林 望 書薮巡歴 [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)] 目 次  逃した魚  赤木文庫主人  『わらひ草のさうし』という本  失踪した書物たち  晩年の阿部隆一先生  『絵本|艶歌仙《やさかせん》』のこと  『解題叢書』と銀紙  『揺籃』という歌集  二人の師  幸田成友博士の木槌  蜷川式胤の奇妙な依頼  眼光紙背に徹す  江戸時代書賈商魂《ときよがらほんやのたくらみ》  ケンブリッジの乱れ版  転機  大夢大覚  亀井孝先生  書縁結縁  講釈の面白さ  書誌学の未来  書物の藪——あとがきにかえて  語釈 [#改ページ] [#小見出し]  逃した魚  書物は一期一会《いちごいちえ》である。  少なくとも、そういう了簡《りようけん》でなければ思わしい書物を手中にすることはできぬ。  といっても、べつに私自身は大した蔵書家ではない。私の書庫にあるのは世にいわゆる珍書貴籍のたぐいではないからである。古書界の第一人者だった弘文荘《こうぶんそう》主故|反町《そりまち》茂雄さんあたりに見せたら、きっと、 「林さんのところの口は、こう申してはなんですが、モウあまり御手元に余裕のない御集めぶり、学者さんの研究用とでも申しましょうか、手前どもの商売の目から見ては殆《ほとん》ど見るべきものもございません」  とでも言って寧《むし》ろ憐愍《れんびん》の微笑を浮かべられるだろうような「普通書」ばかりの山である。  それは私が長らく手元|不如意《ふによい》の貧書生生活だったからで、ああ、あれが欲しいなぁと思ってもとうてい手が出ないということが多かったのである。しかしながら、それが必ずしも悪いことばかりだったとは言えないというのが、この書誌学という学問の面白いところである。  世の中にはいわゆる「銀の匙《さじ》をくわえて」生まれてきたという幸運な人もあるので、そういう人は金にあかせて古今の(美術品的な価値における)貴重典籍をうなるほど買い集めてそれを密《ひそ》かに誇ることがあるかもしれない。それはそれで結構だけれど、言ってみればそういうのは「好事家《こうずか》」的コレクターであって、それらの人が正しい意味での書物の価値ということについて妥当な目を持っているかどうか、じつのところ頗《すこぶ》る疑わしい。  それはこういうことである。  書物とはいったい何だろうか。第一に勉強のテキスト・教科書である。第二にその研究読解のための辞書事典、つまりは参考書である。そして第三に娯楽である。  こういう書物本来の意義からいえば、それらの書物はそもそも「|稀覯本・《きこうぼん*》珍書」というようなものではありえない。厖大《ぼうだい》な部数を印刷し販売し、従ってまた、たびたび版を重ねて売れて行くといった種類の本である。これを現代に置き換えれば、すなわち第一の分野は学校の教科書、第二は『コンサイス英和辞典』、第三は赤川次郎の文庫本というようなものにも相当しようか。  こういうものは、むろんありふれている。ありふれているがゆえに、書物それ自体としては誰もこれを珍重しない。珍重しないけれど、それが無意味であるということにはならない。なぜなら、もし誰か後世の人が、今のこの昭和平成時代を顧みて研究しようとする時、これらの書物は決して避けては通れないからである。  しかるに通俗的な書物といっても、教科書や参考書は、使わなくなったからとてすぐに捨ててしまうというものでもない。古くなった辞書とか、高校時代の教科書なんてものを、場所|塞《ふさ》げだなぁと思いながら、何となく捨てられずにとってあるというような人は結構いるに違いない。すると、それらのものは、古書としての価値はほとんど皆無ながら、たくさん残っていくということになる。とりわけ、書物が今日に比べて高価だった江戸時代には、そういう「物の本」を捨てることにはある種の罪悪感が伴ったかもしれない。  かくしてたとえば漢籍でいえば『孝経《こうきよう》』『論語』などの儒教的教科書、また副読本ともいうべき『|古文真宝』《こぶんしんぽう*》『三体詩《さんていし》』などの漢詩文集だとか、『実語教《じつごきよう》・童子教《どうじきよう》』をはじめとする寺子屋の手習《てならい》教科書、あるいは、『節用集《せつようしゆう》』に代表される通俗な国語辞書、さらには風流な方面の読本(つまりは恋のお手本です)である『伊勢物語』など、これらは今日までたくさん残存している。そういうものは、反町さんの分類でいえばまったくの「普通本」、ちょっと悪く言えば「駄本・雑本」の類《たぐい》であって、古書としての価格はその評価にしたがって、しごく安い。  ここに私ども手元不如意の輩《はい》としてなお、幸いに古書を蒐集《しゆうしゆう》し得る余地が存在するわけである。  私は安いもので数千円から、高くても二、三万円程度の『古文真宝』のようなものを見るに従い無差別に買い集め、それらが既に百を以《もつ》て数えるほどの数になった。  そうすると、江戸時代|概《おおむ》ね二百五十年間に刊行されたこの漢詩文集の数の夥《おびただ》しいことは、まったく驚き呆《あき》れるほどで、それも早いものは室町期にさかのぼり、爾来《じらい》ほとんど途切れることなく明治に及んでいることが分る。江戸時代前半には『古文真宝』と『三体詩』が一般的で、それが江戸後半になると荻生《おぎゆう》徂來《そらい》学派の影響下に新伝来の『唐詩選』に取って代わられた、と一般には信じられているけれど、そんなことはない、江戸時代から明治に至るまで日本における中国文学の王者はなんといっても『古文真宝』であったことが確かに分るのである。  そういう意味で「ありふれた」それゆえに「重要な」書物というものが厳然として存在するのである。  こんなふうに見ると、たとえばある本がもう版|木《*》の摩滅した後刷|り《*》の駄本であっても|そのこと自体《ヽヽヽヽヽヽ》がひとつの重要な情報的価値を持っていることが知れるであろう。これが書誌学の立場である。すなわち美術品|骨董《こつとう》品として書物を売買するような立場からは隔たること遥《はる》かにして、いわば社会考古学的な物の見方であると言ってもよろしかろう。  ところがこれとは逆に、第三の「娯楽」の本については、ありふれていたことが災いして、今日では数が甚だ少なくなってしまった。  たとえば極端な話、週刊誌というようなものを考えてみるとよい。週刊誌とて、大きく見ればあれもたしかに書物の一種である。しかし、それを書物として珍重する人は、ごく稀《まれ》な蒐集家などを例外として、まずいないだろう。ほとんどの人は週刊誌なんか「読んだら捨てる」に決まっている。ということは何十万部と印刷され夥しく販売される週刊誌などは、仮に一年後にその残存部数を数えたらもはや寥々《りようりよう》たる数に違いない。現に、私は何ヶ月か前の「週刊文春」を見たいと思って、捜したことがあるけれど、周囲の人は誰も持っていなかったし、勤務先の大学図書館ではそんな通俗週刊誌は購入していなかったから、捜すのは却《かえ》って困難を極めた。ま、通俗大衆の出版物なんてのは、そんなものである。  そういう江戸時代の通俗小説の一方の雄は、概ね上方《かみがた》で盛行した「浮世草子」というジャンルで、その創始者はかの井原|西鶴《さいかく》、後に京都に江島|其磧《きせき》という大作者が出て、大いに筆名を轟《とどろ》かした。その主なものは京都の八文字屋《はちもんじや》八左衛門という抜け目ない本|屋《*》の刊行にかかるので、これを通常「八文字屋本」と呼ぶ。その内容はてんで下らない通俗小説で、当時の人はたぶん読んだらすぐ処分してしまったのであろう。その結果、さしも夥しく刷られ売られて、厖大な読者を持っていた江島其磧作品といえども、今日まで残存する部数は、まったく情けないほどの少数にとどまる。そこで、内容的には取るに足りないふざけた風俗小説が、ただ数が少なくて珍しいことと、西川|祐信《すけのぶ》らの挿絵が入っていることの二つの理由によって、古書としては法外な高値をもって売買されるに至ったのである。  その江島其磧の出世作は元禄《げんろく》十四(一七〇一)年刊行の『けいせい色三味線《いろじやみせん》』という好色小説で、これは西鶴の模倣|剽窃《ひようせつ》の甚だしい作品であるが、それでもハンディな新しい書型を採用して(つまり文庫本の先駆《さきが》けであります)大成功をおさめ、以後これに倣《なら》って書名に「ナントカ三味線」と名乗るものが続出した。そういうものの一つに宝永三(一七〇六)年刊『風流曲三味線《ふうりゆうきよくじやみせん》』という、これも江島其磧の作品がある。これまた当時大好評を博したが、哀《かな》しいことに『けいせい色三味線』にしろ『風流曲三味線』にしろ、その初|印《*》の完|本《*》と目すべきものは今日まったく残っていない。  そんなわけで、この方面は高くて手が出ない方だったから、それが私の専門研究分野であるにもかかわらず、浮世草子はほとんど持っていない。  ただ、これについては、ああ、あれは惜しいことをした、という苦い思い出がある。もう二十年以上も昔のことである。  私はまだ学部の学生で、当時はもっぱら西鶴の研究に携わっていた。  そのころ、旅行で奈良に行った。旅も終り、いよいよもう東京へ帰るという日の午後、奈良の裏町をぶらぶら歩いていたら小さな古本屋があった。場所も名前ももはや覚えていない。冷やかしに棚を眺めていると初印でこそないけれど、原|装《*》の『風流曲三味線』が完全|揃《そろい》で出ていた。値は僅《わず》か三千円とあった。その頃の私は江島其磧などには一向に興味も知識もなかったので、それが法外に安いことに恥ずかしながらついぞ思い至らなかった。それで、財布をさぐると四千円あまりある。もはや帰る間際《まぎわ》ではあり、切符も買って持っていたのだから、いまから思えば有り金をはたいて買えばよかったのである。しかし、私は「ま、いいか、今日のところは」と思ってしまったのだった。その本のことはそれなり忘れてしまっていたが、やがて私は江島其磧を研究するようになり、こういう本の価値を遅ればせながら認識するようになって、あぁしまった、と思い出した。今仮にこれを買おうとすれば数百万の単位に違いない。ただし金の問題ではないのである。そうではなくて、せっかく縁あって巡り合った書物を、私の不見識から手に入れずにしまった、そのことが悔やまれるのである。それ以来、私は只今《ただいま》特に必要のない本でも、巡り合ってなんだか縁のありそうな本は、多少の無理をしても買うことにしたのである。 [#改ページ] [#小見出し]  赤木文庫主人  赤木文庫といえば、蒐書《しゆうしよ》家として周《あま》ねく聞こえた横山重さんのコレクションの通称である。横山さんは、ただに書物の蒐集家としてのみ足跡を残したのではなく、それはむしろ従であって、本業とするところは、中世から近世の物語や古浄瑠璃《こじようるり》、説経節《せつきようぶし》などの集大成と正確なテキストの作成であった。それらの事業は現に『室町時代物語集』『古浄瑠璃正本集』などの厖大《ぼうだい》な著作となって結実し、学会を益することただならぬものがある。この横山さんが昭和五十年代に物故されたのち、その遺愛の貴重典籍類は、慶應義塾や早稲田大学、大阪大学などにややまとまって買収された以外には、あちらこちらに分散して移り、赤木文庫としては残念ながらもはや残っていない。  けれども、その主《あるじ》と幽明境《ゆうめいさかい》を異にしてから、はや十幾年の年月が経《た》ったというのに、赤木文庫の旧蔵書は、なお折々古書市場に出現して、その蒐書が如何《いか》に厖大であったかを今に物語っている。  初めて「赤木文庫」という名前とその主を意識したのは、私がまだ学部の学生だった頃である。それは既に横山さんの晩年に当っていたが、近世文学を専攻する者として赤木文庫本という名前はそこここで見聞きし及んでいたし、それがどれほど大変な蒐書であるかということも、知らぬではなかった。しかしながら、その主がどのような人物で、どこにあるのか、そういうことは迂闊《うかつ》にもまったく知らぬままに過ごしていたのである。  ある日研究室で何か調べものをしていると、そこに少しく年長の大学院生Yさんが来た。Yさんはいつも勇ましいようなものの言い様をする女子学生で、その時も研究室のドアを勢い良く開け、なにかツカツカッという感じで入ってきた。そして、手にした風呂敷包みを研究室の机にトンと置くと、息を弾ませるようにして「赤木文庫本!」と言った。私はちょっとびっくりした。何故《なぜ》といって、赤木文庫の本ならばみな立派な貴重書に決まっている。ふつうどこの文庫だって貴重書というものは禁帯出になっているだろう、とすればこの目の前のYさんが、それを風呂敷に包んで持っていることに合点が行かなかったからである。 「それどうしたんですか?」と恐る恐る尋ねてみると、Yさんはしごく当り前のような口調で答えた。 「借りて来たのよ」  その時、私は初めて、この赤木文庫が横山重という人の個人蔵書であることを意識したのである。それにしても……と私は思った。(その時Yさんが借りてきた本が何だったか、いまでは全く忘れ果ててしまったけれど)天下に一、二本しか存在しないような貴重典籍を、こうして一介の大学院生にあっさりと貸与する横山さんという人は、一体どんな人物なのだろうか……。  私自身は、学部時代には井原西鶴を専攻して、特に書誌学の徒というわけではなかったけれど、やがて、大学院に進んで森武之助教授の門下で勉強をするようになると、次第に近世文学の文献学的基礎研究の必要性を痛感するようになった。それでも、修士課程にいる間は、毎日の下調べに忙殺されて、それ以上の書誌学的興味を抱くこともなかったし、仮に抱いたとしても、それを発展させる時間も余力も残っていなかった。  しかし、やがて博士課程に進んだとき、森先生が「『近代艶隠者《きんだいやさいんじや》』の〈遊仙窟語《ゆうせんくつご》〉とか〈荘子語彙《そうじごい》〉とか言われているものは、ありゃ何本《なにほん》に拠《よ》っ|た《*》んだろうね」と問われたのに、私は何と答えたものか見当が付かなかった。『近代艶隠者』は西鷺軒橋泉《さいろけんきようせん》という人物の手にかかる大して面白くもない隠者小説であるが、西鶴の序文が付いているので、これはもしかしたら西鶴の著作ではないかと疑われた時代もあった本である。そしてその作中にやたらと難しい漢語が使われていて、その出所は主に隠者文学の思想的バックボーンと言われた老荘思想の『荘子』と唐代の伝奇的|艶本《えんぽん》である『遊仙窟』であると説かれていた。しかし、森先生はそんな大雑把なことではいけない、それぞれのたくさんあるテキス|ト《*》のうち、どれに一致するのか、それが問題だ、とそう問われたのである。  さて、そう言われて私はハタと困ってしまった。それを定めるべき研究も資料もまだ殆《ほとん》どなかったからである。この上は自分でやってみるより仕方がない。そこで、ほとんどが写|本《*》で残っている『遊仙窟』については、太田次男先生に漢文学の訓読と校|勘《*》の方法を学び、いっぽう『荘子』の方は、そのテキストにつきて書誌学の第一人者だった阿部《あべ》隆一先生に教えを受けることにした。そこからが、私にとって本当の勉強だったが、それについては今はこれ以上言い及ばない。  阿部先生の書誌学を本腰を入れて学び始めてから、自然、赤木文庫についても触れる機会が多くなった。そうして、はじめてその主に見《まみ》える日がやってきた。  その頃横山さんは、病を得て順天堂大学病院に入院しておられた。阿部先生が「お見舞に行くけれど、一緒に行くかい」と言って下さったので、私は恐る恐るお供することにしたのである。  病院のベッドに起き直った横山さんは、まるで野武士のように頑丈な体格をして、大声で闊達《かつたつ》に話される言葉には剛毅朴訥《ごうきぼくとつ》な信州|訛《なま》りがあった。私は予想していた風貌《ふうぼう》と全然違うので、まったく意外の感に打たれた。横山さんは、もっぱら阿部先生と世間話に興じられて、その鞄《かばん》持ちである私などにはほとんど注意を払われなかったが、ただ、九州大学の中野|三敏《みつとし》さんに言及されて、「中野君は、あれァ美丈夫だなぁ」と感に堪えたように幾度も言われたのが今も微笑《ほほえ》ましく思い出される。  二度目は伊豆《いず》の赤沢にあった赤木文庫、すなわち横山さんの寓居《ぐうきよ》に本を見せて頂きに行った折りである。この時も私は、何人かの先輩弟子たちと一緒に、やはり阿部先生の驥尾《きび》に附《ふ》して行った。もう赤木文庫の本を段々処分するからその前に希望するものは調べておくように、という横山さんの御好意で、何日か泊りがけで調査に出かけたのである。  調査に出かける前に、森武之助先生にそのことを申し上げたところ、先生はちょっと声を低めて「横山さんのところにいくとナ、きっと『森なんて奴《やつ》は……』とか言って私の悪口を言うに決まっているけれど、気にしなさんなよ」と妙なことを諭された。それで、私は森先生と横山さんは必ずしも善くないらしいことを知った。  この赤木文庫というのが、また質素な平屋建ての小家で、その裏手の安っぽいプレハブ物置が、まさにその天下に轟《とどろ》いている大コレクションの倉なのだった。私は、例えば世田谷にある静嘉堂《せいかどう》文庫とか駒込《こまごめ》の東洋文庫とか、そういうのを想像していたので、またもや丸っきり想像が外れてしまった。このペコペコした物置の中のいい加減な段ボール箱に太い巻物が無造作に入れてある。これが、なんと『高野大師行状図画《こうやだいしぎようじようずが》』の文禄《ぶんろく》五(一五九六)年原刻|本《*》であったりした。この本は、世上にその後代の覆刻|本《*》ばかり多くて、文禄の原刻本は、天下広しといえども、ただこの一本しか知られていない、極め付けの至宝なのである。私は少しく心配になった。  横山さんは、別になにも森先生の悪口など言いはしなかった。おりふし、夏のこととて、藪蚊《やぶか》のぶんぶんいう部屋の中で、くたびれた浴衣《ゆかた》をグズグズに着て、それからそれと書物の話ばかりされた。  そのうち、横山さんはひょいと私に目を向けられ、「君は仕事は何をしているかね」と問われた。その時私は二十代の終りに差し掛かる頃だったが、未《いま》だ定まる職とてなく、ただ将来に不安と希望とをふたつながら抱きつつ勉強にのみ励んでいたのだった。だから、正直に「今に定まる職はありません」と答えた。すると横山さんは、相好を崩されて「そりゃぁエライ。慌《あわ》てて職業になど就かんでじっくり無職で勉強するのがエライ」と変なことを褒めてくれた。私は、嬉《うれ》しいような泣きたいような気がした。  横山さんは当時『傾城禁短気《けいせいきんたんき》』(宝永八年刊、江島|其磧《きせき》作)という有名な通俗小説の割合に良い本を持っておられた。しかるに、この本には三点の小説の近刊を予告した広告奥|附《*》があって、その末尾に「右三色共ニ  本出し申候」という一行がある。横山さんは、それについて「その奥附はもともとなかったんだが、後に奥附のある巻六の|端本を《はほん*》買って、その奥附だけ取ってこれに附し、残りはリチャード・レインに売ったよ」と隠すところなく話された。この本もまた初印の完本は現在まで見つかっていないのだが、私は「この『共ニ』の下に二字分の空きがあるのは何かの字を削除した証拠で、これは初印ではないと推定されます」と正直に所見を述べた。すると、帰京後すぐに横山さんから葉書が来て「もつともですが、もつと前の字詰めの本なくしては何ともいへぬ」とあった。それから、私は全国の本を調査するうちに、東北大学|狩野《かのう》文庫の本が「右三色共ニ来月《ヽヽ》本出し申候」となっているのを見出《みいだ》した。ただし、その本も初印は巻六のみで、必ずしも良い本とはいえなかった。さっそくそれを報告すると、横山さんはたいそう喜ばれ、直ちに葉書がきて「丁寧にやつてゐると発明あり」と褒めてくれた。今度は褒められて素直に嬉しかった。のちにこの初印の本はもう一本発見されて、今慶應の斯道《しどう》文庫にあるが、それも不思議に巻六だけの端本である。  そうした葉書のついでに、横山さんは「諸方の本ごらんでせうが、天理の他では、私の本にまさる上本文庫ありますか。あつたら教へて下さい」と書いてこられたことがある。横山さんはよほど自分の蔵儲《ぞうちよ》に自負を持っておられたのに違いない。もとより、そう見るべき理由は確かにあったのである。  が、それもこれもみな幻となった。赤木文庫もその主人も、私を文献に導いて下さった森武之助先生も、書誌学受業の師阿部隆一先生も、さながら今は亡《な》い。 [#改ページ] [#小見出し]  『わらひ草のさうし』という本 『わらひ草のさうし』という本は、天壌《てんじよう》の間《かん》にただ一本しかない奇書であるが、その作者も成立の素性も、ほとんどなにも分っていない。  ただ分っていることは、奈良の天理図書館に、あまりぱっとしない小型の写本の形で伝わっていて、天理に収まる前は先頃物故された反町茂雄さんの弘文荘にあった、ということばかりである。反町さんが、どこからこの本を仕入れてきたのか、それも反町さんの仕入れ帳簿でも見れば分るのだろうけれど、今のところそれは非公開で、私たちには窺《うかが》い知ることが出来ない。  それゆえ、誰誰の手を経て、どういう経緯でこういう本が現代まで伝わって来たのか、なにもかもまるで分らないのである。  もう二十年以上の昔、私は大学院の修士課程の二年生になっていた。慶應の国文科の大学院では、修士の二年間のうち、最初の一年は『万葉集』から平安朝の文学、中世の軍記から江戸の俳諧《はいかい》、そして近代の小説に漢詩文のようなものまで、満遍なく勉強して、いわば基礎的学力をつけ、二年目にはもっぱら修士論文に専念するというしきたりになっていた。だから、一年生の時というのは、毎日毎日演習授業の下調べと資料作りに忙殺されて、大げさでなく寝る暇がないくらいだった。そのうちでも、もっとも猛烈に勉強させられたのは、佐藤信彦という先生の『万葉集』と『源氏物語』の演習だった。それについてはまた、別に詳しく述べる機会を作りたいと思うので、ここでは詳述に及ばない。しかし、ともかく、佐藤先生のおっかない授業に神経を疲れさせていたので、勢い本業の近世文学まではあまり手が回らなかった。近世文学の演習は、森武之助先生の俳諧(連句)の輪読で、その年は『紅梅千句《こうばいせんく》』という|貞門の《ていもん*》作品を読んだが、私自身は一応西鶴を研究テーマとし、学部の卒業論文も「好色一代女の問題点」という頗《すこぶ》るオーソドックスな研究だったのである。  卒業して大学院に進むときの口頭試問では、池田|弥三郎《やさぶろう》先生と森先生が並んで質問をされた。  森先生が「こいつは生意気なことをやってんだよ」と言うと、池田先生はへえっというような表情を浮かべて「で、林は大学院で何をやりたいんだい」と独特の軽妙な口調で尋ねられた。  私は、何といって特にやりたいことも決まっていなかったので「ええ、黄表|紙《*》でもやってみたいと思いますが」といい加減なことを答えた。すると、池田先生はちょっと苦々しい顔つきになって、「黄表紙なんてのァ、ありゃ所詮《しよせん》二流の文学だぜ。若いうちに勉強するんなら大道を行くようなことをやらないと、大成しないよ。二流の文学を研究しても二流の研究にしかならないからなぁ、ねぇ、森さん」と森先生の方を向かれた。森先生はちょっと首を傾《かし》げつつ、「そりゃぁ、そうさ」と渋い声で同調された。私は、内心「しまった、黄表紙なんて言わなきゃよかった」と後悔しながら、なにかモゾモゾ答えているうちに口頭試問は終ってしまった。その時のやり取りが脳裏に焼き付いていて、私は大学院に進んでからも結局黄表紙を専攻することはなかった。  森先生の俳諧の演習というのは、まったく学生が調べて発表して討議して、という形で坦々《たんたん》と進み、先生は時折ズルズルと渋茶をすすりながら、「こいつは、意味上はさして関連がないけれど、言葉と言葉が付いているから、それで合格なんだろう。貞門なんてのは、その程度のもんさ」などということをボソリとつぶやかれてそれでおしまいなのだった。それでも、この江戸初期の言語遊戯は若かった私の頭にはまことに面白くて、俳諧の勉強ばかりは、いくらやってもちっとも苦にならなかった。  とはいえ、さて、これを修士論文に取り上げるか、となると、その文学世界は恰《あた》かも鬱然《うつぜん》と奥深い森を成しているように見え、それでいてロクに参考書も活字テキストも無いという状態の中では、たった一年で研究と呼べるほどのものが出来るかどうか、じつは全然自信が持てなかったのである。  だから、当面の問題は修士論文のテーマだった。  そうした折り、森先生が「こういうものをやってみちゃどうだい」とすこし黄ばんだような焼付け写真の束を示された。それが『わらひ草のさうし』だった。 「これは妙な本でね。むかし反町ンところで見て、私が買おうかどうしようかと迷っているうちに、天理に買われちまったってもんだよ。どういうものか、どうも良く分らない。中身は艶書《えんじよ》なんだが、それがなかなか読みにくい写本でね。ただし、中に遊女の名寄せが出てくる。六条三筋町時代のだから、『露殿《つゆどの》物語』と比べてみなくちゃ分らない」  と森先生はそんな風にこの本のことを紹介された。艶書というのはラブレターのことである。京都の遊廓《ゆうかく》は、島原に移転する前、寛永十八(一六四一)年以前には本願寺裏手あたりの六条三筋町という町中に置かれていたのである。そのころの遊女の名寄せとは珍しい。短い作品で、類本も無いということだから、それならば一年間で論文にまとめるにはちょうど良いかもしれない、とそう思って私は早速この奇妙な写本に取り掛かることにした。  ところが、これが書きなぐりのまことに読みにくい写本で、ずいぶん誤字や宛《あ》て字もあるらしく、ざっと読んだ限りでは、意味の通じないところが少なくないのだった。  写本の文字を読むには、字の形が分ればよいというものではない。むしろ、さまざまな故事来歴、地名、人名、和歌や謡曲などの出典等々、「意味・文脈」から逆に文字を推定していくという作業が必要なのだ。言わば、文字から意味へ、意味から文字へ、と行ったり来たりしながら解読するのである。いかに日本語が達者でも外国人にとっては古写本が読みにくいのはこのためである。  この写本は二つのラブレターから成る。その第一は六条三筋町の林与次兵衛という遊女屋に在籍していた天下一の名妓吉野《めいぎよしの》徳子という大夫《たゆう》に宛《あ》てて「あをやぎ・しゆちん」という男が書いたという体裁の手紙である。そしてその第二は差出人も宛て人も不明のずっと短い手紙で、「わたくしも、此《この》年月まて、いかほとの人を見もするか、口も吸、そはにもねる、いかほとのぼゝもする、|しりもしたるか《ヽヽヽヽヽヽヽ》、おのしさま程しみていとしうおもふ人さまは(略)また二人とはあるまひ」(私も、この年になるまで、どれほど沢山の人を見て来たことでしょうか。いやいや、キスをしたり、添寝をしたり、そりゃもう限りなくセックスもしました。|お尻の方《ヽヽヽヽ》も致しましたけれど、貴方様ほど、しみじみといとしいお方は、この世に二人とはございませぬ)などとうちつけなことを書いているので、おそらく衆道《しゆどう》(ホモセクシュアル)の男から役者などへの恋慕の状でもあろうかと推定される一通である。  この吉野は、後に灰屋紹益《はいやじようえき》という富豪に請け出されて灰屋吉野と呼ばれるようになった。彼女は美人で聡明《そうめい》だったばかりでなく、その心根が優しく行き届いていたことで西鶴の『好色一代男』にも取り上げられている、歴史上|稀《まれ》に見る大夫だったのである。  室町時代の物語を読むと、たいてい美女の女主人公が出てくるのであるが、その美形を叙するのに古今の美女を列挙して、それよりも誰よりも美しい、と述べる慣用があった。言ってみれば「柳亭痴楽は良い男、鶴田浩二《つるたこうじ》や錦之助《きんのすけ》、それよりずーっと良い男」という(ちと古い喩《たと》えだが)あの寸法である。これを「美人|揃《ぞろ》え」と言う。この作品の中にもお決まりの美人揃えが挿《はさ》まれ、それに続けて当時の六条三筋町の遊女たちの名前が列挙してある、とそういう構造になっている。ところが、似たような時代に成立した『露殿物語』という恋物語の中に見える三筋町の遊女名寄せと、これを比べると、意外なことにあまり一致する名前がない。『露殿物語』もまた作者・成立ともに不明の作品であるが、様々な根拠から元和《げんな》末寛永初頃(一六二〇年代)の成立かと推定されている。 『わらひ草のさうし』は、概《おおむ》ね寛永の初めころの写本で『露殿』とほぼ同時代の書物だから、どうしてこの両書の遊女名が一致しないのか、そこに謎が横たわっていた。私は遊女の名前を一覧表のように作り、そこへまた江戸時代の色事百科事典《ヽヽヽヽヽヽ》ともいうべき藤本|箕山《きざん》の『色道大鏡《しきとうおおかがみ》』に出てくる古い遊女名なども並べつつ、その意味の解読に呻吟《しんぎん》していた。研究室でこの遊女一覧表を睨《にら》んでいると、お上品な平安文学なんかを専攻している女子学生がひょいと肩ごしに覗《のぞ》いて通り、「ハヤシくんも、物好きねぇ」と呆《あき》れたように言った。私は決して物好きでこんな研究をしているのではなかったが、しかし、その物好き的研究の結果、たぶんこれは吉野が大夫としてデビューしてから間もなく、元和六(一六二〇)年かそのあたりに成立を求むべき古い作品ではなかろうか、という推定に至ったのである。すると、伝説の名妓吉野がまだバリバリの現役で活躍中のその同時代に編まれた仮名草子である。これで、今まで霧に閉ざされていた六条三筋町時代のことがかなり明らかになる……私は嬉《うれ》しくなってその本文の典拠と解釈の研究に明け暮れ、その年の暮れに数百枚に及ぶ研究論文を書き上げて、それを自ら|和綴じ《わと*》三冊に製本し、森先生のお宅まで届けに行った。  森先生はそれをチラリと一瞥《いちべつ》され「おお、きれいに綴じたな」とだけ感想を述べられた。私はなんだか肩透かしを食ったような気がした。  それから暫《しばら》くして先生は念入りにこの論文を読まれ、「良く出来ている。あの作品の研究はここに尽きているだろう」と言って下さった。後にこの論文は天理図書館の『ビブリア』という雑誌に連載されて世に出たが、いろいろな意味で、この文献学的研究がその後の私の学問の出発点になったことは今にして痛感されるのである。 [#改ページ] [#小見出し]  失踪《しつそう》した書物たち  書物というものは、時に宝玉のように万金を以《もつ》て売買されることがある。その値《あたい》の高下《こうげ》は、幾つかのファクターのかれこれ交錯するところによって決まるのであるが、まず第一の価値は古いこと、である。が、古ければすなわち高いとも言い切れない。たとえば、古いことは充分に古いものであるけれど、それほどの高直《こうじき》に当らないものに、天平《てんぴよう》の写経などがある。これは国家が写経生《しやきようしよう》という写経専門の僧侶を沢山養成して、組織的に厖大《ぼうだい》な経典を筆写せしめたからで、これらはつまり古くても数が多いために稀珍《きちん》性に乏しいと看做《みな》されるのである。同じように、現存世界最古の木版印刷物である『百万塔陀羅尼《ひやくまんとうだらに》』などもその例である。これは八世紀後半、天平宝字八(七六四)年から宝亀《ほうき》元(七七〇)年にかけて、女帝孝謙天皇の勅願によって印行された『無垢浄光経《むくじようこうきよう》陀羅尼』並びにそれを収めた木製の宝塔の総称であるが、記録によればなにしろ百万部も作られて諸国の十大寺に奉納されたというものゆえ、現在でも夥《おびただ》しい数が残っているのである。もっとも、現在残っているものは、殆《ほとん》ど明治時代に法隆寺から流出したものであって、ほかの九寺の分はどうなっちまったのか、まるで分っていないのも、不思議といえば不思議である。ともあれ、これまた、数が多いので世界的文化遺産である割には、それほどの金子《きんす》を積まずとも、せいぜい数百万円程度の金で誰でも買うことができる。  そこで、次に古さ以外の価値が問題になる。二番目に大きな問題になるのはその「稀少性」である。  初めから少ししか作られなかったもの、それは室町時代や江戸時代といった、比較的新しい時代の物であっても、その珍しさゆえに珍重される。安土桃山時代から江戸時代初期にかけて、後陽成帝の勅命によって、朝鮮から伝来した活字印刷術を用いて作られたいわゆる「勅|版《*》」などはその最たるものである。  また、キリシタンがヨーロッパからもたらした活字印刷によるいわゆる「キリシタン版」もこの典型的な例であろう。これはキリシタンの禁制によって、意図的に書物が滅ぼされたために、結果的に残存数が極めて少なくなってしまったのである。だから、もし天から降って湧《わ》いたような幸いがあって、万一にでも新たにその一本を発見できたら、それは間違いなく億の単位を以て売買されるに違いない。したがって、もしどなたか隠れキリシタンの家系の方で、父祖伝来の遺物の中からそれを見出《みいだ》すことがあったりすれば、あなたはそれによって一生安楽に暮らすだけの金を手に入れることが出来るというわけである。  それからまた、たとえば自費出版のようなもの、これも大体のものは多くは刷られない。自分の親戚《しんせき》とか知人とかに配って、それで自己満足的に完結してしまう世界だからである。ところが、その人が後に才能を認められて、高名な作家・詩人などになったりすると、これは大変である。かかる種類のもので最も有名な例は、芭蕉《ばしよう》の『貝おほひ』という句合《くあわせ》集であろう。これは若い時代の松永|貞徳《ていとく》流の俳諧《はいかい》からの脱却を決意した芭蕉が、寛文十二(一六七二)年に故郷の伊賀上野の天満宮に一本を奉納後、直ちに江戸へ下り、江戸で中野半兵衛という本屋を版元《はんもと》として出版したものである。もしかすると、故郷の伊賀でもその初版本ともいうべきものを自費出版していた可能性もあると言われているが、じっさいは一冊も残っていないので確かなことは分らない。いずれも版|下《*》は芭蕉自身の筆によることが分っているので、そんなところもまた本来自費出版的なものだったろうことを推量させる(ちなみに有名な井原西鶴の『好色一代男』も、道楽に発した一種の自費出版だったことは今日有名な事実である)。ところでこの江戸の刊|本《*》も、ながらく所在不明でその実態はなかなか分らなかったのだが、昭和十年ころに、当時、天理教|真柱《しんばしら》中山|正善《しようぜん》さんの令嬢の家庭教師だった若き日の杉浦正一郎博士によって発見され、学会では大騒ぎになった。これが天下にただ一本の寛文十二年刊本といわれるもので、現在天理図書館の至宝として大切に保存されている。杉浦さんは、この本を大阪の積徳堂という書店で発見し、値は四百五十円くらいだった、と『天理図書館の善本稀書』という本の中で反町茂雄さんが書いている。今日のお金にして五百万円くらいかと思うけれど、これなど粗末なぱっとしない本で、その価値はまったくその存在の伝説的稀少性にかかっていると言ってよい。しかし、中山正善真柱は、この本を入手したことを契機として、古典籍|蒐集《しゆうしゆう》の面白さに目覚め、以後「わたや文庫」と呼ばれる日本一の俳諧書コレクションを作り上げるに至るのだから、馬鹿《ばか》にはできない。