林真理子 美食倶楽部 目 次  美食倶楽部  幻 の 男  東京の女性《ひと》  美食倶楽部  ふぐの白子は、うっすらと焦げ目がついていた。  内部の充実が、ぷっくりとはちきれそうな皮にあらわれている。箸《はし》でちぎると、待ちかまえていたように、乳色のねばっこい液体がどろりと流れ出す。それが皿に落ちるのが惜しくて、祥子はすぐさま舌の上にのせた。 「あちち……」  すだちをたっぷりかけたにもかかわらず、中は思っていた以上の温度が保たれていたらしい。ねっとりとした美味よりも、熱さの方が先にきた。 「あわてて食べるからだよ」  卓の向こう側で洋一が苦笑いしている。ゆったりと盃《さかずき》を持っているさまは、とても二十四歳とは思えない。 「イチも熱いうちに食べなさいよ。冷めた白子なんて何の価値もありゃしない」  三十三歳の祥子は、ふだんは気をつけて命令口調で決してものを言わない。けれども食べ物のこととなると話は別だ。皿を眺めるだけで、いつまでも箸をつけない人間を見ると、祥子は本当に腹がたった。  さっきの刺身にしてもそうだ。九谷の中皿に美しく盛りつけられたふぐ刺しを前に、洋一はちびちびと酒ばかり飲んでいた。「香取」のフグは、関西式に厚めに引いてあるが、時間がたつにつれ、表面が乾いてくるのはあきらかにわかる。  コウトウネギを芯《しん》にして、器用にふぐを巻きながら祥子は気が気ではなかった。丸い皿に並べられた刺身は、各自が食べた分量がはっきりとわかる。皿が見えている角度は、はっきりと二人のスピードの差をあらわしていた。祥子が目の前の百八十度を越え、洋一の領土へと進出していくのに時間はかからないだろう。 「もらうわよ」 「ああ」  ふぐは祥子の大好物だった。特に刺身には目がない。淡白な身の部分と、こりこりした皮をかわるがわる噛《か》むうまさは、毎日食べても飽きないほどだ。  それでも祥子は、洋一のために三十度ほどの角度を残してやった。けれど男はなかなか手を出そうとしない。 「早く食べなさいよ」 「酒を飲みながらゆっくり食べようと思ってたんだ」 「バカね、刺身なんて生ものなのよ。こういうものは勢いで食べるものなんだから、あんたみたいな食べ方をされるんじゃふぐが泣くわよ」 「おっかないの……」  突き出しのカラスミをつついていた洋一は、それでも素直に刺身をつまみ上げた。 「ネギを巻きなさい」  自分の口調が歳上《としうえ》の女のそれになったと気づいたがもう遅い。しばらくはそれでとおすことにした。 「祥子さんって、食べ物を前にすると急に口うるさくなるね」  洋一がくっくっと笑う。 「おいしいものをおいしく食べたいだけよ。あんたって、まだ食べるリズムっていうものがつかめていないから、それでいらいらするのよ」  とはいうものの、最近週末は必ず洋一と食事を共にするようになっている。共にしているのは食事ばかりではない。自分と洋一との仲を、事務所の連中もうすうす気づいているらしいが、今のところみな知らないふりをしてくれているようだ。  三カ月前、洋一をオーディションで落としたことが、今となっては幸いとなっている。  女子大生のモデルが、同級生にちょっといい子がいるといって、連れてきたのが洋一だった。なるほど今はやりの甘い顔立ちをしていたが、プロになるには少し背が足りない。  そのことをはっきりと告げると、 「いやあ、今までいろんなバイトをしてきたけど、モデルだけはしたことなかったんです。ちょっとスケベ心を起こしたけど、やっぱり無理かあ……。どう考えても、やっぱり僕はモデルっていう柄じゃないもんなあ」  と一人で頷《うなず》いた。その悪びれない様子に好感を持った祥子は、女子大生と一緒に食事に誘ってやった。あの時はイタリア料理だったはずだ。南麻布にある小さな店で、前菜に凝ったものを食べさせる。 「スパゲッティとピザなんて注文すると怒鳴られるかもしれないな」  洋一はそんなことを言って笑わせた。アルバイトに精を出しすぎて、二年も留年しているという話は、女の子の方からすでに聞いていたが、卒業する見込みはほとんどなくなっていると洋一は仔牛《こうし》のステーキをほおばりながら言った。 「大学よりバイトの方がずっと楽しかったからかな。一カ月働いて金をつくって、大学にもどってスキーや旅行に行く。こんな季節労働者みたいなことをしてたら、単位を全部落としちゃうのも無理ないよな」  あの頃の洋一は本当によく食べた。モデルに採用されなかったものの、事務所にふらっと遊びに来るようになり、気軽に車の運転を引き受けたりする。彼から、 「その代わり、夕めしをおごってよ」  けろっとした顔で要求されるたびに、祥子は苦笑したものだ。 「イチにいろいろ頼むと、高くついて仕方ないわ。とにかく二人前はペロッて食べるんだもの」  洋一のことを事務所のスタッフたちも、イチと呼び捨てにするようになるまでに時間はかからなかった。  好きなものは親子|丼《どん》か牛丼、それも夜明け前の吉野屋のものがいい。肉の量は変わらないが、醤油《しようゆ》味がしみ込んでいる。そんな洋一にいろいろな味を憶《おぼ》え込ませようとし始めた頃、すでに祥子の心の中には何かが棲《す》みついていたのかもしれない。 「これでもフランス料理の店なんかにはよく行くんだ。ほら、女の子を誘う時なんかああいう店に行かなきゃカッコつかないじゃん。そのためにさ、ふだんは読まないけどポパイとかホット・ドッグ・プレスなんか見て店の名前憶えてさあ、友だちにもいろいろ教えてもらうんだけど、一度もうまいなんて思ったことないなあ」 「あたり前じゃないの」  自分でも驚くほど鋭い声を出していた。洋一が同じ年頃の女と食事を共にするという事実が祥子を息苦しくさせていた。 「あなたたちが行くような、西麻布や六本木のあんな店がおいしいはずがないじゃないの。レストランとかビストロなんて名前だけで、電子レンジであっためたようなコキールが出てくる。あんなもの、あんたたちみたいな学生相手の店よ」 「なに怒ってんだよお」  こういう時、洋一はまぶしげに目をしばたたかせた。無邪気さを装っているけれど、何もかも見すかしている歳下の男の目だ。そしてそれはまるで罠《わな》のようだと祥子は思った。  本物のフランス料理を食べさせるからと言って、祥子が洋一を国立に誘ったのはそんな会話から四日後のことだ。都内にも気に入りの店はいくつかあったのだが、郊外のそこに決めたのは、洋一とのつかの間のドライブを楽しみたかったからに違いない。  駅前の商店街をしばらく走ると、静かな住宅地がある。「高田亭」はその奥まった一画にある、和洋折衷の邸宅だ。長年ヨーロッパで暮らしていた商社マンが、自宅の応接間を改造してつくったレストランで、毎晩五組の客しかとらないことでも有名だった。 「なんかよその家でよばれてるみたいだな」  洋書や骨董《こつとう》に囲まれた部屋を見わたし、洋一はしきりに感心した。 「本当はあんたなんかが来るとこじゃないけど仕方ないわ」 「ひどいこと言うわりには、祥子さんはいろんなものを食べさせてくれるからサンキュー。僕、フォアグラとかキャビアなんて祥子さんに初めて食べさせてもらったもんな」 「イチはわりと舌の感覚がいいみたい。よく若い子で何を食べさせてもおんなじっていうのがいるけど、その点あんたは鍛え甲斐《がい》があるわ。一緒に食べていても楽しいもの」  それは本当だった。洋一が「うまい」「まずい」という判断は極めてはっきりしていて、祥子にも納得のいくものだった。特に酒の素養はもともとあったらしく、すぐにいい日本酒の銘柄を憶えてしまった。 「僕、おばあちゃん子だったろ。おふくろが郵便局に勤めててさ、ずっと家にいなかったんだ。ハンバーグとかグラタンみたいなものはつくってくれなかったけど、ほら、年寄りって手を抜かないじゃない。ダシも煮干しとカツオ節でちゃんととってくれたしさ、冷凍ものは使わないし。だから僕、今でも味の素《もと》をうんとふりかけたような外食はダメなんだ。安っぽいレストラン行くより、牛丼の方がずっといい」 「そりゃいい育ち方したわよ」  オードブルは、オマールの冷製だった。四角のゼリーの中で、赤い身がかすかに震えていた。 「ここは空輸ものしか使ってないのよ。ゼリーもよく出来てるでしょ。すごく凝ったコンソメからつくってるわ」 「祥子さんってさ、食べ物にかける金がすごいだろ」 「あたり前よ。給料のほとんどは食べることで消えちゃうわ」  祥子はつんと胸をそらせた。 「ね、モデルエージェンシーの社長の給料っていいの」 「ま、悪くはないけど、そうたいしたもんじゃないわ。私は雇われ社長だもの」  顎《あご》が二重にくびれている祥子が、モデル出身だと知る人間は次第に少なくなっている。華やかな顔立ちや、からだの割に細い手足は、確かにあかぬけた印象をあたえたが、そんな女はファッション産業の周辺にはいくらでもいる。  短大に通っている時にスカウトされ、遊び半分にモデルをやるようになったが、そうたいして売れていたわけではない。ただ社長には気に入られていつのまにか営業を手伝うようになっていた。  年をとってもショーに出られる女は恵まれている方で、二流のモデルというのは先がしれている。現役時代にいい男を見つけて結婚するか、そうでなかったらマネージャーに転向するかだ。三十歳になる少し前に、祥子は小さな事務所をまかされるようになった。彼女がいたモデルクラブは、二百人をかかえる日本でも有数のエージェンシーだったが、この三、四年、いくつか子会社をつくるようになっていった。個性化が求められる時代に、小まわりのきくミニ事務所を持っていた方がいいというのが社長の言いぶんだったのだ。  テレビタレントを主なメンバーにした事務所、外人だけの事務所、男性モデルが多い事務所と、それぞれの特色をいくつか打ち出した。祥子が代表取締役になっているグループ「キララ」は、女子大生のモデルが多い。ひところ女性雑誌にやたら素人の女の子たちが登場し、プロの分野をおびやかすと社長は嘆いていたものだったが、今となってはこうした女の子を手なずけた方がはるかに賢いと判断したらしい。「読者モデルコンテスト」などで入賞した女子大生たちを、すぐさま勧誘にかかった。表紙を飾るランクの女の子たちが「キララ」には五人ほどいる。親会社の利益にはおよびもつかないが、そのうち二人がCMにも出演するようになって、やっとひと息つけるようになってきているというところだ。 「祥子さんがそんなに食べるようになったのは、モデルしてた時にあんまり食べれなかった反動だろ」  ぽつんと洋一が尋ねた。 「そうね、そんなこともあったかもしれないわ」  それはもう、ずいぶん遠い日のことだ。モデルになった十八の時は、ちょうど食べざかりの頃で泣きたいような思いをした。 「でも途中ですぐにあきらめたもの。私、ちょっと大人っぽく見えたせいもあるかもしれないけど、ヤングからすぐひとっとびにレディにまわされちゃったのね。おばさんっぽい服や着物を着せられて、そう痩《や》せないでもすむようになった。私、あの頃、本気で早く三十歳になりたいって考えてたのよ」 「どうして」 「年をとれば、それスタイル、それ肌が衰えたなんて関係なくなると思ってたのよ。つくづく私ってモデルには向いてなかったのね」  やがて仔牛の胸腺《きようせん》の煮込みが、やわらかい湯気と共に運ばれてきた。サービスしてくれるのは、ここのオーナー夫人だ。綺麗な銀髪に、利休の小紋がよく似合っていた。 「パンをもっとお持ちいたしましょうか」 「お願いします」  客船のコックを長いことしていたという「高田亭」のシェフは、パンづくりのうまさでも定評があった。皿に置かれただけで、料理に負けないほど、こうばしいにおいをはなつフランスパンは、外がカリッと固いくせに中はふわふわとやわらかく、ソースをまとめるのにちょうどいい。仔牛の皿に残った濃厚なソースは、パンにしみこませるとまた違った味わいになった。  デザートは三種類の中から選ぶ。祥子は洋梨《ようなし》のタルト、洋一はきすぐりのシャーベットを頼んだ。 「ああ、おなかいっぱい……」  最後のコーヒーまで一滴残らずすすると、さすがにものを言うのも億劫《おつくう》なほどになった。車のシートに深々と腰をおろし、祥子は重たいあくびをした。 「イチ、帰りはあんたが運転してってよ。道はわかるでしょ」 「OK」  エンジンの音と震動が心地よく、祥子はいつのまにかうとうとしていたらしい。気がつくと高速の下を走っていた。 「あら、高速に乗らないの」  洋一は何も答えなかった。怒りを必死でおさえているような表情を見た時、祥子はすべてを理解した。満腹のだるさとは違う、快いしびれが足元からじんときた。とにかく「誘われる」というかたちになったのだ。拒む理由は何ひとつない。  ハンドルを握る洋一の手首のあたりに、剛《こわ》い毛が何本か生えているのを見た時、祥子はずっと以前からこの男が欲しかったのだということにやっと気づいた。  八王子インターの近くに、さまざまなネオンが見え、そのうちの一軒に車は吸い込まれていった。 「雑炊《ぞうすい》のお仕度は、もうそろそろよろしいでしょうか」  ふぐを食べる時はいつもそうだ。鍋の火にあたるうえに、ヒレ酒がひどくきくらしい。言葉が少なくなって、ひたすら手だけが動く。いいワインをどっさり飲んだ時のように、あたり一面薄紙を貼《は》られその中に閉じ込められたようになる。大阪|訛《なま》りのある仲居の声を、祥子は遠いもののように聞いた。 「あ、雑炊ね。すぐに頼むわ」  タスキがけをした仲居が、すばやく卵を割り入れ、鍋《なべ》にふたをした。喉元《のどもと》までげっぷが何度も出かかるほど、満ち足りているというのに、この三、四分がひどく待ち遠しい。祥子も洋一も、そして仲居もなぜか無言になる。やがて厳粛な儀式のように、どっしりとした陶のふたが静かにとられた。 「まあ、まあ、おいしそうだこと。さあ、さ、召し上がってくださいまし」  仲居はとたんににぎやかな声を出す。たっぷりとよそった上に、コウトウネギのみじん切りをまぶした。 「ね、ふぐのおいしさって、最後の雑炊ではっきりとわかると思わない」  洋一は近ごろこうした会話をするのが好きだ。 「いいふぐ使ってなかったり、ケチったりするとこって、いいダシがとれてないから雑炊にする時もの足りないじゃないか」 「ええ、ええ。そうですとも。こちらさんはよおくおわかりです」  丸顔をした中年の仲居は、祥子と洋一との仲をはかりかねているらしい。「こちらさん」という呼び方にかすかな躊躇《ちゆうちよ》があった。 「うちのふぐは最高のトラふぐ、それも下関から毎日空輸してもらうもんですからねぇ。もう味がまるっきり違いますですよ」 「ふうーん、だからおいしいんだ」  洋一はすでに一杯目をたいらげている。 「はい、はい、よそいましょ。何杯でもおかわりありますからね。いっぱい召しあがってくださいよ」  ふぐ料理店の仲居というのは、例外なく陽気で愛想がいい。まるでこの魚の持つ何かが乗りうつるようだ。この女も、嫌な顔ひとつせずにとっくりを何度も運んでくれた。  祥子はハンドバッグの中をさぐり、いつも持ち歩いているポチ袋を出した。 「これ、少しだけど……」 「あら、あら、すいませんねぇ」  女は相好をくずした。 「お車を見てまいりましょう。ついでにお茶も淹《い》れてまいりますので……」  にぎやかな女が襖《ふすま》の向こうに消えたとたん、部屋は急に静かになった。廊下のあちら側から、カウンター席のにぎわいがかすかに伝わってくる。 「どうするんだよ」  洋一が言った。今夜部屋に泊まりに行ってもいいかと聞いているのだ。 「とにかくうちまで送ってちょうだい。私、この後お酒飲む元気がないわ」 「部屋に行けばなんかあるだろ」 「もらい物の洋酒があるけど、おつまみはなんにもないわよ」 「いいよ、ここでいっぱい食べたから」  立ち上がった洋一の腰には、まだなんの肉もついていない。茶色のチノパンツは、流行のゆとりをもたせた形だが、その下にあるほっそりとした長い足は容易に想像することができた。  不意に祥子は気が重くなる。今夜、もうすぐこの足と自分の足がからみ合うことになるはずだった。けれどそれはそう楽しいことばかりではない。帰りの車に揺られながら、次第に祥子は億劫《おつくう》になっていくのがわかった。  秋をすぎてからめっきり祥子は太り出していた。頬に斜めの線があらわれ、そこからそぎ落とされていくのに比べ、腹のあたりにまとわりついた贅肉《ぜいにく》といったらどうだろう。指で持つと、文字どおりどすんとした重量感があった。  部屋に帰りシャワーを浴びると、そこだけ生きているようにぷるんと水滴をはらう。白くつやつやとした贅肉だ。 「ま、仕方ないか」  祥子はひとりつぶやいた。このところ忙しくて憶え始めたゴルフにも行っていない。いちばん手っとり早い楽しみといえば、うまい店を見つけて食べることぐらいだった。祥子には�食い友だち�というべき何人かの女友だちがいて、月に何度かは新しい店を見つけてはつれ立って食べに行く。三十三歳という年齢にふさわしく、少したるみはじめた肉は、膨大な金と時間によってつくられているのだ。  バスローブをはおり、化粧水をたたきつけた。洗面所の下にあるものが、さっきから気になって仕方ない。もう二カ月以上使っていないヘルスメーターだ。 「見ぬもの清しか……」  我ながら古い諺《ことわざ》を言ったものだと苦笑した。  居間の電気はとうに消され、その向こう側の寝室のベッドには、先に風呂から上がった洋一が横たわっているはずだった。セミダブルの片側で、いつものように雑誌でも読んでいるに違いない。  思いきって、片足をヘルスメーターの上に置いた。これから男と寝ようとするのに、その前に体重を測ろうとした自分の心理がいまひとつわからない。けれども確認したいという欲求は、もはや抗《あらが》えないものになっている。  初冬の夜の金属はひんやりとしていて、両足を乗せた祥子は少し身震いをした。  カチャ、カチャ。針は驚くほど大きな音をたてて左右に揺れる。そして止まった60という数字を見た瞬間、祥子はもう少しで悲鳴を上げるところだった。最後にヘルスメーターに乗った時、体重は確か五十七キロあたりだったはずだ。それがわずかな間に、三キロ以上増えたことになる。  いくら売れていないといっても、モデルをしている頃、体重が五十キロ台を越えたことは一度たりともない。マネージャーたちが口うるさく注意していたし、自分でも糖分やでんぷんはいっさい断っていたのだ。  この何カ月か、見て見ないふりをしていたものを、いきなりつきつけられたような思いがした。 「見ぬもの清しかあ……」  もう一度つぶやいてみた。心はとうに萎《な》えているのがわかる。だから寝巻きはわざといつも着ているパジャマにした。洋一が泊まる時は、薄い色のネグリジェや浴衣《ゆかた》にしているのだが、今夜はそんな気分になれない。 「何か、色気ないもの着てるなあ」  そう言いながらも洋一は勢いよく寝返りをうった。ちょうど祥子のからだ半分にどさりと落ちる。 「ちょっと、やめて」  男の指がパジャマのボタンにかかった時、自然にその言葉が口に出た。 「ちえっ、どうして。今日は違うんでしょ」 「さっき飲みすぎたのと食べすぎたんで、気分が悪いの。ごめんなさい」 「ふうん」  洋一はそうがっかりするふうでもなく、あおむけになった。スタンドの暗い光の中、閉じた睫毛《まつげ》が黒々とうかびあがっているのが見えた。 「明日、何時に起きるの」 「九時半。ドーナツ屋のバイトなんだ」 「そう。私は先に出てくけど、冷蔵庫にあるものを食べて」 「わかった」  似かよった年頃の男女が言えば、夫婦のような会話も、三十すぎの女と、まだ声に幼さの残る男だと、親子が話しているように聞こえる。けれど今まで、祥子は洋一に対して、歳上だというひけめはほとんど感じたことがない。昔モデルをしていた女とはとうてい思えないほど、自分の容色に無頓着《むとんちやく》なところがあった。鏡を毎日つぶさに眺めていた女なら、たちまち悲嘆にくれるような小ジワやシミができる年齢を迎えても、祥子はぼんやりとそれを見すごすことができたような気がする。  その自分が初めて洋一を拒否した理由が体重だなどと言ったら、相手はどう思うだろうか。 「六十キロもある女が、セックスをしちゃいけないわ」  今夜はよくひとり言を言う日だと思った。すぐ手のとどくところから、洋一の規則正しい寝息が聞こえ始めた。 「そりゃ、いい。アッハハハ……。ダイエットするまでセックスしないなんてさ」  香苗があまり笑うので、祥子はそのたびにあたりを気づかわなくてはならなかった。ママの映子は二人の友だちだからいいが、小さなバーのカウンターでは四人の男たちがビールを飲んでいる。 「さすがの私もさ、六十キロをすぎたのには青くなっちゃったわよ。私にも美意識っていうものがあるの。あの贅肉が男の腹の下でちゃぷんちゃぷん揺れるかと考えただけで、その日はダメだったわ」 「私は前からあんたのこと、モデルクラブの社長のくせによく食べるって感心してたのよ」 「そりゃ、いろいろ嫌味を言われたわよ。モデルの子たちに節制を厳しく言っててさ、私がぶくぶく太り出しちゃったんだもの。私はもう現役を退いた人間、あんたたちは違うわよなんて威張ってたんだけど、それも限度問題ね」 「そうか、残念ねぇ。今度みんなでふぐでも食べに行こうと思ってたんだけど」  香苗はそう言いながら、しゃれた女もののシガレットケースに手をのばした。祥子とは十年以上のつき合いになる。祥子が駆け出しのモデルだった頃、香苗は文化服装学院を出たてのデザイナーだった。今では原宿に若い女の子向けの店を持っている。「スクーター」というブランドはかなりの人気があって、雑誌でもよく目にすることができる。祥子がずっと独身でいるのにひきかえ、香苗は二回目の離婚をついこのあいだしたばかりだ。祥子がとても着こなせないような真紅のセーターに、黒のスキーパンツをはいている。もともと痩せぎすの女だったが、三十をすぎてもそのスタイルは変わらない。 「ふぐならいいわ。このあいだ食べたばっかりだから」  つい声が荒くなったのは、一週間続けている節食のせいだ。つまみも漬け物だけにして、薄い水割りを祥子はちびちびと飲んでいる。 「それがさ、おいしいとこを見つけたのよ。祥子さあ、飯田橋の『玄蔵』って聞いたことない。あそこにこのあいだ連れていってもらったら、いいのよね」 「飯田橋になんか、おいしいとこあるの。私お鮨《すし》屋ぐらいしか知らない」 「あら、あの辺っていうのは、昔っからのおいしい食べ物屋が多いのよ」 「だけどさ、おいしいものっていうのは、お金があるところに集まるって相場が決まってるのよ。ふぐだったら、今は『香取』か、赤坂の『太郎屋』じゃないの」 「あなたさあ、『太郎屋』がおいしいなんて言うのは昨年までの話よ。今年はあの板前がやめちゃったのよ」 「あら、いつもカウンターの前にいた、あのアンコウみたいな男」 「そう、そう。引っこ抜かれたって話だけどその後|噂《うわさ》を聞かないわねぇ。今年オープンした新橋の『鉄』もいいっていうわよ」 「あそこ、私行ってみたことある。だめ、だめ、あんなとこ。唐揚げ頼めば、油でぐにゃぐにゃしたみたいなのが出るし、刺身もいまひとつよ」  男たちがこちらの方に目をやったところを見ると、祥子の声も大きくなっていたらしい。仲間と食べ物の話を始めると、つい夢中になってしまうのだ。 「あーあ、下関へ行って、獲《と》れたてのふぐを食べたいねぇ」  香苗がぽつんと言う。 「いこ、いこ。飛行機で行けば日帰りが出来るわよ」 「やーよ。どうせ行くならひと晩ゆっくりしたいわ。それにさ、祥子はダイエットしててそれどころじゃないんでしょ」 「ふぐぐらい太りゃしないわよ」  本場に行くとなれば話は別だ。金を人並み以上に稼ぐ女たちは、それまでも思いたったらカニを食べに北海道に行ったりしているのだ。 「それに、食べることを取ったら、いったい私にどんな楽しみがあるって言うのよ。香苗みたいに男と遊ぶわけじゃなし」 「よく言うよ。あんただって九つも歳下の彼氏を持ってるじゃないの」 「不思議なのよね。このところ、少しもあっちの方の欲求が起こらないの」  少し酔ったようだと思いながら、祥子は言葉を続けた。 「おいしいもの食べた後は、そのままこてんと寝たくなっちゃうの。わずらわしいことはしたくないっていう気分」 「あなた、いったい幾つだと思ってるのよ。三十三っていえば女ざかりなのよ。私なんか……」  香苗は指を折りながら、きょとんとした表情になった。 「あら、いやだ。私も今年の夏頃からずっとしてない……」 「バカ」  二人の女は声をたてて笑った。 「ちょっと、ずいぶん楽しそうじゃないの。男たちがおじけづいて帰っちゃったわよ」  ビール瓶を片づけながら、映子はこちらを振りかえった。祥子たちの仲間ではいちばんの年嵩《としかさ》だ。彼女も以前新劇の女優をしていた。そのわりには独特のくさみがなく、青で統一した店はモダンで小ざっぱりしている。 「なんか食べに行くとか言ってなかった」 「映子ちゃん、ふぐ食べに行こ。下関にふぐ食べに行こ」  香苗が叫んだ。 「そう言えば、今年になってからふぐを一度も食べてないわね」  食べ物にからむ話で、映子がのってこないことはない。 「日曜日だったら私行けるわ。月曜の夕方までに帰ってくればいいんだから」 「正月は混むからさあ、早めに飛行機やホテルの予約しといた方がいいね」 「あら、暮れは店が忙しくなるから、ちょっと何とかしてくれない」 「わかった。じゃ私がいつものようにスケジュールをたてる」  香苗はこういう時、いかにも女性経営者らしい、てきぱきとしたもの言いになる。 「それまでに、祥子も痩せといてちょうだい」 「あら、祥子ちゃん、ダイエットするのォ」 「そうなのよ。ねぇ、三十歳すぎると肉のつき方が違うのね。若い頃は顔や胸についた肉が、どんどん下にさがっちゃうの」 「私もそう。昔の服が合わなくて困っちゃうのよ」  映子はニットのワンピースの腹のあたりをポンとたたいた。確かにきゃしゃとはいえないが、全体的に大柄な女だからそう格好が悪いこともない。 「祥子ちゃんは、モデルやってて、今はモデルクラブの社長さんなんだもの、ダイエットにかけちゃ専門家でしょう」 「それがさあ」  祥子は大きな舌うちをした。 「若い時のダイエット法が通じなくなっちゃったのよ。あの頃は体力も意欲もあったから続けられたんだってつくづく思うの。今はどうも体質が変わったらしくって、どうやってもうまくいかないわ」 「どこかサロンにでも通ったらどう」 「ああいうところは馬鹿馬鹿しいほどのお金をとられるのよ。あんなとこに払うぐらいだったら、おいしいものを食べるわよ」  祥子の言葉がよほどおかしかったらしく、二人の女は息が止まるほど大笑いをした。 「そうか、まあ……あれよ」  祥子も照れて頬づえをつく。 「私も業界じゃ少しは顔と名前が知られてるでしょ。ああいうサロンに通うほど太りすぎで困ってるって言われるのは嫌なのよ」 「なるほどね。じゃ、スイミングクラブヘ通えばいいじゃない。私も時々ホテルのプールヘ行くけど、遠藤ミカさんとか、林田奈美なんかが泳いでるわよ」  香苗は有名なデザイナーとファッションモデルの名を挙げた。 「そうねぇ……。私も入会しようと思うんだけど、その水着になる前に、もう少しなんとかしたいのよ」 「うちのお客さんから聞いたんだけど……」  映子が香苗の煙草を一本抜き取った。綺麗な動作だ。 「青山の薬局が肥満コンサルタントをやってるんだけれど、月見草オイルと組み合わせていろんなものを飲むんだけど、これが効くんだって」 「そう。私、ああいうものはあんまり信用しないな」 「そう。だけどさ、科学的に痩せて体質を元から改善しようっていう方法らしいわ。その子は十日で六キロ体重を落としたって言ったもの」 「六キロ!」  香苗と祥子は同時に叫んでいた。 「その子もね、こんなに効果があるとは思わなかったってすごく喜んでたわ。もし本当に行く気なら、電話番号を訊《き》いといてあげる」  電話番号を訊くまでもなく、その薬局の名前なら知っていた。青山通りに面したところにある大きな店だ。酔った頭のどこかさめた部分で、祥子は決心を固めていた。  香苗と新宿で飲んだ次の日、祥子はその店へ出かけてみた。 「まず、その用紙に記入してみてください」  白衣の男が、緑色の紙とボールペンを差し出す。 