ロミオの災難 著者 来楽零/イラスト さくや朔日 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)恋心《こいごころ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)白地に水色の花|模様《もよう》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)「初宮《はつみや》理果《りか》さん(16[#「16」は縦中横])」 ------------------------------------------------------- [#挿絵(img/_Romeo_001.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_002.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_003.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_004.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_005.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_006.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_007.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_008.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_009.jpg)入る] [#挿絵(img/_Romeo_010.jpg)入る] [#挿絵(img/Romeo_001.jpg)入る] [#改丁]    開幕前  ふわりと、バスのタイヤが地面を見失った。  車体が傾き、体が浮き上がる。  誰かがあげた鋭い悲鳴によって、ようやく�ロミオ�は事態を理解した。  落ちるのだ。  自分たちが乗ったバスがガードレールを突破して、今、崖《がけ》から谷底へ落ちていこうとしているのだ。 (俺たち、死ぬんだ)  思うと同時に、隣《となり》に座っていた�ジュリエット�がしがみついてきた。反射的に彼女の肩に腕を回す。  ぐるりとバスが回転する。通路を挟んだ反対《はんたい》隣にいた�マキューシオ�が�ロミオ�の上に落ちてくる。とっさに反対の腕で�マキューシオ�を抱き、こんな非常事態でなければ両手に花とでも言いたくなるような格好《かっこう》で、転落していくバスの中をもみくちゃになりながら転げ回る。  いつの間にか、�ティボルト�と�ロレンス�の手も�ロミオ�の体をつかまえていた。�ロミオ�は四人の女にしがみつかれて、転げ回る団子《だんご》の中心になる。  体に回された何本もの腕に一層《いっそう》力がこもった。�ジュリエット�がさらに強く�ロミオ�の体にすがりつきながら、あとの三人を鋭く睨《にら》んだ。 「ちくしょう!」  高い声で誰かが叫ぶ。  誰が叫んだのか、それが何に対する叫びなのか、もうわからない。  いきなり自分の人生に強制的に幕を下ろそうとしている運命への悪態《あくたい》なのか、それとも現実にいる——それもすぐ側《そば》にいる誰かへの悪態なのか。  目をつぶった�ロミオ�の顔の上に、誰かの髪《かみ》の毛がかぶさった。  ——いい匂《にお》いがする。  パニックで正常な思考《しこう》回路が焼き切れたのか、そんな呑気《のんき》なことを思った。  そのままバスは、落ちて、落ちて、落ちて—— [#改丁]    第一幕  その瞬間《しゅんかん》、すごくいい匂《にお》いがした。  女の子イコールいい匂いのする生き物でないことは、十五年間三人の姉に囲まれて生きていれば嫌というほど思い知る。女であっても汗くさかったり脂《あぶら》くさかったりブーツからすえたにおいを発したりするものだ。(うちの猫はしょっちゅう姉の脱いだブーツに顔をつっこんで興味|深《ぶか》そうにフンフンと嗅《か》いでいる。言いたいことがあるなら口で言えと、ブーツの持ち主である姉は無茶《むちゃ》な怒り方をしていた)  けれど、突如《とつじょ》として降ってきたその女からは、ふわりといい匂いがした。  ——清潔《せいけつ》っぽいけどおいしそうな匂い……あ、柑橘系《かんきっけい》の果物《くだもの》の匂いかな。そうか、こいつやったら髪《かみ》長いからシャンプーか何かの香りがしてるのかも。  自分の上に降ってきたその女に突き倒される形で後ろ向きに倒れながら、そんなことを考えた。足の裏が階段から離れる。  ——何段くらい上ったっけ。まだせいぜい四、五段だよな。後ろ向きに転げ落ちてもそんな大怪我《おおけが》はしないはず。……たとえ、上から降ってきた人間の下敷《したじ》きになって転げ落ちるんだとしても。  妙《みょう》に冷めた頭で考える。別に冷静だったわけではなく、あまりに予想外のことに脳味噌《のうみそ》の「慌《あわ》てる機能」が停止していたのだと思う。だって、入学式後に学校の階段を上っていたらいきなり女が降ってくるなんて思わないじゃないか。脳味噌だって慌てそこねる。なんなんだ一体。高校ってのはそういうところなのか。  衝撃《しょうげき》に備えて歯を食いしばった。視界《しかい》がぐるりと反転する。汚れた白い天井《てんじょう》と蛍光灯《けいこうとう》の光が、ふわっと広がった長いアッシュブラウンの髪|越《ご》しに見えた。  最初の打撃《だげき》は腹にきた。降ってきた女の膝《ひざ》が鳩尾《みぞおち》にヒットしたのだ。  変な声が漏れると同時に息が止まる。直後、背中に衝撃。表と裏から痛みのサンドイッチになって、ぎゅっと目を閉じた。一瞬《いっしゅん》遅れて後頭部を打ちつけたが、不思議《ふしぎ》とそれはさほど痛くなかった。最後に、ばいん、とやわらかいものが顔面に当たった。 「う、ぐ……」  腹が重い。背中が痛い。背骨は無事か?  薄目《うすめ》を開けたとたん、体の上の重みがすっと消えた。 「ごめん!」  ぎょっとするほど至近《しきん》距離にあったのは、すさまじく整った女の顔。 「すごくごめん!」  声を出せなかったのは、まだ息が詰まっていたせいだけではなく、不慮《ふりょ》にもほどがある事態にあっけにとられていたせいだけでもない。やったらめったら綺麗《きれい》な目の前の顔に、呆然《ぼうぜん》としていたからだった。  こんな顔ナマで見たの生まれて初めてだ。……もしかしたらブラウン管|越《ご》しでもないかも。  白くてするりとなめらかな肌《はだ》とか、形よく通った鼻筋《はなすじ》とか、小さな口とかは、「芸能人みたい」とか、あるいは「人形みたい」だとか言われそうな綺麗さだけど、なにより強烈な印象《いんしょう》なのは彼女の目だった。  長い睫毛《まつげ》に縁取《ふちど》られた目は大きく、力強かった。茶色がかった瞳《ひとみ》には、目力《めぢから》というか眼力《がんりき》というか——とにかく人を惹《ひ》きつける力があった。  ふいに、頭の下から何かやわらかいものが引き抜かれた。ごっ、と、後頭部が床に当たる。  見ると、頭の下に敷かれていたのは、その女の白い手のひらだった。  女はこちらの様子《ようす》を気にしながらも階段の上をちらちらと見上げ、すっと立ち上がる。……この状態で立ち上がられると、丸見《まるみ》えなのだけれど。 「一年A組、雛田《ひなた》香奈実《かなみ》。もし何かあったら言いに来て。悪いけど今は急いでるの」  人を撥《は》ねといて名刺《めいし》だけ渡して走り去る運転手のように、女はそれだけ言うと踵《きびす》を返して走り出した。見事な走りっぷりで、もう振り返りもしなかった。  僕は、踵《かかと》を階段にのっけて床に仰向《あおむ》けに倒れた状態のまま、女が去っていった方向を顎《あご》を上げてぼんやりと眺《なが》めていた。  白地に水色の花|模様《もよう》。とまず思い、倒れたときに顔に当たったやわらかい感触《かんしょく》を思い出して、C以上だな。と次に思った。  僕は面食《めんく》いではない。  十五年の人生を振り返り、初恋だった隣《となり》の家のお姉《ねえ》さんから、中学三年のときに告白して玉砕《ぎょくさい》したクラスメイトの顔まで順番に思い出してみて、そう言える。  もちろん綺麗な顔の女に見とれることもあるし、容姿《ようし》の好みだってある。けれどそれは、恋愛感情と直接つながるものではなかった。  にも、かかわらず。  僕はこのとき、背中と腹の痛みと共に、生まれて初めての「一目惚《ひとめぼ》れ」を経験していた。       *  図書室から借り出した数冊の本を物置と化している机の上に置いて、パイプ椅子《いす》の背もたれに反り返るように寄りかかり、借りた本の一冊をぱらぱらと眺《なが》めた。  開け放しの窓から、女子テニス部のきやらきやらとした華《はな》やかなかけ声と、野球部の野太《のぶと》い声が聞こえてくる。 「あれ、まだ如月《きさらぎ》だけ?」  がらりとドアが開くと同時に、通りのいい綺麗《きれい》な声が聞こえた。顔の上に本を掲げた体勢のまま、視線だけをドアの方に向ける。通り道ができて、風がドアから窓へと吹き抜けていった。 「新堂《しんどう》は掃除《そうじ》当番。西園寺《さいおんじ》には体育館とこで会ったからもうすぐ来ると思う。村上《むらかみ》は知らん」  言うと、雛田《ひなた》香奈実《かなみ》はふうんとつぶやいて唇《くちびる》を尖《とが》らせた。そんな顔をしていても、やっぱりこいつは可愛《かわい》い。  あのとき、階段から降ってきた雛田の下敷《したじ》きになったあと、痛みから回復した僕は立ち上がって何事もなかったかのように階段を上り直した。(何しろ犯人は立ち去ったあとだったし、目撃《もくげき》者もなかった。いかに変な事態に遭遇《そうぐう》したとはいえ、騒ぐほどの被害があったわけではないのだから、なかったこととして行動を再開するしかない)  そうして、階段を上ったところで人だかりに当たった。各《かく》教科の準備室しかない階に人がたまっているのを奇妙《きみょう》に感じて、僕は人垣《ひとがき》に近づきその中心をひょいとのぞき見た。 「見てんじゃねえよ!」  そこには、腹を押さえてうずくまりながら、自分を取り囲む野次馬《やじうま》たちを威嚇《いかく》している男がいた。  あとから雛田|本人《ほんにん》に聞いた話によると、雛田はその男(どうやらあまり評判のよくない上級生だったらしい)に校内ナンパをされ、それがかなりしつこかったものだから、紳士《しんし》的に……もとい、淑女《しゅくじょ》的に断るのが面倒《めんどう》になって蹴倒《けたお》したらしい。そこに人が来る気配《けはい》を感じて、慌《あわ》てて逃亡したとか。その逃亡っぷりがまたすさまじく、階段の手すりを乗り越えて下の階に飛び降りるという、段の立場がなくなるような、階段の用途《ようと》を丸《まる》無視したもので、僕はそこに遭遇したようだった。「だって今までそれで怪我《けが》したりさせたりしたことなかったんだもん」というのは、再会したときの本人|談《だん》だ。  ちなみに僕はもちろん、その事件のあと雛田香奈実の教室に押しかけていって文句を言ったりするようなことは一切しなかった。そもそも、そのときは痛かったものの、あとに響《ひび》くような怪我はしなかったし。ただ、もう一度あのおかしな美少女に会いたいとは思っていて、偶然ばったり会ったように装って話しかけるチャンスをつかんでみようかと、一年A組の前の廊下をうろうろしてみたりはしたのだが、その作戦が成功するより前に——彼女と再会した。  それは、なんとなくふらりと寄ってみた、仮入部《かりにゅうぶ》期間中の演劇部の部室でのことだった。「ウエルカム新入生!」の張り紙がされた部室のドアを軽い気持ちで開いてみたところ、あの超絶《ちょうぜつ》美少女がふい打ちに目の前に現れたのだ。  演劇部をのぞいてみようなどと思ったのは、ちょっとした出来心だった。人前《ひとまえ》で話すことはあまり得意ではないし、ましてや舞台の上で何かになりきってみせるなどというこっぱずかしいことは絶対にできないと思っていた。  ただ、戯曲《ぎきょく》を読むことは好きだった。特にシェイクスピアが。今時の高校の演劇部がシェイクスピアなど上演するのかどうかは甚《はなは》だ疑問だったが、いずれにしろ舞台というものに興味はあったし、仮に演劇部に入ったとしても何も絶対に役者をやらなければいけないわけではないだろう。スタッフの仕事ならちょっとやってみたいかも。とりあえず話だけでも、と思い、部室のドアをノックしたのだ。 「役者はヤなの? でもうちの場合、たぶん役者|回避《かいひ》できないよ。なんせ、部員少ないから」  迎えてくれた気だるげな先輩《せんぱい》のその一言で、本来なら回れ右して帰るはずだった。はずだったのだけれど——  今僕は演劇部の部室で、図書館から借りてきた脚本《きゃくほん》集を読み、目の前では雛田《ひなた》香奈実《かなみ》が窓から吹き込む風に髪《かみ》をそよがせて立っている。  もうすぐ六月も終わろうとしていて、夏本番を迎えようとしている。つまり、僕が演劇部に入部してからもうそれだけの時間がたっているわけであり、つまり、そういうことだった。  美少女につられたのだと言うなら言え。  雛田は窓枠《まどわく》に腰かけ、ガラス張りの二階の渡り廊下を見上げて、ほぅと息をついた。 「部室から見上げるとさ、あの渡り廊下歩いてる女の子のスカート、ギリギリだよね。見えそで見えないギリギリライン。……あー、あの子、綺麗《きれい》な足してるな」  雛田の心底うれしそうなつぶやきに、僕はため息をつく。確かに雛田は、美少女は美少女だ。だけどその中身は、オヤジだったりわんぱく坊主《ぼうず》だったりする。一目惚《ひとめぼ》れだったにもかかわらず、今でも幻滅《げんめつ》せずに中身込みでこいつが好きな僕は、結構《けっこう》えらいと思う。 「如月《きさらぎ》はいいなあ、藍子《あいこ》と同じクラスで」  雛田がため息|交《ま》じりにつぶやいた。 「またそれかよ」  げんなりして、横目《よこめ》でじとりと雛田を見る。 「お前、そんなに新堂《しんどう》が好きか」 「だって、あの小動物みたいに全身からにじみ出る可愛《かわい》さ!」  女というのは概《がい》して可愛いもの好きなものだけれど、雛田のそれは(オヤジ的な意味も込みで)一段と激しい。 「そんなに可愛いものが好きなら鏡《かがみ》でも見てろよ」  言うと、雛田はむくれた顔をした。 「私だって、私が可愛いことくらい知ってるわよ」 「左様《さよう》か」 「でもそれとこれとは別。全然《ぜんぜん》別」  そのとき、からりと軽い音を立てて部室のドアが開いた。そのとたん、雛田《ひなた》の表情が明るく華《はな》やぐ。 「藍子《あいこ》!」  ドアを開けたのは、僕のクラスメイトであり、演劇部の仲間でもある少女、新堂《しんどう》藍子。  新堂は、雛田の飛びつくような抱擁《ほうよう》を受けて、二歩ほど後ろにたたらを踏んだ。ちょっとおどおどした顔をしながらも、自分を抱きしめる雛田の背中に手を置いて、子供にするように軽く撫《な》でている。 「ヒナちゃん? どしたの?」 「んー、どうもしないけど、ちょっと藍子を補給」  新堂はお前のなんなんだ。  喉元《のどもと》まで出かかったつっこみをぐっと呑み込む。  雛田は新堂の黒いショートボブの髪《かみ》に鼻先を埋めて、匂《にお》いをかぐように息を吸い込む。 「やめろ変態《へんたい》女。新堂|困《こま》ってる」 「だ、大丈夫《だいじょうぶ》だよ」  新堂は雛田に抱きつかれたまま苦笑《くしょう》を返した。  何故《なぜ》か雛田は、友情の範疇《はんちゅう》からはみ出しているんじゃないかと思うくらいに新堂のことが好きだ。溺愛《できあい》していると言ってもいいくらいに。 「如月《きさらぎ》くん、それ台本?」  雛田から解放された新堂が、僕が読んでいる本をのぞき込んで、おずおずと言った。視線だけを上げると、新堂はちょっとびくりとして身を引く。睨《にら》んだわけでもないのに、新堂の周りに妙《みょう》に緊張《きんちょう》した空気がぱりぱりと張りついているのを感じて、僕はへらりと笑ってみせた。それでようやく新堂の緊張が緩んで、ふわりとひかえめな笑顔が返ってくる。  新堂はいい子だしそれなりに可愛《かわい》いのだけれど、どうにも気が弱いようなのであつかいが難しい。そんなに笑顔を振りまくタイプではないせいか、僕はしょっちゅう新堂から緊張を感じるので若干《じゃっかん》居心地《いごこち》が悪かった。三カ月も同じ部活でやっているんだからそろそろ僕には慣れてくれても、と思わないでもない。 「そう、文化祭の演目《えんもく》そろそろ決めないとまずいからさ。でもなんか、ちょうどいいのが見つからないよな。登場人物が少ないやつで選ばなきゃだし」 「五人のやつ?」 「いや、できれば四人」 「如月、本当に役者やんない気? 音響《おんきょう》と照明だったら、先輩《せんぱい》たちがやってくれるって言ってたじゃん」  にやにやしながら言う雛田を横目《よこめ》で睨《にら》んだ。  現役《げんえき》演劇部員は全部で五名。それも、すべて一年生だった。上級生は三年生しかおらず、彼らは二週間前に終わった春の地区《ちく》発表会を最後に引退|済《ず》みだ。 「これからは自分たちだけでやってかなきゃなんないんだ。役者以外の役割に慣れる奴《やつ》もいなきゃならないだろ」 「それなら地区発表会のときにやったじゃん。あんたが照明、村上《むらかみ》が音響《おんきょう》。……あのときだって、先輩《せんぱい》あんたと西園寺《さいおんじ》には役者やらせたがってたよね。男の部員は他にいないからって」  新入生を迎えた三年の部員は三人で、すべて女だった。 「雛田《ひなた》、単に俺が嫌がることをやらせたがってるだけだろ。俺が役者やんなくたって、うちの場合|間《ま》に合ってる。……お前の男装《だんそう》、大好評だったじゃねえか。上演後、他校の女からきゃーきゃー言われてたろ。村上だって間違いなく似合《にあ》うよ、男役《おとこやく》。お前とセットで女生徒のファンがつくさ」  雛田の隣《となり》で、新堂《しんどう》がとても申し訳なさそうな顔をした。今にもごめんなさいと謝り出しそうに見えて、慌《あわ》てて新堂の顔の前で手を振る。 「や、言っとくけど、全員が男役やる必要はないから。新堂|普通《ふつう》にうまいし、男役なんかやれなくていいから」  高校生にもなってこれはどうだろうと心配になるような引っ込み思案《じあん》っぽい新堂も、何故《なぜ》か舞台に立つと堂々と演技をするのだ。意外《いがい》と、こういう普段《ふだん》自己主張の少ない奴の方が舞台に立つことに快感を覚えたりするのかもしれない。 「シェイクスピアとか、やりたいよなあ」  話題を変えるために、一つつぶやいた。 「無茶《むちゃ》言うねえ。シェイクスピアやるんなら、部員五人じゃ、一人三役くらいやっても間に合わないんじゃないの?」 「わかってるよ。言ってみただけ」 「で、でも、もしちゃんとできたら格好《かっこう》いいと思うけど……」  新堂が一生|懸命《けんめい》フォローするように言ったところで、再び部室のドアが開いた。入ってきた残りの部員二名を見て、雛田がにいっと笑った。 「村上と太郎《たろう》、一緒だったの?」 「そう。二人で何してたかなんて無粋《ぶすい》なこと訊《き》いちゃ駄目《だめ》だよん。ところでヒナちゃん、俺の名前太郎じゃなくて次郎《じろう》だから。っていうか、西園寺って呼んで」  西園寺次郎は女受けする整った顔に上機嫌《じょうきげん》な笑顔を浮かべて言った。  ツラもよくて背も高く、高校一年生のくせに妙《みょう》に世渡《よわた》りがうまいというか、誰とでも屈託《くったく》なくにこにことしゃべるこいつは、当然ながら非常にモテる。演技はすごくうまいというわけじゃないが、見栄《みば》えはするし声の通りもいいので……舞台に立たせる男など、こいつ一人で十分だ。  西園寺と一緒に部室に入ってきた女、村上|真由《まゆ》は、仲良しぶる西園寺を実にうざそうな目で一瞥《いちべつ》し、おどおどと椅子《いす》を勧めてくる新堂《しんどう》にも同様の視線を向け、切れ長の目で僕を見据《みす》えると、プリントを鼻先に突き出してきた。 「仕事しろよ部長」  不機嫌《ふきげん》そうな村上《むらかみ》の言葉に、無言で目の前のプリントをつまんだ。『文化祭の出し物|希望《きぼう》届《とど》けの締め切りについて』と印字《いんじ》されている。 「あー、もしかすると今日、集まりあったんだっけか」  我ながらすっとぼけた声が出てしまい、村上の視線が鋭くなる。怒られる前に頭を下げた。 「申し訳ない、忘れてました。頼りになる副部長がいて助かります」  現役《げんえき》部員が一年生五人しかいない演劇部では、僕が部長、村上が副部長をしていた。ちょっと飛んでるところがある雛田《ひなた》に任せるのも心配だったし、おとなしい新堂に押しつけるのははばかられ、西園寺《さいおんじ》は部活のない日は必ずバイトという多忙な生活を送っている。結果的に、僕と村上が面倒《めんどう》な役を引き受けることとなったのだが、うっかりが多いせいで僕はしょっちゅう副部長|様《さま》に冷たい視線で責められている。村上の冷たい目には容赦《ようしゃ》がない。虫けらを見るような目というのはきっとああいうやつなんだ。村上を好きな奴《やつ》は究極のMだと思う。  そう考えながら西園寺の顔を見た。僕の視線を受け止めて、西園寺は不思議《ふしぎ》そうに首を傾《かし》げる。——こいつ、あれかな。優しくされたい可愛《かわい》い女の子たちにちやほやされすぎて、村上に間違った新鮮《しんせん》さを感じちゃったのかな。 「……文化祭の出し物|届《とど》けは来月|頭《あたま》までか。本当に早いとこ演目《えんもく》決めないとな」  プリントに目を落として言うと、西園寺はさっきまで僕が読んでいた本に目をとめた。 「それ、脚本《きゃくほん》集? なんかいいのあった?」 「いまいち」 「今ね、シェイクスピアやりたいけど無理かなって話をしてたの」  新堂がそっと言うと、西園寺はへえと明るく声をあげた。新堂は西園寺に対しては苦手《にがて》意識を感じていないようで、雛田との奇妙《きみょう》な友人関係を別とすれば、一番西園寺と仲良くしている。 「まあ、無理だってわかってるよ」 「そうだなあ、でも、人数をちょうどよくした台本《だいほん》を俺たちで作るって手もあるけど」  西園寺の言葉が終わるか終わらないかというとき、突然——本当に突然、ぞくりと冷たいものが背中を走った。  同時に、上に影が被《かぶ》さってくる。はっとして見上げた。  棚だ。目の前に重たそうな木の棚が倒れてくる。棚にぐちゃぐちゃに収められていた本やファイルがすべり落ちようとしているのが妙《みょう》にゆっくりに見えた。だが、体は強ばり動かない。  目をつぶった瞬間《しゅんかん》、思い切り突き飛ばされた。  ガァン、と鼓膜《こまく》に突き刺さる音がまず響《ひび》き、それに続いてドサドサと物が落ちる音。落下|音《おん》は連鎖《れんさ》するように長く続き、数秒後にカランとペンか何かが床に転がる音が聞こえた。 「雛田《ひなた》、新堂《しんどう》!」  棚は、僕の足先に倒れていた。誰かが——おそらく雛田が突き飛ばしてくれたおかげで、棚の下敷《したじ》きになることからは免《まぬが》れた。だけど、側《そば》には雛田も新堂もいたはずで……。 「藍子《あいこ》、藍子、大丈夫《だいじょうぶ》?」  棚の下から声が聞こえた。僕よりも先に、被害|圏外《けんがい》にいた村上《むらかみ》と西園寺《さいおんじ》が顔色を変えて駆け寄ってくる。僕も慌《あわ》てて立ち上がり、三人で棚を持ち上げた。  空っぽになった棚の下から、雛田の長いアッシュブラウンの髪《かみ》が現れる。 「雛田!」  腕をつかんで助け起こすと、雛田の体の下で、新堂が眠っている小動物のように手足を縮めて小さくなっているのが見えた。 「藍子、大丈夫? 怪我《けが》はない?」  雛田は半《なか》ば僕の手を振り払うようにして、新堂にすがる。新堂はおそるおそる目を開けると、首を横に振った。雛田は泣きそうな顔をしていた。 「ゆっくり体起こして。痛いところないか確認して」  必死の雛田の声に、新堂が起き上がる。 「私は大丈夫だよ。……ヒナちゃんは」 「本当? 本当に怪我ない?」  雛田は新堂の顔や体をぺたぺたさわりながら確認している。本当に無事らしいということに納得《なっとく》すると、雛田は大きくため息をついた。  そういうお前はどうなんだと雛田に言おうとして口を開いたが、村上の声に遮《さえぎ》られた。 「ねえ……これは?」  村上は長身を屈《かが》め、足下に落ちていた冊子《さっし》を拾い上げた。棚が倒れた拍子にどこかから飛び出してきたらしい。  B5サイズのコピー用紙をホチキスでとめたものだった。ぼろぼろになっていて、表紙がとれかかっている。 「『ロミオとジュリエット』」  村上は表紙に書かれた文字を読み上げた。そしてぺらりと一枚めくり、ふーんと無感動に——けれど慣れている者が聞けばちょっとばかり驚いていることがわかる声で——つぶやいた。  横から西園寺がひょいとのぞき込み、軽く目をみはって言う。 「シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』を、誰かが脚色《きゃくしょく》したものらしいね。登場人物がずいぶん少ない」 「何人?」  なんだか無性《むしょう》にぞわぞわして訊《き》いた。ちょっと戸惑《とまど》ったような西園寺の目と合う。 「五人」  一瞬《いっしゅん》しんとした。 「ずいぶんとタイムリーに出てきたものだね」  ぱたりと台本《だいほん》を閉じ、村上《むらかみ》はぐるりと部室を見回した。もともと何がどこにあるかさっぱりわからない混沌《こんとん》の部室だったが、今の騒動《そうどう》のせいで室内は惨劇《さんげき》のあとのようになっている。 「ところで」  村上の声はこんなときでも冷静だ。 「なんで今、この棚|倒《たお》れたの?」 「やばいって、絶対やばいって。あの部室《ぶしつ》絶対なんかいるって!」  西園寺《さいおんじ》が二《に》の腕《うで》をさすりながらわめいた。 「あんな棚がいきなり倒れるわけないじゃん。しかも、『シェイクスピアやりたいねー、でも登場人物多すぎるから無理だねー』って話をしていたところに、いきなり登場人物がうちの部員の数とちょうど同じになるように書き直された『ロミオとジュリエット』の台本が目の前に転がり出てきたんだぜ? ないないない。絶対ない。絶対|何《なに》かの意志が働いてる。その台本は寺かどっかに持っていって、うちの部室もお清めとかした方がいいって!」  村上は西園寺の反対にもしれっとして、台本を読み返している。 「『何かの意志』だとしても、悪いものとは限らないでしょ。いわゆる『神様のお導き』ってやつかも」 「絶対思ってないくせに」 「まあね。ただの偶然だよ。棚の件は不気味《ぶきみ》っちゃあ不気味だけど。……でも、こんな偶然めったにないのも確かだし、せっかくのめぐり合わせは大事にしたいじゃないか」  村上のさばさばとした言葉に、西園寺はむうっと黙り込む。 「まあ……村上さんが言うなら……」 「おい、もうちょっと食い下がれよ」  簡単に言い負かされた西園寺に僕は思わずつっこむ。 「だいたい、登場人物は五人じゃなくて四人のやつを探してたんだ。俺は裏方《うらかた》に回るから」 「まだ言ってるの」  村上が冷たくこちらを一瞥《いちべつ》した。 「だいたいシェイクスピアやりたがったのあんたなんでしょ?」 「言ってみただけだって」  村上は聞いてくれない。西園寺ももう、村上の意向に逆らわない構えだ。 「と、とにかく俺は反対。それのせいで雛田《ひなた》は怪我《けが》したわけだし」  棚|転倒《てんとう》事件のあと、話題は一時現れた台本の方にさらわれたが、僕は一見《いっけん》元気そうに見える雛田《ひなた》の体の状態が気になって、その背中を指でちょっとつついてみた。それがちょうど打撲《だぼく》した箇所だったらしく、雛田に「ぎゃあ」と叫ばれ、殴《なぐ》られたのだ。  今雛田は新堂《しんどう》と一緒に保健室に行っている。 「……ところで、遅いな、あいつら」  ふと不安になって、ドアの方に視線をやった。湿布《しっぷ》だけ貼《は》ってくると言っていたけれど、まさかもっとひどい怪我《けが》をしていたとか。 「心配なら見てきたら」  西園寺《さいおんじ》が気遣《きづか》うように言う。  そういえば、助けてくれた礼もまだ言っていなかったと気づき、一つ頷《うなず》いて踵《きびす》を返した。村上《むらかみ》の声が追ってくる。 「いきなり開けるなよ。湿布貼ってる最中《さいちゅう》かもしれないから。雛田の裸体《らたい》見たらまた殴られるよ」 「殴らないだろ。あいつそういうところは無神経だし」 「ふうん。じゃあ堂々と見る?」 「見ねえよ!」  思わず顔を熱くして怒鳴《どな》ると、村上の隣《となり》で西園寺がくつくつと笑っていた。当の村上は相変わらずの無表情だ。……くそう。  放課後の校舎の中には人気《ひとけ》がなかった。閉じ込められた空気が生ぬるく漂っている。吹きさらしの渡り廊下に出ると、すうっと風が吹いてきて、体にまとっていた生ぬるさが吹き飛ばされる。  保健室は北校舎一階。ドアをノックしようと思っていたのだが、入り口は開けっ放しだった。  ……どれだけ無防備なんだ。  入り口すぐには布のついたてが立っていて、室内は見通せないようになっているが、それでも服を脱いで湿布貼るんだからドアくらい閉めろと思う。 「ヒナちゃん、痛い?」  中に向かって声をかけようとしたとき、新堂の声が聞こえた。思わず口をつぐむ。 「大丈夫《だいじょうぶ》だって。それより、藍子《あいこ》は本当にどこも怪我してない?」  雛田はまだ心配そうな様子《ようす》で新堂を気遣っている。 「……何度同じこと訊《き》くの」  新堂の声に呆《あき》れたような気配《けはい》と少しの硬さが交じる。 「だって、ホントにちゃんと守れたのか心配で。私は平気だよ。ちょっと背中に痣《あざ》できただけだもん」 「ヒナちゃん一人なら、よけられたのに」 「へっへ。反射|神経《しんけい》には自信あるからね。でも正直|焦《あせ》った。二人とも助けられるかなって。とっさに如月《きさらぎ》蹴《け》っ飛ばして藍子《あいこ》を庇《かば》ったけど、うまいこと二人とも怪我《けが》しなくてよかったー」  ……手で突き飛ばされたと思っていたが、実は蹴られていたらしい。  それにしても、と、ついたての向こうにいる雛田《ひなた》のことを思う。  あいつはあの非常|事態《じたい》で、少しも迷わずに僕たちを助けることを考えたんだ。ほんのわずかでも迷っていれば、あの一瞬《いっしゅん》のうちに二人の人間を助けることなんてできるわけがない。  初めて会ったときのことを思い出した。雛田は僕を下敷《したじ》きにしながらも、頭だけは自分の手をクッションにすることで庇ってくれた。あまりにも衝撃《しょうげき》的だったのでそのことについてはほとんど考えたことがなかったけれど、頭と床の間に挟まれて叩《たた》きつけられて、痛かったはずだ。  ——そういう奴《やつ》なんだ。  なんだか力が抜けてしまい、壁に寄りかかった。頭を冷たい壁につける。 「ヒナちゃんはもっと、自分を大事にした方がいいよ」 「大事にしてるよ。私、私のこと大好きだもん」  すがすがしいくらいにきっぱりと、雛田は言い切った。 「じゃあなんで、自分を優先しないの……」  新堂の戸惑《とまど》った声が聞こえる。けれど雛田は幸せそうな笑い声をたてた。 「自分の欲求|優先《ゆうせん》だから。……それより、文化祭の劇、成功させようね。えらい目に遭《あ》ったけど、そのおかげでなんか運命的に台本《だいほん》も現れたことだし」  声をかけるタイミングを完全に見失ったまま、僕は内心で舌打《したう》ちした。  もう、あの台本を使うことに反対できなくなったじゃないか。  結局その日はうやむやのうちに部活の時間が終わってしまった。  他の部員は先に帰して、顧問《こもん》のところに棚を固定してもらう算段《さんだん》をしに行き、そのついでに用事を頼まれ、それをすませてから部室に戻り、鍵《かぎ》をかけて学校を出たときにはもう、運動部も帰った時間になっていて、グラウンドは静かだった。  だが、門の近くに見覚えのある自転車が一台停まっていた。銀色の自転車のかごには、雛田のバッグが入っている。うちの高校は指定バッグがないので、身近な人のバッグは見ればわかる。雛田のバッグは、紺色《こんいろ》に白の持ち手で、クラスメイトにもらったらしいクマのマスコットがくっついていた。  その自転車の横の、すずかけの木に視線を移す。  ちょうど目の高さのところに、ローファーを履《は》いた足がぶら下がっていた。 「おつかれ」  透《す》き通った、楽しげな声が降ってくる。 「何やってんだよ。スカートで木登りか」  雛田《ひなた》は太い木の枝にまたがっていた。見上げると雛田の白い足が目に入って、非常に気になる。細くて、けれどふっくらとやわらかそうなふくらはぎとか、綺麗《きれい》な丸い曲線の膝《ひざ》とか、スカートの裾《すそ》からのぞくふとももにどうしても目がとられる。  雛田は、うひひ、と悪事《あくじ》がうまくいった悪党のような笑い方をした。目がきらきらしている。 「ほら、これ」  雛田は、片手で白い毛玉《けだま》を持ち上げた。にゃー、と、手の中の毛玉が鳴く。  小さな白い子猫だった。長毛《ちょうもう》のため、毛が絡まり合って、遠くから見ると丸っこい毛玉に見える。けれどよく見ると、真《ま》っ黒《くろ》で大きくクリンとした目が非常に可愛《かわい》い。 「そいつを助けたのか」  納得《なっとく》して言うと、雛田は首を傾《かし》げた。 「その猫が、木に登って下りられなくなってたんだろ? それで雛田が助けに登ったんじゃないのか」  雛田は目を見開いた。目がクリンと丸くなり、腕に抱いた猫のような顔になる。 「そっか!」 「……何が?」 「この子、下りられなくなってたのか! 木の上でこの子がにゃーにゃー言ってるのを見つけて、木の上なら逃げられる心配もないだろうと思って登ったんだけど」 [#挿絵(img/Romeo_027.jpg)入る]  どうやら、自分が猫と遊ぶのが目的だったらしい。  けれど子猫は雛田《ひなた》の側《そば》ですっかり安心感を覚えたらしく、彼女の腕でうつらうつらし始めた。雛田はそんな子猫をひょいとつかむと、自分の肩の上に載せた。子猫はびくっと目を覚まし、慌《あわ》てて雛田のシャツに爪《つめ》を立ててしがみつく。  雛田は、枝をまたいでいた足を戻して腰かける体勢になると、スカートを軽く手で押さえて、ひらりと飛び降りた。雛田の肩の上の子猫が一瞬《いっしゅん》毛を逆立《さかだ》てるのが見えたが、雛田はあの高さから飛び降りたとは思えないような軽い音を立てて、やわらかく着地した。 「痛いよ。爪が食い込んでる」  雛田が肩から子猫を下ろすと、よっぽどびっくりしたのか、子猫は雛田の手から飛び出して、一目散《いちもくさん》に走り去った。雛田は残念そうな顔をして、その後ろ姿を見送る。 「なんであの高さから普通に飛び降りられるんだよ」  呆《あき》れて言ったけれど、雛田は平然としている。 「猫だって高いところから普通に飛び降りるじゃん」 「お前は一応ヒトだろ。というか、猫だって飛び降りられずに立ち往生《おうじょう》してた高さだろ」 「あの子猫にとっちゃ高いけど、ヒトにとってはたいしたことないよ。私|軽《かる》いし、こう見えていい筋肉あるし、体もやわらかいもん。猫と大差ないって」  つっこみたい気持ちは大いにあったが、無駄《むだ》な気がしたので呑み込んだ。 「背中、平気か」  訊《き》くと、一瞬雛田は何を言われているのかわからないようなきょとんとした顔をした。だがすぐに納得《なっとく》顔になり、こくこくと頷《うなず》く。 「平気平気。ああ、そういえば如月《きさらぎ》は?」 「無事。……なんか、悪かったな。でも助かったよ」  新堂《しんどう》に対する心配の度合《どあ》いとは随分《ずいぶん》違う雛田の反応に内心|苦笑《くしょう》しつつも軽く礼を言った。雛田はちょっとうれしそうな顔になって「へへへ」と笑う。 「藍子《あいこ》も怪我《けが》なかったみたい。よかったぁ」 「お前さ、なんでそこまで新堂のこと好きなの?」  訊くと、雛田は首を傾《かし》げた。しばらく考え込む間ができる。 「なんでだろうねえ。なんか、いいんだよね、すごく」  雛田は首を傾げたまま言った。それから、うんと腕を上げて伸びをする。 「結局今日はなんにもできなかったねえ。ちょっとは体|動《うご》かしたかったな。あ、でも結果的には、今日は台本《だいほん》決めのミーティングになったわけか」 「……何か超常《ちょうじょう》的なものがミーティングに参加していたような気がして嫌だけどな」  なんだかんだで、あの倒れてきた棚が提案した脚本《きゃくほん》が、文化祭|公演《こうえん》の演目《えんもく》に決定しそうになっている。 「あれやるんなら、雛田《ひなた》がジュリエットか?」  ただそこに立っているだけで視線を集める女だ。ヒロインにはもってこいだろうと思ったが、雛田はまさかと首を振った。 「ジュリエットやるなら藍子《あいこ》でしょ」 「あー、そうか。考えてみるとあの台本《だいほん》、女役《おんなやく》はジュリエットしかいないのか。うん、まあ、新堂《しんどう》に男役《おとこやく》やらせるのはきびしいものがあるよな」  新堂は男役が壊滅《かいめつ》的に下手《へた》だ。たとえ女とのラブシーンがあろうとも、立ちションシーンがあろうとも、観客の九割は彼女が男役をやっていると気づかないんじゃないかと思うくらいに下手《へた》だ。演技|自体《じたい》はうまいのになんでだろうと不思議《ふしぎ》だけれど。 「それに私は殺陣《たて》がやりたい。せっかくファンタジーやるんだから、剣を持って戦いたいじゃない」  雛田は落ちていた木の枝を拾って、フェンシングをするように振るってみせた。 「『ロミオとジュリエット』はファンタジーじゃないんだけど……。まあ、それならロミオやれば?」 「ロミオは嫌。あいつ嫌い」 「なんで」 「だってさ、あいつ最初|別《べつ》の女好きだったじゃん! ロザラインだっけ? 僕はロザラインのためなら死ねる、みたいなこと言ってたくせに、パーティーでジュリエット見たとたんあっさり乗り換えたんだよ! もうちょっと時間があったらきっと、また別の女と出会って好きになって、生きるの死ぬの騒いだよ。絶対」 「まあ、そうかもしれないけど。でも、一目惚《ひとめぼ》れってあるだろ。一目見て、本当に人を好きになることだってさ」  ロミオを弁護《べんご》するようなことをもごもごと言ってしまう。別にロミオに感情|移入《いにゅう》していたわけでもないのに、ちょっとむっとしていた。  一目惚れイコール運命だなんて言う気は少しもない。だけど、一目惚れイコール軽薄《けいはく》、みたいに言われると、ちょっと待ってくれよと思う。ただ、人が恋に落ちるときに、トンとその背中を押したものが一目見たときの魅力《みりょく》だったという、それだけのことじゃないか。優しいところに惚れたというのならみんな頷《うなず》くくせに、一目惚れを白い目で見るのはおかしい。顔だって、立派《りっぱ》にその人間を構成するものの一つだ。  ——雛田に初めて遭遇《そうぐう》したときに感じた気持ちを否定された気がして、そんな反論を心の中でつぶやいた。  雛田は納得《なっとく》いかない様子《ようす》で首をひねる。 「ふうん。そういうものかね」 「顔から入るってのは、雛田《ひなた》的には邪道《じゃどう》か?」  訊《き》くと、雛田は舞台上でやるみたいに大げさに首をすくめた。 「むしろ王道《おうどう》なんじゃないの? 周り見てるかぎり、恋の正門は顔みたいよ」 「正門か……。そうだな。せいぜい門だよな。そこを玄関《げんかん》にしちゃうとよろしくないよな、うん。俺も門はそこだったけど、玄関はちゃんと確認の上入ったわけだし」 「は?」 「なんでもない。個人的に納得《なっとく》しただけ」 「あ、そ。——私は、恋愛はしないだろうなあ」  僕にとっては衝撃《しょうげき》的なつぶやき。 「な、なんで。新堂《しんどう》か? 新堂がいるから男はいらないってのか。お前、本気でそっちの道に行くつもりか?」  動揺《どうよう》して思わず口走ると、冷たい目で一瞥《いちべつ》された。 「藍子《あいこ》のことは可愛《かわい》くて大好きだよ。でもそういう勘《かん》ぐりは、超、めんどくさい。そもそも、愛情を分類して恋だとか名前をつけること自体がめんどくさい」  もしかすると、雛田の新堂に対する愛情は、さっきの猫に対する感情と似た種類のものなのだろうか。だとしたらそれはそれで、なんだか微妙《びみょう》な友達関係だけれど。 「まあ、ロミオは合わないって思う気持ちはわかったよ。じゃあ誰やりたい? 雛田|目立《めだ》つんだから、ロミオかジュリエットのどっちかをやった方がいいと思ったけど」  雛田は持っていた木の枝を僕の鼻先《はなさき》に突きつけて、にいっと笑った。 「マキューシオ」  枝を指先で器用《きよう》にくるりと回し、雛田は言う。 「マキューシオって結構《けっこう》キーパーソンじゃない。ティボルトとの戦いのシーンも見せ場になりそうだし」  マキューシオはロミオの友人で、キャピュレット家のティボルトに殺される。そのためにロミオはティボルトを殺してしまい、悲劇が始まるのだ。 「じゃあ、ティボルトは村上《むらかみ》かな。確かに似合《にあ》いそうだ」 「とすると、あんたと西園寺《さいおんじ》がロミオとロレンス神父《しんぷ》になるわけね」  どうしても役者やらなきゃ駄目《だめ》か、と、僕は重いため息をついた。 「それなら、間違いなくロミオは西園寺だろ。あいつ見てくれいいし、適任《てきにん》」 「如月《きさらぎ》でもいいと思うけどね。ロミオ」  ぎょっとして目をみはり、雛田を見る。 「あの思い込んだら一直線みたいな? 自分の恋に酔っちゃえるところとか? 西園寺より如月の方が合ってる気がするけど」 「……雛田、ロミオ嫌いなんだったな……」  雛田《ひなた》は笑って、枝を捨てると自転車にまたがった。夕方の、とろりと赤みがかった光が落ちる中、自転車に乗った雛田のシルエットが長く伸びる。 「如月《きさらぎ》は嫌いじゃないよ」  雛田は悪意《あくい》なく、けれど特別な好意もなさそうな口調《くちょう》でさらりと言った。長いまつげにくっきりと縁取《ふちど》られた目を少しだけ細めて微笑《ほほえ》む。 「明日|役《やく》決《ぎ》めするよね? 楽しみにしてる。それじゃね」  バイバイと手を振り、雛田は走り去っていく。長くやわらかそうな髪《かみ》がさらりと後ろに流れた。  しばらく未練《みれん》たらしくその後ろ姿を見守ったあと、小さくため息をついて駐輪《ちゅうりん》場に向かった。そうか、明日役決めをするのか。もうあの台本《だいほん》を使うことは決定しているのかと今さら思う。  にゃあ、と声がした。見ると、さっきの子猫が茂みの下から姿勢を低くして顔をのぞかせている。 「いいよな、お前は」  つぶやいて、手を出そうとしたら逃げられた。       *  昼休み、昼飯を食べ終えて友人とだらだらしゃべっていると、机の上に置いていた携帯電話が振動《しんどう》した。片手でばかりと開いて確認すると、村上《むらかみ》からだった。うあー、と低く呻《うめ》く。 「誰?」  横村《よこむら》が僕の手元を見て言った。 「うちの副部長。仕事を命じられた」 「ああ、村上さんだっけ? なんか格好《かっこう》いいよな、あの人。ちょっと怖いけど」 「ホントに怖いよ」 「あー、あと、演劇部っつったらあの人だろ。雛田|香奈実《かなみ》。超絶《ちょうぜつ》美少女」  藤岡《ふじおか》も話題に乗っかってくる。僕はため息をついた。 「うちの部、容姿《ようし》のレベルが高いのは確かなのに、なんでか俺には新堂《しんどう》が紅《こう》一点に見えるときがあるよ」 「へえ、お前新堂さんが好みなの?」 「そういうことじゃなくてだな……あ、新堂!」  僕は立ち上がり、トイレ帰りなのか、教室に入ってきた新堂に声をかけた。新堂は、後ろの方で机を寄せ合っている女子のグループのところに戻ろうとしていたが、慌《あわ》てた様子《ようす》で小走《こばし》りに近づいてくる。 「例の台本《だいほん》、持ってるの新堂《しんどう》だっけ?」 「う、うん」  新堂は頷《うなず》き、友人たちのところに引き返して、鞄《かばん》をごそごそやり始める。  近づくと、寄せ合った机の上で菓子の博覧《はくらん》会でもやっているかのように、ポッキーだとかクッキーだとかチョコレートだとかが広げられているのが目に入る。  ぼんやり見ていると、新堂の隣《となり》に座っていた鈴木《すずき》が、「如月《きさらぎ》も食べる?」と顔の前にポッキーを差し出してきた。うむと頷き、そのまま口でくわえると、女たちはきゃあと楽しげな声をたてる。  けれどこれは、僕がモテているわけでは断じてない。現在女子の間では、何故《なぜ》か菓子で男子を餌付《えづ》けすることが流行《はや》っているのだ。  現に背後から「えー何、どうしたの?」などとわざとらしく言いながら藤岡《ふじおか》や横村《よこむら》が近づいてくる。彼らは女子たちと机の上の菓子に視線を走らせると、彼女たちを笑わせようとギャグを飛ばし始める。餌《えさ》をもらうために芸をする熊《くま》のようで、非常に涙ぐましい。  女は女で、どうでもいい男どもにも笑顔で適当に菓子を食わせつつ、自分の目当ての野郎《やろう》に接触《せっしょく》するチャンスをうかがっていたりする。  横村たちがギャグの褒美《ほうび》のようにポッキーをもらっている横で、新堂が台本を鞄から引っ張り出して立ち上がった。 「本当にこれ、使うの?」  台本を差し出しながらおずおずと言う新堂に、ちょっと意外《いがい》な気持ちで首を傾《かし》げる。 「まあ、なんかそういう流れになっちゃってるよな。今|村上《むらかみ》からメールあって、放課後までに人数|分《ぶん》コピーしとけって命じられたし」  部長など、所詮《しょせん》は雑用《ざつよう》係だ。 「新堂は、気が進まないの? だったら是非《ぜひ》とも反対の意志を表明《ひょうめい》してほしいけど……相手が奴《やつ》らじゃ無理か」  僕は一つため息をつくと、「仕事してきまーす」とやる気ない声をあげて教室を出る。後ろ手に教室のドアを閉めようとして。 「うっ」  呻《うめ》き声と共に、何かを挟んだ手応《てごた》え。  振り向くと、あとを追おうとしていたらしい新堂が、閉めかけたドアの間に挟まっていた。 「うわ、ごめん。何?」  慌ててドアを開いて新堂を救出すると、彼女は頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させて、ぱたぱたと手を振る。 