十角館の殺人 綾辻行人 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)十角館《じゅっかくかん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)中村|某《なにがし》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 :図説等 ��:縦書用引用符の二重引用符には「��」(JIS X 0213面区点1−13−64、1−13−65)ダブルミニュートを用いた。 “”:半角英字の二重引用符には「“”」を使用した。 枠囲い:枠囲い部分は注釈として起点と終点を指定した。 (例) [#ここから枠囲い] お前たちが殺した千織は、私の娘だった。 [#ここで枠囲い終わり] 〈〉:文中で二重括弧《》が使われている場合は〈〉に置換した。 ------------------------------------------------------- 講談社文庫 十角館の殺人 綾辻行人 [#改ページ] [#地から3字上げ]——敬愛すべき全ての先達に捧ぐ—— [#改ページ] [#ここから2字下げ] 目次 [#ここで字下げ終わり] [#ここから4字下げ] プロローグ          5 第一章 一日目・島      10 第二章 一日目・本土     58 第三章 二日目・島      95 第四章 二日目・本土     123 第五章 三日目・島      149 第六章 三日目・本土     195 第七章 四日目・島      203 第八章 四日目・本土     226 第九章 五日目        246 第十章 六日目        309 第十一章 七日目       327 第十二章 八日目       329 エピローグ          362 [#ここで字下げ終わり] [#ここから5字下げ] 文庫版あとがき       367 解説       鮎川哲也 370 [#ここで字下げ終わり] [#改丁] プロローグ  夜の海。静寂の時。  単調な波の音だけが、果てしない暗闇の奥から湧き出してきては消える。  防波堤の冷たいコンクリートに腰掛け、白い呼気に身を包みながら、彼は独りあまりに巨大なその闇と対峠《たいじ》していた。  もう何カ月もの間、苦しんできた。もう何週間もの間、思い悩んできた。もう何日もの間、同じことばかりを考え続けてきた。そして今や彼の意志は、ある明確な形をもって一つの方向へと収束しつつあった。  計画は既に出来上がっている。そのための準備もほぼ整えてある。あとはただ、彼らが罠に捕えられるのを待つだけだ。  しかしながら彼は、己《おのれ》の立てた計画が万全のものであるなどとは少しも考えていなかった。綿密な、と形容するよりもむしろ、ある意味でそれは非常に杜撰《ずさん》なものでさえあると思う。が、もとより彼には、計画を細部に至るまで完璧に組み立てておこうというつもりもなかった。  どうあがいてみたところで所詮《しよせん》人は人、神にはなれない。神たらんと欲することはたやすいが、実際にそうあることは、人が人である限り、いかなる天才にも不可能だと分っている。神ならぬ者に、では一体、未来の現実を——それを構成する人間の心理を、行動を、あるいは偶然を——完全に計算し、予想し尽くすことができようか。  世界をチェス盤に見立ててみたところで、人間たちを盤上の駒に置き換えてみたところで、読みには自ずと限界がある。あらかじめ微に入り細をうがち、どれほど綿密な計画を練っておいたとしても、いつどこでどのように狂ってくるか知れたものではないのだ。小賢《こざか》しい計算による予測が十全に通用するには、あまりにもこの世界は偶然に満ちすぎている。あまりにも人の心は気まぐれに満ちすぎている。  だからこの場合、望ましい計画とは、いたずらに己の行動を制約するようなものではなく、臨機応変な、なるべく柔軟性に富んだものでなければならない——と、それが彼の打ち出した結論であった。  固定的であることは避けねばならない。重要なのは筋書ではない、枠組なのだ。その中で、時々の状況に応じて常に最適の対処が可能であるような、柔軟な枠組。事の成否は、あとは己の知力と機転、そして何よりも運にかかっている。 (分っている。人は神にはなれない)  しかし違った意味で、彼がこれから、紛れもなく�神�の立場に身を置こうとしていることも事実であった。  裁き。——そう、裁きだ。  彼は、彼らを——彼らの全員を、復讐という名の下に裁こうとしている。  法を超えての裁き。  神ならぬ己にそれが許されるものではないということも、彼は十二分に承知している。それが社会によって犯罪と名づけられた行為であり、発覚の際には、今度は彼自身が法の名の下に裁かれるのだということも。  けれども、そういった常識的な理由でもって己の感情を制御することなど、もはや不可能だ。——感情? いや、そんな生半可なものではない。決してないはずだ。  単なる一過性の激情ではない。それはもはや彼の魂の叫びであり、生きる拠《よ》り所であり、存在理由ですらあるのだった。  真夜中の海。沈黙の時。  星明りも、沖を行く船の光一つもない闇の彼方に目を投じながら、彼は計画を反芻《はんすう》する。  準備段階は終了に近づいている。やがて、彼らが——罪深き獲物たちが罠に飛び込んでくる。  罠は十個の等しい辺と内角を持っている。何も知らずに、彼らはやって来る。何の疑いも恐れも抱かず、自分たちを捕え裁く、その十角形の罠の中へ。  彼らを待ち受けるものは勿論、死だ。それが、彼らの全てに対して例外なく科されるべき当然の罰なのだ。そしてまた、それは決して呆気《あつけ》ない死であってはならない。例えば、彼ら全員を爆薬で一度に吹き飛ばしてしまうなどといったやり方は、たとえそれがより容易かつ確実な方法であったとしても、用いるべきではない。  一人一人、順番に殺していかねばならない。丁度、そう、英国のあの、あまりに有名な女流作家が構築したプロットのように——じわじわと一人ずつ。そうして彼らに思い知らせてやるのだ。死というものの苦しみを、悲しみを、痛みを、恐怖を。  ある意味ではやはり、彼の精神は狂気に病んでいるのかもしれない。それもまた、彼が自ら認めるところではあった。 (分っている。どう正当化してみたところで、これから行なおうとしていることは正気の沙汰ではない)  黒くうずくまる夜の海に向かって、彼はゆるりと首を振った。  コートのポケットに忍ばせた手に、硬い感触がある。それを握り締め、取り出し、目の前にかざしてみた。  透明な薄緑色をした、小さなガラス壜《びん》。  しっかりと栓をしたその壜の中には、彼が己の心の隅々から絞り集めた、俗に良心と呼ばれるものの全てが詰め込んであった。折りたたまれ、封じ込まれた何枚かの紙片。彼が実行を予定している計画の内容が、そこにはぎっしりと細かい文字で書き込まれている。宛先なしの、告白の手紙……。 (分っている。人は神にはなれない)  だから——分っているからこそ、最後の審判は人ならぬものに託したかった。壜がどこへ流れ着くか、その確率は問題ではない。ただ、海に——あらゆる生命を生み出したこの海に、最終的な己の良否を問うてみたいと思った。  風が出てきた。首筋を切りつけるその鋭い冷たさに、思わず身を貰わせる。  ゆっくりと、彼は壜を闇に投げた。 [#改ページ] 第一章 一日目・島 [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり] 「黴《かび》の生えた議論になりそうだけれども」 エラリイは云った。ひょろりと背の高い、色白の好青年である。 「僕にとって推理小説《ミステリ》は、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った、読者対名探偵、読者対作者の刺激的な論理の|遊び《ゲーム》。それ以上でも以下でもない。  だから、一時期日本でもてはやされた�社会派�式のリアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ。1DKのマンションでOLが殺されて、靴底を擦り減らした刑事が苦心の末、愛人だった上司を捕まえる。——やめてほしいね。汚職だの政界の内幕だの、現代社会の歪《ひず》みが生んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ。ミステリにふさわしいのは、時代遅れと云われようが何だろうが、やっぱりね、名探偵、大邸宅、怪しげな住人たち、血みどろの惨劇、不可能犯罪、破天荒な大トリック……。絵空事で大いに結構。要はその世界の中で楽しめればいいのさ。但し、あくまで知的に、ね」  周囲は穏やかな波のさざめく海原。頼りなげなエンジン音を吐いて進む、油臭い漁船の上である。 「どうも鼻につくな」  船縁《ふなべり》に腰掛けたカーが、青々としゃくれた顎《あご》にのさばらせた口を歪めた。 「俺は好きじゃないね、エラリイ。おたくのその、知的知的って台詞《せりふ》は。ミステリを遊びと割り切るのはいいが、そこにいちいち知的って付けるのは、聞いててあんまり気持ち良くないぜ」 「心外だね、それは」 「選民思想だな。読者の皆様全部が、おたくと同じように知的にできてるわけじゃない」 「そりゃあそうさ」  エラリイは澄ました顔で相手を見据えた。 「常々嘆かわしいことだと思ってるよ。日頃、キャンパスを歩いているだけでも痛感するね。うちの研究会でさえ、必ずしもみんなが知的だとは限らないもの。中には、やまいだれ付きの奴もいる」 「喧嘩を売る気か」 「まさか」  エラリイは肩をすくめ、 「誰も君がそうだとは云ってないさ。それに、僕の云う�知的�とは、遊びに対する態度の問題なんでね。別にその人間が利口だとか馬鹿だとかいったことじゃあない。この世に知性のない人間なんていやしないさ。同じ意味で、遊びを知らない人間もいない。云いたいのは、遊びを知的に行なう、その精神的なゆとりが持てるかどうかってこと」 「ふん」  嘲笑混じりに鼻を鳴らして、カーはそっぽを向いた。エラリイは口許《くちもと》に柔らかな微笑を含むと、自分の傍らに立つ、童顔に丸眼鏡の小男の方へ向き直った。 「それでだね、ルルウ。ミステリが、ミステリ独自のある方法論によって成り立つ、知的遊戯のための一世界であると考えるとすれば、僕らの生きる現代は極めてその構築が難しい時代だってことになる」 「はあ」  と、ルルウは小首を傾げる。エラリイは続けて、 「これもまた、云い古された議論さ。地道な努力を惜しまない勤勉な刑事たち、強い組織力、最新の科学捜査技術……警察は今や、決して無能じゃあない。有能すぎて困るぐらいだ。現実問題として、灰色の脳細胞を唯一の武器とした昔ながらの名探偵たちの活躍する余地が、一体どこにある? 現代の都会にかのホームズ氏が出現したとしても、おおかた滑稽さの方が目立つことだろうね」 「それは云いすぎですよ。現代には現代なりのホームズが現れうるでしょう」 「そう。勿論そうさ。恐らく彼は、最先端の法医学や鑑識科学の知識を山ほどひっさげて登場するんだ。そして可哀想なワトスン君に説明する。読者の知識が到底及びもつかないような、難解な専門用語や数式を羅列《られつ》してね。あまりにも明白だよ、ワトスン君。こんなことも知らないのかい、ワトスン君……」  砂色のトレンチ・コートのポケットに両手を突っ込んだまま、エラリイは軽くまた肩をすくめた。 「極論だよ、今のは。けど、云いたいことは同じさ。不粋極まりない警察機構——黄金時代の名探偵たちが駆使したような、華麗な�論理�や�推理�とは似つかない、でいてそれを超えてしまった捜査技術の勝利に拍手を送る気にはなれないってことだ。現代を舞台に探偵小説を書こうという作家は、必ずここで一つのディレンマに陥ってしまうことになる。  そこで、このディレンマの、最も手っ取り早い——と云っちゃあ語弊《ごへい》があるか——有効な解消策として、さっきから云ってる�嵐の山荘�パターンがクローズ・アップされてくるわけさ」 「ナルホド」  ルルウは真顔で頷《うなず》いた。 「それで、本格ミステリの最も現代的なテーマが�嵐の山荘″だってわけですか」  三月も下旬である。春も間近とはいえ、海上を吹く風はまだ冷たい。  九州大分県の東岸に突き出したS半島J崎。その袂《たもと》にあるS町の鄙《ひな》びた港を出発して、船はひっそりとうずくまるI崎を背に航跡を進めていた。目的地は、その沖約五キロの海上に浮かぶ小さな島である。  おあつらえむきの快晴だった。が、この地方の春にはつきものの黄砂のせいで、空は青よりも白に近い。天球に丸く滲《にじ》んだ太陽の光が、さざめく波に落ちて銀鱗に変わる。遠く大陸から風に乗って降り立ったヴェールに包まれ、風景の全てがおぼろに霞《かす》んで見える。 「他に船の姿は見えませんね」  エラリイたちとは反対側の船縁に片手を突いて、それまで黙々と煙草を吹かしていた大柄な男が云った。不精に伸ばした硬そうな髪、顔の下半分を覆った濃い髭《ひげ》——ポウである。 「島の向こう側は潮がきつくてな、どの船も避けるんだ」  快活そうな初老の漁師が答えた。 「この辺の漁場はもっとずっと南の方でね、港を出ても、あの島の方に近づく船は滅多にねえなあ。——ところであんたら、本当に変わった学生さんだな」 「ほう。そう見えますか」 「第一、名前が変わっとる。さっきから聞いてると、るるう[#「るるう」に傍点]だのえらりい[#「えらりい」に傍点]だのと変てこな名前ばっかりだろ。あんたもその口かい」 「ええ。まあその、あれは評名《あだな》みたいなもので」 「最近の大学生ってのは、みんな、そんな名前で呼び合っとるんかね」 「いや。そういうことは、ないでしょうね」 「じゃあやっぱり、変わった学生さんなんだな」  漁師とポウが立つ手前——船の中央付近に作り付けられた長細い木箱を椅子代わりにして、二人の若い女が坐っている。後ろで舵を取る漁師の息子を含めると、この船の乗員は合計八名ということになる。  漁師父子以外の六人は、いずれも大分県O市にあるK**大学の学生で、同時に、この大学の推理小説《ミステリ》研究会のメンバーでもあった。そして、「エラリイ」や「カー」「ルルウ」といった名前は、「ポウ」が云ったように、彼らが仲間内で用いる一種のニックネームなのである。  説明するだけ野暮かもしれないが、それらは無論、エラリイ・クイーン、ジョン・ディクスン・カー、ガストン・ルルウ、そしてエドガー・アラン・ポウ——彼らが愛してやまぬ、欧米のミステリ作家諸氏の名に由来する。女性二人は「アガサ」「オルツィ」と呼ばれている。それぞれのオリジナルが、ミステリの女王アガサ・クリスティーと『隅の老人』で有名なエムスカ・オルツィ男爵夫人であることは云うまでもないだろう。 「ほれ、御覧なさい、学生さんたち。角島《つのじま》の、屋敷が見えてきたでしょうが」  漁師が野太い声を張り上げた。六人の若者たちは一斉に、前方に迫りつつあるその島へと目を馳《は》せた。  小さな、平たい島だった。  垂直に近い絶壁が海から生え、その上をもっこりと黒っぼい緑が覆っている。巨大な十円銅貨を何枚か重ねて浮かべたようなたたずまいだ。手前の方に三箇所ばかり短い出っ張りが見られるが、これを角に見立てて「角島」と命名されたものらしい。  四方を断崖絶壁で囲まれたこの島には、小型の漁船がやっと横付けできるだけの狭い入江が一つあるにすぎない。そのため、観光や海水浴の対象にされるはずもなく、昔から、物好きな釣り人が時折り訪れる他は思い出されることすらなかった。今から二十年余り前、「青屋敷《あおやしき》」なる風変わりな建物をこの小島に建てて移り住んだ人物がいたのだが、現在ではまた、全くの無人島になっているという。 「あの、崖の上にちらっと見えてるのがそうね」  アガサ[#「アガサ」に傍点]が木箱から立ち上がって、嬉しそうな声を上げた。ソフト・ソバージュの長い髪が風に乱れるのを片手で押さえながら目を細める。 「そうそう。あれが焼け残った離れでさぁ。母屋の方は、きれいに焼け落ちちまったって話ですがね」  と、大声で漁師が説明する。 「ふうん。あれが十角館《じゅっかくかん》か。——親父さん」  エラリイが漁師に尋ねた。 「あの島に上がったことはあるのかい」 「風をよけて入江に入ったことは何遍かあるがね、島へ上がったこたぁねえな。殊に、あの事件[#「あの事件」に傍点]からこっちは近づいたこともねえや。あんたらも、せいぜい気いつけなよ」 「気をつけるって、何に」  アガサが振り向いて問うた。漁師は声を一段低くして、 「島にゃあ、出るそうですぜ」  アガサとエラリイは、一瞬意味を取りかねて目配せし合った。 「幽霊だよ。ほれ、殺された中村何とかって男の」  漁師は浅黒い顔一杯に刻まれた皺《しわ》を曲げて、凄《すご》むように、にたっと笑ってみせた。 「こいつは聞いた話だがね、雨の日なんぞに島の近くを通ると、あそこの崖の上にボーッと白い人影が見えるとさ。それがあの、中村|某《なにがし》の幽霊でな、そいつがこう、手招きするって話だ。他にも、誰もおらんはずの離れに明りが点いてたとか、焼跡の辺で人魂《ひとだま》を見たとかな、島の方へ釣りに行ったボートが幽霊に沈められたとか」 「駄目だよ、親父さん」  くすっと遠慮がちに声を洩らし、エラリイが云った。 「駄目だよ。そんな話をして脅かそうとしてもさ、みんな喜ぶだけだから」  事実、六人の若者たちの中で、少しでも怯《おび》えている様子なのは、木箱に腰を下ろしたままでいるオルツィぐらいのものだった。アガサなどはまるで動じる気配もない。それどころか、凄いわ、と楽しそうに呟いて、すいと船尾の方へ足を向ける。 「ねえねえ、本当なの、今の話」  舵を取る漁師の息子——まだあどけなさの残る少年だ——に向かって、はしゃぐように問いかけた。 「嘘ですよ、そんなの」  ちらりとアガサの顔を見やるや、眩《まぶ》しそうに視線を外し、少年はぶっきらぼうに答えた。 「噂には聞いたことあるけど、俺、実際に見たことないですから」 「何だ。そうなの」  アガサは軽く不満の色を浮かべたが、やがて悪戯《いたすら》っぼく微笑《ほほえ》んで、 「でも、幽霊くらい出てもいいわよね。何しろ、あんな事件のあった場所[#「あんな事件のあった場所」に傍点]だもの」 一九八六年三月二十六日水曜日、午前十一時過ぎのことである。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  入江は島の西岸に位置する。  両側は切り立った断崖。向かって右手の方は、剥《む》き出しの岩肌が殊に険しく捲《まく》れ上がり、島の南岸に至って二十メートルに近い絶壁を形成している。潮流の激しい島の東側になると、崖の高さは五十メートルにも達するという。  正面は、これもまた断崖と云っても良いほどの急斜面である。小さな深緑色の灌木が所々に貼り付いた茶色い岩肌を、細い石段がジグザグに折れながら這い上っている。  船はゆっくりと入江に入った。  狭い入江だが、波の加減はやはり外よりもいくらかおとなしい。水の色も違う。重々しい暗緑色である。  入って左手に木製の桟橋があった。奥には、壊れかけた汚ないボート小屋が見える。 「本当に、一遍も様子を見にこんでいいんかね。電話も切れとるだろうが」  ぎしぎしと危なげな音を洩らす桟橋に降り立った六人に向かって、漁師が声をかけた。 「大丈夫だよ、親父さん」 と、エラリイが答えた。ごついナップザックの上に腰掛けて煙草を吹かすポウの肩をぽんと叩いて、 「ここにこれ、医者の卵もいるくらいだからさ」  髭面のこの男、ポウは、医学部の四回生なのである。 「そうよ。エラリイの云う通り」  アガサが相槌《あいづち》を打った。 「それに第一、せっかくの無人島生活なのに、ちょこちょこ様子を見にこられたんじゃムードが出ないわ」 「肝《きも》の太いお嬢さんもいたもんだ」  桟橋の杭に結びつけたロープをほどきながら、漁師は丈夫そうな白い歯を見せて笑った。 「そんじゃあ、来週の火曜、朝の十時に迎えにくるしな。気をつけなせえよ」 「有難う。そうするわ。特に幽霊にはね」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  長く急な石段を昇りきると、途端に視界が開けた。荒れ放題に荒れた芝生を前庭に、白い壁と青い屋根の平たい建物が、彼らを待ち構えるように建っていた。  真正面に見える、青く塗られた両開きの扉が玄関だろう。数段の短い階段が、地面からその戸口へと延びている。 「これが十角館か」  真っ先に声を発したのはエラリイだったが、長い石段を昇ってきたばかりだ、さすかに息が上がっている。駱駝《らくだ》色のボストン・バッグをその場に下ろして、しばし天を仰いだ。 「感想は? アガサ」 「意外と素敵じゃない」  アガサは、うっすらと汗の滲んだ白い額にハンカチを当てた。 「僕としては……ですね……その……」  ルルウは息も絶えだえだ。両手一杯に、アガサの分まで荷物を持たされてきたからである。 「何て云いますか……もっと陰惨な雰囲気……期待してたんですけど……」 「そうそう思惑《おもわく》通りにはいかないさ。まあ、とにかく中へ入ろう。ヴァンは——先に来てるはずだけど、どうしたのかな」  ようやく呼吸を整えたエラリイが、バッグを持ち上げながら云ったのと殆ど同時だった。玄関の、向かってすぐ左隣に見えていた青い鎧戸《よろいど》が開き、一人の男が顔を出した。 「やあ、みんな」  今日から一週間、この島のこの家で寝食を共にする七人目の仲間、ヴァン[#「ヴァン」に傍点]の登場だった。その名は勿論、名探偵ファイロ・ヴァンスの生みの親、S・S・ヴァン・ダインから取られたものである。 「ちょっと待って。今行くから」  妙に嗄《しわが》れた声で云うと、ヴァンは鎧戸を閉めた。ややあって玄関から小走りに出でくる。 「悪いね、出迎えに行かなくって。昨日《きのう》からどうも風邪気味で。熱っぽいから横になってたんだよ。船の音には注意してたつもりだったんだけれど」  彼は諸々の準備のため、六人よりも一足先に島へ来ていたのである。 「風邪ひいたんですか。大丈夫なんですかぁ」  汗で滑り落ちた眼鏡を指先で押し上げながら、ルルウが心配そうに尋ねる。 「大丈夫——だったらいいんだけどね」  痩せた身体《からだ》をぶるりと震わせて、ヴァンは心許《こころもと》なげに笑った。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  一行は、ヴァンに率いられてその家「十角館」に足を踏み入れた。  青い両開きの扉から中に入ると、そこは広い玄関ホール——。「広い」というのはしかし、錯覚であるとすぐに分った。実際の広さはさほどでもない。部屋の形が長方形ではないため[#「部屋の形が長方形ではないため」に傍点]、そのように見えてしまうのである[#「そのように見えてしまうのである」に傍点]。  突き当たりの壁面に奥へ通じる両開き扉があるのだが、よく見てみると、そちらの壁の方が玄関側の壁よりも幅が狭い。つまり、この玄関ホールは、建物の奥に向けてすぼまった台形の形をしている[#「建物の奥に向けてすぼまった台形の形をしている」に傍点]というわけだ。  遠近感を狂わせるこの奇妙な部屋の造りにヴァン以外の六人は一様に首を傾げていたが、やがて、奥の扉を抜け、建物中央のホールへと足を進めたところで、その理由を納得した。というのも、そこが、等しい幅を持つ十面の壁に囲まれた十角形の部屋[#「等しい幅を持つ十面の壁に囲まれた十角形の部屋」に傍点]だったからである。  十角館と呼ばれるこの建物の構造を把握するためには、その平面図を描いてみるのが一番だろう。  この建物の特徴は、その名の通り、十角形——それも正十角形を地に描いた外壁の形にある。この外周りの大きな十角形の内側に、中央ホールの小さな十角形を嵌め込み、各々の十角形の十個の頂点を相互に線で結んで十個のブロックを作る。云い換えればこれは、中央の正十角形のホールの周りを、丁度十個の等脚台形の部屋が取り囲んだ形である。そして、これら十個の台形の内の一つが、彼らが今通ってきた玄関ホールだったというわけなのだ。 「どう? 何だか変な感じだろう」  先頭で入ったヴァンが一同を振り返った。 「玄関の向かい側のあの両開きのドアが台所だよ。その左隣がトイレとバスになってる。残りの七部屋が客室」 「十角形の建物に十角形のホール」  ぐるりと室内を見まわしながら、エラリイが中央に据えられた大きなテーブルに歩み寄った。白塗りのそのテーブルの端を、こつんと指で叩いて、 「これも十角形だ。驚いたもんだね。殺された中村青司には、もしかして偏執狂《モノマニア》の気《け》があったんじゃないかな」 「かもしれませんね」  ルルウが答えた。 「焼け落ちた本館の青屋敷の方は、床から天井から家具から、何から何まで青く塗られてたって聞きますよ」  二十年余り前、青屋敷という建物を建ててこの島に移り住んだ人物——それが、中村青司である。当然のことながら、離れであるこの十角館を建てたのも彼、青司であった。 「それにしても」  誰にともなくアガサが云った。 「部屋を間違えずにいられるかしら」  向かい合った玄関ホールと厨房《ちゅうぼう》——それぞれに通じる両開きの扉は、白木《しらき》の枠組に模様ガラスが入った、同じ造りのものである。閉めてしまえば、どちらがどちらか見分けがつかない。そして、その両側に並んだ四面ずつの壁には、他の各部屋へ通じる、どれも同じ白木のドアがあるのだ。中央のホールには目印となるような調度品もないから、アガサがそのような懸念を抱くのも無理はなかった。 「確かにね。僕も、今朝から何度か部屋を間違いかけたもの」  ヴァンが苦笑した。熱のせいか、二重《ふたえ》の瞼《まぶた》が少し腫れぼったい。 「名札を作ってドアに貼っておく方がいいと思うよ。——オルツィ。スケッチブックは持ってきたかい」  突然名を呼ばれて、オルツィはどぎまぎと顔を上げた。  小柄な女である。太めの体格を気にしてか、暗い色調の服ばかり着るので、かえってそれが野暮ったく見える。華やかなアガサとは対照的に、臆病そうな目をいつも伏せている。ただ彼女は、趣味でかなり達者な日本画を描いた。 「あ、はい。持ってます。今、出しましょうか」 「あとでいいよ。とにかくみんな、自分の部屋を選んで。どれもおんなじ造りだから、揉めなくてもいいよ。僕はお先に、そこの部屋を使わせてもらってるから」  そう云ってヴァンは、玄関ホールの、向かって右隣のドアを指さした。 「ドアの鍵も借りてきてる。鍵穴に差し込んであるだろう?」 「OK。分った」  エラリイが溌剌《はつらつ》と答えた。 「そのあと一服したら、島の探険といこうか」 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  まもなく部屋割りが決まった。  玄関から向かって左側に、手前からヴァン、オルツィ、ポウ、右側にエラリイ、アガサ、カー、ルルウの順である。(Fig.1「十角館平面図」P.27[#画像"fig01.jpg"を参照] 参照)  六人が荷物を持って各自の部屋に消えると、ヴァンは自分の部屋のドアに凭《もた》れかかり、象牙色のダウン・ベストのポケットからセブンスターを取り出してくわえた。そして、今更のようにしみじみと、薄暗い十角形のホールを見渡す。  壁は白い漆喰《しっくい》。床は青い大振りなタイル張りで、土足のまま出入りするようになっている。十方から斜めに持ち上がった天井は中央で十角形の天窓を作り、この窓から落ちる光が剥き出しの垂木《たるき》を撫でて、白い十角形のテーブルに注いでいる。テーブルの周りには、白木の枠に青い布を張った椅子が十脚。垂木から振子のようにぶら下がった球形の電灯を除けば、他に調度類は何もない。  電気は切れている。室内を照らすのは、天窓からの自然光だけだ。広い部屋には、だから昼間でも、何かしら秘密めいた翳《かげ》りが漂っているのだった。  やがて、色褪《あ》せたジーンズに水色のシャツを着たポウが、のっそりと部屋から出てきた。 「ああ、早いね。待ってて。今、コーヒーでも淹れてくるから」  吸いかけの煙草を指に挟んだまま、ヴァンは厨房に向かった。彼は現在、理学部の三回生。医学部四回生のポウよりも一歳年下の勘定である。 「悪いな。——毛布やら何やら、大荷物で大変だったろう、ヴァン」 「そんなでもないよ。業者に手伝ってもらったから」  長い髪をスカーフでまとめ上げながら、そこへアガサが出てきた。 「なかなかいい部屋じゃない、ヴァン。もっとひどい所かと思ってたわ。——コーヒー? だったら、あたしが淹れてあげるわよ」  アガサは上機嫌でヴァンについて厨房に入ったが、カウンターに置いてあった黒いラベルのガラス壜を見つけると、 「あら。インスタント・コーヒーなの」  不満そうにそれを取り上げ、摂ってみせた。 「贅沢《ぜいたく》云わないでおくれよ。リゾート・ホテルじゃないんだ。無人島なんだからね」  と、ヴァン。アガサはローズ・ピンクに彩られた唇をちょっと尖らせ、 「で、食料は?」 「冷蔵庫の中だよ。火事の時に電線も電話線も切れちゃっててね、役には立たないけど。それだけあったら足りるだろ」 「——そうね、充分だわ。水は出るんでしょ」 「うん。上水道が来てる。それから、プロパンのボンベを持ってきて繋《つな》いでおいたから、コンロもボイラーも使えるよ。無理すれば風呂も使える」 「上出来ね。——ふうん。お鍋や食器も残ってるのね。それとも全部持ってきてくれたの」 「いや、残ってたんだ。包丁も三丁あるよ。俎板《まないた》は随分カビてるけど」  そこに、おずおずとした足取りでオルツィが入ってきた。 「ああ、オルツィ。手伝ってよ。何から何まで残ってるのは嬉しいんだけど、全部きれいに洗わなきゃどうしようもないわ」  アガサは肩をすくめ、黒いレザー・ジャケットを脱いだ。それから、ヴァンと、オルツィの後ろからこちらを覗いていたポウに向かい、 「手伝わないんなら、あっちへ行ってて下さいな。島の探険でも先にしてきて。コーヒーはそのあとよ」  片手を腰に当ててねめつける。ヴァンは苦笑いして、ポウと一緒にすごすごとその場を退散した。ホールに向かう二人の背に、アガサは涼やかな声でもう二言、 「名札を作るの忘れないでね。着替えの最中に飛び込まれるのは御免よ」  ホールには、既にエラリイとルルウが出てきていた。 「女王様に追い出されたな」  しなやかな指の先を細い顎に当てながら、エラリイがくすりと笑った。 「仰《おお》せの通り、先に島を一巡りしてこようじゃないか」 「その方が良さそうだね。——カーは? まだなの」 「出てっちゃいましたよ、一人で」  と、ルルウが玄関の方を見やった。 「もう?」 「奴は孤高を気取ってるのさ」  皮肉たっぷりに云って、エラリイは微笑んだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  十角館を出て右手——北側には、高い松並木が続いている。並木には一箇所途切れた部分があって、向かい合った黒松の枝が、その上でアーチ状に被《かぶ》さり合っていた。四人はこのアーチをくぐり、青屋敷の焼跡まで歩いた。(Fig.2「角島全体図」p.33[#画像"fig02.jpg"参照] 参照)  屋敷跡には、建物の基礎が僅かに残っているだけで、あとは汚い瓦礫《がれき》ばかりが散乱していた。広い前庭は、分厚く積もった黒い灰ですっかり荒れ果て、周囲の木立ちには、炎にあぶられたためだろうか、立ち枯れになっているものが随分と目立つ。 「全焼か。見事に焼けてしまったもんだな」  荒涼と広がる風景を見渡して、エラリイが溜息を洩らした。 「本当だ。何も残ってないね」 「おや、ヴァン。君も初めてなのかい」  ヴァンは頷いて、 「伯父さんからいろいろと話は聞いてたけどね、島には今日が初めてなんだ。それに、今朝は荷物運びで大変で、その上熱っぽいし、とても一人で島の散策なんてわけにはいかなかったもの」 「ふうん。それにしても本当に、灰と瓦礫しかないな」 「誰かの死体でも残ってたら嬉しいんじゃないんですか、エラリイさん」  ルルウがにやにやと笑う。 「よせよ。そいつはお前の方だろ」  左手の松林に、小道が一本口を開けていた。その先はすぐ崖になっている様子だった。青々と広がる海の向こうには、ぼんやりと黒くJ崎の影が見える。 「いい天気だ。のどかなもんだな」  エラリイが海の方を向いて大きく背伸びをした。黄色いトレーナーの裾に両手をくるみながら、ルルウも小柄な身をそちらに向け、 「そうですね。——信じられますか、エラリイさん。つい半年前、この同じ場所で、あの凄絶な事件があっただなんて」 「凄絶、か。確かにね。角島青屋敷[#「角島青屋敷」に傍点]、謎の四重殺人[#「謎の四重殺人」に傍点]……」 「本の中じゃあ、五人殺されようが十人殺されようがもう馴れっこですけどね、現実に、それもわりと近い場所でのことでしょう。ニュースを見た時には、ホントにびっくりしましたよ」 「九月二十日未明——だったっけな、S半島J崎沖、角島の中村青司邸、通称青屋敷が炎上、そして全焼。焼跡から、中村青司とその妻|和枝《かずえ》、住み込みの使用人夫婦の計四人が死体で発見された」  エラリイは淡々とした調子で語った。 「四人の死体からは、いずれも相当量の睡眠薬が検出され、しかもその死因か一様ではないと分った。使用人夫婦は、自分たちの部屋で、二人とも縄で縛り上げられた上、斧で頭を叩き割られたものらしい。当主の青司は、全身に灯油をかけられており、明らかに焼死。同じ部屋で発見された和枝夫人は、紐状の物で首を絞められての窒息死と判明した。更に、この夫人の死体は、左の手首から先を刃物で切り取られていたっていうね。そしてその手首は、結局焼跡のどこからも発見されなかった。  事件のアウトラインはこんなとこかな、ルルウ」 「あと、行方不明になった庭師っていうのがいましたっけ」 「そうそう。事件の何日か前から泊まりで仕事に来ていたはずの庭師の姿が、島のどこにも見当たらず、それっきり消息を絶ってしまったってことだったね」 「ええ」 「これについては二通りの解釈がなされている。一つは、この庭師が事件の犯人で、それ故に姿をくらましたという見方。もう一つは、犯人は別にいて、庭師は——例えば、殺そうと追ってくる犯人から逃げまわる内に、過《あやま》って崖から落ちて潮に流されてしまった……」 「警察では、庭師|=《イコール》犯人説が有力だったって話ですね。その後の捜査については知りませんけど。——エラリイさんはどう思うんですか」 「さてね」  海から吹きつける風で落ちた前髪を、エラリイは軽く撫で上げた。 「いかんせん、データが少なすぎるんだな。僕らが知ってることといえば、二、三日の間騒ぎたてたニュース番組や新聞記事の情報だけなんだから」 「意外と弱気なんですね」 「別に弱気なわけじゃない。それらしい推理をでっち上げるだけならわけはないさ。けれども、それで|証明終わり《Q.E.D.》としてしまうには、あまりにデータ不足だってこと。まあもっとも、この事件の場合は、警察がやってる捜査もかなりお粗末なものなんだろうがね。肝心の現場がこの有様だろ。その上、島に生存者はなしときてる。手っ取り早く行方不明の男を犯人にしてしまいたくなるのも無理はない」 「確かに」 「全てはこの灰の中に、ってとこか」  くるりと身を翻《ひるがえ》し、エラリイは建物跡の瓦礫の中に踏み込んでいった。そして、手近の板切れを持ち上げ、身を屈めてその下を覗き込む。 「どうしたんです」  ルルウが首を傾げると、 「消えた夫人の手首でも出てきたら面白いだろう」  エラリイは真面目くさった顔で答えた。 「十角館の方の床下から、庭師の白骨死体が見つかったりしないかな」 「やれやれ、困った奴だ」  黙って話を聞いていたポウが、長い顎髪《あごひけ》を撫でながら呆れ顔で云った。 「全く、お前はいい趣味をしてるよ、エラリイ」 「ホントに」  と、ルルウ。 「さっきの船の上での話じゃないですけどね、もしもこの島で、明日にでも何か事件が起こったら、正にエラリイさんの好きな�嵐の山荘�ですよ。『そして誰もいなくなった』ばりの連続殺人にでもなったら、それこそ大喜びするんじゃないですか」 「ところが、そういう奴に限って一番に殺されるんだな」  ポウは無口な男だが、時々ぼそりと毒のある台詞を吐く。ルルウとヴァンが顔を見合わせてくすくすと笑うのを見て、 「�孤島の連続殺人�ね。ふん。いいじゃないか」  エラリイは一向に悪びれる様子もなく云った。 「望むところさ。僕が探偵役を引き受けてやるよ。どうだい。誰か——この私[#「この私」に傍点]、エラリイ[#「エラリイ」に傍点]・クイーンに挑戦する者はいないかな[#「クイーンに挑戦する者はいないかな」に傍点]」 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり] 「こういう所じゃ、やっぱり女は損よね。体《てい》のいい小間使いにされちゃうんだから」  てきぱきと洗い物を片づけながら、アガサがぼやいた。横で手伝うオルツィは、アガサの白く細い指のきびきびとした動きに目を留めては、つい自分の手をお留守にしてしまう。 「男の子たちにも台所仕事やらせようかな。あたしたちがいるのを幸いにお役御免なんて、甘いわよね。そう思わない」 「ええ。そう、ね」 「澄ましたエラリイにエプロン着せて、オタマなんか持たせたら傑作じゃない。案外可愛かったりして」  アガサは屈託なく笑った。その整った横顔をちらっと盗み見て、オルツィはそっと溜息を呑み込む。  すらりと鼻筋の通った、聡明そうな顔立ち。薄いバイオレットのシャドウでくっきりと引き締まった目許《めもと》。手入れの良いソフト・ソバージュのロング・ヘア……。  アガサはいつも陽気で、自信に満ち溢れている。性格はむしろ男性的なのだが、自分が女性であるということは十二分に心得ている。華やかな美貌に集まる男たちの視線——彼女は、それを楽しんでいるようにさえ見える。 (それに比べて、わたしは)  小さくて丸い鼻。そばかすだらけの、子供みたいに赤い頬。目は大きいけれども、かえってそれが他と不釣り合いで、いつも落ち着きなくきょろきょろしているに違いない。アガサのように化粧をしても、似合いっこないと分っている。自分でも嫌になるほど臆病だし、心配性だし、それでいて鈍感だし……。  毎度のことではあるが、何かと集まる機会の多い七人の中で、女性はアガサと自分の二人だけ。そのことが、どうしようもなく心に重かった。  来なければ良かった。そんなふうにも思えてしまう。  元々、この島にやって来ることには気が進まなかったのである。それは——冒涜[#「冒涜」に傍点]であるように思えたからだ。しかし、仲間たちの強い誘いを断わることに対しても、彼女はやはり臆病すぎた。 「あら。オルツィ、素敵な指輪ね」  アガサが、オルツィの左の中指に目を留めて云った。 「今まで、そんなの嵌めてたっけ」 「ううん」  オルツィは曖昧《あいまい》に首を振った。 「誰かいい人に貰ったのかな」 「そんな。そんなんじゃないわ」  島へ行くことに決めた時、オルツィは思い直したのだった。冒涜《ぼうとく》ではなく、それはそう、追悼だ。死者に対する追悼のため、わたしは島へ行くのだ、と。だから……。 「相変わらずね、オルツィ」 「——えっ」 「いつもあなたは、そうして自分の心の中に閉じこもってる。もう二年も付き合ってるのに、あなたのことって、あたし、殆ど知らないような気がするんだ。別にそれがいけないって云うんじゃないのよ。ただ、不思議だなって」 「不思議?」 「そう。会誌に載ったオルツィの作品を読んでると、時々そう思うのよね。あなたって、自分の書く小説の中じゃ、あんなに生き生きとしてて、明るくって。なのに……」 「夢の中だから」  オルツィはアガサの目を避けて顔を伏せ、口許に不器用な笑みを浮かべた。 「わたし、現実は苦手なの。現実の自分が、嫌だから。好きじゃないの」 「何云ってんのよ」  アガサは笑って、指先でオルツィのペしゃんとしたショート・ヘアをつついた。 「もっと自信を持たなきゃ駄目。あなたって、可愛いのよ。自分で分ってないだけなんだから。そんなに俯《うつむ》いてないで、堂々としてなさい」 「——いい人なんだ、アガサ」 「さあさ。早いとこ片しちゃって、お昼にしましょ。ね?」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  青屋敷跡には、エラリイ、ルルウ、ヴァンの三人がまだ残っている。ポウはさっき、焼跡の向こうの林の中へ一人で分け入っていった。 「……ね、エラリイさん。ヴァンさんも。せっかく七日間もあるんですから、とにかくお願いしますよ」  コミカルな——と評されれば本人は不本意だろうが——銀縁の丸眼鏡の奥で、ルルウは小さな目を熱っぽく光らせた。 「百枚とは云いませんから、せめて五十枚」 「おいおい、ルルウ、冗談だろ」 「僕はいつも、至って真面目ですよ、エラリイさん」 「しかし、そう急に云われても、こっちは全然そんなつもりじゃなかったんだから。なあ、ヴァン」 「エラリイに同感」 「だからぁ、さっきから説明してるでしょう。例年よりも早く、四月の中旬頃までには次の『死人島』を出したいんですよ。新入生勧誘のためと、それから、我がミステリ研創設十周年の記念特大号としても。せっかく編集長になるんだから、僕もそれなりに頑張ろうと思ってるんです。その最初の仕事で、会誌がペラペラなんてことは絶対に避けたいですからね」  文学部二回生のルルウは、この四月から、ミステリ研究会の会誌『死人島』の編集長を務めることになっているのである。 「だからさ、ルルウ」  エラリイは、ワイン・カラーのシャツのポケットから新品のセーラムを取り出し、封を切った。彼は法学部の三回生。『死人島』の現編集長でもある。 「そういう時はカーをおだてるんだよ。内容はともかく、我が研究会一の量産家だからね、あいつは。——ヴァン、悪い。火を貸してくれないか」 「珍しくつっかかるんだね、エラリイ」 「そうじゃないさ。カーの方が先につっかかってくるんだよ」 「そういえば、カー先輩、御機嫌斜めみたいですね」  と、ルルウ。エラリイは、ふふっと笑って薄い煙を吐いた。 「わけありなのさ[#「わけありなのさ」に傍点]」 「何なんです」 「可哀想に、カー先生、つい最近アガサに云い寄って、あっさり振られたらしい」 「アガサ女史に? へえ、勇気あるなあ」 「で、その腹いせにっていうのかどうか知らないが、今度はオルツィにちょっかいをかけたら、これまた相手にしてもらえなかったらしいんだな」 「オルツィに」  ヴァンが眉をひそめた。 「そう。つまりは先生、面白くないわけだ」 「そりゃ、やっぱり面白いわけないですねえ。自分を振った相手が、二人揃って同じ屋根の下じゃあ」 「そういうこと。だから、ルルウ、よっぽどうまくおだてなきゃ、カーの原稿は貰えないぜ」  その時、十角館の方からアガサがやって来るのが見えた。例の黒松のアーチを抜けた辺りで立ち止まると、彼女は三人に向かって大きく手を振り、 「お昼にしましょ。——ポウとカーは? 一緒じゃないの」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  十角館の裏手から松林に入り込む小道——東岸の絶壁を見にいくつもりでそこに踏み込んだのだが、進むに従ってどんどんと道は細くなってくる。その上、やたらと曲がりくねっているものだから、五十メートルも行かない内に方向感覚を失ってしまった。  陰鬱な林である。  木々の間に丈高く茂った熊笹が、歩を進めるたびに服を引っ掻き、ざわざわと鳴く。何度も、足を取られて転びそうになった。  引き返そうかとも考えたが、それもしゃくだった。狭い島だ。まさか、迷って帰れなくなることはあるまい。  ジャケットの下に着込んだ黒いトックリのセーターの喉許に、じっとりと汗が滲んでいた。その不快感が頂点に達した時、ようやく道は林を抜けた。  崖の上だった。明るい海の色が目にしみた。そして、その海に向かって大柄な男が一人立っていた。——ポウだ。 「ん? ああ、カーか」  足音に振り返ってカーの姿を認めると、ポウはすぐにまた海の方へ向き直り、 「島の北岸だ。あれが、猫島《ねこじま》らしいな」  間近に見えるちっぽけな島を指さした。  岩礁と云ってもいいような大きさだった。丸く盛り上がった地面に、低い灌木が申し訳程度生えている。「猫島」という名の通り、海の上に何か黒い獣がうずくまっているような形である。  島の方に目をくれると、カーはふふんと鼻先で頷いた。 「どうした、カー。随分と浮かない様子じゃないか」 「ふん。こんな所になんぞ来なきゃあ良かったと思ってね」  しかめっ面で、カーは悪態をついた。 「去年あんな事件があったからって、別に今、面白いことがあるわけじゃない。それでも、ちょっとはイマジネーションの刺激になるかとついて来てはみたが。あの連中とこれから一週間も顔を合わせていなきゃならないかと思うと、浮かない気分にもなろうってもんさ」  カーは、エラリイと同じく法学部の三回生だった。もっとも、彼は一年浪人していたから、年齢的には一学年上のポウと同じということになる。  中肉中背。但し、骨太で首が短いのと少し猫背であるのとで、実際以上に背が低く見える。 「おたくはどうしたんだ。こんな場所に一人で」 「何となく、な」  ポウは、太い眉の下で、元々細い目を更に細くした。印龍《いんろう》のように腰にぶら下げている樺《かば》細工の煙草入れから一本取り出してくわえると、カーの方にも差し出す。 「一体何箱持ってきてるんだい。こうやってしょっちゅう他人に勧めて、おまけに自分はヘビースモーカーときてる」 「好きなんだよ、医学部のくせにな」 「相変わらずラークか。インテリの吸う煙草じゃないな」  そう云いながらもカーは、勧められるままに一本抜き取って、 「もっとも、エラリイ坊っちゃまのメンソールに比べりゃあ」 「それだ、カー。お前がいちいちエラリイに噛みつくのもいけないんだぞ。だから、ますます面白くないことになるんだ。奴に喧嘩をふっかけても、いいように茶化されてあしらわれるだけだろうが」  カーは自分のライターで煙草に火を点け、ぷいと顔をそむけた。 「おたくの知ったことじゃないね」  ポウは一向に気を悪くするふうもない。黙って、うまそうに煙をくゆらせている。  やがて、カーは途中まで吸ったラークを海に投げ捨てた。それから、手近の岩に腰を下ろし、ジャケットからウイスキーのポケット・ボトルを取り出す。乱暴にキャップを開けると、ぐいと一口喉に流し込んだ。 「昼間っから酒か」 「余計なお世話だね」 「あまり感心できんな」  ポウの口調が少し厳しくなった。 「ちょっとは控えるべきじゃないかな。昼間だからというだけじゃなく……」 「はん。おたく、まだあのことを気にしてるのかい」 「分ってるのなら」 「分ってないね。あれからもうどれだけ経つ。いつまでも気にしてたって始まらないさ」  難しい顔で口を噤《つぐ》むポウを後目《しりめ》に、カーはまたボトルを傾けた。 「面白くないのはエラリイだけじゃない。大体、そうだ、無人島へ来るっていうのに女が一緒なのも気にくわないね」 「無人島といっても、サバイバルに来たわけじゃなかろう」 「ふん。それでなくったって、俺は、アガサみたいな高慢ちきな女と一緒にいたくはないよ。おまけに、もう一人はオルツィだ。何の因果か、ここ一、二年、俺たち七人は�仲良しグループ�みたいになっちまってるから、大声じゃあ云わないがね、あんな、陰気で何の取り柄もない、そのくせ自意識過剰気味の女は……」 「そいつは少々うがちすぎだろう」 「おっと。おたくとオルツィとは、そう云やあ、幼馴染《おさななじ》みだったっけな」  ポウは憮然と煙草を踏み消した。それから、思い出したように腕時計に目をやり、 「もう一時半か。そろそろ戻らんと、喰いっぱぐれるぞ」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「食事の前に、ちょっと」  華著《きやしゃ》な金縁の伊達眼鏡をかけて、エラリイが一同に向かった。 「次期編集長から、みんなに話があるそうだ」  十角形のテーブルには昼食の用意が整っている。ベーコン・エッグに簡単なサラダ、フランスパン、コーヒー。 「えー、食事時に何ですが、改めて少し、御挨拶をば」  しゃちほこばった調子で云うと、ルルウは愛嬌たっぷりに、えへんと一つ咳払いをした。 「そもそもですね、この十角館へ来てみたいというのは、今年の新年会の頃から出ていた意見でした。その時には勿論、実現の可能性など誰も考えていなかったわけですが、その後、この建物が伯父上の手に渡ったからと、ヴァンさんがわざわざ御招待くださいまして」 「別に招待したわけじゃないよ。行く気があるのなら、伯父貴に頼んでやってもいいって云っただけだから」 「まあまあ。——ヴァンさんの伯父上は、御存知の通り、S町で不動産をやってらっしゃる。その上やり手の事業家で、今度手に入れたこの角島を、近い将来、若者向けのレジャー・アイランドに大改造しようとも考えておられる。そうでしたね、ヴァンさん」 「そんなに大袈裟《おおげさ》なものでもないんだろうけど」 「とにかくですね、我々は、そのための一つのテスト・ケースといった意味合もあって、今日こうして、ここに来られる運びとなったわけです。ヴァンさんにはまた、このように、朝早くから諸々の準備まで引き受けて戴きまして、まずはお礼を申し上げねばなりません。  どうも、アリガトウございました」  ルルウは、ヴァンに向かってひょこりと最敬礼してみせた。 「で、ここからが本題でありまして」 「どうでもいいけど、卵とコーヒー、冷めちゃうわよ」  と、アガサが口を挟んだ。 「すぐですよ、もう。まあ、でも、せっかくの食事が冷たくなっては何ですから、どうぞ皆さん、食べながらお聞き下さい。  えー、ここに集まったのは、いずれも、既に卒業された先輩方から才能を見込まれて名前を頂戴した者ばかり。つまり、我が研究会の主要な創作陣がここに会したわけですが……」  K**大ミステリ研究会において、会員たちが互いをこういったニックネームで呼び合うのは、会の創設当時から受け継がれてきた一種の慣習[#「慣習」に傍点]であった。  十年前にこの会を結成したメンバーたちは、ミステリ・マニア持ち前の稚気から、当時はまだ小人数だった会員全員に、欧米の有名作家の名にちなんだニックネームを付けた。その後、年々の会員増加に伴い、当然めぼしい作家名の数の方が足りなくなってきたのだが、その打開策として考えられたのが�名前の引き継ぎ�という方法だった。即ち、作家名を持った会員が、卒業の際、選んだ後輩に自分の名前を引き継がせる、といったシステムである。  自ずから、各後継者の選定は、会誌における活躍ぶりを基準として行なわれるようになった。従って、現在これらのニックネームを持つ者たちは、そのまま会の首脳陣でもあるわけで、それ故に彼らが、何かにつけ集まる機会の多い顔ぶれであることもまた事実なのだった。 「この強力メンバーがですね、今日から一週間、雑念の入る余地のないこの無人島で暮らすことになるわけです。この時間を無駄に過ごす手はありませんよね」  ルルウはにこにこと座を見まわした。 「原稿用紙は僕の方で用意してきました。皆さん、四月発行の会誌のために、この旅行中に一作ずつ、是非ともよろしくお願いします」  えーっ? と、アガサが声を上げた。 「どうりでね。ルルウだけ、変に荷物がかさばってるなと思ったら。そういう腹だったの」 「はい。そういう腹です。アガサ先輩も、オルツィさんもですよ どうぞよろしく」  ちょこんと頭を下げると、ルルウは丸い頬を撫でながら、えへへと笑った。眼鏡をかけた福助といった感じだ。テーブルを囲んだ一同の顔に、複雑な笑いが浮かぶ。 「�孤島の連続殺人�物ばかり集まるかもしれんぞ、ルルウ。そうしたらどうする」  と、ポウが云った。ルルウはぐんと胸を張って、 「その時は、そのテーマで特集を組ませて戴きます。いっそのこと、初めからそういうことにしましょうか。むしろ、それは願ったりなんですよね。そもそも、うちの『死人島』っていう会誌のタイトルは、かのクリスティー女史の名作の、最初の邦題から取ったものなんでしょう?」  片肘を突いてルルウの方を見ていたエラリイが、隣席のヴァンに向かって囁きかけた。 「いやはや、今度の編集長は喰えないね」 [#ここから3字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  彼らの最初の一日は、つつがなく暮れていった。  ルルウの原稿依頼以外に、とりたてて皆を拘束するものはない。元来彼らは、全員で揃ってあれこれしようといったグループでもなかったので、空いた時間は各々が好き勝手なことをして過ごしていた。  そして、夕刻——。 「どうしたの、エラリイ。一人でトランプなんかいじって」  部屋からアガサが出てきた。白のブラウスと黒いレザーパンツのモノトーンに、長い髪を結んだスカーフの山吹色が鮮かだ。 「最近ね、ちょっと凝ってるのさ。マニアを自称するにはまだまだだけど」  手にしたカードをパラパラと弾いて、エラリイは微笑んだ。 「凝ってるって? トランプ占いでも始めたの」 「まさか。そんな趣味はないよ」  エラリイは、十角形のテーブルの上で器用にカードをリフル・シャッフルしながら、 「カードといえばマジックに決まってる」 「マジックって」  アガサは一瞬きょとんと目を丸くしたが、すぐに、 「ははあ。そういえば、エラリイ、わりとそれっぽいところあるか」 「それっぽい?」 「そ。人をケムに巻いて喜ぶみたいな習性よ」 「習性[#「習性」に傍点]って、そりゃあひどいワーディングだ」 「あら、そう?」  アガサはからりと笑って、 「じゃ、エラリイ、何かやってみせてよ。あたし、手品ってあまり見たことないのよね」 「ミステリ・ファンでマジックに興味のない人も珍しいね」 「興味がないわけじゃないわ。あんまり機会がなかっただけ。ね、やってみせて」 「OK。じゃあ、こっちへ来て、そこに坐って」  夕暮れにさしかかり、十角館のホールには薄闇が港んでいる。アガサが広いテーブルを挟んだ向かいの椅子に腰を下ろすと、エラリイはカードを揃えてテーブルの上に置き、更にもう一組のカードを上着のポケットから取り出した。 「さて、いいかい。ここに、赤と青、裏の色が違う二組のカードがある。