「小さい頃から太りぎみだったか」 「食事は規則的か」 「生理は正常か」 「甘いものを好むか」  三十近い質問に、YES、NOをつけていくのには閉口したが、なんとかやりとげた。 「これは十日間コースがいいようですな」  男はやや間のびした声で言った後、別の用紙に何やら書き込み始めた。 「いいですか、このスケジュールに沿って行動をしてください。口にするのはここに書いてあるものだけ。いいですね、わかりましたね」 「はい」  祥子は小学生のような返事をしたが、素直な気持ちは長く続かなかった。男から受け取ったものがあまりにも高額だったからだ。  瓶が二本に、パッケージされた箱は全部で八つもあった。紙袋二つに分けてもどっしりと重たい。これらのものに、祥子は全部で五万八千円を支払わなければならなかった。 「考えてみれば、本当におかしな話ね。高いお金を出してつくった贅肉を、またお金を出して無くさなきゃいけないんだから」  事務所に帰ってからも、祥子はぷりぷりしてデスクの圭子に言ったものだ。 「でも祥子さんがひとつ実験台になって頑張ってくださいよ。うちの子たち、みんなダイエットに頭を痛めてますから」 「そう。でもこの頃の若い子っていうのは、もともとほっそりと出来上がってるじゃない。昔の女っていうのは、もっとぷっくりしてたわよ。写真を見てもずっと丸顔でしょ」 「本当にそうですね」 「私はそんなことしなかったけど、私より先輩で、食事に行った後は必ずすうって消えちゃう人がいたわ」 「何しに行くんですか」 「トイレに行って、いま食べたものを吐いてくるのよ」 「へぇー、そんな器用なことができるんですか」 「練習次第ではね。私も真似しようと思ったんだけど、こんな思いをしてまで売れっ子になるぐらいだったら、売れっ子にならなくてもいいって途中であきらめちゃったわよ」  いつもは誰かしらモデルの女の子たちが事務所にやってきているのだが、週末のせいか姿が見えない。祥子は圭子と一緒に、ひとつひとつの包みを開けた。 「まず今日は何を飲むのかしら」 「えーと、スケジュール表っていうのを読みますよ」  圭子はしゃれた眼鏡をかけている。それを片手で持ち上げながらものを読むのが癖だ。 「さあ、今日からダイエット開始です。十日後のすっきり痩せた姿を想像しながら頑張りましょう。まず第一日目は朝食抜き……」 「あら、いやだ。私もううちでさんざん食べてきちゃった」 「昼食は電解カルシウムをキャップ二杯、それと植物たんぱく繊維を二粒……」 「なんだかめんどうくさそうねぇ」 「そんなこと言ってちゃダメですよ。これから毎日私が用意しますから、忘れずに飲んでください」  夜までは確かに守ることができた。乾パン二枚と黒酢をキャップ一杯、これが祥子の昼食だった。夜は五種類の薬を飲み干す。長たらしい名前のナトリウムを初めて口にした。舌にのせたとたん、異様な味がすると思ったが、胃の中に入れるとその不快感は譬《たと》えようがない。祥子は何度も強い吐き気に襲われた。 「これ説明書がついてますよ。たぶん飲みにくいからオブラートにつつんで飲み干すようにですって」  圭子が教えてくれても後の祭りだった。 「あー、不味《まず》い。近ごろこんなにへんなもの飲んだことないわ」  胸のあたりを撫《な》でても、苦い唾液《だえき》がいくらでもこみあげてくる。 「イヤになっちゃうわ。気分直しになにかおいしいものを食べにいこ」 「いいんですか。今日から薬を使って絶食するんじゃなかったんですか」 「構わないわよ。こんなに不味いものを飲んだ後は、とびきりおいしいものを食べなきゃやりきれないわよ。そうだ、圭子ちゃん、『古希鮨』につれていってあげる」 「えー、本当ですかあ」  ふぐと並んで鮨も祥子の大好物だった。評判の店をいろいろまわった結果、祥子は三軒ほどの店を贔屓《ひいき》にしている。青山にある「古希鮨」は、つい最近知った店だが今のところ通うのがいちばん多い店だ。  ここの鮨はいわゆる「仕事」がしてある。  すべてのネタが煮られているか、酢で〆られているか、あるいはタレが塗られているのだ。味が落ちるからといって、ここの主人は冷蔵庫を使わない。カウンターの上に大きな氷柱をのせ、その上にネタが並べられている。 「中トロね」 「今日は最高。まあ食べてみてよ」  親父《おやじ》の太い指の間から、まるで手品のようにちんまりとした握りが出てくる。その瞬間が祥子は好きだった。  見事に霜ふりになっているトロで、軽くつけただけで醤油皿にさっと油膜がひろがる。噛むたびに喉の奥まで、とろけるような魚の脂が伝わった。 「うん、おいしい」 「だろ。こんなにいいトロが入るなんてのはめったにないよ。祥子ちゃんだから出したんだからね」 「あら、本当」 「そうさあ。オレは女にこんなすごいのはめったに出さない」 「まあ、偏見ね」 「仕方ないさあ。みんな男につれられて来てるって感じで、もうひとつ覇気《はき》が無いんだ。だけどあんたはそういうとこがないから好きさ」 「悪かったわね。どうせ私は男の人に連れてきてもらうような甲斐性ないわよ」  軽口をたたきながら、この店にどのくらいの金を使っただろうかと祥子はふと思った。社長とは名ばかりで、実際は所長と全く変わりがない自分が、使える交際費といったらしれたものだ。ほとんどの食べ物屋は、身ゼニを切って払っている。この「古希鮨」にしても、ひところは一週間に一度は来ていたのだから、親父が愛想のひとつも言うはずだ。 「圭子ちゃん、私思うんだけどさあ……」  親父が他の客からビールをついでもらっている間、祥子はそっとささやいた。 「私がこんなに食べ歩かなくってさ、外食をやめて自分でつくってたら、とっくにマンションの頭金ぐらい貯まってたわね」 「そりゃ、そうですよ」  二十五歳になったばかりの圭子は、力を込めて言う。この娘は浅草の商店のひとりっ子だ。 「私なんか、お金の使い方あれこれ言われて育ってるから、祥子さんみたいに、スパッと自分の楽しみだけに使えませんよ。あの、昔から食べるの好きだったんですかあ……」 「そうね。とにかく食いしん坊だったわね」 「そしてだんだん、その傾向が強くなっていった……」 「ま、時代のせいもあるかもしれない。私たちが若い頃、っていっても、たかだか十年ぐらい前だけどね、食べ物の話をするのは卑しいって叱られたものよ。最近なんじゃない、ネコも杓子《しやくし》も寄るとさわると食べる話ばっかりするのは。そんなわけで、今までこそこそやってたことが陽《ひ》の光にあたって、それで目につくようになっただけよ」 「ふうーん。でも憧《あこが》れちゃうな」 「なにが」 「私も早くキャリア・ウーマンって言われる人間になって、好きなものを好きなだけ食べられるようになりたい」 「そんなにラクなものじゃないけどね」  祥子は苦笑しながらアナゴを注文した。ここのアナゴはタレではなく、わさびで食べさせる。 「本当にいいアナゴは、わさびで食べてみてよ」  親父は言う。 「ね、今日のも身が厚くてうまいだろ」 「本当、ふっくらしている」  アナゴにつられて、祥子は大トロを頼むことにした。トロは中までと決めていたのだが、大トロのとろりとした感触がどうにも欲しくなったのだ。 「いいんですか。そんなに食べちゃってぇ」  圭子がささやく。 「仕方ないわ。明日からあの十日間絶食というのをしてみることにする」  鮨を、親父はまた大事そうに白木の上に置く。わずか二、三度|咀嚼《そしやく》しただけで、とろりと溶けていくような大トロだった。ぼうっとした酔いの中でいつも祥子はすべてのことを許していく自分がわかる。  たっぷりと腹のまわりについた贅肉のこと、そして洋一のこと。そして正直なことを言えばダイエットのことなどとうに忘れていた。  祥子がよく夕食をとるのは、南麻布のはずれにある小さな日本料理屋だ。  日本料理屋といっても、カウンターとテーブルが二つの小さな店で、おかみと板前だけできりまわしている。イワシの煮《た》いたものや、キリボシ大根が大鉢に盛られ、客の注文によって取りわけてくれる。刺身も新鮮なものが食べられ、いい肉が入った時には網焼きというメニューも登場する。  値段もそう高くないので、祥子はよく事務所の女の子たちをつれていった。その夜、一緒にカウンターに座っていたのはモデルの真由美だ。彼女は渋谷にある女子大の一年生で、先月事務所に入ってきたばかりだ。 「うわあ、おいしい。これ、おさかなをウニにつけて焼いてあるのね」  無邪気な大声に、いつもはにこりともしない板前が苦笑いしている。大きな二重の瞼《まぶた》にやや受け口の唇が愛らしい。少し小柄なのが気になるが、学生モデルとしてすぐに売れっ子になるだろう。なによりも明るい性格なのがいい。 「真由美ちゃん、好きなものをどんどん言ってちょうだい。今日は鴨《かも》ロースもあるわ。これ、おいしいのよ」 「鴨ロースって、ツール・ダルジャンで出てくるやつでしょ」 「あら、行ったことあるの」 「うん。でも二回だけ。お洋服何を着てこうかなあって迷っちゃって、お食事が始まった頃には疲れちゃうのよね。だから味なんかあんまりわかんない」  唇をきゅっと上げると、真由美の両頬には小さなエクボができた。それにしても、ワインを飲めば一人前四万円近くもするレストランに出かける、この頃の学生はどうなっているのだろうと祥子は思った。  こんな若い娘が、高価なフランス料理を食べて、どれほどのことがあるのだろうか。  現に真由美は箸もうまく使えず、つき出しの次に出された、小さな茶碗《ちやわん》蒸しをぐずぐずと崩しているのだ。 「あ、先生、いらっしゃい」  おかみの声と、戸が開く音がしたのはほぼ同時だった。住宅地の中にあるこの店は、客は常連ばかりだ。客同士顔なじみだといってもいい。おかみが「先生」と呼びかけたのは、近くに住む外科医だった。岡崎という中年の男で、以前に祥子は名刺をもらったことがある。 「まあ、先生、お久しぶりです」  人に頭を下げることの多い仕事についてから、祥子はこういう時反射的に席を立つ。 「お久しぶりじゃないよ。僕はしょっちゅうここに来てるよ。あなたと時間帯が合わないんじゃないかなあ」  岡崎は上機嫌だ。皮手袋を脱いで祥子に握手を求めた。外国暮らしをしたことがあるらしく、岡崎には洗練された動作が身についている。その彼の後ろに背の高い男が立っていた。 「あ、こちら、丸岡っていって僕の大学の同級生だよ」  岡崎はごく自然に、祥子の隣りの席に腰をおろした。 「じゃ、やっぱりお医者さまでいらっしゃいますの」  おかみが男のコートを脱がせながら尋ねた。コートは灰色のツイードで、少し流行からはずれていた。 「いやあ、彼は建築。学科は違ってたんだけど、クラブが同じだったんだよ」 「まあ、先生はどんなクラブに入ってらしたんですか」  おかみの問いに、 「クラシック研究会」  と丸岡がぼそっと答えた。ひどく長い顔を、おしぼりをまるで手拭《てぬぐ》いを使うようににゅっと拭《ふ》くさまはユーモラスでもあった。 「信じられないわ。先生が好きなのはカラオケだと思ってましたもん」 「冗談じゃないよ。これでも若かりし時はだな、名曲喫茶に入りびたって思案してたクチさ」 「メイキョクキッサって何ですか」  真由美は悪びれるふうもなく、祥子の肩ごしに声をかけた。 「おう、可愛いお嬢さんだ」  岡崎は目を細めた。 「うちの小野真由美と申します。そのうちにお目にとまる機会もあると思いますので、どうぞよろしく」  祥子は真由美に目くばせをした。一緒に挨拶《あいさつ》をしろという合図だ。 「頑張って、いいモデルになりますので、応援してくださいね」 「もちろんだとも。さあ、お嬢ちゃん、まずは一杯やろう……。だけどあなたはいつも可愛い女の子と一緒でいいねぇ。いつだったか、髪の短い子とここに来てただろう。後で娘が読んでる雑誌をたまたま見てたら、あの子が表紙になっていてびっくりしたよ」 「井上志津子ですね。ええ、あの子はいつもあの表紙をやらせてもらってるんです」  そんな二人の会話を、丸岡がけげんそうな顔で見ている。 「ああ、紹介しよう。この人はね、河村祥子さんっていって、モデルクラブの社長さんなんだ」 「初めまして」 「丸岡岳人です。そうかあ、モデルさんたちか。どうりで綺麗な人たちだと思った」 「あら、私は違いますよ」  祥子はあわてて手を振る。 「今は私はこの子たちのマネージャー。まとめたり、叱ったりする役です」 「野球の監督みたいなもんですかね」 「まあそんなもんですわ」 「丸岡、お前そんな色気のない言い方しかできないから、五十近くになっても独身なんだよなあ」 「まあ、こちらさまはお独りでらっしゃいますの」  おかみが大げさに目を丸くした。 「そうなんだよ。うんと若い頃に逃げられてさ、それっきり独り。いつもろくなものを食ってないから、たまにはうまいものでもご馳走しようとここにつれてきたってわけだ」 「あら、あら、それなら張り切らなくっちゃね。先生、今日は渡りガニのいいものが入ってますよ」 「お、いいねぇ。それをもらおう。それから鮒鮨《ふなずし》も少し切ってくれ」 「はい。丸岡さんはどういたしましょう」 「そうですねぇ。僕は何でもいいですよ。彼と同じものをください」  丸岡は酒は強いらしく、手酌で早くも盃を重ねている。 「こいつは食べるものにはまるっきり興味がない。なにしろ塩と味噌《みそ》を肴《さかな》に、一升ぐらい飲んじゃうんだからね」 「おい、おい。それは学生時代の話だろ」 「今だって同じようなもんじゃないか」  初老の男たちは酒が加わりにぎやかに喋《しやべ》り出した。  やがて強烈なにおいが鼻をくすぐったかと思うと、薄く切った鮒鮨が岡崎の目の前に置かれた。 「これ、これ。このにおいがたまらないんだよねぇ」  血色のいい丸顔と、厚めの唇を持つ岡崎は見るからに健啖家《けんたんか》という風貌《ふうぼう》をしている。いとおしそうに、鮨の一切れを箸でつまんで顔に近づけた。 「最近、どうです。河村さん」  彼が祥子に尋ねているのは、おいしい店を見つけたかということだ。 「うまいものをいっぱい食べてれば、僕みたいな医者はもういらん……と、こりゃ、ヨイヨイ」  酔った時などは、おかしな節まわしでこう歌うこともある。医者の例にもれず、岡崎も大層な旅行好きで、うまいものを食べに正月や夏休みごと海外に出かけている。祥子は行ったことはないが、自宅兼医院の地下には、小さいけれどきちんとしたワインセラーがあるということだ。 「私は先生と違って、お金があるわけじゃありませんもの。そうしょっちゅういいところへ行くわけにはいきませんよ。でも、ちょっといける中華料理屋を見つけましたよ」 「中華料理……ふうーん」  眼鏡の奥の目が、たちまち輝き出す。 「本当に、ごくふつうの店構えなんですけど、頼むといろんなものをつくってくれるんです。ふだんはラーメンとか、ギョーザなんかを出すようなところなんですけど、一人いくらの予算でこうしてくれって言いますとね、コースが出ます。これがとても凝《こ》ってるんです。このあいだはレコード会社の方につれていっていただいたんですけど、彼はニラ料理がバツグンだって言ってましたわ」 「ちょっと待った」  岡崎は懐から黒い表紙の手帳を取り出した。これは十年以上前から彼が書き込んでいる、東京のうまい店のリストだという。 「場所はどこだって言いましたかな」 「代々木八幡です。山手通りを右に折れて」 「ふん、ふん。右に折れてと……」  真剣な表情でボールペンを走らす。 「電話番号が今ちょっとわかりませんの。事務所に行けばあると思うんですけど……。後できっとご連絡します。そしてそこの名物はですね、蛙《かえる》なんです」 「蛙、ベトナム料理じゃ食べたことがあるけどねぇ」 「なんでも、朝鮮ニンジンの畑に棲《す》みつく蛙だって言ってました」 「朝鮮ニンジンの畑」 「ええ、朝鮮ニンジンを齧《かじ》って大きくなったいわば害虫なんですって。この蛙がとても贅沢なもので、ニセ物はいろいろ出まわっているけれど、本物は中国本土へ行って買ってこなければいけないってコックさんは言ってましたよ」 「朝鮮ニンジンを齧る蛙ねぇ……。僕は聞いたことがないなあ」 「何日もかけて煮るそうで、あんな味初めてでしたね。やわらかくて、ミルクみたいなこくがあるんです」 「そりゃ、うまそうだ」  岡崎の唇がだらしなくゆるむ。 「僕はいつも中華は『竹園楼』って決めてたんだけど、知らない間にいい店がいっぱい出てきたんだな。よし、河村さん、すぐに電話番号を教えてくださいよ。うーん、蛙ねぇ……」  しきりに感心する岡崎をからかうように、丸岡が声をかけた。 「すごいなあ……。みなさん食べることへの興味と執着が。もうほとんどマニアックだ。僕なんかとても真似できないだろうな」 「あったり前だ。いまみたいに、不味《まず》いもんとニセ物が横行している世の中で、少しでもうまいもんを食べようと思ったら、体力と頭をうんと使わなきゃいけないんだ。ねぇ、河村さん……」 「私はどちらも使ってませんけれど」  祥子が微笑《ほほえ》むと丸岡もこちらを見ていた。五十すぎといえば、祥子の父親の下ぐらいの年代だが、細い目のあたりが若々しい。煙草を吸わないらしく、綺麗に揃《そろ》った歯だ。 「でもその蛙っておもしろそう。いっぺん食べてみたいなあ」  真由美がはしゃいだ声をあげた。 「でも高いのよ」  ぴしゃっと言う。祥子はこういう時、口を出す若い娘というのが信じられない。案の定、岡崎はみなを招待すると言い出した。 「丸岡もな、いっぺんそういう変わったものを食べようじゃないか。どうせ家や事務所でたいしたものを食べてないんだろ。いや、こりゃ失礼、若い女の子がなにか料理しに通って来ているかもしれないな」  岡崎は冗談とも本気ともつかぬ言い方をしたが、丸岡は黙って笑っているだけだ。 「ね、行きましょうや。河村さん、そちらのお嬢さんも誘って」 「お嬢さんは、小野真由美って言います。喜んでご一緒しますう──」  真由美は急に舌ったらずになった声を張りあげた。 「それから、あのショートカットの可愛コちゃん」 「井上ですか」 「そう、そう。若い子は多い方がいい。中華だし、みんなでわっと繰り出しましょうや」  いつもは簡単な言葉を交すだけの岡崎が、急に饒舌《じようぜつ》になったことに祥子はそう驚かない。モデルといわれる女を目の前にすると、たいていの男は親切になる。  その場でみなは手帳を出し合い、それぞれのスケジュールを確認した。中華を食べに行くのは来週の日曜日ときまった。 「その店、日曜日もやっているんでしょうな」 「ええ、この間行った時もそうでしたもの」  そう答えながら、横目で祥子は丸岡を見ていた。彼の手帳は濃い臙脂《えんじ》色だ。それを持つ指は、いかにも技術系の男らしく長い。祥子は昔から手の美しい男が好きだった。平凡などちらかというと猿に近いような顔立ちの、初老の男の指がすんなりと伸び、そして爪《つめ》がきちんと手入れされているのを、秘密を盗み見るような思いで祥子は見た。  蛙よりも、この男ともう一度会いたかった。  洋一には、ほんの少しだけれど胸毛がある。乳首と乳首を結ぶその線より少し上に、やわらかく長い毛がへばりついているのは、しばらくの間、祥子のからかいの種になったものだ。  その胸毛が、ちょうどいま祥子の顎のあたりにある。洋一の肌ごと汗ばんでいるのがわかる。  若い男の上下運動。規則正しいリズムを持って、洋一が祥子の中に出たり入ったりしている。  そして祥子は、この姿勢がいつまでも続けばいいと思う。こうしてからだを水平にしている限り、洋一は彼女のからだのあちこちについた、まっすぐに立てると垂れてくる、やわらかい肉には気づかないはずだ。  体重が六十五キロを越した時から、祥子は寝室のあかりをつけさせないようにした。マンションの六階にある彼女の部屋は、窓から芝浦海岸のあかりが入ってくる。自分が服を脱ぐ時は、その光だけで十分だ。ベッドの横のライトをつけると、祥子のからだにはさまざまな陰影ができるはずだ。それが嫌だった。  祥子が消すと洋一がつける。また祥子が消すと洋一がつける。  そんなことを何度か繰り返した揚句、祥子はコンセントごと抜いてしまった。 「恥ずかしいから」  この言葉に、洋一は心底驚いたようだ。 「わっかんねぇの」  首をすくめたまま両手を拡《ひろ》げ、外人の男のようなジェスチャーをした。  ギイギイとかすかにベッドが揺れている。洋一が祥子の上に乗っている限りは安心だ。彼の目に入るものは、祥子の額と、布でできているベッドボードだけに違いない。  時々洋一は、拗《す》ねたような声でいくつかのことを要求するが、祥子はきっぱりと拒否する。 「それ、嫌なのよ」  洋一は何も答えない。その替わり、力ずくで自分の好きな位置に祥子を置こうとする。  そのたびに、祥子は必死でシーツをつかむ。片手でずるずると、自分の胸のあたりまで持ち上げる。すると洋一は、それを邪険《じやけん》にはぎ取るのだ。  他の太った女というのは、こういう時にどうするのだろうかと祥子は思う。恥もプライドも捨て去れば、堂々と男の前に自分の裸身をさらけ出せるのだろうか。それとも、肥えた女を好きという男は意外と多く、そういう男だけを選ぶから、何の心配もいらないのだろうか。  不意に胴のあたりをつかまれた。いちばん肉がのっている場所だ。洋一は何かを確かめているのかと思ったのだがどうも違うようだ。腕に力を込めて、洋一は祥子をひざまずかせ、そして次に自分の腹の上に乗せた。 「選手交替」  少しおどけたように言う。祥子よりも、むしろ洋一がこれを好きだった。  動き出す前に、祥子は肩まである自分の髪をさっとふりはらう。するとそれが合図のように、下から洋一の腕が伸びて、祥子の乳房をわしづかみにした。  ゆっくりと腰を揺らす。頭の奥のどこかで、古い子守唄が聞こえ始める時だ。その唄に身をゆだね、深く深く沈もうと、祥子は軽く目を伏せる。  その瞬間、祥子が見たものは、ゆるやかな弧だ。自分の臍《へそ》の回りの脂肪が、男の腹に密着しているという光景は、確かに祥子に恐怖をあたえた。  すぐに固く目をつぶった。  そしてその後の祥子にできることといったら、さらに激しく腰を動かし、見られる前に洋一を果てさせることだった。  志津子は川崎に住んでいるので、日曜日わざわざ出てくるのは億劫だと言って断わってきた。だから祥子は真由美だけ誘い、代々木上原の駅へと向かった。  待ち合わせの喫茶店のドアを開けると、丸岡の姿が目に飛び込んできた。  先日のスーツ姿とは違い、今日はヘリンボーンのジャケットを着ている。ネクタイの組み合わせがいまひとつ野暮ったいが、趣味はそう悪くない。 「やあ」  祥子たちを見ると、少しはにかんだように首を横に傾《かし》げた。 「図々しく僕まで押しかけてきちゃいましたよ」 「とんでない。私たちも岡崎さんにご招待されているんですもの」 「おじさま、こんばんは」  この頃、モデルとしてのレッスンを積んでいる真由美は、実に可愛らしく笑う。 「おじさまなんて失礼でしょ。丸岡さんってお呼びしなさい」  祥子は小声で注意した。そのとたん、いつもの自分の役まわりがひどく損なことのように思われた。丸岡から見れば、自分もまた若い女の一人に違いないのだ。 「いやあ、こういうお嬢さんに、おじさまなんて呼ばれると嬉《うれ》しいもんですねぇ」  穏やかに笑う丸岡の手元を、また祥子は見つめてしまう。二人を待っている間に読んでいたらしく、テーブルの上にはハードカバーの洋書が置かれていた。表紙のイラストから建築の専門書だというのがわかる。 「むずかしそうなご本」  思わず口に出して言ってみた。 「いやあ、建築の本というのは絵や写真が多いからわかりやすいですよ。外人がやるセミナーや講演も、スライドでやってくれるからそう不自由しません。僕は早口の英語はまるっきり聞きとれないんですけど、それでも結構わかりますよ」 「あのね、私、英文科なんです」  真由美の通う学校は、女子大では有名な方とされている。 「高三の時、英検一級受けて落ちちゃったんですけど、一応二級は持ってるんです」 「ほほう、それは大したもんだ」 「あのね、学校に行っている間、一年か二年、絶対にアメリカに留学するつもりなんです。モデルになったのも、その資金づくりのため。ねっ」  祥子に同意を求める。 「そうね。真由美ちゃんは若いわりには、しっかりと貯金している方ですものね」 「そうなの。私は地方から出てきてひとり暮らしをしているでしょ。だからそんなに無茶なお金の使い方はしないけど、おうちから通ってる子って、モデルで働いた分、みんなお洋服代にしちゃってるのよね」 「そうみたいね。志津子ちゃんなんか、すぐに海外旅行に行っちゃうし」 「お洋服やアクセサリーも、いいものいっぱい買うわ。私はアメリカヘ行くっていう目標があるから頑張らなきゃって思うけど」  舌たらずな真由美の話を、丸岡は楽しそうに聞いている。 「それにしても、岡崎のやつ遅いなあ」  丸岡は腕時計を見た。 「ちょっと電話をかけてきますよ」  その後ろ姿を見ながら、真由美はすばやくささやく。 「祥子さん、さっき車の中で話さなかったっけ」 「何を」 「あら、こんな大ニュースどうして話さなかったのかな。あのね、昨日知り合いの男の子と電話で話してわかったんだけど、丸岡さんってわりと有名な人なんだって。彼、建築家なんだけど、丸岡岳人っていえば、よく建築雑誌に載ってるから知ってるって」 「そう……」  ほんのわずかだが、不愉快なものが胸をよぎった。たった一回しか会ったことがない男にも、こういうふうに調査をする若い娘の心が祥子にはわからない時があるのだ。 「岡崎は蛙どころじゃないみたいですよ」  丸岡はすぐにもどってきた。 「細君が電話に出て言うには、さっき急患が運ばれてきて手術でてんやわんやだそうです。後で本人からよく謝らせますからって、彼女も恐縮しきっていましたよ。ま、医者にはよくあることです。僕もよくすっぽかされますけど、仕方ないことでしょうね、こればっかりは。今夜はやつの替わりに、僕が二人をご招待しますよ」 「まあ、ありがとうございます」  素直にそう言えたのは、さっき真由美から丸岡のことを耳うちされていたからに違いない。最初くたびれかけたコートを着ている丸岡を、祥子は少し見くびっていたのだ。  三人が外へ出ると、わずか三、四十分ほどの間に空気はぐんと冷え込んでいた。 「こんな夜に、朝鮮ニンジン蛙を食べたら元気が出るだろうな」  丸岡がそんなことを言って真由美を笑わせた。  しかし、初めての時ほど蛙料理はおいしくはなかった。煮汁が前よりも多くなっているようだと祥子は思った。 「ああ、お腹いっぱい」  鉢に大部分を残したまま、真由美はレンゲを置いた。その不作法をたしなめようとした祥子にしても、半分近く手がつけられなかった。 「今日のメイン・エベントの蛙が、最後に出るなんて思わなかったんですもの。私、エビのすり身と卵白の炒《いた》め物、あんなに食べるんじゃなかったなあ」  真由美は白いニットの腹のへんを軽くたたいた。油料理が詰まった胃がその下にあるなどとは信じられないほどまっすぐな線だ。 「やっぱり女性ですね。僕は全部食べられそうだなあ」  丸岡はにこにこしている。食事中、ただの一度も彼は料理について評価や解説をしなかった。 「土地っていうのはおもしろいものですよ」  その時運ばれたフカひれのスープも、丸岡にとってはことさら意昧のないもののようであった。 「傷ものっていうでしょ。土地にもよくああいうものが出てくるんですよね。とんでもない三角形だったり、木を切った後の跡地だったり。いつだったかな、六本木のどまん中で二十坪ぐらいのひし形の土地が出たことがあったんです。ひし形っていっても、いびつな形でね。あっちがとがってたり、こっちが出っぱったりしていた」  両手を使ってかたちを描く。 「せっかく六本木にあるっていうのに、そんな形だと何にもなりゃしませんね」  祥子は注意深く、スープをすすりながら言った。 「ところがそういう土地ぐらい、建築家にとっておもしろいものはないんですよ。僕はそこに小さなビルを建てたんですけどね。光や音の入り方を調べて、なんとかして欠点を長所にしてやろうとしたんですよね。その時はわざと土地どおりの形にしてやりましたよ。いびつな部分は、確かに完全なデッドスペースになっちゃいましたけど、あれはあれでおもしろいものでした」  丸岡はやっとスープをすすり、小さな声で「あちっ」とだけ言った。 「僕はね、散歩をするのが大好きなんですよ。