「ごめん。て、手伝えることないかと思って」 「あ、そう? 悪いな」 「ううん。ごめん」  僕は軽く笑った。 「なんで手伝ってやる側なのに謝ってんの。しかも、ドアにまで挟まれて」 「あ……ごめん」  さらに顔を赤くして、新堂《しんどう》は困ったようにうつむく。どうしたものかなあと、僕はちょっともてあました気分で彼女の頭を見つめた。  顧問《こもん》に頼んでコピー室の鍵《かぎ》を借りた。コピー室は各《かく》教科の準備室が集まっている階にある。用事がないかぎり生徒は来ない場所なので、昼休みの喧噪《けんそう》は遠くなっていた。  僕は新堂と並んでコピーを取る。  黙々と。 「あの、代わろうか?」  沈黙《ちんもく》の中コピー機の稼働音《かどうおん》だけが繰り返し響《ひび》き、これって別に手伝いはいらない作業なんじゃないだろうかと思い始めた頃、困ったような声音《こわね》で新堂が申し出てきた。いや、どっちかというと何もせずにコピーの様《さま》を見守っている方がつらそうなんだけど。  そう思うが、ここで申し出を断れば、気まずさはさらに一段階|上《あ》がってしまいそうだったので、一つ頷《うなず》いて場所を代わった。 「ごめん、あんまり意味なかったね、私」 「んー、まあなんだ。旅は道連《みちづ》れだ」  自分でもよくわからないフォローをして、吐き出された紙を取り上げる。  そのとき、急にコピー機が動きを止めた。  新堂が慌《あわ》てた様子《ようす》でボタンを押すが、無反応。 「ご、ごめん」 「何か変なことした?」 「してない、はず……」 「じゃあ謝らんでいいよ」  僕は首をひねりながら動かなくなったコピー機から台本《だいほん》を取り上げると、隣《となり》のコピー機の電源を入れる。だがこちらも動かない。 「おいおい、まだ半分もコピーしてないのに。この台本、本当に呪《のろ》われてるんじゃないだろうな」  言うと、新堂はぴくりと肩を震わせた。 「ね、この台本、ちょっと不気味《ぶきみ》じゃないかな?」 「ああ、登場の仕方は異様《いよう》だったよな」 「それだけじゃなくて」  新堂《しんどう》は言いよどむ。 「側《そば》に置いておくと、なんだかぞわぞわするっていうか」 「……勘弁《かんべん》してよ。ただでさえ役者をやらなきゃならない流れになってて憂鬱《ゆううつ》なのに。っていうか、それ雛田《ひなた》に訴えてくれ。この台本《だいほん》不気味《ぶきみ》だからやだって新堂が言えば、少なくとも雛田は聞くよ」  新堂は困った顔をした。 「やだってほどじゃ、ないんだけど」  ヒナちゃんたちがやりたいならそれでいいと思うし、と西園寺《さいおんじ》と同じような自己《じこ》主張のないことを言って、新堂はのろのろともう一つのコピー機に歩み寄った。だが、カチカチと何度かボタンを押して、眉《まゆ》を寄せる。 「……こっちのコピー機も、動かない」 「マジで?」  コピー室のコピー機、全滅《ぜんめつ》。そんなことってあるか?  もう一度、手に持った台本に目を落とした。汚れた台本。新堂の言葉のせいか、なんだかぞわりとした。 「というわけで、台本|印刷《いんさつ》はできませんでしたすみません」  投げやりぎみに謝ると、雛田のブーイングと村上《むらかみ》の舌打《したう》ちと西園寺の同情の視線が返った。 「コピー機が壊れたって……ちょっとおかしいんじゃないの」  西園寺が気味悪そうに台本を見る。 「どうするの? 今日|役《やく》決《ぎ》めのミーティングする予定だったのに」  雛田が首を傾《かし》げて言う。僕は、台本の原本《げんぽん》を軽く振った。 「全員もう読んでるんだから、役決めだけなら一冊あればやれるだろ」 「そんじゃ、まず立候補《りっこうほ》を聞こうか」  村上は立ち上がり、ホワイトボードに役名を書いていった。  ロミオ・ジュリエット・マキューシオ・ティボルト・ロレンス  村上のきっちりとした字で、五人のカタカナの名前が並ぶ。  宿怨《しゅくえん》を抱き、憎《にく》み合うモンタギュー家とキャピュレット家。モンタギューの息子《むすこ》ロミオは、友人のマキューシオと共にキャピュレット家の宴《うたげ》に忍《しの》び込み、キャピュレットの娘であるジュリエットに恋をする。だが、二人の恋は許されるはずもなく、ロミオとジュリエットは二人きりの結婚式を行う。そんなとき、ロミオの友人のマキューシオと、ジュリエットのいとこであるティボルトが路上で剣を抜き合う乱闘《らんとう》になり、その結果マキューシオは命を落とす。友の敵《かたき》とロミオは剣を抜き、ティボルトを殺した。ロミオは追放の身となり、またジュリエットにも縁談《えんだん》が持ち上がる。悲しんだジュリエットは、教会に行きロレンス神父《しんぷ》に相談する。彼の知恵《ちえ》で、ジュリエットは仮死《かし》状態になる薬を飲み、墓場《はかば》に迎えに来たロミオと共に逃げるという計画を立てるが、連絡の行き違いにより、本当にジュリエットが死んだと思ったロミオは、絶望してジュリエットの亡骸《なきがら》の側《そば》で毒を飲み死んでしまう。目を覚ましたジュリエットも、ロミオの死を見て、短剣《たんけん》で自分を突く……という、なんというかまあ、うまいこといった悲劇である。  本当なら、ロミオとジュリエットそれぞれの両親とか、ロミオのいとことか、ジュリエットの乳母《うば》とか、大公《たいこう》だとか従者《じゅうしゃ》だとかジュリエットの婚約者だとか——たくさんの人物が出てくるのだが、それを全部カットして、アレンジを入れて、本来なら二時間以上かかるものを一時間ちょいのものにまとめ上げている。多少|力業《ちからわざ》な感はあるし、迫力や華《はな》やかさはだいぶん薄れてしまっているだろうけれど、その代わり、焦点を絞《しぼ》った濃密《のうみつ》な舞台ができそうな予感がした。  この台本《だいほん》を使うことには消極的だったのだけれど、やるとなったらだんだん楽しみにもなってきた。役者をやることだけは、どうしても気が進まないけれど。 「じゃ、やりたい役がある人は申し出て」  僕は言いながら、台本の原本を一枚めくり、登場人物のページを出す。片手でボールペンをもてあそびながら、どうしてもやらなきゃ駄目《だめ》かなあ。どっかから助《すけ》っ人《と》連れてくるってのはありかな、などと往生際《おうじょうぎわ》悪く考えていた。まあ、百歩|譲《ゆず》って、一番|事務的《じむてき》な役どころのロレンス神父ならやれないこともないか。  雛田《ひなた》が、白く細い手をピンと挙げる。 「私、マキューシオで!」 「えー、ヒナちゃんせめてロミオにしときなよ」  西園寺《さいおんじ》が眉《まゆ》を寄せる。ジュリエットの名を挙げないのは、新堂《しんどう》に気を遣《つか》っているためだろう。雛田は口をとがらせる。 「ロミオは嫌。恋に生きる男なんて、絶対|向《む》いてない」 「誰よりも観客の目を引くマキューシオなんてないよ。ロミオとジュリエットがおいてきぼりになっちゃいそうじゃんか」 「あの、でも、マキューシオでもそうかもしれないけど、ジュリエットより綺麗《きれい》なロミオっていうのもどうなんだろうと思っちゃったりもするんだけど……」  新堂がしょぼしょぼとした声を出す。村上《むらかみ》が新堂を一瞥《いちべつ》した。 「だからって雛田にジュリエットやらせたら、あんたあぶれるよ。にぶいんだから、剣|使《つか》って戦う演技とか向いてないでしょ」 「で、でもロレンス神父なら戦う場面ないし」 「それ以前に、男役《おとこやく》下手《へた》じゃないか、あんた」 「ええと……じゃあ、修道女《しゅうどうじょ》に変えちゃうとか……」 「待て待て。もし本当に俺も役者やらなきゃならないなら、ロレンス神父《しんぷ》の役を新堂《しんどう》にやられると困るんだけど。ロレンスくらいしかできないよ、俺」  慌《あわ》てて割って入ると、西園寺《さいおんじ》が申し訳なさそうな顔で手を挙げた。 「あのさ、悪いんだけど、今回|俺《おれ》バイトであんまり練習時間とれなそうなんだ。だから、あんまり大きい役はできないというか……ぶっちゃけ、ロレンスをやらせてほしいんだけど」  全員が、大なり小なり非難《ひなん》がましい顔を西園寺に向けた。西園寺は首をすくめる。  村上《むらかみ》が大きくため息をついた。 「一番|端役《はやく》のロレンス神父が一番|人気《にんき》なんて、初《しょ》っぱなから前途多難《ぜんとたなん》だね」 「……西園寺。お前だけが、男の役者の頼みの綱《つな》なんだけど」  目を眇《すが》めて言うと、西園寺は顔の前でパンと手を合わせた。 「本当に申し訳ない。今月|家計《かけい》が厳《きび》しくてさ。母親もちょっと具合|悪《わる》くしているから、俺がバイト増やさざるを得なくて」  西園寺は、仰々《ぎょうぎょう》しい名字《みょうじ》に似合《にあ》わず逼迫《ひっぱく》した家計の家で、四人の弟妹の面倒《めんどう》をみながら暮らしている。……いや、名字のイメージと家庭の事情は関係ないけれども。  ともあれ、親の金で高校生活をエンジョイしている僕たちは、西園寺のそんな事情を聞いてしまったら受け入れるしかない。村上はホワイトボードの、ロレンスの文字の下に西園寺の名を書いた。 「雛田《ひなた》がマキューシオなら、私がティボルトやった方がバランスがいいね」  村上のつぶやきにぎょっとする。ちょっと待て。その流れだと、ロミオの役は誰に回ってしまうんだ。  だが雛田も乗り気に頷《うなず》く。 「マキューシオとティボルトが剣で戦うシーンは重要だしね。私と村上のチャンバラなら、それだけで客|呼《よ》べるよ」 「……それで? 主役はどうなるんだ」  思わず立ち上がって言うと、全員の目が僕に集まる。 「一番演技が駄目《だめ》な俺にそんな役を投げて、お前らそれでいいのか……?」 「一理《いちり》ある」  村上が頷いた。  ロミオをやらされても困るのだが、ここで大きく頷かれると、それはそれではんのちょっとだけ傷つかないでもない。人間だもの。 「じゃ、如月《きさらぎ》、ちょっとロミオのセリフ読んでみて」  村上が言って、僕の手元の台本《だいほん》を指した。うろたえる。 「え、でも……」 「私ら、あんたの演技見たことないからね、それじゃあ判断のしようがない。……雛田《ひなた》、セリフ選んでやって。ジュリエットと恋を語らってるところがいいんじゃない。新堂《しんどう》、ジュリエットのセリフ読んで相手して」  雛田が台本《だいほん》を取り上げ、嬉々《きき》としてページをめくっている。新堂が遠慮《えんりょ》がちに近づいてくる。事態の進行に、背中に変な汗が浮かぶのを感じた。視線で西園寺《さいおんじ》に助けを求めるが、彼は申し訳なさそうに僕を見返しながらも、腹をくくれと言うように一つ頷《うなず》いた。  ちょっと待ってくれ。 「ああ、ここがいいんじゃない。バルコニーでジュリエットと対面するシーン。はい、セリフは藍子《あいこ》からだね」  新堂は隣《となり》で頷いている。呆然《ぼうぜん》としているうちに、雛田が僕の手からボールペンを取り上げ、代わりに台本を持たせた。 「いいじゃん。如月《きさらぎ》が一番シェイクスピア好きで、理解も深いでしょ。ロミオになんなよ。言っておくけど、恥ずかしがってわざと棒読《ぼうよ》みにしちゃ駄目《だめ》だよ。よけいに恥ずかしいからね」  あらかじめ逃げ道を断たれて、途方《とほう》に暮れた。構わず、新堂はジュリエットのセリフを読み始める。 「どうしてここへいらしたの? 塀《へい》は高くて、登るのは大変なのに。それに、もし家の者に見つかれば、死も同然だというのに」  新堂の声はやわらかく、発音も綺麗《きれい》だ。彼女のまとう空気の中から普段《ふだん》のおどおどした雰囲気《ふんいき》が消えて、背筋《せすじ》の伸びた役者が現れる。それに促《うなが》されて、自然と覚悟《かくご》ができた。 (棒読みにしちゃ駄目だよ。よけいに恥ずかしいからね)  雛田に言われずともわかっている。恥ずかしがっている役者ほど、見ていて恥ずかしいものはない。  シェイクスピアは言葉の劇だ。彼が生きていた当時は屋根もない劇場で、太陽光をライトにしてやっていたのだ。夜の場面をそうとわからせるのも、役者の言葉一つ。言葉の一つ一つによって、世界が成り立つ。  一つ息を吸った。 「こんな塀くらい、恋の翼《つばさ》で飛び越えました。石垣《いしがき》などで、どうして僕の恋を閉め出すことができましょう。僕の力のおよぶことならばなんだっていたします。あなたの身内《みうち》くらいが、なんの妨《さまた》げになりましょうか」 「でも、見つかれば殺されてしまいます」 「奴《やつ》らの剣よりも、あなたの瞳《ひとみ》の方がよっぽど怖い。優しいあなたのまなざしさえあれば、誰も僕を殺すことはできないでしょう」  雛田が、うんと一つ頷いた。そのまま、村上《むらかみ》と西園寺の方に視線をやる。二人も同時にうんと頷《うなず》く。 「いいんじゃない?」 「意外《いがい》といけるみたいだね」 「うん、いいいい」  三人はそう言い合い、新堂《しんどう》もそれを追うようにコクコクと頷いた。 「じゃ、決定」  雛田《ひなた》が言って、僕の手からすいと台本《だいほん》を抜き取った。ボールペンのキャップを開ける。 「ちょっと待てって! 無理だって!」  必死に訴えると、西園寺《さいおんじ》が笑顔で肩をぽんぽんと叩《たた》いてきた。 「いや、如月《きさらぎ》結構《けっこう》いいよ。演技力は俺とどっこいどっこいじゃない? 俺もあんまりうまくないからさ」 「お前はその見てくれがあるからいいけどな! だいたいそれ、謙遜《けんそん》してるように見えて実は微妙《びみょう》に失礼だな、おい!」 「あはは、如月だって別に、見るに耐えない顔ってわけじゃないんだから」 「さわやかに本当に失礼だよな!」 「大丈夫《だいじょうぶ》よ。如月の顔は普通だって」 「あの、好みによっては、格好《かっこう》いいって言う人もいると思う……」 「なんの慰《なぐさ》めだよ!」  追随《ついずい》するように言う雛田と新堂に怒鳴《どな》る。背後から、ホワイトボードに文字を書くキュッキュという音が聞こえる。振り向くと、村上《むらかみ》が本人の同意なく決まった配役を書き込んでいる。 「おぉい! 本人の意思は丸《まる》無視かよ!」  村上につっこんでいる隙《すき》に、雛田が台本にボールペンをすべらせた。  ロミオ 如月|行哉《ゆきや》  突然、めまいに襲《おそ》われた。くらりと体が傾《かし》ぐ。 (なんだ……?)  平衡《へいこう》感覚が失われ、机の上に手をついた。すうっと、背中《せなか》一面が冷たくなった。 「如月くん?」  新堂が心配そうな顔をしてのぞき込んでくる。けれど次の瞬間《しゅんかん》、新堂の瞳《ひとみ》が焦点を失った。よろめきそうに見えたので、とっさに手を出して新堂の肩を支える。  奇妙《きみょう》な空気が部室の中を満たしていた。顔を上げると、みんなが何故《なぜ》か朦朧《もうろう》とした顔をしている。雛田の手元に目をやると、台本に全員の配役が書き終えられているのが見えた。  ロミオ 如月《きさらぎ》行哉《ゆきや》  ジュリエット 新堂《しんどう》藍子《あいこ》  マキューシオ 雛田《ひなた》香奈実《かなみ》  ティボルト 村上《むらかみ》真由《まゆ》  ロレンス 西園寺《さいおんじ》次郎《じろう》 「なんか今、変な感じ、した?」  西園寺が額《ひたい》を押さえて呻《うめ》くように言った。 「した。急にくらっときて……。なんだよ、全員なったのか? 気味《きみ》悪いな」  頷《うなず》いて言うと、西園寺は顔を上げた。目が合う。すると、何故《なぜ》か西園寺は顔をしかめ、目をそらした。  なんだ? 僕が何かしたか?  奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》が流れた。みんな言葉を発しようとしない。だがその中で、僕は何故か皆の意識が自分に向かっているような気配《けはい》を感じていた。直接見られてはいないのに、意識されているのがわかる。ちくちくとした居心地《いごこち》の悪さを感じる。授業中あてられて、答えられなくて黙ってしまったときの雰囲気《ふんいき》に似ている。  ああ、じゃなければ、ズボンのチャックが開いていることに気づかず、周りの人間も、教えなければとは思うのだけれどなかなか言い出せないときの空気にも似ているか。  はっと自分を見下ろした。社会の窓は閉じている。ほっとため息をついた。 「ええと……それじゃあ、これからどうする? 読み合わせするか?」  この奇妙な空気をどう打破していいのかわからず、僕はとりあえずそっと提案してみた。何故か、配役に関する不満をこれ以上言う気持ちは失せていた。もう自分はロミオなのだという実感が、どこからか生まれてきていた。  けれど、誰も応《こた》えない。一体なんなんだと苛立《いらだ》ちかけたとき、ふいに雛田が動いた。  ——馬鹿みたいな話だが、僕はこのとき、コトがすむまで自分の身に何が起こっているのかわからなかった。頭の中のブレーカーが落ちてしまっていたようだった。  雛田は、決然《けつぜん》とした足取りでこちらに近づいてきた。長い髪《かみ》がふわっと後ろになびく。その迫力に、何故か僕はぶん殴《なぐ》られるのではないかと思ってへっぴり腰になってあとずさった。  だが、拳《こぶし》も平手《ひらて》も飛んでこなかった。  ただ、近すぎる場所まで近づいてきて立ち止まっても、雛田の顔は近づき続けた。  え?  疑問を感じたときにはもう、雛田の唇《くちびる》は僕の口にふれていた。  やわらかい、うるおいのある感触《かんしょく》。  なんだ、男と女って、口の大きさも違うのか? それとも個体|差《さ》か? [#挿絵(img/Romeo_052.jpg)入る]  雛田《ひなた》の唇《くちびる》の小ささに動揺《どうよう》した。顔面にしびれたような感覚が走る。口の中に唾液《だえき》がたまる。これは飲み下していいものなのか? あと、息はしてもいいのか?  目の前に、白いすべすべとした頬《ほお》と、下ろされたまぶた、長いまつげがある。僕は目を見開いたまま、呆然《ぼうぜん》とそれを眺《なが》めていた。  すい、っと雛田が身を引いた。僕はまだ呆然としていた。雛田の大きな力強い瞳《ひとみ》は、じっとこっちの目を見つめている。思案顔《しあんがお》で、僕の顔から何かをはかり取ろうとしているようにも見えた。  キスをされた。  遅ればせながら認識《にんしき》する。  雛田は僕を見つめたまま、不思議《ふしぎ》そうに首を傾《かし》げた。 「なんで?」  ——こっちのセリフだよ! [#改丁]    幕間《まくあい》 「じゃあ、いつもみたいに公演が終わるまでは役名で呼び合うってことで」 �マキューシオ�が不機嫌《ふきげん》そうに言った。�ジュリエット�だけが控えめに、けれど明らかにうれしそうな顔をした。�ロミオ�はこっそりため息をつく。  女子たち四人は、全員ジュリエットの役をやりたがった。話し合いでは埒《らち》があかず、結局オーディションにして、部外者《ぶがいしゃ》数人を審査員《しんさいん》として集めた。 (絶対|不満《ふまん》が残るに決まってるんだから、『ロミオとジュリエット』になんかしなきゃいいのに) �ロミオ�はちらりと�マキューシオ�の顔を見る。この台本《だいほん》を作ったのは彼女だ。シェイクスピアの戯曲《ぎきょく》を、使える場面はそのままに、登場人物を五人まで減らして、一時間|程度《ていど》でできる台本に仕立て直した。 �マキューシオ�には文才《ぶんさい》がある。どうせ書くなら完全にオリジナルで、登場人物も部員に合わせて女四人男一人のものにすればよかったのだ。  だけど、そう思っているのは�ロミオ�一人だった。女子四人は全員『ロミオとジュリエット』をやることにこだわっていた。気が合っているわけではない。むしろ逆だ。台本|決定《けってい》は、彼女たちにとって開戦の合図だったわけだ。  それでもって今、一戦目が終了した。�ジュリエット�の座が、この戦いの勝利の旗印《はたじるし》だった。 「ロミオ」 �マキューシオ�が言って、�ロミオ�の腕に手をかけてきた。役名を呼び返されることを彼女は望んでいない。�ロミオ�は、ジュリエット以外の名を舞台の外で呼ぶべきではないのだ。 �ロミオ�は、微笑だけで彼女の呼びかけに応えた。間を割るように�ティボルト�が�ロミオ�の前に立つ。�ティボルト�は小さな袋《ふくろ》を差し出した。中にはかわいらしい形のクッキーが入っていた。 「昨日《きのう》、焼いたの。よかったら食べてもらえるかな……?」  おそるおそる言われて、�ロミオ�は笑顔で「ありがとう」と言い、受け取った。袋を開くと、甘い香りがした。  同時に、背中にやわらかい感触《かんしょく》が当たった。振り向くと、�ロレンス�が後ろから抱きついている。「いいなあ、一枚ちょうだい」と甘えた口調《くちょう》で言われて、�ロミオ�は苦笑《くしょう》した。  愛されるのも、大変だ。 [#改丁]    第二幕  眠れなかった。  僕は目をこすりながらのろのろと学校に向かって歩いていた。  昨日《きのう》の雛田《ひなた》のキス騒ぎのあと、村上《むらかみ》は腹を立てた様子《ようす》で出ていき、雛田も首をひねりながら出ていき、西園寺《さいおんじ》と新堂《しんどう》が呆然《ぼうぜん》と見つめてくる中、僕も逃げるように部室を出た。  一体、どんな顔してみんなに会えばいいのかわからない。というか理不尽《りふじん》だ。なんで僕が合わせる顔をなくさなきゃならないんだ。むしろ雛田がどんな顔ひっさげて現れるのか見るべきじゃないのか。  いつもより二十分は早い時間だ。学校に向かって歩く生徒の数もまだまばらだった。何度目かのため息と一緒に足を踏み出す。  校舎の中も人気《ひとけ》は少ない。並ぶ教室はどこもしんとしていた。一年D組の教室の前まで行って、足を止める。 (なんでもう来てるんだよ……)  座り込みたい気分になった。教室の中、新堂が一人でちょこんと席に座っている。確かに遅刻などはめったにしない子だが、いつもはここまで早くはないはずだ。  ドアの前で逡巡《しゅんじゅん》していると、ふと新堂の視線がこちらを向いた。ばっちりと目が合ってしまい、仕方なく教室に入る。 「……はよ」 「あ、おはよう」  気まずい挨拶《あいさつ》を交わして、自分の机に鞄《かばん》を置く。さて、何をどうしたものか。 「昨日」  めずらしく新堂から口を開いた。 「びっくりした」 「たぶん、俺の方がもっとびっくりしたよ」  言うと、新堂はちょっと困ったように笑う。 「雛田、何か言ってた?」 「ううん。……あのあと、話してないし」  おや、と首を傾《かし》げた。新堂の様子《ようす》がどこか硬い。それはいつもの緊張《きんちょう》とは少し違う気がして、僕はまじまじと新堂を見た。視線が気になるのか、新堂はだんだんとうつむき加減《かげん》になる。 「ヒナちゃん、如月《きさらぎ》くんのこと好きだったのかな?」  うつむいたまま言われて、うろたえた。 「いやいやいやいや、ないだろ、それは」 「好きでもないのに、キス、するかな」 「でも、雛田《ひなた》だし」 「ヒナちゃんはそういうことしそうかな?」  もそりもそりと、新堂《しんどう》は質問を続ける。僕は困って、うーと唸《うな》った。好きでもない相手にキスしそうな奴《やつ》かと訊《き》かれたら、そんなことはないと答えるだろう。だけど、前日に「恋愛はしないだろうな」と言っていたし、何より雛田にそういう意味で好かれている気がさらさらしない。 「いまいち、何考えてるかわかんない奴だから……」  新堂は物言《ものい》いたげな目でこちらを見上げる。丸っこい大きな目に見つめられて、落ち着かない気分になった。いつも妙《みょう》に緊張《きんちょう》して、小動物のようにおどおどしている新堂とは少し違う気がする。どこか悲しそうにも見える目。捨てられようとしている子犬が、鳴きもせずに飼い主を見つめる目のように見えた。  肩にわずかにふれるくらいの長さの新堂の髪《かみ》が、風でふわっとふくらんだ。雛田のものとは違う甘い香りがする。 「新堂……? どうした」  うろたえながら言う。いつもは雛田の陰で目立たないが、新堂だって十分|可愛《かわい》い。本人はちょっと引け目に感じているようだけれど、舞台上でヒロインをやれば、決して雛田の前でかすむこともないと思う。  なんだか、変な沈黙《ちんもく》が落ちた。お互いにはにかみ合うような微妙《びみょう》な空気が流れて—— 「何やってるの?」  教室の入り口から声がした。  ぎくっとしてそちらを見る。村上《むらかみ》が教室のドアのところに立っていた。彼女は腕を組んで開いたドアにもたれかかり、睨《にら》むような目でこちらを見ている。 「む、村上、早いな。どうした?」 「……昨日《きのう》、あんたが台本《だいほん》のコピーに失敗したからね。朝のうちに残りのコピーやっちゃおうと思って来たんだけど、おじゃまだった?」  村上の機嫌《きげん》は、普段に輪をかけて悪そうだった。つかつかと歩み寄ってきて、僕と新堂の間に立つ。長身の村上は、百七十センチちょうどの僕と目線《めせん》の位置がたいして変わらない。新堂|一人《ひとり》が見下ろされる形になる。 「で、台本は?」  村上はすごむような声で言う。 「ええと、どうしたっけ……」 「あ、私持ってる」  新堂《しんどう》が言って、鞄《かばん》の中からあの台本《だいほん》をひっぱり出す。表紙が黄ばんだ古い台本。新堂は、村上《むらかみ》の様子《ようす》に若干《じゃっかん》怯《おび》えながらも台本を手渡す。村上はそれを受け取ると、くるりときびすを返した。 「何やってるの?」  村上は顔だけ僕の方に振り向かせて、非難《ひなん》がましい顔をした。 「何って、何も……」 「何もしない気?」  つまりは、手伝えということですか。  昨日《きのう》から、台本のコピーをめぐって手伝うだの手伝えだの言われるが、二人いても仕方ない仕事なんじゃないだろうか。  とはいえ、なにやら機嫌《きげん》のよろしくなさそうな村上に逆らう気持ちにもなれず、僕は新堂に向かって軽く手を上げると教室を出た。 「あ、でもコピー機|壊《こわ》れてるんだけど……」 「社会科準備室のコピー機を使わせてくれるよう、富山《とみやま》先生に許可もらった」  富山|福子《ふくこ》というなんだか豊かそうな名前の先生は、地区《ちく》発表会の引率《いんそつ》にしか来てくれない、演劇部の幽霊《ゆうれい》顧問《こもん》だ。強烈な睡魔《すいま》を呼ぶ世界史《せかいし》教師でもある。  ノックしてドアを開けたが、社会科準備室には誰もいなかった。ファイルやらプリントやらが積み上がって今にも雪崩《なだれ》が起きそうになっている机の間を抜け、コピー機のところへ行く。 「富《とみ》ちゃんいないな」 「うん、しばらく戻らないだろうね」  村上が妙《みょう》にきっぱり言う。首を傾《かし》げ、「なんで?」と訊《き》いたが思い切り無視された。 「コピー機|使《つか》う許可はもらってるから。で、昨日コピーできたのはどこまで?」 「え、ああ……ここまで」  差し出された台本のページを開くと、村上は無表情にそれをコピー機の上に載せ、スタートボタンを押す。コピーされた紙が吐き出される。カバーを上げ、ページを一枚めくり、またカバーを下ろす。その単調な作業を、僕は横で突っ立って見守る。やっぱりこの作業、どう考えても二人いらない。  何度目かのスタートボタンを押したあと、村上は突然|屈《かが》み込んだ。鞄の中から小さな袋《ふくろ》を取り出す。ピンク色のリボンで口を閉じてあるビニールの袋だ。中にはクッキーが入っている。  村上はするりとリボンをといた。  なんだ?  彼女の行動の意味がわからずたじろいでいると、村上は袋の中からクッキーを一枚取り出し、僕の口の前にぬっと差し出した。 「え?」  クッキーは口の前で静止している。村上《むらかみ》は無表情。なんの説明もなく、それ以上の動きもない。  ——確かに、女子の間で男子に菓子を食わせることが流行《はや》っているけど。村上はやらんだろ。キャラ的にないだろ。ないないない。絶対ない。しかも僕になんて、ありえない。  頭の中でいくら否定してみても、突きつけられたクッキーは微動《びどう》だにしなかった。  そのままの形で固まること数秒。僕はおそるおそる口を開け、村上の指につままれたクッキーをくわえた。口の中に甘く香ばしい香りが満ちる。が、歯が立たない。う、と小さく呻《うめ》き、顎《あご》に力を込めると、しびれるような歯の痛みと引きかえにクッキーが割れた。 「どう?」 「う、うまいよ。……かみ砕くことさえできれば」  味は確かにいい。バターとミルクの香りがやわらかく、それでいて甘すぎない。石のように硬いというのが玉《たま》に瑕《きず》だというだけで。(今にも玉が真《ま》っ二《ぷた》つに割れそうなでかい瑕のような気がするだけで) 「これ、村上が焼いたの?」 「そう」 「そりゃまた、どういう風の吹き回しで?」  訊《き》くと、村上はものすごく不機嫌《ふきげん》そうな顔をして舌打《したう》ちした。その様子《ようす》に怖《お》じ気づいて、「いやなんでもいいんだけど」ともごもご言う。  僕が苦労してクッキーをかみ砕いている間、村上は黙々《もくもく》とコピー作業を続けた。一ページめくり、スタートボタンを押すと、また一枚クッキーを僕の口元に突きつける。意味がわからないまま諾々《だくだく》とそれを口に含むと、村上はコピー作業に戻って台本《だいほん》を一ページめくる。そしてボタンを押したらまたクッキーを一枚。  だんだん、クッキーを与えられる速度に咀嚼《そしゃく》が追いつかなくなってくる。ただでさえこの石のようなクッキーは飲み下せる形になるまでに普通の数倍かかるのだ。 「げほっ……村上、待て。何がしたいんだ……」  突きつけられた新しいクッキーを前に、ギブアップするように手を上げた。今日の村上は何かがおかしい。 「納得《なっとく》いかない」  村上は腹を立てた様子《ようす》で言った。ものすごくこっちのセリフだ。 「なんだよ、一体《いったい》今日はどうしたってんだ」  村上は目を細めて僕を睨《にら》む。 「なんで昨日《きのう》、雛田《ひなた》とキスしたの?」  危うく、口の中に残っていたクッキーを噴《ふ》き出しそうになった。 「知らねえよ! 雛田《ひなた》に訊《き》けよ!」 「なんで私はそんなことで腹を立ててる?」 「ホント知らねえよ! 自分の胸に訊けよ!」  村上《むらかみ》はつまんだままのクッキーに視線を落とした。 「……人のために菓子《かし》作ったのなんか生まれて初めてだよ」  僕のために作ったというのか? でも、なんでいきなり? 「あんたと雛田がキスしているのを見て、嫌な気持ちになったんだよね」  クッキーを片手でもてあそびながら、村上はつぶやくように言う。コピー機は命じられた分の紙は吐き出し終え、また次の指示が下されるのを粛々《しゅくしゅく》と待っている。 「胸の辺りが痛んで、息が苦しくなった。家に帰っても、あんたのことが頭から離れなくて、気がついたらこんなもん作ってた。今朝《けさ》だって、早く行ったらあんたに会えるかなとか考えて、二人で話すために富山《とみやま》先生に来客みたいだって嘘《うそ》ついてこの部屋から追い出して……」  村上はもてあそんでいたクッキーを袋《ふくろ》に戻し、胸に手を当てた。僕は、背中に変な汗が浮かぶのを感じる。 「如月《きさらぎ》の教室行ったら、あんたは新堂《しんどう》と二人きりでいるから、なおさらもやもやした気持ちになるし……ねえ、こういうの、どう思う?」  ここは、「それは恋ってやつだよ」とか言うべきなのか?  考えたとたん、村上の腕が伸びてきて、がつりと肩をつかまれた。 「如月。今考えたこと、言ってみろ」  目がすわっている。肩をつかむ指が食い込んで痛い。村上の反対の手は握り拳《こぶし》を作っている。 「いやいやいや、言ったらお前、その拳を使うつもりだろ?」 「私は理不尽《りふじん》なことはしないよ」 「不本意《ふほんい》なことを言われたからって暴力に訴えるのは理不尽だろ?」 「だから、そんなことはしない」 「言行《げんこう》不一致《ふいっち》だ。すでに肩をつかむ手に暴力的な力がこもってる。痛い痛い。爪《つめ》が食い込んでる!」  村上の腕をつかんで引き剥《は》がすと、意外《いがい》にあっさりと手は外れた。村上の手首は思っていたよりも細くやわらかくて、こいつも女だったのだと、出会ってから三カ月目にして初めて実感した。実感したとたん、動揺《どうよう》の針の揺れが一気に大きくなる。  村上はよろめくように一歩あとずさり、顔を伏せた。 「村上……?」  うつむいたまま、村上は動かなかった。彼女の細い髪《かみ》が前に垂れる。 「今、それは恋だと指摘《してき》されたら、認めてしまいそうな自分がいる……。死ぬほど不本意だ。如月、どうしたらいいと思う?」 「知らねえよ! 頼むから対象物《たいしょうぶつ》以外の相手に相談してくれ!」  回れ、右。  なにやら、恋心《こいごころ》とそれに対する拒否《きょひ》感のアンビヴァレンスに苦しんでいるらしい村上《むらかみ》をおいて、僕はその場からまっすぐに逃げ出した。  一体、何がどうしたってんだ。  僕は混乱する頭を抱えて教室に向かっていた。  校内はだいぶん人が増えてきている。そこここで明るい話し声がはじけていた。朝|特有《とくゆう》の元気さと気《け》だるさが混じる空気の中、悶々《もんもん》と考えながら重い足を動かす。  昨日《きのう》は唐突《とうとつ》に雛田《ひなた》にキスをされ、今日は今日で、村上が恋する乙女《おとめ》みたいなことを言ってクッキーを食べさせてくる。  からかわれてるのか?  いや、雛田も村上も、そういうからかいをやる奴《やつ》じゃないし、第一、二人とも自分の行動や感情に納得《なっとく》がいかない様子《ようす》だった。……新堂《しんどう》はどうだったっけ。普通だった気がするけど、ちょっといつもと違ったか? 教室に戻ったらもう一回話してみようか。でもそれで、新堂まで変になっちゃったらどうしよう。  考えていると、前から人影《ひとかげ》が被《かぶ》った。顔を上げると、西園寺《さいおんじ》が目の前に立っている。 「あー、ちょうどよかった。ちょっと聞いてくれ——」  言いかけてから躊躇《ちゅうちょ》した。西園寺は村上を好き、なはずだ。もてるくせに、あの無愛想《ぶあいそう》な村上に好意を向けて、邪険《じゃけん》にされてもにこにこしてめげる様子もない。多少のMっ気《け》を感じるほどに。  そんな西園寺に、さっきの村上のことを相談するってのはどうだろうか。いや、それ以前に部内の人間関係の相談を同じ部の人間にするべきじゃないか? や、でもこれは人間関係の相談っていうよりは——  思考《しこう》は途中で中断《ちゅうだん》された。  力強い抱擁《ほうよう》によって。  西園寺に雛田と村上のことを相談するべきか否か悩んでいた僕は、第三の悩みに包まれていた。  なんの前触《まえぶ》れもなく、西園寺が力|一杯《いっぱい》抱きしめてきたのだ。  驚く感情はもう品切れらしく、ただただげんなりする。  気分はあれだ。ジュリアス・シーザー。僕は、信頼していた男の裏切りを知った悲劇の専制《せんせい》君主《くんしゅ》のように、大仰《おおぎょう》に嘆《なげ》いた。 「西園寺、お前もか」  一時間目をさぼって、西園寺《さいおんじ》と屋上の端《はし》に並んで座った。周りには、選択《せんたく》授業の空《あ》き時間らしい三年生が、問題集|片手《かたて》にだべっていたり寝ころんでいたりして、のどかな空気が満ちている。(真面目《まじめ》に勉強する気がある受験生は空き時間に屋上になんか来ない)  気持ちを落ち着けるために僕が買ってきた缶ジュースを二人して飲む。西園寺はその缶を妙《みょう》に大事そうに手に包んでいて、なんとなく不気味《ぶきみ》だ。 「落ち着いたかよ」  ちらりと横目《よこめ》を向けて言うと、西園寺は深いため息をついた。 「最初から落ち着いてる」 「じゃあ、一体どうしたってんだ。人違《ひとちが》いか?」 「……そうだ。人違いだ。そうに決まってる。じゃなきゃこんなのあり得ない」  こちらに向き直り、西園寺は心底《しんそこ》嫌そうな顔をした。 「勘弁《かんべん》してくれ」 「どいつもこいつも……。こっちのセリフだってんだ」  フェンスにもたれて座る僕と西園寺の間は、ちょっと不自然なくらい空いている。……だって、なんか怖いし。 「どいつもこいつもって、昨日《きのう》のヒナちゃんのこと?」 「それもある。あと、今朝村上《けさむらかみ》も変だった。……全員でグルになって俺をもてあそんでるなら今のうちに白状《はくじょう》しろ」 「誰が君なんかもてあそぶかい」  けっ、と西園寺は吐き捨てる。 「演技|以外《いがい》で、けっ、とか言うなよ王子《おうじ》様」  こいつ、普段は八方《はっぽう》美人なくらいに誰にでも丁寧《ていねい》かつ優しいのに、追いつめられるとたまにこうなる。西園寺は魂《たましい》まで吐き出してしまいそうな悲痛《ひつう》なため息をついた。そのまま、後頭部をフェンスに打ちつけて、空を見上げる。 「で、どういうつもりなんだよ」 「何が?」 「お前がいきなり俺に抱擁《ほうよう》をかました理由だよ。まさか本気で村上と間違えたとか言うんじゃないだろ」 「俺は女の子にいきなり抱きついたりしないよ。変態《へんたい》あつかいされたくないし」 「男になら抱きつくのか。それは輪をかけて変態的な行為じゃないのか?」 「男同士なら普通に抱き合ったりもするだろ。サッカーでシュートを決めたときとか」 「俺がいつシュートを決めた」 「俺の心にフリーシュート」  なんちてー。西園寺《さいおんじ》の疲れ切った平坦《へいたん》な声が、寒々《さむざむ》しい空気の中に浮かぶ。僕と西園寺は、そろって大きなため息をついた。 「女の子の場合はさ、いきなり男に抱きつかれたら引くよね」 「そりゃな。好きな男が相手なら別かもしれないけど」 「だけど男の場合は、可愛《かわい》い女の子に抱きつかれたら、びっくりはするけど悪い気はしないじゃない。まあ、状況にはよるだろうけど」 「まあ、なあ……」 「そんな感じ?」  西園寺は問いかけるように首をひねる。いや、訊《き》きたいのはこっちだ。 「さっぱり話が見えないのですが……」 「あの瞬間《しゅんかん》は、嫌がられるとは思わなかったんだ」 「というのは、なんですか、お前は可愛い女の子のつもりだったんですか」 「そうなの?」 「だから、俺に訊くなよ!」  わめいて、さらに西園寺から距離を取る。 「……お前さ、俺のことを考えると胸が痛くなったり息が苦しくなったりクッキーを作りたくなったりするか?」  おそるおそる訊いた途端《とたん》、西園寺の頬《ほお》が赤く染まった。——可愛い女の子が頬を染めたのなら、こっちもドキドキしそうなものだが、百八十センチ近い男が相手では、感じるのは寒気《さむけ》と、ときめきから数光年《すうこうねん》離れた理由による動悸《どうき》ばかりだ。 「じ、事態を整理しよう。何かがおかしい、ってのは俺にとってもお前にとっても唯一《ゆいいつ》の救いだろ?」 「救い……」 「お前|村上《むらかみ》が好きなんだろ。俺《おれ》相手に恋心《こいごころ》的なものを感じてる歪《ゆが》んだ現状は打破すべきだろ。俺だって、部員がそろっておかしくなっているような状況は一刻も早くなんとかしたいよ!」 「如月《きさらぎ》はいいじゃん。学校|一《いち》の美少女にキスされてさ。何がどう変だとしてもいいんじゃないの? 君は」  すねたように言われて、むかっときた。 「ああそうね。お前さえおかしくなってなけりゃ、こんな状況も、うはうはハーレムって感じに楽しめた可能性もあるよな。好きな女にキスされたあと不思議《ふしぎ》そうに首ひねられても、部活《ぶかつ》仲間の女にものすげえ不本意《ふほんい》そうに恋心|訴《うった》えられても、俺なんかからすりゃ過ぎた幸せだよな?」  やけっぱちに吐き捨てると、変な沈黙《ちんもく》が流れた。西園寺が気まずげに咳払《せきばら》いする。 「そっか、如月《きさらぎ》はヒナちゃんが好きだったか」 「……今《いま》取りざたするべきはそこか?」 「いや、まあ……うん、悪かったよ。整理しよう」  僕は頷《うなず》いた。 「まずは昨日《きのう》の雛田《ひなた》の件。役《やく》決《ぎ》めが終わった直後、唐突《とうとつ》に」 「キスされた」  西園寺《さいおんじ》がすかさず言った。そのときの感触《かんしょく》がよみがえりそうになり、慌《あわ》てて言葉を続ける。 「理由は不明。でも、本人も自分の行動に納得《なっとく》がいかない感じだった」 「確かに」 「それで、今朝《けさ》の村上《むらかみ》」 「村上さんがどうしたの?」  目を細め、若干《じゃっかん》不機嫌《ふきげん》そうに西園寺が言う。僕はちょっとためらいながらも、今朝の一部|始終《しじゅう》を話した。 「変だ」 「わかってるよ、そんなの。それで、最後にお前だ」 「新堂《しんどう》さんは?」 「よくわからんけど、変なところは特になかった気がする」  ふうん、と西園寺は思案顔《しあんがお》でつぶやいた。薄茶《うすちゃ》の髪《かみ》をがしがしとかく。僕はそんな西園寺の様子《ようす》を横目《よこめ》で見ながらぼそりとつぶやいた。 「……で、訊《き》くのは怖い気がするんだけど、昨日、雛田が俺に……キス、したとき、どう思った?」  西園寺は考えるように視線を泳がす。 「びっくりした。ショッキングだったし……それに、ちょっともやもやしたものを感じた」 「非常に訊きづらい話だが、それはいわゆる嫉妬《しっと》か?」 「なんで俺は、自分のこっ恥ずかしい感情を分析《ぶんせき》されようとしているんだ?」 「それが今の争点だから! 俺だって訊きたかねえよ、こんなこと! あと、赤くなるな!」  こんなに精神的に疲れる日はなかったんじゃなかろうか。  ぐったりした気持ちで西園寺の反応を待っていると、奴《やつ》は何故《なぜ》か、あけていた距離をじりじりと詰め始めた。目がすわっていて、正直、怖い。 「そうだね……いわゆる、嫉妬なんだろうな、多分」 「一応《いちおう》訊くけど、どっちに? 美少女と異様《いよう》な急《きゅう》接近した俺にか?」 「本当にそう思って訊いてる?」 「そうだといいなあと思って訊いてる。……あと、あんまり近づくな」  何故かにじり寄ってくる西園寺から同じスピードで逃げながら、西園寺の顔の前に制止するように手を差し出す。どうどう。 「じゃ、じゃあ、お前と村上《むらかみ》がおかしくなった始まりってのは、雛田《ひなた》のキスってことになる?」 「そうかもねえ」  上の空の様子《ようす》で流される。西園寺《さいおんじ》の目はまっすぐこっちを向いていて、その頭の中は何か別のことで満たされ始めているに違いなかった。奴《やつ》の頭を満たす思考《しこう》の中身は考えたくもないが。 「西園寺。お前、真面目《まじめ》に考えてるか? っていうか今何考えてる? なんで近寄ってくるんだ?」 「なんか、スイッチ入っちゃった感じ?」  西園寺は酔っぱらったような、ほわりと理性《りせい》を飛ばしてしまったような顔で言い、女の子のように小首を傾《かし》げてみせた。  こいつのファンの女の子に見せてやりたいくらいの、見事な不気味《ぶきみ》さだった。 「訊《き》きたくないけど……っていうか俺はさっきから訊きたくないことばっかり訊いている気がするけど……なんの、スイッチだ?」  脂汗《あぶらあせ》が浮かぶ。西園寺は何かに取り憑《つ》かれたような目をして接近してくる。いや、実際|取《と》り憑かれているのかもしれない。さっきまでの、悩んでいた顔とは明らかに何かが違っていた。 「実力|行使《こうし》の、スイッチ?」  聞き終えるやいなや、僕は立ち上がり、踵《きびす》を返して走り出した。かつてないほどすばやく体が動いた。  勘弁《かんべん》してくれ、ブルータス! 「嘘《うそ》だよ! 冗談《じょうだん》!」  背後から、西園寺の焦った声と追ってくる足音が聞こえる。嘘をつけ。あれが冗談を言うときの顔か。 「本気で冗談のつもりか!」  本気で冗談って言い方はなんか変だな、と、半《なか》ば麻痺《まひ》した頭がどうでもいいことを考える。 「そ、そうだといいなあと思って言ってる」 「てめえの感情だろうが! なんだその言い草は!」  わめき声が、一時間目|終了《しゅうりょう》のチャイムと重なって響《ひび》いた。  全力|疾走《しっそう》で西園寺を振り切り、教室に駆け込んだ。 「なんだ如月《きさらぎ》。今来たのかぁ?」  後ろのドアからすべり込んでくるなりしゃがんだ僕を見て、授業の片づけをしていた数学《すうがく》教師が間延《まの》びした声で言った。 「んなところに隠《かく》れても丸《まる》見えだぞ」  僕は愛想笑《あいそわら》いを浮かべる。別に教師から隠れようとしているのではない。 「や、朝はちゃんと来たんですけど、ちょっと具合《ぐあい》が悪くなって保健室に……」  抑えた声でぼそぼそと言う。数学教師は多少|訝《いぶか》しげな顔をしながらも、そうかいとつぶやいて教室を出ていった。うちの学校の教師はいい感じにいい加減《かげん》だ。 「如月《きさらぎ》、どうしたよ。マジで具合悪かったの?」  廊下|側《がわ》一番|後《うし》ろの席の横村《よこむら》が、座ったまま身を乗り出して訊《き》いてくる。僕は激しく首を振り、横村の机の陰に隠れながら、人差し指を口元に当てて「しい」とささやいた。横村は眉《まゆ》をひそめて首を傾《かし》げる。  そのとき、がらりと教室のドアを開け放って、西園寺《さいおんじ》が姿を現した。僕は横村の陰で精一杯《せいいっぱい》小さくなる。ただならぬものを感じたのか、通りがかった鈴木《すずき》が立ち止まり、さりげなく僕を隠してくれた。ひらりとスカートが翻《ひるがえ》る。鈴木の膝《ひざ》の裏を見つめながら、じっと息をひそめた。 「さ、西園寺くん、どうしたの?」 「如月、いる?」  鈴木は教室を眺《なが》め回すふりをしてくれているようで、少しの間があく。 「今いないみたいだけど……」  西園寺のため息が聞こえた。せつなげなため息で、事情を知らなければ心配になっただろうが、今はただ鳥肌《とりはだ》が立つばかりだ。 「そっか、わかった。ありがとう」  沈んだ声で西園寺は言い、ドアが閉まった。僕と、とっさに隠してくれた二人は同時に詰めていた息を吐いた。 「何やった、如月。金銭《きんせん》問題か?」 「そうなの? あんた西園寺くんに借金でもしてるの? やだ、助けなきゃよかったかしら」 「違う」  ぐったりして机の脚《あし》にもたれかかって言うと、横村と鈴木は顔を見合わせた。 「じゃ、恋愛がらみか」 「まさかあんた、西園寺くんと一人の女をめぐって争っているとか? うわお、無茶《むちゃ》な戦いをするわね。でも私はあんたの味方よ。圧倒的に不利な奴《やつ》が勝った方が物語はおもしろいのよ。西園寺くんはフリーでいてほしいなんていう私の希望は関係なくね」 「違うって……」  恋愛がらみ、という横村の言葉には一瞬《いっしゅん》ぎくりとしたが(そしてぎくりとした自分がすごく嫌になったが)、女がらみではまったくない。 「夏の夜の夢か……?」 