柳 美里 タ イ ル [#表紙(表紙.jpg)]   タ イ ル  部屋の明かりを枕もとの電気スタンドだけにして横になり、週刊誌をひろげると、〈極度の無気力状態から女を目醒《めざ》めさせるものはなにもない〉という連載小説の一行が目に飛び込んできた。男は全裸でベッドに横たわる女になり、現実の世界から遠く離れた。この女は何日も何日もベッドの上でひとりの男と体を合わせている。男は小説のなかの女と自分の精神状態が酷似《こくじ》していることをうれしく思い、息を止めるようにしてページをめくった。この作家がおれのことを知る可能性はどれくらいあるだろうか。編集者はうわさ話をばらまくのが楽しみで阿呆《あほ》臭い作家とのつきあいをなんとか持たせていると村上がいっていた。まぁいい、重要なのはこの小説のなかにおれが存在しているということだけだ。それにしてもどうしてこんなに暑いのだろう、エアコンがぜんぜんきかない、この部屋も小説のなかの部屋も八月だということが単なる偶然だと思えない、暑い。  不動産屋に空室を案内してもらい、三つの物件に足を運ぶと、陽当《ひあ》たり、収納の数、駅までの距離などの条件を比較するのに嫌気がさし、となり近所とつきあわないで済む十二万円以内のワンルームであれば見ないで即決すると伝え、ファックスで送られてきたこの部屋に昨日引っ越してきたのだった。前の住人が残していった白いブラインドのひもを引いてガラス戸越しに外を見たとき、二十メートルしか離れていない線路を走る山手線の吊革《つりかわ》にぶらさがっている乗客と目が合って組み立てたばかりのベッドに倒れ込んで後悔したが、腕時計を見て時間を計ると、ほぼ三分の間隔でやってくる電車の音に奇妙な力を与えられるのを感じた。百八十秒に一回、通過音はメッセージをくれる。そのうちになにを伝えているのかわかるようになるだろう、それがひとびとの悲鳴か罵声《ばせい》かの区別ぐらいは。  男は軽いあくびをして週刊誌を置き、眠ろうと試みたが失敗し、思い切ってベッドから体を起こした。  嵌《は》める、そうつぶやいたことも薄笑いを浮かべたことも男は気づいていなかった。反対方向からくる電車が通過し建物が揺れ動くような轟音《ごうおん》を背中に浴びて、男は鍵《かぎ》のぎざぎざを指で撫《な》でて穴に差し込んだ。カチャリと鍵がかかる音を聞いて満足して今度は意識的に笑い声をあげた。三時二分を指している腕時計をつけた右腕をゆっくり振りまわしながらエレベーターの前を通り過ぎ、階段を使ってロビーに降りた。管理人室の小窓には食事中という札が立てかけられている。陽射《ひざし》がべっとりと貼りつき遠近を失った街並を眺め、首を左右に振ったあと男はマンションの前で一瞬立ちすくんだが、ふたたび通過する電車の音に感覚のすみずみまで揺さぶられ、コンビニで買わなければならない台所、浴室、トイレの洗剤、歯ミガキ、せっけん、トイレットペーパー、ゴミ袋などを頭に刻み込んでから歩き出した。  背中がひりひりして後頭部がドライヤーの熱をまともに受けたように熱い。とかげが目の前を走り、まだ夜の部がオープンしていないレストランのテラスの植木鉢の陰に隠れたような気がして、男は膝《ひざ》を折ってのぞき込んだ。「なんだよぉ」という声がして首をひねると、コック服の若い男が立っている。「とかげ」とぼんやりした声でいうと、「こんな都会にいるかよ、こっちにきて五年になるけどよぉ、おれ見たことないもん。おれんとこの田舎だったらさぁ、石垣に二、三十匹のとかげが出たり入ったりしてるけどよ、いないいない、いるわけねぇだろうが」となか指をおや指で弾《はじ》いた。男には若いコックがせせら笑っているのか感傷にふけりたいのかわからなかったが、「あっいる!」と小さく叫び、「まじかよ」と両手をついてひざまずいた若いコックを残して歩き出した。  マンションから五分も歩けば若者たちが蝟集《いしゆう》するファッションの街がある。男が歩いている場所は住宅街だが、それでもあちこちにアパレル会社が点在している。このあたり一帯をすべて飲み込んでしまうはずだった開発の波がいつのまにか失速して中途半端に取り残されたという印象がする場所だ。到底販売が目的だとは思えない商品の見本を飾っているショーウインドーを、妻の読みさしのファッション雑誌をパラパラとめくるように眺めながら歩いた。妻は男がめくった指の痕《あと》や食べ物の屑《くず》が付着しているページを見つけると、口には出さないが決まって左|眉《まゆ》をわずかに吊り上げた。妻はいったいいつごろから怒りを冷凍しておくようになったのだろうか、男は記憶をたどってみる。ことあるごとに鮮度のない怒りを解凍してその場の雰囲気に合わせて調理しては男に差し出すのだった。男のなかで妻の記憶がどろりとした憎悪に解けて動き出し、彼女がはじめてはっきりしたキャラクターを持った女として立ち現れたように思えた。額から瞼《まぶた》に汗が流れ落ちて目をしばたたかせ、男は暑さに身ぶるいした。右腕の肘《ひじ》を曲げて顔に近づけると鳥肌がたっている。妻のせいでできたのか、暑さのせいなのか、「場合によっては」と声に出し、太陽に向かって目を細めてつぎの言葉が押し出されるのを待ったが、なにも思いつかずただ口をぽかんと開けただけだった。  突然つばも飲み込めないほどののどの乾きを感じて自動販売機を探したが見当たらない。血走った目を左右に動かしながら歩くと、交差点の角に販売機があるのを見つけて走り出したい衝動に駈《か》られたが、男の脚の筋肉ははっきりとした拒絶を示した。自動販売機の前のビルから、下駄を履き髪にかんざしを何本も突き刺した女や、大きな造花を髪に挿したロングスカートの女の一団が流れ出てきた。販売機の前にはラッパースタイルの男たちがたむろしている。糞《くそ》ッ、と毒づいて販売機を通り過ぎながら見上げると、〈現代デザインスクール〉とレリーフされた看板がかかっていた。場合によっては、この道は歩かないようにしようと心に決めた。いつごろからそうなったかはあやふやだが若い男女を見ると殴りつけたくなる自分に不安を感じ、彼らが視界に入るたびに落ち着かない気分に陥《おちい》る。いまもあの男たちを殴りつければ暑さものどの乾きもふっ飛ぶような気がして、なんとかこの道を通らないで済む方法を考えなければ、と自分にいい聞かせた。  大通りに出て、車道の向こう側に伸びた男の視線は〈ローソン〉で留まった。左右を見て通り沿いにある薬局と〈サブウェイ〉を記憶してから、横断歩道を渡って〈ローソン〉のドアを押した。いつもなら蛍光灯の下に立つと頭からレントゲンをあてられたような不快な気分になるのに、陽射に視神経をやられたいまはやわらかで透明感あふれた光に感じられる。汗で湿った首の骨あたりが冷気にさらされて急速に乾いてゆく。この店の設定温度は何度なのだろうかと男は店内を見まわした。妻は真夏でも真冬でも室温を二十度に設定していつもカーディガンを羽織《はお》っていた。繰り返しフラッシュバックする妻の記憶を振り払い、レジ前の棚から単1、単2、単3の電池と延長コードをつかみとってかごに入れた。コンビニに入るたびについ電池に手が出てしまうのは、テレビのリモコンや目覚し時計や電気カミソリの電池が切れたときに買っておけばよかったと後悔するのがいやだからだ。棚を移動して、ティッシュペーパー、トイレットペーパー、トランクス、靴下、ランニングシャツを入れるとかごはいっぱいになった。入口に戻ってかごを二つ持ってきて一つは通路に置き、もう一つにシャンプー、せっけん、歯ブラシ、歯ミガキ、洗剤類をかたっぱしから放り込んだ。品物に手を伸ばしてかごに入れるときの腕の筋肉の伸び縮みが心地よく、男は八年ぶりに自分ひとりで占領する部屋を思い浮かべ、うずくような快感がこみあげてきて飲物コーナーに行き、ウーロン茶、アイスコーヒー、アイスティーのペットボトル、コカ・コーラ、トマトジュースの缶をかごに入れた。ファンタグレープをつかんでふたを開け、ひと息で飲み干すと目の奥が痛んだ。空缶の始末に困ったが、ファンタ一缶で正気を取り戻しまちがいのない判断をくだせるのは喜ばしい、とかごのなかに投げ込んだ。楽しくやっていける。男はみなぎってくる力を感じとり、ローラースケートでスーパーマーケットを走りまわるアメリカ映画のシーンを思い出し、空のかごを手にしてすべるように通路を動きながら手あたり次第に商品を詰め込んだ。  四つのかごをレジ前の床に置き、その内の一つをカウンターにのせた。中年の女店員はつぎつぎにバーコードを読み取り機に押しつけていく。男がかごが空になったのを見計らってつぎのかごを持ち上げると、店員はバーコードの読み取りに集中しているふりをして目のすみで一度に大量の買物をした男の顔を盗み見た。三つめのかごの空缶を手にした店員は顔をあげ真正面から男の顔を見て、となりのレジの若い男の店員に救いを求めた。ひと目でバイトだとわかる若い男はレジを移動して黙って商品を袋に詰めはじめた。 「それね、飲んじゃった。金は払いますよ、バーコードのその機械なんていったっけ?」  店員は空缶を手に持って読み取り機に目を落としたまま答えない。その顔が赤らんでいく様を目にした男は口笛を鳴らしたいほどの喜びがこみあげてきた。 「知らないの? そう、とにかく計算してよ。空缶は棄《す》ててね、持って帰ってもしょうがないから。お手数かけて悪いけどのどが乾いてがまんできないことってあるでしょう、あるよね。あっ、そうだ、それバーコーダっていうんじゃなかったかな、ちがった?」  いい終わらないうちに店員は読み取った空缶をカウンターのすみに置いた。男はこの女のこめかみに読み取り機をあてるとどんな数字が出るだろうと想像して、しゃっくりのような笑い声をたてた。 「一万六千八十二円です」店員はぱんぱんにふくらんだ七つの袋を前にして怒りを隠そうともしないでいった。 「持てないなぁ、無理だよねぇ、どう思う?」男は左の耳たぶをつまんで首を傾《かし》げた。硬直して動こうとしない目の前の女への憎悪が錨《いかり》のように垂直に下りてきて、男は高いところに立ったときの足のかゆみを感じ、「持てないよなぁ」とつまんだ耳たぶをこすった。  店員は銀色のマニキュアが光る爪でレジの縁を叩きながら、 「一万六千八十二円です」その声にはキチガイ、カネハラッテハヤクデテイケという副音声が入っていた。  男はポケットから何枚かの折りたたんだ札を取り出し二万円を抜いたが、「どうやって運ぶんだろうな、どう」と店員には渡さない。 「持てる分だけお持ち帰りになったらいかがですか。持てない分はお預かりしておきますから」 「なるほど、それマニュアルなの?」  店員の顔はストッキングでもかぶったように一瞬にして憎悪で歪《ゆが》んだ。 「なるほどね、そういう手もあるよね。でももう一度ここにとりにくるっていうのはどうかなぁ。暑いし、すごくたいへんだよね」そういって男は外に目をやった。決定的瞬間を撮《うつ》しとった写真のようにガラス戸の向こうでは夏が静止している。 「もう一度とりにこいなんてよくいえるな、キサマ」男は夏に顔を向けたまま静かにいった。歩道から灰色の影が押し寄せてきたかと思ったら、陽光が波のようにそれを打ち返し、ふたたび影が路面を覆い尽くしたとき、男は恐怖を感じて目を逸《そ》らした。 「返品できるかな」 「どれとどれを返品なさいますか?」店員は顔の歪みを修正して早口でいった。  男は二つの袋を持ち上げ、一品ずつもとの棚に戻した。支払を済ませてカウンターの上の袋を二つ、カウンターの内側にまわり込んで店員の足もとに置いてある袋を三つ腕にかけて店を出た。  首をひねって空を見上げると、太陽は男の頭上で傾くことを拒否してぶるぶるふるえていた。いまごろ妻は後悔しているにちがいない、そうでなければ記憶からこう何度も妻の顔が這《は》い上がってくるわけがない、あとで送るといった荷物が届かないのはもとの鞘《さや》に収まることを期待しているからだ、と男は思った。  妻は65�の2DKのマンションを所有していた。名義上は彼女の父親のものだったが生前贈与と同じことだ。どちらがそのマンションで棲《す》もうといい出したかははっきりしないが、結婚を決めたのは妻だったということは断言できる。同棲して三ヵ月|経《た》ったとき妻がいった言葉を忘れていない。  結婚したいの?  もしあのとき否定していたら妻はどういう反応をしただろうか、と考えて男は少しだけ自信を取り戻した。離婚をいい出したのも妻のほうだった。  離婚したい、そうなのね?  そうなの、と妻に訊《き》かれたのだからそうなのだ。そうなのね? そうさ。離婚に同意してあらためて部屋を眺めると、いっしょに暮らす以前から鎮座《ちんざ》している妻の所有物から男の物がみすぼらしく浮き上がって見えた。同棲してから買った物のなかで所有権を主張できる物があるだろうか? ベランダのパラボラアンテナから29インチの大型テレビに目を移し、二年前近所にオープンしたディスカウントショップで買ったとき、足りなかった四、五万円を妻が出したことを思い出した。  テレビが欲しいのね、そうなの?  と妻に訊かれ、ああ持って行くよ、と思わず声を荒らげてしまい、男ははじめて離婚の実感がこみあげてきて滲《にじ》んだ涙を気取られまいと背を向けたまま立ち上がった。  デザイン専門学校の前の通りを避けて、およその見当で最初の角を右に折れ、十分ほど歩きつづけても茶色い屋根瓦と白い壁の七階建のマンションは目に入ってこない。男はまだ番地もマンションの正式名称も憶《おぼ》えていなかった。左手の肘《ひじ》の内側にビニール袋が食い込み、右手の指先は千切れそうだ。舌がざらつくほどのどが乾いている。男は袋のなかのウーロン茶を取り出そうと思って、狭い庭から枇杷《びわ》の樹が這い出るように伸びて道に濃い影を落としている民家の石段に袋を置いた。腰を下ろそうとしてつまずき、前にのめって両手についた泥をズボンにこすりつけて袋からボトルを取り出し、胃が苦しくなるまでウーロン茶を飲んで自分の頭にかけた。首から胸へ、背中から腰を伝って流れ落ちトランクスに染み込んでいく。目に入ってあわてて手の甲でぬぐったが痛みは強く、男は何度も目をしばたたかせた。ウーロン茶の冷たさは瞬間に失《う》せ、小便を洩《も》らしたときのような不快感が鳩尾《みぞおち》のあたりまで迫《せ》り上がってきて、男はボトルを前の家の自転車めがけて投げつけた。 「なにしてるんですか?」  声のほうに顔を向けると、同窓会に出席した主婦という感じの派手さと固さがアンバランスな服を着た女だった。説明しようとして口をひらいたが声が出てこない。汗とウーロン茶のしずくが指先から石段に落ちて染みをつくっていく。 「どうも……昨日、このへんに引っ越してきたんですけど、道に迷ってしまいまして」 「どいてください、わたしの家です」女の声からは湯気が立ち昇っている。 「暑い、そう思いませんか、奥さん。でね、まだ番地をおぼえていないんです。茶色の屋根が目印のマンションなんだけど、どこにも見当たらない。この荷物でしょ、それにほら、この暑さ、どうしたらいいんでしょうね」男は体のどこかが痙攣《けいれん》しているのを感じて眉をひそめた。 「交番で訊いたらいいでしょう」とつねるようにいうと女はぐいと前に出た。男は体をかわし女に階段をゆずって袋をとろうと身をかがめたとき、階段を上がるスカートのすそと剥《む》き出しのふくらはぎが目に飛び込み、痙攣が全身にひろがってうなり声を発し、女のスカートをつかんでまくりあげ、石段を飛び降り、袋を拾って走った。女の金切り声に背中を突かれてスピードを早め、頭をのけ反らせて笑い、笑いながら袋を一つか二つ置き忘れてきたことに気づいたが惜しむ気持ちはなかった。  角を曲がって速度を落とし、壁に肩を寄せて様子を窺《うかが》うと、女は石段の下で額に右手をかざしてじっと正面を見詰めている。その足もとで娘だろうか、七、八歳の少女が男が忘れた袋の中身をのぞき込んでいる。男は体を折り曲げて咳《せ》き込んだ。胃をぎゅっとしぼられたような痛み、吐こうとしてもなにも吐き出せず口のはしからよだれが垂れ、ふたたび咳き込んで両手で胃を押さえた。痛みがひくのを待って電車の音がする方向へ向かい、線路沿いの道に出て十五分ほど歩いたあとにマンションの茶色い屋根を見つけた。  鍵が鍵穴にぶつかってなかなかまわらない。男は自分の手がふるえているのを眺めた。ドアを開けると部屋のなかは薄暗く、男は明かりを求めて壁を手探りした。すぐにまばゆい光があふれ、ドアにチェーンをかけて靴を脱いだ。汗とウーロン茶で肌に貼りついたシャツのボタンをはずしてクーラーのリモコンを押した。設定温度を二十度にしてズボンとトランクスを下ろし足で踏みつけて脱いで浴室に入った。  シャツをむしりとってシャワーの栓《せん》をひねる。頭、胸、背中の順に水を浴びワンルームにしてはひろい浴室を見まわし、水色のタイルが床と床から八十センチほどの高さまでの壁に貼られていることに気づいた。べとつく汗の膜を流してシャワーを止めると黴《かび》の臭《にお》い、男は裸のまま外に出て机の上の眼鏡をかけ浴室のすみずみを点検した。タイルの目地は煙草《たばこ》のやにを押しつけたように赤茶け、浴槽と壁とのあいだには黒い黴が生えている。ふたを開けると浴槽の内側に蜘蛛《くも》がへばりついていた。膝でどんと突いて脅すとゆっくりと動きはじめ、止まった。熱湯をかけて排水溝に流してやろうと考えたのを察知したのか、飛んだ、と思ったほど素早く蜘蛛は排水溝のなかに消えた。  ふたたび浴室から出てコンビニの袋をひっくりかえして洗剤と歯ブラシとスポンジを拾い上げた。洗剤を便器、タイルの床、壁、洗面台、浴槽に万遍《まんべん》なくかけ、右腕に力を込めて歯ブラシでタイルの目地をこすった。  一時間かけても床と壁の目地の黴を落とすのがやっとだった。腕がしびれて掃除をつづけることができず、シャワーの勢いをめいっぱい強くして床、壁、便器、浴槽の泡といっしょに体にはね飛んだ泡を洗い流すと、妻に離婚を持ち出されてから断続的に襲いかかってくる鬱《うつ》状態もきれいさっぱり消え失せた気がして全身の力が抜け、床に腰を下ろすとそのまま仰向けに倒れた。ぴったりと尻に貼りつくタイルの感触が快感を呼び寄せ、それがつま先から頭のてっぺんまでひろがっていく。勃起《ぼつき》する──、だが目を瞑《つむ》って意識を集中させてもその気配はやってこない。男は起き上がってシャワーの栓をひねり、勢いを弱くし温度を調整してからまた仰向けになって湯を体にかけつづけた。シャワーヘッドを股《また》にはさんでペニスにかかる湯の感触を楽しんでみる。唇からわずかにうめき声が洩れた。  電車が二度通過してから男はうつ伏せになり、ペニスをタイルにこすりつけた。 〈まぶたに汗がとびちったのでうす目をあけるとシーツに両ひざをついてこしをうごかしている隆之のまえがみはぐっしょりとぬれている。美香は両手を隆之のくびにからませて自分のからだにひきよせた。美香の指先が汗ですべり隆之ののどからあごへとはいあがって口のなかに入った。美香のひとさし指は隆之の舌とだえきでとかされ胸とむね腰とこし脚とあしはたがいの養分をすいあげるようにぴったりと重なりあっているのに隆之のペニスは小つぼにかくれたなんたい動物のようにのたうつだけだった。美香は隆之の口から指を抜き頭を持ちあげて唇にくちびるをあわせると口いっぱいにたまっているだえきを舌の先ですくってのみ隆之の舌を強くすった。無音のあえぎがおえつに変わり上半身が小きざみにふるえ出したかと思うと隆之はシーツに顔をうずめて泣き出した。快楽はないでいき美香は背中をさすりもう片方の手で耳のうしろをなでてやる。隆之はいつまでもすすり泣いている。美香は隆之の不能をたがいにクライマックスに達することなくついえることを性の壊れとは考えていなかった。性的能力を失ったときに隆之をおそった絶望の深さにただおどろいただけだった。隆之はほかの女とおなじように美香もまた官能にのたうつ男根につらぬかれなければ夜を生きられないと本気で考えているようだっだ。 「どうしたの」美香はきいた。 「わからない」シーツを頭からかぶって壁にもたれかかった隆之の声はうつろだった。 「とつぜん?」 「わからないよ」  何日かあとに隆之は思いつくすべての方法でかいふくさせようとこころみた。美香もこれまで身につけたことがないようなランジェリーを買いそろえてマンションのエレベーターや駐車場や非常階段のおどり場でていこうしたりちょうはつしたりして隆之の指だけでいままでになかったくらいみだれのぼりつめた。しかし隆之はズボンのファスナーをおろそうとすると急に萎《な》えひざまずいてスカートのなかに顔をうずめてごめんごめんとうめきつづけた。  ある夜美香が帰宅して玄関のドアをあけると部屋のなかはまっくらで女の笑い声がきこえた。つま先立ちで近づくと隆之はソファにすわってテレビの画面を見つめていた。  海のなかにこしまでつかっている少女が正面をむいてほほえんでいる。  白いTシャツに白のオーバーオールをきた少女がスニーカーをあらっている。  少女がひまわりにホースをむけふき出した水が光のしずくになって画面にとびちる。  スクール水着姿の少女がハンモックで眠っている。  観葉植物のかげからしのび寄ると隆之はマスターベーションをしていた。  黄色い花がプリントされたブルーのミニスカートをはためかせて少女が波打ちぎわを歩いている。くだけた白い波をける少女のほっそりした素足。少女は両手をひろげてくるくるかいてんする。  美香は隆之の肩から目をそらし波音とカモメのなき声をきいた。隆之がイクことができたら喜ぶべきなのだろうか。テレビの光が壁や天井をてらしてひとりでチェックインしたラブホテルのように部屋はこうりょうとしたさみしさでみたされている。世界をこばみながら自分だけは世界にうけ入れられていると信じてうたがわない少女のあまったるい声が美香のこまくをはねた。  貝がらはっけん  とつぜん唇をふさがれブラジャーにさしこまれた手が乳房をもみしだきもういっぽうの手はふとももから尻にはいあがって尻の割れ目にすべりこみさらにおくへと侵入しようとするが恥骨に押しつけられたペニスはやわらかいままだ。  もうひとつ貝がらはっけん  美香は隆之のあごにかみつきくびと肩をかみシャツのなかにもぐって乳首をかみ下におりてこしと尻をあまがみした。  少女の笑い声が部屋中にこだましている。〉  館内案内板を見ても、男にはタイルに関する本が何階にあるのかわからなかった。レジに行くと十人以上が列をつくっている。なぜ昼間に書店が混んでいるのか不思議に思って、いちばんうしろの若い男に近づいて顔を寄せた。 「どうしてこんなに混んでるんです、変じゃないですか」  学生風の男は一歩あとずさり、「日曜だから」両端を握った雑誌を胸まで持ち上げた。 「なるほどね」男はカウンターに行き、カバーをかけている書店員に声をかけた。 「ちょっとお訊きしたいんですが」  書店員は顔をあげようとしないで本に輪ゴムをかけて客に渡し、つぎの客の本から注文票を引き抜いて、「カバーおかけいたしますか」と訊《たず》ね、客の返事を待ってカバーをかけた。 「タイル関係の本はどこ」いらだちを抑えようとした分、高飛車《たかびしや》な調子になった。 「申し訳ありませんが、うしろに並んでください」書店員ははじめて顔をあげた。男は最近どんな職業かわからないほど化粧で塗り固めた女たちの顔を許し難いと思っている。昨日のコンビニの女も階段の女も目の前の書店員もそっくりだ。 「本を買うわけじゃない、探してるんだ。あなたはカバーをかけながら答えられるじゃないか。タイル関係の本がどこにあるか知りたい」 「書籍をお探しなら、サービスカウンターでお願いいたします。フロアにいる店員でもお答えできるかもしれません」バーコードを読み取っていた書店員がなめらかな口調でいった。 「あなたにはわからないの?」声が魚を釣り上げた糸のようにぴんと張った。 「はい、申し訳ございません」  目に違和感をおぼえておや指とひとさし指で瞼《まぶた》を揉《も》んで目をひらくと、店内はまだらに青みがかって見える。  男はレジカウンターを離れて、棚の下のひきだしのなかの本を整理している書店員に訊ねると、五階の建築・インテリアコーナーだと教えてくれた。  五階に着くと、シャツの胸ポケットから眼鏡を取り出して耳にかけ、いちばん上の段から調べていった。『デザイナーのためのタイル・ブック──タイルの使い方のすべて』『モザイクを始める人のために』『タイルの世界』『室内装飾 タイル篇』を抜き取って手にすると、はっきり言葉にはならないとても重要な考えが出口を捜して男の頭のなかを駈けまわり、スパークして目がくらみそうになった。  男はレジで支払いを済ませたあと書店の近くにあるデパートに向かった。何度妻の買物につきあっても好きになれなかったデパート、足を踏み入れた途端すべてがデザインされた店内と色彩の氾濫《はんらん》に視神経を揺さぶられ、すぐにぐったりしてしまう。しかし今日はなぜかデパートのリズムが体に馴染《なじ》み、すべての商品に生気がみなぎっているように思える。サングラスの陳列台の前で立ち止まり、手にとってかけてみては鏡に向かって眉や唇を動かし、男は学生時代に観た芝居を思い出していた。俳優に転向していまではハリウッドのスターになっている劇作家の戯曲を、アマチュア劇団が翻訳して上演したものだった。芝居自体は観るに堪えない出来だったが、主人公が赤いシャツを着ると全能感に支配されるというストーリーで、赤シャツを着たスキンヘッドの男が無差別殺人を行うというラストシーンだけがくっきりと脳裏に刻まれている。男は黒のサングラスを買った。  水着売場に行くと海びらきのように夏がけばけばしく飾られている。男は色の洪水のなかを平泳ぎしている気分で水着を見て歩いた。  真っ赤なビキニの海水パンツを手にとると女の売り子がにじり寄ってきて、 「今年は赤がよく出てるんです、それなんか光沢がある素材だから砂浜でとっても映えると思います。じつは昨日からなんですけど、その値札から30%プライスダウンしますよ。お客さま、ラッキーですね」 「試着したいな」 「どうぞ、下着の下から、あっやだ、まちがえちゃった、下着の上からお願いしますね」売り子はボイストレーニング中の女優の卵のようなはっきりした発音でいうと、試着室のドアを開けた。  男は試着室でズボンを脱ぎトランクスの上から海水パンツを穿《は》いたが、鏡に映る奇妙な姿にうんざりして全裸になり、海水パンツだけになった。何年か前、妻に無理やり人間ドックに入れられ、医者が栄養失調ですと苦笑したことを思い出した。三ヵ月まともな食事をしていない。