栗本 薫 翼あるもの3 目 次  ㈵  グッドナイト・ウィーン   As Tears Go By   九月の雨 ──セプテンバー・レイン   Because  ㈼  身 も 心 も [#改ページ]   ㈵  グッドナイト・ウィーン  |それ《ヽヽ》を迎える瞬間に、また透は|かれ《ヽヽ》の名を口走っていたのであるらしかった。  慌しく身じまいを終える男の目に白けた光が漂っているようだった。透は気にしなかった。どうせ一見の客だった。  手の中に押しこまれた幾枚かの札をポケットにおとしこみ、客の出ていったあとの洗面所の鏡の前で念入りに姿かたちをととのえた。荒々しく幾度もうがいをしたが、口の中にも、からだのなかにものこっている男の匂いは、どこかにいつまでもまつわりついているように思えた。鏡をのぞきこむ。うつっている顔は紫色の隈にふちどられた、美しい、しかしどこかに病的な弱々しさと怒りを湛えたほっそりした女顔だった。  細い首にマフラーを巻きつける。栗色の長めの髪がやわらかく、その上に垂れかかる。華奢な指で前髪をかきあげてみた。男や、金のある年をとった女の肩にまつわりつく以外に能のない指だった。拗ねたような瞳と赤い唇が鏡の中からのぞきかえした。  コールテンのジーンズと黒いダブルのコート。茶色のブーツはヒールが高い。コートの衿をたて、肩をすぼめて旅館を出る。まっすぐに、六本木のクラブへ行く。  タクシーを交叉点でのりすてた。流行のファッションに身を飾った若い男女がたむろしている。サングラスを出してかけ、コートの衿と黒いマフラーに顎をますますうずめた。それでも、その声はきこえてきた。 (ねえ──あの人) (どっかで見たことない?) (知らねえな。モデルかなんかだろ) (──ああ。思い出した。見て、見て、トミーよ、あれ) (トミー?) (森田透──知らないの。ほら、さ、もとレックスの) (あ──ジョニーの、か) (それよ。「ザ・レックス」のサイド・ギターだった、トミーよ)  かれは慌しく地下のクラブにとびこんでゆく。背なかで、ささやきというには無遠慮な声は、いつも必ずそうなるようにつづいていくだろう。 (あいつ独立したんだろ。何やってんだいこのごろ、さっぱりきかねえけど) (二、三枚演歌のレコード出したけどさっぱり当たんなかったみたいね。きれいな顔、してたんだけどさ……ジョニーの陰になっちゃってたもんね) (相手が今西良じゃな──運のわるい奴だよな) (そうよねえ、少しばかしきれいだって、相手がジョニーじゃさ……) (おとなしく、レックスのギターひいてりゃよかったのにな。張りあおうなんて気、おこさずにさ) (ジョニーって最高。こんどの新曲のコスチューム見た? 凄いわよォ、アクションがね……)  かれ、かれ、かれ。ジョニー、こと、今西良、二十四歳、歌手。 (かれ) 「濃くしてくれよ」  透はバーテンに云った。 「トリプルで」 「ああ」  暗いカウンターに座ってグラスをはずし、コートを羽織ったまま、酒を口にもってゆく指がふるえて、氷がかちかちいった。 「寒いんですか? スチーム、つよくしましょうか」 「いいよ──それよりボトルおいといてよ」  店はほどよく混み、かれに注意をむける者はいなかった。かれは前髪をふりやり、「ボニータ」をつまみ出した。くそ、手がふるえる。何だっていうんだろう。 「痩せたんじゃありませんか」 「もとからさ」 「何も食わないんでしょう」 「食ってるよ」  純正の蛋白質をね。胸の中でつけくわえると、口いっぱいに熱い青くさいその匂いがひろがってきて、かれは吐きそうになった。 「もっとましな曲ないの」 「リクエストなんですよ」  客たちの喧騒とタバコの煙。かれはまたボトルからグラスに注ぎ入れた。 「あまり急いで飲むとアル中起こすよ」 「もう、なってるってよ」 「急性でさ」  細巻のタバコを、二、三服しただけでかれは灰皿に押しつけてねじった。 「この曲、やめてくれよ」 「嫌いですか。いい曲じゃないですか。演歌もいいですよ」 「嫌いだよ、こんなの」 「リクエストなんですよ」 「オレもリクエストするよ」  ふるえる手で札をつかみ出した。こころえたバーテンは肩をすくめた。 「何にしますか」  何でもいい、演歌でなけりゃ。 「危険な関係」  もうひとつ肩をすくめて、プレイヤーに手をのばすバーテンのうしろ姿が、あんたも変わってるね、と云っている。わざわざあんたを打ち砕いたライヴァルの大ヒット曲をきいちゃ、イヤな気分になろうってもんだ。ま、好きずきだけどさ。プレイヤーにLPがのせかえられ、毎日誰でも最低二回は耳にしている筈のヒット曲の派手なイントロが流れ出す。有線から、パチンコ屋の前から、TVの歌番から、きこえてこない日はありゃしない。  透の唇がたどたどしく歌詞をなぞり、かれはまたあわただしくバーボンを飲み下した。 (ピッチが、早すぎるね)  カウンターの、反対側の隅だった。  客たちはみんな何人連れかで陽気に、それともしんみりやっている仲間たちばかりだ。ひとりで、カウンターで、恰好をつけて肘をついているのは、透のほかにはそいつだけだった。  大きな男。がぼがぼの、アーミー・ジャケット。鼻下髭、すかしたレイ・バン。芸術祭賞をもらった「海の挽歌」の画面を思い出すまでもなかった。巽竜二なのだ。  透は目をそらし、タバコをつまんだ。六本木で有名人などめずらしくもない。転落した、それともなりそこねたスターがめずらしくもないようにだ。巽竜二がまた透の白い顔に目をあてた。  ジョニー&ザ・レックスのナンバーワン・ヒット曲は、終わりかけていた。|あの《ヽヽ》奇蹟の声がほそくかすれて消えてゆく。自由自在に声をかすれさせ、たゆたわせ、張ることができるのは、ジョニーの特技といっていい。 (今西良、レコード大賞の最有力候補に!)  新聞の広告欄の、週刊誌の見出しがちらついた。お前はどこまでゆくつもりなんだい、とグラスの中にうかんだ目の大きい、唇のしゃくれた、妖しいほどなまめかしい顔にむかってささやきかけた。  くっきり切れあがった二重瞼、ちょいと先をそりかえらせた鼻、淫蕩なくらい、色っぽい、厚めのしゃくれた唇、弓なりの眉。決して、絵のように端麗な目鼻立ちというのではない。トミーの方が、顔立ちはきれいだ、と誰もが云った。 (だけど……)  そう。誰もが必ず(だけど──)そう、つけくわえる。ふしぎと魅力があるのよ。生きてる人と死んでる人くらい、違うんだな。光ってるんだよ。あいつはまわりをまるで目立たなくしちまうんだ。たまらないのよ。 (顔立ちでいえば、トミーの方がととのってると思うんだけど……)  わかったよ。|だけど《ヽヽヽ》はもう沢山さ。 「──いいかね、ここ」  ふりむいた透の目に、巽竜二の無表情な顔がうつっていた。のっそりと立って、指に短くなったタバコをはさみ、左手はジャケットのポケット。 「ご勝手に──」  大男の、もとやくざ映画スターは、音もなく隣のスツールに腰をおろす。誰か、見ていただろうか。見ていたっていい。透はボニータをひねりつぶす。 「勿体ない、吸い方をするね」  俳優がスクリーンで見るとおりのぼそぼそした喋り方で云った。薄色のレイ・バンの奥の、意外にやさしい色の瞳が透をのぞきこんだ。 「何か用」 「あんたの名前、思い出せない」 「森田透」 「森田──?」  わからなきゃ、教えてやるさ。ジューク・ボックスから、けたたましい、十七、八のアイドル歌手のぺちゃんこな声が流れ出した。 「っていうより──トミーっていえば、思い出すだろう。ザ・レックスを追ん出て、ソロ・シンガーになりそこなった、サイド・ギターの」  そしてたぶん、|ひも《マクロー》にも、男娼《ベルボーイ》にさえもなりそこなった。ジゴロにだって素質はいるのだ。 「──ああ」  思い出したようでもなく巽竜二は呟いた。透の頭を、脈絡もなく、どれをとっても二万枚以上売れることのなかったレコードのジャケットがよこぎる。「夕陽のブルース」──「別れるときも」──「霧の中の女」──「愛しすぎたのね」。 「用がないんなら……」  男は黙って、動じたけしきもなく酒を咽喉に放りこんでいる。足を組みかえるとき、ワーク・ブーツの壊れたチャックが、カチャカチャ音をたてた。  バーテンは氷を割りにひっこんだ。ふたりはむっつりして酒を飲んだ。どうしてマフラーもコートもとらないのか、ぐらい、きいたってよさそうなものだ。  それとも、「俺を知ってるかね」か。何だっていい。 (誰だって、知ってる筈だと、思ってやがるのか)  髭の下の唇を、荒れた舌がなめ、やけどするまでくわえていたフィルターなしのタバコを太い指がひねり消した。革のような頬が、六本木の洒落《しやれ》たクラブに奇妙に似つかわしくない。彼は、植えかえられたサボテンのように、不幸そうだ。  ジョニー、と透は思った。お前このごろどこで飲んでるんだい。  ジョニーのいるところならどこでも、そこはジョニーの神殿になった。ひとびとはただジョニーを見、その電流のようにまきちらしているなまめかしいあどけなさ、仔豹のような危険な無邪気さを夢中でむさぼった。かれのまわりにはいつも華やかな笑い声がたった。 「ここは、おちつかないな」  巽竜二が突然云ったので、透はびくっとした。 「俺──俺の巣は、ゴールデン街なんだ」 「だろうね」  髭と笑い皺のせいで老けて見えるけれども、この男は案外に若いのかもしれない、と思いながら、答えてやる。たしかにあんたにはハモニカ横丁やゴールデン街が似合うだろう。ただのやくざ俳優から、一躍、カウンターカルチュアの寵児にのしあがった問題作「海の挽歌」の大野梓監督が彼を|見染め《ヽヽヽ》たのも、酒びたりのゴールデン街の夜明けがたの路上だった、という伝説だ。  それで? とたずねるように透は細い眉をあげてみせた。 「ここはおちつかん」  男は、もう一度くりかえした。 「行こう」  冗談じゃないぜ。あんたと一緒に行くなんて云った覚えないよ。第一あんた何のつもりなの。オレのこと知ってるっていうのかい──だけど、どっちみちお断わりだ。さっきやっと、|済ませて《ヽヽヽヽ》逃げてきたばかりなんだ。オレはその晩の飲みしろ以上に稼ぐつもりはないからね──第一からだが保《も》ちゃしないよ。  しかしそのどれをもかれは口にしなかった。ひとつには、巽竜二は不幸で──ひどく、戸惑った子供のような目で透を見ていたし、そしてまさにそのとき、ジューク・ボックスから二度めの「危険な関係」が流れてきたからだ。 「行こう」  巽竜二はむっつりとくりかえした。彼が勘定を済ませるあいだ、透はコートのポケットの札を指さきでさわりながら自動ドアの前に立っていた。 「ジョニー?」  巽竜二が、ききかえした。ゴールデン街の片隅の畳三枚しけばいっぱいになってしまいそうなバーだ。 「──ああ。知ってる」  知ってるだろう、あんたでさえも。透の胸のなかの熱い空洞は、良の名前、表情、(かれ)でいっぱいになってしまっている。(かれ)の名を口にせずにはいられなかった。それはちょうど、いたむ歯にたえず子供が舌をやってみずにはいられないようにだ。 「──考えてみたこともなかったが」  いぶかしそうでもなく、彼は云った。 「あの──女みたいにきれいな顔をしてる……誰だったか、歌手と結婚するとかしないとか云ってた」 「吾妻ルミだろう」 「よく、知らんがね」 「あんたは、何きいても、よく知らんばっかりだね」  意地わるそうにうすい唇をゆがめて、透は云った。 「いまどき、ジョニーも知らんで、俳優がきいて呆れるよ」 「その、ジョニーが……」  甘ったるい愛称を、云いにくそうに巽は発音した。 「──そのジョニーのおかげで、オレはレックスを追ん出て、ソロ・デビューも当たんなくて、クラブ・シンガーにずるずる、おっこちた、ってわけ」 「わるいことを──きいたかね」 「別にわるいこた、ないさ。誰だって知ってることなんだから」  あんた以外はね、とつけくわえた。小さなバーをはしごして、注ぎこんだ酒がからだに芯棒を入れてくれたように、真白な頬に血の気がさし、饒舌になっていた。 「俺は、いろいろあったから──」  世の中の事情にうとくなっちまってね、と、巽はひとことずつ、区切りながら、重たげに喋る。 「いろいろあったのは、お互い様さ」  なぜ、こんなところで、こんな話など、知りあいでもない俳優相手にしているのだろう、と突然思った。しかもジョニーのことなどを──一番、ふれたくないこと、以前には寝たグルーピーの小娘が、ひとこと「ジョニー」と口走った、というので、殴りとばして目を腫れあがらさせてひと晩豚箱のご厄介になりさえしたのだ。  小さな箱みたいなバーは真暗で、うすあかりに、壁を埋めつくした落書きをかくす新劇公演のポスターが見えた。顔色のわるいやせこけたママは話のあいまにザルに盛って出したピーナッツの殻を割っては口に放りこんでいた。 「食う?」  巽がピーナッツを指先でくるみみたいにすりあわせながら云う。考えただけで胸が焼けた。 「要らないよ」 「あんたは、痩せてるね」 「………」 「──何か、食わなくちゃ」 「………」 「ラーメンでも、食いにいこうか」 「いいよ。それより──」  それよりジョニーだけど……かれは、何と云おうとしていたのだろう。  巽がいぶかしそうに見る。ジョニー、ジョニー、ジョニー、かれの夜はジョニーで埋まっていた。 「あんたは、変わってるね」 「正気でいるのが、イヤなだけさ」 「あんたは、幾つだ」 「二十五」  良よりひとつ上だった。良よりひとつ上、良より二センチ高く、ジョニーより髪が少し短く──すべてに、(かれ)は存在していた。(かれ)の不在でさえ、(かれ)でないすべての人の実在より重かった。 「若いね」 「………」 「そんなに痩せてちゃ、ダメだな」 「何が。とっくに、ダメになってるよ」 「もっと肉をつければ、あんた、凄いきれいだろうにさ」  竜さんがこんなに喋るのは、珍しいわね、と髪をばっさり断髪に揃えたバーのママがつやのない声で笑った。インタヴューアー泣かせ、なのだ、と云う。 「──何ていうのかね」  放っとけないような気がしたのだ、という意味のことばを照れくさげに口の中で呟いて、巽は透を見た。 「あんた──薬《ヤク》、やってるのと違うか」 「薬《ヤク》?」  透は首をふった。自分が一年ごとに、すさんだ、病的な腐臭を身にまといつけていることは、知っていた。オレの旅《トリツプ》はバッド・トリップにしかならないだろう、と思う。もっとつよい麻薬がかれの内側を食い荒しているのだ。 「そうか」  なら、いい、と巽は云った。あれは、よしとけよ、とも口の中で云った。 「俺も昔、それで苦労したから」 「因縁話かい。そんなの、ご免だな」  当然、巽竜二はかれの本業を知っての上で、そちらに用があったのだろう、と頭から疑わずに、ついてきたのだ。  放っておけない、と云われても、感動して泣きやしないよ、と胸の中で悪態をついた。ジョニーなら信じただろう。 (かれ)はいつだって、ひとの特別な好意が降るようにそそがれることに狎れているのだ。 (かれが窮地に立つようなことがあったら、僕は何をおいても、どこまででも、かれを救いにかけつける)  そう、云った、TVの敏腕プロデューサー。 (生命のあるかぎり、今西良の一部としてやってゆきたい)  レコード・ジャケットに、そう書いた、レックスのリーダー──堀内弘。 (これで十回、来ました。一ケ月、毎日来るつもりです)  一ケ月のロング・リサイタルの切符を買いに並んだ少女へのインタヴュー。  オレはジョニーじゃない、と激しく透は思う。オレは信じない。(かれ)にはいつだって何かがおこった。それがオレと(かれ)の違い、それも決定的な違いだった。  つきはなされて、男は黙ってバーボンを咽喉に流しこんでいる。この男は、実にうまくなさそうに、水でも飲むように氷も入れない酒を飲む。 「どうするの、これから」  突然、透はきいた。ミルクを飲むように、バーボンを啜りながら、驚いたように巽竜二はかれをふりかえった。彼にはまったく、先の思いは遠いらしかった。 「──始発までにゃ、間があるな」  結局、五軒ばかりを梯子して、さいごの店を追い出されたのが、午前三時、というところだったろう。  公園の水飲場に口をつけて巽は水を飲んだ。寒い。 「──そこに座るか」  黒いコートの衿をたてて、透はよろめくようにベンチに座り、アーミー・ジャケットの巽のがっしりと厚い肩から漂ってくる男くさい匂いを嗅いだ。  不意に、力強い手が華奢な首筋をつかんだ。髭が鼻をくすぐり、バーボンの匂いのする唇がかぶさった。息を切らしながら目を開くと、薄色のレイ・バンの奥で、瞠かれた切れの長い目が、哀願に似た色を湛えていた。 「あんたは、女みたいだな」  云い訳するように巽は呟いた。 「俺の部屋に来ないか」  透は黙って、厚い肩に頭をもたせかけている。安堵、に似ていた。  欲望をなら──かれにも、信じることができる。まじりけなし、偶像崇拝にも似た、欲望の味のしない信者たちの好意を苦もなくむさぼってはいよいよ輝くジョニーが、かれにはふしぎだ。 (疲れてるんだけど)  金がなくなるまで、(仕事)はよそう、と思っていたが、まあいいとかれは思った。男の太い腕が肩をつつみ、持ちあげるようにして、明けがたまえの小さな公園から連れ出される前に、もう一度、乱暴な接吻が透の唇を襲った。それはやはり、バーボンの味がした。 「あんた」  マフラー。コートの金ボタン。それを脱ぎ、また身にまとったのが何時間前で、どこの部屋だったのか、もう透には思い出せない。 「放っとけなかった、って云っただろ」 「ああ。云ったよ」  巽は戸惑ったように、胡座《あぐら》をかいて、透を見あげていた。自分の部屋に入っても、彼はレイ・バンをとらなかった。 「オレがペイ中に見えたんだろ」 「ああ」 「当たってるかもしれないよ」 「やるのか、ヤク」  巽がちょっと真剣な顔をした。 「ポンやシャブじゃないけどさ」 「葉っぱかい」  いや、|マリワナ《グラス》でもなかった。透の麻薬は(かれ)の味がした。  しかしいずれ、はじめることになるだろう。覚醒剤《シヤブ》の最初の一本。もうおこってしまったことであるかのように、かれにはそれがはっきり見える。巽が髭をゆがめてもごもごと何か云う。薬だけは、よしておけよ、と云っているらしく思える。透は、きいていなかった。  傷つけてやりたい、という奇妙な唐突な欲望にかられて、かれは、かれを買った(ことになるのだろう)男にむかって云った。 「あんたが、男をご入用だなんて、知らなかったな」  巽はゆっくりレイ・バンをはずす。子供っぽく澄んだ眸がかれを見ている。なんにも云わない。 「あんた『海の挽歌』でサチ役の阿部聖子と本番やったっていうじゃない」 「あれは──」  ウソさ、と云いたげに、巽の目もとが笑った。気にしたようでもない。何を考えているのだろう、この男は、と透は思う。 「オレの話ほんとにきいたことなかったの」 「──何?」 「レックスのトミーのなれのはての味をみてやろうって、思ったんだろう。いいよ、変なお為ごかしをされるより、それが商売なんだから、ビジネス・ライクでいった方が話が早いだろ」 「金──が要るのか?」 「ふざけないでくれよ。それ以外に何の用だって云うんだよ」 「あんた──」 (荒んでるな)  メガネを外した巽の目が、なにか哀しげに透の白い顔を見た。透はその目をはねかえした。  黒いカシミアのセーター。白いシルクのブラウス。乱暴にはぎとってゆく。痩せた生白いからだを巽は見て、あわてて目を外した。 「待てよ」  ほとんど、おずおずした、といっていい口調で云う。 「寒いだろ。いま、ストーブをつけるよ」 「そんなもの……」  無器用な男だな……と苛立ちながら、うつむいて石油ストーブに火を入れる巽の大きな背中を見守った。部屋は殺風景で、船の模型がいくつも飾ってある。ちょっと身をふるわせて肩を抱く。そろそろ夜が明けるだろう。裸の胸に鳥肌がたっていた。 (さっさと|済まして《ヽヽヽヽ》くれよ。このまんま、つまんない冗談云って時間つぶす気かい) 「酒──ないの?」  部屋は寒かった。唇が、ふるえはじめていた。 「あ──気がつかなかった。済まん」  コーヒーカップに注がれたジャック・ダニエルズ。またバーボンか、かまやしない。  ぐっと飲んだ。からだのなかが熱くなる。巽はふいにストーブの前にかがみこんだまま首をねじまげてかれを見た。痩せた肩、白いなめらかな胸、カップを干そうとのけぞらせた細い骨ばった咽喉。巽の呼吸が少しずつ、苦痛におそわれたように荒くなってくるのを、瞳を上瞼にひきつけて、わずかに唇を開き、じっと透は待った。  勢いよく、ストンと音をたてて、ドアについた新聞受に投げこまれた朝刊と、階段をかけおりてゆく新聞配達の足音が、ふたりのあいだにはりつめていたガラスに唐突な亀裂を走らせた。 「──痛いよ」  首のまわりに、太い、筋ばった巽竜二の腕がからみついている。 「──済まん」  喘ぐように、巽が云った。しかし、ぴったりとおしあてられた熱いからだは、ひきさがる気配を見せはしなかった。 「──そっと……ゆっくり、やってったら」 「あ──ああ」  透は細い眉をよせて、口をあけ、何かを怺えるように短い息をした。啜り泣くような声が出た。 (畜生──)  こんなに、|ばかでかい《ヽヽヽヽヽ》と知ってれば、はじめから、ついてきやしないんだ、と空洞になった頭でぼんやり思っていた。切れぎれの呻き声が、自分の口から洩れるのをきいた。 (五枚で、勘弁してやるもんか……)  はじめて、男のベッドに入ったのが、幾つのときだったか、正確には覚えていない。  十五か、十六か、そのぐらいだろう。だがそのころは|うぶ《ヽヽ》だった、というわけでもなかった。  はじめから、被害者タイプの、子供、というのは、確実に存在するのだ。小学校の友達がかれを目の仇にした。  可愛がってくれる大学生がいた。自転車を押してくれ、と頼んで、かれを墓地に連れこみ、|こすれ《ヽヽヽ》、と強要した気味のわるい男もいた。  透にとって、ひとの欲望に狎らされることと、それが|見返り《ヽヽヽ》になる、ことに気づいたのと、どちらが先だったかは、もうわからない。 (|やつ《ヽヽ》は、どうだったのだろう)  学校の帰りに、変な男につけまわされたことはなかったか。電車の中で異様なまなざしに気づいたことはないのか。ときどき、透は、ふしぎに思った。  ジョニーをとりまくひとびとは、いつだって、真白な雪、もろいガラス、妖しいほどなまめかしい顔をしているくせに、勃起したことなど一回もないような聖天使に対するように(かれ)をとり扱った。  透は鏡を見るのが好きだった。鏡のなかの顔は、男にしておくのが惜しいほど、ほっそりと端麗で、唇が赤く、睫毛もジョニーに劣らぬくらい長く、両手で包みこめそうに小さかった。  そして、白い。透はうすい肌が陽灼けせぬよう気を配っていたので、かれの顔はその生来の、黄色人種ばなれした透きとおるような白さを完璧に保っていた。  それは、と透は思う。それは、狩られるものの顔だ。選ばれ、狩りたてられ、押しふせられ、むさぼりつくされる側の顔なのだ。  弘、修、光夫、といった、レックスのメンバーにせよ、たえずまわりにいたミュージシャンや芸能プロの男たちにせよ、そういう顔をもったものは、かれと良のほかにはいなかった。かれらは(男)であり、それ以外のものではなく、いつだって狩る側、むさぼる側、欲する側にいた。  そんなかれらには、決して理解されることはないだろう。ともかくも男である人間が、狩られる側、女の位置に追いやられて生きる、というのがどういうことか、だ。それはたえまない、自分のなかの男と女の争いであり、そして女の心と男の思いとの分裂である。修──レックスのベーシスト──がかつて評したように、透が何か、さだまったところのないきわめて不安定でおちつきのない態度を、つねのものとしてしまったところで、なにもふしぎはないのだ。 「あっ、痛《つ》……」  透は、悲鳴をあげて、太い腕にしっかりとかかえよせられた腰を引こうと|※[#「足へん+宛」]《もが》いた。熱い息が首筋にかかり、男はよけいにかれを抱きしめて、黙々とがっしりした腰をうごめかせていた。 (良)  良は、男に抱かれたことがあるだろうか、このつきあげられる痛みを知っているだろうか、と思う。それはこっそりかわすメンバーの噂話でも、謎だった。 (知らんだろう。ジョニーは意外と、根は子供だからね) (いや──知らんで、あんなメチャ色っぽい顔、できるかな。あのライヴのジャケットにした写真さ。あれモロにエクスタシー、って顔よ、あれは) (うーん、あの写真はたしかにけしからんな) (男、知ってたら、あんな顔恥かしくてできないよッ)  それはひそかな神聖冒涜の興奮をかきたてたが、あまり長くかれらがその話をつづけていると、まず修が、それからドラムスの昭司が、ふいっと立って逃げていってしまうのだった。  