[#表紙(表紙.jpg)] 林 真理子 本朝金瓶梅 目 次  第一話 おきん、西門屋と出会うの巻  第二話 おきん、間男をするの巻  第三話 おきん、美味い河豚を食べるの巻  第四話 おきん、芝居見物に行くの巻  第五話 慶左衛門、大奥の女を誘うの巻  第六話 おきん、子授け寺へ行くの巻  第七話 慶左衛門、跡継ぎが生まれるの巻  第八話 慶左衛門、柳屋お花とわりない仲になるの巻  第九話 慶左衛門、女力持ちと寝るの巻  第十話 おきん、百物語をするの巻  第十一話 慶左衛門、枕絵を描かせるの巻  第十二話 おりん、武松に殺されるの巻 [#改ページ]   第一話 おきん、西門屋と出会うの巻 [#ここから1字下げ] ヤアー恋路の闇に迷うた我が身、道も法も聞く耳持たぬ。 もうこの上は俊徳様、何れなりとも連れのいて、恋の一念通さでおこうか。 邪魔しやったら、赦さぬぞ。 (「摂州合邦辻」) [#ここで字下げ終わり]  さて、いつの世にも、色ごとが好きな者はいくらでもおります。その好きさ加減というものは尋常ではない。まわりの人間も巻き込み、殴り倒し、好きな相手を手に入れるためには、もう気がおかしくなったかと思うほどの執着ぶり。  近くにいれば迷惑この上ないものでございますが、遠くから見聞きしている分には、面白くおかしく、こちらの胸ももやりもやりとしてまいります。なにしろ色ごとが常軌を逸して好きな輩《やから》というものは、たいていは非業の死を遂げることになっており、畳の上で死ねません。それを思えば、色ごとなどほどほどに、つまらぬ人生をおくることになっているこちらも浮かばれるというものでございます。  しかしあちらの世界の人間となり、思う存分に色ごとにふける、ということを一度でもしたいと思うのもこれまた凡夫の浅ましさ。せめて生きている間に、色ごとの強《ごう》の者たちの物語を語り合い、呆れたり、羨んだり、嗤《わら》ったりいたそうではありませんか。  西門屋慶左衛門《にしもんやけいざえもん》といえば、そのご大層な名から、どれほど由緒ある大店《おおだな》かと思いきや、「検校《けんぎよう》貸し」上がりの二代目と、蔵前では知らぬ者はおりますまい。  先の検校さまは、七年前に亡くなりましたけれども、その際に歓声を上げた者は数知れぬと言われております。なにしろお上《かみ》のお墨付きをいただき、江戸中の盲人を束ねる検校さま。それをいいことに、やりたい放題の金貸し業だったのでございます。目をむくような高利で貸し付け、払えないとなると病人の布団までひっぱがす。こっそりの殺しなど日常茶飯事。女房や娘がいれば、大喜びでどこかへ叩き売る。その前に必ず毒見をするというのが、検校さまの悪い癖だったということです。  あれは検校さまが五十二の頃、いつものように裏長屋の小娘に手をつけました。ところがこの十四の小娘、びっくりするほどの器量よしだったうえに、あちらの味もなかなかだったようでございます。そこらの私娼窟《じごく》にでも売るつもりだったのですが、しばらく手元に置くうち、なんとこの小娘が妊《はら》んでしまったのだから、検校さまは驚いた。寝た女は数知れないというのに、検校さまにはお子がひとりもいなかったのでございます。検校さまは大喜び。女房を追い出してこの小娘を正妻に直すほどの浮かれぶりでございました。  そして生まれたのが慶左衛門なのでございます。「親の因果が子に報い」、それまでの悪業がすべて子どもにのり移れば、勧善懲悪の物語になるのでございますが、生まれた赤子は光り輝くような美しい男の子だったのでございます。全く女の力というのはたいしたものです。怪異な容貌の検校さまの子種から、あのような顔のお子をつくったのですから。  今、慶左衛門は三十一歳の男盛り、親の金で株を買ってもらい、始めた札差《ふださし》業もうまく運び、たいした景気でございます。  なにしろ札差というのは、米百俵に三分の手数料というのですから、何万俵も扱えばそれこそうまい商売。おまけに西門屋は金貸しも兼ねているのですから、お金はそれこそ蔵にうなるほどでございましょう。  ところでこの慶左衛門、親に輪をかけた女好き。親の頃と違って生まれつき金はあるわ、顔はいいわ、とすべて揃っているのですから、女が寄ってくるのはあたり前の話です。けれども「好き者」というのは、寄ってくる女だけでは決して満足いたしません。あちこちで噂を聞いては、その女をものにしようと心を砕く、金を遣う。それがなんとも楽しいようでございます。  慶左衛門は女房の他に、吉原の花魁《おいらん》、浅草の芸者、そのうえ囲い者もおりますが、こんなことで足りる男ではありません。店の者とは別に、いつも手元に小悪党をひとりふたり置き、用心棒をやらせながら江戸中のいい女を探らせております。  そんなある日、汐留の熊という子分が耳よりの話を持ってまいりました。富岡八幡宮参道のようじ屋に、それはそれはいい女がいるというのです。人妻と聞いても、慶左衛門は決してがっかりいたしません。美人の娘や女房が看板のようじ屋ならば、もの堅い女がいるはずもない。男の目にさらされることに慣れている、充分その気の女だろうと、すぐいいように考えるのが、慶左衛門の慶左衛門たるゆえんでございます。  さっそく熊を連れ、ふらりふらりと歩いていくことにいたしました。  仙台堀にかかる亀久橋を渡ると、八幡さまはすぐそこでございます。八幡さまのお膝元といえば、辰巳《たつみ》芸者でねんごろになった女も何人かおりますが、今日は寄らないことにいたしましょう。  そしてめあての店の前に立った慶左衛門は思わずうなっております。ぐるり落としの髪に、縞縮緬《しまちりめん》。これまた流行《はや》りの黒繻子《くろじゆす》の帯という粋なつくり。しどけなく座る裾からは、緋《ひ》の襦袢《じゆばん》がちらりと見える。そして顔といえば、色白の丸顔に、眠たげな切れ長の目が何とも色っぽい。二十三、四の中年増《ちゆうどしま》といったところも好ましく、慶左衛門はうっとりと眺めておりました。  女は女で、まず贅沢な繻子足袋が目に入った。そして顔を上げると、しゃれた短い仕立ての黒八丈の羽織、路考茶《ろこうちや》の縮緬。博多の帯のあたりからは、香を浸み込ませたかおりもして、まずは見事な男ぶり。顔の立派さときたら、言うまでもありません。これは上客だと、女はにっこりと笑いました。 「どうぞ、旦那さん、ようじを見ていってくださいよ。これは深川いち、いいえ、江戸でいちばんといわれる職人の細工したものでございますよ」  女が取り出したようじを慶左衛門は掌に置き、いやらしい手つきで撫でました。そこで女はくすくす笑い、商談成立といいたいところですが、ここに問題がありました。  女の名はおきん。父親は神田|連雀《れんじやく》町で仕立屋をしていたのですが、三度の飯よりも好きな賭けごとがたたって、にっちもさっちもいかなくなりました。挙げ句の果てに年端もいかない娘を、七十の爺さんの妾《めかけ》に差し出したというのですから呆れた話です。  ところがこの娘、どこでどう覚えたのか、この七十の爺さんをすっかり蕩《たら》し込み、たんまり金をせしめた末に捨ててしまったのです。その金でさんざん「役者買い」をした後は、彦次という与太者の女房となってようじ屋の店先に立つ毎日。  まあ、おきんといい、慶左衛門といい、同じ土俵に立つべき二人といったところでしょう。慶左衛門は、女の袖口からむっちりした手首がのぞいているのを見ました。白いすべすべした肌です。脂がたっぷりのっていて、慶左衛門はすっかり嬉しくなりました。 「一盗二婢」という言葉がありますとおり、色ごとの醍醐味《だいごみ》は、人の女房といたすことのようであります。「妻敵討《めがたきうち》」「姦夫姦婦両成敗」などというのは武士のお話で、不義を働いた男や女を死罪にしていたら、それこそ江戸の人口は三割方減ってしまうに違いありません。町民の方は「間男《まおとこ》七両二分」と申しまして、まあたいていの場合、金で片がつくようになっております。  そこに目をつけたのが、おきんの亭主の彦次でございます。こちらは手なぐさみの大好きな根っからの遊び人。しょっちゅう金に困っております。そこで考えついたのが、女房のおきんを使って、好き者の男たちから金を巻き上げることだったのです。  おきんめあてに通ってくる男たちの中から、金があるのにうぶいところがある男、知られては困る女房や主人を持つ男、というものを調べ上げ、これと狙いを定めます。そしておきんが、いかにも気のありそうなふりをし、どこかの茶屋にでもしけ込もうという算段になります。酒も入り、いよいよ男がおきんの帯を解こうかという瞬間、襖をがらりと開けて彦次が入ってきます。 「待ちやがれ。人の女房に手をかけようとはふてえ野郎だ」  この時男は美人局《つつもたせ》だとすぐに気づくのですが、もう後の祭り。いかにも与太者といった風体の彦次を見ると、震え上がってかなりの金を差し出すことになるのです。  おきんのところに、西門屋が通ってきていると聞いて、彦次はしめたと思いました。西門屋と言えば、近頃評判の大金持ち、「検校貸し」上がりというからには、どうせ阿漕《あこぎ》なことをして身代《しんだい》を築いたに違いない。そういう輩から多少のものを巻き上げたとしても、どうして悪いことがありましょう。そして彦次はおきんに、 「お前、いつものようにやってくれねえか」  と持ちかけたわけです。  おきんは、いいよと答えたものの、少々惜しい気がしてなりません。いくら金のために男を騙しているといっても、そこは生身の女です。酒を差しつ差されつし、やさしい言葉で口説かれ、口吸いもし、股の間がじんわりと温かく濡れてくる頃、やおら亭主が現れ無粋なことが始まります。ちょうどうまいご馳走を口元まで持っていこうとした瞬間、横合いからさっとさらわれるようなものです。  なにしろ女房に美人局の片棒を担がせながら、彦次というのは並はずれた焼餅やき。 「もしも間男をつくるようなことがあったら、ただじゃおかねえ」  とおきんを脅すのです。長屋に住む髪の薄い貧相な女たちも、亭主に隠れてこっそりと浮気をしているご時勢なのにと、おきんは口惜しくてたまりません。  そして慶左衛門の男ぶりを思い出すたびに、今度もまたおあずけをくらうかと思うと、何やら胸がむかむかしてまいります。そこでこの女が考えつきましたことは、 「例の仕事をする前に、ちょっとつまみ食いをしよう」  ということでありました。  夕方、いつものように慶左衛門が伴《とも》も連れずにぶらりとやってきます。いりもしないようじを五本も買った後、おきんと世間話をしていくのです。そしていつのまにか、話はおきんのこととなり、慶左衛門は臆面もなく、女の髪の結い方がよいだの、着物がしゃれているなどと誉めそやします。 「やめてくださいよ。こんなしがない暮らしをしているんですから、何度も水をくぐった古いもんばかしですよ」 「そいつはいけねえや、ねえさん」  慶左衛門は言います、 「あんたみたいな器量よしは、それこそどっかのお店《たな》へ行って、好きなもんを好きなだけ買わなけりゃね」 「そんなお金《あし》がいったいどこにあるんですか」  女は軽く慶左衛門を睨みますが、こうなりますと魚心に水心。男と女の間に、もはや余計な言葉はいりますまい。  慶左衛門が茶屋で逢い引きを持ちかけますと、女は恥ずかし気に笑います。紅を塗った口元から、お歯黒がこぼれて何ともいえないなまめかしさ。これだから人の女房はたまらないと慶左衛門は思いました。  さて、その夜の仕儀《しぎ》は次のとおりです。  慶左衛門、さっそく前をはだけて女の玉門《ぎよくもん》のあたりを見ますと、左右の襞《ひだ》のところまで毛がぴっちりと生えております。世の中には「かわらけ」と言って、無毛の女を絶倫の好き者のように言うけれど、反対にこうした毛深い女もこれまた好き者だわいと、二本の指をじゃわじゃわとかきまわしていきますと、 「アレアレ、もう駄目ですヨ」  と女があえぎ、淫水がそれこそあふれ出してまいります。男はいつもどおり、そのまま陰茎《へのこ》を入れようと思ったのですが、考え直して女の両脚をさらに大きく開き、その中に顔を埋めます。そうしながらも自分の股ぐらの位置を整え、陰茎《へのこ》を女の口へと入れます。ぴちゃぴちゃと奥まで舌を入れ、女の玉門を舐《な》めまわし、そして同時に女の口の中をおのれの陰茎《まら》で突いていきます。  驚いたのはおきんです。遊び人の彦次をはじめ、何人かの男を知っていますが、このような「相舐め」は初めてです。 「アレサ、モウ、やめてくださいヨ。そんな汚ない、恥ずかしいことは、たえられませんヨ」 「何が汚ないことがあるもんか」  慶左衛門は、わざとピチャピチャ、クチャクチャと音をたて、その音を聞いているうちに、おきんは、 「アレ、アレ」  と声をたてようとするのですが、男の陰茎で口はふさがれているので、そのまま気が遠くなってしまいます。  しかし、そんなことで終わる慶左衛門ではありません。ぐったりしているおきんを膝に乗せ、今度は「茶臼」という形で激しく突いていきます。 「ソレ、ソレ。どうだ、いいか、いいか」  ちゃぷん、ちゃぷんと、さっきとはまるで違った音が出ます。といって、おきんがゆるいわけではない。あまりにも淫水が多いために、玉門のあたりに水たまりが出来たのです。 「アレ、アレ、いきますヨー」  こうしたよがり声を、芝居半分でたてることが多かったおきんですが、今夜は本気でたてております。  そしてことが終わり、ぐったりと横たわっている最中、この女は頭の中で算盤《そろばん》をはじきます。あらゆる賭けごとに手を染めて、いつも素寒貧《すかんぴん》の亭主にこれからもずっと働かされ、時々は美人局もやらなくてはいけない。片やお金持ちの床上手《とこじようず》ときている。どちらを選ぶかはあきらかです。  おきんは突然泣き出しました。半裸の体をくねらせ、私はもう生きていけないと泣きじゃくるのです。いったいどうしたのかと尋ねる慶左衛門に、 「もう私のような女は、死んだ方がましですよ」  とさらに大粒の涙。いかような時でも、十五の生娘《きむすめ》のようにふるまえるのが、悪女の手練手管《てれんてくだ》というものでありましょう。おきんは訴えます。ひどい亭主がいて、その男に美人局の片棒を担がせられること。 「旦那も罠にはめるようにと言われたんですけれど、私にはそんなことは出来やしません。なんせ本気で惚れてしまったんですから」  そんな亭主など別れてしまえと慶左衛門が言うと、おきんは怯えたふりをします。 「それがよくない連中とつき合っている男なんでございますよ。もし私と旦那とのことがわかれば、どんなことをするかわかりゃしません。私はこんな身の上ですから、もうどうなったって構やしません。心配なのは旦那の身の上。お名前に傷がついたりしないかって、ただそれだけが案じられてなりませんよ」  それを聞いて、なんて可愛い女なんだろうと、慶左衛門はしっかりと抱き締めます。そして気づいたことですが、ことが終わったばかりの女からは、こうばしいよいにおいがします。おそらく毛深いことと関係があるのでしょう。  あそこの具合も上々だし、この女を離したくないと慶左衛門は思いました。 「そんな男をひとり消すのはわけないことだ」  確かにそのとおりです。出入りのやくざにいくばくかの金を渡せば、博奕《ばくち》上の喧嘩のように見せかけて殺すなどわけはない。  とはいうものの、慶左衛門は考えます。「検校貸し」という悪名を消すために、自分はどれだけ心を砕いてきたか。お武家の方々に出入りしてもらう店にするために、それはもう気も金も遣い、危ない橋を渡らないようにしてきた。今、この女の亭主を殺して、女を妾にしたら、世間はなんと噂するだろうか。女の噂なら、いくら立てられてもいいけれど「人殺し」がからんでくると、あまりにも体裁がよくありません。それならば女を諦めればいいのだが、手放すにはあまりにも惜しい女だと、慶左衛門は淫水が乾いてねばっこくなった自分の拳に目をやります。  そんな男の心に気づいたに違いありません。 「私が何とかいたしましょう」  とおきんが言い出しました。 「そのうちきっといい思案がわいてくるはず。私のために旦那がお手を汚すことはありますまい。そもそもは私が、亭主の悪業に手を貸したのが因果というものでございます」  その替わりとおきんは続けます。もし私の亭主が亡くなったら、きっと私をあなたの妾にしてください。どうか一生お世話してくださいよ。  女はやがてねっとりと脚をからめていきます。自分は慶左衛門のために人殺しも犯してみよう。その替わり見返りもしっかりくださいとおきんは言っているのです。  怖しいと思う心と、欲望とがないまぜになって、慶左衛門の下半身を雄々しくしていきます。こういう女がたまにいるものでございます。その心根の悪さが、かえって男心をかきたてるような女のことです。  とにかく小娘の時から、男を手玉にとって生きてきた女が、イチかバチかの勝負に出てきたわけであります。一筋縄ではいかぬ男と女の戦いは、蛇と虎との一騎打ち、どちらが勝つのか負けるのか。勝っても負けても色ごとですから、どちらもするのは同じこと。慶左衛門とおきんとは、さっそく二回戦に励んだのでございます。  さてそうとは知らない彦次は、さっそく美人局の計画にとりかかります。 「どうだい、西門屋の野郎、今もにやけた顔で通ってくるのかい」 「それがね、この頃は姿を見せないんだよ」  おきんは嘘をつきます。 「あんな男のことだから、他に茶屋の女でも見初《みそ》めてそこに通っているんじゃないだろうかねえ」 「おかしいなあ、このあいだまでお前にぞっこんだったじゃないか」 「そりゃお前さん、私にはあんたっていう人がいるから、すげなくもしない替わりに、心から愛想よくしてるわけでもない。そういう加減が、ああいうお人にはわかるんじゃないだろうかねえ……」  もうすぐこの男が不要になると思うと、いくらでも気持ちのいい言葉を口にすることが出来ます。まことに女というのは不思議なものでございます。  実はおきん、西門屋から南蛮《なんばん》渡来の秘薬を渡されております。これを毎日少しずつ飲むと、中風《ちゆうふう》と全く同じ症状となってある日、ころりと亡くなるというもの。 「自分ひとりの力でなんとかするなんて言ってるが、そのか細い腕じゃ、猫の仔一匹絞め殺すことは出来ないさ」  などと嬉しいことを言って、慶左衛門が渡してくれたものです。おきんはこれを毎日食べ物の中に入れようとしたのですが、遊び人の彦次は、めったに飯を家で食べません。いろいろ考えておきんは、酒屋で極上の酒を買いました。あの慶左衛門、秘薬と共に小遣いもたっぷりと渡してくれていたので、高い酒も造作もないことです。  どんなに彦次が夜遅く帰ってきても、一本つけてやるのを忘れません。ちょうど季節は秋が深くなる頃で、熱い酒の香に彦次は大喜びです。 「こいつはこたえられねぇ。それにしても、いったいどういう風の吹きまわしだい。やけに俺にやさしいじゃないか」 「いやだよお、大切な男にやさしくするのはあたり前じゃないか」  おきんは男にしなだれかかります。殺すと決めてから、おきんは彦次に心底尽くすようになったのですから、まことに女というものはわからない。自分が手にかける男がいとおしくてたまらなくなったのでございます。  こうしてもうじき殺されることになっている男と、殺す算段をしている女とは、毎晩のように酒を酌み交し、その後も仲よくまぐわいます。  ところが酒に溶かしたのがいけなかったのでしょうか、薬は一向に効く気配がありません。秋が過ぎ冬になろうとしていても、彦次は相変わらず元気で、相変わらず悪さをしたり、さいころを振っております。そして思い出したように、 「西門屋の野郎は来ないのかい」  と聞きます。どうやら彼は別のカモを見つけたようです。それは日本橋の大店の番頭で、忠勤に励むあまり、女をほとんど知らないまま中年になろうとしている男。この男が店先に座るおきんにひと目惚れしてしまったのです。彦次はこの男に狙いを定めました。  こうやって誘え、茶屋はあそこにしろ、などと指図するので、おきんはうんざりしてしまいました。うんざりするついでに、あちらの方もうずうずして、慶左衛門に文《ふみ》を託します。首尾よくいくまで会わないことにしていたのですが、おきんはどうにも我慢出来ません。  ほどなく慶左衛門からも文が来て、明日の夜、例の茶屋で待つと書かれてありました。おきんはもう嬉しくてたまりません。前の日は早くから湯屋《ゆや》へ行き、新しい糠《ぬか》袋を買い、流し男に背中を磨かせるめかしぶり。その日は彦次に気づかれぬよう新しい小袖に着替えて家を出ました。  奥の座敷では、床を背にして慶左衛門がひとり酒を飲んでおります。上等そうな毛の羽織、ぞろりとした縞ものはきりりと献上《けんじよう》で締め、惚れぼれするような男ぶり。ああ、会いたかったよと、おきんはすがりつきます。 「一度も顔を見せてくれないとは、あまりにもひどいじゃありませんか。あの約束は忘れて、とうにお見限りになった。私ひとりだけ夫殺しの罪をかぶせ、自分ひとりのうのうとしていらっしゃるかと、私は川に身を投げて死んでしまおうかと思いましたよ」 「何を言いやがる」  さっそくやにさがった慶左衛門は、すぐに裾を割って手を入れます。するとそこはうるおっているというよりも大洪水。毛深い女ですから、毛を伝わって淫水がじわじわと畳に落ちていくのがわかります。 「お前こそ、亭主とよろしくやっていたんじゃないのか。そうでなきゃ、こんなにこなれているはずはない」 「アレ、アレ、何をなさるんですか、旦那、いきなり、やめてくださいヨ」  すっかりその気になった慶左衛門は、帯を解かずに女の裾をまくり上げます。尻までむき出しにして、さて自分の逸物を入れようとした時、襖がさっと開きました。入ってきたのは彦次です。 「どうもおかしいと思っていたら、こういうことだったのかい」  こういう口調は、いつもの美人局と同じですが、違っていたのはその表情です。芝居でやっている時は、まなじりが上がっていてもどこか笑いをぐっとこらえているようなゆるさがありました。ところが今の彦次の顔はひどく青ざめています。冷静に思えるほどですが、しっかりと結ばれた口元はかすかに震えていて、それはおきんが初めて見るものでした。 「お前、西門屋とつるんでこういうことだったのかい。亭主を騙そうたア、もう許しておけねえ。お前らみたいな間夫《まぶ》姦婦は、叩き切ってもいいというのが決まりごとだ」  どこで借りてきたものか、彦次の右手には長鳶《ながとび》が握られています。おきんの胸の中にじわじわと恐怖がわいてきました。短かい夫婦生活ですが、この男の性根《しようね》はわかっているつもりです。ふだんはえへらえへらと暮らしているくせに、腹を立てていくところまでいくと、何を仕出かすかわからない男です。 「ちょっと待っとくれよ」  おきんは叫びます。何か言おうとして前に出ようとすると、慶左衛門を庇《かば》う形になります。 「この男が私を無理やり手籠《てご》めにしようとしたんだよ」  いつものおきんなら、とっさにこう言って誤魔化そうとしたに違いありません。けれどもとっさにおきんは、二人の男を秤《はかり》にかけました。どうせこの場は亭主に言い繕っても、所詮与太者は与太者。こんな男に明日はありません。怒ったところで、乱暴を働き金をせびるのがせいぜいでしょう。ところが慶左衛門は金が生《な》る木。この場のおきんの出方次第では、末長くいいことがありそうです。 「あんたにはもううんざりなんだよ。この場を見られたからには仕方ない。もう煮るなり焼くなりしておくれ」  自分でも驚くような、きっぱりとした啖呵《たんか》が出ました。その時です、うなり声のような音をたてて、彦次が飛びかかってまいりました。あ、やられる、とおきんが覚悟を決めた時です。彦次は奇妙な形で前のめりに倒れ、そのまま動かなくなりました。近寄ってみるともう息をしていません。 「死んでしまった……」  おきんはへなへなとその場にしゃがみ込んでしまいました。 「どうやら薬が効いたらしいな」  と慶左衛門。初めから計画していたこととはいえ、おきんはやはり怖しさのあまり、なかなか立ち上がれない。心のどこかでは、あの薬が効かないことを願っていたのではないかと、急にしおらしいことを考えました。 「どうするんですか、この後」 「まあ、見たとおりのことになるよ」  落ちつきはらって慶左衛門は言いました。 「俺とお前が酒を飲んでいたら、亭主が怒ってやってきた。そして怒り狂ったあまり、中気の病いで死んだ。それだけのことさ」  きっと西門屋ほどの力があれば、町役人などどうにでもなるのだろうと、おきんはやっと安心しました。そして、 「もう明日からは、旦那しか頼る人がいないんだから、よろしくお願いしますよ」  甘えた声を出しました。  そしておきんは、妻妾同居ということで慶左衛門の家に行くことになりますが、この性悪女がどんな波乱を巻き起こしますか、それは次のお楽しみ。 [#改ページ]   第二話 おきん、間男をするの巻  おおっぴらに遊んでいる男の女房というのは、ふた通りに分かれているようでございます。  諦め切ってすべてを許してやる女房と、あるいは婢《はしため》のように扱われて文句ひとつ言えない女房です。慶左衛門の女房お月《つき》は、諦め切っている女房の方でございましょうか。  そもそもお月は、同じ蔵前の札差仲間、芳町の俵屋の娘でございます。慶左衛門の父親が、「検校上がり」の名を消そうと、必死になってまとめた縁談。当時俵屋といえば、あの厳しいご改革の後も、ちゃんと残った老舗《しにせ》の店でございます。このあいだまで検校貸しをしていた西門屋と縁組みをするような家ではありません。  それなのにお月の方で、男前の慶左衛門にすっかりまいってしまったのですから、これが飛んで火に入る夏の虫。女というのは不幸な方、不幸な方へと進んでいくのですから、全く因果なものです。  やがておせいという娘も出来、父親も生きていることもあって、さすがの慶左衛門もそうめったなことは出来ません。ところが、人の世の中というのはまるでやじろべえ、こっちが上がると、こっちが下がるというのがならわしでございます。  蔵前でもたいした力を持っていたお月の父親が、風邪をこじらせてあっけなく亡くなった後、俵屋はすっかりいけなくなりました。跡を継いだ兄は、生まれついての気弱者。悪いお武家さまと手を結んだ悪い奉公人にしてやられ、身代をすっかり傾けてしまったのです。  そうしますと、もう遠慮しなくなったのが慶左衛門という男でございます。何のかんのと気ぶっせいな思いにさせられた自分の父親も亡くなり、そうしますと吉原通いもまめになります。馴じみの女郎どころか、旦那となった芸者もひとりではありません。それどころか両国に、芸人上がりの女を囲うという精勤ぶり。  かわいそうなのは女房のお月で、実家の傾きが心を重くし、恨みつらみもつい喉《のど》の奥に呑み込んでしまいます。愛想を尽かしても戻る家はあんなありさまで、しかも娘がおります。何よりも困ったことに、この女房まだ自分の亭主にいささか惚れているのでございます。  また慶左衛門の方にいたしましても、いろいろな思惑がある。男が遊ぶことは大目に見てもらえても、女房を追い出したりすると、世間の見る目も違ってくることになりましょう。いくら落ちぶれたりといえども、お月は蔵前の札差仲間の娘です。そう邪慳《じやけん》には出来ません。またまわりを見渡しても、妾たちは色ごとにたけているけれども、大店《おおだな》の奥をまとめていけるとも思えませんでした。  そんなわけで、お月との縁を保ちながら、あちこちの女を漁《あさ》るという仕儀になるわけでございます。  さて、亭主をうまく殺し、まんまと慶左衛門の妾になったおきんでございますが、そうめでたしめでたしというわけにはまいりません。聞けば近くに自分と同じような囲い者がいるという話、あれほど苦労し、せつない思いをして長年連れ添った亭主を手にかけたというのに、ただの囲い者になったというのでは、あまりにもつまらぬと考えるようになりました。  そんな時、勤めていたようじ屋の女房お陶《とう》が、おきんにこんなことを吹き込みました。  西門屋のおかみさんというのは、気がきかぬぼんくら者。西門屋さんがあんなに遊ぶというのも、おかみさんに嫌気がさしているからに違いありませんよ。あんた、ただの囲い者になって、旦那が来るのを待っているよりも、いっそのこと家に入ったらどうだろうかねえ。あんたのような利口者だったら、すぐにあの家を切りまわすことが出来ますよ。同じ家の中にいるからこそ、すぐに子どもも授かるというもの。男の子でも生まれれば万々歳、すぐにおかみさんは追い出されて、あんたの天下だよ……。  このようじ屋のおかみというのは、誰も前歴を知らないという、いわくつきの大年増でございます。きつい房州|訛《なま》りがあり、身のしぐさが玄人《くろうと》上がりだとすぐわかります。性悪なことにかけては、おきんといい勝負。西門屋とのことでは自分が中に入り、小銭をせしめようと目論んでいたのでございますが、本人同士が勝手に話を進め、いささか面白くありません。  おきんを家の中に送り込めば、早晩ごたごたが起こるのは目に見えております。そうすれば自分の出番で、手切れ金だ何だので話をつけてやろう。もしおきんがうまくやって正妻に直ったとしても、おこぼれは貰えるはずでございます。とにかくおきんをただの囲い者にするのは、何のうま味もない。あれこれお月の悪口を吹き込むのもそのためでございますが、おきんという女、自分の都合のいいことはすぐに信じ込み、実行するという手合いでございます。さっそく慶左衛門に、家に入りたいと駄々をこね始めた。 「外に家を持たせてもらえば、旦那はめったに来てくれないでしょう。いいえ、いち日おきに来てくれるとしても、私ゃ旦那に会いたくて会いたくて、頭がおかしくなるのはわかっているんでございますよ。あれだけの大店です、私ひとりぐらい置いてくださるのはわけないはずですよ。おかみさんのようにしてくれ、なんて言ってるわけじゃありません。女中や飯炊き女の扱いでいいんです。私はただ旦那のお側にいたいだけなんですよォ」  おきんの殊勝な言葉に、慶左衛門はすっかりやにさがります。おきんの亭主が死んだ後、二人は毎夜のようにまぐわっておりますが、この女の味のよさに慶左衛門はかなり心が奪われております。  どんな素敵な味よしも、いつかはきっと飽きるもの。初ものゆえのおいしさとそろそろわかればよいものを。  昔の人はこんな戯《ざ》れごとを口にしていたようでございますが、まあ亭主を殺したいきさつもあり、まぐわえばまぐわうほど、慶左衛門の陰茎《へのこ》はぴんと立ち、激しく奥へ奥へ突き進んでいくのでございます。  体に悪い食べ物ほどおいしいもの。性悪女ほど味がよいのですから本当に困ったものです。慶左衛門はそれまで、胸も毛も薄い女ばかり相手にしていたのですが、おきんはすっかり違っています。あそこの毛は濃くて、乳も大きい。すんなりとした柳腰だと思っていたものは、いざ裸にすると固い肉がついております。こりこりと音のしそうな太ももで、慶左衛門の尻をはさむのですからもうたまりません。吉原の売れっ子の女郎も、これほどの床上手はいないでしょう。好きで好きで体が勝手に動き、男のものをくわえ込み、あそこ全体でそれをなぶっていくのですから、慶左衛門のような男でもたまりません。  ここはいっそ妻妾同居にして、世間をあっと言わせるのも悪くないかなと、慶左衛門は思うようになりました。  そもそも蔵前の札差というのは、人目をそばだたせることに生甲斐を感じているようなところがございます。みなさんご存知の「助六」でございますが、何年か前中村座で市川三升が演じた時は、蔵前の札差の格好をそのまま真似いたしまして、大層話題になりました。黒の小袖に杏葉牡丹《ぎようようぼたん》の紋、緋の縮緬襦袢という、どんなかぶき者かと思われるような格好を蔵前風と申しまして、この町の男たちの伊達《だて》を示すものでございます。  人にも言われ、慶左衛門も「今《いま》助六」と自惚《うぬぼ》れておりますから、妾を家にひっぱり込むことぐらい構わないのではないかと考えるようになりました。  このことを話しますと、女房のお月は案の定大反対いたします。 「妾を家に引き入れるなどと、そんな外聞の悪いことはおやめください。おせいという娘もいることですし、お前さまもここは了見してください。よそでお遊びになる分には、私は辛棒いたします」  目に涙を浮かべて言うのですが、慶左衛門は、この言い分に腹が立つ。まあ男というものは、自分の方に後ろめたいことがある時、妻のここかしこが気にくわなくなるという困った生き物でございます。 「やかましい。この俺に意見しようっていうのか」  つい声が荒くなり、手も上げそうになったのをまわりの者たちが必死でとめました。かわいそうなのはお月でございます。実家がいけなくなったからといって、夫のこの変わりよう。その夜は死んだ父親のことを思い出し久しぶりに泣いたということです。  そして四日もたたないうちに、おきんがこの家に乗り込んでまいりました。その時刻が近づきますと慶左衛門はそわそわと落ち着きません。離れの部屋を掃除させ、家具も調《ととの》えた。 「妾が来るのがそんなに嬉しいものだろうか。これからおせいに、いったいどう言ったらいいものだろうか」  お月は女中のお春を相手につい愚痴が出ます。考えれば考えるほど口惜しい。実家がいい時には、大切な嫁だからと舅《しゆうと》まで気を遣うほど。二年前に亡くなった姑《しゆうとめ》でさえ、自分には荒い声ひとつたてませんでした。それなのにこの変わりようはどうでしょう。  ほんに人の世はままならぬ、吹き寄せられたり舞わされたり。みんな男という風のせい。  けれども店先に現れたおきんを見て、店の男たちはみんな声にならないどよめきをあげたのでございます。黒繻子の衿《えり》をかけた縞ものを着て、髪は流行のぐるり巻き。色の白さといったら、もうお話にならないくらいです。黒くピカリと光る切れ長の目に、素晴らしいのは唇です。とても小さいけれどもぽってりとした厚味のある唇で、濃い紅が冴えます。夫が亡くなってから歯を染めていないので、真赤な口紅と黒い歯という、あの色気はないというものの、白い歯に桃色の歯ぐきが見え隠れするのも、いかにも好き者という感じで男心を誘います。可哀想に、 「妾を家の中に入れるなんて、外聞が悪くてもう外を歩けやしない」  とお月は泣いております。父親さえ生きていてくれれば、こんなめに遭うこともなかったろうにと、世の中が恨めしくてたまりません。思い余って札差の組役に相談したところ、 「『今助六』と呼ばれる西門屋さんの勢いを、とめることはできますまい。男の浮気は盛りの証。あんたの身の上は、きちんと町内の札差仲間が見ておりますから、うかつなことは出来ますまい。どうせどこの馬の骨ともわからぬ女の類でしょうから、家の中にいればボロをいろいろ出すはず。そうしたらあんたが難癖をつけて追い出せばよいのです」  お月はそれだけを心の頼りに、じっと我慢を重ねております。  さて慶左衛門の方は、女房や店の者の前で、いささか肩肘を張っております。おきんを相手に昼間から酒を飲むというのを、わざとやっているのでございます。  もともと大層口のおごった慶左衛門、近くの料理屋からよく膳を運ばせておりますが、その日の献立は、鯉の吸い物に、ひらめの刺身、秋のことでございますから、鴨《かも》に松茸を焼いたものが皿に。菊の酢のものが彩りを添えております。お取り箸でお相伴しているおきんも大喜び。この女も食べることには目がありません。 「旦那、そろそろ新|蕎麦《そば》が出る頃でございますね。私はあれが大好きなんでございますよ」 「このあたりは、店の若い者をめあてに、よく振売《ふりうり》がやってくるのさ。夜になりゃ、蕎麦屋に汁粉売り、焼き芋売りにおでん、茶漬け屋が声を出す。そりゃあにぎやかなもんだ」 「やっぱり蔵前でございますね。私の住んでいたところは、せいぜいが蕎麦屋でございましたの」 「だけどお前は、店の若い者に混じって振売のものなんか食べるわけにはいかないさ。そのうち俺が耕向亭か橘《たちばな》屋にでも連れていってやろう」 「あれ、旦那、本当でございますか。私は『買物|独《ひとり》案内』を読んでから、一度でいいからああいうところへ行ってみたいと思っていたのでございます」  などといちゃつくうち、口吸いを始め、慶左衛門もついその気になって、奥の部屋へひっ込むということになるのでございます。  けれども二人のそんな蜜月も長く続くわけがありません。やがて寄合いやちょっとしたところで、慶左衛門は札差仲間からあてこすりを言われるようになりました。中でも慶左衛門が我慢出来なかったのは、家に入れた妾に夢中で、すっかり鼻毛を読まれているという噂でございます。  遊んでいる男ほど、女に心を移していると言われると腹を立てるのだから始末に負えません。おそらく勝手に花魁《おいらん》たちに惚れられる助六の男伊達を気取っているのでしょう。  こうなりますと勝手なもので、慶左衛門は他の妾のところへ行くようになります。他にも女はいるのだと虚勢を張っているのですから、男というのは本当に愚かなものでございます。  哀れなのはおきんです。主人のいない時の妾は、実に所在ないもので、奉公人たちもお月に気を遣って無視といわないまでも、余計な口はききません。  おきんにはお秋という小女があてがわれておりましたが、山出しの気のきかない娘で、着物に火熨斗《ひのし》を頼もうなら、二つはこげをつくります。 「何てふざけた真似をするんだ。この小袖はね、あんたの給金十年分をためたって買えるもんじゃないんだよ」  おきんは日頃のいらいらもあり、ついぶってしまいます。そうしますとこの女は、大きな声で泣くのですからおきんもあわてる。 「奉公人のくせに、主人にぶたれたくらいで泣くなんて、いったいどういう了見をしているんだろう」  さらに腹が立ってくるおきんです。ようじ屋のところにでも遊びに行こうと思うのですが、外に出かけることに慶左衛門はいい顔をしません。ちゃんとした大店の女としておさまったからには、めったなことで、外に出てはいけないとのことでございます。  籠の鳥とはあたっている。少々の金と安逸のために、こんな風に閉じ込められてしまうのかと、おきんはむしゃくしゃしてまいります。囲い者というからには、男の金で本当に囲われるわけですが、それでも外に家を持たせてもらっている女は少々の自由はあります。旦那が来ない時に、近所のかみさんのところへ行って、お喋りするくらいは造作もないことでしょう。それなのに自分は、なんと損な道を選んだのだろうかと、おきんは歯ぎしりしたいほどです。  退屈しのぎに本妻のお月をそれとなく観察いたしますと、奥の部屋に陣取り、女中たちにあれこれ指図したり、縫いものをしております。七つになる、とても慶左衛門の娘とも思えない平凡な顔立ちのおせいがおりますが、この子を相手にお手玉をしたり、草子を読んでいることもございます。確かに美人とか、色気のある女ではありませんが、ちんまりとした品のいい顔をしております。ようじ屋の女房が言うように、 「気がきかないぼんくら女」  という風にも思えません。  憎たらしいのはおせいの方で、時たま気まぐれをおこしたおきんが、菓子を片手に機嫌をとろうといたしますと、ただちにベーッと舌をだします。慶左衛門によると誰が教えたわけではない、ということですが、「早く帰れ」と早口に言う憎らしさ。こちらもひっぱたきたいところでございますが、やはり慶左衛門のひとり娘に手を出すわけにはいきません。  そんなおきんの楽しみといえば、店の若い者たちを覗き見ることでありました。男たちはめったに奥の方にはまいりませんが、それでもお月や女中たちにものを伝えたり、あるいは食事の際に台所へ集まるなどと、その気になりさえすれば、中からいい男を心に留めておくぐらいわけないことです。  おきんが中でも気になって仕方ないのは、定吉《さだきち》という手代《てだい》です。