この姿で写真を撮られたら、飢餓が伝えられている某国の人間だと思われる。男は鏡すれすれに顔を近づけて眉を動かしたりあごのラインを撫でたりしてみた。  売り子がドアをノックして、 「いかがですかぁ。お似合いでしょ」  男はあわててシャツに腕を通し、ボタンをとめて、 「銀色のやつはないの」 「銀色ですか!」  ドア越しでも売り子が目を剥《む》いているのがわかる。 「ないんだったらいいんだ、これください」といって男は試着室から出た。 「水着は」 「いいんだ、はいてるから」  売り子は手で口を覆い、吊された水着の陰に隠れて悲鳴に似た笑い声をあげた。  デパートの外に出ると男は包装を破り棄ててサングラスをかけ、地下鉄をどのように乗り継げばいいか頭のなかでたどったが、地下鉄の入口の前で歩を止めた。階段の下をのぞき込むと生あたたかい風が前髪を吹き上げる。ここを降りていったら気分が台無しになる、男はきびすを返してタクシーに向かって手をあげた。  線路沿いを走っているうちはだんだんと近づいている気がしたのだが、一方通行にぶつかって右に折れてからは見たことがある街並だということはわかっても、マンションに行き着く道を指示することはできなかった。  タクシーから降りると八月の陽射に目を打たれて、あわててサングラスをかけなおした。しばらく歩いて立ち止まりサングラスを鼻にずらして通りを窺うと、石段の脇にコンビニの袋が放置されている。自分の私物か、それとも単に棄てられたゴミにすぎないのか、男はひとの気配がないのを確認して近づいた。どう見ても自分の所有物だとは思えず、二つの袋はただの遺失物として石段に転がっていた。あの女は警察に届けるべきだ、あの女が警察に持ち込み、落とし主が見つからなければ半年後にはあの女のものになる、男は石段を離れた。  マンションの玄関の前でポケットから鍵を取り出そうとしたとき、声がして振り向くと、背中が剥き出しのショルダートップにすそがほつれた半ズボンのジーンズを穿いた女の子が駈け寄ってきた。 「ほら知ってるでしょ、あそこのデザイン学校に通ってるんだけど、お財布|失《な》くしちゃった、落としたのかも、たぶん落としたんだと思う、友だちはみんな帰っちゃったし、先生もいなくて、事務のひとは大きらいだし」  いったいなにをいいたいんだ、十七歳ぐらいか、バターを塗った金茶色のトーストのような肌だ。 「あたし彩子、サイコって呼ばれてるの、本名なの。おじさんは?」  男は自分が危険人物に見えなかったことに失望していた。不審者として灰色の世界にまぎれ込みたい。 「五百二十円貸してほしいの。電車賃、だめ?」と口をとがらせた。 「場合によっては」男はショルダートップの色を見てみたくてサングラスをはずそうとして思い留《とど》まった。 「場合によっては?」  男はポケットに手を入れて布越しに海パンの縁を撫でてから、折り曲げた札束を取り出して千円札を渡した。 「ありがと、性格いいね」彼女は千円札を折り紙のように小さく畳むと、ショートパンツのうしろポケットに押し込んだ。汗で濡《ぬ》れたショルダートップに乳首が透けて見える。「どの部屋?」背中にしょったタウンリュックを下ろして、なかからメモ用紙とボールペンを取り出し、男が黙ったままなので、「これベル番」と十|桁《けた》の数字を書いて紙を引き千切った。男のサングラスにはシャンパンの泡に似た笑みを浮かべた顔が映っている。女の子は、「領収書」といって男につかませると駅の方角に向かって走り去った。  男は浴室のタイルの上に横たわり本を読むのに最適の姿勢を捜して体をくねらせた。身につけているのは海水パンツだけなので、なめらかでひんやりしたタイルの感触をじかに感じることができる。男はゴミ袋に入れて防水した枕を頭の下にあてて仰向けになり、『デザイナーのためのタイル・ブック──タイルの使い方のすべて』を両手で支えてページをめくった。青と乳白色のタイルの写真から十八世紀フランスの貴族の衣装を身にまとい虚空に視線を彷徨《さまよ》わせている少年が浮かび上がり、男は瞬きをして見直したが青い少年が物憂げな溜《た》め息をついたように見え、頭を振っててのひらを眼窩《がんか》に押しあてた。ページをめくると川をはさんで敵味方に分かれ突撃の瞬間を待っている大軍を描いたタイルのモザイクがひろがり、秘密を打ち明ける唇のような予感を湛《たた》えて部屋が身ぶるいをし、男は急に腹部に圧迫感をおぼえ、本をぱしっと閉じて腰を上げた。  排尿を済ませて洗面台で手を洗い、プラスチックのうがい用コップを手にとって水を入れ、飲んだ水がのどから胸、胸から腹へ水路をつくるように落ちてゆくのを感じながら顔を洗い、濡れた手で寝癖がついた髪の毛を撫でつけて浴室を出ようとしたそのとき、男は鏡のなかの自分と目を合わせた。目だけぎらぎら輝かせた顔色の悪い男。 「四十歳だ」男は自分に向かって宣告した。  リモコンで冷房を停めるとエアコンはしゃがれた音をたてて静かになった。テーブルの上に置いてあるサングラスを手にとりシャツの襟《えり》もとに柄をかけた。  エレベーターを降りた男は顔を背けて管理人室の前を通り過ぎ、ずらっと並んだ銀色のポストを横目にドアを押して外に出た。  千切った電話帳の住所を読み上げても運転手は返事をしない。目をあげてミラーを見ると、うなずかず瞬きもしないでレンズ越しに被写体をのぞくカメラマンのような視線で男の顔をとらえている。男はもう一度住所を繰り返した。 「それにしても昨日はすごい雨でしたね、ここのところずっと雨つづきでしょ、きますよ、大きいのがドーンと! お客さんだけにとくべつに教えますけどね、今年は雨ばかりだなぁと思ったら要注意です。お客さん、最近ミミズや蟻《あり》なんて見ないでしょ、それがね、雨が一週間くらいつづいてやんだ日の朝、ミミズと蟻が土から湧《わ》き出てくるんですよ、もううっじゃうっじゃ、うっじゃうっじゃ、地面中ミミズと蟻だらけ。そうなったらお客さん、だまされたと思って、東京離れて九州とか北海道に避難してください。これはわたしが保証しますけどね、ぜったいに今年きます。何ヵ月後かまでは特定できませんがね、今年です、まちがいありませんよ、こんなに雨が多いんだから。雨が多いとね、東京湾にどっと雨水が流れ込みますでしょ、で、海底火山っていうんですか? そこからあぶくが湧きあがるんです、なぜだと思います? マグマの活動が活発になって地下が熱くなるからですよ、で、熱くってたまんないもんだから、ミミズと蟻が外に出てくるってわけです。お客さん、うそだと思ってるでしょ、でもね、これは地震研究所のひとから聞いた話で信憑性《しんぴようせい》が高いんですよ。だったらどうして発表しないのかと疑問に思われるでしょう。発表したとしますよ、テレビ、ラジオ、新聞雑誌が一斉に報道します、どうなると思います? パニックですよ、パニック! わたしもめったに教えません、このひとだったらだいじょうぶってひとだけ、お客さんが三人目ですよ」  しゃべり終わると運転手は笑い出した。ミラーのなかで躍《おど》る運転手の笑い顔はだれかに首を絞められてもそのままだろう、と男は思った。それにしても愉快な奴が多すぎる、声を合わせて笑うべきかどうか考えているうちにタクシーは停まった。 〈CERACS〉の館内表示板を見て、四階の〈内装タイル エクステリアフロア〉だと思い、エレベーターに乗った。  四階フロアの陳列台には大小さまざまな色のタイルが展示されていた。ライティングシミュレーションコーナーでは、光の当て方によってタイルの色がどう変化するかがひと目でわかる。男は蠱惑《こわく》的に輝いているタイルにうっとりと見入った。 「タイルどうやったら買えるか、値段なんか知りたいんですけど」テニスコートでラリーをしているような軽快な気分でいった。 「情報でしたら」案内嬢は言葉を切り、「総合受付のアーキステーションがよろしいかと思います、右手のエスカレーターで六階でございます」と息を合わせて打ち返してきた。  男は六階の案内嬢ともラリーをつづけた。 「タイルの情報、購入方法や施工について知りたいんですが」 「係のものをお呼びいたしましょうか」 「いや、いい。パンフレットみたいなやつないかな、わかりやすく説明してある実用的なもの」 「それでしたらわたくしどもの会社で出しております『タイルの知識』がよろしいかと思います。もっと専門的なものをお求めでしたら、最新の施工マニュアルやタイル工事の実際を図説した本など、五階のサロンライブラリーにとりそろえております」 「『タイルの知識』が欲しい」 「かしこまりました」案内嬢は立ち上がって棚から抜き取った小冊子を男に手渡し、軽く頭を下げた。パーフェクト。受け取った『タイルの知識』のページをめくっていると、いつのまにか横に立っている男性社員に声をかけられた。 「どのようなご使用目的ですか」 「マンションですが、部屋にタイルを貼りたいと思いまして」 「マンションをお建てに──なる?」 「まさか、自分の部屋に貼るんですよ」男は係員がプレイヤーではないらしいことに失望した。スマッシュを打ち返してこない。 「浴室でしたら、ユニットバス、システムトイレフロアが三階にございますが、ご案内いたしましょうか」 「床に貼るんだ、壁、天井にも」  なまめかしい戦争──槍《やり》を携《たずさ》え弓を構えて敵と向かい合っている兵士、馬に乗った騎士と中世の青空、部屋中を埋め尽くすタイルのイメージが男を圧した。 「どこで買えるのかな、タイルとタイル工事に必要な施工具、まとめてほしいんだけど」 「施工具といいますと、ご自分でおやりに?」 「もちろん。業者にやらせてもくそおもしろくもなんともない。だいたい業者も職人も信用してないんだよ。そりゃ普通の風呂場にしたいんだったら任せられるだろう。目地をタテ・ヨコに通して貼りゃあいいんだから」この数日間学習したタイルに関する知識が男の口から噴出する。「十五世紀のムーア人はタイルの幾何学模様を、タイルを足の指にはさんで小型のハンマーで削ってつくったんだ。その方法だとひとり一日二平方フィートつくるのがやっとだよ、スペイン人が油のついたひもを使って色を分ける方法に切り替えて、やっとすこし能率があがった。革命を起こしたのはふたりの男、ジョン・サンドラーとガイ・グリーン! ふたりは木版か銅板の模様の表面に油性の顔料をインクとして塗り、その上に薄い紙をのせて模様を写しとり、インクのついたがわをタイルにくっつけて上からこすって模様を転写したんだ。ふたりは一七六五年七月二十七日づけの宣誓供述書で申し立てている。わたくしどもは、いっさいだれの手も借りずに、午前九時から午後三時までの六時間のあいだに、リバプールにおいて、千二百枚のタイルに異なる模様を転写しました、これらは、百人の優れた職人が同じ時間内でつくったより多く、よりりっぱで、より美しく仕上げられたと信じます!」  係員は立ち去るきっかけをつかもうとして左右に目を配っている。  男は薄っぺらな紙切れになって空に舞い上がるような非現実的な幸福感に包まれていた。 「ルネッサンス時代には神話やシェークスピア劇の場面がタイルに描かれ、十八世紀オランダではブルジョワたちが暖炉や寝室を飾り、庶民のあいだでも壁が汚れやすい肉屋や魚屋が店の壁をタイル張りにしたんだ。タイルは掃除が簡単で光を反射するから暑い国にぴったりなんだよ。ポルトガルに行ったことある?」 「いえ、ありません、わたくしちょっと失礼させていただきます」場を離れようとして頭を下げた係員は男に肘をつかまれた。 「タイルをあつかう仕事をつづけるんだったらぜったいに一度行ってみるべきだ。ポルトガルはタイルの国、壁さえあればほとんどまちがいなく青と白のタイルで埋っているといっても大げさじゃない。世界中でポルトガル人ほどタイルに情熱を注いだ国民はないんだ。リスボンの建物という建物が崩れた一七五五年の大地震の前は、教会や僧院の90%がスペイン様式のタイル張りだった。想像できる? 90%なんて! もともとタイルの起源は宗教的な飾りや紋章だったんだよ、きみは信仰を持っているのか? おれは信仰がないヤツにタイルをあつかって欲しくない!」  男は自分の声の荒々しさに驚いて話を止めた。信仰? なんのことだ。 「どうぞ、行ってください」自分でも聞き取れないほど小さい声だった。 「その本の背表紙に各営業所の住所と電話番号の一覧がありますから。すべてのご要望にお応えできるはずです」係員は深々と一礼して立ち去った。  男は展示台の前に立って真っ赤なタイルを凝視した。決めた、兵士たちの目に嵌める、赤い目。 〈「この世に完全なものなんてないから」 「より完全なものはあるよ壊れていないもの」 「あたしは満足してるの欲求不満なんかじゃないよ」  美香はベッドの上にあおむけになり隆之はうつぶせになってほおづえをつく。美香は思い出したようにときどきサイドテーブルの上の赤ワインをグラスにつぎ隆之に口うつしでのませる。ふたりのむねにワインが流れ落ちシーツが赤くそまっていく。 「満足はとどまることもなければ終わりもないよ美香は前に進まないとね」 「あたしが浮気すれば隆之はまんぞく?」 「助かる。罪の意識がかるくなるから」 「あたしの罪は?」 「どんな罪」  隆之はからだを起こして横向きになり右手で美香の尻をなでてささやいた。 「楽しめばいいよ」 「セックスして楽しむには才能がいると思う」 「才能あるかもしれないよ試してみないとわからないし」  隆之の指がアヌスに触れそうになり美香はからだをはなした。 「だれかいないかな」 「隆之が知ってるひとでもいいの」 「いちばんいいのはぼくが知らないときに知らない男とだけどしょうがないな。野口はどう?」 「どうして野口が出てくるの」 「どうせならタフな男がいいと思って」 「あのひとタフかな?」  美香は上半身を起こして両手を隆之のわきのしたにすべりこませ乳房の先端をおしつけて軽くあごをかみむねとへそとわきばらにキスしてペニスを口にふくんだ。しゃぶりなめてゆっくりとしごいた。 「いいよ」  しゃぶりなめあげながら隆之のひざをまたにはさんでこする。ひざがぬれてくる。ああああ 美香は声をあげる。隆之はよがり声にあわせてひざをうごかす。うううう がくんと力が抜けてひざがのびきった。美香はびんに口をつけてワインをのみほした。隆之は目をひらいたまま天井をながめている。 「十二歳の女の子だったらやれるかも?」 「すごい美少女だったらね」  貝がらはっけんという少女の声が美香の耳のなかでリフレインする。 「誘拐しようか。となりの部屋を牢屋にするの。サーモンピンクのじゅうたんしいて全裸の女の子に首輪つけてくさりでつなぐの。壁はなに色にする?」 「紫くろピンク金色わからないな」 「黄色。あとねかわいい下着いっぱい買って着せるの。水着も買うし紺のスクール水着とかビキニとか」 「どうやって誘拐する?」 「そんなのかんたんじゃない。小学生ぐらいから遊びにこさせてね仲よしになるの。それで十五歳になったら」  美香は煙草を口にはさんで火をつけてひと口だけすって隆之の唇にさしバーのカウンターでさそいをまつ自分の姿をそうぞうしてみる。ホテルベッドセックスのひとつひとつがおぞましく思える。愛欲におぼれる肉体は性によろこびを見出せなくなった男の肉体と同じくらいみにくい。情欲がきえてなおもひとを生かすことができるエネルギー。生の根拠についてだれか答えを出しているだろうか? 性を失ったひとでもぼっきすることがなくても快感の絶頂にたっすることがなくても生のエネルギーはどこからかわきみちるのだと──。〉  八月の熱気と悪夢の切れ端が同時に襲いかかってきてシーツを蹴り、暑い、と叫んで上半身を跳ね起こし、仰向けに倒れ汗だくの体をシーツでぬぐった。今夜からクーラーをつけっぱなしにして寝るしかない、それにサングラスをかけて。口のなかがべたべたして息が臭い。腐った魚を口に突っ込んで眠ったような気分になり、シーツの上につばを吐き出した。  男はよろよろと立ち上がりトイレに向かう途中でベルトをはずしズボンとトランクスをいっしょに下ろし、靴下をむしりとって洗濯機のなかへ放り入れ便座に腰を下ろした。立ってすると飛び散るからやめて、という妻のいいつけを守っているうちに座ってするのが習慣になってしまっていた。排尿音に耳を傾けながら腕時計を見ると二時だった。途端に空腹感が強まり、昨日の夕方コンビニで買った冷やし中華をひと口だけ食べ、あまりのまずさに流しにぶちまけたことを思い出した。とにかく和食と中華の店を捜そう、テラスつきのレストランに行けば若いコックがとかげのフライを出してくれるにちがいない。あの男の田舎では石垣から数十匹のとかげが顔を突き出している。とかげのイメージ、いつかだれかの本の装丁に使ってみよう、この浴室をとかげのモザイクで埋め尽くすのもいい、市販されていなければとくべつに焼いてもらえばいいのだ、と男の頭はきれぎれの思考で満タンになった。  トイレから出て枕もとに伏せてあるタイルの本に手を伸ばしたとき、電話が鳴った。妻、でなければ村上だ。電話をとる気力がない。  男は大手出版社の装丁室に十五年間勤め、三年前に退社して個人事務所をひらいた。入社以来つきあいがつづいている村上は男が独立してからも定期的に仕事をまわし、昨年創刊した月刊誌の表紙と本文三十ページのデザインをレギュラーで任せている。  呼び出し音がつづく電話にののしりの言葉をぶつけている村上の渋面を思い浮かべ、二十回目の呼び出しで電話が黙り込むと男の目はわずかに細くなり、しばらく様子を窺ってタイルの本を手にとった。以前村上は電話をかけた相手が不在なのか居留守を使っているのか十中八九見抜けると豪語《ごうご》していた。呼び出し音の返りが微妙にちがうんだよ、と。その場に居合わせた編集者が口をそろえて、ぜったいにわかる、といい出したので男は職業的カンというものかと考えていたが、その後訊いてみるとみんな見抜けるといい張るので、ただ単に自分がかけた電話には出るべきだと思い込んでいるのだと理解した。不在は許さない、のだ。  十四世紀セビリアの家屋に使われていたアンティークタイルのカラー写真を眺めていたとき、電話が鳴った。男は舌打ちをしてコードレスフォンをつかみ耳に押しあてた。 「ずっと鳴らしてたんだけど」  異様に勢い込んだ不機嫌な声、やはり村上だった。 「ちょっと手が離せなくって」 「あれ、はっきりいってダメだ。おれもどうかなとは思ったんだけど、なにしろ連載の初回だからな、大先生が気に入らないってさ。タイトル文字も凝《こ》りすぎて作品のイメージとずれちゃってるんだと」 「それ箇条書きにしてファックスで流してくれませんか」男は副編集長に昇進した村上にていねい語で話すことにようやく慣れてきた。 「いや、こっちにきてもらいたいんだ。直してもらったやつにもう一度クレームつけられたらパーだから、四時は?」  唇を引き結んで首を右、左と揺らして返事を待っている村上の顔を目に浮かべて、 「ファックスのやりとりでお願いします」と食い下がると、村上は却下する代わりに来社を断れないいい方をした。 「これからおれがそっち行くよ、気にしないで、行くのは平気だから」  突然男は発作を起こしたように呼吸を乱し、全身をひきつらせ音をたてて床に倒れた。握りしめているコードレスフォンから、オイ、ダイジョウブカ、ドウシタ、オイ、モシモシ、モシモシ、なにが起こったかをつかもうとする村上の声が聞こえる。首を絞められているようなうめき声をあげると、村上は男の名前を連呼した。苦しい! と絶叫したあとコードレスフォンを口に近づけて小さな穴に荒い息を吹き込み、次第に口から離していって床に置いた。  男は立ち上がって煙草をくわえ首を横にしてガスライターの炎の青い部分で火をつけ、深々と喫《す》った。微《かす》かな虫の羽音のような村上の声を聴きながら笑おうとしたが、のどとあばら骨に痛みが走り表情を消して煙を吐き出した。台所に行ってやかんに水を入れて電気プレートにのせつまみを強に合わせた。沸くまでに五分ほどかかるので受話器を拾い上げ、苦しげな息を吹き込んだ。 「悪い、気分が、申し訳ない、すぐにおさまると思う」 「どうした? え? だいじょうぶか」 「もうだいじょうぶ、最近ときどき発作が、不整脈みたいなんだ、ほんと悪いな、でもだいじょうぶ、電話切ってかけ直しますよ」といって、激しく咳き込んだ。 「切るんじゃない、電話代なんて気にするな、おれそっち行くよ」 「だいじょうぶですよ、一分だけ時間ください、もうだいぶ落ち着きました、わかるんです、ピークが過ぎたなって、あと一分」男は受話器を持ったまま台所に戻り、音をたてないよう細心の注意を払い、コップにスティックコーヒーを入れて湯を注いだ。ひと口飲むと、湯がぬるかったために溶けなかったコーヒーが口に流れ込み思わず吐きそうになってあわてて口を押さえ、ベッドに倒れ込んで口をひらいた。 「落ち着きました、じゃあ四時に」 「病院に行ったほうがいいんじゃないのかほんとに、行こうかそっちに」 「四時に行きます」 「じゃあファックスで送るよ。この連載うちの雑誌のメインだからいいものにしたいんだ。部数落ちてるし。おまえもたいへんだな、校了したら呑もう」村上は下請けのデザイナーへのいたわりとは思えぬ同僚時代に戻った口調でいった。  電話が切れると同時に遠くから電車の音が聞こえてきた。あのメッセージをいつか解明しなければならない。男は電車の通過音のクライマックスに合わせて声を張り上げた、快感の絶頂にたっすることがなくても生のエネルギーはどこからかわきみちるのだ。  男は『モザイクを始める人のために』をひらいた。「イッソスの戦い」を読みはじめると自分でも気づかないうちに声を出していた。 「ローマからすこし南下した古都ポンペイは、その街全体を背後から抱くようにそびえるベスビアス火山の大爆発により一瞬にして火山灰に埋没してしまいましたが、近代になってほりおこされた廃墟のなかに、ローマより数十倍も精巧なモザイクが床や壁面に発見されました」  印刷が悪い白黒写真ではっきり見ることはできないが、前脚をあげていなないている馬、兵士を振り落として逃げようとしている馬、うずくまって頭をがくりと垂れおそらくいま死んだばかりの馬、馬車に轢《ひ》きつぶされ車輪に巻き込まれた兵士の腕、あちこちから十数本の長い槍が突き出ている。 「左にアレキサンドロス大王、右にペルシヤ王ダレイオス三世を描いた、ギリシヤの画家フィロクセースの原画をもとにして細かいつぶの色大理石で綿密に仕上げています。へびのように曲がりくねった動きのある線にテッセラをおき、激しい戦闘の場面をつくりだしています。むち打つような馬の尻尾の表現など、とくにすばらしいものです。作品のはげたような部分は最初から完成されなかったもので、過去にいく度か完成させようという話が出たそうですが、最初の作者のイメージを壊さないようにと、補修はされていません」  左側、全体の三分の一が空白になっている。幅五・二一メートル、高さ二・七一メートルの壁面の三分の二を根気強く大理石の粒で埋めていったにもかかわらず、なぜ残り三分の一を放棄したのだろうか。作業の途中で急死したのかもしれない、とつるつるした空白を指で撫でながら男は泣き出したいような奇妙な気持ちに襲われた。空白が部屋いっぱいに膨脹して想像しろと迫ってくる。自分の内側にほんとうの自分がいてそれが生まれ出ようともがいている感じだった。想像力こそが生命の根源だ、性こそが想像力そのものだ、と。本をぱしっと閉じたとき、馬の筋肉が股の下で蠢《うごめ》き馬特有の体臭が鼻を衝《つ》いて、金属的な刺激臭にかき消されていった。ここは丘の上、男は栗毛の馬にまたがって川の向こうの岸に居並ぶ敵軍を見下ろしている。王の願望、王の期待を背負った騎士は色も形も溶けてしまうほど多い。そして男の目の前には床、天井、壁、空白がひろがっている。あたかもだれかが生きたままそこに塗り込められ出してくれとうめき声をあげているかのようだ。草と馬の臭いを圧倒する、まるで空気中に鉄粉が舞い散っているような血の臭い。  男は立ち上がって部屋のすみに重ねてある段ボール箱のふたを開け、色とりどりのタイルを床に並べた。カタログの百色のなかから茶、緑、赤、ベージュ、白、青などを中心にして濃淡を出すために同系色もとりそろえた。足りなかったら電話で追加注文すればいい。男は机をベッドの脇に寄せて、昨日スケッチしておいた下絵を左手に持って白のクレヨンで一気に部屋の床に線描した。アレキサンドロス大王とダレイオス三世を赤と青のクレヨンで丹念に描き込み、茶と黄でふたりの王の馬に濃淡をつけ、兵士の何名かをグレーで彩色していった。頭のなかで馬が猛然と駈けまわる。二時間半というもの、巨大な音のうねりを呼び起こそうとしているオーケストラの指揮者のように水も飲まず絶え間なく腕を動かしつづけ、床の下絵を描きあげた男はつぎの工程に向かった。破片が飛び散らないようタイルの両側を指ではさんでモザイクニッパーの柄を握ったその瞬間玄関のブザーが鳴った。妻が訪ねてきたのかもしれない、首だけひねってドアを眺めるとふたたびブザーが鳴り、「すみません、下の管理人ですけど」とドアを叩きはじめた。男は舌打ちをして立ち上がりドア越しに用件を訊ねた。 「昨日宅配便が届きましてね、ポストに入らない大きさだから預かってくださいと配達のひとに頼まれたんで、管理人室で預かってるんです」 「いま風呂に入ってたところなんです、あとでとりに行きます」といったがなんの返事も返ってこなかった。  男は床のすみにビニールシートを敷き、〈CERACS〉の営業所に届けさせたタイルの梱包《こんぽう》をほどいて壁に沿って並べた。べつの段ボールから施工用品を取り出し、ひとつひとつ点検してから台の上に十センチのタイルをのせてタイルニッパーで叩いた。何枚か叩き割って、叩く強さによってできあがるピースの形が異なることを確かめ、大きめのピースを拾い上げニッパーでカットして形を整えた。べつのピースはタイルカッターを使って削ってみたが思うようにいかない。できるだけ三センチのタイルをそのまま使いたいのだがアレキサンドロス大王とダレイオス三世はもちろん、馬一頭と兵士ひとりはなんとしても下絵通りに完成させたい。ほかは色のトーンを落としてみようか、と頭のなかで図柄を再構成しながら二時間ほどタイルを割りつづけ、空き箱にタイルのピースを収めていった。  絵の上のほうは青空だから五センチのブルーのタイルを敷き詰めればいい、男は床に八十二枚、機械的にタイルを並べていった。白い雲をあしらいたいと思ったが、あっさりとあきらめて口笛でユーモレスクのメロディーを吹いた。  本に書いてある通りきれいに汚れを拭き取ったタイルの裏に木工用ボンドをむらなく塗って一枚目を角に貼りつけ、てのひらで強く押さえた。