田端修、二十八歳──五つ上で、良とは、グループを組む以前からのつきあいだったときいている。そもそも、修が、京都のライヴ・ハウスで演奏中に、最前列に見にきていた中学生の良を見つけたのが、「ザ・レックス」と今西良の栄光のすべてのはじまりだったわけだ。  かれらは、透が中年のジャズマンと同棲していることも知っていた筈だった。だがそれについては、かれらは何も云わなかった。透が、ソロ・シンガーとして独立する、という話をつけるのに、プロデューサーや、スポンサーになってくれるという某社長や、他にも何人かの男たちのベッドを、たらいまわしに訪れたことも、知らなかった筈はない。だが、それについても、かれらは何にも云わなかった。 (偽善者ども──仲間|づら《ヽヽ》をして)  同じように美しいふたりの「狩られる側」の若者がいたとして、いつでもひとびとが選ぶのは、まだ自分がそういう肉体を持たされていることに、気づいていないほうの一人である、ということが、許せないのだ、と透は思ったものだった。 「痛いったら……いつまで、頑張ってるつもりなんだよッ」  かすれた声で、透は叫ぶ。しかし、首をねじまげて見あげると巽はなにかつらそうな柔らかい目で包みこむようにかれを見つめ、目を伏せて、ご免なと呟いた。 「あんたを、ひどい目にあわせるつもりじゃないんだけど……」  男の動きがためらいがちに止まり、またおずおずと欲望を訴える。オレは、と透は熱い苦痛にみたされた頭のなかで思っている。オレは|やつ《ヽヽ》に負けたんだ。たしかなことは、オレが良に負けた、ということ。ヒットしなかったレコード。次のレコーディングのプログラムからはずされた森田透の名前。かれの腰の上で汗にぬれたからだを重たくのしかからせている男は、かれにペイをやっているのか、ときいた。  かれを蝕んでいるのは、(スター)というペイ、だったのだ。身を売って、男たちの欲望を隅から隅まで知って、それでもかれを訪れてはくれなかった気まぐれな輝き。 「もっと──」  突然、かれは、首をねじって、獰猛に男の、髭の下の唇を求めていきながら、荒々しい息で云った。 「いいからもっと激しくやって」 「え──」  巽が眉をよせた。 「だが……」 「激しくして。滅茶苦茶にして。早く」  巽が息を呑んだ。  男娼の生活に身を馴らした筈の透をひるませた、逞しく硬い肉はまだかれのからだにおさまって、未練げに息づいていた。 「──いいのかい」 「いいって、云ってんじゃないか!」  何もない、と透は思った。  やつに背いて二年間、|やつ《ヽヽ》の影とたたかったオレが何を手に入れたのか──何もありやしない。  あっ、と透は苦痛の声をあげた。本能的に逃げようとするからだが、上の方へずりあがった。  その肩に男の指さきがめりこんだ。頭のなかから、灼熱した芯棒につらぬかれたような痛みのほかの、すべての意識が消える。巽はことばのあやで、いいのか、と訊ねたわけではなかった。透の呻き声は殺される獣の悲鳴にたかまっていた。  目の前が暗くなり、もう何も考えてはいない。こうしなければ追い出すことのできない別の苦痛のことも思わない。  透は悲鳴をあげつづけた。シーツを握りしめた指を、うしろから、巽がきつく把んだ。たけだけしい運動は極限まで速まり、叫び声をあげる透の口を左手が乱暴にふさいだ刹那、がくりと男のからだが、かれの上に突っ伏した。 「──どうして、こんなこと、してるんだ」  泥のような、からだの奥で疼いている苦痛にいろどられた眠りから、唇うつしに注ぎこまれたウイスキーの熱さでなかば目ざめたときは、再び夕方だった。 「あんたのそのからだじゃ、男の相手は、無理なんじゃないのか?──まあ、自分が、やっといて、云うセリフじゃないかもしれんけどさ」  巽は、少し、饒舌になっていた。  かなりひどく、裂傷をつくって、出血していた。彼なりに、済まながっていたのかもしれない。  ぐったりと、からだをのばして、毛布にくるまっているかれのために、手当てしてくれ、コーヒーをひき、たぎった湯を粉に注ぎながら、つらそうに云った。 「まるで、自殺してるみたいなもんだろう」  ざっくりしたセーターと膝のぬけたジーンズが逞しいからだを包み、こうやっていると案外に若いのかもしれない、とまた思う。 「──なぜだい」 「え?」 「なぜそんなふうに、自分をいためて、追いつめたがってるんだ」  答えようはなかった。  身をおこすとき、何度かするどい呻き声を洩らした。  黙って、からだの痛みに眉をしかめているかれに、巽はコーヒーにクリームを入れてかきまぜながら、ぽつりぽつりと羆《ひぐま》の話をした。檻に入れて飼われて、ノイローゼになった羆は石にからだをぶつけ、傷を自分の爪で裂きひろげて死んでしまう。そうなる羆は目でわかった。目が、赤く光るようになった。そうなりだすと、縛っても、手当てしても、止めることはできなかった。 「──俺が北海道にいた頃の話だがね」  コーヒーは意外なくらい上手に、こまやかに淹れてあった。 「あんたの目と、同じ目だったよ」 「オレは、羆じゃない」 「ああ」  やっと、喋ってくれた、と嬉しそうな顔をする。 「なあ、あんた」 「………」 「そんなに痛むんじゃ、帰れないだろう」 「………」 「この部屋になら、何日いたって、少しも気兼ねはいらんよ」 「あんた」  コーヒーカップ越しに云った。 「──何でそんなことを云うのさ」 「別に、意味はないが……」 「ひどい目にあわせた、ってんなら、特別料金にしとけば済むことだろ。オレは──これが、商売なんだから」 「止しなよ」  巽竜二は云った。 「無理だよ」 「二年も、それで食ってきてるよ。第一あんたみたいにコーラの瓶ばかしじゃないからね──あんたに、そんなこと、云われる筋合いじゃないだろ」 「そりゃ、そうだが」  巽は「しんせい」をくわえる。 「それでも、止しなよ」 「食うためでね」 「働かんのか」 「真平だな」  男のからだの下で、二時間、せいぜいひと晩、青くさい匂いを口に含み、男の髪をつかみ、耐えていれば、確実にそれは当分の小遣い以上のものを生む。  良には、敗れたかもしれないが、人肉の昏い市場で最高値のつく美貌であり、|ハク《ヽヽ》だった。 「──若いのにさ」 「お説教なんか、するなよ」 「しない。俺もそんな柄じゃない」  目もとをくしゃっとさせて、巽は云った。 「何か、食うかい」 「ほしくない」 「きのうから何も食ってないだろう」 「ほしくないんだ」 「あんたは、痩せすぎてるよ」  男の太い指が、顎をしめつけ、指をさぐった。 「俺の指二本で握りつぶせそうだ。抱いてて、心配でたまらなかったよ」  黙って、肩をすくめた。むきだしの、うすい肩に巽が毛布を引きあげてくれる。 「なあ」 「ああ」 「食うためだ、というんなら、別に売春のまねごとなんか、しなくたっていいんだろう」 「働くのはイヤだな」 「ここにいなよ」  透は男を見た。  巽は照れたように髭を撫でる。 「毎晩あんたのコーラの相手じゃ、一週間で死んじまうよ」 「そうじゃなくさ」 「………」 「別に、誰かが、帰りを待ってもいないんだろ」 「──何のつもりなの?」 「──そんな気になっただけさ」  両切りのタバコを、灰皿にもみつぶすしぐさが、スクリーンの中で見た彼と同じだった。 「放っとけなかった──そう、云っただろう」 「専属になれってわけ?」 「なあ──」  巽は、何か云いかけた。  が、気を変えたようだ。 「まあ、いい」  彼は云った。  面倒な話はぬきにしようや。それには、透も異存はなかった。 「新聞見せてよ」  巽が読み終えた新聞をわたしてくれた。TV欄をさがす。  KTV、六時から「ヤング・ポップス」ジョニー、ローリング・ストーンズを歌う。出演、今西良とザ・レックス。JBB、八時から「ベストヒット・ショー」今西良、川崎光、五代ミユキ他。 「TVをつけるのかい」  察しよく巽が云った。時計を見た。六時をまわっていた。 「KTVを」  俳優の巣らしく、下にビデオ・コーダーのついている大型のTVの画面に、にぎやかなスタジオがうかびあがる。光のなかで──透は他の歌手に目もくれず、ジョニーをさがした。 「あんたは、喧嘩別れして、とびだしたんだろ」  巽が云う。 「だのに、そいつらの顔見たいのかい」 「タバコ、くれない」 「ああ」  巽は吸いさしのタバコをさしだして、それをむさぼるように口にもってゆく透を、じっと見た。彼の目に、その透はどううつっているのだろう。服に袖も通さずに、毛布に包んだ、愛撫に馴染んだからだ。目の下の、とれるひまのないまま濃くなっているはずの紫色の翳。人形のように美しくて、うつろな、小さな顔。  画面に、(かれ)があらわれて歌った。「危険な関係」だ。ハードっぽい間奏にここちよくからだがのって、客席で少女たちの手がいっせいにかれのアクションをまねてみせる。  今日は、黒いビニール・レザーのジャンプ・スーツにブーツ、咽喉に銀鎖を何重にも巻きつけ、ピアスにブレスレット、という、凄いいでたちだ。小柄なかれの羚羊を思わせるしなやかなからだは、まるで内からリズムがわきあがって、動かずにいられない、というように見える。 「──どう?」 「ジョニー、だね。なるほど」  巽はあいまいな声を出した。彼には、透が、自分から傷口をかきむしる、気の狂いかけた羆のように見えているのかもしれない。 「──きれいな顔、しているね」  ゆっくり、考えながら、彼は云った。 「それだけ?」 「あまり、注意して見たことはないんだが──独特だね。たしかに、ちょっと独特な顔だ。あまり、ととのってる、というのじゃないけど──あんたの方が、いい顔してると思うけど──だが……何て云うのかな」  |だけど《ヽヽヽ》。毎度お馴染みの、古いつきあいの、|だけど《ヽヽヽ》。 (あんたの方がきれいだけど、でも──) (ジョニーには云うに云われぬふしぎな魅力があるんだね) (花で云えば、ジョニーは凄く匂いのつよいバラだよね。むろんそれが嫌いでたまらん人もいるだろうしね。しかし匂いのない、きれいなだけの花より、たしかに魅力だろうね) 「それから?」 「それからって──」  困ったように、巽は云った。思い出したように、なにか食いもんでもつくるよ、と立ちあがる。うしろでは、ジョニーのあの、誰でも知っている声が、誰でも知っているヒット曲を歌っている。 「なあ」  背中をむけて、巽が云った。 「あんた、その今西良を憎んでるのか」 「どうしてそんなことをきくのさ」 「いや」  からだが、まだ疼いていたが、ジョニーを、光の中のジョニーを見つめてこうしている思いにくらべれば、男をうけ入れて、絞め殺される鶏のように泣きわめいている方が、まだ気が楽だったろう。  それでいて、かれの目は、一瞬も、歌うジョニー、光の中の(かれ)からはなれない。まるで、やっとヤクにありついたジャンキーだ。 (憎む──そうとも。オレは憎い。ジョニーが憎い。オレを追い出した、もっと正確に云うなら、オレよりジョニーを、何のためらいもなく選んだ奴、すべてが憎いさ。オレには何の──救いも、なかったんだ) 「いや」  もういちど、背中で巽竜二は云った。 「あんた──俺に抱かれてるとき、何回も、良、良って呼ぶからさ」  するどく、口をおさえて、透は巽に目をやったが、巽はもう戸をしめかけていた。 「少し、寝なよ」  声が、くぐもってきこえてくる。 「風呂でも、わかしといてやるから」  画面では、良が華やかにリフレインに入る。  |また《ヽヽ》だってさ、と透は呟いた。また、お前の名前を呼んでたらしいね、|あの《ヽヽ》ときに。  あまり憎むことは、そいつといつまでも一緒に生きてることのあかしでしかないのだろうか。  美しいお前。幸せなお前。皆に愛される──すべてを、オレからとりあげたすべてを持っているお前。  お前の影をオレからどうやって失くしてしまえというのだろう。身を売りはじめて二年もたってから、|あの《ヽヽ》たびに、オレがお前の名まえを呼んでる、なんて──  なんて、バカなことだ、と思わないか。  画面に、良は答えない。輝くような髪にかこまれた顔が笑っている。司会者の質問に答える。 「ええ──頂けるなら、レコード大賞がいいですね──何といっても名誉なことだし……」 (ジョニー)  からだは、ひりひり疼き、身を動かすと頭の芯まで鋭い痛みが走った。それにかまわず、透は身をおこし、裸の細い右腕をゆっくりあげて、人さし指と親指でピストルの形をつくった。画面の中の、美しい顔に、狙いをつける。 「バーン!」  かれは、叫んで、見えない引金をひいた。  (B.G.M.by Kenji Sawada)   As Tears Go By 「俺が、ね」  巽が云った。 「俺が、どうしてあんたに声をかけたか、わかるかい」  部屋のなかは、埃っぽい灰色のたそがれだ。ベッドにながながと身をのばして、両切りのタバコを吸っている、俳優の楯のような浅黒い胸に、タバコの灰が散るのを、けだるく透は吹き払ってやる。 「最初に、あのスナックで、さ」  森田透、愛称トミー、もとザ・レックスのサイド・ギター兼ヴォーカリスト、二十五歳──かれが、巽竜二と一緒に暮らすようになって、二週間が、なんとなく流れた。 「──知らない」  どうだっていい、と透はつけくわえて、ごろりと寝がえりをうち、ストーブの火のオレンジ色を見つめた。 (相手を、さがしていたんだろ)  それとも、痩せた、ふるえながらむさぼるようにつよいウイスキーを啜りこむかれが、迷い猫のように見えたのか。そう云う、巽にだって、はぐれ狼のようなところが少しはあった。 「──あんたって奴は、まったく、他人に興味がねえんだな」  溜息まじりに巽が云う。 「自分にしか……」  黙って、透は肩をすくめる。逞しい、みごとな筋肉に鎧われた巽の裸形の隣で、発育不良の少年のように、薄い、青白いとがった肩をしている。  頭をふると、栗色に脱色した長い髪がなかばその肩をかくした。  巽が吸いかけのタバコをさしだす。透はそれをうけとり、煙を深く吸いこんだ。 「なあ」 「うん」 「どこか、行こうか」 「どこか?」 「ああ。車で、さ。今日は俺、上がりの日だし、横浜《ハマ》か──もっと遠くでも」 「何しに?」 「別に──何しにって、ことはないけど──俺の車に乗ったこと、ないだろう、まだ」 「うん」 「行きたいところでいいよ」  少女の関心をひこうとしている少年のように、巽は肘をついて身をおこし、まばたきして、透をのぞきこんだ。 「たまにゃ、いいだろう」 「──そうね」  透は気のない返事をする。巽のマンションに身をおちつけてから、二週間、一歩も外へ出なかった、ような気がする。  傍にウイスキーの瓶をおいて、透はいつもけだるげに座りこんでいる。巽が、レギュラーをしている刑事ものの連続ドラマの録画で、朝、出かけて、夜、帰ってくると、朝見たとおりの、裸で寝乱れたベッドにもぐった恰好で、少しも動いていないように見えることさえある。  TVだけが、いたずらに、賑やかな歌番組を流していて、巽は、また何も食っていないんだろう、と云いながら慌ててTVのスイッチをひねる。 「でも──いいよ、今日は」 「どうして──行こうや。天気もいいし」 「うん……」  透は新聞のTV欄に目をおとした。四時からの「ヤング・ヤング・ヤング」に、レックスが出る。 「そんなもん、放っとけよ、もう」  巽が不平そうに云った。 「いくら見たって──」  あんたを追い出したバンドなんだろ。あんたが負けた≪ジョニー≫の顔をどうして毎日さがしちゃ見ないではいられないのか、わかんないよ、俺には。  巽の顔はそう云っていた。口に出さないのは、このもとやくざ映画スターの男の、生来のやさしい性情のためだっただろう。 「な……」  巽の手がのびて、新聞をとりあげ、放った。 「見せてよ」  怒って、手をのばす。そのかぼそい手首をつかまえて、自分の胸の上へひきよせた。 「海も、いいよ」 「寒いよ」 「俺のコートを着ていけばいい」 「大きすぎるよ」 「じゃ、買ってやるからさ」 「見たくない、海なんて」 「じゃ、何がいい。何かあるだろう」 「ないよ──何にも」 「ずっと一日こうしてる方がいいのかい」  巽の手が、透の首をつかんであおむかせ、唇を近づけた。それをおしのけるようにして、 「一人で行けば」  そっけなく云った。 「おい──」  巽は悲しそうな顔をする。百八十センチ、八十二キロ、髭をたくわえた堂々たる美丈夫であるくせに、この男のどうかした表情には、子供っぽい、と云っていいようなひたむきさが漂った。  彼がどんなつもりで、迷い猫を飼うように、掃除ひとつ、料理ひとつするでない、二週間たってもなついたようすも見せない透を部屋にとめておくのか、透はわからない。あまり、気にもかけなかった。出てゆけと云われれば、出てゆけばいいのだ。 「そんなことを云わんでさ」  諦めきれぬように、巽はかさねて誘った。 「中華街でうまいシナ料理を食わせるよ」 「──好きじゃないんだ」 「シナ料理?」 「横浜ってやつ」  横浜には、GS時代に鳴らしたメッカ�ドラム�がある。  女の子たちが、(ジョニー)(トミー)そう、叫びながら、熱狂している、狭いライヴ・ハウスのステージで、何回演奏したかわからない。 (三百人は来てたな、今日は) (ああ、よく入ったよ) (まあまあだったな、プレイも) (うう、寒い。どっかで、何か食ってこうよ) (何が食いたい、ジョニー) (またあそこ行こうよ。毎々楼) (また、ラーメン?) (ま、いいや。あそこうまいもん)  肩をすぼめて歩く南京街。目ざとい女の子がよってきて、十二時すぎだというのに、つきまとってはなれなかった。その気になればその中のどの子をでも、ひと声かけて、どこにでもつれてゆけた。 (ジョニー、寒くない?) (ジョニー、風邪ひくよ) (ジョニー)  修、光夫、弘、次郎、みなが、甘くてフワッと舌の上ですぐとけてゆく砂糖菓子を味わうように、(かれ)の名をよび、(かれ)をいたわった。それは(かれ)のまわりにいる時間であり、だから誰も、帰ろう、と云い出すものはなかった。 「──なあ」  はっと、透は目をあげる。隣にねそべっている巽竜二を、かれは忘れていた。 「俺、──妙なんだよ」  巽はもう一度、透の耳を素通りしたことばをくりかえした。 「妙な気分になっちまうんだよ──俺、喋るの、下手だから、うまく云えないけどさ」 「………」 「あんたがさ──いちん日そうやって、俺の出かけたあともベッドにもぐって、歌番のTV見てさ、じーッとして、そうやって、そこに俺が帰ってきてさ……うまく云えねえけど、妙な気がするんだよ、凄く。かみさんがさ──女房もらってさ、そいつが、俺が出かけても家にいて、洗い物したり、TV見たりしてさ──何てんだろうな。切ねえ、てのかな。切ないんだよ。そうやって、あんたが、じっとしてる、俺を待ってるってんでもなくさ──そう、思うとな」 「洗い物くらい、しろってんなら、するよ、いつでも」  透は自堕落に細い両腕をつきあげて伸びをし、体毛のうすい腋窩越しに巽を見ながら云った。 「そ──そんなんじゃなくさ」  巽は、困惑したようだ。彼は、ゆっくりとしか、喋れない。ことばは、ためらうように、ぽつりぽつりと重く押し出されてくる。 「うまく云えねえけど」  巽は泣き笑いのような表情を一瞬見せて云った。 「俺、もっと、あんたにさ──何ていうのかい。あれ、買えとか、これ、ほしいとか──あんたは、俺に抱かれるのは、別に|よく《ヽヽ》てやるんじゃないんだからさ──その、ええ……痛いめにあわせる、かわり、てんでもいいからさ──そうでもねえかもしれないけどな……だから、どっかつれてってくれとか、ああしてほしいとか、こうしてくれとか──どうして、あんたは、そういうこと、云わんのか……だからさ──」  髭の下の唇をしめして、途方にくれたようにつづけた。 「何か、してやりてえんだよ。何でも云ってくれよ──でなきゃ、せめて、するな、って云ってくれよ。あんたが、俺と|する《ヽヽ》の、やだっていうんなら、俺はせんでもいいからさ──だから頼むからさ──ええ……ただそうやって、TVで|あいつ《ヽヽヽ》の出る番組見て、じっとしてさ、俺が出かけても、帰ってきても、そうやってさ、あんたは何も云わないだろ──俺、そうやってるあんた、見るたんびに、なんか妙で──切ないんだよ。──何とか、してやりたくなるんだよ」  透は、巽を見て、黙っている。  巽は、一生懸命な顔をして、ことばを探す。 「もし、あんたがイヤなら、横浜《ハマ》なんか行かなくたっていいんだしさ──でも、なんか、したいことは、あるんだろ、あんただってさ」  透は考えてみた。 「──いまは、ないな、別に」 「映画見たいとかさ。新しい洋服ほしいとか、いつも行く飲み屋で一杯飲むんでもいいや。何か、あるだろ──俺は、二、三人の女と一緒に住んでたことがあるけどさ……奴らはいつだって、これしたい、あれしたい、あれがほしい、しか考えてなかったぜ」 「へえ──」  少し、興味をひかれて、透は云った。 「まさか、でも、男はオレがはじめてだった、なんてこと、ないんだろ」  巽はいくぶん照れたように、職業的なゲイ・ボーイとは、ずいぶん寝た、と認めた。 「島田のカツラぶっかぶってる奴らさ──あいつらは、つきあってみると、気性が面白くってな」  だけど、とあわてたようにつけくわえる。 「だからあんたに声をかけたってわけじゃないんだ」 「──何だっていいけど」  島田のカツラと貸衣装をつけるか、つけないかの違いだ。そう、変わっているわけでもないだろう。 「違うんだよ」  困じはてたように、巽は云った。  考えこむように、大きな手を、顔の前にもってきて、しげしげ眺めながら云う。 「俺は、こんな人間だからさ──わりと、相手を、どうこうと思ったこと、ねえんだよ。──ゲイが好みとか、女なら、肥ったのとか、痩せたのとかさ。そんなの、どうでもいいんだ。うまく云えねえけどさ──男とか、女とかって、人が考えてるほど、たいへんな違いはねえだろ。ただ、俺は、相手が、俺が抱いてもいい奴か、そんなことは、一切入ってこねえ奴か、さ──例えば、大野監督みたいな人はさ。俺より偉い人だし、そういうのは、ねえ、だろ。で、あの人のかみさんはさ──凄えいい女だが、なあ、大野さんは俺の恩人だろ。その恩人のかみさんなんだから、あねさんだろ。とすれば、これも、抱く抱かねえは入らねえよな。俺、あんたも云ってたけど、『海の挽歌』でさ。撮影のときホントに何度かサチと|やっ《ヽヽ》てんだよ。大野監督がやれって云うからさ──大野さんが自分でカメラまわして、三人だけで極秘撮影して、結局映倫でみんな切られたけどさ──俺、何の話、してたんだろうな。わかんなくなっちまったけど──俺は……だからさ、サチと|やっ《ヽヽ》たとき、あんたに声、かけたときとさ、同じような気持だったんだよ。可哀想、なんて云ったら、変だけどな。放っとけない、ってのか、さ。抱く、抱かねえより、そいつが先に来たんだよ。放っとけないから、|やら《ヽヽ》なくちゃ、って感じでさ──わからねえ。俺、何云ってんだろう」  巽は、助け舟を出してほしい、と云うように透を見た。  透は、ぼんやりして、巽の、重いが何とかして気持を伝えようといちずに動く唇に目をあてている。半眼になかば閉ざした瞼がくっきりと二重になっている。目の下には濃いシャドウをさしたように隈がさして、それが妙に艶めいたおもむきを、血の気のない顔に与えている。  小さな唇の、少し開かれた歯のあいだから、舌のさきがのぞいて見える。巽のことばは、透のうえをすべりおちて、タバコの煙のように、散っていってしまうかに見える。  巽の、まぶしげにほそめた目のなかに、ふっと、怒りに似たものが湧いた。 「──な」  手をのばして、彼は透の、つよく握りしめたら砕けてしまいそうな、たよりなくうすい肩をつかみながら怒ったように云った。 「してもいいかい」  透は、睫毛をあげて、相手を見る。どこか、硝子めいた、空虚な瞳の中に、小さく、怒ったような顔をした巽がうつっている。 「云いなよ」  巽は、その肩をつかんで、苦もなく逞しいからだの下へひきいれながら云った。 「イヤなら、イヤだってさ──いいなら、いいってさ──俺は、どう思うか知らんが、並みよりひどい人間でも、性わるな人間でも、ないよ──別に、並みよりいい人間でも、やさしい人間でも、ねえけどさ」  歯痒《はがゆ》そうに、巽は透の顎をつかんで、ゆさぶった。 「何とか、云ってくれよ。頼むからさ」 「別に、イヤだなんて、思わないよ」  透はわずかに笑いのようなものを白い頬にうかべて云った。 「したければ、すれば」  巽のほそめた目の中の怒りに似た光が、瞬間に、なにかおそろしいものをふきあがらせた。彼は、いきなり、ひっつかむようにして、透の両脚をかかえあげた。物も云わずに、その脚のあいだへ、身を割りこませる。  透は目をつぶり、すると世界ははてしなく遠のいていった。