「は? 何お前、一夜のアバンチュールでもあったのか?」 「違う。『夏の夜の夢』っていうのはシェイクスピアの喜劇だ。ハーミアという娘がいてな。彼女はライサンダーと好き合っているのだけど、父親はディミートリアスと結婚させたがっていてディミートリアスもハーミアが好きなんだが、一方そのディミートリアスのことが好きなヘレナという女もいて、それを見た妖精《ようせい》が惚《ほ》れ薬を使ったおかげでライサンダーもディミートリアスもヘレナのことが好きになってしまって……」 「待て、何がなんだかわからん」 「落ち着いて聞けばわかる。だからハーミアとライサンダーが」 「俺はカタカナの名前が覚えられん。だから世界史は嫌いだ。というかそれ以前に、お前が落ち着け」  横村《よこむら》の冷静なつっこみによって、僕は口をつぐんだ。確かに支離滅裂《しりめつれつ》だ。大きなため息をつく。 「つまりは、妖精が使った惚れ薬のせいで恋愛|関係《かんけい》がこんがらがる話だよ」 「なるほど。で、それがどうした」 「……なんでだ、どうしてこんなことになったんだよ。俺が何したってんだ」 「おい、大丈夫《だいじょうぶ》か?」  横村の訝《いぶか》しげな声で顔を上げる。そのとき、教室のドア窓に村上《むらかみ》の姿を認めた。 「如月《きさらぎ》?」 「しっ! もう一回かくまってくれ!」 「は?」  横村と鈴木《すずき》が仲良く首を傾《かし》げたところで、再び教室のドアが開いた。 「如月いるかな?」  村上のハスキーな声が響《ひび》いた。横村と鈴木は首を振る。なんだかもう、彼らの間にも奇妙《きみょう》な共犯者《きょうはんしゃ》意識がわいているようだ。 「そう……。邪魔《じゃま》したね」  邪魔したね、なんて、女子高生が同学年の奴《やつ》に言う言葉でもない気がするが、村上が言うと妙に格好《かっこう》よく聞こえる。村上はうちの部で一番の男前《おとこまえ》だ。  けれど、今日は若干《じゃっかん》……若干、ではあるが、可愛《かわい》らしい声に聞こえた気がする。憂《うれ》いを帯びた、恋に悩める乙女《おとめ》っぽい、なんて思うのは、クッキー事件があったせいか。——その先入観《せんにゅうかん》のせいなのか?  ドアが再び閉まり、村上が去ってしまうと、鈴木は横村に視線をやって言った。 「ねえ、今日村上さんの雰囲気《ふんいき》、ちょっと違わない?」 「そうなの? 俺はよく知らないけど」 「私は委員会|一緒《いっしょ》だからたまに話すんだけど、あんな女の子っぽい顔してるの初めて見た気がする。いつもはもっとさばさばしてる感じなのに」 「まさか……」  横村《よこむら》がつぶやき、僕の方に振り返る。 「やっぱり恋愛がらみで問題が起きてるのか? 彼女が三角《さんかく》関係の一端《いったん》か?」 「ええっ、村上《むらかみ》さんをめぐってのことなの? うう、なんか似合《にあ》わない。村上さん、確かに美人だけどさ、乙女《おとめ》の夢的《ゆめてき》には彼女にも王子様《おうじさま》でいてほしいっていうか……。あ、女の子がもう一人いて、その子をめぐっての三人の争いならいけるかも」  お前の趣味《しゅみ》は訊《き》いてねえよ!  つっこみたかったが、かくまってもらった恩があるのでぐっと我慢《がまん》する。  横村《よこむら》がはっと表情を変えた。 「もう一人《ひとり》女の子っていうと、雛田《ひなた》さんか!」 「わあ、それいいよ、いけるよ!」  何がだ。  疲労とつっこみたい気持ちを抑えて顔を上げて——三度《みたび》身を縮こまらせた。  ドアが開く。  そこにいたのは、きらきらと光を振りまきそうな綺麗《きれい》な女。机の下から、雛田の細くすらりと伸びた足が見える。 「き、如月《きさらぎ》ですか?」  横村がうわずった声で言った。馬鹿|野郎《やろう》、こっちから申し出てどうする。 「うん、いるかな?」  流れる水のようにさらさらした声が聞こえた。対する横村はそわそわしている。こいつ、雛田を前にしてあがっているのだ。  西園寺《さいおんじ》と村上にはいないと言い通してくれたが、今度は売られるかも。  そう思って突き出される覚悟《かくご》を決めたとき、背後から声が聞こえた。 「いないよ」  振り向くと、新堂《しんどう》が立っていた。彼女は、人を庇《かば》うためだとしても、嘘《うそ》をつくときは罪悪感《ざいあくかん》が剥《む》き出しになってしまうタイプだ。  だが今は、おどおどした様子《ようす》もなく、しゃんと立っていた。丸っこい目を教室の入り口にまっすぐに向けている。 「具合《ぐあい》悪くて、保健室に行ったよ」  新堂は言った。それはさっき、僕が数学《すうがく》教師にした言い訳だ。 「えっ、そうなの? 大丈夫《だいじょうぶ》なの?」 「うん」  これだけ落ち着き払って雛田《ひなた》を騙《だま》す新堂《しんどう》ってのもレアだな、と思う。やっぱりこいつも、いつもと違うんだろうか。  雛田は慌《あわ》てた様子《ようす》で、じゃあ保健室行ってみると言い残して去った。僕は今度こそ全身の力を抜いた。 「ああ……ご協力、どうもな」  横村《よこむら》と鈴木《すずき》に言う。彼らは釈然《しゃくぜん》としない、と言いたげな顔をしていた。 「なあ、如月《きさらぎ》。お前|何《なに》やったんだ。なんで追われてる? やっぱ金の方だろう。部費を使い込んだとかじゃねえのか。謝るのは早い方がいいぞ」 「だから、違うと言うのに」  原因がわかっていたらここまで悩んでいない。 「何があったのか知らないけどさ、今逃げ隠《かく》れしても、放課後には部活あるんでしょ。ねえ、藍子《あいこ》」  鈴木が新堂に振った。僕は立ち上がり、新堂に向き直る。  そうだ。今|問題《もんだい》を先延ばしにしても、放課後になったら結局全員と顔を合わせなきゃならない。こんなわけのわからない状況で、劇の練習なんかできるか? 「新堂、ちょっと」  新堂が何か答える前に、僕は彼女の手をつかんで教室から飛び出した。  鉄製のドアを開けて非常|階段《かいだん》に出ると、強い熱を持った日光が顔に降りそそいだ。ごぉん、と金属が震える足音が響《ひび》く。  僕は新堂の手を離した。新堂はパッと手を引っ込めて、つかまれていた手首を胸元に引き寄せる。その頬《ほお》がうっすら赤くなっているのを見て、ちょっと慌てた。 「あ、ごめん」  新堂は首を振り、少しうつむいた。黒い猫《ねこ》っ毛《け》が前に流れて、うなじが見える。  やっぱり新堂も他の奴《やつ》らみたいになってるか? いや、でも新堂はもともと引っ込み思案《じあん》で、話しかけるだけでもびくつくことが多い。いきなりさわられたら、そりゃ動揺《どうよう》もするか?  新堂の過剰《かじょう》反応につられて動揺しながら考える。新堂は自分の手首を胸に抱いたまま、そっと顔を上げた。 「どうしたの?」 「新堂、俺のこと好きか?」  何を訊《き》いているんだ、僕は。  顔を上げた新堂の頬がみるみるうちに赤く染まる。 「そ、そうじゃない。そうじゃなくて、今ちょっと部員の奴らが変になってるから、新堂もそうなのかどうか確かめようと……」  我ながら要領《ようりょう》を得ないことを言いながら、あわあわと手を動かした。 「変って、昨日《きのう》のヒナちゃんのこと?」 「そう。あと、村上《むらかみ》が今朝《けさ》俺にクッキーを食わせて、西園寺《さいおんじ》が突然|抱《だ》きついてきた。その上、さっき見た通り、奴《やつ》ら俺を追いかけてくる。どう考えても普通の状態じゃないんだよ」  新堂《しんどう》は首を傾《かし》げた。わからないか。そりゃ、いきなりそんなことを言われてもわからないだろう。でも、だからといって、何をどう説明すればいいのか。 「つまり……なんだ。客観的に見たところ、あいつらいきなり俺を——本人たちは不本意《ふほんい》みたいなんだけど——なんでか、好きになってるっぽいんだよな。好きってその、変な意味の方で」 「変な意味って、恋ってこと?」 「……俺がからかわれてるんじゃなければ。というか新堂、何か聞いてない? 俺をからかう計画とかさ。怒らないから、むしろ喜ぶから、もし何か知ってたら教えてくれ」  新堂は戸惑《とまど》った顔をして首を横に振った。そうだよな、と肩を落とす。連中《れんちゅう》、本気で自分自身の言動に振り回されているふうだったし。 「なんか変な物食べたのかな」  新堂が、困っている小動物みたいに、黒く丸い目をキョトキョトさせながら言った。 「俺への恋心《こいごころ》は食中毒《しょくちゅうどく》あつかいか……」 「ご、ごめん。そうじゃなくて、何か惚《ほ》れ薬《ぐすり》的なものとか」  惚れ薬的なもの。それはさっき僕も考えた。彼らは何かの力によって、自分の感情をねじ曲げられているように見える。 「おかしなことになったきっかけというか、タイミングとしては、昨日の雛田《ひなた》の……キスのときっぽいんだよな」 「そのヒナちゃんがあんなことをしたのは、台本《だいほん》に名前を書き込んだ直後だったよね?」  記憶《きおく》をたどる顔をして言う新堂に、僕は頷《うなず》いた。 「そうだな。役《やく》決《ぎ》め終わった直後だったから」 「あのとき、ちょっと変な感じがしたよね? 全員が同時にめまいになったみたいな」  あ、と声をあげた。そうだ。そのあとの雛田の行動に意識を全部持っていかれたのですっかり忘れていたが、そういえばそんなこともあった。 「もしかしたら、おかしいのは、あの台本だったりして。……あの台本に関わることでは、変なこと起きてたよね。最初に台本が見つかったときも異様《いよう》だったし、そのあともコピー機が一斉《いっせい》に壊れたり」  そうだ。コピー機が壊れたせいで、人数|分《ぶん》の台本が用意できなかった。——だから雛田は、配役を台本の原本《げんぼん》に書き込んだ。 「でもなんで、台本《だいほん》のせいであいつらが俺を好きになったりするんだ。呪《のろ》いの台本のせいで心を病んだってならまだしも、恋心《こいごころ》が芽生《めば》えたなんて、そんな愉快《ゆかい》な呪い聞いたことないよ。……いや、当事者からすればあんまり愉快じゃないけど!」 「う、それは、わからないけど……ごめん」  困った顔をする新堂《しんどう》に、我に返る。新堂に八つ当たりしても仕方ない。 「いや、うん、でも新堂が言うことには一理《いちり》ある。あの台本のこと、ちょっと調べてみるよ。誰が書いたのかとかわかれば、少しは解決の糸口《いとぐち》が見つかる……といいなあ」  新堂はこくこくと頷《うなず》き、「私も手伝う」と、控えめな声で言ってくれた。いつもと変わらない新堂の様子《ようす》に、ほっと気持ちを緩《ゆる》ませる。 「やっぱり、新堂は別におかしくなってないんだな。俺とお前だけ変わらないのって、なんでかね」  言うと、何故《なぜ》か新堂は顔を伏せた。奇妙《きみょう》な間があく。  そのとき、背後でカタリとドアが開く音が聞こえた。顔を上げた新堂の表情が強《こわ》ばる。嫌な予感がして、おそるおそる振り返り—— 「なんで、二人でこんなところにいるの?」  綺麗《きれい》な顔を世にも情《なさ》けなく歪《ゆが》めて、雛田《ひなた》香奈実《かなみ》がそこに立っていた。  ぎくりとして、僕は思わず新堂を庇《かば》うように体をずらした。それがまた、いけなかった。 「何やってたの?」  雛田が硬い声で言う。訊《き》かれても仕方ない。おそらく雛田は、保健室まで僕を捜しに行き、新堂に嘘《うそ》を教えられたことを知ったのだろう。そして当の僕たちは、人気《ひとけ》のない非常|階段《かいだん》などで二人きりで顔を突き合わせている。  風が吹いて、雛田の長い髪《かみ》が揺れた。雛田の体は、微《かす》かに震えているように見えた。何かを我慢《がまん》するように唇《くちびる》を横に引き結び、眉間《みけん》に力を入れ、目を見開く。 「ヒナちゃん、あのね……」  新堂が僕の後ろから顔を出して、焦ったような声を出した。何を言う前から言い訳っぽいにおいがする声だった。  その途端《とたん》、見開かれている雛田の目に唐突《とうとつ》に涙が浮かび上がり、ぽろりと頬《ほお》を転げ落ちた。 「ひな、た?」  仰天《ぎょうてん》して立ちつくしていると、雛田は大きな目を瞬《まばた》かせた。浮き上がった透明《とうめい》な涙が、長いまつげに散らされる。続いて、次々と涙が目からあふれ出し、頬をすべった。 「ヒナちゃん、どうしたの?」 「嘘つき——!」  子供みたいな声をあげて、雛田がわあっと泣き出した。びっくりするくらいの、手放しの泣き方だった。  雛田《ひなた》が泣くのを初めて見た。が、それ以前に、高校生がこんなふうに泣き顔を全開にして大泣《おおな》きをするのを初めて見た。  僕も新堂《しんどう》もうろたえにうろたえ、どうしていいのかわからず、雛田をなだめる言葉を必死に探す。そうこうしているうちに、泣き声を聞きつけたらしい人たちが、窓を開けて顔をのぞかせ始めた。彼らは学校一の美少女が、子供みたいにわんわん泣いている様子《ようす》を見てぎょっとし、次いで側《そば》にいる男である僕に非難《ひなん》がましい目を向けてくる。  違う。僕のせいじゃない。いや、僕のせいなのかもしれないけど、僕はそんなには悪くない。  刺さってくる視線に心の中だけで言い訳して、泣いている雛田と野次馬《やじうま》たちの顔を見比べ、いたたまれなさも極まった。  スカートを握りしめていた雛田の手をつかみ、新堂に目配《めくば》せをすると駆け出す。雛田は泣きながらも手を引かれて走り出した。新堂もそのあとを追ってくる。 「逃げたぞ!」 「あんにゃろ、雛田さんに何したんだ」 「大丈夫《だいじょうぶ》なの? 連れて行かれちゃうよ」 「ひどい!」  事情もわからないくせに騒ぎ立てる野次馬の声を振り切り、カンカンと音を立てて非常|階段《かいだん》を駆け下りる。下までたどり着くと、上履《うわば》きのままであるのも構わず校舎|裏《うら》を走り、人の目のないゴミ捨て場のところまで移動した。  雛田の顔は涙でぐっしょりと濡《ぬ》れていた。その頬《ほお》は洗ったばかりの白い陶磁器《とうじき》みたいで、これだけなりふりかまわない泣き方をしても綺麗《きれい》に見えるってのはすごいなと、いっそ感心しながらも、ポケットの中に手を突っ込む。だけど、ハンカチティッシュの類《たぐい》は見つからない。そうだ、一週間ほど入れっぱなしにしていたハンカチ、昨日《きのう》ようやく洗濯《せんたく》に出したんだっけ。  代わりに新堂が黄緑《きみどり》色のミニタオルを取り出し、雛田の涙をふいた。雛田はそれこそ顔をふかれる幼児のように、されるがままになっている。 「それで……一体、なんでいきなり泣いたんだよ」  雛田が泣きやみ、落ち着くのを待って、そっと訊《き》いてみた。雛田は恨《うら》みがましい目で僕と新堂を交互に見る。 「なんで、嘘《うそ》ついたの?」  雛田は、新堂に目をとめ、言った。新堂の肩がすっと強《こわ》ばるのが見えた。 「私が嘘をついたから、泣いたの?」 「いや待て。新堂が嘘ついたのは、俺が隠《かく》れてたから庇《かば》ってくれたわけであって……」  新堂が責められそうな展開に思えて、慌《あわ》てて割って入った。だが、雛田はますますふくれっ面《つら》になっていく。 「なんでわかり合ってるのさぁ!」 「俺たちがわかり合ってるってより、お前らがわかんないんだよ!」 「わかんないって、何がさ!」 「お前らの行動だよ! いきなりキスしてきたりクッキー食わせたり抱きついてきたり。一体なんのつもりだって話だよ」  声をあげると、雛田《ひなた》の大きな瞳《ひとみ》が僕を刺した。強烈な眼力《がんりき》のあるその目に見据《みす》えられると、妖《あや》しい術をかけられたみたいに、とらわれ、動けなくなる。 「私は」  雛田は滑舌《かつぜつ》のはっきりした、明瞭《めいりょう》な声で言った。 「如月《きさらぎ》に恋したみたい」  時間が唐突《とうとつ》に流れるのをやめたみたいな、奇妙《きみょう》な空白があった。  やがて、ゆっくりと返すべきコメントがわいてくる。 「嘘《うそ》つけ!」  力|一杯《いっぱい》言った。騙《だま》されないぞ、という気持ちでもあった。 「落ち着いてよく考えろ。昨日《きのう》までの自分の気持ちを思い出せ。だいたいお前、つい一昨日《おととい》は、恋愛はしない、とか言ってただろ」  言うと、雛田は神妙《しんみょう》な顔をして頷《うなず》いた。 「確かに言った。でも、気持ちが変わることってあるでしょ。恋ってのは、ふとした瞬間《しゅんかん》に胸がドキドキしたりムラムラしたりすることで、あっ、私この人に恋してたんだって気づくものなんでしょ」  雛田の恋愛|観《かん》のレベルは、どうやら少女|漫画《まんが》で止まっているらしい。ムラムラというところは違う気がするが。 「いや……それにしたって、いきなりすぎだろ。自分の気持ちに疑問とか持たないのかよ。というか、昨日の時点では持ってたよな?」  昨日、雛田はキスしたあと首をひねって「なんで?」とのたまったのだ。 「うん。で、昨日一日、なんで私は如月にいきなりキスしたくなったんだろうって考えて、そうか、恋したからかって結論に達したの」  潔《いさぎよ》いといえば潔いのかもしれない。  けれど僕は、なんともいえない微妙《びみょう》な気持ちになった。どうしたって、雛田が突然《とつぜん》僕への恋心《こいごころ》に目覚めてくれたとは思えない。村上《むらかみ》と西園寺《さいおんじ》のこともある。雛田を含めた三人の身に何かおかしなことが起こって、雛田だけが馬鹿《ばか》正直にあっさりと、そのおかしな変化を受け入れてしまったと考える方が正しい気がする。  もし本当に雛田が僕を好いてくれたのだとしたら、僕の恋物語的には、思ってもみなかったどんでん返しハッピーエンドなのかもしれないけど、僕は雛田よりは疑う心を知っている。 「いいか、好きっていうのはそういうもんじゃないだろ。ちゃんと考えろ。自分の心身がかかってるんだ。特に雛田《ひなた》はその見た目だ。頼むから慎重《しんちょう》になってくれよ。変な男に引っかかってくれるなよ」  なんだそれは。この場合の変な男ってのは僕自身か。いやそれより、僕はこいつの保護者か。どうせなら、このチャンスにつけ込めるくらいの度胸《どきょう》があればよかったのに。 「だいたい、俺のどこが好きなんだ。昨日《きのう》まではそうじゃなかったろ。いきなり俺のよさに目覚めたってのか? そんなわけないよな」 「如月《きさらぎ》のことは、前から好きだよ」  あっさりと言われ、言葉に詰まった。負けそうになる。好きって言ってくれてるんだからいいじゃないか。なんの問題が? と、内なる自分がささやきかける。 「そ、それは、恋愛で、じゃないだろ……」  なんとか言葉を絞《しぼ》り出した。だが、内なる自分がまたささやく。  そもそも、恋ってなんだ?  ……なんでこんな乙女《おとめ》チックな問いかけを自分自身にしなきゃいけないのか。 「恋は交通|事故《じこ》みたいなもんだってクラスの子が言ってた。だから急に私が如月を好きになってもおかしくないでしょ。それとも、どうして好きになったか説明できなきゃ駄目《だめ》なの?」  理性《りせい》はもういっぱいいっぱいだった。これ以上《いじょう》少女漫画的|問答《もんどう》を続ける精神力はなくて、僕は情《なさ》けなくも助けを求めるように新堂《しんどう》を見た。新堂は少し目を細め、何故《なぜ》か悲しそうにも見える顔で僕を見返した。それから、ゆっくりと視線を雛田に移す。 「ヒナちゃん、実はね、村上《むらかみ》さんと西園寺《さいおんじ》くんが変なんだって。二人とも、如月くんのことが好きになっちゃったみたいなんだって」  そうっと言われた言葉に、雛田は目を丸くした。新堂は少し首を傾《かし》げ、雛田の目をじっと見る。 「変でしょ?」  雛田は大きく頷《うなず》いた。長い髪《かみ》が振り子のように揺れる。 「だから、如月くんは困ってるの。村上さんと西園寺くんがそんなふうになっちゃった理由がわからないのと同じように、ヒナちゃんの気持ちもわからないって思ってるの。……わかる?」  雛田がもう一度頷く。新堂は子供に言い聞かせる母親のようだった。 「私が、如月くんは保健室にいるって嘘《うそ》をついたのも、こんな状態だから、とりあえず混乱を避けようと思ったからなの。ごめんね」  雛田は今度は小さく、わずかに顎《あご》を引くことで頷いた。だがそのまま、ふくれた顔で新堂を見る。目にはまたうっすらと涙が浮かんでいた。 「じゃあ、私はどうしたらいい?」  新堂は「え」と一《ひと》文字つぶやいて言葉を失った。首を横にねじり、僕を見る。 「ど、どうしたらいいかな?」 「どうって……」  棚からしまった覚えのないぼた餅《もち》が落ちてきたとき、賞味《しょうみ》期限も確認せずに食べられるほど肝《きも》は据《す》わっていない。けれどそれでも、未練《みれん》たらしい思いで雛田《ひなた》のうるんだ瞳《ひとみ》を見た。すぐに、目をそらす。  長い長い数秒間|逡巡《しゅんじゅん》したあと、僕は雛田に向かってぺこりと頭を下げた。 「とりあえず、猶予《ゆうよ》を下さい」  まるで、告白されて「考える時間を下さい」と答えるみたいだと気づき、つけ足す。 「……事態を把握《はあく》するための」  顔は上げなかった。顔を上げて雛田の目を見たら、気持ちを全部持って行かれそうだった。  何がなんだかわからなくても、今手を伸ばせば手に入るような気がして。でもそれには、何故《なぜ》か万引《まんび》きをするみたいな後ろめたさがくっついていて。  休み時間ごとに教室にやってくる部員たちから逃げ隠《かく》れ、昼休み開始のチャイムと同時に席を立った。あーやっとお昼だー、という緩んだ明るい空気の中、緊迫《きんぱく》感を張りつめながら、スパイ活動中のようにすばやく、音を立てずに教室を出る。いつも一緒に昼飯を食う横村《よこむら》と藤岡《ふじおか》が、何も言わず、飯も持たずに出ていこうとする僕に、がんばれよというような、若干《じゃっかん》哀《あわ》れみのこもった応援の視線を送ってくる。今日一日、うろたえながら部員から逃げまどう僕を見て、事情はわからないながらも何か同情に足る事態に襲《おそ》われていることを察してくれたらしい。  周りを警戒《けいかい》しながら階段を下り廊下を走り、三年生の教室が並ぶエリアに進入した。上級生の教室の前に来ると、よそのなわばりに入ってしまった猫のような気分になる。うつむくと、黄色《さいろ》いラインの入った、くたくたにやわらかくなるまで履《は》き古した上履《うわば》きの足がいくつも行き交っている。その中で、緑のラインが入った新しい自分の上履きは、一枚だけ張りかえられたタイルみたいに浮き上がって見えた。  三年A組の教室の前まで来ると、入り口にいた女の人に声をかけて、佐藤《さとう》依子《よりこ》を呼んでもらった。「よりこぉ、若い子が来てるー」と、間延《まの》びした声が教室に響《ひび》き、演劇部前部長が顔を上げた。  依子|先輩《せんぱい》は、手の甲《こう》まで隠すような袖《そで》の長いシャツを着て、ネクタイは緩く首に巻いていた。スカートは短く、そのスカートの裾《すそ》がぎりぎり見えるか見えないかというくらいに長くだぼっとしたベストを着ている。彼女は気《け》だるそうに近づいてくると、教室の入り口にもたれかかった。 「あー……」  依子《よりこ》先輩《せんぱい》は僕の顔を見て、ぬぼーっとした声を長く伸ばす。やがて思考《しこう》がどこかにたどり着いたのか、こくりと一つ頷《うなず》いた。 「あれだ。演劇部の新部長。如月《きさらぎ》くん。どうしたの?」  初《しょ》っぱなから、暗澹《あんたん》たる気分になった。  僕は、あの台本《だいほん》のことを前《ぜん》部長である彼女に訊《き》こうと思って来た。先輩なら何か知っているかもしれないと期待をかけたのだ。  だけどどうやら今の間は、僕のことを思い出している間だったらしい。三年生と一年生、共に活動した期間は短かったとはいえ、ついこの間まで一緒に放課後を過ごし、春の地区《ちく》発表会のための舞台を共に作り上げた仲間を——それも自分が部長を引き継がせた相手を忘れかけているようでは、あの台本のことなど、たとえ聞いたことがあっても忘れている可能性大だ。  まあ、よく部長をやっていたと思うくらいに気《け》だるい女であることは知っていたし、テンポがだいぶんずれている人であることももともとわかっていた。駄目《だめ》もとで、僕は部室にあった台本のことを話した。 「『ロミオとジュリエット』の台本? 部室にあったやつ?」 「そうです。シェイクスピアの戯曲《ぎきょく》を、登場人物を五人にして書き直したやつです。パソコンで打ったものをプリントアウトしてホチキスでとめた感じのものだったんで、たぶんいつだかの部員の人が自分たちで作ったものじゃないかと思うんですけど……何か知りませんか?」 「何かって?」  依子先輩はふわふわした細い髪《かみ》の毛を、のろりとかき上げた。いつもながら、眠そうな目をしている。 「誰が書いたのかとか、いつの代のものなのかとか……」  うーん、と首を傾《かし》げ、依子先輩はしばらく黙り込んだ。考えているのかぼんやりしているだけなのかわからない目で宙を見つめ、やがて「知らないや」とあっさり言った。 「あー、でもなんか……記憶《きおく》の隅《すみ》に引っかかるものがあるような気もしないでもないけど……。なんで知りたいの?」 「ほら、なんていうか、上演許可とか……」  依子先輩は首をひねり、指で髪の先をひっぱりながら「そうねえ」とつぶやく。 「調べたいなら、過去の大会や文化祭のパンフレットを見たらいいんじゃない? 演目《えんもく》書いてあるでしょ」  僕はその足で部室に向かった。  保管されたパンフレットなど、この三カ月の間、見たことはない。けれどたぶん、あの混沌《こんとん》の部室のどこかに埋もれているのだろう。昼休みの残り時間でなんとか探したい。なんの手がかりもないまま、放課後の部活の時間が来てしまうのは怖い。  部室のドアはきちんと閉まりきっておらず、少しの隙間《すきま》があいていた。首を傾《かし》げ、隙間に手を入れてそっとドアを押し開く。そのまま、動きを止めた。  窓際《まどぎわ》に、アッシュブラウンの長い髪《かみ》を流した背中があった。驚くくらいにくせがない、まっすぐな髪は、薄い布のように彼女の背中を覆《おお》っている。彼女が少し頭を動かすと、その髪はさらさらとすべって背中からこぼれた。  雛田《ひなた》だ。  とっさに、逃げようかと考える。雛田はまだこちらに気づいていない。  けれどなんとなく、この場を去る気が起きなかった。気配《けはい》に鋭い雛田が、気づいた様子《ようす》もなくぼんやり背中を見せているのがめずらしかったのもあるし、その背中が妙《みょう》に可愛《かわい》く見えたこともあった。雛田も、村上《むらかみ》ほどではないがやや長身な方だ。けれど、そうやって座っていると、その体はとても小さく見えた。  さっきの泣き顔を思い出して、少しためらう。またあんなことになったらどうしようとも思ったが、猶予《ゆうよ》をくれると約束してもらったし、今変な行動はしないだろうと自分を納得《なっとく》させて、そっと近づいてみた。  すぐ後ろまで近づいても、気づかない。ちょこんと窓辺《まどべ》に座る後ろ姿をじっと見下ろした。そうしていると、だんだん変な気分になってくる。無防備に背中を向けられていることに逆に緊張《きんちょう》を感じてしまい、心臓《しんぞう》の辺りが騒いだ。——おいおい、今日は本当にらしくないじゃないか。いつもはへらへらしながらも隙をみせないスーパーガールが、何をぼうっとしてるんだ。  ふいに、手を伸ばしたい衝動《しょうどう》を感じた。同時に、そんなふうに思っている自分が無性《むしょう》に恥ずかしくなる。さっきふい打ちで泣かれたり、思わぬことを言われたりしたせいで、自分の気持ちのバランスがおかしくなっている。雛田への思いはもっと安定したものだったはずなのに。近くにいるだけで幸せ——なんて言ったら馬鹿みたいだけど、別に、雛田とどうこうなろうなんてあんまり思ってなくて、たぶん自分の中だけで終わる恋愛なんだろうと思っていたのに、今すごく、欲が出ている。  声をかけようと口を開いた。すると、息を吸う音で気づいたのか、雛田がぱっと振り返った。大きな目をさらに見開いている。手にはパックのコーヒー牛乳を持っていた。それを飲みながら外を眺《なが》めていたらしい。 「わ、びっくりした。如月《きさらぎ》か」  雛田の目元は少しだけ腫《は》れている。  なんとなくいたたまれない気持ちになって雛田の顔から目をそらした。 「一人で何やってんの」 「見ての通り、お昼ごはんよ」  なんでそんなことを訊《き》くんだという顔で雛田《ひなた》は言った。  確かに、雛田の脇の机には、購買《こうばい》で買ったらしいパンと、可愛《かわい》らしい包みの菓子が並べられていた。雛田はサラダを挟んだロールパンにかぶりついた。綺麗《きれい》な顔に不似合《ふにあ》いな豪快《ごうかい》な食べ方で、一口でパンの三分の一が消える。 「雛田、いつもここで昼飯《ひるめし》食ってるの? 一人で?」 「クラスの友達と食べることも多いよ。でも今日はほら——午前中|泣《な》きわめいた件が噂《うわさ》になっていて、問いただされるのが気まずかったから」  雛田は決まり悪そうに言って、目の下を指先でこすった。なんと返していいのかわからず、「そうか」とだけ言うとパンフレット探しにとりかかった。  そのとたん、雛田が大音声《だいおんじょう》で吠《ほ》えた。無理に再現するなら、「ぶえっ! ぶおっ!」という感じの、怒っている動物のような声だ。びくっとして、おそるおそる振り返る。今度はなんだ。 「ういー」  雛田は軽く唸《うな》りながら、形の整った鼻をぐしぐしとこすっていた。  もしかして今のは、くしゃみか。 「雛田。一ついいか」 「何? あ、ティッシュないかな」 [#挿絵(img/Romeo_101.jpg)入る] 「そこの机の上にある。……あのな、一般論ではあるけど、普通、恋する女は好きな男の前で、敵を威嚇《いかく》するようなくしゃみはしない」 「あ、ごめん。威嚇する気はなかったんだけど。そういえば女の子のくしゃみって可愛《かわい》いよね」 「十分びびった。……あと、自分をちゃんと女の子の範疇《はんちゅう》に入れてくれ。せめて最後の『ういー』はやめろ。オヤジ感の演出にしかならない」  雛田《ひなた》は真面目《まじめ》な顔をして頷《うなず》く。 「わかった。気をつける。——一つ、女の子は好きな男の前では可愛いくしゃみを心がけるべし」  雛田はなにやら心の中で女の書を刻んでいるらしい。——なんかつっこみが違う場所に入ったな、と、僕は首を傾《かし》げる。雛田が恋する乙女《おとめ》になったという件について、やっぱり違うじゃないか的なことを言いたかったはずなんだけど。 「如月《きさらぎ》は意外《いがい》と亭主《ていしゅ》関白《かんぱく》だね」 「なあ、違うよな、それ。ものすごく根本のところから違うよな?」  ぐったりした気分で言うが、雛田は気にかけずに鼻をかみ、丸めたティッシュをゴミ箱に投げた。見事なカーブを描いて、ティッシュはゴミ箱の真《ま》ん中《なか》にすぽんと入る。 「ところで、如月は何しに来たの?」 「あの台本《だいほん》のこと調べようと思って、過去の大会と文化祭のパンフレット探しに来たんだ。いつ上演されたものなのかわかれば、誰が書いたのかとかつきとめる手がかりになる」 「それは、さっきの休み時間に如月が言った『事態を把握《はあく》する』ための行動なの?」  雛田の目に真剣な光が宿る。僕は少し気圧《けお》されながらも頷いた。雛田はふうんとつぶやき、立ち上がった。 「じゃ、私も手伝う」  雛田は残りのパンを口に入れ、ちろりと指先をなめると、山積みになったファイルやノート類の山に向かっていく。少し戸惑《とまど》ったが、断る理由もないので一緒に作業を始めた。  捜索《そうさく》は困難を極めた。一昨日《おととい》棚が倒れて散乱《さんらん》した物を整理しつつ目的物を探し、その途中で、カビによって青黒くなった、元は白かったであろうと推測されるシャツや、てかてかと黒光りする足の速いあいつが登場したりもした。パンフレットはきちんとまとめていなかったのか、ここ数年のものがぽつりぽつりと見つかるくらいで、古いものは見あたらない。パンフレット探しから部室の掃除に主目的が移動し始めた頃、昼休み終了の予鈴《よれい》が鳴った。 「ああ、五時間目|始《はじ》まっちゃうねえ。如月のとこ、次何?」 「英語。でももういい。ここまで来て途中で戻れるか。今日の部活の時間までに絶対見つけてやる」  僕の顔を見て、雛田はあっさりと「じゃ、私もいる」と言って作業を続けた。何か言おうかとも思ったが、結局口をつぐんで作業を再開した。今の雛田《ひなた》は、猶予《ゆうよ》をくれという言葉を受け入れてくれたのか、いつもと変わらない様子《ようす》で、一緒にいることは少しも苦痛ではなかった。  二人の全身がほこりにまみれ、物に埋もれていた部室が半分くらい片づいた頃、雛田が「あった!」と声をあげた。顔を振り上げると、雛田は大きな三冊のバインダーを両手で抱えて、僕の方に突き出していた。  半透明《はんとうめい》の表紙|越《ご》しに見えるのは、三年前の大会のパンフレットだった。バインダーを受け取り中を開くと、過去十数年のパンフレット類がそろっていた。 「あっ……た。なんだ、昔はちゃんとこういうものをファイリングしてたんだな。ちゃんと取っておいてないのは、ここ二、三年くらいのだけじゃん。あのものぐさ部長め」  僕はバインダーを抱えたまま立ち上がり、椅子《いす》に腰かけた。  演目《えんもく》を確認するだけだ。時間はかからない。『ゴジラと僕』『レンタルファミリー』『嵐《あらし》になるまで待って』『スナフキンの手紙』『嫁《よめ》が来ました』既存《きそん》のものもあれば、部員たちの創作らしきものもあった。僕はすいすいとページをめくっていき——だんだんと嫌な感じがしてきた。パンフレットの紙もデザインもだんだんと古いものになっていき、最後のパンフレットを見終えた。『ロミオとジュリエット』の文字を見つけることができないまま。 「ない」 「なかったね」  そんな馬鹿なと思いもう一度始めから確認し直すが、やはりない。念のためと、バラバラに見つかった最近のパンフレットも見たが、もちろんない。 「ということは……あの台本《だいほん》が上演されたのはもっと昔、とか?」 「それはないんじゃない? さすがに、あの台本そこまで古いものには見えなかったよ。ほら、バインダーに入ってる一番古いパンフレットよりは、台本の方が紙が綺麗《きれい》だ」  雛田の細い指が変色したパンフレットの紙を指し示す。確かに。 「それじゃ、あの『ロミオとジュリエット』は上演されたことがなかったってことになるのか?」 「そうかもねえ」  作ってはみたものの気に入らなかったのか、それとも何か問題が起きたのか。考えてみれば確かに、あの台本が過去に上演されたという保証はどこにもないのだ。  授業までサボって、汗まみれのほこりまみれになりながらようやく見つけたというのに。  どっと疲れを感じて、長いため息と共に肩を落とした。 「がっかり?」  雛田が、首を倒して顔をのぞき込んできた。その顔の近さにうろたえて身を引きながらも、口を尖《とが》らせる。 「がっかりするだろ、そりゃ。結構《けっこう》苦労したのに、なんの収穫《しゅうかく》もなしじゃあさ。雛田だってしただろ」 「まあ、如月《きさらぎ》ががっかりしたなら、私もしょんぼりだ」  雛田《ひなた》が本当にしょんぼりしたような、力ない笑顔を見せるので、落ち着かない気分になる。 「『事態の把握《はあく》』には、失敗したんだね?」  雛田の問いに、ぎくしゃくと頷《うなず》いた。 「如月は、私に好かれるのは嫌?」  雛田の顔からは、一時間目の休み時間に見せたようながむしゃらさは消えていた。静かで、けれど力強い目をしていた。綺麗《きれい》な澄《す》んだ目でこちらを見ている。  ——顔なんてある程度のラインを超えていれば、あとは好みの問題だと思う。ただ雛田には、顔の造作《ぞうさく》の美しさ以上の、強烈な存在感がある。僕は雛田に会って初めて、そこにいるだけで人の目を惹《ひ》きつけるような人間を知った。  雛田に惹かれたきっかけは、まごうことなき一目惚《ひとめぼ》れだった。  だけど今は、アレなところも含めて、彼女の中身がとても好きだと思う。もちろん外側も好きだけれど、丸ごと全部の、雛田|香奈実《かなみ》に惹かれている。  その雛田に好かれて、嫌なわけはない。 「嫌じゃない。……好意を向けられて嫌な人間がいるわけないとかいう問題じゃなく、嫌じゃない」  とても回りくどい言い方になった。それでも雛田は、うれしそうに笑った。心臓《しんぞう》が跳ねる。 「じゃ、またキスしてもいい? 今度はなんでとか言わないから。むしろファーストキスをやり直すくらいの心持ちで」  頭に熱が上がった。そうか、雛田もあれがファーストキスだったのか。沸騰《ふっとう》しかけた頭でそんなことを考える。自分は今どんな顔をしているだろう。 「だ、駄目《だめ》」 「なんで?」  邪気《じゃき》のない顔で訊《き》かれる。酔っぱらったみたいに、世界が揺れていた。 「納得《なっとく》、いかないから……」  雛田は顔を近づけ、けれどふれる直前で止めて、不満そうな表情を見せる。からかわれているんだろうかとも思うけど、雛田の様子《ようす》は完全に無邪気だ。その代わり照れもない。  小さい子供が覚えたての言葉を使いたがるみたいな純粋さで、雛田は好意を表現してくる。ぐるぐる考え込んで赤くなったり青くなったりしている自分が、ずいぶん汚れた人間に思えてきた。いや、僕の方が普通なんだという自信は一応あるのだけれど。 「猶予《ゆうよ》をくれる、約束、だろ。……守って下さい」  言い終わると同時に、ぐきゅぅ、と妙《みょう》な音を立てて腹が鳴った。雛田が目の前で大きな目をぱちぱちと瞬《まばた》かせる。 「お腹《なか》すいてるの?」 「あ、そういえば、昼飯《ひるめし》食ってない……」  ぱっと雛田《ひなた》が笑顔になって僕から離れた。  僕は意識しないまま詰めていたらしい息を、どっと吐いた。強《こわ》ばっていた体から力を抜く。思わぬ助け船を出してくれた腹を労《ねぎら》うようにさすった。  雛田は、机に置いてあった小さな包みを取り上げた。 「これ、クラスの子からもらったお菓子なんだけど、食べる?」 「いいのか? お前にくれたんだろ。そんな可愛《かわい》らしいラッピングまでされて」  雛田は非常に女の子にもてる。もしかすると西園寺《さいおんじ》よりもてるかもしれない。 「いいよ。私も食べるから」  雛田はそう言って笑うと、ラッピングをといた。中から出てきたのは、市松《いちまつ》模様《もよう》のクッキー。雛田はそれをつまむと自分の口に入れ、すぐにもう一つつまんで僕の口元に差し出した。またか。  朝の村上《むらかみ》とは対照的《たいしょうてき》な、なんの疑問も感じていないらしい雛田の幸せそうな笑顔に、困惑《こんわく》と照れと疑いとうれしさが混ざった、むずむずした気分を感じながら口を開ける。  その瞬間《しゅんかん》、部室のドアがパアンと高らかな音を立てて開く。  ドアを開け放った犯人は、朝よりもなお不機嫌《ふきげん》そうな顔をした副部長。 「う、村上……」  村上は、勢いよく開けすぎて跳ね返ったドアをもう一度開け直して、こっちに向かってきた。 「なんで、今授業中じゃ」  苦しげな声を出すと、村上は冷たい一瞥《いちべつ》をくれ、窓の方を顎《あご》で示す。 「部室の窓、向かいの生物室から見えるんだよね。あんまり窓際《まどぎわ》でいちゃつかない方がいいんじゃない?」  見ると、確かに生物室の様子《ようす》をここからうかがうことができた。顕微鏡《けんびきょう》を並べて何かの実験をしているのは、村上のクラスの人たちなのだろう。 「それで、村上はなんでここに」 「具合《ぐあい》が悪いって言って抜けてきた」  堂々とした様子で、村上は言った。彼女は演劇部員だが、きっと仮病《けびょう》の演技などしなかっただろう。今ここに立っているのと同じように堂々と、「具合が悪いです」とでも言い放ったに違いない。 「それで……そこまでして、どうしてここに……」 「雛田に襲《おそ》われそうに見えたんで、助けにね」  正義のヒーローのようなことを言って、村上は雛田に向き直る。  雛田はふっと笑って、村上と向き合うように立ち上がった。 「受けて立つよ」  当人を完全においてきぼりにしたまま、雛田《ひなた》と村上《むらかみ》は薄い笑いを浮かべ、けれど決して笑っていない目で見えない火花を散らす。 「可愛《かわい》いだけの女が調子に乗るなよ」 「可愛いだけかどうか、思い知ってもらおうじゃないか」  ……マキューシオとティボルトなわけだし、こんな感じでもいいか。  僕の思考《しこう》も投げやり気味になる。  放課後になった。  結局、何一つ解決への糸口《いとぐち》は見つけられないまま。  僕はもうほとんど諦《あきら》めたような気持ちで、ジャージに着がえると体育館に行った。  演劇部の練習場所は、体育館の舞台になる。体育館の中では、バドミントン部とバスケ部がネットでスペースを半分に区切って練習していた。この状態で舞台を使うのは恥ずかしいし、バドミントンのシャトルがやたら飛んできたりするので、緞帳《どんちょう》を閉める。緞帳を閉めると当然暗くなるので、ライトをつける。ライトは、普通の蛍光灯《けいこうとう》では足りないので、舞台用の照明も入れる。なので暑い。緞帳を閉めたせいで空気の流れも遮《さえぎ》られるので、ものすごく暑い。夏は地獄《じごく》だ。  何をする前から汗を垂らしながら、舞台にモップをかけた。そうしている間に、残りのメンバーも集まってくる。雛田と村上は、視線でお互い牽制《けんせい》し合いながら。西園寺《さいおんじ》は不気味《ぶきみ》にもじもじしながら。新堂《しんどう》だけが心配するような目でこちらを見つめていた。 「如月《きさらぎ》、今朝《けさ》のことだけど……」  西園寺におずおずと言われて、僕は奴《やつ》の方を見ないまま手のひらを向けた。 「いい。何も言うな。なかったことにしてやる。だから気をしっかり持て」  今朝何があったんだ、というような三つの視線をやり過ごし、柔軟《じゅうなん》や筋トレをすませてから発声練習を始める。僕は役者|志望《しぼう》ではなかったので他の四人に比べると先輩《せんぱい》の指導も甘かったせいか、いまだに腹式《ふくしき》呼吸での発声もうまくできない。一人力のたりない声で「あえいうえおあお」とやっていると、雛田が満面《まんめん》の笑《え》みを浮かべて近づいてきた。 「息を吸うとき、肩が上がらないようにね。お腹《なか》に手を当てて、そこに意識を集中させた方がいいよ。どれどれ」  言って、雛田は僕の腹に手を伸ばす。Tシャツ越しに、雛田の手の温度と感触《かんしょく》が伝わる。ぎょっとして息がつまるが、「ほら」と促《うなが》されて、発声《はっせい》練習を再開する。  腹を意識しろ? そんなもの、言われなくても意識せざるをえない。我ながら妙《みょう》にしゃっちょこばった声を出していると、腹に当てられた雛田の手がするりと動いた。セクハラだ。  突然、雛田が「ぎゃっ」と声をあげて膝《ひざ》をついた。なんだなんだと思って見やると、雛田が立っていたところのすぐ後ろに村上《むらかみ》が立っていた。片膝《かたひざ》を上げている。どうやら雛田《ひなた》の尻を村上が膝で蹴《け》ったらしい。  村上は引きつった笑《え》みを浮かべながら、顎《あご》を持ち上げて雛田を見下ろした。 「たいした声も出せないあんたが、偉そうにご指導? いいからあんたは自分の練習してな」  雛田は、表情もセリフ回しも動きもいいが、声の力では村上には及ばない。村上は、腹の底から響《ひび》く迫力のある声を出すことができて、発声の面では先輩《せんぱい》たちからも尊敬《そんけい》されていた。  ふくれっ面《つら》で見上げる雛田を押しのけ、今度は村上が腹にふれてくる。腹には力が入りっぱなしで、暑いのとは別の理由の汗が出てくる。必死に声を出していると、村上の指が、雛田と同じような動きで腹の上を這《は》った。  こいつら、超《ちょう》仲良しじゃん!  人の腹にさわりたがる二人の女に、心中《しんちゅう》で叫ぶ。口は「あえいう……」を続けているので忙しい。腹だけでなく、全身に力が入って、喉《のど》もふさがる。結果、苦しげな声しか出てこず、事態は悪化していく。  動悸《どうき》がピークにきたあたりで、村上の手の感触が消えた。 「まあまあ、村上さん」  西園寺《さいおんじ》が、村上の両|肩《かた》をつかんで後ろに引いている。村上はいっそ凶悪《きょうあく》なほどの鋭い目で西園寺を見上げる。——大丈夫《だいじょうぶ》ですか。それ一応、お前の好きな女のはずなんですが、その目つきは許容範囲《きょようはんい》ですか。村上に愛想《あいそ》を尽かして本当に男に走ったりされると、困るんですけど。 「女の子に体さわられて、如月《きさらぎ》緊張《きんちょう》してるじゃん。ここは、同性の俺が……」 「ブルータス……」  僕は首を振りながら、一歩、二歩とあとずさる。  そのとき、ぱちんと手を叩《たた》く音が聞こえた。 「あの、読み合わせ! 読み合わせしよう! せっかく台本《だいほん》も配役も決まったんだから、今日|発声《はっせい》練習で時間使っちゃうの、もったいないよ!」  胸の前で手のひらを打ち合わせた新堂《しんどう》が、必死の笑顔を浮かべてそう言ってくれる。小心者《しょうしんもの》のくせに、この状態の三人に意見するなんて、なんていい奴《やつ》なんだろう。感謝を込めて新堂を見ると、控えめな目配《めくば》せが返ってきた。その目は、味方になると言ってくれている。  三人は、しぶしぶながら頷《うなず》いた。  だがそれはそれで、いろいろと問題だった。  最初はまあ、順調だった。  村上が持ってきてくれた人数|分《ぶん》の台本を片手に、軽く動きながらセリフを読んでいく。  多少|困《こま》ったのは、雛田《ひなた》演じるロミオの親友のマキューシオがスキンシップ過剰《かじょう》で、彼女の体のやわらかさと甘い香りのせいで必要《ひつよう》以上に緊張《きんちょう》したことと、それに対する村上《むらかみ》と西園寺《さいおんじ》の剣呑《けんのん》な視線が痛かったくらいで。  雰囲気《ふんいき》がまずくなったのは、舞踏《ぶとう》会の場面にさしかかったあたりだった。  ロミオがジュリエットを一目《ひとめ》見《み》て恋に落ち、その思いを語るところだ。 「ああ、あの人の美しさは松明《たいまつ》に輝き方を教えているかのようだ。夜の中で揺れて輝く。他の女たちの中でひときわ目立つあの美しさは、まるでカラスの群の中に雪のように降り立つ一羽の白い鳩《はと》。卑《いや》しいこの手を、あの人の手にふれさせたい。この心は、今までに恋をしたなどといえるのか? この目よ、誓《ちか》え! しなかったと。誠の美しさを、今宵《こよい》初めて目にしたと」  セリフを読みながら、僕は笑われるだろうかと思い、ちらと視線を上げた。