乾くのを待って煙草を一本喫ったあと指でタイルを動かしてみたがびくともしない。男は安堵《あんど》してブルーのタイルを貼りつづけた。横一列貼り終わったとき、管理人が預かっているという小包のことを思い出した。  ユーモレスクを大声でうたいながらシャワーを浴びた。タラタラタラララ 生きていけるタラタラタラララ 生きていける タラタラタララララン ひとりでも生きていける! 〈下〉のボタンを押してエレベーターを待っていると、通路の天井の蛍光灯がいまにも点滅をはじめひとつずつ切れていきそうな気がする。エレベーターが上昇しはじめたので口のなかでカウントダウンしドアがひらこうとしたそのとき、「これ」九官鳥のような声に背中をつつかれ、ひえっ、と声をあげ上半身を反らして身をよじると、カールした金髪のかつらを焦げ茶に染め直したような髪の背の低い女が荷物をかかえて前かがみに立ち、にやっとエラが張った顔を崩して、「管理人室が閉まる時間だから持ってきたんですよ」とはっきりとした悪意を不明瞭な発音に込めていった。訛《なま》っている、どこの訛りだかはわからないが、声質からしてさっきの九官鳥の真似は脅かすためだったのだ。場末の飲み屋通りのドアを開けっぱなしにした店のカウンターのなかに居ればしっくりする顔、この手の顔は化粧を濃くすればするほど年がかさんで見える。男が荷物を受け取るために歩み寄ると口臭が鼻を衝いた。口を常に動かしているのは歯槽膿漏《しそうのうろう》で歯茎がうずいているからだ。小包を受け取って男は部屋に戻ろうと体の方向を変えた。 「だいたいでいいんだけどね、何時から何時まで仕事に出て、帰るのは何時ごろか教えといてもらえると助かるんだけど、そしたら配達のひとに伝えられるしね。以前はぜんぶ預かってたのよ、でもね、外国旅行して二ヵ月以上留守した学生さんがいてね、荷物預かったら、なかが親御さんから送ってきた魚やらなんやらだったみたいで、もう腐っちゃってね、くさくってたいへんだったの。それからなるべく預からないようにしてるんですよ」と女は両手をうしろにまわしてエプロンのひもの結び目をほどき、くしゃくしゃに丸めて脇にはさんで男の返事を待っている。 「べつに預かってくださらなくてもけっこうです」額から汗が流れ落ちた。男はシャツの袖《そで》で額をぬぐってのどまで出かかった、糞ッという言葉をつばといっしょに飲み込んで、「留守だったら不在通知をポストに入れてくれるだろうし、あとで電話して届けてもらいますよ」  女は背中を丸めて警戒をゆるめようとしない。口は半びらきで緊張感がなく前歯の赤いしみが見える。口紅はオレンジ色だから血、歯茎の血か。女が黙っているので男は背を向けて歩き出した。  宅配便の伝票には押しつぶされた蟻のような小さい字が散らばっていた。離婚届けを出してたった一週間だというのに嬉々《きき》として旧姓を書いている。依頼主の欄の沢木ちか子という文字だけ躍っていて、「糞ッ」小さな声が口から洩れ、つづいてやや大きな声が口を衝いて出た、「糞ッ!」ガムテープを引きはがして紙袋を開ける。メモすら入っていない。灰皿、小銭入れ、セーター数枚と毛糸の靴下、それを目にした途端、怒りで体が熱くなって大きく息を吐き、着ているものが暑苦しくてTシャツと腕時計をむしりとって壁に投げつけ、受話器をつかんで番号を押した。コール五回で、沢木です、せっかくお電話いただいたのにただいま留守にしております、妻の声が針となって男の神経をちくちく刺し、男の頭にはぐんにゃりと歪んだ妻の全裸が浮かんでいた。見知らぬ男の汗にまみれて身をくねらせている妻のあえぎ声でアドレナリンがあふれ、男は定規のように硬くなりすこし上向きになってきたペニスをズボンから引き摺《ず》り出し右手で握りしめた。ピーッという発信音のあとに、はぁはぁ、はぁはぁと息を吹き込みつづけ、テープが切れたとき目を瞑った瞼の裏に白い精液が飛び散り、カタツムリの通った跡《あと》に似たねっとりとした筋が渦巻《うずま》いた。  紙袋のなかに妻が送りつけてきたものを戻し、Tシャツを着て腕時計を拾い上げると六時半だった。男は紙袋を持って外へ出た。陽は沈んでいても地面や建物の壁に熱がこもっている。汗を出し尽くして体は干上がっているのにエレベーターに向かう廊下を数歩あるいただけでわきのしたはびっしょりになり、マンション全体が右から左、左から右へ揺れたかと思うと立ちくらみ、男は壁に手をついて体を支えなければならなかった。  一階裏口の鉄製のドアを押して裏庭に出て、プレハブのゴミ置場に向かった。 「不燃ゴミは火曜日ですよ」  振り返ると、入居した日にあいさつを交わした管理人だった。さっきの女と夫婦で棲み込んでいるのだろう。 「それは燃えるゴミですか? 燃えないゴミですか?」そういって管理人は口をすぼめてみせたが、「さぁ」ととぼけてシャツのすそをひっぱって直すと、管理人の顔は発疹ができたように赤らみ、「さぁって、あんた、自分が棄てるゴミがなにかわかんないの!」と男を威圧してきた。 「いけませんかね?」  カチャリ、頭の中で南京錠《なんきんじよう》がはずれるような音がした。こいつの耳が良ければキレタ音だということがわかるだろうに。さっきまでの脱力感が吹き飛び、しばらく壁に手をついたままの姿勢で管理人を眺めていると、湿った生あたたかい感触がてのひらから伝わってきた。男は拘置所そっくりな薄暗い廊下の壁に手をつきながら椎間板《ついかんばん》ヘルニア患者のリハビリのようなかっこうで歩きはじめた。 「それちょっと、なか見せてくださいよ」管理人は一転して調子を合わせようと顔いっぱいに温厚な表情をひろげた。 「ゴミを見せる義務なんてない、プライバシーだ」 「分別する義務はあるでしょ? じゃあ、きてください、このマンションではどうやって分別してるか説明してあげっから」  管理人は血色のいい顔をつるりと撫でてゴミ置場に向かって歩き出した。男はドアにロックしてこなかったことを思い出し、管理人と揉めているあいだにあの女が部屋に入り込むのではないかとそのほうが気になる。こいつの尻を蹴飛《けと》ばして顔をゴミ袋の山に突っ込んで部屋に戻り、もし女が部屋にいたら口をこじあけてタイルを食らわせてやる。 「ふざけんのもいいかげんにしろ!」  男が怒鳴りつけると、振り向いた管理人は信じられないという表情で男をまじまじと見据《みす》え瞳孔《どうこう》をひらいた。 「なにがふざけてるんですかねぇ、管理人のわたしがですよ、マンションのゴミの分別をどうするか説明するっていってるんだ、そのどこがふざけてるの? あーたねぇ、管理人だと思って馬鹿にしちゃあいけませんや。わたしはあんたに雇われてるんじゃない、そこんとこひとつまちがえないでもらいたいね」頭のなかでいく通りもの対応策をめまぐるしく検討しているらしく、ひとまずゆっくり応酬《おうしゆう》してきた。  もし三年前だったら殴りつけている。男はこれまで二度傷害で警察に勾留《こうりゆう》されたことがある。若いイラストレーターにデザインをけなされたときと、もう一度はタクシーの運転手がでたらめな走行をしたあげく道がわからなくなって、「このあたりで降りてもらえませんか」と小雨の降る国道で車を停めたときのことだ。二回とも妻が二十万円の罰金を支払って不起訴処分になっている。 「おかしいのはあんたのほうじゃないか、ゴミを」と管理人がいいかけたとき、男はのどから声を振り絞って自分でもなにをいっているのかわからなくなるまでわめき散らした。管理人の顔は紅潮し極端な撫肩《なでがた》が上下している。男が足を踏み鳴らして脇にあったポリバケツを蹴飛ばすと、倒れたポリバケツから生ゴミの袋が飛び出した。叫びはじめたときと同じように唐突に声が途切れ、数秒間ふたりは互いの表情を一瞬でも見逃すまいと生ゴミの臭いを嗅《か》いでいた。男が前のめりの姿勢をもとに戻すと、管理人はインコのように舌を動かして唇を舐《な》めた。攻撃のチャンスを窺って舌舐めずりしたのだと思ってふたたび身構えたが、管理人が恐怖にあえいでいることに気づき、ひとりの男を恐怖におとしいれる快感がこみあげ靴の先端をじりっと動かした。管理人はうしろに飛びすさり燃えるゴミの山に尻もちをついた。  非常階段を駈け上がって部屋のドアを開けた男の目にはタイルしか映らなかった。外に一歩も出ないで暮らす方法はないものだろうか、男はタイルの上に横たわって考えた。大型の冷蔵庫を買って月に一度深夜に買い出しに出かける、主食は冷凍食品、管理人夫婦に出会《でくわ》す可能性を考えれば外に出ないほうがましだ。このマンションにはプライバシーの欠片《かけら》もない、男は蜘蛛の巣にからまった虫のように身悶《みもだ》えを繰り返した。  悪夢にうなされ、いま跳ね起きたばかりだというような血走った目で管理人は妻と交互にしゃべりつづけている。 「あの304の男はとにかく異常です、凶暴ですよ」 「朝なんか下はパジャマ姿で上半身裸で平気で廊下を歩きまわってるんですよ、それに一日中部屋に閉じこもって仕事に出かける気配がないんです。事務所にしてるって感じでもないじゃないですか」 「ひとに迷惑かけなけりゃなにしたってひとさまの自由だ、そんなことじゃなくって、さっきからいってますようにもうすこしで殴られるところだったんですよ、ゴミのなかに突き飛ばされたんですからね。目が普通じゃない、目なんです、もんだいは」 「なにか隠してますよ、304は、隠しごとをしている人間の挙動ですよ。挙動不審っていうんですか、とにかくひと目見たときにピンときたんです、あれはおかしいなって、主人もわたしも」 「ああいうヤツが部屋に覚醒剤を隠したりしてるんじゃないでしょうかね、わたしはそう思いますよ、目がね、覚醒剤打たなきゃ昼間でも道を真っ直《す》ぐ歩けないようなヤツです、さっきもやってたと思いますよ、はっきりいって、ええ」  管理人は熱帯魚の水槽を見つづけ、その妻は夫の横顔から目を離さず、ふたりとも304号室のオーナーの柄本と目を合わせようとしなかった。 「氷が解けてそれじゃあ飲めんでしょう、入れ直しますか」柄本はあごをアイスコーヒーに振り、のんびりした口調でいった。 「すぐ失礼いたしますからおかまいなく」管理人はグラスを引き寄せストローでかきまわしてひと口飲んだ。管理人は柄本がつまらない苦情を持ち込まれたと閉口しているのかおもしろがっているのか判断しかねている。これまでも入居者のうわさ話をしてもあまり反応しなかった。ほかのオーナーたちはどんなささいなことにでも食らいついてくるのに、柄本の鷹揚《おうよう》な振るまいが不可解だった。 「ゴミの分別を説明するのはわたしの仕事です。どうでもいい、好きに棄ててくださいで済むんなら、こんな楽なことはありませんよ」  きちんとするようわたしから厳重に注意しておきましょう、そのひと言で済むのになぜこのひとは黙っているのか、管理人は断を下さない柄本にいらだっていた。 「しかもそのゴミってのが、一昨日304が留守だったんで、管理人室で預かった宅配便の小包なんです」妻はジョーカーを切るようにはじめて柄本に顔を向け、「女性の名前でした。わたし荷物を届けて行ってブザー鳴らしたんですよ」夫に勝ち投手の権利を与えるつもりか、言葉を切った。 「管理人ですって名乗っても開けようとしない、風呂入ってるからあとにしろって怒鳴ったっていうじゃありませんか。だいたい真っ昼間から風呂入るっていうのも普通じゃありませんよ、キャバレーのホステスじゃあるまいし、いったい304の職業はなんなんですか?」 「さぁ、わたしは不動産屋にまかせっきりでね、よく知らないんだ。ホステスじゃないと思いますよ」柄本は禿《は》げている頭のてっぺんを撫でた。 「あら、やだ、ごじょうだんばっかり。それをいうならホストですよ」妻はコップから氷水をぶちまけるように笑った。 「あんな歳の、あんな顔のホストなんかいやしませんわな、ホストならもっとぱりっとして3DKに棲んで外車乗りまわしてますわ、なぁ?」管理人は妻につられて下卑た口調になった。 「ホストはない、ないですよ、まったくオーナーったら。話を戻しますけどね、あとでとりにくるっていうんで待ってたら、二時間|経《た》っても三時間経ってもきやしないんですよ、もしも急ぎのものだったらお困りなんじゃないかと親切でお届けしたんですよ、それがありがとうのひと言もないんですから」 「信じられますか? その荷物そのままゴミに出しちゃうんですよ。普通じゃない、そう思いませんか、オーナー」管理人は水槽のなかのゴールデンエンジェルから柄本に目を移した。 「オーナーっていうのはかんべんしてください、それをいうなら大家さん、柄本でもいい。それにしてもたいへんですな、いやご苦労はよくわかります」そういいながら、いくら訊いても否定するが元刑事だといううわさはほんとうだろうか、まぁ九割がたハッタリで自分が流したうわさだろうが、と柄本は管理人の底意地の悪そうな目から顔を逸らした。  ようやく身を乗り出したと思ったらこれだ、いったいいままでなにを聞いていたのか、管理人は柄本の言葉に失望してのひらの汗をズボンで拭《ふ》き、こうなったら妻のヒステリーをぶつけるしかない、おい、いってやれよ、と目配せした。 「ですから覚醒剤だろうがホストだろうが、べつにわたしたちはいいんですよ。だけど分別してもらわないと、立場がないんです」 「ええっと、そのテナントは小包をどこに棄てようとしたんですか、燃えるゴミのほうなの? それとも燃えないゴミのほう?」  なにがテナントだ、大家と呼ばれたかったら店子《たなこ》というべきだろう、管理人は腕組みをして目を瞑った、それが合図であるかのように妻の目がかっと見ひらかれ、右手が小刻みにふるえはじめた。 「わたしどもが長々とお話ししましたのは、よろしいですか? 不燃ゴミは火曜日、昨日は水曜日で燃えるゴミの日でした。304の宅配便は、いいですか? 小包伝票のワレモノの欄にマルがついてたんです、手でさわった感じでは、ほかには衣類が入ってたと思います。ですから、主人は304に、分別して棄ててくださいね、とお願いしたうえで、ゴミ置場の使いかたを教えてあげようとして、それで、304に、そのなかのものは燃えるゴミですか、それとも燃えないゴミですかっておだやかに話したんです。それがどうです、にやにや笑い出して、わからないっていうんですよ。おれは金を出してここを借りてるんだ、管理人ふぜいの指図を受けられるかって凄《すご》んだっていうじゃありませんか、ぶち切れちゃって、主人に、ふざけるなって怒鳴ったんですよ!」  柄本は全身をぶるぶるふるわせている女を冷ややかに見据え、この女に接するたびに落ち着かない気持ちにさせられる原因がわかった気がし、もうすこし煽《あお》ってやろうと話をうながすようにうなずいてみせた。 「そんなことが許されますか、なにもかもほったらかしにして、このマンションの自治が守れますか、なんで主人が殴られなきゃならないんですか!」 「殴られた?」 「はい──、殴られたんです」 「殴られたんですか?」柄本は管理人の目をのぞき込んだ。  管理人は、まさかあの現場を見ているわけはあるまいと言葉を選んだ。 「ぶっ倒れましてね、で、わたしは逃げたんです、逃げなければ半殺しにされてたと思いますよ、ええ。警察に届けようかどうか昨日ひと晩妻と話し合いましてね、オーナーにご迷惑をおかけするのだけはよしたほうがいいって、こいつがいうもんですから、ま、こうやってご相談にあがったわけです。304はあの歳でひとり暮らしなんですかね」 「わたしは六十三になりますけど、ご覧の通りひとりもので無職です。この部屋を含めて五部屋持ってますが、契約もなにもかも大木不動産に任せてましてね、ほんとにあのひとのことはよく知らないんですよ。ちょっと失礼」と柄本は席を立ち廊下に出た。  沸点に達する寸前に水をさされた妻はしゅんとして縮こまり瞼だけをぴくぴくと動かしている。管理人はなぜ自分が万引犯を捕まえて交番に突き出したら警察官の肉親だった、というような居心地の悪さを味わわなければならないのか理解に苦しんだ。このマンションが大手住宅開発会社の手で建設されるにあたって、敷地の一部を所有していた柄本の父親が、マンションの部屋と等価交換する条件に応じてオーナーに収まったという話は聞き知っていた。その父親を十年前に、母親を二年前に喪《な》くし、妻とは何年か前に協議離婚、ひとり娘は嫁いでいる。家賃収入で暮らし、妻がいない、これほど幸運な余生があるだろうか、おれより五つ下だからまだまだ楽しもうと思えばいくらだって好き勝手な暮らしができるのだ。嫉妬と憎悪で歯ぎしりしそうで、管理人は早くこの場を去りたかった。  部屋に戻ってきた柄本は悠然《ゆうぜん》とソファに体を沈めて脚を組んだ。 「思い出しましたがね、大木さんからはデザイナーだときいていますよ。一流出版社の雑誌の表紙なんかをやってるそうです、年齢は四十歳、つい最近離婚をなさって現在は独身ということらしい、これでよろしいですか?」 「はぁ」洗面所に行くふりをしてとなりの部屋で書類に目を通してきたのか、それとも知っていて隠していたのか、管理人はテーブルをひっくりかえしたい衝動をかろうじて抑えた。 「警察沙汰になさってもわたしはいっこうに困りません。そうしたら出て行かざるを得ない状況になるでしょうから、新しいかたに入っていただいて、また礼金が入ってきてわたしにとっては都合がいいんです。願わくばどの部屋も二、三ヵ月で回転してもらいたいものです、そうなったらこんなうまみのある商売はありませんよ、で、わたしにどうしろと?」と管理人夫婦を交互に見た。 「わたしどもは、オーナーのお耳に入れておいたほうがよろしいかと思いまして、もしできればひと言注意していただけると。わたしどもの立場は、まあ、いいですけどね」管理人は投げやりにいって腰を浮かせようとした。 「わたしは、おふたりにお願いしているように、大家であることをないしょにしておくという主義でしてね、ま、機会があれば大木さんのほうからそれとなくいってもらうことにしましょう。でもやはりおふたりの力でなんとかされたほうがいいかな、それがお仕事でしょうから。なるほどゴミの分別ね、とにかくたいへんですな、管理人という立場も」  夫婦の顔一面に痙攣《けいれん》が走った。ふたりはしばらく瞬きひとつしなかったが、あたりを見まわしてほぼ同時に立ち上がり、夫の方が先に頭を下げた。 「どうも夜分ながながと失礼いたしました」  玄関のドアが閉まって、顔を見合わせたふたりはことの成り行きへの不満を持ち帰るのをしぶっているというより、304号室の男より柄本の方に異常な気配を感じて、部屋に帰ってもその異常さを互いに説明できないもどかしさにいらだっていた。  ドアにチェーンをかけると柄本はふっつりと微笑を消してとなりの部屋に移り、息を止めて受信機のチャンネルをBにし、周波数を399・455MHzに合わせた。二年前、動物禁止の規約を破って猫を飼った女がいて、引っ越したあとに部屋を調べると猫が爪を研いで壁紙と床がぼろぼろになっていた。そのとき興信所に相談して四戸全室にコンセント型盗聴器を仕込んでもらったのだ。発信機のなかのワイヤレスマイクが音を拾って電波にして飛ばし、受信機の周波数を発信機に合わせて傍受《ぼうじゆ》すると説明されても、そんな小さなマイクに猫のか細い鳴き声が拾えるのかと疑いはしたものの、実際は咳払《せきばら》い、テーブルにグラスを置く音まで聴こえる。  なにか音がした、体のなかで血がどくりと揺れる、なにか……こする音か……なにをこすっているのか……テーブルを移動しているのか………もっと軽いものだ……ソファか……全神経を耳に集中する。顔が熱くなり視界がぼんやりし、さっきまで部屋に訪れていた管理人夫婦の顔さえあやふやとなり、がらんどうの頭と体に304号室のこする音が反響する……布団を引き摺っているのか……ちがう……なんの音だ! 悔しそうに歯を鳴らし、ナニチテルンデチュカ、オチエテクダチャイ、ナニチテルノ、自分の声とは思えない甲高い声でささやいた。どこかほかのところから聴こえてくるようだった。糞ッ、低いつぶやきのあと荒々しい咳に入り混じって不規則な足音が響き、バタンとドアが閉まる音がした。確かになにか作業をしているが、なんの音なのかまったく見当がつかない。二年間の盗聴で音だけでたいていの行為をいい当てる自信を持っているが、なにも浮かんでこない。娘夫婦の誘いにのって沖縄を旅行し三日間不在にしたことが悔やまれる。住人の生活は最初の三日間でほぼ把握できるのだ。引っ越しの作業で室内になにが置かれたのか、新しい住所を告げる電話で親しい人間関係がわかる。音量を上げ下げしているうちに娘婿《むすめむこ》からオトウサンと呼ばれたときの腹立たしさがよみがえって身ぶるいした。財産があの男のものになるくらいならどこかに寄付してしまった方がましだ。最後の夜に娘婿をレストランバーに誘って、「わたしが死ぬのを待っているのは当然だ、わたしがあんたの立場なら殺す計画を練るだろうね。だがね、あと二十年は死なんよ、いや、早く死にたいとは思っている。だからジョギングもしなければ薬も飲まん。こんな世のなかで長生きしたいと考えているのはほんとうのアホだからね。だけどもしもだ、わたしが二十年後に死んだとすると、あんたも老人になっている。あのマンションも老朽化して資産価値は下がってくるし、かりに建て直すことになっても、分担金として莫大な費用がかかるよ」といってやったときのことを思い出して愉快になってきた。娘婿はショックを受けたらしく呑めないくせにビールを注文した。「とにかくわたしが十年以内に死なない限り、きみたちにはなにも残らんと思ったほうがいいな、わたしだったら」と言葉を切ると、娘婿はあわてて「お父さんだったら?」とろんとした目を向けてきて、「まあ別荘を建てるなんてことは考えんだろう。わたしだったら妻を使って舅《しゆうと》に死んでもらうだろうな」というと娘婿の顔がほんとうに蒼白《そうはく》になったのがおかしくてあやうく噴き出すところだった。翌日別れるまでひと言も口をきかず陰気に押し黙っていたので殺害方法を考えているのかと不愉快になったが、なに、あいつにそんな度胸があるわけがないと思い直した。それに孫の可愛げのなさ、あれじゃあ、ひねこびた猿だ。旅行に行く前までの、なんとか離婚させて娘と孫と三人で暮らそうという考えは、三日間できれいさっぱり消え失せた。空港のタクシー乗り場まで見送りにきた娘が「来年もまたオジイチャンと旅行しましょうね」と孫にいったとき、「よし来年はハワイでも行くか」と孫のほっぺたを指でつつくと、孫は悪意を察知したのか脅《おび》えたようにあとずさり泣き出してしまった。ま、収穫は娘婿の頭を冷やしたことだ、と出費との帳尻を合わせて不愉快な旅行を記憶から消し去り、304号室の男に耳を澄ました。大木からこの男の素性を聞かされてふたつ返事で入居させることにしたのはほかの三部屋の女には飽きてしまい、つぎは男にしようと決めていたからだ。四十歳のデザイナーなら若い男より入り組んだ女性関係を持っているだろうし、離婚したというのは女でしくじったにちがいない。きっと派手な性生活を聴かせてくれると期待したのだった。あの管理人夫婦が毛嫌いするほどの変わった男ならかならずや楽しませてくれる、304号室にも監視カメラを仕込んでおけばよかったと後悔がふくれあがった。非行に走る息子を監視するためと偽って508号室だけに隠しカメラを設置させて、美人の女を入れるために入居希望者をつぎつぎに断り、六ヵ月後にモデルだと称する二十二歳の女を入居させた。在日韓国人でもいいんですかと訊く大木に、韓国人だろうがモンゴル人だろうが関係ないと答え、そんなことより美人かどうか訊きたい気持ちをぐっとおさえたがなんのことはない、なかなかの美人です、と告げられたときは思わず大木の膝を揺すってしまった。508号室のモニターカメラの受像機をオンにしてみる。青白い画面に浮かび上がるひとり暮らしの女の部屋に霊安室のような寒々しさを感じたものの、三日間目にしなかった女の部屋を見ているうちに自分の部屋に帰り着いたような安らかな気分に浸っていった。今晩ボーイフレンドを部屋に連れ込んでくれればいいのだが、と呆《ほう》けたように青白い部屋を眺めつづけ、304号室の単調な音はもう耳に届かなかった。  タイルの縁などゴムベラで入れにくいところは竹ベラの先で入れ、もっと細かいところはひとさし指にセメントをつけて塗る。余分なセメントをタイルの上に残さないよう注意しなければならない。目地入れが半分終わったときに強い眠気に襲われ時計を見ると、午前二時だった。男はあくびをし、ほんの数分目を瞑るだけだと自分にいい聞かせてベッドに倒れ、井戸に落ちてゆく小石のように真っ逆様に眠りに堕《お》ちていった。  指でひろげたブラインドのすきまから外を見ると、数片の雲が沈みかけた太陽に映えて杏子《あんず》色に染まっている。男はあっと声をあげた。夕方だ、時計は五時を指している、十五時間も眠ってしまったらしい。  ひとさし指で押してみると、目地はすっかり固まっている。男は両手にゴム手袋をはめてスポンジに含ませた20%の塩酸でタイルの表面についたセメントを溶かし、塩酸が残らないよう水で絞った雑巾で拭き取った。まだ壁の半分の目地入れが残っていて、セメントが固くなりかけているので水を加えて練り直さなければならない、やはり外に出よう、はらがへった。胃袋に引き摺られて靴を履いた。  玄関を出て右の通りに顔を向けると、電車賃を貸した女の子がカメラショップや化粧品店の前に立っている等身大ポップのようにまっすぐ男を見詰めていた。ポニーテールにぴったりとした細身のコットンパンツ、白いタンクトップの上から白とブルーのギンガムチェックの半袖シャツをボタンをとめないで羽織っている。男が近づいても動こうとしなかったが前を通り過ぎたとき、「返す」と警笛のような声を出した。返す素振りを見せないので歩き出すと、ファッションモデルのウォーキングを演じているような歩き方で男を追い越して立ち止まった。 「どこ行くの?」 「煙草を買いに、だと思う」 「なんの仕事?」彼女は男と肩を並べた。 「デザインだな」 「うそみたいなほんとうの話?」 「あなたもデザインやってるのかな」 「そう、でもあなたっていうのヘン。彩子って呼べばいいんじゃないかな、みんなサイコって呼んでるし。グラフィック系?」 「そっち系だな」 「うそから出たマコトみたい。だってあたし、そんなのやってみたいと思ってたから、がぜん興味湧いてきた」  デザイン専門学校と反対の方向へ曲がり、なだらかな坂を下りると、高級なスーパーマーケットを思わせる〈生活彩色〉という看板の店が目に留まった。なかに入ると品数は多いがコンビニとほとんど同じ値段で明らかに若者をターゲットにした店だった。