いや、何百年ものあいだ杳《よう》として行方知れずだった本が、忽然《こつぜん》と人間《じんかん》に姿を現して我が目前に至る、そういう不思議なロマンが、どれほど人を魅了するかということをこの事実は物語っている。  似たような経験は私にもある。  一九八四年の春、私がロンドンに渡って大英図書館の蔵書を調べていたときのことである。  調査していた蔵書の中に『きのふはけふの物語』という本の、古い木活字版本(江戸時代初期の木活字版本をわれわれのほうでは特に古活字版《こかつじばん》と呼ぶ)があった。この本は有名な笑い話の本で、上下二巻に分れ、当時ずいぶんと流行した作品であったことは、その古活字版の種類の多さを見れば想像が付く。たとえば川瀬|一馬《かずま》博士の報告するところでは、古活字版だけで第一種から第七種までの七種類を数え、その外に整版|本《*》や写本など色々あってこれがまさに当時のベストセラーの一つであったことが窺《うかが》われる。ところで、大英図書館の本は、そのうちの第四種と呼ばれているもので、これは川瀬さんの『増補古活字版之研究』という本によると、高木文庫というところにあった一本のみが知られていて、それも下巻だけの不完本だったというのである。高木文庫は高木利太という人の個人コレクションであるが、その後この本は財閥の安田家に移った。そして、川瀬さんの記述によれば「現存の有無を知らない。恐らく戦災に焼失したと思はれる」というのだが、実際は焼失などしていなかった。その間の経緯は、いまとなっては知る由《よし》もないけれど、戦後の財閥解体の辺りで、秘密|裡《り》に売却処分され、表向きは戦災にて焼失とでもいうことにしておいたのであろう。こういう珍しい書物はそれ自体、骨董《こつとう》的価値を持ち、一方で隠匿《いんとく》換金が容易で税務当局に捕捉されにくいので、昔から金満家の投資の対象になっていたという傾向もあるのである。  で、この天下にただ一本しか知られない稀珍な古活字本は、どこをどう辿《たど》ったものやら分らぬけれど、ともかく遥《はる》か七つの海を渡って、英都ロンドンに息をひそめていたのである。しかも、驚いたことに、ここには日本には全く存在を知られていなかった、その第四種本の上巻も、揃《そろ》っていた。ただし、その上巻は、もともとは別々の伝来にかかる本で、この海彼《かいひ》の書庫で偶然に相まみえたものであるらしかった。どうして、この上下が同じ第四種本と分るかというと、活字だから、もし同じ活字のセットを使っていれば、当然上巻と下巻とに共通の活字が現れる道理である。しかるにこの時代の活字は木製のため、しばしばひび割れたり欠けたりした。この一部傷のついた活字を丹念にトレースしてみると、くだんの上巻と下巻とに使われている活字がピタリと一致していることが証明できる。しかも、活字の摩滅の度合は両巻|相同《あいおな》じい。これによって、日本では数百年来別々の場所に伝来してきた上下の二巻が、遥かな時空を隔ててこのイギリスで邂逅《かいこう》したことが分るのだった。稀《まれ》にはそういうこともあるのである。  もっと驚いたのは、ケンブリッジ大学図書館の蔵書の中に、これも神隠しに遭ったように行方知れずになっていた本を発見した時だった。それは松隠玄棟《しよういんげんとう》という釈氏《しやくし》の編んだ『善隣国宝後記《ぜんりんこくほうこうき》』という歴史の本である。これは読んで字の如《ごと》く日本と朝鮮半島の交流をあとづけた資料集で、『善隣国宝記』という書物の続編なのだが、これが例の塙保己一《はなわほきいち》の『群書類従』の続編『続群書類従』巻八百八十一に収められる予定になっていた。『続群書』は保己一の手では完成されず、その子|忠宝《ただとみ》、さらにその子|忠韶《ただつぐ》と受け継がれて完成を期したけれど、実際は編集中に紛失して行方が分らなくなった作品などが少なからずあって、ついに完全には成らなかった。ケンブリッジの書庫に眠っていた一本は、まさにその紛失した巻八百八十一の原|本《*》であった。ケンブリッジのこの本には「和学講談所」という塙氏が司《つかさど》っていた幕府の学問所の印|記《*》が具《そな》わっているばかりでなく、たぶん忠韶の手と覚しい朱でかれこれ校訂が加えられているのを見ることができる。なぜこの本がケンブリッジにあるのかという経緯は明らかでないが、アーネスト・サトウ→ウイリアム・アストンと転蔵の末にここに来たものであることは動かない。忠韶の書室に来る前は、「古経堂蔵」という印記が示す通り、『古経題跋《こきようだいばつ》』の著者としても名高い学僧|鵜飼徹定《うがいてつじよう》の蔵儲《ぞうちよ》にかかるものであったことが明らかで、幕末明治の学者の書室を転々とした由緒《ゆいしよ》のある一本であったことが分る。あるいは、忠韶は、アーネスト・サトウとも交友を有《たも》ったので、なにかそのあたりでサトウの蔵書に紛れてイギリスに渡ったのであるかもしれない。つまり、これが歴史というものなのであろう。 [#改ページ] [#小見出し]  晩年の阿部隆一先生  阿部隆一先生は、学問的業績の著しい割には、生涯大きな賞や栄達には無縁で過ごされた。 「斯道《しどう》文庫論集」に発表された、『孝経』の文献学的研究にしろ、比較的晩年に書かれた『中国訪書誌』にしろ、その調査の周到なる、その記述の精緻《せいち》なる、ともに優に学士院賞くらいは受けるに値するものと思われるのであるが、実際はそうした国家的栄誉を授けられることは終《つい》になかった。  先生が我身を削るようにして苦しい道を営々として歩まれ、その厖大《ぼうだい》な努力の結晶を世に問われても、その真の学術的価値や、そこに注ぎ込まれた哀《かな》しいほどの労力を正しく評価する人はいなかったのである。いや、きっとそれを評価できる眼力の主がなかったのに違いない。  先生が比較的若い頃、まだ慶應義塾図書館の司書に過ぎなかった時分に撰述《せんじゆつ》された『慶應義塾図書館和漢書善本解題』という名著がある。  慶應義塾に伝えられている、もしくは先生御自身の鑑識をもって蒐集《しゆうしゆう》された善本について、分りやすい書誌学的解題を附し、その多くについて図版を掲げるといったていの著作である。  この本は、当時日本図書館協会賞を受けたが、しかし、必ずしもその価値が正当に認められているとは思えない。  書物はそれ自体書誌的に解題しようとすれば、多く無味乾燥な機械的記述に終始し、その書物の活《い》きた時代や、著者の生々しい息吹《いぶき》などは絶えて伝わって来ないものであるが、阿部先生の著作は全然違っていた。  それは、常に深い学識と優れた記性《きせい》に裏付けられ、全く初心の者にさえ、その馥郁《ふくいく》たる書巻《しよかん》の気を感得せしめる、といった「面白さ」に満ち満ちていたのである。  わずか三十歳代半ばの先生が、これほどの深みと説得力ある著作をものされたことは、まことに驚くべきことである。一種の奇跡と言ってもよいかもしれない。  しかるにこの本に対して、「書誌解題と言いながら、書誌以外の、著者のことや学統のことが書かれてあるのは、余計な蛇足である」といったふうな評価をした人があったそうであるが、そういう人は阿部先生が目指された書誌学というものについて、まったく理解を欠いていたものと思わざるを得ない。書誌学は、書物の外形を記述するだけの方便ではない、というのが先生の書誌学のもっとも根幹的な問題意識だったからである。  私が、書誌学を一生の仕事にしようと決意したとき、阿部先生は、堆《うずたか》く資料を積み上げた机辺に私を呼ばれ、溜息《ためいき》をつくような声調でこう言われた。 「いいかね、誰も理解してはくれないよ。どんなに時間と労力をかけた業績でも、世間では学問的業績としては認めてくれない……が、それでも良いか」  こういって額のあたりに手をかざされた先生の心中には、それまでに重ねてきた努力の日々と、なお果てしのない書誌学の地平とが、ふたつながら去来していたかと思われる。  先生の学問のいちばん基本的な立場は「較《くら》べて考える」というところにあった。そのために、ありとあらゆる努力を傾けて本を求め、千里を遠しとせずして訪書《ほうしよ》の旅を重ね、写真を撮り、どんなにありふれた後刷りの刊本にさえ、精密な比較調査を欠かされなかったのである。これは言うは易《やす》くして、実際に行うは難いことである。  それはとりもなおさず、書物の内容(テクスト)を問題とされつつ、比較の上にそれらを整理し系統的に位置付けようとする、科学者としての意識にほかならなかった。  そうした科学的洞察力と、哲学者としての思索や学識、そうして文学的筆力、それらがバランス良く総合されたところに、先生の類《たぐい》まれな能力があったのである。  最晩年、中国に訪書を敢行された先生は、一刻の時間をも惜しんで文献調査に集中され、観光の如《ごと》きは我が眼中になし、と言明されたが、それを陰で酔余窃《すいよひそ》かに揶揄《やゆ》する人があった。私は心の中で、終生こういう人物を許さない。先生には、真実、時間がなかったのである。  定年のすこし前から、先生の体には折々心臓病のような変調が現れていた。それは今にして思えば、肺に発生した癌《がん》が心臓の周辺に転移して、その機能に重大な障害を惹起《じやつき》せしめていた兆候だったのである。  定年後|暫《しばら》くして、先生はいよいよ病を発せられ、精密検査のため慶應病院に入院された。  しかし、単に検査のためにしては、なかなか退院の日を迎えられなかった。事実は、その時既に肺癌の末期で、手の施しようがなかったのであるらしい。  もうすぐ正月が来ようとしていた。その頃、夜遅くに先生が病院から電話してこられたことがある。用件は、間もなく一時帰宅して正月は自宅で過ごすよ、と知らせて下さったのだった。意外な電話で、私はなにやら不吉な印象をもった。  正月はいつも、鎌倉の浄明寺《じようみようじ》の山の上にある御自宅へ年始のご挨拶に伺うことにしていた。  その前の年の正月には、秋艸道人《しゆうそうどうじん》会津|八一《やいち》の歌軸《かじく》を床の間に掛けて、上機嫌でその字のことなどを話して下さったが、その最後のお正月には、去年秋艸道人の軸を飾ってあった座敷に床を伸べて、先生は弱々しくふせっておられた。床の間に、その年は漢文の行書《ぎようしよ》一行書が掛けられてあった。  古い年代のついたそれには、「温良恭倹譲」と書かれてあって、「長胤《ちよういん》」という落款《らつかん》が読まれた。伊藤|東涯《とうがい》である。 「東涯ですか」  とお尋ねすると、先生は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》まれ、 「ウン、良いだろう。東涯らしく穏やかで、字に俗臭がなくて」  と言いながら、床の間のほうへ振り返られた。  その時、胸に無理な力でも加わったのかもしれない、突然大きく咳《せ》き込まれて、ゼイゼイと苦しそうにされ、やがて私の視線を憚《はばか》るように背を向け、枕元《まくらもと》の缶カラのようなものに向かって巨大な痰《たん》を吐かれた。  私はどうしたらよいか分らなかった。  やがて先生は、私の困惑を察したかのように、ようよう口を開かれた。 「あの軸の、オンリョウキョウケンジョウのケンの字は謙遜《けんそん》のケンかね、それとも倹約のケンかね」  字は確かに「倹」であったが、そう言われてみると、なるほどちょっと「謙」の字に見えないこともなかった。  私は、 「倹約のケンですよ」  とお答えしたが、先生は、 「そうだろうね」  と言われながら、しかし、隣の部屋の書架から漢和辞典を持ってくるように命じられた。  そうして、辞書を繰《く》るその一ときを慈《いつく》しまれるように、背を丸め、あの例の恐《こわ》い顔で、その語を探され、独りウンウンと頷《うなず》かれた。  やはり「倹」が正しいのだった。語は『論語』の学而《がくじ》に出る。  前の年、秋艸道人の軸を床に掛けておられたその隣の応接間には、長押《なげし》の上に額装された古い書が飾ってあって、これは伊藤|仁斎《じんさい》の手であった。こちらは先生がどこかの店先でボロボロに傷《いた》み黒ずんでいた一枚の書を見出《みいだ》され、それを仁斎の筆と鑑定して求めて来られたものの由《よし》であった。その後、この書幅《しよふく》はやはり先生の書誌学の弟子で、後に遠藤|諦之輔《たいのすけ》氏について古書修補の専門家になったIさんに頼んで修補し額装してもらったのだ、と先生は嬉しそうに話された。  師と門弟とが、自由|闊達《かつたつ》に意見を述べあったという、京都|堀河古義堂《ほりかわこぎどう》の学風や、科学的なその思考法を先生は私《ひそ》かに慕っておられたのかも知れなかった。  しかし、先生は、その年ついに床から起きては来られなかった。  正月が終ると、先生は慶應病院へ再入院されたが、それはとうとう終焉《しゆうえん》の床となった。  体が弱られて、あまり食も進まれないと伺って、私はせめてものお見舞に、つれづれをお慰めする読物を持って行くことにした。  あまり重い内容のものは、きっとお疲れになるだろう。しかし、かといって元来が真面目《まじめ》な先生は、軽薄な読物は喜ばれまい。しかも、手に持って軽い文庫本、そう思って、私は陳舜臣《ちんしゆんしん》の『阿片《あへん》戦争』を選んでいった。  亡《な》くなられてから、暫くして、奥様から私のもとへその本をお返し下さった。御手紙によると、この本を先生は、意識のあった最後まで読み続けておられたが、読了には至らなかった由で、その読み進まれた最後のページに栞《しおり》が挿《はさ》まれたままになっていた。  これが先生の読まれた最後の書物である。  今、その本は、その旨《むね》を注記して、最後の栞を糊《のり》付けし、先生の学問の城であった斯道文庫に保管されている。 [#改ページ] [#小見出し]  『絵本|艶歌仙《やさかせん》』のこと  芥川龍之介は『侏儒《しゆじゆ》の言葉』の中に、こういうことを書いている。 [#小見出し]   禮法   或《ある》女學生はわたしの友人にかう云《い》ふ事を尋ねたさうである。 「一體接吻をする時には目をつぶつてゐるものなのでせうか? それともあいてゐるものなのでせうか?」   あらゆる女學校の教課の中に戀愛に關する禮法のないのはわたしもこの女學生と共に甚だ遺憾に思つてゐる。  たしかに礼法の中には接吻《せつぷん》の仕方は教えていないかもしれぬ。  なぜなら、礼法は公《おおや》けの交際のもっとも合理的なありようを提示するものであるのに対し、接吻は、伝統的の意識では、むしろ房事《ぼうじ》に属していたからである。  しかし、恋愛の作法というだけなら、必ずしも教えることがなかったのではない。恋愛をひとつのタブーのごとくにして「禁欲」や「純潔」という偽善的な牢獄《ろうごく》のなかに幽閉してしまったのは、じつをいうと明治以降のことで、江戸時代以前は貴賤《きせん》と都鄙《とひ》とを問わず、恋愛は決してタブーではなかった。  ただ、その意志伝達の方法なり手段なり、あるいは心の持ちようなりに、一定の作法・形式が厳乎《げんこ》として存在していたに過ぎぬ。  たとえばここに、そういうことを物語る面白い資料が一つある。 『絵本艶歌仙』という江戸時代中期の刊行にかかる書物である。  これは縦九・七センチ×横七センチばかりの、ごくごく可愛《かわい》らしい六冊の本で、いわゆる「豆本」と呼ぶべきものに属する。しかし、その装訂は充分に美術的で、砥粉色《とのこ*》地に草花の文様を刷り出した行成《こうぜい》表|紙《*》、その中央に紅色の|題簽を貼《だいせん*は》った可憐《かれん》な装いを施されているのである。しかも、その上を、金泥地《きんでいじ》に朱刷りの行成紙をぐるりと貼り込めた|帙で《ちつ*》くるみ、全体大切に保存されてきた本のように観察される。  この愛すべき本の内容は、三十六歌仙の略伝と歌とを、岡山|杏仙《きようせん》という絵師の筆に成る優艶《ゆうえん》な挿絵に取り合わせたものである。要するに、一種の童幼向け歌書、もしくは歌道書的絵本、とも言い得べきか。  こういう書物が生み出されたその意味はどこにあるか、ということにつき、以下に些《いささ》か思うところを述べる。  結論からいえば、それは明らかに一種の「教訓」であった。  女の子のための教訓、それを一般に「女訓《じよくん》」というのであるが、この歌の絵本なども、広い意味での「女訓」の書物にほかならなかった。  とかく「女訓」というと、例の「|五障三従」《ごしようさんじゆ*》だの、「貞女二夫《ていじよじふ》に見《まみ》えず」だのというような道学臭フンプンたる堅苦しい訓戒の書とのみ思いがちであるが、それは必ずしも当らない。むしろそういう石頭の意識というのは明治以降の国家的偏向教育に毒された結果であって、本来の「女訓」は、少なくとも江戸時代の実態に即していえば、そんな道徳教育ばかりでもなかったのである。要は「女への訓《おし》え」という意味であるから、砕いて言えば、女の生活上役に立つと看做《みな》されることであるかぎり、何でもこの内に含んでよかったのである。  すなわち、今風にいえば、「主婦の友」「主婦と生活」あるいはぐっと砕けて「すてきな奥さん」とか、ともかく女たちに向けてのその種の情報書とでもいったら、もう少し実体を反映するかもしれぬ。婦人生活の百般を包摂《ほうせつ》して、封建時代下における、婦人たちの安全にして健康なる生活への指針を合理的に教授すること、それこそがここにいう「女訓書」の最大の使命だったのである。  そこで、この範疇《はんちゆう》の書物には驚くほど多彩なものが含まれ、簡単な概念の把握では、容易にその全体を説明出来ない。  まずその一方の極に『女大学《おんなだいがく》』『女今川《おんないまがわ》』などのごとく、儒教的仏教的倫理観に基づいて、その合理的な生活のありかたを説く典型的教訓があるのだが、これとて、決して人間の本質を考察するような高邁《こうまい》な空理を説くのではない。原文を読んでみれば、呆《あき》れるほど形而下《けいじか》的な、全くの生活訓であるのに驚かされるであろう。  そしてその反対の極に、いってみれば「生活の知恵」的な諸知識を教えるベクトルが横たわっていた。  つまり、まず裁縫、料理に代表される家庭生活経営上のノウハウに属する知識、それがもう少し趣味の方向に移っていくと、生け花、茶道、香道、礼法などの、いわゆる「諸芸」と呼ばれる方面、そうして、やや科学的な装いを持った「家庭医学」とくに産前産後の心得や育児の実際といった事柄、さらには言語生活上の教え、これには「大和ことば」と総称された女性専用|語彙《ごい》のあれこれや、書札《しよさつ》(手紙)の書き方というようなこと、果ては様々の呪《まじな》い、暦占《れきせん》、相性《あいしよう》などの民間信仰の類《たぐい》までも含んで、まことに至らぬ隈《くま》とてもなかった。これらは要するに実用知識の伝授ということが出来るであろう。(読者|宜《よろ》しく現今の女性雑誌の内容広告等を想起されよ!)  さてまた、これらとは全然別の一角として「古典の素養」ともいうべきことがあった。江戸時代のカルチャーセンターである。昔から奥床しい女の教養として物語などに列挙されてきたのは「古今、万葉、伊勢《いせ》、源氏」というようなものであって、この古典の受容という方面の素養はまた和歌の学びと一如《いつによ》であった。しかも和歌は、『古今集』の仮名序にも看破《かんぱ》されてあるとおり、「男女《をとこをんな》の仲をも和《やは》らげ」る基《もと》いでもあったのだ。  思い切っていえば、歌や物語の学びは、つまり「恋の手本」にほかならなかったのである。そこで『三十六歌仙』『百人一首』などというものもまた、女訓には欠かせない一部分だったことを忘れてはなるまい(しかして和歌の中心部分は疑いもなく「恋」そのことであった)。  こういう|優しい《ヽヽヽ》事柄をよく弁《わきま》えていることがすなわち「優《ゆう》なる女」の条件であって、かかる「艶道《えんどう》」を弁えぬ女は、洗練されぬ者として、むしろ忌避されるのが当然であった。江戸時代の『伊勢物語』の版|本《*》の中には『伊勢物語|大全《だいぜん》』とか『花王《かおう》伊勢物語』とかいう名前を附して、書眉《しよび*》に裁縫や医学等々の諸知識あるいは教訓を掲出せるものがたくさん存在するのは、この辺りの消息を如実に物語るものと言ってよい。  かくて、江戸時代の「女訓書」においては、『女大学』のようなお堅い道徳書と同一書冊中に『伊勢物語』などの優艶《ゆうえん》好色な方面の知識を満載して少しも憚《はばか》るところがなかった。 「女訓」とは要するにそういうものである。  さて、『絵本艶歌仙』は、以上述べた意味で「艶《やさ》」しい女になるための教訓書であるが、それがなぜこのような「豆本」の姿で作られたのだろうか。  この種の小さな本は中国では「巾箱本《きんそうぼん》」などと称せられることもあるが、それは端切《はぎ》れなどを入れておく小箱にしまって持ち運ぶ本の意味で、その内容は、経書《けいしよ》や字書が多かった。それらの書物を日常携行して経文《けいぶん》暗記や作詩の資《し》たらしめるところにその主たる存在理由があったのである。本朝における「赤尾の豆単」のごときものである。しかしながら、『艶歌仙』のような内容のしかも美麗な装訂を施した本がそのような用途に出たものとは到底思われない。では何か。  日本ではこの種の豆本をまた「雛《ひいな》本」とか「雛豆本」とか呼んだ。この呼称がこういう本の出自をおのずから物語る。すなわち、江戸時代に堂上方《どうじようがた》の風に倣《なら》って次第に盛大になった雛《ひな》人形の飾りは、そのもっとも本格のものには「雛の調度」というミニチュア家具を完具するのが例であった。その中に「書棚」という道具を含む場合がある。そういう場合、この「書棚」の中に飾られる書物、これが「雛本」なのであった。実際の嫁入りでも、富裕家の場合は蒔絵《まきえ》などの書棚を携えていくのが当然で、しかもその書棚にはそれに相応のデコラティヴな装訂の書籍を入れていった。こんにち「嫁入り本」とか「棚飾り本」とかいう称が残っているのはこのためで、中世から江戸にかけて夥しく作られた「奈良絵|本《*》」なども多くはこの用途に用いられたのである。  そうして、往時の女童《によどう》等は「雛人形」に蛤《はまぐり》貝で食事を供し、またみずからもその蛤の貝でささやかな食事を相伴《しようばん》しつつ、この可憐なる諸道具をもてあそんで、春の永日《えいじつ》をのどかに遊び暮らしたのである。これを「雛の遊び」といった。そういう折々をとらえて、かつは貞操を教訓し、かつは優艶の情をも教諭したわけである。従って『女大学操鑑《おんなだいがくみさおかがみ》』の雛本なども存在する。この一見あい矛盾する両方向を同時に取り扱ってしかも少しも矛盾と感じなかったところに、江戸時代の女訓の不思議な両面性がある。  こうしたわけで『絵本艶歌仙』のごときも、私共は正しい意味での「女訓」の一と認め得るのである。  思えば正月、晴れ着に装い立てた婦人令嬢方が、袖を控えて歌カルタの遊びに興じたことなどもまた、かの「優しい女訓」のあえかなる遺風であったかもしれない。  が、それももはやほとんど過去のものとなった。 [#改ページ] [#小見出し]  『解題|叢書《そうしよ》』と銀紙 『解題叢書』という本がある。別段に珍しいという書物ではない。大正十四(一九二五)年に刊行された、ごく当り前の活版洋装|本《*》である。  当時、広谷国書刊行会という小さな出版社があって、この出版社が夥《おびただ》しい古典・国史関係文献を叢書として世に送ったことがある。これを一般に国書刊行会叢書といって、今日でも学界では遍《あまね》く尊重されている優れた叢書であるが、『解題叢書』もその一冊に属する。本書に収められたものは、有名な古書研究家で演劇狂でもあった森立之《もりりつし》が、|※[#「區+鳥」、unicode9dd7]外《おうがい》の小説で知られる医家|澀江抽斎《しぶえちゆうさい》と協力して安政三(一八五六)年に編んだ、幕末における最大最高の善本書誌解題『経籍訪古志《けいせきほうこし》』全八巻をはじめとして、『官版書籍解題略《かんぱんしよじやくかいだいりやく》』二巻、『諸藩蔵版書目筆記』四巻、『古経題跋《こきようだいばつ》』二巻、並びに『続古経題跋』一巻、『訳場列位《やくじようれつい》』一巻、『和版書籍考《わばんしよじやくこう》』十巻、『経籍答問《けいせきとうもん》』二巻の八種である。すなわち、この一冊の中に、江戸時代から明治にかけての書誌学の大系の概《おおむ》ねを窺《うかが》うに足る諸書が注意深く選び取られているのである。今も昔も、書誌学などという堅苦しく労ばかり多い学問を修めようとする人は少なかったはずであるが(従って、こんな書物を座右に具《そな》えたいという人も極めて少ない数であったに違いないが)、それでも、充分な校訂を施して、かかる良心的学術図書を刊行しようとする人があったことに私たちは驚かねばなるまい。げに、その「緒言」に曰《いわ》く、 「世態《せたい》多端にして、古書旧籍|漸《ようや》く散佚《さんいつ》せんとするの虞尠《おそれすくな》からず。本会こゝに本輯《ほんしゆう》を編して、古群書の亡逸《ぼういつ》を防ぎ、後学の古遺篇保存を慫慂《しようよう》せんとす」と(原本振仮名なし、今私に附す)。  世の書肆宜《しよしよろ》しくその志の高さを仰ぐべきである。  さて、今、私の書室に一冊の『解題叢書』がある。本来あった表紙は壊れたか汚れたかして、ごく近年に施されたまだ新しい改装表紙が附せられ、もとの中扉などはどういうわけか日にでも焼けたように黒く変色している。この限りでは決して程度の良い本とはいわれないのである。これを私は昭和六十年の春、神田《かんだ》一誠堂の店頭で購《あがな》った。値はいくらだったか忘れた。しかし、いずれにせよ三千円かそこらの、いくらでもない金額だったことは確かである。それより以前、昭和五十四年にも、私は同じ本を買って持っていた。にもかかわらず、重ねてこの本を買い求めたのにはむろんそれなりの理由がある。すなわち、この本にはペンや鉛筆であれこれと書き入れがあって、その書き入れが尊かったからである。  思い出してみると、ふらりと立ち寄った一誠堂の店頭で、私は何気なくこの本を開いてみたのだった。それは、たぶん、それまで私が持っていた同書は、どこかで水をかぶったと覚《おぼ》しい大きなシミがあって、表紙も醜く歪《ゆが》んでいるあまり嬉《うれ》しくない本だったので、この一誠堂店頭の表紙の新しい『解題叢書』を見て、もし良かったら買おうか、と思ったのだったろう。ところが、棚から抜いて表紙を開くと、すぐに私はその書き入れに気が付いて、はっと胸を衝《つ》かれた。小さな小さな、しかも下手くそに歪んだその字は、紛れもなく懐《なつ》かしい阿部隆一先生の手跡だったからである。先生がいつも座右に置いて、慈《いつく》しむようにあれこれの書き入れを施された本を、私は幸いなる偶然によって手にしたのである。  昭和六十年から遡《さかのぼ》ること二歳、五十八年早春に肺癌《はいがん》のため易簀《えきさく》された阿部隆一先生は、生来の悪筆で、その筆癖は老来《ろうらい》ますます甚だしかった。しかも、限られた面積に出来るだけ多くの文字情報を記入しようとする書誌学者としての性癖のためか、自己流に崩した文字は、虫眼鏡で見たいほど小さかった。  古本屋の立場で考えると、同じ本ならば保存が良く破損などの無いほうが上等の本である。だから、本文に傍線を引いてあるとか、あるいはペンであちこち書き入れがしてある本などは、その「汚れ」のゆえに価値を減ずると看做《みな》される。すなわち書き入れ・線引き本はきれいな本に比してどうしても値段は安いのである。  しかしながら、学問の立場で考えると、必ずしもそのようには看做されない。元来、日本の学者の間では、自分の本に縦横に書き入れをして、その研究の書き留めとした伝統があった。それゆえ、学問的には、本文よりもむしろ、後次の加筆に価値があるという場合が往々にして存し、一概に何も書き入れのないきれいな本が尊いとのみは言われないのである。  さて、では阿部先生の書き入れ本とはどういう性格の本であるか。  開巻第一頁、青い細字のペン書きでこうある。 「橋川酔軒翁旧蔵、長沢規矩也先生現蔵、楊守敬自筆書入、六合徐氏鉛印本『経籍訪古志』合四冊(中略)以右楊惺吾手批本移写了/昭和四十六年一月廿日夜」(今私に句読点を加う)  ここにいう「徐氏|鉛印《えんいん》本」とは、清《しん》の光緒十一年すなわちわが国の明治十八年、徐承祖《じよしようそ》という中国人が日本で刊行した活版和装|本《*》で、その翻|刻《*》の底|本《*》は楊守敬《ようしゆけい》(字《あざな》は惺吾《せいご》)という中国の文人の所蔵にかかる一本であったと伝える。しかるに、楊守敬自身が所蔵していた徐氏鉛印本の一本があって、それには、楊氏自身、少なからぬ書き入れを加えてあった。楊氏の書き入れは、多く所掲の諸本のうち、自分の獲《え》たる書について、その旨《むね》を注記したもので、当該の稀書《きしよ》の帰趨《きすう》を知るうえで大きな手がかりを与えてくれるのであるが、これを「楊惺吾手批本」と言っているのである。この「楊惺吾手批本」はどういう経緯を経てか、橋川時雄(酔軒)という中国学者の発見購得せるところとなり、次いで書誌学者長沢|規矩也《きくや》の蔵儲《ぞうちよ》に帰した。阿部先生は長沢さんとかねて懇意だったので、この本をたぶん借覧する機会を得て、自分の国書刊行会本『解題叢書』に転写したのであろう。先生の逝去は昭和五十八年一月二十二日だから、この借覧転写の日はそのほぼちょうど十二年以前に当る。先生は、この本にその「楊惺吾手批本」の記事を転写したばかりでなく、自身の調査知見に基づいて、「誤写多し」だの、「昌《しよう》」(按ずるに昌平黌《しようへいこう》本の意か)だの、「中央図」「斯道《しどう》文庫蔵」だのといった書き入れをも加えている。それら独自の書き入れの多くは鉛筆書きである。  ところで、この阿部隆一先生|手沢本《しゆたくぼん》には「金鶏学院文庫|之《の》印」という方形の朱印が捺《お》してある。この金鶏学院というのは、昭和二年に安岡|正篤《まさひろ》によって創立された一種の国家主義イデオロギー団体で、敗戦まで存続して少なからぬ右翼的人物を世に送った。戦前戦中の阿部先生が思想的にはまったくの右翼国家主義者であったことは、昭和十八年に刊行された先生の処女作『村垣|淡路守範正《あわじのかみのりまさ》著遣米使日記』の序文を見れば明らかである。だから、戦後国家主義イデオローグとしてでなく、ひたすら一学究として過ごされた先生が、この金鶏学院旧蔵の『解題叢書』を手にされたとき、なにがしの感慨がその胸中に去来したことであろうと推量される。ともあれ、その本は今阿部先生の書室をいでて、私の座右にある。  ところで、先生は、人も知るヘビースモーカーで、終生紫煙を口辺から絶やされなかった。  斯道文庫の書誌学の演習で、学生が下調べをしながら煙草《たばこ》を喫《す》ったりすると、先生は本を損なう虞があるといってこれを窘《たしな》められたが、そのくせ御自分では授業中もしょっちゅう煙草に火を点《つ》けられた。そうしていつも右手の人指し指と中指のあいだに火の点いた煙草をはさんで、そのまま手振りを交えて話をされる。熱が入ってくると、煙草のことは念頭から去るとみえて、燃えさしの灰が危なっかしく長くなっていくのだった。私は、脇《わき》で見ていて、「あっ、灰が……本の上に落ちる!」と幾度ハラハラしたかしれない。これはたしかに先生の欠点の一つだったと言ってよい。しかし、一方で先生の煙草には不思議な効用もあったのである。  晩年の先生はいつも「わかば」という安い煙草を喫っておられた。「わかば」は昔のシンセイやバットのように、柔らかい紙のパッケージに入っていた。先生は上着の脇ポケットあたりからくしゃくしゃになったそれをつまみ出して、何だか要領悪く火を点けられるのだったが、中身の煙草が無くなってしまっても、その皺《しわ》くちゃのパッケージをいくつもポケットの中に入れてあって、調査中にも授業中にも、随時その外包や銀紙を取り出しては、がさがさと皺を伸ばして、メモに、或《ある》いは本の間に挟む付箋《ふせん》代わりにと使われるのだった。「これが一番便利だよ」などと戯《たわむ》れ半分に先生は言われたものだったが、今でも斯道文庫の蔵書の少なからぬものに、煙草の銀紙を破いてボールペンでメモを書いて挟んであるのを見ると、生前の先生の日常が彷彿《ほうふつ》と浮かんでくる。  先生がこの世を去られてから、阿部家所蔵の先生手沢本は悉《ことごと》く売られて坊間《ぼうかん》に流出した。先生は元来蔵書家というのでなく、その旧儲の品は概ね活版洋装の工具《こうぐ》書(辞書や目録、図録、解題などの基礎的参考文献のことを書誌学のほうでは、こう呼ぶ)の類《たぐい》が多かったが、それでも、先生の学問の努力の日々が結晶しているそれらの書き入れ本を店頭で目にすると、ああ、これらはこの字が先生の手だとも何とも知らない人によって買われて、闇《やみ》の中へ散っていくのだな、と私たち受業の徒には悲しい感慨があった。書店主に尋ねると、普通こうした書き入れは店頭に出す前に鉛筆のものは消してしまうのだそうであるが、幸いに先生の『解題叢書』は殆《ほとん》どペンで書かれていたので消されずに残ったのである。思えば、商売上の方策としては当然であるかもしれないが、それにしても碩学《せきがく》の営々たる書き入れも、中学生の悪戯書《いたずらが》きも同じ扱いなのは、いかにも不見識なように思われる。  きっと阿部先生の『解題叢書』には、これらの書き込みばかりでなく、「わかば」の銀紙のメモもいっぱい挿入されていたに違いない。それらはむろん捨てられて片紙も残ってはいなかった。しかし、もし、その銀紙の挿《はさ》まれた儘《まま》であったなら……きっと学問的に有益だったばかりでなく、いつもそこに「在《い》ますが如《ごと》く」先生を感じていられただろうに、と今更ながら残念でならないのである。 [#改ページ] [#小見出し]  『揺籃』という歌集  この本を買ったという記憶がまったくない。おぼろげな記憶をたどっていくと、あれはたぶん、仏文学者のKさんの旧蔵書を一括して買い取った中に、そっと紛れ込んでいたもののような気がする。  まだ私が慶應義塾女子高校の講師をしていたころのことだから、十五年以上も前のことだ。そのころ、この学校にSさんという用務員のおじさんがいた。Sさんは、若い頃は警察官だったというだけあって、昔の陸軍の軍人のような、禿頭口髭《とくとうくちひげ》のちょっとおっかない風貌《ふうぼう》の老人だった。そのSさんがまだ日吉《ひよし》キャンパスの警備員をしていた時分に、不埒《ふらち》な学生だった私は、無許可で大学構内に自動車を乗り入れて、とっつかまり、学生証を取り上げられたことがある。しかるに、私が大学院に進んで、やがて女子高校の先生になってみると、驚いたことにこのSさんが用務員として勤めていたのである。ところがいろいろ話を伺ってみると、Sさんはまた、剣道の達人でもあり、刀剣鑑定の専門家でもあり、修験《しゆげん》の僧でもあるという、まことに不思議な人物なのだった。  ある日、Sさんが、廊下で私を呼び止めて言った。 「ちょっと、ちょっと、仏文のK先生の持ってた本が一山あるんだけど、ハヤシさん、良かったら買わないかね。値段はまったくいくらでもいいってさ」  顔の広いSさんは、大学の先生たちのあいだでも遍《あまね》く知られた存在だったのである。その本の山は、すでにSさんが預かってきて、女子高の物置に積んであった。蜜柑箱《みかんばこ》くらいの大きさの段ボール箱に五箱くらいだったろうか。一番手近な箱をちょっと開いて見ると、冨山房《ふざんぼう》の「漢文大系」が何冊か見えた。