今から、この内の片方をアガサが、もう片方を僕が使うことになるんだけれども、どっちか好きな方を選んでくれるかい」 「青にするわ」  と、すかさずアガサは答えた。 「よし。じゃ、青の方、このカードを君が持って」  エラリイはテーブル越しに青裏の一組《デック》を渡した。 「まず、何の仕掛けもないことを改めてから、好きなだけそれを切り混ぜて。僕は、こっちの赤のカードをよく混ぜるからね。いいかな」 「いいわよ。確かに普通のトランプね。アメリカ製?」 「バイシクル・ライダーバック。裏模様が自転車に乗ってる天使の絵だろ。向こうで一番ポピュラーに使われてる銘柄さ」  エラリイは、入念にシャッフルした自分のデックをテーブルに置いた。 「ここで一度デックを交換しよう。青い方をこっちに渡して。赤の方を君に。——OK。次に、いい? その中から好きなカードを一枚抜いて覚える。僕も、今君が切ったカードの中から一枚覚えるから」 「好きなのを一枚ね」 「そう。——覚えたかい。じゃあ、それをデックの一番上に戻して。そうだ。そして、僕と同じように一回カットする。こうして、上半分と下半分を入れ替えるんだ。うん。よし。それを二、三回繰り返す」 「——これでいいかしら」 「OK。上出来だよ。それじゃあ次に、もう一度デックを交換して……」  アガサの手に、再び青裏のデックが渡った。エラリイは一直線に彼女の目を見据えながら、 「いいかい。今、僕たちは何をしたかっていうと、ばらばらに切り混ぜた二組のカードから、それぞれ勝手な一枚を抜いて覚え、元に戻してまた混ぜたわけだね」 「ええ。確かに」 「じゃあ、アガサ、そっちのデックの中から、さっき君が覚えたカードを見つけ出して、テーブルの上に伏せてくれないかな。僕は、こっちの方から、僕が覚えたカードを探すから」  まもなくテーブルの上に青と赤二枚のカードが抜き出された。エラリイは一呼吸おいてから、アガサに二枚のカードを表返すよう命じた。 「——えっ。本当にぃ?」  アガサが驚きの声を上げた。二枚の表には、どちらにも同じスートとナンバーがあったのだ。 「ハートの4[#「ハートの4」に傍点]、か」  エラリイはにっこりと微笑んだ。 「なかなか気が利いてると思わないかい」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  日が落ちると、十角形のテーブルの中央でアンティークな石油ランプに灯がともされた。電気が切れていると聞いて、ヴァンが持ってきておいた物である。ホール以外の各部屋には、太い蝋燭《ろうそく》が沢山用意されていた。  夕食が済んだ時には、時刻は既に七時を回っていた。 「ねえ、エラリイ。さっきの手品のタネ、どうして教えてくれないの」  コーヒーを運んできて皆に配り終えるなり、アガサはエラリイの肩を小突いた。 「何度云っても駄目だよ。マジックにタネ明かしは禁物。その辺がミステリとは違うところでね。どんな不思議な現象でも、トリックを知ったら大抵がっかりするものだから」 「アガサ先輩、エラリイさんの手品の相手をさせられたんですか」 「あら、ルルウほ知ってたの。エラリイが手品なんてすること」 「知ってるも何も、さんざん練習台になってますからね、この一カ月ばかり。そこそこうまくなるまでは、他のみんなには内緒だぞって。意外と子供みたいなとこあるんですよね」 「おいおい、ルルウ」 「何を見せたんですか」 「簡単なやつを、一つ二つね」 「そんな、簡単な手品だったのぉ」  アガサはますます不満そうな声で、 「だったらいいでしょ。タネ教えてよ」 「簡単だからタネ明かしをしてもいいってもんじゃないさ。最初に見せたのなんかは特にね、子供でも知ってるような初歩的なトリックなんだけど、問題はネタそのものじゃなくって、演出、それとミスディレクション」 「演出?」 「そう。例えば」  エラリイはカップに手を伸ばし、ブラックのまま一口|啜《すす》った。 「あれとほぼ同じトリックをね、『マジック』っていう映画の中で、アンソニー・ホプキンス扮するマジシャンが、昔の恋人を相手に見せるくだりがあるんだ。そこでは、普通の手品としてじゃなく、ESPの実験として演じられてたね。お互いの心が通じ合っていればカードは一致するはずだっていう設定でさ、それをきっかけにマジシャンは相手を口説き落とそうとするわけなんだけど」 「ふうん。で、エラリイは同じようにしてあたしを口説くつもりはなかったわけ?」 「まさか」  エラリイは大袈裟に肩をすくめて、血色の良い唇の間から歯をこぼした。 「残念ながら、女王様を口説くような度胸は、今のところ僕にはないよ」 「微妙な云いまわしね」 「そいつはどうも。——ところでさ」  エラリイは指をかけたままでいたコーヒーカップを持ち上げて、しげしげと眺めながら云った。 「全然話は変わるけど、昼間も云ってた中村青司——つくづく凝り性な男だったんだな。このカップなんか見てると、うすら寒い気もしてくるね」  洒落《しゃれ》たモス・グリーンのカップである。厨房の食器棚に沢山残っていた物の一つだが、注目すべきはその形だった。これもまた、建物と同じ正十角形なのである。 「特注で作らせたんだろうな。その灰皿も、さっき使ってた皿もそうだったね。何から何まで十角形だ。——どう思う、ポウ」 「何とも云えんな」  ポウは十角形の灰皿に吸いかけの煙草を置いて、 「確かに、いささか常軌を逸しているとは思うが、金持ちの遊びというのは大概そういったところがあるものだろうし」 「金持ちの遊びね」  エラリイはカップを両手で包み、上から中を覗き込んだ。十角形といっても、このカップ程度の直径だと、殆ど円のように見える。 「とにかくまあ、この十角館だけでも、はるばる島までやって来た価値があったね。故人に乾杯といきたい気分だ」 「けど、エラリイ、十角館はみんな好みのいい所だけど、島自体には本当に何もないのね。殺風景な松林ばっかりで」 「そうでもない」  と、ポウがアガサに応《こた》えて、 「焼跡の西側にある崖の下が、手頃な岩場になっててな、下へ降りる階段も作ってあるんだ。案外、釣れるかもしれん」 「そういえば、ポウ先輩、道具を持ってきてましたっけ。いいですねえ。明日は新鮮な魚が食べられますかねえ」  ルルウがぺろりと唇を舐《な》める。 「あんまり期待されても困るな」  ポウはゆっくりと顎髭を撫でながら、 「それと、この家の裏手に何本か桜が生えていただろう。蕾《つぼみ》がだいぶ膨らんでいたから、ひょっとすると、二、三日の内に咲くかもしれんな」 「素敵。咲いたらお花見に行きましょうよ」 「いいですねえ」 「サクラサクラか。どうして春というと桜がもてはやされるのかね。僕は、桃や梅の花の方がずっといい」 「それは、エラリイさんの趣味が一般的じゃないんですよ」 「そうかな。この国じゃあね、その昔、やんごとなき[#「やんごとなき」に傍点]方々は桜よりも梅を愛でたもうた[#「たもうた」に傍点]ものなんだぜ、ルルウ」 「ホントなんですかぁ」 「本当さ。な、オルツィ」  唐突に云われて、オルツィはびくっと肩を震わせた。それから顔を赤くして小さく頷く。 「解説は? オルツィ」 「え……はい。ええと、『万葉集』に一番多いのは、萩と梅の歌で。それぞれ百首を越えてますけど、桜の方は四十首ぐらいのものですから」  オルツィはルルウと同じ文学部の二回生である。専攻は英文学だが、日本の古典文学についてもかなり詳しい。 「ふうん。知らなかったわ」  感心した様子で、アガサが云った。彼女はまるで畑違いの薬学部三回生である。 「もっと聞かせてよ、オルツィ」 「あ、はい。——『万葉集』の頃は、大陸文化至上主義みたいな風潮があって、だから、中国の趣味が影響してたんでしょうね。桜が増えるのは『古今和歌集』になってからで。ええと、けれども、散る歌が多くって」 「『古今』っていうと、平安時代だっけ」  と、エラリイ。 「醍醐《だいご》天皇の頃。十世紀の初め……」 「悲観的な世相のせいかな、散る花の歌が多いっていうのは」 「どうでしょう。醍醐天皇といえば、延喜《えんぎ》の治という名政で有名な人ですから……。桜の散る頃というのは、伝染病の流行《はや》りやすい季節だったっていいますね。桜が疫病を誘《いざな》う、というので、宮中でもこの頃には鎮花祭《はなしずめ》が行なわれたりして。あの、ですから、その辺と関係があるんじゃ……」 「成程ね」 「どうした、ヴァン。えらく静かだな」  と、この時、ポウが隣席で僻いているヴァンの顔を覗き込んだ。 「気分が悪いのか」 「——うん。ちょっと、頭痛がするんだ」 「顔色が良くない。——熱もあるな」  ヴァンは肩をほぐすように首を動かしながら、大きく息を吐いた。 「悪いけど、先にもう、寝させてもらっていいかな」 「ああ。その方がいい」 「うん」  テーブルに両手を突いて、ヴァンはゆっくりと椅子から立ち上がった。 「みんな、構わずに騒いでくれていいよ。物音は気にならない方だから」  お休み、と声を交わし、ヴァンは自分の部屋に引っ込んだ。一瞬静まり返った薄暗いホールに、カチッと小さな金属音が響く。 「嫌らしい奴だな」  それまで黙りこくって膝を揺すっていたカーが、神経質そうな三白眼をぎょろりと剥いて、低く云い捨てた。 「これ見よがしに鍵を掛けるなんて。自意識過剰の女じゃあるまいし」 「今夜は空が明るいな」  そ知らぬふりで、ポウが十角形に開いた天窓を仰ぎ見た。 「確か、一昨日《おととい》が満月でしたね」  と、ルルウ。その時、天窓の外をすうっと微かな光が横切った。J崎の灯台の光がここまで届いてきているものらしい。 「ほら、月が笠を被ってるわよ。明日は雨かしらね」 「ははっ。そりゃ迷信だろ、アガサ」 「失礼ね、エラリイ。あながち迷信と言えないんじゃないの。水蒸気の関係でああなるっていうもの」 「週間予報じゃ、しばらく晴天が続くって云ってたぜ」 「でも、月に兎がいるなんていうレベルよりは、ずっと科学的でしょ」 「月に兎ね」  エラリイは苦笑した。 「知ってるかい。宮古《みやこ》諸島の方じゃあ、桶《おけ》を担いだ男がいるっていうの」 「あ、その話なら聞いたことがありますよ」  ルルウが丸顔をほころばせた。 「神様の命令で、不死の薬と死の薬を桶に入れて人間界に来るんでしょう? ところが間違えて、蛇に不死の薬を、人間に死の薬を与えてしまった。それで、罰として今でも桶を担がされてるんだ、って」 「そうそう」 「それと似た話が、ホッテントット族の間にもあるらしいな」  ポウが云った。 「但し、男じゃなくてまた兎だ。月の神の言葉を伝え損なった兎が、怒った神に棒を投げつけられた。それで、唇が三つに割れたっていうんだ」 「ふうん。人間が考えることなんて、どこでも似たようなものだってことか」  エラリイは、青い背凭れにひょろ長い身を預け、腕を組んだ。 「月に兎っていうのは世界中に残ってるみたいだからね。中国に中央アジア、インド……」 「インドにもあるのか」 「サンスクリット語で月のことを『シャシン』というんだけど、この単語はそもそも『兎を持つもの』って意味なんだ」 「ほう」  テーブルに置いてあった煙草入れに手を伸ばしながら、ポウはまた天窓を仰いだ。十角形に切り取られた夜の片隅に、ぼんやりと浮かぶ黄色い月……。  角島、十角館。薄暗いランプの灯が、周囲の白い壁に若者たちの影を描いて揺れる。  漫然と、彼らの夜は更けていった。 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第二章 一日日・本土 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり] [#ここから枠囲い] お前たちが殺した[#「殺した」に傍点]千織は、私の娘だった。 [#ここで枠囲い終わり] 狭い部屋の真ん中に敷かれた万年床に寝転がったまま、江南《かわみなみ》孝明《たかあき》は眉をひそめた。  午前十一時。先程帰ってきてみると、この手紙が郵便受けに入っていたのだ。  昨夜は夜通し、友人の下宿で麻雀に興じていた。毎度のことながら、部屋に帰り着いてもまだ騒がしい洗牌《シーハイ》の音が朦朧《もうろう》とした頭の中で響き続けていたのだけれど、その文面を見た途端すっかり目が覚めてしまった。 「何だ、こりゃあ」  しょぼつく目を擦《こす》りながら、手紙の入っていた封筒を取り上げ、見直してみる。  何の変哲もない茶封筒である。消印の日付は、昨日——三月二十五日。発送場所はO市内のようだ。唯一変わっている点といえば、文字が全部ワープロで打たれていることぐらいだろうか。  差出人の住所はない。封筒の裏には、「中村青司」という名前だけが記されている。 「中村青司」  声に出して呟いてみた。知らない名だ。いや、どこかで聞いたことがあるようにも思うが……。  身体を起こし、布団の上にあぐらをかいて、文面の方に目を戻す。こちらもワープロが使われている。紙はB5判の上質紙である。 『お前たちが殺した[#「殺した」に傍点]千織は、私の娘だった』  この「千織《ちおり》」という名前には見覚えがあった。恐らく、あの[#「あの」に傍点]中村千織のことだろう。すると、その父親が「中村青司」だということか。  あれは、もう一年以上も前になる。昨年の一月のことだった。  その頃江南が所属していたK**大学の推理小説《ミステリ》研究会で、新年会が催された。中村千織はこの研究会の後輩で、彼よりも一級下——ということは、当時一回生だったことになる。江南は現在三回生、来月から四回生になるが、会の方は去年の春に辞めてしまっていた。  その新年会の三次会の席上で[#「その新年会の三次会の席上で」に傍点]、彼女[#「彼女」に傍点]、中村千織は死んだのである[#「中村千織は死んだのである」に傍点]。  用があって江南が途中で店を出た、そのあとの出来事だったという。何でも、急性アルコール中毒から持病の心臓発作が誘発されたものらしく、救急車が駆けつけた時には既に手遅れの状態だったと聞く。  葬儀には、彼も出席した。  千織はO市内にある母方の祖父の家に住んでおり、葬儀もそこで行なわれた。しかし、あの時の喪主の名は「青司」ではなかったように思う。もっと古臭い名前だった。とすると、あれは父親ではなく、祖父の名だったのか。そういえば、あの葬儀の場に、父親らしい姿は見当たらなかったような気もするが。  しかし、では、その千織の父を名乗る人物が何故、兄も知らぬ自分のところへこんな手紙をよこしたのだろうか 手紙の中で「青司」は、千織は殺されたのだと強調している。自分の娘が、コンパの席上で、飲まされた酒が原因となって急死したのだから、「殺された」と感じるのも無理はないかもしれない。だが、いくらその腹いせにせよ、あれから一年以上も経った今頃になって、どうして? そこまで考えて、江南ははっと身を正した。 (中村青司[#「中村青司」に傍点]……)  記憶の糸がほぐれ始めたのだ。  勢い良く立ち上がった。壁際に少し傾いで立つスチール・ラックに向かい、そこから何冊かのファイルを引っ張り出す。中身は、趣味で続けている新聞のスクラップである。 (あれは確か、去年の九月頃だ)  しばらくごそごそと調べる内に、その記事は見つかった。 [#ここから枠囲い] 角島青屋敷炎上 謎の四重殺人!? [#ここで枠囲い終わり]  太字の大きな見出しをパチンと指で弾くと、江南はそのファイルを持ったまま畳の上に坐り込んだ。 「死者の告発[#「死者の告発」に傍点]、か」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「もしもし。東《ひがし》さんのお宅でしょうか。あの、江南と申しますが、一《はじめ》君はおられますか」 「江南さん、ですか」  応答に出たのは母親のようだった。 「一でしたら、今朝から旅行に出かけておりますが。クラブのお友だちと一緒に」 「ミステリ研の連中とですか」 「はい。何ですか、無人島へ行くんだとか申しまして」 「無人島? 島の名前は分りますか」 「ええと、角島と申しておりましたけど。S町の方の」 「角島……」  江南は息の詰まる思いで受話器を握り締めた。 「あのですね、一君宛てに、手紙が来てないでしょうか」 「手紙ですか」 「中村青司という人からの手紙なんですが」 「さあ」  相手は少し躊躇《ちゅうちょ》したが、江南の声に何か切迫したものを感じたのだろう、少々お待ち下さい、と云い置いて電話口を離れた。がんがんと耳を打つようなオルゴールの音がしばらく続いた後、やがて戻ってきた声はおずおずと告げた。 「来ておりますよ。これがどうか」 「来てる? 来てるんですね」 「はあ」  分ってしまうと、肩に入った力が急に抜け、何となくきまりが悪くなってきた。 「ああ、あの、どうもすみません。——いえ、何でもないんです。突然、失礼しました」  受話器を置くと、そのまま壁に凭れかかった。  古いアパートである。体重をかけすぎると、壁全体がみしっと軋《きし》む。建付《たてつけ》の悪い窓の外からは、今にも壊れそうな洗濯機の音が聞こえてくる。 (東の家にも、中村青司の手紙が……)  江南は充血した目を何度もしばたたいた。 (ただの悪戯《いたナち》なんだろうか)  研究会の住所録を調べて、あの三次会に居合わせた他のメンバーのところへも、二、三電話してみたあとだった。が、どこも留守で、大概が下宿だということもあって、何の確認もできなかったのである。ところが……。  連中は今、旅行へ——しかも、よりによって、問題の事件が起こった当の角島へ行っている。  これは、何の意味もない偶然なのだろうか。  しばらく考えあぐねた末、江南はもう一度会の住所録を取り上げ、死んだ中村千織の電話番号を探し始めた。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  K**大ミステリ研の面々が角島に向かって船出したS町から、バスで半時間、更に列車で四十分ほどの所に、O市がある。直線距離にして四十キロ足らずといったところか。そのO市から、更に四つばかり先の亀川《かめがわ》という駅で下車すると、江南は駅前から山手へ向かう道を少し速足で歩いた。  中村千織の祖父宅へ電話をかけ、亡くなった彼女の大学の友人ですと告げると、恐らく住み込みの女中か誰かだろう、気さくな中年女性の声が彼の質問に答えてくれた。  さすがに正面切って尋ねるのは気がひけた。苦心して、それとなく千織の父親が角島の中村青司と同一人物であるということを確認した後、彼はついでに、青司の弟、中村|紅次郎《こうじろう》の住所を聞き出すことに成功した。紅次郎という人物の存在は、新聞記事を調べた際に仕入れておいた知識であった。  中村紅次郎は別府の鉄輪《かんなわ》に住んでいるとのことだった。地元の高校で教師をしており、今は春休みだから大抵家にいるはずだという。  別府は以前江南の実家があった町だった。あそこなら土地鑑もある、と考えるや、持ち前の好奇心がむくむくと湧き上がってきた。そして、とりあえず電話をかけてみてから、とは思いもつかず、彼は早速、紅次郎の家を訪ねてみることに決めたのだった。  別府鉄輪は「地獄巡り」で有名な温泉地帯である。晴れ渡った空の下、坂道の脇の下水道や家並みのあちこちから白い湯煙が立ち昇り、風にたなびいている。左手間近に、黒い壁のように迫っている山は鶴見岳《つるみだけ》だ。  短い繁華街を抜けると、街は急にひっそりとし始める。この辺りには、温泉治療で長逗留する人々のための宿屋や下宿、貸し別荘の類《たぐい》が多く並んでいる。  電話で聞いた番地を頼りに歩きまわる内、やがて大した苦労もなく、目当ての家は見つかった。  落ち着いた趣《おもむき》の、平屋の家だった。低い生け垣の向こうで、黄色い金雀枝《えにしだ》、白い雪柳、薄紅の更紗木瓜《さらさぼけ》といった花々が、とりどりに春を彩り始めている。  江南は格子戸の入った門をくぐり、石畳を玄関に進んだ。深呼吸を一つしてから、呼び鈴のボタンを押す。ややあって、丸みのあるバリトンの声が戸の向こうから聞こえた。 「どちらさん?」  現れたのは、この日本建築にはあまりにそぐわぬいでたちの男だった。白い開襟シャツに茶色のカーディガン、チャコール・グレーのフラノのズボン。無造作に撫で上げた髪には、僅かに白いものが混じっている。 「中村紅次郎さんですか」 「そうですが」 「あの、僕は、亡くなった中村千織さんと大学で同じクラブにいた、江南という者なんですが。どうも、突然お訪ねして申し訳ありません」  紅次郎は、鼈甲《べっこう》縁の眼鏡をかけた彫りの深い顔を和らげた。 「K**大の、推理小説のクラブの? で、私にどんな御用です」 「実は今日、妙な手紙が来まして」  江南は例の手紙を封筒ごと差し出した。 「これなんですけど」  紅次郎はそれを受け取ると、整然と並んだ宛名書の文字に目を落とした。途端、ぴくりと眉を震わせて江南の顔を見直し、 「とにかく、じゃあ、お上がんなさい。友人が一人来てるけれども、気を遣わなくっていいから。一人暮らしなもので、何のお構いもできないがね」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  江南は奥の座敷に通された。  六畳が二間、L字型に組み合わさった形の部屋である。間の襖《ふすま》は取り払われ、十二畳が一間として使われている。  手前の方の六畳は、居間兼応接間といったところだろう、利休色のカーペットを敷きつめた上に、同系色のソファ・セットがゆったりと据えられている。奥の六畳は、丁度右手の庭に突き出した格好になっており、書斎らしい。天井まである書棚が数本と、大きな書斎机が見える。男の一人暮らしとはとても思えぬほど、部屋はきれいに整頓されていた。 「島田《しまだ》。お客さんだよ」  手前の六畳間の、庭に面した縁側に籐《とう》製の揺り椅子があり、そこに紅次郎の云った「友人」がいた。 「K**大の推理小説——研究会の江南君。こっちは、私の友人で島田|潔《きよし》」 「推理小説?」  島田は慌てて立ち上がった。と、そのはずみで大きく揺れた椅子の脚に自分の足をぶつけてしまい、低く呻いてまた椅子に落ちた。  痩せて背の高い、やたらと細長い男である。江南はとっさにカマキリを連想した。 「あのう、研究会の方は去年に辞めたんですが」 「だ、そうだ」 「ふうん」  島田は痛そうに足をさすりながら、 「で、その君が何だって紅《こう》さんのとこへ?」 「これだよ」  と、紅次郎が云って、江南が持ってきた例の手紙を島田に渡した。その差出人の名を見るや、島田は足をさすっていた手をぴたりと止め、江南の顔を見やった。 「読んでもいいですか」 「どうぞ」 「実はね、江南君」  紅次郎が云った。 「同じような手紙が、私にも来てるんだよ」 「ええっ」  紅次郎は奥の机に歩み寄ると、小豆色のデスク・マットの上から一通の封書を取り上げ、江南に手渡した。  江南はすぐに封筒の表裏を改めた。彼の許に届いたのと同じ封筒、同じ消印、同じワープロの文字だ。そして、発送人の名は「中村青司」。 「中を見てもいいですか」  紅次郎は黙って頷いた。 [#ここから枠囲い] 千織は殺された[#「殺された」に傍点]のだ。 [#枠囲い終わり]  たったそれだけだった。文面は異なるが、B5の上質紙にワープロという体裁は同じである。  手紙に目を落としたまま、江南はしばらくの間何も云えずにいた。  不可解な死者からの手紙——それが、去年のあの三次会の席に居合わせた他のメンバーのところへも届いているのではないか、とは、容易に想像できることであった。しかし、この男、中村紅次郎の許にまで同じような手紙が来ていようとは。 「一体どういうことなんでしょうか、これは」 「さっぱり分らんね」  と、紅次郎は答えた。 「私も驚いているんだよ。たちの悪い悪戯だろうとは思うが。さっきも島田と話してたんだ。世の中には暇な人間がいるもんだとね。そこへ君がやって来た」 「どうも、僕のところだけじゃなくって、他の会員連中のところにも同じものが行ってるみたいなんです」 「ほう」 「まさか、この青司——失礼、お兄さんが生きていらっしゃるというようなことは」 「ありえないね」  紅次郎はきっぱりと首を振った。 「知っての通り、兄は去年死んだ。私は死体の確認もさせられている。ひどい有様だったがね。  悪いけれども、江南君、あの事件のことはもうあまり思い出したくないな」 「すみません。——じゃあ、この手紙はやはりただの悪戯だと」 「そうとしか考えられないだろう。兄は半年前に死んでいる。これは紛れもない事実だよ。そして私は、幽霊の実在を信じる気にはなれない」 「手紙の内容については、どう思われますか」 「それは」  紅次郎の表情が微妙に曇った。 「千織の不幸については私も聞いているが。あれは事故だったと思っているよ。千織は私にとっても可愛い姪《めい》だったからね、殺されたんだ——と、そういう気持ちも分るが、だからといって君たちを怨んでみても仕方がない。むしろ、悪戯で兄の名を騙《かた》り、こんな文書をばらまく行為の方が許せないな」 「悪戯、ですか」  どうも納得がいかなかった。江南は曖昧に頷きながら、籐椅子の島田の方を窺《うかが》った。組んだ膝の上に片肘を突いて、彼は、何故かしらいやに嬉しそうな顔でこちらを見ていた。 「ところで」  紅次郎に手紙を返しながら、江南は云った。 「うちの研究会の連中が、今、角島へ行っているということは御存知《ごぞんじ》でしょうか」 「いいや」  紅次郎は気のないふうに答えた。 「あそこの屋敷と土地は、兄の死後、私が相続したんだがね、先月S町の業者に売ってしまった。かなり買い叩かれたが、もう二度と行く気も起きまいし。その後のことは知らんよ」 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  今日中に済ませておきたい仕事があるから、と云われ、まもなく江南は紅次郎にいとまを告げた。  座敷を出る前に、奥の書棚にぎっしりと詰まった本が気になって尋ねてみたところ、紅次郎は近くの高校で社会科の教鞭《きょうべん》をふるうかたわら、仏教学の研究をしているのだと云う。初期大乗仏教の�般若空�についてやっているんだよ、と、この時は妙にはにかんだ口振りで説明してくれた。 「はんにゃくう[#「はんにゃくう」に傍点]?」  江南が小首を傾げると、 「ほら、『般若心経』つてのがあるだろう。色即是空、空即是色ってやつ。その�空�とは何ぞやについて、紅さんは研究していなさる」  椅子からぴょこんと立ち上がって、島田潔が解説した。彼はそして、跳ねるような足取りで江南のそばに来ると、借りていた手紙を差し出しながら、 「カワミナミ君、ね。どんな字を書くの」  と問うた。 「揚子江《ようすこう》の江に東西南北の南、です」 「江——南——か。ははん。いい名前だね。——紅さん、じゃあ僕もそろそろ失礼するとしよう。一緒に出ようじゃないか、江南君」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  紅次郎の家を出て、人通りもまばらな道を並んで歩きながら、島田は両手を組んで大きく伸び上がった。黒いセーターを着た痩せぎすの身体がよりいっそう細長く見える。 「江南君か。うん、いい名前だ」  組んだ手をそのまま頭の後ろにまわして島田はまたそう云ったが、この時彼は、江南の名を「かわみなみ」ではなく「こなん」と発音した。 「何で君はミステリの研究会を辞めたんだろう。思うにそれは、クラブの気風が肌に合わなかったからだ。違うかい」 「正解ですよ。よく分りますね」 「そんなの、顔を見りゃ分るさ」  島田はにやにやと笑いながら、 「従ってだ、君は別に、ミステリに興味がなくなったわけではないということだ」 「ミステリは今も好きですよ」 「その通り。君はミステリが好きだ。僕も、仏教学よりミステリが好きだ。これほど明快なことはないね。さて、江南《こなん》君、お茶でも飲みにいこうじゃないか」 「はあ」  答えてから、江南は思わず声を出して笑ってしまった。  道はなだらかな下り坂である。正面から頬を撫でる緩い風は、もう春の気配に満ちている。 「しかし、江南君、君も変わった男だねえ」 「はい?」 「わざわざ、ただの悪戯かもしれない一通の手紙のために、こんな遠方まで一人で出向いてくるんだから」 「そんなに遠くでもないですよ」 「ふむ。まあもっとも、僕が君と同じ立場にあったとしても、きっと同じことをしただろうな。暇は毎日もてあましてるしね」  黒いジーンズの前ポケットに両手を突っ込みながら、島田は白い歯を剥き出した。 「どう? 君は他意のない悪戯だと思うかい」 「紅次郎さんはああ云っておられましたけど、どうもやっぱり、釈然としませんね」  と、江南は答えた。 「そりゃあ、僕にしたって、幽霊が書いただなんて思いませんよ。誰かが死者の名を騙って書いたんでしょう。けど、ただの悪戯にしては念が入りすぎてる」 「と云うと」 「わざわざ全部、ワープロを使ってますよね。ただの悪戯にワープロまで動員するっていうのは……」 「慣れてりゃあ、どうってことないんじゃない? 最近のワープロの普及はめざましいものだからね。現に紅さんだって一台持ってる。今年になって買ったばかりなのに、達者なもんだよ」 「普及してるといえば、確かにそうですね。僕の友だちでも持ってる奴はわりといるし。大学へ行けば、研究室に一台ずつは、学生が自由に使える機械がありますよ。けれども、ワープロを使って手紙を書くっていう行為自体は、まだそれほど一般的じゃないでしょう」 「それはそうだね」 「ワープロの使用は勿論、格好の筆跡隠しになるわけですけど、単なる悪戯に、そうまでして筆跡を隠す必要があるでしょうか。それに、あの文面。たったあれだけ、あまりにそっけない文面でしょう。人を脅して喜ぶつもりなんだったら、もっと恐ろしげな文句を一杯並べると思うんです。紅次郎さんに来たやつにしてもそうですよね。たったあれだけ。だから余計に、もっと深い意図を想像してしまう」 「成程。もっと深い意図ねえ」  坂を下りきると広い海岸通りに出た。陽光に照り輝く海を、大小様々な船が何隻も行き来している。 「ああ、あそこ」  と、島田が指さした。 「あの店に入ろう。あの店がいい」  通り沿いに、風見鶏の付いた赤い屋根が見える。看板に飾り文字で記された�MOTHER GOOSE�という店の名を読んで、江南はまた頬を緩めずにはいられなかった。 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  窓際の一席に向かい合って坐ると、江南は、ついさっき知り合ったばかりの男の風貌を改めて観察した。  年は三十過ぎ——いや、もう少し上だろうか。長めに伸ばした柔らかそうな髪のため、痩せた頬がいっそうこけて見える。細身でかなり身長もある江南よりも、更にいくらか細長い身体。浅黒い顔に大振りな鷲鼻。両眼は若干垂れて落ちくぼんでいる。  一風変わった、というのが誰しもの抱く第一印象だろう。どちらかというと、陰気で気難しそうな感じでもある。が、そういった外見の雰囲気と先程からの彼の言動との妙なちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]さ加減が、江南にはかえって好ましく思えた。何と云うか、懐しさのようなものを感じてしまうのである。  もう午後四時を回っていた。朝から何も食べていないことを思い出し、江南はコーヒーと一緒にピザ・トーストを注文した。  ガラス張りの広い窓の外を見ると、国道十号線を挟んで、青い海が大きくなだらかな円弧を描いている。別府湾だ。店は学生街の片隅にでもありそうな小ぢんまりとした造りで、経営者の趣味なのだろう、マザー・グースの詩にちなんだ版画や人形などがあちこちに飾られている。 「さて、江南考話の続きを聞かせてもらおうか」  自分の頼んだアールグレーが来ると、それをポットからカップにゆっくりと注ぎながら、島田はおもむろに切り出した。 「続きって、手紙のことですか」 「勿論そうさ」 「さっきお話ししたぐらいのものですよ、僕が考えてることっていったら。——煙草、吸ってもいいですか」 「構わないよ」 「どうも」  火を点けると、煙がひどく目にしみた。 「さっきも云ったように、単なる悪戯じゃないとは思うんです。でも、それじゃあ何なのかと訊かれたら困ってしまう。誰が何の目的でこんな手紙を出したのか、まるで見当がつかないっていうのが正直なところですね。ただ」 「ただ?」 「若干の分析が、まだできないこともないでしょう」 「聞きたいな、それは」 「つまりですね、例えば、僕のところに来た手紙の文面にこの送り主がどんな意味を込めているのかを想像すると、大体、そう、三つほどのニュアンスが読み取れると思うんです。  第一は、この文章が一番強調している、『千織は殺されたのだ』という�告発�の意味合ですね。第二は、第一から派生して、だから俺はお前たちを憎んでいるぞ、お前たちに復讐してやる、といったふうな�脅迫�の意味。そして、こういった告発文、脅迫文の主として最もふさわしい『中村青司』という名前が利用されることになった」 「成程三つ目は?」 「第三は、前の二つとは違った角度から見た場合で。この手紙に込められた裏の意味みたいなものです」 「裏の意味?」 「ええ。何故この送り主は、今頃になって中村青司などという死者の名を持ち出してきたのか。いくら脅迫文に凄みを付けようと思ったにしても、今時それを真に受ける人間なんていないでしょう。幽霊がワープロを打ってる、なんて絵になりませんものね。  そこで思うに、これは、去年の角島の事件にもう一度注目しろ[#「去年の角島の事件にもう一度注目しろ」に傍点]っていう、僕たちに対する遠まわしなメッセージなんじゃないかな、と。ちょっと深読みしすぎでしょうか」 「いや。面白いと思うな」  島田はにやにやと目で笑いながら、カップに手を伸ばした。 「うん。なかなか面白い。角島事件再考、か。確かに、再考の余地は大いにありそうだね、あの事件には。江南君、君はどの程度知ってるんだい」 「新聞で読んだだけですから、あまり詳しくは」 「じゃあ、僕が知ってるところを話しておいた方がいいね」 「ええ。是非」 「事件の粗筋《あらすじ》は分ってるだろう? 時は昨年九月。所は角島の通称青屋敷。殺されたのは、中村青司と妻の和枝、使用人夫婦の計四人。行方不明の庭師が一人。犯行後の放火によって屋敷は全焼。犯人はまだ捕まっていない」 「確か、その行方不明の庭師が犯人と目されてるんでしたね」 「そう。しかし、決定的な証拠があるわけじゃない。姿をくらましたから怪しいという、結局はその程度のことだと僕は思う。  さて、事件の詳細だが——。まず、屋敷の主人の青司について少し説明しておく必要があるだろうな。当時、青司は——紅さんよりも三つ年上だから、四十六歳。とうの昔に引退していたが、彼はかつて、知る人ぞ知る、一種天才肌の建築家だった……」  中村青司は大分県|宇佐《うさ》市のある資産家の長男として生まれた。高校卒業後、上京。T**大学の建築学科に在学中、早くも全国レベルのコンペで賞をさらい、関係者の注目を集めたという。大学卒業後は、担当教授から大学院進学を強く勧められたが、機を同じくして父親が急逝《きゅうせい》、郷里に帰ることを余儀なくされた。  父親の残した財産は莫大な額に上った。弟の紅次郎と共にそれを相続した青司は、まもなく角島に自らの設計による屋敷を建て、早々と、半ば隠居を決め込んでしまう。 「……夫人の和枝は、旧姓を花房《はなぶさ》といって、宇佐に住んでいた頃の幼馴染みだったらしい。早くから両家の間で約束が取り交わされていた、いいなずけ同士だったとも聞くね。で、青司が角島へ渡るとほぼ同時に、二人は結婚した」 「その後、建築の仕事はしなかったんですか」 「するにはしていたが、半分道楽みたいなものだった、と紅さんは云ってたな。気に入った仕事だけ気の向いた時に引き受けて、自分好みの意匠を徹底的に凝らしてね、風変わりな家ばかり建てていた。そいつがまた、あちこちの好事家の間でめっぽう評判になったりして。わざわざ遠くから島を訪れる者も多くいたっていう。この十年ばかりは、しかし、そういった仕事も大概断わって殆ど島から出ることがなかったらしい」 「ふうん。変わった人物だったんですね」 「紅さんも、道楽で仏教学なんかやってて結構変わった男だが、その彼が、兄は変人なんだときっぱり云うんだから間違いない。兄弟の仲は、あまり良くはなかったみたいだけれども。  さて、それでだ、角島の屋敷には他に、北村《きたむら》という使用人夫妻が住み込んでいた。夫は屋敷の雑用と、本土との連絡に使うモーターボートの運転、女房の方は家事全般を任されていた。もう一人は、問題の庭師だね。この男は吉川《よしかわ》誠一《せいいち》といって、普段は安心院《あじむ》の辺りに住んでいた。月に一度、数日間泊まりがけで仕事に来ることになっていて、丁度、火災の三日前からやって来ていたものらしい。登場人物の紹介は、まあ、こんなとこかな。  次に、事件の状況だが——。発見された死体は全部で四体。火事のせいでどれも黒焦げになっていたから、鑑識にはかなりてこずったらしいね。やっと判明した事実をまとめると、こうなる……」  北村夫妻は、寝室で頭を叩き割られていた。凶器と目される斧が同室で発見されている。また、両名とも縄で縛り上げられていた形跡があった。死亡推定時間は共に、九月十九日——火災前日の午後以降。  中村和枝は、寝室のベッドにおいて、紐状の凶器によって絞殺されていた。死体には左手首が欠けていたが、これは死亡後に切断されたものと考えられる。切り取られた手首の行方は今もって不明。死亡推定時間は、九月十七日から十八日の間。  中村青司は、和枝と同じ部屋で、全身に灯油を浴びせられ、焼死していた。死体からは多量の睡眠薬が検出されたが、これは他の三人の死体についても同様だった。死亡推定時間は、九月二十日未明の火災時。  火災の火元は屋敷の厨房と推定された。犯人は、あらかじめ屋敷中に灯油をまいた後、ここに火を放ったのである。 「……事件に対する警察の見解は、知っての通り、現在ほぼ、姿を消した庭師吉川誠一が犯人だというところに落ち着いているらしい。不明瞭な点はいくつもあるんだけどね。例えば、そう、和枝夫人の手首の問題。吉川は何のために夫人の手を切り取り、どこへやってしまったのか。それから、逃走経路の問題もある。島に一隻しかないモーターボートは、入江に残されたままだったんだ。四人もの人間を殺したあと、九月も下旬の海を泳いで本土へ渡ったなんて、ちょっと考えにくいだろう? 無論、外部犯の可能性も検討された。しかし、どうもそちらだと、ますます辻榛《つじっま》の合わないことが多くなるというんだな。——で、吉川=犯人説に基づいて警察が再構成した事件の輪郭というのは……。  ああ、江南君、構わずに食べてくれよ」 「え? あ、はい」  島田が滔々《とうとう》と話を続けている間に、注文のピザ・トーストとコーヒーが運ばれてきていた。江南がそれに手をつけないでいたのは、別に遠慮したからではない。話に聞き入るあまり、食べるのを忘れていたのである。 「動機。これには、二つの説がある。  一つは、青司の財産目当ての、云わば強盗説。もう一つは、吉川が和枝夫人に横恋慕していた、あるいは夫人と密通していた、とする説。恐らくその両方だろうというのがおおかたの意見だね。  吉川は、まず屋敷の者全員に睡眠薬を飲ませ、眠らせてしまってから犯行にとりかかった。北村夫妻を縄で縛り上げ、青司も同様にしてどこかの部屋に監禁する。そして、和枝夫人を寝室に運び、己の欲望を満たした。最初に殺されたのはこの和枝夫人で、他の三人よりもまる一日か二日、死亡時間が早い。殺してしまってから死体を犯した形跡も、決定的にではないが見られたというね。次に殺されたのが北村夫婦。殺される時まで、薬で眠らされ続けていたと思われる。  で、最後に青司だ。眠らせた状態で灯油をかけ、その後厨房にまわって火を点けた」 「ねえ、島田さん」  冷めたコーヒーを口に運ぶ手を止めて、江南は訊いた。 「何故犯人は、青司をそんなにあとまで生かしておいたんでしょうか。北村夫婦についてもそうです。どうせなら、早くに始末してしまった方が安全でしょう」 「最初から殺すつもりではなかった、とも考えられるね。和枝夫人を殺してしまって、その後だんだんと異常な精神状態に傾いていった、と。あるいはまた、青司を生かしておいた、その事実をもって強盗説の裏付けとする見方もある」 「どうしてですか」 「つまりそこに、建築家としての中村青司の特徴[#「建築家としての中村青司の特徴」に傍点]が関係してくるんだよ」 「建築家としての、青司の……?」 「そうさ。青司は——さっき少し話したね、ちょっと風変わりな趣味の持ち主だった。青屋敷にしても、その別館の十角館にしても、青司が設計したこれらの建物には、かなり偏執狂っぽい、あるいは子供じみた、あるいは遊び心に満ちたとも云える、そんな彼の趣味が存分に反映されていたわけなんだが、その内の一つに、いわゆるからくり趣味のようなものがあったというんだ」 「からくり?」 「そう。どの程度のものかは知らないけれども、特に燃えた青屋敷の方には、隠し部屋や隠し戸棚、隠し金庫の類《たぐい》が随所に作られていたらしい。そして、そういった仕掛けのありかを知っていたのが当の青司だけだったとしたら」 「そうか。金品を盗み出すためには、彼からそれを聞き出さなきゃあならない」 「その通り。だから、青司を早くに殺してしまうわけにはいかなかった」  島田は言葉を切って、テーブルに片肘を突いた。 「以上が、事件とその捜査状況の要点だね。庭師吉川の行方は、目下まだ捜索中。見つかる気配は、今のところ全くない。——どうかな、江南君。何か質問は?」 「そうですねえ」  コーヒーの残りを飲み干して、江南は考え込んだ。  島田の話を聞いた限りでは、成程やはり、警察の見解が最も妥当な線だろうと思える。しかし、それとて所詮は、残された状況からの推測——もっと悪い云い方をするなら、辻棲合わせにすぎないのではないだろうか。  この事件の最大の難点は、とにかく現場の屋敷が全焼してしまったところにある。そのため、死体や凶器などから得られる情報が本来よりも極めて少ないのだ。加えて、島の模様を語ってくれる生存者の不在……。 「難しい顔をしてるね、江南君」  と云って島田は、捲れ上がった上唇をちろりと舐め、 「じゃあ、僕の方から一つ尋ねるとしようか。角島事件とは直接関係のないことだけれども」 「と云いますと」 「千織っていう娘についてさ。紅さんに姪がいるってことは知ってたし、学校へ行く都合で和枝夫人の実家に預けられていたことも聞いている。その娘が、去年不慮の事故で死んだという話も耳に入ってはいたんだが、詳しいところはよく知らないんだよ。——中村千織というのはどんな娘だったんだろう」  江南は思わず顔をこわばらせた。 「——おとなしい子でしたね。あまり目立つ方じゃなくて、ちょっと寂しげな風情があって。僕は殆ど話をしたことないんです。けど、気立ての良い子だったみたいで、コンパなんかの時でも、よく気がついて雑用ばかりしてました」 「ふむ。彼女が死んだのはどんな事情で?」 「去年の一月、ミステリ研の新年会で、急性アルコール中毒が原因となって」  答えながら、無意識の内に窓の方へ目をそらしていた。 「普段は彼女、コンパがあっても一次会だけで帰ってたんですけど、あの時は三次会まで、僕たちが無理に誘って。悪いことをしました。元々身体が弱かったらしいんですね。それを、みんなが調子に乗って、無茶飲みさせたらしくって」 「させたらしい[#「らしい」に傍点]?」 「ええ。僕も、その三次会まで行くことは行ったんですけど、用があったもので、もう一人、守《もり》須《す》っていう友だちと一緒に早めに引き上げたんです。そのあとの事故でした。いや——」  江南は、ジャケットのポケットに入れてある例の手紙に、そろりと手を当てた。 「事故じゃなくって、確かにそう、僕たちが殺したのかもしれませんね」  千織の死を思い出すと、やはり多少の責任を感じてしまう。もしもあの時、自分が途中で帰らずあの席に残っていたとしたら、皆が場の勢いで彼女に酒を勧めるのを止めることができただろうか。 「江南君。今夜は暇かな」  あるいは江南の心中を察してかもしれない、唐突に、殊更陽気な調子で島田が云った。 「どうだい。これから夕飯がてら、一杯ひっかけにいかないか」 「でも」 「僕が奢《おご》るよ。その代わり、ミステリの話し相手になってほしいんだなあ。悲しいことに、僕はそういう仲間に恵まれてなくってねえ。付き合ってくれるかい」 「ええ。——喜んで」 「よし決まった。O市まで出るか」 「ところで、島田さん」 「うん?」 「まだ聞いてなかったと思うんですけど、紅次郎さんとはどういうお知り合いなんですか」 「ああ、それね。紅さんは大学の先輩なんだよ」 「大学の? じゃあ、島田さんも仏教学を」 「まあ、一応そうなんだが」  島田は少し照れたように高い鼻の頭を擦った。 「実を云うと、僕の家はO市で寺をやっててね」 「へえ、お寺さんなんですかぁ」 「三人兄弟の末っ子でね、この年になってまだぶらぶらしてるんだから、僕も他人のことを変人とは云えない口さ。親父は還暦を過ぎてまだ意気盛んだし、今のところはミステリでも読んで、中で死人が出るたびにお経をあげるぐらいしかすることがない」  そう云って島田は、いかにも殊勝げに合掌してみせるのだった。 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり] [#ここから枠囲い] お前たちが殺した[#「殺した」に傍点]千織は、私の娘だった。 [#ここで枠囲い終わり]  低いガラス・テーブルからその手紙をもう一度取り上げると、守須《もりす》恭一《きょういち》は何度目かの吐息を洩らした。ベッドに背を凭せかけ、毛足の長いグレーのカーペットに疲れた足を投げ出す。 (お前たちが——殺した[#「殺した」に傍点]——千織は……)  整然と並んだワープロの文字を、ゆっくりと目で追う。云いようもなく複雑な気分だった。  昨年の一月、ミステリ研究会の新年コンパの三次会。あの時彼は、同級の江南孝明と共に途中で場を辞した。そのあとの出来事だった……。  封筒の裏に記された名は「中村青司」。半年前、角島で殺害されたという男だ。守須にしてみれば、会ったことも顔を見たこともない人物だった。  O市駅前の目抜き通りを抜けた、港に近い一角。〈巽《たつみ》ハイツ〉という独身者向けワン・ルーム・マンションの、五階の一室である。  手紙を元通り封筒の中にしまうと、守須は軽く頭を振りながら、テーブルのセブンスターに手を伸ばした。  ここしばらく、煙草を吸ってうまいと思ったことは全くなかった。が、ニコチンに対する欲求だけはどうしても消えない。 (角島の連中は、今頃何をしてるだろう)  ぼんやりと考えながら、小ぎれいに片づいた部屋の片隅に目を向けた。  壁際に立てたイーゼルに、描きかけの油絵が置いてある。色槌せた木々に囲まれて、ひっそりと時を見つめる磨崖仏《まがいぶつ》たち……。国東《くにさき》半島の、殆ど人も訪れないような山の中で見つけた風景だった。まだ、木炭のデッサンの上に薄く彩色した程度の状態である。  いがらっぽい喉に煙がしみた。思わずむせ返りそうになって、守須は、二、三口吸っただけの煙草を、水を溜めた灰皿に放り込んだ。  嫌な予感がしてならなかった。もしかすると、何か思いもかけないことが……。  そこへ、電話のベルが鳴りだした。  時計に目をやる。もう十二時が近い。 (こんな時間にかけてくる奴といえば……)  何秒かのためらいの後、守須は受話器を取り上げた。 「もしもし。守須か」  思った通り、聞き慣れた江南孝明の声だった。守須はほっとして、 「ああ、ドイル[#「ドイル」に傍点]……」 「その名前はよしてくれって云ってるだろう。——昼頃にも一度電話したんだけどな」 「バイクで国東まで行ってたんだよ」 「国東?」 「うん。絵を描きにいってるんだ」 「そっか。ところで、守須、お前のところにおかしな手紙が来てないか」 「中村青司からのだろう? そのことで、三十分ばかり前に電話したんだよ、僕も」 「やっぱり来てるのか、そっちにも」 「うん。今、どこにいるの。良かったらうちへ来ないかい」 「そのつもりで電話したのさ。近くまで来てるんだ。手紙の件で話したいことがあって。知恵を貸してほしいんだ」 「貸すほどの知恵もないけど」 「三人寄れば何とかってね。あ、つまりその、連れがいるんだ、一人。一緒に行ってもいいだろ」 「構わないよ。じゃ、待ってるから」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「何のつもりだか分らないけど、趣味の悪い悪戯だなと思って」  テーブルに並べた二通の手紙を見比べながら、守須は云った。 「『お前たち』って書いてあるよね。だから、僕のところだけじゃないかもしれないとは考えてたんだけど」 「そっちの方は、どうもコピーみたいだな。俺んちに来たやつがオリジナルだってわけか」  江南は自分の持ってきた手紙を摘《つま》み上げた。 「多分、これと全く同じものが東の家にも届いてるんだ。電話で確かめてみた。それに——中村紅次郎氏の許にも、文面は少し違うが、同じ青司名義の手紙が来てたんだ」 「中村紅次郎」  守須は眉をひそめた。 「と云うと、中村青司の弟の?」 「ああ。『千織は殺された[#「殺された」に傍点]のだ』っていう文面だった。今日は、彼を訪ねて別府まで行ってきたんだ。島田さんとは、そこで知り合ったんだよ」  今さっき紹介されたばかりの男に向かって、守須はもう一度軽く会釈した。ここへ来るまで江南と飲み歩いていたとかで、痩せた浅黒い顔にはだいぶ赤みが差している。江南の方も、アルコールのせいか、やや息が荒く、両眼は充血して真っ赤だった。 「順を追って話してくれよ」  と、守須は云った。江南は身を乗り出し、酒臭い息を弾ませながら、今日一日の出来事を口達に語った。 「相変わらず、好奇心に足が生えたみたいな奴だなあ」  話を聞き終えると、守須は半ば呆れて江南の顔を覗き込んだ。 「それじゃあ、お前、昨日《きのう》から一睡もしてないんじゃないか」 「そういえばそうだな。——しかし、分らない話だろう。一体誰が、何のつもりでこんなものをばらまいたのか。どう思う」  守須は片手をこめかみに当てて、強く一度目を閉じた。 「告発——脅迫——そして角島事件に対する注意の喚起、か。うん。まあいい線だと思うよ。特に、角島の事件を探れっていうメッセージを読み取るのは、多少強引な気がしないでもないけど、面白いね。確かに、あの事件には何かありそうだもの。——あの、島田さん」  いつのまにか島田は、壁に凭れてうつらうつらしている。守須に呼ばれると、彼は猫のように顔を擦《こす》りながら身を起こした。 「島田さん。一つ、お訊きしたいんですけど」 「ああ、うん。何なりと」 「去年の角島の事件が起きた時、中村紅次郎氏はどうしておられたんでしょう」 「それは、アリバイという意味で?」  島田は眠そうな目でにやりと笑った。 「はん。いきなり鋭いアプローチをしてくるなあ。成程ね。青司と和枝夫人を殺して一番利益を得る者は誰か[#「青司と和枝夫人を殺して一番利益を得る者は誰か」に傍点]。そりゃあ、紅さんに決まってる」 「そうです。失礼かもしれませんが、やはりまず疑われるべきなのは紅次郎氏じゃないかと」 「しかしね、守須君、その辺は警察も馬鹿じゃない。紅さんのアリバイも、勿論洗われたよ。で、残念ながら[#「残念ながら」に傍点]、彼には完壁な不在証明があった」 「それは、どんな」 「九月十九日の夜から翌朝にかけて、紅さんはずっと、この僕と一緒にいたんだな。珍しく電話がかかってきてね、飲みにいかないかって。別府で夜中まで飲んで、そのあと紅さんの家に泊まったんだ。朝になって、事件の知らせを受けた時も一緒だった」 「確かに、完壁ですね」  島田は頷いて、 「もっと意見を聞きたいな、守須君」 「そうですね。目新しい考えはこれといってないんですけど、ただ、当時新聞を読んだ時から、ずっと思ってたことがあるんです」 「何かな」 「何故、と訊かれたら困るんですけどね。直観的にそう思うだけで。僕には、なくなった和枝夫人の左手首[#「なくなった和枝夫人の左手首」に傍点]——あれが、事件の最大のポイントであるような気がするんです。もしもその行方が判明すれば、それで全てが見えてくるような」 「ふむ。手首の行方ねえ」  守須と島田は、それぞれ自分の手許に何となく目を落とし、口を噤んだ。 「ところで、守須、研究会の連中が角島へ渡ったのは知ってるか」  と、江南が問うた。 「うん」  守須は醒めた笑みを唇に浮かべた。 「僕も誘われたんだけどね、やめにした。あんまり悪趣味だと思って」 「連中、いつ帰ってくるんだ」 「今日から一週間って話だよ」 「一週間も。テントでか」 「いや。つてが出来たんで、例の十角館に泊まってるんだ」 「そう云やあ、紅次郎氏、あの屋敷を手放したって云ってたな。ふん。どうも胡散臭《うさんくさ》い感じがしてならないな。死者からの手紙、それと入れ違いに、死者の島へ向かう……」 「確かに、嫌な偶然だね」 「偶然だろうか」 「じゃないのかもしれない」  守須はまた強く目を閉じて、 「気になるのなら、まず、あの三次会に出席した他のメンバーの家を全部当たってみることだろうね。東以外のところにもこの手紙が来ているかどうか、確認しておく必要があるだろう」 「それもそうだな」 「調べてみるのかい」 「ああ。春休みで、どうせ暇にしてるしな。探偵ごっこ[#「探偵ごっこ」に傍点]に打ち興じてみるのも悪くない」 「江南らしいね。それなら、ついでにどうだろう、角島事件の方も、もうちょっと突っ込んで調べてみたら」 「調べるったって、具体的にどうやって」 「例えば、姿を消した吉川っていう庭師の家を訪ねてみるとか」 「そりゃあ、しかし」 「いや、江南君」  と、島田が口を挟んだ。 「そいつはなかなか面白いぞ。吉川は安心院《あじむ》に住んでたって云ったろう。そこには、彼の細君がまだいるはずで、その細君っていうのは、昔、角島の中村家に勤めていたらしいんだ。つまり、中村家の内部事情を知る唯一の生存者だってわけさ。これは訪れてみる価値がある」 「住所は分るんですか」 「そんなもの、調べりゃすぐ分るさ」  痩せた頬をさすりながら、島田は楽しげに笑った。 「こうしよう。江南君は明日、午前中に手紙の確認をしてまわる。そのあと、午後から僕の車で安心院へ行く。どうだい」 「OKです。守須は? お前も一緒に来たら」 「うん。行ってみたい気もするけど、あいにく今忙しいんだ。絵を描きにいってるって云っただろう」  守須はイーゼルに立てたキャンバスを目で示した。 「国東の磨崖仏か。