見たことのない飲料水、ポストカード、クッキー、ケーキ、本棚にはファッション雑誌が並んでいる。男はサンドイッチとアイスティー、カウンターでマルボロをワンカートン買い、彩子が台の上に置いたミネラルウォーターといっしょに支払った。 「あたしがマンションに行くっていうのは、どう思う?」  男はぎょっとして立ちすくんだ。妻と同じ口調だ。質問形をとりつつ断固とした決意表明をするのは、女のひとつのタイプなのだろうか。 「いいと思う」男はあっさりと答えた。  部屋に入るなり彩子は四《よ》つん這《ばい》になってビニールシートの上に積み重ねてあるタイルやゴムベラ、ボンドの缶などを犬が嗅ぎまわるように点検し、窓際の貼り終わったタイルのところまで這って行くと、立ち上がって腕組みをして眺めた。 「タイル」 「そうタイル」 「絵?」 「モザイク」  彼女を部屋に入れたのは、タイルをだれかに見せたかったからだ。もし見せるとしたらこの子以外には考えられない。この子には独特の感性がある、それを彼女の言葉の響きから見抜いたのだ。部屋中タイルを貼りめぐらせようとしている人間を賞賛する感性、すくなくとも奇妙だと思っていないことは確かだ。 「なんの絵なんですか、これ」彩子は男がスケッチしたモザイクの下絵を手にとった。 「イッソスの戦い、コーヒー?」男は体の一部が膨《ふく》れ上がるのを感じた。  彩子は大きく溜め息をついて下絵から目を離そうとしない。  男は台所に行って水を入れたやかんを電気プレートにのせて調整つまみを強にした。頭のなかではなにかが騒ぎたてているが、部屋のなかはしんと静まり返り耳栓をしたようになんの音も聞こえない。冷蔵庫とクーラーがうなる音も、なによりも電車の音が聞こえない。男は吐息のように立ち昇る湯気をじっと眺めた。コーヒーを入れて熱湯を注ぎ、手を揺らさないように歩いてカップをテーブルの上に置き、冷蔵庫から缶ビールを出してふたを開けた。 「喫っていい?」彩子は長い間を置いて「煙草」といい、男の返事を待たずにリュックからメンソールの煙草を取り出して口にくわえ、下絵から目を離さずにリュックの底をまさぐって手帳や筆箱、ポケベルなどをつぎつぎとテーブルの上に並べた。男がてのひらにのせて突き出した百円ライターで煙草に火をつけて、 「あたし、コーヒー飲まないひとなの」 「おれが飲む」 「ビールといっしょに? でもイッソスの戦いってなんなのかな」  男は枕もとに伏せてあった図書館でコピーした資料を手にして声を出した。 「紀元前三三三年十一月、マケドニアのアレキサンドロス大王とペルシヤ最後の王ダレイオス三世の戦い。その年の五月、マケドニア軍はグラニコス会戦で属州連合軍を破って、夏にはシリア西のキリキアに到達して、もう一方のダレイオス三世は、王自ら全軍を率いて西に進み、アレキサンドロスを迎え討とうとイッソス河畔に陣を張った」  彩子は男の朗読に耳を傾けながら色別に積み重ねられたタイルを一枚ずつとって机の上に並べ、貼りかけのモザイクの前に立ち、 「どっちが勝ったの? アレキサンドロス? ダレイオス?」とタイルをカチャカチャと打ち鳴らした。 「アレキサンドロスの圧勝、破れたダレイオスは家族と戦利品を残して逃げた」 「家族は殺されたの?」 「読んだ本には書いてなかった、この戦いによって」タイルの兵士が耳を澄まして聴いているような気がして映画館や図書館で話すときのように声を落とし、「イッソスの戦いの勝利によって、アレキサンドロス大王はシリア、フェニキア、エジプトを占領して、大帝国の基盤ができたんだ」 「逃げたダレイオス三世は?」 「わからない」男は灰皿のなかでくすぶっている煙草を、吸口にべったりついている口紅で指が汚れないように注意深く揉み消した。 「アシスタントやってみたいっていったらびっくりするのかな、お金はいらない、だからときどき遊びにきてもいい?」 「アシスタントはいらないな、遊びにきたって、あなたと遊べる歳じゃないし」 「すごくはっきりしたいいかたで気持ちいい。でもタイル貼り手伝おうかなと思っちゃって」 「それなら助かる」  彩子はテーブルの上のタイルをパズルのように合わせながら、 「名前は?」 「名前はいい」 「いい、っていうのはなぜなんだろう」 「忘れたってことかもしれない」  彩子は話題を変えた。 「ひとりなんだ、ここ、仕事場?」 「いまはひとり。ここは仕事場じゃない」 「離婚したんだ。これどうやって割るの?」彩子はタイルを歯で噛む真似をした。  男が台の上にタイルをのせニッパーで叩いて三つのピースに割って見せると、彼女は男の手からニッパーを奪い、つぎつぎにタイルを割っていった。 「アルバイトってことにするけど、きてくれるんなら水着を持ってきてほしい、それが条件だ」 「どうして」彼女は手を休めずに訊いた。 「いつも海パンで作業してるんだ、あなたが普通のかっこうをしてるとなんか落ち着かないと思う」 「いいけど、ふたりが水着だっていうのも落ち着かないかも」  男は想像してみた、水着姿の男と女が汗にまみれてイッソスの戦いのモザイクを創造する、ムーア人のように。 「ぜったいに落ち着く」と強い調子でいい、ズボンを下ろそうとベルトのバックルに手をかけたとき、 「でんわ」と彩子がいったのと電話が鳴るのとはほとんど同時だった。 「今日、何曜日なの?」間の抜けた声で訊くと、「日曜日でしょうに」彼女は爪で鼻の頭をかいた。村上だ、今日がデッドラインだ。ベルトを垂らしたまま電話の前に立った男は、村上から送られてきた注文にかっとしてくしゃくしゃに丸めて壁にぶつけたファックス用紙を捜して拾い上げ、皺《しわ》を伸ばして読み返した。大半は作家の難癖《なんくせ》、世のなかで作家ほど陰湿な権力をふりかざす人種はいない。作家は政治家と芸能人を足して二で割ったタレントで、編集者は最高学府を出た幇間《たいこもち》だというくらいのことは十冊も装丁すればだれにでもわかる。男は突き上げてくる怒りにまかせてもう一度ファックス用紙を丸めて壁に投げつけた。この子を帰してからかたづけよう、二時間あればだいじょうぶだろう、いや、二時間では無理だ、三時間、九時までに仕上げてバイク便で届ければなんとかなる。  電話の音が止まると、黙々とタイルを割りつづけている彩子が目に入って、いまこの世界で正気を保っているのはふたりだけだと確信した。男は彼女が吐いた息を呼吸している息苦しさから逃れようとタイルの床に目を落とした。  栗毛の馬がゆっくり頭をあげて近づいてくる、轡《くつわ》、蹄鉄《ていてつ》の響き、いななき、兵士たちの槍がいっせいに向けられる、叫喚《きようかん》、白昼の稲妻、女の叫び。 「うるさい! 電車」彩子は両手で耳をふさいだ。  引っ越したばかりのときは削岩機《さくがんき》で部屋に穴を開けられていると思って飛び起きたり、振動でベッドが回転していると錯覚し転げ落ちたこともあるのに、この二、三日電車の音が気にならない。タイルに関心を奪われてから電車の音は聞こえなくなった。床が完成したらベッドも机も棄てよう、冷蔵庫とテレビだけあればいい、タイル張りの台を拵《こしら》え、ガラス板を敷けば仕事はできる。男はブラインドを上げ、ガラス戸を開け、シャツとズボンを脱いだ。赤いビキニの海水パンツ。振り向いて手招きすると、彩子は丸い目をさらに丸くし疵《きず》ついた脚で立ち上がろうとする猫のように体をくねらせた。電車が近づいてくる。彼女は立ち上がり男の斜めうしろに立った。男は気功に似たポーズをとる。電車が通過する。ふたりは吊革につかまって窓の外に顔を向けている乗客をはっきりと見た。男はだし抜けに彩子を横抱きにしてタンゴのフィニッシュのポーズをとり、うなじに生えている桃の毛のような産毛《うぶげ》に息を吐きかけた。遥か彼方で鬨《とき》の声が熱気を孕《はら》んで湧き立った。男は馬にまたがっている。踵《かかと》で蹴ると馬は一気に丘を駈け上がる。全身の筋肉が波打ち光を放って走る。男は鞘《さや》から剣を抜き、ダレイオス三世の首に突き刺す。血しぶき、電車の音はピークに達し、やがて遠ざかっていった。 「おもしろかった?」声がかすれている。射精したのか、気取られないように海水パンツをさわったがそのしるしはなかった。 「ヘン」彩子は止まらない瞬きを指で押さえた。  かたちよく上向いている乳房、タイルのようになめらかそうな乳房、彩子が立ち上がって伸びをし、リュックのひもを肩にかけた瞬間、男は二の腕をつかんで押し倒した。彼女はもがきあらがってあとずさり段ボールにつまずいて尻もちをついた。男はポニーテールの髪の束をひっぱってベッドに突き飛ばし叫び声を両手でふさいだ。男の汗ばんだ指のすきまからかすかにうめき声が洩れ、ふたりの目と目はぴったりと合った。男が目を逸らしたすきに彩子は男の指に噛みつき、あまりの痛さに頬を平手で打ち、彼女が悲鳴をあげるより早く両手を首にまわして絞めつけた。男はふるえる指で白のタンクトップをまくりあげ、白いブラジャーに手を差し入れて乳房をつかんだ。やわらかくてのひらに吸いついて離れない。コットンパンツを尻の下までずりさげると、どこもかしこもマシュマロのような肉で覆われ、どんなに強くつかんでも揉んでも骨の存在を感じさせない。男は彩子の鎖骨《さこつ》にあごをこすりつけ、耳の裏の汗を舐めながらふとももに股間を押しつけ腰を動かした。彼女はベッドの下に垂らした手の先でリュックをたぐり寄せてなかをまさぐった。パンティに手をかけたとき、男の顔になにかが噴射され、上半身が浮いたかと思うと一瞬気を失った。  目が痛い、声を出そうとしてものどが硬直して動かず体全体に寒気が走る。睾丸《こうがん》が縮み上がり、涙と鼻水を垂れ流してシーツの上を這いまわりベッドから転げ落ちた。左肘をまともに床にぶつけ激痛で肩までしびれ、燃えるように熱い目とのどと打ちつけた腕の痛みを堪《こら》えて立ち上がろうとしたが頭がぐらっと揺れ、椅子の背につかまって体を支えた。  しだいに頭がはっきりして視力も戻ってきた男は、自分の身になにが起こったのかわからず焦点が合わない目を彼女に向けた。 「ストップアタッカー、はじめて使ったけど思ったよりすごくきく。救急車呼んだほうがいいかな」彩子はストップアタッカーに安全キャップをはめた。  男は息をするたびに空気が薄くなっていく気がして激しく咳き込んだ。 「後遺症はないって説明書には書いてあったよ、だから冷たい水で顔を洗えばだいじょうぶ、ひょっとしてみじめ?」  男はふらつく足取りで浴室に向かった。蛇口をひねり、てのひらに水を溜めて顔を近づけると急に小便をしたくなった。もぞもぞと足踏みしながら水で顔を叩き、タオルで拭き取っている間に膀胱《ぼうこう》が破裂寸前に膨《ふく》らみ、もう我慢できない。便器のふたを立てて大急ぎで海水パンツを下ろし、口を小刻みに動かしてしぼんだペニスを指で支えた。尿の水柱が黄色というより赤茶色に見える。血尿か、どこか悪いのか、男はレバーを上げて水を流そうとした右手を引っ込め、便器にふたをしてその上に腰を下ろして部屋の気配を窺った。あのなんとかアタッカー、あれはひどい、もしかしたら彼女はあのアタッカーを使ってみたくておれに近づいたのかもしれない。彼女なんていう名前だったか、思い出せない。右手を伸ばしてトイレの水を流したが立ち上がることはできなかった。  彩子はもう一度男の部屋をつぶさに観察してみた。部屋の三分の一ほど貼られたタイル、その道具、テレビ、冷蔵庫、机、ベッド、段ボール箱、積み重なった本と資料、これからは学校よりもこの部屋に入り浸りになるだろう。変態になりたがっている男のアシスタントになるのだ、これでもうあの男は断れない。枕もとに切りとった雑誌のページを目玉クリップでまとめた束がある。週刊誌の連載小説だ。イラストはぜんぶ女の裸、ポルノ小説をスクラップするなんてヘン、でもこれ、あの男がレイアウトしたページかもしれない。頭のなかに言葉が浮かぶ、尻滅裂、尻抜け男、尻目な奴。男に強姦されるのがいやなのはただセックスがきらいだからだ。この作家聞いたことがある名前だ。でもどんな女流作家だったか、彩子は思い出せなかった。 〈部屋のくらやみは哀しみと恥辱でふるえ美香をすっぽりとかくそうとはしなかった。美香の意識はくらやみよりもさらにこい影となって肉体からゆうりし天井あたりに浮いている。肉体はベッドに縛りつけられベッドからおりようと思っても床は薄氷のように美香のあしをこばんでいる。いっそのことどこまでもしずんでいくほうがいい。  野口から会社に電話があってあおうとさそわれことわる理由が見つからなかった。なんのためにあうのかときくことはできたが待ちあわせの場所と時間をきめるしかなかった。どうせいつかは野口とふたりっきりであうにきまっている。隆之の口ぶりはかなり本気だったので部屋に帰ってベッドのふとんをめくると発情した野口がよこたわっていたとしても不思議ではない。  野口が指定したパブでのみ野口が予約してあったホテルで抱きあった。セックスする相手をかえたいという欲望はことなった手順と技巧がもたらす興奮をもとめてのことなのかと美香は考えた。征服し征服された数が性にらんじゅくと深いよろこびを与えるとしたら気が遠くなるほどのことなった夜を通りすぎるために肉体をひらかなければならなくなる。  野口は性急に美香の官能の地図にわけいり肉体のすみずみに舌をはわせますます迷路にはいりこんでいった。死体のようによこたわる美香に野口はいきりたって美香の肉を責めさいなんだ。  九歳のときの夏休み美香は田舎の叔父の家で眠っていた。遠くからカナカナカナカナカナカナとひぐらしの声が打ちよせてきたのでもしかしたら眠っていなかったのかもしれない。スカートがめくられあしのつけねになにかがあたるのを感じて目をあけようとしたが目はつむったままパンツがひざのあたりまでさげられ指が美香のなかへなかへとはいっていくカナカナカナこんどは指ではなくあつくざらざらした舌がなめまわす荒い息が顔にかかりあしが大きく持ちあげられたとき玄関があく音がきこえのしかかっていた丸太が美香のからだからころがり落ちて消え美香は畳のうえで眠りつづけたカナカナカナ……。  野口は美香をうつ伏せにしてつきださせた尻をにぎってはげしくこしをうごかしたっしそうになるまえにひきぬきつぎつぎと体位をかえてはうつ伏せにもどし肛門にひとさし指を入れてはまたべつの体位にした。とつぜんバスルームにかけこんだ野口はすぐに出てきて肛門にペニスを入れその瞬間果てた。  シェイビングローションでやったのははじめてだ。  帰宅すると隆之はすでにベッドにはいっていた。話しかけても背中を見せたまま身じろぎひとつしない。音をたてないよう服をぬぎブランケットをめくって隆之のとなりにからだをすべり込ませた。目をつむり神経がねむりに束ねられるのを待ったがねむりはおとずれそうにない。からだのどこを撫でても不安をはらんでいる。目が闇になれてもののりんかくがにじみあがってきたとき視界の外でなにかが動くのを感じた。闇のなかからいくつものひと影がよろめき出てくるのがわかる。幼いころから影はどこからともなくあらわれて美香のあとをつけてきた。真昼でもざっとうのなかでもあらわれる。美香はじぶんの影のかたちを知りたかったが目をこらすと影はいつも闇にとけてしまう。背をむけてとなりに横たわる男とじぶんのバランスをとるものは性以外になにかあるだろうか? 美香は丘のうえで風に吹かれている十二歳の少女のように世界の無意味とむきあっていた。〉  A4のワープロ用紙だったら縦に半分、B4のファックス用紙だったら三分の一に折って入れなければならない、しかも一枚ずつ、二枚重ねて入れるとシュレッダーは途中で詰まってしまい、そうなると紙をひっぱってもボールペンの先でつついてもだめで、ふたをはずして詰まった紙をピンセットでつまみ出すしかなかった。原稿を書いているよりボツ原稿をシュレッダーにかけている時間のほうが長いのではないかと思う。こんなに努力をしても、ゴミを漁《あさ》りたいという情熱に衝き動かされているひとならば、幅三ミリの紙を繋《つな》ぎ合わせることを楽しむはずだ。三ミリ四方のチップになる業務用シュレッダーを買えばよかったのだが高すぎた、店頭現物限りの特売品でも五万円。シュレッダーの前にもう三十分座っている。──好きなひとのゴミを漁りたいと思うのは当然です、ぼくは自殺するしかありません、いっしょに死んでください──出版社に届く読者からの手紙はしだいにエスカレートしている。自分と自分が書く小説に彼らを刺激するなにかがあるのかもしれないと疑っているが、刺激するのはどういうところなのか、思い当たるふしはない。ほかの作家とのつきあいはゼロに等しいのでよくわからないが、書き損じの原稿ややりとりし終わったあとのファックス用紙をどう処理しているのだろう。何冊かベストセラーがつづけば庭つきの一軒家を買って焼却炉をつくって燃やすこともできる。でもそんなことはありえないし、どんなにお金が入っても一軒家に棲む気はない。玄関のドアやガラス戸などかんたんにこじあけられるし二階にもよじ登れる。買うとしたらマンションだ、管理人常駐、テレビモニターで来訪者を確認する二重オートロック、警備会社と連動して非常ボタンを押すだけで警備員が駈けつけるシステム、テレビモニターに郵便配達や運送会社の制服を着た男が映ってもにせものの可能性を否定できないので小包を入れる宅配ボックス、この条件をすべて満たし2LDKのひろさだと六千万円以下ということはない。たぶん一生そんなマンションを購入することはできないだろう。  女が新人賞を受賞したのは七年前だった。受賞作は、口をきいたことはなかったが同じ高校の女生徒が起こした、恋愛をうわさされていた美術教師を卒業式の日にナイフで刺し殺すという事件をモデルにして書いた小説だった。雑誌掲載後に新聞、週刊誌、月刊誌で大きく取り上げられ、単行本は異例の売れ行きをみせた。二作、三作目まではベストセラーにランキングされたが、四作目からは重版されることも少なくなり、作家としての評価が定まらないままあっというまに五年が過ぎてしまった。  週刊誌からポルノ小説を書いてほしいと依頼され、棄て鉢で連載をはじめた小説が評判になり、ふたたびマスコミに登場する機会が増えたが、ファンレターは七年前とは一変して卑猥《ひわい》な内容になった。卑猥でとどまれば小説の性描写に刺激された読者の反応だと納得できる。ところがある日だれも知るはずがない前日の行動が克明に記された匿名のファックスが届いて、パニックになった。  女はシュレッダーを逆さに振って紙屑をゴミ袋に移し、袋の口を縛って靴を履き、玄関のドアを開けた途端、じっとりと湿った空気に身ぶるいした。八月の日没は一年のうちでもっとも暗さを感じる時間だ。廊下の目隠しのすきまからのぞくと、マンションや樹々が影のなかで大きさを増して空中に高くそびえ、夕闇に包まれる前にすべてのものの姿がそうなるように、いま一度くっきりと浮かび上がって見えた。  ゴミハウスと名づけられているコンクリートの打ちっぱなしの平屋はマンションのすぐ前にあった。鉄のドアを左右にひらき、一歩足を踏み入れると靴が水を打つ音が不気味に響いた。反響する音と四方を取り囲む壁は女の感覚を完全に幽閉し、音が音を呼んでかすかな足音が近づいてくる。しかしそれは鼓膜をふるわせて跳ね返ってきた水音にすぎなかった。管理人は掃除したあとホースで水を流すので床のあちこちに水溜まりができている。右側の棚が燃えるゴミ、左側が不燃ゴミ、ドアを開けてすぐのところに山積みされているのは決まって日曜の夜だ。今日はめずらしくゴミはひとつも出ていないのに、空気には腐った野菜の臭いが染み込んでいて息が詰まる。なにかが頬に触れてびくっと首をひねって肩越しに見ると、ひんやりとした自分の長い髪だった。女はあちこちに視線を彷徨わせ、ふと燃えないゴミの棚を見ると、真っ黒いかたまりが動いている。水溜まりの上にゴミ袋を置き壁に手を伸ばして電気のスイッチを押した。ネコ、女は叫び声を飲み込んで猫の置物を凝視した。呼吸が速まり浅いあえぎになって小刻みに恐怖を吐き出す。この黒猫の置物は三日前に棄てたものだ。飼っていた黒猫が死んで一年後の命日に骨董《こつとう》屋のショーウインドーで目が合い、目を逸らすことができずに買ったものだった。以来仕事机の前の出窓に置いていた。ファッション雑誌から〈我が家のお宝〉というリレーエッセイを依頼され、その陶製の黒猫でもいいかと編集者にファックスを送り、それでもかまわないという返事がかえってきたので引き受けた。文章だけではなく写真も掲載するという見開きのカラーページで、置物を宅配便で郵送したところ、返却された猫は梱包をほどくと箱のなかで壊れていた。破損がひどいので接着剤で直すことをあきらめ、段ボールに入れてここに棄てたのだ。それがもと通りになっている。目を凝らすと動いているように見える猫から木霊《こだま》のようになにかが響いてくる。よく似たべつの置物がたまたま同じ場所に棄ててあるのだ、手にとってみればちがいがわかるはずだ、と自分をなだめすかしおそるおそる手を差し伸ばして指先が触れた瞬間、猫は鳴き声を発して崩れた。足もとで砕けた猫の首、背後のドアが音をたててひらいた。  見たことのない男が立っている。 「だいじょうぶですか?」と声かけてきたので、女はかろうじてうなずきあえぎをおさえて、「割れてしまって」と言い訳した。汗で目が霞《かす》んでいる、視界をはっきりさせるために首を振って背筋を伸ばした。 「そこに置こうと思ったら、手がすべって」女の息はたったいま五十メートルを全力疾走したように荒い。男はごく自然に背後のドアを閉め、水浸しの床に散らばった猫の破片を見下ろして顔をしかめた。この男はなにものだ、ワット数の低い電球の弱い光を浴びて顔が黄色がかって見える、ゴミ置場にはそぐわない仕立てのいいズボンとYシャツは移植したばかりの皮膚のようにまだ体に馴染んでいない。同じマンションの住人だと思い込むしかなかった。外に出たいが男はドアを背にして立っている。女は無防備にゴミ置場に入り込んだ自分を呪った。男に対する恐怖よりも、暴力に対抗する力が自分にないことを知る方が怖かった。無力をカバーするのは細心の注意、油断が招いた恐怖に対峙《たいじ》できるのは本性だろうに、自分にはその力がない。ふいに籠絡《ろうらく》という言葉が浮かび、笑いたかったが声にならなかった。性的に挑発し籠絡することなどできるはずがない。  男は女の顔に視線を転じて、 「顔色悪いですよ、だいじょうぶですか」と目の奥でカメラのシャッターを切るように瞬きした。 「すこし、暑くて」女は溜め息を洩らした。 「冷たい水で顔を洗うといいですよ」男は一歩、二歩進んでゴミ置場のすみにある水道の栓をひねり、てのひらに溜めた水をひと口飲んで吐き出した。逃げよう、と思ってみても体を動かすことができない。どうしてゴミなんか棄てにきてしまったんだろう、ゴミといっても紙ばかりで明日まで放っておいてもよかったのだ。男はポケットからハンカチを取り出して手を拭き、無邪気な表情で女を見上げた。 「いいです、わたしは」女は微笑《ほほえ》んで首を振った。  男は吠えるようにひと声笑うと、 「いいです、わたしは、か」と壁に背中を預けて女をじっと見詰め、女が言葉を継《つ》ぐのを待っている。 「そろそろ、わたし」と足踏みすると、男の底深い目が素早く見ひらかれた。 「そろそろ?」  男の粘っこい眼差しを避けたかったが不可能だった。抵抗するのはやめよう、助けて、と叫んだりすれば首を絞められて殺される、いう通りにしよう、と女は逃げる方法を捜しながら自分にいい聞かせた。 「わたしは六階に棲んでいるものなんですけど、あなたのことは昼も夜も見かけます。何度か同じエレベーターに乗ったこともあるんです」  エレベーターにひとが乗っているときは顔を合わせないよう数秒ごとにひとつ減る数字をにらみつけている。ひとの顔など見たことはない。 「昼も夜もいるなんて、どういう職業なんですか」 「自宅勤務です」 「自宅勤務か、いいですねぇ、どんな仕事ですか?」男は唇を結び、目を細くした。 「たいした仕事では」 「なにかのデザインじゃありませんか? 建築とか洋服とか宝石とか」 「そんなような、内職みたいなものです」  だれかゴミを棄てにきて、女はわずかなすきまからドアの外を窺った。 「もっと活字系の、本の装丁とか雑誌のレイアウトとか」 「まぁ、そんな感じです」すこし迷ってから女はうなずいた。地下室のように静まり返り、通りを走る車の音さえ聞こえない。  男は女の顔をしげしげと見やり、目を和らげて追及してきた。 「フリーライターでしょ、有名人にインタヴューしたり、対談のテープを」といいかけてふいに笑みを消し表情を失くした。 「うそをつくのはよくない」  男は女の視線を糸のように手繰り寄せてからさらりといってのけた。 「あなたは作家ですよ」  男はドアを開けて、女が出て行くのを待った。  六本の線路が鈍い光を放っている。満員電車はなぜあれほど単純で細い棒の上を走れるのか。男ははじめて目にしたとでもいうように線路の向こうの神社を囲む生い繁《しげ》った木立ちを眺めた。動いていないようだが、よく見ると線路と木立ちのあいだの柵《さく》に葉の影が揺らいでいるので、すこしは風が吹いているのだろう。外からの熱気が部屋の冷気を押しのけて入ってくる。しばらくは開けておいた方が目地の乾きも早いし厭《いや》な臭いも消える。二週間前に台風が通り過ぎてから晴れの日がつづいていた。樹木の緑の輝きだけが風景のなかで唯一ほんものの色のように見える。男は窓を閉めて外気を遮断《しやだん》し、休まずタイルを貼っている彩子を見た。いまや白い縁取りがある紺色のビキニはタイルの兵士たちと溶け合い、この作業にもっともふさわしい制服と化していた。乳房と尻もきびきびと力強く揺れている。  彩子は三人目の兵士のモザイクにとりかかっていた。男が描いた下絵と見比べてはその通りに兵隊の服にグレーと黒のタイル、兵士の肌にベージュのタイルを貼っていく彩子に何度も、それでいいよ、と声をかけながらアレキサンドロス大王とダレイオス三世をほぼ仕上げ、ふたりの王の馬にとりかかっていた。  彩子は男がベッドに寝転んでいるときにしか話しかけてこなかった。 「ずっとここに棲むの?」 「ここを出るまでには死ぬだろう」  意味がわからない。説明してくれるだろうと待ったが、男は言葉を継ごうとしない。 「ここで死ぬってこと?」 「できれば、タイルの上で血を流して」  男のぼんやりした声は冗談に聞こえず、彩子は煙草に火をつけて押し黙った。身なりを整えれば三十代前半といっても通るだろうに、水着姿で横になって窓の外を通過する電車を眺めている男の背中に、いまにもモザイク状になって剥《は》がれ落ちそうな危うさを感じた。  