栗本 薫 翼あるもの1 目 次   この本を読まれる前に  ㈵  ──As a matter of course to him──  ㈼  ──and, to them who love him── [#改ページ]   この本を読まれる前に  この小説は、一九七五年と、一九七八年、私が二十二歳のときと二十五歳のときに書いたものである。  この小説は第一部「生きながらブルースに葬られ」と第二部「殺意」とから構成されている。それについて、またその他の二、三のことについても、お読みになる方がとまどわぬよう、若干の説明を加えておきたいと思う。  まず、この小説の第一部と第二部は、もともと独立した、別個の小説として書かれた、ということである。第一部たる「生きながらブルースに葬られ」は、一九七五年十二月十日から二十六日にかけて書かれ、時期的には私が中島梓名義で群像新人賞を受賞する二年ほど前、そして一昨年やはり文藝春秋から上梓された「真夜中の天使」という作品の少し前に書かれた。  それより前に、私は自分では「旧・真夜中の天使」と名づけた、現代ものとしてははじめての六百枚の長編を書いているが、むろんそれは出版されてなく、この「生きながらブルースに葬られ」は、実質的には私の二本目の現代物の長編(時代物についてはこの限りではない)である。  従って、文章、構成、考え方ともに若書きというべきであり、未熟で、現在の私であればこうは書かぬであろうと思うところが非常に多い。  本来、作家というものは、自信をもって人前に出せる作品でなければ公にすべきではないのかもしれないが、「真夜中の天使」を読んでくれた人たちに、この作品をも読んでほしいと思ったこと、またこれを読んでもらった数人の知己から、たとえ未熟であるにせよそれは現在の私から見てということであって、この作品そのものは活字にするだけの水準に達しているし、このまま眠らせておくことはない、と云ってもらったこと、また文藝春秋の人からも、出版する意志のある旨、伝えてもらったので、若書きのすべての欠陥と未熟をも承知の上でここに上梓させて頂くこととした。  また、そうした未熟が目につくとはいえ、これらの作品群は、その分、現在の職業作家たる私の素直には書き得ない何か──ひとにはすべてその最も書きたいことがあり、それをこそ、つつみかくさず書いたとき、そのひとはそのひとの全思想、感性、テーマを白日のもとにさらけ出すのだということ──が感じられる。また、私は、これらの、おそらくは二分の深い理解と、五分の誤解、そしてのこりの強い反発を招くであろう作品に対して、他の、あらかじめ読者を想定して書いた作品にはない、つよい愛着と満足とをもっていることもまた、云っておかねばならない。  そして、「生きながらブルースに葬られ」を書き、いくつかの時代ものの長編を書き(そのうちのひとつが「魔剣」として実を結んでくれた)、それから「真夜中の天使」を書いたあとになって、私は「殺意」を書きはじめた。  この「殺意」を書いたのは、すでに中島梓として評論やエッセイを活字にする生活がはじまっているときのことであり、一方では注文をうけて書く職業的物書きの生活をつづけながら、それにかまけることなく一方で自分の書きたい小説を、好きなだけ時間をかけて書きためていたこと──これが、私にとっての誇りであり、また、その後、自分は職業作家としてやってゆくことができるし、たとえどのように人気作家になれたとしても、書くことがルーティンワークとなって惰性で書いた小説を発表したり、また、書きたくないことを書いたり、書きたいことを書かずにしまうようなことは決してないであろう、というつよい、今にいたるまで崩されておらぬ自信の源となってくれている。  この「殺意」を書きはじめるについても、いろいろと考えていたことがあり、まず私は「生きながらブルースに葬られ」が、「真夜中の天使」にくらべて、ふくらみと成熟とに欠けるように思ったが、それを全面的に書き直すといった手段は姑息であると考えた。  そこで私は、いわば「生きながらブルースに葬られ」を表とすれば、それの「裏筋」にあたる小説を、陽の象徴たる主人公・今西良に対して彼のために消えていった陰の象徴である森田透をクローズ・アップすることでつけ加えて、補いあう一大長編とすることを考えついた。そこで「殺意」は、ほぼ同じ登場人物と、設定とをもちつつ、「生きながらブルースに葬られ」では見えておらぬ水面の下の出来事を主に書いて、しかも独立して読める作品、という構想で書きはじめられたのである。  すべてにおいて対照的な作品にしたかったので、「生きながらブルースに葬られ」が長編であるのに対して、「殺意」は読み切りの短・中編連作のオムニバス形式をとり、また、書かれたのはずっとあとであるし、形の上でも後編にあたるが、小説の内容は、「生きながらブルースに葬られ」よりも前からはじまることになる。  そして、いたるところで本筋たる「生きながらブルースに葬られ」にからみつき、もつれ、ある箇所では一致し、ある箇所でははなれながら、「生きながらブルースに葬られ」では描かれなかった部分の真実を明らかにしてゆく。  これは私にとってはきわめて興味ぶかい実験であった。読者諸賢は、しかし、そうした技術的な実験にこだわられることなく、筋のみを追って頂いても、むろん、少しもわかりづらいことはない筈である。  もうひとつ、両編を通しての主人公、今西良ことジョニーと呼ばれるロック・シンガーは、「真夜中の天使」にあらわれる主人公の少年と同姓同名である(更にいうなら「旧・真夜中の天使」にもまた、この名の少年と、「生きながら……」に登場する風間と同名の男、また、「行き止まりの挽歌」に登場する西村という刑事と同名の刑事が登場した)。これについて、こうした作家の「遊び」や「自由」に馴れてもおらぬし、寛大でもない日本の読者からは、あれこれの臆測や抗議があるかもしれないが、別に、同一人物の成長した姿と考えられようが、パラレル・ワールド、まったく別人の同名の歌手、と考えられようが、私にはまったくどうでもいいことであって、それに関する一切の干渉をうけつけるつもりはない。私にとっては、今西良という名の歌い手はひとつのシンボルなのである。同時に、同じ人物をあちこちに登場させるについては私なりのいわゆる「スター・システム」のつもりもある。手塚治虫氏の有名なキャラクター、また、少女マンガの木原敏江氏の、十六の作品にわたって登場する「フィリップ・デュ・プレシ・ベリエール」の例を想起されたい。日本の読者もいい加減に、ただ漫然と最もわかりやすくされたオーソドックスな小説の読み手であるばかりでなく、小説がひとつの世界であり、読者とはそれに参加し、積極的にその共同創造者となる、より洗練された読み方を学んでもよい頃である。  この二つの長編を上梓するにあたって、通しタイトルとして「翼あるもの」とつけた。これは、書いた時点ではなかったものであり、甲斐よしひろの同名の曲からかりている。  この作品は、前作「真夜中の天使」と同じく、いくぶん特殊な設定と、世界とをもっている。なぜそうなのかという疑問に答えるために、四巻の巻末に短い文章をそえた。あわせて読んでいただきたい。  前作は多くの無理解と誤解と反発、少しの支持と理解とを得た。この作品もそうであろうと思う。しかし、読者に本を選ぶ権利、批評する権利があると同様、ほんとうは本にも読者をえらぶ権利がある。この本はほんとうは、「真夜中の天使」を読み、その真に云わんとするところを、表面的な特殊さをこえて理解して下さった方々にだけしか、決して読んでほしくはないし、多く売れることも、ベスト・セラーになること、批評にとりあげられることも少しも望まない。むしろ八割の男性読者には、なるべく読まないでくれるようお願いしたいほどだ。しかし、読まれ、誤解されることなしには共感と知己をうることもまたない。ただ、表面にあらわれたことばや題材に目をうばわれ、目をそむけ、あるいは石を投げる人には、私がこれらの作品群で云おうとした真実のテーマは、決して胸の中に届くことはないであろう。どのみちそうした読者のことばが私の胸に届くこともまたないのである。  この下巻「殺意」を書きおえたのち少しして、私は「ぼくらの時代」を書きあげ、この作品が江戸川乱歩賞受賞作となって、私は職業作家の生活をはじめることになった。それ以後私はたくさんの長編を書いたが、書きたいと思わないで書いたものも、出来ばえに心のそまぬものを上梓したこともまだない。それは部数より、受賞より私の誇りである。しかし、この「翼あるもの」や「真夜中の天使」やいくつかの上梓しえぬ時代小説を、誰に見せるあても出版の可能性もないままに書きためていたとき──そのころほどに、私が純粋な「書くよろこび」によってだけ書いていたこと、すべての夾雑物なしに小説との蜜月をすごせた幸福な書き手であったことはついにないような気がする。  この長編をお読みになる方のうちに、数人の知己がいて下されば望外の幸福である。   昭和五十六年六月 [#地付き]栗本 薫  [#改ページ]   I  ──As a matter of course to him──     1  3テイクがあがると、ほっとした息をついて、みんな急ににこにこしだした。いい出来だ。 「いいぜ、ジョニー」 「最高」  風間はミキサー室で、ヘッドフォンをはずしながらガラスごしに見おろした。まるで水槽みたいに見えるたくさんのアンプ、ややこしいメカにとりかこまれたガラスの中の若者たち。  その水槽が風間の聖域だ。  ジョニーのいるところはつねに聖なるメッカだ。  風間の目は、たえず動いている六人の若者たちの中から、ただひとりを、この世界の中心をえらびだし、吸いつけられ、つきまとい、包みこまずにはいられない。 「ジョニー、あがろうか」  いま弘が声をかけるところ。リード・ギター、髭をはやし、そのせいで一番おちついて見える、頭にパーマをかけた男だ。  風間の目はジョニーの唇のうごきを見つめた。オーケー、上、行くよ。先生にきいてみよう。でも、よかった? きっと、そんなふうに云っているのだろう。  頬が上気している。白い歯を見せて上衣を放りすてる。黒いウエスタン・シャツが、しなやかなからだを包んでいる。  二人とないムーサイの愛児、奇蹟の声、あの甘いセクシーなかすれ声がかれの翼、いまそれは、かれを静かに無限の飛翔からキーボードとドラムスのエンディングでエコーしながら地上へつれおろしたところだ。  ジョニーの目にまだかすみがかかっているのも無理はない、と風間は考えた。ジャニスのレコードに針をおろすことは、ジャニス・ジョプリンと|やる《ヽヽ》ことだというライナー・ノーツを書いた奴は誰だっけ? ジョニーはジャニスに似ているというのは、いま背を丸めてエレキ・ベースをケースにおさめている、サム、こと田端修が云いだしたのだった。  鞍馬山ファイヤー・コンサート、五万人を集めた夜間フリー・コンサートで、ジョニーは「ムーヴ・オーバー」を歌った。  ジャニスのシワ声は、きいているとおしつぶされそうに胸が苦しくなってくるが、良の声は、同じかすれていても──風間はいつも、何本も銀線をはりめぐらしたような声、あるいは内で光の屈折する、ブリリアント・カットのダイヤモンドのような声だ、という奇妙な表現を思いうかべた──甘い。  あまりにも甘くて、正確には、ジャニスのハードなブルースとはまるきり異質なものだ。しかし自在に切なくかすれて、堪えがたいほどな胸苦しさに誘いこむ良の歌は、強烈無比な麻薬であるという点で、ジャニスとしかくらべようがないのだった。他の奴が歌いやがったらぶっ殺してやるんだが、とジャニス狂のドラムスの昭司が云ったものだ。 (ジョニーじゃしゃあねえや。それに、そんな気おこせるのもジョニーだけだろうさ)  ジョニーが何か云い、こちらにあがって来るようすに、風間はいくぶん身構える気持になったが、それでももういつもの冷淡な輝きをとりもどした茶色の瞳が薄色のサングラスごしの彼の目をのぞきこみ、歌うときよりはいくぶん低い、しかし特徴のあるかすれた声が、先生《センセ》、と呼びかける瞬間の、弱電流にふれたような戦慄を、完全におおいかくすことはいつものようにできはしなかった。 「どう?」  良は期待にみちた表情で風間のそばによってきた。かれはいつもひとが自分をどう思っているかききたくてしかたがないのだ。 「よかったよ。バッチリだ。これを使うんで決まりだな」  風間は笑って髭をひねりあげた。同じ鼻下髭でも、ギターの弘のや、全然似合わないキーの光夫のとは大違い、このダンディな作曲家を英国紳士みたいに決めてみせるサマになった髭だ。  光夫は良につづいてあがってきたが、もともと色白のやさ男なので、真黒な長髪はともかく、せっかくの髭がとってつけたようだった。光夫としてはガキに見られるというのでくさって考えついたことらしいのだが。 「オーケーでしょ、先生《センセ》」 「ああ、いいね。いまみんなおりてくるから、きいてごらん」 「きくかい、ジョニー」 「あとでね」  良は笑っていた。獰猛な仔豹が甘えかかるような笑い、仲間うちでしか見せない、気心の知れぬ人間がひとりでもいたら決して見せない表情だ。さっきまでかれはミューズの容れ物になり、その細いからだに耐えきれるのかと、見る方の胸がいたくなるような激情で悲しい恋の歌を歌っていた。 (ジャニスのレコードに針をおろすのは……)  風間は何がなしぎくりとする。 「腹へっちゃったよ。何か食いにつれてってよ、先生《センセ》」 「あ、いいよ」  風間は云った。 「何がいい。この辺なら、中華料理か、イタリア料理か──どうせ今日はあがりだろ、──みんな。ワーワーと行こう」 「先生《センセ》の奢り? わ、いい話だなあ」 「行こ行こ。サムちゃん、そんなのあとあと」  瀟洒な三つ揃のスーツ、髭にサングラス、ひとりだけ異分子の感じの風間は、ジーンズとシャツやセーターに、アーミー・ジャケットやファー・コートやダッフル・コートをはおった長髪の若者たちのあいだに立っていた。 「お前、コートは、ジョニー」 「あ……」 「ほら、とってきてやったるよ。お前、何でもおきっぱなしだからなあ」 「サンキュ、光夫」  かれは仲間たちにとりかこまれて立っていた。  この上なく、かれを愛している、この世界の中心がかれであることに気づいている、かれを支え輝かせている信者たち。そのあいだで、かれはいかにもくつろいで、きれいだった。  ジョニー、こと、今西良、二十四歳、歌手──美しい豹かなにかのように無感動な琥珀いろに光る目と少女のような睫毛、弓なりに挑むような表情をつくる眉、接吻を請う処女《おとめ》のようだと風間の思う、下唇のこころもちつきだした、みずみずしい口をもったふしぎな生き物だ。 ≪スター≫という独特の香気が磁場のようなものをつくって、かれを他のすべての人間たちからへだてている。  いつから良を見つめ、いつのまに良だけを見つめているようになっていたのか、風間にもわからない。  歌が、うまい、他の歌い手と違う、ということだけは、商売柄何十人の新人にもざっと目をむける彼にははじめからわかっていた。六年前だ。ドラム、ギター、サイド・ギター、ベース、キーボードのバンド≪ザ・レックス≫をひきいて登場し、あっというまにスターにのしあがった良を、はじめは、かれが歌うとき全身の表情にただよう、またとないエロティシズムの電流にひかれて、興味をもって風間は見たが、そのうちに、漠然とした疑問を感じだした。一体|どこ《ヽヽ》が違うのだろう、という疑問だ。  美しい若者だし、歌もうまいが、そんな歌手はざらにいる。ジャリをキーキーいわせるだけでない本当の歌手なら、大体それが前提条件なのだから当り前だ。  しかしジョニーは|ちがった《ヽヽヽヽ》。その上にまだ何かがあった。その何かをようやくわかりかけてきたのは、ひそかに待っていたチャンスがきて良のために作曲することになり、≪かれの宇宙≫へ入りこむという特権を与えられ、いずれも、いまにぐんぐんのして来そうなひとくせあるレックスの連中とつきあいだしてからである。 「ジョニーはね、ロック・シンガーなんですよ、先生《センセ》」  グループの理論家のキーボード奏者の光夫は風間の長年の疑問をあっさり片づけた。 「オレたちはね、いまの日本じゃ唯一の、って思ってる」  バンド・リーダーということになっているギターの弘、堀内弘、ヒロムと読むんだそうだが、みんなはヒロちゃんと呼んでいた。 「スターはいるしロック・シンガーのいい奴もゴマンといる。だけどその両方をかねてる奴って云うとさ──ま、見当らないよね」 「先生《センセ》はああいう歌謡曲メーカーの内じゃ、わかってる方だけどさ。商業ベースで売ろうとすりゃ、ロックを殺さざるをえないというか──」 「ンー、だからさ、このごろ若いの、ジャリタレの曲はみんな若い連中の好みでロックっぽくしてあるけど、ありゃ実はロックじゃないでしょ。エイト・ビートなのよね。カーペンターズとか」 「そうそう、エイト・ビートのポップスなんだ。でロック、本物のロックとはさ、どこが違うかって云うと……」 「ブルースじゃないんだな」 「そ、イージー・リスニングである……」 「そういうこと。で、ロックってのはアメリカの若いのがさ、音楽ってのはサテンのBGMとか、耳にココロヨク甘くせつないなんてもんじゃねえんだーてんで出てきたわけでしょ」 「結局、革命ってことを、考えるか考えないかでさ。ロック・ムーヴメントてのは革命は音楽でもできるんじゃないか、生き方の革命が本当の革命だってことだよ」 「ところがいまのニッポンで、当面の敵っていうと、ベトナムなんてもんじゃなくて、マスメディアってことになるわけよ──ロックでも、サザン・ロックがメイコンに集まったみたいに一つのなんてのかな、ひとつのパワーになる前に、うすめて、毒消して、売りものにされちゃうんだなあ……」 「イージー・リスニング・ハードロックってこと」 「ハハ──で、日本でナントカしようってことになると、陽水みたいにテレビを拒否するとかさ……サンハウスみたいにアングラ化するかで、結局、存在としちゃ意味があっても、実際問題として体制にとっちゃたいして影響ないんだよな。でもそれはオナニーだってオレらなんか考えるわけ。もしコマーシャリズムにたちむかえなかったり、つぶされるようならホンモノじゃない……」 「日本には日本のロックのありかたがあると思うよ。それが、コマーシャリズムをさか手にとって居直るのも一つの方法だとオレたちは思うんだな」 「逃げるのはウソだってんでね。それでジョニーなんかけっこう歌謡ベストテンかなんかにヒット出してさ、ジャリファンがキーキー云って、それだけ歌きかせるチャンスが多くなって、連中何もわかんないでジョニーすてきィー、きれい、カワイイってんでもいいわけよ。はじめはね……でも、それでヒロキとか、まさみとか、ああいうジャリタレと一緒に出ててさ──だんだん、これ、違うんじゃねえかってことが何となく感じてもらえやしないかと思ってるわけだ」 「で、何だろうってことになったとき、ロックである──」 「でも大体、パワーなんてものが、マスメディアぬきにして成立するわけがないんでさ。早い話がビートルズ革命ってこと云って、たしかにオレらもビートルズで育ってんだけど、あれだって武道館ぎっしりにして、女の子が失神するてなことやってはじめてビートルズ革命でしょう。ポール、ジョン、こっちむいてなんて、音なんてきいてなかったコでも、いつかわかるんじゃないか──いや、それであっても、ビートルズをきいたコきかないコで、何てのかな、コトバが通じるってことがあるんじゃないか──ジャズでもさ、例の前衛なんか、結局は一部のディレッタントがエリート意識もってピットインあたりをうろうろしてさ。マスターベーションにしかならんでしょ、結局」 「きみらの云わんとすることは、非常によくわかるけれどね」  風間はいささかオジン的に云ったものだ。 「それで食ってるから云うんじゃないけど、結局、マスが求めるからこそイージー・リスニングが主流をしめるのであって、マスメディアがつぶすから毒がうすまってイージー・リスニング化するってことじゃないだろう」 「うん、そりゃわかりますよ、先生《センセ》」  光夫が髭を撫でた。 「ま、ロック・エイジ、ロック共同体というものは現実にあると思うけど、現実には、イージー・ライドであるかぎり、若いもんだって、けっこう長髪でも、ジーパンはいていても、レーモン・ルフェーブル、ええな、フランク・プウルセル、ええな、これが音楽本来の役目だって層は根強いわね」  ベースの修が関西なまりで口をはさむ、のっぽでのんびりした�サムちゃん�だ。 「だからそこをピシピシと、ケツ叩いて革命やぁなんて云うより、ああええなあ、こう云うのんが好きやぁて云わしてロックへ持っていけたらええわけやね。それが、ジョニーの特異な存在やて云うわけ」 「なるほどね」 「マスメディアでも、コマーシャリズムでもいいわけよ。ただ、|そこんとこ《ヽヽヽヽヽ》がわかってるかどうかってことさえありゃ──」 「なるほど」  風間は三十七歳で、ジャズに痺れて育った|くち《ヽヽ》だ。  だから、長髪やアーミー・ルックにはどうも抵抗があったが、かれらの気持にはひかれるものを感じたし、事実、風間の泳ぎまわっている芸能界というねとねとした水たまりの中で、ジョニーを囲むレックスのメンバーほど、若者らしさをそこなわれていない青年たちは珍しかった。  かれらはいずれも自分の考えをもち、それぞれの音楽へのアプローチをぶつけあい、みんなが作詞作曲、演奏というクリエイティブな活動にそれぞれ個性のある才能をみせ、コマーシャリズムに単なるヒット歌手今西良のバック・バンドとして扱われ、どこそこ劇場へ一週間、どこそこ公会堂、なんとかテレビの歌番組、とうろうろ稼がされていたが、ふしぎとみんなが稼ぎは稼ぎ、やりたいことはその金で、と割り切って、オトナの余裕でやっていた。  だがそれとてもジョニーという存在があればこそだ。  光夫も弘も修も、ドラムの昭司、サイドの次郎も、ジャリタレ・スターをとりまいているスタッフのように人形タレントのご利益にあずかり、わけまえをふんだくり、おちてくればぽいと乗りかえてしまうオトナの商売人連中とはおよそ縁どおい、ひとくせある、才能もあればヤマっけもある若者たちだったが、ジョニーに関するかぎり、完全に降参していた。 「ジョニーは特別だよ」  そう云っては、笑っているかれをふりかえる、レックスたちの目は、まるでこの小柄なほっそりした若者を包みこむようにやさしい。  風間は、どんなジャリタレのまわりにも、こんないとしさとやさしさにみちた目を見出したことがなかった。  ジャズ・マニアの風間は、ジャニス・ジョプリンもさることながら、存分に甘やかされ、崇拝され、いつくしまれて仲間たちにすべすべした豹の仔か何かのように甘えかかるジョニーを見ていると、レディ・デイ──ビリー・ホリデイを思い出さずにはいられない。  くちなしの花をつけたレディ、そのときの恋人──クラーク・ゲーブルか、ルイ・マッケイかを傍らに、ときどきその髪の毛に手をつっこんでかきみだしながら、いごこちのいいバーにくつろいで、前の恋人で最良のテナー奏者レスター・ヤングや、カウント・ベイシー、テディ・ウィルソン、ベニー・グッドマン、ベニー・カーター、それにのちにはマル・ウォルドロンたちに囲まれて酒を飲んでいる。  実際にはビリーは生涯を通じて差別と圧迫に苦しみつづけた悲劇的な女性だが、風間の描くのは、それぞれすばらしいミュージシャンである友人たちに囲まれ、こよなく愛され、激しく愛し、二人とないブルース・シンガーであるビリーのひとときの陽だまりなのだ。  ビリーが冗談を云う。レスターたちがわあッと笑う。いっちょ、ジャムろうか。じゃ、レスター、あんた吹いてよ。何がいい? 「|私の彼氏《ラヴアー・マン》」──じゃイントロ八小節で入ってくれよ、レディ。G? 高い? じゃD──ワン・ツー・スリ・フォー、歌が2コーラス、レスターからバック・クレイトンへソロがまわる、ゴキゲンだ。ピアノの上からグラスをとってぐいとひと飲み──レディ、最高だよ。  風間は、大学時代には、ジャズ・コンボを組み、生演奏のバイトにありついてはひそかにとほうもない夢を描いたときもあった。モントルー、ニューポート、カーネギー・ホール──パートはピアノ。  さんざん甘い夢を見てから、正規のレッスンをうけてない、テクニックのどうしようもない甘さと、もっと致命的な才能の問題でペシャンコになり、おとなしく妥協したが、いっぺんでもあの強烈きわまりない音楽の泉の味を知ってしまったら、どうにも忘れられるものではない。  さいわい、ジャズほどきびしくなく、オリジナリティも才能も必要でない、むしろちょっとしたセンスと新しさがあればいい歌謡曲の方で、もちまえの器用さでアレンジをつなぎのアルバイトにしているうち、ジャズ・ロック系統の歌が求められるようになってきて、いかんともしがたい演歌ばかりのご老体たちの隙に乗じて風間俊介の名は売れてきたが、いまでも風間には、音楽に対するウブな憧れは根強くしみこんでいる。  チャッチャとお手軽にミックスし、ジャズっぽく香りをつけたジャリタレのヒット・ソングを書きなぐりながら、ホントの音楽──そんな青くさい渇えがぬけない。  それが、風間が今西良の歌を書かないかと話をもちこまれてよろこんだ理由だし、疑ぐりぶかい顔で、サングラスと髭と三つ揃がトレード・マークのダンディな作曲家の|おじさん《ヽヽヽヽ》に会いにきた良以下のレックスたちが、あっさり風間をうけいれ、認めてくれた理由だろう。  かれらは勉強家で、R&B、ニューロック、ソウルに至るまで追っかけていたか、風間はひとりぐらしのマンションにウイスキーと氷を山ほど運びこみ、連中をつれてきて、馴染になる儀式として、自慢のコレクションをかけながらしゃべりまくった。  マル・ウォルドロン、マッコイ・タイナー、ジャッキー・マクリーン、チャーリー・パーカー、チャーリー・ミンガス、ジョン・コルトレーン…… 「こういうのだってきかなきゃだめだと思うよ。たとえばエリック・クラプトンはヤードバーズをわかれてクリームをつくるとき、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカー、二人とも純粋のジャズ畑からさがしてきてる。シカゴのメンバーの一番影響をうけたミュージシャンってインタヴューでは、ロバート・ラムが現代音楽のエドガー・バレーズと、セロニアス・モンク、ハービー・ハンコック、ドラムのダニエル・セラフィンはエルヴィン・ジョーンズとか、ほとんどがジャズ・アーチストをあげてる。ひとことでジャズ・ロックとか云っちまうが、本当のジャズ・ロックは、ジャズっぽくアドリブをのせりゃいいとか、ブラスでパッパッてやればいいってもんじゃない。ものすごく、底の教養てやつがいると思うね。  ビートルズなんか、リトル・リチャードとか、ビル・ヘイリーあたりからストレートに生まれてきたんだろうし、おっと、プレスリーもいるかな。  いまのポップス界ってのは、そのまたビートルズからほいっとつながってて、いまになってニュー・ロックだとかいってジャズ・ロック、フォーク・ロック、エマーソン・レイク&パーマーみたいにムソルグスキーをやってみたり、とってつけたようにいろいろかじってみてるが、大体もともとジャズってのは孤立しちゃいない。ジャズの方だって時代おくれだなんて云われながら、エイト・ビートのニュー・ジャズ、フリーフォーム・ジャズ、尺八が出てくるわ、エレキ・ギターでスイングしてみたり、変わろうとしているからね。  ダンス・オブ・マジックだの、ナベサダなんかだって、知らんできいたらきみらジャズとはいわないだろうと思うよ。デオダートなんかレコード屋じゃどうしてジャズ・コーナーにおくのか知らんが、あれはニュー・ジャズとも云えるし、ニュー・ロックでもあるだろう。ただそういう動きが、ジャズ・シーンの場合、底力のたくわえがあるような気がするんだね。教養の差というか──現代はほとんどのジャズメンが伝説みたいな、楽譜が読めないなんてタイプから、ヨースケ・ヤマシタ式の、音大出になってる。でないと、基礎テクニックのしっかりしたつみかさねなしで、新しがりや目をおどろかすやりかたでごまかせるほどもうジャズのレベルは甘くないんだ。  ところが、いまやロックの方は、ファズかけたり、エコーでごまかしたり──ま、PAのテクニックでカバーすりゃド素人でも売り出せる。もっともそれだってフォークのひどさよりゃいいが……  それで、ひでえ素人声で、発声の基本もへったくれもないのが、アマくささがいいとかいってバンバン売る。それでいて、エラ・フィッツジェラルドとか、アニタ・オディとかレイ・チャールズとか、とにかく本当に腹の底から歌ってるしハートもあるうまい歌手にあうと、こりゃスクエアだとか、体制的だとか云う。すぐれたものに対する感覚とか、畏れとかもないんだな。そういう奴らに限って、反体制の反マスメディアのって理屈で口をふさごうとするんだ。ガキだと思うね。