伊集院大介の追憶 栗本薫    1 「いまになって、そんなことを云われたって困るね、あんた」  女にしては野太い声が、ぴいんと寒い室内にひびきわたるかのようだった。 「お互い、承知の上で利子の額は決めたこったし、人を、鬼だどうだ、いったところで、どうなるもんでもないよ。──まったく、人ってのは勝手なもんだ。借りるときはさんざん拝みたおして、何分でもけっこうです、この金がないともう一家そろって首くくりしかないのとそら涙の一つもみせておいてさ。ひとを仏さまのようにおがんでおいて、いざ返すって段になると、しぶたらしぶたらケチをつけて、少しでも長引かそう、出すまいとする。ちょっとは借りたときのことでも思い出したらどうなんだい。ひとをまるで、鬼か蛇のようにいうけど、別にあたしゃ、あんたに貸したかなかったし、貸しさえしなけりゃそうまであこぎ呼ばわりされることもない。こっちだって、商売でやってんだからね、市村さん。──そのへん、もう少しわきまえて、大人になって貰いたいね。第一、その十万は、何につかいなすった。おおかた、お馬さんにつぎこんじまったんだ、そうだろ、違うの。──あんたにあこぎだなんぞいわれる覚えはないね。まったくないよ。たいがいにしとくれ」  あいての男は黙ってうなだれている。もとより、返すことばなどあろうはずもないことは、双方、承知の上である。誰しも、金を借りるときには、かえすときのことなど極力考えぬようにするものなのだ。「遠藤質店」の看板をそのとき、おずおずとくぐって入ってきて、木のカウンターのよこに立った一人の学生が、いきなりあびせられた奔流のような罵詈にめんくらったように立ちすくんだ。  遠藤マサはそちらへ、ちょっとなだめるようにうなづいてみせたが、いったんほとばしり出たことばの渦は、容易なことではとまらなかった。 「全体、これで何回そんなさわぎをおこしていると思いなさる。あんたはそのつどああだ、こうだというけどねえ、考えてもみてごらん。あたしゃあんたの母親でも何でもない、あかの他人だよ? どうして、他人に、そうつけこんで甘ったれて許してもらえると思うんだい。商売で金をかしてる人間に、困ってるから金はかりますわ、他にもっと面白いつかいみちがあるから、かえすのはイヤですわ、かえせかえせというやつはあこぎな鬼ですわ、それで世の中通るとお思いかい。ええ、どうなの? 一体自分を何だと思ってるのさ、ええ? 返事をしなさいよ、返事を」  声も野太いが、顔もからだも、とにかく野太い──といえばいちばんあたっている女であった。  年かっこうはそろそろ六十路も後半にさしかかろうかというところだが、がっしりしたからだつきのせいか、五十代ほどにも見える。ねばねばした鉄灰色の髪を癇症にうしろにまとめ、小ざっぱりとしてはいるが古い地味なセーターをきて、男のような猪首ともりあがった肩の肉、あから顔の、肉体労働者によくあるごつい顔つきの、そのどこにも、女という生来の性別をしのばせるに足る優雅、やさしさ、おだやかさ、美しさ、のかけらひとつさがしあてることはできなかった。  それは、もう老齢に入ったためだけではない。昔から、ずっと若いころから、遠藤マサはそういった、女として少しでも多く持っていた方が幸福とされているものを、一つでももっていたためしがなかったのだ。  あたしのように可哀想な女はいませんよ、と遠藤マサはよく誰かれなしにいった。そういわれても、あいてはべつだん、気にもかけない。そのことを、マサ自身が熟知していたからこそ、マサはそう思ったのだ。もし、好んでどのように生まれつくか、選べるものなら、女として、誰がこのようになりたいだろう。神社の狛犬にそっくりな大きな顔である。並外れて大柄な、頑丈な体格である。その上に、荒くけわしい気性と物云いをもっている。  たおやかな、ほっそりした、あでやかな着物、はやりの洋服に身を包んだ娘たちと、遠藤マサとが、「女」という同じ種族に属している、ということが、冗談のようにしかみえぬ。江戸の昔であれば、そのたくましさと健康を見込まれて、農家の嫁に望まれ、頑丈な農婦として一生をつつがなく送ることもできたかもしれない。事実そういう女はいくらでもいたし、それらに比べれば遠藤マサが、並外れて、見るのもイヤなほどの醜女だったということもないのだ。  しかし、マサが娘になった時代には、すでに人々は、「女」の価値を母の逞しさよりも、女という性の美しさ、華やかさにおきはじめているころであった。はじめから、マサの一生に女としての幸せを予測しなかったマサの父親は、二人の兄たちをつとめ人にし、自分の質屋をマサに遺すよう手配をした。それはマサの父親の愛情の残酷な確かさであったといえる。そのおかげで、一生一度として嫁いだことも、縁談をもちこまれたことすらないまま、遠藤マサは六十六の今日まで、ぶじに遠藤質店の鬼婆として暮しをたてる苦労を知らぬまますごして来られたのだ。  むろん、父母はとうになくなり、二人の兄も死んでいた。マサはきかれると誰にでも、天涯孤独の身でね、とこたえるのだった。  父の代からの店は古くてたいしてひろくもないが、きちんと掃除もゆきとどき、カウンターの隅には、安い鶴首に時分の小菊が二本投げこんである。古普請で、妙に寒ざむとした風が吹きこんでくるが、足をすっぽり毛布でつつんだマサには、たいして苦にならぬようだ。  