私はちょうどそれを欲しいと思っていたところだったので、この五箱をまとめて全部買い取ることにした。 「分りました。頂きます。ただし、箱の中はいちいち見ないことにします。中に何があるかは分りませんが、全部まとめて五万円でいかがでしょうか」  その頃、五万円という金額は非常勤講師だった私の給料のほぼ一月分に相当していた。Sさんは、 「いいのかい、それでハヤシさん損はしないかい」  と心配してくれたが、私にはこれで充分に安い買い物だという自信があった。おそらく、それを町の古本屋が買い取ればせいぜい五箱で一万円がいいところだろうけれど、いっぽうチラリと見えた漢文大系だけだって、古本屋の店頭で買えば、ゆうに五万円くらいはするだろうと見当がついたからである。  こうして、Kさんの旧蔵書一括は、無事私の手に落ち、SさんはKさんに対して面目を施し、Kさんのほうでもまた、喜んで下さったということだった。  この一括の中には、意外なことに、江戸時代前期、寛文十一(一六七一)年京都の中野|小左衛門《こざえもん》という書肆《しよし》の刊行にかかる『和漢朗詠集注』、また元禄《げんろく》十六(一七〇三)年刊の『和漢朗詠集』、あるいは、文政七(一八二四)年京都の出雲寺《いずもじ》文次郎ら刊行の『十六夜《いざよい》日記残月抄《につきざんげつしよう》』などが含まれていた。それらは、特に珍しいという書物でもなかったけれど、いずれも、それぞれの作品の基礎的文献なので、今でも便利に使っている。しかしこのなかで、なんといっても一番出色のものは、明治末大正から昭和初期くらいにかけての、音楽の教科書参考書のコレクションだった。その委《くわ》しいリストは、怠慢でいまだに作っていないが、こういうものは、集めようと思ってもなかなか容易には集まらないので、この方面の研究者にとっては、それなりに価値あるものかと思われる。ただし、ここではこれについて委しくは述べない。  そうして、これら漢文や古文や音楽やの、雑多な本のはざまに、忘れられたように挟まっていたのがこの『揺籃』という小冊子だったように思い出されるのだ。  これはおそらく自費出版にかかるものと推定されるが、灰色無地のボール紙表紙に、「合作歌集/揺籃/第一輯」と印刷した題簽《だいせん》が貼《は》ってある。  奥附を見ると、「群馬県群馬郡国府村東国分三四/住谷三郎方/嬰児支社」とあるのだが、これがいったいどのような「支社」であるのか、そういうことはなにも分らない。「みどりごししゃ」とでも読むのであろうけれど、案ずるに、これはこの住谷という人の主宰せる短歌結社でもあるらしい。  内容は、住谷三郎、高橋紅二、千輝春彦という三人の(旧制中学生らしい)少年の詠草を一冊の書物にまとめたもので、むろん世間的には全く無名の「片隅の出版物」であるに過ぎない。大正六年十一月二十五日印刷、同十一月二十八日発行、とあるから、そのころ中学生だったとすれば、もし存命ならばいまや九十|翁《おう》になっておられるに違いない。巻頭に三人の写真が掲げられているが、それを見ると、白線帽に詰襟服の凜々《りり》しい美少年ぶりである。はじめに山崎晴治という人の序文が付いていて、それには、この出版が「いとしい人たちの純真な事業」であると述べられており、また「三君の歌ひぶりは未だ稚《わか》くしてひなびてはゐるが、住谷君の清楚《せいそ》、高橋君の明快、千輝君の典雅が、私にとつて何ものにもか|え《ママ》がたい宝玉である。私はこの宝石を掌にのせて、私の幸福を世に誇りたいと思ふ」といってあるところをみると、この人物は、三少年の先生に当るらしい。  ともあれ、この愛すべき小冊子を手にとって、その頁《ページ》を開いてみれば、そこに、今ではもう失われてしまった遥《はる》かな田園的日本風景が、少年らしい瑞々《みずみず》しい言葉で美しく詠《うた》われているのに接することができる。  三人の中では、住谷三郎少年の歌がもっとも丈高く、見るべき詠草に富むであろう。少し作品を読んでみよう。    はるけくも麦のうね踏む人ら見ゆ             山田の春の昼は明るし    ほのぬくき卵にぎりてふとしばし             鶏舎の前に粉雪降る見し  ここには、取り立てて論ずるほどの技巧はないかも知れない。しかし、この春の昼の歌の、はるばると平明な歌いぶりと、その明るい麦畑の景色は、まことによく映り響いていて、その絵のような景色が目のあたりに彷彿《ほうふつ》するかと思われる。これに対して、後者は、暗い雪空、寒い空気、そういうなかで、体温の高い鶏の胎内からたった今産まれいでたばかりのホカホカの卵を、掌に握った少年、そのいくらか茫然《ぼうぜん》とした気分が、たくまず素直に詠われているではないか。    摘みにくく桑葉は風になびくなり             夕立まへの畑のひととき    そば咲ける畑のかなたに             黒馬は尾をふり行けり雨は降りつつ  野は一面の桑畑である。養蚕の盛んであったころの、群馬の野の、それはごくありふれた景色であったろう。夏の食欲|旺盛《おうせい》な蚕に食《は》ますべき桑葉を、村の人達はせっせと摘んでいるのであろう。そこへ夕立の前触れである一陣の湿った風が、さあっと吹き出してくる。すると桑の葉がヒラヒラと裏返って、葉を摘む人を悩ませるのだが、いっぽうでその夕風に一時の涼を楽しんでいるような気分も読みとられる。次の歌。蕎麦《そば》の花も夏の風物である。白く粒々と咲く涼しげな蕎麦の花と、真っ黒な農耕馬、その対照と煙る雨。この歌の中には、色と動きと触感が三つながら詠い込まれている。    茂り葉のひまを漏れ来て             月びかり閨《ねや》の障子にはだらなりけり    木犀《もくせい》の匂《におい》は深し雨の夜の             戸を閉ざさなと倚《よ》りし窓べに  こういう叙景の気分は、日本人なら誰にも覚えがあるであろう。それをすんなりと気取らず、こういうふうに詠い取ることは、簡単のようで実は簡単ではない。  ほんの数十年以前まで、それらの景色は、誰の家にも誰の心にも、普遍的な存在であった。それが小学唱歌を裏付けた風物であったし、懐《なつ》かしい|ふるさと《ヽヽヽヽ》を感じさせるよすがでもあったのだ。いまそのどれくらいが我等に残されているか。  こういう住谷少年の新古今風ともいうべき風体(または、このころ流行《はや》った万葉風のスタイルも並び存するが)に較《くら》べると、高橋紅二少年のそれは、いくらか劇的で|ますらおぶり《ヽヽヽヽヽヽ》ともいうべき力がある(けれども風韻には乏しい)。    しかすがに男は強し妻を刺し             おのれものんど刺して死せりと [#地付き]—殺人事件ありて—      レールあれどトロは走らぬはげ山の             彼方《かなた》の海に汽船もだせり  もう一人の千輝少年の歌は、数も少なく、やや類型に囚《とら》われたところがある。    小夜《さよ》更けて千鳥鳴く声きこゆなり             浜辺の宿の一人寝の床    鴨《かも》辺りに君の来まさば今一度             舟遊びすと舞妓《まいこ》のたより  三人の中でも一番の美少年であった、千輝春彦少年には、京都の舞妓から便りが来たのであったらしい。昔の中学生は隅に置けないのである、呵々《かか》。  ともあれ、有名な書物だけが尊いのではない、とこういう小冊子は教えてくれる。そしてまた数十年の歳月を隔ててなお、生き生きとした景物や抒情《じよじよう》を、ありありと伝えてくれる和歌という短詩型文学の力をも、そこに感じずにはいられないのである。   附記 其後、本稿を御覧になった、住谷三郎氏御子息春也氏から、同氏の歌集『独りゆく道』の御恵投に与《あずか》り、また、実弟住谷|磐根翁《いわねおう》より懇篤《こんとく》なる御手紙を賜りなどして、住谷三郎とその一族について、様々の知見を得た。住谷氏は、群馬の名家であって、幾多の逸材を世に出している。和漢洋三才を兼ねた文学者住谷天來は、三郎の叔父に当り、また、同志社大学総長にまで昇った住谷悦治は三郎のすぐ上の兄である。また、磐根は三郎の弟で画を以《もつ》て鳴り、その他にも一族に才長き人が少なくなかった。三郎は、その家を継いで、篤実《とくじつ》に農を守り、傍ら、和歌を詠じて一生を終ったが、戦後は概《おおむ》ね病弱であったと伝える。そうして、昭和四十二年一月二十一日その生を終えた。以上のことを概略記して、住谷氏各位に深謝の微衷《びちゆう》を表する。 [#改ページ] [#小見出し]  二人の師  師匠といい、弟子という、その本当の意味は奈辺《なへん》にあるか。  能楽やお茶のお師匠さんといえば、これはまことにはっきりしたもので、いわばその師弟関係は、本質的に一対一の個人関係である。  しかし、よく見ると、その「弟子」というものに二種類ある。その一は「内弟子」または「玄人《くろうと》弟子」と呼ばれるものである。そしてその二は、いわゆる「素人《しろうと》弟子」にほかならない。  私の良く知る能楽の世界でこれを説明するならば、この二つは相互にまったく違った世界に住んで、師匠に対する接し方も、およそ対照的であるといってよい。  まず玄人弟子のほうは、その最終的教育目的は、言うまでもなく「プロ」の役者を養成するということのみにある。  したがって、そこではごく若い頃から、しごく専門的にどこまでも広く深く、技能や知識を修得することが期待されているのである。そうして、意外なことに、この本職を養成するための、峻烈《しゆんれつ》厳格なプログラムは、本来的に無料である。師匠は、授業料を申し受けることなく、ほとんど無償の行為として、己の持てる知識や技術を授け尽くすのである。  むろん、その反対給付として、師匠は弟子の生殺与奪の権を一手に握っており、もし師匠の意に染まぬ点があれば、その弟子を一方的に破門する権利を留保するのである。「内弟子」という、その生活全体をほとんど奴隷《どれい》的なレベルで掌握してしまうスタイルは、そのことのもっともわかりやすい制度化と言うべきであろう。そこには、しばしば同性愛・異性愛のタームズにおける「師弟愛」が介在して、師弟関係が単なる精神的なものにのみとどまらないことをも、はじめから黙認されているのである。  これに対して、「素人弟子」というものは、まったくその正反対である。素人弟子は弟子でありながら、すなわち「旦那《パトロン》」なのである。素人弟子の場合、その教える内容は極めて限定的で、オールマイティ的修練を期待される玄人弟子とは全然異なる。たとえば、謡《うたい》だけ、または仕舞だけ、とかいうように、一定の授業料と引き換えに、極く限られた時間、技術全体から見ればほとんど問題にならないくらいの部分的知識技能を授ける。そうして、素人弟子は、「金」の力によって、むしろ玄人弟子とは正反対に、弟子が師匠の生活を左右するという関係に立つ。従って、師匠は、素人弟子には厳しくは当らない。当り障《さわ》りなく、ゆるゆると教えて、弟子の方々に「良い気持」になって頂くということになっている。いわゆる素人の能などは、そのもっとも結晶的に顕現した形である。  こうしてどこまでいっても、素人と玄人は原則として交わらないという一種の差別的構造が出来上がっているのである。  ところで、大学とか学問とかいう世界での「師弟関係」はどうなのだろうか。  大学というところは、むろん授業料を徴収する。それによって、一定の時間、一定の分量の知識(の断片)を切り売りすることになっている。教授は、「成績評価」という極めて限られた範囲内でのみ、学生の人生を左右することが出来るけれど、それは学生全員の生殺与奪の権を握っているとまではとうてい言い得まい。むしろ、逆に、学生(又はその親)は授業料を納入する一方で、先生の授業を履修しないという権利を留保し、それによって、逆に師匠の生活を左右する力がある。と、こう見てくると、大学における学生というものは、本質的に「素人弟子」であることが分る。  今はどうなっているか知らないけれど、私が学生の頃、慶應義塾大学では、上に行くほど授業料は安いというシステムになっていた。学部よりは大学院のほうが、断然授業料は安かったのである。私は長らく、どこの大学でもそういうふうになっているものだとばかり思っていたのだが、後に他の大学の人と話していたら、それは極めて例外的な姿であることを知ってびっくりした覚えがある。普通は上に行くほど授業料は高いものだというのである。さてどんなものだろうか。  私の場合、学部の専門課程では、もう老大家であった森武之助博士に付いた。そして、大学院に進んで、博士課程を終えるまで、その師弟関係は変らなかった。  大学院に入ると、授業料は殆《ほとん》ど半額になってしまったが、そればかりか、修士課程の二年目からは、慶應義塾独自の奨学金「小泉信三記念特別奨学金」というものを授けられた。これを受ける者は、原則として、将来大学に研究者として残ることを期待されているので、したがってこれに選ばれると、自動的に授業料は全額免除になった。そうして、その上に毎月二万円だったかの奨学金を貸与されるのである。だから、私はほとんど一銭の金も払うことなく、慶應義塾の「太っ腹」によって学者にして頂いたのである。  さて、この森先生との関係は、叙上の基準に照らしてみれば、素人弟子・玄人弟子の何《いず》れに当るであろうか。答えはこうである。学部の時は、純然たる素人弟子であった。しかし、大学院を通じて、私は次第に玄人弟子としての待遇を受けるようになったということである。森先生には沢山の弟子がいたけれど、その多くは素人弟子であって、玄人弟子はそれほどたくさんは居なかった。  ところで、私の人生にとっての、最も大きな幸いと目すべきことは、森先生の他に、始めから、いってみれば「玄人弟子」としてお教えを頂いた二人の師匠に恵まれたことである。  その第一は、申すまでもなく書誌学の阿部隆一先生である。そうして、第二は文献学・中国文学の太田次男先生である。この二人の師は、長幼二歳違いで、いずれも慶應義塾大学の附属研究所「斯道《しどう》文庫」の教授であった。  この斯道文庫というところは、和漢古典の文献学的研究のみに特化した数少ない人文系研究所の一つで、慶應義塾という学校法人の内部に、一個独立の存在として特異なる位置を占める。  その淵源《えんげん》は、戦前昭和十三年に麻生《あそう》セメントの麻生|太賀吉《たがきち》がその子弟の私的教育機関として設立した一種の個人ライブラリー兼研究所であって、戦後一時九州大学に寄託されていたのを、後に昭和三十三年義塾の創立百年を記念して、我が慶應義塾に寄付せられたので、慶應では間もなく独立の研究所を設立してこれに応《こた》えることとなった。その時、阿部隆一先生が初代の文庫主事として着任され、同時に慶應の普通部(中学校)で日本史を教えていた太田次男先生が、専任文庫員として招かれたのである。  思えば、私が学生だったころは、両先生とももっとも脂《あぶら》の乗り切った充実期に当っていて、毎年毎年、学界を瞠目《どうもく》せしめるような、巨大にして精緻《せいち》なる研究を発表しつづけておられた。  斯道文庫は原則的には研究専門の機関で、その専任研究員は取り立てて学部の講義をする義務はなかったが、それでは後進の指導に難が生ずるゆえ、必ず各自数コマは学部や大学院で講義をするのが例になっていた。  私は、学部・大学院を通じて、しかし、阿部先生の講義にも、太田先生の講義にも、正式の履修者として参加したことは一回もない。いってみれば、私は両先生から「単位」を頂いたことはまったくないのである。そういうことには一向に関係のない「任意」の弟子に過ぎなかったのだが、それは、逆にいえばそうして世俗の利益とは全然無関係のところで、ただ「面白い」というその一点のみに繋《つな》がれて、筆舌にはとうてい尽くし難いほど多くの勉強をさせていただいたということである。  テキスト(古典の本文校|訂《*》)の問題について、当時阿部先生は『孝経』を対象として、鬱然《うつぜん》たる森のように巨大な、本文の批判的研究を完成されていたが、私たちが直接にご指導いただいたのは『文選《もんぜん》』の本文についてである。それは、いわゆる「李善《りぜん》注」「五臣《ごしん》注」「六臣《りくしん》注」「燉煌本《とんこうぼん》文選注」等各種の古注釈に亘《わた》り、古い本の写真複製に拠《よ》って相互に比較しながら、それを批判的に読み進めていくというスタイルだった。これによって私は、古注釈の読解とその校異批判の概《おおむ》ねを学ぶことが出来たのである。  しかし、そうはいっても、阿部先生の本文研究は、いちいちの文献については、それほど詳細を極めるというふうでもなかった。それよりもむしろマクロとしての文献の森全体への見渡しという意識が先行しているように眺められた。 「書誌学者はね、どんな文献が出てきても、出来ないということがあってはいけないのだよ。どんな分野のいかなる文献でも|分らなければならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、それが書誌学に与えられた責務だから」と阿部先生はいつもそうおっしゃるのだった。  それは一見不可能のことのように見える。そんなことが出来る訳がないじゃないか、と人は言うかもしれない。しかし、その大きな任務のために、書誌学を学ぶものは、敢《あ》えて細部には目をつぶって先を急がなければならぬ場合がある。そしてまた、そのために私たちは厖大《ぼうだい》な先行研究や参考文献(工具書)を適切に操作してあらゆる分野をマクロに、かつ構造的に把握するという方法を身に付けなければならなかった。それは、研究の途次、なにか非常に興味深い「仮説」を見出《みいだ》したとしても、それのみに拘泥《こうでい》して立ち止まってはいけない、ということをも意味する。研究者として、またあるいは文学者として、そういうものを泣いて切り捨てて、先へ先へと進んで行かなくてはならなかった記憶が、私にもある。それはまして阿部先生ともなれば、心の中の終生変らない大きな葛藤《かつとう》であったろうと推量するのである。  最晩年の阿部隆一先生について、どうしても忘れることの出来ないことがある。  それはいつのことだったか、そうして、前後どういう子細があってのことだったか、いままったく記憶を留めない。ともかく、或《ある》いは先生御自身、既に体の変調を自覚され、何らかの予兆のようなものを感じとっておられたのかもしれない。  夜の斯道文庫には、私と先生の他に、周囲には誰も居なかった。先生はいくらか疲れたような表情で机に肘《ひじ》をつき、ぽつりとこんなことを漏らされたことがある。 「太田君のようなのが、本当の読書だろうね。……僕はほんとうには本を読むことができなかったよ」  話はただそれだけで、それはまったくの独り言のようにも聞かれ、悲しい述懐のようにも聞きなされた。私は何と言って返事をしたらよいものか、見当が付かなかった。いや、私の返事や相槌《あいづち》など、先生の脳裏には想定されていなかったのかもしれない。 「太田君」というのは、いうまでもなく、斯道文庫を代表する一方の碩学《せきがく》、太田次男博士のことである。太田先生は、私のもう一人の師で、今もまったく昔と変らぬお元気さで研究を続けておられるのは、弟子としてまことに嬉《うれ》しいことであるが、しかし、阿部先生の現役当時、太田先生と阿部先生に並びにお教えを頂くことは、いささか微妙なところが無いでもなかった。  というのは、太田次男先生の方法は、主たる研究分野を中国唐代の漢詩文、とりわけ近年は『白氏文集《はくしぶんじゆう》』に限定されて、そのひとつひとつの文献それ自体に対して、徹底的に詳密を極めたアプローチをされるのが特色だったからである。  すなわち、広く浅くの阿部先生か、深く狭くの太田先生か、同じ斯道文庫の教授でありながら、その問題意識はある意味で正反対の方向を向いていたといっても失当ではあるまい。  太田先生は、所与の文献を、恐るべき精密さで調べていく。まずは当該の文献の写真複写を作成するのだが、それも尋常の方法ではない。あるいは紙の背後から光線を照射して一旦《いつたん》抹消した文字までも写し出す、という仕掛けの新技法を応用したり、あるいは斜めに光線を当てて紙の凹凸を写したり、また通常の三十五ミリフィルムでなく、特殊の大判フィルムを用いてあくまでも高解像度の画像を求めたり、とあらゆる可能性を探求してやまなかった。  そのうえ、その写真印画に、どの点は墨でどれは朱で、あるいはこの黒い点は虫喰いの小穴だとか、いちいち原本に当って、さらに拡大鏡で検出して、注記していく。そればかりか、仮に墨が二重に書かれているばあい、その何れの筆を先とし、または後とするか、ということなども(写真で見ては分らないけれど、原本をよくよく見れば確かに分るのである)蚤《のみ》取り眼《まなこ》で調べ尽くし、いかなるデータでも、細大漏らさず記録していかれるのである。それはまさに考古学者的研究で、元来が歴史学者たる先生の根本的問題意識がその方法のはざまに揺曳《ようえい》しているように思われた。  私は学部の学生時代、先生が「ナントカ特殊講義」とかいうような授業でこうした古い文献の読み取りやその処理について懇切に講義しておられるのを知ってはいたけれど、どういうわけかその授業を履修して自ら学ぼうという気にはならなかった。つまり、江戸時代の文学という枠にまだ囚《とら》われていた私の思考範囲には、太田先生の中国文学の文献学的研究までは入ってこなかったし、同時にまたその余力も無かったのである。  やがて、大学院の博士課程に進んで、阿部先生に師事するようになったころ(つまり斯道文庫に出入りするようになったころ)、私はいつしか太田先生の学問にも大きな興味を抱くようになった。これはどうしても自分として勉強しておかなくてはならない、とそう思うようになったのである。しかし、それでも私は、太田先生の大学院の授業を履修しようとはしなかった。それはどうしてであるか、はっきり覚えないのだが、たぶん森武之助先生と全く一対一の演習に追われ、当時なりたてだった慶應の女子高の教師としての下調べ(これを教材研究という)に追われ、阿部先生の授業に付いて行くための勉強にも追われ、そのうえ太田先生の勉強まではとうてい手が回らなかったのであろうと思われる。  そこで、私は、夏休みに太田先生が門下の学生たちを連れて催される勉強合宿に参加させて頂くことにした。太田先生は、寛容で穏やかなお人柄なので、この一度も履修をしなかった学生がその合宿だけ参加することを、快く許して下さった。そればかりか、幹事の学生に命じて、必要な資料を揃《そろ》えて下さり、私が直ちにその勉強について来られるよう、何くれとなく心配をしてくださった。  合宿は、当時、蓼科《たてしな》高原にある慶應の山荘で行われていた(後には私の家の山荘のある信濃大町《しなのおおまち》のエコノミスト村に場所を移して行われるようになったが……)。  そこはふつう体育関係のクラブなどが合宿をするための粗末な施設で、むろん辞書や参考書など何一つ備えられていないのであった。だから、私たちは合宿にそなえて、前もって必要な辞書・工具書類を幾箱も梱包《こんぽう》して送り、または手分けして持って行った。その書籍類は相当な分量で、『大漢和辞典』十三巻をはじめ、四書五経などの『十三経注疏《じゆうさんけいちゆうそ》』、それらの厖大な索引類、『康煕《こうき》字典』『佩文韻府《はいぶんいんぷ》』等々の訓詁《くんこ》字書類、更には『類聚名義抄《るいじゆうみようぎしよう》』に代表される各種の邦人|撰述《せんじゆつ》音訓古辞書類、『白氏文集』各本、などなど、その数は段ボール箱にして十箱では収まらない量であったろう。私自身はたまたま蓼科にも山荘を持っていて、夏はいつもそこで避暑しながら勉強するのが例になっていたから、『大漢和辞典』や『日本国語大辞典』など、大部な参考書を持参して参加することになった。  勉強は、毎日朝の九時から始まる。先生が原本に従って細かに注記された本文をみな前もって筆写しておき、それに基づいて、まず、|何という字であるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|初めにどう書いてそれをどのように訂正してあるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、など「文字(テクスト)」としての読み取りを検討する。これがじつは大変な作業で、私は古文献の文字の読み取りの基礎的方法を、この太田先生のゼミによって学んだといっても過言でない。それは思っていた以上に複雑怪奇で、実にさまざまな可能性が想定されるのであった。  それから、今度は、それを中世の博士家《はかせけ》の学者たちが|どのように読んでいるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということを検討する。ところが、このことは文字の読み取りと、その訓詁ということと密接不可分の関係にあって、場合によっては逆にその読み方(訓読)から正しい本文が推定されたりする場合すらあるのだった。  そうして、最後に、それらを綜合《そうごう》して、ではこの当該の本文が|如何に解釈されるべきであるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という本丸《ほんまる》に攻め上《のぼ》るということになるので、そこに至る道は大手|搦手《からめて》さまざまあって、そのあらゆる可能性を検討し尽くした後に初めて、ある明晰《めいせき》な解釈が導かれ、または解釈の不明な点が明確になるのであった。  若くて倦《う》むことを知らなかった私の頭には、その謎解《なぞと》きのような研究の方法は、いかにもスリリングで、限りなく面白かった。  太田ゼミの雰囲気は、恰《あた》かも往古京都堀河にあった古義堂の学風にも似て、自由|闊達《かつたつ》、各人がその専攻と年齢とを問わず、師匠と門弟子《もんていし》との隔てなく、思うところを述べ、互いに口角泡《こうかくあわ》を飛ばして議論し、納得が行くまで結論を保留しつつ全力を尽くして文献を調べ、甲論|乙駁《おつばく》、それは実に愉快な学問的空間だった。  研究はそのようにして、朝の九時に始まり、途中昼食の一時間程を挟んで、夕刻六時に至り、また夜は八時頃から再開して概ね深更一時二時に及んだ。その間、先生は学生たちと一緒に調べ、考えて、まことにその精力の絶倫なることは、しばしば若い我々をも凌駕《りようが》圧倒するところがあった。  あるときは「柱間《ちゆうかん》」というただ一語の解釈を巡って、全く半日を費やし、F君という一人の天才的な男が、これを「柱のあたり」と解すべき類例を五経中に指摘して、ついに決着したというようなこともあった。その時彼が、索引をも用いずして、ほぼ全くその記憶によって、「ここです」と用例を指し示したので、私は凄《すご》い男がいるものだなぁ、と感心したものだった。このF君は後に学界を去って、一|禅侶《ぜんりよ》となった。  こうして、私は、太田先生のゼミに参加することで、文献とりわけ漢籍の読解の方法を、基本的に、しかも徹底的に学ぶことが出来たのである。  そこで次に、この方法を、折しも研究し始めた『遊仙窟《ゆうせんくつ》』に応用して、私はそのテキストを太田先生式に詳細に検討することにした。  これによって、『遊仙窟』の現存する二十四写本について本文批判的研究を試みたのが後に発表した『遊仙窟の諸本につきて』という論文である。  この研究を進めるに当って、特に古写本として著名であった名古屋真福寺の所蔵する一本、いわゆる『真福寺本遊仙窟』について、私はまったく太田先生のお教えどおり、何日も真福寺に通い、子細に原本を検分してその調査結果を斯道《しどう》文庫所蔵の写真複製本に書き入れた。その頃私は斯道文庫の研究員になるのが人生の目標で、またそれはかなり可能性の高いことと思っていたから、あえて斯道文庫の本に書き入れたのであるが、今から思うとそれは正直ちょっと残念なことをした。なぜといって、結果からいえば、斯道文庫の専任になることは、ついに実現せず、そのころ営々として書き入れた私の努力の成果は、手許《てもと》を去って空しく斯道文庫の書庫に眠っているからである。  のちに、真福寺本ばかりでなく、もう一つの有力な古写本である『醍醐寺本《だいごじぼん》遊仙窟』についても、私はなんとか伝手《つて》をもとめて原本を披見し、詳密な調査を試みたいと思って、その計画を会議の席上述べたことがある。  その時、意外なことに、阿部先生の表情が俄《にわ》かに険しくなり、書誌学の徒としてもっと広くやるべきことがあるのに、一つの文献だけに無用の精力を注ぐのは感心しない、と語気荒く私を叱責《しつせき》された。私は驚き、かつがっかりしたが、そのとき、同席しておられた太田先生は、特に反論もされず、ただじっと何かに堪えておられるようだった。語の勢いで阿部先生は「日本と中国の比較文学なんてことをいうのは意味がない」とまで言われて、太田先生の学問に否定的な意見を表明されたが、それでも太田先生はまったく黙っておられた。  こうした事実を見るにつけ、太田先生と阿部先生との間には、学問的にまた性格的に、正反対のところがあって、その両方の弟子を兼ねることは、やや不可能に近いという気がした。  けれども、だからといって太田先生のゼミで勉強することを、阿部先生は別段否定されるようなことはなかったし、太田先生の方も、それは同じことだった。いわば、両先生は、相拮抗《あいきつこう》しながら、しかし、お互いの良いところも認めあっていたらしく思われる。私は、ちょうど良い時代の斯道文庫で学問に接し得たので、思えば大きな幸いにめぐりあわせたものである。  ともあれ私は、阿部先生の弟子であり、同時にまた太田先生の弟子でもあったのである。  その阿部先生にして、なお「太田君のようなのが、本当の読書だろうね」の言ありき……この時先生の胸中は果して「命終《みようじゆう》」の予感で揺れ動いていたのであろうか。 [#改ページ] [#小見出し]  幸田|成友《しげとも》博士の木槌《きづち》  ケンブリッジ大学に所蔵する日本の古典籍を、すっかり調べて目録を作っていた時のことである。  目録|編纂《へんさん》の相棒であるピーター・コーニツキ君が、まことに憤慨やるかたない口ぶりで言った。 「林さん、こんなのはまったくヴァンダリズムですよ、日本の書物に対する……、まったくひどい」  ケンブリッジの和書は多く堅いボール紙洋表紙を附して、一見洋装本のように合綴《がつてつ》してある。元来、和書は、柔らかな和紙を、あっさりと絹糸で綴《と》じただけの装訂だから、西洋式の書架に立てて排架するのに適さない。それで、一般に東洋ではこれを横に寝かせて、上下に積み重ねておくのが普通であった。所謂《いわゆる》|横積み《ヽヽヽ》が普通のやり方だったのである。だから、これを西洋式の書架に置こうとすれば、そこに一種の不調和が生ずることはやむを得ない。和本を縦排架にしようとすれば、柔らかくて薄冊な和本はすぐにグンナリと曲ってしまい、きちんと長時間立っていることが出来ないからである。  そこで、昔から西洋人たちは、中国や日本の書物を購収するや、ただちに西洋式の堅い表紙をもって全体をくるみ、それによって書架に縦排架するのを常とした。この習慣は古くから徹底していて、古いものでは十八世紀ころの収蔵品から例を見ることができる。下って、ケンブリッジの蔵書の事実上の蒐集者《しゆうしゆうしや》であったサー・アーネスト・メイソン・サトウも、彼の蔵書の幾らかのものについて、たとえば人情本『操形黄楊《みさおがたつげの》小櫛《おぐし》』(二世十返舎一九作、歌川|貞秀《さだひで》画、天保四・五年刊)を美しい革装にしてマーブルの見返しを以《もつ》て飾った如《ごと》く、一見まったく西洋の書物と見紛《みまが》うばかりに装訂して縦に排架したりしたのである。また、有名なウェード式中国語発音表記の発明者サー・トーマス・F・ウェードの旧蔵書もみなこの方式で西洋式に綴じられて、ケンブリッジの書庫に保存されている。  それゆえ、ウイリアム・ジョージ・アストンの旧儲《きゆうちよ》にかかる、所謂アストン文庫の日本古典籍について、その排架整理上の便宜のために、その総てに西洋式の堅いボール紙表紙を附したとて、それをただちに咎《とが》めるにも当らないのである。しかし、コーニツキ君が、それをヴァンダリズム(蛮行)であるとして憤慨していたのは、たぶんアストン文庫のそれが、あまりにも無神経な、最低のやり方で洋装化されていたからであろうかと想像する。なにしろこの、一九七〇年代ころに先の館長エリック・キーデル氏の命によって施されたかと覚《おぼ》しい、くだんの洋装表紙は、真っ赤だのオレンジ色だの、およそセンスの悪い原色の布を用いて角背《かくぜ》の安直な形に綴じられ、その細工たるやまた頗《すこぶ》る雑駁《ざつぱく》、ときに表紙の上にべっとりとビニール糊《のり》を塗りたくって、折角の和装原表紙が著しく損なわれるというような、見るも無惨《むざん》な細工がしてあったからである。  私は、彼の憤慨を聞きながら、一人の床しい先達を想起した。幸田露伴の弟である歴史学者幸田成友博士その人である。博士は、「書物の置き方」というエッセイの中で、次のように述べている。 「古い話だが、エール大学の教授朝河貫一氏が日本で書物を購《あがな》はれた時、数冊分を合して全然西洋風に改装せられたのを見て、自分は不賛成を唱へたことを記憶する。現在帝国図書館もやはり合本主義を取り、元の表紙はその儘《まま》とし、それに厚手の表紙を添へて縦に立つやうにしてゐるが、自分は賛成に躊躇する」  とこのように、書物の排架の東西|縦横《たてよこ》の不調和について言及していたのをふと思い出したのである。  幸田博士は、日本の書物を頗る愛した人であった。  その愛惜する和装の本が、本来の性格に背く西洋式の醜い装訂を負わされて、窮屈に縦排架されることを、博士はひそかに嘆じておられたのに違いない。  博士は東京帝国大学で経済史を修めた後、現在の一橋大学の前身たる東京商科大学の教授を務め、軈《やが》て慶應義塾大学に転じて歴史学や書誌学を講述された。その書誌学関係の主な著作は、今『書誌学の話』(日本書誌学大系7、青裳堂書店)という題で一冊に纏《まと》められ、その概《おおむ》ねを窺《うかが》うことができる。そこに太田臨一郎さんが書いておられるけれど、昔、大震災の後の仮校舎で、博士が史学の講義をしていたとき、たまたま隣の教室で、小山内薫《おさないかおる》氏が劇文学の講義をしていた。小山内さんは博士の講義の名調子を耳にして、みずからの講義をやめてこれに聞き惚《ほ》れたために、劇文学の履修学生たちも等しく博士の講義を拝聴したというエピソードが残っているくらいの、まことに素晴らしい講義ぶりであったそうである。  また、先に書いた太田次男博士は、実際にこの幸田博士から史学の業を授けられたので、その人となりについて、いくらか話して下さったことがある。それによると、博士は、学生たちの指導に際しては、必ず原史料に当るべきことを繰返し説かれ、学生が怠けて孫引きなどすると、たちまちに見破って「それはどの本のどこにでているか」と詰問されたそうである。  また、江戸時代に本屋が刊行した所謂『書籍目録《しよじやくもくろく》』というものの史料的価値に着目して、これを系統的に蒐集し、その整理と体系化を企てたのもまた、幸田博士の功績として忘れてならないものである。後に、この方面は当時慶應義塾図書館の司書であった阿部隆一博士によって、補完徹底され、ついに阿部博士率いる斯道《しどう》文庫の手で『江戸時代書林出版書籍目録集成』という名著となって結実するにいたったことは、人も知る通りである。  