のはずだが、そこを包んでいた光も音も、熱気のようなものもすでになく、一切は冷え冷えとした黒に塗《ぬ》りつぶされていた。  あの黄金のからくり——太陽系儀《オーラリー》は、いったいどうなったのか。暗がりに目を凝《こ》らしても、見えるのは奇妙に歪《ゆが》み、床《ゆか》に斜《なな》めに倒《たお》れ込んだ残骸《ざんがい》のようなもののシルエットに過ぎなかった。  ふと、どこからともなく、ぼんやりとした光が、かすかな騒音《そうおん》が流れ込んできているのに気づいた。見回せば、その出どころはあの打ち破られた天窓だった。  そこから射し入る灯りを頼《たよ》りに、ぼくは吹《ふ》き抜《ぬ》けの周囲にめぐらされた階段を上っていった。  やがて、無残に破られた穴から夜風のただ中に身を乗り出したとき、ぼくが地平線のあたりに見たもの——それは、燃え上がる都市の姿だった。 「————!」  格好の展望台となったそこから、ぼくは凍《こお》りついたようにその光景を凝視《ぎょうし》した。とうに血塗られた蝕のときを終え、いつもと変わらぬ蒼白《そうはく》の輝きを天空から投げかける月。だが、その謎めく微笑の下では、恐るべき災厄《さいやく》が繰《く》り広げられていた。  ぼくらの住む街の一角、水辺に面してびっしりと建ち並ぶ工場地帯《コンビナート》。それが今まさに天を焦がし、地球の縁《ふち》を明るくにじませて爆発炎上《ばくはつえんじょう》を繰り返していた。まさに壮大《そうだい》な滅びのスペクタクルだった。 (まさか、あのからくりから放たれた光の柱、そこに込められた〈力〉のせいで……?)  ことさらに疑問符《ぎもんふ》をつけてはみたものの、ぼくの中にはもはや一片《いっぺん》の疑いもなかった。予想をはるかに上回るカタストロフィの大きさに、頭がしびれるようだった。  燃え上がる壁《かべ》、焼け落ちる柱や梁《はり》、火柱を吐いて崩《くず》れる屋根。まるでトランプの家を突き壊《こわ》してゆくみたいに、一つまた一つと建物が猛火《もうか》と白熱の光にのみこまれてゆく。  その一部始終を、ぼくは間近にあって火の粉《こ》を浴び、熱風をまともに受けるよりも生々しく見つめていた。どうしようもない無力感と罪の意識にさいなまれながら、総身《そうみ》にからみついてるはずの痛みも感じる余裕のないままに。……  つくづく、ぼくはバカだった。バカの国があったら、王様になれるほどに。だって、そうじゃないか——悲しいぐらいちっぽけなマッチ一本の炎《ほのお》で、こんな地獄《じごく》の業火《ごうか》に立ち向かい、封《ふう》じ込めることができると夢想しただなんて。しかも、よりによって、このぼくが!  悪い冗談《じょうだん》、とんだ妄想《もうそう》……だが、そう言って笑い飛ばすには、目の前の地獄絵図は否定しようのない現実だった。  どこかで——ひょっとしたら、ぼくの胸の奥底からだったかもしれないが——誰かの悲鳴らしい声が聞こえたような気がした。 (まさか、ひょっとして——?)  ぼくはハッとわれに返った。まさか、あの紅蓮《ぐれん》の炎の中に行宮美羽子が、彼女が……。  またいくつとなく火柱が、噴煙《ふんえん》が立ち上った。だが、それらにともなうどんな轟音《ごうおん》も地響きも、ぼくの心の叫びをかき消すことはできなかった。 [#改ページ]  CHAPTER 19 「すごいよね、さっき家を出がけにテレビ見たら、まだけっこう燃え続けてるんだもの。そりゃ、あれだけのコンビナートじゃしょうがないのかもしれないわね。ちょうど、あの大爆発《だいばくはつ》があったときに——あんたの家も揺《ゆ》れた? そうでしょうね。あんたも? ふーん……でも、うちはある意味それ以上で、ていうのはうちのパパが、まさにその瞬間《しゅんかん》、火事の一部始終が特等席並みに見渡《みわた》せるホテルのパーティー会場にいたのよ。ほら、パパはあそこと関係の深い会社の重役でしょ……って知らない? まあいいわ、とにかくそういうつながりってか、つきあいがあったもんだから、現場に居合わせることになっちゃったのよ、ある国での何とかいうプロジェクトの成功を願っての会合に招待されてね。  