あとから入ってきた、一見して学生とわかる青白い眼鏡の青年の目に入ったのは、こうした光景であった。こちらは、まだ少年といった方がいいような年で、身なりもたいども初々しい。手には大きな包みを下げていて、質屋に入るのははじめてらしく、珍しそうにあたりを新鮮な好奇心で見まわしている。  それへ、じろりと目をくれて、すぐに目を市村にもどしたマサは、またひとしきり悪口雑言を投げつけると、ようやく満足した。 「ま、どもこもならないってんなら、もう十日かそこらは待ってあげないでもないけどね。どのみち、あたしだって、お金が入って来ないことには困るんだから。しかし、ほんとに、いいかげんにして下さいよ、市村さん。あんた一人被害者づらをして、ほんとはいちばんあんたのだらしなさのおかげで迷惑をこうむっているのは、あんたの女房子供や他人のあたしであって、何もあんたをひどい目にあわしてるようなこと、誰にもありゃしないんですからね。わかったかい、え」  市村は口の中でもごもごと何かつぶやいた。よくよく、わびごとや弁解を口にするのが嫌いなたちの男であるらしい。やせて貧相な男だが、目鼻にはけわしいものがあり、ぬすむように下から女を見上げる目つきには、ねつい憎しみの光がかくれていた。 「さ、お客さんだから、帰っとくれ。この次にゃ、せめて利子だけでも入れてくれなけりゃ、こんどこそただじゃすまさないわよ。さあ」  あいかわらず口の中でごそごそ云いながら市村がそそくさと逃げるように質屋ののれんをくぐって出てゆくと、遠藤マサはどっこいしょとかけ声をかけて立ちあがり、奥へ消えた。もういちど出てきたとき、黒い小さなつぼをもっていた。 「この、疫病神め」  云いざま、中身をつかみ、入口めがけて投げつける。なかみは塩だった。パッと白い粉がのれんと戸にあたって散ると同時に戸があいて、行ったはずの市村があらわれた。 「コートを、忘れましたんで」  ぼそっといって、忘れものをとってまた出てゆく。入口にまきちらされた塩に気づかぬはずはなかった。いくらかは、当人の服にかかったほどなのである。しかし、暗い目つきでマサを見あげた市村の顔に表情はなかった。  ふつうなら赤面して云いわけをしそうな、この間のわるい状況にも、遠藤マサはびくともしなかった。うすい眉をつりあげ、厚い唇を少しまくりあげるようにして、市村をじろりと見ただけである。その細い小さな目には、あくまで押し強い、自分の身を自分ひとりの力で守ってきた女だけのもつ凄いようなおちつきがあった。 「失礼したね、あんた」  こんどはちゃんと市村が帰ったのを見とどけて、おもむろにふりかえる。にっと愛想わらいのつもりらしく笑みをみせると、ずらりと金歯があらわれる。 「質入れ?」 「あ、は──はい」 「質草を見せてもらおうかね。物はなに? ふーん、上着と、オーバかい。──いまから、オーバを出しちまって、これから寒くなるのに、いいのかい」  学生は青白いほおを少しあからめて、おずおずと、急に金のいることができて、と口ごもった。マサは笑った。 「そりゃま、質屋にくる客はみんなそうだわよ。ふん……学生さんだね。学生証はあるの──ああ、そう──けっこういいとこにいってんだねえ」  それからマサは、つられたように、自分の甥も同じ大学にいっている、という話をした。 「父親──ってあたしの兄だけどね、それが死んじまってからは、てんで寄りつきゃしないよ。お袋ってのが、腹のよくない女でね。なるべく、かかわりをもつまいとしているんだわね。ムリもないけどね。あたしゃこういうあこぎな商売だし、人に好かれるようなたちでもないからね。いつだって、云いにくいことばかし、ずけずけいうもんだからね。でも性分だから仕方なかろ? もっとも、そのお袋ってのとうちがうまくゆかんようになったのは、あたしがつまんないこと、いっちまったもんで──兄さんがガンになったとき、見舞にいって、そんときゃ、まだ、医者は家のもんにもガンだとはいってなかったのさ。それを、あたしが、手相みてやってね。生命線が切れてるから、こいつは助かんないよっていったのよ。それであねさんが怒っちまってね。いもうとのくせに何てこというかってね。しかしあたしにすりゃ、しょうもあるまい? 嘘はつけなかろ。それで助かりゃまだしものことに、間がわるく、それから一と月ばかしで、ぽっくりいっちまったの。まだ若いんで、思いのほか早く進んだんだね。それをまるであたしのせいのように云って、お葬いにも来るなっていうんだよ、嫂さんが。え、こんな話ってないだろ。どうしたかって、行かなかったわよ。行って、いやみをわざわざきいたってしょうがないやね。ま、あたしは、こういうめぐりあわせなのよ。可哀想にね。あたしのせいじゃない、たって、わかんないもんにゃわかんないね。甥っ子もずいぶん大きくなって、風のたよりにその大学へ入ったってきいたけど、それきりよ。ま、しょうがないね。あたしは天涯孤独になるよう生まれついてるんだよ。しょうもない話をきかせたね。で、いくらいり用なの」  学生は口ごもりながら金額をいった。きくなりマサはからからと笑い出した。 「困ったもんだねえ、学生ってのは。世間知らずだっちゃない。そのお金で新しいオーバが買えるってのに──ま、いいよ、いいよ。初会じゃあるしね。出したげるよ。それ、ひい、ふう、みと、これでよかろ。