中肉中背で色は白く、目元涼やかでなかなかの男前。札差というのは、お武家さまが相手ですから、気のきいた小綺麗な男を置く風がございます。慶左衛門の男ぶりや貫禄にはとてもおよびはつきませんが、若いだけあって定吉の何かとつつましく控えめにふるまう様子も、おきんの好き心をさそいます。 「ああいう男は、いったいどんな風に女を抱くんだろうかねえ」  こういう心は、悪さの始まりといってもよいでしょう。おきんはすれ違うたび、定吉に秋波を送るのですが、あちらは気づかないふりをしております。  ところでおきんの部屋は、一の蔵の隣りにある離れで、ここは以前隠居部屋として使われていたものでございます。渡り廊下で母屋と繋がるようになっておりますが、日中は木の陰になって辛気くさい。最初はお秋に借りにいかせた貸本を読みふけっておりました。ろくに寺小屋にも行っていなかったのですが、おきんという女、本を読むのが大好きでございます。話題の黄表紙は読まずにはいられない。よく声をたてて笑うので、文字がほとんど読めないお秋などは、きょとんとしております。  さて師走が近づいたある日、貸本にも飽きたおきんが、じだらくに寝ころがっておりますと、猫の声が聞こえます。雄が雌を、あるいは雌が雄を恋しがって鳴く太く濁ったあの声です。 「季節はずれに、あんな声を出して」  おきんはぷりぷりしながら下駄をひっかけて外に出ました。このところ慶左衛門に構ってもらえないものですから、猫のこうした声に本当に腹が立つ。石のふたつみっつぶつけてやるつもりでした。  日が暮れた庭はしんとしていて、柿の木に、首つりのように木守《きまもり》がぶらさがっているのもなにやらわびしい風情です。蔵の後ろにまわろうとして、おきんははっと息を呑みました。男と女の二人の影が見えたからです。奉公人の逢い引きだろうかと目を凝らすと、なんと女の方はお月ではありませんか。薄闇に目が慣れてくると、男の横顔も浮かび上がってきます。手代の定吉でした。  これは面白いと、おきんは小躍りしたいような気分になります。なんとお月が間男をしていたのです。お月は深刻そうに定吉に話しかけ、そっと何かを渡します。おそらく恋文か何かでしょう。定吉はそれを懐に大切そうにしまいます。  一緒に住むようになって三月《みつき》、これといって難もない辛気くさい女だと思っていたお月ですが、美男の手代と逢い引きとはなんと大胆なことでしょう。  おきんは抜き足差し足で、自分の部屋に戻ります。しばらくは胸の動悸がおさまりません。ようじ屋のおかみの、 「いずれあんたが、西門屋のおかみさんになればいい」  という言葉が、何度も胸の中に響きます。これほど早く実現するとは、思いもよらないことでありました。おきんは嬉しくてたまりません。秋からずっとこっち、家の中で囲い者となり随分つらい思いをしてまいりました。けれども辛棒した甲斐あって、お月の方でしっぽを出したのでございます。 「だけど待てよ」  おきんは考えます。このまま慶左衛門に、お月が間男をしていると言っても信じてくれるでしょうか。相手が手代の定吉というのが、なおさらつくりごとめいて聞こえるような気がします。 「そうだ、証拠の品を見せればいいんだ」  おきんは庭の方を見ます。いくらなんでも夕方の忙しい時間に、二人がいつまでもでれでれと逢っているはずはありません。おそらくお月が渡したものは、次に会う時の首尾を書いたものでありましょう。あれさえ手に入れれば、おきんは晴れて西門屋のおかみになれるのでございます。  おきんは大きな声でお秋を呼びます。今なら定吉は店に戻ったか、戻らないかというところでしょう。手紙はまだ懐にあるはずです、早いところ手に入れなければなりません。 「ちょっとお願いしたいことがあるから、店に行って定吉さんを呼んできておくれ。いいかい、こっそりとだよ」  やがて現れた定吉は、けげんな顔をしております。こんなことは初めてで、旦那の妾が、どうして自分に用事があるのだろうかと思っている顔です。 「実はねえ、あんたにちょっと聞きたいことがあるのさ」  さて、この次どう言い継ごうかと迷いました。おきんにしては非常に珍しいことですが、とっさにうまい嘘が浮かんでこないのです。ただ男の懐のあたりを見つめております。西門屋は手代まで絹ものを許しておりませんので、定吉もどうということもない木綿の縞を着ております。けれども自分で着付けを工夫しているのか、すっきりと粋がとおっております。その懐のあたりにふくらむものを取り出してみたいと思っているうちに、おきんはなにやらむらむらしてまいりました。そのとたんにこんな言葉がふっと出たのでございます。 「実はね、旦那さんが外で世話している女のことなのだけれどもね……」  ああ、そのことかと定吉はうっすらと笑いました。唇が薄く形がよいので、皮肉な笑いがよく似合うのです。 「あんたなら、いったいどんな女を世話してるのか、女がどこに住んでいるのかわかると思ってねえ」 「いいえ、滅相もありません。たかだか三番手代の私が、どうして旦那さまの女の人のことを存じましょう。私なんぞ全くカヤの外でございますよ」  男は言葉を選びながら喋ります。慶左衛門に何人女がいて、どのあたりに囲っているか、番頭や手代ぐらいならたいてい知っておりますが、この根性が悪そうな妾に喋ったりしたら、どんなに大ごとになるか定吉でなくてもわかることです。しかし根性は悪そうだが、なかなかいい女だと定吉は目の前の女を見つめました。どこかの女房を旦那が見初めて連れてきただけあって、黒くよく光る目にぽってりした唇。衿元からすべすべした肌がのぞいています。  そして男のそんな視線を感じているうち、おきんも次第にやるせない気分になってまいります。こういう時、いつでも泣けるのがおきんの得なところでございます。 「定吉さん、私はとってもつらいのさ。旦那だけを頼りにこの家に入ったのに、おかみさんはちゃんといるし、外にも女が何人もいるっていうじゃないか。私はこの家の中で、みんなに邪慳にされてつらい思いをしている。だからあんたを見込んで、ちょっと話をしてもらいたいと思っているのに、あまりにもつれないじゃないか」  あろうことか、男の膝にわっと泣き伏してしまったのでございます。困ったのは定吉です。ここはおきんひとりが住む離れで、あたりには人の気配もありません。ちょうど店も奥もいちばん忙しい時で、奉公人たちはそれぞれの場所で、くるくる働いている時であります。 「おきんさん、こいつぁ困る。ちょっと顔を上げておくんなさい」  定吉はすっかりうろたえて、おきんを抱き起こそうとしたのですが、はからずも女の肩を抱く形になってしまったのでございます。  今だとおきんは思いました。今だったら男の懐に手を入れて証拠の品を取り出すことが出来ます。ところがどうでしょう、根っから好き者の女というのは、本当に怖しいものでございます。手が勝手に動いて、懐ではなく定吉の裾を割って入ってしまったのです。 「あれ、やめてくださいよ」  男は声を上げましたが、膝を閉じる様子はありません。おきんの指はするすると奥へ入り、やがて晒《さらし》の感触にいきあたりました。男の下帯はすっかり固くなっており、これは相当大きい亀頭《へのこ》だとおきんは見当をつけます。指でしごいてみますと、むくむくと大きくなり、おきんはこういうのを見るのが大好きなのでございます。  定吉も定吉で、こちらも決して堅い一方の男ではありません。時々は吉原の安女郎ぐらいは買っておりますので、目の前の女に前をいじられますとついその気になってしまうのでございます。逃げることもいたしません。  と申しましても、子どもの頃から丁稚《でつち》奉公をし、お店者《たなもの》としての心得はやはり強いものがございます。 「あれ、やめてくださいよ」  と大げさに声を出すものの、自分から女に手を出すことをいたしません。今だったらまだ言い逃れ出来る。もう少し、もう少しだけ楽しんで、いざとなったら逃げればよいという根性が、次第に男の膝をゆるめているのでございます。  さてさて大変なことになりました。おきんの指の遣い方があまりにも巧みなので、定吉の方もつい女の裾を割って指を入れてしまったのでございます。女の太ももまで淫水は流れていて、定吉はつい押し倒したくなる気持ちと必死で戦っております。まことにお店者というのは律義なものでございます。  こうしてこの男と女は、帯を解くこともなく、口吸いと手遊びでいちゃついておりました。が、我慢できなくなった定吉が、おきんの裾をまくり上げようとしたとたん、お待ち、という声がいたしました。入ってきたのはなんとお月ではありませんか。 「旦那のお留守に、よりにもよって手代とこんなことをするなんて、いったいお前さんはどういう根性をしてるんだい」  お秋が渡り廊下の先を、行くことも出来ずうろうろしているところを、不審に思ったお月がやってきたのです。ふだんはおとなしいお月の見幕は凄いもので、まさに仁王立ちしております。けれどもこれにひるむようなおきんではありません。 「ふん、何言ってんだい。間男している女がよく言うよ」  思いきり睨んでやります。 「お前さん、言うにことかいて、何だって、私が間男してるって。どういう了見でそんなことをお言いだい」  お月も形相が変わって、おきんにつかみかからんばかりです。 「私はちゃんと見たのさ。証拠だってここに……」  おきんはすばやく定吉の胸元に手をつっ込みます。確かに包みがありましたが、それはおきんの考えていたよりも、はるかに嵩《かさ》高いものでございました。紫色の袱紗《ふくさ》で、胸から出た拍子にパラパラと小判がこぼれ落ちました。十両はあったでしょうか。 「見られてしまっては仕方ない。それは私がこっそり用立てたもので、実家の兄さんのところへ持っていってもらうつもりだったのさ」  その隙に、着物を直した定吉が、すすっと二人の前を横切ります。そのすばやさといったらありません。罠から逃れたうさぎや狐がとにかく逃げ切ろうとするように、畳の上を走っていきます。 「おかみさん、店が忙しいので、私はこれで」 「ちょいとお待ち」  お月が大きな声で言います。 「あんたを信用して、いつもことづけを頼んでた。あんたは他のことではしっかりしているが、女のことになるとからきし駄目だね。こんな女にひっかかるようじゃ、男としてみっともないよ」 「大きなお世話でございますよ」  答えたのはおきんの方です。 「ちょっと悪戯《いたずら》心を起こしただけじゃございませんか。子ども同士がじゃれ合うようなものでございますよ」 「ふん、子ども同士が口吸いしたり、着物の裾をまくったりするもんかね」  憎まれ口を叩き合いながら、二人の女は相手の腹を探っております。  おきんは手代といちゃついていたところを、慶左衛門に知られたくない。  お月はお月で、実家にへそくりを渡していたところを知られたくない。  お互いに弱味を握られているのです。女たちは目を見交して、幾つかのことを約束し合ったのでございます。本当に女は怖しい。定吉はとうに逃げてしまいました。  そしてこの後、お月とおきんとの間、言いかえれば西門屋に、つかの間の平和がやってくるのでございます。全く女ぐらいずる賢いものがありましょうか。知らぬは亭主ばかり。いつもいろんな取り決めは、女たちだけでこっそりつくられているのです。 [#改ページ]   第三話 おきん、美味い河豚を食べるの巻  さてめでたい正月でございます。  蔵前西門屋でも、正月は一年でいちばん大切な時。さすがの慶左衛門も暮れから正月にかけては、神妙に家におります。初日の出を拝み、若水を汲むなど家長としてやるべきことはやり、屠蘇《とそ》をみなに注いでやるのが恒例でございます。  この場におきんがいるのは、あたり前といえばあたり前でございますが、この女も随分しおらしくなったもの。屠蘇は目下のものから飲むものでございますが、おきんの順序が慶左衛門の娘のおせいよりも先になったのも気にいたしません。  その後はあらたまって慶左衛門にこう挨拶いたします。 「いたらぬ私ではございますが、旦那さまあってこその私。どうか今年もよろしくお願いいたしますでございます」  その次はお月に頭を下げます。 「どうかおかみさんも、私を可愛がってくださいね。せっかく縁あって女がふたりひとつ家に住んでいるのですから、私を妹と思っていろいろ教えてくださいましね」  もちろん年が明けたからといって、この女の性根が急に変わったわけではありません。けれどもおきんは、手代の定吉といちゃついているところをお月に見られております。ここはひたすら下手に出て、慶左衛門に告げ口されないことを願うばかり。  お月の方にしても、おきんのそんな思惑はとうにわかっておりますが、こちらも内緒の金を実家に渡しているという弱味がある。猫をかぶっているとはいえ、おきんがおとなしくなったらそれに越したことはないという判断なのでしょう。 「いやですよ、おきんさん。手を上げてくださいよ」  やさしい声が出ます。 「そりゃ昨年、私とあんたとはいろんなことがあったけども、今年からは女二人手をとり合って、この家を盛り立てていこうじゃありませんか」  どこかの田舎芝居のようなことを言う始末。お月はもともとがお嬢さん育ちでございますから、どこか人のいいところがあります。おきんはそりゃあ素性の悪い女かもしれないが、この家で女主人である自分を頼りにしているのだ。性悪女は性悪なりに、つらい思いをしているのだと、ついやさしい気分になってしまいます。  それを瞬時に読みとったおきんは、つつと膝でお月に近寄ります。 「そうなったらどんなに嬉しいでしょうね。今の言葉でずうっとつらかった私の心も晴れましたよ。ねえ、おかみさん。図々しいんですがお姉さんって呼んでもいいですかね」 「ああ、いいですとも。これからは離ればかりにいないで、私のところへ来てお喋りでもしようじゃないの」  これを見て慶左衛門は複雑な気分。ひょっとして二人で仕組んだ自分へのあてつけではないかと思ったぐらいです。  およそこの世の中で、妾と妻が仲よくして嬉しい男がおりましょうか。激しい仲たがいをされても困るけれども、お互い悋気《りんき》をぐっと抑え、つかず離れずの距離を保ってくれるのが理想ではありますまいか。  けれども元々は、妾を家に引っ張り込んだのは自分。気色悪いことはやめろと、女たちに怒鳴るわけにもいかず、慶左衛門は苛立ってまいります。  そうかといって元旦から吉原へ行くわけにもいかず、慶左衛門はひとり河東節《かとうぶし》などをうなり始めます。「今助六」と呼ばれている慶左衛門なら、やはり河東節のひとつも歌えなくてはと、人から勧められたのが二年前です。忙しさにかまけてめったに稽古に行っていないのですが、いつか「助六」の舞台で、御簾《みす》ごしに歌ってみたいものだと秘かに思っているのです。  せくなせきゃるなさよえ  浮世はな車さよえ  巡る日並みの約束に  籬《まがき》へたちて訪れも  果ては口説かありふれた  手管に落ちて睦言となりふりゆかし 君ゆかし  しんぞ命を揚巻のこれ助六が前渡り  風情なりける次第なり  けれどもそんな慶左衛門の気持ちも知らず、お月は疑っております。今まで夫が、女と儲け話以外に夢中になったのを見たことがありません。河東節のお師匠というのは、やはり女なのかしらん。その女めあてで慶左衛門は通っているのではないか。そして自分のものになったら、おきんの時のように家に入れるのではないか……。  せっかく若水で口をすすいだばかりだというのに、お月の胸は疑念でいっぱいになっていくのですから、全く手に負えません。  女が火をつけ女が燃やし、ひとりじゃ消せない悋気の心。今年も春からそんなもの。  それにひきかえおきんの方は、定吉との一件があってからというもの、囲い者として心が決まっているようでございます。思えば新調してもらったばかりの着物も下着もすべすべとお蚕《かいこ》ぐるみ。このところ口のおごった慶左衛門につき合ってうまいものばかり食べているので、むっちりと肉がついてきたのが自分でもわかります。時々は死んだ亭主のことで気がとがめることもあるけれども、長屋暮らしをしていたらこんないい暮らしは出来なかったでしょう。  まだそれほど性根がわかっているわけでもないけれども、お月のような女を丸め込むのはたやすいような気がいたします。慶左衛門は自分に惚れ切っているし、これで男の子でも産めばもう怖いものなしだと、おきんはなにやらうきうきしてまいります。まあどんなに貧しい時も、新年が来ると今年はいいことがあるのではないかと、舌なめずりするような気分になるのはこの女の常なのです。  ちょうどそんな時に「宝船売り」がやってまいりました。そもそも初夢というのは大晦日か元旦に見るものといわれていますが、たいていの者は忙しさのあまり、うとうとまどろむぐらいでありましょう。ですから二日の夜が初夢とされて、元旦から男たちが売り歩いているわけでございます。おきんはこれを欠かしたことがありません。枕の下に敷いて寝ればよい夢が見られるという絵を、さっそく二枚買い求めます。  宝船に七福神がにぎやかに乗っている絵は、 「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」  と下から読んでも同じ文が綴られています。安物の刷り物で、これといって変わりばえのしないものではありますが、おきんは眺めるだけで心が晴れやかになるのです。  おきんは慶左衛門に一枚を差し出します。 「旦那、これを忘れずに枕にお入れくださいよ。姫始めは明日でございますから、その前にぐっすり寝ていい夢をご覧になるんですね」  おきんはこんな時も卑猥な冗談を忘れません。ねっとりとした笑いを添えて、男の目の前に絵をつき出します。  その時、信じられないことが起こったのでございます。 「なんだと、このあま」  慶左衛門はすさまじい形相でおきんを睨みつけました。そして絵を奪うと、びりびりにひき裂いてしまったのです。にっこり笑っていらしたほてい様の腹が、まっぷたつに破れたのを見て、おきんはすっかり震え上がりました。いったい何が起こったというのでしょう。  今の今まで機嫌よく酒を飲んでいたというのに、宝船の絵を見せたとたん、慶左衛門の態度が一変したのです。 「いい夢を見ろだと。おめえは何かい、俺の頭の中までおせっかいをやこうっていうのかい。ふざけんじゃねえ、お前みたいな|すべた《ヽヽヽ》に、初夢がどうだこうだなんて言われたくはない」  しまいには盃を投げるので、おきんはあわてて逃げ出したのでございます。 「いったい何がいけなかったんでしょう。私は怖しいやら口惜しいやら、泣けて泣けて、昨夜は少しも眠れませんでしたよ」  次の日、おきんは腫れぼったい目でお月に訴えました。二日は年始廻りの日とて、慶左衛門は麻の裃《かみしも》と肩衣というさむらい風の衣服に身を正し、伴の者を連れて朝から出かけております。よって女二人もいつもよりもゆったりと火鉢を囲んでいるのです。お月は三枚がさねの晴着に結いたての丸髷《まるまげ》という、いかにも大店《おおだな》のおかみらしい装い。  このあいだからおきんがずっと下手に出ておりますので、「まあ、まあ」となだめる声にも余裕があります。 「おきんさん、そりゃあ災難だったねえ。いえね、あんたも私にもっと先に聞いてくれりゃよかったんですよ。いいえ、私の方から気をつけて教えてあげるべきだったかもしれないわねえ」  お月は、ちょっと長く喋りますよ、という合図に、コホンと咳払いをいたします。 「旦那の父親が検校をしていたっていうのは、あんたもご存知だろう。私がここの嫁に来た時は、まだまだお元気で、そりゃあ大変な羽振りでしたよ。風采《ふうさい》も悪くないし、身のまわりにも大層気をつけておいでだったから、目が見えないのはちょっと見にはわからなかったかもしれないねえ。  だけどうちの人は、子どもの頃にさんざんつらいめにお遭いになったようだよ。検校貸しの子だと言われて、いじめられたっていうし、この西門屋だってあんた、みんな陰じゃ『検校貸し上がり』って言ってるのを、私だって承知している。  ねえおきんさん、一富士、二鷹の後を、あんた言えるかい」 「一富士、二鷹、三|茄子《なすび》でございますね。あとは知りませんねえ」 「私が教えてやろう。一富士二鷹三茄子、四扇で五タバコ、六は座頭っていうんだよ」  あっとおきんは声をあげました。 「おそらくうんと高利の、座頭貸しのような嫌なものを夢で見れば、かえっていいことがあるということなんだろうけれども、正月のたびに旦那は他の子どもにいじめられたって言いますよ。それからこの家じゃ、初夢だの、宝船だのなんていうことはご法度《はつと》なのさ。あんたもケチなことをして、二枚だけ買うからこんなことになるんだろうね。三枚買って、まっ先に私にくれれば、こんなことはなかったろうにさ」 「本当にそうでございましたね」  おきんはため息をつきました。自分なりに囲い者になる覚悟を決めたつもりではありますが、慶左衛門というのはただの「今助六」ではありません。考えているよりもずっとむずかしそうな男のようでございます。ついででございますから、この男のことをもっと調べなくてはなりますまい。 「ほんとうにお姉さん、ありがとうございます。私は無学のうえに、ご覧のとおり気のきかないぼんくら者。所詮お姉さんのようなお育ちの方とは、まるで人間の出来が違うんでございますから、これからもいろいろ教えてくださいましね。私のような女は、旦那さまとお姉さんのお情けがなければ、一日だって生きていけないんでございますから」  思いきりお月をおだてておいて、いきなりこう切り出します。 「ときにお姉さん、旦那さまが両国に囲っている、芸人上がりの女というのは、いったいどういう女なんでございますか」 「まあ、おきんさん、それがね、これまたお正月に関係あるんですよ」  正月は傀儡師《かいらいし》、太神楽《だいかぐら》、猿廻し、三河万歳といった門附けの芸人たちが多数やってきます。その中で男たちが心待ちにしているのが、鳥追の女たちでありましょう。  若い女が三、四人と一組になり、年増はおりません。絹の縞ものに、これは決まりなのか木綿の帯をだらりと結び、編笠を被っております。この女たちは浄瑠璃とも一風違う不思議な唄で門附けしていきます。 「せじまやまんじよの鳥追、お長者のみうちへおとづれるはたれあろ、右大臣に左大臣、関白殿が鳥追、御内証へおとづるる人は、高位高官、さては鳥を追うわれわれか、西だもよせんでよ、東だもよせんでよ」  赤い笠の紐と紫の半衿が、三味線の音と共に小さく揺れ、編笠からは若い女らしいふっくらとした顎がのぞいております。これでは好き者の男でなくても、つい引き止めたくなるというもの。 「三年前のことだけれども、それはそれは器量よしの鳥追がやってきて、旦那さまはたっぷり心づけをはずんだもんなのさ。その女は首のところに、こう……」  お月は刃物をあてる真似をします。 「仕損なった傷跡があったんだけれども、旦那さまはそれがよかったんだろうねえ」 「心中でございますか……」 「ああ、鳥追の中には、心中の死に損ないが何人もいるっていう話だよ。あの女も芸者か女郎をしていて、生き残ったばっかりにもう元の世界には帰れないんだろうねえ。うちの旦那さんは、そういう毛色の変わったものがお好きだからねえ……」  言いかけてお月は、おきんに気づきます。 「いいえ、別にあんたのことを言っているわけじゃありませんよ。私も一度会ったことがあるけれどもねえ、心中仕損ないの女だけあって、そりゃあ暗い気ぶっせいな女なのさ。私しゃ、あんたの方がこっちに住むことになってくれて、どれだけいいかわかりゃしませんよ」  この話を聞いて、おきんは正月以来はずんだ心が、すっかりしぼんでしまったのを感じました。おきんも半分玄人のようなものだったのでよくわかるのですが、男というのはよくそういういわくつきの女にのめり込むものでございます。自分がくるまで、女は慶左衛門の心を独占していたらしい。心中したというのが本当ならば、一度地獄を見た女というのは、いったいどんな風な閨《ねや》なのでございましょう。自分などとても太刀打ち出来ないのではないかと、おきんはいつになくしょげております。  さてその夜、怒鳴ったことを多少後ろめたく思っていたのでしょう。慶左衛門が離れにやってきて、めでたく姫始めの仕儀となったのでございます。おきんもそういうところは利口者ですから、宝船のことは決して口に出さず、謝ったりもいたしません。 「旦那、薬師さまの縁日でも連れていってくださいよ」  と甘えます。薬師さまの正月八日の縁日は、特にご利益があるといって、参詣の人が多いのです。 「そうですよ、お姉さんをお誘いするのはどうですかねえ。帰りに三人でうまい蕎麦でも食べたいもんですねえ」 「お前、えらくお月と気が合うようじゃねえか」  慶左衛門が皮肉っぽく申します。裸で肘枕をしている時の男というのは、たいてい皮肉が似合うものでございますが、閨の中の慶左衛門は髪がひと筋こめかみにかかり、うっとりするような男ぶり。床上手なことはこの上なしで、おきんはこの男を絶対に失いたくないと、寝るたびに固く思うのです。正妻と仲のいいふりをするぐらい、なにほどの苦でありましょう。 「そりゃあそうでございますよ。お姉さんは私のことを気にかけてくだすって、そりゃあいい方。このうちに来た最初の頃は、いったいどうなることかと思いましたが、お姉さんのおかげでなんとかやっていけそうですよ」 「だけど初詣にゃ、お月じゃなくておりんを連れていくぜ」  お月も名を教えてくれなかったが、おりんというのは、あの鳥追の女だとすぐにわかりました。 「ずっと前からの女だからな。今さらあれこれ言ってくれちゃ困るぜ」 「わかっておりますよ」 「俺の夢はな」  慶左衛門はまだたっぷりと濡れているおきんの女陰《ぼぼ》をまさぐります。 「お月みたいなつまんない女はご免だが、お前とおりん、一緒に並べて寝かせて、あっちを抜いちゃ、こっちを抜いちゃ楽しむことなのさ」  どうやら慶左衛門は、「うぐいすの谷わたり」というものをしたがっているようなのでございます。二人の女と一人の男が同時にまぐわう。これが楽しいのは男だけで、もうひとりの女としている最中、待たされる女というのはたまったものではありません。おきんが正直にそのことを申しますと、 「おい、おい、俺を見くびっちゃ困るぜ」  慶左衛門が笑います。 「自信がなきゃ、そんなことが出来るわけがないさ。もう一人の女とまぐわう最中も、もう一人の女にあれこれするっていうのが男の甲斐性さ。決して悪いようにはしないぜ」  全く好き者というのは、いろいろなことを考えるようでございます。女の数で満足するかと思いきや、そのまぐわい方をいろいろ変えてみるというのです。慶左衛門は奥女中がよく使う張形《はりがた》も面白そうだと言い出したのだから始末に負えない。 「ほら、お前がそれを使っておりんを楽しませてやってくれている最中にな、俺が後ろからお前を可愛がってやるという仕儀はどうだい」  おきんも決して嫌いな方ではありませんから、その手の話に次第に引き込まれてしまいます。 「私しゃ、張形なんて使ったことはございませんから、うまくいきませんよ」 「構やしねえ。おりんは本物の陰茎《へのこ》だろうと、張形だろうと、なんかはさまってりゃ満足する女なのさ」  照れなのか、自分の囲っている女をそんな風に表現いたしました。そうするうちに、今度の八日の茅場町瑠璃光薬師さまの後、三人でどこかへしけこもうという話になったのでございます。 「お前なあ、将軍さまだって、女はいつも二人いなきゃダメなんだそうだ。お前も一回したらやみつきになるぜ」  思わぬことで悟されてしまいました。  さて八日の薬師さまは大変な人出で、縁日の植木市めあての人たちが、大勢押しかけてきております。おきんはそこで、おりんという女と初めて会ったのでございます。すぐ首筋のところに目がいきましたが、目を凝らして見ないとわからないほどの薄さで、本気で男と死ぬ気だったのかと、おきんはいまいましい気分になってまいります。  それにしても、本当にいい女だとおきんも認めざるをえません。背は高からず低からず、色白のだ円形の顔に、白目がほとんどないような切れ長の目。唇はぽっちゃりとしております。おまけに心中者と知っているせいか、時おり淋し気なまなざしを向けるのが、男心を誘うようでございます。それになんとこの女、にっこりと微笑みかける。 「おきんさんでございますね。旦那さまからいろいろ話を聞いております」  殊勝気に頭を下げるのも、腹にいち物もに物もありそうだと、おきんは疑いを深くいたします。この女、すべて計算ずくの欲深でございますから、他の女もそうに違いないと思ってしまうのですかららちもない。  けれども、このおりんに関してはそれはあたっていないこともありません。なにしろ吉原の中どころの見世でお職を張っていた女が、どういうはずみかおさむらいさんに無理心中を仕掛けられ、落ちるところまで落ちてしまったのです。そしてすったもんだの挙げ句、ここまで流れてきたのですからひと筋縄であるわけはありませんが、その話はおいおいということにいたしましょう。  三人はぶらぶらと縁日を歩いていきます。ぞろりと羽織姿の大店の主人に、右側はおきん、とき色に松葉くずし、左側は梅の小紋のおりん。どちらも甲乙つけがたいいい女、道ゆく人で振り向かないものはありません。職人風の若い男が、ほろ酔い気味ですれ違いざま、 「旦那、春からこんなにいい女二人連れて、あやかりたいもんだねえ。熱燗でも一杯おごってやってくれないかね」  とからみますと、慶左衛門、懐からすばやく小銭を投げてやります。そんなことをしながら縁日を抜け、着いたところは、茅場町の居酒見世でございます。客寄せのために、河豚《ふぐ》の干物が軒先に揺れていて、いかにもうまそうな店。  実は慶左衛門、河豚には目がございません。毒にあたると怖しいといって、行商のものはお月が嫌がるので、もっぱら外で食べます。この店は最近気に入って、よく足を向けるところなので、さっそく亭主が出てまいりました。もみ手をして出迎えます。 「こりゃ、西門屋の旦那、新年そうそうのお出ましありがとうございます」  小座敷に通されます。まずは冷えきった体を暖めようと、熱燗を口にいたします。刺身の後は河豚汁という、これまたこたえられないほどうまいもの。そいだ河豚の肉をどぶろくと酒粕にひたし、味噌で煮立てたものでございます。にんにくの薬味をつけて食べるのですから、精のつくことは言うまでもありません。  間男をするにひとしき鰒《ふぐ》の味  という有名な川柳がございますが、もしかすると命を落とすかもしれないという危険と裏腹の美味、もしかすると亭主に見つかるかもしれないという不安と裏腹の色ごとというのは、ぴったり通じるものがあるのでございましょう。 「ああ、こんな寒い日はやっぱり河豚に限るねえ」  慶左衛門もすっかり上機嫌です。 「こんなうまいもんを、お前たちみたいないい女と食べる。全くこたえられないねえ」  ところでおりんという女は、結構酒がいけます。慶左衛門と差しつ差されつしているうちにすっかり出来上がってしまいました。 「なんですよ、旦那。昨日はずっとお待ちしていたんでございますよ。いくら新しいお方が出来たからといっても、姫始めは私と一緒にしていただきたかったんですよ。お寝巻きもすっかり新しくして、香をたいてお待ちしていた私の気持ちを、わかってくれなかったんでございますね」 「そうはいわれてもねえ。俺も体はひとつだからどうしようもない」 「ええ、そうでございましょうとも。私のところへいらっしゃるお体なんか、もうここいらにはないんでございますね。ああ、憎たらしい」  つねるふりをして、慶左衛門の首に手をまわす、すると酒のために、ほんのり桃色になった腕が肘のところまであらわになります。その感触を楽しんで、ゆっくり撫でまわす慶左衛門。まるで他には人などいないようないちゃつきぶりに、おきんはすっかり腹を立ててしまいました。  このあいだから慶左衛門は、しきりに三人で床に入りたいとほのめかしておりました。それも面白いかもしれないといったんは思ったおきんですが、こんな女と三人でまぐわうなどまっぴらです。慶左衛門はこれからどこかへしけこむつもりでしょうが、男ひとり女ふたりでは、さすがに待合に入るのも気がひけるはず。そうなると行くところは、おりんの家になるでしょうが、それではこの女の思う壺。それ旦那の新しい寝巻きだ、下帯だとたらたら見せびらかし、結局は床の上でも勝ちを奪ってしまうに決まっています。  おきんは酔ったふりをして便所に入り、財布から小さな紙入れを取り出します。これは以前、亭主を毒殺するために慶左衛門から渡された残りで、いつのまにかおきんのお守りのようになっているのです。  うまくはいえないけれども、自分はきっと畳の上では死ねないという予感がある。もし何かひどいめに遭いそうな時は、すぐにこの薬を飲むつもりです。といっても、亭主の時でわかったように、これはあまり効かないようでございます。おきんは懐紙を取り出し、粉薬の四分の一ほどをそれにくるみます。殺すつもりはないのですから、これで充分でしょう。  そして小座敷まで行くついでに、店の者を呼びました。 「熱いのをあと二本おくれでないかい。あ、私がここで受け取りましょう」  部屋に戻ると、女はなんと慶左衛門の膝に乗り、男の手はおりんの衿元にすっかり入っております。怒鳴りたいところですが、まずはおりんに、この薬入りの熱燗を飲ませなくてはなりません。 「おとりこみのところ悪いんだけどもね、おりんさん、まずは一杯やってくださいよ。今日からあんたと私は、姉妹のようなものなんだからね。いえ、どっちが姉か、どっちが妹かはわかりませんけどもね」 「あら、嫌ですよ、|姉さん《ヽヽヽ》」  すかさずおりんが笑います。 「私も今、すっかり同じことを考えていたところでございますよ。これからはおきんさんを姉さんと思い、いろいろ頼りにさせてもらおうと、旦那さまにもお話ししたところ」  そしてしなをつくって、盃を持ちます。 「それじゃ姉さん、いただきますよ。ふふっ、今晩は楽しみでございますよね。旦那さまも二人を相手にするのは初めてだなんておっしゃってますけどもね、それは嘘ですよ。私はずっと前、吉原《なか》で旦那さまが三人相手をなさったのを聞いたことがありますもの」  ぺらぺら喋りながら、盃を次々と飲み干すおりん。ところが五杯めを飲んだとたん、ばったり倒れてしまいました。白目となり、口から泡を吹いております。 「あれあれ、毒にあたっちまったよおー」  まずおきんは大声で叫びました。その声に主人、おかみさん、小女たちが走り寄ってきます。 「うちの河豚で毒にあたったことは、これまでいっぺんもありませんよ」  おかみさんは真青です。包丁を握る亭主などぶるぶる震えて声も出ません。騒ぎを聞いて、他の客たちも集まってまいりました。 「河豚の毒にゃ、砂糖がいちばんだ」 「いや、土を掘って顔だけ出すのが決まりさ」 「うちの兄貴の|だち《ヽヽ》があたった時は、イカの墨を飲ませたそうだ」 「おい、亭主、この店にイカはねえのか」 「急にそういわれましても」 「とにかく土を掘れ。この女を埋めるんだ」  その時おきんが高らかに申しました。 「もっといい方法がございますよ。河豚の毒にあたった時は、糞を塗りたくるのがいちばん手っとり早くって効くんですよ」 「そんなことは聞いたことがねえ」 「いや、いや、糞を塗って食べさせるとどこかで聞いたことがある」  そんな声を背に、おきんは便所に走っていきます。 「なにかつかむものはないんですか。早く、早く」  亭主があわてて火かき棒を持ってまいりました。それを便器の下まで入れ、ぐるぐるとかきまわすおきん。取り出しますとその先に、やや固くなりかけた糞がべったり。 「くせえな」 「だが命にはかえられんさ」  いつのまにか店の前にはひとだかりがしております。とびきりいい女が、河豚の毒にあたったと店の客が言いふらしたのです。  畳の上にうつぶしているおりんの横顔は怖しいほど白うございます。乱れた髪がふた筋かかっているのがなんともなまめかしい。その頬にごりごりと火かき棒の糞を押しつけます。ついでに口のまわりにも。そのうち協力する男が現れ、煙草盆にどっさり糞を山盛りにしてまいりました。おきんはそれを、おりんの頬といわず首すじといわず塗りたくります。  あわれ、おりんは糞まみれ。見ている男たちから、いっせいにどよめきが起こりました。  女の悋気が糞で終わるという、これはまた珍しいお話でございました。 [#改ページ]   第四話 おきん、芝居見物に行くの巻  昔から女の好物は「蛸《たこ》・芋・芝居」と言われております。この三つに共通しているものは、もっちりした質感と腹もちのよさでありましょうか。芝居は一度見ますと、十日はぼんやりとした夢ごこちになれると女たちは申します。  さて、西門屋の妾おきんも、江戸女の例にもれず芝居に目がございません。貧乏をしていた頃さえも、たまに安い平土間の席に座ったものです。  このおきんが、一度でいいからお大尽《だいじん》が座る桟敷《さじき》席で芝居を見たいと思っても、何の罪がありましょう。女だったら金持ちの家に生まれ、思う存分、芝居見物をしてみたいと考えるのはあたり前のことです。  女たちが憧れる、大店《おおだな》の奥さまやお嬢さまの芝居見物はこんなもの。まず朝は鶏の鳴く頃起きて、髪結いに流行の形をつくってもらいます。そして芝居見物にぴったりの、役者の紋を染め抜いたいいおべべをまといます。やがて芝居小屋からの迎えの舟が到着し、おつきの女中たちとにぎやかに乗り込みます。  お召し替えと化粧道具の荷ときたら、ちょっとしたお嫁入りのようなもの。髪の形が気に入らない、あの役者はそううまくないくせに、この頃大層人気が出てきた、などとお喋りをしているうちに、舟は茶屋の船着き場に着きます。主人、おかみが総出でお迎え。いったん座敷に入って、甘いものをつまんだり、うたたねをいたします。こうしている間におめあての役者が出る頃になり、またお召し替えをして茶屋の持つ桟敷へと向かいます。  どんな役者も桟敷のお客には親切。特別の流し目をくれたりします。女たちは胸をときめかしながらも、食べたり飲んだりするのを忘れません。芝居茶屋からは、女中が酒やご馳走をせっせと運んでくるのです。うまいものを食べながら、美しい役者を眺める……まるで極楽のようですが、本当の極楽はその後に待っているのです。芝居茶屋のおかみに話をつけてもらった役者を呼び、奥の座敷で差しつ差されつ。  魚心あれば水心と申しますが、役者などというものは、水を求めていつもぴちぴちはねている魚のようなものです。おぼこの娘であろうと、大年増のおかみであろうと、水に変わりはございません。どんなに年増でも、金さえ持っていれば、あちらの方からそりゃあうまく仕向けてくれるのです。女はもうこたえられません。さっきまで舞台の上で、まるで夢のように美しかった役者が、今は自分の腹の上で男となって挑みかかってくるのです。  この「役者買い」は別におくとしても、おきんはお大尽の芝居遊びをしたくてたまりません。  町を歩けば、人々が袖をひき合ってこう言っているのがわかります。 「あれが西門屋の新しい妾だとさ、さぞかしいいめに遭っているんだろうねえ」  ところが世の羨望や嫉妬を浴びるほど、贅沢をさせてもらっていないというのが、おきんの大きな不満なのです。月々のお手当てもたっぷりもらい、着物も何枚もつくってもらっておりますが、その着物を見せびらかすところがない。慶左衛門は、おきんが外に出ることを好みません。それにあろうことか、西門屋においては女に芝居はご法度なのであります。理由ははっきりしませんが、女が芝居に行くとろくなことがないというのです。 「お姉さん、本当にいやになってしまいますよ」  この頃おきんは、自分の住む離れから出て、お月の部屋にいりびたっております。炒り豆を食べながら、日がないちにちあれこれ喋っているのです。 「旦那はこれだけの身代をお持ちなんだ。私らに芝居くらい見させてくれても罰はあたりはすまい。