救いようがない、ガキだよ」  しゃべっているうちにジャリと、ジャリを食って肥っている連中とばかりつきあっていなければならない日頃の鬱屈がふきだし、夢中になり、青二才のように目を燃やして大声を出し、気がついて、「君はアイドル」「恋の別れ雨」「エンゼル・ベイビー」などの作曲者は真赤になってしまったが、レックスたちは目を輝かしていた。光夫がそこでほんとのロックは生き方なんだとロック論をやり、修がぼそりと関西弁で口をはさみ、風間がまた熱くなってジャズとロックの接点に話をもっていき、ウイスキー四本あけて、どうやら中年族としては最上級の相棒だというありがたい手形をもらうことができたのだ。 「ジャズもいいね」  ひと晩きいたあげく、メンバー中最も熱狂的なロックンロール狂のジョニーが降参して云ったし、若いかれらはかれらで、ディレクターやプロモーションの連中や世話人や、かれらのまわりにいる大人たちから腹蔵なく話されることなどまるきりないし、奴ら話すなかみもないのさと嘲っていたので、かれらをさえ圧倒するほどの音楽への情熱と知識を、もろにぶつけてきた風間へのおどろきは大きかったのだ。  しかし、と風間は考えた。そうだとは云っても、それだけではかれらに先生、先生となつかせるわけにはいかなかったろう。かれらの世界──そこに風間は音楽でメシを食いはじめて以来はじめての、つよい共感とここちよさを感じたが、そこに入りこみ、腰をおちつけ、とにもかくにも仲間として認めてもらうには、最大で最後の絶対的条件があった。それもそれだけではダメで、他のすべての条件を満たしてはじめて出てくるのだが、要するにジョニーだ。  ジョニーをこよなく愛し、崇拝していること。≪ジョニー教≫の信者であること。ジョニーがこの宇宙の太陽であり唯一の中心であると知っていること。そうでなくては、≪ジョニー・ワールド≫──これは、ジョニーの新生面を切りひらくと称して、風間が制作スタッフに加わることになったこんどのLPのタイトルでもあったが──への扉は見つからない。その点も風間は文句なしだった。 「衝撃の告白だがね」  ジョニーたちと最初に顔あわせをし、ジョニーひとりが歌番組の録画があって|ジャーマネ《ヽヽヽヽヽ》の清田の車で出かけ、あとで風間のマンションにくる、と話がきまって、五人のレックスたちと夕食に行ったレストランで、風間はいくぶん照れながら云った。 「ジョニーには、ここ数年来一ファンとしていかれっぱなしでね」 「おーやおや」  弘が髭を引っぱってニヤニヤした。 「そりゃ初耳だ」 「デビュー以来ずっと見てたが──これまでにいなかったような歌い手だと思うね。今度の仕事は、だから俺にとってもとても嬉しいんだ」  このひとことで、かれらは半分ぐらい警戒をといたようだった。同じコトバを話す、と認めてくれたわけだ。 「これは、かれには内緒だぜ」  赤くなって風間は云った。 「あんな奴は、この世に二人といませんよ」  突然、いつも無口な昭司が云い、にやりとした。 「仕事つづけてりゃわかると思うけどね、正直云ってオレらみんな奴にはメロメロでね」と光夫。 「先生《センセ》もいまにわかりますよ」  もうわかってるさ、とそのとき風間は顔をのけぞらすとまったく許しがたいくらい色っぽく、美しく見える良の歌う顔を思いうかべて考えたものだ。  その良の顔はいま風間の横で、何を考えているのかぼんやりと沈みこんでいる。良のまぶたは、真珠母貝の内側のように、何かを塗ったような青みをおびて、夢見るような目をふさいでいた。  ライオンやそういう猛獣は、母親とだけいて、安全なかくれがにいると確信のもてるときだけ、ころりとあおむけに寝て無防備な腹をさらけ出すそうだが、ジョニーもそういうところがある。  人馴れぬ獣のような警戒が第二の天性になっていて、知らぬ人間やうるさいファンの前では機械的な笑いをうかべ、≪いい子≫なうけこたえをし、人をそらさないが、その実ジョニーの内側では、ぴしゃりと固くシャッターがおりてしまっている。  はじめにそれをくらったので風間にはその違いがよくわかる。本当のジョニーの放恣で気まぐれな、めくるめくような反応をあびせかけられたら、もろにあびせかけられる太陽の白熱光線と、ただの螢光灯ぐらいの違いがある。  しかもその切り売りの機械的なほうが、何も知らぬファンたちが色っぽい、美しい、エロティックだ、ひきこむような魅力があると夢中になる|やつ《ヽヽ》なのだ。  気を許したライオンがふざけちらしてころげまわり、鼻面をすりつけてくるように、思うままにその魔力をあびせかけられ、引っぱりまわされる方たるや思うべしである。  風間はこの半年で、それがどういうことなのか、とことん知った。そして「ジョニーは特別だよ」というレックスたちの甘やかすような、包みこむようなまなざしのどれにも劣らず、そういう目をするようになってしまったのだ。  光夫たちと違って音楽で、ジョニーの歌を支え、とけこみ、一部になることで発散することができないのだから、一番いかれてるのは、苦しいのは俺だ、と風間はひそかに考えていた。  良の横顔はものうげに白くイタリア・レストランの薄明りにうかびあがっている。どこか少女めいて、彫刻したようにきれいな顔だ。  レストランの客が、このにぎやかな一団を見て、今西良だ、とささやきかわしている。TVCスタジオのすぐ前にあり、芸能人や有名人をさわぎたてるほどイモでないという顔をしているこのレストランでも、良には特別だった。  ばかな客がサイン・ブックをつきつけたりしなければいいと思う。いませっかく良が気持がほぐれて、黄昏のような灯のやわらかな照明のなかで、ふしぎな美しい生物、かれを包みこんで世界はしっくりと、満足げに、まどろむようにひろがるところだ。  良のいるところ、どこであれ、そこは良に所属している。部屋に一歩入ってくればその部屋が、海辺におりてゆけばその砂浜が、ステージにあがればステージが、良のいるべきただひとつのふさわしい場所のように見え、良が出てゆくと目にみえてその部屋が生気を失った。  良の感情の動きは気まぐれでむらがあって激しい、鋭敏だと云ってもいい。 「ジョニーの心理構造って、女性的なんだな」 「そうですよ。それ、当然じゃないかな。ステージ・コスチュームとか、自己顕示欲とか、感情移入とかね。またジャニスだけど、ジャニスとかビリー・ホリデイとか、ああいう女って、男性的な部分、完全にオトコ的なものがあるでしょう。オレ思うけど、変な意味、ぬきにして、両性を兼ね備えてる、ってのがスターの条件じゃないのかしら」 「きみらもそう思ってたわけだね」 「そりゃね。云いたかないけど、おれらは恋人《かのじよ》とジョニーとどっちか、ったら、結局ジョニーになっちまうと思いますよ。先生《センセ》だってセッション、経験あんだからわかると思うけど、女とやるセックスなんて──音楽にくらべたらメじゃないもんね」 「やばいなあ、光夫」 「あれ、お前云ったんじゃないヒロ」 「わかってますよ、誤解したりしやしないさ」  眉を寄せ、目をつぶり、苦しげでさえある恍惚の表情、陶酔、叫び──歌は最良の意味においてセックスと同じなのだ。  音楽──音楽こそ、許しがたいペルセポネーの地獄の柘榴だろう。風間は結局一切の演奏《プレイ》を諦めたが、コンボを組んでいた過去を持っている彼には、ジョニーとレックスのステージはある意味ではひどい苦痛、麻薬中毒の禁断症状の苦しみをもたらした。  ドラム、スティックをつきだして、打ちあわせてカウントをとる、バスドラ、ベース・パターン、底ごもる心臓の音。アコースティック、サイドのコード、ふだんつかわれぬ、楽器を知らぬ人、それもソロのプレーヤーには、決して知ることのできないコトバがただひとつのコトバとなり、リズムが身内からわきあがり、溢れ、そしてジョニーの歌が、あのかすれた、堪えがたいくらい傍若無人に心に侵入してくる歌が乗ってくる。  かれらはひとつなのだ。ジョニーがその特徴のある息の吸い方で──ブレスの音がまるでがんぜない子供が歌うときのようにはっきりマイクに入る、本当なら欠点になるべきそれが、ジョニーにかぎっては、哀愁やエロティシズムやいとおしさや、かえって最上の技巧のようにたくまぬ魅力を出していた──ワン・コーラスをおさめる、ギターがヴォリュームをあげて間奏に入る。  ドラムのフィル・イン、紗のヴェールをかけたように心の内側にしみこんでくる良の声。ジョニーの、投げ出すような息のひきかた、スライドのしかた、意識してやっているのかどうか、どうしても風間にはわからない、ときどき出る半音の半分くらいの音程のずれ、アレンジになくても、乗ってくると自然に天性のリズム感で出てしまうらしいかけ声、どれもこれも、どうにも真似のできないものだ。  吸いこむような、からだの芯からわきあがってくるらしいアクションは、風間が黒人シンガー以外に見たことのない、野性の獣のしなやかさとリズムをもったものだった。 「カリオカだね、まるで」 「なに、それ。カリオカってラテンの曲があったけど」 「知らないのかい。リオっ子──リオ・デ・ジャネイロだ。インディオと白人の混血がムラータで、黒白がモレーナだったかな。いや、逆だ。どっちにせよ、ラテン・リズムの生みの親だ。サミー・デイヴィスなんか見てると、黒《ローク》にゃかなわんと思うが、このカリオカがサンバ踊るのかなんか見てると、黒《ローク》より動きが色っぽくてピタッと決まってる。マラカスなんかふらしてみろ、ちょいと真似ができん、日本ナンバーワンのダンサーだって幼稚園だね」 「それに似てるの? オレ」  良は嬉しそうな顔をした。女の子みたいな奴だな、といとおしさをこめて風間は笑う。 「日本人よりリズムがいただけないのはアングロサクソン、及びエスキモーだがね。日本人のリズム感てな、叩く間《ま》でなく、静止する間で育ってるんだな。だから、ディスコなんかで見ても、プロのゴーゴー・ガールでも何だか教えられたとおり踊ってるって感じだ。からだの中からリズムがほとばしって動かずにいられないってところがないね。馴れてもいないしね。手拍子ひとつ満足に叩けんからね。その点お前さんは、ただリズムがいいんじゃなくて、凄く動きが色っぽいんだね。だから黒《ローク》よりゃカリオカの動きに近い。全身で歌ってるよ」 「そうかな」 「アングロサクソンて奴はでかくて不器用《ブキ》でさ。プレス・フォードがチャールストン踊ってるところなんか、まるで──盆踊りだぜ。どうだい、昭司」 「そうね」  ドラムの昭司がくっくっ笑う。 「ジョニーのアクションって、緊張するね。同じ動きでも、余裕をもって決めないで、こう」  からだをぐっとそらし、パッと決めてみせる。 「ホントのギリギリまで引っぱってパッと決めるでしょ。そりゃそうでなきゃ、鋭くもカッコよくも見えないんだけどね。そのかわりこっちもちょっとはずしたらウワーッとぶっこわしちゃう。だからジョニーのバックだと、こっちもフィル・インやブレーク、入りぎわや切りぎわをバシッと決めなきゃならないんだよね。しんどいけど、ぐっと来るよ」  昭司にしてはよくしゃべって、顔を赤くした。 「そうだな。どうかすると、ジョニーがステージじゅう踊りまわるのに気をとられてワッと間違えたりね」 「あ、落ちるぞなんて思ってるんだろう」  ジョニーは声をたてて笑う。  どこかに、何かしら妖しい常軌を逸したものを感じさせる顔だ。きれいで色っぽいが、その冷たい白く光る目を誰やらが麻薬中毒《ジヤンキー》の目と称したように、気まぐれで激しい、女のような感情の起伏も、妙な、云ってみれば金属的とでも云うべき、異和感があり、それが風間を呪縛する。  熱さも、冷たさも、世のつねの平和なまっとうな、あじけないひとびとの数倍のするどさで周囲にまきちらされる。ジョニーの論理というのがまた、野獣か異星人か、どことなく異質だった。  たとえば、この前のリサイタルだ。一年前よりさらにロック味をつよめたので、女の子たちは期待はずれだったかもしれないが、その中ほどで自作の曲を歌う前に、「これはファンがうるさく電話をかけてくるので困ってつくった歌です」とすまして云った。  面とむかってうるさいと云われた少女たちの方はジョニーの駄洒落にけらけら笑っていたが、「JONNIE」とプリントしたTシャツを着た後援会の少女たちの幾人か、あるいはその全員が、当の「うるさい」電話魔であるのはわかりきっていた。 「お前、はっきり云うなあ」  風間はあとで云ったが、ジョニーはにやにやして、少しどやしつけないとわかんないんだよ、と云ったきりだった。 「やっこさん、だいぶ誤解されてるだろうね」 「まあね。思いあがってるとか、ファンに冷たいとか、云われてるようよ。オレらなら、別にファンに特に冷たいんじゃない、大体ああいうたちで、みんなが甘やかしても別に何とも思ってないんだってわかるんだけどね」 「ジョニーって、たぶん誰も好きになったことがないと思うね」  修がしみじみ云った。 「奴の目って、先生《センセ》、正面からはっきり見たことある? だんだんこわーくなってくる、ま、ちょっとええ気持のゾーッとするんやけど、気狂いの目、やね。こうオレを上目で見てても、オレをつきぬけて結局自分のなかへもどっていってるみたいな、ちょっと違うとこがある」 「もし歌うたってなかったら、いまごろは気狂いだって病院に閉じこめられてたかもしれない」  そうだろう、と風間は思った。  誰も愛していないからこそ、ジョニーの恋の歌はどんな恋多き女の歌より胸をえぐるのだし、誰もがジョニーを愛しているのだろうし、ジョニーに凶暴な山猫が爪を立ててじゃれかかるように甘えかかられると、ぼーっとして云うなりになってしまうのだろう。  ジョニーにヒステリックな拒否反応を示すひとびともいるが、それもよくわかると思う。  人畜無害なアンディ・ウイリアムズ式の万人向けなど、本当はあってもなくても同じなのだ。ジョニーは妖しいほど、狂気の翳、けだるい頽廃、なまめかしい陶酔、をふり流す有毒な果実で、だからこそ風間も含めて≪ジョニー・ワールド≫を知るほどの者はジョニーが≪かれ≫唯一無二の|そのひと《ヽヽヽヽ》であることを悟っているのだった。 (こいつを愛してしまったら終わりだ。魂を食い荒らされ、決して誰も愛さないこいつの冷たい夢見るような目の中に溺れ、こっちまで狂ってしまう)  そんな漠然とした思いは、ジョニーに仲間として認めてもらうずっと前から風間の感じていたことだが、いまや風間は光夫や弘、修、昭司、次郎、ジャーマネの清田といったお馴染のスタッフと一緒に、ジョニーの磁場《ヽヽ》にすわりこみ、すでに狂ってしまった者の優越感と絶望の快さと、それに嫉妬をもって、ジョニーにむらがる、不幸にして認めてもらっていない連中を眺めているのである。 「奴のうしろでプレイするのは、ま、奴とやってるようなもんだけどさ」  修が堪えかねたようにそっと風間に呟いたことがある。風間がそれを羨んだときだった。 「反対に、ここまでしか駄目やってのもあってね。ジョニーのバックでしかない、ここにいるかぎり、ジョニーには仲間として扱ってもらえるけど、それだけだ、てのが……オレときどきトミーの気持がわかると思いますわ」  トミー──森田|透《とおる》、それが、良はひとこともいわないが、レックスのかつてのヴォーカルとギター、サイドの次郎が入る前にジョニーと微妙にはりあう位置にいたメンバーだ、というのは風間も知っていた。  二年後に脱退していまは歌もやめてしまったらしい。  そのあとはっきりと「今西良とレックス」、という性格がつよまり、完全にバック・バンドとしてしかプレイしなくなったが。 「光夫やリーダーの気持は、おおもとはシカゴのいきかたやったね。ボビー・ラムなんか、まあ売物だけど、ボビー・ラムのシカゴでなく、シカゴのボビー・ラムでしょ。ただジョニーには楽器がないからね──それに、やってればやってるだけ、みんな奴にいかれてきちゃったし、トミーが出てからは、それでもええわって奴の集まりになったよってね」 「さもなきゃ、昭司のおハコじゃないが、ジャニス・ジョプリンがビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーとやってけなくなったように──」 「そやね、ジョニーが出るか──ジョニーがいなくなったら、オレら、魂抜けたようになってまうからねえ」  それで、かれらは全面降伏し、云ってみればジョニーの一部になることでジョニーを自分のものにすることの代償にしたわけだ。  それは風間もそうなので、風間には修の云うことがわかった。  ジョニーが誰も愛さない、誰のものでもないかぎり、この小さな信者たちの宇宙、みんながジョニーを愛している宇宙の均衡は保たれているわけだ。  そのかわり、いつふいに誰かが気まぐれで激しいジョニーの愛憎におどりかかり、ひっ掠ってしまうかもしれない危険はつねに存在しているわけでもある。 (みんながジョニーを愛しているのだ)  風間は修の奇妙に快くもある焦燥と不安を自分のものと感じた。美少女をとりかこむ求婚者の群なら、少女の心をとらえ、彼女をものにする男があらわれたら肩をすくめ、ヤケ酒の一杯でも飲んで済ませられるが、女ならぬジョニーの、あの歌と、たぐいまれな存在そのものに呪縛されてしまったからには、どうやってジョニーを自分のものにしようすべもないし、ジョニーのそばにいて、その歌をきき、そのめくるめく気まぐれと魅力に引っぱりまわされ、せめて楽器をとって融合と共生の一瞬の酩酊にわれを忘れるか、それもだめなら曲をつくったり、衣装をデザインしたり、なんとなくむらがって用ありげにしているほかに、どうしようと望めばいいのかすらわからない。はなれるにもはなれられないのだ。 「罪な奴や、思うよ。オレら、あれだけ魅力のある奴を見ていて、一体、結婚なんぞできるんやろうか」  修がしみじみ云った。  それを思いうかべ、ジョニーは一体そんなことがわかっているのだろうか、としきりに昭司とフェード・アウトでないときのエンディングについて議論している良を見つめる。  細い指がテーブルをはねるように叩く。ふっくらした下唇がしゃくれている。青みがかった瞼、特徴のある表情で眉を上げ、目を瞠いて相手をのぞきこむようにすると、額にまっすぐな三本の皺がきざみこまれる。  拗ねた子供みたいな口もとをしてる、と風間は思った。ひどく表情が豊かでよく動く。  ひとつひとつが鮮烈だ。表情も、歌も、本当は他の奴になぞ少しでもわけまえをやりたくはない、と彼は考える。  色っぽい目をする、とじっと見守っているとき、弘が彼の腕をつついた。 「きれいですね」  良を見やって云う。風間は首をかしげた。 「いや──あれならやれるかなって」 「ジョニーねえ、テレビ・ドラマ出んかって話が来よったんですわ、先生《センセ》」  修が割りこんだ。 「どうせ先生《センセ》に相談するやろけど──最大限、持ち味出す役つくるし、何だったら先生《センセ》の『クール・クール』か『真夜中の天使』テーマにしてというんやけどねえ」 「まだ話だけですけどね」 「ふーん、よした方がいいんじゃないの」  即座に風間は云った。  演技の勉強もしてないし、一般受けするって方じゃないし──そう並べたてながら、はっきりと、彼はある痛みに捕えられている。  そしてそれが嫉妬であるということも、実のところ彼にはよくわかってはいるのだった。     2 「何かあったの?」  ヘッドフォンをつけたアシスタント・ディレクターにひそひそささやいていた助演の女優が、風間を見つけて眉をしかめてきいた。  大道具が、具合のわるいセットを直している、スタジオの片隅に、膝をかかえこんでひとりはなれている姿を顎で示す。 「何かって?」  風間もつられて眉をしかめた。 「今日なんかとても調子わるいんですよ、ジョニー」  と若いA・D。 「荒れてるのよ。今日あたしが殴られるとこ、あの人ったら本気で叩くのよ」  女優が唇をゆがめた。美しいがきつい顔立ちだ。 「そりゃ、済まん」  風間は薄色のサングラスの下で気がかりな目になって見やった。  ほっそりした姿、木綿のブラウスにサスペンダーつきのジーパン、ドラマの衣装といってもふだんと別にかわらない。  良は人をよせつけぬ固い表情でうずくまり、うつむいた横顔がぬめるような艶をにじませて美しかった。 「先生があやまることはないけどさ。それとも、先生が原因?」 「いや、知らんが」  彼は嘘をついた。いつ来たのか、光夫と弘がうしろに来てニヤニヤしている。 「何だい、お前ら」 「ミキシングの方が早くあがったからね。ようす見にきた」 「オーケイ、リハ再開、いそいでくれよ」  チーフ・プロデューサーが怒鳴った。 「先生と光夫君たち、良ちゃんに見つからんようにして下さいよ」  A・Dが風間の袖をひっぱった。 「何でだい」 「気が散るから。かれ気がそれると大変だからね」 「相変らずでやってるらしいね、ジョニーは」  光夫が珍しそうにセットを見ながら云う。  ベニヤ板で仕切られ、ライトやカメラやそれをつるしたワイヤに見下ろされて、別の世界がある。  しゃれたインテリアの、バーの内部のセットだ。 「良ちゃん、頼むよ」 「ああ」  ゆっくりと、良がからだをのばして立ちあがる。しなやかなしぐさだ。  光夫、弘、風間、それにまだそこでぐずぐずしていた女優の目がじっと、そのほっそりした、一種電流のような生気を発散する姿を追った。 「そりゃ、すてきだけど」 「ああ?」 「かれよ。噂以上ね──でもかれってやっぱり、いまにも気の狂うようなところがあるわね」  風間は眉をよせて女の、つんと上を向いた鼻の横顔を見た。 「演技じゃないってことよ。失礼」  白粉の香りがすりぬけてゆく。 「なあに、云ってやがる」  見送って、光夫があっさり云った。 「光夫、お前、髭そったの」 「うん」  ぐっと若く、やさしい顔にもどった光夫はてれくさそうに鼻の下をなでる。 「みんなして似合わないって云うんだもの。ジョニーまで、先生《センセ》の髭見ちゃったら、やっぱりお前のはツケ髭だなあなんて」 「ヒロムはまだがんばってるじゃないか」 「あたしゃ、レックスのリーダーですからね」  弘はヒッピー髭をなで、少しうらめしそうに目で風間の見事な髭を見やった。 「貫禄つけなきゃ」 「静かに!」  チーフが怒鳴り、弘は首をちぢめた。  ライトがつく。  バーにやってきた女役のさっきの女優と、生得の優美な動きでカウンターにもたれかかったバーテン役の良とが、中断されたいさかいの演技を再開する。 (演技じゃないか)  良を主役にした、テレビ・ドラマの撮影が進んでいた。  むろん、はじめての主演だ。正規の演技の教育もうけていないし、何でも歌手が首をつっこんで、その結果ドラマも、歌の方もどんどん安手になるという風潮を風間は嫌いだったから、その話をきかされたときは反対した。 (だが、あれは、ジョニーを独り占めしたい、ただのやきもちだ)  それがわかっていたので、ジョニーにそれをけどられるのではないかという不安のあまり、反対に固執することができなかった。  良の方は最大に持味をいかすと約束したこんどの話には、かなり乗気だった。音楽、風間俊介、演奏、ザ・レックス、ということになって、彼とかれらも一応スタッフになっていたが、何といってもドラマはドラマだ。  バックでしっかりとリズムスが支えていてやるわけにもいかない。ジョニーがとちったら即座にプアーンとギターがスライドして助けてやるわけにもいかない。キーのコードでやさしくハモってやるわけにもいかない。ベースの修が云ったように、 「オレら本当のこと云って、ジョニーをひとり歩きさせたくないんと違うやろか」 「そんなんじゃないさ」  打ち消したが結局のところそうなんだろう、と風間は良の演技を見守りながら考えていた。  良は別に演技というほどのことはしていないらしいのだが、まったくカメラを意識していないような自然さが、テレビでは下手な演技よりはずっといいので、製作監督の方からはその調子と太鼓判が出ているし、放映された分を見た限りでは、妖しいほど美しくとれていて、ジョニーのもつ魔力のような雰囲気がはっきり出ている。  評判もわるくない。  良は良で、楽しいらしい。もともと、歌で感情移入に馴れているし、いくぶん女の子の心理と同じところがあると風間の思う良の性格には、他人に扮する、演ずる、というようなことに非常に興味があるらしい。  それにもかかわらず、と風間は女にからまれて困惑と怒りのないまぜになった青い炎の立つような妖しい表情を見せて立っているジョニーを見つめながら考えた。  それにもかかわらず俺はいやだ。  ジョニーを他の人となるべくわけあいたくない、という心理ばかりではない。良のある種の表情は、どきりとするほどエロティックで、どうしても風間に、愛している恋人が他の男と寝ている現場を見せつけられるような疼痛を与えるのだが、そればかりでなく、もっと包みこむような心から、風間はジョニーが気がかりでたまらない。  ジョニーはスターとして身についた習性で、誰にでもその華やかな微笑を見せはするが、本来ひどく愛憎の激しい、人見知りをする性格だ。  仲間たちといれば、完全に理解され、愛され、甘やかされていることをよく知っていて、その声までのびのびしてくるが、そこへ気心の知れない人間がひとり入ったら、もうさっと機械が切りかわり、にこにこと冷やかな愛想のよさで模範的な受け答えをするロボットがそこにあらわれる。  そうすることが気まぐれで淋しがりのかれにどのように負担な、疲れることか、ジョニーを知るにつれて理解するようになった風間は、なるべくなら、毀誉褒貶の甚しいジョニーを、自分や光夫や修たち、ジョニーが何も気をつかわないで済む、心からかれをいつくしんでいる仲間ばかりのくつろいだ空間に庇っておいてやりたいとつよく思うようになっていた。  どっちみち、誰ひとりとしてジョニーのような人間、少しでも似た者さえいない。どこか狂おしいものを秘めて、天衣無縫で、冷淡で、またとなくいとおしい暴君、誰もジョニーのようではない以上、どんなに愛してやってもジョニーは結局孤独で、誰ともかわることができないのだ。  風間も修も、ジョニーをいとおしく思っているだけで、リズムで支えても、ハーモニーをつけても、結局ステージでライトをあび、二万の観衆をその細いからだに直接うけとめて歌うのはジョニーひとりでしかない。  ジョニーこそ、かけがえがきかないからこそ唯一の、世界の中心なのだ。 「そやからまた、せめて奴の一部としてバック・アップしてやらにゃと思うとるんやけどねえ」  修が嘆息して云ったのを風間は覚えている。そのとおりだった。だからこそ風間も、自分やレックスやスタッフたちの、ジョニーが自由自在にふるまい、呼吸できる空間から、かれを本当は一歩も外へ出したくない。 「誤解されやすいんだよ、ジョニーは。思ったことはっきり云いすぎるし──」  それにきれいすぎる。それは風間は口に出して云いはしなかったが、ジョニーはお手軽なお茶の間族の夕飯のあとの団欒というやつにはいささか色っぽすぎるのだ。  ジョニーの声も、顔も、表情も、アクションも、あまりに強烈な電流のようなエロティシズムを発散していて、だからこそジョニーが特別なのだったけれども、とても健全な娯楽と称してミカンでもむきながら眺め、ちょいといい気分になり、ころりと忘れてぐっすり眠るというわけにはいかないのだ。 (それなのにジョニーは俺や修や弘たちのやさしい手の中からはなれて、ただの人気歌手《ヽヽヽヽ》、ジャリにキーキーさわがれるアイドル・スターとしか考えない連中の中で、たったひとり──) 「おれを放っといてくれよ。べたべたされるのは、嫌いなんだ!」 「ひどいことを云うのね。あたしが嫌いなの?」 「ああ」  しなやかに細いからだがひるがえる。風間はテスト・カメラにアップでうつしだされた良の、残酷な獣の美しさと哀しみを帯びた顔を見た。 「嫌いだよ。さあ、出てってくれよ」  良、とても孤独で、とても可哀想だ、と風間は思った。  たぶん演技ではない。冷たい敵意に身構えた表情にもかかわらず、パンしてうつされた細いうしろ首、指を噛みしめる白い歯に漂っている、母親に見棄てられた幼児の憐れさと淋しさの翳は、名優か、或は何もせず本当の感情を見せている素人か、どちらかでしかない。良は俺たちといなければ駄目なのだ、と風間は思い、いとおしさで胸を熱くした。  ジョニーは、細い指で髪をかきあげた。  女優はセットの向うに出て、もう嘘のようにけわしい表情を消してかれを見つめながらつけ睫毛を気にしている。  ジョニーが身をかがめ、アイス・バケットからアイス・ピックをひきぬく。下唇を噛みしめ、無表情に手をあげ、ピックはきらりと光ってみごとにセットの閉ったドアにつき立った。 「カット!」  緊張が破れた。 「いいよ、今西クン」  プロデューサーの久野がほめた。良はにこりとする。 「そうですか」 「いやあ、とてもいいよ」  久野は良にくっついて、風間たちの方へやってきたが、風間を見るとまた云った。 「やあ先生──ね、いいですね、かれ」 「いいね」 「とっても、表情がいいね。含みがある──意識してないからいいのかもしれないけど」 「前のやつ、音入れ済みましたよ」 「ああ。ジョニーこのあとたしか、LPの宣伝ポスターの撮影があってどっか行くってましたね」 「そう、金沢」 「もうちょい、とりだめしときたいとこだなあ。