恋を語るロミオは、お寒い気障《きざ》男に見えるんじゃないかと心配になったからだ。  だが、誰《だれ》一人、笑わなかった。  代わりに、どす黒い、不穏《ふおん》な空気がむわりと立ちのぼった。  新堂《しんどう》をのぞく全員の目が、すわっている。  ジュリエットをやっていると、新堂が危険かもしれない。ひくりと頬《ほお》を引きつらせながら思う。  村上が、演技とは思えない鬼気《きき》迫る憎《にく》しみの形相《ぎょうそう》で、一歩足を踏み出した。僕は思わず一歩あとずさる。 「今の声は、モンタギュー家の者。畜生《ちくしょう》、この祝いの席を侮辱《ぶじょく》しに来たか。我が一族の名誉《めいよ》にかけて、叩《たた》き斬《き》ってくれる!」  叩き斬られる。  本気で青くなるくらいに、村上の演技は真《しん》に迫っていた。腹の底からわき上がる声が空気を震わせる。僕の体も震わせる。すばらしい演技なのかもしれない、けど……。  怯《おび》えている間に、ティボルトはどうにか自らの怒りをねじ伏せ、「今は引くが、必ず目にものを見せてやる」と吐き捨て、宴席《えんせき》から退場する。残ったのは、ロミオとジュリエットの二人。肝心《かんじん》の出会いの場だ。僕は新堂の手を取った。新堂の小さな手がぴくりと震える。 「もし私の卑しい手がこの聖なる場を汚《けが》したのならば、私の唇《くちびる》という二人の巡礼《じゅんれい》が、口づけをもってその汚れをぬぐい取りましょう」  セリフを読みながらも、嫌な汗が浮かぶ。どす黒い空気が周りに渦巻《うずま》いている。新堂はそんな雰囲気に気づいているのかいないのか、台本《だいほん》に目を落としたままジュリエットの表情になり、セリフを紡《つむ》ごうと息を吸う。  よせ、答えるな! ——読み合わせの最中《さいちゅう》だというのに、心の中で叫んでしまう。 「巡礼様。それはあなたのお手に対して、あまりにひどいおっしゃり方。聖者《せいじゃ》の手は、巡礼たちがふれるためのもの。こうして手のひらを合わせるのが、聖なる巡礼の口づけです」  新堂《しんどう》と寄りそい、胸の前でお互いの手のひらを合わせる。僕の手のひらは汗で濡《ぬ》れているだろう。 「けれど聖者《せいじゃ》にも巡礼《じゅんれい》にも、唇《くちびる》はあるでしょう」  演技をやめるわけにはいかず続ける。だが、汗の量は増えていく。三人から放射されるプレッシャーが苦しい。  新堂は、台本《だいほん》から顔を上げ、目を見て言った。 「ありますわ。ですがそれは、お祈りのための唇」 「手がすることを、唇にも下さいませ。唇は祈っています。どうかお許しを、信仰が絶望に変わらぬように。——動かないで。祈りの験《しるし》を、私が受け取る間」  尻すぼみになりながらも、セリフをどうにか言い終え、僕はぎくしゃくと新堂に覆《おお》い被《かぶ》さった。  キスの、演技。  だが、ほんの少し身を屈《かが》めたところで、「わああ——」と泣き声交じりの悲鳴があがった。  僕は思い切り突き飛ばされ、もんどり打って床に転がった。 「何、を……」  打った腰をさすりながら起き上がると、雛田《ひなた》がまた、綺麗《きれい》な顔を泣き顔に歪《ゆが》めて、新堂を抱きかかえていた。 「それは駄目《だめ》でしょ! 事態を把握《はあく》するための猶予《ゆうよ》なんでしょ! それまではキスとか駄目なんでしょ!」  自分でも何を言っているのかわかってないような有様《ありさま》で、雛田は泣きながら訴える。 「いや、ふりだけだし……。猶予|云々《うんぬん》は全然|別《べつ》の話だし」  雛田の顔を見上げると、長いまつげで縁取《ふちど》られた目は濡《ぬ》れていた。こんな事態になるまでは見たことのなかった弱々しい必死さがある。だけど抱きしめているのがびっくり顔の新堂なので、いまいちどっちに対して嫉妬《しっと》しているのかわからなくて、複雑な気分になる。  とにかく、今はこの場面の続行は無理かと思ったとき、力の抜けた気《け》だるい女の声が聞こえた。 「あー、大ニュースを発表します」  はっとして声の方に視線を向けると、前部長の依子先輩《よりこせんぱい》が、舞台|脇《わき》の階段をのそのそ上がってくるのが見えた。その声は、二年間|鍛《きた》えてきただけあって、力は抜けているがよく響《ひび》いた。  依子先輩は部員たちの輪に入ると、五人をぐるりと見回す。泣いていたり痛そうに腰を押さえていたりする人間がいる状況を、依子先輩は気にしないのか興味がないのかまったく頓着《とんちゃく》せず、僕に向かって手を挙げた。 「台本を書いた人がわかりました」  さらりと依子先輩は言った。自分で大ニュースと前置きしたくせに、実にどうでもいいことを告げるような口調《くちょう》だった。 「なぁんか、引っかかってたんだよね。『ロミオとジュリエット』を少人数でやるための台本《だいほん》、っての聞いたことがあってさ。なので、卒業した先輩《せんぱい》にメールして訊《き》いてみたの」 「そ、それで?」  僕は立ち上がって、勢い込んで訊いた。 「どんな人が書いたんですか。今その人はどうしているんですか?」 「もう死んでる」  依子《よりこ》先輩は髪《かみ》の毛をひっぱりながら言った。体が固まった。 「なんか、合宿の帰りにバスが事故に遭《あ》ったらしくてね。当時の部員——今のあんたらと同じで五人しかいなかったらしいんだけど——全員死んじゃったんだって。そのとき練習してた台本が、その『ロミオとジュリエット』。部員の女の子が作ったものだったらしいんだけど、事故のせいで公演されることはなかったって。それで、その台本作った子のお母《かあ》さんが、事故《じこ》現場から見つかった台本を、もう引退していた演劇《えんげき》部員に渡したそうよ。『せめて劇に携《たずさ》わる人が持っていて、いつか上演してあげて』って。でもその部員は大学行っても劇を続けるつもりはなかったし、人が死んだ現場から拾ってきたものを持っているのも気味《きみ》悪かったから、部室に置いてったんだって。言われて思い出したけど、私もこの話聞いたことあったんだよね。すっかり忘れてた」  そんなショッキングな話、一回聞いたら覚えていろ。 「いやあ、でもあんたらがやることになって、そのお母さんの願いも叶《かな》ったし、死んじゃった部員たちも浮かばれるんじゃない」  無責任に言って、依子先輩は笑う。だが誰も反応しない。反応できない。 「あ、そういえば」  依子先輩はのろりと視線を動かした。 「なんかね、そのバスの事故で死んじゃった部員たち、恋愛がらみのごたごたで、結構《けっこう》もめてたらしいよ。ロミオやってた人だけが男で、あとはみんな女だったそうなんだけど、その全員が、ロミオ役の人のことが好きだったんだって。いろいろドロドロしたろうねえ。——あれ、なんか反応|薄《うす》いね、みんな。結構スキャンダラスな話なのに。呆然《ぼうぜん》とした顔しちゃって、どしたの?」 [#改丁]    幕間《まくあい》 �ジュリエット�はブランコに座ったまま、呆然《ぼうぜん》と公園の前の道路を見つめていた。  夕方。帰り道の途中の公園。子供たちはもう帰ったあとで、人気《ひとけ》はない。�ジュリエット�はそこで、�ロミオ�が来るのをじっと待っていた。他の先輩《せんぱい》の目の届かないところで待ち伏せて、彼と一緒に帰ろうと思っていた。 (君といるときが一番|幸《しあわ》せだな)  そう言って微笑《ほほえ》んだ�ロミオ�のことを思う。  今の演劇部の中では、�ジュリエット�だけが一年生で、あとの四人は二年生の先輩だ。そして彼らはみんな——�ロミオ�に恋している。  だけど、彼が好いてくれているのは、私だ。そして、彼のことを一番|想《おも》っているのも、私だ。�ジュリエット�はそう信じていた。今の今まで。  夕方の部室で、二人きりの空間で、�ロミオ�は整った顔で綺麗《きれい》な笑顔を浮かべて、�ジュリエット�の名を呼んだ。近づくと、すっと手を上げて�ジュリエット�の髪《かみ》にふれた。ふわふわと撫《な》で、指を絡ませ、やわらかいなあとうれしそうに目を細めた。�ジュリエット�が�ロミオ�を好きなことなんて、彼はとっくに知っていたはずだ。隠《かく》そうと思ったことなんてないし、むしろ知ってもらおうとがんばっていた。彼はそんな�ジュリエット�に恋人のようにふれ、甘く微笑んで、「君といるときが一番幸せだな」と言ったのだ。  それなのに。  今、�ジュリエット�の視線の先には、�ロミオ�がいた。こちらには気づかないまま、公園の前を通り過ぎようとしている。 �ロミオ�の隣《となり》を、�マキューシオ�が歩いていた。二人は楽しげに腕を組んでいる。  ふいに、�マキューシオ�が立ち止まった。腕を引かれる格好《かっこう》で�ロミオ�も止まる。�マキューシオ�は彼の腕に自分の腕を絡めたまま、はにかんだ笑顔を見せた。そうして、すっと伸び上がって�ロミオ�の顔に自分の顔を寄せる。  重なった唇《くちびる》は、�ジュリエット�の位置からは見えなかった。  それでも、�ジュリエット�の息を止めるには十分だった。ひゅうっと喉《のど》が鳴り、そのまま�ジュリエット�の呼吸は止まった。代わりに心臓《しんぞう》が、おかしくなったみたいに激しく暴れ、ひどく胸が痛かった。そのまま心臓がパアンと弾《はじ》けてしまいそうな気がした。  無理矢理《むりやり》キスされているんじゃない。�ロミオ�の腕は、唇を合わせてくる彼女の腰を軽く抱いている。 (君といるときが一番|幸《しあわ》せだな) �ジュリエット�と�ロミオ�は、つきあっていたわけじゃない。けれど、どちらかが「つきあおう」と言うのを待っている状態だと思っていた。言葉での確認がまだなだけで、実際はつきあっているようなものだと思っていた。  なのに、どうして?  気がつくと、�ロミオ�たちの姿は見えなくなっていた。  ジュリエットは抜《ぬ》け殻《がら》のようになって、自分のローファーのつま先に視線を落とす。  格好《かっこう》よくて、頭もよくて、スポーツもできて、演技もうまい。初めて見る、宝石みたいな人。それが今自分の手の中にあるなんて夢みたいだと思っていたけれど、やっぱり、夢だったんだ。でも、夢だけ見せて取り上げるなんて、あんまりじゃないか。  誰もいない夕方の公園で、�ジュリエット�は一人セリフをそらんじる。 「遠くへ行かないで。あなたを、いたずらっ子に飼われている小鳥のようにしてしまいたい。ちょっと手を離しても、すぐに絹《きぬ》の糸で引っ張り戻してしまうの。愛しているから飛んでいってほしくないのよ。——ああでも、可愛《かわい》がりすぎて殺してしまうかもしれない」 [#改丁]    第三幕 「つまり、俺たちは取り憑《つ》かれてるってことだと思うか?」  依子《よりこ》先輩《せんぱい》が帰ったあと、僕たちは体育館の舞台に円座《えんざ》になり、急遽《きゅうきょ》ミーティングの構えとなった。  議題《ぎだい》はもちろん、五人の輪の中心に置かれた、『ロミオとジュリエット』の台本《だいほん》の原本《げんぽん》。 「取り憑かれてる……って、そんな恐ろしいことは何もなかったよね?」  雛田《ひなた》が首を傾《かし》げて言う。僕と西園寺《さいおんじ》は、半眼《はんがん》になって雛田を見やる。 「ある日|突然《とつぜん》男の友人に理不尽《りふじん》に迫られる俺の身にもなってくれ。恐ろしかろうが」 「……ある日突然、何かに気持ちがねじ曲げられて、身近にいた男を好きなような気持ちになるんだ。これが恐ろしいことじゃなくてなんだっていうんだ」  二人して畳《たた》みかけるように言うと、雛田は何故《なぜ》かしょんぼりと頭を垂れた。そのまましばらく、沈黙《ちんもく》が流れる。 「気持ち、ねじ曲げられたの……?」  雛田が言った。ついこぼれ落ちてしまったような声だった。その言葉に、何故か胸の内側がずんと重くなった。  死んだ部員たちの幽霊《ゆうれい》に取り憑かれたなんて荒唐無稽《こうとうむけい》な話だけれど、雛田たち三人が突然《とつぜん》同時に僕への恋心《こいごころ》を芽生《めば》えさせたと考えるよりは理《り》にかなっているような気がする。  霊《れい》のせいだろうとなんだろうと、西園寺の言動が奴《やつ》自身の恋心|以外《いがい》の理由によるものだとするなら、お互いに助かる。村上《むらかみ》も、ものすごく不本意《ふほんい》そうだったから、原因が自分の心の外にあるのならきっとその方がありがたいのだろう。  だけど僕は雛田に関してはちょっとだけ——本当にちょっとだけだけれど、期待、してしまっていたのだ。 「でも確かに、幽霊に取り憑かれてるっていうには変な状況だね。体は健康だし、精神《せいしん》状態も……例の一点《いってん》以外はまっとうだし」  村上はあぐらをかいて自分の両|足首《あしくび》をつかんだ姿勢で、床に置いた台本を睨《にら》みつけている。 「そうだよな。霊に取り憑かれたっていうと、想像するのは、恨《うら》みがある霊が生きている人間をひどい目に遭《あ》わせたりする感じ」  西園寺は言って、自分の手のひらを見下ろした。そこに、自分たちに取り憑いている幽霊の痕跡《こんせき》があるのではないかと疑っているような目だった。 「だけど、もし俺たちに霊がついているとしたら、そいつらは生きている人間なんか眼中《がんちゅう》になくて、幽霊《ゆうれい》になってまで、人の体を使って自分たちの恋愛|沙汰《ざた》を続けているみたいじゃないか」 「あるいは」  僕は口を開いた。 「あるいは、俺たちについているのは幽霊なんてはっきりしたものじゃなくて、この台本《だいほん》にこびりついていた、死んだ彼らの感情……だったりして」  依子《よりこ》先輩《せんぱい》は、当時の五人の部員たちはバスの事故で死んだと言った。その最期の瞬間《しゅんかん》、彼らが感じたのは、死にたくないという、この世にしがみつかんとする激しい感情と、すぐ側《そば》で一緒に死に向かっている人への、急激《きゅうげき》に高まった恋心《こいごころ》だったかもしれない。  吊《つ》り橋を渡っているとき、人は恋に落ちやすいという。自分のドキドキ感を、恋のドキドキと間違えるからだそうだ。アクション映画のヒーローとヒロインは、みんな短時間で恋に落ちる。人間の心なんてそんなものだ。眼前に迫ってくる死に驚愕《きょうがく》しながら、おそらく彼らの胸は今までの人生で最高に高鳴《たかな》っていただろう。そんな中、ただでさえ好きな相手が側にいる。その瞬間、彼らの恋心は、台本にこびりつくくらいに激しく、強く、すさまじく放射されたとしてもおかしくない。……かもしれない。 「だとしたら、きっかけはあのときだね。雛田《ひなた》が台本に配役を書き込んだとき。あの瞬間、私たちの気持ちに何かが入り込んだ。……どう思う? 雛田」  村上《むらかみ》が言って、雛田に視線をやった。雛田はどこか呆然《ぼうぜん》とした顔で、村上を見返す。 「え、どうかな」 「しっかりしな。私らがこうなった原因を突きとめる手がかりなんだから」  雛田はぎゅっと眉《まゆ》を寄せ、しかめっ面《つら》をして考え込む様子《ようす》を見せた。返事が返ってくるまで、ずいぶんと長く感じる時間があった。 「……そうかも。台本に自分たちの名前を書いた瞬間、ぐらっとめまいがして……それが治まったら、なんでか突然、如月《きさらぎ》にふれたい気持ちになった、気がする」 「さわるんじゃなくてキスしたじゃない」  村上が不機嫌《ふきげん》そうに言った。 「近づいたら、手じゃなくて口が出たの」 「そこで欲求に忠実《ちゅうじつ》に行動しちゃうあたり、ヒナちゃんだなあ」  西園寺《さいおんじ》が皮肉《ひにく》っぽくない、素直に関心したような声で言った。出会い頭《がしら》にいきなり人に抱きついたくせに人のことを言えるのかとつっこみたい気持ちになるが、あれでも欲求を抑えた結果だったりしたら困るので黙っておいた。 「……でもなんで、新堂《しんどう》だけ変わらなかったんだろう」  ふと疑問に思ってつぶやいた。新堂を見ると、困ったように視線を動かし、そのまま伏せてしまう。西園寺が何故《なぜ》か呆《あき》れたような視線をよこした。村上もこれ見よがしにため息をつく。 「なんだよ」 「別に。まあ、全員が平等に影響《えいきょう》を受けたとも言い切れないし、そんなことがあってもいいんじゃないの。同じように腐《くさ》った物を食べても、腹の強い奴《やつ》は平気でいる」  村上《むらかみ》は失礼なたとえをする。 「もしかすると、ジュリエット役の人には、台本《だいほん》に染みつくほどの強い思いはなかったのかもしれないしな」  僕が言うと、ぴくりと新堂《しんどう》の肩が震えた。気になったが、顔は伏せたままなので表情はわからない。 「それで、これからどうするの。まさか、ずっと他人様《ひとさま》の感情に振り回されながら生きていかなきゃならないなんて言わないでしょうね」  村上が眉間《みけん》に深くしわを刻んで言う。そんなこと言われても、僕のあずかり知るところではないが……。 「やめるか」  短く言った。無機質《むきしつ》な声になった。場はしんと静まりかえり、緞帳《どんちょう》の向こうから聞こえてくるかけ声と、ボールの音だけが響《ひび》く。  この劇の上演をやめる。ロミオをやめる。ジュリエットを、マキューシオを、ティボルトを、ロレンスをやめる。  こんな目にあってまで、この台本にこだわる理由はない。もともと、その場のノリで決めてしまったものだ。文化祭|公演《こうえん》には別の、まっとうな台本を探せばいい。 「嫌だ」  だが、きっぱりとした声がそう言った。雛田《ひなた》だ。彼女は僕を正面から見る。その強い目は、僕の言葉を跳ね返した。 「でも、このままの状態が続くようじゃ、困るだろ」  少したじろぎながら、西園寺《さいおんじ》と村上の方に視線を逃がす。彼らは同意すると思ったのだが、意外《いがい》にも硬い表情で黙り込んでいた。やがて、西園寺が首を傾《かし》げて言った。 「ここでやめたら、元に戻れるの?」 「わかんないけど、死んだ部員の感情に乗り移られたのは、この台本に関わったからだろ。なら、やめちゃえばいいんじゃないのか」 「でも、俺たちはもう関わっちゃったんだ」  西園寺は言った。村上も、諦《あきら》めたような顔でため息をつくと、がしがしと頭をかく。 「そうだね。確かに、この台本を使うのをやめたとしても、何も変わらない気がする。死んだ人のものらしき、迷惑《めいわく》な感情はすでに私らの中に今あるわけだからね。今さらやめるとか言っても、去っていってくれる気はしない。——あの台本は、演じてくれる人が来るのをずっと待ってたんだよ。それでようやく、私たちをつかまえた。こんなところで放してはくれないんじゃないかな」 「じゃあ、どうするんだよ」  問うと、村上《むらかみ》は覚悟《かくご》を決めた顔をした。 「始めちゃったからには、終わらせるしかない」  終わらせる。それはつまり。 「公演か」 「彼らは公演前に死んでしまった。その彼らの感情が台本《だいほん》についていた。だとしたら、公演をちゃんと終わらせることが、この事態を終わらせることになるんじゃない?」 「というか、正直、ここでやめるのは純粋に嫌だよね」  村上に続いて、西園寺《さいおんじ》までがそう言う。彼らがそんなふうに思うということは、つまりは彼らの中に根を下ろしたとおぼしき死んだ人たちの感情がそう言っているのかもしれない。  新堂《しんどう》に目を移した。彼女の身にはおかしなことは起こっていないとはいえ、いわくつきの、呪《のろ》われた台本といっていいようなものをこのまま使うかどうかという話なのだ。全員の意向を聞いておくべきだった。  ずっと黙っていた新堂は、そっと僕の顔を見上げた。どこか悲しげに見える表情をしていたけれど、頷《うなず》く動作は小さくもきっぱりしていた。 「私も、やめたくない」  その返答で、僕も腹をくくった。  座り直し、円座《えんざ》の中心に置いていた台本を取り上げる。 「わかった。——やるからには、きっちりやってやらないとな。あと、死んだ部員たちのこともちょっと調べてみるよ」 「依子《よりこ》先輩《せんぱい》にもっと詳しく訊いてみればよかったな」  西園寺が言うが、僕は首をひねる。 「それより、依子先輩が話を聞いたっていうOBの連絡先を教えてもらった方が早いかも。記憶《きおく》力があやしくて、かつスローペースなあの人を頼りにしてたんじゃ、話が前に進まない」  全員の顔を見回した。意見を違《たが》えている者はいない。村上と西園寺は仕方ないと諦《あきら》めた顔を、新堂は物憂《ものう》げな顔を、雛田《ひなた》は硬く強《こわ》ばった顔をしていて、皆が例外なくネガティブなオーラを醸《かも》し出していたが、一応心は一つだった。  公演の成功。  決意|表明《ひょうめい》の意味も込めて、文化祭の出し物|希望《きぼう》届けを記入した。団体名、演劇部。出し物、演劇上演。内容、『ロミオとジュリエット』。代表者名、一年D組|如月《きさらぎ》行哉《ゆきや》。  部活《ぶかつ》時間が終わったあと、生徒会室に行ってそれを提出した。体をバキバキとほぐしながら、部室に向かって歩く。演劇部の部室には、部室|棟《とう》の部屋ではなく、体育館に近いところにある空《あ》き教室があてがわれているので、他部《たぶ》の喧噪《けんそう》からは離れる。  窓から射《さ》し込む光でオレンジがかった静かな校舎の中に、自分の足音が響《ひび》いた。じめじめした空気のせいで床がしめっていて、上履《うわば》きがぺたりぺたりと張りつくような音がする。  ふと、行く手にジャージ姿のままの雛田《ひなた》を見つけた。うつむき、軽く壁に腰の辺りをつけて寄りかかっている。 「着がえもしないでどうしたよ」  声をかけると、雛田は視線を伏せたまま口を開く。 「如月《きさらぎ》を待ってた」 「部室にいればよかったのに」 「それだと、みんないるから」  その言葉に妙《みょう》に緊張《きんちょう》して、体が硬くなる。そういえばさっきの話し合いのとき、雛田はめずらしく口数が少なかったけれど。 「どうかしたのか」 「私ね、恋愛系の話をふられるのが非常に苦手《にがて》だったのさ」  雛田は視線を落としたまま、唐突《とうとつ》に言った。話の向かう方向がわからず、無駄《むだ》に瞬《まばた》きをする。 「修学旅行とか行くと、なんでか決まって恋愛話の披露会《ひろうかい》になるじゃない。そういう場では、全員に話す義務が生じるの。でも私、いっつも話すことがなくってさ。ないと正直に言っても、隠《かく》していると思われたり、じゃあ前に好きだった人のことでも、初恋の話でも、ちょっと気になっている人の話でもいいからとか言われて、無理矢理《むりやり》何かを吐き出させようとするんだよ。なんだろうね、あれ」  相変わらず話のテーマは見えなかったけれど、とりあえず頷《うなず》いておいた。修学旅行に恋愛の話がつきものなのは確かだ。男子でも、クラスの女で誰が好みかなどで盛り上がった記憶《きおく》がある。 「でも私は、吐けと言われても何もないのさ。でもいろんな角度から問いつめられて、空っぽの胃から無理矢理|胃液《いえき》だけでも吐き出すくらいのつもりで、当時|仲良《なかよ》かった男子の話をしたこともあるんだけどね」  僕は、胃液あつかいされた会ったこともない男にちょっと同情した。 「その胃液くんと、あとで困ったことにならなかったか?」  訊《き》くと、雛田はなんでわかったんだろうというような顔をした。 「うん。私がそういう場でその人の名前を出したことが、尾ひれつきで本人の耳に入ったらしくて、友情こっぱみじん」  哀《あわ》れ胃液くん。きっと雛田に好かれていると思って、がんばって、から回って、ふられたのだろう。恋バナの場で出た自分の名前は、実は胃液的な感じで無理矢理|吐《は》き出させられただけだったということも知らずに。 「それからはもう、そういう場で実在の人物の話をするのはやめた」 「架空《かくう》の人物の話ならするのか?」 「ジェームズとか大五郎《だいごろう》が恋人になったことはある」 「はあ」 「別に、話すネタが欲しかったわけじゃないけど、ああいう瞬間《しゅんかん》は一番、私は恋愛に向いてないのかなって気持ちになる」 「雛田《ひなた》、初恋まだなの?」  意外《いがい》なようでもあったが、非常にしっくりくることのようでもあった。モテまくるであろうこの綺麗《きれい》な女が色恋沙汰《いろこいざた》に縁《えん》がないというのは不思議《ふしぎ》な感じもするけれど、彼女が誰か特定の人間に恋愛|感情《かんじょう》を向けている様《さま》も想像しにくい。  雛田は眉《まゆ》を寄せて頷《うなず》く。 「ふうん。だからって別に、慌《あわ》てることないじゃん。まだ高校生活|始《はじ》まったばかりなんだし。……雛田、もしや恋愛したことないのを気にしてたりするの? らしくないな」 「らしくないかな」 「うん。大体、俺たちまだ十五|歳《さい》だぞ」 「でも、ジュリエットは十四歳くらいじゃなかった?」 「正確には十三歳と十一カ月ちょいだ」  訂正を入れると、雛田は頬《ほお》をふくらませた。「シェイクスピアオタクめ」とつぶやく。 「別に、十四歳|弱《じゃく》で命がけの恋をしたジュリエットと張り合いたいわけじゃないだろ? それにジュリエットの場合は、その歳《とし》で結婚するような時代だったんだし。——俺たちはまだ高校一年生で、結婚するのなんてたぶん十年は先の話で、だから恋愛なんて自分のペースで好きなようにすりゃあいいじゃん」 「わかってるよ、そんなの」 「だったら——」  言いかけて、僕は口をつぐんだ。雛田はふてくされたような、べそをかく寸前《すんぜん》の子供のような顔をしていた。 「でも、私は今、がっかりしてるんだ」  雛田は再び視線を落とした。僕の上履《うわば》きのつま先《さき》辺りをじっと見つめる。 「私はたぶん、恋愛する能力があんまりないんだ。だから昨日《きのう》、私は如月《きさらぎ》が好きなんじゃないかって気づいたとき、うれしかった。なんだか幸せな気持ちがした。それなのに、それが自分の気持ちじゃなかったってことになって、がっかりしてるんだ」  たった十五歳にして恋愛する能力がないなどと言うとても綺麗な女を前にして、僕は返す言葉に困っていた。理想が高いんじゃないの、とか、ちょっと淡泊《たんばく》なだけじゃん、などと軽く流すこともできたけれど、今日《きょう》一日で雛田《ひなた》が見せてくれた幸せそうな笑顔や純粋な涙を思い出すと、何も言えなくなった。  大体、僕だって恋愛について語れるような人間じゃない。恋愛|感情《かんじょう》について深く考察してみたことももちろんない。たいがいは、落とし穴にはまるみたいな好きになり方をしてきた。まったく落とし穴が見あたらない道を歩いているらしい雛田のことなどわからない、けど。 「れ、恋愛|能力《のうりょく》がないとか、何も決めつけなくても……」  雛田は恨《うら》みがましい目をして僕を見上げた。その目に不思議《ふしぎ》な色気を感じてたじろぐ。 「……私たちの中に他人の気持ちが入り込んで、感情をねじ曲げているのなら、それはなんとかしなきゃいけないよね。自分の恋愛感情が無理矢理《むりやり》変えられちゃうなんて、そんなのはひどいから」  うつむくと長い髪《かみ》の毛がさらさら流れてきて、雛田の顔を隠《かく》す。 「でもさ、元に戻ったら、私はもう如月《きさらぎ》を、こんなふうに好きではなくなるのかな」  何も答えられなかった。雛田は本当に、僕への恋心《こいごころ》を惜《お》しんでいるのだと知った。 「それは寂しいなと思うんだ。偽物《にせもの》の気持ちだとしても、私は誰かをこんなふうに好きになれたことはなかったから」  だったら、好きでいてくれることはできないのか。きっかけが他人の恋心の影響《えいきょう》だったとしても、今雛田がそれをなくしたくないと思ってくれているのなら、それはもう、雛田自身の気持ちなんじゃないのか。  僕はぎゅっと拳《こぶし》を握った。だけどそんなことは言えない。きっとそれは、ただの自分の願望だ。  雛田は顔を上げた。その表情に、心臓《しんぞう》が大きく鳴る。緊張《きんちょう》のせいで妙《みょう》に体が冷え、手が冷たくなった。そのくせ、手のひらは汗で湿《しめ》っている。 「初めて恋愛できたって思ったのに、その気持ちが跡形《あとかた》もなく消えちゃうのは怖い。これを失ったら、もう二度と恋なんてできないかもしれないって、思うから」  なんて応えればいいのだろう。雛田は素直に気持ちを伝えてくれた。だけど僕は、応える言葉を持たない。  いや、いっそ、自分の気持ちを言ってしまったらどうだろう。好きだと言って、もし公演が終わっても、雛田の気持ちが少しでも僕に向いていたら、そのときにつきあってほしい。——そう言ったらどうなるだろう。 「雛田。俺は——」  言いかけて、言葉を止めた。  雛田の背後——廊下の奥の階段の前に、新堂《しんどう》が立っているのが見えた。  いつからいたのかわからない。新堂は制服に着がえていて、鞄《かばん》を胸に抱えていた。部室に戻ってこない雛田を捜しに来たのかもしれない。  新堂《しんどう》は、くしゃりと顔を歪《ゆが》めていた。他の部員たちがおかしくなっても、一人変わらなかった彼女は今、ふれただけでこなごなに砕け散りそうな、そんな様子《ようす》を見せていた。  新堂と視線が交わる。その瞬間《しゅんかん》、僕は心の中を見抜《みぬ》かれたような気持ちになった。僕が今、何を考え、何を言おうとしていたのか。すべてバレたと感じた。  新堂の両の瞳《ひとみ》に、涙が浮かび上がった。  冷たい手で心臓《しんぞう》をわしづかみにされたように胸が詰まり、新堂に気持ちがバレたと感じたのと表裏《ひょうり》をなすように、今度は新堂の気持ちが流れ込んできた。新堂の涙で、僕は彼女の気持ちを悟《さと》った。  こぼれる涙が床に落ちるよりも早く、新堂は踵《きびす》を返し、階段を駆け下りる。 「藍子《あいこ》!」  僕の視線の変化で振り返った雛田《ひなた》が、声をあげた。そのまま走り出そうとする。はっと我に返り、足を踏み出す雛田の腕をどうにかつかまえた。彼女に走られたら、僕は追いつけないし、新堂は逃げられない。 「待て、待てって雛田!」 「なんでよ! 藍子、泣いてた」  雛田はもう、僕を見てはいない。新堂が消えた場所を見つめたまま、僕の手を振りほどこうと腕を引く。だが僕は、力ずくで雛田を押しとどめた。 [#挿絵(img/Romeo_139.jpg)入る] 「放して!」 「雛田《ひなた》、頼む。今は俺に追わせてくれ!」  叫ぶように言うと、雛田の焦りと驚きが混ざった顔がこちらを向いた。 「どうして」 「たぶん、その方がいいと思うから」  雛田はもう一度、どうして、と口を動かした。だが、声は出なかった。声にならなかった二度目の問いには答えず、「頼むから」と懇願《こんがん》した。  雛田の表情は変わらなかった。けれど、その体からゆるゆると力が抜ける。 「ごめん」  礼と謝罪《しゃざい》の二重の意味を込めてつぶやくと、新堂《しんどう》のあとを追って駆け出した。  どうして雛田を止めたのか。本当に僕が新堂を追うことが正しいのか。走りながら不安になってくる。  新堂は、僕にも追ってきてほしくないかもしれない。そもそも、あの瞬間《しゅんかん》新堂の気持ちがわかったような気がしたけれど、とんだ勘違《かんちが》いかもしれない。  考えていると足が鈍った。だが、一階までたどり着くと、昇降口《しょうこうぐち》から飛び出していく新堂の姿が見えた。その小さな頼りない後ろ姿を見つけた途端《とたん》、迷いは飛んだ。  靴も履《は》きかえず、外に飛び出した。すぐに新堂に追いつき、その腕をつかむ。 「新堂!」  新堂は顔を背けた。つかまれた腕を振りほどこうとはしなかったけれど、できるだけ僕から離れようとするように——つかまれた自分の腕からさえ離れようとするように、腕を精一杯《せいいっぱい》伸ばして体を反対側に向けてうつむいた。  反対の手で顔を押さえているのは、たぶんまだ泣いているからだ。  つかまえたはいいが、何を言っていいのかわからなくて、僕は黙ってしまった。  どうしよう。これでは、端《はた》から見たら女の子をいじめて泣かせている奴《やつ》みたいだ。 「な、泣くなよ」  言っても仕方ないことを言ってしまう。ぐすっと新堂が鼻をすする音がした。 「ヒナちゃんは……?」  か細い、湿《しめ》った声がした。だがこちらを向いてはくれない。 「あそこで待っててもらってる。雛田が来た方がよかった?」  新堂は向こうを向いたまま首を横に振る。そうして、「逃げないから、放して」と言った。  おそるおそる手を放すと、新堂は二、三歩僕から距離を取り、ようやく顔を上げた。  目は赤くなって、まつげも頬《ほお》も、鼻筋《はなすじ》までもが濡《ぬ》れていた。僕はポケットに手を突っ込むが、ハンカチはない。そうだ、そういえば午前中も同じことをやった。あのとき泣いていたのは雛田だった。ハンカチのない僕の代わりに、新堂が黄緑《きみどり》色のミニタオルで雛田の頬をふいたのだ。  新堂《しんどう》は、自分の頬《ほお》は手の甲《こう》で乱暴にぬぐった。涙は頬に薄く引き伸ばされ、夕方の光を受けてつやつやと光った。 「如月《きさらぎ》くんは、ヒナちゃんが好きなんだよね」  そう言った新堂の声には、おどおどした様子《ようす》はなかった。あの台本《だいほん》に染みついていたとおぼしき死者の感情は、新堂を少しだけ強くしたように思えた。 「ずっと、知ってたけど」  新堂だけが変わらなかった理由。それは、新堂がもともとその感情を持っていたからなのではないか。  新堂は、僕の内心の考えを肯定するみたいに、少しだけ笑った。それは無理矢理《むりやり》な、可哀想《かわいそう》な感じのする笑い方だった。 「こんなふうにバレちゃうなんて、やだな」  新堂は言って、もう一度頬をこすった。 「なんで……本当に?」  とっさに感じ取ったものの、新堂が僕を好きだったということがどうにも信じ切れない。  相手が西園寺《さいおんじ》だっていうのならわかる。怯《おび》えた小動物みたいな新堂も、西園寺|相手《あいて》だと落ちつけるようだったし、奴《やつ》と話しているときは楽しそうに見えた。  けれど僕に対しては、いつまでたっても緊張《きんちょう》した様子《ようす》で、いつになったらなじんでくれるんだと、少し嘆《なげ》いていたくらいだったのに。  だけど、もしかして、もしかすると、今日新堂が雛田《ひなた》に嘘《うそ》をついてまで僕を隠《かく》してくれたことや、味方をしてくれたことは、本当は雛田を近づけないようにするためだった、とか。 「亡くなったジュリエット役の人ね、きっと、本当にロミオ役の人のことが好きだったんだよ。……それは、すごくわかるの」  新堂は言って、胸に手を当てた。さっき僕が、ジュリエット役の部員には、残るほどの強い感情はなかったのかもしれない、と言ったことを気にしているようだった。 「如月くんにわかってもらえないと、死んだ彼女が可哀想だから」  何故《なぜ》だかぞくりとした。本当は、新堂は誰よりも、死んだ部員の感情と同化しているのかもしれない。死んだジュリエットの気持ちと、新堂の気持ちがぴったりと重なって。  ぱたぱたと走る音が聞こえた。見ると、やはり我慢《がまん》できなかったのか、雛田がこっちに走ってくる。新堂はそれを見つけると、また悲しそうな顔をした。 「私、如月くんが好きだよ。でも」  新堂は、また一歩あとずさり、半身《はんみ》になって言った。 「今は私、どっちに対して嫉妬《しっと》してるんだかわかんないや」  苦笑《にがわら》いを浮かべた顔でそう言うと、雛田がたどり着く前に走り出した。頼りない、幼い子供のような背中が遠ざかる。  横で、ざっと砂が鳴った。視線をやると、雛田《ひなた》が隣《となり》に立って、去っていく新堂《しんどう》を呆然《ぼうぜん》と見つめている。雛田は、これ以上追いかけようとはしなかった。新堂が雛田の姿を見つけて逃げたことに気づいているのだろう。 「藍子《あいこ》、どうしたの?」 「ん。なんでもない」  不安げな顔の雛田に、僕は首を振った。 「なんでもないわけないじゃん!」 「……知られたくないみたい。だから、問いつめたりするなよ」  言うと、雛田は痛そうに顔を歪《ゆが》めた。知られたくない、の前に、雛田には、がついてしまうのを、感じ取ったみたいだった。 「藍子、私のこと嫌いになったのかな」  じわりと雛田の目に涙が盛り上がった。泣くな! と内心で叫ぶ。今日はどいつもこいつもぼろぼろ涙をこぼしやがって。何故《なぜ》だ。死者の執念《しゅうねん》は女の涙腺《るいせん》を緩《ゆる》ませるのか。 「嫌いになんかなってないよ。絶対」  僕はきっぱりと言った。それは保証できる。  けれど、新堂の言葉を——涙を思うと、途方《とほう》に暮れた気持ちになった。  新堂のことは嫌いじゃない。むしろ、好きだと思う。小心者《しょうしんもの》でおとなしくて、けれど一生懸命《いっしょうけんめい》な彼女が僕を好いてくれているというなら、とてもうれしい。もし、自分の言動いかんによって彼女を喜ばせることができるのなら、彼女の望む行動を返してあげたいとさえ思う。  けれど、それは恋愛|感情《かんじょう》じゃなかった。僕は雛田が好きで、雛田も、僕への恋心《こいごころ》をなくしたくないと思ってくれていて——。  違う。  混乱する頭をぐしゃぐしゃとかき回して、その場に座り込んだ。雛田が、「如月《きさらぎ》?」と心配そうな声をかけてくれる。だけど、それに応える余裕《よゆう》すらなかった。  勘違《かんちが》いするな。  自分に言い聞かせる。僕が愛されてるんじゃない。公演が終われば泡《あわ》みたいに消えてしまう思いだ。みんなそれに振り回されているだけ。  みんな?  ——偽物《にせもの》の中から本物を探すのは、どうやったらいいんだろう。       *  死んだ部員たちのことを調べるのには、さほど手間取《てまど》らなかった。依子先輩《よりこせんばい》を足がかりにして、バスの事故で死んだ部員たちのことを覚えていた卒業生に連絡を取り、さらにそこから、直接『ロミオとジュリエット』の台本《だいほん》を遺族《いぞく》から受け取った人にいきつき、最終的には死んだ部員の家族の連絡先まで手に入れた。  それと平行して、練習もじわりじわりと進んでいき、七月になった。 「第三場!」  村上《むらかみ》が声をあげ、開始の合図《あいず》に高らかに手を打ち鳴らした。 「ロミオ! おぅい、ロミオ!」  雛田《ひなた》がぶらぶらした歩き方で舞台に出てくる。片手を口元に添え、ロミオの名をちょっとふざけた声音《こわね》で呼ぶ。  その声はことさら低めてはいないのに、口調《くちょう》によって不思議《ふしぎ》なほどに女っぽさが抜け、饒舌《じょうぜつ》でお調子者で、けれど激しい男、マキューシオが現れる。  僕は舞台の隅《すみ》で身を隠《かく》す姿勢をして、その様子《ようす》を見つめる。雛田は舞台の中央まで来ると、ぼりぼりと頭をかいた。片手にはまだ台本を持っていて、セリフの前で少し目を落とす。 「こっちに来たはずなんだがな。よぅし、とっておきの呪文《じゅもん》で呼び出してやろう。——恋に狂えるロミオよ、出でよ! ロザラインの麗《うるわ》しき瞳《ひとみ》にかけて出てくるがいい! その広い額《ひたい》、紅《あか》い唇《くちびる》、艶《あで》なる足首、すらりとした足、震える太股《ふともも》、そしてかの辺りの禁断《きんだん》の茂みにかけて、ロミオよ立ち現れろぅ!」  禁断の、茂み……。  顔を覆《おお》いたくなる。  そりゃあ、マキューシオに卑猥《ひわい》なセリフが多いのはわかっていた。けれど、初めて原作の戯曲《ぎきょく》を読んだときは意外《いがい》な下品《げひん》さに多少|驚《おどろ》いたもののすぐに慣れたし、映画も見たけれど、英語に日本語|字幕《じまく》だったせいか、何も思わなかった。  でも、同級生の女が口にすると。 「はいストップ!」  村上が不機嫌《ふきげん》に言って、手を打ち鳴らす。 「如月《きさらぎ》、あほか! 舞台上でロミオがマキューシオに見とれたり、赤くなったり恥ずかしがったりしてどうする!」 「だって……これないよ。セクハラだよ」 「そう? いいんじゃない、笑いどころとして」 「いたたまれなくて笑えない! 曲がりなりにも学校のアイドル的女に舞台上で禁断の茂みとか言わせるってどうよ!」 「じゃあ、そのギリギリ感を楽しめばいいんじゃない?」 「それ、明らかに楽しませる場所|違《ちが》うよな!」 「ああはいはい。まったく、これだから妄想《もうそう》力の激しい奴《やつ》は」  村上《むらかみ》はため息をついて首を横に振る。  村上のような鋼鉄《こうてつ》の心を持った女にはわからないのだ。西園寺《さいおんじ》は今日はバイトで休みだし、と思い、反射的に新堂《しんどう》に同意を求めようとした。  だが新堂は視線を上げず、目を合わせようとしない。あの日|以来《いらい》、ずっとこうだ。僕は口をつぐんだ。  村上はわずかに眉《まゆ》を寄せ、「まあ」とつぶやいた。 「ここらで十分くらい休憩にするか」  一応、僕が部長で村上が副《ふく》部長なのだが——僕が演出で村上が演出|補佐《ほさ》でもあるのだが、彼女は当然のようにそう仕切った。異存《いぞん》はない。  僕が舞台|袖《そで》に向かって歩き出すと、新堂は反対側に向かった。雛田《ひなた》は二人の間を困ったように見比べていたが、結局《けっきょく》新堂の方に駆け寄っていく。 「あんた、セリフ覚えるのは誰よりも早かったのにね」  村上は言いながら新しいタオルを取り出して、差し出してきた。自分のと僕のの二枚を用意してきているらしい。素直に受け取ると、今度は凍らせたお茶のペットボトルを取り出し、ご丁寧《ていねい》にフタまで開けて渡してくれる。かいがいしい村上など、以前は不気味《ぶきみ》以外の何物でもなかっただろうが、今ではお互いにすっかり慣れた。家で凍らせてきたらしいお茶は、すでに氷の部分はほとんどなくなっているがちょうどいい冷たさで、喉《のど》をひやりと落ちていった。気がすむまで飲むと、ペットボトルから口を離して大きく息をつく。すると横から村上の手が伸びてきてペットボトルを取り返し、今度は自分で飲んだ。よその家の匂《にお》いがするタオルで汗をふきながら、村上の白い喉を見つめる。 「間接キスか」  つぶやくと、村上はぐっと喉を詰まらせる。赤い頬《ほお》でうろたえながら、それでも僕を睨《にら》みやった。 「たち悪い……!」  はは、と僕は乾いた笑いを漏らした。  もともとは、間接キスだとかなんだとか、気にする方ではまったくない。回し飲みは普通にするし、あんまり普通にしすぎて女の子に嫌がられた経験もある。だけど、今の状況はまた別だ。ここ数日ですっかり見慣《みな》れたかいがいしい村上は、明らかに間接キスを狙《ねら》っていたし、それがわかってしまう以上、つっこみながら生活した方がだいぶん気は楽だ。  本来の村上は、僕以上に頓着《とんちゃく》しない女のはずなのに。は? 間接キス? あんた飛沫《ひまつ》感染《かんせん》する病気でもしてるの? してない? なら問題ないじゃない。ぐびぐび。……そんな女だ。 「ティボルトやってた部員は、うぶな子だったんだろうなあ」  遠い目で言うと、村上に尻を蹴《け》られた。痛い。  そういえば、村上《むらかみ》が誰かに恋している様《さま》など、雛田《ひなた》以上に想像がつかないなと思った。  村上は雛田みたいな悩みは持たないのだろうかとちらりと考えたが、それはそれで想像の埒外《らちがい》だった。もしかすると、意外《いがい》と村上は器用《きよう》に恋愛するのかもしれない。舞い上がったりはせず、結構《けっこう》冷静にこいつにしようと決めて、地に足つけてつきあったりするんじゃないだろうか。そういうスタイルが村上には似合《にあ》っているような気がする。 「それより、最近|新堂《しんどう》と何かあった?」  ふいに村上が言って、顎《あご》で舞台の反対側の袖《そで》を示した。雛田と新堂が並んで休んでいる。  新堂はぼんやりした様子《ようす》で、雛田に声をかけられてもうっすらと頷《うなず》くだけだ。雛田は雛田で、新堂をどうあつかえばいいのかわからないでいるようで、しばらくむやみに明るく話しかけていたが、やがてしょんぼりとうつむいてしまった。  わざわざ、舞台を挟んで反対側の袖にいるのは、僕を避けているからだろう。そう思うと、ずしりと肩に重みがかかった。 「わからん。……嫌われた?」 「嘘《うそ》つけ」  村上は吐き捨てるように言った。 「新堂をふったか」  言われて、ぎょっとした。 「まさか。なんで」 「違うの? てっきり、新堂が言ったのかと思ってた。他人様《ひとさま》の感情にあと押しされてさ」 「言ったって……何を?」  戦々恐々《せんせんきょうきょう》としながら訊《き》くと、村上はうさんくさそうに眉《まゆ》をひそめた。 「本当に違うんだ? じゃあ何。喧嘩《けんか》でもしたの?」 「いや、違う……」  慌《あわ》てて首を横に振る。村上は、新堂の気持ちに気づいていたのか。 「ふ、ふってはいない」  曖昧《あいまい》な答えをすると、村上は「あー」と平板《へいばん》な声をあげた。 「ふってはいないけど、新堂の気持ちは確認したわけね。そりゃ気まずいわ」 「だって、答を求められたわけでもないし、それ以前に、避けられるようになっちゃったし」  思わずそんな言い訳をしてしまう。村上はふん、と鼻を鳴らした。 「まあ、新堂がお断りの言葉を聞きたがってないなら、何も言う必要ないだろうけどね。あんたが雛田を好きなことくらい、誰だって——本人|以外《いがい》の誰だってわかってるし」 「俺は、鈍いか?」 「自分のことに関してはちょっとね。雛田ほどじゃないけど。あいつは、恋愛系の感情が見えない目ぇしてるんじゃないかと思うほど鈍いから」  村上《むらかみ》は言って、無意識にかペットボトルの口をちろりとなめた。ただでさえ暑い中体温がさらに上昇して、ごまかすために村上が貸してくれたタオルに顔を埋めた。 「村上こそ、どうなんだ。西園寺《さいおんじ》とは」  反撃《はんげき》のつもりで言ったのだけれど、ものすごく馬鹿にしたような視線が返ってきた。 「は? なんで西園寺?」 「好かれてるだろ。西園寺なら文句なしじゃん。顔よし、性格よし。何よりも、尖《とが》っているおっかない村上のことが好きだ」 「うざい」  一言《いちごん》のもとに斬《き》って捨てられて、ちょっと西園寺が気の毒になる。あいつやっぱり、Mなのだろうか。 「だいたい、相手が上等《じょうとう》だからつきあいたいと思うわけじゃないだろ。むしろ、アレのどこがいいのかと小《こ》一時間|問《と》いつめたくなるようなこともよくあるし」  そうか、西園寺が上等な奴《やつ》であることは認めるのか、と、少しだけ意外《いがい》な気がした。……そして、もしかしたら村上は、常々《つねづね》新堂《しんどう》に対して小一時間問いつめたい気持ちがしていたのだろうか、とか……。いやまあ、それはともかく。 「西園寺とつきあう気はまったくないのか」 「ないね」 「じゃ、村上は俺を好きなままでもいいじゃん。取り戻したい感情があるわけじゃないなら、恋心《こいごころ》一つ増えたくらいどうってことなくない?」  