今は麻布十番のマンションに住んでいるんですけれどもね、朝なんかあのあたりを歩くでしょ。すると実におもしろい土地がいっぱいあるんだなあ。ねぇ、土地は絶対に傷ものがいいですよ。都心でも信じられないような安さで手に入る。使いこなす自信を持っているんだったら絶対に傷ものです」 「わ、女の人のことみたい」  真由美が言った。 「あはは、確かにそのとおりかもしれないなあ」  デザートは麻珠《もじゆ》が出たが、これは誰も手をつけられなかった。 「これ、お土産にしてもらっていいかな。私明日の朝ごはんにしちゃう」 「あら、真由美ちゃんは甘いものはセーブしてたんじゃない」 「来週はお仕事が何にも入ってないの。撮影が近づいたら、きっとしっかりダイエットするから、ね、いいでしょ。これ、私の大好物なのよ」  唇をとがらしてねだる真由美の様子は愛らしく、つい祥子は笑い出してしまった。 「丸岡さん、うちの子たちっていうのは本当に根性がないんですよ。私がとにかく食べることしか楽しみがないっていう人間でしょう。ついつい甘くしちゃって」 「いやあ、今日は楽しかった」  突然丸岡は言った。 「こんなに美しいお嬢さんたちと食事ができて、本当にいい夕食だった」  大またで丸岡はレジヘ向かう。蛙料理がひと皿三万円、それ以外にも五種類の料理が出て、全部で七、八万円の支払いになるはずだった。 「あのう、申しわけございませんでした」  もう一度祥子は、出口のところで頭を下げた。他の男なら気にならないことが、丸岡だと心にひっかかる。自分も真由美も、今日で会って二回目なのだ。 「いやあ、またこんな会を持ちましょうよ。今度は岡崎にもちゃんと加わってもらって」  丸岡はすでによく見知ったものとなった、ツイードのコートに袖《そで》をとおした。 「丸岡さん、この後何かお急ぎなんですか。もしよろしかったら、食後のお酒でもご馳走させていただけませんか」 「いやあ、とんでもない」  丸岡は二人のために、タクシーを止めてくれた。 「僕が本気になって飲み出すと大変ですよ。とてもお嬢さん方に見せられたものじゃない。今日のところは遠慮しておきましょう……。おっと、その前に、まだ名刺をお渡ししていませんでしたよね」  それには「丸岡岳人建築研究所」という文字が刷り込まれていて、住所は新橋とあった。 「ぜひ遊びに来てくださいよ。僕のつくった家の模型もありますから」  そして、�じゃあ�と言いながら、丸岡は片手を軽く上げた。 「わりとスカッとしたおじさんだったと思いませえーん。話もおもしろかったしさあ。最初はもさっとしたおっさんなんて思ってたけどそうでもなかったわ」  帰りのタクシーの中で、真由美は何度も言う。 「そうねぇ……」  いいかげんにあいづちをうった。祥子はさっきからげっぷをしきりにこらえているのだ。  水曜日の午前、祥子はワインを一本持って新橋へ出かけた。丸岡の事務所は、銀座との境い目あたりに位置する、新築のビルの中にあった。  丸岡の他に若い男が六人、ワイシャツ姿で図面台の前に座っている。その様子も、壁一面の本も祥子にはもの珍しかった。 「このあいだはご馳走さまでございました。うちの事務所の者まですっかりお世話になりまして……」  さんざん押し問答があった揚句、やっと丸岡にシャトー・マルゴーを受け取らせた。 「こんなことをしていただくと、かえって恐縮してしまいますよ。僕もとっても楽しませてもらったんですから」  事務所で見る丸岡は、いっそう若やいで見える。ワイシャツの上に、薄手のカーディガンをはおっているのがよく似合った。 「よろしかったら、僕の作品を見ていただこうかな」 「ええ、ぜひ。とっても楽しみにしていたんですもの」 「おーい、誰か」  丸岡は椅子ごと身をよじって、若い男を呼んだ。 「伊藤邸と深沢邸をお持ちしなさい」  それは家の模型で、どちらも奇妙なかたちをしていた。 「こちらの伊藤邸は、賞をもらったりしたんですけれど苦労しましたよ。施主がちょっとした役人で、あんまりいばるもんだから僕はいっそのこと城をつくってやろうと思っちゃいましてね」  二階のテラスから鉄骨が伸びて、城塞《じようさい》の入口に似たオブジェをつくり出していた。 「深沢邸はピアニストの家なんです。だから家全体を五線紙に見たて、窓を音符のかたちにくり抜いてある」  本当にそのとおりだった。 「おもしろいわ。建築家っていうのは、こんなにお茶目なことがいろいろ出来るんですね」 「お茶目はよかったな」  丸岡は笑った。 「僕はもともと遊んじゃうのが好きだし、住むところは楽しくなければっていう主義ですからね。それに誰でも住める家よりも、自分でなけりゃ住めないっていう家の方が、ずっとおもしろいじゃないですか」  冬の陽がさす部屋で、丸岡のそんな話にじっと耳を傾けている自分が、祥子は不思議でたまらない。  興味がある男が語るものは、やはり女にとって興味があるものなのだろうか。建築などというものに全く知識も関心もなかったはずなのに、気がつくと一時間以上耳をかたむけていた。 「お昼でもどうです」  青年たちも立ち上がったところを見ると、もう十二時をまわっているらしい。 「すっかり長居をしてしまって……。すぐに帰るつもりでしたのに」 「まあ、いいじゃないですか。なにかご一緒しましょう」  銀座に向けて丸岡は歩き出した。八丁目のこのあたりは、老舗《しにせ》の食べ物屋が多いところだ。天ぷらで有名な店を通りすぎ、丸岡は右に折れた。 「僕がいつも来る店なんです」  そこはありふれたレストランだった。ウインドウには料理のサンプルが並んでいる。昼休みだというのに満員ではない。 「すいてていいんですよね」  丸岡はメニューをひろげた。 「僕はよくここのBランチっていうやつを食べるんです。照り焼きとフライかなんかだったと思いますけど」 「じゃ私もそれをいただきます」  つけ合わせについてきた、赤くケチャップで炒めたスパゲティを、祥子は何年ぶりかで食べた。おいしいとは思わないが、そうひどいものにも思えなかった。それどころか、黙々とエビフライをちぎる丸岡に、祥子は感動さえしていた。  食べることにこれほど無頓着《むとんちやく》でも生きていけるのだ。  自分の仕事を楽しみ、それに時間をつぎ込もうとすれば、食べることが単純になっていくのはあたり前のことなのだ。  いや、そんなことはとうに自分でもわかっていた。ただ見せてくれる男がいなかっただけだと祥子は思う。暖かい感情が突然胸になだれ込んできたのがわかる。 「どうしたんですか。何を一人で笑っているんですか」  丸岡がいぶかしげに、祥子の顔をのぞきこんだ。 「あら、別に笑ってなんかいませんよ。ただちょっと嬉しいことがあっただけなんです」  祥子はうつむいて、千切りのキャベツをフォークで食べるふりをした。  夜中の二時に、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、酔った洋一がぐにゃぐにゃと倒れ込んできた。 「ちょっとォ、こんなところで寝込まないでよ。ベッドまでは歩けるでしょ」 「大丈夫。タクシー代がないからさ、今夜泊めてよ」 「それは構わないけど、どうしてそんなに酔っぱらっちゃったのよ」  それでも水を二杯たてつづけに飲むと、洋一はだいぶ楽になったらしくソファの方に腰をおろした。 「僕、もしかすると、田舎に帰らなきゃならないかもしれない」 「だってまだ学校が残ってるでしょ」 「両親が卒業する見込みがないんならやめちまえだってさ。無理もないよな。六年間も大学に通わせた息子があんな成績じゃな。チェッ、チェッ。それにしても腹立つなあ」 「ご両親のことを、そんなふうに言うのって好きじゃないわ」 「違うよ。学校のアホどもさ。今までそんなことなかったのにさ、今期から成績表を親元に送りつけやがって。そりゃびっくりするよな。単位がほとんど取れてなかったんだもんな……」  洋一は頭の後ろに手を組んでいた。こうすると喋るたびに喉ぼとけがひくひくと動くのがわかる。それはたぶん、うまく剃《そ》れなかった短い髭《ひげ》でおおわれているはずだ。 「イチの家は、確かガソリンスタンドをやってたのよね」 「それは兄貴。親父の方は肥料屋やってたんだけど、今は店半分を小っちゃいミニ・スーパーにしてる。きっとあれを手伝わさせられるんだろうなあ……。冗談じゃないぜ」 「今までどおり、アルバイトでやっていけばいいじゃない。仕送り分ぐらいどうにかなるでしょう」 「親父のこと知らないから、そんなことが言えるんだよ。あいつ、自分の言うとおりにしようと思ったら、絶対にそうさせるんだから。兄貴だって家を継がせるって決めたとたん、好きな女と別れさせて、田舎へ連れもどしたんだぜ」  いつのまにか洋一はあお向けになっていた。こうすると喉ぼとけはさらによく目立つ。 「いったんは帰らなきゃまずいだろうな。だけどすぐに帰ってくるよ。何とかなるよ」 「そうしてくれなきゃ、私も困るわ」  けれどそう悲しんでもいない自分に祥子は気づいていた。情事を楽しむ歳下の男などと割り切っていたつもりはないが、恋をするには洋一は幼すぎた。ちょうど空いていた隙間《すきま》に、ぴったりとうまくはまっていたことだけは確かだったけれど。 「祥子さん、どうするんだよ」  洋一が低い声で問うた。 「あんたって仕事もできるんだけど、どっかぼんやりしたところがあるんだよね。僕がいなくなってもさ、ちゃんと後の男いるのかよ」 「いるわ」  半分は強がりで、半分は願望だった。しかしその時、丸岡の姿をはっきりと祥子は思いうかべることができた。 「なんだ、いるのかよ」  むっくりと洋一は起き上がった。 「いろいろ心配して損みちゃったよなあ。あーあ、僕はバカだよ」 「そうね。あんたはバカよ」 「お、言ってくれるな。チェッ、うまくやりやがって、この、この、この」  祥子の肩をぴちゃぴちゃとたたく。 「うまくやってるじゃんかよ。この、この、このォ」 「やめてよ。痛いじゃないのォ」  祥子が甘やかな声を出したとたん、洋一の手はすうっと離れた。 「ごめん。じゃそろそろ帰るよ」 「あら、泊まってくんじゃないの」 「いい。僕も他に泊まる女の家ぐらいある」  予感や疑いはあっても、これほどはっきり傷つけ合ったのは初めてだった。  ドアのノブに手をやりながら、洋一はふり向いた。 「そういえば、僕たちが会うのはいつも食べ物屋だったよね」 「そうかしら。いろんなところに行ったじゃないの」 「いや、違う。何か食べに行きましょうよって、いつも電話がかかってくるんだ」 「それは会うのがいつも夜だったからよ」 「何か食べながらじゃないと、手持ちぶさたになるみたいだったね、祥子さん」 「いちいち考えたことないわ」 「そうだよ。本当だよ」  そして最後に洋一は言った。 「いろいろ、ごちそうさまでした」  郷里の電話番号は聞いていたのだが、あえて祥子は電話をしなかった。洋一は帰ってくるのか来ないのかまだわからない。一応退学届けは出し、アパートを引き揚げていくといったから、本当にスーパーの店員になるのかもしれなかった。  洋一がいなくなったニュースは事務所にも伝わり、圭子がしきりに残念がる。 「みずくさいわね、あの人。言ってくれればみんなで送別会でもしてあげたのに」 「本人は帰ってくるつもりなんでしょ」 「うちの子たちもがっかりするわ。あの人、結構人気があったんですよ。みんなでいろんなところへ遊びに行ったりもしてたし」 「そう」  圭子はどこまで自分と洋一のことを知っているのだろうか。探りを入れる、などといったことのできる娘ではないから、あるいは本当に無邪気に考えているのかもしれないと祥子は思う。  それよりも、今の祥子の心を占めているのは丸岡だった。あの夜「好きな男がいる」と言った、自分の言葉が火をつけたとしか思えないような心の動きだ。  あれから何の連絡もない。けれどそれが、かえって男の清潔さを祥子に印象づける結果になった。今月中にでも、もう一度祥子は丸岡の事務所を訪れようと思っている。そうでなかったら、こちらから食事に招待してもいい。 「祥子さん、これが今月みなに振り込む分の明細ですけど、ちょっと目をとおしていただけます」  電卓を片手に圭子が声をかけた。 「どれどれ、ちょっと見せてちょうだい」  祥子の会社はモデルのギャラから、三割をマネージメント料としてもらっている。そして算出される彼女たちの給与は決して高くない。学校の片手間にやっている子は、OLのサラリーのちょっと上ぐらいだ。 「キララ」の中では、井上志津子が稼ぎ頭だ。雑誌表紙の専属契約料の他に、二つの会社とCM契約を結んでいる。これはもう芸能人のギャラに近い。 「やっぱり真由美ちゃんはいまひとつねぇ!」  新人というせいもあるが、彼女が一カ月の間にこなした仕事はわずかに三つだ。 「あの子は、あんまり仕事をする気がないみたい」  圭子が言う。 「私が電話すると、その日は授業があるとかいろんなことを言うんですよ。スケジュールは前もって出してもらって、こっちも空いてる日に仕事を入れるんですもの、ああ気まぐれだと困るわ」 「私から言ってみるけど、もう二、三カ月もやってればちゃんとしたプロ意識も芽ばえてくるでしょ。みんな入った当初は手こずらされたじゃないの」 「あの子はちょっとふつうの子とは違うんじゃないかしら」  圭子が固い声を出した。 「違うっていうと?」 「ねぇ、祥子さん、気づきませんでした。あの子が腕にはめてるローレックス。スカーフはエルメスをとっかえひっかえ替えてくるわ。うちじゃ志津子ちゃんだって、あんなにすごくない」 「私にはイミテーションだって言ってたけど」 「まさかあ、本物ですよ。だってあの子、祥子さんのいないところじゃ他の子に自慢していますもの」 「真由美ちゃんちって、そんなにお金持ちなのかしら」 「違いますよ。パトロンがついたんです」  ああと祥子は声をたてそうになった。モデルという、ひときわ美しい女に、金持ちの男が言い寄ってくるのは昔からよくある話だ。実際、祥子自身も若い頃はさまざまな好条件を出されたことがある。しかし「キララ」のモデルはすべて女子大生だったし、真由美はいちばん年若の十八歳だ。にわかには信じられない。 「そんな……。二流三流のモデルクラブの中には、そういうの専門の女の子がいるってよく聞くけど、まさか真由美ちゃんがそんなこと……」 「私ね、えりかちゃんから聞いたんですけどねぇ」  えりかというのは、やはり「キララ」に所属するモデルだ。 「真由美ちゃん、こっそり打ち明けたって言うんです。なんでもお金持ちのおじさんとつき合ってるって。月いくらって契約するかわりに、月に三十万円好きなものを買ってもらってるんですって」 「ああ、いやだ、いやだ」  祥子は激しく首を振った。 「もうこの頃の若い女の子っていうのは、私たちの想像のおよぶところじゃないわよ。うちは清潔で可愛らしい女子大生が売り物だから、うんと気をつけて、何度も面接して入れてるけどこのザマですもんね。いいわ、わかったわ。これからはもうプライベートなことまで心配するのはやめましょうね」  祥子は自分の声が、次第にヒステリーじみていくのを感じていた。自分が管理する女たちのうちの一人が、確かに自分を裏切ったのだ。  岡崎医師から電話がかかってきたのは、それから三日目の夜だった。いつもの店で飲んでいるから来ないかという誘いだ。おかみから自宅の電話番号を聞き出したところを見ると、よっぽど先日のすっぽかしが気になっているのだろう。  思ったとおり、祥子の姿を見たとたん、 「このあいだは悪かった。本当に失礼した」  ひと息に喋りながら、椅子から立ち上がる。今日の岡崎は、いつものカウンター席ではなく、隅のテーブルにいた。 「嫌ですわ。おわびのおハガキいただいて、こっちこそ恐縮してしまいました」 「まあ、飲もう。おおい、さっきのコノワタ出してくれや。湯葉の煮《た》いたのもついでに」 「はい、はい。ところで先生方、こちらにお移りになりませんか。カウンター席が空いておりますけど」 「いやあ、たまにはさ、美人と静かに飲みたいじゃないか。うるさいおかみ抜きでさ」 「うるさくて悪うございましたね」  そんなやりとりを聞きながら、祥子は岡崎が自分に何か話したいのではないかと確信を持った。 「ところで、どうですか最近」  岡崎は祥子の盃を満たしながら尋ねた。 「そうですね。ここんとこ不調ですね。新規開拓すべて失敗です。インテリアは凝っているんですけど、料理は最悪っていう店がこのところ多くて。特にエスニックっていうのがいけませんね」 「なるほど」  岡崎は祥子の話をほとんど聞いていなかった。 「ところで、あの可愛いお嬢さん、どうしていますか」 「小野真由美のことですか」 「そう、そう。真由美さんって言いましたっけね」 「このあいだは、丸岡さんに私たち二人すっかり御馳走になりまして、本当に楽しかったわ」 「じゃ、今度のことはみんなあなたも承知してることなんですな。丸岡とのこと」 「承知と言いますと……」  言いかけて祥子は、もう少しで叫び声をたてそうになった。丸岡と真由美を結びつける要素など何もありはしない。けれど岡崎のほのめかしていることは確かにそれだった。 「私も最初にやつから聞かされた時はまさかと思った。若い彼女ができたって自慢をするんだが、モデルをしている女子大生というと、どうしてもあの子しか思いつかない。そうかと聞いたらそうだと言う。あなたに失礼なことがあってはいけないと思ったが、やっぱりそうだったか」 「まあ、みっともないお話ですけれど、私の監督不行届きで……」  こんな言葉を繰り返すことだけが、プライドを保つために祥子ができたことだった。 「まあそんなことを言っても、若い女の子の行動まであなたがめんどう見きれないでしょう。僕はただあなたが知らないとめんどうだと思ってたんだ」 「ありがとうございます。薄々は耳に入っていましたが……」 「あなた、一回やつの事務所に行ったでしょう。やつは様子を見に来たと思ったそうだ。彼女とデイトしたのが、中華を食べに行った次の日だったそうで」 「まあ」  たぶん自分は青ざめているに違いないと祥子は思った。 「やつは女にだらしないんですよ。一見そんなふうにも見えないんだが、前のカミさんにもそれで逃げられた。今までは水商売の女ばっかりだったから、初めて若い女の子を手に入れて有頂天になっているんじゃないかな」  店を出て、タクシーが拾える通りに出るまでに、祥子は二度吐いた。胃液のようなものまで出してしまうと、ようやくせいせいした。  それにしても、自分はなんと丸岡のことを買いかぶっていたのだろうか。この世に恬淡《てんたん》とした男がいるなどと、どうして信じたりしたのだろうか。  丸岡は食べるという行為の替わりに、女とたわむれる楽しみを選んだにすぎなかったのだ。五十男のエビフライを食べる姿に酔った自分を、本当に滑稽《こつけい》だと祥子は思った。あんな男には、箸もろくに使えないような小娘がお似合いだ。  祥子は胃をおさえた。吐き気とみじめさがおさまったとたん、ぬくぬくとした食欲がわいてくるのがわかる。哀《かな》しみはまだすり替われない場所にあったが、何か口に入れることによって隅に押しつけることができそうだ。家へ帰る途中、深夜営業のイタリア料理店へでも行ってみようと祥子は思った。  博多はもう春になろうとしていた。  飛行機を降りたとたん、むっとするような暖かい風が来た。 「私、コートなんか着てくるんじゃなかったわあ」  映子は髪をおさえながら言う。青い綿コートに、白いパンツといういでたちだ。いつもはカウンターに隠されているが、映子は長い足を持っていた。  博多にふぐを食べに行こうという計画はのびのびになって、ついに三月になってしまった。映子に香苗、そして祥子、もう一人は礼子というフリーでヘアメークをやっている女だ。小柄な彼女は、どうみても二十代前半にしか見えないが、今年が厄年だとしきりにぼやいている。 「あ、博多ラーメンの看板が出てる。ちょっと食べていかない」  タクシーの中で香苗はしきりに誘うのだがみなに拒否された。 「もうじき夕飯で、水炊きを予約してるのよ。なにもわざわざまずくさせることないじゃないの」 「そうよ、ラーメンだったら夜、長浜に出かけることになってるわ。それまでは我慢、我慢」  このプランは何度も練り直され、検討が加えられた。どうせ食べるなら最高のところをと、みんながそれぞれの情報を持ち寄ったのだが、水炊きは文句なしに「水無月《みなづき》」がいいだろうということになった。創業二百年という店で、以前に礼子は何度か来たことがあるという。 「太った仲居さんがいるのよ。主《ぬし》みたいなね。最後に行ったのが三年前だけど、たぶんまだ勤めてると思うわ」  ぎしぎしと鳴る階段を踏みながら言う。創業時に建てられたという店は、今でもサッシひとつつけられてない。 「太って、えばった仲居。ああ、それはきっと玉子さんのことでしょう」  座敷に案内してくれた仲居は手をうった。 「あの人、去年店をやめて、今は娘さん夫婦と一緒に暮らしてるはずですよ」 「もう辞めちゃったの」 「もうって、お客さん、あの人もう七十を越してしまったんですよ」 「信じられないわ。顔色もつやつやして、しゃっきり働いてたもの」 「若く見えるのはこの水炊きのせいかもしれまっしぇんね。博多の女は、これを食べてるからいつまでも美人だって言いますもんね」  そんなことを言っている間に、土鍋が煮えたってきた。 「さあ、どっさり召し上がってください。これを食べたら、東京の鶏肉《とりにく》なんか食べられませんもんね」  ぶつ切りにされた鶏肉は、キャベツ、椎茸《しいたけ》などと一緒に鍋にほうり込まれる。 「変わってるわね、キャベツなんて。東京だと白菜を入れるとこだけど」 「地鶏には、いちばんこのキャベツが合いますもんね。スープがこんなに濃いスープですからね、やっぱり白菜よりもキャベツですよ」  鶏肉には骨がしがみついている。歯でしっかりと噛みきってやらなければならない。すると想像するよりも、はるかにこくのある鶏の味が口いっぱいにひろがる。 「おいしい。鶏ってこんなにおいしいものだったのね。ありふれた言い方だけどさ、本当にそう思うわ」 「東京からいらした方は、みんなそうおっしゃいますね」  色白ののっぺりした顔の仲居は、得意そうに言う。 「ほら、スープを見てください。ちっとも脂が浮いとりませんでしょう。これがブロイラーなんかですと、気持ちの悪かと脂の玉がギラギラ浮きますよ」 「本当。私なんか気持ち悪くて、東京じゃ絶対に鶏なんか食べない」  映子が言う。 「うちのお客さんなんかでも、鶏が食べたくなったら博多へ行くっていう人が多いわ」  キャベツは確かに、この味の濃い鶏肉に合った。スープをたっぷり吸ってキャベツは甘くやわらかい。  山盛りの野菜と肉は、たちまち四人の女の胃袋に消えた。 「ああ、おいしかった」 「次はどこへ行くのよ」 「決まってるじゃない。中洲に繰り出すのよ」  幹事役の礼子が言った。 「博多っていうのは、おもしろいディスコがあるわよ。若い男の子がいっぱい集まってきてさ」 「若い男はあんまり興味がないね」  だらしなく膝をくずしながら、香苗が叫ぶ。 「若い男っていえばさ、祥子んとこのイチはどうしたのさ」 「ああ、あの子、田舎へ帰ったわ」 「ふうーん、結構可愛くってさ、あんたによくなついてたのにねぇ」 「若い男なんか、やめろ、やめろ」  もう酔いのまわり始めたらしい映子が手をふった。 「私なんかもう本当に若いのには懲《こ》りたわね。いいじゃない、女同士さ、小金を貯めてこういうおいしいものを食べてさ。これがいちばんよ。これが極楽よ」 「やーねぇ、この人、もう酔っぱらってるんじゃない。さあ、おネエさん頑張って、飲みに行こ、行こ」  中洲に礼子の友人が紹介してくれたバーがあるそうで、女たちはぞろぞろとタクシーに乗り込んだ。  酒は映子と礼子がずばぬけて強い。ボトルのほとんどは、この二人が空《あ》けてしまった。 「さ、起きろ、起きろ」  礼子が全員に声をかける。 「さ、長浜ヘラーメンを食べに出発」 「私、もう入んないわよ」  祥子がべそをかいた。 「何言ってるのよ。昔から中洲で飲んだ者は、長浜で酔いざましのラーメンを食べるって決まってるのよ」 「あら、いいこと言うじゃない」  カウンターの向こうで、ママが声をかけた。 「私も連れてってよ。おいしい店は地元の者じゃないとわからないんだから」  五人にふくれあがったグループは、何度もタクシーに乗車拒否された。 「カンニンしてよ。五人なんて困っちゃうよォ」  四台目につかまえたタクシーの若い運転手にママが怒鳴った。 「じゃかましかあ。さっさと乗せんね」  車の中は、女の体臭と香水でむせかえりそうになった。 「長浜へ行ったら、絶対に替え玉っていうのをやるといいわよ」  ママが言う。 「ラーメンのスープの中に、ぽんと麺《めん》だけ入れてくれるの。ああいうやさしさっていうのが博多よね」  やがて闇《やみ》の中に、屋台のあかりがいくつも浮かび始めた。長浜ラーメンは、近くの魚市場に集まる男たちのために、屋台がひとつふたつと出来たのが始まりという。今では十数軒の店が並ぶ。 「そうよ。ここ。『とん吉』っていうのがいまいちばんっていう噂よ」  テントの中はむっとするようなあたたかさだった。ラーメンの他に、おでんや煮込みのにおいが満ちている。  白濁したスープの中の麺は意外と細い。その上にたっぷりとママは紅生姜《べにしようが》をふりかける。 「好きな人は、めんたいこも入れるけど、あれはスープが赤くなって好かん」  レンゲでスープをすすると、水炊きと全く同じ、乳のようなコクがあった。  さすがに替え玉を頼む女はいず、彼女たちはママと別れ、そのままホテルに帰った。 「ああ、食べた、食べた」  祥子と同室の映子は、部屋に入るなりすごい勢いで服を脱ぎ始めた。 「先にバスルーム使うわよ。いい」 「もちろん。ゆっくり使って」  時計を見ると、すでに午前二時をすぎている。とてもシャワーを使える時間ではないだろうと思っていたら、水洗トイレの音が部屋中に聞こえた。  映子は、男の前でも、こんな姿を見せるのだろうかと、祥子はやや白けた思いで見つめた。巧みな化粧をし、高級な服をまとった女が、ブラジャーとガードルだけでトイレに飛び込む姿は、あまり見よいものではなかった。  水洗トイレの音はいつまでも続いている。その時、ドアをノックする音がした。 「私よ」  礼子の声だった。 「ウイスキーの配給に来たんだけど……」  ベッドに腰かけた。 「あら、映子さんは」 「トイレ。どうもお腹をこわしてるらしいわ」 「こんなところでダウンされちゃ困るわ。明日はふぐが待ってるんだから」 「ふぐはどこの店だっけ」  吐きそうなほど満腹でも、こういう時、祥子は質問せずにいられない。 「『河北』っていうとこよ。あのね、いろんな人からきいたけど、ここが博多でいちばんですって」 「すごいわね。水炊きもふぐもナンバーワンのお店っていうわけか」 「あたり前よ。他に何の楽しみもないんだから、このくらいの贅沢はしなくっちゃ。私はもう結婚はしないことに決めてるから、老後はあんたたちと仲よくやるわ。今回はそのリハーサルよ」 「頼りにされても困るわ。私はまだ夢も希望も持ってるんだから」 「やめなさいよ。男なんかひとつもいいことないじゃない。こうして気の合った者同士、おいしいもの食べて、いい酒飲んで、これ以上のこと何があるって言うのよ」  彼女は映子と全く同じようなことを言う。 「極楽、極楽ってやつね」 「そう。今みたいなのが、いちばんわかりやすい極楽よ。あんまりものをねだらなきゃね、女はそこそこに楽しくやっていけるのよ」  その時、バスルームから映子がやっと出てきた。 「私、ひどい下痢になっちゃったわ。でも出すもの出したらさっぱりしたから、明日はまた頑張れそう」  化粧がはがれかけて、映子は少し青ざめた顔をしている。 「二人で何の話をしてたのよ」 「極楽の話よ」  祥子は言った。 「大そうなものをねだらなきゃ、今、ここが極楽だって」  映子は一瞬けげんな顔をした。  幻 の 男  世田谷通りを右に折れると、静かな住宅街になる。  まだ宵の口だというのに、どの家も固く門を閉ざし、水銀灯が浮かびあがらせるのは、塀からのぞく高い樹々だけだ。  その家のフランス扉には、古風な銅製の呼び鈴がついている。それがひそやかな音を三回たてる間もなく、中から扉がゆっくりと開く。  出迎えてくれるのは、背の高い黒人女だ。