こっちの紙に、名まえと住所と保証人を書いてね。いいかい、学生さん──あたしのことを、情け深いなんて思うんじゃないよ。あたしは質屋と金貸しを、これでもう四十年からやってるのよ。あこぎでなきゃ、とっくに口がひあがってるよ。このお金はね、あんたを信用してかすんだよ。あんたの人相が気に入ったのよ──それに、あんたが入ってきたとき、うしろに白い光がついてきたからね。あんたは、いいご先祖さんに守られてるよ。ま、そのご先祖さんに貸したげるんだよ。いいご先祖さんをもつのも、本人の甲斐性のひとつだからね」 「あの──あの、何か、なさるんですか、その……占いとか──」  すっかり毒気をぬかれた学生がおずおずと云う。 「そう、ちょっとね。といって、あたしゃもとから霊感がつよくてね。もう少しつよけりゃ、そっちで身を立てたんだが、あたしは一人で新規に何かしてはいけないって運勢で、ま、親ののこしたものを守ってゆくことになったわけさ。いろいろ先生にもついてみたけど、あれで占いってものもいろんな流派があってねえ、それぞれちがうことをいうんだから、やってけないよ。それに、一人の先生につくと、その先生のしてることしかしちゃいけないみたいに云われるしね。あたしは結局ひととおり独学で何でもかじったけどね。人の運命をみるのは面白いよ」 「…………」 「ほんとはいまのやつにも、貸しちゃいけないことはわかってるのよ。あいつの顔に書いてあるのさ。どうせ払えやしないし、いくら待っても心を改めやしないどころか、こっちを逆うらみするような男だってことはね。しかし、あれには病気のかみさんがついてるってことも、占いに出てるしね。そっちは放っとくわけにもいかない。あたしゃ、ほんとは、ああいううそつきをみるとむかむかするんだがねえ。ま、しょうがないよ。こういう商売している以上、そう人をみて貸すってわけにもゆかないしね」 「はあ……」 「かわった名まえだね。東北かどっかの人? ──ま、いい。あんたはいい子みたいだからね。ちゃんと受け出しにおいでよ。あんたはくるけどね。このオーバだって、親御さんのつくってくれたやつだろ。何のひっかかりでお金がいるんだか知らないけど、親御さんの気持を無にするんじゃない。さ、お金だよ」  学生は奇妙な目つきで、頑丈な老婆を見上げた。殺しても死にそうにない、牡牛のような体つきと、野太くかすれた声、紺のセーターの下からみえているラクダのシャツの衿。節のふとい、たくましい手が金をつかんで数えている。その指さきだけが、その体にも手にもそぐわない敏捷さで動く。  学生の妙な目つきに、マサは気づいた。 「何よ。どうかしたのかい」 「いいえ──あの……」 「何よ」 「じゃ、ずっと一人暮らしで──」 「そうよ。この店のうしろのうちで、四十年から一人だよ。それが、どうかしたのかい」 「いえ──」 「一人ぐらしのばあさんの金貸しで、さぞ現なまをもってるだろう、なんて思ったってダメだよ。あたしゃこれで、体力にだけはえらい自信があってねえ。たいていの若い男にゃ勝てるんだよ。腕力でも、度胸だってね。ましてあんたみたいなヒョロヒョロの、飯も満足に食っちゃいないようなのにゃ何がどうあったってやられやしないわよ。はははは──もっともねえ、ときどきあたしゃ思うけど、女ってのは、そんなことをいってちゃ幸せになれないねえ。力もなけりゃ度胸もすわってない、甘ったれの、体もよわいような、泣き虫の女でないと、男は好きじゃないんだねえ。腕力やら体なんぞに、自信なんかもたない方がいい。さっきいった、その嫂さんってのがとにかく、ヒステリーの泣き虫の、男とみりゃくねくねする厚化粧の女だったが、兄きはもうそりゃ大事に、はれもんにさわるようにしてたもんねえ。何でもしてやって、いろんなものを買ってやってさ。あたしなぞ、六十六年間、男からものを買ってもらったことなんて兄さんからさえ一回もありゃしない。そもそも誰もあたしを女となんぞ思わなかったものね。人間てのは、不公平に生まれつくもんだわねえ。ええ?」  学生は返事に窮したていだった。 「そんなこと、若いのにいったってわかりゃしないね。さあ行ったり行ったり。あたしは、忙しいんだよ」  何が忙しいのか、わからなかったが、あわてて学生が店を出ようとするところへ、入れちがいに、一人の女が入ってきた。四十がらみの、そのへんのかみさんといった女である。 「おや、お珍しい」 「遠藤さん、お元気そうで──ご繁盛でよござんしたね。今日はまた一つ、見て頂きたいことがあってねえ」 「こないだみたいなことをいわれたって困るけどねえ。あたしはただ、出てくる卦を、よむばかしなんだから」 「もうあんなこという人はご紹介しないわよ。あのあとあたしも、さんざん云ってやったのよ、川辺さんに──あたしが恥かいちまうじゃないって。まったく、見きわめがつかないんだから、子供じゃあるまいし。あのね、きょうのおたのみはね、あたしの親類なんだけどさあ。うちを建てかえたいっていうんですよ。それで、お金のことなんかもあってね……」 「まあ、おたくのいうことだしねえ、じゃお上んなさいな。くわしいこと、きかせてもらうから、生年月日はわかるんでしょうね」  女二人の声高な話し声をうしろにききながら、学生はそっと戸をしめて外に出た。そして、何となく吐息のような深呼吸をして、空をふり仰いだ。  古い街である。ドブ川の臭いがする。