で、いろんなゲストとか呼んでのパーティーも大盛り上がりってときに、いきなりドッカーンってなっちゃって、その衝撃《しょうげき》でガラスがこっぱみじんに——まではなりはしなかったみたいだけど、何しろ眼下の、しかも広い範囲《はんい》が火炎《かえん》に包まれちゃったもんだから、場内はたちまち大パニック。ご馳走《ちそう》のテーブルは引っくり返るし、われ先に外に逃《に》げ出そうとする人たちやら何やらで、大変な騒《さわ》ぎになったのよ。……え、私? 私は別にその場にいたわけじゃないけど、だってほら、お父さんの話を聞いたり、ニュースで見たりしたらだいたいわかるじゃない。それでね……」 [#挿絵(img/01_302.png)入る]  その翌朝の教室、授業開始前のひととき。目をむき顔を紅潮《こうちょう》させ、口をゆがめ、あんまり見たくないようなご面相でまくしたてているのは、京堂広子《きょうどうひろこ》だった。  ——あのあとぼくは、何度か黒河内《くろこうち》刑事を揺り起こそうと試みたあと、見えない何かに追われるように屋敷《やしき》をあとにした。その後まもなく取り壊《こわ》しとなったそこから死体が発見されたという報道もなかったところを見ると、たぶんどうにか生きのびたのだろう。彼の消息を警察に問い合わせることは、また何かうっとうしい縁《えん》がつながりそうな気がして避《さ》けていた。  衣服ばかりか身も心もボロボロになり、憔悴《しょうすい》しきって戻《もど》ってきたぼくを、幸いにも家族は大して追及しようとしなかった。同じ晩におきた工場地帯の大火災と結びつける発想はなかったらしい。これが、もっと小規模な火事騒ぎとかなら関与を疑ったかもしれないが……。  あいにく町一つ分が吹《ふ》っ飛んだぐらいでは、授業も試験も中止にはならない。ぼくは、まだあちこちが痛む体を引きずって登校し、大いなる期待と恐《おそ》れを抱《いだ》いていつもの教室に足を踏《ふ》み入れた。そこで耳に入ってきたのが、くだんの長広舌《ちょうこうぜつ》だったのである。  京堂広子はぼくの方をちらと見やり、 「それがね、ここだけの話なんだけど、あのときこっぱみじんになった工場というのが、パーティーを主催してた大|企業《きぎょう》の所有で、招待客の中にもそこに出資してる人や、かかわりがある人がいっぱい。しかも何とその中に、的場《まとば》君がお父さんといっしょに居合わせたっていうからすごいよね。偉《えら》いわ、今からお父さんの秘書をしてるなんて……」  彼女は妙《みょう》な流し目で、クラス委員コンビの片割れの方を見た。 「秘書だなんて、そんなんじゃないよ。カバン持ちとか、そういったもんだよ」  的場|長成《おさなり》は気まずそうに、ボソボソと言った。京堂広子はなおも、妙に皮肉っぽく、 「パーティーに行くのだったら、言ってくれたら私もパパに頼《たの》んで連れて行ってもらったのに。水くさいなぁ」 「そんなこと言ったって……知らないよ。親父がとにかくついて来いって言うもんで、行っただけなんだから」  的場は下を向き、ぼそぼそと言った。  秘書にしてもカバン持ちにしても、高校生の男子がするような仕事とは思えないが、そういえば彼の父親は、地元議会の議員だの団体の役員だのを兼《か》ねていると聞いたことがある。そういう家の息子となると、今から地盤《じばん》やら人脈を受け継《つ》ぐことが決められていて、同年輩の人間など一人もいなさそうな場所に、将来を見すえた顔つなぎ目的で連れて行かれることもあるのだろう。  うちみたいな平凡《へいぼん》な家庭とは違《ちが》って、お気の毒なことだ。だが、彼があの晩、そんな場所であの大火災《だいかさい》を目撃《もくげき》していたとは知らなかった。  京堂広子の得々としたしゃべりに、お義理でつきあっていた気配《けはい》もないではないクラスメートたちも、これには興味をわかしたようだった。 