唇が薄く、鼻すじがとおっているので、もしかすると混血かもしれない。若く美しい褐色の女が、ぴっちりと髪を撫《な》でつけ、タキシード姿でいるのはなかなかの見ものだが、それにおじけづくような私ではなかった。 「来てるかしら」  女を無視して、日本人の男の方に声をかける。ここに来る客すべてが、英語が喋《しやべ》れるわけでもないだろうに、どうしてこんな異国の女など置くのだろう。私の態度は暗にそのことを非難している。  女にもそのことがわかるのか、私を見てもニコリともしない。そのかわり、同じタキシードを着ている男の方は、ずっと丸顔をほころばせたままだ。 「いらっしゃってますよ。あ、遠山さま、コートをお預かりいたしましょう」  この男が私のことを名前で呼ぶようになったのはつい最近のことだ。テレビの奥さま番組で、コーナーを受け持つようになった。それを見ているのかもしれない。遠山由香里という名前は、一年ぐらい前から雑誌には嫌というほど出ていたのに、彼はそれを見逃していたらしい。おそらく本屋になど行ったことがないのだろう。テレビしか見ない人間というのがいかに多いか、この頃の私にははっきりとわかる。  私はいくらか肩をそびやかして、男の後を歩いた。パティオに面した、左の小部屋がこのレストランで最上の席だ。もし、右側の道路に面した方だったら、文句のひとつも言おうと思っていたが、男が手をかけたのは反対側の方だった。  ベージュの皮のソファに、陽二が座っている。だらしないという風でもなく、くつろいでいる様子がとてもいい。足を軽く組み、グラスを持っていない方の手を、ソファのへりにまわしている。私が意識して、ようやく身につけ始めたことを、この男は自然にやってしまう。上等の人生を送ってきたものだけができる動作だ。 「待った。車がすごく混んでいたのよ」  本当は久しぶりに美容院に寄り、爪の手入れまで念入りにしてもらっていたのだが、そんなことはもちろん男には話さない。 「仕方ないさ。今日は金曜日で月末ときている。東京中が車でいっぱいさ」  陽二は人をなじったり、疑ったりすることがない。育ちのいい男なのだ。なにしろ、幼稚園から一流校の付属に通っている。このことも私の自慢のたねになった。もし私が、有名でもなく金もなかったとしたら、おそらく一生つき合えなかった男に違いない。  陽二は名前を言えば誰でも知っている、広告代理店に勤めている。半年前「ミミの冒険」がテレビアニメになった時、代理店側の担当者が陽二だった。スーツの似合う男たちにはもう十分慣れているはずの私だったが、陽二の男ぶりには一瞬|見惚《みほ》れたものだ。  端整《たんせい》とよばれる目鼻立ちなのだろうが、笑うと両頬にエクボができる。それが彼を幼く見せて、私と同じ三十三歳だと聞いた時はかなり驚いたものだ。細いストライプのワイシャツも、渋派手のネクタイも、すべて私の好みに合った。ただひとつ気に入らなかったのは、彼が結婚していて、すでに二歳の娘を持つ父親だったということだ。 「でも別居してそろそろ一年になりますからね。独身みたいなものですよ」  この告白を、私は自分への好意のあらわれとうけとった。すべてのことを自分に都合のいいように解釈して、そう思い込んでしまう。私は確かにそれが許される立場にいた。  私が原作を書いてヒットした漫画は、それまでもいくつかあったが、「ミミの冒険」のヒットにはおよばない。ロマンティックな恋を夢みる少女が、さまざまな人物や事件に会うという単純なストーリーなのだが、単行本だけで各巻二百五十万部以上売れた。キャラクター商品も数えきれないほど出まわり、ミミという言葉はもはや社会現象だといった評論家もいたほどだ。  陽二に会った時、私はまさに時の人だったし、旬《しゆん》の女だったと思う。だから私は臆することなく彼に近づき、そしてすぐに結ばれたのだ。  いま、パティオからの水銀灯をあびて、やや青ざめて見える陽二は、美しい私の戦利品のような気がする。  横浜の中華街でウエイトレスをしていた時、こんなふうな男と、そして一緒にいる女を、いつも私は目を伏せながら見ていたものだ。ビールや、ほかほかと湯気のあがる料理を運びながら、私はただ見ていた。断わっておくが、憎しみや羨望《せんぼう》を感じたことなど一度もない。私が欲しいものは、もっと別のもので、それを手に入れさえすれば、私を見つめる男はいくらでも自然についてくると信じていたからだ。そしてそれはそのとおりになった。 「治子、誕生日、おめでとう」  昔、私が望んでいたものは、望んでいたとおりのやさしい声で私にささやく。治子という平凡な名前は私の本名で、陽二はこう呼ぶのを許されている数少ない男だ。  シャンパンが抜かれ、砕いた氷にのせてキャビアが運ばれてきた。 「口惜《くや》しいわ。私、陽二より早く年をとっちゃうのね」 「そう、もうおバアちゃんだ」 「ひどい、ひどいわ」  私は怒ったふりをして、陽二の肩にもたれかかる。しかし彼はこの後、私を喜ばす言葉をちゃんと用意してくれる男だ。 「だけど治子は、ふつうの女と違うもの。いきいきしていてチャーミングだ。それにかわいい。もう年なんか超越してるよ」 「うまいこと言ってぇ……」  私はその後、さまざまなことを彼に聞いてもらいたくなる。最近は用心して、インタビューの時など言葉を選んでいる私だが、いちばん愛する男には、いちばん私を高く評価してもらいたいのだ。 「ねぇ、『ミミの冒険』、視聴率が二十パーセントを超えたんですって」 「ああ、あの時間帯で、あれはもうお化け番組っていっていい」 「ねぇ、『ミミの冒険』は、漫画史上に残る名作だって言われてるけど、本当にそうかしら」 「もちろんだとも」 「ねぇ、私の週刊誌のグラビア見てくれた。現代の才女ナンバーワンって書いてあったわ」 「見た、治子がすごく綺麗《きれい》に映ってた」  そして私は必ず最後にこうつけ加える。 「ねぇ、こんな女に惚れられて本当に幸せだと思わない」  この時、必ず陽二はくっくっと低く笑う。エクボが「そうだとも」と、いとしげに私に告げている。  私の眼鏡はいつのまにか陽二にはずされていた。ニューヨークで買った大きな銀色の眼鏡はこのところ私のトレードマークになっている。これをかけるのを陽二はあまり好きではないらしいのだが、もともと私はひどい近眼だった。ウエイトレスやモギリ嬢を転々とした後、私は嘘《うそ》のように安い給料でアニメ製作会社でこきつかわれ、そこですっかり目をやられていたのだ。  眼鏡をとると、あたりの輪廓《りんかく》はやわらかくぼやける。そして私はいつも夢ごこちになって陽二の唇をうけるのだ。 「ねぇ、私のような女に愛されて本当に幸せでしょう」  ベッドの中で、私はもう一度言った。半分は本気で、半分は不安からだ。陽二といる時私はいつも自分を奮い立たせるものが必要なのだ。  いまベッドの上に横たわっているのは、目がしょぼついて、貧弱な胸がやや垂《た》れはじめた女だ。しかも高校もろくに出ていないときている。世間にはいいかげんに省略していっているが、さまざまな仕事をしてきた。もちろん、隠すようなことは何ひとつないが、胸をはって言えるようなこともない。そんな過去だ。  けれども、と私は思う。ひとたび起き上がってカシミアのコートをはおれば、私は遠山由香里になる。この女はたくさんのものを持っている。金も名声をもだ。  そしてこのことを、自分にも陽二にも言い聞かせなければ、私はどうしても安心することができない。 「ねぇ、私に選ばれたってこと、本当にすごいことだと思わない」 「思うよ」  陽二は私の髪に頬ずりしながらつぶやく。 「僕みたいな平凡な男が、こんなことをしていちゃいけないと思う。本当に君は素敵だもの、それに女にしては珍しくグレートだ」  大学生の頃、一年間カリフォルニアに留学していたという陽二は、グレートと正確な発音をした。 「僕なんか君といると、ひけめを感じてしまうよ。いつ捨てられるか、いつ君に飽きられるかって思うと、いつも不安でたまらなくなる……」  ここまで聞くと、私は大いに満足するのだが、今度は彼を慰《なぐさ》めてやりたくなってくる。 「そんなことないわ。陽二は最高よ。ハンサムだし、頭がいいし、それに品があるわ」 「そんなに無理してくれなくたっていいよ」  私は最大の励ます言葉を贈ろうとした。 「本当だってば。だって私、陽二と結婚してあげてもいいと思っているんだもの」  言ってからしまったと思ったが仕方ない。こういう方向に持ってきたほとんどの責任は男の側にある。それに私の自惚《うぬぼ》れは、この時頂点に達していて、こう聞くやいなや、陽二は起き上がって狂喜するに違いないと信じていたのだ。 「そんな……」  陽二はしんから驚いたように目を見張った。切れ長の涼しい目が、私を抱いたすぐ後なので少し充血している。 「そんな……。治子は僕になんかもったいないよ」 「あら、どうして」  私は陽二が自分の思いどおりの反応をしないことに腹が立った。 「私たち、こんなに愛し合ってるんですもの、結婚したってちっとも不思議じゃないわ」 「そりゃ、そうだけど」 「奥さんのことが心配なんでしょう」  陽二とつき合い始めた最初の頃、私はごく儀礼的に彼の妻に嫉妬《しつと》したりしたこともあったが、今はすっかりやめている。彼が娘にさえそう未練をもっていないことが、だんだんわかってきたからだ。 「やめてくれよ。僕たちがどういう状態か、君だってよく知っているだろう」 「わかってるわ。離婚したら、お嬢ちゃんが有名幼稚園に入る時にすごく不利になる。合格したあかつきに籍を抜くっていうんでしょ」 「そうだよ。あいつはもう僕の顔も見たくないって言ってるんだから、どうのこうのあるわけがないじゃないか」 「それというのも、昔のあなたの浮気が原因」 「よせやい」 「なんでも、同じプロジェクトチームの年上の女だったんですって」 「誰だよ、そんなこと言ってるの」  陽二は露骨に嫌な顔をした。 「ヘヘー、私の情報網ってすごいんだから」 「村岡だろ。そんなろくでもないことを言うの」  村岡というのは、陽二の同僚であり、かつての同級生でもあるという男だ。 「あいつ、嫉《や》いてんだよ。自分も有名人の女とつきあいたくってたまらないようなやつだから」  こんな陽二の言い方は、私の胸に小さなしこりをつくる。 「あら、あなたは私が有名人だからつきあってるの」 「馬鹿だなあ。僕は村岡とは違うよ。そんな男だと思ってるのかよ」  私はこれまでの陽二の行動をすばやく反芻《はんすう》してみた。まわりの人間は誤解しているようなのだが、私は陽二に貢いだりしたことなどいっぺんもない。十年前ならいざ知らず、そこまでみじめなことはしたくなかった。店で財布を開くのも、小さな飾り物を買ってくれるのもいつも陽二の方だ。私のような女は、いつもどちらが金を払うかで、男の誠意をかぎとるものだが、その点においても陽二は合格だった。 「治子は僕になんかもったいないよ。本当にそう思っているんだぜ。なにもかも僕にはまるっきり釣り合わない。君だったら、もっと立派な男でなきゃ駄目だよ」  陽二が決して逃げやごまかしで言っているのではないことは、その哀《かな》しげな目を見てもよくわかる。 「もっと勇気を出して。自信を持ってちょうだい」  そして私は、さらに彼をふるい立たせようとした。 「ねぇ、誕生日の贈り物は指輪にしてほしいわ」 「いいよ。変わったデザインのやつをつくらせようか」 「ううん、ダイヤじゃなきゃ嫌なの」  私は無邪気さを装いながら拗《す》ねてみせる。 「ちっちゃくてもいいから、ダイヤの指輪をちょうだい」 「ダイヤかあ、困ったなあ……」  陽二は確かに狼狽《ろうばい》していて、それは私にとって裏切りに近い行為のように思われる。 「ダイヤでなきゃ嫌。そうでなきゃ、私、あなたと別れる」  私は乱暴に毛布を頭からかぶった。このマンションを買った時に、インテリアに合わせて選んだ紺青《こんじよう》色の毛布だ。そしてその中で、私は泣くふりをした。そうしているうちに、小娘のような涙がぽっちりとでた。  それはひとつの賭《か》けだった。  女が男にダイヤの指輪を要求する。よく考えてみると、乱暴な話だが私にはそれが許されるような気がした。  本当のことをいえば、私は陽二を少しみくびっていたのだ。しかし、それは私が彼のことを愛していないという証拠にはならない。男を軽んじたり、もてあそんだりしながらいとおしむ。それも愛情のひとつだと私は思う。  それでも陽二から電話がかかってきた時の、私の喜びようといったらない。 「明日、指輪を買いに行こう」 「本当!」 「うん。知り合いが渋谷の方の宝石店を紹介してくれたんだ。時間あいてるかな」 「あいてる、あいてる」  本当は明日は〆切り日で、「ミミの冒険」の百十四話を漫画家の水谷今日子に渡さなければならなかった。けれど今日子は、私が見つけ出してコンビを組んだ女だ。少しぐらい遅れて、徹夜が続いても仕方ないだろう。 「だけど、指輪っていっても、本物の指輪じゃないよ」 「本物じゃないっていうと……」 「つまり、でかいダイヤなんかついてなくて、ファッションリングってやつ」 「それでも構わない。陽二がくれるんなら、私大切にする」  確かに私たちが選んだものは、例の竪爪《たてづめ》ダイヤモンド指輪ではなく、デザインに遊びのあるアクセサリー指輪だった。プラチナが細い溝を描いて流れ、その真中にぽつんと小さなダイヤが埋め込まれている。値段は二十万円足らずのものだったが、私は陽二にすまない思いでいっぱいになった。  いくら給料がいい代理店だといっても、サラリーマンの収入などたかが知れている。妻にも仕送りをしなければいけないだろうに、陽二は私のためにずいぶん金を使ってくれているのだ。あと二カ月したら、彼の誕生日に仕立て券つきの背広地か、舶来ものの時計をプレゼントしようと私は心に決めていた。 「どうもありがとう。こんなに高価《たか》いもの、とっても嬉しいわ」  知り合いの知り合いだという宝石屋は、駅前のファッションビルの中にあって、若い女たちがリングやネックレスに見入っている。  私はあたりを気にしながら、素直に礼を言った。 「ごめんよ。こんな小さいやつで。君はもっとゴージャスなものをしなきゃいけないんだけど」 「そんなことないわ。本当にありがとう」  私は今まで指輪というものをしたことがない。この齢《とし》の女にしてはかなり働いてきたから、すっかり節が高くなっている上に、今ではペンだこがいくつかできている。そんな指を恥じて、何もつけなかったことを私は幸福だと思った。もし指輪が似合っていたら、私のことだから、ルビーやサファイヤをじゃらじゃらとつけていたかもしれない。 「だけど、そのうちにもっと大きなものを贈るよ。きっと」  この言葉で、私はやっと次の質問をすることができた。 「これ、エンゲージリングなのね」 「いや、違う」  陽二はエクボを見せながら、残酷な言葉を口にした。 「でも、これ、エンゲージリングでしょ」  私はかぼそい声で、もう一度抵抗してみる。 「エンゲージリングにしちゃ、石が小さすぎるよ」 「でもこれ、エンゲージリングなの」  私は必死だ。  陽二は迷っているようだが、やがて決心したように言った。 「治子がそう思うんだったら、それはエンゲージリングだよ。きっと」  もう少しで涙がこぼれてきそうだった。私は強気と臆病さが極端なかたちであらわれるから、よく混乱してしまうと陽二は言う。 「まるで二人の女とつき合ってるみたいだよ」 「でも、それが魅力的なんでしょう」 「よく言うよ」  私たちは腕をからませて、そのまま歩いて青山まで出た。村岡たちと夕食を一緒にとることになっている店はすぐそこだ。  代理店の男というのは、どういうわけかピアノ・バーが好きだ。カラオケ・パブと違って、英語の歌が歌えるからかもしれない。  大学時代、ラグビーをやっていたという村岡は、肩幅のあるからだに少し肉がつきすぎている。それを左右に揺らすように立った。 「由香里ちゃんのために──」  と前置きして「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド」を歌い始めた。 「やあねぇ、縁起の悪い歌、歌わないでよ」  私は大きな声でからかう。「由香里さん」とか「由香里ちゃん」と私をよぶ男の対処の仕方を私は十分心得ている。適当にあしらいながら、ジョークをはさみこんでいけばいいのだ。もっとも村岡たちは、陽二の同僚なのだから、それなりの礼はつくしている。さっきも矢野という陽二の先輩が、 「ね、ね、古谷の好きな体位ってなに」  とからかってきた時も、私は知らん顔をしていた。  陽二とつき合い始めた頃、私は自分の友人を次から次へと紹介してくれる彼に、よく尋ねたものだ。 「ねぇ、私とのことだいじょうぶなの」 「なにが」 「つまり、噂になったりして、あなたの会社での立場がまずくなったりしないのかしら」 「うちをどこだと思ってるんですか」  陽二は薄く笑った。 「天下に名だたる軟派《なんぱ》会社ですよ。銀行や役所なんかとは違うよ」  確かに彼の友人たちもよく心得たもので、私の前で決して陽二の妻の話などしない。それどころか、すばやく私たちを公然のカップルとして受け入れたのには驚いた。 「さっ、次は由香里ちゃん、いってみよう」  特にこの村岡などは、私と親しくすることが、いかにも嬉しくてたまらないようだ。 「私、ダメ。歌は本当にダメなの」  私は大きく手をふった。彼らと違って、英語で歌える歌など一曲もありはしない。そんなことを知られたくなかった。 「じゃ、古谷、なんか歌えよ。お前、お得意のあれでも歌ったら」  酔いがまわっているせいか、今夜の村岡はやけに陽二にからむ。 「ほら、深沢アヤコちゃんとよく歌ってたあれをさあ……」 「深沢アヤコって、あの歌手の……」 「そう、かつては古谷のカノジョ」 「ハハ、冗談じゃないよ。CMで使ってずっと担当してただけだよ」  あくまでも陽二は機嫌がいい。この時まで、私にも全く不快感はなかった。 「ね、ね、由香里ちゃん、古谷があんな可愛コちゃんと噂があったって聞くと、やっぱり嫉けるもんですかねぇ」  気がつくと目の前に、村岡の赤らんだ顔があった。この目だ。こんな男の目を何回自分は見てきたことだろう。  契約更新の時にやりあったコミック雑誌の編集長、そしてアニメプロダクションの上層部の男たち。 「ふん、おんなの成り上がりめ」  口では丁重なことを言いながら、目は軽く笑っている。 「なにをしてたか知ってるんだぜ。福島の高校を中退して、ウエイトレスにホテルのメイド、中華料理屋の出前持ち。たまたま劇画であてたからって、大きな顔をするんじゃないよ。金がなけりゃ、お前なんかタダの不器量な年増女じゃないか」  二十代の頃なら、平手うちをくわせるところだが、私は言葉の毒の方がずっと好きになっている。 「陽二って、ずいぶん趣味がよくなったものね。ああいう頭カラッポの芸能人から、格段の進歩をとげたと思うと、私、とっても嬉しいわ」  座がさっと白けたのがわかった。陽二が困ったようにグラスをもてあそんでいる。  近いうちに私と彼は結婚することになっているのだ。こういう戦う私を見てもらうのも、決して悪いことではないと私は思っている。 「センセイ、お電話です」  アシスタントの智子が大声で叫んだ。私は三年前に小さなプロダクションをつくり、マンションの近くに仕事場を持っている。資料を探してくれたり、ワープロをうってくれたりする女の子が三人いるのだが、智子もその一人だ。新人なので、今のところは電話番が主な仕事になっているが、あきれるほど気がきかない。 「誰、誰なのよ。名前を聞いてくれなきゃ困るじゃない」  仕事机の上で、デッサンめいたストーリーを考えていた私は、いらいらとした声を出した。 「あのう、集文館の方だそうです」  集文館というのは、一度連載を持ったことのある大手の出版社だ。仕事の依頼かと、私はペンを置いた。 「もし、もし、遠山由香里先生ですね」  聞きなれない男の声だったが、作者を先生と呼ぶこの業界のならわしをちゃんと知っていた。 「はい、わたくしが遠山ですけど……」 「実は、古谷陽二さんのことについてお聞きしたいんですけれど。私、雑誌『キャッチ』の記者をやっております飯田と申します」  あっと思わず叫びがもれるのを、私は受話器を握りしめてこらえた。「キャッチ」というのは、有名人のスキャンダルをあばきたてることで部数を伸ばしている雑誌だ。 「あの、どういうことをお聞きになりたいんでしょうか」 「遠山先生、三日前に渋谷の宝石店でお買物をなさいましたね。仲よさそうに古谷さんと指輪をお選びになっていたとか」 「そんなの、人違いです」 「そうですかあ。先生はなにしろ、この頃はテレビにもお出になっている有名人ですからね。実は読者の方から電話があって、すぐに渋谷に直行しました。楽しそうにお二人で腕を組んで、青山通りの方に向かわれましたね。失礼とは思いましたが、後ろ姿を撮影させていただきました」  カメラに撮られた憶えなど、私には全くない。 「それでですね。お二人の今後のことなどをいろいろお話ししていただけたらと思いましてね」 「話すことなんかなにもありませんよ」  私は怒鳴った。 「じゃ、当方でまとめさせていただいてもよろしゅうございますか」 「冗談じゃないわよッ。私がそんなことをさせないわ」  その後、男とのやりとりは結構長く続いたのだが、どんなことを喋ったか私ははっきりと憶えていない。最後の方になると、男の口調はかなり荒っぽくなり、私はたぶん、 「あんたみたいなヤクザに負けてたまるもんですか」  と言ったような気がする。  私は受話器を置いたとたん、声をはりあげた。 「ちょっと、名刺をすぐに探してちょうだい。集文館の出版部長か誰かのがあったはずだわ。今すぐ」  そう命じながら私は部屋をとび出す。仕事場に使っているマンションのロビーには、ピンク電話がいくつかあって、私は女の子たちに聞かれたくない時は、ここからかけるようにしているのだ。  今日は土曜日で、陽二は実家にいるはずだった。別居してから、彼は週末は大崎にある両親の家に帰る習慣だ。それがこの頃は、私のマンションに泊ることの方が多い。それを、向こうの家族も知っているらしい。だから実家にはいっそうかけづらくなっている。 「どうしよう、どうしよう」  十円玉をリズムをつけてさし込みながら、私は自分が少しうきうきしていることに気づいていた。 「もし、もし、古谷でございますが」  母親とは違う女の声が出た。同居している陽二の兄嫁だ。陽二がこっそり教えてくれたところによると、彼女は「ミミの冒険」の大ファンらしい。いつも取り次ぎや伝言を頼むだけで、余計な話などしたことがないが、声に暖かみがあふれている。 「いまサンルームの方に行ったみたいですけれど……。ちょっとお待ちくださいましね」  私は陽二の実家に行ったことは一度もないが、相当の大きさなのだろう。兄一家と、彼の両親が一緒に住める上に、サンルームとかいうものもあるようだ。  陽二を待っている間、恥ずかしいほど私はたくさんの想像をした。 「もうこうなったら覚悟を決めようよ。正式に婚約しよう」  と彼は言い、私は頷《うなず》く。そしてサンルームのある家へ、私はフィアンセとして招かれていくのだ……。  いや、陽二はそれほど芝居じみた男ではない。うろたえて情けない声を出すかもしれない。「どうしようか」とおろおろするかもしれない。  しかし、やがて聞こえてきた陽二の声は、そのどちらでもなかった。冷静で、そして、怒りを含んでいた。 「冗談じゃない」  彼は言った。 「『キャッチ』なんて、とんでもないよ。あんな雑誌に名前が出るのは耐えられないよ」  だけどあなたにはそれなりの覚悟があったんでしょ。──そんな言葉を私は必死で呑み込んだ。事態がかなり深刻な方向に行こうとしているのを、おぼろげながら感じとったからだ。 「君はフリーランスだからいい。僕は会社員なんだから困る。こういうことは本当に困るんだよ」  私はそれまで、今度の事件は私たち二人の上に起こった災難だと思っていた。しかし、その重さはどうやら陽二の方にどっさりと来ているらしい。 「仕方ないわ。確かに彼はエリートサラリーマンなんだもの」  そう思ったとたん、私はできる限りのことをして、彼を守ろうと決心した。もし彼が目の前にいたら、私は男のように胸を叩《たた》いたに違いない。 「まかしといて。なんとかするわ。私、集文館のおエラ方に多少知り合いがいるから」 「頼むよ。全くえらいことになったよ」  最後の最後まで、陽二は不機嫌だった。  事務所にもどると、机の上に名刺が置いてあった。智子がファイルから探しあてたものだ。 「第二出版部長、高田義太郎って方でいいんですね」 「そう、そう」  高田は外出していて、夕方まで私は待たなければならなかった。部下が気をきかしてくれたらしく、向こうから電話がかかってきた。 「やあ、お久しぶり。あなたの最近の売れっこぶりには、つくづく感服してましたよ」 「ありがとうございます」 「今度はうちにも書いてくださいよ。近いうちに飯でも食いましょう」  ひと息に世辞を言った後、彼は思い出したように、ところでどんな御用ですかと尋ねた。 「実はご相談したいことがあるんですけれど」 「はい、私にできることなら、なんなりとおっしゃってください」 「あの、よろしかったら今からそちらに伺ってもよろしいでしょうか」 「はい……」  相手がけげんそうな声を出したので、私はつい正直なことを言わなくてはならなかった。 「あのう『キャッチ』のことなんですが……」 「ははーん」  これで彼はすべて理解したらしい。 「わかりました。それではお待ちしています。受付けはもう閉まっていると思いますが、横の通用門の方から入ってください。応接間を用意しときましょう」  真先に寄ってきたのは、チーフ・アシスタントの貴和子だ。 「すごおい。センセイたら『キャッチ』に出るんですかあ。これで本当の有名人ですね」 「馬鹿なこと言わないでよ」  私は怒鳴ったつもりだが、そうは聞こえなかったらしい。他の二人も机のまわりに寄ってきた。 「ねぇ、ねぇ、朝帰りしてるとこを撮られちゃったんですか。まさか男の人に、へんな写真をバラまかれたりしたんじゃないでしょうね」 「あんたたち、くだらないことを言ってるんじゃないの」  私は口紅を直しながら、今度は本当に大きな声を出した。  一時間後、私は集文館の応接室にいた。高田の他に、私が単行本を出した時の担当者、今泉も同席している。 「いま、彼が『キャッチ』編集長と、直接かけあってきたんですがねぇ」  高田は銀色の髪に、ほうっと手をやった。 「向こうは決して悪いようにはしないと言ってるんですがね」 「男性と歩いているところをパチリと撮って、それで悪いことをしてないとおっしゃるの」 「まあ、まあ」  高田はおだやかに手で制した。 「タイトルを聞いたらね、『才女の恋』っていうのにしたいそうですよ。遠山さんはうちにとって大切な方だ。向こうもそういうことがわかっているから、あなたをそこらへんのタレントとは一緒にしないと言ってる」 「そんなに私が大切なんでしたら──」  こういう時は決して下手に出てはいけない。相手の言葉尻をとらえて、そこをついていくのだ。 「記事をとりやめにしていただくわけにはいかないのかしら」 「それは、こちらも頑張ったんですがねぇ……」  今泉が口をはさむ。 「もう印刷所の方にまわってしまって、どうしようもないって言ってるんですよ」 「今泉さん、私も一応〆切りに追われてるプロですからね。そんな言いわけは通用しませんよ。金曜発売日の週刊誌が、そんなに早く校了のはずがないでしょう」 「ですが、担当の者もそう失礼なことはしないと言っているんですがねぇ」 「『キャッチ』の人間が言っていることがあてになるもんですか。私、なんだったら、おたくの版権を解消してもいいんですよ。『乙女座の少女たち』は、確か六版になってたはずですよねぇ」 「遠山さん」  高田が突然口を開いた。 「あなたもこれだけマスコミで人目にさらされてるわけですし、ある程度のことは覚悟しなくてはならない時が来てるんじゃないでしょうか。若い女の子たちの夢を育ててきたあなただ。ここはきっぱりとしたところをお見せになった方がいいと思います。じたばたしたところを見せると、ファンはがっかりしますよ」  おだやかな口調だったが、有無を言わせないものがあった。  私は結局、あらかじめゲラ刷りを見せてもらうという約束をとりつけただけで帰らなければならなかった。 