そういえば、好きだったな。何かコンクールにでも出すのか」 「いや、そういうつもりでもなくって。何となく思い立ってね、花が咲く前のその風景を、どうしても描いてみたくて。だから、このところ毎日あっちへ通い詰めなんだ」 「そうか」 「それに、元々お前ほど活動的な方じゃないしね。実際に人と会ったりするのも苦手だし。明日の夜、また電話してくれないかい。遅くても構わない。僕も成り行きには興味あるから」  守須はベッドにぐったりと凭れかかり、まずいと分っている煙草に火を点けた。 「とりあえず僕は、安楽椅子探偵《アームチェア・ディテクティブ》を気取らせてもらうことにするよ」 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第三章 二日目・島 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  中途半端な目覚めだった。  昨夜部屋に引き上げたのは、午前二時頃だったろうか。それからすぐにベッドに入ったものの、うまく眠れないまま、光のない空間に目を凝らしていた。どうしても安らいだ気分にはなれなかった。一日の出来事の中から嫌なことばかりが思い出され、心にまとわりついて離れようとしなかった。  エラリイ、ヴァン、ポウ、アガサ、ルルウ、そしてカー——彼らのことを好ましくない人間たちだと感じているわけではない。むしろ彼女は、大概のメンバーに——カーに対してもだ——好意に近い感情を抱いている。好ましくないのは、他でもない、彼らと一緒にいる自分自身の姿なのである。  普段の生活の中でなら、いくら憂鬱なことがあっても、下宿の自分の部屋に帰ってしまえばそれで救われる。一旦部屋に逃げ込んでしまえば、そこはいつでも彼女一人だけの世界だから。好きなことだけを好きなように想像して、その中に浸っていれば良いのだ。そこには最良の友がいたし、理想の恋人がいたし、彼女を無条件に崇拝してくれる者たちさえもいた。彼女自身も、望むがままに魅力的な女性となることができた。  しかし——。  生まれて初めて訪れたこの島、この建物、この部屋。ようやく一人きりになれたというのに、心はまるで休まらなかった。  こうなることは分っていたのに、と思った。やはり来るべきではなかったのだろうか。  彼女にとってはまた、この旅行はある特別な意味を持つものでもあった。  角島、十角館……他のみんなは気がついているのだろうか。  彼女は知っていた。この島が、昨年の一月に自分たちの不注意で死なせてしまったあの娘の故郷であるということを。  中村千織は、彼女が自分の心の中を見せられるように思った、今まででただ一人の友人だった。同じ学部、同じ学年、同じ年齢……最初教室で出会った時から、何かしら自分に近しいものを感じていた。恐らく千織の方もそうだったに違いない。二人は非常に気が合った。幾度か、お互いの部屋を訪れたこともあった。  わたしのお父さんは変わった人で、角島という島に離れて住んでいるの、と、いつか千織は話していた。このことはあまり他人に知られたくないんだ、とも。  その千織が死んだ。そして、彼女が生まれ、彼女の両親が死んだこの島へ、自分たちはやって来た。  冒涜ではない。追悼だ。  そう自分に云い聞かせていた。他の者たちに知らせるつもりはない。わたしだけでいいから、と思った。千織の死を悼《いた》み、少しでもその霊を慰めてやることができれば、と。  けれども、一体わたしなんかに、その資格があるのだろうか。勝手な思い上がりなのではないか。やはり、この島へこんな形でやって来るのは、死者に対する冒涜だったのではないだろうか……。  思い悩む内、いつのまにか浅い眠りに落ちていた。わけの分らない、現実と非現実とが混ぜこぜになったような夢ばかり、続けさまに見たような気がする。夢の背景はどれも、昨日この島で見たカットばかりだった。  だから、目覚めは中途半端に訪れた。  鎧戸の隙間から差し込む弱い光を頼りに部屋を見まわしてみても、彼女には、それが夢の続きなのか、現実の覚醒なのか、とっさに判断がつかなかったのである。  青いカーペットの敷きつめられた床。ベッドは窓の左手に固定されている。右手の壁際には、窓の方から、机、衣装棚、姿見といった家具が並んでいる。  オルツィはのろのろと身を起こし、ベッドから出て窓を開けた。  外気が少し肌に冷たかった。空は白い薄曇り。穏やかな波の音が聞こえてくる。  枕許に外しておいた腕時計を見た。八時。朝だ、と、ようやく彼女は実感した。  窓を閉め、身支度にかかる。  黒のスカート。白いブラウスの上に、アーガイル・チェックの臙脂《えんじ》色のセーター。鏡はいつも、ちらりと見るだけだ。自分の姿と正面きって向かい合うのは、大の苦手だった。  洗面具を用意して、オルツィは部屋を出た。  まだ他に誰も起きている気配はない。十角形のホールは、昨夜の賑わいが嘘のように、しんと静まり返っていた。  と——。  きれいに片づけられた中央のテーブルの上に、何か見覚えのないものがあることにオルツィは気づいた。真上の天窓から落ちる光を白く反射して、それは一瞬、きらりと目を眩《くら》ませた。  怪訝《けげん》に思って、オルツィは十角形のテーブルに歩み寄った。そして、そこに並べられた物を認めるや、息を呑んでその場に立ち尽くした。 (何? これ)  テーブルに手を伸ばしかけて、慌てて引っ込めた。なおも一人でおろおろした挙句、彼女は顔を洗うのもあとまわしにして、アガサの部屋のドアに飛びついた。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり] [#ここから枠囲い] 第一の被害者 [#ここで枠囲い終わり] [#ここから枠囲い] 第二の被害者 [#ここで枠囲い終わり] [#ここから枠囲い] 第三の被害者 [#ここで枠囲い終わり] [#ここから枠囲い] 第四の被害者 [#ここで枠囲い終わり] [#ここから枠囲い] 最後の被害者 [#ここで枠囲い終わり] [#ここから枠囲い] 探偵 [#ここで枠囲い終わり] [#ここから枠囲い] 殺人犯人 [#ここで枠囲い終わり]  幅五センチ、長さ十五センチほどの、乳白色のプラスティック板が七枚。各々に、赤い文字が記されている。 「一体何の悪戯だい、こりゃあ」  ちょっと驚いたふうに目をしばたたいてから、エラリイは唇の端で微笑んだ。  着替えを済ませているのは女性二人だけで、他の五人の男たちは皆、パジャマの上に何かをひっかけた格好だった。つい今しがた、アガサに大声で起こされたところなのである。 「うまい冗談だな。誰の仕業だい」  エラリイが一同に問いかけた。 「当のエラリイさんじゃないんですかぁ」 「僕じゃないね、ルルウ。カーかアガサだろう」 「俺は知らんぜ」 「あたしもよ」  アガサは心持ち顔をこわばらせて、 「ヴァンじゃないわよね」 「知らないよ」  腫れぼったい瞼に指を押しっけながら、ヴァンは首を振った。 「アガサが見つけたのかい」 「違うわ。最初に見つけたのはオルツィよ。——まさかオルツィじゃないでしょ」 「知りません、わたし」  オルツィは逃げるように目を伏せた。  一同の視線が自ずと、残った一人に集まった。ポウは髭面をしかめて、 「云っとくが、俺も知らんぞ」 「はて、じゃあ誰なのかな」  エラリイが肩をすくめた。 「冗談もいいが、そろそろやめにしてほしいね」  誰からも声は上がらない。  気まずい沈黙の中で、七人は互いに顔を見合わせた。 「エラリイ」  と、ポウが云った。 「こんな悪戯をやりそうな人間は、お前かアガサか、どちらかしかいないと思うが」 「よせよ。僕じゃあないさ」 「あたしでもないわ。失礼ね」  朝のホールは再び静まり返った。  沈黙は次第に、彼らの心を不安の形へと変化させていった。顔色を窺い合いながら、彼らは、誰かが突然表情を崩して名乗り出るのを待った。  遠くから潮騒だけが聞こえてくる、長く重苦しい間……。 「誓って云うが、僕のしたことじゃない」  やがて、エラリイが真顔で口を切った。 「本当に名乗り出る者はいないのかい。もう一度訊くぞ。……ヴァン」 「僕は知らないよ」 「アガサ」 「あたしじゃないって云ってるでしょ」 「カー」 「ふん。知るもんか」 「ポウ」 「知らんね」 「ルルウは?」 「御冗談でしょう」 「オルツィ」  オルツィは怯えた顔でかぶりを振った。  またしばらくの間、波の音だけが七人に打ち寄せた。形を整えつつある七人七様の不安の波が、それに共鳴し、徐々に煽《あお》り立てられていく。 「いいだろう」  と云って、エラリイは横髪を掻き上げた。 「犯人——と呼んでもいいね? そいつが僕らの中にいることに間違いはない。名乗り出る者がいないということは、邪《よこしま》な考えを持っている人間が一人、もしくは複数名、この中に潜んでるってことだな」 「邪な考え[#「邪な考え」に傍点]っていうのは?」  アガサが訊いた。エラリイはぶっきらぼうに、 「分るもんか。何か良からぬことを企《たくら》んでるって意味さ」 「ごまかすなよ、エラリイ」  カーが皮肉っぼく唇を歪めた。 「はっきり云やぁいいだろうが。こいつはつまり、殺人の予告だと」 「先走るな! カー」  思いがけない大声を浴びせ、エラリイはカーを睨みつけた。 「もう一度だけ、念を押そう。自分がやったと云う者はいないんだな」  全員が、目配せし合いながら頷いた。 「結構だね」  そう云うと、エラリイはテーブルの上に並べられた七枚のプレートを掻き集め、椅子の一つに腰を下ろした。 「みんなも坐ったらどうだい」  そろそろと席に着く六人を見るエラリイの口許に、いつもの微笑が作られた。 「アガサ。悪いけど、コーヒーを頼めないかな」 「いいわ」  と応えて、アガサは独り厨房に立った。  エラリイは、テーブルを取り囲んで坐った五人の顔と、自分の手の中のプレートとを黙って見比べた。誰しもが、一体何を喋るべきなのか、その言葉の端さえ見つからない様子である。  しばらくして、アガサが人数分のコーヒーを持って厨房から出てきた。湯気を立てた十角形のカップを受け取ると、エラリイは真っ先に一口つけ、 「さて、と」  パジャマの上に羽織ったダーク・グリーンのカーディガンのポケットに両手を潜り込ませながら、一同に向かった。 「この島にいる人間は僕ら七人だけだ。従って、このプレートをここに並べた者はこの七人の中にいる。そのはずだね。ところが、誰一人としてこんなプレートは知らないと云う。つまり、僕らの中に、何らかの意図をもってこのプレートを置き、それを故意に隠してる人間がいることになるわけだ。  プレートは、見ての通りプラスティック製。文字はゴチック体だね。赤い塗料をスプレーして書いたものみたいだ。これだけでは犯人を限定していく手掛かりにはならない」 「でも、エラリイさん」  ルルウが云った。 「レタリングなんて、そうそう誰にでもできることじゃないでしょう。ある程度、その、心得がなきゃあ」 「じゃあ、オルツィが一番怪しいことになるな」 「エラリイさん、そんなつもりじゃ」 「この中で、絵心があってレタリングが得意な者といえば、まずオルツィだろう。オルツィ、反論は?」 「——違います、わたし」 「残念だが、それだけじゃあ反論にはならないね」  オルツィは紅潮した頬に手を当て、そっと目を上げた。 「今は、切り抜いて使えるレタリングの本がいくらでも出まわってます。それを使って、型紙を作ってスプレーするくらいなら、誰にだって」 「OK。その通りだ。それに、多少の絵心なら、僕にだって、ポウやヴァンにだってある」  エラリイは、まだ熱いコーヒーを一息で飲み干した。 「その、プラスティック板の方はどうなんでしょう」  ルルウが横から手を伸ばし、プレートの一枚を取り上げた。 「縁があまりきれいじゃありませんね」 「既製品ではないだろう。糸ノコか何かで、この大きさに切ったんだな」 「下敷きでも使ったんでしょうか」 「スーパーの、日曜大工のコーナーへでも行ってみりゃあいいさ、ルルウ。大小色とりどりのプラスティック板が置いてあるから」  そしてエラリイは、ルルウの取った一枚を元に戻させると、カードを扱うような手つきでプレートを揃えた。 「とにかく、これはしまっとこう」  と云って立ち上がり、彼は厨房に向かった。六人の視線が、糸で引かれるようにそのあとを追う。  両開きの扉を開け放したまま、エラリイは食器棚の前に立った。空いた抽斗《ひきだし》を探し出すと、その中にプレートを全部放り込む。それからすぐ、ホールへと踵《きびす》を返しながら、猫のように上品な欠伸を一つ。 「おやおや。何て格好だ、我れながら」  両腕を広げて、彼は自分の身体を見下ろした。 「目も覚めたことだし、身づくろいをしてこようか」  そうしてエラリイが自分の部屋に消えると、場の緊張が目に見えて緩んだ。  口々に吐息を洩らしながら、六人はばらばらと席を立った。男たちは各自の部屋へ、アガサとオルツィは二人してアガサの部屋へ、そそくさと引き上げていく。が、ホールを去る前に、七枚のプレートが収められた厨房の抽斗に一瞥《いちべつ》をくれぬ者は、一人としていなかった。  三月二十七日木曜日。こうして彼らの二日目は始まったのである。 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  正午過ぎ——。  昼食の席上で、今朝の出来事について触れる者は誰もいなかった。  冗談や軽い話の種にしてしまうには、それは何かしら不吉すぎる。そして、深刻に語り合うには、あまりにも現実離れしすぎているのだ。誰もが厨房の例の抽斗に目を惹かれ、互いの表情を盗み見ることをやめなかったが、同時に、忘れたふりを装うことにも余念がなかった。  アガサとオルツィの作ったサンドウィッチの昼食を終えると、終えた順に、一人、二人と席を離れていった。  最初に立ったのはカーだった。青い髪剃り跡の目立つ長い顎をしきりに撫でながら、文庫本を二冊ほど持って外へ出ていった。続いて、ポウとヴァンが立ち上がり、連れだってポウの部屋に向かう。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「さあて、続きだ」  太い声で云うなり、ポウはどさっと床に坐り込んだ。  七つの客室は、どれもほぼ同じ造りになっている。ポウの部屋の青いカーペットの上には、丁度部屋の中央辺りに、作りかけのジグソー・パズルが散らばっていた。 「二千ピースか。ここにいる間に出来るの」  パズルをよけて部屋の奥まで行くと、ヴァンはベッドの端に腰掛けた。ポウは長い髭に囲まれた厚い唇を軽く曲げて、 「作り上げてやるさ。ま、見てろ」 「釣りにも行くんだろう。会誌の原稿も頼まれてるし」 「まだたっぷり時間はある。とにかく今は、こいつの鼻を探すことだ」  畳一畳足らずの広さに、パズルの縁まわりがもう出来上がっていた。傍らには、完成図の描かれた箱の上蓋《うわぷた》が置かれている。ポウはその図を睨みながら、散らばった小片をせっせと掻き分け始めた。  パズルの絵柄は、野原に六匹の狐が遊んでいる写真である。大きな母狐が一匹、その周りに愛らしい五匹の仔狐。仔狐の内の一匹の鼻に当たる部分が、ポウの当面の課題であるらしい。 「ん? どうした、ヴァン」  両手を膝の上に突き、けだるそうに顔を伏せているヴァンの様子に気づいて、ポウは心配げに眉をひそめた。 「まだ具合が悪いのか」 「うん。ちょっとね」 「そこのケースに体温計が入っている。熱を計ってみろよ。ああ、横になっていいぞ」 「有難う」  体温計を脇に挟むと、ヴァンは中背の痩せた身体をベッドに横たえた。そして、茶色がかった柔らかな髪を撫でながらポウを見やり、 「ねえ、どう思う」 「うん? ——ああ、あった。こいつだ」  と、ポウはパズルの小片を一個摘み出し、 「よしよし。——おっと、何だって、ヴァン」 「今朝のことだよ。ポウはどう思ってるの」  手を止め、ポウは上体を起こした。 「あのことか」 「悪戯じゃないんだろうか、本当に」 「俺はただの悪戯だろうと思うが」 「でも、それならどうして誰も名乗り出なかったんだろう」 「まだ続きがあるのかもしれん」 「続き?」 「ああ。ジョークの続きさ」  ポウは髭の中に人差指を埋めて、もぞもぞと顎を掻いた。 「俺も考えたんだ、いろいろとな。例えばだ、今夜にでも、誰かのコーヒーに塩が入れられるのさ。そいつが『第一の被害者』なわけだ」 「——ははあ」 「その調子で、『殺人犯人』は嬉々として犯行を重ねていく。ちょっと大がかりな�|殺人遊び《マーダー・ゲーム》� ってわけさ」 「成程。マーダ・ゲームか」 「馬鹿馬鹿しい解釈かもしれんが、実際にここで予告殺人が起こるんじゃないかと怯えるよりは、ずっと現実的だと思うな」 「確かに、小説じゃないものね。そう簡単に殺人なんて起こるはずがない。うん。きっとそうだよ。それじゃあ、ポウ、そのゲームの犯人役は誰なんだろう」 「さあて。そんなことを思いつきそうな奴といえば、まずエラリイだろうな。しかし、あいつはどうも『探偵』役にまわったみたいだから」 「そういえば、エラリイが昨日、『誰か私に挑戦する者はいないか』なんてやらかしてたね。あれを受けてのことなのかも」 「それはどうかな。もしもそうだとすると、あの場に居合わせた俺とお前とルルウの三人の内の誰かが犯人だってことになるが、今朝のあのプレート、ありゃあ前もって準備された代物だ」 「そっか。エラリイ以外にそういう悪戯っ気のある者といったら、ルルウかアガサか……」 「いや。もしかすると、やはりエラリイなのかもしれんな。探偵|=《イコール》犯人ってパターンだ」 「そう云われてみると。今朝、場の主導権を握る手際なんか、随分鮮かだったものね」 「うむ。——体温計は? ヴァン」 「ああ、忘れてた」  ヴァンは身を起こし、セーターの襟口から体温計を引っ張り出した。目の前にかざしてそれを見てから、浮かない顔でポウに差し出す。 「やっぱり少し熱があるな」  ポウはヴァンの顔を見た。 「唇も荒れてる。頭痛は?」 「少し」 「今日はおとなしくしてろよ。薬はあるのか」 「市販の風邪薬なら持ってきてるけど」 「それでいい。今晩も、なるべく早めに寝るんだな。せっかくの旅先で、こじらせたらつまらんだろう」 「云う通りにするよ、ドクター」  掠《かす》れた声で応えると、ヴァンは仰向けに寝転がってぼんやりと天井を見上げた。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ホールでは、昼食の片づけを済ませたアガサとオルツィが、ティー・バッグの紅茶を淹れて一息ついていた。 「ああん。これがあと六日も続くのかぁ。七人分となると炊事も大変ね」  アガサは椅子の上で大きく背を反らした。 「やだな。見てよ、オルツィ、この手。洗剤でこんなに荒れちゃって」 「ハンド・クリーム、あるわよ」 「あたしも持ってきてるわ。これでも、ちゃんとクリーム付けてマッサージしてるんだから」 「お姫様の手ね」  髪を束ねたスカーフをほどきながら、アガサがふふっと笑う。曖昧に片えくぼを作ってそれを受けると、オルツィはモス・グリーンの十角形を小さな両掌で包み、口に運んだ。 「ね、オルツィ」  厨房の方をちらと見やり、アガサは唐突に話題を転じた。 「あのプレート、どういう意味なのかな」  オルツィはひくりと身を震わせ、黙って首を振った。 「今朝は何となく気味が悪くなったけど、よく考えてみると、やっぱりただの悪戯かなって気がするのよね。でしょ」 「よく分らないわ」  オルツィはおどおどと視線をさ迷わせた。 「だって、みんな知らないって云うもの。何も隠すことないのに」 「それよ、オルツィ」 「え?」 「そこをみんな、深刻に考えすぎてるんじゃないかな。要するに、犯人さんはバツが悪くなっただけなんじゃない」 「——分らないわ、わたし」 「じゃ、犯人は誰だと思う」 「さあ」 「案外エラリイだったりしてね。でも、そうね、バツが悪くなるようなタイプじゃないか、エラリイは。とすると、ははあ、ひょっとしてルルウの坊やかな」 「ルルウ?」 「あの子の性格なら、考えられるでしょう。いつもミステリのことしか頭にないじゃない、ルルウって。で、つい茶目っ気であんな悪戯をしてしまったとか」  オルツィは、肯定するでも否定するでもなく日を伏せた。そして、ずんぐりとした肩を小さく丸め、 「わたし、怖い」  独り言のように呟いた。  それは彼女の本心だった。あのプレート——どうしてもあれを、他意のないジョークだとは思い切れない。何かしら、とても強い悪意を感じてしまうのである。 「——やっぱり、この島に来ちゃいけなかったんだわ」 「何をつまらないこと云ってるのよ」  と、アガサが陽気に微笑みかける。 「お茶を飲んだら、外の空気を吸いにいきましょ。このホール、昼間でも薄暗いものね。それに、周りの壁が十面もあって、何だか妙な感じ。だから、何でもないことまで必要以上に気に懸かってくるのよ。ね?」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  入江の桟橋に腰掛け、エラリイは深い水の色に凝然と目を投じていた。 「どうも気になりますよねえ、エラリイさん」  傍らに立ったルルウが声をかけた。 「——ん?」 「分ってるでしょう。今朝のプレートですよ」 「ああ」 「まさか、エラリイさんが犯人なんじゃないでしょうね」 「よせよ」  さっきからずっとこの調子だった。ルルウが何を話しかけても、エラリイは振り向きもせず、上の空のような返事しかしない。 「けど、『探偵』と『殺人犯人』の札まであるなんて、何となくエラリイさんらしいじゃないですか」 「知るもんか」 「そんな、ぞんざいに云わないで下さいよ。ちょっと云ってみただけなんですから」  ルルウは丸い肩をひょこりとすくめ、その場にしゃがみ込んだ。 「所詮、あれはただの悪戯でしょう。そうは思わないんですか」 「思わないね」  きっぱりと云って、エラリイはコートのポケットに両手を突っ込んだ。 「無論、そうであってほしいとは思うが」 「どうして悪戯じゃないんです」 「誰も名乗り出ない」 「そりゃあそうですけど」 「それに、手が込みすぎていやしないか」  と、エラリイはルルウの顔を振り返った。 「画用紙か何かにサインペンで書いてあったというのならともかくね、わざわざプラスティック板を切って、ゴチック体の型紙を作って、赤くスプレーして。僕だったら、みんなを驚かすためだけの悪戯にそこまで手間をかけたりはしないな」 「ですけど……」  ルルウは眼鏡を外し、ぎくしゃくとレンズを拭き始めた。 「それじゃあ、ホントに殺人なんてものが起こるって云うんですか」 「可能性は大だと思う」 「そ、そんなぁ。よくあっさりと云えますね。殺人っていったら、人が死ぬんですよ。殺されちゃうんですよ。それも、一人だけじゃない。あのプレートが殺人の予告なんだとしたら、五人も。いくら何だって、そんなこと」 「馬鹿げてるかい」 「馬鹿げてますよ。小説や映画じゃあるまいし。あのプレートが、例のインディアン人形と同じ役割だってことでしょう? これで、『犯人』が『探偵』まで殺して自殺でもしてごらんなさいよ、まるっきり『そして誰もいなくなった』じゃないですか」 「そのようだね」 「大体、何だって僕らが殺されなくちゃいけないんです。ねえ、エラリイさん」 「僕に訊いたって知るはずないだろう」  それからしばらく、二人は黙りこくって、岩肌を打つ波の動きを見つめていた。昨日に比べて心持ち波の音が荒い。水の色が暗い。  やがて、エラリイがゆっくりと腰を上げた。 「僕は戻るよ、ルルウ。ここは寒い」 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  波音が雲に谺《こだま》する。  その響きは、さながら狂暴な巨人の立てる寝息を思わせた。不安に沈む彼らの心に揺さぶりをかけるような、そうして更に不吉な物思いへと心を誘《いざな》うような……。  夕食が終わったばかりの十角形のホールは、既に、弱々しいランプの光だけが揺れる薄闇の中にあった。 「何だか気持ち悪いと思わない」 食後のコーヒーを配りながら、アガサが云いだした。 「このホールの壁よ。目が変になっちゃう」  ランプの明り一つで浮かび上がった、十枚の白い壁。  それぞれの壁面は、互いに丁度百四十四度の角度で接しているはずなのに、光の加減で曲面に見えたり鋭角に見えたりする。中央のテーブルは整った十角形の輪郭を頑として崩さないから、余計ホールの外周だけが奇妙に歪んで目に映るのである。 「本当だ。くらくらしてくるね」  ヴァンが充血した目を押さえた。 「早めに寝ろよ、ヴァン。顔色がまだ良くないぞ」  と、ポウがたしなめる。 「まだ治らないの」  アガサがヴァンの額に手を伸ばした。 「熱、あるじゃない。駄目よ、ヴァン。もう寝ちゃいなさい」 「まだいいよ。七時じゃないか」 「良くないわ。無人島なのよ、ここは。ちゃんとしたお医者さんもいないんだし。もしもこじらせたら大変でしょ」 「——うん」 「薬は? 飲んだの」 「寝る前に飲むよ。あれ、眠くなるんだ」 「だったら、今飲んですぐに休みなさいな。用心するに越したことないわ」 「分ったよ」  母親に叱られた子供のように、ヴァンはしおしおと立ち上がった。アガサが、厨房から水差しとコップを取ってきて渡してやる。 「それじゃあ、お先に」  と云って、ヴァンは自分の部屋のドアに向かった。その時——。 「早々に引き上げて、暗い部屋の中で一体何をしていることやら」 低く険のある声を、カーが洩らした。ヴァンはノブに伸ばしかけた手をびくりと止め、カーを取り返った。 「僕は寝てるだけだよ、カー」 「はん。俺にはお前が、せっせと刃物でも研いでいるような気がしてならないんだがね」 「何だって」  声を荒らげるヴァンに、カーはふふんと嘲笑を返した。 「今朝の殺人予告はお前の仕業だと思ってるのさ、俺は」 「ヴァン。相手にしないで早く行けよ」  と、エラリイが云った。 「なあ、待てよ、エラリイ」  こういう時、カーは糸を引くような猫撫で声を出す。 「この状況ではさ、まずヴァンを疑ってかかるのが常道だとは思わないか」 「そうかな」 「考えてもみなよ。こんなふうに複数の人間が一つの所に集まって、そこで例えば、連続殺人なんてものが発生したとしようか。その場合には、大抵その集まりの招待者か主催者が犯人、さもなくば一枚噛んでるもんだろう」 「そりゃあ、ミステリの中ではね」 「殺人予告のプレートなんてのは、ミステリの道具立て以外の何物でもないさ。そいつを、この犯人はやらかしたんだぜ。同じ流儀で見当をつけて、どこが悪い」  カーは顎をしゃくって、 「どうなんだ、招待者ヴァン」 「冗談はよしてくれ」  水差しとコップを腕に挟んだまま、ヴァンは片足で床を踏み叩いた。 「いいかい。僕は別に、みんなを招待したわけじゃない。伯父がここを手に入れたよって、声をかけただけなんだ。旅行の主催者は、次期編集長のルルウだし」 「その通りだ。ルルウから相談を受けて、それなら是非このメンバーで行こうじゃないかと、積極的に事を進めたのはこの僕でね」  エラリイが語気を強めた。 「ヴァンを疑うのなら、同じ理由で僕とルルウも疑う必要がある。でなきゃ、論理的とは云えないな」 「俺は、人が殺されちまってから、あたふたと論理を組み立てるような名探偵どもは嫌いなんだ」  おやおや、といった表情で、エラリイは肩をすくめた。 「しかし、招待者が犯人だなんてパターンはあまりにもありきたりだね。名犯人が採る手段とも思えない。僕だったら、招待を受けた時に、その機会をうまく利用するが」 「何て会話だ! 全く」  半分ほど吸った煙草を荒々しく揉み消して、ポウが怒鳴りつけた。 「名探偵だの名犯人だの、お前ら、現実と小説の区別もつかんのか。おい、ヴァン。こんなずれた[#「ずれた」に傍点]連中に付き合ってないで、さっさと寝ちまえよ」 「ずれた、だと?」  カーは目を剥き、せわしなく揺すり続けていた足を床に叩きつけた。 「どこがずれてるって云うんだ」 「そうだろうが。もう少し常識的にものを考えてみろ」  ポウは仏頂面で、新しい煙草に火を点けた。 「まず、今みたいな論争は全く不毛だってことだ。俺たちがこの顔ぶれで集まるのは、何も今回に限ったことではあるまい。無論、カーの云う通りヴァンが犯人で、うまい餌を投げて俺たちが喰いつくのを待ったのかもしれん。エラリイかルルウが犯人で、率先して旅行の計画を立てたのかもしれん。あるいはカー、お前が犯人で、何かいい機会を待っていたところへ今度の話が持ち上がったのかもしれん。可能性を云い合うだけなら、いくらでもできる。そうだろう」 「ポウの云う通りよ」  と、アガサが云った。 「水掛け論になるだけだわ」 「それに、だな」  ポウは泰然と煙を吐きながら、 「お前らはあれを、頭から殺人の予告だと決めてかかってるが、そもそもそいつがナンセンスなんじゃないかな。ミステリなどというお遊びの好きな人間ばかりが、こんな曰《いわ》く付きの場所に集まってるんだ。どうしてあれを、そのお遊びの一環として理解できない」  例えば——と、そこでポウは、昼間に部屋でヴァンと話していた一つの解釈を皆に示した。 「それですよ、ポウ先輩、それ」  手を叩いて喜んだのはルルウである。 「コーヒーに塩ねえ」  エラリイは頭に両手を載せ、椅子の背に凭れかかった。 「もしもこれで本当に塩を入れてきたら、僕は犯人のセンスに脱帽するよ」 「楽天的で結構な御意見だな」  カーは膨《ふく》れっ面で席を立った。乱暴な足取りで、自分の部屋に戻っていく。それを見送った後、掠れ声でお休みと云いながら、ヴァンも部屋に消えた。 「犯人が誰なのか、何となく楽しみになってきたじゃない」  アガサがオルツィに笑いかける。 「ええ。——そうね」  オルツィは目を伏せたまま、小声で相槌を打った。  ポケットから青裏のバイシクルを取り出し、白いテーブルの上でリボン状に広げながら、さて、とエラリイが呟いた。 「誰が『第一の被害者』かな。こいつは、ちょっと面白いゲームになってきたぞ」  あるいは拭い去れぬ不安の裏返しだったのかもしれない、誰もが皆、ポウの意見に心を奪われた様子だった。今朝から続いていた息苦しい緊張も、それですっかり吹き飛んでしまったかに見えた。  が、しかし——。  少なくともこの時[#「少なくともこの時」に傍点]、例の殺人予告のプレートは文字通りの意味しか示さないのだと知る人間が一人[#「例の殺人予告のプレートは文字通りの意味しか示さないのだと知る人間が一人」に傍点]、確かにこの島にはいたのである[#「確かにこの島にはいたのである」に傍点]。 [#改ページ] 第四章 二日目・本土 [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  車は十号線を西へ向かっていた。  隣でハンドルを握る島田潔の顔を、時々横目で窺う。そのたびに江南は、何となく込み上げてくる笑いを抑えねばならなかった。  お寺の三男坊にこの車——赤いファミリア。セーターにジーンズといった昨日のラフないでたちとは打って変わった、渋いグレーのスーツ。洒落たサックス・ブルーのサングラス。そのどれもがひどくちぐはぐな一方、島田というこの男の人格によって、奇妙な形に統一されているような気がする。  島田によれば、行方不明の庭師吉川誠二の妻は政子《まさこ》という名で、やはり今でも安心院《あじむ》の家に住んでいるとのことだった。午前中に住所を調べ出し、ついでに訪問のアポイントメントを取り付けておいたという。  別府から山手に入り、明礬《みょうばん》の町を抜ける。  大した広さのない道路の両側に、藁《わら》を組んで作られたテント状の建物が並んでいた。藁の隙間からは白く湯煙が立ち昇っている。この中で、入浴剤「湯の花」を採取しているのである。  やがて、宇佐郡へ向かう山越えの坂にさしかかった頃、 「で、江南君、そっちはどうだったんだい」  と、島田が尋ねてきた。 「え? ああ、すみません。まだ報告してませんでしたね」  窓に凭れて外の景色を眺めていた江南は、頭を掻きながらいずまいを正した。 「確認できなかったところもあるんですけど、例の三次会にいた連中のところ全部にあの手紙は届いていると、そう考えてまず間違いないみたいです」 「ふうん。それで、その内の何人が島へ行ってるんだい」 「はっきりしたことは分りません、一人暮らしの奴も多いので。だけど多分、途中で抜けた守須と僕以外の全員が」 「やっぱり何かありそうだなあ、そいつは」 「僕もそう思います。もっとも、守須がここにいたならば、もう少し慎重に構えて、それは話が逆なのかもしれないって云うんでしょうけど」 「話が逆?」 「ええ。つまりですね、あの時たまたま三次会にいたメンバーが、たまたま今、島へも行ってるというわけじゃない。元々集まることの多いメンバーだからこそ、揃って三次会にも行くし島にも行くんだ。だから、手紙の件と連中の角島行きとの符合に特別な意味を見出すことは、一概にはできないんじゃないか、ってふうに」 「はあん。微妙な論理だね」 「慎重派なんですよ、あいつは。根はとてもひたむきで一途な男なんです。だから、その分余計に慎重であろうとする、みたいな」 「それにしちゃあ、昨夜はなかなか積極的な探偵ぶりだったな」 「そうでしたね。実は内心、ちょっと驚いてもいたんですよ。そもそも凄く切れる[#「切れる」に傍点]奴ではあるんですけど……」  江南と守須とは、江南がまだ研究会に在籍していた時分からの良いコンビであった。  江南は非常に好奇心が旺盛で行動的な男である。何かに一旦興味を感じると、もう居ても立ってもいられなくなる。しかし、旺盛すぎる好奇心が往々にして思考の短絡・直線化を招くものだということを、彼自身よく承知してはいた。自分には、すぐカッと燃え上がるわりに冷めやすい性癖があるのだという、そのことも。  一方守須は、江南とは違った意味で大変な情熱家でもあるのだが、日頃は滅多にそれを表に出すことをしない。自分の中で、じっくりと納得のいくまで考えを煮つめるタイプである。だから江南にとって、守須は常に、自分の早合点や思い込みに歯止めをかけ、正してくれる良きアドヴァイザーなのだった。 (とりあえず安楽椅子探偵《アームチェア・ディテクティヴ》を……か)  いかにも守須にふさわしい役まわりだと、江南は思う。別に己の資質を卑下するつもりはないが、どう見ても自分にはワトスン役の方が向いている。ホームズを演じるのは守須の方だ。  けれども——と考えて、江南はまた島田潔の横顔を窺う。 (この人は、ワトスンやレストレードに甘んじる器じゃないだろうな)  車はやがて、見晴らしの良い高原に出た。丈の高い草で覆われたなだらかなスロープが、幾重にも重なり合いながら連なっている。 「左に見えてるあの山、鶴見岳ですね」 「ああ、最近はハング・グライダーのメッカになってるってねえ」 「まだ遠いんですか、安心院までは」 「もう少し行って下りの坂を抜けたら、宇佐郡に入る。それからもう一度上りがあって、安心院高原だ。今が一時半だから、着くのは、そう、三時前になるかな」  江南は腰に手を当てて背筋を伸ばしながら、大きく一つ欠伸をした。 「疲れてるのかい、江南君」 「元が夜型の生活だもんで、早起きすると辛くって」 「眠っててもいいよ。着いたら起こしてやるから」 「すみません。じゃあ……」  江南がシートを倒すと、島田はぐいとアクセルを踏み込んだ。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  玄関口に現れた吉川政子は、江南の漠然とした予想を裏切って、小紋の着物を品良く着こなした、控えめで人の良さそうな女だった。邪な恋心が高じた挙句、四人の人間を殺して姿をくらました男の女房——そういった先入観があったから、どちらかと云えばもっとぎすぎすした感じの女をイメージしていたのである。  実際の年齢はまだ四十代前半くらいなのかもしれないが、心労のためだろうか、政子の顔はひどくくたびれ、老けて見えた。 「今朝電話させて戴いた島田です。どうも突然、不躾《ぶしつけ》なことで」  島田が云うと、庭師の妻は丁寧に頭を下げた。 「紅次郎様のお友だちでいらっしゃるとか。わざわざ遠いところを……」 「紅さん——もとい、中村紅次郎氏とは面識がおありだそうですね」 「はい。大変お世話になっております。御存知かと思いますが、私は吉川と一緒になります前は、角島のお屋敷で働かせて戴いておりました。青司様があそこにお住まいになった当初からです。元はと申しますと、それが、紅次郎様の御紹介で」 「成程。そこで御主人とお知り合いになった?」 「さようです。主人も、当時からお屋敷に出入りしておりまして」 「こちらのお宅は御主人の実家なのですか」 「はい。一緒になりましてしばらくはO市の方に住んでいたのですが、こちらの両親の健康が思わしくないので」 「随分と遠くからお通いだったんですね」 「こちらへ参りましてからは、庭の方のお仕事はもう、島のお屋敷と、あとは別府の紅次郎様のお宅だけに減らしておりました」 「ああ、あそこの庭も御主人が?」 「はい」 「ところで、今日突然伺ったのは、実はこんなものが、この——僕の友だちの江南君のところへ送られてきたからなんです」  と云って島田は、江南が渡しておいた例の手紙を示した。 「これは?」 「誰かが、亡くなった青司氏の名を騙《かた》って書いた手紙です。紅次郎氏のところへも、これとよく似た手紙が」 「——はあ」 「で、これは何かある、角島の事件とも関係があるのでは——と。もしかすると、何か参考になるお話が聞けるのではないかと思いまして」  政子は当惑の色を隠せなかったが、やがてそっと視線を上げて云った。 「どうぞ、ここでは何ですから、お上がり下さい。ついでに、よろしければ、主人に線香の一本なり……」 [#ここから3字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  島田と江南は薄暗い座敷に通された。  二人と向かい合って正座した政子の背後、開いた襖《ふすま》の奥に、小さな仏壇が見えた。真新しい位牌が、暗がりに仄《ほの》白く浮かび上がっている。 「御承知の通り、結局主人は見つかりませんで。年が明けて、先月には、もう死んだものと諦めて内々で葬儀を致しました」  そう云って、政子は目頭を押さえた。 「ですが、奥さん、どこかで御主人が生きておられるという可能性はまだあるのでは」 「生きておれば、必ず連絡があるはずです」 「しかし」 「これだけは申し上げておきたいのですが、主人は決してあのような恐ろしいことのできる人間ではございません。世間の噂はいろいろと耳に致しますが、私どもは全く信じてはおりません。主人を直接知っておられる方は、皆様そう云って下さいます」  政子の口調は毅然としたものであった。島田は神妙に頷いてから、 「御主人が角島へ行かれたのは、屋敷が燃える三日前だったということですが、正確にはいつ?」 「九月十七日の早朝に、こちらを発《た》ちました」 「その後、二十日の朝に火の手が上がるまでの間に、もしかして何か、御主人から連絡があったというようなことはありませんか」 「発ったその日の午後に、一度」 「電話が?」 「はい。無事、島に着いたと」 「その時、何か変わった様子はなかったのでしょうか」 「いつもと同じ感じでした。ただ、奥様が御病気の様子だとか」 「和枝夫人が」 「はい。姿をお見せにならないので、青司様にお訊きしたら、病気で伏しておられると」 「ははあ」  鼻の頭を撫でながら、島田はちょっと唇を尖らせた。 「失礼を承知で一つ伺いたいのですが、御主人が、その、和枝夫人に好意を抱いておられたと思われるような節は……」 「奥様のことは、私も主人も、大変お慕いしておりました」  政子は幾分蒼ざめた顔で云った。 「先程も申し上げましたように、主人は決して、世間があれこれと推測して云うような、そんな大それたことのできる人間ではございません。奥様に横恋慕していたなど、とんでもないことです。それに」 「何ですか」 「主人が青司様の財産を盗んだとかいう噂も、ひどい云いがかりでございます。第一、命を狙われるような財産など、もう……」 「もう? あそこにはなかった、とおっしゃるのですか」 「つまらないことを申しました」 「いや、気になさることはない。むきになるお気持ちも当然です」  島田は落ちくぼんだ目を光らせた。 「青司に財産は残っていなかった、か」  ぼそぼそと口の中で呟いたあと、ふと思いついたように、 「青司氏と弟の紅次郎氏は、あまり仲の良い兄弟ではなかったと聞きますが、そのことについてはどう思われます」 「はあ」  政子は曖昧に言葉を濁らせた。 「青司様は、あのように少し変わったお方でしたから……」 「紅次郎氏が島を訪れるようなことは?」 「私が勤めておりました頃はわりとよく来ておられましたが、その後は殆ど、そういうことはなかったようです」 「奥さんが勤めておられた頃まで……。成程」 「あのう」  と、それまで黙って二人のやりとりに耳を傾けていた江南が、口を挟んだ。 「中村千織さんのことは御存知でしょうか。実は僕、彼女と同じ大学の知り合いで。だから、さっき島田さんがお見せしたような手紙を受け取ったわけなんですが」 「お嬢様のことですか」  政子はくすんだ畳に視線を落とした。 「ずっと小さい頃のお顔は、今でもよく覚えております。私が島を出ましたあとは、主人から時々噂を聞いておりました。お可哀想に——まだまだお若いというのに、あのようなことになってしまわれて」 「千織さんはいつ頃まで島に住んでいたのでしょう」  と、島田が尋ねた。 「確か、幼稚園に入る年に、お祖父《じい》様のところへ預けられたとか。島に帰っておいでになるのはごくたまで、大概奥様の方がO市まで会いに行かれるのだ、と主人が申しておりました。奥様は、それはもう、大変な可愛がりようで」 「青司氏の方は?」  島田は少し身を乗り出して、 「父親の青司氏の方はどうだったんですか。娘さんに対して」 「それは——」  政子は若干の狼狽を見せた。 「恐らく青司様は、子供があまりお好きでなかったのではと存じます」 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  かれこれ二時間近く話をしていたことになる。安心院の吉川家を出たのが午後五時過ぎ。二人が別府まで帰り着いたのは、途中で夕食に降りたこともあって、既に九時を回った頃だった。  長時間の運転で、島田もさすがに疲れているようだった。時折りすれちがう対向車のヘッド・ライトに、そのたび小さく舌を鳴らすのが聞こえる。 「ちょっと紅さんの家を覗いてみたいんだが、いいかな」  と、その島田が云いだした。  構いませんよ、と答えたものの、江南は内心あまり気が進まなかった。安心院を出てからずっと、強い虚脱感にさいなまれていたからである。  睡眠不足と疲労が、その原因の大半ではあった。が、精神的な面でも、何だか気抜けしてしまったような、けだるい感じを否めない。  意気込んで遠出してきたのはいいが、それにしては大した収穫も得られなかったような気がする。もとより、何か明確な解答が見つかると思って来たわけではなかった。少しでも未知の情報が手に入れば、という程度の目的だったのだ。しかし……。 (例えば、吉川政子の許へも青司名義の手紙が届いていた、ということであれば、僕は満足したんだろうか)  何となく自己嫌悪にかられつつ、江南は思う。  熟しやすく冷めやすい、そんな己の性向は承知しているつもりだった。結局、自分は子供なのだ。子供が新しいおもちゃを欲しがるように、自分はいつも何か刺激的なものを求め、そしてその動きが少しでも単調だと、すぐに飽きて放り出してしまう……。  やがて、鉄輪《かんなわ》の紅次郎宅に到着した。  夜は静かだった。空には薄く雲が広がっているようだ。淡く黄色く、闇に凄むように月が浮かんでいる。  島田が呼び鈴を押した。家の中でその音の鳴るのが、微かに聞こえた。だが、しばらく待っても応答はない。 「おかしいな。明かりは点いているのに」  いぶかしげに呟いて、島田はもう一度呼び鈴を鳴らし、二、三度戸を叩いた。 「もう寝てるのかなあ」  裏へまわろうとしたところで、島田は江南を振り返った。江南は門柱に肩を寄せながら目を伏せた。 「いや、いいか。また今度にしよう。——悪いね、江南君。無駄足を踏ませてしまったな。だいぶ疲れていると見える。さて、行こうか」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  国道に出てO市へ向かう。  島田が少し窓を開けた。潮の匂いを乗せて、夜風が吹き込んでくる。 「寒いかい、江南君」 「いえ、それほどでも」  虚脱感と、それに伴う自己嫌悪は相変わらずだった。 「悪かったね。朝から駆けまわらせてしまって」 「いえ。僕の方こそ、すみません。こんな、何だか気が抜けてしまったふうで」 「気にすることはないさ。疲れてるんだよ」  言葉の通り、島田はさして気を悪くしている様子でもなかった。左手をハンドルから離して、片方ずつ目を擦りながら、 「僕も、ある意味では当て外れの気もしたけどね、別の意味じゃあ、今日の安心院行きは大収穫だよ」 「と云うと」 「当てが外れたっていうのは、吉川誠一の消息についてのことだね。つまり、吉川が何らかの形で生きていたとしたら、細君に連絡を取っている可能性が多少なりともあるだろうと考えてたんだ。ところが、あの通りそんな気配は微塵《みじ人》もない」 「けど、行方不明になってまだ半年だというのに葬儀まで済ませてしまったっていうのは、かえって何かあるようにも思えませんか」 「そりゃあそうだがね、僕の見たところでは、あの政子って女はどうやっても嘘のつけるタイプじゃない。正直で人が良いのだけが取り柄の女さ」 「はあ」 「これでも、人間を見る目は結構鋭いつもりなんだよ。ま、坊主の勘とでも云うかな」  島田は一人でくすっと笑った。 「何にせよ、今云った点では当てが外れたわけだ。江南君、煙草を一本貰えないかな」 「煙草、ですか」  江南はちょっと驚いて聞き直した。島田が煙草を吸うのを、それまで見たことがなかったからである。 「セブンスターで良ければ」  と云って箱ごと手渡すと、島田は前方を見据えたまま、片手で器用に一本押し出して口にくわえた。 「数年前までは、ひどいヘビースモーカーだったんだよ。ところが、一度肺を悪くし、それ以来殆ど吸わなくなった。日に一本だけ、と、怠惰な生活の中でこれだけは自分に課してるんだ」  火を点けると、島田はいかにもうまそうに煙をくゆらせた。 「それでだね、収穫の方は何かというと、まず、青司にはあまり財産がなかったっていう話。それが本当だとすれば、成程、吉川=犯人説の動機はかなり弱くなる」 「和枝夫人に恋していたという方は?」 「どうも、そっちの説は初めから戴けないと思ってるんだ。いかにもこじつけって感じがしてねえ。いつだったか、紅さんとこの事件について話をした時、彼が強く云っていたことがある。和枝さんは、そんな、出入りの庭師をたぶらかすような女じゃないってね。吉川についても、紅さんは、あの男が夫人に横恋慕など考えられないって、今日の政子と同じことを云っていたよ」 「じゃあ、島田さんは、吉川は犯人ではないと」 「その可能性が大きいと思うな」  島田は、あっという間に根元まで灰になってしまった煙草を、名残り惜しげに灰皿に捨てた。 「それともう一つ、今日の話を聞いて、僕にはどうもね、青司と紅さんの兄弟仲が良くなかった理由に、和枝夫人の存在が絡んでいるような気がしてきたんだ」 「和枝夫人が絡んでる?」 「つまり、彼女に不倫の相手がいたとすれば、それは吉川なんかじゃなくって紅さんだったのでは、とね」 「紅次郎さんと和枝夫人が、ですか」 「そう。思い出すと、そうなんだなあ。去年の事件のあと、まるまる一週間か二週間、紅さんはずっと家に閉じこもって、まるで廃人みたいだった。あれは、青司の死よりもむしろ、和枝夫人の死にショックを受けてのことだったんじゃないのかと、そういうふうにも思えてくる」 「だけど、島田さん、それじゃあ事件の犯人は……」 「一つ考えていることはあるよ。いずれ話すけれども。それより、今日のことを守須君に報告しなきゃならないんだろう」 「ああ、そういえば」  江南はフロント・パネルの時計に目をやった。十時四十分。  海岸沿いにO市へと続く国道は、車の数も既にまばらである。ぼつぼつと散った赤いテール・ランプの間に、前を行くトラックの黒い巨体。並走する線路を流れていく、列車の長い光……。 「電話してくれって云ってましたけど、どうせだから寄ってみますか」  島田の思わせぶりな台詞《せりふ》に煽《あお》られて、減退しかけていた気力がいくらか回復しつつあった。それを知ってか知らずか、島田はにやりと目を細め、 「守須君か。彼も、なかなかいい名前だな」 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり] 「お前のことだから、今日一日で探偵ごっこはもううんざりって顔なんじゃないかと思ってたんだけど」  ティーバッグを放り込んだカップにポットの湯を注ぎながら、守須は半ばからかうような調子で云った。 「案外そうでもないんだね。島田さんが一緒だからかい」 「見透かされてるな」  江南は少々きまりの悪そうな薄笑いを見せた。 「まあ、とりあえず調査報告といこうか、探偵殿」  そして江南は、今日自分たちが入手した情報を、要領良く守須に伝えた。 「ふうん。成程ね」  二杯目の紅茶を淹れて、守須は砂糖も入れずに飲み干した。 「で、明日はどうするつもりなんだい、ワトスン君」 「さて、どうしたものかな」  江南はごろりとその場に身を伸ばした。けだるそうに片肘を立てて頭を支えながら、 「正直云って、やっぱり、ちょっと気抜けした感じなんだよ。そもそも長い春休みで退屈してたんだろうな。毎晩、麻雀ばっかりしてさ。そこへ、あの�死者からの手紙�だろ。無視できるわけがない。例によって、こいつは何かあると勇み立ったものの……」 「おいおい。つまらない自己分析はやめろよ。島田さんが寂しがるぞ」  島田はしかし、骨張った顎を摘みながらにたにたと笑って、 「退屈凌ぎ大いに結構じゃないか。多忙の中で想像力を死なせてしまうことに比べたら、よっぽど健全だと僕は思うねえ。僕にしても江南君と同じようなものさ。暇をもてあましてでもいなけりゃあ、この年になって、こんなことに首を突っ込んだりはしない。まあ、元来物好きで詮索好きだというのはあるがね。——ところで、守須君」 「はい?」 「安楽椅子探偵の意見を聞きたいな」 「そう来ると思いましたよ」  乾いた唇を舌で湿しながら、守須はにこりと笑ってみせた。 「実は、昨日話を聞いた時から、一つ考えていることがないでもないんです。ただ、これは推理っていうよりも、全く一つの憶測の域を出ない思いつきなので、下手に真に受けてもらっても困るんですけど」 「ふむ。江南君の云う通り、慎重派だね、君は。で?」 「慎重派にしては大胆な思いつきなんですけどね。案外島田さんも、同じようなことを考えてるんじゃないですか」 「そんな気もするねえ」 「いいでしょう。つまり——」  守須は、島田から江南の方へと目を移した。 「何でお前が云いださないのか不思議で仕方ないんだ。つまりね、角島事件のパターンは、例の——ネヴィンズ・ジュニアが云うところの、�バールストン先攻法《ギャンビット》�なんじゃないか、と」  あっ、と江南が声を上げた。 「青司が本当に生きている[#「青司が本当に生きている」に傍点]って云うのか」 「断言はできないよ。あくまで、これは可能性の指摘にすぎないんだから」  守須は三杯目の紅茶を淹れながら、ゆっくりと言葉を続けた。 「使用人の北村夫妻は斧で頭を叩き割られていたっていうけど、火災で焼けて相好《そうごう》の別がつきにくくなっていたとしても、ここに何か�顔のない死体″的なトリックが入り込む余地は少ないと思う。和枝夫人の死体については、例の消えた手首以外、問題視すべき点はない。こだわって然るべきなのは、どう考えたって、青司のものとされてる死体だよ。  だって、そうだろう。全身に灯油をかけられて燃えた死体だ。顔は勿論のこと、例えば身体に古傷や手術の跡があったとしても、確認できやしない。警察が何を根拠に青司本人の死体だと断定したのかは知らないけど、これが実は別の人間の死体だったって可能性は考えられるよね。しかもその上、丁度時を同じくして行方不明になった庭師がいるときてる。——島田さん」 「何かな、名探偵」 「ひょっとして、青司と吉川誠一の年齢や体格、もう調べてあったりしませんか」 「ははっ。鋭いね、さすがに」  島田は嬉しそうに歯をこぼした。 「吉川は青司と同い年、当時四十六歳だった。体格は共に中肉中背。ちなみに、血液型も同じA型だ。焼死体の血液型も、無論Aだった」 「どうやってそんなことまで調べたんですか」  江南が驚いた顔で訊くと、島田は照れたように頬をさすりながら、 「おや、云ってなかったかな、江南君。ちょっと警察にコネがあってね。——さて、守須君。仮に、中村青司と吉川誠一の入れ替わり[#「中村青司と吉川誠一の入れ替わり」に傍点]があったとしてだ、では、どのように事件の経緯を再現する」 「そうですね。まず——」  守須はそっと額に手を当て、宙を見つめた。 「最初に殺されたのは、和枝夫人でしたね。推定された死亡時刻は、十七日から十八日の間、でしたか。吉川誠一が島に到着して、政子に電話を入れたのが十七日の午後ということですから、恐らく、この時もう夫人は殺されていたのだと思います。彼女の姿が見えないのをいぶかしく思った吉川に対して、青司は、病気で寝ているのだと偽った。本当は、既に自分が、睡眠薬で眠らせた上で絞殺していたわけです。  次に、事の発覚を恐れた青司は、北村夫婦と吉川をも殺す決心をした。三人に薬を盛って、縄で縛り上げる。そして十九日、北村夫妻を斧で惨殺。その後、眠らせ続けておいた吉川を和枝夫人の死体と同じ部屋へ運んで、縄を解き、もしかすると自分の服に着せ替えた上で、灯油をかけた。屋敷に火を放ち、島から逃げる。  こうして、犯人である青司と被害者の一人、吉川との�入れ替わり�が成立したというわけです。�顔のない死体�の典型的なパターンですね。但し、このように考えても依然、不明な箇所がいくつか残ります。今思いつくだけでも、そうですね、四つばかり」 「ふん。それはどんな」  と、島田が促した。 「第一は、動機ですね。そもそも青司は、何だって、二十年以上も連れ添ってきた夫人を殺さなきゃならなかったのか。狂気にかられて、と云ってしまえばそれまでですが、狂人にも狂人なりの理由があるはずです。  