良ちゃん今日とてもいいんだ」 「ヨウちゃんが、とても調子わるいと云ってたがね」 「うーん、それがいいの──何ての、調子わるい顔がいいね」 「コーラ? |コーヒー《ヒーコ》飲む?」  光夫が云った。良の、孤独なはりつめた苛立ちがとけていって、妙に全身で甘えかかる表情で光夫、風間、それに弘を見あげた。 「下へ行こうよ。そのぐらい、時間あるでしょ」 「いいよ、巽のダンナが遅刻なんでね」  プロデューサーは云った。 「来たら、もう二、三カットやるから、いいよ、少し休んでて」  仕様のないヤクザだとか何とかぼやきながら、忙しげに向うへかけていく。  やくざ映画で、インテリやくざの役どころで人気の出た巽竜二が、良のバーテンをしているバーの翳のあるマスター、という準主役でからんでいる。  良は麻薬中毒のムルソーめいた美貌の若者で、若い刑事を射殺してしまう。  刑事を弟のようにかわいがっていた老警部が執念をもやして、証拠のないため逮捕できぬ良につきまとう。そこへマスターの情婦であるさきほどの女優がからむ、という筋立てだ。 「サムちゃんたちもいるの」  良の声がどことなく甘えていた。風間はその肩に手をまわした。良はじっとしている。馴れない猫のようにさわられるのが嫌いなかれとしては珍しい。 「疲れるだろ」 「うん」  風間の手を我慢していることで、良としては、きのうの喧嘩の暗黙のうめあわせをしているらしい、と察しがつく。光夫たちは黙って先を歩いていた。  テレビ局の廊下、チョンまげをのせた同心と岡っぴきの一団とすれちがった。 「ゆうべの話な、ジョニー」 「いいよ、もう」 「わるかったよ」  たわいもないことを云いつのってたかぶってしまったのは、やっぱり、ドラマに主演して評判のいい良が、手からすりぬけてゆくようで、苛立っていたのかもしれない、と風間は思った。  静かにしていた良の肩がすっと逃れる。怒ってるわけじゃないというしるしに、機械的なのでない、ふわりと幼児のように稚い笑い顔を見せる。風間は眩暈《めまい》に似たものを感じた。 「関ミチコが文句云ってたぜ」 「あ」 「本気で叩くってさ」  風間も、いささか共犯者的な笑いをむけた。 「うん」  ジョニーは照れたように笑い、光夫たちがふりかえった。 「だってあの女ベタベタするんだもの」 「あ、あのキスシーンかよ」  光夫が舌を出した。 「いい女じゃないの」 「オレ好きじゃない。蓮っ葉だよ」  女が、情人の留守に店を訪れ、ジョニーに誘いをかける。いきなり、唇をおしつけてくる、反射的につきとばして叩く、というところだ。  まったくジョニーは、どこまで演技で、どこまで本気かわからないと風間は思った。  半分ぐらい、もしかしたらもっと、良のほうでは、役と現実はすりかわり、一緒になってしまっているのかもしれない。役になりきるというが、文字どおり麻薬中毒の若者に変じてしまって。  と、すれば、もしかしたら、ジョニーこそ理想的な役者かもしれないわけだ、と考えて笑う。  そもそも、ジョニー、崇拝者たちに安全に守られて、誰も愛さず、自分以外の誰をも見ずに、無感動な目を瞠いているようなこの若者、恋したことがないからどんな愛の歓喜も苦悩も執着も、完璧に表現する、と云うより実のところ、ただあらゆる劇的な感情や表現の容れ物にすぎないように生まれついたこんな若者に、どこまでが現実でどこまでが虚構だ、というようなことばが意味をなすだろうか?  ジョニーには、ふつうの意味での感情とか、人生とか、生活というものは一切ない。どんな表情も、あふれ出るより早く予期され、見つめられているのだ。  ジョニーの感情に異和感がつきまとうのも無理はない。  ジョニーは、けちくさい現実よりもずっと≪真正の現実≫である、かれの歌で知っている情熱や絶望や悲哀や歓喜や欲望を生きている。だから表現していないときのかれは、いかなる普通一般の感情も持ってはいないのだ。  ジョニーの感情と風間たちが実際称しているものは、野生の獣のような単なる気分にすぎない。  そこにはいかなる論理も、筋道も、根拠すらない。気ままでめくるめくようで、だからたしかにそれはある意味では女性の感覚に似ているのだが、しかしジョニーのそれは、女性のけちくさい保身や常識や巧妙さがなく、もっと残酷だったり、あどけなかったり、冷たかったりする。  ジョニーは、ジョニーだけのまたとないふしぎな空間に棲む生物に属している。この孤独たるやきっとたとえようもないのだろう、と風間は考えていた。  なんという驚くべき生き物だろう。ジョニーのエロティシズムには、あれほどのなまめかしさにもかかわらず、セックスの実感がほぼ完全に欠落している、というのも同じことだ。  どろどろしたセックスの生々しさ、深さ、かなしさ、汚なさ、などは決してジョニーの宇宙に入りこめない。セックスとは、「他者」との絶望的なかかわりであるのに、ジョニーの宇宙には、理解できない「他者」なんかは存在していないからだ。  かれをとりまく男女は、同性でも異性でもなく、ただかれの信者としてかれの爪先にくちづける。ジョニーの匂うようなエロティシズムは、池の水鏡をのぞきこむナルシスのエロティシズムと同じものだ。清澄で、冷たく、死の香りがする。  ジョニーの宇宙は、すべての「気心の知れぬ者」にはずっと前でぴしゃりと扉を閉ざし、その内側に風間たちをはべらせ、そのもうひとつ内側には厚い透明なガラスの壁があるのだ。ジョニーはそのガラスの中の何ひとつ夾雑物のない、かれで満たされた世界でまどろむナルシスだ。それはどこかぞっとするほど非人間的なおそろしさをたたえた美神の宇宙だった。こんな存在は他には決していまい。 「巽さん何してるんだろうね」  スタジオの下の食堂はセルフ・サービスで、良と風間にコーヒーをもってきてくれた光夫がくすっと笑って云った。 「彼女が浮気してるってのに」 「あ、みんないたの」  どやどや、修、昭司、次郎の三人が入ってきた。  食堂のその部分だけが急に活気を帯びた。|おれたちの《ヽヽヽヽヽ》宇宙だ、と風間は疼くような甘さ、多分に共犯者か同病者のうしろぐらい快さに身を浸して思う。  むろんその中心にジョニーがいる。あっちの隅にいるのは視聴率四〇パーセントの|お化け番組《ヽヽヽヽヽ》のホーム・ドラマのスタッフと出演者らしいが、あのばらばらな寒ざむとしたポーズはどうだ。 「や、お疲れさん。──先生、どうも……ジョニー、『反逆のブルース』のびてるよ」  いつもの歌謡ベストテン番組の顔馴染のスタッフが声をかけていった。 「だってまだ二週間でしょ、発売」 「明日あたり五十万の大台にのりますよ。あれ風間先生の作品《やつ》でしょ。いけるね、あれ一位いくよ」 「サンキュー」  どうせプロダクションとレコード会社とそれにテレビ局の操作が大半の「ヒット曲」をつくり出し、「人気者」をつくってはとりかえる茶番だが、そうしたヒット・チャートの常連であるアイドル・スターの中でジョニーだけがやはり違っていた。  本当は、そんな茶番に役をもらって、テープレコーダーみたいにヒット曲をおざなりに歌わせておきたくはないものだが、と風間は考える。 「主題歌も当ってるし、のりまくってるね、ジョニーは」  向うで若づくりなデニムの上下の中年のディレクターが話していた。「反逆のブルース」は「裏切りの街路」の主題歌として劇中でうたう歌だ。 「百万突破したらパーティしよう、豪勢に」  風間は景気よく云った。 「すぐいくと思うね。身内だけで、どっかスナックを借りきってワーッとやろうや」 「うわあ、いいなあ」  ジョニーの顔が輝く。 「スタッフも呼ぶかな」  弘が云った。 「関ミチコと三田いずみは」 「いらんよそんなの。女人禁制だ」 「巽さんぐらいならいれてやってもいいな」  ジョニーは指を噛んでいた。修がかれとしては鋭い目でジョニーを見た。 「あのヤクザ」 「蒸発《フケ》るのが趣味なんだってね、あの人」 「変わってんだな」 「どうせ、虚像《ヽヽ》よ」と光夫。 「|きざ《ザーキ》ったらありゃしない」 「今西さーん」  食堂の入口にA・Dがのぞいて手をふりまわしていた。 「巽さん来ましたから、お願いします」 「お呼びだぜ」 「あーあ」 「疲れてんじゃないの、ジョニー」  しなやかに立ちあがるジョニー、どんな小さなしぐさにも、豹のものうい優雅さとしなやかさがそなわっている。  また、|ここ《ヽヽ》から行っちまうのか、ジョニー、と風間は思い、見まわして修の目とぶつかった。 「どうしよう、オレら」 「もうあっても三カットぐらいだよ。先帰ってもいいよ、金沢の用意あるし」 「そうするかな」 「先生《センセ》が送ってくれるでしょ」 「ああ」  レックスたちは妙にはなれがたい顔でどやどや廊下に出る。いつも、良をひとり仕事に残していかねばならぬときはそうなのだ。 「みんな、帰る?」 「うん」 「あした事務所十一時だぜ。遅刻厳禁」 「わかってるよ、お前こそ」  光夫たちが廊下を曲がってゆく。修がのこっているのに、風間は気づいて近よった。良はA・Dにひきたてられるようにメーク室へとびこんだ。 「サムちゃん、帰らないのかい」 「いやね、ちょいとようす見たろ思て。リーダーや光夫はさっき見たんでしょ。何か、妙でね」 「何が」 「オレらの、ジョニーが、あこで芝居してるなんてのが」  修の感情は俺と同じだな、と風間は思った。  二十九、最年長のせいもあるが、修の気持の動きはまるで鏡のように風間のそれに一致するときが多い。  それでレックスのメンバーの中でも特に、風間は修にあたたかいものを感じていた。 「それにね、先生《センセ》」  修はぬーぼーとした笑いをうかべてつけたした。 「竜さんいうひと、拝んだろ思てね」 「サムちゃん、やくざ映画ファン?」 「そやないけど」  修はニヤニヤしている。 「あのひと、この前のビデオんときも来んかったし、その前はオレ早う帰ったから、いっぺんも見てないんでね」 「サインもらうかい」  風間がからかったが、修は奇妙な笑いをうかべただけだった。スタジオをのぞくと、久野プロデューサーが、巽竜二に何やらがみがみ云っていた。  大きな男である。  精悍な目鼻立ちで、髭をはやし、茶色のセーターにアーミー・ジャケットをひっかけ、ブーツのチャックがこわれている。ラフな男のイメージどおりといったところだろう。無表情にプロデューサーの小言をきき流し、メークに立っていく。 「仕様のねえヤー公だ」  久野が風間たちに気づかず、また云った。彼は遅刻の常習犯らしい。 「ジョニーと巽のからみのとこのテーマな、あれとサスペンスのテーマだけ、どうもピンと来ないんだよ。光夫に、エレキでなくナマのピアノでやれって云ってみるかな」 「こんどの仕事《ゴトシ》はアコースティックのがええかもしれまへんな」 「久野のダンナは、いいから任せるとしか云わないんでね」  メーク室から良が出て来て、風間と修を見て笑った。まぶたが濡れたように青みをおびている。 「何か塗ったの」 「わかる? とった方がいいかな」  久野と演出がよって来る。風間と修はうしろにさがり、こまかな注意をじっときいている良を眺めていた。 「おもろいね、やっぱり芝居いうのは」 「サムちゃんさ、久野ダンナにちょいと顔を出してみないかと云われてたろ」 「まあ、ね。ジョニーをカツアゲるヤクザの三ン下の役が、イメージぴったりなんやそうですわ」  修と風間は噴き出した。 「やるの」 「おもろいと思うけどねえ、ようやりまへん」 「いい味が出るかもしれんよ」 「ようやりまへんわ、あんなこと、照れ臭うて」  修はジョニーを見た。 「やっぱりジョニーは別やな思いますね。こう見てるでしょ。久野さん、ジョニーにはこうしろああしろ云うかわりにね、きみはこういうふうに感じてて、こう云うけど、こう思ってるんだよ、こういうフィーリングでという具合に云うのね。するとジョニーの目がだんだん変わってくる。麻薬中毒の目になって来るんやね。ジョニーは演じとるんじゃなくて、それになっちまう。やっぱり、生まれつきああできてるんでしょうね」 「ふん、俺もそう思って見てたよ」  戸があいて、風間は巽竜二に押されてよろめきそうになった。彼は黒い上着を羽織り、ピンなしのネクタイを指をつっこんでゆるめながら、何か口の中でブツブツ云っている。 「行くよ」  プロデューサーがとんでいく。 「行こうか、良くん」  巽竜二はジョニーの肩を叩いた。  再び、あたりが暗くなり、しいんと静まり、ライトがセットを照らし出し、別世界がひろがる。 「リハ行きますよ」  バーの中だ。老警部は特別出演の御大の富山で、巨体をゆすってセットにあらわれた瞬間からどしりとした存在感であたりを圧倒してしまう。良が、見あげる。冷たい、微笑を含んだ目だ。 「何にしましょうか」 「ウイスキー・ソーダをくれよ」  カウンターの端で巽演ずるマスターがゆっくり顔をあげて警部を見る。  彼は麻薬取引に手を出しているが、良を愛しており、拳銃を見て刑事殺しは良ではないかと疑いながら口に出すことができない。  ──結局その拳銃は彼のもので、彼は良のために苦境に立つことになるのだが。 「矢頭さん、デカに立ちまわられたんじゃ、商売になりゃしないんですがねえ」 (すげえ、ドスがきいてますね)  修が風間に囁いた。 「まあそう嫌いなさんな」  老警部とマスターが底に敵意をかくした、凄みのある応酬をする。  老警部が、突然立ちあがり、出てゆく。  良は黙って氷を割っている。他に客はない。  1カメがパンして、肩ごしに巽を見る良の横顔をとらえる。 「うるさい奴だ」  巽が云う。良がアイス・バケットを下におき、アイス・ピックをつかんで無表情に巽を見る。 「──お前……」 「何ですか、マスター」 「いや……」  巽が煙草をひねりつぶした。 「ゆき枝が──来たろう」  良はカウンターの上にほっそりした左掌を指をひらいて置く。  かるく噛んだ歯のあいだに小さく舌の先をのぞかせ、アイス・ピックで指のあいだを刺しはじめる。  だんだん早くなる。巽は異様な緊張した目でかれを見つめる。 (危ない──それとも、小道具の安全なのをつかってるのか?)  風間がはっと眉をよせたときだ。 「よせ!」  耐えがたくなった巽がそのピックをすばやくつかみとる、筈だった。  巽の逞しい手が良の右手をつかんだが、どうしたのか彼の手は良の手をねじあげそこなった。  あっとスタッフが声をあげた。ピックが良の手の甲をもろについていたのだ。 「カット!」  久野がわめいた。風間と修は同時にとびだしたが、A・Dや演出の方が早かった。 「今西くんッ」 「ジョニー、大丈夫?」  風間はかけよろうとして、ふいに撃たれたような衝撃に立ちすくんだ。  良は、動かない。  掌をつき刺したアイス・ピックの柄を右手で握り、無表情に巽を見た。血が弾力のある盛りあがりになって、ひどく白く見える良の手からしたたりおちた。  風間は巽を見た。  巽は凍りついたように良を見つめている。はりさけるほど瞠かれた目が異様な激動に火を噴いていた。  良は眉をよせ、唇を噛んでアイス・ピックをひきぬいた。 「今西くん……」 「たいしたこと、ないです」  平静な声で云った。巽がようやくわれにかえった。 「済まん」 「いいです」 「こりゃいけない、ひどい血だ。良くん、医務室へ行きなさい」  久野がうろたえて云う。 「困ったな、スケジュールつまってんだけど」 「済んません、チーフ」  巽がしょげて詫びた。 「しょうがない、ダンナと関ちゃんのからみからとろう。関嬢帰ってないだろ、見てきてよ」 「えらいことになったね。ジョニーを怪我させちゃ、ファンの女の子に殺されまっせ」 「大丈夫ですよ、何でもないです」と良。 「いいから医務室だ」  風間は良の肩を押した。  良はすなおに左手を胸のへんに曲げて、風間、修、それに清田やA・Dにつきそわれてスタジオを出た。  意外に出血が多く、白いブラウスの胸から、ジーパンの膝まで血がとんでいるが、風間が驚くほど、良は痛みに少し眉をよせただけで、無感動なようすをしていた。 「痛いの、ジョニー」 「平気だよ」  良はふりかえり、スタッフを見あげた。こころもち、もともと白い顔の血の気が失せている。 「もういいです。行きますから、仕事、もどって下さい。ぼくの方はいいですから──スケジュール、狂わしちゃわるいから」 「そうですか、じゃ──少し休んでて下さいよ」  スタッフの三、四人がスタジオにもどる。 「あの野郎」  清田マネージャーが怒って云った。 「ジョニー、ギターひけないだろう」  劇中で、埠頭に腰かけ、コード・ギターをかきならしながら、「反逆のブルース」を歌うところが必ずいっぺん入ることになっている。ドラマと歌と、タイアップで売ろうというわけだ。 「んー、どうかな」  良は左手を曲げ、指を曲げてコードをおさえる手つきをし、その動きでまた血が噴き出した。 「おい、ばか、やめろよ」  白いハンカチを出して、あわてて風間が傷をおさえる。 「たいしたことないよ。でも痕になると困るな」 「応急手当したら、ちゃんとした病院につれてくよ。参ったなあ、金沢、平気か?」 「大袈裟だなあ」  不健康な連中が多くて、貧血を起こしたりするから、スタジオの医務室はけっこう設備がととのっている。清田マネが良につきそって入っていくのを、修と風間は見送って、閉じたドアの前に立ち、なんとなく目を見あわせた。 「ひでえことしやがる」  修が云う。 「あれ、ミスでしょうかね」 「なんでまた。巽のダンナ、ジョニーを恨む筋でもあるの」 「先生《センセ》はヒトがいいよ」  修はエキストラが通りすぎたので声を低くした。 「知らなかったんですか」 「何をだね」 「あのヤー公、女に興味ないんですよ」  風間はぎくりとして修を見た。  修は眉をよせ、怒ったような口もとをし、ひどく大人びて見えた。 「おいおい、サムちゃん」 「良に、妙な興味持ってやがんだ。役柄だけじゃないんだな」 「しかし、彼、たしか別れた女房とガキがいたろうが」 「先生《センセ》は甘いねえ、奴の目に気がつきまへんか」 「さあ──ああいう役だと思ってたからね」 「ありゃ、わざとミスったんだよ」  修は断言した。 「やな予感がしてたんですわ」 「それで、のこってたのか」 「まあね。オレ、妙なところからききこんだんだけどね、あのセンセイそっちの上にSなんだそうで」 「妙なところ──」 「光夫や──特に良には内緒ですよ」  修は風間の目を見つめた。 「トミーにね」 「トミー──こっち来てたの、かれ」 「ま、詳しいことはききっこなし、ね。あんまり、ええことになってへんから」  修の表情が翳った。 「まあ、やくざ映画なんて、義兄弟だ、親分だって、どうせそっち的な世界やおまへんか」  修は時に応じてなまりをつよめたりひっこめたりする。そのせいで、修の云うことは、ひどくとぼけてきこえたり、飄々としていて、なかなかに韜晦に妙を得ているのだ。 「俺の目を見ろ、何にも云うなァなんてね。だけど、それはともかく、わかったでしょ、先生《センセ》」 「ああ」  風間は肩をすくめた。正直の話、金メッキでピカピカに飾りたてた表面しか見ていないものならいざ知らず、少しでも芸能界というものの内側を知っていれば、それはまったく珍しくもなんともないことだ。 「ふん、ドラマを地でいく──か。つまらんまねしやがる」 「しょうむない。知ってまっか、本読みんとき、夕飯誘ってね。そんときはワーワーみんなついてったんやけど、前からあんたのことは注目してたとか、何とか近づこうとしてましたわね。みんな、ジョニーのことんなると底なしの甘ちゃんになるよって、気ィつかなんだかしれへんけど、オレは、世馴れてますからね」 「ジョニーは、さっぱりしてよさそうな人だって云ってたな」 「あの子は、何も見てえへんもの」  修はもどかしい愛情を思わず声に滲ませた。 「それに、ドラマもドラマやし、ジョニーに限って、見てる方もイヤらしとか、不自然やて思いまへんしね」 「思わんね」  風間は眉をしかめてうなずいた。 「アラン・ドロンと同じでね、奴ほど、ジョニー、蛇みたいなとこないけど。ただねえ、巽竜二なんか、オレや先生《センセ》と違うでしょう」 「そりゃ、わかるよ」  再び風間には修の云いたいことがよくわかった。  |はた《ヽヽ》から見ればどう思われているのかわかったものではないが、風間やレックスの仲間たちにとって、ジョニーは恋人以上の存在だが、それはまったくセクシャルな意味合いは含んでいない。  いや、当然底にはそれも入っているかもしれないが、かれらにとってはジョニーは男だの女だの、という以前の、とにかく神聖な美神である。  いかなる意味でもジョニーにはセックスの実感がない。それだからジョニーを愛することは信仰のように、もどかしく、成就のすべてを知らぬ純粋な感情である。  もし巽竜二がそれを理解した上で、かつての風間のように、ジョニーの周囲のあの微妙でみたされた均衡に仲間入りさせてほしいと望んで近づいてきたのなら、風間たちは新しい入院患者を見る同病者か、試験にやってくる受験生を見る秘密結社のメンバーのように、心得顔で、微笑を含んだ目を見かわし、彼がジョニーにふさわしくないふるまいをしたり、ジョニーを理解していないところはないかとじろじろ眺め、そして結局この世界の新しい一員として受け入れて別に文句は云わなかったろう。  ところが、そうでなくて、ジョニーを──かれらのジョニー、誰も愛したことのない別世界の生物を──身のほど知らずにも、セックスの対象として見たり、あえてかれに手をふれようとする、ということになると、それは神聖冒涜だ。  許しがたい不届き──それは案外|ぬけがけ《ヽヽヽヽ》への嫉妬なのかもしれないが──である。  無口で、ふいにきらりと激情を光らせる昭司がいたら、「あん畜生、ブッ殺してやる」ぐらい、云うだろう。  巽の役の結城というマスターは、脚本家《ホンヤ》の長谷田にきいた限りでは、多少、友情というには忠実すぎる愛情を良に抱いて、良を庇い、老警部の前に立ちはだかり、しだいに追いつめられ、良に裏切られ、窮地に追いこまれながら良を憎むことができずに破局へ突っ走る、という役どころだ。 「みんな、派手にぶっ殺しまっせェ」  音響の打ちあわせをしたとき長谷田が、久野を見てニヤニヤしながら宣言したものだ。 「富さんも、巽のダンナも、今西くんも、関さんも、いずみちゃんも、みーんな殺しちまいますからね。風間センセは、一曲、ブラスがんがん使った、凄くハードなテーマ作ってくれませんか」 「オーケー、皆殺しのテーマね」  風間もニヤニヤして受けた。 「うんとハードボイルドでいきたいんですよ。そうね──�ゴルゴ|13《サーテイーン》�調。いまのシノプシスだとね、最後に良ちゃんにライフル乱射さして、籠城させてね。そこを富山御大がバーンと狙撃──」 「だいぶどぎつくなりそうだね」 「どぎつかないですよ。良ちゃんて、こう、凄いハードでクールな目、するでしょ。トルーマン・カポーティの『冷血』ね、あんな犯人みたいに性格づけしたいんだけど」 「クール・ハードボイルド──」 「それへ二、三曲、ワーッと涙の出そうにロマンチックな曲かぶせて下さいよ。メイン・テーマは『反逆のブルース』でジャズ・ロック調でいけますね」 「愛のテーマ、追憶のテーマ、ってとこだね」 「そうそう」 「いい仕事《ゴトシ》になるよ、風間センセ」  ベテラン・プロデューサーの久野が青年のように目を輝かせて云った。 「時間帯だいぶ遅いから、わりと自由にやれますよ。存分に、良ちゃんの魅力をひき出しましょう」  長谷田が熱心に云う。 「ツー・クール、乗っていきましょう。たまにゃ、ジャリタレと文部省推薦ホームドラマでなく、タマさえ揃や、テレビだって、妖しく美しい映像って奴もとれりゃ、頽廃とか、有毒とか、ちゃんと、寝転んで見て途中で寝ちまうことができねえようなモノもつくれるんだってこと、見せてやりたいよ」  たしかに、わけもなく人を殺した不適応者の若者、麻薬、同性愛、姦通、三角関係、近親相姦(聖少女というふれこみで、これでデビューする十五歳の三田いずみの役は良の心臓病の妹で、「お兄ちゃんのお嫁さんにして」「お兄ちゃんに処女をあげる」といったセリフを口走ることになっているのだ)に背信と、どうせいずれにしても香りだけだが、それにしてもデコレーション・ケーキのようなホームドラマや勧善懲悪時代劇にくらべればスタッフの意気込みの感じられる内容だ。  だが、それを世にもあるまじき呪縛された空間に変え、生命を与え、魔法をかけて、あくまでも美しい妖しい世界にするのは、今西良というたぐいまれなスターの魔力である。 「いずれにせよ、オレ気をつけてるけどね。先生《センセ》も承知しといて下さいよ」  医務室の扉が開くのを見て修が低く云った。大きな声で、良の傍にとんでいきながら案じてみせる。 「おい、ジョニー、お前、ええのんか」 「平気平気」 「顔、青いぜ」 「やだな、先生《センセ》まで。今日帰っていいのかな」 「どっちみち、これじゃやれないよ、ね、先生《センセ》」 「送ってくよ。それとも、メシ食っていくか──痛むんか、お前」 「ちょっとね」 「ピックで縫っちまったんやからムリないわ」  風間はふと妙に鮮烈に赤かった、滴りおちた血と、巽の白く火を噴くような目をぞくりと戦慄して思いうかべた。  巽は何を考えたのだろう、と思うと、ずきりと何かエロティックな電流を感じる。  手をふれることのできぬ美神への激情──それを凶暴な攻撃にかえることができる巽という男への、羨望に似た思いがある。  風間は、あぐねていた、巽と良のシーンのテーマのモチーフをつかんだ気がしていた。     3 「先生《センセ》、ちょっときいて下さいよ」  昭司が云った。カバーをかけた大きな本をかかえている。 「いいですか。読みますよ。──憑依という観念は、心的なイメージとしてのみ現われるが、にもかかわらず、それは我々の肉体に由来するものなのだ。それは自我の再生であり、本質の発露である。問題なのはあなたが誰であったかを知ることであり、誰かを真似ることで、あなたを通してかれらを輝かせることだ。核心にふれる暗合を見つけること。──どう思います?」 「何か、新興宗教的だね。何、それ」  風間は云った。昭司が笑った。 「先読みますよ──ある役に扮することは、単なる演出ではなく、本当にその人になりきってしまうことだった。一体化は、彼女の知識を超え、はるかに先の方へいってしまった。彼女は、ゼルダが何者であったかを知る前に、すでにゼルダの生活の幾つもの断片を生きていた。──かれらは、本当は死んではいない。私たちが一瞬、その糸の行方を見失うだけなのである。死んではいない。というのも私たちが、あらゆる形式の内に、なかんずく音楽の内に──歌は現在のみに存在するのだから──もっとも強力に潜んでいるこれらの暴力的で自分勝手な力に対して、扉を開くからである。私たちは自分のとるにたらない部分をすてて、その場所をかれらの住処として提供するのである」 「──ふーん、わかるよ」  風間は眉をよせて云った。 「なんか妙だな。ジョニーのこと書いてあるみたいじゃないの。何、それ」 「そう思うでしょう。オレ、ここ読んだら、こりゃジョニーだと思ったんで──」  昭司は本のタイトルを開いて見せた。  デイヴィッド・ダルトン著の、『ジャニス』だ。「ブルースに死す」というサブ・タイトルがついている。  昭司は中に入っているジャニスの写真を見せた。おそろしく、ふてぶてしい、あどけない、すべての表情を既に内に含んだような少女がうつっている。 「凄えコだね」 「ジャラジャラ、ブレスレットや指輪つけてね。似てるでしょう──全然違うけど、その、ジョニーの方がきれいなんだけど……」 「同じ種族だね」  風間は本を受けとり、パラパラ眺めた。 「ゼルダ、ベッシー・スミス、ビリー・ホリデイ──これらの女性は、彼女にとって精神的な双子のような存在であったのだ」  という一行が目をひいた。  太陽が雲間にかくれているときのような、いくらか滅入ったやすらかさが、風間のマンションを満たしていた。  良はいない。良は遅れた分の録画で、忙しいのだ。  風間がひとりでピアノにむかい、ワン・フレーズ書きつけては髭をひねっているところへ、どやどやレックスたちがおしかけて、たちまち、そのしんみりした仲間の気分がひろがった。  風間のマンションは広くて、すばらしいステレオと無慮数千枚のレコード・コレクションと、すばらしい酒を備え、いまではかれらの絶好の溜り場だ。 「ジョニーも、済んだら、来ますよ」  光夫が云っていた。  室内には、奇妙な、欠落の充足とでもいうべきくつろぎが漂っていた。  良さえいれば、たちまちそこは良の宇宙、良に満たされた良の世界になる。しかし、いま、そこを満たしているのは、「良の不在」だった。  ジョニーはいない、そしてみんながジョニーの不在を彼自身と同じ重さで宇宙の中心におき、ジョニーのことを考え、オレたちのいないところで奴は何しているんだろうと考えている。 「はじまりますよ、先生《センセ》」 「ああ、もう、そんなか」 『裏切りの街路』の第三回の放映がある。  風間は底ごもるベースの音をひびかせているステレオの、レコードを途中で切りあげ、そのテーマを口笛で吹き吹き、テレビのスイッチを入れ、ついでに氷を補充してもどってきた。 