「遠山由香里女史の冒険」というタイトルは、あきらかに「ミミの冒険」にひっかけたものだ。  それにしても、これがどうして配慮をした記事なのだろうか。確かにそうひどい悪口は書いてないが、全体的に皮肉がたっぷりとまぶせられてあった。 「夕方の青山通りをいく一組のカップル。多少いちゃいちゃとしているものの、別段変わったところはないと思いきや、女性の方の派手な眼鏡に見おぼえが。この方こそ誰あろう、今年の少女漫画最大のヒットといわれる『ミミの冒険』の原作者、遠山由香里センセイだ。この名前に憶えがなくても、毎週金曜日のお昼、身の上相談をしてくれる気の強いおばさん(失礼)といえば、あああの人と思いうかべる方も多いかもしれない。『ミミの』が超ベストセラーになったおかげで、いちやく今年の長者番付にもおどり出たセンセイ、流行の先端を切ってなんと不倫の恋をしていらっしゃるらしい」  このあとえんえんと、下品な文章が続いている。  写真の出来は、思っていたよりもずっとよくて、陽二に寄りそって歩く私は、なかなかの美人に見えるではないか。私は雑誌をこっそりと三番目の引き出しに入れた。ここは永久保存の資料をしまっておく場所だ。 「センセーイまた週刊誌の人ですよ。古谷さんとのことでお話をうかがいたいって……」  智子が不遠慮な大声をあげる。 「そんなもの、いちいち取りつぐ人がいますか。遠山は留守だって言って、ガチャンと切りなさい」  それなのにしばらくすると、また智子の「センセーイ」だ。 「何度もうるさいわねぇ。いないって言いなさいよ」 「CCB放送の金井さんからですよ」 「あ、じゃ出るわ」  金井というのは、いま私が週に一回出ている番組のプロデューサーだ。なんでも局長への最短コースを走っていると噂されている。 「いろいろ大変だろう」  ふつうに喋っても相当の大声になる男だ。 「そんなことないですよ」 「スポーツ紙にもでっかく出てたもんなあ。�メルヘンの女王、不倫の恋に走る�ってな」 「冗談じゃないわ。何が不倫よ。あっちは離婚寸前の別居中の男なのよ」 「そこで相談なんだけど、うちの朝のワイドショーの枠でさあ、さわやか交際宣言っていうやつをやってみないか」 「アイドルタレントじゃあるまいし、三十歳すぎの男と女がそんなことをやって、いったいどんな得があるっていうの」 「それが大ありなんだな。一応あれをやっとくと、免罪符みたいなものがもらえる」 「そうねぇ。私も女の子のファンの手前、ちゃんとケリをつけなきゃいけないかもしれない……」 「彼氏の方は何て言ってる」 「もう大変なんですって。広報部の電話が鳴りっぱなしになったって文句を言ってきたわ」 「うちで宣言しとくと、そういうこともなくなるよ。もうじき彼は離婚します。私たちこんなに愛し合ってますって言えば、世間のやつらは納得するからな。彼のためにも、ぜひやるべきだよ」 「そうかしら」 「彼氏も困ってるんじゃない?」 「このことについてはちゃんと話してないの、なんだか電話を会社にしづらいし……」 「じゃ由香里ちゃんが腕をふるって彼氏を説得することだね。一回きちんとすればすむことだから」  電話を切ったとたん、私は奇妙な明るさが押しよせてくるのを感じた。  そうだ、いいチャンスなのかもしれない。陽二は私のことを本当に愛してくれているのだが、数々のひけめがある。自分には別れていない妻がいること、ふつうのサラリーマンであることがどうやら彼を躊躇《ちゆうちよ》させているらしい。しかし、ことがおおやけになれば、彼も覚悟をきめ、えいっと飛ぶことができるに違いない。彼のこの二、三日の不機嫌は、これができないことのいらつきなのだ。  陽二は深夜になってからやっとつかまった。残業をしていたんだと、怒ったように言う。 「どうして連絡してくれないの。いま、私たちにとって大切な時じゃないの」 「君にとっても大切だろうけど、僕にとっても大切な時なんだよ。仕事をしてるだろ、ふっと目の前を見ると知り合いのスポーツ紙の記者なんかが机の前にすっくと立ってるんだ。わかるかい、目の前にだよ。ふだんはイベントや新製品がらみで無理を言ってる連中ばっかりだ。そうそう手荒なこともできない。だから本当に困ってるんだ」 「あのね、私、テレビのプロデューサーから言われてるんだけど、朝のワイドショーに出てくれって。二人でさわやか交際宣言っていうのはどうだろうって……」 「バカバカしい」  陽二はげんなりしたように言った。 「君も僕も芸能人じゃあるまいし……。もっとも君はテレビに出ているから芸能人かもしれない。今回のことでよくわかったよ」 「そんな言い方しないでちょうだい。ね、会ってゆっくり話し合いましょうよ」 「当分は会えないだろうな」 「それ、どういうこと」 「考えたってわかるだろう。連中は証拠を握りたがっているんだよ。君と僕がデイトしたりしたら、彼らの思う壺《つぼ》じゃないか」 「じゃあ、こっちに来て」 「君は何もわかっていないな。レストランから出てくるところを撮られるよりも、君のマンションから出てくるところを撮られる方が、ずっと大ごとになるじゃないか」 「ねぇ、聞きたいの」  私は息を整えた。 「あなたは記者の人たちに何て言っているの」 「僕は何も言える立場じゃない、上司から固く口止めされている。絶対に直接話をしないでくれってね」 「じゃ、私はどうすればいいの」 「もちろん、君も黙っててくれよ」 「私はそんなわけにいかないわ。あなたみたいに受付けや広報部があるわけじゃなし。来る取材に一人で立ち向かっていかなきゃいけないんだもの。それに男のあなたがちゃんと言ってくれないと、私のイメージってものもあるわ」 「というと」 「私、人から男にフラれたなんて思われたくないの」 「だから君も黙っていればいいじゃないか」  どうしたら陽二にうまく説明できるのかと私は唇を噛んだ。こういう場合、無名の男と、有名な女を比べたら女の方がずっと不利なのだ。しかも男の方は二枚目で妻子持ちと来ている。同い齢の私は独身だ。マスコミの男たちがどんな図式をつくり、どんな女に私を仕立て上げたいのかはっきりとわかる。 「ハンサムなエリートを追っかける三十女」  私についているさまざまな魅力的なものをすっぱり切り捨てて、ただの年増女にしようとするのは目に見えている。 「とにかくちょっとでも会えないかしら」 「無理だ。今度の騒ぎで仕事が遅れちゃって僕もくたくたなんだ。もう少し頭の中を整理する時間をくれよ」  その時、私はもう陽二はあてにならないのだと心に決めた。お坊ちゃん育ちの彼にとって、いちばん苦手な事件が起こったに違いないが、こういうやり方はないだろう。私はもはや、たった一人で私を守るより他はないと思った。陽二は沈黙を守るという。それならばそれでいい。私の方で、私たち二人の物語を美しく語ればいいのだ。その時、ほんの少しだが私は陽二を憎んでいた。  考えてみれば仕事がらストーリーをつくるのはお手のものだ。その結末はこうしよう。  いろいろなことがあったが男は女の魅力にすっかり負けた。二人はもうじき結ばれるだろうと。  私は陽二の電話を切った後、知り合いの女性週刊誌の編集長に電話をかけた。ここに連載をしていることもあり、彼の自宅の電話番号は、手帳に控えてあった。 「何でも話すから、すぐに来てくださらない。私、エンゲージリングをもうもらってるんです。私たち結婚するかもしれないわ」 「遠山由香里さん結婚!」  という文字を私は満足して眺めた。「週刊トップレディ」の記事は、かなりセンセーショナルに書かれているが、おおむね私に好意的なものであった。 「彼は頼れるとっても素敵な人。私のことを世界中でいちばん頭がよくてかわいい女だと言ってくれています」  このことは嘘ではなかったが、自分でこんなことを言わなければいけないのが悲しかった。私の写真も大きく出ていたが、左手のくすり指をさりげなく見せるのも私は忘れてはいない。 「困ったことをしてくれたなあ」  あいかわらず電話でしか会えない陽二は、大きなため息をつく。 「今までは、つき合ってるかつき合っていないかが問題だったのに、今度は結婚するか、しないかになってきた。君がことを重大にしてしまったんだよ」 「あら、私の責任じゃないわ」  言いわけしながら、こっそり私は心の中で舌を出した。 「あなたもどんなにマスコミが嘘つきかってことはよく知っているでしょう。一を十にも百にも書くんですものね」 「わかったよ。だからおとなしくしていてくれよ」 「ねぇ、私のこと、愛しているんでしょう」  私がこう問うと、陽二はいつもあきらめたように言ったものだ。 「ああ、もうつかまっちゃったからね」  しかし、いまは違う。 「多分そうだろうと思うけれど、そう口に出すのが怖くなったよ」  気にすることはないのだと、私は自分に言いきかせた。いっときは私のことを恨んだりうとましく思ったりしても、二人はさらに深い絆《きずな》で結ばれることになる、これは荒療治《あらりようじ》なのだと何度もつぶやいた。  女性週刊誌が出てから四日めのことだ。夕刊を読んでいた私の顔色が変わった。「週刊ナイス」の広告に、「遠山由香里女史、三十四歳のあせり」という文字を見つけたのだ。急いで智子を本屋に走らせた。震える手でページをめくる。どこで見つけてきたのか、腕組みをして立っている私の写真があった。 「遠山由香里女史といえば、『ミミの冒険』があたって、年収ン千万円といううらやましいご身分だが、やはり齢からくる焦りはあったようで、最近はハンサムなエリートサラリーマンを追っかけまわしているとか」 「追っかけまわしている」という言葉は、私のいちばん怖れていたものだった。ごていねいに、ひどくうつりの悪い私の写真を選んでいる。それにしても、どうしてこんな悪質な記事が出来上がってしまったのだろう。私は「週刊ナイス」に電話をかけようと思ったのだが、この男性向けの出版社は私とは、何のつながりもない。  私はその代わり、私が連載を持っている例の女性週刊誌にまた電話をかけた。 「遠山由香里さん、愛の真相第二弾!」  とタイトルがつけられた記事の中で、私は腹立ちのあまり、つい喋りすぎてしまったようだ。 「私たちはお互いに夢中だったんです。いつだって彼は私のことを二回愛してくれました」  この二回という数字は、すぐに下品な漫画のネタにされたほどで、さすがに私は後悔した。恥ずかしさのあまり、私はしばらく陽二に電話をかけられなかったほどだ。  その間にも日本にこれほど雑誌やスポーツ新聞があったのかと驚くほど、いろいろなところから電話がかかってきた。私の出演している昼の番組には、 「人の亭主を寝取ったくせに、あれほどシャアシャアとしているのは許せない」  といういくつかの投書がきた。それがすべて一週間のうちに起こったのだから、私のめまぐるしさといったらなかった。信じられないほどのあわただしさの中、どの会社を信じ、どこを味方につけたらいいか、私は必死で見分けようとした。 「遠山さん、僕はずっとあなたの漫画のファンなんですよ。だから絶対に悪いようにしません」  その電話は最後の方にかかってきて、男の声はいちばんやさしかった。 「今のままじゃ、遠山さんが不利に書かれてしまいます。僕はちゃんと周辺から取材をするつもりですよ。ちょっとお目にかかれないでしょうか」  ある週刊誌の名刺を出した男はまだ若く、杉綾《すぎあや》のジャケットが身綺麗だった。 「証言で固めていけば、きっと正しい姿がうかびあがってきます」 「そうなの。マスコミの男たちに自分の思い入れで勝手なことを書かれちゃたまらないわ」 「遠山さん、あなたと古谷さんの交際をちゃんと見ている人、仲間になっている人は誰なんですか」 「まず同僚の村岡さん、矢野さんっていうのもいるわ」 「あちらのご両親とは」 「一度もお会いしていません。電話で声を聞くだけよ」  まるで調書を取りに来た刑事と被害者との会話のようだった。いや、弁護士といった方がいいかもしれない。けれどこの国井という男が、すべてのことをもうじきあきらかにしてくれるはずだった。そうなのだ。私は間違ったことをしていたようだ。男に愛されているなどという事実は、本人が言ってはいけない。他人に言わせるように仕向けるのだ。その方がずっと信用度が増す。そんな簡単なことを、怒りと焦りとで私は忘れてしまっていたようだ。  その夜、久しぶりに私は陽二のマンションに電話をかけた。この五日間、私が彼のことをいつのまにか敵方の人間のように見つめていたのは本当だった。いつも他の男たちに向かって身構えていた手を、なんと私は恋人にも向け始めていたのだ。  けれど陽二のマンションに、電話は空《むな》しく鳴り響くだけだ。私は舌うちをした。もしかしたら実家に帰ったのかもしれない。私は十数回、午前三時までかけてやっとあきらめた。 「おはようございます」  国井の電話で目がさめた時、もう時計は昼近くになっていた。それまで私はぐっすり睡《ねむ》っていたことになる。 「ちょっとまずいことになってるんですよ」 「まずいことって」 「村岡さんも、矢野さんも、誰もあなたに会ったことがないっていうんです」 「そんなはずはありませんよ。私たち、しょっちゅう飲んでいたもの。お店を調べてくれればわかります。赤坂の……」 「だけど向こうに知らないって言われると、僕たちとしてもそれしか書けないんです」  私と国井は長いことやりあった。 「あの人たち、会社ぐるみで嘘をついてるのよ。男って卑怯《ひきよう》ね。それまでは女とよろしくやっていても、なにかコトが起こると、組織ごと当人をかばおうとする」 「僕もなんとか、あなたに有利なコメントを拾おうとしたんだけれど、誰も言ってくれなかったんです」 「いいわ。じゃこうしましょう。記事は私が書くわ。あの人たちの名前を使って、本当のことを書くのよ」 「そういうわけにはいかないでしょう。言わないことは書けませんよ」  私はかんしゃくを起こした。 「本当のことを言うのが、何がいけないのよ。私を笑い者にする気なの。最初の約束と違うじゃないの」 「そういう言い方はないでしょう。僕はあくまでも正しく書こうとした。ちゃんと取材もした、その結果がそうなんですからね」 「ひどいわ。あんまりだわ」  私はありったけの恨みを込めて電話を切った。国井に対してだけではない。村岡、矢野、そして陽二を含めて、すべての男に向けて、その言葉をぶつけた。  あのままでいさせてくれたら、私だっていつまでも可愛い女でいられたのにという無念さが胸をつく。  四日後に載った二人の談話はこんなふうになっていた。 「古谷はモテる奴だから、昔から女に追っかけまわされていましたね。今度もあの遠山女史が勝手なことを言いふらしているんじゃないですか」 「彼から遠山女史の話を聞いたことなんかないなあ。遠山女史ってたまにテレビで見るけど、見るからに高慢ちきで嫌な女ですね。ああいう女に惚れられるのも災難ってもんでしょうね」  意外なことに本名はなく、A氏とB氏となっていた。それよりも私を驚かせたのは、陽二の母親の発言だ。 「息子が再婚するなんてとんでもない。嫁とは事情があって別れて住んでたんですけど、今度孫も帰ってくるんで、そりゃ楽しみにしてるんです。息子もちゃんとしてれば、今度のような誤解はなかったんですけどねぇ」  あいかわらず、陽二はひと言も発言していない。  週刊誌を手にしたまま、やられた、と私は叫んだ。村岡も矢野も私にそう好意を持っていないことは薄々感じていた。しかし、これほど憎んでいたとは知らなかった。  以前読んだ有名な推理小説「幻の女」というのを思い出した。その夜、確かに一緒にすごした女がいるのに、そんな女は見たことがないとすべての人が証言するあのミステリーだ。  陽二は私にとって幻の女のようなものだった。ある日突然、私の人生からも記憶からも、消されてしまおうとしているのだ。  あまりのことの見事さに、私はもう少しで笑い出しそうになった。もしかすると、本当に陽二という男に、私は会ったことがないのかもしれない。だからもちろん、愛したこともないのだ。そう思うことが、今の私にできる唯一の復讐《ふくしゆう》だった。  東京の女性《ひと》  健と真由美が一緒に暮らし始めたのは、婚約をしてすぐのことだ。  挙式まで間があっても、家賃を節約するため、すぐに同棲《どうせい》するカップルはまわりにいくらでもいる。 「マンションの出ものがあったのよ。家賃もあの広さにしちゃびっくりするぐらい安いの。それでね、健ちゃんと話したんだけど、私たちそこに引っ越すことにしたから」  できるだけさりげなく話したが、案の定、母の俊子はとまどいを隠せない。 「そうだねぇ……。そういうことはお父さんと相談しなきゃ、わかんないわねぇ……」 「なに言ってんのよ。来年の四月には結婚するんじゃない。それにさ、一緒に暮らしてた方がいろいろ打ち合わせするのにも都合がいいわよ」 「私はそういうけじめのないことは嫌いだけどねぇ……」 「ちゃんとけじめつけたじゃない。私たち指輪も交換してるのよ。同棲するんじゃないわ。合理的にものごとを解決しようとしてるだけよ。こんなこともう東京じゃ常識よ」 「そうかもしれないけど……」  俊子は口をもごもごさせた。以前だったらもう少し強いことを言ったかもしれないが、健との結婚が決まってから、母はあきらかに真由美に遠慮している。それは健の実家が裕福で、彼自身も一流大学を出ている青年だという事実が、俊子をうろたえさせているらしい。 「不釣合いの縁はなんとかっていうけど、まあいまの若い人たちにはわからないかもしれないねぇ」  静岡の実家に初めて健をつれて帰った後で、俊子はため息まじりに何度か言ったものだ。 「不釣合いだって……」  それは真由美の嫌いな言葉だった。この言葉からさまざまなものが浮かんでくる。  三年前、スナックをやっている長兄が家を建て直した時、真由美はどれほど安心したことだろう。ワサビ農家のかたわら、雑貨店を営んでいた頃、家は古いわらぶき屋根だったのだ。  けれど今はそれは跡かたもない。兄嫁の好みで広くつくったというリビングルームにはたっぷり陽が入り、安物ながらも応接セットが置かれていた。この十年の間に、真由美が顔をそむけていたものは次第に消えつつあるのだ。  そうして自分自身も、決して健にふさわしくないことはないと思う。子どもの頃から可愛い、綺麗と言われ育ってきて、実際に健以外にも何人か求愛者がいた。レイアウターの仕事も順調で、そこらのOLの二倍の金はとっているはずだ。  真由美は母が考えているよりもずっと巧みに、都会の中で呼吸していた。デザイナーズブランドのしゃれた服を着こなし、酒の楽しみも知っている女に、まぶしげに近寄ってきたのは健の方だった。  彼は真由美が仕事をもらう出版社の編集者をしている。試写会や食事にしつこく誘われ、何度か一緒に出かけているうちに心をうちあけられた。 「真由美ちゃん、僕とつきあってくれないかなあ。うちの会社の奴らがいろいろ張り合ってるのは知ってるけど、いちばん僕がまじめだよ。真剣なんだ」  もちろん、ここまでこと細かに親に話したことはないが、健とのことは決して不釣合いでも何でもないと真由美は思っている。田舎での生活を切り捨てて来た東京の若い男女は、この場所で平等にわたりあえるはずだった。 「とにかく私たちにまかせてちょうだい。こっちにはこっちのやり方があるのよ」  真由美はやや乱暴に言って電話を切った。  結婚が決まったとたん、急に嫉妬深くなった自分に真由美は驚いている。今まで気にもとめていなかった健のまわりの女たちが気になって仕方ない。 「今さら何をするって言うんだよ」  と彼は笑うのだが、正直なことを言えばひとつ屋根の下に住むことを急がせたのは真由美の方だった。  三人兄弟の末っ子の健は、就職と同時に家を離れている。今住んでいるところは渋谷のマンションだ。マンションといっても十畳ほどのワンルームで、息がつまりそうなほど天井が低い。おまけに壁が薄く、隣りの部屋の住人の咳《せき》まではっきりと聞こえた。  時々泊まる時も真由美は気が気ではない。 「私、嫌だわ。この部屋」  小さくつぶやく。 「今度、真由美のとこへ行くよ」 「祖師谷大蔵じゃ遠いって、いつもぶつぶつ言ってるじゃない」 「だからさ、早く結婚してくれればよかったのにさ、さんざん手こずらせてさあ……」 「そんなこと言う前に早くお部屋を見つけといてよ。あなた一人が先に住んでくれればいいわ。そうでなけりゃ……」  後の言葉を真由美は呑《の》み込んだ。この後は女の方から言いたくなかった。そして健は思っていた通りの反応を示したのだ。 「それだったら一緒に住もうぜ。真由美とずっといたいよ。僕の方から両親に話す」  そう言いながら、健はオーディオのボリュームを上げた。それはベッドに入ろうという合図だった。真由美は自分でセーターを脱ぐ。健の肌は男にしてはなめらかで肩も丸い。その寸前の、怒ったようになる顔が真由美は好きだった。 「もう待ちきれないよ。真由美と毎日したいよ」  言葉が多かったのがいつもより違っていた。望んでいたものが、約束の日よりも早く手に入るという思いが健をたかぶらせているらしい。  健の探してきた出ものというのは、高田馬場の二LDKのマンションだった。十二万円という家賃も、間取りと駅からの近さを考えると驚くほど安い。 「知り合いの不動産屋に頼んどいたんだ。こんなにいいものはめったにないってさ」  電車の中で健は得意そうに何度もつぶやく。 「高田馬場なら会社にも近いしさ。君だって仕事に行くの、いろいろと便利だろ」 「私はさ、健ちゃんと違って便利さよりも環境を求めるタイプなのよね」  それは本当だった。渋谷のビル群の中の、ワンルームマンションなど真由美は息が詰まりそうになる。だからタクシー代のかかりに目をつぶっても郊外に住んでいたのだ。 「私、朝起きて窓を開けると、緑がとび込んでくるようなところがいいのよ」 「高田馬場だって悪くないぜ。とにかくこんなに安いとこめったにないしさあ……。僕、酒飲んだ後、すぐに帰れるところじゃなきゃダメなんだ」 「健っていつも自分の都合ばっかり考えるのね」  真由美が拗《す》ねたふりをすると、健は大あわてになる。それは知りあった頃から変わらない。 「そう言うなってば、ほら、このあいだも話したじゃないか。親父やおふくろも絶対に考えてくれるさ。現に兄貴たちにはマンションを買う時ちゃんとやってやってるんだもの。こっちが頭金を貯めるまでの辛抱《しんぼう》だよ。そんなに長く住むわけじゃないんだからさあ」 「あら、引越しなんてそんなに簡単にいくものじゃないわ」  真由美はそっけなく言った。 「あなたは東京生まれだからどこでもいいと思ってるらしいけど、私はそうはいかないわ。これだっていうイメージの町に住みたいのよ」 「真由美の言うイメージって、今ひとつつかめないなあ……」 「歩いてて、ここだって思ったらきっと言うわ」  不動産屋が案内してくれたマンションは神田川沿いにあった。川の向こう側には木造のアパートが洗濯物をへばりつかせて並んでいる。マンション自体はそう古いものではなかったが、しっくいがところどころ剥《は》がれた入り口の壁の前には、なにかの目印のように青いポリバケツが積まれていた。 「私、嫌だわ。あんなとこに住もうなんて思わないわ」  疲れたのと腹立たしさで、真由美はマンションの前からタクシーを拾った。いくら無理を聞いてもらったからといって、健が不動産屋にぺこぺこ頭を下げるのも気に入らなかった。 「じゃ、どうしろって言うんだよ。真由美は青山や代官山に住みたいんだろうけど、僕たちには無理だよ」 「あら、探せばいくらでも安いところはあるわ。現に私の友だちは八万円で西麻布のまあまあのマンション見つけたもの」 「だけどさ、狭いとこだろう。十二万円であの広さは奇跡的だって不動産屋も何度も言ってたじゃないか」 「バカバカしい。不動産屋っていうのはそういうことを言うのが商売なのよ。あんまりそういうことは知らないだろうけど、私は家探しを何回もやったからよくわかっているつもり。ねぇ……」  真由美は健の方に向き直った。 「私も働いてるんだし、もうちょっと予算を増やしてみない。無理すれば二十万ぐらい出せると思うのよ」 「バカバカしい」  今度は健が言った。 「僕、嫌だな。家賃に二十万円も払うなんて考えられないよ。たとえ払えるとしても、絶対に払いたくないよ。それに編集部の連中に、女房の稼ぎでいいマンションに住んでるなんて言われたくないんだ」 「そんなこと、誰も思いやしないわよ。あなたも私も感覚的な仕事をしてるんだから、うんといい環境に住まなきゃ。そのための二十万円なんて、私はそう高くはないと思うわ」 「二十万なんて、両親が聞いたらとび上がっちゃうよ」 「ほら、あなたは東京育ちで、近くに広い実家があるから、家賃に対してへんな考え方を持つのよ。タダでふんだくられるようなね。でも、それは違うの。二十万っていうのは二十万っていう価値を持つのよ」 「お客さん、そりゃないよ」  突然運転手が声を出したので二人はびっくりした。  丸顔の中年の男だった。さっきから二人のやりとりをずっと聞いていたらしい。 「俺なんか、母ちゃんと子ども二人、いくらのとこに住んでると思ってんの。二十万が安いなんて言ったら、もうみんな怒っちゃいますよ」  明るく言ってのけたが、ハンドルさばきに怒りがにじんでいた。真由美は思わず健の方を見たが、彼は視線を外の景色の方につつうと向けた。 「私のことをあれほど愛してるって言ったくせに」  もし二人きりだったら、きっと真由美は叫んでいたに違いない。 「どうしても結婚してくれって言ったのはあなたの方よ。住むとこぐらい、好きにしてくれたっていいじゃないの」  運転手がいきなりクラクションを鳴らした。乳母《うば》車を押した女が、車の陰から飛び出してきたのだ。女の左側には、三つぐらいの男の子の姿も見える。女はクラクションで急《せ》かされるとかえって落ち着いたようで、堂々と道を横切っていく。 「チェッ、バカ女め」  運転手は吐きすてるように言った。 「この辺はカッペが多くて嫌になっちゃうよ」  そうなのだ。自分はあんなふうな女になりたくないのだと真由美は思った。選ばれた人間の一人として、東京の中の選ばれた土地で暮らしたいのだ。  故郷のわらぶき屋根を思い出させるものは、公園や郊外の緑ではなく、真由美にとっては寒々《さむざむ》とした下町の風景だった。  新居の話が、なんと健の父親から持ち込まれた。 「親父の昔のお得意さんでさ、四年前に亡くなった人がいるんだ。その人の家の二階が空いてるんだってさ」  健の父親は青山で古美術商をしている。古美術商といっても、ビルを立てて上を事務所に貸しているので半分は隠居仕事のようなものだ。 「二階だなんて嫌よ。今さら下宿暮らしなんかしたくないわ」 「それがさあ……」  健は高田馬場に下見に言った折に、軽い喧嘩《けんか》をしたことなど忘れたように身を乗り出してきた。 「息子夫婦が住めるように、台所もトイレもちゃんとつくってあるんだって。だけど息子が去年からしばらくアメリカに行っちゃってるから、誰か信用おける人がいないかしらって言ってるんだ」 「ふうーん。じゃ、その息子夫婦が帰ってきたらすぐに部屋を明け渡さなきゃならないじゃない」 「でも息子たちは、まず五年は帰って来ないっていうことだよ。その分安くしてくれるらしい。その家、D町にあるんだよ」 「D町ですって……」  真由美は思わずコーヒー茶碗を置いた。D町というのは田園調布、成城と並んで昔からの高級住宅地として知られている。一度車で通ったことがあるが、整然とした並木道の両側に、豪壮な邸宅が続いていた。 「D町、私住みたい。私、ああいうところがいい」 「まあ、そう興奮するなってば」  気のせいか、健の唇の両端には皮肉な微笑が浮かんだ。 「その未亡人のおばさんはさ、へんな人を置きたくないんだって。時々は話し相手にもなってくれるような人がいいって、親父に言ったらしい」 「面接をしたいっていうことね。いいわ、まかせて」  真由美はおどけて、どんと胸をたたくふりをした。 「私、いいとこのおばさま方にどう接すればいいかちゃんと知ってるわ。オーケイ、オーケイ、まかせといて」  そう言いかけて、真由美は重大なことに気づいた。 「ねぇ、おたくのお父さま、私たちがすぐに一緒に暮らすことご存知なの」 「もちろん」 「困ったわあ……」  真由美は赤くなった。 「ねぇ、ふしだらなことしてなんて言ってなかった。