次に、これは昨夜も云ってましたけど、切り取られた手首の件。青司は何故、夫人の手首を切り取ったのか。そして、それをどこへやってしまったのか。  第三は、犯行時間のずれの問題です。最初に夫人を殺したのが十七日だとして、最後の吉川が二十日未明。この三日間、青司は何をしていたのか。  最後に、そうして犯行を終えた青司は、どのようにして島を脱出し、その後現在に至るまでどこに身を潜めているのか」 「大体、僕がここに来るまでに考えていたのと同じみたいだな」  島田は云った。 「そして、どうやら僕は、今君が列挙した疑問点の内の、少なくとも最初の一つには答えられそうに思う」 「和枝夫人を殺した動機についてですか」 「そうだよ。勿論これも、さっき君が云ったのと同じで、憶測の域を出ないものだがね」 「——嫉妬、ですか」  守須がそろりと問うと、島田は唇をすぼめて頷いた。 「月並みな感情も、それが長い年月の間、青司のようなある種の天才の心の中に積もり積もっていけば、とてつもない狂気にまで成長しうると思うんだ。——江南君」 「何でしょう」 「今日、吉川政子が、中村千織について話したことを覚えているかい」 「ええ。そりゃあ勿論」 「彼女はこう云ってたね。千織が島に帰ってくることは滅多になかったようだ。そして、和枝夫人は娘を溺愛していたと云ったが、青司の方はどうだったかと訊くと」 「彼は子供が好きではなかったんじゃないか、というふうに云ってましたね」 「そう。青司は、娘をあまり可愛かってはいなかったってことだ」 「ああ、そういえば、彼女の葬儀の時も、喪主の名前は青司じゃなかった」 「僕が云いたいことはもう分るだろう」  島田は、江南と守須の顔を交互に見た。江南は頷いた。守須は眉をひそめ、すっと目をそらした。 「千織は青司の娘じゃなかった[#「千織は青司の娘じゃなかった」に傍点]、と思うわけですね」 「その通りだよ、守須君」 「では、誰の娘だったと」 「それは、中村紅次郎の、さ。政子によると、彼女が吉川と結婚して屋敷を出る以前の頃には、紅さんはたびたび島を訪れていたというんだね。つまり、元から兄弟仲が悪いわけじゃなかったのさ。そして、紅さんがふっつりと島に来なくなったその時期というのが、千織の生まれた時期と一致するんじゃないかと思うんだ。どうかな、守須君」 「さあ、何とも」  守須はガラス・テーブルの上の煙草に手を伸ばしながら、 「それで、今日の帰り、紅次郎氏の家に寄ってみたわけですか」 「そう。紅さんに会って、ちょっと探りを入れてみようと思ったんだが」 「島田さん」  どうしてもいたたまれぬ気分になって、守須は云った。 「そういうことはやめておくべきだと、僕は思いますね」 「おやおや。急にどうしたんだい」  島田は多少面喰らった様子だった。 「さしでがましいようですけど、いくら島田さんが紅次郎氏と親しくしていらっしゃるにしても、そこまで立ち入った私事を今更詮索するのは、どうでしょうか」  守須は静かな目で島田の顔を見据えた。 「僕たち三人であれこれ話し合っている分には、何を云おうと罪はないでしょう。けれども、そこで出てきた推測に従って、他人のプライバシーの、しかもその人が最も知られたくないと思っているような部分をつっつくのは、控えるべきだと思うんです」 「しかし、守須、昨日、吉川誠一の女房を実際に訪ねてみたら、なんて云いだしたのはお前じゃないか」  と、江南が云い返した。守須は小さく溜息をついて、 「軽はずみなことを云ってしまったなって、今日一日後悔していたよ。その辺のところは、僕だって好奇心と良心がぶつかって複雑な気持ちなんだ。ゆうべは、ついつい乗せられてしまったけど。やっぱり、面白半分でそういう真似をするのは良くないような気がする。特に、一日中、山の中で石仏と向かい合ってると、ますますそう痛感してしまってね」  壁際のイーゼルに目をやる。キャンバスの絵は、パレット・ナイフで厚く色付けが施された段階だった。 「何だか失礼ですけど、島田さん、この辺で僕はもう降りたいと思います。安楽椅子探偵をかってでた手前、一応の推理は述べさせてもらいましたから」  島田は悪びれる気配もなく、 「じゃあ、君の結論は、やはり青司は生きていると、そういうことだね」 「結論と云うと、語弊がありますね。僕が指摘したのは、一つの、これまであまり取沙汰されることのなかった可能性にすぎません。実際問題として、では青司が本当に生きているのかと訊かれたら、きっと僕はノーと答えるでしょう」 「あの手紙のことは? どう解釈するのかな」 「島へ行った連中の内の誰かの悪ふざけですよ、きっと。——お茶、飲みますか」 「いや、結構」  守須は自分のカップに四杯目の紅茶を淹れた。 「仮に、本当に青司が生きていたとしましょうか。その場合でもしかし、さほど愛してもいなかった、むしろ忌み嫌っていた娘、千織の死に関するあんな告発文を、一体彼が書くものでしょうか」 「はあん」 「それにね、僕は思うんです。例えば殺意なんていう極端な感情を長く心に維持し続けることは、普通に想像するよりも遥かに大変なことだ、と。  もしも、半年前のあの事件を起こしたのが青司で、彼が同時に、和枝夫人だけではなく、千織を殺した若者たちや弟の紅次郎氏に対しても殺意を抱いていたのだとしたら、そしてその殺意が狂気という形で爆発したのだとしたら、彼は夫人を殺して、返す刀で紅次郎氏や若者たちまで殺そうとしたんじゃないでしょうか。一旦身を隠しておいて、今になってあんな脅迫状めいたものを出す、そうして例えば復讐を開始しようなんて、人間の神経はそんなに強勒《きょうじん》なものではないと思うんですよ」 「ふうむ」 「お湯、まだあるか、守須」  と、江南が云いだしたのは、黙り込んだ島田への助け舟のつもりらしかった。 「沸かそうか。もう足りないから」 「いや。それならいいさ」  江南は仰向けに寝転がって腕を組んだ。 「ま、島田さんも俺も暇人だからね、お前のポリシーはともかくとして、もうちょっと探偵ごっこを続けてみるから」 「無理にやめろとは云わないよ」  守須は少し声を和らげ、 「けれども、他人の心の触れてはいけないところに土足で踏み込むような真似は、極力避けるべきだと思う」 「分ってるさ」  江南は欠伸に口を押さえ、それからぼんやりと独りごちた。 「角島の連中、今頃どうしてるのかな」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  彼らは勿論、知る術もなかった。  いくつかの街と、海とを隔てた小さなその島を舞台に、殺意の爆発点[#「殺意の爆発点」に傍点]は間近まで迫っていたのである。 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第五章 三日日・島 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  目が覚めた時には、もう午《ひる》近かった。ゆうべの夜更かしが災いして寝過ごしてしまったのだ。  アガサは、時計を見て慌てて身を起こした。が、耳を澄ましてみると、他の者たちが起きている気配はない。  再び毛布にくるまって、そのままもそもそと腹這いになった。  昨夜ベッドに入ったのは、午前三時を過ぎてからだった。他の連中も、先に部屋に引きこもったカーとヴァンを除けば、同じようなものだろう。  いくらこういった旅先でのこととはいえ、自分一人だけが寝坊したなんていうのはみっともないから——と、アガサは、そうでなかったことに安心して、ナイト・テーブルに置いた煙草を取った。  彼女は血圧が低い。朝起きて、身体が完全に目を覚ますまでにたっぷり一時間はかかる。  それにしても、とアガサは思った。 (オルツィもまだ起きてないのかな)  いくら休んだのが遅かったといっても、こんな時間まであの子が寝過ごすというのは珍しいことだ。具合でも悪いのか。それとも、既に起きていて、他に誰も出てこないので部屋に戻ったのだろうか。あるいは……。  淡い紫色の煙が、ゆっくりと立ち昇っていく。煙草は好きな方だが、人前で吸うのは控えている。  二本目を少しだけ吸ったところで、アガサは寝ぼけた身体をベッドから引き剥《は》がした。黒いブラウスの上にベージュのジャンパースカートを着て、姿見の前に立つ。乱れがないことを確かめてから、洗面用具と、化粧品の入ったポーチを持って部屋を出た。  人気《ひとけ》のない十角形のホールは、もう正午だというのに相変わらず薄暗く、中央のテーブルだけが白く浮かび上がって見えた。天窓から覗く空は、昨日と同じ薄|鈍《にぴ》色である。  アガサはまっすぐ洗面所に向かい、手早く洗顔と化粧を済ませた。ホールに戻ると、テーブルの上に散らかったままのカップやグラス、吸い殻で一杯の灰皿を片づけにかかる。  ——と、視界の片隅に、何か赤いもの[#「何か赤いもの」に傍点]がひっかかった。 (何かしら)  そう思うのと、顔をそちらへ向ける行動、そしてその赤いものが何なのかを思い出すこと、三つは殆ど同時だった。さあっと顔から血の気のひくのが、自分でも分った。そして、思い出した通りの物が、その、白木のドアの上にはあった。 [#ここから枠囲い] 第一の被害者 [#ここで枠囲い終わり]  ことり、と、どこかで何か物音がしたように感じて、次の瞬間、アガサはありったけの声で悲鳴を上げていた。  ガタンと背後のドアが開いて、真っ先に飛び出してきたのはカーだった。既に起きて身づくろいを済ませていた様子だ。棒立ちになったアガサを見つけ、次に、彼女が凝視している物に目をやると、 「誰の部屋だ」  彼は怒鳴りつけるような声を投げた。  アガサは、とっさには答えられなかった。赤い文字のプレートは、ドアの名札を覆い隠すように貼り付けられているのだ。  十角形を取り囲んだドアが次々と開いて、他の者たちが飛び出してきた。 「誰の部屋だ、アガサ」  と、カーが繰り返した。 「オ、オルツィの」 「何い?」  弾《はじ》かれたようにそのドアに駆け寄ったのはポウである。パジャマ姿のまま、寝乱れたぼさぼさの髪を更に振り乱し、物凄い勢いでノブに飛びつく。  鍵は掛かっていなかった。呆気《あつけ》ないほど素直に、ドアは開いた。  暗い部屋。鎧戸の隙間から差し込む幾筋かの光線が、鋭利な刃物のように闇を切り裂いている。 「オルツィ」  震える声で、ポウは呼びかけた。 「オルツィ」  灰白く浮かび上がった壁際のベッド——その上に彼女は、静かに横たわっていた。胸許まで、きちんと毛布が掛けられている。そして、その顔の上には、彼女自身の紺色のカーディガンが……。 「オルツィ!」  咆哮《ほうこう》のように叫ぶや、ポウは室内に躍《おど》り込んだ。ベッドに横たわった身体は、しかし、ぴくりとも反応を示さない。 「何てこった。オルツィ……」  顔に被せられたカーディガンを、力尽きたような重い手つきで持ち上げると、ポウは幅広い肩をぶるぶると震わせた。彼に続いて部屋の入口まで押し寄せ、そこで凝固していた他の五人が、それにつられてどっと雪崩《なだれ》込もうとする。 「来ないでくれ」  哀願するように、ポウは両手を挙げて皆を制した。 「頼む。この顔は見ないでやってくれ」  五人は、その声に感電したように、再びその場に立ちすくんだ。  ポウは大きく肩で息をした。それから、もう一度ゆっくりとカーディガンを持ち上げ、そっと、もはや動くことも恥らうこともない彼女の身体を調べ始めた。  やがて、事を終えたポウはカーディガンを元に戻した。のろのろと身を立て、そのまま天井を仰ぎながら、長い、呻きにも似た息を落とす。 「出よう、みんな」  と、ポウは仲間たちを折り返った。 「ここは現場だ。鍵を掛けておいた方がいい。鍵は……」 「ここだよ」  いつのまにそこまで足を踏み入れたのか、エラリイが窓際の机の上にそれを見つけ、取り上げた。 「窓の掛金も外れているが、どうする」 「掛けておいた方がいい。出るぞ、エラリイ」 「ポウ、オルツィは」  と、ヴァンが尋ねた。ポウは、エラリイから受け取った鍵をぎゅっと握り締め、押し殺した声で答えた。 「死んでる[#「死んでる」に傍点]。……絞殺だ[#「絞殺だ」に傍点]」  アガサが小さく悲鳴を上げた。 「嘘よ」 「本当だ、アガサ」 「そんな。——ポウ、オルツィに、会いたいわ」 「それは駄目だ」  ポウは目をつぶり、苦しげに首を振った。 「オルツィは絞め殺されてるんだ、アガサ。頼むから、見ないでやってくれ。死んでしまっても、あの子が若い女性であることに変わりはない」  アガサはすぐに、ポウの云わんとするところを理解した。絞殺死体の凄まじい形相のことを、彼は云っているのだ。彼女はこっくりと頷くと、促されるままに部屋を出た。  ドアを閉めようと、ポウがノブに手をかけた時——。  蟹《かに》のような図体が横から割り込み、彼の胸を押しのけて立ちはだかった。 「いやに急いで俺たちを追い出すじゃないか」  カーだった。上目遣いにポウの顔を見据え、愛想笑いとも取れる表情を作りながら、 「俺たちは、ある意味じゃあ殺人事件の専門家なんだぜ。オルツィを殺《や》った犯人ぐらい、自分たちで見つけたいじゃないか。もっと詳しく現場と死体を調べさせろよ」 「馬鹿野郎!」  ポウは顔色を蒼白に変え、全身を震わせて怒鳴りつけた。 「お前は、仲間の死を自分の慰みものにする気か。警察に任せるんだ」 「何寝言を云ってるんだい。警察がいつ来る。どうやって知らせる。あのプレートを覚えてるだろうが。警察がここにやって来る頃にゃあ、『殺人犯人』と『探偵』以外みんな殺されちまってるってことじゃないのか」  ポウはそれ以上とりあわず、無理にでもドアを閉めようと力を加えた。その腕を、カーの節くれ立った黄色い手が、再びやんわりと押し止める。 「よく考えてみろよ、ポウ。そんなに澄ましちゃあいられないはずだろう。次には、おたくが殺されるかもしれないんだぜ」 「手を放せ、カー」 「それとも、何かい。自分だけは殺されないって自信でもあるのか。そんな確信が持てるのは、犯人だけのはずだがね」 「何だと」 「おや、図星かい」 「貴様!」 「よせよ、二人とも」  掴《つか》みかかろうとするポウ。顔をひきつらせて身構えるカー。ヴァンがカーの腕に飛びかかり、ドアの横へ引きずり出した。 「何するんだ、この野郎」  カーが真っ赤になって喚《わめ》き立てる。その隙にポウは素早くドアを閉め、鍵を掛けた。 「見苦しいな、カー」  いつのまに厨房へ行ってきたものか、残り六枚となった例のプレートを手に、エラリイが云った。 「ポウが正しい。残念ながら[#「残念ながら」に傍点]、ね」 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり] 「馬鹿げてますよ。誰かの悪ふざけでしょう。こんなの、現実のはずがない」 「ルルウ」 「人殺しだなんて、冗談じゃない。悪い夢なんだ、きっと。何かの間違いに決まってる」 「ルルウ、やめて頂戴」  甲高いアガサの声に、ルルウは丸め込んでいた肩を大きく震わせ、のろり顔を上げた。すみません、と弱々しく呟いて、再び、今度は押し黙って下を向いてしまう。  六人はホールのテーブルを囲んで坐っていた。  誰も互いの顔を正面から見ようとはしない。昨夜まで、伏し目がちな短い髪の女がひっそりと坐っていた一席の空白だけが、殊更のように目についた。 「オルツィを殺したのはだあれ」  ローズ・ピンクのルージュで彩られた唇から、呪うように吐き出されたアガサの問いかけは、薄暗い空間に細かく震え尾を引いた。 「私が殺した、とは誰も云わないさ」  と、エラリイがそれに答えた。 「でも、犯人はこの中にいるんでしょ。この六人の中に。オルツィを殺したのは誰。いい加減、知らん顔はやめにしたらどうなの」 「それで名乗り出るくらいなら、誰も初めから人殺しなんてするものか」 「でも、エラリイ」 「分ってるよ、アガサ。分ってる」  エラリイは拳で軽くテーブルを叩いた。 「僕らはやはり、犯人を知らなきゃならない。——ポウ、どうだろう。知りえた事実を発表してくれる気はないかい」  いくらかのためらいを見せた後、ポウは厚い唇を引き締め、深く頷いた。 「さっきも云ったように、彼女は——オルツィは、首を絞められて死んでいた。首には、どこにでもあるようなナイロン製の紐が巻きついたままで、その下にはくっきりと索痕が残っていた。他殺と考えて間違いない」 「抵抗した形跡は?」 「なかった。眠っているところを襲われたのか、不意を突かれたのか、どちらかだろう。頭を殴られた跡は見られなかったから、事前に昏倒させられたのではない。ただ、一つ解《げ》せないことがあって」 「何だい、それは」 「さっき見ただろう。どういうつもりか知らんが、犯人は死体を整えてやったみたいなんだ。きちんと仰向けにベッドに寝かし、夜具を直し、顔にはカーディガンを掛けて。それはまあ、犯人の良心だと解釈してもいいが、問題は——、オルツィの死体には左の手首から先がなかった[#「オルツィの死体には左の手首から先がなかった」に傍点]」 「何だって」 「どういうことなの、ポウ」 「だから、左手が切り取られていたんだ[#「左手が切り取られていたんだ」に傍点]」  騒然とした場を、ポウはゆっくりと見渡した。そして、自分の両手をテーブルに載せ、掌を上に向ける。彼の指には、赤黒い血が僅かながらこびりついていた。 「ナイフか包丁か、何か大振りな刃物を使ったらしい。犯人はかなり苦労したはずだ。切断面はひどいもんだった」 「当然、殺したあとで切り落としたんだろうね」  と、エラリイが云った。 「断定はできんが、そう考えてまず間違いあるまい。心臓が動いている内に切ったのなら、あの程度の出血では済まなかったはずだからな」 「それらしい刃物は、あの部屋には見当たらなかったね」 「ああ。切られた手首から先も、俺の見た限りではなかった」 「犯人が持ち去った、か」  エラリイはしなやかな指を固く組み合わせながら、自問するように呟いた。 「何故、犯人はそんなことをしたのか」 「気が狂ってるのよ」  アガサが声高に云った。エラリイは軽く鼻を鳴らし、 「さもなければ、余程悪ふざけの好きな奴なんだな。見立て[#「見立て」に傍点]だよ、これは。犯人は、去年この島で起こったあの事件に見立てたのさ」 「あ……」 「青屋敷の四重殺人。被害者の一人、中村和枝は、絞殺された上、左手を切り取られていた」 「けど、エラリイ。どうしてそんな」 「見立ての意図がどこにあるのか、かい。さて」  エラリイは肩をすくめた。 「とりあえず先に進もう。——ポウ、死亡時刻は推定できるかい」 「死斑は軽微だった。脈を取ってみた時、死後硬直の始まっているのが分った。握り締めていた右手の指をわりと容易に広げることができたから、硬直は関節までは及んでいない。あと、血液の凝固状態を考え合わせると、そうだな、死後四時間から五時間。死亡したのは今朝の七時から八時頃、幅を持たせて、六時から九時といったところか。但し、こいつはあくまでも素人の意見なんだから、鵜呑《うの》みにしてもらわれては困る」 「信用できるさ」  カーが猿のように歯を剥き出して笑った。 「大病院の後継ぎ息子にして、K**大医学部きっての秀才がおっしゃるんだからな。無論、その御当人が犯人じゃないとしてのことだがね」  ポウは黙したまま、カーの方には一瞥もくれなかった。 「今朝の六時から九時、自分のアリバイを主張できる者はいるかい」  エラリイが皆に問いかけた。 「何か、事件に関連して、気づいたことのある者は?」  答える者はいない。 「じゃあ、動機に心当たりのある者は?」  ルルウとヴァン、そしてアガサの視線が、カーの顔をそろり窺った。 「成程」  エラリイが突き放すような調子で云った。 「どうやらカーだけのようだね。もっとも、犯人に当たり前な動機があったらの話だが」 「何だと。何で俺が」 「振られたんだろう、オルツィに」  うっと声を呑んで、カーは血が滲まんばかりに唇を噛んだ。 「でも、エラリイ、カーが犯人なら、死体を整えてあげたりはしないでしょう」  嘲笑混じりにアガサが云い放った。 「カーはそれをしない唯一の人間よ」 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり] 「畜生め」  岩に腰掛け、眼前に浮かぶ猫島に目を据えて、カーは唾を吐き捨てた。手近に生えた雑草を荒々しく引き抜いては、手が汚れるのも構わずにその葉を毟《むし》り取る。 「畜生……」  憤懣《ふんまん》やるかたなく繰り返す。毟り取った葉が、風に運ばれて海に舞う。 (あいつら、普段は手前勝手なことばかりしてるくせに、俺を責める時だけは団結してかかってきゃがる。ポウの奴まで、ごたごたときれいごとを並べやがって)  大体、あの時オルツィの死体と現場を調べたいと考えたのは俺だけじゃないはずだ、とカーは思う。特にエラリイなどは、自分で調べたくてうずうずしていたのではないか。ルルウも、ヴァンだってそうだ。結局ポウ一人に任せた形になって……。それが危険なことかもしれないと、連中は分っていないのか。  眼下でどよめく波の音さえ、苛立たしく感じられた。もう一度地面に唾を吐きつけると、彼は唇をひきつらせ、拳で己の膝を叩いた。 (元はといえば、オルツィだ。俺があいつに振られたって? ふん。退屈凌ぎに、ちょっと声をかけてやっただけだ。それをあの女、本気だと自惚《うぬぼ》れやがって。馬鹿馬鹿しい。自分を何様だと思ってやがる。はっ。そんなことで俺が人を殺したりするもんか……)  怒りと屈辱に身をよじらせながら、カーは前方の風景を睨みつけた。 [#ここから3字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「やはり船などありそうにないな。木を切って筏《いかだ》を作ろうにも、道具がない。よしんば作れたとしても、一体そんなもので陸まで辿り着けるかどうか。——吸うか、ヴァン」  何とか本土に連絡を取る術《すべ》はないものかと、カーを除いた五人は、二手に別れて島を探索することに決めた。こちらは、ポウ、ヴァン、アガサの三人。島の南岸から東岸にかけてを見てまわっているところである。  ヴァンに煙草を勧め、自分も一本くわえると、ポウは沈痛な面持ちで腕を組んだ。 「火でも焚《た》いて見つけてもらうしかないか」 「そんなことで気がついてくれるかな。それに」  煙草に火を点けながら、ヴァンは空を仰いだ。 「どうも雲行きが怪しい。今晩あたり、雨になるかもしれないよ」 「まずいな。——全く、何だって、万一の場合に備えて連絡方法を考えておかなかったんだ」 「今更云ってみても仕方ないよ。誰もこんなこと、予想してなかったもの」  ヴァンは肩を落とした。 「やっと熱も下がったっていうのに。本当に、何てことだろう」 「さっきから、漁船の一隻も通らないわ」  悲愴な声でアガサが云った。薄曇りの空の下、海は心なしか重々しく、暗い翳りを帯びて広がっている。 「いや。その内、近づいてくる船があるかもしれん。見張りを立てておいた方がいいかもな二人一組、三交替で」 「嫌よ! ポウ」  アガサがヒステリックに叫んだ。 「人殺しかもしれない人間と二人きりになるなんて、冗談じゃないわ」 「じゃあ、三人で組んで」 「全員で来てもいいさ、ヴァン。もしこの辺りを通る船があるとすれば、どうせそれは港に出入りする頃——夕方か夜明けぐらいのもんだろう」 「そうとは限らないんじゃないかな」 「どっちみち、船が俺たちを見つけてくれる可能性は極めて少ないと思う。ここへ渡ってくる時、漁師の親父さんが云ってた。この辺の漁場はもっとずっと南の方だから、島に近づく船は滅多にないらしい」 「けど、他にどうしようもないよ。薪《たきぎ》にするものはあるかな」 「そいつも問題だな」  ポウは背後の林を振り返った。 「松ばかりだ。生木はうまく燃えまい。枯れ落ちた松葉でも集めて燃やすか。しかし、到底陸からは見えんだろうな。やはり、近くを船が通りかかってくれんことには」 「ねえ、あたしたちどうなるの」  アガサが怯えた目を二人に向けた。普段の自信に満ちた輝きなど、見る影もない。 「大丈夫だ。何とかなる」  ぽんとアガサの肩を叩いて、ポウは髭面にぎこちない微笑を繕《つくろ》った。が、彼女はいっそう顔をこわばらせ、 「でも、そう云ってるポウや、もしかしたらヴァンが、オルツィを殺した犯人なのかもしれないんだ」  ポウは黙って新しい煙草をくわえた。 「カーもルルウもエラリイも……その中の誰かがオルツィを殺したのよ。殺して、手首を切り取ったんでしょう」  蒼ざめた頬をわななかせるアガサに向かって、 「そう云うアガサも、容疑者の一人なんだよ」  いつになく険しい表情で、ヴァンが云った。 「あたしは違うわ」  アガサは林の方へふらりとあとじさり、頭を抱え込んだ。 「——信じられない。こんなことってある? ねえ、ヴァン、ポウ。オルツィは本当に死んじゃったの。本当に犯人は、あたしたちの中にいるの」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「僕はね、ルルウ、別の可能性もあると考えている」 「別の可能性って」 「云うまでもないだろう。この島に、誰か第三者が潜んでいるかもしれないってことさ」 「えっ」  エラリイとルルウは、桟橋のある入江と青屋敷跡の横手の岩場を見にいったあと、林の中を抜ける小道を、猫島に臨む島の北岸へと向かっていた。 「どういうことなんです。エラリイさん」  思わず足を止め、ルルウは訊き直した。 「外部犯の可能性だよ」  振り返って、エラリイは微笑んだ。 「それとも何かい。お前は、僕らの中に殺人犯がいると考えた方がいいのかな」 「そんな。冗談じゃありませんよ。でも、島に潜んでるって、一体誰が」 「僕が思うには」  エラリイは事もなげに云った。 「中村青司[#「中村青司」に傍点]さ」 「ええっ」 「そんなに驚くほどのことでもないだろう」 「けど、エラリイさん、中村青司は去年殺されて……」 「だから、そもそもそれが誤りだって云うのさ。考えてみたことはないのかい、ルルウ。半年前の事件で見つかった青司の死体、あれは�顔のない死体�そのものじゃないか。しかも、同時に行方をくらました庭師がいるときてる」 「実は青司が犯人で、青司だと思われていた死体が庭師のものだったと?」 「そう。単純な入れ替わりトリックさ」 「だから青司は生きていて、今、この島に来てるって云うんですか」 「かもしれないね。ひょっとしたら、この島に住んでいるのかもしれない」 「住んでる?」 「一昨日《おととい》の、漁師の親父さんの話、覚えてるだろう。十角館に明りが灯るって話さ。青司がここにいて灯した明りなのかもしれないじゃないか」 「あの手の幽霊話を真に受けてたら、きりがありませんよ。大体、あの事件で警察や報道陣が島に来ていた間——それに今現在だって、青司はどこに隠れてるって云うんです」 「だからさ、こうして島を見てまわっている。さっきも入江で、ボート小屋を覗いてみたりしてたろう。あそこには、何も不審な点はなかったけどね。勿論、本土への連絡手段を探すことが先決だが、どこかに、せめて人の隠れていた痕跡でも見つからないかと思ってるんだ。猫島を見てみたいと思うのもそのためさ」 「ですけど、やっぱりそんなこと——青司が犯人だなんて、考えられませんよ」 「そうかな。オルツィの部屋、窓に掛金が下りてなかったって云っただろう。例えば、オルツィが鍵を掛け忘れたその窓から外部の者が侵入した、と考えるのは安易だろうか」 「ドアの鍵はどうして外れていたんです」 「犯行後、犯人が中から外したのさ。ホールに出て、例のプレートをドアに貼り付けるために」 「それは変ですよ。外部の誰かが犯人なら、どうやって、エラリイさんが台所の抽斗にしまっておいた、あのプレートのありかを知ったわけですか」 「プレートを用意することは外部の者にもできるだろう。十角館の玄関は鍵が壊れているから、ホールへの出入りは自由だ。昨日の朝、プレートをテーブルに並べておいた彼は、僕らが起き出すのを待って、厨房の窓からでも中の様子を窺っていた。あるいは、僕らの中に手引きをした者がいるとも考えられる」 「そんな、まさか」 「あくまで可能性を議論してるだけさ。ルルウ、お前は無類のミステリ好きのくせに、ちょっと想像力が乏しすぎるね」 「現実とミステリは別物ですよへエラリイさん。——じゃあ、例えばその中村青司に、一体僕らを殺すどんな動機があるって云うんですか」 「さてな」  小道を抜けて崖の上に出ると、そこにはカーがいた。二人の姿を見るなり、彼はぷいとそっぽを向いて立ち上がった。そして、何も云わずにその場を立ち去ろうとする。 「おい、カー。あまり単独行動は取らない方がいいぞ」  と、エラリイが声をかけた。しかし、カーは振り向きさえせず、乱暴な足取りで林の中へ消えてしまった。 「困った男だな」  エラリイは軽く舌を打った。 「さっきは、みんな気が立ってたからね。僕も云いすぎたとは思うが。どうもあいつ、僕のことを目の仇《かたき》にでもしてるみたいだな」 「何となく分るなあ」  ルルウは、カーの立ち去った方をちらりと見やり、 「エラリイさんってね、いつも——こんな時でもそんなに冷静で、何だか、一歩離れたところから人間を眺めてるって雰囲気、あるでしょう」 「そう見えるかい」 「見えますよ。だから、お世辞じゃなくって、僕なんかは一種尊敬の念みたいなのを抱いてしまう。けれどもカー先輩は逆なんだな。きっと、嫉妬しちゃうんですよ」 「ふうん。そんなものかね」  エラリイは我れ関せずといった顔で、海に向かって足を踏み出した。 「灌木ばかりだな。ここからは見通しが良くないね」  正面に見える猫島のことである。ルルウはエラリイの横に立ち、しきりと足下を気にしながら、 「人が二、三人隠れるくらいなら、まあ不可能じゃなさそうですね。でも、この断崖ですよ」 「船があるのかもしれないさ。この程度の距離なら、小さなゴムボートでもあれば充分だろう。あっちの岩場から出て……。ほら、ルルウ」  と、エラリイは指さした。 「島のあそこの斜面、登れそうじゃないか」 「——ええ、そうですね」  白い波間に黒々とうずくまる猫島を眺めながら、ルルウは、混乱する頭の中で懸命に想いを巡らせた。  成程、エラリイの指摘した外部犯の可能性は、一概には否定できない。もしかしたら、自分たち以外の何者かがこの島のどこかに潜んでいて、自分たちの命を狙っているのかもしれない。しかし、それをすぐに中村青司と結びつけるのは飛躍のしすぎではないか。一体、青司の生きている可能性はどれほどのものなのだろう。仮に青司が生きていたとしても、何故自分たちが、会ったこともないその男に命を狙われなければならないのだろう。 (やっぱり、そんなことありえない)  ルルウはゆるゆると首を振った。  そんなことはあるはずがない、と思う。が、しかし——。  何かしらひっかかるものが、記憶のどこかにある。何か——思い出さなければならない何かが。  足下の断崖を打つ波が、心の中にまで打ち寄せてくる。そしてそのたびに、見えかけた記憶の破片をさらっていくような気がした。  諦めて、ルルウは傍らのエラリイを見た。もう話す言葉もなく、彼は冷やかに海を見つめている。  風が一陣、夕暮れの香りを運んできた。 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり] 「……気圧の谷の影響で、今夜遅くから明日の夜にかけて雲の広がる所が多くなりますが、天気の崩れはさほどでもなく、明後日にはゆっくりと回復に向かうでしょう。九州各地、明日の天気予報は……」  ルルウの持ってきたラジカセから流れ出す声は、やがて、かまびすしい女性のディスク・ジョッキーに変わった。 「もういいじゃない。消してよ。聞きたくないわ」  苛立たしげにアガサが云った。ルルウは慌ててスイッチを切った。  簡単な夕食を、重苦しい沈黙の中で終えたばかりだった。ランプの灯った十角形のテーブルを、六人は、オルツィの部屋のドアの真正面に当たる席を避けて取り囲んでいた。ドアには例の「第一の被害者」のプレートが貼り付いたままである。強力な接着剤が使われてているらしく、剥がそうとしても剥がれないのだ。 「ね、エラリイ。何かまた、手品やってみせてよ」  今度は殊更明るい調子でアガサが云った。 「うん? ——ああ、そうだね」  エラリイは、それまで黙っていじり続けていたカードを、一度強く弾いてからケースに収め、上着のポケットに入れた。 「見せてって云ってるのに、しまっちゃうの」 「違うよ、アガサ。見せてくれって云うから、ポケットに一旦入れたのさ」 「どういう意味なの」 「この状態から始めなきゃならないマジックなんでね」  エラリイは軽く咳払いを一つして、隣席のアガサの目を覗き込むように見た。 「じゃあ、いいかい、アガサ。今から、ジョーカーを除く五十二枚のカードの中から、何でもいい、好きなカードを一枚だけ心に思い浮かべてほしいんだ」 「思い浮かべるだけ?」 「そうだ。口に出しちゃあいけないよ。——いい?」 「思ったわ」 「それじゃあ」  エラリイは上着のポケットから再びカードを取り出し、ケースに入ったままの状態でテーブルに置いた。赤裏のバイシクルである。 「このカード・ケースをじっと見つめて。そうして、君が思い浮かべたカードの名前を、ケースに向けて強く念じるんだ。強く」 「分ったわ。強く念じればいいのね」 「そう。——よし、OK」  エラリイはカード・ケースを取り上げ、左手に持った。 「さて、アガサ。今、君が自由に思い浮かべ、このケースに向かって念じたカードは何だった?」 「云ってもいいの」 「いいよ」 「ダイヤの|Q《クイーン》だったわ」 「ふうん。じゃあ、ケースの中身を見てみようか」  エラリイはケースの蓋を開け、中から表向きのデックを引き出した。そして、それを左手と右手の間で、少しずつ扇形《ファン》に開いていく。 「ダイヤのQだね。——おや」  カードを広げる手を止めて、エラリイは注目を促した。表向きのカードの中に、一枚、裏向きのカードが現れたのである。 「一枚だけ裏を向いてるね」 「確かに」 「これを抜き出して、表を見てくれるかな」 「ええ。けど、まさか」  アガサは半信半疑でそのカードを抜き出し、テーブルの上に表返して置いた。紛れもなく、それはダイヤのQであった。 「嘘でしょう」  アガサが目を丸くする。 「なかなか強烈だろ」  エラリイは微笑んで、元通りカードをケースにしまい、ポケットに戻した。 「今のは凄いですね、エラリイさん」 「おや。ルルウには見せてなかったっけ」 「初めてですよ」 「カード当てトリックの最高傑作の一つだよ、今のは」 「まさか、アガサ先輩がサクラだとか」 「達うわよ、ルルウ」 「ホントに?」 「サクラなんて使わないさ。ついでに云っとくと、アガサがダイヤのQを思い浮かべる五十二分の一の確率に賭けた、プロバビリティーのトリックでもない」  エラリイはセーラムに火を点け、ゆっくりと一吹かしした。 「それじゃあ、次は一つ、謎かけといこうか。このあいだ本で見たんだけれども、『上を見れば下にあり、下にあれば上にあり、母の腹を通って子の肩にあり』——何のことだか分るかい」 「何ですって」  と、ルルウが訊き直した。エラリイがもう一度同じ質問を繰り返すと、 「分ったわ」  アガサが手を打った。 「『一』でしょう。漢字の一」 「御名答」 「——あ、成程。字の形ですか」 「じゃあ次、こういうのは見たことあるだろう。『春夏冬二升五合』と書いてどう読むか」 「何ですかぁ。そりゃあ」 「田舎の店屋なんかで見かけたことはないかい」 「そういえば最近、銀行に貼ってあるのを見たな」  樺細工の煙草入れに新しいラークの箱を収めながら、ポウが云った。 「『春夏冬』で、秋がない、つまりあきない[#「あきない」に傍点]だろ。『二升』は、升《ます》に二杯だからますます[#「ますます」に傍点]。『五合』は、一升の半分、つまりはんじょう[#「はんじょう」に傍点]ってわけだ」 「『商いますます繁盛』ですか」 「そういうことだ」 「へえ。こじつけもいいとこですね」 「ま、一種の暗号と云えんこともないな」 「暗号といえば」  エラリイが云った。 「それらしきものが最初に登場する文献は、『旧約聖書』なんだってさ。この中の『ダニエル書』だったかな」 「そんなに古くからあるんですか」 「日本でも、昔から暗号めいたものはあったみたいだね。例えば、ほら、『続草庵集』にある吉田《よしだ》兼好《けんこう》と頓阿《とんあ》法師の有名な問答歌とか。高校で習わなかったかい」 「知らないわ。どんなの」  と、アガサ。 「兼好が頓阿に歌を送って曰く。『よもすずし ねぎめのかりは たまくらも まそでも秋に へだてなきかぜ』——句切れごとに、最初の一文字を頭から拾っていくと、『よねたまへ』となる。つまり、米をくれ[#「米をくれ」に傍点]、と云ってるんだね。同じく最後の一文字を後ろから拾うと、『ぜにもほし』——金も欲しい[#「金も欲しい」に傍点]っていうわけだ」 「侘《わ》びしい話だこと」 「この歌に、頓阿法師が返して曰く。『よるも憂し ねたく我せこ はては来ず なほざりにだに しばし問ひませ』——同じように文字を拾うと、『米《よね》はなし、銭少し』というメッセージが出来上がる」 「そんなの、よく真面目に考えたものね」 「確か『徒然草』に、違うタイプの有名な暗号歌があったと思うんだけど。何だったっけな、オルツィ」  何気なしに耳を傾けていた一同が、はっと息を呑み、凍りついた。 「——悪い。つい」  さすがにエラリイは強い狼狽を見せた。およそ彼らしからぬ失態である。  夕食が始まった頃から、オルツィの事件にはなるべく触れないことを暗黙の了解としていた彼らは、今のエラリイの失言で、あっという間に、逃れようのない現実へと引き戻されてしまった。気まずい沈黙が場を押し包む。 「あの、エラリイさん、もっとないんですか」  ルルウが、言葉をなくしたエラリイに助け舟を出した。 「ああ、そうだな」  かろうじていつもの微笑を口許に含んだエラリイを嘲《あざけ》るように、その時カーがテーブルを叩いた。 「アガサ、コーヒーでも淹れてくれよ」  そして、ざまぁないな、とでも云いたげにエラリイに一瞥をくれ、ふてぶてしく唇の端を吊り上げる。エラリイはびくと膝を震わせて何か云おうとしたが、アガサがそれを制した。 「淹れてくるわ。みんなも飲むでしょ」  そそくさと立ち上がると、アガサは一人で厨房に向かった。 「なあ、みんな」  残った四人の顔を順にねめつけながら、カーは云った。 「今宵は可哀想なオルツィの通夜じゃないか。知らんふりはやめにして、もうちっと神妙にやろうぜ」 [#ここから3字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「どうぞ。お砂糖とミルクは好きに入れて下さいな」  六個のモス・グリーンのカップを載せたトレイを、アガサはテーブルの上に置いた。 「悪いね、毎度毎度」  と云って、エラリイが手近のカップを取った。他の者たちも次々に手を伸ばす。アガサは自分の分の一つを取ると、残った一個を、トレイに載せたまま隣席のヴァンに差し出した。 「あ、有難う」  カップを受け取ると、ヴァンは吸いかけのセブンスターを置いて、手を暖めるようにその十角形を包み込んだ。 「風邪はもういいの、ヴァン」 「ああ、うん。おかげさまでね。——ねえ、エラリイ。よく相談しないままになってるけど、本当に、何か本土に連絡を取る方法はないんだろうか」 「ないようだね」  エラリイはブラックのままコーヒーを一口啜った。 「J崎に灯台があるから、夜にこっちで白い旗でも振れば、とも考えたんだがね。あそこの灯台は確か無人だろう」 「うん。そうだ」 「あとは、誰かが決死の覚悟で泳いで渡るか、形だけでも何とか筏を作るか」 「どれも無理っぽいね」 「火を焚くっていうのも考えたんだがな、エラリイ」  ポウが云った。 「しかし、松葉を燃やしたくらいじゃあ気がついてはくれまい」 「いっそのこと、この十角館に火を点けてしまうかい」 「そいつは、いくら何でも」 「まずいだろうね。危険でもある。——実はね、ポウ、さっきはルルウと二人で、連絡手段とは別に、ある探し物をしてたんだ」 「ある探し物?」 「そうさ。結局見つからなかったけどね。島中を大概見てまわったんだが。いや、ちょっと待てよ」 「どうした」 「青屋敷——焼けた青屋敷だけれども」  眉間に指を押しつけ、エラリイは呟いた。 「あそこに、地下室はなかったのかな」 「地下室?」  その時だ。  二人の会話を叩き切るように、突然、気味の悪い呻き声を発してテーブルに突っ伏した者がいた。 「何なの!?」  アガサが叫んだ。 「どうしたの」  一斉に皆が立ち上がった。ガタガタと激しくテーブルが揺れる。琥珀《こはく》色の液体が、飲みかけのカップから飛び散る。  調子の狂った自動人形のように、やみくもにばたつく彼の足が、派手な音を立てて椅子を蹴り倒した。テーブルにへばりついた上体が、やがてずり落ちるようにして青いタイル張りの床に崩れる。 「カー!」  一声叫んで、ポウが駆け寄った。ポウの身体に突き飛ばされ、ルルウがよろめいて自分の椅子を倒す。 「どうしたんだ、カーは」  エラリイがあとに続く。床に倒れ伏したカーの顔を覗き込みながら、ポウはぶるりと首を振って、 「分らん。誰か、カーに持病があるとは聞いていないか」  誰も答えない。 「——何てことだ」  カーは、掠れた笛の音《ね》のように、弱々しく喉を鳴らし続けている。ポウはその上半身に太い腕をかけ、 「手を貸してくれ、エラリイ。とにかく吐かせるんだ。毒だ、恐らく」  と、その途端、カーの身体が激しく痙攣《けいれん》し、ポウの手を離れた。蝦《えぴ》のように身を折り曲げ、ぴくぴくと床の上をのたうつ。やがてまた、更に激しい痙攣。おぞましい音と共に、茶色い吐瀉《としゃ》物が絞り出される。 「まさか、死んだりはしないわよね。ね?」  アガサが怯えきった目でポウを窺った。 「俺に訊いても分らん」 「助からないの」 「毒の種類が分らない。分ったとしても、ここではどうしようもないが。致死量に達していないことを祈るしかない」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  その夜、午前二時半。  自室のベッドで、カーは息を引き取った。 [#ここから3字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  誰もがもう、声も出せぬほどに疲れきっていた。いや、それは疲労というよりもむしろ、麻痺に近い状態だったのかもしれない。  オルツィの場合とは違って、今度は目の前で人が苦しみ、倒れ、醜く死んでいったのだ。その、あまりにも生々しい経験、あまりにも巨大な日常性の崩壊感が、かえって彼らの神経を鈍化させてしまったかに見えた。  惚《ほう》けたように口を半開きにして、宙を見つめるアガサとルルウ。頼杖を突き、溜息を繰り返すヴァン。煙草入れに手を伸ばすことさえせず、じっと天窓付近を見やるポウ。目を閉じ、能面のように表情を凍てつかせたエラリイ。  天窓から差し込む月明りはなかった。時折り外の暗闇を切り開く灯台の光。生あるもののように揺れるランプの灯。寄せては退《ひ》き、退いては寄せ、遠く、単調なリズムを反復する波の音……。 「けり[#「けり」に傍点]をつけよう。僕は眠い」  けだるそうに瞼を開き、エラリイが口を切った。 「——賛成だな」  ワン・テンポ遅れたポウの応答に、他の三人も我れに返って身構えた。 「俺に分るのは、とにかく何か、毒物が使用されたらしいということだけだ。毒の種類ははっきりしない」 「ある程度、見当をつけられないのかい」 「そうだな」  ポウは濃い眉を八の字に寄せた。 「効果の速さからして、かなり毒性の強いものだ。しかも、呼吸困難と痙攣を起こしていたから、神経毒の疑いが大きい。主な毒物の中でその手のやつといえば、青酸カリ、ストリキニーネ、アトロピン。ニコチンや砒素でもありうる。ただ、アトロピンやニコチンだと散瞳が見られるはずなんだが、それはなかった。青酸ならば例のアーモンドのような独特の臭気があったはずだ。だから、多分ストリキニーネ、あるいは砒素だと思う」  テーブルの上には、先程の六個のカップが、飲みかけのまま、まだ残っていた。ポウの説明を聞きながらじっとそれらを見つめていたアガサが、唐突にくすっと笑い声を洩らした。 「今度の場合、犯人はあたししかいないってことになるわね」 「そうだね、アガサ」  エラリイが淡々とそれを受けた。 「で、やっぱり君なのかい」 「あたしじゃないって云ったら、それで信じてもらえる?」 「そりゃあ無理だ」 「でしょう」  二人は何となく小声で笑い合った。どこかしらねじが外れたような、正常でない響きを、誰しもが——当の二人も——感じたに違いない。 「よさんか、二人とも」  低く険しい声でたしなめると、ポウは煙草をくわえ、例のケースごとエラリイに差し出した。 「真剣に考える時だぞ」 「分ってるよ。誰も、好き好んでふざけるつもりはないさ」  差し出された煙草入れを押し返して、エラリイはシャツの胸ポケットから自分のセーラムを取り出した。一本抜き出し、とんとんとテーブルの表面で葉を詰めながら、 「まず事実の確認から始めよう。  コーヒーを淹れてくれと云いだしたのは、カー自身だったね。アガサが台所に立って、その間、他の者は全員ここにいた。湯を沸かし、コーヒーを淹れ、トレイにカップを載せてアガサが戻ってくるまで、大体十五分ぐらいのものかな。アガサはテーブルの上にトレイを置いた。トレイの上にあった物は、正確に云うと、コーヒーカップが六つ、角砂糖の箱、パウダーミルクの壜、それから一枚の皿の上にスプーンが七本、内一本はミルク用というわけだ。そうだったね、アガサ」  彼女は神妙に領いた。 「次の問題は、カップを取った順番だな。最初に取ったのはこの僕だったね。次は?」 「僕です」  と、ルルウが答えた。 「カー先輩と殆ど同時でした」 「多分、次が俺だ」  と、ポウ。 「それから、あたしが取って、ヴァンにトレイごとまわしたのよ。そうだったわね、ヴァン」 「うん。確かに」 「OK。もう一度確認しておこう。僕、ルルウとカー、ポウ、アガサ、ヴァンの順だね」  エラリイは口の端に煙草をくわえ、火を点けた。 「じゃあ、考えてみようか。カーのカップに毒薬を入れるチャンスがあったのは誰か。まずは、やはりアガサだ」 「あたしに毒入りのカップが当たったかもしれないのよ。それに、毒入りのカップをカーが取るように仕向けることだって、できなかったはずでしょ」  アガサは冷やかな声で、今度は反論に出た。 「もしあたしが犯人だったら、毒を入れたついでにちゃんと配ってまわるわ」 「そういえば、君はいつもみんなにカップを配ってたね、今までは。どうして、さっきに限ってそうしなかったんだい」 「そんな気分にはなれなかっただけよ」 「はあん。しかしね、アガサ、まず云っとかなきゃならないのは、この犯人は、別にカーだけを標的にしていたわけじゃないだろうってことだ。犯人の最終日的が僕たちの皆殺しにあるとしてごらんよ、『第二の被害者』が誰であろうと一向に構わないわけさ」 「たまたま貧乏|籤《くじ》を引いてしまったのが、カーだったっていうわけ?」 「そう考えるのが一番論理的だと思うな。カーの両隣の席は空いていただろう。彼がカップを選んでしまったあとで毒を入れることは、誰にもできなかったはずだ。とすると、やっぱり君しかいないんだよ」 「砂糖かミルクに入っていたとも考えられるでしょう」 「おやおや。ミルクは君も使ったじゃないか。砂糖も駄目だ。カーは僕と同じで、コーヒーには何も入れないからね。当然スプーンも使わなかった」 「待って下さい、エラリイさん」  と、口を挟んだのはルルウである。 「あの時、アガサ先輩がコーヒーを淹れるのを、僕はずっと見てたんです。台所の扉は開けっ放しだったし、僕の席は丁度その正面で、角度的にもアガサ先輩の手許がよく見える位置でした。カウンターには蝋燭《ろうそく》も置いてありましたから。けれども、何一つ不審な動作はなかったんですよ」 「せっかくだが、決定的な証言とは云えないな。このテーブルから台所のカウンターまでの距離だ、見落としのなかったはずがない。初めから、アガサを監視するつもりで見ていたわけじゃないだろう」 「すみません」 「謝ることはないさ」 「いえ、そういう意味じゃあなくって。実は僕[#「実は僕」に傍点]、アガサ先輩を見張っていたんです[#「アガサ先輩を見張っていたんです」に傍点]」 「ルルウ」  アガサが驚きの目を向けた。ルルウは顔を伏せ、物怖じした声で、すみません、と繰り返した。 「けど、だって、そうでしょう? 今朝オルツィを殺した犯人がこの中にいて、ひょっとしたらそれがアガサ先輩かもしれないんですよ。だから、夕食のクラッカーと缶詰とジュース——あれも恐る恐るだったんだ。僕に云わせれば、平気でいの一番に口をつけられるエラリイさんの方がどうかしてますよ」 「成程ね」  エラリイは微苦笑に唇を歪めた。 「じゃあルルウ、お前は、絶対にアガサが犯人ではないと断言できるのかい」 「それは」 「現にカーが死んでいる。誰か毒を盛った者が存在するわけだ。よもや、カーの死は自殺だったなんて云わないだろう」 「それは……」 「だから、さっき云ったでしょ、エラリイ。あたしが犯人なんだとしたら、どうやって毒入りのカップを避けたわけ? あたし、自分のコーヒーはちゃんと飲んだわよ」  エラリイは、短くなったセーラムを十角形の灰皿で凍み消しながら、ゆっくりと瞬きを繰り返した。 「カップの数は、たかだか六個だよ。毒入りカップの位置を覚えておくくらい、わけないだろう。君は自分の分を取った上で、最後の一個をヴァンにまわした。もしも残りの二つに毒入りが混じっていたら、故意にそのカップをまわすこともできたんだ。万一、自分に毒入りが当たってしまった時には、口をつけなければそれで良かった」 「あたしじゃないわ」  長い髪を振り乱し、アガサはぶるぶるとかぶりを振った。テーブルの端を掴んだ白い指が、小刻みに震えている。 「エラリイ」  ヴァンがぼそりと口を開いた。 「思うんだけどね、アガサが犯人なら、そんな、真っ先に自分が疑われるような不利な機会に、わざわざ犯行を行なうだろうか。アガサはそんなに頭の悪い人じゃないよ。——ポウはどう思う」 「お前に賛成だな」  と答えて、ポウはエラリイを見据えた。 「このホールの明りは、テーブルのランプ一つだけだ。しかも、あの時、トレイのカップを取る他人の手許に注意を払っていた者などおるまい」 「何を云いたいんだい、ポウ」 「エラリイ、最初にカップを取ったのはお前だったな。そのついでに、隠し持っていた薬を隣のカップに放り込むということもできただろう。どうだ、マジシャン」 「ははん。気づかれたか」  うろたえる様子もなく、エラリイは苦笑した。 「それについちゃ、やってないと主張するしかないね」 「鵜呑みにはできんさ。しかし、可能性はまだ他にもある。カーはあのコーヒー以前に毒を飲まされていた、とか」 「遅溶性のカプセル[#「遅溶性のカプセル」に傍点]、かい」 「そうだ」 「それを云うと、一番怪しくなるのは君だよ、ドクター。それに、そもそも砒素だのストリキニーネだの、そんな毒物を手に入れることからして、考えてみれば素人には難しいことだね。医学部の君か、理学部のヴァンか、薬学部のアガサか。僕とルルウは文系だ。劇薬、毒薬の類を置いている研究室とは無縁だよ」 「持ち出そうと思えば、誰にだって持ち出せるさ。うちの大学の研究室や実験室の管理状態なんぞ、いい加減なものだ。農学部でも工学部でもいい、それらしい顔をして入り込めば、大して気に留める奴もいない。それに、親戚がO市で薬局をやっていると云ってたのは、エラリイ、お前だろうが」  エラリイは小さく口笛を吹いた。 「物覚えのよろしいことで」 「要するに、薬の入手方法についてここで論じるのは無意味だってことだ」  ポウはのっそりと身を乗り出し、 「それとだ、毒の投入については、もう一つの可能性がある。まさか気づいていないことはあるまい。あらかじめカップの一つに毒を塗り付けておくという方法だ[#「あらかじめカップの一つに毒を塗り付けておくという方法だ」に傍点]。これなら、誰にでも機会はあったはずだな」 「その通り」  微笑むエラリイを、額にうちかかった髪を掻き上げながら、アガサが怨めしげに睨みつけた。 「分ってたの、エラリイ」 「当然だろう。馬鹿にしてもらっちゃ困る」 「ひどいわ。それなのに、あたしばっかり犯人扱いして」 「他の連中も、おいおいいじめるつもりだったさ」 「神経を疑うわ」 「どのみち、当たり前な状況にいるわけじゃないんだ。当たり前な神経でいろって云う方がおかしいね」 「そんな」 「ところで、アガサ、君に訊いておくことがある」 「今度は何なの」 「確認するだけさ。コーヒーを淹れる前に、君はカップを洗ったかい」 「洗ってないわ」 「最後に洗ったのはいつだった」 「島の探索から戻って、お茶を飲んだでしょ、あのあとよ。洗ったカップは、台所のカウンターの上に……」 「オルツィの分の、七つ目のカップも一緒に?」 「いいえ。オルツィの分は食器棚に片付けたの。そのまま出しておくのは、何だか辛くって」 「ふん。これでいよいよ、毒はあらかじめカップに塗られていたっていう可能性が大きくなってきたわけだ。夕方の内に、台所へ行って六つのカップの内の一つに毒を塗り付けるだけで良かった。チャンスは誰にでもあったはずだね」 「けど、エラリイさん」  ルルウが云った。 「それだと、犯人はどうやって毒入りカップを見分けたわけですか。コーヒーに口をつけなかった者はいないんですよ」 「何か目印があるに違いないね」 「目印?」 「そうさ。一つだけ、塗りが剥げているとか、欠けているとか」  エラリイは、カーの使ったモス・グリーンのカップに手を伸ばした。 「何かありますか」 「まあ待てよ。——おや。変だな」  エラリイは不審そうに首を傾げ、ルルウにカップを渡した。 「お前も調べてみてくれないか。僕には、別に他と違うところはないように見えるが」 「ホントに?」 「小さな傷ぐらい付いてないの」  と、アガサが訊いた。 「——ありませんね、どこにも。拡大鏡でもあれば、傷の一つも見つかるかも」 「冗談はよしてよ。見せて」  今度はアガサの手にカップが渡る。 「——ほんと。何も目印になるようなものはないわ」 「つまり、事前に毒を塗った可能性は否定されるってわけか」  納得がいかぬといった顔で、エラリイは横髪を撫でつけた。 「となると、残る方法はさっきの三つだけってことになるね。アガサが犯人か、僕が犯人か、あるいは毒入りのカプセルを前もって飲ませた某《なにがし》が犯人」 「いずれにせよ、ここでその方法と犯人を特定するのは無理なようだな」  と、ポウが云った。