男は昨日の夜、思い立って三度電車に乗り、吊革につかまって自分の部屋を眺めてみた。ブラインドを上げて窓を開け放ち電気をつけたままの部屋はほんの二、三秒で通り過ぎた。一回目はただ呆気《あつけ》なく、なにも感じなかった。つぎの駅で降りて、二回目は逆方向から通り過ぎ、その部屋には生活がないということに気づいた。三回目は目を閉じて通過した。瞼のなかをスローモーションで部屋が通り過ぎ、やがて涙でぼやけた。わかったのは、生活していく意志がない男が無意味にそこに居るということだけだった。生きていくためにはタイルを貼りつづけるしかないのだ、もし壁も天井も貼り終わってしまったら──。 「タイル貼り終わったら、どうするの」彩子には完成したこの部屋に男が棲むという感じがまったくしなかった。 「さぁ、氷枕に頭をのせて本を読んだり、テレビ見たりかな」 「その海パンで?」 「夏のあいだはね」 「冬になったら?」 「そうだ、暖房をつければ部屋のなかは一年中夏なんだ」男の顔に子どもっぽい笑みが浮かんだ。 「なんだか、あたし、哀しい」彩子は笑顔をつくれなかった。 「離婚、どうして?」 「妻に三下《みくだ》り半《はん》つきつけられた」 「別れたのに妻っていうの、ヘン」 「いやいいんだ。いちいち別れた妻っていうのめんどうだから。理由は不能になったせい。完全なインポじゃないと思うんだけど、ソープもだめで、テレクラも失敗。あなたにはなんとかアタッカーでやられた、あれ、どうして泣くの」  柄本は弁護士事務所へ行き、遺産相続に関するレクチャーを受けて帰宅した。一時間の相談料が一万円、三万円が役に立ったかどうかはわからない。とにかく一ヵ月以内に遺産贈与を含めた遺書を作成しようと心に決めた。「娘さんに全額|遺《のこ》したくないんですか」弁護士は笑ったが柄本には笑う理由がなにひとつ思い当たらなかった。「それでは寄付なさりたいんですか? 障害者施設や老人ホームに寄付なさるかたは大勢いますよ」と急に真顔になって、「それはそれで素晴らしいことです、敬意を表します」と頭を下げたので、「先生のご親戚のかたかだれかが施設やホームを経営なさってるんですか?」と訊いてしまった。弁護士は椅子を揺らして大笑いし、「いやぁ、マイッタナ、柄本さんにはマイリマス」といった。「やっぱりそうですか」と納得してうなずくと弁護士は急に不機嫌になって、「どうなさりたいんです」と眼光を鋭くした。大きなお世話だ、と胸の内で吐き棄て、「女にでも遺してやろうと考えてます」ととぼけると、弁護士は素っ気ない口調で、「見かけによらず不良なんですね」といって腕時計を見た。弁護士事務所を出て、不良になって娘にマンションのひと部屋を遺し、あとは生きているあいだに使い切ってみるのも悪くないなと思ったが、なんの現実味も感じられなかった。  非行老人  そうつぶやくとなにやら甘美な思いが胸を衝《つ》いた。非行に走る子どもがいて非行老人が出ないわけがない。老人Aになる勇気もないのかと思うと気が滅入り、道端に痰《たん》を吐いてタクシーを停めて帰宅した。  盗聴器をオンにして、Yシャツとランニングを脱ぎ、冷蔵庫からおしぼりを二本取り出して上半身の汗を拭いた。   ほんとに試してみたいの  若い女の声が響いて、耳をそばだてて裸になりタオルで下半身の汗を拭き、新しいブリーフとパジャマを身につけた。 [#ここから2字下げ] 苦しいの とにかく変な感じなんだ 羽根をむしられて飛んでるトンボみたいな おかしな気分 どうしたのかな [#ここで字下げ終わり]  柄本には男がなにをいっているのかまったくわからなかった。もしかしたらこの男はインテリで、人選に失敗したのかもしれないとがっかりした。   はじめようか  ベッドから立ち上がる気配、ふたりはベッドで抱き合っている! 気を取り直して耳を澄ますと、例の単調な音が聴こえてきたので落胆して音量を落とした。ほかの三部屋の住人は皆仕事で出掛けているはずでスイッチを入れる気にもなれず、ビデオデッキにテープを差し込みNHKの朝のラジオ体操を流し、レオタード姿の五人のインストラクターに合わせて体を振りまわしてみようか、それとも昼寝しようかと思案した。歳をとったことの唯一の特権は二者択一を迫られても思いつきで選べることだった。しばらく待ちさえすれば不思議とどちらかに決定している。現にいまビデオテープを差し込もうとしている。沖縄に行く前に厚生省に電話して、毎日ジョギングを欠かさない老人と一切運動しない老人の寿命の差を示す統計はないかと問い合わせて冷たくあしらわれたときの怒りがぶりかえし、ジョギングする奴はアホだ! と怒鳴ってレオタードの女たちといっしょに深呼吸をした。  女の笑い声が耳に飛び込み、あわてて盗聴器の音量を上げた。 [#ここから2字下げ] ほんとに泳げないの 海には十五年以上行ってないし 海パンも穿いたことがない こんな赤いビキニ生まれてはじめてだ その陽焼けは海 海で焼いたけど でも ほら 神社の近くの競技場にある芝生で焼いたの だからこのビキニとっちゃうと色がちがうんだな ここんとこ短パンのあと [#ここで字下げ終わり]  柄本は首をひねった。ビキニ、部屋のなかで水着を着ているのか? [#ここから2字下げ] あたし今年で陽焼け卒業するつもり 海に行きたい 行きたくない じゃあ そのパンツほんとに作業するためだけ そう 部屋で泳いでる [#ここで字下げ終わり]  室内で水着を着ている男と女の姿がどうしても像を結ばない。柄本は背中を丸め受信機に耳を押しあてて息を詰めた。水着でなにをしてるんだ! 心臓の鼓動が激しくなり部屋全体が揺れているとしか思えない。写真を撮っているのか、それで女を警戒させないために自分も着ているのか。自分のひとり言を聞きながら、女の水着姿を想像して硬くなる兆しがあるペニスをズボンの上から握りしめた。なるほど砂浜で見る女の水着はたいしてエロティックではない。しかしマンションの一室で女がビキニ姿でいると猥褻《わいせつ》だ。柄本の目は虚《うつ》ろで音楽に浸っているように頭を左右に振っている。吐く息には怒りが混じり、無意識のうちにぎりぎりと歯ぎしりをしていた。いくら耳に神経を集中させてもカメラのシャッター音は聴こえてこなかった。 [#ここから2字下げ] タイル どれくらいで乾く 一日おけば まずだいじょうぶだろう あたし 爪にいっぱい接着剤ついちゃった ベンジンで拭けばとれる ベンジンはだめ 爪が荒れる 除光液なんてあるわけないよね [#ここで字下げ終わり]  タイルだ、タイルを貼っているのだ。勝手に内装を変えてはいけないと規約に書いてあるのに。盗聴器をつけてはじめて発見した違反だった。いったいなぜタイルを貼っているのか、なぜふたりとも水着を着ているのか、柄本は怒るよりもそれを知りたかった。足音がして音が極端に小さくなり、ボリュームをあげるとノイズが走り、またふたりがなにをしているのかわからなくなってしまった。柄本はありったけの神経を耳に集めてかすかにシャワーの音らしきものを聴きとった。だがそれもノイズと聴き分けられなくなり、もしかしたら幻聴かもしれないと思いながらも必死にボリュームを調整し、何度も舌打ちした。水の音、嬌声《きようせい》、全裸でシャワーを浴びているふたりの姿が浮かび上がった。抱き合っている、性交しながらだ!  男はのどの乾きをおぼえて冷蔵庫を開けたが、なにも入っていない。 「買ってくる?」 「いいよ、水飲むから」水道の栓をひねった男はコップの汚れに気づいて直接蛇口に唇をつけて飲んだ。 「つかれたから横になる、てきとうに帰って」とよろめくようにベッドに倒れた。体は疲れ切っているのに頭は冴《さ》えている。このままでは寝つけない。目を瞑った途端、消えかかった蝋燭《ろうそく》の炎のように妻のやつれた顔が揺れた。暗転して妻の顔が消えると、拷問を受けているような叫び声、叫び声はやがて消え入りそうな嗚咽《おえつ》に変わった。ひとは一生のうちに何度だれかの泣き声、助けを求める声、夜中に苦しむ声を聞かなければならないのだろう。妻と別れて日に日に痛みは大きくなってゆく。焦点を絞って考えようとしたが、すべてはとっくに考え尽くしていて、もう考えることなどなにひとつないような気がする。妻は後悔しているのだ。プライドが邪魔して許しを乞うことができないものだから、こうやって眠りのすきまに入り込み気をひこうとして化けて出てくるのだ。でも追い払うには哀れすぎる、きちんと話して聞かせなければいつまでもおれにつきまとうだろう。結婚はつまらない。おれたちは最初からそう感じていて、ほんとうにつまらなくなり離婚した。でも離婚したときはひとりで生きていくことがこれほどつまらないとは思わなかった。だからといってもしふたりのあいだに子どもがいて家族で生活したとしてもつまらなかっただろう。みしらぬたにんというまんいんでんしゃにのるそれがくらしだ、おれはせんろぎわのわんるぅむにすんでいる、ここまで考えて男はすとんと眠りに堕ちた。  窓枠に腰かけて外に煙を吐き出していた彩子は煙草を灰皿に揉み消し、音をたてないよう椅子をベッドの足もとに置いた。そして見舞いに訪れた家族のような面持ちで男の顔をのぞき込んだ。この部屋で一時間ほど仮眠をとろうか、それとも気力をふりしぼって駅に向かうべきか、とにかくひどく疲れている。彩子は迷ってモザイクを見下ろした。電車音が遠くに聞こえる。ほかのひとにはきっとタイルの破片をぶちまけただけの不細工なモザイクにしか見えないだろう。このひとは骨の髄《ずい》から疲れている。このひとの疲れがタイル貼りというますます疲れる愚行にあたしを引き摺り込んだのだ。彩子は何度も男の寝顔に目をやった。疲れたと本気で思えば破滅するしかないのに、このひとは全身の疲れ、不能を認めようとしている、彩子は薄れゆく意識のなかで考えた。  ノイズさえも消えた。女は帰ったのか、いや、そんな気配は聴こえなかった、帰るんだったら、じゃあとか、またきますとかなんとかいうに決まってる、だいたい玄関のドアが閉まる音は聴こえなかった、居ることは居るのだ、じゃあ、なんで黙ってる? シャワーでいちゃついたあと、ふたりはベッドの上に横になったのだ。でもそれから二時間なんの音も聴こえなかった、きっと眠っている、水着を着た男と女がベッドでただ眠っているなんて信じられない。いったいなにがどうなっているのか、殺したんじゃないか女を、まさか、首を絞めたり包丁で刺したりしたら女の悲鳴が聴こえるだろう、ひょっとしてノイズが入っているあいだに想像もできないことが起こったのか、部屋のなかで水着を着てタイルを貼るような奴らだ、なにをしでかすかわからない。電車の音、受信機からではない、ひどい音だ、防音ガラスでもこれだけうるさいのだから下の部屋は鼓膜がびりびりするにちがいない。音を理由に家賃の値引きを要求してくる奴もいるがこの音じゃ無理もない、家賃を五千円下げるのと全室防音ガラスにするのとではどちらが安上がりか、ひとつ考えてみなければならない。それにしても防音して盗聴してるなんてお笑いだ。柄本は大きなあくびをした。このままだと眠ってしまう、ソファで眠るのは体に良くない。  男はあえぎながら眠りの浅瀬から浮かび上がり、さっきまで自分を脅かしていた悪夢を思い出そうとしたが輪郭すら浮かんでこない。脚が痛い、足もとで途切れ途切れの鼾《いびき》が聞こえる。そっと上半身を起こすと、彩子が脚を枕にして眠っている。束ねた髪が崩れて蜘蛛の巣のように顔にかかっている。眠りを妨《さまた》げないよう脚を引き抜き、ベッドから下りて二歩、三歩と進むうちに不安は凪《な》いでいったが、激しい運動を連続して行ったあとのような疲労感が体中の筋肉に張りついている。  男は浴室のタイルの上で膝を抱え、ぐったりと便器にもたれかかった。  昨夜コンビニで買った「真夏の女」が連載されている週刊誌をひらいて数分も経たないうちに眠気で文字の列が蛇行《だこう》しページを押さえていた指から力が抜け、男の意識は裸の女もろともあとかたもなく真っ白な空白のなかに消えていき、週刊誌は枕の上からすべり落ちた。眠ったのは明け方だった。  電話が鳴っている。目を開けた瞬間、部屋全体が男に襲いかかろうと身構えていた。男はベッドのすみで丸くなっている毛布を足の指でひっぱりあげ、シーツの端をつかんで顔を隠し膝を胸につけてうずくまった。眠っているあいだにトランクスを脱いでしまったのだろう、全裸だった。じわじわと爪先から這い上がってくる尿意に堪えられず上体を起こしてふらつく脚を踏み出した。  部屋に包囲されているという圧迫感はますます強くなったが、男の気分は昂揚《こうよう》していた。わざと力まかせにドアを閉めてトイレから出ると、ベッド、椅子、冷蔵庫を置いてある部分を残してほぼタイルで覆われている床に自分の肌を密着させた。タイルが頬、胸、腹、腕にぴったりと張りついたとき、心臓、肺、胃、内臓にタイルの感触を味わわせてやれないことがひどく理不尽に思えたが、心臓は肉越しになにかを感じてわずかに反応している。肉屋の冷凍室はすべてタイル張りだろうか、たぶんそうだろう、男はあごの先をタイルにこすりつけた。この部屋に吊されている自分の肉体が頭に浮かんでも不快ではなかった。男はさらに強くタイルに体を押しつけ、死ぬまでこの部屋で外部のなにものにもわずらわされずに生きていたいと願った。現実は生きるに値しない。両手を拳にして握りそれを腰にあててタイルの兵士をにらみつけると、戦闘ラッパが鳴り響き、両軍が互いに向かって進みはじめた。テレビも冷蔵庫もじゃまだ、兵士で埋め尽くさなければならない。男は敵の奇襲に驚いたアレキサンドロス大王のように服を身につけ、テレビを抱え上げて、一瞬粗大ゴミ業者に引き取ってもらうか、管理人のいない日曜日にゴミ置場に棄てた方がいいのではないかと迷ったものの、テレビと冷蔵庫はあった方がいい、いらないのは机とベッドだという結論に達し、棄てるなら下に行ってだれもいないのを確認すべきだ、でもあの管理人にだれのものか特定できるわけがない、とサンダルを履いて机をドアの外に運び出し、エレベーターにつづく廊下を突き進んだ。男はエレベーターボタンを押し、赤ランプがつかないのにいらだって二度押した。一階で停まっているエレベーターはなかなか上がってこない。もしかしたら管理人かもしれない、あの女がモップやぞうきんやバケツを積んで廊下を掃除しにこようとしているのだ、ドアがひらいて顔を見られたらおしまいだ、男は床に置いてある机を持ち上げて階段に向かった。落とさないよう腹に机を強く押しつけ、壁に背中をこすられながら慎重に一段ずつ足を動かしていった。二階の踊り場では息切れがして、二階を過ぎるとあえぎ声が洩れていた。一階エントランスに降りてあたりを見まわすと管理人室の小窓は水色のカーテンで閉じられ、〈外出中〉の札がたてかけられていた。ようやくゴミ置場にたどり着いて棚の下に机を置き、争いになる可能性を考えゴミ置場にかかっている手ぬぐいで指紋を拭き取った。  ひとつ物を棄てただけで部屋から狭苦しい圧迫感が払拭《ふつしよく》された。男は部屋を見まわして物という物を値踏みし、冷蔵庫もテレビも棄ててしまえばもっと気分が良くなるだろうかと思案した。死体置場も肉屋と同じタイル張りにちがいない、同じ肉のかたまりだから、と気のきいたジョークを思いついたとでもいうようにニタリと笑った。とにかくモザイクを完成させることだ。今日はひとりでやらなければならない。彩子が手伝いにくる明後日までに床にタイルを貼り終え、そしてふたりでいっきに残りの目地入れをやるのだ。生ゴミを棄てに行ったらとりかかろう、二分で帰ってこれる。エレベーターまで走って十秒、エレベーターを待つより階段を駈け降りるほうが速いから三十秒で階段を降りて、ゴミ置場まで十秒、計算しただけで気力が萎《な》え、今日は今週号の「真夏の女」を最後まで読んですこし眠って、起きたら近所の店になにか食べに行こうと決めた。  サンダルをつっかけ、だれかに呼ばれた気がして振り返ると、全裸で首を吊っている自分の姿が浮かび上がった。海水パンツは赤より銀色のビキニのほうがいい。妻にしゃれた遺書を書いておくべきだろう、あなたのいない人生は生きる価値がない、陳腐であればあるほどあの女にはショックが大きいはずだ、それにどんなに小さくても週刊誌に取り上げられるくらいの社会性も加えるべきだ。みるみるうちに部屋が灰色に染まっていき、男は身ぶるいした。早めにデザインを渡せば二週間くらいは村上が連絡してくる心配はない、危ないのは彩子だが口実を見つければなんとか追い払える、それよりも死体が腐乱し切るには二週間で充分だろうか。  台所で臭気を振り撒《ま》いていた生ゴミの袋を持ってゴミ置場に近づいた男は、ひとの気配を感じて足音をしのばせた。〈燃えないゴミ〉と書かれた貼紙の前で、管理人の妻がゴミ袋のなかをのぞき込み手を突っ込んで週刊誌をひっぱり出している。男のものだった机は棄てた場所ではなく入口のそばに移動してあり、その上にバケツとモップがのせてある。自分の部屋に持ち込むか古道具屋に売る魂胆だ、それにしてもわざわざ分別をチェックしているとすればキチガイだ、それとも自分たちが利用できるものを漁っているのか、どっちにしたって狂ってる、男はわざと足音をたてて女に近づいていった。ぎょっとして顔をあげた女はゴミを食い荒らすカラスのようにふてぶてしくすぐにゴミ袋に目を戻し、「分別だけはお願いしますよ」と妙なイントネーションでいい、「これ、生ゴミ」と男が袋を鼻先に突き出すと、「そのポリバケツ」女はゴミを置く台の下を指さした。  階段を駈け上がった男は三階でひととぶつかり、相手の腕から放り出された袋が階段を転げ落ち、花瓶が割れて散らばった。 「すみません」男は、高価なものだろうかと視線を破片の上で動かし、「申し訳ありません、弁償します」と頭を下げた。 「いやぁ、これはこれは、あなたひとりが悪いんじゃない、だいじょうぶです。気にしないでください、それにそんな高いものじゃない」と柄本は微笑を浮かべ、「その代わりにといってはなんですけど、七階のわたしの部屋まで荷物を運んでくれませんかね、ちょっと待っててください、これ、管理人にかたづけさせるから」と階段を駈け降りていった。  男は荷物を拾い上げた、こんなに軽いものをなんでわざわざ持たせるんだ、それにいったいどこに運ぼうとしていたのか? 男はきれいに包装された箱が入っている紙袋を抱えてホテルマンのような面持ちで立っていた。階下から怒声が聞こえる。あの老人? まさか? 怒声をあげるひとには見えなかった、紳士じゃないか、とはいってもあの管理人がすんなりかたづけるとは思えない、自分も下に行った方がいいのではないかと一歩階段を降りたときに老人が現れ、男に向かってうなずくと背筋を伸ばして階段を上って行き、あとを追う男を一度も振り返らずに七階の廊下を歩いて701号室の前に立ち止まり、ポケットから鍵を出して鍵穴に差し込んだ。 「ほんとうにすみませんでした」男は荷物を差し出した。 「どうぞ、入って」と柄本は親しい友人を招き入れるように片手でドアを支え、男はその笑顔に気圧《けお》されて荷物を手にしたまま部屋のなかに入って行った。 「ここに、どうぞ。荷物はわたしが」柄本はテーブルの椅子を引くと荷物を部屋のすみに置いて、突然両手をパチッと打ち鳴らし、「そうだ、あれ呑んでもらおう、沖縄よりチョーセン、朝鮮|人参酒《にんじんしゆ》の十五年ものがあるんですよ」と立ち上がった。男は、いえ、けっこうです、と口籠《くちごも》ったのだが、いや、いや、いやとつぶやきながら奥へ行ってしまった。孤独な老人の話し相手なんておかどちがいだ、どうやったら早く席を立てるだろう。 「これ、健康にすごくいい」柄本は人参酒が入ったグラスを持ってきて男の前に置き、「おいしい?」と追い打ちをかけるので男はあわてて口をつけ、「おいしい」と緊張した静かな声でいって、「ききそうです」ほとんど追従《ついしよう》的な口ぶりでつけ加えた。 「あなたは何号室なんですか?」 「304です」 「ひとり暮らし?」 「ええ」 「お互いヤモメ暮らし、ひとつ仲良くしましょう。部屋はこの間取りかな」 「ワンルームです」胸に衝きあげてくる不安を隠そうとていねいな口調でいった。 「どんな感じですか?」 「どんな感じというと?」 「壁紙とか床とか、内装ですよ」 「さぁ、ごく普通のワンルームです」 「普通のワンルームねぇ、わたしはワンルーム見たことがないから、今度おじゃまさせてもらおうかな」柄本は口をすぼめて咳をするように笑った。  もはや一秒たりともこの部屋にいることは堪えられなかった。帰る、心のなかで宣言した。 「なるほど普通ねぇ」  いぶかしげに眉をあげるのが神経にさわったが、いまの表情と声に語られないメッセージを読み取った。この老人は自分を疑っている、なにを? と思った瞬間、「タイル貼ってるでしょ」柄本の目が異様な光を帯びて輝いた。  男は自分の頭がこの部屋いっぱいに膨《ふく》れ上がっていくような錯覚に囚《とら》われ、あごを左右に動かしながら、 「どうしてタイルを貼ってると思うんですか」 「わたし、あなたの部屋の持ち主なんです」  男はかっとして席を立とうとしたもののまたどこかに引っ越して一からやり直す気力はないし、タイルに注ぎ込んで通帳には五十万しか残っていない。 「ま、ひとつ今後ともよろしくお願いいたします。大家っていっても親父がここに二百坪の土地を持ってたってだけの話でしてね、五年前に会社を辞めて賃貸料だけで生活してます」そういうと柄本は鼻だけでくすくす笑いはじめ、抑制がきかなくなり笑いが爆発しそうだった。  なぜこの老人は笑っているのだろう、しかしタイルを貼っていることは怒っていない、もしかしたら喜んでいるのか? 「だけどどうしてわかったんですか?」 「管理人から教えてもらったんですよ。彼らはなかなか優秀でね、このマンションで起こっていることで知らないことはない。たとえばドアについてるレンズあるでしょ、あれを使って部屋のなかをのぞく方法も知ってるらしい」柄本はこみあげる笑いを抑えこもうとしているうちに目が潤《うる》み、鼻汁が垂《た》れてきて、「あのふたりはたいしたもんだ」洟《はな》をすすりながらいった。  この老人は損害賠償をふっかけるつもりでいるから上機嫌なのだろう。なんとか言訳しようと言葉を捜したがなにも浮かばない。二杯目の朝鮮人参酒の残りを呑み干して立ち上がると、体がぐらりと傾いた。 「あぶない、すわって」とセメント袋のように重たい手に肩を押さえつけられた。  両眼が石のように硬く、頭が重く揺れ、ソファに倒れ込みながら薄目を開けると、いまだかつてこんな近い距離で同性に凝視されたことはない、と消えゆく意識のなかで湿った臭い息を頬に感じたとき、両わきのしたに骨ばった腕が差し込まれた。  振り落とされそうになって手綱を強く引くと馬は鼻を鳴らし、剣を振り下ろしながら敵陣のまっただなかに突っ込んだ。ドスッと音がして背中に槍が突き刺さり馬から転げ落ちたが、痛みも衝撃も感じずに顔を横にして草の上の血溜まりを眺めている。脳が働いたまま目もひらいたまま自分の死の瞬間を記憶に留《とど》めることができるのだろうかと思った瞬間、魂は体から離れた。草も川も血だらけで死に瀕《ひん》した兵士のうめき声で空気は重く澱《よど》んでいる。青褪《あおざ》めていく肌、眼窩《がんか》のなかで眼球は縮み、口からごぼごぼと流れ出た血糊が縞《しま》模様になってこびりついている顔、死体は男自身だった。  ベッドの上の天井には、黄色がかった長円形のぎらぎらした光のなかで風に吹かれるレースカーテンと風鈴の影が縺《もつ》れ合っている。ここはどこだ? これも夢なのか? 男は上半身を起こした。自分の部屋でないことだけは確かだ。 「コーヒーでもどうですか」  突然声をかけられ、男はソファから転げ落ちそうになった。 「コーヒーに砂糖とミルクは?」柄本は麻酔から醒めた患者を見下ろす医者のような笑みを浮かべている。 「すみません」男は起き上がって毛布を畳み、ソファの上に置いた。 「気分はどうですか? 寝言でずいぶん叫んでたけど悪い夢でもみたのかな?」  男はのどの奥で声にならない声を出し、不安定なバランスで首にのっている頭がぐにゃりと崩れ落ちそうで怖かった。この老人に訊ねてみようか、どうしておれがここにいるのかを。 「熱いから気をつけて」と柄本はテーブルの上にマグカップを置いた。  見憶えはあるがどこのだれだかわからない老人から思いやりのこもった表情を向けられ心配そうに声をかけられているのだから不気味だ。男は出版社の廊下でホモだとうわさされていた出版部長に呼び止められ、根ほり葉ほり体の調子を訊ねられたときのことを思い出した。頭が痛い、二日酔いか? 昨日酒を呑んだのか、記憶がすっぽり抜け落ちている。二日酔いにコーヒーは刺激が強すぎるのではないかと思ったが、頭のなかに立ち込めたもやを取り除きしっかりと目を醒ましたかったので黙って飲んだ。 「冷たいシャワーでも浴びたらどうですか? 歯ブラシとタオルと下着は風呂場の前に用意してあります」  男は思わずコーヒーをこぼしそうになった。階段で花瓶を割ったのだ、断片的に記憶がよみがえってくる。荷物を持てといわれて、朝鮮人参酒をすすめられ、タイルを貼っているのではないかといわれたのだ。なんでタイルを貼っていることがばれたんだろう、そうだ管理人の密告だった、この老人はオーナーなのだ。 「どうしたんですか?」 「すみません、帰ります」 「朝食をこしらえたんですよ、食べていってください。会社があるわけじゃなし、そこが自由業のいいところだ。さ、そのまえにシャワーを浴びて」と追い立てられるように浴室に入れられた。  シャワーを浴びる気にはなれなかった。鏡の下に白髪まじりの柔らかい茶色い毛がからまったヘアブラシが置いてある。そのブラシは使わずにざっと指に水をつけて髪を撫でつけ、ホテル名が記されている歯ブラシの包装を破き、ハミガキ粉をつけずに歯を磨いた。あの老人のうがいコップは使いたくない。男はてのひらに水を溜めて口にふくんだ。背中に激痛が走る。夢のなかの死が現実に姿を変えて侵入してきたのだ、と男は思った。首をひねってうしろを見る、だれもいない。シャツを脱いで鏡に背中を映してみてもなんの疵もない。向き直って鏡に映った自分の顔はいまにも崩れそうだった。目玉が腐れ落ち、髪の毛が抜けはじめるかもしれない、男は自分の顔をじっと見守った。  浴室から出るとテーブルの上には朝食の用意が整っていた。 「なんだシャワー浴びなかったの? まぁいいけど、ここに座って」柄本は椅子を引いた。  トースト、ハムエッグ、ホウレンソウとベーコンのサラダ、オレンジジュース、コーヒーが並んでいる。