私の印象悪くなっちゃったかな」 「僕がうまくやったさあ……」  健は紅茶をちゅっとすすった。彼はコーヒーは決して飲まない。 「僕はもうじき結婚するのに、別々に住んでるのは不経済きわまりないって一席ぶっちゃってさ。それで僕が真由美に無理やり頼んで、やっと承諾してもらったって言ったんだぜ」 「上出来、上出来」 「それにさ、親父もおふくろも、僕が出版社っていうやくざな会社に入ってから、すべてのことをあきらめてるんだって。だから今度のことも何も反対しなかったさ」  真由美はおし黙った。聞きようによっては、だから自分との結婚を許したのだというふうにもとれる。 「そのおばさんにも上手に言ってくれるってさ。急に式の日取りがのびて、若い二人が住むとこ無くて困ってるってね。ま、死んだダンナさんと、うちの親父は仲がよかったらしいからうまくいくさ。そう、心配することはないよ」  次の日曜日、真由美は朝から洋服ダンスを何度もひっくり返した。これほど迷ったのは、最初に健の家に招かれた時以来だ。  流行のグリーンのニットはしゃれているが、あまり年寄りには好感を持たれないかもしれない。フラノのスーツを手にとったが、これでは少しあらたまりすぎているような気がする。一時間近くも鏡の前でうろうろして、結局選んだのは、紺のタイトにジャカード織りのセーターという組み合わせだ。金のチェーンをいくつかつけたら華やかさも出て悪くない。 「やあ、どうしたんだよ。スカートをはくなんて珍しいじゃないか」  渋谷駅の喫茶店に現われた健はからかうように言う。そういう彼は、フード付きのジャンパーという気軽な服装だ。 「だって今日はお見合いみたいなものじゃない。私たちとそのおばさんとの」 「僕はさ、どうせのことだったら堅苦しいことはしたくなかったんだけどな。住むとこなんか、気軽に決めてさ。D町に住んでる人間なんて、きっと鼻もちならないと思うぜ。君の夢をこわすようで悪いけど、やめるんだったら今のうちだと思うけどなあ」 「まずは見てからにしましょうよ。ねっ」  日曜日ということもあって道路は空いていた。渋谷の駅前から十分もたたないというのに、あたりは急に木々が多くなる。イチョウの黄金色が目にしみるようだった。 「こういうとこって困るんだよなあ。目印になるものが何も無くってさあ」  車から降りた健がぼやくとおり、あたりは石塀が続いているだけだ。まるで時代劇に出てきそうな冠木《かぶき》門も見える。 「右側に教会の塔を見て、石井さんの表札のある家を右に曲がって……」  真由美を驚かせた冠木門のある家が、石井という家だった。 「そこから三つ目の家」  石井家の隣りはマサキの生け垣の塀だ。どちらかというと、小ぢんまりとした家が続く一画らしい。めざす内山政代の家もその中にあった。 「内山重慶」という、亡くなった夫の表札がかかげてある。  ブロックと石を組み合わせた塀はそう目をひくものでもなく、柿の木の向こうに見える二階家は平凡なモルタルづくりだ。それが真由美を少しがっかりさせ、同時に安心させた。  石井家のような邸宅だったら、住むのにやはりとまどってしまうに違いない。  健が表札の下のチャイムを押した。インターフォンの女の声が意外なほど若かった。 「はあーい、どなたですか……」 「池田と申しますが……」 「はあい、ちょっと待っててちょうだいね」  門扉《もんぴ》の透き間から玄関が見えた。黒く塗られた木のドアの脇には、古風なかたちの洋ランプがついている。 「あれ、似合わない。かえって安っぽく見えるわ」  そんなことを思うのは、自分が落ちついている証拠だと思ったとたん、扉が開いて一人の女が出てきた。マルチーズを抱いて、ニコニコ笑っている初老の女は、真由美が想像していたどのタイプにもあてはまらなかった。D町に住む老婦人という言葉から、真由美は鶴《つる》のように痩せた上品な銀髪の女か、そうでなかったらダイヤをちらつかせる太った女を想像していた。それなのに目の前にいるのは、つやつやとした丸顔の女だった。シワが深く刻まれ、髪もほとんど白いものでおおわれているにもかかわらず、若い印象をあたえるのは、その目のせいだ。それだけが娘時代そのままのように、たるむこともくぼむこともなくくっきりとした二重だ。その目が好奇心でキラキラしている。 「隆希堂さんの息子さんでしょ。まあ、お父さんにそっくり。さ、お入りになってちょうだい」  ひどいしゃがれ声だった。それに早口ときている。犬を抱いたまま促す様子にも見憶えがあった。それは真由美が毎日のように会っている街中の女たちだ。マンションの管理人の妻、煙草屋の老婆、割烹《かつぽう》屋でおでんを煮る女。  真由美はD町に住む政代が、庶民の女たちと全く変わらないことに驚いていた。 「寒かったでしょう。まあ、おコタにでも入ってちょうだい」  通されたところは茶の間だった。テレビの上に短歌の同人誌が乱雑に積まれている。  マルチーズのものらしいプラスチックのおもちゃがやたら目についた。 「応接間は寒いのよ。ストーブが旧式のもんだから、あったまるのに時間がかかっちゃって……。こら、チロ、チロちゃん。おコタの上に乗るもんじゃありません……。あっそうそう、コーヒーがいい、日本茶がいい? 私のコーヒーはおいしいのよ。今日はお客さまが来たから、久しぶりに豆から碾《ひ》いてみるわねッ」  政代が台所に姿を消したとたん、健と真由美は顔を見合わせ、どちらからともなく笑いあった。政代のにぎやかな言動が何ともほほえましかったからだ。  チロとよばれるマルチーズは人なつっこい性格らしい。ちゃっかりと真由美の膝にのぼり顔を見上げている。 「まあ、チロったらすっかりなついちゃって、こんなこと珍しいのよ」  騒々しくもどってきた政代は、コーヒー茶碗の他に菓子鉢を手にしていた。中には塩せんべいとピーナッツが入っていた。どう見ても初対面の客に対する接し方ではない。けれどそれはあまりにもたやすく、真由美の緊張をといた。  二十分もしないうちに、真由美はチロを小脇にかかえ、塩せんべいを齧《かじ》っていた。 「私はごらんのとおり、あけっぴろげな性格でしょう」  政代は言った。 「だから近所の人たちが集まって、しょっちゅうお喋りをしたりしてるの。まあ一人暮らしにしちゃ、結構楽しくやっていると思いますよ。でも私はよく旅行に出かけるのよね。そんな時、家に誰か居てくれたらいいなって思うようになって、それで誰かに二階をお貸しすることになったの」 「ええ、親父が内山さんに偶然銀座でお会いした時、その話を聞いたって僕に言いましてね」 「そうなのよ」  政代は身をくねらせた。 「パパが生きてた時はねえ、隆希堂さんにはそりゃ仲よくしていただいてたんですものね。あの不精《ぶしよう》なパパが、ゴルフに凝り始めたのもおたくのお父さまがいつも誘ってくださったからよ」 「いや、父は内山さんにいろいろなものを教えていただいたといつも申していました」  こんな時の健は、真由美の知らない顔になる。 「パパは壺とか茶碗には目がなかったもの。ずい分前の話だけど、庭をつぶして茶室にしたいって言ったことがあるのよ。こんな狭い庭に茶室なんか建ててどうするのって、私が大反対してやっとやめさせたの。もし銀行なんかに入らなかったら、美術評論家になりたかったんですって。本当におかしな人だったわ」  こう言いながら政代は口に手をあてた。シワがいく筋にもついた手にふさわしくない、あでやかな笑いだった。  真由美は健の話を思い出した。今の一橋大学にあたる東京商科大を出た内山重慶は、都市銀行のかなりいい地位までいき、停年後再就職を目論んでいる最中にガンに倒れたという。 「パパのお部屋はそのままにしてあるの。本がまるで図書館みたいにあるのよ。あなた、本はお好き?」  不意に真由美に尋ねた。 「ええ、まあ……、よく読む方ですけど」 「じゃ今度お好きなものがあったら読んでちょうだい。パパも喜ぶと思うわ」 「ありがとうございます。ぜひそうさせてください」  軽く頭を下げた真由美に、けたたましく高い政代の声が聞こえた。 「あら、いけない。お二階を案内するのをすっかり忘れてたわ」  三人は同時に笑った。誰もがいちばん肝心なことを思い出さなかったからだ。 「階段がちょっと急なの。気をつけてくださいね」  台所をつっ切ると、裏口と直角の壁に、引き戸があった。開けるとそこは階段に通じるたたきになっていた。 「あなたたちが入ってくる時は、私に関係なく外からまっすぐ入って来れるのよ」  政代はたたきの前のドアをさした。それは裏口と並んでつくられているらしい。健と真由美がここの二階に住むとしたら、このドアが正式の入り口ということになる。 「この引き戸も嫌だったらずっと閉めておいてもいいわ。前は息子たちが住んでいたでしょう。ちょっと声をかけたり、用を頼んだりするのに便利だったけど、あなたたち二人がわずらわしくなると困るから、ずっと閉めっぱなしにしとくわ」  こう言って政代は、二重の大きな目をくるっと動かした。そして真由美はといえば、自然とこんな言葉が口に出た。 「そんなことありませんよ。私たちも今日みたいにちょくちょくお邪魔するかもしれませんから、この戸は便利ですわ」  二階は思っていたよりもずっと広かった。六畳に四畳半の部屋、そして十畳近くあるリビングルームは二方が窓で、ベランダごしにあたりの色づいた木々が見えた。 「まあ、素敵なお部屋」  真由美は歓声を上げた。 「息子たちが壁紙からタイルの色まで全部決めたの。だから趣味がいいはずよ」  政代は自分の息子のことをこんなふうに言った。 「本当。キッチンセットもショルテル。西ドイツ製だわ。とっても便利に出来てるのね」  あちこちに触れてはしゃぐ真由美をつつき、健は姿勢を正して政代の前にすすんだ。 「あの、僕たちでよろしいでしょうか。僕たちは願ってもない話で、ぜひお借りしたいと思ってるんですけど」 「もちろんよ」  政代はにっこりと笑う。もしかしたら若い時にエクボがあったのかもしれない。そんな笑い顔だった。 「それで家賃のことですけど、父からは直接にお話をするように言われましたけれど」 「八万円いただけばいいわ」  安くしてくれて十万とふんでいた真由美はもちろん、健さえもあっと声をたてた。 「それじゃあんまり……」 「いいのよ。私も商売でお貸しするわけじゃないんだから。そのかわり敷金は二カ月分いただくわ。礼金はいらないけれど、敷金はやっぱりもらっておいた方がいいと思うの」 「もちろんですとも」  健は頷《うなず》き、そして三人はこの上ないほど幸福な顔つきになった。 「早く越してらっしゃいよ。私たち、とっても仲よくやっていけそう。まあ、来月からですって、待ち切れないわ。一日も早く越してきていただきたいわ」  そんな政代の言葉を、どこかで聞いたことがあると真由美は思った。  帰り道はタクシーをやめて駅まで歩いた。重厚な邸宅に混じって、モダンな家もいくつか見える。山荘風の白い家の前で、遅咲きのコスモスが揺れていた。というカーナンバーをつけたベンツから、金髪の少年が降りてきた。半ズボンから長い足がむき出しになっている。 「なんか夢みたい」  真由美はため息をついた。 「こんなとこに住めるなんて、私たち、なんてついてるのかしら」 「そうだよなあ。このあいだの高田馬場に較《くら》べたら天と地の差だよ」 「内山さんもすっごくいい人。私、びっくりしちゃった。あんなに気さくな人だと思わなかったもの」 「うん、僕も驚いた。親父の話だと、亡くなった内山さんっていうのはかなり気むずかしい人だったみたいだ。だから奥さんっていうのもピリピリしてると思ってたんだけど、よく喋ってよく笑う人だなあ」 「うん、私もホッとしちゃったわ」  駅まで並木道は続く。途中にはガラス張りのコーヒーショップやアイスクリーム屋があった。 「ねえ、健ちゃん、あの家に引っ越したら犬を飼ってもいいかしら」 「どうして」 「だって犬をつれて散歩したら、本当にこの町の住民みたいじゃない」 「ミーハー」  健は小さく怒鳴《どな》った。  D町に越したとたん、真由美は急に筆まめになった。古い友人や知り合いにやたら手紙を書いた。  役所やカードクレジット会社に出す正式なものには、 「D町五─十二─六 内山方」  という形容を使ったが、それ以外には、 「D町五─十二─六」  とだけ書いた。  お得意さまカードや、お取りおき伝票にこの文字を綴ると、三人に一人ぐらいの割合で女店員が、 「まあ、D町。素敵なところにお住まいですね」  と世辞《せじ》を言う。だから今まで見向きもしなかったデパートやブティックのそうしたカードを、せっせと真由美は書くようになった。  家に帰るのも楽しい。健と一緒に暮らしているということはもちろんだが、日一日と落ち葉の嵩《かさ》が増す舗道を歩き、門扉を開けるたびに真由美は満ち足りた思いになるのだ。  D町の駅前には、広尾の高級スーパーの支店があった。そこにもしょっちゅう寄る。スキ焼き用肉百グラム二千円などというものもあったし、見たこともない外国の野菜もあった。そうしたものをこともなげに買い物籠《かご》の中にほうり込む、たくさんの女たちに真由美は目をむいたものだ。 「そうね。やっぱりD町の奥さんたちは違うわ。渋谷を歩いててもなんとなくわかるもの」  政代は言う。  階下の茶の間だった。結婚に向けて真由美は仕事の量を調節しているので、以前に較べるとずっとヒマができた。気がつくと、帰りが遅い健を待ちながら、政代のところに毎日のようにいりびたっている。 「こう、着ているものに品があるでしょ。なんでもないカーディガンを着てるんだけど、よく見るとカシミアだったりして」 「そ、そう、そうなんです」 「あれはD町でしか見られない光景よね。D町っていうところは、一歩家を出るときちんとした格好をしなければいけないところなの」 「そう言われてみれば、エプロン姿でお買物なんて人いませんよねぇ」 「とんでもない」  政代は大きく手をふった。 「そんな人、このD町だったら信じられないことね。ここの人たちっていうのは、家で着る服っていうのがちゃんとあるのよ」 「へえーっ」 「男の人だったら、背広の上着のかわりにカーディガンをはおったりしてね。奥さんの方は、タイトスカートにセーター。決してズボンみたいなものははかないわ」 「ふうーん、そうなんですか」  政代は真由美という最高の聞き手を得て、なめらかに舌が動き始める。 「新しい内閣の顔ぶれが決まるとね、その中の一人は必ずこの町の方なの。ご存知」 「そう言えば、そんな気がします」 「でしょう。だけど大臣だ元華族だなんていってもね、この町の人は振り向きもしないわ。ちっとも珍しくないから。他人のことにみんな無関心ね。でも昔から住んでいる人ばかりだから、お互いのことはちゃんと知っているの。ちょっとこわいとこもあるわ」 「あの、駅の方へ行くとマンションが建ってたり、新しい家がどんどん出来てますけど、ああいう人たちもおつき合いがあるんですか」 「ああ、成金さんたち」  政代は露骨に軽蔑《けいべつ》の表情を見せた。 「ちょっとお金ができた人たちって、やたらとこのへんに住みたがるのよね。だけどお店の人たちも差別するのよ。私たちみたいに昔から住んでいる人間と、最近移り住んだ人たちと。私みたいにお金がなくてもねぇ……」 「そんなあ」 「いえ、本当よ。新しく土地を買ってここに家を建てるっていうのは、もう大変なことよ。二億や三億じゃきかないわ。そういう人たちとお金の面じゃかないっこないのに、どのお店屋も、お金がない昔からの人間の方を大切にしてくれるのよ。たとえば私が電話をかけて、お豆腐を一丁持ってきてって言ったとするでしょ。私にはすぐに持ってきてくれるのに、成金さんたちにはそういうことをいっさいしないの。本当にどうしてかしら。不思議よねぇ」  政代はその理由をはっきり知っているのだというふうに薄く笑った。  真由美はこうした話を、帰ってきた健にことこまかに話す。彼はこういう話にほとんど興味を示さない。 「ま、この町の連中だったらプライドは高いだろ。だけどそれは真由美にはまるっきり関係ないじゃないか。僕たちはたまたまこの部屋を借りて住んでるだけなんだから」 「だけどおもしろいじゃない。特殊な人たちの話を聞くのはさ」 「一定の距離を持ってつき合わないと、後で人間関係が苦しくなるぞ」  共に暮らすようになってから、健は急に老成した口をきくようになった。それまで二十七歳という年齢にしては子どもじみたところが多分にあった健だが、結婚を前にその変わりようは時々真由美を困惑させるほどだ。 「私、前の健の方が好きかもしれない」 「そうかなあ。僕は変わってないつもりだけどなあ」 「そんなことない。急にたくましくなったっていうか、しっかりしてきたっていうか、とにかく変わったわよ」 「そんなこと言えば、真由美だって変わったよ。年寄りの話をあんなに一生懸命聞いてるんだものな」 「だって、ためになることがいっぱいあるのよ。今度お料理も教えてくれるって。それにね、おばさまたちのグループは、短歌や英会話やらいろいろ習ってるのよ。今度私も入れてもらうつもりなんだから」  真由美は政代のことを、おばさまと呼ぶようになった。多少気恥ずかしい時があるが、他に呼び名が見つからないので仕方がない。  おばさまの仲間は、近所に住む夫人と、女専の同級生とで構成されていた。還暦近い女たちが、週に何べんか集まって女学生のようにはしゃぐ集まりに、真由美は家にいる限り必ず招《よ》ばれた。 「ねぇ、レイアウトってどういうお仕事なの」 「雑誌をつくる時、文字と写真をどういうふうに組み合わせていこうかってデザインするんです」 「あなた、変わったお洋服を着てるわねえ。その細いズボンみたいなのは何ていうの。それは、スカートの下から見えててもいいの」 「これ、スパッツっていうんです。はいてるととっても暖かいし、洋服のシルエットもおもしろくなるんですよ。若い人たちはよくしてます」 「ふうーん。やっぱりこういう方が身近にいると勉強になるわねぇ」  女たちは口々に言い、感にたえぬようなため息をもらすのだ。その様子は珍しい動物を見るような無邪気さに満ちていて、真由美は思わず笑い出したくなる。  時々はみなで、町のフランス料理屋ヘランチを食べに行く。グラス一杯ずつゆきわたる程度のワインを飲み、肉料理を口に運ぶ時、真由美はうっとりと満足している自分に気づく。  駅に行く途中で出会う少女たち。D町の邸《やしき》からラケットを持って出てきたり、車を操ったりする少女たちに、もし生まれ変われるものならなってみたい。しかし、それはもうどうすることもできないことで、真由美は静岡県出身のふつうの女なのだ。けれどそういう自分でも、やり方次第ですんなりこの町の人々に溶け込むことができるのだ。 「そうですわ」 「でも、違うと思いますの」  こんな言葉も次から次へと出てくる。 「私、早く子どもが欲しいわ」  健に言ったことがある。 「ここにいる間に生めば、おばさま方が有名幼稚園をいろいろ紹介してくれるみたい。そういうのって、すごいと思わない」 「有名幼稚園なんてくだらないよ」  健はため息まじりに言った。 「僕は小学校から付属に通ってたから、近所にまるっきり友だちがいないの、すごく淋しくて嫌な思いをしたのを憶えてる」 「でも、この町のほとんどの子供は、そういうふうに淋しい子よ。みんな幼稚園から制服を着て学校へ通ってる。子どもたちだけで遊んでるのって見たことある。ないでしょ。でもね、子どもはD町で生まれたことになって、おいしい人生をいろいろ味わえるんだわ。私、早く子ども欲しい」 「この頃の真由美はちょっとおかしいよ」  健がためらいがちに言った。 「君、以前には子どものことなんか何も言わなかったじゃないか。それどころか、しばらくは欲しくないって言ってた」 「急に考え方が変わったんだから仕方ないじゃないの」  真由美は憮然《ぶぜん》として答える。健に見すかされようとしているものは、彼女がいちばん隠しておきたいものだった。D町に越してきてから、健に見せたくない感情はずいぶん増えた。 「それはどうしてかしら。本当に不思議だわ」  真由美は政代が以前言っていたとおりの口調で言ってみた。するとすべてのことが許されるような気がした。 「おばさま、景子のことを話したでしょうか」 「いいえ、あなたとは毎日話してるけど、その人の話は聞いたことはないわ」 「静岡にいる幼なじみなんです。今度彼女上京することになって、泊めて欲しいって言ってるんですけどよろしいでしょうか」 「もちろんよ。私に遠慮することはないわ。よかったら、夕食は私の方で何かこしらえてもいいわ」 「ま、素敵。私、このあいだいただいたサーモンステーキのおいしさが忘れられないんです」 「じゃ、それをつくろうかしらねぇ」 「じゃ、私お手伝いしますわ」  自分はなにか不思議な芝居をしているようだと真由美は思う。この頃真由美は毎日のように階下に降りてきて、政代と紅茶を飲みながらとりとめもない話をする。時には焼き菓子をつくったりするのを手伝うこともある。 「私、オーブン使うの初めてなんです」 「手を触れる時は十分に注意してね。そのミトンを使いなさい」 「あら、ショウガを入れるんですか」 「そう、ジンジャークッキーがパパの好物だったのよ」 「あら、モダンな方だったんですね」 「そうよ。パパぐらい何でも出来る人、私見たことがない」  オーブンが暖まる間、二人は何杯めかの紅茶をすする。 「美術品や絵にあかるくってね。そして英語もドイツ語もできたの。おまけにとっても美男子だったのよ」 「あら、あら」  真由美は、いつも花がたえない仏壇に飾ってある男の写真を思い出した。痩せて年老いた顔からは、なんの片鱗《へんりん》も見られなかった。仕立てのよさそうな背広の胸のへんが、その男の恵まれた勤め人生活をかすかに伝えているだけだ。 「おばさまたちは恋愛結婚だったんですか」 「違うわ。親が見つけてきてくれたのよ。私の父はあの頃軍需工場をやっていて、そりゃ景気がよかったのね。お前のために、とびきり頭がよくていい男を探してやるってね、そして見つけてきたのがパパだったのよ」 「そうなんですか」 「昔はね、前途有望な青年っていうのは金持ちの娘と結婚したのよ。生活を女の方が丸がかえにしてね。この家を買ってくれたのも私の父だったのよ」 「昔からこのへんはひらけてたんですか」 「とんでもない。何にもなくて渋谷の省線が走っていくのが見えたほどよ。私はにぎやかな家に育って、ひとり娘でちやほやされていたから、お嫁に来たばかりの時は淋しくて淋しくて毎日泣いてたものよ」 「まあ、可愛らしい奥さん」 「そしてね、パパが帰ってくる前に急いで涙を拭くんだけど、すぐに見つかってしまうの。パパはいつも怒ってね、そんなに泣くぐらい嫌なら帰っても構いませんなんてよく言ったものだわ。パパも可哀想よね。貧乏なばっかりに、私みたいな平凡で不器量な女と結婚しなければならなかったんですもの」 「そんな……」と言いかけて、真由美は息を呑んだ。政代の丸い目に、涙が驚くほどの早さで噴き出してきたのだ。 「本当よ。パパみたいなえらい人にはね、もっとちゃんとした女の人の方がよかったのよ。でもそれだから私は一生懸命やったわ。そしてパパもね、私のことをとっても大事にしてくれた。いまパパが天国で私のことを見てたら──」  政代はテーブルの上にあったタオルを顔におしつけた。 「こんなに不幸になってて、可哀想だと思っててくれるわ」 「不幸だなんて、そんな……」  真由美の困惑は極に達した。今までの彼女の人生の中で、年上の女を慰めるなどという経験に出くわしたことはないのだ。 「おばさまは、こんな立派なおうちがあって……、息子さんはちゃんとやってらっしゃるし、お友だちもいっぱいいるじゃありませんか」 「いいえ、私はひとりぼっちよ」  政代はちんと鼻をかんだ。 「パパが死んでから私はずっとひとりぼっち。パパが死ぬ前によく言ったものよ……。僕が死んだら、お前がどうなるかとても心配だって……」 「おばさま、そんなことばっかり考えてちゃいけませんよ」  真由美は混乱する頭の中で、どんなことを言えば政代を喜ばせることができるか必死に考えた。政代よりもずっと不幸な女。そうだ、あの話がいい。 「私の母なんか、おばさまの話を聞けばなんて贅沢《ぜいたく》なんだろうって怒っちゃいますよ」 「お母さん?」  涙をぬぐいながらも、政代の目が好奇心で輝き出したのを真由美は見逃さなかった。 「ええ、私の母はいったん離縁して再婚してるんですね。父もそうなんです。前の奥さんっていうのがお百姓仕事が嫌で出てっちゃったんですって。その間に男の子が一人いて、その子を母は育てました。あまり身内のことを悪く言いたくありませんけど、この兄が高校時代からグレて大変だったんです。継母《ままはは》だからこうなったんだって、親戚が集まって相談した結果、母の籍をいったん抜いちゃったんですね」 「まあ……」 「だから私、小学校三年ぐらいまで母と一緒に農家の物置きで暮らしてたんですよ。そして兄も二十歳すぎてやっと落ちついた時、母はまた父の籍にもどったんです。でもね、その時にいろいろごたごたがあって、まあ、親戚が兄に入れ知恵したんだと思うんですけど、今度は父が死んでも、財産相続は放棄するっていう約束をさせられたんですね、うちの母は」 「そんなお気の毒なことってあるのねぇ」 「まあ、母はあきらめてるみたいです。兄は何年か前に家を新築して、二階に両親は住んでいるんです。一応表面上は仲よく、母は孫のお守りなんかしてますけど、胸の中は煮えくりかえってるんじゃないですか」  健にも詳しくはしていない話だ。政代の突然のとり乱した様子に、つい口がすべったようだった。しかし政代は夢からさめたようにつぶやく。 「真由美さんって、私から見ると何の苦労もないようなお嬢さんに見えたけどもねぇ……」 「お嬢さんだなんて、そんな、そんな」  真由美はあわてて手を振った。顔が赤くなっているのがわかる。 「貧乏な田舎娘ですよ。本当にお恥ずかしいぐらい」 「でも健さんがあなたを選んだわけがわかるわ。真由美さんっていうのは綺麗なだけじゃなくて、人の心の傷《いた》みがわかる人ですもの。それにしっかりしてるわ、さすがだわ」 「あの、今の話、あまり人に言わないでいただけます。健さんは知ってるけど、あちらのお父さまなんかに……」 「誰に言うっていうんですか」  政代はぴしゃりと言った。 「私も他の人に言えないようなこと、あなたにいろいろ話してるんですもの。私たちだけの秘密でいいのよ」 「お願いします」 「あのね、私が真由美さんたちが引っ越してきて、どんなに喜んでると思ってるの」 「そうですか。そう言ってくださると嬉しいけど」 「本当よ。一人だとなんのおかずもつくる気が起こらないのにね、真由美さんが下にとんとん降りてきて、もらってくれると思うと張り合いが出るのよ」 「いつもありがとうございます」 「お礼を言うのはこっちの方よ。私はどれだけあなたたち二人に感謝しているか……」  そう言って再び政代は大きな音をたてて鼻をかんだ。 「ねぇ、おばさまってとっても淋しいのよ」  その夜、帰ってきた健に告げた。 「今日、お話聞いてたらね、私も思わずもらい泣きしそうになっちゃった」 「どうでもいいけど、あんまり家の中で新派やるなよな」  健は少し酒を飲んでいるらしく、コートを脱ぐ手がおぼつかない。 「男なんかにわからないわよ、女の気持ちなんて。女はいずれああいう悲しみをたどるんだって、私つくづく思っちゃった」 「それよりもさあ」  ぐったりと健はソファにもたれかかった。それは一人暮らしの時から真由美が使っていた生成り色のものだ。健と並んでテレビを見る時に座る。 「今日、デザイナーのチーフに言われちゃった。真由美ちゃんはいつ仕事に復帰するんだってさ」 「あーら、してるわよ。あんまりせかされないで家の中で出来るものならやるわ」 「もうすっかり主婦をさせてるって、僕なんかすっかりからかわれたぜ。だけど真由美もよく平気だよな。昔はあんなにいろんなとこをとびまわってたのにな」 「この家の中にいると、あんまり外に出る気がしなくなっちゃうのよ。健ちゃんは私がもっと仕事をした方がいい?」 「いつも言ってるだろ。それは真由美の考え方次第だって。もっと働きたかったら働けばいいし、どっぷり家の中にいたかったらそれもいいって」 「そういう公式見解じゃなくてさ、本当のところを聞きたいのよ」 「そうだなあ……」  健は心もち視線を床に落とした。そういう時の健はとても美男子にみえると真由美は思う。 