世の中には『役者買い』をするような破廉恥《はれんち》な女がいるらしいけれど、まさか私をお疑いになっているわけじゃないでしょうね」 「いえ、いえ、そんなことじゃありませんよ」  正妻のお月は、おっとりした女ですから、格別にそのことも気にしていないようでした。 「私もよくわからないけれども、旦那はお芝居がお嫌いなんだよ。私が嫁に来てからそうだった。たぶん嫌な思い出がおありなんだろうねえ」  おきんはびっくりしてしまいました。この世に芝居を嫌う人間がいるなどとは、どうしても信じられません。それが他ならぬ慶左衛門とは。今助六と呼ばれ、あれほど食べるものと着るものにうるさく、色ごとが大好きな男が、どうして楽しさの結晶のような芝居を嫌うのでしょうか。 「私もわからないけれども、このうちじゃ、女は芝居を見に行っちゃいけないことになっているのさ。まあ、あんたも逆らわないことだね。芝居をとるか、旦那をとるか、言わないでもわかっているだろう」 「まあ、お姉さん、本当につまらない。今月は尾上美登吉が新作をやるとかで、大変な人気だそうですよ。旦那のようなお金持ちのお世話になっていても、お芝居ひとつ見られないなんて」 「仕方ないさ。芝居をたっぷり見たかったら、人の妾になるなんてやめることだね」  お月にしては珍しく皮肉を言ったので、おきんはその後、ずっとぷりぷりしておりました。  さてお話はずうっと昔、慶左衛門が十八歳の時。遊びがますます面白く、楽しくてたまらなくなった頃でございます。父の検校さまはまだお達者で、見えない目で睨みをきかしていましたので、そう大っぴらなことは出来ません。吉原《なか》へ行っても、端見世で安くあがる遊びをしておりました。  そんな時、遊び仲間のひとりが、 「お前もそろそろ男を知らなきゃな」  と陰間茶屋《かげまぢやや》に連れていってくれたのです。それまで慶左衛門は、男と遊んだ経験がありませんでしたが、仲間に言わせると、 「あの時の締まり具合が、女のあそこと違っていて、その気持ちいいことといったらないさ」  とのこと。まわりを見渡しても、粋人《すいじん》と呼ばれる男は、女と同じほど男を可愛がることが出来ます。ごく自然に男と交わえるのです。それならばと、堺町にある陰間茶屋ののれんをくぐった慶左衛門。ここは上玉が揃っていることで有名で、十歳から十七歳の美少年が声をかけられるのを待っております。 「だけどあんまりちっこいのは、どうもいけない。近所の餓鬼に悪さしているような気分になる」  という慶左衛門の言葉に、それならばと友だちが選び出してくれたのが、十四歳の少年でした。まだ髭も生え揃わず、声も変わるか変わらないかというところですが、体のいろいろな場所で男としての力がみなぎろうとしています。好き者によると、 「いちばんこたえられない」  年齢なのだそうでございます。  女と同じように裸になり、抱き合って口吸いをしておりますと、慶左衛門の陰茎《へのこ》はすぐにむくむくしてまいりました。鶴吉という少年の肌の、どこもやわらかくつるりとしていることといったら……。女よりも少年の肌の方がはるかに美しいということを、慶左衛門は初めて知りました。 「あれ、旦那さま。あたし本当に気持ちがよくなって困ります」  などとつぶやく声の愛らしさ。少年の体をひっくり返し、後門を責めるなどということもすんなり出来ました。もうどうしようもないほどいきり立っている陰茎をなだめすかすのに、男も女もないということも初めて知ったのです。燃えたぎっているものを、この少年の中に入れるしかないのです。  少年の後門は大層慣れていて、するりと入れることが出来ました。女の襞がやわらかく締めつけるとしたら、男の襞は性急で少々荒っぽくまとわりつきます。けれどもその気持ちよさといったらない。  恥ずかしながら慶左衛門は、すぐにいってしまったのでございます。 「旦那さま、あたしいきます。もうたまりません」  鶴吉も体を震わせ、すぐにぐったりしてしまいました。あわてて抱き起こし、口吸いをしますと、鶴吉は首に腕をからめてきます。 「若旦那、本当に嬉しい……。こんな気持ちになったのは初めてでございます」  なんといとおしいと思い、それから鶴吉と慶左衛門とは切るに切れぬ仲となったのでございます。  この鶴吉という少年、寺の稚児《ちご》上がりで、七歳の頃から住職の慰み者になっておりました。還暦を過ぎた住職の、毎夜毎夜の床でのしつこさに、すっかり嫌気がさして寺を出たのが十二の時、それからは言うに言われぬ苦労をしたようでございます。京橋の薬問屋の男妾《おとこめかけ》になっていたこともありますし、さる大店の大年増のおかみさんのおもちゃになったこともある。十四歳といっても、そこらの男の子ではございません。すべてに年季が入っているのですから、その手練手管の凄さといったら、どんな莫連女《ばくれんおんな》も形なしです。  今でこそ「今助六」「江戸一の女|蕩《たら》し」などと言われる慶左衛門でありますが、当時はまだうぶなところもございました。十八歳の若者は、初めて知る男色にすっかり夢中になったのでございます。いや、後門の味の虜《とりこ》になったというよりも、十四歳の少年に惑わされたといった方が正しいでしょう。  慶左衛門がそれまで知っていたのは、ごくふつうの商売女でございます。この女たちもうまく演じ切れなかった「まこと」というものを、やすやすと信じさせたのですから、この十四歳の少年はたいしたものです。お互いの指を切り、その血で誓証文《ちかいぶみ》を書いたこともございますし、慶左衛門は本気で、鶴吉の名の彫りものを入れようとしたぐらいです。  もちろん会うたびにたっぷりと金をねだられ、とうとう慶左衛門は店の金をくすねました。検校さまにこのことを知られ、勘当されそうになった時、慶左衛門は言いました。いっそのこと、二人で上方へ逃げようじゃないか。  もとより鶴吉にそんな気はまるでありません。もう話はついていたのでしょう、五代目中村春秋之介の部屋子になり、さっさと芝居小屋に入り込んでしまったのです。 「だってあたしは、ずっと前から役者になりたかったんだもの。それにお前だって、おとっつぁんに捨てられたら生きていけないだろう」  こう居直られると、慶左衛門も何も言えなくなりました。もちろん鶴吉は、とうに春秋之介をたぶらかしております。人の噂によると、七十を過ぎた春秋之介が、小便をちびらせながら、布団の上で孫のような鶴吉を追いまわしているというではありませんか。それを邪慳にはねつけたり、時には受け入れたりする鶴吉の悪性《あくしよう》なことといったら……。やっと目が覚めた、といいたいところですが、なかなか切れないというのが、男と男の仲の不思議さ。  あれから十四年たち、慶左衛門は今や西門屋の主人として、押しも押されもせぬ札差商人となっております。鶴吉はといえば、春秋之介という大きな名は継げなかったものの、中村春江というそこそこの役者。このあいだの新作では、早変わりをやり「上々吉」と好評を博しました。  細々とではございますが、この春江と慶左衛門との仲は続いていて、何かのたびに金はかなりねだられます。ごくたまには、二人で芝居茶屋の一室に籠もります。慶左衛門はもう十八のおぼこい青年ではございません。妾を何人も持つ中年の男でございますが、ごくたまに後門を味わうこともある。もう昔ほどよいとは思いません。これならばおきんの、根本から締めつけてくるあれの方がよいと思いながら、つい長年の義理と習慣で春江を後ろから突いてしまうのでございます。  そんな慶左衛門ですので、自分が行くならともかく、妻や妾たちに芝居を見られるのはどうも面映《おもは》ゆい。そんなわけで、おきんは芝居見物を禁じられてしまったわけでございます。  申すまでもなく、妾というのは世間が狭い。大っぴらに外に遊びに行けるわけでもなく、たまにようじ屋のおかみのところへお喋りに行くぐらいがせいぜいでございます。  ですからさすがの地獄耳のおきんも、慶左衛門の秘密に気がつきませんでした。嫉妬するのはおりんや、その他の妾たち。まさか男の方まで注意を払わなくてはいけないとは考えてもみなかったのです。  さてその日、慶左衛門が出かけた際にようじ屋のおかみ、お陶のところへ出かけました。金まわりのよくなっているおきんは、笹屋の餅菓子を土産に携えます。上等の小豆《あずき》がたっぷり入ったこれは、お陶もおきんも大好物です。菓子を食べているうちに、話は芝居のことになる。 「河原崎座で今かかっている『狐姿恋道行《きつねすがたこいのみちゆき》』は大変な入りだよ。私も見に行ったけれども、早変わりの面白いことといったら……。それまで娘だったのが突然狐になる、その狐が天井から落ちてくる時は娘に変わって、もうお客は大喜びだ」  見に行ったことのないおきんは、たちまち不愉快になります。見たことのない芝居の話をされることぐらい、面白くないことはありません。 「なんだい、西門屋の女が、芝居ひとつ見られないのかい。素寒貧の私だって、狂言が変われば必ず行くよ」  などとお陶が言うものですから、ますますむしゃくしゃしてくる。 「だって仕方がないじゃないの。旦那さまは女が芝居を見るとろくなことがないって。うちの中でおとなしくしておいでとおっしゃるんだよ」 「それならこっそり見に行けばいいじゃないか」  お陶はこともなげに言います。 「今だってあんたを連れていってやってもいいよ」 「とんでもない、旦那さまに知れたら、たちまちお手打ちになってしまうよ」  あれほど我儘なおきんでございますが、いつのまにか慶左衛門には逆らえなくなっている。あまりにも相手が強いと、人というのは我慢するのを知ってしまうのです。 「それならばいいことがあるよ」  お陶が節くれだった手をぱちんと叩きます。 「もうじき浅草寺《せんそうじ》さんのご開帳があるよ。その時、旦那さまのためにどうしてもお願いしたいことがあるからって言えばいいのさ。そしてあんたは浅草に行くふりをして、木挽町《こびきちよう》に行くんだよ」  こう言われると、おきんは心が踊ります。そして慶左衛門の健康を祈るという目的で、一日外に出ることを許してもらったのです。  木挽町に近づくにつれ、おきんは興奮と期待で息が荒くなってきます。 「そんなに急がなくてもいいよ。役者衆が逃げるわけはないしね」  お陶がからかいます。おきんが木戸銭を出してくれたので機嫌がいいのです。確かに噂どおり大盛況で、平土間はぎっしりと客で埋まっています。  やがて花道にひとりの姫君が現れます。これがいま江戸で大人気の若女形尾上美登吉。白塗りをして、目の上にぽっちり紅をさしているのがなんとも色っぽい。高い鼻にきりりとした唇ですが、真骨頂はその目でしょう。大き過ぎず小さ過ぎず、切れ長のよく光る目です。美登吉扮する姫君は、恋人との仲を裂かれ、その悲しみから狐に変身するという筋立てです。 「あな悲し、あな悲し。男恋する娘の身の上、たちまち変わる狐の姿。あな悲し、あな悲し……」  長唄にのって美登吉は、ひわ色の衣裳を引き抜いていきます。その下は目を射るような濃紫の衣裳。この衣裳のままで狐を表現するのですが、ぴょんと跳ねる女がなんともいえず可憐です。 「まだ十七歳だっていう話だよ」  お陶がささやきます。 「いいねえ、私も金さえあれば、あんなにいい男と差しつ差されつ、こっちもご開帳するんだけどね」 「美登吉も客をとるのかい」 「あたり前だろう。芝居者《しばいもの》なんだから客をとるのはあたり前の話じゃないか。今夜のお客はほら、あの女だよ」  おきんが後ろをふりむくと、桟敷の真中に中年の女がひとり座っています。派手な小袖を着ているのですが、いかにしても体型が見苦しい。「石臼のような」という表現がありますが、台形の体が折った膝の上にのっているのです。 「あれが日本橋大野屋のおかみだよ。家つき娘のうえに、二年前に亭主が死んだもんだからもうやりたい放題だ。大っぴらに役者買いをするのだから、全くいいタマさ」  お陶は憎々しげに言うのです。  おきんは体をねじって、しげしげと女を眺めます。どう見ても四十代半ばというところ。あの女が、あのかぼそい美少年の美登吉を抱くのかと思うと、本当に胸くそが悪くなってきます。 「だけどあんな醜女《しこめ》の年寄りを抱いて、立つものが立つんだろうかねえ」 「いろいろ薬や道具を使うんだろうさ」  おきんは腹立ちのあまり、胸がむかむかしてまいりました。この半年あまり、世間では妾、囲い者とさんざん後ろ指をさされているのに、少しもいいことはありません。家の中での贅沢は多少させてもらっているものの、芝居見物ひとつ出来ない身の上。このところ慶左衛門も忙しく、離れに来るのもまれになっております。  例の手代に手を出そうとしたのを、正妻のお月に見つかって以来、慎ましくしているおきん。そんな身に、舞台の上の役者はなんとまぶしく見えたことでしょう。十七という花の盛り、腰も首すじもほっそりとしていて、姫君の簪《かんざし》のピラピラが重たげです。  今、舞台の上ではほら穴に誘われた姫が、妖術を使う入道に犯されるところ。 「あれー、やめてたもれ。あれー、そんなところに触れられると、わたしは死んでしまいますわいなぁ」 「いや、何、姫御前。死ぬ、死ぬとおっしゃる前に、極楽を見せてさしあげましょう」  評判の戯作者、梅本竹弥の芝居はきわどい台詞で人気をとっております。入道が姫の胸元に手を差し込むと、 「ああ、死にますわいなあ〜、死にますわいなあ〜」  と姫は身をよじるのですが、そのたびに紅い唇が少し開き、観客たちは生唾を呑み込みます。今夜太って醜いあの女が、この美しい姫を、いや若者を好きなように弄《もてあそ》ぶと思うと、憤《いきどお》りと共にいたわしさもわいてくるおきんです。 「ああ、私はもう我慢出来ないよ、なんとかあの婆ァをこらしめる方法はないものかねえ」  そう言うと奥歯が本当にきりきり音をたてるから困ったものです。 「ねえ、おかみさんもそう思うだろう。あの大野屋のおかみは、亭主が生きていた頃から役者狂いをしていたっていうんだろ」 「ああ、そうだ、そうだ。病いの亭主をずっと寮に入れたまんま、ろくな看病をしないで死なせたっていう噂だよ。全く金のある女っていうのは、非道いことを平気でするからねえ」 「その亭主だって、あの婆ァがねちねち朝に晩に迫るもんだから労咳になったに決まってるさ」  女二人の悪口はとどまるところをしりません。 「おかみさん、どうだろう。今日は旦那が遅いことだし、二人でちょっと芝居茶屋というところへ行ってみようじゃないか」 「えっ、あすこは金がかかるよ」 「そのくらいの小遣いは持っているよ。だけど今晩、あの婆ァがしけ込む芝居茶屋がいいね。そしてあの婆ァが役者とくんずほぐれつしている最中に、襖越しにわっとおどかしてやるのはどうだろうか」 「それはいい、それはいい」  お陶は手を叩いて喜びます。酒も飲んでいないのに、先ほどから芝居に酔っているに違いありません。 「だけどおかみさん、どうしたらいいんだろう。私は馴じみの芝居茶屋なんてありはしない。女二人で行っても大丈夫なものかねえ」 「そりゃおきんさん、この世に金さえあれば出来ないことなんか何ひとつありはしないさ」  前歴は聞いたことはないけれど、たぶんきわどい世渡りをしてきただろうお陶は、こういう時、実に抜けめない顔になります。 「私がうまく話をつけてあげるよ。田舎の金持ちの奥さんが芝居見物に来ていて、ちょっと役者を呼んで酒を飲みたいっていえばいいのさ」 「それじゃ、私たちも役者を呼ぶのかい」 「そりゃそうさ。女二人で酒を飲んだらおかしなものさ。適当な役者を呼んですぐに帰しゃいいのさ」  お陶の活躍ぶりはそれだけではなく、芝居小屋の下働きの男に金を握らせ、今夜美登吉と大野屋のおかみが会う場所をつきとめました。男によるといつも大野屋のおかみが使うのは、中どころの茶屋「日向屋」ということでした。  やがて夜になり、おきんとお陶が酒を飲み始めていると襖が開き、現れたのはあやめ帽子をかぶった女形の役者でございます。 「中村春江と申します。お初におめにかかります。呼んでいただいてありがとうございます」  口のあたりの皺で、三十前後とおきんは見当をつけました。もう若くはないけれども、目鼻立ちが美しく整っています。行灯《あんどん》のあかりに白塗りの顔が浮かび上がり、舞台とは違ったなまめかしさ。 「さっ、さっ、ご新造さん、すぐにお飲みになって、あたしにお流れをくださいよ」  膝でつっと寄ってくるさまも色っぽく、男であるのがわかっているのに女にしか見えない。女にしか見えないのに、抱かれてみたいと体がぞくぞくする。全く役者というのは不思議なものです。 「こちらのご新造さんは、いったいどちらの方でございますか」 「房州のお大尽のおかみさんさ。どうしても芝居見物をなさりたいということで、私がご案内したんだよ」 「あら、嘘ばっかり」  春江は扇で口元をかくし、しなをつくります。 「房州のような田舎に、こんな綺麗な人がいるもんですか。ご新造さんはどう見ても江戸のお方でしょう」  見えすいたお世辞ですが、おきんはすっかり嬉しくなり、男の盃に酒を何度も酌《つ》いでやります。 「ねえ、ご新造さん」  目の縁がすっかり赤くなった春江が言います。 「ねえ、廊下のあっち側の部屋で、あたしのよく知っている若い子と、大店のおかみさんがくんずほぐれつの最中なんですよ。ちょっと覗いてみませんか」  おきんもお陶も驚いて顔を見合わせました。それこそがそもそもの二人の目的だったのですから。 「ねえ、いきましょうよ。面白いじゃありませんか、あの臼みたいなおかみさんの下で、あの子はどんな声をたてるんでしょうねえ……」  春江の酔った声が気になるものの、すっかり出来上がっているおきんとお陶は、そう深く考えず従《つ》いていくことにしました。抜き足さし足で廊下の向こう側へと進みます。 「さっ、こっちの部屋は空いていますから、こっちから覗きましょうよ」  春江は隣りの部屋の襖を開け、二人を導きます。そこは暗く寒い部屋ですが、襖の間から光が漏れています。ここから覗いてみろと手招きする春江。  お陶とおきんが目をあてると、ちょうど二人は口吸いの最中。野郎帽子《やろうぼうし》をかぶった美登吉の手が、大野屋のおかみの懐に出たり入ったりしております。そしてじわじわと奥へ入り、おかみの乳房をつかんだようです。 「よくもあんな女の……」  おきんのつぶやきが聞こえるはずはないでしょうが、美登吉の手はいったんおかみの胸元から出て、今度は裾の方に伸びていきます。そしておかみの乱れた裾をさっとまくり、膝の中に割って入っていくではありませんか。 「あら」  とおきんが叫んだのと、襖が倒れたのはほぼ同時でした。倒したのはおきんでもお陶でもありません。春江が何かの拍子に力を入れ過ぎ、襖は音をたてて人間ごと座敷に倒れ込みます。  その時、信じられないことが起こりました。座敷をはさんで反対側の部屋の襖も、どっとこちら側に向かってくるではありませんか。そして倒れた襖の上に乗っているのは、なんと慶左衛門です。 「あ、旦那さま」 「お前はおきん」  そして二人よりも驚いているのは、当然のことながら座敷でいちゃついていた二人です。いざことに及ぼうとしたら、両脇から突然人が降ってきたのです。  が、美登吉は大きな声をあげます。 「あ、兄さん。許しておくれ」  この声の切実さでおきんは見当がつきました。おそらく春江と美登吉とは好いた者同士なのでありましょう。互いに思っていながら、時々は客を取らなくてはいけないつらさ。春江は嫉妬のあまり、伝手《つて》を頼んでここにやってきた。そして自分の恋人が女に抱かれるところを、つい覗こうとしたのです。  けれどもそれなら、慶左衛門はなぜここにいるのでしょう。今夜、春江が女客に呼ばれていると聞いた慶左衛門は、しめたと思いました。いい加減に金をせびられるのはやめにしたい。春江が女客とからんでいる場面をおさえ、それでごねることは出来ないかと、ここにやってきたのです。女のあえぎ声を聞き、てっきり春江と女客のものだと思い、隣りの部屋にしのび込んだのですが、襖の倒れる音にびっくりし、こちらも襖に手をついてしまいました。 「やい、おきん」  ことが露見する前に、慶左衛門は怒鳴りました。 「お前、俺の目を盗んで、こんなところで役者と酒を飲んでるたぁ、どういう了見なんだ」 「そう頭ごなしに怒らないでくださいよ」  お陶がやっきになってとりなします。 「おきんさんと私、お寺の帰りにちょっと精進落としをしただけなんです。誘ったのは私ですよ」 「あんたは黙っていてくれ。全くお前の姿をちらっと見て、後をつけりゃこのざまだ」  慶左衛門は怒鳴りまくり、ついでにおきんを殴ります。そんな最中、見つめ合っている春江と美登吉。みなし子の美登吉を、春江は何かとめんどうをみて、今では損得抜きの仲になっております。金がすべてだった春江が、初めて本気になった男なのです。美登吉も春江をただひとりの人と決めています。この後、この二人は手をとり合って上方へ向かいます。そして慶左衛門の秘密も何とか守られたのは幸いでした。  おきんはまだ、あの夜どうして慶左衛門が茶屋にいたのかよくわからないまま殴られ損。もっと損をしたのが大野屋のおかみ。しばらく茫然としていましたが、やがて泣きわめいて表に逃げていったとか。その話を聞いて、おきんは少し溜飲が下がったのでございます。 [#改ページ]   第五話 慶左衛門、大奥の女を誘うの巻  ある春の午後でございました。  吉原から帰る途中の午後のこと、駕籠《かご》に揺られてうつらうつらしながら、慶左衛門はふと考えたのであります。  十二の年から今まで、いったい何人の女を抱いてきたことでありましょう。お職を張り、ありとあらゆる手練手管を持った女もいれば、生娘も何人かいる。夫を殺してまで手に入れた人妻おきんも、姿かたちもよければ、それは見事な女陰《ぼぼ》を持っています。たっぷり液を出せば締めつけも大層強い。男なら涎《よだれ》を垂らしそうな女でしょう。  けれども、さらによい女、さらに素晴らしい女陰があるのではないかという思いは、日ましに強くなるのでございます。  この世に「極上開《ごくじようかい》」と呼ばれる女陰があるらしい。そのよさときたら、男をとろかし、極楽へと連れていくという。が、いったいどこに行けば、そのような「極上開」に会えるのでありましょうか。  金にあかせて何百人という女を試してまいりました。ありとあらゆる花が揃っている吉原でも何人かの女と馴じみになり、淫乱とその名も高い相模女と情を通じたことも一度や二度ではない。もちろんその都度、快感はあったわけではありますが、「魂《たましい》が飛ぶような」思いをしたことがありません。  慶左衛門がこの頃好んで読む艶本の「畫図玉藻譚《がずぎよくそうたん》」や「源氏思男貞女《げんじしなさだめ》」などには、それこそ男の指をも吸い込んで離さない女陰や、幾重もの絹のように雁首《かりくび》にまとわりつく女陰があるようなのです。 「ああ、いっぺんでいいから、そんな女陰《ぼぼ》にめぐり会いたいものだ……」  慶左衛門はため息をつき、ふと思い出したのが四ツ目屋の手代、伊兵衛でございます。四ツ目屋というのはご存知のように、強精剤だの張形だの、ありとあらゆる色ごとに関するものを売りさばく商売です。これはあまり大きな声で言えないのでございますが、三年前に慶左衛門はつい好奇心から、夜鷹《よたか》を買ったことがございました。ところがこれが運のつき。悪い病気に罹《かか》ってひどいめに遭ったのでございます。それはなんとかなったものの、しばらく陰茎《へのこ》の帆柱が立たないことがあり、その難儀したことといったら……。  その時遊び友だちに紹介してもらったのが、両国米沢町四ツ目屋の手代伊兵衛で、元どおりになってからも、「長命丸」や「如意丹」といったものを風呂敷に包んで持ってきてくれるようになりました。この伊兵衛というのは、年の頃なら二十七、八。小柄ないかにもはしっこそうな男で、慶左衛門は何かにつけ、目をかけてやるようになりました。なによりも伊兵衛から聞く女たちの話は面白おかしく、それこそ銭を払っても惜しくはない。慶左衛門は口臭剤の薄荷《はつか》や、強精剤を持ってきてもらうついでに、この若者から話を聞くようになりました。小遣い替わりに、釣を受け取らないので伊兵衛の方は大喜び。この好色な得意客のために、商売上の秘密をあれこれ喋っていくのですから困ったものでございます。  伊兵衛によると、役者買いに狂う中年の女よりも、はるかに淫乱なのが大奥の女たちといいます。 「お宿下がりをされる時、まっ先にお呼びになるのが、呉服屋でも下駄屋でもなく私どもでございます。上臈《じようろう》の方ほど、それはそれはえげつないのですよ。張形などもひとつひとつ手にとり、これはどんな具合かえ、奥までちゃんと入るのかい、などとお聞きになるので、もうこちらが赤くなるほどでございます」  大奥に入る女たちというのは「一生不犯《いつしようふぼん》」の誓いを立てる。これがどんなにつらいものかということを、旦那さまはおわかりでしょうか。将軍さまのお手がつくなら万々歳ですが、たいていの女は老いるまで女だけの世界にいるのでございますよ。そりゃあ、唄にもなった絵島さまのように、大奥の奥深く役者をひき入れる方もいるでしょうし、宿下がりの時に男を買う方もいる。でもたいていはじっと辛棒しておいでです。こっそり打ち明けてくださった方がいますが、いちばんおつらいのは夜伽《よとぎ》の時だそうで、将軍さまとご側室がお休みになる部屋の次の間で、じっと朝まで控えているのです。 「ここだけの話でございますが……」  と伊兵衛は声を潜めました。 「今の将軍さまは、そりゃああちらの方がお強くて、またそれは品のないことをいろいろなさるそうでございます」  下々の者がなさるような「お舐め」が大好きだというので、これには慶左衛門も驚いた。実は慶左衛門も、女陰を大きく開き、とっくりと眺めながら舌を入れるのが好きなのですが、これはあまり大きな声で言えることではありません。よっぽどの好き者ということになってしまいます。 「側室さまもお若いだけあって、それはそれは大喜び。ひい、ひい、死にます、行きます、とお声をお立てになるので、次の間で聞いているお女中たちは、それこそ地獄にいるようだというのですよ」  中には聞いているうちに、耐えられなくなって、自分の指を使う上臈もいるそうですが、これはにわかには信じられない。 「いいえ、本当ですもの。これをご覧ください」  伊兵衛が塗りの箱から取り出したのは、べっ甲でつくった張形でございますが、この両側に紐がついている。 「これは何のためにあるかおわかりですか。お女中のおひとりが男役になって、これを股につけるのでございます。男が入れぬ大奥ならば、張形をつけて男になれということなのでございましょう……」  伊兵衛との会話をあれこれ思い出した慶左衛門は、駕籠の中でふと膝をうちました。 「そうだ、そうだとも。やっぱりいい女は、あそこにいるんだろうな」  さていつものように、慶左衛門に呼ばれた伊兵衛。新しい精力剤もあれこれ用意しております。今日のお勧めはジャコウに水牛の角を砕いた粉を混ぜたもの。少々値は張りますが効果は絶大です。  ほどなく黒の長小袖、緋縮緬の襦袢、というまさに助六気取りの慶左衛門がやってきて、どかりと床の間の前に座ります。 「これは旦那さま。いつ見てもお達者のご様子。これではうちの薬も必要ありませんな」  と伊兵衛が世辞を言うと、慶左衛門もうんと頷きます。 「なあ、ところで最近も、ご中臈《ちゆうろう》方はお前のところのお得意さんかい」 「はい、それはもう……」 「そういう女を、一度でいいから抱いてみたいなあ」 「それは旦那さま。わけないことでございますよ。お宿下がりの折などに、西門屋のご主人が一献差し上げたいと申せば、まずはお断わりにならないでしょう。あの方々も、ご内緒《ないしよ》はかなり厳しいとお聞きしております。反物の一疋《いつぴき》や二疋差し上げれば……」 「いや、俺の抱きたいのはそんな下っ端の腰元じゃない」  慶左衛門はじろりと伊兵衛を見ました。 「俺は将軍さまの女と寝たいんだ」 「ええっ」  伊兵衛の顔が一瞬ひきつりましたが、ただちに冗談にしようとばかり、かん高い声で笑います。 「いくら旦那さまでもそれは出来ないことでしょう。将軍さまのお手がついたお方は、めったなことではお城の外にお出になりません。親のご法事も代参でお済ませになるぐらいでございますよ」 「そりゃあ、そうだろうが、金と色でかなわぬことは、この世にひとつもないだろうさ」 「お手がついていない、身分の高い方の中に、それはそれは美しい方がいくらでもいらっしゃいますよ。そういう方ではいけないのですか」 「いや、駄目だ。俺は将軍さまの魔羅《まら》が入った女陰《ぼぼ》の中に、俺の魔羅を入れたいのよ。いいか、考えてもみろよ。いちばんえらい男が、力にあかせて集めた女の、その中のよりすぐりの女だ。さぞかしいい女に違いない──」 「そうは申されましても……」  可哀想に伊兵衛は冷汗をかいて、畳に頭をこすりつけるばかりです。 「旦那さま、いくら西門屋のご主人でも、それは無理というものでございましょう。もしこんなことが世間に知られれば、旦那さまも私も打ち首間違いなしでございます」 「いや、いや、まぐわったことを女が喋るわけじゃなし、俺が黙っていさえすれば秘密が漏れるはずもない」 「そうは申しましても……」 「じゃ、お前のところがインチキ薬を売ってるって、世間に言いふらしてやるぜ、どうせお前らの商売なんか、いつお縄を頂戴しても不思議じゃないところをうろうろしてるわけじゃないか。もう何をしたって同じだ。やい、手引きをしろやい」  脅すだけ脅しておいて、慶左衛門はにやりと笑いました。 「そんなにむずかしく考えることはないだろう。今の将軍さまは、十六人の側室がいて、二十八人のお子さんがいるっていう話だ。十六人もいりゃあ、おめこぼしといおうか、一、二度っきりで忘れてしまった女もいるだろうさ。俺は何も今をときめくお方さまと何かしようと思ってるわけじゃない。一度でもいいから、将軍さまと乳繰り合った女を試してみたいと思うだけさ」 「ちょっとお待ちくださいませ」  伊兵衛が顔を上げました。その目が光っております。 「旦那さまは、お千代の方さまの名を聞いたことはございませんか」 「いや、初めて聞く名だ」  伊兵衛は語ります。今から八年も前のこと、京橋で太物《ふともの》を商う井駒屋の娘、おくまが大奥に奉公に出ました。富裕な商人の娘が、嫁入り前に勤めるのが流行《はや》っていた頃です。もちろん上臈たちに使われる下女としてでございますが、お湯殿で働いていたところ、将軍さまのお手がついた。それは将軍さまにとって、魔がさしたとしか思えない出来事でございました。  お気に入りの側室さまをご寝所に呼ばれていて、その前に軽く湯浴みをしようとしていたのですから、男の陰茎《まら》というのは突然不思議なことをいたします。湯気の中にほの見えた若い娘の、白い足の裏についその気を起こされたのだとか。とにかく娘はすのこの上に押し倒され、裸の将軍さまは難なく女陰を突かれたのでございます。  すのこの上の慌《あわただ》しい情交であっても、将軍さまのお手がついたのには間違いありません。さっそく娘は部屋を与えられ、お千代の方さまということになりました。意地の悪い女の中には、 「湯殿の方」  と呼ぶ者もいたようですが、すぐにそれはなくなりました。なぜならその後将軍さまはお千代の方さまをお呼びにならず、それきり忘れられてしまったようなのでございます。 「忘れられた女でもいいって言ったが、そんなのはご免こうむりたいね」  と慶左衛門。 「一度やったはいいものの、それきりの味、っていうことじゃないか」 「いいえ、いいえ。あの頃、お千代の方さまは十七の生娘。生娘はゆっくりいじって、さんざん恥ずかしがらせるから価値があるというもの。大急ぎですのこの上でまぐわって、なんの楽しいことがありましょう。ただきついだけでございますよ」  伊兵衛は秘薬を勧める時のような調子で続けます。 「あれから八年。お千代の方さまは脂ののった女盛りということでございます。一度だけで他に男を知らず、悶々とお過ごしのご様子。いわばあっという間に亭主が亡くなった若後家のようなもんじゃありませんか。もうお声がかからないままに、城の奥でひっそりと暮らしていらっしゃる。こういう方をお慰めし、よがり声をあげさせるのが男の楽しみじゃあございませんか」  などとおだてられているうちに、慶左衛門はすっかりその気になってしまいました。  けれども、お千代の方さまと会うのはそれはそれはむずかしい。「お清《きよ》」の女たちならごくたまに外出も出来るけれど、お手つきのお方さまともなれば全くの籠の鳥ということになりましょう。  それからすぐのこと、伊兵衛が耳よりの話を持ってまいりました。谷中《やなか》に善尚寺という日蓮宗の寺がある。そこそこに由緒がある寺で、参詣する者も多いが、それは表向きの姿。四ツ目屋のように裏に通じている者ならば、そこがとんでもない破戒僧の寺だとわかります。女犯《によぼん》は当然のこととして、住職はお針の女ということで妾を置いている。そればかりではありません。金のある女に限りますが、こっそりと堕胎もしております。この寺に、大奥の女たちが参詣するようになったのは、この二、三年のことです。将軍さまが一時期、疥癬《かいせん》に悩まされた時があって、そのご平癒を祈ったのがきっかけと神妙なことを申しておりますが、めあては実は住職にあったのです。この住職は、ちょっとした美男の上、精力絶倫ときている。それに研究熱心でございまして、四ツ目屋から買った秘薬をあれこれ試すそうでございます。中でも気に入りは、「女悦催快粉」というやつで、これをことの前に女陰にすり込めば、おぼこな中臈などそれこそ頭がおかしくなるような気持ちよさということです。 「そういう薬を使う奴は、ちょっと気にくわねえな」  慶左衛門は自分のためにこそ薬を使うことはありますが、女に直接使ったことはない。女を歓ばせるために全力を注ぐのが男で、女陰にあれこれすり込むのは卑怯なことのように思われるのです。 「本当にここだけのお話にしてくださいまし……」  伊兵衛はおがむ真似をいたします。中臈の方々があれほど出入りなさっては、噂が立つのも時間の問題でしょう。こういう時、寺社奉行たちもめんどうを起こしたくないので、大奥の女たちはたいていお咎《とが》めなしということになる。だから悪いことをする女たちは後をたたないのですが、あれこれ言い逃れても、住職は島流しぐらいにはなるでしょう。そしてとばっちりを受けるのは四ツ目屋となるはず。その時は、ただ薬を売っただけと、知らぬ存ぜぬを決め込みたいので、なにとぞすべてご内密にと伊兵衛は言っているのです。 「来月、また出てきた将軍さまのご病気の快癒のため、お千代の方さまがいらっしゃるっていうことですよ。八年間もほっておかれた女が、今さらご祈祷でもないでしょう。こりゃあ、もう男欲しさでたまらなくなったということに違いありませんよ」 「そうだろうなあ、八年ときたひにゃ……」  慶左衛門は舌なめずりしたいような気分です。ずっと以前十九で後家になって以来、十年も独り身を守ってきた女をふと思い出したのです。女陰《ぼぼ》そのものは平凡なものでしたが、その喜びようときたらありません。淫水と涙を流しに流し、慶左衛門にしがみついてきたのです。 「ふーむ、可哀想なご側室をお慰めするのも悪くないかもしれねえなあ……」  と慶左衛門は、ほくそ笑むのでありました。  さて、お千代の方さまが善尚寺に参詣なさる時がやってまいりました。西門屋の主人がぜひご挨拶をしたいからと、伊兵衛は住職に話をつけ、慶左衛門は座敷にうかがうことになっております。大金が動いたのはいうまでもありません。 「どうぞご無理はなさいませんように、お酒を差し上げて、とろとろとその気にさせてくださいませ。旦那さまの男ぶりに、女はみんな言うことを聞くはずでございますから、どうか、どうかご無理をなさいませんように──」  すっかりおじけづいた伊兵衛は、手を合わせて頼むのでした。  さて、その日慶左衛門が寺の奥で待っておりますと、伊兵衛が報告にまいりました。 「今、お千代の方さまの駕籠がご到着になりました」 「よおし」  身震いと同時に、陰茎《へのこ》も元気よく動きます。この感触は、とうてい女にはわかりますまい。初めてのいい女を抱けると思うと、それはへその下にまっすぐに伝わり、ピンと反応するのであります。 「それでお付きの者は、いったい何人だい」 「中間《ちゆうげん》たちを別にすれば、三人いらしていますが、お酒を召し上がれば、あとはすぐに消えますよ。住職ひとりでは体がもたないので、この頃は若い美男の僧を別の部屋に用意しているのですよ」 「なるほど、大奥のお女中方は、本当に好き者と見えるな」  頃合いを見はからって、慶左衛門は住職と共に座敷へと向かいます。床の間を背に、ひとり盃を手にしている女が、お千代の方さまでしょう。お付きの者たちがいなくなったのが不安なのか、あたりを見渡しているのが初々しいといえば初々しいのですが、大奥の女の貫禄はありません。顔はといえば、 「中の上」  慶左衛門は心の中でつぶやきました。色が白く、涼やかな目をしていますが、もったいないのが唇です。薄くやや前に突き出しているのです。女陰《ぼぼ》と女の唇の形とは、深い関係があると信じている慶左衛門はかなりがっかりしてしまいました。 「これはこれはお方さま。当寺にお越しいただきまして、まことに光栄至極にございます」  かしこまって挨拶をする住職。最初は後で抱くつもりだったのではないかと、慶左衛門はおかしくなってくる。 「ここにおりますのは、蔵前札差商、西門屋の主《あるじ》でございます。お千代の方さまにおめにかかりたいと控えております」 「ははー」  慶左衛門はかしこまります。こんなふうに恐懼《きようく》すればするほど、抱く女の価値が高まるというもの。 「失礼かとは存じましたが、わたくしご挨拶のおしるしに、少々のものを持参いたしました。どうぞご覧くださいませ」  高台に用意いたしましたものは、この日のためにつくらせたおかい取り。朱の地に橘《たちばな》の花をびっしりと染め出しておりますが、よく見ますと、花のひとつひとつがみな違う。ある花は疋田《ひつた》絞り、ある花は金糸で刺繍がしてあり、その見事なことといったらありません。 「おお、美しいこと」  お方さまが感嘆のため息を漏らしている間に、しめしあわせたとおり、住職はすうっと姿を消しました。さあ、いよいよ慶左衛門の腕の見せどころです。 「お気に入っていただければ、西門屋まことに幸せでございます。どうぞ今後ともなんなりと、お申しつけくださいませ」  慶左衛門が頭を上げた時、お方さまと目が合いました。口元はともかく、目は悪くありません。鈴のように小さくて丸くて、目尻がゆるやかに上がっている。可愛らしい目です。  そしてお方さまの方も、慶左衛門を見つめている。そりゃ、そうだろうと慶左衛門は思いました。江戸でも評判の男ぶりに加え、今日はたっぷりとめかし込んでおります。髪結いを今朝呼んだばかりで、月代《さかやき》もすべすべ。一筋の髪も乱れておりません。  その時意外なことが起こりました。お方さまが凜《りん》とした声を張り上げたのです。 「そなた、何か勘違いをしていませんか」 「へっ」  早くも企《たくら》みが露見したのかと青くなる慶左衛門。 「わたくしにこのような高価なものをくだされても、無駄というものですよ」  それはわかっているけれども、そこを何とかと、慶左衛門は焦ります。まだ形勢を整えていない時に、いきなりこんなことを言われては、うまく言葉が出てこない。 「ああ、お方さま……、ああ、お方さま……」  と膝を少しずつ進めます。 「これは賄賂《わいろ》というものなのでありましょう」 「はっ」 「よく聞いております。上さまにお取次ぎしてもらおうと、商人たちは女たちが宿下がりのたびに、それはそれは大層な贈り物をなさるそうですね。でもわたくしにこんなことをしても、無駄というものですよ。