「ええなあ、ウッドも。ジーンてひびきよるわ。エレキは音は大きいけど、こう腹にあったこうひびきまへん」 「いいだろう」 「誰だっけ、先生《センセ》」 「ジュリアン・ユールだ。マル・ウォルドロンにくっついてるベースだね。サムちゃんはウッドはやらんの」 「やることおへんやろ。いっぺんふざけて、借りてやってみたらね、指、あたるとこ違うんでんな、いっぱい水ぶくれになりよってえらいことやった」 「ジョニーの奴、自分の出たやつ見られないんだな」  昭司がぼそりと云う。 「ケガのせいだよ。スケジュール、ただでさえ詰ってるのに」 「清田マネがビデオ・コーダーにとりよるやろ。それにジョニー、見たがるかどうかわからんな」 「イヤでしょうかね」 「わからんなあ、奴はちょっと精神構造違うから。思いがけん反応するからね、時々ぶったまげさせられるよ」  ひとりの中年男と、五人の長髪の若者は、てんでにグラスをもって楽なように寝そべり、電気を全部消してテレビの画面を見つめていた。 「オレやだな、あのオープニング・テーマとり直すわけにいかないの。きくたんびにワーッとなるよ」  光夫がくしゃっと顔をゆがめて云った。 「もう遅いね、あそこはもうあのフィルムで終わりだからね」 「平気平気、わかりゃしないって。それにあんときがオレらはベスト出たんだし」 「くそ、薄情な奴らだ」  タイトルが出る。「裏切りの街路、第三回」「この番組はご覧のスポンサーの提供でお送りいたします」  緊張をはらんだピアノのイントロがはじまると、光夫は小さくなって頭をかかえた。ワン・コーラスしてみんなが入るところで、もろにコードを間違えて叩いてとんでもないテンション・ノートを出してしまったのだ。画面は交錯するライト、ネオン、大都会の夜──ズーム・アップして、光にすけて見える良の横顔。 「大丈夫、大丈夫」 「ブルー・ノートだと思いましょ」 「ひでえなあ。自己嫌悪」 「なーにが、サムちゃんだってやってんだ、例のファイヤー・コンサートで」 「やい、オレ引きあいに出すことないやろ」 「昭司だってトプシンぶっとばしてゲラゲラ笑われてら」 「だってオレのはこれから毎週きくんだぞう」 「いいって、いいって──ジョニーなんか見ろ、ファイヤー・コンサートのライヴ」  いっせいにみんな噴き出した。 「あいつポカやるからなあ」 「あらら、先生《センセ》きいたことないの、あの白熱のライヴ」 「サムの作詞したやつで『地球の仲間』ってあるでしょ。あれ大曲だからメインのつもりで、ワーッともりあがったとこで持ってくる気だったわけ。そしたら、ジョニーの奴、何間違えたんだか、大ポカ」 「もう、メーロメロ。一番の途中から二番になってさ、リフのあとで一番にもどっちまって、あんなひでえポカはいくらジョニーでも珍しいすね。こっちもどこで切りゃいいのか面くらってさあ。切れなくなって光夫がアドリブかろうじてつけるまでリフくりかえし。サムの奴パターンをシンコペにしちまうし、昭司はブレークでシンバルがしゃんとしちゃうし、オレだってもう目の前まっくら。それ、ライヴにバッチリ入っちゃってさあ」 「でもあれ、ナマの迫力ゥーって感じもあったよな」  次郎がくすくす笑った。 「これぞロックっていうか──ジョニーったら途中で自分も笑っちゃってね。でもなかなかよかったよ、あれで」 「しかし、よく歌詞忘れて、でたらめ作ってすまして歌ってたり、一行とばしちゃったりするけど、ふしぎと、舞台でつまずいたり、アクションのリズムはずしたりってことはやんないねえ」 「人によってやるポカが違うんだよ。柄ってもんがある。�歌う青春スター�のMな、あいつどっかのリサイタルで、前のチャックあけたまんま出ちまって大笑いだとさ」 「カブキでかつらすっとばしてもメチャクチャだしね」 「おい、はじまるよ」  再びゆるやかなピアノの美しい旋律。  鏡、そこに立つ良のうしろ姿、それが鏡の中の自分と額をくっつけて、かすかにほほえむ妖しい表情のクローズ・アップになる。  額にもつれかかる髪を払いのけ、微笑して鏡に背をむける良の目が白く冷たいなまめかしさを湛える。 「──気狂いの目だね」  感にたえたように昭司が呟いた。  みんな、ジョニーが知らぬ人間になって出てきそうで、ひそかな不安が流れているのを何となく感じとる。  豹のようにものうく部屋の端まで歩き、良は鏡をふりむき、影像のまんなかにぴしりと弾痕ができ、それが蜘蛛の巣のようにひろがっていったと思うと、鏡が砕けおちてゆく。  幻想的なタイトル・バックが消えると、見覚えのあるバーのセットがあらわれた。 「何だか、変な気持やねえ、先生《センセ》」 「まったくね」  いったい、あいつは誰なのだ、何者なのだろう、と風間は思った。  さっき昭司が読んできかせた一節を思いうかべる。  ミューズの容れ物、巫女──表現を、生きるということ。表現するとは、生きることを一時棚上げにして、≪真正の現実≫である普遍性につかえることだ。  選ばれた人間が、ただ表現「する」にとどまらず、表現によってつかわれる、神の手としての存在でありうる。  さらに選ばれた、それとも最も狂った、呪われた、さようニジンスキーやビリーやジャニス、それにジョニーのような人間だけが、生きるかわりに表現を生きる。  文字や絵は形でとどめることができる。しかし音楽、歌、演技、とにかく肉体が表現することは、肉体とともに滅びなければいけない。 (つまりそうした存在だけが、同時代の普遍性と称してよい、いわばその表現によってひとつの時代を収斂させるような存在であるということだ)  世阿弥。あれもそういう別世界の生物、美神、ヘルマプロディトスの種族のひとりだろう。  阿国、ビアズリのサロメ、歌舞伎の、紫の野郎帽子をつけた若衆たち。  金の塔を髪に結いこめ、金の爪、金の首輪、腕輪、足輪をつけて、ゆるやかな呪術めいた動きをするインドの踊り女。カーリの女神。  それはすべて、この世の常の空間、生のいとなみ、けちくさいありふれた感情のためにはつくられていない肉体であり、顔だ。  そうした世にもありえないような生物の伝統に、ジョニーは属している。だからこそ、ジョニーを手ばなすわけにはいかない。日常性の、この卑小な空間がたまたま誤って見のがしてしまった異次元への鍵、≪在るべき≫世界の、真正のエロスのイデアへの扉、自体であるような存在を、見ないわけにはいかない。  ジョニーは≪違う≫のだ。特別なのだ。  あのほっそりと華奢なかれのどこに、このように激烈な、別世界から流れこむ電流の中継所であることに耐える強靭さというよりしたたかさがひそんでいるのだろう。  歌の中で、ドラマの中で、かれは≪他のすべての生≫の断片をうけとめ、生きるわけである。  やはり、そんなことに耐えられる、いや、それを本能的になしうるように生まれついている人間などというのは、「狂っているのだろう」としか、われわれの貧弱な語彙は云い得ないのである。 「うわ……色っぽい目つきするなあ」  光夫が嘆声をあげた。カメラを通して、映像としてつくられてあらわれた良の鮮烈な美しさに、あらためて呑まれたようだ。  画面では、巽竜二が良を問いつめる。  良は無感動な上目づかいで、彼を見あげて黙っている。  巽が良の腕をつかむ。額がふれるほど、近くひきよせ、おしころした声で云う。 「お前が殺したのか」  良は黙って、どこか、完全に狂った、それでいて凄艶な笑いをうかべる。巽が青ざめる。 「云ってくれ──云うんだ……お前がやったと云うなら、それでいい。云ってくれさえしたら──きっと、守ってやる。助けてやる──俺を信じてくれ。俺は何をしてもお前を守りとおしてやる──だから、云ってくれ──やったのはお前か……」  良の長い睫毛が伏せられ、巽の手の中で、少女のように可憐な困惑した表情をつくるが、そこにはどこか冷たいものが漂う。  巽は躍起になる。云いつのろうとすると、良の表情が変わる。麻薬の禁断症状の発作がおそってきたのだ。巽ははねとばされ、カウンターにもたれて茫然と見つめる。良はしだいに狂おしく苦しみはじめる。 「お前──お前、まさか……な、お前、まさか──」  巽は良を抱きとめようとする。良は身をのけぞらし、歯をくいしばり、茶色の目のまわりにぐるりと白目があらわれ、筋肉が痙攣する。  風間はいつのまにか息を固くつめていた。巽は悟り、いそいで注射器をとりだす。良が鎮まる。巽はいきなり良の衿をとらえてひきおこし、荒々しく平手打ちをくわせる。抵抗せぬ良を、くりかえし殴る。  アップになった、そのひきゆがんだ顔は苦悩にこわばり、涙をうかべている。そこでCMが入り、脳天気な音楽が流れ出した。 「ふー、凄えの」 「やるじゃないの、良の奴」 「しかし──」  風間はなんとはない羞恥にかられながら云った。 「演技がうまい──てんじゃないね、あれは」 「そうそう」と修。 「まるで──本当のジャンキーだよ、あれは」 「そうだったんですよ、あれ撮ったとき、ジョニーは」  修が云った。 「わかるよサムちゃんの云いたいこと」と弘。 「でも──あいつ、どこであんな表情を見たんだろうな」  風間は低い声で云った。 「あの発作の顔──あれは、まるで……本物の、脳性マヒ児の発作みたいだな──俺の弟に、いたんだよ」 「あれっ」  光夫がとんきょうな声をあげた。 「知らなかった、先生《センセ》? ジョニーはね……」 「おい、光夫、よせよ」 「いいじゃん、先生《センセ》だもん。ジョニーの妹ね、アレなんですよ、その先生《センセ》の弟と同じ。国の施設にいたの──五年前に死んだけど、それがただひとりの身内」 「え?」  風間はほとんど恐怖にかられて云った。わけのわからぬ戦慄が背筋をつらぬいた。 「それ、ホントなの?」 「本当です」  修が静かに云った。 「奴にしちゃ、ガキのころから、いつ自分もそうなるかわからへん──てのが、あったでしょうね、きっと──それに、誰も愛したことがない、愛せない、てのもそこらへんも影響してるのかもしれん。──やっぱり、ジョニーもいまだって、少し、狂ってますよね。そうでなくちゃ、あんなに自然な演技できんでしょう。歌もね」 「先生《センセ》が……」  弘が口をつぐむ。風間は笑ってみせた。 「いいんだよ。その子は生まれたときは何でもなかったんだが、三つのとき日本脳炎でひどい熱を出して──口もきけんまんま、二十まで生きたが……もう、十年くらい前だよ。しかし、おどろいたな」 「オレらもちょっとびっくりしたな」 (狂ってる──か)  どんな正気よりも、良の狂気こそ、いとおしいと風間は思う。  世のつねの空間と時間から切りはなされたガラスの宇宙のなかにいて、いつか歌いながら良はかれをまだ現世につなぎとめているわずかな絆、少しばかりの冷淡な愛情や執着も断ち切って、もう何ひとつ夾雑物のない、時も流れをとめ、空間もふしぎなエーテルに変わった、かれの本当の世界へ飛翔してしまうかもしれない。  それはジョニーにとって流刑地からの帰郷にほかならず、そのとき風間たちはこの卑小なかりそめの空間からめくるめく真実の生への、かろうじて知っている唯一の扉さえも目前で閉ざされてしまうのを見ることになる。  だが、それは神話だ。風間は、ナルシスがとけてしまったあと咲き出た、一本の水仙の花を守るように、狂い盲いた良をこの腕に守り、見つめていたいものだと思った。  良は、そんなことを考えることがあるだろうか、これから十年さき、二十年さきを?  きびしい、辛い道をかれはよりによって選んだ──或は選ばされた──ものだ。  それはたえまない現在だ。戦いは、生きているかぎりつづく、しかも時がたてばたつほど競争者は若く、有利になり、どんどん入れかわり、絶えることがない。  スターの座からころがりおちた良、本当のただの不適応者、歌う狂人にすぎぬと見做される良、塵芥のように見むきもされなくなる良、そんなことがありうるだろうか、と風間は考え、ありえない、と自ら答えた。  良は、そんなふうに世のつねの時間を生きてはいないのだ。良はきかれればしおらしげに、相手が思っているような答えをするだろうが、かれの内部には時もなく、実のところステージもカメラもファンもない。  かれはなぜかは知らぬまま、そうさだめられたとおりに歌い、かれに憑いているなにかが動かすままに他の人間の生を生き、無数の生を生き、かりそめにこの世を律する時間や空間や、すべての制約に身をゆだねているだけだ。  いや、断じて、良の失墜──そんなことはありえない。太陽でさえも恒星としての生の法則に従い、しだいに核融合によってその原子の組成を変え、やがて赤色巨星と化して爆発的にひろがり、むろんすべての惑星をのみこみ、死滅させて燃え狂ったのちにすべてのエネルギーを燃やしつくして、冷たくひえきった、死んだ星、白色矮星として死滅してゆく。  だが、それはあまりに桁の違う時間においてなされるために、われわれは決して知ることはないし、従ってわれわれと太陽とはまったく違う次元を生きていると云っていい。  そしてあまりにも愚かで盲目で卑小なわれわれは、太陽の生のスケールをとらえることができぬだけのことで、われわれのあわれな生こそがすべての尺度であると思い、太陽や月や星や──地球ですらも、われわれの生の単なる背景、与えられた舞台装置にすぎぬと思いこみ、他のすべての尺度の存在を忘れがちになる。  そうして愚かなそのせまいシャクトリ虫の目ですべてをおしはかってしまう。われわれはなんと思いあがったあわれな生き物だろう──われわれには本当は何ひとつとして見えてなどいないのだ。  われわれがかろうじて知ることのできる最良のことは、われわれが何も知らぬということ、どこかに、もっと本当の、真実の、愚かしくなく、卑小でなく、有限でない、美しさや崇高さや真実さだけが尺度となる、われわれすべてはそこの愚劣な影にすぎぬイデアがある筈だ、ということだけである。  そして、本当に僅かな人たちだけがそこから地上への飛来者、ゆえは知らずここにのこされた流刑者としての運命に操られ、自らは狂者と呼ばれ、はてしない孤独にあえぎ、ついに同じ魂を見出すこともできず額の刻印にひきずられるままに歌い、演じ、叫び、生んで、他のすべての人間たちにイデアの消息をもたらし、その香気とめくるめく渇望をのこして去るようにさだめられているのだ。  良はそうした種族に属している。そして、そうであるからこそ、他のすべての歌うタレント、ずっと少数の本当の歌手とからさえ切りはなされて、歌うためにだけ生まれてきた特別な存在になり、むしろビリーやジャニスや、サラー・ベルナール、ニジンスキー、六代目菊五郎、さらには世阿弥や阿国の長い列に属しているのだ。  そうしたひとびとには失墜はない。すべてスターは絶頂へむかってのぼりつめ、そして下降してゆく放物線を描いてあらわれ、消えてゆくものだが、この種族は違う。  施療院でひとり死んでいったビリー・ホリデイ、発狂したニジンスキー、全裸で睡眠薬の不明瞭な死をとげたマリリン・モンロー、「ほんのちょっと」トリップしようとしてあっけなく目ざめぬ眠りに入ってしまったジャニス──  かれらの放物線は、のぼりつめ、たしかに下降線をたどりはしたが、それはどこかで異なる次元へと吸いこまれ、そのまま妖しい尾を引いて虚空へと吸われてしまったのだ。  かれらは、かれらだけがついに借り物の翼をとかされ、われわれと少しも変わらぬつまらない素顔を露呈し、つまらぬ小娘にすら「スター」という名が与える一種オーラのような香気をひきはがされて地上におりてくることがなかった。  良こそ、そうしたひとびとの後継者だ。  良を見つめつづけてきた風間にはそれがわかる。  この眩しい生き物を守ってやりたいと彼は思う。良はこの世の生にはむいていない。それを知っているからこそ、彼と同じように修も、光夫も、弘も、昭司や次郎も、そうっと掌で包みこむようにして良のそばに居るのだ。ひとつにはかれら自身のために、しかし結局はそれも良ゆえに。 「──きれいだな、ジョニー」  昭司が呟いた。  画面は進んで、苦悩をひそめて巽のマスターが見つめるのを知ってか知らずか、ジョニーは白いギターを抱き、すんなりと脚をのばして、首をかしげて調弦する。  画面がパンして、老警部がこっそり二人をうかがっている。巽は咽喉をそらしてぐっと酒を注ぎこみ、荒々しく瓶の首をつかんでグラスを満たし、グラスを左手につかんでジョニーを見かえる。眉間に深い皺がきざまれ、またぐっと飲む。  ジョニーが歌いはじめると、バンドがかぶさってくる。「反逆のブルース」だ。それをジョニーはひどく物憂く、けだるげに歌っていた。  冷たく、ダルな背信の翳が、靄のかかったようなあの声ののびるに従って漂ってゆく。巽の目、警部の顔、歌うジョニー、ゆるやかなカット・バック。 「ようやるよまったく、それ狙ってんだから当り前だけど、一回ごとに違う歌みたいに違うんだから」  修が感嘆した。  その回の情景に応じて或は荒々しく、けだるく、哀しく、ものうく、激しく、苛立たしく、やさしく、良の歌は変わる。  バックは少しテンポをおとしたり速めたりするだけだから、その虹のようなきらめきをつくるのは良の声ひとつなのだ。  歌がエンディングに入ると画面にエンド・マークが出た。第三回、終了である。まだ耳にあの声がひびいているような心地で、風間はテレビを消した。 「いまは一番しか歌わしてないけど、二番歌わすとき、間奏にフルート・ソロのせたいんだ」  風間は云った。 「うんとジャズっぽい感じでね。レオン・ラッセルの『マスカレード』をカーペンターズがやってるだろう、ああいう感じで」 「少し線が細くなるんと違うかな、フルートだと。ブラスの方が合うんじゃないですか」 「とも思ったんだがねえ、『裏切りのテーマ』をブラスでやったから」 「ああ、あれええわ、先生《センセ》」 「グッときますね」 「何も出んぞ」  かれらはがやがやと議論をはじめた。  使いすてのテレビ・メディア、だがそれはいとおしくさえある。俗悪、軽薄、都会、喧騒、ジャズ、ジーパン、夜、通俗、有毒、それがわれわれの時代だ。  コマーシャリズムをがっちりさか手にとって、したたかに乗せてゆくのが大人のやり方だと風間は思っていた。それがダンディズム、ジャズ・フィーリングというものだ。反体制だ、芸術だ、良心だと四六時中見さかいなしにほざくのはガキである。 「北川女史ねえ、これシングルで出て、解禁になったら、ジョニーにジャンプ・スーツ着せようて云うてますねん」 「『反逆のブルース』でか?」 「そうそう。デボラ・ハリーってとこでんな。例によって、胸出してジャラジャラぴかぴかしたものをかけて、腕輪はめて」 「強烈」  次郎が笑う。 「指輪もね」 「ジョニーの胸は出すネウチがあるからなあ」  風間はニヤニヤした。 「ほんと、色っぽいよ」 「痩せてるくせにきれーいに肉がついててね。ムナゲなんかないとこがいい」 「いまははやらんのよ、ナガシマさんは」 「ロック・エイジってのは本質的に女性志向だね」  風間は云い、かがみこんで一枚のジャケットをひっぱりだした。フィリー・ジョー・ジョーンズだ。逞しい指がドラム・スティックを握っている。それから、デューク・エリントン── 「あらら、すンげえの」  光夫がげらげら笑いだした。 「ゴリラだね、まるでさ」 「怪物的だろう。エラだって見てみろ、これでなくちゃジャズなんかやれないさ」 「黒《ローク》ってのは迫力あるねえ」 「このでっかい手が、まるでかるがるという感じでピアノを叩くんだからね。──ロックってのは、オトナになるのを拒否してるってところがある。アタマのばすんだってそうだろう」 「指の節まで毛が生えてやがら」 「肉食動物って感じだね」 「ギタギタのアブラでね。これが本当のズージャなんだろうね。日本じゃダンモなんていうとちょいとすかした、水割りとか高級バーとかさ、変にシコったイメージになっちゃうけど」  とりとめのない話をし、レコードをかけ、窓の外は深まる夜、居心地がよく、酔いがまわってゆく。  建物の前で、パッパッとクラクションが用ありげに鳴った。 「あ、ジョニーだな」 「清田マネがつれてきてくれたんだろう」 「やっとあがりか」  ふいに目に見えて部屋全体が生きかえる。ひそかな嬉しさがみんなをうきうきさせる。  前ぶれなしにドアがあいたが、入ってきたジョニーは、黒いセーターにアーミー・ジャケットをひっかけた、巽竜二と一緒だった。 「あれれ──清田マネは?」 「なんだ、マネの車じゃなかったんか」 「あ、みんなやってるなあ」  ジョニーはジーパンにファー・コートで、ぬけるように白い顔にこころもち赤味がさしていた。自分の家みたいな顔をして巽をうながす。  大きな男はのっそりとハーフ・ブーツをぬいだ。 「失礼します」 「やあ、巽さん」 「こないだ、すっかり良くんに迷惑かけちゃって」  みんながジョニーの手を見る。左手に、白い包帯がまだとれない。 「適当にやって下さい。もうごらんのとおり、ハチャハチャで、ごろごろしてますから。ジョニーは、例によってサワーだな」 「うん。先生《センセ》つくってよ」  コートをソファに放りなげ、巽を置き放しに、風間のそばによった良の表情が、どこかに乱暴に甘える感じをひそめている。  みんなが良を見る──ブラウスに、ベージュに茶のセーター、ソファにかけるのでなく背をもたせて、脚を投げ出してすわる、するともうそこが宇宙の中心だ。 「どうなったの、その後」 「しゃあないもの。ホンヤの長谷田さんが書き直して、ケガすることにしちゃった」 「あの通り?」 「そ、巽さん今日もういっぺんやったのね、あれ」  良が片目をつぶり、右手に何かつかんで左手にふりおろす恰好をした。巽は困ったようだった。 「どうも、申しわけなくてね」  しかし彼は目に見えてくつろいで、もう雰囲気に馴染んでいるようだった。  良がいつもの気を許した態度を見せている。それは風間たちには絶対で、それで誰も巽を夾雑物ふうには扱わなかった。  巽はのっそり立ってグラスに半分ぐらい生のままウイスキーを注ぎ、持って場所を決めると早速ジャケットのポケットからつぶれたハイライトを出した。 「先生《センセ》、さっきのつづきかけてよ。『キャット・ウォーク』もういっぺんききたい」 「よし」 「マル・ウォルドロンですか」  巽が云う。みんな、やるゥーと彼を見た。 「いいですね」 「けっこういけそうですね。好きなんでしょ」 「何もわかんないんですがね。家にいるより飲むところにいる時間が長いでしょう。こう暗くして飲んでぼんやりしてると、ピアノが一番いい」 「要するに風間センセと同じ世代ってことね」 「巽さんはお幾つですか」 「三十三、もうすぐ四です」  みんなおどろいて彼を見た。髭と、苦味走った顔立ちは、三十代も終わりか、四十すぎとばかり思っていたのだ。 「じゃ、ジョニー、ギターひけなかったろう」 「うん、ひとり窓辺で見おろすのへ、レコードで声だけ流すってさ。あーあ、疲れたあ」 「どこまでいったの」 「今日? とりだめしちゃったからね──|結城サン《ヽヽヽヽ》と関さんが喧嘩して、おれが滝田さんの亡霊見て、バイクで暴走族にからまれて」 「ふん、がんばるなあ」 「お前、よかったよ第三回」 「あ」  わかりきっているくせにぱっと顔が輝いた。 「見たの」 「カッコいいぜ」 「ヘヘヘ」 「かれは、抜群ですね。天性の感覚がありますよ」  巽が右手に煙草、左手にグラスといささか気障《きざ》に決めて云った。目が切れ長で、その下に笑い皺のようにも見える年不相応な皺が走っているのに風間は気づいた。 「みんな、乗ってるし、いい仕事ですよ」 「今日、晩飯──っても十時だったけどさ、巽さんに奢ってもらっちゃった」  良が云った。風間が修を見ると、修もソファに長くなったまま風間を見ていた。 「巽さんすごいぜ、運転。Aライ・クラスだって」 「そりゃすごい」 「すごいチューン・アップしてタイヤもレーシングタイヤだって。昔レーサー志望だったんだって」 「お恥ずかしい」  巽が照れたように笑った。意外に若々しい顔が、笑うとはっきりわかる。いい笑顔だ。 「いい年して、カーキチでね。仕事に行くときは、自分の車じゃ行かん方がいいんです。ハンドル握るとフラフラして、もっと走りたくなってね。それで衝動的に六本木から新潟へつっ走っちまったことがあって。そんとき、これ以上勝手にフケるならホスぞって云われたもんで、それ以来、いつもガソリン絶対に満タンにしとかないんです」 「ジョニー、お代わりか」 「あ、ちょうだい。──なんかサカナないの」 「ガキ。大人は、ピザ食べてウイスキーなんか飲まないの」 「ちぇ──腹へっちゃった」  良は腕をのばしてソファにひっくりかえる。白い咽喉がのけぞり、青みがかった瞼を閉ざし、拗ねたように唇をとがらせたところは、ばかになまめかしい、男装の麗人といった感じだ。 「ああ、くたびれた。──これであしたヒコーキ? 参るなあ」 「ききしにまさる殺人スケジュールだね。この細いからだで、よくもつと思うよ」  巽が目でジョニーを包みこむようにして云った。その目に風間は覚えがあった。いくら見ても見足りない、ひとつひとつのかれの鮮烈な表情を貪欲に飲みこみたい目だ。 「今日、巽さんと大乱闘したのね」  ジョニーがくすっと笑って頭を起こした。 「あの脚本家《ホンヤ》さんサディストと違うかね。とにかくもう、オレ叩かれたりぶっ飛ばされたりしっぱなし。ハードボイルドつうの、あれ。巽さんが関さんを引っぱたいてね。関さん生キズたえないって怒ってるの」 「あげくがライフル乱射だとさ。長谷田氏の腹案では、皆殺し大作戦だと」と風間。 「俺が?」 「冷血殺人鬼今西良、ってわけ。いずみちゃんまでぶっ殺すとさ。久野氏は久野氏で、血のりのストックなくしちまえなんてニヤついてるし」 「俺も殺されるんですか、良くんに」 「らしいですね。あのホンヤ先生、血に餓えてるから」 「そりゃ」  巽が笑った。 「光栄だな」 「バーン!」  良がやにわに指のピストルで巽を抜き撃ちした。 「やられた」  巽が胸をおさえてひっくりかえる。 「さっきのおかえしだ」  良は片目をつぶって云った。 「でも巽さんてすごくいいからだしてますね。何かやってたの、柔道でも?」 「三段」 「道理で、あまり痛くなかった」 「暴走族と大乱闘になって、俺が引きわけにとびこむと、かれがナイフ出すわけ」  巽が説明した。 「で俺がとびこんで背負投げ」 「荒っぽいなあ」 「きみは、痩せすぎだね。もっと肉つけなきゃ」  巽が云った。良は何も云わずに笑っている。 「あんまりひどく投げないでやって下さい。こわれやすくできてるから」  風間は笑い、手をのばしてジョニーの首筋から髪へ手をすべらせた。  妙に、巽に対して、俺たちはこれだけジョニーに近いのだ、仲間なのだと、経てきた時間を誇示してみたい欲求を、こらえきれなくなったのだ。  彼の手をジョニーはじっと我慢しているようだった。彼の手の中で、ほっそりと華奢な首筋をしている。修が巽の目、風間の目をちらりと見比べるのがわかる。 「何云ってんだい」 「お前さんは、長谷田氏にご挨拶忘れたんだろ。だもんでいびられるのさ」 「アハ──そうかァ、気がつかなかった。畜生、ぶっとばしてやるか」 「殿中でござるぞ」 「なあに、お前がいびり殺されたら、オレらがかたきとってやるよ。とんだ忠臣蔵だ」 「さしずめ風間センセが大石内蔵助」 「おそかりしゆらのすけ」 「あらら、次郎の奴寝てやがる」 「起こせ起こせ。そんなイクジナシ。くすぐっちまえ」 「ワーッ、やめろ、寝てないよ」 「寝てたよ、見ろ、ヨダレたらしてら」 「あっ、チクショウ」 「大石よりか、幼稚園の先生ってとこだ」  風間は笑って、巽に話しかけた。 「面くらいませんか。みんなあんな奴らでね。毎晩ですよ、どっかに集まっちゃ馬鹿云ってばかり」 「いやあ、とても楽しいです」  巽は例の魅力のある笑顔を見せた。 「どっちかというと、日ごろ御大連とつきあってることが多いでしょう。気持まで老けちまってね。これからもときどき仲間に入れてもらっていいですか」 「もちろん」  風間は云った。 「芸能記者があなたのインタヴューをしたいんだが、大変な人見知りで──って嘆いているのをきいたことがあるけど、そうでも……」 「巽さん人見知りするの」  突然良が首をのばして云った。 「その──照れちまってね、話ができないんだよ。頭、わるいから」 「オレとおんなじだ」  笑って云って、また風間の膝に頭をもたせかける。ばかに今夜のジョニーは甘えている、と風間は思った。  巽のせいか、と思う。ひとりでも観客がいれば、そこが良のステージなのだろうか、と思う。  それは、例のぴしゃりはくわされないが、|まだ《ヽヽ》観客としてしか扱われない巽へのほのかな優越をひそめていた。 「相手によるんですよ。たぶん、俺は我儘なんでしょうがね」  巽のしゃべりかたはゆっくりと、低い声でふたことみこと云い、考えこみ、また口を開く、というふうだ。ききようによっては焦れったいが、妙な凄みもある。ひらめくように気まぐれな良の反応とはまさに対照的だ。  黒いセーターの下で、楯のように見事な筋肉に鎧われた胸、ぐっと引きしまった腹、見るからに精悍で男性的だった。  いかさま、激情的、粘着性気質、何かやらかしそうなタイプかな、と風間は見ていた。