エラリイは、アガサがテーブルに置いたカーのカップをもう一度手許へ引き寄せ、視線を落とした。 「目印がなくても、外部の者が犯人なら一向に構わなかった」 「何だって、エラリイ」 「いや」  エラリイはカップから目を離し、 「ところで、やはり気になるのは動機だな。事件の犯人と例のプレートを並べた人間とは、まず同一人物だと考えていいだろう。とすると、彼——もしくは彼女は、ここへやって来た僕たちの内、少なくとも五人を本気で殺すつもりらしい。五人、と云うのはつまり、『探偵』が『第六の被害者』にならないとしての話だけれども」 「そんな動機なんて」  吐息混じりにルルウが洩らす。エラリイはきっぱりと、 「あるはずさ。たとえそれが、どんなにいびつな形をしたものであったとしてもね」 「狂ってるのよ」  アガサが甲走った声で叫んだ。 「狂った人間の考えなんて、あたしたちに分るわけないわ」 「狂ってる、か」  吐き捨てるように云うと、エラリイは左腕を持ち上げて時計を見た。 「もう夜が明けるね。どうする、みんな」 「眠らんわけにはいくまい。疲れた頭でこれ以上議論を続けても、答は出んだろう」 「そのようだね、ポウ。そろそろ僕も限界だ」  エラリイは目を擦りながら、よろりと立ち上がった。そのまま何も云わず、腰に手を当てて自分の部屋へ向かう。 「待て、エラリイ」  と、ポウが呼び止めた。 「全員一緒に、同じ場所で寝た方がいいんじゃないか」 「嫌よ。あたしは嫌よ」  アガサが、怖気立ったように皆の顔を見まわした。 「隣の誰かが犯人だったらどうするの。ちょっと手を伸ばして首を絞めるだけでいいのよ。思っただけで鳥肌が立つわ」 「隣に寝ている人間を殺すような真似はするまい。すぐに捕まっちまうからな」 「しないって云いきれるの、ポウ。犯人が捕まっても、その前に自分が殺されるんじゃたまらないわ」  今にも泣きだしそうな顔で、アガサは椅子を倒して立ち上がった。 「待てよ、アガサ」 「嫌! 誰も信用できない」  そしてアガサは、逃げ込むように部屋へ消えてしまった。それを黙って見送ったあと、ポウは長い溜息をつき、 「かなり参ってるな、彼女」 「当たり前さ」  エラリイは両手を広げ、肩をすくめた。 「正直云って、僕もアガサと同じ心境だね。一人で寝させてもらうよ」 「僕もそうします」  と、ルルウ。眼鏡の奥の目が赤い。続いてヴァンが立ち上がると、ポウはがさがさと髪を掻きまわしながら、 「戸締まりには気をつけろよ、みんな」 「心得てるよ」  エラリイは、玄関へ続く両開きの扉にちらりと目を走らせた。 「僕だって、死ぬのは怖いさ」 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第六章 三日目・本土 [#ここで字下げ終わり]  夕闇が近い。  翳り始めた海。その中に、ぼんやりと溶け込むような感じで浮かぶ島影を、江南は堤防の上に立って眺めていた。海の方へ一段降りた所では、島田が細長い身を屈めて、子供の釣りの邪魔をしている。  結局、二人はここ——S町までやって来ていた。  中村青司が実は生きているのではないか。昨日彼らが到達したその解答を支持するような、何らかの手掛かりを探すことが、今日この地を訪れた目的である。問題の角島を一度見てみたいという思いもあった。  しかし、半日をかけて付近の住人や漁師に話を聞いてまわった結果、手に入れることができたのは月並みな幽霊譚ぐらいのものだった。実質的に推理を進展させるようなものは何も掴めぬまま、港から少し離れたこの場所で、二人は疲れた身体を休めていた。  江南は煙草をくわえると、その場に腰を下ろし、足を伸ばした。間近で揺れる波のざわめきに耳を傾けながら、ブルー・ジーンにオリーブ・グリーンのブルゾンを着た島田の背中を見やる。子供に釣り竿を持たせてもらい、無邪気な声を上げているその様子は、とても三十代後半の男には見えない。  おかしな人だな、と江南は思う。そして、昨夜、期せずしてこの島田と守須とが気まずい雰囲気になってしまったことを思い出し、ふっと息を落とした。  島田と守須、二人は対照的な性格である。島田を陽とすれば、守須は陰。どちらかというと生真面目で内向的な守須の目には、島田のあっけらかんとした、己の興味や関心にあまりにも忠実な言動が、軽率な野次馬根性として映ったのに違いない。殊に、島田は守須や江南よりもずっと年上だ。だから余計、癇《かん》にさわったのかもしれない。島田は島田で、せっかくの楽しみに水を差す守須の良い子ぶりに、幾分鼻白んだふうだった。 「島田さん、そろそろ行きませんか」  やがて、江南は上から呼びかけた。 「帰りも一時間以上はかかるんでしょう」 「そうするか」  島田は子供に竿を返し、手を振って別れを告げた。長い足で、ひとっ飛びに駆け上がってくる。 「子供好きなんですね」 「まあ、そうかな。何にせよ、若いというのはいいことじゃないか」  島田は照れるでもなく快活に笑った。  堤防沿いの道に降りると、二人は肩を並べて歩きだした。 「結局、何もありませんでしたね」 「おや、そうかい」  島田はにやにや笑いながら、 「幽霊の話を拾ったじゃないか」 「あんなの、どこにでもある噂ですよ。人が変な死に方をしたりすると、必ずあの手の怪談が出てくるんだから」 「いや。案外、そういうところに真実ってやつは潜んでるんじゃないかと、僕は思うがね」  道端で、色黒の頑丈そうな若者が、器用な手つきで網を繕っていた。まだ二十歳《はたち》前だろう。熱心に手許を見つめる表情には少年のあどけなさが残っている。 「僕はねえ、江南君」  島田が云った。 「君の仲間——いや、元仲間たちが、角島の幽霊に魅入られないことを祈らずにはおれないよ」 「どういうことです」 「つまりだ、角島の幽霊の正体は、他ならぬ、死んだはずの中村青司だってことさ。青司はやはり生きていて、あの島にいる。そこへ、君の元仲間たちは、のこのこと出かけていってしまったんじゃないか」 「しかし、それは……」 「あのう」  突然、聞き慣れない声がした。驚いて後ろを折り返る。声の主は、網を繕っていた若者であった。 「あんたたち、島へ行った大学生の知り合いかい」  網を両手に持ったまま、若者は大きな声で問いかけてきた。 「そうだよ」  何のためらいもなく答えて、島田は若者の方へすたすたと歩み寄っていった。 「君、彼らのことを知ってるの」 「あの人らは、俺と親父とで島まで送ってったんだ。今度の火曜日にまた、迎えにいくことになってるんだ」 「そうかい」  弾む声で云って、島田は若者のそばにしゃがみ込んだ。 「なあ、君。島へ渡った連中にさ、何か変わった様子はなかったかな」 「別になかったけど。えらくはしゃいでたよ。俺、あんな島のどこが楽しみなのか、さっぱり分らんけど」  ぶっきらぼうな口振りではあったが、島田を見る目は人懐っこそうに光っている。短いスポーツ刈りの頭をがりがりと掻きながら、厚い唇の間に真っ白な歯を覗かせて、 「あんたたち、幽霊の話を調べてるのかい」 「え? うん。まあそんなとこだな。ねえ、君はその幽霊、見たことあるの」 「ないよ。ありゃあ、ただの噂だ。お化けなんて信じないよ、俺」 「お化けと幽霊は違うだろう」 「あれ、そうなのかい」 「誰の幽霊だか知ってる?」 「中村青司とかって奴だろ。それと、その奥さんもって話だな」 「じゃあね、君は、その中村青司が角島で生きているって考えたことはないかい」  若者は不思議そうに目をぱちくりさせて、 「生きてるってか。その人、死んだんじゃないの。だから幽霊にもなるんだろ」 「死んでないのかもしれないのさ」  島田は大真面目な口調で、 「例えば、離れの十角館に明りが点いてたって話、あれは、本当に青司が灯したのかもしれないね。青司の姿を見たっていうのも、幽霊だなんていうよりはさ、彼が実は生きていると考える方が、まだしも現実的じゃないか。島に近づいたモーターボートが沈んだっていうのもあったね。これは、自分の姿を見られた青司が、釣り人を殺して沈めたのかもしれない。どうかな」 「あんた、面白い人だな」  若者はおかしそうに笑った。 「でもね、ボートの話は全然違うよ。だって俺、あのモーターボートが引っくり返るとこ、見てたもの」 「何?」 「あの日は波が高くてね、俺、丁度そこに居合わせたもんだから、やめときなって止めたんだ。どうせあそこの島の辺じゃあ雑魚《ざこ》しか釣れないっていうのも教えてやったのに、聞かずに出てったんだ。そしたら、こっちを出てすぐ、島へ近寄りもしない内に、高波を喰らってあっという間さ。年寄りは幽霊が沈めたなんて云うけど、ただの事故だよ、あれ。  それに、あんた、釣り人を殺して、とか云ったけど、誰も死んじゃあいないよ。乗ってた人はすぐに助けられたんだ」  傍らでやりとりを聞いていた江南は、思わず噴き出してしまった。島田はつまらなさそうに口を尖らせて、 「それじゃ、まあ、ボートの件は取り消すことにしよう。しかし、それでもね、うん、青司は生きているんじゃないかと思うんだよ、僕は」 「生きていて、あの島に住んでるって云うのかい。じゃあ、食べ物はどうしてるんだい」 「モーターボートがあるのさ。それをどこかに隠していて、時々こっちへ買い出しにくるんじゃないかな」 「さてねえ」  と、若者は首を傾げた。 「できないことだと思う?」 「どうかなあ。夜の内にJ崎の裏側から上がるんなら、できないこともないか。あの辺りは殆ど人が通らないから。けど、岸にボートを繋いどいたら、いつか見つかっちまうだろ」 「そこは何とか隠すのさ。とにかく、海が時化《しけ》てなけりや、モーターボートでも充分行き来できるわけだろう」 「ああ。今ぐらいの気候だったら、エンジンさえ付いてりゃあそう難儀でもないよ」 「ふんふん」  満足げに鼻を鳴らすと、島田は勢い良く立ち上がった。 「いやあ、どうも有難う。うん。いいことを教えてもらった」 「そうなのかい。あんた、面白い人だね」  若者に手を振ると、少し先の路上に停めてある車に向かって、島田はさっそうと歩きだした。江南が慌ててあとを追い、横に並ぶと、彼はにたりと笑って、 「どうだい、江南君。大した収穫じゃないか」  一体、今の話が「大した」収穫なのかどうか。江南は判定に迷ったが、少なくともまあ、青司生存の可能性を否定するものではなかったと云える。  そうですね、と相槌を打って、江南は、左手に続く堤防越しに、暮れなずむ海を見やった。  しかし——と、彼は思う。 (よりによって連中、問題の多い場所へ乗り込んでったもんだ。あいつらのことだから、そうそう滅多なこともないだろうけど)  黄昏《たそがれ》の奥へと、角島の黒い影は静かに溶け落ちようとしていた。 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第七章 四日目・島 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  人の話し声が聞こえる。  それほど騒がしい声ではない。それほど近くからでもない。聞き慣れた調子。聞き慣れた色。その背後で、効果音のように鳴り続ける水の音。——波? そうだ。波の音……。  彼は少しずつ眠りから掬《すく》い上げられた。そして、やがて目を開いた途端、埃臭《ほこりくさ》いベッドの上でぎくりと身をこわばらせた。  手探りで眼鏡を取り、仰向けになる。くっきりと矯正された視界に、白い天井が映る。彼は力なく息を落とした。 (十角館だ)  こめかみが脈打つように疼《うず》く。それに合わせて、思い出したくはない様々な光景が、心の中で脈打った。  壊れ物でも扱うようにそっと頭を振りながら、彼はベッドを出、鈍い動作で服を着替えた。窓に歩み寄り、把手《とって》同士を堅く結び合わせておいたベルトをほどく。掛金を外し、窓とその外側の鎧戸を開けた。  荒れ放題の芝生。傾いた松の木。薄墨を掃いたような低い空。  重くぶら下がった両腕を伸ばし、何とか一つ深呼吸をした。そうして胸の中に澱《よど》んだ空気を入れ替えると、窓を閉め、元通り掛金を下ろし、ベルトをゆわえて、彼は部屋を出た。  ホールで喋っていたのは、エラリイとヴァンだった。アガサとポウも既に起きていて、厨房の方にいる。 「お早う、ルルウ。無事で何よりだ」  冗談といったふうでもなくそう云うと、エラリイはルルウの斜め背後を指さした。 「えっ」  振り返ってみて、ルルウは思わず丸い眼鏡の縁に手をかけた。 [#ここから枠囲い] 第二の被害者 [#ここで枠囲い終わり]  カーの部屋のドアである。目の高さ辺り、オルツィの時と同じ位置に、カーの名札を隠して例のプレートが貼り付けられているのだった。 「何とも律義《りちぎ》な犯人じゃないか。ここまでやってくれると嬉しくなるね」  ルルウはあとじさるようにしてその場を離れ、長い足を組んで椅子に坐っているエラリイを見やった。 「残りのプレートは、あのまま台所の抽斗に入れておいたんでしたよね」 「そうだ。始末してしまった方がいいって云うんだろう」  エラリイは、テーブルの上に持ち出してきてあったプレートをまとめて、ルルウの方へ滑らせた。数えてみると、プレートは六枚あった。 「これは」 「見ての通りさ。『第二の被害者』のプレートもそこにある。周到なものだね。最初に並べておいたプレートは、実際に事件が起これば、当然何らかの形でマークされるだろうと考えたんだな。犯人は同じ物を、多分もう一組用意してるんだよ。  それから、これはアガサには内緒なんだが」  エラリイは声を低くし、ルルウを手招きした。 「内緒って、どうしてです」 「下手に知らせて、取り乱されちゃ困ると思ってね。彼女が起きてくるよりも前の出来事だったから、ヴァンとポウと三人で相談して、隠しておくことに決めたんだ」 「一体、何があったんですか」 「何だと思う」 「さあ」 「発見したのはポウだ。午《ひる》過ぎに起きて、顔を洗いにいったついでに、何となく気になって奥の浴室を覗いてみたらしい。すると、そこに」 「何かあったわけですか」 「そう。バスタブの中に血まみれの手首が落ちていたのさ」 「何ですってえ」  ルルウは口に手を当て、 「そ、それは、オルツィの?」 「いや。そいつが違うんだ。オルツィの手じゃなかった」 「それじゃあ、誰の」 「カーのさ。カーの左手首から先が、切り取られてそこに置いてあったんだ」 「そんな」 「今朝、僕らが眠り込んだ頃合を見て、犯人がやったんだろう。カーの部屋のドアには鍵を掛けておかなかったからな。忍び込んで死体の手を切り落とすことは、誰にでもできた。時間さえかければ、アガサにだってできる作業だろう」 「その手首は今どこに」 「カーのベッドに戻しておいたよ。当面、警察が来る見込みはないんだ。そのまま放っておくわけにもいかないからね」 「でも、どうして」  ルルウは、疼くこめかみを押さえた。 「どうして犯人は、そんなことを」 「何故だろうね」 「また�見立て�ですか。それにしたって……」  やがて、アガサとポウが厨房から出てきて、食卓を整え始めた。スパゲッティ、チーズ入りのパン・プディング、ポテト・サラダにスープ。  ルルウは席に着きながら、腕時計を見た。もう三時前だ。昨日は一食しか食べていない。腹は減りすぎるほど減っているはずなのに、食欲はまるでなかった。 「ルルウ、ちゃんとポウが見張っててくれましたからね、安心して召し上がれ。食器も全部洗い直してあるわ。まさか、ポウとあたしが共犯だなんて云わないでしょ」  アガサが皮肉たっぷりに云った。少し笑ってみせようとしたが、その目許は不自然にこわばっている。あまり眠れなかったのだろう、薄化粧をした端整な顔には、疲労の色が濃い。薔薇色のルージュも、普段よりひどく色槌せて見えた。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  食事を済ませると、五人は揃って青屋敷の焼跡へ向かった。  建物があったと思われる百坪ほどの地面は、灰と瓦礫《がれき》で黒く覆い尽くされている。それを取り囲んだ暗緑色の松木立。茶色く混じった立ち枯れの木々。重く垂れ込めた空に、翳り揺れる海  何もかもが、真っ白なペンキをぶちまけて塗り潰してしまいたくなるほどに、暗く陰鬱として見えた。  J崎が見える屋敷跡西側の断崖は、それほど高くはない。敷地を囲んだ松が途切れて短い小道を作り、崖下の岩場に降りるための細いコンクリートの階段へと続いている。  彼らはその崖の上に立ち、島に近づく船の姿を探し始めたのだが、それを離れて独り灰と瓦礫の中を歩きまわっている者がいた。エラリイである。焼跡に踏み込み、そこここに散らばった瓦礫を足でつついたり、屈み込んだりしている。 「何をやってるんだい、エラリイ」  大声でヴァンが問うた。エラリイは顔を上げて笑ってみせ、 「探し物さ」 「探し物って、何を」 「昨夜ちょっと云いかけただろう。地下室さ。ひょっとしたらと思ってね」  崖上の四人は怪訝そうに顔を見合わせ、瓦礫の中に身を屈めたエラリイの方へ、そろそろと足を向けた。 「——おや」  呟いてエラリイは、一メートル四方ばかりの、真っ黒に汚れた板切れに手をかけた。 「こいつは、動かした形跡があるぞ」  焼け落ちた壁の一部らしく、所々に青いタイルが残っている。思い切って力を込めると、意外に軽く持ち上げることができた。途端、 「あったぞ」  エラリイは歓声を上げた。  そこには、四角い穴が黒々と口を開いていた。そして、コンクリートの狭い階段が暗闇の奥へと延びている。焼け残った青屋敷の地下室——その入口に違いない。  エラリイは、持ち上げた板を反対側へ押し倒すと、用意してきた懐中電灯を上着のポケットから取り出すのももどかしく、その穴の中に足を踏み入れた。 「気をつけろよ。崩れるかもしれんぞ」  ポウが心配そうに声をかける。 「分ってるさ。大丈……」  返事がふっと途切れた。と同時に、エラリイの長身がぐらりと傾ぐ。わっ、という叫びと共に、そのまま彼の身体は闇の中へ倒れ込み、吸い込まれるように消えていった。 「エラリイ!」  四人が同時に叫ぶ。ヴァンが飛び出して、エラリイのあとを追おうとした。 「待て、ヴァン。飛び込むのは危険だ」  ポウが鋭く制した。 「でも、ポウ」 「俺が先に立つ」  指に挟んでいた煙草を投げ捨てると、ポウはジャケットのポケットを探り、ペンシル型の小型ライトを取り出した。注意深く足下を照らしながら、階段に足を下ろす。 「エラリイ!」  闇の中へ呼びかけた。窮屈そうに大きな身を屈め、二段ほど足を進める。そこで、彼ははっと立ち止まった。 「こいつは……。テグスが張ってあるぞ。これに足を取られたんだな、エラリイの奴」  丁度、人間の向脛《むこうずね》ぐらいの高さだった。左右の壁を這う何かのパイプの間に、余程目を凝らして見なければ気づくまい、細く丈夫な糸が張り渡されているのである。  ポウは慎重にそれを跨《また》ぎ越すと、やや動きを速めた。下の暗闇に、エラリイの懐中電灯がぼっと黄色い輪を作っているのが見える。 「ヴァン、ルルウ、来てくれ。テグスに気をつけてな。——エラリイ」  階段を降りきった所に、エラリイは倒れていた。ポウは投げ出された懐中電灯を拾い上げ、続いて入ってくる二人の足下を照らしてやりながら、 「おい、エラリイ。大丈夫か」  コンクリートの床にうずくまったエラリイは、途切れ途切れに、大丈夫だと答えた。が、すぐに、ううっと呻いて右の足首を抱え込む。 「足を、くじいたらしい」 「頭は打ってないか」 「——分らない」  まもなくヴァンとルルウが降りてきた。 「手を貸してくれ」  と二人に云って、ポウはエラリイの腕を取り、自分の肩にかけた。——と、 「待ってくれ、ポウ」  エラリイが喘《あえ》ぐように云った。 「僕は大丈夫だから、この、地下室の様子を改めてくれないか」  ルルウがポウから懐中電灯を受け取り、ぐるりと部屋の中を照らした。  地下室は畳十畳分ほどの広さがあった。四方の壁も天井も剥き出しのコンクリートで、その上を汚れたパイプが何本も走っている。奥の方に、自家発電機らしき大きな機械が据えられているだけで、他には何もめぼしいものはない。板切れ、缶、バケツ、ぼろ切れ……そういった類《たぐい》のがらくた[#「がらくた」に傍点]が雑然と散らばっているばかりだ。 「ごらんの通りですよ。別に何もありませんね、エラリイさん」 「何もない?」  両肩をポウとヴァンに支えられて立ち上がったエラリイは、懐中電灯の光を目で追いながら呟いた。いくらか気を取り直した様子である。 「何もないもんか、ルルウ。床をよく見てみろよ」  云われるままに、ルルウはもう一度、地下室の床を照らしていった。 「あっ、これは」  四人が立つ階段の昇り口付近から、半径二メートル足らずの円弧を描いた部分——そこには、それ以外の場所に散乱しているようながらくた[#「がらくた」に傍点]が一つも落ちていない。しかも妙なことに、積もっているはずの埃や灰までが、その円弧の内側には殆ど見られないのである。 「どうだい。あまりにも不自然だろう。まるで掃き清めた跡みたいじゃないか」  エラリイは蒼ざめた顔に、場違いとも思える微笑を浮かべた。 「誰かがいたんだよ、ここに」 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり] 「大したことはないな。頭は打っていないようだし」  エラリイの右足を手当てしながら、ポウは云った。 「軽い捻挫《ねんざ》と打ち身、擦《す》り傷だけだ。一晩湿布しておけば良くなるだろう。全く運のいい奴だな。下手をすると、命に関わっていたかもしれんぞ」 「とっさに受け身を取ったのかな」  エラリイは、くっと唇を噛んだ。 「僕としたことが、情けない話だ。軽率だったね。反省しよう。まんまと彼の仕掛けた罠にひっかかってしまった」  五人は十角館のホールに帰ってきていた。  壁に凭れかかり、床に足を投げ出して、ポウの手当てを受けるエラリイ。他の三人は椅子に掛けもせず、落ち着かぬ様子でそれを見守っている。 「ホールの扉は内側から紐でゆわえておいた方がいい。特に、日が落ちてからは、みんな絶対外へ出ないように。僕らは狙われているんだからね」 「でも、エラリイ、あたし信じられないわ」  屋敷跡からの帰り道で、エラリイから中村青司=犯人説を聞かされ、アガサは混乱しているようだった。 「中村青司が生きているって、そんなこと、本当にあるのかしら」 「さっきの地下室の状態が、その証拠だろ。少なくとも、誰かが最近あそこに潜んでいたことに間違いはない。そして、その内僕らがあの地下室の存在に気づいて、足を踏み入れることを予測した。だから、階段にあんな仕掛けをしておいたんだ。運が悪けりゃ、僕が今頃『第三の被害者』になってたのかもしれない」 「よし。いいぞ、エラリイ」  包帯を巻き終えたポウが、ぽんとエラリイの膝を叩いた。 「今晩はあまり歩きまわらんようにな」 「有難う、ドクター。——おや、どこへ行くんだい」 「ちょっと確かめておきたいことがあるんだ」  ポウは足早にホールを横切り、玄関へ続く扉の向こうに消えてしまった。が、ものの一分もしない内に、またホールへ戻ってきたかと思うと、 「やはり思った通りだった。すまんな」  浮かない声でエラリイに云った。 「どうしたんだい」 「さっきのテグスだが、あれはどうやら俺の持ち物だったらしい」 「ポウの? どうして」 「釣り糸さ。来た日から、釣りの道具箱は玄関ホールに置いておいたんだ。その中から、一番太い糸が一巻きなくなっている」 「成程ね」  エラリイは左の膝を立て、両手で抱え込んだ。 「ここは玄関も鍵が掛からない。従って、青司だろうと誰だろうと出入りは自由。釣り糸を盗むなどわけないってことさ」 「しかしな、エラリイ」  ポウは椅子に腰掛け、煙草に火を点けた。 「青司が生きている、そして犯人であると即断するのは、どうだろうか」 「反対かい」 「その可能性が皆無だとは云わんが。にしても、犯人は外部の者だとここで決めつけてしまうのはどうかと思う。異議ありだな」 「ふうん」  壁に凭れかかったまま、エラリイはポウの髭面を見上げた。 「ポウ先生は、内部に犯人を作りたいと見えるね」 「作りたいなどとは思わん。ただ、その疑いの方がやはり強いと考える。だからエラリイ、俺はここで、各自の部屋を全員で調べてみることを提案したい」 「所持品検査か」 「そうだ。犯人は、もう一組のプレートと切り取ったオルツィの手、何らかの刃物、それから、もしかすると毒薬の残りを持っているはずだからな」 「もっともな意見ではあるね。けれどもポウ、もしも君が犯人だったら、そんな、見つかるとやばいような代物を自分の部屋に置いておくかい。隠そうと思えば、他にいくらでも安全な場所があるだろうに」 「しかし、一応」 「ねえ、ポウ」  と、ヴァンが云った。 「そんなことをしたら、むしろ危険なんじゃないかな」 「危険、とは?」 「つまりね、もしもこの五人の中に犯人がいるんだとしたら、そいつも一緒に部屋をまわることになるだろう。犯人が堂々と他人の部屋に入れる機会を作ってしまうわけだよ」 「ヴァンの云う通りだわ」  アガサが意見を述べた。 「あたし、自分の部屋には誰だろうと入ってほしくない。犯人がこっそり、プレートや何かを他人の部屋に隠すことだってできるのよ。何か危ない仕掛けをされるかもしれないし」 「ルルウは? どう思う」  ポウがしかめっ面で問うと、 「それよりも、何だか僕、この十角館自体が嫌で」  ルルウは僻《うつむ》いて、緩く首を振った。 「このあいだも誰かが云ってましたね。壁を見てると目がおかしくなりそうだって。目だけじゃない、何だか頭まで変になっちゃいそうで……」 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり] 「塩なら、さっき君がそっちに置いたよ」  スープの味見をして、小皿を持ったままきょろきょろしているアガサに、ヴァンが遠慮がちに声をかけた。 「よく見ていらっしゃいますこと」  アガサは振り返って、丸く目を見開いた。 「看守としては合格ね」  冷然と皮肉を返すが、その声にはまるで覇気がない。目許にはくっきりと隈が出来ている。  十角館の厨房である。  ホールから持ってきたランプの薄明りの中、夕食の支度をするアガサと、その傍らでじっと彼女の動きを見守るヴァン。他の三人はホールにいて、開け放された両開きの扉から、ちらちらとこちらの様子を窺っている。  アガサは、頭の中から事件のことを全て締め出そうとするかのように、殊更忙しそうにくるくると働いていた。しかし、その手順がまるで要領を得ない。さっきから、ことあるごとに何か物を探してばかりいる。 「砂糖ならここだよ、アガサ」  やがてまた、ヴァンが云った。アガサはびくんと肩を震わせ、吊り上がった目でヴァンを睨みつけた。 「いい加減にしてよ」  スカーフでまとめ上げた髪に両手を当てて、彼女は金切り声を上げた。 「あたしの作るものがそんなに不安なら、缶詰でも何でも勝手に食べたらいいでしょ」 「アガサ、そんなつもりじゃ」 「もう沢山!」  アガサは小皿を取り上げ、ヴァンめがけて投げつけた。皿はヴァンの腕を掠め、後ろの冷蔵庫に当たって割れた。ホールの三人が、その派手な音に驚いて、ばたばたと駆け込んでくる。 「あたしはあたしが犯人じゃないって、一番よく知ってるわ」  両手を握り締め、左右に激しく身をよじりながら、アガサは大声で喚き立てた。 「犯人はあんたたちの内の一人でしょ。何よ、見張りなんか立てて。あたしは絶対犯人じゃないんだから!」 「アガサ!」  エラリイとポウが異口同音に叫ぶ。 「何よ。こんな見張りを立てたって、もし料理を食べて誰かが死んだら、どうせまたあたしのせいだってことになるんじゃないの。寄ってたかって、あたしを犯人にしようっていうんでしょ」 「アガサ、落ち着くんだ」  ポウが強い声で云って、彼女の方へ一歩踏み出した。 「誰もそんなことをするつもりはない。気を鎮《しず》めるんだ」 「近寄らないで」  アガサは眦《まなじり》を決し、おどおどとあとじさった。 「こっちへ来ないでよ。分ったわ。あんたたち、みんなぐる[#「ぐる」に傍点]なんでしょう。四人で共謀して、オルツィとカーを殺したのね。今度はあたしの番?」 「アガサ、気を確かに持て」 「そんなになってほしけりゃ、あたしが本当に犯人になってやるわ。そうよ。『殺人犯人』になってしまえば、被害者の役にまわらなくって済むんだから。——ああ、可哀想なオルツィ、哀れなカー……。そうなの。あたしが犯人よ。今にあんたたちも殺してやるんだから」  完全に平静を失い、手足をむやみに振りまわして暴れるアガサを、四人がかりでやっと押さえつける。そして彼らは、引きずるようにして彼女をホールへ連れ出し、無理矢理椅子に坐らせた。 「もう嫌だ。もう、嫌……」  アガサはぐったりと肩を落とし、虚ろな視線を宙にさまよわせた。やがて、テーブルに突っ伏して全身を小刻みにわななかせながら、 「家に帰して。お願いだから。疲れた。あたし、帰るわ」 「アガサ」 「——帰る、あたし。もう帰るわ。泳いで帰るから……」 「アガサ、落ち着くんだ。ゆっくりと大きく息をして」  大きな掌を彼女の背中に当てて、ポウがなだめる。 「いいか、アガサ。誰も君を犯人だなんて決めちゃあいないんだ。誰も君を殺したりなどしないから」  アガサは、幼児がいやいやをするように、テーブルに伏したまま頭を動かしていた。家に帰して、と譫言《うわごと》のように繰り返す声がその内途切れ、弱々しい啜り泣きに変わる。  余程経ってから、不意に彼女は顔を上げた。そして、掠れた抑揚のない声で、 「夕飯の用意、しなくっちゃ」 「それはもういい。あとは誰かがするから、君は休んでるんだ」 「嫌」  と、アガサはポウの手を振り払った。 「あたし、犯人じゃないわ」 [#ここから3字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  食事の間、話をする者は一人としていなかった。  口を開けば、否応なく事件について触れてしまうことになる。彼らの沈黙は、危機的な現実からの一種の逃避であった。あるいは、半ば放心状態でいるアガサの神経をこれ以上刺激しないようにという心遣いも、その中には含まれていたのかもしれない。 「あとはいいから、アガサ、もうお休み」  やんわりとポウが声をかけた。普段人前で吸うことのない煙草を吹かし、ぼんやりとその煙の動きを眺めていたアガサは、表情のない顔をポウに向けた。 「眠れないのなら、薬がある。あげるから、飲んで休んだ方がいい」  途端、彼女の目にさっと警戒の色が走った。 「薬? 嫌よ!」 「心配ない。ただの睡眠薬だから」 「嫌よ。絶対に嫌」 「分った。じゃあ、こうしよう。いいかい、アガサ」  ポウは、椅子に掛けてあった自分の布鞄から、小さな薬壜を取り出した。そして、中から白い 錠剤を二つ、開いた掌の上に落とす。この二錠をそれぞれ半分ずつに割ってよく示し、その内の二かけらをアガサの手に持たせた。 「さあ。こっちの二つを、君の目の前で俺が飲む。それなら心配あるまい」  アガサは黙って手の中の錠剤を見つめていたが、やがてこっくりと領いた。 「よし。いい子だ」  ポウは髭面に無骨な笑みを浮かべ、自分の手に残った錠剤を飲み下した。 「ほら、大丈夫だろう。さあ、アガサ」 「——眠れないの、どうしても」 「無理もない。神経が昂《たかぷ》ってるんだ」 「今朝だって、カーのあの声が耳について離れなくって。やっとうとうとしかけたら、隣のカーの部屋で、何か変な音が聞こえたような気がしたり」 「分ってるよ。そいつを飲めば、今夜はぐっすり眠れるから」 「本当に?」 「ああ。すぐに眠くなる」  アガサはようやく薬を口に含み、目を閉じて飲み込んだ。 「ありがと……」  生気の失せた目でポウに微笑みかける。 「さ、お休み、アガサ。戸締まりだけはきちんとしてな」 「——ええ。有難う、ポウ」  アガサが自分の部屋に消えると、四人はそれぞれ溜息に似たものを落とした。 「大した名医ぶりだったよ、ポウ。立派な医者になれる」  ほっそりとした指の間に煙草を挟んで携りながら、エラリイが軽く笑った。 「全く、たまらないね。あのアガサ女史でさえああだ。明日になったら、僕らの中からも患者が出るのかな」 「よせ、エラリイ。お前は茶化しすぎる」 「茶化したくもなるさ」  エラリイは肩をすくめた。 「あんまり深刻になりすぎると、こっちまでおかしくなる。僕だってね、今日は殺されかけたんだぜ」 「あれはお前の一人芝居だった、という説はどうだ」 「何だって。——ま、むきになったところで仕方ないか。とするとだ、当然、アガサのあれが演技でないとも限らないわけだね」 「内部に犯人がいるのなら、誰に対しても容疑は均等だろ」  爪を噛みながらヴァンが云った。 「自分が犯人じゃないってことを確信できるのは自分だけだよ。結局、自分の身は自分で守るしかないんだ」 「ああ……。一体、何でこんなことになってしまったんです」  眼鏡を外してテーブルに放り出し、ルルウが頭を抱え込んだ。 「おい。お前までヒステリーを起こす気じゃないだろうな」 「そんな元気もありませんよ、エラリイさん。——大体、犯人は何だってこんな気違いじみたこと、始めたんだろう。僕らの中の一人にせよ、中村青司にせよ……動機は一体どこにあるんですか」  小さな丸い目を剥いたルルウの素顔には、悲愴感が溢れんばかりである。 「動機ね」  エラリイは呟いた。 「何かあるはずなんだがな」 「青司=犯人説には反対だよ、僕は」  苛立たしげにヴァンが云った。 「中村青司が生きているって、それはエラリイの想像だろう。仮にそれが事実だったとしても、ルルウの云う通り、何だって彼が僕らを殺すんだい。冗談じゃないよ」 「青司——か」  その名前を聞き、口にするたびに、ルルウはしかし妙な胸騒ぎを覚えるのだった。昨日エラリイから、彼が生きているのかもしれないと聞かされて以来、ずっとそうだ。  ランプの炎を映した卓上の眼鏡のレンズをじっと見つめながら、その胸騒ぎの中から何か(記憶だ[#「記憶だ」に傍点])を手繰り出そうとする。だが、どうしても思い出せない。その内、それ[#「それ」に傍点]にもう一つ、それよりもずっと新しい何かの記憶[#「それよりもずっと新しい何かの記憶」に傍点]が混入してきて、彼をどうしようもなく歯痒《はがゆ》い気分にさせた。 (何だったんだろう)  ルルウは心の中で自問し続けた。  新しい記憶の方は、この島へ来てからのものに間違いない。何かをどこかで[#「何かをどこかで」に傍点]、無意識の内に見ていて[#「無意識の内に見ていて」に傍点]、しかもそれが非常に重要なことであるような[#「しかもそれが非常に重要なことであるような」に傍点]……。 「ポウ先輩」  起きた時からの頭痛が、まだずきずきと続いている。諦めて、今日はもう眠ってしまおうとルルウは思った。 「あのう、僕にも薬、貰えますか」 「ああ、いいとも。まだ七時過ぎだが、もう寝るのか」 「ええ。ずっと頭が痛くって」 「じゃあ、俺もそうするか」  錠剤を壜ごとルルウに渡すと、ポウはくわえ煙草のままふらりと立ち上がった。 「さっき飲んだのが効いてきたようだ」 「ポウ。良かったら僕にも貰えるかい」  そろそろと椅子から腰を浮かせながら、ヴァンが云った。 「ああ。一錠でいいぞ、よく効く薬だから。——エラリイは?」 「必要ないさ。自力で眠れる」  やがて、テーブルのランプが消され、十角形のホールに闇が下りた。 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第八葦 四日目・本土 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり] 「本当に僕が一緒でもいいんですか」  O市から亀川へ向かう車中、江南は念を押すように尋ねた。ハンドルを握る島田は、前方を見たまま二、三度頷き、 「構わないさ。千織さんと君とは知り合いだったんだし、君は、今度の怪文書の、云わば被害者でもあるわけなんだからね。第一、君だって、ここで聾桟敷《つんぼさじき》に置かれたんじゃあつまらないだろう」 「ええ。そりゃあそうですけど」  一昨夜の守須恭一の忠告が心にひっかかって離れないのだった。  自分たちの単なる好奇心から、そこまで他人のプライバシーに立ち入っても良いものなのかどうか。  江南や守須が思うほど、自分と紅次郎とは水臭い間柄ではない、と島田は云う。守須の考え方や態度は、少々ストイックすぎるのではないか、とも。  島田の気持ちはよく分った。江南にしても、最初はまんざらでもない顔で推理ゲームに参加していた守須が、突然示したあの潔癖さには、どちらかといえば辟易《へきえき》した方なのである。しかし、それにしてもやはり、つい先日訪ねていったばかりの自分が、今日またのこのこと紅次郎のところまでついて行くのには、強い抵抗と後ろめたさを覚えずにはいられなかった。 「そんなに気がひけるんだったらね、江南君、この数日間で、僕と君とがすっかり親友同士になってしまったってことにしようじゃないか。で、僕が嫌がる君を無理に引っ張ってきたことにすればいい」  島田が真顔で云うのを聞きながら、面白い男だ、とつくづく江南は思う。  ただ単に好奇心が旺盛なだけではない。自分などよりもずっと鋭い観察力、洞察力を、彼は持っていると思う。一昨日の夜、守須が提示した中村青司生存説——そのくらいのことは、恐らく彼も以前から考えついていたに違いない。  守須と島田との決定的な相違点は、守須がある意味で至極保守的な現実主義者であるのに対し、島田は、まるで夢見る少年のような、ある種のロマンティストだということだ。己が興味を抱いた現実の事件から、奔放に想像力を働かせて気に入った可能性を導き出すと、あとはその可能性を一つの夢のようなものに昇華させてしまう。そんな感じなのである。だからもしかすると、そうして出来上がった�夢�が真相に一致するかどうかといったことは、彼にとってみれば本質的な問題ではないのかもしれない。  車は国道を折れ、見慣れた街並みを抜ける。  半分ほど開けた窓から流れ込む風に、温泉地独特の臭気が混じる。しばしば「卵の腐ったような」と形容されるけれども、江南はこの硫化水素の匂いが嫌いではなかった。  紅次郎の家に着いたのは、午後三時を過ぎた頃だった。  勤務先である高校はとうに春休みに入っているし、登校日に当たっていたとしても、今日は土曜だからもう帰っているはずだ、暇でも滅多に外へ出る人じゃあないから、と島田が云う。電話で訪問を知らせておかなかったのか、と江南が訊くと、 「紅さんは、突然訪ねてこられるのが好きな人でね。変わってるだろう。まあ勿論、来客にもよるんだろうが」  島田は片目をつぶって笑った。  例の吉川誠一が手入れに来ていたという庭は、相変わらずの花盛りだった。屋根の向こうからは、白い蕾《つぼみ》を膨らませた桜の枝が覗いている。石畳を進むと、雪柳の脆《もろ》い小さな花弁がひらひらと肩にこぼれかかった。  島田が呼び鈴を鳴らすと、今日はすぐに返事があった。 「おや、島田か。それに、江南君、だったっけね」  紅次郎は今日も洒落たいでたちである。黒いスラックスに、同じく黒のストライプが入ったシャツ。僅かにコーヒー色がかった、アラン模様のカーディガン。  江南の姿を見てもとりたてていぶかしむ様子はなく、彼は二人を、先日と同じ奥の座敷に導いた。  島田が縁側の籐椅子にひょいと坐る。江南は、紅次郎が勧めてくれるのを待って、ソファの一つに小さくなって身を沈めた。 「どうしたね、今日は」  紅茶の用意をしながら、紅次郎が尋ねた。 「ちょっと訊きたいことがあって来たんだ」  島田は揺り椅子を前に傾けて、膝の上に両肘を突いた。 「その前に、紅さん、一昨日《おととい》はどうしてたの」 「一昨日?」  紅次郎は不思議そうに島田を見やり、 「このところ毎日家にいるが。学校は休みだし」 「そうかい?一昨日——二十七日の夜、ここへ寄ったんだけど、返事はなかった」 「そいつは悪いことをしたな。締め切り間近の論文があってね、この二、三日は、電話も来客も居留守を決め込んでたんだ」 「有難くないねえ。友だち甲斐、ないよ」 「すまん。お前と分ってれば出たんだがな」  カップを二人に渡して、紅次郎は江南の向かいのソファに腰を下ろした。 「で、その訊きたいことというのは? 江南君が一緒のところを見ると、まだ、あの兄からと称する悪戯の手紙に関わっているのかな」 「そうだよ。しかし、今日来たのはちょっと違うんだ」  島田は一呼吸おいて、 「実はね、千織さんのことで、少々立ち入った話が聞きたいんだよ」  カップを口に運ぶ紅次郎の手が、ぴたりと止まった。 「千織の?」 「紅さん、嫌な質問をするぜ。許せないと思ったら、殴ってもいい」  そして島田は、単刀直入に切り出した。 「千織さんは、ひょっとして紅さんの娘だったんじゃないのかい」 「馬鹿な。何てことを云いだすんだ」  紅次郎は即座にそう答えたが、江南には、彼の顔から一瞬血の気がひいたように見えた。 「違うのかい」 「当たり前だ」 「ふうん」  島田は籐椅子から立ち上がり、江南の隣に席を移した。そして、憮然と腕組みをした紅次郎の顔を見つめながら、 「無礼は承知の上だ。怒るのも当然だと思う。けれどもね、紅さん、僕はどうしても確かめておきたいんだ。千織さんは、紅さんと和枝さんとの間に出来た子供だったんだろう」 「戯言《たわごと》もほどほどにしてくれ。何を根拠にそんなことを云う」 「確かな証拠なんてないさ。ただ、いろいろな状況が僕にそう囁きかけてくるんだ」 「やめてくれ」 「一昨日、江南と安心院《あじむ》へ行ってきた。行方不明の吉川の細君と会うためだ」 「吉川の奥さんと? 何でまた」 「例の怪文書に触発されてね、去年の角島の事件について、少し調べてみたいと思ったのさ。そうして僕らが辿り着いたのは、中村青司氏は生きている、彼があの事件の犯人なのだ、という解答だった」 「馬鹿を云うな。兄は死んでいる。私は死体も見た」 「真っ黒焦げの死体を、だろ」 「それは……」 「あれは吉川誠一の死体だった。青司氏が全ての犯人で、和枝さんと北村夫妻を殺した後、吉川を身代わりに焼死させて自分はまんまと生き延びた、というわけさ」 「相変わらず想像力の逞《たくま》しいことだ。で、その想像力が、私と義姉《あね》とを結びつけたわけか」 「そういうことになるね」  島田は臆する気配もなく続けた。 「青司氏が犯人だとすると、何故、彼はそんな精神状態に追いつめられることになったのか。いつだったか、紅さんはこう云ってたっけねえ。兄貴は和枝さんを熱愛し続けているけれども、あの愛し方は尋常じゃない、と。彼が若くしてあんな島へ引きこもってしまったのも、元はといえば、和枝さんを自分だけのそばに置きたかったからだ、彼女を島に閉じ込めてしまいたかったからだ[#「彼女を島に閉じ込めてしまいたかったからだ」に傍点]ってね。それほど愛していた自分の妻を彼が殺したんだとすると、その動機として考えられるのは嫉妬しかない」 「その嫉妬を、何だって私と義姉との関係に短絡させる必要がある」 「吉川の細君から聞いたんだが、青司氏は、自分の娘のことをあまり可愛く思っていなかったらしいね。ところが一方、彼は和枝さんを熱愛していたという事実がある。ならば、二人の間に生まれた子供、しかも女の子の千織さんのことが可愛くないはずがない。矛盾だよね。これはつまり、青司氏が、少なくとも娘の父親が自分かどうかを疑っていた証拠じゃないだろうか」 「兄は、変わった人間だったんだ」 「しかし、妻を愛せる人間ではあった。その妻が生んだ自分の娘を愛せなかったというところには、やっぱり何かあると思わざるをえないよ。  そこでだね、今の仮説が正しいとして、では千織さんの本当の父親は誰だったのか。いくつかの状況が、紅さん、あなたを暗示している。島に閉じ込められていた和枝夫人。それでも彼女との接触が可能であった若い男。千織さんの誕生と前後して悪化した兄弟仲……」 「話にならんな。もう充分だろう、島田。私は否定するだけだよ。そんな事実はない」  紅次郎は鼈甲《べっこう》縁の眼鏡を腹立たしげに外した。 「それに、何度も云うが、兄は決して生きちゃあいない。兄は死んだんだ。——私は、あの事件とは全く無関係だよ」  毅然《きぜん》たる口調で云いながらも、彼の目は、まっすぐに島田の視線を受け止めてはいなかった。 膝の上に下ろした手が、微かに震えているのが分った。 「じゃあ、紅さん、もう一つ訊いてみようか」  島田が云った。 「去年の九月十九日——青屋敷が燃える前の日だ。覚えているかい。日頃滅多に酒など飲まない紅さんが、あの夜、突然僕に電話してきた。外へ飲みにいかないかってね。あの時、何軒か店をはしごして、あなたはすっかり酔い潰れてしまった。僕にはね、ありゃあ自棄《やけ》酒としか見えなかったよ」 「それが、どうしたって云うんだ」 「酔い潰れた挙句、しまいにあなたは泣きだしてしまった。覚えていないだろう。そして、僕がこの家まで送ってきて、二人ともここのソファで眠ったんだが、その時、あなたは泣きながら、譫言みたいに繰り返していたんだ。和枝[#「和枝」に傍点]、私を許してくれ[#「私を許してくれ」に傍点]、許してくれ[#「許してくれ」に傍点]、と何度も」 「そんな……」  紅次郎の顔色が目に見えて変わった。島田は続けて、 「あの時は深く考えてもみなかった。僕もかなり酔ってたしね。事件のことを知ったあとも、当時僕は僕でちょっと厄介事を抱えていたものだから、あの夜の一件を思い出す余裕もなかったんだが、今、改めて考えるに」  島田は大きく一つ息をついた。 「十九日の夜の時点で[#「十九日の夜の時点で」に傍点]、紅さんは既に角島の事件のことを知っていた[#「紅さんは既に角島の事件のことを知っていた」に傍点]。そうだろう」 「どうして、そんな」  紅次郎は完全に顔を伏せていた。 「どうして、私に知ることができたって云うんだ」 「犯人に——つまり、青司氏に知らされたのさ」  島田は鋭い目で紅次郎を見据えた。 「和枝さんの死体には左手首がなかった。青司氏が切り取ったんだ。そして彼は、切り取ったその手首を、紅さん、あなたの許へ送りつけてきたんじゃないのかい。それを受け取ったのが十九日だった。スキャンダルを恐れたあなたは、警察に通報することもできず、ショックを酒で紛らわすしかなかった」 「私は——私は……」 「紅さんと和枝さんとの関係について、その詳しいいきさつがどうだったのかは知らないよ。訊くつもりもない。それが結果として青司氏の狂気を招いた原因だったのだとしても、誰にも責める権利はないと思う。しかしね、十九日の時点で、もしも紅さんが事件を警察に知らせていたなら、あるいは、北村夫妻や吉川の死を防げたのかもしれないんだ。あの日のあなたの沈黙は、やはり一つの罪じゃなかったんだろうか」 「罪、か」  呟くと、不意に紅次郎は立ち上がった。 「紅さん」 「もういい。それで充分だ」  そして紅次郎は、島田の視線から顔をそむけ、打ちのめされたような鈍い足取りで縁側に向かった。 「あれは」  と云って、彼は庭に作られた藤棚をすっと指さした。 「あれは、千織が生まれた年に植えたものなんだ」 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  江南はまだ帰ってきていないらしい。部屋の明りは消えている。  腕時計を見てみた。午後十時十分。まさか、もう休んでいるということはないはずだが。  アパートの入口近くに乗ってきたバイクを停めておいて、守須恭一は、道路を挟んだ向かいにあるコーヒーショップに入った。  深夜十二時まで営業している店である。普段ならこの時間帯は、近所に下宿している学生たちで混雑しているのだが、春休みの最中のためか、客の数はまばらだった。  道に面した窓際の席に坐った。注文したエスプレッソ・コーヒーをブラックのまま啜りながら、この一杯で戻ってこなければ帰ろう、と思った。別に、どうしても会わなければならないわけではない。あとでまた、電話でもすればいいのだから。 (相変わらずあいつ、熱しやすくて冷めやすいたちだから、もういい加減、探偵ごっこにも嫌気がさしてることだろう)  煙草をくわえ、守須は考える。  そもそも、江南の好奇心に火を点けたのはあの手紙だった。死者からの手紙——確かにあれは、あれだけで、彼の心を掻き立てるに充分なものだったろう。それと時期を同じくして研究会の連中があの島へ行っていると分れば、じっとしていられなくなって当然である。わざわざ別府まで中村紅次郎を訪ねていったり、自分に相談を持ちかけてきたり。けれども、普通ならその辺で冷めてしまうのが江南という男の性格だ。ところが……。  島田潔の顔が頭に浮かぶ。  単なる物好きではない。かなり頭の切れる男だと思う。しかし、彼の必要以上に大人気《おとなげ》のない詮索心には、やはり反感を覚えざるをえなかった。  怪文書に興味を持つのは当たり前だろう。そこから出発して、去年のあの事件を掘り下げてみようと考えるのも、ミステリ好きならば無理もない。しかし……。  吉川誠一の妻を訪ねてみてはどうか、などと自分が云いだしたことは、今更ながら後悔するしかなかった。あの時はどうかしていたのだ。慎重に考えてみもせず、ついあんなことを云ってしまった。突然見も知らぬ人間の来訪を受け、殺人犯の汚名を着せられた行方不明の夫についてあれこれと尋ねられた吉川政子の気持ちは、どんなものだったろうか。  二人の報告を聞いて自ら提示した中村青司生存説だったが、現実問題として青司が生きている可能性などあるはずがない、と守須は考えている。あれはあくまでも、ミステリ・フリークの探偵ゲームに終止符を打つための、一つの仮説にすぎなかった。  ところが島田は、その動機として和枝夫人と紅次郎の関係を取沙汰し始め、とうとう、千織が紅次郎の娘ではないかなどと云いだした。しかも、そのことを、実際に紅次郎を問いただして確かめてみようと云うのだ……。  煙が痛いほどに喉にしみた。どうにもやるせない気分で、守須は苦いコーヒーを啜った。  三十分も経って、そろそろ出ようかと思い始めた頃、江南のアパートの前に車が止まった。赤いファミリアである。降りてきた人影を見て、守須は席を立った。 「江南」  店から出て声をかけると、江南は、よう、と手を振って、 「やっぱりお前か。どこかで見たバイクだと思ってたんだ。|250�《ニーハン》のオフ・ロードに乗ってる奴なんて、うちのアパートにはいないからな」  路肩に停めてある、所々泥で汚れたバイク——ヤマハXT250——を見やった。 「わざわざ訪ねてきたのか」 「いや、通りがかりだよ」  と答えて、守須は腕にぶら下げたナップザックを叩き、それから、バイクのリア・キャリアにくくりつけてあるキャンバス・ホルダーを顎で示した。 「今日も国東《くにさき》へ行ってたんだ。その帰りさ」 「絵の進行状況はどうなのかな」 「明日ぐらいで仕上がりそうだよ。完成したら、見にきておくれ」 「やあ、守須君」  運転席から降りてきた島田が、守須の姿を見て屈託なく笑いかけてきた。守須は思わず声を硬くして、 「今晩は。今日はどちらへ」 「ああ、ちょっと紅——いや、別府の方へドライブにね。うん。江南君とはすっかり気が合ってしまってねえ。今夜はこれから、彼の部屋で酒でも飲もうかと」  江南に招かれて、島田と守須は部屋に入った。敷きっ放しの布団をばたばたと片づけると、江南は折りたたみ式の小テーブルを出し、ウイスキーの用意を始めた。 「守須は? 飲むか」 「いや、いいよ。バイクだから」  島田は、部屋に上がるなり書棚の前に立ち、ずらりと並んだ本の背表紙を眺めていた。守須は、グラスに氷を入れる江南の手許をじっと見つめながら、 「で、どうなってるんだい、例の件の方は」 「ああ」  江南は妙に浮かない声で答えた。 「昨日はS町まで行ってきたんだ。角島を見て、あとは怪しげな幽霊譚をいくつか聞き込んできたんだけどな」 「幽霊?」 「青司の幽霊が出るとか出ないとかね、ありふれた噂話さ」 「ふうん。それで、今日は? ドライブに行ってきただけじゃないんだろう」  江南は困ったように唇を曲げた。 「実は……」 「結局やっぱり、紅次郎氏のところへ?」 「そうだよ。忠告を聞かなくて悪かった」  水割りを作る手を止めて、江南は少しうなだれた。守須は彼の顔を斜めから覗き込むように首を傾け、 「結果は?」  と訊いた。 「去年の事件のことは、ほぼ分ったんだ。紅次郎氏が話してくれた。——島田さん。酒、出来ましたよ」 「事件の真相が分ったって云うのかい」  守須が驚いて訊き直すと、江南は、ああ、と呟いてグラスの水割りを撃た。 「一体それは」 「結局のところね、あの事件は青司が謀った無理心中だったんだ[#「あの事件は青司が謀った無理心中だったんだ」に傍点]」  そして、江南は話し始めた。 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり] 「あれは、千織が生まれた年に植えたものなんだ」  紅次郎の声は震えていた。 「藤‥‥‥」  島田が声を洩らした。 「それがどうして」  云いかけて、彼は、ははあと頷いた。江南が、何のことかよく呑み込めずに小首を傾げるのを見て、 「『源氏物語』だよ、江南君」 「『源氏』?」 「うん。——そうなんだろう、紅さん」  島田は、縁側に立った紅次郎に向かって云った。 「父の妻である藤壺を深く恋慕っていた光源氏は、長年の後、彼女と一夜だけの契《ちぎ》りを結んだ。ところが、そのたった一夜で藤壺は身ごもってしまい、以後二人は、夫を、父を裏切り欺《あざむ》き続けることとなった」  紅次郎は、兄の妻、和枝をその藤壺に見立てたのだということだろうか。罪の子、千織の誕生——それ故により近く、同時により遠くなってしまった恋人を偲《しの》ぶ心が、彼にあの藤の木を植えさせた。藤壺は一生涯自分と源氏の犯した罪を忘れず、自らを許すこともしなかった。そして、紅次郎の恋人もまた、そんな藤壺と同じように……。そういうことなのだろうか。 「やっぱりそうだったのか」  島田は静かにソファから立って、紅次郎の背に歩み寄った。 「青司氏は、それに気づいていたんだね」 「兄は、ただ疑っていただけだと思う」  庭に向かったまま紅次郎は答えた。 「半ば疑い、半ば、必死になってそれを否定しようとしていたんだ、と。  兄は優れた才能の持ち主だったが、人間的にはどこか欠陥のある男だった。彼は義姉《あね》を愛していたが、それは何と云うか、狂的なまでの独占欲に塗り固められた、ひたすら求めるだけの愛情だったんだ。兄は、恐らく自分でも、そのことをよく承知していたに違いない。彼女にとって自分が、決して良い夫ではないことを知っていた。だから——、彼は義姉を疑い続けていた。