もう何年も上さまのお顔を拝していないのですから」  なんともいじらしい女ではないかと、慶左衛門は驚くやら、嬉しくなるやら。こんなに正直で世間知らずな女に出会ったことがない。おそらく十七の娘のまま、大奥の深くで暮らしていたのでありましょう……。  そんなことを考えると、慶左衛門は女が可愛くなってくる。俄然その気が起こってまいりました。 「いえ、いえ、お取次ぎなど思ってもおりません。私の目的はといえばあなたさま」  いきなりお方さまの手を握りました。もうこっちのものです。 「あれー、何をするのじゃ、人を呼びますよ」 「人を呼んでも構いませぬ、あれはいつだったでしょうか、桜が満開の頃、お駕籠の戸を少し開けさせ、花をご覧になっていたあなたさまのお顔を忘れられず、恋い焦がれてもうどのくらいになりましょうか。どうか慶左衛門一生の願い、どうかかなえてくださいませ」  まるっきりの出鱈目を口にしているのですが、お方さまのふりはらおうとする手が急に弱まりました。  そりゃそうだろう。すのこの上で犯《や》られて以来、これが初めて聞く男の口説きというもの。それならもっと続けてやるかと、いよっ、慶左衛門、名調子。 「いえ、いえ、お手をお離しくださいますな。男が打ち首覚悟の必死の思い、お情け深いあなたさまに伝わらないはずはありますまい。慶左衛門、命に懸けての思い、どうぞかなえてくださいませ。そのうるわしいお姿を、一夜だけでも頂戴しとうございます」  そして慶左衛門はお方さまの肩を強くひき寄せ、口吸いを長く続けます。ここまでくれば、裸にしたも同然。おぼこい女は口吸いが大好きですから、かなり長めにいたします。 「お方さま、もう我慢が出来ませぬ」  裾を割って入ります。 「あれ〜、許してたも」  お方さまは大声を出しましたが、裾の奥は淫水でぴちゃぴちゃ溢れております。時間もございませんので、帯を解かずこのまま突くことにいたします。あまり慣れていないことを考慮して、慶左衛門は強く突くこともやめます。  陰茎を女陰《ぼぼ》のやや上の方にあてがい、まずこすることを始めます。このそら豆を刺激することにより、女の心と体をときほぐそうという考えです。 「ああ、もうたまりませぬ」  一度だけのまぐわいなら、生娘同然と思っていたのに、お方さまの腰の使い方は尋常ではありません。慶左衛門は、突然紐のついた張形を思い出しました。  あのべっ甲の張形が浮かんでくると、どんな男でも萎《な》えるものでございますが、そこは慶左衛門、ふっと気を入れ直し、角度を変え、陰茎を奥へとつき入れます。  ところがどうしたことでありましょう。まとわりつくはずの肉の襞《ひだ》は、ふわりと遠ざかるばかり、淫水の海の中を、ただ泳ぐような心地です。 「こりゃあ、極上開どころか、とんだずぼずぼだったわい」  舌打ちしたいような気分でございますが、いったん入れたものをすぐに抜くわけにはいかない。ここが男のつらいところです。 「ひえー、もういけませぬ。もうたまりません」  お方さまが白目をむいているのも、次第に厭《いと》わしくなってまいりましたが、ここで使いものにならなくなったら男がすたります。慶左衛門は意識を集中させ、今自分とまぐわっているのはおきんだと想像します。あの締めつける心地よさといったら……。淫水も多いけれどうまくまとわりついて、男の陰茎を奥へ奥へと誘い込みます。 「あれ〜〜」  お方さまがぐったりしたのと、慶左衛門が果てたのは同時でした。 「いったいどうしたんですか……」  西門屋の奥の離れ。ことが終わったばかりのおきんが、前をはだけたまましどけなく起き上がります。やがて桜紙を口にくわえ、後ろ向きになって恥ずかしそうに後始末するのがなんとも色っぽい。 「旦那が昼からなさるなんて、本当に珍しいことだもの。それにこの頃……」  後の言葉を呑み込みます。確かにこのところ慶左衛門が離れにくるのが頻繁になりました。おまけにじっくりと時間をかけてくれるので、おきんは大満足です。 「こんなにやさしくしてくれるなんて。旦那は、きっと外で悪いことをしてらっしゃるんじゃありませんか……」  流し目をくれる。慶左衛門はコホンと咳をして、 「何を言う。この頃、お前のよさがつくづくわかったってことよ」 「まあ、嬉しい。今の言葉、忘れちゃ嫌ですよ」  などというやりとりがあった後、身づくろいをして座敷に戻った慶左衛門を待っていたのは、あの伊兵衛でございます。 「旦那さま、よい話がございます」 「お前の話は、あんまりあてにならないからな」 「いや、いや、今度の話はよそでは出来ない、大変な話でございます。品川の私娼宿《じごく》に合いの子がいるというのです」 「なに、合いの子」  思わず大きな声を出します。いくら慶左衛門でも合いの子は抱いたことがない。 「はい、阿蘭陀《オランダ》人との合いの子だそうでございます。そんな者は間引きされるか、長崎から出られないはずですが、どういうわけか江戸に紛れ込んでいるのですよ。身元の確かな方だけに、こっそり相手させるとか。合いの子といっても、日本の血が強くて髪も黒い。ただ肌が真白で、乳首が桃色。あそこのよさときたら、男が悲鳴をあげるそうでございます……」  こんな風にして、慶左衛門の春の午後は過ぎていくのでございます。 [#改ページ]   第六話 おきん、子授け寺へ行くの巻  端午《たんご》の節句が近づきましたが、今年の雨の長いことといったらどうでしょう。  さっきも雨足が急に強くなり、菖蒲《しようぶ》売りの男が尻をからげて走っていったところです。  そのくせ暑さときたらひとしおで、黙って座っていても、汗が体中ににじんできます。雨と一緒になって、その暑苦しさといったらありません。おきんは冷水売りから買った水をくびくびと飲みながら、腹ばいになって本を読んでいるところです。ここが妾稼業のよいところ。旦那の留守に、どんなに自堕落な格好をしていても咎める者はいないのです。他の者どもは汗を流して働いているのに、おきんは甘くて冷たい水を飲んで、昼から寝そべっているのです。これで文句を言ったらバチがあたるというものです。  さて、おきんが読んでいるのは「素人包丁」「料理通」といった、今江戸で大流行の料理本、特に「料理通」ときたら、谷|文晁《ぶんちよう》、葛飾北斎といった一流の画家たちが挿画を描いているのですから、そのうまそうなことといったらありません。大田|南畝《なんぽ》らの詩文も気がきいていて、こういう暑い日に読むのにはぴったりです。  今夜あたりうまいものでも食べたいと、おきんは喉を鳴らします。いくら金持ちといっても、西門屋は商家でございますから、内々のまかないは質素なものです。奉公人たちよりははるかにいいといっても、さっきおきんが食べた昼食は、朝の残り飯にどじょう汁、それに香のものがつくという程度。慶左衛門などは、うまいものは外で食べるものと決めてかかっているからいいでしょうが、家にいるおきんはこれではもの足りません。食と色の欲は双児のようなものですから、色ごとの好きなおきんは、うまいものに目がありません。慶左衛門が嫌がるのでめったに外に出ることはありませんが、その替わり買い食いはしょっちゅうしている。  冬は焼き芋、汁粉、蕎麦、団子、夏は冷水、白玉と、ぼて振りの者たちは西門屋の前で必ず足を止めるといいます。おきんと一緒に屋台の前に立つわけにいかず、奉公人たちのほうがこそこそと買うという始末。  おかげでおきんは、近頃めっきりと太りました。慶左衛門がいくら太り肉《じし》の女が好きといっても、 「お前、ちょっと過ぎるんじゃないか」  と声をかけるほどになったのです。  本をぱたんと閉じて、おきんはあーあとため息をつきます。妾というのはなんと退屈なものでしょう。例の芝居茶屋でのはち合わせで、慶左衛門にすっかり疑いを持たれたおきんは、もはやお芝居にも行けません。  今のところおきんの気晴らしといえば、うまいものを食べることと、ようじ屋のおかみお陶と、くだらぬことをべちゃくちゃ話すことなのです。  そういえばこのところ、お陶と会っておりません。いろいろ愚痴も聞いてもらいたいし、耳の早いお陶から、町の噂も聞きたいところです。幸いなことに、慶左衛門は今日寄合いがあり、その後は吉原《なか》へ行く様子。おそらく今夜は泊まってくることでありましょう。  おきんはさらさらと手紙をしたため、中にいくらか入れます。手紙にはこう書いておきました。  今日は旦那がお留守だから、ちょっと寄ってくれませんか。この金でうまい酒とおかずを見つくろって買ってきてください。  女中に頼んで、丁稚の春吉を呼んでもらいました。この春吉はお陶の店の、ごく近くの長屋に棲んでいた子どもだったので何かと頼みやすい。 「ようじ屋のおかみさんのところへ、この手紙を届けてきておくれ。ついでにおっかさんに顔を見せてあげるといいよ」  手紙と一緒にお駄賃も握らせたので、春吉も大喜び。やがて酒を持ってお陶がいそいそとやってきて、楽しい晩になりました。  さて、次の日の朝のことです。母屋のお月が顔を出しました。 「ちょっと言いにくいことだけど、いいかねえ」 「はい、お姉さん、何ですか」  辰年生まれのおきんは、寅《とら》のお月をこんな風に呼ぶのです。 「あんたが友だちを家に呼んでお酒を飲むのは、まあ大目に見ようじゃないの。旦那さんの留守の時に、ちょっと羽根を伸ばすのは仕方ないさ。だけど店の者を勝手に使うのはやめてくれないかねえ」 「何ですかい、お姉さん。私が春吉にちょっとお使いを頼むのはいけないっておっしゃるんですか」 「うちの女中ならともかくね、丁稚はお店《たな》の者《もん》で、番頭たちが使う人だ。番頭には番頭の思惑があるから、私たちは勝手に使うことは出来ないよ」 「まあ、驚いた」  おきんは大げさに目を丸くし、大きな声をあげます。 「一日中、どっかに連れまわしたわけじゃなし、一刻《いつとき》余り私が使いを頼むのも、いけないっていうことですか」 「そりゃあ、そうだよ」  お月はいつになくこちらを強く見ます。 「私はあんたのすることに、いちいち目くじらを立てるつもりは、これっぽっちもないけれど、あればっかりはいけないね。商いする家の者にとっては、お店《たな》が第一。まずお店のことを考えなけりゃいけないって、私はここの生まれだから、特に厳しく仕込まれたわけだけれど、あんたも縁あって西門屋の人になったからには、そこのところをちゃんとわかってくれなくっちゃね」  だいぶ落ちぶれたといっても、自分はここ蔵前のれっきとした大店《おおだな》の娘だと、お月は言っているわけです。  昼過ぎ、慶左衛門が帰ってまいりますと、泣いて泣いて、すっかり顔が腫れたおきんがおりました。このところぷっくり太って丸顔になっていますから、それがさらに膨らんで白いおまんじゅうのよう。女の泣き腫らした顔はなかなか愛らしく、慶左衛門は内心にっこりしております。 「何があったか知らないが、お月の悪口だけはご免だ。俺はこの家の奥向きのことは、すべて女房に任せているんだから、あいつともめごとを起こさないでくれ」 「旦那、私がこんなに口惜しいめに遭っても、我慢しろっておっしゃるんですか」 「あいつは心持ちはいい女なんだが、なにしろお嬢さん育ちだから気のまわらないところがある。そこんとこは世間を知ってるお前が、ちょいと辛棒してくれないか」  このもの言いは、おきんの最も気にくわないものです。おきんはこの後しばらくわあわあ泣いて、これには慶左衛門もすっかり手を焼いてしまいました。しばらくたってから、 「どうだい、おきん。機嫌直しに『宗清』へ飯を食いに行こうじゃないかい」 「まあ、あの評判の『宗清』へですか」  がばっと、身を起こすのですから、本当に現金な女でございます。  慶左衛門とおきんは二人でぶらぶらと両国橋を歩いていきます。今日は雨が上がり、初夏の空は、たそがれのためにいささか青が重くなっております。もうじき涼み舟が出る川も今は静かで、桶を乗せた百姓の小舟がゆっくりと行くだけです。 「ほら、あそこが万屋だぜ」  慶左衛門が指を指し、おきんもああ、あすこですかと答えます。先月この店で大食い競争が行なわれたのです。香の物だけで、何杯飯を食べられるか競ったのですが、一番の男が六十八杯だったというので大変な話題になりました。多くの見物人が見ただけでなく、瓦版《かわらばん》にも面白おかしく書かれたぐらいです。 「まあ、俺の年になればそんなに量は食いたくない。うまいもんをほどほどに食べたいのさ。女と同じだ」  そう言いながら、慶左衛門はおきんの袖の中に手を入れ、腕の内側をつねったりするのです。 「いやですよ、旦那ったら……」  すっかり機嫌を直したおきんです。  さて今評判の「宗清」は、八百善と並ぶ名店として、江戸っ子たちの垂涎《すいぜん》のまとになっております。なにしろお大名もおしのびでいらっしゃるというほどですから、うまいもうまいが値段も大変なもの。酒を飲んでひとり二両はいくというのですから、目をむくような話ではありませんか。慶左衛門はこのところ、勘定方のお役人との接待にここに来るようになりました。下っ端のお役人ほど、高級な店を使わなくてはというのは、かねてからの慶左衛門の持論です。なにしろ武士《さむらい》ときたら、たいしたものを食べていないくせに、身分によって大層えげつないことをいたします。同じ宴会の席についても、身分によって料理の品数を増やしたり、減らしたりするばかりでなく、器も皿にするところを、身分の下の者は杉の板に盛ったりするというのですから、全く嫌な話です。  それなのに慶左衛門の饗応《きようおう》は、贅沢な料理と酒で下にもおかぬもてなしをするのですから、下っ端のお役人はたまりません。なまじの賄賂よりもずっと効果があるというものです。  さてこの「宗清」は、大店の寮を料亭にしたもので、その普請《ふしん》の立派なことといったら……。おきんなどにわかるわけはありませんが、掛け軸、香炉の類もよりすぐったものばかりです。  食器も高価な瀬戸のものが使われております。貝の吸い物に、あわび、鯛の刺身、鉢は豆と豆腐の炊き合わせ。鰹《かつお》の天ぷらという珍しいものもあります。  お酒もまことにおいしく、おきんは久しぶりに晴れ晴れとした気分になってまいります。いつしか慶左衛門の話は、同じ蔵前の札差仲間のことになっていました。そこでは、夫婦になって九年目に男の子が生まれ、今度の端午の節句に祝いの会が開かれるというのです。 「全く蓬莱屋ときたら大きな宝を手にしたもんだ。しかも女房の子だっていうんで、夫婦で大喜びさ」  この言葉はぐさりとおきんの胸を刺します。西門屋のやっかいになってから、既に一年の月日が流れようとしていましたが、おきんは未だ子どもを授かってはいません。「嫁して三年子なきは去る」と言われますが、これは妻に適用されるものであって、妾に子どもがいなくても、別に気にとめる者もいません。というのも、お家の安泰のためには、かえってこの方が都合がよい。のんびりとしたものです。  けれどもそれはそれで、なんとも淋しいものでございます。  慶左衛門という人は、あれほどたくさんの女がいながら、子宝にはあまり恵まれない男です。お月との間に、おせいという女の子がひとりいるだけ。このおせいというのが、誰に似たのか平凡な顔立ちのぼんやりとした子で、慶左衛門はあまり可愛がっている様子もありません。おきんとしては、ここで男の子誕生という一発逆転を願いたいところですが、世の中はうまくいかないものでございます。 「チェ、鯉のぼりが上がっているのを見ると、いらいらするぜ」  慶左衛門はぐっと盃をあおります。ことあるたびに、うちはおせいがいるからいい。いずれあいつに出来のいい婿をとらせるから、などと言っているのですが、腹の底では、男の子が欲しいと思っているに違いありません。  ほろ酔い気分にいっきに水をさされ、しゅんとしたおきんでありますが、すぐにいつもの勝気さを取り戻しました。  目の前の男と一緒になるために、夫殺しまでした自分であります。あれも夫憎しというよりも、だらだらと続く日々が憎かったのではなかろうか。目の前にパァーッと輝かしいものが待っているとしたら、それを手に入れるために、どんなことでもしようと決心したのではなかったか。 「ねえ、旦那」  おきんは慶左衛門の前に膝を進めます。女の思いつめた目に、ぎょっとする慶左衛門。自分の発した言葉の重さに、少しも気づいていないのですから困ったものです。 「旦那の男の子、私に産ませてくれませんか。いいえ、絶対に産みますからね」 「おいおい、どうしたんだ。そんなにおっかない顔をして」 「私も西門屋慶左衛門の女になったからには、ずっと石女《うまずめ》と呼ばれるのも口惜しゅうございますよ。いいですか、絶対に産ませてもらいますよ」  おきんはずっと昔、浅草にいた人相見のところへ行ったことを思い出しました。観相と手相を見るその男は、おきんの右手を時間をかけて見、そして顔をつくづく眺めて言ったものです。 「男だったら、どんな出世もかなうような運だったのに、女に生まれたばっかりになあ……。その器量じゃ苦労も多いだろうが、踏ん張って生きていきなさい」  一緒に行った仲のいい娘は、良縁に恵まれ、子どもは四人と告げられて大はしゃぎでした。あれは不吉な予言だったのか。いや、そんなはずはあるまい。男だったら出世をする、ということは、女だったら出世した男の傍に立つということだろう……。  おきんは例によって、自分に都合のいい解釈をするのでした。  やがて充分に酔い、腹いっぱいになった二人は、川の風に吹かれて戻ってまいりました。そしておきんの部屋で一戦交えることになったのですが、この時おきんが激しく、いつにもましてえげつないことをしたのは言うまでもございません。  さて、おきんはさっそくお陶のところへ相談に行きました。 「さて、私は子どもが出来ないようにしたり、孕《はら》んだ子どもをどうやって流すか、なんて相談はよくされるんだけれどもねぇ……」  こんなところにも、お陶の今までの世すぎがよく表れています。とにかくおきんは、お陶の紹介してくれたあんまのところへ通うようになりました。腰のところに灸《きゆう》をすえてもらいます。それが慶左衛門に評判が悪い。湯文字《ゆもじ》をはがすと、もぐさのにおいがするというのです。 「これじゃあ、勃《た》つものも勃ちゃしない」  肝心の慶左衛門に鼻をつままれては、出来るものも出来ません。次にお陶が持ってきたのは怪しげな話です。 「私はね、この道にかけちゃいちばんのまじない師のところへ行ってきたんだよ。そうしたら、あんたに子どもが出来ない理由がよおくわかったよ。旦那がいけないんだね」 「旦那がかい」 「そうだよ。あっちの女、こっちの女とお出かけになるから、子種が薄くなってあんたのところへ来ないんだ。子どもをつくるまじないの前に、まず旦那が他のところへ行かないまじないをすることだね」  お陶が言う浮気封じの呪《まじな》いというのはこうです。慶左衛門の男根《まら》と同じ寸法の張形をつくり、それを焙烙《ほうろく》で炒るというのです。 「随分奇妙なまじないだね」 「だけど効果はてきめんだって言うよ。これをやった夫婦は、旦那の浮気がぴたりやんで、次々と子どもが七人出来たそうだ」 「七人もかい」 「ああ、そうさ。吉原《なか》のお女郎もこのまじないで、情人《いろ》や、大切なお客を繋ぎとめておくっていう話だよ」 「だけど、旦那の男根《まら》の張形なんか、いったいどこでつくってくれるのさ。指物師のところへでも頼みに行くのかい。私は恥ずかしいよ」 「何をお言いだよ。そんな大切なものは自分でつくるに決まってるじゃないか」  お陶はげらげら笑います。 「漆喰《しつくい》屋のところへ行って、土をひとかけ貰ってくるんだね。それで心を込めておたくの旦那の男根《まら》そっくりのもんをつくるんだよ。旦那の男根なんか、空《そら》でつくれるぐらい、よおく知ってるだろうにさ」  お陶はまたもや下卑た笑いをあげるのでした。  さてそうはいっても、相手の男根をそっくり憶えている女がいったい何人いるでしょうか。たいてい色ごとというものは夜行なわれることになっております。行灯を消し、せいぜいが月あかりの中、触れたり、握ったりしたところでたいしたことがわかるわけがございません。女陰《ぼぼ》に目がついているわけではなし、せいぜいが大きいか小さいか、硬いか、やわらかいか、というところ。  けれども幸い慶左衛門もおきんも大層な色好みですから、真昼間からことを起こすこともしょっちゅうです。その最中、慶左衛門は自分の男根《まら》をおきんにしゃぶらせたりいたしますから、ふつうの女よりもおきんは男のその形や色をよおく知っているわけです。といっても、そのとおりに再現しろといっても、大層むずかしいものでございます。  お陶をとおして手にいれたひとかけの土を前におきんはすっかり考え込んでしまいました。近くにあった紙に、あれこれ描いてみます。旦那の|かり《ヽヽ》は短かかったかねぇ。もう少し先が太かったような気もするけれども。そう、そう、ここのところに太い筋が通っていたんじゃなかったっけ。  あれこれ描きちらし、掃除に来た女中のお秋が、 「あれ、いやだ──」  と袖で顔を隠し逃げていってしまいました。  さても、さても、その年の夏は暑く、江戸の町をいく人々も馬も、太陽からの熱にぐったりとしなびたようになっていきます。さすがの慶左衛門も用たしから戻ってくると、ああ疲れたと、おきんの部屋でどさりと横になります。 「まあ、まあ、旦那、大変でございましたねえ」  こういう時こそ、妾の腕の見せどころでございます。女房のいる場所より、はるかに居心地よくしなくてはなりません。おきんは買ってきた冷水を出したり、霧吹きをし、火熨斗《ひのし》をしておいた浴衣をふわりとかけてやったりします。そして膝枕をしてやり、すうっと団扇《うちわ》の風を送ってやる。  いつのまにか慶左衛門は軽いイビキをかき始めました。濃い鬢《びん》のあたりが、汗でへばりついているのがなんともいえない頃合いを見はからって、おきんは慶左衛門の浴衣の前をはだけます。ふんどしをずらし、逸物を取り出したのですが、ぐったりとしていて元気がない。おきんは両手を使ってしごくことにいたしました。 「うーん」  と気持ちよさげな声をあげる慶左衛門。夢うつつというものの、逸物はたちまち元気に起き上がったのでございます。さて……と、おきんは用意しておいた紙に、慶左衛門の男根《まら》を写し始めました。が、絵心がないおきんのことですから、あまりうまくいきません。  出来るだけ本物そっくりに。本物に近ければ近いほど、呪《まじな》いは効くとお陶が言っていたことを思い出しました。  こうして本物を眺めると、慶左衛門のそれは鈴口《すずぐち》の太さに特徴があるのですが、おきんの絵はうまく表しているとは申せません。 「そうだ、こうすれば……」  おきんは、裁縫箱から糸を取り出しました。きちんと寸法を測ろうというのです。まずは根元のまわりをしばりました。 「えーと……三寸」  次は中ほどをしばります。そして|かり《ヽヽ》の根元にかかった時です。どんな夢を見たのか、あるいはおきんのしばる糸が刺激になったのか、慶左衛門の男根がさらに大きくなってきたではありませんか。 「あれ、どうしよう」  すぐにはずせばよかったものの、ふだんからねっとりと湿っている男根ですから、糸は皮膚にぴたりと貼りついてしまいました。あれよと思う間もなく、その糸がきりりと男根を締めつけたからたまらない。 「痛え、痛え、何をしやがる」  慶左衛門は悲鳴をあげます。そしておきんはいきなり突きとばされてしまったのでございます。  さんざん慶左衛門に怒られたおきんですが、それにめげるような女ではございません。とにかく頭の中は、「男の子を産む」ということでいっぱいになり、他のことは何も考えられないのです。  ある日お陶が尋ねます。 「ときにおきんさん、あんたはいったいどこの神さんのところへお願いに行ったんだい」 「私かい。そりゃ富岡の八幡さまだよ」 「へえー、富岡の八幡さまが子授けにいいとはあんまり聞いたことがないねえ。行くならやっぱり淡島さまか、産泰さまだろう」 「それがねえ、どこも遠いところばかりでねえ。いくら遠くても、効き目があるっていうんなら、出かけてもいいんだけどねえ……」 「それがねえ、霊験あらたかなところがあるんだとさ」  お陶が聞いてきたのは、谷中の善尚寺という寺のことです。亀戸天神近くの小間物屋のおかみさんがお詣りしたところ、なんと婚礼を挙げて二十年後に子が授かったというのです。 「ちょっと。そのおかみさんというのは、いったい幾つなんだい」 「十五の時に嫁入りしたというから、まあ三十五、六というところかねえ」  それならおきんの方が、ずっと年下です。それ以外にも、養子を取れと迫られていた芝居者《しばいもの》の女房が思いあぐねて通ったところ、たちまち玉のような男の子が生まれたとか。 「とにかく、あんなに霊験あらたかなところはないって、今じゃ大変な評判なんだよ」  お陶もおきんも、この寺がいかがわしいところであることを知りません。なにしろ美男の破戒僧を集めては、宿下がりをする大奥の女たちの相手をするのです。その大奥の女と一度でいいからまぐわいたいと、慶左衛門がいろいろ企んだ寺ですが、おきんもお陶も知るよしもありません。  霊験あらたかと聞いて、おきんは聞き逃すことが出来ません。これはお陶にも言えないことですが、自分が妊《みごも》らないのは祟《たた》られているのではないか。おそらく殺された前の亭主が成仏していないのだろうと、こっそり富岡の八幡さまで供養してもらっている最中だったのです。  おきんは慶左衛門が一日留守をしている日を見はからって、善尚寺に出かけることにいたしました。蔵前から谷中まではそう遠くはございませんが、暑いうちなので、早起きして歩きます。  とうに薄ものの季節ですので、寺に着く頃にはかなり汗をかいてしまいました。衿を大きくはだけ、手拭いを使います。この頃、太り始めたことを気にするおきんですが、女盛りのたっぷりした色香が、衿元からぷんぷんとにおってくるようです。  善尚寺は思ったよりも大きな寺で、由緒ありげな広い庭に離れが見えますが、あれは何だろうとぼんやりと眺めていますと、寺男に声をかけられました。 「ご新造さん、ご住職がお待ちですのでどうぞあちらへ」 「それはそれは、ありがとうございます」  子授けの祈願をする際、特別のお布施をすると、住職が特別の祈祷をしてくれると、お陶から聞いていたのです。  本堂へ通されますと、ありがたいご本尊を前にして、涼やかな夏衣を着た僧侶が座っております。さっきおきんが書いた「祈祷願い」に目を通し、 「ご新造さんは、蔵前からいらしたのですな。ここに西門屋慶左衛門方となっておりますが……」 「はい、西門屋に世話になっている者でございます」 「なるほど、なるほど……」  中年の僧は、ここで大仰に頷くのでありました。 「それでお幾つになられたのか」 「はい、辰の年生まれで、今年二十五になります」 「それではお子さんが、いっそう欲しいお年ですなあ……」 「そりゃあもう……」  不覚にも涙がぽろりとこぼれたおきんでございます。 「年も年でございますし、旦那のご機嫌で明日の運命《さだめ》がわからない、はかない身の上でございます。子どもでもおりませんことには、この浮世を渡っていけないとまで思いつめております」 「なるほどなあ……」  住職はじっと目を閉じ、なにやら瞑想にふけっております。そして数珠を持ち、くるりとご本尊の方へ向き直り、経を唱えてくれたのであります。最後に、 「ここにおります、蔵前のきんと申すう〜、辰《たつ》の年ィ〜、本年二十五の女性《によしよう》にィ〜、なにとぞ男子を授けたまえ〜〜」  と唱えてくれましたので、おきんはすっかり感激してしまいました。やがて住職はじっくりと膝を進めてまいります。そして、 「おきん殿」  じっと目を見ます。 「どうしてもお子が欲しいのかな……」 「それはもう……」 「わかりました、それでは別室にて秘法をお授けいたしましょう」 「ありがとうございます」  さっきの寺男が出てきて、おきんは離れに通されます。さっき見た建物は、次の間付きの豪華なつくりでした。膳が用意されていて、若い僧が酒を注ぎにやってまいります。午後の酒に、おきんは早くもいい気分です。  その時襖が開き、白い衣に身をつつんださっきの住職がやってまいりました。足袋を脱いだ素足を見て、おきんはあっと声をたてます。 「おきん殿、それでは秘法をお授けいたしましょう」  ここまでくれば、何が始まるのかわかります。住職は夫や旦那の替わりに、秘法ならぬ、子種を授けてやろうというのでしょう。 「おきん殿、さあ、こちらへ……」 「私は、ご免こうむりまする」  おきんの頭の中に、浮気しかけた西門屋の手代、定吉の顔が甦《よみがえ》ります。あの時はすんでのところで、慶左衛門に知られずにすみましたが、今度何かあったらただではすまないことでしょう。それにだいいち、あの中年の住職は好みではありません。もし酌をしてくれた若い方の僧だったら──。 「秘法をたっぷり授けてもらったかもしれない」  下駄を手に持って、庭を小走りに行きながら、おきんはちらっと思ったのであります。  そしてその夜、慶左衛門は上機嫌でございました。おきんの部屋にやってきて言うことには、 「お月がなんと腹ぼてだとよ。おせいが生まれてから八年もたってる。全くありがたいことが起こるもんだなあ。俺はそこらの寺や神社に、頭を下げてまわりたい気分だよ。もしかすると誰かが、俺の気持ちを汲んで祈ってくれたような気がするなあ」 「あれまあ」  とおきんは卒倒してしまったのであります。 [#改ページ]   第七話 慶左衛門、跡継ぎが生まれるの巻  親の心というのは、昔から深く尊いものと言われております。  当代きっての遊び人と言われている慶左衛門もやはり人の親でした。お月の産み月が近づくにつれ、そわそわと不安になってまいりました。最近お月は会う人ごとに、 「顔がきつくなってきたから、きっと男の子ですよ」  と言われております。中には、 「このとがった腹の出具合からして、男に決まっていますよ」と、わけ知り顔で言う者もいて、いよいよ跡継ぎの息子が生まれるのかと、慶左衛門は期待を持ってしまうのです。今まではおせいひとりという淋しさで、慶左衛門はこの子をあまり可愛がったことがない。ぼんやりとした、これといった取り柄がない娘です。けれども今度はもしかすると、待望の男の子が生まれるかもしれないのです。が、期待と共に、不安もむくむくと頭をもたげてきます。  実はお月、腹癖《はらぐせ》があまりよくありません。おせいの後にも、二度ほど子どもが流れているのです。早くに流れたので、男か女かもわかりませんでしたが、あのことを思うと、慶左衛門は今度は子どもの顔を見るまではと、気が気ではありません。そんな心持ちでいると、聞こえてくるのは嫌な噂ばかりです。お産で命を落とした母親の話やら、へその緒がからみつき、死んで生まれてきた赤ん坊の話を聞くと、慶左衛門は居ても立ってもいられないような気になってまいります。 「それなら宝蔵寺さまへ、おまいりに行ってくれませんか」  すっかり腹の大きくなったお月は、肩で息をしながら言います。 「赤坂の龍泉寺さまもよいようでございますよ。私もおせいの時から八年もたっておりますから、なにやら心細くて……」  ため息をついて腹など撫でられたりすると、慶左衛門もしぶしぶ承諾せざるを得ません。安産のお札をもらいにあちこち行くことになるのです。  いつもはこわもての男が、こんな風にびくついておりますので、まわりの者たちは半分面白がって、あれこれ吹き込みます。そんな中に目黒のある寺の住職の話がありました。今まで男か女かはずれたことがない。そのうえ、お産が無事にいくかどうかも占ってくれ、もし何か障《さわ》りがあるのならきっちり祈ってくれるというのです。 「そいつは怪しいところじゃないだろうな」  例の谷中の破戒僧のでたらめさを知っている慶左衛門は半信半疑です。  さてともかく寺へ向かいまして、案内を乞います。お布施をはずんだのが幸いして、すぐに本堂に通されました。やがてやってきた住職は、五十半ば、ひからびたように痩せているのがよい感じです。慶左衛門ときたら、自分はうまいものに目がなく、艶々と肌を光らせているくせに、太った坊主は信用出来ないという考えでございます。  住職はご本尊に向かって、長いこと安産祈願の経をあげていましたが、やがて慶左衛門の方に向き直って言いました。 「お喜びなさい。生まれてくるお子は、男の子ですぞ」 「お、ありがてえ」  思わず頷く慶左衛門。 「しかし、むずかしいこともある」 「と申しますと」 「そちらはなかなか人の恨みを買っておいでですな」  うつむく慶左衛門。検校貸しから始まった札差稼業でございます。そりゃあ人に言えないことは、幾つもございます。 「強い女の念が来ておりますのじゃ。お子さんが元気で育つには、いささか強過ぎる念ですぞ」 「はて、男に恨みを買うようなことはいたしましても、女となりますととんと覚えがございません」  このことにかけては鈍い男でございます。 「これは、西門屋さんとやら、よほど気張らねばなりませんな」 「はい、お布施は、はずませていただきます」 「いや、いや、そんなことではない。もちろん見てのとおりの貧乏寺、そうしていただければ嬉しいが、私が申し上げたいのは、あちらの念に勝つためには、こちらもよほど強い気持ちを持たなくてはなりません」 「そりゃあ、もう……」 「何かを断つことは出来ませぬか」 「ははーん、願いごとをする時、よくやる、茶断ち、酒断ちというやつでございますね」 「そのとおり。自分のいちばん好きなものを断って、その誠意を天に見せるわけです。西門屋殿は、何がいちばんお好きですかな」  そりゃあ女です、と言いかけて慶左衛門はあわてて口をつぐみます。酒なら断つことが出来るような気がしますが、女と寝ない生活などというのは全く想像も出来ません。 「どうなされたのかな。いま、いちばんお好きなものを、二番めか三番めのものにしようと考えておられるのではありませんか」  図星です。酒断ちもつらいから、豆断ちかワカメ断ちでもしようかととっさに思案したのです。 「ふ、ふ、私になど言わなくてもよろしい。けれどもどなたに対して、誤魔化そうと思っていらっしゃるのか。私などたやすく誤魔化せますが、仏さまはちゃんとご覧になっておられます。西門屋殿がどれだけきちんとなすべきことをなされるか、ここは勝負どころでございましょう」  帰り道、駕籠に乗りながらすっかり頭を抱える慶左衛門でございました。実はこの後、吉原《なか》で馴じみの花魁と会う約束をしているのです。青柳《あおやぎ》と申しまして、最近馴じみとなったのですが、その器量のよさと床あしらいのうまさで、めきめき売り出している花魁でございます。その青柳から「今年の姫始めは私と」などといった手紙が届いたのですから、慶左衛門は大層張り切っておりました。  お月は腹ぼてだし、おきんはこのところずうっと不機嫌が続いていて、抱いてもいまひとつ楽しくありません。他の女ととうに姫始めは済ませておりましたものの、やはり年のはじめにいい女のとろりとした肌で温まりたいと思うのは当然のことでしょう。  やがて駕籠は吉原に到着いたしました。大路には正月の門松が飾ってあります。吉原の門松は内向きに、やや離して立てるのが特徴で、これは客が出ないようにという意味が込めてあるようです。  吉原は正月の賑わいを見せ、田舎からやってきたらしいさむらいや、綿入れを着た男たちが寒さにもめげず、店をひやかしながら歩いております。  ここの正月をもう何年味わったことだろうかと、慶左衛門はふと感傷的な気分になりました。初めて女を知った十二の頃から、早く吉原へ出入りするようになりたいと、ずっと思い続けておりました。けれども実際の吉原は、春画や洒落本で見たものとはまるで違っていました。大夫《たゆう》などとうにおりませんし、花魁道中など遠い昔の風習でございました。金さえ出せば花魁も、初会《しよかい》であろうと何だろうと手っとり早く寝てくれます。盃を交す、などという話は見たことも聞いたこともありません。といっても茶屋が並び、美しく若い女たちが笑いさざめく吉原を慶左衛門が嫌いなはずがありません。ここに来るたびに、体中が陰茎《へのこ》になったような気がして、力がわいてくるのです。 「よし、もっと銭を稼いで、もっともっとここの女を抱いてやろう」  ところが占ってくれた僧は、女房の産み月までいちばん好きなことを断たなくてはいけないと言います。女が何よりも好きな慶左衛門の心の内を見透かしたような言い方でした。とりあえず今夜は、芸者を呼んでにぎやかに騒ぐだけにしようと慶左衛門は舌うちと共にひとりごちたのでございます。  まずはいきつけの引手茶屋へ向かいます。男っぷりも金の遣い方も上々で、「今助六」のあだ名がある慶左衛門のことですから、吉原はどこでも手厚いもてなし。 「ああ、旦那さまったら、本当にお久しぶりじゃございませんか」  おかみが、大げさに騒ぎながら座敷にやってきました。そしてあらたまった様子で扇を前に置き、新年の挨拶をいたします。こうなったら今日はケチな遊びは出来ないと思う慶左衛門、まずは酒とうまい台のものがあれこれ運ばれ、芸者もつぎつぎとやってきます。吉原の芸者は気位が高いので有名で、 「吉原は色を売るお女郎がいるから、私たちは芸だけを売る」  というのが口癖です。といっても、なに金で出来ないことはありません。四人の芸者のうち、笛を吹く女と慶左衛門は何度か寝たことがございます。そして幇間《ほうかん》も混じえて、福笑いを面白おかしくやっておりますと、青柳がしずしずと入ってまいりました。青柳は今年二十歳。陽気な丸顔ですが、小さな口元が品よく顔を引き締めております。大夫という位はなくなったというものの、高級な部類の女郎にはお付きもついております。今日は松の内ということで、そのぎょうぎょうしさといったらありません。新道に禿《かむろ》と呼ばれる少女たちもずらり並んで、新年を寿《ことほ》ぐのですから、祝儀は幾らになるのかと、太っ腹の慶左衛門でさえふと案ずるほど。けれどもこういう風に大盤振るまいすることは、何にもましての花魁孝行というものです。 「慶さま、わっちの顔が立ちましたえ」  と青柳もこっそり礼を言ったほどです。よほど嬉しかったのでしょう、妓楼でいよいよお床入りになりますと、するすると帯を解き始めました。豪華な着物を幾重も着て、厚い丸帯を前で締めている花魁は、めったなことでは脱ぎません。ことにおよんでも、裾を大きく広げるだけでございます。かなりの馴じみとなっている慶左衛門でさえ、青柳の全身の裸身はめったに見たことはありませんでした。  緋色の夜具に横たわる青柳。肌の白さは言うまでもございませんが、それよりも見事なのは両の乳。こぶりで男の掌にすっぽり入るものが最上とされておりますが、青柳はまさにそのとおり。つんと立った乳首も桃色で、さすが高級女郎は体が荒れておりません。思わせぶりに両の脚を少しゆるめておりますが、そこはよく手入れされた上物でございます。線香で焼いて下の毛は始末しておりますし、香をすり込んでいますからよい香りがいたします。ちょうど蓋を取ったご馳走を目の前にするようなものでございますが、慶左衛門は箸を取ることが出来ません。 「あれ、慶さま、いったいどうしたのでありんすか」  青柳は声もねっとりと、男心をそそるように訓練してあります。 「いや、いや、その、ちょっと」  全くこんなことは初めてでございます。女を知った少年の頃から、慶左衛門は我慢というものをしたことがございません。それが生娘だろうと、人妻であろうと、欲しい時はすぐさま頬張ってきたのでございます。 「どうしたんでありんすか。まさか元気を失くしたんじゃ……」  白いほっそりとした手で、慶左衛門の陰茎に触れますが、そこはもう、音をたててむくむくと起き上がっております。 「まあ、息子さんはこんなに元気でありんす。それじゃわっちをたっぷりと可愛がってくんなまし……」 「それがなあ……。