良のそばにおくのは危険だろうか、という懸念もある。  良の方は親の心子知らずとでも云うべきか、新しいメンバーがいるのが嬉しいのか、ひどく機嫌がよくて、甘ったれていた。 「先生《センセ》! もう一杯つくって」 「あまり飲むなよ」 「平気だよ」 「あしたも仕事なんだぞ」 「クルマの中で寝るよ。第一、先生《センセ》たちずっと飲んでたじゃない。オレ、いま来たばっかりだぞ」 「良くん、つよい方じゃないんだろ」  巽が云った。良は彼をどぎまぎさせるような、あの額にしわをよせ、上目づかいの色っぽい表情をつくり、巽を見た。挑発的だな、仕様のないガキだ、と風間の方は考える。 「ほら、もうほどほどにしとくんだぞ」 「ちぇ、世話焼!」 「怪我してるときぐらいおとなしくするの」 「いやなこった」  良は顔をくしゃくしゃにゆがめて、頭を小突く風間の手を逃れた。修がじっと見ている。 「サムちゃん、今夜、ばかにおとなしいなあ」  良はこんどはライオンの仔がじゃれかかるように修に攻撃目標を移した。 「あんたも人見知り?」 「ほっとけ、アホ。ガキにはわからへん」 「畜生、みんなしてガキ扱いしやがって。もう四なんだぞ」 「録音でロンドン行ったとき、十五、六や思われて怒ってたやないか」 「だから、オレ、好かん、外人《ガイ》は」  うきうきしてるな、と風間は眉をよせて見つめる。  女の子のような感情の動きを持っている良だ。巽が気に入って、その巽が自分に好意をもち、仲間に入れてほしがって、いわば関心をかおうとして近づいてくるのが嬉しいのだろう。  仕様のない奴だ、何にもわかっちゃいない癖して、とまた風間はもどかしい愛情で思った。  見ていると、包帯をした手をのばして見、いいほうの手で髪をかきあげたり、爪をかじったり、その手を腿の下にしきこんでみたり、そっくりかえって風間の膝に頭をぶつけたり、一刻もじっとしているということのない良だ。  ひとつひとつのしぐさのなめらかさ、鮮烈さ、効果、を自ら楽しんでいるようでもある。  そんな良に馴れていながら、やはり風間は吸いよせられ、胸苦しい思いで見つめ、目を細めた。  まったく何という奴だろう、と考える。そして巽を見ると、なかばわかっていたことだが、巽もまたすっかり、くつろいだ猛獣のような良に魂を奪われ、かすかに眉根をよせ、目に感嘆の表情をかくして、おちつかない良を見つめていた。光のつよい、激しいもののある目である。  ふいに、この男は、あまりジョニーに近づけたくないものだ、と風間はつよく感じた。  嫉妬かもしれない。  だが、どうせ良のことだ。仮に巽の感情が風間や光夫たちよりはもう少しつよく、熱いものだとわかったところで、面白い茶番を見るように冷たい目で笑い、そしていずれ飽きてしまうに決まっている。  しかし、風間が良を正しく知っているなら、そして巽が見かけどおり、つよい、激しい性格の持主だとしたら、良は新しいものへの好奇心と、自分によせられる強烈な関心への快さから、風間たちが心配すればするほど、巽に肩入れするだろうし、良の方があっさり興味を失うころには、巽の方が、良の魔力に魂の底まで食い荒されてのっぴきならなくなっているだろう。  いやだな、と風間はふと思い、手をのばして、おとなしい良の頭を押えた。そして何気なく巽を見、ぎくりとした。  巽は無表情にそんな風間と良を見ている。しかし、目が、彼を裏切っている。  熱い目だ。その中には何か風間をはっとさせる、埒をこえたものがあった。誤って傷つけた良を火を噴くように見つめていた目に、似ているが、もっと底ごもってつよい。  嫉妬と決意だ、と風間は見てとり、そして、はじめて、良の甘えるしぐさと自分の無意識な愛情を、彼に、良の情人と誤解されたことに気づいた。風間は戦慄した。  修が光る目で、じっとこの無言劇を見つめていた。 [#改ページ]   ㈼  ──and, to them who love him──     4  巽竜二は、良に魅入られたように夢中だった。ほどもなく、光夫から昭司から、清田マネですら勘づいてしまった。というのも、巽は別に隠そうともしなかったからだ。 「ま、ある意味では立派な男やね。それは認めざるを得まへんわ」  修ですら苦笑して云った。  巽は、率直で、激しい性格だ。彼にとっては、自らの恋情を、相手がたまたま同性であるからといって恥じるいわれはないし、それに、それは選ばれた獲物《ターゲツト》に対してもフェアでないというのだろう。  光夫が冗談にしようとこころみたが、妙にしらけてしまい、以後それは仲間うちでは黙認ということになった。下手につっついているうちに、こっちの、本当は嫉妬し、やきもきし、自分ではジョニーを愛していると公言するだけの勇気はなく、巽にひょっとしてかっさらわれてしまったらどうしようとうろたえている、あまりさまにならない本性が露骨に見せつけられてしまいそうだったからだ。  巽のほうはレックスの�ガキども�など眼中になく、風間ひとりをはっきりと敵手とみなして、しかしふしぎにもそれゆえにかえって風間に特に気を許して、フェアに争おうというようすを見せていた。  これはときとして風間を年甲斐もなくどぎまぎさせたが、もっと彼をうろたえさせたのは、良である。 「なんや、このごろジョニーの奴、ばかに先生《センセ》に甘ったれて──いや、別にヤイとるんやないでっせエ」 「わかってらあね、こっちは当て馬だぜ。やっこさん、別に巽の旦那に気をひかれてもいないくせに、俺に甘えてみせると旦那がやきもきするんで、それで面白がってやるんだよ。けしからん、小僧だ」  修にはせいぜいクールな大人らしく云ったものの、内心その当てつけの道具にジョニーが俺を選んだのは、というだけで妙にどぎまぎするのだから、|から《ヽヽ》たわいもないものだった。  どぎまぎすると云えば、乱暴に鼻をすりつける仔豹のように良が甘えかかるたびに、巽が暗い火をかくして彼を見る。  巽は、一体、俺とジョニーはどういう関係だと考えているのだろう、とおもんぱかると、風間は身内がほてってくる。  それはおそろしく誘惑的なので、風間は考えるのが怖かった。神聖冒涜だ、と自らこらえる。  だが彼の内では、巽の気持がきびしくおさえつけられながらたかまってゆくのを見ているにつけ、その目が多少彼の目をも占領してきて、ジョニーの目、ジョニーの唇、ジョニーの横顔、眉をしかめ、顔をのけぞらして歌う表情、その胸、その声、などがいやでもいよいよ妖しい蠱惑を増してゆく。  風間はしだいに深みにはまってゆく自らの感情に気がついていた。いまは、巽が、良は風間のものであると思いこみ、心を燃やしているからまだいい。仮にこれがひとつ逆転したら、良が巽と何かあったら、何といっても、巽にどう思われていても自分は良に指いっぽんそういう意味ではふれていないのに、と考えると、何かが、埒《らち》をこえた惑乱が風間におしよせてくる。  そうなってから苦しむよりは、むしろいま、巽に思われているとおりになってしまったら、とついに考えてしまい、風間は愕然とした。  そう思っただけで、すさまじく甘美な、圧倒的な奔流におし流されそうになったのだ。  俺にもそんなところがあったのか、と思い、いや、ジョニーだからだ、奴は特別なのだ、と思い、その特別を地上にひきおろすようなことはしたくない、とかろうじて自分をおさえた。  いったい、当のご本人は、こんなことを、知っているのだろうか、と疑問に思う。  良は、このところ、夏になって、撮影の方があがったら去年につづいて全国縦断コンサートをやるというので、その腹案をつくったり、プロモート側とうちあわせ、レコードの宣伝、巡業、と目のまわるように忙しい。まったくこれでは、肥るひまもない。 「去年のツアーよりもっとロック・コンサート寄りにしようって云ってるんですよ」  弘と光夫が一週間ぶりに、宮崎から帰ってきて、その足でマンションに立ち寄ったときに云った。良の方はとんぼがえりでスタジオ入りだ。 「もう、これが限界じゃないかって修なんか云うんだけれどね。これ以上ロックになると、女の子のファンなんかついてこられないんじゃないか……」 「連中はあくまでジョニーがきれいでかわいくて、ニコニコしてみせて、テレビで知ってるヒット曲つづけて歌えばよろこんで帰るんです。ところが、ジョニーは例のメッセージ・ソングとか、まあ、GFRの後楽園とか、モントレー・フェスとか、あの線で行きたいわけ」 「お宅らがいないあいだにテレビで去年の録画やったろ、大阪のやつ。わざわざ、朝の九時から目覚しかけて見たけど、たしかにやばい橋渡ってるなと思うよ。ロック知ってる奴、ある程度わかってる奴は、ジョニーのやろうとしてることがはっきりわかるけど、一般のファンはね──何か、異和感があったり、『哀愁』も『危険な関係』も歌わん、英語の歌ばっかりだってんでがっかりしたり──またまた毀誉褒貶が極端になっちまうかもしれない」 「事実そうだったですね」  弘が云った。 「こいつ色気狂いじゃねぇかなんて云ってる奴と会ったもん。何せ、ありったけ、指輪にマニキュアに、──紫ですよセンセ──五センチもあるブレスレットの上に金グサリかけて、左の耳だけ五センチぐらいのイヤリングさげて、チュールまきつけて、なんてのかな、まるで──」 「バビロニアの娼婦、アイシャドウに銀粉入れてね」  光夫がニヤッとした。 「カッコよかなかったすか、先生《センセ》」 「凄かったねえ。朝っぱらからあんまり強烈にやられて、一日仕事にならなかった」 「朝、流すって法はないよ」 「だからロックでも、もうギンギンのヘヴィ・メタルでさ──それであの踊りでしょ。色っぽすぎんだ、オレたちうしろでやってて、奴のうしろ姿だけ見てたら、まるでベリー・ダンサーだと思ったもん」 「きついよね。正木きよしか何かみたいに、赤ちゃんからおバアちゃんまで、健全で心あたたまるステージです、なごやかにご家族そろってなんてわけにいかないもの。そこを、ワーッとひきずりこんだら、こっちのもんだ。はじめはジョニーかわいいーて云うだけのイモ子ちゃんでも、のっぴきならなくさしたったら、何てのかな、≪ジョニー・ワールド≫の同志にしちまう自信はあるけど」 「ジョニーのコンサートに来る男の方は、十人なら九人まではそこんとこ、わかっててね、ジャニスだのポールだの、ま、ツェッペリンやクイーンあたりでもいいけど、わかって来ると思うんですがね。ただそういう男ってのはすでにしてアタマも長けりゃ、ジョニーの紫のメイクやなんかに、つまり──感度もあるんでね。そうでないと、かりに内心ボーッとして、いいと思っても、お固い連中は、正木きよしならともかく、ジョニー見に来るには、抵抗が大きいと思うんだなあ……」 「女のコの方は、トレーナーからブレザーから、トラッド、リーゼント、それこそカクテル・ドレスでさえなけりゃ毛皮のコート着たって来られるけど、野郎ならまず、アタマ長くて、アーミーかデニムか、要するにロック共同体の奴しか来られない……」 「ただそういう奴はロックも知ってりゃてめえもギターのひとつもひくんで、オレらとしちゃ、おいおいに、せめてフィフティ・フィフティまで男が来てくれるようにしたいんですがねえ」 「男でジョニーにいかれちまう奴ってのは、ま、半分くらい、ホモだって宣言してるようなもんで──やっぱり、できる奴とできない奴とあるんだなあ」 「しかし、竜さんの例もあるからね」  風間はいささか陰険そうに云った。弘が笑い出した。 「ダメですねえ、あの旦那は。別にジョニーの音楽《オト》をきいてわかってくれるわけじゃないから」 「そういう意味では、ステージより、ドラマやってる方が、ファンのコもよろこぶし、人気の点にゃ安心なんだけど、といってもうオレらとしても、ああいう凄いステージを踏んだあとで、ドサのヒット・メドレーみたいなイモ仕事じゃねえ」 「ジョニーはどうも次第に麻薬としちゃ危険になって来るな」  風間は苦笑した。 「極端へ走るね、ますます。あれに参ったらもうどうもこうもならない。たとえジョニーがステージでストリップはじめても、ステキだって連中と、ありゃ完全な気狂いだって云う方にわかれつつあるね。いよいよジャニスに似てきたかな」 「まだステージでジンの瓶は出ませんけどね」 「その必要ないのさ、奴はステージにあがるだけでもうストリップしちまうんだから」 「凄かったよ、なにしろ。あれ、朝流したのはTV局の策略だろう。あれを夜やられたら、たしかにみんなそのまんま正常に帰れなくなりそうだからな。まあ、あの、光夫が足つかんでふりまわしてさ、エロティックもさることながら、妙にこう、邪教の儀式って気がしたね。淫祠邪教の女祭司長」 「白いチュールひきさいてね。たしかにあれジョニーだからサマになるし、そこまでなまめかしくなるんだけど、ところが反対にジョニーだからこそ、お目こぼしも受けるんだね」 「サロメだね」  風間はビアズリの挿絵を思った。  ありったけの飾りをつけ、銀色の網目のコスチュームをスパンコールつきのサッシュで結び、かすみのような紗の布をからだのまわりに漂わせて、赤いライト、青いライトの中を踊り狂うジョニー、魔教の女王、まっくらな野外ステージに世にも妖しい世界がひろがる。  下でぽんぽん花火があげられ、黒く静まったメカに囲まれ、まるっきり自分の狂気と美だけで世界を変えようと途方もないハシシュの夢をひろげて、ジョニーのそのしなやかなからだは、何かの憑き物にあやつられるように激しく狂いまわる。  頭が床にぶつかるほど、うしろへそりかえり、海老のようにひきしまった腰をぎりぎりまでそらせ、爆発的にのびあがる。白いヴェールにつつまれて両腕をたかだかとあげ、めくるめくライトに照らされて動かなくなる。  うすい紗につつまれた、ほそいからだは、おそろしくエロティックで、裸、素裸よりもっと猥褻に見える。と思うとやにわにそれをかなぐりすてる。  汗がアイシャドウにくまどられた顔を洗ったように濡らし、光らせている。  もともとつくりが華奢なかれのからだが、激しい動きの中で、何か巨大な手にひっつかまれて自在に翻弄されているように見え、それがまたずきりと風間を戦慄させた。  ジョニーはグロテスクなくらい誇張し、ディフォルムした振りをつけて歌った。  まるでぞっとするほど甘美な、同時にからだじゅうをさかなでするほど異様な死の滴をしたたらせる、目もあやな妖しい毒の花だ。  風間の、これはおそろしい強烈な阿片の陶酔境の悪夢だという酩酊は、フィナーレのそれだけで二十分になる大曲を、ほとんど歌うというより絶叫しつづけたジョニーが、荒々しいリズムの間奏部に、いまにも倒れそうにステージじゅうをよろけまわり、光夫と弘と修と次郎をひっぱり出し──このときはもうひとグループのバンドが一緒にバックでやっていた──そのまだ楽器をさげたままのレックスたちの手に支えられてたかだかともちあげられ、光夫に両脚をつかんで逆立ちさせられ、身を反らしておりたってから、まるでアクロバットの芸人のように白いヴェールの尾をひいて修と弘の掌を踏み、光夫に腰をつかまえられてピラミッドを組んでみせたときに絶頂にまでたかまった。サーカスだ、と彼は唸ったのだ。  ジョニーのステージには、サーカスの有毒な絢爛さも、レビューのまばゆさも、ロックのエネルギーも、歌舞伎の妖美も、すべてが眩暈のするほどあふれている。  不健康だ、厭らしい、クサい、異常だ、と云うのはやさしいし、またそう云う人も多いのだが、それは要するに美というものをわかっていないのだ。  そういう人に限って何百年も経ているというだけの理由で歌舞伎をありがたがり、クラシックだけをきき、芸術とやらの高尚な香気に身をひたしてよろこんでいるのだが、例によってそういう人に限って、歌舞伎というものが売色の少年俳優たちを、華客が酒を飲みながら見さだめ、あれを呼べと選ぶための見世物であった、たとえば「助六」などは当時の流行語やファッションの集大成、いわば前衛劇であった、いや、そもそも歌舞伎という語が、「傾《かぶ》く」かぶき者、という語源を持っていることさえご存じない。  お気に入りのクラシックの、モーツァルトが宮廷の御用音楽屋であり、ブラームスやシューマンは金持たちのサロンにご機嫌うかがいをし、新曲を貴族のご夫人方のお耳に入れて、「ブラームスさんの新しいメヌエットはとても可愛らしいこと」などと云われては金品のご褒美を頂戴していたことさえご存じない。  かれらはおそろしくて、自らの感覚だけで現代をうけとめてゆくことができないので、安全な、保証つきの、時代のついたものだけを身のまわりにそろえる。  すべて同時代的なものは、ある時代全体を互いに内包しており、ある時代の文化はある時代の社会、歴史、哲学、美、真実、低俗さ、エロティシズム、をすでに収斂させているものだが、かれら用心ぶかいひとびとは、注意して検分し、あらゆるエロティシズムも美も真実も異なる時代の前に風化してとりのぞかれてしまったものだけを選ぶ。  つまり、かれらは生きることがこわいのだ。そのあまりにもめくるめく感覚、酔わせ、はてしなくいざなってゆくエネルギーがおそろしいのだ。  俺はそんなものをおそれはしない、と風間は思った。俺は生きたいし、ジョニーという致命的な毒の杯を、底の底まで飲みほす覚悟だってあるのだ。だが── 「まあオレたちもギャーッと乗っちまったけど」  弘が髭をひっぱり、考えぶかい、哲学者のような目をして云った。 「サムちゃんや光夫はどうか知らんけど、オレは、ジョニーを見てて、ま、奴が狂うなら狂うでいけるとこまでつきあってやろう、それで何云われてもかまわんと思うんだけど、一方でものすごく切ないんですね」 「あ──何か、わかる、それ」  光夫が叫んだ。 「たぶんリーダーの云うこと、オレ、わかる」 「うん。──つまりねえ、しんどいって云うか……見てて可哀想で切なくなっちゃう。ここまでやらなきゃならない。それも何か憑き物がかってに操って、どんどんジョニーひとりをつれてっちまう。で、まあ、特に思うのはねえ、ジョニーは本当に本当に孤独なんだろうってことですね。これでいいってこともなく、たとえばジョニーは大きなリサイタルやコンサートのオープニングには、『サムシング・イズ・ビギニング』を使うね。何かがはじまる、何か違ったことが、何か新しいことが、知らない世界へ行けるかもしれない、奇蹟をぼくは待っているんだ、って歌。そう、それだな──ジョニーはいつだって奇蹟をひき起こしたいんだ。五万人の観客が、立ちあがって叫び出すとか、肩車にのって退場するとか。  ねえ、先生《センセ》、ロック・ムーヴメントっていうのは、�もう一つの国�への動きでしょ。『イマジン・ゼアズ・ノー・カントリー』とか、『長い夜』──夜明けを待っているんだとか、まあ、奇蹟待望でね、ラブ・ソングでもそこがわかってればロックなんだ。カントリーではもっと具体的に云うでしょ。『オーク・ストリート』、右か左か、ってやつ。右にいけば平和なわが家、やさしい妻と子供たちが待っている。左はハイウェー、見知らぬところ、だけどいつか左に折れなくちゃいけないといつもオレは考える。『オーク・ストリート』って歌」 「わかるね、つまり非日常的実存への憧れってわけだ」 「非日常的──そうそう、で、すべてロックとはそういうものなんだけど、ただ、オレ漠然と感じてたことはね、はっきり云ってロックはペテンだってことです。そりゃ、日常性から出よう、と歌うし、反体制てなこと云うし、メッセージして、勇気があるように見えるんだけど──そうじゃなくて──」 「つまりさ、リーダー、何かがはじまるてなことはありえないわけよ。ロックで奇蹟が起こるとか、もうひとつの国があらわれるとか、日常性から逃れられるってのは──この社会で、この体制の中でいかにアタマ長くしようと、ロックきこうと、ま、ちょっとはマサツが多くなるかしれないけど、つまりは、ただ一瞬日常性でなくなるように感じられたあとは、要するに別の次元で、ちょっと景色が変わって、やっぱりなんてことねぇじゃねえかって……」 「ライク・ア・ローリング・ストーンズね、あれはロックのシンボルみたいになってるけど、新聞とか、ストーンズとかでさ、でも実のところライクであって、トゥ・ビー・ア・ローリング・ストーンズではない──」 「ふむ、なるほど、わかるよ」 「ま、シンガーとしてなり、とにかく社会的に存在を認められて生きのびる、歌をきいてもらうためには、ローリング・ストーンズたりえない、あくまでライクで、そのへんのもうドシッと腰すえたオジサン・オバサン族と違うのは、まあドッシリしてなくて、ゆらゆらしているから、ゆらゆらの瞬間にはローリングに見えるけど、実際はこの社会のオカゲで飯くって、ファンもいて、ちょっとばかり過激に社会けなして──ね、それがロックのいまのありかた、って云っても、オレ、そういうゴキブリ的生き方嫌いじゃないし、過激派なんかより正直だと思うけど、ま、いつか先生《センセ》云ってたけど、ロックてのは女性志向、ガキ志向、女でいたい、ガキでいたい、それでオカーチャン蹴ってかっこつけたりね、そこがもう本質的にペテンなわけ。ところが、ジョニーは──」 「そこがまったくわかってないっていうか……」 「つまりジョニーにとっちゃ、奇蹟を望む気持は、ホントの本物なんでね。何度やっても奴がそんなふうに、まあその、犯されない、てのはふしぎなんだけど、何年たっても奴はわかっちゃいない。歌によって�もうひとつの国�をつくるってのは、奴にとっちゃタテマエでなく、ホントの憧れ──」 「で、その、ジョニーを見てると、こっちはもう胸が、いたーくなってくるわけですよ。このコにオトナのからくりなんか教えたくない」 「しかしそんなもの、メじゃないと思うけどね、実は」 「実はね。ジョニーには、ま、その犯されないってとこ、何も見えない、わかっちゃいない、変えられないガラスごしみたいなとこはある。ところが、それはわかってるのに、オレらはハラハラする。あの細っこいからだで、女のコみたいな顔しやがって、なんてきつい、しんどいことやろうとしてるんだろう、なんてひとりぼっちで、|マジ《ヽヽ》で、バカなんだろ、たかがウタじゃねえか、何もわかっちゃいねえブタ娘相手で、何云ったって奇蹟なんか起こりっこねぇじゃねえか、誰も立ちあがって一緒に踊ってくれやしないじゃねえか、いくら奴が手拍子──、一緒に歌って下さい、立ちあがって、ってアジったって何も起こりっこない、なんて思うとさ、もう、こっちのからだがズキーンと痛いみたいになるわけですよ。うしろで見てて、もう首なんか、細くってね。もうこいついまにも死んじゃうんじゃないか、すっかり燃えつきてスーッととけて消えやしないか……そんな気持でワーッとどこまでも抱きしめてってやりたいとか、こいつが気が狂うんならオレだってどこまでだってつきあってやる、死んだっていい──もう、こりゃ、メロメロだなあ」 「ま、要はホレちまってるってことなんだろうけど」 「わかるよ」  風間は云った。 「お宅らの云うことは、すごくよくわかるよ。まあ俺も惚れた弱味かもしれないけどね。ところが、ところがだな、ジョニーは、どういうわけか、ある程度は、そのアナザー・カントリーってやつを──できるよね?」 「そう」  光夫は爪をかじった。 「どういうわけか──まあファンにしか見えないってことはあるけど、たしかに、≪何か≫は起こるんだな──それで何も変わらんように見えるかもしれないけど、あのハチャハチャ・ツアーのあとでは、ま、ジョニーに征服された空間てもんが──たしかに、ありますよね?」 「あるね」  風間はうなずいた。 「たとえばギミー・シェルター、ウッドストック──あれ、行った奴と行かん奴で、アメリカのある年齢層の中に、まあ実際に用があって行けない、金がなくて──で映画で見るとかいう心情派も行った奴に含めるとしてだが、コトバの違いてなものは成立する──いや、してるだろうと思うんだね。ウッドストックにジーパンで、Tシャツで集まった奴らなら、クロにタールぶっかけて燃やしたりしないんじゃないか、ベトナム行っても──ま、終わったけどねえ──子供射たないんじゃないか、わざとはずして射っちゃくれまいか、それとも、少なくとも、アタマを長くしてる奴に唾はきかけたりだけはせんだろう──自分だって長いんだからね──それだけのことでも少しは余分に希望をもってるだろうってことがある。いずれどっかの町におちついて、トウチャン、カアチャンになってもね。そういう意味で、≪ジョニー・ワールド≫を知ってる奴と知らん奴では、たしかに違う目で生きるようになる──」 「そりゃそうです」  弘は断固として云った。 「オレ豚娘でもイモ子ちゃんでもね、ジョニーを、まさみや裕樹でなくジョニーを選ぶってことは、あの、ジョニィーて黄色い声出すコであっても、妙に、わかってるって気がするんだな」 「裕樹!」  光夫が色白な顔をくしゃくしゃに歪めた。 「腹立つのはね、そういうガキと、ジョニーを一緒にする奴いるからね。そりゃデビューのころなんか、そうだったかもしれないけど──オレね、一番、腹立つの、裕樹ってガキ」 「ありゃ、ムカムカするよな」 「あの野郎、大体ツラもまずけりゃ──肉屋の小僧みたいに鼻の穴おっ開いて、髪の毛でかくしてやがってさ、でもって歌なんてもんじゃない、踊りなんてもんじゃないですよ。冗談じゃない──ジョニーは、歌手だよ。歌うように生まれてるから歌ってんだ。あの声、ね、あの歌、あのリズム──それを、裕樹ってのは、ことごとくマネするのね、それもわざとらしくちょっと上《うえ》こしてマネするわけ。ジョニーがファイヤー・コンサートやったら、奴、富士山麓で、やったでしょ。それもヘリコプターからパラシュートでおりたりしやがってさ。ところがあれはバッチリ金とってるのよね──ファイヤーはフリー・コンサートだから、おれらロック・コンサートって銘うったんだ。こっちにゃ、ハートがありますよ。それをさ──で、ジョニーが例の白いベールかぶると、羽根つけて出てきやがるし、ジョニーが『危険な関係』で凄いアクションすると、奴マイクけとばすやつやってさ。しかもそのどれもジョニーとじゃダンチ、全然サマになんないってことに気がつきもしないんだからまったく、お気の毒さまってもんだ」 「思ったんだがね」  風間はニヤニヤと云った。 「どうせあっちのプロもジョニーのステージ、ウの目タカの目で見てるんだ。こないだのビデオ見たら、たちまち張りあおうとするぜ。考えてみろよ、あのつらであのアイシャドウとマニキュアして出てきたらどうなるか」 「ゲエ──見るのもいやだ」  光夫がぞっとした顔をしてみせて吹き出した。 「ジョニーはジョニーですよ。特別なんだ。ほかのどんな奴にだって、真似できるもんか」 「あんな毒な奴にそうそういられちゃ、こっちが身がもたん」 「まったくね」  光夫は笑った。 「オレらなんか生命がけで惚れてジョニーと心中してもいいって気でやってるんだ。また裕樹になるけどさ──あのガキに、レックスのマネしてこのごろ何とかバンドいうのくっつけてやってるのね。てめえらふざけんなって云いたくなるよ、まったく」 「どうせ、長かないさ。ホンモノだけがのこる」  風間は云った。 「ジョニーは違うんだ。ジャニスだよ──あとになればなるほど光りだす。ビリー・ホリデイはデビュー当時売れっ子歌手だったミルドレッド・ベイリーとか、エセル・ウォーターズなんて連中に、持ち歌を歌わせてもらえないとか、さんざんいじめられた。サラ・ヴォーンにもオハコの歌をマネされたりね。しかしいま、いまでもビリーは神話だし、ビリーのレコード、本、映画は売れつづけるが、そんなエセル・ウォーターズだとか、ミルドレッド・ベイリーなんていう歌手は誰ひとり覚えちゃいない。時は公正さ」 「ジョニーは、いつか、ジャニスみたいに、ビリー・ホリデイみたいになるのかな」  光夫が云った。 「気が狂うのかしら──早く死んじまうんだろうか、燃えつきて」 「ジョニーだって、死ぬさ。──かなり早いかもしれない。あの子は無理しすぎてるから」 「オレ──」  弘が突然ぽつりと云った。 「ジョニーが死ぬのはいい──でも、奴が歌えなくなるところを見たくない。それだけは見たくないよ──オレはね、先生《センセ》、あいつのこと、よく知ってる。心配ですよ」 「何が?」 「巽さんのこと」 「ああ」  としか、風間には云いようがなかった。 「あの人、こわくなって来ちまった。ここ来たのは、ひとつには、それ相談しようと思ってね。車ん中で光夫とも話したけど──」 「あの人、今日車で駅へ迎えに来てくれたんですよ。どの列車で帰るか、知らせてなかったんだけどね。例によってすごいファンがたかってきて、清田マネとはぐれてね、参ってたら、あの大きい人が、さーっと楯になって──やあ、やっと帰って来たね、そう云って、そりゃもう哀しいくらいやさしい目、するんです。良はにこにこしてましたけどね。で、あの人がスタジオ送ってって、オレら別れてこっち来たんだけど──」 「オレの考えじゃ、あまり、あの人を、そういうことだからてんじゃなく、ジョニーに近づけたくないんですけどね。まあ、ああいう子だから、正直云って、男のファンからすげえラブ・レター来たりね、どっかの社長かなんかがどんな後援でもするからつきあってくれとか、珍しくないすよ。A…って知ってるでしょ、凄い女社長のつくった会社。