裸のからだをつつむシーツのなめらかな肌ざわり、深い水底へ沈んでゆく思い。男の熱いからだが押しつけられ、乱暴にさぐりあて、そして侵入しようと何度かむなしく力がこめられる。肩を押さえている大きな手、重いからだ。羚羊は、あるいは森の鹿でも、兎でもいい、そういう草食の小動物たちは、肉食獣たちに狩られ、啖われるとき、何を感じているだろう。  呪詛か。恐怖か。それとも、もっと、諦観に似た何ものか。あるものがこう生まれてき、またあるものはそう生まれてくる、ということ。  やさしくて、一生懸命なライオンだって、肉食獣であることには、何の変わりもないのだ。  男がさぐりあて、容赦ない力がこもって、ひきしまった肉の抵抗をかきわけるようにしてそれが深く侵入してくるとき、透は腰をうかせるようにして、うっ、と押し出されるような声を洩らした。二週間たっても、その痛みが耐えがたくならない、ということはなかった。おそらく、いくぶんか馴れはしても。 (ジョニー)  何の脈絡もなく、またその名がかれの頭を満たした。巽を押しのけようとするように、手をのばし、厚い胸につっ張るようにする。巽は、まるで、泣き出しかけている子供のように、透のからだに深く身を埋めたまま、くしゃくしゃに顔をゆがめて、かれを見おろした。  どうしていいかわからない、というように、一瞬彼はじっとしていたが、やにわに、透の両脚を肩にかかえあげたまま、すくいあげるように透の上体にかぶさり、唇を求め、抱きしめた。透は悲鳴をあげる。かまわず、彼は、がむしゃらにからだを動かした。彼は目をかたくつぶり、髭の下の唇から、喘ぐような荒い息が洩れた。 「透──透──透……」  荒い呼吸のあいまに、しぼり出すように彼は云いつづけた。 「──なあ」  巽が、云った。 「俺──考えたんだけどさ」 (|しながら《ヽヽヽヽ》、ってわけ?)  透の思いは、毒をはらむ。 (だから、長かった、ってわけかい) 「何を?」  いかにも、礼儀上、というように、その問いはひびいた。  巽は、ひるんだが、唇をとがらせて、 「まじめな話だよ」 「ああ」 「俺、さ」 「………」 「惚れた──んじゃないかと思うんだ」  透は細い眉をつりあげてみせた。 「誰に?」 「よしてくれ」  怒ったように、巽が云う。からだをのばしているベッドのぬくもり。四時間も、|やっ《ヽヽ》ていたのか、とぼんやり透は思う。時計は、三時半をまわっている。巽の胸に、汗がかわきかけている。  自分は、ひどく、衰弱している、と透は思ったが、そのぐったりした、どこかに慢性になった苦痛が疼いていて、空腹なのにまったく食欲もない、といった感じは、不快なものではなかった。 「俺は、考えたんだ」  巽はくりかえした。 「あんたが、そんなふうに、何もかもどうでもいい、みたいにさ。何もほしがんないで、ぼんやりして、部屋にいるのが、切なくて妙な気分になってさ──出かけるたびに、帰ったらあんたは消えちまってるんじゃないか、と思いながら帰ってきてさ。で、もしあんたが消えたら──と考えたんだよ。俺は、追っかけるだろうか、ってな」 「──で?」 「追っかける、とけりがついたわけ」  巽は思慮深げに云った。 「まあたぶん、あんたはここずらかっても、あの六本木のスナックでカウンターに腰かけて酒、飲んでるだけだろうけどさ。そう思ったら、なんか──なんかやけに悲しくなってきてさ」  透は肩をすくめた。  巽は唇をとがらせて、 「あんたは、バカなことだと思うのは、わかってたけどな──俺は、面倒なこと、考える方じゃないからさ。あんたに惚れたらしい、ってことで、万事説明がつくだろ」  ぶっきらぼうな云い方をする。 「──で?」  透は云った。 「──で、ったってさ」 「信じろ、って云うの?」 「信じないのか」 「どうでもいいんだ」 「何が、どうでもいいんだ、だ」  突然叩きつけるように巽が怒鳴った。 「どうでもいいことはない」  透は黙っている。  巽は髭をふるわせた。 「ウソだと思うんならそう云え。こうしてくれれば信じられる、というならそう云え。迷惑だと思うんなら惚れてほしくなんかないと云え。何も、どうでもいいことなんかない」  透は目をなかば閉ざして、巽の肩にもたれている。裸の肩のふれあっている部分から、巽の怒りがふるえになって伝わってくる。 「何とか云え!」  巽のつよい両手が透の肩をつかまえ、いやというほど揺さぶった。 「痛いよ」  透は小さな声でいう。巽は指に力をこめる。 「もっと、痛いめにあわせてやる」  彼は怒鳴った。指が、咽喉にまわった。巽の手には、片手でひとつかみにできるような華奢な首だ。  指に力がこもる。透は目を閉じて、からだの力をぬいた。 「あんたは、何なんだ」  巽は怒りにもつれる声で云った。 「どうしてほしいんだ。──俺はいまなら少しは金も、力も自由になるようになった。もしあんたが──もう一度デヴューしたい、とか、俳優の方だってやってみる気があれば、いろいろコネもつけてやれる。──あんたが、そうやって俺を利用しようと思うのを、俺は待ってたよ。──CBCのプロデューサーと会ってきたとか、レコード会社の奴に紹介されたとかいう話、何度もしただろう。──俺に惚れてくれなんて云わん。だが惚れた弱味だよ。あんたは俺を利用したって、ひどく扱ったって、いいじゃないか。──俺が長くって厭なら、いい加減にやめろと云ってつきとばしたっていいじゃないか。俺は、あんたに惚れた、って云ってるんだぜ。どうしてほしいんだよ! いや──どうしたらいいんだ、ええ? 俺は、どうすれば、いいんだよ?」  透は、理解に苦しむ、というように巽の涙ぐむほど激昂した顔を見つめかえしていた。巽は手をふりあげて、透の頬を叩いた。 「畜生」  彼は怒鳴った。 「その気になりゃ、いまからあしたの朝までやりっぱなしにだって、出来るんだぞ」 「『海の挽歌』だな。でもおれはサチじゃないよ」 「そんなことは云わんでもわかってる」  獰猛に巽竜二は云った。 「俺だって吉蔵を地で演ったわけじゃない」  ただのやくざ俳優だった彼を、一躍カウンターカルチュアのシンボルにおしあげた、大野梓監督の「海の挽歌」は、海辺の漁師と、その家にどこからか居ついた若い女との徹底して肉だけのつながりが、いつか聖性に昇華してゆくさまを描いた映画だ。大野監督はその中で迫真の映像を求めて、巽に実際に相手の女優と行為することを要求し、巽は何も云わず命令に従った、という噂になった。 「俺が嫌いなのか」  不安にかられた子供のように巽は云った。 「別に──」 「じゃあ、好きか」  透は、巽の手の下で、こくりと首をうなずかせる。 「俺が惚れても迷惑じゃないのか」  透は、うなずく。 「本気で」  また、うなずいた。上目づかいに、巽を見あげる。巽はふいに透の首から指をはなして、頭をつかみ、もどかしくてどうにもならぬ、というように首をふった。 「まるで色盲の奴に赤と緑を説明してるみたいな気がするよ」  彼は呻いた。 「──何をすればいいんだろう」  透は黙っている。部屋は冷えてきて、沈黙だけが重かった。 「──TVをつけてよ。四時だから」  唐突に透は云った。  巽は犬が人を見るような目で透を見、黙っておきあがって、TVをつけに行った。裸の、彫像のようにみごとなからだが、もどかしさに火照っているように見えた。 「また、ジョニーか」  彼はうかびあがる映像を見ながら呟いた。 「あんたは、奴に惚れてたんじゃないのか?」 「──よしてくれよ」 「でなけりゃ、理由はひとつだ」  巽は云った。 「あんたは、気が狂ってるんだよ」 (気が狂っている)  そうかもしれない、と透は思う。  画面のなかのジョニー。見馴れた顔、きき馴れた声、いつものように派手なアクション。 「──でも、オレの方が、声はいいって云われたんだ」  透は、窺うように巽を見ながら云った。 「レックスにもう一人ヴォーカルがほしいって云われたとき、もう一つ、そっちはリード・ヴォーカルがいないってGSの話もあったんだよ。あっちの話、選んでればさ──こうは、ならなかったよ。ジョニー&ザ・レックスに、トミー&ザ・スリーピーズ。そうなってりゃ、面白かったのにね」  透が喋り出すと、巽が黙る。裸に服を着ようともせず、つけておいて、歌をきくでもなしに、画面の美しい顔を見ている透のために、オンザロックのグラスを運んでやりながら、 「見てないんなら、消しちまえよ」  巽は苛立たしげに云った。 「またやりたくなったから」 「元気だよね、あんた」  透は鼻で笑い、ふと思いついたように画面を親指でさした。 「あいつ、今西良──見て、どう思う? 男の目から見て、さ──あいつとやれるとしたら、どう? やりたくない?」 「………」  巽は眉をよせて、画面を見た。  ほっそりしたからだは、白いシルクのシャツと、サスペンダーつきの黒いスリム・ジーンズにつつまれ、咽喉には銀のチョーカーが見える。髪が渦巻いて、ライトに輝く。  マイクを握りしめて歌う顔の大写し──それはなまめかしく、そのくせ荒んだところのない、きめのこまかい、エキゾティックな美しさをもっている。巽は目をほそめて、透を見かえった。端正な、しかしどこか生気のない、日本人形のようにきれいな愛人の顔と、内側からたえず光の泉が湧きあがってくるような、輝いている人気歌手の顔とを見くらべる。 「──そうだな」  しぶしぶ、彼は云った。 「ないと云ったら、嘘になるな──サロメみたいな奴だな。何だか……ねじふせて、あのチャラチャラした衣装を引っぱいで、思いきり、いためつけてやりたい、ようなところがあるな。何て云うのか──汚してやりたい、いやがって暴れるのを、無理やりやっちまうのが最高、みたいな、さ──神聖冒涜ってのか──人気歌手なんだろ。きれいで、生きいきしてて、我儘そうで、な──何となく……」  云いかけて、透を見、口をつぐむ。どうせ皆の云うとおりのことだ。「何となく」人と違う。「何となく」魅力がある。「何となく」気にかかってたまらない。人は迷い猫をあわれむようにではなく、気まぐれな若鹿のきらめくような動きに翻弄されて、そのあとを慕い、そのしなやかなからだを両腕に抱いてみたいと望むだろう。 「──やってみない?」  透は、云った。  巽がぎくりと首をねじむける。 「セッティングは、するからさ。あいつ──やっちまいなよ。保証するけど、あいつ、男を知っちゃいないよ──誰も手を出す勇気がなくて、ちやほやするだけだから、いい気になってるんだ」  目に、青い光を湛えて、透は云いつづけた。 「きっと──|凄くいい《ヽヽヽヽ》と思うよ。あんな、締ったからだだしさ──あんたなら、暴れたって、どうにもなりゃしない。やっちまってよ──あんただって、天下の≪ジョニー≫の相手なら、不足はないだろ。ぜんぶ、セッティングするよ──もとの仲間だもの。仕事はじめたんだけどちょっと話にのってほしいって云えば──必ずのこのこ来るよ。あいつ友達《ダチ》には親切だし──ね? やっちまいなよ──何でもするって──云っただろ? 何でも、してくれるって云ったじゃない。オレが──オレが、おさえててやったって、いいからさ──」  画面から、とうに、良の華やかな微笑は消えている。  「頭痛ですか? ときかれたら   たちまちサッパリ それっきり   スッキリ 笑顔のごあいさつ──」  突拍子もない声で、CMのBGMが流れ出す。  ふいに、透の頬が、猛烈な衝撃に、激しい音をたて、透はうきあがるようにして、ベッドからはねとばされた。 「ばか野郎」  厚い肩を激しく上下させ、啜り泣くような呼吸を洩らしながら、巽は云った。頬をおさえたままじゅうたんの上にころがっている透を、まるで、おそろしいものでも見るように彼は見た。  追いすがって、もう一度叩こうと、手をふりあげる。  しかし、ふりおろしはしなかった。やにわに顔をそむけ、彼はがむしゃらにジーンズに脚をつっこみ、黒いセーターをひっかぶり、アーミー・ジャケットをつかんだ。  ブーツの中に足を押しこみ、こわれたチャックをかちゃかちゃいわせ、荒々しくポケットからサングラスをつかみ出してかける。両手をポケットにつっこんで、彼はとび出した。  うしろで、重いドアががしんと音をたてて閉まる。彼は背中をまるめ、まるで何かから逃げるように、大股に、ほとんどかけるようにして歩いた。  通行人がときどきふりかえってゆく。巽は一切、眼中にない。彼は新宿へまっすぐにとびこむつもりだ。  赤提灯とせこいゴールデン街のバー。暗くてゴキブリのはっていそうな、肩のつかえそうな店。まだ賑うには早い店のかたすみで、(酒!)と彼は怒鳴るだろう。 (何でもいいから、早く!) (竜さん、荒れてるじゃない) (ここんとこ、しばらく来ないと思ったらさあ) (ちょいと、ピッチ、早すぎるわよ)  巽は、食いしばった歯のあいだから、啜り泣くような息を洩らしながら、どんどん、歩いてゆく。  透は、三十分もうずくまっていてから、やっとのろのろと、身をおこした。  つけはなしのTVの画面で下手なコメディアンが、うるさい漫才を演じている。ヤラセの笑い声が耳ざわりに挿入される。  手加減ぬきで叩かれた頬ははれぼったく熱くて、じんじんとにぶく疼いた。ストーブは燃えているけれども、裸のままのからだは、芯のほうから、冷えはじめている。 (五時)  冬の早い日はそろそろおちかかって、部屋の中はうすぐらく、海底のように沈んでいる。窓の外に、乱立するのっぽビルと、つきはじめたイルミネーションが、海底から見あげる不知火のように、紺色の空を区切っている。 (何か、着なくちゃ、風邪をひいちまう)  かれは、思った。しかし、からだを動かす気にはなれなかった。 (何か食べたい──酒を飲みたい)  そうも思う。しかし、からだは、動かない。  やっと身をおこしたが壁にもたれるとそのまま、また動く気をかれは失っている。 「そやから云うてるやんか、あんまりええ恰好しいなて」 「何云うてるねん、このボケ」  コンビの若い漫才師のキンキンする声が、黄昏《たそがれ》ちかい部屋のここちよい薄暮をかきみだす。  何も考えず、何も感じず、まるでこうしてよこたわって、壁にもたれている自分の肉が、そこらにころがっている石か何かのように、自分のからだとは何のかかわりもない|もの《ヽヽ》でしかない、というように、透はじっとしている。  その目のふちに、盛りあがっては、ゆっくりとしたたりおちて、顎から膝の上へおちる冷たいしずくは、それ自体まるで別の生き物で、それ自身の意志をもっているのだ、とでもいうように、かれは、黄昏のなかで、涙の流れるにまかせて、自分が泣いていることにさえ、気づいてはいないのだった。  (B.G.M.by Rolling Stones)   九月の雨 ──セプテンバー・レイン 「しばらく、来なかったじゃない」  いつものスナックのカウンターだった。 「このごろ、どっち方面を荒らしてたのよッ」 「まあ、いろいろ、ね」  透は馴染のバーテンに笑いかけた。ダブルで金のボタンと肩布のついている、スマートな仕立の黒のコートが、栗色の髪のかれを、二輪馬車から石畳におりたつロシアの貴族のように見せている。 「景気はどうだったの──よさそうだよね、そのカッコじゃ」 「別によか、ないよ。ヘンなのにちょいとつかまっててさあ」 「へえっ、どんなのに」 「しつこいの」 「へえ、ヒヒ爺い」 「爺い、じゃないけど」 「ほいじゃ、どっかの社長夫人」 「ま、適当に考えといてよ」 「教えてくんないの?」  女ことばのバーテンは、脂じみたリーゼントにかためた髪をピカピカ光らせて、透をのぞきこむ。 「でもいいなあ、あたしもいい男に生まれたかったよッ、きっとトミーなんかこうやって──」  指をぱちりと鳴らして、 「いくらでも、よりどりみどりだろ。ちょっとはおこぼれを頂戴よ」 「馬鹿云うない」  透の白い、というよりほとんど血の気のないと云ったほうがいい、美しい顔に、この半月あまり忘れていた、かるがるしい陽気な表情がもどっていた。 「ひとのおこぼれもらってんのはこっちだよ」 「冗談バッカシ。いいことばっかしじゃんかさ。ちょいといい思いすれば金でも、何でもほいほい転げこんできてさ。あと腐れもないし、まいンち働くこともいらんしさ。まったく、天国じゃない」 「天国かどうか──」  透は上瞼にひきつけた瞳で色っぽく相手をにらんだ。 「替ってみる?」 「そんな目つき、しないでよッ、ヘンな気分になるからさ」  まだ、夜は早い。スナックには、ほとんど客の影は見えない。バーテンのタケシは、透と上っ調子なやりとりをかわしながら手は一向休めずに氷をかきつづけている。 「弾き語り入れたの、新しく?」  透はがらんとしたフロアの、一段高いところにおいてある丸椅子とスタンド・マイク、それにガット・ギターを見て云った。 「オレも使ってよ。オレだって歌手だよ」 「なあに、云ってんのよ」  バーテンはニヤニヤ笑う。 「あんたみたいなギャラの高い人、うちじゃ雇えないわよ──てのは、嘘」  タケシは鼻をくしゃっとゆがめてみせた。 「歌手どこじゃないよ。大変、このごろ」 「何?」 「カラオケ」  イヤな顔をして云う。 「近頃の客って奴、イヤんなっちまうよ。ひとのきくより、てめえで歌うほうがいいんだってよ。まあないと文句云われて、もう来ねえなんて云われっからさ。しょうことなし、うちも入れたけど、まったく毎晩トーシロの、まぬけ声きかされる身になってよッ」 「へえ。こんなとこでも」 「なにそれ、こんなとことは」 「いやこんな格調高いとこでもってことよ」 「おーおー辛いね。ま、昔はよかったよゥ、ひきがたりでも流しでもさ。専属で入った歌手とバーテンが恋仲んなってさ。そしたらその歌手が一発当ててスターんなったりして、ホイデあたしは左ウチワでジャーマネやって、そーいうのに憧れてたのにさッ」 「ムリ、ムリ、向うだって選ぶ権利はある」 「あッ、この」  タケシはアイス・ピックをふりあげる。透は嬌声をあげて身をのけぞらす。 「──でも、ま」  目をくるりとさせて、タケシが云った。 「元気そうね、トミー」 「でも、ないけど」 「さいごにきたとき、えらく参っていたようだったから、さ」 「そうだった?」 「あんときよっぽど、もうこんな渡世やめなよって云おうかと思ったけど」 「どう致しまして、だ。やめてたまるか、こんなうまい稼業」 「いつまでもその顔でいられるわけじゃないよ」 「わかってらあ、そんなこと」  透は眉をひきつらせた。上っ調子な上機嫌が、少しずつ、のめりこんでゆくような苛立ちがある。  慌てたように、タケシが、 「そうそう。トミーのこと、何回もさがしに来てた人がいたよ、この一週間くらい」 「え?」  透はせきこんだ。 「どんな奴?」 「──爺様だけど」  タケシはふしぎそうにかれを見る。かれはふっと息をぬいた。 「何か目のすげえ鋭いおっさんでさッ。ありゃ、タダモノじゃないよ。最初はホレ、あんたとこのベースやってた──サムちゃんか、あのノッポと一緒に来てさ。ホイカラ一人で二、三回来て、さいごに来たときにゃ、来たら連絡とるようにって名刺おいてったよ。よくよくのご執心だよッあれは」 「サムと一緒に?」  何のことだ、とうけとった名刺に眉をよせる。 (野々村正造)  住所と電話番号のほかには、それだけしか書かれていない。名前に覚えはたぶんなかった。 「ヤバイ話でなきゃ、いいや。もらっとくよ、これ」 「たしかにわたしたよ。もしかすると、どっかのスカウトかもしれないじゃん」 「そんなもの──」  もう一度、スポット・ライトの中で、光と嬌声に包まれて──それが、本当に、やってくると信じたことがあったのかどうかさえ、実はどうでもよくなっている。  そう思っていなければ、どこかへ出てゆくことさえできなかった、という、それだけのことかもしれないのだ。 「サム、それっきり来ないの」 「ああ。来ないみたい」 「ふうん」  どやどやと、扉を押して、入ってくる、今夜の最初の客たちの話し声が、ふたりのあいだにおちた沈黙を破る。 「──どこ行くのよ」  立ち上りかけた透を見て、タケシが云った。 「さあね」  肩をすくめてみせる。 「まだ、いいじゃない。いなよ」  タケシは云った。 「またあの爺さん来るかも知んないし、さ」 「混むの嫌いなんだ」 「そんなこと云って、六本木《ポンギ》の�フルハウス�なんかハチャメチャに混んでんのにいつも行くじゃない」 「あそこは混んでもいいの。�シャフト�が混むのは、ヤなの」 「ウチは繁昌せん方がいいってわけね。薄情な人だよ、まったく」 「──いま何時?」 「まだ早いよウ、やっと六時半」  時間をきいてどうしようという、あてがあるのでもない。 (一日は長いさ)  透の頬杖をついたぼんやりした顔を、タケシは何か云いたげに見ている。 「おい、兄ちゃん、ボトル入れてくれないか。それと、まだやってないの、あれ、カラオケ」 「いいすよ、やっても。けどつまんないでしょ、きく人がいなくちゃさ」 「ンー、そうだな」  そこにひとりか、と顔をたしかめるようにわざわざのぞきにきた、もう半分酔っているサラリーマンらしい男が、透の顔を見て、ヒュウッと口笛を吹いた。 「凄え、美少年」  席へ帰って声高に云っているのがきこえる。タケシが眉をつりあげてみせ、透は鼻にしわをよせる。 「やっぱり、行くよ。また来るから」  札をつかみ出しながら、かれは立ちあがった。 「待ちなさいよ。お兄さん、一緒に飲まない?」 「あんた歌手かなんかじゃない? どっかで見たような気がするんだけど」  サラリーマンたちの声が背中から追ってくる。かれはポケットに両手をつっこんで、ようやく賑わいはじめた夜の街へ出ていった。  途中のタバコ屋で、ボニータを買った。フルハウスは相変らず、混み放題に混んでいる。  暗いフロアに、タバコの煙、けだるいジャズのレコードが流れている。振出しにもどったところさ、と透は思う。 「オー」  入口近くに座っていた外人と日本人の二人連れの、外人の方が、街の灯を背景にして開いた戸口に瞬間、舞台に出るスターのように立ちつくす透を見て、何か云った。ソーセージのように太い指のついた手を、てのひらを上にしてひろげて見せる。  透は気にとめず、まっすぐカウンターへ、無関心な人の群をよこぎっていった。 「バーボンある」  咄嗟に、どうして、そんなことばが口をついて出たのかわからない。 「おや、珍しい。まだ|しらふ《ヽヽヽ》なんですね」  バーテンが、云った。透は覚えられやすい顔をしていたのだ。 「しばらく見えませんでしたね」 「ああ、ちょっとね」  さっきと同じ会話、別の店のカウンター。けだるい、何もかも投げやりに沈んでゆく快さが、透をとらえる。 「トリプルにしますかね」 「ダブルと、水ね」 「ご機嫌みたいですね」 (こんなものさ)  透はバーテンが行ってしまってから、口ずさんだ。  (こんなものさとあいつは云って   笑って店を出てったものよ   うまくいかない 世の中は   こんなものさと云うけれど   棄てる男は 何でも云える   振られ女はどうすりゃいいの   ああ 愛しすぎたのね)  それは透の四番目に出したシングルのA面だったはずだ。いい歌だったし、他の三枚にくらべれば、まず小ヒット、まではいったと云える。 (もっとひでえ歌が、いくらでもヒットする時世なんだがね)  五枚目のシングルは、出ないよ、と云いにきた、マルス・レコードの井村は、云いにくそうに、透の反応のない顔を見ていたものだ。 (五万はけりゃ、まあヒットだしさ。ウチとしちゃ、これから、のつもりでいたよ。こんなことになって、残念だが──正直に云わしてもらうけど……もう、ちょっと、付き合いきれない、と云うんだよ、星さんが) (あんたはドサはイヤだと云うし、前座にゃ出たがらずスッぽかす。レッスンはサボるし、レコーディング前にゃ遅刻してくる。人間として、何かが欠けてるんじゃないのか──と星さん、云ってたけどさ) (ここだけの話だから教えてやるよ。──ホントの、理由は、そうじゃないんだ) (あんたと、ユニオンの落合って奴と寝ただろう。あれが、大将の逆鱗にふれたってわけよ。星さんは、当然、あんたが自分の専属になったと信じてたってことさ。いわば、ライヴァル社の、モロにライヴァル視してる男に寝取られた、ってことで、あんた、やっこさんの面子メチャクチャにしたことになるわけだからさ。──ま、今後、おそらくマルスは一切あんたを使っちゃいかん、と回状がまわると思うしさ。──しかしユニオンだってこうなってから、拾ってくれるかどうか……この業界、こういう噂は早いからね)  これからやっとってときに、どうしてあんな考えなしなことを、と井村はきいた。透は肩をすくめたきりだった。からだを売ることで、かれは四枚のレコードを、その作詞、作曲、レコーディング、を手に入れてきた。からだを売ることで、ドサ回りに行かなくても、レコード店まわりをしなくても、なんとか見逃がしてもらえた。  LPを、出す気はないか、と云われた。