栗本 薫 翼あるもの2 目 次  ㈽  ──and, to Janis with love──  ㈿  ──and likewise to him and to him── [#改ページ]   ㈽  ──and, to Janis with love──     7  良は緊張し、孤独に、闇の中に白く立っていた。  たったいま、巽の演ずるマスターの結城が経営するバーを、黙ってぬけ出てきた。  良──役柄では圭一だが──をめぐって、人間関係は、もつれ、よどみ、すべてをふりすててしまおうとむなしい発作的な脱出の欲望を抱いて走り出たのだ。  だが行くあてがない。街娼に声をかけられ、つきとばして走り、酔っ払いにひやかされ、やくざに因縁をつけられる。  しかし、結局誰もがこの孤独な狂おしい目をした若者のはなつ禍々しい冷気に怯えて逃げ去る。  良はさまよう。雨がふりだし、良を濡らす。  髪が濡れて、しずくの垂れる顔にはりつき、シャツがぐっしょりと濡れて、なめらかな胸をうき出させる。濡れた布に透かされた肌が凄いようになまめいている。  良は口を開き、顔をのけぞらせて、雨を飲む。  良は幻想を見る。関ミチコ(役柄は�ゆき枝�だ)が良にしがみつく。追想のシーンだ。 「圭ちゃんの子なのよ! あなたの赤ちゃん──あたし生むのよ──圭ちゃんにだってとめられやしない──圭ちゃんとあたしの子なのに! 可愛くないの? あたしに死ねって云うの?」 「ああ」  良は無表情な、狂人めいたガラスの目で女を見る。  顔がロウ細工のように白く、黒目が異様に冴え、白目が異様に白く、唇が赤い。それは悪魔のなまめかしさだ。 「可愛くないよ。そんなもの──死んでしまえばいい」 「圭ちゃん!」 「死んじまえばいい──死ねよ。生きて、苦しむことなんかないよ。なぜ生きてるんだ? 死ねよ、死んじまえよ」 「いや──圭ちゃん!」  ゆっくり、良が近づく。本能的に、女があとずさりして、腹をおさえる。 「いや──こわい──」 「生きてることなんかないよ。本当のことを教えてやろうか? おれ、大嫌いなんだよ、あんたのこと」  良の唇が妖しい半月形につりあがり、凄艶な微笑を形づくり、その右手が女の腹部にめりこんだ。 「赤ちゃん! あ、あ──赤ちゃん──」  良はほとんどうっとりした微笑みをうかべ、倒れた女の上にとびあがり、そのふくれた腹をふみにじる。  女はおそろしい叫びをあげて動かなくなる。その叫びが反響し、こだまする。  良は、泳ぐような足取りで歩き出すが、そこは国道のまん中だ。雨にうたれ、狂人の笑いをうかべ、良は夜の中にささやきかける。 「なんで生きてるんだ? 死んじまえ。死んじまえよ」  怪物じみたサーチライトが突進し、画面いっぱいに光がひろがり、「ばか野郎、気をつけろ!」と罵声をのこして遠のく。  良はよろめき、狂ったように声をたてて笑い出す。麻薬がすでにその脳をむしばんでいるのだ。  良はまたふらふらと車道のまん中へ、川でもわたるような足どりで出てゆく。  警笛がつんざく悲鳴をあげ、トラックがのしかかろうとする刹那に、良はつきとばされ、歩道に、巽のからだの下になって倒れこむ。  ようやく良の失踪に気づき、さがしあてたマスターの目が血走っている。良はゆっくり目を閉じる。 「なんてことするんだ」  巽の手が良の首をつかみ、がくがくと揺さぶる。 「死にたかったのか!」 「おれ」  良はあどけないほど、うつろな目で彼を見あげる。 「赤ん坊殺しちゃったよ、マスター」 「──ゆき枝は大丈夫だ」  巽は苦痛にみちた早口で云う。 「入院させた。出血と──ショックがひどいが、生命はとりとめるだろう」 「赤ん坊殺しちゃったんだ」  良はかすかに笑い、巽は戦慄して顔をそむける。 「ともかく──店へもどろう……お前、ぐしょ濡れじゃないか。肺炎でも起こしたらどうする」  巽は良を抱き起こす。黒い上着をぬぎ、それでくるんでやる。良はがちがちと寒さにふるえだす。 「ゆき枝に──どうしてあんなこと──」 「わからないよ。ただ、嫌だったんだ。ねばねばするものに足をつかまれたみたいで──我慢できなかった」  店へもどり、巽は良を着がえさせ、毛布にくるみ、ホット・ウイスキーをさしだす。良はおとなしく飲む。 「──どこへ行くつもりだったんだ」 「………」 「答えろ。どこへ行こうとしてた。お前──この店を出てゆくつもりだったろう?」 「──ああ」  巽の平手が良の頬に鳴る。良は吹っとびかかって、身をたてなおす。巽の顔が悲痛にゆがんでいる。 「俺を置いてきぼりにしてか?」 「………」 「何がほしいんだ──これ以上、どうしろと云うんだ。俺はお前のために、ゆき枝とも切れた。矢頭からも守ってやるために何でもしてる。ヤクだって──やらんことがあったか? お前が、俺の拳銃を使って、それで俺も危《やば》い橋をわたらされてるが──それだってお前を怒っちゃいない。恩着せがましいなどと云うなよ。俺はお前に、何一つ要求した覚えはないんだからな──お前がほしいといえば、生命だってくれてやる。この上、どうしろと云うんだ? お前さえなくしてしまえと云うのか? ここを出てどこに行き場所があると云うんだ! ええ、圭一!」 「ここでねえ、本番とき、ええ、良! 云うてしもてね、巽さん。大目玉や」  修がニヤニヤとして云った。 「物ごっつう、実感こもってましたでえ」 「もうどこにも行きやしない」  良が呟く。 「何もかも──いやなんだ、たまらないんだよ」 「──俺は、お前に何をしてやれるんだ?」  巽は呻くように云った。 「何をしてやればいいんだ? 何がほしい、お前はなぜ云ってくれないんだ。何でもしてやる、何でもやることはわかってる筈だ。この上、俺にどうしろと云うんだ。死ねと云うのか? ああ、死んでやるさ!」  巽は荒々しくカウンターからナイフをつかみとる。  肩が激情に上下する。良がゆるやかに身を起こし、巽の手をおさえる。 「お前──」 「おれ、ほしいものがあるんだよ」  巽はナイフをおいた。手の上におかれた良の手をとり、その手首を握り、その目をのぞきこむ。いたいたしいほど真剣な表情だ。 「何だ」 「でも、きっときいてくれないだろう」 「何だ。云ってみろ」 「ライフルさ」  巽が良の手をはなす。良はあでやかな微笑をうかべる。 「ほら、びっくりしてる」 「何に──する気だ。──ハイジャックでも、やらかすのか?」  巽の声が咽喉にひっかかる。良は肩をすくめる。 「持っていたい──ただ、何となく、持っていたいんだ。気持が晴れるんじゃないかと思って。駄目なの?」  巽の顔の大写し。苦痛の滲む表情だ。  それを叶えることが自らの破滅を招くと知りつつ、毒の罠の誘惑に踏みこもうとする、狂気の若者に魂を奪われた男の顔。  良の表情に、なまめかしい媚びが滲む。甘えるように微笑する。 「何もしやしないよ」 「──わかったよ。都合してみよう」  巽はついに云う。良が嬉しそうに笑い、巽の肩に頭をこすりつける。  ふいに風間はぎょっとし、考え、それを見たのは修が出奔すると知った日に事務所でのことだったと気がついた。同じしぐさなのだ。  画面がかわり、良はギターをかき鳴らし、ゆるやかに、しみいるように美しく「反逆のブルース」を歌う。  巽が見つめながら煙草に火をつけ、指のあいだにはさみ、掌をかぶせるようにして煙を吐いた。  悪魔のとりこになった自らをあわれむように、苦渋にみちた表情で良を見守る。  美しいけだるい声が流れながら画面が切りかわる。暗い刑事部屋。 「ムリですよ、矢頭さん。もうこれ以上強引な捜査は」 「うるさい」  大兵の老警部が机を叩く。 「本当に何ひとつ証拠はないんです。ひとまず、高木圭一の線はあきらめて、怨恨の線で追ってみたら──」 「犯人《ホシ》は高木だよ」  警部は断固として云う。 「なぜ、わかるんです」 「奴の目だよ。──俺は、奴を許せん。奴は俺の三十年間のデカ歴であげたどんな殺人犯とも違う。俺は奴と勝負してみたい。奴のアリバイだって、ニセ物だよ。証言してるのがあの結城ってマスターだからな。庇ってるにきまっている。奴は一体、何でこんなに気にかかるんだ──ただのいかれたヤク中なのか、それとも坂田と何かのひっかかりがあったのか──俺は知りたいんだ。奴の正体を暴きたい」 「しかし、このままじゃ──」 「ああ、もうすぐ捜査本部も解散だ。そうなりゃ、よけい捜査はしにくいさ。しかし、俺の面子にかけて、オミヤ入りはさせんさ。ひとつ手がある。別件逮捕でひっくくる」 「それは無茶だ。奴、何もしてませんよ」 「何でもいいんだ。叩けばちっとは埃ぐらい出てくるだろう。でっちあげだってかまわん。とにかく結城の奴とひきはなして責めるんだ」 「矢頭さん、無茶ですよ」  警部は返事をしない。再び、消えていた歌声がかぶさり、高まってくる。≪つづく≫の文字が白く画面の右端にうかんで来る。 「で、来週から出るわけね、サムちゃん」 「そう」  修は少しまのわるそうな顔で笑った。 「巽さんがこの作戦きいて、良に何もさせんと逃げ切ろうするとこへ、オレのチンピラがゆするわけ。良のライフル見てね。ヘヘヘ──照れますなあ」 「照れてちゃ役者はつとまらんさ」  風間は笑った。RVCテレビのロビーである。 「で、どうだったの、初仕事の手ごたえは」 「あんなもんでっしゃろな」  レックスを脱退するといっても、ひと区切りついて、京都からつれてきた後任の泰彦が馴染むまではつづけると修は云ったし、ドラマの仕事もあって、ほとんどみんなはもう脱退を意識しなくなっていた。それはそれ、やっぱりサムちゃんはサムちゃんだと思う。  泰彦は小柄ではしっこそうな目をした若者で、テストではうるさい弘も大体OKを出した。  良も気にいったようだ。  風間は、修が良のマンションに行き、長いこと二人だけで話していたのを知っていた。  何をどういう具合に話したのか知らないが、ベースをやめて、俳優として出直す、というのをどうやら修は良に納得させたらしく、良も機嫌を直して修の出発を祝福したらしい。  清田マネたちがうまく立ちまわったので、「今西良に背いて! バック・バンド、ザ・レックスのメンバー田端修が脱退、真相は何か?」などといった記事も、出ることはなくて済んだ。  歌番組、リハーサル、地方でのショー、ディナー・ショー、衣装あわせ、サイン会、写真撮影、ドラマの録画どり、インタヴュー、ファンにとりまかれ、音合わせ、打ちあわせ、パーティ、ステージ──ひたすらプログラムに従って、清田マネの告げる予定どおりに動き、演じ、歌い、レックスたちがそれを支え、ファンたちが見つめ、季節がすぎていこうとしている。  かれらには�現在《いま》�しかない。切りのない、いまの連続、この歌、次にはこの曲、そのたゆみない現在だけの生から、そっと身を遠ざけようとする修は、もうそうしたものとして受け入れられていることに風間は気づく。  明日のないショー・ビジネスのきびしさか、それともそれはむしろ≪ジョニー≫に固有のものか。  かれの宇宙、時間もなく、他者もなく、ただこの歌、この表情のはてしない断続である宇宙の中では、誰もがかれの一部分だ。  巽は違う。巽は巽の世界を持ち、ジョニーの宇宙に顔を見せぬときには、おそらく、映画の仕事をし、酒を飲み、ふらりと旅に出、そして気がむいたとき、ふらりともどって来るのだろう。  良をすべての太陽として、吸収されてしまうのには、巽は男《ザ・マン》である。  その強烈な意志を決定するのは巽自身で、その結果仮に彼が良に心を奪われるとしても、それは巽が決めた彼の意志の方向なのだ。  修はそうあらねばならぬと考えたのだろう、と風間は理解している。  良の世界から生誕し、そして良にもどってくること──しんどい、というのがかれの実感だった。修は──たぶん風間自身も──すでにあまりにも魂の奥まで良にむしばまれているのだが。  季節はすぎてゆこうとしている──冬はやさしさと予兆を秘めてたゆたい、そしてなにかの蠢きだす気配とふしぎなふるえ、灼熱する陽光に焼かれ、どこかへはてしなく連れ去られてゆく夏のおとずれをひそめて、何かがかわってゆこうとする春へと季節が移ってゆく。  埃っぽい風と若々しい戦き。そろそろ山を越してきそうな「反逆のブルース」のあとを受けて発売されるシングルの作曲が風間の当座の仕事である。  思いきって色っぽいのを作ってやったらどうか、と風間は考えていた。もうあと一ケ月分ぐらいで、「裏切りの街路」の仕事も終わる。 「阿呆がおってねえ、かなり激越な投書よこすそうですわ」 「投書?」 「けしからん、不道徳や、反社会的やて。わけもなく人殺しするとか、そんなわるいやつ庇うとか、それに理屈つけるんはけしからん、子供に悪影響出る云うてね。同じおばはんらしいねんけど、久野さんがひっくりかえって笑いましてん、ざま見ろ云うてね」  風間も声をたてて笑った。 「ジョニーのイメージ・ダウンやないか心配するんと、見直したいうんと、やっぱりどないしても二つに割れますな。みんな、あの子ていうと、どない扱ったらええのか困るみたいですわ」 「ともあれ、演技の基礎教育もなしで、よく半年、つとめたよ。特におかしいところも、ぶちこわしもなくてさ。これでいよいよカタストロフだろ」 「あと二回、それで大詰に入るんでんな」 「サムちゃんも殺されるんだな」  風間はにやにやした。 「で、どうするのこれから」 「�街路�終わったらでっか。有難いことですわ、皆に心配してもろて。オレ、CMに使うてくれる云う会社がありましてな。まあ、とにかく基礎のAからやり直しでっけど、何とかなりまっしゃろ、思てます」 「大変だな、サムちゃんも」 「なあに──」  修はにやりと憂鬱そうな笑いをうかべた。 「辛いのはこれからですわ。一週間ぐらいで、ステージ、泰彦にゆずりますからね。そしたら、どうなるか──」  考えたくない、という顔だ。風間は首をふった。  そんな会話をかわしたのが、ドラマの放映のあった夜のテレビ局のロビーである。  修が仕事のひきつぎがあるからと立ち去ったあとで、風間はひとりのこされて、良を待っていた。  車で送ってやり、飯でも食べようと考えたのだ。  ああした挑戦の宣言を面とむかってされてからは、なるべく巽と良が接近するのをはばもうと、われながらあわれになるくらい小まめに、やきもきと良についてまわってうるさがられたりしていた。  とっくに、うるさい記者連にはバレて、勘ぐられて、とんだ三角関係だ、といい物笑いの種になっているかもしれない。──四十近くなって、独身の風間である。単に、人と一緒に暮らすなどということの耐えられぬたちだというだけだが、どうせ色眼鏡で見れば、なんとでも勘ぐることができる。  風間は勝手にしろと思うだけである。長い一生、こんなときもあっていいと思っている。  世間の目よりは、良のそばにいたい、良と生きたいという感情に正直でありたい。良を見守っていたいのだ。良、そしてそれをめぐるひとびとの潮流も、自分を含めて、風間には興味深く眺められる。良という、たぐいまれな存在が、自分や巽も含めて、ひとびとをどう支配し、ひきずりこみ、流してゆくかを見ていたい。  風間はふと顔馴染の芸能記者にきいたエピソードを思った。  昔、もう四年になるか、ようやく良の人気が不動のものになりはじめたころ、二枚看板で売り出しながらはっきりと主役の地位を奪われ、レックスを去っていった、トミーこと、森田透のそののちについてである。  彼は歌はてんから下手だが深みのある声と、バタくさい整った容貌でジョニー、トミー、と人気を二分し、ことごとく張りあった。  だがもともとそういう弱さが性格にあって、良に破れ去ってからはどんどん転落し、もとレックスのトミーという名を買ってくれたレコード会社からソロ歌手として立とうとしたが、かさなる不祥事で見はなされ、一種かんばしくない悪名をふりまいてから消えた。  風間にその話をしてくれたのは野々村正造といい、「日東スポーツ」のデスクをつとめ、いまはフリーで情報網を動かして陰然たる権力をもつ男だったが、それをいずれ女性週刊誌に売りつけるのだと云いながら面白そうに話してくれたのだ。  トミーは、レックスとはなれ、ソロのレコードを二、三枚出しては失敗してから、急に尖鋭的な音楽活動にかたむき、その当時アメリカから上陸して話題をさらったプログレッシヴ・ロック・ミュージカルの出演をつかんだ。  オフ・オフ・ブロードウエイで三ケ月打ちつづけ、警官にふみこまれること数十回、などという華々しい前評判のその反戦ミュージカルで、かれは全裸になって猥褻なことばを絶叫し、スキャンダラスな話題にはことかかなかったが、日本は好景気でわきたっている時分で、昭和元禄などと云われだしていた時世に尖鋭な反戦思想はこれといった興味もひかず、むしろ≪トミーが裸になった≫と興味本位な扱いをされた揚句、予想外の不入りに終わった。 「ま、奴としちゃ計算しそこねたんだね、なんだバカな奴ってだけの印象がのこっちまった」  と野々村は云った。そして、かれはその公演の置土産に、麻薬に深入りしてしまい、あいついで、共演した年長の女優とのスキャンダル、麻薬所持で逮捕、と週刊誌だねになった。  だがそれも場合によってはどうせ汚穢にみちた芸能界だ。悪名でも利用のしかたしだいで売名になったが、それより先に、乱行と不遜な言行、麻薬のための仕事のすっぽかしやめちゃくちゃなステージが、かれをプロの営業マンたちから見はなさせた。 「で、そのまま|よう《ヽヽ》として行方知れずってことだったんだが、なに、京都じゃその方面で有名だったのさ。男娼まがい、ヒモまがいで、まるでやくざな生活をしてるってのはね。もうまともには相手されないし、といってまだからだは資本になるくらい若いし、遊びの味は覚えてるからなあ──でね、風間さん。おもしれえ話ってのはここからだが」  野々村はゆがんだ笑いをうかべた。 「その森田がさ、お宅のジョニーがほら、こないだやったろう──東京プラザ・ホールのリサイタル。毎年やるやつさ。なかなかの評判だったみたいだが、あそこへ、森田がね、来てたというんだ」 「良のリサイタルに?」 「そう、ほとんど誰も気がつかなかったらしい。薄情なもんじゃないか。黒いコートきて、もともとわるい面じゃない、一見混血児ふうハンサムだけど、それが、なにせ男、女、相手かまわず金になりゃって生活してるから、荒れて、こうすさみが出てさ。ロシア貴族みてえなコートひっかぶって、あとからホールに入ってきて、柱のかげでね、サングラスもとらんで、じーっとジョニーを見てたそうだ。あれ、あんとき、お宅もいたんだろ」 「ええ、楽屋いったり、横とか、前できいたりしてましたよ」 「そんときだ。まあジョニーの方は六年間トントン拍子でもう押しも押されもせぬアイドル・スターで、東京プラザといや定員八千だぜ、それ三階までぎっしりにしてさ、七色のライトあびて檜舞台ふんでるわけだ。それをこう、柱のかげから、じーっと見つめていた。それが、面白いのはね、それ見たのは、うちの若い奴なんだけど、たしかめたくって、森田くんとこう声かけたんだ。そしたらさっと態度がかわって逃げてっちまったんだけど、その拍子に、ポケットにつっこんだ右手がね、見えたら、そこにしっかりと抜き身の登山ナイフ握ってたんだとさ」 「おい、おい、ムラさん」 「ははは──とんだ芝居がかりだが、本当の話だぜ。まさか良ちゃんを刺すの突くのって気はなかったろうが、なんとなくこうわかるって感じじゃないか。ええ? かたやおちぶれはてて、どっかの社長にトミーのなれのはての味をみてやれってんで買われたり、デブの金持マダムをしぼったりして、若えのに汚れきってすさみはててさ。かたや天下の今西良、ドラマにゃ主演、その主題歌まで大当りで三ケ月連続ベスト・ワンの公称百三十万枚ヒット、映画に主演の口もかかるし、リサイタルは立見まで売り切れだし、スーパー・スターへじり押してのはもう衆目の一致するところだ。そりゃお宅がジョニーのために心配する気持はわかるけどさ、その登山ナイフってやつがなんとも──人生ってやつじゃないの」 「冗談じゃないですよ」 「あのきれいな顔に硫酸かけたれなんて気、おこされなかっただけでもめっけもんだぜ──でさ、俺もそれきいたらグッと来たもんで、ひとつコシラエてやろうと思ったわけよ。今西良に背いて四年! 森田透《トミー》のたどった波乱の人生劇場、ってさ。これで奴が浮上のチャンスつかむようならとんだプレゼントってもんだ」  夜もふけて、なかなか出てこない良を待ちながら、風間はその話を思い出していた。  それはひどくあざやかな、映画のワン・ショットのような印象を彼にのこしていた。  闇の中に、わが身のありさまを恥じるように身をひそめ、陰鬱な激情に目を青白く燃やし、かつてのライヴァルをうかがう男。その指が白くなるくらい力をこめて、大きなナイフの柄を握りしめている。  その目は、白い衣装の良、邪教の女王のように白いヴェールに包まれて両腕をさしのべる良、美しい、眩しいまでに美しさを増して、誰にも手をふれることのできぬような光の中の良からはなれない。  良は歌っている。  うまくなったな、と思うかもしれない。なつかしい、憎みもしたその甘い声がホールじゅうにひろがり、聴衆をつかみ、圧し、とりこにしてゆく。  かれはひたすら良だけを見る──かれにもいちどは、たしかに約束されていながら、ついに得ることのなかったあまりにも多くのもの。  かれはどんな幻影を見るだろう、と風間は思う。その手に握りしめたナイフを、良のあの純白なレースに包まれた胸、歌うためにのけぞらせた咽喉に、ふかぶかと突き刺し、つきたてることか? 自分から未来を奪った、かつてのライヴァルの、美しい、かれが抗するにはいくらか美しすぎた顔に、生命とひきかえにさいごの敗北の、苦痛にゆがみ凍りついた表情をうかばせることか?  それとも──それとも、それでも──すべての汚穢をぬられ、この世の泥濘もとおりぬけ、スターというむなしい名の裏おもても経てきて、それでもなお、かれはあの光に包まれて歌う、輝かしいつくりものの花、光の中の美しい幻影であることを、ないことでもあるまいと未練に望んでいるのだろうか?  風間はふしぎな戦慄におそわれた。  彼の幻想の中で、透のナイフが良を襲う。  良の顔に、かすかな不信と驚愕の表情がうかんでいる。  白い衣装に鮮紅のバラが咲き出、それがどんどん良を染めてゆく。風間は手をのばして抱きとめようとする。  透はなおもナイフをかざしてむかってくる。何をすると大喝してつきとばそうとすると、その顔は、ひきつり、ゆがんだ、修の顔にかわっている。  風間ははっとわれにかえった。もう、ロビーはしんとしずまり、暗い。ふいに彼は激しい懸念におそわれた。 「良」  覚えず彼は呼んだ。  何も知らぬ良の身の上が、たまらなく気にかかる。少し遅すぎるのではないか、と思う。  他のスタッフたちはもう彼にかるく会釈して、てんでに帰ってしまったのだ。良だけが──もしかしたら巽も──出てこない。  風間は立ちあがり、長い廊下をほとんどかけるようにしてスタジオをのぞきにいったが、もう誰もいなくなったあとで、暗くて、鍵がかかっていた。  風間はコートをひっかけ、駐車場へおりていった。足音がひびく。あたりは静かである。  ふと何かが風間にささやいて、足音をひそめさせた。  それはほんのわずかな物音だったか、ひそかな話し声、それでもなかったら、ただの空気のひそやかなそよぎであったかもしれない。  風間は鼓動のたかまるのを感じ、感覚がそれぞれ極度に鋭敏に前方をさぐろうとしはじめるのを感じた。  広い駐車場をそっと見わたせる、階段のおりはなの太い柱のかげにひそんでのぞきこむ前に、彼にはそこにいるのが良と巽竜二だろうということは、断言してもいいくらいだった。  百五十台近くも収容できる、地下の駐車場は、ひっそりといろいろな形と大きさの車が三十台ばかりとめてあるだけで、寒々とした空気がただよっていた。  コンクリートの、低くなっている天井から、何箇所か電灯がともされて、ひえびえとしたそこをぼんやり照らしだしている。  風間の目はすぐに、巽の特徴のある車と、その傍に立っている二人を見つけ、そこから動かなくなった。  巽が、低い声で何か云っている。ベージュのゆったりしたコートをはおって、ポケットに両手をつっこみ、首をかしげ加減にきいている良の表情からするに、あまり真面目にきいているようでもない。  拗ねた子供のように唇がつき出され、きらきらと輝いていないときのその淡い茶色の目と、挑戦的な弓なりに弧を描いた眉は、決してあまり|たち《ヽヽ》のいい表情をうかべてはいなかった。嘲弄、冷笑、というほどつよくはないが、何かゆがんだ、悪魔めいたものを翳らせた、驕慢な表情だ。  美貌と才気ゆえにもてはやされることに馴れきって、ひとの心をもてあそぶわるい面が持ちまえになった高慢ちきな美少女、といったものが、巽を見あげる良の白い顔からうけた印象だった。  巽がほのかな怒りの影を見せて何か云う。良が同じ低い声で何か云いかえし、かすかに笑った。その笑いにはまぎれもない悪意と嘲弄があった。  巽の顔色が変わるのが、薄暗い灯とかなりの距離にもかかわらず風間にはわかった。  巽が良を殴り倒すつもりか、と風間は思った。巽の逞しい腕がふりあげられる。良の顔に、ちらりと怯えのようなものが見えた。  巽はやにわにその大きな手で、良の首筋をひっつかみ、かかえよせた。声をたてるひまも与えず、顔を伏せ、かみつくような荒々しい接吻で唇をおおった。  風間はぎくりと何かに胸を噛まれて身を乗りだしたが、はっとしてまた柱のかげに身をひそめた。  巽はしばらく良を解放しなかった。  良の手が上にあがり、巽の顔を打とうとする。巽のあいた手がなんなくその手首をとらえる。  やがて巽が唇をはなした。うしろ首にまわした手はゆるめない。 「苦しい」  良がかすれた、しかしはっきりと風間にもきこえる声で云った。 「はなせよ──殺す気なの?」  巽が何か答える。ひどく低い声だ。たぶん、そうだよと云ったに違いないと風間は思った。  巽の右手があがり、左手に添えられて、良の細い咽喉をがしっとつかんだからだ。巽の指に力がこもった。  彼の手の中で、良はまったくかぼそく、華奢に見えた。おそらく巽の鍛えた力は、良の首をへし折るぐらい、わけないことなのに違いない。  良の顔がのけぞらされた。弱々しく、巽の指から逃れようともがく。  自分でもわからぬ異常な快感におそわれて、風間はその場にとび出すかわりに、呪縛され、恍惚として、そのようすに見入った。  良が喘いだ。  息ができないのだ。白い顔が、真赤に染まり、それからすーっと青ざめてきた。咽喉に巽の指が食いこんでいる。  眉をよせ、小さく唇をあけ、のけぞった良の顔は、おそろしくエロティックに見えた。  巽が、容赦なく力を加えてゆく。  ふいに良のからだから力がぬけ、がくりと巽の手にぶらさがった。はじめて愕然として、風間は隠れ場所をとび出した。  巽がふりむき、唇まで青ざめた風間を見た。  