さて、書物を愛し、衣食を節してそれを求め、良く読んでこれを役立てる、という人はなにも幸田博士に限らない。世に愛書家読書家は、あまたあるに違いない。しかし、幸田博士の一段と優れたところは、ただ書物を愛蔵されただけでなく、如何《いか》にしてそれを、よく保存するかという、所謂「保存科学」の方面にまで一歩を踏み込まれた点であろう。  今は亡《な》き古書修補の名人、遠藤諦之輔さんが、まだお元気だったころ、私は遠藤さんから面白い話をきいたことがある。  ある日、遠藤さんが、愛用の木槌を示して、 「これはね、幸田成友先生からいただいた木槌です」  と言われたのである。 「ほほう、それはまた、どういうわけですか」  とお尋ねすると、遠藤さんはずいぶん懐《なつ》かしい表情になって、話して下さった。 「幸田先生は、それは偉い方でしたよ。書物の虫ってものはね、この綴じ目の、風通しの悪いところにつくからってね、そう言われましてね……、先生のお持ちの本は、みんな独特の工夫がしてありましたよ」  それはこういうことなのである。書物にはテッポウ虫とかヒメカツオブシ虫とかいうような害虫が付くのだが、それが何を食べるかというと、主に紙に含まれている澱粉質《でんぷんしつ》を食べるのである。その際、虫は風通しを嫌い、湿気を好む。だから、和書の虫を防ぐに最も有効な方法は、しょっちゅうこれを開いて見ることなのである。けれども、糸で綴じてあるその綴じ目の中は、容易に空気を通すことが出来ない道理である。そこで、虫はこの綴じ目の内部にもっとも跳梁跋扈《ちようりようばつこ》するというわけである。それを防ぐために、博士は、愛蔵する書物の糸を切り放ち、いちど全体をグズグズに解いてしまう。そうしてすっかり虫を払ってのち、元の糸の綴じ目に観世《かんぜ》コヨリを通して、紙を締めないように、ゆるりと綴じておくのである。こうしておくと、さしもの虫どももしょっちゅう空気が通るので本を噛《かじ》ることが出来なくなってしまうというわけである。 「だからね、幸田先生の本は今でもみなそうなっているので、すぐ分りますよ……ええ、私がまだ若い頃にね、随分有難いことをいろいろ教えて頂きました。先生の本は、みなきれいでね。この木槌は、そうやって何度も先生の御宅に教えて頂きに行っていたころ、これをやろうってんで、先生が使っておられたのを、記念に下さったもんですよ。先生は御自分で本をずいぶんと直したりされたんです。偉い方でしたよ」  後には大名人と謳《うた》われた遠藤さんも、その修補の技と知識を獲得するについては、書誌学の大家でもあった幸田博士から教えられたことが随分あったのである。  その愛蔵の書物は、いま、概ね慶應義塾図書館にある。いちおう幸田文庫という名前が残ってはいるけれど、全部を一括して別置してあるわけではない。しかし、その遺愛の書物を片端から見て行くと、それが巨大にして周到な個人図書館になっていることに驚かされる。ただ金にあかせて買い集めた成金の道楽みたいなものでなく、書物というものが、はっきりと一つの学問体系と、高い見識を物語るのである。まさに、学者のコレクションここにあり、という気がする。  そうして、これは是非こうして書いておかなくてはなるまいが、博士がその保存の為《ため》にわざと糸を解いてコヨリでグズグズに綴じたものも、その中にたくさん発見され、幸田文庫の心は、こうした独特の保存哲学の隅々にもきわやかに息づいているのである。だから、これをもし後世の司書が知らずに|さかしら《ヽヽヽヽ》で綴じ直したり、糊で貼《は》ったり、また洋表紙を付けたりすることは、たしかにこれもヴァンダリズムの一種、大いなる|ひがごと《ヽヽヽヽ》であるとそのことを、特に記して注意を喚起しておくのである。 [#改ページ] [#小見出し]  蜷川式胤《にながわのりたね》の奇妙な依頼  蜷川式胤という人のことは、こんにちほとんど忘れられているかもしれない。私とて、この一風変った人物について、とくにいろいろな事を承知しているというわけではない。  ただ、彼が、明治の初め頃に、日本の美術と文化のために、相当に力を尽くし、少なからぬ私財をなげうって、諸方に日本の美術品等を寄贈してやまなかったということを僅《わず》かに知るのみである。  そうして、なぜそれを知るようになったかといえば、かつて、ケンブリッジ大学の古書の目録を編纂《へんさん》した折に、その所蔵書の中に、五点ばかり、蜷川にゆかりのあるものを見出《みいだ》したからである。  さて、蜷川式胤は、また宮道《みやぢ》氏を称し、その名乗りは別に親胤《ちかたね》とも言ったらしい。いま、簡単に、『国史大辞典』(吉川弘文館)によって、その伝の概《おおむ》ねを窺《うかが》うに、彼は、天保六(一八三五)年京都の東寺の公人《くにん》、蜷川子賢の長男として生まれ、「生来多才で若くより算数家として知られたが、その本領は博物考古学にあり、社寺旧家の什宝《じゆうほう》を博覧精究し、その道で一家をなした」とある。そうすると、アーネスト・サトウよりは八歳の年長、後に浅からぬ交誼《こうぎ》を修する博物学者ハインリッヒ・フォン・シーボルトよりは十七歳の年長に当る。  維新後、彼は、明治十年に病により職を辞するまで、専《もつぱ》ら博物考古の道を以《もつ》て微官ながら新政府に出仕し、この間、明治四年東京九段坂上で物産会を開催して、日本における博覧会の先駆けをなした。翌明治五年、町田久成らと共に、文部省主催の博覧会を湯島の聖堂で開催したのも、この蜷川子である。同時にまた、奈良の正倉院に赴いてその御物の実地調査にあたり、それらの活動を通じてまた、博物館開設の運動にも力を尽くした。  その蜷川式胤が、ハインリッヒ・フォン・シーボルトに贈った書物が少なくとも五点、ケンブリッジ大学にある。シーボルトの蒐集《しゆうしゆう》品は、後に彼の死後、そのうちの七百二十一冊が、養女ダヴィーダ・カーペンター夫人によって、ケンブリッジ大学図書館に寄贈されたのである。それは一九一一(明治四十四)年のことであるが、この年はケンブリッジ大学の図書館にとっては、記念すべき年となった。なぜといって、その同じ年に、腎臓病《じんぞうびよう》で世を去った大日本学者ウイリアム・ジョージ・アストンの旧蔵書約九千五百冊が、「アストン文庫」の名の下に一括して(しかし僅か二百五十ポンドという安い代価で)同館に買収されたからである。  この両コレクションの収蔵の前後、その背後で熱心に動いたのは、外ならぬアーネスト・サトウである。サトウは、シーボルトの蔵書の評価をジョン・ハリントン・ガビンズに依頼し、ガビンズはそれに応じて『善本解題目録』というものを編述したことが分っているのだが、その肝心の目録は杳《よう》として行方が知れない。案ずるに、既に散逸したものであろうが、もし、それが残っていれば、このコレクションの詳細について、もっといろいろのことが分って面白かったであろうと、つくづく惜しまれる。  というのは、シーボルトは、アストンやサトウと違って、自身の蔵書に蔵書印を捺《お》したりする趣味を持たなかった。それゆえ、この一九一一年に寄贈されたその旧蔵書が、正確にケンブリッジ大学蔵本のどれに当るかということが、必ずしも明らかではないからである。ただ、彼は、しばしばその蔵書に、青いインクで印刷された「整理ラベル」を貼《は》り、そこにドイツ語で分類や内容をペン書きにすることがあった。従って、そういうものについては確かにシーボルトの旧蔵であることが証せられる。しかし、それは全蔵書に及んでいる訳ではないので、これらの蔵書整理票の無いもののなかにも、なおシーボルトの蒐集品が混雑していることは、ほぼ疑いを容《い》れない。  では、このハインリッヒ・フォン・シーボルトという人は、いかなる人物であったか。すでに有名な歴史上の人物ゆえ、ここに贅言《ぜいげん》を弄《ろう》するのは差し控えるが、ともかく、彼はあのシーボルト事件で名高いフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト男爵《だんしやく》の次男に当る。この大シーボルトの長男アレグザンダーは、サトウの『一外交官の見た明治維新』などにも盛んに出てくる人物で、ドイツ人でありながら、イギリスの外交官として来日し、後に日本の外交官に任ぜられた、不思議なコスモポリタンであるが、その弟ハインリッヒもまた、兄に負けず劣らず国籍を超越した人であった。しかし、彼は一八七三(明治六)年のウィーン万国博覧会の折に日本側の事務局に協力したのを除けば、ほぼ一貫してオーストリア・ハンガリア帝国の外交官として活躍したのである。そうして、明治二十六年に同国の皇太子が来日した折の案内役を務めるなどしたが、それよりも彼の生涯で忘れてならないのは、考古博物学上の貢献である。こういう学者肌のところは、よく父の血を受け継いだのであろうと思われるのだが、いわばこの「趣味」の世界で、かれは日本に多くの足跡を残し、知友を持った。『考古説略』という日本語の著書は、その代表作で、銅版印刷による精密な図版を挿した、日本考古学史上屈指の名著と言われている。  こうした知友の中に、博物学者吉田海南らとともに、くだんの蜷川がいたのである。  さて、蜷川がシーボルトに贈呈した書物は次の五点である。  一、『神字日文伝《かんなひふみでん》』 平田|篤胤《あつたね》著  二、『古刀・古鏡・古瓦等図録』(仮題) 蜷川式胤編  三、『神武帝山陵土器図説』 蜷川式胤著  四、『観古図説』 蜷川式胤著  五、『大坂夏ノ図』  このうち、一は例の「神代文字《じんだいもじ》」というものについての平田篤胤の研究書であって、これには蜷川の筆にかかる墨識語が巻末に付せられている。それは、「此書ノ外法隆寺ニ所伝一千有余年前ノ香木ノ文字東大寺ニ所伝一千有余年前ノ文書ノ印ノ文字恵心院ニ所伝ノ牙[?]ノ文字不二寺ニ所伝ノ古印ノ文字……」と始まる、なかなか長い識語で、その主旨は、この平田の著作には誤りもあるが、日本に漢字伝来以前から古仮名文字が用いられたことは疑いなく、「我国常ニカナニ用ユル是古文字ノカナノナゴリ也」と結論している。維新の考証家らしい筆致である。そうして、その末に「明治六年二月考証ノ為ニ英国シーボルト氏ヘ贈ル物也 日本国東京辰ノ口三丁第二邸蜷川式胤記」と結んである。  二は、もと来歴を異にする考古図や古瓦の図録や拓本などを、蜷川が編纂《へんさん》したもので、安政五年蜷川親胤、安政六年宮道親胤の識語がある。この親胤が式胤と同一人とすれば、彼が二十三、四歳の時に当り、シーボルトに呈した物の中ではもっとも古いものである。  三、四、は蜷川の自著をシーボルトに献呈したものだが、四については、「ヲースタリ国ノ博物館ノ為メニ之ヲ贈リ納ル也」というペン書きの識語があって、シーボルトを通じて、オーストリア帝国の博物館に寄贈する目的であったことが知れる。  さて、問題は、この五である。これは一枚の絵図であるが、その題名の示す通り、徳川家康の大坂夏の陣の合戦図にほかならない。これはどういう素姓の画幅であるかというと、その本奥|書《*》によれば、江戸初期いわゆる元和偃武《げんなえんぶ》の砌《みぎり》に、家康がその夏の陣血戦の形勢を屏風《びようぶ》に描かせ、山形の最上義光に賜ったものが、最上家没落の後、六日町行禅寺の什宝となっていた。後に寛政十一年に秋元侯の家臣小俣七郎というものがこれを模写したものが原本で、それを底本として文政十三年にもう一度模写されたものを片岡という人(この人についてはよく分らない)が持っていた。それをまた蜷川式胤が借りて、万延元年に自ら模写し、そうして明治八年に、この自写の図をシーボルトに贈ったのである(そのせいか、この絵は、お世辞にも、あまり上手とはいえない)。これについては、こういう識語がある。 「明治八年一月ヘーセン国ノ博物館ノ為メニ之ヲ贈リ納ム也 日本国東京辰ノ口道三丁 蜷川式胤」  結局しかし、蜷川の期待を裏切って、シーボルトはその四も五も、指定された博物館には寄贈しないで、なぜか両方とも自分の手元にとどめておいた。  この四の「ヲースタリ」のオーストリアについては、まず問題ない。しかし、五の「ヘーセン国」とは、どこだろうか。プロイセンの「ヘッセン」だろうか。で、それを受け取ったシーボルトがどういう気持ちで、これを言われたとおりにしなかったのか、今となってはその理由はまったく判明しない。  四は、もしかすると、シーボルトが自分の手元に置いておきたいと思ったかも知れない。ただ、この本は端本《はほん》なので、残りの部分はいまどこにあるか不明である。  そうして、五は、思うに、シーボルトはこれを見て苦笑いをしたのではあるまいか。  なにせ、この絵は、蜷川筆の上手《うま》くもない再々転写図で、しかも、ドイツ人にとっては興味のない「夏の陣」合戦図である。それをヘッセンの博物館に寄付したところで、どれほどの意味があろうか。シーボルトは、そっと肩をすくめ、「ヘーセン国」には贈らないで、そのまま書庫にしまったのかもしれない。 [#改ページ] [#小見出し]  眼光|紙背《しはい》に徹す  書誌学の方で「紙背」というのは、術語として確立した言い方であって、その意味は「紙の裏側」ということである。  一般に「眼光紙背に徹す」という場合は、テクストの「読み」の問題について、読解批判の力量人並みに優れ、普通の人が思いも及ばない深いところまで、徹底的に読み切る、その見識をいうのであろう。この時「紙背」はもちろん比喩《ひゆ》であって、言葉の働きとしては「穴があくほど見つめる」なんていうのに近い。  しかしながら、書誌学の世界では、オブジェクトとしての書物を問題にする以上、当然その紙の裏側も大切な観察分析の対象であって、これは比喩にあらずして、まさに言葉そのままの意味で、眼光をば「紙背」に徹することが要求されるのである。  昔は、「紙」は大切なものであった。今のように大量生産が出来なかった手工業品で、一般の人の収入に比しては、かなり高いものだったことはたしかである。そこで、相当に大量生産が進んできた江戸時代にあってさえ、たとえば寺子屋のようなところでは、墨で真っ黒になるまで、繰り返し繰り返し同じ紙を使って手習いをしたのである。  まして、それより古い時代には、紙背を白紙のままにしておくというのは、かならずやもったいないという感じがしたことであろう。  そのせいで、古い写本には、この紙背に文字が書かれている場合が少なくないのである。  さて、この紙背文書にもいろいろな種類があるが、たとえばその一つに「注釈」がある。とりわけ漢籍については、本文の上部欄外(これを「眉上《びじよう》」という)、また本文下部欄外(これを「欄脚《らんきやく》」という)、さらには行間字傍に、細かな字で注釈を書き込んでいくのが普通のやり方で、それでも紙幅が不足する場合には、注釈を加えたい本文のちょうど裏側のあたりに、それに該当する注釈文を細かく書いておくことがあったのである。  こういう場合、本が袋|綴《と》じのようなスタイルで綴じてあるのは、紙背が見えなくなってしまうので不都合である。いちばん好都合なのはいわゆる「巻物」(これを「巻子本《かんすぼん》」という)である。この形だと、紙の裏にものを書くのは造作もないことである。  巻子本は、とかく披見するのに不便で、就中《なかんずく》、いったんくつろげたものを巻き戻すのは容易なことではない。しかも、紙と紙を貼《は》り繋《つな》げている糊《のり》がはがれるとバラバラになり勝ちであるから、書物としては決して扱い易いものではない。しかし、一方で、紙背に文字を書き込むことができるという点では、たしかに一定の長所もあったのである。  また、たとえば、戸籍や暦、あるいは何かの式次第のような公文書の反故《ほご》を捨てずに、その裏に自分の手控えの歌集や注釈あるいは日記などを書いていく、というような再利用的使用も、ちっとも珍しいことではなかった。  こうした場合、一つの書物が裏表二重の存在価値を持つわけである。そうして、たとえば暦などのように、その時が過ぎてしまえば普通は廃棄されるような「使い捨て」のものでも、そのように再利用されたために、偶然生き残るという幸いを得ることがあったのだ。また逆に、その表《おもて》の暦や文書に年月が記されてあるために、紙背の歌集などの書写年代が特定できるというメリットも、たまさか生じることがあるのである。  それゆえ、書誌学の世界で「紙背」は、けっしてなおざりにできない場所なのである。  しかし、世の中は良いことばかりはない。  この紙背に何かを書き込むという習慣を逆手にとって、良からぬことを企《たくら》む輩《やから》もないではないからである。  七、八年ばかりも前のことだ。  東京古典会という古書店の会が毎年秋に開催する「古典籍下見展観大入札会」という、この世界の大市がある。この市に『白氏文集《はくしぶんじゆう》』第三「新楽府《しんがふ》」という古い巻子本が出たことがある。  この本は平安時代の古写経『諸佛要集経』巻下の紙背に書写されたもので、その奥書によると建長四(一二五二)年に東大寺の僧密乗という人が書写したものであるということになっている。そしてなお、その四年後、康元《こうげん》元年に同じ人の手で朱の注・点が加筆されたとある。  しかし、この本は、じつのところ真っ赤な偽筆である。それも、鎌倉時代の古写本を少し見たことがある人ならば、すぐにおかしいと気づく程度の、比較的単純な偽筆なのだ。意味もなく朱と墨とを重ね書いたところがたくさんあるのも不自然だし、だいいち字体そのものが、いかにも古風に似せてはあるけれど、よく見れば極めて新しい筆であることは争われない。たぶんこの偽筆は近代のものであろうなぁ、と首をひねっていると、そこへやはり古書に大変くわしいS先生が来あわされ、そっと私たちに耳打ちして下さったのだった。 「ああ、これはね、有名な偽筆家の手でね、その人の名前も分っていますよ。昭和に入ってから作られたもんですよ。ね、どうしたっておかしいでしょ」  こういう市でそのようなことを大声でいうのは、はばかられると見え、S先生は声をひそめて、密《ひそ》かに教えて下さったのだった。それはそうだ、それで納得がいく。私は、その偽筆家の名前を聞いておきたいと思ったけれど、なんだか遠慮しているうちに、とうとう聞きそびれてしまったのは、まことに残念至極なことである。  そもそも、古写本で数次に亘《わた》って朱や墨の加筆が行われる場合、かならずそこには何らかの意味がある。  たとえば、別の本文や訓をもった他の写本からの校異加筆であるとか、誤写の訂正であるとか、辞書からの訓詁《くんこ》の転記であるとか、そういう必然的理由がなければならない道理である。  あるいは、昔は墨を使わずに本に字を書き入れるやりかたがあった。それは角筆《かくひつ》といって、尖《とが》った骨筆《こつぴつ》の先で文字を紙に圧《お》し書くのである。こういう角筆文字の場合、ちょっと見ただけではまったく文字があるようには見えない。しかし、本に斜めから光を当てて、陰翳《いんえい》がくっきりと現れるようにするならば、忽然《こつぜん》として紙の凹凸《おうとつ》による文字が浮かび上がってくるのである。こういう習慣は、平安時代から江戸時代まで広く行われていたことである。そこで、後にこうした角筆の文字を見やすくするために、その字の上に墨や朱で同じ字を重ね書くということもある。  いずれにしても、そこには、文字を重ねて書き入れることの必然的理由があるはずで、そういうものがなく、ただ漫然と墨の字を朱でなぞるなどということはまず考えにくいのである。  しかし、この本にはそういう無意味な朱の重ね書きがたくさんある。たぶんそれはいかにも古訓点を加筆したように見せかけるための、偽筆家の工夫だったのだろうが、隠すほどに露《あら》わるというか、語るに落ちるというか、そういう姑息《こそく》なごまかしによって、却《かえ》って馬脚を顕《あらわ》してしまったというわけである。いやしくも偽筆をものそうとする人は、筆法ばかりでなく、古訓点や古写本の校異の大概につき、大学院博士課程卒業程度の素養を身につけないと人は騙《だま》せないと知るべきであろう。  かくて、この紙背に書かれた『白氏文集』は、昭和に入ってから作られたインチキなる代物《しろもの》で、むろん古写本としての価値などは全然ありはしない。  この本は京都の某古書店が落札したものと見え、のちにこの店の販売目録に出現したが、その値は四百五十万円とあった。これを信じて買った人はまことにお気の毒なことである。  ただし、この本の紙背の『白氏文集』こそ何の価値もない偽物であるが、その表《おもて》の面《めん》に書かれた『諸佛要集経』のほうは、たしかな本物であって、平安時代の写経であることはほぼ疑いを容れない。しかも、この経はもと元興寺《がんごうじ》から出て、幕末明治の高名な蔵書家であり古経典の研究家であった鵜飼徹定《うがいてつじよう》という僧侶《そうりよ》の蔵儲《ぞうちよ》を経てきたもので、その素姓は確かだから、経典としての価値を買ったと思えば、いくらか高いなとは思わぬでもないけれど、まあ全然無駄な買い物をしたということでもないのがせめてもの救いかもしれぬ。  どうしてこういう古い経典の紙背にかかる|いたずらごと《ヽヽヽヽヽヽ》をするのかといえば、偽筆でいちばんごまかしにくいのは、「紙」だからである。  古い紙か新しい紙か、それは割合に見分けやすいもので、極端な話、ごく古い紙を手に入れて、ごく古い墨を擦って、古い写本を手本にして臨模すれば、それだけで本は古く見えてしまうのである。そこで、偽筆を作る人は、紙に古色をつけるために、それを土中に埋めたり、わざと濡《ぬ》らしたり、あるいは、梁《はり》に積もった古いホコリを水に溶かしてその溶液で染めたり、とあれこれ術策を弄《ろう》するのである。  しかし、ここに、確かに平安時代と分っている古経があるならば、この問題はいっぺんに解決するであろう。ただ、その古経の紙背にそれらしく書き付ければよいからである。  こうして、この『白氏文集』のように悪質な偽筆ができあがる。  かかる行いは、一種の詐欺《さぎ》的行為であるから、良からぬ所行には決っているけれど、それ以前に、せっかく大切に伝えられた尊い古経典をいたずらなる墨で汚したという意味でも、とんだ罰当りのヴァンダリズムというべきであろう。  しかし、いかに良くないことではあっても、こういうものがたくさん存在することは動かし難い事実である。そこで、これらに対抗するのは、結局、私たちの側の「眼光紙背に徹する」努力と見識にほかならないのである。 [#改ページ] [#小見出し]  江戸時代書賈商魂《ときよがらほんやのたくらみ》 [#小見出し]   ㈵  世に「この頃の若い者は、とんと本を読まなくなった。活字離れが著しいのは嘆かわしいことだ」といって、ひとかたならず嘆く人が少なくない。  しかし、私はそういう意見に与《くみ》しない。何故《なぜ》といって、もしそれが本当ならば、現代の書籍出版業などは、みな潰《つぶ》れてしまってしかるべきだからである。  ところが、事実は、その正反対で、どんな田舎町といえども本屋というものは存在するし、たとえば八重洲《やえす》ブックセンターとか、池袋のリブロとか、そういう巨大な本屋に赴けば、まさに汗牛充棟《かんぎゆうじゆうとう》という言葉が単なる比喩《ひゆ》以上の重みをもって迫ってくる。その売場の雑踏といい、のしかかるような書物の山といい、どこの世界にかくも出版の盛んな国があるか、という塩梅《あんばい》である。  この頃の若い者は、本を読まないから、言葉を知らない、漢字が読めないとか、そういう慨嘆は、なにも今に始まったことでもない。幕府が瓦解《がかい》して、ありがたくも明治の聖代《せいだい》になった時、それまで学問の基本だった「漢学」は廃《すた》れ、これに代わって、西洋の横文字学問が入ってきた。もう「師ノタマワク」の時代でもあるまい、これからはとにもかくにも横文字だ、そういって、青年たちは滔々《とうとう》として洋学実学に赴き、漢文の読めない人が多くなっていった。  そういう時代の趨勢《すうせい》というものは、なんといっても動かし難いもので、多少は逆らって息子に論語の素読なんぞを授ける親がないでもなかったけれど、頭にチョンマゲをのっけた頑固|親父《おやじ》と一緒で、しょせんは例外的な教育であるに過ぎなかった。  そういうときに、やっぱり「この頃の若い者は碌《ろく》に漢文も読めん、だから漢字を知らない、そもそも大切な書物を読まなくなったので人間が軽薄になっていかん」というようなことを、白髯《はくぜん》の老儒なぞが慨嘆して天を仰いでいたに違いないのである。  しかし、漢文を読まなくなったのは、それを読む必要がなくなったからで、それはとりもなおさず、ドイツ流のアカデミズムに取って代わられたということを意味する。  それが時代に即応したものである間、青年たちは、こぞってドイツ哲学なぞをしかつめらしく読み(どこまで分っていたか、疑問だけれど)、それが、かれら時代の青年たちの自己証明でもあったのである。  そういう時代も、すでにして去り、戦後になると、今度はアメリカ流の合理主義思想や、フランス流の実存主義なぞが輸入されて、一世を風靡《ふうび》するようになった。私の学生時代は、ちょうどこの実存主義はなやかなりし頃で(私自身も恥ずかしながら、多少はサルトル全集なんぞを買って読んだことがある。しかし、そんなものは屁《へ》のつっぱりにもならなかったし、そこに何が書いてあったか、今では毛の先ほども覚えがない)、教祖のサルトル先生が、鳴り物入りで御来日遊ばされ、我が母校慶應大学で、ありがたいお言葉を垂示されたことがあった。学生だった私は、その騒ぎを斜めに睨《にら》みながら、学生食堂でカレーライスをパクついていたけれど、白井|浩司《こうじ》教授が通訳して、それは大盛況だったよしである。  けれども時去り星移って、今日では、だーれもサルトルなんぞ読みはしない。それはそれで、ちっとも構わない。  時世《ときよ》時節で、流行《はや》るものがある。青年たちは、流行に敏感だから、こぞってそういうものに飛びつくけれど、それを読んだ者が偉いわけでもなく、読まない人が愚かだとも言えぬ。それはただ、流行の思想にかぶれたか否《いな》か、という事実であるに過ぎない、と私は冷淡至極に眺めているのである。  さて、そこで、今日の出版業の隆盛を見るにつけて、現代の若者が本を読まなくなった、と一刀両断に斬《き》り捨てるのは、たしかに誤りであって、それは正しくはこう言い換えなければなるまい。曰《いわ》く、 「この頃の若い者は、昔の若い者が読んだ本を読まなくなった」  と。呵々《かか》、矢沢永吉大人演ずるところの、缶コーヒーの広告のようになった。  世の中は、かかる小言幸兵衛諸子の慨嘆するほどには、変っていないのである、ということを、書物にまつわる商策を巡って、これよりゆるゆると概述してみたい、とそう思うのである。  どうやったら、よく売れる本を作れるか。これは、江戸時代初期に出版業というものが成立して以来、つねに出版業者たちを悩まし続けてきた大問題だった。そして、まずその限りにおいて、出版業を巡る問題意識は少しも変っていないのである。  江戸時代の極く初期、寺社に附属していた製本職人(経師)から脱化して、零細な出版業者が出現したのは、ひとえに平和な時代の到来と、朝鮮から伝来した古活字技|法《*》のお陰だった(最近では、寧《むし》ろ、キリシタンの印刷術、いわゆるキリシタン版の影響の方が大きいという説もあるけれど、そうともいえないと私は思っている)。その時代には、ある意味では「何を出しても売れた」とも言えるし、また、「何を出したら良いか分らないから、何でも試行錯誤的に出版した」とも言えるだろう。その闇雲《やみくも》的な情熱の賜物として、それまで出版の視野に入ってこなかった「文学」や「娯楽」が立派に売り物となって、世の中に現れるようになったことを私たちは喜ばなくてはなるまい。  誤解を避けるために是非言っておかなくてはならないことは、なにもこの時代に「出版」が始まったのではないということである。出版という営為だけなら、八世紀の『百万塔陀羅尼《ひやくまんとうだらに》』以来、連綿として各種の経典などが出版され続けて、それは歴史上途切れるということがなかったのである。ただ、それはあくまでも仏教という動機のもとに非営利事業として行われていたに過ぎないので、物語文学なんてものは初めからその印刷対象には選ばれなかったのである。まして、娯楽と出版は、どう転んでも結びつきはしなかったのだ。  やがて、古活字の印刷業は、徐々に読者層を拡大再生産し、それが、次第に重刷の不可能な古活字印|刷《*》の技法そのものを、滅亡への道へと赴かせるのである。それは概《おおむ》ね江戸時代前期、万治寛文度頃のことであったとおぼしい。  一定の読者層が形成され、出版業者にもそれなりの資本が蓄積される。自然の趨勢として、目端の利《き》く業者は事業を拡大し、そうでない業者は行き詰まって倒れる。それが資本主義的原理にほかならない。資本とアイディアの多寡《たか》によって、その後の趨勢は決せられるのである。  では、どうやったらよく売れる本を作り出すことが出来るのだろう。  第一に、まずは才能ある作者を発掘するにしくはない。  その比較的早い現れは、浅井了意というお坊さんであった。かれは、まだ宗教と娯楽が完全には分化していない混沌《こんとん》たる状況のなかで、宗教とも娯楽ともつかない、けれども確かに通俗の嗜好《しこう》に投ずるような、たくさんの「仮名草子」を書いた。とはいえ、了意は、まだまだアマチュア作家であって、その作品は人をして長く感動せしめるような「古典」の要件を満足しているとは言いがたい。  やがて、西鶴が出現し、これは確かに当時の出版業界にあっては、ちょっとした大事件だった。アマチュア作家だった彼が、やがてその名声を確立して、その作品は各出版社の引っ張りだことなり、しまいにはその名をかたり、あるいはその文を剽窃《ひようせつ》して商売をしようなどという、不埒《ふらち》な、しかし、しごく|まっとうな《ヽヽヽヽヽ》策にでた本屋も現れた。こうして、八文字自笑《はちもんじじしよう》と江島|其磧《きせき》のコンビが登場し、京伝が出、馬琴《ばきん》が出、種彦《たねひこ》が出、一九が出……というふうに職業的作家が現れてきたのである。戯作《げさく》系統の作家たちの弟子が、その二世三世を名乗るとか、紛らわしく序文だけを寄せるとかいうのも、まさにこの既成作家の名声を利用したいという商魂にほかならない。  それは今でも同じことで、以前、中国文学のM先生が、漢字に関する面白ブックみたような通俗書を出したことがある。ナントカブックスというふうの、いわゆるペーパー・バックである。あまり感心しない本だったので、「これ本当に先生がお書きになったんですか」と伺ったところ、先生は飄々《ひようひよう》たる口調でこうおっしゃった。 「ナーニ、わたしゃ、一文字も書きゃしません。みーんな出版社のほうで書いてきて、さいごにちょっと見ただけですよ」  漢字の本だから、中国文学のほうで令名の高い先生のお名前を拝借したというわけである。  それに続いて、「二匹目のドジョウ」という方法がある。  天和《てんな》二(一六八二)年、西鶴が『好色一代男』を出したら、これが大評判になった。今日のベストセラーである。そこで、本屋は早速『好色二代男』を出し、『好色五人女』を出し、『好色一代女』を出すという早業で、ずいぶんな巨利を博したらしい。これに追随する業者は引きも切らず、とうとう「好色本」という一ジャンルを形成するに至ったのである。そういうことは、しょっちゅうあったことで、後に八文字屋が『けいせい色三味線』を当てると、たちまちこれに倣《なら》う業者が殺到して、ナントカ三味線、カントカ三味線と名乗る本が続々と出現、とうとう「三味線本」という言い方ができたほどである。  今日、『磯野《いその》家の謎《なぞ》』という人を喰った書物が出現して、たちまち百五十万部以上を売り上げたことは記憶に新しいが、すると、ただちに『サザエさんの秘密』などという追随書が登場し、それからは、もうなんでもかんでも、このひそみにならって、ありとあらゆる漫画本が俎上《そじよう》にのせられて「謎本」というものが一時代を作ったのである。  見よ、人間の考えることは、それほど変わっちゃいないのである。 [#小見出し]   ㈼  さて、江戸前期に、いわゆる商業出版というものが確立するようになると、弱肉強食、弱い本屋は倒れ、強い本屋はその勢力を伸張するようになってくる。これが大体|元禄《げんろく》より少し前のころに当るのだが、それはつまり、ともかく闇雲式で試行錯誤する揺籃《ようらん》期から、どうやったら売れる本を出すことができるか、というノウハウが蓄積されて、安定的な産業として、出版が軌道に乗ったということを意味する。  そのことは、揺籃期の浅井了意のような素人《しろうと》作家から、西鶴や近松、またもう少しすすんで江島其磧といった職業的作家が出現したことも、その大きな要素ではあったけれど、いっぽう、本の作り方それ自体についても、いろいろな知識を獲得したということである。  売れる本、それは要するに読者がつい手を出したくなる本であって、そういうのを英語で「sexy」という。で、本をセクシーに作るには、いくつかの手練手管があった。  まず、その第一は、「本を大きく作る」という方法である。  もともと、日本の出版|業《ヽ》は(念のために繰り返し言っておくならば、出版それ自体は日本では八世紀から絶えず行われていた。ただし、それが出版業という産業とはならなかったのであって、それが商業・産業として成立してきたのが江戸初期であるという意味である)、秀吉《ひでよし》軍が朝鮮|李朝《りちよう》から活字印刷の技法とその出版物を略奪してきたことに端を発したので、その初期は、本の姿自体、朝鮮の本にどことなく似ていた。  朝鮮本は、まずもって巨大であることを特色とする。これは中世以来の朝鮮銅活字印刷が、李王朝の宮廷ならびに政府周辺にのみ行われた「王者の出版」であったことと無関係ではない。天下に王たるものは、その国を領するに二つの方法がある。その一は武力を以《もつ》て威圧することである。いわゆる武断的統治である。これは国土の平定に当って欠くことの出来ない方法であって、それ自体けっして悪いこととは言えないのだが、治世が安定期に入ると、それだけではとうてい国を治めることは出来なくなってくる。そこで、第二の方法は倫理道徳|若《も》しくは思想の力によって、おのずからなる修身斉家治国平天下《しゆうしんせいかちこくへいてんか》の道を探ることである。つまりは、儒学を主とする学問の力を借りて国民を宜《よろ》しく教育し、その自覚に俟《ま》って、国家の平和を保つという、いわゆる文治政治がそれである。朝鮮の出版物は概ねこの目的に沿って刊行されたものにほかならなかった。しかし、朝廷がみずから出版するのであるから、まさかチマチマした貧相な本も出しがたい。そういうこともあって、朝鮮の活字本は、本の姿も中の文字も多くは雄大なことを旨《むね》としたのである。  そこで、この略奪した活字セットを用いて、時の天皇後陽成帝の勅命を以て作られた、日本最初の活字本は、その巨大な文字で印刷されていたのである。ただしこの最初の古活字本、文禄勅版『古文孝経』は今日一冊も残っていない。やがて、それに倣って日本独自の木活|字《*》を用いて刷ったいわゆる慶長勅|版《*》の『古文孝経』等の諸本もまた、朝鮮の本とそっくりの、一字二センチ四方もあるかと思われるような、堂々たる文字で印刷されていたのだった。これが日本の古活字出版の濫觴《らんじよう》だったのだから、それ以後の出版がその影響をうけなかった筈《はず》はない。  そこで、この種の学問のテキストとして出版されたものには、往々にして、大きくて堂々たる姿というのが、そのセクシーさの指標になるものがあった。  