「正直に言うと、金のことでもうちょっと仕事に精出してくれればいいなあと思う時はあるな」  今のところ生活費は半分ずつ出し合っている。しかし、健の中には早くマンションの頭金を貯めたいという希望があるらしい。しかも出来ることなら、冬はスキー、夏は海外旅行へ出かける今の生活を変えないままでだ。 「来年になったらさあ、式の準備とかいろいろ忙しいと思うの。それまでは今のままでのんびりとやりたい。おばさまに料理を習ったりもしたいしさ。こういう生活って、やり始めると結構クセになっちゃうのよね」 「なんだか真由美、この頃変わったよ」 「あら、何が」 「前みたいに、イッセイとかケンゾー着なくなって、スカートばっかりだね」 「だっておばさまにいつもびっくりされてたんですもの。まあ、パジャマみたいなもの着て出かけるの、とかね」 「年寄りはファッションがわからないから仕方ないさ」 「だけどそれが楽しかったりして。ほら、私は高校出てすぐに一人で暮らしてたでしょ。自分の好きなものいつも着てた。だけどさ、ちょっと羨《うらやま》しかったことがあるんだ。デザイン学校の同級生が、親がうるさくてあれが着れないとか、こうしなきゃいけないとか言ってた時、自宅から通ってるコはいいなあと思った。束縛《そくばく》されるものが何もないっていうのも淋しいものよ。絶対につまらないわ」 「ふうーん、それで今、下のおばさんの娘ごっこしてるわけか」 「嫌な言い方するわね。おばさまと私は単に気が合うだけよ。あの人はひとりぼっちなんですもの……あ!」  真由美は大声をたてた。 「いいこと思いついたわ」 「何だよ。おどかすなよ」 「ねぇ、景子が遊びに来る時、ディズニーランドヘ連れてくって約束してたでしょ。あの時におばさまも誘いましょうよ」 「そりゃ、ないよ」  健はあまり気がすすまないようだ。 「景子さんに失礼だよ。やっぱり若いのだけで行きたいだろうしさ、第一おばさんは来ないと思うよ」 「そんなことないわ」  真由美はきっぱりと言った。 「前にディズニーランドに行きたいって言ってたもの。きっと大喜びでオーケイすると思うわ」 「そうかなあ。僕は遠慮して来ないと思うけどなあ」 「絶対来る。私賭けたっていいわ」 「よし、何を賭ける」 「うーん、クリムトのチーズケーキにしよう」  そしてこの勝負は真由美の勝ちとなった。  ディズニーランドという言葉を聞くや、政代は子どものように目を大きく見開いた。 「一度行ってみたかったのよ。でも私たちおバアさんばっかりでしょ。話がなかなか進まなくってね」  口早に言う。 「でも本当に一緒に行っていいのかしら」  媚《こ》びるようにも見える哀しい目だ。それを見ると、真由美は自分と健とが政代の息子夫婦になったような気がする。きっと政代の本当の息子夫婦は、こんな目をしょっちゅう見ていたに違いない。  当日、健は友人から車を借りてきた。新型のゴルフだ。 「くれぐれもぶっつけないようにしてくれと言われてきた」 「もちろんよ。健ちゃんは運転が慎重だから安心してるわ。えーと、席は」  真由美は迷った。助手席は遠来の客である景子に譲りたいのだが、政代を無視するわけにもいかない。そうかと言って、横に六十歳の女を座らせるのは健が気の毒というものだ。さんざん考えた揚句、真由美は自分が助手席に座ることにした。 「今日は混むかもしれないな。天気はいいし日曜日だし」 「暮れの日曜日なんて、みんな大掃除やってるわよ。空いてるはずよ」 「ごめんなさいね」  景子が後ろの席から声をかける。 「健ちゃんも真由美も。忙しいとこ、私のためにわざわざ遠いところまで行ってくれて。健ちゃんなんか、会社が忙しいんじゃないの」  すでに景子は健と何回も会っていた。おとなしくて控えめな景子を、健は気に入っている。 「そんなことないよ。おとといまでは死ぬ思いだったけどね。暮れで印刷屋が休みになるでしょ。それまでに原稿をほうり込まなきゃいけなかったんだ。今は嵐《あらし》が去って、胸にぽっかり空洞があいてるっていった感じかな」  自分の言い方がおかしかったらしく、健は一人でくっくっと笑った。 「景子さんって……」  それまで神妙にしていた政代が口を開いたのは、高速に乗ったあたりだ。 「幼稚園の先生をしてらっしゃるんですって」  また始まったと真由美はおかしくなった。初対面の人間の職業や学歴をしつこく探ろうとするのは政代の癖だ。 「ええ、短大を出てもう五年もしてるんですよ」 「短大っていうと東京の……」 「ええ、そうです」  政代の意図がわからない景子はそれで終りにしようとする。真由美は政代の知りたがっていることを教えてやった。 「おばさま、景子は聖桜短大を出てるんです」 「まあ、すごいわね。あそこは入るのがむずかしいでしょう」 「そんなことないです。保育科がいいっていうんで選んだだけです」 「私の友だちのお嬢さんも、あそこを出た方が多いのよ」  政代は誇らし気に言った。 「短大じゃなくて、四年制の方ですけれどね」  こういう言葉を聞いても、真由美は彼女を厭《いと》うことができない。仲間の息子や娘のことを、まるで自分のことのように自慢する政代を愛らしいとさえ思う。 「それで真由美さんとは、小学校の頃からずっと同級生なのね」 「そうです。まるで姉妹じゃないかって言われるぐらい仲がよかったんです」 「よかったんですなんて、まるで過去みたいじゃないの」  真由美がからかう。 「そう、もう過去ね」  景子も次第にいつもの調子をとり戻してきた。 「だって私はあいかわらず田舎でくすぶっているのに、真由美ときたらさっさといい人見つけて結婚しようとしてるんですもの」 「健ちゃん、聞いた」  真由美は肘《ひじ》でつつく。 「聞いた、聞いた」 「お昼ごはんはみんなに何かおごりなさいね」 「ハイ、わかりました」  ハンドルを握ったままお辞儀するさまがおかしくて、三人の女たちはいっせいに笑った 「でも静岡の方で、お相手はいっぱいいらっしゃるんでしょう」 「そんなことないです。もうちょっと若いと縁談もいっぱいあるんでしょうけど、二十五になるとなかなかお声がかかりません」 「おばさま、景子はずっと副級長だったんですよ。頭がよくって誰にでもやさしくって、私ずうっと彼女に憧れてたんですもの」 「真由美ったらよく言うわよ」  振り向かなくても景子が真赤になっているのがわかる。色の白い、涼やかな目元をした娘だった。 「こんなに素敵な方をどうしてほっとくんでしょうねぇ……」 「おばさま、お願いしますよ」  真由美はフロントガラスに向かって叫んだ。 「どなたかいい方いたらぜひ紹介してください。景子からも頼みなさいよ。おばさまは顔が広いから、いろんなお話がくるのよ」 「お願いします」  意外なほど素直に景子は言った。 「東京の方でもいいの」 「ええ、私の上に姉がおりますけど、やっぱり東京の方のところへ嫁ぎました。両親ももらってくださる方がいれば、離れたところでも仕方ないと申してます」 「そう。じゃ静岡に帰ったら、至急|釣書《つりがき》とお写真を送ってくださる」 「はい、わかりました」 「景子、よかったじゃない。東京に遊びに来たつもりが、おムコさんまで見つけられそうじゃない」  あたりの景色が急に灰色がかり、「浦安」という表示が見えてきた。以前二度ほど、真由美は健と一緒にディズニーランドに来たことがある。その時はどちらも夜だったからどのアトラクションも、あまり並ぶことなく見物することができた。  ところがその日は、駐車場がもうぎっしりと車で埋まっていた。師走にもかかわらず、冬休みに入った子どもをつれて来る親が多いらしい。 「ねぇ、健ちゃん。あなたおばさまのめんどう見て、このままじゃ迷子になっちゃう。私は景子と一緒にいるから」 「うん、わかった」  健は政代の腕をとるようにして、人混みの中に入って行った。 「健ちゃんってやさしいのね」 「うん、あの人、おじいちゃん、おばあちゃんが家にいたらしいの。だから年寄りにやさしいわ」 「年寄りなんかじゃないわ、あの人」  景子はうっすらとした笑いをうかべている。そんな笑いをうかべると、景子の顔でさえ卑しくなった。  五メートルほど先に、健のひょろ長い胴体が見える。風船を持った親子連れの間に、見え隠れするのは政代の横顔だ。視線をぴったりと健に合わせ、何がおかしいのか、喉をのけぞらせて笑っている。 「心はまるっきり私たちと同じよ、あの人」  もう一度景子は言った。 「なに言ってるのよ。もう孫がいるような人よ」 「そんなこと関係ないじゃない。私、子どもを教えるようになってわかったんだけど、人ってそう心と年齢がぴったり合うものじゃないのね。心を置いてきぼりにして、年齢だけが先にどんどんいっちゃう人がいる」  その時、前を歩く二人が急に止まった。「早く来いよ」と言いたげに、健はこちらの方をむいた。その横で政代があいまいな笑いをうかべてこちらを見ている。それは勝ち誇っているようにも、おびえているようにも見える。何十回、何百回となく見てきた女友だちの顔だ。町でばったり会った時、男と一緒だったりすると、彼女たちはよくこんな表情をうかべる。 「いやらしい……」  景子にだけわかるように、いつのまにかつぶやいていた。 「奥さん、この梅はもうそろそろ切らなきゃいけないかもしれないなあ」 「そう言わないでよ。それを持ってかれちゃ庭が淋しくなっちゃうわあ」  二階のベランダから、真由美は政代と植木屋との会話を聞いていた。正月用の花と、注連《しめ》飾りを届けに来たついでに、植木屋は庭を見ているのだ。 「植木屋さん、新聞屋さん、そして大工……」  職人が帰った後、政代はうたうように言ったものだ。 「みんな私のファンなのよ」 「ファン……」  六十歳の老婆とファンという言葉がどうしても真由美は結びつかない。たぶんけげんな顔をしていたのだろう。政代は不機嫌そうな声になった。 「そうなのよ。私、ああいう出入りの人たちにとっても人気があるの。こんなことを言うとえらそうに聞こえるかもしれないけれど……」  そう言いながら、政代の鼻はいかにも得意そうにひくひくと動いた。 「ほら、D町あたりの奥さんになると、出入りの職人なんかとそう気安く口をきいたりしないのね。でも私、そういうのが嫌いなの。私、どういう人とでもちゃんと接しなきゃいけないって親に言われて育ったでしょう。学校もミッションスクールだったし……。だから、気取ったり、高慢になったりっていうことが出来ないのね」 「わかりますわ」 「私のそんな気持ちが伝わるのかしら。みんなそりゃよくしてくれるのよ。あの植木屋さんのおっかさんなんかはねぇ──」 「おっかさん」という言葉に真由美は驚いた。けれど政代はその下品な語感にまるで気づいていないようだ。 「おハギやおいしいものをつくったりすると、必ず私のところへ届けてくれるのよ。私のこと、とっても大切にしてくれるの。私、パパに言われたことがある。お前ぐらいおもしろい女はいないって。ねぇ、私、そんなにおもしろいかしら」  首をかしげる政代の顔には、老人とは思えない艶《つや》があった。 「え、ええ、とてもおもしろい方だと思います」 「そりゃ、そうよねぇ」  政代の声は、こういう時に一オクターブ上がる、目を天井に向けて頷く。 「出入りの植木屋さんなんかとは仲がいい、そして真由美さんみたいに若い人とも気が合うんですもの、私やっぱり変わったおバアさんよねぇ……」  政代が自分のことをおバアさんというのは、ただちに否定してもらいたい時だというのをすでに真由美は知っている。 「おバアさんだなんて……」  真由美は言う。 「まだまだお若いわ。海外旅行にもしょっちゅういらっしゃるし、ゴルフも始めたし、おばさまがおバアさんだなんていうと、他の人が怒っちゃいますよ」 「そうね。みんなによくそう言われるわ」  政代はたちまち相好《そうごう》を崩す。 「中西さんの奥さんからもね、今度エステティックでも行きましょうよ、なんて言われてるのよ。あ、そう、そう。中西さんって言えば……」  ぽんと立ち上がった。 「私、釣書とお写真を預かっているのよ」 「釣書っていうと……」 「そう、景子さんにいかがかと思って」 「まあ、本当ですか」 「見る?」 「ええ、見せてください」  そう言いながら真由美は不安になった。いくら幼なじみの親友だといっても、景子と真由美は他人なのだ。それなのに一方の側にこうもやすやすと縁談の中身を見せる政代に、不信感が起こる。 「ね、悪くないでしょ」  小さなスナップ写真からは、男の顔立ちははっきりとは読みとれない。そう醜男《ぶおとこ》ではないことだけは確かだ。眼鏡の奥の笑っている目がやさしげだった。 「──大学を出て、──食品に勤めているのよ」  政代は地方の国立大の名前と、時々CMで見かける会社の名前を口にした。便箋《びんせん》に書かれた釣書を見る。昭和二十五年生まれだから今年三十五歳ということになるだろうか。 「わりと年くってますね」 「あら、仕方ないわよ」  政代は非難がましく言った。 「景子さんだって若いっていえないんだし。それにね、男の人っていうのは東京のお嬢さんを欲しがるものなのよ。東京の男の人は、どんな方がいいって聞くと、必ず東京育ちの人っていうわね。地方の男の人も同じ。だから地方の女の人っていうのは、どうしても売れゆきが悪いのよ」 「そうですか」  いらだちがじわじわと怒りにすり替わっていく。なにか皮肉なひと言をいおうと思うのだがなかなか言葉が出てこない。 「でも景子っていうのは、女の私から見てもめったにいないタイプだと思いますよ。気だてもよくて可愛らしいし、男性を立てることもちゃんと知ってます」 「そりゃ、そうよ。景子さんはいい娘さんよ。このあいだ三日間いらしてよくわかったわ」  真由美はあっと声をたてそうになった。植木屋の妻のことを「おっかさん」というように、自分のまわりの東京の人間にしか、政代は「奥さん」とか「お嬢さん」という言葉を使わないのだ。 「この方は北海道の出身でね、今は飯田橋の方のアパートでひとり暮らししているらしいの。今まで独身でいたのはね、外国勤務が長かったんですって。マニラ、シンガポール、いろんなところを転々としてきたみたい。ねぇ、どうかしらねぇ、こういうタイプ、景子さんはお嫌いかしら」 「いいと思いますよ」  真由美はすべてのことは思いすごしだと考えようと努力した。 「そんならよかったわ」  政代は楽し気に笑った。 「中西さんのお知り合いの男性だっていうんだけど、私のまわりのお嬢さんには持ってけない話でしょう。どこかにいい人はいないかしらってずっと考えてたの。植木屋さんとこの娘さんが昨年短大を出ててね、そっちの方でもいいかと思ったんだけど、やっぱり年が違いすぎるでしょ。その時思いついたのが景子さんだっていうわけ。本当によかったわ」  たぶん、自分はいま困ったように笑っているだろうと真由美は思った。 「景子さんも東京に出てくればよかったのよ。そうしたら、あなたみたいに東京の人と結婚できたかもしれないのに」  そう言い終えて、政代はそれが癖《くせ》の、丸い目をくるっと見開いた。それは無邪気さに満ちていて、彼女のしていることは悪意なのか好意なのか全くわからなくなる。そして聞いているこちらの方は、ただ混乱してしまうだけなのだ。  気がつくまでには三、四時間かかる。さまざまな言葉を反芻《はんすう》していくうちに、ひとつの真実にいきあたるのだ。  夜間割引きの七時になるのも待ちきれず、真由美はダイヤルをまわしていた。 「もし、もし、私よ。……そう、そうなのよ……。ううん、とんでもない。こっちこそいろいろお土産ありがとう。帰りにうちに寄ってくれたんだって、悪かったわね。うん、お母さんから聞いたの」  そして深く息を吸った。 「あのさ、もしかしたら、うちの下宿のおばさんからそっちに手紙がいくかもしれないけど無視していいからね。そうよ無視よ」  電話の向こうの景子は何のことだかわからないと告げた。 「ほら。縁談よ。このあいだ冗談混じりに頼んでいったじゃないの。でもあんなの忘れていいわ。たいしたことない男よ。あんなレベルならいくらでもいるからね。それをえらそうに恩きせがましくして……。とにかく送られてきたら、すぐに送りかえしていいからね、わかった」  受話器を置いたらやっと気分がおさまった。そういえば、どうしてこんなことに気づかなかったのだろう。このあいだから、政代は真由美の結婚仕度に異常ともいえる興味を示している。そしてちらと非難や自慢話をもらすのが常だ。 「真由美さんのお母さんは、結婚の準備をいつするの。もし上京するようなことがあれば、下の部屋をお使いなさいな」 「このあいだ両家の顔合わせの時に一回来ましたけど、後は式まで来ないと思いますよ」 「じゃ、家具なんかどうするつもりなの。お着物は」 「いやだなあ」  真由美は笑った。 「私、結婚前からいろいろなものを持ってますし、今住んでいる部屋でそれ以上のものは何もいらないんですよね。健ちゃんとも話し合って、お嫁入り道具なしってことになったんです」 「そうなの。私は娘がいないから、この頃の若い人はどうなっているかわからなかったけど、だんだん簡略化されてるのね」 「いいえ、私たちが特別なんじゃありませんか。健ちゃんはマスコミをやってる人間ですから、そういう常識みたいなものにしばられまいとする気持ちが強いみたいです。私がふつうのOLかなんかだったら、こういうわけにもいかないでしょうけど」 「でもラクでいいじゃないの。お母さまどんなに喜んでるかわからないわよ。私の友だちなんか、娘を嫁がせる時はお金と気を使って、もうノイローゼになりそうだってこぼしてたもの。そう、そう、おもしろい話があるのよ」  こういう時の政代を止めることはできなかった。 「私の友だちのお嬢さんがね、とってもいいおうちにかたづくことになって、そりゃ仕度が大変だったのよ。家具も三越に特注を出して、総桐のいいものをいっぱいこさえたんですって。だけどね、中に入れる着物まではとても手がまわらなかったらしいの。それでね、私の友だち、女専時代から陸上なんかやってて、とても元気でおもしろい人なんだけどね、ま、いろいろ考えたわけよ。それでどうしたと思う」 「わかりません」 「呉服屋に行って、見本の端切れをいろいろもらってきたのよ。友禅とか絞りのいいものをいっぱいね。それを畳紙《たとう》の丸いビニールののぞき穴のところへ貼りつけたっていうの。中には浴衣《ゆかた》を入れてね。あちらのおたくでは、兄嫁さんやお姑《しゆうとめ》さん、ご親戚の方なんかがお荷物を見るじゃない。だけどまさか、いちいち畳紙をひろげる人もいないじゃない。桐のタンス、どの引き出しを開けても、いい着物がいっぱい詰まってたって、みんな感心したっていうわ」  あの時、どうして自分は声をたてて笑ったりしたんだろうと真由美は思う。そこに込められた底意地の悪さに少しも気づかなかった。 「真由美さん、私を絶対披露宴に招んでくださるんでしょう」  そのたびに、もちろんと答えていた自分はなんというお人よしだろう。知り合いの披露宴に出かけるたびに、帰ってきてはさまざまな批評をする政代のことを、どうして思い出さなかったのだろうか。  階下からはかすかにテレビの音が聞こえてくる。ふだんはあまりテレビを見ない政代なのだが、今日に限ってつけっぱなしにしている。いつもなら、真由美が下に降りていってお茶を一緒に飲んでいる時間なのだ。 「勝手に淋しがっていればいいのよ」  そうつぶやいたとたん、不思議な快感が胸を走った。どんなに良家の夫人を気取っていても、所詮政代は孤独な老婆であり、その感情のスイッチはすでに真由美が握っているのだ。 「もっと淋しがればいいんだわ」  それが今日一日、景子や自分に屈辱をあたえた政代への罰という気持ちがした。  一週間もたつうちに、政代に対する真由美の気持ちは再びおだやかなものになった。仕事に出かければ気がまぎれることも多かったし、政代のことはその場の絶好の話題になった。 「おばさんがちょっとえばったぐらい何よ。そのくらい我慢しなさいよ。このあいだまであなた、いろいろめんどうを見てくれるって感謝してたじゃない」 「そりゃ、そうかもしれないけどさあ……」 「それにさ、聞けば聞くほどかわいいおばあさんじゃないの」 「そうね。まるで女の子みたいなところがあるのは認めるわ」 「いいわよ。そういう方が罪がなくって」  そう言いながら煙草の煙をぷうっと吐いたのは、ベテランの女性編集者だ。 「あのさ、分別がありすぎて隙を見せないっていうのが最悪。うちのお姑さんがそうだけどさ。まあ、たまにご機嫌うかがいに行く時は、緊張のあまり寒気がしちゃうわよ」 「ま、うちのおばさんは、やり口がミエミエの分、おもしろいと思う時もあるけどさあ……」  真由美はそう言った後、思わず吹き出した。 「いやだ、私たち。まるで姑さんの悪口言い合ってるみたいじゃない」 「なに言ってんのよ。あんたに嫁姑の深刻さがわかるもんですか。母親と嫁っていうのはもう敵同士よ。ひとりの男をめぐって争うのよ。あなたのところには、そんなことがないだけずっとましよ」  真由美はふっと、ディズニーランドの夜のことを思い出した。そのことを口にしようかと思ったのだがやはりやめた。あの時感じた、胃液がこみ上げてくるような苦い疑惑を口に出すことは、自分自身が汚れるような気がしたからだ。  レイアウトの指定をすませた用紙を、印刷所あての封筒に入れ、外に出た時はもう十時をすぎていた。健のいる編集部に顔を出そうかと思ったのだがやはりやめた。他の男たちにからかわれるのが嫌だったからだ。  健と一緒に暮らしている事実は、すでにみなが知っていて、しかもD町が新居ということが噂に拍車をかけた。 「よ、ブルジョアカップル」  などとエレベーターの中で声をかけられることもしょっちゅうだ。  新しい年を迎えたばかりの街はまだ華やぎを残していて、店のディスプレイにも凝ったものが見られる。真由美が足をとめたのは一軒の和菓子屋だ。羽子板と凧《たこ》をあしらったウインドウの中に、栗《くり》かのこが飾ってある。栗を使った菓子は真由美の大好物だった。それと一緒に、いかにも新春らしい生菓子をいくつか包んでもらった。健はたぶん帰りが遅くなるに違いない。休暇明けの出版社は、また忙しさをとりもどしつつある。何年も出入りしていたから、そうしたリズムはよく知っているつもりだ。  本でも読みながら、菓子をつまもうと思った。健は甘いものをほとんど受けつけないし、本当は一個か二個しかいらないのだが、高級菓子店ではそうもいかない。五個の菓子は、ゆっくりと食べるつもりだった。  家に着き、玄関を開ける。そのとたん、真由美は悲鳴を上げそうになった。台所に通じる引き戸のところに、政代が放心したように立っていたのだ。茶の間からもれる蛍光灯の光が暗い台所をとおって政代の後ろに射し込み、顔をおおう髪はすべて青色がかった白髪に見えた。 「どうしたんですか」 「よかったわあ。さっきからずっと帰りを待ってたのよ」  政代の声がいつもと変わらないので、真由美はようやく安心した。 「あのね、今日友だちとゴルフの打ちっぱなしに行ったのよ。そのとき、ちょっと足をねじっちゃってね。湿布《しつぷ》したりしてたんだけど心細くって」 「お医者さんにはいらしたんですか」 「それがね、打ちっぱなしに行ったのが七時頃だったからもう病院は終っているでしょ。めんどうくさいからそのまま帰ってきたの。調子を見て明日行くかもしれない」 「それはいけませんねぇ……」  そう言いながら、真由美はごく自然に引き戸から茶の間に入っていった。久しぶりに見る茶の間だ。チロがあいかわらずコタツの上で眠っている。 「友だちが手あてをしてくれて帰ったんだけど、やっぱりケガっていうのは嫌なものね。悪いことをあれこれ想像したりして、真由美さん、早く帰ってきてくれないかってずっと思ってたのよ」  いつもの首をかしげる様が、その時は痛々しかった。 「そうと知っていれば、まっすぐ帰ってきましたのに……」  以前のように舌がなめらかになった。政代と喋っている時は、心に思っていることよりももうひとつ大げさな言葉がすぐ出てくる。それは「そうですの」「そうお思いになりませんか」などというのと同質のものだ。 「これ、お土産です。おばさまのお好きなお菓子」  そんな言葉をすらすらと言う自分に驚いた。だから政代の目がたちまちうるんでくるのをあまり見ないようにした。 「ありがと……。本当に嬉しいわ。ありがとう。いま、お茶を淹《い》れてくるわ」 「いいですったら。あ、おばさま、立たない方がいいです。私が淹れてきますから」 「そう。お湯はポットに入ってますから」 「はい。お茶っ葉はいつもの場所ですね」 「青い缶の方。玉露《ぎよくろ》を淹れてちょうだいね」 「わかりました」  またお芝居が再開されたと真由美は思った。映画やお芝居で見たとおりの綺麗な言葉を使う。  玉露はうまく淹れられた。ここに引っ越してきてすぐ、真由美はいきなり熱湯をかけて政代に笑われたことがある。茶の種類によって温度が変わるということは知識としては知っていたが、それを実際に行なう人がいることを、それまで真由美は考えたこともなかったのだ。  チロをはさんで二人は向かい合い、栗かのこをようじで口に運ぶ。こうすると全く以前のままだ。 「私、真由美さんに嫌われたかと思っていたのよ」 「あら、どうしてですか」  そしらぬ顔で尋ねる。 「だって、毎晩のように下に降りてきて、一緒にお茶を飲んでいたのに、この頃はまるっきり来てくれないんですもの」 「忙しいんですよ。ほら、年を越しちゃって四月が迫っていますから、なんだかんだ式の準備をしたりして。仕事もこのところ、少しづつですけどちゃんとやってるんです」 「そう。でも結婚式の準備なんて、一生でいちばん楽しいことよ」 「そうでしょうね。自分でもそう思います。私たち、もう実質的な新婚生活に入っていますから、式だけはおごそかにきちんとしたいんですね。まあ、それもなんとか自分たちだけの手でやろうと思っていますんでいろいろ大変……」 「でもそれがいいのよ」  政代は大ぶりの茶碗を何度も掌でさする。 「私なんか、今年のお正月も一人ぼっちだったでしょう。何のために生きているんだろうって、つくづく思ったわね」 「何を言ってるんですか。お友だちとハワイヘいらしたじゃないですか」 「ハワイに行ったって、楽しいことなんかなんにもあるはずないじゃないの。年寄りは毎日海に行くわけにもいかないし、毎日ホテルの部屋で、いろんなことを考えちゃったわよ。いま自殺してもいいけど、そんなことをしたら、息子夫婦が世間の人にいろいろ言われるだろうなって……。それさえなければ、とっくに自殺してたと思うわ」 「そんな……」 「本当よ。本当にそう思ったのよ」  政代は静かに言った。いつもの大げさな調子はまるでない。動かない二つの大きな目は、彼女の深い悲しみを伝えるようだ。 「誰も自分のことを必要としてくれないつらさっていうのがわかる? わかるはずないわよね。真由美さんが六十歳になった時、私がこんなふうなことを言ったってこと、思い出してちょうだい」 「おばさま、そんなことをおっしゃっちゃいけませんよ」  政代を慰めることは、どうしてこれほど楽しいのだろうか。優位に立てたという確信のもとに、いくらでもやさしい言葉を思いつく。 「おばさまがいなかったら、私困っちゃいますよ。とりあえず、私たちの結婚式に出ていただいて、祝ってもらわなきゃいけないんですもの」 「真由美さん……」  政代はまぶしいものを見るように目を細めた。 「そういう言葉が、私にとってどんなに嬉しいかわからないでしょうね。ありがとう、本当にありがとう」  また涙があふれてくる。そんな政代の姿に、真由美は率直に憐《あわれ》みがわいてくる。いつもこんなふうにしてくれていたら、どれほど素直に自分は政代のことを愛せるだろうかと思うのだ。 「なんだか可哀想だったわ。お菓子を買っていっただけなのに、ポロポロ泣いちゃうんですもの」  ベッドの脇のスタンドを消すと、あたりはしんとした暗闇につつまれる。この頃、毎日のように新年会と称して飲み歩いている健は、帰ってくると歯も磨かずにベッドに倒れ込む。眠りにつく前のほんのわずかな時間、真由美は健と言葉を交せるのだ。 「真由美がやさしいから、喜んでるんだよ。お前って、本当にいいやつだもんなあー」  寝返りをうちながら、健は乱暴に真由美の髪をくしゃくしゃにする。このダブルベッドは引っ越してから買ったものだ。