特に深い考えがあって言ったわけじゃなかった。けれど村上は、燃えるような目で僕を睨《にら》んだ。 「他人の感情に振り回されるなんてごめんだよ。自分のものじゃない恋愛|感情《かんじょう》を抱えてなきゃならないなんて、最低の状況だ」  村上の言葉は、想像《そうぞう》以上にざっくりと刺さった。何に対してそんなに傷ついたのかわからないまま、ぼそぼそと返す。 「恋心の成分《せいぶん》なんてわかんないもんじゃん。だったらいいじゃんか。そこに他人の恋心が混ざったとしても」 「そこまで、雛田《ひなた》が自分を好いてくれることに執着《しゅうちゃく》してるか」  僕は言葉に詰まった。執着はしている。雛田が、あのきらきらした女が、自分に思いを傾けてくれている。その気持ちが雛田の中から生まれたものではないとしても、彼女は、僕を好きな気持ちを大事にしようとしてくれている。 「如月《きさらぎ》」  村上が、急に落ちたトーンの声で言った。 「不本意《ふほんい》だけど、今は私も、あんたのこと想ってるってこと、一応《いちおう》忘れるな」  そう言った村上《むらかみ》の横顔は、少しだけ傷ついているようにも見えた。そこでようやく、自分の無神経さを後悔《こうかい》した。  ——じゃ、村上は俺を好きなままでもいいじゃん。  雛田《ひなた》のことを考えていた。どうしたら雛田が自分を好きなままでいてくれるだろうかと考えて口走《くちばし》った。村上に好きでい続けてもらっても、それに応える気持ちを持たないのに。 「ごめん」 「謝るな、馬鹿」  どうせ偽物《にせもの》の気持ちだ。と、村上はつぶやくように言った。 「それより、ロミオとジュリエットがぎくしゃくしたままだと困るよ。なんとかしな」  村上はいつもの調子に戻って言ったが、その声にはいつもほどの覇気《はき》がなかった。なんだかここ最近、人を泣かせたり傷つけたりしてばっかりのような気がして、ぐんと落ち込んだ。  練習が終わり部室に戻ると、僕は鞄《かばん》の中から一枚のコピーを取り出した。 「これ、図書館で昔の新聞|記事《きじ》を見つけてきた」  事故の記事だ。日付は、今から七年前の八月。 『バス転落《てんらく》事故』の見出しのあとに、何枚もの顔《かお》写真が載っていた。 「マキューシオの人ってどれ?」  雛田が神妙《しんみょう》な顔をして訊《き》いた。僕は、「初宮《はつみや》理果《りか》さん(16[#「16」は縦中横])」と下に書かれた写真を指さす。さっぱりとした顔立ちの少女だった。続けて、一つずつ写真を指さしていく。 「ジュリエットが三村《みむら》牧子《まきこ》。ティボルトが川上《かわかみ》美雪《みゆき》。ロレンスが小原《おはら》香歩《かほ》。そんでロミオが、北村《きたむら》英司《えいじ》」  ロミオ役の男はさすがに四人の女に好かれるだけあって、えらく整った顔立ちをしていた。  線は細いがなよっとしたところはなく、しっかりとした容姿《ようし》だ。  新堂《しんどう》は、じっと食い入るように新聞記事を見つめ、指先でジュリエット役だった三村牧子の顔写真をなぞった。三村牧子は、真面目《まじめ》そうな雰囲気《ふんいき》の少女だった。 「彼らは、マキューシオ役だった人の家が持っている別荘で合宿をした帰り、乗っていたバスが崖《がけ》から転落する事故で死亡した。俺、実は昨日《きのう》、マキューシオの……初宮理果の家に行って、その母親に話を聞いたんだ」  言うと、三人は目をみはる。雛田が首を傾《かし》げた。 「なんで?」 「とりあえず、あの『ロミオとジュリエット』の台本《だいほん》を上演することを遺族《いぞく》に伝えようと思って電話したんだ。そしたら会いたいって言われて」  初宮理果の母親は、亡《な》き娘が編集した『ロミオとジュリエット』の台本を使うことを喜び、上演|許可《きょか》をくれるばかりか、何かお手伝いできることはないかとしきりに言ってきた。 「それでついでに、事故《じこ》現場の詳しい場所を聞いておいた。花でも供《そな》えに行きたいって言ってさ。そしたら——」  ねえ、もしあの子たちにお花を手向《たむ》けに行ってくれるのなら、もしよかったらうちの別荘を使わないかしら。日帰りするのはもったいないし、そこに泊まれば、劇の練習にもいいと思うの。静かで、家もまばらな自然に満ちた場所だから、大きな声を出しても誰かの迷惑《めいわく》になったりしないし。どうかしら? 正直なところ、あの子が死んでから、つらくてあの別荘には寄りつかなくなってしまって、荒れるに任せてしまっていたの。もしあなたたちが使ってくれるなら私はうれしいけれど。……ああ、でも、そんな縁起《えんぎ》の悪い場所になんか泊まりたくないかしら。ごめんなさい、私ったらあなたたちの気持ちも考えないで。でも、気味が悪いなどとは思わないでやってね。化けて出たりするような子たちじゃないのよ。あの子の部活の友達は時々うちにも来ていたけど、みんないい子でとっても仲良しで——  そのあたりでなんとか割り込んで、「部員と相談してみます」と言って帰ってきた。 「貸してくれるっていうならいいじゃん。合宿したい」  雛田《ひなた》が純粋にうれしそうに言う。 「悪くないと思うよ。事故現場で手を合わせて成仏《じょうぶつ》を祈るくらいの気休めもできる」  村上《むらかみ》はそう言って頷《うなず》いた。 「私は、みんながいいなら」  新堂《しんどう》は静かな口調《くちょう》で、判断をゆだねるように言う。 「となると、あとは西園寺《さいおんじ》だな」  バイトであまり練習に出られないと言っていた西園寺は、合宿に行く時間をとることができるだろうか。いや、それより問題は費用か。宿泊《しゅくはく》代はいらなくても、交通費はある程度はかかる。今の西園寺は、最低限の出費《しゅっぴ》以外は避けたいところだろう。 「じゃあ、西園寺には電話で訊《き》いてみる。その答|次第《しだい》ってことでいい?」  三人は頷く。一応の結論が出て話が途切《とぎ》れたところで、新堂はもう一度《いちど》新聞|記事《きじ》の顔写真に目を落とした。しばらくの間、何かを考え込むようにそれを見つめていたが、やがて何かを吹っ切るように顔を上げると、一歩引いた。 「それじゃあ、私帰るね」  新堂は言って、小さく手を振ると部室を出た。残された三人の間に奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》が流れる。  雛田は、新堂が去っていったドアを悲しげに見つめて一つため息をつくとうつむいてしう。  僕はなんとなく村上と目を合わせた。村上はやれやれといった様子《ようす》で椅子《いす》から立ち上がると雛田に近づき、その頭をぞんざいなやり方でわしわしと撫《な》でた。雛田のさらさらした髪《かみ》が乱れてこんがらがる。 「あんたが嫌われたわけじゃないよ」  村上《むらかみ》にしては若干《じゃっかん》やわらかめの声だった。今は死人の感情より自前《じまえ》の感情が勝っているのか、最近では出しっぱなしだった雛田《ひなた》への対抗心はなりを潜《ひそ》め、普段はものすごくわかりにくい形でしか見えない優しさが現れていた。  何かとヒーローになりたがる雛田を、こんなふうにナチュラルに「女の子あつかい」できる女というのは村上くらいかもしれない。女としての雛田に憧《あこが》れる子なんかはいくらでもいるだろうけれど、こういうときにさりげなく手を伸ばしてやれるところは、なんというかやっぱり、村上だなあと思う。  ぼんやりと二人を眺《なが》めてしまっていたが、ふいに村上がこちらに目を向け、視線でドアの方を示した。意味を取りそこねてきょとんとしていると、村上の顔はみるみる不機嫌《ふきげん》そうになる。はよ行け。そう言うように顎《あご》をしゃくる。  ようやく理解して、僕は鞄《かばん》をつかむと部室を出た。  新堂《しんどう》と話をしろということなのだろう。だが、村上の意図《いと》に従って出てきたものの、一体《いったい》何を話せばいいというのか。今自分に言える言葉なんて、何もないじゃないか。  いい考えも、愉快《ゆかい》な世間《せけん》話すらも浮かばないまま、駆け足で駐輪場《ちゅうりんじょう》に行き自転車を取ってくる。ぐずぐずしていると新堂が帰ってしまう。もうなんでもいい。天気の話でも景気《けいき》の話でもいいから、無理矢理《むりやり》にでも何か会話をしてやる。言葉を交わすうちに、できてしまったしこりも少しは解けるかもしれない。  校門の辺りで新堂をつかまえた。シャーっと自転車を走らせて新堂の隣《となり》につけると、新堂は体を強《こわ》ばらせて、跳ねるように一歩|引《ひ》いた。僕だということに気づくと、体の半分が安堵《あんど》に緩《ゆる》み、もう半分がいっそう緊張《きんちょう》を強めたような、ちぐはぐな反応を見せる。 「後ろ、乗っていきなよ。駅まで送っちゃる」  少し迷った末、そう言った。  新堂は戸惑《とまど》った顔をしていたが、僕は彼女の肩からバッグを奪い、前かごの自分の鞄《かばん》の上に載せた。 「ん」  自転車を少し傾け、荷台を示す。強引《ごういん》な誘い方に困惑《こんわく》した様子《ようす》をみせつつも、新堂はおずおずと後ろに腰かけた。ぐっといつもより力を込めてハンドルを握り、バランスを保ちながら漕《こ》ぎ出す。新堂の手は、一切《いっさい》僕の体にはふれなかった。たぶん荷台の端《はし》っこでもつかんでいるのだろう。  人を乗せて走るのは久しぶりだったけれど、新堂の体重はほとんど気にならないくらいに軽かった。乗るのがうまいせいもあるかもしれない。ただ後ろにどでんと座って、バランスも体重のかけ方も考慮《こうりょ》しない奴《やつ》というのは、倍《ばい》ほど重く感じるものだ。  そういえば新堂は、時々雛田の自転車の後ろに乗っていたっけ。 「如月《きさらぎ》くん」 「うん?」 「ごめん、変に気を遣《つか》わせちゃったね」  何を言う前に、新堂《しんどう》がそう切り出した。なま暖かい空気を押しのけるようにして自転車を漕《こ》ぐ。風が後ろに流れていくので、新堂の声は若干《じゃっかん》聞き取りにくい。 「うん……いや、ええと……こっちこそごめん」  なんの謝罪なのか自分でもよくわからない。ただ、どうにかして新堂と元のように戻りたかったし、雛田《ひなた》との気まずい状態を解いてやりたかった。  けれど、中身のない「ごめん」の言葉は正体がなくうにゃうにゃしていて、ちっとも力がなかった。  それでも、後ろで首を振る気配《けはい》があった。シャツの背中ごしに、新堂の前髪《まえがみ》がさらさらと当たる感触《かんしょく》が微《かす》かに伝わる。 「私、がんばる」  背中で、新堂の小さな、けれどいつになくきっぱりした声が聞こえた。 「新堂?」 「さっきね、死んじゃった部員の写真見てて、思ったんだ。この人に勝たなきゃ駄目《だめ》だって。……私はみんなと違って、気持ちが別の方向に向いちゃったわけじゃないから、なかなか気づかなかったけど……もしかしたら私は、感情の方向が同じだった分、より強く、死んだ彼女に影響《えいきょう》されてるのかもしれない」  新堂の口調《くちょう》は、舞台の上にいるときとは比べものにならないたどたどしさだったが、びくついている様子《ようす》はなく、声にはしなやかな芯《しん》があった。 「勝たなきゃ駄目って、どういう意味?」 「私、独占欲《どくせんよく》が強くなった」  新堂の言葉は端的《たんてき》だった。 「ずっとこのままでいいって思ってたのに、あの台本《だいほん》に名前を書き込んじゃってからは、心に棘《とげ》が生《は》えたみたいに、みんなのことを警戒《けいかい》するようになった。時々、憎《にく》らしくなったりもした」  新堂らしくない言葉に驚いた。——だけど、らしくないなんて言っても、僕はそんなに新堂のことをよく知っているわけじゃないのだと気づく。アルマジロみたいに丸まって、自分を隠《かく》しがちだった新堂のやわらかい部分にふれたような気がした。けれど、新堂が隠そうとしていたその部分は、少しも不快ではなかった。 「そんなふうには見えなかったよ。新堂、俺の味方でいてくれたけど、周りに対して攻撃的になるようなことは、一切なかったじゃん」 「でもそれは……」 「棘があることより、それを包んで外に出さないでおける力があるってことの方が重要だと思うよ。新堂《しんどう》、ちゃんと勝ってるじゃん」 「負けそうになるときもあるよ」  新堂の呼吸が乱れた。後ろにいる彼女が今どんな顔をしているのか見ることはできない。 「私ね、ヒナちゃんのこと好きだよ」 「雛田《ひなた》も、新堂のこと好きだよ。知ってるだろうけど」 「なんであんなふうに好かれてるのか、今でもよくわかんない。……初めて部室で会ったとき、いきなり抱きつかれたんだ。可愛《かわい》いって言って。自分の方がよっぽど可愛いのに」 「一目惚《ひとめぼ》れだったんじゃないの」 「ヒナちゃんは私を、何かの動物みたいに思ってるんじゃないかな」  それには頷《うなず》けるものがあった。雛田が新堂に向ける愛情は、飼い主《ぬし》馬鹿な奴《やつ》が愛犬《あいけん》に向けるそれに似ている気がする。 「でも、私がヒナちゃんのことを好きなのも、私を好いてくれるからかもしれないって思う。あんなすごい人がなんでか私を好きでいてくれるから、だから私はそれをなくしたくないのかなって」  気持ちはわかる。状況としてはあれだ、少女|漫画《まんが》。美形《びけい》で強くて格好《かっこう》いいヒーローが、何故《なぜ》か平凡《へいぼん》なヒロインに惚《ほ》れて尽くしてくれる。そんなヒーローがいりゃあ、好きにならない方がどうかしてる。 「別にいいじゃん、それでも」 「でもそれさえも、台本《だいほん》騒ぎが起こってから、ぐらぐらし始めちゃったの。……嫌われるの覚悟《かくご》で言っちゃうと、ヒナちゃんが如月《きさらぎ》くんのことを好きなのが、すごく、嫌だった。……両方の意味で」 「両方ってのは、俺が雛田をとっちゃうみたいな、そんな意味も込みってこと?」 「……うん。ごめんね」 「謝んないでいいよ。そんなことで新堂を嫌ったりしないし。普通のことじゃん」  すごく自分のことを好いてくれていた人が、突然《とつぜん》自分よりも他の人を大事に思うようになったら、誰だって嫌だろう。正直、現在|非常《ひじょう》に困った状況にいる僕でさえ、公演が成功して奴らからの好意《こうい》がぷっつりとなくなったら、きっとほんのちょっとだけへこむ。もちろんそうなってもらわなきゃ困るのだけれど、たぶん、ほんのちょっとだけは。 「もちろん、もう一方の意味もある。……ヒナちゃんはずるいって、よく思うようになっちゃった。綺麗《きれい》だから、ずるいなって。ヒナちゃんは、『綺麗でいいね』って女の子に言われることが一番|苦手《にがて》なこと知ってるのに、つい言っちゃいそうになることがあって、怖いんだ」  雛田をも避けるそぶりを見せるのは、そのせいか。  そういえば雛田は、女の子のことは大好きなくせに、「女の子|同士《どうし》のつきあい」というやつを若干《じゃっかん》苦手がっているふしがあった。綺麗でいいね——。多分、今までの人生で何度も言われたことがあっただろう。それが嫌で、雛田《ひなた》は「綺麗《きれい》な女」を脱し、ヒーローを目指したのかもしれない。そして、もしかしてもしかすると、あんなふうに新堂《しんどう》を好いているのも、彼女にはヒロインが必要で、新堂をそれに選んだのかもしれない。  自転車は緩《ゆる》やかな坂を下っていく。ブレーキをしぼり、いつもよりスピードを落として走る。制服|姿《すがた》の男女が同じ方向に向かって歩いていた。もうすぐ駅に着く。 「だけどさっき、ジュリエットだった人の写真を見て、ああ本当にこういう人がいたんだって思って、ちょっと吹っ切れた気がしたの」  新聞|記事《きじ》のコピーをじっと見つめていた新堂の横顔を思い出す。 「今の私には、自分の気持ちと、あの人の気持ちの区別がつかない。……だから今は、都合《つごう》よく考えることにしようかなって思う。独占欲《どくせんよく》とか嫉妬《しっと》とか、そういうドロドロした感情は、ジュリエットだった彼女のせいにして、自分はそれに勝つんだって、そういうふうに考えようかなって。——人の体に無断《むだん》で入り込んだんだから、そのくらいの汚れ役は引き受けてもらうことにする。あとはただ、公演が成功するようにがんばる」  こんなに率直《そっちょく》に自分の気持ちを話す新堂は初めてだった。そもそも、こんなに新堂がしゃべるところを見たのも初めてな気がする。台本《だいほん》がないとうまくしゃべれない女なのだと、ずっと思っていた。  実は根っこのところでは、新堂は結構肝《けっこうきも》の据《す》わっている奴《やつ》なのかもしれない。優しくて、でもいろんなことに対してあまり自信がないからすぐにおどおどしてしまうけれど、きっと芯《しん》は気丈《きじょう》なのだと思う。追いつめられるほどにしっかりするタイプなんじゃないだろうか。  こんなふうになる前に、もっと話せばよかったなと思った。僕に対して新堂がびくついた様子《ようす》を見せがちだったのも、好意を持ってくれていたための緊張《きんちょう》だったのかもしれない。なじんでくれないと思い込んで苦手《にがて》がっていたのは僕の方だ。もっとたくさん話して、こんな形じゃなく新堂の気持ちに気づければよかった。それで何かが変わっていたかは、わからないけれど。  駅の前まで来ると、きゅっとブレーキを握り、自転車を止めた。新堂が降りる。かごに入れていたバッグを渡すと、新堂は礼を言って受け取った。 「如月《きさらぎ》くん」  新堂がまっすぐにこちらを見た。緊張しているようで、肩に力が入り、唇《くちびる》が真一文字《まいちもんじ》に引き結ばれていた。視線を下げると、手が微《かす》かに震えているのを見つけてしまう。  告白をするみたいな格好《かっこう》で、新堂は反対のことを言った。 「この前のことは忘れて下さい。私が如月くんのことを好きだって言ったことも、みんな忘れて」  うん、と頷《うなず》いた。頷くことしかできない。  あれは——あれも、あの台本のせいだった。死んだ人の恋心《こいごころ》のせいだった。だからあの日の新堂の涙も告白も、全部なかったことにする。  それでいいのか。 「わかった」  新堂《しんどう》は微笑《ほほえ》んだ。ぎこちない、がんばって作った感じの微笑みではあったけれど、新堂はきちんと笑顔を見せ、送ってくれてありがとうと言った。  帰ってから合宿の件で西園寺《さいおんじ》に電話をすると、彼はどうにかやりくりして行くと言った。こんなことになった今、西園寺の最優先《さいゆうせん》課題は公演の成功——ひいては事態の打開となっている。  初宮《はつみや》家に連絡をして、別荘を使わせてもらいたいと申し出た。合宿の計画に夏休みの練習スケジュールに、と考えている間に試験|期間《きかん》に入り、その間|部活動《ぶかつどう》は休止となった。  試験が終わるとすぐに、夏休みが来る。       * 「第四場!」  村上《むらかみ》の声と、手を打ち鳴らす音。  西園寺が舞台に出て、草を摘《つ》むパントマイムをする。 「さて、太陽が燃えるまなざしで夜露《よつゆ》を乾かす昼までに、毒ある草や、貴重《きちょう》な薬となる花を、この柳《やなぎ》のかご一杯《いっぱい》に摘み取ろう……ってなんかこのセリフ説明くさくない?」  西園寺が、ひとつセリフを言ったところで首を傾《かし》げる。舞台に出る準備をしていた僕はつんのめった。 「説明くさいんじゃなくって、ここのセリフは詩の形なんだよ本来は! ……太陽が燃えるまなざしで夜露を乾かす昼までに、毒ある草や、貴重な薬となる花を、この柳のかご一杯に摘み取ろう。母なる大地は自然の墓場《はかば》。葬《ほうむ》る墓から自然が生まれる。その胎内《たいない》から出た自然の子らが、大地なる母の胸から乳《ちち》を吸う。どんなものにも……」 「わかった。如月《きさらぎ》、わかった。演技はアレだが、歌うように言えというお前の意図はくみ取った」  西園寺が言って、押しとどめるように手のひらを向けてくる。一言《ひとこと》多い奴《やつ》だ。村上は台本《だいほん》と向き合いながら、首をひねった。 「でもそんなセリフないじゃない」 「原作にはあるんだよ。でも英語の詩を日本語に訳したものだといまいちうまくないから、ここではざっくり削《けず》ったんだろうな。時間|短縮《たんしゅく》の意味もあったろうし」 「っていうか、原作のセリフまで覚えてるわけ」 「全部は覚えてないよ。ただ、『ロミオとジュリエット』をやることになったからには、いろいろチェックした方がいいだろ」 「研究|熱心《ねっしん》なんだかただのマニアなんだか」  村上《むらかみ》はつぶやき、「じゃ、もう一回!」と声をあげる。  夏休みが始まっても、僕たちはほとんど毎日学校に来ていた。西園寺《さいおんじ》も、練習日すべてに参加することはできなくとも、覚悟《かくご》していたよりもずっといい出席率で、ロレンスが出る場面だけ練習が遅れるということもなかった。  相変わらず体育館は運動部がシェアして使っているし、校舎の方に行っても、文化祭の準備をしにきた生徒たちが結構《けっこう》な数いて、あまり休みに入ったという感覚はない。  文化祭は九月の、夏休みが明けた一週目の土日だ。夏休みいっぱいかけて、工事でもするような勢いで木材を持ち出し金槌《かなづち》をふるって校内を作り変え、夏休み明けの一週間も授業はなく(そもそも、机も椅子《いす》も文化祭に不要な分は夏休み前に教室から撤去《てっきょ》してしまうので授業もできない)、文化祭の準備にすべての時間を費やす。  クラスの団体ならば人数がたっぷりいるので手分けして大がかりなこともできるが、演劇部員は一年生が五人きりだ。全員が精一杯《せいいっぱい》に動く必要があった。 「愛《いと》しいいとこが死に、愛しい夫のロミオは追放!」  舞台の端《はし》っこからは新堂《しんどう》の叫ぶような声が響《ひび》く。僕たちが四場《よんば》の練習をしている間に、舞台の端では新堂がジュリエットの一人|芝居《しばい》の場面を、雛田《ひなた》にチェックしてもらいながら練習していた。新堂は、自転車の後ろに乗せて帰った日|以来《いらい》、普通に——おそらく多少の無理はしているのだろうけれど、普通に、何事もなかったかのように振る舞うようになった。  以前と違うのは、僕の前でびくつかなくなったこと。  何か覚悟を固めたのか、吹っ切れたのか。以前のような緊張《きんちょう》した様子《ようす》も見せずに笑いかけてくる新堂を前にすると、誠に勝手《かって》ながらほんの少しだけ、そこはかとない寂しさを感じたりもする。 「発見!」  西園寺が声をあげて、部室の中のがらくたが積み上げられている一角《いっかく》の中から、レプリカの剣を掘り出して高く掲げた。おおぅと歓声があがり、拍手が起こる。 「それだ。部室のどっかで見たことがあったと思ったんだよな。いくつある?」 「三本」 「よし、ぴったり」  僕は剣を受け取って鞘《さや》を払った。銀色の刃《やいば》は安っぽく光っていたが、それなりの強度はありそうだった。 「私にも持たせて!」  雛田《ひなた》が嬉々《きき》として手を出してくる。もう一本の剣を投げてやった。  雛田は時代劇|俳優《はいゆう》のような、大仰《おおぎょう》でなめらかな動きですらりと剣を抜き、斬《き》りかかってきた。慌《あわ》てて剣を構えて受ける。 「馬鹿、こんな狭い場所で振り回すなよ! あと思い切りぶつけるな。本番前に壊れたりしたら目も当てられない。寸止《すんど》めするくらいのつもりでやれよ」  雛田は剣を引き、くるりと回した。たった今持ったばかりだというのに、呆《あき》れるほどにあつかいがうまい。  小道具の剣をどうするかという話になったとき、部室のどこかでおもちゃの剣らしきものを見たことがあるのを思い出した。そんなものが部室にあるということは、おそらく死んだ部員たちも手にしたものであろうし、もしかしたら彼らが『ロミオとジュリエット』のために用意したものかもしれない。本番の舞台に立つことはできなかったが、彼らはこの剣を握り、振るう練習をしていたはずだ。  雛田はそんなことを気にしているのかいないのか、じっと手の中の剣を見つめ、やがて一振《ひとふ》りすると、その切《き》っ先《さき》を村上《むらかみ》に突きつけた。 「ティボルト、出るとこに出るか?」  村上は頬《ほお》の片側で笑った。非常に酷薄《こくはく》に見える笑い方だ。 「相手になろう」  雛田の悪ふざけを一蹴《いっしゅう》するかと思いきや、村上は応えて二人して部室を出ていく。  まあ、外で殺陣《たて》の練習でもしていればいい。 「あの窓からこぼれる光はなんだろう。向こうは東、とすればジュリエットは太陽だ。昇れ、美しい太陽よ!」  ロミオの言葉に応えるかのように、新堂《しんどう》が舞台に出る。憂《うれ》いを帯びた表情。僕はまぶしいものを見るように目を細めた。  ロミオはジュリエットの様子《ようす》を木陰からひっそりと見つめながら、一人ジュリエットの美しさを称《たた》え、ジュリエットはロミオに気づかないまま、ロミオを思って言葉をこぼす。 「ああ、ロミオ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの。お父《とう》様と縁《えん》を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛すると誓《ちか》って。そうすれば、私もキャピュレットの名を捨てましょう」  ——不思議《ふしぎ》なことに、気障《きざ》男の吐くくっさいセリフに聞こえるんじゃないかと危惧《きぐ》していたロミオの言葉も、恥ずかしいバカップルにしか見えないだろうと心配した恋人たちの語らいも、舞台上で演じられると不思議になじんだ。言葉によって作られた、甘く綺麗《きれい》な世界が立ち現れる。 「俺さ、『ロミオとジュリエット』の舞台は見たことないんだけど、映画は見たんだよ」  休憩《きゅうけい》時間に、台本《だいほん》を見返していた雛田《ひなた》に言った。 「それ、綺麗《きれい》でいい映画だったんだけど、やっぱり舞台は違うな」 「何が?」 「なんていうかな……やっぱりシェイクスピアのセリフは舞台が一番|似合《にあ》うんじゃないかな、と思って」  雛田は首を傾《かし》げた。長いまつげの下の瞳《ひとみ》が、不思議《ふしぎ》そうにこちらを見つめる。 「そもそもさ、なんで如月《きさらぎ》はシェイクスピア好きなのさ。私、前に如月が部室に置いてたやつ読もうとして、よくわかんなくて途中でやめたよ」 「小説読む気分で読んだらつまんないよ。ト書《が》きがすげえ少ないし。だからこう、頭の中で舞台を作るの。それで、読みながら想像《そうぞう》力をふくらませて、自分でその舞台を演出していく」 「あー、如月の妄想《もうそう》力はすごいもんね」  雛田はほめる口調《くちょう》で言ったが、なんだかむしろ不名誉《ふめいよ》なレッテルを貼《は》られた気持ちになる。どうして素直に想像《そうぞう》力と言ってくれないのか。妄想力がすごい男。……あまりお近づきになりたくない感じじゃないか。  けれど雛田には悪気《わるぎ》はないようなので、気にしないことにして続ける。 「俺がシェイクスピア好きになったのは、中学のときに図書館でシェイクスピアの入門書みたいなのをたまたま見て、そこに名ゼリフ抜粋《ばっすい》が載ってて、それで惚《ほ》れたの。格好《かっこう》いいなあと思ってさ。でも、シェイクスピアのセリフって装飾《そうしょく》が多いし、リアルに考えると恥ずかしいじゃん。特に恋を語るところとかは」  いつもは僕がこうして語ろうとすると、シェイクスピアマニアめなどと引き気味に言われて逃げられるのだが、今日の雛田はふんふんと頷《うなず》きながち、膝《ひざ》を抱えて素直に話を聞く。これも恋心《こいごころ》効果か。 「でも舞台で重要なのは、本物《ほんもの》らしさじゃないじゃん。平たい床の上をある場所だと仮定して、そこでそのまま人間が何かを演じるんだ。箱一つの大道具を、その場面に応じて椅子《いす》にでも机にでも岩にでも見立てることだってできる。劇を見る客は、舞台っていう小さな空間の中に、限られた手段を使って表現されたものを心の目で見て、そこに世界を幻視《げんし》するんだよなあって。だから普通ならオイオイって思うようなセリフも、舞台にすると、ちゃんと一つの世界を作るんだ。……やっぱ、シェイクスピアって、舞台で演じるのが一番だなって」 「うん」  雛田はにこにこしている。語ってしまったことがちょっと気|恥《は》ずかしくなるが、雛田は楽しそうに聞いていてくれる。 「ふっ、ぷしゅっ!」  突然、雛田が変な声で鳴いた。怪訝《けげん》に思って見ていると、鼻をぐすぐす言わせながら、何故《なぜ》かほめてもらいたがる犬のような、うれしそうな顔をした。 「可愛《かわい》かった?」 「な、何が?」 「くしゃみ」  くしゃみだったのか、今のは。  どうやら、いつぞやの「女の子は好きな男の前では可愛いくしゃみを心がけるべし」という女の書を実践《じっせん》したらしい。  可愛かったと頷《うなず》くにはかなり珍妙《ちんみょう》だったが、努力のあとは認められる。その進歩だかなんだかわからない変化に、返答に窮《きゅう》しながらもなんだか和《なご》んだ空気が流れた。  そのとき、いきなり後ろから銀色の刃《やいば》が降ってきて、僕と雛田《ひなた》の間をすぱりと斬《き》った。  うわっと叫んで、横に転がる。顔を上げると、村上《むらかみ》が剣を持って二人の間を両断《りょうだん》し、怒りがだだ漏れになっている笑顔を浮かべていた。 「それでだ、演出さん。世界を幻視《げんし》させるための大道具の相談なんだけどね」  話を聞かれていたらしい。 「ああ、ええと……」 「今やったバルコニーの場。大道具どうするよ。ジュリエットが窓から姿を現すっていわれても、本当にバルコニーと窓を作る時間も予算も入手《ひとで》もないけど」 「そうだな。だけどあの場面を、同じ床の上に立ってやるんじゃなあ」  考え込んでいると、雛田がひょいと立ち上がった。 「じゃあさ、足場《あしば》だけ作ってバルコニーに見立てれば?」 「けど、足場だけじゃな……。客席から見たら、ジュリエットが向こう側から登ってくるのが見えるわけだろ。二階の部屋から顔を出すって感じじゃないよな」 「あの」  新堂《しんどう》が近づいてきて口を開いた。 「それなら、バトンから布をつるして、足場の向こうを隠《かく》したらどうかな……。そうすれば登ってくるところを見られないですむし、布をカーテンに見立てれば、それらしく見えるんじゃないかと思ったんだけど」 「なるほど」  頷き、できあがり図を想像《そうぞう》する。「あの窓からこぼれる光はなんだろう」——そこで、カーテンに見立てた布の向こうからライトを当てたらいいな。その光の中からジュリエットが現れる。こちら側からも登れるようにした方がいい。ロミオがそれを登り、バルコニーの場を演じる。でも、そうなると結構《けっこう》でかい足場が必要だ。それを作るなら、バルコニーの場だけでしか使わないのはもったいない。他の場面でも、登場したり隠《かく》れたりするのに使って、上下に劇《げき》空間を広げればいい。そういう抽象《ちゅうしょう》的なセットを組むなら、他の大道具もそれに合わせてリアルなものは使わず、想像《そうぞう》力に任せる方向の方がいいかな。 「楽しそうだね」  想像をめぐらせていると、雛田《ひなた》がにやにや笑いながら見上げてきた。知らないうちに顔が緩《ゆる》んでいたらしい。頬《ほお》をさわり、僕はもう一度笑った。 「うん。楽しい」  週のうちの二日は大道具作りの作業日に当て、欠席者が二人以上いて練習がしづらい日も作業に回した。それでもだんだん間に合わなさそうな気配《けはい》がしてきて、練習中でも出番《でばん》待《ま》ちの奴《やつ》は作業しに行くという状況になり、見かねた三年の先輩《せんぱい》たちが助けに来てくれた。  僕たちは、学校が開いている日は門が開く時間から閉まる時間ぎりぎりまでいて、帰ったら今度は衣装《いしょう》作りという、普通に学校があるときよりも忙しい夏休みを送っていた。       *  合宿所として借りることとなった別荘までは、その持ち主の長男、つまり死んだマキューシオ役だった初宮《はつみや》理果《りか》の弟が、車で送ってくれることになった。彼は今大学生だそうで、ちょうど車で遠出したいと思っていたからついでだよと笑った。 「すみません、何から何までお世話になっちゃって」  西園寺《さいおんじ》が礼を言うと(実際《じっさい》交通費が浮いて一番助かったのは奴だ)、マキューシオの弟は笑って首を振った。 「君たちが姉の台本《だいほん》を使うってんで、うちの母親がすごい喜んじゃって。協力できることはなんでもしてやれって言うんだよ」  マキューシオの弟は気さくに言って、ワゴン車に僕たち五人を乗せると、慎重《しんちょう》すぎるくらいの安全運転で走らせた。別荘まで送ってくれるというのは、もしかしたら姉が死んだバスに乗せたくないと思ってくれたからかもしれない。  車はやがて山道に入った。道はだんだん狭くなっていき、ガードレールの向こう側は、垂直に近いほどの急斜面になる。 「この辺りだよ」  マキューシオの弟がぽつりと言った。行く手に、きついカーブを描いている道が見えた。車のスピードはさらに落ち、ゆっくりと停車する。  僕たちは用意してきた花束を抱えて車を降りた。  ガードレールに軽く手をついて下をのぞき込むと、すうっと足下が冷たくなり、ふくらはぎの筋肉が収縮《しゅうしゅく》するのを感じた。  ここで、死んだのだ。  土がむき出しになった山肌《やまはだ》が続き、下の方にいくにつれ、まばらな木が見えるようになっている。その木々に遮《さえぎ》られて、谷底は見えない。  ここを転がり落ちたのか。  胸の中で、何かがうずいた。自分の心臓《しんぞう》の横に別の小さな生き物が隠《かく》れ住んでいて、そいつが動揺《どうよう》して身じろいだような、そんな感覚だった。  下を見ていると吸い込まれていきそうな気がして、僕は頭を一つ振り、抱えていた花束《はなたば》を放った。  初宮家《はつみやけ》の別荘に着いたのは、三時前だった。別荘は、ぽつりと建った白い壁の二階建ての家で、広い庭があるのだが、ほったらかしにしているらしく草の群が勢いよく天を目指して背を伸ばしていた。  一歩家に入ると、広々とした吹き抜けとリビングがあった。二階には、寝室が二部屋。マキューシオの弟は「家の中は好きなように使っていいから」と言うと、邪魔《じゃま》をしないようにとの配慮《はいりょ》か、早々に引き上げていった。  ひとまず明るいうちに練習しようということになり、僕たちは荷物だけ置いて外に出た。  練習するにいい場所を探して周囲を歩く。道は木々の間を切り開いて延びていた。家は広く間隔《かんかく》をあけて建ち、その周りにはテニスコートが時折《ときおり》見られた。 「水の音がする。川が近いのかな」  ふいに雛田《ひなた》が言い、いきなり走り出した。雛田の足はべらぼうに速い。誰も雛田を追おうとはせず、遠ざかる後ろ姿を見送った。 「あんまり一人で遠くに行っちゃ駄目《だめ》だよー」  と、西園寺《さいおんじ》がまるで母親のように声をかける。  雛田の背中は道を曲がり見えなくなったが、「河原《かわら》だー!」という歓声だけは聞こえてきた。ケージから出してもらった犬のようなはしゃぎっぷりだ。  角を曲がると土手《どて》があった。上ると、靴を脱ぎ捨てて川の浅瀬《あさせ》に入っている雛田が見えた。水を蹴《け》っ飛ばして飛沫《しぶき》を散らせて遊んでいる。 「ガキか、あいつは」  村上《むらかみ》は呆《あき》れた声でつぶやく。  今日の雛田は、袖《そで》の短いTシャツに、白のショートパンツをはいていた。短くした制服のスカートよりもさらに短くて、白いふとももが日の下にさらされている。露出《ろしゅつ》された細く長い足も腕も光を受けてつやつやしていて、そこに飛沫が飛んで、光る水の粒《つぶ》が肌《はだ》の上を流れる。 「練習|始《はじ》めるぞ」  一度|意識《いしき》してしまうと目のやり場に困ってしまって、視線を落として言った。だが雛田《ひなた》は聞いていないのか、水の中をばしゃばしゃと歩きながら声をあげる。 「魚がいるよ!」 「獲《と》れ、雛田。今日の晩飯《ばんめし》にしろ」  村上《むらかみ》がどうでもよさそうな口調《くちょう》で言う。 「ヒナちゃん、あんまり向こうに行かない方がいいよ。深みがあるかもしれないから」 「うん。太郎《たろう》もおいでよ。冷たくて気持ちいいよ」 「次郎《じろう》だから。俺はいいよ。ヒナちゃんみたいなきわどい格好《かっこう》してないから、服|濡《ぬ》れるし」  西園寺《さいおんじ》は面倒《めんどう》くさがる(そして今時のファッションがわからない)親父《おやじ》のようなことを言って首を振る。雛田は不満そうな顔で自分の格好を見下ろした。 「きわどくないよ、別に」 「トランクスと大差ないような半ズボンじゃん、それ」  半ズボンてなんだ。ショートパンツという言葉くらい使え。 「それって、ブルマもパンツも同じじゃんって言うようなものだよね」 「うん。あれも同じじゃないかと常々《つねづね》思ってた。ブルマって、ちょっと厚手《あつで》の黒パンツじゃん」 「下に本当のパンツをはいてるから問題ないんじゃない? 私もこの下にちゃんとパンツはいてるし」  雛田は言って、ショートパンツに包まれた自分の尻を叩《たた》いた。やめてほしい。 「じゃあトランクスの下にもう一枚パンツはけば、外を歩いても問題ない格好になるの?」  そんなわけあるか。というか西園寺、お前はなんの議論《ぎろん》がしたいんだ。  心の中でつっこむが、雛田は真面目《まじめ》な顔をして首をひねった。 「そうか……そうかも。むしろブルマより隠《かく》す面積は広いもんね。じゃあもう、ズボン脱いで川に入ったら?」 「いやあ、さすがに女の子たちの前でパンツ姿になるのはちょっとなあ」 「おい」  こめかみをもみながら、低く声を出す。村上はもう雛田たちのやりとりなど聞こえていないような顔をして岩の上に腰を下ろして一体《ひとやす》みしているし、新堂《しんどう》は川の側《そば》にしゃがみ込んで、手のひらで水をすくって地味《じみ》に遊んでいる。一体お前らはここに何をしに来たのだと問いたい。 「パンツ論議《ろんぎ》はそこまでだ。暗くなる前に一回通し稽古《げいこ》するぞ。雛田、お前はわんぱくざかりの末《すえ》っ子《こ》か! 早く川からあがって靴を履《は》いてくれ」  はあいと、気のない返事が返ってきて、雛田は渋々《しぶしぶ》と陸《りく》に上がった。乾いた白い石の上に雛田の小さな足跡《あしあと》がつく。  このときは、全員がいつもと違う空気の中で多かれ少なかれ浮かれていた。雛田はわかりやすくはしゃいでいたし、西園寺《さいおんじ》も気持ちよさそうな顔をしている。村上《むらかみ》からもいつもの鋭さがなくなっていたし、新堂《しんどう》もにこにこしていた。  もちろん僕も、旅行に来たとき特有の高揚《こうよう》を感じていた。遊んでるな、練習するぞとは言いながら、一方でそんな状況も楽しく、自分も思い切りはじけてしまいたいような衝動《しょうどう》もあった。さっき、昔の部員たちが死んだ事故《じこ》現場で感じた奇妙《きみょう》な胸のうずきなど、忘れてしまっていた。  軽く発声《はっせい》練習をしたあと、通し稽古《げいこ》を始めた。  第一場、恋に沈むロミオに、キャピュレット家の者たちと一争《ひとあらそ》いしてきたマキューシオが、騒動《そうどう》の有様《ありさま》を饒舌《じょうぜつ》に話す。身振《みぶ》り手振《てぶ》りをダイナミックに加えた雛田《ひなた》の長《なが》ゼリフ。 (あれ……?)  僕は何故《なぜ》か、ぼんやりし始めていた。  演技に集中できない。それなのに、体はちゃんと動き、口はしっかりとセリフを紡《つむ》ぐ。いつもよりうまいくらいの演技。けれどそれは僕の意識からは離れたところで制御《せいぎょ》されていて、自分で演じているにもかかわらず、自分を外側から見ている観客になったような気分になる。  心臓《しんぞう》の横で、また正体《しょうたい》不明の小さな生き物が身じろぎをする。  第二場、キャピュレット家の舞踏会《ぶとうかい》。踊り、出会い、ロミオはジュリエットに恋をし、口づけを交わす。新堂の濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》が間近《まぢか》にある。太陽の光があたり、彼女の黒目《くろめ》の中で星のようなきらきらした光が揺れる。  ——なんだ?  新堂の演技が、いつもと違うように思えた。新堂だけじゃない。自分を含めた全員の演技が。  それぞれが行った役作りの末にできあがってきたキャラクターと、今演じられているものは、何かがずれている。 「あなたはどうしてロミオなの?」有名なあのセリフを、新堂が切なげな声で口にする。いつもよりも夢見がちにふわふわして、湿《しめ》り気を帯びたセリフ回し。  第五場。マキューシオとティボルトが対決する。ティボルトの侮辱《ぶじょく》にマキューシオが怒り、剣を抜く。殺陣《たて》の練習は繰り返し行った。体を動かすのが好きな雛田と、死んだ部員の感情に乗り移られてから雛田と対抗することが多くなった村上は、休憩《きゅうけい》時間でもよく剣を打ち合わせていた。彼女たちはこの場面を一つの大きな見せ場にするつもりで、あれやこれやと試行錯誤《しこうさくご》を繰り返した。どこで斬《き》りかかり、どういうふうに受け、どんな格好《かっこう》で何度|剣《けん》を打ち合わせるのか。派手《はで》で、観客が魅《み》せられるような剣の舞を。  銀色の光が閃《ひらめ》く。  けれどそれは明らかに、繰り返し彼女たちが練習したやり方ではない。  何かが、おかしい。 「やめろ、ティボルト、マキューシオ!」  僕は叫んで、二人の間を分けて入る。けれどそれは、本当に雛田《ひなた》と村上《むらかみ》を止めたのではなく、ロミオの演技だ。何かがおかしい。何かが変な方向に転がり出していると気づきながらも、劇の流れを止めることができずにいる。  背後で、雛田がうっと呻《うめ》いた。  マキューシオは、止めに入ったロミオの腕の下からティボルトに突かれて死ぬのだ。 「やられた。どっちの家もくたばっちまえ。俺はおしまいだ」  雛田が言った。胸の下辺りを押さえ、背を丸め、一、二歩よろける。本当に痛そうに顔を歪《ゆが》めている。雛田のすべらかな額《ひたい》の上に、汗が浮いていた。 「や、やられたのか」  支えようと伸ばした僕の手を振り払い、雛田は「はっ」と吐き捨てるように笑う。よたよたとよろけながら、「はっ、はっ!」と繰り返し笑う。 「なあに、傷は浅い。が、十分だ! 明日《あす》俺を訪ねてくるがいいさ。きっと俺は墓の下にいるよ。あわれ、はかなくお墓入りってか! ちくしょう、これでこの世とおさらばか。——お前ら、どっちの家もくたばっちまえ! なあ、なんだってお前、割って入った?」  酔っぱらったような口調《くちょう》。真《しん》に迫っているのは確かだ。雛田は腹を押さえ、ぎらぎらした目を見開いて僕を見据《みす》える。それこそ何かに取り憑《つ》かれたように。  そして、雛田は腹を押さえたまま、ばたりと前のめりに倒れた。足と腕をむき出した格好《かっこう》をしているくせに、手加減《てかげん》のない転び方だった。慌《あわ》てて雛田を抱き起こし、その上半身《じょうはんしん》を腕に抱える。雛田は腹を押さえ、痛そうに歯を食いしばり、凄惨《せいさん》な笑《え》みを浮かべた顔で空を睨《にら》みやる。 「どっちの家も、くたばっちまえ!」  雛田の呪《のろ》いの叫びが、高い空に向かって放射される。  そのまま、雛田の体からぐたりと力が抜けた。マキューシオは死んだ。  僕は雛田の体をそっと地面に横たえる。白い岩と砂利《じゃり》の上に、彼女の長く綺麗《きれい》な髪《かみ》が流れる。  剣をつかみ、立ち上がると村上に向き直った。 「マキューシオは死んだ。もう寛大《かんだい》な斟酌《しんしゃく》など真《ま》っ平《ぴら》だ。——マキューシオの魂《たましい》はまだ俺たちのすぐ上で、道連《みちづ》れを待っている。道連れになるのは、お前か、俺か、それとも二人ともか!」  剣を抜き、村上と見合う。村上は目を見開き酷薄《こくはく》な笑みを浮かべた。光があたり、白目《しろめ》の部分が青みがかって光る。 「小僧《こぞう》が。この世で奴《やつ》とつるんでいたお前だ。あの世まで仲良く行きやがれ!」  キィンと音がして、剣が打ち合わせられる。壊れたらことだから、寸止《すんど》めするつもりでやれと言ったのに、まるで本物《ほんもの》の剣を振るうように強く打ち合っていた。そのやり方は、やはりいつもの練習と違う。  ああああああ!  突然、新堂《しんどう》の叫び声が聞こえた。目をやると、新堂は河原《かわら》に膝《ひざ》をつき、頭を抱えて慟哭《どうこく》していた。 「愛《いと》しいいとこが死に、愛しい夫のロミオは追放!」  まだそのいとこと夫は戦っている最中《さいちゅう》だというのに、新堂は叫び、泣き出す。ただの演技じゃない。彼女の目からは本当に涙が流れ出していた。 「落ち着け!」  西園寺《さいおんじ》が切羽《せっぱ》つまった顔で、新堂の肩を両手でつかんで叱《しか》りつけるように揺さぶった。  それを横目《よこめ》で見ながら、自分も止まらなきゃと追いつめられた気持ちで思う。だが、村上《むらかみ》の攻撃は止まらないし、自分の体も止められない。  二人の持つ、安っぽい光を放つ剣が振り下ろされる。  駄目《だめ》だ。このままじゃどちらかが怪我《けが》をする。  そう思ったとき、手首に軽い衝撃《しょうげき》と痺《しび》れが走った。思わず剣を取り落とす。  ほぼ同時に、村上の剣もはじき飛ばされていた。その剣は宙を飛び、くるりと一回転して後方に落ちる。  雛田《ひなた》が——さっきまで死んでいた雛田が、剣を持って僕と村上を分けていた。  まっすぐ伸ばした雛田の細くしなやかな腕と、その腕の延長のように伸びる、レプリカの剣。それが、僕たちの間を分断《ぶんだん》していた。  雛田の表情にも余裕《よゆう》はなく、汗を浮かべ、険しい顔をしている。けれどその目は、雛田の意志を映し出しているように、強く力を持っていた。  そこでようやく、体の感覚が戻ってくる。  同時に全身から力が抜けて、その場にがくりと膝《ひざ》をついた。  夢だか幻《まぼろし》だか、定かではないものを見た。  河原に、五人の男女がいる。  男が一人と、女が四人。劇の練習をしている。  彼らは熱いセリフ回しで、舞台と想定《そうてい》した場所全体を使って動き回る。みんなが役にのめり込み、集中している。  彼らからほとばしってくるオーラは、嫉妬《しっと》と、闘争《とうそう》心だ。  誰よりも激しく、真《しん》に迫った演技をする。誰よりも自分が輝く。  だが彼らには、全員で一つの劇を作るのだという心が皆無《かいむ》だった。仲間であるはずの共演者を蹴落《けお》とそうとしているような、攻撃的な意志が見える。  