別に驚いたようでもなく、ゆっくりと指をほどく。良はくずおれそうになって、壁にもたれた。そらせた咽喉に、赤く指のあとが捺されているのが見えた。  どちらも、一語も発しない。  風間はゆっくり近づいて、良の肩をつかんだ。その腕に支えられたとたん、良の全体重が彼の腕にかかってきた。  風間はかすかに目を開いて、激しく肩を喘がせている良の額に乱れかかった髪をかきあげてやった。  巽は風間を見つめた。口もとをゆがめ、外人めいたしぐさでかるく肩をすくめてみせると、右手を顔の前にもってきて、からかうようにふった。敬礼とも、さよならのしるしともつかぬしぐさだ。  そのままドアをあけ、運転席にすべりこみ、荒々しく発車する。  風間はうしろにさがり、巽をにらみつけたが、もう車は駐車場を出ようとしていた。 「──良──大丈夫か?」  しばしの沈黙ののちに、風間は咽喉の奥で云った。  良はぐったりと彼の腕に身をあずけていたが、深く呼吸しようとし、咳きこんだ。 「良」  良は風間を見ようとしない。風間は良の脇を抱きかかえるようにして、自分の車までつれていった。  助手席のドアをあけ、すわらせ、反対側にまわって自分も乗りこむ。  エンジンをふかし、発車する。上へ出る角を曲がろうとしたとき、風間は眉をよせた。何か人影のようなものが、すばやくよこぎったような気がしたのだ。 (錯覚だろう)  激しく踏みこみかけたブレーキから足をはなす。  良を見ると、青い顔はもうもとにもどっていたが、目をなかば閉じて、頭を背もたれにもたせかけ、じっとしている。 「腹、へってないのか?」  風間は穏やかに声をかけた。 「それとも、一杯やるか? 良の好きでいいぞ」  良は深く肩で呼吸をしてから答えた。 「飲みにいこう。�アルジェ�は?」 「よし。あそこは生バンドが入るしな」  風間には、良の気持にふれるのが恐くもあり、針でつつかれるように気がかりでたまらなくもあった。  俺は嫉妬しているのだ、と彼は正直に認めた。  嫉妬している。  巽には、良を守るの、変えさせないのと見栄を切ったが、その実、いまの彼を把えてしまっているのは、あの苦悶に眉をしかめた良の表情、その唇にふれ、その咽喉を締めあげた巽に対する瞋恚というよりは、むしろするどいねたましさの疼きではないのか。  だとすれば、良を守り、庇護しようという彼の感情も、案外に底をのぞいてみれば、おそらく、より暴力的で強引な巽のやりかたに乗じて、よりたしかな位置、その唇を奪いそのからだを抱いても良の心を失うことのない位置へはいあがってやろうというみにくい打算ではないのか。 「先生《センセ》」  良の声に風間はむしろぎょっとして物思いからさめた。 「どうしたの──�アルジェ�なら、そこ、右折だよ」 「え──あ、そうか。ぼんやりしてた」  あわてて、腹の底を見すかされたようにうろたえて風間は角を曲がり直した。  良はいつになく無口に車の動揺に身を預けている。またしても、その彫《きざ》まれたように端麗な、ぬけるほど白く車窓にうかびあがる横顔の無表情が、その裏にどんな動揺、どんな激情をひそめているのか、風間にはわからなかった。  良の感情はどこか奇妙に不可解である。血の温度が冷たいというように、人間のかたちをかりて、しかし人間より美しい異星人であるように、風間の目に映ずる。  そもそも、良に限っては、甘えかかられ、頼りにされたからといって愛されているとは思えぬように、冷たい目で見、あざけるようにあしらったからといって無関心なのだとは断言できないのだ、と風間は考え、ふいに焦慮にかられた。  これまで、何故か考えてみたこともなかったが、いったい良は巽をどう思っているのだろうと気になる。  良の好意は人が自分によせる好意に対するもので、良の関心は人が自分によせる関心についてのものだ。  本当の心の中では、ひとを興味をもつほどはっきりと見たことなどなく、それに足るほど興味深い人間など知らぬのに違いない。  非常に美しい女か、少年だけのもつ、妖しいナルシスの心を、すべて完璧にそなえている、猫のようなこの若者は、いつもただうっとりと自分をのぞきこんでいる。  そうした、女の心理と少年の冷酷をかねそなえた良にとって、多分に荒々しくサディスティックな巽の関心というのは、ときに、むしろひそかに快いのではないかと風間は思う。  それとも、神聖冒涜の激怒と侮蔑か、どちらかだ。  どちらなのか、知るのが風間はおそろしかった。それはとりもなおさず、風間自身の存在がまさに巽と反対の立場だからだ。  つねに静かに、愛をこめて見守り、庇い、抱きとめる。いわば忠実な犬だ、奴隷だ、と荒々しく風間は思った。  それはまたとなく抱擁力にみちた愛でありながら、底に、一個の成熟した男である風間のかくしようもない瞋恚をもひそめている。  俺は、良にむかって突然牙をむくだろうか、と考える。彼の身内を快いおそろしい血の味が走りぬける。 「良──」  戦慄して、風間はささやいた。 「なに」  きれいな目が見あげ、かえって風間はぎょっとする。口に出したつもりはなかったが、声になっていたらしい。 「──何でもないよ」 「そう」  もう良の顔は動揺の痕跡もとどめていない。いくらか血の気がないようだが、それも車内の暗さかもしれない。  風間はそっとぬすみ見る目をあてたが、衿にきれいな渦をつくっている髪と、コートの大きな衿にかくされて、巽の乱暴がその咽喉に痕をのこしているかどうかも、見ることができなかった。  再び眩暈のようにおしよせてくる、なまぬるい戦慄を風間はぐいとこらえた。 「�アルジェ�だったな」 「うん。ケンか佐久間さんなんかも、来てるかもしれない」 「今日は金曜だからどうかな」  心のゆらぎを見すかされることをおそれながらも、話しかけられれば穏やかに、いかにも二十近くも年長の、もはや若くはない、一家を成した男らしく分別くさい返事をかえす自分が、ふと風間にはうとましい。  俺だって、忠実な犬なんかじゃない、と激しい、こらえたものの逆流を感じる。  本当は馬鹿みたいなお目付役なんかごめんだ。男だったら、征服し、犯し、支配する欲望が当然なのではないか。  風間は車を青山のはずれのクラブにつけようとした。≪アルジェ≫というネオンがういている。  駐車場をさがしているとき、ふいに彼はぎょっとしてアクセルとブレーキをふみ違えそうになった。良が、ことんと風間の肩に頭をもたせかけたのだ。 「おい、気分、わるいのか、良」  あわてて風間は云った。良は風間の肩に頭をもたせたまま、その頭をふった。 「良」  ときどきおそう気まぐれの発作で、むやみに甘えたい気分になったのか、と風間は思い、いくらかうろたえ、そのくせさっきまでの危険で凶暴な嫉妬がたわいもなく俄かに甘くとけ去ってゆくのを感じながら、横目で肩の上の贅沢な重荷を見おろした。  良の目は長い睫毛になかばふさがれている。高慢な猫がふいに甘えかかってきたように、たまらないいとおしさが風間を圧した。 「良──」 「ん」 「お前、大丈夫か? 気がむかないんだったら、やめとこう、送ってやるから、帰るか?」 「………」 「明日、また十二時から、仕事だろ?」 「平気だよ、そんなの」 「お前がよきゃ、俺はいいけどさ。どうする、おりるか?」 「ん──」  何ともつかぬ、あいまいな返事を良はし、風間はひどく右肩を熱く感じながら、良ももしかしてこの相寄った一瞬を長びかせたいのではないか、とふと虫のいいことを考えた。  車は、やっとみつけた駐車場にすべりこむ。良は頭をもたせかけたままである。風間は車をとめた。  ふいに、このままそっと驚かせぬよう顎に指をかけてもちあげさせ、その小さく開いた唇に唇をかさねたい、という激しい欲望がつきあげた。  わけもないことだ。ただひとつの動作でいい。良は、別におりようとせかすでもなくじっとしている。  風間は惑乱を感じた。良は拒まないだろう、と確信した。  それは危険な一瞬だった。何が彼をひきとめたのか、風間にはわからない。  良はじっとしていたのだ。風間はそうしようと思った。しかし何かが、彼をおさえつけ、指をあげさせず、良にふれさせなかった。  風間は心中に呻き声をあげた。一瞬は去った。 「──良……」 「ん──おりよう。車ここでいいの?」  良はドアをあけた。むろん、なんの未練もなく身を起こして。  少しの休息ですっかり元気をとりもどした人のように、いくらか多弁になり、ネオンの光で、頬にも血の色がもどっていた。  風間は黙ってキーをぬいて、車からおりた。 「今西良じゃない?」 「そうよ。ジョニーじゃない」 「サインもらおうよ」  十時すぎの時刻だったが、そのへんのスナックででも遊んでいたらしい若い女が二、三人、良をめざとく見つけて近寄ってくる。  慌しくサインをしてやり、それ以上むらがって来ぬうちに店のドアを押す。いつもの夜がかれらを出迎える。  結局、風間には、良の気持は、知るのもおそろしく、知らずにおくのもいたたまれぬように、不可解なままだった。     8  良は謎だった。誰でも俊敏な判断力を備えた者なら、しばらくひとりの人間を見ていれば、その人間のいわば〈根本原理〉を見ぬくことができる。そうすればそれをもとにして、ある程度はその相手の行動様式というものをおしはかれるわけである。  それはたとえば巽にあっては、力、筋を通すこと、率直であること、男らしくあること、などが根本の問題になっているし、たとえば光夫ならば〈恰好よく〉進退すること、もたもたしないこと、おのれの美意識にしたがうこと、にかわる。  風間にも彼なりのいささかの信条や偏見や好みはあって、それが彼の行動を決定していることは真実である。  ところが良にはそれがない。いや、あるのだろうが、微妙に世の常の人と次元を異にしているために、風間はしばしばとまどい、判断がつかず、まごつかされることになるのだ。  ひと晩、はしごをして歩くうちに知りあいがひとり加わり、ふたり加わり、結局十五、六人でいつものように賑やか好きの良をかこんで大騒ぎして酔っ払い、タクシーでマンションに送りとどけてやるはめになったが、終始良は楽しそうで何の屈託もなかった。  その直前に巽とあった≪ちょっとしたこと≫も、たしかに何か感じた筈だと風間としては思いたい。風間との微妙な一瞬も、良の心にはたわいのない座興のように忘れられ、影さえおとさなかったようである。  風間に対する態度にも、少しの変わったところもない。  そればかりでなく、気にした風間が次のビデオどりのときわざわざ車で送り届けてやってようすを見たが、表情をこわばらせて具合のわるそうな巽と会っても、良は何かあったとすら覚えていないように見えた。  風間のほうはそうはいかず、瞬間くわっとするものをおしこらえて冷やかに敵意をひそめた挨拶をかわしたが、良は怒るでなく、といっていつもより親しみを見せるのでもなく、しきりに仕事の話をしながらスタジオに入った。  風間には、さっぱり理解できない。わけがわからないと文句を云いたくなる。ひとりで怒ったりはらはらしたり嫉妬したり、ふりまわされたようで、あらためて良の血の温度の常ならざることを感じる。  ささいな汚穢は、良の世界を包みこんで封じている透明なガラスにあたってはねかえされ、所詮ふれることもできないのだと知った思いである。 (と、いうことは──こっちも同じ、ちょいと甘い顔されていい気になるだけバカってことか)  風間は苦笑した。 「オヤ、どったの先生《センセ》。ショボクレてるじゃない」 「やあ、お揃いで。何だ仕事かい」 「そ、ジョニーの録画済んだらその足で5スタ。ヤング・パレードのメイン・ゲスト」 「──サムちゃんいないのか」  風間はかすかに眉を曇らせて、レックスたちを見まわした。光夫、弘、次郎、泰彦、昭司──バンドのボーヤたちに手伝わせて楽器を運びこむところだ。 「今日からやらしてもらいます。よろしくお願いします」  泰彦が神妙に頭を下げた。もう、何回か風間のマンションでみんなが例のばかさわぎをやるときひっぱって来られて、すっかり馴染んでいるが、完全に修からひきついでプレイに加わるのは今日が最初だ。 「サムちゃんはあそこですよ。な、みんな、ちょっと見てこうか」 「うん、ヒヤカシに行ったろ」 「きっと照れてまちがえるぞ、あいつ」 「その前にこれ運ぶの」 「あいあい、リーダー」  わあわあとエレベーターに近づくのを見送って、風間はゆっくりとスタジオに歩いていった。  よこされた分の音楽はとっくに済ませてしまったし、用もないのにこう入りびたったら、ただでさえ敏感な連中にさぞ目ひき袖ひきされるだろうと思うと全身があつくなるが、良が自分の目のとどかぬところで巽といるというのがいやである。  何を云われたってかまうものか、やりたいようにやるのがモットーだと、本番中でないのをのぞき窓からたしかめて、ふらりと入っていった。  前は、曲のモチーフを、見て考えるとか、前もって見ておくとコンテづくりが楽だとか云いわけを考えてはのぞきに来たが、もうそんな云いわけをつくる気も失せている。  久野にニヤッとされながら、入っていき、 「また来たよ」  と反抗的に云った。 「ジョニーならメーク中」 「いいんだよ、見に来たんだから」  A・Dやこれも見に来たらしい脚本家の長谷田に評判などをきき、修の出来をきいてよろこんだりしているうちに、メークをすませて、良と修が出てきた。 「あれ、先生《センセ》」 「どうだい、進み具合は」 「ひと休みして、これからサムちゃんにいじめられるとこ」 「へえ」  からかおうとして、風間はふと、修のようすがつねになくふさいでいることに気づいた。  風間を見てもぼんやり会釈したきり、何も云わない。修にしては珍しい。  顔色も沈んでいるようだ。修が何か口の中で云って用ありげにはなれていってしまったので、風間は良をつかまえてきいた。 「あれ、どうしたの、サムちゃん」 「どう──って、どこか変?」 「気分でもわるいのかな。ばかに風向きがわるいじゃないか」 「そうかなあ、じゃ何かあったんじゃないの」 「何か──って。だから、何かあったの?」 「知らないよ、オレ」  風間は少し呆れて良を見つめ、良のいぶかしげな目に見つめかえされ、何も云えなくなって退散した。良には、そんな興味はないのだ。薄情だの、冷淡だの云うとしたら、云うほうが野暮というものだ。 「このあとヤング・パレードだって?」 「うん、珍しくも五曲も歌わしてくれるんだってさ」 「何時アガリ?」 「さあ、八時頃かなあ。でも今夜だめだよ」 「何故だい?」 「巽さんがね……」  風間は鋭く良を見た。 「ご馳走してくれるんだってさ。何だか知らないけど誤解をときたいんだって」 「行くのか、良」  知らず知らず風間の声がとがる。修がふりむいた。 「約束しちゃったもの」 「良」  風間はたまりかねた。場所柄も忘れた。 「行っちゃいかんよ」 「何で?」  良はひどく驚いたらしい。大きく目を瞠った。  風間は、良の性格の歯痒さに、肩をつかまえて思いきり揺すぶりたいくらいだった。 「だって──わかってるだろうが」 「約束したんだもの、もう。じゃ先生《センセ》も一緒に来る?」  やはり良の反応は少し異和感を風間に感じさせる。 「先生《センセ》が厭なら、どっかで待っててもいいし、明日でもいいけど──でもどうして?」 「それは──」  風間は詰まり、肩をすくめた。オーケー、この場は、俺の負けだ、と考える。 「良、お前の新曲あがったよ。いま編曲中だけど、もう少ししたら練習に入れるよ」 「何てんだっけ」  良は嬉しそうな顔をした。良は新曲をもらうのが好きだ。 「バイ・バイ・ベイビー」 「早く見たいな」 「ジョニー、入るよ本番」 「オーケー」  良は屈託なく風間を見上げた。 「見てくんでしょう」 「ああ、しっかりやれよ」 「バッチリさ」 「ジョニー」 「いま行きます」  セットが、ライトに照らし出される。  波止場の、倉庫の裏手、ごたごたと箱が積んである。良が修にからまれるところだ。  まわりから雑音が消え、カメラのまわり出す直前に、ゆっくりと良が目を閉じ、目を開くのを風間は見ていた。いま、奴は高木圭一になったな、と見てとれる。  目が冷たく、暗くなっていた。カメラがまわりはじめる。良が見まわす。 「誰もいないじゃないか。悪戯──か?」  呟く。  修がチンピラめいたこしらえでのっそりと出る。 「おい兄《あん》ちゃん、悪戯やないでえ」 「カット!」  修が首をちぢめた。やり直しだ。  修は調子がわるかった。風間が見ているせいでもなさそうだ。わずかな出のきっかけをとちって三回やり直した。  良は別に苛立つようすもなく、同じしぐさとセリフをくりかえす。 「あんたかい、おれを呼び出したの。何のつもりなんだい、これは」 「ようわかっとるんやないかあ。お前、余分な手間かけさすんやないで」  チンピラは、良が乱暴して、ゆき枝が流産したことをネタにゆすろうというわけだ。  傷害罪が成立する──良は、巽のマスターから、別件逮捕のワナから逃れるために、店の外へも出るな、信号無視ひとつするなと云われているのを、ふらりとぬけだしてきたところだ。  修のチンピラは実は老警部に手なずけられている。良を怒らせるのが目的だ。  ゆき枝自身は自分で転んだのだと云いはっている。逮捕のネタにならない──かれは執拗くからむ。  良は眉を寄せて耐える。修は、とぼけた中に残忍さを見せて、良の胸を小突く。顎をつかまえてぐいぐいやり、良は目を伏せて抵抗しない。チンピラは図にのってくる。 「ええ、どうなんや。何とか云うたらどうや、ちうとるんやで。ええ、どうやちうねん」  ひとことごとに、衿をとらえてゆさぶる。 「ダメ、ダメ、サムちゃん」  久野がどなった。NGだ。 「何おっかなびっくりやってんの。もっとホントにいじめるつもりでやるの! うんと憎たらしく」 「済んまへん」 「サムちゃん苦労してるねえ」  いつのまにか来ていたらしい弘が風間のうしろで云った。 「サムちゃんにウソでもジョニーいじめろなんて、云う方がムリだよ」  と光夫が云う。 「自分の首しめろって云ったほうがまだましだ」  NGの連続でいくらかうんざりした空気がスタジオに流れ出したが、ようやく修は気をとり直して、OKが出た。  ナイフをとり出し、鼻さきでふりまわして良をおびやかす。顔をそむけようとする咽喉もとに、つきつける。 「何やその目、なんぞ文句あるんか? おもろいな、云うてみい。手むかいしてみい。どうや、え?」  風間ははらはらしながらいくらかぎごちない修の表情を見守った。巽がぬっと顔を出す。 「何のまねだね、こんなところで」  おそろしく、ドスのきいた声だ。咽喉に手をあて、無表情に良は巽を見る。  巽が良の腕をつかみ、無造作に押しやり、進み出る。 「な、何や、ちうねん。凄んだかて、怖ないでえ」  相手がかわったとたん、修が目に見えて楽になった。 「お前は帰ってろ。外へ出るんじゃないと云ったろう」  巽が云い、良は黙って引っこむ。修がびくびくしだすと、相棒のチンピラが応援に出てくる。  修がのっぽ、相棒がちびでぶの珍妙な組みあわせで、チャリ場めいた関西弁で巽にからみ、まわりをぐるぐるまわり、巽がぐいと向き直るとなかば逃げ腰になりながら虚勢をはる。  サムちゃんリラックスしたな、と風間はおかしかった。急にセリフまわしが自然で、とぼけたいい味が出た。 「消えろ」  巽にどなられ、あわてふためいて捨て台詞をのこして逃げてゆく。ワン・カット終わりである。 「サムちゃん、どうしてだろねえ」  明るくなるが早いかA・Dの木村が文句ありげに云った。 「サムちゃんねぇ、ジョニーのことは、気にしなくていいんだよ。──ねえ風間先生、わかるでしょう。この人けっこういい味出てるし、カンもいいんだけど、ジョニーとのからみになると急にかたくなっちゃうんだ」   久野が云う。 「済んまへん」 「セリフ云ってんだと思っちゃダメだよ。自然にやりゃいいんだから」 「えらい済んまへん、世話かけて」 「いいよ、あやまんなくても」  ひと休みして、撮影再開である。  妹役の三田いずみと、関ミチコの病院でのシーン。女どうしの、ひそかに火花を散らす会話がかわされる。 「お兄ちゃんに近づかないで」  少女はからだが弱い。まぢかい死を予期して、兄の良に兄妹の限度をこえた慕情をもっている。関ミチコのデザイナーの店でもと働いていた。  元の先生の権威で、関ミチコは、あなたの兄さんが私をこんなにしたのだと云う。 「あいつは悪魔よ。きれいな悪魔──許せないわ」 「お兄ちゃんと別れて! お兄ちゃんは、あなたなんか、嫌いだわ」 「一生、はなれないわ! はなれてやるもんですか!」 「売女!」  関ミチコの平手がとぶ。少女は真青になって、倒れ、おきあがったとき、さか手に裁ちバサミが握られている。 「真由美ちゃん!」 「汚ない女──あたしのお兄ちゃんにさわらせないわ。二度と見られないよう、その目をえぐってやる。殺してやる、殺すわ──」 「何をするの!」  関ミチコはベッドから動けない、ハサミをかざし、一歩一歩近づいてくる少女を見ながら、布団の端を握りしめ、恐怖に目を瞠き、唇まで白くして声も出せなくなる。少女が迫る。 「やめて!」  ハサミがふりかざされ、ふりおろされようとした刹那、少女は心臓をおさえて倒れる。  発作が起きたのだ。倒れた少女を見つめ、悪魔的な想念が、ふるえているゆき枝の心をよぎる。 (この子は、こうしておいたら、死んでしまう。こんど発作が起きたら一刻も早くカンフル注射をしなければ助からないってきいたわ。だけど──だけど──)  女の指がわなわなふるえながら、医師を呼ぶボタンにのびては電気にふれたようにひっこめられ、またのびてはひっこめられる。とうとう、ゆき枝は悲鳴をあげて布団をかぶってしまい、ボタンはおされない。少女は意識を失ってゆく。  ひと休みのあと、セットを変えて幻想シーンの録りになった。  兄と妹の、許されない愛撫の美しい幻影。三田いずみは、良に似ているというのを条件にして選ばれた新人なので、まん中でわけたロングヘア、ほっそりした未熟な肢体にもかかわらず、良と並ぶと本当の兄妹にも見えた。  ライトがしぼりこまれ、額をおしつけて見つめあうふたり、ゆっくりと唇がかさなるのを少女の長い髪がおおいかくす。掌と掌をあわせ、鳥の羽根のようにやさしい接吻をくりかえす。ふたりとも上半身裸で、良の美しい胸に、サメの牙のペンダントがさがっている。  リハーサルのあと、もういちど同じシーンがくりかえされる。 「はい、OK」  ベテランの関ミチコはほとんどNGを出さずにむずかしいシーンをとりおえた。 「良ちゃん、病院のところまでいけるかい」 「あ──済みません、ヤング・パレードの入りが六時半て云われているんだけどな」  時計とにらめくらをしていた清田マネージャーがとびあがって叫んだ。 「半、じゃダメか。畜生、じゃ病院とこ先にとるんだったなあ。ま、いいだろ、もうあと二回分だ。ストックあるから」 「済みませんね」 「いやあ、売れてて結構結構。じゃジョニー、あがっていいよ」 「お疲れさん」 「どうも」  ラブ・シーンを済ませた良はいささか照れた顔でセットからとびおりた。  黒いシャツのボタンをとめながら風間たちの方にきて、照れ笑いをする。 「やだな、みんな見てたの」 「カッコイイ、カッコイイ」これは光夫。 「ヘヘヘ、ご感想は」 「よせやい、ばか」 「あれっ、照れてら。可愛いの」 「おいジョニー、メークいそいでくれよ。半に5スタ入りだよ。ヒロちゃんたちセッティング済んでるのか」 「はいはいはい、わかってますよ」 「もう済んだから見に来たのよ、マネの苦労性」 「行こうか」 「お疲れさん」 「じゃ良くん」  今日はあまり出番は多くなかった巽が、すっと寄ってきて良の肩を叩いた。 「八時すぎごろ、迎えに行くから」 「おやジョニー、竜さんにご馳走? いいねえ」 「みんなも来ればいいよ」  良は平気で云う。巽が苦笑した。 「だめだよ、今日は特別だって云ったろ。わるいな、堀内くんたち、良くんを借りるよ」 「先生《センセ》、いいのう?」  外に出てから、意地悪く光夫が風間の腕をつついた。 「良のやつ巽さんとデートだってよ」 「いいもへったくれもないだろう」  風間は機嫌がわるい。 「良は、俺のもんてわけじゃないんだぜ」 「荒れてますな」  光夫は始末におえないというように、ニヤニヤしながらつづけた。 「だから、オレらがけしかけたとき、先生《センセ》のもんにしちゃえばよかったんだよ」 「おい!」 「ウブなんだなあ見かけのわりに──ま、いいや、じゃ先生《センセ》、今日はオレらにつきあいなさいよ。どうせヤケ酒でしょ? 置いてきぼりくらったどうしでハシゴでもしよう。ヒロたちに云っとくからさ」 「わかったよ、お前らで我慢するよ」 「あれ、ひでえな、我慢するはないでしょ」 「何かいい話?」 「リーダー、今夜|先生《センセ》が奢ってくれるってさ」 「あれっ、いい話だなあ」 「勝手にしろ。じゃどうするかな、あがるころそっちを見に行くか」 「いいですよ、金主のおおせどおり」 「足もとを見やがって」  光夫たちと馬鹿話をしているうちにいくらか気は晴れてきたが、今夜は荒れそうだと風間は思った。  何か異様な激情が爆発してほとばしり出る寸前の、おちつかぬものが身内にうごめいている。  事務所にもどれば、現在トップ・クラスの流行作曲家でヒット・メーカーの風間俊介に、なんとかしてひと目でも会ってコネをつけたい新人歌手、そのマネージャー、もうひと花咲かせようと、作曲を頼みこんでくるベテラン歌手から、アレンジャー、バンドマン、プロモーター、あらゆる用でやってくる人間があとを断たない。曲をつくってもらうためなら何でもする、と暗に肉体提供をほのめかす歌手にもことかかない。  しかし風間は売り出し当時はともかく、看板が通用しだしてからは、そういうほのめかしに乗じたことはいっぺんもない。  いつも組む杉森あたりにお固いと冷やかされるが、そうではなく、裏を知っている彼には、洋服が似合うためには絶食寸前まで痩せて、はがしてみれば枯木のような、プラスチックの人工美人には何の食指も動かないのだ。  それでも書けばヒットをとばしているから、あっちからもこっちからも風間先生で立てられる。その彼にして、たかがひとりの若い歌手のために、こうまで鼻づらをとっていいように引きまわされるのかと思う。 「大体お前らがわるい」  その夜は案の定荒れた。行きつけの青山のスナックからクラブへまわった頃合には、相当できあがっていた。 「何だよう、先生《センセ》、嫉いてんだろう」 「なにを云うか。俺はだな」  レックスたちもいい加減荒れていた。生放送の歌番組で、初仕事の泰彦が緊張のあまり手ひどくポカをやらかしたのである。  泰彦の前で云わぬよう、車の中で弘がささやいたが、ベースがハウリングを起こし、ピーという音が三分くらいつづいて、良の歌を消してしまったのだ。  泰彦はしょげかえるし、それでメロメロになってエンディングのブレークでも一音ずつずれた音を出してしまう始末だった。 