だから、落合と寝たのだ。星野と専属の愛人関係の契約をした覚えはない。しかし、云ったって無駄なことだ。だから透は何も云わずに、井村のよく動く口を見ていた。 (まあ陰でいろんなこと云う奴もいたわけでね。──もとレックスのトミーでいくら鳴らしたか知らないが、GSの中でキャーキャー云われたのが、一本立ちして即、もとと同じ人気をとれるかといや、そうじゃない。あくまでレックスのトミー、もっと正直に云うならジョニー&レックスの中のトミーとしてこそ女の子もさわいだ。やっぱり、ジョニーのおこぼれ人気で、それに気づかずに、もとスター、ってつもりでいいようにのぼせてドサなんか見むきもしない、とかさ。──ただまあ、星さんの肩入れってことで、みなが表だっては云わなかったわけでね。──俺としてはさ、俺としては、あんたがこれでもうおしまい、とは思わんしさ、もっと、むしろこれからやっとトミーの演歌、でレックスの影ふっ切れるとこで、惜しい、と思っちゃいるんだけどさ) (とにかく星さんはカンカンなわけでね) 「ヘイ」  肩に馴れなれしく手を置かれて、びくっとして、かれは顔をあげ、ボニータの灰を払いおとした。  笑いながらのぞきこんでいるのはさっきの外人で、ペラペラ何か云った。キュート、という単語がなんとかききとれた。 「ノー」  透は首をふる。外人は透の前のグラスを指さす。一杯|奢《おご》る、と云っているらしい。  肩に置かれた手を、払いのけるのも面倒で、肩ごしに見ていると、連れの日本人が反対側から、 「ねえ、あんた」  小さく云った。 「失礼だけど、今夜その毛唐と付き合ってもらえませんかね」  どこかの商社か何かのバッジをつけて、いんぎんで尊大な、あの特有の顔つきをして、見定めるように、透の脱色した髪、磨いた爪、少女のような顔を見ている。 「ペイは相場の倍は出るから」 「何の話?」  透は云った。 「この手どけさせて。重くてかなわないから」 「あんたのこと、凄くキュートで、日本に来てはじめて見るくらいプリティ・ボーイだと云ってる。あんたと付き合いたい、と云ってんだけど」 「おかど違いだよ」 「あんた何してる人? モデルさんでしょ。それとも、歌手の卵? 当たったでしょ」  男はポケットをさぐった。 「あたしはこういうもんで──そっちは、アメさんの、バイヤーなんだけど」  出された名刺に手をつけずに、透は相手と外人を見比べる。 「助けると思ってさ。話、まとまるかどうかの瀬戸際でね。あんたが入ってきたとたんに、あの毛唐そわそわしだしやがって」 「おかど違いだ、って云ってるじゃない」 「わかってますよ。わかってるから頼むって、ひと晩。いい稼ぎにするからさ、絶対損はしない」 「わかんない人だな」  透は云った。 「オレはガイ専じゃないの。ガイ専ならここよか、�セントジェームズ�か�ブルーム�をさがしてごらんよ」  しらばくれても仕方がなかった。ベル・ボーイのあかしはどこと云わず、かれの髪、指、顔、唇、すべてにヴェールのように、しみこみ、淡い空気を染めあげている。 「あいつは、あんたが気に入ったっていうんだからさ──あんたハーフ? 色すごく白いね」  男の口調が少しくだける。 「とにかく一杯やろうよ。お兄さん、ロック三つこっちね」  手をあげかけるのを、 「承知した覚えはないよ」  透は云った。別にそれがなりわいなのだ。ねぶみされ、買われることに腹は立たないけれども、外人はかるく百キロはウエートのありそうな大男だった。  もう、でかぶつはしんそこ沢山だ。 「なあ、ごちゃごちゃ云わんでくれよ」  商社員はぴりぴりと眉をよせた。神経質な顔に、苛立ちが走った。 「損させない、ってんじゃないの。いまさら気取ったって、仕様がないだろ。いまどきこのへんで、ひとりでさ。──客待ちしてたんだろ。勿体ぶるな、と云うんだよ」  透は、細い手で、ゆっくりと氷と酒の入ったグラスをとりあげ、おちつきはらって、あいてのよく櫛の目の入った頭からぶちまけた。  わッと云って相手が尻餅をつき、わあっと波のように、店の中の顔がむき直った。 「森田さんッ」  バーテンがとび出してきた。 「何するんですか!」 「こ、この」  商社員はびしょ濡れの顔をひきつらせて、バーテンをつきのけた。 「俺は帝国貿易の課長だぞ。きさまみたいな──きさまみたいな、何だ、汚ならしいオカマ野郎が──」  アメリカ人バイヤーは、ポカンとして立っている。  店のなかが、しんとした。透の手が、コートをはねのけて、ズボンのポケットにすべりこんだ。出てきたとき、細い手に、小さなとびだしナイフがきらめいた。 「森田さんッ」  バーテンがわめく。課長殿は酒が目にしみて、事情がわからぬまま、何か危険を直感したようだ。  わかるまい、と透は熱い空洞になった頭のどこかで叫んでいる。あんたたちには永久にわかるまい。オレはいつだって、ポケットに、ジャックナイフ、なぜだかは、わかるまい。  狩られ、買われる側にしかなれなかった。これ以上、堕ちるべき深みさえないはぐれ猫が、どうして、さしのべられる手に牙をたてるか、わかるまい。  ゆるやかなしぐさで、透はナイフをつかんだ手をうしろにひき、思いきり、つきだそうとする。 (堕ちろ) (ここまでだ。ぷっつり切れたエンディング) (ジョニー!) 「ノーッ」  ナイフがくりだされた瞬間に、かれの手はしかし、大男のバイヤーの逞しい手に打たれていた。痺れた手からナイフがもろくころげおちた。 「警察──」 「気狂いだ」  商社員は床に尻餅をついて喘いだ。バーテンが、何かわめきながらカウンターからころがり出してくる。 「警察を──」 (俺は何もしてないのにそのチンピラがいきなり) (そうですよ。あの人は何もしてなかったですよ) (酒ぶっかけてナイフ出したんだ) (気狂いなの?) (ありゃあパン公だよ。見りゃわかるよ) (警察を呼んでくれ。早く。つき出してやる) (殺人未遂だ)  透はバイヤーの太い腕におさえつけられて、無表情に、目の壁をはねかえしている。 「まあ、まあ、怪我は、なかったんですから」  バーテンに呼ばれてとび出してきたマネージャーが、馴れたとりなしで商社員をなだめる。 「まあ、それはこちらで──まあ」  俺の服はどうしてくれんだ、とわめいている男を押しやりながら、 「森田さん」  マネージャーは低く云った。 「以後当店へはご遠慮願いますよ」  透は無表情に外人の腕をふりもぎり、歩きはじめる。ライトの輝きのなかを、拍手と熱い視線につつまれて袖へさがってゆくプリマのように、ほっそりした首は誇りたかくのびている。潮騒のような、悪意のざわめきは、かれの華奢な姿をとりまくアンコールの叫びにきこえる。 (新しいナイフを買わなくちゃ)  それを、とりあげられたことが腹立たしく、頭の中にバック・バンドのリズムをききながら、平静な足どりでおもてへ出る。 「──透!」  たまりかねたような、おしころした声を、かれは背後にきいた。ふりかえった。  フルハウスの階段を、かけ上って出たらしい、巽竜二が立っていた。 「──ああ」  あんたか、とちょっと笑って見せる。 (見てたの)  おそれていたくせに、いざ会ったとき、ふしぎなくらい、透の心は晴れていた。 「透」  巽の顔がくしゃくしゃとゆがんだ。まるで大きな駄々っ子だ。レイ・バンの下で、泣いているように、目もとをくしゃくしゃにしている。 「追っかける、って云っただろう」  巽は云った。 「だから、追っかけてきたよ」 「行こう」  唇をはなして、やっと少し腕の力をゆるめながら、巽が云った。息が透の髪に熱かった。 「──どこへ?」 「俺の部屋」  巽のつよい手が、力をこめて、透の肩をつかみ、腕をつかみ、手をさぐりあてて、握りしめる。 「帰ろう」  どこへ? ──木霊のようなそのことばを、透はのみこんだ。巽のすりつけてくる頬の、のびかけた髭の硬い感触が、透を包みこんだ。 「三日間、毎晩、あそこで十二時まで待ってた」  巽が、アノラックでごわごわした腕をそっと透の肩にまわして、歩くよううながした。 「車を拾って帰ろう。な」  透は、そっと首をねじって、巽を見ている。  それは男らしい、しかしどこか子供のような感じを与える横顔だ。巽が、細くすっきりと、ほとんど弱々しいくらいきれいな鼻筋の線と、知的に張り出した顎の線とをもっていることに、透ははじめて気づいた。 「──怒ってるのか?」  不安そうに、巽は云う。透は何も云わずに、巽の腕にもたれている。 「あんたが、あんなことを云われてるのに、出ていかんで、あとから追っかけて出たから、さ」 「………」 「もちろん──あの腐れ毛唐でも、あの馬鹿男でも、あんたに手をあげようとするなら、すぐに俺は──」  具合わるそうに巽は云う。レイ・バンのグラスの奥で、やさしい目をしばたたいて、肩を抱く腕をしめつける。 「それと──もしあんたが……あんたがあいつに従いていくなら──俺、来たとき、ちょうど、あの毛唐がカウンターに行くとこだった……」 「………」 「あんたが従いて出たら──殴り倒してやろうと思って──見てたんだ」  透は黙っている。小さな微笑がからだの奥のどこかからわいてくるようだ。 「勘忍してくれるか」 「──何を?」 「いろいろ──全部。何もかも」 「オレがあんたを?」 「ああ。──勘忍してくれ、な」  巽は顔を背けるようにして、ささやいた。 「俺と帰ろう。な。もう絶対、あんたの嫌なことはしないから」  自分より、頭はんぶん低い透の華奢な肩をぴったりと抱きよせ、頭をうつむけて、巽は、その細い鼻梁をこすりつけるようにした。 「人が見るよ」 「構うもんか」  巽はタクシーをとめた。 「──俺もいい加減、馬鹿野郎だけど」  先に透を乗せ、マンションの住所を告げる。走り出した車の座席で、彼の手は瞬時もはなしたくないように、透の手を握りしめて汗ばんでいる。 「しかし、まるきりの馬鹿、ってこともねえ筈だと思うんだ」 「………」 「ただ、わかるのが遅いだけなんだよ。人よりも、な」 「何が?」 「──ご免な──透」 「どうして」  透は不審げに巽の顔をすかして見た。 「さっきから、どうしてそんなあやまってばかりいるの、あんた」 「いいんだ」  巽はくすんと笑いを洩らした。  大きな手で、透の頭をかかえよせるようにして、声を低めた。 「あんたに云いたいことがあったんだ。早く云いたくって、ずいぶんさがした」 「何?」 「俺な」  少し考えて、 「あのあと事務所から電話が入ってさ──俺の所属してる事務所」 「………」 「三月からの仕事で、なあ」 「うん」 「RVCから、ひきあいがあった、と云うんだ。久野さんて、俺が四、五年前、一番くすぶってたころ、拾って、ほらあったろ、『本日開店』ってホーム・ドラマ」 「ああ」 「あれで使ってくれた──義理のある人なんだけどさ──その人がね……今度今西良を主演にミステリーものの連続を撮るから、ワキがために出てくれねえか、ってことなんだ」 「………」 「事務所の奴がね、竜さん、ジャリタレ歌手のワキがためで学芸会の付合いなんざ、真平だろ、って云うから、──相手が久野さんなんだし、ちょっと待ってくれ、って云っておいてあるんだけど」  巽は肩を抱く手に力を入れた。 「──俺、あんたをさがしながら、考えたんだよ」 「………」 「俺には、あんたの気持なんて、十分の一もわかっちゃなかったんだ、ってさ。どんなつもりであんたがあんなことを云ったのか、さえ、気がつかずに、さ──」 「いいよ、もう」 「俺──決めたんだよ」  巽は低いが、はっきりした声で云った。 「──あんたの望むとおりにしてやるよ。──あんたの厭なことはしない。あんたが望むなら何でも──どんなことでも、してやるよ。あんたがもし、あのきれいな坊やを、このままにしておきたくない、と云うなら──」 「──きこえるよ」  運転手の背中を気にする透に、おしかぶせるように、 「あんたが、こうすれば、あいつを忘れられる、あいつとどうこうあったこと、何もかもふっきれる、それともただちょっとは気持がいえる、というだけでも──いいんだ、俺はあんたの望むようにするよ」 「どんなことでも?」 「──どんなことでも」 「わるいことも」 「わるいことも」 「良は──良は何ひとつ、間違ったことをしてなくても? 何もかも、誰がきいても、オレの逆恨み、オレの中の悪魔のせい、それでも?」 「それでもだ」 「──どうして?」  その問いは、ふるえを帯びて、透の唇からとび出した。巽は握りしめた指をそっと揺さぶった。 「つまらんことを、きくな」  彼は云った。 「あんたに惚れてる。それだけだ」 「オレのために、良を──|やっ《ヽヽ》ちまう、そのために、その仕事ひきうけるの?」 「ああ。あんたが望むなら」 「あんた」  透はかすかに笑った。 「頭──おかしい、よ」 「ああ。自分でもそう思うさ」  獰猛に巽が云う。 「構うもんか──あんたが自分で云ったじゃあないか──何でもしてくれると云っただろう、って」 「巽さん」  透は、呼んだ。そうしながら、彼の名を、口にするのは、それがはじめてであったことに、どこかでぼんやり気がついていた。  巽の手に力が入る。 「──幾つ?」 「俺?」  驚いたように巽がききかえした。 「三十三──なぜ?」 「何でもないけど」  やはり、彼は見かけよりも十近くも若いのだった。黒々とした髭と、手放さぬサングラスと、目もとで笑うやさしい表情とを、ひとつひとつとり除いていったら、のこされるのは、無防備でほとんどいたいたしいほどむき出しな、ふるえやすい青年の顔、だけであったかもしれない。 「──あんたが好きだ」  巽は透の思いも知らず、ささやいた。 「本気だ。──あんたがその──ジョニーしか、見てないってことは、わかってるけど──憎んでても、惚れてても、な──だが、もう、焦ったり、無理したりせんから──だから、俺といてくれよ。あんたが、その細いからだで、突っ張って、ヤッパで身を守ろうとしてるのなんか──切なくて、見たくない、見ちゃいられないよ」 「あんた──」  透はそれには答えずに云った。 「巽さんは、ジョニーと会ったこと、あるの?」 「いや──ないが、しかし……」 「あんたが良と会えば──」  タクシーの窓の外を流れる街灯りが、一瞬、青白い顔にうかんだ、なまめかしいと云っていい妖しい表情を鮮やかにいろどった。 「あんたは、良に惚れるよ──ジョニー以外のものなんか、見えなくなっちまう。みんなそうだったように──あいつを傷つけるどころか、奴に一滴の涙を流させるくらいなら、自分が死んだ方がいい──そう思うようになるんだ。いつだって、そうだったよ」 「まさか」  巽はかるい笑い声をたてた。 「俺はそんないい加減な男じゃないよ」  透は黙って細い顎をつきあげる。何も答えない。 「あんたに惚れてるんだ」  巽はその手をひきよせながらささやいた。 「本気だ。──もう二度と、俺からはなれるな。俺もはなさない」  透は、黙って、巽の胸に頭をもたせかけ、高速道路のうねりながら続く街路灯の列、その向うにひろがる街の灯に目をあてている。カー・ラジオから小さく流れてくる、流行おくれのラブ・ソングは、季節はずれの雨の歌をうたっている。きくでもなく、少女歌手の声をききながら、やはり透は黙って巽の腕の中にいるのだった。   (B.G.M.by Hiromi Ohta)   Because 「はじめて、良と会ったのは、ね」  車は、快速で、第二京浜をつっ走っていた。  空は青くたかい。絵に描いたみたいに、きまりすぎの、冬の海岸線というやつが、ハイウェーの下に平行にのびているのだ。 「あいつが十八──ってことは、オレが十九になったか、ならないか、ぐらいだったんだな」  陽除けをおろしながら、巽が口をはさむ。 「あんたは、はじめからのメンバーじゃなかったのかい」 「レックスのオリジナル・メンバーには違いないんだ。ただ、それ以前に、サムとジョニーが京都でバンドを組んでて──そのメンバーと、弘と光夫の組んでたメンバーがダブってたとこから、内海清の肝いりで、GS、ザ・レックスが結成されたってわけ」 「ずいぶん前の話だろう」 「六年になるよ」  巽の車はチューン・アップしたスカイラインGTだ。エンジンの快調な唸りに、風の音が混る。巽は子供のように嬉しそうに、ギア・チェンジ、コーナー・ドライヴ、シフト・ダウンの的確さを味わっている。 「──ずいぶん、楽しそうだね」 「ああ」  タバコをくわえた唇で、 「やっと、あんたが、ドライヴ、OKしてくれたんだからな」 「変な人だな」  透は笑った。 「暴走族の高校生《セイガク》じゃあるまいし、オレがあんたの車に乗る乗らないが、そんなおおごとなの」 「俺は、好きなんだよ」  巽は目をほそめて云った。 「車で海見に行こうなんて、そう誰にむかっても吐ける台詞じゃねえしな」 「──でね」  透は、話をひきもどした。 「だからジョニーってやつは、もとから京都じゃちょいと鳴らしたヴォーカル、ってことで、グループの中心だったわけ。弘と光夫は、作曲をするし、まあサムは、ベースだから──サムってのは、いい奴だったんだ」 「サムってのか。変わった名前だな」 「全然──修、田端修っていうんだ。サム、トミー、ジョニー、ヒロ──みんな、ペット・ネームがなくちゃいけない、ってわけでさ──あれは、気狂いじみた時代だったよ」  衣装も、気狂いじみていた。首に高いフリルのカラーのついた、童話のプリンスのコスチューム。純白の、ギリシャ風のチュニックにタイツ。髪にパーマをかけるときは、皆が、さすがに、さわいだ。 (まあやってみるさ)  そう云って、最初に美容室の、「北川のママ」のところへ出かけていったのは、自分だったことを、透は覚えている。かれの頭を見て、チリチリにされるのかと思っていた仲間も安心してやってきた。一番さいごにのこったのは良だった。皆にはやしたてられて、おそるおそる出かけたときは泣かんばかりだったものだ。 「俺も、覚えてるよ──GSブームのことは。まあ、俺はさ──ちょうど、任侠映画がすたれてきて、あぶれてお先真暗のときだったし──たまにTVを見て、呆れかえってるくらいだったがね」  ザ・レックスは、GSブームの頂点で、スーパー・セッション・バンドとして結成されたのだ。京都の「ファイアーズ」からヴォーカル今西良、ベース田端修。東京の「ブルーベリー」からギター堀内弘、天才キーボーダー小野寺光夫。サウンドに幅を、ということで、ときにはリードもとれるサイド・ギターで、ジョニーとハモれ、リード・ヴォーカルもとれるもうひとりのヴォーカリスト、という条件で目をつけたのが、その当時「フールス」のリード・ヴォーカリストだった透だった。  スーパー・セッション・バンドと銘うたれるだけのことはあって陣容は充実していた。ただちにシングル発売、LP制作、全国ツアー、と売出し側のプロダクションも完全にスターづくりの体制だった。そんなお膳立ての中で、京都からやってきたジョニーと修にはじめて会った。 「──あのとき、もう、わかってたんだ。──オレの負けだって、いうことはさ。──はじめのひと目で──」 (森田透)  無愛想に名のったかれに、 (今西良と云います。みんな、ジョニー、云うてますけど)  京都弁で云ってにこりと笑った良の表情が、はっとさせられるほど、明るかった。 (それはまるで月が太陽に勝てないように、白いマーガレットが大輪の真紅のバラに勝てないように) (なんていう、きれいな子だろう)  印象的な──思わず、その大きな目、しゃくれた唇、華奢な首、に目を吸いつけられた瞬間から、透にとって、それはもう闘い、ではなかった。  そうではなくて、たえまない撤退と譲歩、それに自分を馴らすためだけの時間だったのだ。  それまで、人に、美しい──と驚嘆されなかった、ということがなかった。人形のように端麗な顔はかれにとって最大のもとでであり、同時にかれを十五、六、もっと幼いうちから人の世の暗い部分におとしいれてきた陥穽でもあった。 (だから──オレは、いまさら赦すわけにいかなかったのだ。いまさら、脇役、ひきたて役、賛美者、愛される側でなく愛する側にまわれと云われても──それまでのオレの十九年間というものを、オレにとって十九年間、世のなかがどういうものであったか、という記憶を消し、赦すことは、できはしなかった)  だから、はじめから空しいとわかっている闘いをえらび──そして敗れた。 「──俺には、わからんよ」  巽が云う。 「なんで、そんなに、今西良にこだわるのか、さ。あんたは、ソロシンガーになりたくて、レックスをとび出したんだろ。よくある話だ──映画界にだって、ワキ役で終わりたくないって奴はいくらでもいたよ。だけど、なら、なんで、あんたはとびだしたがさいご、ジョニーなんて奴と、きっぱり縁をきってさ。あいつはあいつ、おれはおれ──ってわけに、いかなかったもんかね」 「──あんたが一度でも良に会ったことがあれば、あんたもそうは云わないさ」 「あんたは」  巽は溜息をついた。 「ジョニーに憑かれてるんだな」 「憑かれる──」  そうかもしれない、と思う。同じフィールドで、正面きって、立ちむかってみたい、と考えたこと自体が、そうだった。  決して、分がわるい──とばかりは、かれも、かれのスタッフも、思っていなかったのだ。気狂いじみたレックス人気の中で、(ジョニー)(ジョニー)という少女たちの声と同様に、ほとんど同じくらいに、(トミー)という嬌声も、たしかにかけられたのだ。  ジョニーとトミー、陽と陰、ふたつの柱を持っていたからこそ、レックスは、他のGSをよせつけない王座を保てたのだ、という芸能評論家の目もあった。 (むろん、やれるさ) (むしろ、どうして、もっと早くそう思わなかったのか、ふしぎに思ってたくらいだね) (トミーほどのルックスでさ──何かにつけて、損じゃない、ジョニーと同じグループの一員、というかたちで、出るのは──そりゃあっちはああいう派手なルックスしてるんだから──云いたかないけど、トミーの方がずっと繊細──と云うか線は細いんだからね) (GSブームもしまいだしね。やはりトミーは利口だからその辺を読んだんだろ)  無責任にひとびとは、かれをけしかけた。かれらには、たしかに、興味深い見もの、にしかすぎなかったのだし、またスポットライトはかれらのためのものでは、決してなかった。  人の光で生かされる、のではなく、どのようなかたちであれ、自ら光の中にあろうと望むことをさえ許されるものは、そうはいない。ひとびとにとって生はいつでも観客席、むこうみずな踊り手たちが挑んでゆく舞台をただ眺め、そして野次るだけの場所なのだ。  あるひとびとだけが、額の見えない刻印にかりたてられるようにして、光の洗礼をうけ、自ら光を放ち人の心を惑わせる太陽であろうと望むことができる。かれらの支払わねばならぬ代償が、どうして観客席のひとびとの目に見えるだろう。かれらはただ、まぶしい光と、華やかさとを、かれらが見たいと思うものをしか見はしない。 (何と云ったっていいさ。要するに、お前は、裏切るってわけだ」 (裏切る──?) (そうじゃないか。オレたちは仲間だぜ? その仲間にひとことの断わりもなく、すまして同じステージに立ちながら、一方でマルス・レコードのディレクターと話をすすめて、いきなり相談とかそんなもんじゃなくて、オレ独立するよ、って最後通牒かい。オレたちは一体、お前にとって何だったんだよ? 仲間ってお前にとっちゃ、何だったんだよ。自分をひきたてるための踏台かよ? ──それは、いいさ、お前がどんなつもりでいたかは、さ、お前の自由だよ。けど──少しは、ジョニーの気持、考えてみたらどうだい。ジョニーがいるから、オレの持味が発揮できない、三つに二つはジョニーがソロとるのが気にくわない、だから出てゆくって──そんなこと云われたら、あの仲間思いの、やさしい奴が、どんなに傷つくか、それもお前には、どうでもいいことなのかよ?)  顔色を変えて怒って、透につめ寄ったのは、日頃冷静なリーダーの弘だ。リーダー、という立場上、かれにとっては、レックスのステージがすべてだったが、しかしそれをはなれても、誰より良を可愛がっているのも、修か、弘か、というところだった。 (ジョニーの気持、良の感情、──じゃうかがいますけどね。この|オレ《ヽヽ》の感情はいったいどうなるんだよ? オレははじめから、サイドにって云われて、バンドボーイの昇格なんかで入れてもらったわけじゃないんだぜ。お前らは、ジョニーとトミーって、オレを利用するだけしてさ──奴のライバルって形にもってって、それで要するにレックスを大きく売ることしか考えてなかったじゃないか。いつだって、お前らの誰がオレの気持考えてくれたよ? ジョニー、ジョニー、いつだってお前らはジョニーのため、ジョニーの都合、ジョニーの気持、だけ考えりゃすむみたいに思ってたじゃないか。お前らこそ、オレなんかどうだってよかったんだよ。お前らこそ、オレをいつだって利用しかしなかったんだ。