たとえば、寛永五(一六二八)年に京都の烏丸《からすま》通|大炊町《おおいまち》住の安田安昌という書肆《しよし》が刊行した『五経』のごとき、その好個の一例であろう。  これは縦二九・七×横二一・三センチという大きな本で、そのゆったりした印面にはたったの七行、各行十七字という悠々《ゆうゆう》たる版組で印刷されている。すなわち、一文字は概ね一・五センチ角という風采《ふうさい》である。このどっしりと持ち重りのする書物には、栗皮《くりかわ》表紙といって、柿渋《かきしぶ》で染め出した焦《こ》げ茶色の立派な表紙がつき、まことに見事な風格を備えている。これを書見台上に開いて、行を逐《お》って読み進むと、その写刻体の楷書《かいしよ》の立派さと相俟《あいま》って、一文字一文字が私たちの網膜に突き刺さってくるかと思われる。  つまり、当時の人の目からは、立派な思想が立派な書物の風貌《ふうぼう》を得たものと見えたのであって、そのこと自体がすでにこの書物の説得力の一部分だったのだとも言われようか。  そこで、こうした「権威」をもってその商品的価値の一部たらしめようと図った書物にあっては、書型が巨大で版式が堂々としていることが、すなわち「売らんかな」の商策のあらわれだったのである。  現代でもまた、とくに学術書の世界では、「大著」というのがすなわち立派な書物の代名詞なのであって、そこで、内容はさておき、ともかくA4判布装ハードカヴァー、上中下三冊各四百ページ、というふうな「大冊」に本を作ることが行われている。その中身を見ると、ぶ厚い紙の上に、字間行間をたっぷり取って、十二〜十四ポイントくらいの巨大な活字で印刷してあったりするのである。こういうのは、その根本のところでは、寛永時代の安田安昌といくらも径庭のない了簡《りようけん》だということができるであろう。  これとは逆に、第二として「本を小さく作る」という方策もあった。  小さな本については、すでに紹介した『絵本|艶歌仙《やさかせん》』のような豆本が、その極端なものであるが、そうでなくとも、本が「掌《てのひら》に載る」または「懐《ふところ》に入る」ということをもって、商品的価値の主たる部分とするものが現れた。もっとも、そういう小さな本は、何も日本の専売特許ではない。もともとは中国によく行われていたことであって、それを中国では「袖珍本《しゆうちんぼん》」または「巾箱本《きんそうぼん》」と呼んだ。前者は、袖《そで》に入れて携行する本、後者は端裂《はぎ》れを入れる小箱に入れて持ち運ぶ本、の謂《い》いである。  いま、私の書室にある本の例でいえば、『詩韻輯要《しいんしゆうよう》』『巻懐食鏡《かんかいしよつきよう》』『古今和歌集』『四書集註《ししよしつちゆう》』などがこれに当る。  まず『詩韻輯要』は、明《みん》万暦中に中国で撰述《せんじゆつ》された作詩用の字韻辞書であるが、家蔵の一本は僅《わず》かに、縦一〇・八×横七・七センチしかないごく小さな本で、これはまったく掌に収まってしまう。刊年は正確には不明だが、版式字様から推定して、概ね江戸前期寛文頃の刊本と見える。しかも、全部で百九十五丁(現在のページ式でいえば三百九十ページ)もあるにも拘《かか》わらず、その厚さはたったの一センチに過ぎない。それは、斐紙薄様《ひしうすよう》といって雁皮《がんぴ》という上質な材料をごくごく薄く漉《す》いた紙を用いているからで、この一事をもってしても、この本がいかに「小さく」を旨として作られているかが分る。 『巻懐食鏡』は、香月牛山《かづきぎゆうざん》という医師が書いた、食物医学のハンドブックであって、これは正徳六年(=享保元年、一七一六)の序文がついているから、たぶんその頃の刊行になる本と推定される。大きさは縦一六×横八・五センチというやや縦長な袖珍本で、これまた、『詩韻輯要』ほどではないけれど、やっぱり薄い斐紙に印刷され、付録共五冊全二百四丁(四百八ページ)のものが、わずか二・五センチの厚さに収まっている。  もっと甚だしいのが、次の『古今和歌集』で、これは全部で二十巻ある書物が、縦一一・五×横八・二センチという可愛《かわい》らしい本二冊に詰め込まれているのである。これは文化十四(一八一七)年に、栄松斎長喜《えいしようさいちようき》という人の筆になる版下《はんした》をもって出版されたもので、こうなると、一文字の大きさは小さいもので一ミリ、大きいものでも三ミリ角くらいのものである。それをごくごく細い筆で、達者に書いたのを版下に用いているので、その筆耕や版刻の技術は見事なものだということができる。  最後の『四書集註』は明治に入ってからのもので、すなわち明治十七年に東同盟舎という版元の名前で出版された儒教テキストである。これは縦一二×横八・八センチの大きさ、その第一冊は『大学』と『中庸』を合わせたもので、全部で四十四丁(八十八ページ)、これまた斐紙と楮《こうぞ》とを混合して漉いた薄様に、当時流行のエッチング(銅版)の細密な文字で刷られていて、その厚さはただの三ミリである。  これらに共通する性格は、ともかく携帯に便利ということであって、その内容を勘案するに『詩韻輯要』は辞書、『巻懐食鏡』は参考書のハンドブック、『古今和歌集』は勅撰集であるが、同時に和歌の亀鑑《きかん》であって作歌の為《ため》の参考書、『四書集註』は言うまでもなく儒学の根本テキスト(教科書)で、これは持ち歩いて暗記するための本であった。これらのものは、現代でも、たとえば辞書に『コンサイス』あり、参考書に『理科年表』や『歴史手帳』あり、作歌作句の参考書に『季寄せ』『名歌辞典』のごときあり、暗記用のテキストに『赤尾の豆単』や『豆年表』のごときあり、と、こういうものが「小さいこと」「持ち運びの便宜」というそれ自体において、商品価値があったことが分る。そうして、またもや、そのこと自体昔も今も変りがないのである。 [#小見出し]   ㈽  実際に本を書いて出版するという経験をしてみると、ただ買って読んでいたときとは違ったさまざまのことが見えてくる。たとえば、本の厚さということが、案外大切な条件だということなど、その一例である。本の大きさというものは、その内容と一定の相関関係がある。純文学の書き下ろしだったら、四六判ハードカヴァー(昔はそこに丈夫な函《はこ》がついた)と概《おおむ》ね決まっている。いわゆる新書サイズのソフトカヴァーだったら、その内容は教養的あるいは啓蒙《けいもう》的書物であることを意味するだろう。このごろはまた、小B6なんていうコンパクトなハードカヴァーがちょっとした流行だけれど、これまた、大体の傾向としては、著者が女で内容は軽いエッセイ、というふうに相場が決まっている。  そこで、本来四六判ハードカヴァーで出すような内容のもので、しかし原稿の量が不足する、すなわちページ数が足りないというばあいは、本として文字どおり薄っぺらいものになってしまうだろう。こういうのを業界の言葉では「束《つか》が出ない」といって、喜ばない。何故《なぜ》かと言えば、買う方の立場からすれば、薄い本は安くてしかるべきだと思うだろう。けれども、薄いとはいっても、いやしくも上質紙ハードカヴァーで制作するならば、いかにページが半分だからとて、値段まで半分には出来がたい。製本コストというものは、原則的にはそれほどページ数に拘《かか》わらないものだからである。さりとて、書型を小さくするのは内容とそぐわない感じがして嬉《うれ》しくない。さて、そこでどうするか。  この場合、まず第一に講じられるのは、「字を大きくして、行間をあける」という方法である。これはこんにちでも、ときどき用いられる手法ゆえ、その実例を上げるのは頗《すこぶ》る容易なことに属するのだけれど、ここではとくにその書名を上げるには及ばない。  次に、むしろ江戸時代らしい手法に、「表紙を厚くする」というのがある。  由来、日本人は、本の表紙が比較的に堅く厚いことを好む民族である。  そんなことに「民族性」があるものか、と素人《しろうと》は思うかも知れないけれど、それがおおありなのである。  たとえば、中国人は表紙の厚いのを好まない民族である。だいたい、中国の(とりわけ清朝《しんちよう》の)書物は、竹を原料とする紙、いわゆる竹紙《ちくし》で出来ていた。竹紙は、日本の楮や雁皮を材料とする「和紙」に比べると遥《はる》かに軟質で脆《もろ》い。そういう腰のない紙を本文にもつ書物の表紙だけが厚紙で堅く出来ていると(いわゆるハードカヴァーです)表紙と本文紙の馴染《なじ》みが悪く、長い時間を経るとしだいに中の本紙がくちゃくちゃに丸まってしまったりし勝ちである。これにたいして、薄くしなやかな表紙(ソフトカヴァー)を附してある場合には、表紙と本紙が同じようにやんわりと|しなう《ヽヽヽ》ので、あんがい本は傷《いた》みにくいのである。その代わり、書棚に配架して置いたりするためには、表紙が薄く柔らかいのは都合が悪い。そこで、中国では書物の外側を保護して保管するための「帙《ちつ》」というものが著しく発達したのであった。そうして、たとえば本屋が大きな書物を出版するに際しても、本自体は薄く柔らかに作り、全体を出来るだけ多数の冊に分綴《ぶんてつ》して、その五冊なり十冊なりを、布張り帙でくるんで売り出したものであった。  これに対して、日本人は、書物の紙を多くは楮で漉き、その上等のものは雁皮を以《もつ》て漉いた。そこで、中国の紙とは比較にならないくらい丈夫で腰が強く、それらの紙を束ねて一冊の本に作るには、こんどは逆にある程度厚く丈夫な表紙を用いないと、表紙が本紙に負けてしまって、本が持たないという結果を招くのであった。  しかも、じつは、こうした楮の丈夫な紙で本紙を作り、厚く堅い表紙を付けるという方法は、むしろ朝鮮半島と共通のやり方であったことが認められる。こういうところでも、日本と朝鮮とは、文化的に重要な関連があるといわねばなるまい(もっとも、朝鮮の本は日本にくらべて遥かに大きく、表紙は黄色く、綴《と》じ糸は赤く太いというのが通例で、その外形は和書と大いに違っていた)。  それはともかく、この「厚紙表紙」好みという民族性を逆手にとった商策が「表紙で束を稼ぐ」というやりかたであった。  たとえば、ここに『増補頭書訓蒙図彙大成《ぞうほかしらがききんもうずいたいせい》』という通俗な百科事典がある。これは元来、江戸の前期、寛文度に中村|斎《てきさい》という儒者が著した『訓蒙図彙』という名著があって、それを四方八方縦横無尽に増補した代物《しろもの》であるが、原著の持っていたある種の品格は著しく損なわれた代わりに、何でも出ている便利至極な絵入り生活百科として、おおいに行われたものであった。今、私の書室に蔵する一本は、今は亡《な》き私の祖父が、乏しい金をやりくりして購《あがな》い、三越や菓子屋の青柳の包み紙で涙ぐましくくるんである遺愛の品であるが、これなどはさしずめ表紙で束を稼いだ典型的な一例であろう。  この本は、全部二十一巻を十冊に綴じてある。家蔵本は寛政元(一七八九)年|九皐堂《きゆうこうどう》の刊記を持つけれど、印面は著しく磨耗して、しかも奥附に「皇都書肆 俵屋清兵衛」の版元名を顕しているから、これはどうでも幕末頃の刷りにかかる後印|本《*》であるに違いない。  これを、ためしに計測してみると、表紙の厚さは一枚平均約二ミリである(これは少な目に見積もった数値で、厚いのは三ミリ近いのもある)。一冊に二枚表紙があるから、合計四ミリ、それが十冊でつまり四十ミリ=四センチが表紙だけの厚さである。ところで、この本の全体の厚さは十冊合わせて僅か七・五センチしかないから、差し引き三・五センチが本文の厚さというふうに算出される。なんのことはない、過半は表紙の厚さだったのである。  特に百科事典のようなものは、「厚いこと」がすなわち「内容の豊富さ」を印象させるから、こういう奸策《かんさく》が堂々とまかり通っていたのである(ま、幾分は本を丈夫に作るという善意も含まれていたかと思うけれど……それにしても、ちと行き過ぎというものではあるまいか)。  かかる例は、引き続き明治になっても、しばしば行われた。  ここに一例として明治十六(一八八三)年刊行の『小学句読』という朱子学のテキストを挙げたい。これは、|外題に《げだい*》「朱子定本」「後藤松陰先生訓点」と厳《いか》めしく謳《うた》い上げ、内篇外篇各二巻四冊、出版人は大阪の「塩冶芳兵衛」となっているのだが、さて、これまた実測の結果は、表紙の厚さ一枚約二・五ミリ、一冊で五ミリが表紙である。それが四冊だから、二センチは表紙の厚さで稼いだ勘定だ。ところが、この本の全部の厚さは僅かに四センチだから、これまた半分は表紙である。  こうして、いたずらに厚い表紙を附し、何冊にも分冊して全体の厚さを実態以上にふくらませる。そうすると、ペラペラの本でも、堂々たる書物として店頭に並ぶということになる。かくして、実際の内容以上の価格を付けて、店頭に並べたものとおぼしい。  こんなことにコロリと騙《だま》されてしまうのも不思議であるが、人間の眼力などは、案外そんな程度のところなのである。  それでも、この表紙で厚さを稼ぐなんてのは、まだ可愛《かわい》いほうである。なにしろ表紙を厚くする為には、表紙の地紙を漉《す》き返しと呼ぶ再生紙でゴワッと漉き込め、丈夫にするために、人間の髪を切って漉き込んだりとなかなか手間がかかっていた。しかも、冊数を多くすれば、その分コストがかかるわけで、まだ良心的な策略だったとも見られよう。  もっと悪質なのが、「飛び丁」という策である。  これは、江戸時代中期以後の通俗な小説や戯曲などのテキストによく行われた方策である。それはこうするのである。  ここにわずか十五丁(三十ページ)分しかない薄い本があったとする。見かけの厚さは、表紙を奮発して厚くすることで稼いだとしよう。しかし、パラパラとめくってみれば、それがたった十五丁しかないことがたちどころに露見するであろう。そこで、ふつう版面の中央下部に附せられるノンブル(これを「丁付け」という)にちょっとした細工をするのである。つまり、こんな風に。  一、二、三、四、五ノ十、十一、十二、十三、十四、十五ノ二十、二十一、二十二、二十三、二十四、二十五  かくして、たった十五丁のものを、ごまかして二十五丁の本に見せかけるのである。これを「飛び丁」という。こんなのは一銭のコストもかからず、もっとも悪質なごまかしに属すると言わねばなるまい。ところが、こういう細工をされると、多くの人は全く気が付かないで、まんまと二十五丁の本かと思い込まされてしまうのだから、人の目など当てにはならないことがよく分る。  で、この種の小細工は、とりわけ、無内容なくせに、ただ形ばかり西鶴の小説を真似《まね》たいわゆる浮世草子などには、頗る当り前に行われ、むしろそうするのが常識になっていた。西鶴以後の浮世草子なぞの志の低さは、内容外形の両面に及ぶこと、かくのごとし。  さすがに、このテの飛び丁に類したことは、今日の出版界には見られなくなったけれど、ではその分出版界が良心的になったのかといえば、じつはそうともいえない。  というのは、現代の世知辛い出版事情にあっては、原稿料は一枚幾らと計算される。そこで、世知辛い作者たちは、自分で本文全体に「見えない飛び丁」を施すことになった。  すなわち、やたらに改行ばかりで、内容の空疎《くうそ》な割にページ数を稼ぐというあのお馴染みの方法が、これである。 [#小見出し]   ㈿  出版文化が、一つの歴史にそって「発達」してきた、と仮定すると、その発達過程というものは、おそらく人間の意識の生育発達過程と、ほぼパラレルに推移したのではないかと、思惟《しゆい》される。  おなじ書物といいながら、写本というものは、初めからかなり完成した姿と内容を持っていたものであって、刊本の発達とは全くちがう筋道を辿《たど》ったとみなすべきである。だから、ここで取り扱うのは、まず刊本のことに限定しておくことにしよう。  簡単にいえば、こういうことである。  人はだれでも、生まれたままでは言葉を話すこともなく、ましてや文字を読み書きすることも叶《かな》わない。  それが、「マンマー」なんて発語に始まって、次第にその語彙《ごい》を増加し、構文を複雑化し、もって段々内容的に込み入ったことを表明するようになる。  言うまでもなく、日本最古の印刷物(それをしも書物と呼び得べきかどうか、問題の残るところだけれど)は、前述の如く『百万塔陀羅尼《ひやくまんとうだらに》』というもので、これは八世紀後半の遺物である。轆轤《ろくろ》で挽《ひ》き出した木製の塔の中心に空洞を穿《うが》って、そこに小さく巻いた「陀羅尼」が収めてある。この陀羅尼というものは、サンスクリット語の呪文《じゆもん》を漢字で表記したもので、むろんそれを読んで味わったりするようなものではない。呪文だから、読んでもただ「音声」としてのみ受容されるもので、それは、意味があるようなないようなものに過ぎなかった。これは、赤ん坊でいえば、涎《よだれ》を垂らしながらの「マンマー」に当る。  それが、平安時代になると、中国の進んだ印刷文化の影響を受けて(中国の遺物となれば、唐代九世紀後半の『金剛般若波羅蜜経《こんごうはんにやはらみつきよう》』というものがある。これは大英図書館に所蔵される逸品で、その版は巧緻《こうち》、あまつさえ巻頭の見返しに精妙な仏画さえ印刷されてある)、南都興福寺を初めとして諸国の有力寺院が挙《こぞ》って経典を出版した事実がある。  しかし、一般的に、それらの経典は、やはり、味読し玩賞《がんしよう》するというようなことよりも、それを出版することによる「功徳《くどく》」に重きをおいていた。だから、やっぱり、子供から見た大人の世界のようなもので、その高等なる内容は、ほぼ一般の人々の「読書」というようなことがらとは一向に結びつかなかったのである。  ついで、鎌倉時代に始まる禅宗の出版物、いわゆる「五山版」ともなると、少しく性格が変ってくる。すなわち、禅宗は、優れて中国的なスタンスを持ち続けていたために、その教義を極め、人並みに修行の実を上げるには、なにはともあれ、中国語と中国文学に通暁《つうぎよう》している必要があった。そこで、この「五山版」の範疇《はんちゆう》には、『寒山詩《かんざんし》』や『詩人玉屑《しじんぎよくせつ》』『三体詩《さんていし》』というような、いわば漢詩文に属するようなものが現れてきた。これは、同じく中世に出現した『論語』などの儒書と並んで、明らかに「読まれる」ための本であった。  しかしながら、その読書の主体は、どこまでいっても禅僧やそれに準ずる知識人階級であるにとどまり、それがいかに印刷物であっても、大衆を対象とする「読書」の具とは成り得なかった。  さきにもちょっと触れておいたように、人々の意識と「書物」というものが「読書」というタームズにおいて結びつけられたのは、下って江戸時代初頭のことになる。  そのもっとも早い現れの一つは、意外にもキリシタンのミッションによって持ち込まれたグーテンベルグ式印刷機を用いた布教用の印刷物、いわゆる「キリシタン版」においてであった。  それが有名な『天草本平家物語』である。  この本もまた、遠くイギリスの大英図書館に、世界でただ一本だけ、保存されている。この本は、文禄《ぶんろく》元(一五九二)年に刊行され、その正式な題名は、『Nifon no cotoba to historia uo narai xiran to fossvrv fito no tameni xeva ni yavaragvetarv Feiqe no monogatari(日本の言葉とヒストリアを習い知らんと欲する人の為に世話に和らげたる平家の物語)』という長ったらしいものであるが、その実は、口語に書き直した『平家物語』のダイジェストである。これなど、その動機はいかにもあれ、じっさいに「読む」ための「文学作品」が、印刷の技法に載せられた最初の物にほかならない。  また一方、ほぼ同時に秀吉の朝鮮出兵によって、李朝《りちよう》朝鮮から略奪によりもたらされたかの地の銅活字印刷技法もまた、我が国に巨大な足跡を残したと言ってよい。何故《なぜ》といって、それが、街の経師《きようじ》達にいち早く「出版」という技術を教えたからである。  こういうなかで、また別の方面から、文学と印刷の遭遇が起こる。  いうまでもなく、本阿弥光悦《ほんあみこうえつ》らによる、慶長期の「嵯峨本《さがぼん》」の出現である。この日本印刷史上の奇跡ともいうべき、重厚な美術出版事業は、その最初から、日本の古典文学を印刷という技法で世に出すということを意図していたとおぼしい。そのため、たとえば、謡曲のテキストなどという極めて活字印刷に馴染《なじ》みにくいものを、どうやって作ったのか分らないが、精巧微妙に作りおおせた。それも、一ページごとに用紙の色を変えた豪華な特装本から、普通の無地|楮紙《こうぞし》に印刷した普及版まで、その版数は結局何種類にのぼるのか、いまなお完全には分っていないくらいである。  しかし、ここに特筆しておかなくてはならないのは、嵯峨本『伊勢物語』のことである。これまた、何種類も版や装訂があって、その全貌《ぜんぼう》はなお明らかになっていないのだが、それはともかく、ここで強調しておきたいのは、この本が「挿し絵」をたくさん持っていたということである。従来、『源氏物語』にせよ『伊勢物語』にせよ、写本で伝えられていたそれらは、概《おおむ》ね文章だけで、挿し絵などは含まれていなかった。それは、実際の古典文学の受容が、主に朗読という営為によっていたためもある。  しかし、それとは別に、たとえば「奈良絵本」などと呼ばれる、極彩色の絵入り物語写本が室町時代から江戸時代前半にかけて、夥《おびただ》しく作られていた。たぶんそれらは、嫁入り道具などの一部として、ともかく豪華|絢爛《けんらん》ということを第一に制作された一種の美術品で、その限りではつまり飾っておくための本だったかと推量される(だから、この種のものの中には一向に披見した形跡のないものも少なくない)。そういう愛玩物(飾りもの)としての絵入り本を、活字の出版物として実現したということの歴史的な意義を私たちは忘れてはなるまい。  というのは、それ以後、江戸時代の『伊勢物語』刊本は、ほぼ例外なく、この嵯峨本の挿し絵のスタイルを忠実に襲用していたからである。つまりは、挿し絵入りで古典作品を世に出すというコンセプトは、嵯峨本の発明にかかるところだったと見てもよい。  かくて古活字印刷は、雨後の筍《たけのこ》よろしく零細な出版業者を夥しく世に送り出したが、彼らにとって、どうしたら安全に「売れる本」を作れるかということは、いつも頭痛の種だったに違いない。その安全ということからいえば、なんといっても王者は教科書と辞書だった。徳川の太平の御代に、武は廃《すた》れむしろ文事が主となると、人々は挙《こぞ》って読み書き算盤《そろばん》を習うようになる。その読み書きの最初に必要なものは、まさにこの教科書と辞書だったからである。こうして、辞書はそのコスト上の理由から主に整版で、また教科書は多く古活字で印刷されたのだった。この段階は、人間の発達にたとえれば小学校のチーチーパッパの段階である。こうして、すこしは読み書きも覚え、読書の楽しみということも知るようになると、次には「娯楽としての読書」ということが出てくる。そこでまずは、古典の出版、とこれは誰もが思いつくだろう。  ところが、まだ文字を読むことに慣れていなかった、ナイーヴな読者達には、文字ばかりの本は読みづらかったに違いない。それは、中学生くらいの子供達が読む青少年向けのやさしい小説本などが、常に挿し絵入りであるのを思い出せばよい。  こうして、嵯峨本が先鞭《せんべん》をつけた「挿し絵入りの物語本」というスタイルは、古典ばかり読むのに飽きた新しい読者たちが、もっと読みやすい話を、と希求した結果生まれ出た、その後の仮名草子刊本にも、忠実に受け継がれた。しかも、この伝統は、やがて西鶴の発明にかかるいわゆる「浮世草子」にもそっくりそのまま踏襲されたのだ。  この時代に、江戸を中心として活躍した偉大な絵師が現れた。  菱川師宣《ひしかわもろのぶ》である。  一方の上方《かみがた》には、西鶴本の挿し絵を主に描いた吉田半兵衛という名人がいた。半兵衛は比較的早い時期にその足跡が消えるのであるが、詳しいことは何も分っていない。やがてこれを継いだのは蒔絵師《まきえし》源三郎と呼ばれる絵師だが、こちらはもっと何も分らない。このあたりは謎《なぞ》に満ちているのである。  しかし、上方には後に、出版プロデュースの偉才八文字屋八左衛門と組んで、盛大に挿し絵を描いた西川|祐信《すけのぶ》という達人が出現する。この人は柔らかな曲線でゆったりとした動きのある見事な挿し絵を描き、一方で師宣と並んで、いわゆる「絵本」というジャンルの作品をこれまたたくさん残した。  後の浮世絵はこういうところから発達して行くのであるが、それを育てた土壌として、本屋が少しでも本を売りやすくするために、なんでもかんでも挿し絵を付けて出版するということがあったことを忘れてはならないのである。商魂必ずしも悪ならず、という例である。 [#改ページ] [#小見出し]  ケンブリッジの乱れ版  むかし、江戸時代のごく初め頃、京都の要法寺という寺で、相当に大規模の開版事業が行われたことがある。この内で、とりわけ有名なものが『直江版文選』と呼ばれる古活字本で、これは上杉|景勝《かげかつ》の臣|直江山城守兼續《なおえやましろのかみかねつぐ》という人が、この寺の中にあった印刷工房で作らせたものであろうと考えられている。  それから、要法寺の刊行物の中には、妙なことで有名なものがある。それがいまここで、紹介しようとする、いわゆる『要法寺版論語|集解《しつかい》』というものである。  これが、なぜ有名であるかというと、この同じ慶長頃刊『要法寺版論語集解』に二種類のものがあって、そのうち片方は整版印刷であるのに対して、もう一方は整版の部分と、活字の部分が混じって一部を成しているからである。この活字・整版混合のものは一般に「乱れ版」と呼ばれ、要法寺の『論語』はその代表的なものなのである。  ところが、この全部整版のものと、一部(巻四第七丁〜巻七第八丁)が活字で刷られているものと、どちらが先行であるかということについて、書誌学の世界では、かねて論争があった。乱れ版を先とし、整版を後とする、というのは川瀬一馬氏、その反対に整版を先とし、乱れ版は、後に一部を活字で補刻したと考えるのが、長沢|規矩也《きくや》氏である。しかし、現在では、長沢氏の説が正しいことがほぼ誤りなく実証され、概《おおむ》ねこれをもって定説と認めるのである。  さて、このようなことがどうして起こるか、ということであるが、それは、とりも直さず、この慶長という時代が、古来の寺院印刷の常道だった整版印刷から、新来の技術に基づく古活字印刷への、ちょうど過渡期に当っていたからである。  ある意味では、名高い嵯峨本の『伊勢物語』だって、乱れ版の一種なのである。というのは、この本は、本文はすべて古活字印刷であるが、挿し絵は全部整版、また巻末の跋文《ばつぶん》も毛筆写刻体の整版印刷にほかならないからである(もっとも、嵯峨本については、これを乱れ版とは言わないけれど)。  ところで、いま本稿の題名の意図するところは、ケンブリッジ大学の所蔵本のなかに、あらたに学界未知の新出乱れ版を発見したとか、そういうことではない。  そうではなくて、私とピーター・コーニツキ君との共著にかかる『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』という書物が、あれは一種の乱れ版なのですよ、ということを報告しておきたいのである。  江戸時代の初期は、先にもいうごとく、整版から古活字版への、技術的転換点に当っていた。それが数十年を経て、寛永末から正保慶安度あたりになると、古活字技法は結局|廃《すた》れて、ふたたび整版技術に復古していくのである(古活字版が滅亡するのは万治寛文頃のことである)。ここにも、一つの過渡期があった。  それから、下って、江戸末期になると、西欧から銅版印刷の如《ごと》きが伝来し、または新たに木で活字を作って小規模な印刷を試みる「近世木活字」の技術などが現れる。こうして世は一転して明治御一新の御代ともなり、ただちに西洋式活版印|刷《*》の技術に転換したかというと、じつはそうでもない。実際に旧式の整版技術が亡《ほろ》んで、まったく活版印刷に転じ終るのは、さらに下って明治の三十年頃まで待たねばならなかった。  この明治の初年から三十年ころまでが、いわば第三の過渡期である。  その後、活版印刷の技法にも様々大小の改良が施されて、その実体はずいぶん変化してきたけれど、つい先頃に至るまで、およそ百年が間というものは、大きく言えば活版の時代と見なして差し支えなかったのである。  それが、ここ十年ほどの間に、ふたたび情勢は一変した。いわゆるコンピューターというものが一般に用いられるようになって、いちいち活字なんぞいじらなくとも、パカパカとキーボードを叩《たた》くことによって、一切手を汚すことなく、写植印刷ができるようになったのである。職業でいえば、かつて木版の時代が終ったときに、彫り師や刷り師が次第にその存在理由を失っていったように、現代は植字工という職業が衰滅に赴こうとしているわけである。  いま、私たちは、その大きな歴史的転換点に立ち会いつつあるわけであるが、いったいどのくらいの人が、そういうことを自覚しているだろうか。  さて、ケンブリッジ大学の目録であるが、これには、いくつかのクリアーしなければならない条件があった。  その一つは、日本の古典文献の目録なので、日本語で著録したい、ということである。  その二つ目は、従来の経緯からケンブリッジ大学出版が版元でなければならないということである。ということは、日本語の版組なんか彼らにはできやしないのだから、自分たちで版下まで用意しなければならない、ということになるわけである。  三つ目の条件として、非常に限定された乏しい予算。  さて、そこで私たちはどうしたか。  当時は、まだDTP(デスク・トップ・パブリッシング)なんてオツな言葉はありはしなかった。片方に、何千万円か知らないけれど、途方もなく高価なプロの写植機があり、反対側にごく原始的な個人用のワープロ専用機や幼稚なパソコンがある、といった図式だった。それでも、恐いものしらずといおうか、私たちは、シャープの「書院」というチャチな(しかし、当時にあってはかなり高価で、一応三十二ドットの印字性能を唯一《ゆいいつ》備えていたのである)ワープロ専用機を駆使して、なんとかかんとか版下を用意するべく、試行錯誤を重ねつつあった。  しかし、そのころ、コンピューターの世界は、まったく日進月歩で、ほとんど毎月のように新機種が店頭に現れつつあった。私たちが、額に汗してもたもたと簡易DTPの方途を探っているうちに、それまでの努力を嘲《あざけ》り嗤《わら》うように、その機械性能は、幾何級数的に進歩していった。  初め書院で入力を開始した目録ファイルは、ワープロ自体の貧弱なCPU(中央演算装置)能力に阻《はば》まれて、じきに編集作業の行き詰まりに直面し、それを乗り越えるためにはどうしても、もっと高速なパーソナル・コンピューターのパフォーマンスが必要だと思うようになった。いまと違って、その当時のパソコン世界は、まったくNECのPC9801の独占状態で、パソコンといえば98を意味するというような有り様だったから、私はただちに98(の互換機のエプソン)と「松」というワープロソフトを用いて、入力を続行するようになった。こうして、目録の本文は、もともと書院のファイルだったものを、98のファイルに変換して整斉《せいせい》したものと、98(エプソン)で入力したものが半々という割合、それを出力したのはカシオのレーザープリンターだった。  ところが、こういう作業にえんえんと数年を費やしている間に、なんとしたことか、アップルのマッキントッシュが急速な追い上げを見せ、入力編集能力において、98を遥《はる》かに凌駕《りようが》する力量を示すようになった。  そこで、入力も済み、校正もほぼ完了して、いよいよ序説とか目次、凡例《はんれい》などを草する段になると、私たちは、より写植出力に近い高品位の印画をマッキントッシュ上で実現できるようになったのである。  しかしながら、本文のファイルには、膨大なJIS規格外の漢字(作字したもの)が含まれていて、これがどうしてもマックには変換できないために、本文自体はマックで編集することを諦《あきら》めなければならなかった。  こういう風に、この本は、その存在自体、パソコンによるDTPの黎明《れいめい》期つまりは一つの過渡的様相を如実《によじつ》に表しているのである。  その実体を下《しも》に列記しておくと、ざっとこんなふうである(☆印を附した項目はイギリスで編集した部分。それ以外は日本で編集)。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] ☆タイトル・ページ=写植印画にマックの日本文字出力|貼付《はりつ》け。 ☆目次=写植印画に書院の日本文字出力貼付け。 ☆英語序文=マック英語版入力テキストから変換せる写植。  日本語序文=98入力ファイルを変換してマックで出力したレーザープリンター印画。 ☆英語版序説=マック英語版入力テキストから変換せる写植。 ☆英語版凡例=書院出力印画。  日本語版序説=98入力ファイルを変換してマックで出力したレーザープリンター印画。  日本語版凡例=98入力ファイルを変換してマックで出力したYHPデスクライター(インクジェット・プリンター)印画。  参考文献一覧=98・レーザープリンター印画。 ☆総目次・元号対照表=書院出力印画。  本文=書院ファイルからの変換98ファイル+98入力ファイル・レーザープリンター印画。日本語索引三種=98・レーザープリンター印画。 ☆英語索引=マック英語版入力テキストから変換せる写植。 ☆コンコーダンス=書院出力印画。  後記=マック入力、YHPデスクライター印画。 [#ここで字下げ終わり]  見よ、一つの本のなかに、かくも夥《おびただ》しい種類のファイルと印画が雑然と同居するようになった。これがすなわち、「進歩」の痕跡《こんせき》にほかならぬ。  だからいま、三百年後の書誌学者諸君のために、私はとくにこうして書き残しておくのである。 [#改ページ] [#小見出し]  転機  あれから、はや十年あまりが経《た》った。  その速やかな時の流れの中で、森武之助先生も、阿部隆一先生も、またこれより言い及ぼうとする松本隆信先生も、ならびに既に白玉楼中《はくぎよくろうちゆう》の人となられた。  もはやなにもかも時効というものであろう。だから、私はここにいくらか意を決して、自分にとっての一大転機となったことどものあらましを、できるだけ冷静に、客観的に、誌《しる》しておくこととしたいのである。  おおかた二十五歳前後に、阿部隆一先生のもとで書誌学の勉強をするようになって以来、私の心には、いつしか「書誌学研究で立つ」という願いが萌《きざ》して、それは、勉強が進むに従って、ますます強くなっていった。それゆえ、阿部先生ばかりでなく、同時に太田次男先生の学問をも兼習したことは、すでに述べた。  そのころの、私の生活は、寝ている時間と食事や風呂《ふろ》の時間を除けば、ほぼ勉強だけに限られているというのが誇張でもなんでもないような有様であった。当時新婚の妻が、「この人はなんてまた、勉強ばかりする人だろう」と途方に暮れる思いがした、と今でも述懐することがある、それくらい、私の生活は、机に向かって何かを勉強していることが多かった。  それは、私が本来勉強好きだったからではなく、むしろ、そうしなくては追い付かなかったからだというのが当っているであろう。  