「オレ、駄目なんだ」  泰彦はメソメソしだし、良はそのまま巽と出かけてしまうし、修が客のすわる�ヒナ壇�のうしろにきてそっときいていたけれど、この始末を見ると黙って帰ってしまった、というのをA・Dからきかされて、それこそかれらはどうにもたまらない気分だったのだ。 「何だい、先生《センセ》らしくないんだよ。大体だ、ジョニーに惚れてんならねえ、サッサと物にしちゃったらどう」  泰彦の手前誰ひとり、口が裂けても、修がいたらなどということは云わない。泰彦の気をひきたてようとさんざはしゃいでみても、どうもすぐに滅入ってきて、あげく、光夫が風間にからみだした。  風間もいまごろ良と巽がどうしているか、などとたえず頭の隅で考えて、荒れてはいても、泰彦に気をつかうあまり荒れるメンバーを見ていると、いい奴らだ、と怒る気にもならない。 「いいか、俺は、そんなんじゃないんだ。お前らだってわかってるだろ、俺は巽みたいな人間じゃない、惚れとらんとは云わんが、意味が違うんだ。よしてくれ」 「違やしないさ。だったら、なんでそんなにジタバタしてるの。ここんとこ先生《センセ》ジタバタしつづけじゃないの」 「大きなお世話だ」 「そうはいかないよ。オレらだってジョニーのスタッフなんだ。先生《センセ》だってそうよ、ここんとこまるで専属の観があるんだから」 「何を云うか、ちゃんと仕事はしてる」 「気持の問題だよ。そうでしょうが、先生《センセ》、いったいなんで巽さんのことが気になるの。もし本当にファン的心理というか、信仰のごときものだったらさ、よく云うじゃないの、恋をすると芸にツヤが出る──芸人は何があってもそれをコヤシにできるっての」 「俺は良を変えたくないんだ」  風間はやけになってボトルを空にする意気ごみであおりながら云った。 「わかるだろ」 「わかってますよ。でもね、オレとしちゃ、オレたちのジョニーはそう甘くないって気もあるよ」  おちついた声で弘が話をひきとった。 「そんなことで変えられるようなら、ジョニーなんて呼ばれちゃいないってことだ」 「わからんね、俺には。お前たちだって、はじめは巽を良に近づけたくないって云ってたじゃないか」 「そりゃ、思いましたよ。いまだって、できるもんなら、近づけたか、ありませんよ」 「じゃ何故──」 「ただ──これは次郎や、ましてヤッチンなんか入ったばっかりだから、オレにはどう思ってっかわからんけど、オレらは──少なくとも、オレはねえ、修のことがあって考えた。つくづく考えちゃったんですよ、あれほどジョニーにいかれてたサムちゃんが、むしろ≪愛すればこそ≫出てったってこと。オレはこれでいいんか、て考えて考えてね。でも、これでいい、と思うの。ただ、これまでよりもっと、これでいい、と思うようになったんですよ。つまりね──これまでレックスでまあ仲よくやってきたし、オレら良の一部分で、いわば良って花の根っこや幹で、それでいいと思ってたのね。それが、サムちゃんが出てから、もっと、積極的に、良の一部であっていい、つまりオレらこれまで、良を支えて、良にいい歌うたわすよういいプレイして、とばっかり考えてたでしょう。  それが、もっと違ってもいいんじゃないかと──つまり良も変わっていい、オレらもメンバーいれかわったり、よその仕事をしたり、変わりつづけて当然だ。むしろ、良がどう変わるにせよそれについてったり、反対にオレらが良をひきずって変えたりしていい、そう思えてきたんだな。ちょっとヤッチンも昭司もきいてよ。そんなふうに思いはじめたらね、何もこれまでみたいに、良の個性ってもんをオレらの方向にして、オレらはひたすら一致しよう、とけこもうとしなくてもいいんじゃないか。むしろオレらが好きにやってプレイの面では良とぶっつかることになったって、それはそれで、もしその上にさらに良がグーッとその脱線しかかるオレらをとりまとめて吸収してく力があったら、もう一段のぼれるんじゃないか、思うわけよ。  だからさ、サムちゃんは良のあまりにもとけこんだ一部分になろうとして、結局できなくって、出てかなきゃならなかったんだと思う。大体良は特別なんでね。そんな奴に、いくらオレらとけこんでも、完全に奴の中にとけこむことなんて出来ないのよ、それぞれ別の人間なんだから。だったら、あんまり一致の融和のって考えず、オレらが変わってもいい、良が変わってもいい。たとえばオレらの仕事はいつもピターッと良を支えなくたって、さっきのヤッチンみたいにズッコケたっていいと思うんだな。良がポカしたっていいと思う。それが音楽でしょ。オレらカラオケじゃないんだからな。ワッとジョニーが乗って、オレらが必ずしも乗ってかなくたって、良の方でそれをむりやりペースにひっぱりこみゃいいんだしさ。  だから、あえて云うけどねえ、ヤッチンは一回ノッただけで駄目もヘチマもないのよ。ホントのプロの、カラオケがわりのバック・バンドなら、どの歌手のうしろでも、ピターッと決まったようにするために|ネーカ《ヽヽヽ》もらってんだ。けど、オレらは、今西良とレックスであってねえ、つまり良とナマの音楽やるために一緒にいるんだろ。そういつもいつもキッカリと同じアレンジで、同じボリュームで、同じとこで同じようにもりあげるためにジョニーのうしろでやってんじゃないんだよ。  良だって、わかってる筈だよ。奴、こないだの大阪のコンサートんとき、例のサムちゃん作詞の歌、オレたちにはわかるよってとこ、あなたにだってわかるだろうって変えて歌ったろ。良はね、テープレコーダーみたいなヒットソング歌手じゃない、奴の歌は奴と一緒に変わるんだ。だからオレら良とやってる、やっていきたいと思ってるんだろう? だったら、オレらだって変わって、伸びて、良を変えて、良と一緒に動いたっていいんだよ。間違えようがポカしようが、ハートがありゃいいんだよ」 「リーダー──いいんですよ。オレ、わかってます」 「バッカ、手前みたいな|キーガ《ヽヽヽ》慰めるためにこんなこと云うかい。いいか、オレらは一体これまで何百回ステージ踏んでると思う。そのあいだに一体何千回ポカもポカ、自殺したくなるような大ドジやってると思うんだ。お前、何回ポカした。一回だろ。そのたんびにヘバってた日にゃ──こんな商売やってられやしないよ」 「光夫だってみろよ。�街路�のオープニングテーマ、ついにミス・タッチのまま入ってんだぜ」と昭司。 「あのファイヤー・コンサートのライヴきいただろ」 「サムちゃんだって、オレだったらなんて思っちゃいないよ。オレらもサムちゃんも、そこまで未練がましかない、女々しかないや。いまはもうレックスのベースは加藤泰彦、そう思ってらあ。そいつがいっぺんハウらせたから、もうあいつ使えねえとか、駄目だなんて、誰が思うと思ってんだよ」 「リーダー」 「まためそめそしやがる。お前、泣き上戸か。わかったろ、もういいんだろ。いいな?──で、先生《センセ》だけどさ」 「いいよ、こっちは。お前さんの説はよくわかったよ」 「よかないよ。だから、つまり、巽さんとかさ、そんなことでつぶれる奴なら、ハナっからジョニーだ、今西良だって、たてまつっちゃいないってことですよ。もし良が仮に巽さんとデキてだなあ、それで奴が、奴の歌が何か変わるんなら、どう変わるもんか見てやろう、それにこっちがついてけるかどうか、それともその変わり方がわるく変わってりゃこっちがガンとひきもどしてやる、とにかくよかれあしかれ一緒にいるからには、奴をとことん見届けてやろうってことですよ。オレ、このごろ実にしみじみーとそう考えてるんです」 「そりゃお前さんがたはそれでいいかもしらんが、俺の立場はどうなる」 「だから先生《センセ》も自分に正直になりゃいいんだ」 「これ以上、どう正直になりゃいいてんだい」 「巽さんとドス片手に話つけるなりさ、殴りあいするのもいいし」 「冗談じゃないよ。俺はあわれなひょろひょろ文化人だ。巽みたいなヤーサマ映画で鍛えた旦那の相手になれるかい」 「先生《センセ》だってまんざら腕っぷし自信なさそうでもないじゃないの」  光夫が笑い出して風間の腕をさわってみた。 「いいからだしてますよ」 「巽の旦那は場数踏んでんだ。いい加減なけしかけ方すると、殺人幇助だぞ、お前ら」 「はははァ、いまに血ィ見るドって奴か」 「勝手にバカにしろ、畜生」 「いや、大丈夫だって。先生《センセ》なら、たとえちっとばかり実戦じゃ場数足りなくたってねえ、カンロク勝ちだって」 「いい加減にしてくれ」  泰彦もどうやら元気をとりもどし、急に座がわいてきた。風間はもともとウワバミといわれるくらいの底なしだが、それから調子が出てもう一軒、もう一軒とかさね、六人横隊で肩を組んで青山通りをのたくり歩き、若い連中は大声でかたっぱしから良のレパートリーをわめき出し、さすがの風間もいいかげん酔っ払って弘たちと別れたとき、すでに一時をまわっていた。  光夫たちはまだ飲むのだとわめいていたが、さすがにそろそろ四十の声をきこうという風間には、夜明けの駅のベンチまではつきあいかねる。  勝手にやれと少し余分に金だけおいて出た。  いつもならボトル一本ぐらいではふらりともしないが、今夜はいくらかまわってるな、と感じていまいましい。  車は駐車場に預けたまま、マンションに帰ろうとタクシーをさがしかけたが、公衆電話が目につくと、ふらふらと近づき、十円をおとしこんだ。  良のマンションへかける。呼んでいるが、誰も出るようすはなかった。二十回、信号音をきいて切り、またかけなおし、また二十回かぞえて、受話器を叩きつけた。  瞬間、巽の出没しそうなバーというバーをまわってさがし出してやろうかという狂おしい想念にかられたが、考え直して、タクシーを拾った。 (俺はバカだ。良が巽に何をされようと知ったことか、帰って寝ちまえ)  運転手に行先をつげ、ぐるぐるしだす頭をかかえて目を閉じていたが、いやにすぐついたと思ったら、間違ってか、潜在意識のなせる業か、良のマンションの住所の方を告げていたのだった。  深夜料金をおとなしく払い、おりて、しばらくのあいだどうとも心をきめかねて風間は建物の前に立っていた。  三階の、良の窓は暗い。帰ってきていないのだろう。  俺はまるで嫉妬に狂った女みたいなふるまいをしている、と風間は考えた。  こいつも俺の信条にはないことだ、と肩をすくめる。  良のためだ。良が彼を狂わせたのだ。  彼は三階まで上り、ノブをひっぱって、鍵のかかっていることをたしかめ、また下へおりていった。  彼のわずかにのこった理性は、こんなところで何をしている、帰れ、帰って寝てしまえ、と狂おしく叫びたてたが、何かが彼をひきとめていた。  俺はばかだ、こうしていて、もし良が夜明けまで帰ってこなかったら、良が巽とそうなってしまったと証拠だてるようなものだ、そうしたら俺はどうなるのか、ナイフでもひっつかんでとび出すつもりか、と深更の寒気に酔いもさめてゆきながら思う。  しかし、彼の中のあるものが、どんな彼自身の困惑の声をきこうともせず、彼を動かしていた。  どうやって時がすぎたのか、彼にはほとんど、覚えがない。  ようやく、エンジンの音がきこえ、見覚えのあるスカGが近づいてきたとき、機械的に風間は身をかくし、街灯にすかして時刻を見た。午前二時四十分。  車がとまり、巽がおりてきて、ドアをあけてやった。  何を期待していたにせよ、或いはおそれていたにせよ、その風間の予期は外れた。  巽は、いたって穏やかなようすをしており、別に良の方も何かあったとも思えない。  毛皮の衿のついたコートがあたたかく良の細身を包んでおり、楽しくすごしたあといつもそうなるように、目がきらきら輝いて、頬が上気し、美しかった。 「ありがとう」  屈託なく良が云った。 「楽しかったよ、今夜」 「またつれてってやるよ。あそこ、いいだろう」 「うん、いいね」 「俺もいい子にしてただろう、ジョニー? 本当に、この前のことは、済まなかったと思うよ」 「いいよ、もう」 「風邪ひくよ。いいから入って」 「うん。じゃ、また」 「ああ、お休み」 「お休み」  良が建物に入ってゆくのを巽はいかにも立ち去りがたいように見送り、煙草に火をつけ、それから車に乗った。くわえ煙草で発車する。  見送って、急に風間の胸が穏やかならぬものにざわめきはじめた。  巽は何も乱暴な、強引なことはしなかったが、しかし良のことを、まるでその甘さを舌さきで味わっているような声を出して、「ジョニー」と呼んだ。  これまで、巽は、もっと他人行儀に、良くんとか、今西くんとか、呼んでいた筈である。  風間はかあっとのぼってくるものを感じて、建物にとびこみ、エレベーターを待たず、三階まで階段をかけあがった。  うすぐらい電灯に照らされたコンクリートの通路に、良がちょうど出てくるところだった。 「良!」 「あ」  良はひどく驚いたらしい。 「どうしたの、先生《センセ》。こんな遅く──来てたんなら、中、入ってればいいのに。先生《センセ》なら、鍵、ある場所知ってるでしょ?」 「ずいぶん遅かったんだな」  何か、知らぬものが風間を動かしていた。  よした方がいい、やめろ、ひきかえせ、と風間の脳は警告を発していたが、舌の方が勝手に動いた。 「巽さんと一緒だと、そんなに楽しいかい」 「何云ってんの。変な先生《センセ》だな──あ、酔っ払っているのか」  良はいくらか眉をよせ、鍵をとりだして、鍵穴にさした。かっとして、風間はその手首をつかまえてひきよせた。 「酔っていないさ」 「酔ってるよ。でも、珍しいな、先生《センセ》のそんなところ。リーダーたちと飲んでたの」 「誰とでもいい」  風間がきつく手首を握り、荒々しく云った。 「良、巽とつきあうな。いや、つきあわんでくれ、頼む」 「先生《センセ》?」  良は握られた手をもぎはなしてむき直った。  頬の赤味が失せ、目が、良がこれまで嫌いな、或は関心のない誰かれにむけるところはよく見たが、ついぞ風間にはむけられたことのない、ガラスのような冷たいきらめきを帯びて、風間を見あげた。 「先生《センセ》が巽さんを嫌いだからって──」 「そんなことじゃない!」 「あの人はいい人だよ、先生《センセ》」 「良、わからんのか」  それもまた、何かがとりついて風間を動かしたのだとしか、云いようがない。  風間は手をあげて、したたかに良の頬を打った。  良はよろめき、ドアにもたれかかったが、目は相変らず冷やかだった。 「何故、殴るんです」 「お前は、俺を苦しめたいのか」 「何が──先生《センセ》、こんなところで、そんなこと、云われても困るよ。帰ったら?」 「良!」  風間の目を見て、良は気を変えたらしかった。 「それとも、おちついて話しするなら、中で話そう。ぼくは、酔っ払いにからまれるのなんか嫌いだけど、先生《センセ》だし──」 「良──」 「コーヒーでも入れるから、もう乱暴しないでよ」  風間はおとなしくついて入り、うしろ手に戸を閉めた。何回となく、良を送ってきたり、風間のマンションでないときはここで集まってさわいだりして、よく知っている部屋である。 「さあ、おちついた?」  コートを投げすて、ストーブをつけ、ヤカンを火にかけて、良は云った。  良はひとり暮らしである。付き人やバンドの誰かれはしょっちゅうとまってゆくし、はじめは付き人と生活していたが、好き嫌いの激しい上に大体毎晩何かしらつきあいで朝帰りだし、寝るだけだからと、良がいやがってひとり住いにしてしまった。  そのかわり清田マネが歩いて三分というところに住んでいる。 「──済まん」 「いいよ。そりゃ、酔ってるんなら仕様がないもの。でも、どうしたの」 「わかってるくせに、そんなことを云うのか?」  風間は恨めしい目で、ぐったりソファにかけて良を見あげた。 「さっぱりわかんない」 「なあ、良──巽とつきあわんでくれ。お願いだ。あいつは危《やば》い奴なんだ。こないだあんなめにあって、いいかげん本性が見えたろうと思ってたのに──頼む。奴にこれ以上近づかんでくれ。俺は──危なくて、見ちゃいられないんだよ」  また、風間はしだいに激昂してきた。良が鋭く風間を見た。 「巽さんはこの間のことははっきりあやまったんだ。それでいいじゃないの。今夜だって、とても楽しかったよ。ぼくは、嫌いじゃないよ、あの人のこと」 「良!」  風間は爆発的に立ちあがった。良がいくぶん身をひいたが、その顎はぐいとあがっていた。 「お前──巽が好きなのか」 「好きも何もないでしょう。わるい人だなんて思ってないし、嫌いじゃないな。どうして、つきあっちゃいけないわけがあるの」 「俺が頼んでるんじゃないか」  風間はじわじわとのぼってくる、何か凄まじいなまぬるいものを感じた。 「じゃ」  良がゆっくりと風間を見あげ、猫のように高慢な、ばかにしきった目で見つめた。 「先生《センセ》はぼくの何なの」 「良!」 「ぼくはね、誰とつきあうなだの、つきあえだの、そんなこと自分できめるよ。さしずされるのなんて、真平だな」 「良──」 「わけも云わずに、危いの、わるい奴だのって、云ったって──」 「良!」 「何をするんだ!」  風間の中をゆっくりとかけのぼってきた赤いものが、ついに彼の口に血の味をのこし、くわッと脳をつきあげた。風間の目の前が凄まじい憤怒と激情に赤く染まる。風間の手が、良の肩にのび、ひっつかんだ。     9 「良!」  そのとき、風間はすでに正気とは云えなかったかもしれない。  つきあげ、押し流してくる|もの《ヽヽ》にまかせて、良のひきしまった肩にふれた瞬間に、風間は獣になった。  ひきずりよせる手に力が入り、指が肩の肉に食いこみ、良が鋭い声をあげた。  激しく、ふり払おうとする。風間の力がまさっていた。  ほんの数秒のあいだ、無言の争いののちに、風間が良を引き倒した。  同時に膝をその倒れた良の胸に乗りあげた。  良の目が、憤怒に火を放っている。肩で喘ぎながら、風間をはねのけようともがく。  筋肉のひきしまって細い、弾力のあるからだが、はねかえそうと海老のように反りかえる。  風間はほとんど憎悪にちかい激情をこめて良の頬を打った。黒いシャツの衿に指をかけ、力をこめてひきさく。  ボタンがはじけて飛んだ。  もがきつづける良の上に馬乗りになり、シャツの残骸ごとはりつけの形に両腕をおさえつけ、彼は異様なはりさけるほど瞠いた目にあらわにされた良の胸を凝視した。  ふいに風間は噛み破るほどの力をこめて唇を食いしばった。良の肉体は、美しかった。  のけぞらされて、のびきった咽喉の線、そこからたとえようもないエロティックななめらかさで風間のからだの下におさえつけられている胸、傷ひとつなく血の通った大理石を思わせるその肌は、盛りあがってもいず、痩せすぎてもいず、完璧ななめらかさで美しい小麦色がかった肌色を見せ、そこにほの紅いふたつの乳頭が衝撃的なアクセントをつけていた。  その胸はそのまま細くひきしまって腹から腰へつづいていく。不壊の彫像のように青春の香気と生命が息づいている、悪魔的なまでに美しい嫩者《わかもの》の肉体は、しかし風間に、目もくらむ激しさで、ナイフを、鞭を、何でもいい、すさまじい嗜虐への渇望をおこさせた。  その肉体はあまりにも完璧に自足しており、そのめくるめく美はふれられ汚されることを拒否して誇らかに嘲笑をひそめていた。  おそらくそれは激烈な、この世ならぬ巨大な感情、光と歓呼とリズムにとりかこまれて演ずる常ならぬ空間のための祭礼にこそふさわしい肉体なのだ。  その美は、電流のように生命の深奥の潮流をほとばしらせ、星からのエネルギーを直接うけとめ、そしてこの世に耐えうるかたちにして放電するための神聖なミューズの器だ。  それは人間《ひと》のものでなく、もっと巨大で無限な、光と闇、神と悪魔の共にある世界に属しており、それゆえにこそ、歌いもせず、ライトもあびず、あの魔教の巫女の踊りをも踊らぬとき、ささいで卑小な日常の時間の中にあるとき、それはあまりにも赦しがたかった。  しばしの空白のなかにあって、それはあまりにも自足し、充足し、世の常のみにくい虫どものように他を必要とすることがない。  それはむしろ憤怒にちかい思いだった。  この完璧な肉体の傲慢な自足をやぶり、ナルシスのなまめかしさと地獄とをかいま見させるガラスに守られてまどろむ悪魔の寵児に一回の苦悶の叫びを洩らさせるためなら、そのために何になってもよい、魂など千回も売ってもよい、そう、風間は希った。  風間の手が激しくふるえながら、良ののけぞらせた咽喉へのびた。  思わずも、巽と同じ動作をしていることに、風間は気づかなかった。抗しがたい欲望にかられて、その指に力を加えた。良の咽喉が鳴った。  なにか、叫ぼうとするが、声が出ない。  風間の膝が、逞しい彼の全体重をかけて良の胸にのりあげ、踏みにじっている。  良の顔が苦痛にゆがみ、弱々しく襲撃者を押しのけようと腕があがったが、かすかに風間の袖をかきむしるようにしただけで、だらりと投げ出されてしまった。  良はふいに目を閉ざし、ぐったりしてしまった。  風間の、良の咽喉をつかみ砕くほどの勢いで力を加えていた指が、はっと止まった。  氷のような恐怖が彼をひっつかんだ。 「良!」  痙攣する指をかろうじてそのなめらかな咽喉のくぼみからひきはがし、その肩をつかみ、抱き起こす。 「良──どうしたんだ──良! どうした、良、しっかりしてくれ──返事してくれ!」  良を、彼の美神を、殺してしまった、という真黒な恐怖が彼を占めた。  良の血の気を失った顔は、風間の手の中でがくがくと無抵抗に揺れた。瞼が青んで、凄艶なまでに美しい。 「良──」  良はかすかに呻いた。風間はここしばらく覚えのなかった深い安堵の息を吐き出した。同時に狂おしい昂奮が萎えてゆく。 「良──」  良はまた呻き、何回かまたたいて、目を開いた。しだいに焦点があってくる。  良の手が、痛むらしい赤くはれた咽喉にのびた。と思うと、いきなり弱々しいがはっきりしたしぐさで、良は風間の顔をおしのけ、風間の腕から逃れ出た。  喘ぎながら、立ちあがり、ひきちぎられたシャツの残骸をからだからかなぐりすて、ソファのところに投げだしてあったセーターをまきつける。  ひとことも云わないが、その目が青く光っていた。風間はおずおずと云いかけた。 「良──」  良は咳きこみ、セーターをひきよせた。風間を見ようともせずに、つけはなしだったガスの火を消し、ヤカンをおろした。 「良──俺は……済まん──良、大丈夫か──」  ゆっくりと動いているが、足もとがいくぶんおぼつかない。顔には、依然としてまったく血の気がない。 「良──俺はどうかしていたんだ。良……何とか云ってくれ……」 「帰れよ」  良は激昂よりもおそろしい、氷のような声で云った。いつもよりひどくかすれている声は、ほとんど感情が感じられなかった。 「良!」 「帰ってくれよ。もう沢山だよ」 「良、頼む──」 「帰れよ!」  叩きつけるように叫んだとたんに、また激しく咳きこんだ良は、右手で咽喉をおさえ、冷たい拒絶を全身に見せて風間を見おろした。  風間が一歩踏みだすと、良は激しくあとずさりした。人馴れぬ野獣のような、警戒と敵意がその茶色の目をするどく光らせていた。 「良、そんなつもりじゃなかった──」 「何もききたくないよ」 「良──」 「さわるな!」  風間ののばした手から、荒々しくすりぬけると、自分の命令が直ちにきかれなかったことに苛立つ王のように、良は乱暴に足を踏みならした。 「帰れって云ってるじゃないか」  風間は唇を噛んだ。もう何も云わず、一瞬良の目を見つめてから、風間は外に出、うしろ手に戸を閉めた。  手をはなした途端に、内で錠をおろす音が重くひびいた。  云いわけのしようがなかった。  巽の乱暴を責め、なじったばかりである。もしもそのまま良が抵抗していたら、本当に殺してしまったかもしれない。  いや、それよりも、あの狂気の一瞬がもうちょっとでもつづいていたら、たしかに、風間は良を力ずくで犯していた筈である。自らの肉体がそれを望んでいたことを風間は知っていた。  良も知っただろう。これが、巽にむかって、良を汚させない、守りとおす、と大見栄をきった自分の愛の正体か、と思うと、良と再び顔をあわせる勇気も失せた。  身も世もない思いで、しばらくは、いわば自分を罰するように猛烈な勢いで、溜まっていた|シャリコマ《ヽヽヽヽヽ》の仕事に没頭し、ほとんど家を出なかった。  良の出るTVにすら、手をのばす勇気が出ない。それまで、まず毎日一度は顔をあわせ、ことばをかわし、そうでなくてもどこかしらの番組に出ておればつとめてチャンネルをまわし、ドラマの音入れにフィルムを見にいく仕事もあったから、つねに良は彼の日々の大きな部分を占めていたのだ。  それが急に、レコードのジャケットのポートすら、その艶っぽく瞠かれたこちらを見あげている目に射ぬかれるようで、手にとれなくなったのだ。  ものの三日もそんな生活をつづけているうちに、まるで麻薬が切れたように良に渇えてきた。  良の目、良の表情、良のしぐさ、良の甘えかた、良の声、すべてが、どうにも代用のきかぬもので、たまらぬ飢えをひき起こす。  そこへもってきて、光夫と弘が泰彦をひきつれ、つむじ風のように彼のマンションを荒らしにきた。 「どったのよ先生《センセ》、ここんとこばかにおとなしいじゃないすか」 「忙しかったんだよ」 「ふーん、ひでえ散らかしようだな。なになに、『恋するエンゼル』? ふん、ララーラ、ラララ……と、何これ」 「ベル・レコードから出る子のさ。高田ミキって、まだ十五の子。いまB面で苦労してるんだがね。�ファンキー・エンゼル�ってキャッチフレーズだとさ」 「はあ、この子? いけるじゃん」 「だから、今夜は、つきあえないぜ、わるいけど」 「そんなこと云わないでさあ。なんか調子狂っちゃうよ、オレたち、先生《センセ》来ないし修のやつは雲隠れだし」 「サムちゃんがどうかしたの」 「先生《センセ》とおんなじ。どういうわけかこの三、四日、よりつきもしないんだ。あいつ忙しいわけないのに、どうしたんだろうな」 「そういえば、その前から少し妙だったな」  風間はさいごにスタジオで見たときの、こわばった顔で話しかけても来ず、ビデオどりがすむなり逃げるように消えてしまった修を思い出して首をかしげた。 「�街路�の録画があしたあるから、どうせ会うだろうけど、なんか気分わるくってさ」 「ジョニー──どうしてる?」  風間は抗しがたい切なさにかられて、つきあげる羞恥と身のすくむためらいをおしきって小さな声できいた。  光夫の脳天気な顔は、あの出来事を知っているとも思えない。弘も、泰彦も別に屈託もないが、万一知られたらと思うと、わっと叫んで逃げ出したくなる。 「それそれ」  光夫が頓狂な声を出したので、本当に風間は逃げ出すところだった。 「先生《センセ》忙しいのはわかるけど、そんな|シャリコマ《ヽヽヽヽヽ》な|ゴトシ《ヽヽヽ》やってる場合じゃないよ。『バイ・バイ・ベイビー』の音合わせにも来ないしさあ」 「ああ、あれ、いいスよ先生《センセ》」  弘が口をはさむ。 