千織については多分、恐れにも似た感情を抱いていたのだと思う。しかし一方では、千織だけは自分の子だと信じようとする——信じたい気持ちが半分。この半分が、二十年の間、かろうじて彼が妻との絆《きずな》を信じ、心のバランスを保つ拠り所となっていた。  ところが、その千織が死んでしまったのさ。二人を繋ぐ唯一の絆だと、恐れつつも信じようとしていた娘の死……。兄は疑心の真っ只中へ放り出された。妻は自分を愛してはいない、しかもその心は外に——自分の実の弟の許にあるのではないか、と。さんざん悩み、苦しみ、そして狂い……とうとう兄は、彼女を殺してしまったんだ」  紅次郎は背を向けたまま微動だにせず、若葉を付け始めた藤棚に目を注いでいた。 「角島の事件——あれは、兄の企てた無理心中だった」 「無理心中?」 「そうだよ。あの日——九月十九日の午後、私は確かに、島田、お前の云う通り、兄からの小包みを受け取った。中には、血まみれの左手首が、ビニール袋に密封されて入っていた。その、薬指に嵌った指輪に見覚えがあった。すぐに私は事態を了解した。  私は青屋敷に電話をかけた。待ちかねていたとばかりに、兄が出たよ。泣き声とも笑い声ともつかぬ声で、彼はこう云った。和枝は俺のものだ。北村夫婦も吉川も、道連れに殺した。俺と和枝の新しい旅立ちへの餞《はなむけ》だ……とね。兄は完全に狂っていた。私が何を云うのも聞かず、地獄で待っているぞ、と叫んでね、電話を切ってしまった。  兄は、だから生きちゃあいない。物理的には可能であるかもしれんが、そんなことは絶対にありえない。彼は、義姉を殺したから死んだんじゃない。自分がこれ以上生きていられないから[#「自分がこれ以上生きていられないから」に傍点]、彼女を一緒に連れていったんだ[#「彼女を一緒に連れていったんだ」に傍点]」 「しかし、紅さん」 「島田、そして江南君。中村青司は死んでいる。自殺したんだ。義姉を殺してから彼が死ぬまでの何日間かはね、わざわざここに彼女の手首を送りつけたりして、私に復讐したり、私が悲しむのを見届けたりするためにあったんじゃない。本当のところは、生きている間、遂に手の届かなかった妻の身体を抱きしめるためにあったんだよ」  それっきり、紅次郎は口を喫んだ。その背中は、心なしか、それまでよりもずっと年老いて小さくなってしまったように見えた。  身じろぎ一つせず庭の藤棚に目を向けている彼は、そこに今、一体何を重ねて見ているのだろうか、と江南は思った。  自分が愛した、そして殺された恋人の姿か。殺した兄の顔か。それとも、不慮の事故死を遂げた娘の面影だろうか。  そうだ。島田の指摘通り、やはり紅次郎こそが死んだ千織の父親だったのだ。ということは、彼女を死に追いやった学生たちを真に怨んで然るべきなのは[#「彼女を死に追いやった学生たちを真に怨んで然るべきなのは」に傍点]……。 「紅さん。もう一つだけ訊きたいんだが、いいかな」  重い沈黙を島田が破った。 「受け取った和枝さんの手首はどうした。今、どこにあるんだい」  紅次郎は何も答えなかった。 「ねえ、紅さ……」 「分ってる。お前はただ、本当のことを知りたがってるだけだ。警察なんぞに知らせる気はないからって云うんだろう。分ってるよ、島田」  そして紅次郎は、再び庭の藤棚を指で示した。 「あそこだよ。あの木の下で、彼女の手は眠っている」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「お前の云った通りだと思うよ、守須」  江南は何杯目かの水割りをぐいと飲み干した。 「島田さんには失礼だけど、いけないことをしたなってね、やっぱりそんな気がする。こんなの、気持ちのいいもんじゃないな」  守須は無言で煙草を吹かし続けていた。 「中村青司は生きてはいないと、紅次郎氏は断言した。それが真実なんだろうと俺は思う。結局、残る問題はあの手紙だけさ」 「吉川誠一の行方についてはどう考えるんだい」  自問の意味も込めて、守須は問うた。 「島田さんもそのことがひっかかってるみたいだけどな、死体が見つからない以上、やはり崖から落とされて潮に流されるかどうかしたんだろ」  そう答えて江南は、壁に凭れて坐った島田の方を横目で窺った。二人の会話を聞いてか聞かずか、島田はグラスを片手に、書棚から抜き出した本を開いて、じっとそこに目を落としている。 「とにかく」  江南は、アルコールで赤くなった頬を両手で軽く叩いた。 「探偵の真似事はもうおしまいだ。来週の火曜に連中が帰ってきたら、例の手紙の仕掛け人が誰なのかも分るんじゃないかな」 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第九章 五日目 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  一晩中、悪い夢を立て続けに見ていたような気がする。どういう夢だったのかは思い出せないが、それでひどくうなされていたことは確かだ。  蹴り飛ばした毛布が、ベッドの横に落ちていた。寝乱れてくしゃくしゃになったシャツ——昨夜は着替えないまま眠ったのだ——。全身が汗でべとべとしている一方、口の中は乾ききっている。唇がひび割れて痛い。  上半身を起こし、両腕を自分の胴に巻きつけた姿勢で、ルルウはしばらくの間のろのろと頭を左右に動かし続けていた。  頭痛はいくらか和らいだようだ。が、代わりに、頭の芯が痺《しび》れたようにぼうっとしている。意識全体に薄い靄《もや》がかかっている。自分の身体とそれを取り囲むものたちとの距離が、常よりも遥かに遠く感じられる。実在感がまるでないのである。  鎧戸の隙間から洩れ込む微かな光が、夜の終わりを告げていた。  ルルウはけだるい腕を伸ばして毛布を拾い上げ、膝に掛けた。  靄に包まれた頭の中に、四角いスクリーンが下りてくる。四隅が感光したフィルムのように黒くぼやけていて、中央へ行くほど白い。その画面に、四日前この島に上陸した当初の仲間たちの顔が、次々と大映しになっていく。  エラリイ、ポウ、カー、ヴァン、アガサ、オルツィ。みんな——自分を含めれば七人とも、それぞれの形で、このちょっとした冒険旅行を楽しんでいた。少なくともルルウはそう感じていた。無人島という解放感に溢れたシチュエーション、過去の事件に対する好奇心、漠然としたスリル……。多少のハプニングやトラブルこそあれ、かえってそれが程良い刺激となって、一週間という時間など、それこそあっという間に過ぎ去ってしまうことだろうと思っていたのだ。なのに……。  ボリュームのないショート・ヘア。薄くて太い眉の下で、きょときょとと動く大きな目。そばかすの目立つ赤い頬。その顔が突然紫色に膨れ上がり、震え、歪み、そして弛緩《しかん》する。ずんぐりとした首に巻きついた細い紐が、黒い毒蛇となってしゅるしゅるとうねる。 (ああ。オルツィ、オルツィ、オルツィ……)  ルルウは両手を拳に固めて頭をごつごつと叩いた。もうそれ以上、何も思い出したくはなかった。だが——。  どこか別の場所で、別の意志によって、映写機は回転を続ける。画面はどうしても消えようとしない。  唇を吊り上げた、ひねくれた笑い顔。しゃくれた青い顎、落ちくぼんだ三白眼。——次はカーだ。骨太の身体が、激しい苦痛に捩《ねじ》曲がる。揺れるテーブル。倒れる椅子。吐瀉物の滴《したた》る嫌な音。その臭気までが甦ってくる。 「何故」  低く呟いてみた。 「何故なんだ」  焼跡の地下室の闇に転がり落ちていくエラリイの身体。ポウの険しい声。ヴァンの蒼ざめた顔。アガサの神経症的な動作……。  生き残っている仲間たちの中に、人殺しがいるのだ。いや、それとも、誰か他の人間がこの島に潜んでいるのか。  エラリイは、どこまで本気なのか分らないが、中村青司が生きているのだと云う。会ったこともない、顔さえ知らない男が、しかしどうして自分たちを殺そうというのだろう。  頭の中のスクリーンに、黒い人影が映し出される。輪郭すら定かでない、水に滲んだような真っ黒な影が、ゆらゆらと不規則に揺動する。  中村青司。この十角館を建てた男。昨年の九月、青屋敷で焼き殺されたと思われている男。もしも生きているとすれば、彼自身があの事件の犯人だったということになる。 (中村青司——中村……中村……)  ルルウは、ひくっと肩を動かした。 (中村[#「中村」に傍点]?)  黒い影が、にわかに形を整え始めた。まだ半分眠りの中にあるような不鮮明な意識の中央で、ゆるゆると記憶の糸を手繰る内、やがてそれは、小柄で色白の、一人の女性の姿へと変形していく。 (まさか、そんなことって)  夢の続きを見ているのではないか。あの中村千織という子が、中村青司の娘だったなんて、そんなことが一体ありうるのだろうか。  ルルウはまた拳で頭を叩いた。  夜の街。雑踏。冷たい風。三次会で流れ込んだパブ。光るグラス。氷の音。ウイスキーの匂い。喚声。喧騒。陶酔。狂態。そして……喜劇から一転、突然の緊張。狼狽。傷口を逆撫でするようなサイレンの音。回転する鋭利な赤い光……。 「そんなことあるわけない」  少し大きく、声を出した。それは、耳の奥で次第に高まってくる不穏なざわめきを打ち消すためだった。しかし——。  静まるどころか、そのざわめきは、ますます大きく、ますます激しいものへと膨れ上がってくる。じっとしていられないほどの不安と焦燥で、全身にじわじわと脂汗《あぶらあせ》が滲み出してくる。全てを象徴する赤い光の回転が、わんわんと絶叫し、彼の神経を震わせ、そして……。  髪に爪を立て、こらえきれず叫びだしそうになった時、唐突に、全く別のある場面がスクリーンに浮かび上がり、音と光がぷつんと消えた。 (何だろう)  他人事のように、ルルウは思った。  海だ。水の音が聞こえる。すぐ間近だ。ちゃぶちゃぷと揺れる水面。黒い岩肌に波が上がってきては、すーっと白い糸を残して退いていく。 (昨日のだ[#「昨日のだ」に傍点])  ルルウは膝の毛布をはねのけた。心のその部分に厚いカーテンが引かれたかのように、恐怖の感情が失せていた。  これは[#「これは」に傍点]、昨日出遭った光景だ[#「昨日出遭った光景だ」に傍点]。青屋敷跡の横手の崖に立って、皆で船を探していた。あの時に見下ろした、崖下の岩場の。そういえば、一昨日はエラリイと二人であそこへ降りてもみた。確か、その時にも……。  何かに憑《つ》かれたようだった。  意識の全てが覚醒しきってはいないと、自分でも何となく分っていた。一人で出るのは危険だ——一瞬そう思いはしたが、それはすぐに、霞のかかった心の奥へと沈み込んでしまった。  ルルウはゆらりとベッドから立ち上がった。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  アガサはドアを細く開けて、ホールの様子を窺った。  誰もいない。人が起きている気配もない。  ポウに貰った薬のおかげで、昨夜はすぐに眠ることができた。今さっき目が覚めるまで、死んだように眠りこけていた。夢を見た覚えもない。こんな状況の中なのに、不思議なくらい満ち足りた眠りだった。  身体の疲れはだいぶ取れたように思う。失調しかけていた神経もいくらか持ち直したみたいだ。 (とりあえず、ポウには感謝しよう)  アガサはそろりとホールに忍び出た。  洗面所のドアまで、壁伝いにゆっくりと進む。注意深く周囲に目を配り、耳を澄ます。  朝の光の中にあっても、十角形のホールは奇妙に歪んで見えた。微妙な陰影をたたえた白い壁のひしめきばかりが目を捉え、細かい観察を寄せつけないのだ。  誰かが起きているような気配は、やはりない。聞こえるのはただ、途切れることのない波の音だけである。  洗面所に入ると、ドアは半分開けたままにしておいた。奥のトイレと浴室に危険がないことを確認するのも忘れなかった。  化粧台に向かい、鏡を覗き込む。薄暗がりの中に、白いワンピースを着た自分の姿があった。  目許の隈《くま》は幾分薄くなっている。けれど、島へ来た時に比べると、頬は目に見えてやつれ、血色も悪い。そこへ、ばさばさになった艶《つや》のない髪がうちかかって、これが本当に自分の顔なのかと思えるほど荒《すさ》んで見える。  髪をブラシで掻き上げながら、アガサは深々と溜息をついた。事件のことは勿論、昨夜自分が演じた醜態を思い出すと、溜息は一度では済まなかった。  いつも美しく、そして凛々《りり》しくありたいと、彼女は常々思っていた。いつも——どんな時でも、どんな場所でも、だ。自分はそれができる女性であり、そうあることが自分の誇りなのだと、ずっと思い続けてきた。  しかし、顔を洗ってもう一度見直した自分の姿は——  とても美しいとは思えなかった。凛々しさのかけらもない。  救われない気持ちだった。 (お化粧は、一段明るいものにしなくちゃ)  化粧品の入ったポーチを開けながら、アガサは考える。異常な事件、異常な状況、異常な立場——気も狂わんばかりの異常な現実の中にいて、それは彼女にとってのせめてもの慰みであった。 (ルージュも、ローズじゃなくって、今日は赤に替えよう)  今更この島で、他の誰の視線を気にするわけでもない。彼女が意識しているのはただ、鏡を見る自分自身の目だけなのだった。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  ヴァンは腕時計のアラームで目を覚ました。 (——十時だ)  ひどく肩が凝っている。あちこちの関節が痛い。思うように眠れなかったようだ。  腫れぼったい両眼に、瞼の上から指を押し当てた。何となく胸のむかつきを覚えた。 (みんな、まだ寝ているんだろうか)  起き上がって耳を澄ましながら、煙草に火を点ける。煙が肺に届くと、強いめまいがした。肉体的にも精神的にも相当参っているのが、自分でもよく分った。 (無事に帰れるだろうか)  虚ろに宙を見つめながら、彼は思う。  怖い。恐ろしくてたまらないのだ。できることならば、子供のように泣き喚いてすぐにここから逃げ出してしまいたい……。  ぶるりと身を震わせると、ヴァンは煙草を消して立ち上がった。  ホールに出るなり、二部屋おいた左手のドアが、半分ほど開いたままになっていることに気づいた。厨房の手前、洗面所のドアである。  もう誰か起きているのか、と彼は思った。 (それにしては音がしないな。誰かがトイレに行って、閉め忘れたんだろうか)  ドアは厨房の側に口を開けている。そちらへ向かい、中央のテーブルに沿って右側から回り込んでいった。物音は何も聞こえない。  椅子の青い背凭れを、左手で順に手繰っていく。自分の心臓の鼓動が、にわかに大きく聞こえだした。歩を進めるにつれ、半開きになったドアの内側の様子がだんだんと見えてくる。やがて……。 「ひっ」  喉を絞めつけられたような掠れた悲鳴を、ヴァンは洩らした。全身に戦懐が走った。足がすくみ上がった。  洗面所のドアの向こうには、白いものが倒れていた。繊細なレース地のワンピース。投げ出された細い手。ふわりと床に広がった黒い髪。ぴくりとさえ動くことのない、それはアガサの身体であった。 「あ……あ……」  右手で口を押さえて、ヴァンは立ち尽くした。喉の奥で、叫びたい衝動と嘔吐感とが争う。出そうにも、満足な声が出てくれない。  片手を椅子の背に突き、身を半分に折り曲げた。そして彼は、がくがくと震えやまぬ足をポウの部屋に向かって必死で引きずった。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  力任せにドアを打つ乱暴な音で、ポウは飛び起きた。 「何だ。どうした」  眠気に絡みつかれたのは一瞬だけだった。毛布をはねのけてベッドから飛び出すと、彼はドアに突進した。 「誰だ。何があった」  返事はない。  ドアを叩く音はやみ、代わって微かに、呻き声のような音が伝わってきた。急いで鍵を外し、ノブを回した。が、何かに遮られてドアは開かない。 「おい、誰だ。誰がいるんだ」  力を込め、肩でドアを押し開けていく。そうして出来た隙間から、何とかホールに滑り出た。  ドアに寄りかかっていたのはヴァンだった。両手で口許を押さえてうずくまり、苦しげに背中を波打たせている。 「ヴァン、どうした。大丈夫か」  ポウが肩に手をかけると、ヴァンは片手を口にあてがったまま、もう片方の手を伸ばして隣の洗面所を指さした。 「ん?」  見ると、ドアが半分開いている。中の様子は、こちら側からは分らない。 「あそこに何かあるのか」 「ア、アガサが‥‥‥」  ヴァンの返事を聞き取るや、ポウは、何? と叫んで肩から手を放した。 「アガサか!? ヴァン、お前の方は大丈夫なんだな」  くぐもった声で喘ぎつつも、ヴァンが頷く。ポウはひとっ飛びに洗面所へ向かった。そして半開きのドアの中を覗き込むなり、 「エラリイ! ルルウ! 起きろ。起きてくれ!」  大声で、ポウは叫んだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  どこかのドアを乱打する音が、エラリイを目覚めさせた。  自分の部屋のドアではない。何事かあったな、と考えるや否や、怒鳴りつけるような太い声が聞こえた。 (ポウの声だ。とすると……)  素早くベッドから滑り出てカーディガンをひっかける。包帯を巻いた右足首に、怪我の痛みはもうさほど残ってはいなかった。  ポウの声は続く。相手はヴァンらしい。やがて、一際大きく、アガサか!? という叫び。  部屋を飛び出そうとノブに手をかけたところで、自分とルルウの名を呼ぶ声が響いた。 「どうしたんだ」  声を返すと同時に、エラリイはドアを開けた。  ポウの部屋の前で、ヴァンが身体をくの字に折っていた。その向かって右隣、エラリイの部屋の丁度正面に当たる洗面所のドアが開け放たれている。中で俯《うつぷ》せに倒れているのは、アガサらしい。その傍らに、片膝を突いて屈み込んだポウの姿がある。 「アガサが殺《や》られたのか」 「そのようだ」  ポウはエラリイを振り返った。 「エラリイ、ヴァンが苦しんでいる。吐かせてやってくれ」 「分った」  エラリイはヴァンに駆け寄り、助け起こして厨房へ連れていった。 「毒を飲まされたわけじゃないんだな」 「うん。アガサを見つけたら、急に」  流し台に顔を伏せ、ヴァンはぜいぜいと喘いだ。その背中をさすってやりながら、 「水を飲む方がいい。胃の中は空っぽだろ。戻すに戻せまい。さあ」 「大丈夫。——自分でやるから、それより、あっちの方を」 「よし」  エラリイは身を翻《ひるがえ》し、厨房を出て洗面所のポウのそばへ駆けつけた。 「死んでるのかい、ポウ」  ポウは目を閉じて頷いた。 「また毒だ。今度は青酸のようだな」  アガサの死体は、ポウの手によって仰向けに直されていた。目を一杯に見開き、口を少し開けて凍りついたその表情は、苦悶というよりも驚愕に近い。  ポウがそっと手を伸ばし、瞼を下ろしてやると、それは嘘のように安らかであどけない顔に変わった。ここで化粧を済ませたところだったらしい。まだ生きているかのように色づいた頬。今にも動きだしそうな赤い唇。ほのかに漂う甘い香りが、ポウの意見の拠り所と見えた。 「ああ」  エラリイはきつく眉根を寄せ、 「例の、扁桃臭《へんとうしゅう》ってやつか」 「そうだ。とにかく、エラリイ、部屋に運んでやろう」  ポウが死体の肩に手を伸ばした時、厨房からヴァンがよろよろと出てきた。痩せた身体を壁に預けながら、彼は蒼ざめた顔でホールを見渡し、 「ねえ、ルルウは? どうしたんだろう」 「ルルウ?」 「そういえば」  エラリイとポウは、この時になって初めてルルウの部屋のドアに目を走らせ、そして同時に、あっと声を発した。 [#ここから枠囲い] 第三の被害者 [#ここで枠囲い終わり]  そこには、赤い文字の例のプレートが、彼らをせせら笑うかのように貼り付いていたのである。 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり] 「何てこった。アガサは四番目だった[#「アガサは四番目だった」に傍点]っていうのか。——ルルウ!」  エラリイは猛然とダッシュして、ルルウの部屋のドアに飛びついた。 「ルルウ、ルルウ! ——駄目だ。鍵が掛かってる。ヴァン、合鍵はないのか」 「そんな。ここはホテルじゃないよ」 「破るしかないな。エラリイ、どけ」 「待て」  身構えるポウを、エラリイは手を挙げて制した。 「ドアは外開きだぞ。体当たりしたって、そう簡単に破れるもんか。外へまわって窓を壊した方が早い」 「そうだな。椅子を一脚持っていこう」  そしてポウはヴァンを振り返り、 「お前も来い」 「ポウ、ヴァン!」  玄関に向かいかけたエラリイが叫んだ。 「見ろよ。扉の紐がほどけてる」  玄関ホールに通じる両開きの扉を、彼は指さした。昨日、二つの把手を紐で結び合わせておいたのが解かれ、その一端がだらりと垂れ下がっているのだ。 「誰か、外へ出たんだな」  手近の椅子を担ぎ上げながら、ポウが云った。 「とすると、ルルウは……」 「分るもんか」  エラリイは二人を急《せ》き立てた。 「早く来るんだ。とにかく部屋の中を調べてみないことには、手の打ちようがないだろう」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  ポウが椅子を振り上げ、力任せに打ちつける。その数撃によって、ルルウの部屋の窓は破られた。  頑丈そうに見えた鎧戸が蝶番《ちょうつがい》ごと引き抜け、内側のガラスと窓枠を突き破った。そこから腕を突っ込んで掛金を外すのは、さほど難しい作業ではなかった。が、窓は更に、内側の把手をベルトで結び合わされており、これをほどくのが一苦労だった。  こうして窓が開けられるまでに、十五分余りかかっただろうか。  窓の高さは、中背のヴァンの胸の辺りまであった。一番上背のあるポウが、壊れた椅子を踏み台にして、ごつい体格に似合わぬ身軽さで中へ飛び込んだ。そのあとをエラリイが続く。ヴァンは、みぞおちを押さえて窓の下に寄りかかっていた。  そして——。  部屋の中には、ルルウの姿はなかった。外へ出ていったまま帰ってきていないのだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  空気は生暖かで、肌に粘りついてくるように感じられた。昨夜いくらか雨が降ったらしい。足下の芝生が湿り気を帯びて柔らかい。  窓から飛び下りてきたポウとエラリイは、荒い呼吸に肩を上下させた。 「手分けして探そう。恐らく、もう生きちゃいないだろうが」  云いながらエラリイは、片膝を折って右足首の包帯をさすった。 「もういいのか、足は」  と、ポウが訊いた。窓を破った時に飛び散ったガラスの破片で、右手の甲に擦り傷を負っている。 「大丈夫だろう。走るくらい平気さ」  立ち上がって、エラリイはヴァンを見やった。ヴァンは芝生の上にしゃがみ込んで、身を震わせていた。 「ヴァン、君は呼ばれるまで玄関口にいるんだ。休んで、とにかく気を鎮めろ」  息を整えながら、エラリイは冷静に指図した。 「ポウは入江の方をまず見てきてくれ。僕は、この建物の周辺と、あっちの屋敷跡の方を調べてみる」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  エラリイとポウが二手に別れて走り去ると、ヴァンはのろりと立ち上がり、十角館の玄関に向かった。  さっき戻した胃液の、酸っぱいような苦いような味が、舌に染みついて離れない。吐き気は収まりつつあったものの、胸は依然、ゴムの塊りでもつっかえているように重苦しい。  空は暗い鉛色である。風は殆どなく、それほど寒くもないのに、セーターの下の身体はさっきからどうしても震えが止まらなかった。  緩慢な足取りでようやく玄関口まで辿り着くと、ヴァンは雨で湿った階段に腰を下ろし、膝を抱えて身を縮めた。そうして、大きく何度も息を吸う。やがて徐々に胸のつっかえは解けていったが、身体の震えは断続的に続いていた。  しばらくの間じっと、松の木の影ばかりが目立つ物憂い風景の中に、ルルウを探しにいった二人の気配を探っていた。——と、意外に早く、遠くでエラリイの声がした。 「ヴァン! ポウ!」  右手の、青屋敷跡の方向だ。  ヴァンは腰を上げ、力の入らぬ足で、それでも小走りにそちらへ向かった。入江からの坂をポウが駆けてくるのが、目の端に映る。まもなく、焼跡を取り囲んだ松並木の切れ目辺りで、二人は合流した。 「ポウ、ヴァン、こっちだ」  アーチ状に被さり合った松の枝の下を抜けると、屋敷の前庭の中央付近に立って、パジャマにカーディガンを羽織ったエラリイが手を振っていた。十角館の方から見ると、丁度並木の陰になる位置である。  大急ぎでそこまで駆けつける二人は、そして、エラリイの足下にあるものを、息を詰めて凝視した。 「死んでるよ」  力なく首を振りながら、エラリイは吐き捨てるように云った。  黄色いシャツにジーンズ、デニムのジャケットの袖を捲り上げたルルウが、そこには俯せに倒れていた。両手を十角館の方向へ差しのべるような格好だ。横を向いた顔が、黒い土の中に半分めり込んでいる。愛用の丸眼鏡は、伸ばした右手の先に落ちていた。 「殴り殺されてる。その辺に転がってる石か瓦礫《がれき》で、頭を打たれたんだろう」  エラリイが、赤黒く割れた死体の後頭部を指し示した。それを見て、ヴァンはぐうっと喉を鳴らし、口を押さえた。収まっていた吐き気が再び襲ってきたのだ。 「ポウ、調べてくれないか。辛いかもしれないが、頼む」 「あ、ああ」  ポウは前髪のうちかかった額を押さえながら、死体の横に屈み込んだ。血と泥にまみれたルルウの頭を少し持ち上げ、土で汚れた顔を覗き込む。丸い目が、異様なほどに大きく見開かれていた。白眼を剥き、唇の端からだらしなく舌を垂らしたその顔は、恐怖のためか苦痛のためか、表情全体が恐ろしくいびつに捩れ曲がっている。 「死斑が出てるな」  ポウは押し殺した声で云った。 「但し、指で押すと消える。死後硬直は——かなり進んでいる。気温の関係もあるから、はっきりとは云えんが、そうだな、死後五時間から六時間といったところか。つまり——」  自分の腕時計をちらと見て、 「殺されたのは、今朝の五時から六時。大体その頃だと思う」 「夜明け頃か」  と、エラリイが呟いた。 「とにかく、ルルウを十角館へ運んでやろう。このままじゃあ可哀想だ」  そう云って、ポウは死体に手をかけた。 「エラリイ、足の方を持ってくれ」  エラリイは反応を示さなかった。カーディガンのポケットに両手を入れたまま、死体の足先辺りに目を落としている。 「エラリイ。おい」  もう一度呼ばれて、エラリイはポウを振り向いた。 「足跡が」  と云って、彼はすっと地面を指さした。  死体の位置は、前庭の中央付近、十角館方向の松並木から十メートル余りの地点である。その辺りを含めて、焼跡周辺の地面には一面灰が黒く積もっている。ところが、昨夜の雨のためだろう、その灰混じりの地面は非常に柔らかな状態になっていて、そこに幾筋かの足跡が形を留めているのだ。 「まあ、いいか」  やがてエラリイは、身を屈めて死体の足を持った。 「行こう。少し寒い」  エラリイとポーの手によって、ルルウの亡骸《なきがら》は仰向けに抱え上げられた。どうどうと轟く波の音が、彼の死を悼《いた》む葬送曲めいて聞こえた。  ヴァンは汚れたルルウの眼鏡を拾い上げた。そして、それを胸に抱くようにして、来た道を引き返していく二人のあとを追った。 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  十角館に戻ると、彼らはまずルルウの死体を部屋に運び入れた。  ドアの鍵は、ジャケットのポケットに入っているのがすぐに見つかった。上着もズボンも汚れてどろどろだったが、とにかくベッドに寝かせてやる。  拾ってきた眼鏡をナイト・テーブルの上に置いたヴァンに向かって、 「洗面器か何かに、水を汲んできてくれないか。それと、タオルもだ。顔だけでもきれいにしてやろう」  死体に毛布を掛けながら、エラリイが云った。ヴァンは黙って頷き、部屋を出ていった。まだ足取りはふらついているが、ショック状態からはだいぶ回復した様子である。  エラリイとポウは、続いて、洗面所のアガサの死体にとりかかった。ベッドに運び、胸の上で手を組ませて、乱れた髪と衣服を整えてやる。 「青酸か」  永遠の眠りについたアガサの顔をじっと見下ろしながら、エラリイは呟いた。 「アーモンドの香りとは、確かによく云ったものだな」 「死後三時間ちょいというとこだ。今朝の八時ぐらいか」  ポウが見解を述べたところへ、ヴァンが入ってきた。 「洗面台の前に、こんな物が落ちてたよ。アガサのだろう」  と云って、ヴァンは黒いポーチを差し出した。 「化粧品入れだな」  エラリイは何気なくそれを受け取ったが、ふと思いついたようにその中を調べ始めた。 「ヴァン。これの口は元から閉まってたのかい」 「いや。開いたまま落ちてて、床にこぼれてた物もあったから……」 「拾い集めてきたのか。まあいい」  ファンデーション、頬紅、アイ・シャドウ、ヘア・ブラシ、クリーム、化粧水……。 「こいつか[#「こいつか」に傍点]」  と、やがてエラリイが取り出したのは、二本の口紅であった。両方のキャップを外して、中の色を比べてみる。 「こっちだな」 「あまり鼻を近づけるなよ。危険だぞ」  エラリイの意図を察したらしく、ポウが云った。 「分ってるさ」  口紅の色は、赤とピンクだった。エラリイは赤い方の匂いを用心深く調べると、頷いてポウにまわした。 「正解だな、エラリイ。たっぷり毒が塗ってあるようだ」 「ああ。正に死化粧だね。白いドレスの死装束、おまけに毒殺ときてる。まるで、童話の中の姫君じゃないか」  エラリイは、改めてベッドのアガサに悲しげな目をくれると、ポウとヴァンを促して部屋を出た。静かにドアを閉めながら、 「お休み、白雪姫」  三人は再びルルウの部屋に向かった。  ヴァンの用意した水とタオルで、汚れた顔を拭いてやる。眼鏡もきれいにして、胸の上に載せてやった。 「張り切ってたのにな、編集長」  エラリイはドアを閉めた。眼前に現れる、「第三の被害者」の赤い文字——。  こうして十角館にはエラリイ、ポウ、ヴァン、三人の男たちだけが残された。 [#ここから3字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  一旦自分の部屋に引っ込んで着替えを済ますと、エラリイはベッドに腰掛け、セーラムを一本灰にしてからホールに出た。  他の二人は、既にテーブルにいた。  右手の甲の傷に貼った絆創膏をしかめっ面で見つめながら、煙草の煙をくゆらせているポウ。ヴァンは、テーブルの上に薬缶を持ってきてコーヒーを淹れている。 「僕にも淹れてくれないか、ヴァン」  ヴァンは黙ってかぶりを振ると、カップを覆い隠すように手に持って、ポウから少し離れた椅子に坐った。 「冷たいね」  エラリイは小さく肩をすくめ、厨房へ向かった。  カップとスプーンを洗い直す。ついでに、食器棚の例の抽斗を開けてみた。殺人予告のプレートは、六枚のまま減っていなかった。 「『最後の被害者』『探偵』『殺人犯人』、か」  ホールに戻って自分のコーヒーを作りながら、エラリイは独りごちた。それから、無言を守るポウとヴァンを交互に見やり、 「残ったこの中に『殺人犯人』がいるとして、まさか今から名乗り出る気はないだろうね」  ポウは眉をひそめて煙を吐き出した。ヴァンは目を伏せてコーヒーを啜った。エラリイは、二人のどちらからも離れた席に、カップを持って腰を下ろした。  不穏な沈黙が訪れた。十角形のテーブルを囲み、ばらばらに坐った三人の間には、隠しようもなく、強い不信感が往来していた。 「全く信じられんな」  妙に空々しい調子で、ポウが口を切った。 「俺たちの内の一人が、他の四人を殺した犯人なんだぜ」 「あるいは中村青司がね」  と、エラリイが付け加えた。ポウはゆっくりと首を振って、 「可能性は否定しないが、やはり俺は反対だな。そもそも、彼が生きているという説自体、賛成しかねる。あまりに絵空事めいてる」  ふふん、とエラリイは鼻を鳴らした。 「じゃあ、この中に犯人がいるわけだ」 「だからそう云ってる」  ポウは憤然とテーブルを叩いた。エラリイは動ずる様子もなく髪を掻き上げながら、 「もう一度、最初から検討してみるかい」  椅子に背を預けて、ちょっと天窓を仰ぎ見た。空は相変わらず、どんよりと暗い。 「そもそもの始まりは、あのプレートだったね。誰かがあらかじめ用意して、島に持ってきた品だ。大してかさばる物でもないから、気づかれないように持ち込むのは容易だったろう。犯人は、僕ら三人の中の誰でもありうる。——いいかな。  三日目の朝、犯人はプレートの予告[#「予告」に傍点]を実行に移した。被害者はオルツィ。犯人は、彼女の部屋に窓から、あるいはドアから忍び込み、首を絞めて殺した。凶器の紐は、死体の首に残っていたと云ってたね、ポウ。これはしかし、手掛かりにはならないだろう。まず問題とするべきなのは、犯人がどうやってオルツィの部屋に入ったか[#「犯人がどうやってオルツィの部屋に入ったか」に傍点]、だ。  発見当時、ドアにも窓にも鍵は掛かっていなかった。両方とも初めから彼女が掛けていなかったとは、勿論そういうこともありうるだろうけど、ちょっと考えにくいね。特に、ドアについてはそうだ。前日、既に例のプレートが現れていて、彼女なんかはかなりそれを不安に思っていただろうから。  とすると、どうだったのか。可能性はいろいろと考えられるが、基本的には次の二つに絞ることができると思う。一つは、彼女が窓の方の鍵は掛け忘れていて、犯人はそこから忍び込んだのだという考え。もう一つは、犯人が彼女を起こして、ドアの鍵を開けさせたとする考えだ」 「窓から忍び込んだのなら、どうしてドアの鍵まで外してあったんだい」  と、ヴァンが質問した。 「プレートを取りに出た、あるいは、ドアにプレートを貼り付けるためとも解釈できるね。しかし、ポウの主張に従って犯人を内部の者に限定するのなら、僕はむしろ後者、即ち、オルツィにドアを開けさせた可能性の方に焦点を当てるべきだと思う。  いくら早朝で、彼女がまだ眠っているといっても、あの窓から入るには多少の物音が伴っただろう。万が一、気づかれでもしたら大事《おおごと》だ。そんな危険を冒すよりも、研究会の仲間だったら、何か口実を設けて彼女を起こし、部屋に入れてもらう方を選ぶんじゃないか。オルツィは、ああいう性格だった。いぶかしく思いはしても、無下につっばねるようなことはできなかっただろう」 「けれども、オルツィは寝間着姿だったんだろう。男を部屋に入れるかな」 「入れたかもしれないさ。緊急の詩だからと強く迫られたら、断わるに断わりきれない子だよ。相手がカーでもなけりゃあね。だけど、その点にこだわるとすれば」  エラリイは横目遣いにポウを見た。 「俄然《がぜん》、怪しくなるのは君だね、ポウ。彼女の幼馴染みなんだから、当然、警戒される度合は僕やヴァンよりも少ないだろう」 「馬鹿な」  ポウは、がっと身を乗り出した。 「よしてくれ。俺がオルツィを殺した? 冗談じゃないぞ」 「勿論、冗談じゃあないさ。オルツィ殺しにおいて、少なくとも一番クロに近い位置にいるのはポウだ。死体を整えてやったという、一見奇妙な犯人の行動も、君の心情を考えれば最も素直に理解できる」 「手首の件はどうなんだ。何だって、俺が彼女の手を切り落として持ち去らなきゃならん」 「まあ待てよ、ポウ。今のが唯一無二の答じゃないことぐらい分ってるさ。可能性は他にいくらでもある。ヴァンかもしれないし、僕かもしれない。ただ、ポウが最もそれらしいというだけの話だ。  さて、手首の問題だね。犯人が、去年の青屋敷の事件を意識していることは確かなんだろうが、何のためにそんな�見立て�を行なったのかということは、正直なところ僕には分らない。——ヴァンはどう思う」 「さあ。僕たちを攪乱《かくらん》するため、とか」 「ふん。ポウは?」 「単に攪乱のためだけで、あんなことをするとは思えんな。大きな音を立てないように手首を切り落とす作業を行なうのは、相当な苦労だったはずだぞ」 「成程。それ相応の必然性があるはずだってわけか。では、それがどんな必然性だったのか」  エラリイは首を捻《ひね》った。 「これは措《お》いとくことにして、とりあえず次へ進もうか。カー殺しだ。  この事件についても、結論から云えば、唯一それしかないという解答は割り出せない。但し、あのあと議論した限りでは、僕らの中じゃ、少なくともヴァンには、カーのコーヒーに毒を入れる機会がなかったことになる。あらかじめカップに毒を塗っておくという方法であれば、誰にでもチャンスはあったわけだけれども、問題のカップに、他のカップと区別のつくような目印がなければ仕方がない。どうもね、こいつはひっかかるとこなんだが。  それでだ、アガサが殺されてしまった今、毒の投入があの場で、手品まがいの早業によって行なわれたのだとすれば、遺憾ながら犯人はこの僕だということになる。しかしまた——」 「前もって俺が、遅溶性のカプセルに毒を入れて与えておいたのかもしれない、か」  ポウが口を挟んだ。エラリイは、にっと笑って、 「そういうこと。あまり頭の良いやり方とは云えないがね。ポウが毒入りカプセルを与えていたとして、あの場合はたまたま、カーがコーヒーを飲んでいる時に倒れたから良かったようなものの、もし何も口にしていない時に毒が効き始めてみろ、真っ先に、医者の卵である自分が疑われる羽目になってしまう。ポウが、それを考えないほどの愚か者だとは思えない。ただ、もう一つ別の方法が、可能性としては存在する」 「ほう。どんなやり方だ、エラリイ」 「ポウは医学部の秀才、しかも、家はO市でも有数の個人病院だ。カーが、自分の身体の不調について、何か相談を持ちかけていたとしてもおかしくはない。あるいは、ポウの病院に通っていたのかもしれない。いずれにせよ、ポウはカーの健康上の問題をよく把握していたと仮定する。  そこへ、あの夜、カーが突然その発作を起こした。例えば、癲癇《てんかん》とかね。で、真っ先に駆け寄ったポウは、手当てするふりをしながら、どさくさに紛れて砒素だかストリキニーネだかを飲ませた」 「余程俺を疑ってるらしいが、その説はあまりに非現実的だな。話にならん」 「そう真に受けることはないさ。単に可能性をあげつらってるだけだから。けれども、今のを非現実的だと云って否定したいのなら、同じ理由で僕の早業説も否定してもらいたいね。  喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、君たちは僕のマジックの腕前を買いかぶりすぎてる。隠し持っていた薬を、自分のカップを取る瞬間に隣のカップへ投げ込むなんて芸当は、口で云うほど易しくはないよ。もしも僕が犯人なら、そんな危険な方法は絶対に避けただろうね。それよりも、あらかじめカップに毒を塗っておいて、何か目印を付けておく方が遥かに容易だし、安全でもある」 「だが、実際問題として、あのカップに目印らしきものはなかった」 「そう。だから、どうしてもひっかかるんだな。本当にあのカップには目印がなかったんだろうか[#「本当にあのカップには目印がなかったんだろうか」に傍点]」  エラリイは、コーヒーの入ったテーブルの上のカップを、首を傾げてしげしげと見つめた。 「傷はなかった。欠けてもいなかった。塗りのむらもなかった。他と同じ、モス・グリーンの、十角形の……いや、待てよ」 「どうした」 「もしかすると、とんでもない見落としをしてたのかもしれないぞ」  エラリイは椅子から腰を浮かせて、 「ポウ。あの時のカーのカップは、確かあのまま取ってあったな」 「ああ。台所のカウンターの隅に」 「もう一度調べてみよう」  云うが早いか、エラリイはすたすたと厨房に向かった。 「二人とも来てくれ」  問題のカップは、カウンターの上に、白いタオルを被せて置いてあった。エラリイはそっとタオルを取り去った。カップの中には、一昨夜のコーヒーが少量残されたままだった。 「やっぱり、そうか」  カップを真上から覗き込むと、エラリイは小さく舌打ちをした。 「見事に騙されたもんだね。あの時気づかなかったのが不思議なくらいだ」 「何がどうだって」  ヴァンが小首を傾げた。ポウも解せぬ顔で、 「俺には他と同じに見えるが」 「見えてないのさ」  エラリイは勿体ぶった口調で云った。 「十角形の建物に十角形のホール、十角形のテーブル、十角形の天窓、十角形の灰皿、十角形のカップ……。至るところで僕らの注意を引きつけた十角形の大群が[#「至るところで僕らの注意を引きつけた十角形の大群が」に傍点]、僕らの目を見えなくしてしまっていた[#「僕らの目を見えなくしてしまっていた」に傍点]」 「え?」 「このカップには、やはり目印があったんだ。明らかに他のカップとは異なる点がね。まだ気づかないかい」 「あ……」  ポウとヴァンが同時に声を洩らした。 「分ったね」  エラリイはしたり顔で頷いて、 「この建物にちりばめられた、十角形という意匠全体が、大きなミスディレクションになっていたわけさ。このカップは十角形じゃない[#「このカップは十角形じゃない」に傍点]。十一個[#「十一個」に傍点]、角がある[#「角がある」に傍点]」 [#ここから3字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり] 「振り出しに戻る、だね」  ホールのテーブルに戻ると、エラリイは改めて二人の顔を見据えた。 「カップの目印が見つかった以上、ヴァンにも、勿論ポウと僕にも、カーを毒殺することは同様に可能であったわけだ。十角形のカップの中には、一個だけ十一角形のものが混じっていた。それに毒を塗り付けておいて、もしも自分にまわってきた場合には、口をつけなければそれで良かった」 「何で一個だけあんなカップがあったんだろう」  と、ヴァンが云った。 「中村青司の悪戯《いたずら》じゃないかね」  エラリイは薄い唇に微笑をたたえた。 「十角形づくしの建物に、たった一つだけ十一角形を埋もれさせておくなんて、なかなか心憎い趣向じゃないか」 「それだけの意味しかないのかな」 「と思うね。確かに、何やら暗示的な趣向ではあるけれども。  で——、犯人はたまたまあの十一角形のカップを見つけ、利用することにした。まさか、犯人が自ら用意したものではあるまい。特注でもしなきゃあ、あんな代物は手に入らないだろうからね。島へ来てから、偶然発見したに違いない。そして、その機会は僕らの誰にでもあったってわけだ」  エラリイはテーブルの上に両肘を突き、目の高さで指を組み合わせた。 「さて、犯人は次に、他の者たちが寝静まるのを待って、死体のあるカーの部屋に忍び込んだ。そこで、御苦労にもまた死体の左手を切り取り、それをバスタブの中に放り込んでおいた。この行為の目的も、オルツィの場合と同様、僕には分らない」 「アガサが物音を聞いたと云ってたな。恐らくあれが、その時の音だったんだろうが」 「そうだね、ポウ。みんなが神経過敏になり始めていたあの状況だ。犯人は、かなりの危険をあえて冒したことになる。とすると、やはり手首の件には、何か強い目的意識があったと考えられるわけだが。どうも謎だな、これは」  エラリイは眉間に深い縦敏を刻んだ。 「とにかく、いずれの事件についても、僕ら三人には同等のチャンスがあったってことを確認しておいて、次へ行こうか」 「次は、アガサ——いや、ルルウが先か」  と、ヴァンが受けた。エラリイは、違うね、と首を振って、 「その前に、僕、エラリイの殺害未遂がある。昨日の地下室の事件さ。  あの前夜、カーが倒れる直前に、確か僕は地下室のことを口に出したね。それを聞いた犯人が、恐らくカーの手首を切ったり例のプレートを貼ったりしたあと、外へ忍び出してあの仕掛けをしておいた、と考えられる。あの場には全員が居合わせていたから、やはり誰の仕業でもありうるわけだ。被害者として、僕自身を消去したいところだけれども」  エラリイは二人の顔を窺った。ポウとヴァンは黙って目を見合わせ、否定の意を示した。 「そうだな。あれが狂言じゃなかったって証拠はない。軽い怪我でもあったしね。——で、次に、今朝のルルウ殺しだが」  エラリイはここで少し考え込んだ。 「あれは、いささか妙だった。屋外のあんな場所で、しかも撲殺。それまでの二件で犯人が執着を示した手首の見立ても、施されていない。何やら異質な感じがするね」 「確かにな。しかし、それにしても、三人揃って犯人でありうることに変わりはなかろう」  と、ポウ。エラリイは細い顎をしきりに撫でまわしながら、 「そりゃあそうだが……。ルルウの殺害状況についての考察は、ちょっとあとまわしにしとこう。もう少し考えてみたい。  最後に、アガサの事件だ。さっき調べて分った通り、青酸化合物が彼女のルージュに仕込まれていた。問題は、いつどうやって毒が塗られたか[#「いつどうやって毒が塗られたか」に傍点]、この一点だけだね。  ルージュは常に、彼女の部屋に——あのポーチの中にあったはずだ。オルツィとカーが殺された一昨日以降は、アガサはすっかり神経質になってたから、どんな時でも部屋に鍵を掛けるのを忘れなかっただろう。犯人が忍び込む隙なんか全くなかったはずだ。ところが一方、アガサは毎日口紅を使っていたね。その彼女が今朝倒れたとなれば、毒が仕込まれたのは、昨日の午後から夜にかけてだということになる」 「エラリイ、いいかい」 「何だ、ヴァン」 「アガサが今朝使ったのは、昨日までとは違う色だったように思うんだけど」 「何?」 「今朝のは、いやに鮮かな色だったろう。だから、死人の唇のような気がしなくって、何とも云えない気持ちで……」  ヴァンはとつとつと言葉を繋げた。 「昨日や一昨日は、もっとくすんだピンク色だったよ。あの、ローズ・ピンクってやつ」 「ははあ」  エラリイは、ぱちんと指を鳴らした。 「そういえば、ポーチにルージュは二本あって、片方はピンクだったな。成程。赤の方の一本にだけ、もっと前から毒が塗ってあったってわけか。一日目か二日目か、まだアガサが警戒していない頃に部屋に忍び込んで、赤いルージュに毒を仕込んでおいた。ところが彼女は、今朝になるまでそっちを使わなかった」 「時限爆弾だな」  低く唸るように、ポウが云った。 「こいつもまた、三人平等にチャンスはあったわけだ」 「結局そういうことだね。しかし、ポウ、この三人の中に犯人がいると前提したからには、もうこれ以上、誰でもありうると云ってうやむやにしておくわけにもいかないだろう」 「どうしようって云うんだ」 「とりあえず、多数決でも採ろうか」  エラリイは涼しい顔で云った。 「というのは冗談だけどね、とにかくそれぞれの意見を聞いてみようか。誰が一番怪しいと思う、ヴァン」 「ポウだね」  意外なばかりにあっさりと、ヴァンはそう答えた。 「何だと」  ポウは顔色を変え、くわえかけていた新しい煙草をテーブルに放り出した。 「俺じゃないぞ。ああ、ま、そう云っただけじゃあ信じてはくれまいがな」 「無論、手放しで信じる気はないね。僕にしても、どちらかといえば、怪しいのはポウだと思う」  エラリイは淡々と云ってのけた。ポウは動揺の隠せぬうわずった声で、 「何故だ。どうして俺が怪しい」 「動機さ」 「動機? 動機だと——何だって俺が、仲間を四人も殺さなければならん。聞かせてもらいたいな、エラリイ」 「君の母上は、現在精神科の病院に入っておられるそうじゃないか」  尚も淡々とエラリイが云い放つと、ポウはぐっと喉を詰まらせ、テーブルの上で両手を握り締めた。見る見る内に拳は色を失い、小刻みに震えだす。 「何年か前に、君の母上は、君の家の病院の入院患者を殺そうとして捕まった。その時既に、彼女の精神は錯乱状態にあって……」 「本当かい、エラリイ」  ヴァンが目を見張った。 「そんなこと、全然」 「父上が揉み消したのさ。病院の風評に関わるからね。殺されそうになった患者に、それなりの金でも掴ませたんだろう。間に入った弁護士が僕の親父の友人でね、そこから僕は知ったんだ。医者の妻っていうのは、精神的にかなりの重責を背負わされる立場だろう? 神経の細い女性には務まらないものなのかもしれない。あるいは、愛する夫を患者に盗《と》られる、といったふうに思い込んで……」 「やめろ!」  ポウが怒声を投げた。 「それ以上、母のことは云うな」  エラリイはひゅっと口笛を鳴らして、口を結んだ。ポウはしばらくの間、拳を握り締めたままうなだれていたが、やがて、ふっと低く笑って呟いた。 「つまり、俺のことを、狂人かもしれんと云いたいわけだ」  そして彼は、面変わりしたような厳しく険しい形相で、エラリイとヴァンを睨みつけた。 「云っておくがな、お前たち二人にも動機はある」 「ふうん。そりゃ、是非聞きたいね」 「まず、ヴァンだ。お前は確か、中学の頃、強盗に両親を殺されたんだったな。妹も一緒にだったか。だから、お前にとっちゃあ、人殺しをネタにして喜んでる俺たちのような人間は、随分と腹の立つ存在なんじゃないのか」  とげとげしく繰り出されるポウの言葉に、ヴァンはさっと蒼白になった。 「そんな。腹が立つようだったら、こんな研究会なんかに入ったりしないよ」  彼は反論した。 「あれはもう、昔のことだ。それに、ミステリ・ファンが人殺しを礼賛しているなんて、僕はこれっぽっちも思ってやしない。だから、こうしてこんな所にまで一緒に来てるんじゃないか」 「どうだかな」  ポウは射るような視線をもう一人の仲間に移し、 「それに、エラリイだ」 「どういう動機だい」 「何のかんのと云いながら、お前は、いちいち自分にたてつくカーの存在が邪魔でならなかったんじゃないのか」 「僕がカーを?」  エラリイはきょとんと目を丸くした。 「はあん。他の三人はカムフラージュだって云うんだな。およそ馬鹿げた考えだねえ。あいにく僕は、邪魔に感じるほど彼を意識しちゃいなかった。他人が自分をどう思おうが、そんなことにはさして興味のない人間なんでね。それくらい君にも分ってるだろう。それとも、僕がカーを殺したいほど憎んでいたなんて、本気で思ってるのかい」 「お前なら、ほんのささやかな動機で充分さ。小うるさい蝿を殺す程度のものでな」 「おやおや。そんな冷血漢に見えるのかな」 「冷血漢、とはちょっとニュアンスが違うが、人格的な欠陥って意味では同じだ。お前は洒落で人を殺せる男だと、俺は思うぜ。——そうは思わないか、ヴァン」 「かもしれないね」  ヴァンは無表情な目で頷いた。エラリイは一瞬、何とも複雑な表情を見せたが、すぐに苦い笑みを浮かべて肩をすくめ、 「やれやれ。日頃の行ないには気をつけておくべきだねえ」  そしてそれっきり、三人は口を噤んでしまった。  陰鬱に澱んだホールの空気が、強い粘性をもって、彼らそれぞれの心に絡みついた。周囲の白い十面の壁は、これまでになくいびつに歪んで見えた。  そんな状態がどれほど続いた頃だろうか、不意に、ザアーッと、風と木のざわめきが鳴り渡った。と思う間に、屋根を叩く細かな音が聞こえ始める。 「おや。雨か」  天窓のガラスに浮かび始めた水滴を眺めながら、エラリイは呟いた。雨音は徐々に大きくなってくる。島に閉じ込められた彼らを、更に孤立させてやろうとでもいうかのように、強く、激しく……。  と、突然、声にならぬ声を上げ、エラリイは天井を仰いだまま立ち上がった。 「どうした」  ポウが胡散《うさん》臭そうに問うた。 「いや。ちょっと、待ってくれ」  その言葉が終わるか終わらないかの内に、エラリイはキッと玄関の方を振り返り、椅子を蹴って駆けだした。 「足跡だ[#「足跡だ」に傍点]!」 [#ここから3字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり]  雨はかなりの勢いで降りしきっている。その昔と波のどよめきとがあいまって、小さな島全体が、何か巨大な渦の虜《とりこ》にならんとしていた。  ずぶ濡れになるのも省みず、エラリイは雨の中を駆けた。松の木のアーチをくぐる迂回路をとらず、まっすぐに右手の青屋敷跡の方へ向かう。松並木を突っ切るつもりなのだ。  途中で一度立ち止まり、後ろを振り返った。ポウとヴァンが追いかけてくる。 「急げ! 雨で足跡が消えてしまう」  叫ぶや、全力でまた駆けだした。  何度か下草に足を取られながらも、木立ちの間を走り抜けた。そうして屋敷の前庭に出た時、ルルウの死体が倒れていた辺りの例の足跡は、まだかろうじて形を留めていた。  まもなくポウとヴァンが追いついてくる。乱れた呼吸を整えながら、エラリイは足跡の方を指さした。 「僕らの運命がかかってるつもりで、とにかくあの様子をよく覚えておいてくれ」  冷たい雨に打たれながら、彼らは地面に残された幾筋かの足跡を目で辿った。水が溜り、流れ出し、次第に形が崩れていくそれらの状態を、懸命になって頭に焼き付ける。  しばらくして、エラリイは濡れた前髪を手櫛《てぐし》で掻き上げながら、踵を返した。 「戻ろう。すっかり身体が冷えてしまった」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  濡れた服の着替えを済ますと、三人はすぐにまたホールのテーブルに集まった。 「二人とも、こっちの席に来てくれないか。重要なことなんだ」  そう云ってエラリイは、部屋から用意してきた一冊のノートを開き、ペンを持った。ポウとヴァンは多少の躊躇を見せたが、やがて離れて坐っていた席を立ち、エラリイの両隣に移った。 「忘れない内に図を描いておこう。いいかい。まず、これが青屋敷の敷地だ」  エラリイはノートのページ一杯に、縦長の長方形を描いた。続いて、その上半分に横長の長方形を描き、 「これが建物の跡——瓦礫の山だね。そして、ここが崖から岩場に降りる階段」  大きい長方形の左辺中程に印を付ける。 「右下が、十角館のある方向だ。下辺は松並木。で、ルルウはここに倒れていた」  と、中央右寄りの下の方に人形《ひとがた》を描き込んだ。エラリイは二人の顔を交互に見て、 「さあ、足跡は? どんなふうだった」 「まず、屋敷跡への入口——例の松のアーチだな、ここから、階段へ向かっているのが一筋あった」  せわしなく顎髭をいじりながら、ポウが答えた。 「次に、同じ入口からまっすぐにルルウの死体へ向かう足跡と、戻っていくのとが、入り乱れて三筋ずつ。それから……」 「階段からルルウの倒れていた地点に向けて、二筋。かなり乱れていた」  自分でも云いながら、エラリイは次々と、それらの足跡を表す矢印を図中に描き込んでいった。ポウは頷いて、 「そう。それともう一筋、死体からまっすぐ階段へ向かうのがあったと思うが」 「そうだ。——こうだったね。ヴァンも、これでいいかい」 「うん。