あの女弁慶からひと晩百万円なんて酔っ払って云われたことあるのよね、奴。ところが、そういうんだと、なんか、平気なんだけど──あの人、こわいんだ、オレ」 「サムちゃんもそんなこと云ってたが」  風間は嘆息して云った。 「みんな同じように感じてるんだろうけど、と云って、一緒に仕事してるし、ジョニーの方もいい人だって云ってるのを、近づけないってわけにもいくまい」 「オレ、こわいですよ」  もう一度弘が云った。 「あの人だったら──何かあったら、良のやつ、歌えなくなるかもしれない」 「ジョニーはガラスですよ。決して汚されたり歪められたりしないかわりに、限度こしたらパアーンと砕けちまいますよ」と光夫。 「よせよ」  風間は眉をよせた。かまわず光夫はつづけた。 「そうやって、砕けて、星みたいにキラキラこぼれちまったら、本当に、ジャニスみたいにオレたちの心ん中でいつまでも神聖だと思うけど──でも、イヤだな。正直云って、他の人にも渡したくない」 「でも──先生《センセ》だったら……」  ふいに弘が風間をとびあがらせるような真剣な調子で云った。 「先生《センセ》だったらいいかもしれない。ジョニーを変えることにならんかもしれない──巽さんから、良を守ることになるかもしれない」 「よしてくれ!」  風間はかーっと血が逆流するのを感じて怒鳴った。 「何てことを云う」 「どうして? 良、可愛くないですか」 「冗談じゃないよ──けしかけんでくれ。俺はまだ、そこまで深みにはまったが最後完全に俺の破滅だってわかるぐらいの分別はのこってる──というか、のこしとこうとジタバタしてるんだぜ」 「でもオレらじゃ駄目なんだ」 「おい、弘、光夫──どう思ってるか知らんけどだな、巽がこわいからって──これでも、いったん狂ったら、俺だって、同じほどこわいぞ。それが一丁前の男ってもんなんだ」 「おやおや」  緊張がほぐれて、光夫がゲラゲラ笑いだした。 「それがホンネですか」 「そうさ」  風間は深く息を吐き出した。 「俺を甘く見てくれるな。俺は巽よりも、正直のところ、巽が出てきたことで自分がこわいよ」 「なるほど」 「まあ、正直云って巽の旦那は俺のことを、そう思ってるらしいし、俺もまあ、危《やば》いことになりそうなら、やるべきことはやるけどさ、良を守るためにね」 「巽さんと刺しちがえますかね」 「おい、笑いごとじゃないぞ」 「いや、感心してるとこです」 「馬鹿」  風間は頭に血を上らせたまま、ステレオに歩みより、乗ったままのレコードをじろりと見て眉をよせ、そのまま針をおろした。  レコードがまわりだし、甘くほのかにけむっているようにかすれた、良の声が流れ出る。  ラブ・バラードだ。三人は黙って耳を傾けた。ブリリアント・カットの声と風間は云うが、たしかに澄んでいると云うよりは、無数のこまかなひび割れが光を屈折させて七色に輝かせているといった紗がかった声である。  語尾がひとつひとつやわらかにふるえ、ブレスがはっきりとききとれる。ブレーク、ドラムのフィル・イン、歌、独特な身振りが目の前にうかび出る。あの眉をよせ、濡れたような瞼をとじ、顔をのけぞらせて歌っているところだろう。 「チクショウ、メチャに色っぽい声出しやがって」  光夫が顔をくしゃっとゆがめて怒鳴った。 「なんて声だい、まったく」 「裕樹だって? 笑わせないでほしいよ」  ジョニーは特別なのだ、という思いが胸を浸す。  こんなシンガーが他にいるものか。レコードで声だけきいたら、すばらしくても、お年寄りが趣味のわるいドレスを着てステージに出てきたら、ご苦労さんと云いたくなってしまう。  と云って、それこそ、若くてきれいな、裕樹だのまさみだのという連中の歌を目を閉じてきいてみるがいい。こんな声で、こんな歌で、こんな顔、こんなエロティシズム、こんな雰囲気、こんなステージ、すべてを備えたスターが、他に誰がいるというのだ。  すべての風間の思いはただひとことにかかっていた──ジョニーは、ジョニーなのだ。  奇蹟を、あまりに望んで、自分は傷つくかもしれない。だが、青い鳥ではないが、ジョニーは気がつかないのだ。  ジョニー、その存在、それ自体がこんなにもたぐいまれな奇蹟ではないか。  見つめるだけでいい──風間は、黙りこんでしまった弘と光夫と一緒に、壁に背をもたせ、底ごもるエレキ・ベース、着実なドラムス、ストリングスのユニゾンをバックにした胸にしみこんでくる良の歌をつづけてききながら、あらためてつよく思っていた。  良に手をふれたくない。ふれることで、もし良が変わってしまうなら、それは許されない罪だ。だがまた良がそれほどたやすくは変えられぬ、固いダイヤモンドであればあったで、破滅するのは風間の方だ。  良のために破滅するのはおそろしくはなかったが、いったんせきを切られたら、自分の激情がおそらく良にもなだれかかってゆくことを彼はおそれた。  良を変える、それは罪悪だ。この歌を奪うなら、俺は巽をだって殺すことをためらわないだろうと風間は自分でもおどろくような激しさで思った。  良は美しいたぐいまれな魔力ある悪魔だというだけではなく、あくまで歌手だ。ロック・シンガー、スーパー・スターになりうる偶像なのだ。その歌も、スターの磁力も含めてはじめて良は≪ジョニー≫なのだ。  巽はおそらくそんなことを考えはしまい。誰だった? そう、吉村圭介だ。妻子を持ちながら、歌手で女優で、やはりあれも少し異常なものを秘めたMと恋をし、それを、「彼女のステージをはじめて見たとき、その小柄なからだがやにわにステージ全体にふくれあがるような気がして衝撃をうけた──そのことがなかったら私はMと恋愛関係には入らなかったろう」と書いていた。 (ただの語呂あわせと単純なメロディーが、時には男の胸を切り裂く)  やはり、ジョニーのもつ一番すばらしいものは、彼がそれに呪縛されている、かれの歌だ。失いたくない、と風間は激しく思った。  光夫と弘は、十時ごろに妙に意気のあがらぬ顔をして帰っていった。  それを見送って、風間はまたステレオに歩みより、ありったけのジョニーのLPとシングル(むろん、全部持っていた。おざなりな、ベスト24というようなものだ)を床にぬき出してつみあげ、あらためて片っ端からかけはじめた。  ジョニーびたり、というところだ。  どこか稚い息づかいのきこえる、ジョニーのレコードをかけ、あの声が切々と、或は激しく、ものうく、やさしく、ささやき、叫び、訴えかけるのを床にウイスキー・グラスを持ってうずくまって全身にしみこませていると、目の前にジョニーを見、その気まぐれな魅惑にひきずりまわされ、どぎまぎし、うろたえているよりもずっとはっきりとそのしぐさ、その顔、その表情、その甘えかたが見え、ジョニーの近くにいる、と感じた。  俺は、こんなに深くあいつを愛しているのか、と、そのときは何のおそろしさも感じずに胸をあつくすることができる。  なんという奴だろう、良!──こんなにいとおしいと思ったことはない。そのときの彼はたしかに、良のポートレートに接吻して眠るファンの少女たちの心、その幸福を全的に自分のものとして感じとることができた。  良に手をふれてはならない、決して、抱いてはならない、それが愛だ、と確信した。ひたすら、この腕の中に守り、庇い、悪評からは癒してやり、見つめていたい。良がどんな道をたどるにせよ、それは目もくらむばかりまばゆい栄光と同時に激しい反発と敵意をも受けねばならぬ道だ。  ジャニス、ビリー、すべてそうだった。それは、日常性からの防衛だ。  ジャニス、TVのインタヴューで気にいらぬことをきかれると、にっこりして、「ファック!」と叫ぶ。当然そこは使えない。  悪評をあびるとジャニスはすわりこんでジンの匂いのする涙を流して泣いた。しかし自分でうまく歌えたと思うと夢中だった。 「ね、あたい、うまくなってるよ。すばらしくよく歌えて、自分でもビックリしてるんだ。おお、神さま! 信じておくれ。あたいはどんどんよくなってる。すばらしいよ!」  生きながらブルースに葬られた彼女たち。より多く、あまりにも多く生きようとしたその鮮烈さゆえに、あまりに早く燃えつきた彼女たち。  (山崩れがあたいを巻きこんだ [#2字下げ]四方八方から辛いことがやってくる [#2字下げ]神さまはあたいをイージー・ライドから振りおとし [#2字下げ]生きながらブルースに葬ってしまったんだよ)  俺もだよ、ジョニー、俺もだ、と風間はジョニーの歌声に満たされた夜にむかって云った。  お前のためだよ。それでお前が少しでも荷が軽くなるのなら──何でもしてやろう。  お前はあまりにも繊細でむきだしで透明で、俺に胸のいたむような思いをさせる。こんな奴が生きていけるのだろうかと思ってしまう。  その細い華奢なからだに≪ジョニーである≫というこれほどの重い運命をひきうけ、誰にも肩がわりしてはもらえず、たったひとりその全身で何千回のステージ、何十万の観衆、何百の歌をひきうけ、受けとめて、お前は世界の中央に立っている。  そんなお前の、せめて冷たい風を防ぐ壁にぐらいなってやりたい。その代償に一回の接吻だって望みはしないのだ。  なぜならお前の歌、お前の声、お前自身こそ、俺の生涯にひとつだけの宝石、俺をイージー・ライドからいざない出し、こんなに生きることを教えてくれた俺のただひとつのブルースなのだから。 (巽などに、何がわかるものか)  やけくそに、せきたてられている仕事も放り出し、電気もつけぬまま床にじかに脚を投げ出し、むやみにウイスキーを咽喉に流しこみながら、風間は良の歌に酔い痴れていた。玄関のチャイムが鳴った。 「入れよ。ジョニーか」  風間は怒鳴った。良だと断言してもいい気持だったが、入ってきたのは毛皮のコートをきた修で、乱暴にコートをぬぎすてた。 「何だ、お前か」 「ご挨拶やねえ、先生《センセ》」 「いま光夫と弘が帰ったとこだ」 「やってまんな、一人で。一杯もらいまっせ。二杯もらいまっせえ」  修は目がすわっていた。ぬーぼーとしたかれにしては荒っぽく、ビールのジョッキを探し出してきて、そこに氷と酒をがぼがぼ放りこむ。  自分もいいかげん酔っていて匂いはしなかったが、風間は修の青くなった顔を見るというより感じた。 「何だ、お前、酔っとるのか」 「お互い様ですやろ。あ、『C・C・ライダー』やな、あんときよかったわ、良のやつ」 「どうしたんだよ」  風間はむき直り、暗い中で修をすかして見た。 「あんたが荒れるなんて、珍しいね、サムちゃん」 「何でですねん。オレかて人間ですわ。荒れるときは、荒れます」 「どうした、大将」 「畜生!」  やにわに修が長い手で、パチンとステレオの電源を切った。良の声が死に絶える。 「おい──」 「ここ、暗うてええわ。暗うて、顔見えへんよって、気楽に云ってまうけど、オレ、やめます。レックスぬけます。誰が何云うてもやめます。これ以上居てられしまへん」  風間は黙りこんだ。修が酒を飲んだらしく、咽喉がぐびりと鳴る。 「──何かあったのかい、誰かと……良と?」  やがて風間は低く云った。酔いはさめていた。 「ありまへん。あるわけおへんがな。そやから、ぬけますねん。先生《センセ》かてわかっとる筈や。オレ、リーダーや昭司や光夫と違う。オレは良と昔から一緒やった。あの子が京都の中学でグレてたときから知ってま。あの子にギター教えたんもオレや。もう十年に近いあいだや。オレ、云うとくけど、いっぺんだってあの子に変な気ィ起こしたことありませんで。そりゃ、われながら可愛いもんや、ウブいもんやとはがゆいぐらい、純情やった。それはそれでええ、何もしもたと思うことおへんわ。けどやな、それを──それを、これまで、一緒にやってきて、守ってやって、何から何まで面倒みてやって、見守ってて──それをなんでいま、あの子がほかの奴のもんになるの、見せられないけませんねん。  そやないか、オレ、もうこれ以上──苦しうて、義理にもあの子のそばにいられしまへん。先生《センセ》や、あのヤクザが、良のまわりにいるの見てるのイヤですねん。いや、先生《センセ》は何もわるいことおへんで。ヤー公かてわるおへんわ。ただ、あんまり、オレが、可哀想や──あの子をいくら可愛い思ても、ただはじめっから知っとるいうだけの理由で、仲のええバック・バンドのベースひき、ええとこ兄貴がわりぐらいにしか見てもらえへん。そんなのあんまり苦しいわ。それでええ思てました──それでええ、兄貴になったろ、良を、とことん蔭の力になって支えて、守って、庇ったろ、それがオレの愛や、そう思てた──けど、それだって、光夫やリーダーや、わあわあ云うてるときならよかった。あの子は京都以来やからね、何かあればリーダーやのうて、オレんとこへ来ました。あの子はね、オレと二人でいるときだけ京都弁使いますねん。ほかんときは一切なまりものこってへんやろ。それだけでオレ嬉しかった、オレと良のあいだのたったひとつの絆や思てた。  けど、こないだ──良はオレと二人になったけど、忘れたんかわざとか、まるきりふつうにしゃべってましたわ。で東京帰ると巽さんが迎えにきて──良の肩に手、まわしてね、こないして車まで連れていきよった。なんで、オレ、先生《センセ》と、巽さんがあの子を中にしてびりびりするとこなんぞ見なあきまへんのや。それじゃ、あんまり、オレが可哀想や。そやから、やめます。もう�街路�はじまってからずーっと考えてました。  もうバンドやめて、出直しま。バンドってことぬきにしたら、オレかて一番古くの友達や、一番良のことも知ってれば、良かて親友いうたら最初に田端修て云うてくれますねん。前オレ、トミーの気持わかるて云うたことありましたな。オレ、良とはなれて、一本立で、男になりますわ。オレの青春は良やった。良のバンド、それがすべてやった。そやけどもうやめです。オレは良なしでやっていける大人の男として社会に認められて、それから良んとこへもどってきます。そんときは、──良を実際にどうこうなんて考えんけど、先生《センセ》にも、巽さんにも、わたさしまへん。そのためなら何でもします」 「──それが、サムちゃんの結論なら、俺はむろん何も云うことはないさ」  風間は低く云った。 「でも──サムちゃん、あんた……生きていけるの? ジョニー、なしで」 「たぶん、いけまへん」  とぼけたように修は答えた。しかし、暗い中で、風間には、かれが涙を流していることがよくわかった。     5  修の決心はどうやら本物であるようだった。風間はまさかと思っていたが、弘が一週間ほどして、スタジオで会ったときぼそりと云った。 「サムちゃん、やめるって云うんですよ」  風間は驚くべきかどうか迷い、あいまいに「ああ」と云った。  弘は目を光らせて風間を見た。 「どうもわからん、サムちゃんの気持」 「ジョニーは何て云ってるの」  弘はぎょっとしたように彼を見た。 「むろん、何も知りませんよ。決まってるじゃないすか──撮影もいまが一番忙しいし、いまのジョニーに知らせることじゃないすからね。先生《センセ》も、何も云わんで下さいよ」 「わかってるけど──ツンボ桟敷じゃ可哀想だ」 「まだ決まったわけじゃないんです。サムちゃんもまだどっかに引きぬかれたとかそういうことじゃないようだし、オレらで引きとめられたら、ジョニーに何も知らせんで丸くおさめたい──何と云っても、かれ、オレらにとっちゃベストのベースですからね」  修の気持もわかる、とは風間は感じていた。  修は男だ。地味な、表面に出たがらぬ、考えのしっかりした青年だが、しかし立派な男だ。  そして先日一夜飲み明かしたとき、はじめて風間はそのおちついた外見の下におさえられた、激しいものを知った。  つよい意志と、出処進退をあざやかにしたいいさぎよさと、思いきったことをする決断力を、すべてを見てとり、何ごとにも気がつき、ひとりの胸におさめておく大人の風格とともに秘めていたことを知ったのだ。修が口に出したからには、たぶん決してひきとめることはできまい。  そんなに修が苦しんでいたと知らずにいた自分を、風間は愚かだと思った。しかし、修の気持はよく理解できる。  全体、年長なせいか、相通ずるものがあってか、レックスの若者たちの中でも、責任感のつよいリーダーの弘、万事最も現代的でソツのない光夫、無口で朴訥な昭司、みなより遅れて加わったせいもあるがとかくうちとけにくい次郎にくらべて、風間は修が最も好ましい。  修の心の動きというのは、あとからうかつだったと思うことがあっても、考えてみるとはっきりとわかる、そうしかできなかったろうと納得するのである。  修は男である。独立独歩の一個の≪男≫が、自らの心に従って、スター今西良のバック・バンドとして十把ひとからげに扱われる道を選んできた。  良への愛情ゆえだ。  みんなそうだ、リーダー、光夫、昭司──しかし、ジョニーをうしろから支え、その世界の土台石になり、ジョニーの一部であることに進んで身を投じたのは、結局風間もそうなったように、ジョニーの魔力、男も女もない、邪教の祭司としての、かれらを組みこみ、呑みこんでしまうふしぎな力があればこそだ。  ジョニーの信者として、ジョニーの一部にとけこんでいれば、それでかれらは幸福だった。かれらは誰も、良を征服しよう、良を自分のものにしようなどと思わぬという黙契で、バランスを保ってきたのだ。  しかしいまは、巽竜二という存在がある。彼はジョニーの歌、ジョニーのステージにはかかわりなく、たぐいまれな美しい宝石としてのジョニーを欲し、近づいてきた。  風間ですら、巽の登場によって良への幸福な陶酔の満ちたりた均衡を破られ、にわかに一個の男としての自らを、戦い征服する男としての自らを、融合し守ろうとする信者としての自分にさからって感じはじめている。  修が、動揺するのも無理はないと思うのだ。  巽は、自足したナルシスのまどろみに包まれたジョニーの宇宙に割りこんでこようとする、一個の強烈な意志、一個の男である。  修は、このやすらかな融合から逃れ出ねば、自らも一個の男として良を愛することは決してできないだろうと悟ったのだ。 「良がすべてや」  彼はあの晩云っていたものだ。 「オレは、良しか知らん、良しかない。オレの青春、二十九になったオレの全存在、それは良です。それいっぺんも後悔してへん。トミーの出んならんかったわけは、ようわかります。なんていうか──良は、太陽や。オレら良に生命をもらい、あっためられ、光をもらってちょっぴりは反射する惑星ですわ。それでもオレらの方でも良を支えてやれるよって、惑星よりかもっと太陽の一部ですわ。  でも、男ってもんは──ほんまは、良やなかったら、男ってもんはそないな、人のおかげで生かされたらあかんもんですねん。何も太陽にならんかてええ、スターやのうてええ、ただ自分の内から出る光で生きんならんもんですねん。違いまっか。久野さんかて巽さんかてそうや。先生《センセ》かていくら良のまわりにいてるようになっても、作曲家風間俊介て看板かけて世間に通用するからには男ですわ。そやから良も巽さん出てくると先生《センセ》とこへええ顔します。あのガキかてわかってますねん、オレらはあんまりあいつの一部すぎて、あいつから男や思てもらえへんいうことや。オレら今西良のバックや、アイドルスター・ジョニーのバック・バンドや、五人あわせて一人前になれへん、ジョニーなしでは、作曲家風間俊介、俳優巽竜二、脚本家長谷田哲彦、いうて世間に一本立ちでける人と違いますねん。でも、それは、何もオレらが一丁前やないいうこととちゃう。はばかりながら、小野寺光夫、堀内弘、いうたら、その方面では、作曲、アレンジ、演奏、どれ一つでも、充分一枚看板出せまっせ。オレかて、ベース一本で、若いころからやってきたし、プレイヤーとして買うてくれる人もいるんです。それだけの奴が集まって、自分の名は犠牲にして今西良とザ・レックスいうて支えてるからこそ、今西良のステージは、ロックやあてがいぶちの歌パクパクやるヒットソング歌手みたいに終わらへんのや。  でも、そう云うたからって恩着せがましゅう思てるわけやない。オレらはみんな、すべてわかっててそうなった。ジョニーのためや、相手が良やったからや。こいつとなら心中してもええ、どこまででも踏み台になったってええ、男が自分の独立独歩って道を返上して、他人に生命をやるには、それなりの覚悟がありま。ジョニーやから、オレら何も後悔せえへん、ねたみもそねみもない、あいつがスターで何でオレは、とも思わへん。ま、トミーって奴は自分もええ顔しとったし、わりと女性的で、少し良に張りあうって気があったんやね。そやから、抜けんならんかった。ジョニーはね先生《センセ》、ほかにちっぽけながら自分以外の太陽を共存さすほどなまやさしい太陽やない。あいつの光で、みんな焼きつくされてしまうんですわ。そやからジョニーはいつだって仲ようにほかの歌手と共演なんてできまへん、いつでもワンマン・ショー、ソロ・リサイタルや。あいつはすべてをあいつだけでひきうけてやってく奴で、その荷が重いほどますます光りますわ。あいつは、すべてか無、です。なんやあの気狂い、顔見るんもイヤやて人と、もうどこからどこまでええ、どんなことしても愛しているいう人しか、ない。あいつに無関心でいるいうことはできないんです。そんなあいつだからこそトミーは抜け、オレら、トミーの抜けたわけもようわかっての上で、それでええ、ジョニーはこの世にひとりしかいないジョニーや、こいつと死のう、こいつに男、田端修の、青春も人生も音楽もすべてをやろう、そう思て、これまでやってきたんです。  良だからや、良だから、そうするんでオレは幸せやった。男であるからには、スポットライトあびな嘘や、自分の人生くらい主役になれんで何が男や、てトミー云うてたけどね、きっとオレは、こういうたちで、それでベースも選んだんや思います。下からかっちり支えて、ライトあびんし、きくひとがきけばベースが本当はすべての柱やわかるけど、まあ普通ならやっとることも気ィつかへん、だけど、それなかったら曲になれへんいうのが、オレの生き方に合ってたんでしょう。でもスターになるの、ライトあびるのいうことやなしに、男として、一丁前の男として、もし相手が良でさえなかったら、なんで人の後光のおかげで飯くって、仕事があって、生きていけていうことに甘んじてええことがありまっか。  オレは男です。自分の力で、目立たんでも、立派にやっていく自信はあります。ただ──ただ良でさえなかったら……でもオレは良のそばにいたかった。良と生きたい、良を支えてやりたい、その気持は、男としてのオレの生き方の信条よりかつよかったんですわ。そやから、こうやってやってきた、何も望まんかった、それで幸せやった──でも──」  いま、修は、その唯一の幸福をすてて行こうとしている。男であるとは辛いことだ、と風間は思う。  愛でさえ、いくら望んでいてもその中でまどろみつづけることはできない、いつか出て行かねばならない。  それが弘と光夫から、暗に、巽よりは彼の方が良の愛人としてふさわしい、良を抱けとほのめかされたとき風間が拒絶したわけだし、修がそれを失ったらすべてを失うのだと知りつつ、良をはなれて荒野へ去らねばならないわけだ。  ある種の、つまり本当の男にとっては、人を愛するということはすべてを賭けるということだ。  美しいジョニー、決して人を愛したことのない気まぐれな暴君は、そんなことを知っているのだろうか。 「──良が、傷つくかもしれない」  風間が低く云うと、修も呟くように答えた。 「それが怖い──でも、そんなこと、ありえないて気もします。良はいつだって、人にどう思われてるか苦にするんです。敵意にあうと可哀想なくらいしょげてしまう。人に愛されるのに馴れてるもんやから、人に憎まれるのは殺されるほど痛いんですわ。そのくせ、愛されてると自信があると、むちゃくちゃに甘えて、腕ん中でばたばたする赤ん坊みたいなもんや。奴は知らんのや、そういうとき、奴の気まぐれのひとことや、ひとつの表情が、どんなにこっちをぐっさりやってるか、どんなに致命的か──自分の力知らんで噛んだりとびかかったりするライオンみたいなもんや。傷つけた思うたら、そのことで傷ついてしまいます。  でも、そうかと思うとね、先生《センセ》──あの子は結局、誰にもふれられない。傷ついて、悲しむやろうけど、いずれ、忘れてしまう。他の愛してくれる人のふところで、いいだけ甘やかされて、去ってったもんは抹消や。そういう冷たいとこもあります。誰も本当に恋したことがないから、あんなに良は、やさしくて、もろくて、冷たいんですわ。それもオレはわかってます、だけど、行きます。これで本当にオレの青春とさよならします。本当ならもっと早うに来てたかしれへん。けどオレは十年も奴と生きられてどんなに幸せやったか──これからは、サムちゃんでも、レックスのベースでもない、田端修として、一丁前の男として、世の中に通用するようやって、それから帰って来ます。良のそばに、良の一部でなく、良のおかげで生かされとるギニョールやなく、良を見つめ、守りに帰って来ます。遅すぎたくらいや──大丈夫です、良はやってけます。かわりのベースなんぞなんぼでもいてま。一ケ月もしたら良はオレのことなんか忘れます。けどオレは良を見てます。あの子にはこんなこと何もわからへん。それでええ、知らしとうない」  哀しい、と風間は思う。 �愛しい�を�かなしい�と読んだ昔の人の心がしみこんでくる。  結局ひと晩、飲み明かし、ジョニーのことを話し、ジョニーを肴にして語り明かした。  修は「反逆のブルース」をかけてくれと云い、二人は何十回もその悲哀を漂わせるメロディーのはじめに針をおろしては、知りぬいたフレーズ、声、息づかいをなぞった。 「先生《センセ》からサムちゃんに云ってもらうわけにはいきませんか」  弘が云った。風間はぎくりとした。 「オレらは、ジョニーを傷つけたくないです。サムちゃんが抜けるなんて云ったら──」 「でも、事情があるなら……」 「それならそれで、その事情ってやつをきかせてほしいんだ。サムちゃんは、何も云ってくれないんですよ。それじゃオレだって何も云いようがない」  弘は長い指で苛立たしく額をおさえた。 「まったく、わけがわかんない。サムちゃんて、何考えてるか、ふだんから云う方じゃないしね」 「気まずい出方はさせたくないね」 「ええ。でも、ね──そうだ、どうかな、今度、ジョニーがいるとバレちゃうから、仕事んとき、オレと光夫でサムちゃん先生《センセ》とこへつれてくから。三人で説得するの、手伝って下さいよ、先生《センセ》のこと、わりとサムちゃん頼ってるみたいだから。かまわないでしょ」 「そりゃかまわんが」 「頼みますよ。これで六年も、ま、次郎はあれだけど、ずっとメンバー・チェンジもなくやってきたのに、いまさらよそのベースなんか入れてやれやしない。みんな、サムちゃんの思ってるよかずっとサムちゃん買ってるし頼ってるんだけどなあ」 「ま、つれて来いよ。何かあるならはっきりと云わそう──その前に、俺の方も心がけて小当りにきいてみるけどね。でもサムちゃんだってもう大人なんだし、どうしてもって云うなら」 「そう、止められやしませんよ」  弘は髭をひっぱり、力あまって何本かひきぬいて顔をしかめた。 「ジョニーが可哀想だ」  スタジオでは、撮影がしだいに進んでいる。錯綜した三角関係はだんだんもつれ、良は関ミチコに妊娠をつげられる。巽の子(役柄は結城だが)ではない、と彼女は断言する。良は冷たく見かえしてつぶやく。 「だったら、どうだっていうんです?」 「圭ちゃん……」  警部は、結城を策略で拘引し、良を強引に自白させようと考える。  良が麻薬中毒だと悟っている警部は、良をおびき出して倉庫にとじこめる。禁断症状の苦痛をねたに口を割らそうというわけだ。  そこへ、策略から逃れた巽がかろうじて間にあってかけつけたとき、良はさんざん扉を叩き、出せと叫び、体当りしたあとで、痙攣しはじめるからだを両腕で抱き、ぐったりとうずくまっている。  警部は外からじっとうかがう。その咽喉へ、ぴたりとナイフがさしつけられる。 「よく出られたね──結城くん」 「おかげさまでね──矢頭さん、汚ないな。このぶくぶくした首を──切りはなしましょうか、え?」 「よせ!──結城、俺をやるなら、奴の坂田殺しを認めたようなもんだぞ」 「俺は──奴を守るためなら、何でもするのさ」  警部が目を白く瞠きながら、ささやく。 「裏切られてもか」 「ゆき枝のことか? 知ってるさ」  巽がポケットから拳銃を出し、ふりかぶる。  台尻で後頭部を殴られて、警部が倒れる。見おろして低く巽は吐きすてる。 「──裏切られても、さ」  倉庫の扉を蹴破り、倒れている良をかるがるとかつぎあげる。  ここに「男たちのテーマ」のコーダから、ギターをかぶせて、と機械的に風間は頭の中のコンテに書きこんだ。ワン・カット、終わりである。 「あ、先生《センセ》」  巽の腕からおろされて、こちらを見るなり嬉しそうに顔を輝かせて、良が走り寄ってきた。  巽がそれをきらりと光る目で見て、おもむろに近よってくる。 「来てたの」 「進んでるね」  撮影の終わったセットはざわざわしだす。  風間は大道具の邪魔にならぬよううしろへさがり、ふと、反対側の扉のかげにもたれている修を見つけてぎょっとした。 「サムちゃん来てるじゃないか」  弘もあわてたようにそちらに目をやる。 