「いいとこいけそうだって佐々さんも云ってた」 「だからさあ、顔出さないと」  光夫がニヤッと笑う。 「巽さんにとられちゃうよ」  風間はぎょっとして光夫の腕をつかんだ。 「巽がどうしたんだ」 「それがねえ、どういう気まぐれか知らんけど、ジョニーの奴、ここ三、四日ってもの、バッカに巽さんにいいの」 「いい?」 「そ、巽さん巽さんて、またあの人がそれですっかりボーッとしちゃって、ドラマの方休みなのにくっついてきてさあ。毎晩二人でどっか飲みに行ってるよ。オレらてんでふてくされ、ね、リーダー」 「ヘヘヘ」 「そういや、あれ、先生《センセ》とサムちゃんが顔見せなくなってからじゃない。ねえ、先生《センセ》、なんかあったの? サムちゃんと喧嘩でもしたとか」 「とんでもない。サムちゃんのことだって初耳だよ」  うろたえて風間は答えながら、頭の芯から血が引いてゆくような気がしていた。  それもあまり調子のいい考えかたかもしれないが、罰だ、というのが最初に彼の頭を占めたのだ。 (良は、俺を罰するつもりなのだ)  どうせ、レックスの連中の口を通して、いずれ彼の耳に入ることはわかっているのだ。  これは、�不敬�な、不届きなふるまいに及んだ彼に対する、良の手痛いしっぺ返しであるとしか、彼には思えなかった。 「先生《センセ》だったらオレらこみでも全然かまわないし、話もできるでしょう。だけどあのヤーサンじゃさあ──あの人、オレらがいるといっぺんに口数少なくなっちゃって、ただこうじーっとにこにこしてジョニーのこと見てるだけなんだもの。やりにくいったらありゃしないし、第一、別に口じゃ何も云わないんだけど、どういうわけかオレら、のこのこくっついていけないムードんなっちゃってさあ」  風間の沈黙を非難ととったらしく、光夫は恨みがましい口ぶりで云った。 「どうも、あれじゃ、あの人、本格的にイカれてきちまったみたい。先生《センセ》気つけた方がいいよ」 「もともと、本格的にいかれてるさ」 「そりゃそうだけどつまり──もっとさ、こう、本当、こわいよあれ。ヘタに良のやつふったりしたら、ヤッパ出てきそうなムードになってきたぜ」 「あいつ、バカだよ、いい顔して見せるからだよ」  弘が眉をひそめた。 「自分の力を自覚してないというか──何にも、わかっちゃいないからなあ」 「あの色っぽい目でこう見あげられたりしたら、こっちはグラッと来るんだってのがわかってないんだからなあ。それともわかってて、面白がってんのかな。そんな奴だからね」 「良の方は、何も云わないのか」  耐えきれなくなって風間は訊ねた。 「別に変わったとこないみたい。先生《センセ》のことも別に何も云わないけど、そりゃ、あいつ、そういう奴だしさ」  弘の口ぶりは、少し歯切れがわるかった。あるいは、良が風間に対して機嫌を損じている、ぐらいは感づいているのかもしれない。また風間は身内が火照ってくるのを覚えた。 「とにかく、サムちゃんは知らないけどさ、先生《センセ》が来なくっちゃ話にならないよ。少しパーッと発散しないと仕事もいいアイデア出ないから、行こう行こう」  光夫たちは、風間を飲みに引っぱり出しに来たのだった。 「おい、困るんだよ本当に。これからこのエンゼルちゃんがマネージャーにつれられて|ご挨拶《ヽヽヽ》に来ることになってんだから」 「あれっ、先生《センセ》浮気する気」 「ばか」 「|そういう《ヽヽヽヽ》わけでここんとこジョニーのこと放ったらかしなわけ?」 「そんなんじゃないったら」 「先生《センセ》も気が多いなあ」 「本当にもう──」 「そうじゃないんなら行こうじゃん。これで、ちょっとした下心もあって来たんだから」 「どうせ金主だろ」 「違う違う、もっと先生《センセ》のタメになること。これからさあ、ジョニーとヤーサンのデート現場、襲ってようす見てやろってわけよ。弘がお目付役の責任があるって云うしさあ」 「どこに行くかわかってるのか」 「どうせあの辺でしょ、昭司と次郎を先乗りさしてあるからさ、行こうってば」 「しかし本当に──」  云いかけて、ふいに風間は考えこんだ。良の顔を見る勇気のない、ためらいよりも、本当は一瞬でもはなれたくない、どんなに苦痛な、恥ずかしい代価を払ってもその側にいたい気持と、それを激しく刺激する嫉妬のうずきとが勝った。 「じゃ、行ってもいいが」  風間はためらいがちに云った。 「その新人が来るまで待っててくれよ」 「そのエンゼルちゃん?」  光夫がニヤリとした。 「いっそ、彼女もつれてったらいい。カワイコちゃんなんでしょ? オレがひきうけてやるからさあ」 「ガキだぞ」 「いいじゃないの。ジョニーにも少し考えさしてやればいい」 「おい、光夫──」 「そうきめたきめた。じゃそのコ待ちだな」  結局引っぱり出されたかたちで、出かけることになった。  挨拶ということでやってきた少女の新人歌手とそのマネージャーも光夫のペースにまきこまれ、いくらか面くらいながら出かけることになったらしい。 「しかし未成年だろう。あまり教育上よくないな」 「いえ、もう、先生《センセ》もついてらっしゃるんですし」  マネージャーはどこの若造かという顔だったが、今西良のバック・バンド、レックスの面々ときくと態度を変えた。  むろん風間には丁重をきわめている。この男が、新人掘り出しでは敏腕といわれている男なのだが、風間に曲を作ってもらうために見せたあらゆる|切り札《ヽヽヽ》のことを思い出して、風間は厭な気持になった。  彼は、|どんな《ヽヽヽ》便宜でもとぺこぺこした揚句、問題の少女歌手は当然どんな要求もきくよう云いつけてあるとささやいたものである。  それを当然の権利と心得ている作詞家、作曲家にはことかかない芸能界だからおどろきもしないが、十五でと思うと、風間は何となくぞっとした。  カメラの前では清純そのものの顔をしているが、素顔は、化粧が濃く、とうてい十五とも、処女とも見えない。  光夫や泰彦にかまわれ出すとすっかり喜んではしゃぎ出し、風間には少女を飲むところへなどつれてゆくためらいもあったのだが、本人が第一に行きたがって、結局ベンツに四人つめこみ、マネージャーをお供につれて出陣という始末だった。 ≪アルジェ≫≪ムラン≫など、いつもゆくところをのぞいてまわったが、良たちの姿はなくて、諦めてそこらにおちつこうとしかかったやさきに、店から出てきた昭司と次郎を見つけ、その案内で、≪モントルー≫へ行った。  生演奏をきかせる店である。少女と風間をとりかこむようにして、どやどやと入った。 「あ、いたいた」  光夫が風間をつつく。  云われるよりも早く、風間の目は、隅のボックスの二人をとらえていた。けだるいジャズが、薄暗い店の中を流れている。  敏感にふりむいて、良は風間を見た。  目と目があう。  と、良はすばやく、そっけなく顔をそむけ、巽に何か話しはじめた。  風間は血が音をたてて冷えるような思いと、かっと逆上する思いを同時に味わった。 「おーい、ジョニー──ちぇ、知らん顔してやがんの」  それっきり良はこちらを見ようともしない。  屈辱と憤怒に黙りこみながら、しかし風間の目も、心も、その主の憤懣やるかたない思いにはかかわりなく、ひたすら彼の内からとびだしてその隅のボックス、良がいる、ただそれだけでこの世界の中心と化している場所へとびさり、良の足もとにひざまずき、まつわりつき、あの狂気の中での一瞬の反逆を卑屈にも呪い、悔い、詫びながらすり寄ろうとし、それきりもうどうしてもはなれることができないのだった。  良の横顔、明らかにまだ怒っているらしい、その冷たい線を描いている横顔の完璧な美しさ、この上もなく冷淡なくせにまたとなくなまめかしい、何ものも汚すことが許されず、何ものもふれることを拒んでいるふしぎな悪魔のような嫩者の浄らかな容姿を見ているだけで、彼のすべての思い、あらゆる後悔や恥にもかかわらず心底にひそんでいる、大の男をいいようにもてあそび、奴隷のようにあつかい、ひとときの錯乱に罰をあたえる女王のような良の驕慢なしうちへの男としての憤怒も、しつこい棘のようにふかぶかと食い入ってくる深刻な嫉妬も、ただひとつの飢渇とどうしようもない讃嘆といとおしさのうちにとけていってしまうのだ。  良、俺はどうすればいいんだ、どうしろというのだ、と風間は苦しく思った。  その間も、彼の目は吸いつけられたように良の一挙手一投足からはなれない。 「ねえ、先生」 「あ──ああ?」  腕をひっぱられて、はじめてしきりに少女が何か話しかけていたことに気づいた。  腰をおろしながら、ふいに彼は理不尽な怒りとうとましさを、彼自身のつれてきた少女にむかって感じ、それはすぐに、彼と良とのあいだにわだかまっているすべての世界への怒りに変わった。 「──ジョニーのサインほしいんだってさ、先生《センセ》」  光夫がニヤニヤ笑いながら云い、風間は眉をよせて、真赤になっている少女歌手の卵を見た。 「大ファンなんですもの。部屋に、パネルかけてあるんです。──お願い、先生」  少女は赤くなったまま、風間に哀願するような目に媚を滲ませた。ふと、年相応の無邪気さが表情に出た。 「もらってやれよ、光夫でもヒロでも」 「先生《センセ》の方がいいんじゃんか」 「何故だ、いいだろう誰だって──わかったよ」  風間はまたかっと身内が火照るように感じながら立ちあがった。覚悟をきめて大股に近づいた。 「やあ。──失礼、巽さん」 「やあ、先生、しばらくです」  巽はゆったりと構えている。表情に余裕と、そしてわずかな隠しきれぬ勝ち誇ったものを風間は見た。  良は冷たい目で見あげ、機械的に微笑した。  風間は完全に良の好意の範囲内から、少なくとも許しが出るまでは追放されたのだと、思い知らせるような冷淡な笑顔である。 「──その子がね」  自尊心が少しでも残っているなら席をけたてて出るべきだと思いながらも、良の冷たい目に、踏みにじられるような、かえって被虐的な執着を感じて、風間は吃るように用件を云った。 「サイン?」  良が弓なりの眉をきゅっと持ちあげ、額に皺をよせた。充分な冷笑がその表情からくみとれた。あまりたちのいい表情ではない。  再び、風間は、この世界にわがもの顔で君臨する美しいアイドル・スターのなかに棲む、残酷で驕慢な一匹の悪魔を見た。  良は、当然立って自分たちの席まで来るものと考えている風間の下心を見すかしたように、黙ってまわりを見まわし、巽が紙と鉛筆をさがし出すと、それへ署名をかきなぐって、無礼なしぐさで風間につき出した。 「良──」 「巽さん」  もう用は済んだろうと云わぬばかりに、巽をふりかえり、甘えるような声を出す。巽は、すばやく機会をとらえた。 「どこか、次のところへ行こうか、良」  良、というひとことが風間を蒼白にした。風間はわたされた紙を手にしたまま立ちつくしていた。 「うん、出ようよ。じゃ、先生《センセ》、また」  良は、豹を思わせるあの特別のしなやかな動作で立ちあがった。  すぐに、巽がコートを着せかけてやる。奴隷に奉仕される王族のように、良はコートの袖を通した。  風間はかれらの出るのをふさぐ場所に、進退きわまって立ちつづけた。  意地もあった。もう、むこうの席の、光夫たちがみな異様な緊張を感じとってこちらを注目しているのは、ふりむかなくてもはっきりとわかっていた。 「先生《センセ》、通してよ」  良が苛立った声で云い、風間は良を殴りつけたくても、そうするべき理由も見出せぬままに、黙って身をはすにして二人を通した。  巽が無造作に会釈する。見せつけぬようにしていたが、その目には勝利とある輝きがひそんでいた。ふいに衝動にかられて風間は良の腕をつかんだ。  そうした瞬間に彼は激しく後悔していた。  何を好んで、このうえ敗北の実感をかさねようというのか。彼の手がふれたとたん、良のなかではっと何かが冷たく凍りつくのが、ほとんど触って感じとれるようだった。 「何、先生《センセ》」 「良──」  風間は咽喉までおしよせてきた、卑屈な詫びごとをぐいとのみくだした。こんなところで、当の競争者の面前で、口にしていいことばではなかった。 「良、こんどの曲だが」  風間はかろうじてごまかした。良はブロマイドのように光のない、殴り倒したくなるような笑顔をむけた。 「こんなとこで、仕事の話なんかよしてよ。じゃ、みんなに楽しくやれよって云って下さい」 「良、行こうか」  巽がすっと良の肩に腕をまわした。ふたりはフロアを横切り、階段を上って出ていったが、じっと見送っていた風間にすら、その一対のみごとな均整は感嘆をもたらさぬわけにはいかなかった。  陽灼けして逞しく、精悍な、守護神のような巽竜二と、その腕に守られてはいてもふしぎなスターの香気で支配者の威厳にも似た磁場を漂わせている、長いコートを羽織った良。かかとのある靴をはいているので、大体巽と並んでもいくらか小柄なぐらいだが、ほっそりと優美なからだつきは、いかにも美しく、若々しかった。かれらはギリシャの男神とナルシスとの一対のように見えた。  ドアがしまり、とりのこされた風間は、はじめて煮えるような憤怒を噛みしめながら手の中の紙きれを見おろした。あまりにも軽蔑しきったようなその署名を、罪もない少女歌手に手渡すことなどしがたかった。  良の、悪意と嘲弄をひそめた許しがたい美しい目が目前にまだちらついている。  あの思いあがった小悪魔を、あのなめらかな素晴しい肉体を踏みにじり、ずたずたになるまで鞭打ってやれたらと風間は思い、神経的に紙きれを掌に握りこんでくしゃくしゃにした。  光夫たちのところへもどる勇気がどうしても出ない。  ふいに激流が風間をつきあげた。  風間はいきなり階段をかけ上って外にとび出した。巽がいようがいまいが構うことではない、その無礼な若者を殴り倒してやりたい欲望が、彼を圧倒した。  巽が邪魔するなら巽ととことん殴りあってやる。柔道何段のアクション・スターか知らないが、風間だって腕力にまんざら自信がないでもないのだ。  かさなる憤懣、恥辱、嫉妬のすべてがひとつになって噴きあげた。  夜の青山通りにとびだし、かれらの姿を求めて風間はきょろきょろした。既に、どこにも二人の姿は見えなかった。 「──先生《センセ》、先生」  弘が走って追ってきたらしく息を弾ませながら風間の肩を叩いたとき、風間は激しい呼吸をしながら通りのまんなかに立ちつくしていた。 「弘か──」 「先生《センセ》、もういいです、駄目ですよ。おちついて下さい」  弘の聡明な目が風間をのぞきこんでいる。風間は激昂が萎えてゆくのを感じた。 「オレたちが気がきかないから──済みません、先生《センセ》」 「いいさ」  風間は深く息をついた。 「──良のやつ我儘だから」 「いいんだ、弘、本当は──俺がわるいんだ、良を怒らした」 「やっぱり、喧嘩したんですね」 「俺がわるかったんだ」  風間は吐息をついて云った。 「良が怒るのも無理ないよ。──俺は、済まんが、帰るよ。どうもそういう気になれない」 「いいです。用ができたって云っときます。ミキちゃんたちは責任もって、もうそろそろ帰しますよ。何たって未成年だから」  弘はおちついていた。 「あの子は、とんだとばっちりで、可哀想なことをしちまったよ。なんて奴だと思ったろう。いずれ、良の機嫌のいいときに、パネルにサインしたのでももらってやってくれよ」 「ああ、覚えときましょう。スター気取りの、イヤな奴だなんて、良のこと、思わせたくないもの。やっぱりオレ行くんだったな」 「まあ、いいさ」  風間はまた溜息をついた。やけに、たったひとりで、誰も、作曲家風間俊介とも、良や巽のことも知らぬどこかの小さな店の隅で、酔いつぶれるまで酒を飲みたかった。  悪魔に心をとられたあわれな男だ。  憎みたい、しかし憎めない。  有数のヒット・メーカーとして、いささかの誇るべき実力も有している彼だが、それをたてに良や巽に復讐を考えるほど愚かになれたらむしろ幸せだと云うべきだったろう。  良ほどのアイドル・スターでも、風間がわざと曲の質をおとしていけば、その座から追うこともできるし、もっと簡単には、致命的なスキャンダルを週刊誌にもらすこともできる。  人気スターなればこそ、プロダクションの根まわしを読んで多少の乱行は公然の秘密と口をぬぐっているマス・コミでも、風間俊介がネタを出すといったら狂喜して乗るに違いない。  だが、それすらも、所詮はつまらぬ空想にすぎない。  なぜなら、いまですら、まさにこのやるかたない憤懣にかられているいまですら、もし良が髪の毛ひと筋でも傷つけられたり、汚されたりしそうになったら、生命を投げ出してでも良を守るためにとびだしてゆくに違いないことが、自らわかりすぎるほどわかっていたからだ。  一瞬の激情から憤怒にみちて反逆を思うとしても、それさえも熾烈な狂おしい渇望のためであるほどに、彼は良に呪縛され、良に身心の底までもむしばまれていた。  良の一顰一笑にも死ねるほどに、その美しい、わるい、我儘な、残忍な、たぐいまれなミューズの愛児を愛していたのだ。  彼は、身に食いこんでくる苦痛な認識のうちにそれを悟った。  良を失うよりは良を殺した方がよかった。  なぜなら、彼はたんに良を愛しているのではなく、良をあがめ、崇仰してすらいたからだ。  彼のわるい、ゆるしがたい美神、いとおしい魔物、たとえ憤怒に燃えようとも、良と出会った最初の日を呪詛しようとも、憎みすらしようとも、それゆえにこそいよいよ風間は良からはなれられぬ自らの心を知るばかりだった。  彼は自分をあわれみながら、コートの衿をたて、サングラスを出してかけ、どこかの赤提灯にまぎれこんで飲んだくれた。  そんな風体をうろんな|すじ《ヽヽ》者とでも見てか、ひとりで荒れる風間に声をかけてくる馴れなれしい酔客はひとりとしていなかった。  風間はいっこうに酔えないままに盃をかさねた。飲むほどに、目前に、ゆがめられた妬心の見せる幻影がひろがり、ちらついた。  巽の腕の中の良、巽と唇をかさねる良、許せぬ、狂おしい映像──妄想の中の良は、不埒なまでになまめかしい、苦悶とも快楽の極ともつかぬ眉根をよせ、小さく唇を開き、額や頬には汗で髪の毛のねばりついた妖しい表情をしていた。  これはいつ見たのだろうと風間は酔った頭で考え、それが二年前のLPのジャケットの写真であったと思いだした。それは歌っている良のクローズ・アップだったのだが、弘たちにそれを見せられた瞬間に風間は強い衝撃を受け、目がはなせなくなったものだ。  彼の知っているどんな女でも、快楽の絶頂の瞬間にもこれの半分も衝撃的なエロティックな表情を見せることのできる女はいなかった。 「まるで──ちょっとショックでしょう、先生《センセ》」  光夫がにやにやしながら云い、 「知らないで見たら」  弘までがにやにやした。  それはどうやらそれまでも長つづきする仲間うちでの冗談のたねらしかった。  はじめ、その写真を風間は良の美のひとつの極致として感嘆するゆとりがあったが、しだいに良に心を奪われてゆくにつけて、ふしぎにたまらぬ不快を覚えるようになり、やがて、それは嫉妬だ、と気づいて愕然としたことを記憶している。  そのときはじめて、風間はこの妖しい濃艶な表情を、他人の目にさらしたくない、本当は息を呑むまでに鮮烈な良のすべての表情、すべての姿態を誰ともわけあいたくない、すべて彼ひとりのガラスの中に封じこめて恍惚と見惚れていたい、という強烈な感情を意識したのだった。  恋というものがもし、独占への欲望であるとしたら、そのあまりにもなまめかしい良の表情に嫉妬を覚えたときから、風間の感情は、うっとりと見あげ、ひたすら讃仰し崇拝する信者のそれから、崇拝しながらも独占を望み、掌中にしっかりと守りかくしたい恋する男のそれへ、微妙な変容をとげたのだと云ってよいのかもしれない。  だが、いまのいま、その良の表情、あれほど鮮烈な、見るものを石にかえたという神話のメデューサのように許しがたい美しい表情は、巽竜二のために、巽の腕の中で、巽ひとりに占められているのかもしれなかったのだ。  風間を見かえした巽の勝利の目の底には、征服への強烈な意志が、たしかにひそんでいた筈だった。  風間は、恋者としては、愛人を恋仇に奪い去られ、信者としては、讃仰する聖なる美神を冒涜の手に汚されねばならぬのかと、身をさいなむ苦痛を感じた。 (俺は、良を殺すかもしれない)  激しい戦慄と──そしてひそかなおそろしい恍惚とした快感とともに風間は思った。  良を殺す。もう二度と、あの許すことのできぬ妖美な表情も、あの歌声も、切なく息をしぼるあの胸をえぐる恋の歌も、あの何か巨大なものにふりまわされ、つきうごかされているような踊る姿態も──誰にもわけあたえることができぬように。  巽の手から奪い、彼だけのものにしてしまう。だが、そうすれば、それこそは、良を本当に愛するならば最も正しい、よいことではないのか。  良は、かりにふしぎなめくるめく空間から流され、地上にとめおかれて望郷に歌を歌う、流刑の天使だ。  それを、この世の常の時間がむなしくもうつろわせるのを手を拱いて見守るよりは、いま、良の最も美しいとき、スターの栄光と、青春の輝く美しさと、人々の愛慕に包まれている良をこそ本当にガラスに封じこめ、永遠の手に渡し、彼自身もその守護者として良とともにいってしまうことこそが望ましいのではないか。  彼は、巽の荒々しい男性によって良が変えられ、征服され、ゆがめられることを見たくなかった。  良の、誰をも愛さず誰にも征服されぬからこそ光をはなつ、男でもなく女でもない、ナルシスの脆い美の完璧、悪魔の美しさと浄らかさが、色あせ、失われ、砕けるのを見たくはない。  彼は踏みにじられても、石を投げられてもよい、ただ、良を失いたくないのだ。 (それよりは──)  何時ごろまで、そこで飲んだくれていたのか、記憶がない。  妖しい想念とさまざまな情景が脳裏をぐるぐるとかけぬけ、彼は再び良のマンションの前に立った。  コートのポケットにつっこんだ右手に、しっかりと、どこで手にいれたか覚えがない、たぶんあいていた金物屋で買ったらしいナイフが握られていた。いつかの、トミーの話が酔った頭にしみこんで、良の胸をえぐるナイフを求めさせたのかもしれなかった。  良を殺す──そのおそろしい思いは、青く炎を噴きあげる業火となって、風間を内側から灼きただらしていた。  良を傷つけることもできぬ彼、良に一滴の涙を流させるよりはからだじゅうの血をしぼり出して捧げたいと願う彼、だからこそ彼は良を殺さねばならぬと念じたのだ。  マンションの窓はぴったりとブラインドがおりており、はたして帰っていないのか、内にいるのかすら見わけることができなかった。 (良! 良──)  あの美しい胸に刃を突きたてようという自らの想念のむごさ、冒涜に呻きながら、風間は痙攣的にナイフの柄を握りしめていた。  だからその思いは、とけるような恍惚をもともなっている。それはこの悪魔に心をとられた男の、一度だけの反逆のブルース、愛するがゆえの反逆だ。  良、早く帰ってくるんだ、俺のこの狂気の去らぬうちに、この泡立つ血管のしずまらぬうちに、この狂おしい酔いのさめぬうちに、と風間は希《ねが》い、また、良、帰るな、帰ってきてはいけない、この狂った俺にその不埒な美しいとりすました顔を見せてはいけない、とも念じた。  いま、良を見れば、彼の狂気はついにせきを切ってほとばしり出るものか、それともその夢見るような冷たい一瞥がかきたてた、あわれな血まみれな反逆の勇気すら萎えはて、その足もとにひざまずく犬と変じてしまうのか、彼自身にすらさだかではなかった。  彼はただひたすら、おし流す激情のままに、喪家の犬のようなあさましい自らの姿を意識するゆとりもなく、マンションのまわりをうろつきまわり、階段を上りかけてはその勇気をなくして逃げるように外に出、また内をのぞきこみ、クラクションの音にはっとしてとびだし、犯罪者のように身をひそめ、しばしの沈黙ののちにまた身をあらわして、狂おしく、少しでもすかし見ようというように、ぴったりとしまったブラインドをのぞきあげたりしているばかりだったのだ。  無意識に、彼は、いくどとなく良の名を口にのぼせていた。それでも、その名は口に快く、甘いままに、くりかえし、やさしく、荒々しく、ささやき、呟き、その名のひびきを舌さきで味わい、ころがした。たしかに、彼の理性は、一時完全に失われていた。  だが、良は、いっこうに帰ってくるようすもないままに、夜はすぎていった。それとももう帰ってきて、眠りについているのか──閉ざされた窓からは知るすべもなく、凍てつく寒気の中で、しだいに彼の酔いもさめ、狂奮も萎えた。  かわって深い失意と苦悩が彼を侵して来はじめた。彼は時計を見、午前三時の文字盤に、徒労の思いにひしがれながら、なおも立ち去りかねていた。  そのとき、何かが動いた。  低くなった、一階の駐車場の柱のかげである。眠りこんだ深更の町並に、水銀灯が青い光を滲ませ、街路にも建物の周囲にも、ほんのときたま通りすぎる車のエンジンの音よりほかに何ひとつ動くものはなかったのだ。  風間はきッとなって身を起こした。  いつのまにかはなれていた指が、またポケットのナイフの柄にのびた。彼は、こちらもまたうろんな余計者であることを忘れていた。  泥棒か、マンション荒しか、それとも、巽が中からおりてきて帰るところかもしれぬ、という思いが彼をとらえた。それだったら、刺しちがえてやる、無茶な闘志がわいた。 「誰だ」  風間は一歩近よって、鋭く低い声をかけた。返事はない。が、気配と感じとで、風間はいよいよはっきりと、そこにひそむ人間の存在を感じた。  風間はポケットからナイフをひき出した。しっかりと握り直し、また近よる。 「誰だ、そこにいるのは」  影が動いた。  ゆっくりと、背の高い、黒い人影が駐車場の中から立ちあがり、街灯の光の輪の中に歩いて入った。その顔がまっすぐに、風間を向いた。 「修……」  風間が鋭く驚愕の声を押し出した。  修は何も云わずに、風間を見すえた。  その目は、何の表情も見せていない。どんよりとして、生気がなかった。奇怪な疑惑が風間の嫉妬に鋭くされた心をかすめた。 「──そこで何をしてた」  鋭く風間は云った。  修は、依然、一語も発しない。その目がゆっくりと風間の顔をはなれて、右手に握りしめているナイフを見た。  そういうあんたはどうなのだ、とその視線が云っていた。  ふいに風間は、修がすべてを──巽と良、風間と良、そして今夜のことすら、すべてを見張り、見届け、知っていたことを悟った。  漠然と感じていた、つきまとう影は修だったのだ。風間の手からナイフがおち、アスファルトにうつろな澄んだ音をたてた。  修は、やはりゆっくりとした、隙のないしぐさで彼に背をむけると、長身を丸めるようにして歩き出した。  ふりかえることもせずに、ゆっくりと足音が遠ざかる。どちらも、一語も発さなかった。 [#改ページ]   ㈿  ──and likewise to him and to him──     10  半年近くの撮影の、終わりに近づいたスタジオの中には、一種独特な空気が流れていた。  みんな、スタッフたちはせわしげにかけずりまわり、怒鳴り、セットのまわりを右往左往している。  いよいよ大詰だという、はりつめたものが漂い、いつもよりいっそう声をはりあげて軽口を叩いている久野も何となく淋しそうだ。  映画ならば、まだしものこりもするが、TVでは、それさえない。再放送はすでに当座の生命を失ってしまっているし数限りなくくりひろげられては、忘れ去られる膨大な番組こそは、うたかたの夢をつくっては次へうつるTVメディアの象徴なのである。  ひさびさに足を踏み入れる、このスタジオだった。妙におもはゆい心地がする。風間が良の≪ご勘気≫をこうむってから、五、六日の日がたっていた。  新曲もあるし、その気になれば、いくらでも、会う口実はつくれたのだ。  むしろ、顔をあわせぬ方が不自然な間柄なのだから、さっそく週刊誌すずめの中には、良と風間の喧嘩をかぎあてるものもいたかもしれない。どちらにも、それだけのネーム・ヴァリューはあるのである。  間のわるいことに、新曲の入った時期で、このところ地方公演の予定もないらしく、良はレックスたちとずっと東京にいた。  正直云って、会いたいのだ。  二日も見ないでいると、ふるえるほど、顔を見たくなってくる。良と仲たがいしている、というより、正確に云えば良の不興をこうむっているいまの状況がなさけなく、卑屈にも詫びをいれて機嫌を直してもらいたくなる気持を、妙な意地がひきとめていた。それはやはり芸能記者の野々村から、 「お宅のジョニーもさ、やりかたが派手だねえ。やくざスターの巽竜二と、あやしいんじゃないか──ありゃどう見たって、あの仲のよさはただごとじゃない。|幕うち《ヽヽヽ》じゃ、もう知れわたってるぜ。毎晩出歩いてるそうじゃない」  ささやかれて以来わだかまっている憤怒である。芸能界に、それは格別珍しくもないが、こと男女の仲ならばやたらに敏感に誰が誰と食事をしたまで書きたてる連中が、ふつうは大体不文律で見のがしてくれる、その方面のスキャンダルとして評判にする、というのは余程のことである。  勝手にしろ、そこへ俺がわるかったから許して、またつきあって下さい、巽とどうつきあおうと、何もさしで口は叩きません、などと尻尾をふって行けるか、というのが、風間の嫉妬がらみの意地であったが、この意地はむしろ彼自身を苦しめるもので、風間が良を忘れることすらできないのだと証明するばかりであった。  実際、会わずに日がたつほど、狂おしさが増してくる。気がかりでたまらなくなり、ピアノにむかっていても、新人のレッスンをみていても、会社の偉いさんにつきあって飲んでいても、ふいに良のことを考えている自分に気づくと、はじめから、良のことしか考えていなかった、と悟らされるのである。  マンションにもどると、まるでわるいことでもするようにうしろめたく、新聞のTV欄をノミとり眼で調べてチャンネルをまわすが、歌番組に、レックスたちを従えてヒット中の「反逆のブルース」を歌う良の姿を見ると、見るに耐えずチャンネルをかえたり、またもどしたり、はたから見れば滑稽の限りであろう苦悶をつくしてうろうろする。  弘や光夫たちから何も云ってこないのも、ほっとしたような気持と同時に、見棄てられたようで、泣きたくなるほど腹の立つ、ひがんだ気持になってくる。 (あのとき、殺してやるんだった、悪魔め)  レコードのジャケットの、美しい顔を見ては呪いを投げつける。彼を憤怒させた、青山のクラブでの無礼なしうちを思い出すと、青ざめるくらい腹が立ち、胸が煮えくりかえる。  そのくせ、次の瞬間には、たとえいっときでも、良に、殺意をいだくほど、ナイフをもって待ち伏せるほど、思いあがり、冒涜をおそれなかった、これは当然の刑罰なのだと思う。  その足下に身を投げて、額をこすりつけ、その足に踏みにじられて詫びたいと思う反面、あの高慢ちきな小僧を巽もろともずたずたにしてやりたいと胸が煮えくりかえる。  この年になるまでに、いささかの愛や別離や執着や、ひとなみの経験はつんできた風間だが、これほどいいようにひきまわされ、あしらわれたことはなく、口惜しいかな、これほどとことん心を奪われ、いとおしいと思ったことはなく、これほど憎さと可愛さ、崇拝と憤懣を心に深く食い入らせたこともなかった。 (こんな奴は他にいやしない)  その思いは食い入ってくるばかりで、美しさだけでも充分なのに、これだけの悪魔の魅惑と可愛らしさにどうして抵抗できようかと思う。  阿片のように強烈に彼を責める、良への飢え、良への渇えに、それでも一週間近くは抵抗したが、それが限度だった。 (たとえ巽のものになってしまった良でもかまわない。ひっそり見ていることすら許されないのか? それだけのあわれな分け前も──それは、酷すぎる。一介の無名のファンだって、俺よりは幸せな筈だ。良から、とにかくにっこりと微笑みかけてもらえるのだから)  今日は�街路�の録画の日だ、と気がついてから、顔を出そうと心がきまるまでには、おそろしくためらったが、結局、彼は激しい禁断症状のような恋しさと、もしかしたら、もういい加減、機嫌を直しているかもしれないではないか、というカゲロウのようにはかない希望の叫びたてる一声に負けた。  恋する男のあわれさを、つくづくと知った心地である。  そっと、遠くから見て帰ろう、と自らに云いわけがましく考え、顔を直接あわせぬよう──良とも、巽とも、修とも──暗くなってからすべりこむつもりで、充分見はからって遅めに行ったのに、スタジオは、本番どころかリハもまだの、ざわざわとおちつかぬ雰囲気の中で明るかった。良がまだ来ていないというのだ。 「おや、先生、ずいぶん久しぶりじゃないすか──ジョニー、どうしたんです」  当然知っているものとして質問責めにされて、風間は失望と、ほっとしたような気持と、懸念と、疑惑と、それと狼狽まで、ありとある錯綜した感情に突きあげられた。 「まだ来ないって?」 「時間ないのにさあ、参っちまうよ。そういや竜さんもまだなんだけど、あの人は常習犯だから──しかしブッたるんでるな二人とも、いよいよ大詰だってのに」  ぽんぽん怒っておいて、幸い返事を待ちもせずに打ちあわせにかけてゆく。  とりのこされ、風間は不快な疑惑に突っ立っていたが、メイクをすませた仕出しの俳優に話しかけられながら、相変らず飄然と修がスタジオに入ってくるのを見つけると、具合がわるい思いでそっと入れ違いに廊下へ出た。  彼とは、何も喧嘩しているわけではないが、あの晩、ナイフを持って、良のマンションの前をうろついていた自分の異常な行動をどう思ったろう、と思うと、身内がすくむようで、顔を見たくない。  まったく、このところ、俺はどうかしてる、それも良のせいだ、ただひたすら良がわるいのだ、俺を狂わせたのだ、と呪わしく風間は思った。 「あ、先生」  何か話しかけようとする、顔馴染のスタッフから逃げ出して、ロビーに出て、煙草に火をつけた。 「仕様がねえなあ、誰かジョニーのマンションと事務所に電話入れてくれよ。竜さんとこも。それでわかんなかったら、誰か知ってるかもしれないから、あの連中、レックスの誰かにきいてくれ」  苛々と久野が怒鳴るのが、開いたドアの中からきこえてくる。 「関さんといずみちゃんのからみからとるなんて、ダメだよ。きのう云ったろう、今日んとこだけは、通しでとるんだよ」  良、どうしたのだろう、とただならぬ嫉妬のひそかにふくらんでゆくのを感じながら風間は思い、やけのように煙を吐いた。  まさか巽と一緒ではなかろう。こういうときに限って、弘たちの動静までわからぬものだ。 「サムちゃん、あんた知らないの」 「何をでっか」 「ジョニー何してんだろ」 「さあ、知りまへん。ここんとこ、あいつとは、一緒に行動してまへんので──済みまへん」 「あんたがあやまることないけどさ」  修の声は淡々としている。  開いたドアごしに、通りすぎようとした修の目がふと風間を見つけた。かすかな微笑が口もとにうかび、ひょいと首をつきだすような会釈をした。  別に、何か気にしているとも思えない、ふだんの──ただし、レックスを抜けてからかれにつきまとうようになったどこか淋しい陰気な翳の中に沈みこんでいる──おちついた、飄々とした修である。  風間は少しほっとし、同時に、修はどうやって生きていっているのだろうといぶかった。  彼ですら、まだ十日にもならぬ不和のために、少し良からはなれただけで、これほど煩悶し、餓えたように良が恋しくなり、恥も外聞も自尊心もうちすてて、用もないスタジオにうろついている始末なのだ。  平静な声で、ここのところ良と会っていないと云う修が風間には信じられなかった。  たしかに修は巽のことをあやぶんでか、風間をもその要注意リストに加えてか、ともかく、良の行動をつけまわして監視していた筈だと思う。  深夜も三時すぎてから、酔いのままに狂気になって、ナイフを手に良のマンションに訪れたときに、修と出会ったのが、偶然や修の気まぐれであるわけはない。  修は良を蔭ながら守ろうとしていたのだろう、と考えると、風間は冷たい汗を感じた。 「──来たって?」  誰かの叫び声がきこえ、ざわざわし、急にうろたえて、風間はロビーの太い柱のかげに身をひいた。久野がばたばた走って出てくる。雷を落とそうという顔だ。 「早く早く」  迎えにいったA・Dや、メークや、何人かに大さわぎでとりかこまれて、清田マネに腕をとられるようにして、良が廊下に入ってきた。  風間の頭の芯からすっと血の気がひき、いまいましい心臓が小娘のようにとびあがる。すべての意地も懸念も疑惑もかすかな声をのこしてかき消され、風間のすべての魂は、狂おしく良の方へ手をさしのべてまつわりついた。  が、良の、五、六日ぶりに見る美しい顔を見たとき、ふと風間は眉をよせた。  それは、久野も同じだったらしい。どやしつけてやろうと、 「いま何時だと思って──」  怒りながら出てきた足がとまり、気ぬけしたように見つめた。ファー・コートにつつまれて、良はひどく青い顔をしていたのだ。 「済みません、久野さん」  生気のない声で良は云った。スタッフにさえぎられて、風間には気づかなかった。 「何だ、ジョニー、からだでもわるいの?」 「いえ──どうしてですか」 「どうしてって──真青だよあなた。どうしたの、病気なら病気だと電話でも──」 「何でもないです」 「何でもないことないよ。|カンテツ《ヽヽヽヽ》でもしたの? できるの一体」 「大丈夫です。ちょっと寝不足──済みません」 「冗談じゃないよ」  久野とくいの雷がちらりと動いたが、貧血でも起こしているような良の顔の弱々しさに、毒気をぬかれて、落雷まではいかなかった。 「できるんだね?」  念をおす。良はこくんとうなずいた。 「じゃメークいそいで。もうほかは全部済んでんだからね。みんな待たせてんだからまったく──朝帰りでもしたんだろ、まったく仕様のない──」  ぶつぶつ云いながら、メーク室に消える良を見送る。清田マネがのこってしきりに詫びた。 「ついうっかりしていて迎えにいくの忘れてて──本当に申しわけない──」 「困るんだよ──ま、本当云うと、巽の旦那も遅刻でさ、ジョニー来てもまだはじまらんのだけどね──どうしてるか知らない? あ、そう──まったく仕様のねえヤクザだよ。まったくもう」 「大丈夫なんですか。あんな青い顔で」  演出の宮本が口をはさんだ。久野は眉をよせた。 「やってもらうほかねえだろ。もうスケジュールぎりぎりなんだからな。ジョニー、二十日っからは新曲発売で、もうぜんぜん明きの日ないっていうんだから。今日明日で済ませなきゃ──ちょっとムリしても今日じゅうにライフル乱射までいくぜ。それに今日んとこは、いよいよ大クラだからね。かまわんだろ、少しくらい熱ぐらいあっても、迫力出てさ」 「ハードだなあ」 「おや宮ちゃん、あんたジョニーが華奢に見えるからって同情するんじゃないよ。あれがくせものなんだからね。あんな顔して、朝帰りがきいて呆れる」 「朝帰りなんて誰も──」  清田が抗議した。 「じゃ肺結核も第三期だよ。いっぺん、診てもらうんだな」  いよいよ久野は辛辣である。 「こりゃ気入れないと、今日はこわいぞ」 「おーこわこわ」  俳優たちがひそひそささやきあうのが、風間の耳に入った。  思いがけない、弱々しい、はかなげな、良の表情が、風間の心にずきりと痛みを走らせ、思わず顔をあわせがたい事情すら忘れて、一歩、二歩あとを追っていたのだ。  良はいつも風間の予測や期待を思いがけぬ表情でくつがえす、謎だった。  どこかわるいのだろうか、と気になる。いつのまにか、憤懣もうっぷんもとけて、ひたすら涙の滲むほどのいとおしさで思いやっている風間である。  良が、いまにもこわれ砕けてしまいそうな、もろいガラスの繊細な工芸品のように見えたのが、風間を綿のようにやわらかくしてしまっていた。  良は生きている、と胸にいたく感ずる。  俺の、良は、生きている。よかった、と思う。死なせてはならなかった。  生きていて、そして見ることができる。たとえ遠くから見つめるだけでも、その瞳が永遠に光を失い、その声が永遠に途絶えることを思えば、なんという恩恵だろう。  一時の激情にまかせていたら、たちまちにそれがどれほどおそろしい罰であるのか、とことん知らねばならなかったろう。良のいない世界など、荒野よりも荒れはてた廃墟にすぎない。  俺は生きていけない、と風間は思った。たとえ失寵の追放者としてでもいい。どれほどあわれな、わずかばかりの分け前でもいい。良を見、良の声をきき、良をかいま見ることができるというあわれな希望がなかったら、俺は生きてゆけない。 「巽さん来たって。じゃすぐカメ・リハだ。早く、用意さして」  久野がわめいていた。顔見知りのA・Dがかけこもうとして、ドアの外に立ったままの風間をいぶかしそうに見た。 「はじめるそうですよ。入んないんですか」 「いいんだよ、ここで」 「どうして。ここもうすぐ閉めちゃいますよ。さあ」  風間はためらいながらスタジオに入った。あわただしくリハーサルがはじまっている。  出を待っている良に、修が気がかりそうに何か話しかけていた。  良の顔はあいかわらず青いが、メークで薄く紅をはいたらしく、透きとおるような頬にいくらかの赤みがさしていた。 「ジョニー、大丈夫かい」 「平気です」  血の気のない唇でちらっと笑ってみせる。リハがつづき、風間はじっと良を見ていた。  他のものは、何も見えない。彼は良に渇き、飢えていた。彼の目はむさぼるように良を求め、良の表情、良の動作、そのひとつひとつを心の底までしみこませようとした。 「じゃあ時間ないから本番いくよ。いいね」  宮本がどなる。スタジオが暗くなり、ライトが病院のセットを照らしだす。  いよいよ、大詰に入るのである。  三田いずみがベッドにもぐりこむと、その顔の上に白布がひろげられた。彼女はちょっと緊張したくすくす笑いをもらしたが、すぐに目を閉じてよこたわった。撮影開始である。良と関ミチコ、巽がセットに入る。  ゆき枝の躊躇のために、手当がまにあわず、持病の心臓の発作をおこして、真由美は死ぬ。  急をきいてかけつけたとき、患者の白い寝巻きを着て髪を乱し、死者の横たわるベッドの鉄枠をにぎりしめて、凍りついたような表情のゆき枝がいる。  良は、巽に支えられて、黙って妹の死体を見おろす。  近親相姦の妖しい恋に抱きあった妹である。わけもなく人を殺し、麻薬にむしばまれ、生きる目的を見失っている圭一という若者の、ただひとつの心をうごかす対象だったのだ。  良は手をのばし、白布をとり、なげすてた。可憐な死顔があらわれる。  ゆっくりと、ひざまずき、その頬に頬をこすりつけ、いとおしげに冷たい顔をさする。  三田いずみは良と似ているのを条件に選ばれた新人である。目を閉じた可憐な顔に、やはり目を閉じて頬ずりする良は、鏡を愛撫する妖しいナルシスとも見えた。それが、久野の狙った効果でもあるだろう。 「真由美──真由美」  やさしく良はささやく。それを異様な目で凝視する巽、狂気の淵のうつろな表情で見守り、ふいに耐えかねて何か叫び出そうとする関ミチコ、その女の肩をつかんで、すばやく巽がひきとめる。  良はいつまでも、神話めいた悲傷を漂わせる愛撫をつづけるが、そこへ白衣の医師が入ってきて、ドアを閉める音に、ぎくりと身を起こす。医師は良に会釈する。 「もうちょっと早く発見していれば──しかし、いずれにしても、あと数年の生命だったでしょう。もう一度発作を起こしたときが危機だと申しあげましたね」  カルテを手にした医師は何か云いつのろうとするが、巽が近よって、そっとしておいてくれと目顔で頼む。 「お気の毒です」  いくぶんそっけなく医師はくやみをのべると、出ていく。良は、無表情に立っているが、手をさしのべる巽を無視して女に近づき、その顎をつかみ、その目をのぞきこむ。  恐怖して、女は避けようとする。  良ははなさない。指の細くて長い、ほっそりした手が、しっかりと、女の顎をおさえている。  テスト・カメラがクローズ・アップでとらえた良の顔は、戦慄をさそう、まぎれもない無感動な深淵の底の、狂人の目を見せているのである。 「あんたが殺したんだね」  良はやさしく云った。いくぶんやつれて、メークをしてすら血の気のない顔が、凄艶さを漂わせた。 「違う──」 「あんたが殺したんだ」 「違う──圭──きいて──」 「違わない」  良はやさしく微笑して指をはなし、女に死刑を宣告するように、眉をつりあげていぶかしげに、やさしくのぞきこむ。  額に皺がよって、まぶたの青んだ艶をおびた表情が、再び、戦慄するほどなまめかしく、残酷だった。 「あんたは、なぜ生きてるの。なぜ死んじまわないの?」  やさしく良はささやき、指をはなして、女をつきはなし、もうあとも見ずに病室を出ていった。  いくぶん足もとがふらついているようだ。巽が、あとを追おうとし、ためらい、女を見る。関ミチコは、いままさに狂気の深淵にまっさかさまにおちてゆこうとする女の、さいごの声にならぬ悲鳴をあげている表情で、巽と目をあわせる。  かつての情人であり、いまは、良に魂を奪られている男である。女がすがるように何か云いかけるが声にならない。  ふと、巽があわれむ目で彼女を見る。しかし、そのまま、つと目をそらして、良のあとを追いに身をひるがえす。  ドアが閉まり、女は紙のように白い顔で、閉じたドアを見おくり、死体とただふたりとりのこされ、絶叫のかたちに口をあく。  カメラがパンした。病室の前の廊下だ。巽が良に追いつく。 「待ってくれ──どこへ行くんだ」  良がいぶかしそうに、ひきつった巽の顔を見かえす。ふいに足もとが乱れ、良はセットの壁にふらりと倒れかかって身を支えた。 「カット!」  久野がわめいた。 「ジョニー、あんた、ほんとにおかしいよ──医務室に行きなさい」 「大丈夫です。何でもないです──やれます」 「やれますって──気絶しそうな顔してる」  良はふしぎそうに久野を見あげた。宮本が時計を見て、やきもきと何か云う。 「うーん──じゃちょっとそのへんの椅子で休んでるといい。本番で倒れられちゃ、たまんないからね。じゃ、関サンの死ぬとこ先にとっちゃおう。そのあと一気にとるからね。持たなそうなら清チャンその子つれてって、一本注射でもしてもらいなさい」 「どうも済みません、こんなことないんですが」  清田と付き人が、手をかそうとするのを、ぴりっと良はふりはらい、いくぶんふらつく足もとで、セットから出た。  巽が気がかりそうにそちらへ行こうとする。  が、それより先に修が出てきて、良に近よった。大丈夫かと云ったのだろうと風間は思った。  良がかすかな笑いを見せて何かこたえる。修や、清田や付き人たちが、良と巽のあいだをへだて、巽の逞しい広い背中が何となく進退に窮したように風間の視野に立ちつくしていた。  良たちはそのまままた、大道具室と通じている、メーク室の方へ入っていった。  コーヒーでも買いにいくらしく、付き人が走り出てくる。清田が出てきたのへ、そっと風間は寄っていった。 「清チャン」 「あ、先生、いらしてたんですか」 「どうしたの一体、ジョニーは」  風間の胸をちくちくと不安が刺していた。  良が、いまにもこわれてしまいそうな、さしのべ、包もうとする掌のあいだからきらきら光る砂のかけらになってこぼれおちてしまいそうな、はかなさが風間を耐えきれなくさせた。 「どこかわるいの」 「別に、そんなこと云ってなかったんですけどね」  清田は眉をひそめた。 「まあ頑丈な方じゃないから──過労じゃないすか。ここんとこ、夜遊び激しいんで、そのうち注意しようと思ってたんだけど──久野さん、胸でもわるいのかなんて云ってたけど、まーさかねえ」 「ふだんから貧血する方?」 「別に──気がつかなかったけど、そういや、多血質って方じゃないすけどね。でも──いま入院されたりしたら、えらいこってすからねえ。おや、何だい、ケンちゃん」 「コーヒーとりにいったんだけど、田端さんがコーヒーよくないからホット・ミルクにしろって云うんで──それと何か、アスピリンかなんか買ってこいって」  付き人兼バンドのボーヤは答えた。 「ふん、まるで赤んぼだ」  清田が面白くもなさそうに鼻を鳴らした。 「じゃいま、そっち良ちゃんとサムちゃんだけ?」 「そうです」 「早く行っといで」  ばたばたかけ出すのを見送って、 「二日酔かな」  怒ったように云う。 「きのうも飲んでたのかい」 「でしょ。あたしゃ知らないんですよ」 「ジャーマネが」 「ここんとこ、あたしゃジャーマネならぬ邪魔者でね」  清田の声に微妙に感情がひそんだ。 「あの旦那?」 「そうですよ。いまいましいったらありゃしない。どっかに書かれたらどうするつもりなんだろ。それよか、何か妙なめにあったらどうする気なんでしょうね。大体がどっか抜けてるというか、何も気がつかんのだから」  かるく舌打ちをし、それからふと具合わるそうに風間を見た。 「つまらんこと云ったかな」 「別に。どういう意味か知らんがね」  風間は苦々しく笑った。 「いえね、本当云うとヒロちゃんにも云われてるんですよ。良ちゃん、何で先生怒らしたのか知らんけど、なるべくなら先生に謝って、またその──」 「話が違うよ、怒ってんのはジョニーの方だ」 「どうしてまた」 「ちょっとね」 「何か知らんけど、機嫌直してまたつきあってやって下さいよ。あのコ、こんなこと全然アタマにないけど、正直云うと、知ってるトップ屋におどかされちまってね。風間俊介、今西良、仲違い、っての書いてかまわんのって。なんとかおがみ倒したけど、風間先生のご機嫌損じたなんてったら──」 「俺は、そんな、マフィアのボスとは違うよ」  いっそう苦い思いで風間は云った。 「良に、そんなことふきこまないでくれよ」 「じゃあまた、たまには連中つれてわあわあ行って下さいよ。良ちゃんもねえ、あの旦那だと、サシで飲むからつい過ごすんですよ。もともとつよかないのに、あの底なしにバカ正直につきあったら、たちまち内臓やられるにきまってんだ。あたしゃ、もうちっときつく云うんだったな」  いまいましげに、閉まっているドアの方をにらみつける。付き人たちがコップをもって帰ってきて、中に入っていった。  セットの方では、関ミチコが狂乱のあげく病院の窓から身を投じて死ぬシーンをとりおえたらしく、灯りがつき、急にざわざわした。 「まったく、仕様がねえなあ。ま、いいや。頼みますよ、そのうちにまたつれてってやって下さいよ。何なら今夜あがってからでも」 「今日はすぐ帰って休ませることだよ」  風間は云った。 「まあ、そのうちにね」 「頼みますよ。本当、風間先生に見すてられちゃったら、いくら良ちゃんだって──」  清田はしきりに風間の機嫌をとった。マネージャー族の身についた性格というものだろう。 「誰かジョニーにもういいのかってきいてきて」 「あ、本番はじまるらしい」  久野の声をきいて清田はあわてだした。 「じゃ、先生。本当に、機嫌直して下さいよ」  あくまでも、風間の方が機嫌をわるくしているものと信じこんでいるのだ。風間が返事に困っているのへ手をふって、せかせかとメーク室へかけてゆく。 「どう、良ちゃん、気分よくなった」 「やれるかい、ジョニー」 「済みません、迷惑かけて」  良は誰かがわたした水のコップとアスピリンの粒を口にもっていき、ぐっと白い咽喉がのけぞるのが風間に見えた。  付き人にコップをわたし、いくぶんしっかりした足どりで、セットに入る。 「いくらか顔色よくなったかな。いや、やっぱり青いままだ」 「いいかい、このまま通していくからね、ライフル乱射まで」  いくぶんサディスティックに、久野が云いわたした。 「途中でぶっ倒れても知らないぜ」 「大丈夫ですよ」  良が、生気のない笑いをうかべる。  ほっそりしたからだを、細身のジーパンと、厚いデニムのウェスタン・シャツが包んでいる。  セットが変わって、良の部屋とその外側の、二階だてである。巽が台本をぶつぶつと読んでいる。 「おーい、サムちゃん」 「何してんだ、殺されるんだぞう」 「田端クン、どこだい」 「あ、済んまへん」  修がのっそりと、メーク室から姿をあらわした。 「本当にもうみんなたるんでて──最後だからって気を抜いてもらっちゃ困るんだよ」  がみがみと久野が怒鳴る。修は大きなからだをちぢめた。 「さあ、早く早く」  撮影再開である。また室内が暗くなる。 「スタート!」  カメラが、無人のセットを横にとらえた。  良が、歩き出す。角をまがって、カメラのなかに、いくぶん青ざめた姿をあらわす。  追いすがるように巽が出る。ふたりとも、女の自殺はまだ知っていないわけだ。 「待ってくれ」  良は黙って歩きつづける。 「なあ、圭──ゆき枝を許してやってくれ」  良は相手にしない。何か、決然とした、同時に何か死相とでもいうべきものが、そのカメラがとらえたうしろ首から肩の辺に漂う。巽が焦慮に頬をひきつらせて、良の肩に手をまわす。  ふいに、風間は何がなしはっとした。  巽の腕がふれた瞬間に、ぴくりと良のからだがすくんだ。気のせいだったかもしれない。風間のいる位置からは、二人の背中しか見えない。しかし、それゆえにいっそうはっきりと、風間は、良のからだの線が固くなるのがわかった。風間の目が細められた。  久野たちはそれに気づかないか、気にもとめなかったらしい。  そのまま、撮影がつづく。良は、鉄の階段を一歩一歩、踏みしめてあがる。  その孤独な、おそろしく孤独な表情を、うしろからカメラがとらえた。  巽が階段に足をかける。とたんに良の顔に苛立ちが走り、踊り場のところで巽をふりむく。 「何故、ついてくるんだ」 「圭一──」 「何故、ついてくるんだ」 「お前──どうするつもりなんだ」  巽は、良の異様な冷やかさに、ひそかに恐怖を感じだしている。  