それは、恋心《こいごころ》のなれの果てだ。  けれど僕は何故《なぜ》か、争う彼女たちの激しい意志の渦《うず》に巻き込まれ、つられて高揚《こうよう》しながらも、その状況を愉快《ゆかい》に感じていた。 (いや、違う)  男の姿を見上げる。  この気持ちは、自分の中から生まれたものじゃない。この男の——ロミオだった死んだ部員の気持ちが流れ込んできているのだ。  ティボルトの死と、ロミオの追放を知ってジュリエットが一人|嘆《なげ》く場面が演じられている。ロミオだった男は、よくよく見なければわからないほどに薄くではあるが、口元が笑っている。 「おえええええ」  初宮家《はつみやけ》の別荘に戻ると、床に這《は》いつくばって、内臓《ないぞう》までも吐き出しそうな声を出した。すかさず村上《むらかみ》に踏まれる。 「吐き気を誘う声を出すな。こっちだって気持ちが悪いんだよ」 「酔った。完全に酔った」  恋心《こいごころ》に酔った……と言うと誤解《ごかい》を招くか。  だがあながち間違いではない。僕たちは混ざり合った死人の感情にあてられ、すっかり酔ってしまっていた。気持ちのいい酔いではない。二日酔《ふつかよ》いの酔い、船酔い車酔いの酔いだ。  異常な興奮《こうふん》状態になった通し稽古《げいこ》は、西園寺《さいおんじ》と雛田《ひなた》が止めに入ったところでようやく我に返り、中止になった。  演技をやめた僕たちは、しばらく虚脱《きょだつ》状態でその場に座り込み、ようやく歩けるくらいに回復すると、どうにか支え合いながら別荘まで戻ってきた。そうして今、激しく揺れる船から降りたグロッキーな人たちのように、吐き気を抱えて床に転がっている。 「西園寺、お前、よく平気だったな」  床にへばったまま、比較的|症状《しょうじょう》の軽い西園寺を横目《よこめ》で見上げながら言った。西園寺は若干《じゃっかん》青い顔はしていたが、僕と女子三人に比べればかなりマシだ。 「ああ、ロレンスはまだあんまり登場してなかったし、感情を高ぶらせる場面もなかったから、それでかも。それでも結構《けっこう》きたけどね」  僕は、さっきの河原《かわら》で見た、白昼夢《はくちゅうむ》のようなものを思い出した。 「死んだ人にこんなこと言うのもなんだけど、俺、ロミオだった男のこと、嫌いだよ」  つぶやくと、視線が集まった。吐き気をかみ殺し、ため息をつく。 「俺さ、自分には死んだ人の感情なんて憑《つ》いてないと思ってたんだよね。みんなが俺を好きなような気持ちがするのは、ロミオ役っていう記号に死んだ彼女らの感情が反応しているだけであって、実際ロミオだった男が残したものは何もないんだろうってさ。でも、違ったみたい。日常生活に影響《えいきょう》するほどの強いものではなくても、俺の中にも、あの男の何かの欠片《かけら》は入り込んでいるんだ、きっと」  さっきの白昼夢《はくちゅうむ》のことを話した。  死んだ部員たちの幻《まぼろし》と、ロミオだった男から感じた、いやぁな快感のこと。 「俺が感じたところでは、あのロミオ、女が自分をめぐって争うことを喜んでいたふしがある」  僕は思い切り顔をしかめて言った。 「お前らはえらいよな。美形《びけい》のくせに、人の気持ちもてあそんだりしなくてさ」  なんとなく、西園寺《さいおんじ》と雛田《ひなた》を見比べる。この二人は、わかりやすく異性《いせい》からもてる。 「それは美形|差別《さべつ》だよ」  雛田がむっとした顔で言う。 「そうだよ。顔がよかろうが悪かろうが、いい奴《やつ》もいれば嫌な奴もいる。当たり前のことだ」  西園寺もそう同調した。二人とも、自分の顔がいいことは欠片も否定しないのがいっそすがすがしい。 「さっきの白昼夢、みんな見たのか?」  言うと、村上《むらかみ》が小さく頷《うなず》いた。 「同じものだったかどうかはわかんないけど、死んだ部員らしき人たちが河原《かわら》で練習している様《さま》なら見えた」  ふいに、床に転がっていた雛田が、すいっと天井《てんじょう》に向かって手を伸ばした。その手をじっと見ている。 「雛田?」 「いやあ、エネルギッシュだったなあ」  感心したような口調《くちょう》で、雛田は言った。むしろ、憧《あこが》れさえ含んでいるように聞こえた。まだ気分は悪いのだろう、青白い顔をしているが、目はきらきらと力強く光っている。 「確かに気持ち悪くはなったけど、すごいはすごいよね。恋愛って、あんなふうに、他のことはなんにも見えなくなっちゃうような力があるんだね」  雛田は天井を見上げて言う。その目にあるのは、やっぱり一種の憧れだ。台風が好きな人が、雨風が荒れ狂う窓の外を見つめる目に似ている。危険なものだとはわかっているけれど、その大きな力に憧れる、みたいな。増水した川を見に行って流されるタイプじゃなかろうな、と心配になる。 「ヒナちゃん、あれを恋愛の一般的な姿だと思っちゃ駄目《だめ》だよ」  西園寺が苦《にが》い顔をした。 「恋に一生懸命《いっしょうけんめい》になるのはいいけど、あれは違うよ」 「違うの?」 「あれは、恋っていうより、嫉妬《しっと》」  嫉妬かあ、とつぶやき、雛田《ひなた》は眉《まゆ》を寄せた。雛田はもしかしたら、今回の件があるまで、嫉妬をしたこともほとんどなかったのかもしれない。——されたことは腐《くさ》るほどあるだろうけれど。 「嫉妬は愛を育てる。……間違った方にね」  西園寺《さいおんじ》が言った。八方《はっぽう》美人なくらいに誰にでも分け隔《へだ》てない親切さを見せる西園寺の発言としては少し意外《いがい》だった。物腰《ものごし》はやわらかいけどクールな西園寺は、村上《むらかみ》に向ける恋愛|感情《かんじょう》らしきものもひょっとしたら冗談《じょうだん》なんじゃないかと思うくらい、強い感情は見せないのだけれど。  でも案外《あんがい》、西園寺はネガティブな感情も思い知っているのかもしれないなとも思った。だからこそ、強くない緩《ゆる》やかな好意をまんべんなく周りに向けるのかもしれない。 「——お気をつけなさい、嫉妬というやつに。こいつは緑の目をした怪物《かいぶつ》で、人の心を餌食《えじき》とし、それをもてあそぶのです」  ふと思い出してつぶやくと、壁にもたれていた新堂《しんどう》がびっくりした顔をして起き上がり、「何?」と訊《き》いた。 「『オセロー』の中のセリフ。なんか今、なるほどなあと思って」 「あー、まあ、なるほどねえ」  村上が、ため息|交《ま》じりにつぶやく。雛田だけはきょとんとした顔をしていた。  なんだか、嫌な感じの夢を見た。  目を開ける。なじみのない、高い天井《てんじょう》が目に入った。 「あー、くそ。床の上なんかで寝たせいかな」  起き上がり、うんと背中を反らす。  夜、男女分かれて部屋に引き上げたところ、西園寺が妙《みょう》にそわそわうきうきしてやがったので、互いの明るい未来と友情のために僕は荷物をまとめてリビングに避難《ひなん》してきていた。  だが、フローリングの床の上で寝るのは大層《たいそう》体が痛い。 「明日は西園寺を部屋から追い出してやる」  独りごちて立ち上がり、軽く体をほぐすように動かすと、関節がばきばきと鳴った。  今何時頃だろう。  窓ガラスの向こう側は、混ざりもののない濃い闇《やみ》だった。  さっきまで見ていた夢の内容を思い出そうとした。だが、漠然《ばくぜん》とした不快感があるだけで、どんな夢だったかは覚えていなかった。夢の登場人物が自分だったのか、それとも、死んだ部員たちだったのかもわからない。  目が覚めてしまったのだからとトイレに行った。目がさえて、眠りたい気持ちがなくなっちゃったなと思う。  トイレから出て手を洗いに洗面所に行こうとしたとき、ちらりと疑問を感じた。——洗面所のドア、開けっ放しじゃなかったっけ?  けれどそんなことを考えたのはほんの一瞬《いっしゅん》、頭の隅《すみ》だけで、別段《べつだん》気にもせずにドアを開けた。  そのとたん、明かりが射《さ》し込み、押し寄せるような石鹸《せっけん》の匂《にお》いが、温かい湯気《ゆげ》と共に流れてきた。  硬直《こうちょく》する。  風呂《ふろ》あがりらしい雛田《ひなた》が、ショーツ一枚の姿で立っていた。  髪《かみ》はくるくると巻き上げて大きなくちばし形のピンでとめていたが、幾筋《いくすじ》かはこぼれ落ち、わずかに桃色《ももいろ》がかった白い肌《はだ》に張りついている。腹も手足も細く、だからこそ豊かで丸い胸のふくらみが目立って——。 「どんだけ凝視《ぎょうし》してるんだい」  雛田が胸を腕で押さえて、僕を見返した。体の前面を隠《かく》そうと横を向く。その瞬間《しゅんかん》、それが目に入った。 「あんたが今やるべきことは、謝りながらドアを閉めることだと思うんだけど」 [#挿絵(img/Romeo_195.jpg)入る] 「あ、うん。ごめん」  回れ右して、ドアを閉める。  そこで初めて、今の事態を認識《にんしき》した。頭に一気に血が上る。  心臓《しんぞう》が、今の事件を大慌《おおあわ》てでごまかそうとしているみたいにむやみに動き、血がどんどん送られていく。  しまった。ものすごく、しまった。  いやでも、こんな夜中に風呂《ふろ》に入っているなんて思わないじゃないか。男もいるんだということはわかってるんだから、もうちょっと自衛《じえい》手段をとってくれ。そりゃ、ノックしないで開けたのは不注意だったかもしれないけど、でも、しないだろ普通。何時だよ今。  ぐるぐる回る思考《しこう》を抱えて、その場にしゃがみ込む。  自分とは別の生き物のような、白くてすべすべとした質感《しつかん》の、やわらかそうな体が目の奥に焼きついていて離れない。  けれど、その白い体に一点の赤黒い痕《あと》がついていたのを見つけていた。脇腹《わきばら》の上部にできていた、小さいけれど痛そうな痣《あざ》。  かちゃりと小さな音がして、ドアが開いた。その隙間《すきま》から、雛田《ひなた》がひょっこりと頭を出す。湿《しめ》った長い髪《かみ》が横に流れる。  僕はずるずるとあとずさった。 「反省しているかい?」  雛田は目を眇《すが》めて、僕の顔をじっと見つめる。 「だ、って、いるなんて思わないだろ普通。なんでこんな時間に風呂に入ってるんだよ」  情《なさ》けない声で弁解すると、雛田は冷たく僕を睨《にら》みすえる。観念《かんねん》して頭を垂れた。 「すみませんでした」 「よし」  雛田は頷《うなず》くと、犬に対してするように僕の頭をわしわしと撫《な》でた。  雛田の顔はよく見ると若干《じゃっかん》赤い。シャワーで上気したためか、それとも、実は結構《けっこう》恥ずかしがっているのか。 「……それで、どうしてこんな時間に風呂に?」 「嫌な夢見たの。どんな夢だったかは思い出せないんだけど、ヤな汗かいて目が覚めてさ。そのまま寝直す気にもなれなかったから、シャワー浴びて汗流《あせなが》そうと思って」  その夢が、僕が見たものと同じ類《たぐい》のものであるのかどうかはわからない。だけど、何かが僕たちの上に重くのしかかっているせいなのだろうと思う。 「それより」  雛田が言って、僕の手の辺りを見下ろした。 「トイレ帰りなんじゃないの?」 「あ」  衝撃《しょうげき》にすっかり忘れていた。洗面所に入り手を洗う。石鹸《せっけん》の匂《にお》いと温かさが決まり悪い。  手をふいてリビングに戻ると、何故《なぜ》か雛田《ひなた》はさっきまで僕が寝ていた場所に座っていた。床に敷いたシーツの上にぺたんと座り、枕《まくら》を抱いている。 「ここで寝てたの? 気づかなかった」  人の枕をぎゅっと抱きすくめながら雛田は首を傾《かし》げて言う。近づきがたくて、その場を動かないまま頷《うなず》いた。 「うん、まあ……」 「なんで? あの部屋何か問題あった?」 「安全面で多少《たしょう》問題があった。忘れられない一夏《ひとなつ》の思い出を作る気はない」 「青春の思い出は大事だよ」 「野郎《やろう》の友達に襲《おそ》われるようなトラウマ的青春メモリーは願い下げだ」  言うと、雛田は納得《なっとく》したのか一つ頷き、それから自分の唇《くちびる》の下に人差し指を当てた。 「じゃ、私と寝る?」 「……元の状態に戻ってからもう一度言ってくれ」  僕は顔を覆《おお》った。こっちはこっちで、結構《けっこう》つらいものがある。無邪気《むじゃき》なのか挑発《ちょうはつ》しているのか知らないが、なんだかもう、身がもたない気がする。 「雛田、ここ、痣《あざ》」  話を変えるため、僕は自分の脇腹《わきばら》の上部を指して言った。 「練習のときの、だろ」  マキューシオとティボルトが剣で戦う場面。あのとき、二人ともおかしくなっていた。剣の振るい方は互いに怪我《けが》をさせてもおかしくない勢いのものだったし、真《しん》に迫っていたと言えば聞こえはいいが、実際《じっさい》相手を傷つけようとしているように見えた。  マキューシオは、止めに入ったロミオの腕の下からティボルトに刺される。あの瞬間《しゅんかん》、村上《むらかみ》の持つ剣は本当に雛田の体に当たっていたのではないか。レプリカの剣だから刺さりはしないが、相当に痛かったはずだ。 「村上には言っちゃ駄目《だめ》だよ。あいつ、傍若無人《ぼうじゃくぶじん》なようで結構《けっこう》気にする性格だから」  雛田は苦笑《くしょう》して、指を唇の前で立てた。片手で痣があった脇腹の辺りを軽くさする。 「不謹慎《ふきんしん》かもしれないけど」  雛田は妙《みょう》に感慨《かんがい》深げな様子《ようす》で脇腹に手を当てながら言う。 「あんなふうになりふり構わないほどのエネルギーというのは、ちょっとだけうらやましい気がするなあ」 「……危険な憧《あこが》れは捨てろ」 「うう」  雛田《ひなた》は情《なさ》けなく唸《うな》る。  誰かに恋をすることもなく、多分、強い執着《しゅうちゃく》も嫉妬《しっと》も感じずに生きてきた、人がうらやむものをたくさん持っている雛田。けれど彼女も、自分が持っていなくて他の人は持っている、きらきらしたりどろどろしたりする、あの不思議《ふしぎ》な感情をうらやみ、欲しがっている。  不毛《ふもう》だなあ、と思う。けれど、そんな不毛な憧《あこが》れを持つ雛田がいとしくもなった。  人間、意地《いじ》で恋をし続けちゃうことってあるのよ。特に敵がいて、戦いを始めちゃうともう引き際が見えなくなったりするの。——そう言ったのは、百戦|錬磨《れんま》の恋愛|経験《けいけん》を持ちつつもいまだ独身の、一番上の姉だ。 「西園寺《さいおんじ》も言ってたけど、あれは違うからな。恋愛の見本にするなよ。……むしろ可哀相《かわいそう》だ。最初はそんなんじゃなかっただろうに、何がいけなかったのか——俺はロミオの奴《やつ》がいけなかったんだと思うけど——あんなふうに変に競い合うようになってさ」  雛田は神妙《しんみょう》な顔で聞いている。  そのときふいに、二階でドアを開閉《かいへい》する音が聞こえた。ぎくりと体を強《こわ》ばらせる。誰かがトイレに起きたのだろうか。それとも僕たちと同じように、内容は思い出せない嫌な夢を見た誰かが起きてきたのだろうか。  はっとして、シーツの上に座る雛田の姿を見直す。雛田は、生地《きじ》が薄い分《ぶん》昼に着ていたものよりもなおトランクスに形状が近いようなショートパンツをはき、上はキャミソール姿だった。  こんな夜中に、こんな姿の雛田と二人でいるところを見られたら、まずいことになるかもしれない。それも何故《なぜ》か雛田は、僕が寝ていた場所で枕《まくら》を抱えている。誤解《ごかい》されて、また何かもめ事が起こったら……。  とっさに隠《かく》れる場所を探して辺りを見回した。目に飛び込んできたのは部屋の隅《すみ》に据《す》えられたクローゼット。一瞬《いっしゅん》迷ったが、階段を下りてくる音が聞こえ出して、思わず雛田の手を引いて、その中に飛び込んだ。クローゼットの中は空《から》っぽで、密着《みっちゃく》状態にはなるものの、二人が隠れるのに無理はなかった。  音を立てないようにそっと観音《かんのん》開《びら》きの扉《とびら》を閉める。  狭い四角い空間は暗闇《くらやみ》に閉ざされた。体の側面が雛田とくっついている。温かくやわらかい。雛田がまとっていた石鹸《せっけん》の匂《にお》いが満ちた。二人分の呼吸音が狭い空間に大きく響《ひび》く。雛田が息を吸うと同時に、彼女の胸が小さくふくらむのを感じる。  近づいてくる足音に耳をすませていると、それが一人分でないことに気づいた。トイレじゃないのか? まさかあのメンバーで連れションってことはないだろうし。  パッとリビングの明かりがついた。クローゼットのドアの隙間《すきま》から、細い糸のような光が射《さ》し込む。  光に目を刺されて、一瞬|瞼《まぶた》を閉じた。雛田もまぶしかったのか、ドアから顔を背けている。雛田の顔はちょうど僕の二の腕の辺りにふれ、薄いシャツ越しに、雛田の鼻とか唇《くちびる》とか、熱い吐息《といき》などを感じて、体の芯《しん》がじんと痺《しび》れた。離れようにも身動きがとれない。 「おかしいな」  クローゼットの外から村上《むらかみ》の声がした。  細い隙間《すきま》から外をのぞくと、リビングに村上と西園寺《さいおんじ》が立っているのが見えた。彼らはリビングの中に視線をめぐらせ、首をひねる。 「いないな。男部屋にもリビングにもいないとなると……まさか二人でどこかに行った?」  しまった。  頭を抱える。雛田《ひなた》と二人でいるのを見られたらやっかいだと思って隠《かく》れたのだが、彼らは僕たちを捜しに来たのだ。多分、雛田がいなくなっていることに村上が気づいたのだろう。それで、男部屋にいるのではないかと思って行ってみたがそこには西園寺しかおらず、二人でどこかへ抜け出したのではないかと思い捜しに来た。そんなところなのだろう。  失敗した。そんなことなら、堂々《どうどう》とリビングにいた方がマシだった。もめ事を避けるために隠れたはずなのに、結果的にもっと大きなもめ事の種をまいてしまった気がする。 「あいつら、どこで何してるんだろ」  村上が苦々《にがにが》しい顔で言う。西園寺も眉間《みけん》にしわを寄せていた。 「捜しに行く?」 「どこに」  西園寺の問いに、村上はつっけんどんに訊《き》き返す。 「家の中にいないとなると、外? 二人で散歩にでも出たのかも」  西園寺の声の中にも、少しばかり腹立たしそうな色があった。けれどそれが、消えた僕たちのことを思ってなのか、僕のことを気にする村上のことを思ってなのかは判然《はんぜん》としない。 「捜しに行って、見たくないものを見せられるのはあれだけど……」  ぐっと息が詰まった。隣《となり》の雛田の顔が見られない。  西園寺は何か考えているような顔をしていた。視線をゆっくりとめぐらせ、部屋の中を一周し、窓の外を眺《なが》め、最後に村上の上に視線を戻した。 「村上さん」  西園寺が呼んだ。村上が振り返る。 「好きです」  それは、非常に唐突《とうとつ》に言われた言葉だった。あまりにもさらりと言われたその言葉に、端《はた》で聞いていた僕も意味を取り損《そこ》ねそうになったし、村上も呆然《ぼうぜん》とした顔をしていた。雛田がぴくりと反応する。 「隠そうと思ったことないから、知ってるだろうけど。でもちゃんと言っておく。なんか変な事態になっちゃって、自分の気持ちがどこかにまぎれて見つからなくなっちゃうんじゃないかと心配になったから、村上さんにあずけておくことにした。今は何も返さないでいいから、持ってるだけ持ってて」 [#挿絵(img/Romeo_204.jpg)入る]  村上《むらかみ》は表情を変えなかった。けれどしばらくの沈黙《ちんもく》のあと、つぶやくように言う。 「前から不思議《ふしぎ》だったんだけど、なんで私なの。あんたなら、もっと他に似合《にあ》う女がいくらでもいるでしょ」 「俺は別に、自分に似合う女の人を捜してるわけじゃないよ。それに、俺は個人的には、俺と村上さんって結構《けっこう》似合うんじゃないかと思うんだけど」  村上は鼻で笑った。悪い笑い方じゃなかった。西園寺《さいおんじ》も笑《え》みを浮かべた。 「俺、死んだ人なんかに、俺の気持ちも村上さんの気持ちも取られるつもりないから」 「私の気持ちって?」 「俺を好きになるかもしれない気持ち」 「馬鹿め」  村上は軽く笑うと、こちらに背を向けた。そのまま階段を上っていこうとする。 「部屋に戻るの?」 「戻る。腹立つけど、雛田《ひなた》と如月《きさらぎ》、二人そろっていないんなら、心配して捜し回るような状況じゃないでしょ。……ある意味心配するべき状況かもしれないけど、振り回されるのはもっと腹立つし」  村上は、自分の中の感情をねじ伏せるように言った。ねじ伏せることができたのは、もしかしたら西園寺《さいおんじ》からあずかった、奴《やつ》の気持ちのせいかもしれない。西園寺が村上《むらかみ》を追っていく。リビングの電気が消された。  階段を上っていく二人分の足音が消え、二階のドアを開閉《かいへい》する音を聞いてようやく、詰めていた息を吐き出した。  そうっと音を立てないようにクローゼットを開き、他人《たにん》の体温とやわらかさと石鹸《せっけん》の匂《にお》いで満ちた空間から脱出する。  だが、雛田《ひなた》はクローゼットの中で膝《ひざ》を抱えたまま、ぼんやりしていた。 「雛田?」 「そっか」  雛田はつぶやき、ほうっとため息をついた。 「そうだったんだ」  うらやんでいるようにも見える顔をして、雛田は宙を見上げた。  雛田がうらやんだのは、自分の心を動かそうとしてくる力にも負けない、「本当の自分の気持ち」を持っていた西園寺なのか、それを向けられた村上なのか、それとも漠然《ばくぜん》と、他人の気持ちと自分の気持ちの区別もつかない自分自身のことを思い、それに引きかえて二人がうらやましくなったのか。  心臓《しんぞう》の辺りに痛みを感じ、雛田の顔から目をそらした。 「うらやましいか」  そっと訊《き》いてみた。雛田はぼんやりした顔で首をひねる。 「うん? うーん、そうだね」  雛田は宙を見ていた目を僕の顔に向けた。ゆるりと微笑《ほほえ》む。  五人に被《かぶ》さっている他人の感情。それが剥《は》がれたとき、現れてくるのはなんだろう。それはたぶんもう、完全に元通りのものではなくなっている。       *  合宿からの帰り、僕たちは事故《じこ》現場にもう一度立ち寄り、横《よこ》一列に並んで、手を合わせた。  ——あなたたちができなかった『ロミオとジュリエット』の公演は、必ずやり遂《と》げましょう。だからどうか、自分の恋心《こいごころ》ごときっちり成仏《じょうぶつ》して下さいませ。 [#改丁]    幕間《まくあい》  舞台上で恥《はじ》をかかせてやるというのはどうだろうか。 �マキューシオ�は、合宿所として提供した別荘から駅へ向かうバスの中、そんなことを考えた。  通路を挟んだ向こう側の席には、�ロミオ�がいる。彼は�ジュリエット�と何事かを話しているが、会話の内容は聞こえない。  唇《くちびる》を噛《か》んだ。ジュリエットになったからって、なれなれしくしないでもらいたい。思い込みの激しそうなこの一年生は、もしかしたら自分が�ロミオ�の特別だなんて勘違《かんちが》いしているんじゃないだろうか。  冗談《じょうだん》じゃない。彼女より、私の方が絶対に好かれている。キスだってした。�ロミオ�は受け入れてくれた。 �マキューシオ�は膝《ひざ》の上で握り拳《こぶし》を作る。私がジュリエットをやれていたら、と、今さらどうしようもないことを考えた。  文化祭の劇に『ロミオとジュリエット』をやろうと言い出したのは�ティボルト�だった。台本《だいほん》を書くのは�マキューシオ�の仕事と決まっている。�マキューシオ�が自分の都合《つごう》のいい台本を書くことを防ぐために、あえて勝者が一人となる『ロミオとジュリエット』を提案したのだろう。自分がジュリエットを勝ち取る自信があったのだろうが、おあいにく様だ。ジュリエット役は一年生なんかにかっさらわれた。 �マキューシオ�は斜め後ろの席、�ティボルト�と�ロレンス�が並んで座っている様子《ようす》を横目《よこめ》で見やった。 �ティボルト�はうぶに振る舞って、女の子らしく菓子を焼いてきたり、気がきく女ぶってこまめに立ち働いたりするが、その芯《しん》はとても競争心が強くて、何かと�マキューシオ�につっかかってくる。 �ロレンス�はまた、別の意味で腹が立つ。天然《てんねん》で、スキンシップが激しいのだ。何かというと�ロミオ�に抱きつこうとするので油断《ゆだん》できない。そのくせ、はにかみ屋ですぐに赤くなるのがまた苛立《いらだ》たしい。  恥をかいてしまえばいい。�ロミオ�も呆《あき》れてしまうくらいの恥を、彼女たちが舞台でさらしたら、きっと爽快《そうかい》だろう。  ——いや、むしろ、やらなければやられる。  そんな気持ちがして、�マキューシオ�は斜め後ろの席にもう一度|視線《しせん》をやる。�ティボルト�と�ロレンス�の二人は普通に会話をしているが、きっと内心では�マキューシオ�と同じようなことを考えているに違いない。  そんなことを思ったとたん、突然《とつぜん》激しく体が揺れた。叩《たた》きつけられるように、前の座席に額《ひたい》を打ちつけた。何事だ、と、窓の外に目をやる。  ふわりと、バスのタイヤが地面を見失った。  車体が傾き、体が浮き上がる。  ——え? [#改丁]    第四幕  夏休みが明け、学校が始まった。  もう校内は文化祭の色《いろ》一色《いっしょく》に染まっていて、まっとうに制服を着ている者も少ない。大抵《たいてい》はクラスで作ったTシャツを着ているし、そろいのエプロンをつけている団体もあった。  演劇部はもちろん、衣装。 「手際《てぎわ》が悪いのよね。リハを始めるのも遅いし、こんな大きな足場を作るんなら、もっと早くから作り始めないと間に合わないでしょ。まったくもう、私たちが手伝いに来てあげなかったらどうなってたことか」  引退《いんたい》した先輩《せんぱい》である赤木《あかぎ》友《とも》が、憤然《ふんぜん》とした様子《ようす》で言いながら、ミキサーをいじっている。部長だった依子《よりこ》先輩と対照《たいしょう》的にきびきびした彼女は、頼りにはなるが姑《しゅうとめ》のように口うるさい。「ねえ依子」と友先輩は前部長に話を振るが、依子先輩は相変わらずぬぼーっとした表情で首を傾《かし》げた。彼女が着ているのは、裾《すそ》の長いワンピースに適当に布を足してボリュームを出した即席《そくせき》のドレスだ。 「友ちゃん見てー」  依子先輩は言って、覚えたばかりのダンスを踊る。ドレスの裾がふわふわと翻《ひるがえ》った。  舞踏会《ぶとうかい》の場面、必要|最低限《さいていげん》のメンバーだけではどうも華《はな》がないし、パーティーの雰囲気《ふんいき》も出ないので、先輩に頼んで踊っているだけのエキストラとして出てもらうことになった。けれど、先輩たちには音響《おんきょう》と照明もやってもらわなければならない。人数が足りないので、依子先輩はクラスの友達に声をかけて、踊るエキストラを集めてくれた。普段は気《け》だるげでぼんやりした人だが、めずらしく行動力を見せ、依子先輩は古着《ふるぎ》を利用してほんの三日ほどでエキストラの衣装を用意した。ワンピースに華やかな色の布をくっつけただけの手軽なもので、一月かけて作ったジュリエットの衣装と比べると見劣《みおと》りはするが、逆にジュリエットが埋もれてしまう心配がなくてちょうどいい。 「如月《きさらぎ》くん! 最後の墓所《ぼしょ》の場面、地明かりだけになってるけど、ジュリエットの棺《ひつぎ》にスポット当てた方がよくなぁい?」  上の照明室の窓から顔を出して、照明係の先輩が声をあげる。 「あ……そうか。はい、じゃあそれでお願いします!」 「じゃあサス吊《つ》って!」  指示が飛ぶ中、ようやく完成した足場の上を、新堂《しんどう》が確認するように歩いている。 「上ってみると、結構《けっこう》高いね……」  新堂《しんどう》はこわごわと足場の上を歩きながら、下をのぞき込んだ。彼女は赤いジュリエットの衣装を身につけている。布をふんだんに使ったドレスで、動くとスカートがふわりとふくらむ。  袖《そで》はきゅっと引き絞《しぼ》ってあり、その袖と胸元にはシンプルな装飾《そうしょく》がほどこしてある。なかなか似合《にあ》っていて可愛《かわい》らしい。 「大丈夫《だいじょうぶ》か? ぐらぐらしたりはしない?」  僕は足場に近寄って新堂を見上げた。新堂は足下を確かめるように慎重《しんちょう》に歩きながら頷《うなず》く。 「う、うん。大丈夫」  新堂は顔を上げ、一度《いちど》足場の向こうを隠《かく》すように吊《つ》った布の後ろに消えると、ジュリエットの表情になってもう一度出てきて、セリフは言わないまま劇中の動きで足場の上を歩く。  僕も、正面につけた階段を上ってみた。やっぱりセリフは言わず、動きだけを確認する。階段の上まで上り、ジュリエットの手を取る。ふと、階段の側面の薄い板が浮いているのを発見した。 「あ」 「どうした」  近くにいた西園寺《さいおんじ》が視線を向けてきて訊《き》いた。 「いや、横の板がちょっと浮いてる。接着剤《せっちゃくざい》ない?」  板の木目《もくめ》に目を落としながら言う。だが、西園寺の反応はなかなか返ってこなくて、訝《いぶか》しく思って顔を上げた。  西園寺の物言《ものい》いたげな視線は、板が剥《は》がれた場所ではないところに向けられている。  その視線を追って、自分の手が新堂の手をつかんだままなのに気づいた。「あ」とつぶやき、慌《あわ》てて離す。  新堂はどこかが痛むような顔をした。一瞬《いっしゅん》手が泳ぎ、ぱたりと落ちる。気まずい視線が新堂との間で一瞬|交《か》わされた。  西園寺は、何故《なぜ》か奴《やつ》らしくない表情をしていた。 「西園寺?」 「……ああ、接着剤だっけ」  西園寺は、どこか思考《しこう》を別のところに置いてきたような顔でつぶやくと、踵《きびす》を返す。 「村上《むらかみ》さん、接着剤どこ置いたっけ」  エキストラの先輩《せんぱい》たちと踊りの練習をしていた村上と雛田《ひなた》が動きを止めて振り返る。村上は一度|下手《しもて》の袖に抜けると、大きなチューブの接着剤を持って戻ってきた。  村上はその接着剤に一度目を落とし、ゆっくりとした動作で西園寺に渡した。 「そういえば藍子《あいこ》、ナイフは用意できたの?」  剥がれた板を西園寺がつけ直していると、雛田も寄ってきた。新堂は頷く。  レプリカの剣は部室にあったが、最後にジュリエットが命を絶つ短剣《たんけん》は新堂が自分で用意することになっていた。  新堂《しんどう》は衣装のスカートを軽くつまんで足場から下りると、持ってきた短剣《たんけん》を見せる。 「これ、本物《ほんもの》なんだけど……」  新堂はおずおずと言った。思わず眉《まゆ》を寄せる。 「本物?」 「おもちゃの短剣ではいいのがなくて……。これは前に外国のおみやげでもらったペーパーナイフなんだけど、見た目|綺麗《きれい》だし、銀色の鞘《さや》だから客席から見たら抜《ぬ》き身《み》の刃《は》に見えるかなって」  確かに、新堂が持ってきたナイフは細かい彫《ほ》り物《もの》のある銀の鞘に収まっていて、その先端《せんたん》はもちろん丸みを帯びているものの、ロミオたちが持つレプリカの剣の切《き》っ先《さき》程度には鋭い。舞台上なら十分抜き身の短剣に見せられそうだった。 「危なくないかなあ」  それだけがちょっと心配で、ナイフを鞘から抜いてみた。銀色の鞘の中から同色の刃が現れる。ペーパーナイフにしては切っ先が鋭利《えいり》に尖《とが》っている。だけど、鞘から抜くにはそれなりの力が必要だった。 「まあ……間違って鞘から抜けちゃうってことはないか。でも気をつけてあつかってくれよ」  新堂は静かに頷《うなず》いた。その新堂の様子《ようす》を、雛田《ひなた》がじっと見つめている。 「おーい、一年、おいで。写真|撮《と》ってあげる」  依子先輩《よりこせんばい》がカメラを片手に声をあげた。 「あんたら、妙《みょう》にそういう衣装|似合《にあ》うね」  僕たち五人の姿をカメラのフレームに収めながら、依子先輩は半《なか》ば感心し、半ば呆《あき》れたような声を出した。  こうして集まると、新堂|一人《ひとり》が小さいので、ジュリエットが可愛《かわい》らしく似合う。  ティボルトの衣装は黒を基調《きちょう》としていて、マントがふわりと体を覆《おお》っている。村上は男装《だんそう》して剣を帯びていると、本当に男なのか女なのかわからない。目つきが普段より三割|増《ま》しくらいに鋭く見えて、ちょっと笑えるくらいにティボルトが似合っている。  深緑《ふかみどり》のスマートな男の服を着て(胸にはさらしを巻いているらしい)、長い髪《かみ》を一つに結《ゆ》っている雛田は、さすがに男と見まごうことはないが、可愛らしい男装の麗人《れいじん》という感じで、男にも女にも非常に人気が出そうだった。  布をたっぷり使ったてるてる坊主《ぼうず》みたいな白の僧衣《そうい》を着て、胸に十字架《じゅうじか》をかけた西園寺《さいおんじ》の神父《しんぷ》姿《すがた》は、なんだかうさんくさい空気を醸《かも》し出してはいるが、これはこれでなかなか様《さま》になっている。  自然、僕は真《ま》ん中《なか》にやられ、その周りを四人が取り囲む形になった。 「はい、ちーず」  気の抜けた声を出して、依子《よりこ》先輩《せんぱい》はシャッターを切る。  四方《しほう》からぎゅっと押されるような格好《かっこう》で、僕はカメラに向かって若干《じゃっかん》引きつった笑いを浮かべた。       *  文化祭|前日《ぜんじつ》、部員たちはひとまずクラスの方の準備に出ていた。  D組は、喫茶店をやることになっていた。お茶うけの菓子は市販《しはん》のクッキーを出すだけだが、茶の方は文化祭にしては少々|凝《こ》っている。たくさんの茶葉《ちゃば》から好きなものを客に選んでもらい、ポットでいれるという「本格《ほんかく》喫茶」をうたった店だ。……出す器《うつわ》は紙コップだけれど。  出店《しゅってん》場所には給湯《きゅうとう》室の近くの教室を確保し、ポットの湯がなくなりそうになってもすぐに沸かしに来られるようになっている。僕は、内装の最後の仕上げを手伝い、布巾《ふきん》を持って給湯室へ行った。  給湯室の流しでは、新堂《しんどう》がたらいに沈んだ大量のポットをぼんやりと見守っていた。 「何してるの」  声をかけると、新堂ははっと顔を上げた。ちょっとうろたえた顔をする。 「あ……、ポットの、漂白《ひょうはく》を」  新堂の横には、ボトル入りの台所用漂白剤が置いてあった。みんなで持ち寄ったポットにこびりついていた茶渋《ちゃしぶ》を、明日に備えて綺麗《きれい》にしておこうということらしい。 「部の方は、三時から最後のリハやるから。先輩にも時間とってもらった」 「うん」  新堂は頷《うなず》いて、また水に浸《つ》かったポットに目を落とした。プールを思い出させる塩素《えんそ》のにおいがする。なんとなく懐《なつ》かしい気分になった。 「俺、プールのにおいって結構《けっこう》好きだったんだよね。子供の頃ずっと、こういう塩素のにおいが水のにおいだと信じてたんだよ。都会っ子だから、他に大量の水がある場所って知らなかったし。でもそれは水のにおいなんかじゃなくて薬品のにおいだって知ったときはちょっとショックだったよ」  笑って言ったのだが、新堂の反応は薄かった。流しの縁《ふち》をぎゅっとつかんでうつむいている。 「新堂? 疲れてる?」 「ううん。ごめん、ちょっとぼうっとしちゃって」  教室から喧噪《けんそう》が流れてくる。飛び交う指示と相談の声と、時々悲鳴みたいな歓声も聞こえる。文化祭前日のはしゃいだ空気の中で、この給湯室の中だけが、ぽっかりと浮かび上がっているように感じる。  僕はしばらくの間|躊躇《ちゅうちょ》していたが、そっと訊《き》いてみた。 「やっぱり、ここのところ元気ない?」  躊躇《ちゅうちょ》したのは、彼女が元気がない理由が自分のせいだったら、と思ったからだ。新堂《しんどう》は曖昧《あいまい》な微笑《ほほえ》みを見せた。 「ごめんね。そんなふうに見えるかな」 「謝ることないけど」 「……いろいろ、怖くなってきて」  ため息をこぼすみたいな調子で、新堂の口から言葉が漏れた。 「公演が迫ってるからかな。自分の気持ちのせいなのか昔の人の気持ちのせいなのかわからないけど、時々……変なことを考えちゃうことがある」 「気にするな」  具体的に何を考えてしまうのかはわからなかったが、それを問い返すことはなく僕は言い切った。 「何を思ってても、何をやらかしたとしても、新堂のせいじゃないから。雛田《ひなた》たちなんか、何をやっちまってもあっけらかんとしてるだろ」  新堂は曖昧に笑った。死者の思いに振り回されているのはみんな同じなのに、新堂がこんなふうに思い悩んでしまうのは、やっぱり、自分の気持ちとの区別がつけられないためだろうか。  そう思うと、自分がひどく無神経なことを言ってしまった気がして、気まずい思いで口をつぐんだ。  最後のリハーサルを終えると、舞台の片づけをした。演劇部の上演は、二日目の二時からだ。それまでは別の団体が体育館を使うので、大道具などは一度舞台から下ろしておかなければならない。  衣装と小道具は部室に、大道具は体育館の入り口の脇にスペースをもらって、できるだけ邪魔《じゃま》にならないように置いた。シートをかぶせて、可能な限り存在感を消しておく。  その後、僕は文化祭前の最後の代表者|会議《かいぎ》に出て当日の注意|事項《じこう》を聞いたり必要《ひつよう》資料をもらったりして、それが終わった頃には、すでに大方《おおかた》の生徒が下校し始めている時刻になっていた。ここ数日は夜まで残っていた団体も準備を終え、明日に備えて帰っていく。  僕の荷物は部室に置いてある。だがなんとなく、部室に寄る前にもう一度体育館に行った。  空っぽの舞台で、最後にもう一度、気持ちを整えたい気がした。  体育館には客席用の椅子《いす》が並べられていて、舞台の緞帳《どんちょう》は下りていた。舞台|袖《そで》につながるドアを開けると、何故《なぜ》か明かりがついていた。誰かいるのか、それとも消し忘れかと訝《いぶか》しみながら袖に上がると、舞台の真《ま》ん中《なか》に雛田が立っているのが見えた。  何を考えているのだろうか。制服|姿《すがた》ですっと立ち、視線は少し上に据《す》えている。 「雛田《ひなた》」  声をかけると、緞帳《どんちょう》を透《す》かして遠くを見ていた雛田の視線が戻ってくる。 「何してるの」 「精神|統一《とういつ》」  雛田は言ってちろりと笑った。 「あと、宣戦布告《せんせんふこく》」 「誰に?」 「もちろん、昔の部員たちに。……本番で、合宿のときみたいになるわけにはいかないもんね」  頷《うなず》いた。多分僕も、同じことがしたくてここに来たのだ。  雛田はふいに、笑《え》みを引っ込めて表情を引きしめた。あのさ、と小さな声で言う。 「藍子《あいこ》さ、ずっと、ちょっと無理してたよね」 「無理って……」 「ずっと、何かを我慢《がまん》してるみたいだった。笑ってるときだって、何か重いものを無理矢理《むりやり》呑み込みながら笑っているみたいに見えた」  蒸《む》し風呂《ぶろ》のような舞台に立っているのに、一瞬《いっしゅん》体が冷たくなったような気がした。汗に濡《ぬ》れたシャツの背中がひやりとする。  そんなの、僕は気づかなかった。  自転車の後ろに乗せて帰ったあの日|以降《いこう》——「忘れて下さい」と言われ「わかった」と答えたあの日以降、新堂は普通に振る舞うようになったと思った。むしろ、以前よりもおどおどすることは少なくなって、僕とも気軽に接してくれるようになったと思っていた。 「そうかな」  変な動悸《どうき》を感じながら訊《き》くと、雛田はうんと頷いた。 「あの日、なんで藍子が泣いていたのかは、訊いちゃ駄目《だめ》なんだよね」  雛田は視線を少し落として言った。  勘《かん》づいているのだろうかとも思ったが、雛田の表情を見る限りそういうわけでもなさそうだった。僕が気づけなかった新堂の変調《へんちょう》には気づいても、その原因には気づかない。恋心《こいごころ》に関してだけは、本当に鈍いのだ。 「友達なんだから話してよ! ……とか、駄々《だだ》をこねる人は苦手《にがて》なんだけど……私も、駄々をこねたい気持ちになることもある」  雛田は悔《くや》しそうに唇《くちびる》を尖《とが》らせて言った。だが新堂は、誰に言ったとしても、雛田にだけは言えないだろうと思う。そのことに、むずむずするような罪悪感《ざいあくかん》を感じた。  下校を促《うなが》す放送が流れ出す。 「……帰ろ。今日は遅延《ちえん》届《とど》け出してないから、実行委員の見回りが来るとめんどうだ」  言ったが、雛田《ひなた》はすぐには動かず、後ろで手を組んで僕を見た。 「あのさ、今さらこんなことに思いあたるなんて、やっぱり私はちょっとずれてるのかもしれないとは思うんだけど……」  めずらしく雛田は言いよどむ様子《ようす》を見せる。「何?」と訊《き》くと、またほんの少し躊躇《ちゅうちょ》して。 「如月《きさらぎ》は、好きな人いるの?」  なんと答えろと。  返答に窮《きゅう》し、若干|恨《うら》みがましい気持ちで雛田を見た。雛田は真剣な顔で返答を待っている。 「いるよ」  覚悟《かくご》を決めて、努めてさらりと、なんでもないことのように答えた。  雛田の顔が難しいことを考えるときのようにくしゃりとなり、次に悲しいことがあったときのように目尻《めじり》が下がり、最後に酸《す》っぱいものを食べたときのように口をすぼめた。 「そっかぁ」  雛田は大きくため息をつく。その好きな人が自分かもしれないという可能性については考えていない顔だ。  言ってしまいたい気持ちにかられた。けれど、頭の片隅《かたすみ》に新堂《しんどう》の顔がちらつく。  一人|給湯室《きゅうとうしつ》で、漂白《ひょうはく》中のポットを見つめていた新堂は、どこかに心を置き忘れてきたみたいにぼんやりして見えた。  新堂は、好きでいてくれて、ごまかさずに言ってくれて、けれど僕が応《こた》えられないことをわかって、「忘れて下さい」と言った。  今僕が、この状況を利用して、自分の本当の気持ちがわかっていない雛田に好きだと言うのは、新堂のやり方に比べて、フェアじゃないと思った。  黙っていると、雛田が微笑《ほほえ》んだ。苦笑《くしょう》に近い、苦《にが》みの混ざった笑《え》みではあったけれど、優しい笑い方だった。  もうすぐ、魔法《まほう》がとける。公演が終わればきっと、僕たちの災難《さいなん》は終わり、みんなの気持ちはあるべき場所へ戻っていく。  僕はそのときを待っているのか、それともそんなときは来ないでほしいと思っているのか、自分でもわからなかった。       *  文化祭一日目は、クラスの仕事でてんてこ舞いだった。  二日目は一日抜《ぬ》けてしまう代わりにめいっぱい働かされ、僕は受けつけの係、新堂はウエイトレスの係でくるくると立ち働いた。金を受け取りチケットを渡す後ろでは、様々の葉の紅茶の香りが立ちのぼっていた。  休憩《きゅうけい》時間をもらったのは、昼時をだいぶん過ぎてからで、僕はまだ売り切れていない食品団体を探して校内をぶらつき、体育館の近くに出た。  ふと、体育館の脇のシートをかぶせた大道具のところでごそごそしている人影《ひとかげ》を見つけた。好奇心《こうきしん》でシートをめくってみているのか、それとも何かいたずらでもしているのか、と訝《いぶか》しく思って早足に近づくが、すぐに肩の力を抜いた。 「西園寺《さいおんじ》、何やってるんだよ」  声をかけると、西園寺は大げさに驚いて飛びすさった。クラスの出し物のためなのだろう、アロハシャツみたいな柄《がら》の浴衣《ゆかた》という珍妙《ちんみょう》なものを着て、袖《そで》が邪魔《じゃま》にならないようたすきをかけている。 「あ……あ、うん。本番|明日《あした》だなーと思って、感慨《かんがい》深く見てた」 「あ、そ。ところでなんだその格好《かっこう》」 「F組はマッサージ店やってるから。店員はみんな浴衣を着て癒《い》やし感を演出してるの」 「癒やされるか? それ。どこで見つけたんだよ、そんな変な浴衣」 「マッサージ師も客が指名できる制度だ。俺は今日の午前中だけでナンバーワンの売れっ子になった」 「ホストクラブかよ」 「女の子もいる」 「いや、そういう話じゃなくて」 「基本的には女の子の方が人気だ。浴衣|可愛《かわい》いし。どうせ揉《も》んでもらうなら女の子に揉まれたい奴《やつ》が多いし」 「……いかがわしい感じがするのはなんでかな?」  呆《あき》れてつぶやくが、西園寺は受け答えをしながらもどこか上《うわ》の空《そら》であるように見えた。 「まあ、西園寺の顔はクラスでも重宝《ちょうほう》されてるわけだな」 「顔だけじゃない。テクもある。気持ちいいと大層《たいそう》評判だ」 「だから、いかがわしい感じがするのはなんでかな?」 「いや、ええと……健全な店だよ」  本気でF組はいかがわしい店を文化祭で出店しているんじゃないかと思うほど、西園寺の様子《ようす》は不審《ふしん》だった。ぽんぽんと言葉を返しながらも、目は宙をさまよっている。 「なんか、変だよ西園寺。そういえば新堂《しんどう》もぼんやりしてたけど、本番が近づいて、またみんな変になってるんじゃないだろうな」  言うと、何故《なぜ》か西園寺はうろたえた様子を見せた。 「変って。……いや、大丈夫《だいじょうぶ》だよ。大丈夫。俺、そろそろ戻らないと。また揉まなきゃ……」  うろんな様子でつぶやきながら、西園寺は去っていった。一体なんだったんだと、首を傾《かし》げる。  結局|昼飯《ひるめし》には焼きそばを買って、ちょっと遅れて休憩をもらった横村《よこむら》や藤岡《ふじおか》と中庭で食べた。中庭では、一年A組が縁日《えんにち》のような露店《ろてん》を開いていて、客に笑顔で輪投《わな》げの輪を渡す雛田《ひなた》の姿が見えた。 「美少女の力は偉大だな。見ろ、あんな地味《じみ》な輪投げなんぞに人が殺到《さっとう》している」  焼きそばをすすりながら横村がつぶやいた。  こうしてちょっと離れたところから眺《なが》めると、遠い人だなと、僕は人だかりの向こうに立つ雛田を見ながらなんとなく思った。  文化祭二日目。僕たちは朝から衣装に着がえ、プラカードを持って二時からの公演の宣伝に回った。確かに美少女の力というのは偉大で、雛田が「よろしくお願いしまーす」と微笑《ほほえ》むと、大抵《たいてい》の人間が振り返り、ファンタジックな男装《だんそう》をして、腰に剣をさした綺麗《きれい》な女の姿をとっくりと見つめ、それからプラカードに目をやった。「演劇《えんげき》部上演『ロミオとジュリエット』午後二時|開演《かいえん》」  多分、結構《けっこう》な客の数が見込める。考えると、緊張《きんちょう》がずしりと腹の中に重く沈んだ。 「如月《きさらぎ》、食べないの?」  