カタカタと板を鳴らして子供たちが遊んでいる。豆腐屋の哀調をおびたラッパがきこえてくる。  暮れなずむ冬の街の路上の一画に、遠藤質店の看板が、ひっそりと沈みこんでいた。古びた看板にも、その上につづく住居にも、どこにも花やいだ色や若々しいにおいは見えない。  学生は寒そうに肩をすぼめて歩き出した。そろそろ師走に近く、どことなく、この貧しげな街々にも慌しい気配が忍び寄りはじめているころである。        2     「おや、学生さん」  十日ほどのちであった。遠藤マサは、上機嫌で、客を迎えた。 「やっぱり来たわね。受け出しにきたんだろ」 「ええ」 「よかったわよ。寒くなってきたものね。オーバなしじゃ、カゼをひくよ」  カウンターのすみの小菊は、粗末な竹かごにいけたさざんかにかわっていた。 「あたしの目に狂いはないね」  きょうはしんとして、来る人の気配もない店の中で、マサはばかに気分がよさそうだ。  利子を計算して、きっちりと、カウンターの上におかれた金をしまうとき、手さげ金庫の中にぎっしりつめた一万円札が目をひいた。 「ほら、これ」  札をはずして、きちんとたたんだオーバーと上着をわたしたマサは、ふと思いついたふうにきいた。 「学生さん、あんた、いま、ひま?」 「え──は?」 「あのさ、きょうは、おやじさんの祥月命日でねえ。おすしをつくったんだけど、ちょいとつくりすぎちまったんだよ。よかったら食べていかないか。いいんだよ、つくりすぎて、困ってるんだから──あんた、見るからにヒョロヒョロでさ。どうせ、ろくなもん、食べてないだろ。食べていかない」  学生はとまどって、マサを見た──もう、突然にそういうことを云い出しても、艶めいた下心をうたがわれるような年でもなければ、そういう外見でもない。  しかし、長いこと、孤独にくらしてきた人間らしく、いかにも人を戸惑わせる唐突さとぎこちなさが、たぶん人恋しいマサの気持ちを裏切って、あいてを警戒させ、ためらわせてしまうのだ。あいてが若ければなおさらに、ひそやかにからみついてくる“孤独”のクモの糸をうとましく思ってしまうこともあるかもしれぬ。  しかしそれだけに、そのクモの糸には払いのけにくい力がこもっていた。それに気のよわさか気のやさしさも手伝って、何となく、学生はマサの招じ入れるまま、奥のへやへ上って、マサの大皿から山もりにとりわけるちらし寿司のお相伴にあずかった。  正直のところ寿司は相当に塩が甘かった。しかし学生はおとなしく、マサのすすめるままに二杯たべた。室の中は乱雑だったがきのうの食器が盆にのせたままになっているちゃぶ台の上には、鶴首にさざんかがさして置いてあった。 「一人だから、誰に気がねもいらんからね。毎日、いいかげんなものですましちまうんだよ。一人ってのは、ごはんをつくるのも面倒なもんでねえ。毎日、テレビばっかりみてるよ」  何となくおさまりのわるい状況にもじもじしている学生を、うれしそうに眺めながら、マサは云った。 「お命日ぐらいはと思って、おすし作ったんだけど、作りつけないもんだから、お酢が多すぎてさ。ごはんを足したらこんどはごはんを入れすぎて、どんどん増えちまったよ。助かったよ。あんたのおかげで。あんたもでも、一食浮いてよかったろう。何なら、折にしてあげるからもっていってよ。一人ぐらしってのも、もう長年でいつもは何とも思わないけど、こういうときには、淋しいもんだなあと思うよ」 「そ──そうですか」 「どうかしら。おすしうまくできてる」 「ええ。あの、と、とてもおいしいです」 「そう。ほんとかい」  マサはひどく嬉しそうにごつい顔をほころばせた。 「たんとたべてよ。いまお茶を入れようね」  お茶を入れかえながら、ぽつりぽつりとマサは話し出した。父のこと、死んだ二人の兄のこと、小さいころしか見ていない、学生と同じ大学にいっている甥のこと──「あんた本当に知りあいじゃないのかい?」──好きなTV番組のこと。  学生はかなり無口なたちであるとみえた。にこにこしながら、黙ってきいている。マサはそれを、ときどき、自分の話に退屈しているのではないかと気にするようにぬすみ見た。 「でもさ、毎日、一人ってわけじゃないのよ。そうだねえ──一と月に一人か二人、知りあいからきいて占ってくれって人もくるし、たまあに知りあいが遊びにくるし。おかしなもんで、質屋の客とあってても、あまり人間にあってるって感じはしないわね。けっこう大ぜい客がきてるのに、考えてみると、けさは一人も人と話してないなあなんてね──やっぱり、向うも、金貸しのばばあときり思ってないから、人間扱いしてないせいだわね、きっと。──それに、あたしゃ、きちんきちんと取立てる方だし、口がわるいから、相当、客にゃ恨まれてるだろうと思うよ。いつ殺されてもおかしかないねえ。家に金もおいてるし、あこぎな金貸しばばあで通ってるし。でも、別に、おしい命でもないからね、犬も飼わないのさ。あたしが犬飼って、もしあたしが先に死んだらかあいそうだし、それに、どうも、長いことこうやって一人でいたせいか、犬があたしを好いてくれなかったらどうしようと思うと、どうもおじけがついてね。──犬にまで嫌われたら、悲しかろ。人間はもう馴れっこで、どうってことないけどねえ。──あたしは変な顔だろう。