仲間──? こういうときだけ、仲間なんだな。仲間思いのリーダーだよ、まったく──お前らは、ジョニーにしか、感情がねえと、思ってんのかよ!) (トミー!)  さっと、青ざめた、弘の拳がふりあげられた。それをつかんだのは、修だった。 (あかん)  かれは、悲しげな京都弁で怒鳴った。 (あかん。何してるんや、トミーも弘も、仲間どうしで──一体、何云うてるんや。自分、自分て、それが四年も仲ようやってきたもんの云うことか。ええ?) (止めるない、サムちゃん)  光夫が昂奮して云った。 「ヒロが正しいんだ。こいつ、あんまりてめえ勝手なんだよ。本音を吐けば、良をヤイてんだ。自分が、自分だけがスターでいたいってんだよ。それが思うようにいかなきゃ──仲間もヘッタクレもねえ、ってわけだ。いいじゃないか──出てく、ってんなら、行かせろよ。レックスなしのトミーで通用すると思ってんだろう。やらせてみりゃいい。オレたちだって別に困りゃしない──) (光夫。云うたらあかんこともあるで、世の中には) (いや、サムちゃん)  と、弘。 (云わなくちゃわからん奴が、いるんだよ。これからどうしようとトミーの勝手だし、ああいう、かげでこそこそやって人裏切るようなことしたからには、これ以上いてもらおうとは思わんが、オレが腹立つのは、森田のものの考え方だよ。こいつは云っとかんと、後々ひとりでやってゆくにせよ本人にだってよくないと思う。云わしてもらうよ、森田──オレはね。いま考えてみた。オレたちが、お前の云うような、ジョニーのためにお前を利用したとか、そういうこと、してるかどうかさ──オレはしてない、と思う。いや、待てよ──きくだけ、きけよ。オレたちは仲間だよ。全員、対等だよ。ヴォーカル二人がいくら人気あるからって、二人のバックバンドでも、二人に食わしてもらってるんでもない。オレたちのサウンドはレックスのサウンドなんだ。今西良、森田透どちらだけのためのものでもない) (わかってるよ。もういいよッ、そんなこと!) (わかってない。きけよ──お前はね。お前は、ジョニーしか相手にしてないんだ。オレたち、サムだの光夫だのは、あてがわれた楽譜ひくだけの部品ぐらいに思ってる。オレたちにだって、それが伝わってくるんだぜ──お前は、要するに、きれいだし声もいい。だから世の中の主役は自分だ、と思ってる。目の前にジョニーが、もっときれいな奴がいる。だからと云ってお前はレックスぬけて、自分ひとりが光ってられるとこへ舞台がえしようってわけだ。けどな、そんなもんじゃねえんだよ──オレらが、どうしてジョニーをあんな可愛がるか、わかるか。なあ、トミー、ジョニーがお前よりきれいの、歌がどう、アクションがどう、そんなことじゃないんだよ。ジョニーはなあ、知ってるんだ。──主役、ワキ役、縁の下の力持ち、見にくる女の子、どれも同じなんだってことをさ。ジョニーはたまたま自分が主役なだけだってことを、よく知ってるよ。だからつねに、仲間を第一に考える。ヘトヘトに疲れてたって、仲間が飲みたがってりゃ自分から帰ろうとは云わない。自分が、主役だから、云う資格がないんだ、と思ってるよ、奴は。お前と反対じゃないか──だからジョニーが一回でも、サイン断わるの見たことあるか。ファンの豚娘にじゃけんな応対したことあるか。疲れてても、不機嫌でも、いつだって奴は我慢して握手してやり、サインしてやり、『もう遅いから帰れよ、みんな』なんて云ってやってるじゃないか。お前はさ──お前は、自分を好いてくれる女の子を、うるさがるじゃないか。お前もたしかに主役かもしれないよ。だけどお前は、主役を主役にしてくれるのは誰かってこと、考えてない。自分がきれいだから、それが運命だから、主役になれたんだろうなんて考えてる。ジョニーは、そうじゃない。奴はいつでも見えない部分を思いやってる。ヘンな道義心でなくただ、やさしくて──人に好いてもらうのが嬉しいから、自分の辛いのを我慢しちまうんだよ。オレらが、奴を可愛がったって、大事にしちまったって、奴あってこその仲間だと思っちまったって──当り前だ、と思わないか?) (もう、いい)  透の目は涙でいっぱいになっていた。頭が熱く火照り、目の前の冷酷な告発者たちすべてを爆弾が爆発して砕き去ってくれたらと望んだ。 (もうききたくない。イヤだ!! 黙れったら! いくらでも、きれいなことを云ってるがいいや! 何だかんだ云って、要するにお前らはいつだってジョニー、ジョニーなんだ。そうじゃないか! オレは裏切りやしない。お前らが、オレが居辛くなって出ていくようにしむけたんだ! オレは、そう云うからな、ジョニーに追い出されたって! お前らははじめから、オレなんか必要ないと思ってたんだ) (トミー)  肩にかけられた修の手を、透は地団駄を踏んで払いのけた。 (餓鬼みたいなこと云いな、なあ) (ああ! 餓鬼だよ。オレはどうせ、お前らになんか何でもない人間だよ。仲間だって? 一度だって、仲間らしい気持持ったことなんかありゃしないくせに! ジョニー? ヘッ、何がジョニーだ。あんな──あんな気狂い、あんな──ジャニス・ジョプリン気どりで──)  かれの頬に、激しい平手打が鳴った。  修の目が燃えていた。 (良を侮辱するな)  修はきっぱりと云った。 (お前が良の何を知ってる。良を侮辱するな。オレが許さへん) 「なあ──」 「──え?」 「どうしたんだ。すっかり、黙っちまってさ」 「黙っててよ──もう少しだけ」  隣にいる巽を、ようやく遠い旅からもどってくるように透は思い出す。目にうすく熱い憤懣の涙がうかんでいはしなかったろうか、と透は思った。 「いま、どのへん」 「新子安。そろそろつくぞ」 「そう」  左手に、港が開けていた。  きっぱりとした冬の海の色は、群青に冴えている。沖の母船にむかって、進んでゆくモーターボートのうしろに、末ひろがりの白さがひらける。水中に、なかば身を没しているクレーンにひとびとのむらがっているのが、蟻のように見える。 「酔ったのか? 少し、とばしすぎたから」  心配そうに巽が云う。 「大丈夫」 「いい具合に、晴れてくれたから──」 「ねえ……」  え? と巽がききかえす。何と云いたかったのだろう。 (ねえ──あんたに、わかるだろうか……) (──だがそれならオレの思いは、いったいどうやって贖《あがな》われるのか)  透は黙っていた。巽に伝えるすべはない。 (良──ジョニー、かれの前で、かれにひざまずかなかったのがオレの罪ならそれでもいい。だがそれなら、良ゆえのオレのすべての思いは、いったい誰が贖ってくれるというのだろう) (──なあ、トミー)  殴って済まなかった、と詫びに来たあとで、修は悲しげな目をして云った。 (こんな別れ方、したくなかった、思うてるんや。オレ、本当はあんたの気イもちっとはわかるような気、するしな。ただ──こうなってしまった、いうほか、しやないやろ。ジョニー、いうやつが、そこらにいくらもいてる奴とは、あんまり違《ちご》てる、いうことだよ。わかってやってほしいんや。お前も傷ついたやろうけど、それは良のせいやない。また相手が良でさえなけりゃ、お前ももっと素直になれた筈や。云うてもしゃないけど、オレ、お前を嫌いやない。お前を見てると、一番正直なんは、お前や、いう気がしてな。な──お前のためにも、やっぱし、ジョニーとはなれた方がええ、と思うよ。ああいうふうなのは、あいつの生まれつきなんや。しようと思うてでなく、自然に、まわりの奴らみんなを自分にひきつけちまう、自分の光でまわりの奴らの光消しちまうというのはね)  修はレックスで最年長で、当時ですでに二十六、七にはなっていた筈だ。考え深く、関西弁でしみこむように喋るのっぽの修が、中学生のころからの仲だ、というジョニーによせる情愛のこまやかさには、実の兄弟もおよばないものがあった。 (そのうちいつか、もっと気持よう会おうな) (ああ) (赦してやってな、ジョニーのこと)  赦すも、赦さないも、ありはしないのだ。ことばのとどかない領域、というものは、確固として存在していた。赦せ、と云うなら、それは、ジョニーがこう在ることを赦し、かわりにかれ自身がこう在ることをたちきれ、と云うのにひとしかった。 (といって、赦さない、と云ったところで、オレが|やつ《ヽヽ》になれるわけでもありゃしない) (いつもあいつは光の中にいて──ひとびとの愛と崇拝と赦しに包まれて翔ぶ白鳥のようだった) 「巽さん」 「あ?」 「そこの海岸──おりられないの?」 「歩いてみたいか。待てよ、もう少し行くとインターチェンジだ」 「じゃ、いいけど」 「いや、おりるよ。疲れた、だろ」 「でもない」 「途中から、すっかり静かになっちまってさ」 「考えごとしてたんだ」 「また、|かれ《ヽヽ》のこと、かい?」 「まあね」 「──さっき、なんか途中で話、腰折っちまったけど、さ」  巽はタバコをくわえながら云った。 「よかったら話してくれないか。おとなしくきいているから」 「何を?」 「何でもいい。あんたの考えたこと、何でも」  そう云われると、ことばは舌の上でわだかまる。過去の時間をすべて彼の脳に分け植えることのできないかぎり、透が自分から語ることのできないことがらというのは、あまりに大きすぎ、多すぎる──だろう。 「──巽さん」 「ああ」 「──何でもない」  かれのとなりで、精悍な横顔を、逞しい肩の上にすっきりと伸ばしている、やさしい目と獰猛な輝きとをもった三十三歳の男は、かれについて何を考え、感じているというのだろう。いつも、選ばれない、というふるえに心を満たして、少しでも傷をうけかけたら、とたんに身をかわして自らよけたようにすりかえてしまう準備をしていることが、この男には理解できるだろうか。 (トミーだって、素質はあるのにさ。ああ我儘じゃ自分の首をしめるようなもんだよ) (それにむら気で、いい加減で) (その点、ジョニーはいつも一生懸命でいいね)  決定的な、さいごのひとことよりは、そんなささやきで身を鎧っているために。(お前は≪その人≫ではない)というゆるぎない宣告だけからは、逃がれるために。  それとも、巽にはわかるだろうか。はじめから不利な手で、ブラフではないまでもここまでと先の見えているカードをかかえて、ただじっとこの長丁場の勝負が終わるのを、息をひそめて待つばかりのそんな思いを。良は生まれながらのジョーカーだ。かれは疑ってもみないだろう。そしてブラフだからと賭に加わらないでも済む無数のひとびと。巽は、どうだったのだろう。  あんたには、わかるだろうか。≪自分≫として生きるためにこそ、自分を自分で殺さなくてはならないときがある、ということが。それでも、ジョニーの光にぬくもって生きる、──生かされる、衛星としての勝利よりも、ひとりの主役森田透、自ら光を放つ恒星として手ひどく敗北することが、オレにとっての誇りであり、唯一の正しい道だったんだ。 「腹、へっただろう」  巽がやさしく云った。 「昼飯食ってから埠頭に行こうな。俺、いい店、知ってるんだ」  車は、インターチェンジをおりて、磯子のごみごみした駅通りから、横浜をさして走っていた。  どこかで遠い昼休みのチャイムが信号待ちの空白に流れこんできた。  かれらは、小さな中華料理店で食事をした。朝起きと遠出によびさまされて、いつもよりはするどくなった透の食欲を、巽は嬉しそうに眺め、ワンタンの大きな容器に鼻をつっこみながら目もとで笑った。 「もっと、肥れよ」  楽しそうに云う。 「はじめのうち、あんたは、霞を食って生きてるのかと思ったよ」  紹興酒を飲みたいけど車だから、と呟いて、熱いスープを啜った。巽の膝に黒い巨大な猫がとびあがってゴロゴロ云った。耳に黒玉の飾りをつけ、髪をまん中わけにしてぴったりまとめあげ、裙子をはいた中国人の老婆が、猫を叱って、抱きかかえて連れ去る。卓子の上には、奇妙な飾り物がいろいろとおいてあり、天井には銅のすかしの入ったランプがさがっていた。 「うまい?」 「うん」  巽はたえず透の目をのぞきこもうとする。 「あんたはどっか、夢ばかし見てる人みたいに見えるよ。だから俺は、最初にあんたを見たとき、ジャンキーかと思っちまったんだ。だけど……」 「………」 「今日は、半分だけ──あんた、俺を見ていてくれてるような気がする」  巽は、どうして、結婚しないのだろう、と透は思い、それをそのまま口に出した。 「結婚?」  巽は、しんから驚いた顔をする。 「俺みたいなヤクザと、一緒になる女がいるもんか。一度でコリゴリさ」  デザートに、美しいルビー色の蜜の中に純白のゼリーのうかんでいる仍豆腐《ないとうふ》の大鉢が運ばれてきた。巽は面くらったようにそれを眺め、透にとりわけて、いくぶん当惑気味にその美しい食物を蓮華で口に運んだ。 「甘え」  鼻をしわめて云い、ふた口、み口しか食べない。 「──俺」  包みこむように透を見守りながら云う。 「根っから、ダメな男なんだ。ある面じゃ」  透は美しい白い寒天を匙《さじ》でつきくずしている。 「昔から、ときどきいきなり、ふうっとどっかへ行きたくなってさ。車に乗るとそのまんま、仕事の日なのに日本海見にフケちまったり、夜中に、飲んだくれて、おまわりと喧嘩して、豚箱叩っこまれて撮影出られなかったり、そんなことばかししてたよ。これが男の義理、と思や、仕事のために十キロへらして、やせこけた顔一週間で作ったり、十日連続カンテツ撮影だってやらかしたけどさ。シャリコマな、つまんねえ仕事だと、よくない癖で、ふうッとイヤんなっちまって──そうかと思うと、監督、ぶん殴っちまったり、な。俺にゃ、人並みの安定とか、常識とか、いうもんが足りなくてな──ヤクザ映画が斜陽にならなくたって、そのうち干されてたよ、あのままじゃ」  巽は云った。 「そいつを久野プロデューサーが──それから大野監督が拾ってくれてさ。だが、名が売れた、代表作がのこった、って、一人前になったってもんじゃ、ねえよな。俺は、いつまでたっても、ヤクザはヤクザだろうと思うんだ。面が割れてなきゃ、地回りと大立ちまわりくらい、いまだってするし──いまじゃむこうが黙るからな。それが、イヤでな──俺、女房持って子供つくって、巣におさまっちまったら、俺はニセ物になっちまう、って思ったんだよ。──前に云ったけど俺、別に男が好き、女が好きってあれは、ねえんだ。ただ、あんただと、家に連れてきて、一緒に暮したっていいんだけどさ、女を、置いといてだよ──そいつが、ガキ生んで、部屋に花かなんか生けて、カーテンかえてさ──こりゃ大変だ、と云って俺、また逃げちまうだろう──そこへもう帰らんだろう、って気がしてるのさ」  透は、黙っていた。 「ふしぎだよな──俺、そうやって、いつも撮影フケちまったり、女から逃げるだろうに、あんたが一人でまたどっか行っちまうと思うとたまんなくてさ──追っかけてつれもどっちまう、ってのは、さ」  それは、わかる、と透は思う。おそらく巽がまだ髭もなく、眼鏡でやさしい目をかくすことも覚えない子供だったころ、彼は濡れそぼった猫の仔や犬の仔を、両手に抱いてきては、親に捨ててこい! と怒鳴られながらひと晩抱きしめていたわっている少年だったに違いない。  彼は高貴な愛情深い狼で、その愛をたやすく求めさせこそしなかったけれども、いためつけられ、見すてられた小動物にはすべてを与えて惜しまなかった。  雨に濡れた犬の仔を拾うように彼は透に声をかけたのだった。そしてやっきになってぬくめてやろうと思いをくだく。それは、(惚れた)と巽が思っていたにせよ恋ではない、むしろもっと美しい高貴なあるものだ。ある種の人間は、犬が哀しい目で人を見ること、傷ついた馬が身喰いをすること、に決して耐えられないのだ。 「──あ。行こうか」  巽が気がついたように云う。  透は、その巽に微笑みかけた。巽が驚いて、その白く風のような微笑を見つめた。 「俺」  巽が、両手をアーミー・ジャケットのポケットにつっこんで、肩をすぼめながら云う。 「船に乗りたかったんだよ」 「船乗りってこと?」 「そう」  風が強くなっていた。  水をわたってくる二月の風は冷たい。ゴム・ホースやひきあげられたブイのごろごろしている埠頭を、巽と透がひょいひょいとびこえて歩いてゆくと、つよい風がかれらの髪の毛を吹き乱す。 「寒い?」  気がかりそうに、巽は云い、透を待っていて、肩に腕をまわしてきた。 「大丈夫」 「大丈夫じゃないよ。顔が、唇まで、真白だ」  冷たい頬にそっと指がふれる。人目を注意する気持を、透は失っていた。それはまるで、巽のかぎりないやさしさに対する侮辱のようにさえ、思える。  仮にゴシップ好きの週刊誌すずめが、�巽竜二とトミー(森田透、元レックス)の妖しい関係!�というようなスキャンダルをばらまいたとして、巽は逞しい肩をすくめて、(わるいか?)とでも、呟くばかりだろう。  巽は人の目、人の思いによって生かされている、つくられたスターではない。彼は自らのずっしりと重い存在感に鎧われた肉体で、その座をかちとったのだ。  巽のがっしりとしたからだは、アクション・スターのようにお飾りの、管理されたスポーツマンのそれではなく、まったく実用に供するための、闘い、使い、働かせるためのそれである。巽の傍で、透の繊弱な容姿はまるで、岩にからみついたかぼそい秋桜のように人目にはうつるだろう。 「──これ、着てるか」  巽がジャケットを脱いだ。 「いいよ、大丈夫」 「いいからさ。ほんとに、平気か。それとも、そろそろ、車にもどるか?」 「もう少しいようよ」 「じゃ、それ肩に巻いてな」  それ以上逆らわずに透は巽の大きなジャケットを、着ている黒いコートの上から巻きつけた。風がコートの裾をあおった。 「──あっちこっち、行ってみたかったのもあるけど、それ以上に、これこそ男の仕事だ、ってな気がして、さ。なあ──役者なんざ、やっぱり、男子一生の事業じゃない」 「そう?」 「やってて、面白い、けどな。あんたは、どうなの、はじめから、歌手になりたかったのか」 「そうだな……」  何でもよかったのだろうと、透は思った。 「芝居した方がよかったかもしれない──あのころは、ちょっと気のきいたガキなら、ギターのひとつもひけなくちゃ、ってころだったからね。オレは、とにかく、このまま済ましやしないぞって、もうずっと思ってたけど……」  歌に選ばれ、歌に呪縛され、歌しかないから、歌うべくして歌っていた──そんな思いで歌ったことが一回でもあっただろうか、と思う。  歌でも芝居でも踊りでも──機会を、かれの中の昏く鬱勃とさだまらぬものに光の中へ舞いあがる機会を与えてくれるものなら、なんでもかまいはしなかった。  良は、そうではない。 「ジョニーはね──」  ためらいがちに透は云う。その名をきくと、巽の眉に翳が走るからだ。 「あいつは──はじめから、どう出発してもどこかで、歌わざるをえないようになる奴だったんだ。オレは奴のこと、ジャニス・ジョプリン気どり、と云ったけど、気どり、じゃなかったんだよ、必ずしも──ジャニス・ジョプリン、ビリー・ホリデイ、ミック・ジャガー、そんな、はじめから歌に生まれちまってる凄い──≪生きながらブルースに葬られ≫てる歌い手の仲間だったんだ。ジョニーは」  巽は何か云いたげにするが、我慢してきいている。透は足もとのコンクリートに砕け散る波頭を見おろしながら云いつづける。暗藍色の波間には、ビニール袋、避妊具、ミカンの皮、いろいろなゴミがういて揺れている。 「嘘じゃない、きけばわかる筈だよ、あんたにだって──オレが、──オレが立ちむかわなくちゃならなかったのは、そんな奴だったんだ。あの踊り──アクション、あの、声、あの歌いかた──あいつ、どうしてもブレスが、息つぎが覚えられなくて、マイクにこう、──って吸う音が入っちまうわけ。それが、まるで子供が泣いてるみたいに哀しげでいたいたしいとか、ブルー・テープみたいにセクシーだとかってみんなが夢中だったんだもの──ジョニーは特別なんだ、ってみんなが云っていたよ。みんなが──」  透の声、歌、アクション、が、歌手としてのプラス・アルファを欠いていた、というのでさえないのだ。ただ相手がジョニーだっただけ── (やはりみんな、レックスの、ってイメージがつきまとうんだろうね)  思うようにのびなかった、デビュー・シングル、二枚目、を検討し直しながら、かれを担当したプロデューサーの井村は云ったものだった。 (この路線じゃどうしたってジョニーにはりあってるって感じがね──どうだろう、抵抗あるかもしれないけど、この辺でひとつ徹底的イメ・チェンでアッと云わせて、脱レックスを印象づけるって感じで演歌、やってみない?) (いや──ね、柄もね──むしろ、ちょいバタくさいモダン演歌、やらしてみたいな、って、はなっから、思ってたんだ)  抵抗など、ありはしなかった。さしだされるチャンスに、かれはすがりつかねばならなかったのだ。結果は、わるくないよ、と誰もが云った。  つづいて四枚目。しかしそこで、かれのためのプログラムは、途絶えてしまったのだ。  どっちみち、と透は思った。どっちみち、(勝利)はありえなかったのだ。たとえ次の一枚が、ジョニーの新曲をしのぐヒットをとばしてもだ。かれにははっきりと、いろいろなことがわかっていた。かれにだって、かれを売り出し、衣装を、振付を考え、ステージを演出するのに血眼のスタッフが揃っていたけれども、かれらには、ジョニーをとりまくスタッフのもっている、他のどのスターの周辺にもないあたたかさ、仕事《ヽヽ》ではなく、(ジョニーのため)だから、という、あの世界の中心にむかってゆく思いが欠けていた。 (グロテスクなグラン・ギニョール、オレが演じていたのは、≪スターごっこ≫の贋の光だろうか) (ジョニー)  くしゃっと片目をつぶって見せて、弘が云う。 (最高) (いまのテイクで行けるぞ) (さあ、あがって、何か食おうや) (オッケー──でも、よかった? あのリフのとこ、どっちにしようかと思ってたんだ)  ジョニーの輝くような笑顔。修が、長い指で、ジョニーの髪をくしゃくしゃにかきみだす。  いや、と透は思う。仲間じゃない。一度だって仲間だと、思ったことなんかない。奴らはジョニーの信者どもで、オレは異教徒の神。まがいものの神であれ神を僭称するものが、どうして、他の祭壇への礼拝に加われるだろう。 「寒い」  唇をふるわせて、透は云った。 「ああ──ご免。もう、もどろう」  足もとの空缶や石ころを、悪戯っ子のように、ゴミのういている水面へ蹴こんでいた巽が、慌てたように近くへ来て、透の肩に腕をまわした。 「どっかに入ろう。喫茶店《サテン》でも、あるだろう。あついコーヒーを飲んだらあたたまるさ」  ごわごわしたジャケットに包まれて、いっそう太く見える腕が冷たい風から守ろうとするように透をひきよせる。どうしてだろう、とふっと遠く、透は思ってみる。いつも、巽はどうしてそうまで、赦しに満ちてやさしいのだろう。  何回か、抱いた、という以外に何の負目があるわけではないのにね──透は、奇妙な生物を見るように、巽を眺めた。 「──ん?」 「──何も、云ってないよ」 「そうか」  巽は、埠頭から公園の、やきいかの香りと葉のおちた木のあいだをぬけていった通りに面している、小さな茶色の喫茶店を知っていた。 (a Sunny Place)  ゆがんだユーモラスな文字の看板が、ひっそり軒にぶらさがっている。銅板のレリーフだの、モザイクのタイルだの、デザート・フラワーだののありきたりな装飾品に混って、大きな埴輪や、日時計の模型や、黒い花瓶になげこんだポピーの大束などが乱雑においてある店の窓際の椅子に座って、ふたりは、透はシナモン入りの、巽はブラックで、コーヒーを飲んだ。 「疲れたか」 「ううん」 「まだ風が冷たいから──海の近くは」 「大丈夫だよ」  巽はまるで持ちつけないガラス細工の人形をあてがわれた餓鬼大将だ、と透は思う。どうして、巽が急にそう感じられるのか、またも透にはわからない。 「でも、もうじき春になったらさ」 「うん」 「あたたかくなれば、いろんなところに行けるな──房総の花畑だとか、峡谷とか、山ん中とかさ」 「そうだね」 「行こうな、いろんなとこ」 「さあ──」  それはどうか、わからない、と云うと、巽はとたんに哀しそうな目をする。 「なあ」 「え?」 「あったかくなって──それより、あんたが、あの──他のことを、踏ん切りがついてさ」 「何のことを?」 「だから──俺が、あんたの云う通りにしたとして、それで、あんたが、気が済んだら、さ」 「………」 「きっと──」 「──何?」 「俺、いろんなとこを見せてやるよ、あんたに」 「いろんなところ──」 「ああ」  巽は旅が好きだ。と、昔、インタヴュー記事にあったのを思い出す。少し仕事のゆとりができると、車にシュラフひとつを積んで、どこへでも出かけてしまうのが、何より、楽しみだ、という話。これでもうひと月以上も東京をはなれていない。巽にとって、それは狼に狩りをとめるように、つらい仕打ちなのかもしれない。 