この麻薬にむしばまれた若者には、世の常の抑制や道徳というものがまるで通用せぬことを理解しているのは、彼だけなのだ。  妹の死が、さいごの狂気の引金をひき、この虚無に食いあらされた若者をときはなたれた悪霊としてしまうことを──そしてそれはまさしくそうなるのだが──巽はおそれ、あやぶんでいる。 「ゆき枝を──恨まんでやってくれ」  巽は緊張した声で、良をにらむように見あげて云う。 「真由美ちゃんは──可哀想なことをしたが……運命だ、ゆき枝のせいじゃない。いずれはああなる筈だった──」 「………」 「なあ──お前には──俺がいる……」  良は首をかしげて、かすかにいぶかしげに巽を見おろす。女を自殺に追いこんだ、あのおそろしい、なまめかしい、うつろな表情がうかぶ。 「俺は──何をしてやればいい? 何をしてやれるんだ? 云ってくれ、何でもいい──」  良は無表情に、悲痛な表情の巽に背をむけた。  黙って、部屋に入る。そして立ちすくむ。巽が階段をかけあがる。  3カメにうつって、室内が写し出された。  留守のあいだに、部屋をかきまわしていた、修のチンピラが、ぎょっとして顔をあげる。  その手に、巽が乞われるままに良に与え、良が子供のようにたわむれて、かくしてあったライフルがある。 「さわるな!」  絶叫して、良がとびこんだ。  狂ったように、とりもどそうと修にとびかかる。  修はいきなりカウンター・パンチをくわせ、良ははね飛んで、巽の腕にうけとめられた。本当に足もとがみだれたらしい。 「かえせ! おれのだ!」  良は絶叫する。  再びむこうみずにおどりかかっていこうとするのを、巽が必死にひきとめた。  急に恐怖したように良は巽の腕の羽交いじめの中で激しく身をもがき、再び風間はぎくりと何かに胸をつかれた。  瞬間、予期もしていなかったおそろしく色情的な許しがたい衝撃がほとばしったのだ。 (良!)  風間は心中に呻いた。 「お前」  修が半分おそれ、半分いたけだかに、ライフルをつかんで笑って見せる。 「えらいもん持っとるやないか。これモデルガン違うなあ。銃剣類不法所持いうのん、知っとるか」  ひきつった笑いをうかべてつけくわえる。 「矢頭はんもこれで大喜びや」 「貴様!」  巽の形相が変わった。 「貴様、矢頭の犬だったのか!」 「お……おっとっと」  修はあわててうしろにさがる。 「あかんあかん、動いたらあかんでえ」  おどすようにライフルをふって見せる。 「何も、そない怖い顔することないがな。なあ、兄ちゃん、おちついて話しあおやないか。そら、おれは矢頭はんに、何でもかまわんから別件逮捕の口実さがせ、て云われとったけど、けどやな──お前をこんなライフルでしょっぴかせたかて、一文にもならへんわ。それよりやな、物は相談なんやけど──」 「やる気か、貴様は」 「捕まったら、相手は鬼といわれた矢頭はんやで。どない酷いことしても、坂田刑事殺しの泥吐かすで──そしたら、死刑は間違いないところや。死んでもうたら、何もかも終わりやで──」  ふと、修はことばを切る。  巽もぎょっとして良を見、手がゆるむ。  良が低く、声をたてて笑いだしたのだ。  良の目が、白く、ぶきみな狂気の光を放っている。修が目を瞠く。 「もう──」  良の手が、ブーツのへりから登山ナイフをぬきとった。修の目がいよいよ真白く見ひらかれ、うす笑いの残滓がまだ口もとにこびりついたまま、立ちすくむ。 「もう、終わりなんだ!」  絶叫とともに良のからだがはねあがった。  凍りついた巽のとめる間もなく、修に豹のようにとびかかる。その手にナイフがひらめき、狂ったようにしがみつき、その腹をえぐりながら叫びつづける。 「もう、何もかも──もう沢山だ。何もかも終わりにしてやるさ! 真由美は死んじまった──もう、おれは──おれは……」  修の口から、血のりがあふれ出す。おそろしく鮮やかな紅だ。  信じられぬ表情で修は、腹からふきだして良を濡らしている、自分の血潮を見おろす。鈎のようにまがった手がのびて、腹につきたったナイフを握りしめる。  巽が咆哮して、良にとびかかり、なおもつこうとする手をつかみ、力まかせにひきはがしたとき、さらに修の口から血のりがあふれ、ゆっくりと、くたくたと空気をぬいたゴム袋のようにくずおれる。  スタジオの中は息づかいひとつきこえず静まりかえっていた。  ライトに四方から照らしだされて、セットの中の三人だけが生きて動いているようだ。  激しく喘ぎながら、良は痙攣的に抱きすくめる巽の腕からもがき出た。巽がひきとめようとする。良が絶叫する。 「さわるな!」 「何てことだ──」  巽は苦悶にかられたように顔をおおい、しばらく考えに沈んだ。が、すぐ顔をあげる。 「いい──仕方ない、やっちまったんだ。何とかしよう、俺が後始末してやる──死体を始末して、いくらか金を出せば──何とか──ごまかせるかもしれん、俺も──こうなったら俺もお前の共犯だ──だから心配するな──」  巽の声の調子が変わる。良が、血にまみれ、髪を乱し、喘いでいる良が、ライフルに手をのばし、しっかりとその手に抱いたのだ。 「それをこっちによこせ」  巽はぎょっとして云う。 「俺が始末してやる、よこすんだ」 「いやだ」 「わたすんだ。そんなものを持ってたら──よこせったら、早くしろ! 時間が──」 「もういいんだ──何もかも終わりなんだよ」  良はやさしく云う。 「もう、おれは、逃げもしない、かくれもしたくない──ごまかしたり、嘘をついたりもやめた。何がどうだってかまやしない。真由美は死んじまったんだ、結城さん」 「圭──何を云ってる──」  大股に歩みより、つかみとろうとした巽の顔から血の気が失せた。  良が、いきなり、ライフルの銃口をはねあげたのだ。  黒い筒先はまっすぐ巽にむけられた。巽の顔が、みるみる凄惨な悲痛にゆがんだ。 「お前は」  しぼりだすように、いたいたしく、彼はささやいた。 「俺に銃口をむけるのか──俺に……」  良が、奇妙な泣くような笑いをうかべる。かすれた、甘い声で、ささやくように云う。 「何もかもいやになったんだよ。もう、どうでもいい。何も信じない、何も要らない──おれは、どこか、遠い遠いところへ行きたい」  それは、半年間のドラマの、真の頂点、クライマックスが、訪れた瞬間だった。  いまや、スタジオの空気は手でふれられるほどに固くはりつめていた。物音ひとつない暗いスタジオの中で、風間もまた息をつめていた。  何かが起こったのは、その瞬間である。  何かが、起こったのだ。反逆のブルース──愛し、生命をかけ、そのために情人を奪われ、名誉を失いかけ、窮地においつめられ、それでも代償を要求するわけでもなく、すべてを投げ出して愛そうとすることに賭けた一人の男が、最後の拒否、裏切り、反逆と直面した瞬間。  時間は止まり、重く凝固し、ほとんど苦痛なまでにのしかかる。  鮮烈な裏切りの真紅に染められた街路が、つくられたセットとTV・カメラとワイヤやライトの中から、はっきりと立ちあがってきた。  そして良──良は、めくるめく拒否と反逆の炎に抱かれ、それほどの生命をかけた愛にすら眩しい純白な不信をかえして、それゆえにこそ限りなく美しい悪魔の純潔に鎧われてこの世ならぬ白熱した美神となり、輝かしい反逆の翼をかりてひたすら自由へ、恐ろしい孤独な聖性へととびかけり去ってゆこうとし──そしていま、そこに、愛した男と、裏切ろうとする若者のあいだに、銃口が決定的にわだかまる。  おそろしい、とりかえしのつかぬ、どうしてもカタストロフへなだれこまねばならぬ、烙印にも似た決定的なそのひとつの銃口。  良の指が引金にかかったままわなわなとふるえる。その顔がおそろしいように青ざめ、玉の汗をうかべ、その細いからだは、のしかかりおし流そうとする驚くべき狂気の圧力に最後の抵抗をこころみるかのように激しくこわばっている。  射て、射て、射たねばお前は天使になれぬのだ、と何かがささやきかける。良は苦悩にみちて目を瞠き、巽を凝視する。  おそるべき、致命的な、決定的な激情のとりことなり、運命を選ぶことを迫られ、立ちつくす良の悪魔的な美が世界を化石させた。  あってはならぬ美しさ──人の世に決して存在してはならぬ、ふれれば、おもてをむければ、その者を永遠に石にしてしまう、何か致命的なもの。見られるための生を生きる者、ミューズの器を、めくるめくミューズの奔流が結晶させた一瞬。  そして、人が人を征服しうるのか、信じうるのか、愛しうるのか、とその意味を問おうとする、底ごもるベースのひびきのように虚構の世界をつらぬいて流れてきた低音部の、テーマ・モチーフの尖鋭な一瞬、それは、何故かは知らず、その瞬間に、既にして虚構をはなれていた。銃口をはさんで対峙したふたりの姿の中に、風間はそれをひらめくように悟った。     11  マスター結城の愛、巽竜二の愛、そして高木圭一の反逆──良の反逆──かれらは、結城と巽、圭一と良は、ひとつにとけて、結城でありながら巽である男と、圭一でありながら良である若者が、凍りつくような、時間の断面に化石してその目を見つめあっているのだった。  何が起こったのだ、と風間はくらんだ目に茫然と、その光に区切られた水底のような一角を凝視しつつ思った。  ドラマなんかではない。つくりごとではないのだ。  誰も、久野も、演出も、A・Dも、カメラマンも、気づいていないのだろうか、と風間はいぶかった。  カメラはまわりつづけている。既に≪殺された≫修も、人造の血にまみれてうずくまったきり、指示されたとおりにぴくりとも動かない。  誰ひとりとして、風間を除いては、つくられたセットのなかの、つくりもののドラマのなかの、虚構の人物たちのカタストロフの一瞬がやにわに化石して、本当の、真実の、おそろしいなまなましい生の断面がぬっとつきだされたことに気づいてはいないのだ。  巽の目が炎を噴いている。それは、憤怒と悲哀と妄執、他の心を生命にかえても望み、そしてついにそれをうることができぬと悟った男の絶望的な激情だ。 「射て」  かすれ声で、巽がささやいた。  と思うといきなり激しいしぐさで進み出るなり、銃のさきをひっつかみ、荒々しく、銃口を楯のような自らの胸に食いこませた。凄惨な激情に逞しい肩が上下に波打った。 「射て──射ってみろ。俺を殺せ──射てよ! お前に殺されるなら本望だよ!」  良の肩も激しく上下している。  良は、今にも気を失いそうに見えた。顔が紙よりも白くなり、目が瞠かれ、べっとりと脂汗が髪を額にねばりつかせている。  良のすべての表情を知りつくしている筈の風間が、はじめて見る、何とよんでよいのかよくわからない奇怪な表情が、泣くような苦悶にその顔をゆがめている。  泣き笑いのように見えるその表情は、憤怒とも、哀願とも、絶望的な拒否の叫びとも、いたいたしい恐怖とも見えた。引金にかかる良の細い指が痙攣している。  突然、風間は悟った。すべてが、巽の表情、良の苦悶、異常な緊迫のすべてが結びついた。電光のように、すべてが理解の光に照らし出され、ジグソー・パズルの最後の一片がかちりとはまりこんだ。 (巽は良を犯したのだ)  風間の周囲で、世界がぐるぐるとまわり出すような気がした。  彼は知らずに爪が皮膚を破るまで掌を握りしめ、食いしばった歯のあいだからかすかな呻きを押し出した。  こめかみにうちつける血管が、がんがんとふくれあがって彼を打ち倒そうとする。  良が目を閉じた。冷たい、美しい悪魔、驕慢な天使、何ものも愛さず、何もおそれたことのない、女王のようなジョニーが、苦悶に唇まであおざめ、祈るように、その瞼を閉ざしたのだ。  巽は良を見つめていた。その目は、良をとらえ、飲みこみ、永遠にとりこにしてはなすまいと望んでいるように、凄惨な愛に燃えていた。  彼は殺されることを知っていた。良は、目をきつく閉じ、眉根をよせ、わずかに白い歯を見せ、極度の苦痛か、快楽かにおそわれた瞬間、おそらくは、巽のすさまじい肉体に焼きごてのように灼熱する苦痛につらぬかれた瞬間の、あってはならぬ妖しい表情をうかべていた。  良は、引金をひいた。  轟音が爆発した。巽は反動ではねとばされ、銃口の当っていた胸の下部を掌でおさえこみ、セットの壁に突き当ってからだを硬直させてもたれかかった。  ふきだす鮮血が掌のわきからこぼれおちる。その目は、早くも濁りながら、なおも良からはなれない。  血が、おそろしく鮮やかな、人工でない、真紅の液体が彼の逞しい肉体からふきこぼれ、床に小さな池をつくっている。  彼の口もとがひきつるようにゆがんだ。風間──風間だけには、それが、奇怪だがたしかに、微笑にほかならなかったことが知れた。 「良──」  巽はしぼるような声で呼んだ。この世のやさしさのすべて、恋する男が、どんな裏切り、どんな反逆に直面しても、許さずにはいられない、愛さずにはいられない、すべてのいとおしさとやさしさをこめて。その声はもうかすれ、口からあふれだしてきた血に消されたが、再び巽の唇は動いた。 「良……」  良の顔に、ふいに激烈な恐怖が走った。  全身を、痙攣するようにふるわせながら、良は、二度、三度、引金をひいた。  巽のからだが、着弾のショックでそのたびにはねあがり、はねかえり、えぐられた腹から内臓があふれ出る。  そして巽ははねかえって倒れ、こわれた人形のように四肢を奇怪なかたちに投げ出し、自らのからだからあふれ出す血に濡れながら、動かなくなった。  スタジオは、総立ちになっていた。修もセットの端に立ちつくしていた。  恐怖と疑惑と衝撃が、スタジオじゅうを呪縛し、凍りつかせていたのだ。  その呪縛を破ったのは、風間の絶叫だった。 「やめろ! やめるんだ、良、いけない!」  ライフルの銃口はまだ白い煙を吐き、痙攣する良の手ははりついたようにライフルを支えている。  射たれる、という恐怖に、誰ひとり近づけないセットの中へ、風間はまろぶようにおどりこみ、良につかみかかるようにして抱きしめた。  射たれてもかまわなかった。良の破滅──それだけが、風間を恐慌にとらえていたのだ。  射たれてもよいつもりだったが、風間がしっかりと抱きとめたとたんに、良のからだは力を失い、すべての重みを風間に預けてきた。  風間はなんなくライフルをもぎとった。とたんに、スタジオじゅうが爆発した。 「そんなわけない──空包なんだ──空包なんだよ!」  誰かが絶叫しつづけていた。  甲高い悲鳴は関ミチコだろう。スタジオを埋めていたすべての人間が、てんでに絶叫しながらセットの方へ雪崩《なだれ》を起こしていた。  しかし、誰も、セットの中へは入ろうとしなかった。そこには、むざんな巽の死体がよこたわっているのだ。 「空包なんだ」 「ジョニー、嘘だ、こんなこと──」 「つまらん冗談はよしてくれ! そんなことしてる場合か」  久野がヒステリックに叫んでいる。  風間は、嵐の襲来から良を守ろうとするように、細いからだをきつく砕けるほど抱きしめた。  良のふるえる手が風間にしがみついてくる。風間の内に冷静さがもどってきた。良を守らねばならないのだ。 「巽さん、起きてくれ。巽さん、冗談だ、そうだろ、冗談がすぎるよ。巽さん、巽さん」 「さわっちゃいけない」  おそるおそる、巽に手をかけようとする久野に、風間が鋭く叫ぶと、皆がびくりとして身をひいた。 「冗談じゃないんだ。しっかりしろ、みんなおちつけ」  ふしぎなほど、風間はおちついていた。充分な冷静さは、こんなときには、驚くべき権威をもつことができる。風間がこの場の支配者だった。すべての人間がそれを感じ、疑わなかった。 「誰かが空包と実弾をすりかえたんだ。誰かすぐ一一〇番へ電話だ──いや、スタジオ内の電話でかけるんだ。誰も外へ出ちゃいけない。誰も出ないように見張っていろ。それと医者へ、内線で医務室を呼ぶんだ。もう手遅れだと思うが──それから、誰もセットに近づいちゃいけない。大道具室もだ──ライフルはあそこにあったんだな。よし、さわがないで」  風間は声をはりあげた。 「誰か気絶したり、ヒステリーを起こしたものがあったらメーク室へ──ドアあけとくんだ。誰も、大道具室に入れないように。それから女の人たちは一箇所にまとめて。電話つながったね? よし、俺が出よう」  良のことをあぐねて見まわしていると、修が進み出て、良を受けとった。  その目が何か異様な光をたたえて風間を凝視していた。≪殺された≫ばかりで、仕掛け式のナイフこそぬいたものの、これはまがいものの血のりだらけで、珍妙な恰好だったが、誰も何とも感じなかった。  風間はさしだされた受話器をとり、おちついた声で、手短かに、RVCテレビ局の第三スタジオで、殺人事件が起こったと告げた。  電話を切り、しんとしずまりかえって恐怖をひそめているひとびとを見まわす。 「久野さん」 「え」  久野はびくりとした。 「おちつきましたか」 「もう──もうおしまいだよ。こんなことって……」 「それは、あとにしましょう」  なだめるように肩を叩く。 「あなたがここの責任者だ。おちついて下さいよ、気をたしかに」 「あ──ああ」  ふるえ声で久野は云った。目がおどおどと怯えきっていた。  風間はさらに見まわし、女性たちも、いまのところヒステリーを起こしたりして、さわぎをひき起こしそうにないのをたしかめ、ふと眉をよせて、上着をぬぎ、セットにとびあがり、巽の上にふわりとかけた。 「みんな、見ない方がいい」  云って、修に介抱されている良に近よる。 「大丈夫か」 「先生《センセ》!」  いきなり、良は、修の腕からもがき出て、風間の胸にとびこんできた。 「先生《センセ》──」 「よし、よし、大丈夫だ。みんな見てる、お前のせいじゃない」 「オレが殺したんだ」  良は喘いだ。顔がひきつっている。 「おちつけ、良」 「オレが殺したんだ」  風間は眉をよせ、手をあげて、かるく良の頬を叩いた。 「ヒステリーなんか起こすな。俺がついてる」 「オレが殺した──」  風間の目がふいにぎらりと光った。しかし何も云わず、修の手をかりて、隅の椅子につれていって、かけさせ、髪をかきあげてやる。 「久野さん、よかったら、あとを指図して下さい。どっちみちもうじき係の人がくればちゃんとするでしょうから、みんなを出さないでいればいい。何か用のある人はいるかな」  誰も答えなかった。しぜんに、皆はセットからなるべくはなれた隅にひとかたまりになっていた。 「良、いいか、しっかりするんだぞ」  風間は良の頬を両手でかこんで、やさしく云った。良のうつろな目が風間を見あげた。 「先生《センセ》──先生……」 「いい子だ。いいか、お前は何も知らないんだぞ──誰もお前がやったなんて考えちゃいない。いいか、よけいなことを云うんじゃないぞ、お前は取り乱している。じっとして、何も知らないと云ってろ。あとは、俺がちゃんとしてやる」  良には守ってやる人間が必要なのだ、と風間は思う。  目を伏せて、彼の手の中でじっとしている良のようすの中には、全身で頼り、甘え、すがってくる可憐な表情があった。風間は生命にかえても、そんな良を受けとめてやろうと思った。  警察、医者、それに急をきいて青くなったテレビ局の偉いさんから、こわいもの見たさの、隣で仕事をしていたスタッフたちまでが、開いたドアから顔を出したとき、風間は良を雪崩かかってこようとする激流から身をもって庇おうとするように広い背中をむけて、良をかれらの目から隠すように立ちはだかっていた。 「ああ、だめ、だめ、ここから入らんで下さい、関係ない人は」  たちまちに、物馴れた、きびきびとした専門家の采配に指揮をゆずりわたして、心からよろこんで久野は怯えた関係者一同にまぎれこんだが、どうも、どやどやと入りこんできた警察の連中の方でも、なんだか奇妙な、場違いをおそれているような、ためらいがうかがえた。  それも無理はない、と良の肩に手をかけて、風間は考える。現代の錬金術の殿堂とも云うべき、TV局のスタジオ、それも現に激情と、狂気と、殺人の起こるドラマを録画している最中のスタジオこそは、本当の殺人の起こるこの世で最後の場所であってしかるべきだった。  被害者は巽竜二だという。別の局では、刑事に扮して人気のある俳優で、それよりも、やくざ映画のスクリーンの中で、着流しの着物姿や黒い背広をきて、彼は何回死を演じたかわからない。  その彼が殺された、というのは、何か、とてつもなく奇妙で、異様だった。  突然、ぬっとつきだした現実が、あらゆる黙契を破って楼閣が砂上のものであり、お伽噺のきらびやかな魔術にすぎぬことをあばいてみせるのだ。  巽竜二の死体が運び出され、うつろになったセットは、真実の血と、その前にすでにふんだんに流されていた偽の血のりがまざりあい、途方もなく大量の血に汚され、おそろしくうつろに、うろんげに見えた。 「先生」  青くなってふるえていた清田がおずおずと寄ってきた。 「良ちゃん──どうなるんです」 「どうなるって──重要な参考人だ。まず第一に話をきかれるだろうね」  清田はたよりなげな表情で、良を見た。  良はぐったりと椅子の背に身をもたせ、目をつぶり、なかば放心状態で、周囲のことも何も理解していないように見える。  清田が風間の袖をひいて、少しはなれたところへつれていった。  良がはっと目をひらき、父をさがす幼児のように風間の姿を求める。胸をいたくして、風間は安心させるようにうなずきかけた。 「先生──良ちゃん、もうおしまいなんでしょうか」  清田は押し殺した泣き声を出した。 「こんなことって──巽さんを一体どうして──どうしてこんなことに……スキャンダルだ」 「なんてもんじゃない、十年に一度という大椿事だ」  風間は眉をよせて呟いた。 「良が犯人じゃない、道具に使われたんだと、証明できさえすれば、逆に同情集めになるだろうが──」 「先生、どうすればいいんです。助けて下さいよ。良ちゃん逮捕されるんですか」 「他に弾をすりかえた奴がいるなら良には何の罪もない」  云ってから、風間は暗然とした。おそらく彼が一番よく、良の罪を──その原因も──知っていたのだから。  良は、修と二人きりで、メーク室に十分ほどもいた。メーク室の中のドアは大道具室に通じている。 「だが──良が、持つかな」 「あの子、本当はとっても華奢な、繊細な神経なんですよ。自分のせいだと思ったらそれだけでもう──」  清田は誤解して、半泣きの声で云った。  刑事たちの頭かぶらしいのがこちらに近づいてくるのを見て、風間はほとんど口をうごかさずに早口でささやいた。 「いいかい、清ちゃん、俺ができる限り良を守ってやる。これでもいくらか心当たりもある、|根まわし《ヽヽヽヽ》にかけてやるよ。おたくのプロと両方からかかりゃ──致命的にゃなるまい。ダメージは覚悟の上さ。それより問題は本人だが、いくらなんでもいますぐ良ほどのスターをひっぱりゃしまい、いったんは帰してくれるだろう。そうしたら、良は、俺に預けてくれ。マンションやあんたんとこじゃマスコミの攻勢で参っちまうから。いいね」 「是非──こちらからお願いしようと思ってたくらいです」 「何をですか」 「あ、どうもご苦労さまです」 「先生、清ちゃん、こちらはS署の下川警部──警部、こちらが作曲家の風間俊介先生と、ジョニーのマネージャーの清田さんと」 「今西良くんですね、そちらが」  警部はごく平凡な中年の男だった。いくぶん気負っているようにも見える。 「わたしでも、わかりますよ。本物見るのははじめてだけど」  思わず出た本音らしい。風間は笑った。 「わたしも、本物の警部さんははじめてですよ」  警部は風間を眺め、うなずいた。 「先生が、現場のさわぎをまとめて下さったんだそうで」 「いや」 「どうも、えらいことですね。わたしどももなんだかやりにくいというか──そっちでは富山さんにお会いしましたが、どうも本物より貫禄がおありなんで、敬礼するところでしたよ」  彼は、緊張をほぐそうとしているようでもあり、いずれも有名人のことゆえ手荒に扱えないと気を配っているようでもあった。しかし、笑った顔の中で、目はきらりと鋭かった。 「思ったより、小柄ですね、今西さんは」  鋭い目が良を見つめている。風間は立ちはだかって庇ってやりたかった。 「ちょっと、ショックが大きくてね。なくなった巽さんとは、親しかったんです。それが──おわかりでしょう」 「わかりますとも。われわれだって、今西さんほどのスターが、しかもこれだけの証人の前で、殺人をするなんて思っちゃいませんがね──しかし、何と云っても──お話を伺えますかね」 「良」  風間はやさしく云い、良の肩に手をかけた。 「良、大丈夫か。刑事さんだ──話、できるか?」 「今西さん、お手間はとらせませんが」  うつむいて、ぐったりと目を閉ざしていた良が、目を開いた。生気を失った美しい顔が、ぼんやりと警部の方にむけられる。廊下の方でさわぎが起こり、部下がとんできてひそひそ云った。 「え? 記者? とんでもない、絶対入れちゃいかん。ドアを閉めきっちまってくれ」  警部がどなる。もう来たのか、ハゲタカどもが、と風間は思い、力づけるように、良の肩においた手に力をこめた。 「やっぱり、いまでないとまずいですか。どうも、神経の細い方で──すっかり、参っちまってるんですが」 「どうも──困ったな。うちの娘なんかも今西さんのファンでねえ。いじめてるなんぞと思われちゃあ、あれなんですが──」  良の耳には、何も入っていたとは思えない。しかし、穏やかだが、断固としたしぐさで、下川警部が、臨時の取調室になっている、メーク室の方へ手をふると、良はぼんやりと立ちあがった。  真青な顔が弱々しく、立ったとたんに、眩暈がしたらしく、よろめき、ふわりと倒れかかった。  慌ててさしのべた風間の腕の中に倒れこんだきり、気を失ったように見えた。 「良ちゃん!」  清田が狼狽してわめく。さわぎがいっそう大きくなった。警部が眉をひそめた。 「貧血を起こしたんでしょう」  風間は庇うようにその細いからだを抱きよせながら云った。 「とても、無理ですよ」  結局、それが幸いして、ともかくいったん帰っていいことになったのは、もう九時をすぎたところだった。  廊下もロビーもたいへんな人だかりで、あとからあとからつめかける記者やカメラマンがのびあがるようにしてマイクやフラッシュをかまえる中へ、警官に道をあけさせてもらい、清田と付き人たちにしっかりと周囲をかためさせ、自分のからだを楯にして良を庇いながら風間は出た。  ころがりこむようにして、ベンツの中へ入り、ドアがしまったときくらい、ほっとしたことはなかった。 「先生、良ちゃんが」 「どうした」 「苦しそうなんです」  風間はふりむき、清田の肩に頭をもたせて喘いでいる良を見た。真青な顔をしている。 「呼吸困難だな。ショックのせいだ」 「どうしましょう、先生」 「どうって──ともかくここじゃ仕様がない。良のマンションもきっとハゲタカどもが待ち伏せしてるだろう。予定どおり、俺のところへ行くが、少しまわり道した方がいいだろうな。さっき、医者にもらった薬、あるだろう」  風間はほのかな、苛立たしいいとおしさをこめて舌打ちした。 