それでも気だてがよけりゃ、まだよかったんだろうけど、持って生まれた性分で、何でも思ったこと、思ったようにしか云えないんでね。人の気にさわるようなことばかし云っちまう。なら、云わなきゃいいったって、金を借りに来たり、たまに占ってほしいっていってくるのは向こうで、なにもあたしがたのみこんで金を貸さしてくれっていってるじゃなし、一人で占っていろいろわかりゃ、それ以上のことをしようってんじゃないのにね。それを向こうから頼んで来ちゃ、耳のいたいことをいわれるといって怒るんで、まったく、不都合だよ。もっとも、あたしも、だてに年をとっちゃいないからね。いまじゃ、ちゃんとわかってるのよ。人間なんてどうしようもないもんでね。金を借りるときはペコペコしても、返せといわれると、えらくひどいことをいわれたように思うし、占ってほしいというときゃ、必ず卦は自分につごうのいいように出ると信じこんでるものなのよ。ところが、金ってのは、かりたら返さにゃならんものだし、卦ってのはどちらかってえと、わるいのが出る方がはるかに多いもんでね。イヤならはなっから、金はかりなきゃいいし、占いなんぞ見てもらわなきゃいいんだけどね。そこが、どうも人間の悲しいとこだね」  遠藤マサは金歯の目立つ口を大きくあいて、かっかっと笑い出した。何か、奇妙なひびきのある笑いだった。朗らかなような、淋しいような、吹きぬける風のような笑い。  学生は黙ってうつむいている。マサはかまわずつづけた。 「そこへゆくとあたしなんぞは──ねえ、もともと、占いに興味をもったのは、どうして、あたしほど、いろんなものに恵まれない人間と、そうでない人間がいるのか。こんな不公平な話があるかと思ってね。何か理由でもあるんだろうかと考えたからだったけど、やっただけのことはあったわね。何もかもわかった、とはいわないが、いろんなことにあきらめがついてね。人それぞれ、もって生まれた分てものはまるっきりちがう。金持ちで、幸せで、いい旦那と子供にかこまれて、きれいでって、こっちから見りゃ腹の立つようなものもいるし、必ずしも、それが一生のうちどこかで必ず帳尻があうってもんじゃなく、幸せなものはそのまんま、不幸せなものはいっそう不幸せになることも、もちろんそうでないこともあるけど──しかしね、それでも、どんな人間でもいずれ死ぬんだよ。これだけは絶対に、何の不公平もない。生まれて何日、何ヶ月で死んじまう子もいりゃ、若いさかりに事故で死ぬものもいる。天寿をまっとうするものもいるが、それでもね、学生さん、死んでしまやあ仏さまなのよ。よく覚えておおきよ。大切なのはこれだけだよ。死んでしまや仏さま──生きてるあいだの面の皮一枚の出来ぐあいも、ちょっとばかし幸せか不幸せかも、みんな、死んでしまえばどうだっていいことだよ。いろんなものをもってる人間は、それをおいて仏さまになるのが辛いんだね。あたしゃ、何の未練もない。それがまあ、唯一よかったと思うことだねえ」  そしてまた、マサは笑い出した。  その笑いを、学生は、長いこと忘れることができなかった。若いものには、その笑いの真の意味や悲哀が十分にわかったとは、とうてい云えなかったかもしれぬ。若くなくても、少しでも、何かを持っていると自負しうるものには、理解はできたかもしれないが、とてもその笑いをともに笑うことはできなかったであろう。学生は、やせた顔に奇妙な何ともいえぬ表情をうかべて、じっと、金歯をむき出して笑っている遠藤マサを見つめていた。その度のつよい眼鏡の奥の目には、途方にくれた子どものような、泣き出しそうな輝きがあったのである。ちらし寿司の三杯目のお代りは、手をつけられぬまま、しだいに皿の上で固く冷えはじめていた。        3    遠藤マサは、時計を見上げると、「どっこいしょ」とかけ声をかけて立ちあがった。  その年のわりには、非常にといってよい大女である。事実、五尺六寸もあるのだ。そのおかげで、服もなかなか、身にあったものがみつからない。  牡牛のように、彼女はのそのそとおりていって、のれんをしまい、ガラス戸にカギをかけ、カーテンをしめた。それで、夜支度は全部である。さいごに店の電気をけし、手さげ金庫をさげて、へやに戻っていった。  マサは倹約で、余分な電気や暖房は決してつけない。へやは暗く、ひえびえとしている。しかし、電気をつけ、こたつをつけても、一人のへやは大してあたたかみを増しもしなかった。  しかしマサは別に何も感じない。もういっぺん、「どっこらしょ」と声をかけて、はんてんを着、夕刊をわしづかみにしてTV欄に目をとおし、TVのスイッチを入れてから、やおらこたつにもぐりこんだ。その牛のような顔は、どことなく今夜は、満足した老牛を思わせた。じっさい、マサは満足なのである。きょうは、よいことをした。貧乏な学生に、食事をふるまってやったし、そのおかげで自分もいつになく、社交的な一刻がすごせた。それにちらし寿司もムダにせずにすんだ。自分の夕飯は寿司ののこりですましておけばよかろう。きょうは、八時から、楽しみにしている時代劇が、九時からはけたたましいお笑い番組がある。マサは、TV番組については実にくわしいし、熟知している、とさえいってもいいのだ。毎朝店のひらく前と、しめたあとは、TVをみるより他にすることはないのだから、当然といえば当然かもしれぬ。タレントの名まえもよく知っている。こたつのわきには、芸能週刊誌がいつも何種類かつんであるのだ。 