俺はちょっとここんとこ、願かけで女を断ってるんだ」  ことにおよばないのに勃ったままの陰茎というのはまことにみっともないもので、慶左衛門はあわてて布団で隠します。 「まあ、いつからでござんすか」 「さっき、祈ってもらった寺の坊主に言われたんだ」 「さっきでござんすか。それならば、わっちを可愛がっていただくこれを最後に、女断ちをしてくんなまし」 「だがな、お前としたばっかりに、おかしな子が生まれたりしたら、大変なことになる」 「えっ、それはどういうことでありんすか」 「実は……」  慶左衛門というのは、子どもの頃からもてて、およそ女に不自由したことがありません。よって女心がわからない。いや、それどころか女の心に大層無頓着なところがあります。これはもてるため、というよりも、金がありすぎるために培《つちか》われた欠点というものでありましょう。  よりにもよって、馴じみの女郎に子どもの安産祈願のことをぺらぺら喋ったのでございます。これでは青柳が面白かろうはずがありません。 「まあ、そりゃあご心配でございましょうよ」  つっけんどんな口調になります。廓《くるわ》言葉などどこかへうっちゃって、軽い訛りのある関東の物言いです。 「でも私もすっかりその気になっているんですよ。女郎をここまで濡らしておいて帰るってのは、ちょっと殺生《せつしよう》じゃござんせんか」  怒りが昂まると欲情するというのは、殿方だけではなく女にもあるようでございます。青柳はいきなり股を大きく拡げ、慶左衛門の膝に乗ってきたのであります。 「おい青柳、ちょっと待ってくれ。俺はだからちょっと……」  拒んだ拍子に慶左衛門はあおむけに倒れ、それを幸いに青柳は上からすとんと落ちてきたのであります。全く男と女の体はよくしたもので、上を向いて立っているものに、やわらかく濡れたものはすっぽりと着地いたします。 「おい、青柳ちょっと待て」  突きとばすことは出来たでしょうが、それはそれ、慶左衛門の体はもうすっかりつかまっています。 「あ、いい。慶さま、いきます……」  その上で、いつになく大胆に腰を動かす青柳。二人はたちまち果ててしまったのでございます。その後も青柳と慶左衛門は何度も体を重ね、 「考えてみれば本当に俺のいちばん好きなものは鰻だ、だから鰻を断てばいいんだ」  とうそぶく始末です。後に慶左衛門はこう申したとか。 「女断ちをしようとして、わかったことがひとつだけあった。俺には絶対女断ちは出来ないっていうことだ」  こんな慶左衛門でありますが、お月の産み月は近づいております。  そして如月《きさらぎ》のある日、ついに男の子が誕生しました。慶左衛門の喜びようときたら、ひととおりではありません。 「これで俺もご先祖さまに顔向けが出来るぜ」  長いこと仏壇に手を合わせていたと言いますから、この男にしては信じられないほど殊勝な態度ではありませんか。  赤ん坊は慶吉《けいきち》と名づけられ、盛大にお七夜が行なわれました。慶左衛門とお月との仲人、取り上げ婆、親戚、店の主だった者たちが膳の前に並びました。  当然とはいえおきんは招かれておりません。この時のおきんの心持ちといえば、それこそ蛇を百匹棲まわせているようなものでありましょう。もともと子どもが欲しいばかりに、あちらに願かけをし、こちらにまじないをしたのはおきんだったのです。それなのに子宝はおきんを素通りし、お月の方に向かっていってしまったのです。どう考えても、神さまが間違えたとしか思えません。  そのうえ、慶左衛門は跡取り息子を産んだお月を目に見えて大切にするようになりました。年とってのお産ゆえ、あまり肥立《ひだ》ちのよくないお月を案じて、漢方をあれこれ揃えるほどです。  おきんが離れにひとりおりますと、母屋の方から、赤ん坊の泣き声と、あれこれあやす女中の声が聞こえてきます。 「ほら、慶坊」 「坊っちゃま、笑って、笑って」  それに混じって、時おり聞こえてくるのはお月と慶左衛門の声です。 「おい、そんなに厚着させてるから、泣くんじゃねえのか」 「そんなことはありませんよ。慶坊、ほら、おっぱいをお飲み!」  おきんはもう耳を塞ぎたくなってきます。自分はこのまま一生飼い殺しの妾なのに、本妻のお月は見事男の子を産み、すべて安泰なのです。赤ん坊をいじったり、呼んだりする時の、お月の幸福そうな声といったら……。 「もう地獄だよ。私ゃもう、つくづく嫌になったよ」  泣き泣きおきんは、ようじ屋のおかみお陶のところへ相談しに行きました。 「そんなに女房や子どもが大切な男なら、なにも私を口説かなくてもよかったじゃないか。私はちゃんとした人妻だったんだよ、それを……」  興奮したあまり、うっかり夫殺しのことを口にしそうになったほどです。 「まあまあ、おきんさん。お茶でも飲んで、気持ちを落ちつけるんだよ」  遊びにくるついでに、おきんが小遣いを握らせておりますので、お陶はそれはそれは親身になります。もしこれを機に、おきんが慶左衛門のところを出るようなことになれば、自分も甘い汁を吸えなくなってしまう。お陶は必死です。もともと口先で生きてきたような女ですから、よく聞けばいい加減なところがあるのがわかるでしょうが、嫉妬に狂っているおきんにそんな余裕はありません。 「そりゃあ、あんたの気持ちもよくわかるけれども、西門屋さんが男の子を大切になさるのも、親の情愛だけともいえないさ。あれだけのお店《たな》だもの、跡を継ぐ者が出来たという気持ちだよ。安心おし、それがいち段落したら、すぐにあんたのところへ戻ってくるよ」 「そうかねえ……」 「そうだとも。いまお月さんを大切にするのも、お役目を果たしたご褒美みたいなもんさ。誰が見たって、西門屋さんが本気で惚れてるのはあんただけなんだからね」 「そうかねえ……」  次第に心が平らになっていくおきんです。 「だけどね、おきんさん、もっとうまく立ちまわらなきゃいけないよ。旦那が大喜びしている時に、あんたがぷうと膨れているのは、あんまり見よいもんじゃないね」 「それはわかっているんですけどもね、どんなことをしても、いい顔は出来ないのさ」 「まあ、あんたみたいな利口者が、いったいどういうことなんだろうねえ。いいかい、旦那の喜びは自分の喜び、こう思わなくっちゃいけないよ」 「旦那の喜びは、自分の喜びかい……」  そんなことは出来ないとおきんは思いました。庭にいるのをちらっと見たことがありますが、目つきがお月そっくりのあの赤ん坊が、自分の喜びになるなどということがあるはずがありません。 「おきんさん、よくお聞き。あんたはこれからもずうっとあの家で暮らし、西門屋さんにずうっと可愛がってもらわなきゃならないのだから、その赤ん坊を、一緒になって可愛がらなきゃいけないんだよ」 「私がかい」 「そうだよ。いつまでもひとり意固地になっているわけにもいかないだろう。乳母になれとはいわないさ。ひとつ若い叔母さんになって可愛がってやることだね」 「やなこった」 「その気持ちはわかるけど、あんたにはそれしか道がないんだよ」  最後の言葉は呪いのようにお陶は低くつぶやきます。おきんはすっかり暗い気分になり、家に帰ってからもあれこれ思い悩むのでした。いま慶左衛門と手を切ったとしたら、どんな行末が待っているのでしょう。まとまった手切れの金をくれれば、小商いでもするつもりですが、そんなにうまくはいかないでしょう。慶左衛門が女から言いだした別れを簡単に許すようには思えません。へたをすると無一文で捨てられることもあり得ます。この江戸の町は、女が堕《お》ちていくのはあっという間です。このあいだまではようじ屋の看板女として愛想をふりまいていれば済みましたが、今度は身を売ることになるかもしれないと、想像は暗くなるばかり。それに何よりも困ったことに、おきんは慶左衛門にまだ惚れているのです。  やがて春も深くなり、子どもの泣き声も、猫そっくりのものから人間らしい調子を帯びるようになってきました。おきんが障子を開けて覗きますと、子守女が慶吉をあやしているところでした。肥立ちが悪いお月は、まだ思うように動けず、ほとんど子守女が赤ん坊をみているのです。子守女といっても、口入れ屋が連れてきた十四、五のまだ若い女。気がきかないと、お月はしょっちゅう怒っているようです。  子守女があやすと、赤ん坊はキャッキャッと声をあげて笑います。わずかな間にこれほど大きくなるものかとおきんは目を見張ります。その時、おせいがやってきて子守女に何か告げました。赤ん坊を預けて母屋に急ぐ子守女。おせいはつまらなそうに弟を抱いています。本来ならば、西門屋のお嬢さんとして、もっとちやほやされてもいいのですが、主人の慶左衛門があまり可愛がらないので、店の者たちも何とはなしに軽んじているところがある娘です。九歳にしては背が高く、小袖から脚と腕がにゅっと出ているのが、あまりみっともいいものではありません。  おせいはそのうち、赤ん坊の着物の袖をめくります。そして軽くつねる。ヒイッと泣く赤ん坊。次に今度はもう少し長くつねる。赤ん坊は長く泣く。こんなことをおせいは繰り返しているのです。下駄をはいて、おきんは庭に出ました。そっと背後からすわります。 「おせいちゃん」  ゆっくりと振り返った少女は、そう驚きませんでした。頬も唇も白く乾いています。 「あんた何してんのよ。あんまり弟をいじめちゃ駄目だよ」 「だってあんまり可愛くないんだもの」 「可愛くなくたって、あんたの弟じゃないの」 「弟だからって、可愛がらなきゃいけないの」 「そりゃあそうだよ」 「私、この子嫌いだよ。朝から晩までピイピイ泣いて。おっかさんたら、これから私がめんどうをみろなんて言うんだよ。こんな子、生まれなきゃよかったんだよ。生まれなきゃ、私も世話しなくてもいいのにさ」  これはおきんも同意見です。二人は赤ん坊を中心に、黙ってしばらく庭にやってくる雀を見ておりました。その時ふとおきんは気まぐれをおこしました。 「おせいちゃん、ちょっとその子を抱かせてくれる」 「ああ、いいよ」  赤ん坊の顔がどちらに出ているか、一度じっくりと見たかったのです。以前ちらりと見た時はお月にそっくりだと思いましたが、今はどう見ても慶左衛門です。さぞかし色男になるだろうと思われる切れ長の涼やかな目。その目でじっとおきんを見ています。赤ん坊の白目の部分は気味悪いほど真白で、ずぶずぶと指を入れたくなります。  いつのまにかおせいの姿がありません。夕暮れの庭に、おきんは赤ん坊と二人残されました。赤ん坊は腕の中で次第に重くなり、おきんはすっかり困惑してしまいました。このまますぐに手放したい。けれどもおきんが赤ん坊を母屋に連れていくのはおかしな話です。いったいどんなつもりでと勘ぐられてしまいそうです。  赤ん坊は泣きもせず、きょとんとした顔でおきんを見ています。全く可愛いとは思いません。そしておきんはそのことに満足しました。 「みんなこの子がいけないんだ」  その言葉は自分のものか、さっきおせいが言ったものかわからなくなりました。もともとこの子どもは、自分の元に生まれてくるはずではなかったか。神さまが間違えたか、ちょっと悪戯したかして、同じ家の別の女のところへ運んでしまったのです。 「それならば、この赤ん坊を私が何かしても構わないんじゃないだろうか」  殺してみるのはどうだろうかと、おきんは考えました。 「どうせ夫を殺した私だもの、赤ん坊をもうひとり殺してもどうってことはないのさ」  もう一度顔を見ます。やはり少しも可愛いと思いません。そうかといって、今ここで首を絞めるのはやはりためらわれます。自分もすぐさま打ち首になってしまうでしょう。 「間違って、気がついたら死んでいた、というやり方がいい」  あたりを見渡すと、暗い色の水をたたえた池があります。ここに投げ込むのもいいのですが、 「間違って落としてしまった」  という言いわけは通用しそうもありません。おきんは足元の庭石を見ました。これならどうでしょう。おきんは赤ん坊の顔をじっと見ます。 「運だめしだよ」  と言いきかせました。顔がこれだけ慶左衛門に似ているということは、運も似ているということでしょうか。 「いいかい」  おきんは声に出して言いました。 「あんたをこの石の上に落とすよ。悪くいくと死ぬか馬鹿になるかのどっちかだ。あんたの運が強ければ、何ともないだろうさ。私がそのくらいのことをしてもいいだろう。もしかすると、あんたのおっかさんは私だったかもしれないし、私はさんざん嫌なめに遭ったんだからね」  その時、腕の中の赤ん坊がこっくり頷いたような気がして、それを合図におきんは手を離しました。落下していく赤ん坊。どさりという音がして、やがて大きな泣き声が起こりました。  あわててとんでくる子守女。 「あれー、私が奥さまに呼ばれている間に、おきんさん、いったいどうしたのさ」 「何でもないさ」  おきんは赤ん坊の着物についた泥をはらってやっている最中でした。 「この子は旦那さまによく似ているよ。きっと運のいい子になるよ」  にんまり笑ったおきんの顔を、子守女が気味悪そうに見ています。 [#改ページ]   第八話 慶左衛門、柳屋お花とわりない仲になるの巻  朱に交われば赤くなる、と申しますが、もともと赤味がかった連中は、自然と寄ってくるものでございます。  さて「今助六」と評判の高い、西門屋慶左衛門は、男っぷりもさることながら、金を持っていることでも知られております。死んだ父親が検校貸しの特典をいいことに、さんざんあくどいことをして手に入れた巨万の富。世の人々の妬《ねた》みを買っております。これが息子の放蕩によって、年々すり減っていくというのならば、少しは人の溜飲も下がったでありましょう。ところが西門屋ぐらいの身代になると、めったなことでは潰れない仕組みになっております。忠勤ひと筋の大番頭を頂点に、優秀なお店《たな》の者《もの》たちがずらりと揃っておりまして、西門屋は年ごとの繁盛ぶり。札差という職業柄、お武家さまとのつき合いや、そっとお渡しするものの案配《あんばい》もございますが、これもお店の者たちが立派に務めてくれているのです。 「いっそ主人が何も口を出さず、あんな風に遊び呆けている方が、店はうまくまわるのかもしれない」  などという者もいるほどですから、慶左衛門というのは、本当に果報者です。あちこちの女に通い、吉原《なか》で遊び暮らす生活をしていても、店はきちんと稼いでくれ、女房は男の子を産んでくれるのです。  世間が「今助六」ともてはやすのも、やっかみと羨ましさがあるのでしょう。  さて、赤味のある男たちの話に戻ります。何年か前から、慶左衛門は何人かの遊び仲間が出来ました。素寒貧《すかんぴん》とは申しませんが、誰もが中途半端な身すぎ世すぎ、早い話が、座敷で遊ぶ金などまるでありません。いつも慶左衛門にたかってばかりなのですが、この連中がなんとも楽しい。蔵前の旦那仲間と酒を飲むよりもずっと慶左衛門の性に合っております。「兄貴」「慶さん」とおだてられ、皆で吉原へ繰り出す時の気分といったらありません。吉原はひとりでしっとり行っても楽しいものですが、同年代か、やや下の男たちとのわいわいがやがや、わい雑なことを言いながら妓《おんな》をからかったりするのはこたえられないものです。  さて、慶左衛門の遊び仲間というのは、揃いも揃ってろくなものではありませんが、まずは紹介することにいたしましょう。  まずは久衛門という男がおります。応伯という号を持っていて、これで呼んでもらいたがりますが、なに、おちぶれた老舗の次男坊でございます。親が残してくれた財産があったのですが、酒と女遊びで遣い果たしたというていたらく、家を継いだ兄のお情けで、なんとか暮らしているような状態でございます。といっても、芸は身を助く、と申しまして、茶道具の周旋をしたり、箱書きをしたりして、小銭はそこそこ稼ぎます。色の白いなかなかの美男でございますが、いつも他人の金で女を抱こうとするので、吉原ではまるでもてません。  次の男は希《のぞむ》という、貧乏旗本の三男坊。芝居の台本書きをめざしているのですが、まだ芽が出ていないどころか、全く才能がないという節《ふし》もございます。しかしこの男、座持ちのよさでは天下一品。即興の戯《ざ》れ歌をつくったりすると右に出る者はいません。いっそ幇間《ほうかん》になればいいと皆が言うのですが、 「いや、太鼓持ちは放蕩のなれの果て、っていうじゃありませんか。俺はまだそれほど遊《あす》んでるわけでもないし、だいいち太鼓持ちになったら、慶さんとこんな風に対等に遊べないしな」  などといじらしいことを申します。この男はやや男色の気があり、酔ったふりをして、慶左衛門の口の中にべろを入れてきたことがございます。もしそんな気になったら、一度はそんなことをしてもいいかなと、慶左衛門も実は憎からず思っているのです。  この他、全くあたらない陰陽師、貧乏寺のなまぐさ坊主などがおりまして、考えてみると、柳屋の分家の長男である辰蔵など、かなりまともな方かもしれません。  柳屋といえば、江戸で知らない者はいないでしょう。安くてうまい饅頭を世にひろめた老舗中の老舗でございます。  もう昔のことで、知っている者も少なくなっておりますが、阿蘭陀人が象を連れてやってまいりました。江戸の町を歩いた時は、それはそれは大変な人だかりだったと申します。象は何を食べるのかといいますと、餡のない饅頭でパンというものを好むというのですから面白いものです。  この象が食べたという口上つきで、町のあちこちで餡のある、あるいはない饅頭が安く売られるようになりました。柳屋もその「象の饅頭」で売り出したわけでございますが、材料を吟味した上に皮を薄くしましたものが、うまい、うまいとたいそうな評判をとりました。浅草|待乳山《まつちやま》下の店は、毎日行列が出来たと聞いています。  この初代の柳屋には四人の息子がおりまして、下三人はそれぞれ分店を構えました。なかでもいちばん末っ子が継いだ両国の出店は、売れっ子の遊女を嫁に迎え入れたことで有名です。このあいだまでお職を張っていた遊女が、きりりと木綿に襷《たすき》がけ姿、白粉《おしろい》っ気がない姿で店に立つのですから、客が来ないはずはありません。  これが「日が暮れたにまだ蒸《む》しおわらぬか、一銭持ってまた買いにこよ」と、子どもの唄にも歌われた「おきみ饅頭」でございます。こうして両国柳屋は本店をもしのぐほどの大店《おおだな》になったわけで、店の興隆というのは、何が幸いするか本当にわからないものです。西門屋にしても、初代の検校さまがふつうの目明きだったら、あれほどの繁盛をみたでしょうか。あれほどすんなりと、おさむらいさんの心をつかむことが出来たでありましょうか。  前置きが長くなりましたが、慶左衛門の遊び仲間の辰蔵は次男の分店の筋。あのおきみの代から二代下っております。  ある日いつものように、吉原で酒盛りをしていた時のことでございます。酒が入ると男たちがする話などしれたもので、賭けごとの自慢か女のこととなっていきます。誰かが「一盗二婢」などというけれど、脂ののりかかったところで夫に死なれた後家の味にはかなうまい、などと言い出しました。 「あれ、いい、あれ、いいと涙がぽろぽろ、それから下のつゆもぽたぽたで、いやあ、二十後家は立つが、三十後家は立たないという話は本当です」  そこで後家については、専門ともいえるなまぐさ坊主が膝を進めます。 「いや、いや、世間でいわれているほど、後家は落とすに楽ではありませんぞ。なまじの女房よりも世間体にこだわるから困ったものです。線香くさい暮らしに慣れてしまって、なかなかこちらの言うことを聞かない。だが、ハマグリや牡蠣《かき》と一緒で、いったんこじ開けてしまえばこっちのものですよ」  などと言って皆を笑わせます。 「後家といえば、うちの両国柳屋の、お花には困ったものです」  辰蔵が酔いにまかせて、身内のことをぺらぺらと喋り始めました。 「お花というのは、私の|また従妹《ヽヽヽヽ》で、あのおきみの孫にあたる女でございます」 「おっ、それじゃさぞかしいい女だろう」  こういう時、慶左衛門はさっそく脇息《きようそく》によりかかっていた身を起こします。 「若い時には小町ともいわれたこともありましたが、私より三つ下の未《ひつじ》の生まれでございますから、もうかなりとうが立っているでしょうな」 「いや、そんなことはない。未の生まれときたら、ちょうど盛りのいい頃じゃないか」 「そう、そう、慶さんとは、ちょうどいい年すわりですよ」  ただ酒をたっぷり飲んだ陰陽師が合いの手を入れます。 「いや、いや、まあ人並みより上というところですが、このお花はつくづく男運のない女でしてね」  辰蔵の話とはこうです。家つき娘であるお花は、十八歳の時に店の番頭と結婚したものの、二年で死別してしまいます。この時、口さがない連中は、亭主があんなに早死にしたのは、店の忙しさに加え、夜の女房の激しさが過ぎたからと噂したということです。この噂で懲りたのでしょう、再婚を勧められたお花は、絶対に店の者は嫌だと言い張ったのです。 「気位の高い女ですから、もう丁稚上がりの男に仕えるのはまっぴらだなどと言い出したのです。ようよう親が見つけてきたのが、神田の太物を扱う店の次男でしたが、それとも……」 「死に別れたのかい」 「いえ、いえ、一年足らずで離縁になってしまったのでございますよ」 「そりゃあ、よっぽどの我儘女だなァ」 「いや、いや、親戚だから庇うわけではありませんが、お花はよく気がつくやさしい女ですよ。この亭主だった男がひどい奴で、ずっと冷や飯を喰っていた恨みつらみでしょうか、賭けごとはするわ、女中に手を出すわ、お花も耐えられなくなったんですよ」 「なるほど、確かに男運の悪い女だなあ」 「このまま後家を通すのもいいのですが、子どもがいないものですから、親戚中やきもきしているのですよ」  ここだけの話ですがと、断わった辰蔵は、こんなことを申します。  饅頭などという小さいものを売っておりますが、ちりも積もれば何とかで、あそこの身代はたいしたものでございますよ。家作もたくさんございますし、家の中には千両箱が置いてある、という噂です。 「それじゃあ何かい、あんたのまた従妹を口説いてうまくいったら、女だけじゃなくて、千両も手に入るわけでございますか」  なまぐさ坊主が下卑た笑い声をたてました。  持っていない者はまるでありませんが、持っている者はとてつもなく持っている。およそころあいがまるでないのが、好き心というものでございます。  妾のおりんのところへ出かけ、一戦交えた帰り道、慶左衛門は柳屋お花のことを思い出したのですから、全く始末におえません。ご馳走をたらふく食べたすぐ後に、別の珍味を思いうかべるようなものです。いやいや、女と寝たことによって、好き心がさらに刺激されるのかもしれません。 「辰蔵の奴は、�人並み�だって言っていたけれども、どんな人並みか見てみようじゃないか」  ひとりごちた慶左衛門は両国へと足を向けます。柳屋はすぐにわかりました。店先からは湯気が上がっております。饅頭を蒸《ふ》かしているのです。羊かんや金つばも売っておりますが、やはり客のおめあては江戸でいちばんうまい、といわれる饅頭なのでしょう。そう広くない店は、客であふれております。饅頭の蒸かし上がるのを待つ客、蒸かし上がったものを包んでもらう客などで、その混雑ぶりはいっそ気持ちよい。 「なるほどな、これじゃあさぞかし儲かるだろうなあ」  お花はどこだろうと目を泳がせますと、奥の方で蒸かし上がった饅頭をくるみ、紐でくくっている女がおりました。女中とは思えない上物を着ていますし、丸髷に結っておりますから間違いありません。肌の大層綺麗な女で、頬のあたりが薄く桃色にけぶっております。細い黒目がちな目をしていて、色が白いのでよく映えます。 「なんだい、いい女じゃないか」  慶左衛門はうっとりと眺めました。こんなに肌の綺麗な女だから、着物をすべて剥いた姿はどれほどいいだろう、緋色の布団に横たわらせて、あちこちねぶってみたい。  この女と寝たらどうなるのかと、一瞬のうちに考えるのが男というものでございますが、慶左衛門の場合はそれだけではありません。いつまでもねっとりと、こと細かにさまざまなことを想像できるのが好き者の特徴です。しかも図々しく、腰の軽いことといったらありません。  慶左衛門はずんずんと奥へ進み、女に声をかけました。 「もし、もし、あんたがお花さんですかい」 「はい、そうですけれども」  まぶしげにこちらを見る様子がなんとも可愛らしい。まるで生娘のような表情をすると、慶左衛門はすっかり好もしくなりました。 「私は深川柳屋の辰蔵さんと仲よくしてもらっている者で、西門屋慶左衛門と申します。辰蔵さんに、ぜひこちらの柳屋さんに寄るようにと言われてやってきたのですよ」 「それはまあ、あなたが西門屋さんでいらっしゃいますか」  女の目の中に、驚きと好奇心とが浮かびます。慶左衛門はしめたと思います。自分の名は、この界隈まで鳴り響いているようです。どうせいいことばかりではありますまい。けれども、男の色ごとに関しての悪名は、女を決して無関心にはさせません。後はうまく使えばよいのです。 「わざわざお寄りくだすってありがとうございます。さあ、どうぞこちらへ。お茶をいま淹《い》れますから」  女が後ろ向きで身をかがめますと、縞ものを着た尻が、むっちりと盛り上がります。その肉のつき方が、舌なめずりしたいほどよい感じです。それほどの脂肪ではなく、男をひとり、ふたり知り始めた頃のまだこりこりとした尻です。太り肉《じし》の女に目がない慶左衛門ですが、これぐらいの熟れ方もこたえられません。 「いやね、今日は死んだお袋の祥月《しようつき》だから、うまい饅頭でも仏壇に供えたいと思ってね」  心にもないことをあれこれ喋る慶左衛門。 「まあ、まあ、それは殊勝なことでいらっしゃいますね」  いそいそと女は茶を運んできます。もうこうなってくると、まさに魚心に水心。あとはどうつついて、どうきっかけを与えてやるかでしょう。 「おかみさん、実は辰蔵さんからことづけがあるんだ。ちょっと顔を貸してもらえないだろうか」  店の者たちが二人の様子に気づき始め、ちらちらと見ています。もう時間がありません。慶左衛門は、男の命すべてを込めて女を見つめます。二人の目と目がしっかりと合います。しめた、うまくいく。 「大切な用件なんでね。どうしてもあんたと二人っきりで会って伝えたいんだ」 「わかりました」  女は観念したように答えます。 「店の角を二町行った、火の見|櫓《やぐら》の横に、汁粉屋がございます。そこの二階でお待ちください。私もすぐにまいりますから」  言われたとおり火の見櫓を探しますと、それより前に汁粉屋が目につきました。あまり繁盛していないらしい、ひっそりとした店の二階で銚子を傾けておりますと、やがて襖が開きました。 「西門屋さん、お待たせして申しわけございません」  これは脈があると、慶左衛門は舌なめずりしたいような気分。お花は小袖を着替えているのです。同じ縞ものですが、さっきのものよりも、ずっと色彩が明るく、生地が上等だとわかります。 「まあ、おかみさん、一杯やろうじゃないか」  盃をさし出しますと、ちゅうちょなく受け取ります。飲みっぷりもなかなかよい。もうすっかりその気だろうと、例によって慶左衛門は自分に都合のよいことを考えます。 「のっけからこんなことを言っては失礼だけれども、おかみさんは最近夫婦別れなさったそうですね」 「まあ、お恥ずかしい。そんなことがもうお耳に入っていたのでございますか。辰蔵さんからお聞きになったのですね」 「いや、いや、お花さん、夫婦仲などというのは、はかないものですよ。その時の風向き次第で、どうなるかわかりません。この私にしても、いつ夫婦別れしてもおかしくないようなありさまで、もしそうなったら仕方ない。幸い子どももいないものですから、すぐに独り身になれる。そうしたら、今度こそ好きな女と一緒になりたいと心から思っているのです」  全く好き者の男というのは、心にもないことを、心の底から言うことが出来るのです。照れることもないし、迷うこともない。女陰《ぼぼ》という目的ひとつに進んでいくのですから、その強いことといったらありません。 「辰蔵さんからの伝言というのも、実はそこなんですよ」  慶左衛門は女の手を握ります。もちろん女は逃げません。汁粉屋の二階を指定したぐらいですから、女にはもともとその気があったのです。 「辰蔵さんはもうじき独り身になる私のことを心配してくれているのです。そこであんたのことを思い出してくれてね、あんたもちょうどお独りになった身だ。それならば二人一緒になったらどうかと、辰蔵さんは言ってくれているわけだ」 「そんなことを急に言われても……」  女は身をよじりますが、本気ではないのは一目瞭然。腰をくねってしなをつくっているのです。 「あんたをひと目見て、私はすっかりその気さ」  慶左衛門はいきなり女を抱きしめて口吸いをします。饅頭屋のおかみだから、甘い唾をしているかと思ったらそんなことはありません。それどころかべろを入れてきますので、慶左衛門は驚いた。  ──この女、顔に似合わず案外しっかりものかもしれない。このべろ遣いはただものじゃねえぜ。  汁粉屋の二階ですから、することは限りがございます。二人はまた会う日を約束いたしました。人目のつかない待合で、しっぽりということです。 「西門屋さん、私はその日まで待てないかもしれませんよ」  と言うなり、女は慶左衛門の右手の、親指をがぶりと噛むではありませんか。これには慶左衛門も驚いた。  後家だ、離縁だといっても、柳屋のおかみじゃないか。それが女郎のような真似をするとは……。  これならば床の中のこともよほど激しいのではないかと、慶左衛門はいささかうんざりした気分になります。好き者の女は決して嫌いではありませんが、切羽詰まった、という感じですと、つい萎えてしまうのが男でございます。  そして五日後、仲見世近くの待合で、二人のお床入りということになりました。いざことにおよびますと、慶左衛門は再び意外な気持ちになりました。男にしがみついたり、激しく口吸いをする割に、お花の床の技はおとなしいのです。腰のふり方も、それほどうまくはなく、内部で調子をとり、我を忘れるという感じではありません。まだ男に慣れていないのか、などと思ったりもしましたが、二回も結婚した女が、それほどねんねなわけもなく、この淡白さといおうか、つまらなさというのは、天性のものだということがわかりました。  時々こういう女がいるものでございます。女陰《ぼぼ》が変わっている、というわけでもなく、よがることも知っております。恥ずかしさのあまり、体が硬くなるのとも違います。男を欲しがる気持ちも充分にあるのですが、体がついていかないという感じでありましょうか。つまり床下手《とこべた》の女なのです。  この頃慶左衛門はつくづく思うのですが、世の中の三味線や踊りと同じように、床の中のことも、うまい下手というものがあるのです。おきんなど、生まれついての名手といえるでしょう。自分も楽しみ、男も極楽へとすぐ連れていってくれる女。かなりの性悪女ではありますが、手を切ることが出来ないのはこのためです。  それにひきかえ、お花の方はまじめで一所懸命稽古を積むものの、一向にうまくならない手習い子のようなもの。色ごとの場合は、手取り足取り教える楽しさがありますが、お花の方は、前の亭主によくない癖をつけられているから困ります。慶左衛門の上に乗り、腰を振ることは知っておりますが、自分の調子と男の調子とをうまく合わせるすべを知りません。いや、はなから合わせる気などない。それがひしひし伝わってくるのです──男運が悪い女というのは、おそらくみんな床下手なのだろう。運が悪いんじゃない、女陰が悪いんだ。  慶左衛門はおかしなことに感心してしまいました。けれども目の前の女をどうしたらいいのでしょう。金で買った女ならば、これきりにすればいいのですが、堅気の女と寝て、はい、さようならというわけにはいきますまい。困ったことに、 「噂に高い西門屋さんとこんなことが出来て、私は幸せでございます」  女は涙ぐむ始末。 「私のことをさぞかしふしだらな女と思っていることでしょう。何と思われてもいいけれど、あの日あなたがお店に入ってこられた時から、私はぞっこんなのですよ。ああ、なんていい男っぷりなんだろうかと見惚れてしまったのですよ」 「いや、いや、おかみさん。そんなことを言われると照れちまうじゃありませんか」 「おかみさんなんて言わずに、どうかお花と呼んでくださいな」  身を起こして、親指をかりりと噛むお花。どうやら前の男は噛まれると喜んだようです。上に乗る癖はともかく、痛いことはやめて欲しいと秘かに思う慶左衛門でした。  それでも義理堅いところがある男ですから、二度、三度と逢瀬を重ねます。まあ嫌いな女を抱くわけでもなし、相手が醜女《しこめ》というわけでもなく、くんずほぐれつをしていれば、それなりに男根《まら》も立ち、よい気持ちにもなってまいります。最初に感じたとおり、お花は肌の綺麗な女で、興にのってきますと、首すじから乳の上の方がぼーっと赤くなってくる。これはなかなかよいものだと、女の美点は出来るだけ見つけようとする慶左衛門。こう前向きでなくては、交合《まぐわい》は楽しくありません。  やがてお花はこんなことを言い出しました。 「あなたのようなお大尽に、こんなことを言うのは恥ずかしいのだけれども、うちのようにしがない饅頭屋でも、三十年、四十年と続けていけば、なんとか身代は築けるものです。うちの金蔵《かねぐら》にはざっと千五百両ございます。もしもあなたが必要な時があれば、いつでもご用立ていたしますから」 「おっと、そんなことはもう二度と口にしないでくれ。俺も蔵前者《くらまえもの》のはしくれだ。女の金をあてにするようなことはしないぜ」 「ええ、もちろんわかっていますとも。女の浅はかさで、つまらぬことを申しました。どうかお怒りにならないでくださいませ。だけど私は、これといって何の能もない女ですから、あなたに捨てられないように、らちもないことを申しました」  この女、自分のことがよくわかっているじゃないか。器量も家柄もあるくせに、男に捨てられる自分の身のほどを充分わきまえているではないか。が、この女の賢さやいじらしさが裏目に出て、何とはなしに気ぶっせいになっていくのですから、男はなんと勝手な生き物でありましょう。  こんな時、西門屋で大変なことが起こりました。西門屋は大名貸しを目論んで、東北の小藩の江戸詰勝手方の男と仲良くしていたのですが、ここでお家騒動が起こったのです。西門屋は、以前この男が吉原で女に入れあげ、藩の金を遣い込んだときに帳簿をごまかす手伝いをしたのですが、これが反対派たちの知るところとなりました。めんどうくさいことに、何人かがお上に直接訴えました。証拠もいろいろ揃えておりましたので、お奉行所も重い腰をあげたようです。西門屋もご詮議の対象となり、上を下への大騒ぎです。  蔵前の寄合いの長老たちは、 「安心しなさい。そんなことはよくあることだよ。いちいちお咎《とが》めを受けたら、私ら札差稼業はやっていけなくなりますよ。手を差し出すのは、いつでもおさむらいさまだ。弱い私たちが罪に問われるようなことはあり得ないさ」  と励ましてくれますが、慶左衛門は気が気ではありません。大番頭をあちこちに走らせ、情報を集めてこさせます。また自分も羽織に身を正し、知り合いの役人のところをまわる毎日です。すっかり気が滅入って、とてもお花どころではありません。そんなところに一通の手紙が届きました。男名前となっておりますが、住所からしてお花からだということはすぐにわかりました。 「おめにかかることが出来ず、淋しくて淋しくてたまりません。あなたのことを思い出して、毎晩枕を濡らしています」  その手《て》蹟のうまいことといったら……。老舗の家つき娘として、大切に育てられたことを表すような文字です。けれどもなぜか、達筆の手紙を見て、げんなりする慶左衛門。男の心の弱っている時に、あまりにも女の立派なものを見せつけられると嫌な気分になるものです。慶左衛門はそのままほっておくことにいたしました。  それから一月《ひとつき》後、用たしに出かけようとした慶左衛門は、店の角に一人の小僧が立っているのを見つけました。店のお仕着せは脱いでおりますが、どこかの丁稚でしょう。慶左衛門を見つけると、小走りで向かってきます。 「おかみさんが、これを……」  まだ温もりのある饅頭でした。手紙が添えられています。 「あなたの冷たさが信じられません。私のどこがそんなにお気に入らなかったのでしょうか」  こういうひたむきさは、おきんやおりんといった下層出身の女にはないものです。そんなに自分の思いどおりにいくものかと、慶左衛門はつぶやきます。根っから女好きの慶左衛門でありますが、お花は「かなり疲れる」のです。こちらが元気で、体力も気力も充ち溢れている時には、ちょっと戯れるのもいい。けれども運が落ちている時には、おきんのような女がずっと楽しく晴れやかな気分になるというものです。  さて三月《みつき》がたち、やっと騒動も解決しました。「悪事は滅ぶ」と言いたいところですが、その反対で国許家老たちが巻き返しに成功したのです。不正のことなど、闇に葬り去られ、慶左衛門もひと安心いたしました。久々に吉原へ繰り込みましたので、いつもたかっている遊び仲間たちも大喜び。久しぶりに餌《え》にありつく犬のように、きゃっきゃっとついてきます。皆で酒盛りをしている最中、辰蔵がふとこんなことを漏らしました。 「また従妹のお花が、寝込んでしまいましてね。原因がまるでわからないのですよ。何かの祟りじゃないのか、お狐さまがついたんじゃないのか、親戚中で心配しているのですよ」  薄情な慶左衛門は、ああそうかいとそっけなく答えただけです。けれどもこのことが、後に大変な騒ぎをひき起こすことになるとはつゆ知りません。  いくら色男といっても、してはいけないことがあるという、続きはまたのお楽しみに。  このあいだのお話はまだ続きます。  昔からこの国には「源氏物語」という、長いありがたいお話がありまして、それによると光源氏という方は、一度まぐわった女のことは決してお見捨てにならず、のちのちまでめんどうをみたということでございます。  この光源氏の爪の垢でも、慶左衛門に飲ませてやりたいものです。饅頭屋の後家、お花に手を出したのは仕方ないとしても、女の床下手《とこべた》にすっかり嫌気がさしてしまった。お花にしてみたらたまったものではありません。床下手といっても単に慶左衛門の男根《まら》と合性《あいしよう》が悪いということでしょう。器量もよいし、なによりも名物の饅頭でもうけた柳屋の身代といったらたいしたものでございます。一見地味な饅頭屋の蔵におさめられた金の嵩《かさ》を知れば、たいていの男は目の色を変えて寄ってくることでしょう。  が、ここが女心の複雑なところで、金めあての男に口説いてほしくなどない。あくまでも饅頭屋のおかみとして、男に熱い心を持ってもらいたいのでございます。けれども好きになった男には、身代のことや何もかもを打ち明けてしまいたい。自分がそれだけ値打ちのある女だと思わせたい思案もあるから困ったものでございます。  このお花、後家になって初めて男に体を開きました。それが慶左衛門というのですから、なんという考えなしでありましょう。  女陰《ぼぼ》はそもそも向こうみず  せめて頭を使わねば  昔の歌にもございます。どうせ遊ぶなら、もっと心根のよい男にすべきだったのです。いや、いや、お花という女は、慶左衛門の悪名にひかれてしまったのですから、言ってもせんないことかもしれません。  みなさまがた、世の中の女というのは、なんという馬鹿者なのでございましょうか。飛んで火に入る夏の虫、わざわざ不幸の方、不幸の方へといくのですからどうしようもありません。たくさんの女をたぶらかして、悪さをたくさんしているという男の話を聞けば聞くほど、体がむずむずしてくるのですから。  その男はいったいどんな悪いことをするのか、この身で知りたいと思う。それだけならまだよいのですが、男をすっぱり改心させることが出来るのではないか。自分が変えさせることが出来る、などと本気で考えるうぬぼれ屋の女がたんといるのですから、全く男稼業はやめられません。