「仕様のない奴だな」  ひそかに危惧したが、うまくまいたらしく、風間のマンションを張りこんでいる記者たちの姿は見えなかった。風間と清田が手をかして良を運びこんだ。 「先生」 「あんた、帰っていいよ」  とりあえず、ソファにおちつかせ、グラスにブランデーを注ぎながら、風間は云った。 「社長に、報告して、手を打つように云ってくれ。それに、|根まわし《ヽヽヽヽ》するんなら、良と、最近の巽のことな、あれ一切抹消だ。どうも、あれが一番|危《やば》いよ。──無論、俺からもやるだけのことはやっとくけどね。心配するなって、俺がついてるんだ。大きなこと云うようだが、良を殺人で起訴させるようなはめには、絶対させないよ」 「お願いします」  清田は深く頭をさげ、そそくさと靴をはきだした。 「先生だけが頼りですよ」 「あ、それからな、弘たちだが」 「はあ」 「良がここにいることを知らせて、ただし誰にも云わんよう、ここに近づかんよう、できたらここしばらく何も下手に動かんように云ってくれ。そのうち、どうせ、良には庇ってくれる連中がいやってほど必要になるよ。とにかく今日明日あさっての仕事は全部キャンセルだ。そのうち俺から電話するから、連中の居場所を教えといてくれ」 「了解」  清田は泣き笑いのような表情をした。 「じゃ、あたしは──良ちゃんをお願いします。何か変わった動きがあったら、すぐ連絡しますよ」 「ああ」  ドアが閉まった。  清田が出ていくと、風間は黙って、錠をおろし、チェーンを入れ、窓に歩みよってブラインドを全部おろした。  良をふりかえる。良は、椅子の隅に、わたされたブランデーのグラスをただ手に持ったまま、じっとしていた。  風間が大股に歩みより、その顎に手をかけてもちあげると、すなおに彼を見上げる。 「お飲み」  風間は云った。 「飲むんだよ」  手をそえて、グラスをあげさせる。良は飲み、むせて咳きこんだ。 「こんなことで、参るんじゃない。お前のせいじゃないよ」 「先生《センセ》──」 「何も云わんでいい」  風間は、あちこち探して、新しいパジャマと、ブロバリンの瓶を出してきた。グラスをとり、ブランデーを注ぎくわえ、薬と一緒にさしだす。 「寝た方がいい」 「先生《センセ》──」 「話はあとだよ」  なだめすかして、薬をのませ、パジャマに着更えさせようとすると、良はさからった。 「なんだ、お前、どうしたんだ」 「──何でもない」 「なら、いいだろ。これに着更えて、早く寝て、みんな忘れちまえよ。──どうしたって云うんだ。駄々っ子みたいな奴だな」  シャツの衿にかけようとする風間の手を、激しく、良は拒んで、椅子の中であとずさりする。ふいに風間の眉がぴくりと寄った。 「どうしたんだ」  つよく、良の手を払いのけ、ひきはぐようにシャツをぬがせた。良が身を固くした。風間は鋭く息を呑んだ。  なめらかな、白い背中から肩にかけて、異様な鮮烈さで、むざんな傷痕が走っていた。十や二十ではきかない。それはまだなまなましく、かたまった血がこびりついていた。  そうだ、と風間は思った。  わかっていて、いい筈だった。良のひどい衰弱のしかた、怯えかた。  これが答えだ、と思う。巽はサディストだった。自らそう思ったこともない風間でも、ふとその完璧な自足を汚し、踏みにじりたい、嗜虐への誘惑を感じる良の美しさは、巽のような男にとっては、頭を狂わせ、妄執にかりたてる麻薬に他ならない。  風間は黙ってパジャマの上着をとり、裸の肩にかけてやり、ベッドへつれていった。横たえ、布団をひきあげてやり、安心させるようにほほえみかける。 「いま、手当てしてやるよ。痛むのか」  良は黙ってうなずいた。顔が青い。 「もう少し、いるか? ブランデー」  それには、弱々しく、かぶりをふる。  薬品箱を出してきて、とりあえず傷を消毒し、血を拭きとった。  パジャマをきせかけ、ボタンをとめてやる。  また、弱りきった表情でそっと頭を枕につけるのを見て、首まで布団をかけてやり、かるく髪を撫で、布団を叩いた。 「もう、何も考えなくていい。何も心配することはないよ。俺がついてるんだ──大丈夫だよ。お前を傷つけたり、破滅させようとする奴なんかいない。俺が守ってやるよ」  良はじっと風間の手の下で、身をゆだね、安心した猫のように、可憐な表情で、目を閉じた。  風間はその髪を撫でながら、低い声で云いつづけた。 「俺はいつでもお前の傍にいる。お前を見てるよ。守ってるよ。お前に何かあれば、どんなことをしてでも、守ってやる、庇ってやるよ。さいわい、いくらかの力も俺は持ってる。何でもしてやるよ。良、お前は特別なんだ。お前は、何をしたって、人を殺したって、人の心を踏みにじったっていいのさ。俺が、どんなことでも、何とかしてやれる。お前のためなら、俺は、どんな汚ないことをしたっていい。どんなに後ろ指をさされてもかまわない。俺はお前を守るよ。何ひとつ、心配しなくていいんだ。誰にも、お前をもう傷つけさせない。すべて、うまくいくよ。良、俺がいる、俺がここにいる。良──良、眠ったのか」  良は、瞼を閉ざし、小さく開いた唇から、静かな息を洩らしていた。  薬がきいたのだろう。血の気のない頬が、ナイト・ランプの光に、透きとおるように白く照らし出され、睫毛が頬に濃い影をおとしている。  風間はやさしさをこめて、その髪をまさぐった。良はここにいる。彼の手の中に、彼にまかせきって、静かに眠っている。  やっと、と彼は思った。やっと、良は俺の、俺だけのものになる。  良にはいま、俺が必要だ。俺にしか、良を救うことはできないし、良が嵐の中にまきこまれようとするいまこそ、俺が良を守るのだ。良のかわりに俺にむかってすべての石を投げつけろと、俺は誇らかに云うことができる。  どんな重荷もひきうけよう、どんな石でもこの身で受けとめてみせよう、と風間は思っていた。  良には、ひどく冷たい、驕慢な、残酷なところと同時に、驚くほど脆い、甘えた、はかないところがある。  むしろそれゆえに、と云ってもよいかもしれない。良には、守ってやる人間が必要だ。良はダイヤモンドだ。むきだしの、透明な魂、この世にあって無事に生きのびるためにはあまりに危険すぎる。  良は両刃の剣だ。人を傷つけ、踏みにじり、自らもあっけなく傷ついて、砕け散ってしまおうとする。  だが、風間は、こんなことで良を失いたくはなかった。  良はいつかは何かの嵐にまきこまれ、砕け去り、永遠に妖しい流星の光芒を気まぐれな大衆の心にのこすだろう。  だが、いまはまだ早すぎる。いまは、風間がいるのだ。  俺がいる限り、良をあらんかぎり抱きとめ、守ってみせようと風間は思う。  巽は、良を汚そうとした。支配し、征服する楔を良の純潔に打ちこんだ。  しかし、良のまとっている拒否の透明な殻は、結局巽を殺した。巽には、良を征服することはできない。  生命にひきかえても、この眩しい悪魔の魂を屈服させることはできない。  そして、今度こそ、俺の番だ、と風間は思うのだ。俺は良を抱きしめ、守ってやろう、と思う。  彼を守りとおすことに賭けたマスターの結城に、最後に銃をむけさせた、脚本家の長谷田は、あるいは良というものを見ぬき、理解していたのかもしれない。  だが、いまのいま、良は静かに、衰弱し、すがりきって、風間の手の中にあり、そして良には風間が必要なのだった。  風間は、じっと、良の寝顔を見おろした。激しい、熱いものをひそめて、包みこむ、いとおしくてたまらぬようなまなざしである。  いまにも、沫雪のように、とけて、消えていってしまうのではないかとおそれるように、目で愛撫するように、見つめた。 (良は、俺のものだ。たとえ、この一刻だけでも本当に俺の、俺だけのものだ)  その一刻の至福のために、魂をどんな地獄に刻印され、呪縛されてもかまいはしない。風間は良のものだった。  ふと、彼は、良の手にかかって死んだ巽竜二に、惑乱に似たねたましさを覚えた。  静かな時間が、風間と、彫刻の眠る少年像にも似た良をとりまいている。  風間はふっと、滲むようにやさしい、敬虔ですらある表情で、自らのしぐさを畏れるように、良の顔に顔を近づけた。  髪をかきあげてやった手に、良の石膏のような額が汗ばんでいる。苦しいのだろうか、と風間は思い、ハンカチーフをとりだして、そっとぬぐってやった。  ためらいがちに、偶像にくちづけする信徒、愛人にはじめてふれる恋人のすべての畏怖にみちた愛情で、風間は良の額にそっと唇をあてた。  誰かに見られはしなかったか、良がめざめはしないか、とおそれるように、すばやく彼は身を起こした。  布団をもういちど直してやり、規則正しい寝息をきき、足音を忍ばせて寝室を出る。  彼には、しなければならぬ仕事が──良を守るという仕事がこれからはじまるのだった。  寝室のドアを閉めきっておいて、風間は電話に手をのばした。彼がまずまわしたのは、芸能記者の、野々村の番号だった。  野々村は、すでに、事件を知っていた。 「こんなことになるんじゃないかと思っていたよ」  マスコミの権力者は平然と云った。 「そちらの方のもつれなんだろ」 「ムラさん、後生だ」 「わかってるよ。そう云ってくるだろうと思ってたんだ。ジョニー、雲隠れしたそうだけど、あんたんとこにいるの?」 「──そうですよ」  一瞬沈黙してから、風間はしぶしぶ云った。 「すると、やっぱり、三角関係のもつれだね、原因は」 「そんなんじゃないんですよ、俺と良は」 「わかってらあね。巽の方は有名だからな。こいつは、難かしいねえ」 「恩に着ますよ」 「ひとつ、正直に云ってくれよ」  電話線のむこうで、野々村が低く云った。 「本当にジョニーなのか。つまり──射っただけでなく、弾をすりかえた、本当の犯人も、ジョニーなのかね」 「──違う」  風間はことばを歯のあいだから押しだした。 「俺は、そんなこと、信じない」  だがその実、誰よりも信じているのは彼なのだ。電話線のむこうで、野々村がくっくっと笑った。 「これだけショッキングなネタを、記者連中の爪のあいだからかっさらおうってのは、大変な綱わたりだぜ。下手に消火にかかると、それだけでまたネタになっちまうよ」 「わかってますよ。ねえ、ムラさん、無理を承知ですよ。いずれあんたや川田さんあたりにゃ、江崎プロから誰か行くと思うけど」 「金一封がね。これだけのさわぎに、相場がつけられるかな。ともかく、実際にやったのがあの坊やだってことはたしかなんだから」 「それが無罪の証拠じゃないですか。誰が、あれだけの公衆の面前で人殺しをしますか」 「やってた役が役だしねえ」 「ドラマとは関係ありませんよ」 「あの子のキャラクターにそういうとこがあるから、そういうストーリーになったんだろ。出演交渉のときの条件のひとつが、最も今西良にふさわしい役、ってんで、ホンヤの長谷田が、部屋いっぱいにあの子の写真集めて想を練ったって話、きいたよ」 「あんたは、俺を焦らしてるんだ」  風間はあいた手で煙草をさぐった。 「そういうことも含めて全部、だから良は罪をきせられたんだ──って方へ、好材料になるじゃないですか」 「真犯人が出さえすればね」  風間はぐっとつまった。やけぎみに、煙草に火をつける。 「もし別に犯人が出さえすりゃ、むしろ、このぐらいのことは、宣伝になるくらいなもんさ。こんなショッキングな話、誰と結婚するのしないのってネタとはくらべものにならんもの。芸能誌だけじゃない、新聞も一般誌もワッと書きたてる筈だからねえ。うまくやりゃ、新曲、ああ、『バイ・バイ・ベイビー』か、三百万くらいワーッと出せるよ。ここんとこが別れ道だなあ。運命の別れ道──スター、今西良が、つぶれるか、のりきるか……なんか、とりようによっちゃタイトルも意味深だもんなあ」 「ムラさん」 「考えてみろよ。アラン・ドロンを見てみろ。例の、マルコビッチ殺しさ。あいつは、ジョニーみたいにぬれぎぬか、なんて余地はない。三分どおり奴の、同性愛とギャング沙汰のもつれの犯行とみんな悟ってる。それなのに、いや、だからこそアラン・ドロンは世界一のスターさ。あの美しい顔のうしろにどんな地獄がひそんでいるのか──それまでが奴の魅力をつくる。知ってるか、こないだ急に、マルコビッチ殺しの当日のアリバイ崩れるって記事が出たろ。ありゃ、今度の映画の前景気づけだぜ。凄いバクチだが、プロ根性じゃないの。あたしゃね、前から、日本でアラン・ドロンになれるのは、今西良のほかにないと思ってんだ。美貌といい、あの妖しい、そのくせ抵抗のない色っぽさね、悪魔みたいなところ、男も女も狂わしちまうって魅力──ねえ、俊さん、使いようによっちゃあ、今度のことは、ダメージどころか、ジョニーのスターの座を不動にするイメージ・アップになるんだぜ。巽竜二がジョニーにいかれてたってことまでバラしたって平気かもしれん。ただし──」 「真犯人が出れば、ですか」 「そう、日本のマスコミはともかく正義の皮をかぶってるからね。しかしさ、こういうことは、あたしよりゃ、川田センセの方だ。あたしゃ、敵ももってる。あたしの顔をつぶすために抜くってところも、一つや二つないじゃないからね。しかし川田さんはヤーサマの方だ、こわもてがきくよ」 「わかってますよ。そっちも手をうちますよ」  川田というのは、芸能界に何かごたごたがあると必ずのり出してくる大御所で、本業は一応作詞家ということになっているが、興行界を牛耳る組織暴力のトップと結びつき、ここをしくじったら一生うかびあがれないという影の黒幕である。 「たださ──それで注意しとこうと思ったんだがねえ、あのひとは|わるいくせ《ヽヽヽヽヽ》がある。これだけのことだから江崎社長も出る金は覚悟だろうが、金は金、じゃあのりだして鎮火してやるから、良を抱かせろなんて云いだされたら、あんた、どうするの、俊さん」 「おい、ムラさん」 「冗談じゃないんだよ。あのひとの手当りしだいは有名じゃないか。これまでは天下の今西良だから強気でおれたけど、いっぺん弱味握られたら──あのひとは、こわいよ。また良ちゃんには、それだけの魅力はあるからねえ。そこでまた、こんどはあんたで血を見るさわぎになったりするとこいつはもう──」  電話口で肩をすくめている野々村の姿が見えるようだった。風間はことばに窮した。 「あたしが、運命の別れ道と云ったのはそこのところさ」  野々村はしゃがれ声で笑った。 「あんたにこんなこと云うまでもないが、芸能界とは、こういうところなんだよ。下水管に金メッキしたようだって、誰かが云ってたっけ」  風間は唇を噛みしめた。嵐が良をまきこみ、おそいかかり、流してゆこうとするさまが見える。 「二つに一つなんだよ。金でもからだでも、張れるったけ張って、アラン・ドロンみたいにいっそ頭っから泥水に浸ってそれをコヤシにして大きく花ひらくか──それだけの覚悟がなくちゃ、こんなことは、のりきれないね。さもなきゃ──早いとこ、見切りをつけちまうか」 「ムラさん」 「ま、あんたにしてみりゃそうもいかないだろうけどさ、プロの方は、さわぎが大きくなってきたり、いよいよ良ちゃんの犯行と決定すりゃ、一も二もなくそっちへころぶよ。興行師なんて、所詮商売だからね。ジョニーの出ようしだいじゃ、殺人犯に転落、悲劇のアイドルってことでチョンだぜ」 「ムラさんは、警察ともコネがあるんでしょう。どうなんです、連中の意向の方は」 「いまのところ、フィフティ・フィフティらしいね」  野々村は云った。 「巽とジョニーは仲よかったっていう証言が多いんで、動機で迷ってるらしいから──しかし、そこが割れたら危《やば》いなあ──あたしのききこんだところじゃ、ほんの昨夜も一緒に飲んでて、しごく楽しそうだったって青山の�アガサ�のママが云ってたそうだからね。どうなの、本当のとこは、巽氏が、仲よくなろうとしすぎたんじゃないのかね」 「ムラさん!」 「マトか」  野々村は笑った。 「芸能界を知ってる人間なら、あの子を見てりゃ、見当はつくよ──ましてあたしゃ、巽のことも知ってる──それとも、それにからんで、犯人《ホシ》はお宅かい、風間センセイ」 「ムラさん、冗談じゃない」 「まじめな話だ」  野々村は云った。 「あんただから、洩らしてんだぜ」 「すると警察が?」 「あんた、現場で凄いあざやかなとこ見せたっていうじゃない、みんなが何が何やら慌てふためいているのに。それに、あのときあんたがあそこにいた理由が漠然としてる。巽に良ちゃんをとられたとすると、やつを殺《や》る動機も、ジョニーに罪をきせる動機もある」 「よして下さいよ」 「だから、フィフティ・フィフティだと云ったんだ。あんた、ジョニー、ジョニーで夢中になってると、お蔵に火がつくかもしれないよ」 「ムラさん、俺はね」  風間はせきこんで云いかけたが、ふいに野々村の声が変わった。 「ちょっと待ってくれ、電話が入ってきた」  野々村の事務所には数台の電話がある。そこにおさまっている野々村は、風間にはいつも、はりめぐらされた巣の中央にひそみ、四方の情勢に気を配っている、巨大な蜘蛛を思わせるのである。 「風向きが、変わったよ、俊さん」  一、二分して、電話を切ったらしい野々村の声の調子がかわっていた。 「え?」 「いい知らせだ。真犯人が割れた。こうなりゃ、まかしとけ、ちゃんと|根まわし《ヽヽヽヽ》してやるよ。大変な宣伝になる。悲劇のアイドル今西良! 親友の事故に茫然、いや、号泣といくかな。百万ドルの宣伝だ。万事、|つけ《ヽヽ》はあとで清算てことで、ばっちり了解ってことにしよう。こんな特上のネタは滅多に──」 「待ってくれ、ムラさん」  風間はわめいた。 「一体、誰が──!」 「田端修だよ、元レックスの」  野々村は平然として云った。 「ついさっき、追及されて、自白したそうだ」     12 「先生《センセ》!」  受話器をとるなり、光夫の昂奮しきったわめき声が耳をつんざいた。 「ど──どういうことなの一体、良がさ──巽さんを射殺して、その──本当の犯人がサムちゃんだなんて!」 「おちつけよ、光夫」  風間は時計を見た。午前四時だ。 「いま、人にきかれんところか?」 「大丈夫──」  光夫にかわって、いくらかおちついているが、やはり気をたかぶらせているらしい弘の声になった。 「オレの家だから。泰彦の特訓してから飲みにいって、さっき帰ってきたら清田さんから──みんな、うちにいます。先生《センセ》、良──大丈夫なんでしょうね」 「修のことは知らせてない」  風間は念のために声をひくくした。 「大分、衰弱してるんで、薬をやって寝かしてあるよ。少し多くやってあるから、昼ごろまでは、目がさめんだろう」 「そこに、いるんですね」 「ああ」 「ちょっとかせよ! 先生《センセ》、先生」  また光夫の大声が耳をうつ。風間は眉をよせて受話器を耳からはなした。 「ジョニー、そこにいるんでしょ。いるんですね? これから行っていいですか、オレたち」 「お前が来て何になる」   風間は冷たく云った。 「どうするつもりだ。良は眠ってるよ。休ませなきゃ、本当に倒れちまう」 「でも……」 「お前らはさわぎたてるな。良はいまびりびりに神経がはりつめてるんだ。これでお前らのうごきで勘づかれて、マスコミにおしかけられてみろ。良は本当に、ぷつんと切れちまうかもしれんぞ。清田からきいた筈だ。さわぐな、うろたえるな、ヘタに動くな、ぼろを出すな。お前たちは、──それさえ守ってりゃいい」 「だって先生《センセ》──そんなこと云ったって……」 「俺を信じろ」  風間は強い口調で云った。 「俺がついてるかぎり、良には、後ろ指をささせやしない」 「でも──サムちゃんは……」 「それは──」  風間は首を振った。 「どうしてサムちゃんはあんなこと──」 「俺にはわかるような気がする」  風間は低く云った。 「いずれにしても、お前たちがさわぐほどまずいことになる。ここは──まあ、大人にまかしてくれ。そのうちいろいろわかりしだい知らせるし、良の話もきかせるよ。当分、どこに連絡すればいい?」 「オレのうちに、誰かしらはおいとくことにします」  弘が云った。 「どっちみち仕事キャンセルだし、ここにいますよみんな。できることがあったら何でも──」 「ああ。そのうち、良が、どうしてもお前たちを必要とするときが来る筈だ。そのときになって、奴に不必要なショックを与えんでくれよ」  風間が心配しているのは、泰彦と次郎だった。良は、これ以上、仲間たちにそむかれることには耐ええないだろうと思う。  それをどう受けとってか、 「わかりました」  低く、弘が云った。 「先生《センセ》──」 「ああ」 「良──良を頼みます。どうか、あの……」 「わかってる。良は、俺が守る」  風間は受話器をおいた。  彼の眉はきつくよっていた。修の犯行ということを、一瞬も風間は信じてはいなかった。それは直感という以前の確信だった。  良ならばできる。修の性格は、どんなことがあっても、あのようなかたちで憎んでいる敵をほふることはできない。  まして、そのために人殺しをしようというほど愛している良に、たとえ一刻でも疑惑のかかるような手段をとるものだろうか。 (修は良を庇っているし、庇いとおす気だろう)  修の愛が、風間には痛いようにわかる。しかし、一方では、修が自白したときいたときの良のショックが気にかかった。  彼があれこれとあてもない思案にふけりながらやたらと煙草を灰にして、とうとう空が白みかかってきたときに、また電話が鳴った。 「朝早く申しわけありません。風間先生ですね、下川警部です、S……署の」 「ああ、どうも」 「昨夜はどうもとんだことで──実は、申しわけないのですが、こちらまでご足労願えんでしょうか。ええ、実はなるたけ早くお願いしたいんですが」 「それは、どういうことですか」  風間は奇妙な錯覚におそわれて云った。 「いえね──申しわけないんですがね。どうせすぐわかることだから──実は、昨夜から調べたところ、あのドラマに出演してた俳優の田端修ですね、かれが大道具室に入って空包と実弾をすりかえたと自供しまして──で、まあ、一応解決のはこびになったんですが、早速起訴にもっていこうというんで、供述書の署名をとろうとしたところが、風間先生に会わせてくれなきゃ、断じてせんと云うのです。そればかりか供述をひるがえすと云いはるのですね。とりあえず留置してあるんですが、どうでしょう、申しわけないですが、先生がいらしたら、われわれ立会いの上でもかまわん、全部認めると云うんで──ええ、動機だの、被害者との関係についても一切何も云っとらんのです。ただ、まあ、かれと今西くんの二人だけにあのすりかえの可能な時間があったってことはわかってますし、その間今西くんは気分がわるくて横になったまま人事不省だったからと云うんですが、今西くんがあのとき非常に弱ってたと云うのも、二人の付き人ののこった方に外に出る用をいいつけたのが田端の方だと云うのも、ウラがとれてますんでねえ」 「わかりました」  風間は云った。 「すぐうかがいます。S……署ですね?」  電話を切ってから、寝室をそっとのぞいてようすを見た。  良は、まだ薬がきいているらしい。ナイト・ランプがやわらかな光を投げかけているベッドの中で、規則正しく胸が上下していた。  みんなが、お前を守ろうとしているんだよ、と風間は声に出さずささやきかけた。  なぜなら、お前はジョニーだからだ。  お前は特別で、守られなければならない。  どんな犠牲やいけにえや身代りの山羊の血が流れても、お前は平然と冷たく美しく、それを踏みつけていていいのだ。誰も、お前が汚れることを望まない。お前の足を泥に汚させぬために、俺たちは泥の中に這いつくばる。お前はただ冷やかに、美しい女王のように、当然のこととして俺たちの背や顔を踏んでわたればいい。  風間はメモに走り書きで、用があって出かけるがすぐもどるから心配しなくていいこと、ゆっくり休んでいろということを書きつけ、目に立つようにナイト・テーブルの上においた。  それからドアを閉め、少しためらってから、外から鍵をかけた。ドアはひとつで、のぞき窓もない。鍵をポケットに入れ、彼は外出の支度をした。  警察署の、妙に薄暗い感じのする取調室で、修は下川警部と、他の数人の刑事たちに囲まれて椅子にかけていた。風間が案内されて入ってゆくと、警部が目礼をした。 「修」 「──先生《センセ》」  修が風間を見あげ、ちらりと笑って見せた。了解してほしい、そして自分の犠牲を受け入れてほしいと語りかけてくる微笑だと、風間にはわかった。  風間は待った。 「さあ、風間先生をお呼びしたが──約束どおり、われわれが立会いの上で、異存はないね」 「ありません」  修ははっきりした声で云った。 「僕は、風間|先生《センセ》に、あやまりたかったんです。先生から、リーダーや光夫やみんなに──わけても、良に、伝えて下さい、迷惑かけて済まんて」 「サムちゃん」 「先生になら、巽殺しの動機を話すと云ったね」 「お話しします」  修は警官たちを見まわした。 「でも──むろん、これは、秘密にしてもらえますか。そうでなかったら、話すわけにいきまへん。いろんな人に迷惑かけるかもしれない」 「サムちゃん──」 「むろん、現存している無実の人に迷惑をかけるようなことは公表しない」  すばやく警部が云った。修はうなずいた。 「本当《ほんま》ですね。なら、お話しします。先生《センセ》はその間の事情をよくご存じです。僕の云うことに嘘はないて証言してくれると思います。それもあって会わしてくれて頼みました」  修は風間に心配しなくてもいいというようにちらりと目をあわせて、しゃべりはじめた。 「僕が巽竜二を殺そうと思ったのは、むろん、あの人が憎かったからですが──僕は──僕としては──レックスを出んならんようになったんは、あの人のせいだと思うたからです。いまでもそう思ってます。だから──」 「巽竜二がきみをバンドから追い出したということかね」 「そう云うてええかもしれません。あのテレビ・ドラマがはじまるようになって、あの人が僕たちに近づいてくるまでは、僕たちは万事うまくいってたし、しっくりいって、仲のいいので有名なグループだったし──僕の何より大切な仲間でした。もちろん、良が中心です」 「それが、どうして被害者の接近によってうまくいかなくなったわけ?」 「秘密は守ってくれるて、云うてくれはりましたね」  修は念を押した。 「巽さんが、良に妙な関心もってたからです」 「彼は、同性愛だったのかね」  興味をつつみかねたように警部がきいた。 「死んでしもた人のこと──わるう云いとうはないんやけど──」  下川警部が風間にたしかめるようにふりむいた。風間は黙ってうなずいた。 「僕は、すぐ感づいたんです。だから、良に、あの人と親しくせんでくれて頼みました。ところが、良はそんなこと全然気づかないんで、僕が巽さんを──つまり、誹謗してる、汚ないって頭から思いこんじまって──で、まあ、僕は、僕の方こそ、変態だみたいなこと云われて、こんなバンドもういられんて思ったんです。