「やれやれ、今年の冬はあったかくて有難い」  マサは背中を叩きながら声に出していった。今夜と、あすの朝で、ちらしもなくなるだろう。いつもこういうぐあいにゆけば、作るにもはりあいがあるのだが。あの学生はなかなか特異な人相をしていた。それが示すものはというと──  電話が鳴った。 「やれやれ、どっこいしょ」  マサは不平そうにこたつからもがき出て、受話器をとった。電話のコードが短いので、こたつから出ないと手が届かない。といってこたつを動かすわけにはゆかないのだ。それは、TVの真正面、という神聖な場所をしめているのだから。第一、日ごろ、そうそう電話がよくかかってくるというわけでもない。 「おや、まあ」  マサはいった。 「あら、そう。──いいですよ。どうせ、じゃ、裏口はあいてるから、入って下さい。え? ──あたし? ええ、いつも、寝るのはおそいのよ。ふーん──ま、しょうがないわねえ。はいはい、じゃ、のちほど」  電話を切って、急いでこたつにもぐりこんだマサは、やや不機嫌になっていた。別に深い理由はない。楽しみにしていた、TV番組の邪魔をされるのではないかと思うと、何か、不当な目にあっているような気がするだけだ。  マサが、いそいで腹ごしらえをすましてしまおうと、クイズ番組をみながら、冷たいすしを飯台からそのままぼそぼそとかきこんでいたときだった。  何か、台所の方で、音がしたように思った。 「──?」  マサは、ついでに魔法びんと茶わんをとって来ようと、のろのろとこたつをぬけ出した。  うすぐらい台所へ入っていった足が、そこで止まる。 「あんた……」  さいごまで云い終える前に、頭の上に、何かがおちてきた。  派手な音をたてて、半分はげたリノリュームの床に倒れこんでゆきながら、遠藤マサは、子どものような無邪気なびっくり顔で目を見開いていた。ぽたぽたと何かがしたたり落ちて、ゆっくりと、床の上を赤黒く染めた。        4      その学生が見つかって、つれて来られたのは、もう次の朝になってからのことである。  夜どおし働いた刑事たちは相当、不機嫌になっていた。冬の朝は寒い。  学生は、どうして、自分が捕まったのか、どうしても納得できぬようすで、ぱちぱちと目ばたきをしていた。 「白ばくれるのもいいかげんにしろ」  川田警部は机を叩いてどなった。川田は、若いものをまんべんなく好かなかったのである。 「君が、遠藤マサとさいごに会った人間だってことは、よくわかってるんだ。質屋の帳簿にもつけてあるし、近所の子供も、君が入っていって、何時間かしてから出ていったのをよく覚えている。なぜ、たかが質入れした品物をうけ出しにゆくのに、そんな長いこと、店にいることがあるかね」 「あのう──」  学生はおずおずときいた。彼はどうやら、ほんとうに、何故、自分がつかまえられたのかがわかっていなかったのである。 「遠藤──マサというのは、誰なんですか。──何か、あったんですか……?」 「まだ、白ばっくれるのか」  川田は怒って叫んだ。 「遠藤マサ六十六歳。遠藤質店の店主。副業に高利貸もやっていた。そんなにごまかすなら、全部いってやるがね。遠藤マサは、ゆうべ七時半すぎころ、自宅で何ものかに撲殺された。へやは荒らされ、手さげ金庫がこじあけられて、今月分の収入およそ三十万円見当がなくなっていた。マサは一人ぐらしで、銀行に金をあずけない習慣だった。──一人ぐらしなのに、ちゃぶ台の上には、二人分の食器と茶わんが、洗わぬまま出し放しになっていた。君は、ひるま、マサに口うまく話しかけ、安心させて、へやにあがりこんでようすを見さだめ、夜、戻ってきてマサを撲殺し、金をとって逃げた。そうだろう」 「と──とんでもない!」  学生は叫んだ。かれは、遠藤マサが質屋の店主だったことをきき、それが撲殺されたときいたとき、ぴくりとからだをふるわせたが、あとはじっくりとうなだれていた。それが、川田たちの目には、いかにもしぶとくしたたかなようにも、案外に早く見つかったことに仰天しつつ、あいてがどのていど証拠をつかんでいるかをじっと見きわめようとしているたいどにも見えた。 「金貸しの老婆殺しか。──でも、ぼくはラスコーリニコフじゃありませんよ」  ようやく、ようすがのみこめて、少しおちついてきたらしい。学生は小さな声でいった。それは、川田を、よけいにむっとさせただけだった。 「こいつは何をいっとるんだ」 「ラスコーリニコフですよ。ドストエフスキーの──『罪と罰』の主人公です。たしか主義主張のために、金貸しのばあさんを、殺してしまう学生です」  大学出の若い刑事が川田警部にそっと云った。 「主義主張のために──だと?」 「ラスコーリニコフは、将来有望である自分が生きのびるために、虫けらのようにねうちのない金貸しの老婆の生命が捧げられたところで当然だ、と考えるんです」  学生はよけいな口を出した。 「でも、ぼくは、ラスコーリニコフのような考えかたは好きになれませんし、遠藤マサさんは、ぼくに親切にしてくれました。おすしをごちそうしてくれて──どうして、ぼくが、あのおばあさんを殺すなんてこと──」 「とにかく君がさいごに被害者に会った人間だし、常日ごろ、被害者はきわめて警戒心がつよく、知らぬ人間は決して家に上げたりしなかったことはもう調べてあるんだ」 「誰だって、ふっと淋しくなって、いつもの習慣にないことぐらい、することだってあるんじゃありませんか。