気の強い女は、たいてい器量よしと決まっておりますので、労もなくいい思いが出来るのです。  柳屋のお花はそこまで馬鹿な女ではありませんが、久しぶりに慶左衛門とくんずほぐれついたしまして、すっかりのぼせ上がってしまいました。この場合ののぼせ上がり方は、頭の方からではなく、女陰の奥から来ているので始末が悪い。夜な夜な自分の手で慰めることになります。  しかし女のそれは男と違って、やり過ぎますと心と体によくありません。一月もしないうちにお花はげっそりと窶《やつ》れてしまいました。 「日頃の疲れが出たのでしょう」  と言って、近くの医者はしきりに高麗《こうらい》人蔘を飲ませようとします。これにはお花も店の者たちも怖れおののいてしまいました。なにしろ人蔘湯は十二匁で三両という値段がついておりますので、何日も飲むことになればたまったものではありません。  昔から人蔘のために売られていく娘の話の類はしょっちゅう耳にいたします。馬ではありませんから、人間さまが人蔘のために走らされるなどというのはおかしな話です。 「私は気の病いというんでしょうか、ちょっといろんなことがあって、疝気《せんき》の虫があばれているだけなんです。労咳じゃあるまいし、こんなに高いお薬を飲むわけにはいきません」 「いや、いや、おかみさん。こんな風にお痩せになるというのは、心の臓が弱っているということでしてな。昔から心の臓に高麗人蔘は何よりといわれております。金に替えられぬものはいろいろございますぞ。そのあたりをきちんと考えなくては」  世の中では医者ほどろくでもないものはないと言われております。たとえば大工を名乗るには、親方のところで修業をし、一人前に仕事を任されなくてはいけません。ところが医者ときたら、頭を剃り、長羽織を着れば、その日から名乗ることが出来るのです。そしてもっともらしいことを並べたてては、病人から金をふんだくっていく。  この玄庵にしても、親の代からの本道医で評判は悪くありません、何人かの重病人を漢方で救ったこともある。けれども息子が代を継ぐことになり、家のあちこちの造作を直したため、急にがめつくなったというのは誰もが言うことです。金がありそうな患者にやたらと人蔘を勧めるようになったのです。 「あの医者は本当にいけすかないよ。人蔘もそうだけれども、脈を診るといってやたら人の手を握りたがる」  お花はぷりぷりしておりますが、心も体も沈んでいくばかり。朝も起きられない日が何日か続きます。手代のひとりが医者を呼びに行かされましたが、非常に気のつく男でふと思いつくことがありました。  このところ毎日のように、蒸かしたての饅頭を四個買っていく男がおります。医者の風体をしていますから、おそらく近くで開業しているのでしょう。どうせ医者などというのは、誰もたいした違いがあるわけではない。口がうまいかどうかで、売れっ子の医者になれるかどうかが決まるわけで、それならばあの強突張《ごうつくば》りの玄庵よりも、おとなしげな若い医者の方がいいかもしれない。それに半刻もかけて、小石川の玄庵のところへ行く手間も省ける、などと横着なことを考えていたところに、例の医者がやってきました。  年の頃なら二十五、六、男のくせに色が白いのが気になりますが、こぢんまりとした目鼻立ちをしているので、黒羽織と相まって品よく見えないこともない。昼をやや過ぎて客も少なくなった頃なので、手代はこう声をかけました。 「毎度ご贔屓ありがとうございます。よほど甘いものがお好きでいらっしゃるんですね」 「甘いものが好きというより、おたくの饅頭が好きなのですよ」  見かけどおり、細くやさしげな声です。 「それに私はひとり身ですから、これを昼飯にいたします。毎日食べても飽きません。そういえば……」  男はあたりを見渡します。 「いつもそこに立っていらしたおかみさんを、この頃お見かけしませんね。いったいどうなさいましたか」  渡りに舟とはこのことだと手代は思いました。 「ちょっと日頃の疲れがたまって、奥で休んでいるんですがね、お見かけしたところ、そちらさんはお医者の先生じゃありませんか」 「はい、いかにも私は陽白と申しまして、医者をしております」 「そりゃあよかった。ついでといっては何ですが、うちのおかみさんを診ていただけませんか」  さっそく店の奥へ連れていかれました。この柳屋というところ、饅頭というささやかなものを商っておりますが、実はとても内福なお店でございます。家の者たちが住む居間や座敷は木口も立派で、かかっている軸も相当のものばかり。陽白はすっかり気後れしてしまいました。  この陽白という男、神田の医者の四男坊で、二十一歳の時に長崎に渡りました。今流行の蘭学を勉強しに行ったのでございますが、あまりのむずかしさにとてもついていかれない。天下の秀才が集まる塾では、完全に爪はじきでございました。半年間辛棒したものの結局何も身につかず、江戸へ戻って何とか親の伝手《つて》で開業いたしましたものの、閑古鳥が盛大に鳴くありさま。最新の長崎帰りという触れ込みでしたが、やることといったら昔からの治療の蒸し返し。それで腕がよければいいのですが、この医者、突然思い出したように、聞き齧《かじ》った蘭学の知識をふりかざすので始末に負えません。すっかり藪《やぶ》医者の評判が立ち、近くの横丁でうろうろしているありさまです。  さて手代が襖を開けますと、奥庭に面した部屋に、お花がひとり臥《ふせ》っております。ひと筋、ふた筋乱れた髪に寝間着からのぞく喉元が青白く、大年増といっても、ぞくぞくするほどの色っぽさです。 「おかみさん、いつもの先生じゃらちがあかないんで、ご近所で評判の高い陽白先生に来ていただきました」  手代も調子のいいことを申します。それはそれはといってお花は起き上がりました。それを汐《しお》に手代は部屋を出ていきます。替わりに若い女中がやってきて、傍に座ります。 「それでは脈を拝見いたします」  細い手首です。朝から晩まで饅頭を包んだり、銭をいじったりしているわりには指も甲も荒れてはおりません。黙って手首を差し出す様子は、姫君のような風情がございます。 「次は目を見せていただけませんかな」  あかんべえをさせると、女の顔はとても愛らしくなり、陽白は股の間のものがずきずきと音を立て始めたのでございます。  みなさまがた、医者というのは全くどうしようもないものではございませんか。何の資格もないのに、人さまの女房や娘の手をとったり、顔に触れたりするのです。とにかく半年間は長崎へ行っていた陽白など、まだましな方かもしれませんが、体の下の方がうずくとは修業が足りません。 「おかみさん、これはお疲れからくる、腎の腫れの病いです」 「まあ、それは初めて聞きました。腎が悪いなどとは、今まで思ったこともありません」 「夜、お休みになれないのも、ご膳が召し上がれないのも、みんなこのためでございます。でもご安心ください。私がよいお薬を教えて差し上げましょう」 「高麗人蔘だけはご免ですよ。あれを見せられただけで、本当に心の臓が悪くなりそう」 「いいえ、いいえ。私が申します最良の薬とは、おかみさんがご自分でおつくりになるものでございます」 「え、私がでございますか」  陽白は女中に金盥《かなだらい》を持ってくるように命じました。そしてこう申します。 「よろしいですか、江戸で漢方を学び、長崎で蘭学をおさめた私が言うのですから間違いはありません。腎の病いに、いちばんよいものは、その人の身から出るお尿《しど》なのでございます」 「お尿をどうするのですか」 「もちろん飲むのです。身から出るやいなや、熱いままで飲まなくてはなりません」 「え、お尿を飲むのですか」  これにはお花も、傍の女中もびっくりいたしました。 「はい、古くからの漢方の本にも書いてございます。かの楊貴妃も宮中に五歳六歳の美しき童女を集め、その尿を飲んだそうでございます」 「そうはおっしゃいましても……」  お花は布団の上で思わず後ずさりいたします。何が悲しくて女の身で、自分の尿を飲まなくてはならないのでしょう。 「他人様のお尿を飲めというのではありません。ご自分のまだ臭いのついていない、新鮮なものを飲むのですよ。さあ、何をためらっておられる」  陽白という男、こういうことになりますと急に迫力が出てまいります。いやおうを言わせずお花を立たせ、脚の間に盥を置きます。そして女中に、おかみさんの体を支えてやるようにと言いました。 「私は後ろを向いておりますから、その盥の中に存分になさいませ」 「存分と申しましても」  やがて盥に雨が打つような音がいたしました。陽白が振り向くと、頬を赤らめたお花が中腰で立っております。 「さあ、おかみさん、これを茶碗に入れてお飲みなさい。そこの女中さん、早く茶碗を持ってきてください」 「でも、汚ない……」 「あなたのお体からたった今出たものですよ。何が汚ないことがありますか。さ、早く、早く」  本当に不思議なことですけれども、自分の尿を飲むようになってからというもの、お花はすっかり元気になりました。もともとどこが悪いというわけでもなく、慶左衛門の訪れが間遠になってから、あれこれ気を揉んだのと体が悶々としてしまったのが原因でございます。毎日のように若い男に励まされ、手を取られて、目の前で尿を飲むという興奮が、お花にはよかったのでしょう。三日ほどで床を上げ、店にも立てるようになりました。 「おかみさん、それでも油断はいけませんよ。さ、今日もいいお尿《しど》をお出しください」 「はい、先生のおっしゃるとおりにいたします」  今日も陽白の前で裾をめくります。この頃は女中もやってまいりません。今まで後ろ向きになっていた陽白もこちらを向いています。 「あれ、恥ずかしい……」  うまく裾で隠したつもりなのですが、どういうわけか女陰が丸見えになってしまいました。お花の薄い毛の間から、尿が斜めにきらきらと光りながら落ちていきます。いきなり指を出してその尿をせきとめる陽白。ぺろりとなめます。 「ああ、おかみさんのお尿の甘くておいしいこと」 「先生、おやめください」 「いや、いや、こんなおいしいものはめったにありはしませんよ」  あとはご想像どおりのくんずほぐれつ。思えば可哀想なお花でございます。きちんと後家を通しておりましたのに、慶左衛門のような悪者に突然いじくられてしまったのです。それが長く続けばいいものの、途中で断ち切られたのですから、さぞかしつらかったことでしょう。女の体は男の体よりもはるかに強欲でございます。いったん受け止めたものは、もっともっとと体の奥の方が騒いで、それを静めることは出来ないのです。  陽白は男ぶりといい、床の技といい、慶左衛門よりもはるかに劣りますが、若い男のひたむきさでお花を突いていきます。ああいい、ああいいと、お花は涙を流したのでございます。  やがて二月《ふたつき》もしないうちに、柳屋のおかみと裏長屋の医者との婚礼が行なわれましたので、世間の人はそれこそ腰を抜かすほど驚いたものでございます。しかも陽白は柳屋から近い表店《おもてだな》に、医院の看板をかかげました。近所でも評判の藪医者の思わぬ出世に、人々はあれこれ噂したものです。いちばん拡がった噂は、陽白が夜な夜な柳屋のおかみの小便を飲むというものでしょう。おかみは陽白の目の前で小便を垂れると、人々は面白おかしく言いたてたのでございます。  が、これもやっかみというもの。おかみは若い夫のために、助手を二人も雇ってやったうえに、南蛮渡りのピカピカ光る庖刀や鉗子もたくさん揃えてやったということです。  噂を聞くたび、慶左衛門は口惜しくてたまりません。本来なら自分のものになるはずの女と金だったのです。それをちょっとした手違いで他の男に奪われてしまったのでございます。それが金持ちや有名な男伊達というならともかく、青っちろい貧乏医者というのですから業腹ではありませんか。 「女というものは、どうしてひと月、ふた月辛棒出来ないものなんだろうか。ひもじい女陰《ぼぼ》には、どんな男根《まら》でもいいんだろうか」  と勝手なことをつぶやけばつぶやくほど、慶左衛門は腹が立ってくるのです。  さてこのままいけば、つれない男とふられた女のお話ということになりましょうが、世の中はもっとねじれて面白いことが起こるものでございます。  時は春、深川は永代寺で、お不動さまのご開帳があり、境内は大変な人混みでございます。慶左衛門が吉原《なか》を出て、ふとそこへ寄ってみようと思ったのは、御仏のご加護を頼むという殊勝な思いからではなく、馴じみの女郎からご利益あらたかなお札を頼まれたからでございます。大きな声では言えませんが、ここのお札は血の道によく効くという話です。  そして参道を歩いておりますと、向こうから丁稚をお伴に歩いてくる目立つ年増。粋な芝翫茶《しかんちや》の縞ものに、黒繻子の昼夜帯《ちゆうやおび》を締め、髪結いに行ったばかりなのか丸髷を艶々と結い上げているのも心憎いばかり。近づいて見ればなんとお花ではありませんか。しばらく見ないうちに、肌がしっとりと輝き、頬がいくらか薄くなっているのも風情があります。三度めといっても新婚というのは女っぷりを上げるようでございます。  おかげですっかり好き心を刺激された慶左衛門。お花はこちらに気づき、つんとして通り過ぎようとしますが、その袖をしっかりととらえます。 「おい、ちょっと待ってくんねえ」 「どこのどなたさまか存じませんが、お手を離していただけませんか。今日はうちの饅頭をお不動さまに奉納した帰りでとても急いでいるんでございますよ」  断わるのに言葉数が多くなるというのは、女の心がやわらかくなっている証でございます。慶左衛門は女の目をじっと見つめ、それはそれはやさしい声でささやきます。 「今度のことについちゃ、いろいろ考え違いのことがおありのようだが、ちったあ話を聞いてもらえませんかね」 「話を聞けとおっしゃいましても、私はとても忙しいのですよ。すぐに店に帰らなきゃなりませんからね」  とんでもない。男のこういう言いわけとわびを聞きたくない女がこの世にいるでしょうか。それは最初の口説きより、二倍も三倍も価値を持つもので、女はこれを聞くために生きているのでございます。 「実は年明けからこっち、ずっとよくないことばかり続いちまった」  連れ込んだ待合の一室、慶左衛門はがっくりと肩を落としてみせます。 「おさむれえっていうのは、こっちから貰うことばっかし考えてやがる。仕方なく渡すと、今度は別のおさむれえが騒ぎ立てる。賄賂だ、何だって言われて、俺はもう少しでお縄がかかるところだったんだ」 「まあ……」  みるみる間に青ざめるお花。こういうところがまだおぼこいお店《たな》のお嬢様でございます。 「八方手をつくして、何とか収まったものの、ごたごたは続くし、お役人のお調べはあるし、とてもじゃないが、あんたにも会うことは出来やしない。ようやく手紙でも届けようとしたら、あんたは近所の若い医者と一緒になったっていうじゃねえか。俺のその時の気持ちときたら、とてもあんたにはわかるまいよ。女に裏切られるってのはこういう気持ちかと思ったぜえ」  最後の語尾の決め方は、もちろん最近見た芝居の真似でございますが、すっかり舞い上がっているお花は何も気づきません。自分の婚礼がこれほど目の前の男を苦しめたのかと、はらはら涙をこぼす始末。いや、この女も芝居の中にいるような心持ちになっているのでしょう。 「俺はつらかったぜ。あんたが毎晩、青っちろい医者に抱かれてるかと思うと、腸《はらわた》がぐさりと破れるかと思ったぜ」  そう言いながら、お花の帯に手をかける慶左衛門。 「いえ、いえ、やめてくださいよ。私は今じゃちゃんとした亭主がいる身なんでございますよ」 「何を言いやがる、亭主よりも俺の方が早い」  おかしな理屈でございますが、これは女にとっては天蓋散《てんがいさん》のようなもの。まことによく効きます。まあ、お花にとっては小便のようなもの、と言ったほうがよいのでしょうか。  たちまちぐにゃりと横たわる女。慶左衛門はさっそく裾を割って入っていきます。女のとろろ汁はちょうどよい感じ。すっぽりと慶左衛門の逸物を迎え入れてくれます。  さてもさても、不思議なのは男根《まら》と女陰《ぼぼ》との組み合わせでございます。このあいだまでは物足りなかったお花の女陰が、何やらすっかりいい具合になっているのでございます。汁の量といい、締めつけるきつさといい、上々吉。思えば初めて慶左衛門とまぐわった頃は、長い後家暮らしの後で、あちらの方もまだよく練れていなかったのですが、陽白に可愛がってもらったおかげで、ほどよく耕されてきたようです。陽白に感謝しなければいけないところ、正反対のことをするのですから、まあ女というものの怖しいこと。 「本当は私とて、あんな男のものにはなりたくなかったのですよ」  ことが終わった後、お花は甘えてくすんと鼻を鳴らします。やはり慶左衛門と寝てみますと、本当に得がたいいい男だと思います。そこへいくと、あの陽白という男の、なんとつまらなく見えること。慶左衛門とまためぐり会った嬉しさや男に対する媚《こ》びで、ぺらぺらと夫の悪口を言うのですから、言われる陽白もたまったものではございません。 「私はあなたに捨てられたと思って、そりゃあ心細かったんですよ。あんまり悲しくってつらいので、気うつになって寝込んでしまいました。そこにあの男がうまく取り入って、私を手籠めにしたのです」  おや、まあ、手籠めときたのでございます。 「あの男ときたら、何が嫌かといって、男のくせに甘いものが大好き。饅頭屋の婿になったものですから、それこそ大喜びで、毎晩寝床の中で饅頭をぺちゃぺちゃ食べるのです。もう化け猫のようで、その嫌なことといったら……!」  最後はもう涙声になるので、慶左衛門も女のことがすっかりいじらしくなってまいりました。 「よし、俺が何とかして夫婦別れをさせてやろう」 「本当でございますか」 「ああ任せておきな。俺にとっちゃこんなことは朝飯前さ」  女も怖いけれども男も怖い。家に帰ってから慶左衛門はあれこれ考えます。相手を脅かしてお花と別れさせるくらい何ということもありませんが、それでは腹の虫が収まりません。何とかして、もう立ち上がれないくらいの打撃を与えたい。さきほどの女の体があまりにもよかったので、それをひとり占めしていた男が、むやみに憎らしくなってきたのです。 「いったいどうしたらいいだろう」  お花のまた従兄で遊び仲間の辰蔵と相談いたしました。もちろんうまく男を陥れることが出来たら、かなりまとまった金を渡すことになっていますから、女のまた従兄も張りきらざるを得ません。 「いいことを思いつきました。あの陽白という男は長崎帰りですから、それを利用するのはいかがでしょう」  この辰蔵も、陽白のことをこころよく思っておりません。今さらお花に結婚などされていては困る。もし子どもなど出来れば、柳屋の身代は親戚に配られずに、そっくりそちらへ行ってしまうのです。  辰蔵は頃合いを見はからって、お役人のところへ行きました。 「柳屋の婿につきまして、申し上げたいことがございます。このまま放っておいたのでは連座ということになり、私ども一族にも罪が及ぶかもしれません。ぜひ今のうちにお調べください」  辰蔵はこう訴えます。陽白は近頃、地図を何枚も集めている。それも一枚や二枚ではない。どうやら長崎時代に世話になった阿蘭陀人の医者に送っているらしい。外国人が地図を持つのはご法度のはずだから、もしそれが本当だったら大変なことになる……。  お役人がさっそく柳屋に乗り込み、陽白の部屋を調べてみますと、行李《こうり》の中から四枚の地図が見つかったのでございます。中には海洋地図までありましたので、話はめんどうになりました。 「とんでもない。どうしてこのようなものが私の行李に入っていたのか、さっぱりわけがわかりませぬ」  陽白は必死になって抗弁しますが、それもそのはず、地図はお花がこっそり入れておいたものです。  この頃慶左衛門は、しょっちゅうお花を呼び出してこってり可愛がっておりますので、もうすっかり言いなりなのでございます。それにしても、陽白はひどいことをしたわけではない。もっといい男が戻ってきたからといって、邪魔にするだけならともかく、夫を罠にかけるとは、お花も相当の悪女といわなければなりません。おきんといい勝負をしそうです。いや、お花は生まれついての悪性者《あくしようもの》ではない。ただ生まれて初めて知る、たくましくて強い男根《まら》に、わが身を誤らせているのでしょう。  そんなことより何より可哀想なのは陽白でございます。知らぬ存ぜぬを通したのですが、厳しい取り調べを受けたのです。拷問もされました。三日三晩眠らせてもらえないのは序の口で、そのうちに石抱き、水責めと続きます。石抱きというのは正座をさせて、膝の上に重い石を置くという、それはそれはむごいものです。たいていの罪人はここで音《ね》をあげるということですが、陽白は頑として罪を認めません。結局、これといった決め手もないものですから、陽白は「ところ払い」ということになりました。柳屋は進んでお上に訴えたということもあり、お咎めなしということです。  江戸を去る時の陽白は、片足をひきずり、片目もよく見えなくなっておりました。昔のお坊ちゃん面を知っている者には、まるで別人に見えたそうでございます。 「いったい何が起こったかわからないが、わかったらただではおかぬ」  道々こう言い続けたということですから、見た目よりはずっと気骨のある男だったということでしょう。  お花はその時、ぬくぬくと慶左衛門と床の中におりました。お花のあちらの具合は日増しによくなっていくようです。困ったことはただひとつ、お花の尿療法を慶左衛門が嫌っていることです。 「そんなに飲みたきゃ、こっちを飲め」  と自分の男根を口元に持っていくというのですが、ありそうな話ではありませんか。  この二人のありさまを、おきんが知ったらどうなりますやら。次のお楽しみに。 [#改ページ]   第九話 慶左衛門、女力持ちと寝るの巻  さても騒がしい世の中になったものでございます。  男も女も、タガがはずれたように面白いもの、心うきたつものへとどっと群がっていくのですから、きまりも何もあったものではありません。  あの「め組の喧嘩」があって、もう何年もたちますのに、相変わらず江戸の者たちの口の端にあがるのは、あの喧嘩が大層派手で騒々しかったからでございましょう。鳶《とび》の若者たちと相撲取りたちとがやり合って死人まで出る。それだけではありません。お調子者が芝浜松町の番屋の火の見に駆け上がり、半鐘を打ったのでございます。火事を知らせる半鐘は、隣りの町内で鳴れば、すぐさま続けて鳴らすことになっておりますから、め組三十六ケ町で、火が出たとばかりかんかんと鳴り続け、それはもう大変なことになったのでございます。  あれ以来、相撲取りは乱暴者というのは、誰もが知ることとなりました。横綱や大関といった格の高い者はともかく、相撲部屋からはぐれた浪人くずれの大男たちが群れては、一種のならず者のようになっているのでございます。  世間では力士買いは役者買いよりも始末に悪い、という者もおります。役者も性根が悪い者が多うございますが、金をせびる間は女──いや男も充分心地よくしてくれるはず。けれども相撲取りはヒモとなりますと、女に手を上げることはしょっちゅう、金や物のせびり方も強欲と申します。ところがそういう男がよい、という女もたくさんいるのですから、まことに男と女はわからないもの。  さて春ともなりますと、深川八幡に相撲の興行がかかります。昔は女の相撲見物はあまり誉められたものではございませんでしたが、この頃の女はなんでも好き勝手いたします。男と二人連れ、あるいは女同士で行っては贔屓の相撲取りに声をかけるのが流行っております。  けれども西門屋慶左衛門に囲われているおきんは、相撲がそう好きではありません。大男が好きでなければ、金を持っていない男など大嫌いです。横綱はともかく、相撲取りがいい金をとるなどという話は聞いたことがない。各藩お抱えといっても、おさむらいさまは吝嗇《りんしよく》なものときまっております。いい暮らしがしたかったら金持ちにたかるしかないのです。金持ちにたかったり、媚びをうるのは女の仕事。そんなことをするのは、自分たちだけでたくさんとおきんは考えているのです。  そうはいっても根っからの浮気女でございますから、町中ですれ違う相撲取りの艶々とした鬢《びん》や髪油のにおいをかぐと、なにやら体がうずうずしてまいります。とはいえ何か悪さをしますと、慶左衛門に殺されかねないので、じっと我慢をしているのが本音です。 「相撲取りと一回寝ると、もうやみつきになるというよ」  お喋り相手のようじ屋のおかみ、お陶が申します。 「体を鍛えているし、肌はすべすべしているし、そりゃあいい気持ちだっていうじゃないか」 「私ゃ、あんな肥えた男に、上から押さえつけられるのはごめんだね。息が出来なくなってしまいそうだよ」  つんとしておきんは答えます。 「それがね、お相撲さんというのは体がやわらかくて強いから、ひょいと女を膝の上にのっけて、『茶臼』をやるっていうよ」  茶臼というのは夜の四十八手のひとつです。 「浜町の富田屋のおかみは、三十で後家になってからの相撲狂い、それですっかり身上を潰したのさ。今じゃ長屋住まいっていうありさまだけど、あんな極楽を味わわせてもらったんだから、なんの悔いもないと言っているらしいよ……」  極楽ねえ……とおきんはつぶやきます。  実はお陶にも言えない深い悩みが、今のおきんを苦しめているのでございます。  今年の節分に、両国でちょっとした火事があり、何軒かに燃えうつりました。焼け出されたひとりに、あの鳥追女のおりんがいたのです。ふつうでしたら、親類知人のどこかへ身を寄せるのでございましょうが、心中者の片われにそんなあてがあるわけがありません。頼るところは結局、慶左衛門ということになりました。  本妻と妾が一つ屋根の下で暮らしているところに、もうひとり妾が飛び込んできたのでございます。うまくいく方がおかしいというもの。それでもお月の方は、焼け出されたおりんに古着を与えたりと本妻らしい余裕を見せます。が、面白くないのはおきんの方。奉公人もたくさんいる母屋にいるわけにもいかず、おきんのいる離れにおりんは寝泊まりすることになったのです。  例の河豚騒動の後、おりんがおきんを深く恨んでいるのは火を見るよりもあきらか。女がどんな仕返しをしたかと申しますと、慶左衛門との色ごとの最中、尋常ではない声をあげるのでございます。  慶左衛門という男も罪なことをいたします。女の住まいが決まるまで、しばらくの間我慢すればよいではありませんか。それなのに、時折、離れに来てはどちらかの女を抱くのでございます。お呼びがかからない女は、次の間に寝るというものの、声を聞かされる方はたまったものではありません。大奥の「お清」の女たちは、将軍さまと側室とが夜を過ごす間、身じろぎもせず襖越しに控えているそうですが、そのつらいことといったら……。男を知らない女でさえ、わが身をひと晩中つねって、男と女の忘我のよがり声にじっと耐えると申します。今までさんざん慶左衛門に可愛がられ、体がこってり熟れているおきんにとっては、まるで拷問のような仕打ちです。  おそらくおりんの方にしても同じことでしょうが、今のところ物珍しさと同情からか、お呼びがかかる回数はずっとあちらの方が多い。  しかもおきんの不機嫌な様子を見て、慶左衛門はこんなことを言うではありませんか。 「そんなに嫉《や》けるんなら、どうだい、三人でやってみるってのは。『うぐいすの谷わたり』というやつは、なかなか乙《おつ》のものらしいぜ」  うぐいすの谷わたりというのは、男一人、女二人で行なう色ごとでございます。詳しいことは存じませぬが、男が女の中にすっぽり入って、腰を動かしている最中も空いている手で、あれこれするようで、何やら大変そうでございます。いずれにしても吉原《なか》などで、酔興《すいきよう》な客のために行なわれるもの。 「あたしは女郎じゃない」  おきんはきっと唇を噛みます。今は妾をしているけれども、その前は堅気のおかみだった。いや、きっぱり堅気とも言いきれないけれども、れっきとした亭主を持つ身でした。それなのに、慶左衛門に目がくらんで、あんなことをしてしまったのだと、おきんの目からはらはらと涙がこぼれてきます。  こんな自分が、このところ何度も地獄を味わわされている。慶左衛門と極楽をみるつもりで、あんなことまでしたのにいきつく先がここなのだろうかと、おきんは本当につらい気持ちになるのでした。  さて慶左衛門の方ですが、こちらも悩みがございました。おりんと同衾《どうきん》する夜、時々うなされるようになったのです。  女と一戦交え、酒もほどほどにまわり、とろとろと眠りにおちていくあの気持ちよさは、男だったら誰でも経験していることでしょう。それなのにこの頃、離れで寝ていると、どすどすと枕元で誰かが歩いていくのがわかります。おきんではないかと目をやると、ただ闇がそこにあるばかり。それだけではありません。夜中に息苦しくなってふと目をさますと、何か重いものが上に乗っているではありませんか。 「おい、おい、誰だ。誰なんだ……。おーい、助けてくれ」  必死で声をあげようとするのですが、金しばりにあったように、口がぱくぱくと動くだけ。 「こりゃあ、おきんの生霊《いきりよう》かもしれない」  と冗談半分で口にしますが、内心はきび悪くて仕方ありません。酒を飲んでいるついでに、ふとこのことを漏らしましたところ、遊び仲間のひとりが、護国寺のさる高僧のところへ連れていってくれました。  よくここまで年をとったと感心するほど年寄りの僧は、慶左衛門をひと目見るなりこう申しました。 「男じゃ、男の霊がついておる」 「男でございますか……」  ひやりといたしました。心あたりはもちろんございます。毒殺したおきんの亭主に違いありません。 「男と女の姿が見える。ふーむ、これはどういうことか」  しばらく遠くを見ていた僧は、つぶやくようにこう申しました。 「男はお前のことを恨んではいない。だが女に未練があって、ふわりふわりと飛んでおるわ」 「ひえー」とすっかり驚いた慶左衛門でございます。これは心中仕損なった男のことに違いない。あまりにもいい女だったので、鳥追女のおりんに手を出しました。心中の片われという過去も、女の淋し気な風情をつくり、それはそれで気に入っていたのでございますが、死んだ男の霊が夜な夜な出てくるとなるともう話は別。怖くてとても抱けるものではありません。そうかといって一方のおきんを抱くというのも出来ない。これはこれで祟《たた》られそうでございます。  慶左衛門は家に帰る気さえ失せ、吉原に流連《いつづ》けてしまったのでございます。考えてみると、どうして、こうも重みを背負った女ばかり手にするのでしょう。悔いというのではありませんが、この男にしては珍しくため息を何度も漏らします。おきんのことは、自分で蒔いた種ですから仕方ないとしても、心中者のおりんを、なかば強引に自分のものにしてしまった。最近ねんごろになった後家のお花にしても、張り合った男を牢に入れることとなりました。 「おそらく、自分は畳の上では死ねまいよ」  思わずこうつぶやきます。今までに何度もこの言葉を口にしたことがありますが、たいていの場合は、酒の席での自慢めいた戯《ざ》れ言でございます。男伊達を気取るなら、まっとうな生き方はしないぞ、という強がりのようなもの。しかし霊がとり憑《つ》いていると言われて以来、急に気弱になった慶左衛門でございます。 「あーあ、どこかに心も体も晴れ晴れとするようないい女がいないものだろうか」  しかしいきつくところは、女の話になるのがこの男のいいところでございます。 「俺の女というのは、どいつもこいつも、気ぶっせいな女ばかりじゃないか。一緒にいるだけで、心が楽しくなるようないい女がどこかにいないものだろうかねぇ」 「慶さん、それなら今いちばん面白いのは大女だよ」  遊び仲間の久衛門がすかさず言いました。 「ほら、八代《はちだい》さまも、気取った女たちだけじゃ満足しなくって、どこかの百姓女を側室にしたというじゃないか。女は多少野暮ったくても、体が丈夫で元気なのがいちばんさ」 「そうかねぇ……」  今まであかぬけた江戸小町ばかり相手にしてきた慶左衛門です。今さらそこらの百姓女を相手にしろといっても、どうも気が進みません。 「そう、そう、今、座頭と女相撲をやっているから見にいかないかい。大層な人気だっていうじゃないか。たまにはああいう面白い女を見るのもいいもんさ」  座頭と女相撲というのは、盲人と裸の女に相撲をとらせるという、かなり阿漕《あこぎ》なものでございます。何年か前、浅草寺のご開帳の見世物としてやっているのを見たことがございますが、盲人を父に持つ慶左衛門にはどうにも耐えられないものでした。  盲人たちは目が見えませんから、女の技が見えず、手さぐりで勝負をしている。そしてひょうけた者は、わざと女の乳房を探って叩かれたりする。そのたびに観客は大喜びで囃《はや》したてるのです。  しかも女相撲をとるくらいの者たちですから、まともな女などひとりもおりません。上半身裸となった女たちは、おそらく最下級の女郎たちなのでしょう。肌も汚なく、病気の跡のかさぶたが見える者も少なくありません。相撲をとるためにいろいろ食べさせられるらしく、確かに太り肉《じし》になっておりますが、そこからは健康な色気などみじんも伝わってはこないのです。 「俺はどうも、あれは好かないなぁ……」  久しぶりに家に帰った慶左衛門は、どういう加減かおりん相手に一杯飲み始めました。しばらく離れているうちに、霊のことはこちらの気のせいかもしれないと思い始めたのです。それによく見ると、おりんというのは本当にいい女です。綺麗なうりざね顔に、人形師が心をこめて描いたような切れ長の目。そして小さく締まった唇の形のよいことといったら……こんないい女は、吉原にもめったにいるものではありません。慶左衛門は何やら嬉しくなって、女の盃に酌《つ》いでやります。それを黙って飲み干すおりん。おきんとのにぎやかな酒も決して嫌いではありませんが、こんな風に寡黙にされると、女の心をどこまでも追いかけていくのが男というもの。機嫌をとるわけではありませんが、つい饒舌になってしまいます。 「お前のような綺麗な女が裸になるならともかく、不器量の年増が裸にひんむかれて、前垂れひとつで震えている。そんなものを見たからって、何が面白かろうよ」 「そうですとも……。旦那さまはやさしい方でいらっしゃいますもの」  おりんは静かに言い、なんとも気恥ずかしくなる慶左衛門であります。 「それでしたら旦那さま、女力持ちはいかがでございますか」 「女力持ちか……」 「同じ見世物ではございますけれども、女力持ちは、大層綺麗な女がいて楽しいという評判でございます。ぜひ明日でもご一緒いたしましょう」  近頃流行の女力持ちですが、慶左衛門は一度も見たことがない。今江戸では「鳴海屋お蝶《ちよう》」という女が、さまざまな力技で人気を博しております。 「女力持ちたって……どうせ肥えた女が出てきて、太い腕でも見せるんだろうさ」 「いいえ、お蝶はとても綺麗な女でございますよ。私も町で一度見かけたことがありますが、餅肌というのはああいうのをいうのでございましょう。白くやわらかくて、ふっくらとした顔がとてもかわいい、まだ二十歳の娘なのですよ。その子が、えいやあと米俵を抱くそうでございます」  こう言われて興味を持たない男は、おそらくひとりもおりますまい。もともと慶左衛門は、太り肉の女に目がございません。それならばちょっと見に行こうということになりました。  その晩、慶左衛門はおきんの方に向かいます。 「まあ、よくこっちを憶えていてくださいましたこと」  嫌味を言うおきんでありますが、いつのまにやら二人はくんずほぐれつ。久しぶりのこととて、おきんはよく締まり、やはりこの女はたまらんと慶左衛門は勝手なことを考えます。  そしてやや寝不足のまま、おりんと向かったのは向島の茶屋でございます。茶屋の土間を見世物小屋のようにしつらえているところに、 「女力持ち鳴海屋お蝶参上」  とたっぷりの筆で書いてあるのでございます。  やがて土間が混み始めました。三十人はいるのではないでしょうか、大半がそこいらの町の者ですが、編笠を深くかぶったおさむらいさんもいらっしゃいます。 「女力持ちを、召しかかえるおつもりで、下見にいらしたんじゃないでしょうか」  おりんがこんな冗談を申します。  やがて口上の後、お蝶が登場します。五尺八寸はあろうかという大女ですが、そう肥えてはおりません。もう二十歳だというのに、紫地に駒を染め出した大振袖。ぴらぴらの簪《かんざし》もよく似合っていて、見物人から拍手が起こりました。  そう美人とはいえませんが、確かに愛らしい娘です。おりんのいうとおり、肌が抜けるように白く、笑うと頬にえくぼが出来、それが頬のやわらかさを強調します。 「ご見物の皆さま。わたくしは下総《しもふさ》市川の生まれで、お蝶と申します。名前どおり、蝶よ、花よと大切に育てられたのでございますが、何の因果でございましょう、生まれついてのこの怪力、二つの時にはわたくしに乳を含ませ寝込んだおっかさんを、ちゃんと布団まで運び届けたのでございます」  お蝶ははきはきと、よくとおる声で言います。 「そして十五の時に、江戸にやってまいりまして、まずは口入れ屋で探してもらったのは宿屋の女中。ここでふつうの女として、安楽に暮らすはずでございました。ところがある日、荷車に積んだ米俵がひとつころがりまして、丁稚さんの頭に……とその時でございます、わたくしの腕がひょいと動いて、米俵を抱きとめていたのだからもう隠せない。そしてついた名が、女力持ち、お蝶、わたくしのことでございます」  最後の方は役者のように見得を切りますが、照れているのがわかり、なんともういういしい。この女、生娘だろうか、まさか見世物小屋に出る女が生娘のはずはあるまい。それにしてもこんななりわいをしているにしては、おぼこいところがある娘ではないかと、慶左衛門は早くも舌なめずりをしております。  やがて土間に米俵が運び込まれました。 「何か細工をしていると思われると困りますので、どなたかお持ちください」  いかにもお調子者のような中年の客が、さっそく名乗り出ましたが、四斗の米俵ですから、ぴくりとも持ち上げられません。 「それではわたくし、女力持ち、鳴海屋お蝶が見事上げてごらんにいれまするうー」  もろ肌を脱ぐお蝶。緋の襦袢があらわになり、ごくりと唾を呑み込む慶左衛門です。お蝶は両の手を俵に置き、なにか試すように拳をころがしておりましたが、やがて指を綱にかけます。 「エイ、ヤ」  のかけ声と共に、米俵を持ち上げたので、観客たちは拍手喝采、大喜びでございます。それどころではない。やがてこの米俵の上に、お蝶は客をひとり座らせ、それをまた軽々と持ち上げるではありませんか。 「全くたいしたもんだなぁ」  お茶屋を後にして歩きながら、慶左衛門はしきりに感心します。 「あんな若くて綺麗な女が、らくらく米俵を持ち上げるんだからなぁ。お前が横にいてなんだが、綺麗な女が眉を寄せてつらい思いをしているのを見るのは、なかなか乙なもんだぜ」 「それならば……」  おりんがじっと慶左衛門を見て言いました。 「お呼びになったらいかがでしょう。素人のふりをしておりますが、所詮は見世物小屋に出る芸人。ちょっと金を出せば、喜んでどこにでもまいりますよ」 「そうだなあ、うまいもんをたらふく食わせてやろうじゃないか」  すぐにでも待合茶屋に呼びたいところですが、さすがにおりんの手前、それは出来ません。 「私も廓《くるわ》におりましたので、あの鳴海屋には知っている者がおります。その者に頼めば造作もないことですよ」  本当にその夜のうちに、料理屋の二階にお蝶を呼んだのでございます。 「ごめんくださいませ」  襖を開け頭を下げるお蝶は、さっきとはうって変わって、地味な縞ものを着ております。繻子《しゆす》の黒帯が唯一、芸人らしい華やぎを添えているぐらい。 「鳴海屋お蝶でございます。このたびはご贔屓にあずかり、まことにありがとうございます」 「さあ、さあ、お蝶さん。