男は洗面所では食べないですぐに帰ろうと決心していたにもかかわらず、さぁ、とすすめられると、この数日間まともな食事を摂《と》っていなかったせいか、がつがつと食べはじめ、二枚目の食パンを無断でトースターのなかに入れた。食べものの味など感じられなかったし、吐くのではないかと胃のあたりが不安だったが、食べることによって悪夢から遠ざかり現実の世界に居るのだと徐々に気持ちが落ち着いてきた。「デザートでも」と柄本が立ち上がったすきに、歯にはさまったハムが気になっていた男は楊枝《ようじ》入れに手を伸ばし、右手のひとさし指に目をやると爪の下に暗赤色の汚れがこびりついている。そういえば引っ越してから一度も爪を切っていない。楊枝を使って汚れをほじくり出し、なんだろうと指の先端を鼻を近づけてみると、鉄の臭いがする。  目の前にカットされた西瓜《すいか》が出されたとき、男は一瞬生首を置かれたと思って椅子ごとあとずさった。草も、馬も、死も、皆ほんものだったのだ。席を立ってトイレに駈け込み、頭を下げて吐いた。トイレットペーパーを千切ってあごのまわりに垂れた吐瀉物《としやぶつ》を拭き取っていると、いつのまにかうしろに立っていた柄本が、 「気にしないでいい、あなたとは今後友だちづきあいをしたいし、お願いしたいこともある」と両手を腰にあてて冷ややかにいい放った。  304号室のドアの前に立つと、セロハンテープでメモが貼ってあった。 〈明日はこれないからきてみました。二時間待ったけど留守みたいだから帰ります。木曜日にはかならずきます。彩子〉  目覚しを朝五時にセットして電気を消したのに、この陽射だともう正午を過ぎている。男は頭痛を追い払おうとてのひらで額を強く押しながら朦朧《もうろう》とした意識のなかで記憶をたどってみる。七階から解放されたのが午前十時か十一時、タイルを貼ろうとしたが腕が上がらずベッドに横になった。何度か目を醒ましてトイレに行き、最後に眠ったのは何時だったろう、男はこれ以上考えても無意味だとアナログの時計を棄てた。そういえば村上からはなんの連絡もこない。クレーム通りに仕上げたデザインを持って社を訪れたときのいまにも倒れんばかりの演技の効果だ。もっともタイムリミットを過ぎていたのでやり直しは不可能だった。時間がないことがひとを正気にする数少ない例が締切りだ。物理的に不可能、それでひとは正気になる。妻にもいってやるべきだった。物理的に不可能だと。でもあれはちょっと演技過剰だった、仕事をまわさない口実にされたら困る、それにしてもしつこく入院をすすめられた、もうちょっとで会社のコネがきく病院に電話されるところだった。おい、最近鏡で顔を見たことがあるのか、といった村上の声はふらついていた。ひょっとして友だち思いのいい奴を演じていたのかもしれない。  男はシーツをきつく巻きつけて体を包み込んだ。村上からの依頼がストップすればたちまち食えなくなる。ほかでの稼ぎをぜんぶ足してもこの部屋の家賃を払えるかどうかだ。村上がおれの首を切れない理由なんてひとつもない。考えてみればおれは村上に飼育されているようなものだ。主人は村上だ。電車の音と同時に電話が鳴り、男は喜んで思考を停止した。  モシモシもしもしモシモシもしもし互いに繰り返したが譲歩したのは男の方だった。 「どなたさまですか?」  笑い声で正体がわかった。 「七階です」柄本がいった。  男は、こちら304どうぞ、と声にしないで答えた。 「お願いしてもいいかな、大通りをずっとまっすぐ行くと、神社がある」 「引っ越したばかりで、それに方向感覚にぶいんです」 「地図をファックスする」  男はふたたび声にしないで答えた、了解、701どうぞ。 「レンタルビデオ屋でアダルトビデオを三本借りてきてほしい。実はその手のものを観たことがないんで、非行に走ろうと思ってね、それに年寄りにとっては健康にいいらしい、会員証つくってくれるとありがたいな」 「つくれるかな」 「保険証か運転免許証、パスポートでもいい、身分を証明できるものを持って行って」 「ないんです」 「ない?」 「ない。いまちょうど保険証をつくり直しているんです。妻に手つづきを任せていて、手もとにないんです、車も運転しません、パスポートは五年前に期限が切れて、自宅近くのポストのなかに棄てました。普通郵便じゃないほうに、速達、外国のほうに」 「からかってるね」 「ません。郵便局からはなんの連絡もありませんでした」  受話器の小さな穴から聞こえてくる音が歯ぎしりだとわかるまでには時間がかかった。離婚する前、男は妻か自分の歯ぎしりで目を醒ますことが多かったが、悔しがる人間が歯ぎしりするのははじめて聴いた、その響きをしばらく楽しんで、「申し訳ありません」電話を切ろうとすると、 「待て、わたしの保険証を使いなさい」 「え?」 「わたしの保険証を使えば、そいつはわたしだ。だれがどうして疑う?」 「だって年齢が、だれが見たって疑うでしょ」 「とにかく試してみてくれ。疑われたってせいぜい、これはあなたの保険証ですか、記入されている年齢には見えませんがっていわれるだけだ。そしたら生年月日をいえばいい。昭和九年、一九三四年十一月七日。暗唱すれば疑われない」 「暗記できますかね」 「タイルを床に貼るよりは簡単だ。保険証をとりにきなさい」  男は自分にふたりの主人がいることを認めて、柄本の生年月日を三度暗唱したとき、受信ランプが点滅し、ファックスが流れ出てきた。不思議と怒りを感じなかったのは、たとえレンタルビデオ屋の会員にすぎなくてもほかのだれかに成り替わるというはじめての経験に興味が湧いたからだ。これから仕事以外ではあの老人の名前を使うことにしよう。キャッシュカードかなにか偽造できるかもしれない。そのうち脅迫者の立場に逆転して、刺激を求めて冒険したがっている老人をのっぴきならないところまで追い詰めてやる。たとえばあいつの服と帽子を身につけて通りすがりの女を強姦し、現場に身もとがわかるようなものを残すというのはどうだ、そしてあいつが逮捕されたらおれがアリバイを証明して、そのあとにたっぷり脅迫してやる、もし帽子を持ってなかったらプレゼントすればいい、禿げているから喜んでかぶるだろう、一度見ただけで印象に残る服を買わせよう、強姦だったらまちがいなく勃《た》つし、あの老人のペニスのつもりでやるんだから気が楽だ、男の頭のなかにはつぎつぎと楽しそうなアイデアが浮かんだ。しゃべり声、咳き込むようなあの笑い声も真似ないと、一九三四年十一月七日。  斜陽を浴びた男のマンションはひどくみすぼらしく見えた。何年も補修していない外壁、建てたばかりのころは白かったのだろうが汚いシナモン色になっている。ベランダの手摺《てすり》は錆《さ》びつき、水をやっている様子がない植木鉢やプランターが並んでいる。たぶん七階の右から二番目が老人の部屋だ、と見当をつけた。老人が死んで、あの部屋の所有者が替われば、老人が生きていたという痕跡はなくなる。  大通りに出た男は行き交うひとや車に顔をしかめ、自分が群衆のなかに溶け込むのを醒めた目で眺めた。ひとごみを掻《か》き分け、排気ガスを吹きつけるバスから顔を背け、交差点で立ち止まり、老人から送られてきた地図に目を落とした。  ビデオレンタル・新作(一泊二日)旧作(七泊八日)450円と表示された電飾看板が店の前に立てられているのに、表からはどう見てもアンティークショップにしか見えない。入口の左右のスペースにはラックに古着が吊るされ、棚には人形やガラス壜《びん》などが並べられている。開けっぱなしのドアのなかをのぞくと、確かに奥のほうにビデオの棚がある。男は、それらしくないもの、を嫌悪していた。ニューヨークのロフトのような内装の居酒屋で酒を呑む気にはなれない。タイルの部屋を守るためだ、男は息を止めて足を踏み入れた。  店内には軽食と飲み物を出すカウンターまであり、ビデオは新作と旧作の棚に分かれ、レジカウンターの横のAVコーナーの入口には暖簾《のれん》がかけられ、外から客の顔が見えない配慮がされている。  カウンターには見たところ十七、八歳の青白い肌をした少女が立っている。見ひらかれた目はどこか虚《うつ》ろな感じがする。AVの部屋に入ると、香を焚《た》いているのだろうか、臭いがたちこめている。ポルノ映画館のトイレじゃあるまいしこんなところで精液を放出する奴なんかいない、精液以外のなにかほかの臭いを隠しているのか? 男は小鼻をひくひく動かしながら背文字を読んで、それらしいビデオを捜した。アダルトビデオなどレンタルしたことも観たこともない。カバー写真で決めようと棚の端から一本ずつ引き抜いて調べていくと、どの女も驚くほど美人で、ローティーンにしか見えない美少女のビデオを自分のために脇にはさんで、あとは自分の好みからもっとも遠い、媚《こび》に満ちた顔の巨乳女のビデオを三本選んでカウンターに持って行った。  ほっそりした未成熟な少女の前にアダルトビデオを突き出すということに神経がささくれ立ち、「会員になりたいんだけど」と最小限の言葉で済ませると、カウンターの少女は黙って入会案内と申し込み書をカウンターに置いた。申し込み書に名前、住所などを書いて保険証を差し出すと、少女は申し込み書の下に保険証の番号を記入し、返却期日や値段の説明をせずにレジスターに金額を打ち込んだ。表示された金額が千八百円だったので千円札を二枚置いた。レジを開けてその金をしまい、百円玉二つカウンターに置いた少女の顔は皮膚の細胞が死んでしまっているかのように無表情だった。  男は保険証になんの疑問も持たれなかったことに軽い失望を感じた。この年齢の女の子にとっては四十歳でも六十歳でも同じなのだ。昭和九年生まれも昭和三十四年生まれも、少女がこの世に生を受ける遥か以前に誕生した人間だということに変わりはない。  昭和九年十一月七日生まれ  と暗唱すると、少女ははじめて顔をあげて男を見た。思わず男のうしろにいるだれかを見たのかと振り向いたほど、少女は遠くを見ていた、あるいはなにも見ていなかった。  エレベーターで七階に直行するのはやめて自分の部屋に戻った。日本ビデオ倫理協会成人指定、画面からビデオ店のAVコーナーの臭いが漂い出てきたような気がして男は顔をしかめた。真っ赤なボディコンを着た女がカフェバーで睡眠薬入りのカクテルを呑まされ、店の奥の部屋に連れ込まれて数人の男にレイプされるという筋書きだった。早まわしにすると、何分に一回と決められた性交を見せるためだけに編集されていることがわかる。フェラチオ、シックスナイン、さまざまな体位で乳房と性器を責めたてられ最初は嫌がっている女がそのうち喜びのあえぎ声をあげ、あらん限りの痴態を演じるという構成になっている。男たちの顔と体が映し出されるたびに興醒《きようざ》めし、男はビデオを止めて巻き戻した。自分のために借りたビデオを再生すると、黒いトックリセーターに赤と黒のチェックのロングスカートを身につけた、アイドル女優と遜色《そんしよく》がないほど美しい少女が陽傘《ひがさ》をさして古い家が建ち並ぶ路地を歩いている。画面が変わると、畳に正座している少女がスカートとパンティを脱いで下半身を剥《む》き出しにして、黒いトックリを着たまま横たわり正常位や後背位を思わせるポーズをとる。光沢のある白い肌、腰から尻に流れる曲線はこれまで観た映画のどの女優の裸よりも美しかった。ズボンとトランクスを下ろしてペニスをひっぱり出し、五本の指で握って動かしたが兆しだけを見せて硬くならない。男はあきらめてトランクスとズボンを引き上げた。ふいに猫の声が聞こえ、男は立ち上がってブラインドのひもを引いて窓を開けた。電車の轟音が男の顔を叩きつけ、電車が通り過ぎるのを待って耳を澄ますと、よく透るもの哀しい猫の鳴き声が聞える。線路沿いのどこかに群れをなして暮らしている野良猫の一匹が迷い込んだのだろうか、窓から身を乗り出しても猫の姿はなかった。タイルが完成したら猫でも飼ってみるか、ふと思いついたが、そのアイデアはすぐに却下した。  男は水着姿になって梱包を解いていなかった段ボール箱からスクラップブックを取り出し、目地が乾いているタイルの上に横になってひさしぶりに写真や記事に目を通すと、彼女はいままでよりずっとセクシーになっている。男はユーモレスクのメロディーを口笛で吹きながら、女流作家の夏海かおりのインタヴュー記事の切り抜きと週刊誌や月刊誌のグラビアのスクラップのページをていねいにめくった。デビュー当時から彼女の小説と容姿に魅《ひ》かれて、最初は資料整理のついでに机のひきだしや資料箱に入れて置いたのだが、思い立って彼女用の記事をスクラップブックに収めてみると俄然《がぜん》すべての記事と写真を集めたくなり、いまでは五冊になっている。サイン本も四冊持っている。彼女が猫と写っている写真があったことを思い出して三冊目のスクラップブックをめくり、黒のセーターに黒猫を抱きしめた写真を見つけた。彼女も猫も正面を向いている。猫とそっくりの目、そして黒のセーター、二十四歳の冬の写真だ。男のペニスがわずかに上向いた。いま週刊誌に連載している小説はおもしろいというより、モデルにされたのではと疑ったほど主人公の恋人は自分とそっくりだった。この七年間のどの時期の写真と比べてみても、彼女は成熟しきったいまが美しい。出版社に勤めていたころ文芸誌の編集者に頼めば紹介してもらえたのだろうがその気にはなれなかった。相手は自分の存在すら知らないのに、自分は相手の私生活以外のほとんどすべてを知っているという関係には性的興奮を刺激するなにかがある。一度喫茶店での打ち合わせが終わって雑談中、編集者が腕時計をちらちら見ながら三十分後に彼女と約束しているというので、なにげなく待ち合わせのレストランを訊き出して、離れた席から彼女を観察したことがあった。彼女が周囲に視線を配るので、男は何度も身をすくめたが、彼女は男に気づいたわけではなく見られていることを確認したにすぎず、もし店内のだれもが無関心だったら堪えられなかったにちがいない。その過剰な自意識に接した男は、失望しなかったばかりか、思った通りの女だとやさしい気分になることができた。  五冊目の最後のページはファッション誌の〈今燃えている女性〉という特集のカラー写真とインタヴュー記事だった。男は寝転んで、いちばん気に入っている斜め左に視線を落とした横顔のアップを股間にのせゆっくり動かしはじめた。  電話が鳴り、男は受話器をとる代わりに立ち上がり、三本のビデオテープを持って軽やかに階段を駈け上がった。チャイムを鳴らすとすぐにドアがひらき、柄本はビデオテープを受け取ると、用意していた五千円札を男の手に握らせた。 「帽子、持ってますか」男は五千円札の皺を伸ばしながら快活に切り出した。 「帽子? どうして」 「プレゼントします、五千円の帽子」  目地にセメントを入れ終わって、男はモザイクの全体像を眺めた。 「イメージぴったり?」  男は十分ほど黙っていたが、肩を落とし壁に背を預けたまま座り込んだ。 「ならなかった。思い通りに?」彩子は男のとなりに腰を下ろした。 「デザインでもなんでも思ったことの三割実現したら成功なんだ」 「三割にもならないの?」 「パーフェクトだ」 「じゃあなに、つかれたの?」  彩子は生まれてはじめて空虚な穴をのぞき込んでいるような気がする。自分が知っているひとたちとは異なった形の穴。みんなはその穴をなにかで埋めようとしてあがいているのに、このひとは穴を掘りつづけている。専門学校の文化祭に招かれた講師が、石畳の下は砂漠だったといったのを記憶しているが、この部屋のタイルを剥がすとその下は底無しの空洞になっている気がして、彩子は腰を浮かした。 「タイル以外に快適な空間ってないの?」 「あるけど、棲めないな。蜘蛛の巣、燕《つばめ》の巣、蜂《はち》の巣」 「巣をつくりたい? 鳥の巣を人間のサイズに合わせて大きくしたようなのは?」 「それが家じゃないか」  男は巣というコトバでなにかひらめいたが、一瞬にして消えた。 「暮らしたいと思う? あたしと。きいてみただけだけど」 「無理」 「どうして」 「満員電車に乗る気がないから。それに無理だ」 「どうして」 「不能だから」 「インポの男と暮らしたい女っていると思う」 「らしくないものは変だ。デザインは形なんだ、生活だって形、あなたもそろそろ形をつくらなければだめだ」 「あなたっていうのなんかやだ、彩子だよ。あたしは形をくずすのがデザインだって勉強したんだけどな」 「サイコ」 「ヒッチコックの映画みたいに聞こえるけど、ま、いいか。形ってなに?」 「十九歳という形」 「わかんない」 「過去に生きた十九歳の女でもっとも美しいフォルム、その模倣」  柄本は304号室のブザーをモールス信号のように鳴らした。男が爪先立ってドアにしのび寄り魚眼《ぎよがん》レンズをのぞいている気配が聴きとれる。魚眼レンズに入るように一、二歩うしろに下がるとドアが細くひらいた。 「なんですか?」 「開けろ、わたしだ、テナントらしく早く開けるんだ!」  ドアがひらき、赤いビキニの海パンを着た男にたじろいだが、すぐに体勢を立て直し、「ちょっとあがる」男を突き飛ばすようにして部屋に入った瞬間、床を埋め尽くしているタイルに足が釘づけになり生つばを飲んだ。ビキニの女がタイルの床に膝立ちになり、砂漠のプレイリードッグのように警戒してこちらを見ている。柄本は瞬きをして思い切り目を細めた。 「アシスタントです。こちらは柄本さんで」  柄本は紹介が終わらないうちに彩子に近づいたものの、いったいなんの目的でここにきたのか途方に暮れて立ちすくみ、男にすすめられて仕方なくベッドに腰を下ろしタイルを磨く女の尻を目で追った。ビキニの女、サイコという名前だ。 「いやね、タイルの進み具合が気になってね、これで完成?」 「すこし直さないといけません。ビデオ、どうでした?」 「うんおもしろかった、迫力があったし、ヒロインの熱演がなかなかのものだ。あっ、ほら、女教師演じた女優、なんて名前だったかな?」 「さぁ、観てないから」 「じゃあぜんぶ貸してもいい。しかしきみはいいな、こんなかわいいお嬢さんをアシスタントにできて。お名前は?」 「彩子」  ビキニの尻をこちらに向けてもいっこうに気にしていない女の態度に柄本は屈辱を感じた。六十を過ぎたら男じゃないのか、若い男が六十過ぎた女に関心を持てないことはわかっていても、六十代の男が男性としての対象から外されることには承服できない。もしイタリア製のスーツで身を固めて三億円の財産を持っていることを知っても、この女はやはり無視するだろうか。ここにきたのはこの貧相な四十男が若い女にビキニの水着を身につけさせくだらないタイル貼りを手伝わせている不正を許せなかったからだ。ひどい面相の女を想像したのだが、テレビに出ているタレントだと紹介されても疑わないだろう。盗聴をはじめて性的な関心が高まったというよりむしろ性的な刺激に反応しなくなってしまった。セックスの欲望を失えば、死なないまでもただ指をくわえて死を待つだけの老人でしかなくなる。性を失うことは命の根源に栓をすることだ。出せなくなったらおしまいだ。人体は口から下の穴まで一本の筒、水道のようなものにちがいない、とにかく詰まらせるのはだめだ、血管だろうが陰嚢《いんのう》だろうが! しかしセックスを金で買うことはできない。六十を過ぎてソープランドに行く奴は性的障害者だ。  柄本はぴしゃっと膝を叩き、 「ビールはないかね」といい、酔わない手はない、ここで酔いつぶれて眠るのも悪くはない、と居直った。  男は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出しコップといっしょに手渡したが、柄本はコップを光にかざし縁についた汚れに眉をひそめて、「洗ったほうがいい」と突き返し、「きみはデザイン学校に通ってるの?」彩子の尻に向かって膝をそろえた。 「なんで知ってるの?」 「そりゃわかるさ、現代デザインスクールか、あそこにはきみみたいな娘がたくさんいる。わたしはしょっちゅうあそこを通るから、きっと何度も顔を合わせてるよ」  男は老人の笑い声に耳を澄ましその口もとを注視した。 「ところで、不躾《ぶしつけ》な質問だが、若い娘がお金で老人ともつきあうってのは、あれはほんとのこと? マスコミがおもしろく騒ぎたててるだけで、実際はごく一部なんだろうね」 「援助交際のこと? いるんじゃない、あたしの学校にも」彩子はモザイクの馬の腹から背中にかけてを念入りに磨き上げている。汗がしたたり落ち、その汗でタイルを磨くと、生きている馬のような光を放った。 「その娘たち、どうやって、その相手を見つけるんだろうね」  彩子は拭いているタオルを床に投げ棄てて立ち上がり、左脚を右脚にからめて腕組みをして右手の拳をあごにあてた。 「もしかして、紹介してほしいって話なの、おじいさん」  柄本は頭を小突かれたような目で彩子を見たが、同じポーズで笑っている彼女に悪気はないらしい。 「どうかな、おじいさんの相手をしてくれる娘《こ》、いるかな」 「無理かな」 「どうして、金がめあてなんでしょ」 「おじいさんは真剣になりそう、マジに」 「本気で恋をするタイプってことかな?」 「しつこく追いかけまわすんじゃないかな、わかんないけど」  わからないならいうな! と怒鳴りたかったがヒステリックに笑って誤魔化《ごまか》すしかなかった。今度昼休みどきに学校の前をうろついてこの子を見つけ、友だちといっしょだったら食事に誘って金を持っているところを見せつけてやる、そう考えてなんとか怒りを収めた。 「そうだ、柄本さん、お話があるんでしたね、気がつきませんでした」男はそういってから、彩子にシャワーをすすめた。 「きみもいっしょにシャワーをを浴びたら? そのかっこうじゃまともな話ができんだろ」柄本は表情を強張《こわば》らせたまま声だけで笑った。  彩子は帰り、男はシャワーを浴びずに服を着て段ボール箱の上に座った。 「いきがかり上あんなことをいったが、わたしはべつに若い娘とつきあいたいわけじゃない」柄本は急に疲労を感じ、弱々しく微笑んだ。 「わかってます」 「ただときどき気晴らしが欲しい。食うに困らなくて、仕事はない、家族はいないも同然、そうなると実にすることがない。あんただからいうんだけど、財産を処分してひとつ浪費してやろうと考えたんだが、どう浪費すればいいかわからない、趣味もなければ、海外旅行なんてあんなくだらんただつかれるだけの旅はハナからする気になれない。もしあんたが一千万でも二千万でも宝クジに当たったらなにに使う?」 「壁と床、浴室のタイルを剥がして、高価なアンティークタイルで貼りなおすのかな」 「タイル、タイルって、部屋中タイル貼ってなにがおもしろい! え? なんになるんだ!」柄本は顔を真っ赤にして逆上し、「さぁ、答えてみろ。この部屋をタイル張りにして、なにが楽しいんだ、馬鹿ッ! これは芸術なのか? 明日ひとを呼んで、このタイルぜんぶ剥ぎとったらどうするんだ。わたしにはその権利があるんだ! そしたらどうする!」 「殺しますね」男はのんびりした調子で答えて、ほんとうに殺すだろうかと考えてみた。そのときになってみないとわからない、しかし監獄はタイル張りではないだろう、この老人を殺したとしても六、七年で追い出される、それじゃあ割に合わない。男は老人の目をのぞき込んで、無期懲役《むきちようえき》になるためにはどれくらい残虐な殺し方をすればいいのだろうと考えた。この老人と管理人夫妻をつぎつぎと殺せば死刑だろうが、そんなエネルギーはない。 「怒鳴って悪かった。なにもタイルを貼ったことを怒ってるんじゃない、それはとっくに認めてるんだ。あんたが出て行くとき、もとに戻してくれればいい。でも、冗談にしてもひとを殺すっていうくらい執着しているものがあってうらやましいよ。わたしにはなにもない。だけどあんた、タイル貼り終わったらどうする?」 「さぁ、とりたてて」 「わたしはてっとり早いひまつぶしはセックスだと考えた。なんてったって執着するってのは欲望だ。事実、性欲はある、だから性を買えればいいんだけど、どうもそういう気にはなれない。エイズとかそういう病気もやだしね。エイズじゃなくっても梅毒とか淋病《りんびよう》とかクラミジアとかトリコモナスとか、駅前のガード下の性病科で医者と看護婦におちんちん見せるなんて堪えられるか? この歳になって。テレクラ、あれもよくわからん、中学生抱けるっていったって、しゃぶしゃぶだ、カラオケだ、シャネルだグッチだってさんざん金つかわされたあげく、やらずぼったくりっていうのも多いらしい。わたしはなにも若い娘とセックスしたいわけじゃない。ルーズソックスも茶髪も嫌いだ。それにセックスだけど、七十になってもセックスか? え? 馬鹿ばかしい」と柄本は吐き棄てたが、自分がなにをいいたいのかわからなくなり言葉に詰まって叫んだ。 「ちんぽこは勃つ! だけど勃ったからといってなんになる。勃っておもしろいのは四十までだ。六十、七十になって勃ったからといってなにがおもしろい!」柄本の頭はますますこんがらがった。ただ自分だけが激情に走っている、その熱さが心地よくもの哀しく、ひさしぶりに快楽に浸っているのを実感した。酔う、というあの感覚。 「あんた、タイル以外の欲望はないのかね」言葉遣いがだんだん老人っぽくなっていくのに抵抗はなかった、老人になってやる。 「強姦したい」男ははにかむように首を傾げた。 「強姦とはまた穏やかじゃない」 「妻を、もう妻じゃないけど、あなたに犯してもらって、見てるっていうのもいいかもしれないけど」 「わしがやれるわけないだろ」 「マンションはオートロックなんだけど、ベランダを伝ってのぼれる」 「待て待て、わしがベランダを這いあがるなんて芸当」 「二階だけど手伝うからだいじょうぶ、ベランダのガラス戸はしょっちゅう閉め忘れるし、ほら、クレセントというのかな、戸を閉めるヤツ、あれが壊れてるからかんたんにはいれる。ナイフで脅して、うつ伏せにして、パンツをナイフで切って、うしろから」 「過激だね」 「目隠しして、おれがやってると思い込ませたら」 「インポが治ったと思う!」  ベッドにひっくりかえり足をばたつかせて笑いつづける老人を、男はにやにやと眺めた。なぜおれの不能を知っているのかという疑問がちらっと頭をかすめたが、そんなことはどうでもよく、強姦される妻の姿を想像すると妻とほんとうに和解できるような気がして心の底から笑いたくなり、老人を抱きしめ笑いながらふたりでベッドの上で転げまわった。笑いが収まると老人は男の肩を軽く叩いていった。 「この歳で友だちができるとはな」  男はうっとりとモザイクを眺めた。大王も三世も兵士も馬もいっせいに勃つ! 「わしは強姦しない、あんたもできんよ。ほかに、なにか、ほんとうにないのかね、やってみたいこと。