「そうなのか、的場?」 「どんなだった? その瞬間は見れたの」  などと、小さな町一つが吹っ飛んだのに匹敵《ひってき》する災害のあととしてはどうかと思われる、野次馬《やじうま》根性むき出しの質問が飛んだ。  だが、的場はいよいよ顔を伏《ふ》せ、何かをこらえているかのように、 「もういいよ……思い出したくもない」  と、口ごもるばかりだった。そのようすに、さすがの押しつけがましい京堂広子も、ちょっと心配になったか、 「的場君?」  と声をかけたが、彼はさしのべられた手を振《ふ》り払《はら》うように、教室を飛び出していってしまった。そのあとに唖然《あぜん》とした、何とも気まずい空気が漂《ただよ》った。  だが、広子たちの輪から少し離《はな》れた場所から、彼らのやりとりをながめていたぼくは見逃《みのが》しはしなかった——時折、チロチロともたげられる的場の視線が、とある席に向けられていることを。そこが、ふだんならとっくに登校して、一人静かに本など開いているはずの行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》によって占《し》められるべき場所であることも……。  ぼくは、小うるさい広子らに気取られぬようにそっと席を立つと、的場のあとを追った。廊下《ろうか》の隅《すみ》っこで壁《かべ》に手をついている彼の背後から、ぐいと肩《かた》をつかんで、 「おい」  と声をかけた。  的場はぎょっとしたようすで振り返り、だが相手がぼくとわかったとたん、意外さと同時に「なぁんだ」というかすかな軽侮《けいぶ》をこめて見返してきた。  だが次の瞬間、彼の顔には困惑《こんわく》が、次いで�何でこんなやつに?�と言いたげな驚《おどろ》きが表われ、それは大げさに言えば畏怖《いふ》にも似た感情によって塗《ぬ》りつぶされた。 「話せよ」  ぼくは単刀直入に言った。生まれて初めて、他人を壁際にぐいぐい押しつけるなんてことをしながら、 「見たんだろ、ホテルのパーティー会場で彼女——行宮美羽子を」  と訊《き》いた。何しろ、それまで人に暴力《ぼうりょく》を振るうなんて体験の皆無《かいむ》だったぼくだけに、手加減というものがよくわかっていなかったのは、的場に対して申し訳ない次第だった。そのおかげで聞き出すことができた内容というのは——。  ——それは、街一番のホテルの高層階フロアでの宴《えん》もたけなわの出来事だった。  眼下に宝石箱を引っくり返したような夜景を見下ろし、その向こうにはことさら美しくライトアップされたコンビナートが、まるで遊園地か夢の国の城のように見え、いくつもあるタワーのてっぺんでは航空機用の標識灯《ひょうしきとう》が点滅《てんめつ》していた。  パーティー会場に集うのは、あの工場群の持ち主を含めたさまざまな企業、それらとつながったさまざまな人々——中央や地方の政界、それらとのパイプ役を自称《じしょう》する奴、現役だったり天下りしてたりするお役人たち、マイナーとメジャーとりどりのマスコミ関係者や文化人、タレントなどもいて、人脈の広さをうかがわせるものがあった。  だが、それらは結局一つに集約される。それは、世界のどこかで、小さな国や力なき人々に何が起きようと、どんな暴虐《ぼうぎゃく》が行なわれようと眉《まゆ》一つ動かさず、平然と見過ごしにしたり、それどころか積極的に加担したりしたものたちの集まりであった。  そんな卑劣《ひれつ》と邪悪《じゃあく》さが、きれいごとと微笑《ほほえ》みのオブラートに包まれた真っただ中に、一人の招かれざる客が現われた。  小柄《こがら》で華奢《きゃしゃ》で、しかしその姿を目にしたものは、例外なく立ちすくみ、見とれずにはいられないほど美しく可憐《かれん》な少女だった。加えて、その身にまとう装束は金銀砂子《きんぎんすなご》のようにキラキラと輝き、肢体をゆったりと包み、あるいはシルエットをきわだたせて、不思議な形に結い上げられた髪といい、化粧といい、とにかく目を引くことこのうえなかった。  