──これは良と僕と二人だけのことで、リーダーや、他のメンバーは何も知らんままでしたけど、僕は、それでいられんようになって──」 「で、巽さんのせいだと思った。しかし、そのあと、このドラマの仕事をひきうけたっていうのは?」 「僕は、見張ってたんです」  修は淡々と云った。 「良が心配だったから」 「きみは今西くんが好きだったんだね?」 「弟みたいなもんです。そやから、もう良と一緒にいられないようになっても、どうせ、みんな明き盲ばっかりや、何も気づかんのやからと思うて、じっと注意して見てました。良は、いい人だと思うと、なんぼでも信じてしまうんです。あの子は、生まれたてみたいな気持のきれいな子です」  修は深い息をついて、つづけた。 「そしたら、案の定、巽さんはずーっと、良の親友きどりで、飲みに行ったり、近づこうとしましてん。それ見てるうちに、僕は、もう我慢できん思いました。良を守ってやらんならん、あんな奴──許せんと思て……」 「それは、嫉妬じゃないのかね?」 「そうかもしれまへん」  修は素直に云った。目がうるんでいた。 「きみは今西くんを愛してた。それを巽にとられたように思って、被害者に殺意を持ち、罪を今西くんにかぶせようとしたんじゃないのかね」 「そんな──気持も、もしかしたら、無意識にあったかもしれまへん。でも、弾をすりかえたとき、良が疑われるなんてことは思ってもみませんでした。良はスターなんだし──誰もそんなこと疑わんだろう思いました。だから、うやむやに、迷宮入りになるんじゃないか──あの部屋は、一日に何十人と出入りするんだし、そう思ってたんです」 「それが、なぜ、素直に自白する気になったんだね。今西くんに、疑いがかかりそうだったからか?」 「それもあります。けど──風間|先生《センセ》」  修は突然風間を見あげた。目が哀切に光っていた。 「先生《センセ》。──僕こないにすなおに認めたんは、先生のためなんです。僕負けました。負けた、思いました。あそこで、あのスタジオで巽さんが射たれて、みんな、よう近づけなんだとき、ふだんからジョニーだの、良のファンだの、いろいろ云うてる連中、良がライフルもってて、まだ射つんじゃないか、いうのんが怖おて誰も近づけへんとき、先生、ひとりで、とびこんでライフルとりあげましたな。それで、あの大さわぎん中で、すぐ、良を介抱して、みんなに指図して──そら、立派でした。少しもうろたえないで、良に、お前のせいじゃないって云いきかして。あんとき、僕、何もできんと、ぼーと立ってましてん。自分でしたことが怖おて、何もでけへなんだ。良が罪におちるせとぎわやいうのに、足、がくがくして──あのとき、僕、心の底から、みじめや、思たんです。僕の負けや。先生は、男の中の男や──いや、まじめな話や。そしたら、ふだんから、僕、良のこと弟や思てる云うてたのに、ちょっと考えたらどんな苦しい立場になるか、どんなひどいことかわかりそうなもんなのに、弾すりかえて、良に巽さん射たせた。僕は卑怯者や、一文の値打もない男や。よくまあ、良を守るの、巽さんは良のためにならんから殺そうのって、云えた義理や。これで、もし僕が良のこと愛してたと云うなら、僕の愛云うんは、何や、思いました。みじめでした──良には、先生がいる。先生なら、良を守ってくれる、まかせといて安心や」  修は、切ない胸のうちをおさえた声のうちにこめて、云いつづけた。修の真実だけが、風間の胸に──おそらく警官たちの胸にも──しみじみと浸してきた。 「僕には、もう、良を、守るの、弟のようの、愛してるのって資格はありまへん。僕なんか、一文の値打もないんですわ。そやから、僕、すべてを話して、先生《センセ》から良に済まんて云ってほしかったんです。僕、あの子に──間違ったら罪きせてしもてたかもしれんあの子に、ようあわす顔ありまへんよって。先生から、良に、修が心から、許してくれって──」  修の顔は滂沱《ぼうだ》たる涙に濡れていた。思わず、風間の目も濡れてきた。 「良は、許してくれないかもしれないけど──考えたら、京都以来や、十年になります。でも、良に、最後に、あの子に罪きせようとしたわるい奴、裏切者やて思われたまま別れるのん何より辛いけど──これも、馬鹿な奴の天罰ですわ。先生《センセ》、良をよろしく頼みます。あの子は、天涯孤独で、淋しがりやで──誰かが、兄貴がわり、父親がわりに守ってやらなくちゃ、よってたかってあの子を食いものにしようとする連中に、すぐいいようにされてめちゃめちゃになってまう子です。あんまり、人を信じすぎる子です。  ──先生、頼みます。良を守ってやって下さい。僕にかわって──なんて云うたら、おこがましいけど。僕、先生なら安心して良を頼めます。先生は立派な人や。男らしくて、勇気もあって、寛大で、僕、元からええ人や思てたけど、僕の思ってた何倍も、先生、男やった。先生になら、頼めます。良を、頼みます、先生──僕のこと、どうか憎まんでくれって──あの子に……」 「サムちゃん」  風間はこみあげるものをおさえきれなくなり、かけよって、修の手をつかんだ。誰もとめなかった。 「わかったよ。ひきうけた。良のことは──安心していてくれ」  風間は、修の云いたいことをすべて了解した、修の心を無にせぬ、という気持を修の目を見つめた目にこめた。 「もう──何も云わなくていい」 「先生《センセ》……」  修は一瞬風間の手を、すべての思いをこめて握りしめ、それから警部にむき直った。 「僕の云うことは、それだけです。──供述書にサインします」  下川警部もまた、胸をうたれているように見えた。風間は目をしばたたいて、気持をとりなおした。  修が風間をこの場に立ち会うよう頼みこんだというのは、むろん、良を頼むという、その哀切な胸のうちを伝えることもあっただろうが、また、考えぬいた供述をきかせるから、良に伝えて、口裏をあわせてくれるようにという意味でもあるだろう。  それを、受けそこねる風間ではなかった。  修が背を丸めて、供述書に署名し、拇印をおしているのを見とどけて、風間は部屋を出た。  ひとりでおいてきた良が気になる。  下川警部の方ももう用はないようだった。  風間は署の表にとめておいた車にキーをさしこんだ。複雑な胸中の思いを噛みしめるように、煙草をさがす、生憎、切らしていた。  自動販売機を見つけて、小銭をさぐりながら近寄った。  署内で、突然、ただならぬ気配が起こったのはそのときである。  わあっ、というような叫び声、異変の空気を、耳にするというよりむしろ風間は肌に感じとった。  はっとして、彼は走った。ある予感がつきあげてきた。 (修!) 「入っちゃいかん!」  警官にはばまれた。押し問答しているところへ、供述に立ち会っていた刑事のひとりがかけだしてきた。 「風間先生」 「どうしたんです」  風間は刑事の袖をとらえてきいた。刑事の顔が緊張していた。 「来て下さい。田端が」 「修が?」 「屋上に──便所に行かせてくれと云って、隙を見て拳銃を奪って──まったく抵抗するようすがなかったので、馴れない巡査で、安心してたのです。拳銃を持って署の屋上にあがって──」 「わかりました」  風間は車のキーをぬきとって、刑事につづいて走った。 「先生、どうも馬鹿なことで申しわけない」  下川の顔もひきつっていた。 「田端は死ぬ気だと思います。もっと早く、気づくべきでした。先生から、説得していただけませんか」 「やってみましょう」  風間は階段をかけあがった。そこはすでに警官で埋められ、誰かが激しく、ばかなことはよせと叫びつづけていた。まだ踊り場につかぬうちに、風間にも、怒号にまじって、修の絶叫がきこえてきた。 「近づくな! そこから出たら、射つぞ! 誰も、誰も来るな!」 「修!」  風間は大声をあげて、とびだそうとした。 「先生、危ない」 「修はわたしを射ちはしません。はなして下さい」 「先生!」  修は風間を見分けたらしい。  両手にしっかり拳銃をにぎりしめ、金網を背にして、極度の昂奮と決意にひきつっていた顔がくしゃくしゃに歪み、子供がべそをかくような表情になった。 「来たらあかん!」  修はわめくなり、金網によじのぼった。拳銃が投げすてられ、わあッと警官たちが殺到したが、それより早く、意味のとれぬ叫び声を引いて、修のからだは、五階の屋上から見えなくなっていた。  いくらもせずに、下で、おそろしい、雑巾を叩きつけたようなぴしゃりという音と、通行人の悲鳴があがった。  風間は、固く目を閉じ、歯をくいしばった。  これで、終わりだ、という想念が、風間の胸を奇妙なむなしさで浸していた。  これで、巽竜二殺しの、ひと幕も完全に、終わりをつげたのだ。 (もう、良は──安全なのだ)  その思いは、ふしぎに、安堵やよろこびというよりは、怒りと、失望ですらあった。  修は生命をかけて良の無事を贖《あがな》った。この絆を奪うことは、誰にもできはしない。 「──残念です。拳銃を自殺に使わんでくれたのがせめてもでした」  下川が、風間に、このてんまつが若い巡査の落度にならぬよう、なるべくなら洩らさないでくれと頼んで、そうぽつりと云ったが、風間はいかにも修らしいと考えていた。  死ぬときでも、修は、関係のない他人に、なるべくなら迷惑をかけたくはなかったに違いない。  しかしまた、修は、これで幸福だったに違いないとも、彼は考えていた。  彼には修が理解できる。修は、生きている限り、結局仲のいい≪サムちゃん≫以上のものにはなれなかったのだ。良の手にかかって死んだ巽へのひそやかなねたましさと羨望を、風間は修とわけあっていると思った。だが── (良に──あの傲慢なナルシスに、永遠に結びつけられるためには、死、しかないのかもしれない)  そう考えると、無事に生きながらえながら、良を守り、良を自分のものにと望んでいる自分が、ひどくむなしい気持になってくる。  風間の思いのなかで、このとき、たしかに、良は、死の天使、黒衣の輝かしい≪死≫の象徴そのものだった。  その足に、幾多の生贄を──死んではいないものの、森田透とてそのひとりには違いない──冷やかに踏みにじり、茶色の、硝子のような瞳に謎めいた挑発のきらめきをたたえ、おそろしく、美しく──そして、男とは所詮、男であればあるほど、そうした戦慄すべき蠱惑《こわく》、生命を賭けることなしには愛することもできない、その愛の唯一の成就は死でしかないような、そんな絶望的な美神の誘惑におちいってゆくものではないのだろうか。  男こそ、本当は、真の男こそ、愛によって運命が変わり、愛によって死んでゆくものなのだ。  メデューサの神話は、男たちのひそかな、戦慄するほどに憧れてやまぬ、その愛の本質を伝えているのかもしれない。 (良──)  風間は声に出して、そっと呼んでみた。彼の、わるい天使、美しい悪魔、トミーをほふり、巽を殺し、いままた修を死なせ、犠牲の血に塗られて、いよいよ浄らかに、光のなかに、自らの美しさにだけ満ち足りて立つ、彼の心を縛りつけひきつけてやまぬ聖なる偶像。  なまなましい血にいろどられて、いよいよ良の神話はたしかなものになり、いよいよ良の甘いかすれた歌声はエロティシズムの深淵をのぞかせ、いよいよその血管の透けて見えるような白い肌と、少年のしなやかさとなよやかさを兼ねもったほっそりとした容姿のうちに、ひとびとは、さらに多くのひとびとが、敗れた闘士に匂やかに親指を下にむけて(殺せ)と合図する、ローマの|純潔の巫女《ウエスターリス》のような、戦慄すべき、心をとらえてやまぬ、致命的な聖なる美神を見るだろう。  そしてその思いは、いよいよひとびとの心に、≪ジョニー≫というやさしい愛称を、陶酔をさそう阿片の夢として深く灼きつけてゆくだろう。 (野々村は、修の罪と死を、一編のメロ・ドラマに仕立てて書きたてさせるだろう。良は、二人の男を狂わせた、自らは何の罪も汚れも知らぬ悲劇のアイドルということになる。「バイ・バイ・ベイビー」は空前の大ヒットになるかもしれない。「反逆のブルース」も盛りかえすだろう。あとは、良に、修の犠牲を冷やかに承認するだけの、悪魔があれば──)  良をひとり閉じこめておいたマンションにもどりながら、風間はふしぎな不安にかられていた。  良がどううけとめるのか──良の反応は、常に、風間の予想を外れる。それを望んでいながら、修の哀切なことばがまだ胸にくいいっている彼には、トミーをあっさりと忘れてかえりみなくなったように、良が修のことを当然のこととして受けとめたときの自らの反応が怖かった。  重い足どりで、建物に入ってゆき、鍵をあける。ブラインドを閉めきってある室内は暗い。  電気をつける間ももどかしく、居間をつっきって、寝室のドアの鍵をあけた。  そこに、良が立っていた。まだ、眠っているのではないかと思っていたのだ。  風間は、良の顔を見つめ、はっと胸をつかれながら、良が修のことを知ったのを悟った。  彼の目が、ベッドの足もとの方においたままだったテレビに走った。 「ニュースで……」  良は云った。声がかすれ、ほとんどことばにならなかった。  ひと晩で、ひどくやつれ、美しい顔が、目の下に隈ができ、髪が頬に乱れかかり、熱でもあるように目が病的なきらめきを帯びていた。  こんな際でも、やつれ、打ちひしがれたような良の姿のなまめかしさに、風間は衝撃をうけずにはいられなかった。 「どうして──」  良の瞳が濁った。舌がもつれ、足もとがふらつく。風間は倒れかかる良を抱きとめた。 「ぼくがやったんだ」  良は喘《あえ》いだ。 「修は──知っていたのに──」 「良、おちつくんだ」 「ぼくがやったのに──ぼくは、いやだ、こんなこと! 警察に行く、ぼくがやったって云う──つれてって──ここから出して! サムちゃんじゃないんだ!」 「良!」 「はなせよ! ぼくがやったんだ。ぼくが殺したんだ! 知ってたくせに、みんな知ってたくせに! はなせよ!」 「馬鹿!」  風間はつきあげる憤怒に、手加減なしで、良の頬を張りとばした。がくりと、のけぞってしまうのを、ひきおこし、両掌に肩をつかまえ、激しく揺さぶった。 「お前にはわからんのか。修が──どんな気持であんなことをしたと思うんだ。お前のことなんか、百も承知で、それでもお前に傷をつけたくないからこそ──修の気持が、お前はわからんのか!」 「いやだよ!」  良は絶叫した。 「そんなの、いやだ。真平だ──何をしても、ぼくだけ特別だなんて! いつも誰かが身代りの小姓になって罪をひきうけてくれるなんて──それがスターってことなら、もうそんなの沢山だよ! ぼくはもういやだ。ぼくが巽さんを殺したんだ。警察に行ってそう云う、ぼくは──もう、ごまかしてられないよ!」 「良!」  ふいに、激しい恐怖と惑乱を覚えて、風間は良の肩をつかむ手に力をいれた。 「スターだから──そんなんじゃない。そうじゃ、ないんだよ、良──お前がお前だからだ。お前が──お前だから、修は、お前のために、死んだってかまわないと思ったんだ。お前は、いいんだよ。お前は、冷たく、きれいな顔をして、守られていればいい──お前が、おれたちの大事な良だからだよ──わかるか……」  ふと、良の顔が変わった。風間もはっとしてことばを切り、良を見つめた。良の唇が、ゆっくりとふるえだした。 「サムちゃん──死んだ……」  たよりない、不安にかられた幼児のような声で、良は云った。 「死んだ? まさか、そうじゃないでしょ? サムちゃんは……」 「供述書にサインしてから──署の屋上からとびおりた」  風間はしっかりと良を支えながら云った。 「かくしたって仕方がない──しっかりするんだ、良──修は、そんなに、お前が好きだったんだよ。その気持──無にしていいと思うか──良……」  ささやくように云いながら、風間は、砕けるほど力をこめてつかんでいた手の下で、良のからだが、小さく、しだいに激しく、ふるえはじめるのを感じていた。  良は、かすかに喘ぐような息を洩らしていた。  目は、もう病的な熱っぽさを失い、何ひとつ、目の前の風間をすら見ていない。それは、突然ぽっかりと口をあけた底なしの深淵を見ている。  それははてしない、おそろしい暗黒で、その中を、小さな小さな、豆つぶほどの物体と化してしまった修のからだが、永遠に、どこまでも、落下しつづける。  修の口は、絶叫のかたちに開かれ、おそらく良の耳には、その声のない叫び声が、いつまでもいつまでもひびきつづけているのに違いない。 「良──」  風間はふと、不安にかられてささやいた。 「良──良……」 「いやだ……」  ふいに、良のからだは、くずれるように力を失い、風間の胸に倒れこんできた。  眩暈のするような思いで、風間は細いからだを抱きとめた。 「いやだ──そんなの、いやだ……」  かすれた、ほとんどききとれぬような声で、良は喘ぐようなささやきを押し出した。  そのからだが、いまでは、痙攣するようにふるえている。いまにも、支えを失い、自らもまたまっしぐらに、修のおちていったそのおそろしい深淵の中におちこんでゆこうとするように、良の手が、溺れかかった人の激しさで、風間の胴にしがみついてきた。 「良……」  風間を、ふと、惑乱に似たものがおそった。それはゆるやかに、彼の内からつきあげてきた。彼は悟った。  良は怖がっていた。おそれ、怯えていた。小さな幼児のように──  良が怯えている。それは、思いもよらぬことだ。  彼の記憶の中で、良はつねに、眩しく輝き、透明なガラスの厚い殻に守られて世界からへだてられ、自らの特権に身をゆだねて、気まぐれな野性の聖霊、自らの力を知らぬ若い獅子のようにふるまい、人を傷つけ、傷つけたことで傷ついてはすぐに忘れ去り、すべての愛といとおしみのなかで、ついぞ愛することも、おそれることも知らぬ純潔な生物で、そしてそれゆえにこそ良は世界の中心であり、特別であり、光の中の驕慢な王子であり、それゆえにこそ、すべての心は、良のものであったのだったから。  だが、いま、良は怯え、暗闇の中にひとりのこされて、手さぐりで灯を求めている。あわれな、ひとりぼっちの、頼りない子供のように、いたいたしかった。 「良──」  こわくない。何もこわくなんかないんだ、と風間は、全身で、良を怯えさせおそいかかってくる何ものかの影から守るように、良を抱きよせ、抱きしめながらかたりかけた。  俺がいる。俺がここにいる。何ひとつ、こわがることなんかない。俺がお前を守っているのだから。  もう、決して、決して、はなしはしない。こうして側にいて、しっかりと抱きしめて、守ってやっているのだから。  彼の胸の内に、ゆるやかにつきあげてきたものは、ついに、ほとばしり、せきをきって、彼を押し流した。  それは、長い長いあいだ彼がひそかにおそれ、またひそかに身をこがして待ちのぞんでいたものでもあった。  風間の顔が良の顔におおいかぶさり、ゆるやかに、しかし激しい力をこめて、唇をかさねた。  良が、腕の中で、わずかにもがいた。弱々しい抵抗は、しかしすぐ、男の逞しい力に封じられ、良は苦しげに眉をよせ、流れの止まった時間のなかで、風間の荒々しい接吻に耐えた。  風間の手がのびて、激しく、良のからだから、パジャマの上着をひきむしった。  瞠かれた良の目を、まぢかく風間は火をはなつ意志と欲望に灼くように見すえた。  良の目のなかには恐怖と、そしてふしぎな哀切な光があった。  風間は良を腕にかかえあげ、投げ出すようにベッドにおろした。  上着をぬぎすて、ネクタイをひきむしり、引きはぐようにワイシャツをとった。  猛獣が獲物におどりかかるように、風間の逞しいからだが、良をおさえこんだ。  良は抵抗した。  傷の癒えない背や肩が布にこすられる苦痛に顔をゆがめながら、もっと本能的な恐怖にかられて、風間の胸を押しかえそうとし、唇をさがしてくる彼の顔から、左右に顔をそむけて逃がれようとする。だがそれは風間の力に敵すべくもない、弱々しい抵抗だった。  すぐに、痛めつけられて弱っている体力がつきて、ぐったりと組み敷かれながら、良は哀願する目で、むさぼり食われようとする小動物のように、風間を見あげた。  激しく胸が波打っている。良のいたいたしさが、風間を残酷にした。  風間のからだが、良を侵そうとしたとき、良は喘ぐような悲鳴を洩らした。  風間は容赦しなかった。  苦痛にのけぞり、ずりあがろうとする肩を、彼はしっかりとおさえつけた。  もう逃がさない、と風間の熱した脳の中でささやくものがある。もう、この、美しい悪魔、ゆるすことのできぬ、この世でただひとりの、彼を狂わせてやまぬ嫩い美神は、彼のものなのだ。逃がしはしない。  彼のからだの下で、ぐったりと良は抵抗を止めていた。痛みに、顔がゆがみ、咽喉をのけぞらせ、眉をかたくよせ、瞼を閉じて、良は呻いていた。  白い歯が破れるほど、唇を噛みしめている。  蒼白になった、その顔を見つめ、風間は、この顔だ、と思った。この妖しい、頭を狂わせる、この世にあってはならぬようなエロティックな表情。極度の苦痛か、極度の快楽か、奇妙に似通っているその瞬間を、この世のほかの時間に化石させるような、この良の表情、それは、たしかに、風間が与え、風間だけの見ることのできる、風間の手中にあるものなのだ。  良を偶像とあがめ、その美を愛で、そのエロティシズムに陶酔するひとびとが何万人いようとも、この良は、この瞬間は、この表情は、風間のもの、風間だけのものなのだ。  それを、俺は望んでいた、と風間は激しく思った。苦しいか、と声には出さずに、喘いでいる良にささやきかける。  痛いのか。お前は、おそろしく、美しい、本当に、とても、きれいだ。そうして俺のものになり、俺から逃れることができず、苦悶し、喘いでいるお前を──愛している。この一瞬のこの思いのために、生命をとられてもいい、地獄をのたうちまわることになってもかまわない。  だが、とふと風間は狂おしく思った。だが、やはり、俺のすべての愛からすりぬけ、逃がれようともがき、拒むお前は許せても、俺は、お前のために屠られた男たちを忘れることはできないだろう。  わけても、巽だ、と風間は思う。この表情──風間が生命を賭けてもいいと思うこの良を、巽もまた見ている。それゆえにこそ、巽は死なねばならなかったのだが──見てしまえば、生きてゆくことのできぬ、メデューサの美しい顔、しかし、彼は、巽が良の無垢な肉体に刻した傷を見、良の苦悶にゆがんだ妖しい表情を、巽の見たように見ていた。  許せない、と思う。それは、頭を狂わせ、強烈に心をむしばむ嫉妬の猛毒である。そのおそろしい、甘くさえあるしたたりを風間はひそかに感じはじめている。  巽は死んだのだ。死者の目から、記憶を消すことはできない。良のからだの傷は、時がたてば癒えても、それが加えられた記憶は消すことができない。風間の見る良の裸身の上には、永遠に巽の目が漂っている。巽の記憶が目には見えぬが、もっと深く人の心に食い入ってくる刻印を捺しているのだ。  俺は、気が狂おうとしているのだ、と風間は思った。悪魔が、おそらくは良の内にひそむ、良自身さえ気づかぬ悪魔の毒が巽をほろぼし、風間にも食い入ろうとしている。良を赦すことはできない。  風間は、良を守るだろう。その歌を愛《め》で、その身におそいかかってこようとするすべての荒波から良を守り、そのためには人を殺すことも、闇に葬ることも、手を汚すことも何でいとおう。  しかし、風間は、良を赦すことができないのだ。良の肉体、巽のからだを、巽の鞭を知ってしまった、良のからだを、赦すことができない。  苦しいか、と風間の中に生まれ、みるみるふくれあがっていって彼を呑みこんだ悪魔は、良にささやきかけるのだ。  苦しむがいい。もっと、もっと苦しむといい。それがお前への罰であり──そして、俺の、お前への愛なのだ。愛し抜いているゆえにこそおれはお前を苦しめ、さいなまずにはいられないし、そうしてお前の苦しむ顔を見れば、その上に巽をよみがえらせぬわけにはいかない。  俺は狂いそうだ。もう、狂ってしまった。  お前の胸を切りひらいて、巽の記憶を消し、純白な、俺だけの、俺によって征服されるお前につくりかえることができるのなら、俺はお前の胸にナイフをさしとおしてもいい。  しかし、巽は死んでしまい、お前の手にかかり、そうしてお前と固く結びついてしまった。  修とて同じことだ。死にまさる絆はない。そして、昏《くら》い、どこか小暗い時間も空間もないこの世ならぬ場所の生き物であり、そのいくら涜しても本当はその透明な核に手をふれることもかなわぬ、ふしぎな世界の偶像、≪死≫の祭司長であるお前に、本当にふれ、拝跪し、お前の手から洗礼をほどこされ、お前の信徒となることのできるのは、本当はお前と死によって、二度と切りはなせぬように結びついてしまった、かれらだけでしかないのだ。  俺はいつか、良を殺すだろう、と風間は確信していた。この嫉妬、どうすることもできぬ、それゆえにこそいっそう心に食い入り、狂わせ、快いまでの苦痛をもたらすこの嫉妬に、どんな男でも、そう長く耐えることはできない。  まず、俺は鞭をもつだろう。巽の記憶、修の記憶、すべてを消し去り、俺だけの良にしてしまいたさに、俺はこの美しい、白いなめらかな生きて息づいている彫像の肉体の上に鞭をふるうだろう。  だが、それが何になるというのか、それは嫉妬をいやましにし、致命的に、彼自身の心に食い入らせることだ。  そして、いつか、彼はナイフをつかむか、この細い首につよい、たやすくその息をとめることのできる指をかけるかだろう。  だが、それもいい、と風間は放埒な頭で考えていた。  良、この美しい、特別な生き物、神の寵児のためには、そのような血と炎の、黄金と真紅に輝かしくいろどられた終曲《アンダチユア》こそがふさわしい。良のようなものは、決して、生きながらえ、無事に、ささやかに、けちけちとその生の割前をつかいはたして去ったりはしない。  その光芒の眩しさに一瞬息を呑ませ、ひとびとを灼いて、虚空のはてに燃えつきて翔け去ってゆくのだ。  それを、その刹那の良を、断じて他人にわたしはしない、と風間は思うのだ。  それとも、良の内に生まれた狂おしいものが、巽につづいて、風間をも拒みぬき、めくるめく反逆の炎に、彼をも屠り去ってゆくのが先だろうか?  それもよい、と風間は思うのだ。そうして良の手にかかり、良と結ばれることができるなら。  それは、風間の妄執と、良の反逆と、どちらが早く相手を燃やし尽すか、という戦いだった。  いずれにせよ風間の魂は良につながれていた。良の拒否がかりに勝を制したにせよ、風間の愛は良をもまた共に破滅へ、ひとたびは救ってやった破滅へ、ひきずりこんでやまぬだろう。  それが風間の愛なのだった。  お前と、どこまでもゆこう、と風間はささやいた。もう、もどれない。もう、二度と、安らかな凡庸な生にもどれはしない。熾烈な火に自ら身を投じて、風間は赦されぬ快楽の中に沈みこんでいった。 [#地付き](3につづく)  単行本 昭和五十六年九月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年五月二十五日刊