「──何だい」  巽が首をかしげた。 「そんな笑い方して。──今日はあんた、二回目だ、笑うの」 「別に──」 「何か、変かい、俺」 「ああ」  透は、苦もなく、やさしく微笑んでいる自分に少し、おどろいている。自分がどういう姿かたちをしていて、それがどういうことなのか、知りそめた少年期から、そんなふうに、にがみもなく、人を赦して微笑った記憶がない。 「どう、変」 「──変わってるね、あんた」 「そ、そうかな」  巽はうろたえて髭を撫で、タバコの吸い口を噛む。 「だけど、いい人だ──と、思うよ」 「透」  巽が、かれの名を、怒られはせぬかとおそれるように、そっと呼んだ。 「あんた、変わったよ」 「そんなこと──」  巽は透の指を掬いあげ、華奢な指に、頬を下げてすりつけた。 「人が、見るよ」 「気にするな」 「あんたもオレも顔を知られてるから」 「俺は、かまわん」 「困った人だな。──駄々っ子、みたいだ」 「嫌か? だから──」 「ううん」  いまだけだ──透の中で、われにもあらずそう誰かが呟いていた。  いまだけだ。これは闘いの、手兵をまとめてはしだいに追いつめられてゆく闘いの短い休戦期間、つかのまの陽だまり──そのくらいを自分に赦そうと思ったところで、なにもわるいことはないだろう。信じられるふりをして──安らかに包まれ、ぬくもっていてもいいというふりをして。たとえ明日巽が良の祭壇にひざまずいてその洗礼をうけ、改宗した異教徒になり了せるとしても、いまこの時間にそっともたれかかるふりをして、オレは彼を赦すことができるだろう。  やさしく倖せな、やりなおしのきく時間を信じたふりをして──イージー・ライドからふりおとされて、(かれ)のはてしない侵略から異教のみじめな祭壇を守らねばならぬ阿修羅の裔であるオレが(かれ)の小さなひながた、捧げられる愛をためらいもなくつみとっては先へ進んでゆく、血のしたたる心臓を日常の餌にして光をます選ばれた種族のひとりであるように、自分自身をよそおって。 「──もう、行くか」 「待って。もう少しだけ」  透はうっとりと答える。かれのまわりで時はたゆたい、その苛酷なたゆみない流れをいっとき、化石させるかに見える。まるでしたたらされる香油のひとしずくのようにかれのまわりにある(時)、コーヒーの豆を挽く香り、かかっているくだらない音楽、茶色と白の店の内装、その中で白茶色の|おり《ヽヽ》が乾きかけている、白に青で筆ぶとにメキシコふうの模様を描いた大ぶりのコーヒー・カップ。  デザート・フラワーのかわいた青と赤、巽の秀麗な額にもつれている髪、そして包みこむように、いとおしげに、かれだけを見ている巽の、レイ・バンの奥のやさしい目。  赦そう、と心のどこかにそっと透は思った。人が人であり、良が良であり、そしてオレがオレであること。このようにしか在れず、(かれ)がそのように在って、それゆえに透が長い自分のために闘いに疲れはててここに座っていること。TVの画面の中で、つねに笑い歌うジョニー、かれがそう在りたいとひそかに願いながらそう在ることのできなかった、それだからこそ見つめ、ねたみ、はなれてゆき、それでもかれの中から断ちはなすことのできずにいる輝かしい(かれ)、≪|この人を見よ《エクセ・オモ》≫の誇らかな孤独に包まれて。  巽を愛している、と透は思った。この(時)を愛するように、(かれ)を愛するように、(かれ)を愛するすべての──そして透を選ばなかったすべての人を愛するように。たとえいまこのときだけだとしても。 「巽さん──」 「ああ?」 (オレの傍に──いてくれますか。いつも。これからさき、ずっと)  口に出しさえすれば巽は力強く、誓ってくれるだろう。だが透は口に出さずに、微笑んでいる。巽にだけは、誓いを破るむなしさを、与えたくない。  その日かれは巽に長い物語をした。口に出した切れはしもあったし、ことばに出さず、ただ胸の中でだけ、ささやきかけた思いもあった。喫茶店を出ると並んで元町を歩き、それから小さな店をひやかして歩いた。巽が透に銀の風変わりな指輪を買いたがるのをやめさせて、美しい透かし細工の柄のついた、細身のペーパー・ナイフをねだった。象牙の刃身に、するどい銀の刃がかぶせてある。贈り物にナイフはいけない、ふたりの間を断ち切るから、という云いつたえを、巽は知っていないようだった。  透が切りたかったのは、巽を(赦す)ために邪魔になる、信じるからこそ裏切りをいきどおる人のならいの(心)そのもの、であったかもしれない。 (楽しいか?)  巽は透の肩に腕をまわしながら、いくどもきいた。 (疲れたら云うんだよ──今夜は、飲んで、ハマに泊るつもりなんだ) (夜景を見てさ──明日一番で帰るんだよ。イヤか?) (もう一度、さっきみたいに笑ってくれよ──はじめてだな、考えてみると、透がそんなにして笑ってくれるの)  時よ止まれ、とさえ望むことばを知らない透を人は、不幸だと云うかもしれなかった。しかし、そうではない。  時はひたすらに流れてゆけばいいのだった。思いはとどまるだろう。口に出さぬ物語をして、透は、二十五年、ひとりで持っていたすべての思いをその思い出ごと、巽に預ける夢を見た。 (たとえ過ぎてしまうとしても……)  透は、巽を見あげる。すると巽はそこにいる。巽はかれを見おろしてほほえみ、つよい腕がぎゅっと肩をしめつける。  解放してくれることのない光の夢は、この日、かれらを見逃がしていた。身をよせあって歩きながら、かれらは、それがどこまでもつづく道路である夢だけを見ていた。  (B.G.M.by Beatles.Abbey Road) [#改ページ]   ㈼  身 も 心 も     1  マンションの四階の、巽の部屋の窓からは、新宿の街が一望のもとに眺めわたせた。  立ちならぶビルのあいだに、頭をよせあってひそかな相談でもしている巨人たちのような、いくつかののっぽビル、その足もとに、地にしがみつく苔のような小さな建物の群れ──宙につきだした荒々しい鉄骨とクレーン。それは、奇妙に人の心をいざなってやまない、アメーバのように上へも、下へも、横へもしゃにむにひろがってゆこうとする盲目な(意志)そのものの風景だ。  空気の底には、なにか、最もきびしい冬はすでにとおりすぎてしまって、溜息のようなぬくみが忍びこむようになっていた。透が、巽竜二の部屋で彼と暮しはじめてから、少なくとも、三ケ月近くが流れた、というわけだ。  この前の冬は誰と、どこの部屋におり、その前はどこで、その前はいつまで──そんな記憶を、透があつめようとしなくなってもう久しい。巽に拾いあげられるまで、(職業)ときかれれば、男娼──ベル・ボーイとしか答えようのなかった透にとって、日々は誰かと共にするものではなく、誰かが通りすぎるものでしかなかった。  巽は昨日から、「裏切りの街路」のリハーサルに入っている。RVCの連続ドラマを、巽は、透のためにひきうけた。主演が、透を逐い、そのために透をいまのような男娼の生活に追いやる遠因になった、かつての透のライヴァル──ジョニーこと、今西良であったからだ。 (ねえ──どうだった、ジョニーは?)  巽は八時から、愛車でスタジオへ出かけていった。それを見送って、怠惰に寝乱れたベッドのシーツのあいだに身をのばし、起きるでもなく眠るでもなく、窓の外の雨空を見あげながら、透は、巽がはじめて出演者の顔合せで(かれ)に会ってきた夜のことを、思い出している。 (きれいだと思わない? やっぱり実物見なくちゃ、あいつの本当の魅力なんてわかりゃしないからね──どうだった? ねえ?) (あ……ん)  巽は答えたくなさそうに生返事をして、翳った目で、透を見た。 (あんたはまだ、あいつにこだわってるのか)  そう、云いたそうな目だ。愛、というよりむしろ、捨てられて死にかけている仔犬を拾いあげなくては済まぬような生来のやさしさから、透を連れて帰り、透のために何でもしてやろう、と誓いはしたけれども、本来の性情が男らしく果断な彼にとって、自分をうちのめし、逐い、叩きふせた競争相手に透が執拗に抱きつづけている、執着、と云っていい関心は、理解できぬ、というより多少無気味にさえ見えるのであるらしかった。 (答えてよ)  透は思いきりわるく巽を問いつめる。巽が困惑した少年のように頭をかく。 (そうだな──何、答えるんだ) (あいつ──きれいでしょう) (俺は透のほうが好きだよ) (そんなこときいてるんじゃないの!)  巽はなだめ顔に首をふる。巽は、病人を守ってやる看護婦のように辛抱づよかった。 (そりゃ、きれいはきれいだな。しかし──) (どんな恰好してた?) (どんな──って、ふつうのスーツで……) (何色の?) (茶色っぽい、ざくざくした感じの──きれの名前なんか、俺は知らんもの) (無地?) (何てのかね、いろんな色が入ってるんだ) (上下? 三つ揃?) (上下) (ネクタイは) (してなかった。その下にセーターきてた) (どんな) (白のタートルネックで……だから、ごくふつうの恰好だよ──) (アクセサリーは?) (そ、そんなところまで、見なかったよ。ああ──イヤリングしてたかな。なんかピカピカ光る小さいやつを) (ピアス?) (さあ………) (どんな感じだった?) (だから、ふつうの──) (嘘だな)  透を、巽は、身喰いする馬のように思っているらしかった。できれば、ジョニー&レックスの出るTVをかかさず見る習慣からも、透をすくいだしたいようだ。ジョニーとの共演をひきうけたのも、結局は透がかれを忘れてしまうためだった。 (あいつを見て、ふつうだなんて、誰も思わないはずなんだ) (なあ、透──)  たまりかねたように、巽が云う。 (あんた、かれを少し過大評価しすぎてるよ。そりゃきれいだし、正直云って魅力もある。よろしくって云ってニコーッと笑われたときには、ほほうと思ったよ。しかし、あんたはまるで──まるで、どんな人間でも、ジョニーをひと目見さえすれば、もうそれっきり、かれのことしか考えられんようになっちまうと、信じてるじゃないか) (──そうにきまってるんだ……)  巽には、透のそのあやうい思いの襞が、わかるすべがないだろう。  透は、敗れたのだった。レックスの、ジョニー、トミーと並び称せられた二人の美少年、アイドル・スター、ツイン・リード・ヴォーカルの黄金時代は、透がかれにそむいてレックス脱退、独立、を告げたとき、むざんに崩壊したが、そのとき、すべての他のメンバーが、(ジョニー&ザ・レックス)であることを選んだ。  トミーこと森田透、かれにとっては、それも、そののちソロ・シンガーとしての、しだいに不如意になっていった活動も、すべてがジョニーへのみじめな敗北の過程でしかなかったのだ。  ジョニー&ザ・レックスは、「危険な関係」「ガラスの天使」「ウィークエンド」と順調にヒットを飛ばし、文字どおりポップス界の王者《レツクス》としての地歩を固めつつある。雑誌「スターランド」は、上下にわけて、「徹底追跡・今西良その魅力のすべて」の特集をのせ、鞍馬山での夏のファイアー・フリー・コンサートは、五万人を集めた。  あまりにも、対照的な、飛翔と凋落の過程のなかで、敵の光と輝きとを絶対の、立ちむかうすべもないもの、と信じこんでゆくことが、透にとってはむしろかれの誇りのために必要な唯一の救いであったかもしれない。 (もうやめよう)  巽が呻くように云った。 (こんなことは──俺は、厭だよ、あんたがそうやって、自分のまわりを、かれのことだけで少しずつ埋めていっちまうのを見てるのは、さ)  やにわにひきよせられて、透はちょっと抵抗するが、その力は巽の粗暴さに抗するべくもなく、透の痩せたからだは、厚い胸の中に倒れこんだ。  巽は荒っぽく、透の唇をふさぎ、ブラウスをむしりとり、透が呻き声をたてるまで腕の力を加えてゆく。彼の粗暴さはこの上なくやさしいが、それでさえも、透の中に巣喰ってしまった、ある昏い飢え、内側からかれ自身を噛みやぶっている凶暴な執着をとかすには手がとどかない。 (透──透)  まるで、透を、殺してしまいたい、とでも思っているかのようにさいなみ、むさぼったあとで、汗にぬれた胸を青白い胸におしつけるようにしながら、巽は云う。 (|あんなやつ《ヽヽヽヽヽ》のことはもう忘れちまえ。透は透なんだ。もしそうしなけりゃ、腹が癒えない、というのだったら、俺は必ず、あいつを滅茶苦茶にしてやるよ。あんたの望むとおりに、あいつをつれ出して、姦《や》っちまって、あんたが望むなら、殺しちまったっていい。俺はあんたの望みどおりにしてやる。だから……) (だから頼む、透……もうあいつを見ないでくれ。あいつのために自分をよけい引き裂くようなことはやめてくれ。あんたがそうやって、自分で自分を気狂いにしようとしているのを見ると俺は──俺はどうしていいかわからなくなるよ) (どうしてあいつと自分を一秒ごとに比べるんだ! 俺は透しか見てないんだぞ! 信じてくれないのか。どうして俺にあいつを見せよう見せようとするんだ──透!)  何も答えずに、巽の楯のような見事な胸の下で放心している透が、巽には、もどかしく、憐れで、そう思うほどに巽は自分が何をしてでも透を守ってやらねばならない、と思いつめてゆくようだ。  午前中の時間は、のろのろと流れる。巽が、仕事に入らないで、透のそばにずっといたあいだは、昼すぎ、ときには夕方近くになってからようやく起き出し、巽がまめまめしく食事をつくり、透は外へ出たがりもしなかったから、まるで檻にとじこめられた獣のように、かれらはがむしゃらに愛撫するか、傷をかきむしるか、しかすることはなかった。 (俺が遅くなったら、飯、何でもいいから、食ってくれよ、頼むから)  気がかりそうに巽はそう云って、アーミー・ジャケットの広い肩をすぼめがちに、出ていった。放っておけば、飲む、食べる、生命を保つために必要ないっさいの欲望を、身を噛むままにまかせて透は彼が帰るまでじっとしている。  しかし、今日は、そうでもなかった。起きるでもなく、うとうとしているのに飽きて、透がゆっくりベッドからぬけだしたときは、ようやく午後の日がかげりはじめていた。  裸で寝ていたシーツを足もとに蹴とばして、立った透の痩せたからだを、埃っぽい午後の陽光があわく包みこんだ。もとから、華奢なからだつきなのが、なおさら痩せてきて、肌は青白く透きとおるようだ。 (|まだ《ヽヽ》、どこもたるんじゃいない)  透は自分の細いなよやかな手脚を、少女のように、陽に透かしてみた。  のろのろと洗面所に立つ。鏡には、いくぶん病的な倦怠の翳りをはいた、しかしまだ充分にあでやかなふしぎな生物の顔が写っている。  長すぎて、鬱陶しいばかりな睫毛、細くとがった鼻梁、目の下の紫色の濃い翳、鼻のよこから唇のほうへ走っている、目につかないほどな細い条。  それは(レックスのトミー)と知らなくても、人がふりかえって見ずにはいない、人形のように端麗ではかなげな容貌だったし、荒れた生活と、つよくはないからだには無理な過度の酷使がいっそう煙のような疲労を漂わせて、かえって整いすぎて生気のなかった顔立ちにあやしいなまめかしさを与えていた。 (トミーね……あいつも、ルックスは抜群なんだけどねえ──繊細すぎて、舞台映えがしないんだね) (かれはたしかに、|近まさり《ヽヽヽヽ》がするよ。もっとも、ならジョニーがそうでないってんじゃ、ないけどさ──ま、ジョニーは特別だから) (特別だから)  何回、そのことばを、あらゆる周囲のひとびとが口にするのをきいただろう、と透は思い、鏡の中にむかって顔をしかめてみせた。  巽のワイシャツの古いのと、ぶかぶかのジーパンとを借用して、父親の服をきこんだ少女のような、奇妙な色っぽい恰好になった。もともとうすい髭を丹念に剃り、顔を洗い、歯を磨く。巽のローションを嗅いでみて放り出し、ドーランでもあったら化粧してやろう、とさがしてみたが、どこにもなかった。  居間にもどり、冷蔵庫から牛乳瓶を出し、半分ほど飲んでもとにもどした。TVをひねってみ、どこでも歌番組をやっていないのを見てすぐ消してしまい、退屈そうにまたベッドにひっくりかえる。かれは、同居人の留守を守るというよりは、ひとりで閉めこまれているのに退屈して、のびをしたり、あちこちをわけもなく嗅いでまわる猫に似ていた。 (主演 今西良 巽竜二 富山大三郎  製作・演出 久野和彦  脚本 長谷田哲彦  音楽 風間俊介  演奏 ザ・レックス 歌 今西良)  きいたばかりの、「裏切りの街路」のラインナップを、紙の上に書き並べてみる。それもまたどうせ(かれ)にひざまずく信者たちの長い列の一部にすぎないのだが。 (一日は長い)  巽が、TV局のリハーサル室で、良や助演の俳優たちと、何を思ってむきあっているのだろうか、とふと思った。  透の前では、少年のようなやさしさと輝きにみちているが、彼も気心の知れぬひとびとの前ではそのやさしい目をサングラスに隠し、無表情な革のような顔でむっつりと両手をアーミー・ジャケットのポケットにつっこんでいる、寡黙な男にすぎない。 「巽さん──無口なのね」  きらめくようにのぞきこむ良の顔。巽の目に、かれはどんなふうにうつるのだろう。  いつも、自分の思いに憑かれている愛人の、その(思い)を占めている執着と、目の前の、小川のように気まぐれで生きいきした少年のような顔とを思いくらべて、ひそかにでも、異和感を味わいはせぬだろうか。 「巽さん」 「え──ああ」  良はいつまでたっても、子供だ、と誰でもが云った。かれは、感情をセーブすることを知らない。子供のように、有頂天に喜び、この世の終わりのように悲しみ、いつまでも、いいかげんで済ませておく、ということができない。  そんな良は、むきだしのナイフのように、ひとびとの胸に、はらはらする思いと、いつくしみとをかきたてるのであるらしい。いったん好意をよせたら、疑うということを知らずに甘えかかってくるし、そのかわりに、裏切られたときの傷つきようも手ひどい、とみなは云った。 (オレには、どうだったろう)  裏切った、良を傷つけた、と仲間だったレックスの面々、修、弘、光夫、昭司、は、かれを責めた。しかし、良──肝心の、良自身が、ライヴァルの脱退に、どんな反応を示していたものか、ふしぎと、いま透には思い出せない。 (裏切者)  そう云って、おとなしい弘が珍しく血相変えてつめよったときも、それより前、 (オレ──独立するよ)  顔をひきつらせて、透が宣言したときにも、ふしぎとそこに良の顔だけは欠けている。  良はまるで透にとっては、(不在)そのものであったかのように──ひとは、血肉のある実在とは、どんなに戦うこともできるが、どうして(不在)を相手に、たちむかうことができただろう。 (お前は、誰だったのだろう)  透は、良、などという人間が、本当にいたのだろうか、とふと疑ってみる。ひょっとして、良は、ひとびとの(思い)そのものではなかったのか。  電話が鳴って、かれの物思いを断ち切った。 「もしもし」 「俺だ。どうしてる」  巽だった。 「別に──」 「飯食ったか?」 「ああ」 「本当にか? ──ま、いい。俺、予定より早くあがりそうなんだ。六本木まで来ないか。たまにゃ、うまいもの、食おうな──イヤか?」  巽の声が不安そうなかげりを帯びる。巽はまるで、透になんとかして当り前の人間のまねごとをさせることだけに、心をくだいているようだ。  それには答えず、 「そこに、ジョニー、いるの」  透はきいた。 「え? 何を──ああ、いたよ、一緒にリハしてたんだから──透、そんなことよりさ……」 (実在しているのか)  奇妙な思いが透をとらえる。透は、受話器を手にもったまま、静かにくっくっと笑いはじめた。     2  約束は九時に�田舎家�だった。  最初に透と出会った洒落た店を指定しないのは、巽のこまやかな心くばりだったろう。外へ出るのは、横浜へのドライブにつきあってから、二回めか三回めだった。黒いコートのボタンをはめ、ベルトをしめ、マンションの安全な部屋から一歩踏みだすと、かるい目まいがした。  時間よりも、だいぶ早くついてしまったが、�フルハウス�はこのあいだ騒ぎを起こして、もう足踏みはできない。透は�ケント�に入っていった。客を拾うときは、三ケ月前なら、大体そのどちらかと決めていたのだ。三ケ月来ないあいだに、�ケント�は内装をがらりとかえていた。 「おや、トミーじゃない。お珍しい」  云って出てきたウェイターが、ふとうろたえたようにふりかえって、 「あのね」  声をひそめて云う。ウェイター、バーテン、ホスト、といった連中は、なぜか必ず透を同類扱いした。 「いまちょっとあの──来てるんだけどさ、あの……」 「ジョニー?」  透はするどくきいた。 「ご本尊じゃないんだけどさ──もとのお仲間でほら、のっぽの、ベースの」 「サムか」  透をつらぬいた、ずきんとする衝撃がうすれていった。 「もし顔あわせんのヤだったら、二階へ──」 「別に、イヤなことないさ。喧嘩別れしたわけじゃないもの──どこ?」 「そこのカウンターにね……トミー、少しまた痩せたんじゃない」 「かもね」 「なんかグッと、色っぽくなったよッ、何、秘密は?」 「さあね」 「しばらく来ないから、いいパトロンでもつかんだかなッて、云ってたんだけど」 「さてね。適当に考えといて」  かるく、片目をつぶってみせて、つかつかとカウンターにむかった。 「サムちゃん、お久しぶり」  修はひとりだった。カウンターに肘をついて、ぼんやりしている肩をつつくと、ストゥールからころげおちるほど驚いた。 「ト──トミー! トミーやないか!」 「そんな、でかい声、出さんでよ」  透は色っぽくなった、と云われた顔で、からかうような微笑をうかべてみせた。 「ここ、いい」 「ええも何も──久しぶりやなあ。えらい痩せたんと違う? 早う座り、何飲むの」  修は、レックスの、元の仲間たちの中ではただひとり、透にも同情的だった男だった。  しかしまた、良と京都以来の親友で、誰よりも深く良を愛しているのも、かれだったのだ。 「元気?」 「オレなんかもう、相変らずやけど──お前、どうしてるか、思ってな。ときどき、電話しよ思たんやけど──会いたい、云うてる人もあったしな」 「誰?」 「まああとで云うよってとにかく座り。──なんや、えらいきれいになったなあ。いや──もちろん、前からきれいやったけど……えらい痩せてまあ、ほんまに」  ふっと息をついてしげしげと眺める目つきが、透にはふとうとましい。払いのけるように、 「忙しそうね、このごろ」  隣のストゥールに腰かけながら云った。 「どうしてる、かれ」 「相変らずや。あいつは、変わらんわ」  少しためらいがちに修が云う。透の前で、かれを逐ったジョニーの名を口にしては、と具合わるげだ。 「良こそ、きれいになったよ。とても、きれいになった」  それを、ふり払うとも、揶揄してみるともつかず、透は神経質に笑いながら云った。 「こんどのコスチュームよく似合うよ。あの黒のジャンプ・スーツ、よく似合う」 「見ててくれるんか」 「それに今度はTVドラマだってね」 「ああ──ああ」  サムちゃん、あんたはオレにもいつもやさしかったね、と透は思った。やさしくて、大人で。──誰よりも、気を遣って。修のもじもじするのを眺めながら、透はかれの避けたがっている話題に話をくぎづけにしようとした。 「なんてタイトルだっけ」 「裏切りの街路」 「はじめてでしょう。ジョニー、連ドラの主演なんて」 「まあ──いろいろ、オレら、気にかけて考えるよう云うてたんやけどね。風間|先生《センセ》なんて、絶対マイナスやからやめろて。──けど、本人が、ばかに乗気になっちまってな」 「風間先生って風間俊介か」 「ああ、ここんとこ三、四曲と、LPも全部|先生《センセ》に書いてもろとるもんでな」  それは売出しの作曲家の名だった。ジョニーのまわりに、公私ともにかれに近くブレーン兼保護者を名乗るそうした存在は事欠くことがない。 「ええ人だよ、話わかるし」  修は云った。 「あいつもえらくなついててな」  無感動な口調に、嫉妬の翳はあっただろうか? 「TVで見ているだけだけど──光夫、髭のばしてるみたいね」 「ああ」  修は目もとで笑った。 「みんなに、似合わんからよせ、云われて、くさっとるけど」 「リーダーは元からだった」 「ああ。その、風間|先生《センセ》──がね、またえらい格調高い髭生やしててね。みんな、貫禄敗けするよって、かなわん、云いよるよ」 「それでか」  ほそい指さきにくゆる、ボニータの煙を眺めながら、別に意味もなく、透は云った。 「──みんな、お前に会いたいて云うてるよ」  あいかわらず、具合わるげに、修が云う。喧嘩別れの罵りあいでとびだした仲間だった。そのあと、新しいサイド・ギターがすぐ加入して、いっそうよくまとまるようになった、という声もきこえてきている。透はそれには答えずに、 「もうリハはじめてるの」  きいた。 