昼飯時、部員たちはそれぞれ出店《でみせ》で好きなものを買ってきて部室で食べていた。僕もおにぎりを買ってきていたのだけれど、胃が重たくてどうにも食欲がわかず、一口《ひとくち》食べたきり紙皿《かみざら》の上に放置してしまっていた。 「……食べる」  ちびりちびりとペットボトルの茶を飲みながら言った。食欲はないが、昼食|抜《ぬ》きで本番に臨《のぞ》むのも不安だ。  僕は、雛田の前の机に広げられた食べ物を横目《よこめ》で見やり、顔を引きつらせた。 「雛田、お前は昼飯どれだけ買ってきたわけ?」 「いいじゃん、これから本番なんだから。いっぱい食べて力つけとかなきゃ」 「これから本番なのに、気持ち悪くなったらどうするんだよ!」 「このくらいでなるわけないじゃん」 「見ているだけで若干《じゃっかん》胸焼《むねや》けなんですけど」 「だって、こんなにお店がいっぱいあって、いろんなもの売ってるんだもん」 「だからって片《かた》っ端《ぱし》から買うことないよね?」  雛田は大きく切ったソーセージのピザにかじりつく。何故《なぜ》か瓶《びん》のタバスコが机に置いてある。 「そのタバスコはどうした……」 「貸してくれた。かけ忘れたんで戻ったら、あとで返してくれればいいですよって」 「その場でかけてこいよ!」 「だって、パスタもあったし、タコスも、ホットドッグもあったし、全部持って戻るのは大変だったんだもん」 「っていうか本当に、どれだけ食う気だよ! せめてあんまり辛《から》くするな。喉《のど》痛めたら困る。あと、くれぐれも衣装にこぼすなよ」  腰にさしていた剣ははずしているが、衣装は着たままだ。  はぁい、と雛田《ひなた》は生《なま》返事を返す。なんだか、手のかかる子供を持った気分になった。  村上《むらかみ》は雛田の食物|摂取量《せっしゅりょう》にもそれに対するつっこみにも一切|興味《きょうみ》はない顔で、窓辺《まどべ》に寄りかかってホットドッグを食べている。新堂《しんどう》はぼんやりした表情でもそもそとお好み焼きを口に運んでいた。  ため息をついて、紙皿《かみざら》の上のおにぎりを手に取ると、また一口かじった。 「アイスもあるけど、どうするかな、こんなにたくさん」  部室の片隅《かたすみ》には、大きな発泡《はっぽう》スチーロールの箱が置かれている。中身は、大量のドライアイスに埋もれたアイスやらかき氷やら。部員五人では消費し切れないような量ある。これは、マキューシオ役だった初宮理果《はつみやりか》の母からの差し入れだった。 「アイスは向こう持ってって、先輩《せんぱい》たちにあげたらいいんじゃないの」  村上が窓の外に視線を投げたまま言った。 「ところで太郎《たろう》は?」  雛田が首をねじって訊《き》く。 「今日もクラスのマッサージ屋に出なきゃいけないんだと。なんでも指名で予約が入っちゃって断れないとか。遅刻は絶対しないけど、搬入《はんにゅう》は手伝えないかもって」 「指名ってなんだ。ホストクラブか」  村上が顔をしかめ、僕と同じ発想の発言をする。 「搬出《はんしゅつ》作業は倍《ばい》働くから勘弁《かんべん》、ってさ」  時計を見上げる。あと五分で十二時。午前中に体育館を使う団体の出し物が終わる。彼らが体育館から撤収《てっしゅう》したら、今度は演劇部の搬入作業になる。  足場を設置し、天井《てんじょう》のバトンを一度下ろし、大きな布を吊《つ》る。サスペンションライトを取りつけ、照明の確認。それが終わる頃には、緞帳《どんちょう》の向こう側がざわざわし始めた。もう客が入ってきている。僕は幕の隙間《すきま》から客席を見て、のぞき見たことを後悔《こうかい》した。用意された椅子《いす》はすでに埋め尽くされ、体育館の床に直接|座《すわ》っている人たちも何人か見られた。つまり、満員だ。  幕を隔《へだ》てた観客の気配《けはい》に、それだけで肌《はだ》がひりつくような緊張《きんちょう》を感じる。 (いろいろありすぎてそれどころじゃなくなっていたけど、今日、初めて役者として観客のいる舞台に立つんじゃん)  考えると、本格的に緊張《きんちょう》してきた。人前《ひとまえ》で話すことすらあまり得意とはいえないのに、見ず知らずの人が見ているところで、恋に命をかける男を演じる。  マジですか。  鼓動《こどう》がどんどん速くなり、手の先が冷たくなってきた。こんな状態で演技なんかできるのかと危機《きき》感がにじむ。  そのとき、突然《とつぜん》背中を叩《たた》かれた。振り向くと、真剣な顔をした雛田《ひなた》が立っている。 「太郎《たろう》がまだ来てない」 「はあ?」  ぎょっとして、辺りを見回す。華《はな》やかな即席《そくせき》ドレスを着た先輩《せんぱい》たちがうろうろしているが、背の高い男の姿はどこにも見えない。 「今、友《とも》先輩が太郎のクラスに捜しに行ってくれてる。もう本番前なんだから、衣装を着ている奴《やつ》らは外に出るなって」 「あの馬鹿、絶対|遅《おく》れないって言ったくせに」  背中に嫌な汗が浮かび、ちくちくした微《かす》かな痛みを感じた。新堂《しんどう》と村上《むらかみ》も寄ってくる。 「西園寺《さいおんじ》の衣装とか小道具とかは間違いなくそろってるよな?」 「うん。ちゃんと確認して運び込んだよ。まとめて置いてある」  雛田の言葉に、村上も無言で頷《うなず》く。 「みんな、もうすぐ開幕《かいまく》の時間だよ。自分の出る位置にスタンバイした方がいい」  いつも気《け》だるげな依子《よりこ》先輩が、めずらしくしゃんとした顔をして近づいてきた。僕はうろたえながら、客の気配《けはい》が染み出してくる緞帳《どんちょう》と、舞台の下のドアと、依子先輩の顔とを順番に見やる。 「西園寺は……」 「すぐに友ちゃんがつれてくるよ。特にロミオとマキューシオ。出番《でばん》最初でしょ。準備して」  不安に喉《のど》の辺りをふさがれたような気分になりながらも、僕はロミオが出る上手《かみて》の袖《そで》に移動した。雛田たち三人は反対の下手《しもて》の袖へ。  そのとき、音を立てずに、けれどすばやくドアが開いて友先輩と西園寺が飛び込んできた。 「遅くなってごめん!」 「馬《ば》っ鹿《か》野郎《やろう》。何やってたんだよ!」  安堵《あんど》と同時に腹立ちがわいて、声は押し殺したまま口調《くちょう》だけを荒げて怒鳴《どな》った。友先輩が肩をすくめる。 「こいつ、クラスのマッサージ店で、ストーカー的な女につかまっちゃってさ。クラス総出《そうで》でその女なだめすかす騒ぎになってやがるの。まあ、無理矢理《むりやり》ひっぺがして奪還《だっかん》してきたけど」 「先輩、客に乱暴しちゃ駄目《だめ》だって」 「だったらとっとと自分で処理して早くこっち来ればよかったのよ」  なんにしろ、間に合った。  僕は深く息をついた。今頃《いまごろ》西園寺《さいおんじ》のクラスではさらに問題がでかくなっている可能性もあるが、とりあえずは先輩《せんぱい》に感謝だ。 「早く着がえろ。もう幕が開く。ロレンスの出番までまだ間があってよかったな」  西園寺は片手で拝《おが》むような格好《かっこう》をし、浴衣《ゆかた》の帯《おび》をほどき—— 「あれ」 「なんだよ」 「衣装は?」 「は? 西園寺の衣装と小道具はまとめて置いてあるって言ってたぞ」 「ない。衣装だけない」  西園寺が、小さな段ボール箱の中から十字架《じゅうじか》のペンダントを取り出してぶら下げながら、箱の中身をこちらに向けた。中には靴と、聖書《せいしょ》や仮死《かし》の薬の小瓶《こびん》などの小道具が入っているだけで、神父《しんぷ》の服は見あたらない。  はあああ? 西園寺がまだ来ていないと伝えられたときよりも一段《いちだん》上回るような素《す》っ頓狂《とんきょう》な声が自分の口から漏れた。依子《よりこ》先輩《せんぱい》が、静かにしろと言うように唇《くちびる》の前で指を立てながらも、不審《ふしん》そうに顔を歪《ゆが》める。 「お前の衣装も小道具もちゃんとそろってるって、雛田《ひなた》も村上《むらかみ》も言ってたぞ。ちゃんと確認して持ってきたって」 「俺だって、ちゃんと自分が身につけるものや使うものはこの中にしまっておいたさ。この箱を持ってってもらうだけでいいように」 「じゃあ、なんでないんだよ!」 「こっちが訊《き》きたい」  慌《あわ》てている間に、マイクを通した友《とも》先輩の声が流れ出した。 『ただいまより、演劇部による「ロミオとジュリエット」を上演いたします。それにつきまして、いくつかのお願いがあります。上演中は携帯電話の電源をお切りになり……』 「探せ! 搬入後《はんにゅうご》に二人が確認しているんだから、絶対ここに持ってきてはいるんだよ。そのあと部室に戻った奴《やつ》はいないし、間違って持って帰っちまったってことはない。ここのどこかにあるはずだ」 「んなこと言っても……」  西園寺は困った顔をしつつ、はだけた派手《はで》な浴衣|姿《すがた》のまま、運び込まれた荷物の辺りをうろうろとさまよう。 「如月《きさらぎ》くんは自分の準備」  依子先輩がいつものぬぼーっとした声で言いながら、僕の袖《そで》を引いた。はっとして舞台の方に目を向ける。袖《そで》と緞帳《どんちょう》の隙間《すきま》から細くのぞく客席の明かりが消えていた。  音楽が流れ出す。  劇が始まったのだ。  するすると緞帳が上がった。 (ああ、もう!)  心の準備などする暇《ひま》もなく、僕は舞台に歩み出た。  浮かない顔をして、足取りも重く舞台の中心へと歩いていく。  反対側の袖からは、まくり上げた腕に包帯《ほうたい》を巻いた雛田《ひなた》が意気揚々《いきようよう》とした顔でやってくる。こちらに気づくと、マキューシオは冗談《じょうだん》交じりの口調《くちょう》で声をかけてきて、ロミオの沈んだ様子《ようす》を茶化《ちゃか》した。僕は深く重いため息をつく。 「まだ朝か。——ああ、つらい時間とは長いものだ」  言葉はすんなりと腹の中からすべり出た。開幕《かいまく》直前のどたばたにまぎれて、緊張《きんちょう》はどこかにおいてきたらしい。一度セリフが出てしまうと、あとは問題なく言葉が続いた。  腕に巻いた包帯のことを指摘《してき》し、またモンタギュー家とキャピュレット家の間で争いごとがあったのだろうと言い、マキューシオがそれに答えて争いの一部|始終《しじゅう》を語る。マキューシオはどっちの家の者でもない、大公《たいこう》の血筋《ちすじ》の者のくせに、ロミオと親しくしているせいでキャピュレット家の若い連中《れんちゅう》から敵意を抱かれ、また、争いごとと聞くと飛び込んでしまう気性《きしょう》の男。  雛田の口はなめらかに激しく動き、その演技に引っぱり上げられて僕も観客を意識しすぎることなくロミオを演じられた。  今夜のキャピュレット家の舞踏会《ぶとうかい》に潜《もぐ》り込もうということになり、第一場は終わる。  僕と雛田はだらだらしゃべる演技を続けながら上手《かみて》の袖に抜ける。袖に入った途端《とたん》素《す》に戻って西園寺《さいおんじ》に詰め寄った。 「衣装は!」 「ない」  西園寺は首を横に振る。雛田が訝《いぶか》しい顔をしているが、事情を話している暇《ひま》はない。(というより、事情は西園寺の格好《かっこう》を見れば一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ)  舞台の照明が赤や黄色がかった暖かみのあるものに変わり、ドレスを着たエキストラの先輩《せんぱい》たちと、新堂《しんどう》、村上《むらかみ》が舞台に出る。第二場は、ジュリエットとティボルトの会話から始まる。  僕たちもすぐにまた舞台に出なければならない。 「舞踏会が終わったら、次がバルコニーの場で、その次はもうロレンス神父《しんぷ》の出番だ」  僕が焦って言うと、西園寺は何を考えているのかわかりにくい顔で目を細める。 「バルコニーの場」 「おい、大丈夫《だいじょうぶ》か? ぼんやりしてるなよ。……どうしても見つからなかったら、仕方ないから何か代わりの服を……」 「ここにはこの浴衣《ゆかた》しかないよ」  西園寺《さいおんじ》が言って、ハイビスカスの模様《もよう》が散った浴衣の袖《そで》を持ち上げる。 「そうか、そんなアロハかつ和風《わふう》な神父《しんぷ》ねえよな。まあ、制服があったとしてもうちの学校のズボン緑のチェックだし……」  というか、そもそもなんで衣装がなくなるんだ。確かに運び込んで、二人がちゃんと確認した衣装が、偶然どこかにまぎれたりするか?  ——まさか、誰かが隠《かく》した、とか。  その考えに思いあたってぎくりとした。あり得ないことじゃない。昔の人の感情に動かされた経験は、合宿のときにすでにしている。舞台上で嫌がらせをしてやろうくらいのこと、今の部員たちならするんじゃないだろうか。  僕は、隣《となり》に立つ雛田《ひなた》にちらりと視線をやった。 「如月《きさらぎ》、出番。仮面《かめん》」  雛田は舞台の方に目をやったまま単語だけ発し、手に仮面を押しつけてきた。仕方なくそれを持ち、雛田と共に再び舞台に出る。  仮面をつけ、舞踏会《ぶとうかい》へ。  華《はな》やかに舞台にあふれる鮮やかな色。五人の登場人物しかいないこの劇の中で、この場面だけは人が満ちている。皆が音楽に合わせて踊る。目にまぶしい色のスカートが翻《ひるがえ》る。マキューシオは相手をとっかえひっかえしながら女たちの間を軽快に踊り回っていく。マキューシオらしいひょうきんでダイナミックな踊りだった。  観客の間から拍手がわく。劇の途中で拍手をもらえるものとは思わなかったので、僕は少々面食《めんく》らった。  そしてロミオは、多くの女たちの中からジュリエットを見つけ、それまでの恋など忘れ、ジュリエットに夢中《むちゅう》になる。ティボルトがロミオを見つけ、憤《いきどお》りながら去っていく。  僕は後ろから新堂《しんどう》の手を握った。二人に落ちるスポットライトの光。周りの照明が暗くなる。エキストラの先輩《せんぱい》たちや雛田が自然に舞台袖にはけていき、僕と新堂は舞台の真《ま》ん中《なか》に取り残される。  ロミオはジュリエットに愛をささやき、二人は互いの手のひらを胸の前で合わせる。「こうして手のひらを合わせるのが、聖なる巡礼《じゅんれい》の口づけです」と、ジュリエットが微笑《ほほえ》む。  そして。 「手がすることを、唇《くちびる》にも下さいませ。唇は祈っています。どうかお許しを、信仰が絶望に変わらぬように。——動かないで。祈りの験《しるし》を、私が受け取る間」  新堂の目を見つめて言うと、そっと顔を寄せた。肩を抱き、客席には自分の後頭部を向けて、互いの唇《くちびる》は隠《かく》す。寸前《すんぜん》で止めた唇の上で、二人の息が交わった。長袖《ながそで》の衣装を着込みライトを浴びて演技しているせいか、その息はやけに熱く、湿《しめ》って感じられた。汗のにおいが混ざる。  正直、ここの場面と初夜《しょや》のあとの別れの場面は部員たちの目が怖いので、他と比べると若干《じゃっかん》練習量は少なかった。そのせいもあるのか、単にキスシーンのせいか、緊張《きんちょう》が高まる。  ふいに、新堂《しんどう》が動いた。それはほんのわずかな動きだった。少しだけ顎《あご》を持ち上げるくらいの。  けれど、近づいていた互いの唇がふれ合うには、それで十分だった。  それは、かするくらいのわずかな接触《せっしょく》だ。身じろいでしまったために起きた、単なる事故のようにも思えた。  けれど新堂の瞳《ひとみ》は落ち着いていて、今の一秒にも満たない接触が、彼女の意志によるものだとわかった。  意識が、彼女の唇に引き寄せられる。幼い印象《いんしょう》のある唇に赤い口紅《くちべに》があまり似合《にあ》っていなくて、それが逆に不思議《ふしぎ》な色気になっていた。  じんと、ふれた下唇が痺《しび》れるように感じて、背筋《せすじ》が震えた。  呆然《ぼうぜん》としていると、新堂の唇がゆっくりと動いた。 (僕・の・唇・の・罪・は) [#挿絵(img/Romeo_241.jpg)入る]  声を出さずに唇《くちびる》の動きで伝えられた言葉に、新堂《しんどう》がロミオの次のセリフを教えてくれていることに気づく。はっとして、慌《あわ》ててセリフを口にした。 「僕の唇の罪は清められました」 「では私の唇にその罪は移ったのですね」 「僕の唇から罪が? なんという優しいお咎《とが》めだ。それではその罪をお返し下さい」  もう一度唇を寄せる。今度は新堂は動かなかった。さっきよりも若干《じゃっかん》広い唇の距離に目を落としながら、僕はじわじわとわき上がるように動揺《どうよう》が強まってくるのを感じた。  なんで、新堂はいきなりこんなことを。死んだ部員の感情のせいか? ——客席からは見えなかっただろうけれど、舞台|袖《そで》からはどうだっただろうか。万一《まんいち》本当に唇がくっついたのを見られていたら、雛田《ひなた》たちは——いや、というより、雛田たちの中にある死んだ部員たちの恋心《こいごころ》は、どんなふうに感じ、どう反応するだろう。  びくびくしながらも、どうにかロミオの役に気持ちを引き戻し、演技を続けて舞踏会《ぶとうかい》の場面を終わらせる。暗転《あんてん》。  上手《かみて》の袖にはおかしな空気が満ちていた。雛田は、じいっと新堂を見ている。西園寺《さいおんじ》も衣装探しはどこへやら、間抜《まぬ》けな格好《かっこう》のまま棒《ぼう》立《だ》ちになっていた。  これは、確実に……。  袖に入るなり、西園寺は唐突《とうとつ》に新堂の腕をガッとつかんだ。  何する気だ! と慌てるが、西園寺はとても複雑そうな、けれど切羽《せっぱ》詰《つ》まった余裕《よゆう》のない顔をして言った。 「バルコニー、気をつけて」  は? と首を傾《かし》げているうちに、ホゥホゥとフクロウの鳴くSEを合図に舞台の照明がついた。ダークブルーのフィルターを通した光が、夜を表現する。  おいおい、このバルコニーの場が終わったらもうロレンス神父《しんぷ》の出番なのに、衣装はどうする気だとハラハラするが、言っている時間はない。「衣装」とだけ口パクで告げると舞台に出た。  捜しに来たマキューシオをやり過ごし、辺りを見回す。するとバトンから下げられた布の向こうから照明があてられ光が浮かび上がる。僕はそちらを見上げた。 「あの窓からこぼれる光はなんだろう。向こうは東、とすればジュリエットは太陽だ。昇れ、美しい太陽よ」  カーテンを開けるような仕草《しぐさ》で新堂が布を押しのけ、足場の上に現れた。  だがその途端《とたん》、バキンと破滅《はめつ》的な音が新堂の足下から聞こえ、その体が傾く。 (壊れた!)  僕は短く息を吸った。  新堂の足下の板が一枚|外《はず》れていた。新堂の足は振り子のように前に振られ、背中から後ろ側に倒れていく。  バトンから吊《つ》った白い布が、新堂《しんどう》の背を受け止めてふわりとしなる。そのまま布の後ろへ消えていきそうになり—— (やばい、頭から落ちる!)  足場の幅はさほど広くない。あんなところで思い切り後ろに倒れれば、そのまま足場から転げ落ちる。  手を伸ばすが、届くわけがない。新堂の手をつかむには、取りつけた階段を上らなければならない。そんな暇《ひま》はもちろん、ない。 「し——」  新堂、と叫びそうになったとき、布の後ろから何かが新堂の背を支えた。  いや、支えたというにはちょっと荒っぽかった。後ろ向きに倒れそうになった新堂の背中をどうにか突き飛ばしたと言った方がいい。  布の隙間《すきま》からちらりと一瞬《いっしゅん》見えたのは、浴衣《ゆかた》に袖《そで》を通しただけの、ほぼパンツが丸見《まるみ》えの格好《かっこう》悪い姿の男。  西園寺《さいおんじ》が走り込んで、突き飛ばしたのか。  だが、安心している場合ではなかった。前に突き飛ばす力が強すぎたらしく、新堂は踏みとどまることができずに今度は舞台の方に体が傾《かし》ぐ。 「げ」  思わず地《じ》の声が出た。  新堂が前のめりに落ちてくる。  僕はとっさに落下|地点《ちてん》に駆け込む。両手を広げて、落ちてくる新堂を受け止めようとする。だが、一瞬《いっしゅん》抱《だ》き合う形になったはいいものの、踏ん張ろうとする足が負けて、新堂の体を抱きかかえたまま後ろに倒れた。  尻と背中をしたたかに打ちつけ、涙が出そうになる。  セリフなど飛んでしまった。  バルコニーでロミオを恋い慕《した》うジュリエットの言葉を盗み聞くはずだったのに、ジュリエットは登場するやいなや落下してきた。どうすればいいというんだ。  新堂も、僕の上にのしかかったまま、ほんのわずかの間|呆然《ぼうぜん》とした顔をしていた。だが急に、はっと我に返ったように視線を僕の上に落とし、その手をガッと力強くつかむ。 「ああ、ロミオ、ロミオ。あなたはどうしてロミオなの!」  どうしてと言われましても。  一人つぶやく、ナンセンスで切ないセリフを、真《ま》っ正面《しょうめん》から本人に問いただしてどうする。  だが新堂は負けずに続けた。 「お父《とう》様と縁《えん》を切り、その名を捨てて。それが無理なら、せめて私を愛すると誓《ちか》って。そうすれば、私もキャピュレットの名を捨てましょう」 「誓《ちか》います!」  半分やけっぱちで、新堂《しんどう》の両手に包まれた手を返し、逆にこっちから包む形で彼女の手を握って、大きく頷《うなず》いた。  小学校の運動会の選手|宣誓《せんせい》みたいになった。だが構っていられない。  ジュリエットは、そこで初めて現実感を取り戻し、自分が下敷《したじ》きにしているのが恋した男であることの驚きを遅れてようやく感じたみたいに、両手で口元を覆《おお》って飛びすさった。 「どうして」と、新堂はうわずった声で言う。ロミオが本当にここにいることを疑っているみたいに、頭のてっぺんから足先までを何度も見る。  いきなりバルコニーから落ちてきて、ロミオをつぶして、さらにその勢いで正面|切《き》って愛を語っておいて、次の瞬間《しゅんかん》には「どうして」とは、なかなかテンションの上がり下がりの激しいジュリエットだが、これはこれでありということにする。恋のために命をかける女なんだから、このくらい頭が飛んでいてもいい。 「どうしてここへいらしたの? 塀《へい》は高くて、登るのは大変なのに。それに、もし家の者に見つかれば、死も同然だというのに」  僕は立ち上がり、新堂に向かって手を差し伸べた。恋で周りが見えなくなっている男になって、言う。 「こんな塀くらい、恋の翼《つばさ》で飛び越えました」  袖《そで》に戻ると、白い布を体に巻きつけただけの姿の西園寺《さいおんじ》がいた。 「おまっ、なんだよその格好《かっこう》!」 「ごめん」 「ごめんって、謝ってどうする!」 「足場の釘《くぎ》、俺が抜いたんだ」 「え」  体の動きが止まった。 「だから俺は行く」  僕の理解をおいてきぼりにしたまま、西園寺は決然《けつぜん》と言った。 「え、行くってその格好で?」  西園寺は頷いた。  西園寺が羽織《はお》っているのは、どうやらバトンに吊《つ》った布の余りらしい。確かに神父《しんぷ》の衣装は、白い布をわさわさ集めたようなものだったし、それなら布を巻いて代用にしようという発想もわからないではないが……いかんせん、布の量が足りない。前から見ればそれなりに神父らしく見えなくもないのだが、横や後ろを向くと膝《ひざ》から下が丸見《まるみ》えで、一応《いちおう》安全ピンでとめてはいるらしいのだが、迂闊《うかつ》に動けばさらなる露出《ろしゅつ》をしてしまう。 「いや、ないよ、それ。コートの下に隠《かく》し持った秘蔵《ひぞう》のブツを女の子に見せたくて夜中に徘徊《はいかい》する、見かけたら一一〇番な人みたいだよ!」 「大丈夫《だいじょうぶ》だ。こういうのは恥ずかしがったら負けなんだ」 「人間|捨《す》てちゃいけない恥《はじ》ってもんはあるよ!?」 「騒ぐな。コトはもう起きてしまったのだ。——出番だ。行くぞ!」  力強く、堂々《どうどう》と。  西園寺《さいおんじ》は舞台へ踏み出した。ざわっと客席に動揺《どうよう》が走る。 「さて、太陽が燃えるまなざしで夜露《よつゆ》を乾かす昼までに、毒ある草や、貴重《きちょう》な薬となる花を、この柳《やなぎ》のかご一杯《いっぱい》に摘《つ》み取ろう!」  朗々《ろうろう》と歌うように西園寺は言う。  あれ、昔の神父《しんぷ》って下半身《かはんしん》の露出度が高めなの? 時代|考証《こうしょう》?  戸惑《とまど》いつつもそんなふうに思わせてしまうほど、西園寺の態度は揺るぎないものだった。  頭痛を抑えつつ、僕も舞台に出る。 「おはようございます……神父様」  ロレンス神父は上機嫌《じょうきげん》でロミオを迎える。自分が身につけているものが、布《ぬの》一枚であることを斟酌《しんしゃく》せずに動くので、布がずれる。急いでとめたらしい安全ピンがはじける。時折《ときおり》肌《はだ》が露出して、観客が喜ぶ。  ——何故《なぜ》喜ぶ。ここはそういうのを楽しむステージか。  チップが飛んできそうな雰囲気《ふんいき》の盛り上がり方にげんなりしつつ、さりげなく西園寺の前に回って、嫌な感じのチラリズムが観客の目に入るのを阻害《そがい》する。主人公がヒロインと結婚したいと申し出る場面なのに、野郎《やろう》の生足《なまあし》なんぞに持っていかれてたまるか。 「神父様、どうか今日、僕らを結婚させて下さい!」  それにしても。 (足場の釘《くぎ》、俺が抜いたんだ)  わざわざ新堂《しんどう》が最初に足を踏み出す位置にある板の釘を抜いた。新堂が足場の上でこけてしまえばいいと思ったのか。  けれど、それを助けたのも結局西園寺だった。  自分で仕かけておいて、慌《あわ》てて助けに走る。だがそれはつまり、戦っているということだ。この二カ月あまりずっとつきあってきた、他人《たにん》の心と戦っているのだ。  奴《やつ》らがいくら嫉妬《しっと》しようと、誰に嫌がらせしようと、その心に負けるわけにはいかない。  自分がよしとしない自分の気持ちなどに、操《あやつ》られるわけにはいかない。  ジュリエットとの結婚もすませ、物語は転換点《てんかんてん》にさしかかる。 「精一杯《せいいっぱい》のお愛想《あいそ》を心がけたとしても、こうとしか言えまい——お前は悪党《あくとう》だ」  さげすむ目をして、村上《むらかみ》が言い放った。さげすむ目をさせれば、村上は一流だ。  マキューシオとティボルトが剣を合わせ、二人が命を落とす場面。  僕は腫《は》れ物にさわるかのように、そっと言う。 「ティボルト。僕には君を愛さねばならない理由がある。だから本当ならカッとくるその言葉も聞き流そう。——僕は君が思いもよらないほど、君を大事に思っている。キャピュレットの名と共に」 「ああ、ああ!」  雛田《ひなた》がうんざりした顔をして吐き捨てた。 「なんって、みっともないご機嫌《きげん》取《と》りだ! 面目《めんぼく》丸《まる》つぶれだ! おい、ティボルト。顔を貸しやがれ」 「俺になんの用だ」 「お前の命を頂戴《ちょうだい》しようってのさ!」  雛田は言って、剣の柄《つか》をぐっとつかんだ。そのまま引き抜こうとし—— 「あれ?」  引き抜けなかった。ぐっと力を入れて鞘《さや》から剣を抜き取ろうとしたのに、銀の刃《やいば》が現れることはなく、剣はぴくりともしない。まるで、鞘と刀身《とうしん》が接着されているみたいに。 「あれ?」  焦りつつ剣の柄を引っ張っている雛田を見て、村上は鼻で笑った。 「相手になってやろう」  村上はすらりと自分の剣を抜き、雛田に斬《き》りかかった。雛田はうわっと叫び、鞘に収めたままの剣でとっさに受け止める。 「あ……」  僕も言葉を失った。次のセリフは、ロミオの「マキューシオ、剣を収めろ!」の予定だったからだ。だが、収めろも何も、まだ剣は抜けていない。  村上はにやりと笑う。こいつが犯人だ。接着されているみたい、ではなく、雛田の剣の鞘と刀身は事実《じじつ》接着|剤《ざい》で接着されていて抜けないのだ。  雛田が大きく舌打《したう》ちした。 「ロミオ、剣を貸せ! 俺のは錆《さ》びてて使えん」  鞘でなんとか攻撃をしのぎつつ、雛田は剣が抜けない理由を無理矢理《むりやり》こじつけて声をあげる。 「えええ、でも」  優柔不断《ゆうじゅうふだん》に言いながら、腰の剣に手をやった。ここでマキューシオに剣を渡すのはロミオとしてどうだ? 仮にここで自分の剣を渡し、それで戦い始めたマキューシオに向かって「剣を収めろ!」はないだろ、多分。だけど今の状況というのはロミオにとっては親友のピンチなわけであって、それなら剣を渡してもいいか。いやいやでも、そのあとどうやって二人を止めるよ?  考えていると、雛田《ひなた》の足が飛んできた。思い切り蹴《け》り飛ばされて床の上に転がる。なんだかさっきからこんなのばっかりだ。恋人につぶされ、親友に蹴り倒される。  倒れた隙《すき》に、雛田は僕の腰から剣をむしり取った。抜けない剣は袖《そで》に向かってぶん投げる。床に落ちて大きな音がしないように、袖で新堂《しんどう》が全身を使ってなんとか受け止めた。普段どんくさい新堂にしては、落とさず受け止められたことはかなりの快挙《かいきょ》だ。  雛田は悪そうな笑《え》みを浮かべ、ロミオの剣をすらりと抜いた。大きく振りかぶって斬《き》りかかる。ギリギリのところで村上《むらかみ》はどうにかそれをよけた。  危ない。マキューシオがティボルトを倒しでもしたら、物語は別の方向に転がってしまう。  しかし、雛田の斬りかかり方には遠慮《えんりょ》がなかった。一応は、事前の打ち合わせ通りの殺陣《たて》がようやく展開され始めたのだが、雛田の剣の振り方は練習のときより数倍《すうばい》鋭い。嫌がらせをされて、実はちょっとキレているのかもしれない。雛田の勢いにつられてか、村上の繰り出す剣も異様《いよう》な速さを持ち始めた。  観客は息を呑んでいる。確かにすごいが、このままじゃ惨事《さんじ》が起きかねない。 「やめろ、ティボルト、マキューシオ!」  え、この中に割って入るのか。  叫んだはいいが、一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した。  二人の間に飛び込んだ途端《とたん》、二人の剣で串刺《くしざ》しになったりはしないか? こんなところでロミオが死んだら、物語はここで終わってしまうのだけど。  怖《お》じ気づいたのは一瞬で、ええいままよ、と僕は二人を分けるように飛び込んだ。  ロミオの腕の下から、マキューシオは刺される——はずだった。  キィンと小気味《こきみ》のいい音を立てて、僕の脇の下から突き出された剣を雛田の剣がはじき飛ばした。  えっ! と仰天《ぎょうてん》しているうちに、僕はマキューシオに突き飛ばされ、剣と剣の戦いの場から追い出される。 「ちょ、マキューシオ!?」 「腰抜《こしぬ》けは引っ込んでろ!」  はっはー、と軽快に笑って、マキューシオは元気に剣を突き出し続ける。  村上は顔をしかめながらも、雛田の剣を受け、さばき、隙《すき》を狙《ねら》って突く。ここから先の立ち回りなど練習していないので、完全に即興《そっきょう》の動きだ。お互いの体に剣を当ててしまうことなく手に汗《あせ》握《にぎ》る戦いを続けられているのは、すべて二人の運動|神経《しんけい》、反射神経によるものだ。だがそんなもの、長く続くわけがない。  丸腰《まるごし》のロミオは途方《とほう》に暮れて、膝《ひざ》をついたまま二人を見上げた。拳《こぶし》を作ると、手のひらがぬるりと汗ですべった。手に汗を握るのは観客だけでいい。共演者にまで握らせないでくれ。  ——仕方ない。  僕は覚悟《かくご》を決めて立ち上がる。  このまま彼女たちが戦い続けたんじゃ物語は先に進まないし、間違ってティボルトが倒されるようなことになっては一大事だ。  僕は二人の動きを見てタイミングを計ると、飛びかかった。 「二人とも、剣を引くんだ!」  二人ともと言いながら、雛田《ひなた》を羽交《はが》い締《じ》めにした。すかさず村上の剣が雛田の脇腹《わきばら》に刺さる。  痛い、と反射的に思って目を閉じかけたが、実際は村上の剣は雛田の体には当たっていなかった。脇腹のすぐ横で止められている。観客の方から見れば、マキューシオが刺し貫《つらぬ》かれたように見える位置。 「う、ぐ……」  雛田が呻《うめ》いた。 「や、やられたのか」  言うべきであったセリフを口にしたのだけれど、どうにもずれている。雛田もぎゅっと眉《まゆ》を寄せた。 [#挿絵(img/Romeo_255.jpg)入る] 「見りゃあわかるだろうが!」  もっともだ。羽交《はが》い締《じ》めにしてティボルトが刺しやすくしておいて、やられたのかもないもんだ。  手を離すと、雛田《ひなた》は腹を押さえてよたつき、倒れた。助け起こそうとすると、思い切り手を振り払われた。 「ちくしょう、どっちの家もくたばっちまえ!」  非常に説得《せっとく》力のある、無理のない叫びだった。僕は雛田の体を横たえ、その手に握られた剣を取り上げる。 「マキューシオは死んだ」 「誰のせいだ」  つっこまずにはいられない、という感じで切り返された。返す言葉もないが、なんとか返す。 「……マキューシオの魂《たましい》はまだ俺たちのすぐ上で、道連《みちづ》れを待っている。道連れになるのは、お前か、俺か、それとも二人ともか!」 「奴《やつ》としてはどっちも道連れにしたいところだろうが——この世で奴とつるんでいたお前だ。あの世まで仲良く行ってやれ!」 「ごめん……、なんか止まらなくて」 「いや。先にやったのは私だ」  舞台|裏《うら》で、たった今死んだばかりの二人が謝り合う。  現在|舞台《ぶたい》では、ティボルトの死とロミオの追放を思って嘆《なげ》くジュリエットの独壇場《どくだんじょう》となっている。 「過ぎたことは仕方ない。死んだ部員たちも、本番を迎えて活動的になってるんだろ、きっと」  僕は適当に言って場をなだめる。二人はもう死んだからいいが、僕はすぐにまた舞台に出なければならないので時間がない。そしてそれは、西園寺《さいおんじ》も同じだ。次の場面は、ロレンス神父《しんぷ》が嘆くロミオに対してマンチュアへ逃げるよう諭《さと》すシーンだ。 「やっちまったことはしょうがないけど、問題はこれからだ。……西園寺の衣装、誰かが隠《かく》したんだよな?」  言うと、二人は真面目《まじめ》な顔をして口をつぐむ。  やっぱりあの布《ぬの》一枚を衣装|代《が》わりにするのはかなり無理がある。さっきの場面だって、袖《そで》に引っ込むときにはすでにあちこちがはだけて肌《はだ》が露出《ろしゅつ》し、狼籍《ろうぜき》を働かれた乙女《おとめ》みたいな有様《ありさま》になっていた。見苦《みぐる》しいし(女の客は喜んでたけど)、これからは悲劇的な色が一気に濃くなっていく展開なのだから、ロレンス神父が変な意味で客の気を散らせるのはできるだけ避《さ》けたい。  数秒の沈黙《ちんもく》のあと、村上《むらかみ》がすっと人差し指を立てて上を指し示した。僕と雛田《ひなた》は、そろってその指さす方を見上げる。 「あ」  足場の向こうを隠《かく》すためにかけられた白い布が、一カ所|厚《あつ》くなっているのが見えた。——よく見るとそこには、余計《よけい》な布がかかっている。白い布をふんだんに使った、ロレンス神父《しんぷ》の衣装だ。 「ごめん、バトンを上げるとき、つい出来心《できごころ》で」  村上が、反省しているのかどうかいまいちよくわからない顔をして言う。 「布と同じ白だったから、ばれないかなと」  そういう問題じゃないだろう。 「隠すにしても、もうちょっと手加減《てかげん》しろよ! ああもう、今はバトン下ろせねえぞ。……諦《あきら》めるしかないな。……そうしたら、出番の前に安全ピンつけ直してできるだけ見られる格好《かっこう》にしないと……」 「ちょっと待って」  うろうろ考えながらつぶやく僕を遮《さえぎ》って、雛田が言った。そのまま足場の後ろに回り、取りつけた階段から足場に上って、布を軽く引っぱりながら上を見上げている。 「雛田?」 「私、取ってくるよ」 「は?」 「雛田、あんたまさか登る気?」  村上がようやく焦った声を出した。 「大丈夫《だいじょうぶ》。このバトンの最大|荷重《かじゅう》二百キロくらいあるから。布プラス私の体重くらい余裕《よゆう》。それより、できるだけ布が揺れないよう押さえてて」 「待てよ、バトンは平気《へいき》でも布が人間一人の重さに耐えられるとは限らないし! 大体|命綱《いのちづな》もなしにあんな高さまで登れるわけないだろ!……って、聞け!」  雛田はすでに靴を脱ぎ捨てて、布をロープのようにつかんで登り始めていた。村上が慌《あわ》てて布の下を押さえ、大きく揺れるのを食い止める。 「何やってるの」  反対側の袖《そで》から、足場の裏を通ってこっちに駆け寄ってきた西園寺《さいおんじ》が、布を登っていく雛田をうろたえた顔で見上げた。 「この、馬鹿。落ちても知らないよ」  村上が、苦《にが》い顔をして言った。「ああもう!」と心の中で叫びながらも僕も西園寺と共に足場を駆け上がり、村上と一緒に布を押さえる。雛田のポジションはやっぱりわんぱく盛りの末《すえ》っ子《こ》で、家族はそれに振り回されるのだ。  後ろで一つに結んだ雛田《ひなた》の髪《かみ》が、彼女の動きに合わせて揺れる。その首筋《くびすじ》で汗が光っているのが見える。猿《さる》のように布を登っていく後ろ姿すら綺麗《きれい》に格好《かっこう》よく見えるのは、あばたもえくぼというやつなのだろうか。……いや、あばたはもちろん、えくぼすらない女だ。この世はとことん不公平にできていて、こいつは何をやっていても綺麗に見える、とてもずるい女なのだ。 「如月《きさらぎ》、そろそろジュリエットの嘆《なげ》きの場面が終わる」  西園寺《さいおんじ》が不安そうに雛田を見上げながらも言った。じりじりと心臓《しんぞう》の端《はし》が焼けていくような焦燥《しょうそう》を感じながら頷《うなず》く。 「ロミオは追放! その言葉がもたらす悲しみには終わりがない、果てがない、際限《さいげん》がない、きりがない。——ああ、私はロミオとではなく、死神《しにがみ》と床《とこ》を共にするのね」  舞台からは、新堂《しんどう》の悲痛な声が聞こえてくる。その声が持つ切迫感《せっぱくかん》に、思わず息を呑んだ。 「入れ込んでるな」  西園寺が言った。眉《まゆ》を寄せ、心配そうな目をしている。 「合宿のときの演技みたいだ」  新しい不安がわいて、布の向こうで繰り広げられているであろうジュリエットの愁嘆場《しゅうたんば》を心に浮かべる。 「大丈夫《だいじょうぶ》かな、あいつ」  舞踏会《ぶとうかい》の場面で本当にキスされたことを思い出しそうになって、慌《あわ》ててうち消す。今はそれどころじゃない。……でもあれ、多分雛田にも見られてたんだよな……。 「如月、西園寺。もう行け」  村上《むらかみ》が硬い表情で言った。僕は唇《くちびる》を噛《か》む。確かにもう、すぐ準備しなければ間に合わない。 「ごめん、村上、あと頼む」  僕は立ち上がり、西園寺の肩を叩《たた》いた。仕方ない。次の場面はまた、西園寺が巻いているこの布で間に合わせるしかない。  せめて安全ピンをもっとしっかりつけ直させようとした。  だが、西園寺は逆に——こともあろうに、体を包んでいた布を引きちぎるように剥《は》ぎ取った。ぶちぶちと安全ピンが飛ぶ。  その様《さま》はまさに、目当ての女の子の前に自分の秘蔵《ひぞう》のブツを披露《ひろう》すべく、思い切りコートの前をご開帳《かいちょう》する、一一〇番な人のようだった。  西園寺の前にいた村上が被害を受け、大きくのけぞるとしゃがんでいた体勢から蹴《け》りを繰り出し、西園寺のすねにぶち当てる。西園寺はがくりと崩れて、涙を浮かべながら弁慶《べんけい》の泣き所を抱え込む。  ……劇中《げきちゅう》だったので、一連《いちれん》の事態は声もなく起こったが、普通だったらいきなり裸体《らたい》を見せつけられた村上も、いきなりすねを蹴られた西園寺も叫びたかったところだろう。  西園寺はすねを抱えながら、震える指で上を指した。  見上げて、ぎょっとする。さっきまで布の中ほどにいた雛田《ひなた》が、ものすごい勢いで上まで登りつめ、今バトンに手をかけたところだった。 「速《はや》っ!」  突然|何《なに》かの血に目覚めたみたいな速さでバトンにたどりついた雛田は、むしるようにロレンスの衣装を下に投げ捨てた。ばさあっと白い布が翻《ひるがえ》り、すねを抱えて苦しむ西園寺《さいおんじ》の上に落ちる。  そのまま雛田は、ぐったりとした様子《ようす》でバトンにしがみつき、上にまたがる。  そうだ、無理して下りなくていい。幕が下りたらすぐにバトンを下ろしてやる。  雛田は僕を見下ろした。  行け。と言うように、雛田の細い指が動く。  がんばれ。  声は届かないけれど、そう言われた気がした。  僕は拳《こぶし》を上に突き出して、それに応える。そのまま足場を駆け下りた。今、ジュリエットの場面が終わったところだった。舞台を空《から》っぽのまま開けておくわけにはいかない。  足場の上では、村上《むらかみ》が痛みに呻《うめ》いている西園寺を無理矢理《むりやり》起き上がらせ、神父《しんぷ》の衣装を着せている。  僕は転がるような勢いで舞台に出た。登場が遅れたのはほんの一拍ですんだ。そのままの勢いで本当に舞台に転がると、さっきのジュリエットの続きをするように嘆《なげ》いてみせる。  西園寺が出てくるまで、ずっとこうして泣いていてやる。  だが、そう待たされることなく、きちんと衣装を着た西園寺が出てくる。ちゃんと服を着ている神父を見てだろう、客席から「おお」と小さな感嘆《かんたん》の声があがった。  西園寺は硬い口調《くちょう》で言った。 「いつまでそうして嘆いているつもりだ。大公《たいこう》様の口から出たのは寛大《かんだい》な宣告《せんこく》。死罪《しざい》ではなく追放だ」 「僕を哀《あわ》れと思うのなら、どうか死罪とおっしゃって下さい!」  西園寺はすねの痛みをこらえているらしく、眉間《みけん》にしわを寄せた険しい顔をしている。きっとまだ、うずくまりたいほどに痛いのだろう。けれどそれは、泣きわめく若者に手を焼いて不機嫌《ふきげん》になっている神父の顔を作るのにはちょうどよかった。  ぴちゅくりぴちゅくりと鳥が鳴く声が流れる。  暗闇《くらやみ》がとろりと溶けるように、ゆっくりと黄色《さいろ》みがかった照明がつく。  僕は舞台から足場の階段へ駆け寄り、段を数段上がる。それを引きとめるように、新堂《しんどう》の手が僕の手をつかんだ。 「もう行ってしまうの?」  新堂《しんどう》が泣きそうな顔をして言った。  ロミオとジュリエットの初夜《しょや》の翌朝《よくあさ》。気《け》だるさと悲しさが混じり合った空気を作る。 「まだ夜は明けていないわ。あれはナイチンゲール。ヒバリじゃない」  エロく! エロく!  練習を見に来てくれた友《とも》先輩《せんぱい》は、なんの恨《うら》みがあるのか、ここの場面を演じさせては慎《つつし》みもへったくれもなくそう怒鳴《どな》った。彼女いわく、「ここは二人が初めてつながったあと、かつ最後の会話の場面なんだから、もっと悲しいエロスを表現して!」……何かエロティックな演技に対する飽《あ》くなきこだわりでもあるのか、友先輩は熱意ある演技|指導《しどう》をしてくれた。「男と女ってのは一回ヤったら変わるんだから!」「ここはもっとねっとり濃厚《のうこう》に!」などと叫ばれ、僕はその指示のいたたまれなさと雛田たちの周りでうずまくどす黒い空気の恐ろしさに変な汗を浮かべっぱなしだった。  でもそれも、今日でおしまいだ。 「さようなら、さようなら。もう一度口づけを」  ねっとり、濃厚に。  新堂の腰を引き寄せ、覆《おお》い被《かぶ》さるようにして今までで一番|粘性《ねんせい》の強いキスをする。  新堂が両手で僕の頬《ほお》を挟み、客席からは二人の唇《くちびる》が見えないようにすると、外国の映画のようなキスを——お互いにお互いを食べようとしているんじゃないかというようなキスをする。もちろん、実際には口はくっついていない。  だけど、口を開けてのキスの演技だ。新堂の手の内側で、二人の吐く息が熱く絡んで、なんというかもう、実際に唇を合わせるよりもいかがわしいことをしている気分になる。  どうにか赤面《せきめん》せずにやりおおせると、新堂の背中を軽く抱き、足場の階段を上る。その途中《とちゅう》でもう一度新堂は僕の手を握り、別れを惜《お》しみ、そしてロミオは布の向こうへ消える。  布の向こうへ出ると、一つ大きく息をついた。  ふいに、吊《つ》られた布がつんつんと引っぱられた。見上げると、バトンにまたがった雛田《ひなた》が何か言いたげな顔をしている。  今の演技に怒っているのだろうかとぎくりとした。  けれど、雛田の顔は情《なさ》けなく歪《ゆが》んでいて、新堂とのラブシーンの練習をしていたときに見せた黒いオーラはどこにもない。むしろ、何か悪さをしてしまった子供が、泣きべそ顔でそれを親に告白するときのような……。  ん? 悪さ?  いやあな予感がして、バトンの上の雛田の顔を見つめる。まさかこいつも、何かやらかしたのか? 「ど、どうした」  言うが、雛田のところまで届く声は出せない。それは雛田も同じで、彼女は情けない顔のまま、口パクで何かを必死に伝えようとしてくる。  二度口を大きく開け、一度|唇《くちびる》を突き出し、最後にすぼめる。何か四文字《よんもじ》の言葉だ。 「かばうそ?」  ——だが、さっぱりわからない。  雛田《ひなた》は口パクで伝えようとすることを諦《あきら》めたのか、今度は身振《みぶ》り手振《てぶ》りで何かのサインを送ってくる。指先で何かの形をなぞり(縦《たて》に細長い単純な形だった)、次に何かを飲む仕草《しぐさ》をしてから思い切り顔をしかめる。口を手で覆《おお》い、眉《まゆ》をぎゅっと寄せて何かを我慢《がまん》するような顔を作る。 「まずい? くさい?」  僕はまた首を傾《かし》げる。雛田は今度は、横を向き口をぱかっと開けると、口から何かを発射する様《さま》を表現するみたいに、片手を口の前から外側に向かってパッと広げてみせる。——怒鳴《どな》っているジェスチャーだろうか。  雛田はしつこくその仕草を続けた。見上げ続けていると首が痛くなってきた。 「あ、辛《から》い?」  何か辛いものを飲んで火を噴《ふ》いている様だろうか。ピンときてそう言ったのだが、こっちの声もバトンの上の雛田には届かない。互いに何を伝えたいのかも、伝えようとしていることがちゃんと伝わっているのかどうかもわからないまま、もどかしい時間が過ぎた。舞台上では、親に無理矢理《むりやり》結婚を強いられたジュリエットがロレンス神父《しんぷ》に相談し、仮死《かし》の薬をもらっているところのようだった。  雛田はしびれを切らしたように身を乗り出してくる。その上体がぐらりと揺れて、僕はぎょっとして両手を伸ばした。雛田はガッとバトンをつかみ直し、どうにかこらえる。  なんて心臓《しんぞう》に悪い。今の一瞬《いっしゅん》で、胸が痛いくらいに心拍数《しんばくすう》が跳ね上がっていた。