片方に、森武之助先生と一対一の研究演習がある。これは、先生は何も仰有《おつしや》らないので、ただ私が一週間をかけて営々と研究した結果を、額に汗して、先生の面前でほぼ二時間、論弁するのである。先生はとても穏やかな性格の方ではあったけれど、その目は純真で、瞳《ひとみ》の光にごまかしを憎まれる強さがあった。先生は、殆《ほとん》どなにも教えては下さらない。それで、一生懸命勉強したその結果については、ただ、静かに「そうか、そうだろうね」というように認めてくださる。私にとっては、それがなにより大きな慰めなのだった。  先にも少し書いたことがあるけれど、私は大学院の修士課程の二年次から『小泉信三記念特別奨学生』というものに選ばれた。それは森先生が推挙して下さったからである。先生は、これについてこんなふうに言われたのだった。 「林、君を『小泉信三記念特別奨学生』というものに推挙したいと思うが、受ける気はあるかね……この奨学金は、将来、塾に助手として残るということを原則として貸与されることになっている。だから、そういう気概で勉強しなさいということだが、どうかね」  もちろん、私にそれを辞退する理由はどこにもなかった。  それから暫《しばら》くして、当時森先生と並んで慶應の国文を支えておられた池田弥三郎先生が、私を呼ばれ、今度はこういう風に諭された。 「森さんは、助手になるのを前提として小泉奨学金を貸与するように言ったかもしれないが、誤解のないように言っておくと、これは助手になるということを、何ら保証するものではないよ。ただ本来はそういう原則だったという一般論に過ぎないからね」  いかに世間知らずの私とて、将来まで保証された助手のポストにそう易々《やすやす》と就けるなどとは思っていたわけではない。けれども、心のどこかに、一抹の期待が無かったといえば嘘《うそ》になる。書誌学に見《まみ》える以前の、当時の私にとっては、それが最善の将来のように思えた。  一方で、私は博士課程進学と同時に、慶應女子高校の非常勤講師にもなった。それは、週に三日ほどの勤めだったけれど、忘れもしない、月給はたったの「二万四百円」でボーナスも手当もなにもなかった。だから、それではもちろん到底食べてはいかれなかったけれど、研究とはことかわり、若くて聡明《そうめい》な女の子たちを相手に、丁々発止と渡り合って授業をすることは、また一面大いに精神の解放というところもあるのだった。とはいえ、生意気ざかりの、しかも、みなひとかどの気概をもった女子高校生を相手にする以上は、並々ならぬ教材研究が必要で、それも私の勉強の大きな一部分となっていた。  こうして、森先生の演習と、女子高の講義、その上にほかならぬ阿部先生の書誌学の勉強が私の生活を三分してひしめいていたわけである。勉強に忙しかったのも道理である。  私が、二十八歳の春に、森先生は定年で塾を去られた。その時、私はまだなお博士課程に残ろうと思えば出来たけれど、幸いに単位は満了したことでもあり、森先生に従って私も国文の博士課程から籍を抜くことにした。  その前後、阿部先生は、私の将来を按《あん》じて下さり、斯道《しどう》文庫の「研究嘱託」というものになってはどうか、と勧めて下さった。これは、世に言う、無給研究員であって、塾の図書館を自由に利用でき、また対外的には、「研究嘱託」という肩書を使用して、その一メンバーであることを表明することが出来た。また論文を著した暁には、審査の上、『斯道文庫論集』という紀要に発表することが出来る、いってみればその三つだけがメリットなのだったが、それでも、大学院の籍を抜いてしまった身には、正式に「研究者」であることを対外的に保証してくれるわけで、決して小さからぬ意味があったのである。  こうして、博士課程の頃の私は、将来はまったく未知数ながら、なお、国文科の助手か、斯道文庫の常勤研究員か、というような淡い希望に期待を寄せて、ただ勉強ばかりの日々を送っていた。  ところが、この期待は、徐々に消えて行った。  博士課程の二年目だったか、池田先生が、私を呼び止めて、こう問われた。 「じつは洗足学園という学校が魚津に短大を作るという計画があるんだが、もしそれが認可されるなら、君行くかね」  そのころ、この計画はまだたんなる計画の域を出ていなかったかもしれない。けれども、池田先生がそう言われる以上は、私を国文の助手に任用する考えのないことを言われたに等しく、分ってはいたけれど、私は心中少なからず落胆をおぼえずにはいなかった。その気持ちが、私をして直ちにこの勧めを諾《うべな》わしめなかったのかもしれない。私はしばらく茫然《ぼうぜん》として答えず、 「少し考えさせて下さい」  と言った。そのとき池田先生はきっと憮然《ぶぜん》たる表情をされたであろうと、今にして思うけれど、その時は、そこまで心が及ばなかった。それから一昼夜ほど熟考して私は一応《ヽヽ》この話を受諾したのだった。  しかし、それでも、心中のショックは医《いや》しがたく、けっして喜んで魚津に行こうとは思わなかった。それは、漸《ようや》く面白くなりかけた書誌学の勉強を諦《あきら》めるに等しい事だったからである。  こうして、私の心のなかの「国文の助手」という選択肢が一つ消え、「女子高の教諭」「斯道文庫助手」そしてあらたに「魚津の先生」という三者となった。  そういう状況のなかで、私は森先生に従って大学院を退学したのである。  むろん、当時の私には、斯道文庫の助手になることが最大の念願だったけれど、いっぽうで女子高の先生となって、英才を教育することに一生を費やすのもそれはそれで楽しい天地であるような気がした。私はこの慶應女子高という学校が大好きだったのである。けれども、魚津の先生になろうという気持ちは、いつまでたっても一向に具体的な像を結ばないのだった。  二つ目の失意は、それから暫くしてやってきた。  ある日私は、当時慶應女子高の校長だったW氏に呼ばれ、突然に馘《くび》を言い渡されたからである。そのころ女子高では、次年度に専任の教諭を新たに任用する議が諮《はか》られており、私は、その実現にかなりの期待をもっていた。既に三十歳になろうとしていたし、女子高の非常勤講師として六年間、私なりに全力を傾けて、恥ずかしくない授業をしてきた積りだったからである。けれども、事実は、その新しいポストは私を通り越して何歳か年少の某君に行き、私は馘ということになったのである。校長は、少しも同情のない事務的な表情で言った。 「君はすこし年を取りすぎているので、本校では任用しない。それに、君は教育者というよりは、研究者に向いているのじゃないかね。本校では教育者は必要だが、研究者は要らない」  途方に暮れるとはこのことであった。  せめて私は、気を取り直して、自らを励ましてこう答えるのが精一杯だった。 「分りました。この上は、研究者として大成を期したいと思います」  後に、W氏は、この言をあげつらって、林という奴はとんだ大言壮語をする男だと嗤《わら》ったそうである。私は人|伝《づ》てにそれを聞いて、密《ひそ》かにくやし涙を流した。  私は蒼白《そうはく》な顔色で家に帰り、馘になるということを家族に伝えた。妻はしかし、少しも動ずる色なく、 「そう、困ったわね。でも学者の道で頑張ればいいじゃない」  と言って、却《かえ》って私を励ました。  かくて、私の手元には選択肢が二つ残った。斯道文庫と魚津、がそれである。けれども、斯道文庫は、念願ではあっても、なおその実現は雲を掴《つか》むように覚束《おぼつか》ない。しかし、魚津は、このままいけばきっと実現に及ぶであろう。私は、その魚津での書誌学の研究の不如意《ふによい》なる日々を想像して、悶々《もんもん》と日を送っていた。  そうして、年も押し詰まった十二月のある日、私はとうとう意を決して魚津の話を辞退することにした。  冷たい雨の降る、寒い夜だった。ともかくお目にかかりたいとだけ申し上げて、私は池田先生のお宅の扉を叩《たた》いた。和服姿の先生が、玄関先まで出て来られ、立ったまま、 「何だい、話ってのは?」  と問われた。私は、何の挨拶《あいさつ》もなく言った。 「じつは、魚津の件ですが……いろいろ考えましたが、どうしても辞退させて頂きたいと思います」  足元が雨に濡《ぬ》れて、冷たかった。すると池田先生が、かすかに表情を動かして、こう言われた。 「辞めるか。それで……なにか当てはあるのか」 「なにも、ありません」  池田先生は、そのとき、大きくうなずいて、 「よし、そうか」  とだけ言われた。私はそのまま、また雨の中を辞去した。そうして、暗い帰り道で、いよいよ何のあてもない浪人になったことを思って、暗澹《あんたん》たる気持ちになった。  さて、その情けない年も暮れ、新年になった。  幸いに、翌年度一年間は、ある会社の社内研修機関の代理講師をすることになっていたので、当面そこばくの収入は確保できる見通しがあった。しかし、その先はまるで、おぼつかない。  どうしたものだろう、と思っていると、捨てる神あれば拾う神もある寸法で、二月になって、まったく突然に東横学園女子短大の英修道《はなぶさながみち》学長から電話がかかってきた。  東横の専任にならぬか、というのだった。  なんでも、東横の江戸文学の先生が、故《ゆえ》あって突如その職を辞したのだということだった。もはや新学期まで幾ばくもないという時期で、英学長が是非自分の母校でもある慶應から若い者を迎えたいということであったらしい。そこで英さんは、教え子の太田次男斯道文庫教授に斡旋《あつせん》を嘱し、先生はまた直ちに私を推薦してくださったというわけなのだった。  ところが、そのころまで、私は研究に専念こそしていたものの、(これは慶應の学風でもあるのだけれど)一向に論文も書かず、どこの学会にも所属していなかった。すなわち、いわゆる「業績」というものが、皆無に近い状態だったのである。それゆえ、東横の国文科では、英学長が横車を押して、慶應から何の業績もない|馬の骨づれ《ヽヽヽヽヽ》を引っ張ってくる、というふうに受け取って、この異例の人事に頗《すこぶ》る反対したのだそうである。それはまことに道理の至極で、その場に私がいてもやはり同じように反対したに違いない。そこで、英学長は私の業績不足を補うに指導教授らの推薦を以《もつ》てしたいと考えたのであろう、森武之助先生の推薦状だけでなく、池田弥三郎教授の推薦も書いて貰《もら》うようにということになった。  ところがちょうどそのとき、慶應は入試の真っ最中で、池田先生は入試採点本部に詰めて陣頭指揮に当っておられた。  人を介してかろうじて連絡が付き、ことの次第を申し上げて推薦状をお願いすると、先生は気軽な調子で、 「ああ、いいよ。すぐ書こう」  と言って下さった。しかしながら、このことが公《おおや》けになると、慶應の中には必ずやこの話の進行を妨害する輩《やから》もあるから、というので、極々秘裏に書いて下さるというのだった。 「僕が自分で出ていって、君に推薦状を渡したりすると、目立っていけないから、西村君に託すことにする。何日の何時何分にキャンパスの中央の大|銀杏《いちよう》のしたで、西村君から受け取るように」  池田先生はそう諭された。  その日のその時間に、大銀杏のあたりで待っていると、入試採点本部のある校舎から西村|亨《とおる》先生が足早に出て来られ、まるでスパイ映画みたいに、すれ違いざま、白い封筒を隠しから出して、そっと私に手渡した。それが、池田先生の推薦状だった。  こうして、私は無事東横短大に専任の職を得て、新しい年度には行く末のことを心配しなくてもよいという身分になった。結果から見ると、私はすんなりと慶應の女子高から東横へ栄転でもしたように見えるかも知れないけれど、それは事実でない。実際は、かくのごとく馘になったのが先で、東横に職を得たのはその暫《しばら》く後のことになる。  これで風来坊にならずに済む、それはたしかにとても嬉《うれ》しかったけれども、慶應を離れて、雑務の繁多な私学の専任になるということは、書誌学の勉強に割き得る時間が絶望的にすくなくなるだろうと想像された。それに、他大学の人たちの寄り合い所帯である東横に移ることは、なんだか武者修行に出ていくような高揚した気分もあって、かれこれ複雑な感懐を抱きつつ、私は東横短大の専任講師になったのである。  森先生は、 「どうせ東横に一生骨を埋めるってぇことはないだろうから、暫くの辛抱さ」  などと暢気《のんき》なことを言って私を励まして(?)くれたけれど、私自身の気持ちのなかでは、ひとたび東横に職を得たからには、そこに一生を投ずる積りで、この先、別の大学に移るようなことはたぶんないだろうと思った。当時私はちょうど三十歳になったばかりで、東横の定年が七十歳だったから、「あと四十年、この学校で過ごすか」と思うと、そこが自分にとっての第二の家郷《かきよう》のような気さえするのだった。  私は妻と二人で、そのことを素直に喜びながら、七十歳になった自分たちを無邪気に想像したりした。  それでも、やはり私の頭の中心には、いつでも斯道《しどう》文庫の研究員になる夢が居座っていて、それがこの喜びにちくちくと突き刺さった。やっぱり、斯道文庫で阿部先生の跡を継いで書誌学の研究を大成したい、本当をいえば、それが私の何よりの願いだった。  人生の皮肉は、しかし、この東横短大という大学が私にとっては、その後の進路を左右する大きなステップとなったということである。そこには、いまから思うと、ほんとうにかけがえのない幸いが用意されていたのである。  まず第一に、近代文学者で評論家でもある久保田|芳太郎《よしたろう》先生が学科長でおられたことである。久保田先生は、早稲田大学の出で、体格も心柄も、ゆったりと大きな、いわゆる「大人《たいじん》の風格」を備えた方である。その大きな器量は、私たち若い者の圭角《けいかく》を包容して、自由にその力を伸ばしてくださった。これが幸いの第一である。  この名将のもと、古代文学の長谷川政春さんや平安朝の渡辺秀夫さんといった若くて気鋭の学者たちが、そこには腕を撫《ぶ》し轡《くつわ》を並べて、研究に教育に出精しておられた。学科内の空気はあくまでも清澄《せいちよう》、私たちは言いたいことを自由に言い、したいことを存分に励んで、それを久保田学科長が、「責任は俺が取るからせいぜい自由にやれよ」と微笑《ほほえ》んで見守っている、言ってみればそんな感じだった。この梁山泊《りようざんぱく》のような明るい空気は、その後の十三年間、私が東横にいるあいだじゅう変らなかった。これが幸いの第二である。  さてまた第三の幸いについては、後にまとめて述べることにして、ここでは先を急ぐことにしよう。  こうして私は、東横短大という晴朗な空気のなかで、いくらでも好きなだけ論文を書き、研究を積み、研究者としての基礎を固めていったいっぽう、入試問題の作成や学校の様々な雑務にもたずさわって、それもまた、学校人組織人としての大切な修業時代だったように思われる。  東横短大の生活もいよいよ軌道に乗って、二年という月日がたちまち過ぎた。  阿部先生が定年の日を迎えられたのは、ちょうどその時だった。  先生の後任に、と私はもちろん希望を抱いたけれど、それはまたもや叶《かな》わなかった。阿部先生が漢籍の専門なので中国文献畑の人を、というのがその最大の理由であったらしい。この席を襲ったのは、中国史のY君である。  その人事も、おおむね決着をみたころ、阿部先生は、この度の人事について懇《ねんご》ろに私を諭された。先生は誰も居ない夜の研究室に私を呼んで、いつになくしみじみとした口調でこう言われた。 「君を斯道文庫の後任にしたいと思うけれど、今回はなんといっても、君が東横に入ってまだ二年にならない。それをこちらの都合で引き抜くのは礼に外れることでもあり、また漢籍の専門を取りたいということもあるので、今回はY君に譲ってやりなさい。……いいかね、太田君が二年後に定年になる。それまで待ってからでも遅くはあるまいよ。せいぜい実力を蓄えて、二年後を期しなさいや」  それは本当に慈愛に満ちた口調で、私は急に未来が輝き始めたような気がした。  私が三十二歳の時のことである。  それからまた二年が経《た》った。  阿部先生が諭されたとおり、私のもう一人の師、太田次男先生が定年を迎えられた。  その前年の夏、太田先生は例によって信州に暑を避けながら、大学院の学生たちと『白氏文集《はくしぶんじゆう》』の研究に明け暮れしておられた。むろん私も例年通りこれに参加して、毎日文献とにらめっこして過ごしていたが、そのある午後、先生は誰も居ないところで、こう言われたことがある。 「来年、私も定年になる。そこで、私の後任だけれど、自分としては是非林君にと思っている。またそういう方向で阿部さんや松本君にも話してある。だから、阿部先生の書誌学ばかりでなく、私の学問の方法も兼ねて修めるように努力してもらいたい。ついては、後任人事に際して、自分として、君を推挙することにするけれど、良いかね」  私に否《いな》やがあるはずはなかった。  これが私と慶應義塾が最も接近した(と思われた)一瞬である。  私はそれから、ますます研究に力を致し、たとえば名古屋の真福寺に伝存する『遊仙窟《ゆうせんくつ》』の古写本の実査に及んで、その精細な校注書き入れ本を作成したのを手始めとして、一層精密な文献研究の道を求めて歩き出した。その一方で、阿部先生に業を受けた書誌学の研究のほうは、江戸時代の通俗小説「浮世草子」の総書誌調査という厖大《ぼうだい》な研究を、寸暇を求めて進展せしめ、次々と論文を発表していった。  研究者としての前途は、いまや洋々として開け始めたかと思われた。  その矢先だった。  阿部隆一先生が、突如病を得て倒れられ、検査の為《ため》と称して入院されたきり、終《つい》に帰らぬ人となった。  肺癌《はいがん》だった。そしてここに、私の行路は、再び大きな曲り角を迎えたのである。  世に言う「就職運動」ということを、私はそれまで全く経験したことがなかった。というよりも、アカデミックの世界では、そういうことは「してはならない事」に属していたというべきだろうか。  どうやって大学の先生になるか、ということは案外世間一般には知られていないかもしれない。通常の就職だったら、自分の希望する会社なり機関なりに、訪問して、その意思を表明し、就職試験に成績をおさめ、または大学からの推薦を差し出すとか、そういうふうなプロセスを経て、内内定、内定、と決まっていくであろう。そこには明らかに就職する側の意思表明が前提として存在する。しかし、大学はそうではない。ある大学に就職したい、と仮に思ったとしても、当該の学科に空席がなければ、その願いは決して果たされない。しかも、仮にまた空席が出来たとしても、その人事は、現に実権を握っているボスの支配によって動かされる。そうして、そのボスは他の大学の教授であったりする場合も少なくない。すなわち、ここにA大学という二流大学があったとして、その大学は事実上一流B大学の支配下にあるとすれば、A大学の人事は肝心のA大学のスタッフの力によって定まるというよりは、その親分筋に当たるB大学の教授の支配に従うというのが実際のところである。B大学の教授は、A大学の空席を埋めるに、例えば北海道のC大学の講師X氏を以《もつ》てし、そのX氏の空席に補《ぶ》するに栃木のD大学のY助手を以てし、さらにそのD大学の助手職の席に、B大学大学院生のZ君をあて……とあたかも将棋の駒《こま》のように人を動かす仕組みになっている。この詰め将棋の駒に挙げられたXYZの各氏は、もしその席が自分にとって必ずしも嬉しくないものであるとしても、B大学主任教授の意向には逆らうことが出来ない。そんなことをすれば、以後ご指名に与《あずか》ることを諦《あきら》めなければならないからである。  そこで、大学の教員というものは、一部の幸運な例外を除いて、自分の意志にそった大学に就職できるとは限らないのである。  あわて者の兎《うさぎ》が切り株にぶつかって転げるのを待つのと同じように、就職は、ただ戦々兢々《せんせんきようきよう》として「お声」が掛かるのを待つ仕組みである。  そうして、かりに自分が母校の教員になりたいと思ったとしても、一般の就職のように「ここに就職したいのですが」ということを表明することは、まったくの御法度《ごはつと》となっている。そういうことをすれば、その者は、傲慢《ごうまん》なる非常識人とみなされ、かえって選考から外されるに違いない。  それゆえ、私はかつて「大学に就職したい」ということを自分から表明したことがなかった。ただ、尋ねられれば「それはできればそうしたい」ということは勿論《もちろん》言ったかも知れない、とその程度のことだったのである。  さて、慶應女子高校の専任ポストに就くことに失敗した私は、東横短大に骨を埋めても良いとは思ったけれど、それでも、太田先生からお勧めを頂いてみれば、むろん人生究極の目的として、なんとかその斯道文庫の専任研究員になりたいものだと思わずにはいられなかった。東横がどれほど居心地の良い別天地だとしても、こと書誌学の研究という観点から見れば、どうしたって時間的に制約が大きすぎて、斯道文庫の研究員のように研究に力を尽くすということは難しかったからである。阿部先生の学問、太田先生の学問、それが漸《ようや》く面白くなってきたところだった。しかも阿部先生|亡《な》きあと、その学問を継承し発展させる責務が私にはあるという気負いもあった。  東横短大で、いちおう安定した生活をこそ保証されていたけれど、斯道文庫に入りたいという思いは、一日として止《や》むときがなかった。  いよいよその人事選考の時が、近づいてくる。  私は、自分がいかに行動すべきか、悶々《もんもん》と懊悩《おうのう》していた。斯道文庫への希望を、自ら積極的に表明するべきであるか、それともただじっと座して待つべきであるか……。  後ろ盾ともいうべき阿部先生は既に亡い。太田先生はお辞めになるご本人で、厳密にいえば人事権がない。  冷静に判断すれば、状況は悲観的に眺められた。しかし、天命を俟《ま》つに人事を尽くすべきではないか、私はなにか行動を起こさずにはいられなかった。それがまず確実に非常識な行動と貶《へん》せられるであろうことは疑いなかったけれど、ダメでもともとじゃないか。  ついに意を決して、私は当時斯道文庫長であった室町物語研究の松本隆信先生と、平安朝和歌の平沢五郎教授のご自宅に参上して、自分として、斯道文庫で研究生活を送ることが人生の夢であること、またそうしたらどういう風な研究をしてみたいか、などについて、思う通りに申し上げることにした。  松本先生のお宅は、麻布《あざぶ》の徳正寺《とくしようじ》というお寺で、先生はその住職を兼ねておられた。  端正な応接間で、白髪|痩身《そうしん》の松本先生が、静かに応対して下さった。私は、言葉を選び、面《おもて》を正して、自分の意のあるところを申し上げたのだった。先生は、だまってじっと聞いておられた。そうして、囁《ささや》くような小声で、 「林君の気持ちはよく分りました。君の実力も十分に承知しています。ただ、文庫にも文庫としての事情があって、必ずしも林君の希望に添えるかどうか、なんとも申し上げられないのです」  その声調は真摯《しんし》で、やや涙ぐんでさえおられるように見えた。私は、それがどうしてであるか、正確には理解できなかったけれど、斯道文庫が私を後任に採用する気がないだろうことを、この松本先生の面色から察知したのだった。 「たぶん、ダメだろう」  私は、天を仰いで長大息した。それから、つづいて平沢教授のもとへも同じことを申し上げにいったけれど、これも、概《おおむ》ね同じことの繰り返しだった。  ほぼ絶望しながら、私は、家族と共に、青山墓地と烏山寺町の先祖の墓に詣《もう》でることにした。いよいよ、そのぐらいしか、もはやなすべきことが残っていなかったからである。  青山墓地の林家の墓所へ向かう途中、お供えの花束を、まだ幼かった息子が、「ぼくに持たせてよ」と言った。何心もなく息子に持たせて、参道を歩いていると、突如として、その大きな花束が、息子の手から滑り落ちた。  全員が「あっ!」と言った。  慌《あわ》てて拾い上げると、花束の中央の大きな白菊の花が、首のところでぼっきりと折れて、かなしく道の上に転がっていた。  誰も何も言わなかった。ただ顔を見合わせて、がっかりした気持ちになった。不吉な予感が私たちの胸裏をよぎった。  そうして、結果は、果たして想像した通りになった。かねて念願の研究職は、またもや私の頭上を通過して、一つか二つ年下のK君に行ってしまったのである。  その頃のことである。東横の久保田先生が、 「どうです。ひとつ外国へ研究にいってみませんか」  と、東横短大の経営母体五島育英会の留学基金に申し込むことを勧めて下さったのだった。これが、東横に入ったことの第三の幸運であった。  もはや、母校に戻る芽はすべて絶たれた。  過ぎ去って行った過去の夢に、いつまで恋々《れんれん》として、何になるであろう。私は、斯道文庫が私の力を認めないのならば、自ら死力を尽くして、それを世界に問うてみよう、と大げさにいえばそういう風に思った。  何もかも、すべてがご破算である。  外国! 思いもかけないことだった。  しかし、イギリスにはアーネスト・サトウらが将来《しようらい》した厖大《ぼうだい》な日本文献の山があって、それらがほぼ未整理のままになっていることを、私は偶然に承知していた。  よし、イギリスに行こう!  成算はまるで無かった。知る人もいない。もとより未知の国である。英語の自信は殆《ほとん》どない。  しかし、そう決意してからというもの、私の周囲には、次々と偶然の幸運が巡ってきた。どういうわけか、ケンブリッジからは、カーメン・ブラッカー博士、オックスフォードからはジェイムズ・マクマレン博士が、相次いで来日され、このまったくなにの知り合いでもない私に、やさしく力を貸して下さった。たちまち、両大学での研究員としての受け入れが決まり、奨学金が決定し、三菱財団からの研究費の助成も下り……、とすべてが順調に運び始めた。あらゆることが思い通りに進んで行く。  それは本当に不思議だった。  こうして、私とイギリスとの長く親密なつきあいが始まったのである。それからは、フレデリック・ローゼン博士の家に下宿し、ルーシー・マリア・ボストン夫人のマナーハウスに住み、ロンドン大学の目録作りに成功し、ついでケンブリッジ大学の目録|編纂《へんさん》を任され、と私の人生は一年前には想像も出来なかった方向へ進んでいった。  思えば、慶應の女子高に入れなかったことも、斯道《しどう》文庫に受け入れられなかったことも、すべてはあらかじめ約束された「幸運」であったのかもしれない。 [#改ページ] [#小見出し]  大夢大覚  江戸時代の前半に、なぜかくも「老荘思想=隠遁《いんとん》思想」が流行したか、ということはすこぶる興味深い事柄に相違ない。  書物の出版された形跡から推量するに、古今最大のベストセラーにしてロングセラーなるものは、日本の古典文学では、疑いなく『伊勢物語』である。それは、江戸時代にいかに多くの(それはもう数え切れないくらいの)木版本が、この古い物語の上に現れたか、ということを想起すれば足りる。細かく見ればそれは、江戸時代二百五十年余りの間に、およそ四百種を超えるであろう。その他に『女大学』などを看板とした教訓百科全書ともいうべきいわゆる「女訓《じよくん》物」の|鼇頭あ《ごうとう*》たりに併収されたものを合すれば、その総数は優に五百を超えると見てよい。すると、二百五十年間絶え間なく毎年二種の新版が現れ続けた勘定になる。このことがいかに想像を絶したベストセラーであるかということは、いまここに贅言《ぜいげん》を弄《ろう》するに及ばない。  さて、その次に位置する古典文学はなにか。これまたおそらく版種数百をもって算《かぞ》うべき『徒然草《つれづれぐさ》』がこれにあたるであろうと思惟される。『徒然草』のかくも愛好せられた理由は、簡単には述べがたいけれど、そのいくつか考えうる理由の中に、これが「隠者文学」であったからということが含まれることは確実である。  げに、「隠遁」こそは、江戸時代人にとっての永遠の憧《あこが》れであった。  考えてみれば、江戸文学史上最大の小説家であった井原西鶴は、その豊かな家業を早々と番頭に任せて、自らは新町遊廓の近くに風流の庵《いおり》を構え、窓辺に蘭《らん》を飾り、手ずからみずから珍肴《ちんこう》を調理して、親しい友どちを招き、これに舌鼓《したつづみ》を打たしめて楽しんだ、と伝えている。  ここに近代の「文士」ぶりに至る、一つの文人の原型が見て取れる。彼の豊饒《ほうじよう》なる作物は、言ってみれば、その隠遁的風流生活の産物にほかならなかったのである。  また近世|俳諧《はいかい》の神祖松尾芭蕉が、まったく隠遁の人であったことは、誰の目にも明らかなことであろうから、ここにくどくどしく述べるまでもない。  洛東《らくとう》詩仙堂に隠逸《いんいつ》の生涯を送った石川|丈山《じようさん》は、元和《げんな》元(一六一五)年大坂夏の陣に家康|麾下《きか》の軍将として先駆けの勲功を上げたが、それが却《かえ》って軍律を紊《みだ》るものと家康から叱責《しつせき》を蒙《こうむ》り、ついに世俗を去って隠遁、以後風流韻事にのみ携わった。そうして、「渡らじなせみの小川は浅くとも老いの波立つ影も恥づかし」という歌を詠じて、天子の召しにも応じなかったと伝えられる。  この丈山と文墨の交を有《たも》った下河辺長流《しもこうべながる》も、芭蕉の遠い師匠筋に当る松永貞徳も、みな一種の隠遁者であった。このほかにも、江戸時代に隠遁を気取った文人など、ほとんど河原の石のごとく無数にいる。  そうして、かれら隠逸の徒の心底にいつも去来していたのが他ならぬ「老荘思想」であった。  それはいったいどんな思想であったろうか。その大本である『老子』となると、その言や微妙、茫洋《ぼうよう》としてその意をはかり難いところがあるので、より具象的でおもしろい『荘子』によってこれを見る。曰《いわ》く、 「南伯|子※[#「其/糸」、unicode7da6]《しき》が商の丘に遊んで、そこなる大木を見た。まことに並外れた大木である。その大木は、四頭立ての馬車が千|輛《りよう》もすっぽりと隠れてしまうほどに太い。子※[#「其/糸」、unicode7da6]は言った。これは一体何の木であろう。定めて優れた材木になるであろう、と仰いで見ると、その細い枝はグニャグニャと曲がって棟にも梁《はり》にも用いるすべがない。俯《ふ》してその大きな根を見ると、これがまたすっかり空洞になっていて、棺桶《かんおけ》を造るにも及ばない。その葉をねぶるとたちまち口が爛《ただ》れ、その匂《にお》いを嗅《か》げば三日の間狂い病む有り様である。そこで、子※[#「其/糸」、unicode7da6]は覚《さと》った。ああ、これは『役立たず』の木だ。『役立たず』なればこそ、ここまで巨大に育つを得たのだ。ここをもって思うに、神人というものは、かくのごとく『役立たず』なものであるに違いない」(「人間世篇第四」)  すなわち、人として生まれて、なにか社会の役に立ちたいなどと考えることが「ひがこと」である。役に立たぬ者こそが真の人間なのだ、というのである。経世を事とする儒教の教えに真っ向から対立する、いわゆる虚無の思想である。  またこういうことも言ってある。曰《いわ》く、 「夢の中で酒を飲む者は、そのあしたに哭泣《こくきゆう》するかもしれぬ。また夢の中で哭泣する者は、そのあしたに狩りに出かけるかもしれぬ。しかるにそのいずれにもせよ、夢の中に居《お》るものは、まさにそれが夢であることを知らない。そうして夢の中で夢占いなぞをして、その夢から覚めて初めてそれが夢であったということを覚るであろう。従って、大いなる目覚め(大覚《たいがく》)がやってくれば、この人生また大いなる夢(大夢《たいむ》)であったことを知るであろう。しかるを、愚かな者は、自分が覚めていると思って、知ったかぶりをして何でも分っているような顔をしている。それで君主だの牧人だのという、いやまことに固陋《ころう》なる者というべきである。孔子よ、私がお前を夢見ているというのも、すなわち夢である。またお前が私を夢見ているというのも、すなわち夢にほかならぬ」(「斉物論篇第二」)  人生は、大きな長い夢をみているのかもしれない。それが、ある朝はたと目覚めれば、「嗚呼《ああ》、あの苦しかった人生は夢だったか」なぞと大いなる覚醒《かくせい》に至るだろう、というのである。  それならば、いっそ人生の総《すべ》てが夢ならば、その中で君臣の別を言い、出世栄達を願ったりするのは、あたかも夢の中で夢占いをするに等しかろう。  そこで、真の君子というものは、ざっと次のようなものだと言うに至る。 「かくの若《ごと》き者は、金は山に珠《たま》は淵《ふち》にそっとしておいて、これを掘り出したりはしない。貨財を役立てることもなく、富貴に近づくこともしない。長寿を楽しむこともなければ、若死にを哀《かな》しむにも及ばない。栄達を誉れとも思わないし、貧窮を恥とも感じない。一世の利得を釣り上げて己に私《わたくし》しようともせず、天下に王たるとも自ら顕位に居るとも思わぬ。されば、万物は一体であり、死も生も結局同じことである」(「天地篇第十二」)  現世というものは、夢とも現《うつつ》とも分かちがたい、そういう中で有用の材であるとか、もって君王に仕えて栄達を為《な》すとか、巨万の富を得るとか、そんなことが何になろう。若《し》かず、すべからく無能の人無用の材となりて、隠逸の夢に遊ばんには、とこう世の中を斜《しや》に眺めるのである。従ってまた、老荘はどこか仏教思想と通いあうものがある。  それは、合理的経世思想である儒学に対する明らかなアンチテーゼであった。かつて戦国下克上の世には、有能の人は、忽《たちま》ちに一国一城の主となり、あるいは一朝一夕に濡《ぬ》れ手で粟《あわ》の銭儲《ぜにもう》けをしでかすも夢でなかった。  しかし、江戸時代はそうでない。総ては閉塞《へいそく》し、夢は閉ざされ、身分は固定し、努力は空しく眺められる。そういうなかで、もし「なに、この世は所詮《しよせん》夢に過ぎぬ、出世栄達それ何の意義かあらん」と囁《ささや》く思想があれば、それはどれほど彼らの慰安に成り得たであろうか。  ところが、よくよく考えてみると、はたしてこの荘子のいうような生活が実際に可能であったろうか。  無能の人、無用の材、そうして無為の生活、といったところで、雲霞《くもかすみ》を食らって生きても行けまい。  かの隠者の代表株だった石川丈山だって、その背後には板倉氏というれっきとした大名のパトロンがいたのだし、あるいは東本願寺なども有力なパトロンだったかと推量される。それでなくて、なぜあのように瀟洒《しようしや》な詩仙堂を営んで、悠々自適《ゆうゆうじてき》の生活ができるものか。  西鶴にもまた、恒《つね》の産があって、いわゆる隠居金に事欠かなかったからこそ、俳諧の隠士たりえたのである。芭蕉も同じことで、果たしてあの芭蕉|庵《あん》を提供したのはだれであったか。はたまた、奥の細道の旅で、各地の有力富裕なパトロン弟子を歴訪して、なかなか優雅な日々を送っていたとおぼしいこともまた、いまや常識であろう。すなわち、この隠遁ということは、それ自体、「虚構」としての生活だったのである。  しかし、それでも、なかには真面目《まじめ》にその隠遁風漂の生活を実行しようとした人もあった。  たとえば、桃水雲渓《とうすいうんけい》という奇僧のごとき、それである。桃水は、天和《てんな》三(一六八三)年に七十余歳を以《もつ》て入寂《にゆうじやく》した天下の乞丐僧《こつがいそう》で、一生無一物の境地を実践した人である。