「ああ──ぼつぼつ」 「どんな役なの、良」 「そやな──まあ、いろいろ、な」  修はあくまでも、答えたくはなさそうだ。 「共演は誰」 「巽竜二、『海の挽歌』の。それから富山大三郎だの、関ミチコだの出よってな」 「いい顔ぶれじゃない」 「まあな。プロデュースの久野さん云うんが、おかしな人でな、オレに出よらんか、云いよるんや。いや──音楽、風間先生がやはりもって、でオレらもついてってな。そのときオレをひと目見るなり、『あ、チンピラや』云いよるん。俺のさがしてたチンピラ役にぴったりや、云うてさ。怒ってええのか、笑《わろ》たらええんか、あんなおかしなこと、なかったよ」 「面白い。やればいいじゃない」 「ようやらん。かなわん、そんなもん」  修は小さく声をたてて笑った。 「オレの面なんぞTVに出たって、何もええことあらへんよ」 「味があるってさ」 「人、からこうて──そんなことよりな、トミー」 「え」 「こんなこときいて、ええかわからんけど──昔馴染みやしな──遠慮のう、きくけど」 「何」 「その──このごろ、どうしてる? ……何、しとるん? ──つまり……」 「オレ?」 「ああ──いや、お前の出したレコード、オレはみんな買うてるねんけどな、あの、ああ──『愛しすぎたのね』か、あのあと、──つまり」 「ああ」  透は笑った。そうしながら自分がどんな笑い顔をうかべているのか、苦いのか、うつろなのか、皮肉なのか、それさえもひとごとのように遠い気がする。 「もう、出ないんだ」 「え?」  修が、するどくききかえした。 「ラインナップから外れたの。──マルスの方と少し──いろいろ、あってね」 「トミー」 「別に──たいしたことじゃないんだけど……まあ、いま、移籍のどうのってちょっともめててさ──うるさくてかなわないの」 「そうか」  修は、細かなことはきこうとはせずに、透を見つめた。透は何となく、反発してみたくなるようだ。 「まったくイヤな奴がいるんだよね。女みたいに、やきもちやきやがってさ──まあ要するに、惚れられたのが因果なんだけど、公私混同しやがってさ──まあ、でもね、どうせしばらくの辛抱でね。すぐ、ほとぼりがさめりゃ、LP出そうって云ってくれてる人もいるし」 「そうか」  修は考え深げに云った。 「なあ、トミー──オレらで、できることでもあったら、何でも遠慮のう云うてな。なんたって、仲間やないか──それに、風間|先生《センセ》いう人な。顔もえらい広いし、面倒みもええし、親切な人やから、もし──何かできることがあれば──」 「そうね、何かあればね」  すばやく、さえぎるように透は云う。どう修が思おうと、知りはしない。 「オレいつも思てたんや──やっぱし、オレらかて、考えんならんことはあったよ──お前の云うことも、ムリないとこは、あったんや」 (それ、何。憐れんでくれてるつもり)  しかし透はそうは云わない。五ケ月前のかれなら、ためらわずそう叫び、修の困惑もその思いもすべて知りながらグラスの水をあびせていたかもしれない。  しかし透はそうしなかった。かわりに、もう顔合せすんでるんでしょう、ときいた。 「ああ」 「巽竜二ってどう、どんな人」 「どんな人て──ヤクザっぽいな。けどよさそうな人だよ。なんとなく、翳がある感じやけど──要するにだから、あの『海の挽歌』どおりの感じ」 「ジョニーはなんて云ってるの」 「どうて──面白そうな人やて。ぶあいそうだけど、わるい人やない、てさ」 (面白い──か)  まだ人をおそれることを知らぬ、美しい小鳥の自由な羽ばたきを、ふと、透は憎んだ。 「サムちゃん」 「ああ?」 「巽竜二に、気をつけなよ」 「何やて?」  修が透を見た。  透は口もとをかすかにほころばせて見せた。好意からだ、と訴えるような表情をつくる。だが、本当のかれの気持など、かれ自身にだってもうわかりはしない。 「何のことや、気ィつけて、それ」 「あいつ、あんまり、性《しよう》のいい奴じゃないからね」  透は、ボニータをひねりつぶした。 「オレ──知ってるんだ」 「もう少し──詳しいに云ってくれへん?」 「あいつ、巽竜二──あいつ、女嫌いなんだよ」 「………」  修は目をほそくして、かれを見つめている。  面白そうに、かれはつづけた。 「新宿《ジユク》のゲイ・バーに入りびたってるって話──前に、良みたいな子、置いといたらさ……猫に鰹節、だろ? どうなの──顔合せついてったんでしょ。必要以上に、良に興味示して、しげしげ見たり、してなかった?」 「………」  ふっと、思いあたったような顔を、修がした。  それに力をえてつづけた。 「だけじゃないんだ」 「………」 「そんなの、あいつのまわりには、珍しくもないよね、良って、ああいう子なんだから。ただ、巽竜二──あいつはね──」 「………」 「だいぶ、つよいんだよ、Sっ気が──つまり、ね、サドなんだ、あいつ──その方面じゃ、有名だよ、奴がそれだってのは」 「………」  修は黙っている。目がほそく、光りはじめている。透は奇妙な倒錯した力の意識に酔った。 「ジョニーって、ときどき、信じられないくらいお人好しなことあって、自分にうまいこと云ってくる奴がいると、ひとたまりもなく信じこんじまうでしょう。そうしちゃ、あとでひどいめにあったりしてさ──オレは、いろいろ、世の中の裏も見ているけど、あいつは、あんたたちに、箱入りで守られてるんだものさ。まあ、手遅れにならないうちに教えたげられて、よかったってもんだから、せいぜい──気をつけてやるんだな。あいつ、こわいよ、いざとなったら何やるかわからないんだから」  修は黙っている。ふと肩すかしを食った不安に、 「信じてないの?」 「いや──」  修は云った。 「けど……」 「嘘じゃないよ。どうして、オレがそんなこと知ってるのか、教えてあげようか」 「………」 「オレ、あいつと、寝たからさ、一度」 「………」 「一度で懲りちゃった。ひどい目にあっちゃってさ──オレだって、相手がつとまらないもの。良みたいなうぶな坊やは、なお、敵うわけないと思うから──良のためだから、云ってるのよ」 「──トミー」 「そんな顔して、トミーなんて、云うことないよ」  透は笑いながら云った。 「あんたには、関係ないことじゃない。──別に、あんたがそれでオレのこと、どう思おうと自由だけれどさ。オレがいま、何してると思ったの? オレはね、要するにいま高級コール・ボーイなわけ。いっぱいいるんだぜ、そんな奴──あんたらが、気がつかんふりをしてるだけでさ……マルス・レコードの星野って知ってるでしょう。あいつが、二、三度寝てやったら、オレを専属のつもりみたいにのぼせあがりやがってさ──ちょっと別のレコード会社のプロデューサーと寝ただけで、まるで裏切ったの面子つぶれたのってさわぎ。で、回状まわしやがってさ──どこでもレコーディングできないようにしやがったの。汚ないったらありゃしないよ──でもね、このままじゃ済ませやしない。いまにしかえししてやるけどさ──足もとに這いつくばらしてやる。まあ、それまでにはいちばんてっとり早くメシ食うのにはね──オレ、ランクは最高だしね。で巽竜二も、いっぺん、高い金払ってオレを抱きたがった、っていうだけ。でもね、ほんとにあいつだけは二度とごめんだ──あんなひどいめにあっちゃ、かなわないよ、金じゃひき合いやしない。とにかく、からだがもとでなんだ、からさ」  云いつのる透の白い顔を、修は見つめている。何か無限の悲哀に似たものが、かれの目に宿っている。それにかっと苛立って、透は灰皿を激しく叩いた。 「オレきっとこの商売、相性がいいんだな。毎日、のんきにやりたいようにやってくのがさ。ときどき、歌手だとか、スターだとか、どうでもいい──と思っちまうこともあるよ。第一、結局は同じことじゃない。スターの、アイドルのって、見ばがいいだけで、身を売って、愛想笑いして、金で買われてさ、何の違いもありゃしない。オレの方が正直なだけマシなくらい──」  ことばは、修のまなざしの前でふと立ち消えた。修は黙って透を見つめている。何を云ってよいか、わからぬ、しかし物云いたげな、奇妙な雄弁な目だ。もう、行かなくちゃ、と透は思った。 (こんな、奴構ってられない)  そろそろ、巽が、約束の日本料理屋で、苛々しながら待っているころだろう、とも思う。巽は少しでも透とはなれていることをひたすら不安に思うようなのだ。  行かなくちゃ──そう思いながら、なおも、透は修を見ていた。修の目の中に小さくうつる自分の、弱々しい、青白い顔を見ている。  それは、硝子にとじこめられたように、遠く、ひどく小さかった。     3 (お前に会いたがってる人がいるんや)  ひさかたぶりに、かつての仲間だった、修と会ったとき、云われたことばは、そのまま透の耳にのこっていた。 (知らんやろうけど、野々村さん云うて、もとは「日東スポーツ」のデスクやった人でな。いまは一応、フリーの芸能ライター、いうことらしいねんけど) (その人が、何の用。レックスのトミーのなれのはてのありさまでも、ドキュメント記事にしようというわけなの) (またそんな──けどとにかく、いっぺん、会ってみてくれへん? 風間|先生《センセ》の仲良しだし、オレらもいろいろ世話になってるし──わるい話のはずないと思うんやけど) (ふーん)  興なげに透は云ったが、まんざら興味のないこともなかった。  よしんばそれが、(悲惨! ジョニーに背いて二年、森田透のたどった転落の軌跡)というような記事だったところで、何のおもんぱかることがあるだろう。それでさえ、この半年ばかりはたえてなくなっていたかれの名前が、再び週刊誌の活字の上に見られることには違いないのだ。  隣で巽が寝がえりをうった。透は重たい彼の腕を、おしのけながら考えこんでいた。 (電話番号教えとくよって、かけてもええし、それも億劫やったらな、野々村さんいつも金曜の夜には、ほれ、新宿の�ケンジントンパーク�というジャズ・クラブな、あそこに行ってる、いう話やから、偶然でええから、のぞいてみたらどうやろ。むこうはお前の顔、よう知ってる、云うてたから、話、早い思うわ。一度近いうちにとにかく会うてみてよ)  修のことばが、頭のどこかにこびりついている。 「──ん」  巽が、もう一度寝がえりをうって、ふっと目を開いた。  透のものうい顔と、目があって、なかば眠っているような声で、 「眠れないのか」  きいた。  透は答えずにゆるやかに瞼を閉ざし、毛布のあいだへもぐりこむ。 「──寒い?」  巽がやはり眠そうな声で云った。 「もっとこっちへおいで」 (大丈夫──考えてるんだから、放っといてよ) 「──うん?」  巽は、どうやら、はっきりと目をさましたらしかった。 「──何時だ、いま」 「四時半。早いよ、まだ」 「全然、寝なかったの? そうじゃないんだろう」 「うん」  どうでもよいように、透は答えた。その胴へ、巽の手がさぐって来、つかまえて、ひきよせた。 「おいで」  やさしく云い、それから少しおどろいたように、 「なんだ、氷みたいな足、して」 「大丈夫だよ」 「あったまらんのか──ここへおいで、あったかいから」  まるで、親犬の腹の下にもぐりこむ仔犬のように、ぴったりと男の大きなからだに身をよせると、あたたかみがじんわりと透をつつんだ。 「夢を見てた──おかしな夢だな」  どんな夢かは云わぬまま、毛布にくるまった巽が、はっきりしない声で云う。 「まだ早いよ。眠れば」 「ああ」  巽は小さく吐息をついた。 「そうだな」 「あした──今日か、何時」 「どっちにしても、昼過ぎでまにあうんだ。透は、どうする? どこか、出かけるのか」 (そんなわけがないじゃない)  思いを見ぬかれたように、透はいくぶんうろたえて、巽に身をすりよせた。べつに、何ひとつ、巽に対してうしろめたく感じなければならないいわれは、なかったのだが。 「透……」  巽が、もぐもぐと云った。 「──いい、か」 「──ああ」  透は巽の体臭に包まれて目を閉じている。それは、うとましくないばかりか、むしろ底知れぬ安楽な思いの中へかれを誘う。  巽がそっと手をのばして、透をひきよせ、唇を求めてくる。髭のちくちくする感触が頬を刺す。 (オレのおやじも昔髭を生やしてた)  遠く、透は思った。男のからだにぴったりと包まれて、あついその昂まりを掌のなかに、目を閉じて身を預けているのは、おそらく透にとって一番自然なことになってしまった姿態である。人の思いを何ひとつ、信じようとも、それにかまけることも、思わなくなっていたけれども、掌のなかにおさめている、相手の欲望は、それはまぎれもない事実だったし、同時に透の手や、唇や、からだによって、自由にあやつり、満たすことのできるものだった。 (木村さん)  突然、透の頭に思いがけぬ名がうかんだ。 (十四の夏だ。木村さん、うちに下宿していた大学生だった)  長いこと思い出せず、また思い出そうと思いつきさえしなかった、かれにはじめて男のからだを教えこんだ最初の男の名を、どうして突然、水泡がヘドロの底からうかびあがって息を吐くように、ぽっかりと思い出したのだろう。 (ギターを教えてくれた──離れに、ひと夏いて──お袋が留守のとき──バイトに、進駐軍のキャンプでバンドを組んでいて、やっと今年のはじめに、大学にもどったんだと云っていた)  顔はもう、思い出せなかった。  かわりにはっきりと、のこっているのは、男の唇に幼いセックスを包みこまれた、むきだしの内臓の中にぬいこめられたような戦慄をともなった触感のなまなましさだった。そしてさいごに、俯せにされ、かかえあげられた腰に、かたく押しあてられ、侵入してきた、たえがたい痛みと。 「透──?」  耳朶を唇ではさみこんで、巽がささやいた。ありありとよみがえらせたその記憶に自らびくっとして、透は思わず身をひこうとしたのであるらしかった。 「どうした?」 「ううん──」  その大学生は、米軍のキャンプめぐりの毎日のなかで、その行為を覚えたのだろう。からだが、裂けてしまったような激痛にうちひしがれ、立ちあがることもできずにつっ伏している透の、始末をしてくれ、服を直してくれ、泣きじゃくっている透の顔を見ないようにして、かれは透の手に何枚かの札を押しこんだ。父親が早く死に、母が下宿屋をやってやっと食っていた豊かでない家庭で、透がはじめて手にしたような金額だった。  それにひきよせられたように、また翌日、おいでよ、と学生に云われて透は離れに忍んでいった。まるで、甘いもので釣られて歯医者に出かける子供のようだった。その日は、上の部屋の学生も在室していた。悲鳴や泣き声が洩れないよう、透はタオルで口をふさがれた。  だから、はじめから、オレにとっては、愛だの、欲情だの、というものは、入りこむ余地がなかったのだ、と透は思う。未熟なからだをさしだして、耐えていれば、金になった。それとも、相手が、かれの望むことをしてくれた。或いはその学生がひとことでも、好きだ、と云ってくれていれば、事情は変わっていたかもしれない。  だが木村というその学生はひと夏すぎるとあっさりと、どこかへひっこしてゆき、あとは、別の男があらわれてくるだけだった。 (良)  良には、そんなことが、想像もつくだろうか、と透は思う。狩られ、啖われる獲物の烙印をおされているくせに、ひとびとの崇拝をいいことに、自由に羽ばたき、君臨する美しい良。男の恐さも、欲望も、みにくさも、男の体液の匂いも、何も知らず、女王のように気儘にふるまう良。 (バカがいやがって、良にヘンなこと、しやがったから、張り倒してやった) (お前もあかんのや、面白がってからこうてみるさかいな) (オレがいる限り、ヤツに妙なまねなんかさせやしない)  ゆるせない、と日ごと思う思いをまた、透は思ってみている。 (何も知らないお前──ガラスの中で守られている、そのことにさえ気がつかないお前、いい気なものさ!──ひとりで、キラキラ輝いて、男たちをなめきった光をまきちらして)  だから、押し伏せて、自分がいやというほど味わってきたように、どうあがいても、逃がれる道はないというはめに追いつめて、ひたすら苦痛が早く終わってくれることしか頭の中になくなってしまう、卑屈な泣き声をあげさせ、その目の光を消し、地べたに叩きのめしてやりたかった。 「透──ああ──透」  巽が、あつい呻くような声を洩らす。巽の力づよい腕にしっかりかかえあげられている腰はなかば宙にうき、いつのまにか、布団も毛布もはねのけられているが、汗ばんだからだはもう少しも寒気を感じない。  ゆっくりと、規則正しく、巽は腰を動かしている。目をつぶり、眉間に皺をきざみ、額に汗がうかんで頬をつたい、顎から、透の胸へとしたたりおちる。  この男は何をするときもひたむきで熱っぽく見える。  何を考えているのだろう、とふっと透は思うが、じきに、激しくなってゆく動きのあいだで、そんな思いをつついてみるいとまもなくなってゆく。透の唇から、うっ、うっ、という、押し出されるような荒い息が洩れる。  なみはずれて逞しい肉が、力にまかせて、かれをこじあけ、激しくつきあげる。それは、苦痛だが、まんざら快楽に似た感触がないこともない。その証拠に、透は勃起しかかっている。うしろから、巽の手が前にまわってそれをきつく握りしめる。  外は明け方前のおぼろな静けさの中に沈んでいるだろう。ここにこうしている、ということは、いつも透には一番ふしぎでならぬことだ。 (なぜこうしているのだろう)  巽も唇をわずかに開いて、切なげな息を洩らし、こころもち、動きをゆるめた。それがまるで、彼の業でもあるかのように、逞しい筋肉質のからだに似つかわしい雄大な男根をもった彼は、精力の面でも常人をしのいでいる。それは射精しても、たちまちもとの硬度を回復したし、彼の闘争欲、食欲、仕事への欲望、すべてもまた、あふれるような男盛りの生気にみちて逞しかった。  彼は密林の中で気儘に狩をし、まどろみ、腹がへると再び出かけてゆく巨大な狼のように、孤独に力にみちて欲するものをつかみとっている。彼がときとしてみせる翳に似たものと、思いがけぬほど子供っぽい素顔とは、誰も彼のようではない、という彼の根源的な孤独に由来しているのだろう。  誰も良のようであることはできぬように、誰も、また、羊や犬や、もっとわるいものでこそあれ、決して狼でありはしなかった。巽は、誰にも似ておらぬことをべつだん苦にもせずにやってきたに違いない。  そんな巽にとって、自分で自分の身を守ること、自分で欲するものを得ること、腹が減れば食事を、寒ければ服を自分で手にすることが、どうして透にはそんなに難しい──あるいはどうでもよいことなのか、想像することさえ、困難なのに違いない。  巽はまるで、どう扱ってよいかわからないこわれものの人形のように、透をそのつよい両手のなかに包んで、当惑していた。巽にとって世の中はときどき、彼が決して知的に水準は低くないにもかかわらず、ひどく単純に割り切れた場所にしかすぎなくなってしまう。巽はそのようにして、透への錯綜した思いを、(惚れた)というひとことのなかへおしやってしまう。巽には、透が、自分を打ち負かしたライヴァルに、執拗に抱きつづける執着の理由が、どうしても納得できないようだ。 「透──」  溜息のように巽は云う。巽が動きを止めると、彼を深く体内にうけいれたまま、いっときの、奇妙なくらい安逸な充足感が透を浸してくる。 「俺を、好きか」  透はこっくりと首をふる。かさねて、 「俺を信じてるか」  巽がきく。透はまたうなずいた。 「俺からはなれるな」  巽はささやいた。 「何があっても、俺の手をはなすなよ。もっと、ずぶとく、つよくなれよ。つまらんことは、何もかも忘れちまってさ──もっと、我儘云ったっていい、俺にだけは、何云ったって、何をしたって、いいんだからさ──なあ、透──俺はいつもお前のそばにいるよ」  透は黙って、うしろから巽の大きな手に抱きしめられるままになっていた。思いは遠く、しかしそれでさえ、かれとしては可能なかぎりの人への関心をはじめてよみがえらせて、ほとんど、かれは巽に感謝しているとさえ云ったってよかった。  だが、思いの上に思いをかさねて、たのむべからざるものをたのんで、それで何が生まれるだろう。 (あんたは、良を見ていれば──たとえ、オレのために良をうちのめそうとして近づいても、必ず、良に惹かれ──オレのことなんか、みんな、愛でもなんでもなかった、と思うようになるだろう。良に憑かれてしまうだろう。誰でもそうだった。いつでも、必ず、そうだった)  あんたは、ジョニーを、自分の想像であんまり絶対的なものにしすぎている、という意味のことを巽はよく云った。  だが、そうではない、と透は思う。巽こそ知らないのだ。選ばれてある神々の場所で、そこにはお前の場所はないと告げられた堕天使の思いは、誰にもわからない。かれと巽のあいだには、たしかなものとてはただひとつ、互いの肉があるばかりだ。 (あんたは人間を信じてないんだ、トミー)  レックスのリーダーの弘がかつて云っていた。 (だから、人間もあんたを信じなくなっちまうんだよ。良は──良は人間を信じてる。だから、みんなも、奴を信じる)  かれらは、選ばれてなれなかったことまで、オレの責任だと云うわけだ、と透はにがく思った。いまここでこうして、男の裸身の下に組み伏せられ、男を受けいれ、その庇護にすがっているかれを見たら、かれらはなんと云うのだろうか。  裸の皮膚の上で汗がかわき、火照ったからだの芯の方から、ゆっくりと、寒気が這いあがって来はじめていた。巽は気づいたように、また、ゆるやかな動きを再開した。 「透──」 「何も云わないで」  かすれ声で、透は云う。からだを嗅ぎあい、肉をわけあってたべ、欲望のおもむくままに行為する獣になってしまえるものならば、ことばなど、あいだに入って来なくても楽しいだろう。 「ご免。──長くて……」 「いいから──」  巽には、本当に、ある意味で、密林の光る目の狼としてふるまっているようなところが少しあって、それが透はなかなか、好きだった。狼でなければ生きのこりの原始人か。とにかくそんなふうな、毛皮のしめっぽい匂いを思い起こさせる何かだ。巽はときどき透を思いがけぬほど安楽な気分に誘いこんでくれる。たとえばこんなふうに、ひたすら、もくもくとして、透の上で裸の頑丈な尻をうごめかせていたりするようなときだ。 「表が、明るいよ──」 「五時だ。夜明けか」 「違うだろう。──ちょっと、待ってよ」  透は巽のからだを押しのけようとしたが、巽がそうさせまいとするので、ずりあがるようにしながら手をのばして、カーテンをひいた。  昏い白さがふたりの目を射た。 「寒いと思ったら──雪だよ……」 「初雪だな。──そろそろ、三月なのに」 「すごく積ってるみたい」  夜のあいだに、それは音もなくふたりの行為のさなかにも積りつづけたのだろう。窓の外はぬりこめたように白い。 「今日は、出かけるのはやめだ」  巽は云った。彼は雪に降りこめられた狼だ。 「ずっと透とこうしてるよ──ストーブをつけて」 「仕事でしょう」 「構わんさ、たまには」  巽の手がのびて、しっかりと、逃がれかけた透のからだを腰にひきつけ直す。雪は、音もなく、窓の外に舞いつづけている。     4 (ちょっと、あの人、どっかで見たことない?) (いまの黒いコートの奴? おれもそう思ってたんだ──あ! そうだ、思い出した) (誰?) (ほら、トミーだよ、レックスのさ) (ああ、あの──) (いま何してんのかな。全然、TV出なくなったと思ったらさ)  古馴染みのひそひそ声が、透を追いかけてきた。  交叉点をよこぎりながら、透は、狎れてしまった筈のそのささやきに、ひどく心がもろく、たよりなくふるえ出すのを感じた。巽のせいだ、と思う。  巽の庇護は贅沢品だった。それは透を包みこんで弱くしてしまう。 (来るんじゃなかった──かな。まあ、いいさ) �ケンジントンパーク�と看板の出た、黒いドアの前で、しばらく透はためらっていた。 (お前に会いたがってる人がいてな)  はじめからそれが、客だとか、スキャンダルのねつ造だとか、用件がわかっていれば、どんなに気が楽だろうかと思う。 (まあ、いいや──どうだっていいんだから)  巽が、いよいよ録画入りで、遅くなると云いおいて行った夜をえらんで出かけてきたのが、なぜ、ひそかなうしろめたさに似たものをよびさますのか、透は知ろうとも思わなかった。  ドアをあけると、細い階段が地下に通じている。階段をおりてゆく途中から、ドラムのアップ・テンポなひびきがかれを出迎えた。高音のエレキのひびき──心臓の鼓動のようなべースのリズム。  有名なカルテットが出演中で、店はかなり混んでいた。透はひとびとのあいだにまぎれこんだ。  かれをふりかえって見るものはない。ひとびとは、顔をステージの方にむけ、叩き出される熱っぽいビートに酔っていた。 「お飲み物は」  ボーイがよってくる。透は微笑した。