わしもおもしろがれる企画だったら一枚のるよ、金は出す。いっしょに楽しもうじゃないか」老人は自分でいってあまりにも芝居じみた口調だと思い、この科白《せりふ》をリアルにいえそうな役者の顔を思い浮かべたが、皆死んでしまっていることに気づいた。  男は父親に勇気を求められた息子のように真剣に思案して立ち上がると、段ボール箱のなかからスクラップブックを取り出し、老人の前でページをめくっていった。 「見たことがないが美人だ」 「夏海かおり」 「女優?」 「作家、わたしが好きな」  柄本は戸惑いながら五冊のうちの一冊を膝にのせ、ページをめくった。この男の欲望とこの女流作家になんの関係があるのか。強姦したいといい出さなけりゃいいが、美人にはちがいないにしてもこの高慢ちきな面はどうだ、ぜんぜんそそられないじゃないか。 「あんたがやってみたいことと、この作家と関係があるのかな」ここでひと口お茶でもすすれば申し分がない間ができる、そう思いながら老人は柔和な笑みを浮かべた。 「逢《あ》ってみたい、この部屋で」 「セックスがしたい?」 「ただ話がしてみたい」  通信が終わったファックス用紙をシュレッダーに差し込み、短冊状になった紙が下の箱に落ちるのを眺めているうちに、昨夜文壇バーで文芸評論家に通俗小説を書いていることをねちねち攻撃されたことを思い出し、ふと、なぜ書いているのだろうと考えると、意識までもがシュレッダーにかけられていった。  二十四歳のとき、文壇バーで翌月定年退職を迎える文芸誌の編集長に声をかけられた。 「夏海さん、世のなかはなんで動いていると思いますか」  言葉のセンスを試されているのだ、気のきいたジョークで切り返さなければと頭のすみで思ったが、酔っていて、 「怨霊《おんりよう》に決まってます」とオン・ザ・ロックをのどに流し込み、つまらないと思いながら口にした。オンリョウ・ザ・ロック。 「動機です」滝村編集長は静かにいった。 「世のなかは動機で動いているんです。あぁ、そうだ、モチベーションなんて、夏海さん、なるべく文章で横文字は使わないほうがいい、これは余計なことだけど。わたしはあなたに小説を書いてもらいたいと強く思う、あなたにお願いする、そこで傑作が生まれるかもしれない。つまり動機によって、動く」 「それはおかしい、あいつに書かせれば本が売れる、だから依頼する、そうじゃないですか? 作家だって、金が欲しい、だから書く、それ以外に書く動機なんてあるんですか? 書きたいこと、書かずにはいられないことなんてものがもしあったら、そんなもの持ってたら作家になる前に自殺してますよ」  夏海は泥絵具を塗りたくったように醜悪になっていく自分を感じながら、このへんでやめておいた方がいいという内なる声を握りつぶし、 「なにを書くかより、いかに書くかだってみんないってるじゃないですか。なにも書くことがなくなっても、書くしかないんです。動機なんてくだらない! そんなのテツガクを知らないアホがいうことだ!」  夏海の体はぐらぐら揺れていく 「なんにもない、なんにもないんだよ!」 「そうか、わたしの説明が下手だった。じゃああなたはわたしがそんな動機で小説を依頼したとして引き受けますか? もしお金が欲しければ受けるでしょう。売れる小説を書いてもらいたいと思う編集者と、売れたいと思っている作家が組んで、ほんとうに売れればそんな幸福なことはない。でもそんなことを動機といってるんじゃなくて、だめだな、わたしはだめな編集者だ、ひとりの作家も説得できないんだから。でも遺言だと思って聞いてください」滝村編集長は下を向いた。 「書きたいものを書く、それが動機です」  そのとき、吐いた、吐いたものがカウンターから垂れ、滝村編集長は上着を脱ぐと、まるで燃えさかる油の火を消し止めようとするように吐瀉物の上にかぶせ、唇が触れるほど顔を近づけてささやいた。 「吐きなさい、それが書くことです」  半年後、滝村編集長は夫婦で永住するためにオーストラリアに渡った。  書きたいものを書く、それだけではだめなのだ。連載開始時にまとめて渡した六回分のストックは徐々に減ってあと一回分しか残っていない。思いつくまま性技のバリエーションを書いたが、もはやどんなに考えてもなにひとつしぼり出せない。背が崩れ綴《と》じがほどけぼろぼろになった本のように、いつただの紙クズになるかわからないくらい脆《もろ》くなっている。  ファックスだ、立ち上がって用紙が出てくるのを眺める。編集者にしてはめずらしく端正な筆跡、村上だった。 〈冠省。御無沙汰しております。今日は原稿の依頼ではありません。知人のデザイナーから電話があり、中小企業の役員クラスが集まって各界から識者を招く勉強会に、是非夏海さんをお招きしたいとのこと。悪い条件ではなさそうなので話だけでも聞いてやってくれませんか? 直接幹事と交渉してもらえれば有難いです。もちろん断ってもらってもなんの問題もありません。会の責任者のファックス番号を送ります。不一〉  夏海はその紙の裏に筆ペンで、〈村上さんからFAXいただきました。私はひと前でしゃべるのが苦手で、一、二の例外を除いて講演、シンポジウムの類《たぐ》いすべてお断りしております。一、二の例外というのは、高額のギャラで金銭的に困っているとき、恩義があるひとから頼まれて断れない場合です。企画意図、日時、ギャラなど詳細をお送りください。夏海かおり〉と書いて篠崎という責任者にファックスした。  エレベーターで降りると、老人は一階エントランスのガラス戸の内側に外を向いて立っていた。男が夏海かおりに逢いたいといい出してから計画のすべてがまとまるのに五日、夏海に依頼して今日にたどり着くまでにひと月かかった。 「六時五十分、あと十分ですな」老人は男が連れて行って選んだモノトーン系しかつくらない渋いブランドのスーツを着ている。シャツからネクタイ、靴下までそのブランドでそろえて四十五万も出費したせいか、文化活動に造詣《ぞうけい》が深い中小企業の社長といっても見破られないだろう。男も老人からプレゼントされ同じブランドのスーツを着ている。老人は待ち切れず外に飛び出したが、男は九月の残暑に体を曝《さら》す気になれなくて外で待つことを躊躇《ちゆうちよ》した。気配を感じて振り返ると、管理人が老人の背中を見詰め、男を無視して外に出て行った。腰を低くして追従しているが、なにをしているのか訊き出さないうちは一歩も動かないとでもいうような気魄《きはく》を全身にみなぎらせてそっぽを向いている老人に食らいついている。おまえは関係ない、と露骨に追い払おうとする老人をのらりくらりとかわし執拗《しつよう》につきまとって離れない。そろそろ約束の時間だ、いま夏海かおりが到着したらますます管理人の好奇心を煽《あお》ることになる。管理人を追い払うためにはどうしたらいいか考えはじめたとき、老人の罵声が聞こえた。ドアを開けて脇を通り過ぎた管理人の顔があまりにも凄まじかったので男は外に出た。 「ほんとに看板みたいなもの必要ないのかな、いまから急いで貼紙つくろうか?」老人はもぞもぞと体を動かした。 「かえって変です、内輪のプライベートな勉強会という設定ですから」 「ま、彼女の応対はあんたの役目だからな、任せるよ」  男は空を見上げた。ほんのりとベージュをふくんだ空をブルーグレーの雲がなにか目的でもありそうに流れていく。 「なんだか、とっても馬鹿げたことを考えたのかな」 「いまさらなんだ、もともとつまらんことさ。わたしはあんな作家どうでもいいんだ、でもいまさらやめられんだろうに、だいたい出版社のあんたの友だちの手前もあるんじゃないのかね」老人ぽいしゃべり口調が板についている。  約束の時間を十五分過ぎ、時間が経つにつれ男の顔と首すじに冷たい汗が噴き出し、無意識に指がのろのろと口もとへ這い上がった。雲が気になる。考えてみればこの二十数年間、雲の流れなどに気を留めたことはなかった。口をぽかんと開けている自分に気づいたとき、死期が迫っているのだろうかと考えた。車が近づいてくるたびに身構えている老人と自分は戦争の危機が去った夜の哨兵《しようへい》のようだ。頽廃《たいはい》は行為からではなく無為《むい》から生まれるのだが、意味のない行為のために神経を磨《す》り減らすことが滅びに抗《あらが》うことになるのか。老人は見るたびに老人になっていく。フィクションを鋳型《いがた》にして現実は姿を現すのだ、そう思ったが男は自分のなかになんの物語もないことに呆然《ぼうぜん》とした。 「やめましょう」 「わしはべつにかまわんよ」老人は素っ気なくいった。 「いや、やります」男は頼りなげにいった。 「そうビクつきなさんな、たいしたことじゃない、話すだけだろう」  電車の通過音に耳をつんざかれ、男はプラットホームを歩いている夏海かおりを夢想した。自動改札機に切符を入れ、黒猫を抱いて真っ直ぐ前を向いて歩いてくる、彼女のなかには「真夏の女」のいく通りもの結末が渦巻いているのだろう。タイルが完成してしまうと、男にはそのあとの物語がなかった。行き止まりのトンネルが口をひらいて待っているだけだ。トンネルの入口には外光が射し込んでいるが、真っ暗闇だ。男はトンネルに足を踏み入れ暗闇に目を凝らしている。  タクシーが通り過ぎ、急ブレーキをかけてバックしてマンションの前に停まった。ノースリーブの黒のワンピース姿の夏海かおりが緊張とも気取りともつかない固い表情で降り立った。 「ファックスさせていただいた篠崎です」 「植木です」  ふたりとも偽名を名乗り二、三日前につくった名刺を差し出した。 「すみません、わたしすごい方向音痴で、道に迷ってしまいました」夏海は口をほとんど動かさずにしゃべった。 「ご案内いたします。せまいですが、わたくしどものミーティングルームにしています」練習していた言葉は自分の耳にもしっくりこなかったが、とりあえずシナリオ通りにしゃべることはできた。  夏海はバッグの内ポケットに名刺を入れてあいまいにうなずき、男は部屋に入るまではひと言も口をきかないようにしようと心に決めた。それにしても逢って話をするだけなら村上に紹介してもらえば簡単に実現するのに、なぜ老人に八十万も用意させて詐欺まがいのことをしたのか、彼女が不審に思って咎《とが》めようとしないのは、案外プライベートな会合で話をするということが普通に行われているのかもしれない。フィルターがかかったように頭がぼやけているのは眠いせいだ、昨夜から一睡もしていない、もし許してくれるならいますぐ眠れるだろう、眠ってしまえばなにも起こらない。男はドアをひらいてまず老人を入れ、目でうながしてスリッパをそろえさせた。彼女がスリッパに足をすべり込ませたのを確認して、ドアを閉め鍵をかけた。彼女が驚いた顔をして振り返ったので、力を入れすぎて大きな音をたてたのだということに気づき、音をたてないように注意してチェーンをかけた。 「どうぞ」昨日ふたりで七階から運び下ろしたテーブルと椅子は部屋の真んなかに設置してある。 「先生はコーヒーでよろしいですか」老人が微笑んだ。 「先生はやめてください。もしあったら、紅茶をお願いします」 「ハイビスカスティー」と男が読み上げるようにいうと、夏海は怪訝《けげん》そうに眉をひそめた。この部屋が不安を醸《かも》し出しているのは床がタイルであるせいだけではないと神経を集中していたため、なぜ男がハイビスカスティーを口にしたのか深く考えることができなかった。タイルをなんの目的で貼っているのか訊いてみたかったが、タイルに関心を示す素振りさえもためらわせるなにかがこの部屋にはある。 「ほかのかたは?」 「遅いなぁ。会社の役員が多いからこんな日もあるんです」流しに立ってやかんが沸騰《ふつとう》するのを待っている老人が間の抜けた声を出した。 「見ませんね。タイルですよ、床のモザイクを見ない」男はほがらかに非難した。 「あぁ、なんだかびっくりしちゃって、こんなマンションの一室にタイルのモザイクがあるなんて」と腰を浮かせて床を見まわし、「馬、あっそうか、中世の戦争の絵なんですかね」とテーブルの下までのぞき込んだ夏海は、モザイクの床から生臭い夏の湿りが立ち昇ってきたような気がして、スリッパを脱いで脚を組んだ。子どものころに母親と妹の三人で行った銭湯はタイル張りだった。肥満した中年の女の臀部《でんぶ》がつきたてのもちのように床にひろがっていくイメージ、老婆がすべって転び目の前で両脚をひろげたときのことや銭湯のタイルの床をすべらないようにおそるおそる歩いた記憶がよみがえってきた。 「さすがですね、でも中世じゃない、アレキサンドロス大王のイッソスの戦いです」  男は夏海を前にしても性的な興奮を催《もよお》さない自分に失望していた。大きくひらいた胸もとの肌の白さには確かに欲望を感じるが、目には他者を拒むというよりはっきりとした侮蔑《ぶべつ》の色が薄いカーテンのように揺れ動いている。夏海から顔を背けて下を見ると、机と椅子の脚が「イッソスの戦い」を踏みつけ陵辱《りようじよく》している。今日だけだとしても許されるべきではない、この女のせいだ、男の顔は憎悪によって生気を取り戻した。  電話が鳴った。老人はティーカップをテーブルの上に置いてからコードレスフォンを耳に押しあてた。 「あとでもし興味がおありでしたらご説明いたします」 「なにをですか?」 「イッソスの戦いのことです」 「そうですね」夏海は軽く笑って前髪を掻き上げた。この男は作家というものをどんな人種だと考えているのか、作家が世界中の出来事や現象のすべてに興味を抱いていると思い込んでいるひとたちは確実に存在する。どんな話にでもかならず耳を傾け、場合によってはエッセイか小説の素材にするにちがいないと信じて疑わないのだ。もし関心がないとはっきり口にすれば、読者をひとり失ってしまう。  男はどこにでもいるOLのような軽薄さを目の前の女に嗅ぎとって、憎悪が気泡《きほう》となって浮かび上がってくるのを感じた。知的な女が尊敬と憎悪が入り混じった性的興奮を喚起するのはなぜなのか、と彼女のスクラップブックをめくるたびに疑問に思った。女流作家とソープランドの白痴美人はよく似ている、異界の女だ。 「武井さんからだ、どうも会社でごたごたが起きているらしい、藤森さんも遅くなるって」  老人が娘に電話をかけさせたのだ。 「ふたりだけで申し訳ありませんが、講演をお願いいたします」男は改まった口調でいった。  夏海の目の奥でこの部屋に入った瞬間から感じていた危険信号が激しく点滅し、冷静に対処するしかないと生つばをごくりと飲み、両手の指を一本ずつ握りしめた。 「おかしなこといわないでください。依頼状とぜんぜんちがうじゃないですか、この話なかったことにしてください」笑いながらしゃべり出したがすぐに真顔になり、勢いよく立ち上がって鞄をつかんだ。シュレッダーの紙が舞い散る、糞ッ! こうも簡単に罠《わな》にかかるとは間抜けもいいところだ、取材や打ち合わせは行きつけの喫茶店を指定していたので気を許していたが、聞いたことのない依頼主には注意していたのだ。村上から話がきたので疑いの欠片《かけら》も抱かなかった。マンションの前の待ち伏せとゴミハウスにだけ神経を使っていた自分が馬鹿だったのだ。 「いや、せっかくですから、お話ししていただければ講演料はお支払いしますよ」老人は、作家としてのプライドの高さに反比例して人間として底が浅いこの女には、頭のなかの電卓に打ち込んだ八十万をゼロにする度胸はあるまいと読んで封筒をテーブルの上に置いた。話をするだけで数十万の金を受け取る人間がまっとうなはずはない、悪人だ、値段がついた人間など役者以外はクズだ。 「お金の問題じゃないんです」 「あなたは引き受けてここにきた、十五人だったら話せて、ふたりだったら話せないというのは理に合わない」  夏海は言葉に詰まってにらんだが、男の目に気圧されて逃げ出す方法を見つけようとして身を縮め椅子に腰を下ろし後悔で体が熱くなるのを感じた。さっきから数分置きに通過する電車の音が危機感を煽る。 「あなたは千人の聴衆を前にして話すのも、ふたりでも同じだといいたいんでしょう、でも実際は大ちがいなんです。千人の前で怖気《おじけ》づいて声を出せないひともいれば、一対一だとなんだかきまり悪くて話せないこともあるんです」  なにをいっても通じるわけがない。糞ッ! この男たちの動機はなんだ。レイプ。レイプから逃れるにはすすんで服を脱ぎタイルの上で脚をひらくしかない、そうしたらこの男たちはどうするだろう。下半身を曝して、さあヤッテよ、と自分にいえるだろうか、どちらにしろ彼らの欲望の正体を突き止めなければならない、いったいなにを求めているのか。 「でもあなたは顔をあげて堂々としゃべってるし、照れくさそうでもないし、怖気づいてるわけでもない、ちがいますか」男は語尾を上げて挑戦的に応じた。 「煙草喫ってもいいですか」バッグを開けてなかを捜したが、置き忘れてきたらしい。  男は素早く立ち上がって流しの下のひきだしから煙草を三箱取り出した。夏海はライターをこする自分の指がふるえていることに気づいた。フロンティアメンソール、半年前から喫いはじめた銘柄だ。知っている、この男はわたしを知り尽くしている。煙草を買う段になるといまでもかならず銘柄を訊く一年前からつきあっている男よりわたしの嗜好《しこう》をつかんでいる。ゴミハウスの男とはちがう気がするが、スケジュールを記したファックスを送りつけたのはこの男だ、夏海は両足首をきくつ縛られたような危険な罠に、嵌《はま》った、と思った。  老人はすっかり興味を失っていた。部屋に入るまでは性暴力を期待する気持ちはあったが、この男にたいしたことは起こせまいと高をくくっていた。八十万は痛い、その分は今度自分の計画を男に手伝わせることで埋め合わせるしかない、老人は生あくびをした。 「のんだほうがいい」と前に差し出されたソーダの壜とタンブラーのなかに入っているアルコールは呑まないでもわかる、バーボンだった。どこの酒場でもたいていバーボンのソーダ割を注文する。夏海は一気にバーボンソーダを呑み干した。ガチャン! 耳の奥で猫の置物が砕ける音が小さく響いた。 「わたしを監禁する気ですか?」 「そうとるんですかねぇ」老人は頭を撫でてへらへら笑い、バーボンソーダをもう一杯拵えた。 「帰りたいといってるのに帰してくれない、りっぱな監禁でしょう」  男は目の前で顔を歪めている女に話してもらいたいこともなければ訊きたいこともなかったが、このまま帰すわけにはいかない、その気持ちだけがくっきりと浮かび上がってきた。話したいこと、話さずにはいられないこと、話さなければならないこと、男のなかにそんな言葉はなにもなかった。 「『真夏の女』のモデル、だれなんですか?」 「どんな小説でもモデルは存在するとも存在しないともいえないんです。強《し》いていえば作者がモデルでしょうね。こうやってわたしはあなたたちを観察して、いつかよく似た人間を小説に登場させるかもしれない。でもその登場人物は小説のなかだけに生きているまったくの別人。その証拠に自分がモデルにされたと信じ込む読者が大勢います。ほかに質問は?」夏海はすこしずつ優位に立ち、占領地を増やしていくつもりだった。 「モデルにされたといってるんじゃない、ただ自分と似ていると思っただけだ」  夏海は呆気にとられ、男がなにをいおうとしたのか理解するまでに時間がかかった。まさかと思いながら「だれに? 隆之?」とうつむいた男の顔をのぞき込んで訊いた。そうなの? だったらあなたは、「インポなの!」頭をのけ反らせて笑った。  男は彼女が笑いやめるのを待ってからいった。 「その通りです。でも、ヒロインは笑わなかった、不能の男を受け入れた」 「あなた、もしかして人生相談のためにわたしを呼んだの、小説のヒロインみたいにわたしに癒《いや》してほしいと?」夏海は老人の方に向き直って、「あなたはこのひとの父親なんですか? 八十万でわたしを買って息子のインポの治療をさせるつもり? なにをわたしに望んでるの? 心理療法、それともフェラチオ? とにかく帰ります、帰る!」  立ち上がった途端、封書爆弾が炸裂《さくれつ》したかのような衝撃で椅子ごとガラス戸に倒れ、ブラインドの片方がはずれて顔に落ちてきた。夏海は老人に抱き起こされ、頭と腰に激痛を感じながら目を開けると、叩き割ったバーボンの壜を握った男が獣じみた目で空をにらんでいる。タイルの床には破片が散らばり部屋中にバーボンの臭いが充満している。男の額からは血が流れている。男が壜を叩き割ったとき、もし倒れていなかったら破片が顔かどこかに突き刺さったかもしれない、そう思うと恐怖にわしづかみにされ、苦境に陥ってしまったことをはっきりと悟《さと》った、この男は狂っている。  部屋全体が灰色に沈んでゆく。夏海の目は恐怖に見ひらかれ、だらしなく垂れた下唇がふるえはじめ、男のつぎの攻撃から身をかわそうと全身を固くしている。男にはこの程度の暴力でなぜこうも脅えるのか理解できなかった。 「恐怖の反対の感情はなんですか?」彼女の顔に焦点を合わせて訊いた。 「はい?」 「恐怖の反対の感情はなんですか?」男が繰り返すと、彼女は黙っていやいやをするように首を振った。 「わからない?」 「はい」 「恐怖の反対の感情は」と男はいい出してから考えて、「弛緩《しかん》」といったがすぐに「やすらぎ」といい直して大きく息を吐き、「あなたはやすらかな気持ちになったことありますか?」と訊いても黙って首を振るので、「もう一度よく考えて。あなたはやすらかな気持ちになったことありますか?」と憐れむようにいった。 「いいえ」夏海は小さな声で答えた。 「やすらぎがないなら、恐怖に囚《とら》われているんだ」と男は慰めた。 「そうかもしれない」夏海の声が滲んだ。 「あなたは恐怖の被膜に覆われていてひとを見ることができない。恐怖に閉じ込められているんだ。それはやすらぎがないからです、わたしはこういうことをお話ししたかったんです。あなたはどうしたらひとがやすらぎを得られると思いますか」男は磔《はりつけ》になったように椅子の背凭《せもたれ》に両腕をかけた。  やすらぎなどあるはずがない、夏海は男を殴りつけたかった。やすらぎや癒しなどという前に破滅すべきだ、だいいちそんなものが見つかれば長編のベストセラー小説が書ける。商売のコツはだれもが欲し必要としている、しかし現実には存在しないものを巧《たく》みに商品化することだ。 「わかりません」夏海は怖気を覆《くつがえ》そうとしている屈辱感を置き去りにしてかしこまった口調で答えた。 「考えて欲しい、お願いです」 「やすらぎなんて持てないんじゃないでしょうか。やすらぎがないところで生きなければならない。母親を亡くした子どもがいつまでも母を追い求めるのではなく、もう母親はいないんだと、そこから生きはじめなければならないようにわたしは思います」  やすらぎはない! 男は叫んで、床に転がったバーボンの壜の欠片を蹴飛ばし、テーブルの上の夏海の手首をつかみとって、 「あなたは恐怖に囚われて生きるしかないというんですか? いまのあなたみたいに脅え切って生きていかなければならないと? あなたはみんなインポになれば満足なんですか?」  夏海はこの部屋を出るためにはこの男が納得する答えを出すしかないのだ、と恐怖を自分の内から締め出して言葉を捜した。不能がキーワードだ、この男が癒される言葉はなんだろう。小説のラストをまだ決めたわけではないが、隆之が美香を殺すにまで至るリアリティをどうやってもたせるか、毎日それだけを考えつづけていた。小説の主人公とは百八十度異なるこのインポで疵ついている阿呆を救う言葉、牧師やテレビコメンテーターが吐く毒にも薬にもならない言葉を思いつかなければ。 「まず自分を脅かす恐怖をきちんと見据えることがたいせつです、固有のものもあればこの社会が生み出している恐怖もある、その正体をつかむ必要があると思います」  簡潔に、決して笑わず、論旨はできるだけぼかして、きちんと発声する、テレビに出演するときの極意だ。 「それがわかったとして、どうすればいい」  わたしにわかるわけがない、馬鹿な男、でもいい兆候だ、と夏海は思った。 「欲望を棄てるんです、恐怖を生み出し養っているのは欲望です、快楽を求める気持ちが実は恐怖を生み出していることを知るべきだと思います」 「飢えの恐怖にさらされている人間に食欲を棄てろと? 食欲を棄てることができれば解決するといいたいんですね」  ひるまない、考えない、まず言葉を口に出し、多少ピントがずれていても明快に断定する、議論の核心に触れていればいい、いまの場合は不能。 「飢えの場合はべつです。わたしがいいたいのは見えない恐怖についてです。棄ててもいっこうにさしつかえのない快楽は封印したほうがいい」  男は答えなどなにも期待していなかった。ただ空間に透明な色を塗る、だれもいない森林で一本の樹が倒れる。 「それはたとえばなんですか?」 「セックスです」  これで司会者がしめくくって放送時間は終了するはずだ、と夏海は老人を促すように見て微笑んだ。 「わしは性欲をもっている、いつも思ってる、セックスしたいと」老人は作家の全身を点検して、「でもいまのあんたはエロティックじゃない」といって男の肩に手をかけ、「この女の全裸を見たって勃たんだろう」 「勃ちませんか」男は老人の顔を見た。 「勃たんね、やすらぎを感じない、エロティックじゃない」 「妻みたいに」 「あんたの奥さんみたいに。これで勃ったらみじめなちんぽこだ。救われんよ」 「勃たなくても許してくれる」 「勃たなくてもいい」 「ここでひとを殺したとする。どうやって死体を始末すればいいんだろう。ぜひ作家の想像力で考えてもらいたいな」  男はこれまでとは別人のような低く甘ったるい声を出した。語尾が微妙に上下してから消える。  夏海は多重声帯という言葉があったろうかと考えた。多重声音? 「私はミステリーは書いたことがありません、死体の始末なんて想像したこともない」 「こんなふうに死体を置く」男はタイルの上に横になり手の指とつま先をぴんと硬直させ、「死体は硬直する、そうでしょう?」と夏海を見上げ、「死体のまわりをベニヤ板で囲ってコンクリートを流し込む。コンクリートが固まる前に板をはずして乾かす、そのあと」と上体を起こそうと肘に力を入れたとき、壜の破片が突き刺さりYシャツに血が滲んだ。男は老人に目配せして呼吸を合わせた、一、二、三、 「タイルを貼る」ふたりで声をそろえた。 「もしその死体がわたしだといいたいなら、すぐ警察が踏み込みますよ、ここにくるってことは部屋のカレンダーに書いてあるから」夏海は自分が安手のミステリーに加わる危険がどのくらいあるのか判断がつかないまま答えた。殺されたあとに犯人が捕まっても死体にとってはなんのメリットもない、わたしはなんとしても未遂に終わる物語を作るしかないのだ。 