堅いことは抜きにして、今日は楽しくやろうじゃありませんか」  妙に慣れた手つきで、とっくりを持つおりん。 「蔵前の西門屋さんのようなお方に、お座敷に呼んでいただけるなんて、まるで夢のようでございます」  しおらしく下座でかしこまるお蝶は、大きく結った髷《まげ》も黒々としていて、近くで見た方がずっといい。何よりも肌の美しいことといったら……。衿元から見える肌は白くふっくらとしていて、いかにもうまそうです。 「お蝶さん、たんと召し上がってくださいよ。そんなにいい体をしているのですから、さぞかしたくさん召し上がるのでしょう」  今夜のおりんは女主人としてふるまえるのが嬉しいらしく、しきりに料理を勧めます。春のこととて白魚の玉子とじ、赤貝を味噌で焼いたもの、小鯛の吸い物などが次々と運ばれます。それを小気味よく咀嚼《そしやく》するお蝶。白い喉が上下するさまがなんともなまめかしい。 「が、どうやってあの女を口説きゃいいんだ、そもそもおりんが見つけてきた女なのだからな。こりゃあめんどうくさいことになった……」  小便をしながら慶左衛門は思案にくれます。一度はあの白いぽっちゃりした体を抱きたいけれども、おりんに知られずにことを運ぶのはむずかしそうです。おりんはおきんのようにやきもちを焼くことはないでしょうが、自分の女がお膳立てしてくれた女を抱くのは、やはり面映ゆいものでございます。  小便を終えて部屋に戻ろうとした慶左衛門は、はっと足を止めました。襖の向こうで何やらふたりがひそひそと話しているのでございます。が、そこで立聞きをしているわけにもいかず、襖をがらりと開けました。 「あっ」  あわててお蝶から離れるおりん、そしてとりつくろうようにこんなことを言うではありませんか。 「今、お蝶さんとお話ししていたのですが、遅くなったので、もう鳴海屋さんには帰らず、私たちと一緒にどこか待合茶屋に泊まってもよいそうです」 「え、いいのかい」  慶左衛門はごくりと喉を鳴らします。まるでこちらの胸の中を見透かされたようでございます。しかし「私たち」ということは、おりんも一緒に泊まるらしい。もしお蝶を自分にあてがうつもりならば、どうして駕籠で帰らないのでしょう。  が、その謎はすぐに解けました。待合茶屋で布団を川の字に並べ、おりんは赤いしごきをほどきながら申します。 「旦那さま、今夜は面白いことをいたしませんか……」 「そう言ったって、おりん」 「おきんさんと三人で寝るのは嫌でござんすが、お蝶さんと寝るのは構やしませんよ」  慶左衛門は、もう嬉しさのあまり、あそこがむくむく大きくなってまいりました。まずは行儀よく、三人並んでお床入り。そして両の手で同時に女の胸をまさぐります。右側のおりんの乳房は、固くてこぶりでございます。そして左側のお蝶のものは、ただただやわらかく指が埋れてしまいそうです。やはり最初はこちらの方にむしゃぶりつく慶左衛門。すぐにたまらなくなって、お蝶の膝を開きます。そして男根《まら》をずぶりと入れたとたん、おりんのことを思い出しました。こちらの女をほっとくわけにはいきませんので、片方の手でおりんの女陰《ぼぼ》をまさぐります。その忙しいことといったら、たえず二人の女のことを気遣いながら、どちらかを触れたり、いじったりするのが、うぐいすの谷わたりのきまりのようでございます。最初はお蝶の中で果て、すぐさまおりんにも挑み、二回戦交えた頃には慶左衛門は疲れきってしまいました。 「うぐいすの谷わたりというのは、それほどよいものでもないな。こんなに女に気を遣わなくてはならんとは。いやはや……」  そして眠りにおちかけた頃、慶左衛門の上に、またどさりと何かが落ちました。あの霊がやってきたのです。 「助けてくれー」  ようやく灯りをつけた慶左衛門は、きゃーっと悲鳴をあげそうになりました。布団の上におりんとお蝶が正座していたのでございます。 「お前たちはいったい何なんだ。何を企んでいやがるんだっ」 「私たちは、姉妹なんでございます」  灯りの下、ふふふと笑うおりん。 「姉妹だって。そんな馬鹿な。お前は在に兄さんがいるきりだと言ったじゃないか」 「姉妹といっても、義理の姉妹でございます。言いかわした男の妹が、お蝶なんですよ」  それなのにどうして、三人でまぐわおうとしたのか……。すっかり混乱する慶左衛門です。 「私が五年前、心中した相手というのは、お蝶さんの兄さんで……」 「相撲取りをしていたのです」  とお蝶。 「私たちは市川でも評判の兄妹でしたの。どちらも体が大きくて、大飯喰いとおっかさんに怒られました。だけど今に見てろ、腹いっぱい食べさせてやるようにするからなと、兄さんは江戸に出ていったんです」  それならばあの霊は、この女の兄だったのか。相撲取りだったから、あれほど重くのしかかってきたのかと、慶左衛門はガタガタ震え出しました。 「もうあんな性悪女との生活はいやでございますよ。人の妾《めかけ》になって、あんな女にもいじめられなくてはならないのかと思ったら、いっそ死にたくなりました。が、どうせなら、旦那さんも一緒に死んでくださいませ。そうでなきゃ、嫁と妹をいっぺんに寝取られたあの人がかわいそうでなりません」  近づいてくるおりん。思わず慶左衛門は後ずさりしました。 「ちょっと待て。お蝶がお前の亭主の妹と知ってたら、こんなことはしなかったぜ。それに死ぬようなことでもないだろう。たかが女ふたりと寝ただけじゃないか」 「でも、私の亭主の霊が黙っておりません。早晩あなたはとり憑かれて、殺されるのですよ」  行灯《あんどん》の下で、おりんはこちらを見つめております。その白い顔の後ろに、大男を見たような気がして、 「わー、助けてくれ」  慶左衛門はついに腰を抜かしてしまいました。 「ふっふっふ、あははは」  突然笑い出したおりん。 「嘘でございますよ。お蝶さんは私が廓に出ていた頃の仲間で、ちょいとお芝居を手伝ってもらいましたの。だって仕方ないじゃありませんか。あのおきんと、ずうっと一緒にいて、ずうっと地獄を味わってきたんですからね。旦那へちょっと仕返しをしただけ。だから怒らないでくださいまし」  慶左衛門はふと思いあたりました。夜中に、どすんどすんと自分の布団を踏んでいたのはおりんではなかったか。毎夜この女は恨みを込めて、力士のように四股《しこ》を踏んでいたのです。 「わかった、わかった」  慶左衛門は、気弱につぶやいたのでございます。 [#改ページ]   第十話 おきん、百物語をするの巻  今年、江戸の暑さは格別でございます。  おてんとうさまがいつもより大きく、赤く見えるのは気のせいでありましょうか。道を歩いているものは、蟻ですら、じわりじわりと灼《や》き殺されそうな昼下がり、それでも働かなければいけないのが貧乏人というものです。あえぎながら大八車が通ります。何もこんな地獄のような暑い盛りに行くことはないだろう。どうせなら陽がかげってから荷を運べばいいのに、などというのは、明日のことなどまるで心配いらぬお大尽の考えること。貧乏人は、暑い寒い、などと申したら、たちまち口が乾上《ひあ》がってしまいます。  おきんは昔から夏が大嫌いで、梅雨が明ける頃から、すっかり憂うつな気分になったものです。ようじ屋の店先に座ると、往来からの照り返しで、その暑いこと、暑いこと……。汗が目の中に入り、頭もぼうっとして、釣銭を間違えたぐらいです。  それが今では、涼しい風が入る離れで好き放題昼寝が出来る身分になったのですから、おきんが文句を言うほど囲い者も悪くありません。水売りや西瓜売りも、毎日のように呼び止めます。ぴちゃぴちゃと西瓜を食べた後、自堕落に寝ころんで本を読む楽しさといったら……。  最近は荷を担いでくる貸本屋にとってもおきんは大得意さま。 「ご新造さんの本を読むのが早いことといったら、まるで学者さんのようでございます。この分では、江戸中の貸本をもうじき読んでしまわれるのではありませんか」  という言葉も、まんざら世辞ではないようです。  この頃のおきんの愛読書は、なんといっても幽霊本。馬琴の書いた「新累《しんかさね》解脱物語」は、何度も読み返したぐらいです。品のないおどろおどろした挿絵が売り物でございますが、もっと気に入ったのは振鷺亭《しんろてい》の読本「千代曩媛《ちよのひめ》七変化物語」という読本。臼に入れて搗《つ》かれたりと、拷問の限りを尽くすむごたらしい話ですが、これを読むたびにおきんは何やら股の間が甘くおかしな気分になってくるのです。  この挿絵と同じようにあの憎たらしいおりんの、両の指を切ったらどんな気分がするかしらんと、おきんは妄想いたします。火事で焼け出されて以来、この西門屋に住みついていたおりんのことは、一枚刷りになって町に出まわっているらしい。ホラ話を、何段にも大きく面白く仕立てる一枚刷り、それによると西門屋は妾を三人、妻と同居させていることになっているようです。そして夜な夜な三人の妾を座敷に並べて寝かせ、脚を大きく開かせて順に慶左衛門が突いていくというのですから悪趣味な筋立てです。  それというのも、すべてあのおりんがいけないのだと、おきんは奥歯をきりきり鳴らします。心中の片われ者として、おとなしく鳥追女を続ければよかったのに、慶左衛門の妾となったのです。おとなしげな虫も殺さぬような顔をしていて、夜のあのよがり声の凄さといったらありません。よっぽどえげつないことをしているに違いないとおきんは睨んでおります。  今のこのおりんのありさまを見れば、心中の相手はどんな気持ちがするでしょう。あの世での夫婦を誓い、さし違えた女でございます。それなのに自分だけがあの世にいき、女の方はちゃっかりとこの世に残り、毎晩淫蕩な声をあげているのです。 「いっそこの本のように、男が化けて出てきたらどんなに面白いだろう」  大男の相撲取りが幽霊となって現れて、自分を忘れた女に恨みごとを言い、呪いの言葉を吐く。そして挿絵のように、髪をつかんでひきまわし、顔を水に漬けて溺れさす……。  おきんはうっとりとさまざまな場面を想像します。 「本当に亭主の幽霊が出てきたら、どんなに気持ちいいか」  そう口に出したとたん、嫌なことを思い出しました。自分が毒殺した亭主のことです。けれども自分のことについては、あまり深くものごとを考えないのが、おきんのいいところ。 「あの男は化けて出るようなたまじゃなかったよ」  何より自分は、それほど幸せじゃないのだものと、おきんは自分に都合よく解釈します。どの本を読んでも、幽霊というのは相手を殺して自分はいい思いをしている者にとり憑きます。自分のように、男にないがしろにされている者はおめこぼしをしてくれるに違いないとおきんは考えるのです。  それにしても幽霊というのは、本当にいるのでしょうか。近頃、世の中の人々はやたら幽霊が好きになったような気がいたします。何年か前に中村座で「東海道四谷怪談」が上演されてからというもの、あの怪談は盆芝居には欠かせないものとなりました。回向院《えこういん》のご開帳や大森村に出る化け物小屋も、大変な人気です。寄席では、噺家《はなしか》たちがこぞって怪談話を喋り、江戸っ子たちは夏が来ると、ぞくぞくするほど怖い話が好きになるようでございます。 「そうだ、百物語をしてみよう」  おきんは思いつきました。「百物語」のことは何度も本で読んだことがあります。百本のろうそくを立て、何人かが座敷に集まります。そしてとっておきの怖い話をひとりずつ語り、自分の話が終わると、一本ろうそくを消していく趣向。このろうそくが全部消え終わる前に、必ずといっていいぐらい怖しいことが起こると本には書いてあります。ひと頃前に、もの好きや金持ちの間で大層流行ったということですが、今ではあまり話も聞きません。けれどもおきんはこの思いつきに、すっかり夢中になってしまいました。  自分の亭主は化けて出なくても、おりんの相手方は出てきそうな気がする。たとえ出てこなくても、別の方法でおりんをおどかせばよいのです。それは自分が声色を使い、心中話を語る。慶左衛門から聞いたところによると、おりんの心中相手は相撲取りだったというではありませんか。相撲取りが女と心中するというのは、あまり似合わないような気がいたしますが、とにかくその男だけ死んでしまったのです。これは面白い話になりそうだと、おきんは舌なめずりしたいような気分。女と死んだ相撲取りが、浮かばれることなく、この世をさまよっているという筋立てで、怪談話をつくればよいのです。皆の前でこの話をすれば、おりんはどれほど驚くでしょう。恥をかかされたとばかり青くなったり、泣き出したりするかもしれません。本物の幽霊など出なくてもいい、おりんが嫌な気分になればそれでいいのです。  けれどもこの「百物語」に、慶左衛門はいい顔をいたしません。なにしろこのあいだ、夜中にうなされる「生霊」騒ぎがあったばかりです。どうせ馬鹿馬鹿しい遊びとわかっていても、怪談話をひと晩中語るなどというのはぞっといたします。 「お願いしますよ。この暑さで何をする気にもなれないんですよ。たまにはパッと気の晴れるようなことをしたいじゃありませんか」 「幽霊話をして、どうして気が晴れるんだ」 「私は昔から、幽霊話を聞くのが大好き。ああいうのを聞くと、怖いけれども、胸がわくわくして、あとでいい心持ちになるのです」  それに、とおきんは袖を目に当てます。 「おりんさんが焼け出されてからずっと、私はあの人と一緒に暮らしているんでございますよ。ひとつの家に妾がふたり、こんな話は聞いたことがありません。世間じゃ一枚刷りになって、さんざん笑われているのですから、ちょっとぐらい私の願いを聞いてくださってもいいじゃありませんか……」 「わかった、わかった」  これ以上泣かれてはたまらんと思った慶左衛門、自分もおりんのことでは後ろめたいところがありましたので、しぶしぶ「百物語」を催すことを承知いたしました。 「だけど俺は出ないからな、女だけで勝手にやってくれ」  これは望むところです。慶左衛門のいないところで、おりんをねちねちいじめるつもりです。  さてその夜、西門屋の座敷に集まったのは、おきん、おりん、お月、ようじ屋のおかみのお陶という面々。もっと人数が欲しいところでございますが、おきんの知り合いが少ないのですから仕方ありません。  しかし、 「好きなようにしていい」  という、主人慶左衛門の許しがあったので、うまい料理の仕出しを頼み、酒もちびちび飲んだところ。 「暑気ばらいに、女だけで楽しい趣向をいたしましょう」  というのが、今回の口上です。  膳が下げられた後は、女中が五十本のろうそくを並べます。本当は百本なくてはいけないのですが、この人数でございますから、話をして一本ずつ消していったら三日あっても足りません。それに吝嗇なおきんは、百本のろうそくを買うのがもったいない。  さらに本で読むと、「百物語」といっても、一晩で語ることの出来る話というのは、せいぜいが三十か四十といったところのようです。それならば自分の小遣いで買うろうそくは、五十本で充分でしょう。それでも語り部たちは青い衣をまとうというきまりにのっとり、おきんは藍染《あいぞ》めの浴衣を着ております。が、他の女たちはてんでばらばら。 「百物語なんて話には聞いていたけれども、本当にやるんですね。おや、まあ……」  お陶は、うまい酒にすっかりいい気分になっております。 「幽霊話をするようにって、おきんさんから言われてるけれども、しがないようじ屋のおかみに、そんなに面白い話なんかありゃしませんよ」 「私だってそうですよ。蔵前からめったに出たこともない、世間知らずのぼんくらだから、何もありゃしない。だけどおきんさんが、今夜のことはどうしてもってねぇ……」  お月はおっとりと笑って、団扇で喉元をあおぎます。こちらは正妻なので、高価な上布を着ております。おりんといえば、こちらは鳴海絞《なるみしぼ》りの浴衣ですが、さすが吉原《なか》にいた女は違います。しどけなく帯をゆるめているのが、何ともいえず色っぽい。少し夏痩せして、顎のあたりがとがっておりますが、それが冷たい美貌をひきたてている。まことに指ではじきたくなる、白い陶器のような女であります。  もともと慶左衛門は、太り肉《じし》の女が好みなのですが、このおりんに入れ上げているのがおきんには口惜しくてたまらない。こんな細っこい女を毎晩のように抱いているとなると、たっぷりと肉のついた自分はどうなるのだと、このところ西瓜太りのおきんは涙が出るほど腹が立つのです。  しかしそんなことはおくびにも出さず、 「さあ、それではそろそろ始めましょうか」  と声をかけます。 「お陶さんからお願いしますよ」  いちばん下座に座っていたお陶に命じます。 「え、私からですか」 「そうですよ。口火を切ってくださいよ」 「今日はお酒もいただいて、すっかりいい気分になっちまいました。今夜は私は、皆さんのお話を聞くだけにしようと思って来たんです」 「もう観念おしよ、お陶さん」  お月が笑って言います。 「ろうそくは五十本もある。私たち、ひとり十は話をしなくちゃいけないのよ」 「わかりました。それじゃ、まずは私が前座を務めさせていただきましょうかね」  芝居がかった口調で、きちんと座り直すお陶。茶色の帷子《かたびら》は、おきんが買ってやったものです。この女、時々小遣いをくれる、元使用人に全く頭が上がらないのです。 「よく考えますと、私にも怖い話というのがございました。この頃『髪切り』というのをお聞きになったことがございましょう。夜道を歩いていく、女の髪が髷ごとばっさり切られるんでございますよ。誰のしわざかもわかりません。気づいた時にはもう遅い。根元から切られているというんですから、むごい話じゃございませんか。  今年の如月《きさらぎ》、戌《いぬ》の刻を少し回った頃でございます。私が店をそろそろ仕舞おうかと思いながら一服しておりますと、ひとりのご新造さんが歩いてきます。年の頃なら、三十をふたつみっつ過ぎたくらい。そりゃ、ここにいらっしゃる方々のように、皆が振り返る器量よし、というわけにはまいりませんが、色の白い、十人並みといったところでしょうか。  寒い日でございましたから、縞ものに綿入れを羽織っておりますがなかなかのなりで、どこかのお店《たな》のおかみといっても通りそう。ふつうこのくらいの方ならば、女中のひとりやふたりついてもおかしくないだろうにと、私は目で見送っておりました。ましてやこんな夜でございます。うちの前はそれでもあかりを残した店がいくつもございますけれども、ほれ、あのご新造さんが行く右手は闇があるばかり。橋のたもとに、時々夜鳴き蕎麦が出ていることがございますから、どうかあの爺さんがいますようにと、私にしちゃやさしい心持ちになったのは、やはり何か感じていたんでございましょう。  ご存知のように、こんな物騒な世の中でございますから、家の戸はしっかりと立て、錠をいたします。そのとたん、ギャーッという悲鳴がしたんでございます。その声の怖しいことといったら。私はさっきのご新造さんだととっさに思いましたが、こちらも怖しくて、足が動きやしません。ひょっとしたら辻斬りじゃないだろうか、もしそうだったら、助けにいった私も殺されるかもしれない。くわばらくわばらと、私は家の中で震えておりました。  そのうち表の戸を、叩く音がいたします。女の声で『もし、もし……』というのでございます。こうなったら知らん顔をするわけにはいきません。覚悟を決めてそーっと戸を開けますと、そこにご新造さんが立っています。私はわっと声をあげました。尼さんみたいなざんばら髪になっているじゃありませんか。そして手の上には黒いこんもりとしたかたまりがあって、それには朱色の手絡《てがら》がついております。そうですとも、切り取られたばかりの髷なのですよ。ご新造さんは、かぼそい声でこう言うのです。 『ちょいと、どうしたらいいのでしょう。いきなり髷が落ちたんですよ……』 『いきなり、っていうことはいくらなんでも。誰かとすれ違いませんでしたか』  私が尋ねると、ご新造さんは首を横に振ります。 『いいえ、誰とも。本当に誰とも出会わなかったのですよ。ただ、風が吹いていっただけでございます』」  こう締めくくって、お陶は一番手近なろうそくを一本吹き消します。 「なかなか面白いじゃないの」  とお月。 「そういえば、日本橋でも『髪切り』の話を聞いたことがある。私もその話をしようかね」 「同じ話は駄目ですよ」  おきんはぴしゃりと言います。一番手のお陶が頑張ってくれたおかげで、何やらいい雰囲気にはなりました。相撲取りの幽霊の話は、ろうそくが残り少なくなった頃、たっぷりとすることにいたしましょう。 「それでは、次はおりんさん、ということになりますね」  お陶の隣りにいたおりんは、ようござんすかと断わって、煙管《キセル》に火をつけます。口を細めて煙を吐き出すさまは、まるで芝居の一場面を見ているようでございます。 「幽霊話でございますか」  ふっと笑います。 「そりゃたくさん知っておりますよ。私のいた吉原《なか》は、それこそ幽霊や妖怪が山のようにいたところでございますからね。男に捨てられて咽《のど》を刺したお女郎が、夜中になるとあちこち歩きまわりますし、せっかく子を産んだのに流行り病いで死んだ女の乳が、店の廊下に流れてた、なんてしょっちゅうでございますよ」 「あんまり怖いものはやめておくれよ。お女郎さんの幽霊は怖そうだ」  ついからかったおきんを、おりんはきっと睨みつけます。 「いや、いや、お女郎の怖さなんてしれておりますよ。本当に怖いのは、堅気の女じゃないですかね。私たちみたいに、人から後ろ指をさされる女じゃなくて、まっとうな人のおかみさんの中でも、怖い女は、本当に怖いんじゃないですかねぇ」  この時、おきんはちょっと嫌な予感がいたしました。 「私が吉原《なか》を出て、鳥追女をやっていた時に聞いた話でございます。裏店《うらだな》に働き者の職人が住んでいたそうでございます。何の職人さんかは存じませんが、腕がよくて稼ぎもよかったそうでございます。ところでこの職人の女房というのは、近所でも評判の器量で、色は真白、目は大き過ぎず、小さ過ぎず、ふるいつきたくなるような柳腰。それはそれはいい女でした。  ところがよくある話でございますが、なまじ器量よしに生まれたばかりに、この女房、毎日が面白くございません。いくら腕がいいといっても、職人のことでございますから、入るお銭《あし》などしれております。いっそ女郎になれば、お職を張って、贅沢三昧出来るのに、といつも申していたそうでございます。  さてこの女房、花見にまいりました折に、ひとりのおさむらいさんと知り合いました。色男のうえに、金を持っていそうなおさむらいさんで、近くの茶屋に誘われ、盃を差しつ差されつしているうち、すっかりそういう深い仲になってしまったのでございます」  おきんは背筋が寒くなります。この女は、いったい何を言おうとしているのでしょうか。 「さっそくねんごろになった二人。おさむらいさんと女房はそれからも逢い引きを続けましたが、亭主が気づかないはずはありません。よく『知らぬは亭主ばかり』と申しますけれども、最後に知ったということでしょう。そこで亭主に脅かされたおさむらいさんは、女房にこう申しました。どうせなら亭主を殺してしまおう。そうすればお前を俺の妾にしてやるぜ。もっとゆっくり、たっぷり可愛がってやるぜ、と女房に迫ったのです……」  蒸し暑い夜ですのに、おきんは小さく震えております。職人の女房、おさむらいと、それぞれの身分を変えておりますが、どう考えても自分と慶左衛門のことに他ありません。  亭主が急に死んで、この家に引き取られた時、世間がいろいろ噂をいたしました。おりんはそのことを知っていて、おきんにいやがらせをしようとしているのです。お陶がコホンと咳ばらいをいたしました。おきんと同じように、居たたまれない気分になっているのに違いありません。 「そしておさむらいさんは、女房に南蛮渡来の薬を渡しました。ひと口飲めばただちにあの世に行くという、怖しい毒薬でございます」  もうやめて、とおきんは叫びたい。けれどもそうしたらおりんの思う壺です。みんなの前で、じわりじわりと責めていこうと思っていたのに、おりんに先を越されました。しかももっと悪らつなやり方で。女郎あがりで、しかも心中仕損なった女ですから、もしかするとおきんより上をいくかもしれません。おりんの凄味の前では、おきんまで可憐に見えるほどです。 「そして亭主を殺した女房は、天下晴れておさむらいさんの囲い者になりました。ある晩二人が、布団の上で一戦交えていた時のことでございます。女房の裸の肩を、誰かがトントンと叩くのです。まぐわっている最中のおさむらいさんが、どうして自分の肩を叩くのだろうかと不思議に思いました。それでも気を取り直し、いい思いにひたろうとすると、またトントンと誰かが叩きます。 『やめてくださいな。もう少しでいくところなんですから』 『いいや、俺は何もしていない』  などというやりとりがあり、二人はすっかり白けてしまいました。  それからも二人がことを始めて、女房がいく寸前になりますと、亭主の霊がトントンと肩を叩くのでございます。これですっかりおかしくなった女房は、もうおさむらいさんとまぐわうことが出来なくなりました。すぐに捨てられ、前よりもひどい貧乏暮らし。器量も落ちて、女郎になることも出来ません。毎日町角に立って、人からほどこしを受けるありさまです。  ある夜、もの乞いに立っておりますと、またトントンと肩を叩かれます。振り向くと死んだ亭主が立っておりまして、亭主は何もいわず、女房の手をとりました。そして自分のほうに引き寄せます。女房はそのまま冬の川にひきずり込まれたということです……」  ぱたりと音がいたしました。おきんが気絶してしまったのです。 「まあ、どうしましょう」  おりんは大げさに騒ぎ立てます。 「私の幽霊話はそんなに怖かったんでしょうか。おきんさん、しっかりしてください。おきんさんたら……。だから百物語はしちゃいけないっていうんですよ。途中で必ず魔物が入ってくるそうですからね」  その声を遠くに聞きながら、この女は絶対に許すものかと心に誓うおきんでした。  暑い暑い夜でございます。風もぴたりと止まり、熱気があたりにうずまいているよう。家の中にいられたものではありませんから、人々はぞろぞろと外に出てまいります。町のあちこちをそぞろ歩くのですが、店のあかりも消えて、そこにあるのは闇ばかり。  唯一のあかりといえば、「むぎゆ」と書かれた行灯で、きりりと献上帯を締めた少女が、冷たい麦湯を茶碗にそそいでくれます。それを二杯たて続けに飲んだ後、おきんは男のように、濡れた口をこぶしでぬぐいます。おりんの後をつけて、ここまでやってきました。このあいだの仕返しをしなくてはなりません。本当は殺したいところですけれど、やはりそれははばかられる。もしおりんが死んだりしたら、嫌疑は自分にかかるに決まっています。それならば、殺すのと同じぐらいのことをしようと、小刀を懐にしのばせてきたのです。  お陶の幽霊話にもありましたように、昨今江戸の町で、人々から怖れられていることに、女の「髪切り」と「尻切り」がございます。「髪切り」は、夜の往来をひとり歩いている女の髷が急に落ちたり、横の髪がそぎ落とされたりするのです。「尻切り」の方は、鋭い刃物で着物の尻が切られるのですが、振り返ってみても誰もいない。  幽霊好きの江戸の人々は、このありさまを、 「女好きの妖怪が悪さをする」  と申しております。とにかくこの噂は後をたたず、つい先日は武家屋敷に勤める上女中が、庭に立っていたところ、いきなり髷が下に落ちたのですから、大変な騒ぎになりました。ついに「妖怪はお武家さまの庭にまでやってきた」と、女たちはおそれおののいたのです。  おきんはこの妖怪のふりをして、おりんの髷をばっさり切り落としてやるつもりです。どうせ露見するでしょうが構うことはありません。相手はそのくらいのことをしたのです。髷を切られるという辱《はずかし》めを受けてあたり前です。おそらくおりんもそのくらいのことはわかっているはず。 「妖怪にやられた」  というのは、世間体のためです。妾がもうひとりの妾に切りつけたとあったら、それこそ一枚刷りの絶好の種になってしまうでしょう。そのため何日か様子をうかがっていたのです。ある夜おりんはふらりと出ていきました。いったいどこへ行くのでしょう。いずれにしてもまたとない機会なので、おきんはこうして後をつけてきました。  おりんは八幡さまの前を通り、人を避けるようにして裏道に入っていきます。月がちょうど雲に隠れて、あたりは暑くどんよりとした闇が拡がっております。おりんが急に立ち止まりました。下駄の歯に石が入ったか、しきりに右の足を動かしております。 「いまだ!」  おきんはおりんの背後に向かいました。観念おしと小刀をふりかざした時、 「何をするんだ、この売女《ばいた》」  大きな声がいたしました。月が雲から出て、姿がはっきり見えます。見たこともないような大女が仁王立ちになっております。その大きなこと、太っていることといったら……。 「出た〜!」  腰が抜けてへなへなと座り込むおきん。本で見たことがございます。この大女は、ひとつ目小僧やから傘などと並ぶ妖怪なのです。 「助けて〜、お化けが出た」 「馬鹿におしでないよ。私はちゃんとした女だよ」  女は声に出して笑い、笑いながらおきんの肩をこづきました。 「おりんさんの義理の妹になりそこねた、女相撲のお蝶っていうのさ。今夜はお盆の入りだから、おりんさんの亭主といおうか、情人《いろ》だった私の兄さんの迎え火をたこうと二人で約束してたんだよ。そこへあんたが後をつけてきたから、何かやらかすだろうって、私があんたの後をついてきたってわけだ。やい、おきん、あんたおりんさんを殺そうとしただろう」 「殺しゃしないさ。ちょっと『髪切り』をしてやろうと思っただけだよ」  やっと自分を取り戻したおきんは、不貞腐《ふてくさ》れて答えます。確かによく見ると、大女ではありますが、足もちゃんとあるふつうの女です。こんなに怯えた自分がみっともなく思えるほどです。 「何、『髪切り』だって。あんた、本当にそんなことをしようと思っていたのかい」  立って二人のやりとりを見ていたおりんが口を開きます。 「何て怖しい女だろうねえ。間夫《まおとこ》のためなら亭主も殺すし、気に入らない女がいれば、髪を切ろうっていう根性だ」 「出鱈目を言うんじゃないよ。私は亭主なんて殺してやいない」 「世間じゃみんなそう思ってるさ」  おりんはせせら笑います。 「お蝶さん、構うことはないから、その小刀でこの女の髷を切ってやろうよ」 「あいよ。これでこの女も、少しはこたえるだろうよ」  おきんのたぶさは、強い力でむんずとつかまれました。 「私を恨むんじゃないよ。近頃流行りの『髪切り』のしわざだからね」  おきんは覚悟を決めました。その時です。ふわりと白いものが前をよぎったのです。男の着物のようなそれは、ふわりふわりと飛びながら、お蝶の顔をふさぎます。 「うわ〜、出た」  今度はお蝶が悲鳴をあげる番です。その隙におきんは大女の腕からころげ出ました。そして表通りに向かって走ります。  あれは私にはわかっている。死んだ彦次に間違いない。彦次は自分を助けてくれたのだ。やはり自分を恨んではいない。なぜならこんないい女を恨むはずはないもの、しんから私に惚れていたんだもの……。  相変わらず勝手なおきんですが、それでもいつのまにか、立ち止まって合掌しているのでございます。 [#改ページ]   第十一話 慶左衛門、枕絵を描かせるの巻  さても大変な夏でございました。毎日それこそ、どこかが狂ったようなおてんとうさまの陽ざしが続き、夕刻になっても風が吹きません。とても家の中にいることが出来ない人々は、陽が落ちるとみな外へと出ます。子どもたちは半裸になってあちこち飛びまわりますが、大人たちは袖をたくし上げ、裾をからげ、 「全く夕涼みにもならねえや」  と団扇を使いながらぼやくのが常でございます。  が、夏のつらさはお大尽にとっても、貧乏人にとっても同じようなものでしょう。冬ですと、金のあるなしは、そのまま暖かさの差になりますが、暑さだけはどうしようもございません。将軍さまは氷室《ひむろ》から氷の柱を運ばせるそうですが、ふつうの者にそんなことが出来るわけがない。ただただ暑さがやわらぐのを、お大尽も貧乏人もじっと待っているばかりでございます。  慶左衛門にとっても、今年の夏は長くつらく耐えがたいものでした。暑さもさることながら、二人の妾、おきんとおりんのいがみ合いに、すっかり疲れ果ててしまったのでございます。  もともとこの男、女などみくびっておりました。どうせ金で買った女たちです。悋気《りんき》のひとつも起こしたところで、怒鳴って叱りつければ、どうでも黙らせることが出来ると思っていたのでございます。  ところがこの女ふたり、お互いを憎む激しさときたら、睨み合う野良犬そのままでございます。ことあるたびに、相手がどれほど性悪な女か、慶左衛門に吹き込もうとします。 「しゃらくさい。俺はお前ら女のたわ言につき合うひまはないんだ」  と怒鳴ろうものなら、後はふくれてしまって始末に負えません。おきんなどはしおらしいふりをして、しくしく泣き出す始末。 「私は旦那さまだけが頼りなんでございますよ。ええ、わかりましたとも、旦那さまは私に死ねとおっしゃりたいのでしょう。ええ、わかりましたとも、西門屋の店先で首をくくっておめにかけましょう」  こういうおどしに、慶左衛門は一度は殴ったりもしたのですが、その後は恨みがましい目でいつまでもこちらをじっと見ている。全く気分が悪いことといったらありません。  頼りにしている女房のお月なども、 「妾を二人家の中に置くなどという、外聞の悪いことをしているからいけないんですよ。どちらかひとりを、根岸の寮にでも置いたらいかがです」  が、そんなわけにはいかないのは、すぐにわかることです。どちらかを寮に入れたり、新しく妾宅を構えさせたりしたら、どんな騒ぎが起こることでしょう。もう片方に追い出されたのだとわめき始めるのは間違いがないところ。  おきんはもともと西門屋の離れに住んでいたのですから、後から来たおりんが出ていくのが、筋といえば筋なのでございますが、この女も最近は意固地になっております。どんな難癖をつけてくるかわからず、結局は二人の女を動かすことが出来ないのです。  それにもうひとつ本音を言いますと、慶左衛門にとって、いつでも味わえる女陰《ぼぼ》がふたつ家の中にあるということは、実に魅力的なことなのです。太り肉《じし》のおきんの、たっぷりと濡れた襞の包み込むあの感じ、すべてが敏感なおりんの、ひくひくと動くあの心地よさ、それがかわるがわる味わえるというのは、なんとも捨てがたいものです。巷《ちまた》で言われているような、「うぐいすの谷わたり」などこの家では出来ませんが、とにかく家の中に幾つもの女陰があるというのは、慶左衛門、いやすべての男の望むところでありましょう。 「困った、困った」 「いやはや女どもときたら……」  しょっちゅうぼやいている慶左衛門でございますが、所詮こうしたもめごとも、この男の色への欲深さが招いているのでございます。  さて七月も末になり、二十六夜が近づいてまいりました。暑さも一段落つき、美しい月光に阿弥陀三尊が見られるというので、人々はこの夜を待ち望んでおります。  お大尽たちが息を吹き返す時でもございます。品川や浅草待乳山といったところで、お大尽たちは料理屋の二階を借り切り、幕を張り、夜っぴて宴を楽しむのでございます。月が出る頃には、風流心などどこへやら、あちこちの闇を見つけては、しっぽりしけ込む二人の姿も見うけられます。  さて気持ちのくさくさしております慶左衛門は、この日はまっすぐ吉原《なか》へまいります。二十六夜は、遊女たちは必ず客をとらなくてはならないきまりです。お茶を挽《ひ》くような安女郎はそれこそ必死ですが、花魁《おいらん》ともなりますと、馴じみ客たちの中からとびきりの上客を選ぶのでございます。最近はやたら安手に略式化された吉原ではございますが、老舗の真砂屋はそれでも粒揃いの遊女を揃え、何かと行儀にうるそうございます。慶左衛門の敵娼《あいかた》の白雪《しらゆき》は、今売り出し中の花魁、文字どおり雪のように白い肌の持ち主です。いつもなら帯を解かず、俗に言う「昆布《こぶ》巻き」で脚を開く遊女ですが、二十六夜待で馴じみ客ということもありすべてを脱いでくれるのですからたまりません。両の乳房もたっぷりと楽しむことが出来ます。今年十九の白雪の乳房は、ちょうど手に入る大きさ。形といい、乳首の紅といい、全く申しぶんありません。それをかわるがわる吸ったり、舌でころがしたりした後は、いよいよご開帳とあいなります。着物の裾をたくし上げるのと、素裸で見るのとでは景色がまるで違います。花魁ですので、女陰もまだ綺麗なもの。といいましても素人の女では、これほど丁寧に手入れはされていないでしょう。 「女というものは、自分の女陰をあまり大切にしていない」  というのがかねてからの慶左衛門の持論でございますが、白雪に関してはそんなことはありません。一本一本線香で焼いているので、毛も目立たないようになっております。それゆえに女陰の紅い割れ目が、はっきり見える仕掛けでそこをゆっくりとなめてやりますと、 「あー、いい。もう堪忍しておくんなまし」  と、まんざら商売とも思えないよがり声を聞くのが、吉原《なか》で遊ぶ醍醐味でございます。処女《おぼこ》の娘とするのが好きな男がおりますが、慶左衛門は己の技を使い、玄人の女を本気にさせるのが好みです。その夜も力を込めて女陰を突いていきますと、白雪は、 「ひいいー」  と笑うような泣くような声をたてるのです。帯を解いたせいか、白雪はいつもより奔放なことをいたします。最後は慶左衛門の上に乗って果てたのでございます。  ことが終わった後、ぬるい酒をちびちび飲んでおりますと、しどけなく細帯を巻いただけの白雪が体を押しつけてまいります。 「慶さま、枕絵でもご覧になりんすか」 「あるのかい」  枕絵はこのところずっとご禁制で、見つかったりしたら大変なことになります。 「まあ、慶さまったら、吉原《ここ》に枕絵がなかったら、いったいどこにありんすのかえ」 「そりゃそうだな」  白雪は自分の箪笥《たんす》をごそごそいわせていたかと思うと、何枚かの浮世絵を取り出しました。芸者と旦那、大奥の女中と役者といった具合に、男と女のからみが描かれた絵でございます。 「これは鈴木|胡蝶斎《こちようさい》が描いたものでありんすえ」 「なに、胡蝶斎」  思わず身を乗り出す慶左衛門。胡蝶斎の枕絵は、江戸いちと評判で、北斎よりも高値をよんでいるのです。  ご存知のように、浮世絵というのは風景画、美人画といわず、それでおまんまを食べていけるのは、ほぼひと握りの絵師でございます。たいていは他に仕事を持ち、かつかつに生きているのです。中にはまれに、大店《おおだな》の旦那で趣味で筆をとる者がありますけれども、まあ絵師というのは貧乏の別名のようなもの。それでみんなこっそりと、ご禁制の枕絵に手を出すのでございます。胡蝶斎は元はおさむらいともいわれておりますが、詳しいことは誰も知りません。なにしろ偏屈な男で、版元でも会った者はほとんどいないということでございます。どれほど貧乏をしても、気のむいた時でなければ筆をとらないというので、この男の絵がめったに出まわることはありません。  けれども昨年刷られた「菖蒲技《あやめわざ》仮名手本」の素晴らしいことといったら……これは町娘、水茶屋の中年増、大店のおかみといった、いわば市井の女たちの交歓の図を描いたものでございます。女陰《ぼぼ》のまわりの毛のそよぐさま、今、陰茎《へのこ》を迎え入れようとする、ぬらぬらとした赤貝の描写のみごとさもさることながら、胡蝶斎の描く女はみな美しく愛らしく、息づかいが聞こえてきそうなのでございます。かすかに口を開け、いきそうになるのを必死でこらえる町娘。小さな足がぐっとそりかえって、ひくひくと動いているようでございます。見ている者をたまらなくさせるという胡蝶斎の新作を、白雪は客からもらったというのです。 「まず見てくんなまし。