その隠遁ぶりはまことに徹底していて、事実上まったくの乞食《こつじき》に異ならなかったが、それでも命を繋《つな》ぐに足る最低限の食物以外一切の施しを受けなかった、と言われている。その風来坊ぶりは当時から有名だったと見えて、貞享《じようきよう》三(一六八六)年の刊行にかかる『近代艶隠者《きんだいやさいんじや》』という隠者小説集のなかに「清水《きよみず》の乞食」として描かれている。この小説は、西鷺軒橋泉《さいろけんきようせん》という西鶴の弟子筋にあたるマイナーな作者の手になる作品であるが、一向に面白いものではない。この面白くもない二流の作品が、印刷出版されたというその事実の背後に、すなわち、近世前期に於《お》ける、隠遁思想の流行を読んでおかなくてはならないのである。  そうして桃水については、後に、明和五(一七六八)年に、この和尚《おしよう》の一代記『桃水和尚伝賛』という書物が出版されて、その行跡《ぎようせき》が詳しく紹介されるに至ったほか、『近世|畸人伝《きじんでん》』にも取り上げられて世人の良く知るところとなった。  思うに、こういう人の末に、たとえば種田山頭火《たねださんとうか》のような人が連なるのである。  けれども、無能の人、無用の材、それこそが真人《しんじん》、至聖のあるべき姿であった筈《はず》であるが、桃水の如《ごと》きも、その余りにも異風の乞食生活の故《ゆえ》に、つまり無用無能を標榜《ひようぼう》する特異なる生き様の故に、却って千載に名を残す結果となり、もって有用の材、有能の人となってしまったのは、まことに皮肉であったといわざるを得ない。  すなわち、かかる隠遁の思想というものは、ただ漠然とした空理空論であって、現実の世界ではしょせん虚構に過ぎなかったというべきである。 [#改ページ] [#小見出し]  亀井孝先生  亀井孝先生が、亡《な》くなられた。  私は、ここに追悼というつもりでなく、ただ或《あ》る時期、先生のお側《そば》に居た者として、そこばくの追懐を書き留めておこうというばかりである。  今を去る数歳の以前、先に世を辞された森武之助先生と亀井孝先生とは、その少年時代に慶應で机を並べられた、いわば幼な馴染《なじ》みであられた。その誼《よし》みで、亀井先生は、ずっと慶應で国語学を講じて下さったので、私ども末輩の者も又、その講筵《こうえん》に侍する事を得たのである。  一時期、森先生は、慶應|斯道《しどう》文庫の文庫長をして居《お》られたことがある。凡《およ》そ斯道文庫の長として、森先生ほどの適材はまたとなかったのではあるまいかと、今にして私は、あの春風駘蕩《しゆんぷうたいとう》たる空気を想起する。森先生は、御自身は、それほど熱烈に研究に励まれたというわけでもなく、言ってみれば酒杯を片手に心底《しんてい》文学を甘《あま》なわれた方だと評しても、当らざること遠しとはせぬであろうと思われる。しかし、その一方で、先生は、世に謂《い》う名伯楽《めいはくらく》の才を備えて居られた。阿部隆一先生のような、良く言えば才学雄長精力絶倫の勉強家、悪く言えば一種の変人|畸人《きじん》をば、悠然《ゆうぜん》と制して克《よ》くその学問を大成せしめたのみならず、それぞれが一匹狼《いつぴきおおかみ》的な学者の集まりだったこの特殊の文庫を丸く治めて、平曲風に言えば「ちっともはたらかさず」、その本分を全うせしめたという点で、まことに天下一品の手腕であった。  その森先生が、文庫長でいらっしゃった時分の斯道文庫には、亀井先生がよく顔を出され、頗《すこぶ》る打ち解けた様子で、何彼《なにかに》の事を論じておられたものだった。  森先生は、たいていその相手をして居られたが、まさにこの両先生|対坐《たいざ》して談論風発する様は、ちょっと一幅《いつぷく》の絵になる風景だった。  頭の天辺《てつぺん》から絞り出すような奇声で弁じ立てられる亀井先生に対して、森先生は背を丸め口元を重く引き締めて黙って聞いておられる。そうして、時々、 「そうさ、まったくだね」  というような相槌《あいづち》を打たれるのだった。  暫《しばら》くして、亀井先生がその場を辞去されると、森先生は微苦笑を口辺に漂わせながら、 「まったく、亀井さんは偉いね。非常に偉いが、自分の言っている事を人が解らないということが分らないんだね、あの人ってものぁ。まあ、それほど偉い人だね」  などと、褒めているんだか、揶揄《からか》っているんだか分らないことを仰有《おつしや》った。  亀井先生は、人も知る如《ごと》く圭角《けいかく》甚だ鋭きお人柄で、一度はその講筵に侍《はべ》り又は学恩に浴しながら、ふとしたことで逆鱗《げきりん》に触れて破門もしくは絶交のようになった人も少なくないのであるが、森先生ばかりは、終生変らぬ良友だった。それは一つに、両先生の御性格が余りにも正反対で、それぞれ相補うようなところがあったことと、どちらも良家の子弟で、人品|自《おの》ずから卑《いや》しからざるところが、共通していたからでもあろう。  森先生は、上記のような揶揄いを口には上《のぼ》せながら、何か重要な学問上のこととなると、亀井先生にその意見を徴《ちよう》されることが多かった。一代の碩学《せきがく》として、信ずるところが甚だ厚かったのである。  私自身は、大学院に進んで初めて亀井先生の講義演習の末席に連なることとなった。それ以前は、そもそも国語学ということに余り興味がなかったことと、亀井先生の評判に懼《おそ》れてむしろ敬遠して過ごしていたというのが正直なところだった。  大学院で初めて見た亀井先生は、聞きしに勝る風変りな先生だった。私共の学年は凡そ程度が低かった所為《せい》で、高等な言語学的講義はちっともなさらず、「君たちは極く初歩のことも知らないから」というようなことを仰《おお》せられて、橋本進吉博士の著作集のうちから『国語音韻の研究』を読んで下さった。その講説のスタイルは真に独特で、本を一冊だけ手に持って風に吹かれたように、フーラリと教室に入って来られる。そうして、黒板を背にやや斜めに構えて席を占め、顔は殆《ほとん》ど天井の方へ向け、瞑目《めいもく》しながら、橋本博士の文章の一つ一つの単語に就いて(というのが大袈裟《おおげさ》でないくらい詳密に)その趣旨|乃至《ないし》は含意を説明されるのだった。それは例えば、 「この、ここで橋本先生が『この』と言っておられるのは、いまその、この全体から、あなたざまにぃ、解釈するならば……」  とでもいうような具合で、注釈は注釈を呼び、説明は説明を招くという風にして、しかも、その殆ど一語ごとに先生は、天井を向かれ、首を横に振られ、口をモグモグされ、手を前後に揺すり、肩を西洋人のようにすくめられして、エェーとかアウーとかいう「考慮中の音声」を挿入しつつ、話は不可思議な回り道をして、少ーしずつ少ーしずつ、蝸牛《かたつむり》の歩みの如くに進んで行くのであった。しかも、先生は突然にぱっと目を瞠《みひら》かれたかと思うと、刺すような鋭い視線を此方《こちら》の眼に直射して、「……というわけ、です」などときっぱり言い括《くく》られたりする。その視線に当る度に、私たちは、「お前ら、てんで分ってないだろ」と図星を言い当てられたようで、心臓が縮み上がるのだった。  学生の私たちは、その独特の話法に振り回され、何がどうなっているのか一向に理解出来ないまま、一学期が終る。そこで私たちは、なるほどこれは森先生の言うとおり、「自分の言っている事を人が解《わか》らないということが分らないほど偉い先生なのだな」と妙な納得をするのだった。ところが、私は幸いに文字を書くのが非常に速いので、先生の言われることを、それこそテニヲハの一字一字に至るまで、細大漏らさずノートしておいた。そうして、それを一学期が終るごとに、よく読み直して見ると、全体が理路整然たる体系もしくは構造を形成して、まさに余蘊《ようん》なき講説を成していたので、流石《さすが》蒙昧《もうまい》なる私も、ウーンこれは凄《すご》い、と感じ入った覚えがある。  果たしてこのことを書いてもいいものかどうか、些《いささ》か逡巡《しゆんじゆん》を感じるのだが、寧《むし》ろ潔《いさぎよ》く書いておいたほうが、亀井先生という方をあちこちから照らすよすがともなるであろうと思って、敢《あ》えて、言及しておくことにする。  というのは、その晦渋《かいじゆう》無双とも評し得べき、大学院の講義のある日のことだった。  先生は殊《こと》の外上機嫌で、にこにこして教室に入って来られると、雑談のような調子でまずこう言われた。 「僕は、慶應が、アァ、|好き《ヽヽ》なんだよ」  とこの「好き」のところを、特に念押しされるように強く且《か》つ音程高く発音され、アレアレと首を捻《ひね》っている私たちを尻目《しりめ》に、今度は続けて、 「だから、よその学校じゃ、こんなことは言わないんだけどね、慶應だと、自由でね」  と仰有った後、何故《なぜ》か急に顔を赤らめられた。そして、俄《にわ》かに口元の表情筋を引き締められると、突如、早口でこう言われた。 「チンコ、マンコ、ウンコ、シッコ」  一気呵成《いつきかせい》にそこまで言い切られると、先生はふっと一安心という顔になって、 「この、『コ』は、何か」  と問題提起をされた。私たちは、度肝を抜かれたというか、毒気に当てられたというか、ともかく唖然《あぜん》として先生の講説を待った。さて、その講説はどうであったか、申し訳ないが、すっかり忘れてしまった。或いは、これについてはただそういう問題を指摘されただけで、細かくは論じ及ばれなかったのかもしれない。  ともかく、先生はただ世界的言語学者という高邁《こうまい》なるイメージからはちょっと外れて、とかくこういう悪戯《いたずら》心、若《も》しくは「お茶目」な所のある都会人だった。  学問というものが、ただに重箱の隅をつつくような学匠沙汰《がくしようざた》ばかりでなく、行住坐臥《ぎようじゆうざが》すべてこれ学問ならざるはないのだということを、こういう刺激的な形でお教え下さったのも亀井先生だった。  私の大学院時代は、ただこういう風変りな先生の講義に呆気《あつけ》に取られているばかりで、それ以上専門的に師事するという気持ちは起きなかった。そのまま、もしかすると私は先生とは全く縁無き衆生《しゆじよう》で終ったかもしれないのだが、その後、不思議のご縁があって、何年かのブランクの後、親しくお導きを頂くことになった。  ある時、神戸の蔵中進さんが、『遊仙窟《ゆうせんくつ》』の影|印《*》索引本を刊行されることになって、私がその影印の底本を提供したことがある。この本は、故|大佛《おさらぎ》次郎氏が持っていた本で、所謂《いわゆる》「無刊|記《*》初印本」の一つであった(因《ちな》みに言う。『遊仙窟』の刊本は、無刊記の本が初印原刊本で、「慶安五年」の刊記を有する本は後印本である。そうして、この無刊記の本は比較的|稀覯《きこう》に属する)。その本が出たとき、私は森先生に一本謹呈したのだが、すると、直ちに森先生から葉書が届いた。この本を是非亀井さんにも一本差し上げるようにというのだった。仰せに従って、亀井先生にも之《これ》を謹呈すると、折り返し、達筆のお手紙を頂いた。それには、もしこの本を自分が店頭に見付けたならば必ず購入したであろう善本と思う、ただし「どうして大佛さんのところから流出したかなと思います」というようなことが書いてあった。私はこの御状を有難く拝誦《はいしよう》し、そうして、このことが再び先生と私とを結びつけるご縁の始まりとなったのである。  イギリスへ留学することになったとき、私は東横学園短大の一専任講師に過ぎなかった。日本の大学の時代錯誤的権威主義によって、私たちの年代の文学研究者にとっては、大学院を修了するときに博士の学位を取るなんてことは魔法の絨毯《じゆうたん》無しに空を飛ぶより難しいことだったから、私には当然、博士の学位もなく、つまりは、イギリスのような国で学者として通用するようなタイトルは皆無だったということである。それで、徒手空拳《としゆくうけん》、ただ志のみ高く抱いて渡英したとて、容易にその志を果たすべくも思われない。そう思って憂鬱《ゆううつ》になっていると、森武之助先生が、イギリスへ行くんだったら、亀井さんに相談してみるようにと諭された。森先生の意見では、亀井さんは若い頃にケンブリッジ大学にいたことがあるから、なにかと力になってくれるに違いない、というのであった。私は、亀井先生のあの風変りな講義の口調や風貌《ふうぼう》を思い出して、些かならず気が重くなった。突然電話をして力になって下さいなどとも言いにくかったし、またそんなことをしてもあの偉い先生が親身に世話をしてくれるという風にも思われなかった。  そうやってぐずぐずしているうちに、イギリス行きの日限は段々近づいて来る。そのころ、森先生の門下生たちが「森武之助先生をお囲みする会」という散文的な名前の親睦《しんぼく》会を一年に一度か二度開いていた。私もその末席に連なることが多かったのだが、森先生はいつでも亀井先生をお招きするように要請され、幼な馴染《なじ》みの亀井先生と森先生はその弟子たちを集えた和気あいあいたる会食の席でいつでも大層楽しそうに談論風発されるのだった。その年の冬の会が、横浜のある料理屋で開かれた。宴《うたげ》も終り、みなぞろぞろと帰り支度を始めたところで、私は思い切って亀井先生をつかまえてお願いしてみることにした。出口のところでちょうど靴を履こうとしていた先生に、おずおずと近づき、私は「あのー」とでもいうような要領を得ない挨拶《あいさつ》をしたとおぼしい。すると、微醺《びくん》を帯びて上機嫌だった先生は、私を認めるとすぐ、あの脳天から出るような高い声音で、 「ヨオォー、ハヤシィ!」  と仰有って、顔を少し斜め上に傾けられ(それは先生が上機嫌の時のポーズなのだった)ニコニコとされた。  私は大学院の授業ではいつも目立たぬところに座って、しかも熱心な学生でもなかったので、先生が直ちに私の名を言い当てられたことに、些かの驚きを感じた。 「覚えておいででしょうか」  とお尋ねすると、先生は、 「よく、覚えてるよ」と言われ、それから私が謹呈した『遊仙窟』の影印本のことなどを話題に上せられた。  その日、私は先生をご自宅までお送りし、その道々イギリス行きのことなどを申し上げて、お力をお借りしたいというようなことを言った。すると先生は、喜んで力になろうと言って下さり、それからそれへ、いろいろなことを話された。そのなかに、なかんずく一驚を吃《きつ》したことは、それより何年か前に、『飲食史林』という小さな同人雑誌に私が書いた『大筍《たいじゆん》五本の詩のことなど』という短いエッセイのことに言い及ばれたことだった。それは石川丈山と下河辺長流の詩歌の応酬をめぐる考察で、そのころ従事していた『近代艶隠者《きんだいやさいんじや》』研究の余滴のような小編だったが、そんなものまで先生は読んでいて下さったのである。しかも、あのエッセイは短いけれど、日頃からよほどよく勉強していないとああいうものは書けないよ、というふうに褒めて下さったうえで、自分はかねてから君の書く物に注目して皆読んでいると、励まして下さったのだった。いくら勉強しても誰も認めてくれないように思ってひたすら世を悲観していた私は、天にも昇る心地になった。  日を改めて、初台《はつだい》にあった先生の研究室に参上し、イギリス行きの計画を詳しく申し上げて、当路の人に紹介の御状を書いてはいただけないかとお願いしてみた。すると先生は、直ちにこれを諾《うべな》われ、大英図書館の当時東洋部長代理の要職にあった、ケネス・B・ガードナー氏にあてて、懇切極まる紹介状を、手ずから自らしたためて下さった。そうして、このガードナーという人は、非常に篤学《とくがく》の士だからね、と言い言いされるのだった。  私は、どうしようかと少し迷いながら、しかし思い切って厚かましいお願いをもう一つ申し上げた。それは、イギリスに行くには、自分としてあまりに肩書に乏しい。ついては、先生が評議員と研究員を兼ねておられる東洋文庫に、なにか肩書だけでも、研究助手というような形にしていただけないか、というまことに図々《ずうずう》しい申し条なのだった。先生は、ちょっと考えてから、なんとか考えてみようと仰有《おつしや》って下さった。  そうして、それから間もなく、先生は、 「君に、東洋文庫の研究員になってもらうことにしたよ。僕から直接|榎《えのき》(一雄氏=当時理事長)に頼んでみたら、カメイの推挙なら宜《よろ》しかろうと言ってくれたんだ。これで僕はなかなか榎には信用があるんだよ」  と、笑ってはにかみながら、私にとって願ってもない吉報をもたらして下さった。  この研究員任用の事は、イギリス渡航が目前に迫っていたので、異例の早さで可決され、直ちに発令になった。じっさい、東横短大の肩書はイギリスでは殆《ほとん》どなにの効果もなかったが、この東洋文庫研究員という肩書は、絶大の威力を持っていたのである。  それから先生は、ケンブリッジ大学で教鞭《きようべん》を取った若かりし日々の思い出に触れ、今は亡《な》きエリック・キーデル元図書館長の事なども話された。まだ若かったキーデル氏は当時の日本学科専任教員として辣腕《らつわん》を振るっていたのだが、彼の宿願はケンブリッジ大学の持っている古典文献の学術的目録を完成したいということであった。その為《ため》に、板坂元氏や、ドナルド・キーン氏などが、その青年時代に手伝ったらしい。けれども亀井先生は敢えて手伝うことをされなかった。それは一つに先生が当時胸を患っておられて、その養生も兼ねてイギリスに滞在されていたので、キーデルの仕事に携わるのが体力的に負担だったこと、そうして「僕は、そういうふうに、キーデルに……アー……なんというかね、つまり exploit されるのはゴメンだと思ったんだよ」と懐《なつ》かしそうに述懐された。私は、その話を聞きながら、その昔のケンブリッジに雲の如《ごと》く人材が集まっていたことに驚きもし、またそういう大学の目録をあわよくば自分で完成したいというのがいかに大きな望みであるかを思った。  そういうご縁で、私はイギリス渡航を前に、俄《にわ》かに亀井先生の弟子という形になり、時折ご自宅や研究室に伺って、様々なお話を聞かせていただくようになった。すると、先生は、昨日書き上げた論文を読んでやるから、そこに座って聴けというようなことを仰有るのだった。人も知る如く、先生の文章というのは、昔の国学者のクネクネした文体に、ドイツ哲学流の並外れた厳格性を付与し、なおかつそこに些かの口語的味わいと、戯作《げさく》的|洒落《しやれ》を交えた独特の文体で、文字で読むときにはなんとしても読みにくいのであったが、これが不思議なことに、先生が自ら朗読して下さると、どのフレーズがどこの修飾節であるかということを、先生特有の身ぶりやイントネーションで示しながら読んで下さる関係で、じつによく分るのだった。思えば、あの朗読を録音しておけば、ずいぶんと良い資料だったのに、と還《かえ》らぬ昔が今にして惜しまれる。  先生は、もとより世界的な言語学の学究であって、その方面では知らぬ人とてないのであったが、もう一つその言語の歴史研究の基礎としての「文献」それ自体についても、並々ならぬ関心と学識を有《も》っておられた。また実際に、頗《すこぶ》る豊かな(学問的な意味で)蒐書《しゆうしよ》の主でもあった。そればかりでなく、高齢病弱の身を押して、なお自ら阿部先生流の書誌学の方法を身につけたいと希求してやまなかった。それは私から見ると、実際は不可能のことと思われたが、私の顔さえ見れば、「ハヤシは書誌学をそれ自体自己目的として専念しているから、エライ。僕にも、教えてくれよ」というようなことを仰有られた。私は、ハイハイとただお答えするだけで、もちろん先生にお教えするには及ばなかった。けれども、なにか文献のことで私の意見を徴したいというような場合、先生は朝早くであろうと夜遅くであろうと、突如として電話を掛けて来られる。ベルが鳴って受話器を取ると同時に、先生はいきなり、 「わたくしッ、カメイッ!」  と高い声で叫ばれる。それはまるで何かを怒っておられるようで、その度に心臓の縮み上がる思いがしたものだったが、これは単に先生のクセのようなもので、べつに怒っておられるわけではなかった。で、それは、たいてい某《それがし》の文献についてのご下問なのであった。  こうした向学心というものは、実際、先生の心が如何《いか》に若々しかったかということをよく物語るのであるが、もとより先生は、young-at-heart を絵に描いたようなダンディで、大学院の講義の時などにも、一流の店に誂《あつら》えさせた特注のピンクのワイシャツにダブル二つボタンのチョッキ付きの英国服地の三揃《みつぞろ》え、それにベレーとアスコット・タイというふうな出《い》で立ちで見えるのだった。またある時はアメリカからお帰りになったばかりで、カウボーイのような白い帽子をかぶって意気揚々と斯道文庫に現れた。そうして「これが、テンガロン・ハットさぁ」とおどけられて森先生などを呆《あき》れ顔にさせたこともあった。こういう都会人らしいお洒落は、先生の独壇場といってもよいのだったが、その後ずっと晩年に近くなるに従って、このダンディぶりに些か影がさした。  ある時東洋文庫でお目に掛かったとき、先生のズボンの前チャックの糸がほつれて半ば開きっぱなしになっており、同時に革靴の横にも破れが出来てしかも泥で汚れていた。そうして、白い無精髭《ぶしようひげ》が荒れ地の草株のように顎《あご》に突き立っていた。私は、かかるお姿を見るにつけ、先生の老いが抜き差しならず迫っていることを思って、なにか痛ましく胸|衝《つ》かるる思いがした。  それでも、先生のお宅から帰り際《ぎわ》に、靴を履こうとして靴に足を納《い》れ、いちいち靴紐《くつひも》を結んでいると、先生はいつでも同じように「さすがにハヤシはイギリス仕込みだねぇ、そうやって紐を結んで履くってのは……ま、イギリスにも靴篦《くつべら》ってものは有るには有るが……shoe-horn といったかな……でも誰もそんなものは使いやしないからね」と仰有って、嬉《うれ》しそうにイギリスを懐かしまれるのだった。そんなところに、いつまでもダンディな先生の面影が生きていた。  さて、それから、私は東洋文庫の研究員として何年もの時間と労力を傾注し、やっとの思いで『岩崎文庫貴重書書誌解題㈵』という著作を世に出した。本当は、その先の㈼や㈽も続編する予定であったけれど、それを果たさないまま、私は東洋文庫の職を辞し、同時に亀井先生からも破門のようになった。それには、長く複雑な事情があって、その仔細《しさい》をいまここに書くには及ばない。また未だその時でもない。  以来、とうとう先生には二度とお目に掛からぬまま、先生は忽焉《こつえん》として昇天してしまわれた。そのことは、些《いささ》か悔やまれもするけれど、しかし、これはこれで良かったような気もするのである。 [#改ページ] [#小見出し]  書縁結縁《しよえんけちえん》  古書修補の第一人者であった遠藤諦之輔さんが物故されてから、もう何年になるだろうか。  遠藤さんは、もと宮内庁《くないちよう》書陵部に籍をおいて、もっぱら上《うえ》つ方《かた》の貴重典籍を修理|補綴《ほてい》される専門官であったが、定年でその職を退《しりぞ》かれてからは、引き続き小金井貫井《こがねいぬくい》北町のご自宅の工房で、やはり選ばれた名品の修補を手がけてこられた。  たとえば慶應の斯道《しどう》文庫で貴重書の修理が必要になると、いつも遠藤さんにこれを嘱すことになっていたが、そういうとき、私は当時からずっと同じ小金井市内に住んでいる関係で、よくその典籍を遠藤さんの工房まで届けにいく役目を仰《おお》せつかったものだった。  遠藤さんは、そのころすでに八十歳くらいにはなるご高齢だったが、その年齢としたらずいぶんな大男で、それも背が高いばかりでなく、堂々たる体躯《たいく》のいわゆる偉丈夫とでもいうような風貌《ふうぼう》の方だった。それでいて、まるでグローブのように大きな手は、精密的確に動いて、驚くべき細密な仕事を見事に遂行するのだった。  伺うと、私はいつも工房に入れて頂いて、 「ここんとこをね、こうすると、ほらうまく剥《は》がれましょう」  などと修補技術のノウハウをあれこれと教わって帰った。  それは書誌学を専攻する私にとっては、たいへん有り難い勉強だったし、じじつそれによって以後どれほど古書を見る目を養われたかわからない。  遠藤さんの思い出についてはかつてちょっと書いたこともあり(『幸田成友博士の木槌《きづち》』の章参照)、また別にまとめて書くこともあるだろうと思うので、ここではこれ以上触れない。  いま、ここにこれから書こうと思うのは、書物との結縁ということで、それについて、遠藤さんの工房での経験が思い出されたので、まず最初にそれを書いておこうと思うのである。  遠藤さんは、ときどき「道楽」で面白いものを作った。その代表的なものは、「本型の葉書箱」である。これは見たところ、緞子貼《どんすば》りの帙《ちつ》にくるまれた|中本の《ちゆうほん*》大きさの中国の本(ふつう「唐本《とうほん》」と称する)なのであるが、さてその帙のコハゼを外して、中の書物を見ようとすると、あっと驚くことに、中身はまったく本ではなく、きれいに刳《く》りぬいて内貼りを施し、そこに百枚ほど葉書が収納できるようにしつらえられている。 「こういうのを作りますときはね、いちいち本当にこの紙を綴《と》じてちゃんと本に綴じますんです、ええ。それですっかり綴じてから何冊か重ねて貼り合わせてそうしてから中を刳りぬいて内貼りをしてこう葉書箱に作るんですよ。これでけっこう手間暇が掛かるんです」  そんなことを悪戯《いたずら》らしい目つきで愉快に話しながら、 「また何部か作りましたから、ひとつ差し上げましょう」  と作るたびに下さるのだった。いつもお使いをすることに対する御褒美《ごほうび》とでもいう感じだったかもしれないが、それはじっさい海老鯛《えびたい》式の御褒美だったのである。  遠藤さんの工房には、いつも一枚の紫檀《したん》額が懸けてあって、その額の中央には、なにか漢文の印刷してある細長い紙片が飾られていた。  あるとき、遠藤さんはこの額に言い及ばれ、それが「宋《そう》版」の刊経であることを教えて下さった。南宋の初め頃の刊経で、日本では平安時代に遡《さかのぼ》る。  そうして、この経の料紙は麻紙《まし》、経典は『大般若波羅蜜多経《だいはんにやはらみつたきよう》』の巻第一百一である、と説明されたあとで、 「まだ、これ差し上げてませんでしたかな」  と異なことを言われた。私が、はあ、とかなんとかいい加減な返事をしていると、遠藤さんは、ニコリと少年のような澄んだ笑みを浮かべられ、 「じゃ、一枚差し上げましょう」  といって、奥の物入れのようなところから恭《うやうや》しく紙に包んだ経巻を取り出され、木の「指し」を当てて、良く切れる刀ですっと一折り切り取った。  あっ、と思っていると、遠藤さんはこともなげにこう言われた。 「宜《よろ》しいんです。これはこれで結縁でございますから。もう何人ものかたに差し上げました。このお経は○○先生に頂いたものなんですがね……」  その「○○先生」のところは、もはや忘れてしまって思い出せない。ともあれ、こうして、経の一部を切ってそれを以《もつ》て結縁と看做《みな》すという考え方を、私は知ったのである。写経や歌集などの一部分を切って、茶掛けなどに応用するのは、その背後にそういう結縁的な考えが隠されているので、かならずしも悪いこととは思われていなかったのであるらしい。  さて、こうして、中国の南宋初期(十二世紀前半)に中国の多分揚子江下流の辺りで刊行印刷された古い経が、どういう経路を辿《たど》ってか日本に渡り、いずこかの寺に襲蔵されたのち、○○先生の蔵架を経て、遠藤さんに贈与され、それがまたこうしてただ一片ながら、私の書室中にある。そう考えると、なにか壮大なドラマの一こまを見るかの如《ごと》くで、なんともいえないロマンチックなものを感じるのだった。  すなわち、たしかにそれによってなにがしかの結縁を得たというのは大げさでないのだ。  書物を相手にしていると、ときどき、こういう不思議な縁を得ることがある。まず「書縁」とでもいうべきだろうか……そんな言葉があるかどうか知らないが。  むかし、東大所蔵の浮世草子を調査しつつあった時分、私は、本郷の図書館の行き帰りに、赤門周辺にある古|書肆《しよし》に寄るのを何よりの楽しみにしていた。  昭和の五十年ころのことである。  いつものように立ち寄った赤門前の木内書店で、私は一冊の古書を買った。『句双紙尋覓《くぞうしじんべき》』という本である。  これは東陽英朝《とうようえいちよう》禅師の撰述《せんじゆつ》にかかると伝える『句双紙』(別名『禅林句集』または『禅林雑句』ともいう)という名句集に己十子という釈氏がそれぞれの句の出典を注記した鼇頭本《ごうとうぼん》である。もとより江戸時代の刊本であって、とりたてて貴珍と評すべきものでないけれど、さりとて、さほどありふれた書物というわけでもない。  ともかく、その本が木内書店の棚に無造作に置かれていた。元来は美濃本《みのぼん》の大きさだったと覚しいのだが、天地と背を断截《だんせつ》して新たに七宝繋文《しつぽうつなぎもん》を織り出した絹表紙を附し、「句双紙」とのみ墨書した手書きの題箋《だいせん》が貼ってある。その|跋と《ばつ*》刊記に拠《よ》ると、貞享《じようきよう》五年(=元禄《げんろく》元年、一六八八)に京都堀川の小佐治半右衛門と大坂の古本屋清左衛門という本屋が共同で出版したものであるが、現在の装訂は改装で、おおむね幕末から明治にかけてのものかと推定された。値はせいぜい三千円かそこらのものであったが、私はぱらぱらと斜めに見てすぐ買うことにした。巻頭の第一葉に「勝|安房《あわ》」と刻した楕円形《だえんけい》の朱印がくっきりと捺《お》されていたからである。  すなわち、この本はもともと勝海舟の書室にあったものが流出して坊間《ぼうかん》に漂浪していたものと分かるからである。見返しには「桃源廬《とうげんろ》」という長方形の朱印も捺存《なつそん》するが、あるいはこれまた勝の所用印であるかもしれない。  巻中随所に朱で○を付し、又は傍線を引きなどしたところがある。たとえば、「寡不敵衆(寡ハ衆ニ敵セズ)」だの「捨短従長(短ヲ捨テ長ニ従フ)」だの、あるいは「作夜一声雁、清風万里秋(作夜一声ノ雁、清風万里ノ秋)」「日日日東出、日日日西没(日々、日ハ東ヨリ出デテ、日々、日ハ西ニ没ス)」「君看双眼色、不語似無愁(君看ヨ双眼ノ色、語ラザレバ愁ヒ無キニ似タリ)」などという句々にマークがしてあるのである。はたして、この書き入れが勝海舟の筆であるかどうか、なにも分らない。しかし、この書物が一時海舟の座右にあったことは事実で、もしやこの朱も彼の手によるものかもしれないと思うと、私は、一冊の古い書物を中に、海舟と時空を隔てて対座しているような気分を覚えた。これもまた書縁結縁であろう。  また別の日、これは昭和六十年五月のことである。やはり本郷の柏林社という、主に美術関係の本を専門とする古書肆の雑本の棚をかき回していた。するとそこに『正声集』という内題をもつ薄っぺらい写本が出ていた。大きさは小振りの半紙|本《*》で、茶色い渋染紙の表紙が付いている。私は、それが何だかよく分らないまま、しかし、すぐに買うことにした。なぜかというと、なかなか良い字だったのと、巻頭に「館氏珍蔵」と刻した風韻豊かな方形朱印が捺してあったからである。値は僅《わず》か三千円だった。調べてみると、この本はふつう『皇朝正声』と呼ばれている漢詩集で、古今の日本漢詩人の作品を荻生徂來が撰したものである。この「館氏珍蔵」は江戸中後期に活躍した武士であり儒者であり漢詩人でもあった館柳湾《たちりゆうわん》という人の所用印である。この本は明和度には既に刊本となって世に出ているから、取り立てて珍しいものではない。しかし、越後《えちご》の人であった館柳湾にとっては、今のように自由に容易によろずの書物を手に入れるということは叶《かな》わなかった。そういう時代だったのだ。だから、江戸時代の文人たちは、多く自分用の写本を作って座右に備えることをしたのである。で、よく調べてみるとこれが館柳湾の自筆らしいことが分った。荻生徂來よりは二時代ほど後の人で、しかし、その政治的手腕が高く評価された一方で、漢詩人としても、とくにその高潔にして温雅な人柄を多くの人に慕われたと伝える柳湾、その人が、せっせと写した本が、どういう縁によってか、私の書室に巡り巡って来たのである。  値段の高いものを、安く買い取ることを世に「掘りだし」と称する。けれどもそれとは別に、世上に埋もれていた「床しい」書物を、その本来の価値において再発見する、とそれもまた違った意味での楽しい「掘りだし」であろう。しかもそれには、たぶんに偶然が作用し、なにかの「書縁」がなくては成就《じようじゆ》し得ないはずのものである。しかし、丁寧に書物に目を曝《さら》して、その結果そういう埋もれた床しい書物に巡り会った時、これらは兼好法師が言ったのとは違う意味で、また「見ぬ世の人を友」とする心地がするのである。 [#改ページ] [#小見出し]  講釈の面白さ  国粋反動の旧思想だというので、デモクラシーの世の中になって以来はすっかり流行《はや》らなくなったが、かつて相当の影響力を有《も》っていたのが、平田|篤胤《あつたね》という国学者である。その思想の仔細《しさい》について、ここでなにかを述べようという意思も知識も、いまは持ち合わせない。簡単には吉川弘文館の『人物|叢書《そうしよ》』に収められた、田原|嗣郎《つぐろう》氏著『平田篤胤』などを読まれたい。  これから問題としようと思うのは、その平田篤胤の「文体」についてである。以下まず、その実際の文章を窺《うかが》ってみることにしたい。ここに掲げるのは、篤胤の学問入門ともいうべき『古道大意』という書物の一節である。以下数種の古文献、いずれも原文は片仮名漢字混じりであるが、読みにくいので便宜平仮名漢字混じりに書き改める。 「一躰《いつたい》真の道と云《いふ》ものは、事実の上に具《そなは》つて有るものでござる。然《しか》るをとかく世の学者などは、尽《ことごと》く教訓と云ふ事を、記したる書物でなくては、道は得られぬ如《ごと》く思つて居《お》るが多いで、こりや甚《はなはだ》の心得ちがひなことで、教へと申すものは、実事よりは甚|下《ひく》い物でござる。其故《そのゆゑ》は、実事が有れば教へはいらず、道の実事がなき故にをしへと云ことがおこる。唐の老子と云書にも、大道すたれて仁義ありと申したは、こゝを見ぬいた語でござる。殊《こと》に教と云ものは、人の心に親くはしみぬもので、其は譬《たと》へば、武士の心を励ますに、軍《いくさ》に出ては先駆《さきがけ》せよ、人に後れるなと書たる、教への書物を見せるよりは、古《いにし》への勇士|等《たち》の人に先だち、勇猛さかんに戦ひ、高名など致したる事実の軍書を見たる方が、深く心にしみこんで、我も事有らば、昔の誰々が如く、遖《あつぱれ》やつて見せやうと云ふ、猛《たけ》き心がふり起る。かの先がけせよ後れるなと云ふ教では、さまで心の振起らぬものでござる。また近くは、君の仇《あだ》は討べきものぞと云をしへを聞たるよりは、大石内|蔵助《くらのすけ》はじめ、四十七人の義士が、千辛万苦《せんしんばんく》の難儀をして、主君浅野内|匠頭《たくみのかみ》殿の仇、吉良上野介《きらかうづけのすけ》殿を討たる実のはなしが、身にしみじみと髪も逆だち、涙もこぼれるほど、心に深く染るものでござる。是は、誰しの人も、心には覚えのありさうなもので、殊に教へといふ物は、其心ざま其人となりの宜《よろし》からぬ者が、言置たる教訓でも、書に記て遺《のこ》つて有ると、何さま尤《もつとも》らしく見える物で、唐の教への書物と云ものには、是がけしからず多い。