いつしか集まりだした好奇《こうき》と疑問の視線をものともせず、少女はこの場の中心をなしていた人々の輪に向かって歩を進めた。そこには何の迷いもなく、強い意志とはっきりした目的が感じられた。  やがて、その輪をかたちづくる人々が、一人また一人と彼女に気づき、談笑《だんしょう》がふと途絶《とだ》えた。彼らに広がる驚き、畏怖——中には恐怖《きょうふ》の叫《さけ》びをあげたものも一人や二人ではなかった。  会場全体に広がる、水を打ったような静寂《せいじゃく》、鉛《なまり》よりも重苦しい沈黙《ちんもく》。少女は、年齢的にも体格的にも、何より数においてはるかに上回る男たちと対峙《たいじ》して、少しもひるむところを見せなかった、それどころか、気迫《きはく》において圧倒《あっとう》しているようにさえ見えた。  それからどれほどたったろう、少女はおもむろに口を開いた。その内容は遠巻きに見守る人々の耳には届かなかったが、少なくとも、聞かされたものたちに激しい動揺《どうよう》と衝撃《しょうげき》を与えたことは確かなようだった。彼らが彼女に投げ返せたものといえば、せいぜい冷笑がいいところだった。  そして、その直後に工場地帯の爆発炎上《ばくはつえんじょう》が起きた。揺らぐパーティー会場、客たちの周章狼狽《しゅうしょうろうばい》。ガラス越《ご》しに見下ろされる光景は、たまらないほどまがまがしく、そしてエキサイティングだった。  そんな中にあって、不思議《ふしぎ》な装束の美少女は、全てに超然《ちょうぜん》とするかのように立っていた。次いで、彼女が発した凜《りん》とした言葉は、そのよく響《ひび》く声音もあって周囲で打ち騒《さわ》ぐものたちにも聞き取れた。 「今からはあなたたちの番です。そして、私も——」  それは何の宣言、もしくは予告であったのか。そうと聞いてますます震《ふる》え上がり、ついには自暴自棄《じぼうじき》となったか襲《おそ》いかかってくるものさえあったのを平然と受け流し、少女はその場に佇立《ちょりつ》し続けた。  さらに血なまぐさい何かが起きるのを覚悟《かくご》して待つかのように、それでいて何ごとか期待し、祈るかのように——そしてその果てに、一つの謎めく微笑を残したかと思うと、場内の混乱に乗じるかのように、いつしか忽然《こつぜん》とそのたおやかな姿を消し去ってしまった……。  その後まもなく授業が始まったが、美羽子はついに姿を見せなかった。二時限目も三時限目も昼になっても、とうとう放課後になってからも、翌日もその翌日も、翌週もさらにその翌月になっても。  彼女のことは少しだけ話題になり、人気者だったはずの夏川至《なつかわいたる》が回復したのかしないのか、ついに登校することのないままひっそりと退学していったという噂《うわさ》と同様、やがて忘れ去られていった。おそらくはぼく一人を例外として。  結局、行宮美羽子とはいったい何者だったのだろう。遠い昔に滅《ほろ》びた国の〈姫〉その人なのか子孫か、それとも今まさに起きている悲劇の地からやってきたのか。その復讐《ふくしゅう》の目的にしても、どれか一つに絞《しぼ》り込もうとするとスルリと手のうちから抜けてしまいそうでもあり、過去と現在、虚《きょ》と実その他もろもろの互いに相反する要素が複雑に重なり合っているような気さえしてくる。  その後の調査では、工場地帯の爆発炎上は新種の高性能爆弾を用いたテロ行為ということに結論が落ち着いたようだ。それが正しかったとしても、ぼくは少しも驚かないし、あのとき自分が目撃し体感したからくり[#「からくり」に傍点]の〈力〉と矛盾《むじゅん》するとも思わない。真実とは、たぶん一つだけではないのだ。  真実といえば、彼女から死の宣告を受けた名士たちは、具体的にどんな罪を犯したのか。彼らは彼らだけの罪業において処罰《しょばつ》されなければならなかったのか。それとも、これにも何か複雑にからみ合う何かが——?  ぼくには何一つわからなかった。わからないままに時は過ぎ、一切合財がのっぺらぼうな日常に塗りつぶされようとしていた。