「ああ、ずっと前から来てたよ。なんか久野さんと用ありそうにしゃべってた」  良が、答えた。 「やあ、巽さん」 「やあ、先生、堀内くん、どうも」 「サムちゃん、こっち」  良が声を大きくして呼ぶ。人の気も知らんで、と風間が苦笑する。修はゆっくりと身を起こし、スタジオをつっ切って近づいてきた。 「もういいのか、今日は」 「うん、あがり」 「他の人は? 光夫くんや昭司くんは、いないんですか」 「ええ、巽さん、そのうち光夫は来るでしょう」 「飯は?」 「まだ。そのつもりで来たんだろ、みんな? どっか行こうよ、巽さんも」 「そうだね、どうですか、寒いからボルシチかなんかは」 「いいですね」 「じゃ行きましょう。やあ、サムちゃん」 「サムちゃん、どうしたの今日」 「ああ、ちょっとね」 「大分進みましたね」 「これで半分てとこでしょう。あとは一気ですよ」 「これからがしんどいところだよ」  かれらは良を包むようにして外へ出た。 「ご苦労さん」 「お疲れさま」 「やあ、お揃いで、一杯ですか。いいな」 「お疲れさん、良ちゃん」 「裏から出よう、また女のコが玄関にたまってるから。車まわしてくるから待っててくれよ」 「あ、清田さん」 「やあ、先生もですか。お疲れさま」 「俺は見物さ」 「清ちゃん、リーダー乗せてってよ」  ちょっと、微妙な緊張の糸がはりめぐらされ、みんなは良をふりむいた。  清田マネ、風間、巽が、車をもって来ている。  口の中でもごもご云って三人が車をとりにまわる。  マネのクラウン、風間のベンツ、巽のレーシングカーのように手を入れたスカGが並んで局の裏口につける。  誰も何も云わない。弘がニヤリと笑って清田の車に乗りこみ、あとは勝手にしろという顔で風間を見てウィンクした。  巽と風間はふいにはりつめたものを見ぬふりをして、良の動作かことばか、何かのきっかけを待った。 「先生《センセ》、キー」  良のことばはこうだった。  はりつめたものが破れ、巽は何もいわず運転席にすべりこむ。ふいに修が言った。 「なあ、ジョニー、オレちょっと先生《センセ》に話あるんやけど、巽さんに乗せてってもらってくれるか?」 「あ、いいよ」 「済まんな」  良は屈託のない表情で、巽の車の窓を叩く。自分をめぐってぴんと張りつめたものなどに、少しも気がついていない顔だ。  風間は巽を見た。巽は良のためにドアをあけてやろうと身をのりだしている。  鋭い目が和らぎ、顔が輝いている。風間はなぜとなく胸を刺されるいたみを感じた。修がドアを音たててしめる。 「済んまへんな」 「いや」  先行の二台を追って発車させる。修は局の門を出るのを待って云った。 「先生《センセ》、弘に何か云われましたか、オレのこと」 「ああ、ひきとめるよう説得しろと頼まれたよ。光夫と、俺のとこにつれてくるから、やめるならやめるで納得できるような理由をききたいとさ」 「そやろな」  修は呟くように云った。 「済んまへん、思てます」 「いいさ、俺は」  風間は巽の車を見失わぬようスピードをあげた。 「それより、サムちゃん──どうするの、やめてから」 「それなんでっけど」  修は心を決めたらしい、と風間にはわかった。 「オレ、役者やらんかて云われましてん。久野プロデューサー、前から顔出して見んか云うてくれてましたやろ。むろん、チョイ役でっけどな。巽さんとジョニーにからむチンピラやくざの役、まだピンと来る役おらんのやそうです。演技のイロハからやってみたらどうか思てます。まあオレのツラじゃバイ・プレイヤー専門やけどね、ベース以外それがオレの生き方やと思うし」 「サムちゃんが?」 「照れまんな」  修は顔をさかさになであげた。 「見んといて下さい。どないでっしゃろ」 「ベースは?」  思わず風間の口から出た。 「やめます」 「惜しいよ」 「おおきに。でも、ジョニーの歌で、光夫のキーにリーダーのギターに昭司のドラムで──こんな贅沢にしつけられてます。妙な奴とやったらオレの腕が泣きますわ。オレのベースは──せめての気持に、ジョニーにやりますよ」 「そこまで──」  風間は首を振った。 「サムちゃん、俺はコンボ組んでた男だ。身にしみてわかるから云うんだ──忘れられるもんじゃないぞ、プレイの味は。ありゃ麻薬だよ。あんたほどのプレイヤーが──気が狂っちまうよ。いまでさえ俺は本当は、ジャズの、コンボのライブなんか見るとズキンと来て、いまさらのように、俺は二度とやれんのだと思うんだ。こんな辛いことはないよ、あんた」 「ようわかってま。当分は、一切レコードはきかんようにします。そのうちに──馴れたら……」 「サムちゃん」 「ええです、先生《センセ》困らしたら申しわけない。オレの方から、光夫とリーダー誘って先生《センセ》とこ行かせてもろて、きっぱり納得させるようにします。先生《センセ》は何もきかん顔して連中の云い分に賛成しといて下さい。オレまだ自分でも実感ないんですわ。ジョニーなしで、ベースなしで、一体オレなんて生きていけっこないやないかいうことだけわかって。でも、芝居やっとれば──少なくとも、ジョニーに会えんようなるということおへんやろ。それさえあったら、ストリップかて、掃除夫かてかまいませんわ」 「それでか──」 「ま、みんな、このオレが役者やるなんて云い出したら、あのバカ、ジョニーに張りあお云う気ィ起こしたんか云うて、どれだけコケにするかわかってまっけど、オレがやることは徹底的にやるいうこと知ってますから、それやったら納得する思うんです。ほかのバンド行くとか、ただベースやめる云うてもだめですね。そんなことできんし、できたとしても、ええとこ、裏切り者やて云われてしまいます。そやから──もちろん、�街路�の仕事けりつけてからにさしてもらうし、なるべくなら何か自分の気持に区切りつく仕事があったら、これが田端修最後のステージ、最後のベースやてジョニーのうしろでめいっぱいやって、それですーっとやめたいけど──」 「サムちゃん」 「そやから、勝手な云いぐさかしれんけど、絶対、さわぎたてんと消えたいんですわ。それだけや、オレの望みは」 「わかった」  風間は呟いた。先行の二台はいきつけのロシア料理店の駐車場に姿を消している。 「すべて了解した。リーダーたちにはそう云うわけにもいかんだろうから、俺が、なるべくサムちゃんの希望どおりに話をもってってやるよ。『反逆のブルース』が今月中には百万枚突破するから、そしたら身内でパーティやろうって云ってるんだ。俺とサムちゃんだけは、それをサムちゃんの送別会だってことにしよう」 「泣かせること、云うてくれはるわ、先生《センセ》」  修は笑い、二人の間にあたたかいものが流れた。風間は地下の駐車場に車をとめた。他の連中はもうボックスを占領して待っていた。 「先生《センセ》とサムちゃんの分も頼んじゃったよ。ボルシチとシャシリックての。ビールでいいね」 「何でもいいよ」  新しく入ったらしいウエイトレスが真赤になりながら良にサインをせがむ。出された色紙に気やすくペンを走らせ、にこりと笑う。  仲間に囲まれているときの良はとても楽しそうで、きれいだ。巽が深い目で包みこむように見つめる。 「良くん、疲れただろう」 「平気平気。本当はけっこうタフなんだから」  はたから見れば、どんなに羨しい、気のあった仲間たちのインティメントな空間がひろがっているように思われることだろう、と風間は思った。  たしかに、これまでは、そうだったのだ。  だが、いまは──風間と巽の間には、ひそかにはりつめて緊張したものがたえずかくれており、いつ不用意な良のひとことで沸点に達さぬとも限らないし、修は良に背こうとしているし、弘はその修に腹を立てているのだ。  けれど誰もそんなきざしを見せない。なごやかで、大人で、穏やかで、上調子だ。  それもただ良を傷つけたくない、良をまきこみたくないから──風間はふいに、珍しくも、良に対する激しい苛立ちを感じた。  いっそ、この気まぐれな暴君がもう誰にもその魔力のあるまなざしをむけることも、その仔豹のような甘えかたを見せることもできぬよう、この腕の中にさらいこんで、どこかへ連れ去ってしまったら、とふいにつよく感じる。その心には、嗜虐的な欲望がひそんでいる。 「──先生《センセ》ってば」  ぎくりとして、風間は顔をあげ、良の笑いを含んだ瞳にもろにぶつかった。 「どうしたの、今夜なんだかおかしいね、先生《センセ》。何、ぼんやりしてたの──サムちゃんの話って何だったの」 「ちょっとね──何、ジョニー」 「きいてないんだな──ほらパーティの話だよ。さっきうんうんて云ったのに、あれ、空返事かあ」 「ちょっとぼーとしてたんだよ」  風間はうろたえた。知らずに、良に、どんなまなざしを注いでいたかと思う。  巽を見ると、巽はゆっくりと目をそらした。異様な緊張が横顔をひきしめていた。 「パーティ、ミリオンセラー記念のだろ? やるさ、やるさ。詞の杉森チャンも呼んで、会社の佐々さんも呼んで──やるんだろ」 「そうじゃないったら」  良は焦れて云った。風間にはその我儘の、ほのかな、もし修の心をきいていなかったらくらくらと致命傷をうけたかもしれない、無意識の甘えがわかった。  彼はこらえかねて手をのばし、良の頭をやさしく小突いた。 「何だい」 「だから、�ロワール�でいいかって話さ。ひと晩借り切ってワーッとやるの、あそこじゃ狭いかな」 「内輪だから、間にあうだろ」  風間は云った。  まだ彼の狼狽は尾を引いていた。俺は、駄目だ、と激しく思う。  良は俺には毒だ。まるで、ライオンに出会った山羊みたいなものだ。こんなにいかれちまってるのに、これ以上、良にまるで挑発しているように甘ったれられたり、頼りにされたり、いいように刺激されて、どうしろというのだ。すべての誓いを破り、狂気へ踏みこんで、そのほっそりしたからだに手をのばし、抱きしめてしまえというのか。  風間はジョニーに、天性の妖婦の性を見ていた。こんなコケットリーも、かれにとってはまったく無意識に違いない。意識しているとしたら、自分の力を面白がり、巽を苦しめて楽しんでいるのだ。  たしかにヴァンプだ。許しておけない。畜生、力ずくでも、男をそんなふうに扱って無事に済むと思っているこの小僧をこらしめてやりたい、とふいに狂おしく風間は思った。  彼は戦慄し、目をそらし手当りしだいに水を飲みほした。 「先生《センセ》、それおれの水だよ」 「え?」 「やだなあ、本当、どうかしてる」  かさにかかって責めたてる、猫の魔性が、きれいな茶色の目にちらつく。 「巽さん、あまり飲むと、帰り、車でしょう」  ふいに、弘が云った。  風間は巽を見、巽の目を見、そして、異常に緊張を隠して見守っていた巽にこのちょっとした底流がどんな感じを与えたかに気づいた。  巽の顔はいくぶん青ざめている。やけのように、またジョッキを持ちあげる。  大きく咽喉が上下した。檻につながれた猛獣をいじめるようなものだ。だが、巽をつないでいる檻はおそらくあまりに弱い。 「ビールじゃ、一ダース飲んだってどうってことないさ、堀内くん」 「でもさ」 「ねえ、巽さん」  ふいに良が風間をからかうのに飽きたのか、巽をいじめすぎたと思ったのか、熱心に割りこんだ。 「巽さんも来るでしょう、パーティ」 「しかし、内輪なんだろ、歌の方の」  巽の反応はあまりに早かった。 「だって、『反逆のブルース』は『裏切りの街路』のテーマだし、巽さんはドラマで一緒じゃない。内輪ですよ。来てよ、また皆で飲んで馬鹿さわぎするだけだし」 「いいですか、俺なんか入っても」  巽は風間を見つめた。風間は穏やかに受けとめた。 「もちろん。何やかや、きっかけつけちゃ、その馬鹿さわぎって奴をやりたいんですよ、このガキどもはね──そうだよな、良」  故意に、良、と呼んだ。  何か、いつにない悪魔が風間にとりつき、そそのかしているようだった。  良は敏感に風間の甘やかすような語調を感じとって、頭を隣に座っていた彼の肩にぶつけた。 「ちぇ、そんなんじゃないよ」 「いいからいいから──マスター・オブ・セレモニーは俺に任すか? 年代ものの、凄いマーテルを仕入れてきてやろうか」 「え?」 「ブランデーだよ。それともシャンペンか──巽さんはそんなもんじゃ、水飲んでるようなもんかな」 「いやだなあ、まるでアル中だ」 「ま、それに近いですがね」  巽が笑って煙草をひねり消した。  一時間くらい、食事とコーヒーでねばって、外へ出たときは、もう十時をすぎていた。  駐車場におりて、巽が風間と良をくらべるように見た。風間は、良の肩を抱くようにして立っていたのだ。 「もう、疲れたかな。まっすぐ帰る?」 「ん──どこか、行こうか」  良は、決して、自分から、帰るとは云い出さない。人恋しいたちである。風間は眉をよせて良を見つめた。 「オレは──」  修が、肩をすくめて、遠慮しとこうという意思表示をする。 「良くん、俺のいつも行く店、つれてってあげようか。生のジャズがきけるんだ」 「いいね」 「先生《センセ》は」  まっこうから来られて、風間は態度を決しかねて、良を見た。 「先生《センセ》、行こうよ」 「先生《センセ》、さっきの話」  ふいに弘が風間の腕をつかんで云った。声をおとしてつけ加える。 「光夫を呼びますから」 「わかったよ」  風間は云い、良に微笑した。 「打ちあわせだとさ」 「ふーん」 「どうする、良くん。みんな来ないんじゃ──」 「いいよ、そんなの。行こうよ、巽さん」  良は唇をとがらして云った。 「みんな、何だか妙だな。何、隠してるの。おかしいよ」  良は異常なくらい敏感なときがある。  弘と修が急にあわてた顔をし、良は巽の車のドアをひっぱった。 「行こう、行こう」 「やあ、待たせちゃって」  勘定をすませていた清田マネがあたふたとおりてくる。 「どうしたんです」 「みんな、用があるんだって、先生《センセ》も。オレ、巽さんと飲みに行くよ」 「そうかい、ジョニー、じゃ、俺も行くよ」 「そう」  良はそれ以上何も云わず巽の車に乗りこんだ。  風間たちが何となく当惑して立っているのを尻目にかけて、巽をせきたて、スカGTは清田マネの車を従えて走り去った。 「ちぇ、かなわん」  弘が舌打ちして云う。 「まったく、勘がいいんだから」 「あれで、気にする方だからね。ちゃんと云った方がいいかもしれんぞ」 「それも、今日じゅうにきめますよ、良にどう云うかも。ち、みんなお前のせいだぞ」  修の背をどんと叩く。風間はドアをあけて、乗れとうながした。 「オレ、光夫に電話かけて来ます。サムちゃん、今夜、先生《センセ》とこで、オレと光夫と二人、先生《センセ》を立会い人にして一切きかしてもらうからな。納得いかなきゃ、許さないぞ、我儘は」 「わかっとる」 「まったく、ジョニー、可哀想だと思わんの、この忙しいのにさ」 「わかっとると云うてるやろ」 「ちょっと待ってて」  弘が赤電話にかけてゆく。それを見送って、修と風間は、ちらりと共犯者のような目を見かわした。 「気ィになりますやろ。先生《センセ》、済んまへんな」 「何がさ」 「二人で飲みに行ってもた。先生《センセ》、気が気でないんと違いますか」 「いいさ、清田マネがついてる、妙なことはないだろうさ」 「えらい、迷惑かけまんな」 「いいさ」  そう云ったものの、風間は自分が動揺している、と認めないわけにはいかなかった。  自分でも、極端から極端へと、心が揺れ動いていると思う。  良にふれたくない、汚したくない、と激しく思うかとおもうと、眩暈のするような、熾烈な欲望に呑みこまれてしまいそうになる、それを怖れる。  やはり良だ、と思う。すべてが良を中心にして回転している。良がこの世界の中心なのだ。 (俺も、巽も、修だって結局ただの、良にいいように操られる操り人形だ)  良、お前は、いつでも俺に、ありえないようなふしぎな世界を見せる、と風間は思った。  俺はその中でうろたえたりあがいたり、苦しんだりわれを忘れたりするばかりだ。  お前だけだ、良。お前だけがそんなおそろしい、歓喜と瞋恚、恐怖と恍惚の入りまじった異次元に俺をいざなってゆき、俺はそのたびにあらためて、お前に狂わされ、どうなってしまってもいいのだと、熔鉱炉に放りこまれた藁くずのようにふるえながら思うのだ。  風間はこのところ、急ぎの仕事をひとつふたつしたほかは、「裏切りの街路」の方で手一杯だからと云って、新しいのを何もひきうけていない。  一刻でも良のまわりのあの特別な空間、このごろ微妙に揺れ動くようになってかえってその密度を増した空間にいないと、酒の切れかかる悪感に怯えるアル中のようにむずむずとおちつかない。  自分の見ていないところであの目をし、あの声をし、あの表情、あのしぐさをして良が存在しているというのが、何かひどく理不尽に思われる。  あまりに、彼の世界を良が満たしている。それ以外の良がいることを考えたくない。  巽と、何を話しているだろう、と風間は考え、いささか穏やかならぬ心持であることを認めぬわけにはいかなかった。漠然と激しいメロディーのモチーフがうかんでくる。 「先生《センセ》、済んまへんな」  マンションについたとき、もう一度修が云った。  光夫がマンションに顔を見せるまで、三人は妙に気まずい気持でウイスキーを飲んだ。自足した小宇宙への扉はしまっていた。 「いまサムちゃんに抜けられたら困るんだけどな」  妙に、熱意のない声でぽつりと弘が云った。修はぼんやりと何か考えこんでいて、何も云わなかった。  光夫がやってくると、いくらか空気が活発になった。  光夫は入ってくるなり威勢よく修に文句を云いはじめたのだ。すべては、修の殻の外側をすべりおちていきはしたが。大体そんなにいきなり、心決めるまで何も云わないなんてひどい。どう決まってもジョニーにイヤな思いをさせることになるじゃないの。仲間だろ、そこまで思いつめることがあったらどうして誰でもいい相談してくれないの。そりゃサムちゃんの性格として人に相談するってことはイヤなのかもしれないけどさ、それじゃオレら立場ないじゃない──第一いつだってサムちゃん、ジョニーがいなかったら生きていけないみたいなこと云ってたろ。あれどうなるんだよ。それとも、ベースまでやめちまうつもり? 「そや、ベース、もうやらんつもりや」  修はおとなしくきいていたがぼそりと云った。弘と光夫が呑まれたように修を見つめる。  かれらには、音楽、プレイ、ロックのない生活など、考えられもしないのだ。風間は腕組みして、黙って見守っていた。  いい若者たちだ、と考えていた。 「サムちゃんがベースやめてどうするんだよ。何して生きてくつもり」  修は久野の誘いの話を、ゆっくりした、興奮のない語調で説明しはじめたが、風間はきいていなかった。  風間の思いはあらぬかたにさまよい出ていった。音楽という魔物。それの中に封じこめられた種族たち。  そしてジョニーは空気のかわりに音を呼吸し、ことばのかわりに歌で話す、この魔神の現し身にほかならぬ。それは何という奇蹟だろう。  そしてかつての日、ジャズ・ピアノをひき、できればと麻薬のように甘美な夢を、その有毒な味を知ってしまった彼自身にとって、ジョニーとかれを支えるレックスの若者たちは、実に苦しいような羨望だった。  風間はセッションをするというのがどういうことか、音楽に魅入られるというのがどういうことか、身にしみて知っている。  しかもミューズの扉は彼のためにはひらかれず、彼は片思いに終わった、どうにもならぬ恋と憧憬を抱いてミューズの祭司たることを断念し、せめて音に浸って生きていきたいと思い、そしてジョニーに会ってしまったのだ。  かつての片思いの焼けるような恋情は、このミューズの愛児である奇蹟の現し身に収斂され、それだけに激しく、深く彼に食い入ってきた。  しかし彼がどんなに愛しても、かりに、かりに、良のからだを抱き、その果実に酔いしれることがあっても、本当はそれとて成就ではない。  なぜならジョニーはミューズの子だからだ。  音楽は、セックスよりももっと深く、もっと融合して、ジョニーとレックスたちをひとつにしている。良が酔うとき、レックスたちも酔いしれて叫ぶ。ギター、キー、ベース、サイド、ドラム── 「──あたしにミュージシャンがあてがわれたんだ。音は後ろから鳴ってくるし、ベースはあたしに挑んでくるし、あたしは、もう、やろうと決心して、それからは他のことは考えなくなっちゃった。男とヤルよりよかったんだよ。多分それがまずいんだね……」  修は生きていけない、とふいに驚くほどの激しい確信をもって風間は思った。生きていけっこない。  ジョニーなしで、ジョニーの歌、ジョニーのステージ、ジョニーのためのプレイをはなれて、何で生きていけよう。  呼吸し、寝食をくりかえし、毎日を過ごしてゆくことならできる。だが、それは生きてゆくということとは違う。あふれるように、ほとばしるように、全身で、生きることではない。  生はジョニーがくれた。それはふつうひとびとが生と呼んでいる日常の日々から、純度九九パーセントのヘロインのように危険で猛毒な、純粋な生のエサンスだけを抽出したものだ。  それを、ただのいっぺんでも味わってしまった人間は、もう、ただひたすらうつうつとして、もっと、もう一度、せめてもう少しでも、と狂おしく手をのばすばかりなのだ。  修にどうして耐えられよう。修はどんな苦痛にも耐えて、いわばこのハシシュの夢から、生まれ出ていこうというのだ。  だが、あまりに魂に食いこんだものは、無理にひきはがせば血を噴き、そして修を殺してしまう。  いけない、と風間は思った。ふいに、何かしゃべりつづけている修に割りこむようにして、その手をつかんだ。 「サムちゃん──やっぱり、駄目だ。やめちゃいけない──俺にはわかる。サムちゃんには、耐えられないよ。あんた、死んじまうよ──そうだろう、生きていけっこない。考え直せよ。頼む──俺にはわかるんだ」 「先生《センセ》──」  修は驚いて風間の目を見つめた。  気を呑まれたように光夫も弘も黙ってしまった。思いがけぬ、風間の激しい表情に、修はじっと目を据えていたが、やがて、ゆるやかな共鳴と悲哀の表情がその顔をくしゃくしゃにゆがめてきた。修は目をそらした。 「もう、何も云わんといて下さい。もう──ようわかってます──」  修は泣くような声で云った。その声に、哀願と悲痛が滲んでいるのを風間は痛くきいた。     6 「『反逆のブルース』ミリオン・セラーを祝して、乾杯」  佐々チーフ・ディレクターが音頭をとり、三十あまりのウイスキー・グラスがいっせいにさしあげられた。  良は作曲者の風間と、作詞の杉森達郎のあいだに立ち、白い頬を上気させ、目がきらきらして、人形のように見えた。  雪花石膏《アラバスター》の少年像だ。  レースの、袖口のゆったりしたオーバー・ブラウスを着て、ほっそりした腰をサッシュでしめ、ベルベットのパンタロン、胸に三連の真珠のネックレス、左耳にピアス、というとんでもない恰好だが、妖しいほど美しかった。 「ジョニー、グレタ・ガルボみたいじゃない」  入ってくるなり会社の販売部長の吉本が云ったものだ。 「ああ、似てるね、雰囲気が」とこれは佐々。 「グレタ・ガルボ?」  良は顔をしかめてみせ、笑った。 「やだなあ、女じゃない」 「きれいだってことさ」  三つ揃に真珠のピンで決めた風間がにやにやと良の肩を叩いた。  内輪だけのパーティだが、風間と良と杉森の三人は雑誌が写真を使うというのできちんとしてきてくれと頼まれ、ついいままでさんざんフラッシュをあびていたところだ。  他の連中はジーパンにセーターで、巽などはコールテンのジャケットをせいぜいいつもの野戦服にかえて着こんだぐらいだった。 「だけど大体良ちゃんは女顔なんだよ。いつかのソックリ・ショーんとき、さいごにのこった五人全員が女だったじゃない」 「チャンピオンはどっかのOLだったんだな」  風間は笑いながら巽に説明した。 「あとでむくれてね、ジョニー」と弘。 「待った待った。きまりだけつけさしてよ。ジョニーと先生がたにあと三回乾杯してもらったら無礼講にしていいからさ。カメラマンの人が待ってんだから」 「こんな内輪のパーティまでCFにすることないのにね」 「そう云うなよ、ジョニー、あと二、三枚」と清田。 「じゃ皆さん、風間先生に乾杯」  良が云い、グラスを風間のとふれあわせる。パッパッとフラッシュがたかれる。 「杉森先生に」 「じゃ、失礼して、俺が──良くん、ミリオン・セラーおめでとう」  巽が、風間が何も云わぬうちにすばやく云った。 「サンキュー、巽さん」 「乾杯」  巽のグラスがさし出され、フラッシュがたかれる。  それでカメラマンは退散し、雰囲気は急にくつろいだ。  借りきった高級スナックの中に、思い思いにすわり、ざわざわと話し声が入り乱れる。  本当は、良や弘たちはもっと身内だけの、それこそあぐらをかいての馬鹿さわぎをしたがったが、スター、今西良の百万枚突破記念パーティと称すれば、所属会社の専属ディレクター、ミキサー、販売部長、プロモーター、久野プロデューサーや専属デザイナーまで加わって、大袈裟にならざるをえない。  それで今週か来週の�スターマガジン�や�週刊パンチ�あたりには、にぎやかに乾杯するカラー写真を口絵にして、「『反逆のブルース』百万枚突破記念パーティ速報」なぞという見出しがつくわけだ。  良は不満そうだったが、風間や弘がなだめた。 「いいじゃないの、商売商売」 「あとで先生《センセ》んとこかなんかに行って、ホントの身内だけで二次会やろうよ」 「それがいいよ、良、ならいいだろ」 「まあね」 「これでもまだ、内輪のうちなんだぜ」 「わかってますって」  いま、目の前にフラッシュがたかれ、ひとびとがおめでとうとかわるがわる主人公の三人に声をかけにくれば、もうそんなことばをかわしたことなどないように白い歯を見せている良である。  むろんごく義務的な笑顔だが、白い肌が上気して、血の色が透けるような薔薇色が、ひどくなまめかしかった。 「良くん、凄くきれいだよ」  入ってくるなり巽が嘆声を発したほどだ。  風間は修の気持を思い、これをひそかに修のサヨナラ・パーティにするために、またとないプレゼントだと良の美しいのが嬉しかった。 「まったくこの坊やは並みじゃないのよ、レースのチュニックでバッチリ決めるんだから」 「何よ、文句あるの、リーダーもやればいいんだよ」 「ははは、ヒロちゃんが真珠のネックレスなんぞかけたら、グロちゃんにならあ」 「畜生、からかうない、真平だ」 「さっき吉本部長にグレタ・ガルボって云われてたじゃない」 「マレーネ・ディートリッヒにも似てらあ」 「ジョニーの嫁はんはいいよな、洋服にアクセサリ、みんな|モヤイコ《ヽヽヽヽ》で使えらあ」 「そんなもの」  良の透きとおるような頬がさらに赤らんだ。睫毛が煙るように茶色の目に翳をおとす。シャドウをしなくても、青みがかったように艶のある、二重瞼である。 「よせよ、光夫」 「ジョニーが結婚なんてったら、自殺するファンが出るかもよ」 「関ミチコとラブ・シーンしただけで脅迫電話来るんだからねえ」  グラスをもって久野が話に割りこんだ。 「局を爆破するの、関さん殺すの、ワラ人形に釘うって送ってきたりね。いやあ、ききしにまさるね」  久野は笑った。 「ジョニー、恋もできないね、あなた」 「そんなの、したくもない」  みんなわっと笑ったが、それは良の本音だろうと風間は思った。  良は自らの美しさに満たされてまどろんでいる、冷たい天使だ。良にふさわしいほど美しい、魅力ある女などいないし、事実、無類に色っぽい美人女優として人気のある関ミチコが、良と共演すると光を失い、疲れたバーの女のように見える。  それに、このごろとみに良はなまめかしさを増した。肌の内側からぬめるような輝きが透けるようでもある。レースのチュニックの胸あきが衝撃的にエロティックで、そのなめらかな、うすいがきれいに肉のついた、ひんやりとしているような感じの胸に下がっている、三連の粒の揃った真珠の青みがかった鈍い光が、それをなおつよめていた。 「でもねえ、おかしいと思うね」  少しもう酔っているらしい久野が大声で云っている。 「ね、先生も、杉森先生も、竜さんでもさ、ジョニーってこんなに色っぽいじゃない、目といい表情といいヌードといい、ね? いやその、例のラブ・シーンでお目にかかったんだけどさ──だから、どんな衝撃のエロティシズムになるかと実はいささか心配してたというか期待してたというか──ヘヘヘ──ところがねえ、駄目なんだね。関サンとこうバッチリ裸でベッドに入ってるのに、このひと全然──そう、イヤらしくないんだな。そりゃきれいにとれてるんだけど、何てのかな、ドロドロした愛欲なんて感じがさかさにしても出てこないの。あれは参ったねえ──同時にちょっと、わかった気もしましたね、なんで女のコたちがああさわぐのか。ねえ、先生、わかるでしょう」 「そりゃわかるよ。つまり彼女らは十五、六から二十いくつまででしょう。結局エロティシズムでも情緒的にしかとらえないんだね。つまり、なまなましいセックスなんてやつは不潔ってわけだ。拒否反応が出るんだな。だから宝塚がウケる」 「こっちは参ってるのよ、正直云って。