或《ある》いは君を弑《ころ》して、国を奪たる者などの云た教言《をしへごと》にさへ、誠に金科玉条と云て、玉とも金ともいひさうに、尤もらしく書てある。しかれども其行ひの実を見れば、主殺し国賊じやに依《よつ》て、其尤らしく言てある事どもは、皆空言と云てそらごとじや。実が無て、其|書列《かきつら》ねたる処ばかりが立派では、そりや山売の能書《のうがき》を見たやうな物でござる」 [#地付き](引用は伊吹廼舎《いぶきのや》蔵版木版本による)  黙読してはいけない。これを言語|明晰《めいせき》に朗々と音読してみるがよい。  いかがであろうか。この雄弁、この話術、なんだかワクワクしてくるものがありはせぬか。  じつはこの書物は、冒頭に「平田篤胤先生講談 門人等筆記」とあって、これが篤胤の講説を筆録したものであることが分る。平田篤胤というとなんだかおっかない人のような感じがあるけれど、なかなかどうして、この講説の名調子を見ると、その人と成りは決して取っつきの悪い学者肌ではなかったことが分る。むしろ、ぜひこの名調子を実際に聞いてみたかったとさえ、思わせるものがある。篤胤は出羽《でわ》の国秋田に生まれ、そこで成人した地方武士の子供だから、たぶんこの演説はいくらか秋田弁の鼻にかかったような響きを含んで語られたものと思われる。そういうところを想像すると、この本は思想の入門書というよりは、むしろ一片の戯曲の長|科白《ぜりふ》のようにも面白く読めてくるのである。彼が田舎から出奔してきて、やがて江戸等で講説して成功を収めたのは、その国粋的思想が尊皇|攘夷《じようい》の時好に投じたというばかりでなく、このアジテーターとしての、雄弁の力量にも大いに依拠していたと見るのが本当である。  もっともこういう弁論のありようは、むろん篤胤の専売特許ではない。まず次の文章をゆるりと味読されたい。 「○不《して》[#レ]火《なら》 而|熱不《しして》[#レ]氷《なら》 而|寒《し》とは、面々の身に取て、さりとは切なることぞ。随分色に奪はれ惑ふまいと思へども、僅《わづか》に目に移ると、あゝ恋《したは》しひと、今迄《いままで》の大丈夫も、しほ/\と成てくる。随分|利禄《りろく》に目を掛けまいと思へども、ちよと首尾のよいことがあると、そゝり立やうに嬉《うれし》ふなる。君の為とは思へども、あまりな物の仕様じや、あゝ是|で《れ》は奉公も面白ないと、もやついてくる。成た上から見れば、あさましひ、恥かしい、如何《いか》なることで、斯《かふ》は成たと思へども、只《たつた》一念の不敬有[#レ]間と云より入た者じや程に、さて/\大事のことではないか」 [#地付き](引用は日本思想大系『山崎|闇斎《あんさい》学派』による)  以上は、浅見|絅斎《けいさい》の『絅斎先生|敬斎箴《けいさいしん》講義』という書物の一節である。これは山崎闇斎の高弟浅見絅斎が、朱子の『敬斎箴』について、逐語的に解釈を加えたもので、これまたじつに生き生きとした半口語体で綴《つづ》られている。  絅斎は厳格にして才学絶倫たりし山崎闇斎に業を受け、それを思想的に深めた篤学《とくがく》の士であるが、その講説は、以上のような慈愛に満ちた文体で、これまた極めて説得的に切々と語り出される。  浅見絅斎は承応元(一六五二)年|近江《おうみ》の国の医家に生まれ、正徳元(一七一一)年に没したのであるから、江戸時代の前期から中期にかけての人である。すなわち、篤胤よりは幾時代か遡《さかのぼ》るのである。しかし、さように時代を隔てても、この両者の巧みな弁舌には、どこか共通の根が存在するような感じがするであろう。  それもそのはず、こうした講説のスタイルには、もう一時代古い祖型が存在するのである。  それが「抄物(しょうもの又はしょうもつ)」というものである。  次に掲げるものは『中華若木詩抄《ちゆうかじやくぼくししよう》』の一節であるが、この書は、抄物としてよく知られた著作である。 「|※[#「かみがしら/兵」、unicode9b02]髪《びんぱつ》は、ぼうぞうとして、秋風に吹き乱されたる蓬《よもぎ》の如くなり。これも、憂国憂天下、我身を憂《うれ》ふるゆへに、如此衰る也《なり》。其憂をは、酒ならでは、忘れられぬぞ」 [#地付き](引用は寛永十年中野道伴刊本による)  これは、九淵《きゆうえん》の「浣花《かんか》酔帰図」という七言絶句の「蕭々詩※[#「かみがしら/兵」、unicode9b02]似秋蓬」という起句の注解であるが、こういうふうに、「……ゾ」または「……ナリ」という語尾をともなって説き進めていくのが、かかる抄物に通有のスタイルであって、それは、そのもとになった講釈の口調をいささか写したものであろうと想像される。そして、これらは主に五山の禅僧たちによって講説され筆記されて、ひとつの学芸ジャンルとして確立し、多くの写本や刊本を生み出して、江戸時代に流入していったのである。  そこでまず次の一文を一読されたい。 「さてさて、なげかしいことぢゃ、まだ世がしづまらぬ。何として及ばずながらしづめたいものぢゃ。これ手前の心にも今文官をやめて武官となって、軍事にかかって行は面白ふはなけれども、天子から見立て仰付《おほせつけ》られたが重いに依て行く」 [#地付き](引用は天明二年小林新兵衛刊本による)  と、これはかの有名なる『唐詩選』に収められている魏徴《ぎちよう》の「述懐」という五言古詩の一節「慷慨《こうがい》志猶存」に対して、その唐詩選を喧伝《けんでん》した服部南郭《はつとりなんかく》先生がみずからほどこした講説の筆記である。題して『唐詩選国字解』という。  かくのごとく、漢文漢詩を対象とする講説を筆記するという営為から生まれた抄物というジャンルが、一種独特の口語を交えた文体を産み、それが、かかる注釈講釈のスタイルとなって、ずっと江戸時代を通過していったのである。  しかして、こうした講釈講説は、いっぽうでぐっと砕けて、俗流の教訓を演説する、いわゆる「心学講釈」のようなものを生む一つの源流ともなったかと想像される。  心学などというものが、大いに流行して、老若男女《ろうにやくなんによ》、押すな押すなの盛況を現出したのは、それが有り難い教えを説いてくれるからというよりは、むしろこうした弁舌の妙、つまるところ一種の「話芸=パフォーマンス」の面白さであったと見た方がよい。  こうして、この教訓講釈という流れは、太平記読みなどの軍談講釈などと習合しながら、後の所謂《いわゆる》「講談」のような口舌の芸を形成していったのである。現代でも落語家などを「師匠」と称するのに対して、講釈師が「先生」と呼ばれるのは、決して偶然ではない。その呼称の背後に、実際「先生」たちが「講釈」を業務としていた一つの流れが存在するのである。  さて、ではこうした流れは近代の文脈のなかでどこへ流れていったか。  一つには、政治的な色彩を帯びて、「雄弁術」というような形に変質していった。早稲田の雄弁会などはその牙城《がじよう》であったかと推量されるが、かかる講釈的雄弁術のもっとも近い頃まで生き残っていたのが、暫《しばら》く前に物故した元の民社党委員長|春日《かすが》一幸《いつこう》先生《ヽヽ》であった。あれこそまさに、講釈を政治に移した型にほかならない。  もう一つは、学問の流れのなかに、かすかに生き残っていた。いまではそういう講釈的な先生は影を潜め、専ら弁舌|爽《さわ》やかならざる非講釈的先生ばかり増えてしまったが、その近代に残っていた典型は、坪内逍遥《つぼうちしようよう》と幸田成友博士である。坪内逍遥の有名な朗読は、古い講釈の、つまり言い方を換えれば「パフォーマンス」としての講義の、やや方向を転じたものだったと見るのは外れているだろうか。  そうして、幸田博士の講義の名調子については、既に「幸田成友博士の木槌《きづち》」の章に書いた。そして、その口調をいくらかうかがうことが出来るのが、博士の著述の文体である。 「仏蘭西《フランス》と西班牙《スペイン》との国境に古くナバールといふ小さな王国があつた。仏西国境のイルン駅から東南に入つた山間の僻地《へきち》です。ザビエーの父ドクトル・ファンはナバール王家の枢密院《すうみついん》議長であると同時に、同国の東境にあるザビエー城の城主でしたから、ザビエーは名家の出といって可《よ》い」 [#地付き](引用は岩波書店刊『日欧通交史』による)  ながく引用すべき紙幅を得ない。けれども、この常体敬体の混淆《こんこう》した不思議な文体は、声に出してするすると朗読して見たときにその本来の意義をば感得せしめるであろう。それが五山の坊さんの抄物にも、南郭や篤胤にも、また浅見絅斎にも、逍遥の朗読にも通じている文章の「朗誦《ろうしよう》性」とでもいうべきものである。そしてそれはまた、現代の文章がもっとも見失ってしまったものだということを思っておかなくてはなるまい。 [#改ページ] [#小見出し]  書誌学の未来  これももう二十年以上前のことになる。  斯道《しどう》文庫がトヨタ財団から巨額の助成を受けたことがある。正確な金額は忘れてしまったが、たしか総額二千万円を越えていたように記憶する。 『国書並びに漢籍総目録の編纂《へんさん》』というプロジェクトで、もちろんその主幹は阿部隆一先生だった。  そのころ、私の父林雄二郎がトヨタ財団の専務理事をしていて、家でよくその財団の話をしていた。自分の身内だからちょっと書きにくいのだけれど、そのころのトヨタ財団は、いわゆる「陽の当らない」けれども有益な研究(とりわけ東南アジア諸国関係の)に思い切った助成をすることで独自の道を行こうとしていることが、父の話の端々に窺《うかが》われた。文部省所管の学術助成が、ともすれば東大を中心とした「陽の当る」人や研究に厚く、それ以外には比較的薄い傾向があったのに対して、私立の財団としての見識を示して大いに気を吐いているところだったとも言い得ようか。  それで、私は、もしかすると阿部先生の研究プロジェクトなども、トヨタなら助成してくれるかもしれないと思って、先生に申請をしたらどうかとお勧めしてみたのである。誤解を避ける為《ため》に特に言っておかなくてはなるまいけれど、父は公私の別に極めて峻厳《しゆんげん》な人であって、その為になにか便宜を図るとかそういうことは考えられなかった。  ところが、意外なことに、最初阿部先生はそれほど乗り気ではなかった。 「トヨタじゃあ、どうせ排気ガスの研究とか、そんなのが優先で、書誌学なんか駄目だろう、きっと」  というようなことを言って、なかなか真剣に検討しようとはなさらなかった。しかし、父にこの点を聞いてみると、そんなことは一切ない、むしろ、自動車なんかとは全然無関係の陽の当らない研究に助成してこそ意義があるのだ、という返事だった。私はその旨《むね》を先生にお伝えして、何度も助成申請の計画を立てて下さるようお願いしたのだった。  そんな経緯があって、先生はちょっと大|風呂敷《ぶろしき》と言われても仕方がないような雄大な計画を立案された。それがこの『国書並びに漢籍総目録の編纂』というプロジェクトである。  それは、先生の門下および長沢規矩也先生の門下の書誌学研究者を糾合して、日本中にあるいわゆる「古書」つまり江戸時代以前に刊行または筆写された和書、また中国の写本刊本ならびに日本で筆写または刊行された漢籍、それらを全部ひっくるめて調査を及ぼし、学術的に役に立つ総目録を編述しようというのだった。  この巨大な計画には二つの重要な側面があった。  その一つはなにはともあれ、「役に立つ活《い》きた目録」を撰述《せんじゆつ》することである。どんな分野の人でも何かを研究する時には、その当該分野の文献を見ないでは済まされない。ところがそれを見るには、一定の学術的批判がその「見る」ことの根底に無ければなるまい。それなくして闇雲《やみくも》に文献を見ても、それは野狐禅《やこぜん》の邪見のようなもので、ものの見方が偏《かたよ》り、為に正しい認識には辿《たど》り着けるものでない。それゆえ、正しい目録、活きた目録が無ければよろずの学問は発展を期待されないということである。しかし、その「活きた目録」を作ることは、じっさい容易なことでない。僅《わず》かの字数しか許されない目録の記述のなかに、おのずからそれぞれの本の持っている学術的意義やその出自来歴などを的確に表示しなければならないからである。世に書誌学者と名乗る人の中には、ただ書物の外面だけ雑駁《ざつぱく》に眺めて、それで羅列《られつ》的に表面的記述をなして事足れりとしている人があるけれど、それはたとえていえば、赤い薔薇《ばら》を見て単に「これは赤い薔薇である」と記述しているようなものである。そういう人を植物学者と呼び得ないのと同様に、書物の表面だけをなぞっている人を書誌学者とは呼べない。大切なことは、一つ一つ、どんな後刷りのありふれた書物に対してさえ、伝本相互に細密《ミクロ》に比較し、それらの関係を審定して全体を構造的《マクロ》に体系化する、そしてその大きな体系の中で当該の文献は何処《どこ》にどのような形で位置しているか、ということを明確に示すのでなければならない。そういう性格を徹底した目録を私たちは「活きた」目録というのである。ただ、羅列しただけの目録は形こそ同じ目録に違いないけれど、その実は「似て非なるもの」にほかならない。  それゆえ、長沢・阿部両先生の目指された書誌学は、従来の表面書誌学とは異なり、恐ろしく時間と手間、それにお金がかかるのだった。何故《なぜ》かといえば、総《すべ》ての文献を実地に調査して詳密なノートを取り、必要に応じてその一部分または全巻写真複写を作成する、ということがその方法の根幹だったからである。そうしなければ、相互に文献どうしを比較するなんてことは出来ない相談である。記憶に頼って何かを述べるなどということは、それ自体すでに科学ではない。そこでトヨタの資金を仰いで、今まで果たせなかった、広汎《こうはん》周到なる目録作りを目指そうというのである。これが第一の目的だった。  そうして、もう一つの側面というのは、そういう調査を遂行する中で、若い研究者を養成するということである。  書誌学は、非常に辛気《しんき》くさい学問である。ミクロな観察とマクロな展望、その二つが両面備わってはじめて、一人前である。しかし、ミクロな観察には、人並み外れた根気と努力が必要だ。その上、観察は自己流では何も見えてこない。観察の為には、まず、巻物なども含めて和本全般の取り扱いの方法を知らねばならぬ。漢文、古文を自由に読めなければ問題にならぬ。またその文字は毛筆のいわゆる草体で書かれることが多いのだから、変体仮名でも異体漢字でも、なんでも読めることが必要だ。古い写本には「ヲコト点」という訓法が介在するから、それもまた当然知っていなければならぬ。古活字本と整版本の区別とか、整版本の異版同版の識別、また筆跡の鑑定、そんなことも必須《ひつす》の条件だ。篆書《てんしよ》、神代文字、草仮名などで読みにくく刻される蔵書印の印文だって当然読めなくてはならぬ……。等々、書誌を口にする為にはまず修めなければならない基礎的修練が山のようにある。しかもそれは実物によってでなければ修得が期待されないだろう。それはうんざりするほどの長い時間と、呆《あき》れるほど莫大《ばくだい》な費用がかかる。なにしろ、書物のあるところ千里の道を厭《いと》わず出かけて行かなくてはならないのである(私自身、修業時代には、たった一冊の本を調べるために、はるばると長崎の島原や、山口までも出かけていったことがある。むろん一切自腹を切って行くのである)。  そして、そうやって営々と調べた結果を、今度は逐一相互に比較し検討して、文献の森の全体像を構築しなければならない。それはまたミクロな観察とは全く違った、なにかこう「頭の体力」とでもいうようなものが必要で、来る日も来る日も、調査資料を睨《にら》んで、ああもあろうかこうもあろうかと「見えない部分」を考察する、それがしかも何年間も続くのである。  私自身は、まことに幸いだった、と思わずにはいられない。理解のある家庭に生まれ育ち、経済的に一切の不安なく、三十歳を過ぎるまで研究専一に暮らすことが許されていたからである。だから、そんなことを、大学卒業以来十年以上も続けていられたのである。しかし、もし、そういう条件が備わっていなかったら、書誌学を修めることは、ほぼ絶望にちかい。しかもなお、そうやって散々汗水垂らして研究したとて、どこの大学にも「書誌学」の講座などありはしない。つまりは就職など夢のまた夢だということである。つまりは|社会的に見れば《ヽヽヽヽヽヽヽ》書誌学の勉強なるものは「無駄な努力」なのである。それゆえ、若く有為の学徒をこの道に進ませることはある意味で罪ですらある。  そこで阿部先生は、このプロジェクトを遂行する過程で、大学院生レベルの若い研究者を助手として任用し、それに一定のアルバイト料を支給し、また旅費滞在費複写費などを支給するようにしたのである。これによって、一人でも二人でも書誌学の後継者を養成する、それがつまり阿部先生のもう一つの企図なのであった。事実、それによって、私を含め、何人かの書誌学研究者が随分と助けられ、また学ばせていただいたことは事実である。  しかしながら、その助成も三年で終り、いくつかの部分的業績が世に出はしたけれど、それらの総合として阿部先生が夢想された『総目録』は遂《つい》に成らなかった。  そして、阿部先生は忽焉《こつえん》この世を去られ、この種の組織的研究者養成も、総合的編纂事業も、その後はさっぱり行われなくなった。  私自身は、慶應を去って以来、独り行く道を選んでイギリスに渡り、ロンドン大学、ケンブリッジ大学の文献目録を編纂し(『ロンドン大学東洋アフリカ校所蔵日本古典籍善本解題並に目録』及び『ケンブリッジ大学所蔵和漢古書総合目録』)、帰国後は、東洋文庫の岩崎文庫に所蔵する貴重書の解題目録(『岩崎文庫貴重書書誌解題㈵』)の編纂に携わりなどして、精々阿部先生からお教え戴《いただ》いた学問の流れを私なりに発展させるべく努力をしてきたつもりである。  しかし、いま、ふと顧みると、ほとんどまったく後継者を養成するということをしてこなかったことを認めなければなるまい。勤めとしての東横学園女子短大では、もっぱら近世国文学を短大のお嬢さんたちに教えてきたに過ぎないし、いま東京芸術大学でも、国文学の古典一般を音楽家たちに教えているだけのことである。  幾つかの大学で非常勤講師として、書誌学の初歩を教えたりしたことはあるけれど、それは単にほんの入り口のところを伝えたに過ぎなかった。  しかし、仮にどこかの大学で学問の後継者を養成しようとしたところで、上記のような諸条件を満足する学生を得るなどは、いわゆる「盲亀《もうき》の浮木|優曇華《うどんげ》の花」と申すべきものでもあろう。哀《かな》しいことに、阿部先生があれほど心血を注いで打ち樹《た》てられた書誌学最後の拠点斯道文庫でさえ、今はかつての斯道文庫ではない。  そういう状況のなかで、ただいたずらに後継者を養成してみたとて、それが何になろう。その養成された若い人の人生はどうなるのであるか。私は、残念だけれど、少なくとも阿部先生の確立された「科学としての書誌学」の将来は、まったく悲観すべきものだと思っている。それは世の趨勢《すうせい》というものであって、私などが一人二人で努力したところで狂瀾《きようらん》を既倒《きとう》に廻《めぐ》らすことも成りがたい。阿部先生の弟子は、斯道文庫の大沼|晴暉《はるき》さんをはじめとして優れた方が何人かはおられるけれど、いずれも私よりは年長の兄弟子ばかりで、言ってみれば私がいちばん末の弟子である。  今後もし多少なりとも期待を寄せるとしたら、大沼さんなどの門下に、幸い銀の匙《さじ》でもくわえて生れて来た学生が出現して、阿部—大沼と伝えられた学統が、そういう有為の若者によって更に大成を期せられる、ということであろう。それは、極めて低い可能性ではあろうけれど、全くゼロとも言いがたい。  そして私の門下には、正直いって、もっと低い可能性しか残されていない。残念だけれど、それがこの世の中の厳然たる現実である。しかし、それでもなお未だ完全にゼロではない、と敢《あ》えて言っておくことにしようか。 [#改ページ] [#小見出し]  書物の藪《やぶ》——あとがきにかえて  大学院の修士課程のころ、先師森武之助先生の演習は、『ハビアン抄天草版平家物語』の研究がテーマだった。  これは、本文中でもちょっと触れているけれど、中世末期にはるばるとやってきたキリシタンの宣教師たちが、日本語の勉強をするために、『平家物語』を口語に訳したもので、その実際の口語訳に当ったのは、不干《フカン》ファビアンという日本人キリシタンであった。  本文は揆一検校《きいちけんぎよう》という琵琶《びわ》法師と右馬之允《うまのじよう》という聞き役の男との掛け合い的談話という形をとる。しかし、その訳文はかなりこなれた良い文章で、しかも相当に原典に忠実なのであった。  森先生の演習の研究課題は、この天草本の『平家物語』が、いったいどのテキストを底本にしてかかる口語訳を作ったか、というそのことであった。  私たちが担当した部分は、数限りなくある『平家物語』の諸本のうちでも、「百二十句本」と通称されていた語り物のテキストに属する諸本がもっとも近縁であろうと思われたが、他の部分では岩波書店の日本古典文学大系本の底本になった龍谷大学蔵の「覚一《かくいつ》本」というのがもっとも近いというところも認められた。  つまり一筋縄ではいかないのであった。  こういう研究をしていたとき、森先生が、ふと漏らされた言葉がある。 「『平家物語』なんてものは、まったく、数限りなく本文の異同があって、それこそ八幡《やわた》の藪《やぶ》知らずだからなぁ」  というのである。書物が、八幡の藪知らずのように、複雑に変異しながら存在している、その様相を思い浮かべて、私は『平家物語』などに研究の手を染めるのは大変だなぁと思った記憶がある。  それから、もう大学院を出て、斯道《しどう》文庫の研究嘱託になっていたころだろうか、阿部先生と長沢先生が、共同で一つの新しい学術雑誌を起こされようとしたことがあった。  従来から『書誌学』という書誌学専門の学術雑誌があったけれど、それは事実上休眠状態にあって、若い学徒が、どしどし論文を寄せるというような存在ではなくなっていた。そういう発表の機会に乏しいことを憂《うれ》えられた両先生が、既存の『書誌学』とは別に、新しく「図書学」の雑誌を発刊しようと企図されたのである。 「誌名をなんとするかねぇ」  阿部先生は私たちに問うともなく問われた。  そのとき、私の脳裏に、あの森先生の「八幡の藪知らずだからなぁ」という述懐が思い出された。そうして、ふと、 「書藪(しょそう)」  という誌名が浮かんだ。浮かんだけれど、私はそれを言いはしなかった。言ってもそんなの採用にはならないだろうと思ったからである。しかし、いつかこの「書物の藪」をテーマとする本を書いて、そこにこの「書藪」という題を付けたいものだとも思った。  結局、「図書学」の雑誌は出来ないうちに、長沢先生も阿部先生もこの世を去ってしまわれた。そしてその雑誌は永遠に世に出ることはなかった。私の心のなかに、こうして「書藪」という名辞だけが、ぽつねんと残ったのである。  やがて、時が移って、私は、『現代』という月刊誌に「日知斎書話《につちさいしよわ》」という連載を書き始めた。これは書誌学の世界をテーマとする連載で、やがて『書誌学の回廊』(日本経済新聞社刊)という単行本となって結実したが、その連載が始まると同時に、新潮社の『波』を編集しておられる水藤節子さんから、同誌にもやはり書物をテーマとする連載を書いてはどうかとお勧めを頂いたのだった。『現代』のは、かなり書物それ自体に焦点を絞った学術的話柄が多かったので、『波』のほうは、これとちょっと方向を変えて、書物を通じての自伝的エピソードや、先生の思い出とでもいうようなもの、あるいは書物を巡る奇談など、気楽な読み物という感じで書いたらどうかと、そういうお勧めであった。  それなら面白そうだと、毎月楽しみながら書いたのが、この『書藪巡歴』という連載であり、それがそのままの題名でこんど単行本に纏《まと》まることになった。これまた、『書誌学の回廊』とは別の意味で、私には大切な本であり、こうして本の形で世に出ることを素直に喜びたい。  ともあれ、書物の藪は、まことに「八幡の藪知らず」である。私の研究などは、ほんのそのとば口のところに足を踏み込んだというほどのことである。まだまだ、先は長く、奥は深い。  終わりに当たって、連載の時から本書の出版に至るまで、あれこれと力を尽くして助けて下さった水藤節子さんに、それから、単行本の出版を担当して下さった寺島哲也君に、心からお礼を申し上げる。   一九九五年九月朔日 [#地付き]日知斎の北窓にて   [#改ページ] [#小見出し]  語  釈 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] 稀覯本[#「稀覯本」は太字](きこうぼん) 手に入れがたい珍しい本のこと。 『古文真宝』[#「『古文真宝』」は太字](こぶんしんぽう) 黄堅《こうけん》の編と伝えられる漢詩文のアンソロジーで、成立年代未詳。前集・後集に分れ、前集は各種の古体詩、後集は名文集。中世以後日本でもっとも良く読まれた漢詩文教科書。 版木[#「版木」は太字](はんぎ) 木版印刷をするために文字や絵を裏返しに彫った板。日本では通常桜材で作る。 後刷り[#「後刷り」は太字](あとずり・のちずり) 版木は保存さえよければ数百年は使える。そこで最初に刊行されてから同じ版木で何度も刷り立てられ磨滅した版木で刷られた本を「後刷り本」または「後印本《こういんぼん》」とよぶ。 本屋[#「本屋」は太字](ほんや) 正しくは「物の本屋」というので、厳密には教科書・参考書など堅い本を出版し販売する商売をさす。ここでは単に出版と販売をかねる書店の意味。 初印[#「初印」は太字](しょいん) 彫ったばかりの版木で最初に刷り立てられた本。現在のことばでは「初版本」などと言うが、その言い方は学術的には曖昧《あいまい》なので使用しない。 完本[#「完本」は太字](かんぽん) 和書は一般に一冊が二十五丁(五十頁)内外で長い作品は何冊にもわたった。その全部が揃《そろ》っている本を完本もしくは揃本《そろいぼん》といい、一部欠けているものは不完本もしくは端本《はほん》という。さらにほんの一部しか残っていないものは零葉《れいよう》もしくは残巻という。 原装[#「原装」は太字](げんそう) 出版された当時のままの装訂が保存されているものをいう。古書のかなりの部分は表紙を付け替えた改装本である。 何本《なにほん》に拠《よ》った[#「何本《なにほん》に拠《よ》った」は太字] 古写本には、その所蔵者や故事来歴によって、「真福寺本《しんぷくじぼん》」とか「定家自筆本《ていかじひつぼん》」とかいうふうに特定の名前がついている。ある表現が、いったいそのどの本に典拠がもとめられるか、という意味。 テキスト[#「テキスト」は太字](テクストとも) 広義には、書物それ自体をいい、狭義には、各書物のもっている本文の内容をいう。 写本[#「写本」は太字](しゃほん) 書誌学で「写本」というのは要するに「手書きの本」の意味で、「なにかを写した本」に限定しない。従って著者の自筆原稿もまた「写本」である。 校勘[#「校勘」は太字](こうかん) 写本は、転写を繰り返していくうちに段々とテキストに変化を生じる。そこでいくつものテキストを比較研究して、本来の正しい姿を考究すること。 原刻本[#「原刻本」は太字](げんこくぼん) 木版本は、簡単に海賊版が作れる。また版木がすり減った場合は、まったく同じように覆刻することも容易である。そこで、それらの海賊版や覆刻版に対してオリジナルの版木で刷ったものを原刻本という。 覆刻本[#「覆刻本」は太字](ふっこくぼん) 印刷された本文をそのまま版木に裏返しに貼《は》り付けて彫ると、一見同じものができる。これを覆《かぶ》せて彫る、ということから覆刻本という。 奥附[#「奥附」は太字](おくづけ) 書物の最後、裏表紙の見返しに刊年や版元《はんもと》などを刷ったもの。本文の終りにあるものは、ふつう奥附とはいわず「刊記《かんき》」という。 端本[#「端本」は太字](はほん) 完本の項参照。 貞門[#「貞門」は太字](ていもん) 江戸時代初期、松永貞徳によって指導され一世を風靡《ふうび》した俳諧の一派。 黄表紙[#「黄表紙」は太字](きびょうし) 江戸時代後期から幕末にかけて隆盛した通俗小説の一ジャンルで、その代表的作者は山東京伝。黄色いぺらぺらの表紙を付けたのでこう呼ぶ。 和綴じ[#「和綴じ」は太字](わとじ) 普通|楮紙《こうぞし》を二つ折りにしてかさね、絹糸で綴《と》じたものをこう呼ぶ。しかし、本当はこの装訂法は中国や朝鮮から伝来したもので、中国では「線装本」とよぶ。広義には、糊で貼って綴じる「粘葉装《でつちようそう》」や、日本独自の「綴葉装《てつようそう》」あるいは組紐をつかって綴じる「大和綴《やまととじ》」などの総称としても用いる。 勅版[#「勅版」は太字](ちょくはん) 慶長勅版の項参照。 版下[#「版下」は太字](はんした) 木版印刷の過程で、版木に彫り付けるために薄い紙に清書したものを「版下」または「版下書き」という。 刊本[#「刊本」は太字](かんぽん) 写本に対して、印刷されたものはすべて刊本という。 整版本[#「整版本」は太字](せいはんぼん) 日本では、木版の印刷に二つの技法があった。その一つは版木に版下を貼り付けて彫りそれを刷る技法、もう一つは木製活字を組み合わせて刷る技法である。前者を整版印刷といい、後者は江戸初前期のものを「古活字本」、江戸後期から明治にかけてのものを「近世木活字本」という。 原本[#「原本」は太字](げんぽん) 印刷をするのに用いるもとのテキスト。 印記[#「印記」は太字](いんき) 書物に押された蔵書印。 砥粉色[#「砥粉色」は太字](とのこいろ) 古い書物の表紙などの色は有職学《ゆうそくがく》などの決まりで、一定の呼び方をする。砥粉色はいくらか白っぽい焦げ茶色。 行成表紙[#「行成表紙」は太字](こうぜいびょうし) 藤原行成好みの料紙に因《ちな》んだ呼び名で、表紙に草花や龍などの模様を印刷した紙を用いたものをいう。 題簽[#「題簽」は太字](だいせん) 表紙に貼り付けてある題名をあらわした紙。刷り題簽、書き題簽、絵題簽、目録題簽など各種ある。題簽なく直接に墨で題を書いたものは「打ち付け書き」という。 帙[#「帙」は太字](ちつ) 書物を数冊ずつ纏《まと》めてくるんでおくケース。通常ボール紙に布を貼って作るが中国では板で作ることが多い。 五障三従[#「五障三従」は太字](ごしょうさんじゅ) 女は梵天《ぼんてん》・帝釈《たいしやく》・魔王・転輪聖王《てんりんじようおう》・仏の五つには成れず、また生まれてから死ぬまで、親、夫、子供、に従うべきものである、とする考え方。 版本[#「版本」は太字](はんぽん) 刊本に同じ。 書眉[#「書眉」は太字](しょび) 書物の本文を書いてある上側の余白欄外。 奈良絵本[#「奈良絵本」は太字](ならえほん) 室町時代から江戸時代中期にかけて盛行した極彩色の絵本/絵巻物で、内容はほとんどがお伽話《とぎばなし》の類。多くは富豪大名などの息女の嫁入り道具として作られたとおぼしく、奈良にその絵師が多かったのでこう呼ぶらしい。 洋装本[#「洋装本」は太字](ようそうぼん) 現在出版されている本のように、西洋式の装訂の書物の称。 和装本[#「和装本」は太字](わそうぼん) 広義には和綴じ本のほか、中国や朝鮮の本も含んで要するに東洋式装訂の書物を総称することもあるが、一般には、和紙に筆写または印刷されて日本式の装訂を施された書物をいう。 翻刻[#「翻刻」は太字](ほんこく) すでに出版されている本と同じ内容のものをもう一度出版しなおしたもの。 底本[#「底本」は太字](ていほん) 転写または翻刻する場合の原本、または研究するときに基礎にする本という意味もある。 本文校訂[#「本文校訂」は太字](ほんもんこうてい) 校勘に同じ。 本奥書[#「本奥書」は太字](ほんおくがき) 写本では通常その最後に筆写した人がその底本について書き付けたりすることがあり、これを奥書という。しかし、その奥書をまた別の人がそっくり転写して更に自分が転写した旨を奥書として書いておく場合、初めからあった奥書を「本奥書」といって、あとから附加された「書写奥書」と区別する。 朝鮮から伝来した古活字技法《こかつじぎほう》[#「朝鮮から伝来した古活字技法《こかつじぎほう》」は太字] 朝鮮では銅合金で活字を鋳造《ちゆうぞう》しそれを金属板の上に蜜蝋《みつろう》と木灰《もくばい》を混ぜたもので固定して印刷した。 重刷の不可能な古活字印刷[#「重刷の不可能な古活字印刷」は太字] 古活字版は、通常三枚ないし四枚の植字版《しよくじばん》に木活字を植えて刷るが、その際、仮に三枚の植字版を使うとすれば、まず第一から第三丁までを組んで刷り、次にそれを解版して第四丁から第六丁までを組んで刷るという方法をとった。したがって、全部の印刷が終った時点では、版はまったく残っていないため、重刷しようとする場合は、また一からやり直さなければならなかった。それ故、古活字版ではいわゆる大量生産効果が期待されず、出版業の発展とともに姿を消す結果となった。 日本独自の木活字[#「日本独自の木活字」は太字] 日本人は金属鋳造の技術が得意でなく、一方で木彫技術に優れていたので、朝鮮から活字が入ってきたとき、その活字を木で作り、なおかつ楔《くさび》で固定するというような独自の工夫をした。 慶長勅版[#「慶長勅版」は太字](けいちょうちょくはん) 江戸初期|後陽成《ごようぜい》天皇の命令で朝鮮活字版に倣《なら》って作られた古活字印刷を勅版というが、そのうち、慶長時代に作られたものをこう呼ぶ。 後印本[#「後印本」は太字](こういんぼん) 後刷り本に同じ。 外題[#「外題」は太字](げだい) 題簽に刷られまたは書かれた、もしくは表紙に打ち付け書きされた書物の題名。本文の巻頭に書かれる題名「内題」と区別してこういう。書誌学的には「内題」がもっとも信頼すべきものと考えられ、外題はあまり信用できない。 活版印刷[#「活版印刷」は太字](かっぱんいんさつ) 明治以後西欧から移入された金属活字を用いた印刷技法。 鼇頭[#「鼇頭」は太字](ごうとう) 古典文学や中国哲学の書物などで、書眉に小さな字で注釈を附加した付注本を鼇頭本という。 影印[#「影印」は太字](えいいん) 原本を写真にとってオフセットやコロタイプ等の技法で印刷した本。 無刊記[#「無刊記」は太字](むかんき) 刊記(「奥附」の項参照)を持たない本。古い刊本には、案外と無刊記のものが多い。 中本[#「中本」は太字](ちゅうほん) 今日の文庫本より一回り大きいくらいの軽便《けいべん》な和綴じ本。主に黄表紙など草双紙《くさぞうし》に用いられた。実際は美濃紙二つ折りにして綴じた大本《おおほん》(美濃本、今日の週刊誌くらいの大きさの本)の半分の大きさ。 跋[#「跋」は太字](ばつ)「後書き」のこと。 半紙本[#「半紙本」は太字](はんしぼん) 書道に用いる半紙を半分に折って綴じた大きさの本。今日のA5判(148�×210�)ないし菊判《きくばん》(152�×218�)くらいの大きさにあたる。ちなみに、和本の大きさは、特大本、大本(美濃本)、半紙本、中本、小本(半紙本の半分の大きさ)、特小本、二つ切り横本、三つ切り横本、横綴じ半紙本、四つ切り横本、その他の変型本(升形本《ますがたぼん》等)と多種多様にある。 [#ここで字下げ終わり]  書誌学用語の大略については拙著『書誌学の回廊』(日本経済新聞社刊)をお読み下さい。 この作品は平成七年十月新潮社より刊行され、 平成十年十一月新潮文庫版が刊行された。