多分、そんな感じだったと思うけど」 「OK。出来上がりだ」  全部の矢印を描き終えると、エラリイは、三人ともが見やすい位置にノートを置き直した。(Fig.3「現場見取り図」p.291[#画像"fig03.jpg"を参照]参照) 「あの時、僕は、松のアーチから屋敷跡へ出てすぐに、ルルウの死体を発見した。まもなく君たち二人もやって来て、まっすぐに死体のそばへ駆けつけた。そしてそのあと、僕とポウとで死体を抱え、続いてヴァンが、来た時と同じ経路で十角館へ戻ったんだったね。従って当然、この、入り乱れて往復している三組は、僕ら三人の足跡だってわけだ。これは検討の対象から外せるとして」  エラリイは言葉を切って、湿った髪を撫でつけた。 「おかしいとは思わないかい[#「おかしいとは思わないかい」に傍点]」 「おかしい? この足跡がか」  眉を寄せ、ポウが訊き返した。 「そうさ。凶行現場に近づいた人間は、僕とポウとヴァン、それと犯人だね。ルル自身のものも含めて、死体のそばへと向かう足跡は全部で五人分あるはずで、その数は合っている。ところが」 「ちょっと待てよ、エラリイ」  と云って、ポウはノートの図を睨んだ。 「ルルウを発見した時に付いた俺たち三人の足跡を消すとだ、残るのは、入口から階段へ向かうものが一筋、階段から死体へ向かうのが二筋、それから、死体から階段へ戻っていくのが一筋……」 「どうだい。問題ありだろう。入口から階段に向かった足跡は、ルルウのものと考えて間違いない。階段から死体まで続くものの内の片方も、当然ルルウのだ。とすると、残る二筋——階段と死体と往復する一組が犯人の足跡だということになるわけだけれども、はて、犯人はどこから来てどこへ戻っていったのか[#「犯人はどこから来てどこへ戻っていったのか」に傍点]」 「階段……」 「そうだ。ところが[#「ところが」に傍点]、その階段の下には海しかないんだな[#「その階段の下には海しかないんだな」に傍点]。覚えてるだろう。あの下の岩場は、左右ともに切り立った断崖だ。海からこの島へ上陸するためには、この岩場からの階段、入江の桟橋からの石段か、どちらかを利用するしかないわけだが、じゃあ一体、犯人はこの岩場までどうやって来たのか。ここからどこへ行ったのか。入江の方へまわるには、あの出っ鼻みたいな絶壁を迂回するしかない。水深はかなりある。犯人は泳がなきゃならないわけだよ、この季節に。水温が一体、何度あると思う」  ポウは煙草入れを取り上げながら、ふうむと低く喰った。ヴァンはテーブルの上のノートにじっと目を注いだまま、 「それで?」 「だから、問題は、犯人が何故そういう行動を取ったのかってことなんだがね。さて?」  この緊迫した状況の中で、エラリイは独り謎かけを楽しんでいるようにさえ見えた。ヴァンは、ダウン・ベストのポケットに両手を潜り込ませて黙り込んだ。  ふむ、とまた低い唸りを洩らしてから、ポウが口を開いた。 「犯人は、この十角館にいる俺たち三人の内の一人。だったら彼は、何もわざわざ岩場に降りて、海の中を通るなどして帰ってくる必要はなかったわけだな。歩いてここまで戻ってくればいい。足跡の大きさや形は、地面を踏みにじるようにして歩けばいくらでもごまかせただろう。専門の鑑識課員がいるわけじゃないしな。そうしなかったってことは、つまり、何かのっぴきならぬ理由があって、海の方へ戻っていかざるをえなかったのだと考えられるが」 「その通りさ。答はあまりにも明白だろ」  満足そうに頷いて、エラリイは椅子から立ち上がった。 「というところで、食事にしようじゃないか。もう三時だ」 「食事?」  ヴァンが不審そうな日を向けた。 「こんな時に食事だなんて。一体、犯人は何故……」 「あとあと。今更そう焦ることもないさ。僕ら、朝から何も食べてないんだぜ」  エラリイはくるりと背を向け、独り厨房に向かった。 [#ここから3字下げ] 8 [#ここで字下げ終わり] 「さて」  とエラリイが口を切ったのは、携帯食ばかりの簡単な食事を終え、コーヒーを一杯飲み干した時だった。 「空腹も満たされたことだし、さっきの問題の決着をつけておこうか。どうだい」 「無論、賛成だ。いい加減、思わせぶりはやめにしてくれ」  と、ポウが応じた。ヴァンも静かに頷く。  足跡のことを云いだしてからのエラリイの言動は、他の二人をかなり当惑させていた。食事の間もずっと、彼らは、ちらちらと疑わしげにエラリイの様子を窺い続けていたのだが、彼の態度は終始悠然としたもので、その口許には普段と変わるところのない微笑すら見られた。 「よし」  エラリイは食器とカップをテーブルの中央に押しやり、先程のノートを開いた。そして、例の図にちらりと目をくれてから、 「要点のおさらいだ。いいかな。  犯人の足跡として考えられるのは、死体と階段とを往復する二筋だけだってことだったね。つまり、犯人は海から来て海へ戻っていった[#「海から来て海へ戻っていった」に傍点]ことになるわけだ。そこで、犯人は僕らの中の一人であるという前提に従って、彼が辿ったルートを追ってみると——。  まず彼は、十角館から入江に行き、そこから海に入って岩場まで泳ぎ、階段を昇って屋敷跡に出た。犯行後は、またその経路を逆に辿って、ここまで帰ってきたことになるね。さっきポウは、海に戻る必然性がどうこうと云ってたけれども、一体どこにそんなものがある。どう考えてみたって、およそナンセンスな話さ。必然性も現実性もまるでない」 「だが、エラリイ、それじゃあ、犯人は俺たち以外に、別にいると……そいつが海から——この島の外からやって来たってことになってしまう」 「どうしてそうであってはいけないんだい、ポウ」  エラリイはぱたんとノートを閉じた。 「犯人は外部の者である[#「犯人は外部の者である」に傍点]と、そう考えるのが、この場合最も論理的だろう。僕らがこの島から出ることはできないが、第三者が外からやって来ることはいくらでも可能なんだ。それならば、海を泳いだなんていう無理な解釈の必要もない。船を使った[#「船を使った」に傍点]と考えればいいんだからね」 「船……」 「オルツィにしてもルルウにしても、何故、殺されたのが朝早くだったのか。僕らに気づかれないように島へ上陸するには、夜中から早朝にかけての時間が最適だからだ」  エラリイはポケットを探ってセーラムの箱を取り出したが、空だと分ってテーブルに放り出した。そして、意見を求めるように二人の顔を見やる。 「吸うか」  と云って、ポウが、ラークの入った煙草入れをエラリイの前に滑らせた。 「賛成らしいね」  一本取ってくわえ、エラリイはマッチを擦った。 「ヴァンは?」 「エラリイが正しいと思う。——僕も一本いいかい、ポウ」 「構わんよ」  エラリイがポウの煙草入れをヴァンにまわす。 「ところで、エラリイ、お前の説が正しいとしてもだ、まず、何だって犯人はあんなプレートを作ったんだ」  と、ポウが問うた。 「『被害者』だけじゃなく、『探偵』や『殺人犯人』まで用意してあるという、そこがあのプレートのミソだったのさ」  エラリイは目を細くし、ふっと煙を吐いた。 「第一に、『犯人』が七人の中にいるのだと、僕らに信じ込ませる効果がある。それだけ、外部に対しては無防備になるってことだ」 「第二は?」 「心理的圧迫、だろうね。最後の方に残った何人かが、互いを疑い、殺し合うかもしれない、と、そこにも犯人の狙いはあったはずだ。自分の手を汚さずに死体を稼げるわけだからね。いずれにせよ、この犯人の最終日的は、七人の皆殺しにあると考えて良さそうだ」 「ひどい話だ」  煙草に火を点け、ヴァンが呟いた。 「もう一つ疑問に思うのは」  太い親指をこめかみに押しっけながら、ポウが云った。 「ルルウを殺したあと、犯人は何故まっすぐに海の方へ戻っていったんだろうか」 「何故、とは?」  煙草入れを返しながら、ヴァンが問い返した。 「犯人としてはあくまでも、内部の人間の犯行だと思わせたかったはずだ。とすれば、あの場合、屋敷跡の入口と階段とを往復するなり何して、足跡を余分に残しておくのが賢明な方策だろう。そのくらいの工作は、やろうと思えばできたはずだが」 「足跡が残っていることに気づかなかったんじゃないかな」 「そしてそのまま、本土へ帰っていったわけか。『第三の被害者』のプレートは、じゃあ、いつ貼り付けたんだ」 「それは」  ヴァンが答に詰まると、ポウはエラリイの方に向き直り、 「どう解釈する、エラリイ」 「そいつはこうさ」  と云って、エラリイは煙草を灰皿に置いた。 「ヴァンの云うように、足跡のことを失念していた可能性もありうるね。そうじゃなかったとすれば、犯人としてはやはり、入口と階段とを往復する足跡を作りたかっただろう。それをしなかったということは、そこに何かやむをえぬ事情があったってことだが、ルルウ殺しの状況を考え合わせてみるとその説明がつく。  ルルウは撲殺されていた。しかも、階段からの足跡が相当に乱れていたことから推察すると、どうやらあいつは、犯人に追いかけられたものらしい。恐らくルルウは、あそこの岩場で、犯人と船を——多分、犯人が島から離れようとしているところを見てしまったんだな。  ルルウは事態を察し、逃げ出した。それに気づいた犯人が、慌ててあとを追いかける。この時、当然ルルウは、助けを求める声や悲鳴を上げたに違いない。足の遅いルルウに追いついて殴り殺したあと、犯人は焦った。今の声を聞いて、他の者がすぐにでも起き出してくるかもしれない、とね。隠れてやりすごすこともできるが、船を見られてしまってはまずい。仕方なく、足跡のことは捨て置いて岩場に戻り、とりあえず船を入江の方へまわして、ルルウを探し始める声はないかと上の様子を窺った。幸運なことに、誰も飛び出してくる気配はない。そこで犯人は、十角館へ上がり、台所の窓からでも中を覗いてみて誰も起きていないことを確かめると、ホールに忍び込んでプレートを貼り付けた。そしてすぐ、足跡の件にはもう構わずに島を離れたってわけだ。もう一度屋敷跡まで引き返すのは、時間的にも危険が大きすぎるからね」 「ふうむ。犯人は、ゆうべもずっとこの島にいたわけか」 「毎晩来ていたんだと息う。夜になるとやって来て、僕らの動きを監視していたのさ」 「台所の窓の下に潜んで、か?」 「まあ、そんなとこだろうね」 「その間、船は入江か岩場に付けっ放しにしてあったと?」 「隠しておいたのかもしれないな。小さなゴムボートならば簡単にたためる。林の中にまで持って上がることもできるし、錘《おもり》を付けて水の中に沈めておいてもいい」 「ゴムボート」  ポウは眉をひそめた。 「そんなもので、本土と行き来ができるのか」 「本土である必要はないのさ。すぐ近くに絶好の隠れ場所があるだろう」 「——猫島?」 「そう。猫島って所がある。犯人はあそこにキャンプを張っているんだと思うね。あの島からなら、手漕ぎのゴムボートでもあれば充分だよ」 「成程。あそこか」 「もう一度、犯人の行動を整理しておこうか」  エラリイはノートを脇へ押しやると、いつのまに取り出したのか、青裏のバイシクルをテーブルの上で弄《もてあそ》びながら、話を続けた。 「犯人は昨夜も、猫島からこの島へ渡ってきた。僕らの動向を窺い、次なる犯行のチャンスを探したがそれは空しく、明け方になって岩場へ引き上げた。恐らく、この時にはまだ、ゆうべの雨はやんでいなかったんだろう。そのため、屋敷跡の入口から階段へ向かう犯人の足跡は残らなかったんだな。  さて、そうして犯人が岩場でボートの準備をしている内に、雨は上がり、地面は足跡の残る状態となった。そこへ、ルルウがやって来たわけだ。どうしてあいつが、そんな時間にあそこへ出ていったのかは不明だけどね。  犯人は、自分の姿とボートをルルウに目撃されてしまった。慌てて手近の石ころを拾い上げると、ルルウを追いかけ、口を封じた。悲鳴で人が駆けつけるのを恐れ、一旦ボートを出して入江へ。しばらくの間様子を窺い、誰も起きてこないと見ると、十角館に入ってプレートを貼った。——こういう次第だね」  ポウはずっと、こめかみに押しつけた親指を離さずにいた。そのままの姿勢でテーブルに片肘を突くと、苦々しげに、 「じゃあエラリイ、その、猫島に潜む真犯人というのは、一体誰なんだ」 「中村青司さ、勿論」  エラリイは僅かの躊躇もなく断言した。 「僕は最初からそう云ってる。さっきポウが怪しいなんて云ってたのも、全くの本気だったわけじゃない」 「青司が生きているという可能性は、まあ、一歩譲って認めるとしようか。しかし、もっと他の人間ならばどうか知らんが、その青司に、俺たちを皆殺しにするどんな動機があるって云うんだ。そんな心当たりは、俺にはないぞ。狂ってるんだの一言で片づけちまうのか」 「動機ね。それが、実は大ありなのさ」 「何?」 「何だって」  ポウとヴァンが同時に云って、身を乗り出した。エラリイは、テーブル上にリボン・スプレッドしたカードを鮮かな手さばきで集め取り、 「さっきはいろいろと、お互いの動機をあげつらっていたけどね、あんなのよりもずっと明確な動機が、中村青司にはあるんだ。僕も、昨夜自分の部屋に戻ってからやっと気づいたんだが」 「本当か」 「何なんだい、エラリイ」 「中村千織。覚えてるだろう」  薄暗いホールに、しばし沈黙が流れた。  遠くから波の音だけが響いてくる。屋根を打つ雨音は、既に去っていた。にわか雨だったらしい。 「——中村千織。あの?」  ヴァンの声が小さく落ちた。 「そう。去年の一月、僕らが不注意で死なせてしまった後輩、あの中村千織だ」 「中村——中村青司、中村千織……」  呪文でも唱えるように、ポウが呟く。 「しかしそんな、まさか」 「その、まさかさ。僕にはそうとしか考えられない。中村千織は中村青司の娘だった、と」 「ああ……」  ポウは鋭く眉根を寄せると、煙草入れのラークを一本叩き出して、直接口にくわえ取った。ヴァンは頭を抱え込むように両手を後頭部へまわし、目を閉じた。テーブルのカードから手を離し、エラリイは続けた。 「半年前この島で起こった事件の犯人は、中村青司その人だった。彼は、行方不明になった庭師か、あるいは他に誰か、自分と体格や年齢、血液型の一致する男を探してきて、自分の身代わりに焼死させ、生き残ったんだ。そうして、娘を殺した僕らに対する復讐を……」  と、突然——。  ぐふっ、と異様な声が、ポウの喉で爆発した。 「どうしたんだ」 「ポウ!」  ガタンと激しく椅子が鳴った。ポウのごつい身体が、もんどりうって床に倒れ落ちた。 「ポウ!」  エラリイとヴァンが、駆け寄って抱き起こそうとする。その手を弾《はじ》き飛ばさんばかりに、ポウは猛烈な力で肢体をよじらせた。そしてやがて——凄まじい痙攣と共に、仰向けに転がった彼の四肢が宙に突き上げられ、そのままぐったりと床に落ちた。それが、ポウの最期だった。  先の方を吸っただけで投げ出されたラークが、青いタイル張りの床の上で紫煙を立ち昇らせている。エラリイとヴァンは、動かなくなった「最後の被害者」の姿を、ただ呆然と見下ろすばかりだった。 [#ここから3字下げ] 9 [#ここで字下げ終わり]  日没の近づく空は、相変わらず鉛色の雲で低く覆われていたが、再び雨の降りだす気配はない。木立ちを震わせる風はばったりとやみ、|※[#「※」は「尸」+「婁」 Unicode=U+5C62]立《しばだ》つ波の声も、生気を失ったかのように沈滞して聞こえた。  ポウの死体は、二人の手で彼の部屋に運び込まれた。 部屋の床には、例のジグソー・パズルが、いつかヴァンが見た時の形から殆ど進行しないままに残されていた。首を傾げた仔狐の愛くるしい顔が、ひどく悲しげに見える。  二人は、その未完成のパズルを壊さないようによけて通り、ポウの大きな身体をベッドに寝かせた。ヴァンが毛布を掛け、エラリイが瞼を閉じてやる。苦悶に歪んだその口許からは、微かにアーモンドの香りが漂っていた。  しばし黙祷《もくとう》を捧げた後、二人は交わす言葉もなくホールに戻った。 「正に時限装置だな。畜生め」  床の上で燃え続けていたポウの煙草を踏み消して、エラリイは怒りに声を震わせた。 「ポウの煙草のストックの中に、青酸入りのを一本混ぜておいたに違いない。部屋に忍び込んで、注射器でも使って注入したんだ」 「中村青司が?」 「勿論、そうさ」 「僕らも危なかったのか」  ヴァンはぐったりと椅子に身を沈めた。エラリイはつっとテーブルに歩み寄り、ランプに火を入れた。白い十角形の部屋が、薄明りにゆらゆらと揺れ始める。 「中村青司……」  炎に目を凝らしながら、エラリイは呟いた。 「考えてみればね、ヴァン、そもそも青司はこの十角館の主《あるじ》だったんだ。島や建物のことを熟知している上に、十中八九、彼はここの全室の合鍵を持っているんだと思う」 「合鍵を?」 「マスター・キーかもしれないね。青屋敷に火を放ち、姿をくらます時に持ち出したのさ。だとすれば、彼は誰の部屋にでも自由に出入りできたわけだ。アガサの口紅に毒を仕込むのも、オルツィを殺すのも簡単だった。ポウの煙草も然りだ。彼は僕らの死角を縫って、影のようにこの建物を徘徊《はいかい》していた。僕らは、十角館という罠に飛び込んだ哀れな獲物だったってわけさ」 「彼は昔建築の仕事をしていたって、何かで読んだ覚えがあるけど」 「らしいね。この十角館も、彼自身が設計したものなのかもしれない。文字通り、彼の造った……いや、待て。ちょっと待てよ。ひょっとすると」  エラリイは鋭い目でホールを見まわした。 「どうしたんだい、エラリイ」 「今思いついたんだけどね、カーの毒殺に使われた、例のカップ」 「あの、十一角形の?」 「そうだ。結局、あれは目印として利用されたわけじゃなかったことになるが。覚えてるかい、ヴァン。あのカップについて、君が云っただろう。どうしてこんなものが一個だけあるのか[#「どうしてこんなものが一個だけあるのか」に傍点]、ってね」 「ああ、そういえば」 「あの時、僕は、青司の悪戯だろうと答えた。しかし何か暗示的な趣向ではある[#「しかし何か暗示的な趣向ではある」に傍点]、とも。十角形だらけの建物の中に[#「十角形だらけの建物の中に」に傍点]、一つだけ置かれた十一角形[#「一つだけ置かれた十一角形」に傍点]。どうだい。何か閃かないか」 「十角形の中の十一角形、か。それが、何かを暗示しているのだとすれば……」  呟く内、ヴァンはぴくりと眉を動かした。 「もしかして、十一番目の部屋があるとか」 「そう」  エラリイは真顔で頷いた。 「そう思うんだ、僕も。この建物には、中央のこのホールを除けば、十個の、同じ台形をした部屋がある。バス、トイレ、洗面所を一部屋と考えて、台所、玄関ホール、七つの客室——この十部屋以外にもう一室、どこかに部屋が隠されているのだとすれば」 「青司は台所の窓なんかからじゃなくって、その隠し部屋[#「隠し部屋」に傍点]の中から、常に僕たちの様子を探ることができた、と?」 「その通りさ」 「でも、どこにそんな隠し部屋が」 「建物の構造から考えて、地下以外にはないだろうね。そして、思うに」  エラリイは唇を曲げて薄く笑った。 「あの十一角形のカップこそが[#「あの十一角形のカップこそが」に傍点]、その部屋の扉を開く鍵なんだ[#「その部屋の扉を開く鍵なんだ」に傍点]」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  それ[#「それ」に傍点]は、厨房の床下に設けられた収納庫の中にあった。  収納庫自体は、何の変哲もないものだった。床の一部分が、縦八十センチ、横一メートルほどの大きさの上げ蓋になっていて、把手を引くと、簡単に持ち上げることができた。  穴の深さは五十センチ程度である。四方の側面と底面とは、白く塗られた板張り。中には何も入っていない。 「ここだ、ヴァン」  と、エラリイが指さした。 「あるとすれば、カップの置き場所と同じこの台所だと思ったんだが、やはりそうか」  懐中電灯の光が照らし出した、収納庫の底板——その中央に、意識して見なければ見過ごしてしまうだろう、直径数センチの浅い穴があいており、その少し外側には、円形の切れ目が見られる。 「ヴァン、カップを貸してくれ」 「残ってるコーヒーはどうしようか」 「この際だ。捨ててしまえ」  エラリイは例のカップを受け取ると、床に腹這いになった。右手を収納庫の中に伸ばし、中央の穴にカップを嵌め込んでみる。 「やった。ぴったりだ」  十一角形の鍵穴と鍵が出合った。 「回してみる」  ゆっくりと力を込めた。思惑通り、周囲の切れ目に沿ってじりじりと穴が回転し始める。やがて、カチッと確かな手応えが伝わった。 「よし。開くぞ」  エラリイは、そっと穴からカップを引き抜いた。——と、白い底板が、静かに下へ傾き始めた。 「大したもんだな」  エラリイは呟いた。 「歯車か何かの仕掛けで、板が落ちる時、音を立てないように出来てるんだ」  まもなく二人の眼下に、地下の隠し部屋へと続く階段が姿を現した。 「入ってみよう、ヴァン」 「よした方がいいよ」  ヴァンは逃げ腰になって、 「もしも待ち伏せされていたら」 「大丈夫さ。まだ日が暮れたばかりだ。青司は来ちゃいないだろう。万が一来ていたとしても、二対一だ。負けやしないさ」 「でも」 「怖いのなら待ってろよ。僕は一人ででも入ってみる」 「あっ。待てよ、エラリイ」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  湿っぽい、饐《す》えたような臭《にお》いが鼻を突く。  エラリイの持った懐中電灯の光だけを頼りに、二人は真っ暗な穴の中へと足を踏み入れた。  古さの割りにはしっかりとした階段だった。静かに降りれば、軋み音一つしない。  一昨日の愚を繰り返さぬよう、先に立ったエラリイは慎重に歩を進めた。  十段足らずの階段を降りてしまうと、案の定そこはかなりの広さがある部屋になっていた。厨房の真下から、中央のホールの方に向かって広がっている。  床と壁はコンクリート。調度品は何一つない。そして、エラリイの上背よりも少し高い程度の天井からは、所々に小さな穴があいているらしい、細い微かな光が洩れ込んでいた。 「ランプの光だ」  エラリイが囁き声で云った。 「ホールの下なんだ。僕らの話すことは、全部ここに筒抜けだったってわけか」 「やっぱり、青司はここに潜んで?」 「そうだ。僕らの様子に聞き耳を立てていたに違いない。とすると、どこかに、建物の外へ通じる抜け道がある可能性もあるな」  エラリイはゆっくりと周囲の壁を照らしていった。黒い染みの目立つ、汚れたコンクリート。  あちこちに走った亀裂。補修の跡……。 「あれだ」  と云って、エラリイは光を止めた。降りてきた階段から向かって右奥の隅に、古びた木製のドアが設けられているのである。  二人はそのドアの前まで足を進めた。エラリイが、赤錆に覆われたノブに手を伸ばす。 「どこへ続いているんだろう」  押し殺した声でヴァンが問うた。 「さてね」  エラリイはノブを回した。ぎしっと重い音を立てて、ドアが動いた。息を止めてノブを引いた。ドアが開く。  途端、ううっと呻き声を洩らして、二人はたまらず鼻を押さえた。 「何だ、これは」 「ひどい臭《にお》い……」  強烈な異臭が、闇の中に充満していた。胃袋の中身が一気に逆流してきそうなほどの、とんでもない悪臭である。  それが何物から発せられる臭気であるのか、二人は即座に感じ取った。凄まじいばかりの生理的な嫌悪感が、彼らの肌を一瞬にして粟立たせた。  肉が朽ち果てていく臭いだ[#「肉が朽ち果てていく臭いだ」に傍点]。生き物が腐敗していく臭いだ[#「生き物が腐敗していく臭いだ」に傍点]。しかも[#「しかも」に傍点]……。  エラリイは震えの止まらぬ手で懐中電灯を握り直し、開いたドアの向こうに続く闇に向かって光を投げかけた。  暗闇は深い。思った通り、どこか外へ抜ける通路らしい。  光の輪が、徐々に下へ下げられる。汚れたコンクリートの床を手前に這い戻る内、やがてその光が捉えたものは……。 「うわぁ!」  エラリイとヴァン、二人は同時に悲鳴を上げていた。  異臭の源が、そこにあったのだ。  おぞましい色をたたえ、もはや原形の名残りさえ留めぬ肉塊。露出した黄白色の骨。ぽっかりと、黒く虚ろに開いた眼窩《がんか》……。それは紛れもなく、既に半ば白骨と化した人間の死体であった。 [#ここから3字下げ] 10 [#ここで字下げ終わり]  夜半過ぎ——。  十角形のホールに、人の姿はない。ランプの灯も落ち、そこでは闇だけが、静寂の中でねっとりと絡み合っていた。  どこか遠い世界で奏でられているかのような潮騒。暗闇の上に口を開いた十角形の天窓から、切れ切れに覗く僅かな星……。  不意に——。  建物のどこかで硬い物音が響いた。続いて、それとは異質な、何やら生き物の吐息めいた音。初めは低く唸るような音だったのが、やがて少しずつ膨らんでいき……。  しばらくの後、十角館は火の手を上げた。  白い建物が透明な赤色に包み込まれる。濛々《もうもう》と吐き出される煙。大気を震撼《しんかん》させる轟音《ごうおん》。猛り狂う巨大な炎が、夜空を流れる雲の切れ間めざして駆け昇る。  その異常な光は、海を隔てたS町にまで充分に届いた。 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第十章 六日目 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  電話のベルで叩き起こされた。  重い瞼をやっとの思いで開け、枕許の時計を見る。午前八時だ。  守須恭一はけだるい身体を持ち上げ、受話器を取った。 「守須です。ああ、はい。——えっ。何ですって。もう一度……。角島の——十角館が炎上した? 本当ですか」  毛布をはねのけた。受話器を持つ手を強く握り締め、咬みつく勢いで、 「それで、みんなは? どうなったんですか」  守須はやや力を抜き、何度か深く頷いた。 「——そうですか。で、僕はどうしたら? ——はい。分りました。どうも……」  電話を切ると、煙草に手を伸ばした。眠気はもう完全に退散していた。火を点け、深々と煙を吸い込み、懸命に気を落ち着かせる。  その一本を根元まで吸った、あと、彼はすぐに二本目をくわえながら、再び受話器を取り上げた。 「もしもし。江南か? 僕だよ。守須だ」 「あ、やあ。どうした、こんな朝っぱらから」  耳許に返ってきた江南の声は、うまくろれつが回っていない。 「悪い知らせなんだ」  守須は云った。 「十角館が燃えてしまったらしい」 「な、何ぃ?」 「全員死亡だそうだ」 「何だって。まさか、そんな。からかってるんじゃないだろうな。エイプリル・フールは明日だぞ」 「冗談ならいいさ。今さっき、電話で連絡を受けたんだ」 「そんな……」 「僕はこれからS町へ行く。お前も来るだろう? 島田さんには連絡できるか」 「——ああ」 「それじゃあ、向こうで落ち合おう。関係者は、港の近くにある漁業組合の会議室に集まれってことだから。いいかい」 「分った。すぐ、島田さんにも知らせて、一緒に行く」 「よし。じゃ、向こうで」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  三月三十一日月曜日、午前十一時半、角島——。  大勢の人間が右往左往している。  そこここからいまだに薄煙を吐き出している十角館の残骸は、それ全体が、さながら巨大な怪物の焼死体のようだった。  空は快晴。島を取り囲む海は、まばゆいほどに明るく春めいた色である。そのうららかな風景と、島の中に黒々と横たわる無残な光景との対比は、見る者にどうしようもないやりきれなさを与えた。 「警部。S町の方に、遺族がほぼ揃ったそうです」  トランシーバーを持った若い警官が叫んだ。「警部」と呼ばれた、四十過ぎの太った男は、ハンカチで口許を覆ったまま大声で怒鳴り返した。 「よぉし。こっちへ来てもらえ。着いたら知らせろ。勝手に上陸させるんじゃないぞ」  それから、そばで黒焦げの死体を調べている検屍係に目を戻し、 「で、これは?」  と尋ねた。辺り一帯には、強い異臭と熱気が立ち込めている。 「男ですね」  白いマスク越しに検屍係は答えた。 「わりと小柄な方でしょう。後頭部に、かなりひどい裂傷がありますよ」 「ふうん」  警部はげっそりとした顔で頷き、死体から目をそらした。 「おおい。そっちはどうだあ」  少し離れた瓦礫の中で、他の死体を調べている係官に向かって声を投げた。 「こっちも男です。どうやら、火元はこの辺りですよ」 「ほう」 「灯油でもまいて火を点けたんじゃないですかねえ。この仏さん、自分でも油を被ったみたいですよ」 「ほほう。とすると、自殺か」 「まあ、他の状況との兼ね合いもあるでしょうが、多分……」  警部は顔をしかめ、逃げ出すようにその場を離れた。その後ろから、警官の一人が、 「死体を運び出させますか」 「遺族が来るまで待ってろ」  背を向けたまま警部は命じた。 「下手に動かして、死体と身まわり品とがばらばらになりでもしたらことだ。誰が誰だか分らなくなる」  そして彼は、殆ど小走りで風上に向かった。 「こりゃあ、昼飯は喉を通らんな」  ぶつくさと独りごちてから、彼は口許のハンカチを離して、吹きつける潮風を胸一杯に吸い込んだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  暖かみのない灰色のブラインド越しに、明るい海が見える。広いだけで何の装飾もない、殺風景な部屋である。  S町の、漁業組合会議室——。  無秩序に並べられた、折たたみ式の長机と椅子。不安げに身を寄せ合うまばらな人影。低い話し声……。  窓際に独り坐った守須は、何本目かの煙草を安物の灰皿で揉み消した。 (角島十角館炎上[#「角島十角館炎上」に傍点])  心は激しく揺れ続けていた。 (全員死亡[#「全員死亡」に傍点]、か……)  そろそろ午後一時になろうかという頃、ようやく江南と島田が姿を現した。室内を見渡し守須の姿を認めると、まっすぐに駆け寄ってくる。 「どうなんだ、島の状況は」  江南が勢い込んで訊いてきた。守須は静かに首を振り、 「まだ詳しいことは分らない。さっき、家族の人たちが、遺体の確認に向こうへ渡ったところだよ」 「本当に全員死亡なのか」 「うん。十角館は全焼。全員が、焼跡から死体で発見されているらしい」  江南はその場に佇んだまま、がくりと肩を落とした。 「放火なのか。それとも何か事故で?」 「それは、まだ何とも」  島田潔は窓に寄りかかって、ブラインドの隙間から外を眺めていた。江南は、守須の横に椅子を持ってきて坐り、 「例の手紙のことは話したのか」 「いや。まだ云ってない。話すつもりで持ってきてはいるけど」  二人が苦々しく顔を見合わせた時、 「やられたな」  窓の外に目をやったまま、島田が呟いた。え? と二人が振り向くと、彼は重々しい声で、 「これは勿論、事故なんかじゃないさ。殺人だよ。復讐なんだ」  部屋にいる何人かの視線が、三人の方に突き刺さった。島田は慌てて声を囁きに変え、 「ここじゃあ滅多な話もできないな。外へ出ないかい、二人とも」  守須と江南は黙って頷き、そろりと椅子から立ち上がった。  スチール製の重い扉を開け、廊下に出ようとしたところで、背後からふと、その付近に集まっていた男たちの話し声が聞こえてきた。 「……死体のいくつかは、どうも他殺体らしいですな」 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  三人は海岸に出た。防波堤から降りて、水際に置かれたテトラ・ポッドの上に並んで腰を下ろす。  彼らの心中とは裏腹に、眼前に広がる海原は、さんさんと降る陽光の下、忌々しく思えるほどに穏やかであった。角島の姿は、丁度J崎の陰になって見えない。 「あいつらが死んだのか」  江南は膝を抱えた腕を震わせた。 「僕は馬鹿だ」 「江南君」  と、島田が顔を向けた。江南はゆっくりと何度も首を左右に振りながら、 「あれだけあっちこっち嘆ぎまわっていながら、結局何にもならなかった。せめて、島の連中に一言、注意しろと知らせてやってたら」 「仕方ないさ」  島田は痩せた頬をさすりながら、己に云い聞かせるように云った。 「あんな手紙を真に受けて、僕らみたいに奔走する人間も珍しいんだよ。警察にでも知らせてごらん、こんな悪戯をいちいち気にするなってね、一笑に付されてしまう」 「それはそうでしょうけど」 「僕にしてみても、青司が生きている、島の連中が危ない、なんて大真面目な顔で云ってたけれども、所詮それだけのことさ。彼らが殺されると確信できるような、決定的な証拠でも出てきたのならともかく、単なる推測だけで、S町にまではやって来たにせよ、海を渡って島まで行けって方が無理な話だろう」 「島田さん」  守須が口を挟んだ。 「連中が皆殺しにされたのだとすれば——そうなると、やはり中村青司が生きていて、ということも」 「そいつはどうだか」  島田は言葉を濁した。 「それじゃあ、犯人は誰だと」 「さあて」 「じゃ、島田さん、あの青司名義の手紙についてはどう思います。あれが島の事件に関係してるのかどうか」  と、江南が訊いた。島田は苦い顔で、 「今となっては、関係ありと考えるしかないだろう」 「同じ犯人によるものだと?」 「そう思うね」 「あれは殺人の予告だったってことですか」 「予告というのとはちょっと違う。それにしては、彼らの角島行きとすれちがいで到着するあたり、間が抜けてるだろう。僕は、別の目的があったんだと思うな」 「と云うと」 「江南君。最初に君と会った日、君はあの手紙を分析して、確か三つの意味を導き出したっけね。覚えてるかい」 「ええ。——告発。脅迫。昨年の角島事件を再考しろっていう示唆」 「そうだ」  島田は物憂げな視線を海に投げた。 「そして、僕たちは去年の事件の再検討を始め、結局その真相を突き止めるに至ったわけだ。けれどもこのことは、あくまで、犯人の予期せざる結果であったと思うんだよ。犯人は恐らく、僕らがそこまで深く首を突っ込んでくるとは予想していなかったに違いない。思うに、犯人があの手紙に込めた真の意図は、君たちの罪の告発と、もう一つ、中村青司の影をほのめかすことにあった」 「青司の影?」 「つまり、発送人の名前を中村青司とすることで、殺されたはずの青司が実は生きているのかもしれない、という考えを、僕らの中に喚起させることだ。そうして、青司を一種のスケープ・ゴートにできれば、ともくろんだんだ」 「ということは、島田さんが疑っているのは、もしかして」 「中村紅次郎氏を[#「中村紅次郎氏を」に傍点]?」  守須がそろりと問うた。 「中村千織が紅次郎氏の娘だったと分った今、連中を皆殺しにする動機を持って然るべき人物は、青司氏ではなく彼の方だから。そう云うんですか」 「動機の点で疑わしいのは、確かに紅次郎氏ですね。だけど」  と、江南は島田の顔を覗き込んだ。 「だけど、彼はずっと別府にいて……」 「あの若者が云ったことを覚えてるかい、江南君」 「えっ」 「研究会の連中を島まで送ってやったっていう、あの若者さ」 「ああ、はい」 「彼は云ってたね。エンジンの付いたボートがあれば、島との往復は難しくない、と。紅さんがそれをやらなかったって云いきれるかい。この数日間、紅さんは論文執筆のため、来客も電話もシャット・アウトして、家に閉じこもっていたと云った。が、果たしてそれは本当だったんだろうか」  海の方を見つめたまま、島田は独り頷いた。 「そうだ。友人としては残念だけれども、僕はやはり紅さんのことを疑わざるをえない。彼は娘を死なされた。自分と、手の届かぬ恋人との間の唯一の架橋《かけはし》を、あんな形で奪われてしまったんだ。しかも、それがきっかけとなって——と彼は云ってたね——その恋人までを実の兄に殺されてしまった。動機としては充分すぎるくらいだろう。紅さんは十角館の前の持ち主でもある。何かの折りに、娘を殺した連中がそこへ行くってことを知ったとしても不思議ではない。そして、青司の生存を匂わせ、疑いをそちらへそらすと共に、自分のやり場のない怒りを吐露するため、君たちにあの手紙を出した。同時にまた、自分自身に宛てたあの手紙。自らも被害者[#「被害者」に傍点]の一人であると見せかけるためだ」  三人は、そのまましばらく、俯《うつむ》きがちに海を眺めていた。 「そうですね」  やがて守須が呟いた。 「連中を、よりによってあの島で皆殺しにしようなんていう動機は、他にはどうしたって思い浮かばない。一番疑わしいのは紅次郎氏ですね。でも、島田さん、それはあくまでも憶測の域を出ないことで」 「そうだよ、守須君」  島田は、自らを嗤笑《ししょう》するように唇を歪めた。 「単なる僕の憶測さ。証拠なんて一つもない。そしてね、僕は証拠を探す気もない。このことを、積極的に警察へ知らせるつもりもない」  J崎の陰から二隻の船が姿を現すのが見えた。おや、と云って、島田は腰を浮かせた。 「警察の船じゃないか。こっちへ帰ってくるな。——戻ろうか」 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり] 「あの三人は何者だ」  傍らの警官に向かって、角島の検証から戻ってきた警部は尋ねた。  現在島の建物を管理している、巽《たつみ》昌章《まさあき》という地元の業者から、炎上した十角館に滞在していたのはK**大学の学生たちだと知らされた。彼の甥の友人たちだということで、先週の水曜日から一週間、宿泊を許したものらしい。  巽の手許に、島へ行ったメンバーの名前が控えてあったので、それを頼りに大学へ問い合わせ、家族に連絡を取った。自宅の遠い下宿生もいたので、全員の家族が揃ったわけではない。しかし、先程の検証によって、どの死体が誰のものであるかはどうにか判明した。更に、それぞれの遺族に対して簡単な事情聴取を行なったのだが、そこで知りえた情報はどれも似たりよったりのものでしかなかった……。 「は? どの三人ですか」  警官が訊き返すと、警部は奥の窓際を指さし、 「あそこにいる三人組だよ」 「ああ。彼らなら、クラブの友だちだそうです。昼頃から、事件の様子を聞きにきていたのですが」 「ふん」  警部は太い首をちょっと傾げた。  窓に背を預け、話をしている二人の若者。その横で、こちらに背中を向けて外を見ているひょろ長い男。  現場を歩きまわってすっかり汚れてしまったコートのポケットから両手を引き出し、彼はその三人の方へ向かった。 「失礼。亡くなられた学生諸君と同じクラブの方だそうですな」  嗄《しわが》れた声に、二人の若者は慌てて目を上げた。 「警察の者です。私……」 「やあ。どうも御苦労さんだね」  と云って、外を見ていたひょろ長い男が振り向いた。警部は小さく舌を鳴らして、 「やっぱりお前か。どこかで見た後ろ姿だと思ったら」 「奇遇だねえ。もしかすると、とは思ってたけど」 「お知り合いなんですか、島田さん」  若者の一人が驚いて尋ねた。 「警察にちょっとコネがある[#「警察にちょっとコネがある」に傍点]って、いつか云っただろう、江南君。紹介しよう。県警の島田|修《おさむ》警部」 「島田? じゃあ、ひょっとして」 「お察しの通り、うちの寺の次男坊なのさ」 「はあん」  島田警部はごほんと一つ咳払いをして、自分とは正反対の体格をした弟の顔をねめつけた。 「何だってお前が、こんな所にいる」 「少々わけがあってね、この二人と行動を共にしてたんだよ。詳しく説明すると長くなるから云わないが」  島田潔は傍らの二人に目を向け、 「こっちは、K**大の推理小説《ミステリ》研究会の守須君と、元会員の江南君」 「ふうん」  島田警部は複雑な表情で二人の方に向き直った。 「県警の島田です。このたびは、何ともひどい事件が起こったもんですが」  改まった調子で云いながら、手近の椅子に太った身体を落ち着ける。 「推理小説の研究会、ですか。ふん。私も、若い頃はよく読んだものだが。研究会とは、どんなことをしているんです」 「ミステリの書評をしたり、自分たちでも書いてみたり……」  守須が答えたところへ、私服の刑事が一人やって来て、警部に一枚の紙切れを手渡した。それに目を通すと、彼はふむと頷いて、 「検屍の報告ですよ。ほんのさわりだけですがね」 「あの、良ければ聞かせてもらえませんか」  と、江南が云った。警部は弟の方にちらりと日をやってから、軽く口許を引き締め、 「どうせあとで、奴に根掘り葉掘り訊かれるんですからな、この程度のことはまあ、云っても構わんでしょう。  死体は——どれもひどい状態でしたが——一体を除いて全部が、火に焼かれる前に殺されていたものらしい。残りの一体は焼死ってことですが、どうも自殺臭いんですな。自ら灯油を被っていて、しかも、こいつの使っていた部屋が火元と思われる。まだ断定するような段階ではありませんが、どうやらこの男が、他の者を殺して自殺したんじゃあないかと。口外は控えて下さいよ。——あの仏さん、名前は何ていったかな」  警部は紙切れにもう一度目を落としながら、 「ああ、松浦《まつうら》——松浦|純也《じゅんや》。知ってるでしょう、勿論」  守須と江南は息を呑んで頷いた。島田潔は少し呆気にとられたような声で、 「本当に自殺なのかい」 「まだ断定できんと云ってるだろう。他の人間も、何で死んだのか、詳しいところは解剖の結果待ちだ。ところで」  と、再び警部は守須と江南に目を戻した。 「この松浦純也とはどんな男だったのか、一応聞かせてもらえますかな」 「どんな男と訊かれても困りますけど」  守須が答えて、 「この四月から法学部の四回生で、成績は優秀、頭が切れて弁もたって、多少変わったところもありましたが」 「成程。それと、ですね、守須君」 「何でしょう」 「彼らが島へ行ったのは、研究会の合宿か何かだったわけですか」 「合宿と云えばそうですけど、研究会としての公式の活動からは離れたものでした」 「ということは、島へ行った彼らは、会の中でも特に仲が良かったと?」 「ええ。仲が良いっていうのとはいくらかニュアンスが違うんですが、まあ、そう考えて戴いてもいいと思います」  そこへ先程の刑事がまたやって来て、島田警部に耳打ちした。 「——よし。分った」  警部はコートのポケットに両手を突っ込みながら、のっそりと椅子から立ち上がった。 「私はちょっと他があるので。また近い内に、研究会の諸君には集まってもらうことになると思いますが、その時には、君——江南君でしたか、君も都合をつけて来て下さい」 「分りました」  と、江南は神妙に頷いた。 「それでは、また」  弟に軽く目配せして警部は立ち去りかけたが、ふと思い直したように、もう一度守須と江南の方に身を向けた。 「ええと、さっきの松浦純也についてですが、仮に今度の事件が彼の仕業だったとして、ですな、何か動機に心当たりはありませんか」 「さあ」  守須が答えた。 「どうも僕には信じられませんね。よりによってエラリイが、そんな」 「誰ですと?」 「あっ。あの、松浦のことです。エラリイっていうのは彼のニックネームで」 「エラリイ——というと、例の、作家のエラリイ・クイーンと関係があるわけですかな」 「ええ、そうです。何て云うか、うちの会の慣習みたいなものなんです。そういうふうに、会員に向こうの推理作家の名前を付けて呼ぶのが」 「ほう。全員にですか」 「いえ。一部の者だけですが」 「島へ渡ったメンバーはみんな、そういうニックネームを持ってた連中だったんですよ」  と、江南が注釈を加えた。島田警部は面白そうに小さな目をしばたたかせ、 「江南君にも、研究会にいた時分にはあったんですかな、そういった呼び名が」 「ええ。まあ」 「何といったんです」 「恥ずかしながら、ドイルです。コナン・ドイル」 「ほほう。大家の名ですな。守須君は、じゃあ、モーリス・ルブランあたりですか」  警部は調子に乗って尋ねた。  守須はひくりと眉を動かしながら、いいえ、と呟いた。それから、口許にふっと寂しげな微笑を浮かべたかと思うと、やや目を伏せ気味にして声を落とした。 「ヴァン・ダインです」 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 第十一章 七日目 [#ここで字下げ終わり] 一九八六年四月一日火曜日、A**新聞朝刊の社会面より。 [#ここから枠囲い] 角島十角館で、またもや大量殺人  三月三十一日未明に発生した、大分県S町、角島十角館の火災現場から、当時同館に宿泊していた六名の大学生の死体が発見され、身元が確認された。  死亡したのは、K**大学医学部四回生の山崎《やまさき》喜史《よしふみ》(二二)、法学部三回生|鈴木《すずき》哲郎《てつろう》(二二)、同学部三回生|松浦《まつうら》純也《じゅんや》(二一)、薬学部三回|岩崎《いわさき》杳子《ようこ》(二一)、文学部二回生|大野《おおの》由美《ゆみ》(二〇)、同学部二回生|東《ひがし》一《はじめ》(二〇)の六名(敬称略。学年は三月時点のもの)。彼らは、三月二十六日水曜日から一週間、クラブの合宿で十角館に滞在の予定だった。  調べによると、六名の内五名の遺体は、火災以前に他殺されていたものである疑いが強く、昨年九月に同島青屋敷で起こった四重殺人を凌ぐ大量殺人・放火事件として、捜査が進められている。………… [#ここで枠囲い終わり] [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 同日、同新聞の夕刊より。 [#ここから枠囲い] 十角館の地下室から白骨死体 ……その後の捜索により、全焼した十角館の地下室から、新たに男性の死体が一体、発見された。死体は白骨化がかなり進行しており、死亡した時期は四カ月から半年前、年齢は四十代後半と推定される。また、死体の頭部には、鈍器で痛打されたらしい痕跡が認められた。  この地下室の存在は、これまで警察には知られていなかった。そのため、昨年九月の事件以降行方不明になっている吉川誠一さん(当時四六)の遺体ではないかとの見方が強く、身元の確認が急がれている。………… [#ここで枠囲い終わり] [#改ページ] 第十二章 八日目 [#ここから3字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  山の斜面を切り開いて、変形ではあるが広大なキャンパスを持つK**大学の一角に、大学公認のサークルばかりを集めた、鉄筋三階建のボックス棟がある。  角島十角館で六人の死体が発見された翌々日、四月二日水曜日の昼下がり、その建物の二階にある推理小説《ミステリ》研究会のボックスに、都合のついた会員たちが十名ばかり招集された。  雑然とした狭い室内に、会議用の長机が二台置かれ、学生たちが身をすり合わせるように坐っていた。その中には、元会員の江南孝明も混じっている。が、担当警部の実の弟である島田潔の婆は見られなかった。 (遠慮したんだろうか。それとも、何か他の用事があったんだろうか)  守須恭一は一瞬不安を感じたが、すぐにそれを打ち消した。 (まあいい。彼は何も分っちゃいない。何も気づいちゃいない。気づくはずもない)  島田修警部は、部下の私服を一人連れて、時間には少々遅れて到着した。  白く立ち込めた煙草の煙に少し顔をしかめた後、彼は江南と守須の姿を見つけて、やあ、と馴れ馴れしく声をかけた。それから集まった一同に向かい、 「どうも皆さん、本日はわざわざ御足労有難うございます。島田といいます」  丁寧に挨拶を述べて、用意された椅子にどっしりと腰を下ろす。  会員たちの自己紹介の後、事件の概要が説明された。そして、太った警部は、手に持ったメモと学生たちの顔とにちらちらと視線を往復させながら、本題に入っていった。 「角島で亡くなった六人の名前を、もう一度繰り返しておきましょうかな。山崎喜史、鈴木哲郎、松浦純也、岩崎杏子、大野由美、それから東一。皆さん、よく御存知の方ばかりのはずですが」  しゃがれた声を聞きながら、守須は六人の顔を順に思い浮かべていた。 (ポウ、カー、エラリイ、アガサ、オルツィ、そしてルルウ) 「この六名の内、五人は火災当時既に死亡していたものと思われます。大野と東が、それぞれ絞殺と撲殺。山崎、鈴木、岩崎の三人は、毒殺の疑いが強い。残りの一名、松浦は、火災発生時にはまだ生きていたわけですが、これが、部屋に灯油をまいた上、自らもそれを被って焼身自殺を謀《はか》った模様なんですな」 「じゃあ、やっぱり、五人を殺したのは松浦先輩で、そのあと自殺したということなんでしょうか」  と、会員の一人が質問した。 「そういうことになりますな三人に対して用いられたとおぼしき毒物の入手経路にしても、松浦の親戚がO市内で大きな薬局をやっていて、彼がそこによく出入りしていたという事実がある。その辺から解決がつくようでして。我々としては、目下のところそういう見解をとっています。  ただ、どうにも動機が掴めんのですな。そこで今日は、皆さんにも話を伺おうと思いまして、こうして集まってもらったわけなんですが」 「誰か外部の人間の犯行だとは考えられないんでしょうか」 「それはちょっと、考えられませんな」  警部があっさりと否定するのを聞いて、守須は、思わず洩れそうになる安堵の溜息を呑み込んだ。 「まず何と云っても、松浦純也が自殺しているらしいということ。それに、五人の殺害方法及び死亡推定時間に、ひどいばらつきがある。中には、死後三日以上も経っていると推定されるものもあったり。他もまるでまちまちなようでしてね。あの辺りの海は、漁船も滅多に通らん所だとは聞きますが、何者かがこっそり船で乗り込んで、三日以上も時間をかけて大量殺人を行なったとは、常識的には考えられんでしょう」 「けれども、警部さん」  と云いだしたのは、江南だった。 「去年の青屋敷の事件じゃあ、よく似た状況で焼死した中村青司が、他殺だと見られたんでしたよね」 「その辺の判断には、いろいろと微妙な事情があるんだが」  警部は象のような目をじろりと剥いた。 「あれが他殺だと目された最大の理由は、云ってしまえば、行方不明になった庭師の存在だったんですな。島にいるはずの人間が一人いなくなったわけだから、疑いは自ずとそちらへ向けられた。この庭師が犯人なのだ、とね。  ところが——昨日新聞で見てませんか——、焼け落ちた十角館に秘密の地下室のようなものが見つかって、そこから男の古い死体が発見されたんですよ。どうも、これがその庭師の死体らしい」 「ははあ、成程」 「従ってここで、昨年の角島事件は、急遽《きゅうきょ》その解釈の変更を余儀なくされることになったわけです。即ち、中村青司の死は実は焼身自殺で、事件全体は、彼自身が企てた一種の無理心中だったのではないか、と。それからまた」  と、警部は江南と守須に意味ありげな目配せをして、 「これを裏付けるような新事実が、ある筋から出てきてもいるのでね」  島田潔が話したのか、と守須は思った。  いや、しかし彼は、自分の知った事実や自分の考えを警察に知らせるつもりはないと明言していた。何故かしら、その言葉は信じられるような気がする。たとえ彼の実の兄が警察関係者であっても、だ。 (とすると、あるいは中村紅次郎自身の口から、真相が伝えられたのかも) 「ま、それはともかくとしてですな」  島田警部はざっと一同の顔を見渡した。 「この中で、彼ら六人が角島へ行くことを知っていた方はどのくらいおられますか」  守須と江南の二人が手を挙げた。 「ふうん。君たちだけか。で、今度の角島行きを提案したのはそもそも誰だったのか、分りませんかな」 「そういう意見は、前々から彼らの間であったんです」  と、守須が答えた。 「そこへ今度、つて[#「つて」に傍点]が出来て、十角館に泊まれることになったものですから」 「つて? と云うと」 「はい。僕の伯父が——巽といいますが——不動産業を手広くやっていて、前の持ち主からあそこを買い受けたんです。そこで、何だったら伯父に頼んでやってもいいぞ、と」 「ほう。巽昌章氏、ですな。彼の甥というのは君のことだったわけか。——なのに、君は一緒に行かなかった?」 「ええ。以前にあんな事件のあった場所なんて、とても行く気になれなかったもので。連中は喜んでましたけどね、嫌いなんです、そういうの。それに、部屋数の都合もあって」 「部屋数? 客室は七つだったということだが」 「実質的には六つしかなかった[#「実質的には六つしかなかった」に傍点]んです。伯父に聞いてもらえば分りますが、一つは到底使える状態じゃなかったんですよ。雨がひどく洩って」  あの部屋には、作り付けの棚以外のものは何もなかった。恐らく、手を入れるつもりで家具を出してあったのだろう。染みだらけの、今にも落ちそうな天井。床の一部など、腐って穴があきかけていた。 「成程。では、六人の中で、何と云うか、旅行の幹事は誰だったんです」 「僕は、そういうわけで、ルルウ——失礼、東のところへ話を持っていったんです。東は今度の編集長——つまり、会のリーダーでもありましたから。ただ、彼はいつも松浦を相談役にしていました」 「東と松浦の二人ね」 「はい。そういうことになります」 「個人の荷物の他にも、いろいろと、食料だの毛布だのが持ち込んであったようだが、あれはどうやって?」 「伯父が手配してくれたのを、僕が手伝って運びました。連中が島へ渡る前日に、漁船を出してもらって運んでおいたんです」 「ふうむ。一応、その確認はさせてもらうからね」  だぶついた顎を撫でまわしながら、警部は再び一同を見まわした。 「ところで、どなたか、松浦純也の動機について心当たりのある方はおられませんかな」  ざわざわと、会員たちの間で低い声が飛び交い始める。その中へ適当に加わりながら、守須は、心の中では全く別の想いを巡らせていた。  ——白い顔。  ——強く抱き締めればすぐに壊れてしまいそうな、華著な身体。  ——俯いた首筋に滑る長い黒髪。  ——いつも徴かな当惑を浮かべていた細い眉。寂しげに伏せた切れ長の目。  ——そっと笑みを含んだ小さな唇。仔猫のような、かぼそい声……。 (千織、千織、千織……)  おどおどと、他人の眼差しから逃れるようにして愛し合っていた。静かに、けれども深く。  研究会の仲間にも、他の友人たちにも、誰にもそのことを知らせなかった(彼女もそうだったはずだ)のは、別に隠していたのでも恥じていたのでもない。ただ、二人がどうしようもなく臆病だったからだ。他人に知られることによって、自分たちだけの、ささやかなその小宇宙が壊されてしまうことを恐れていたのだ。なのに——。  全てがあの日、突然に打ち砕かれてしまった。去年の一月の、あの夜。彼女の命を奪ったのは、紛れもなくあの六人だった。そうだ。 (もしもあの時、最後まで彼女のそばについていてやったなら……)  どれほど己を責めたことか、なじったことか。それ以上に、あの場にいた六人を憎んだことか。  父も母も妹も、昔、同じようにして突然に連れ去られてしまった。