甚大《じんだい》な被害をもたらした、あの爆発炎上でさえもが、ありふれた一つの出来事に過ぎなくなるまで大した日数は要しなかった。  終わってみれば、何一つ変化はないように思われた。いや、ぼくに関してはないでもない。あの月蝕《げっしょく》の夜以来——おそらくは、あのからくりのせいで灼熱《しゃくねつ》の光を浴びてからと思うのだが、まるで人が変わったようだと言われることが一度ならずあった。  確かに、ぼくの中で何かが変わった。もう人の目を気にすることはなくなったし、彼らに期待することも、そもそも関心を持つことがなくなったのだ。  そのかわり、論理的思考に対する偏愛《へんあい》はますます強くなって、その能力も前より高まったような気がする。そのちょっとした副産物のおかげで、得をすることもあった。それでわかったことだが、家族にしても教師にしても、いい成績を取るようになるのと入れかわりに、冷淡酷薄《れいたんこくはく》な人間となってしまったとしても、別にかまわないものらしい。  それはそれとして、あの運命的な一夜について、気づいたことが一つある。  あのとき彼女が言った「死」と「パズルを解く」の二者択一《にしゃたくいつ》は、もしあの場に踏みとどまれば、あのからくり仕掛《じか》けを停止させない限り、ぼくは死なねばならないことになる——てっきりそういう意味だと思い込んでいた。  だが、それは哀《あわ》れむべき勘違《かんちが》いだった。美羽子は、彼女の仇敵《きゅうてき》たちにとって、最大のダメージであり衝撃だったに違いない工場地帯の爆破《ばくは》だけで矛《ほこ》を収めるつもりは毛頭なかった。そのことは、あの太陽系儀《オーラリー》の作動のしかたを見ても明らかだ。  おそらく彼女は、その第二のターゲットとして、自らも身を置いたパーティー会場を選んでいた。何のために? 罪人たちに直接、処刑《しょけい》宣告したうえで首斬《くびき》りの斧《おの》を振り下ろすために!  そのためには、絶好のカタストロフィ・ヴューだった。燃え上がり、焼け崩《くず》れる建物を見せつけて彼らを恐怖させ、喪失《そうしつ》の痛みと苦しみを与えたうえで、爆殺しようとしていた——彼女自身の肉体と精神をもろともに、それに呪《のろ》われた宿命までを道連れにして。であればこその「そして、私も——」という発言であったに違いない。  ひょっとして、彼女はぼくに自分の運命を賭《か》けたのかもしれない。もし、あのからくりというパズルを解き、計り知れない惨害《さんがい》をもたらす光の発射を、それもなるべく早くに押しとどめることができれば、望みは達せられないかわりに命ながらえる。  なぜ、行宮美羽子は——月蝕姫《げっしょくひめ》はそんなことをしたのか。自分の運命に、与えられた使命にあらがってみたくなったのか、それともただの気まぐれだったのか。  最大の疑問は、夢うつつの中で彼女がぼくにくれたキス。もしあれが現実ならば、彼女はなぜあんなことをしたのか。もし幻かぼくの妄想《もうそう》だったのなら、なぜそんなものを夢見たのだろうか……。  確かなことが一つだけあった。彼女が、ぼくと同じ世界にいる限り、きっとまた会える、必ず会ってみせるということだった。それだけが、ずいぶんと冷えきってしまったぼくの心を、かきたてるものだった。  ぼくは彼女を追い続ける。彼女が投げかける謎をことごとく解いてみせ、ついにはこの手に彼女を捕《つか》まえてみせよう。だって、ぼくは——これまで書かれた幾多《いくた》の物語、わけても彼女が示した戯曲《ぎきょく》に自らをなぞらえるなら——月蝕姫という名の女賊《じょぞく》を追う〈探偵〉なのだから。 [#改ページ]  誰も知らないエピローグ  少女はふいに背後を振《ふ》り返った。さきほどから、誰かがつけてくる気配《けはい》がしてならなかったからだった。  だが、まるで遠近法のお手本みたいに、視野の奥までずっと続くのは、両側を並木と赤レンガの塀《へい》にはさまれた物さびしい一本道。