六畳間にシングルベッドを二つ置けないからと、からかわれたら言いわけしようと思っていたのだが、政代は最後まで見て見ないふりをした。デパートの店員が運び入れる時も、茶の間でチロと遊んでいたはずだ。 「おばさん俺に言ってたぞ。真由美さんがよくしてくれるから、本当にありがたいって、ものすごく喜んでた。真由美さんぐらい、心の綺麗な人って見たことがないってさ」  健は何も知らないのだ。思っていることを洗いざらいぶちまけることは簡単だったが、健の信頼を裏切りたくはなかった。年寄りを大切にする、よく気がつく女と見られた方がずっといい。 「真由美はえらい、真由美はすごい」  しこたま酔っているらしい健は、真由美を抱きしめるだけにとどめている。五本の指が髪をくぐり、真由美の首をぐっとひき寄せる。健の頬は驚くほど熱い。言葉がとぎれとぎれになったと思ったら、やがて寝息が聞こえ始めた。  健の指を自分の頭の重さから解放し、真由美も目を閉じた時だ。リビングルームの電話がけたたましく鳴った。 「なんだよ」  健は真由美より先にからだを起こした。時計は二時をまわっている。真由美はガウンもはおらず床の上を走った。 「もし、もし、真由美さん……」  階下で眠っているはずの政代の声がした。 「足が痛くて、痛くて、どうしようもないの。ちょっと来てくれない」 「はい、わかりました。すぐに行きます」  ベッドにもどると、健が心配そうな顔でこちらを見ていた。 「すぐ行きますって、いったいどこへ行くんだよ」 「下よ。さ、上になんか着てちょうだい」  階段を降りる時、少し膝《ひざ》ががくがくした。さっきまで閉じていた目とからだは、なかなか光に対応できない。厚手の木綿《もめん》のネグリジェの上にカーディガンを着たが、寒さが足の裏から伝わってくる。  茶の間は煌々《こうこう》と電気がつけられていて、ネルの寝巻きを着た政代が、青白い顔でうずくまっていた。健と政代の顔を見ると、泣きべそのような顔をして、足をコタツから出した。血管が浮き出た白い足が、二倍にふくれあがっている。 「こりゃ、ひどい」  健が畳の上にしゃがみ込んだ。政代の足にそっと触れる。 「痛みますか」 「かなりね……」 「やっぱり救急病院に行った方がいい。すぐに先生に見せなきゃ。おい、真由美、お前このへんの救急病院の番号、わかるか」 「わからないわ」 「真由美さん、電話帳の第一ページに出てるけど、そのうちの寺沢外科っていうのが、昔からのかかりつけなの。行けばなんとかしてくれると思うけど……」 「救急車はよばなくていいですか」 「とんでもない」  政代はあわてて手を振った。 「こんな時間に来てもらったら、近所中が目をさましてしまうわよ。タクシーをよんでくれれば、私一人で行くわ」 「そんなこと出来ませんよ。僕が一緒に行きます。ちょっと待ってください。おい、真由美、タクシー会社に電話を」 「はい」  真由美がダイヤルをまわしている間に、健は二階に駆け上がっていった。 「ごめんなさいね、起こしちゃって」 「とんでもない。そんなことよりだいじょうぶですか」 「なんとかなりそう……。悪いけど着替えるのを手伝ってくれないかしら」  政代はネルの寝巻きの下に、肌色のスリップを着ていた。胸のレースを見た時、静岡の母はどんな下着を着ていただろうかと不意に真由美は思った。たぶん、長袖の木綿だろう。寒い時には毛の混じったものも着ているかもしれない。それにひきかえ、政代の寝着の下に隠されていたなまなましさといったらどうだろう。  政代は別段恥ずかしがるふうでもなく、スリップ姿のままベッドに腰かけた。真由美に着ていくものを指示する。 「洋服ダンスの真中へんに、毛糸のワンピースがあると思うの。そう、それを出してくれる。脱ぎ着もラクだし、それを着ていきましょう」  その上に真由美はコートを着せた。 「だいじょうぶですか。立ち上がれます? 腕を私の肩にまわしてください」  二人が立ち上がろうとする前に、健が寝室をノックした。 「車が来ましたよ。寒いからたっぷり着た方がいい」  ジーンズに着替え、ダッフルコートをまとった健の口からもれる息が白い。 「さあ、行きましょう」  健は政代の腕を自分の肩にまきつける。ごく自然に政代の手は、真由美の肩から離れた。重心をすっかり健のほうにあずける。そのまま、五、六歩歩いた。 「よいしょ」  かけ声をかけたかと思うと、健はひょいと政代を抱き上げたのだ。それはとっさの出来ごとで、真由美と政代、二人の女はただ口をぱくぱくさせただけだ。 「真由美、ドアを開けて。早く」 「はい」  とっさに返事をしていた。自分の目の前で、健が他の女を抱き上げたことにショックがあった。たとえ老婆でもだ。そして政代ときたら、真由美は見てしまったのだ。照れと晴れがましさで、政代の頬は赤くなっていた。こらえよう、こらえようとしても、笑みのようなものが唇にうかんでいた。それを彼女は、痛みをこらえているためだと見せかけようとしたが、あきらかに失敗している。なぜなら、目があれほどうるんだりはしないはずだ。 「じゃ、すぐもどってくる。病院から電話入れるから」  そう健が言った時、政代も同時に頷いた。真由美の労をねぎらっているとも、命を下しているともとれる。  さっきまで自分の髪にまきついていた手が、いまは政代の幅のある腰をささえている。そのことについて、あまり深く考えるのはよそうと真由美が思ったのはずっと後だ。 「バカバカしい。そんなことがあるわけないじゃないの」  貴子はげらげらと声をたてて笑った。彼女は真由美と同じく、フリーでレイアウトの仕事をしている。 「六十のおばあさんが、あなたの彼を好きみたいだって……。いくらいい男と一緒だからって、そこまでヤキモチやくことはないんじゃない」 「違うのよ、そんなんじゃないのよ」  どう言ったら説明できるのだろうか。  政代の捻挫《ねんざ》は思っていたよりもずっと複雑で、年寄りだから時間もかかるということだった。近くの接骨医へ通う政代を、毎日健が送っていくようになったのは、今考えてもおかしな話だ。 「健さんが会社に行く時に、私を途中で降ろしてもらえないかしら。タクシー代はこちらで払うから」  そう政代が頼んだという話を、真由美は健自身の口から聞いた。 「なにもあなたがそんなことまでしなくたっていいんじゃないの」 「何言ってるんだよ」  健は本気で腹を立てた。 「他に誰もいないんだよ。息子さんたちとも遠く離れてるし、僕たちが出来ることはやってあげなきゃ」  もう抱きかかえるようなことはなかったが、健の腕はいつも政代の腕の中にあった。  二人がからまるようにしてタクシーに乗り込む光景は、真由美にとって滑稽と腹立たしさが入り混じるものとなっている。今では、政代はわざとびっこをひいているのではないかと思うほどだ。  病院に行く時政代は薄く口紅をひき、目立たないようにおしゃれをしていた。 「じゃ行ってきますね。健さんをお借りするわ。じゃ、またね」  と真由美に言う声も若やいでいる。 「いいじゃないの。おばあさんが若い男と出かけるんで嬉しいのよ。そのくらい当然じゃないの」  こともなげにいう貴子に、真由美はもどかしさのあまりにいらだつ。  政代はふつうの老婆とは違うのだ。まだ自分は若く、十分に男を魅《ひ》きつけられると思っている。というよりも、景子のいうとおり、自分が年老いたことが理解できないといった方が正しいかもしれない。  あれはいつ頃だったろうか。車のセールスマンをしているという男が、政代を訪ねてきたことがある。なんでも政代の息子に車を売って以来の仲だという。  童顔の大男は、政代の手料理を食べ、「お母さん、お母さん」を連発しているうちに、ころっと酔ってしまった。 「仕方ないわねぇ。今日泊まってく?」  怒鳴るように言いながら、政代の手は男の靴下を脱がせていた。それはむしろ微笑ましい光景だったと真由美は記憶している。  驚いたのは次の日の朝だ。政代の目は真赤に充血していたのだ。 「昨夜、男の人が隣りの部屋に寝てたから、私心配で眠れなかったのよ」  呆然とする真由美に気づかないらしく、政代はさらに言葉を重ねた。 「あの人っていやらしいんだから。私のからだをべたべた触ったりして。昨日は可哀想だから泊めてあげたけど、今度はどんなに遅くなっても帰ってもらうわ」  その話に、貴子はさらに声をたてて笑った。 「素敵なおばあさんじゃないの。女たるもの、年をとってもそのくらいの自信を持ちたいわ」  冗談じゃないわと真由美は思う。自信だろうとナルシズムを持とうと、その容《い》れ物は老いさらばえた肉体なのだ。そのアンバランスは、身近に見ているものにとっては醜悪以外の何ものでもないのだ。 「健さん」  と政代は呼ぶ。足をくじいてから、政代は健とずっと親しくなっていたのだ。  夜、じっと耳をこらしていると、二人の喋る声がする。帰ってくる健を、引き戸のところで政代は待ち構えているらしい。二、三分の立ち話をしている間、政代はまるで少女のような笑い声を三回もたてた。 「可愛いおばさんだよな。箱入り娘が年とるとあんなふうになるのかな。結婚してからも、ご主人や息子に大切にされてきたって感じだ」  この頃、健も政代のことをそんなふうに話すようになった。 「あの人を見てると、人間っていうのは年齢なんていう定規ではかれないってつくづく思うね。内山のおばさんは、チャレンジ精神とか好奇心は絶対に若い人以上だよ。あの年齢でスポーツをしたり、海外旅行にもどんどん行くんだから大したもんだと思わないか」 「ただみじめなだけよ、そんなの」  鋭い言葉でうち消していた。 「だって、いくら心が若くたって、六十歳は六十歳なのよ。もう男の人から相手にされることだってないわ。それなのに、心は若い若いって自分に言いきかせているんだもの。私、あきらめることを知らない人は、やっぱりみじめだと思う」 「そう言うなよ。彼女の明るさっていうのはねぇ、そう単純なものじゃないはずだよ」 「彼女ですって──」  真由美は大きな声をあげた。 「ま、彼女ですって。驚いちゃうわ。あんな年寄りのことを彼女ですって」 「そんな言い方やめろよ。僕はただ第三人称として使っただけなんだから」 「わかりました。その彼女がどうしたの」 「真由美、ちょっと君おかしいよ。このあいだまで、まるで母子みたいに仲よくしてたじゃないか。しょっちゅう二人でお茶ばっかり飲んでさ。それが急に悪口言うようになったんだぜ」 「私、悪口なんか言ってない。ただ、ああいう人を見るとイライラしちゃうだけよ」  健はそれっきり黙ったが、不機嫌になったのはすぐにわかった。  ぼってりした雲が春の訪れを告げていた。そうはいうものの風はまだ冷たい。二人が階段を降りたとたん、例の引き戸がガラッと開いた。 「まあ、今日はどちらまで」 「僕たち、披露宴の引き出物を選びに行くんですよ」  健は真由美の分まで愛想をよくしようと努力していた。 「ちょっと、お茶でも飲んできなさいよ。ね、いいじゃない」 「はい、ありがとうございます」  真由美がなにか合図を送ろうとする前に、さっさと健は茶の間に入っていった。真由美も仕方なく後をついていく。 「いよいよねぇ。いろいろ準備が大変でしょう」 「そうでもありませんよ。僕たちがやるのは、金がかからない簡略結婚ですから」 「でも、お父さまたちがよくご承知になったわね。青山の隆希堂さんだったら、どんな披露宴でも開けるでしょうに。うちのパパが、確かおたくのお兄さまの結婚式にご招待されたのよね。オークラでしたっけ」 「いいえ、東京プリンスです。あの時は、素晴らしい祝辞をいただいたって、両親が喜んでました」  健と真由美の前に、香り高い日本茶と桜餅が置かれた。 「僕、甘いものは苦手だけど、これだけはするっと入っちゃうんです」 「梅林堂のものよ。もうひとついかが」 「梅林堂か、懐かしいなあ。ここの渋谷の店によくつれていってもらいましたよ。おふくろが買い物をしている最中、おとなしくしてると、ごほうびに何かあそこで食べさせてくれるんですよね」 「梅林堂か……。私もあそこにはしょっちゅう行ってたわ。確かあの頃は、西武の裏側にあったはずだわ」 「今は�スペイン通り�っていいますけどちゃんとありますよ。だけどあんまり流行《はや》ってないみたいですね。歩いているのが若い人ばかりだし……」 「そう、おたくのお父さまも同じようなことをおっしゃってたわ。年寄りの商売には、年寄りが歩いていないことには話にならないって。それにしてもお父さまはおえらいわ。青山の隆希堂さんとして、やりたいことや言いたいこともいっぱいあるでしょうに、すべて若い人たちにまかせるなんてね。今日の引き出物も二人だけで選ぶの」 「そうなんです。何がいいでしょうかねぇ」  健が軽く問うたにもかかわらず、政代の顔は急に真剣になり、そのかわり唇はゆるむ。自分の得意なことを教えたい時の政代の癖だった。 「そうねぇ、あなたたちの披露宴となると、マスコミをやってらっしゃるような若い方がやっぱり多いんでしょう」 「そうです」 「だったら、しゃれて小さいものがいいわねぇ。いくらいいものでも、大きかったらだいなしだわ。ああいう大きい引き出物は、田舎だったらありがたがられるんでしょうけど、都会の人はバカにしますからね。それになんといっても、健さんは隆希堂さんの息子さんなんですもの。そうセンスの悪いものを選んではダメよ。私の友だちのお嬢さんが帝国ホテルで式を挙げた時、引き出物はボールペンだったの。でもそれはクロスのものでね、それはそれは評判がよかったわ」 「まあ、僕たちは金がない分、アイデアで勝負しますよ」  健が腰をうかし始めたのは、さっきからひと言も口を聞かない真由美を気にしているからに違いない。 「あまり遅くなるとデパートが混んでくるんで、そろそろ行きます」 「じゃあ、気をつけてね。あ、桜餅もっと召しあがる?」 「は、はい、ありがとうございます」 「じゃ、紙に包んで階段のところへ置いときますから、後で持っていってね」  玄関を出るなり、健は真出美の顔を指ではじいた。 「真由美、なんだよ。にこりともしないで。ああいう態度とるなよな」 「健ちゃんも、本当にいやらしい」  真由美は大きなストールを後ろにはじいた。鼻がつんとくるのは風のせいばかりではない。 「気づかないの。私、あの人に徹底的にバカにされてるのよ。どうせ私は田舎者よ。大きい引き出物をありがたがるわよ。でも、それがどうしたっていうのよ」 「よせよ。内山さんはそんなつもりじゃないよ」 「嘘、あの人はかなりの知能犯なんだから。私は今までいろんな目にあってきて知ってるわ。それになによ健ちゃんったら。ふうーん、桜餅が好きだったの。東京の人たちって気が合うのね。もう昔話に花が咲くわよねぇ」  芽ぶき始めた並木道の真中で、二人はしばらく睨《にら》み合った。 「健ちゃん、私あの家出たい」 「え、そんな」 「本当よ。私、新婚生活はもっとスカッとしたところからスタートさせたいの。あんなお化け屋敷みたいなところはもうたくさん」 「真由美、君は内山さんのことを誤解してるよ。このあいだも父から聞いたんだけど、彼女、君のことをほめちぎったそうだよ。あんなやさしい人はいない。真由美さんがいるから淋しくなくなったってね」 「そこがあの人のずるいところよ。そうやって自分は絶対に悪者にしたくないの。その代わり、友だちにはたぶんこう言ってるはずよ。育ちの悪い田舎娘が、東京のいいとこの息子をつかまえた。私あの二人見ていられないわ……ってね。あの人の悪口のいい方っていつもそうだもの。自分たちは東京の特別な階級、そうでない人間はみんな認めないのがあの人の性格よ」 「おい、よせよ。真由美だってここに引っ越してきた時、あんなに喜んでたじゃないか」 「そうよ。バカみたいにはしゃいでたわ。そうだからって、いまいろんなことを我慢しなけりゃならないってことはないでしょう。ねぇ、引き出物を探すついでに、不動産屋にも行ってみよう」  いつのまにか振りかえっていた。午前のやわらかい光の中、内山家の屋根が見える。政代はあそこから離れることはできないのだ。それにひきかえ、自分たちは明日にでもそこから飛び立つことができるのだ。そして政代は逃げられた二羽の小鳥のことを口惜しく思いながら、これから先ひとりで暮らしていくのだろう。  出ていく時は突然にしようと真由美は思った。政代はどれほど怒り、そして悲しがるだろう。その表情を思いうかべるたびに、ぞくっとするほどの快感がわき起こる。 「どうして私と勝負しようなんて思ったのかしら、あの人」  自分の方がはるかに若く美しく、そして男から愛されている。それなのに政代は、真由美と同じことを欲し始めたのだ。 「だから無理がきちゃったのよ。それで私たち、こういうふうになっちゃったのよ」 「えっ」 「ううん、ひとりごと」  真由美は腕を健のそれにからみつけた。そしてそんな自分たち二人を、政代があの家の窓から見ているといいなと真由美は思った。  用意は周到に行なわれた。真由美はドレスの仮縫いや美顔をこなしながら、さまざまな不動産屋をまわった。その中で真由美が○印をつけたのは、三軒茶屋のマンションだった。  商店街から離れたところにあり、前に児童公園があるのが気に入った。間取りは二DKといっても、いま居るところよりはずっと狭い。ダイニングルームが六畳もないからだ。しかし、この場所で十一万という家賃は確かに安く、真由美は今週中に必ず来るからといって手付けをうっておいた。  D町の駅前は桜が花をつけ始めていた。白い小さな花は香りがあまり無い。けれども、薄いたそがれの中にうかぶ花として、これほどふさわしいものはないような気がした。  その向こうには白壁の邸が見える。並木道はゆるゆると黒塗りの車が走り去るところだった。  本当に美しい町だった。けれど自分にふさわしい場所ではなかった。ここに住みたかったばかりに、自分はどれほど多くのみじめさに耐えてきたのだろう。  誰もが最初は田舎者だったのだ。早めに東京に来て、そして成功をおさめた人間たちがさまざまな規則や約束ごとをつくり出していったのだ。自分や自分の子どもたちを、他の人間と区別するために──。  けれどそんなことを恨んでもどうなるものでもない。他人の場所にいじきたなく居座ることだけはやめればいいのだ。  初めてこの町を訪れた時のように、真由美は一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと歩いた。  角を曲がる。内山家の灯が見えてくる、はずだった。しかし植え込みの中の水銀灯も門灯もつけられていない。用心深い政代は、昼間外出する時も、この二つは必ずつけていた。留守の時は真由美に夕方点灯することを約束させた。そのあかりがどちらもついていないのだ。 「ただいま、ただいま帰りました」  台所に続く引き戸に向かって声をかけた。やはり返答がない。政代が出かけているならば電気をつけた方がいいだろう。スイッチのありかはわかっている。真由美は闇の中、そろそろと壁づたいに歩き出した。  その時、チロの鳴き声がした。そして自分を呼ぶ声も。 「真由美さん……」  ぞっとするほど低い。それは政代が自分を呼んでいるのだとわかった瞬間、真由美は恐怖で全身が凍りつきそうになった。返事をしようにも口の中がからからに乾いている。なぜだかわからないが、政代は死んでいると思った。それも自殺だ。自分を恨みながら政代は死んでしまったのだ。 「真由美さん、真由美さん……」  指だけが勝手に動いて部屋のあかりのスイッチを押していた。  政代は生きていた。セーターにスカートという格好のままコタツに横たわっていた。その横でチロが、宗教画に出てくる動物のように身じろぎもせず四肢を揃えている。 「どうなさったんですか」  やっと声が出た。 「ちょっと……、腰が痛くて歩けないの……。痛くってどうしようもない。悪いけど、救急車呼んでくださる。今日は呼んで」  そう言われなくても、真白い政代の顔から、ただごとでないものを真由美は感じとっていた。 「このあいだの外科でいいんですね」 「違う……。太田産婦人科の方に行ってもらってちょうだい。そこの院長先生……」  そう言ったきり、政代はうつぶしてしまった。チロが気が狂ったように吠える中、真由美は自分がどのようにして電話をかけ、救急車を迎え入れたか憶えていない。政代と産婦人科の取り合わせを奇怪に思ったのはずっと後だ。 「内山さんにとっくに、取れ、取れって言ってたんだけどねぇ」  太田産婦人科病院の院長は、せかせかとものを言う男だった。政代とは十年以上のつき合いだという。 「子宮|筋腫《きんしゆ》っていうのはほっとくとタチが悪いのよ。内山さんの場合は年が年だから、そう急に進むことはないと思うけど、いずれちゃんと手術しようっていってたんだ。だけど本人がずっと嫌がっててね」 「そうですかあ」  真由美は早く家に帰ることばかり考えていた。自分一人ではどうすることもできない。  政代の電話帳を調べて、早く仲のいい友人に連絡をつけた方がいい。 「そいでさ、今日手術をやっちゃいますよ。いいでしょ」 「そう私に聞かれても。私、二階にお部屋借りてるだけで、親戚でも何でもないんです。困ります」 「え、あんた、正《ただし》ちゃんのお嫁さんじゃないの」 「正ちゃんって……」 「内山さんの息子さん。このあいだまで一緒に暮らしてたじゃないの」 「ええ、だからその方はアメリカに赴任されて、その後に私たちが入ったんです」 「そんなはずないよ」  医者はあっさりと言った。 「このあいだも銀座で彼にばったり会ったもの……。よし、じゃちょっと内山さんに聞いてみるよ」  まだ事態が呑み込めず、ぼんやりとつっ立っている真由美のところに看護婦が近づいてきた。 「あの、今院長に言われて、私の方から息子さんの方に連絡をしときました。すぐにいらっしゃるそうです」 「そうですか」  その場にうずくまりたいような思いだった。自分の知らなかった大きな秘密が息をふき返し、それがじわじわと圧し始めている。そんな気がした。  正夫婦がやってきたのは、八時になる少し前だった。会社帰りらしく、正は書類カバンを抱えたままだった。目鼻立ちのととのった三十代後半の男で、政代とは全く似ていない。たぶん亡くなった父親似なのだろう。 「このたびはどうも母がお世話になりまして」  折り目正しい挨拶が、いかにも物なれた様子だった。名刺を見ると、有名な商事会社課長の肩書きが刷られていた。 「太田先生のお話では、すぐに手術を始めるそうです。まあ、命にかかわることではないんで安心してますけど」 「あなた──」  正の妻が言った。 「私、ちょっと買い物にまいります。急なことで何も用意してきませんでしたので。まだ店が開いている間にちょっと行ってきます」  三十すぎだろうか。目を見張るほど美しい女だった。品のいい瓜《うり》ざね顔に、切れ長の目と受け口の唇が理想的に配置されていた。ひややかなもの言いが似合う、そんな種類の美貌《びぼう》だった。  妻がいなくなると、男は急に多弁になった。 「そうですかあ……。僕がアメリカにいると言ってましたか」  何度もつぶやくように言う。 「それは本当なんです。でも行ったといっても半年間だけなんです。それですぐに帰ってきましたけどね……」  男は煙草はやらないくせに、なぜか銀製のライターを持っていた。それを握ったり、眺めたりする。 「おふくろはわがままな女でしょう」  突然尋ねた。 「いいえ、その。いいえ、そんなことありません」 「いや、正直におっしゃってくださって結構なんです。死んだ親父が、おふくろのことをそりゃ大切にしてましてね。彼女も娘時代そのままに甘えて頼り切ってた。だから世の中のことを何にも知らないんです。息子が結婚すれば自分たちと一緒に住んで、二人して自分のことをちやほやしてくれると信じてた。そんな女なんですよ」  正はふっと小さく笑った。 「おふくろとしてはね、ちょっと自分の家より下ぐらいのとこのお嫁さんをもらって、D町のしきたりだとか、中流家庭のしつけみたいなものを教え込みたかった。いや、わかりますよ。おふくろはそういうことが異常に好きなんです。お手伝いが昔はちっとも居つかなかった。だから、僕が結婚するのを、おふくろは手ぐすねひいて待ってたんですよ。彼女にとって、D町に昔から住んでいて、そういう階級の一人だと思うことが、たった一つの生き甲斐で誇りだったんです。ところが──」  正は妻が去った戸口の方をちらっと見た。 「僕がいまの女房と結婚することになったんです。妻は副社長の娘でした。生まれも育ちもおふくろより、ずっと上の女だったんですね。おふくろは可哀想に、どう接していいのかまるっきりわからなくなってしまったんです。一時期はまるで女中のようにへりくだってみたり、そうかと思うとえばりちらしてみたり……。おふくろというのは、平常心というのがまるっきりない人間ですからね。つまり、今まで自分がやっていた見栄や、鼻もちならない上流ごっこのツケが急にまわってきたんですよ。このままでは両方の神経がダメになると、僕は家を出る決心したんですけどね。そうですか、アメリカに行ってるって言ってましたか」  この最後の部分を正は何度も繰り返した。  その時、車のきしむ音が聞こえたかと思うと、看護婦に囲まれたベッドが近づいてきた。  政代が横たわっている。すぼまった口は、彼女を八十歳とも九十歳ともつかない老婆に見せた。政代が入れ歯だったということを真由美は初めて知ったのだ。 「お母さん、僕だよ、正だよ」  それでも声が聞こえるのか、かすかに笑った。シーツにくるまれた政代は、力つきたように眠っていた。こんな小さなからだから、さまざまな悪意や嘘が生まれたことなど、信じられないほどたよりない。  こうして蛍光灯の下で見ると、シワが幾本にも横切っている。あおむけになっているから白髪が目立つ。政代は死とこれほど近くにいたのだ。それでもなお、女であることを声高にわめいていたのだ。  手術室の扉が開いた。子宮をとられるために、政代は音をたてて部屋の中に入っていった。 「どうしましたか」  正の手がいつのまにか肩に置かれていた。 「いいえ、なんでもありません」  真由美は首を横にふった。どうして泣いているかを話しても、おそらく男にはわからないに違いない。そしてこのことは健にも黙っていようと彼女は決心した。  さっきから、健の手が真由美の膝をつついている。花嫁のくせに、あまり食べるなという合図なのだろう。  ビュッフェ式の気軽な披露宴には二百人以上の客が集まってくれた。友人のデザイナーに頼んでつくってもらったウェディングドレスはとても評判がいい。たくさんのフリルが、顔をとても愛らしく見せるといわれた。 「それでは、次の来賓《らいひん》の方のお祝辞をいただきましょう」  司会の男は健の同僚だ。 「二人が結婚の予行練習をなさった時からの──」  みながドッと笑った。 「下宿のおばさんであり、今なお二人の母親替わりとして君臨されている内山政代さまです。どうぞ」  豪華な扇面《せんめん》を織り出した江戸褄《えどづま》を着た政代は、気取ってマイクの前にすすんだ。 「健さん、真由美さん、おめでとうございます。今日は私、嬉しくって嬉しくって涙が出そう。初めてお二人がうちに越してきた時から、私たちはすぐに家族のようになりましたねぇ。私は特に真由美さんのやさしさにどれほど慰められたことでしょう。今日も朝出ていく時、二人は私にいろんな注意をしてくれました。それは私が病み上がりなので、あまり食べすぎたり、飲みすぎたりしないようにということです」会場から暖かい笑いがもれた。「私の目から見て、健さんと真由美さんっていうのは最高のカップルですね。環境の違った二人がより添って暮らしていくのが結婚ですけれど、お二人はそれをプラスの方向へいくように努力されています」  政代のスピーチを聞きながら、真由美は突然奇妙な気持ちになった。あまりにもタイミングがよすぎる。真由美が家を出ていこうとした日に、政代が子宮をとるために入院した。そして正の出現。あれでさまざまな謎がとけたのだが、あれはあまりにも政代にとって都合がよすぎる話ではないだろうか。すべてのことは偶然だったのだろうか。 「こうなりましたからには、一日も早く、孫を抱かせていただきたいと思っております」  こう言った後で、政代は丸い目を照れたように動かしてみせた。それはずるいとも可愛いともとれる、彼女独特の表情だった。 単行本 昭和六十一年九月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成元年七月十日刊