タバコの煙にみたされたここの暗さは、なんと居心地がいいのだろう。 「野々村さん──いる?」 「少々お待ち下さい」  ボーイは人のあいだをぬって、一番前の、常連ばかりの席らしいテーブルへ近づいていった。年輩の男がボーイにささやかれて、驚いたようにまわりを見まわし、立ちあがるのを、透は見ていた。  五十と、六十のあいだ、というところか。薄暗い中でも、その男には見覚えのないこと、そしてその男が鋭い老いた鷲のような顔つきをしていることがわかった。 「こちらです」  ボーイが野々村を案内してきた。野々村は透を見るなり、 「ああ」  と大声を出した。 「よかった。きみだったのか」  シッ、と非難の声がいっせいに起こり、野々村は首をすくめる。 「出よう、森田くん」  黙って、透は、おりてきたばかりの階段をあがっていった。先に立って出た男はふりかえり、 「田辺昭介カルテットだ。いま最高のプレイしてる連中だよ。特に今日はギターの八村雅美が入ってるから大変だ」  透には興味もないことを、云った。 「よかったよ、来てくれて──会えるのかどうか、疑いはじめてたとこだ。これでも、ずいぶんさがしたんだけどねえ。俺は情報網には自信があるものでね。あんたの居場所くらい、すぐにつきとめられると思ったんだけど、ダメだった。あんた、このごろどこをヤサにしてるんだよ? 神谷町のマンションにゃ、三ケ月がとこ、もどってないらしいじゃないの」  よく喋る男だな、と透は思った。  巽の訥弁に馴らされたせいかもしれない。巽の髭の唇から、ことばは、ためらいがちに、たえずとまどっている子供のそれのように押し出されてくる。  目の前の、かれをさがしていた男の舌はなめらかに休みなく動いた。 「何の用」  透はぶっきらぼうに云った。 「オレのヤサがどこだってあんたに関係ねえだろ」 「まあ、そう爪を立てなさんな」  それが、男の返事だった。彼はそろそろ酔客が占領しはじめている、ネオンで明るい盛り場の通りを、迷わず歩き出そうとしたが、立ったままの透を見るとつともどって肩に手をかけた。 「道路じゃできない話なんだよ。近くに行きつけのクラブがある。そこへ行こう」  肩におかれた手がなま温かい体温を伝える。そういうことか、と透は思い、押されるままに歩き出した。もし男の用事は他にあるにしても、彼が透のような青年を扱うのに慣れ──おそらくは、味わうのにも慣れていることは明白だった。二年のベル・ボーイの生活で、透には、その種の嗅覚が発達していた。  歩きながら、よこ目で男を検分する。何かやくざめいたしたたかさのある顔だ。年をとっていても、なにか粘っこい、底冷えのするような油断ならなさが、痩せて皺のきざまれた顔に出ている。  黒革のジャケットにツイードのズボン、若作りのタートルネック、というくだけたなりをしている。やくざっぽい、といっても巽のように、無頼な生活に馴染んだ迫力ではなかった。なにか傍若無人な馴れなれしさといったほうがいい。 (ああ)  透はふと、思いあたった。 (トップ屋くずれだったな) (もと「日東スポーツ」のデスクやった人でな)  そう、修は云っていた。 (いまは一応、フリーの芸能ライター──云うことらしいねんけど)  フリーの芸能ライター、といえば、ごろつきと紙一重だ。別に、そうした人種をうとんじるほどに、いまの透が正しい生活をしているわけでもなかったが、 (面倒なことになるかもしれない)  二年間はなれていてもそれだけはうすれない、|もと《ヽヽ》スターの警戒心がうごいた。 「ここだよ」  それも、地下のクラブだった。透は痩せた肩をひとつすくめて、野々村について会員制のうすぐらいクラブに入っていった。 「あんた」  野々村は、ボトルと氷をもってこさせ、奥まったボックスにむかいあわせでおさまってしまうと、あらためてつくづくと透を見定めた。 「わるくないね」  にやりと皺を深くして評する。トップ屋の顔だ。 「前より、よくなったよ。前は人形美人てやつだった。いまは──色っぽいよ」  透は激しく肩を動かして、知ったことか、という気持を伝えた。 「まあ、まあ」  野々村は笑い、黒いジャケットのポケットから名刺入れを出した。 「マスコミ事務所 野々村正造」  そう、書かれた名刺を、透はぼんやり見つめた。 「昔、�日東�でやってたころは、ずいぶんお世話になったもんだよ、レックスさんにゃ、ね」 「あんたんとこだったね」  透は感情のない声でいった。 「オレとジョニーの不仲説をいつまでもしぶとく叩きまわってさ。おれが追ん出てから、『やはり宿命なのか? グループ解散史にみる�ふたりのスター�の確執の構図』って、やな記事特集したのはさ」 「よく、覚えてるね」  野々村は笑い、なにげなく透の細い手の上に、なま温かい手をかさねた。  透は手をひきぬいた。 「冷たいね」  野々村が笑いながら云う。 「用があるならさっさと云ってよ」  透は云った。三ケ月前までは、こうした欲望と侮蔑に濡れた目で眺め、(きれいだよ)とささやき、手を這わせてくる男たちに身をゆだねることで、生活していた。  巽のマンションに暮して三ケ月になるいまでは、男のその手のぬくみに、吐きけがこみあげてくるような気にさえなる。巽はかれを弱く、たしかにもろくしてしまった。 「ふーん」  何を感じてか、興深げに野々村は透の少しけわしくなった顔を見ている。 「色が白そうだな」  彼は舌なめずりのような声で云った。 「腰が細く締まってるし──わるくないね。ちょいと、縛ってみたい感じだね。二年も、こっちで食ってた割にゃ、肌が荒れてない」 「よせ!」  透の頭の芯から血が引いた。透はいきなりウイスキー・グラスをテーブルに叩きつけた。 「お客様」  あわててボーイたちがとんでくる。 「いいんだ。何でもない、グラスくれ」  野々村が云った。彼は、まるで楽しんでいるようににやにやして唇をなめた。 「縛られるのは、嫌いなのか」  テーブルが片づけられ、店にまた低くジャズのレコードだけがひびいている沈黙がかえるのを待って云う。 「鞭は、どうだい」 「そんな話をするんでさがしてたんなら、おかど違いだよ。帰る」  透はたちあがった。野々村の手がすばやく透の腕をつかみ、むりやりに座らせた。 「気が短いね。それだから、レックスを追ん出ちまって苦労することになるんだ」 「殴られたいのか」 「真平だね。もっともあんたに殴られたって、年はとってもまだ俺の方が勝ちめはあると思うがね。だが、まあ、よしとこう」 「オレは帰るよ」  透はくりかえした。 「へえ」  野々村は唇をゆがめ、ちょっと感心したように見えた。 「思ったより──プライドはなくしちゃいねえんだな。なあ、森田くん、こっちはあんたのこと調べてる。何でも知ってんだぜ。神谷町のマンションで何やってるかも、夜ごとどの辺へ出没するのかも、一番の上客の名前までもさ。お互いこの世界の裏おもて見てきた人間だろ。遠慮はよそうや。貴婦人のまねしたって、はじまらねえよ、な、そうだろ」 「オレは、あんたなんかにそんなこと云われるすじはないよ」 「まあ、まあ──だからさ。俺はむしろ、へえっと思ってんだぜ。もっと卑屈んなって、何されてもって感じかと思ってた。まあ、しかし、俺としちゃその方がいいけどな。俺はね、いまのあんた、なかなかいいと思うよ。泥まみれになっても誇りはぎりぎり、捨てきれない、ってとこがさ。昔の、レックスのトミーだったあんたは、抱きたいとは思わなかったなあ、きれいなだけで、ジョニーとの人気争いにばかし目の色変えててさ。下らねえ、とるに足らん奴って感じで、なんであまっ子がキャーキャー云うのかわかんなかったよ。けどいまは──いまのあんたは、いけるよ、抱きたいね。その泥まみれで誇りを捨てられないあんたを、金でがんじがらめにして買って、縛りあげて、好きなようにしたら最高だろうと思うね。いやがるのを、むりやり、いろんなことさせてさ。ちょっと、意外だったよ」  野々村は「ゴロワーズ」の袋を出して一服つけ、ふうっと吐いた。 「いろいろききまわったとこじゃ、ありきたりの男娼になりさがって、何でもさせるっていうからさ。さがしあてても結局がっかりするだろうと乗り気じゃなかったんだけどさ──どうしてどうしてじゃないか。それとも、何かあったのかい、え?」  巽さん、と透は遠く思っていた。あんたがいてくれたらこんなことを、こんなヒヒ爺いに云わせてはおかないだろう。ふたこととは云わせずに殴り倒しているだろう。  その巽はいま、スタジオでジョニー主演のサスペンス・ドラマの録画に入っているはずだ。  巽さん、と透はわれ知らず呼んでいた。 (俺はいつも透のそばにいるよ)  巽の目をかすめるようにしてマンションをぬけだしたりしたからだ、と透は思い、唇をひきしめて今度こそ帰ろうとたちあがりかけた。 (巽さん──あんたがいるかぎり、オレは卑しい男娼じゃない) 「まあ、待てったら」 「おれは男娼じゃない」  野々村をまっすぐに白く光る目で見すえて、透は云った。 「もうそんなことはやめたんだ。男がほしけりゃ、ほかをあたりなよ、爺さん。オレはご期待にそわないよ」  コートをとり、のびてくる手をふり払い、透はボックスを出た。蒼白な屈辱と怒りが馴れることのできぬ心をおおいつくしていたが、しかしふしぎに、どうにでもなれという虚無は透をおそっては来ない。  まるで、巽のやさしさと情愛とがバリヤーになって、巽のいないこの店のなかでも、透の心の一番深い、一番柔らかく砕けやすい部分をすっぽりとおおいつくし、あびせられることにすでに透が馴れかかっていたすべての屈辱と侮蔑から汚れぬよう守っていてくれる、とでもいうようにだった。 「待てよ!」  うろたえて、野々村がたちあがる。指のあいだで、ゴロワーズがへしゃげる。いくぶん、慌てた顔だ。  ざまを見ろ、と透は思った。オレが、卑しい男娼で、少しでも利益になりそうな客にはぺこぺこして靴でもなめかねないベル・ボーイだから、何を云っても、何をしてもいいと思ってたんだろう。オレなんか人間じゃない、切り売りのひと山いくらの肉だと思っていたんだろう。ご生憎様だ。お前の云うとおりなんかに、されてたまるもんか、爺《じじ》い。 (オレは男娼じゃない)  巽が外に待っていて、サングラスに隠されたあの切れ長の光のつよい目を輝かせ、(透!)と両腕の中に抱きしめようとしている、ような気がする。 (帰ろう)  何のふしぎもなくそのことばが出た。 (どこへ?)──その木霊はひびかなかった。 「待てったら、話をききなさいよ」 「そんな話ならききたくないね」 「まだ、してないじゃないか」 「じゃ待ってられないってことにしとくよ。オレは、忙しいんでね」 「お客の予定でかい」 「何とでも思いな」  透はぺっと吐きすてた。 「もうこれ以上あんたと話するのはごめんだ」 「──再デビューしたくないのかい」  野々村は、ジョーカーをさいごに叩きつける賭博師のようにずるそうに笑った。  透は、足をとめた。店のものたちが、驚いたようにこの幕間劇を見ている。 「何だって?」  低い声で、透は云った。かれは野々村を白い火のような目でにらみすえた。 「そうだよ」  野々村は満悦したようにくりかえした。彼は自分の優位を確信しているようだった。 「再デビューだよ」     5 「かねがね、注目していた人が、まだいたわけだよ」  野々村は、満足そうだった。  再び、奥まったボックスに腰をおろして、顔をこわばらせている透をにやにやと眺める。彼の手が、グラスやボトルや氷入れののったテーブルの上をのびて、透の手にかさなった。こんどは、透はひっこめずに耐えた。 (そう、それでいいのさ)  野々村はうすい唇をなめた。 「でね、まああんたはジョニーに負け、演歌路線も当らず、例の反戦ミュージカルじゃ麻薬不法所持で|さつ《ヽヽ》にあげられる、って結果に終わっちまい、一応タレント生命は終わった、と思われてるわけだ。しかし、あんたのキャラクターを、惜しい、と思ってる人もいないわけじゃない」 「誰だ、それは」 「まあゆっくり話そうや」  野々村の手が物馴れたねっとりした感触で、透の指を一本ずつ愛撫していた。 「で、まあ、あんたにとどめを刺すかたちになったのは、あんたを囲ってたマルスの星野を裏切って、ユニオンの落合だったかと寝ちまい、星野の激怒をかった、ってあれだった。あんたに相当つぎこんでた星野は二度とステージに立てんようにしてやるってわけで、業界に回状をまわして、トミーの一巻の終わり。星野の力もさることながら、実のところやっこさんが庇ってやらなきゃどうしようもないだけのことはしてたからね、あんたも。雪野真理とスキャンダルになったし、ステージ遅刻、スッポカシ、途中で野次られたっておりちまうのしょっちゅうだったし、拾って寝たファンの女のコがジョニーのこと云ったとか云わんとかで殴って歯折って、訴えられるわ、あげくマリファナで送検だしさ。ま、星野も手をひきどきと思っても仕方はなかったさ」  他人の口から語られるたなおろし、検事の最終弁論。それは、まるで、森田透であるかれ自身とは何のかかわりもない人間のしたことのようにひびいた。 「いまだにマルスってや四大大手の筆頭格だからね。ほんとは、もうあんたこの世界じゃ、うかびあがれんわけだ。マルスに逆らってまで看板にするほどのメリットがあるじゃなしさ。ところが、世の中すてたもんじゃないやね」 「誰だい、あんたに、オレをさがさせた奴」  うつろな声で、透はきいた。 「マルスに逆らおうって物好きなやつは」 「この世界で一番つよいのは、何だと思うね」  野々村は透の手をつねった。 「クライアントかね。レコード会社かね。われわれマスコミかね──あんたらの云う、ハイエナ・ジャーナリズムかね」 「………」 「違うね。プロダクションより、レコード会社よりつよい神様がひとりだけいるだろう。それ──TVって奴がさ」 「………」 「勿体つけるのをやめて云っちまうとだね。ぶっちゃけた話──KTVの島津正彦って知ってるかね、森田くん」 「島津正彦──『ベスト・ヒット・ショー』のプロデューサー?」 「それだ」  野々村は指をぱちりと鳴らした。 「威張ってる奴さ。歌謡界のスターを作るも消すも俺の意志だって自慢してる奴さ。島津天皇って呼ばれててね」 「その天皇がオレを──?」 「そう、彼は『アイドル誕生』の最初のプロデューサーでもあっただろう。で�アイ誕�から、連続して純子、光恵、ケイコの森プロ三人娘、いまをときめく裕樹、二郎、まさみ、それに岩田和美、ピンキーズ、正木きよしまで、現在のトップと云われるスターの五割がた、世に出たわけで、いまのやっこさんの鼻息ったらありゃしないよ。またレコード会社も、マルスだろうがブラジルだろうが平身低頭、おおせのとおり、なわけよ。何せ裏じゃペンネームで作詞もしてる。音楽賞の審査委員も動かせる、おまけにドラマにタレントを送りこんで主題歌うたわせて暴力的に売り出すのも自由自在で、浅井美奈子と雨木真美をあっというまにスターに作っちまった。まあ、あんたがダーク・サイドでごそごそ苦労してるあいだにさ。マルスの星野なんざ、屁とも思わねえって天皇様がしっかり領土をおさえちまってるってことさ」 「そのお偉い方が、なんでオレみたいな使い捨てられた|かす《ヽヽ》に目をつけたんだい」 「まあ、そう云うもんじゃないよ」  野々村は云った。 「なあ、ここへ来ないか」  ボックスの、隣の席を叩き、つかんだ手首をひくようにする。 「店の奴らかい、構やしないよ。ここは、馴染みの店だし、会員制でね。ボーイどももみんなスター志望って奴でゆきとどいているよ。このボックスで何してようと、お目こぼしさ」  透は細くとがった顎をつんとそらせたが、黙って野々村の隣の椅子に移った。野々村はますます満足げだった。 「今年、幾つだったかね」 「五」 「五か、きれいな盛りだな。勿体ねえ話さ、十七、八でテビューして、いくらも使いこんでいないガキをキャーキャー女どもがさわいで、揚句ようやく脂がのって色気の出てきたころにゃ次のをさがして用済みだなんてね。あんたは、感受性がつよくてたまらんだろうな。顔見るとわかるよ」  野々村は透の手を弄んでいた手を肩にまわし、細いうなじをつかみ、前にまわしてシャツのボタンを外した。 「な、いい肌してるよ。最近、ちゃんと使ってるのかい、このからだ」  透は唇を噛んだ。 「それが、またいいんだな。再デビューって餌をちらつかされて、うつむいて屈辱に耐えてるってとこがさ。たぶん、島さんも喜ぶだろう。俺もだが、あの天皇さんは、俺よりもっと悪趣味でね」  透は、野々村の手が衿から胸もとへ這いこんでくるのを耐えながら、ゆっくりと長い睫毛の影から野々村を見つめた。無表情な顔に、けだるい悲哀の翳があった。 「つまりさ」  野々村の馴れた指さきが、乳首をつまみ、かるくすりあわせるようにする。 「�アイ誕�路線は十七、八どころか、十三、四でデビューするジャリタレをごろごろ作っちまって、歌謡曲の総ジャリ化時代を招いちまった。ま、おかげで歌番組はのこらずガキの学芸会さ。そん中で、|おとな《ヽヽヽ》のファンは港ひろみ、正木きよしどまりで、あとはもう見切りをつけかけてる。島さんて人は、世評はどうあれ、先だけは、こわいくらい、見える人でね。この辺で二、三人、おとなの歌をうたえるスターを、ニュー演歌といった路線で出しとかないと、ヤバいだろうと読んでるわけさ。で、いろいろ候補を考えた中にあんたも入った。星野のやきもちで、せっかく『愛しすぎたのね』が当りかけた矢先にプロジェクトがつぶれちまったが、あの線で一発あてりゃ、第二の正木きよしにもなれたはずだってのが島さんの読みなんだ。それにあんた、何たって日本人うけのする美談だよ、もとレックスのトミーほどのスターがさ、何もかも過去の栄光捨てて、�アイ誕�の十週勝ち抜きで再起を飾る、となりゃあさ」 「オレに十二、三のがきどもと一緒に素人のど自慢に出ろっていうのか」  透の声はいたいたしかった。  野々村はもう一方の手で透の手をつかみ、自分の中心部にあてさせた。 「そう云ってちゃ何もできない。話題にゃ、なるぜ。それにいいじゃないかね、はなっから、十週勝ち抜いてチャンピオンになるってプログラムは決まってるわけだからね」 「『危険な関係』でも持ち歌にしてね」  透の顔が泣くようにゆがんだ。 「それもいいな。じゃ、ジョニーをさいごの週にゃゲスト審査員に招くか。ジョニーの前で、奴のヒット曲歌ってチャンスをつかんで再起するんだ。ちょいとした根性美談だよ」 「やめてくれ」  透は喘ぐように云った。 「そこまで、さらし物になってまで、スポット・ライトん中にもどる気はありゃしないんだ」 「ウソだな」  野々村はおちついて、ブラウスのボタンをひとつずつ、外しにかかっていた。 「あんたはスターさ。スター根性ってやつは、ぬけやしないよ。一度味わったスターの味、ライトの味は、魂を売ったって忘れられない。あんたほどさわがれた、美しい、もてたスターが、いまさらただの二十五の男にもどれるとでもいうのかい? もどれねえだろ。その座にもう一度もどるためなら魂だって売るさ。ストリップだってするさ。その証拠に、星野に追ん出されてもあんたはかたぎになれずにうろつきまわって、ベッドからベッド歩いてたじゃないか。何が、もどる気がないもんか──その証拠に、ここで、いま、俺がなめろって云やあ、あんたは屈辱に青ざめてでも云われるとおりにするさ。再デビューだからな。そうだろう」  野々村は、ゆっくりと、透のズボンのジッパーに手をかけ、ひきおろしはじめた。 「違う」  透はその手をおしのけようとし、喘いだ。 「違わない。タレントなんて奴は、みんな同じさ」 「違う──違う──違う」 「上品ぶるなよ、いまさら」 (いやだ) 「いやだ!」  透は絶叫した。 「さわるなッ! オレは──いやだ、あんたなんかに好き勝手にさせるもんか。オレは──オレは男娼じゃない!」 「おい」  野々村の目が底冷えのする凄みを放った。それはこの痩せたねばっこい感じの男が隠している容易ならぬ内面をはっきりとうかびあがらせた。 「俺は偽善者って奴が一番、嫌いなんだ」  彼は低い声で云った。 「身を売り、泥の中を這いずりまわる覚悟もなしで再デビューしようってのか? お互い、学校の先生や十三、四のガキなわけじゃねえだろう」  透はひきつったようにふるえる手で、グラスをつかんだ。物も云わずに、氷ごと中身を野々村の顔にぶちまける。 「そんな再デビューなら、しなくていいさ」  透は誇り高く云いすて、そしてあわてて立ってくるボーイどもをつきのけて店をとび出した。ドアをからだであけ、階段をかけあがり、どちらへ自分がむかっているのかさえわからずに走った。  息が切れて、追って来ないとたしかめて足をとめたとき、かれはさびれた裏通りにいた。ブラウスの胸がはだけ、なおわるいことにポケットの財布ごとコートを店におき放しだった。とりにもどる気にはまったくなれなかった。うすい絹のブラウスと黒のセーターは夜の寒気をふせいでくれない。透は迷子になった少女のように身をふるわせて、両手でからだを抱いた。  うっすらと涙が滲んでいることにかれは気がついていなかった。その涙は、熱く、ほとんど快いとさえ云ってよかった。 (巽さん──巽さん 巽さん、巽さん)  まったく、無意識に、自分がそう呟いていることをきくのがおそろしいようにして、透は呼びつづけていた。 (巽さん──巽さん、ここに来て。そばにいて、ここにいて。置いていかないで──巽さん、巽さん──巽さん)  その名はなんと快いのだろう。巽の子供のような微笑、力づよい抱擁、輝く目、がいまここにあって、透を包んでくれるのなら、何をしてもいいと透は思った。巽は太陽だった。その深い誠実な輝きで、透の凍えはてたからだをぬくもらせる太陽だった。あんたがいないとダメなんだ、と透は夢中で思っていた。  あんたさえいれば、何もこわくない。 (はなさないで──お願いだから)  ついてから払おう、とタクシーを拾った。もう十二時をまわりかけている。巽はとうに帰って、透の無断の留守をいぶかしみ当惑しているかもしれない。 (帰らなくては──早く、早く、帰らなくては)  タクシーの距離がはてしなく長かった。  マンションに、しかし、灯はついていなかった。透はほとんど涙ぐみかけた。かぎをさがして入り、金を払って、タクシーを帰したが、 (オレを心配してさがしに行ったのかもしれない)  巽と、このまま入れ違いで会えなくなってしまう、そんな恐怖がかれをひっつかんでいた。 (巽さん)  かれはずるずると壁に背をつけてうずくまり、濡れそぼった猫の仔のように膝をかかえて、灯りもつけない部屋のなかで泣いた。  二時をまわってから起こさぬようにと音を忍ばせて寝室のノブを回そうとした巽は、壁ぎわに魂を抜かれたようにうずくまったままの透の姿に、低い声をあげた。 「何、してる。寝なかったのか」  慌てて、電気をつけ、アンクル・ブーツをぬぎすてる。透はぼんやりとした、泣き疲れた子供のような目をしばたたいて巽を見あげた。その大きな、頼もしい姿が前にたつことは、もうないような気がしていたのだ。 「どうした」  巽は困惑した声を出した。 「わるかったよ。仕事が済んでから、ジョニーたちに誘われて飯、くってたもんだから──気になってたんだけど」  巽は手をのばして、透を抱きあげてたたせた。 「透──どうした?」  透はぼんやり首をふる。 「からだが冷え切ってる」  驚いたように云う。 「また、飯、食わなかったのか」  また首をふる。巽は、眉をひそめてその青白い顔を見つめていたが、突然その細く形のいい鼻さきを、透の頬にこすりつけ、そのまま雨の匂いのする湿ったアーミー・ジャケットの胸に透を抱きすくめた。 「これ以上痩せたら、とけてなくなっちまうぞ」  鼻をおしつけて湿った声でささやく。なにか、無限のやさしさと、哀しみが、くっきりと二重瞼の美しい目の中に宿っている。 「しっかりしろよ。な? しっかりしなきゃ、だめだ、透」 「巽さん──」  透はからだをもむように押しつけた。 「抱いてよ」 「透──」  巽は、ちょっと顔をはなして、透を見つめた。少しひそめた濃い眉のあたりに、なにか、不安な子供の表情が漂っていた。 「よし」  彼はささやいた。 「いい子だ。透は、いい子だよ」  彼の指が無器用に、ボタンにかかる。透はそれをおしのけて慌しく服をぬぎおとしてゆく。巽をからだの中に痛いほどに感じたい。巽に包まれ、巽でいっぱいになり、そして巽の匂いの中で癒されたい。巽の唇が透の唇をとらえた。彼は透を抱きあげ、ベッドに運び、投げおろしてそのままおおいかぶさった。 (いいんだ。いいんだ、これで──)  再デビューの幻が、静かにうすれてゆく。透は巽のからだの侵入してくる熱さの中でかすかに微笑んだ。 [#地付き](4につづく)  単行本 昭和五十六年九月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年五月二十五日刊