胡蝶斎先生は、ますます腕をあげたようでありんすなあ」  白雪が見せてくれたのは、合本といって絵がとじられているものでございます。こういうものを見慣れている慶左衛門も、思わず息を呑みました。  口吸いをしている若衆と奥女中という、一見ありふれた取り合わせになっていますが、女の脚は不自然なほど大きく拡げられ、「早く、早く」と文字が入っております。陰茎は青筋が立って、亀頭も大きくなめらかな線を描いております。それよりも慶左衛門の目を射たのは、よがるあまり大きくのけぞっている女の顔。小さな口はぼんやりと開き、薄く閉じられた目は、今からやってくる大きな波を予感しているようです。 「全く、この先生の絵はわるくないぜ……」 「ほんに、みなさんそうおっしゃいます。胡蝶斎先生の絵なら、どんなにお金《あし》を積んでも手に入れたいとなァ」  慶左衛門は家にも枕絵を何枚か持っていて、女たちとくすくす笑いながら見ておりますが、この絵はまるっきり違う。まるで人の閨《ねや》を覗き見しているようだと慶左衛門は思います。 「お、この女の顔は花魁とそっくりじゃないか。お前さんを描いたんじゃないのか」 「冗談はやめておくんなまし。そんな絵を描くお人に、わっちは会ったこともありませぬ」  二人でふざけ合い、つい女の股間に手を伸ばしますと、たった今一戦交えたばかりだというのに、もうつゆがしたたり落ちているではありませんか。 「おい、おい、すっかりその気じゃないか。よし、この絵のように、脚を大きく拡げて……手はこのようにおくのじゃ」 「あれー、慶さん、てんごうはやめておくんなまし」  いつもよりも気を入れて、腰を大きく振る白雪でございました。  そんなことがあってからというもの、なんとかして胡蝶斎の絵を手に入れたいと真剣に考えるようになった慶左衛門です。  遊び仲間の久衛門に相談したところ、 「胡蝶斎かい、そいつはむずかしい相談だねえ……」  としばらく腕組みいたします。 「慶さん、五年前の春光堂の騒ぎを憶えているだろう」  枕絵を描いていた絵師、刷り師、版元など八人が、揃って江戸ところ払いになった事件です。春光堂というのは、表向きは江戸土産の風景画や美人画を売っていたのですが、実は枕絵で儲けていた店。それでお縄を頂戴したわけです。この時は枕絵を買った者にもお縄がまわるかもしれないということで、江戸中の好き者たちはそれこそ生きた心地がしませんでした。 「お役人が替わる時というのは、やたら張り切るものだからね。やれ派手な絹ものは着るな、私娼窟《じごく》は取り締まれなどと、いらぬお節介をやくものなのですよ」  久衛門が言うには、江戸ではいくつか枕絵を好む者たちの講のようなものがあるということです。 「有名なお店《たな》のご主人や、隠居なさったえらいおさむらいさんもいるというから驚くじゃないか。この人たちは好きな絵師の絵を買って見せ合いっこをするのはもちろんだが、まだ若い絵師に頼んで、自分の好きな絵を描いてもらうというから、よっぽど好きなんだねえ」 「ほう、そんなことが出来るのかい」 「金さえ出せば、何だってしてくれるさ。なんでも男同士の絵ばかり描かせる者もいるそうだし、そうかと思えば年増の女を好んで描かせる者もいるというから、世の中いろんな好みがあるもんだねえ……」 「なるほどなあ、自分の好きな絵を描かせるのかい」  慶左衛門はごくりと唾を呑み込みます。あまり人に言ったことはありませんが、慶左衛門は子どもの頃から、御殿《ごてん》女中が後ろから犯されている絵にいちばん興奮いたします。もし出来ることなら、品のある、つんとした女が、さむらいや茶坊主にかわるがわる突かれている絵を描いてもらいたいものです。 「ところで胡蝶斎の絵を買うには、いったいどうしたらいいんだい」 「もちろん手をまわせば、あの先生の絵の一枚や二枚はすぐに手に入るさ。ところがいい絵は、さっき言った講の連中がひとりじめしてしまう。刷っても何枚も刷らせないで、自分たちだけで楽しむ仕組みになっているそうだ」 「なんだか胸くそが悪くなるような話だなあ」 「仕方がない。面白いことやいいことは、めったに人に教えたくはないさ。ましてや危ねえ橋を渡るんだ。こっそりやるのはあたりめえの話だろうなあ」  久衛門はこの話を、木場の材木問屋「坂本屋」の隠居から聞いたということです。それを聞いて頷く慶左衛門。坂本屋の隠居といえば、江戸の好き者の頂点にいるような人物です。大火事のたびに巨万の富をつくり、五十で隠居を宣言した後は、のびのびと女と酒を楽しんでいるのです。六十の声を聞いてからは、もう酒もあまり飲めなくなったからとお茶の道に入り、すぐに当代一流の数寄者《すきもの》になりました。このご隠居の頷き方ひとつで、江戸の骨董の値が決まるという話もございます。最近は気に入りの芸者を集め、春の頃なら花見の野点《のだて》を、秋の頃ならば月見の茶会をと、風流の道へいったのかと思っていたのですが、まだまだ枯れてはいなかったようです。  陰でこっそり枕絵の収集家となり、絵師のめんどうもみているという話を聞いて、慶左衛門はすっかり嬉しくなりました。 「お前ひとつ、坂本屋の隠居と話をつけてくれないかい。俺もその、枕絵の講とやらに入ってみようじゃないか」 「そいつはどうだろうなあ……」  久衛門は、顔をしかめます。 「慶さんはむずかしいんじゃないだろうか。今助六と言われて、とにかく目立つお人だからなあ。慶さんみたいな人に入られたら、いつお役人に目をつけられるか、みんなひやひやすることだろうよ」 「おっと、それは了見違いってもんだぜ」  慶左衛門はこんこんと説明いたします。札差という仕事柄、自分は役人たちとも縁が深い。清廉潔白などと気どったところで、山吹色のものを目の前に置き、その傍にめっぽういい女を座らせておけば、みんな両方わしづかみにするものだ。俺を仲間にひき入れておけば、決して悪いようにはしない……。  この男にしては珍しく、熱心に相手をかきくどいたのでございます。枕絵というのは、男の気性さえ変えるのでございましょうか。  そのうちに久衛門も根負けして、なんとか胡蝶斎を囲む講に、慶左衛門が出入り出来るようとりはからうと約束してくれたのでございます。  そして十日たったある日、久衛門の店から丁稚が手紙を持ってまいりました。明日、神田連雀町の料理屋でこぢんまりとした集まりがある。たぶん胡蝶斎もやってくるだろう。そこに連れていってもいい、という知らせでございました。すっかり嬉しくなった慶左衛門、近づきのしるしにと、小判を三枚懐紙に包んで懐に入れました。胡蝶斎がいくら変わり者といっても、これに喜ばぬ男はおりますまい。  さて久衛門と一緒に向かいましたのは、冬は鍋でにぎわう料理屋の二階でございます。今の季節もちょっとした料理と酒を出すのですが、鍋に比べると人気がなく、客は慶左衛門たちだけというわびしさ。 「随分しけたところで集まるんだなあ」 「あたり前だろう。なにしろご禁制のものを見せ合うんだから」 「おっと、抜け荷でもしているような気分だぜ」  などとふざけておりましても、なかなか人はやってこない。暮れ六つの鐘が鳴りました頃、襖がすすっと開き、紫の色足袋が目に飛び込んできました。 「坂本屋のご隠居だ」  両手をついてあいさつする慶左衛門。いくら怖い者なしの慶左衛門でも、このお方にはかないません。吉原や料理屋ですれ違い、おごってもらったことも何回かございます。いかにも茶人らしい夏羽織をまとい、上布の裾さばきも粋な老人は、床の間の前に腰をおろしました。 「西門屋さん、お手を上げてくださいよ」 「とんでもない。ご隠居さまにはますますご機嫌うるわしく、まことに結構なことでございます」 「やめてください。あんたのような名うての暴れん坊に、そんな殊勝な挨拶をされたら、こっちが困ってしまいますよ」 「いやはや、暴れん坊とはまいりましたなあ」 「そりゃ、そうでしょう。おうちの中にお妾がふたりも、なんという元気者だと世間でも評判ですよ。ま、ま、一杯やりましょう」  とうに七十を過ぎているはずですが、肌の色は艶々としていて、盃の干し方は若い男と変わりありません。 「西門屋さんの噂は、あちこちで聞いておりますよ。商売もご繁盛ならあちらの方もお盛ん。若い時はそうでなくてはいけません。私がそうでしたよ。仕事の面白さが、そのまま女を追いかける気持ちにつながっていったのですからね」  話ははずむのですが、慶左衛門はどうも腑に落ちない。 「あの、ご隠居、他の方はどうされたのでございますか。それから今夜おみえになる胡蝶斎先生は……」  坂本屋は久衛門に目くばせし、ゆっくりと慶左衛門の方に向き直りました。 「西門屋さん、まだお気づきになりませんか。私が胡蝶斎なのですよ」 「えーっ」  驚きのあまり、盃を落としそうになる慶左衛門、坂本屋はしんからおかしそうに笑いました。 「私は若い頃から南画を習っておりましてね。その後は菱川春軒先生についていたのですが、あなたもご存知のとおり、男と女のことには目がありません。枕絵も集めているうちにもの足りなくなって、自分でも描くようになったのです」 「それにしても……」  しばらく言葉が出ません。 「私も西門屋さんと同じように、女にはさんざん金を遣いました。女で学んだことを少しは役立てたいと思ったら、枕絵を描くのも悪くはありませんよ」  あははとまた声を立てて笑う坂本屋の隠居、いや胡蝶斎でございます。 「西門屋さんは、私の絵を大層気に入ってくださっているということですが……」 「そりゃ、もう。先生の絵は、見ているうちに、こう背中がぞくぞくして、なんともいえないような気分になってくるのでございますよ」  そう答えながら、汗をしきりに拭く慶左衛門。あまりのなりゆきにまだ頭が混乱しております。 「それならば、もっとぞくぞくさせてあげましょうかな」 「胡蝶斎先生は、西門屋さんのために、面白い趣向をお考えなのですよ」  それまで黙っていた久衛門が口をはさみます。 「いっそのこと、ご自分を描かせるのはいかがかな」  胡蝶斎は申します。枕絵を描く時、吉原の女郎にあれこれ頼むことがあった。中には物好きな客もいて、自分たちの交わっている姿を描いてもいいという。どちらの時も、布団の傍でさらさらと筆を動かしていると、間違いなく男と女は狂態の限りを尽くすというのだ。 「やはり私に見られているというのが、おかしな気分になるのでしょう」  それだけではない。絵が出来上がり、刷ったものを客も女郎も大切にする。まぐわう時に、自分たちが絵になっているものを見るのは、それはそれはたまらないほどよいものらしいのだ。 「西門屋さんもひとつ私に描かせてくれませんかね。あなたの持ち物は大層立派だと吉原でも評判ですよ。絵は人に見せるわけではない。もちろん刷りもいたしません。あなたとお妾さんのお二人で楽しめばいいのです」 「枕絵の醍醐味は、自分で描くか、自分が描かれるかだというよ」  久衛門も言います。 「私もお前のようにいい男だったら、胡蝶斎先生のような方に描いてもらえるんだがなあ。いや、いや、いい男なだけじゃない。お前さんの陰茎《もの》は確かに立派だもの」  こんなことを言われているうちに、すっかりその気になってしまった慶左衛門でございます。今までも閨の傍に人がいたことが、ないわけでもありません。吉原で女郎とまぐわっている時、ふと思いつきで別の女郎を呼び、自分たちの痴態を見せつけたこともございます。 「問題はお妾さんたちでございますよ。素人の女は絵になるのを嫌がりますからね」 「とんでもない。あいつらに口答えなどさせるものですか。先生の前でおとなしく帯を解かせてごらんにいれます」  こう言ってしまった手前、もう後には引けません。気がつくと慶左衛門は、胡蝶斎に必ずうかがいますと約束していたのでございます。  それにしてもやはり問題は、おきんとおりんをどう口説くかでございます。  実は胡蝶斎と会ってからというもの、慶左衛門には、頭に浮かべている絵図があるのです。それはひとりの男にふたりの女がからむというもの。女を後ろから突いている慶左衛門。もうひとりの女はどうしているかというと、前にまわって慶左衛門のふぐりをいじっているのです。これはぜひ、おきんとおりんとでしてみたいものだと思っている形。これを胡蝶斎が描いてくれるのかと考えると、それこそ背筋がぞくぞくいたします。  ところがこの話をするやいなや、おりんはぱっと座布団からとび降り、畳に頭をつきました。 「旦那さま、それだけは勘弁してくださいませ」  肩がぶるぶる震えているではありませんか。 「私は旦那さまも知ってのとおり、地獄という地獄はすべて見てきた女でございます。けれども裸になって、枕絵の女になるのだけは嫌でございます」 「何を言ってやがる。他の者に見せるわけじゃない。俺たちだけで楽しむんだ。それでもお前は嫌だというのか」 「嫌でございます」  きっぱりと首を横にふるおりん。 「もしどうしても、というのならば、私はおいとまをいただきます」 「ふん、何を気取っているの」  おきんがいつのまにか、慶左衛門の横にすり寄ってきています。 「私ゃ旦那のためだったら何でもするよ。旦那がそれをしろっていうのなら、すっ裸で八幡さまの境内を歩いたっていいよ。旦那がみんなで枕絵に出ようっていうのなら、それも楽しいじゃないか」  なんてかわいい女だろうかと、慶左衛門は思わず肩を抱き寄せました。おりんもかわいいと思ったことがありますが、このおきんにはかなわないでしょう。自分のためなら何でもすると、言いはなってくれたのです。自分の心をつなぎとめる手段だとしても、こう言いきったおきんをすっかり見直しました。もうひとりの女と天秤にかけていたのが嘘のような気分です。  そう、この時おきんはおりんに勝ったのでございます。  四日後、二人は待合の布団の中におりました。枕元にいるのは矢立《やた》てを持った胡蝶斎。きりりと襷がけにし、はち巻きまでしているのが妙な気分でございます。 「さ、お二人、どうぞ私に遠慮なく」  そう言われましても、急にまぐわえるものでもございません。二人とも照れてうつむいております。そのうち慶左衛門がやっとおきんの帯に手をかけました。やがてむっちりとした白い脚があらわれます。手を差し入れてみると、まるで小便を漏らしたようにぐっしょり濡れているではありませんか。 「おきん、お前……」 「仕方ないだろ、あの爺さんに見られて、描かれると思うとつい」  なんという好き者の女だろうと苦笑したとたん、慶左衛門のものも、むくむく勃《た》ってきたではありませんか。  すっすっと絵筆を走らせる音がいたしまして、慶左衛門はますますおかしな気分になってまいりました。その後はいつもよりも早く、おきんの中に入っていきます。 「おきん、いくぜ」 「私は、もう……」  いきますと目を閉じたおきんの顔は、胡蝶斎描く枕絵の女、そのままでございます。そしておきんの中で、おのれの陰茎を爆発させた慶左衛門。しかしそのとたん、不意におりんの顔が浮かびます。  自分の意のまま枕絵に出たおきんもいとおしいが、かたくなに拒んだおりんもいとおしい。本当に男は勝手なもので、どうやら勝負はまだつかないようでございます。 [#改ページ]   第十二話 おりん、武松《たけまつ》に殺されるの巻  月花と分けて両社のご祭礼  という句がございますが、隔年に山王権現と交替となり今年は酉《とり》年、長月《ながつき》の神田明神祭りでございます。  天下祭りと呼ばれるこの祭りのにぎやかさについては、何も申し上げることもございませんでしょう。江戸でいちばんのお祭りでございます。お御輿《みこし》は三基、祭礼の練りもの四十番という長い行列で、南は芝、北は内神田まで続くのでございます。  上覧所では、将軍さまが御簾《みす》ごしにご覧になるというのですから、まさに天下祭り。沿道の家々では、軒に提灯《ちようちん》をつるし、幕を張って桟敷を構えます。緋毛氈《ひもうせん》が敷かれ、金屏風が立てられ、人々は飲めや歌えの大騒ぎをしながら、祭りの行列を見物するのですが、まあこういう手合いはたいていお大尽でございましょう。素寒貧の、それでも物見高いのは一人前という連中は、こういうお大尽の見物風景を見物するのも楽しみのひとつでございます。  さて金屏風を立てた家々の中でも、ひときわにぎやかな一行がございました。料理茶屋の二階の桟敷に陣取り、芸者も何人か連れて、三味線を弾かせているのですから豪勢なものです。それに飲んだり食べたりしている女たちが、揃いも揃って上玉《じようだま》ときているので人目をひくことこの上ありません。蔵前の西門屋慶左衛門の一行でございます。  正妻らしくお月は、艶々とした丸髷を結い、縫いのびっしり入った小袖を着ております。おきんはあっさりとした縞縮緬に黒繻子の衿をかけ、これはよく似合うつぶし島田。おりんも似た髪型ですが、こちらは流行の麻の葉絞りの小紋、圧巻なのはお花で、これは金持ちの後家らしく、菊を染めた羽織に、金糸の帯という贅沢なものでございます。  今ちょうど唄方囃方《うたかたはやしかた》が通ったところでございますが、中に辰巳の芸者も駆りだされていて、その派手やかなことといったらありません。誰がいるのか知っているらしく、辰巳芸者たちは、桟敷の慶左衛門に流し目をくれます。すっかりご機嫌になった慶左衛門は、 「あとで行くからな」  などと声をかけるうち、すっかり酔いつぶれてしまいました。  後に残った女たちは、最初は気まずくおし黙っておりましたが、やがて手酌でやり始めました。そうなるともうタガがはずれた桶、糸が切れた凧《たこ》と申しましょうか、もういきっぱなしで帰ることを知りません。  そもそも女たちが一堂に集ったのは、今回が初めてのこと。おきんもおりんも、お花を見るのは初めてでございます。金持ちの饅頭屋の後家ということからして、そもそも気に入りません。金のかかっていそうなおべべを着て、おっとりと構えている様子を見ると、 「こんなに恵まれている女が、なにも男をつくることはないのに」  と思ってしまいます。  一方お花の方にしてみると、他の二人の女があまりにも器量よしなので驚いてしまいました。正妻のお月は、まあ十人並みよりかなりいい、というところでございますが、おきんは、したたるような色気が溢れておりますし、おりんはやや無愛想でつんとしているのも、男心をかきたてるようでございます。 「他に吉原《なか》にも馴じみがいるし、芸者ともねんごろになっているという話だ。なんで今さら私なんか口説いたのだろう」  などと心は乱れるばかり。そして双方、もうやけくそで酒を飲んでいるうちに、いつのまにか、奇妙にはしゃいだ宴会になってまいりました。 「さあさ、お花さん、もっと飲んでくださいよ」 「いえ、いえ、おきんさんこそ、その盃をあけてくださいまし」 「まあ、お花さんのこの腕の、すべすべしていることといったらどうだろう、私もこんなだったらねえ」  みなさん、腹に一物ある女たちが四人集って、酒盛りをしている光景を想像してごらんなさい。口にするのは嘘八百、毒でも入っていればいいのにと思いながらお酌をするのでございます。全く慶左衛門という男は罪なことをいたします。  滅法いい女たちが酒を飲んでいると、そのうちに、桟敷下で人だかりがしてまいりました。 「畜生、いい女だなー。いったいどこの誰の女房なんだ」 「きっとお大尽のおかみさんたちが集って、祭り見物ということなんだろう」  みんな御輿や山車《だし》をそっちのけで桟敷の下に集まりました。 「いや、いや、あれはおかみさんじゃない。西門屋の妾たちだ」  誰かが言い出し、ますます騒ぎは大きくなるばかり。 「えー、そうかい、あれが噂に名高い西門屋の妾かい」 「じゃおきんは誰だい。あの女房と三人で毎晩寝ているというおきんは」  妻妾同居のことは、一枚刷りになって江戸の町中に流れております。ですからみんなおきんのことを知っているわけです。 「あの右側の女さ、縞を着てる女だ」 「いい女だなあ……。ふるいつきたくなるようないい女だぜ」  ここまではよかったのですが、今度は別の男が叫び出しました。 「ほら、あれがおきんだぜ、亭主を殺したっていう女さ」 「ああ、あれかい。亭主を殺《あや》めて西門屋と一緒になったっていうのは」  次第に青ざめてくるおきん。もう酒の味など何もわかりません。自分の過去が、これほど人々に拡まっているとは、考えたこともありませんでした。今までも「亭主殺し」という陰口はありましたが、せいぜい西門屋のまわりだけのことと思っていたのです。  おきんがふと顔を上げますと、意外なほど近くにおりんの白い顔がありました。おりんにしては珍しく、軽い笑みを含んでいます。 「何なのさ、このあま」  おきんは大声をあげました。 「私は亭主を殺してなんかいないよ。亭主を殺したのはあんただろ。心中と思わせて、あんたは亭主を殺したんだろ」 「私は何もしやしませんよ」  おきんの大嫌いな、鼻をくすりとさせるあの笑い方です。 「自分にやましいところがあると、そうやって人を責めるんですね」 「何だって」  おりんにとびかかるおきん。それをおりんはうまくかわしたものだからたまりません。そのまま金屏風にぶつかり、屏風はおきんの上にどさりと倒れてまいりました。 「やりやがったな、この女狐《めぎつね》め」 「これ、これ、ふたりともおやめ」  お月が制しようとしましたが後のまつりです。二人のくんずほぐれつの取っくみあいが始まってしまいました。天下祭りに喧嘩はつきものですが、女の喧嘩など見たこともありません。着物の裾がまくれて、おきんの太ももまで見えるのですから、見物人たちは大喜び。 「それやれ、もっとやれ」 「おきん、頑張れよ」 「おきん、狐顔の女に負けるなよ」  おきんの人気はたいしたものです。どうやら悪女ぶりは江戸中に鳴り響いているようですが、それでもみんなおきんを応援するのです。 「おい、おりん、あんたも私も同じ穴のムジナなのさ。おい、わかってんのかよ」  鬼気迫る表情で、おりんの髪をつかむおきんです。 「同じ穴のムジナから嗤《わら》われるのはまっぴらなんだよっ」  髷が崩れて、ばさりと髪が落ちるおりん。これはこっちで大層色っぽい。 「あの女は」 「おきんと一緒に暮らしてる妾さ。なんでも吉原《なか》にいた女で、相撲取りと心中したっていう噂だ」  解説も入ります。 「亭主殺しに、心中の片われかい。西門屋というのは、よっぽど変わりダネが好きなんだねえ」  この言葉にますます怒りが増すおきん。 「何言ってやがんだい。貧乏人どもが、見世物みたいに人のことを見るんじゃねえよ」  おきんは啖呵《たんか》を切りますが、歓声で相手に全く聞こえていないようです。再び怒りはおりんに向けられます。 「ふん、心中するほど惚れてたんなら、ずーっと死んだ亭主に操《みさお》を立ててればいいじゃないか。それをすぐに妾になりやがって」 「あんたに言われたくないね。あんただって亭主の四十九日が過ぎないうちに、西門屋に走ってきたって専《もつぱ》らの噂さ」 「このすべた」  おきんはおりんにとびかかって、元結《もとゆい》をつかみます。思いきり力を込めてそれをつかむ。思えば慶左衛門と一緒になって二年、何もいいことがなかったような気がする。あれほど口説いてきた男は、自分の後にも次々と女をつくった……。  思えばおりんに対する怒りと憎しみというのは、この年月の恨みというものでございます。  みなさんもよくご存知のように、浮気した男に女は怒らない。本物の怒りというのは、男を奪った別の女に向けられるものなのでございます。おきんはおりんをぶつ、髪をひっぱる。そのぶつ相手は、もうおりんだけではありません。お花にお月、そして数えきれないほどの女に向けて、おきんは手を上げているのでございます。けれどもおりんも黙っているはずはありません。 「この亭主殺しの女が、今度は私を殺すよ」  と大声をあげ、おきんの胸ぐらをつかみます。たちまちはだけて、おきんのむっちりとした乳が見えそうになる。見物人の男たちは大喜びです。 「もっとやれ」 「ほら、おきん、頑張るんだ」 「いや、いや、おりん、こんな性悪女に負けるんじゃねー」  いやはや、天下祭りもどこかへいってしまう大騒ぎになったのでございます。  天下祭りでの、女ふたりの大立ちまわりは、色刷りの一枚絵になり、それこそ江戸中に売れたといいますから、世間の人というのは物好きでございます。慶左衛門は二人の女を叱りつけたものの、そう本気ではなかったでしょう。なにしろこの騒ぎによって、「今助六」西門屋慶左衛門の名は、ますます拡まったのでございます。ひとりの男をめぐって、女二人が大喧嘩という話は、色男を自任する慶左衛門にとって、そう悪くなかったはずでございます。  ところで慶左衛門の他に、この一枚絵を、笑わずにずっと目をこらして見ている男がございました。武松《たけまつ》という札つきの与太者です。  おきんの亭主について、憶えている方ももうあまりおりますまい。彦次という、手がつけられないワルでございました。おきんの肩を持つ気はありませんが、ああいう悪さばかりしている男が死んだとしても、よっぽど世の中のためになる、というものです。  さてこの武松、おりんとおきんのことが描かれた一枚絵を手にして、この女こそ兄貴の敵《かたき》ではないかと思いあたりました。実はこの男、賭場でしくじって、ずっと上方に行かされておりました。久しぶりに帰ってみると、頼りにしていた彦次が死んでしまったというではありませんか。しかも女房に毒を盛られたというのです。武松はしばらく男泣きをしました。  この武松と彦次、どちらも浅草のさる親分のところに身を寄せ、そこで兄弟の契《ちぎ》りを結んだ仲でございます。どちらも親がなく、子どもが考えつく限りの悪さをし、なんとか生き延びてきたというところもそっくり。武松の方がふたつ下でございましたから、それこそ「彦兄ィ、彦兄ィ」といってまとわりついたのです。女を知らないチビの頃は、二人で男色まがいのことをし合ったこともありました。盗んだ饅頭は二つに分け、ひっかかった女は必ず輪姦《まわ》す。こういう深い仲だったのですから、武松が彦次の死を知って、泣きに泣いたのもあたり前と言えるかもしれません。 「兄貴ィ、きっと敵はとってやるぜ」  武松は泣きながら復讐を誓ったのでありますが、この後手がかりをつかむのが案外むずかしかった。猿若町の親分は、しけたしのぎをしておりますので、西門屋の力の前ではただひれ伏すばかり。武松が上方から帰ってきた時は、 「この馬鹿、ずっとあっちに行っていればいいものを……」  と舌うちしたくなったのが正直なところでした。 「親分、教えてくだせえ。兄貴が殺されたというのは本当でござんすか。それでその女は今、どこにいるのでござんすか」  矢継早の質問には、 「そうさなあ、いろんな噂があるがどんなもんだろうなあ。彦次のやつと暮らしてた女は、その後、姿をくらましたというしなあ……」  とのらりくらりかわすばかり。  けれども江戸に半月もいれば、いろいろな噂は耳に入ってくるものでございます。 「彦次の女は、西門屋っていう大金持ちの妾になったんだとさ」 「彦次を殺《や》ったのも、西門屋の妾になりたさからってんだから、まったくたいしたあまだぜ」  いっそのこと西門屋ごと、この手にかけたいと思うものの、何人もから止められます。お金持ちの西門屋は、裏で何人かの大親分を操っている。西門屋がひと言声をかければ、江戸中のワルが動き出すだろうよ。武松、悪いことは言わないから、ここはじっとこらえるんだぜ……。 「兄貴ィ」  そのたびに歯を喰いしばって泣く武松。二人が子分も子分、下っ端も下っ端だった頃、ろくに小遣いも貰えず、毎夜寒さに震えておりました。今でしたら、そこらのもの売りを脅して、小銭をせしめるのですが、十一、二のガキはなすすべもない。そんな時は、寒さにかじかんだ体を暖めるため、親分の家のせんべい布団でふたりしっかり抱き合って眠ったものでございます。 「武、そっちの足を俺の股の間に入れんだ。そうすればあったかくなるぜ」  そうするうちに、武松は彦次の魔羅《まら》をお礼にこすってやる。彦次の方も、武松の魔羅を握ってやる。あれから何十人という女と寝てきたけれども、あの冬の夜の心地よさには及ばなかったような気がします。 「兄貴ィ……」  もう涙は出なかったけれども、気がつくと自分の逸物を握っております。こんなことをするのは何年ぶりだろうかと、ますます彦次が恋しくなる武松。そんな時にふたりの女がくんずほぐれつしている一枚絵を手に入れたのです。 「間違いはねえ、この女だ」  確信を持ちました。西門屋の妾「おきん」、この女です。  さて、うってかわって、こちらは西門屋の離れでございます。いつものように寝ころがって貸本を読んでいるおきんのもとへ、ようじ屋のおかみ、お陶が駆け込んでまいりました。 「おきんさん、大変だ、大変だよ」 「いったい何の騒ぎだい」  不機嫌に起き上がるおきん。あの騒ぎ以来、じろじろ見られるので、あまり町に出ることが出来ません。楽しみといえば本を読むくらいなので、面白くない日々が続いていたのです。 「それがさ、おきんさん、彦次の弟分っていう男がうちに訪ねてきたのさ」 「まさか……」  青ざめるおきん。彦次には家族もおりませんでしたから、死んだ後も線香ひとつあげにくる者もいない。もうこれで終わったと、おきんはすっかり安心していたのです。 「上方に行って帰ってきたばっかりだったんだってさ。それで彦次の死んだことは知らなかったっていっていた。それで、あんたのことを、しつこく聞くのさ」 「お陶さん、まさか……」 「まさか、あんたのことなんか教えやしなかったよ。いいかい、こう言ってやったのさ。おきんさんはそりゃいい女房で、夫婦仲も悪くなかった。おきんさんは彦次さんに楽をさせたくって、うちの店先でずうっとようじを売ってたぐらいだった。それなのに彦次さんが死んだ時は、どういうわけか悪い噂がたって、長屋にもいられなくなった。それで姿をくらましたんだって、私はちゃんと言ってやったのさ」 「お陶さん、ありがとうよ」  すばやく小遣いを握らせるおきん。その枚数を指で確かめながら、お陶はこんなことを申します。 「だけど気をつけなきゃいけないよ。あの男、あんたが西門屋にいることをちゃんと知っているからね」 「本当かい」 「そうともさ。近いうちにきっと、あんたのところへやってくるよ。だからね、どうにかしてうまく誤魔化さなきゃいけないよ。いいね、わかったね」  頷くおきん。けれども悪知恵がはたらくおきんも、今回ばかりはいい知恵がうかびません。ただのちんぴらだったら、金を握らせればすむでしょう。けれども自分を探っているという男は、どうも金で済みそうもない。これは悪事を働く者の勘といってもいいのですが、弟分という男は、どうもねちこく、自分につきまといそうな気がするのです。  いったいどうしたらいいのだろうかと、おきんは天を仰ぎます。このあいだの天下祭りの時、おきんは自分があまりにも有名なことに、心底びっくりしたものです。多くの男たちが桟敷の下に群がり、 「ほら、あれがおきんだぜ」 「そうかい、あれがおきんかい」  と口々に言っておりました。  おや、待てよ、とおきんは思いました。あの男たちは何と言っていたでしょうか。 「あれがおきんかい」  あれが、と男たちは言ったのです。もしかしたら逃げられるかもしれないと、おきんは小さく頷くのでした。  さてその次の日、おきんは向島の寮へまいりました。例の大喧嘩の後、おりんは西門屋の離れへは帰らず、こちらの寮の方で暮らしているのです。おきんが重箱に用意したのは、丸木屋名物の笹蒸し栗饅頭。これに反物をつけたのですから、おきんはいったいどうしたことでありましょう。 「おりんさんに、私からおわびを入れなきゃいけないと思ってね」  しかもいきなり、手をついて謝るではありませんか。 「あの喧嘩のこと、許してくださいとは言わないけれども、なんとか西門屋に戻ってきちゃくれないか。このとおりだよ、お願いしますよ」  手を合わせ、畳に頭をこすりつけるのです。けれどもおりんも、これで許すようなたまではございません。 「おや、おきんさん、今度はいったいどういうことを企んでいるんだい」  ふんと鼻を鳴らします。 「そりゃああんたが私のことを信じてくれなくても無理はない。あんたが来てからというもの、随分ひどいことをしてきたもんね」 「それがわかってくれただけでも、有難いねえ」  皮肉で口を曲げても、おりんはぞっとするようないい女。肌が真白で、濡れ濡れとした黒目がよく光るのでございます。 「だけどね、旦那が元気がないのには困ってしまうのさ。お月さんは知ってのとおり、内向きのことにかかりっきりで、もう女中頭のようなお方だ。お花さんという人は、めったに西門屋にこない。私ひとりじゃ、旦那さんはご機嫌が悪いんだよ。私だけじゃ、どうにもならないのさ」 「そんなことはないだろう。あんた得意のお閨で、せいぜいお慰めすることだね」 「あれ、まあ、おりんさんったらそんな意地悪を言って」  あれ、まあ、と言いたいのはこちらでございます。なんとおきんは、目にいっぱい涙をためているのです。 「旦那があんたにどれほど惚れているか、知らないわけじゃないだろう。そりゃ、あんたがくる前には、私もそれなりに可愛がってもらっていたさ。だけどどんなことをしても、私はおりんさんにはかなわないのさ。それが今度のことでよおくわかったんだよ。旦那がいちばん大切なのはあんたで、私はそのつけたしだよ。あんたがいるからこそ、旦那も私にやさしくしてくれる。私はあんたに、こうして手をついて謝るから、どうか戻ってきてくれないかね」  けげんそうにおきんを見るおりん。いったい何が起こったのかよくわかりません。本当にこの女は改心したのだろうかと、光る目は疑っております。 「あんたがこっちに来てから、旦那は本当に元気がないのさ。それで私もよおく了見したんだよ。妾同士が悋気を出していがみ合うのは本当にみっともない。西門屋慶左衛門といえば、江戸に聞こえた商人だ。ここはひとつ、妾たちが手を取り合って、旦那が心やすく楽しくいられるようにしなきゃいけないってね。おりんさん、あんたさえ帰ってくれれば、私は西門屋を出るつもりさ」 「え、なんだって」 「そりゃ、私もすぐに出ていくのは困るよ。明日からの暮らしがたっちゃいかない。だけどね、これからはどっかの裏店に住んで、たまに旦那が来てくれるのを楽しみに、静かに生きていこうと思うんだよ」 「おきんさん、あんた……」 「そうだよ。もう覚悟したのさ。旦那の大切な人を、こんな寮に住まわせておくわけにはいかないってね」 「まあ、あんたが本気で出るっていうなら、私も考えてみようかね……」  おりんはしぶしぶ、といった調子で口を開きます。実のところ、この寮に来てからというもの、慶左衛門は顔を見せなければ金もよこさない。ほとほと困っていたところだったのです。 「そうしてくれるかい、おりんさん。あんたが帰ってきてくれるっていうなら、私はいつでも元の裏店暮らしに戻るつもりさ」 「あんた、本当に旦那に惚れているんだねえ……」 「そりゃ、おりんさんだって同じだろう」  どちらともなく笑い合った後、おりんは下女を呼んで茶を淹れさせます。二人で笹蒸し栗饅頭を食べるうちに、なにやらなごんできた様子。本当に女というのはわからないものでございます。甘い言葉を口にされ、甘いものを口にすると、どんなにいきり立っていた女も、急におとなしくなるのですから。 「私は、本当に、おりんさんが羨ましくて仕方なかったのさ」  おきんは、ちゅっとお茶をすすりながら申します。 「この器量に頭が切れるときている。私のようなぼんくらは、束になってもかなわないよ。あんたをいじめていたのも、あんたが羨ましいせいだったんだろうねえ……」 「何をお言いだい。こんな心中の片われ女をつかまえて」  おりんもまんざらではなさそうです。 「いえ、いえ、その心中というのがすごいのさ。私はこの年まで生きてきたけど、私のために死のう、なんて言ってくれる男なんかひとりもいなかった。そんなことを言わせるおりんさんは、やっぱり特別の人なんだよ。ああ、私はあんたになりたいよ。おりんさんになりたいよ」 「何を言ってんだい。あんたは可愛くっていい女さ。それで充分じゃないか」 「いいえ、おりんさん。私はあんたみたいな女になりたい。いいえ、あんたになりたいのさ」  おきんはきっと真顔になって、おりんを見ます。せつなくなるような、きっちりしたまなざしでございます。 「私は本で読んだことがあるよ。名前には魂《たましい》というものがあるらしい。おりんさんがそんなにいい女で、旦那にぞっこん惚れられているのも、おりんっていう名に、いい魂がついているからさ。おりん、いい名だねえ……」  そうだろうかとおりんは思いました。おりんというのは、父親がつけた名前です。女郎に売られたぐらいですから、ひどい暮らしはしておりましたが、父も母もおりんを大層可愛がってくれました。兄から聞いた話ですが、長患《ながわずら》いにかかり、いよいよ目を閉じるという時、「江戸はどっちだ」と聞いて、手を合わせたというのです。おそらく吉原にいる自分を思ってくれてのことでしょう。決して運のいい名前とは言えませんが、親の情けをいっぱいもらった名ではないかと、おりんはしんみりしてしまいました。そこにつけ入るように、 「羨ましいねえ……」  何度も繰り返すおきん。 「私は捨て子だったから、親の名前も顔も知らないのさ」 「え、そうなのかい」 「そうさ、捨てられたところは駒込妙進寺の境内さ。住職に拾われたまではいいけれど、それがとんでもないなまぐさ坊主で、六つの時から慰み者だよ。それから人に言えない身すぎ世すぎさ。やっと所帯を持てたと思ったら、相手はとんでもないやくざ者で、私もつくづくついていない女だよねえ……」  おりんはもう黙っております。するとおきん、 「おりんさん、お願いがあるんだけれども、名前を取りかえっこしてくれないかねえ」 「え、何だって」 「私がおりん、あんたがおきんって名乗るのさ。いえ、長いことじゃない。十日も替わってもらえば私は嬉しいよ」 「名前なんか替えてどうするのさ」  おりんは笑いました。 「決まってるじゃないか。運を変えるのさ。おりんという女にしばらくなってみれば、本気で男に惚れてもらえる女になれるかもしれない。お願いだよ、おりんさん、この通り」 「やめておくれよ、おりんさん」 「え、いいのかい」 「しばらくの間だろう。気に入らないけど、私はおきんっていうことにしよう。これで私もあんたみたいに太っ腹の女になれればいいんだけど」 「じゃ、おきんさん」 「何だい、おりんさん」  二人の女は見つめ合って、ふっふっと笑い合うのでした。  それから四日後の夜、西門屋の門先を、もつれ合うようにして歩く三人の女がございました。せっかくおりんとおきん、いや、おきんとおりんが仲直りしたのだから、お月見でもしようとお月が言い出したのです。橋の上まで行って、そこから十夜さまの月を拝もうということになりました。  お月のあとから、はしゃいで歩く二人の女の影。 「おきんさん、待っておくれよ。下駄に小石がはさまっちまったよ」 「待ってあげるから、早くおし」 「おきんさん、鼻緒が切れかかっちまったよ。こりゃ大変だ。おきんさん、手拭いを持っていないかい、おきんさん」  その時、路地からひとつの黒い影が走ってまいりました。そしてはずみをつけておきんと呼ばれた女にぶつかります。あれーっと絶叫する女は、左手で胸を押さえました。その胸元から血が流れております。月の光の下で、くろく輝いて見えます。  よろけるように倒れる女。 「あれ、どうしたんだい」  お月が駆け寄ります。黒い影は次の路地に消えようとしております。お月は鋭い悲鳴をあげました。 「あれー、誰か来ておくれ。大変だよー。刺されちまったんだよ」  もうひとりの女もゆっくりと歩いてまいります。そして心配そうにのぞき込みます。 「大丈夫かい、どうしたんだい、おりんさん」  一石二鳥をはたしたおきんのお話でございました。  初 出 「オール讀物」二〇〇二年十月号、十二月号、二〇〇三年二月号、五月号、七月号、九月号、十一月号、二〇〇四年一月号、三月号、五月号、七月号、九月号、十一月号 〈底 本〉文藝春秋 平成十八年七月三十日刊