他者の、強引で身勝手で残酷な手が、家族という暖かなものを、何の断りもなく、遠い手の届かぬ所へさらっていってしまった。そして、やっと見つけた千織という大切なものまでが、また……。 (あれは、断じて事故じゃない)  無謀に酒を飲むような娘では、決してなかった。自分の心臓が弱いことも、よく承知していた。きっと、酔って正体をなくした連中によって、半ば無理じいされ、強く断ることもできず、そして……。  彼女は奴らに殺されたのだ[#「彼女は奴らに殺されたのだ」に傍点]。 (殺されたんだ) 「守須」  と、隣の江南が声をかけてきた。 「ああ、何だい」 「ほら、例の手紙のことは?」 「ん? 何ですかな」  二人のやりとりを耳に留めて、島田警部が尋ねた。 「実は、このあいだは云い忘れてたんですけど」  ポケットから例の封筒を取り出しながら、江南が答えた。 「連中が島へ出発した日に、こんなものが届いたんです。僕と、守須のとこにも」 「手紙ですかな、中村青司からという」 「ええ」 「君たちのところにも来てたのか」  警部は江南の差し出した封筒を受け取り、中を改めた。 「被害者たちの家にも——松浦を含めてだが——、全く同じものが来てましてね」 「これは、島の事件とは関係ないんでしょうか」 「さて、何とも云えませんな。しかし、まず別口の悪戯だと見るのが正解でしょう。いくら何でも、発送者が死人じゃあね」  島田警部は黄色い歯を見せて苦笑した。  守須はそれに付き合うように口許を緩め、一方で、静かに回想の中へと沈み込んでいった。 [#ここから3字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  そもそも、千織の父親が中村青司であるというのは、彼女自身の口から聞いて知っていたことだった。青司が、S町の角島という小さな島で、一風変わった暮らしをしているのだということも聞かされていた。千織を失い、半年以上が過ぎても一向に収まらぬ悲しみと怒りの中で、半病人のように日々を送っていた昨年の秋、角島に住む彼女の両親が悲惨な死を遂げたことを知り、いたたまれぬ思いもした。しかし、まさかその事件が、自分の激しい憤りの解決にこのような形で力を貸すことになろうとは、その時は勿論思ってもみなかった。  千織を死に至らしめた六人の男女に、何らかの形で罪を思い知らせてやりたいと考えることは常だった。かといって、お前たちが千織を殺したのだ、と大声で責め立てて済むほど、想いは軽くない。生きていく上でかけがえのない存在を、自分は奪われたのだ。彼らが、奪い去ってしまったのだ。望むのは、復讐以外の何物でもなかった。が、それが明確な意志の下に、しかも、殺人という手段を用いる形へと収束し始めたのは、伯父の巽昌章が十角館を手に入れたと知った、あの時からである。千織の生家である角島青屋敷。そこで彼女の両親が巻き込まれた惨劇。自分たちの好奇心を満足させるためにその島へ渡る、彼ら六人の罪人。その構図は、彼らの全てを、何か鮮明な色彩でもって塗り潰し、粛清《しゅくせい》してやりたいという衝動を煽り立てずにはおかぬものだった。  最初は、角島で六人を殺し、そのあと自らも死のうと考えた。けれども、それでは自分が、彼ら罪人の中に、同列の存在として埋没してしまうことになる。なすべきことは、裁きなのだ。復讐という名の裁きなのだ。  考え抜いた末、計画[#「計画」に傍点]は出来上がった。六人を島で殺し、かつ自分は安全に生き延びる、そのための計画が。そして、この三月の初め、獲物たちが罠に飛び込むことを充分予想した上で、最初の一矢《いっし》が放たれた。 「伯父が十角館を手に入れたんだ。行く気があるのなら頼んでやるけど、どうする」  思惑通り、彼らは簡単に飛びついてきた。  話が決まると、進んで準備係を引き受けた。六人の都合と気象台の長期予報とを睨み合わせ、日取りを検討した。  計画上、晴天で波の穏やかな日がどうしても必要だった。幸い、三月の下旬は大きな天候の崩れはない見通しだという。予報を当てにするのは危険な賭けではあったが、もしも決行日になって悪条件が重なるようなら、その時は中止することもできる。  こうして、三月二十六日からの一週間、と日程が決まった。  夜具や食料、その他諸々の必要品を揃える。業者から借りた夜具は、六人分だった。とにかく、島へ行く連中に対しては自分も同行すると思わせ[#「島へ行く連中に対しては自分も同行すると思わせ」に傍点]、その他一切の人間に対しては[#「その他一切の人間に対しては」に傍点]、自分は同行せず[#「自分は同行せず」に傍点]、島へ渡るのは六人だけであると信じさせるよう[#「島へ渡るのは六人だけであると信じさせるよう」に傍点]、細心の注意を払う必要があった。  中村青司の名を使って九通の手紙を作った。その目的は二つある。  一つや勿論�告発�だ。中村千織という娘が、彼らの手によって殺されたのだということを、どうしても誰かに向かって訴えておきたかった。そしてもう一つは、�死者からの手紙�という魅力的な餌によって、江南孝明を動かすことだった。  中村紅次郎に対しても青司名義の手紙を出したのは、江南がそこまで調べるかもしれないと見越した上での布石でもあった。江南の性格はよく知っている。あんな手紙を受け取れば、きっと彼は、いろいろと調べまわった末、自分のところへ相談を持ちかけてくるだろう。そう予想していた。また、たとえこちらから彼に連絡を取るにしても、怪文書の横行はその格好の口実となってくれる。  ワープロは、大学の研究室で学生に開放されているものを使った。更に、スーパーで買い集めた材料で、例のプレートを二組作っておく。  三月二十五日火曜日——出発の前日、O市内で九通の手紙を投函してから、S町へ出向き、頼んでおいた漁船で荷物を島に運んだ。それから一旦S町に戻ると、国東《くにさき》へ行くと偽って伯父の家の車を借り出す。車のトランクには、エンジン付きのゴムボート、圧搾空気のボンベ、燃料用のガソリン缶などが用意してあった。  ボートは、伯父が釣りに使うものだった。ガレージの奥の物置にしまってあるのをこっそり持ち出したのだが、伯父は夏から秋にかけてのシーズンにしかこれを使うことがない。ばれる心配は全くなかった。  J崎の裏手辺りは、昼間でも殆ど人通りがない。その海岸近くの茂みにボートやボンベを隠した後、適当に時間を潰して車を返しに戻った。今夜はO市に帰って、明日はまた国東へ行くのだ、と、伯父には偽の予定を告げた。そして実際、O市へは一度帰ったのだが、夜中にはバイクに乗って、再びJ崎へと向かったのだった。  O市からJ崎まで、昼間に車で行くと、おおかた一時間半はかかる。けれども、夜中に250�。のバイクを飛ばせば、一時間足らずで充分だ。それに、オフ・ロード・タイプのバイクは、うまく操れば、道路から外れた荒地や叢《くさむら》にも乗り入れることができる。海津の雑木林の中に横倒しにして、上から茶色いシートを被せておけば、まず誰にも見つかる虞《おそ》れはない。  隠しておいたボートを組み立て、ウエット・スーツに着替えた。そして、月の光と、J崎の無人灯台が照らし出す影を頼りに、角島へ向かって独り海に出たのだった。  風が、大して吹いてもいないのに、重く冷たかった。夜のこととて見通しも良くない。以前何度か貸してもらったことがあったので、ボートの操作には慣れていたのだが、身体の不調も原因して、予想以上に厳しい行程となった。  体調が良くなかったのは、前の日からずっと水を絶っていたせいである。後の計画のため、この水絶ちはどうしても必要なことだった。  J崎から角島まで、約三十分——。  到着の場所は、例の岩場だった。船はここに隠しておかねばならない。  まずボートをたたみ、ボンベと、防水布に包んだ上ゴム袋に密封したエンジンとをそれでくるんで、しっかりと紐をかける。大きな岩の間の、なるべく直接波が打ち寄せないような水中にこれを沈め、上から石を載せる。更に、紐の一端を岩の角に結びつけておいた。補給燃料用のガソリン缶は、こちらの岩陰とJ崎の叢の両方に隠してあった。  月明りの下、大型のハンディ・ライトを肩にぶら下げて十角館へ向かう。玄関左手の、雨の洩る、家具のない部屋を自分用に確保し、眠るのには、昼間に運び込んでおいた寝袋《シュラフ》を使った。  こうして、罪人たちを捕える罠の準備は整った。 [#ここから3字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  翌三月二十六日、六人は島へやって来た。  彼らは何も気づいてはいなかった。二週間の間、島の中で何が起ころうとも、本土に連絡を取る術はない。なのに彼らは、危険の予感など毫《ごう》も抱かず、お手頃な冒険気分に浸っていた。  この日の夜、風邪を理由に、皆よりも一足早く部屋へ引きこもった。水絶ちをしていたのはこのためだ[#「水絶ちをしていたのはこのためだ」に傍点]。  軽い脱水状態が、風邪によく似た症状を引き起こすはずだということを知っていた。下手に仮病を使うわけにはいかなかった。医学部生であるポウの目が、やはり気になったからだ。逆に、彼に診てもらって不調の確認を得れば、誰からも怪しまれずに済む。  ホールで続く歓談を背に、ウェット・スーツに着替え、必要品の入ったナップザックを持って、窓から外へ忍び出た。岩場に降り、ボートを組み立て、夜の海をJ崎へ。更にそこからバイクでO市へ駆ける。  そうして自分の部屋に帰り着いたのは、十一時頃だったろうか。さすがに身体は疲れきっていたが、肝心なのはそれからだった。  すぐに江南の部屋へ電話をかけた。自分が確かにO市にいたという証人として[#「自分が確かにO市にいたという証人として」に傍点]、彼を利用するためである。その時の電話は通じなかった。しかし、期待通りに彼が動いていてくれれば、いずれ連絡が来るはずだ。あるいは、既に何回か、向こうから電話してきているのかもしれない。ならばきっと、どこへ行っていたのかを問われるだろうが、その時のための口実はちゃんと用意してあった。それがあの絵[#「あの絵」に傍点]だ。  六人が島へ行っている間の[#「六人が島へ行っている間の」に傍点]、本土における自分の行動を証明するもの[#「本土における自分の行動を証明するもの」に傍点]として、事前に用意しておいた——それが、あの磨崖仏《まがいぶつ》の絵だった。いや、正確には、あれら[#「あれら」に傍点]の絵、と複数形で呼ぶべきだろう。絵は全部で三枚あったからだ[#「絵は全部で三枚あったからだ」に傍点]。  木炭デッサンの上に薄く彩色した段階のもの。ナイフで全体に色を重ねた段階のもの。そして、完成段階のもの。無論、三枚はどれも全く同じ構図だった。  昨年の秋、傷心に身を任せ、当てもなく訪れた国東半島の山中で出遭った風景だった。その時の記憶を頼りに、季節を早春に置き換えて、制作過程の各段階を示すそれらの絵をあらかじめ描いておいたのである。  第一段階の絵をイーゼルに立て、自分宛てに届いていた例の手紙を眺めながら、江南の連絡を待った。万が一、彼とコンタクトが取れないようなら、誰か他の�証人�と会わなければならない。熱っぽい頭の中で渦巻く不安を、懸命になって鎮めようとしていた。  そして、十二時が近づいた頃になってようやく電話が鳴った。  案の定、江南は餌に喰いついていた。その日の内に、中村紅次郎の家にまで行ってきたという。しかし、そこで彼が知り合った島田潔という男の登場には、若干の当惑を覚えずにはいられなかった。  �証人�が複数であるに越したことはない、とは思った。だが、度を過ぎた介入は困る。適当な探偵ゲームに自分を誘い込んでくれるだけで良いのだ。  幸い、二人の関心は、現在ではなく過去に向けられつつあった。少なくとも、六人を追いかけて島まで渡ろうと云いだす心配はなさそうだ。なるべく自分の存在を印象づけるよう、�安楽椅子探偵《アームチェア・ディテクティヴ》�などという言葉を使って、その役をかってでた。そして、国東まで絵を描きにいっていることを示した上で、翌日の夜また連絡をくれるようにと約束した。その時の思いつきで、安心院《あじむ》の吉川政子を訪れてみては、と示唆したのは、二人の注意をなるべく現在の角島からそらすため[#「二人の注意をなるべく現在の角島からそらすため」に傍点]でもあった。  二人が帰ると、少し仮眠をとった。そのあと、夜明け前には再びバイクでJ崎へ。更に、海岸に繋いでおいたボートで角島へと急いだ。  十角館に戻ると、ホールに誰もいないことを確かめ、例のプレートをテーブルに並べた。 (あのプレートは、一体何だったんだろう)  �被害者�になるということの意味を、彼らに思い知らせてやりたかったのか。あるいは、あらかじめ�刑�の宣告をしておかねばアンフェアだという、妙な義務感に捉われたのか。それとも、もっと違うレベルでの痛烈な皮肉のつもりだったのだろうか。  恐らくは、それら全てを包含した、自分の屈折した心理の所産があれ[#「あれ」に傍点]だったのだ。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  二日目の夜は、一日目よりも更に早い時間に部屋へ引き上げることができた。ホールを去る際にカーと一悶着あったが、それも何とか切り抜けることができた。  水絶ちのせいで、かなり身体がふらついていた。部屋を抜け出す前に、薬を飲むようにとアガサが渡してくれた水差しの中身を、一滴残らず飲み干した。三日目以降は、本土に戻る予定はない。水分を補給して、少しでも早く体調を回復させる必要があった。  角島からO市までの道程は、前夜以上に辛く厳しいものだった。途中で、何度放り出そうと 思ったことか。自分の痩せた身体のどこにあれだけの力が蓄えられていたのか、今となっては不思議な気もする。  部屋に辿り着くと、とにかく水分の補給に努めた。江南と島田がやって来て、角島事件に関する議論が始まってからも、やたらと何杯も紅茶を飲んでいた。  翌日からはもうO市には帰ってこない予定だったので、一通り自分の役どころを演じ終えたあとは、できるだけ二人の話に否定的な態度をとらねばならなかった。自分はもうこの件からは降りる、と宣言し、翌日以降、彼らが連絡を取ってくることのないよう釘を刺す。  もっとも、あの時島田に対して吐いた手厳しい言葉——あれは、本心だった。殊に、千織の出生の問題を彼が詮索しようとしていると知った時には、かなりの憤りを覚えたものだ。  前日と同様、夜明け頃には島へ戻った。十角館の部屋に帰り着くと、しばらくの間、闇の中で心を鎮めた。 [#ここから3字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  最初の被害者にオルツィを選んだのには、いくつかの理由がある。  まず、彼女にある種の情をかけたということ。早くに死んでしまえば、その後の混乱と恐怖を知らずに済むからだ。  オルツィ——彼女は、千織と仲が良かった。臆病そうに目を伏せた彼女の姿には、どこかしら千織と似通った雰囲気があった。恐らく彼女は、千織の殺害に積極的な加担をしたわけではなかっただろう。きっと、単なる傍観者だったに違いない。しかし、だからといって彼女だけを復讐の対象から外すわけにはいかなかった。  もう一つの大きな理由は、オルツィの左手の中指に見つけた[#「オルツィの左手の中指に見つけた」に傍点]、あの金の指輪[#「あの金の指輪」に傍点]だった。  それまで、オルツィが指輪を嵌めているところなど一度も見たことがなかった。だからこそ気がついたのだ。それは[#「それは」に傍点]、自分がかつて誕生日のプレゼントとして千織に贈ったあの指輪なのかもしれない[#「自分がかつて誕生日のプレゼントとして千織に贈ったあの指輪なのかもしれない」に傍点]、と。  オルツィは千織と仲が良かった。千織の葬儀の時の、泣き腫らした彼女の目を思い出す。恐らく彼女は、千織の持っていたあの指輪を、形見分けとして譲り受けたのだ。  彼女と千織とがそこまで親しい間柄だったということは、もしかすると彼女は、角島が千織の故郷であるという事実を知っていたのかもしれない。あるいは更に、自分と千織の関係にも気づいていた可能性がある。  あの指輪の裏側には、自分と千織のイニシャルが刻まれていた。KM——CN——と。たとえ、千織の口から直接知らされていなかったとしても、彼女の死後、オルツィが指輪に彫られたその文字を見た可能性は大きい。とすると、実際に島で殺人が起こり始めれば、かなりの確率で、彼女はその動機と犯人の正体に思い至るのではないか。  だから、オルツィを最初に殺した。そうせざるをえなかったのである。  ホールに忍び出ると、まっすぐにオルツィの部屋へ向かった。六人には当然隠していたが、十角館のドアのマスター・キーを、伯父から預かって持っていた。それを使って部屋に入る。彼女の眠りを覚まさぬよう気を配りながら、素早く紐を首にまわし、渾身の力を込めて引いた。  オルツィは、眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、唇を歪めた。びりびりと震える手足、見る見る紫色に膨れ上がる顔……。やがて息絶えた彼女の死体を整えてやったのは、どうしようもなく彼女が哀れに思えたからだった。  死体の指から、指輪を抜き取ろうとした。千織の形見として自分が持っていたいという願いがあったのは勿論、もしも誰かが指輪のイニシャルに気づき、そこから推論を発展させるようなことがあっては、と恐れた。ところが、恐らく不慣れな島の環境のせいだろう、オルツィの指はひどくむくんでいて、どうしても指輪が外れなかったのである。  外れなければ、イニシャルを見られることはない。いや、しかし、千織と自分との貴重な思い出をそこに捨て去ることはできない。  強引な手段を講じることにした。手首ごと切り取ってしまうのだ[#「手首ごと切り取ってしまうのだ」に傍点]。  中指だけを切り落としたのでは、そこにあった指輪に、殊更注意を促してしまうことになる。また、左手首を切り取る、という行為は、うまい具合に昨年の青屋敷の事件の�見立て�となるものでもあった。この符合には一つの効果が期待できる、と考えた。即ち、後に島田潔が云っていた�青司の影�を、島の連中にほのめかすという効果である。  凶器の一つとして用意してあったナイフを使って、苦心の末、死体の手を切り取った。この手首は、とりあえず建物裏手の地中に埋めておいた。全てが終わった後、掘り出して指輪を抜き取るつもりだった。  外からの侵入者の可能性を残すため、窓の掛金を外し、ドアの鍵も外れたままにしておいた。そして、最後の仕上げだ。台所の抽斗から「第一の被音者」のプレートを抜き出してきて、ドアに貼り付けた。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  アガサの口紅に青酸を塗っておいたのは、その前日——二日目、二十七日の午後のことだった。既に例のプレートが出現してはいたものの、彼らの警戒心はまだ薄く、部屋に忍び込むチャンスをものにできたのだ。  早ければ、オルツィの死体の発見と前後して、その結果が出るだろうと予想していた。ところが、急いで行なったことでもあり、目についた一本にしか毒を仕込めなかったため、この�時限装置�の作動は思いがけぬほど遅れてしまう羽目となった。  そして、次に用いたのが例の十一角形のカップだった。  あの奇妙なカップの存在は、連中が島にやって来たその夜に発見した。自分にまわってきたカップが、たまたまそれだったのだ。これは利用できる、と思った。  二日目の朝、プレートを並べたついでに、こっそりとそのカップを部屋に持ち帰った。食器棚には余分のカップがいくつかあったので、その中の一個を代わりに出しておいた。  使用した毒薬は、理学部の実験室から盗み出したものだ。青酸カリと亜砒酸。カップに塗り付けるのは、無臭の亜砒酸にした。そして、三日目の夕食前、動揺の続いている彼らの隙を窺って、毒のカップを、厨房のカウンターに置かれていた六つのカップの内の一つとすり替えておいたのだった。  もしも、六分の一の確率で自分のところに十一角形のカップがまわってきた場合には、黙って口をつけなければ良かった。が、その必要もなく、カーが「第二の被害者」となってくれた。  目前に見るカーの死。それは、オルツィの時以上に生々しく恐ろしいものだった。自分はとんでもないことをしつつあるのだ——と、そんな認識が心を疼かせもした。しかし、もうやめるわけにはいかない。気力の限りを尽くして、冷静に、かつ大胆に、事の完遂をめざさなければならない。  夜明け前になって、ようやく場は解散となった。皆が寝ついた頃を待ち、用意しておいたもう一組のプレートの中の「第二の被害者」を、カーの部屋のドアに貼り付けた。更に、カーの死体から左手を切り落とし、浴室に放り込んでおく。�見立て�に一貫性を持たせ、オルツィの左手を切り取った理由を少しでもカムフラージュするためだ。  そのあとで、今度は青屋敷の焼跡に向かった。  カーが倒れる直前、エラリイが口にした言葉を聞き留めていた。青屋敷に地下室はなかったか[#「青屋敷に地下室はなかったか」に傍点]、という、あの言葉を。  地下室が残っていることは、伯父から聞いて知っていた。そこには、他の荷物と一緒に漁船で運んでおいた灯油入りのポリタンクが、がらくたに混ぜて隠してあった。  どうやらエラリイは、何者かがそこに潜んでいるという可能性でも考えているらしい。いずれ、調べにいくことは見えていた。  松葉で地下室の床を掃き清め、誰かがいたような痕跡を作る。更に、ポウの釣り具箱から失敬したテグスを、階段に張り渡しておいた。そして思った通り、翌日この仕掛けにひっかかったのはエラリイその人だった。 (ああ、愚かなエラリイ)  確かに彼は、非常に明噺な頭脳の持ち主だ。しかし一方、意外なほどに不用心で間の抜けた側面があった。あんな、いかにも怪しげな地下室に大喜びで飛び込んでいくとは、「探偵」の名が泣く。彼は足をくじいただけで大事には至らなかったが、若干の期待こそあれ、もとよりあの程度の小細工で容易に死体を稼げるとも思ってはいなかった。  期待外れといえば、アガサの口紅の件がある。よく見ると、使っているルージュの色が、毒を塗ったルージュの色と違っていたのだ。もし、その翌日になっても彼女が無事なようであれば、何か別の手を打たねばならない。そう考えてもいたのだが……。  ポウが各人の部屋を調べようと云いだした時には、少々焦った。 無論、そういう事態も考慮に入れてはあった。プレートや接着剤、ナイフなどの品は外の 叢《くさむら》の中に隠してあったし、手首を切り取る際に血液が付着してしまった衣類は土に埋めてあった。灯油のポリタンクは地下室、毒薬は身に付けている。まさか、身体検査までは行なうまい。部屋に置いていたのはウェット・スーツ一着ぐらいのもので、それだけならば、たとえ見られたとしても何なりとごまかせる。  だが、部屋の状態を知られるのはあまり有難いことではなかった。準備係を引き受けた責任上、自分が悪い部屋を選んだのだ、と云い逃れれば良かったが、できれば知られぬに越したことはない。だからこそ、あの時は自らポウの提案に異を唱えたのである。  そして、その夜——。  アガサのヒステリーが契機となって、思いがけず、全員が早くに部屋へ引き上げる運びとなった。本来、この夜に島を抜け出す予定はなかったのだけれども、まるまる一晩空いた時間を無為に過ごす手はないと思った。O市へ戻って江南に連絡を取れば、駄目押しのアリバイ工作となるからだ。  体調は悪くなかった。曇りがちの空模様が気に懸かりはしたが、ラジオの予報によれば、天気の崩れは小さく、波は穏やかだろうという。決心を固めるとすぐに、前二回と同様の手順でO市に向かい、一旦自分の部屋へ戻った。そして、国東からの帰りと見せかけるため、キャンバス・ホルダーをバイクに積んだ上で、江南の下宿を訪れたのだった。 [#ここから3字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  夜の内に少し雨が降りはしたが、支障を来すほどのものでもなく、五日目——三月三十日の朝、空が白みかける頃、無事に島へは帰り着くことができた。  岩場に近づくとエンジンを止め、オールで岸に漕ぎ寄る。ロープを岩に繋ぎ、ボートを片づけにかかろうとした時だった。予期せぬ出来事が降りかかったのだ。  あっ、と叫び声が聞こえたような気もした。気配を感じて上を見ると、階段の中程に立って呆然とこちらを見下ろしているルルウの姿があった。  見られた。殺さねば、と瞬時に思った。  臆病者のルルウが、どうしてこんな時間に一人で岩場までやって来たのか、ゆっくりと考えている余裕などなかった。あるいは、岩に結びつけられていた紐を何かの折りに目に留めていて、それに不審を抱き、調べにきたのかもしれなかったが、とにかく見られてしまったという事実に変わりはない。恐らく彼は、全てとは云わぬまでも、事の次第を理解したに違いない。  手近の石ころを手に取るや、逃げようと背を向けたルルウのあとを全力で追った。  こちらも動転していたが、ルルウはそれ以上だった。足をもつらせ、のたのたと逃げ惑う彼との距離は、あっさりと縮まっていった。十角館の方に向かって、彼は大声で助けを呼んだ。その時にはもう、あと少しのところまで追いついていたので、とっさに彼の後頭部めがけて石を投げつけた。鈍い音を立ててそれは命中し、彼は前のめりに倒れた。転がった石を再び拾い上げ、ざっくりと割れた彼の頭をもう一度、更にもう一度……。  ルルウの絶命を確かめると、急いで岩場に戻った。その途中で、地面の足跡には気づいたのだけれども、冷静に対処するには気の焦りが大きすぎた。ルルウの悲鳴を聞いて、すぐにでも誰かが駆けつけてくる虞れがあるのだ。とにかく急げ、と頭が命じた。  足跡にまずい特徴がないかどうか、ざっと見渡してみた。一見して誰のものか分るような個性は留めていない。相手は警察じゃない、このくらいの足跡なら大丈夫だ、と判断し、そしてそれっきり、足跡のことは念頭から消えてしまった。  何よりも恐れるべきなのは、誰かがやって来ることだった。ボートを見られてしまってはおしまいなのだ。  とにかくまず、岩場を離れて入江の方にまわった。桟橋の下、水面との間にかなり広い空間があったので、とりあえずボートはそこに押し込んでおいて、しばらく上の様子を窺った。誰も起き出してはこない。幸運だった。  入江に引き返すと、ボートをたたみ、桟橋の袂にあるボート小屋に隠しておいた。多少危険ではあるが、再び岩場へ戻るのはもっと危険だと思った。  十角館に忍び入ると、「第三の被害者」のプレートをルルウの部屋のドアに貼り付ける。そうしてやっと、シュラフに潜り込むことができた。  異様に昂った神経が、ほんの浅い眠りしか許してはくれなかった。全身が痺れるようにだるく、少し胸がむかついた。やがて、腕時計のアラームで日を覚まし、水を飲みに部屋を出る。そこであのアガサの死体を発見した。その朝になって、彼女は口紅の色を替えたのである。  殺人などもう沢山だ。これ以上死体を見るのは嫌だ!——心の中で喚きだすものがあった。  箍《たが》が外れたように、抑えようのない嘔吐感が身体の芯から突き上げてきた。精神も肉体ももはや限界に近づきつつある、と感じた。  しかし、放棄するわけにはいかない。決して逃げ出すわけにはいかないのだ。  苦痛に捩れる心の中で、永遠に帰ることのない恋人の顔が赤く明滅し続けていた。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  エラリイ、そしてポウ——残った二人と共に、十角形のテーブルを囲む。大詰めが近づいていた。場の情勢は、何となくポウに対して不利な方向へと動いた。後にエラリイは否定していたけれども、あのまま行けば、もしかするとポウが犯人にされてしまっていたかもしれない。  ルルウの殺害現場で、エラリイが例の足跡に興味を示した時には、心臓が止まる思いだった。落ち着け。大丈夫なはずだ。落ち着け……。込み上げてくる嘔吐感と戦いながら、自分にそう云い聞かせていた。エラリイはすぐに踵を返した。思わず胸を撫で下ろさずにはいられなかった。  なのに——。  突然また、エラリイは足跡のことを云いだしたのだ。  何かミスがあったんだ、と思った。何か、もしかすると致命的なミスが。  エラリイのあとを追って現場に駆けつけ、足跡の状態をよく覚えてくれと彼に云われて、ようやく、そのミスが何だったのか分った。己の愚かしさに半ば呆れ返り、もう駄目だ、とも感じた。  もとより、被害者の数が増え、容疑者が絞られていくにつれて、動きがとりにくくなるであろうことは覚悟していた。状況に応じて、何らかの思い切った行動に出る必要もあるだろうと予想し、いくつかの手立てを用意してもいた。最悪の場合には、一対複数の格闘もありうる。そう考えて、上着のポケットには常に小型のナイフが忍ばせてあった。  エラリイが足跡の検討を進めている間、何度、そのナイフで二人に切りかかろうと思ったことか。が、下手に動いて取り押さえられてしまったら、それこそ一巻の終わりだ。それに、その時点ではまだ、エラリイが自分を犯人として指摘するかどうか、一考の余地も残っていた。  朗々と響くエラリイの声に身を縮めながら、最も望ましい対処法を考えつつ、じっと圧迫に耐え続けていた。ところが——。  エラリイは、結論を、およそ見当外れな方向へと短絡させてしまったのである。犯人は三人の内の誰でもない、島の外から船でやって来た何者かなのだ、と。  中村青司のことを云いたいに違いなかった。青司が生きていると、彼は本気で信じていたのだ。�青司の影�が、ここへ来て、ここまで決定的に自分を守ってくれることになろうとは思ってもみなかった。  たちまち頭が冴え始めた。  エラリイが煙草を切らし、ポウが煙草入れをまわした。絶好のチャンスだ、と判断した。  素早く、ポケットからある物を取り出した。小さな細長い箱——中には、青酸カリを仕込んだラークが一本入っていた。機会があれば、ポウに対して使うつもりで用意しておいた物だ。  自分も一本欲しいと云って、煙草入れをまわしてもらう。この時、テーブルの下ですり替えを行なった。煙草入れから二本を抜き出して、内の一本をくわえ、もう一本はポケットにしまってしまう。そうして、毒入りの一本を代わりに入れておいたのである。  ヘビースモーカーのポウのことだ、煙草入れを返せば、すぐにでもまた一本吸うだろう。ポウが毒入りを取らないまま、再びエラリイにまわされるかもしれないが、二人の内どちらかが死ねばそれで良かった。最後の一人になってしまえば、あとはどうにでもなる。  そして、毒入りはポウが吸った。 [#ここから3字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり]  ホールには二人が残った。  ポウが死んでしまってもなお、エラリイは青司が犯人だと信じきっていた。少しもこちらに警戒の目を向ける様子はない。  急いでけりをつける必要もなさそうだった。慎重に機会を狙うことにした。できれば、最後の一人には�自殺�を遂げてもらいたかったからである。 (愚かなエラリイ)  彼は結局、最後の最後まで自分に協力してくれたわけだ。彼は、名探偵を気取った、救い難い道化役者だった。皮肉にも、自分は期せずして、妙なところではっきりと宣言していたではないか。最後に残る二人は、「探偵」そして「殺人犯人」である、と。  ただ、彼が最後に、例の十一角形のカップから十角館の十一番目の部屋の存在を導き出した、あの推理の冴えには敬意を表さねばならないだろう。何故あんなカップがあったのか、自分も疑問に感じてはいたのだ。しかしまさか、それがあんな仕掛けの一環だとは思いもよらなかった。本土の方で、江南たちから聞かされて、建築家中村青司のからくり趣味を知っていたにもかかわらず……。  もっとも、それとて、必してこちらの立場を危うくするようなものではなかった。むしろ、あの隠し部屋の発見は、エラリイの青司=犯人説を、よりいっそう確からしいものにする絶好の材料となってくれた。  二人して、地下の部屋に降りた。エラリイは外部への抜け道を探し始めた。そこで出くわした、あの死体。  即座に、ぴんと来た。これは行方不明になった吉川誠一の死体なのだ、と。  やはり、吉川は半年前に殺されていたのだ。青屋敷で、狂気に憑かれた青司の襲撃を受けた彼は、命からがらここへ逃げ込み、そのまま力尽きた。あるいは、青司自身が、彼をここへ連れ込んで殺したのかもしれない。  死体を見て悄然《しょうぜん》と佇むエラリイに、その考えを話した。すると彼は、腐臭に鼻を押さえたまま何度も頷き、こう云った。 「成程ね。ということはつまり、去年の事件で青司は、もう一体、どこかから身代わりの死体を調達してきてたってわけか」  そして更に彼は云った。 「さあ、行こうぜ、ヴァン。この通路がどこに出るのか、調べておく必要がある」  死体をよけて、通路の奥へ踏み出した。こうなれば、とことん付き合ってやろうと思った。  もしかするとエラリイは、本当は自分を疑っているのではないか。例えば、そう、床の埃の状態に注目すれば、長い間ここに人が踏み込んでいないことは明らかだ。それをわざと、そうではないように見せかけて、逆に自分をやっつける機会を窺っているのではないだろうか。そんな不安が、一瞬頭をよぎりもした。右手をポケットに潜り込ませ、ナイフを握り締めながら、エラリイに従って澱んだ暗闇の中を歩いた。  やがて、通路は一枚のドアに行き当たった。間近に波の音が響いていた。  エラリイがそのドアを開けた。更に高まる波の音……。  そこは、入江に面した崖の中腹だった。ドアの外には、狭いテラスのような出っ張りがあるだけで、その下には深い闇が広がっている。海面までの距離は相当ありそうだった。  エラリイは慎重に足場を確かめながら、一歩外へ踏み出し、ライトを巡らせて周囲の様子を探っていた。納得の面持ちでこちらを振り返ると、彼は云った。 「丁度、崖の上からも下の海上からも見えにくい角度にあるんだな。少々無理をすれば、岩伝いに石段のところまで行けそうだ。やはり青司は、ここを通ってきていたんだよ」 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり] 「青司は、きっと今夜もやって来る」  ホールに戻るとエラリイは云った。 「秘密の通路も見つかった。通路か、それと玄関か、どっちから来たとしても、二人で一緒にいれば恐れることはないさ。あわよくば、逆に奴を捕まえてやろうじゃないか」  神妙に相槌を打ちながら、二人分のコーヒーを淹れた。そして、前日ポウから睡眠薬を貰った時、こっそりと余分に壜から取り出して持っておいた数錠を、一方のコーヒーに溶かした。  何くわぬ顔で、エラリイにそれを差し出す。彼は何の疑いも抱かず、すぐに飲み干してしまった。 「少し、眠くなってきた。どうやら気が緩んでしまったみたいだな。ヴァン、君は大丈夫かい。——ちょっとだけ、うたた寝をさせてもらうよ。大丈夫。何かあったら、すぐに叩き起こしてくれ」  名探偵退場の台詞だった。  まもなくエラリイは、テーブルに顔を伏せて無邪気な寝息を立て始めた。すっかり眠り込んでしまったことを確認すると、彼を部屋に運び、ベッドに寝かせた。  エラリイには�焼身自殺�を遂げてもらうことにした。いずれ、死体から睡眠薬が検出されるかもしれないが、よく似た状況で発見された昨年の青司の焼死体が、吉川誠一の他殺死体の発見によって、近々自殺と判定されることだろうと考えた。それはきっと、今回の事件に対する警察の見解にも少なからぬ影響を与えるに違いない。  雨はとうにやんでいた。再び降りだす気配もなかった。  入江に降りて、先にボートの準備を整えておき、焼跡の地下室から灯油を持ってきた。埋めておいたオルツィの手を掘り出し、指輪を取る。手首は彼女の死体に返してやった。  残りのプレートや血の付いた衣服、毒薬、ナイフなど、あとに残ってまずいものは全部、エラリイの部屋に運び入れた。窓を開けておいてから、その部屋中に灯油をまく。他の部屋にも適当に油をまいてから、プロパンのボンベを外してホールに持ち込み、外へ出た。窓の下に回り込み、ベッドのエラリイの身体へ最後に残った灯油をぶちまけ、ついでにポリタンクも投げ込む。  エラリイは、ぴくりと目覚める気配を見せた。が、その時には既に、火の点いたオイルライターが、ずっしりと油の染みたベッドめがけて放り込まれていた。  めらめらと炎が波打つのと窓を閉めるのとが、殆ど同時だった。  思わず身を退け、目を閉じた。瞼の裏で、狂おしいほどに赤い、透明な火炎が、渦を巻いて踊り広がっていった。 [#ここから7字下げ] * [#ここで字下げ終わり]  翌朝の、深い死んだような眠り——。  事件の発生を知らせる伯父からの電話で、目が覚めた。江南に連絡を入れ、自分はすぐにS町へ向かった。  まず伯父の家に寄り、島の様子を見にJ崎まで行ってくると云って、車を借り出した。そして、その言葉通りJ崎へ急ぎ、隠しておいたボートやボンベをトランクに積み込む。その時点で、角島ではなくJ崎の方に注意を向ける者など、誰もいるはずがなかった。  車を伯父の家に返したついでに、ボートは元通り物置にしまっておいた。こうして全ての後始末を済ませた上で、江南たちと落ち合うべく港に向かったのだった。 [#ここから3字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり]  K**大学|推理小説《ミステリ》研究会のボックスでの会合がお開きになると、守須恭一は独りそそくさと帰路についた。  エラリイ=松浦純也が、何らかの知られざる動機、あるいは異常な精神状態の下で、五人の仲間を殺した挙句、焼身自殺を謀った。警察の見解は、結局そこに落ち着きそうである。今日の会合で、その具体的な動機が浮かび上がったわけではなかったが、彼の人と行動にまつわるいくつかの風変わりなエピソードは、島田警部の関心を大いにそそったようだった。  事の展開は総じて、予想以上に順調だった。  本土での行動を証明する例の絵の内、不必要な二枚は既に処分してある。もう何も、やり残していることはない。もう何も、恐れることはない。  これで全て終わったのだ、と守須は思った。  全て——復讐は終わった。終わったのだ。 [#改ページ] [#ここから1字下げ] エピローグ [#ここで字下げ終わり]  黄昏の海。閑寂の時。  夕日に映えた赤い波が、彼方より打ち寄せてきては退く。  いつかと同じ防波堤に腰掛け、彼は独り暮れなずむ海を見つめていた。 (千織)  さっきから幾度となく、心の中で呟いていた。 (千織……)  そっと瞼を閉じると、あの夜のあの炎が、いまだ鮮かに甦る。獲物たちを捕えた十角形の罠を包み込み、夜を裂いて燃え上がる、巨大な追悼の炎……。  それと重なるようにして、彼女の幻影が浮かび上がる。声をかけてみる。けれども彼女は、じっと目を伏せたまま何も答えようとはしない。 (どうしたんだい、千織)  炎は、ますます激しく、ますます鮮かに燃え続ける。やがて、恋人の影は真っ赤なその渦に呑み込まれ、滲むように消えていく。  彼は静かに立ち上がった。  子供たちが何人か、水辺で戯れていた。目を細めてその光景を眺めながら、しばし彼はその場に佇んだ。 (千織)  もう一度、呟いてみた。しかし、険を閉じても宙を見据えても、彼女の姿が現れることはもうなかった。何かしら、胸の中に詰まっていたものがぽっかりと抜け落ちてしまったような、底なしの虚無感にさいなまれた。  海は夜に溶け入ろうとしている。残り少ない夕日の色を乗せて、心なしか遠慮がちに、波たちがさざめき合う。  ——と、突然、誰かに肩を叩かれ、彼は驚いて振り返った。 「やあ。久しぶりだね」  人懐っこい笑みを頬に浮かべて、痩せた背の高い男が立っていた。 「マンションの管理人に訊いたらね、君はよくこの海岸に来てるって教えてくれたんだ」 「ああ、そうですか」 「元気ないねえ。さっきから見てたんだけど、一体何を物思いにふけってたのかな」 「別に。そちらこそ、一体どうして僕を」 「いや、大したことじゃないんだよ、うん」  男は彼の立つ傍らに腰を下ろし、今日の一本、と呟いて煙草をくわえた。 「あの事件から、もうだいぶ経つね。警察じゃあ既に捜査を打ち切ったようだけど、君はどう思う」 「どうって、あれはエラリイが」 「いやいや。そうじゃなくって、もっと他の真相がありうると思うかってことさ」 (一体、この人は何を云おうとしている)  彼は沈黙し、海に目を投げた。男は煙草に火を点けながら、佇む彼の顔を見上げた。 「紅さんが犯人なんじゃないかって、いつか僕は云ってたが、実は、あれからまた、暇に任せていろいろと想像の網を広げてね、一つ面白いことを思いついたんだ。そいつを、今日は聞いてもらいたくってねえ」 (まさか。この人は気づいたのだろうか)  彼は何も応えず、男の視線から顔をそむけた。 (まさか、そんなことは) 「おいおい。そうつれなくしないで聞いておくれよ。もっとも、あんまり突拍子もない思いつきだから、殊に君には、一笑されるだろうがね。またお叱りを受けるかもしれないが、まあそこは、単なる僕の空想の産物だと思って……」 「もうやめましょうよ」  抑揚の失せた声で彼は云った。 「もう終わったことなんですから、島田さん」  そうして彼は身を翻し、呼び止める男を背に、子供たちが遊ぶ浜辺へ降り立った。  自分でも情なくなるほどに、心が乱れていた。 (馬鹿な)  彼は強くかぶりを振って、動揺を鎮めようとした。  そんなはずはない。気づかれたはずがない。それに、たとえあの男の旺盛な想像力がたまたま真実に行き当たってしまったのだとしても、それがどうだと云うのだ。何一つ証拠はないのだ。今更何も、手出しできるはずがない。 (そうだろう、千織)  恋人の影に向かって問うてみた。けれども、彼女は何も答えない。その姿さえ、もう見せてはくれない。 (どうして……)  不安が、一瞬津波の隆起を見せる。濡れた砂が重く足に絡む。——と、その足下で、何かがきらりと光った。 (これは)  屈み込んでみて、彼は驚きに表情を凍らせた。それから、ふっと短く息を落とすと、ひきつった口許を淡く苦い笑みに変えていく。  それ[#「それ」に傍点]は、薄緑色の小さなガラス壜であった。波打ち際で、半分砂に埋もれたその壜の中には、折りたたまれた何枚かの紙片が見えた。 (ああ……)  彼はそれを拾い上げると、防波堤に腰掛けたままこちらを見ている男の方をちらりと振り向いた。 (審判[#「審判」に傍点]、か)  子供たちがそろそろ家路につこうとしている。彼は拾った壜を握り締めると、その子供たちの方へゆっくりと歩み寄っていった。 「坊や」  彼は一人の男の子を呼び止めた。 「ちょっとお願いがあるんだ」  子供は、きょとんとした目で彼の顔を振り仰いだ。夕凪の海のように静かな微笑を見せながら、彼は子供の手にそれ[#「それ」に傍点]を持たせた。 「あそこにいる小父さんに、これを渡してきてくれないかい」 [#地付き]——了—— [#地から1字上げ](本書は一九八七年九月、小社ノベルスとして刊行されました) [#改ページ] [#ここから1字下げ] 文庫版あとがき [#ここで字下げ終わり]  この作品の第一稿を書いたのは、今から八年余り前のことになります。当時二十二歳、大学四回生だった僕は、実を云うとそれまで満足な長編ミステリを書いたことなどなく自分にそんな力があるとも思っていなかったのですが、丁度その年の夏にちょっと身体を壊《こわ》し、就職活動どころではなくなってしまったのを幸いに、早々と留年を決め込んで、ここは一つ、とばかりに奮起して原稿に取り組んだのでした。  その時に付けたタイトルが『追悼の島』。副題に『十角館殺人事件』と添えて、ある新人賞に応募しました。結果は——一次予選通過のあとあえなく落選。けれども、何しろそれが生まれて初めての応募だったものですから、一つでも予選を通ったことが嬉しくて、随分と舞い上がったものでした。今でもその、予選通過結果が掲載された雑誌を大事にとってあったりします。  ミステリを書くことに対する情熱に、その後も全く変わりはなかったのですが、留年して、当時研究室の助手だったK氏から大学院進学を勧められてついその気になり、しばらくは僕もマジメな学究活動にいそしんでいたのです。それがひょんなことで……と云い始めると長くなってしまうのでここでは控えますが、結果として、八年前の原形『追悼の島』にいろいろと新しいアイディアを付け加え、数度の改稿作業を経た後、一九八七年の九月『十角館の殺人』とタイトルを変えて上梓《じょうし》されることとなったのでした。  ともあれ、そこへ行き着くまでにあったさまざまな巡《めぐ》り合いの内のどれか一つでも欠けていたならば、僕が今こうして、曲がりなりにもミステリ作家をやっていることはなかっただろうと、思い返してみて実感します。全く、僕は幸せ者です。  今回の文庫化にあたって久しぶりに読み直してみて、分ってはいたものの、あまりの下手さに逃げ出したくなりました。できれば全面改稿を、ということすら考えたのですが、一方で、これはこれでいいのかな、という気持ちもあり、結局、客観的なミスと、どうしても生理的に我慢ができない箇所を直す程度にとどめました(といっても、初校ゲラは真っ赤になってしまいましたが)。  講談社ノベルス版との最大の相違点は、「エラリイ」「ポゥ」「ルルゥ」が「エラリイ」「ポウ」「ルルウ」と変わっていることでしょうか。この変更は単に気分の問題なので、とりたてて深い意味はありません。あしからず。  この文庫で初めてお目にかかる方、もしも多少なりとも気に入って下さったならば、綾辻の他の本にも手を伸ばしてやって下さい。不器用な、色気のない小説ばかりですが、どれもが精魂込めて創《つく》ったものだという自負だけはありますので。  最後に——。  やはりこの『十角館』については、彼女にお礼を云わねばなりません。宇野冬海女史こと小野不由美さん、改めて、本当にありがとう。 [#地から6字上げ]一九九一年 八月 [#地から2字上げ]綾辻 行人 [#改ページ] [#ここから1字下げ] 解説 [#ここで字下げ終わり] [#地から3字上げ]鮎川哲也  去る年、「占星術殺人事件」をひっさげて待望の新人が現われた。いうまでもないことだが、島田荘司氏がその人である。島田氏は登場する早々、本格物を隆盛に導くにはすぐれた新人を育成しなくてはならない、そう考えたのであろうか、その持論を実践に移した。この情熱に応じるように名乗りを上げたのが綾辻行人氏だった。そして法月倫太郎、我孫子武丸、歌野晶午といった若い才能がそれぞれの力作を持って後につづいたのである。  一方東京創元社からは有栖川有栖、山口雅也、今邑彩、依井貴祐、芦辺拓等々の新鋭が輩出した。そしてその後には、講談社にも東京創元社にも出番を待つ本格派の若い人々が肩を並べているという。  かつて本格ミステリーを書いていた人々は、あるいは亡くなりあるいは筆を折ってしまった。そして残ったのは高木彬光氏と土屋隆夫氏、それにわたし。プロの作家はわずか三人に減っていった。わたしはペシミストのせいか、本格物を書ける作家はこの三人でおしまいになるものと考えていた。それが時勢というものだろうと諦めてもいた。わたしの耳に、評論家やアンチ本格派の作家の「本格物は古い」という大合唱が聞こえて来たりした。彼らが好楽家であったなら、ハイドンやモーツァルトも古いというに違いあるまい、とわたしは考えて苦笑した。それはともかく、わたしたち三人が退場してしまったら、本格物の書き手は二度と現われることもないだろうと思うと、何とも気が滅入ってくるのだった。  最近人づてに聞いた話だが、高木氏はそう悲観的な考え方はしていなかったようである。時計の振り子がゆれるように、また本格物が隆盛期を迎えることは間違いない、そのように確信していたのだという。そして、高木氏のこの予測は外れていなかった。島田荘司氏の登場を皮切りに綾辻氏の処女作が紹介され、陸続として後継者があらわれて来たのである。戦前の慣用句を以ってすればわたしは欣喜雀躍《きんきじゃくやく》した。これは夢なのかそれともうつつなのか。  本格ミステリーは書く上でかなりの困難を伴う。作者はつねにフェアでなくてはならない。大切なデータを伏せておいて、犯人は彼でありましたというようないい加減な作品を書いたのでは非難の集中攻撃をうける。また、先人が考案した手を失敬して自作に用いることは恥ずべきものとされている。読者の軽蔑を買わぬためには、知恵を絞って新たな手段を考え出さなくてはならない。こうしたタブーの他に、読者をだまくらかすためのあの手この事を考えることも必要だ。しかもそうしたテクニックは、たとえ自作のなかにでも二度と使うわけにはいかない。  つまり本格物の作家は、驚きを味わいたいという読者の際限のない要求に奉仕しつづけなくてはならないのだ。そうした困難なジャンルに挑もうとする若き新鋭がこれほどたくさん出てこようとは。  さて本論に入る。この「十角館の殺人」は、右にしるした数々のテクニックをマスターした俊秀の作品だけあって、考えぬかれた出来となっている。かつてイギリスの作家クロフツは「新聞記事のような文章を書く」といって叩かれたとか。日本でも本格物の作家は土屋隆夫氏のような少数の例外を除いて、おおむね文章がいま一歩という指摘を受けたものだ。だが、おしなべて昨今の新人は達者である。綾辻氏のこの作品が仮りにコンテストに投じられたとしても、選者は文章に文句をつけることはできなかっただろう。正確で適格で、推理小説の文章のサンプルといってもよい。  読者にとっては釈迦に説法かも知れないが、本格物のパターンの一つに「吹雪の山荘」なるものがある。人里はなれた山中の建物。そこに招待された客のあいだで殺人事件が起る。犠牲者はさらにふえていくが犯人の見当もつかなくて、生き残った人々は自分以外の人間を信じることができなくなる。救助を求めたくても電話線は切断されてしまったし、外は吹雪で山をくだることも不可能だ。こうした窮極の状況下で発生する連続殺人事件を描くことは、本格物の作家にとって腕の振るい甲斐がある筈なのに、どうしたわけか作品が少なく、短編では仁木悦子氏の「青い香炉」、中編では角田実氏の「山荘殺人事件」が思いうかぶ程度。長編に目を転じてみると、やはり作例は乏しく、近年では吉村達也氏の「トリック狂殺人事件」及び東京創元社主催の第一回長編コンテストの本選に残った伊吹明彦氏「故郷いまだ語ることなし」ぐらいで、蓼々《りょうりょう》たるものでしかない。  外国の例としては戦前のアメリカ作家ルーファス・キングにそのものズバリの吹雪の山荘を舞台にしたものがあったが、これが意外に凡作で、作者の力量の限界を知らされたような気がした。しかし抄訳の場合、訳者が本格ミステリーに理解のない人だったとしたら、注文された枚数に合わせるためにやみくもにカットをしただろうから、原作をはるかに下廻る姿となって紹介されることもあり得る。  この「吹雪の山荘」テーマの変型に、クリスティの「そして誰もいなくなった」を嚆矢《こうし》とする「孤島もの」がある。どういうわけかこちらのほうには少し作例が多くて、有栖川有栖氏の「孤島パズル」及び藤原宰太郎氏の「無人島の首なし死体」などがすぐ心に泛かぶ。綾辻氏の「十角館の殺人」は右の二作よりも一歩先んじて発表されたのである。 「孤島もの」では、陸地との連絡用のボートさえ沈めてしまえば、それで一切の通信手段は絶たれたこととなる。気の短い犯人であれば雪の降る冬まで待つ必要もなく、好きなときに荒療治にとりかかれるという利点があるのだ。  本編の構想をたてるにあたって、綾辻氏が意識して「誰もいなくなった」に挑戦を試みたことは明白である。クリスティのほうはそれがこのジャンルの第一作であったという点では評価するものの、出来としては話が平板で盛り上がりに欠けているように思う。それに、舞台に孤島をえらんだ必然性がもう一つ不足している。この作品は三度映画化されているのだが、原作どおり孤島で発生した連続殺人物として描いているのはルネ・クレール一人だけで、あとは雪山のてっぺんの山荘で起った事件であったり、砂漠のなかの出来事であったりするのである。それに反して「十角館の殺人」のほうは、孤島を舞台にしたぎりぎりの理由が犯人の側にあるという点、動機の設定及びそれによる展開がよりリアルである点、物語が島と陸地と平行して進行していく点などなど、作者の工夫の跡がいちじるしい。今回わたしは久し振りでじっくりと再読してみたのだが、初読のときと変らず面白かった。  読者のあいだで、綾辻氏をはじめとする本格派の新人に対して、妙に風当りがつよい。ごく一部の読者が評論家気取りで、こうした人々の作品を、下品な言葉を用いるならば「ぶった斬る」のである。だが、わたし共老本格作家がその出現を待望したこれらの若い新人を叩きまくることは止めてもらいたい。角《かど》のある物言いは害あって益ないことを、知らぬわけでもなかろう。先哲にも、まるい玉子も切りようで四角、ものも言いようでかどが立つ、という言があるではないか。深読みもせずに、上《うわ》っつらを読み流した批評も、雑談の材料にする限り結構だが、座談会のようにそれが活字になることを前提とした場合は、知性を忘れぬ発言をして欲しい。  かつて某誌で評論を連載した若い人が、めでたく一本立ちをした。編集部ではそれを祝福した上で、相手を褒めることを覚えれば評論家として一人前だと噂したそうだ。またプロの評論家のあいだでは、昔から、七分けなして三分褒めろといわれていると聞く。「ぶっ叩き」専門の素人批評家諸君にしても、あたたかい血が流れている「人間」である以上、このことが解らぬとはいわせない。  勿論、輩出した新人作家のなかには、本格物をいかに書くべきかというノーハウを充分にマスターしていない者もいることだろう。そうした人の作品を読んだとき、代金を返えせなどとケチなことはいわずに、具体的に欠点を指摘して、彼らの生長をあたたかく見守ることはできないものか。それとも、批評家気取りの若者たちは、本格ミステリの隆盛を希《ねが》う気持なんぞ持ち合わせていないのだろうか。そうした連中は沈黙してくれ。耳障りだ。  というようなことを、仮りにわたくしが言ったとしたら、批評家もどきの諸君は胸中おだやかではないでしょう。叩かれるのは推し不快なものです。賢明であろうあなたたち、傷つけられた相手の痛みを知らぬわけでもないでしょうに。 底本:「十角館の殺人」 綾辻行人著 講談社文庫刊 1991年9月15日 初版 2005年11月 テキスト化