それに、殺しがあったのは、いつですか。もし昨夜六時以降だったら、ぼくは、アリバイがあります。証明できます」 「アリバイだと?」  怒って川田は唸った。 「まったく、ちかごろの学生なんてものは松本清張なぞを読んでるおかげでアリバイだ指紋だと、生意気になっていかん。昔は、そんなことば、警察関係者のほかに知ってるやつはいなかったもんだ──それを云ってみたまえ」  学生はおとなしく、ゆうべいた場所と、一緒にいた人間の名まえをいった。川田はあごをしゃくった。 「確かめろ」 「はい、警部」  あわてて部下がかけ出してゆく。そのまま、気まずい沈黙がおちる。 「──それにしても、ひどいことをする」  川田がぼそぼそと云った。 「メッタ打ちだ。どういう動機でか、ものとりが見つかってか、金のとりたてにからんでのいざこざか知らないが、頭も肩もめりこんでしまうくらい、何回もなぐりつづけている。台所ときたら、血の海だった。一人ぐらしの婆さんを──人間というのは、ときとして、どうしてこうも残酷になれるものかね」 「あの人は、大柄な、たくましい人でしたよ。年をとっても、体力だけは自信がある、といってた」  学生がいった。 「ぼくがあの人を、そんなふうに殺せるように見えますか」 「いや──しかし、憎しみってやつは、どんなことでもさせるからな」 「ぼくは、あのおばあさんを嫌いじゃなかった」 「口では、何とでもいえるさ。──近所の話じゃ、相当あこぎな取立てをするといって、かなりたくさんの人間のうらみをかっとったそうじゃないか。まあ、きみがアリバイが証明されても、たぶん、すぐに犯人は見つかるだろう」  いくぶん軟化してきたように川田はいった。学生はおとなしく川田を見上げた。 「お金、全部とられていたんですか」 「小銭までのこらずだ」 「ぼくのアパートを調べてみて下さい。どこにも、そんなお金はないはずです」 「かくそうと思えばどこにだってかくせるし、偽名で口座だってつくれるからな」 「だって、殺人があったのが夜なら、そのあとけさまでに口座はつくれませんよ。銀行がしまってるから」 「理屈をいうんじゃない。その気になりゃ友人にあずけたり、ロッカーに入れたり、いくらでも手がある。金が出てこなくても、それは──」  そのとき、若い刑事が入ってきた。そのささやくのをきいて、みるみる川田は不機嫌に眉をくもらせた。 「わかった」  口をへの字に結んで、ゆっくりと学生に向き直る。いかにも、認めるのがいやそうに云った。 「残念ながら、きみのいったとおりのようだな。アリバイ成立だ。もう、帰ってもいいぞ。──おい、また、一から洗い直しだ。金貸しの帳簿をもって来い。借金のこげついてる客を、大口から一人づつ洗い直してみよう。──何をしてる」  学生がそこにぼんやり立っているのをみてどなる。 「もう、帰っていいと云っとるだろう」  あわてたように、学生は立ちあがった。しかし、妙に名ごりおしげにうろうろしている。 「何か、用かね。それとも、無実のものをひどい目にあわせたと、わびでもいってほしいのか。なら、あとにしてくれ。こちらはいま、忙しい」 「…………」  学生は、何回か、口を開こうとした。しかし、やがて、思い直して、とぼとぼと出ていった。 「変なやつだ」  川田はどなった。ことが、思ったとおりの早期解決に向かわなかった、腹立ちまぎれも含まれていたかもしれない。 「どう考えても、挙動不審なんだが──ま、アリバイがはっきりしている以上、尾行をつけるまでのこともなかろう。反抗的な目つきをしおって──何が、ドストエフスキーだ。だから、わしは、学生は好かん」  川田の云い分は不当だったかも知れない。しかし、その翌日、その学生は、もういちど捜査本部にやってきて、まっすぐに、川田警部と会わせてくれ、と申し入れたのだった。  捜査陣はびっくりしたが、あるいはかれが一日たって悔悛の情にかられ、何もかも告白する気になったのかもしれないと、それをうけつけ、川田の室へ彼を通した。  そこで、学生の話しはじめたことばを、はじめは遊び半分、爪など切りながらきいていた川田だったが、やがて、少しづつ、真剣な顔になり、すわり直し、ついには身をのり出してききはじめた── 「何もかもが、ごくかんたんなことでした」  やわらかな小春日の日ざしの中で、おちついた、低い声がひびいていた。 「しかし、急がなくてはいけないとぼくが思ったのは、いまならまだ間に合う──そうでないと、日がたつにつれ、痕跡も衝撃もうすれ、見わけがつかなくなってしまう、そう思ったからです。実のところこういう事件こそが、いちばんまちがいを生みやすいのではないでしょうか。被害者は、あこぎといわれた金貸しで、一人ぐらしの狙われやすい立場で、強盗をさそうかのように、つねに手もとにはたくさんの現金がありました。ぼくがいちばん心配していたのは、冤罪のことです。遠藤マサさんの帳簿には、いくらでも、警察がよろこんで容疑者としてリストアップできるような、たくさんの借金をかかえてにっちもさっちもゆかなくなった人物が書かれていました。マサさんは、あこぎといわれていたし、そうでなくても金貸しとあこぎのイメージは結びついたものです。警察でなくても、犯人は金をかりた人間か、金を必要とする人間で、動機も金であろうとは、すぐに思ってしまうところです。  