そこには人影《ひとかげ》も、人の気配さえもなく、ただかすかな風が落ち葉を揺《ゆ》らすばかりだった。  だが、彼女は感じていた——どこか遠くから自分を見つめ、追い続けている誰かの存在を、その思いを。  ふいに彼女は、微笑とともに記憶《きおく》をよみがえらせる。 (そういえば、あのときも、ちょうどこんな一本道だったっけ。あれがきっかけで、私たちの関係が始まったんだった。私と、私の本質に初めて触《ふ》れてくれた彼との間で……)  それは、彼女にとって数少ない甘やかな記憶だった。世界の全てから切り離《はな》され、見捨てられたとしても、自分のことを絶えず意識し、追っかけようとする人間がたった一人でもいる限り、絶望しないですむ。楽しいゲームを繰《く》り広げ、その人への趣向《しゅこう》を尽《つ》くしたプレゼントに工夫をこらすことだってできる。 「そう……だからきっと私を見つけに来てね、暮林《くればやし》君」  彼女はつぶやいた。さもうれしげに、はずむ足取りで歌うように。 「そして、私を捕《つか》まえることができたら——そのときはもう一度、今度はごほうびのキスを!」 [#改ページ]  あとがき  探偵小説——この名が持つ響きは、今でも私をワクワクさせます。推理小説という言い方もむろん好きですし、やや内容的に絞《しぼ》り込んだ�本格ミステリ�には一種のマニアックな快感や悲壮なる使命感が漂ったりして捨てがたいものがあるのですが、やはりこう呼ぶのが一番しっくり来るような気がします。  とにかく本と名がつけばどれを読んでも、小説なら何でもかんでも面白かった時代(ごくまれに例外もありましたが)、とりわけ特別な位置を占めていたのが、探偵小説というジャンルだったのです。  やたらとおどろおどろしかったり、反対にそっけないほどさりげなかったりするタイトルやイラストに飾られた表紙は、その向こうに何があるかわからない別世界へ通じる扉。意外な犯人やら不可能犯罪がうたわれていたり、まして見取り図とかタイムテーブルとかが入っていようものなら、たとえ財布が空っぽになろうとも即購入となったものでした。  そこには謎と論理があり、驚きがありスリルがあり、何より豊かな物語性がありました。日々読んで読んで読みまくり、気がつくと十代のあのころからほとんど好みも志向も変わらないまま、毎日トリックだプロットだ、新たなだましのテクニックだと頭をひねっているのですから、われながら呆れたものですね。と同時に、幸せでもありますが。           ◇  さて、そんなにも私を引きつけてやまず、たぶん今後も同様であろう探偵小説なるものにおいて、魅力の中核をなす〈探偵〉とはそもそも何でしょう。彼ら彼女らは、いったいどういう存在なのでしょうか。  などと問いかけると、こんな答えが返ってくるかもしれません。「へっ、そんなの絵空《えそら》ごとじゃないか。現実にいる私立探偵は身元調査をするぐらいで犯罪捜査なんて手がけないし(注・必ずしもそうとは限らないのですけれどね)、警察官が密室殺人だの雪の山荘の事件を解いたなんて話も聞いたことがない」とか何とか、訳知り顔で。  けれど、ちょっと待ってください。数あるヒーローたちの中であなたが最も共感できる——たとえば、物語の世界にいきなり飛び込んだとして、等身大のあなたのままなり得るものがあるとしたら、それはいったい何でしょう。あなたには(そして私にも)バッタバッタと敵をなで斬りにする剣の腕はないでしょうし、高貴にして運命的な血筋を引いているわけでもなく、いながらにして化生《けしょう》のものを操る魔力もなければ、何もしなくてもいろんなタイプの異性にモテてモテてしようがないということもなさそうです。  しかし〈探偵〉ならばどうでしょう。むろん、特殊な技能とか力に恵まれている場合も少なくはありませんが、彼らが最終的に頼るところは己のプライドと頭脳だけ。何らかの組織に属していたり、仲間に恵まれていたとしても、基本は同じこと。ただの生身の個人であるというところにこそ、その本質があるのです。  