「あんたのカレンダーにはここの部屋の番号は書いてないだろう、ちがうかね、わしの部屋は上の階にあるが、わしが呼んだことになってるからこの部屋に目をつけられる可能性はないだろうよ」老人は退屈なゲームに参加することに決めた。 「出版社の村上さんの線からわかりますよ」夏海はマネキンのように横たわる男に、早く起きろと叫びたかったが、声にならない。  男がばたっとうつ伏せになると、壜の欠片が腿《もも》を刺した。目を瞑って男はこの世のなかのタイルの下にはいったいいくつの死体が埋められているのだろうかと考えた。 「あなただったら死体をどうするか、書いて欲しい、得意なはずだ」男は立ち上がってスケッチブックを取り出し、夏海の前にひらいた。 「書けない」 「作家だろ?」 「わたしのなかにイメージがないし、それにわたしの部屋じゃないと書けない。書ける状態、気持ちになれないと書けない」  男は玄関に向かって歩き、靴置きの下の段からタイルカッターを取り出して、 「書かなければ指を切り落とすという設定だったらどうだろう」とカッターで引っ越してから一度も切っていない爪を研いだ。書かないといったら、ほんとうにこの女の指を切断できるだろうか、男は首を傾げてヤクザ映画で観た通りに自分のてのひらを机の上にひろげてカッターの刃をこ指にあてた。 「あるいは、書かなければおれの指を切るとしたら、どうする?」  夏海は男のこ指を見た。子どもの指のように細くて短かい、手の甲には地図のなかの河のような血管が浮き上がっている。書かなければ自分の指を切り落とすというのはどういう意味だろう、頭を働かせなければ。わきのしたから冷たい汗が噴き出し伝い落ちていった。 「どうする?」男は甘くささやいた。 「どう書けばいいんですか?」夏海はどんな文章でも書くしかないと決断して鞄のなかからパーカーを取り出しキャップをはずしてスケッチブックを引き寄せた。 「おれが作家にこう書いて欲しいなんていえるわけがない」 「だったら書けない、さあ書けといって書けるわけないじゃない!」夏海が叫ぶと、ガリッという鈍い音がして男の指が切断された。  ミルクピッチャーからこぼれたミルクのように血がひろがっていった。  男は夏海に顔を向けて微笑んだ。 「書いて」 〈隆之は腕に力をこめて美香のくびをしめた。隆之のひたいに血管が青白くうかびあがったかと思うとひるのように動きだし目のなかにはいっていったように見えた。みっちゃくしたからだとからだ。もがきのがれようとする美香の力と隆之の力がせめぎあってギリギリと音をたててしぼられてゆく。あばら骨がたがいのあばら骨に食いこみ美香の力がぬけたとき隆之は叫び声にも似た息をはき尻もちをつくようなかっこうで美香とともにうしろにひっくりかえった〉  夏海はいっきにここまで書き、言葉を捜した。だめだ、もうなにも浮かばない、美香の息の根を止めて死体処理を書けばいいのだろうか、もしここで書けないといったら、男はくすり指を切断するのか、それとも今度はわたしの指?  男は背後にまわり込んで文章を読み、「いい」と目にうっすらと涙を滲ませた。  夏海は煙草に火をつけた。考えあぐねていた「真夏の女」の結末を書けるかもしれない、もし書ければこの経験はプラスに転化する。〈隆之は死んだのだろうかと美香の顔をのぞきこんだ〉と書いてすぐにスケッチブックの画用紙を破り棄てた。 〈隆之は死んだのだろうかと美香の顔をのぞきこんだ。美香の口もとに耳を寄せるとかすかに息をしている。隆之はあんどとともに勃起していたペニスがしぼんでいくのを感じキスをしてからおもいきり美香の息をすい込んだ。にどさんどと人工呼吸をして美香が大きく口をひらいたとき両手でかみをつかみ頭をがくんがくんと床にたたきつけると美香の顔がゆがみ血が床をぬらした〉 「壁に塗り込めるなんてできない。それにワープロがないと……もう何年も手書きで小説書いてないから」夏海は部屋に帰ってつづきを書きたいと思った。 「たとえば、だよ。オーディオ類の機械を運んでもらうとき、金属製の大きな箱がくる。あれなら人間ひとり楽に詰め込めるがね」老人は遠慮がちにいった。 「どこに運び出すの、つまらないこといわないでください」夏海がぴしゃりといった。 「吊したい」男は夢みるような歌うような調子でいった。 「どうやって? マンションには梁《はり》がないから死体なんか吊せない」夏海はいらだって画用紙を破りとって丸めた。 「死姦はだめ、汚ないし」  電車の音が通り過ぎ、いっさいの音を運び去ったような静寂が残った。 「死体は始末しない」沈黙を破ったのは夏海だった。 「三日間死体と暮らす隆之を描写する」 「それから?」 「それでおしまい」  男はテーブルの上のこ指をつまんでスケッチブックの上に置いた。 「この指よりおもしろい?」  夏海は三日間で死体の腐乱がどのくらい進むか想像してみた。目の前の指と小説の死体のどちらがリアルだろう。スケッチブックについた血の模様を意味づけようと思ったが、なにも浮かばない。椅子に座って目を閉じ腕を組んでいる老人は眠っているように見える。 「もう一本指を切り落とせば、もうすこしましなものが浮かぶかな」男は左手をテーブルに置いて指をひろげた。切断したこ指から血が流れ、止まらない。 「どうして死体を隠さないといけないの? タイルに埋め込むの? それとも満員電車に?」夏海には男が哀しんでいるのか楽しんでいるのかわからなかった。 「離婚したんだ」男は唐突にいった。 「べつに妻との暮らしをたいせつにしていたわけじゃない、どちらかといえば、まあどうでもよかった、と思う。失ってしまうと自分にはなにもないってことがわかった」と流し台に向かい、蛇口の栓をひねった。 「おい、古いマンションの水道の水は飲まんほうがいい、タンクのなかに猫の死体なんかが浮いていることがある」老人が目を瞑ったままいった。  男は右手だけで顔を洗い、 「どうでもいいことでも失くなってしまうと、変な気分だ」濡れた顔を夏海に向け、「だからどうってことはないけど」とまた顔をぱしゃぱしゃ叩き、Yシャツの袖で顔を拭きながらテーブルの方に体の向きを変えたとき、袖の血に気づいて額の疵に毛が入り込まないよう濡れた前髪をうしろに撫でつけた。  水道の水がステンレスの流しに勢いよくぶつかっている。  老人が目をひらいた。 「なんかで縛らんでもいいのか、その指、痛むだろ」  そういわれてこ指の第二関節のすぐ下の切断面に目を落とすと、細い動脈から血が噴き出てタイルにしたたっている。右手のひとさし指で触れると骨がぎざぎざに尖っている。全体重をのせてカットしたつもりだったのに、と男は首を傾げた。床に落ちた血が目地とタイルのすきまに入り込んで目地の何本かは赤い線になっている。男はしびれた頭でこれは夏海かおりの小説のプロットで、自分は登場人物のひとりなのだという考えを弄《もてあそ》ぼうとしたが、痛みがそれを遮《さえぎ》り現実に引き戻した。牛乳壜三本ぐらいは流れたにちがいない、このまま血が流れつづけたら出血多量で意識が失くなる。唇はきっと紫色だ、顔も背中も全身が汗びっしょりで火照って皮膚だけではなく内臓からも汗が噴き出している気がする。沈んでいるのか高ぶっているのかわからない気持ちを持て余しているうちに、なにか起こるべきことが起こっていないという焦りにも似た感覚が襲いかかってきて、男は頬の内側を噛んだ。観客は息を止めてクライマックスを待っているというのに三人とも他のふたりの出方を窺っている。男はしかめた顔に緊張と当惑を浮かべ、話す言葉を思いつかない言訳のように長いこと疵口を見詰めていた。失くなった指先にずきずきと痛みが集まり、ほかの神経が麻痺して空き家になっていく自分を感じた。イッソスの戦いのモザイクはぼやけて重なり合い、馬も兵士たちもただの色の塊になってしまっている。 「そのまま三、四十分も血が流れたら失神する。病院に行ったほうがいい」夏海は血の臭いにむせながら冷たくいった。  夏海と男を交互に見ていた老人は立ち上がって浴室に行きタオルをとってくると、テーブルの上のタイルカッターで細く引き裂き、男の左腕を脇にはさんで指の付け根をきつく縛った。 「上に行ってくる」そういって老人は玄関に向かい、外に出た。  男の額と鼻の頭からは汗の粒が噴き出している。 「夏がもどってきたみたいだ、暑い、脱がして」男は夏海の前に立って両腕をあげた。  夏海がシャツのボタンに指を伸ばすと、男は首を振った。 「ズボン」  夏海は黙ってベルトのバックルに手をかけズボンをひっぱり下ろすと、赤い海水パンツが目に入った。  ズボンを脱いだせいか、老人の手当で血が止まったせいか、男の意識は鮮明になっていった。壜の欠片で切った額、肘、腿、そして指先からしたたる血によってタイルの戦場は生き生きとした臨場感を獲得し、つぎつぎに起き上がっては男の前に立ち塞がる兵士の槍の切っ先は血で染まっている。もっと多くの血を、もっと多くの痛みを、もっと多くの死をとアレキサンドロス大王とイッソスの大地は求めている、ここは戦場なのだ、男は体を左右に揺らしながらタイルカッターをつかんだ。  ドアがひらく音がして、絆創膏《ばんそうこう》と包帯を持って戻ってきた老人は男のそばに歩み寄ると、バンドエイドを二枚使って切断面に十字に貼り器用な手つきで包帯を巻いた。 「まぁ、座ろうか、立っていてもなんだから」老人は電車の音を聞きながらぬるま湯のような声を出し部屋を見まわしたが、どこにも時計はなかった。男と夏海が椅子に座るのを見届けてからガラス戸に近づきブラインドのすきまに指をはさんでひろげた。通過していく電車の吊革にはだれもぶらさがっていなかった。九時ごろかな、老人はつぶやいた。 「生活がないっていうのも困る」男の言葉が宙に浮き、部屋は静まり返った。 「血が毛穴にしみこんでくような感じがする」男はセンチメンタルな声でいった。 「わたしは帰ります。もうたくさん、充分おもしろかったから」 「小説の結末は」 「お茶はあるのかね」  男と老人の声が同時に発せられ、三人とも沈黙した。  この部屋にはタイル以外になにもない。電車から眺めた部屋と同じでだれもいない。なにも思うことがなければ存在しない、男は立ち上がった。 「そろそろおひらきにするか」老人が腰を上げた。 「おれのこ指は?」男は夏海を見詰め、夏海は逸らした視線をテーブルの上に転がっている指に移した。男がつまんで立てると、まるで小さなトーテムポールのように見える。 「指をくわえて、ほら、そこの馬の口のところに置いてくれたら、おひらきにしてもいい」  男の目は夏海の瞼あたりを見ているようでもあり額の面皰《にきび》を点検しているようでもあった。夏海は、狂気を偽装するコツは相手の目を真っ直ぐに見て焦点をずらし、相手の目を見ながら見ないことだ、とだれかがいっていたのを思い出した。偽装かどうか知ったことではない、指をくわえるなんてかんたんだ、と口をひらこうとしたが、唇が強張り、もしいわれた通りにしても終わりにしないでつぎつぎと要求してきたらどうなるのか、畜生、この男の耳クソは乾いているのか、それとも湿っているのか! だれが指なんてくわえるもんか、夏海はどす黒く変色している男の指をおや指となか指で弾いた。  男はぷつぷつと音をたてて体中の毛穴がひらき体毛が逆立つのを感じた。血液が逆流し、床が揺れ動き、顔が熱くなり、足が勝手に動き夏海のうしろにまわり込んだ。椅子の背に凭れている後頭部が柔らかい毬《まり》のように見える。物語のつづきを考えているのか頭がわずかに左に傾いた。視界が髪とワンピースの黒一色になり、カッターを握りしめる手に力がこもった。  夏海は自分のなかに残っている感覚はなにもないように思えた。殺されたとしても怖くない。瞬間、うしろ髪をつかまれ、顔がのけ反ってなにもいえずに男の顔を眺めた。カッターの刃が耳の下に押しあてられたときもなにも感じなかった。プロット、言葉が浮かんだとき、冷たく固い刃から火のような熱が放射され、夏海は両目を大きく見ひらいた。血しぶきでなにも見えない。助けてぇ、死にたくない、殺さないでぇ、あぁ、声が出ない、のどがぼこぼこ鳴るだけだ、熱い。  暗闇が迫ってきて夏海が最後に見たのはのしかかるようにのぞき込む男の顔だった。奇妙な多幸感が全身にひろがり心地よい暗闇に滑り落ちていった、やっぱり怖くなかった。  老人は自分の眼球が飛び出すのではないかと感じた。女の左の頸動脈からおびただしい血が噴き出し、タイルの目地を伝って細い川のように何本もの支流に枝分かれして流れていく。目の前の光景がぼうっと霞んで見えるのは血が飛び散って目に入ったせいではないかと頭を振ったが、眼球にあふれた涙のせいだとは気づかなかった。ふくらはぎの筋肉がよじれんばかりにふるえていることにも頬の痙攣《けいれん》にも気づいてはいなかった。手の甲で目をこすると、くもりガラス越しのようにぼやけていた男の姿がはっきり見えた。破裂した水道管のように噴き出していた血の勢いが弱まり、いまでは音もなく流れている。  男の胸は大きく上下し、息をするたびにあばら骨が胸の皮を突き破りそうだ。蜘蛛膜下《くもまくか》出血でも起こして倒れなければいいが、いちばん厄介なのは意識不明になられることだ。死なれてたまるか、老人はつばを飲み込もうとしたが、のどの奥まで綿が詰まっているようで、「おい」とのどを振り絞っても綿に吸い込まれて声にならない。自分の心臓の方が不安になって胸に手をあてて摩《さす》りたかったが、肩の関節がロックされている。老人の目にふたたび涙が滲んだ。  男は体中の血液がどくんどくんと音を立てているのを聴いていた。目の前は真っ赤でなにも見えない。意識が途切れる寸前に残るのは視覚ではなく聴覚でなにかを聴きとってから死ぬのだと本か雑誌で読んだことがある。動脈の音を聴いて死ぬのか、肺動脈を? 体は雪原に立ちすくんでいるようなのに、瞼だけが熱い。瞼の高熱が野火のように全身にひろがっていく。目をこじ開けると、死体も老人もイッソスの戦いもポルターガイストのように勝手に動きまわっている。自分が動いているのか、まさか、どこかに連れ去られるのではないか、目眩《めまい》とともに恐怖が渦巻き、なにかにしがみつこうとした男の両手が空を握りしめた。 「やったな」老人が顔面すれすれで止まった。  その声のすべてのものがもとの位置に戻った。死体ののどから血が絵の具のチューブを絞り出すように流れている。壁に貼りついている老人と目を合わせると、猿のように顔を歪め黄色い歯を見せた。 「かんたんだ、ほんとにかんたんだった」男は息を整えながらゆっくりしゃべった。 「逃げるかね、外国にでも、金の心配はいらん、わしが出す」生気を取り戻した男にほっとして体を起こし背中を叩いてやったが、老人の目は泣き腫《は》らしたあとのように潤んでいる。 「パスポートがない。警察を呼べば死体のあと始末もなにもかもやってくれる、それがらくだ」  男は疵口を見ないようにして死体の顔に目を移した。あごが落ち、だらしなく口がひらいている、両の目もひらいているが焦点はどこにも合っていない。 「死体はみにくい」  男は左手にタイルカッターを持ち変えて右手の血をシャツになすりつけ、血を吸って真っ赤になったスケッチブックをめくり、白いページの綴じ目に拾い上げたこ指とカッターをはさんだが、自分がしていることに気づいていなかった。髪も眉毛も顔中血だらけだ。血の臭いだけではない、殺された夏海の恐怖なのか、殺した男自身の恐怖なのか、それとも殺人を目のあたりにした老人の恐怖なのか、濃い霧のように恐怖の臭いがたちこめている。 「なんかヘンダ」  スケッチブックを閉じて浴室に向かったが血で足がすべり、両手をひろげてバランスをとった。よろめきながら踏みつけたアレキサンドロス大王の顔も返り血を浴びている。  老人は椅子に腰を下ろし、組み合わせた両手をこねくりまわし、尻をもぞもぞさせ頭を左右に振りながらどうやって死体を始末し、どうしたら警察の追及を逃れられるか、めまぐるしく頭を働かせた。共犯は免れないだろう、実刑が科せられるかどうか、老人には知識がなかった。一日たりとも刑務所はごめんだ、留置されるのだって厭だ、流しの水音がうるさい。立ち上がって血ですべらないよう一歩一歩慎重に歩を進めやっとの思いで流しにたどり着き蛇口をひねったが、浴室からシャワーの音とユーモレスクのハミングが聞こえてきた。  老人は浴室のドア越しに声をかけた。 「シャワー浴びて鼻歌うたうなんてそりゃないよ、ひとりでいるとなんだかわしが殺したような気分になるじゃないか」その声には媚がたっぷりと含まれていた。 「洗ったほうがいいかな、死体」 「なんのために? 弔うためか?」老人は陽気な声を出している男を憎んだ。それになぜ自分がこの男の機嫌をとらなければならないのか、ひょっとしたら殺されることを怖れている? まさか、それならさっさと逃げ出さばいい、だが待て、わしが犯人にされる可能性はないのか? ある。すべてはこの男の責任であることだけはまちがいない、ぜったいにわしからどうするかいわないでおこう、行けるところまでこの男のいいなりになるしかない、老人は心を決めた。  血まみれのYシャツを脱いで海水パンツだけになった男が浴室から出てきた。 「どうするつもりだい」老人は目をしばたたかせた。  このままでなにが悪いのだろう、警察に電話したりきれいにかたづけて痕跡を残さないようにする必要があるとは思えなかった。男はゆっくりと死体に近づいた。ワンピースは血を含んだ重みでたるみ体にべったりと貼りついて貧弱な乳房の形を浮き上がらせている。男は心臓に手をあてた。止まっているのか動いているのかよくわからない。血液だけが生き物のように流れつづけている。もしかしたらまだ生きている? 「どうすればいい」男はひとさし指で夏海の鼻を撫でた。 「あんたが殺したんだ、どうするかはあんたが決めるしかない」  男は死体の口と鼻孔にてのひらをかざした。 「やっぱり死んでる」緊張が一気にほどけて呼吸がゆるやかになり急速に眠くなった。 「このままにして眠ったほうがいいかもしれない」  老人ののどが鳴った。狂ってる、凡庸な男だと思っていたのはまちがいだった。ここにいたら殺されるかもしれない、いや殺される、部屋に帰ろう、このままにして七階に行って眠れば二、三日はなにごともなかったように過ごせるかもしれない、だがそのあとは? あとのことはあとになって考えればいい、いまここに座っているのは危険だ、老人は手を振って立ち上がり血でぬるぬるした床に足を踏み出した。男の背後にまわり込んだとき、靴を履くときにもう一度振り返ったが、なにもいわずに部屋を出た。  男は腰を上げて玄関に行き鍵とチェーンをかけた。外に向かってそろえてある黒いハイヒールが目に入る。マンションの廊下を歩く夏海のヒールの音がよみがえって身ぶるいした。死体よりも靴のほうが恐い。目の触れないところに隠そうと両手で踵を持ったとき、指先がかじかんだように強張り寒気が全身にひろがった。こ指に巻いた包帯が真っ赤に染まっているのは自分の血か、それとも彼女の血だろうか。遠くから聞こえてくる靴音が頭蓋に反響し、男は眉間に皺を寄せ、夏海をこの部屋に招き入れてそれから起こったことを反芻《はんすう》しようとしたが、歪んだ映像が脈絡なく浮かんでは消え、夢のように思い出せなかった。  部屋に入るなり老人はソファに横になったものの頭の芯が凍りつき眠気は訪れそうになかった。床に両手をついてソファから下り、盗聴器がある部屋まで這っていき、304号室にチャンネルを合わせた。しばらくの間耳をそばだてていたがなんの音も聴こえない。眠ったのか? かっとして立ち上がり、「起きろ、馬鹿ッ!」と怒鳴りつけた。とにかく死体を始末しないといけない、だが死体を運び出す車がない。老人は台所に行き、やかんに水を入れてガスの火をつけた。お茶を飲んで頭を使うしかない。老人は会社を退職するときにやめた煙草を無性に喫いたくなって、どこかにしまい込んであるのではないかと部屋中のひきだしをかたっぱしから開けて捜した。  男はあごを引いて目を細め、椅子の前に投げ出された死体の脚、力なく脇に垂れた腕を盗み見た。もう血は滲むようにしか出ていない、首や胸もとの血は固まりはじめている。赤い爪。死体の手をとって、テーブルの上のタオルの切れ端で爪を拭いてみると、ベージュのマニキュアだった。少し銀が混ざっている。これを印刷で出すにはY20、マゼンタ5、四色でも近い色は出せるが、特色を使わないと、でも特色だと印刷代が二倍かかってしまう、編集者が首を縦に振るわけがない。背中を丸めて股を舐める猫のように一本一本マニキュアを塗っている姿を想像しているうちに夏海かおりを殺したという実感が迫ってきた。  老人は道具箱を持って304号室に戻った。興奮しているせいか体の動きも口調も肉体労働者のように荒々しかった。 「死体はこの部屋に置くしかない。タイルで隠すんだ。これはあんたのアイデアだ。わしの部屋に組み立て式の棚がある。取りはずして板を使う。運ぶんだ」  男は力なく立ち上がって老人のあとに従った。  男は死体の両脇に腕を差し込んで抱き上げた。がくんと頭が垂れ、鼻孔から酢を流し込まれたような血の臭いに嘔吐しそうになったが、なんとか浴室まで引き摺ろうとふくらはぎの筋肉に力を込め半歩あとずさった途端、床の血ですべって死体を抱えたまま転倒した。起き上がろうともがいていると、机と椅子を壁に寄せていた老人が死体の上半身を折り曲げるようにして男から離した。男は立ち上がってふたたび浴室に運ぼうとしたが、「洗うなんて意味がない」と老人がつぶやいたので死体から手を離し、ノコギリとスケールをつかんで運び込んだ板を切断しはじめた。  板に釘を打ちつけて、縦百七十五センチ、横六十センチ、高さ三十センチのコの字型の柵を拵え、その寸法に合わせてハンマーとタイルカッターでモザイクの床に溝をつくり、壁に沿わせて柵を嵌め込んだ。男が腕を、老人が脚を持って注意深く死体をそのなかに寝かせて、板をかぶせて釘を打ちつけると、柩《ひつぎ》は完成した。  老人は浴室に行き、水でしぼったタオルを男に手渡した。 「ひと休みして、あんたはタイル貼り、わしは床拭き、いいかね」 「ラーメンを食べたい」 「ラーメン? こんなときに、ほんとうに腹がすいてるのかね、そりゃどうしてもというなら、コンビニでインスタントを買ってきてもいいがね」老人はむっとしたが気を取り直して、「買ってくるのはかまわんよ」とつけ足した。  男は数分間天井を見上げていたが、 「ボクがまんする」と老人を見てにっこり笑った。  老人は冗談かと思って気の抜けた笑い声をあげたが、男はふっと表情をなくしクローゼットを開けると、タイル用品が入っている段ボール箱を運び出した。  男が死体を隠した板にタイルを貼り終わったのは午前四時だった。老人も床拭きを終えていたが、血が染みて赤くなった目地だけはいくらこすっても落ちなかった。血の臭いより床掃除に使った洗剤の臭いの方が強い。老人はガラス戸を開けた。部屋のなかに入ろうとする外気と、外に流れ出る血と洗剤の臭いが老人の体を這うようにして入れ替わった。明け方の街の音、葉擦れ、虫の鳴き声、車が走る音、一階上のベランダから風鈴の音が響いてくる。 「その柩、タイルの台はどう説明するかな」友人が訊いた。 「この机と合うタイルの座椅子をつくって、机の上にガラス板敷いて、電気スタンド置いて仕事する」 「仕事机か。左右に植木鉢を置いちゃどうかね? 明日いっしょに買いに行こうじゃないか。なんの花が好きかね?」 「もくれん」 「植木鉢の花だよ」老人は笑い顔を拵えた。 「白い薔薇《ばら》がいい」男は目もとに微笑を滲ませた。 「じゃあ白い薔薇にしよう、四鉢ぐらいあったほうがいいな。左右に二つずつ置けばいい」  三、四日すれば刑事が訪れる、追及されたらこの男はもつまい、と老人は思った。男は自分が殺《や》ったと自供するだろう、弁護士は雇ってやるにしても、十年かそこいらの刑で七年で出てくるかもしれない。わしは共犯者にすぎない、年齢が年齢だから執行猶予はつくだろう。問題なのは、むしろ迷宮入りすることかもしれん。死体を意識しながら生きなければならないなんて愉快じゃない。だが、とにかく見つからないためにやるだけのことはやったほうがいい。ルミノール反応を消す方法もきっとあるだろうし、三日もかければ髪の一本だって残さずに掃除できる。明日目地を塗り直させよう。あの女がここにきたことは認めて九時に帰ったと証言する。八十万は七階の流しで燃やせばいい。でもこの男はもつまい。 「なんとかなるよ。たぶんあと二、三ヵ月したら五階が空くから、あんたはそっちに移ったらいい。もう一度タイルを貼ることになるがね。それまではわしの部屋で寝泊まりしていいよ、ひと部屋あんたの寝室として提供するから。気晴らしに旅行もいいかもしれんなぁ、外国だったらどこに行きたい? どこか行きたい国あるかね?」 「ポルトガル。でもパスポートが」 「そんなもの、二週間もあればとれるさ。眠いかね?」  男は首を振って、ポルトガルを夢想した。漆喰《しつくい》の白い壁の家、家のなかにはタイルのテーブル。タイルの窓からポルトガルの空を見上げると、猛烈なスピードで雲が流れ、千切れた雲のすきまから青空がのぞき、太陽の光が放射状にひろがったのも束《つか》の間《ま》、灰色の雲が空を覆い尽くしてしまった。 「眠ったほうがいい、あんたは眠るべきだよ」  電車の音が近づいてくる。音に気づかずに眠っている人間に警告を与えるかのように電車の音は激しさを増しながら街を起こしていった。 「こんな時間に電車に乗ってるやつらの気がしれないね」老人はあくびをした。  始発電車の轟音がピークに達したとき、男の頭のなかになにかのメッセージが浮かび上がったが音とともに遠ざかってしまった。  男と彩子がタイルの上に水着姿で仰向けに寝転んでいる。 [#ここから2字下げ] 眠るの あぁ 眠る パーフェクトにつかれた あぁ パーフェクトに 目を醒ましたらなにする もう目を醒まさない 失敗したら [失敗したらサイコが考えてくれるとありがたい 目を醒ましたらなにをするか [#ここで字下げ終わり]  彩子のなかにきらめくものがあったが淡い光芒《こうぼう》を残して消えていった。あの光はなんだったのだろう。時間はたっぷりある。目を醒ましたらなにをしようか。  男は眠り、彩子はいつまでも目を見ひらいていた。  参考文献:『デザイナーのためのスタイルブック──タイルの使い方のすべて』(ロズリン・シーゲル著 塩谷博子訳 TOTO出版)、『モザイクを始める人のために』(小林綾子著 池田書店)  単行本 一九九七年十一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十二年十月十日刊