しかし、誰も遠藤マサさんを、そんなふうに近しく知ってはおらなくて、ごくごく単純に高利貸──あこぎ、と考えていましたが、ぼくのみたマサさんはそんな人ではなかった。げんにぼくの前の客が何ヵ月も払いをとどこおらせて、云いわけにきていたのですが、それへさんざんいやみや文句をいいはしたものの、そのまま、十日待ってやることにして、利子ひとつとらずにかえしてやっていたのです。マサさんはいい人、やさしい人だったとぼくは思います。折々の花をそっといけておく、つつましやかな女らしさをさえ、ちゃんと持っている人でした。ただ、云いたいことを云ってしまうからこそ、そんなにじっさいはやさしいのに、誰からもそのよさをわかってもらえない、損な性格の人だったのだと、ぼくは思います。  それに、大してお金に執着のある人でもなかった。金目あての強盗が入ったら、あっさり金をわたしたであろうし、それに、大体、金が目あてなら金庫ごともってゆくでしょう。その場であけていてはいつ人に見られるかわからない。金のとりたてにからんでの感情のもつれなら、証文や帳簿をもっていったり焼きすてて、犯人をわからなくしようとするのが常道です。それとあの、ひどい殺しかた──ぼくは、そうときいたはじめから、これは、金をとっていったのは目くらまし、強盗か金めあてにみせかける小細工で、ほんとうの動機は、金がらみではなく、ただ憎しみであろう、そう思っていました。  しかし、商売がらみでないとすれば、四十年の余も一人ぐらし、とりわけ親しい友もなければ、深くつきあった男性もいないマサさんに、どのような憎しみがあるでしょう。憎しみのためには、深い関係が必要です。兄の家族とさえ長年付合っていない孤独な彼女には、何も憎しみを生むに足るような人とのかかわりがない。なんと、淋しい生でしょう。  そこで、ぼくは考えたのです。これは、マサさんのもう一つの副業、というより唯一の趣味──占いがかかわってくるのではないかと。占ってほしいとき、人はつねに、自分の愛憎、不安、欲望や懸念を、占い師におっかぶせて、楽にしてもらおうとしているのです。それだから、不吉な予言しかできぬ予言者、アポロンの呪いをうけたカサンドラは、つねに人にうとまれ、遠ざけられ、ついには殺されてしまう。  ぼくの心にうかんできたのは、この、ギリシャの不幸なカサンドラの物語でした……」 「──倉林という男は、自供しましたよ、われわれの姿を見ただけでへなへなとして」  川田は嬉しそうに云った。 「奴は、三ヵ月前に、十九の一人息子を事故でなくしているんです。絶望した彼の妻は、病身だったこともあって、息子のところへゆきます、と遺書をのこして首をつりました。倉林はあいついで妻子をなくし、一人ぼっちになったのですが、もってゆきどころのない気持を、不当にも被害者に向けたのです。というのも、二十年前、結婚するとき、たまたま妻の実家というのが遠藤マサの家の同じ町内で、マサに相性をみてもらったところ、とてもわるい、必ず将来ひどく不幸な結果を迎える、といわれて、実家に反対された。それをおしきって結婚したのですが、旦那の方は、心のどこかにずっとその予言がひっかかっていたんだそうです。こうなったとき、何だかすべての不幸が、あのマサの予言のせいのような気さえしてきて、どんどん、そう思いつめるうちにマサさえよけいなことをいわなかったら、まだ妻もかわいい息子も何ごともなく、元気でいたのだ、と思いこむようになっていった。そこで、あの晩ついに妻子の“復讐”に及んだ、とそういうわけです」 「ああ」  青年はしずかに云った。その声には、何か云いしれぬ悲しみがこもっていた。 「そうですね──だから決してあだやおろそかに占ってもらおうなどと思うものじゃない。人は、いい予言はあたって当り前、わるい予言は、あたるとまるでそれがその予言をした人のせいのように思いこむものなんです。自分では、自らの運命をうけとめるだけの力のない人はことさらに。──マサさんは勇敢な人で、自分の不幸な生まれや運命をそのままうけとめていた。だから、人も当然そうすべきだと、云いたいことを云い、出たとおりの卦を、ことばをかざらず伝えた。それゆえ、彼女は、わるいことばをききたがらぬ人々のうらみをかうことになった。ぼくは、それがわかったので、さしで口ながら警部さんに彼女のつけていた占いのノートから、最近に不幸のあった人をさがして、洗ってみて下さるようお願いしたのです。──マサさんは、『死んでしまえば仏さま』とよく云っていましたよ。いまごろはおそらく、すっかり悩みも苦しみもなく安らかになっているでしょう」  かれの目にうっすらと涙がうかんでいるのを川田はみた。そしてふしぎそうにきいた。 「失礼ですが、あなたは──」 「伊集院大介──といいます」  学生は云い、そっと目をふいた。その眼鏡の奥の目は、きれいな澄んだ光を湛えていた。 「ただの学生です。遠藤マサさんと、ひょんなことから知りあい、おすしをごちそうになったというだけの。──ぼくは、彼女が好きでしたよ。可哀想なカサンドラ。──彼女がぼくと話をして、そのさいごの日が少しでも楽しいものだったのならいいのですけれど。人は人の運命をもてあそぶべきじゃない──彼女にとうとうわからなかったのは、そのことだったのですね」 (END)