まあ、これは私の好みがブラウン神父、エラリー・クイーン、金田一耕助、鬼貫警部、刑事コロンボといったあたりに偏《かたよ》っているせいかもしれませんが、どんなに天才肌で貴族趣味の〈探偵〉であっても、推理に当たって駆使するのは、誰にも理解できる程度の論理と常識、観察眼といったありふれたものばかり。解決へと導くひらめきは、それらと七転八倒した果てにしかもたらされませんが、逆に全ての人に〈探偵〉への道は開かれているとも言えるのです。  それでいて、結末において見出される真実と、それにともなう理知の感動は、ほかでは決して得られるものではない——ときては、これほど魅力的な存在がほかにあるでしょうか?           ◇  私はこの物語で、一人の少年をそんな〈探偵〉にならせてみようと考えました。どこにでもいる、非力で孤独で、周囲の流れに乗り切れず、くすぶったような青春を送っている彼——暮林一樹《くればやしかずき》に、そんな日常を蹴り飛ばすようなヒーローを演じさせてみたかったのです。  暮林君の取り柄であり武器とするところは、ただ人より少しばかり物事をしつっこく考え抜くという性癖だけ。しかし、それによって彼は、ほかの連中には思いもよらない冒険の渦中に飛び込み、空恐ろしいような秘密の一端に触れ、さまざまな困難や危険と立ち向かう機会を与えられます。そして何より、もとのままの彼ならば望んでも得られなかったような相手とめぐり会うことになるのです。切ない想いを抱く対象としてだけではなく、容赦ない追及の標的としても——そう、あの日本一の名探偵と女賊《じょぞく》の関係にも似て!           ◇ 〈理論社ミステリーYA!〉からの執筆依頼をいただいたとき、真っ先に浮かんだこの物語を形にするには、しかし思いがけず長い年月を要しました。その間味わった苦吟の連続もけっこうきついものがあり、執筆は中断また中断。そのため、同社編集部長の小宮山民人さん、編集担当の光森優子さんをはじめとする関係者のみなさんにおかけした迷惑は多大なものがありました。ここに心からの感謝とあわせ、おわび申し上げておく次第です。  今にして思えば、それは、あなた自身であるかもしれない一人の少年が、〈探偵〉となるために必要なプロセスだったのかもしれません。と同時に、私という探偵小説家が、自分なりに考え続けてきた〈探偵〉像を最もピュアな形で具現化するに当たっても……。  今はただ、二年数か月を費やした完成原稿をもとに作られた、ずしりと重いゲラ刷りをそばに、この小説がみなさんに少しでも楽しんでいただけるようにと祈るばかりです。そして願わくば、この本の終幕のあとに続くであろう暮林一樹と行宮《ゆくみや》美羽子《みわこ》の書かれざる、そして尽きせぬ物語を、読者それぞれに夢想していただけますように!  二〇〇八年七月 [#地から1字上げ]芦辺 拓 芦辺拓(あしべ・たく) 1958年、大阪市生まれ。1990年に『殺人喜劇の13人』で第1回鮎川哲也賞を受賞。新聞記者を経て、1994年から専業作家となる。以後、本格的な謎解きに満ちたミステリーを中心に精力的に活動を続けている。ノスタルジックな雰囲気あふれる緻密な物語構成と奔放かつ大胆なトリックは、幅広い読者層に支持されている。主な著作に「弁護士探偵・森江春策シリーズ」である『殺人喜劇の13人』『時の誘拐』『十三番目の陪審員』『グラン・ギニョール城』『三百年の謎匣』『少年は探偵を夢見る』『千一夜の館の殺人』のほか、『紅楼夢の殺人』『探偵と怪人のいるホテル』『迷宮パノラマ館』『裁判員法廷』など。また近年、『電送怪人』『妖奇城の秘密』など「ネオ少年探偵」シリーズでジュブナイル作品も手がけ、その作風は広がっている。  装画 福井利佐  挿絵 田中英樹 [#改ページ] 底本 理論社 ミステリーYA!  月蝕姫のキス  著 者——芦辺 拓  2008年10月  第1刷発行  発行者——下向 実  発行所——株式会社 理論社 [#地付き]2009年1月1日作成 hj