何が言いたいのか知らないが、そんな場所で暴れないでほしい。  雛田は、具体的な何かを伝えようとすることは諦めたらしく、ピッと指である場所を指した。下手《しもて》の袖《そで》の方。  首をひねりながらも、雛田が指し示す方向に向かってみた。何度も雛田の指の方向を確かめ、どれを指しているのかじっくり探す。 「雛田の荷物、か?」  雛田のものらしき布の手提《てさ》げ袋《ぶくろ》が置いてあるのを見つけた。それを取り上げ、雛田に向かって掲げてみせた。雛田は大きく頷《うなず》く。 「中、見てもいいのか?」  雛田は先を促《うなが》すような顔をしていたので、少しためらいながらも、荷物の中身を一つずつ出していった。台本《だいほん》、タオル、水の入ったペットボトル、それから、タバスコ。 「タバスコ?」  細長いタバスコの瓶《びん》を手に、高所《こうしょ》にいる雛田《ひなた》を見上げた。雛田は泣きそうな顔をして、舞台を指さす。  今舞台上では、新堂《しんどう》が仮死《かし》の薬の瓶を手に、覚悟《かくご》を固めているところだった。仮死の薬の小瓶は濃い青色で、中身の水がどんな色をしているのか、外からはわからない。  ——マジですか。  僕は必死で、下手《しもて》の袖《そで》から舞台上の新堂に向かって、ぶんぶんと両手を大きく振っていた。気づけ気づけと念じながら、足も上げてみる。 「何一人で踊ってるの」  村上《むらかみ》が不審《ふしん》人物を見る目そのものを向けてきた。 「紙とペンだ!」  袖から舞台に向かって奇妙《きみょう》な踊りを続けながら言う。新堂に気づいてもらっても、伝える手段がない。  村上が持ってきたB4のプリントの裏側にサインペンで殴《なぐ》り書きする。「薬を飲むな」 「さあ村上、新堂に気づかせるぞ! 村上にだっていろいろ良心がとがめることがあっただろ。今こそ償《つぐな》いのときだ!」  僕は紙を掲げ、少しでも自分を大きく見せるために背伸《せの》びをし、アピールするために片足を上げる。村上は訝《いぶか》しい顔をしながらも、良心がとがめるというところに引っかかったのか、いつもの不機嫌《ふきげん》な顔のまま同じ格好《かっこう》をする。  白鳥《はくちょう》のポーズ。  新堂はちっともこっちを見てくれないのに、反対側の袖にいる西園寺《さいおんじ》は、ものすごく不審げな顔をしてこっちを凝視《ぎょうし》してくる。お前は見なくていい。 「……ねえ、如月《きさらぎ》。一体《いったい》何事」  背後では、先輩《せんぱい》たちも何をやっているのだとざわついている。だが、騒ぎを広めたくない。僕は、村上だけに聞こえる声で言った。 「新堂の持ってる仮死の薬の中にタバスコが入っている」 「誰」 「雛田」  村上は「あー」と長く声を出した。 「それで『薬を飲むな』か。でも、理由も伝えなきゃいけないんじゃないの。ただ飲むなって言われても、とっさにどうしていいかわからないじゃない。特に新堂はアドリブがきかない方だし」 「う、そっか」  僕はポーズをやめ、紙にさらなる情報を書き足す。『薬を飲むな。タバスコ入っている。飲むふりだけに』 「あ、見た」 「えっ?」  慌《あわ》てて紙を掲げたが、新堂《しんどう》がこっちに視線をやったのはほんの一瞬《いっしゅん》だけで、すぐにそらされた。文章を読ませる暇《ひま》などなかった。 「馬鹿! 村上《むらかみ》が余計《よけい》なこと言うから見せそこねただろ! チャンスだったのに!」 「私は必要と思えるアドバイスをしただけだよ! あんただって納得《なっとく》したろ!」 「くそう。もう一度見ろ!」  紙を振り回しつつ奇妙《きみょう》なダンスを続けるが、新堂はこちらを見ないまま演技を続けていき、ついに薬の瓶《びん》のフタを開けてしまう。 「新堂、待て。よくにおいをかげ! タバスコ入りだぞそれは!」  小声《こごえ》で一生|懸命《けんめい》訴える。大きな声を出せないのがもどかしい。メッセージを書いた紙を必死に振る。 「新堂!」 「ロミオ、ロミオ! あなたに乾杯《かんばい》!」  新堂は悲しい乾杯をして、薬の瓶を高く掲げる。そして、一気に飲み下した。そしてそれと同時に、僕が持つ紙に目をとめた。新堂の目が見開かれる。  だがもう、瓶の中身は飲み干されていてすべては手遅れだ。 「ああああ……」  僕は顔を覆《おお》う。村上も、苦虫《にがむし》をかみつぶしたような——というより、文字通りタバスコを飲み下したような顔をしていた。  吹き出してしまうかと思った。だが、飲んでしまった直後とはいえ、一応メッセージを見て事態を理解したのがよかったのか、新堂はこらえた。  ぐ、と唸《うな》り、小瓶を取り落とし、顔を歪《ゆが》める。両手で口と鼻を押さえ、吹き出したり咳《せ》き込んだりするのを必死でがまんしている。  毒を飲んでしまった演技としては、大変|真《しん》に迫っている。事実|本人《ほんにん》が切羽《せっぱ》つまっているから。  観客も、新堂の苦しげな様子《ようす》を息をつめて見守っている。顔を赤くして口元を覆《おお》って苦しむ新堂の様子はリアルだが、恋のために命をかけるヒロインの演技としては、なんというか——いまいち美しくない。仮死《かし》の薬って、そんなに苦しいものなのか。  新堂はそのままがくんと膝《ひざ》をつき、思い切り倒れた。顔を伏せて、動かないように必死に耐えている。そのまま悲しい音楽が鳴り、暗転《あんてん》。  僕はすぐさま新堂の救助に向かった。手を貸して袖《そで》へ連れていき、その身柄《みがら》を村上に託す。村上はすぐに水を飲ませ、新堂が咳き込みそうになるとタオルを顔に押しつけるなど、介抱《かいほう》しているのかいじめているのか微妙《びみょう》なところの処置をしている。  あとを村上に任せ、僕はすぐに舞台に出て、手紙を開く。照明がつき、ジュリエットの死を手紙で知らされたロミオを演じる。嘆《なげ》き、絶望し、ジュリエットと共に眠ろうと旅立つ。そこに、ロミオに計画を伝えに来たロレンスが到着し、ロミオとすれ違ってしまったことを知る。  もうすぐだ。僕は心の中でつぶやく。  もうすぐ劇が終わる。あとは墓地《ぼち》で、ロミオとジュリエットがすれ違いの死を遂《と》げればおしまいだ。  何が起ころうと、死んだ人の気持ちがどんなふうに暴走して、誰が何をやらかしてしまおうと、絶対に無事に閉幕《へいまく》までこぎ着けてやる。  生きている人間をなめるな。  寝台の上で、ジュリエットは死んでいる。足をそろえ、まっすぐに体を伸ばし、手は胸の下で組み合わされている。  ぴくりとも動かないその体に、ロミオは震える手を伸ばす。 「ああ、君は何故《なぜ》まだそんなに美しい? まるで死神《しにがみ》までが君に恋をして、この暗闇《くらやみ》に君を囲っているかのようだ。君を守るためにも、僕はいつまでもここにいよう。——目よ、見納《みおさ》めだ。腕よ、最後の抱擁《ほうよう》だ。そして唇《くちびる》よ、夫婦の口づけで調印《ちょういん》するのだ。死神と交わした契約書に」  最終場。墓場《はかば》でロミオとジュリエットがすれ違って死ぬ場面。  僕はセリフを言い終えると、新堂《しんどう》の顔の上に覆《おお》い被《かぶ》さった。  これが本当に最後のキスシーン。  ようやくここまで来たか、という感慨《かんがい》があった。恥ずかしさと殺気《さっき》に悩まされたキスシーンも、これが最後と思うと、ほんのちょっとだけ名残《なごり》惜しいような気もした。そんなことは、口が裂けても言えないけれど。  体を離す途中、新堂の唇がわずかに震えているのを見つけ、眉《まゆ》を寄せる。  緊張《きんちょう》しているのだろうかとも思ったが、強《こわ》ばった目元を見ると、何かを怖がっているように思えた。 (大丈夫《だいじょうぶ》かな。ロミオが死んだあと、ちゃんと最後まで演技できるかな)  心配になったが、考えても仕方ない。がんばれよ、と言うように新堂の肩に軽くふれた。  薬の小瓶《こびん》のフタを開ける。ふいに、プールのにおいが鼻をかすめた。  あとから聞いた話だ。  ——そのとき雛田《ひなた》は、バトンの上から新堂の顔を見下ろしていたという。新堂の顔がひどく青ざめているのを見て、雛田の中の何か動物的な勘《かん》が動いた。  実際は、この場面の照明はダークブルーのフィルターを通していて、本当の顔色などわからなかっただろうに、それでも目を閉じた新堂の顔は、一瞬《いっしゅん》のうちに雛田にバトンから下りる決断をさせた。布を手足で挟み、摩擦熱《まさつねつ》で衣装がすり切れるくらいの勢いで、雛田は一気に足場まですべり下り、駆け出した。新堂《しんどう》の顔の上に、さっきまでの自分と同じ——けれどもっと深刻《しんこく》な思いを感じとって、袖《そで》に置いてあった新堂の荷物をひっくり返した。  そして、そのボトルを見つけた。  ——そのとき村上《むらかみ》と西園寺《さいおんじ》は、もうほとんどすべてが終わったような、安堵《あんど》した心境《しんきょう》でいたという。ただ心のもう片方では、まだ他人の恋心《こいごころ》がくすぶっていて、舞台上で僕が新堂に口づけする演技をし、彼女のために死のうとしているのを憎々《にくにく》しい気持ちで見守っていた。  次の瞬間《しゅんかん》、立っていた村上と西園寺を押しのけるように、彼らの背後から雛田《ひなた》がぶつかってきた。 「さあ来い、冷酷《れいこく》な死神《しにがみ》よ! 我が愛《いと》しの人に乾杯《かんぱい》!」 「駄目《だめ》だ!」  舞台上に、雛田の切羽《せっぱ》つまった、悲痛《ひつう》にも聞こえる声が響《ひび》いた。バン、と床を踏みならす音がし、雛田が舞台に飛び出した。  同時に、毒をあおろうとした腕をつかまれていた。新堂にだ。ロミオが息絶《いきた》えてから目を覚ますはずのジュリエットは、今目を開け、震える手でロミオの腕をつかみ毒を飲むのを押しとどめた。  慎重《しんちょう》に慎重に、時折《ときおり》大きくよろめかせながらもなんとかバランスを保てるようつじつまを合わせて積み上げたジェンガが、ガラガラと崩れていく音を聞いた。 (なんで)  僕は愕然《がくぜん》とした気持ちで、自分の手をつかむ新堂と、舞台に飛び出た雛田を見る。  むせるようなにおいが、鼻先に漂っていた。最近かいだことのあるにおい。  ようやくそこで、僕は小瓶《こびん》の中身に思い至った。  プールのにおい。子供の頃はこれは水のにおいなのだと信じていたが、これは塩素《えんそ》のにおいだ。最近もこのにおいをかいだ。新堂が、クラスの喫茶店で使うポットを漂白《ひょうはく》していたときだ。そのボトルには、原液《げんえき》で使わない、素手《すで》で使わない、などの注意|書《が》きがあった。飲み込んだらどうなるかはよく知らないが、それが嫌がらせのレベルではないのは確かだ。 「お前……」  新堂は泣きそうな目をしていた。  舞台の時間が止まっている。まるで、本当に時間が止まったことを表現する演出のように。  死んだはずのマキューシオが飛び出してきて、仮死《かし》状態のはずのジュリエットは目を覚まし、ロミオは死にそこねた。  もう、物語の収拾《しゅうしゅう》はつかない。  雛田も新堂も、身動きもできずに固まっている。  ——ここまでか。  死人の心になんか負けずに、ちゃんと舞台を成功させようと思っていたのに。  そのとき、ひやりとした空気が流れてきた。肌《はだ》に吸いつくような冷たさ。  視線を向けると、白い煙のようなものがふわふわと漂ってくるのが目に入った。それは、ダークブルーの地明《じあ》かりを反射して、幻想《げんそう》的な空気を醸《かも》し出す。  何事だ、と白い冷気の発生|源《げん》を探す。雛田《ひなた》の背後、下手《しもて》の袖《そで》で村上《むらかみ》と西園寺《さいおんじ》が箱の前を必死にうちわであおいでいるのを見つけた。彼らの前にあるのは、初宮《はつみや》夫人が差し入れてくれた、大量のアイスが入っていた発泡《はっぽう》スチーロールの箱。  ドライアイスだ。村上と西園寺は、箱の中に入っていたドライアイスに水を注いで、その白い冷気を必死の形相《ぎょうそう》で送ってきてくれている。  幽霊《ゆうれい》のふりをしろってか。  ドライアイスやスモークの効果といえば、まず思いつくのがこの世のものではない者の出現。村上と西園寺は、雛田に幽霊のふりをしろと言っているのだろう。  雛田の顔を見た。  できるのか。  ふっと、雛田の表情が変わった。素《す》の雛田|香奈実《かなみ》の表情から、マキューシオの表情に変わる。 「美しいかな、愛のために命を断とうというロミオくん」  ふざけた口調《くちょう》。だがその声には生前《せいぜん》の覇気《はき》はなく、どこか不気味《ぶきみ》に響《ひび》く。 「マキューシオ、か……」  雛田の演技につられた。役者をやるというだけでいっぱいいっぱいになっていた僕だ。頭の中は真《ま》っ白《しろ》で、アドリブなど考えられなかったが、何故《なぜ》か自然に口が動いた。  雛田は躁《そう》状態になったみたいに、けれど影を帯びた笑い方をした。 「死んだ恋人を追って自ら毒をあおるか。友人をウジの餌《えさ》にしておいて、たいそうなご身分じゃないか」  雛田はふんと鼻で笑う。 「……だから……すまないと……すぐに僕も、君のあとを追おうと……」  半分は演技で、半分は本当に言葉につまり、しどろもどろに言った。マキューシオの手がすうっと上がり、弾劾《だんがい》するようにロミオを指さす。  マキューシオの顔から、笑《え》みの気配《けはい》が完全に消えた。 「俺から見りゃ、恋のために捨て身になれるお前はちょっとばかりうらやましかったが、命を捨てるとなれば話は別だ。せっかくそれほどの愛を持ってるくせに、それを、命を奪う理由なんかに使おうってのは、ふざけるんじゃねえって話だよ!」  たぶん、半分は、雛田は本気で怒っている。新堂《しんどう》を動かそうとした、死んだジュリエットに対して。  雛田が知らない、突き動かされるような強い想いを持っていながら、それをこんなふうにしか使えなかった彼女に対して。  僕の手首をつかんでいる新堂《しんどう》の手が震えた。  ふっと、マキューシオは身にまとった怒りを振り落とすように軽く笑った。そうして、今の一喝《いっかつ》などなかったかのように、おどけたしぐさをする。 「恋は一世一代《いっせいちだい》の大勘違《おおかんちが》い。その場の勢いによっては命をかけてみてもいいが、死ぬほどのことじゃない」  朗々《ろうろう》と歌い上げるように言うと、マキューシオは道化師《どうけし》のような大げさな身振《みぶ》りで恭《うやうや》しく一礼してみせた。  ぱっとダークブルーの地明《じあ》かりが消えた。照明は、ロミオとジュリエットを照らすスポットライトだけになる。その暗闇《くらやみ》に乗じて、雛田《ひなた》はすっと袖《そで》へ消える。照明の先輩《せんぱい》が気をきかせてくれたらしい。  同時に、手の中から小瓶《こびん》がすべり落ちた。ごとん、と重い音がして、床に瓶が転がり中身がこぼれる。塩素《えんそ》のにおいが強く漂った。  本当に、殺す気だったのか。  僕は、腰につけたナイフに目を落とした。新堂《しんどう》が持ってきた、重量感のあるペーパーナイフだ。たいした強度はなさそうな華奢《きゃしゃ》な刃物《はもの》だが、その気になれば人を殺傷《さっしょう》する力はある。  舞台の上での無理《むり》心中《しんじゅう》。  そのことを思って、苦笑《くしょう》した。危うく本当に有毒《ゆうどく》物質を飲んでしまうところだったことを考えればこれっぽっちも笑い事ではないのだけれど、笑わずにはいられなかった。  ドラマチックなようで、この上なく馬鹿《ばか》馬鹿しい計画。ロミオとジュリエットに憧《あこが》れ、恋のために死ぬことの美しさに憧れた、端《はた》から見たら情《なさ》けなくてどうやって悲しめばいいのかもわからないような計画。  新堂は顔を歪《ゆが》めて震えていた。僕は力づけようとするように、震えるその手に自分の手を重ねる。  ——安心しろ、新堂|藍子《あいこ》。お前はこんな馬鹿なことは絶対にしない。一昨日《おととい》言っただろ。何を思ってても、何をやらかしたとしても、新堂のせいじゃないって。新堂がこういうことをする奴《やつ》じゃないってことは、みんな知ってる。もし新堂|自身《じしん》にそれがわからないのだとしたら、とにかく人のせいにしてしまえ。一緒に自転車で帰ったときの決意を思い出せ。都合《つごう》よく考えることにして、ただ公演が成功するようにがんばるって、新堂が言ったんだ。  ——新堂は、僕が毒を飲むのを止めてくれた。お前はちゃんと勝ったんだ。 「ジュリエット、どうして……」  驚愕《きょうがく》の顔を作り、新堂の体を抱き起こす。  演技を続けろ。と、目で新堂に訴えた。  何がなんでも劇を終わらせるんだ。どんなにむちゃくちゃでも、いくら物語をねじ曲げてでも、幕が下りるまで演じ続ける。これは僕たちの『ロミオとジュリエット』だ。  新堂《しんどう》の目から涙が転がり落ちた。それはおそらく素《す》の新堂の涙だったが、新堂はそれをジュリエットの涙に作りかえた。 「ああ、ロミオ。来てくれたのね」  ジュリエットの両手がロミオの顔に伸ばされた。彼女の頬《ほお》を流れる涙にライトがあたり、きらきらと光っている。 「どうして、ジュリエット。マキューシオが君の魂《たましい》を取り返してきてくれたのか……?」  ジュリエットは涙を流したまま首を傾《かし》げる。その手が、ロミオが本当に生きてここにいることを確かめようとしているかのように顔を撫《な》でる。新堂自身が本当に確かめたいと思っているのかもしれない。 「何も聞いていらっしゃらないの……?」  ジュリエットのそのつぶやきが終わるか終わらないかというタイミングで、西園寺《さいおんじ》が足場の上の布の向こうから現れた。ひどく焦った様子《ようす》で駆け下りてくる。 「ああよかった! 間に合ったか」 「神父《しんぷ》様、これは一体」 「詳しい話はあとだ。ロミオがヴェローナに戻ってきていることが知られて、もうすぐここに人がやってくる」 「そんな!」  ジュリエットが手のひらで口を覆《おお》う。だがロレンス神父は厳《きび》しい顔で首を振った。 「嘆《なげ》くな。お前たちは今、大きな幸運を拾ったところだ。——もう二人でマンチュアへ逃げる暇《ひま》はない。こうなったら、両家《りょうけ》に二人の結婚と、密《ひそ》かなる計画をすべて告白しよう。一度は消えたも同然の命だ。もう何も恐れるものはないだろう。何しろ今お前たちは二人して、生きてここにいるのだ」  ロミオはロレンスの言葉に頷《うなず》く代わりに、強くジュリエットを抱きしめた。ロレンスは二人の肩に手を置く。 「闘う覚悟《かくご》があるのなら、立ちなさい」  そうだな、二人で闘えるような恋ならいい。命を捨てるんじゃなくて、命をかけられる恋ならいい。たぶん、自分たちの人生で、恋に命をかける状況なんてそうそうないだろうけれど、でもそんなんなら、憧《あこが》れてみたっていい。  ジュリエットの体を半《なか》ば抱えるようにして立ち上がらせた。二人で前に進み出る。  音楽が大きく流れた。正しいエンディングに流す予定の曲だったために悲壮《ひそう》感が強い選曲だが、これから困難に立ち向かって生きようとする恋人たちにも似合《にあ》わないことはない。  照明がフェードアウトしていく。同時に、幕が下りていく。  流れる悲しげな音楽と幕が下りていく微《かす》かな音だけが、ぴりぴりと張りつめた沈黙《ちんもく》の空間の中で響《ひび》いている。  その長く長く感じられる間のあと、拍手がはじけた。力強く叩《たた》きつけてくる雨のように、迫力のある拍手が押し寄せ、降り注ぐ。  腰が抜けて、僕はその場にへたり込んだ。  全身の毛穴《けあな》から、今まで体を満たしていた緊張《きんちょう》と不安が熱い気体となって放出されるように抜けていく。それは肌《はだ》から立ち上ると同時に、背中がぞくぞくするような不思議《ふしぎ》な感覚に変わった。 「終わっ……たの、か」 「終わったよ!」  後ろからタックルするように雛田《ひなた》が飛びついてきた。背中にやわらかいものが押し当てられ、前後に激しく揺さぶられながら頭をぐしゃぐしゃに撫《な》でられた。 「……なんだ、こりゃ。『ロミオとジュリエット』の肝心《かんじん》のラストはどこ行った。むちゃくちゃじゃねえか」  西園寺《さいおんじ》が僕の顔をちらりと見て、肩をすくめた。 「と言いつつ、顔が笑ってるよ」 「当たり前だ!」  顔が盛大《せいだい》に緩《ゆる》んでいるのを自分でも感じていた。  最後まで演じ切った。むちゃくちゃだったけど、最後なんて完全に即興劇《そっきょうげき》になっていたけど、それでも幕が下りるまでこぎ着けた。  ——ちゃんと、勝った。  村上《むらかみ》が、ふっと表情を和《やわ》らげ、ニヒルな、けれどめずらしく上機嫌《じょうきげん》な笑顔を浮かべた。  舞台上に、エキストラをしてくれた先輩《せんぱい》たちも出てくる。 「ほら、もう一回|幕《まく》が開くよ。しゃんとして」  いつもしゃんとしていない依子《よりこ》先輩に言われ、僕は慌《あわ》てて立ち上がった。  照明がつき、幕が再び開いていく。  押し流すような拍手を浴びながら、役者|一同《いちどう》は横に整列して、恭《うやうや》しく礼をした。  すれ違って死なない『ロミオとジュリエット』なんて物足りなさを感じている人もいるだろうに、必死の演技に——文字通り命がけのところもあって、本気で泣いたり怒ったり焦ったりした演技につられてくれたのか、彼らがくれる拍手は淀《よど》みなく、勢いを持って迫った。  熱いライトの光を浴び、客席からの拍手を受けていると、劇中《げきちゅう》に感じていたものとは一種|違《ちが》う、浮遊感《ふゆうかん》にも似た高揚《こうよう》を感じた。演技中に体にまとっていた緊張という重りが消え、どこまでも高く飛んでいってしまいそうな気分になった。  ああこれが、舞台に立つ快感ってやつなのかもしれないなと漠然《ばくぜん》と思う。  それとも。  この体が浮き上がりそうな感覚は、死んだ部員たちの感情が消えたためだろうか。体に、心によけいな重みをかけていた他人《たにん》の感情が抜けていったことで、こんなふうに自分がどこかへ飛んでいってしまいそうな、ふわふわした気持ちを味わっているのだろうか。 [#挿絵(img/Romeo_284.jpg)入る]  他の四人はどんな気持ちなのだろうと思って、隣《となり》の雛田《ひなた》をちらりと見た。  彼女はこれ以上ないくらいの晴れやかな笑顔を客席に向けていた。その曇りのない笑顔には、何か重いものを下ろしたあとの解放感があふれているような気がした。 [#改丁]    カーテンコール  あー。  だるそうな声を出して、雛田《ひなた》は部室で椅子《いす》にそっくりかえった。  文化祭が終わったあとの学校は気《け》だるさに包まれていて、夢から覚め切らないようなぼんやりした顔がいくつも並んでいた。校内には祭りの燃えかすのにおいがたらたらと漂っていて、どうにも頭が日常のテンポを取り戻し切らないような、まだどこかがずれている時間が流れている。  それは、演劇部員たちも同じで。 「なんか、まだ変な感じするんだよね」  村上《むらかみ》が僕の顔をじいっと見つめながら言った。僕はたじたじと体を引く。 「……なんだよ。もう俺のことはなんとも思ってないんだろ。振り回すだけ振り回してポイだろ」 「まさか村上さん、いまだに如月《きさらぎ》のこと好きっぽい気がしてるんじゃないよね?」  西園寺《さいおんじ》が真面目《まじめ》な顔をして村上につめ寄った。村上は鬱陶《うっとう》しそうな一瞥《いちべつ》を西園寺にくれたのち、僕の方に視線を戻して肩をすくめた。 「まあ、変な感じがするのは、急に恋心《こいごころ》に消えられたからだろうよ。ま、もともと自分の感情じゃなかったんだし、すぐ慣れるでしょ」  そうだ。村上たちが今感じている違和《いわ》感なんか、文化祭のあとで日常のテンポをまだつかめないでいる生徒たちの気だるさと同じようなものなのだ。すぐにずれは修正され、気がついたら元の日常に戻っている。  椅子の上で反り返った姿勢のまま天井《てんじょう》をぼんやり見上げている雛田に視線をやった。長い髪《かみ》が後ろに垂れて、今にも床につきそうになっているのが気になる。 「首が痛くならないか?」  声をかけると、雛田はうー、とまただるそうに唸《うな》り、のそのそと起き上がってちゃんと座り直した。やっぱり首は痛かったのか、手をうなじに当ててゆっくりと回している。  公演が終わってから、雛田は僕に対して、明らかな好意のアピールをしなくなった。……当たり前だ。雛田が持っていた恋愛|感情《かんじょう》は、公演が終わると同時に綺麗《きれい》に消え去ったのだ。もう雛田があんなふうに僕を好いてくれるようなことはない。  それは、仕方がない。  だけどどうにも気持ちが悪いのが、雛田がそれとなく、さりげなく、そこはかとなく、僕を避けているような気がすることだ。  如月《きさらぎ》のことを好きな気持ちがなくなるのが寂しい、初めて手にした恋心《こいごころ》が跡形《あとかた》もなく消えてしまうのは怖い、などと言ったことを気にしているのだろうか。あんなことを言ったくせに、結局|綺麗《きれい》に気持ちを消してしまって平気でいることが後ろめたい、とか。  ——もしかしたら少しは気持ちを残してくれていて、それで意識してくれているんじゃないか、などと考えることもあったけれど、文化祭までの二カ月余りの雛田《ひなた》の屈託《くったく》のないまっすぐな好意の見せ方を思い出すと、彼女の場合、意識するという精神《せいしん》活動から避けるという行動には到底《とうてい》結《むす》びつかないと思った。  僕はゆるりと目玉《めだま》を動かし、伏し目がちになって座っている新堂《しんどう》の姿を視界《しかい》に収める。 「新堂ー。まさかまだ落ち込んでるわけ? あんまり長々と落ち込んでいると俺も怒るよ?」  のぞき込むように姿勢を低くして無理矢理《むりやり》目を合わせて言うと、新堂は微《かす》かに肩を震わせた。残りの三人の視線も一気に新堂の方に向く。 「藍子《あいこ》まだ落ち込んでたの!」 「馬鹿かい、あんたは」 「新堂さん、もうそのことは決着ついたじゃん」  口々《くちぐち》に言われて、新堂は慌《あわ》てて顔の前で両手をパタパタと振った。 「落ち込んでない。もう、割り切れたから。みんなのおかげで」  公演が終わったあとの新堂の落ち込みぶりはすさまじいものがあった。僕が飲む毒の小瓶《こびん》の中身を、水から台所用|漂白剤《ひょうはくざい》にすりかえてしまったことで思いつめ、その追いつめられっぷりは文化祭の帰りに警察に寄って自首《じしゅ》してしまいそうなほどの勢いだったので、僕たちは無理矢理新堂を打ち上げに引っ張り出してこんこんと諭《さと》した。  馬鹿な計画を実行に移そうとしたのは死んだジュリエット役だった三村《みむら》牧子《まきこ》であって、新堂藍子には責任はない。村上が衣装|隠《かく》したり刀《かたな》を接着したり雛田が薬瓶《くすりびん》に大量のタバスコを入れたり西園寺《さいおんじ》が足場の釘《くぎ》を抜いたりしたことと同じであって、結局|自分《じぶん》の力で自分がやらかしたことを食い止めたのだから、むしろよくやったのだ。村上や雛田みたいにやらかしっぱなしで解決は人《ひと》任《まか》せになった奴《やつ》らより偉いとまではめ(村上にテーブルの下で蹴《け》られ)、まあとりあえず食べなよ飲みなよと西園寺が勧め、しんどかったねもう大丈夫《だいじょうぶ》だよと雛田が抱きしめ、ここまでやってるのにいつまでもうじうじするなとしまいには村上がキレた。 「そもそも、舞台上で無理《むり》心中《しんじゅう》っていう発想からして馬鹿《ばか》馬鹿しいけど、その計画そのものだって相当ずさんだよね。漂白剤に毒性《どくせい》があるっていったって、においもするし、一口《ひとくち》含めば異常な味がすることはすぐわかる。おかしいことに気づいて飲まない可能性は非常に高いし、万一《まんいち》飲んでもすぐに大騒動《おおそうどう》になって救急車だ。ドラマティックに首尾《しゅび》よく自分も死ぬ暇《ひま》があったか? 大体、ナイフで自分の体を突き刺すなんて、戦国《せんごく》時代の大名《だいみょう》の娘じゃないんだから、そんな覚悟《かくご》をとっさに固められるわけがない。ぐずぐずためらっている間に取り押さえられてナイフ取り上げられて、ロミオは病院で処置受けてまあ多分《たぶん》助かって、それで自分は警察行き。校長は記者|会見《かいけん》。明日の朝には恥ずかしいニュースが流れる。……はっ、馬《ば》っ鹿《か》馬鹿しい」  村上《むらかみ》の言葉に、新堂《しんどう》が萎縮《いしゅく》した。雛田《ひなた》が非難《ひなん》がましい目をして村上を見た。 「あのさあ……」 「ああもう、だから、それは新堂がやるようなことじゃないって言ってんの。新堂もある意味馬鹿なところもあるけど、そういうタイプの馬鹿じゃない」  腹立たしそうに言った村上の様子《ようす》を思い出して、ちょっとおかしい気分になった。言い方はひどいが、おかげで新堂は立ち直った。  僕がひっそりと思い出し笑いをする横で、村上は腕を組んで宙を見つめながらぽつりと言う。 「そういや、私らの中の奴《やつ》らは、幕が下りて拍手をもらう前に消えてたよね」  雛田が首を傾《かし》げて村上を見た。 「そう?」 「あんたは感じなかった? 新堂が——新堂の中の奴がやらかした馬鹿な計画を知ったとたん、すうっと引くように迷惑《めいわく》な感情は消えていったよ」 「ああ、そうそう。そういえばそんな感じだった」  西園寺《さいおんじ》も力強く同意する。  雛田は、ふうんと唇《くちびる》を尖《とが》らせてつぶやき、椅子《いす》の上で膝《ひざ》を抱える。村上は遠くを見るような目をした。 「ジュリエットの覚悟《かくご》を見て、みんな我に返ったのかな」  僕は目を細めた。それは、つまり。 「……どん引きってやつか」 「どん引きってやつさ」  村上は苦笑《くしょう》して言った。  雛田が、うんと腕を上に伸ばした。体を伸ばしたらこぼれ落ちてしまったみたいな感じであくびをし、足を抱え直し、反対の腕で膝の上に頬杖《ほおづえ》をつく。  一瞬《いっしゅん》、雛田と目が合った。だが、その目はゆらりと泳いでずらされ、逃げられる。  なんだよ、と心中《しんちゅう》で小さくつぶやいた。恋愛|感情《かんじょう》がなくなったのは仕方ないけど、避けることないだろ。傷つくじゃないか。 「中学生のときの恋愛の思い出で、今考えると穴に入りたくなるようなことあるじゃん」  ふいに西園寺が言った。片手で飲み終わった炭酸《たんさん》飲料の缶をもてあそんでいる。 「へえ、西園寺にもあるんだ。そういうの」 「あるよ。……あのときは必死だったけど、今考えるといたたまれなくて、できることならあのときの自分をつかまえて叱《しか》ってやりたい、みたいなことがさ。……もし三村《みむら》牧子《まきこ》の計画が成功していたら……彼らが、ロミオとジュリエットみたいに恋のために死んでいたら、それこそ死に切れなくて化けて出ることになったかもね。生前《せいぜん》の私は必死だったんだろうけど、なんであんなことで死んじゃったかなあ、みたいなさ」  僕は肩をすくめた。 「ロミオとジュリエットは、一応《いちおう》は前向きだったんだよ。二人で生きようと思ったんだ。彼らは引き裂かれたから死んだんじゃなくて、引き裂かれても一緒に生きようとして、それに失敗して死んだんだ。一人残されて生きていけるほどは強くなかったけどさ。……ロミオとジュリエットは、恋に死んだってより、親|同士《どうし》の憎《にく》しみに殺されたんだよ」  自分の独占欲《どくせんよく》のために無理《むり》心中《しんじゅう》を企《くわだ》てようとした奴《やつ》とは違う。  雛田《ひなた》が小さな声で何かをつぶやいた。聞き取れなかったので、少しだけ身を乗り出してもう一度言うように促《うなが》すと、雛田は今度ははっきりとした声で言った。 「彼らだって恋に死んだんじゃないよ。交通|事故《じこ》で死んだんだ」  部室の外を、女の子の一団が通った。明るく楽しげな笑い声がはじけ、過ぎていく。  窓の外ではまだ相変わらず太陽が力強く日の光を降らせている。だけど文化祭が終わったことで夏が過ぎ去った気持ちになったのか、今まで気づかなかった秋の気配《けはい》を感じた。  僕たちは黙ったまま、自分たちと変わらない歳《とし》で死んでしまった人たちのことを思った。  彼らのことを知ってから初めて、その死を純粋に悼《いた》んだ。 「さて、と!」  西園寺《さいおんじ》が言って立ち上がる。ポケットから取り出した携帯電話で時刻を確認すると、鞄《かばん》を取り上げた。 「俺はそろそろバイトの時間だ。さらばだ諸君《しょくん》」  ふざけた口調《くちょう》で言って、西園寺はひらりと手を振って部室を出ていく。そういえばこいつが村上《むらかみ》に「あずけた」気持ちはどうなったんだろうと野次馬《やじうま》根性《こんじょう》に思った。 「じゃあ、私も帰るね」  新堂《しんどう》も言って立ち上がった。今日はなんとなく部室に集《つど》っていただけなので、来るも帰るも自由だ。 「なら私も帰る!」  雛田は跳ね上がるように椅子《いす》から降りると、新堂のあとについていく。前に新堂は、「ヒナちゃんは私を、何かの動物みたいに思ってるんじゃないかな」と言っていたけど、こうしていると逆にも見える。新堂にまといつく雛田は、飼い主になつく動物みたいだ。  新堂が遠慮《えんりょ》がちな挨拶《あいさつ》の視線を送ってきて、雛田は僕と村上の間《あいだ》辺りを見ながらバイバイと手を振った。やっぱり、ほんのりと避けられている気がする。  村上と二人で部室に取り残され、僕はしばらくぼんやりしていた。うまく整理がつかない、もやもやした固まりが胸の中にあって、それをどう処理していいのかわからなくて気持ち悪い。  村上は素知《そし》らぬ顔で、静かになった部室の中、本をぱらぱらとめくって拾い読みをしている。 「がっかりした顔だね」  本に視線を落としたまま、村上《むらかみ》が言った。むうっと村上の顔を睨《にら》む。 「なんだよ」 「雛田《ひなた》もちょっと微妙《びみょう》な反応してるしね。このまま気まずくなったら嫌だねえ」 「ヤなこと言うなよ」  苦《にが》い顔をして返すと、村上は顔を上げて口の片端《かたはし》だけを持ち上げる笑い方をした。 「村上はどうなんだよ」 「何が?」 「西園寺《さいおんじ》から気持ちあずかってたろ」  それが盗み聞きの情報であることも忘れて、反撃《はんげき》のつもりで言っていた。村上の表情が冷えていき、細めた目で睨《にら》まれてようやく、しまったと思う。 「あんた、どこにいた?」 「いや……」  雛田と二人でクローゼットの中に、とは言えなくて、しどろもどろになる。けれど村上はどうでもよくなったみたいで、ふんと鼻から息を吐いた。 「別にどうもしやしないよ。今までと一緒。あのときは、あいつの気持ちの緊急《きんきゅう》避難《ひなん》だったわけで、状況が元に戻った今、もうそんな必要はないわけでしょ」  なかったことにするわけか。ひどい女だ。  そう思ってから、ふと新堂《しんどう》の顔が頭に浮かんだ。そういえば僕も、新堂が言ってくれた言葉をなかったことにしちゃったんだっけ、と思い出す。いやでもあれば、本人が忘れてって言ったんだし、他にどうしようもなかったし。  もし雛田のことを諦《あきら》めたら、新堂とつきあいたくなったりするのかな、と考えた。  そりゃ、新堂のことだって好きだし、新堂に対する気持ちと雛田に対する気持ちのどこがどう違うのかと訊《き》かれるとうまく答えられないのではあるけれど……。 「如月《きさらぎ》」  ぐるぐると考え込んでしまった僕の思考《しこう》を断ち切るように、村上が呼んだ。にやりと笑《え》みを向けてくる。 「雛田は、強いて言えばあんたが好きだよ」 「え」 「よく物語の中で、告白された奴《やつ》が、『君のその気持ちは恋じゃない』とか『ただの憧《あこが》れ、恋への幻想《げんそう》だ』とか言うシーンがあったりするじゃない。私、あれ嫌いなんだよね。他人《たにん》が他人の感情を勝手《かって》に決めつけるなってんだ。憧れ? 幻想? 上等《じょうとう》じゃないか。憧れも幻想もなく恋なんかできるか。本人がその気持ちをよしとしたのなら、それは誰かにとやかく言われるものじゃない」  話の趣旨《しゅし》がよく理解できないが、村上《むらかみ》は特に何かをわかってもらおうとしているようでも、僕の意見を聞こうとしているようでもなかった。 「行けば」  短く言って、村上はまた本に視線を落としてしまう。そのままもう会話を続けるつもりはないようで、静かに本のページをめくっている。  我ながら単純だがあと押しされた気持ちになって、立ち上がった。  部室から出る間際《まぎわ》、村上を振り返って一言。 「お前だって、強いて言えば西園寺《さいおんじ》のこと好きだろ」 「は」  ぎょっとしたように顔を上げた村上を残して、部室のドアを閉めた。  校門の前で、雛田《ひなた》は新堂《しんどう》としゃべっていた。  僕は少し離れたところで立ち止まり、それを見つめる。  どうしようかな、と迷っていると、ふと新堂がこちらに気づいた。その大きな丸い瞳《ひとみ》が僕の目をとらえる。新堂の視線はまっすぐで、僕の目を通過し頭の中まで見通すかのようだった。  新堂は、自転車を支えて立っている雛田に何事かを言うと、こちらに向かって駆けてくる。 「如月《きさらぎ》くん、ヒナちゃんに用事だよね」 「いや……用というほどじゃ」  しどろもどろになりつつ言うと、新堂はふわりと微笑《ほほえ》んだ。 「私は先に帰るから。あと、ごめんね。それから、ありがとう」 「え、何がごめんでありがとう?」 「劇での毒のこと、ごめんなさい。それで、それは私のせいじゃないって言ってくれたこと、ありがとう」  新堂の顔つきはしっかりしていた。何度も繰り返された謝罪《しゃざい》を、これが最後というような口調《くちょう》でもう一度言われ、僕は頷《うなず》いた。 「うん」  新堂は少しの間ためらうような顔をしたが、すぐに「あのね」と口を開く。 「私にも、死んじゃったジュリエットの人と同じように、独占欲《どくせんよく》はあると思う。だけど、自信を持って違うって言えるのは、好きな人の思い人は、私にとって憎《にく》む相手じゃないってこと」  新堂は一つ一つ言葉を選ぶように、よく考えながらゆっくり話す。 「私はヒナちゃんが大好きだよ。でも、もしヒナちゃんじゃなかったとしても、如月くんが好きになる人のことは、きっと私も好きなんじゃないかな。……本当のことは、そうなってみなきゃ、わかんないけど」  友情と愛情、どっちをとる? なんて質問、よくあるけれど、きっと新堂《しんどう》は二者択一《にしゃたくいつ》で選んだりはしないのだろうなと思った。どちらもナチュラルに大事にできる彼女は、すぐに揺れたり折り曲げられたりしてしまうけれど、切れることはない、繊維質《せんいしつ》の強さを持つ人だ。そしてきっと、実はちょっと頑固《がんこ》だ。  雛田《ひなた》が新堂を好きな気持ちがわかった気がした。 「ヒナちゃんと戦うわけじゃないけど、私も、がんばるよ」  控えめな声で新堂は言う。何を、とはさすがに訊《き》かなかった。新堂は力を使い切ったかのように下を向く。 「劇では、ごめんね」 「いや、それさっき聞いた」 「じゃなくて……」  新堂は言いよどみ、顔を紅潮《こうちょう》させて横を向いた。 「本当に、口つけちゃって……」  キスシーンでのことを言われているのに気づき、僕はそのときのことを鮮やかに思い出して、うっとつまった。  新堂はそのまま「じゃあね」とぱたぱた小さく手を振り駆け出す。脱兎《だっと》のごとき去り方だった。 「何、どうしたの」  雛田が訝《いぶか》しげな顔をしながら自転車を引いて近づいてくる。眉《まゆ》を寄せて僕の顔を見ると、首をひねった。 「顔赤いよ」 「……なんでも、ない……」 「藍子《あいこ》はやらんぞ」 「お前のかよ」  そんな応酬《おうしゅう》をし、火照《ほて》った顔を戻すように数回ゆっくりと呼吸をした。  気持ちを切りかえると改めて雛田に向き直る。すると、急に雛田はひるんだような顔をしてちょっと視線をずらす。 「じゃ、私も帰るよ」  雛田が言って、自転車にまたがろうとするので、慌《あわ》ててそのハンドルをつかんだ。 「待てよ。ちょっと待って」 「何さ」 「なんで、そう微妙《びみょう》な避け方をするんだよ」 「あからさまに避ければいいのかい」 「違うだろ」  自転車の押し合いをする格好《かっこう》で、雛田《ひなた》はうーと唸《うな》った。 「よく、わかんないんだもん。如月《きさらぎ》をまだ、そういう意味で好きなのかどうか」  わからない。  その言葉に、胸の辺りで何かが期待してぴょんと跳ねた。いやいや待て待て。早まって期待するな。がっかりするぞと、胸で跳ねる何かを慌《あわ》てて押さえつける。 「公演が終わってから、すごくよく考えてみたんだけど、結局わかんなかった。如月を見ると飛びつきたくなるような気持ちはなくなっちゃったけど、でもそれは、思ってたほど残念なことじゃなくて……というのはつまり、なくなってみたら別段《べつだん》惜《お》しい気持ちでもなかったということなのか……」  ぐさりと竹槍《たけやり》で刺されたようなダメージを、思わず期待してしまった心に受ける。だが雛田はそれに気づいた様子《ようす》もなく言葉を続ける。 「それとも、今の状況でも、私はそれなりに満足してるってことなのか……」  雛田は煮え切らない表情をしていた。自分でももどかしいみたいで、もぞもぞと身じろぎながらローファーのつま先でアスファルトの上の小石を蹴《け》っ飛ばしたりしている。  恋愛|感情《かんじょう》なんて、雛田が思っているほど劇的《げきてき》なばかりじゃないと思う。雛田が死者の感情を通してのぞき見た恋心《こいごころ》はどうだったのか知らないけれど、誰かを好きになるというのは、燃え上がって踊り狂うような、そんなのばっかりじゃない。  雛田が今、自分の感情がよくわからないというのなら、僕はがんばってみてもいいんじゃないだろうか。今|種《たね》をまいて大事に育てようとがんばれば、雛田が憧《あこが》れるような劇的なものではなくても、小さな芽《め》が出るかもしれない。  雛田は少なくとも、僕のことを好きでもなんでもなくなってしまったことを後ろめたく思って避けているわけではなかった。恋心が跡形《あとかた》もなく消え失せたことを悲しく思っているわけでもなかった。  ただ戸惑《とまど》っている。公演が終わる前までの気持ちと、今の気持ちの違いに。今の気持ちが、台本《だいほん》騒動《そうどう》に関わる前のものと同じなのかどうかわからないでいることに。 「雛田。小中学生が人を好きになるきっかけとしてよくあるのが、相手に好かれていると知ることなんだ」 「へ?」  雛田は間の抜けた声を出して首を傾《かし》げる。 「だから俺も試してみようかと思う」  これだけ綺麗《きれい》に生まれついて、たくさん告白もされたことがあるだろう高校生の女が——しかも恋をしたことのない女が、そんな単純な理由で自分を好いてくれるなどと本気で思っているわけじゃない。  だけど今の状況は、うち明けるべきタイミングというやつじゃないかい?  他人の恋心《こいごころ》はもう消えた。なんらかの影響《えいきょう》を雛田《ひなた》の心に残していたとしても、それはもう雛田|自身《じしん》の気持ちだ。何か弱みにつけ込んでいるわけじゃない。  ただ、スタートラインに立つために言うのだ。この鈍い女ははっきりきっぱり言わないと、きっといつまでたってもわかってくれない。  雛田はきょとんとした顔をしていた。白い肌《はだ》の上を水が流れるみたいに日の光が落ちて、肌|自体《じたい》が薄く光っているように見える。見開いた目が力強く光を反射する。アッシュブラウンの長いまっすぐな髪《かみ》が風で流れる。  なんだかおかしくなって少し笑った。  こんな、ただ立っているだけで空気がきらきらするような女に勝負をかけようだなんて、僕もなかなかいい度胸《どきょう》してる。  だけど、はた迷惑《めいわく》な他人の恋心は、こっちの気持ちを丸裸《まるはだか》にして去っていった。だったらもう、腹をくくってしまうしかないじゃないか。  そっと息を吸う。ただ素直に、シンプルに。  好きだと言ってみることにする。 [#挿絵(img/Romeo_303.jpg)入る] [#改丁]    あとがき  恋ってなんだろう? ……こんにちは、来楽《らいらく》零《れい》です。  初めましての方も、前シリーズを読んで下さっている方も、この本を手にとっていただき、ありがとうございます。  私のデビュー作であった『哀《かな》しみキメラ』という前シリーズは、過酷《かこく》な状況の中で、人が生きたり死んだりする物語でしたが、この『ロミオの災難《さいなん》』は、高校生たちのこっ恥ずかしい恋愛|模様《もよう》のお話です。ラブコメ風味《ふうみ》だったり、真面目《まじめ》ラブだったりします。つまるところ、恋ってなんだろう? みたいな話で、恋の怪奇《かいき》現象《げんしょう》のお話です。  一歩|間違《まちが》ったら憎《にく》しみドロドロのホラーになっていた可能性もあったお話ですが、どうにかメインテーマは恋の青春物語になりました。  発売月が一月であるにもかかわらず、文化祭の話という季節感を無視した設定で申し訳ありません……。作中の文化祭の時期や雰囲気《ふんいき》は、ほんのりと自分の母校がモデルだったりもしています。個人的に高校の文化祭は非常に思い出深くて、特に三年生のときは受験勉強なんざ三の次くらいで文化祭にすべてをそそぎ込んだりしていました。文化祭|最終日《さいしゅうび》が終わったときにはみんな泣いていたのに、私はなんだかまだ終わった気持ちがしなくてまったく泣けず、数日後、塾《じゅく》のテスト中に「ああ、本当に終わったんだ」と唐突《とうとつ》に実感して、こっそり泣き出したりしていました。誰かに目撃《もくげき》されていたら、「この人、問題が解けなくて泣いているんだろうか」と、どん引きされていたんじゃないかと思います。  そんなずれたテンポで生きております。  今回も、たくさんの人たちに助けていただきました。  新作ということで、また一段とお世話をかけました担当《たんとう》編集者さん。とても可愛《かわい》らしいイラストを描いて下さった、さくや朔日《ついたち》さん。本が書店に並ぶまでに関わって下さったすべての方々。本当にありがとうございました。  また、波瀾万丈《はらんばんじょう》な恋の話を聞かせてくれた友人たちにも感謝を。あなたたちの経験は、ひっそりと私の芸の肥《こ》やしになっていたりもします。すみません。  そして、この本を読んで下さったあなたに、一番のありがとうの気持ちを捧《ささ》げます。 [#地付き]来楽零 [#改ページ] 底本:「ロミオの災難」電撃文庫、メディアワークス    2008(平成20)年1月25日初版発行 入力:でつぞう 校正:でつぞう 2008年3月7日作成