ウンと耽美的に、夜おそいし、視聴率なんか知ったこっちゃない、少しぐらいPTA怒らせるようなスゲエのつくってやろうと思ってさ、ジョニーにいずみちゃんが迫るとこも入れたし、関サンの強姦シーンなんてロコツに克明にとっちゃったしさ、ところがエロになりゃしない。かえって、ジョニーがひとりで鏡にキスをするとこが一番ショッキングでね」 「やだなあ、もうよそうよそんな話」  良が一層照れて髪をやたらにかきあげた。酔っている久野はしつこく話をひきもどそうとした。 「一番エロティックなのはねえ、ジョニーが麻薬きれて苦しんでるときの顔。あれは、けしからんねえ、ぼくはサドっけなんぞない筈なのに、こうぞくぞくーっとするからけしからん」 「やだなあ、次からできなくなっちゃうよ」  良が笑った。 「どう致しましてーだ。バンバンやってもらうんだからね。それに──それに、そうだ、衝撃のスッパ抜きしちゃおう。田端くん、田端くん」 「久野さん」  風間があわてて腕をつかんだ。久野はかまわずに怒鳴った。 「田端くん、こっちいらっしゃい。ことのついでに、ここで、俳優・田端修のデビューに乾杯しよう」 「え?」  良の顔が輝いた。押し出されてきた、当惑しきった修にとびついた。 「サムちゃん出るの、�街路�に?」 「そ、トッぽい持ち味いかしてね。前から狙ってたんですぜ、このキャラクター」  久野は愉快そうに云った。修は赤くなりながら立っていた。 「なんだ──どうして云ってくれないんだよ。ひどいや──オレに秘密にしとくなんて」 「びっくりさせようと思ったんだ、スタジオで」  どもりながら修が口をひらくのをすばやく弘が横どりして云い、笑って良の背をどやしつけた。 「久野サンたらばらしちまうんだから」 「ひどいなあ」  良は疑っていない、と風間はいくらかほっとして思い、まるで将来の打撃から守りたいように良の細い肩にしっかり腕をまわした。  良は疑っていない、修が、他ならない修が自分に背き、はなれてゆこうとしているなどと思ってもいないのだ。 「どんな役? いつから出るの? リーダーや光夫も出ればいいのに」 「チンピラやくざの役や」  修が苦笑して云った。 「お前のこと、恐喝するんやと。どないなるか、よう云わんわ」 「けっこう重要なからみだからねえ、どうもピンと来る人がいなくてしつこく口説いたのよ」  久野が云った。 「サムちゃんピッタリ。関西弁で、とぼけた味出るよ、きっと」 「どうせ久野さんと長谷田さんじゃ、ロクなことにはならないぜ。サムちゃん、きっとジョニーに殺されるんだぞ」 「いまの予定では、ま、サムちゃんも犠牲者のひとりでね」 「やっぱり」 「化けて出たれ、サムちゃん」 「何人殺せばいいの、オレ?」 「ざっと十人ぐらいかな、もっと殺したい?」 「ひでえもんだ」 「とにかく」  風間は口をはさんだ。 「サムちゃんのデビューに乾杯」 「乾杯」 「サムちゃん、がんばれよ」 「どうも恥ずかしいてあきまへんわ。あまりじろじろ見んといて下さい」 「そんなこと云ってられないぞう、これから」 「かなわんなあ」 「あ、演技指導したろ、わからんことがあったら何でもききにきなさい、田端クン」 「阿呆、よう云わん」 「阿呆なことあるかい。演技じゃオレが先輩だぞ」 「ははは、サムちゃん、一本お面だ」 「えらいところでスッパ抜きやってくれはる。久野さんひどいなあ」 「乗ってきたね」  風間はわあっと笑いくずれる一団の端の辺に、ひとりスツールにかけて、しかし目で微笑いながらグラスをなめている巽に近よって云った。 「静かですね、巽さん」 「いやあ、乗ってますね」  巽は声をたてて笑うということのできないたちらしかった。  精悍な陽焼けした顔が静かに笑い、おちついた、というよりは底光りのする感じの穏やかさだ。少し、西部の男といった感もある。  鞭のような鋭さをひそめた目が和んで、たえず、人に囲まれて花のように笑ったりはしゃいでいる良の姿を追っている。 「俺はどうも不器用で──よく誤解されるんですが、これで結構乗ってるし、楽しいんですよ」 「いやあ、巽さん大人だから」 「とんでもない。からかわんで下さい」 「ま、行きましょう」  風間はグラスをウイスキーで満たした。 「あとひと月もしたら、�街路�の仕事も終わりですね」 「そう、そろそろ情勢緊迫してますから」 「ま、久野さんも考えてるだろうけど、またそのときは打ち上げパーティでもして、派手に──今度は日本調もいいですね」 「日本酒ですか」 「巽さんは」 「いや、もう見境なしです、意地汚なくて」 「実におつよいですね。一升ぐらいかるいでしょう」 「どうも、無茶ばかりしていてね」  この、やくざ映画あがりの男には、何か破滅的な翳がある、と風間は見ていた。  悲劇的と云ってもいい。テレビ・ドラマでは翳がつよすぎて、ホーム・ドラマ全盛に使いこなすところがなく、せいぜい刑事ものでいい味を出しているが、映画の方では根づよい人気がある。  大抵が、影のある、非情の中にふしぎなやさしさを秘めた、暴力的な男といった役どころだ。たぶん地なんだろう、しかしたしかに魅力はある、と風間は思っていた。  生活の方も相当な無頼派で、ふらりと蒸発したり、地まわりと大立ち回りをしたり、というようなことはしょっちゅうらしい。相当、喧嘩にはつよいのだそうだ。  その身なりにかまわない、逞しい肉体は、アクション・タレントのようなお飾りではなく、本当の実用品という印象に鍛えられた充実感があった。  この男が、本当の贅沢品、繊細なガラス細工のような良に恋をするというのは、ひどく納得できるようでもあり、一方妙に悲哀を誘うくらい、不釣合でもある。  風間は目で笑って、良の方へ視線をうつした。少女のような横顔が、笑っている。何か、まだ修をからかいつづけているらしい。  巽が風間の視線を追った。 「ふしぎなもんですね」  ぽつりと云う。風間は巽を見た。 「本当は最初、つまらん仕事が来たと思って、げっそりしてたんですよ。大体、テレビの仕事はあまり好きじゃないんです」  ゆっくりと考えながらしゃべり、ひと口飲む。 「安っぽくて──やっつけで。妙に道徳的だったりして──で主演は、ってきいたら、今西良って云うでしょう。云っちまいますが、とうとうジャリタレ歌手のワキ固めに使われるくらい、落ちたか、と思ったです。ただ──俺、久野さんに義理があってね」  五、六年前、やくざ映画が下火になり、のきなみ映画会社が男性スター路線からポルノへ切りかえたとき、巽はもろにあおりを食い、何年かの不遇を余儀なくさせられた。  ほんのチョイ役からワキの儲け役、若立役で老スターを受けて、それから主役を張る、と順調に売り出せる筈だったのが、人気は出ていながら出るべき作品が製作されず、沈黙させられたのだ。  それを見出し、人気最高だったホーム・ドラマに、翳のある元やくざの役で使ったのが異才といわれる久野だ。  当時ホーム・ドラマはひたすら健全で、明るくて、ほほえましくしなければならない風潮だった。久野も冒険だったが、この賭けはあたり、巽は爆発的に受けた。  しかしそのあと、芸能界のつねであっちからも、こっちからも、そういう役で出てくれというのを巽はそっけなく断わり、刑事もののレギュラーを選んだ。  そしてそのあと邦画が息をふきかえすのを待ちかねたように映画の仕事に帰ったのだ。久野だからだ、と巽は云った。 「これでも、俺なりに、筋ってものは通してやっていきたいですから──さわがれたい、金儲けしたいとも思わないし──だから、正直云って、うんざりして、出てきたんですよ。どんなひどいジャリタレの学芸会やらされるかと思って」  笑い皺のきざまれた、ひどくあたたかく見える目もとだけの笑いを見せて、良を見やる。  良が腕をあげて大きな身振りをすると、ゆったりしたレースの袖が翼のように、ふわりと細い腕にまつわりついた。 「それが、いまじゃ、この仕事が終わっちまったら一体どうしようなんて思ってる始末でね」 「良は──特別ですよ」  微笑して、低く風間は云った。 「もう、あまりむやみと出したくないですね。いい企画でも」 「やめた方がいいでしょうね」  巽もうなずいた。 「良くんは、演じてるんじゃない、その人になっちまうんだから。やっぱり、特別だな」  巽の声には滲むようなやさしさがこもっていた。 「よかったですよ、一緒にやれて」 「良もよろこんでいますよ」 「そうですか」 「先生《センセ》、巽さん」  良がよくひびく声で呼んだ。白い蝶が舞うように、ひらりと袖をかえして、こちらに来る。 「二人で何ごそごそ云ってるの。こっちに来てよ」 「おやおや、柄にもなく気をつかって」 「何云ってんだい」  良が唇をとがらした。 「ほんと、先生《センセ》って憎らしいんだからな」 「あまり飲みなさんなよ」 「ほら、それだもんな」 「良くんは、幸せだね」  巽が良を見あげて云った。 「すばらしい仲間たちに囲まれて、いい先生もいるし」 「まあ家族だよね」  良が子供っぽい微笑をうかべた。 「巽さんは知らないかもしれないけど、ぼくには、家族ってないからね」  良の云い方には何のよどみもなかった。  風間は思わず修を見た。修はちらりと目をそらせる。  ほのかにはりつめたものを隠して、夜がふける。もうだいぶ酒席は乱れてきた。 「いいな、こういう雰囲気、好きだな、オレ」 「おやおや、内輪じゃないってむくれてたくせに」 「いいんだって、こう暗くして、ウイスキー飲んでさ、いいじゃない。誰かなんかやらないかな、先生《センセ》どう」 「春歌でも歌うの?」 「ムードないなあ──そこにピアノもあるじゃない」 「あ、先生《センセ》のピアノだって? ええなあ、ききたいなあ」 「おい、冗談じゃない」 「風間先生のピアノ? そりゃ、是非きかして下さいよ」 「巽さんまで──冗談じゃないですよ。お歴々の前で──あたしゃ才能がなくてあきらめたジャズマンで──」 「いいから先生《センセ》」 「おい、ジョニー」 「みんな、ききたいってよ」 「風間先生のピアノ? ああ、ありゃいいですよ。みんな、拍手!」 「ちょっとちょっと」 「ええやありまへんか」  修が人なつこい目で風間を見た。 「きかして下さい。ええ記念ですから」 「そう……」  風間は修の目を見た。 「じゃ──お恥ずかしいが、サムちゃんのために、ひくかな──ジョニー、歌えよ。たまにはジャズ・ナンバーもいいよ」 「ん、いいよ。じゃ知ってるのにしてよ」 「こりゃあ、いい」  皆がこちらにふりむいた。風間は隅の白いピアノのふたをあけ、指馴らしにコードをバラバラとおさえた。 「じゃまあ、ほんの冗談てとこで──ジョニー、『酒とバラの日々』いこうか」 「オーケー」  何年ぶりかに人前でひくピアノだった。指が覚えている。  風間はかろやかに前奏をひきはじめ、マンシーニの哀調をおびた名曲をワン・コーラス、ピアノ・ソロにのせた。  コードにうつって良を見あげる。スナックの中は静かだった。良は風間の肩に手をかけ、よりそうように立って歌った。けだるい、甘い声が店じゅうに流れた。 「いいじゃない、ジョニー」  間奏をつけながら風間がウィンクする。誰かがグラスをピアノの上においた。 「二番いこう」  軽くあてられているだけの、良の手をあつく重く感じながら、風間は美しいアルペジオでものうい歌声をバック・アップする。  良の声がたゆたい、かすれ、甘く伸びる。  良と、ひとつだ、と風間は思った。こうしたかったのだ。夢のようだ。  ふと、風間はひきながら修に目をやった。修の指が動いている。修の頭の中では、架空のベースが力づよくかれを支えているに違いない。風間にはそれがきこえるようだった。  良が息を引いた。ゆたかな声がふるえるようにのばされる。風間は心をこめてエンディングのカデンツァをつけた。良を見あげ、にやりとする。 「うわァ、カックイ」  光夫が拍手の中で、頓狂な声を出した。 「いいねえ」 「アンコール」 「これだけなところがミソだよ」 「先生、やりますねえ」 「ジョニーのジャズもいけるじゃないの」 「もう一曲、どうです。今度は『イエスタディ』かなんか」 「いやあ、やっぱり、大学以来だからねえ、指が動きやしない」  笑って、椅子から立ちあがり、良の肩を叩いた。 「でも気持いいもんだねえ、歌のバックも」 「これからもちょいちょいやりましょう。リサイタルで、ゲストに出てよ先生《センセ》」 「ワルノリ、ワルノリ」 「ナイス・コンビに乾杯」 「いいカップルよ、センセ」 「おい、吉本さん」 「いやあ、いいムード。ホント、もっとやってほしいなあ」  白いレースに包まれた良の肩が、細いけれども、しっかりした手応えで彼の腕の下にあった。風間はふれている箇所から良のミューズがいくらかでも流れこんで来はしないかと思った。 「次、どう」 「いまのデュオのあとでェ? そんな心臓な人いるかい」 「いいじゃないの、無礼講だから」 「巽さんなんかどうです」 「とんでもない」  巽は笑った。 「芸なしのでくの棒です」  細めた巽の目の、光がつよい。風間は良と、席にもどり、みんなのひやかしに照れながら酒を飲んだ。 「いいパーティになりましたね」 「そう、酒もうまいし」 「いやあ、先生はもっとプレイヤーとしても売り出すべきだなあ」 「レコーディングを考えましょう」 「はははは、きついなあ」 「いや、ほんと」  また室内に煙草の煙がもうもうとたちこめ、氷とグラスがふれあい、声高になってきた話し声が満ちる。そろそろ十一時をまわっていた。 「先生《センセ》」  そっと腕をつかまれて、風間はふりむき、修を見た。修の目がうるんでいる。 「おおきに、先生《センセ》」 「いいんだよ」 「よかったです。これで、──ふっきれます。先生《センセ》、ようお似合いでしたで」 「何云ってるんだい、サムちゃん」  修は泣きたいような顔をした。  彼らの視線の先で、良が巽をつかまえて何かしきりに説明している。頬がすきとおるように白い。 「きれいや、良」  修は風間にだけきこえる低声で呟いた。ふと、風間には修の気持がわからなくなった。  パーティを打ちあげたのが一時だ。それから、ついでだというので一同でクラブへくりこみ、ジャズ・クラブをのぞき、風間のマンションへ来て飲み、ついに全員毛布をかぶってつぶれるように寝てしまったのがもう空の白むころだった。むろんそのころまでには、バンドの面々と、良、巽、清田、お馴染みの仲間内だけになっていた。  風間は、ひとり妙に頭が冴えて、さんざんかけちらしたレコードを音をたてずに片付け、毛布を持ってきてソファやじゅうたんの上に寝入っている連中にかけてやった。  上着とベストをとり、ネクタイをはずし、頭から冷たい水をあびてすっきりさせる。まだ俺もまんざらじゃないな、と満足である。  シェードをおろした窓の外は、冬の朝が動き出そうとしている。  部屋にもどり、ソファによこたわっている良の寝顔をのぞいた。小さく唇が開き、どこか稚い寝顔だ。  あんな歌を歌って、と微笑して、毛布をかけ直してやる。長い睫毛が頬に影をおとしている。  ふりむくと、ステレオの横にインデアンのように毛布をかぶって、うずくまった巽と、まっこうから目が合った。  巽は膝をかかえこんだまま、風間の動きを眺めていたらしい。醒めた目だった。 「お互い、年の功ですね」  苦笑して、風間は云った。さすがにもう飲む気はない。 「たいしたものですよ、先生。俺は、これまで、俺とタイにいく人、そういないです」 「どうも、若いころの道楽ぶりが知れる」  二人は低い声でしゃべっていたが、巽がふいに身を起こし、ざらざらしてきた顎を撫で、うんとのびをした。  風間はそれへ云った。 「コーヒーでもどうですか。本物ですよ。モカ・マタリ」 「頂きましょう」 「起こすと気の毒だからこっちへ」  二人は奥へ入り、風間はヤカンに湯をはかってレンジにのせた。巽は窓をあけ、冷たい空気を深呼吸している。 「ああ、いい気持だ」  ひと晩ぐっすり眠ったあとのようなけろりとしたようすだ。窓を閉め、煙草に火をつける。 「あちらは十二畳ですか。だいぶ、広いですね。こっちが居間──」 「というか、まあふだんいるところでね。仕事はあっちでしますがね。ピアノが要るもんで」 「いいマンションだ。優雅なもんですね」 「何だか、勝手にやっていけるのがまあ取柄ですがね。どうですか、ブランデー入れますか」 「どうも」 「しかし、あなたもタフだなあ」 「いや──いまはすっかりおとなしくて。昔は、一升ビンかついで、目がさめると豚箱なんてことはしょっちゅうでした。たしかに瓶はカラなんだが、自分で飲んだか覚えがなくてね、お巡りさんに、飲んだろう──なんてからんでどやされたり」  巽は笑ってコーヒーをすすった。 「われながら、無茶をしましたね」  うまそうに煙を吐く。風間もつられて煙草を出すと、巽がマッチをすった。 「どうも」 「前から、いっぺん先生とは、正面切ってお話ししなくちゃと思っていたんです」  どすのきいた声だ。鋼鉄のような目が風間を見つめる。風間はふうっと煙を吐き出した。 「何です、巽さん、改って」 「良くんのことです。おわかりでしょう」  来たな、と風間は思った。 「俺は、不器用で、うまく自分の気持を隠すとか、伝えるとかってことができんですが──そのかわり正直です。何も隠すことはないです──先生、先生は、良くんとは、恋人どうしなんでしょうね」 「別に──そんなことはないですよ」 「いや、かまわんですよ。お互い、腹を打ちわって話すわけにいかないですか。俺のことなら、俺は──もう、駄目です。あの坊やに、やっつけられちまった。寝てもさめても頭からはなれん。もう、皆さんには知れて、バカにされてたかもしれませんがね」 「そんなことはない」  風間は頭をふった。 「はっきり云って、ふしぎでも何でもないです」 「ですか──でも、さっき、昨夜ですが、良くんがこう先生の肩に手をかけて、先生のピアノで歌ってるとき、ああ、こりゃ駄目だと思った。凄く、何ていうのか──先生は黒の三つ揃だし、良くんはあのレースに首飾りしてね。ばかに、人の割りこむ隙の全然ない、ぴったりの一対って感じがしてた。ぴったり息があって──そのとき、思ったんですが、もしもうはっきりときまったことなら、先生は立派な方だし、俺も好きだから、先生のものに手を出しちゃ申しわけがない」 「いや、困ったな」  風間はやけのように灰をおとした。 「それは、愛してないといったら嘘になる。正直云って、生命をやってもいいと思ってる。しかし──つまり、そういうことは──」 「俺だって、こんなことをしゃべるのは、どうも女の腐ったのみたいで、むずむずするんですがね」  巽はかすかに笑った。だが、その目は口もとを裏切って鞭のような鋭さで風間を見つめていた。 「良くんも知っているんでしょう、先生の気持は」 「知ってるでしょう。あの子は、とてもそういうことには敏感なときがあるし」 「で──」 「でも、はっきり云って、そこまでは行ってないです。たぶんそれは、俺があまりにも良を愛しているからということでしょう──そういうふうにはふれたくないというのが本音かもしれない。良はきれいですよ──俺は、変えたくない」  風間はゆっくり云ったが、ふいに巽が瞼を閉ざし、また目を開いた、その目を見てはっと胸をつかれた。  巽は激しい、ほとんど実際の圧力のような威圧を感じさせる凝固した意志をその目からひらめかせた。  ゆっくりと、敵の隙を見つけ、おそいかかろうとする、そして戦いを自らの勝利に終わらせようと決めた断固とした意志だ。 「良くんは、先生のものじゃない」  巽は低い声ではっきりと云った。 「そう思って、いいんですね?」 「巽さん」  風間の中にふいに何かがつきあげてきた。  怒りとも、嫉妬とも違う。それは、意志だった。  風間はがしっと巽の目をうけとめ、凝視しながら、鏡にうつったように自分が巽と同じ凄まじい目をしていることを感じた。 「あんたが良を傷つけたら──汚したり、ゆがめたり、ちょっとでも変えてしまったら、俺はあんたを、殺しますよ」  巽の指に、煙草がしだいにくゆっていったが、どちらも気にとめようともしなかった。  二人の男は、目を外した方が負けだとでもいうように、じっと、にらみあっていた。  変えまいとする、守ろうとする愛と、征服し支配しようとする愛がぶつかりあう。  巽がかすかに笑って、指を焼いた煙草を見もせずに灰皿にひねり消した。 「良は、俺のものにしますよ」  巽は一語ずつ、刻みつけるように云った。 「させない。いや、良は誰のものにもならない」  窓の外で、早朝の街にけたたましい自動車の急ブレーキがきしみ、いまにも火を噴きそうにはりつめた対峙を破った。巽はこんどははっきりと微笑をうかべて首をふった。 「それで、いいんですか」 「俺は、誰にも、良を変えさせない。誰もが心を奪われ、誰もが手をふれもできない、この世にふたつとないダイヤのままでいてほしい。そのために何をしてもいい」 「あなたのものにできなくても?」 「良は決して誰のものにもならないでしょう。そうでなかったら──愛しなどしなかった」 「それが」  巽の眉がよって、深い溝ができていた。理解しようとつとめている表情だ。 「それがあんたの──愛ですか」 「それが、俺の愛ですよ」  風間は微笑して答えた。朝の光が窓をすかして射し、口中に飲んだ朝の苦みがのこっている。  おれは良を守る、と風間は思った。だが、巽の強烈な意志を秘めた目は、風間の目に焼きついてはなれなかった。  良に巽を近づけたくない。巽は良を奪うとはっきり宣言したのだ。修が、「裏切りの街路」に出演するというかたちで、脱退をきめたのは、もしかすると、そこまで読んで、巽を見張っていようという心だったのではないかといまさらのように気がつく。  修の脱退の用意は進んでいる。かわりのベースを、修は責任を持って探すと云い切って、故郷の関西まで足をのばした。ぬけたから、力がおちたなどと、間違っても云わせたくはなかろう。 「まあそれまではやるっていうからそう急じゃなし、ま、しゃあないんだけど、それにしてもねえ」 「問題は、いつ、ジョニーに、どうやって納得させようかってことでね」 「ときどき動物的カン働くでしょう。もう、うすうす、おかしいって勘づいてやしないかと思って、ハラハラしてるんですよ、先生《センセ》」 「早い方がいいんじゃないの」 「そりゃ──だって、云うのこわいんですよ、ジョニーどう反応するかと思って。サムちゃん、自分でうまく云うよって云ってんだけどね」 「リサイタルのライヴ出す話もあるし、早くけりつけたいんだけど」  修は、後任をきめたのかきまらないのか、はっきりせぬ顔で東京に舞いもどると、みなには土産など配り、すましてステージをつとめていたが、風間が光夫たちと、事務所で清田や吉本のよりわける、東京プラザ・ホールのリサイタルのための新しいポスター用の良の写真を調べていたときに、ぽつりと、後任は安心していいと云った。 「もっと強力になるかもしれんよ。オレも、安心して行けるわ。二、三日中にむこうひき払って、こっちに出てくる云うとったよ。ま、鍛えてやってな。たぶん、鍛えがいはある奴やから」 「ジョニーのこと知ってるの?」 「ンまあ──ジョニーとできるなんて夢みたいだ、云うとったよ。性根はあるよ」  あまり、修はその後任者のことをしゃべりたくはないらしかった。  長い髪にほとんど顔をかくしてしまい、機械的に写真をよりわけ、眺めていく。その手がふととまり、二枚をえらび出した。 「これ、ええなあ。よう撮れとるやないか」  一枚は、白いレースに包まれ、なかば目をふせて歌う横顔で、光をかけてあるのでその肌が透けているように白く、褐色の髪が夢のように輝き、細い指がしなやかにマイクを支えている。瞼のあたりに光のしずくのようにきらめきがふりかかり、夢幻的で、咽喉に巻いた真珠のにぶいきらめきとあいまって、良は光の精のように見えた。  もう一枚は、少しうつむいた横顔の大うつしで、彫刻されたような瞼、睫毛、鼻、しゃくれた上唇、ふっくらした下唇、きれいな線を描く顎から咽喉の線がくっきりと画面を区切っている。小さく開いた唇から、息づかいがきこえるようだ。 「きれいだね、ジョニーの奴」 「色っぺえなあ」  修は光夫たちの声も耳に入らぬように見入っていたが、清田を見あげた。 「清田さん、これ、もらえまへんか」 「コピーでいいなら──もちろんいいけど、でも……」 「自分でパネル作って、部屋にかけときますわ。そうすればいくらかは──」  良とはなれていることを日夜思わずに済む。風間は修の云わなかったことばがわかった。 「何だい、おかしな奴、サムちゃんたら」  光夫が鋭く云った。修はまだ、思わずも見せてしまったという、とけるようにやさしい目で、写真を見つめている。 「そんなに、ジョニーが可愛いなら、なんでやめるんだよ。そばにいてやりゃいいじゃないか──ええ、ジョニーのこと、好きなんだろ、可愛いんだろ?」 「もう、何も云わんといてくれよ」 「だってさ」  光夫が云いつのろうとしたときに、風間ははっと、荒々しい足音にふりかえった。ドアが叩きつけられた。 「良!」  みんな、一瞬、口もきけずに立っていた。  歌番組の打ちあわせに行っていると思いこんでいたばかりではない。一陣の疾風のように、足を踏み鳴らし、息を喘がせながらとびこんできた良、白い顔を蒼白にひきつらせ、目を異様に燃えたたせ、しばらくは声もないくらい興奮して唇をふるわせている良の、異常なまでに凄まじい美しさに圧倒されてしまったのだ。  良は燃え狂う炎だった。白い瞋恚の炎がかれを背中から抱きしめ、荒れ狂っているように見えた。 「ジョニー……」  清田が口をひらこうとする。良はいきなり駄々っ子のように足踏みをし、修にとびついた。  しがみついたのか、とびかかったのか、さだかではない。良は手をふりあげ、のびあがるようにして、背の高い修の顔を殴った。  誰も、呑まれたように、瞬間、金縛りになり、とめようとするものもない。  修もまた顔をそらそうともせずにその殴打をうけとめた。写真が床に、花の散るように散らばる。そのどれにも、美しい鮮烈な表情を見せて良が笑っている。 「なんで、云ってくれなかったんだ。なんでそんなひどいこと──ぼくに何も云わんで! 何で、何怒ってるの──怒ることあったら云えばいいじゃないか。ひどい──サムちゃん、ひどい──」  良の瞠いた目からみるみる熱い涙がふき出して、こぼれおちた。良はぬぐおうともせずに頬を濡らしながら修をにらみつけていた。 「誰が云った。誰が、どこの馬鹿がそんなこと云うたんや!」  修が怒鳴った。誰もこたえなかった。 「そんなふうに報せようなんて、思てもなかったのに──オレから、きっと得心いくようにゆるゆる話そう云うてたやないか! 何故云うたんや。誰や!」 「誰だってかまやしない」  良はひどく稚い表情で涙を流しながら歯をくいしばった。 「みんな知ってたんだ。みんな知ってて──オレにだけかくしてた。みんなでオレをだましてたんだ。ひどい──どこにでも行っちまえよ! そんな──そんな奴──オレをだましてたんだ! 嘘つき! 馬──馬鹿野郎!」  風間、修、清田、吉本、それに光夫たちは、まともに良を見られないで立っていた。  良の悲しみには、ひどくあわれな、子供の悲しみのようないたいたしさがほとばしっていて、かれらの胸を痛くするのだ。  風間は、まるで人生で最初のかなしみに会った幼児の泣くのをきくように、やりきれなかった。もし周囲に誰もいなかったら、胸にきつく抱きよせ、どんなにしてでもなぐさめてやりたい。髪を撫で、背を叩いて、抱きしめてやりたい。  しかし、良は、細い肩をふるわせながら、なんとか涙をくいとめた。 「どうしてよ?」  声がふるえないように、必死に息をととのえて、かすれ声で云った。目は、修の目からはなれない。 「どうしてなの──何かわけがあるんだろう? 云ってよ──ぼくが嫌になったのか? ぼくのこと、嫌いになったのか? それでなの? そうなの、サムちゃん? そうなんだろう?」  それが良にとって一番重大なのだ、と風間はふいに理解した。  良のききたいのはつねにただそれだけだ。そして愛を確信するとどんなにでも甘えて、もたれかかってくる。  良にとって修は、ずっと昔に獲得し、それきり、失くすなどと思ってみたこともないひとつの心だったのだ。  修の答えしだいで良の心は、とりかえしがつかない傷をつけられる、と風間は思い、息をつめて待った。  すると、修は思いがけないことをした。  つと手をのばし、やさしく良の小さな顔を掌にかこんだのだ。掌の中のきれいな顔にしみじみと、すべてのやさしさのとけているような目をそそぐ。  その目、鼻、口を呑みこんでしまいたいかのようだ。そして修はささやくように云った。 「愛してるよ、ジョニー」  やさしくうなずき、かるく良の頬を叩き、それから手をはなし、背を丸めかげんに、修はドアをあけ、出ていった。良は立ちつくしている。  風間はそっと近寄って、その肩に手を置いた。  良は彼を見あげ、ふいに、彼の胸に額をおしつけ、涙をこらえるように首をふった。  いじめられた仔猫のように孤独で、頼りなく、寂しそうに見えた。誰も、何も云わなかった。 [#地付き](2につづく)  単行本 昭和五十六年九月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年五月二十五日刊